南條範夫
山岡鉄舟(三)
目 次
廃 藩 置 県
牧 民 の 官
宮 廷 出 仕
征 韓 論
西 南 の 役
無刀流開眼
春 風 館
鉄舟浮水上
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廃 藩 置 県
中条金之助の茶畑開墾が契機になって、藩当局でも、領内|荒蕪地《こうぶち》の開墾による生産力増強に注目するようになった。
浜松奉行の井上八郎が、
――浜松の北方台地|三方《みかた》ケ原を開墾してはどうか、
と言う進言をしてきたのは、ちょうどその時である。
井上は鉄太郎の少青年時代の剣の師である。井上が藩庁にやってきて、詳細に開墾プランを説明すると、鉄太郎は即座に賛成した。
「先生、これはわれわれが話し合っていた計画にぴったりの案です。早速手をつけて頂きましょう。当初の経費については、藩庁の方で何とか計らいます」
「いや、山岡さん」
鉄太郎は昔の弟子だが、今は藩の権大参事である。井上は、さんづけで呼んでいた。
「必要なのは、開墾者をとりまとめ、適当に指図してゆく人物なのですよ。私の手許《てもと》には、これと言う人物がいない。あんたの処から誰か世話して頂きたい」
鉄太郎は、この頃自分の家に転がり込んできている村上政忠(俊五郎)の事を、すぐに頭に思い浮べた。
「村上君ではどうでしょう」
「あ、あの勝さんの義弟に当るとか言う人物ですか」
「はい、村上は直情径行、少々乱暴なところがあるので、勝先生も手を焼いて自由に放置していますが、却ってあんな男の方が、開墾事業の統率には向いているのではありませんか」
「かも知れぬ。しかるべくお願いします」
鉄太郎の人物評価はかなり点が甘い。自分が善良なので、誰でも善良に見えるらしい。その上、人を見る場合、大抵の欠点には目をつぶって、美点の方だけを見る傾向がある。
村上と言う男、純粋ではあるが、社会的良識を欠いたところがある。勝は冷静にそれを見抜いて、あまり対手《あいて》にしなかったのだが、鉄太郎は例によって誰でも抱え込んで、
――あれも、いい男さ、
と思っているのだ。
三方ケ原開墾事業の統率者として、村上が任命された。
帰農希望の旧幕臣ばかりでなく、大勢の農民も動員して、大々的な開墾が始まる。
――開墾地は、開墾に従事した者に分配する、
と言うことを宣伝したので、希望者はかなり沢山集った。
しかし、開墾が始まってみると、色々むつかしい問題が生れた。
第一に、旧幕臣たちは、慣れぬ仕事なので、どうしても本来の農民たちと太刀打ちできない。農民たちは陰に陽に冷笑的態度をとる。それに堪え兼ねて、脱落してゆく旧幕臣が相つぎ、結局、残ったのは専《もつぱ》ら三方ケ原近辺の農民が大部分と言う状況になった。
第二に、これら開墾農民に対して、開墾中は相当の資金的援助をすることになっていたのだが、財政窮迫のため、ともすればそれが実行されないので、開墾農民の間に、次第に不満が鬱積《うつせき》してきたことである。
第三に、どこにでもいる煽動家が、ひそかに、この農民の不満を刺戟して、こそこそ動き始めたことである。
駿遠地方には旧幕時代に、本居宣長の国学が普及しており、戊辰《ぼしん》の役《えき》に当っては、神官・儒者などが中心になって、報国隊・赤心隊などが組織され、官軍に従って各地に転戦した。
これらの連中は、全国的に戦乱が終って、故郷に戻ってきたものの、そこは今や徳川家の藩領となっているので、極めて居心地が悪い。
――官軍の御機嫌をうかがって、忠義立てをし、徳川家と闘った阿諛《おべつか》つかい、
と、悪声を放つ者も多い。居たたまれなくなって、東京へ移住してしまった者もある。
故郷に残留した者も、折角待望の王政復古の世が来たと言うのに、その先駆をつとめた自分たちが、世間から白眼視されていることに対して、憤りを禁じ得ない。
彼らの一人、三方ケ原に住む儒者津川蘭堂と言う男が、開墾農民たちの間に不満が漲《みなぎ》っているのを見ると、早速これを煽動して、藩当局に対して日頃の鬱憤を叩きつけてやろうとした。
――村上はうまくお前たちを瞞《だま》しているのだ。お前たちをこき使って土地を開墾させた上、全部とり上げて旧幕臣たちに分配してしまうつもりなのだ、
と、農民たちの耳に毒をつぎ込む。
約束された資金手当がゆき渡らないので不平を言い出していた農民たちは、容易にこの言葉に動かされた。
――土地はおいらのものだぞ、
――約束通りの資金手当を出せ、
と言う主張を掲げて、三、四百人の農民が一揆《いつき》を起した。
鍬《くわ》や鋤《すき》を握って、村上の役宅に押しよせて来る。
村上の許にいるのは、十人余りの部下に過ぎない。これに開墾に従っていた旧幕臣二十人ばかりが急を聞いて集ってきたが、総勢わずか三十数名。
「村上さん、どうする。奴ら四百名を超えている。一気に押し寄せて来られたらとても防ぎ切れはせん」
と、一同、不安の色をあらわにした。
村上は、傲然として叫んだ。
「なあに、四百人だろうと五百人だろうと、たかが百姓の集り、先手をうって蹴散らしてやる!」
「大丈夫か、村上さん」
「任せておけ、みんな馬に乗れ、百姓共の集合地に、こちらから奇襲をかける」
全員乗馬、馬上鉄砲を放ちつつ、一揆の集合地に向って突入していった。
一揆側では、人数の少い村上の方から先に実力行動に出ようとは、夢にも思っていなかったらしい。
銃を放ちながら馬を馳せて殺到してくる村上ら一団の凄じい勢いに、一揆勢は気を呑まれ、抵抗するどころか、ちりぢりばらばらに逃げ出してしまった。
その中の何人かをひっとらえて、
――主謀は誰か、
と問い詰め、
――津川蘭堂
と言う名を聞き出した。
「くそッ、腐れ儒者め!」
村上は直ちに津川の家に押しよせ、蘭堂をひっとらえて、したたかにぶん殴る。
――叩き殺してやろうか、
と言う者もいたが、それは村上が止めた。
赴任に当って、鉄太郎から、
――どんな事があっても、領民を殺すな、旧幕時代とは違うのだぞ、よいか、この点だけは忘れるなよ、
と、繰返し言いふくめられていたからである。
だが、忌々《いまいま》しく思う点では、村上が第一なのだ。
「この腐れ儒者の読んでいる書物をみんな庭につみ上げろ」
と、書物を悉《ことごと》く庭に抛《ほう》り出させた。
「こんな下らん本を読むから、下らぬことを考え出すのだ」
部下に命じて、その書物の山に小便をひっかけ、
「肥料をやったから、少しはましな本になったかも知れんぞ」
と放言し、陣屋に引揚げていった。
一方、一旦は四散した一揆勢も、そのままには引込んでいなかった。
少し落着いてくると、
――対手はせいぜい三十人位じゃないか、
――蘭堂先生を殴打し、大切な御本を汚すとは、呆れ返った役人だ、
――今度はこっちから押しかけろ、猟銃を集めて持ってゆけ、
と、再び大動員が企てられる。
この不穏な形勢を知った浜松奉行の井上が、愕いて急を静岡に報《し》らせた。
――一揆勢現在六百、やがて千にも達すべし、
と言うので、藩庁でも平岡始め、
――困ったことになった、
と、腕を組んだが、鉄太郎は、
「とに角、私が行って、一揆方と何とか話合ってみましょう」
と引受け、単身、三方ケ原に向った。
村上の陣屋に行ってみると、紅白のまん幕が張りめぐらされ、門から玄関にかけて、抜き身の刀や槍を持った連中が警備しており、襖《ふすま》をとり払った座敷の真中に、床几《しようぎ》を据えて村上がふんぞり返っている。
鉄太郎は、微笑した。
「大した勢いだな、村上君」
「あ、山岡先生」
村上が、さすがに照れくさそうに床几から立ち上った。
「いや、そのまま。村上君、さながら大将軍のように見える」
「ひやかさないで下さい」
と言った村上が、急に表情をゆがめて、寝小便をみつけられた子供のような顔になった。
鉄太郎が、つかつかとその村上の前にゆく。鉄太郎の巨きなからだの蔭に、村上の全身がかくれた。その蔭の中で、
「先生、頼む、何とかして下さい」
村上が、片手おがみにして、頭を下げた。
「どうしたんだね、村上君」
鉄太郎の方が、村上の態度の急変に愕《おどろ》いて、小声で聞いた。
「どうにもこうにも、虚勢を張って頑張っているが、どう始末をつけてよいか分らない。対手は六、七百から千人になろうと言う。この人数じゃ、どうにもならないでしょう」
「そりゃ、当然だ」
「だから、先生、何とかして下さい」
鉄太郎は、村上の耳許に口を寄せた。
「村上君、人を殺したか」
「いや、暴れ込んだ時、怪我人が多少出たかも知れないが、一人も死人はでていない筈です」
――よかった、
と、鉄太郎はホッとした。
旧幕時代とは違うのだ。領民を一人でも殺生したとなれば、大問題になる。
「人を殺してさえいなければ、何とか収められるだろう」
「有難い、先生、万事お願いします」
村上が、今度は、両手を合せた。
「よし、まあ、詳しい事情を聞こう」
村上は事の顛末《てんまつ》を語って、
「騎虎の勢い、土百姓共めと思って馬を乗り出して蹴散らしたのですが、百姓たち案外しぶとくって――井上(八郎)先生でも助けに来てくれるかと心頼みにしていたんですが」
「井上先生は、事重大とみて、静岡に報らせに来られた。それで私が出掛けてきたのだ」
「あ、そうでしたか。何にしても、先生に来て頂いて助かった」
「その津川蘭堂と言う煽動者はどうしている」
「一旦は逃げ出しましたが――」
「とに角、その男に会ってみよう」
津川の家に行ってみると、津川は、村上に脅しつけられた上、事態が余りに大きくなり過ぎたので、蒼くなって茫然としている。もともと大した度胸のある男ではない。
鉄太郎が懇々と訓《さと》すと、
――申訳ない、軽率な言動を恥じています、何とか収めて頂きたい、
と、神妙な態度である。
津川に、一揆の代表者たちを集めて貰って、鉄太郎自ら、話し合うことにした。
――開墾した土地を、結局、取り上げられてしまうのではないか、
と言うのが、農民たちの最大の疑念なのである。
鉄太郎は、断乎とした口調で誓った。
「静岡県権大参事として、この山岡がはっきり諸君に約束する。開墾地は、開墾に従事した人々のものになる。断じて取り上げるような事はない。私は嘘いつわりは絶対に言わぬ男だ。信じて貰いたい」
鉄太郎の噂は、この辺りの農民たちも聞いている。
――藩庁で最も真剣に領民のことを考えていてくれる人、
としての評価は浸透していたらしい。
「山岡様が、そこまではっきり約束して下さるなら、信じましょう」
と、一同が納得してくれた。
――初めに約束した必要資金の供給が滞っている、
と言う不満に対しては、鉄太郎も全面的にその事実を認めて、頭を下げた。
「全く申訳ない。資金の都合がつけば第一にこちらに回す。今の処、藩財政はどうにもならぬ窮乏ぶりだ。もうしばらく待って貰いたい。必ず初めの約束通りのことはする」
と誠心誠意、陳弁する。
その鉄太郎の衣服は、到底、藩庁の最高官吏である権大参事のものとは思われない粗末なものだ。
――山岡さんは給料のほとんどを、当然藩費で賄うべきところに充当しているそうな。
そんな噂を聞き知っていた者もいて、口から口ヘと、ささやかれると、百姓代表たちも余り強いことが言えなくなった。
「分りました。山岡様、私たちも苦しいが、何とか頑張ってみます」
と、どうやら話がまとまる。
鉄太郎は村上を解任し、次郎長に頼んで多少の資金を融通して貰って、この地の百姓代表たちに手渡した。
「山岡先生、私にはやっぱり、あんな仕事は苦手だ。私は畢竟《ひつきよう》、剣をふり廻すより能のない男らしい」
村上は、しょんぼりして言う。
「そんな事はないさ。一度の失敗ぐらいでへこたれず、元気を出せ」
と慰めたが、村上をこんな仕事に回したのは失敗だったと、鉄太郎も認めた。
同じ乱暴者のように見えても、松岡万は遠江の磐田地方で民政に参与したが、素晴らしい成績を挙げていた。
私心のない性格が、村民の信頼を得たのだろう。
――大岡越前守様のような方、
とたたえられ、ついに磐田郡於保村に松岡を本尊とする地主霊社と言う神社まで建てられた。
「おれは、神様になったんだぞ」
松岡は、その後、屡々《しばしば》、無邪気にそう言って威張っていた。
明治三年七月の調査によると、東京府の総人口は、六十七万四千二百六十四人となっている。
旧幕時代最盛期には江戸府内だけでも百万人を超えていたものと思われるから、四十万人以上の人口減少が見られた訳だ。それも二、三年の中である。
大名屋敷は空になり、風雨にさらされたまま、武家屋敷も多くは雑草に埋もれ、昼間でさえ通りには人影もまばら。
――辛うじて江戸に踏止まった者は、或は杉の生《いけ》がきを切り開いて怪し気な茶店を設け、妻娘などが茶の湯の手前よろしく、一椀を客に進めるあり、或は無恰好なる道具店の見世を出し、その家重代の道具を搬《はこ》び来って、でたらめの値段を附し、主人自らこれを売り居る者あり、武家屋敷はとみに変じて商家ともつかぬ異様のものとなり云々、
と言う状況である。
民部省に開墾局が設けられて、空地に桑茶の植付|蒔付《まきつけ》を奨励したので、
――愛宕山から下町見れば、かしこもここも桑茶の茶
と俗謡がうたわれる始末。(そうした状況は明治五年頃までつづいた)
九段坂から神保小路にかけては、剽盗《ひようとう》が出没し、往来も絶える状況だったと言う。
久しぶりに東京にやってきた鉄太郎が見た懐かしい江戸は、こうした荒涼たる姿であった。
ただわが世の春を誇っているのは、薩長土肥の成上りのにわか高官たちだ。旧大名の別邸や旗本の邸を占領し、いかめしい官職について、口髭をそり返している。
町々の木戸はすっかりとり払われて、人通りも少く、廃都のような活気のない町中を、鉄太郎は背筋のうすら寒いような気持で歩いた。
陽の光りは濃く、緑の葉も、白い雲の光りも、夏の到来を告げてすがすがしい筈なのだが、鉄太郎の目に映る町の人々はひどく元気がなく、鉄太郎自身も心が重い。
上京してきた主目的は、静岡藩が沼津に設けた兵学校の頭取|西周《にしあまね》に関し当局と交渉する為であったが、同時に入牢《じゆろう》中の石坂周造の赦免について何とか奔走してやりたいと思っている。
沼津兵学校は、頭取西周、一等教授赤松則良、伴鉄太郎、大築尚志、塚本桓甫らの当代一流の新知識を教官とし、泰西の新兵学を教えようとしたものである。
静岡藩ばかりでなく、遠く他の藩からも留学を希望するものが多く、極めて評判が良い。そしてその好評の少からざる部分が頭取西周の人格と学識とに依存していた。
ところが、この頃になって、政府は西周を兵部省に招聘しようと言う意向を示してきた。西をひき抜かれては、沼津兵学校としては致命的な打撃を受ける。
鉄太郎は、西の留任を歎願するため、東京にやってきたのである。
兵部省は、旧土州邸の北、岩倉邸の筋向いにあった。
兵部喞は初代の小松宮嘉彰親王に代って、有栖川宮|熾仁《たるひと》親王が選任されたばかり、兵部大輔は初代の大村益次郎が暗殺された後、長州の前原一誠が任命されていた。
鉄太郎は、前原に会った。
西周が、沼津兵学校にとって如何に重要な存在であるかを力説し、政府でこれを引っこ抜くことは遠慮して頂きたいと懇願する。
前原は、終始、しぶい顔をして、鉄太郎の言うことを聞いていた。
言葉の少い男である。
明治二年七月、参議に任じられたが、閣議においても殆《ほとん》ど発言せず、
――無言参議
と言う綽名《あだな》をつけられたほどであった。
性向においてかなり保守的であり、融通性が乏しく、新しい時代の目まぐるしい変転についてゆけないところがあったらしい。
同じ長州閥の木戸孝允、井上馨らと合わなかった。才気|煥発《かんぱつ》の木戸や井上からみれば、前原は余りに単純であり、戊辰役には功績があったとしても、その後の複雑な政治の場面には到底適さぬ人物と思われたのであろう。
兵部大輔になったものの、政府部内でも、否、長州閥内でさえ、浮いた存在になってしまっており、本人もそれを感じて、心|愉《たの》しからざる日を送っていた。(この年九月、卒然として兵部大輔を辞任して萩に戻り、六年後、萩の叛乱を起している)
「いかがでしょうか、以上の事情を御考慮の上、西先生を沼津に残しておいて頂きたいと存じますが」
鉄太郎は、下手《したて》に出て、対手の応答を待った。
前原は、視線を逸《そ》らせたまま、冷い口調で、反問した。
「静岡藩では西周が優れた学者だと言うことを力説したいのですな」
「はあ、さようです」
「それほど優れた学者ならば、一静岡藩で独占すべきではなく、中央政府において、充分に活用する方が、国家の為によいと思うが、どうですかな」
「仰せの通りですが、中央政府におかれては、全国的に如何なる人物をも選任されることが可能と思います。静岡藩としては西先生は、唯一無二、余人を以て替え難い人物なのです」
「政府は全国的に人選して、西周を最適と認めたのです」
「しかし――」
「静岡藩は政府の決定に不満と言われるのですか」
ぴしりと切って捨てるように言う。
旧朝敵第一号の徳川静岡藩としては、
――政府に反対、不満、
と認められることは何より怖い。
鉄太郎は、沈黙し、辞去した。
――岩倉さんに頼んでみようか、
兵部省を出てから、そうも考えてみたが、
――そんな事をして、兵部省に睨まれては却って不利だ。結局、西先生のことは諦めるよりほかないかな。
益々憂鬱になる。
だが、もう一つ、厭な仕事が残っていた。
友人石坂周造の釈放運動だ。
石坂は、いわば、
――入牢常習犯、
であった。
清河八郎の門弟として、山岡、松岡、村上らと親しくなったのだが、エネルギー過剰の為か、しばしば過激な行動に出て、幕吏のため伝馬町の牢につながれた。
維新後、新政府の役人として採用され、常州に赴いたが、越権行為があって弾正台《だんじようだい》の糾弾を受け、捕えられて獄に下った。
もう、一年半ほど獄舎生活を送っている。
鉄太郎は何とかして出してやりたいと思い、新政府に知人の多い勝に相談したが、勝は例によって、皮肉な答をした。
――石坂と言う男は有能ではあるが、乱暴で間違いを起し易い。むしろ当分獄舎に入れておいた方が、彼自身の為によいのではないか、
鉄太郎は、苦笑したが、
「石坂のことは私が責任を持ちます。何とか釈放される様、斡旋《あつせん》願います」
と、重ねて頼み込むと、
「今の刑部省にはあいにく知人はいないが」
と少し考えていた勝が、
「そうだ、土州の佐々木高行――半年位前まで刑部大輔をしていた、あの人に手紙を書いてあげよう。現在の刑部大輔はたしか松本暢だと思うが、何とか口を利いてくれるかも知れぬ」
勝にしては珍しく親切に、佐々木宛の添手紙を呉れた。
鉄太郎は、兵部省を出てから佐々木の私邸を訪れ、願いの趣きを告げた。
佐々木は温厚な人物である。
鉄太郎の、友情を溢らせた歎願をじっと聞いていたが、
「分りました。石坂と言う人の罪科は、今うかがった限りでは、それほど大したものではないらしい。あなたがその人の一身について全責任を負うと言うのであれば、何とか保釈の方法がないこともないでしょう。私から刑部大輔の松本さんに頼んでみよう」
と、引受けてくれた。
「突然参上して、勝手なお願いをしたにも拘《かかわ》らず、快くお聞き届け頂き、何ともお礼の申し様もありません」
鉄太郎は、心から感謝して、佐々木の許を辞した。
東京の町はすでに、暗くなっていた。
新しくつけられた町角の常夜燈の蔭に、どんな時世にもこればかりは変らない恋を語らう若い男女のもつれ合う姿が見えた。
――おみよ
の姿が、鉄太郎の脳裏に浮んでいた。
前年春から夏にかけて、藩の要務で、二、三度上京した時、おみよの処に泊った。
それ以来、半年近くも会っていない。時々、便りはあり、鉄太郎の方からは、なにがしかの金を送ってやっている。
おみよの夜の姿を思い浮べると、鉄太郎は、壮気|凜々《りんりん》たる欲望を感じる。おみよの小さなからだが持っている不思議な吸着力は、忘れ難いものであった。
静岡での鉄太郎は、行動の自由をかなり束縛されている。
権大参事が、花街《いろまち》に遊びにゆく訳にはゆかなかった。
と言って、女を囲っておくことも、藩財政窮迫の折柄、慎しまねばならぬ。沼津兵学校の世話役である阿部邦之助が、公然妾宅通いをしていた為、激昂した若い家士たちに襲撃されて負傷した事件さえあった。
三十五歳、壮年盛り、しかも健康無比、自ら、
――おれは何と言う色好みだろう、
と呆れている鉄太郎にとっては、強いられた品行方正の生活はかなり苦痛である。正妻英子だけでは満足できない。
藩務が多忙を極め、一日中殆ど休むひまもないので、わずかに、そっちの方に気が向くのを逸らせているだけだ。
――東京へ行く、
と決まった時、鉄太郎はむろん、すぐに、おみよの事を考え、まるで若者のように、胸をときめかし、ふっと自省して、苦笑を洩らした。
が、今、なつかしい品川の町を、南町から歩行《かち》新宿へと歩いていると、おみよがもう次第になまめかしい姿態になって、頭の中に廻転してくる。
両側の旅籠屋や送り茶屋は、以前の通り立ち並んでいたが、あまり繁昌はしていないらしい。
横浜では、新しく遊廓が開かれて、大変な賑わいだと言う。
北本宿一丁目の橋の手前で西に折れると北|馬場《ばんば》、そこにある本照寺の隣が土蔵相模の別荘だ。おみよは、そこで働いている。
――まだ、家には戻っておらぬかも知れん、それでもいい。
勝手知った家に上り込んで、独酌を傾けて、女の帰りを待っていると言うのも悪くないものだ。若い頃、何度も経験している。
本照寺の前を北へ曲った。
この辺り、長い土塀がつづき、その塀の上を超して巨木の枝が外につき出ていて森の中を歩くような感じである。
緑の香りが月明りの中にも、強く匂う。
――やっぱり、
土塀をはずれたところで、前方の小さな家を認め、灯りが洩れていないのを見ると、鉄太郎は、おみよが未だ勤めから戻っていないのを知った。
念のために、
「おみよ――」
と声をかけておいて、裏口に廻って、勝手口の戸をあけて、中に入った。
灯りをつける。
部屋は、かなり散らかっていた。艶《なま》めかしい衣裳などが脱ぎ散らされたままだ。
――相変らずだ、
鉄太郎は、子供の罪のないいたずらを見つけた母親のように、眉をしかめて、口をつき出した。
おみよには、少々だらしのない処がある。身の廻りをきちんと片付けておくことが下手なのだ。鉄太郎はそれをかえって可愛く思い、
――仕様のない奴、
と舌打ちする。
仏壇に、灯りをつけた。
おさとと、益満の位牌がある。
――これは、
鉄太郎は、顔をしかめた。
仏壇が埃《ほこり》だらけだった。
永らく、全く放置されていたことは明白である。おみよは、
――おさと様と益満様の御位牌は、私が拝ませて頂きます、
と、殊勝気に約束したが、この有様だ。
前回来た時は、一応、奇麗になっており、花や線香も供えられていた。あれは予《あらかじ》め、訪れることを予告しておいたからだろう。
――若いのだ、それに忙しいのだろう、仕方がない、
鉄太郎は仏壇を掃除し、線香を立て、端座して手を合せた。
それから台所に行った。
酒はある。おみよも少しはやるのだ。
冷やのまま、座敷にもってきて、飲み始めた。
何となく落着かない。
以前、この部屋に来た時には、まるで自分の家にいるかのように気が休まったのに、今夜は何か、客に来ていると言った感じだ。
――永らく来なかったからな、
と、自分の気持を、説き伏せた。
――おみよ、早く帰ればよいが、
燃え上っていた体内の火が、次第に冷えて、酒もあまりうまくない。
――少し眠るか、
ごろりと横になると、すぐいびきをかき出した。
二時間ぐらい経ってから、ぱっと眼を醒まし、半身を起した。
「鉄太郎さま」
おみよが、眼の前に坐っていた。
「お、帰ったか」
ほんのり頬を染めたおみよの顔が、少々まぶしい。
「灯がついているので、怖くて――そっと覗いてみたら――」
おみよが、そう言って、上眼づかいに、鉄太郎を睨むようにした。
「久しぶりだ。飲み直すか」
鉄太郎は元気をとり戻して言う。
「はい。すぐ用意します。済みません、お冷酒などで、それもお酌もなく――只今、すぐに――」
いそいそと台所に起っていったおみよが、急いで一応恰好をつけた酒肴《しゆこう》を持ってきた。
「その後、変りはなかったか」
「ええ、どうやら――でも、淋しくって」
と、盃を満たしながら、
「鉄太郎様、いつになったら、東京にお戻りになれるのです」
「さあ、それは分らん。静岡藩のある限り、徳川家の家臣としてのおれは、殿さま(家達《いえさと》)にお仕えしなければならん」
「でも、もう鉄太郎さまは徳川家の御家来じゃないのでしょう。権大参事と言うのは、お上(政府)から任命されたお役目でしょう」
――ほう
と、鉄太郎は眼を巨きくした。
市井の女たちまで、もうそれをちゃんと理解し、新旧制度の変化を会得《えとく》しているのだ。
古い君臣関係に、いまだにしっかりと縛られ、いや、むしろそれに必死にすがりつこうとしている静岡の旧幕臣たちが、一番、遅れているのかも知れない。
――いや、このおれだってそうだ、静岡藩権大参事よりも、徳川家直臣と言う意識の方が強い。勝さんのように君臣感情を超脱できないでいる。
「そうだ。お前の言う通りだ。だが、おれは古くさい男でね。やっぱり徳川家直参だと思っているのだ。いつ迄、そんな考えが通用するか分らないがね」
「お座敷で、この頃、耳にします。いずれ藩と言うものがなくなって、みんな朝廷の直接の御支配になるんだって」
「やられたな。どうも田舎にいるおれよりも、お前の方が、時世の動きをよく知っているらしい」
「まあ、いや。私など、ただお座敷での聞きかじり――それより、鉄太郎様」
「うむ」
「静岡でも、浮気ばかりしていらっしゃるのでしょう」
「冗談じゃない、そんな暇などありゃしないさ」
「うそ!」
「本当だ」
「うそ、うそ!」
「本当だ、その証拠をみせてやろうか」
鉄太郎は、おみよを横抱きにして、押したおした。
「ま、待って――あちらに」
おみよは笑いながら抗《あらが》ったが、鉄太郎は構わずにその帯に手をかける。
おみよが急に眼を閉じ、からだの力を抜いた。
鉄太郎は、女の帯を解き放って、胸を押し開き、その胸の隆起に眼を据えた。
――杯盤狼藉《はいばんろうぜき》
と言った感じの中での、あわただしい交りが終った。
「まあ、忙《せわ》しない――」
おみよが、髪を直しながら呟く。
「あちらに、ちゃんとお支度しますのに」
「半年ぶりだ。待てなかったのだ」
「いつ迄も、お若い――」
「益々若くなる。この方は」
「嬉しいこと」
おみよは、起って隣の部屋に行った。
床をとっているらしい。
しばらくすると、長|襦袢《じゆばん》一枚の、なまめかしい姿で現れた。
「お召しかえなさいまし」
「寝衣《ねまき》なぞ、いらん」
鉄太郎は衣裳を脱ぎ棄て、下帯一つになると、逞《たくま》しい両腕におみよを抱きかかえて、次の間にゆき、床の上に横たえた。
「今夜は、うんと、苛《いじ》めるぞ」
「御存分に」
二度目は、少し落着いて行動できた。
――素晴らしい女だ、
と、思う。
その小さなからだのどこにそれほどのエネルギーがひそんでいるのか、おみよは、二度、三度とつづいた鉄太郎のはげしい攻撃を受けとめた。
両手の指先で敷布をしっかりと掴み、足の親指をきつく反らせ、小さな喘《あえ》ぎを次第に高めて悦びの悲鳴をあげる。
全身が、匂いの園の中で、しとどに濡れそぼったと思われた時、鉄太郎はようやくおみよのからだから離れた。
おみよはすぐに、鉄太郎の部厚い胸に顔をよせてきて、意味のないかすかな甘え声を洩らす。
「おみよ」
「はい」
「不思議な女だな。お前は」
「なぜでございます」
「こんな小さなからだをしているくせに」
おみよの背を腿の方まで撫で下ろして、
「大した好《す》きものだ」
「ま、いやッ」
おみよは、むしゃぶりついた。
「半年近くも、抛っておかれたんですもの――意地悪」
「よく我慢できたな」
「にくらしい」
おみよは、鉄太郎の腿を抓《つね》った。
「は、一向に痛くない」
「じゃ、もっと」
「痛くない」
「くやしい」
おみよが頭を上げ、紅潮した頬を鉄太郎の顔の上に重ねた。
「美しい顔をしている。もう一度いじめたくなった」
鉄太郎は女のからだを抱き上げた。
翌朝は、昼近くまで寝坊した。
――近い中に、必ずまた、
と固く約束して、別れた。
空約束ではない。何か用件をこしらえて、必ずやって来ようと思っている。それほど、前夜の交りは甘美だったのだ。
品川宿の立場《たてば》で、馬を借りた。
横浜に寄って、専蔵に会って行くつもりでいる。
からだは少し気だるいようだったが、頭の中はからりと冴え渡っていた。
陽の光りが少し、眩《まぶ》しいような気がする。
五時頃、横浜についた。
専蔵の店は、弁天通北側から本町に移っていた。
店の構えもずっと立派になっている。この辺り、日に日に発展しつつある横浜の中心なのだ。
――平沼商会
と言う看板が出ていた。
「お、先生!」
と、いち早く鉄太郎の姿を見つけて飛出してきた専蔵に、
「立派な店になったな」
「はい、お蔭さまで――ま、どうぞ奥へお通りになって。みんな、ちょっと店を頼む」
「造作をかける」
店先で働いている二、三人の若い者に声をかけておいて、鉄太郎は奥の座敷に入った。
「商売は繁昌しているらしいな」
「ええ、まあ、忙しくって忙しくってどうにもなりません」
「結構なことだ。東京じゃどこも不景気で、静まり返っている」
「あ、東京からのお帰りで」
「うむ」
専蔵は、ちらっと鉄太郎の顔を見上げ、
「どうも、先生、申訳ありません」
と、頭を下げた。
「何の事だ。別に詫《わび》られるようなことはないが」
「いえ。あの、おみよさんの事で――お報らせしなければと思いながら、つい、その、申上げにくくて」
「おみよが、どうかしたのか」
「えッ、あの――おみよさんにお会いになったんじゃないんで?」
「いや、会った――専蔵、はっきり言え。おみよがどうかしたのか」
「先生、おみよさんにお会いになって――別に、その――何も――」
「何を言っているのだ。さっぱり分らん。はっきりしろ」
専蔵は、額の汗を手のひらで拭った。
「や、どうも、余計なことを言っちまったようで」
「何も言ってはいないではないか。おみよについて何かあったのなら隠さずに言ってくれ。おれはおみよに会ったが、別に変った点には気がつかなかったが」
「先生がそうおっしゃられると、益々言いにくくなりますが、おみよさんについては、どうしても一度、先生にお報らせしなければと思っていたところなので――」
「聞こう」
「私、商売のことで、東京へは度々参ります。お役人方を品川の料亭にお招きして、色々とその――お願いすることもあります。そんな時、つい耳に入りますので、おみよさんの事で――私も以前、先生からお依頼を受けておりますので、特におみよさんの事に気をつけているせいかも知れませんが、おみよさんの不身持はこの頃じゃ、相当評判でして」
専蔵は、遠慮勝ちながら、おみよの行跡について耳に入れたことを話した。
土蔵相模の客の中でも、大蔵省の租税正《そぜいのかみ》某や、民部省の大丞《だいじよう》某とも、
――訳《わけ》あり
だと言うし、日本橋の商家近江屋の番頭某ともおかしいと言う。その上、芝神明の酒問屋堺屋の若旦那も丸め込んでいるとか。
「土蔵相模でも、余り噂が立つので少からず困っているようですが――何分、先生からのお話で勤めるようになったので、うかつに罷《や》めさせる訳にも行かず――」
鉄太郎は、話の半ば頃からは茫然として、専蔵の言葉を聞き流していた。
容易に信じ難い思いである。
つい昨夜、まるで渇き切っていた仔鹿が森の泉をみつけたかのように、むしゃぶりついてがつがつと言いたいほど、鉄太郎の活力を吸い上げたおみよではないか。
――あれはすべて芝居だったのか。そんな筈はない。
瞳を霞ませ、頬を熱くし、唇の間から白い小さな歯をみせ、舌を震わせ、嬌声《きようせい》を切なげに洩らしつづけたあの艶美な妖しい姿は、自然のものであった筈だ。
――だが、専蔵がつくりごとを言う訳はない。噂は本当なのだろう。もともと淫らな性質で、色々と男出入りの多かった女だ。或はその噂通りかも知れぬ。
或は――鉄太郎は心の底でその考えにとりすがった――大したことでもないのに、朋輩たちが、誇大に言いふらしているのかも知れない。
「で、このままでは、結局、先生のお名に傷がつくことになる。先生が人の笑いものになっては――と、私も思い切って先生に一切お報らせしようかと考えていたところでございます」
専蔵はまるで自分の身内の女が、不始末をしでかしたかのように、恐縮しながら、汗をふきふき、述べ終った。
「そうか、よし分った。私は昨夜会うたが、全く気がつかなかった。いつもながら、間の抜けた話さ。そう聞いたからには抛ってもおけぬ。土蔵相模も迷惑しているだろう。事情をはっきりさせて、しかるべく処置をしよう」
「先生、どうなさるおつもりで」
「それは、おみよにもう一度会ってから決めよう」
「えっ、又、東京へお引返しになるのですか」
「そうだ。専蔵、毎度のことで済まないが、五十円ほど用立ててくれ」
「それは、おやすい御用ですが」
鉄太郎は金を受けとると、そのまま東京へ引返した。
品川の宿に入ったのは、夜更けである。
――もう、店から戻っている筈だ、
真直ぐに、おみよの家に行った。
灯が点いている。
鉄太郎は、前夜の悩ましい状景を、その灯りの下に思い浮べた。
――あのおみよが、まさか、
まだ、信じ難いものがあった。
馬を降り、樹につないだ。
おみよの家の戸口に立った。
「おみよ」
と、呼んで、表戸に手をかけた。
内部《なか》で、
――あっ、
と叫ぶ声がして、人の立ち騒ぐ気配がする。鉄太郎は戸を引きあけた、中に入り、座敷にあがった。
奥の間の襖《ふすま》を開いた。
華やかな寝床の上に、半裸の若い男がいた。度を失って、動きがとれぬらしい。
おみよは辛うじて長襦袢を肩にひっかけ、伊達巻《だてまき》を締め終ったところだった。恐らく裾除け一枚になっていたのだろう。
開かれた襖の間に立った鉄太郎をみると、おみよは、行灯《あんどん》の蔭に坐り込んでしまった。
「ほう」
鉄太郎は立ったまま言った。
「こう言うことだったのか」
「お許し下さいまし」
おみよは、消えるような声で言って、頭を下げた。
若い男は、どうやら肌をかくし、床から辷《すべ》り下りて、からだを縮めている。
「お許し下さいまし」
おみよが、もう一度同じ事を呟《つぶや》いた。
「つい、出来心で――」
――出来心か、
鉄太郎は苦笑した。
瞞《だま》されていたと言う怒りはなかった。むしろ、妙に淋しい悲愁感があった。
「弁解はいらぬ。お前のことを色々と聞いて半信半疑だったが、これで事情がはっきりした。そこの男が堺屋の若主人かね」
男が、頭を膝につくほど下げた。
「おみよ、別に咎《とが》めはせぬ。お前にはお前の生き方があろう。好きなように生きてゆくがよい。私とのことは今日限り、無かったことにして貰おう。ここに少しばかりだが、金を用意してきた。受取ってくれ。永らく面倒をかけたな」
専蔵から借りた金を、投げ出した。
「鉄太郎さま、私はただ――」
「よいよい、何も言うな。もうこれ切り、私とは全くの他人と言うことにしよう。好きなようにするがよい。ただ、土蔵相模の方でお前の行状を多少迷惑に思っているらしい。店は罷《や》めてくれ。私の方からも言うておく」
「あの、鉄太郎さま」
おみよは、膝を立てた。紅い蹴出しと、白い腿とが、灯影になまめく。
鉄太郎は、くるりと背を向けた。
「達者でな」
言いすてて、戸外《おもて》へ出た。
戸口までおみよが追って出た気配であったが、鉄太郎はふり向きもせず、馬の鞍にまたがった。
深夜の街道を、そのまま西に向う。
夜が明けても、休みもしない。
馬上、考えつづけていた。
――女というものは不思議なものだな。
これは、十代の末に女人を知ってから、ずっと抱きつづけてきた感慨である。
何人、何十人、何百人の女を体験したか分らない。
が、依然として、
――女は不思議なもの、
であった。
少年の自分を誘惑して、新しい世界を開いてくれた年上の女おさとは、淫らな出戻り女かと思われたのに、意外にも純情で、その全生涯を捧げつくしてくれた。
少年の日の儚《はかな》い恋心の対象であったつつましやかな乙女おみよは、思いもよらぬ淫奔の正体を示し、飽くことを知らぬ女体の凄まじさを如実に見せてくれた。
――妙なものだ、
と、何度でも思う。
――哀しいものだ、
とも思う。
そのような性質《さが》をもつ女体も、その女体に惹かれてやまぬ男と言うものも、
――妙なもの、哀しいもの、
なのだ。しかし、それが現実なのだ。
二日目の朝、箱根を越えて、三島の町に着いた。
名刹《めいさつ》龍沢寺がある。
そこの住持である星定和尚には、かねてから禅の訓《おし》えを受けていた。
静岡から、暇をみては三島までやってきて、星定和尚の痛棒を喰らっているのだ。
急に龍沢寺に行って坐ってみたくなった。
朝の清涼な空気の下で、高い山門が松の緑の中で目を洗うように聳《そび》えている。
山門をくぐると、思いがけずも、星定和尚が立っていた。竹|箒《ぼうき》をもっている。
「あ――」
鉄太郎が、頭を下げた。
「妙なつらをしておる。臍《へそ》でも落としたか。ふん、先に本堂に行って坐っているがよい」
和尚が、乱暴に言った。
静岡に戻った鉄太郎は、以前にもまして忙しく働いた。
おみよの事など、ケロリと忘れてしまっている。
一ケ月ほど経った頃、
――沼津兵学校で、学生たちが騒いでいる、何とか鎮めて貰いたい、
と言う要請を受けた。
西周の兵部省入りが内定したことが洩れたため、学生たちが留任運動を始めたのだ。
鉄太郎は、学生たちを集め、
――その件については、私も心配して、先頃上京し、西先生の留任を懇願したのだが、聴いて貰えなかった。西先生ほどの人材を一静岡藩で独占するべきでないと言われれば已《や》むを得ない。諸君の気持は分るが、ここで騒ぎを起しては、かえって西先生に御迷惑をかけるような事になろう。自重して欲しい、
と、事をわけて説得した。
学生たちも、
――山岡さんが、直接上京して運動してもだめだったものならば、
と、諦め、納得してくれた。
案じていたよりも容易に片がついたので、心も軽くその日の中に静岡に戻ってくると、紺屋町への曲り角で、人だかりがして、何か騒がしい。
――喧嘩か、
と、とり合う気もなく通り過ぎていこうとした鉄太郎が、はっとして足を止めた。
「ばか野郎、うぬらにつべこべ咎め立てされる筋はない、そこ退《の》けい」
と、大声で呶鳴っている声を耳にしたのだ。その声にはっきりした特徴があった。
鉄太郎は、人だかりの方へ走った。
声の主は、三、四人の若い者を対手に、啖呵《たんか》を切っていた。その周りを物見高い通行人が囲んでいた。
「石坂――」
鉄太郎が、声の主に向って呼びかけた。
「お、山岡さん」
「どうしたのだ」
「なに、こいつらが――」
と、石坂が指した対手をみると、新門の乾分《こぶん》たちである。
鉄太郎の出現に、吃驚《びつくり》したらしい一人が、
「山岡先生、こちらは、先生の御存知の方でございますか」
と、やや当惑顔で聞く。
「よく知っている。兄弟同然の仲だ」
「そいつは――知らねえこととて失礼しました。申訳ありません」
「この男が、どうかしたのか」
「へえ、この方が宝台院のあたりをうろうろしている様子なので、何か御用かと伺いましたところ、凄い権幕で呶鳴《どな》られまして」
宝台院から慶喜の住んでいる元代官屋敷の辺りは、新門の乾分が、いつも警戒して回っているらしい。もうそんな必要もないのだが。
「石坂、ここで何をしようとしていた?」
「何って、山岡さん、あんたを探していたのだ。東京で、不意に釈放を言い渡されたが、どこにも行く処がない。静岡にあんたが居ることは分っていたから、行けば何とかなると思ってやってきた。あんたのことだから慶喜公のお側にいるだろうと、慶喜公のお住いを聞いたら、この辺りだと言うから、探していたら、この連中が文句をつけたので、一喝《いつかつ》してやったところだ」
入牢していて、静岡の事情も、鉄太郎のその後のことも何も知らないのだ。鉄太郎のお蔭で釈放されたのだということも、むろん、知らないだろう。
「相変らず喧嘩早い男だ」
鉄太郎は、新門の若い者に、
「と言う訳だ。この男は私が連れてゆく」
「へえ。そりゃもう――本当に失礼致しました。悪しからず」
鉄太郎は石坂周造を、安倍川に臨む自宅に伴《つ》れていった。
「おい、珍しい男を連れて来たぞ」
と言う声に、
――又、新しい居候さんだわ、
と、内心少々がっかりしながら出てきた義妹の桂子が、
「まあ、石坂さんじゃありませんか」
と、懐かしそうに大声をあげた。
英子も走り出てきた。
「石坂さん、一体、今迄どこでどうしていらしたんです」
女人たちには、案外、人気があるらしい。
「話は、ゆっくり後で聞こう。まず、湯に入れてやってくれ。この男、側によると少々くさい」
「一年半も牢にはいっていて、出されるとその足で歩きつづけてきたのだ。少々くさいぐらい勘弁して下さいよ」
「一風呂あびたら、石坂、久しぶりで一杯やろう」
「有難い」
桂子が石坂を風呂場に案内してゆく。
「村上はどうした」
鉄太郎が英子に訊ねた。
「勝先生のところへ行かれました」
「また、何か文句を言いに行ったのかな。仕様のない奴だ」
「夕方には戻ると言っておられましたが」
「村上も、石坂を見たら愕くだろう」
「本当に」
「石坂、当分、置くぞ」
「ええ、分っております」
風呂から上ってきた石坂が、鉄太郎の浴衣を着て現れた。だぶだぶで足首までかくれてしまっている。
「乞食坊主みたいだな、まあ、坐れ」
「村上が御厄介になっているそうですね」
「うむ」
「私も御厄介になりますよ」
当然の権利のように石坂がそう言った時、村上が戻ってきた。
「おお、石坂さん、久しぶりだなあ」
村上は石坂をみると、そう挨拶したが、座につくと忽《たちま》ち、憤然とした語気で、義兄勝を罵り始めた。
「おれの義兄には違いないが、あの人物は全く怪しからん。勝家は三河武士の出かも知れんが、あの男には越後の血しか流れていないね」
「何をそうふくれているのだ。金を貸してくれなかったのか」
石坂が、ひやかす。
「そんな問題じゃない。勝は徳川家の家臣たることを罷めたいと言うのだ」
「えっ、それは本当か」
鉄太郎が驚いて、反問した。
「本当です。自分は静岡藩にあっても格別な御奉公はできないから、近日、退藩願いを出したいと言っていました」
退藩願いを出すと言うのは、旧幕時代で言えば、家臣の方から主君に対して、
――永のお暇《いとま》を賜わりたい、
と願い出て、君臣の関係を棄てることである。
「何がそんなに、勝さんの気に入らないのかな」
鉄太郎は不審に思う。平岡も大久保も、鉄太郎自身も、勝にはずいぶん気を遣い、その顔を立てているつもりなのだ。
「いや、勝の気持はとっくに徳川家を離れているのです。中央政府にはいって、当世風の出世したいのですよ」
村上は、吐き出すように言う。
「しかし、外務省からの招聘《しようへい》は断ったのだし――」
「あれは、地位が気に入らなかったからですよ。あの時は、ちょっとやるなと感心しましたがね、後でよく考えてみれば、待遇が不満で、すねただけです。あれはそう言う男ですよ」
「そうかなあ」
鉄太郎はまだ納得できなかった。
「時に、松岡はどうしている?」
村上の勝罵倒がしちくどくなってくるのを見た石坂が話頭を転じた。
「うむ、松岡か、あれは神様になった」
「なに、神様?」
「うむ、変な奴だ、あいつは」
村上は松岡が庶民の崇敬の的になった次第を話した。
「おれは悪代官の見本のようになり、松岡が神さまになるとは分らんことだ。おれの方があいつより少しは悧巧《りこう》だと思っていたのだが」
「悪代官ぐらいなら我慢しろ、おれなんぞ囚人になって、くさいめしを喰ってきた」
石坂が哄笑《こうしよう》した。
「松岡、村上、石坂――揃って一種の気違いだ。虎尾《こび》の会の頃、清河先生がそう言っていたことがある」
鉄太郎も笑いながら思い出して言った。
――虎尾の会
と言う言葉を聞くと、石坂も村上も、懐かしそうな瞳になった。
清河を中心にした尊皇攘夷党の名だ。益満も伊牟田もいた。安積五郎も池田徳太郎もいた。みんな若くて、活気充満し、無茶苦茶に暴れ廻った。
「虎尾の会か――愉しかったなあ、あの頃は――毎日、生甲斐を感じていた」
村上が、柄になく感傷的な声を出した。
「もう、十年も昔になる」
鉄太郎にしても、感慨は深い。
「清河先生は、人傑だったなあ。熱情と才気とを兼ね合せた英雄だ。あの人が今生きていればなあ」
石坂がしみじみとした口調で言う。
しばらく、亡き清河八郎の想い出話が弾んだ。
清河を口を極めて、最も強く賞讃したのは石坂である。石坂は二十八、九の頃、下総で石坂宗順と名乗って怪し気な医業を開いていたが、たまたまその地方を巡歴してきた清河八郎に会い、その尊攘論を聞くと、すっかり感奮し、医業を棄てて江戸に出、志士として国事に奔走するようになったのだ。
「清河先生は口説《くど》き上手だった。誰でも先生の話を聞いているとコロリと参った。あの手で女を口説いたら百発百中だろうな」
村上がそう言うと、石坂は本気になって目を剥《む》いて怒った。
「ばか、何を吐《ぬ》かす。清河先生の眼中には天下国家以外何もなかったのだ。お主が女を愛し、おれが酒を愛するように、先生は国を愛したのだ」
そう言いながら石坂は、盃に酒を注ごうとしたが、徳利が空になっていたので、ちょっと哀しそうな表情になった。
鉄太郎はめざとくそれを認め、うしろをふりむいて、
「お英、酒だ」
と叫んだが、背後にいたのは、お英ではなく、お桂《けい》であった。
お桂が、いつの間にそこに来ていたのか、誰も気がつかなかったが、ふりむいた拍子にお桂の顔と正面からぶつかった鉄太郎は、
――おやっ、
と、少しとまどった。
お桂が、異常な表情をしていたからである。頬に血を上ぼせ、瞳を大きく開き、かすかに開いた唇の間から、白い歯をみせていた。
何かはげしいものが、からだ中から溢《あふ》れ出そうになるのを必死に堪えているようでもあり、燃え上ってくる懐かしい想念に、我を忘れて陶酔しきっているようでもある。
――そうか、まだ、こいつ、
鉄太郎は思いあたった。お桂が、かつて強く清河に惹かれていたことを。
「お桂、頼む、酒を――」
鉄太郎がやさしく言うと、お桂はハッと己れに返り、慌てて台所に起っていった。
勝の退藩願いは、慰撫された。
藩当局では、
――今しばらく藩務に勉励御頼みしたく、
と、鄭重に願書を却下したので、勝もやむなく願書を引込めたが、その後はますます藩務からは遠ざかる。
江戸には相変らずしばしば出掛けてゆく。
この頃は大久保や岩倉に、よく会っているらしい。
静岡に戻ってくると、来訪者に対して、
――もう藩などと言う制度はやめて、中央集権の郡県制にしなけりゃだめだな、
などと放言する。
たしかにその気運は強くなっていた。
今や、各藩ともに財政の窮迫ははげしく、同時に藩士たちの政府に対する不平不満は日々に増大していた。
藩士たちにしてみれば、その特権は次第に削られ、その収入は実質的に急減してゆく。こんなことなら旧幕時代の方がよかったと言う者さえ少くない。
現に長州、久留米、肥後などで不平士族が動乱を起した。一方、世直しの百姓一揆も頻発《ひんぱつ》している。
こうした国内動乱を鎮圧する為には、中央政府が強大な軍事力を持っていなければならないのだが、現在の処、それはない。結局、薩長土三藩が、歩騎砲の三兵を朝廷に差出して、朝廷の御親兵と言う形をとると言うことになったのが、明治四年二月。
しかし、各藩でも従来の組織は維持できなくなってきており、各種の新しい方式がとられるようになっていた。
例えば土佐藩では、士族による官職と軍務の独占を廃し、従来の禄を削減して改めて月給の禄券を与え、これに税を課し、すべてのものに職業の自由を認めた。
これは従来の藩士の身分を実質的に廃止するものであり、従って旧来の形の藩は、その実体をなくしてしまうものだ。
そうしなければやってゆけない時代になっていた。
小さな藩では、どうしてもやってゆけなくなって、廃藩を政府に願い出てきたものもある。上州の吉井藩、河内の狭山藩などがこれだ。
政府はこれを許し、藩を廃して近隣の県に併合し、旧藩主には旧藩石高の十分の一の家禄を与え、藩の士卒は県の管轄とした。
各藩で藩士を維持することが困難となる一方、新政権は中央に強い統一軍事力を必要とすると言うことになれば、藩なるものを廃止してしまう方向に向ってゆくのは当然の成り行きである。
明治四年七月九日から、木戸・大久保・西郷・山県らが鳩首《きゆうしゆ》協議した結果、七月十四日、突如として、
――廃藩置県
が断行された。
各藩、反抗の意を示したものは全くない。
廃藩置県の平和裡に行われたことは、一種の無血革命である。
これが実現したのは、廃藩置県断行に当って、当局内にも異論があり、
――もし諸藩が反抗したらどうなるか、
と危ぶむ声も出たが、西郷が、
――異議を唱える藩があれば、自分が兵を率いて叩き潰す、
と一喝したので、反対者は慴伏《しようふく》してしまったと言う。
だが、各藩がこの改革に反対しなかった最大の理由は、これによって各藩の藩主も藩士も、どうにもならぬ窮地から救われる結果になったからである。
各藩が負っていた内外債務及び、藩内限り通用の藩札はすべて政府が継承した。その内債総額二千三百三十二万円、外債二百七十九万円、藩札二千二百九十一万円はすべて、政府が肩代りしたのだ。
藩主は一切の債務を免れ、しかも従来通りの家禄を与えられたのだから、実質的に失うものは何もなかった訳である。多くの家臣にかしずかれると言う形式的栄誉は、もはや彼らにとって、むしろ小うるさい気苦労の種でしかなかったろう。
最も保守的な薩藩の西郷が、廃藩置県に賛成したのは不思議に思われるが、木戸と山県とに巧みに説得されたのだ。
もともと、木戸は国民徴兵制による政府直属の常備軍建設を主張していた。奇兵隊以来の経験によって充分の自信があったし、薩摩士族が西郷を中心に団結し、政府が常にその圧力におびえていなければならぬ状態に不満をもっていたからだ。
これに対して西郷は勿論、大久保も、民兵を募《つの》ることに不安を感じ、中央の軍事力は薩長土の精兵だけで充分だ、これで内乱など鎮圧できると考えていた。
その西郷が廃藩に賛成したのは、廃藩後の中央政府を一洗し、自分の思うような強力政治が断行できると考えたからであろう。それが現実によって裏切られると、西郷は事毎に不平を爆発させ、ついに中央を去ってゆく。
七月十四日の太政官令により、
――藩を廃し、県を置く
こととなり、藩知事と藩との従来の関係は全く切断されるに至ったので、徳川家達は、八月二十八日、静岡を発って東京に戻った。
静岡藩は消滅し、静岡県が誕生、県の知事としては、大久保一翁が任命された。
多くの県では、全く関係のない役人が新しく知事として任命されたが、静岡県知事として、県民にすでに馴染深い大久保が選任されたのは、特別の配慮によるものであろう。
大きな混乱はなかった。
旧藩士の多くが、この前後に江戸へ還っていった。
鉄太郎も亦、家族をとりまとめて、東京へ引揚げることにした。
数日後の引揚げが決定され、家族一同が準備に忙しく立ち働く。大した荷物はないにしても、いざとなればする事は多い。
居候の石坂や村上も、家人と共に働いていたが、石坂の方が何となく落着きがない。
二人とも東京へ行っても、差当り、このまま鉄太郎の処に居候をするよりほかない訳だが、さすがに石坂はそれが気になるらしい。もう三十半ばを超えているのだから、いくらのん気坊でもそれは当然であろう。
「山岡さん、ちょっと」
ひと休みしている時、石坂が鉄太郎を戸外に引張り出し、安倍川の河原に降りた。
「何かね、ばかに真剣な顔付きだが」
「真剣なのだ、山岡さん、是非、聞いて貰いたい」
「うむ」
「私も、もう四十になる」
「少し大袈裟《おおげさ》だな、三十六、七だろう」
「大して違いはない。人生不惑に近くして未だ家を成さず――」
「家庭は持ったではないか」
石坂は若い頃、石坂家に婿入りし、宗之助と言う子を儲けている。その後、妻に死別し、宗之助は妻の実家に預けた儘なのだ。
「持ったけれども、今はない」
「はっきり言え、再婚したいと言うのか」
「そうです」
「すればいいだろう。東京へ戻ったら何か仕事は探してあげられるつもりだ」
「それは是非お願いします。しかし、今、ここでお願いしたいのは、別のことで」
「はっきり言い給え、君らしくもない」
「言います」
と、一旦言葉を切った石坂が、河原の方に視線を逸らしながら言った。
「桂子さんを、妻として頂きたい」
こんなことを言い出す以上、本人とは多少の諒解がついているのだろう。
――こいつ、いつの間に。いや、桂子の奴も、
鉄太郎は自分のボンヤリを棚に上げて、少々呆れた。
だが、特に反対する理由もない。桂子はもうとっくに婚期を逃がしてしまっている。後妻でも已むを得まい。
石坂と言う男、野放図な処があって、少々危かしいが、きっぷはよい。情愛も深そうだ、桂子さえよければ――
「私には反対はない。女房や桂子の気持を聞いてみよう」
鉄太郎が予測した通り、桂子はすでに石坂に心を傾斜させていた。石坂の中に、清河の一面を見出していたのかも知れない。
――いっそのこと、ここで式を挙げてしまおう、東京へ戻ってもしばらくは落着かないだろうから、
と言うことで、静岡で、簡素な婚儀が挙げられた。
東京へ戻る二日前のことである。
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牧 民 の 官
東京に引揚げてきた鉄太郎は、
――柏木淀橋中ノ村字天狗山六十五番地、
に居を構えた。
家族は妻英子、長女松子、長男直記、そして静岡で生れた次男静造、それに英子の兄である信吉、ほかに石坂周造とその新妻桂子。
村上は、静岡に残った。
新居に落着いて間もなく、大蔵卿大久保利通に呼び出された。
この年七月、民部省が廃止されてその業務は大蔵省に合併されたので、大蔵省は後の大蔵・内務・逓信・農商務の四省を合せたような厖大《ぼうだい》な権限を持つに至っている。
大久保の下に大輔として井上馨がおり、以下伊藤博文、津田出、松方正義らの俊秀が集っていた。
――一体、何事か。静岡県について何か面倒なことでも起ったのではないか、
と心配しながら出頭する。
大久保とは、勝の紹介によってすでに何度か会っていた。その度に、静岡や徳川家について、陳情をしている。
「やあ、山岡さん、永らく静岡で、御苦労なことでしたなあ」
大久保としては珍しく機嫌がよい。
「いや、静岡藩並びに徳川家については、色々と御厚情を頂きました」
鉄太郎は神妙に、礼を述べた。
「実はな、山岡さん、あんたに御苦労ついでにお頼みしたいことがあって、御足労願ったのじゃがな」
「はあ、どのようなことです」
「茨城県の参事をやって戴きたい」
これは全く、夢想もしなかったことである。政府の役人になる気などは露更ない。
「私は、朝敵徳川の家臣――新政府の役人など、到底その柄ではありません」
大久保は笑い出した。
「山岡さん、何をつまらんことを言うている。慶喜公はすでに御赦免を受けている。あんたが今更、朝敵をふり廻すのはおかしい」
――成程、それもそうだ、こんなことを言っては上様に悪い。
鉄太郎は、額に手を当てた。
「失言、とり消します」
「じゃ、引受けてくださるか」
「いや、私は到底その任ではありません」
「そんなことはない、静岡藩参事としてのあんたの業績は立派なものだ。新政府牧民の官として最適任の一人だと思う」
――牧民の官
と言うのは、地方の民を治める長官の意味である。県令やこれに代る参事などがこれに相当した。
「茨城県――と言っても、中心は旧水戸藩、満更、あんたに関係がない訳でもないでしょう」
大久保は言う。その通りだ、水戸は慶喜の故里であり、江戸からそこに退隠した時、鉄太郎はこれを護衛して送っていった。
それでもまだ返答を躊躇《ちゆうちよ》している鉄太郎に、大久保が言った。
「山岡さん、実は、あんたを茨城県参事に推挙したのは、勝さんですよ」
「はあ、勝先生が――」
――余計なことをする。
正直のところ、鉄太郎はそう感じた。
「勝さんにも、いずれ新政府のために一肌脱いで貰わねばならん。もう旧いことにこだわっている時代ではないでしょう。能力のある者はすべてその能力をあげて、天朝の為につくすべき時じゃありませんかな」
天朝――を持ち出されると弱い。正面から厭とは言えなかった。
「茨城県を特にあなたにお願いしたいと言うのは、御承知のように水戸は旧幕時代以来の内紛を未だに解消できず、どうにもうまくゆかない。そこで、慶喜公とも徳川宗家とも特に縁故の深いあんたに出て貰ってはと言うことに――これは、先刻も言ったように勝さんの入知恵じゃが、当局として決定した次第だ。是非とも頼む」
当時飛ぶ鳥落とす勢威を持つ大久保に、ここまで懇切に頼まれては断る事もできない。
「現在の内紛をとりまとめれば、よろしいのでしょうか」
「さよう」
「では、その仕事が片付きましたら、罷めさせて戴けましょうか」
大久保は苦笑した。
「どうも、そう理づめに来られても困るが、まあいいでしょう。そう言うことにしておきますかな」
「では、お引受け致します」
鉄太郎は、条件つきで承諾した。
この年七月の廃藩置県によって成立した水戸・宍戸・笠間・下館・下妻・松岡の六県が、十一月十三日を以て合同して茨城県になることが決定している。
水戸の旧石高は三十五万石、笠間が八万石、松岡二万五千石、下館二万石、宍戸・下妻各一万石だから、新しい茨城県の中心は言うまでもなく旧水戸藩領であった。
(この茨城県と新治県の大部分及び常陸六郡を合併して、現在の茨城県となったのは、明治八年五月である)
茨城県と名づけられたのは、県庁の置かれた水戸が、茨城郡内にあったからである。
旧水戸藩内の抗争は、その因縁は古く且つ複雑であった。
幕末、正義派を自任する天狗党と、保守派の諸生党とが藩を二分して抗争し、ついに天狗党の筑波山挙兵とその敗北によって、藩政は一応、諸生党の市川三左衛門の手中に握られた。
しかし戊辰の役が起ると慶喜に従って京の本国寺にいた反市川派の一隊は勅書を奉じて江戸に下り、藩主水戸慶篤を説いて新政府に協力する体制をととのえてしまう。水戸の市川三左衛門は棚上げされてしまった。
市川は形勢不利を覚ると会津藩を中心とする佐幕軍に加わり、政府軍と闘った。
会津が降伏すると市川らは水戸に舞い戻り、不意をついて水戸城を襲って武器弾薬を奪って弘道館にたて籠った。
明治元年十月一日、弘道館の市川一派と、水戸家老山野辺の軍とは激しく闘ったが、市川派は敗れて水戸を脱出し、下総の銚子から飯岡に、更に八日市場に逃げたが、十月六日追討軍のために潰滅させられた。
ただ首領の市川三左衛門だけは巧みに脱れて江戸に入り、旧縁を辿ってフランスに亡命しようとしたが、追手の探索がきびしく、明治二年二月、ついに捕えられ、水戸につれ戻されて礎刑《たつけい》に処せられた。
こうした同藩内の骨肉相喰む惨劇が、つい二、三年前まで、永い間つづいていたのだ。
その余波は決して完全に収ってはいない。
藩がなくなり、新しい県が成立しても、古い怨恨は、依然として残っていた。
――茨城県の統治は難しい、
政府では、そうみていたし、誰も県令になりてがない。
県令を決定するまで、差当り参事を任命しようとしても、茨城は難物、うっかり引受けられぬと二の足を踏むものばかり。
手を焼いた大久保が、たまたま訪れてきた勝に相談すると、勝は、
――それなら、山岡が最適任、
と、鉄太郎を推薦した。
勝としては、ここで鉄太郎を新政府の役人にしておけば、将来自分が新政府に出仕する露払いにもなると、この男らしい虫の良いことを考えたのかも知れない。
ともかくこうして、鉄太郎は、難しい仕事を引受けさせられた。
浮かない顔をして家に戻ってくる。
「どんな御用でございました?」
と、心配して訊ねる英子に、
「水戸の尻拭いさ」
と答え、石坂を呼んだ。
「勝先生のお蔭で、面倒な仕事を押しつけられてしまった」
と、茨城県参事任命の件を話す。
「いいじゃありませんか、静岡藩でも藩の参事だったのだ。今度は政府から直接任命されての牧民の官――」
「やめてくれ、その牧民の官と言うのは。おれはそんな柄じゃない。せいぜい藩の雑務掛をやっただけだ。今度も、水戸の内紛の後始末役さ」
と、石坂のおだてを一蹴した鉄太郎が、
「君は房総地方を大分歩き回っていたらしいが、水戸の方の状勢についてはどうなのだ。少しは知っているのか」
「いや、水戸については何も知りませんな。ただ、水戸藩の役職の中では山口正定と言う男が、剛直公正で評判が良いと聞いた事が、何度かありましたよ」
そこに英子がやってきた。
「水戸へいらっしゃるのでございますか」
ひどく真剣な顔だ。
それも無理はない。静岡から移ってきて、ようやくどうやら家の中が片附いたばかりだと言うのに、又しても水戸くんだりまで移ってゆくのでは、やり切れないだろう。
鉄太郎は平然としている。
「参事に任命された以上、行かなけりゃならんさ」
「でも、やっとこうして――」
「おれは行くが、何もお前たちまでくることはないさ」
意外な返事なので、英子の方が、きょとんとした。
「あの、お独りでいらっしゃるおつもりですか」
「うむ、そのつもりだ」
「それでは、お身の回りを――」
「なに、すぐ帰ってくる」
「えっ」
「紛争《ごたごた》のとりまとめだけやれば、罷めさせてやると、大久保さんが約束してくれた。大して長くはかからんだろう」
何《ど》う言う成算があるのか、鉄太郎はばかに簡単に考えているらしい。
石坂が、横から口を容れた。
「独りで赴任すると言うのは、家族を連れずにと言うことでしょうが、仕事の上の手足はつれて行かなけりゃならんでしょう」
「何故?」
「だって全く知らない土地に行って仕事をする以上、心を許せる腹心の者を何人かつれてゆくのは当然でしょう。その位の人数を適当な職につけるくらいの事は、参事の権限でできる筈ですよ」
「むろん、出来るだろうが、私は、誰もつれてゆかない」
「それは無茶だ」
――松岡でも村上でも、いやこのおれでも伴れてゆけばよいのに、
石坂は、自分の為ではなく、鉄太郎のために本当に心配してそう言ったのだが、鉄太郎にはそんな気持は全くないらしい。
「私一人で沢山だ」
「どうしても?」
「うむ」
「いつ、お発ちになるのです」
英子が聞くと、即座に答えた。
「明日、辞令が下りる筈、明後日発つ」
その翌日、鉄太郎が大蔵省に、辞令を貰いに行っている不在中、山岡家に客があった。
島田某と名乗って、鉄太郎に面会を求めた。石坂が、
「山岡は不在、私は義弟の石坂、御用の趣は代って承わろう」
と言うと、島田はビールびんを一本とり出して、前に置いた。
「これは長野県の山下真斎から山岡先生の許に持参する様に依頼されたものです。委細はこの書面に」
「このびんの中は何ですかな」
石坂が聞いた。
「石炭油です」
「石炭油?」
「昔は、草生水《くそうず》と呼ばれていました。臭い水と言う意味でしょう。燃える水とも言っています。長野県でとれたものです」
「それに、火を点《とも》すのかね」
「そうです。ここにランプを持ってきました。これにこの石炭油を入れ、この金具から出ている芯《しん》の先に火をつければよいのです」
「ふーむ、山岡さんが戻ってきたら、実験してみよう。だが、これをどうして山岡さんのところに持ってきたのかな」
「私は使いですからそれは知りません。書面に書いてあるでしょう」
島田は、何か気忙《きぜわ》しそうに、さっさと退去していった。
鉄太郎が戻ってくると、石坂が早速、石炭油のはいったびんと書面とを差出した。
「山下真斎――なら静岡で何度か会った。蘭方の医者だが、物産開発にも熱心な、ちょっと変った人物だよ」
と言いながら書面を開いてみると、
――当地で産出する石炭油を見本として一びんお届けする。これを大規模に開発すれば国益になるのではないか。先生の御検討を待つ、
と言う意味のことが記されている。
「相変らず熱心な男だ。だが私にはそう言う方面のことは皆目分らないし、誰かに頼むにしても、明日は水戸に向わなけりゃならない。どうかね、石坂君、私の代りに、その石炭油、ものになるかどうか、検討してみてくれないか」
石坂は器用で、色々なことを知っている。医業も一通り修めているし、本草学にも多少の興味は持っていた。
「ええ、やってみましょう。それにしてもこの長野産の石炭油と言うやつ、どの位の明るさがあるのかな」
島田が置いていったランプに石炭油を入れて火を点《とも》した。
「おっ、これは凄い」
「まあ――明るい、まぶしいくらい」
「何て奇麗な色をしているんでしょう」
英子も桂子も、びっくりした。
子供たちも出てきて、わいわい騒ぎ出す。
「これは大したものだ」
鉄太郎も感心した。
「これなら、大丈夫、ものになりますよ、私が何とかしてみます」
「そうか、その方は、よろしく頼む」
鉄太郎は、それっきり、この新しい燃料については忘れてしまった。
明けて十一月十三日は茨城県設立の日だ。
その日、鉄太郎は、単身、水戸に向って発った。
冷い風が、雪をまじえて吹きすさぶ日である。
――茨城県県庁
と、墨痕いまだしたたるばかりの新しい大きな標札がかかっている門をくぐって、鉄太郎は、玄関に立った。
「何用か」
明らかに武家の出と見える中年の受付が、横柄な態度で尋ねた。
「新任の茨城県参事山岡鉄太郎」
――えっ
と、眼をむいた受付掛が、信じられないと言う風に、鉄太郎の全身を上から下まで、見上げ見下ろした。
参事として山岡鉄太郎が任命されたことは、すでに東京から急報があった。
当然、部下の何人かを引きつれて、数日後には赴任してくるだろう。その時は予め報らせてくるに違いないし、県境ぐらいまでは迎えの者が出ることにしていた。
その新参事が、たった独りで、あまり冴《さ》えない服装で、突然、姿を現したのである。
「し、しばらくお待ちを」
鉄太郎の巨躯と巨眼に圧倒されたように、受付の男は慌てて、奥に走り込んでいった。
間もなく数人の者が、われ先にと走り出て来る。
「新参事殿でいらっしゃいますか」
「そうだ、辞令は持っている」
鉄太郎が懐中に手を入れようとした。
「いえ、そんな――どうぞ、奥へ。まさかこんなに早く御着任とは思いませんでしたので」
「お出迎えも仕《つかまつ》らず、失礼致しました」
鉄太郎は、参事室に案内された。
日本式の座敷に絨毯《じゆうたん》を敷き、洋風の椅子・テーブルを置いた質素な部屋である。
「典事は、誰か」
「は、増山典事はまだ出庁致しておりません」
「権典事か大属《だいさかん》は、出庁しているのか」
「いや、それが」
県庁の職員は、この度改称されて、県令、参事、権参事、典事、権典事、大属、権大属、少属、権少属、史生、出仕となった。
県令はこれまでの県知事に当るもの、これが任命されない時は参事が事実上の長官である。権参事は常任の官ではなく、必要ある場合に限り置くものとする。
茨城県誕生に当って、参事山岡のほかは、典事以下の職員が決定し出勤していた。
「すでに午前十時を過ぎている。典事・大属らが未だに登庁していないとは何事か」
――はあ、
と、一同、頭を下げたきり、答えがない。
幹部役人の登庁はいつも、昼近くになっているのだろう。
「早々、使を出して登庁させなさい、新しい県が生れたと言うのに、何と言うだらしのないことだ」
鉄太郎が語気鋭く言う。職員たちは、震え上った。
――新参事が着任、早速登庁されたし、
と言う呼出しを受けた典事の増山半蔵以下の幹部は、愕いて登庁する。
その連中を参事室に呼び集めて、鉄太郎が容赦なく叱り飛ばした。
「今後、このような怠慢は断じて許さぬ。勤務方不熱心と認めた者は、何びとにてもあれ、直ちに懲戒免職とする」
さんざんに油を搾《しぼ》って一応放免し、ついで県庁行政について、一人一人から詳細な現状の報告説明を行わせた。
不明の点があればびしびし追究するので、みんなこの寒さに冷汗をかいて退いてゆく。
静岡藩で、殆ど行政事務を全面的に引受けさせられて苦労しているから、細かい処まで気をくばる一方、複雑な問題も要点を掴んで理解するのも早い。
「新参事、おっかない人だな」
「こりゃ、みんな相当|苛《いじ》められるぞ」
「敵わねえな。この調子でやられちゃ、骨休めする暇もありゃしない」
みんながブツブツ言ったが、典事の増山は腹心の数人を集めた。
「どうだ。あの山岡と言う新参事の横柄さは、中央政府の任命をカサに着て、われわれを塵芥《ちりあくた》のように思うているらしい。水戸の行政はわれわれ水戸の者に任せておけばよいのだ。江戸育ちで静岡あたりに引込んでいた男に何が分るか」
「全くです。何とか一つ、あの男をぐうの音も出ないほどへこましてやりたいものですなあ」
「そこだ。明夜、とりあえず新参事歓迎会をやることにした。そんな必要ないなどと言いおったが、顔合せの為と言って無理に承知させた。明夜は一つ、あいつを、酒で苛めつけてやろう」
「酒なら任せて下さい。あの男がゲロをはいて音をあげるまで、対手をする」
「なに、酒なら、おれに任せろ」
水戸ッポは酒に強い。
――江戸生れの新参事、図体は大きいが、なに、酒の方ならおれたちは絶対にひけはとらん、
と、増山以下、酒量自慢の連中が、てぐすねひいて、その夜を待つ。
歓迎宴は、菊乃屋と言う古くからの料亭で開かれた。
型通りの挨拶が終ると、早くも正面に坐った鉄太郎の前に、にやにやした奴らが次々に罷《まか》り出て、
――お流れを、
――では、御返盃、
とやり出す。
鉄太郎は、県庁にいる時とは別人のように和《やわ》らかな顔付で、微笑しながら一人一人に対手になり、片端から献盃を受けた。
「参事は、大分お強いようですな」
増山は、少々あてが外れたような気がしていた。
「なに、大して飲めはしないのだ。今に、ぶっ倒れるかも知れぬ」
「まさか、そんな――一向にお顔にも出ていない。こんな小さな盃じゃ物足りないのでしょう。おい、大盃をもってこい」
増山の合図に、部下がかねて用意しておいた一升入りの大朱盃を持ち出してきた。
「参事殿、これで一献」
増山が、妙な眼つきで、チラッと鉄太郎を見上げながら言った。
「やあ、こんな大きいのでは――」
鉄太郎はいかにも当惑した風を見せた。
「参事殿、水戸ではこの位の盃は一気に飲みほせなけりゃ、一人前の男とは言われないのです」
「ほう、さようか、では已《や》むを得ん、飲むことにしよう。その代り、私が飲んだら、君も飲め」
「むろんです」
鉄太郎と増山のやりとりを聞いていた数人が、二人の回りに集ってきた。
「おい、参事殿と増山さんとが、酒合戦だ。みんなで検分役をつとめよう」
「おい、妓《おんな》たち、早く酒をつげ」
みんなが固唾《かたず》をのんで見守る中で、一升入りの盃に、なみなみと酒が満たされた。
「どうぞ」
増山が、皮肉な微笑を浮べて催促する。
鉄太郎は、にっこり笑って、朱塗の大盃の金ブチに唇をあてた。
そのまま、音も立てず、息もつかず、休みもせず、酒を飲みほしていく。
大盃が、静かに傾いていき、ついに斜になって鉄太郎の顔をかくした。
その時始めて、ぐーっと大きく音を立てて最後の一滴を飲み切った鉄太郎が、盃を口から離して、
「や、甘露」
けろりとして言った。
増山の表情がすっかり固くなっている。
「さ、増山君、今度は君の番だ」
「頂きましょう」
増山が盃を受けとった。
妓たちが、又、なみなみと盃を満たす。
増山も自ら誇る酒豪だ。
ぐびりぐびりと喉を鳴らしながら、大朱盃を一気に乾した。
「見事、今度は私が、お代りを頂こう」
鉄太郎が平然として盃を受けとる。
その二杯目も、鉄太郎は悠然と飲みほし、
「増山君、返盃だ」
と、増山の眼の前につき出した。
増山も、こうなれば退く訳にはいかない。
受けて、飲みほした。
「お見事、今度は私だな」
鉄太郎は三杯目も空けて、増山に大朱盃を渡す。
――や、もう、私は、
と、喉許まで出た声を辛うじて引込めた増山が、どうやら三杯目を空けた。
だが、それが限度だったらしい。
三杯目をほとんど飲み乾したと思われた時、増山のからだが、ぐらりと傾き、横ざまに倒れた。
「ほう、もうだめか、お次は」
鉄太郎が、代りの対手を催促した。
安村と言うのが、顔を真赤にして、
「私が、戴きます」
と、大朱盃を引きうけて、ぐいぐいと乱暴に飲んでいったが、最後にはごぼごぼと盃の酒を両膝にこぼし、飲み終ると前のめりになってしまった。それ迄に大分、はいっていたせいでもあろう。
「他に、誰か――」
鉄太郎が、盃を手にして催促したが、応ずる者がいない。
「では、今宵はこれで失礼しよう。盛大な歓迎の宴に感謝する」
足許もしっかりと立ち上ると、鉄太郎は悠々と菊乃屋を辞して、官舎に戻って行った。
鉄太郎の酒量を知っていたら、増山たちもむだな挑戦はしなかっただろう。
若い頃には六升五合の酒を一晩に飲んでしまったことさえある。その上、酒を飲みながら、何でもむちゃくちゃに食った。
晩年になって、酒量を制限してからでも、毎晩、晩酌に一升は欠かさなかった。
この暴飲暴食がたたって、胃を悪くして命を縮めてしまったのだ。
「あの飲みっぷりは人間業じゃないな」
「なに、途中でぶっ倒れているかも知れんぞ、つけてみろ」
後に残った者の中、二、三人が、鉄太郎の後を追っていったが、しばらくすると、薄気味悪そうな顔付きで帰ってきた。
「どうだった」
「それが――」
官舎に戻った鉄太郎の様子を、そっと窺ってみると、台所に坐り込んで、冷酒をちびりちびりやっていた。
まだ、飲み足りなかったのだろう。
「あの人は、ばけものだよ」
みんなが呆れ返った。
そしてその翌日、
定刻にちゃんと登庁してきた鉄太郎が、
「増山君を呼んでくれ」
と言う。
「典事殿はまだ登庁しておりません」
「登庁したら、すぐ来いと言え」
昼近くなって、増山が出てきた。宿酔《ふつかよい》の為か、蒼い顔をしている。
「参事殿、お呼びでしたか」
「今、何時だと思っている」
「は、あの少し頭痛がしまして――昨夜、飲み過ぎましたので」
「ばかッ、何を言う。翌日の勤務に差支えるような酒を何故飲んだのか。酒をくらって定刻に登庁できぬようなだらしのない男に典事の役を任せておけん。即刻、辞表を提出し給え」
雷の落ちるような大喝であった。
鉄太郎は増山典事の罷免を中央に申告すると共に、自分の補佐役をつとめる権参事として、山口正定を推薦し、任命して貰った。
山口のことは、東京出発前に石坂からちょっと聞いていたが、水戸に来てからそれとなく訊ねてみると、非常に評判が良い。
旧藩政時代に、藩内が党派の抗争にあけくれている際、山口は終始不偏不党、領民の為に全力を尽していたらしい。
廃藩になってから職を退いて閑居《かんきよ》していたのを、鉄太郎は自ら訪れて引張り出した。
増山罷免で震え上っている全県庁職員を一堂に会して、鉄太郎が一世一代とも言うべき長広舌をふるった。
「諸君に今日は、とっくりと聞いて貰いたい。私は他国者であり、この土地の事については全く不案内だが、ここに来てわずかの日数しか経たないが、朋党分立、互いに他者を排し、己れを固執し、その偏狭独善ぶりにはただただ呆れ果てている。水戸は天下の大藩、しかも光圀公以来、勤皇無二を以て謳われた。斉昭公も勤皇憂国の志深くあられ、多くの志士が皇国の為に命を抛《なげう》って活躍した。にも拘らず、回天の偉業成った今日、水戸は果してどれだけの酬いを受けたか。薩摩、長州、土佐、肥前の諸藩が中央政界を我がもの顔に独占しているのに対し、棄石となった水戸藩は、まるであるかなきかの待遇を受けている。一体これは何の為だと、諸君は思うか。これ一に、水戸の諸君が、幕末以来、分派抗争を事とし、同じ藩内で意見を異にする者を仇敵視し、自らの党派のみで権勢を握ろうとして殺生し駆逐し合っていたからではないか。その苦い経験があるにも拘らず、諸君は未だにこの狭い茨城県で、水戸で、県庁の中で、昔のままの嫉視、中傷、憎み合いをつづけている。何と言うばかげたことか、今後、そのようなケチな心は一切すてて、新しい日本国の茨城県として、一致協力するように努めて頂きたい。重ねて言うが私は他国者だ。この土地の事は分らぬ。諸君の内部抗争さえ収まるならば、いつでも私は身を退いて東京に戻りたいと思っている。さし当りは、この土地の事に詳しい山口権参事に実務を一任したい。そして私は大局に立って諸君が果して、旧怨をすてて一致協力できるか否かを見守ってゆきたい。万一、和協を乱す如き者があれば、断じて容赦せぬ。この点、銘記して頂きたい。なお、服務規律を厳正に守ること――これは改めて言うまでもないことと思う」
鉄太郎の断乎たる方針と、新任の権参事山口の公正無私の態度とは、予期以上の効果を現した。
県庁の気風は一変する。
――もう、おれの仕事は一応終ったな。
鉄太郎はそう考えると、飄然《ひようぜん》として東京に出て、大久保外遊中に大蔵省を預る井上馨の邸を訪れた。
「閣下、お約束した任務は終えました。参事を罷めさせて頂きたいと思います」
卒然として、そう言った。
井上は眼を丸くし、慌てて、
「山岡さん、そんな急なことを言うて貰うても困る」
と止めたが、鉄太郎は譲らなかった。
「いや、初めのお約束は守って頂きましょう」
「しかし、せめて後任を決めるまでは」
「後任なら、ちゃんとおります。権参事山口正定がいれば大丈夫です、彼は公正な立派な人物です」
何と言っても聴き入れない。
押問答をしばらくつづけていた井上が、何を考えたものか、急ににやっと頬を崩した。
「よろしい、山岡さん、退職を承認しましょう」
「有難うございます」
「しかし、いずれその中、また何かお願いすることが出て来るかも知れん。その時は、是非、手をかして頂きたい」
――その中、何か、
と、ぼかして言われたので、鉄太郎は、さし迫った事とは考えず、
「私に出来ることなら――」
と、一応の外交辞令を述べて、退出した。
家に戻ってみると、一同が悦んで出迎えたが、石坂と桂子夫婦の姿が見えない。
――どうしたのか、
と訊ねてみると、
――神田明神下に転居しました。
と言う。
夜になって、石坂夫婦がやってきたが、石坂はすっかり張り切っていた。
「いよいよ、新しい事業の目途がついた。やるぞ」
「一体、何のことだ」
「何のこと? むろん、例の石油ですよ」
鉄太郎は、水戸に赴任する前日、島田某なる男が、石油を持って訪ねてきたこと、その処置について一切、石坂に委任したことを、やっと思い出した。
「あれが、ものになりそうなのか」
「それどころじゃない。わが国将来の燃料として最も有望、国家の為にも是非とも石油事業を興すつもりです」
石坂は、石油については素人だったが、知人に紹介されたアメリカの宣教師トムソンに、長野から持ってこられた石油を示し、
――文明国アメリカでは石油事業はどのような状況にあるか、
と、質ねた。
トムソンも宣教師兼英語教師で、石油に関する専門的知識は何ら持っていない。ただ、彼は石油産地のペンシルバニア出身であったので、幼年時代から石油については雑多な情報を耳に入れていた。
――石油こそは石炭に代る新しい時代の燃料源だ。アメリカの繁栄はその石油業の隆盛に待つところが多い。日本においても石油事業は絶対に必要である。
と、石坂に答える。
石坂は、ますます、未知の石油事業に対して熱を上げた。
この男は、何かやり出すと夢中になってのめり込んでゆく性質である。利害も採算も全く忘れてしまう。
早速、長野に出掛けていって、善光寺北方の油田を見学した。
そこに産出する石油に火を点《つ》けて実験してみると、どうも、島田が持ってきた石油ほど明るくない。
これには、当然の理由があった。
島田は、山下真斎から受取った石油入りのビンを割ってしまったので、困惑したが、アメリカからの輸入品を代りのビンに詰めて持ってきたのだ。従ってその石油は長野産のものより遥かに良質だったのである。
この相違をもっと充分に究明すべきであったにも拘らず、新しい事業にとりつかれてしまっていた石坂は、
――その中、この間のような良質のものも出てくる、
と勝手に信じ込み、事業計画を樹て、契約を結んでしまった。
東京に戻って四方八方に奔走し、資本金三万円の会社を設立するところまで漕ぎつけた。そうなると、山岡家に同居している訳にはゆかない。
神田明神下に大きな邸宅を買って、そこに引き移り、
――石坂石炭油会社
と言う看板を掲げた。
「と言う訳なのです」
石坂は、得意になって述べ立てた。
「よく、金が集ったな、三万円も」
「欲の皮のつっぱった華族たちに、うまく吹き込んで出させたのですよ」
詳しい事業計画とか会社経営と言うことになると、鉄太郎は苦手である。興味も持っていない。
しかし、決った職業もなく持て余し者だった石坂が、将来有望――と自称する仕事を持つに至ったことは、悦ばしい事だと思う。
「よかったな、石坂君、頑張ってくれ」
「委せておいて貰いたい」
石坂は、胸を張って答えた。
それから十日経った十二月中旬のある日、大蔵大輔井上馨から呼出状がきた。
「やあ、山岡さん、過日は失礼、もう水戸の疲れはなおりましたかな」
会ってみると井上は、妙に下手に出て、愛想をふりまく。
「お蔭で、元気でおります」
「実はな、山岡さん、先日、あんたが茨城県参事を罷めたいと言うた時、それは承認しよう、しかし、近い中、何かお手助け願うかも知れんと言うて、御諒承を得ておきましたな」
「はあ、それは――」
「そこで、一つお願いしたい。九州伊万里県の権令として、一働きして頂きたいのですよ」
権令は一定期間後に県令となる。参事よりは一段格が上だ。
今度は、鉄太郎の方が少々慌てた。
「閣下、それは――」
「いやいや、山岡さん、約束ですぞ。あんたは確かに手助けすると明言した」
「はあ、私に出来ることなら――と」
「あんたでなければできぬ事なのですよ。政府部内でも色々と適任者を銓衡《せんこう》したが、どうも、あんた以上の人物はおらん。茨城県で発揮したあの素晴らしい手腕を、もう一度みせて下さい」
「手腕などと――私はただ誠心誠意――」
「それでよいのです。それが本当に出来て、人を心服させるひとこそ、牧民の官としての最適格者と言うべきですよ」
――口説き上手
と、井上は言われている。
言葉の上のやりとりでは、鉄太郎は到底、井上に敵わない。
結局、説得されて、伊万里県権令の任務を引受けさせられてしまった。
肥前国は廃藩置県に当って、一応、旧藩のすべてが県となり、佐賀、唐津、小城、蓮池、鹿島、厳原《いずはら》の六県が成立したが、間もなく佐賀、厳原両県が合併して伊万里県となり、更に四年十一月、伊万里県は他の四県を吸収した。
この新しい伊万里県の参事として、古賀定雄が任命されたが、県内紛糾して、容易に治まらない。
そこで、茨城で愕くべきほどの短期間に治績を挙げた鉄太郎に目をつけて、何とかさせようと考えたのである。
藩出身の古賀は、大いに意気込んで、独裁的な施政をやろうとしたのが、大きく反撥を受け、退官のやむなきに至った。
農民たちも大きく動揺している。
職を喪《うしな》った旧武士たちの困窮と不満も、日々に増大している。
この状勢に乗って、徒党を組んで当局に反抗の態度をとる者も多い。
――憂国党
と名づける一党は、幕末そのままの攘夷主義を固執し、
――蛮夷の醜風に心酔している政府
を痛烈に批判している。
一方、この頃、中央政界で勢力を得てきている征韓論に熱をあげ、
――半島出兵
を高唱して騒ぎ廻る連中も多い。
県庁内部での勢力争いも甚しく、互いに対手を陥れるため手段を選ばず、政治疑獄が起っている。
――伊万里県へ赴任せよ、
と言っても、
――あそこはとても手に負えぬ、
と、敬遠されていた。
その貧乏くじを、鉄太郎がむりやりに引かされたのだ。
十二月二十七日、鉄太郎は単身赴任した。
この頃、伊万里の県庁は伊万里にあった(佐賀城内に移されたのは、明治五年五月、伊万里県が改めて佐賀県と改称された時のことである)。
新権令の単身着任は、茨城の場合と同じように、県庁の職員たちを愕かした。
それにしても、県庁に居合せた職員が余りに少い。幹部職員である典事も権典事も大属も、すでに退庁していた。
わずかに残っていた権大属の峯村と言うのが慌てて、県令室に迎え入れる。
「他の者はどうしたのか」
鉄太郎が質問すると、峯村は当惑したような面持で、
「申訳ありませぬ。明日から新年の五日まで、年末年始の休みとなりますので、典事以下、今日は早退致しました」
と、口ごもりながら答えた。
「大分のんびりやっているらしいな、差迫った問題はないのか」
「いや、厳原方面で農民たちが騒いでおる様子です。不平士族がそれを煽動していると言う噂もありますが」
「それを放っておくのか」
「と言う訳でもありませんが、何分、ここしばらく休みが続きますので」
「よし、分った」
鉄太郎は一応、その騒擾《そうじよう》の内容を聴取した上、
「では新年になってから、改めて諸般の報告を受けよう」
と言い残して、官舎に帰ってゆく。
峯村はすぐに河倉典事以下の主だった者に連絡した。河倉らが、
――そいつは拙《まず》かったな、とりあえず、官舎の方に挨拶に行っておこう、
と、衣服を改め、誘い合せて、権令の官舎に行ってみると、官舎づきの老僕が、きょとんとした表情で言った。
「へえ、権令さまは、先程、お出かけになりました。四、五日お帰りにならないとかおっしゃっておりましたが」
「どこへ行ったか分らぬか」
「へえ、どこへとも言わしゃらねえので」
河倉たちは、顔を見合せた。
「どうものんきな人物らしいな、着任早々どこへとも言い残しもせずに飛び出していってしまうとは」
「なに、五日まで休みだと聞いて、これ幸いと、羽を伸ばしに行ったのだろう」
「そんなところかな」
「どっちにしても、余り仕事熱心な方ではなさそうだ」
「その方が助かるさ。他国者に肥前の内情が分るものか、のんびり遊んでいてくれる方が良い」
「そうだ、県令とか権令とかは、バカほどいいのだ」
「どうやらその注文通りの男らしいではないか。今度の権令は」
年が明けて明治五年一月六日朝、伊万里県庁の仕事始めで、職員たちが登庁してくると、権令山岡鉄太郎はもうちゃんと、県令室の椅子に腰を下ろしていた。
「典事たちは、まだか」
と、渋い顔だ。
心|利《き》いたのが、そっと河倉以下の官宅に人を走らせて、報らせる。
まだ正月休みの屠蘇《とそ》機嫌がすっかり醒めやらないような顔付きで、河倉ら主だった職員がやってきた。
少々人を小馬鹿にした態度で、
――権令、おめでとうございます、
と、新年の挨拶と新任祝いとを兼ねた祝辞を述べる河倉を、鉄太郎は、巨きな眼でじっと睨んだまま、何も言わない。
河倉は、だんだん薄気味悪くなってきた。
着任早々行方をくらまして、恐らく遊び廻っていたのだろうと、頭からナメてかかっていたのだが、現に会ってみると、次第に何か凄じい迫力がせまってくるようだ。
「権令閣下、県内行政について、担当の者から逐次御説明致させたいと思いますが」
河倉がぎごちない態度になって、そう言った時、鉄太郎が大喝した。
「過日、私が着任した際にも、勤務時間中であるにも拘らず、お主たちはすべて退庁してしまっておった。今日は新年の仕事始めじゃと言うのに、定刻に遅れ、赤い顔をして出てきておる。一体、どう言う積りかッ」
一言もない、みんな静まり返っている。
「伊万里県庁では、従来そう言うだらしのないことが慣例になっていたのかも知れぬが、今後は一切許さぬ。紀律を守らぬ者は、すべて容赦なく処罰する」
――こいつめ、
と思いながらも、一同、頭を下げているよりほかはない。
「河合典事、現在懸案中の大きな問題は何か」
話が行政事務に移ったので、ホッとした河倉が、
「はあ、昨年暮以来、厳原の人民どもが不穏の動きをみせて、不逞《ふてい》の士族がこれを――」
と報告し始めると、鉄太郎がぎょろりと河倉を眺めて、言った。
「その件は、落着した」
「は?」
「私が厳原に行って、話をつけてきた」
河倉始め、居合せた職員は何のことか分らず、きょとんとした。
鉄太郎は、正月の休暇を利用して、対馬の厳原に渡ったのである。
草鞋《わらじ》ばきで駈けずり廻り、不穏と伝えられる地域の代表に会い、その要求や意見を充分に聴いた。
煽動者と言われる不平士族の誰彼にも直接に会って、胸を開いて話した。
誠心誠意話し合ってみれば、分らぬ対手ではないのだ。
不満の主なるものは、対馬は旧幕以来貿易の関係で長崎と関係が深かったのが、急に伊万里県の一部にされてしまった為、色々な不便が生じており、県庁役人が規則を楯にうるさく干渉し過ぎることにあるらしい。
それを煽りたてている不平士族は、県庁の支所にいる役人たちに反感を持った連中だ。役人は主として旧佐賀藩のもので、戊辰の役における功績を笠にきて、むやみに威張り散らしていた。
そうした点を、鉄太郎は、話合いの中に完全にキャッチした。
――厳原領(対馬)は、伊万里県よりも、長崎県に編入した方がよいのではないかな、いずれこの事は、中央政府に進言してみよう、
と考えたが、差当りは自分の手で何とか処置するほかはない。
――不便な点は充分考慮し、規則に囚われず、支障のないように努力する、
と約束した。
県庁支所の役人たちには厳重に戒告して、役人風を吹かせないように命じた。
何よりも、
――権令が自らこの地にやってきて、直接に話をじっくり聞いてくれた、
と言うことが、土地の人達の心証を良くし、一応紛争は収拾されたのである。
鉄太郎は簡単にこの事情を説明し、
「いずれ、厳原から連絡があるだろうから、今申したような心得で、事務を処理して貰いたい。ついでに申渡しておくが、県庁の役人が、旧幕時代の殿様や代官のつもりで、県民に対するようなことは断じていかん。時代は一変したのだ。そこをよく弁《わきま》え、無用の摩擦は避けるようにして貰いたい」
河倉以下、唖然《あぜん》として、聞いていた。
鉄太郎の余りに敏速果断な実行力に、度胆を抜かれてしまった貌《かたち》である。
「次の問題は?」
鉄太郎が、催促した。
典事、権典事、大属らが、次々に行政上、事務上の問題を述べ出したが、どれもみな瑣末《さまつ》なことばかりである。しかもその内容をよく聞き質してみると、つまらぬ縄張り争いや、個人的な感情の衝突のため、簡単な事がうまく動いていない。
鉄太郎は、呆れ且つうんざりした。
だがこれは茨城でも同じ事だった。いや、静岡においても同じことだった。
鉄太郎のような性格の人間からみると、全く以て莫迦《ばか》げたこととしか思われないのだが、世の中はそうして曲りくねって動いているものらしい。
――根本は、県庁役人の内部対立だな、
と考えた鉄太郎は、翌日から少属、史生、出仕らの下っぱの役人を個別に呼びよせ、事務上の質問に事よせて、庁内の人間関係に探りを入れる。
やはり何と言っても旧佐賀藩の人間が最も多く、内部対立が基本的なものだと分った。
鉄太郎は、公正な立場に立って裁断し、旧権力を笠に着て我儘なもの、在野の不平分子と結託して画策するものなどを、片端から摘発し、自分の官舎に呼びよせて、時には徹夜してまで話合った。
鉄太郎の方に全く私心がなく、誠意一点張りであるから、対手も自然それを感じ、自分のやってきたことを反省し、協力を誓う者も多い。
だが、逆に益々反感をもって、鉄太郎を恨む者もいた。
その筆頭は典事の河倉である。権大属の楠山、少属の篠崎らがこれに同調した。
「山岡権令のやり方を、どう思う」
「どうもこうもない。他国者の分際で、全く傍若無人ではないか」
「あいつ、朝敵徳川慶喜の腹心だったとか、あんな奴を、勤皇の肥州藩(佐賀藩)の権令にすることが、間違っている」
「このままでは、われわれの地位が危くなるぞ」
「そうだ、あいつを追い払わねばならん」
「しかし、中央政府ではあいつをひどく信任しているらしいから、容易なことでは追い出せんぞ」
「奴をひどい目に遭わせ、面目を失わせればいい。あいつ面目を気にする奴らしいから、そうなれば自分で罷めてゆくだろう」
「どうやって、奴をひどい目に遭わせるのだ。あいつ、剣の名手だと聞いている。図体も恐ろしく大きいしなあ」
「なあに、今はあいつも剣を腰にしている訳じゃない。力は強そうだが、こっちも力自慢を何人か集めればいい。機会を狙って、ぶちのめし、丸裸にして木にくくりつけて、公衆の目にさらしものにしてやればよい」
「いい機会があるか」
「二十一日に、有田の陶器業者が、この伊万里で大寄合をやるだろう。権令以下われわれも招待されている。その帰りに――」
声をひそめて、密談を交わした。
有田は、伊万里の南方、山に囲まれた狭い土地だが、旧幕以来、精妙な陶器の生産を以て知られているところだ。この当時戸数千戸を超えたが、その殆どが製陶業に従事していた。
伊万里のさら屋と言う料亭で、毎年、組合大会を開いている。さら屋の主人は有田の出身、有田を古く皿《さら》山と呼んだので、さら屋と言う名をつけたのだろう。
大集会の後の宴席には、藩の役人を招待する慣例があり、県庁になってからもその風習はつづいている。
鉄太郎はそうした民間からの招待は極力避けていたが、この県における製陶業の重要性を説かれると、断る訳にはゆかなくなって、出席することにした。
河倉典事らも、大勢で列席。
型通りの挨拶が済んで、妓と酒とが、一座を次第に賑かにしていった。
「山岡様は、大へんお強いそうで」
と、次から次へと献盃にくるのを、鉄太郎は片端しから受けた。こんな程度では全然、問題にならないのだ。
「権令、一つ、大きいので――」
と、河倉が盃をさす。つづいて楠山、篠崎らが、しきりに大盃をすすめる。むろん、充分に酔わせてやろうと言う下心だ。
鉄太郎は、顔色一つ変えずに、飲みつづけた。
が、その間に、ふっと、誰かの視線が、時々、自分の上にじっと据えられているのに気がついた。
これは、練達の剣士として当然のことである。
さり気なく、その視線の主を探すと、広い座敷のずっと下座の方に坐っている二十六、七の女らしい。
芸者ではない。酒や膳部の品を運んでいる女中の一人である。
座敷にはいってくるごとに、鉄太郎の方を見詰めている様子だ。
ただ新任の権令に興味をもって――と言うだけのものではないらしい。ひどく熱心な、焦燥に近いものが、その熱っぽい視線の中に含まれているようだ。
――何者かな、
見覚えはなかった。
座が次第に乱れてくる。
唄うものもいた。
踊り出すものもいた。
と、その女中が、思い決した様子で、するすると並んでいる人々の背後を回って、正面の鉄太郎のすぐうしろにやってきた。
膝をついて、
「あの――」
と声をかける。
鉄太郎がふりむくと、
「あの、只今、お邸の方からお人が見えまして、御前様に急用とかおっしゃっておりますが」
と、小さい声で言う。
「あ、そうか、ちょっと失礼」
左右に挨拶しておいて、鉄太郎は座を立った。
その女中の案内するままに、玄関の方にゆく。
長い廊下が、玄関の方に曲ったところで、女が立止った。
「山岡さま」
「うむ」
「お忘れでございますか、私を」
「はてな――どこかで会ったかな」
女は、淋しそうに笑った。
「御見忘れになったとしても無理はございません。もう八年も前のこと、それに、私もずいぶん変りましたから」
「済まん、忘れてしもうて。いつ、どこで会ったのか」
鉄太郎は本当に済まなそうな顔になった。
「ま、それはよろしゅうございます。それより、山岡様、お気をおつけ下さいまし」
「気をつけろ――何を」
「県庁の御役人衆が、何やら密談しているのを、ふっと耳に入れました。今宵、山岡様のお帰りを狙って、大勢で襲う――と言うようなお話でございました」
「そうか、よく報らせてくれたな。しかし、心配はいらん、どうせ有象無象《うぞうむぞう》どもだ」
「はい、大丈夫とは存じますが――心配になりまして」
「お前、一体何者だ。どこで会ったのだ、教えてくれ」
鉄太郎は改めて、女の顔を熟視した。
――そうだ、たしかにどこかで会った。この目許に覚えがある。
記憶がよみがえりかけた。
「八年前、と言ったな」
「はい」
「すると、江戸――でだな、私がまだ二十九歳の時だ」
「はい」
「あの頃は、ずいぶん遊んだから――」
その遊び対手の女に違いない、と思う。
「江戸で――だな、江戸の――」
「吉原で」
「あ――」
はっきり、思い出した。
「染衣《そめぎぬ》か」
「やっと思い出して下さいましたのですね、嬉しゅうございます」
「そうか、染衣か、どうしてまた、こんな辺鄙《へんぴ》なところにやってきたのだ」
「色々と、事情がありまして」
と言いかけた女が、
「あ、お座敷で怪しまれるといけませぬ、もう、お戻りにならなければ」
「使いの者と言うのは?」
「山岡様とお話しするためのつくりごと」
女は笑った。
「さ、お戻りなさいまし」
「うむ、いずれ、詳しい話は聞こう」
鉄太郎は、さあらぬ態で座敷に戻った。
「権令閣下、何か御用件で」
と訊ねる者に、
「なに、ちょっとした私用だ」
と軽く答えたが、頭の中では、染衣についての数々の憶い出が、走馬燈のように転回していた。
――元治元年、
清河八郎が暗殺された翌年だ。連合艦隊の下関砲撃が行われ、第一次長州征伐の行われた年だ。
わずか八年しか経っていないのに、何と言う、世の中の変り様であろう。
あの擾乱の時代に、自分は酒色に沈淪《ちんりん》していた。
愉快な友人益満休之助と共に、品川や吉原で遊び呆けた。その吉原の万字屋の遊女染衣とはずいぶん熱い仲になったものだ。
染衣を身請けしようとしていた石浜の酒造家広瀬甚兵衛と話合い、広瀬が染衣を自由にしてやる。そして二人とも染衣から手を引くこと、と言う奇妙な結果になった。
その当座は、染衣のことが忘れられずに、益満にひやかされたものだ。
あの染衣が、はるばる九州まで流れてきて、料亭の仲居をしているとは。
遊女時代とは似ても似つかぬじみな服装だし、化粧もロクにしていない。少し小肥りになって、顔貌も大分変っている。
――それにしても、容易に思い出さなかったとは、おれもずいぶん薄情な男だな。
鉄太郎は苦笑した。
「まあ、いや、御前、想い出し笑いなどなさって、ただじゃ済みませんよ」
前に坐っていた芸者が、目ざとくみつけて、上眼づかいに睨む。
「ばか、そんなんじゃない。自分の失敗を思い出して、おれもばかだなと、自分を笑ったのさ」
「うまくごまかしなさって――だめ、だめ、罰杯、罰杯」
頃合いをみて、鉄太郎は座を起った。
組合の代表者たちが、口々に礼を述べて、玄関口まで送って出る。
玄関を出ようとした時、待受けていたらしい染衣が、つっと横により添ってきた。
「御前様、大分お酔いになってお危のうございます。これをお持ち下さいませ」
握り太《ぶと》のステッキを、手渡した。
「や、有難う」
鉄太郎は素直に受けとると、
「諸君、有難う」
送りに出てきていた一同に挨拶して、外に出た。
お供部屋にいた官邸つきの老僕が、提灯を持って、先に立ち、足許を照らす。
かなり寒い夜だった。伊万里内湾からまともに風が吹きつけていた。
水路志に記す。
――伊万里町は伊万里内湾の首なる細江に沿えり、その人口約四千余、大半陶器を製して生計を営む。伊万里町の前面、即ち伊万里川口は広闊《こうかつ》なる平沙灘にして、低潮は干出すと雖《いえど》も、その中間に彎曲して通ずるところの澪《みお》あり、端舟を行うに足る云々。
町に沿って流れる細い川のほとりを、鉄太郎は、歩いた。
風がつよいので、提灯の火がややもすれば消えそうになる。老僕はそれをしきりに気にした。
「爺、消えてもいい、心配するな」
鉄太郎は声をかけた。提灯の火がなくても、星明りに、何とか道すじは見えるのだ。
「は、はい」
老爺がそう答えた時、ひゅーっと一吹きしてきて、火が消えた。
その一瞬の闇をついて、数人の黒い覆面の男たちが、鉄太郎をとり囲んだ。
充分、覚悟していたところだ。
鉄太郎は、足をとめた。
「爺、危いぞ、退っていろ」
それから、微笑しながら、黒い影に向って言った。
「何か御用かな」
「天誅!」
と叫んで、棍棒を揮って打ってかかった奴がいた。
軽く身をかわして、空を打たせた。
「天誅か、ずいぶん古いことを言う」
鉄太郎が冷笑した。
襲撃者が発した言葉は、最初この、
――天誅
だけであった。
あとは、一言も発せず、ただ鋭い気合いをかけて、打ってかかった。
棍棒、ステッキ、弓の折れ――得物はそれぞれ違っていたが、みんな相当の腕自慢の者らしい。
中にはうしろから、素手で組みついてきたのもいる。腕力に自信のある奴だろう。
鉄太郎にとっては、しかし、そのどれも、大した対手ではない。飛道具でも持ってこない限り、こんな連中の五人や十人は、ものの数ではないのだ。
それにしても、染衣が手渡してくれたステッキは、大いに役に立った。
そいつで対手の打撃を撥ねのけ、びしりびしりと、左の肩ばかり狙ってひっぱたいた。
並み大抵の殴打ではない。剣の極意に達している鉄太郎の一撃である。撃たれた奴は、例外なく悲鳴を挙げた。
背後から組みついてきた奴は、右手でえりがみをつかみ、前にくるりと引きよせると、右手に流れている川の中に投げ込んだ。
もう一人、足を狙って搦《から》みついてきたのも、蹴り上げて、川の中におとした。
一人が逃げ出した。
それを待っていたかのように、全員が瞬《またた》く間に、姿を消していった。
鉄太郎は、呼吸一つ乱していない。
「爺!」
と、呼んでみたが、返事がなかった。
袴のすそをはたいて、ゆっくり歩き出す。
官邸の近くまで戻ってくると、老爺を先頭に四、五人走ってきた。
「旦那様、お怪我はございませぬか」
「閣下――大丈夫でございますか」
と聞く声が、上ずっている。
「どうもない。みんな逃げていったよ」
「何者でしょう。怪しからん、早速、取調べさせましょう」
「なに、酔払いだろう。抛っておけ」
翌日、鉄太郎は、平然として、何事もなかったかのように登庁した。
全員を一堂に集めた。
職員の中に、二人、左肩を白布で覆っている者がいた。風邪と称して休んでいる者が三人いた。
「みんな、昨夜、さら屋に招待された連中だな。酔払って喧嘩でもしたのか、足をふみ外して川におちて風邪をひいたのか。役人にもあるまじきだらしのない事だな」
鉄太郎は、蒼い顔をしている河倉の顔を正面からみつめて、ずばりと言った。
――しまった。このおれの策動だと露見したらしい。
河倉は、はっきりそう感じた。
さすがに心が落着かない。
翌日になると、
――一身上の都合により、
と、退職願いを出してきた。
「一身上の都合――と言うのは、はっきり言うと、どう言うことかな」
鉄太郎は辞表を見ながら質問した。
「はあ、どうもからだの具合もあまりよくありませんし――」
「そうじゃないだろう」
鉄太郎はずばりと言ってのける。
「河倉君、一昨夜私を襲った者がいる。君がその使嗾《しそう》者であることは分っている」
「――私が――そんな」
「かくさなくてもいい。君や楠山や篠崎が私のことをよく思っていない事は分っている。他国者のくせに出しゃばりおってと、憤っているのだろう。だが、私も好きこのんでこの職についたのではない。伊万里県の県庁、内部の紛争でどうにもならぬと、中央政府でも手を焼き、私にその解決を押しつけたのだ。引受けた以上、私は断乎としてやる。君が罷めるならやめてもよい。君の一党すべてが罷めてもよい。しかし、河倉君、少し考えてみ給え。今、昔ながらの朋党比周、いたずらにつまらぬ勢力争いに憂身をやつしている時か。四辺を列強に狙われながら、漸く独立の第一歩を歩き出したわが国が、国内の一致団結、いや、一つの県の中の和協さえ出来ないでどうするか。もっと大きな気持になって、日本全国の為に尽すべき時ではないのか。君も旧藩時代に才敏を唱われた人物ではないか。何故この位のことが理解できないのか」
「全く――汗顔の至りです」
河倉が、頭を下げた。もともと頭は良い方なのだ。鉄太郎に言われてみれば、成程その通りだと、うなずける。
「どうだ、河倉君、気持を新たにして、県政の為に尽す気はないか、それなら私は大歓迎だ。辞表は撤回して貰って、一緒にやってゆきたいと思う」
辞表を出せば、これ幸いと受理されるものと思っていただけに、河倉は鉄太郎の言葉に強く打たれた。
「申訳ありません。私の過りでした」
「分ってくれたかね。じゃ、私と協力してくれるのだな」
「閣下が、私をお宥し下さるならば――全力を尽します」
「宥すも宥さんもない。今後は同志として県政立て直しを図ろう」
河倉から鉄太郎の心情を説かれた楠山、篠崎らも、いささか恥かしく思っていたところなので、心を入れかえて協力することを誓約する。
「それでは改めて、私からお願いする。多久君たちを県庁に呼び戻したいと思うが、賛成してくれないか」
多久一派は一般士族に評判の良いやり手であったが、河倉一派と争って敗れ、県庁から逐われていった連中だ。
これには多少難色を示すかと思ったのに、河倉たちは、案外にも、直ちに賛成した。
「多久氏とも、立派に協調してやってゆきます」
「それを聞いて安心した。有難う」
ショック療法がひどく利いたらしい。伊万里県庁は、見違えるように明るい空気になる。綱紀も粛正されて、事務能率も大いに挙がってきた。
――もう、大丈夫だろう。
鉄太郎は、そう判断した。
さら屋の染衣――おきくと言う本名になっていたが――にも逢って、江戸以来の事情を聞いた。
江戸で自由の身になってから、或る職人と一緒になったが、戊辰の騒動の中で江戸にいられなくなり、大阪へ移り、更に博多に、そしてこの伊万里に流れてきた。
良人は病で臥《ふ》していると言う。
鉄太郎は、多少まとまった金子を与え、おきくが独立した小さな店を持てるように計らってやった。
――これでよし。
鉄太郎は、東京政府の井上に向って、辞任を申し出た。
井上はむろん、極力慰撫したが、鉄太郎は聴き入れない。
――もう目的は達しました。県庁内の紛争は収まりました、
と、二月初めにはさっさと東京へ帰ってきてしまった。
伊万里にいたのは二ケ月足らずである。
――この短期間に、よくもそれだけの成果を挙げたものだ、
と井上も感心し、ついに辞任を認めた。
鉄太郎は久しぶりで、わが家に落着いて暮らす。
石坂は、長野の油田が案外貧弱だったのでがっかりしたが、改めて静岡県|榛原《はいばら》郡の相良《さがら》油田に目をつけ、その開発に夢中になって飛び回っていた。
五月十日、鉄太郎の家に飛び込んできた松岡万が、
「先生、聞きましたか」
「何を」
「勝さんが海軍大輔に任命されましたよ」
「それはめでたいな」
「あの男、到頭、目的を達した。何のかんのと言いながら、結局、大輔か卿のような大官になりたかったんですね」
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宮 廷 出 仕
明治五年春四月末のある日、柏木淀橋の鉄太郎の邸を訪ねてきた巨大漢がある。
薩摩|紬《つむぎ》の素袷《すあわせ》に大きな兵児帯《へこおび》をぐるっと巻きつけただけの無雑作な姿で、玄関に出てきた英《ふさ》子に、大きな眼を笑わせて、
「山岡さん、御在宅でごわすかな」
と言った。
――西郷先生
それまでまだ一度も会ったことはなかったが、西郷の異相は充分に聞かされている。英子はすぐに、それと悟って、
「西郷先生でございますか」
「さよう、突然参上して御迷惑でごわしょうが――」
「しばらく」
英子が中に引込むのと入れ代りに、鉄太郎が出てきた。西郷の声を聞いて、取次を待たずにやってきたのだ。
「おお、西郷先生――どうぞ」
突然の入来に少々驚きながらも、奥の座敷に通す。
西郷はいつものように、供の一人もつれていなかった。
「山岡さん、ちょっと急にお話致したいことがありまして」
「西郷先生、御用ならば、御使を賜われば私の方から伺いましたのに」
「いやいや、こちらから強《た》ってお願い致すことじゃから、どうしても参上せねばと思いましてな」
英子が、とりあえず茶菓を持ってきて、頭を下げた。
「愚妻、英子です」
「玄関で――多分そうじゃろうと思いました。奥さん、山岡さんのような豪の者を御主人に持っては、大変な御心労でしょうなあ」
「先生、つまらぬことをおっしゃらないで下さい。私はそんなに悪い亭主では――いや、やっぱり悪い亭主かな。うむ、どうも亭主としては落第のようですよ」
「山岡さん、御冗談じゃ、そう真面目にとられては困り申す」
西郷と鉄太郎とは、声を合せて笑った。
「ところで、山岡さん」
「はあ」
「単刀直入に、お願いの筋を申上げる」
「承りましょう」
「宮中に出仕して頂きたい」
「えっ」
西郷は、
――宮中に、
と言うところに特に力を入れて言ったのである。
ただ、
――政府に、
と言ったら、それ程驚きはしなかっただろう。又、厄介などこかの県庁に引張り出しに来たのかと思ったに違いない。だが、
――宮中に、
と言うのは、全く夢想もしない事だった。
「宮中に――とおっしゃるのですか」
西郷は笑いの表情を消していた。ひどく真剣な顔付きで、鉄太郎の瞳をじっと見入っている。
「それは、どう言うことです」
「陛下の侍従として――御奉仕して頂きたいと思いますのじゃ」
鉄太郎は、即座に右手をあげて、顔の前面を斜めに大きく振った。
「とんでもない事です。私などに、そんな大役は勤まりません」
「いや、勤まります」
「私は、野人です。宮廷のむつかしい儀礼などは到底守れません」
「その方がよいのです」
「私は、朝敵第一号の徳川慶喜の家臣です。陛下の御身辺になど近寄れる身ではありません」
「慶喜さんはもう朝敵ではありません。最も恭順な陛下の臣民の一人です。これは誰よりも、あんたが一番良く知っている筈」
「しかし、私には、とても――」
「山岡さん、あんたでなければ勤まらぬ大任と思えばこそ、こうしてお願いに上ったのですぞ」
「すでに吉井、元田、副島の諸先生が陛下の側近に奉仕していると承りましたが」
「さよう。皆、立派な方々じゃ。誠心誠意、陛下に御奉仕申上げております。じゃが、私の見るところ、みな、余りに謹厳、余りに恭謙、ひたすら恐懼《きようく》してお仕えしておるようじゃ。あれではいけませぬ。陛下は未だお若い。畏れ多いことながら天子としての聖徳すでに充分に具《そなわ》っておられるとは申し兼ねる。誰か側近にあって、いささかの遠慮もなく御|諫言《かんげん》申上げる者がいなければなりますまい。それが出来るのは、山岡さん、あんた以外にはありません」
「そのような――」
「いや、お聞きなさい。これは私一個の考えではない。三条公も、勝さんも、大久保(一翁)さんも、私が相談した人はみな、口を揃えて言うたことじゃ。どうあっても、あんたに引受けて頂かねばなりません」
西郷の語調は低く静かではあったが、有無を言わせぬ気魄がこもっている。
鉄太郎は、言葉に窮した。
だが、どう考えても、正直のところ、自分が宮中に奉仕し、殊に天皇の侍従としてその側近に侍《はべ》ることなど、およそ不似合のこととしか思われない。
「御信頼はまことに忝《かたじけ》ない次第ながら、どうも私にはむつかしい事のように思われますが――」
「山岡さん」
西郷が、ちょっと声を高めた。
「あんた、これから何をしようと思うておられましたかの」
意表を衝《つ》いた質問であった。
「はあ、差当り、この屋敷を改造して道場を作り、若い連中に剣の道を教えるつもりでいました。私はもともと、一介の剣士です。剣の修業を終生の仕事として選びたいと思っております。自ら学ぶと共に、後進を指導することに生涯を捧げたい。今や泰西文化の滔々《とうとう》たる侵入の波に押されて、若い人々の間に伝来の武士道精神は全く失われつつある様子、微力ながら私は――」
鉄太郎は、剣の話になると、雄弁になる。
西郷は一々うなずきながら聞いていたが、
「分りました。山岡さん、あんたのお志は立派なものだ。しかし、剣の道を教えることが単に剣の業を教えることではなく、その精神を鍛えることにあるならば、ますます以て、宮中に奉仕の必要がありましょう」
「それはどう言うことです」
「陛下はおん齢《よわい》、二十一歳、これは、あんたのいわゆる若い者の年齢じゃ。陛下お一人の精神をお鍛え申上げることは、千人万人の若者を鍛えるより遥かに重大なことではありませぬかな」
「うーむ」
「あんたは微力ながらと言われた。微力ながらと言いながら、畢生《ひつせい》の仕事として剣の道を教える心があるなら、何故、微力ながら陛下の御教導に一身を捧げることができませんのじゃ。自分は不適任、自分はその能なしと言い出したら、一体、われわれはどうなります。わたしは固《もと》より、木戸、大久保、江藤、伊藤ら廟堂《びようどう》にあるものは悉く軽輩上りの、力乏しく才短きものばかりじゃ。みんな己れの足らざることを充分に知りながら、死力を尽して新しい天皇政権をお護りするため働いております。山岡さん、あんただけが勝手なことを言うのは、許せませんな」
西郷の巨きな双瞳が、ぎょろりと光った。
「参った。参りました」
鉄太郎は、額に汗を滲ましていた。
「西郷先生、参りました。謹んで、お受け致します」
「そうか、山岡さん、引受けて下さるか。有難い、礼を言いますぞ」
「いやいや、私の方こそ、不敏の野人をそれほどまで御信頼頂いたことにお礼を申さねばなりません。我儘を申上げましたこと、深くお詫び致します」
「とにかくよかった。私もこれで肩の荷が下りました。出仕についての詳しいことは、いずれ、吉井君の方から、連絡させましょう。よろしくお願い申しましたぞ」
西郷は、膝を立てた。
「あ、もうお帰りでございますか」
何か支度してきた英子が、慌てて聞く。
「はあ、奥さん、お邪魔申しました。今、山岡さんに御無理をお願いしたところじゃ。当分機嫌が悪いかも知れぬ。上手にあやして上げて下さい。はは、これは奥さんでなくてはできぬことじゃ」
西郷は、飄然と去っていった。
――吉井君
と西郷が言ったのは、宮内大丞吉井|友実《ともざね》のことである。
吉井は西郷、大久保の盟友であり、至誠篤実、人格高潔を以て知られていた。
西郷は宮中の改革を図るに当って、この吉井をその相談対手として選び、この吉井をまず宮中に送り込んだ。西郷はかねてから宮中に、京都御所時代そのままの繁雑な制度慣習と、柔弱な精神が残っているのを見て、これを徹底的に改めたいと考えていた。
――まず、宮中府中の別を明らかにする事
これが必要だ。そしてその為には、
――宮中にたむろしている天皇側近の旧堂上公卿連中を排除すること
そして同時に、
――公私混同最も甚しい女官連中を一掃すること
が必要だと考えた。
欧米派遣を命じられて、その準備に忙しい岩倉、大久保、木戸らとも充分に話合った上、明治四年八月、まず天子側近から無能柔弱の堂上公卿をすべて退け、あらたに吉井友実をはじめ、元田|永孚《ながざね》、副島種臣《そえじまたねおみ》、高島|鞆之助《とものすけ》、村田新八、島|義勇《よしたけ》などの硬骨漢を、天皇の側近や進講者として任命した。
同時に、
――女官総免職
と言う思い切った処置をとった。
従来、江戸大奥時代の真似をして、女官が旧大名などに奉書などを出し、政治に介入するような事例が少からずあったが、それを一切禁止し、そのような悪習になじんだ女官すべてを免職とし、改めて、必要最少限の女官を任命した。
吉井はその日(八月一日)の日記に、
――数百年来の女権、ただ一日に打ち消し、愉快きわまりなし。いよいよ皇運興隆の時節到来かと、ひそかに恐悦に堪えざるところ、
と記している。
新任の侍講や侍臣について、西郷は、
――元田は徳行|両《ふた》つながら世に卓絶の学儒にして、御宝算いまだ御二十歳(明治四年)の天子にはまこと師父の如き適材
――副島種臣は佐賀出身の一士人なりと雖も、誠忠一途、しかも稀に見る世界的視野の広き人物
――高島は硬骨
――村田は玲瓏《れいろう》玉の如き人
――島は勇敢決死的の人
と、評している。
こうした傑《すぐ》れた人物を集めたにも拘らず、その後の宮中の様子を見て、西郷は満足しなかった。
――彼らは余りにも天子を尊重し、ひたすら恐れかしこみすぎている。これでは若い天子は充分に君徳を涵養し得ない。もっと蛮勇を揮って直諫する者がいなければだめだ。
そして選ばれたのが山岡鉄太郎であった。
吉井友実に呼ばれ、宮中出仕について具体的な話合いをした時、鉄太郎は、一つだけ条件をつけた。
「宮仕えは苦手の私です。願わくは一定の期間だけと言うことにして頂きたい」
鉄太郎が茨城県や伊万里県で、抜群の成績を挙げながら、極めて短期間でさっさと引揚げてきてしまっているのを聞き知っていた吉井は、頭を横にふった。
「それは困る。ほかの役所とは違う。宮中の奉仕は長く――ことによったら一生のつもりで勤めて頂かねばならん。一年や二年で罷《や》められては――」
「いや、そんなに早くやめるつもりはありません。ただ一生と言うのは困りますし、またその必要もないと思います。お上(かみ=天子)は現在おん齢二十一歳、これから十年御仕えすれば宝算三十歳、もはや、われら如き者の御|掖導《えきどう》を必要とされぬようになりましょう。されば、私はそれまでの十年間だけ、御仕えすれば充分だと考えます」
――十年
それならばよい。その中にどう気が変るかも知れぬ。
吉井は、うなずいた。
「よいでしょう。それでは十年間と言うことにしよう――ところで、山岡さん、あんたの待遇だが、御不満でもあろうが少丞と言うことにして、当分勘弁して貰いたい。なに、すぐに昇進方は考慮する」
吉井と村田と高島は薩摩出身、副島と島とは佐賀藩、その他いずれも勤皇藩の出である。朝敵徳川家家臣山岡を特に優遇するわけにはゆかなかったのだ。
「待遇など、何でも結構です。今後の昇進などと言うことも一切御考慮無用、十年間、同じ身分で構いません」
全く淡々とした表情でそう言うので、吉井は、
――これは西郷さんの言うた通り、少々型変りだが、立派な人物らしい、
と、感心した。
「ところで、吉井さん、今度は私の方からお伺い致します」
「何ですかな」
「私は赤誠を尽してお上に奉仕する覚悟ですが、お上の方で、朝敵第一号徳川慶喜の家臣の私を快く御使い下さるでしょうか」
「特にあんたの過去の経歴を詳しくお上に奏上する訳ではない。ただ旧幕臣とだけ申上げるつもり、旧幕臣で新政府に勤仕している者は多いことだし、別にお上が気にされることはないでしょう」
「しかし、政府役員としてではなく、宮中でお上の側近に奉仕した者はないでしょう」
「それは、そうだが――」
「吉井さん、お上には事実を詳しく奏上して下さい。私が慶喜側近に奉仕した徳川家の直臣であることを、その儘申上げて下さい」
鉄太郎はきっぱり言ってのけた。
「お上が、そんな男は厭だと仰せられたら、私はこの職を辞退します。やむを得ぬでしょう」
「分った」
吉井は大きくうなずいた。
「あんたの言う通りかも知れん。陛下にはあんたの経歴を詳細に言上して、尊慮のほどを伺ってみよう」
「そうお願いします」
鉄太郎が宮中に入って侍従となったのは、明治五年六月十五日である。
時に三十七歳。
(十年後の明治十五年六月十五日には、約束通り、ぴたりと罷めている)
当時の宮廷は、旧江戸城西の丸にあった。
江戸城(東京城)は、明治二年三月二十八日、皇城又は皇居と呼ばれることになった。
宮城と改称されたのは、明治二十二年の皇居造営以後の事である。そして今次大戦後、再び皇居の名に戻ったのだ。
維新前の徳川将軍家の厖大な吏僚と大奥女中群とを収容した西の丸御殿は広大なものである。
西の丸だけで広さ約八千坪、建物面積凡そ六千坪に余る。
明治元年十月十三日、初めて東下してこの殿舎に入った明治帝は、ずいぶん愕いたらしい。
――ここは、広いのう――
と、何度も口に出して呟き、殿舎の中を歩き廻られたと言う。
明治二年三月二十八日、京からここに移られた帝《みかど》は、当初、従前通り、詩経、資治通鑑《しじつがん》、貞観《じようがん》政要、大学などについての修学をつづけたが、吉井が宮内大丞として乗込んできてからは、その修学内容が大幅に変更された。
科学に関するものや、「西国立志篇」や、ブルンチュリーの「国法汎論」なども勉強されるようになり、そのため特に洋学者の加藤弘之らが侍講として召し出された。
帝の日常の生活も、女官の手をわずらわすことを成るべく避け、男子の侍臣が奉仕する。馬術、相撲などの男性的運動をおすすめする――全般的に従来の京都風の柔弱さを一掃して、若い帝をきびしくお鍛えしようと言う風になってきていた。
鉄太郎は、これまで帝に拝謁したことはない。
さすがに緊張して、新しい君主の御前に伺候し、深く頭を垂れた。
吉井が、
「かねて奏上致しました山岡鉄太郎でございます」
と紹介する。
鉄太郎は頭を上げた。
二メートル位前に、若い帝の姿があった。
髪が濃く、かなり面長《おもなが》の方で、眼が奇麗に澄んでいるが、烈しいものをひそめている。
背もすらりと高く、肩幅もひろく立派な体格の青年帝王である。予想していたようなお公卿さん風の優美な帝ではなかった。
若い帝が明るい声で言われた。
「山岡、お前は朝敵の家来だそうだな」
これは、最初の拝謁に際して与えられた言葉としては、可成りきびしいものである。
鉄太郎はきっと頭を上げ、帝の眸を恐れ気もなく見詰めて答えた。
「お上、畏れながらそれは違いまする」
「だが、お前は徳川家の直参――」
「お上、徳川家は朝敵でございました。しかし唯今は陛下の恭謙な臣下でございます。不肖山岡もかつて朝敵の家臣でございましたが、只今は陛下の忠良なる臣民でございます。現在、わが国に、朝敵などは一人も存在しておりませぬ」
「そうだ。朝敵の家臣だったなと言うつもりだったのだ。朕の間違いだ」
帝は即座に自分の間違いを認めた。
「お上は、それにおこだわりをお持ち遊ばしまするか」
鉄太郎は反問した。
もし、帝の方で多少でもその点にこだわりを持っておられるようなら、直ちに侍従職を辞退する覚悟である。
「いや、朕は別に何とも思っておらん。お前の方で内心こだわっていては困ると思うて、わざと聞いてみたのだ。先日も海軍大輔の勝に会うた。あれもかつての朝敵だ。が、今は忠良な朕の幕僚となっている。昨日の敵は今日の友――と言うか、朕は嬉しく思うている。山岡、旧朝敵の件については、今、すっかり話合うてしまった訳だな。これっきり、お互いにすっぱり忘れよう」
「お上――」
鉄太郎のいかめしい顔が、子供がべそをかいたような表情になった。
――帝は大らかな王者の御心を持っておられる。この帝の為に、全力を尽して仕え奉ろう。
鉄太郎が、
――忝《かたじけ》なく存じます、
と言う言葉を口には出せず、ただ深く頭を下げた時、若い帝は新しい質問を発した。
「山岡、お前は剣道の達人だそうじゃな」
「達人などと申す域には到底至っておりませぬが、些か修業仕りました」
「腕力も殊の他強いと聞いた」
「このからだでございますから、常人よりは多少――」
「吉井の話によると、朕をきびしく鍛えるそうだな」
吉井が照れて、頭に手をやった。
「吉井大丞は、いささか大袈裟に申上げたのでございます」
「朕は剣道は知らんが、相撲なら大抵の者には負けぬ。どうだ、山岡、いつか一勝負してみるか。島も高島も村田も、朕には敵《かな》わないのだ」
「はい、いつにてもお対手仕ります」
若い帝の闊達《かつたつ》明朗な話しぶりに、鉄太郎はすっかり嬉しくなっていた。
明治帝崩御の直後に編纂された書物に、
――先帝と居家処世
と言うものがある。この書には、一般には知られていない明治帝の日常について、極めて興味深い記事が載っている。
これによると、帝は御自身のことを、公式の場合以外には、朕とは言わず、
――おれ
と言っておられた。父君孝明帝もそうだったらしい。
又、平常の会話は、終生、すべて京都弁を使われたと言う。幼少年時代を京都の宮廷で過されたのであるから当然であろう。
しかし、ここでは、自称を朕と言われ、東京言葉を用いられたものとして筆をすすめる。その方が一般的イメージに即すると思うからである。
同書には、帝のお若い頃、つまり鉄太郎の奉仕していた時代における闊達――と言うよりもやや乱暴に近い、いたずらっ気たっぷりの日常について、多くのことが、遠慮勝ちながら記されている。
少しく引用してみよう。
――陛下には御三十歳の頃までは、御元気殊に盛なりしかば、大奥にても常に女官らの恐縮すること少からず、御二十歳前後の事なり、或る時女官らが御居間の大花瓶に水を汲み入れ居たるに、陛下には女官が水を取りに行きたる隙に、この大花瓶を覆し給いて、御座敷一面に水流れ、女官らの驚くを見て悦び給えることあり、女官らが皇后宮の御相手を承り、馬の稽古を為すとき、陛下には箒などにて馬を追い、落馬するのを見て笑わせ給う如きこと毎々なり。又御元気盛なりしかば、御酒量も従て夥《おびただ》しく、酔余侍臣を捉えて、投げ付け捩じ伏せなどし給う御戯れは固より、往々白刃を揮い給うことさえ珍しからず、下々にてならば乱暴とや申さむ、
――陛下未だ二十歳台の御元気盛りの頃は、馬術・相撲の如き活撥なる事を好まれ、殊に打毬は御熟練にて、侍従を御相手に御日課の一に数えられたり、陛下には元来御体格強健にて御力強く渡らせられしかば、日々御殿内にて侍従を御相手に相撲を試み給うに、往々御力余りて絨緞《じゆうたん》の踏み破らるることあり、又、御内庭に盆石の大なるもの順序好く配置しあるに、往々翌朝に至りて石の位置転換しあるを、近侍の者発見し、またも陛下が御力試しを遊ばされたりと噂し合うことしばしばなりし、
青年天皇はいささか子供っぽいいたずらをずいぶんやったらしい。後年の重厚謹厳な帝の面影からは想像し難いほどだが、いかにもエネルギーの充満している青年らしい人間的な姿である。
それにしても、帝の力自慢と、大酒乱酔とには、側近の者もやや持て余し気味であり、皇后は大いに心痛されていた。
鉄太郎は、まずこの二点に向って断乎たる対抗手段に出た。
――山岡は宮中で明治帝と相撲をとって、帝を地べたに叩きつけた、
と言う話が広く伝わっている。
真相は、はっきり分らない。
先ず通説を挙げる。
帝は侍従たちと相撲をとるのを愉しみにしておられたが、高島、島、村田などの豪傑が、いずれも帝に敵わない。
帝は実際に相当力が強く、相撲は京都時代小御所の庭に土俵をつくって稽古をしていたくらいだから巧者であったろう。侍従たちは、本当に敵わなかったのかも知れぬ。
しかし、薩摩隼人の豪の者が、揃いも揃っていつも負けていたのは、やはり、対手が、
――至尊の君
であることに遠慮があり、意識的にか無意識的にか全力が発揮されなかった為とみた方が自然であろう。
鉄太郎は、
――これではいけない。帝の増長慢が甚しくなるばかりだ。常人ならばとに角、万乗の君が力自慢など、賞められたことではない、
と、眉をひそめた。
某日、帝がいつものように侍従対手に相撲をとり、片端から投げ倒して得意然としておられる処に、鉄太郎が姿を現し、苦虫を噛みつぶした様な顔をして見ていた。
帝が、鉄太郎の姿に気がついて、
「山岡、いつか約束したな。どうだ、今、一勝負してみないか」
と、促す。
「お対手仕ります」
鉄太郎が、芝生に築かれた土俵に上った。
帝が勢込んで組みついてゆく。
鉄太郎はその帝の大きなからだをがっしりと組みとめると、たちまち半円を描くほどふり廻して、土俵の上に叩きつけた。
起き上った帝の額に砂がついている。
いまいましかったのだろう。若い帝は一言も言わず、さっさと御殿に上っていってしまわれた。
「山岡、不敬だぞ」
「お負かしするにしても、もう少し手柔かに出来なかったのか」
「お上のお額に砂をつけるなど――何と言うことを」
高島、島、村田らが、口々に鉄太郎を責める。
「不敬の罪は覚悟の上だ」
鉄太郎は三人を睨みつけて、
「お上の力自慢は、よい加減にして頂かねばならぬ。諸君は、そう思わないのか」
と、答え、そのまま宮中を退出した。
自宅に謹慎した。
――宮内省から正式に詰問されるだろう。どんな処分でも受けるし、直ちに辞任してもよい。
と心に決めていると、翌々日、宮中から、
――何故、出仕しないか、陛下がお召しである、
と言う使いがきた。
帝の御前に伺候すると、帝は意外にも明るい笑顔をみせている。
「山岡、強いな、お前は」
「畏れ入ります。不敬の段は――」
「よく投げて呉れた」
「は?」
「お前にはとても敵わぬ。お前に組みついていった時、まるで巨きな巌石にぶつかった様じゃった。ふり廻されて投げ飛ばされた時は、口惜しくて腹が立ったが、考えてみれば負けるのは当り前、お前は桁《けた》違いに強い」
「お上!」
「お前の言いたい事は分る。力わざなどに余り熱中し、それを自慢にするようなことは帝王たる者にふさわしくないと言うのだろう。今迄誰もそれを言ってくれなかった。お前はそれを力で示してくれた。朕の力業など大したものではない――とな。分ったよ、山岡、今後はつつしむ」
「お上、よくそこまで御理解を――山岡、ただ感激の他はありませぬ」
その後、帝は力自慢を一切やめられたと言う。
他の一説によると、鉄太郎は帝を投げ飛ばしたのではない。
某日、帝が、
「山岡、相撲をとろう」
と挑まれたが、鉄太郎がとり合わずにいると、帝はいきなり鉄太郎をめがけてぶつかって来られた。
坐っていた鉄太郎は、さっと体を開き、前のめりになった帝を両腕でしっかりと抑えつけてしまった。
近侍の者一同が愕いて、
――山岡、不敬だぞ、
と騒ぎ立てたが、鉄太郎は、静まれと呶鳴りつけておいて腕をゆるめず、帝に向って、
――いやしくも帝位にあるおん身にふさわしからぬ力自慢、
と懇々と諫言《かんげん》した上、さっさと退出していった――と言うのである。
もう一つの異説によると、女官たちをからかって追い回している帝をみつけた鉄太郎が、いきなり帝に走りよって、玉体を両手に抱き上げ、廊下をふみ鳴らして玉座の間にかつぎこみ、
――天子たるもの、軽々しきお振舞はおつつしみあるべきでしょう、
と、玉座の上に投げ出すように据えて、きびしく諫言したのが、力比べで投げ飛ばしたと誤り伝えられたのだと言う。
いずれにしても若い帝は、性格極めて淡泊で、しかも人の忠言を容れる賢明さと雅量とを持っておられたらしい。
若さに任せての奔放な行為は、それを諫《いさ》め戒《いまし》める者がいなかったからである。
誠心誠意直諫すると、
――わるかった、
と気がつかれ、随分努力して自分の欠点を直そうとされた。
帝の大酒暴飲についても、鉄太郎は荒療治をやってのけた。
この頃、帝は毎日一升酒を嗜まれていた。
酒癖は余り良いとは言えない。酔うと側近の者に暴力を揮うこともあったことは、上掲の「先帝と居家処世」にも記されている通りだ。
皇后がひどく心配され、ひそかに鉄太郎を呼んで、
――陛下の暴酒を何とか諫止してくれませぬか、
と、頼み込まれた。
帝の飲み過ぎには、とっくに気がつき、
――あれは、おとめしなければ、
と考えていた鉄太郎だが、さてそれを口に出そうとすると、気が咎めた。
ほかならぬ鉄太郎自身が、毎日、依然として一升酒を飲んでいるのだ。自ら飲みながら、天子に対して、
――大酒はいけませぬ、
とは言えない。
皇后の仰せを黙って承っていた鉄太郎が、しばらく御返事を申上げないので、皇后が催促された。
「山岡、そなた陛下に御諫言申上げることが不承知なのですか」
「いえ、決してそのようなことはございませぬ」
「では、何故、引受けてたもらぬ?」
「陛下」
鉄太郎は、思い決したように顔を上げた。
「私が御返答を躊躇致しておりましたのは、私自身大酒の癖がある為でございます。しかし、陛下の仰せを承りました以上、必ずお上に御諫言申し上げます」
皇后の御前を退出した鉄太郎は、ひどく憂鬱な顔付きをしていた。
それから数日後、鉄太郎は宿直《とのい》の番に当った。
鉄太郎の宮中宿直の際の態度は、当時、評判になっていた。
下僚や給仕などは、
――わしが引受けるから、早くやすむがよい、
と退かせ、自分は独り端然として坐ったまま、夜を明かす。
ある夜、たまたま宿直室に顔を出した宮内省の役人が、鉄太郎の端坐している姿をみて、お世辞のつもりで、
「山岡さん、御退屈でしょう」
と声をかけると、鉄太郎はきっとなって、
「退屈とは何事でござるか」
と一喝したので、役人は紅くなってこそこそと逃げ出していった。
――徹宵、お上の守護に当る、
と言う真剣な気持は、若い役人などには欠如していたものであろう。
鉄太郎が宿直した夜、例によって大酒に及ばれた帝は、まだお側に侍していた侍臣たちをこづいたり突き倒したりし始めた。
侍臣たちはただ堪えているほかはない。
帝はますます乱酔して、侍臣たちにも飲酒を強要し、辞退すると、力ずくでも飲ませようとするのだ。
この騒ぎの最中に、鉄太郎が御座の間にはいってきた。
帝は大きな声をあげて、
「おお、山岡、お前なら飲めるだろう。さ、飲め」
と、大きな盃をつきつける。
鉄太郎は、ぶっきら棒に答えた。
「手前は、飲みませぬ」
「なぜ飲めん、お前の大酒飲みは、よく知っているぞ」
「飲みませぬ」
「どうしても飲まんと言うのか」
帝は怒って、鉄太郎の腕をとらえ、むりやりに盃を含ませようとした。
鉄太郎は、その帝の腕をしっかりと握った。この男に、腕を握られては、力自慢の帝も身動きもできない。
「離せ、山岡、何をする」
「お上、お聞き下さい」
「なにッ」
「お上の大酒乱酔については、皇后さまもひどく御心配でございます。おからだに障るのみならず、御酔態は万乗の君にふさわしからぬものと存じます。今後はきっとお慎しみ下さいませ」
「そんなことは出来ん」
「せめて半年の間、お酒をおやめになって下さいませ、必ずおからだにも良い結果が現れると存じます」
「半年酒をやめよと言うのか、山岡、お前はどうなのだ。自分は飲みながら、朕にやめよと言うのか」
「いえ、陛下、陛下にかようなことを申上げます以上、私も本日限り、向う半年、酒を断ちます。只今、飲みませぬと申上げましたのはそのためでございます」
「お前が禁酒する? そんな事ができるものか」
「いや、出来ます」
「ではやってみるがよい。朕は、酒はやめぬぞ」
「いけませぬ、おやめ下さい」
「うるさい、やめぬ」
「おやめ下さい」
「やめぬ、手を離せ」
「やめると仰せあるまで、お離し申しませぬ」
「勝手にせい」
飲み過ぎた帝は、睡くなっておられたらしい。鉄太郎に腕をとられたまま、寝入ってしまわれた。
「御寝所に、おつれ申上げよ」
と、侍臣たちにそう申渡しておいて、鉄太郎は宿直室に退いた。
帝の腕をとり押えて身動きもさせなかったことはすぐに知れ渡り、例によって、不敬のそしりを受けるだろう。
帝も不快に思われているに違いない。
鉄太郎が、重い心を抱いて宿直を終り、朝方、退出しようとしていると、侍臣が、
――お上がお呼びです、
と、呼びに来た。
帝はいくら飲まれても、二日酔いはされない。けろりとした爽やかな御顔で、鉄太郎を見ると、
「山岡、昨夜は大分、手きびしかったな」
「不敬の段、何とも申訳ございませぬ」
帝は、照れくさそうに、くすりと笑って言われた。
「やめるよ、山岡」
「は?」
「半年の間、禁酒する」
「まことでございまするか、お上」
「うむ、確かに朕は、少々飲み過ぎていた様だ。しばらくやめてみよう」
「よく、御聞き届けて下されました。忝《かたじけ》のう存じまする」
「だが、山岡、お前も半年は禁酒すると約束したのだぞ、忘れるな」
「はい、私めは断じて飲みませぬ」
「大丈夫かな」
「大丈夫でございます。それより、お上におかれましては――」
「朕は、嘘は言わぬ」
「あ、――失言、平にお許し下さいませ」
鉄太郎は、背に汗を滲ませた。帝は確かに、嘘を言われたことは、ただの一度もなかったのだ。これは人間として殆ど不可能なことである。帝のような地位環境にある方にして始めて可能なことかも知れぬ。
帝と鉄太郎の、禁酒競争が始まった。
鉄太郎は、後に述懐している。
――おれは幼い時から、あらゆる貧乏に堪え、至難の修業をつづけ、どんな苦しい目に会っても音を上げない自信があったが、あの半年の禁酒だけは、何と言っても実につらかった。禁酒があれほど苦しいものとは夢にも思っていなかったよ。
徳利を咬《くわ》えて生れてきたような鉄太郎にとって、断酒は正しく死の苦しみであったろう。だが、彼はそれを厳守した。
帝の方の苦痛も、相当なものだったらしい。禁酒されて一ケ月ほどすると、帝が妙に元気がなくなってこられた様子である。
鉄太郎は、少々慌てた。
――御健康によろしくないからと言って禁酒をお願いしたのに、お元気がなくなってしまっては大変だ、
と、吉井に相談し、侍医の一人に意見を徴してみた。
侍医は、事情を聴くと、呵々大笑して、秘策を授けてくれた。
鉄太郎が、帝の御前に伺候して、葡萄酒《ぶどうしゆ》一ダースを献上したのは、その翌日のことである。
「これは、葡萄酒《ワイン》ではないか」
帝は、怪訝《けげん》な表情をされた。
「さようでございます。フランス国より輸入されましたもの」
「これを、朕に飲めと言うのか」
「はい」
「妙な事を言う、あれほど固く禁酒せよと申したではないか」
「畏れながら、陛下。これは酒ではございませぬ。フランス国では女人幼童と雖も、朝夕嗜んでおりますもの。いわば、健康保持の為の常用薬のようなものでございます」
「ほう、薬か、これは」
「はい、お上のお顔色が少々お優《すぐ》れになりませぬ様なので、この薬を献上致します。是非、御試飲下さいませ」
果して、帝の顔色はよくなり、元のような元気が出てきた。
半年後、飲酒の禁がとけた時、帝は、鉄太郎に言われた。
「山岡、もう飲んでもよいのだな」
「はい、但し、大酒はおつつしみの程を」
「分っている。半年の間、葡萄酒だけで我慢出来たのだ。酒量を減らすぐらいのことはできるだろう。どの位まではよいものかな」
「医師の話では一日二、三合ぐらいならば、格別の害はありませぬ由」
「よし、では、三合は超さぬようにする」
帝は、その後、この約束を、ちゃんと守られた。
鉄太郎はこの夜、家に戻ってから、半年ぶりで酒を飲んだが、一口ぐっとあけた時、
――思わず涙が出たほど、うまく、うれしかった、
と言う。
この禁酒事件によって、皇后は鉄太郎を非常に信任されるようになった(後年、鉄太郎が皇后宮亮を兼任するようになったのは、皇后宮からの御要望によるものである)。
その一方、鉄太郎の強引な直諫に対し、不敬であるとする非難も出ていた。
宮中から却けられた旧公卿侍従の一団が、大炊御門らを代表として、鉄太郎に向ってこの点を詰問したことがある。
その時、鉄太郎は、かっと巨眼を開き、対手を睨みつけて、答えた。
「あなた方は、何かと言って不敬、不敬と叫ばれるが、あなた方のように、お上の仰せられること、お上のなされること、すべてに対して一言の反対もせず、ただ頭を下げていることこそ不敬の最大のものではありませんか。お上を雲の上に祭り上げ、何を遊ばされても放任して諫言申上げる者もいない。そんなことで、天子としての聖徳を養うことができると思われますか。それこそ、聖明を覆う不敬と申すべきでしょう。お上を崇敬すると言うのは勿論のことですが、それはむやみに畏れかしこみ、お若いお上の奔放な御挙動をすべて正しいとすることとは違いますぞ。本当にお上を尊び敬う心があるならば、時には御不興を犯しても、手痛い諫言を奉るべきではありませんかな」
鉄太郎のきびしい訓育も加わって、若い帝の日常は著しく変った。
西郷は叔父の椎原与三次に対して、大略次のような手紙を出している。
――喜ぶべき儀は主上の御身辺の御事に御座候。これまでは華族の人ならでは御前に罷り出で候ことも相かなわず、宮内省の官吏とても士族らは罷り出でず候ところ、すべてかくの如き弊習相改め、侍従たりとも士族より召入れられ、華族同様召仕われ、特に士族より召出されし侍従は御寵愛にて、実に壮《さかん》なる御事に御座候。後宮にあらせらるること、至ってお嫌いにて朝より晩まで始終御表に出御され、和漢洋の御学問、ついで侍従中にて御会読も遊ばされ、御寸暇もなく御修業のみにてあらせられ候次第。なかなかこれまでの大名などよりは一般に御軽装の御事にて、常人よりも御修業御勉励は格別に御座候。昔日《せきじつ》の主上にてはあらせられず、余程御振変りあそばされ候こと、三条、岩倉の両公さえ申し居られ、仕合に御座候。一体|英邁《えいまい》の御質にて、至極御壮健、近来はかようの御壮健の主上はあらせられずと公卿方申し居られ候。御馬は天気さえよく候えば毎日御乗り遊ばされ候。両三日中より御親兵を一小隊ずつ召し遊ばされ調練遊ばされ候御つもりに御座候。是よりは隔日の御調練と申す御極りに御座候。是非、大隊を御自身に御率い遊ばされ、大元帥は自ら遊ばさるとの御沙汰に相成り、何とも畏れ入り候次第、有難き御事に御座候。追々政府へも出御あらせられ、諸省へも臨幸あらせられ候て、毎々私共にも御前へ召出され、同卓にて食事を賜り候こともあり、これよりは一ケ月に三度も御前にて、政府は勿論諸省の長官召出し候て御政事の得失など討論し、且つ研究も遊ばさるべきこと御内定に相成り申し候。大略右の次第にて、今般変革中の一大好事はこの主上御身辺の御事に御座候。全く尊大の風習は散じ、君臣水魚の交りに立至り申すべきことと存じ奉り候云々。
帝が、
――昔日の主上に非ず、
と言う程、変貌し、自ら馬上兵を指揮するに至ったことなど、かつての京都朝廷における歴代天皇に比べて、公卿連中には驚異的に思われたことであろう。彼らの、
――近来これほど壮健な帝はいなかった、
と言う感慨も、さこそと肯かれる。
鉄太郎の役割りは、西郷によって極めて高く評価されている。
同じく西郷の手紙に曰《いわ》く。
――山岡鉄太郎は剛毅誠忠その比を見ず。また心身百練の士、面を犯して直言し、人の憚《はばか》るところも進んで苦諫申上げ、実践|躬行《きゆうこう》して善をすすめ奉ること疑いなきの士に御座候。
こうして鉄太郎の宮中における勤務は、推挽者が予期した以上の成果をあげていったが、鉄太郎自身の家庭生活は、依然として貧乏から抜け出ることは出来なかった。
鉄太郎が宮内省から貰う月給はこの頃、三百五十円で、当時としてはかなり高給である。相当贅沢の出来るほどのものであったが、例によって大勢の寄食者がいた。
最大の浪費者は義弟石坂周造。
尤《もつと》もこれは生活に消費するのではなく、自ら国家的事業と確信している石油事業へつぎ込む資金が足りなくなると、義兄鉄太郎に頼んで出資して貰っていたらしい。
投資全損、鉄太郎には一円の見返りもなかった。いや、それどころか、後に石坂が破産すると、その借金の連帯保証人になっていた為、月賦弁済のため、月給の中から二百円を十年間差押えの憂目に遭《あ》っている。
そのほか、静岡から引揚げてきて以来、一切の仕官を断って引籠ってしまった義兄高橋泥舟に、毎月三十円ずつの生活費を送っていた。
更に、村上政忠、松岡万、中野信成などの昔の馴染連中が、すべて新しい時世からとり残されて失業状態にあったので、それぞれ毎月二十円前後の生活費を与えていた。
これでは、彼自身の生活が豊かになる筈はない。英子は依然として、家計のやりくりに苦労しつづけたが、鉄太郎の方はケロリとしている。
石坂が最初に手をつけた静岡県榛原郡の相良油田はかなりの成功を見たのだが、これに味を占めて、急激に大きく長野、新潟方面に手を拡げたのが失敗した。
石坂は、米人アンブロス・C・ダンを高給で雇入れたが、ダンはその触れ込みとは正反対に、石油について極めて浅薄な知識しかないので、呆れて、半年で解雇した。
ダンはこれを不当として裁判所に訴え出、石坂は敗訴、四万円の賠償金支払を命じられ、非常な苦境に陥った。
この苦境にもめげず、石坂は削井《さくせい》機械輸入のため、明治六年十二月、自ら渡米した。
少し後のことを先走って記しておけば、石坂は、八年三月帰国したが、この時にはもう彼の石油会社はどうにもならず、三十万円の借金を背負って破産を宣告されてしまった。
この結果、鉄太郎は、上述したように毎月二百円を差押えられることになったのだ。
石坂と言う男は、これほどの迷惑をかけながら、平然として山岡邸に出入し、勝手な熱を吹いていたらしい。
ある知人が、鉄太郎に、
――石坂はあなたの生活を目茶苦茶にしてしまう。いっそきっぱり手を切ってしまってはどうか、
と忠告したが、鉄太郎は答えた。
――おれが今、石坂を抛り出したら、他人に迷惑がかかる。それよりは身内のおれが苦労する方がまだましだろう。
この石坂の弁舌にたぶらかされて、全財産を石油事業に投入して、無一物になってしまった男に、小池詳敬と言う男がいる。
正院の大主記を勤めていたが、石坂の関係で山岡邸に出入していた。
明治六年の正月、この小池詳敬が二十歳《はたち》位の青年を伴って、鉄太郎のところへ現れた。
「山岡先生、この青年は旧平藩士の伜で天田五郎と言うものです。この男について、是非、先生のお力をお借り致したいのですが」
と言う。
五郎の父平太夫は平藩安藤信正の家中で勘定奉行を勤めていたが、家督を伜善蔵に譲ってからは家塾を開いていた。
慶応四年六月末官軍来襲、平城は七月十三日陥落、十四歳の五郎は中山村の農家に戦火を避けていたが、戦火収まってから城下に戻ってみると、両親と妹とは行方知らず、負傷して囚えられていた兄善蔵だけが、翌年になって放免されてきた。
兄弟で両親の行方を探したが分らない。
ある者は官軍に頑強に抵抗して斬られたと言い、ある者は一旦は脱れたが自害したと言い、ある者は官兵の眼をくらましてどこへともなく姿を消していったと言う。
兄弟はこの最後の話を信じた。
――何としてでも、父母や妹の行方を探そう、
二人で互いに誓い合い、先ず兄の善蔵が売卜《ばいぼく》者に姿を変えて、奥羽、関東、越後一帯を探し回ったが、ついに見つけることができず、明治五年、平に戻ってきて、職に就いた。
弟の五郎は、
――今度は自分が探す番、東京へ出て探してみます、
と、東京に出て、同郷の先輩を頼り、その世話で一応東京駿河台のニコライ神学校に籍を置いたが、武士の伜、キリシタン教育になじむはずもなく、ここを飛び出し、友人の紹介で小池詳敬の家に書生として住みついた。
「天田、お前の将来の望みは何か、それによって勉学の方法も決めねばならんが」
小池が、そう訊ねると、五郎は即座に答えた。
「私には仕官の望みはありません。財を積みたいと言う希望もありません。なるべく自由な身でいて、両親や妹を探したいと思うだけです」
事情を聞くと、小池は胸を打たれた。
「分った。それではお顔の広い山岡先生にもお願いしてみよう」
と言うことになって、小池が鉄太郎の許に連れてきたのである。
鉄太郎も五郎の純粋な心に打たれた。
「お前の孝心には感心する。しかし、両親捜索は勉学しながらでも出来る筈だ。若い時に勉強しておかねば、一生取り返しがつかなくなる。小池さん、誰か良い師について勉強させて下さい。天田の両親のことは、私も出来るだけ調べてみよう」
小池は五郎を、国学の大家落合|直亮《なおあき》の門に入れた。落合は、維新前、清河八郎や藤本鉄石と交りの深かった人物である。
だが、五郎の本心はやはり、学問よりも両親や妹を探すことにあったらしい。勉学には身が入らなかった。
五郎は、時々、山岡邸にやってくる。
何かよい報らせがないかと期待してのことなのだ。
鉄太郎も心配して、政府各官庁の知り人に頼んで五郎の両親の行方を探して貰ったが、全く消息が掴《つか》めない。
「天田、これだけ探しても分らぬところを見ると、戊辰戦争の際、戦禍に巻き込まれて亡くなられたのではないかな」
と、鉄太郎が言ってみたが、五郎は俯《うつむ》いて黙っている。
「もし生きておられるものなら、何とか平城下のお前の兄者の処なり親戚の許へなり、連絡がある筈だろう」
と訓《さと》してみても、答えない。その横顔が消え入りそうな淋しさを見せている。
鉄太郎も、つい可哀そうになって、
「ま、気を落とすな。気長に探すがよい。私も今後とも手助けはする。だが、勉学は怠るなよ」
はい、と今度はおとなしく頭を下げて帰っていった五郎が、十日ほど経って又、やってきた。
「山岡先生、私、仙台に参ります」
鉄太郎は眉をひそめた。
「勉学を棄てる気か」
「いいえ、落合先生が仙台の志波彦神社の宮司として赴任されることになりましたので、私もお伴したいとお願い致したのです」
「落合さんについてゆくのか。それならばよい」
「仙台に行ってから、もう一度、あの辺りを虱《しらみ》つぶしに探してみます」
やはり勉学より親探しが目的なのだと思われたが、鉄太郎はそれを叱責する気はなくなっていた。
――こんなに親を慕い、妹を思う男は今時少い、気の済むまで探すがよかろう、
と思うのだ。
仙台に赴いた筈の五郎が、二ケ月も経たぬ中に再び、小池に連れられて、山岡邸に姿を見せた。
「先生、この男には手を焼いています。どうしても落着いて勉学しようとはしない」
小池が首をふりながら言う。
小池は石坂周造の、国家的事業に共鳴して全財産を投資していたが、更に今回、渡米中の石坂の石油会社の増資株募集のため各地に勧誘旅行に出かけることになった。
それを事の序《ついで》に五郎に報らせてやると、五郎はすぐに落合の許を飛び出してきてしまったのである。
――東海から畿内へ、更に九州、四国まで回るつもり、
の小池の従者としてくっついて廻って、両親を探したいと言うのだ。
――仕様のない男だ。しかし、その心根は哀れでもある、行くがよい。
五郎を見詰めていた鉄太郎の巨きな瞳が、次第に優しく細められていった。
明治六年五月五日午前一時二十分、宮中から火が出て、皇居は丸焼けとなった。
出火点は、後宮だとも言い、宮内省だとも言う。
鉄太郎は淀橋の自宅で眠っていたが、
――皇城のあたりが燃えている、空が真赤だぞ、
と言う叫びに、床を蹴って起き上った。
戸外に出てみると、正しく火の手は皇城のあたりである。
着物を着換える間もなく、寝衣の上に袴をつけ、韋駄天《いだてん》走りに皇居に向って走った。
通常の人よりは三倍の早さで、皇城に走りついた。
火は広大な旧西の丸の建物を包んでいる。
「お上《かみ》は、お上は御無事御立退き遊ばされたか」
行き合う者に片端から声をかけたが、みんなただ周章狼狽しているばかりで、はっきり答えられる者もいない。
御殿の中に飛び込んでみると、奥の方にももう火が廻ってきている。
――しまった。
御寝所に向って走り込もうとしたが、奥御殿への入口の杉戸には固く錠がかかっていて、開かない。
気のせくままに、鉄太郎はその全身を屈めて、力まかせに杉戸に向ってぶつかっていった。
六尺二寸(一八八センチ)二十八貫(一〇五キロ)の巨体の激突に、杉戸はばりッと破れる。
鉄太郎は、割れた板を突き飛ばして奥御殿に走り込み、御寝所に馳せつけた。
誰も伺候している者はいない。
部屋の真中の、臥床《ふしど》の上に、帝は端座しておられた。
すでにあたりの空気は焦げんばかりに熱いのだ。
「お上!」
鉄太郎が、大声で叫んだ。
「山岡か、よう来てくれた」
「お上、何故、早くお立退《たちのき》なされませぬ」
「どうせ杉戸に錠が下りているだろうからな」
「宿直せし者は?」
「美宮(皇后)の方へ行かせた」
「お上、すぐにお庭にお出まし願います」
吹上御苑の方に帝を誘導しながら、鉄太郎は、眼許を熱くした。
――猛火が迫っていると言うのに、お上は泰然としておられた。ただ勇気だけで出来ることではない、生れながらの王者の性《さが》。
悦びに、足どりは軽い。焔を脱れてゆくと言うには似合わぬ爽やかな気持だった。
吹上御苑の入口で、宿直の者が走ってくるのに出会った。皇后を避難させた上、帝を迎えに来たのだ。
御苑の滝見茶屋に、皇后がおられた。
帝の姿をみると走り寄って来られた。
御殿の一角が凄じい音を立てて崩落ちた。
この頃になって漸く人々が集ってきた。
火の勢はまだ衰えない。
――赤坂離宮へ、御遷幸頂く方がよい、
鉄太郎はそう判断した。
近衛の兵士がやってきたので、両陛下の前後を護らせ、一同徒歩で赤坂離宮に避難。
鎮火したのは、五時である。
皇居も、太政官や左院や宮内省の建物も悉く焼失した。
直ちに、赤坂離宮を仮皇居と宣言、宮内省の事務も離宮内で扱うこととなる。
太政官は馬場先門内の元教部省、左院は集議院に移された。
神璽《しんじ》、宝剣、御鏡、国璽は幸いに焼失を免れたが、旧天皇御璽、来国行《らいくにゆき》作宝剣その他多くの財宝が烏有《うゆう》に帰した。
火の廻りが早かった点について、皇居内の消防方が咎めを受けたが、調査の結果、信じられぬほど莫迦気《ばかげ》たことが分明した。
出火をみて、楓山《かえでやま》屯所にいた消防方が、切手御門まで馳せつけた処、番兵が、
――無印鑑の者の入門は許さぬ、
と言う。消防方の者は、
――平時とは違う。見ろ、火が燃え拡がっているではないか、
と叫んだが、番兵は、
――規則は曲げられん、
と、頑として門を開かなかった。
城外からも東京府の消防方が馳せつけてきたが、二重橋御門で、番兵から、無印鑑の故を以て入門を禁じられ、焔を見上げながら、地団駄を踏んだと言う。
上司の命令で門が開かれた時には、火と煙とが、皇居を覆っていた。
番兵は、
――命令を厳守して職掌を尽した、
と信じていたらしいが、明らかに非常識と言う他はない。
鉄太郎はこれを聞いて、
――何と言う石頭ども、
と呆れた。
――今後万一の場合には、不都合なき様、取り計るべし、
こんな当然すぎる指令が改めて出されたのは、火災後十日を経た五月十五日である。
――山岡は、遠くに居住しておりながら、真先に馳せつけてくれた、
と、帝の鉄太郎に対する信頼と親近の情は、この日以来、ますます加わったらしい。
だが、鉄太郎は、
――あの日は幸いに間に合ったが――お上の侍従をつとめる自分が、皇城から余り離れた処に住んでいてはならぬ。事あればいつでも直ちに主上の御側に馳せつけ得るような処に移ろう、
と、心を決めた。
淀橋から四谷見附近くの、元紀州家家老の屋敷に移ったのは、この後のことである。この新邸からは一っ走りで、仮皇居である赤坂離宮に走り込めた。
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征 韓 論
対朝鮮の国交関係が緊迫の度を加えてきたのは、明治六年夏である。
わが国では明治新政府の成立直後、朝鮮に対し、幕府の倒壊と天皇政権の樹立を告げ、今後の修交を求める国書を送ったが、朝鮮政府は、この文中の字句や印章が旧来のものと異ることを理由として修交を拒否した。
新政府の中では、朝鮮の非礼に対して責問の使者を送り、必要とあれば兵力をもってこれを伐《う》てと言う議論も出た。
他ならぬ木戸孝允がこの征韓論の急|先鋒《せんぽう》であった。
木戸は、眼窩《がんか》狭小、同胞互いに傷つけ合う国内の情勢を打開するため、国外への進出を要望したのである。
つまり対内政策の必要上、外国侵略を主張するもので、この同じ木戸が五年後には、征韓論反対の巨魁の一人となったのも、全く同じ対内的理由からである。
明治三年、外務権大録佐田白茅、同少録森山茂は使節として朝鮮に向い、朝鮮政府と談判したが一向に要領を得ず、憤慨して帰国した佐田と森山とは、それぞれ建白書を奉って、征韓を主張した。
明治五年八月、政府は外務大丞花房|義質《よしただ》を特派したが、滞在中その公館を封鎖に近い状態に置かれ、何ら得るところなく帰国した。
この頃になると、朝鮮国内における反日感情は頗る強く、
――日本人は西洋人と交り、禽獣に等しきもの。これと交るべからず、この禁を犯すものは断首の刑に処す、
と言う布達を行っている。
維新前の、わが国の攘夷党と全く同じく、
――西欧人は、禽獣に等しい、
と言う観念を保持しているのだ。
日本公館(草梁館)の門前に、
――日本人は西洋人に強圧されて恥ずることなく、その形式や習俗をすっかり変えてしまった。もう彼らは日本人とは言えない。わが国への来往は許すべからず、
と言う貼紙がはられたことがある。
六月、ついに、この朝鮮問題が閣議の重要問題として採り上げられるに至った。
外務少輔上野|景範《かげのり》は、
――とりあえずわが居留民保護のため、陸軍若干、軍艦数隻を朝鮮に差し向わせておいた上、使節を遣わして厳重に談判し、聴き入れざる時は断乎、大いに出師《すいし》の処分(出兵)あるべし、
と言う議案を提出した。
六月十二日のこの閣議に参列したのは、三条太政大臣を始め、西郷、板垣、大隈、後藤、江藤、大木の諸参議である。
席上、板垣が先ず発言した。
「彼国の暴状はもはや看過し難い。直ちに出兵し、しかる後、厳重に談判すべきだ」
西郷が、
「それはいけませんな」
と、大きく首を横に動かした。
「あんたは征韓に反対なのか」
板垣が気色ばんだ。
「いや、反対ではごわせん。しかし先ず兵を送ってと言うのはいかん。先ず使節を派遣して充分に話合った上、どうしても聴き入れぬ時、始めて兵を出すことじゃ、そうでなければ大義名分が立ちませぬ」
三条が口を容れた。
「それでは、大使が兵を率い軍艦に乗っていくとすればよろしかろう」
西郷は言下に否定した。
「いや、大使は、一人の兵も伴《つ》れず、全く平和の大使として大手を振って乗込んでいくべきでしょう。万一、彼がその大使に対して害を加えるような事があれば、それこそ彼の罪を世界に訴え、正々堂々討伐の軍を起せると言うもの」
「そうだ、西郷さんの言わるる通りじゃ、私は先の言葉を撤回する。先ず平和の使節を送る。然る後、出兵じゃ」
板垣が改めて西郷に賛成した。
江藤新平、後藤象二郎もこれに賛成する。
大木|喬任《たかとう》は例によって無言。
大隈は、ちょっと躊躇しているように見えたが、大きな口を開いて異議を申立てた。
この男は、どんな問題に対しても一言の異議は述べるくせがあるのだ。
「これは重大案件です。岩倉右大臣や大久保、木戸の諸君が帰朝されるまで待ってから、改めて討議することにしては如何ですかな」
西郷が、じろりと大隈を見て一喝した。
「大隈さん、ばかな事を言うものじゃなか。岩倉卿が不在でも、三条太政大臣の下に各参議が揃うておる。岩倉さんがおらにゃ、国政の審議はできんと言われるのか」
大隈は鼻白んで、沈黙した。
西郷は更に、三条の方を向いて、有無を言わさぬ語調で言った。
「太政大臣に申上げる、朝鮮国への特派大使として、この西郷を任命して頂きたい」
――あ、
驚愕の色が、発言者西郷自身を除く全列席者の顔面を走った。
全く誰も予想しなかったことである。
これまで派遣した使節は、せいぜい外務大録、外務大丞程度である。今回はぐっと格式をあげるとしても、外務大輔か、最高のところ外務卿であろうと、暗黙の中に諒解していたのだ。
参議、しかもその実力廟堂第一とみられている西郷自らが出馬を意図していたとは。
「それは、西郷さん――」
「曲げてお願い申します」
「しかし、外交のことはやはり外務卿がその衝に当るべきでしょう。あんたが出ては、副島君の顔をつぶすことになりますぞ」
板垣が、三条の側面援護をやる。
「分っちょります。副島君は間もなく帰国する筈。私から副島君にようく頼んで、この使節の役は私に譲って貰いましょう」
――熟考してみよう、
三条がそう答えて、この日の閣議は終了した。
しかし、西郷の強引な主張はほぼ認められた形で、あとは近く外務卿副島種臣が清国から帰ってくるのを待つばかりである。
大隈、大木を除く全員が明白に賛成したのだ。副島も熱心な征韓論者である。事はもう決ったと言ってよいと思われた。
ここに出席した各参議について、佐々木高行が次のように人物評を下している。
――三条公は君子、人民のことなどには厚く御配慮あれど、急進論については半信半疑の心中。後藤は漠然たる政事をなす人にて、ただ才弁を以てほどよく言い回すのみ。板垣は頑固論者、西郷は豪傑なれども政事の味はなく、ただ大|節断《せつだん》の力は万々強けれども守成にて天下を料理する智力はなし。とかく大隈などの才子にごまかさるる風なり。江藤は頗る上手者にて後藤に取り入り、ほどよく表向きなかなか潔白とか豪気とかに見えて、裏面は油断ならぬ利口者ゆえ恐るべき人なり。(明治聖上と臣高行)
西郷は豪傑だが政治はだめだ――と言う評価はこの当時すでに一部の人に共通していたらしい。
大隈も亦、西郷は政治の不得手な、愚直に近い一介の武人に過ぎぬと酷評している。
政治と言う言葉を、
――陰湿な舞台裏の謀略の集大成、
と解すれば、正しく西郷の不得手とするところだろうし、これを、
――煩瑣《はんさ》な行政事務の集合、
とみれば、西郷の好まざるところだったと言ってよい。
しかし西郷の豪傑武弁は、誰も否定できぬところだ。
彼は討幕武力の中心であったし、新政府の武力の支柱であったし、最後も亦、武人として死んだ。
岩倉大使不在中の新政府における西郷の日常を、最も鮮明に語っているのは大隈の言である。
――午前はみな内閣(正院)に出る。そこへは天子様もお出になる。お昼前だけはみんな首を集めているが、別に休憩所があった。お昼になると弁当を食いにそこへ行く。大西郷や板垣はいざ弁当となるとサッサとそこへ引上げてしまう。それから以後は、二人で雑談にふけって、一切内閣へは来ぬ。用が出来て人を呼びにやっても、容易に顔を出さぬ。何を話しているかと言えば、二人とも好きな戦争話や、角力《すもう》話、さもなければ漁猟談で持ち切っている。西郷は素朴な人だけれども、漁猟の道具になると中々贅沢で、投網《とあみ》も大小さまざま何統も持っておれば、猟銃も色々立派なものを沢山並べている。それに伴う猟犬にもずいぶん金をかけて幾頭も飼っており、角力は二人とも大好きで、正月場所とか五月場所とかが始ったとなると、それ以来、役所へはとんと出てこないんである。
――それでなければ戦争の話、これは飯に変えても好きと言う方であった。その他にもまだ下らぬ話にうつつを抜かし、他愛なく語り戯れて半日暮らしてしまったものさ。そこでいかにも煩瑣な政治の事が、面倒でならなかった。大西郷の如きは、わが輩に向い、足下は政治が巧者な様だから、万事足下に任せる。足下のする事には何なりとも異議はない。これをやって置くから、必要の場合には押して貰いたいと、印形《いんぎよう》を任せておく。それだから西郷の印形は、しょっちゅうわが輩が預っていたものであった。そして雑談がすむと、そのままスーッと自宅へ戻ってしまったものだ。(早稲田清話)
このような西郷を、その心酔者からみれば、これこそ正しく真の大政治家の風貌と、有難がるだろうし、反対の立場に立てば、このような東洋流の粗大な豪傑風は、乱世には適当しても平時の政治家としては落第だと批評するであろう。
西郷のこの頃の心境、特に征韓論にあれほど熱中したことについては、色々の臆測が行われている。
一般にみられているところは、
――西郷は王政維新の結果に大いに失望していた。人心が泰平に慣れ、新政府の成り上りの要人が奢侈《しやし》淫楽にふけり、賄賂、利権横行し、人心|頽廃《たいはい》しつつあるのを悲憤していた。さればこそ征韓の役によってこの頽廃の気風を一新し、王政維新の真面目を招来しようと決意したのである。
――西郷はその部下である旧薩摩藩武士を始め、天下の士族が常職を失って、無事に苦しみ、ややもすれば乱を望む風潮あるを憂え、このエネルギーを国外に発散せしめようとしたのだ。
――西郷は旧主島津久光と合わず、甚しく憎悪されていた。新政府の動向も己れの素志と異るものが多い。ついに世を厭うて人事を抛《なげう》ち、野に還らんとの希望切なるものがあった。征韓論はこの絶望の境地において見出した唯一の活路である。ここに最後の死場所を見出そうとしたのであろう。
等々である。
おそらく、このすべてが或る程度まで真実であろう。
副島が清国から帰朝すると、西郷は三条に対し、早急に閣議を開いて、遣韓大使の件を正式に決定すべきことを要求した。
その一方、副島の邸を訪れて、
――遣韓大使は、職責上から言えば、当然、外務卿である足下の役目だが、これだけは是非とも自分に譲って貰いたい、
と、赤心こめて懇願した。
副島もその熱意に打たれて、賛成する。
西郷は更に、この前後、板垣に対しても数回に亙って手紙を出して、自分の遣韓大使が実現するよう依頼している。
西郷は当時、病臥して渋谷の弟従道の家で保養していたのである。
――今日、朝鮮に使節を差し向ければ、恐らく彼は使節を暴殺するに違いない。そうなれば討伐の名目は立つ。何卒、私を派遣されるよう尽力して頂きたい。副島君の如き立派な使節は出来ないが、死ぬことぐらいは出来るつもり、よろしく頼む、
――自分を使節として差遣する件、何とぞ決定して頂きたい。何とかここで戦いに持ち込まなくてはとても片はつかぬ。戦に先立って死なせては可哀そうだなどと姑息《こそく》な心を起してくれては困る。晩《おそ》かれ早かれ死ぬこと。これ迄の御厚情を以て御尽力頂ければ、死後まで有難く思う、
こうした手紙の文面は、すでに死を覚悟し、ひたすらその死を急いでいるように見え、悲痛な色を漂わせている。
板垣も大いに動かされ、三条にせまった。
八月十七日、閣議開催。
――遣韓使節として西郷参議差遣、
と内定した。
天皇は、箱根宮ノ下温泉に行幸中である。
三条は同日直ちに箱根に赴いて、閣議決定の旨を奏上し、御裁可を仰いだ。
帝は、
「よかろう。ただし、岩倉が近く帰朝する筈。岩倉ともよくよく話合うた後、再び奏上するがよい」
と回答されたと言う。
帝が自発的にそう言われたのか、三条が聖旨を口実に、岩倉帰朝まで確定を引きのばそうとしたものか不明である。
西郷は、少くも帝が反対されなかったことで満足し、喜悦した。一岩倉が何と言おうとすでに閣議で決定したこと、もはや変りようはないと信じたのだ。
九月十三日、岩倉大使、伊藤副使らが、帰国した。
これより先、五月二十六日大久保が帰国しており、七月二十三日には木戸が帰国している。
この二人は、何をしていたか。
大久保は大蔵卿であり、西郷の盟友である。閣議で朝鮮問題が論議されていることは充分に知っていた筈だ。
しかるに、大久保は、休養と称し、大蔵省の事務も大隈に委ねたまま、八月になると東京を離れ、富士登山をやったり、近畿地方の名所旧蹟を遊覧したりした。
東京に戻ってきたのは九月二十一日。
岩倉の帰朝を待っていたとしか思われない行動である。
木戸は帰国直後、
――速かに憲法を制定すべし、
と言う意見書を提出したが、征韓論に没頭している閣僚には顧みられなかった。
征韓論については、木戸はかつてその主唱者であったにも拘らず、今や一変して、
――今は内治を専らにすべき時、
として、反対の意を表明した。のみならず、留守中の内閣の在り方を不満とし、九月十四日、三条に対し辞表を表明した。
木戸が参議辞任の意思を三条に通達したのは、九月十五日で、岩倉が帰国した翌々日のことである。
三条は愕いて岩倉に報らせ、岩倉と共に極力これを思い止まらせようとした。
木戸は容易にうむとは言わない。
木戸と言う男は、元来、ペシミスティックな性格であるが、欧米出張中、わが国と彼の諸国との文明発達の差が余りに甚しいのに驚き呆れ、色々思い悩んだ結果、ひどい神経衰弱になっていた。
帰国して、征韓論が具体化しつつある状況をみて大いに憂え、健康上の理由もあって、参議辞任を申し出たのである。
岩倉は、三条に対して、
――絶対に木戸を罷めさせてはならぬ、
と忠告した。
岩倉も、欧米の文明を親しく見て、外征など、とんでもない事だと、心から信じている。そして、征韓論を打破するためには、是非とも、木戸が参議の職に止まることが必要だと考えている。
岩倉は同時に、大久保が参議となって、閣議に加わることを切望した。大久保は明治四年に参議の職を退いて大蔵卿になっていた。卿は省の長官ではあるが、閣議に出席する権限はないのである。
――木戸の辞任を翻意させ、大久保を改めて参議とすること。
この為に、三条と岩倉とは、全力を尽した。その内部工作に走り廻ったのが、伊藤博文である。
外国文明について最も良く知っている伊藤は、もとより反征韓論であった。そして、彼は木戸、大久保の双方に信任されている。
伊藤が岩倉の手足となって奔走し、洋行中やや不和になっていた木戸と大久保を和解させることに成功した。
木戸は、
――大久保が参議になって協力してくれるなら、辞任を思い止まってもよい、
と言う。
西郷、板垣らを対手に廻して、反征韓論を唱えることは至難の業である。大久保の協力がどうしても必要なのだ。
大久保も亦、
――木戸が参議として止まるなら、自分も参議になってもよい、
と言い出した。盟友西郷との対決は不可避であろう。自分と西郷の分裂が、薩閥の内輪喧嘩のような印象を与えては拙い。長州代表である木戸が反対論に加わってくれることが得策であると、判断したのである。
三条、岩倉は、木戸の辞意を撤回させ、大久保を参議として引張り出すことに成功したが、それが征韓派の事前の反撥を招くことを恐れ、大久保と共に、征韓派の一人外務卿副島種臣をも改めて参議とすることとした。
こうして反征韓派の陣容が調ったのは、十月十三日である。
廟堂においてばかりではなく、民間においても、征韓論は盛んであった。
没落士族や不平士族の中には、義勇軍を募って、半島へ殴り込みをかけようなどという暴論を吐くものさえある。
戊辰の戦乱が収ってからまだ五、六年にしかならないのだ。血の気の多い連中は、ともすれば、表面勇ましい議論に賛成した。
山岡邸に集ってくる松岡、村上、中野たちはいずれも、征韓に賛成している。
「おれは西郷さんの意見が正しいと思う。今や全日本に充満している不平不満の旧武士たちの、あり余る精力はどこかで炸裂させなきゃならん。外征はその最良の途だ。豊太閤以来の快挙になるぞ」
松岡は、肩を怒らしていう。自分自身が不平不満の徒の一人なのだ。
鉄太郎はまだ勤務から戻って来ていないが、この連中は構わず、いつものように酒をのんで気勢をあげていた。
「西郷さんは、もう早くから征韓を考えていたのだ。去年の八月、ひそかに別府晋介を朝鮮に、池上四郎を満洲に派遣して、彼の地の状況を調べさせている。おれはそれを土佐の北村長兵衛から聞いた。北村さんも板垣さんの内命を受けて朝鮮に密偵として行ってきたんじゃ」
中野が、そんな内密の情報を提供した。
「岩倉卿や大久保、木戸らが反対するのは、ついこの間、アメリカからヨーロッパを回って来て、毛唐の文明開化とやらに胆をつぶしおったからじゃろう。だらしのない話だ」
「村上、勝先生はこの問題について、どう考えておられるのだ」
「うむ、あの男か――」
村上は、義兄のことを、いつも、
――あの男、
といった。あまり好感を持っていない証拠だ。尤も勝の方でも、村上のことを、
――無能な、だらしのない奴、
としか思っていなかったであろう。
「あの男は、征韓に反対だ」
「はっきり、そう言っているのか」
「うむ、過日、三条公から諮問があったそうだ。今、朝鮮と闘って必ず勝てるか――とな。そうしたらあの男は答えた。艦船不足、勝算なし、強いて闘えとあれば、私は辞職のほかありませぬ――と」
「ばかな、海軍大輔ともあろう人が、そんな腰抜けでどうするのだ」
「あの男は、そう言う男さ」
「勝先生は、そう言う意見を、西郷さんや板垣さんに伝えたことがあるのかな」
「それを、おれも聞いてみたが――西郷からは別に聞かれもせぬから、何も言っておらんとさ。悧巧なのだよ、例によってな」
「そんな腰抜け意見は、言ってくれない方がいいだろう」
「どっちみち、征韓論は実行に移されるさ、それも近々の中になあ」
玄関口に家人の出ていく足音がした。
「おい、先生が帰ったらしいぞ」
さすがに三人とも、盃を置いて、玄関に迎えにいく。
鉄太郎は、いつも徒歩で宮中から戻ってくる。出仕する時も徒歩だ。相当の官職を持つ者はすべて馬車を駆って皇居に赴くのだが、鉄太郎は終始一貫、馬車は用いなかった。
そう言えば、西郷も馬車を用いたことはない。
「やあ」
――相かわらずやってるな、
と言う笑顔をみせて、鉄太郎は座敷に上った。
「すぐにおれも仲間に加わる。構わずにやっていてくれ」
「はあ、先生、今、征韓論議をやっているところです。お待ちしてますよ」
他人の家も自分の家も区別のない連中だ。
元の座に戻って、再び談論風発していると、平服に着換えた鉄太郎もやってきて、あぐらをかいた。
「先生は一体、征韓論を、どう思われます。むろん、賛成でしょうが」
松岡が、鉄太郎の横顔をふり仰いだ。隣に坐っていると、鉄太郎の方が首の分だけ高いのだ。
「さあな」
「えっ、不賛成なのですか」
「いつかはやらにゃならんとも思うが、今、すぐにと言うのは――」
「不賛成なのですな」
「再考の余地があろうと言うことだ」
いつもの鉄太郎にしては、ひどく歯切れが悪い返答である。
「先生はお上(天皇)にも、そのような御意見を申上げておられるのですか」
中野が、うっかりそう質問すると、鉄太郎は、かっと眼を巨きくし、中野を睨みつけて、一喝した。
「馬鹿! 何を言う。おれはお上の御訓育掛として宮内省に勤仕しているのだ。政治に関して、お上に御意見申上げる立場ではない。宮内省の者が政治に喙《くちばし》を容れるのは、宮中府中を混同するもの、断じてなすべきことではないのだ。よく覚えておけッ」
中野はその権幕に首をちぢめ、背中に汗を滲ませた。
村上が、少し白けかけた座をとりもつように、勝の言葉を再び口にした。
「そうか、勝さんがそう言われたか」
鉄太郎は、うなずいた。
うなずいたのは、勝の言葉を正しいと思ったからではない。
――西郷から何も聞かれないから言わない、と言うのはおかしい。お互いに一度は肝胆相照らした仲ではないか。勝は、西郷に正面切って物を言える少数の人の一人ではないか、何故西郷を訪れて自分の意見を述べないのか、
と思う。
西郷は反対派の潜行運動が着々と進行していることに気がつかなかったらしい。
三条が承認し、閣議の内定事項として天皇に奏上した以上、自分の韓国派遣はもはや確定したものと考えていた。
岩倉の帰朝を待っていたのは、単に右大臣岩倉の顔を立てる形式的なものに過ぎないと思っている。岩倉の帰国が九月十三日ならば、九月二十日には朝鮮に向って出発出来るものとして準備をととのえていた。
――恐らく自分は殺されるだろう、
と信じている。
風邪をひいて寝込んだ時も、
――これでは何だか浮世に未練があるようで、みっともないな、
と苦笑しながら冗談を言った。
ところが、岩倉が帰ってきてから一ケ月の間、一向に事態が発展しそうもない。
西郷にしては珍しく苛々して、三条に催促するのだが、このお公卿さんは、頗る煮え切らない態度で一日延ばしに延ばしている。
ついに癇癪《かんしやく》玉を破裂させた西郷は、自分で三条の邸に乗込んで、一日も早く閣議を開くことを強硬に要求した。
そして、遂に、十月十四日、歴史的な大閣議が開かれることになった。
閣議構成メンバーは次の如くである。
太政大臣 三条実美(三七)
右大臣  岩倉具視(四九)
参議   西郷隆盛(四七)
〃    板垣退助(三七)
〃    大隈重信(三六)
〃    大木喬任(四二)
〃    後藤象二郎(三六)
〃    江藤新平(四〇)
〃    大久保利通(四四)
〃    副島種臣(四六)
〃    木戸孝允(四一)
この中、征韓論者は西郷、板垣、江藤、後藤、副島の五名、反対論者も岩倉、大久保、大隈、大木、木戸の五名、三条は内心はむろん反対だが、先の閣議で言質《げんち》をとられているので、少くも表面上は反対を唱えられない。
従って、五対五、尤も木戸はこの日、病気の為欠席しているから、列席者に関する限り、征韓派がやや有利である。
いずれにしても、この十一名の平均年齢は四一・五歳弱だ。いかに維新当時の国政が若い人々によって運営されているかを知ることができよう。老成と言うイメージの定着している西郷でさえ数え年で四十七歳、現在の政治家ならば正しくヤングパワーとして挙げられる年齢である。
三条の開会宣言についで最初に発言したのは岩倉である。
「今日わが国最大の外交問題は、樺太《からふと》のロシア人の暴行、台湾|生蕃《せいばん》の暴行、朝鮮への大使派遣の三事項であり何《いず》れも軽重なきもの、独り朝鮮遣使のみを目下の急務として論ずるのは当を得ないと思う」
西郷は直ちに反駁した。
「樺太、台湾の二事件は大したことではない。朝鮮問題こそ国権の消長に関する重大案件で一日もおろそかに出来ぬものでしょう」
岩倉は首を横にふった。
「朝鮮問題は急に解決することは困難だ。日時をかけて徐々に対処すべきでしょう。その間に内治を整頓して、外征の力を蓄えるようにすべきだと思う」
「しかし朝鮮への大使派遣はすでに、それらの点を充分に討議した上、八月十七日の閣議で決定している筈ではありませんか。今更そのような議論をする必要はない」
西郷は憤然として言い放ったが、岩倉は一歩も退かない。
「これはおかしい。既に決定した事なら改めて今日の閣議を開く必要はない。一体、何の為に本日閣議を開いたのか、遣使問題を改めて再検討するための閣議ではないか」
「いや、それは違いますぞ。このことはすでに前閣議で決ったことですぞ」
この時、大久保が口を開いた。
「前閣議でどう決ったか、そんなことはわれわれの知らぬこと。改めてここで討議することを参議の一人として要求する」
西郷は、大久保の方に顔を向けた。
「大久保どん、本気でそんな事を言われるのか。貴公らの留守中に決定したことが不満で、そんなことは知らんと言うのか。貴公らの不在中は国の大事は何一つ決定してはならんと言うのか。私も参議だ。それでは職分が立たぬ。貴公われわれを木偶坊《でくのぼう》扱いにさっしゃる気か」
「そうは言うておらん。しかし、われわれの不在中は、大事件は決めぬ、大きな変革は行わぬと言う約束をした筈じゃ」
「そんな約束した覚えはない」
「ここにおられる板垣君以下、みんなそれは知っている筈だ」
「少くもこの西郷は、そんな約束はしておらん。かりに他の参議諸君がそんなこと言うたとしても、国の存亡にかかる緊急大事件が勃発した時、約束があるからと言って手を束ねてみておらねばならんのか。それでは一体、参議と言うものは何の為に存在するのか」
「遣使問題はそれほど緊急のものではない。今日わが国にとって最も緊急の問題は内治の整理を図り、国力を養い、富国強兵の基礎を固めることだ。今ただちに朝鮮に使節を派遣し、その結果戦いともなれば、内治は全く犠牲にされ、国民の負担は堪え難きに至るだろう」
「貴公は内治、内治と言われるが、それはどう言うことか。はっきりさせて欲しい」
「とりあえず内務省を設置して、行政諸般の大改革を断行する」
「内務省設置か――それでそれにはどの位の日数がかかるお見込みか」
「さよう――二ケ月ぐらいもあれば」
「で、行政の改革は」
「組織さえ出来れば、大して長くはかからぬと思う」
大久保がそう答えると副島が口を容れた。
「内務省設置に必要な期間を一応二ケ月と決めておいて、その後ならば大使派遣に同意すると言うことですかな」
大久保は答えない。
西郷は、その大久保を睨みつけて叫んだ。
「二ケ月も待てぬ。この問題はもう一ケ月も引き延ばされた。これ以上は延ばせぬ」
緊張の極度に達した時、大隈がそっと三条に耳打ちして、席を離れようとした。
西郷がそれをみて、
「大隈君、どこへ行かれる」
「はあ、実は横浜の外国人から招待を受けておりますので」
「ばかなこと言わしゃるな、貴公、参議ではないか。異国人の招待の為に、国家の大事を評議する閣議を中座するとは何事かッ」
凄じい声であった。
大隈も一瞬顔色を変え、座席に戻る。
西郷のこの日の亢奮ぶりは異常にさえ思われたほどで、反対論者の大隈や大木は寂として声なく、岩倉も最初は決然として意見を述べていたがついに沈黙勝ちになってしまう。
独り大久保のみは、厳然たる態度で、しかし最も頑強に西郷に反対し、断乎として一歩も譲らない。
幼年時代からの親友であり、維新回天の時代を通じて莫逆《ばくげき》無二の同志であった二人だけに、言葉は次第に激し、感情むき出しにして争う。
さすがの板垣、副島らも、どうなることかと心落ちつかず、何とか二人の間を調停しようとしたが、どうにもならなかった。
「この上は問答無用、三条卿、すみやかに決裁して頂きたい」
西郷が、決然として三条に最後の断を迫ったが、三条には勿論その勇気はない。
岩倉が側面援助をやって、ともかくも、一日の冷却期間をおき、
――明十五日、再び閣議を開いて、もう一度討議しよう、
と言うことになった。
閣議解散後、三条は閣議の結果を奏上するため天皇に拝謁する。
岩倉、大久保らは、早々に退出して行った。鳩首協議のためであろう。
西郷らは控室にはいって食事をとる。
西郷が沈痛の表情で、
「もし、明日、遣韓大使の件が決定しないようなら、私は職を辞するほかはない」
と洩らすと、板垣がうなずいた。
「われわれが参画した閣議で一旦決定したことを変更するようなら、私もあんたと共に辞任する」
副島も、
「むろん、私も同一行動をとろう」
と言う。
西郷は、いかんと首をふった。
「諸君が私と去就を共にするようなことがあれば、私党を結んで国事を動かすものだと言うそしりを受けるかも知れぬ。罷めるのは私一人でいいでしょう」
西郷は、そう言ってから、語調を変え、
「それにしても、三条さんと言うおひとは、決断力のない方じゃな。つくづく呆れ申したよ」
と苦笑した。
と、江藤がすかさず、
「三条公に勇断を求めるのは、比丘尼《びくに》に金たまを求めるようなものですよ」
と言ったので、一同思わず爆笑した。
翌十五日の閣議に西郷は出席しなかった。
それでは反対派が有利になったかと言うと、結果は全く逆である。
西郷は、
――自分の主張が容れられないのならば、辞任する、
と言うことを、その欠席によって明示したのである。
三条は勿論、岩倉も、これには恐怖の念を抱いた。
西郷の声望は圧倒的である。殊に軍部は全くその勢力下にある。西郷の行動如何によってどんな大騒動になるか分らぬ。
――これは拙い。今、西郷に辞任されてはどうにもならぬ、
西郷欠席のまま行われた閣議は、甚だ精彩を欠くものであった。
さすがの岩倉も、
――西郷がそれほどまでに思い決しているものなら差遣に決定するほかはあるまい、
と、軟化した。
結局、この問題は、三条、岩倉両人に一任することとなり、両人は先の内定通り、西郷の派遣を決定することとした。
大久保がこの時点で、辞任を覚悟したことは当然であろう。
一応、西郷側の勝利である。
大久保は、十六日が休日であったので、十七日に三条を訪問し、辞表を提出した。
岩倉も三条に同意して、大使派遣を決定したものの、自分の素志と違うことであるし、大久保に対しても面目なしとして、同じく十七日、三条に対して辞意を表明した。
三条は、茫然とした。
大久保の辞任だけでも重大問題だ。その上、自分と共同責任をとる筈の岩倉まで、廟堂を去ってゆくと言う。
この正直だけが取柄といってもよい公卿は、うろたえ切って、居ても立ってもいられないほどであった。
十七日には、西郷以下征韓派の参議は全部登閣したが、岩倉、大久保以下の反対派は一人も姿を見せなかった。
西郷は迫る。
「連日の会議で事は決定したのです。この上、岩倉卿の参朝を待つ必要はない。すみやかに、お上に決定を奏上して頂きたい」
三条は、おろおろしながら答えた。
「こう言う重大事の最終決定にはやはり右大臣や他の参議の参加がなければ困る。もう一日待って頂きたい。もし明日、岩倉さんたちが出てこないようなら、必ず私一人で最終決定を行って、お上に奏上しよう」
「確かに?」
「確かに」
西郷は、顔面蒼白の三条を見て、さすがに気の毒と思ったか、自分の勝利はもはや不動とみたものか、一日の延期を承諾した。
三条が邸に戻ってみると、病気欠席中の木戸から、辞任の申出が届いていた。閣議の経過を聞いて、大久保と同一行動に出たのであろう。
三条は、その夜、岩倉を訪れ、
――今更、辞任とはひどいではないか、
と、声を励まして争ったが、岩倉は頑として聴き入れない。
三条は夜おそく自邸に戻ってきたが、憂悶《ゆうもん》の極に達していたのであろう、十八日払暁、人事不省の状態となった。
昏々と眠りつづけ、汗を流している。早速ホフマンと佐藤尚中の両医師が招かれ、手当が施されたが、午後になると時々はげしくからだが痙攣《けいれん》する。
――三条倒る、
の報らせを受けた大久保は、策士としての彼の本領を遺憾なく発揮した。
伊藤を使って、岩倉、木戸と連絡させる。
大久保の新しい策戦は、
――病中の三条公に代って岩倉卿に太政大臣の任務を摂行せしめることだ。岩倉ならば、もう一度捲き返しが出来る。
大久保は、徳大寺宮内卿に手を回した。
その効果はすぐに現れた。
十月二十日、天皇は自ら三条の邸に臨んでその病を見舞い、その帰途、岩倉の邸に立寄られて、
――汝、具視、太政大臣の事を摂行せよ、
と、勅語を賜わった。
この間、西郷一派は何事もしていない。
三条が倒れても、岩倉も賛成していることだから、数日の遅延に過ぎぬと思っていたのであろう。
十月二十二日、西郷は副島、江藤を伴って、岩倉の邸に赴いた。
――三条公の発病はまことに遺憾だが、既に決定した大使派遣の件については、太政大臣代理である岩倉卿において、ただちに奏上して実行に移して頂きたい、
旨を申入れる。
これに対して、大久保、木戸と緊密な打合せをすませていた岩倉は傲然として答えた。
「私は今や、勅命を奉じて太政大臣の事務を摂行することとなった。従って前任者の見解如何に拘らず、自己の最上と考える意見に従って行動する」
「と言われると――」
「私が三条公と違って、初めから大使差遣に反対のことは、御存知の筈」
法律論を得意とする江藤が、顔色を変え、言葉鋭く駁論《ばくろん》した。
「代理者は原任者の意見をそのまま行うのが当然でしょう。改めて自己の意見を加える如きは、代理者には許されぬことです」
岩倉はきらりと眼を光らせた。
「私は三条公の代りにその意見を代行する人形ではない。勅命を受けて太政大臣の職を摂行する以上、自己の意見を加えて奏上するのは当然である」
西郷は勃然《ぼつぜん》として怒った。
「では、あなたは反対論を奏上されるおつもりか」
「参議の間に、反対論と賛成論のあること、自分は反対論であることを奏上して、お上に御裁決をして頂くつもりです」
「今更、あなたの一存でさようなことを」
西郷は、憤りの余り、言葉もでないほどだった。
「岩倉公実記」によれば、この時、桐野利秋が西郷に扈従《こじゆう》して行っており、西郷らが岩倉と談判している隣室で、腰の剣を撫して示威運動をみせていたと言う。
だが、岩倉は断乎として譲らなかった。
「自分の眼の黒い間は、断じて諸君の意のままにはならぬ」
いかに論じても、ついに妥協点は見出せない。
西郷はついに座を立った。
岩倉の邸を出た時、西郷は副島を顧みて、重苦しい声で言った。
「右大臣、今日はよく頑張りましたな」
――敵ながらも天晴れ、
と言う感じであったろう。
岩倉が十五日閣議の時に比べて意外なほどまでに強硬な態度をとるに至ったのは、諸般の情報を集め、
――万一、西郷が辞任しても、政府の崩壊はなく、軍部の大暴動の如き事態には立ち至らぬ、
と見透し得るに至っていたからである。
伊藤の活躍によって、大久保、木戸の捲き返しの熱意は分っていたし、各省の長官である卿やその他有力者に征韓反対論者が圧倒的に多いことも分っていた。
西郷派の参議が総退陣したら、各省の卿に参議も兼任させればよいではないかと、大久保は岩倉に進言している。
殊に最も懸念された軍部において、必ずしも西郷が絶対的に支持されていないことも、分ってきていた。
陸軍において西郷に次ぐ勢力を持っている山県有朋は征韓に反対である。
日頃、西郷に兄事してきている薩閥の黒田清隆も、西郷の実弟である西郷従道でさえも、反対論者である。
かりに西郷が辞任したとしても、彼らは政府に残留するであろう。国軍の潰滅などと言う状態は生じない。
岩倉ははっきりとそう確信した。
十月二十三日、岩倉は参内《さんだい》して、天皇に意見書を提出した。
欧米視察によって、彼の文明がわが国とは格段に進歩していることを知り、国富、民力、政教を旺《さか》んにすることこそ今日の急務と確信するに至ったことを述べ、朝鮮と事を起して戦争に及ぶ如きは、到底、今日早急に行うべきことではなく、何よりも国力、軍力の充実を図るべき時であることを縷説《るせつ》した上、征韓論についての内閣の意見の分裂を陳述したものである。
内容的に、完全な征韓論反対となっていたことは言うまでもない。
このような奏上を受ければ、天皇としては反対論を正しいと裁定されるよりほかはないであろう。
翌二十四日、天皇は岩倉の意見を嘉納し、征韓論を却け、内治を専らにすべきことを命じた。
形勢一転して反対派の完勝となった訳だ。
西郷は二十二日の岩倉との会談で、岩倉の不動の信念を知ると、きっぱり己れの敗北を認めてしまったらしい。
元来、恬淡《てんたん》の性である。
今までの亢奮がまるで嘘であるかのように、さらりと身を退く決意を固めた。
二十三日、朝早く、辞表を提出した。
――胸痛の煩《わずら》い、奉職相|叶《かな》わず、
と言う名目である。本官並に兼任の罷免と、一切の位記返上を申出ている。
午前十時前、辞表を提出して邸に戻ると、小牧新次郎と下僕の熊吉とを従え、編笠を被り、一挺の猟銃を携えて隅田川に至り、一隻のとま船に乗った。
流れを遡《さかのぼ》って枕橋で上陸し、徒歩で木下《きおろし》川に臨む越後屋(米問屋)の別荘に入った。
――或は詩を賦し、或は池に釣り、風塵の何物たるかを知らざるが如し、
と言う、浮世の俗事を全く忘れ去った姿だったと言うのである。
副島、板垣らは、闕下《けつか》に直接上奏しようと企んでいたらしいが、肝心の西郷が余りにも奇麗に身をかくしてしまったので、どうしようもなかった。
岩倉は大久保と相談の上、二十四日、西郷の辞表は受理したが、陸軍大将の官はそのまま返上を認めないこととした。これによって少しでも軍部の動揺を喰い止めようと考えたのである。
板垣、副島、後藤、江藤の四人も、二十四日に辞表を提出し、二十五日これを聴許された。
同時に辞表を捧呈していた三条、木戸、大久保、大隈、大木らに対しては、それぞれ却下、これはすべて予定の行動である。
西郷は二十八日、越後屋の別荘を出て、郷里に向って出発した。
大阪の宿に訪れてきた税所《さいしよ》篤らが、これから政府はどうなるでしょうと、心配して訊ねると、西郷は事もなげに答えた。
「なに、一蔵(大久保)がおる。心配いらぬさ」
岩倉と大久保は直ちに新内閣の組織にかかった。
――参議が足りなければ、各省の卿(長官)を参議兼任とすればよい、
と言う大久保の明快な裁断に従って、新たに外務卿に任じられた寺島宗則と、海軍卿に任じられた勝海舟と、工部卿に抜擢された伊藤博文とが、参議となった。
これに従来の参議大久保、大隈、大木が加わる訳である。
大久保はその後間もなく新設の内務省の卿を兼ねることとなり、大蔵卿は大隈が兼ねる、大木は司法卿を兼任。
陸軍卿山県有朋だけは、木戸の反対があって、この時すぐには参議とならず、翌七年八月になってから、黒田清隆と共に参議に就任した。木戸が反対したのは、西郷の例からみて、純軍人を政治に容喙《ようかい》せしめるのはよくないと考えたからである。
内閣の形は比較的容易に整ったが、陸軍部内での混乱は甚しいものがあった。
巨頭西郷の辞表提出を知った陸軍少将桐野利秋、同篠原国幹らも直ちに辞表を提出する。その他薩派の武官、近衛兵の動揺は甚しく、相次いで辞表を出す形勢である。
西郷従道、黒田清隆、野津鎮雄らが必死になって説得したが、聴き入れない。天皇は篠原以下の近衛士官を宮中に召し出して慰撫しようとしたが、何れも病気と称して参内しない。
結局文官を含めて六百人余りのものが、辞職して薩摩に帰ってしまった。
土佐出身の士官たちの間でも大きな動揺が見られたが、板垣が極力説得したので、辞職したのは武市熊吉ら四十余人にとどまった。
半ば崩壊しかけた軍部を、建て直したのは山県有朋の力に負うところが多い。
山県は、大久保に、
――軍の再建は任して戴きたい、
と自信あり気に言い切ったが、士官学校卒業生と徴兵制による新軍隊とをもって、新軍隊の再組織を完成した。
――薩摩や土佐の、石頭の将校たちがいなくなったことは、新しい近代的軍隊の建設には、かえって有利であった、
山県は、後にそう言っている。
――おれたちがいなくなったら、どうなるか、見ているがよい、
と言う薩摩系辞任者たちの自惚れは、見事にぶち破られてしまった訳である。
大久保は凄じい意気込みを以て、新しい官僚制支配体制の確立に乗り出した。大隈、伊藤の二人がその左右にあって助ける。
岩倉でさえその猛烈なエネルギーにしばしば圧倒されたらしい。
この年の暮、全国士族の動向に不安を覚えた岩倉が、三条と相談して、西郷以下前参議の復職を考え、これを大久保に相談すると、大久保はひどく憤激してその軟弱ぶりを責め、確固不動の決心を促したので、岩倉も理に服して二度とこれを口にしないようになった。
「勝先生、いよいよ、参議兼海軍卿の要職に就かれましたなあ」
松岡が、いささかの皮肉をこめて言った。
「あの男は、初めからこれを狙っていたのさ、さぞかし本望だろう」
憎々し気に答えたのは、勝の義弟の村上である。
「先生、どう思われます。勝さん、大久保さんの下で、何かやれると思いますか」
松岡は、鉄太郎の顔を見上げた。
鉄太郎は答えない。
勝が、征韓に反対の意見を持ちながら、西郷に対して一言の忠告もしなかったことを、鉄太郎は不満に思っている。
――真の友情を持っているなら、
と、思うのだ。
しかし、天皇の侍従としての自分は、政治に容喙してはならぬと固く信じているので、こうした問題には意見を述べることを欲しないのである。
「勝先生には勝先生の御意見があろう、われわれの口を出すべきことではない」
鉄太郎は話題を転じた。
「この頃、天田がしばらく顔を見せないようだが」
天田五郎のことは、山岡邸に出入している者はみんな知っていた。みんなが同情して、機会あるごとに、五郎の父母や妹の消息を探ってやっていたが、今迄のところ、何の手掛りもない。
「天田には可哀そうだが、もう、両親も妹さんも、この世にはいないんじゃないでしょうかねえ」
松岡が呟くと、村上が応じた。
「おれもそう思う。だが、あいつにとっちゃ、父母や妹を探すことが、今の処、唯一の生き甲斐だからなあ」
「実は、天田のことは、何かの話のついでに、お上にお話し申上げたところ、お上も、憐れなことよ、早く見つかればよいが――と仰せられた」
鉄太郎がそう言うと、松岡も村上も、愕いて、
「陛下が――それは、天田一代の光栄ではありませんか」
「そればかりではない。お上から皇后様にお話があったらしい。皇后様におかれても、ひどく御同情遊ばされたと承っている」
「ますます有難い話だ。われわれももっと力を入れて、捜索を手伝ってやりましょう」
そうは言ったものの、全く雲を掴むような話で、容易に実効はあがらない。
その中、誰かが妙な話を聞いてきた。
――近頃、日本人で琉球へ赴いている者がかなりいると分ったそうな、それも戊辰の役の敗残者が身をかくすためとか。
この情報を耳に入れると、天田五郎は、
――何とかして琉球に行ってみたい、先生何とかして下さい、
と、言い出した。
ちょうど、この頃、琉球のことが台湾問題と関連して世上で噂に上っていたので、こんな情報が現れたのであろう。
この問題の発端は、明治四年十一月、琉球の民六十六名が漂流して台湾に流れつき、その中五十四名が生蕃の為|殺戮《さつりく》され、更に六年三月備中小田県の漂民四名も台湾で生蕃の為に劫掠《ごうりやく》されたことにある。(註。生蕃=日本統治時代の原住民の呼称)
政府は六年三月、外務卿副島種臣を清国に全権大使として派遣した際、この問題について、清国政府と交渉せしめた。
この際の副島の態度は実に堂々としていて、中華を誇る清国政府に対して一歩も譲らぬ権威を見せたものとして、高く評価されているが、台湾問題についても、重要な言質《げんち》を獲た。
――台湾は現在清国の領土と言うことになっているが、清国の政権の現実に及んでいるところは西部に過ぎず、東部の蕃人たちは独立の勢を張り、漂流したわが国民を掠殺している。わが政府はこれらの蕃人の罪を匡《ただ》そうと考えているが、貴国はこれに対して何らか処分の方法を持っているか、
と言う副島の詰問に対し、清国大臣は、
――台湾の蕃民には生蕃と熟蕃《じゆくばん》とあり、熟蕃はわが国に服従しその統治を受けているが、生蕃は未だわが皇帝に服属しないので、化外《けがい》の民として放置している。従ってこれに対して何らの手段もとり得ない、
と答えた。生蕃が、
――化外の民(統治外の民)
である以上、これをわが国で直接討伐しても、清国としては文句を言えぬ事となる。
副島が帰国してこの旨を報告すると、
――それならば直ちに台湾へ兵を送れ、
と言う声が強くなった。
が、それは、より強い征韓論に圧しつぶされてしまった形になっていたのである。
明治七年に入ると、征台論が盛んに唱えられるようになった。征韓論の敗北に落胆し、憤慨した連中が、その憤懣《ふんまん》のはけ口を求めて騒ぎ立てている為でもある。
この間、物騒な事件が相次いで起った。
一月十四日の夕刻、さきに陸軍を去った武市熊吉は、同志九人と共に、赤坂喰違において、岩倉具視の馬車を襲撃した。
岩倉は額と腰に傷を受けながら、身を躍らせて濠《ほり》の中に飛込んで命を助かり、武市らは間もなく捕えられると言う事件が起った。
二月一日には、先に参議を辞して佐賀に帰っていた江藤新平が、島|義勇《よしたけ》と共に二千五百の同志を以て叛乱を起し、十八日佐賀城を攻略し、県令岩村高俊を敗北させた。
大久保は自らその鎮圧を行うため、十三日東京を発し、十七日博多に上陸する。
叛乱軍は予期に反して、脆《もろ》くも政府の鎮台兵に破られ、江藤と島は二十三日佐賀を脱出したが、島は三月七日、江藤は同二十九日捕えられ、梟首《きようしゆ》の極刑に処せられた。大久保の江藤に対する憎悪は目を背ける程のものである。
一方、自由民権論も盛んに起ってきた。
一月十七日、前参議板垣、後藤、副島らは、
――民撰議院設立の建白書
を政府に提出し、板垣は愛国公党を組織して人民の参政権を主張する。
――今や海内沸騰し、国内大破裂の兆歴々たり、台閣の諸公果して何の策ありや、
と、民間の政府に対する論難は手きびしい。
――しばらく国民の士気を海外に発散せしめるため、台湾征討を行っては如何、
と言う議論が、ついに閣議において現れた。
――台湾征討を断行すれば、外征論者の西郷とその一統を、いくらかでも鎮静させる効果があるのではないか、
と考えたのは他ならぬ岩倉である。
大久保も状勢の緊迫を憂慮していたので、ついに征台論に賛成する。大隈はただちに大久保に追随する。
閣議において、正式に決定された。
が、この時、木戸が反対した。
――先に国内の治政が外征よりも緊急なりとして西郷らの征韓論に反対した政府が、今、豹変して外征を行うとは何事か、
と言う純理的立場からである。
反対意見が容れられないと知ると、木戸は辞表を提出した。
陸軍卿山県も、わが兵力が充分でないことを理由に反対を表明したが、陸軍大輔の西郷従道は、
――生蕃討伐の如きは易々たるのみ、征討費は五十万円を以て足る、
と放言した。
従道は、せめてこの征台の役によって、兄隆盛の憂悶を慰めようとしたのであろう。異常の熱意を以て征台を主張した。
四月四日、政府は、西郷従道を陸軍中将に任じ、台湾蛮地事務都督とし、大隈を台湾蛮地事務局長官に任じた。
西郷都督は艦隊を率いて品川から長崎に直航したが、そこから使を鹿児島に送り、兄隆盛に、
――台湾出兵の為、至急、士族兵を斡旋されたし、
と依頼する。隆盛は悦んで、約三百名の徴集隊を編成して長崎に送った。従道は予期通り、この外征が兄隆盛を悦ばせたことを知って、ますます意気盛んである。
だが従道が三千六百の兵を率いて長崎を出港しようとした間際に、思わぬ故障が生じた。
イギリス公使パークスが、
――台湾は清国領土である。ここに日本が出兵する以上、これを日清両国間の戦争とみなし、英国は局外中立の立場をとる、
と声明し、アメリカ公使ビンガムも同じく局外中立を宣言し、かねて約束の輸送船の貸与を拒否したのである。
大久保は愕いて、とりあえず西郷都督に対し台湾への出兵を差止める命令を伝え、自らその善後策のため、長崎に向った。
その間に、西郷従道は断乎として政府の命令を拒否し、兵二百を軍艦有功丸にのせて出発させていた。
五月二日には更に陸軍少将谷干城、海軍少将赤松則義に、軍艦四隻をひきいて出発させた。従道自ら全軍を率いて出発したかったのだが、米英公使が日本側で借入契約をしていた輸送船の出港を禁止したからである。
大久保は五月三日夜、長崎に到着した。
従道は昂然として言い放った。
――自分は勅書を戴いて都督の任についた。たとえ太政大臣が自ら来て止めても聴き入れる訳にはゆかぬ。昨今政府の命令は正しく朝令暮改、いたずらに人民を疑惑に陥れるのみ。もし強いて出征を止《とど》めんと言うならば、自分は勅書を奉還し、西郷従道個人として蕃地に入り、命のある限り闘う。万一清国から異議を唱えて来たならば、あの西郷と言う奴は軍隊を脱走した海賊だと言って頂きたい。海賊の行為ならば、政府が責任を負う必要もないだろう。
西郷としては今更中止できる立場ではなかった。
――すでに艦隊が出港したものなら、已むを得ぬ、
大久保も、腹を決めた。
――よし、やれ、
大久保はきっぱり言い切ったが、さすがに政治家である。直ちに駐清公使柳原|前光《さきみつ》に対し、今回の遠征は些も清国に敵対する意志はないものであることを清国政府に伝えて了解を求めておくよう指示した。
西郷は、五月十七日、高砂丸に乗じて台湾に向う。
台湾での征討は、数回の小戦闘と、六月一日の総攻撃によって、簡単にかたがついて、六月五日には全く終結している。但し所要経費は七百七十一万円、西郷の放言した五十万円の十五倍以上に達した。
天田五郎はこの征台軍に従軍した。陸軍大尉横田弁吉の従者としてである。
鉄太郎始め多くの人々から餞別《せんべつ》を貰い、意気込んで東京を発っていった。
まさか台湾の蕃地に、父母や妹がいるとは思っていなかったが、琉球漂流民がもとで戦争になったのだし、琉球の近くにゆくのだから、もしかしたら琉球にいるかも知れない父たちの消息が分るかも知れぬと言う甚だ頼りない期待に胸をふくらませていたのは、よほどロマンチックな性格だったのであろう。
鉄太郎たちも、その結果については、とてもだめだと見透していたものの、五郎の心情を思いやると、止める気にならなかったのだ。
――帰りには鹿児島辺も探ってきたい、
と言うので、鉄太郎は篠原国幹への紹介状を持たしてやった。
その五郎が、ひょっこり山岡邸に姿をみせたのは、九月に入ってからである。
真黒に日やけしていた。
鉄太郎の顔をみるなり、
「だめでした」
と言う。慰める言葉もなく、鉄太郎は五郎の顔を見守った。
「戦争は面白かったか」
しばらくして、鉄太郎が訊ねた。
「何が何だか分りませんでした。|瑯※《ロンキオ》と言うところに上陸し、五、六日経ったら総攻撃とかで、生蕃の本拠と言う牡丹大社(ボータストーン)に進撃していったのです。私は部隊の一番尻っぺたについてゆきましたが、ひどい山径で、おまけに連日雨が降った為、谷川の濁流が氾濫し、全身泥まみれになりました。鉄砲の音が前方遠くから聞こえてきます。いよいよ戦場かと少し胸をとどろかせていたら、やがて牡丹大社に到着、生蕃は逃げ去って、わが軍が完全に占領しておりました」
「戦闘場面は見なかったのか」
「はい、申し訳ありません」
「詫びることはない」
「余り生蕃が弱くって」
「いや、それは兵器の違いだろう。先方は火縄銃だろう」
「はい」
「こちらはスナイドル銃、勝負にならんな。それにしても無事に戻ってよかった。大分、悪疫が流行したと聞いたが」
「戦死者は僅かでしたが、病死者が非常に多かったようです」
実際の戦死者は十二人であったが、病死者は五百六十一人であった。
「帰りに鹿児島によったのだろうな」
「はい、篠原さんが大変御親切にして下さいました。桐野さんにもお世話になりました。お二人とも先生によろしくと――」
「鹿児島の様子はどうじゃった」
「愕きました」
「何?」
「西郷先生の人気の素晴らしさにです。どこにいっても西郷先生は神さま扱いです。恐らく一般の人たちは、天子様より偉いと思っているのではないでしょうか」
「西郷先生を見たか」
「いいえ、先生はいつも田舎の方に行って狩をしておられるとか。鹿児島城下には滅多に姿は見せんらしいのですが、どこに行っても西郷先生がつい近くにいるような気配がするのです。余り誰も彼もが西郷先生の話をするからでしょう」
「大久保さんの事は?」
「そりゃもう、散々です。自分独りが権力を握るために西郷先生を裏切った奸悪非道の人間と言うことになっています」
「私学校と言うのは見てきたか」
「はい、篠原さんが総監督をしておられるのですっかり見学させて頂きました。大きなものです。毎日五、六百人もの青年が登校しています。教科書が主として兵法の書ばかりだったところを見ると、普通の学校ではなく、士官学校のようなものかも知れません。学生たちの議論を聞いていると、ほとんど、政府を攻撃する調子のものばかりでした。尤も、薩摩弁でわめき立てるので、半分位しか分りませんでしたが」
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西 南 の 役
「いつぞや山岡の話しておった天田と言う若者はその後どうしておるのか。父母や妹は、まだ見つからぬのか」
若い帝《みかど》が、何かのお話のついでに、そう質問された。
――あ、お上はまだあの話をお気にかけていらっしゃったのか、
鉄太郎は、謹んで奉答した。
「はい、未だ見つかりませぬ。台湾に赴き、その帰途、鹿児島に立ちより、南九州をすべて捜索致したようでございますが」
「鹿児島へ行ったと申すのか」
「はい、私から篠原少将に添手紙をつけてやりましたが」
「鹿児島か――」
帝は、しばらく言葉を途切らせたが、やがて独り言のように呟かれた。
「西郷は――どうしているかな」
鉄太郎は、黙って下を向いている。
「天田は、西郷に会うたかな」
「いえ、会うてはおりませぬ。西郷大将は容易に人に姿を見せませぬとか」
「だが、西郷のことは耳にしたであろう」
「それは、もとより――」
西郷の人望が絶大であり、若い子弟は西郷の為とあれば、いつでも命を棄てる覚悟でいるらしいこと、西郷の私学校が、現実には士官養成機関となっていること、大久保独裁の政府に対する反感が頗る強烈であること――など、五郎から聞いたことを、鉄太郎はすべて、主観を一切混えずに、奏上した。
「そうか、大体のことは、察していたが、それほどとは思わなかった」
帝は鹿児島の情況についても、閣僚から絶えず報告を受けておられたに違いないのだが、反西郷色に塗りつぶされた現内閣閣僚の奏上は、必ずしも実情をそのままには伝えていなかったらしい。
「山岡」
「はい」
「鹿児島に行ってみてはくれぬか」
「は?」
「西郷に会うてみてくれ」
帝の発言の意外さに、鉄太郎はしばらく、奉答し兼ねた。
「むろん、政府の公式の使節としてではない。ただ朕の私の使いとしてだ」
「しかし、お上、お上には私と言うことはございませぬ。お上の遊ばすことはすべて、公けの意義を持ちまする」
「いや、そうではない。朕が食事をしようと、愉しみに乗馬を試みようと、それは私事だ。その私事の一つとして、お前に西郷に会うてきて欲しいのだ」
「分りました。で、どのような御聖旨を西郷に伝えましょう」
「何も、言わぬでもよい。ただ朕の意《こころ》によって、会いに来た――とそれだけ申せばよいであろう」
鉄太郎は恭《うやうや》しく頭を下げた。
西郷が去り、板垣、副島、後藤らが去った後の新内閣が、いちじるしく小粒化した感じになったのは、誰もが痛感している。
その一方、西郷を迎え入れた薩摩が、異様な熱情を以て西郷の下に団結し、新内閣に対して、宛然《えんぜん》たる一大敵国のような存在になっていることも周知のところだ。
帝も、それを、ひしひしと感じとられたに違いない。
だが、今更、西郷を呼び返すこともできないし、西郷も出てこようとはしないだろう。
――西郷は一体、何を考えているのか、
すべての人が、それを訝《いぶか》り、無気味にさえ思っている。
帝が、鉄太郎に、帝個人の使として、
――西郷に会うてこい、
と命じたのは、せめて西郷の意図するところを知り、もしかしたら西郷に中央復帰の心があるかも知れぬ。それを言わず語らずの中に探ってこいと言う意味だったのであろう。
――もし西郷に少しでも中央復帰の意思があるものなら、お上が自分をお遣わしになったと言うことだけで、その意思がはっきり固まるのではないか、
鉄太郎はそう考える。
――少くも、自分なら、そうなる、
鉄太郎は、直ちに南下の支度をした。
名目は、特に休暇を賜わり、
――九州、中国一帯を遊覧してくる、
と言うことにした。
家人や門弟たちにも、深いことは何も言わない。久しぶりの骨休めの旅と言うことにしてある。
海路、神戸に赴き、更に船を乗りついで、鹿児島に上陸した。
旧城内|厩址《きゆうし》に建てられた私学校に赴いて、篠原国幹に会った。
「こりゃ愕いた。山岡さん、あんたがやってくるとは」
篠原は、嬉しそうに白い歯を見せた。
戊辰の役、東下する官軍の一部隊長であった篠原の宿舎に、鉄太郎が乗込んで、
――朝敵徳川慶喜の家臣山岡鉄太郎、駿府官軍大総督府に罷り通る、
と叫んで度胆を抜いたことは、当時話題となった。
その後、篠原と会って、心を許す友情が結ばれていた。天皇に近侍する身となってからは、あまりしげしげと会う機会もなく、又、意識的にそれを避けて来たが、久しぶりに会ってみれば、懐かしい。
「休暇を頂いたので、こちらに参りました。九州は初めてでしてね――あ、過日は、天田五郎が大変お世話になりました」
「いや、なに、面白い青年ですな、あれは。気の毒な事情は聞いたが、少しも暗いところがなくて良い――ところで、山岡さん、こちらが初めてなら、どこへなと御案内申そ」
「有難い、先ずこの私学校を、とくと見せて頂きましょう」
篠原は、自ら私学校内を案内して回ったが、その夜は桐野利秋、村田新八らも呼んで、鉄太郎のために歓迎の小宴を張った。
村田はかつて侍従として、鉄太郎と共に天皇に近侍したことがある。西郷が、
――玲瓏《れいろう》玉の如し、
と評した人物だ。
「山岡さん、久しぶりだなあ、あんたには会いたかった」
と、無邪気に悦んでくれた。
酒席の話は、村田がそれとなく牽制していたにも拘らず、やはり桐野や篠原の、猛烈な政府攻撃に終始した。
特に桐野が多弁で、激しい。
鉄太郎は、おだやかな表情で、うむ、うむとうなずいているばかり、
桐野が意見を求めると、
――自分は政治問題には容喙せぬことにしている、
と、鋒《ほこさき》をそらす。村田が傍から、
――山岡さんの今の立場としては、それが当然、自分も天子の侍従として奉仕していた時は、同じ態度をとった、
と、援護してくれた。
翌日は若い者を案内役としてつけてくれたので、城下一帯を隈なく見物した。
「篠原さん、折角ここまで来たのだ。西郷先生に是非お目にかかりたいのだが、どこへ行けばお会い出来ますかな」
鉄太郎がそう言い出した時、篠原が、
「先生は、国分の日当《ひなた》山におります。山岡さん、あんたの来なさるのを待っている」
「えっ、それは――どうして」
「山岡さん、この鹿児島での出来事はすべて、おそくも翌日には西郷先生の耳にはいりますのじゃ。尤も先生は大抵聞き流して、忘れてしまうらしいが、あんたが見えたことを聞くと、ほうそれは懐かしい、お目にかかりたいなと、眼を細くされたそうな」
「嬉しいことを承る、そう聞けば今日にも参上したい」
「案内させましょう」
鉄太郎は、鹿児島から船で海上二十キロの国分に渡った。
西郷の居ると言う日当山温泉は、西国分村の新川口から、四キロほど北に行ったところにある。
「あの家です」
案内の若者が指した。
この辺の豪家らしい、かなり大きな構えであった。
若者は先に走っていって、屋内にはいったが、すぐ出てくると、笑いながら鉄太郎に向って言った。
「先生は今、うしろの山風呂にはいっておられます。しばらくお待ち下さい」
「いや、その山風呂へ行ってみよう」
屋敷の背後の川の近くに、煙が上っていた。その煙の中で、巨きな男が、のんびりと温泉《いでゆ》にからだを浸していた。
「西郷先生」
鉄太郎が近づいて声をかける。
「おんや、こりゃ、こりゃ、山岡さんか」
西郷がすっくり湯の中で立ち上った。肥満したからだが、ゆでだこの様にあかい。
「先生、私も御一緒に湯浴みをさせて頂きますかな」
鉄太郎は、いきなりそう言う。
「さあ、さあ、どうぞ、ほんに良い湯加減ですぞ」
鉄太郎は素早く衣類を脱いで、湯の中に辷り込んだ。
久しぶりの対面だったが、しかつめらしい挨拶は抜きにして、裸のぶっつけ合いになったのだ。
「うーむ、良い気持だ」
「山岡さん、おはん、素晴しいからだをしてござるな。ただぶよぶよ肥ってばかりおる私とはえらい違いじゃ」
西郷は鉄太郎のからだを、本当に羨まし気に見詰めた。
西郷も巨《おお》きいが、鉄太郎も巨きい。
西郷は肥満し過ぎているが、鉄太郎の鍛え上げたからだは、全身引き締って、鋼鉄のように逞しい。
「さすが、剣の道で鍛え上げたからだは違いますの。私は若い頃、右の腕を痛めてから、とんと剣の方はだめ、お恥かしい次第ですよ。それにこう肥ってしもうては、歩くだけでも難儀ですわ」
「しかし、毎日、狩猟を愉しまれていると承りましたが」
「はい、この田舎住い、ほかに何の愉しみもないので、狩りをしたり、魚を釣ったり、――はは、呑気な暮らしですよ」
これがついこの間まで、政府の最大実力者として睨みを利かしていた人物だとは、とても思われない。
ただ、田園の好々爺《こうこうや》――と言う感じだ。
素朴な言葉で、狩りの楽しさ、魚のうまさ、四季の移り変りの美しさについて語る。
「いや、長話をしました。のぼせは禁物。さ、座敷へ戻って、一杯献じましょうか」
二人は湯から上った。
屋敷では案内の若者から篠原の言伝てを聞いて、すでに酒肴の支度をととのえて待っていた。
「先ず、何より、御健勝をお祝いします」
鉄太郎が、盃をあげた。
「はい、山岡さん、あんたも」
現在の政治に関する話は、西郷の口から一言も出ない。鉄太郎も亦、そうした話には一切触れない。
話は、西郷の日常生活から転じて戊辰役当時の回想に移っていった。
となると、どうしても勝が話題に上る。
「勝先生、お元気でしょうな」
「はい、いつ伺っても別嬪《べつぴん》の若い女が二、三人おります。あの方はなかなか御盛んなようです」
「勝先生はたしか、私より三つ四つ年上のはず。それにからだは私の半分ぐらいしかないと言うのに、御達者なことじゃ」
「全く」
「じゃが、山岡さん、あんたもなかなかその方はご盛んなのじゃないかな。そう、ずっと以前、益満から聞いたことがある」
「これは、どうも――」
さすがの鉄太郎も、少々照れて、頭に手をやった。
「益満と言えば、ほんに惜しい男を喪《な》くしましたわい。いや、益満ばかりでなく、戊辰の役の前後には、沢山の良か若者を、喪くしましたの」
話はどうしても戊辰の役に戻る。
西郷は意識して、政局の現状には触れないようにしているらしい。
鉄太郎も、それに触れることは避けた。
翌日からまる二日、鉄太郎は西郷に連れられて、狩をし、魚を釣り、湯につかった。
「お世話になりました。今日の午後、失礼致します」
鉄太郎が、四日目の朝食の後で言った。
西郷は、
「ほう、もうお発《た》ちか」
と、穏やかな声で言ったが、やがて膝を揃え、重い声を出した。
「山岡さん、お訊ねしたい」
「はあ」
「あんたがここにやって来られたのは、政府の使者としてではありますまいな」
鉄太郎は、大きく首を左右にふった。
「違います」
「では――御自身の御意志から?」
「違います」
西郷の巨きな瞳が、更に巨きく開かれ、射るような視線が、鉄太郎の面上にじっと据えられた。
そのまま、何も言わない。
が、その瞳は、返答を要求していた。
「西郷先生」
対手の鋭く光る黒い瞳を、少しのたじろぎも見せずに見返していた鉄太郎が、やや沈痛な口調で言った。
「私が参りましたのは、お上の御意《みこころ》からです」
「お上の――お上御一人の――」
「さよう、お上の、公けのではなく、私の御命令を受けて参ったのです」
「――で、お上は、何と――」
「何も仰せられませぬ。ただ、西郷に会うて来い――と、ただそれだけ――」
会話は、互いに対手の瞳の中を見詰めながら行われた。否、むしろ、互いの対手の心の中を見詰めながら――と言った方が正しいかも知れぬ。
「お上が――勿体ないことじゃ――御心をお悩ませ申して――西郷はまこと、不忠の臣でごわす」
太い、低い声が、しめっていた。
それっきり、西郷は口を噤《と》ざして、何も言わない。
鉄太郎も沈黙をつづけている。
やがて、西郷が瞳をそらせ、庭の方に向け、眼を細めて、遠くの方を眺めた。
「今朝は、霧島が美しい」
鉄太郎は、ゆっくり頭をめぐらせ、碧空に聳える霧島山を見た。視線は、その山を捕えていたが、知覚は他のことを考えていた。
――だめだ、西郷先生は、東京に戻る気はない、
大きな落胆を感じた。
だが、それを改めて口に出そうとは思わない。むだな事だ、考えるだけのことは充分に考えた上で、西郷は、お上への直接の奉答をしなかったのであろう。
その日の午後、鉄太郎は西郷の許を辞した。別れに当って西郷が言った。
「東京のことは、何も心配ありません、岩倉さんや、一蔵がおりますからの」
これが、現政局について西郷が洩らした唯一の言葉であった。
――西郷は、お上の御心は心肝《こころぎも》に銘じて有難いと思ったに違いない。だが、帝《みかど》の意向に従って東京に戻り、再び台閣に列したとしても、必ずまた岩倉、大久保らと争うことになり、いたずらに叡慮を悩ますだけのことに終るだろう。若い帝は、内閣に戻って、何とか皆と協力してやってくれとお考えなのであろうが、政治と言うものの泥くささは、帝の純真な御心とははるかに遠いものなのだ。それ故にこそ、西郷は一切を棄てて鹿児島に還った。岩倉、大久保一派の主権を握る現政府に復帰する気は全くない。お上の思召しに対しては、ただ頭を垂れて、御心に添い得ない不忠をお詫びするのみ――西郷の言いたいことは、これであろう、
鉄太郎は、そう推測した。そしてその西郷の心事を、やむを得ぬものとして肯定したのである。
――それにしても、この役は、自分ではなく、勝がやってくれればよかった。勝ならば政治的に突込んだ話をして、現政府首脳と西郷との間に、何らかの妥協案を打出すことができたかも知れぬ。政治にうとい、そして政治に容喙してはならぬ自分としては、これ以上、何も言えぬし、言うべきでもない。
鉄太郎は、大きな肩に、より大きな重荷を背負ったような気持で、鹿児島を離れた。
陸路、中国筋を廻って、一ケ月ぶりに東京に戻った。
皇居に参内して、帝に拝謁するのは、気が重かったが、やむを得ない。
帝の御前に出ると、単刀直入に、はっきりと奏上した。
「西郷に会うて参りました。残念ながら、西郷には東京に戻る意向は全くないもののように思われまする」
「御苦労だった」
帝は、些かも表情を変えずに肯《うなず》かれた。
帝はひそかに西郷の復帰を希望しておられたが、大久保は郷里の山口に帰ってしまっている木戸の復帰を熱心に待望した。
大久保は、もはやかつての盟友西郷とは一緒にやってゆけないことを、はっきりと知っている。同時に自分独りでこの困難な時局を担当してゆくことの不利も知っていた。
征台の役の直後、清国と談判するために、大久保は自ら清国の北京に乗り込み、その後始末について交渉した。
台湾遠征の妥当性を認めさせ、代償金五十万銀|両《テール》を支払わせることとしたのは、大成功だったと言ってよい。国内では談判の破裂を予想し、日清開戦に備えよと言う意見まで出ていたのである。
大久保は日清開戦を防止して清国から引揚げてきたのだが、国内の紛乱は治まりようがない。征台の役によって、士族階級の不満を抑えようとした試みは失敗に終ったのだ。
士族たちは大久保の対清交渉を、
――戦費の一割に満たぬ賠償金で手をうち、著しく国威を損じたもの、
と非難した。武士特権の喪失と生活の困窮とに、士族たちの不満はますます募って、事毎に政府を攻撃し騒擾《そうじよう》を起す。
一方、自由民権派は、早期に民撰議院を開くべきことを要求し、大久保の独裁体制を痛烈に批判する。
さすがの大久保も、
――自分一人ではだめだ、木戸に出て貰おう、
と考えざるを得なくなった。
伊藤博文に、
――何とかして木戸を引張り出して呉れ、
と依頼した。
伊藤はもともと木戸の乾分だったが、欧州派遣中から大久保に親近し、木戸、大久保両人にうまく取入っていたから、両者の間を斡旋するには最適の人物であった。
伊藤と呼応して、井上馨が動いた。
井上は明治六年西郷派と衝突して大蔵大輔を罷めてから三井と手を握って先収会社と言う商社を経営していたが、大久保独裁体制に反感を持ち、木戸の復活によってそれを打破させようと考え、木戸に働きかけた。
伊藤から、
――大久保があなたと会談を熱望している。あなたが大阪まで出てきてくれれば、大久保も大阪まで行く。もし、あなたが大阪まで出られないと言うのなら、大久保は三田尻まで行ってもよいと言っている、
と言う報らせを受けた木戸は、大久保の熱意に動かされて、大阪まで出てきた。
大久保は、京阪視察を名目として大阪までやってくる。八年一月のことだ。
ここで、いわゆる、
――大阪会議
なるものが開かれた。かつて坂本龍馬の仲介で、薩の西郷と長の木戸とが大阪で会合して薩長連合が成立したのと同じ形態である。
政府の二、三の者が権力を左右しないように元老院を設立して、他日国会を開く準備をなすこと、大審院を設けて裁判の基礎を固めること、上下民情を通ずるため地方長官会議を開くこと、板垣を参議に復職せしめ民権論者を鎮静せしめること――等々の木戸の提案を大久保はすべて受け入れた。
二月十一日、大久保、木戸、板垣、伊藤、井上の五者会談が行われ、相互の諒解が完了。
三月八日、木戸が、三月十二日、板垣が、参議に復職した。
元老院も設置され、地方長官会議も開かれた。
だが、事実上の大久保独裁体制は依然として続いた。
これは、実力の問題である。政治の実際面になると、内向的で純理型の木戸は、外向的で実行型の大久保に対抗できない。板垣はもともと一介の武弁、政治家ではない。結局、大久保がすべてを取りしきることになる。
大久保の独裁ぶりを最も端的に示すものは、七月に発布された讒謗《ざんぼう》律及び新聞条例と、九月に出された出版条例とである。
言論の自由は、完全に弾圧された。
一年余の間に、編集者、記者四十九名が処罰された。采風《さいふう》新聞編集長加藤九郎の如きは、禁獄三年の刑に処せられている。
新聞雑誌の発行停止又は禁止も相次いだ。
こんな状況に、民権論者の板垣が堪え得る筈はない。在職わずか半年余、十月三日、弾劾文を上奏し、二十七日、職を退いて去った。
木戸も、翌年九月には参議を退いたが、大久保の懇請により内閣顧問の地位につく。
こうして天下擾々たる折柄、鉄太郎の家においても、多少の波瀾があった。
その波瀾の中心は、義弟石坂周造である。
石坂は明治八年三月、アメリカから帰国した。新式掘削機二台を持参し、大いに意気込んで戻ってきたのだが、彼を待っていた状況は、惨憺たるものであった。
彼が一切の債務を抛擲《ほうてき》したままアメリカに行ってしまったので、その不在中に、相良油田は人手に渡っていたし、長野製油所は火災で焼失し、ダンとの係争は敗訴の判決を受けていたのである。
その年末には、石坂の石油会社は破産の宣告を受けた。石坂の背負った莫大な借金の大部分に鉄太郎は連帯保証人になっていたので、その支払いの為、十年に亙って俸禄の大部分を差押えられてしまったことは、既に述べた通りである。
この石坂の悲境のドン底で、鉄太郎は石坂の前妻の子宗之助を、長女松子の婿養子としている。
宗之助は八年間もアメリカのペンシルバニアに留学し、石油について研究してきた青年だが、帰朝してみると、父周造は破産宣告を受けて身動きがとれぬ状態、がっくり来ているのを見兼ねて、鉄太郎が救いの手を伸ばしたのであろう。
明治九年秋から十年にかけて、内乱がしきりに勃発した。
九年三月、廃刀令が発布され、軍人と警官以外は帯刀を認めぬこととされると、旧武士連中は、大いに憤激した。今や彼らにとって武士の魂である刀を帯びることは最後の名誉の象徴だったのだ。それさえも奪われては、心の支えを喪ってしまう。
更に八月、政府は華士族の家禄を廃止してその代りに金禄公債証書を与えることとした。
家禄とは旧武士が代々受けていた禄である。幕末にはその総計一千三百万石であった。
版籍奉還の際、各藩主をその藩の知事とし、現家禄の十分の一を与えると共に、藩士の家禄もこれに準じて引き下げられたが、廃藩置県後、新政府が受けついだ家禄はなお五百万石以上に上った。
これで旧士族の大部分が、ともかくも喰いつないでいたのである。しかしこの総額は新政府支出の四分の一乃至三分の一を占め、著しく財政を圧迫した。
そこでこの家禄を整理するため、明治六年以降、家禄を奉還する者には、就産資金として禄高の数年分に当るものを支給することとした。そうして全家禄の四分の一が整理された。
今や、政府はこれを全廃し、俸禄に応じて相当額の公債証書を以て一時金を支給することとしたのである。この公債総額は一億七千五百三十七万三千七百五十五円に達した。
一時金は与えられるとは言え、三百年来、祖先伝来の世禄は喪うことになる。
士族たちが不安と怒りと、焦燥にかられたのは当然であったろう。
事実、与えられた一時金はその後の生活資金とはならず、
――士族の商法
で失敗し、その大部分が結局高利貸その他の手に渡ってしまった。
九年十月、暴動は先ず、熊本に勃発した。
――神風連《じんぷうれん》
と名乗る熱狂的な攘夷主義の士族たち百七十余人が、首領大田黒伴雄に率いられ、十月二十四日午後十時、行動を起したのである。
神風連は藤崎神社に集り、七隊に別れて市内各所を襲った。
第一隊は熊本鎮台司令長官種田政明少将の邸を囲み、門内に突入する。種田は暴徒襲来を知ると、飛起きて闘おうとしたが、左腹を刺されて絶命、書生の一人も斃《たお》れた。
この時、種田の愛妾小勝が、微傷を負いながら、暴徒の去った後、直ちに電信局に馳せつけ、東京に住む父の許に、
――旦那はいけない、妾《わたし》は手傷、
と打電したことは当時の話題となった。
歩兵連隊長与倉中佐邸を襲った一団は、逃げ去ろうとする馬丁らしい男を傷つけ、手抗《てむか》ってくる者四人を斃し、中佐の姿を求めたが見つからず空しく引揚げてゆく。傷つけられた馬丁姿をした者が、実は中佐で、傷を押えて鎮台に逃げ込んだとは知らなかった。
第四隊は、熊本県令安岡良亮の邸に乱入、安岡は小関参事以下数名と共に神風連対策を練っている最中であった。安岡、小関ともに重傷を負って倒れ、後に死亡した。
第五隊は、反対党の大田黒惟信の邸を襲って火を放ったが、惟信は辛うじて脱出した。
第六隊は、領袖大田黒伴雄が自ら率いる七十余名、慶安坂から砲兵営舎に向い、門を破って突入、火を放って営舎を焼き、営兵の多くを殺傷した。
第七隊は、歩兵営舎に向い、焼玉を投入れ、営兵を潰走させた。
神風連は大いに意気揚ったが、城外に屯営していた第三大隊の兵が鎮台にはせつけてきて必死の防戦を行い、大砲を発射するようになると、衆寡敵せず、形勢逆転。
大田黒が銃丸に斃れると一同、金峰山上に退却、多くの者がここで自刃し、その他は捕えられて、斬刑に処せられた。
神風連の暴発は、一日にして片がついたがその連鎖運動は、ひきつづき、秋月にも、萩にも起った。
福岡藩の支藩である秋月藩士らは、西郷の征韓論に共鳴し、七年の江藤の乱にも呼応して立とうとしたが、それが余りに早く鎮定された為、機会を失った。
その後、萩の前原一誠、奥平謙輔と連絡し、熊本の神風連とも通じて蹶起の日を待っていたが、この年十月中旬、神風連から挙兵の通知を受けて起つこととなり、十月二十六日、磯淳、今村増資らを首領として、二百四十名が男女石に屯《たむ》ろした。
全軍、豊前小倉を経て関門海峡を渡り、長州萩に至って前原一誠と合体しようと言う計画である。
一行が千手町に出ると、豊津から杉生、友松両人が迎えに来たので豊津に入った。
この時、豊津の士族は育徳館に集っていたが、衆議一致しないから、しばらく待ってくれと言う。
昼時になると豊津方が秋月軍に酒食を提供したので、秋月軍が昼食を始めようとすると、突然、前面の松林の中から銃丸が飛んできた。小倉の鎮台兵が襲ってくる。豊津人も、これと力を併せて攻撃してきた。
秋月軍はまんまと豊津軍に瞞《だま》されて、鎮台兵の重囲に陥ったのだ。
奮戦して一方を斬り開き、英彦山《ひこさん》に脱れたが、兵は少く、弾刀も乏しい。鎮台兵は諸方の途をふさいでいる。
江川谷に拠って闘えと言うもの、秋月に引返して鎮台を襲えと言うもの、一旦解散して時機を待てと言うもの、議論が分れ、結局各自の望む処に従って行動することとなる。
磯淳、宮崎車之助ら七名は江川谷の近くで自刃した。
今村ら十七名は秋月に潜入し、秋月学校を襲って区長江藤良一を斬ったが、十一月三日天満神社で解散、間もなく今村は捕えられて斬首。
秋月党の挙兵連絡を受けた萩の前原一誠の一党も、十月二十七日、兵を挙げ、明倫館を占拠して本営とし、
――殉国軍
と言う標札を掲げた。
前原は木戸や広沢真臣と並ぶ長州閥の重鎮であるが、明治三年兵部大輔の職を抛って萩に戻っていた。
辞職は、木戸や井上の謀略にかかってのことだと言う。同じ長閥ながら、前原は守旧派であり、開化激動の時世についてゆけず、人間的にも頑迷なところがあったらしい。
萩に在って、自然に郷里士族の不平党の中心のようになってゆく。政府大官の権勢を弄し酒色に耽ることを攻撃し、四十万士族の窮乏を怒り、征韓論の挫折に憤激した。
会津の永岡久茂の一派、熊本の神風連、鳥取の共斃社《きようへいしや》、秋月の有志などと連絡がつき、
――期をみて各地一斉に挙兵、実力を以てそれぞれの地点の政府機関を攻略し、力を合せて政府打倒を図る、
と言う目標が決定されていた。
神風連が起り、秋月党が事を起した以上、前原も当然、蹶起せねばならぬ。
ただ予期したよりも急の事だったので、集ってきた同志は百数十人しかいない。それでも越ケ浜から萩の町に向って進み、官兵と闘って大いにこれを破ると、来《きた》り属する者四百人を超えていた。
広島鎮台司令官三浦梧楼少将は、山口に本営を設け、三方から萩の殉国軍を攻撃する。
殉国軍の死傷頗る多く、ついに町を捨て、潰走し、その中百余名が捕虜となった。
この萩の町をめぐる攻防戦は、十月三十一日から十一月六日まで一週間に亙っているが、奇怪なことに前原はその第一日に参加したのみで、翌十一月一日には早くも漁舟に乗って、萩を離れている。
――戦況が思わしくないので、潜《ひそ》かに東上して天皇に直訴しようとしたのだ、
とも言うし、
――鳥取に赴いて、共斃社三千の同志に訴えようとしたのだ、
とも言う。
船に乗込んだ前原、奥平、横山、白井ら八名は、暴風雨に翻弄され、十一月三日昼、辛うじて出雲の宇竜港に辿りついた。
舟子の密告によって警察側は手配をし、翌日、横山と白井が食料購入のため上陸してきた処を捕えて、手ひどい拷問を行って、舟中に前原らがいることを白状させた。
報告を受けた島根県庁の佐藤県令は、属官の清水清太郎が前原と旧知であることを知っていたので、これを呼んで、
――前原を無事に連れ出してきてくれ、
と命じると、清水は答えた。
「前原氏がこの方面に脱れてきたのは、東京に出て、天下に志を訴えた上で処刑されるつもりでしょう。前原氏を東京に護送することを約束して下さるなら命に応じましょう」
佐藤がそれを約束すると、清水は宇竜港にやってきて、舟中の前原に会い、上陸を要求する。
前原も覚悟をきめて捕えられ、翌日、松江に護送された。佐藤県令は約束通り前原らを東京に送るつもりでいたが、内務卿の大久保は、山口ヘの護送を命じた。
――東京の裁判所で、政府弾劾などやられては、うるさい、
と考えたからであろう。
山口県令関口隆吉も山口裁判所長岩村通俊も前原らに対して、極めて温情のある取扱いをした。関口が、若き日の山岡鉄太郎の家に集る常連の一人であったことは、前に述べたところである。
十二月三日、判決が下った。
前原、奥平、横山らの中心人物七名は斬首、六十四名が懲役、その他の関係者はすべて放免と言う比較的寛大な処分であった。
処刑の前日、関口は前原を牢内に訪れ、膝を交えて語り、酒と生卵とをすすめて、別れを告げた。前原は、
「有難いな、君が最後の杯の酌をしてくれるとは、柳橋の名妓の酌にも勝ると言うものだ。あの世に行っても君の好意は忘れない」
と、感謝の意を表したが、関口が少し声をくもらせて、
「これでお別れかと思うと、全く耐えられぬ思いだ」
と言うが否や、すかさず、
「それほど名残が惜しいのなら、どうかね、一緒にあの世に来ないか」
と、戯れる。関口は思わず真面目に、
「いや、それは遠慮しよう」
と答えたが、次の瞬間、二人声を合せて哄笑した。
副首領とも言うべき奥平謙輔は、関口と以前からの知り合いであったので、関口はしばしば牢を訪れ、格子越しに話した。
奥平は大声で天下国家を論じ、関口にも罵言を叩きつけていたが、処刑の前日も、関口に対して、取扱いが法慣習や定例に違うと言って文句を並べた。
関口は苦笑しながら聞いていると、奥平が煙草を呉れと言う。関口は煙草に火をつけて格子の中に入れてやってから言った。
「お主、東京で吉原に行っただろう」
「行ったどころか、常連じゃった」
「吉原では女郎が格子の中に並んでいて、客が来ると、朱塗りの煙管《きせる》に火をつけて客にすすめただろう」
「うむ、あれは、懐かしい嬉しい習慣だな」
「ところが、今はお主が格子の中に坐って、外にいるわしが煙草に火をつけて差出したじゃろうが。慣習などと言っても、一律に論ずべからざること、かくの如しじゃ」
「やっ、これはやられた」
奥平は両手をうって、大笑した。
処刑場での前原、奥平は、悠揚迫らず、立派なものであったと言う。
萩の乱の終結によって内乱の連鎖反応は一応たち切られたかに見えたが、年が翌《あ》けて明治十年一月、より大きな、最後の大内乱が起った。
この年一月二十四日、帝は孝明天皇十周年祭のため京都へ行幸の途につかれた。
太政大臣三条実美、内閣顧問木戸孝允、参議山県有朋、宮内卿徳大寺実則らが扈従し、汽車で横浜へ、そこから高雄丸で海路神戸に、神戸から汽車で京都に着かれ、御所に入ったのは二十八日午後六時である。
翌二十九日夜、鹿児島において、西郷の私学校党は、陸軍省所管の火薬局及び海軍省所管の造船所を襲って、武器弾薬を奪いとった。
二月三日、私学校党は、大久保の命によって鹿児島に帰省中の警部中原尚雄ら二十一人の警官を捕え、かれらが政府の密命を受けて西郷を暗殺するためにやってきたことを自白させた。
この自白が果して真実のものか、拷問によるデッチ上げであるかは不明である。
ともあれこの自白によって亢奮の極に達した私学校党は、西郷に迫って、断乎蹶起することを要求した。
西郷も、ついに肯く。
二月十二日、西郷は陸軍大将の資格で、
――政府に尋問の筋あり、
と称して、桐野、篠原以下一万五千の士族部隊を率いて、南国には珍しい大雪の降る中を、鹿児島を出発、熊本を目指した。
その後、この人数は、九州各地の士族を集め、三万を超え、最盛時には西郷軍は四万二千人に達した。
――西郷ついに起つ、
この報らせは、全日本を愕かせた。
京都に行幸中の天皇に扈従していた政府要職たちは色を喪った。
――動揺の色をみせてはいけない。所定の行事はすべてとり行うように、
木戸、山県らの進言によって、帝は、勧業場の視察、賀茂神社参拝、京都・神戸間鉄道開業式への臨幸を、とどこおりなく行われた。
――とに角、大久保に来て貰わねば、
と言うことで、大久保の西下を促す。
大久保は十六日になって、ようやく、京都にやってきた。
大久保はこの時まで、西郷が暴徒軍の中に加わっていることを信ぜず、ただ若い暴発を防止できなかったのであろうと考えていたと言う。
翌十七日、有栖川宮を勅使として鹿児島に派遣し、島津久光、西郷隆盛両名に命じて、暴徒を鎮撫せしむべしと言う議が決定したのは、あくまで西郷が暴徒の中にはいっていないと信じていたからである。
だが、十八日、賊徒の先鋒が肥後、佐敷に入ったこと、西郷自ら賊軍の主将として出陣していると言う確報が届いた。
大久保が、信じられぬと言う風に、何度も頭をふった。
西郷は、何故、あの時点で、起《た》ったのか。
江藤が乱を起し、脱れて助けを求めに来た時も、西郷はその無謀を戒めて去らせた。
前原から連絡があった時も、軽挙は避けるべきだと、動かなかった。
その西郷が、前原の失敗からわずか三月後に、再びその失敗の轍《てつ》を踏んだのだ。
西郷の挙兵については、一般に、
――西郷は飽迄、暴発には反対だったのだが、私学校党が実力行動によって政府の兵器弾薬を奪うと、もはや彼らに死花を咲かせてやるよりほかないと観念し、自分の生命は諸君にあずける、存分にするがよい、と言ったのだ、
と解釈されている。
心ならずも、若い人たちの意気に殉じたのだと言うのだ。そしてそのような心情こそ、最も西郷的だと、賛美する声が多い。
だが一方にはこれと反対に、
――西郷は征韓論に敗れて東京を去る時、いつの日か現政府を転覆させてやろうと考えていたに違いない。鹿児島に戻ってから、鹿児島県をすべて自分の思うままに動かし、全県をあげて軍事化し、士族のすべてを私兵化していたのは、その為ではないか、それ以外に全県をあげての軍事化の必要はない筈だ、
と言う考えもある。
征韓論が敗れた時、板垣が西郷に向って、
「今後も互いに提携して国家の為に力を尽そう」
と言うと、西郷は、にべもなく、
「君は君の思う通りにやるがよい。私は私の思う通りにやる。たとえ君が私と反対の行動をとっても、何とも思わぬ」
と言い放ったので、板垣は、
――西郷の思い上りが、これほどまでひどいとは思わなかった、
と、呆れ且つ怒ったと言う。
西郷の自分を信ずる心はかなり強かったに違いない。いつかは政権への復帰を考えていたであろう。むろん、権力欲の為ではない。
――自分でなければ、汚れ切った日本は救えない、
と言う使命感からである。だが、その為に兵力を行使しようと思っていたかどうかは疑問である。
恐らく、彼は、
――現政府は何ができるものか、今に必ず自壊作用を起す。その時は自分が出るよりほかはあるまい。自分はどうしようもなくなった政府を引受けることになるだろう、
と考え、それに備えていたのではなかろうか。これは自惚れには違いないが、それだけの自惚れがなければ、大政治家とは言えないであろう。
大久保も亦、別の意味で、
――日本の困難な前途を切り開いてゆくのは、この自分しかない、
と考えていたに違いないのだ。これは大政治家として必須の自惚れであると共に彼を支える自信である。
ただ問題は、西郷がその郷国を全く同国人を以て固め、全組織を軍事化したこと、郷国の士族の救済の為に、愕くべき特権を平然として政府に要求したことである。
鹿児島県では県令以下の役人に一人の他県人も入れず、すべてを私学校の幹部を以て当てたし、県下の租税は一銭も中央に提供せず、士族は依然として帯刀していた。
金禄公債発行に当っても、鹿児島県士族に限って、禄高を公債に換算する場合も、公債の利率についても、特別の待遇を受けている。西郷の無言の睨みの前に、大久保でさえこれを認めざるを得なかったのだ。
いわば、鹿児島県は、中央政府の命令に従わぬ独立地方軍閥のような存在であった。そしてそれが西郷と言う一人物の存在を背景として認められていたことは明白である。
一体、西郷はこの事実をどう考えていたのか。
――畢竟、西郷は一介の武弁、国家の新しい発展を担う器ではない、彼の役割りは戊辰の役を以て終っている、
と言う見方は、ここから出てくる。
――西郷と雖も人間、自分だけは違うのだ、他人に許されぬことも自分には許されると言う自己陶酔に陥っていたのだ、
とも言う。
――西郷の唯一の欠点は、「人望好み」だった。特に若い連中の人望を集めることが好きだった。鹿児島に帰ってからのやり方は、ことごとく彼の人望好みから出ている、
と言う極論も生れてくる。
いずれにしても、事変は勃発してしまったのだ。
大久保は西郷がその暴徒の中にいることを十八日に確報を得るまでは、容易に信じなかったと言われているが、果してそうであろうか、疑わしい。
内務卿としての彼は、当時の日本において最も早く、最も確かな情報をキャッチ出来る立場にあった筈である。
すでに電報の使用されていた当時にあって、十八日まで西郷の行動を把握できなかったとは到底考えられない。
――鹿児島に暴徒蜂起、
と聞いた時、西郷の性格を誰よりもよく知っている大久保は、事態の核心を掴んでいたのではないか、
――西郷は若い連中を見捨てることの出来る男ではない、
と。
彼は、表面のジェスチュアは別として、深く覚悟を決めて西下していっただろう。
新しい日本の前途に横たわる最大の障害である旧武士階級の反動的思考を、一挙に徹底的に粉砕する絶好のチャンスだと信じて。
幼年からの盟友と言う周知の事実の為に、最後まで棄てることの出来なかった西郷への遠慮も、今度こそ、叛徒討伐の大義名分の下に棄て去れるのだ、つまらぬ感傷などはもはや全く残っていなかった。
二月十九日、京都で閣議が開かれ、
――叛徒征討、
が、断乎として決定され、有栖川宮が征討総督、陸軍中将山県有朋と海軍中将川村純義とが征討参軍に任じられた。
征討軍は、陸軍約四万、海軍は軍艦十一隻、最終段階では政府軍の兵員六万余人、当時の日本軍力の殆ど凡てである。
西郷の率いる叛乱軍は二月二十二日、早くも熊本城を包囲した。
桐野は、熊本鎮台兵を嘲《あざけ》って、
――土百姓に鉄砲を持たせて何の役に立つものか、
と冷笑したし、篠原は熊本城を指して、
――四面合撃、一挙して城を屠《ほふ》るべし、
と、昂然として言い放っている。
薩軍は余りにも自己を過信し、政府軍を軽視し過ぎていた。
土百姓に鉄砲を持たせた鎮台兵は、思いもよらぬ敢闘ぶりを見せ、薩軍北上の企図は先ず熊本において挫折した。
それにしても、熊本城をめぐる攻防戦が、五十日近くに亙って展開されている間、全日本に、怪情報が乱れ飛んだ。
東京の皇居においては、天皇は京都に在り、宮内卿の徳大寺実則も侍従長の東久世通禧も帝に扈従して西下している。
宮内大丞になっていた鉄太郎は、宮内卿代理として、皇居を守る最高責任者となっていた。
この頃、毎夜のように東京市内に火災が頻発し、皇居内でも、
――薩摩の叛徒はもう大阪を攻め落としたそうな、
――軍艦を廻して横浜に上陸したとか、
――毎晩火をつけて回るのは、賊軍の手先だそうな、
と言うようなデマが飛び、女官たちはオロオロしている。
鉄太郎は、女官たちを集めて、
「つまらぬ噂に騒ぎ立ててはならぬ。お上を御信頼申上げて落着いているように。ただ火災などの類焼の怖れは絶無とは言えぬから、大切なものはよく整理しておくように」
と、注意を与えた。
多くの女官たちは、ただおびえたような眼つきをして、黙っているばかりであったが、その中でただ一人、十八、九とみえるのが進み出て、
「お上の軍艦が、叛徒などに敗れる筈はありませぬ。私は少しも心配しておりませぬ」
と、きっぱり言い切った。
「おお、そうだとも、よう言われた」
鉄太郎は、その女官に名を訊ねた。
――平尾歌子、
と答えた。本名せき、歌才を認められて皇后から歌子の名を与えられていた。この若い女性が、後にその妖艶な肢体を以て、伊藤、山県、井上以下の大官を操縦する妖傑下田歌子になろうとはさすがの鉄太郎も予想もできなかったのである。
鉄太郎は、それからしばらくして、すでに退隠している勝に会った時、思い切って、
「勝先生、西郷先生のこと、どうにかできませんか」
言ってみたが、勝は、素気なく答えた。
「どうにもならんな」
「木戸先生は事変が起ったと聞いた時、自分で鹿児島に乗り込んでいって、話をつけてくると言われたそうじゃありませんか」
「木戸が行っても、大久保が行っても、どうにもならなかっただろう。もう遅い。早晩くるべきものが来ただけのことさ」
何もかも始めから見透していたような口を利くのが、勝の癖だ。
「早晩起ると分っていたのなら、勝先生、何故、早く行って止めようとしなかったのです。西郷さんが腹を割って話の出来るのは、先生ぐらいのものじゃありませんか」
「以前そうだった時期もある。だが、西郷は偉くなり過ぎたよ。もう、わしなどは対手にすまいな」
ひどく皮肉な口調である。
「西郷先生はそんなお人じゃありません」
「いや、そう言う人物だ。今度の事変は、西郷と言う人の性格から来ているのだ。どうにもならんさ」
とりつく島もない。
鉄太郎が不満を抑えて黙っていると、勝が微笑して言った。
「西郷先生は人間として実に立派な人だ。しかし、その本質は武人であって政治家ではない。新しい時代に対応する頭脳の柔軟性がない。西郷さんの頭の中に描かれている理想的な政治形態は、余りに純粋で、哲人的で、現実には実現不可能なものだ。のみならず、時代を無視した反動的な復古的な要素が多分にあって、もはや現実の日本には適合しない。残念なことだが、これが事実だ」
――たしかに、そうした傾向がある、
と、鉄太郎も認めざるを得ない。
「山岡さん。あんたは剣一筋に生きて来た人だが、不思議に頭脳の柔軟性をもっている。積極的に自分から新しい時代の構想を作り上げることはしなくても、現実に展《ひら》けてくる時代の変化を素直に受け入れることの出来る人だ。西郷先生に、せめてその位の柔軟性があればよいのだがなあ」
――妙な賞められ方をしたものだ。
鉄太郎はいささか擽《くすぐ》ったくなったが、どう考えても、賊名を負った西郷が気の毒でならない。
憂鬱な顔をして家に戻ってくると、
――珍しいお客さんが見えています、
と言う。
清水から次郎長がやってきていた。
「先生、御無沙汰しております」
「や、元気らしいな。何か急な用件でもあったのか」
「へえ、先生、僅かばかりですが、乾分を連れて参りました。お役に立てて下さい」
藪から棒のように、いきなりそんな事を言われても、何の事かさっぱり分らない。
「何の役に立てろと言うのだ」
「先生、あっしに隠すのは、水くさい」
「一体、何のことだ」
「先生――九州へ行くんでしょう。お供させて下さい」
「何を言い出すのだ。ばかな」
「かくさなくったっていい。あっしにゃ分っています」
やりとりを交わしている中に、次郎長の言うことが、どうやら分った。
――山岡さんは御一新の時以来、西郷さんとは莫逆《ばくげき》の仲だ。きっと九州へ潜行して西郷さんの軍に加わるに違いない、
と言う突拍子もないデマが、静岡辺で流れたらしい。
少し変った人物はみな、
――西郷に呼応して何かやるのではないか、
と疑われている世相である。
次郎長は単純にそのデマを信じて、鉄太郎の許に馳せつけたのだった。
「馬鹿なことを言うものではない」
鉄太郎は、きびしい表情になって、叱りつけた。
「私は西郷先生を尊敬し、同情はしているが、どんな名目があろうと、お上に対して弓をひくようなことはせん」
「本当ですか、先生」
次郎長は、まだ充分に疑いを残しているような顔をして、帰っていった。
――いい男だが、ああ単純に考えても困るなあ。
鉄太郎は苦笑した。
どこかの町で、政府軍の勝利を祈願して、神社の拝殿の傍らに、
――明治十年、天下泰平、
と記した幟《のぼり》を立てたところ、翌日、
――平泰下天、年十治明(兵隊勝てん、年中治まるめい)
と直してあったと言う。
政府軍は、苦戦をつづけた。
薩軍は、劣悪な武器を以てよく闘った。
だが四月十五日、政府軍は、熊本城を包囲する薩軍を敗走させ、十七日、征討総督有栖川宮は本営を熊本城内に移した。
薩軍は人吉に退いていく。
五月三日、政府軍、人吉総攻撃開始。
薩軍の抵抗は頑強である。
五月二十六日、病床にあった木戸が死んだ。享年四十五歳。
死に臨んで、
「西郷、西郷、もういい加減にせんか」
と叫んだと言う。
木戸は終始、西郷とは肝胆相照らす仲にはならなかった。むしろ互いに嫌い合っていたようである。
だが、この木戸の最後の叫びは、少くも大久保よりも木戸の方が、人間味豊かであったことを示すものと言ってよいであろう。
六月一日、官軍人吉を占領。
薩軍はまだ都城、宮崎、延岡などに散在して征討軍と闘ったが、その勢は次第に弱まり、八月十七日、延岡の北方長井の決戦に敗れて、降伏するもの一万余。
西郷は桐野利秋、別府晋介ら親衛隊数百人と共に、夜に乗じて可愛嶽《えのだけ》の嶮を突破し、包囲軍の追撃を避けつつ、九月一日鹿児島に帰り、城山にたてこもった。
九月二十四日、征討軍総攻撃。
戦闘は午前四時に始まり、同九時には終った。
西郷、桐野、別府を始め、村田新八、辺見十郎太、池上四郎、桂四郎、小倉壮九郎ら、薩軍の戦死者百六十名、降るもの二百余名。
西郷の死については、殆どの記録が一致している。
――野村某宅背後の第一洞窟にいた西郷は、官軍が迫って銃丸しきりに飛来するに及んで、洞窟を出て岩崎谷に向った。一行四十余名、銃丸に斃れるもの相次ぐ。
辺見十郎太が西郷に、
「ここらでよいでしょう」
と促したが、西郷は、
「まだまだ、本道に進んで潔く戦死するのだ」
と言う。更に少し進んでから、辺見が、再び西郷に自刃を迫ったが、西郷はまだまだと言う。
島津応吉邸門前に来った時、銃丸が西郷の股部と腹部とを傷つけた。西郷は別府晋介を顧みて、
「晋どん、晋どん、もうここでよかろう」
と、跪座《きざ》し、東に向って手を合せた。
別府は、先生御免と言い、その首を打ち落とした――と言うことになっている。
だが、異説もある。
西郷がずんずん進んでいくのをみた桐野が、西郷は官軍に降伏するつもりではないのかと疑い、西郷に虜囚の辱かしめを受けさせるに忍びず、背後から銃撃して斃したと言うのである。
桐野はこの戦役の中頃から、西郷との間がいささか冷くなっていたとも言う。桐野が余りに我儘で独断専行し、しかもその結果が殆ど常に思わしくなかった事は事実である。
桐野程度の男を、副将にしなければならなかったのは西郷の不運であり、さすがの西郷も、桐野に対して多少とも、快くないものがでてきていたかも知れぬ。が、この期《ご》に及んで官軍に降る意思などはもとよりなかったであろう。異説の伝える処が真実とすれば、桐野の邪推と言うべきである。
ともあれ、西南の役と称せられる士族封建派最後の叛乱も、西郷の死によって終結した。
西郷、時に五十一歳。
政府軍の死者六二七八人、負傷九五二三人、薩軍の死者二万余、戦後の処刑者二七六四人、最大の利益者は輸送船を独占した三菱汽船会社であった。
内乱騒ぎもどうやら収まって、年が明けた明治十一年春。
鉄太郎の邸内に一通の斬奸状が抛り込まれた。
庭に落ちていたそれを見つけたのは、朝一番早く眼が醒めて、庭内を歩き廻っていた鉄太郎自身である。
開いてみると、
――天子|輔翼《ほよく》の身でありながら、その輔導を謬《あやま》り、奸悪の佞臣《ねいしん》に与《くみ》して、故西郷南洲翁の誠忠の志を妨げたる不忠の臣山岡鉄太郎、不日、天誅を加うべきものなり、
と、墨痕あざやかに記されている。
何者の仕業か、維新前の志士気どりだ。
鉄太郎は読み終ると苦笑し、焼却した。
むろん、家人にも一言も話さない。
本人も恐らく、日ならずして忘れてしまったことであろう。
五月始めのある日の夕刻、二人の未知の訪問者があった。
――島田一郎
――長連豪
と言う二枚の名刺が取りつがれた。
――先生にお目にかかって是非、御高話を拝聴したい、
と言う。
鉄太郎は宮中から戻ったばかりだったが、いつも来る者は拒まずだ。すぐに客間に案内させた。
どちらも若い。どちらも物騒なつらをしている。懐中に匕首《あいくち》ぐらいは呑んでいそうだ。
――ははあ、こいつらだな、過日の斬奸状の主は、
と、忽ちピーンときたが、さあらぬ態《てい》で、酒を出させた。
島田も長も、ひどくぎごちない。
二人とも、
――石川県士族
と名乗った。座敷に入ってきた時には、一種の殺気のようなものが感じられたが、そいつは急速に消えた。
剣の道では奥妙の域に達している鉄太郎の前に出ると、即座に、
――これはとても、手が出ぬ、
と、すくんでしまったらしい。
鉄太郎の方は、対手の気をほぐすように、気楽な調子で話しかけた。
「石川県と言えば忠告社の陸《くが》義猶さんを御存知か」
「はあ、われわれも、しばらく忠告社に籍を置いたことがあります。いささか志を異にする処があって、脱退しました」
と、島田が答える。
陸義猶の忠告社は、民権拡張、国会開設を叫んでいる一派だが、その内容は玉石|混淆《こんこう》、新しいものから古いものまで一緒くたにはいり込んでいる。共通しているのは、
――反政府
と言うことだけだ。
忠告社から脱退したのなら、大方、乱を望む士族党だろうと、鉄太郎は見当をつけた。
「で、御用件は」
「天下の大事について、山岡先生の御見解を承りたいのです」
暗殺意図は抛棄したらしい。島田が議論を吹っかけてきた。
「私は宮中勤めをする身、政治上のことに口は容れたくない」
「では、先生の西郷翁に対する個人的な見解を伺いたい」
「西郷先生は立派な方だ。あのような御最期はまことにお気の毒だと思っている」
「本当にそう思われますか」
「私が偽りを言う男に見えるか」
「これは失言、お宥し下さい。ところで先生、先生は勅命を受けて先年、鹿児島に赴いて西郷翁に会われたでしょう」
知っているものなら、隠すこともない。
「その通り」
「どのような勅命だったんですか、御差支えなくば承らして頂きたい」
「西郷に会うてこい――お上の仰せは、ただこれだけだ」
「先生は西郷翁に東京へ戻るようにおすすめにならなかったのですか」
「そのような話は一言もしておらん。ただお上の仰せ通り、西郷先生に会うて、御元気な様子を見届けてきただけじゃ」
「西郷翁の方からは、何の御意見も出なかったのですか」
「何も――まる二日、西郷先生と狩をしたり、魚を釣ったりして愉しく暮らしただけじゃった」
「世間では――」
島田が言いかけて、少しためらった。
「何と言うておる。遠慮なく言いなさい」
「世評によると、先生の御報告が西郷翁に不利なものだったので、あの時、お上は西郷翁の召還を断念されたのだと言うことになっております」
「ほう、そんな噂もあるのか」
鉄太郎は、少々呆れた。
「何とでも言わしておくがよい。事実は今述べた通りだ。私は西郷先生を尊敬しておる。先生を悪く言う筈がないだろう」
「とすると、西郷翁の召還が実現しなかったのは、ひとえに大久保参議らの策謀の為ですな」
「大久保さんは西郷先生の盟友だ。たとえ征韓論で意見を異にしても、故意に先生の前途をはばむような事はしなかっただろう――いや、これは政治論議に亙ることだな、私は議論を遠慮しよう。事実を確めたければ、君たちで直接に大久保さんに聞いてみるがいいだろう」
「いや、私はあんな奸物には会いたくありません」
「しかし君たちは、私を奸物と思うて、会いに来たのだろう」
鉄太郎がにこっと笑うと、島田も長も、照れくさそうな表情をみせた。
結局、二人とも要領を得ない恰好で引揚げていった。
――あの連中、大久保参議の暗殺でも企てはしないかな。
鉄太郎はちょっと気になった。
大久保に特に好意を持っている訳ではない。むしろ、体質的には余り好きになれない方だが、大久保が現政府にとって、否、現在の日本にとってどれほど重要な人間であるかと言うことは充分に認めている。
翌日、出仕の前に筆をとって、大久保宛ての書翰をしたため、それを届けさせた。
――閣下を暗殺せんとする企てありやに見らるるふしあり、充分に御警戒あってしかるべし、
と言う意味のものである。
しかし、大久保にとっては、
――暗殺企図
などは珍しいものではなかった。少し大袈裟に言えば、常住坐臥、その危険に曝されていたのだ。
鉄太郎の書状を見ると、
――御厚志|忝《かたじけ》ない。が、それは常に覚悟している、
旨の返事を認《したた》めたが、その為に特に警戒をきびしくするような事はなかった。
大久保が暗殺されたのは、それから十日ほど後の、五月十四日である。
当日午前八時過ぎ、太政官へ出仕の為、馬車に乗った大久保が紀尾井坂にかかった。
右は北白川宮邸の背後に当り、左は壬生基修《みぶもとなが》邸、両側とも小高い土牆《どしよう》を築き、その間に夏草が人の背を隠さんばかりに生い茂っている余り広くない路である。
突然、六人の男が路上に躍り出た。
二人が左右から馬の前足を薙《な》ぎ倒す。
馬が倒れた。
馭者が飛び下りた刹那、背を斬られた。
大久保が車から出ようとした時、四人が走りかかり、大久保の眉間から目際まで切りつけ、車から引出して、めった斬りにした上、短刀で頸を深く刺して絶命させた。
六人の凶徒は死体を放置したまま、宮内省に馳せつけ、
――只今、紀尾井町にて大久保参議を殺害した。相当の処分を乞う、
と自首し、直ちに捕縛された。
島田一郎、長連豪その他四名である。
彼らが東京の主な新聞社に郵送しておいた斬奸状によれば、大久保は、
――民権を抑圧し、政事を私し、請托公行、不急の土工を起して国費を濫費、忠節の士を斥けて内乱を醸成し、外交を誤って国威を失墜した元凶、
だと言うのである。
――西郷在世中はいくらか憚るところがあったが、その死後は何の顧慮するところもなく兇悪の限りをつくしている。よって天誅を加うるものなり、
とも記されていた。
大久保の死によって西南の役の後始末はすべて終ったかと思われたが、もう一度その余波が、東京のどまん中で大きく揺れた。
竹橋事件――と言われるものである。
十一年八月二十三日夜十一時、皇居警護の任に当るべき近衛砲兵大隊が、武装蹶起して上官を殺傷し、鉄砲を放って歩兵連隊と闘い、一部は赤坂の仮皇居に押し寄せたのだ。
暴動の原因は、西南の役における近衛兵の働きが抜群であったにも拘らず、半年以上経っても一向に賞勲の沙汰がなく、不満が表面化しようとしていた時、財政緊縮のため俸給の減額が行われたことにあった。
八月に入ってから暴動の計画は具体化し、近衛砲兵大隊の長島竹四郎、小島万助、歩兵大隊の三添卯之助らが中心になって、招魂社や山王神社の境内に三々五々集って密議をこらし、蹶起の日を二十三日夜と決定した。
だが、その直前に、密議は洩れた。
近衛砲兵隊の大隊長宇都宮茂敏少佐は、馬に飛び乗って竹橋内の営門に馳せつけたが、主謀者の長島、小島らはもはや上官の命令など聞き入れる状態ではなかった。
――皇居に押しかけて、陛下に直訴する、
と言い放つ。兵卒たちは、長島らの叫びに応じて一斎に営外に飛び出してきた。何れも黒チョッキに白ズボンを穿《うが》ち、脚絆草鞋、腰には洋剣又は日本刀を帯び、手に小銃を持っている。昨年西南の役に従軍した時の行装そのままなのである。
「やめろ、軍紀を何と思っている」
宇都宮少佐は制止したが全く無視された。少佐は衛兵に非常ラッパを吹かせて歩兵隊を集めさせた。
砲兵たちは激怒した。
「宇都宮少佐は、おれたちを歩兵に命じて射殺させるつもりか、殺《や》ってしまえ」
数名が銃剣を揮って宇都宮に襲いかかり、その場で刺し殺してしまう。
歩兵連隊はこれを見て、砲兵たちに向って小銃を乱射し、砲兵もこれに応じて二発の大砲を放ち、小銃を発射して対抗する。
予備隊長深沢大尉が悲痛な声をあげて、
「やめろ、やめろ、やめてくれ」
と砲兵隊の中に躍り込んでいったが、忽ちの中に突き殺された。
上官殺戮によって凶暴化した叛徒は、厩舎に走って秣《まぐさ》に火を放ったが、士官に指揮された歩兵連隊の秩序ある射撃に追いつめられて、七十余名が逮捕された。
残る百三十名余りは、
――ここで戦うのは無益だ。皇居へ行け、
と、防戦しつつ代官町から半蔵門方面に脱出、仮皇居の表門に到達した。
ところが、この時すでに、皇居は川路大警視の率いる巡査五百名と、山県陸軍卿の緊急命令を受けた士官学校長曾我少将の率いる士官学校生徒らに、厳重に守られていた。
門を守る一隊の将校に、長島が言った。
――近衛の砲兵、嘆願の筋あり
「嘆願ならばその筋を通して行え、軍紀に従わぬお前たちは賊徒とみなす、武器を渡して縛につけ」
「武器を渡さなければ?」
「全員射殺する」
歩兵一中隊の兵が、暴徒に対して一斉に銃口を向けた。
暴徒の一人が、
「もう、だめだ」
と叫んで、銃口を喉に当て、足の指で引金をひいて、自殺した。この一発が、暴徒の戦意を完全にくじいたらしい。全員その場で武器を渡して縛についた。
死刑五十三名、准流刑百十八名、徒刑《ずけい》六十八名と言うきびしい判決が下ったのは、十月十五日である。
鉄太郎は、二十三日夜半、事変の勃発を告げる五発の非常号砲を、床の中で聞いた。
暴徒が竹橋から代官町に向って脱出した時、市民に非常事態を告知する為に射たれたものである。
何事かは全く分らなかったが、直ちにはね起き、寝衣《ねまき》の上に袴をつけ、刀を片手に屋敷を走り出た。
仮皇居に馳せつけると、やっと巡査部隊だけが到着したところだ。
何者かと遮《さえぎ》られたが、
「山岡だ!」
と大喝して押しのけ、勝手知った内部に躍り込み、帝の寝所に入った。
帝はもう床を出て衣服を改めておられる。
「山岡、いつもお前が一番早いな」
この前、皇居炎上の際の事を想い出された帝がそう言って微笑された。
その中、多くの人々が参内してくる。士官学校の兵たちもやってくる。
騒動は、予想外に早く片がついた。
鉄太郎が退出しようとすると、
「山岡、もうじき夜が明けるだろう。そのまま居ってはどうか」
と帝が言われた。鉄太郎が、
「は、何分この姿でございますから」
と、寝衣に袴の自分を指して苦笑する。
「一向構わぬではないか」
「は、しかし、余りに――」
「さようか。では一応、屋敷に戻るがよい。だが、お前の持っている刀は、ここに置いてゆくがよい」
「はっ」
「その刀があれば、いつもお前が側にいるようで心強い」
鉄太郎は言葉もなく、己れの刀を献上したが、それはその後、ずっと帝の御寝所に置かれていたと言う。
鉄太郎の死後、明治二十三年、帝は鉄太郎の嗣子直記を召され、
――この刀は、お前の父の忠誠心の記念だ、大切にするがよい、
とお返しになった。刀は、現在、鉄太郎の霊所|全生庵《ぜんしようあん》に所蔵されている。
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無刀流開眼
政治的事件について余りに述べ過ぎたようだ。ここらで、鉄太郎個人の生活に戻ることにしよう。
鉄太郎が淀橋から移転してきた四谷の屋敷は、仮皇居に近い、旧紀州藩家老の邸である。広大な敷地に巨大な公孫樹《いちよう》が亭々として聳え、俗塵を離れたところである。
その山岡邸が、
――化物屋敷
と呼ばれた。
建物が古くて陰惨な感じがしたからではない。確かに建物は古かったが、邸内は活気に溢れ、明る過ぎる位、明るかった。
年中、居候や内弟子がごろごろしていたし、長屋をぶち抜いて床を張った急拵えの道場では、毎日竹刀の音が盛んにしていた。
その賑やかな山岡邸を、化物屋敷と名づけたのは、他ならぬ勝海舟である。
勝が、そう呼んだのは、山岡邸に種々雑多な人間が、特に世間普通の観念からはみ出したような変人奇物が出入して、傍若無人の暮らしをしていたからである。
時代の波から全くとり残されてしまった松岡、村上ら古くからの門人、新しく入門してきた長谷川運八郎、籠手田《こてだ》安定、香川善次郎、食客の天田五郎、臼井六郎、若い坊主の宗演、変り種の医師千葉愛石、落語家の円朝、それに静岡から中条金之助や清水の次郎長もやってくる。横浜で大商人になっていた平沼専蔵も時々は顔をみせた。
どれも一癖ある奴ばかりだ。
勝はいつも、ぶらりと顔を見せたが、
――よりによって妙な奴ばかり集っていやがる、
と例によって毒舌を叩き、
――四谷の化物屋敷、
と言ったのである。
勝はこの屋敷では余り評判が良くない。心から歓迎したのは主人公の鉄太郎ぐらいのものだったろう。
大体が、勝嫌いの松岡や村上と言った連中が多いし、勝の態度もよくなかった。
ごろ寝している書生などを見ると、
――主人が屋敷にいると言うのに、このざまは何だ、
と、肩を蹴飛ばしたりする。屋敷の主人の鉄太郎は、逆に、
――疲れ切っているのだろう、
と、自分でそっと掛ぶとんをかけておいてやったりするのだ。
――勝が何だ、偉そうにしやがって、
と、若い連中は、小柄なくせにふんぞり返って歩いている感じの勝の後姿をみて、憎々しそうに呟く。
勝は、六年十月西郷ら辞任の直後、参議海軍卿に任じられたが、翌年征台問題について反対意見を上申、容れられないとみると出勤を全く罷《や》めてしまい、八年四月、新設の元老院議員に左遷され、くさって直ちに辞任してしまっていた。
幕末の傑物勝も、どうやら時勢の波にとり残されてしまったらしい。
それから後は、赤坂氷川町の邸内に美しく若い妾を何人か置き、いたずらに大言壮語しているのみである。
全体に評判はあまり良くなかったが、鉄太郎は従来通り、先輩として鄭重に応対している。尤も顔を合せても、一時間の中、五十五分は、勝が独りでしゃべりまくった。
鉄太郎は、しゃべるよりも聞き上手だったらしい。入れ代り立ち代りやってくる来訪者は、誰でも構わず招じ入れて、話を聞いてやる。そしてにこにこ笑っているのだ。
それに、何か頼まれると、決して厭とは言わず、出来る限りのことをしてやった。
当時の山岡邸は、
――居候の天国
とも言われた。
十数人の内弟子の他に、いつも何人かの居候が住みついている。
むろん、職が無くて困っての食客もいたが、山岡邸に起居して、弁当までこしらえて貰って平気で勤め先に通っていた図々しい奴もあったと言う。
鉄太郎は一向に気にしていないが、英子のやりくりは大変だったに違いない。貧乏は、依然として、山岡家にどっかり根を生やしていた。
鉄太郎は毎朝、五時に起きる。
すぐに道場にいって、門弟たちにはげしい稽古をつける。二時間ぐらいやってから朝食、それから皇居に出勤する。
戻ってくると、もう客が何人か待っている。酒――と言うことになる。
談論風発、と言っても、しゃべりまくるのは来客や食客や門弟たちだ。夜半を過ぎることもしばしばある。鉄太郎は酒を飲みながら、若い連中の話を聞いているのが何より愉しいらしい。昼間の堅苦しい宮中勤めの肩がほぐれた。
鉄太郎の周囲の人々は、大なり小なり、鉄太郎に迷惑をかけ、負担をかけたが、特に、石坂周造は、鉄太郎の後半生を通じて、さんざん心配をかけている。
しかも石坂は、ケロッとして、余り悪いとも思っていないらしく、まるで自分の家のように出入し、時には女房もろとも、居候を決め込んだ。
妙な魅力のあった男らしい。
――石坂は体躯偉大、雄姿颯爽、眼光|炯《けい》々として犯すべからざる威厳があり、気宇広闊、一世を呑吐する気概をもっていた。座談に巧みで、遊説に妙、この点については一種の魔力を有していた。三寸不爛の舌を振って、人を説けば、大抵の者が説得されてしまう、
と、晩年の石坂について記述したものがある。
だが、その企てた仕事は大抵失敗した。
真の実業家ではなく、一種の「虚業家」であったらしい。
天田五郎のパトロンであった小池詳敬は、石坂の弁口に乗せられて、一万五千円を出資し、後には官を辞して石坂の会社の為に資金集めに狂奔したが、会社が破産宣告を受けたため全財産を喪い、不遇の中に死んだ。
石坂は債鬼に追われて、明治十二年、一家をあげて静岡県の相良に移ったが、ここでまた「相良石油会社」を創立した。むろん、鉄太郎に、資金面で助力を仰いでいる。
この会社も、うまく行かなかった。
後のことになるが、明治三十年、追われるようにして相良を去って東京に移った。
最後の試みとして信州の鎌田油田の試掘にかかり、これが成功したのを機会に、権利を譲渡して業界を隠退した。
例の天田五郎も、終始、鉄太郎の世話になった。
征台の役から帰った直後、五郎はちょっとした風聞をもとに北海道一帯に亙って、父母と妹とを探しにいったが、無理を重ねた為か、函館で喀血した。
東京に戻ってから、鉄太郎の世話で浅草の梅園院と言う寺で療養生活をつづけたが、少しよくなると、また、北陸地方に捜索旅行をやった。
余りに効果のない捜索に少し気落ちしたものか、当時全日本に吹き荒れていた自由民権運動に心を動かされ、ひそかに板垣退助の愛国社に加盟し、走り回った。
これを知った鉄太郎は、
――ばかな、あいつは政治運動などに向く奴ではない、
と、五郎を呼び戻し、
――この尻軽め、
と叱り飛ばしたが、たまたまやってきていた次郎長に、
――こいつをしばらく預ってくれ、
と、引渡してしまった。
当時、次郎長は、静岡県大淵村(現在富士市内)の開墾事業に手を出していた。鉄太郎の紹介で、時の県令大迫貞清に話をつけ、二千円の補助金を貰い、静岡監獄江尻支所の囚人数十名を使役することにした。
五郎はこの開墾事業の手伝いをしている中、次郎長の人物に惚れ込んで、「東海遊侠伝」を書いている。
十四年には、一時、次郎長の養子となり、山本姓を名乗ったが、やはり侠客的生活には馴染めなかったのだろう、養子を辞して天田姓に戻り、東京に戻った。鉄太郎の世話で、有栖川宮家に奉職した。
明治二十年入道して鉄眼と称した。
鉄眼が、歌人愚庵和尚として広く名を知られるようになったのは、鉄太郎の死後のことである。
天田五郎と並んで、臼井六郎と言うのが、鉄太郎の屋敷にしばらくいたことがある。
これは、剣の門弟としてだ。
明白な目的を持っていた。
――父母の仇を討つ、
と、言うのだ。
六郎の父は、筑前秋月藩の馬廻り役、臼井|亘理《わたり》と言う。
慶応四年、すなわち明治元年の五月二十三日、何者かに惨殺された。
旧の五月末は真夏である。
寝苦しい暑さに、雨戸は閉めず、障子だけを立てた十二畳の座敷に、亘理は乳呑児を抱いた妻と三人で臥していた。
数名の怪しい足音に、ふっと眼を醒ました亘理が、枕許の刀に手を伸ばした時には、六人の曲者が土足のまま座敷にはいり込んでいた。
「何者かッ」
と叫んで、刀を引き抜こうとした亘理は、肩を切下げられて斃れた。
愕いて、乳呑児《ちのみご》を抱いたまま立ち上った妻の清子も一刀の下に斬り殺され、乳呑児は傷を負った。
一間隔てた処に寝ていた亘理の父九郎右衛門が、赤児の悲鳴に眼が醒め、傍にねていた六郎を叩き起して、亘理の寝室に走り込んでみると、曲者の姿はなく、無惨な死体が、室内を真赤に染めた血潮の中に斃れていた。
夜が明けてから藩庁に届け出たが、当局の態度ははなはだ奇怪なものであった。
――臼井亘理かねてより専断増長の行いあり、恨みを受けたものであろう。曲者に出会いながら、対手に一太刀も与えず斃れたのは不心得の至り、
と言うのである。
曲者に対する詮議は全く行われない。
亘理が死に臨んで刀の柄を握っていたので、辛うじて家名はつながった。禄高三百石はわずか五十石に減らされ、亘理の弟|慕《したう》が家督相続を仰せつけられた。
この同じ二十四日には、亘理の他に、藩中で学者と目されていた中島衡平と言う者も、何人かの刺客に襲われて殺害されている。
むろん、これは単なる暗合ではない。
当時は尊皇か佐幕か、攘夷か開港か、諸藩が迷い抜いていた時だ。
臼井も中島も、倒幕開港を主張しつづけていた。
守旧派の干城隊がこれを眼の仇と狙ったのは当然であったろう。卑怯にも、多勢を頼んで、夜に乗じて惨殺したのである。
維新政府の確立、版籍奉還、廃藩置県と、目まぐるしく時勢は変っていったが、父母を惨殺された六郎の怨恨は、重く固く、その胸奥に沈澱《ちんでん》していた。
それとなく探っていく中に、かの夜、臼井家を襲ったのは、干城隊の戸原、山本、宮崎、萩谷、吉田、大田の六人であることが判明した。
その中、父を斬ったのは山本克己、母を殺したのは萩谷伝之進と言うことまで、つきとめた。
封建の世は去り、文明の新政府の下、仇討は、もはや、固く禁止されている。
――だが、おれは、必ず、父母の仇を討つ、
六郎は、覚悟を決めていた。
父の仇山本克己は、東京にいるらしい。
明治九年、十七歳の六郎は叔父の許しを得て上京した。
手づるを辿って鉄太郎の門に入った。
最初の申し出は、
――剣の道に精進したい、
と言うことだったし、いかにも思い極めた態が、近頃の若者には珍しいとみて、鉄太郎は快く入門を許し、内弟子として屋敷内に置いた。
父母の仇を討つと言う確乎たる目的を持っているだけに、六郎の修業は必死である。
鉄太郎も、兄弟子たちも、
――これは有望、
と、目をつける。
その中、鉄太郎は六郎の挙動に不審を抱いた。
始終、外出する。金を持っていないのだから悪い遊びをしている筈はない。ただふらふらと遊び回っているような浮ついた性格ではない。
――何かあるな、
と感じて、ある夜、そっと六郎を自分の居間に呼び寄せた。
「お前の修業ぶりには感心している。だが、お前の日常にはどうもすっきりしないものがある。何を考えておるのか、包まず話してみるがよい」
六郎は両手をついて、自分の心願を打ちあけた。
「そうか、そうだったのか。お前の気持はよく分る。だが、仇討ちは法令によって禁止されていることを忘れるな」
「それはよく分っています。仇討ちをしたため、どのような処分に遭うても、少しもくやむことはありませぬ」
「立派な覚悟だが、臼井、もう一度考え直してみないか。幕末維新の頃は、いわば日本全体が狂乱状態にあった。自分と違う意見を持つ者はすべて国賊と考えて、互いに殺し合った。決して私の怨みから殺したのではない。今となってはすべて過ぎ去った狂乱時代の夢――と思って、諦めてはどうか」
「お言葉を返すようですが、先生、私は父母の死以来、このこと許《ばか》りを思いつめて生きて来ました。今更やめることはできませぬ。お許し下さい」
「そうか、そこまで思いつめているものなら已むを得ぬ。やってみるがよい。それには先ず何よりも腕をみがくことだ。今まで以上に修業せい」
「はい、有難うございます」
鉄太郎は、六郎を激励したが、内心、仇討ちを容認した訳ではない。
剣の道に熱中し、腕が上達するにつれ、心も広く展けていき、仇討ちのことを思い直すのではないかと希望したのである。
だが、六郎は素志を曲げない。
ある日、鉄太郎の前に来て、
「先生、仇の消息が分りました。行って参ります」
と言う。
――これはもう、止めてもだめだ、やるだけやらすよりほかあるまい。
「よし、殺《や》る時は、突くのだ。斬り損じはあっても、突き損じはないと言う、忘れるな。それからもう一つ、仇を討ったら、自分の命もないものと思え」
と、鉄太郎は言い含めた。
六郎が探していた山本克己は、一瀬直久と名を改めて山梨県甲府に判事として在勤していたが、今回、転任となって東京に戻って来る、と言うことが分ったのだ。
六郎は甲州街道の大木戸で、これを待ち受けた。
山本の面体《めんてい》は子供心にも、はっきり覚えている。たとえ年月が経っても、見間違うことはないと言う自信はあった。
夕刻近くになって、馬首を並べ三人の男がやってくるのが見えた。その真中にいるのは、まごう方なき山本克己だ。
――己れ、山本、
と、短刀の柄を握りしめたが、対手は馬上、殊に両脇に二人の屈強の男がいる。
躍り出て襲いかかっても、馬の蹄《ひづめ》に蹴散らされるか、三人がかりで取押えられてしまうかだろう。
――無念だが、今日は中止するよりほかはない、
と諦めて、山岡邸に戻ってきた。
「どうだった、臼井」
無事に戻ってきた六郎を見て、鉄太郎が怪しんで問うと、六郎は涙をぽろぽろこぼしながら、事情を語ると、その瞬間、
「ばか野郎」
と、鉄太郎の怒号が飛んだ。
「そんな時に勝ち負けなどを考える奴があるか。あたら千載一遇の好機を逸してしまったな。なぜ無二無三にぶつかってゆかなかったのだ。たとえ真二つに斬られても親への申し訳はたつ。だらしのない奴め。今日限り仇討ちなど諦めろ。それができなければ、おれの家から出てゆけ!」
鉄太郎は、これを機会に、仇討ちは忘れさせようと思って言ったことだったが、若い六郎にその気持は通じなかったらしい。六郎はその夜、山岡邸から姿を消した。
六郎はその後も、三田の屋敷から丸の内の上等裁判所に出勤する山本を狙ったが、山本の方も用心しているらしく、容易にチャンスがない。
明治十三年も暮れようとしていた。
十二月の十七日、日曜日のため、山本の出勤はないとみて、六郎は三十間堀の旧秋月藩主の邸に、久しぶりに挨拶に参上した。
旧主に目通りした後、家令の鵜沢|不見人《ふみんど》の屋敷に立寄って鵜沢に会い、二人の相客共々|四方山《よもやま》の雑談をしていると、羽織袴の立派な身装《みなり》の男が、上ってきた。
ふっと振りかえって見た六郎が、
――あっ、山本、
と、思わず顔色を変え、懐中の短刀を上から押える。
山本は六郎の顔は知らなかったが、その異常な表情に早くも、
――かねておれをつけ狙っていると言う臼井の伜《せがれ》だな、
と気がついた。
――帰りが危い、
と考えたらしい。いつもは護衛の壮士二人を連れているのだが、今日はあいにく、独りでやってきた。
――これは拙い、二人を呼びにやろう、
と、さりげなく座を立ち、玄関の方に行って、近くの自分の家に使いを出してくれるように頼み込む。
山本が座を立ったのを見ると、六郎は便所にいくようなふりをして、後をついていったが、廊下の前の淡墨で虎を描いた衝立《ついたて》の背後にかくれ、短刀を握りしめた。
玄関から廊下を通って二階へいこうとする山本を、一、二歩やり過ごしてから、六郎は、
「山本克己、待てッ」
と、声をかけた。
あっと振り返った山本に、
「臼井六郎だ。父母の仇、覚悟!」
と叫びつつ、短刀を引き抜く。
山本は愕いて、二階に逃れようと階段を三段ばかり駆け上ったが、六郎は追いすがり、腰を抱くようにして引きずり下ろし、襟髪をとって山本のからだを反《そ》らせ、その胸許に刃先を深くつき刺した。
ばったり倒れた山本の喉に止めの一刀を剌すと、六郎はそのまま鵜沢邸を飛び出し、土橋分署に自訴した。
十四年九月二十二日、改定律二百三十二条により、謀殺と判定。但し、士族たるにつき、改正国法律に照らし、禁獄終身申しつけると言う宣告を受けた。
だが、実際に刑に服したのは九年、特赦を受けて二十二年十二月六日出獄した。
逮捕から入獄中にかけて、色々と心をくばってくれた鉄太郎は、この時すでに故人になっていた。
六郎は更に母の仇、萩谷伝之進を狙った。
が、この男は、自滅した。
萩谷は、旧友山本が六郎の為に討たれたと知った時から、恐怖症に襲われ、夜中に突然飛び起きて、六郎が来る六郎が来るなどと叫んだりしていたが、六郎出獄の報らせに、完全に狂ったらしい。二十四年九月、物置にあった灰の中に顔を突込んで、絶息してしまった。
山岡邸に出入りした変り者の一人は、名人と言われた三遊亭円朝である。
幕末、二十歳台ですでに流行児となっていたが、人気に悪乗りせず、ひたすら芸道に新しい工夫をこらした。
三十の半ば頃から自分の得意とした「鳴物入りの芝居|噺《ばなし》」をやめ、扇子一本による素噺《すばなし》に転向し、余人の追随を許さぬ芸域に達した。
その円朝が山岡邸に出入りするようになったのは、円朝をひいきにしていた高橋泥舟の紹介による。
明治十一年、四十歳になった円朝は、「塩原多助一代記」などの新形式の講釈によって、人気絶頂にあった。
ある日、山岡邸に来ると、珍しく女子供が沢山集っている。山岡邸の親戚一同の家族会でもやっていたのだろう。
「今日はまた珍しいお集りで」
いつもと違う状景に少々とまどいながら円朝が挨拶する。
鉄太郎はにこにこ笑いながら言った。
「これは師匠、よい処に来てくれた。どうだ、ここで一席、講釈をやってくれんか」
「へえ、そりゃ悦んで一席伺わせて頂きますが、何をやりましょう」
と、愛想よく受け答えをすると、鉄太郎が、突拍子もないことを言い出した。
「そうだな、子供が多いから、桃太郎でもやって貰おうか」
天下の名人に向って、桃太郎話をしろとは少からず人をばかにした話だ。それにお伽噺《とぎばなし》など高座でやったこともない。
普通の男なら、むっとするか、冗談にして断ってしまうところだが、円朝は軽く、
「へえ、よろしゅうございます」
と、そこは商売、面白おかしく桃太郎の話をやってのけた。子供たちは大悦びだったが、鉄太郎は、一向感心した様子もない。
「先生、如何でございましたか、何しろこんな話は初めてで」
――それでもちゃんとやってのけたでしょう、
と言いたげに鉄太郎の顔を見上げると、鉄太郎はいつになく冷い語調で一蹴した。
「お前の噺は舌の先だけで話しているので、肝心の桃太郎はまるで生きていない。木偶《でく》人形みたいだ」
――さようでございますか、
と一応引込んだものの、円朝は口惜しくて堪らなかった。
――先生は剣や書や禅の途では名人だろうが、噺家《はなしか》じゃねえ、噺の上手下手が分ってたまるものか、
と、自分を説き伏せてみたが、どうにも心にひっかかる。
――おれの話した桃太郎が生きてねえとしたら、他の人物もみんな同じじゃねえのかな、いや、そんな筈はねえ。みんな涙を流して感心してくれている。素人の先生の批評など、気にすることはねえ。
自分の芸に充分の自信を持っていただけに、鉄太郎の批評がいまいましくてならず、色々反撥してみるのだが、心の中の妙な不安が段々大きくなってくる。
時には高座でしゃべっている最中に、ふっと、これでいいのかな――と言う不安が湧いてきて、収拾し難くなることさえあった。
とうとう耐えきれなくなり、鉄太郎の処にやってきて、訴えた。
「先生はこの間、あっしの噺は舌で話すから、人間が生きていないと言われましたが、あれはどう言うことでございますか。色々考えてみましたが、よく分りません」
「そうか、遠慮なく言わして貰うぞ」
「どうぞ、御存分にやっつけて下さい」
「芸人が世間の喝采に自惚れてしまってはだめだ。一応の喝采なら舌の先の小器用さでいつでも満喫できる。真の芸人は自分の芸を自分の舌にではなく、自分の心に問うて修業すべきだろう。役者が身を無くし、剣術使いが剣を無くし、噺家が舌を無くした時に、本当の名人になれるのだ。剣を使うものが、どんなに剣を使いこなしても、剣道の妙域に達することはできない。剣を忘れた時に初めて、真の剣が活きる」
さすがは名人と言われた円朝、この鉄太郎の言葉が、鋭い刃のように心に突き刺さるのを感じた。
「分りました。先生、でも、舌ばかり動かして生きてきた私が舌を無くするにはどうしたらよいでしょう」
「禅でもやってみるのだな」
「はい、やってみます。先生、教えて下さい」
「本当にやる気か」
「はい」
「よし、じゃ、今から教えてやる」
「いや先生、それは、家の方の都合もありますから、改めて」
「ばかッ、何を言う。やるとなったら何もかも棄ててかからにゃだめだ」
「でも、先生、色々と――」
「都合もへちまもあるか、死んだと思や、どんな都合でもつく。今すぐとりかかれ」
無理やりに二階の一室に連れ込まれ、周りを屏風《びようぶ》で囲まれてしまった。
「よいか、坐禅はこうして組むのだ。そして無念無想になる」
と、一応、形だけ教えると、用便の他は一歩も屏風の外に出ることを禁じ、食事も女中が下から運んでくるだけと決めてしまう。
そして、鉄太郎も、手がすくとすぐにやってきて、円朝の横に坐っている。
――ええい、どうにでもしやがれ、
円朝も観念して、目を閉じた。
円朝の家では師匠が帰ってこないので、
――何か不調法でも致しましたか、どうかお許し下さいまし、
と詫《あや》まってくるし、寄席からも休演は困ると泣きついてくる。
鉄太郎はそれら一切の嘆願をはねつけた。
――師匠は修行中だ、邪魔になるからさっさと帰れ、
と、怖い顔で睨みつけて追い返した。
円朝は、はじめはどうやら自棄《やけ》っぱちのような気になって坐禅を組んでいたが、次第に真剣になり、雑念を一切忘却し、捨て身になって「無」と対峙《たいじ》する。
それは、慌しい生活を送ってきた芸人の身として、生れて初めて、自分の心と真向からとり組む時間であったと言ってよい。
一週間が過ぎた。
鉄太郎が屏風の中にはいったり、出ていったりする度に、少し身じろぎしたり、薄目を開いたりしていた円朝が、微動だにしないようになった。
――もうよかろう。
鉄太郎は、屏風をとりのけさせた。
「師匠、ひとまず、これでよし」
「ヘえ、もういいのですか」
「入門を認めると言うのだ。禅はこれから死ぬまでやれ」
「はい」
「子供たちを呼んでおいた。飯を喰ってから、桃太郎を一席、聞かせてやってくれ」
円朝は、子供たちの前で、もう一度、桃太郎話をやった。
今度は子供たちは勿論のこと、鉄太郎も声を立てて興じた。
「師匠、よくやった。今日の桃太郎は、心身ともに勇躍、正しく生身の人間だったよ」
「はい、先生、私にも分りました。有難うございます。今後も禅を教えて下さいまし」
「いやそれには、おれよりも、よい師を紹介してやる」
と、滴水和尚に紹介してやった。
滴水は京都天龍寺の住職だが、しばしば上京し、湯島の麟祥院に滞在する。鉄太郎もその時は必ずその許に馳せ参じていたのである。
円朝のその後の芸は至妙の境に達した。
円朝の墓碑に刻まれた、
――三遊亭円朝無舌居士
と言う居士号は、鉄太郎が滴水和尚と相談して生前に与えておいたものである。
鉄太郎は、これと見込んだ男にしか禅をすすめなかったが、自分自身は若い頃から事情の許す限り、一日の休みもなく坐禅を組んでいる。
宮中に勤めるようになってからも、宮内省が一と六の日が休日なので、五と十の日の晩飯を済ますと、すぐに握り飯を腰につけて、三島の龍沢寺に向った。
大部分は健脚にものを言わせて怖るべきスピードで歩いたが、馬に乗った事もあった。
龍沢寺の星定和尚について参禅する。
そして夜をついて、東京に戻る。
これが三年つづいた時、星定和尚が、
――よかろう、
と言った。
鉄太郎は、一向によいと思わない。
――和尚は、よしと言ったが、どこがよいのか、いつもと同じではないか。
不満顔で、龍沢寺を出て箱根路を歩いていると、暁方になった。
ふとふりむくと、山々の上に富士の山巓《さんてん》が、旭日を受けて、燦然《さんぜん》と光っている。
――おお、
と思った瞬間、豁然《かつぜん》として胸が拡がる思いがした。
――なるほど、これか。
鉄太郎は悦びの余り、踵《きびす》をめぐらせて龍沢寺に戻ってゆくと、星定和尚が、
――必ず戻ってくると思うて待っていた、
と、嬉しそうに微笑した。
――晴れてよし、曇りでもよし富士の山、もとの姿は変らざりけり、
と言う悟りの歌は、鉄太郎のこの時の心境を詠んだものである。
むろん、これで終局的な悟りが開けた訳ではない。
引きつづき、円覚寺の洪川和尚、相国寺の独園和尚、天龍寺の滴水和尚について、修行をつづけた。
滴水和尚は、その指導のきびしいことで知られていた。
鉄太郎は、何度も引っぱたかれ、蹴飛ばされた。
門弟たちの中には、
――何だ、あのくそ坊主、先生にあんな無礼なことをしやがって、
と、憤慨し、滴水をぶん殴ろうとした者もあったが、鉄太郎に一喝された。
――おれは滴水和尚の嗔拳《しんけん》で、厳師の有難いことが身に沁《し》みて分った、
と、後に述懐している。
滴水の方も、鉄太郎に対するときは、決して師が弟子を教えるなどと言う生やさしい気持ではなかったらしい。
――鉄舟のような者はまたとない。わしは鉄舟に接した時は、一回一回が命がけだった。わし自身、鉄舟によって大いに磨かれた。鉄舟は或意味でわしの師だ、
と、滴水の方で述べている。
師と弟子が、互いに相与え、相教えられる理想的な関係にあったものと言ってよい。
鉄太郎が、滴水に、
――自分は、剣法と禅理とを合せ、両者一致する境地に達したい、
と希望を述べると、滴水は、
「それは良い考えだ。しかし、わしからあんたを見ると、あんたの現在は、恰《あたか》も眼鏡をかけて物を視ているようなものじゃ。眼鏡は透明で、別に視力を遮ることはないが、元来肉眼に障りのない人には眼鏡など必要ない。あんなものは用いない方が自然なのだ。あんたが今、その余計な眼鏡をとり去ることができれば、豁然として悟りが開け、剣禅一致、活殺自在、神通遊化《じんずうゆけ》の境に達するじゃろう、要はただ、無の一字じゃな」
と言い、鉄舟に一つの公案を与えた。
――両刃鋒を交えて避くべからず、好手かえって火裏の蓮に同じ、宛然おのずから衝天の気あり、
と言うのが、その公案である。
鉄太郎はこれを白布に書いて、日夜、考えつづけること数年。
どうしても公案が解けない。
明治十三年の三月二十五日、横浜の平沼専蔵がひょっこり現れた。
この男、株式売買、米の買占め、土地の売買などで、今や横浜における巨商の一人になっている。
鉄太郎は、金に困ると、しばしばこの専蔵に借りたが、この前日、鉄太郎と専蔵の関係をよく知らない番頭が、一般の債務者と同じに考えて、自分の一存で鉄太郎の借金の取立てに来た。
鉄太郎は、
――金はない、改めて借用証を書いてやろう、
と、唐紙《とうし》いっぱいに筆太の借用証を書いて、落款を押して番頭に渡してやった。
番頭がぶつぶつ言いながら、その唐紙を持って横浜に戻り、主人に見せると、専蔵はびっくりし、早速、飛んで来たのである。
「先生、私の知らぬ間に、番頭が飛んでもない失礼なことを致しまして申訳ございません、あのお金はお返し頂かなくても結構でございます」
と、恐縮して言う。
「そうはいかん、借りたものは返す。ただ、今はないから待ってくれ」
「いえ、先生、私は商人、ただで借金棒引をしようとは考えておりません。先生の書いて下さったあの唐紙の借用証、あれを私に頂きとうございます。僅かな借金を返して頂くよりその方が得ですから」
半ば冗談、半ば本音だろう。
「それでよければ、そうしてくれ」
専蔵は久振りだったので、かなり長い間、腰を据えて、しゃべっていった。
「先生、世の中は妙なものですな、全く不思議なものです。私の若い頃、金が四、五百円ばかり出来たので商品を仕入れたところ、物価が下落気味だと言う噂なので、何とか早く売り払わなきゃと焦っていると、足許をみて仲間が無茶苦茶に叩こうとする、そうなるとこっちは益々どぎまぎして心が落着かず、本当の世間の相場も分らなくなっちまって、どうしていいか迷うばかり。そこで、ええどうでもなれと諦めて放っておいたら、しばらくして仲間の者が来て、原価より一割高く買うと言うのです。そうなるとこっちが強気になって一割の利益じゃ売らぬと言ってやると、妙なことに一割五分と言ってくる。そこで売ればよかったのに欲が出て、もっと高く売ってやろうと思っている中に又相場が下って、結局二割以上の損をして売りました。そこで私は初めて商法の気合と言うものを悟ったのです」
「どう悟ったのだ?」
「大きな商売をしようと思うなら、勝敗損得にびくびくしていちゃだめだと言う事です。必ず勝とうと思うと、胸がどきつくし、又、損をするのじゃないかと思うと、身が縮むように思われます。そこでこんな事を心配をするようじゃ、とても大事業は出来ぬと悟り、それから後は何事を企てるにも、自分の心が落着いてはっきりしている時、こうするのだと確かりと極めておき、仕事を始めたら、損得に執着せず、ぐんぐんやっていくことにしました。それから後は損得に拘らず大きな商売ができ、本当の一人前の商人になれたように思います」
専蔵は夜に入ってから帰っていったが、鉄太郎は、専蔵の話にひどく感心した。
どうやら、滴水から与えられた公案の語句と照合するような気さえしてくる。
それから五日の間、鉄太郎は、毎晩、専蔵の言う商法の気合と、剣の気合とについて考えつづけた。公案を解くよすがが掴めそうな気もするが、全く関係はないような気もする。
もともと、鉄太郎が滴水の公案を解きたいのは、剣の上の悩みを解決したいからだ。
鉄太郎にあっては、すべて剣につながる。
すでに若年の頃から、
――鬼鉄
として怖れられた腕をもち、その後も剣の上の工夫修練は怠ったことがない。宮仕えをするようになってからも、家に在る時は必ず道場に出て木刀を握った。
名人の域に達したと言ってよい。
にも拘らず、満足しなかった。
どうしても勝てない対手がいるのである。
中西派一刀流第十二代の浅利又七郎義明。
第十代中西子正の次男だが、第十一代浅利義信の養子となった剣の名手である。
――浅利は、内剛外柔、精神を呼吸に凝らし、勝機を未然に知る真の達人、
と言われた。
鉄太郎はこの浅利と何度も立合ったが、どうしても勝てない。
毎日の稽古の後、独りになって木刀を握り、浅利と闘って勝利を得る工夫を思念したが、その度に浅利の幻影が眼前に現れ、山のような圧迫感を以て動かない。
――とても、だめだ、
と、諦めて、大きな吐息をするばかりだ。
夜、床にはいってからも、剣を握って浅利に対して立つ自分を脳裏に思い浮べてみるのだが、やはり、浅利の幻が剣前につき立って、抵抗し難い力で圧してくる。
それはもはや、剣と剣との争いではなく、精神と精神との、尽きることなき苛烈な闘いであった。
――何とかしてあの剣を破らねば、今迄の修業の甲斐がない。何故、何故、自分は浅利に立向うと、先ず気力で圧倒されてしまうのか、
鉄太郎は苦しみ悩んだ。
少年の頃、九歳にして剣の道に志して、真影流久須美閑適斎に学び、その後、高山で北辰一刀流井上八郎清虎にきびしい訓練を受けた。江戸に戻ってからは同じ北辰一刀流の宗家千葉栄次郎の門に学び、鬼と怖れられた。
少年の頃は、ただ敵を打とうとして、遮二無二、必死になって打込むばかりだったが、十八、九の頃になると、剣も体も自由に動き、敵に向えば勝つと信じた。
ところが、二十歳を過ぎた頃から敵の太刀先が気にかかるようになり、自由の動きが出来ずに、打たれるようになった。工夫をこらせばこらすほど、自由に動けない。
腕が落ちたのではない。業が進むにつれ、迷いが生じたのだ。
その後、ようやくその境地から脱け出し、二十七、八歳の頃には、業に心を置かず、不動心を養うことによって格段の進境をみせた。相手の上手下手、手の中がはっきり見えるようになり、試合をすれば必ず勝ち、鬼と怖れられたのである。
剣名は江戸中に高くなったが、自分ではまだまだ満足できぬものがあり、禅に没入して剣禅一致の妙境に達しようと努めた。
たまたま、一刀流の達人浅利又七郎と立合うことになったのは、この頃である。
一たび立合って敗れ、二たび闘って敗れ、三たび刀を交えて敗れた。
浅利に乞うてその門に入り、必死の修業をつづけたが、どうしても勝てない。
維新の後、文明開化の風潮に押されて、剣の道は大いにすたり、日常、剣の修業をするものは日々に減っていったが、鉄太郎の剣に対する熱情は少しも衰えなかった。
鉄太郎にとって、剣の修業は、単なる剣技練達が目的ではなく、人間完成そのものを意味したからである。
専蔵に会ってから五日目の三月三十日払暁、鉄太郎は、寝床の中で眼を醒ました。
このような時は、いつも剣の工夫思案をする。鉄太郎ほどになると、道場に立って木刀を握らなくても、剣の工夫はできるのだ。
その朝は、眼が醒めた時、いつになく爽快な気分であった。
例によって、脳裏の自分が、剣をとって立つ貌《かたち》をとる。
――お、
鉄太郎は、思わず、声を発した。
いつも必ず自分の剣の前に現れて、無限の力で圧迫してくるあの執拗な浅利又七郎の幻影が、どうしたことか、その朝に限って、全然現れなかったのだ。
鉄太郎は飛び起きた。
道場に入って、木刀を握って立った。
まだ薄暗い道場の中は、空々寂々。
立つは己れの一身、一剣のみ、浅利の姿は全くない。
四肢は自由に伸び、気は四方に拡がって、開豁無限である。
ついに、浅利の幻影を追い払ったのだ。
唯一の強敵を克服し、
――無敵の極所
を感得したのである。
未だかつて知り得なかった新しい境地に充分達したことを、はっきりと自覚した。
心得、口伝《くでん》、口訣《くけつ》、秘伝――と言ったものにまつわる一切の疑念は、泡雪の如く融け去ってしまっている。
対手を強いとか弱いとか、上手とか下手とか思うたのは、まだまだ至らぬ己れの思慮の所産である。我があるからこそ敵がある。我が無ければ敵もない。一心凝念してその彼我共に無の境地に立てば、天下に敵なしと悟入したのだ。
座敷に入って、筆をとり、偈《げ》を記した。
――剣を学び心を労すること数十年、機に臨み変に応じて守り愈《いよい》よ固し、一朝塁壁、皆|摧破《さいは》す。露影|湛如《たんじよ》として還《また》全きを覚ゆ
鉄太郎は、母屋に泊っていた門弟の籠手田《こてだ》安定を呼び起した。
籠手田は旧平戸藩士、心形刀流を学んで皆伝を受けたが、明治七年滋賀県大津で判事をしている頃、鉄太郎と試合をして、到底敵しないことを知って、その門に入った。
滋賀県令にまでなったが、官を退くと山岡邸にしばしば寝泊りして、修業を続けていたものである。
「籠手田君、立合ってくれ」
と言われた籠手田は、師の珍しい要求を訝《いぶか》りながらも、早朝直接の指導を受けられると悦んで支度して道場に出た。
だが、道場の中程に、木刀を構えて鉄太郎に立ち向った籠手田は、いきなり膝をついて、頭を下げた。
「どうした、籠手田君」
「先生、だめです。お許し下さい」
「何を言う、立合い給え」
「だめです。先生とは何十回立合ったか分りませんが、今日のような不思議な刀勢ははじめてです。とても先生の前に立っていられません。一体どうしたことでしょう」
鉄太郎は、会心の笑みを洩らした。
直《じき》に使を、浅利又七郎の許に出し、
――いささか悟る処あり、久しぶりに一手御指導頂きたく、本日参上致して可なりや、
と、都合を問い合せてやった。
使は間もなく帰ってきたが、その使と共に浅利又七郎本人がやってきた。
「浅利先生――私の方からお伺いしたくて御都合を伺ったのです」
「いやいや、こちらは暇人、やってきましたよ」
鉄太郎は浅利に対して門下としての礼を以て接しているのだが浅利は鉄太郎の書面を見ると同時に、
――ついに、抜かれたか、
と悟ったのであろう。自分から出向いてきたのである。
「山岡さん、では、一《ひと》手合せを試みますかな」
「お願い致します」
二人は木刀をとって、道場に立つ。
互に位をとって、呼吸を計る。
鉄太郎の巨眼は、らんらんと輝いていた。
いつも必ず感じていた浅利の圧迫感は、全く払拭されて、影もとどめない。
裂帛《れつぱく》の一声、鉄太郎の木刀が浅利の面上に飛んだ刹那、浅利がぱっと後方に退がり、木刀を背に廻した。
「参った」
浅利は、額に汗を浮べていた。
「よくぞ、この妙理を体得された。もはや、私の及ぶところではない」
浅利はその日の中に、鉄太郎を招いて、一刀流相伝の極意の伝書を悉く与えた。
鉄太郎は一刀流十三代の正統を継ぐことになった訳である。
剣に志して三十七年、浅利の幻影に悩まされること十数年、ようやくにして、剣の至妙の境地に達し得たのだ。
浅利の一刀流は中西派である。
鉄太郎はその後、小野派一刀流の第九代小野治郎右衛門|業雄《なりお》が落魄して江戸川辺に住んでいるのを探し出し、その組太刀の型をとり入れ、更に自分の工夫を加えて、三重、五十本、切落、合刃、張小太刀、刃引、小撓《ことう》、払捨刀、正五点の組太刀を組織して、これを門人に伝えた。
業雄は小野派一刀流伝来の瓶割刀と伝書とを、鉄太郎に与えている。
一刀流の両派は、鉄太郎において一に帰したと言ってよい。
鉄太郎は自分の新境地に立つ剣法を、無刀流と名づけたが、それが一刀流の最も正統を開展したものだと信じていたことは、
――一刀正伝無刀流
と称していたことで明らかであろう。
無刀流の真髄について、鉄太郎自ら「無刀流剣術大意」に次の如く記した。
[#ここから1字下げ]
一、無刀流の剣術は、勝負は争わず、心を澄まし、胆を練り、自然の勝を得るを要す。
一、事理の二つを修業するにあり、事は技なり、理は心なり、事理一致の場に至る、これを妙処となす。
一、無刀とは何ぞや、心の外に刀なきなり、敵と相対する時、刀に依らずして、心を以て心を打つ、これを無刀と言う、その修業は、刻苦工夫すれば、譬《たと》えば水を飲んで冷暖自知するがごとく、他の手を借らずして自ら発明すべし。
[#ここで字下げ終わり]
明治十三年三月三十日は、鉄太郎が剣の上で悟入した記念すべき日であるばかりでなく、禅の途においても、悟りを開いて滴水和尚に印可を受けた日である。
この日、鉄太郎は、滴水が上京して江川鉄心の処にいることを知っていたので、鉄心の家に赴いて滴水に会い、かねての公案に対する見解を呈したところ、和尚は直ちに印可を与えた。
剣禅一致の妙境においてこれは、当然のことであったろう。
明治十四年、宮内省に勲功調査局が設けられ、維新以来の功臣に対して、それぞれ功績調査が行われた。
通達を受けた人々は、銘々、自分の功績を大したもののように書き立て、細大洩らさず申告する。
「山岡さんのが、まだ出ていないな」
係の森村と言うのが、気がついた。同じ宮内省のこととて、鉄太郎をよく知っていたのである。
「早くして貰わぬと、整理上困るね」
上司の菅原が言った。
「明日にでも、山岡さんに、御前退出後ちょっと立寄って頂くことにしよう」
鉄太郎が、その翌日、勲功調査局に顔を出した。
「山岡先生、御通知を差上げた筈ですが、どうして功績履歴書を御提出下さらないのですか」
菅原が訊ねた。
「履歴書を出すとどうなるのだ」
「提出された書類をもとに調査した上、勲章を賜わることになるでしょう」
「私は勲章などいらんから、履歴書など出す必要はないだろう」
「そうはゆきません。当局としては、功績のあった方はすべて調査せねばならないのです」
「ふうむ、それで、皆さん、提出されたのかな」
「はい、この通りです」
山の様に積まれた書類を指した菅原が、
「あ、そうだ、勝先生の提出されたのがありましたっけ。森村君、あれはどこにある」
「これです。私も、つい先刻読みました」
森村が持ってきた書類を、菅原は鉄太郎に差出した。
「勝先生のものです。御参考までにちょっと御覧になりませんか、こんな風に書いて下さればよいのですが」
勝の書いたもの――と言うので、鉄太郎も多少の興味をもった。
ざっと目を通してみると、例の江戸無血開城に関する部分が主眼になっている。それは当然なのだが、その内容が少しおかしい。
――危機一髪の際、自分の西郷に対する手紙一本で江戸城総攻撃は中止となった。ついで三月十四日、高輪の薩州藩邸で、自分と西郷ただ二人、膝を交えて談判した結果、慶喜恭順の趣旨が貫徹され、談笑の間に無血開城の大問題が解決されたのである、
となっている。
あの際における鉄太郎の活動は、全く黙殺されてしまっていた。大久保一翁の蔭の働きについても一言も触れられてない。
さすがの鉄太郎も、
――これは、勝先生、少々手前味噌が多すぎるな、
と思ったが、これは違う、真相はこうだと言えば、勝の面目をふみつぶすことになる。
「どうです。勝先生は万丈の気焔をあげておられますが、事実、こんなところだったのでしょうか」
菅原が、いささか勝の毒気にあてられたような顔付きで言った。
「そうだ、この通りだよ」
鉄太郎は、軽く言い捨てる。
「しかし、山岡先生、私の聞いたところでは、あの開城談判の時は、先生が駿府大総督府に使されて、大活躍をされたとか――」
森村が反問した。
「いやいや、私などは、ほんの走り使いに少々動いただけだ。人に言えるほどのことはしていない」
「先生はそう思われても、当局としては別の判断をするかも知れません。やはり一応、履歴を申告して下さい」
「勘弁してくれ。私はこの頃、年のせいか物忘れがひどくなって、昔のことなど、すっかり忘れてしまったよ」
「それでは、当方で調査しただけのことで手続きをしてしまいますが、それで差支えありませんか」
「ああ、結構、いいようにしてくれ」
鉄太郎はそのまま帰っていったが、菅原はこの旨を、賞勲局総裁を兼ねていた三条実美に報告した。
三条が、何かのついでに右大臣岩倉具視に話す。
「それはおかしいですな」
岩倉が首をひねった。
岩倉は鉄太郎をよく知っており、その風格をひそかに嘆称していたし、江戸開城の際の鉄太郎の活動についても、耳に入れていた。
その一方、勝に対しては余り好感を持っていない。
勝が氷川町の邸に、責任のない退隠生活を送りながら、政府に対して嘲罵を加え、維新回天の大事業を自分一人でやってのけたかのように吹きまくっていることは、多くの人々に不快の念を与えていたが、岩倉もそれを苦々しいことに思っている。
岩倉は、鉄太郎を呼んだ。
――勲功調査局で、こう言うことがあったそうだが、
と質ねる。
「はあ、そんなことでした」
「しかし、山岡さん、私はあんたのやったことをよく聞いて知っている。江戸の無血開城は、勝一人の仕事じゃない。西郷はむしろ、あんたの真情に打たれて、私や木戸の慶喜処罰論に反対し、宥免を主張したのだ。勝が表面上の仕事をやったとしても、蔭の仕事は、あんたがやったのではないか」
「いや、蔭の仕事は、蔭にそのままおいておけばよいことです」
岩倉は、じっと鉄太郎を見詰めていたが、急に、妙に優しい口調になった。
「山岡さん、あんたの気持はよく分る。勝の顔を立て、勝に功を譲ろうとしている」
「いや、そのような――」
「山岡さん、あんたの気持はまことにすがすがしい立派なものだと思う。だが、私はまた別な考え方があり得ると思うがな」
「右大臣、それはどう言う事でしょうか」
「われわれは、われわれの時代の歴史の真実を後世に伝える責任があるのではないかな。後の人がそれをどのように判断するかは別として、少くも事実はありのままに伝えねばならん。個人の気持如何によって、実際にあったことが全く歴史から抹殺されてしまったり、事実と違った風に伝えられたとしたら、それは後の史家を謬《あやま》らせる罪を犯すことになりはしまいかな」
鉄太郎は、岩倉の言葉を正しいと感じた。反対もできずに黙って頭を垂れていると、
「山岡さん、あんたが気がすすまんと言うなら、勲功調査局の方には何も出さんでもよい。少くもこの私に、当時の事実を、そのまま記したものを差出して貰えぬか。むろん、それを直ちに公表して、あんたの床《ゆか》しい気持を傷つけるようなことはしない。ただ歴史の真実を知り、それを残しておきたいのです」
「分りました。早速、御指示に従います」
鉄太郎は、家に戻ると、達筆を揮って一文を草した。これが有名な、
――慶応戊辰三月駿府大総督府に於て西郷隆盛氏と談判筆記
である。今日、江戸開城に関する裏話の詳細を知ることができるのは、全くこの一文のお蔭であると言ってよい。
鉄太郎はこの件について誰にも洩らさなかったが、勲功調査局の方から、いつとはなしに外部に流れていったらしい。
鉄太郎の門弟たちがそれを耳にして、大いに憤慨した。中でも、気の短い松岡万などは、眦《まなじり》を決して怒った。
「勝の奴、怪しからん、何もかも自分一人でやったような事を言って、山岡先生の功績を横取りしやがったのだ。あの恥知らずめ、このままでは済まさん」
「そうだ、あいつの小悧巧ぶりは、ふだんから癪にさわっていた。一度はっきり思い知らせてやろう」
勝に反感を持っている者は多い。よりより集って、勝邸に押しかけようと言う相談をする。
小耳に挟んだ英子が、愕いてそっと鉄太郎に耳打ちした。
鉄太郎は、松岡を呼びつけると、
「ばか野郎」
と、先ず腸《はらわた》に沁み込むような一喝を浴せ、
「お前たちは永年おれとつき合っていながら、まだおれの気持が分らんのか。今、お前たちがばかな真似をしたら、おれが勝先生と功名争いでもしているように見られるではないか。おれは功名・勲章などと言うものには、一切、何の関心もない。その位のことが、どうして分らんのだ。一体、何の為におれの道場で剣道を学んでいるのだ」
松岡は下を向いて、情ない面をしている。
「おれはただ剣を使うことだけを教えているつもりはない。剣を通じて、処世の心も教えているつもりだ。それが全くお前たちには通じていなかったようだな」
そこまで言われると、松岡は一言も反駁できない。
「申し訳ありません。余りに悔《くや》しかったものですから」
「私のことを思ってくれる気持はよく分る。だが、それは間違っている、分るか」
「分ります」
松岡は、すごすご引き退った。
勝に対する直接行動のプランは中止。
やがて勲功調査が終り、井上馨が勅使として宮内省から三等勲章を持ってきた。
――維新以降、朝廷に仕えて勲功浅からず、よって三等勲章を以てこれを賞す、
と言う。
「勅使に対して失礼に当るかも知れぬが、少々お伺い致したい」
鉄太郎は差し出された勲章には手もふれずに言い出した。
「私は功績履歴書も差し出してないし、勲章を頂く理由はないと思いますが、何故、かようなものを下さろうと言うのでしょうか」
「当局において、貴下の功績を浅からざるものと認定してのことです」
「私には特別の功績はありません」
「しかし、長らく宮内省に勤務し――」
岩倉からでも聞いていたのだろう。井上は江戸開城のことにふれず、宮内省での勤務についてだけ言った。
「それはおかしい。宮内省での勤務は、役目柄当然のこと、その職務に対しては過分の俸給を賜わっています。この上更に勲章など頂く理由はありません」
――こいつ、面倒な理窟をこねおる、
と思ったが、井上が急に口調を変えた。
「山岡君、勅使と言う資格はぬきにして、友人同士として話そうじゃないか」
「結構」
「維新以来、お互いに命をかけて働いた。幸いにして、国運ますます開けてゆく有難い御代になった。そこで、一先《ひとま》ず、過去に功績のあった連中を賞する意味で、勲章を与えようと言うことになったのだ。快く受け取ってくれたらどうだ」
「国家の為に尽したものを賞しようと言うのだな」
「そうだ」
「それなら、官位の有無、官等の上下、職業の如何を問わず、同じように勲章を賜わるべきであろう。一等とか三等とか言った差別はどこでつけるのだ、君は何等勲章を頂いたのか」
「おれか、おれは一等勲章を頂いた」
「どう言う功績でだ」
「これをみてくれ」
井上は、顔面の深い刀痕を指した。
「からだ中にも、無数にある」
井上は維新の際、反対党に襲われて全身に数十ケ所の傷を受け、危く死にかかったことがある。
その刀痕は、現在でも深く残っており、井上は何かと言うと、それを自慢した。
「こんな傷を受けながらも、維新回天の為に働いてきたのだ」
「少しおかしいな」
鉄太郎が、井上の話を遮った。
「何故だ」
「あんたの言うことは、あんたの一身上の艱難話だろう。あんたがどれだけ苦労したかと言うことと、どれだけ国家に功績があったかと言うことは全く別問題じゃないか」
「うむ、まあ、それはそうだが、当局は、おれの苦労が、国家にそれだけの寄与をしたと認めたから一等勲章を与えられたのだ」
「当局が認めた――と言うより、現に内閣を牛耳っている長州、薩州、肥州などのお偉方が、お手盛りで認めたのだろう」
ずばりと、鉄太郎が言ってのけた。
これは事実だ。井上もちょっと鼻白んだが、そのまま引込みはしなかった。
「それは違う。薩長関係者のみに勲章を授けたのではない。旧幕臣である勝君や榎本武揚君などにも――いや、現に、君にも授与されるのだ」
「成程、旧朝敵たる我々にまで勲章をやろうと言う広大無辺のお志は有難い。われわれが賊名を除かれたことは深く感謝している。しかし、それなら何故、西郷大将の賊名を除き、官位を復し、今日の叙勲に与《あずか》らしめないのですかな。西郷氏の維新以来の功績は一切認めぬと言うのですか」
「あれは君、まだ、叛逆の事実も生々しいことだし――」
西郷の賊名払拭の動きは、政界でも民間でも一部に出ていた。それを言い出されるとうるさいと感じた井上が、
「一体、君は何が不服で、そうぽんぽん八つ当りするのだ」
と、話を逸らそうとする。
「それは先刻申した通り、論功行賞の如きは万人を納得させるように公明正大、不偏不党でなければならぬと言うことだ。現政府に由縁《ゆかり》のある者のみを、お手盛りで優遇するようなことは公権の濫用になる。私などには勲章を下さる必要はない。功績がありながら埋もれている人、不当に低く評価されている人が無数にいる筈、そう言う人たちに与えて頂きたい。私はこの勲章は辞退する。お持ち帰り頂きたい」
いつも寡黙な方の鉄太郎が、滔々と語気鋭くやったので、気の強い方では有名な井上も、それ以上すすめる気力もなくなり、空しく勲章を宮内省に持ち帰った。
その次第を知った閣僚たちは、
――あのへそ曲りめ、放っておけ、
と言うことで済んでしまったが、収まらなかったのは鉄太郎の門下、特に例の憤慨居士の松岡万である。
松岡は直情径行、純真な熱情家である。
勝のことで鉄太郎に叱られてから、しばらくはおとなしくしていたが、今回発表された論功行賞が甚しく偏頗《へんぱ》なものであることは、誰の目にも明らかなので、強い憤懣の情を口にしていたが、鉄太郎が勲三等の勲章を返上したことを知ると、
――さすがは先生だ、勲三等などとは先生をばかにするにもほどがある、
と、鉄太郎とは全く別の次元から大いに快哉を叫んだが、
――それにしても政府のやり方は怪しからん。政府の実際上の最高責任者は岩倉具視だ。あいつがいけないのだ。自分に阿諛《あゆ》する連中ばかり優遇したに違いない。よし、岩倉に会って、あいつの本心を叩き直してやる。次第によってはあいつを刺し殺して、汚れ切った政権を覚醒させてやる。
勝を襲撃しようと考えた時と同じ単純な気持で、岩倉を襲うことにした。但し、今度は用心して誰にも話さず、唯一人、匕首《あいくち》を懐中に秘めて、岩倉邸を訪れた。
――今回の行賞について些かお伺いしたいことあり、
と称して面会を申入れる。
こうした手合は連日、何人もやってくる。
岩倉は時間さえあれば、大抵会った。彼らの話には独りよがりの偏狭な点が多かったが、時には思いもよらぬ事件の内輪話が分ったり、長年の思い違いを訂正させられたりすることもあるのだ。
応接間に入ってきた松岡の様子を一目見て、岩倉は即座に、
――ははあ、大分不満らしいな。この男、物騒な男と聞いていたが、何かやる気かな、
と、松岡の心中を見抜いた。
むろん、万一の用意に、腕の立つ壮士の三、四人はいつも隣室に待機させてある。
が、岩倉は、一先ずさあらぬ態にみせ、にこやかに微笑して松岡の挨拶を受け、茶菓を運ばせて鄭重にもてなす。
一度や二度は門前払いを喰わされるかも知れぬと覚悟していた松岡は、案外な応接に、始めから少々気勢を挫《くじ》かれた。
「で、どのような御用件かの」
と、穏かに訊ねる岩倉に、松岡は必死の面持になって、行賞叙勲の不公平を論難している中に、次第に調子が出てきて、政府の万般の施策すべてについて、平素からの鬱念をぶちまけた。
岩倉は一々、うなずいていたが、
「立派な意見だ、君のような人物が、野に遣《のこ》っていようとは知らなかった。どうだね、どこかに職を奉ずる気はないか」
と、お世辞を言う。
「いや、そんなケチな了見で右大臣閣下の許に参上したのではありません」
松岡も大きく出た。
「ただ、政治の腐敗見るに耐えず、公明の施政を願ってのことです」
「私も常にそれを望んでいる。ただ、何と言っても維新後まだ年月浅く、政府内部も色々な関係ですっきりしない。私一人がどうあがいてもどうにもならぬ状態じゃ、いずれ、君のように国家の為には一身を顧みぬ人傑が現れて、世人の覚醒、政治の浄化が齎《もた》らされるものと思う。いや、今日は久々にまことによい話を聞いた」
海千山千の政治家岩倉にとっては、松岡のような単純な男を丸め込むのは易々たるものであった。
松岡は、
――国家の為には一身を顧みぬ人傑、
と、煽てられて、良い気分になり、暗殺意図などケロリと忘れてしまった。
――岩倉公は立派な方だ。周囲がいけないのだ。岩倉公独りではどうにもならぬ、廟堂に立つ重臣連中すべてが覚醒せねばだめだ、
と考えながら家に戻った。
この頃、松岡の家は市谷の高力松の近くで、山岡邸からは近い。
床についたが、亢奮して寝られない。
色々考えている中に、
――そうだ、岩倉公はこのおれに、一身を犠牲にして世の覚醒を促し、政界の浄化に警鐘を鳴らせと、暗に示唆されたのだ、
と、思いついた。
そう思いつくと、一途の男だけに、
――よし、潔く自刃して世に訴えよう、それが国家に報いる途だ、
と、覚悟を決め、廟堂の廓清《かくせい》、賞罰の公正を望む遺書を認《したた》め、二階に上って、自ら喉を貫いた。
急所を外して、呻いているのを家人が見つけ、医師に急報すると共に、山岡邸にも人を馳せる。
医師と鉄太郎とが、同時についた。
二階の座敷は血|飛沫《しぶき》がとびちり、家人が松岡の首にとりあえず浴衣を巻きつけ、なおも脇差を採って暴れる松岡をしっかりと抑えつけている。
鉄太郎が、
「松岡!」
と声をかけると、松岡は、
「先生――松岡万――国家の為――自刃して――」
と、苦しそうな声で叫ぶ。
「ばか、何が国家の為だ、人騒がせなことをしやがって、静かにせんと蹴飛ばすぞ」
鉄太郎が松岡の顔を覗き込んで、呶鳴りつけた。途端に、それまで心気亢奮しきっていた松岡が、ぐにゃりとなって、気を喪ってしまう。
医師が創口《きずぐち》を調べると、幸いに頸動脈は傷ついていない。
命は助かりそうだった。
それから一週間後、村上政忠が松岡の家に現れた。所用で静岡に行っていたのだが、帰京して松岡の自刃未遂の件を聞いて、直ちにやってきたのだ。
松岡はまだ、包帯で首をぐるぐる巻きにされて仰向けに寝たままだ。
その松岡の枕許に坐った村上が、一言の見舞も言うではなく、いきなり、
「松岡、貴様、怪しからん奴だ」
と、罵った。
「なにッ、どこが怪しからん」
「貴様はいつも、おれとは刎頸《ふんけい》の交わり、死ぬ時は必ず一緒に死のうと言っていたではないか。おれの不在中に、勝手に自刃を企てるとは許せん、この馬鹿野郎」
「なにをッ」
松岡がはねおきて呶鳴り返す。ついに手を出して掴み合いになり、癒着しかけた創口が裂けて、包帯が真赤になった。
愕いた家人が山岡邸にかけつける。
飛んできた鉄太郎が、
「このばか者!」
と、村上の襟首をつかんで、二階から下に蹴り落とした。
このため、松岡は一ケ月も余計に療養しなければならなくなったし、村上も腰の骨を痛めて、しばらくは寝込んだと言う。
鉄太郎の勲章返上については、もう一つ余話がある。
この事件があってしばらくしてから、帝が宮内省職員慰労の意味で、八王子の御殿峠の付近で兎狩りを催された。
その帰途、新宿御宛で、一同に夕食を賜わった。
内輪の会合なので、帝もいつになくくつろいだ御様子、鉄太郎は帝のすぐ隣に陪席して、食事を頂いていた。
食事の途中で、帝が、
「山岡」
とお呼びになる。
「はあ」
「この間は、賞勲局の三条を大分困らせたらしいな」
「何のことでございましょうか」
「とぼけてもだめだ。朕は知っておる」
「畏れながら、何を――」
「ひねくれ者!」
「はっ」
「お前のようなひねくれものには、勲章はやらずに、これをやろう」
帝がひょいと右手を上げて鉄太郎の左の耳を、したたかにひねり上げた。
「痛ッ!」
鉄太郎が大袈裟に声を出すと、帝は面白そうに、哄笑された。
君臣水魚の交わり――列席の人々はやや羨《うらや》まし気にその光景を見て、微笑していた。
家に戻ってからも、鉄太郎は何度も、左の耳を押えて、
「お上はつまらないことを遊ばされる。痛くて仕様がねえ」
と、嬉しそうに呟いていたと言う。鉄太郎としては、どんな勲章よりも、この一ひねりの方が嬉しかったであろう。
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春 風 館
明治十五年六月十五日、鉄太郎は、宮内省に辞表を提出した。
前日までは、何の変りもなく、きちんと勤めていたのだ。
宮内卿徳大寺実則が愕いて、
「どうしたのだ、山岡君。いきなりこんなものを出されては困るではないか。何か不満なことがあるなら言って下さい」
と訊ねた。
「何も不満などはありません。ただ、本日を以て退官致すことは、十年前に申上げてあります」
「えっ、十年前に?」
徳大寺は、それを知らなかった。
「右大臣閣下を始め、多くの方が御存知の筈です。私は明治五年六月十五日、奉職に当り、十年経ったら退官すると言うことで、お受け致しました。昨日を以て、満十年に相成りましたから、お約束通り退官させて頂くだけのことです」
「だが、君、十年も前のことを――」
「いや、約束は守らせて貰います」
「しかし、聖上を輔翼し奉ると言う重責は、十年で終ると言うものではありませんぞ」
「宮内卿、それは違います。十年前には、畏れながら、お上もおん齢未だお若く、そのおん振舞いにも、時に則《のり》を超える傾きがありました。傍らに在ってこれを制御し奉る年長の侍臣――私如きものも必要であったでしょう。しかし、今やお上も御壮年、学徳を積まれ、御修養怠りなく、歴代天皇中にも比類なき聖天子となられました。もはや左右の日常の輔導など全く必要ありません。政治上の輔翼の任については、廟堂諸公に任ずべきところ、不肖山岡の如きは全く関わるべきものではありません。もはや、私の任務は終了、退官は当然であります」
ここまで理路整然と説かれては、已むを得ない、徳大寺も一応辞表を受けつけ、岩倉に相談する。
「あの男がそう言い出したのなら已むを得んだろう。そう言えば、たしか十年前、そんな約束を認めた覚えがある」
と言う。
已むなく、退官を認めた。
帝も鉄太郎の性格は充分に知っておられるので、強いて止めはされなかったが、
――山岡はいつでも宮中に来て朕に会えるようにしておくがよい。無官になっては、規則の上でそれが困難になろうから、何とか適当に考えるよう、
と注意される。
相談の結果、宮内省御用掛と言う名目だけの職名を与えることにした。むろん日常出仕の必要はなく、気の向いた時に宮中に参上し、非公式にいつでも陛下に拝謁できる。
――お上の特別の思召し、
と言われると、鉄太郎もこれは断ることができず、受諾した。
ともあれ、公務は終った。
いよいよかねて念願の如く、一身を剣の道に捧げることが出来るのだ。
今までは古い長屋を改造した間に合せの道場しかなかったが、改めて裏庭の方に、八間(一四・五メートル)に三間半(六・四メートル)の道場を新設し、これに、
――春風館道場
と命名した。
鎌倉円覚寺の洪川和尚と相談の上だろう。円覚寺の開山、祖元仏光の、
――電光影裏、春風を斬る
の句に拠ったものである事は言うまでもない。
春風館道場の開場式は、明治十六年十一月二十日に行われた。浅利又七郎、高橋泥舟ら、都下一流の剣客のすべてを含む百二十三名の来場者があった。
泥舟とは、むろん、鉄太郎の義兄精一のことである。静岡藩廃止と共に、浜松奉行を罷めてからは、東京に戻って貧しい退隠生活に終始した。
その人物を惜んで、政府から出仕の勧誘があったが、精一は一蹴した。もう自分などの出る幕ではないと、江戸っ子らしくさっぱり思い切っていたのであろう。
――狸にはあらぬ我身も泥の舟、こぎ出さぬがカチカチの山、
と戯《ざ》れ唄を示し、以後、泥舟と称していたのである。
鉄太郎が、いつから鉄舟と言う号を用いるようになったか正確には不明だが、書き遺された書類をみると、明治十四年までは、山岡鉄太郎|誌《しるす》とあり、十五、六年頃から鉄舟山岡高歩誌となっているものが多くなっている。ほぼ宮内省退官以後は、鉄舟の号を慣用した様に思われるから、本編においても、今後は鉄太郎ではなく鉄舟と表示することとしよう。
春風館道場における剣道教育が、どのように行われていたかについては、鉄舟門下の小倉鉄樹の談を集めた、
――山岡鉄舟正伝、おれの師匠
に詳細に語られている。この書は、春風館道場についてのみならず、鉄舟の私的生活について最もよく伝えたものと言ってよい。筆者も大いにこれを利用させて貰っている。なお、牛山栄治編著の「山岡鉄舟の一生」は、この本の改訂版である。
小倉鉄樹(旧名渡辺伊三郎)の懐古談を、少しく紹介する。
小倉は新潟県の産、軍人志望であったが、身長不足で士官学校にはいれず、二松学舎に学ぶ中、鉄舟の評判を聞き、もとより好きな剣の道で立とうと、その門を叩いた。
容易に入門を許されず、一週間、山岡邸の門前に飲まず食わず頑張り、ついに目的を達した。
その日常生活は、およそ現代では考えられぬほど、きびしいものであったらしい。
朝は四時起床、洗面後、庭を掃き、道場に雑巾をかけ、朝食前の剣道の稽古にかかる。
竹刀の音を聞くと、鉄舟はすぐに起きてきて、
――ブルブルと実に簡単に洗面し、
道場に現れて内弟子の一人一人に稽古をつけてくれる。
それが終ると朝食。
新米の小倉は稽古を早々に切り上げて飯|炊《た》きをし、朝食を用意し、師匠の給仕をする。
副食物は味噌汁に大根の葉をつけたものか、沢庵漬と決っている。
朝食後の後片付けを済ますと、また道場に出て、通いの門弟と手合せをし、その合間を見て昼食の副食物を買いに八百屋に走ったり邸内の草むしりをしたり、風呂を沸かしたりする。
来客は非常に多く、鉄舟が応対する客は朝から夕方まで絶え間がない。鉄舟は誰にでも少しも区別なくにこやかに応対した。夕食時に来合せた人には酒が出る。そのほか台所に行ってみると、いつでも見知らぬ連中が三、四人、平気なつらをして飯をくっていた。
客の帰るのは早くて夜の十二時だ。一時、二時になることも珍しくない。小倉たち内弟子には読書の時間もなく、机に倚《よ》っても、一日の過労で疲れ切っているので、すぐに眠ってしまう。
小倉はこうした生活に疑問を感じてきた。
――これでは勉強ができない。学問修業の為には広く天下を歴遊して良師を求めた方がよいのではないか、
と考え、山岡邸を逃げ出して、各地の有名な学者連中を訪ねてみたが、不思議に一向に感心しない。
鉄舟門下で京都府知事をしていた北垣筆次に会った時、その次第を話すと、北垣にひどく叱責された。
――勉学とは書物を読むばかりではない。人間修業をすることだ。お前が会った多くの学者先生に少しも感心しなかったのは、彼らが書物は多く読んでいても、人間的には下らぬ男だからだ。山岡先生とは人間の出来が違う。
そう言われてみると、成程、鉄舟の風貌、言動、その漂わしている雰囲気、どれを思い出しても、得も言われぬ魅力があった。
――あんな素晴しい先生の許を離れて、どこに良師を求め得ると思うか、
と、北垣に訓《さと》され、思い直して東京に戻ったが、照れ臭くて春風館には顔が出せない。
一ケ月位、友人の下宿に厄介になっていたが、ついに勇猛心をふるい起して、山岡邸に参上した。
珍しく客が途絶えた時だったものか、鉄舟は、広い肩を見せて静かに書物を読んでいた。その背後に、怖る怖るにじり寄って、
「先生、ただ今、戻りました」
と頭を垂れた。今にも一喝が頭上に下るかと、身のちぢむ思いである。
「帰りましたかな、何かよい事でもありましたかな」
静かな暖かい言葉が、鉄舟の口から発しられたのは、その時である。
小倉は、はっと頭をあげたが、その途端、涙がどっとあふれ出てきた。
――おれが悪かった。おれの師匠は、この人以外にはない、
と、胸を打たれたのだ。
「申訳ございません。全く私の我儘でございました。今後はどんな辛抱でも致しますから、どうぞもう一度、御膝下において頂きとうございます」
と言うと、鉄舟が、
「その覚悟が出来ているのなら、もう一度やり直してもよいが、とに角、四分板を一枚買っておいでなさい」
と言う。鉄舟は同輩や、年齢のあまり違わない門弟にはかなり乱暴な口を利いたが、年少の弟子には優しい丁寧な口調で話したらしい。
小倉は、妙なことを言われると思いながら、四分板を一枚買い求めて鉄舟の前に持っていくと、鉄舟は筆をとって、
――千日修業志願之事、渡辺伊三郎
と、墨痕あざやかに書き流し、
「これを道場の壁に打ちつけなさい。君はこれから千日の間、雑用は一切しなくてよい、剣道の稽古に専心しなさい」
と、言い渡す。
小倉は、捨身になって千日修業に入った。
三年の間、朝四時から夜八時まで、食事以外は道場にこもったきりで、百人近い人たちと立合い続けるのである。
――後輩の分際で、千日修業とは生意気な奴だ、
と、先輩連中からはこっぴどくやっつけられる。
始めは一日一日が死ぬ思いだったが、一月、二月と経つと、いつの間にか慣れて、心身共に余裕が出てきた。
そうなると小倉も若い。
剣の稽古でどんなにからだが疲れていても、床に入ってから、全身の血が女体を求めてうずくことがある。
悪友にそそのかされて、一夜、新宿の悪所に行ったのが運のつき、始めて知った女色の味が忘れられなくなり、鉄舟の寝所に入るのを待ちかねて、新宿に走るようになった。
それでも朝の四時までには道場に戻って、また稽古を始めねばならぬ。苦痛は言語に絶したが、それでも女遊びはやめられない。
ある日、鉄舟の隣室で、鉄舟の書き溜めた書に落款を押していると、学頭の中田誠実が鉄舟の部屋にはいってきて話しているのが聞こえてきた。
「先生、実は渡辺(小倉の旧姓)が近頃、新宿通いを始めて、殆ど連夜、飛び出していきます。まことに困ったもの、どう致しましょう」
中田が相談をもちかけている。
――中田さん、余計なことを、
と、小倉がハラハラして耳を澄ましていると、鉄舟が、
「はあ、新宿へ行きますか」
「はい、大切な時に女狂いが始まって」
「それで、稽古の方は? 怠けますか」
「いや、稽古は、ずっと頑張っています」
「そんならいいでしょう。遊びたいだけ、遊ばしておやりなさい」
「はあ」
「どうせ人間は、淫水の塊《かたまり》ですよ、私もずいぶん遊びました。放っておきなさい」
「はあ」
中田が呆れたような声を出して、退いていった。
――ざまみろ、
小倉は、ホッとして冷汗を拭ったが、さすがにその当座はしばらく新宿通いを慎んだ。
明治十八年十月末、千日修業を無事終了、鉄舟から青垂れの稽古道具と、十二ケ条の目録とを与えられた。
剣の修業はこれで一段落はついたのだが、女修業の方は一向に片がつかない。灯がつく頃になると心が落着かず、白い柔肌が目の前にチラつき、頭がモヤモヤしてくる。
――ええい、思い切って、色町に、女体に、どっぷり浸ってやろう、
と心を決め、新宿の「藤岡」と言う貸座敷に一ケ月分の遊興費を前納して下宿することにした。
いかにも鉄舟の門弟らしい解毒療法だったが、効果はなかった。
女郎屋に下宿してみると、遊女たちの昼間のだらしない姿に、ゲッソリする。いつでも好きなだけ抱けると思うと、女体も時には厭気がさしてくる。
一ケ月やっと我慢して、大急ぎで道場に戻ってきてホッとしたが、さて情ないことに、道場で一ケ月寝起きしていると、又しても、女体が恋しくなって、新宿通いが始まる。
「先生、私はだめな奴です」
鉄舟の前に出て、小倉が殲悔《ざんげ》した。
「女色|解脱《げだつ》と言うことは、容易に出来ることではありません」
鉄舟は、泰然として答えた。
「しかし、先生、これではどうにもなりません。私は自分で自分に愛想がつきます」
「誰でもそう言うことはあるものです。何とか心を落着ける様、禅をやってみますか」
「はい、先生」
「禅の修行も、容易なものではありませんぞ」
「必ず、やりとげます」
「ではこれから三年の間、京都の円福寺の伽山和尚について修行なさい。三年の間は絶対に戻ってきてはいけません」
明治十九年二月、京へ赴いた小倉が、二十一年鉄舟の病気を知って見舞に戻った時も、鉄舟は何故きたかと叱って、門口から追い返した。だから小倉は鉄舟の臨終に会っていない。
小倉の千日修業がきっかけになって、春風館道場には、
――誓願
と言うしきたりが出来上った。死を誓って稽古を請願すると言う意味である。
三期に分れる。
第一期の誓願を申出る者があると、道場に白木に書かれた姓名が掲示される。
誓願者は一切の雑用を免じられ、六日の間稽古を積み、いよいよ最後の日に、
――立切二百面
の試合をする。一日の間、食事の間の外は面を脱すことを許されず、立ち切りで二百面の試合をするのだ。門弟二十名を一組とし、休みなく相手をさせる。一人が十回ずつ立合う訳だ。終った時には竹刀を真直に立てたまま、道場の羽目板にもたれて、気を失ってしまう者もいたと言う。
第二期の誓願は、更に数年の修業を積んだ上、三日間に亘って、
――立切六百面
の立合いをやる。全く命掛けの修業で、これをやり遂げたのは、中条金之助、籠手田安定、香川善次郎その他数人しかいない。
第三期の誓願は、
――七日間立切千四百面
これを終了すると免許皆伝となる。これに成功した者は一人もいなかった。ただ、長谷川運八郎が、これに近い実績をあげ、死の病床で免許皆伝を許されている。
牛山栄治「春風館道場の人々」によると、戦後自由党総裁にもなった緒方竹虎は、小倉鉄樹の門弟であるが、明治三十五年夏、立切二百面の誓願者の対手をしたことがあり、その憶い出を、次のように述べている。
志願者は、加賀から来た大鋸《おおが》と言う長身の元気のよい男であった。
大鋸の前に、二十人の立合対手が並んだ。十四、五歳になっていた緒方は二十番目に並ばされた。
大鋸は手練《てだれ》者らしく、強い人のところでは汗をしぼって立合い、緒方のような弱年者のところで息を抜くと言う具合にして、二廻りまでは果敢に闘った。
だが、五十人目ぐらいになると、全く疲れ切って、体当りをすると、向う側の羽目板によりかかってしまう。引張り出して、また体当りをくれると、こっちの羽目板にもたれかかって、動けない有様。
小倉が、
――しっかりしろ、大鋸、
と叱りつけ、面をとってやると、青鼻をたらし、目を充血させて半病人の態。それでも鼻汁をかんでやって又面をかぶせ背中を叩いて立ち上らせる。
ついに六十回で失心。
井戸端につれて行って水をぶっかけ、稽古着を脱がすと全身腫れ上っていた。
――近頃の若い奴はだらしがない、
小倉がそう言って笑ったと言う。
小倉が女色脱得にさんざん苦労したのは、師匠の鉄舟に似たところがあるが、同じく春風館に出入りしていた千葉立造も、この点で苦労したらしい。
千葉は宮城県の生れ、東京に出て苦学しつつ医学専校を出て岩佐病院の代診となった。
岩佐病院長岩佐純が鉄舟のかかりつけの医師であった関係上、千葉は山岡家に始終出入し、禅の方で鉄舟の門弟となった。
鉄舟は禅の方で印可を得たが、決してむやみに人に禅をすすめてはいない。
「先生の奥様や御子様方も、きっと禅の修行をしていられるのでしょう」
と訊ねられた時、
「いや、私の妻子はその器でないから、禅はやらせておりません」
と答えている。
「しかし、禅は男女賢愚にかかわらぬものと聞いておりますが」
と、反問すると、
「その通り。しかし非常な根気と忍耐と努力とを必要とするものですから、それのできぬものにはどうしようもない。無理じいをしても何もなりません」
と、淡々と却けている。
鉄舟が禅をすすめたのは、小倉にしても、円朝にしても、千葉にしても、それだけの見込みがあったからとのことだ。
「先生、禅をやってみたいと思いますが、御教示頂けますか」
と、旧幕臣の兼常佐一郎が頼んだ時、鉄舟は、一体どう言う目的で禅をやりたいのかと反問した。
兼常が、
「私は、洒々落々《しやしやらくらく》、円転滑脱の境地を体得したいのです」
と、一応分ったようなことを言うと、鉄舟は、きびしい顔になって、
「私の禅というものは、士《さむらい》がやれば士道となり、商人がやれば商法となるものです。あなたの言うような禅なら、吉原の幇間露八にでも習ったらよいでしょう」
と、ぴしゃりとやっつけている。
千葉立造は山岡邸に始終出はいりしている中に、その風変りな性格を鉄舟に愛されるようになったが、ただこの男、少し気位が高く我執《がしゆう》が強くて人に嫌われるようなところがある。
鉄舟は、
――あれは拙いな、
と、気がついていたのだろう。某日、千葉に向って、いつもの穏やかな態度に似合わない、やや乱暴なことを言った。
「あなたは自分にとらわれ過ぎている。それでは本当に病気を看ることはできませんね。本当の医者になれぬ位なら、医師をやめてしまった方がいいでしょう」
千葉は、若い。思わずカッとした。
――いかに山岡先生でも少しひどすぎる、
と思ったが、辛うじて己れを抑えた。
「私も志を立てて医業に志したものです。何とか本当の医者になりたいと思います。それにはどうしたらよいのでしょうか」
「我執を棄てることです」
「――禅をやれとおっしゃるのですか」
「禅をやるのもいいでしょうが、その前に一つ、宇宙に双日なく、乾坤《けんこん》只一人、と言う句が何を意味するか考えてごらんなさい。この句の本当の意義は容易なことでは掴めませんよ。四六時中下腹に力を入れて、心身共に忘れるほど努力しなければ分りませんね」
千葉は、生来の負嫌いから、寝食を忘れて、この問題ととり組んだ。鉄舟に言われた通り、下腹に力を入れつづけたので、とうとう脱腸になってしまったが、晒《さらし》木綿で腹を巻いて思念をつづけた。
そうして深く禅の途に導入されるようになったのである。
この千葉が、ある時、鉄舟に言った。
「先生、本当に禅をやるには、情欲を克服しなければなりませんね」
鉄舟は大きくうなずいた。
「正しくその通り、しかし情欲と言うものは生命の根本につながるものだから、これから脱却することは至難の業だと思うが、あんたはどう言う方法でそれをやる積りです」
「私は今後一生、妻子を遠ざけ、情事を行わぬつもりです」
鉄舟は、声を立てて笑った。
「それじゃ情欲を脱却するのではない。ただ抑えるだけだ。いわゆる臭いものに蓋をすると言うだけのことでしょう。蓋をとれば、また臭くなるでしょう」
「じゃ、どうすればよいのです」
「真正面から情欲海の真只中に飛び込んでいって、その正体と闘って脱得するよりほかないでしょう」
「先生は解脱されたのですか」
「いや、いや、まだまだ」
小倉や千葉が、その生涯において、女人解脱の境地に到達し得たものかどうかは不明である。
だが、鉄舟は、その後、正しく女人脱得の境地に到達し得たらしい。明治十七年、鉄舟四十九歳の時、小倉鉄樹に対して述懐している。
――人は生死脱得と言うことを最も問題にするが、おれは維新の際弾雨の間をくぐって生死の境を経てきたので、それはさほどにむずかしいこととは思っていない。しかし、色情というやつは変なもので、おれはそいつを克服しようとして二十一の時から言語に絶する苦心をなめたが、今年四十九の春、庭前の梅花を見ている時、忽然《こつぜん》として機を忘れることしばし、ここに初めて生死の根本である色情を裁断することが出来た。色情脱得の方が、生死脱得よりもよほどむずかしかった。
これ以上の説明がないのは残念だが、忽然として悟入した場合には、それを説明することは不可能なのであろう。
ここではただ、鉄舟が女人脱得の眼を開いた明治十六、七年頃の出来事を少しくふり返ってみることにする。
鉄舟は、これより先、明治十三年、維新の際に国事に殉じた知友を弔うため、一寺の建立を思い立ち、谷中三崎町にその地を選定し、国泰寺と名づけた。
かつて鎌倉建長寺の開山道隆蘭渓大覚禅師の居住した全生庵《ぜんしようあん》の旧地である。
蘭渓は寛元年中、宋から渡来したが、台風に遭って武州に漂着し一|茅舎《ぼうしや》を築いて全生庵と称した。
庵の傍らに角谷某なる者があり、蘭渓が鎌倉に移るに当って、全生庵の扁額を貰い受けて、代々これを珍蔵してきた。
明治初年、角谷氏の末裔《まつえい》彦三郎なる者が、餅や菓子を売って生業としていたが、店頭に、その全生庵の古額を掲げていたらしい。
たまたま、その店の前を通りかかった鉄舟が、何気なくその額を見て愕いた。
筆力|雄勁《ゆうけい》にして、しかも典雅荘重。
――あれはどう言ういわれのものか、
と訊ねると、彦三郎が答えた。
「あの額がお目にとまりましたか。実は、かくかくの次第、どなたか本当にあの額の値打の分って下さる方があればと思うて、この薄汚い店には不相応なのを承知の上で、店先に掲げておいたのでございます。山岡先生のお目にとまるとは願ってもなき仕合せ、大覚禅師さまもお悦びになりましょう。どうぞお持ち帰り下さい」
鉄舟は、そんな由緒のあるものなら、適当な価格で譲って貰おうと言ったが、彦三郎は固辞し、
「お金などいりませぬ。もし望みを言えとの仰せならば、この額の代りに、山岡先生が一筆お書き下されば有難いと存じます」
と言う。
鉄舟はその乞いに応じて書を与え、全生庵の扁額を持ち帰って、書斎に掲げた。
十六年、国泰寺の隣地を買入れ、堂屋を新たにすると共に、かの全生庵の扁額を堂内に移し、普門山全生庵と名づけた。
この全生庵の墓地には、後に鉄舟を始め、その門下の石坂、松岡、村上、千葉、円朝らの墓がずらりと並ぶこととなる。
全生庵の本尊は、|葵 正《あおいのしよう》観世音《かんぜおん》像である。
これは天竺《てんじく》の毘首羯磨《びしゆかつま》の作、欽明帝の頃、我国に伝えられ、徳川氏の有に帰して江戸城内に祀《まつ》られていたが、慶安二年大塚の普門山大慈寺の本尊とされた。
維新の際、廃仏の風潮により大慈寺が廃寺となったので、鉄舟が自邸に奉迎して供養していたものである。
全生庵はこうした特別の因縁があるので、鉄舟はしばしばここを訪れ、越叟《えつそう》和尚と快談するのを愉しみとした。
明治十七年春浅い頃、鉄舟は和尚にひきとめられて、夜もふけてから帰途についた。
少しく酔っている。
月はおぼろ、風は全くない。
不忍池の西側を廻った。
広い池の水面は薄暗く、大きな蓮の葉が黒い塊のように見えた。
対岸のあたりに、灯が二つ三つ、人通りの全くない淋しい状景だった。
鉄舟は、池之端仲町の角を左に曲った。
湯島の切通しに出る道である。
と、目の前に、蝙蝠《こうもり》のように黒い影が現れた。
鉄舟は、足をとめる。
まだ物騒な頃だ。夜の途には何が起るか分らない。
が、その黒い影には何の危険もなさそうだった。
一見して、小柄な女の姿と分った。
――夜鷹か、
鉄舟は、苦笑し、再び歩きはじめた。
女が、前かがみに倒れかかるように寄ってきて、小さな声でいった。
「もし、旦那、遊んでらっしゃいな」
男の着物の袖をつかもうとした。
「よせ、もう、そんな齢ではない」
優しく、笑みを含んで、鉄舟は言う。
これはむろん口実だ。中年の男盛り、まして強健無比の体躯を持っている。若い時のような、対手構わずの滅茶苦茶な放蕩《ほうとう》は、静岡時代にすでに終止符を打っていたが、全く遊びから遠ざかってしまった訳ではない。
新橋の妓《おんな》と浮名を流したのは、つい一、二年前のことだった。
だが、もはや、夜鷹に手を出す気にはなれない。
「御冗談を。旦那、まだ、お若くていらっしゃるのに」
女は、男の横顔を見上げた。
女の背丈は、鉄舟の胸のあたりぐらいしかない。
鉄舟はこの頃、濃い口髭を生やし、もみ上げから頤《あご》にかけて、深い髯《ひげ》を蓄えている。
見るからに、いかめしい相貌だ。
優しく見えるのは、太い眉毛の下の巨きな眼に、微笑がたたえられているところだけであろう。
――これは夜鷹を買うような人体《じんてい》ではなさそうな、
と、女は気がついたらしい。
「お気に召さないでしょうねえ。こんな女なんか」
女は、軽く自嘲の笑いをうかべ、男から手を引こうとした。
その女の顔を上から見下ろした鉄舟が、
「待て」
と言った。
「あ、遊んで下さるんですか」
女が嬉し気な声を出す。
「ちょっと、こっちを向いてごらん」
鉄舟は、女の頤に手をかけ、その小さな顔を、おぼろげな月の光りの方に向けた。
む、と、低く呻《うな》った。
「おみよ」
男が、言った。
ちょうど、その瞬間、女の方でも気がついたらしい。
「あっ!」
と叫んで、いきなり、男の手をふり切って、走り出そうとした。
が、その細い肩は、男の太い手に、しっかりと掴えられていた。
「やはり、おみよか」
「鉄太郎さま――申訳ありませぬ」
この前、別れてからもう、十数年になる。
女も、もう四十の半ばに達しているだろう。化粧の下に小皺《こじわ》があった。
その余りに変り果てた顔容に、男は、始めそれとは分らなかったのだ。
女の方でも、男の異常に巨きな体躯から、
――あの人に似てる、
とは思ったが、その人だと気がついたのは、男に名を呼ばれ、男の顔から髭《くちひげ》と髯《ほおひげ》とが、さっと消し去られた刹那であった。
「お前が、こんなことを」
男の声は、暗く、哀しみを含んでいた。
「お恥かしゅうございます」
女は、文字通り消え入りそうに、両肩をすぼめた。
「いつからだね」
「去年の暮から――」
「どうして、また」
「色々と――」
「今、どこに住んでいる」
「天神下の裏手の方に」
「行ってもよいか」
女はしばらく躊躇してから、うなずいた。
湯島天神の高い崖の下に、長屋がつづいていたが、女の住んでいたのは、それを横眼に見て崖につき当ったところ、崖にへばりつくように建っている小屋である。
――どうせ、こんな商売をしているところを見られてしまったのだ、構やしない、
女も、もう居直った気持になって、男を己れの汚い小屋に連れていったのだろう。
――あの時の男は?
鉄舟は、それを聞きはしなかった。
どうせ、それから何人も男を代え、その度に棄てられるか、棄てるかして、もう、一人の男もこの女と生涯を共にしようとは思わない年頃になってしまったのだろう。
三年前に最後の男に逃げられ、四つになる女の子を何とか育てていたが、それを去年の秋に亡くした。その頃にはもう売れるものはすべて売りつくし、借りるだけは借りて、からだを売る以外に生きてゆく方法はなくなっていた。
やむなく、年甲斐もなく厚化粧をして、夜の町角で男の袖を引いた――と、女は言う。
小柄なのが、齢よりも若くみせたのか、何とか客を拾うことができたのだろう。
「よもや、あなたを――」
女は、さすがに、面を伏せた。
小さい蝋燭の光りが、今にも消えそうに、ゆらめく。
その光りの中に、俯いて、過ぎてきた生活を語る女の姿は、ひどく侘《わ》びしい。
――あの時、もう少し、この女の将来のことも考えてやればよかったな。
鉄舟は、暗然とした。
「苦労したなあ、可哀そうに」
女の話がすべて事実を語っているとは思われない。多分に修飾され、自分にとって余りに恰好の悪いところは削除されていただろうことは、容易に推測できた。
だが、鉄舟が感じたのは、ただ純粋に、
――可哀そうに、
と言う気持だけであった。
それがたとえ、女の持って生れた、あまり芳しからぬ性格の為であったとしても、やはり、可哀そうなのだ。
女が、その若い頃、殊に高山にいて、男の詩であった頃、その頃の娘と余りに甚しく変り果ててしまったことが、他の感慨のすべてを圧倒し去って、可哀そうにと思わせたのかも知れない。
「何とかしてあげよう」
「えっ」
女は、びっくりして頭を上げた。
「このままではいけない。それはお前にも分っている筈だ。今後の身の立つように考えてあげよう」
「はい」
女は、ちらっと男の顔を見上げた。
男がそのような言葉を吐く時には必ず、その瞳の底に動くものがあると経験が教えていた。
だが、この男の瞳の中には、全く、そんなものはなかった。
「明日、いや、明後日、私の屋敷に来るがよい」
男が、思いがけぬことを言う。
「あの、鉄太郎様の御宅に――」
「そうだ、四谷の――」
「噂に聞いて存じております。でも、私なんぞが、そんな――」
「構わぬ、来なさい」
「はい」
「正面の玄関から、私の古い知り合いと名乗って、堂々と訪ねて来なさい」
「はあ」
「明後日までには、お前の身のふり方を、考えておく」
鉄舟は、女にいくらかの当座の費用を与えておいて、帰っていった。
翌々日、半信半疑の思いで山岡邸を訪れたおみよは、古いながら大きな構えと、ひびいてくる竹刀の音にどぎまぎし、いくたびか帰りかけたが、とうとう思い切って、言われた通り、正面玄関から声をかけたが、足は半分逃げ足になっていた。
「承っております。どうぞ」
門弟が、鄭重に座敷に案内した。
「ああ、よく来てくれたな」
鉄舟は、にこやかに笑って座につく。
改めてこうして、昼間、座敷で対面すると、男がもう自分などとは全く別の世界の存在になっているように思われ、かつて肌を合せたことなどは夢の中の出来事のようにしか思われない。
「お言葉に甘えて、厚かましく――」
「いやいや、もし来てくれねば、こちらからいくつもりだったよ」
手を拍《たた》いて門弟を呼び、
――ここへ、
と、合図すると、六十を半ば超えたと思われる老人が導かれてきた。
「こちら、角谷彦三郎さんじゃ。角谷さん、これが昨日お話ししたおみよです」
二人が、挨拶を交わすと、
「おみよ、この角谷さんのお店で、手伝ってくれぬか。今度、お店を拡げて人手がいると言われるのでな」
餅や菓子などを売る小さな店だったが、鉄舟との因縁が知られ、全生庵の扁額が鉄舟の書と交換されたことなどが評判になって、客がふえ、店を少し拡げたのだ。
「どうだね、勤まりそうかね」
「はい、必ず、先生の御親切を無にするようなことは致しません」
女は男を、鉄太郎様とは言わずに、先生と呼んだ。本当に先生のような気がしてきていたのである。
「角谷さん、お願いしますぞ」
「先生、御安心下さい。おみよさんの事は、私がお引受けします」
角谷に対して、鉄舟は過去のすべてを打明けて、おみよの事を頼み込んでいた。
――万一、何かがあれば、自分が一切を引受ける、
鉄舟は、そう言った。
――なに、そうした女子はいくらもあります。男の妄執にとりつかれた女の一人でしょう。それも齢《とし》が解決してくれます、
訳知りの彦三郎は、即座に快諾したのである。
そしてこの後、おみよは二度と、鉄舟に迷惑をかけなかった。
だが、この事件は、鉄舟の心の奥底に、何か筆舌につくし難い奇妙な衝撃を与えたらしい。
表面的に見れば、過去の女に、一応世間的な哀れみを感じて、身の立つようにしてやったと言うだけのことである。鉄舟も、さして心を悩ますことなく、淡々と事を運んだように見える。
にも拘らず、その後、数日に亙って、鉄舟は、何度となく、何十度となく、おみよの事を頭に思い浮べた。
――女と言うものは、
頭を振った。
悲愁――と言った想いが、頭の中を掠《かす》めて去来する。
その間に、自分の心の動きに対する反省も、繰返しなされている。
池之端で、女に声をかけられた時、正直のことを言えば、フッと好色の心が動いた。
そんな齢じゃないと言ったのは、単なる口実である。
女がもう、若くないこと、そして美しいとも言えないことを咄嗟《とつさ》にみてとったので、拒んだのだ。いや、そのほかに、自分の身分を考えたことも事実である。山岡鉄舟――と言う世間的名声、地位にこだわったことも否定できない。
――何故、越叟和尚との清談の後で、女に声をかけられただけで、すぐに色欲を感じたのか、情ない話だ。三十年に近い女修業は、何の役にも立たぬものだったのか。
――しかも、世俗の権勢、名誉、地位、風評などすべてから超脱できたつもりでいた自分が、なぜ世間体などと言うものを頭に思い浮べたのか。女にまこと心を動かしたら、誰を憚《はばか》ることもない。対手が私娼《じごく》だろうと何だろうと、堂々と遊べばよいではないか。
――おみよと分ってから感じたあの奇妙な哀痛の念は、何故であろうか。あれがかつての自分の女であったからか。それとも、唯あれが女であるからか。もしあれが、若い頃知っていた零落の男であったらどうか。女に対すると同じようなあの奇妙な悲痛な情を感じたであろうか。何故、女と男とで、自分の心に与える痛みが、そんなに違うのか。
床にはいってからも、そんなことを考えつづけ、何もかも自分の修業の足りなさ、剣の上の悟入はできたが、女人超脱の域にはまだはいれないのかと、がっかりした。
いつの間にか、夜が明けていたらしい。
と言ってもまだ、外は薄闇だが、その底に微かに白い暁の光りがはいり込んできている。
やがて、道場の方で竹刀の音がした。
鉄舟は起き上がって、顔を洗い、支度をととのえて、道場に行った。
いつものように何人かに稽古をつけたが、殆ど眠っていないせいか、竹刀を握っている時に必ず感じている壮快さが伴わないようだった。
一時間ぐらいで稽古を、門人の香川と言うのに委《ゆだ》ね、外に出た。
ようやく空が白み、庭の樹々が輪廓をはっきり見せてきていた。
庭の一隅に、池があり、池畔に、七、八本の梅樹が植《うわ》っている。旧藩邸時代からのものである。
凜然――と言った姿で、紅と白の花が、朝の光りの中にあった。
白い花は清らかな気品を持っている。清楚に過ぎて、冷く思われるものもある。
紅い花は優しい美しさを持っている。中には濃艶と思われるものもある。
鉄舟は、汀《みぎわ》に立って、その咲き誇っている花を、じっと眺めた。
美しいと、素直に、思う。
よく見ていると、一つ一つの枝、一つ一つの花のすべてが、少しずつ違う。
几帳の蔭に羞《は》じらう少女のようなのがある。
つんと澄ました、高貴の夫人のようなのもある。
悪女のような魅力をもったのもある。
病臥している美女のように悩ましげなのもある。
一つ一つの花が、女の顔になって、ぐるぐると回り出した。
全体が一つの大きな渦になって、大きく回り出した。
その回っている渦が次第に小さくなっていき、ぱっと消えた。
梅の枝を満たしていたすべての花が、一斉に消え去って、黒く沈んだ枝が、枯れたように入り乱れている。
――あ、
と、眸《め》を凝《こ》らすと、花は再び、美しく咲き揃っていた。
ほんの一瞬の幻覚だったらしい。
――変だな、
かつてなかったことだ。
鉄舟は歩を転じて、歩き出そうとした。
その瞬間、何かが鉄舟の心の中で、音を立ててはじけた。もしかしたら、彼の魂が大きな声をあげたのかも知れない。
はっとして、立止り、眼をあげて、梅花を見た。
花に何の変りもなかったが、鉄舟は、豁然として胸が拓《ひら》けたような爽かさを覚えていた。
――女人から、超脱できたらしい、
自分の心が、自分に、そう言っていた。
剣の悟りを得た時ほど、具体的な、確たる自信はなかったが、
――もう、大丈夫だ、
と、自分に言えるような気がする。
誰の目にも、鉄舟が自分の中に感じたこの変化は、これと言って分りはしなかったが、鉄舟自身は、はっきり変ったことを、知った。
この日以後、色欲に悩まされることは、絶えてなくなったのである。むろん、色欲がなくなったのではない。が、それは完全に、しかも、何の苦痛も努力もなしに、自分の意思の支配下におくことが出来たのだ。
が、もっと大きな違いは、
――女と男、
と言うものの差別がなくなってしまったことである。肉体上の差別は、もとより認めてはいるが、男と応対していても女と応対していても、それは人間と応対していると言う意味で、全く同じであった。特に対手が男であり、女であることを意識しなくなってしまったのである。
女たちは、次第に、旦那様はこの頃、少しきびしくおなりになったと感じたし、男たちは、先生はこの頃、少し優しくなったと感じたことであろう。
女たちが、旦那様は少しきびしくなったと感じたとしても、それは相対的のものであった。
鉄舟が、春風館時代、概して、極めて温和に、殊に年少の者には男女を問わず、優しく接してやっていたことは、確かである。
剣の上にも、その変化は見られた。
修業はきびしく言ったが、その太刀先には、鬼鉄時代の鋭さは全くなく、全く空往く雲、谷を流れる水の如く、悠然、飄然、柔軟な感じのものになっていたが、それにも拘らず、誰一人として、その太刀先を破り得るものはいなかった。
――あれはもう、単なる剣の技ではない、心技だ。剣の技だけならば、まだ、山岡に劣るとは思わぬが、あの心技にはとても歯が立たぬ、怖るべき心境だ。
鉄舟の師、浅利又七郎が、籠手田に、そう洩らしたことがあると言う。
鉄舟が道場にはいってくると、それだけで道場内の空気が、ピーンと張り切って、生き生きした活気を持った。
怠けると叱られるからと言うのではない。
――先生の姿をみると、何となく活力が充実してきて、矢でも鉄砲でも来いと言う気になってしまう、
と、門人たちが言っている。
――誓願立切試合、
の項で述べたように、稽古そのものは、酷烈を極めたが、門弟たちは鉄舟がその全身から発する温かいものに、何となく春風に包まれているような想いがしたのだ。
前にあげた「おれの師匠」の中に、
――法二条、
と言う逸話が載っている。
ある時、道場で、懐中時計を失《な》くしたものがあった。
学頭の中田が調べて、犯人をつきとめ、鉄舟の前に行った。
「先生、樫尾が時計を盗みました。出来心とは言え不埒《ふらち》な行為、破門処分に致したいと思いますが」
鉄舟は、小首をかしげた。
「待てよ、そいつはおれが行き届かなかった。出来心にせよ盗んではいけないと言うことを、みんなに徹底させておかなかったのは、おれの手落ちだな。中田、これからうちの道場では、嘘をつくのと盗みとはやらないことにしよう。よし、そう言い渡してくれ」
と言う。
中田が何か言いかけると、つけ加えた。
「盗みをしたから破門する――それでは修業にならない。悪い心を叩き直すのが、修業じゃないのかね。頼むよ、中田」
中田は頭を下げた。心も下げただろう。
一同の処に戻ってくると、樫尾には特別に何も言わず大声で宣言した。
「今回、先生の御意見により、道場に二つの規則を追加する。嘘をつかぬこと。泥棒をせぬこと。今後これを犯す奴はぶん殴る」
亡き西郷の名誉回復について、ひそかに運動を始めたのも、この頃である。
話を最初に持ってきたのは、宮内省時代の良き友、吉井友実(幸輔)である。
吉井は西郷の最も親しんだ友人の一人であり、その依嘱によって宮内省に乗り込んで、宮廷内部の改革に大鉈《おおなた》をふるった男だ。
宮内省を退いてから、鉄道会社の社長に就任していたが、西郷が賊名を受けたままでいるのが残念でたまらず、鉄舟の処に話をもち込んだのである。
「私もかねて、西郷先生の名誉回復を願っていました。及ばずながら出来るだけの事は致しましょう。しかしこの話にはやはり勝先生にも加わって頂いた方がよいと思いますが」
「それじゃ、あなたから勝さんに話して下さい。私は有栖川宮様にお願いしてみます」
勝も、さすがに動きを見せた。
徳大寺も、鉄舟に動かされた。
十七年一月、隆盛の遺児寅太郎に対して、参内拝謁を仰せつけられる旨の内意が下る。これは、父隆盛の名誉回復の前提ともなるのである。
吉井が悦んで、寅太郎に会い、この旨を伝えたが、寅太郎は意外にも拒否した。
――私は賊魁の伜です、天子に拝謁など出来る身ではありません、
と言う。言外に烈々たる反骨の気概が見えた。
――先ず父の賊名を除け、それが先だ、
と言うのであろう。
吉井は腹を立てるより、感心した。
――さすが、西郷どんの伜だ、
と思う。
なおのこと、寅太郎の将来を打開してやりたいと言う気になる。
寅太郎は勉学心に燃えた青年であったが、朝敵の伜として、生活は苦しい。
――洋行留学でもさせてはどうだろう、
鉄舟が提案し、勝も賛成した。
宮内省から制度取調を名目に、毎月三十円宛寅太郎に支給する。別に渡航費は知友が醵出《きよしゆつ》すると言うことに決った。
吉井が、寅太郎の説得に当った。
――隆盛の名誉回復については、必ず、君の洋行中に実現する。小さな意地を張らずに、将来のためしっかり勉強して来給え、
と訓したが、寅太郎はうんと言わない。
鉄舟の処につれてきた。
――寅太郎さん、お父上は大島に二度も流罪になった。あんた一度だけヨーロッパに流罪になってみてはどうですかね、
鉄舟がそう言って、にこっと笑った。
寅太郎が、分りました。流罪になりましょうと答えた。
寅太郎が出発してからも、鉄舟は西郷名誉回復の為に努力し、ついに山県から、
――二十四年国会開設の大特赦の際、必ず、西郷の賊名を除く様全力を尽す、
と言う確約を得た。
明治十七年秋、鉄舟は静岡に赴いている。
十六年から建立に着手していた鉄舟寺の進捗状況を見るためである。
清水の西方山麓、清見潟を距てて富士を望む風光絶佳の地点であった。
元来この寺は、天海僧正を開山として建てられた総持院の跡で、御多分に洩れず維新の際の廃仏棄釈によって廃寺となって荒廃の極にあったものを、鉄舟が再興を企図したものであった。
山上の観音堂、山下の仁王門や鐘楼などの残っているものを修復し、寺の名を、
――補陀洛《ふだらく》山鉄舟寺
と改め、自分の家で祀《まつ》っていた東照宮護持の愛染明王《あいぜんみようおう》を勧請《かんじよう》した。
住持として誰を迎えるかと言うことになった時、鉄舟は、
――京都の今川貞山はどうか、
と言う。左右に反対する者があった。
――あれは、酒飲みで、道楽者で仕様がない坊主だと言う評判があります、
――だからこそ、鉄舟寺の住職にはふさわしいと思うのだ。このおれも酒飲みで遊び好きで仕様のない奴だからね、
京都妙心寺の管長までやりながら、余り評判の良くなかった今川貞山が迎えられて、鉄舟寺の開山となった。
だが、寺の復興は、遅々として進まない。
原因はむろん、建設資金の不足だ。
鉄舟は、これ迄にも何度も、この地に足を運んで、復興促進に努力している。
(この寺の伽藍《がらん》がすっかり完成したのは、鉄舟が死んでから十二年目の明治三十三年のことで、高橋泥舟や次郎長の兄弟分芝野栄七らの努力の結果であった)
次郎長は、鉄舟の駿河滞在中、毎日その傍らにあって、何かと世話をやいた。
資金あつめにも、むろん、協力している。
この頃の次郎長は、身辺やや淋しさを覚えていたので、鉄舟のやってきたことが特に嬉しかったらしい。
次郎長の左右の腕と言われた大政も小政も死んでしまっていた。
先に死んだのは小政、明治四年傷害事件で、中泉代官所に捕えられ、五年の懲役刑に処せられたが三年で減刑出獄した。しかし、獄中でからだをこわしてしまっていたのであろう、七年五月、三十三歳で死んだ。
大政は、鉄舟が、
――お前はおれと同じ位の背丈だが、目方はおれより重いだろう。大鉄とでも言ったらどうだ、
とからかった位の巨大漢で、六尺二寸(百八十八センチ)三十二貫(百二十キロ)もあった。大酒飲みの点も、鉄舟に劣らない。
それが、ポックリと逝った。
明治十三年暮、鈴川一家との手打式に出て風邪をひき、帰るとすぐ寝込んだが、それがもとで肺炎にかかり、十四年二月十五日に死んだのだ。五十歳である。
「私も、もう六十六歳、いつお迎えが来ても不足はねえ齢ですが、頼みに思う私より若い奴が次々に死んでしまうので少々心細くなります」
次郎長のがっしりした両肩も、思いなしか少し痩せ落ちたようだ。
「元気を出せ、おちょうさんもまだ五十前だろう。余り早く後家さんにしちゃ可哀そうだろう」
鉄舟がひやかしたが、次郎長の女房おちょうと言うのは三代目である。最初の女房おちょうが安政五年に旅先で死ぬと、次に貰った女房にもおちょうと名を変えさせた。
この二代目おちょうは、明治二年、久能の侍に斬殺された。
三度目に貰った女房も、
――違った名は呼びにくいや、
と、おちょうにしてしまった。この三代目おちょうは大正時代まで生き残った。仲々の才女だったと言う。
「どうです、先生、三保の松原の方へでもお出かけになりませんか。あそこに今日、うちの若い連中がいっていて、出来れば先生をお連れしてくれと言いますので」
「若い連中、何をしようと言うのだね」
「なあに、浜辺の小料理屋でとりたての魚を料理させて、先生をお迎えして飲みてえって言うんでしょう」
「しばらく皆の顔をみていないな。行ってみるか」
次郎長に伴れられて、三保の松原にやってきた。
海に近い料亭で、飲んで唄って大騒ぎ、鉄舟はただ坐って飲んでいるだけで、一座全体を賑やかにする雰囲気を持っているのだ。
一時過ぎて、座敷にだらしなく転がる奴が出てくると、鉄舟は自分の寝室にと用意された一室に入った。
二、三時間すると、眼が醒めた。いつもの癖で、何時に寝ても、四時過ぎには目が醒めてしまうのだ。
――今、起きれば、次郎長も目を醒ますだろう。それも気の毒、もう少し待とう、
と、床の上にそっと半身を起し、坐禅を組んだ。
一時間位は、そうしていると、じきに経ってしまう。
隣室で次郎長の起き出る気配がした。
「起きたか」
鉄舟は声をかけた。
「あ、先生、もうお目醒めでしたか。御免なすって」
と、襖《ふすま》を開いたが、鉄舟が膝を組んでいるのを見ると、
「あ、これは、とんだ御邪魔を――」
と、慌てて引退ろうとする。
「いや、構わないのだ。これから浜辺へでも出てみようかと思っていた処だ。どうだ、一緒に来ないか」
「はい、お伴させて頂きます」
さすがに侠客の一門だ。親分の次郎長が、鉄舟について浜辺に出ると、誰が気づいて報らせたものか、十人余りの者が、ばらばらと後を追ってきた。
「何だ、お前たちは。寝呆けづらしやがって」
次郎長が笑いながら言う。
「親分、あっしたちのつらは生れつき寝呆けづらなんで。生憎《あいにく》これしか持合せがねえ、勘弁しておくんなさい」
見る見る中に明るさの増してくる暁方の砂地の上を、一同が歩いた。
かなり寒い。
灰色の、少し波立って見える海面の遠く彼方が茜《あかね》色に染まり、金色に輝き、その中心の一点から、さっと光の矢が走った。
大洋に、陽が昇る。
いつ見ても荘厳な景色だ。
誰も、一言も発する者がなく、しばらくは汀に並んで、光りの波の中に、眼を細めて立ちつくしていた。
陽がすっかり水平線上に現れ、あたりのすべてが光りを浴びて、いきいきと目が醒めたように見えた時、浜辺の向うから何かわめく声が流れてきた。
誰かが、波打際に立って、こちらを向いて呶鳴っていた。何かに愕き、慌てている様子である。
「おい、何かあるらしい。行ってみな」
次郎長が頤《あご》をしゃくると、三、四人の若い者が、尻まくりをして走ってゆく。
その男の傍に近づき、二言三言話していると見えたが、次郎長の方に大きく手をふった。
――早く、来てくれ、
と言うのだ。
次郎長も、そして鉄舟も、走った。
砂の波に距てられて、遠くからは見えなかったが、近づいてみると、先に走って行った連中が、砂丘に転がっている女を見ながら、どうしてよいのやら分らずに、うろうろしている。
「仏さんかい」
次郎長が、聞いた。
「いえ、親分、まだ息がある様です」
「ばか野郎、それなら何故早く手当てしねえ」
「手当てったって、親分、対手は若い娘ですぜ、どうすりゃいいんです」
始めの男が、一応、水だけは吐かせたらしい。
鉄太郎が、口を容れた。
「誰か、その娘に人工呼吸を施してやれ」
誰かが膝をついて女にまたがり、両手を胸壁の下部におき、ゆっくりと肘《ひじ》を両側に開いて、全体重で圧迫し、呼吸を促した。
「からだが冷えているだろう。誰か、肌で暖めてやれ。その間に、他の者は火を焚け、それから、誰か宿に走って乾いた着物を借りて来い」
鉄舟が、てきぱきと命令した。
だが、娘の冷くなっている肌を、自分の肌で暖めてやろうとする者はいない。大勢の見ている前で、さすがに照れくさいのだ。
「何をしておる。誰かはだかになって、娘を抱いてやれ」
鉄舟が再び言ったが、互いに眼を見合せて尻ごみをするだけだ。
いきなり、鉄舟が、くるくるっと帯を解き放ち、着物を脱ぎすてて下帯一枚の素裸になった。女の上にまたがっていた男をおしのけると、膝をついて、女の帯を解き放ち、下着を開き、腰布の紐を解いた。
筋骨隆々たる見事な裸身を、女の裸身にぴったりと重ね、固く抱き締めた。
あっという間もない瞬間の出来事である。
次郎長始め、若い連中が、息をとめ、眼を丸くして、男女の裸身が眼前にぴったり重なり合い抱き合っているのを見つづけた。
鉄舟は、女のからだを自分の体温で温めながら、強く押して肺の中の空気を押し出し、ぱっと離して空気を送り込む動作を続ける。
女の蒼白だった顔面が、次第に紅色になってくる。
焚火も出来た。
乾いた衣類も、持って来られた。
鉄太郎は、平然と、女を丸裸にして、乾いた着物にくるみ、焚火の傍らに移すと、
「もう大丈夫だろう。さっきの動作をくり返してやれ、あれでよい」
と、前に人工呼吸の真似事をしていた男に言った。
「しばらくしたら宿に運び、医者に見せるといい」
そう言いながら、脱ぎ棄てた衣類をひっかけ、帯をまといつけると、ゆっくり宿の方に戻っていった。
次郎長は最初の発見者から事情を聞いた。
朝早く浜辺に出たら、少し沖の方に小舟が見えた。誰も乗っているように見えない。不審に思いながらみていると、溺死体みたいのが流れよってきたので、水の中にはいって行って、夢中で引き揚げたのだと言う。
小舟で漕ぎ出して投身したらしい。
その夜もつづいた酒の席で、
「先生、愕きましたね。物の数にゃならねえにしても、十何人|雁首《がんくび》を並べて見ている中で、素裸になって、若い娘を丸裸にして、しっかり抱くなんて芸当は、先生でなきゃできねえ」
次郎長がそう言うと鉄舟は淡々と答えた。
「そうか、そう言えば、あの半溺死体は女だったっけなあ」
女の身許はすぐに分った。
女は清水町の駒越に住む水田忠兵衛と言う老人の娘である。母の亡き後、永らく病床にいた父親に死なれ、後を追う気になり、浜辺の小舟を漕ぎ出して、身を投げたのだと言う。
――可哀想に、何とか身の立つように図ってやってくれ、
と、鉄舟は次郎長に頼んだ。
静岡から東京に戻ってくると、何人かの客が待っていた。
横浜から来た男たちで、禅を研究していると言う。
「先生、お願いがあって参上しました」
「何ですかな」
「実は、我々、ぜひとも先生の臨済録の提唱を拝聴致したいのです」
「横浜におられるなら、鎌倉に行って円覚寺の洪川和尚に提唱をやって頂いたらいいでしょう」
「はい、洪川和尚の提唱は何度か伺ったことがありますので、ぜひ、先生にやって頂きたいのです」
かなり禅は研究しているらしい。一通りの理窟は述べ、重ねて鉄舟の提唱を聞きたいと言った。
「そんなにまで言われるのなら、やってみましょう。先ずこちらにいらっしゃい」
鉄舟は一同を道場につれてきた。
稽古着に着換えると、門人を相手に、ひとわたり厳しい稽古をつけた。
見ていた禅研究の一同は、
――さすが山岡さんは違う。提唱の前に剣の立合いをやって、凜々たる気魄をもってから、提唱にとりかかるのだろう、
――どんな提唱になるか、愉しみだなあ、
と話合いながら、稽古を見ている。
やがて稽古を終えた鉄舟が、衣類を改めて一同の前にやってきた。
「どうです、私の臨済録の提唱は」
と、澄まし込んで聞く。
――あ、
一同は、息を詰めた。
これからいよいよ提唱が始まるのだろうと思っていたのだ。答えに詰って、ぽかんとしている一同に、鉄舟が言った。
「私は剣を以て立つ人間だ。だから剣術を以て臨済録の提唱をやってみせたのです。禅書の講義なら坊主に聞いたらいいでしょう。あなた方は、なかなかよく勉強をしているようだが、臨済録をただの文字、ただの書物としてしか考えていないらしい。そんな心得で参禅するのでは、一生かかっても物にならないでしょう。それは、道楽半分の骨董禅と言うものですよ」
口調は穏かだったが、言葉の内容は痛烈だった。一同、恐れ入って辞去していった。
禅に対する鉄舟の心構えは、ひどく厳しい。ある坊主が、お世辞のつもりか、
「先生のお蔭で禅も段々盛大になります」
と言った時、鉄舟は叱りつけた。
「それはどう言う事ですか。提唱や参禅が盛んに行われていることは事実だが、どれも内容のない空疎な禅ばかりでしょう。そんなものがいくら殖えても禅の発展にはなりません。そんなものより真個禅の根源に立入って、正法の維持を図る者が一人でも出てくれた方がよいでしょう。禅寺の門前を張ることなど問題ではありません」
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鉄舟浮水上
山岡邸に、関口隆吉がふらりと姿を見せた。県令を罷《や》めてから元老院議官の職にある。
「山岡さん、高橋先生はこの頃どうしておられますか」
関口は高橋泥舟に槍術の指南を受けたことがあり、先生と呼んでいる。
「のんびり暮らしているらしい。植木の世話などしてね、時々、ここにも顔をみせるが、武芸のことなど忘れてしまったような風に見えるよ。尤もあそこまでゆけば、槍や剣を手に握らなくても、一向差支えないがね」
「勿体ない話ですな、あれほどの人物が、それに、高橋先生は武芸だけの人ではないでしょう」
「なあに、義兄貴《あにき》はおれと同じ、武芸よりほかに取り柄のない人間さ」
「そんなことはない。静岡藩で浜松奉行を立派に勤めたじゃありませんか」
「それ位は誰でもできるさ、このおれだって県参事はやれたからね」
「しかし――」
関口がしきりに首をひねっている。
「関口君、何が言いたいのだ」
「いや、実は先日、高橋先生の話が出ましてね。このまま埋もれてしまうのは惜しい人、元老院議官かどこかの県令にでも出て貰えないだろうかって言うことになった。それで私がその引張り出し役を仰せつかったのですよ」
地方政治は混乱し切っている。自由民権の激烈な運動と、重税に対する不満とで騒擾が絶えない。政府は果断な行政官の必要を痛感していた。
「だめでしょうな、義兄貴は今更、官途につく気などは全然ない」
「そう言ってしまっちゃ、実もふたもない、あんたに口説いて貰おうと思ってやってきたのに」
「私が何と言ったって聴き入れる義兄貴じゃない。武士の時代が終った時に、自分の生涯は終ったと、決めてしまった人だ」
「どうしても駄目でしょうかね」
「だめだと思うが――」
鉄舟はややいたずらっぽい目付になって、妙なことを言った。
「でも、試しに話を持っていってみたらどうかな」
「そうですか――じゃ、早速行ってみましょう」
「ただ、気むずかしい人だから、初めから何県の県令とか、元老院議官とか言う風に持ちかけないで、何でも御希望の方面の仕事を――と言う風にした方がいいかも知れん」
「あ、成程、それはそうだ。山岡さん、一つ話してみます」
関口が去っていった。
英《ふさ》子が、不審気に、
「どうしてあんな事をおっしゃったのです。兄上は宮仕えなどなさる筈がないじゃありませんか」
と言ったが、鉄舟はにやにや笑った。
「まあ、見ていてごらん。今度、関口がどんな顔をしてやってくるか」
「関口さん、又、お見えになります?」
「うむ、二、三日中に、来るだろう」
その言葉通り、中一日置いて、関口がやってきた。
「どうだった。関口君、うまく口説き落としましたかね」
と、笑いながら訊ねる鉄舟に、関口の方も苦笑を洩らして、
「山岡さん、あんたも存外人が悪いなあ」
「ほう、どうしてですか」
「こうなると分っていたのでしょう」
「こうなる――って、どうなったのです」
「まだ、とぼけている」
「はあ、何のことです」
関口はちょっといまいましそうに鉄舟を睨んでいたが、酒肴《しゆこう》を運んできて傍らに坐った英子をみると、
「奥さん、御主人に一杯ひっかけられましたよ。まあ、聞いて下さい」
と、杯を口に運びながら話し出した。
関口は高橋泥舟の家にいってみると、先ずその余りに見すぼらしいのに愕いた。鉄舟の仕送りだけで暮らしていたのだから、やむを得ないだろう。とにかく、
「先生、お久しゅうございます」
と、鄭重に挨拶する。
「関口君、固苦しいことはやめてくれ。私はもう世捨人の老人だ」
「御冗談を、先生、まだまだそんなお年ではありません」
「いやいや、私の年齢は二百七十五歳、徳川幕府と同じ年ですよ」
――ほら、お出でなさったな、
と、関口は、
「しかし先生、考えようによっては、御維新前のことはすっかり忘れて、明治と同じ年、つまりまだ二十歳前と言うことにもなるでしょう」
「人によってはね。でも、私はだめだ」
「先生らしくもない気の弱いことを言われますな。もう一度お気をとり直して、国家の為にお働き頂けませんか」
「ほほう、この老骨に、又しても宮仕えでもしろとおっしゃるのか」
「はい、実は、政府部内でよりよりそんな話がでまして。是非、先生にも一肌脱いで頂きたいと言うことで――」
「物好きな方々もおられるものだ。しかし、そんな話なら、山岡に先ず何とか言ってきそうなものだが――」
「山岡さんの処には、私が参って相談しました」
「で、山岡は何と申しましたかな」
「とてもだめだろうと――」
「はは、その通りですよ」
「しかし、山岡さんは、絶対に無理だとは言いませんでした」
「ほう」
「先生にどんな仕事を希望されるか伺ってみて、その通りの仕事をお願いすれば、或は聴いて下さるかも知れぬ――と言ったような含みのある答えでした」
「ははあ、山岡が、そう言いましたか、これは面白い」
泥舟が珍しく大口を開いて笑い出した。
「仕事によっては――と言うお気持は、おありなのですか」
「うむ、うむ」
泥舟はまだおかしそうに笑いながら、
「そりゃあねえ、仕事によってはね、やってもいい」
「御希望をお洩らし下されば、当局の人々と相談の上――」
「むつかしいだろうな」
「は、でも、一応――」
「本当に、当局と相談してくれるかね」
「はい、必ず」
「よろしい、では言おう」
「はい」
「私を太政大臣にしてくれ」
「えっ」
余りに突飛な言葉に、さすがの関口も二の句がつげずに泥舟の顔を見守った。
「あの、御冗談は別として――」
やっと関口が気をとり直して言いかけると、泥舟はきっと表情を改めた。
「関口君、冗談ではない。官に勤めるなら太政大臣以外は厭だな。他の仕事はつとまらんが、太政大臣ならやってみせる。あれなら、おれのような阿呆でもできそうだからな」
「は――」
「戻って、みんなに相談してごらん」
さんざんに翻弄されて、関口は冷汗をかきながら、泥舟の許を逃げ出した。
「山岡さん、あんた、高橋先生が、あんな答をすることを知っていて、私をけしかけたんでしょう。人をばかにしとる」
「別にけしかけはしないさ」
「いいや、そうだ。そうに決ってる」
「ま、怒るな、関口君――しかし、太政大臣はよかったなあ」
鉄舟は嬉しそうに笑っている。
関口も酒が入るにつれ、機嫌が直った。
「いや、やられた。結局、高橋先生をこの汚れ切った官界に引張り出そうなどと考えたおれが本当にばかだった訳ですよ」
「そう言うことになる」
「ひでえものだなあ」
と、到頭、関口も笑い出した。
「考えてみると、山岡さん、宮仕えなんてものは、すべきものじゃないかも知れませんね」
関口は政府内部の醜い権力争いの実態について話し出した。
「みんな口じゃ奇麗事を言っても、結局、自分たちの権力維持のことしか考えていませんよ。こんなことでどうなっていくんでしょうかなあ」
鉄舟は例によって、政治問題には深く口を容れなかったが、関口が、滔々たる欧化風潮について憤慨し出すと、一々、うむうむと力強くうなずいて同意を示した。
――西欧文明の粋をとり入れる、
と言うこと自体に、鉄舟はむろん反対ではない。外国のものは何でも排斥しようとする神風連式の古い考えは毛頭ない。
だが、西欧文化の表面だけを猿真似する軽薄な風潮には、どうしてもついていけなかった。
その西欧猿真似を、今や、政府の大官が音頭をとって、恥も外聞もなくやっている。いやむしろ得意になってやっているのだ。
彼らが大義名分とするところは、
――条約改正
である。
幕末維新の混乱期に否応なしに押しつけられてしまった国辱的な不平等条約を改正したいと言うのは、朝野を通じての国民的念願である。
だが、その要求を持ち出すと、
――日本の文化、風俗、法律、生活はなお欧米に比べて著しく低い。平等の条約を結び、平等の権利義務を認め合う段階ではない、
と、一蹴されてきたのだ。
――欧米諸大国と対等の交際をするためには、我国従来の陋習《ろうしゆう》を改め、起居、動作、服装など、欧米人に劣らぬようにせねばならぬ、
と言う考えから、極端なものになると、国語改良、文字改良から人種改良論まで現れ、幕末の攘夷論とは全く反対極の欧米崇拝熱が吹きまくる。
外務大臣井上馨は、欧米人に対して、わが国にも、立派な社交場があり、欧米式の生活も可能であることを現実に示そうとして、
――鹿鳴館
を建設した。
鹿鳴館は明治十六年、日比谷内山下町に建てられたもので、イギリスの建築家コンドルの設計、ルネッサンス式二階建煉瓦造り、建坪四一〇坪、総工費十四万円。
ピエル・ロチの描写によると、
――ロクメイカンは美しい建物ではない。ヨーロッパ風の建築で、出来たてで、真っ白で、真新しくて、われわれの国のどこかの温泉町の娯楽場《カジノ》に似たしろものであった。
だが、当局は頗る御自慢で、満足だったらしい。
この白堊《はくあ》の大社交クラブに、華族、顕官、富豪たちがその夫人連を引きつれて現れ、外国使官や知名外人を招いて、
――対等のつきあい、
をした。
陸海軍の楽隊を招聘し、ダンスを行う。
日本人は男は勿論、女も洋装。
女たちが窮屈な洋装に、内股歩きの木偶《でく》人形のように歩く姿はひどく滑稽だったし、足の短い紳士が高いシルクハットをかぶった恰好も珍妙なものだった。
鹿鳴館では、バザーや宴会やダンスパーティが、しばしば行われた。
こんな茶番劇がどれだけ助けになったか分らないが、政府は条約改正の交渉を、徐々に進めていった。
明治十九年五月、列国共同の条約改正会議が開かれ、新通商航海条約草案と裁判管轄条約案が審議された。
翌二十年四月、その審議が終る頃、鹿鳴館で前代未聞の仮装舞踏会が行われることになった。
政府としては、条約改正案仕上げの重大時期である。外国使臣らの機嫌とりに全力を尽そうとしたのであろう。政府の全高官、民間の代表者らのすべてが総出の予定である。
前評判は大したものであった。
その噂の中で、聞きのがすことの出来ぬものが、鉄舟の耳に入った。
宮内省時代の旧知の者が訪ねてきて、ふっと洩らしたのである。
――今度の鹿鳴館の宴会には、聖上陛下の御臨席もお願いするらしい、
と言うのである。
鉄太郎が、太い眉を、きゅーっと引き締めた。
翌日、さり気なく、宮中に参内した。
しばらく侍従長や雅楽課長と話をしていると、
――お上がお召しです、
と報《し》らせてくる。
山岡が来たら、いつでも報らせるように、と、命令されている掛の者が、帝に奏上したらしい。
鉄舟は、むろん、それを待っていた。
御前に出た。
「山岡、しばらく顔を見せなかったな」
「はあ、申訳ございませぬ」
と言って帝をふり仰いだ鉄舟が、
――お上は、ご立派になられた、
と、思う。
初めて拝謁した時は、帝は二十歳の青年であった。粗暴と言いたい程活気に溢れていたが、やや軽忽《けいこつ》な振舞が多かった。
だが今や、三十の半ばに達しようとして、堂々たる帝王の威を具《そな》えてきている。
「色々と問題が多くて、考えあぐねることもある。もっとしばしば顔を見せい」
「畏れ入りまする」
と、深く頭を垂れた鉄舟が、きっと頭を立て直して、重い声で言った。
「お上、来《きた》る鹿鳴館の舞踏会とやらに臨御遊ばされまするか」
「お、あれか、伊藤や井上が出てくれと言っている――余り、気はすすまぬが」
「お上、畏れながら、臨御お取り止めのほどをお願い致しまする」
何故、と言う理由は言わない。鉄舟の献言はいつもそうなのだ。
「そうか――やめにしよう」
帝は、深くうなずかれた。
四月二十二日、鹿鳴館の大仮装舞踏会。
当時の新聞によれば、正門には大国旗を掲げ、緑のアーチに菊花を点綴《てんてい》し、本館を中心に路を左右に分ち、無数の球燈をその間にかけつらねた。館の正面には、瓦斯《ガス》火炎を以て鹿鳴館の三大字を燃点していた。
午後八時頃から数百の車馬が続々つめかける。楼上の大宴会室、楼下右手の立食堂を始め十八の部屋は忽ち貴顕の紳士淑女を以て満たされた。
喫煙室、休憩室、五基の台を設けた玉突所に歓声歓語があふれ、楼上に奏楽の声が起る。
来り会するもの六百五十余名。
最も珍奇な光景は、楼上の大広間に現れた仮装の人々である。
伊藤総理、井上外相の両人は俊輔、聞多の昔にかえって丁髷《ちよんまげ》、短袴の壮年武士の姿、謹厳を絵に描いたような山県有朋は緋縅《ひおどし》の鎧《よろい》に大身の槍を横たえ、大山巌が塩谷判官、山田顕義が福禄寿、榎本武揚が葵御紋の継上下《つぎかみしも》、三島警視総監が児島高徳。
そのほか山伏姿の高島嘉右衛門、浦島太郎の大倉喜八郎、長崎省吾の日本武尊等々からふとっちょの松風村雨、やせっぽちの夷《えびす》大黒、渋紙づらのベニスの商人、顔を赤く色どったドミノの道化役者、七福神、六歌仙、神主や坊主や赤鬼、誰が誰とも分らぬ珍装異装。
湧き起った笑いの渦の中には、軽侮と嘲笑が多分に交っていたことを、主催者側が気づいていたであろうか。
――欧化主義の珍ばけものの大夜会、
と、酷評した新聞もあった。
この夜会が終って翌日頃から、奇妙な噂が流れた。
内田魯庵は「思い出す人々」の中で、
――この夜、某大臣が某夫人に対して、言い難い屈辱を加えたと言う奇怪な風説が帝都を騒がした、
として、その風説の詳細を次のように記述している。
――この夜、夜会が終って賓客が散った頃、鹿鳴館の方から若い美しい洋装の貴婦人が、帽子もかぶらず靴もはかず、髪をオドロにふり乱した半狂乱の体でバタバタと駈けてきて、折から日比谷の原の外れに客待ちしていた俥を呼び、飛乗りざまに幌《ほろ》を深くおろさせて神田へといそがせ、とある伯爵家の裏門の前で俥をとめさせると、若干の代をとらすや否や慌てて耳門《じもん》の奥深く消えた、
と言うのである。
更に数日の中に、右の某大臣とは、他ならぬ総理大臣伊藤博文であり、某夫人とは伯爵戸田氏共の若き令室であると言うことが、疑いない事実として伝えられた。
伊藤の好色漁色ぶりは天下周知のところであるし、戸田伯爵夫人の美貌は隠れもないものであったから、凡ての人が、
――さては、
と、うなずき合った。
五月の初め、邸内の豊富な樹々の緑が色鮮やかに碧空に向って吼《ほ》えるような快晴の日、これも亦吼える獣のような凄じい勢いで、山岡邸を訪れて来た男がいる。
――鳥尾小弥太、
長州出身の陸軍中将、すでに軍役は退いて政界に動いていた。
鉄舟に紹介されて、天龍寺の滴水について禅を修行したが、結局真の悟入には至らなかったらしい。余りに我《が》が強く、俗気が多過ぎたのだ。
しかし、反骨は稜々たるものがある。
今を時めく長州軍閥の最高権力者である山県有朋に正面から楯ついて、谷干城、三浦観樹、曾我祐準らと共に、反山県派の四中将と呼ばれていた。
「山岡さん、聞きなすったか」
鉄舟に会うと、鳥尾は、挨拶も抜きにして、いきなり、そう言った。
「何をですかな」
「鹿鳴館の猿芝居――いや、その際に行われた醜聞」
「はあ」
「全く以て言語道断、恥を知らぬ行為じゃありませんか」
「はあ」
「いやしくも一国の総理大臣たる者が、夜会を利用して、他人の夫人を手籠めにするとは、何事ですか」
「はあ」
「私は断じて許せん。天下風教の為、断乎伊藤の醜行を糾弾する」
「なるほど」
「私が憤慨するのは、伊藤のことばかりではない。戸田伯爵も男のつら汚しだ。いやしくも男なら女房を汚されたら、対手が誰であろうと決闘を申込むべきだ」
「なるほど」
「ところがどうです。昨日聞いた処によると、戸田は伊藤にうまく丸めこまれてしまったらしい。噂が拡がるにつれて、事面倒と見た伊藤が、戸田を駐伊公使に栄転させると言う条件で、すべてを内済にしてしまうらしいのです」
「なるほど」
「こんなばかげた事を見過ごせますか」
「事実とすれば、怪しからん事ですね」
「全くの事実です」
「しかし、伊藤が戸田伯爵夫人に乱暴したと言うのは、今の処、噂だけでしょう」
「いや、誰もがそれを事実と認めていますよ」
「伊藤の暴行が事実なら、真先に行動すべきは戸田伯爵でしょう」
「だから、その戸田が公使栄転につられて」
「と言うのは確たる事実ですか」
「と、私は信じる」
「被害者の良人である戸田が、文句を言わないのに、第三者のあんたが力みかえってみても仕様がないでしょう」
「うむ、しかし、これは天下の風教道徳に関する問題ですぞ」
「それなら、あんたが伊藤さんに会って事実を確めた上、納得がいかなければ、伊藤さんを刺したらいいでしょう」
さすがにこんな返答を予期していなかった鳥尾は、ちょっと鼻白んだ。
「いや、つまり、その、私は伊藤の今回の醜行のみを問題にしているのではない。こんな不祥事を惹き起した根本が問題だと思っているのです。伊藤、井上らの、愚劣極まる欧化政策、泰西の猿真似、それが我国、特に上流社会と言われるものを毒し、わが国古来の道徳を無視し、男女が夜半、相擁して踊るダンスとやら言う卑猥な風習を盛んならしめた。その結果が、このような事件を惹き起すに至った。それを糾弾したいのです」
「と言うと、条約改正を名とする政府の欧化政策に反対と言うことですな」
「そうです。こんな卑屈なことまでやって外国の機嫌とりをした結果はどうですか。つい先日、決定を見た条約改正案なるものは、全くひどい国辱的なものだ」
鳥尾はいつの間にか論点をすりかえてしまっていたが、条約改正案に関する限り、鳥尾の憤慨は、的を射ていた。
列国共同の条約改正会議によって、各条約が審議されていたが、ついこの頃審議が終了した裁判管轄条約案によると、わが国は法制上、半植民地的地位に立たされる事になる。
日本にいる欧米人は日本国民と平等の権利及び裁判上の特権を与えられるのみならず、日本政府は外国籍の判事・検事を任用しなければならない。更に日本政府は「泰西の主義に従い」司法組織及び刑法、民法、商法、訴訟法を制定せねばならない。そしてこの条約は十七年間有効であるから、新しい対等条約の提案はその期間停止せねばならぬ。
法律顧問のボアソナードでさえ、
――こんな愚劣な危険な条約はない、
と反対したが、伊藤も井上も耳を藉《か》さなかったのである。
「政治の事は私は分らぬが、伝えられる条約草案の国辱的であることは確かでしょう。あんたがそれに反対運動を起すと言うのなら大賛成です。大いにおやりなさい」
「山岡さん、あんたも起ってくれますか」
「私は政治に直接関係ない身です。だが、条約改正を名とする卑屈な欧化政策は苦々しく思うています。その方面での反対運動には出来るだけのことはやりましょう」
「やってくれますか、山岡さん、頼みますぞ。私は現政府糾弾の大政治運動を起し、伊藤や井上や山県を、政権の座から叩きおとしてやりますぞ」
どうやら鳥尾の狙いはそこにあったらしい。鉄舟の風教方面からする側面援助の約束を得たので、意気昂然として引揚げていった。
その足で三浦梧楼(観樹)を訪ね、反政府運動について談論風発した。
鉄舟は鳥尾に、政府の浅薄な欧化政策反対運動をやると約束したが、いわゆる大衆運動などをやることは到底その性に合わない。
――政府に対して献言しよう、
と考えた。
――だが、自分は文に巧みでない。これは勝さんに相談した方がよいな、
と、その翌日早くも、氷川町の勝邸を訪れた。
「昨日、鳥尾がやって来ましてね」
伊藤のスキャンダルについては触れず、条約改正問題、欧化政策などについて鳥尾と話し合ったことを述べた。
「勝先生、どうお考えですかな」
「鳥尾の言うことも尤もでしょうな。長州独裁の現政府が民意を無視しての屈辱的外交、眼をそむけたいような欧化政策には私も大いに反対だ」
「では、どうです。政府に一つ、強硬な意見書を叩きつけては。私は文を書くのは苦手、これは勝先生に限りますよ」
煽てられて、勝は、二十ケ条から成る意見書の草案をさらさらと書き上げた。
要点の主なるものは次の如くである。
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一、我国の政権は近来旧薩長両藩人に独占されており、他藩出身者は甚しく恨みに思っている。しかも薩長両藩は政権争いに寧日《ねいじつ》なき有様、かような点は反省自重して貰いたい。
一、近来、高官連中がさしたる事もないのに宴会・夜会を開き、奢侈の風が見える。殊に舞踊会などが盛んに行われ、淫風の媒介となるやの噂もあり、自粛を望む。これは一見大したことではないように見えるが、下々の噂は次第に真偽分ち難いものになり、ひいて外国人までが噂を信ずるようになっては、色々障害が出るであろう。
一、人民は重税に苦しんでいる。よろしく免税の措置ありたし。多人数の徴兵をやめ、その費用を以て鉄道建設に当てらるべし。
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等々である。
「どうですな。こんなところで」
鉄舟は、流れるような速筆で忽ちの中にまとめ上げた勝の、いつもながらの頭脳の冴えに感心した。
「結構です。さすがは勝先生」
「はは、煽ててくれなくても結構ですよ。もう少し推敲《すいこう》し、附加すべきものは附加した上、伊藤総理に、直接手渡しましょう」
「ああ、それはいい」
「総理に手渡すだけでなく、写しを各新聞社に送ってやります。それが発表されれば、伊藤も、黙殺する訳にはいかないでしょうからな」
――さすが、知恵者だ、
と、鉄舟は簡単に感心した。
新聞を利用することなど、考えてもみないことだった。
「鳥尾たちが動き出したら、私も手を貸してやりますかな」
勝は、気軽にそう言った。
それから数日後、宮内省から吉田潤吾がやってきた。
「山岡先生、今日は是非、聞いて頂きたいことがあって参りました」
とひどく緊張した顔付きだ。
「何ですかな」
「先年、先生は勲三等の叙勲をお断りなさいましたね」
「うむ」
「実は今度、先生に授爵の御沙汰が内定したのです」
「私を、華族にする――と言うのですか」
「はい、子爵に列せられることになっています。公表の後、又お断りを受けては困るので、是非お受け下さる様、こうしてあらかじめ伺った次第です」
「お断りしたいですな。私には華族に列せられるような功績は何もない」
「いや、功績の有無は、先生御自身の認定によるのではなく、政府当局の認定によるものです」
「政府の認定は間違っている」
「困りましたなあ、お受け下さらないのですか」
「数ならぬ私如きものに、そんな栄誉を与えて下さるお志は有難いが、私は一介の剣士、華族などと言う柄ではない」
話し合っている時、滴水和尚が訪れてきた。遠慮なく主客対談の間にはいってくる。
「どうしたのかな、鉄舟居士、ばかに生真面目な顔をしておるの」
「はあ、あんまり愉しい話ではないので」
鉄舟が、授爵を拝受するようすすめられていることを話すと、滴水は、
「ほう、ほう」
と、うなずき、吉田の方に向って聞いた。
「今度、華族さまになるのは、この気むずかしい旦那の他にも何人かいなさるのかな」
「はあ、後藤象二郎、板垣退助、大隈重信、勝海舟、大久保一翁、榎本武揚の諸先生で」
「大盤振舞じゃな。で、その諸先生方はみな授爵に反対ないのかな」
「はあ、皆様、大層、悦んで下さいました」
「そうじゃろうな――ところで鉄舟居士、これは厭でも受けねばなるまいな」
「はあ、何故です」
「皆が悦んでお受けする。鉄舟居士一人が拒絶する――どうなるかな。世間じゃ、さすが山岡鉄舟と感心するかも知れん。となると他の人たちはコケにされたようなもの、折角悦んでいたものが、ケチをつけられたようで厭な思いをするじゃろう。他の多くの人を犠牲にして己れ独りを清く高く見せると言うのは、余り感心せんな。どうでもいいようなものなら、黙って貰っておけばよかろ。別に邪魔になるほど大したお荷物でもなかろうと思うがな」
「分りました、老師」
鉄舟が、頭を下げた。
この明治二十年五月に、爵位を授けられたのは、先に明治十七年、旧公卿大名及び維新の勲功者に対して授爵が行われた際、色々な事情で洩れていた人たちである。
大隈重信、後藤象二郎、板垣退助および勝海舟の四人が伯爵に、大久保一翁、山岡鉄舟、榎本武揚らが子爵を授けられている。
勝は始め、大久保と同列の子爵を授けられることに内定していたのだが、それを受けるか否かを確かめに行った宮内省の役人に対し、
――自分以外にどのような人が、どのような爵位を受けるのか、
と訊ねた。
役人が内定者について一応説明すると、勝は不満そうに口を噤《つぐ》んでいたが、やがて傍らの紙片に、
――いままでは、人並の身と思いしが、五尺に足らぬ、四尺(子爵)なりとは、
と書いて手渡し、皮肉な笑いを浮べたまま、受諾するとも否とも答えなかった。
政府ではこれを知ると、
――勝がゴネるとうるさい、
と、再評議の結果、伯爵に昇格させたのだと言う。
板垣は大いに迷ったらしい。藩閥打倒を叫び、自由民権の神と見られている身が、今更、藩閥政府から華族と言う特権的栄誉を受領してよいものか、それは自分を偶像視している自由民権論者を裏切るものではないか。
だが、板垣はついに受爵ときめた。この自由民権の戦士も人並の名誉が欲しかったのであろう。青年層の間に、板垣に対する大きな失望が顕著になったことは当然である。
鉄舟は已むなく爵位を受けたが、聞き伝えた門弟たちが次々にやってくる。うっかり、
――おめでとうございます、
などと言おうものなら、何と言って呶鳴られるか分らないので、唯何となく嬉しそうな顔をしているだけだ。
酒が出た事は言うまでもない。
出入の商人が、これは世間並に、
――先生が華族様になられたそうで、まことにはや、お目でたいことで、
と、酒樽や鮮魚を持ち込んできた。
鉄舟は、やれやれと言う風に、祝いの言葉を聞いていたが、
「ほい、こんなものが出来た」
と、戯れの一首を示した。
――食うて寝て、働きもせぬご褒美に
蚊族(華族)となりて、またも血を吸う
小宴が果てて、人々が退去した後、英子が笑いながら言った。
「あなたの事を、これからは御前様と申上げなければなりませんかしら」
鉄舟が、笑って答えた。
「おれは昔からずっと御前様さ。若い時には放蕩をして毎日、朝帰りの御前様、放蕩が止んでからも、連日、夕方から暁方まで酒をのみつづけて御前様、別に変ったことはないさ」
鳥尾は三浦、曾我両中将と共に、
――国辱条約反対
の猛運動を展開し始めたが、六月になって欧州視察旅行から帰ってきた農商務大臣陸軍中将谷干城がこれに加わると、政府弾劾の火の手はますます激しくなった。
現職の農商務大臣が、閣内にあって、
――改正草案は外人に適した法律規則をつくって外人の歓心を買おうとするものであり、ひいて外人に我国の内政に干渉させる発端となるものである。条約改正の如き国家の大事を、国民に内密の中に官僚の手で行うことは断じて不可、目前に迫った憲法制定国会開設を待って、公議公論によって決定すべし、
と主張し、総理伊藤、外相井上と真向から対立する。
剛直の武人谷干城は、ついに大臣の椅子を抛《なげう》った。
民間の自由民権論者はこれに勢を得て、政府攻撃を続行、条約反対の建白書は元老院に殺到し、新聞も連日、改正案の非を鳴らす。
そしてこれらの運動はいずれも同時に、
――鹿鳴館の愚劣な珍夜会、
を始めとする政府の浮薄な欧化政策を痛烈に攻撃した。
――このままでは大民衆運動が起り、収拾し難いものになる、
と判断した伊藤は、ついに七月二十九日、井上外相を説得して、
――条約改正の無期限延期、
を、公表させた。
しかし、国民の反政府運動は一向に鎮静せず、九月に入ると各地の民権壮士代表が続々と上京し、伊藤に面会を求め、激語を発する。中には短刀を呑み、爆弾を携行している者もある様子である。
九月十七日、伊藤は井上を辞任させ、自分は視察と称して軍艦|浪速《なにわ》に乗り込んで南方に赴き、月余に亙って行方をくらました。
しかもその一方、内務大臣山県有朋、警視総監三島通庸らは、保安条例を即時施行して民権論者の逮捕、投獄、追放を断行する。中江兆民、尾崎行雄、林有造らが帝都追放、星亨が投獄の憂目に遭ったのはこの時だ。まるで戒厳令を施行したような状況であった。
こうした世情騒然たる時には、これを利用して一旗あげようとする者が必ず現れてくるものらしい。
鉄舟の処にも、色々な名目で、その名声を利用する連中がやってくる。多くは、
――日本古来の美風を保持し、欧米文化の害毒から民族の純血を護る、
と言うようなものが多い。
長野県大書記官をしていた中山周蔵と言う男が、山岡邸に現れたのも、そのような目的からである。
――県知事と衝突して免職になった。知事は日本人としての魂を喪っている。我輩は断じて彼の如き人物の許で働く気はしない、
と、昂然と語る。
「なるほど」
鉄舟は対手の亢奮に些かも動かされた様子もなくうなずいている。
「そこで、私は郷里の群馬に帰って、風教改革のための運動を起すこととし、一党を立てることにしました」
「なるほど」
「党名は腕力党、すでに数千名に及ぶ党員が集っています。これを見て下さい」
差出された名簿をみると、正確には分らないが、確かに何千人かの名が載っている。その始めの方には、上州辺のやくざの親分らしい名もみえた。
「よく集めたな」
鉄舟が名簿を返した。
「そこで、先生」
中山が、膝を乗り出した。
「これだけの人間が集ると、どうしても名声と貫禄と実力のある総裁が必要になります。そこで、是非、山岡先生にわが党の総裁として御出馬頂きたい」
「お断りじゃな」
「は?」
「君がそれだけの人数を集めたのだ。君が総裁になればいいだろう」
「いや、私ではやはり貫禄不充分。ここは先生のような政府に睨みの利く在野の大物に立って頂き、わが輩はその腹心として活動すると言うのが最も適当と思います」
「一体、君たちは、何をしようと言うのかね」
「政府の浮薄な風教政策に断乎反対し、われわれの実力運動によってこれを阻止するのです」
「どんな方法で」
「大挙上京して政府に訴え、財界を動かし、新聞を利用し、万一の場合は全員、内閣へでもどこにでも暴れ込む。理窟で分らねば腕力で――と言うことで腕力党と名づけたのです」
「そんな乱暴な党の総裁は、勘弁して貰いたいな」
「しかし、先生」
「折角、宮仕えをやめて、のんびり暮らしているのだ。余計な仕事はしたくない」
「先生、国家人民の為には――」
「いや、勘弁してくれ」
どうせ暴力を看板に、金をゆすり取るのが目的だろうとみて、鉄舟は固く拒む。
中山は容易に諦めず、しつこく喰い下ったが、しまいには泣きついてきた。
「先生に断られては、わが輩の立場が無くなります。わが輩は必ず先生を口説き落として総裁になって頂くからと約束して、これだけの人数を集めたのです。先生に断られては、わが輩の面目は丸つぶれ、おめおめ群馬に帰れません。窮鳥懐中に入れば猟夫もこれを殺さずと言うではありませんか。先生はこのわが輩を見殺しにされるつもりなのですか。先生、お願いします」
鉄舟はじっと中山を見詰めていたが、
「よろしい、分った」
と、返事した。
「えっ、お引受け頂けますか」
「人生意気に感ずと言う。君がそれほどまでにおれを信じ、おれに頼ってきているのなら、素知らぬ顔もできんだろう。余り気のすすまぬことだが、引受けてやってもいい」
「有難うございます。先生、これで中山の男も立ちます」
「ところで、中山君。おれが総裁になったら、おれの言う事はちゃんと聞いてくれるのだろうな」
「それは先生、むろんの事です。何なりとおっしゃって下さい」
「よし」
鉄舟は、傍らにいた小倉鉄樹に言った。
「奥へ行って、床の間の刀を持って来なさい」
小倉は言われる通り、刀を持ってきた。
鉄舟はその刀を、中山の前につきつけ、
「腕力党門出の血祭りだ。これをもって邸の外へ出ていき、生首を三つ四つ、斬り落として持ってこいッ」
と言い放つ。
中山は眼の玉を飛び出させんばかりに愕いた。
「な、生首――た、誰の首――です」
「誰でもいい、通りかかった奴を片端からぶった斬ってこい」
「そ、そんな無茶なことを――」
鉄舟の巨眼がきらきら光って中山を射すくめている。その凄い気魄に打たれて、中山はおろおろし、声がふるえていた。
「何、無茶だ? ばか野郎、そもそもお前さんの言うことが無茶じゃねえか。腕力党などと言うゴロツキ集めの党をつくって、結局は手前のふところを暖めようと言うのだろう。無法無謀は覚悟の上だろう。始めからそのつもりなら、三人や五人の生首ぐらい斬れねえでどうする。どうせ無茶をやる気なら女房子供も抛り出して死ぬ気でやれ。次第によっちゃ鎮台の大砲ぶんどって、内閣に一発ぶち込んで、斬り死するぐらいの覚悟でやれ。生首の二つ三つぐらいぶった斬れねえような、だらしのない奴に何が出来る」
「先生――でも、そりゃあ」
中山の声は小さくなり、顔は真蒼《まつさお》になっていた。
「そんな量見でよく人が集ったな」
「はあ、これでも、いざとなれば私と共に死んでくれる者も四、五人はおります」
「ばか野郎、おれと一緒に死んでくれる奴は何百人もいる。つらを洗って出直せ」
「はあ」
「知事と喧嘩して免職になったのが不満で、つまらねえ事を考え出したんだろうが、そんな薄汚いケチな量見で天下は動きゃしねえ。分ったか、ばか野郎」
中山は這々《ほうほう》の態で、逃げ帰っていった。
五十になっても鉄舟は頑健そのもののように見えた。
戯れに角力をとると、本職の角力取りでも十両ぐらいのは簡単に寄り切られてしまったと言う。
酒の方も相変らず強く、毎晩、一升と決めて飲んだ。
調子の良い時は、一升を軽く飲み干してしまって、
「変だな、もう飲んでしまったのか。今夜のは一升はなかったぞ、先ず五合だな」
と言う。
門弟が、
「いえ、先生、奥さまはちゃんと、一升お出ししたそうです」
「そうかな、変だな、じゃ仕方がない。おれの言い分と英子の言い分の半ばをとって、あと二、三合持ってこいよ。な、いいだろう」
と、だだをこねたりした。
――師匠はいくつになっても、元気な子供っぽい一面があった、
と、門弟たちが口を揃えて述懐している。
この頑健な鉄舟に、少し弱りが見えてきたのは、明治十九年の夏頃からである。
何かと自覚したに違いない。
この年十月、鉄舟は、大蔵経の写経を発願《ほつがん》し、死の前日まで続けた。
二十年の八月になって右脇腹に大きなしこりが出来た。
千葉愛石は胃癌と判定、ベルツ博士は肝臓硬化症と診断している。
年が翌《あ》けて二十一年になると、流動食しか嚥下《えんか》できないようになり、急激に衰弱が現れてきた。
二月十一日、紀元節。鉄舟は、
――参内して、御祝いを言上する、
と言う。
――そのおからだでは、とても、
と、家人も門人もとめたが、どうしても聴き入れなかった。
――お上に最後のお暇乞《いとまご》いを、
と、考えていたからであろう。
宮中で、帝《みかど》に拝謁した。
帝は、鉄舟の衰弱ぶりに愕かれたが、その愕きは隠して、さり気なく話された。
「病気のせいか、多少やつれたようだな」
「はあ、医師は胃癌だと申します」
「胃癌?」
帝が眉をひそめられた。
「お医者さん、いかんいかんと申せども、いかん中にも、よいところもあり――そう思っております」
駄じゃれを言うと、帝もかすかに微笑されたが、その瞳の中には言い様もない哀痛の色が漂っている。
――御立派な帝王となられた。もはや、何の申上げることもない。
同じく微笑を含みながら帝を仰ぐ鉄舟は、ふっと眼尻が熱くなってくるのを覚え、慌てて御暇を申上げた。
鉄舟の去った後、帝は、
「山岡があんなに衰弱しているとは思わなかった。胃癌だと言うが、何とか手当の方法はないものか」
と、早速、侍医を差遣、その後もたびたび御見舞の勅使を立てられた。
鉄舟が、
――物を喰べられないのは我慢できるが、酒をのめないのは辛い、
と言っていたと聞かれた帝は、
「これなら山岡の喉に通るかも知れぬ。持っていってやれ」
と、御自身で試みておられた和洋の酒を御盃と共に下賜されたことが数回に及んだ。
鉄舟は、
――数ならぬ 身のいたつきを 大君の みことうれしく かしこみにけり
と、奉答している。
病は日々に進んでいたのだが、見舞客があれば表座敷で応対し、帰ってゆく人は玄関まで送った。
「見舞って下さるあんたより、見舞われる私の方が元気ではないか。しっかり頑張って下さい」
と、見舞客を逆に励ますことさえある。
客が途絶えて、少しの余暇でもあると、病躯を押して揮毫《きごう》をやった。
鉄舟の揮毫は、人間業とは思われぬほど早く、その数は信じられぬほど多い。
明治十九年には八ケ月間に、十万一千三百八十枚書いている。
明治二十一年、死亡の年でさえ、三月から七月までの間に扇子四万本を揮毫している。
――一体どの位、書かれましたか、
と言う質問に、
――さあ、まだ三千五百万枚にはなるまいね、
と笑った。三千五百万は、当時の日本の総人口である。
こんなに多くの揮毫をしたのは、謝礼金を得る為である。そしてその金はすべて、社会事業、災害救助、寺院復興などに費やされた。
国泰寺、鉄舟寺の再興、全生庵建立、剣道場篤信館建設など、みんなほとんど、鉄舟の揮毫謝礼金でできたようなものである。
個人的借金や、生活窮乏を鉄舟に訴えて、救われた者も無数にいるが、それもすべて、揮毫のお蔭である。
しかもその夥《おびただ》しい揮毫と並行して、大蔵経の書写もつづけられていた。
増上寺の朝鮮版大蔵経を借用し、主として夜間写経をつづけ、死の前日までに大般若経百二十六巻を写了した。
まるで死の時期を、正確に予知していたかのような写経である。しかもそれは一点一画もゆるがせにしない見事なものであったと言う。
六月にはいると、もう座敷に正座することもむつかしくなり、寝室で蒲団によりかかって来客と応対するようになった。
しかし、最後まで意識ははっきりしていて、来客には苦し気な顔をみせず、談笑をつづけた。
七月始め、妙にからだの具合が良いような感じがしたのであろう、八日、不意に、
――道場に出てみる、
と言い出した。
止めても聴くものではない。門人をすべて道場に集め、その稽古ぶりを眺め、数人を対手に最後の指南さえした。
――まるで鉄の雲に向っているような感じで、手も足も出なかった。いや、呼吸さえ苦しくなった、
と、対手になった者は言っている。
――もしかしたら、癒《よ》くなるのでは、
と、はかない希望を抱いた者もいたが、容体は数日後に又、悪化した。
十日夜、松岡万に、英子が、
――すっかり衰弱しております。もう、長くはありませんでしょう、
と洩らした。松岡は沈痛な顔をして去っていったが、その夜、山岡邸に忍び込んだ。
鉄舟の病室を覗くと、写経を終えた鉄舟が、床上に坐って坐禅を組んでいる。
松岡は、何と思ったか、背後から忍びよって、鉄舟の背に、むんずと組みついた。
鉄舟は、突然の襲撃にもびくりともせず、ひょいと松岡のからだを横抱きにして、その顔を眺め、
「何だ、君か、どうしたのだね」
と、微笑した。
気配に愕いた英子が隣室から駈け込むと、松岡は涙をポロポロこぼしながら、
「奥さん、先生はまだ大丈夫だ、先生はまだ大丈夫だッ」
と叫び、走り去っていった。
しかし、鉄舟の生命はこの後、わずかしか続かなかった。
臨終の様子は、例の小倉鉄樹「おれの師匠」に詳しい。
七月十七日夜八時、便所から戻ってきた鉄舟が、呟くように言った。
「今夜の痛みは少し違っている」
英子が、主治医の岩佐純を招いた。
――胃|穿孔《せんこう》のため急性腹膜炎を併発し、もはや施すべき手段なし、
岩佐は、さじを投げた。
十八日朝になると、聞き伝えた見舞客が殺到して邸内を埋めつくし、鉄舟の病床近くまで身動きもできぬほどだ。
昼近く、勝海舟がやってきたが、この大勢の人をみて呆れ、
「お前たちは病人を責め殺すつもりか」
と、一喝し、病室から人々を追い出した。
「おれを残して、先にゆくのか」
勝は、鉄舟の近くに坐って言う。
「もう用事が済んだから、お先にごめんこうむりますよ」
淡々たる話しぶりだ。
性格も、生き方も、まるで違ってはいたが、お互いに対手を認め、相許していた仲だ。今ではもう、旧い友人も数少くなっている。惜別の心は深かったが、生を追い求める妄念は全くない。
勝は、病室にむやみに人を入れてはならぬと言い残して帰っていったが、勝が去ってしまうと、いつの間にか又、病室は一杯になってしまう。
旧主徳川|家達《いえさと》が見舞に来た。
侍医頭池田謙斎が勅使として見舞に来た。
その後、鉄舟はふっと首をかしげ、
「今日は、稽古はどうした、竹刀の音がしないようだが」
と聞く。
「あ、今日は、お休みと致しました」
と、門弟が答えると、
「ばかなッ、いつもの通りにやりなさい」
と叱られ、仕方なく道場に出ていった何人かの門弟は、竹刀を打ち合せながら、涙をぽろぽろこぼしていた。
「大蔵経の書写が、ほんの少し残っている、終えてしまおう」
鉄舟は机を侍ってこさせ、床の上で最後の書写を終えた。筆勢には少しの衰えも見えなかった。
褥《しとね》に背をもたせかけて、静かに坐っている。そして、回りの人々と、何かと話をしている。そのうち、ふっと仮睡してしまう。そんな状態で、十九日の暁方を迎えた。
明け烏の啼き声が聞こえた。
――腹張りて、苦しき中に、明けがらす
鉄舟はこの時、辞世の句を詠《よ》んだ。
十九日午前七時半、鉄舟は、
「いよいよ、時が来たようだな」
と言い、からだをすっかり清めてから、かねて用意の白布と着替えた。
九時、病床に正座したが、すぐに四尺ばかり前に進み、宮城に向って結跏趺坐《けつかふざ》した。
英子が堪らなくなったか、鉄舟の背後に回り、右肩に手と顔を当てて、すすり泣きをする。
鉄舟は、静かにうしろを振り向き、
「いつまで何をしているのです」
静かにそう言って正面にむき直った。
嗣子の直記が進み出て、
「後事はお気にされず、大往生をお願いいたします」
と言うと、満足気にうなずいた。
明治二十一年七月十九日午前九時十五分、厳《おごそ》かなきびしい緊張の漲《みなぎ》る中に、静かに瞑目《めいもく》したまま息をひきとった。享年五十三歳である。
心なしか顔には微笑が含まれている。手に団扇《うちわ》を握り、端然として趺坐しているその姿は、到底、息絶えた人とは思われず、
――坐禅のままの大往生、
に、人々は、やや畏怖の念を以て見守っていたが、やがてどこからともなく歔欷《すすりなき》の声が高まり、大きな号泣に変っていった。
鉄舟坐脱の姿を門人中田誠実の写生した絵が残っている。立派な出来栄えだ。これに南禅寺の毒湛和尚が附した賛の末尾は、
――鉄舟浮水上(鉄舟水上に浮ぶ)
とある。鉄の舟が不思議や悠然と水に浮ぶ貌こそ鉄舟の真の姿なのであろう。
鉄舟の葬儀は、七月二十二日に行われた。
当日あいにく大雨。
にも拘らず、会葬者五千人に及んだ。
鉄舟の交際範囲は、大臣から乞食に至るまであらゆる階層に亙っている。そしてその殆どすべての人に愛されていたから、会葬者の内容の多様ぶりは無類のものであった。
午後一時、四谷仲町の山岡邸を出た葬列は、仮皇居になっている御所の前を過ぎる時、しばし進行を停止した。
帝の御内命があったのだ。
帝は、階上に上られ、はるかに鉄舟の葬列を目送されたのである。
三時、全生庵に着棺、大導師南隠老師の掩土香語《えんずこうご》が与えられ、遺体は地下二丈の底に埋められた。
法諡《ほうし》は、
――全生庵殿鉄舟高歩大居士
である。
鉄舟の死に、気が転倒し、追腹《おいばら》切ろうとした者もいた。
門人粟津清秀は、酒が好きで、酒の上の失敗は始終あったが、鉄舟はその純朴さを愛して屋敷内に住まわしていた。
鉄舟の葬列についていった粟津が、葬儀の最中に姿を消したことに気のついた仲間が、
――もしや、
と心配して、堂外に出て探した。
全生庵境内の八幡山で、腹をくつろげて自害しようとしている粟津をみつけ、愕いて飛びかかり、どうやら追腹をくい止めた。
鉄門四天王の一人と言われた村上政忠は、
――先生に死なれちゃ、生きている甲斐はない、
と、数日前から言っていたが、葬式当日の挙動がおかしいので、家人が警察に届け出、終日、四谷警察署に預けられていた。
実際に、鉄舟の後を追って死んだ者も、二人いた。
一人は山梨の生れ、三神文弥。
九月十五日朝、鉄舟の墓の前で、見事に腹を切っているのを発見された。
もう一人は、鉄舟の高山時代に使っていたじいやの内田三郎兵衛である。この頃も時々、山岡邸に出入りをつづけていたが、九月十八日、ひょっこり姿を現した。病気をしていたらしくひどくやせている。英子に、
「奥様、大先生が亡くなられてから、世の中がつまらなくなっちゃいました。今日はお墓の水でも飲ませて頂いて、早くお迎えが来るようにお願いしてきます」
と言って全生庵に向ったが、その夕、鉄舟の墓の前にぬかずいたまま死んでいるのが見つかった。
本編の主人公は、大往生を遂げた。
もはや、筆を擱《お》くべきときである。だが、その前に、われわれが馴染になった若干の人々について、その後のことを簡単に記しておこう。
石坂周造は飽くことを知らぬ事業欲を以て、鉄舟死後も石油業に挑み、更に遊園地や埋立事業にまで手を出したが、どれにも成功せず、明治三十六年、七十三歳で歿した。
門弟第一号、純情の男松岡万は、鉄舟の死後三年足らずの明治二十四年三月、五十四歳で病死した。全生庵の鉄舟墓碑の近くに埋められて満足したことであろう。
勝の義弟でありながら鉄舟に傾倒していた村上政忠は、性矯激に過ぎて、時に狂人のような振舞いも多く、これを制御し得るのは鉄舟ただ一人であった。鉄舟に死なれると、村上は追腹を切ろうとして果さず、ついに太棹《ふとざお》の三味線一挺をもって東京を去り、その後の消息は誰も知らない。
清水の次郎長は、鉄舟の死んだ時、賭博罪で入獄していたが、特に懇願して、葬式には参列させて貰った。明治二十六年六月、七十四歳で病死している。
天田五郎は、父母と妹の捜索をついに諦め、明治二十年剃髪して鉄眼と改めた。二十五年、京の清水|産寧《さんねん》坂に小庵を建て、愚庵と号した。この頃から歌人として知られるようになった。後、伏見桃山の南麓に移り、明治三十七年一月入寂。五十一歳。
円朝は、噺家としても作者としても大成し、多くの名品を残したが、明治三十三年、六十二歳で逝った。
平沼専蔵は、巨万の富を積み、平沼銀行まで創設し、正五位勲五等に叙せられたが、大正二年に死んだ。
勝海舟については、改めて記すまでもないであろう。
氷川町の邸に美しい侍妾《じしよう》と共に住み、言いたい放題のことを言い散らし、
――氷川町のホラ吹き、
と言われながら、明治三十二年一月、脳充血で急逝した。
高橋泥舟は、貧乏生活をつづけながら、節操を曲げず、明治三十六年の死に至るまで、旧主徳川家に忠実な恭謙な武士として暮らした。
最後に鉄舟の家族について、
第一の弟金五郎は酒井家の養子となって極《きわむ》と改名、剣客として知られた。
第二の弟鎌吉は芝家の養子となり忠福《ただよし》と改名、明治になってから牧之原開墾に入植したが、後に東京に戻り春風館道場に出入りして門弟の指導に当った。
第四の弟小野飛馬吉は、鉄舟の世話で宮内省に出仕している。
鉄舟の長女松子の婿となった石坂周造の長男宗之助は、アメリカから帰ってから石油事業に従ったが、鉄舟と同じ年に死亡。
鉄舟の後を嗣いだのは、長男直記である。
次男の静造や、東京に帰ってから生れた|しま《ヽヽ》、|たい《ヽヽ》の二女については不明である。
[#地付き]〈了〉
主要参考文献
山岡鉄舟「剣禅話」
安部正人編「鉄舟随感録」
葛生能久編「高士山岡鉄舟」
小倉鉄樹「おれの師匠」
牛山栄治「山岡鉄舟の一生」
〃  「定本山岡鉄舟」
〃  「山岡鉄舟春風館道場の人々」
大森曹玄「山岡鉄舟」
頭山満「幕末三舟伝」
沢田謙「山岡鉄舟」
岩崎栄「山岡鉄舟」
牛山氏の諸著は特に多く参照させて頂いた。沢田、岩崎両氏のものは小説である。
他に維新関係の史料の多くを参照したが、これは省略する。
初出誌 静岡新聞 昭和五十一年四月十五日〜五十二年十一月三日連載「春風」改題
単行本 「山岡鉄舟」(上・下)は昭和五十三年四月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和五十七年三月二十五日刊