南條範夫
山岡鉄舟(一)
目 次
郡代の若様
剣 と 女
山 岡 静 山
新 生 活
清 河 八 郎
浪 士 組
窮  境
色 道 修 業
葵は枯れる
[#改ページ]
郡代の若様
──新郡代は奥方の尻に敷かれている、
と、陣屋の人たちが、噂し始めた。
新任の飛騨郡代小野朝右衛門|高福《たかとみ》が、弘化二年(一八四五)八月二十四日、高山の陣屋に着任してから一ケ月も経たぬ中にである。
朝右衛門は六百石の旗本で、江戸御蔵奉行を勤めていた。飛騨郡代への転任は、かなりの栄転であると言ってよい。
だが、この時すでに六十の半ばを過ぎている。江戸から遠く離れた土地で、新しい仕事につくのは、やや億劫《おつくう》あった。
「もう齢だ、隠居すると言って、御辞退申上げようか」
上司から内示を受けた時、朝右衛門はそう言ったが、妻のおいそ(磯)は即座に反対した。
「折角の御栄転の機会でございます。お受けなされませ。子供たちの将来の為にも、是非ともお受けなされた方がよろしゅうございましょう」
「しかし、もうからだも、そう続きそうもないしなあ」
「嘘! まだまだ、大丈夫でございます」
いそがそう言って、ちらっと上眼づかいに睨《にら》むと、朝右衛門は眼を逸《そ》らせて、照れ笑いをした。
「何を言う。わしはもう――」
「いいえ、お齢にしては御さかんなことでございます。御心配はいりませぬ」
そう言われても仕方がない弱点を握られている。
「そうか、じゃ、お受けするか」
多勢の家族と家士たちと、総勢三十数名を引連れて、中山道を上り、中津川で道を外れると苗木から北上し、高山に入った。
何もかも江戸にいた頃とは全く違う新しい生活が始まった。
江戸では上司の上に上司がおり、その命令に従って、大体、慣行通りに動いていればよかったが、ここでは郡代が最高の地位にある。何でも自分で決定しなければならないのだ。
極めて平凡な事務官僚である朝右衛門は、最も無難な方法として、とりあえず地元の下僚たちの進言をそのまま鵜呑《うの》みにして、仕事に慣れることにした。
従って、形式的には忙しいが、実質的には大した仕事はない。
むしろ、おいその方が、多勢の子供を抱え、新しい環境に適応する為に必要な一切の仕事を引受けて、一日中きりきり舞いをしなければならなかったのだが、そのおいそが同時に、朝右衛門の公務の上にも、屡々《しばしば》有益な、実務的な助言を与えた。
そうしなければ、事が運ばないのである。
陣屋の人々は敏感にそれを嗅ぎとった。
その中に、町の人々もそれとなく、そうした雰囲気を諒解《りようかい》してきたらしい。
町の中でも、囁《ささや》きが交わされる様になった。
──今度の郡代様は、どうやら、奥方さまの尻に敷かれなすっていらっしゃるちゅう話だよ。
小野家において、下世話に言う、
――かかあ天下
の傾向があったことは、確かである。
そしてそれは朝右衛門が、おいそを妻として貰い受けた時の事情に由来している。
朝右衛門の最初の妻は、子供を生まないで死んだ。そこで遠縁の村上三十郎の子幾三郎を養嗣子として貰い受けたのだが、三十郎が間もなく死んだので、その未亡人を後妻として貰った。
この後妻との間に、鶴次郎が生まれた。
この後妻も、七年後に死んだ。
その後は、妾をおいて、三人の女児を儲けたが、どうも正室がいないと不便なので、三度目の妻を迎えることにした。これが、おいそである。
おいその父塚原秀平は、鹿島神宮の神官で、常陸《ひたち》にある小野家の知行地の管理を任されていたが、計数に明るく、有能なので、朝右衛門は自分の用人として来て貰うことにした。
秀平は、出戻り娘のおいそを連れて江戸へやってきて、両国橋に近い本所大川端通りの御蔵奉行官邸に住む。
おいそ、時に二十五歳。
色はやや浅黒いが、長身で、目鼻立ちのすっきりした美人で、気象の鋭い女である。
朝右衛門は、このおいそに惚れた。
塚原秀平に、遠慮勝ちにその意思を伝えたが、秀平は、いい返事をしない。
第一に、年齢が三十三、四も違う。
第二に、腹違いの子女が五人もいる。上の二人はおいそよりも年長なのだ。
「有難い思召《おぼしめ》しではございますが、娘には少々荷が勝ち過ぎるよう思われますので」
「しかし、おいそは――」
「はい、いそにも話してみましたが、やはりどうも」
秀平は、一応、拒絶した。
拒まれるとなおのこと、おいそが欲しい。
それも朝夕、同じ邸内でその本人を目の前にみているのだから、五十の半ばを超えている朝右衛門も、血が騒いで耐《たま》らなかったらしい。
「どうだ、考え直してくれぬか、決して粗略にはせぬ」
と、今度は直接、おいそに当った。
おいそは、一度結婚に失敗しているだけに、慎重ではあったが、同時に再婚が極めて困難であることも充分に弁《わきま》えている。六百石の旗本の妻になることは、滅多に恵まれる機会ではない。
父の秀平と相談した上、将来の保証について、朝右衛門に一札入れさせることにした。
朝右衛門が秀平に与えた念書には、次の如く書かれている。
――そこ許《もと》娘おいそ事、貰い請《うけ》て継室と致し候こと実証なり。然《しか》る上は生涯我ら引受け不自由がましき儀致させず候……末々|伜《せがれ》の代に相成り候とも、粗略これなきよう、申し渡し置き候、天保六年乙未五月、高福
江戸時代の武士が、妻を貰うに当って、
――いつ迄も大事にする、
と言う誓約書を出した例は、ほかにはないであろう。朝右衛門が、いかにおいそに惚れていたかを示すものと言ってよい。
朝右衛門はおいそに惚れている。年が親子ほども違う。そして、おいそは気象の鋭い行動的な女性である。これだけ条件がそろえば、当然、
――かかあ天下
とならざるを得ない。
それが醜態の程度に至らなかったのは、おいその怜悧《れいり》さの為であった。
結婚の翌年、すなわち天保七年(一八三六)六月に、鉄太郎が生れた。つづいて金五郎、鎌吉と、男の児ばかり生れた。
高山に赴任した時には、養嗣の幾三郎以外はすべて引連れていっている。
幾三郎はすでに四十に近く、一家を構えて、幕府御小姓組として出仕していたので、江戸に残った。
幾三郎は、養父朝右衛門に対して、やや冷い眼を向けつづけていた。
――小野家には自分と言う後嗣《あとつぎ》がいる。自分には子がないが、弟の鶴次郎を養子にすれば良い、おやじ殿はあの齢をして今更、若い女房を貰うことはあるまい。
と、おいそとの結婚そのことに反撥《はんぱつ》を感じているのだ。
――おやじは、好色だ、
そう思ってもいる。
朝右衛門が果して好色であったかどうかは分らないが、その方面の精力は相当に強かったことは事実であろう。生涯に、男九人、女三人、合計十二人の子女を生ませている。
おいそを貰ってから、その死に至る十七年間だけでも、鉄太郎以下男の児ばかり六人生ませている。最後の二人は、七十歳を超えてからの児であろう。
室町時代、蓮如《れんによ》と言う本願寺の偉い坊主は、六人の妻に二十六人の子を生ませ、最後の子は八十四歳の時だったと言う。朝右衛門など、これに比べれば大したものではないかも知れないが、決して精力の弱い方でないことは確かである。
性的エネルギーと仕事の上のエネルギーとが比例している場合もある。蓮如などはその例であろう。
だが、性的エネルギーは旺盛だが、仕事の上では格別|目醒《めざま》しいことがないと言う場合も少なくない。その場合、
――律義者の子沢山
と言う現象が現れる。
朝右衛門はこれに近い。
尤《もつと》もらしい顔をして、毎日陣屋の役向きの部屋に坐っているが、大した仕事はしていなかった。
――万事、慣例通りに。それが役目上、ボロを出さない為の秘訣だ、
と言う官僚特有の考え方が定着していた。
朝右衛門の高山赴任が決った時、十歳になっていた鉄太郎は父に向って訊ねた。
「父上、郡代と言うのは、どう言う仕事をするお役目ですか」
「天領とは何か、知っているであろう」
「はい、お公儀(幕府)が直接に支配している領地でしょう」
「そうだ、その天領は、全国に亘って四百三十万石に上るが、その中、大名預りになっている分を除くと三百五十万石、この土地に対して六十人ぐらいの代官が、お公儀から差し遣わされている」
「すると、代官一人当り六万石ぐらいの土地を治めることになります」
「うむ、平均すればそうだが、十万石以上の天領が四ケ所ある。関東、美濃、西国(九州)、飛騨だ。ここには特に郡代が置かれることになっているのだ。わしが任命されたのは、この飛騨の郡代だから、飛騨一国、十一万四千石を差配する」
「それじゃ、十一万四千石の大名になるのと同じなのですか」
鉄太郎がびっくりして反問した。
「いや、大名ではない。お公儀の一役人だ。だが、飛騨一国では、一番偉い地位につくことになる」
朝右衛門は、この点、ちょっと得意でないこともない。
「お前も郡代の若様と言うことになる。今迄のように、やんちゃばかりしておってはいかん」
一瞬、大名の若様になれるのかと、眼を輝かせた少年は、幕府の一地方役人と分って、がっかりした。だが、
――江戸から遠く離れた山国
に対しては、大きな好奇心があった。
そして現実にやってきたこの高山と言う町は、少年にとって、極めて魅力的なところであった。
高山は、標高六〇〇メートルの山間に展《ひら》かれた盆地である。
町の中央を宮川の清流が、多くの橋を載せて横切っている。遠く碧《あお》い澄んだ空には、飛騨の山々が町をとりかこむように、列《つら》なっている。
町の南、臥牛山上には城址があった。戦国時代に三木|自綱《これつな》が築いた城は、金森長近に亡ぼされ、金森が新領主として、新しい城を築き城下町を展開させた。
金森氏は徳川五代将軍綱吉の時代に出羽上山に移され、高山城は元禄八年、完全に取りこわされて、飛騨は天領となった。
金森長近が、京を真似てつくったと言われている高山の町は、美しい流れと、無数の寺と、落ちついた古い屋並みとに恵まれている。
この土地で、十歳から十七歳までを過ごすことができたのは、少年鉄太郎にとって、非常な仕合せだったと言ってよい。
幕政末期の頽廃《たいはい》と喧騒とから全く無縁に、のびのびとその若い魂を成長させてゆくことができたのだ。
山国の秋は、急テンポで深くなってゆく。
朝右衛門一家が、どうやら自分たちの急変した日常生活を調整できた頃には、もうこの山間の町は、晩秋の色を濃くしていた。
山野の草木は艶を喪《うしな》い、蕭々《しようしよう》として寂し気になる。
霜が降って、朝夕の寒さが増す。
やがて、江戸では思いもかけなかったきびしい寒さに見舞われるだろう。
だが、鉄太郎は、頗《すこぶ》る元気であった。
異母兄の鶴次郎は、二十五歳以上も年長である。
神経質な気の小さい男で、朝右衛門の秘書役のように使われている。
弟の金五郎は七歳、鎌吉は四歳、どちらも遊び対手《あいて》にはならない。
鉄太郎は、独りで遊び廻った。
――陣屋の若様
みんなが、そう言って大事にしてくれる。
増長はしない。
おいそがきびしく戒めているからだ。
――みんなが大切にして下さるのは、お父上の地位に対してのこと、お前が偉い訳ではありませぬ。そこをよく弁えておくがよい。
と言う。
母は怖かった、父よりもずっと。
手をあげることなど勿論なかったし、大きな声を出すこともなかったが、何となく怖いのである。
「母上は鹿島神宮で育ったと言うから、神主のようなところがあるのだろう、言うことを聞かないと罰《ばち》が当るような気がする」
と、真顔になって、弟の金五郎に言ったことがある。
そのくせ、この怖い母によくなつき、よく甘えた。優しくて無口な父に対してよりも甘えた。
すべての少年は、母親を神の如くに思う時期を持つ。早かれ晩《おそ》かれ、やがてその幻想は打ち破られてしまうのだが。
ただ、中には、この幻想を死ぬまで持ちつづける者もいる。少年時代に母を喪ってしまった者には、これが多い。
鉄太郎は、十六歳でこの母と死別した。
従って、おいそは、彼の心情において終生、神の如き存在として聖別されていたように思われる。
が、現実のおいそは、この高山時代、容赦なく鉄太郎を叱り、勉学をすすめた。
最初に通わされたのは、魚屋横町の山田秋籟のやっていた寺子屋である。
茂助と言う下男が、お伴をした。
この茂助が、すぐにねを上げ、
「若様のお蔭で、毎日、山田先生からお叱りをうけておりまする」
と、おいそに訴えた。
鉄太郎は、書を読み習うよりも、相撲の方に興味をもった。座敷の机を片づけて、学習仲間を対手に、どたんばたんと投げ倒し合いをやってばかりいるのだ。
師匠の山田は、匙《さじ》を投げていた。
「あなた」
おいそが、朝右衛門に話しかけた。
閏《ねや》の中である。
「鉄太郎のことでございますが」
「うむ」
どうせ、ろくなことではあるまいと、朝右衛門は覚悟した。
「山田先生では駄目でございます。もっときびしい先生につけなければ」
と、おいそは茂助の訴えを話す。
「きびしい先生か、うむ、それなら、家にいるようだが」
「え、何でございます?」
「いや、その、わしも、もう少しきびしく叱ることにしよう」
「あなたにはお仕事がございます。鉄太郎の学習までみておやりになることはできませぬ」
「それはそうだ。誰ぞ、よい先生はおらぬかな」
「父に相談してみましょう」
おいその父、用人塚原秀平は、あれこれと聞き合せて、|地侍 頭《じざむらいがしら》である節斎富田礼彦と言う人物が、
――きびしい先生
として知られていることを調べてきた。
「そうか、ではその富田節斎先生の処に通わせることにしよう」
朝右衛門は例によって、一も二もなく、秀平とおいその奨めることに同意する。
節斎は、評判通りの厳格な人物であった。
さすが腕白の鉄太郎も、一応神妙に、勉学をはじめざるを得ない。
余り頭脳明敏と言う方ではなかった。しかも融通性がなく、どこか一ケ所にひっかかると、その疑問が氷解するまでは、克明に質問をつづける。
記憶力の良い頭の廻転の早い子は、何回か読んでいる中に、暗誦できるようになり、その間に大体の意味を掴んでしまう。
――読書百遍、意|自《おのずか》ら通ず
と言うやつだ。当時の勉学法は大部分がこのやり方で、とに角、暗誦するほど何十回でも読ませれば、大意はのみこめる。細かい解釈はその後のことである。
ところが、このやり方は、鉄太郎には通じなかった。記憶力が良くないせいか、何遍読んでも暗誦ができない。
意味が分らなければ、覚えられない性質、いや、頭の構造らしい。
どんな物でも、先ず、丹念に自分で一字一字写しとる。それを大声をあげて読みながら分らないところを納得のゆくまで問い質す。
ひどく時間がかかる。
第一、他の子供とぺースが全然合わない。
――妙な子だ。
節斎は呆れた。
――どこか変っておられる。将来、大器になられるかも知れませんぞ。
朝右衛門に聞かれた時節斎はそう言った。
鉄太郎の将来を予見しての発言ではない。
郡代から、
――伜《せがれ》はどうですかな。
と聞かれた時、妙な児だとも言えなかったので、そう言っただけである。厳格な田舎|儒者《じゆしや》でも、その程度のお世辞は知っていた。
「そんなものかな」
と、朝右衛門は少々やに下ったが、おいそは追及した。
「あの子の得意とするところは、何でございますか」
正直のところ、学問的には特に優れたところはない。強いて言えば、少年にしては書が上手《うま》いぐらいだ。
「書はなかなかよくされるようです」
行動的なおいそは、すぐに書道の師匠を見つけてきた。
一亭岩佐一右衛門善倫。
もともと高山の町の呉服商の家に生れた男だが、家督を弟に譲り、書道に志した。
尾張国蜂須賀村蓮華寺の住職大道定慶の門に入り、刻苦修業、弘法大師入木道(書道)五十一世の道統を嗣《つ》いだ。
「一」と言う字を三年間書きつづけ、その後は、一日墨汁を三合つかい切るまでは、寸刻も惜しんで練習を重ねること十有余年に及んだと言う。
僻地の町には過ぎた書道の大家である。
鉄太郎、この時まで自分でも気がつかなかったが、習字は先天的に好きだったらしい。小理窟を考えずに、無念無想、ひたすらに筆を運ばせると言う作業が、性に合っていたのかも知れぬ。
ある夜、朝右衛門が美濃紙を出してきて、
「これに今迄習った字を清書して、わしに見せてごらん」
と、手渡した。
鉄太郎は、師一亭から与えられた千字文を、六十三枚の紙に、書きとった。出来上ったのは夜中の一時過ぎである。
「父上、できました」
と、父の寝室に行って、報告する。
そんなことはすっかり忘れて眠り込んでいた朝右衛門は、びっくりして起き直ったが、鉄太郎の差し出したものを見て、二度びっくりした。
予想もしなかった立派な出来栄《できばえ》である。
翌朝、一亭を陣屋に招いて、これを見せると、一亭は嬉し気に微笑した。
「私の許にこられるようになってから、わずか一ケ月、愕《おどろ》くべきほどに早い上達です。それに、何よりも一字一字に、全精神が打ちこまれている――末頼もしいお子ですな」
節斎の私塾で儒学を学び、一亭の門で書道を学び、と言うと急に善良な勉強家になったように見えるが、むろん、そうではない。
真面目に勉学する時間が殖えただけ、どこかでうさ晴らしをしなければならないのだ。
その場所は宗猷寺《そうゆうじ》と言う臨済宗の寺であった。
寺の住職俊山和尚は、代々の郡代と仲良くしている。政策的意味もあったろう。
鉄太郎はその境内を、恰好の遊び場所とし、悪童連を集めて、暴れ廻った。
和尚は見て見ぬふりをしている。
鉄太郎はさんざん遊び廻って空腹になると、庫裡に飛び込んで、小僧に、
「何か喰わしてくれ」
と、要求する。
郡代の若様だから、断る訳にはゆかない。
食い物を出すと、呆れるほど大喰らいだ。
特に、菓子には目がない。片端から平らげてしまう。
いまいましく思ったのか、俊山和尚がある時、菓子屋に特別注文をして、赤坊の頭ぐらいもある金米糖《コンペイトー》を作らせ、
「さあ、これをおあがり」
と、差し出した。
「有難う、和尚さま」
鉄太郎は、刀の小柄を抜くと、その頭で金米糖をこなごなに砕き、うまそうに全部平らげてしまった。
「呆れた小童《こわつぱ》だ。今度来たら、沢庵でも喰わせておけ、尻尾だけだぞ」
さっさと帰ってゆく少年を見送って、和尚は、小僧にそう言った。
数日後の夕方、俊山が本堂の前を通りかかると、鐘楼の前に鉄太郎が立っている。その後姿がいつになくしょんぼりと見えた。
人の良い和尚は近づいていった。
「どうしたのじゃ、元気がないな」
「兄上(鶴次郎)と喧嘩しました」
「喧嘩じゃあるまい。叱られたのじゃろ」
「喧嘩です。兄上は私がいつも大きなことを言う、生意気だと言うのです。でも私は、大きいことは良いことだと思うのです」
「大きいことは良いことか、成程、そうかも知れんの」
「兄上に怒鳴られましたが、今この大きな鐘を見ていると、矢張りいいなと思います」
何だか辻褄《つじつま》の合わない話だが、少年の気持は分る。
「この鐘が気に入ったのか」
「はい」
「じゃ、これを上げよう、持っていってもいいよ」
俊山がそう言ったのは、無論、冗談である。が、次の瞬間、鉄太郎は走り出していた。
陣屋に戻ると、朝右衛門の処にゆき、
「父上、和尚様がお寺の鐘を私に下さると言いました」
「そうか、それはよかった、頂いてくるがいい」
朝右衛門は笑いながら、うなずいた。
少年は直ちに出入りの職人を集めて宗猷猷寺に赴き、鐘のとり下ろし作業にかかる。
騒ぎを聞きつけて、俊山和尚が飛び出してきて、
「これ、何をするのじゃ」
と、一喝《いつかつ》した。
「和尚様がこれを下さると言われましたから、頂いてゆくのです」
鉄太郎は、ケロッとしている。
――しまった、
と、自分の失言に気づいた和尚が、慌てて詫《あやま》ったが、少年は、
「和尚様は、嘘を言うのですか」
と憤り出して、手がつけられない。
理窟は明らかに、少年の方にある。
俊山は陣屋に走って、朝右衛門に説得方を懇願した。
父に命令されては已《や》むを得ない。鉄太郎は鐘を諦《あきら》めたが、怒りはおさまらなかった。
――和尚が、嘘を吐《つ》いた、
と、一日中、怖い顔をしている。
おいそが心配して、一亭に頼み込んだ。鉄太郎がこの師匠には心服しているらしいことを知っていたからであろう。一亭が、
「鉄太郎、宗猷寺の和尚が嘘を言うたと怒っているそうじゃな」
「はい、私は嘘が大嫌いです」
「じゃがの、仏さまでも嘘を言われた」
「本当ですか」
「本当じゃ、嘘も方便《ほうべん》と言ってな、より大きな目的を達する為には、已むを得ず嘘をつくことは誰にもあることだ」
「和尚様は何の目的で、私に嘘をつかれたのですか」
「さあ、それは多分、お前が、あの大きな鐘をやると言われた時、どのように反応するかを知りたかったのじゃろう」
「呉れると言えば、誰だって貰って帰るに決っているでしょう」
「お前はそう考えるが、誰もがそう考えるとは限らん。大抵の子供なら、あの大きな鐘をみたら、とても重くて持って帰れぬと思うて、諦めてしまう」
「そうでしょうか」
「そうじゃ。じゃから、いつまでも和尚のことを怒っていてはいかん。武士の子はさっぱりするものじゃ」
「はい、分りました」
一亭の説明にはまだ納得のいかない点もあったが、
――武士の子は淡泊でなければならぬ、
と言う一語に、鉄太郎は、自省の念を生じたのであろう。
翌日になると、
「和尚様」
と、何事もなかったような顔をして、寺に顔を出した。
――利《き》かぬ気だが、さっぱりしておる。なかなかよい子だ。
和尚も、見直した。
――嘘を憎む
これは、鉄太郎の骨髄に沁《し》み込んでいる性格である。自分でも嘘は決してつかないし、他人の嘘も許さない。
殊更にそれを意識してやっていると言うよりも、生れつきそうなのだ。
数年後――嘉永三年、十五歳の正月のことだが――鉄太郎は、自己の規範として、修身二十則を書いている。
その第一条に、
――嘘言ふ可《べ》からず、
とある。第二条は、君の御恩忘る可からず、第三条が父母の御恩忘る可からず、だ。つまり第二、第三条は、忠孝を忘る可からずと言うことである。
武士として、何よりも大切なことは、忠と孝にある――これは封建武士社会の基本道徳であろう。
ところが、鉄太郎はそれよりも優先して、嘘をつく可からずと書いているのである。
彼が、如何に嘘を憎んだか、この一事が最もよくそれを示している。
どんなに言い悪《にく》いことでも、彼は正直に真実を述べた。この為に耐えねばならぬ恥かしさや、屈辱や、制裁や、反撃がどんなに辛いものであっても、彼にとっては、嘘を吐くよりはましだと思われたに違いない。
この性癖は、彼の生涯を貫いて一度も変っていない。
易しいようで、この位むつかしい事はない。この点だけを見ても、鉄太郎と言う男は、
――変った男
だったと言ってよいだろう。
鉄太郎一家は、高山で、生れて初めての寒い冬を過ごした。
山の雪が融けはじめ、宮川の水量が増し、木の芽と若草の色が新しくなった。
おいそが、或る夜、朝右衛門の胸に顔を埋めて、囁いた。
「私、また、みごもりました」
こんな時は、さすがに気丈夫のおいそも、頬を紅らめていた。
――またか。
朝右衛門は、少々うんざりしたが、年に似合わず逞《たくま》しい自分のエネルギーが原因なのだから、致し方がない。
「うむ、大事にして、丈夫な子を生むのじゃな」
と、何度も言ったことのある言葉を繰り返した。
はいとうなずいたおいそが、しばらくしてから、また囁いた。
「あの、鉄太郎のことでございますが」
――またか。
朝右衛門は、同じことを腹の中で呻《うな》った。
「幸いにこの頃は、節斎先生のところでも、一亭先生のところでも、真面目に学習しているようでございますが、武士の子は何と申しても武芸を習わせねばなりませぬ」
江戸にいた頃、久須美閑適斎の道場に通わせていた。高山に来てから武芸の稽古は中絶している。おいそはそれを言っているのだ。
本来なら朝右衛門が気付くべきところを、いつもおいそが先に気付いて指摘する。
――そうだ、その通りじゃ。
朝右衛門はそう言うよりほかはない。
おいその依頼を受けた富田節斎は、鉄太郎を、地侍(金森家旧臣で土地に居付いたもの)たちの武道錬成場である「修武館」につれていって、指導に当っている庄村翁助にひき合せた。節斎は地侍頭だ、その紹介だから問題はない。
「ほう、齢にしては随分大きいな」
にこにこ笑いながら鉄太郎を見ていた翁助が、
「早速、今日からでも始めるか」
と、門弟を呼び、
「道場につれて行って、序の組(年少組)に入れるがよい」
と、指図する。
節斎と翁助とが、そのまま座敷で話していると、間もなく先刻の門弟が、慌しくやってきた。
「先生、ちょっと――」
「どうしたのか」
「只今の小野鉄太郎が――」
もう何かしでかしたのかと、節斎も翁助について道場に行ってみると、少年が二人気を喪っており、みんながそれを囲んで騒いでいる。
聞いてみると、二人とも鉄太郎の強烈な突きを一発喰らって仰向けにぶっ倒れてしまったのだと言う。
「とても、序の組の少年たちの手に負えません」
「そうか、からだは大きいが、十一歳だと言うから、序の組に入れたのだが――今村、お前、対手をしてみろ」
「はい」
今村と言う青年が稽古の対手になったが、汗みずくになって、どうやら太刀打ちができた。
「今迄、どこかで習っていたのか」
「はい、江戸で八歳から十歳まで、真影流の久須美先生の道場で、手ほどきを受けました」
「なに、大川端の久須美か」
「はい」
「これは不思議な因縁だ、久須美閑適斎はわしの義理の兄じゃ」
「ほう、それは奇縁だな」
節斎も、世の中は案外せまいものだと、感心した。
「それにしても、子供の頃わずか三年ほど手ほどきを受けただけにしては、大した腕だ、とても序の組では対手になるものはおらぬ。破の組に入れよう」
剣道の上では一人前の青年として扱われ、青年組に入れられた。
高山へ来てから一年近く遠ざかっていたものの、剣の道は元来好きでもあり、天稟《てんぴん》もあったらしい。
日に日にめきめきと腕を上げてゆく。そうなればなるほどますます励みが出てくる。
鉄太郎は、書と剣とに没頭し、悪童仲間の悪戯から卒業していった。
高山における小野一家の生活は、大した変化もなく過ぎて行った。変ったことと言えば、ここへ来てから、駒之助・飛馬吉と言う二人の児が生れた事ぐらいのものであろう。
しかし、外部の世界は大きく変りつつあった。頑固に閉ざされていたこの日本と言う国の扉を、この時期に、全く新しい外来勢力がしきりに叩き出していたのである。
弘化三年(一八四六)、米東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に、仏インドシナ艦隊司令官セシーユが長崎に、来航した。
嘉永二年(一八四九)には米艦プレブル号が長崎に、英船マリーナ号が下田に入港した。
古くから通商関係のある唯一の西欧国オランダは、開国をすすめてきている。
これら諸外国の当面の目的は、
――航海の途中、食料飲料水等の補給を求め、海難の際の退避地としての寄港
を要求するものであったが、究極の目的は、むろん、
――絶えず増大しつづける西洋の工業製品のための新しい有望な市場
としての日本と通商関係を結ぶことにあった。
日本は彼らにとって、
――過去三世紀の間、隣国に対してばかりでなく、全人類に対して、断乎として門戸を閉ざしていた。ほとんど知られざる土地、であり、
――文明のすべての中心から遠く離れたところに――鉄道も電信もとどかぬ遠いところに――一切の近代的な社会的関係を断って存在している国
であった。これは駐日初代公使オールコックが、十年も後の安政六年(一八五九)に日本にやってくる時に記した対日観である。
彼らにとって、日本はおそろしく奇妙な、手の焼ける、不可解なところの多い国であったに違いない。
彼らの最初の接触は、それ故に、かなり穏やかな申入れに過ぎなかった。
だが、
――鎖国の祖法
を頑《かたく》なに守ること以外に考えのなかった幕府当局は、そうした申入れに対して、全身を硬直させ、アレルギー症状を示した。
弘化三年、孝明帝は、
――外患に対する御沙汰書
を下し、幕府は彦根・川越・会津・忍の諸藩に、相模・安房・上総の沿岸警備を命じた。
江川太郎左衛門が韮山に反射炉を設けたのは嘉永三年である。
いわゆる天保の改革を断行して、市民を震え上らせた老中水野忠邦が失脚して、ホッとしていた江戸市民は、今度は何か得体の知れない漠然とした不安を感じるようになっていた。
そうした形勢が、全く高山に無関係であった訳ではない。遠い、この山国の町にも、時代の動きは伝わってきた。それは極めてゆるやかにではあったが。
朝右衛門のところにこの状況を報《し》らせてきたのは、江戸にいる養嗣子幾三郎である。
幾三郎はこの養父に対して余り好感を抱いていないため、年に何回か儀礼的に書き送る消息文に、書くことが無いので、已むを得ず外国船についての幕府の対策や民間の噂などを書き列《つら》ねたのである。
時たまにしか出さない養父への手紙が、適当な長さになるようにと言う目的で書かれたものだから、極めて表面的な熱のないものであった。
しかし、朝右衛門は、新しい情報を最初に獲得したことがやや得意で、家族の者や陣屋の下僚たちに、それを話してやった。
聞く者は、どこか遠いところで起っていることのように、ほんのわずかな興味を示しただけである。
鉄太郎は、この父の情報よりも、より多く師の節斎の伝える情報に心を惹かれた。
節斎は江戸にいる友人から、かなり屡々、諸般の状勢について報らされていた。そしてそれらの情報は、それを伝える人が、より多くの熱意と憂慮とをもっていた為、受けとる側でもより深い感銘を受けるものだった。
「これは、大変なことになりそうだな」
節斎が言った。
嘉永三年春のことである。鉄太郎は十五歳になっていた。もう、からだは立派な一人前の青年と言ってよいほど逞しい。
「異国人たちは、どうしてわが国が鎖国を国是としていることを諒解しないのですか」
「西洋の各国はみな相互に通商交通をし合っているからだろう」
「でもそれは彼らの勝手でしょう。わが国がそれを厭だと言えば仕方のないことです」
「そうはいかん。彼らはたとえ武力を用いてでも、開国を迫るだろうな」
「それならこちらも武力を以《もつ》て闘えばいいではありませんか」
「それはそうだが、ただ、彼らの武器はわが国のものより遥かに優れているらしい。鉄砲でも大砲でも軍艦でも、すばらしい威力を持っていると言う」
鉄太郎は、意外そうな顔をした。
「そんなこと大した問題じゃありません。われわれには伝来の刀と槍とがあります。夷敵どもに、断じて負けやしません」
「そうだ、断じて負けやせん」
鉄太郎は断乎《だんこ》たる自信をもって言ったのだが、節斎の方は内心の不安をごまかして言ったのだ。
師と弟子とは、夷敵に対する防衛戦について、極めて幼稚な意見を交換し合って、互いに亢奮《こうふん》した。
二人とも、海の外からくる者を、それが友人となる可能性が有るか否かを考える前に、
――夷敵
と決めつけてしまうこの思考方法のために、今後どれほど多くの犠牲を払わねばならぬかについては全く思いもつかなかった。
この嘉永三年は、鉄太郎にとっては一転機となった年である。
先ず、書道の上で、師の岩佐一亭から、弘法大師入木道五十二世の道統を譲られた。
鉄太郎が一亭の許に入門したのは、十一歳の時である。わずか四年余りで、十五歳の若年で書道の奥義を許され、師の道統の継承者となると言うのは、異例の事であろう。
――未だ弱年、到底、その任ではございません。
鉄太郎は、何度も辞退した。
父の朝右衛門も愕《おどろ》いて、
――まだまだ伜如きに、
と、遠慮を申入れたが、一亭は聞き入れない。
「私はもう七十二歳。いつ死ぬか分らぬ身、今の中に継承者を決めておかねばなりませぬ。成程、鉄太郎は余りに若く、その書道も未熟な点は免れませぬ。じゃが、鉄太郎の書く文字は、その性格をそのままに写して、全く邪念なく、天真無垢、自然奔放――これは学んで得らるべきものではありませぬ。そしてこの点こそ最も大切なこと、私が今後何年生き、何人の弟子をとろうとも、鉄太郎ほどの天分を持つものに再びめぐり会えようとは思われませぬ。私は現在の鉄太郎ばかりでなく未来の鉄太郎をも考慮して、大師入木道五十二世の道統を譲ることに致しました」
そこまで言われると、朝右衛門もわが子の果報を悦ぶほかはない。鉄太郎にすすめて、師の譲りを受けさせた。
鉄太郎は、一亭のこの好意に報いる為か、その後、他の師についていない。
――いやしくも弘法大師入木道五十二世の道統をついだもの
と言う誇りを持っていたのであろう。
後年、次のように述懐している。
――私は高山から江戸に戻って後、とくに書の先生についてはいない。王羲之《おうぎし》の書が優れていることを知り、法帖を手に入れて、その筆意を学んでいた。たまたま、慶応になってから京都に行く機会があって、東寺に行ったことがある。そこで本堂にはいったところ、弘法大師の書幅を拝見することができた。大師の書体は、遠く風塵を脱し、筆勢に作意なく、私はすっかり魅了されてしまった。それからは大師の書に憑《つ》かれて御真筆をたずねたり、法帖をあつめたりして、自分はいつかは、あのように書きたいものと念ずるようになった。明治五年宮内省に出仕するようになってからは、便宜もひまも出来たので、身を入れて稽古したものだ(言行録による)。
明治五年と言えば、鉄太郎三十七歳である。十五歳で一流の道統を譲られた、いわば書道の天才児が、三十七歳になって「身を入れて稽古」ができるようになったと言うのである。この男の最も著しい特徴の一つは、何事に対しても、徹底的にやることであり、それに対しての努力を死ぬまで止めなかったことであった。
この年の秋、鉄太郎は、異母兄の鶴次郎と共に、父の代参として、伊勢詣りをした。
――一生に一度はお伊勢様に詣らねば、
と言うのが、一般通念とされていた頃なのである。自分で行かれないものは、代りの者に参詣させた。
朝右衛門は、かねてから伊勢詣りをしたいと念願していたが、どうしてもその暇が見出せない。
――自分がいなければ、高山郡代の仕事はどうなる?
と不安なのだ。本当のところは、彼がひと月やふた月留守をしても、大したことはないのだが、少くも彼自身はそう考えていないらしい。
鶴次郎は久助、鉄太郎は茂助を伴につれてゆく。どちらも高山に来てからの下男だが、いつの間にか各々の主人に似てきてしまったようなところがあった。
高山から南下して中山七里、美濃加茂から名古屋に廻り、伊勢湾岸に出て、松阪から宇治山田に行く予定である。
その第一日から、鶴次郎・久助と鉄太郎・茂助の対立がはっきりした。
鶴次郎はもう四十歳過ぎである。生れつき気が小さく、小うるさい。久助を対手に、どの辺りまで歩いたら休むか、茶代はいくらにするか、今夜の宿賃をどの位にするか、と言うようなことを、くどくどと話し合っている。
鉄太郎は茂助を対手に、ばか話をしながら、あちこちを見て歩いた。梢にとまって尾を上下に振りながら、鋭い声で鳴いている百舌《もず》や、民家の生垣の上に遊んでいる灰緑色の|ひわ《ヽヽ》を見ても、破れ寺の門内に咲き乱れている萩や、富農の庭に植えられている淡紅色の芙蓉《ふよう》が陽を一杯に受けて咲いているのを見ても、楽しい。
ゆっくり歩いているつもりでも早くなるので、時々、足をとめて遅れている兄を待つ。
「鉄太郎、もう少しゆっくり歩け」
「兄上の方が遅すぎるのです」
「わしはもう齢だ。お前とは親子ほども違う、そんなに早くは歩けぬ」
「じゃ、私は茂助と一緒に先に行きます。宿に入って一番手前の旅籠《はたご》で待っています」
「勝手にせい」
「茂助、来い」
鉄太郎は、さっさと歩き出す。
「茂助」
と話しかけて、横をみたがその姿がない。
茂助は、やや遅れていた。
茂助が、肩に背負っている振分荷物を見ると、鉄太郎は、ふいと後戻りをし、その肩の荷をとり上げた。
「あれ、若様、何をなさる」
「おれが持ってゆく」
「とんでもねえ。そんなこと」
「この方が楽だ。お前も早く歩けるだろ」
「そりゃもう――あ、いけねえ、若様、そんなことをなすっちゃあ、申訳ねえ」
鉄太郎は知らん顔をして、荷物を肩にさっさと歩いてゆく。
何と言っても聞いてくれないので、茂助は諦めた。
「申訳ござりませぬ。齢をとるとだらしがなくなって、ちょいとした荷物にも、足が重くなって」
「そんなことは構わんから、何か面白い話をしてくれ」
「面白え話ったって、若様、わしら何も知りゃしません」
「お前は前にお伊勢詣りをしたことがあるのだろう」
「へえ、もう四十年近く前になります」
「その時の話をしてくれ」
「そりゃいけません、若様」
「何故だ」
「わしらのお伊勢詣りは、目当てが違う。お詣りはかこつけで、本当の処は、お詣りの帰りに朝熊《あさま》あたりで、女遊びをするのが愉しみだったんで」
「女遊び?」
「へえ、若様はまだ御存じねえでしょう。あたし達は十六、七の頃からさんざん放蕩《ほうとう》しましたんで」
――このしなびた面《つら》のじじいにも、そんな時があったのかと、鉄太郎は改めて茂助の顔を見返した。
尤も、その、
――女遊び
なるものが、具体的にどんなことであるのか、鉄太郎はまだはっきり知らない。武家の日常生活は極めて厳格なもので、少年たちが猥雑《わいざつ》な書画や書籍に接する機会は殆《ほとん》ど全くないのである。身内の女性以外には、若い女と話をすることさえ無い。
――どんな事なんだろうか、
と、考え込んでいる鉄太郎を、茂助は上眼づかいにちらちら見上げた。
「どうも、つまらねえ事を申上げました」
「女遊びと言うのはそんなに面白いか」
鉄太郎はひどく真剣な顔つきで質ねる。
「そりゃ、若様、若い男にとっちゃ、何と言っても、これ以上の愉しみはございません。若様だって、若い美しい娘をごらんになれば悪い気はなさらねえでしょう」
「そんなもの、見たことない」
「へえ、そりゃねえ、江戸に比べれば、高山あたりの娘っ子は泥臭くて、美しいとはお思いにならねえかも知れませんが、なに、なかなか美しい娘も、おりますよ」
「そうかな」
「たとえば、それ、宗猷寺の門前の角の家にいるおみよ――あの娘なんてどうです。まだ莟《つぼみ》だが、今に高山小町と謳《うた》われるような美しい女になりますよ」
「おみよ――知らないな」
知らない、と言うのは本当でない。その家に自分と同年ぐらいの若い娘がいることは知っている。
しかし、それは娘がいると言うことだけで、その娘の顔をはっきり見たことがないのは事実であった。
――武士の子は、若い娘などの顔に見とれてはならぬ、
と信じている。それにこの頃は何故か、若い娘の近くにゆくと、妙に気恥かしくて、その顔がまともに見られない。思わず視線をよそに逸らせてしまうようになっている。
「宗猷寺にはあんなに始終行ってらっしゃるのに、おみよを御存じなかったんですか」
「うむ」
「じゃ、陣屋に来るおさとは御存知でしょう。それは出戻りで少々年増でございますが、なかなか別嬪《べつぴん》でございます。色が白くて、肉付もぽちゃっとして、陣屋の若い方々の間では大した人気でございますよ」
おさとは知っている。陣屋の人々の針仕事を引受けている女だ。が、これも、その顔を熟視したことはない。
「どうです。若様、おさとなど美《い》い女だとお思いになりませんか」
「分らん」
得意の女話に、鉄太郎が一向に乗ってこないので、茂助は諦めて口を噤《つぐ》んだ。
泊りを重ねて名古屋城下、七間町の富沢屋と言う旅館に草鞋《わらじ》を脱いだ。
あいにくその翌朝から豪雨。
――今日はもう一日、ここで泊るか、
と、鶴次郎、鉄太郎の一行は、観念したものの、若い鉄太郎にとっては、一日中、降り込められてじっとしているのは何より苦手だ。
――早く、やんでくれないかな。
鉄太郎は、廊下に出て、雨を睨んだ。
「ははあ、大分この雨が気に入らぬと見える」
傍《かたわ》らから声を掛けた者がある。三十を超えているだろう。立派な顔立ちだ。隣室に泊っているらしい。同じように縁側に立って雨を眺めながら、にこやかな笑《えみ》を洩らしている。
「怖い顔をして雨を睨んでも、雨はやまぬ。ま、少し気をゆるめて、自然にやむのを待つことだな」
――何を言っている。
鉄太郎は、知らぬ顔をしていた。
「貴公には、昨日、お会いしたな」
ばかに親し気な声だ。
「さあ、私は気がつきませんでしたが」
対子は年長者である。鉄太郎は言葉だけは鄭寧《ていねい》に答えた。
「昨日、小牧からこの城下にはいる道で、貴公は私を追い越していった」
「そうでしたか」
「ただの通行人だ。貴公が私に気がつかなかったのは当然だ。だが、私の方は、貴公をよく覚えている」
「何か、私に、おかしなところがあったのですか」
「大いにあったな」
男は、嬉しそうに笑った。
――無礼な男だな。
鉄太郎は、にこりともしない。
「貴公は肩に荷物をかついでいた。明らかに貴公のお供と思われる男は何も持たずに、くっついていた。あんまり見られない図だ。それで覚えていたのだ」
「誰が荷物をかつごうと勝手でしょう。あの方が、私にも茂助にも楽なのです」
「確かにそうだ。だが、普通には決してそうしないことだ。それを堂々とやっている貴公に、私は感心した。それで覚えている」
――なんだ、くだらない。
鉄太郎は、黙っていた。
「この城下の見物ですか」
対手が、話題を変えた。
「いえ、伊勢詣りです」
「ほう、私も伊勢の大廟《たいびよう》に参詣にゆくところですよ。隣合せに泊るとは奇遇だ。どうです、私の部屋に来ませんか、退屈しているのでしょう」
ひどく人なつっこい男である。
鉄太郎は誘われるままに、男の部屋にはいった。
「散らかしている。少し片付けよう」
男は部屋の中に展げていた画箋紙や、絵筆をざっと取り片付けた。
「さ、そこに坐ってください」
「あなたは画家なのですか」
「――画家ということになるかな、まあ、そう言うより仕様がない。主取りをしている訳ではないし、諸国を廻り歩いている。その路用は、絵を描いて稼いでいる」
「それなら画家でしょう」
「と言うことになるが、自分ではもっと他のものだと思っている。が、それはまあどうでもいい、貴公はお伴《つ》れがあるらしいが」
「兄です」
と答えた鉄太郎が、改めて名乗った。
「私は飛騨郡代小野朝右衛門の伜、鉄太郎と申します」
「これは申し遅れた。私は備前の産、藤本津之助、鉄石と号している。ところで貴公伊勢詣では、初めてか」
「はい」
「私は三度目だ」
と言った藤本鉄石が、急に鋭い目付になって鉄太郎の眼の中を覗き込んだ。
「貴公、どう言う気持で、伊勢大廟にお詣りする?」
この奇妙な質問に、鉄太郎は当惑した。
「どう言う気持と言って――私はただ父の代参にゆくのです」
「いかん、それではいかん」
鉄石が、大きな声を出した。
「父上の代参、それはそれでよかろう。だが、それだけではいかん」
「なぜいけないのです」
「自分自身で、伊勢の大神とは何かと言うことをようく考えて、自分自身の為に、神前にひれ伏して、大神を拝むのだ」
――ははあ、これは国学者と言うのだな、
と、鉄太郎は、心の中でうなずいた。
節斎から聞いたことがある。
国学者なる連中は、士人の嗜みとされている経史の書よりも、古事記とか日本書紀とか言う古い書物を尊重し、仏の教えよりも神ながらの道とやらを言うものを教えるらしい。
「そもそも、わが国の始まりは――」
鉄石は滔々《とうとう》として論じ出した。当時流行していた平田篤胤の国学に心酔しているらしい。非合理極まる宗教観を根底とし、独善的な排外主義を基調としたこの平田国学は、この頃ようやく旺んになってきた尊王攘夷運動の思想的根拠となっていたのである。
鉄太郎には、鉄石の言うことの半ば以上が何のことだかよく分らなかった。
ただその不思議な熱意に動かされてじっと耳を傾けている。
「貴公は今迄、国学を学んだことはないのか」
途中で言葉を止めた鉄石が質ねた。
「四書五経を少々学び、ほかに多少の漢籍に眼を通しただけです」
「いかん、それではいかん。古事記を読むのだ――いや、これは初めからではむつかし過ぎるかな、平田先生の古史徴、古史伝、いや、これもむつかし過ぎるかな。貴公、日本の歴史を知っているのか」
「よくは知りません」
「何と言うことだ、怪しからん。そうじゃ、先ず入門書として、神皇正統記《じんのうしようとうき》を読むといい、これなら誰にでも分る」
「はあ」
煙にまかれて聞いていると、
「ただ聞いていても、書物の名は覚えられぬだろう。書き留めておきなさい」
紙と筆とを手渡す。
鉄石が次々に挙げる書名を、鉄太郎は文字を聞返しながら書き留めていった。
「とりあえずその位でよいかな、ちょっと見せて御覧」
鉄太郎が差出した紙を受け取った鉄石が、眼を巨きくして、うーむと呻った。
「これは愕《おどろ》いた」
「そんなに間違っていますか」
鉄石は、首をふった。
「貴公、素晴らしい字を書く。全く愕いた。これは大したものだ、私など生れ変ってもこんな書はかけん。その若さで――一体、貴公、いくつになられる」
「十五歳です」
「なにッ、十五歳――ふーむ、からだも大きいし、言動からみて十七、八かと思っていたが、十五か、うーむ、十五歳でこれだけの書をかくとは恐れ入った」
鉄石は正直に感心してしまった。
「貴公はどこか違うと思うて、初対面にも拘《かかわ》らず、長広舌をふるってしまったのだが、やはり、異常の才があるらしい。となると、もう少し話しておきたい」
変り者らしい。
自分の荷物の中から、一冊の写本をとり出してきた。
「今迄話したのは、みなわが国古来の道を知るための書物だ。だが、それだけでは足らん。だめだ。まだ他にも、是非読まねばならぬ書物がある。これだ、これは寛政の始め、今から五十年以上も前に、林子平先生が書かれたものだが、出版の翌年、幕命によって絶版になった。しかし、その後、ひそかに写本として伝えられたもの、私も今頃になって漸《ようや》く手に入れたのだ」
と、差し出した写本の表紙には、
――海国兵談
と記されている。
「これはどういう書物なのです」
「素晴らしいの一語に尽きる。わが国は海にとり巻かれた国だ。そのお蔭で外敵の侵略から脱れてきたが、軍艦と航海術が発達したため、今では逆に、どの外敵からも攻め込まれる危険にさらされている。それを忘れて、外国船は長崎以外には来ないものと考えていては大変なことだ。江戸湾の入口、瀬戸内海の入口を始め、全国海辺に厳しい防備態勢を布かねばならぬ、と言うことを論じている。五十年以上も前にだ。私はさっきわが日本が世界に二つとない神国であると言ったが、その神国は今や、外国の侵寇《しんこう》に脅かされている。ただ眠りつづけていては、神国は護れない。林先生のこの書に説かれたように、全国民を挙げて武備をととのえ、万一の場合に備えねばならぬ」
鉄石は夢中になってしゃべりつづける。
鉄太郎は、茫然として聞き惚れていた。
漠然と頭の中にあったものにはっきりした形が与えられてゆくような気がした。
「私たちは同じ伊勢へ向うのだ。道中、この写本を貸してあげるから、読んで御覧」
奇妙な男だ。
十五歳の少年に秘蔵の写本を貸与した。
女中が夕餉《ゆうげ》の膳を運んできたので、ようやく鉄石は話を打切った。
「どうだ、少しは分ってくれたかな」
「はい、でも、まだ分らないところが沢山あります」
「どうせ、伊勢までは同じ宿に泊ることになるだろう。ゆっくり話して聞かせる」
「是非そうお願いします」
自分の部屋に戻ってくると、兄の鶴次郎は渋い顔をしていた。
「鉄太郎、何を話込んでいたのだ」
「色々、藤本先生から教えて頂いていたのです」
「何者だ、あの男は」
「大した学者だと思いますが」
「諸国を渡り歩いて、駄法螺《だぼら》を吹いている連中の一人なのではないのか。此頃はあの手合が多いと言う」
鉄太郎は答えなかった。この異母兄には、時々、そうした手をつかう。
藤本鉄石――この男が十三年後、大和で中山忠光を奉じて討幕の義兵を挙げた天誅組の三幹部として、吉村寅太郎、松本謙三郎と並び称せられる人物になろうとは、この頃は本人自身さえ予期していなかったであろう。
鉄太郎が出会った頃の鉄石は、思想の上での尊皇論者であり、熱心な海防論者であったに過ぎない。南画を描きつつ諸国を遊歴して有志と語らい、時世を憂える一人である。一般の人々はむしろ、その描く南画が、鉄石の純真無雑の天性のままに、気韻高逸なのを珍重した。
鉄石の思想が急旋回したのは、井伊直弼による安政大獄以降である。
――この暴虐、断じて許すべからず、
と、彼は、討幕論に転向し、それを実行に移していったのだ。
鉄太郎は、鉄石を、
――不思議な人物
と、感じた。
――色々な事を知っている珍しい人物
と、感じた。
それ以上に、その妙にひた向きな、すぐに人を信頼する邪気のない美しさに惹かれた。
鶴次郎の不機嫌を無視して、宿につくごとに、鉄石の部屋に行って話込む。宿は予め鉄石としめし合せておいたところに決めた。常に鶴次郎より先行して宿駅につくから、それは容易だった。
桑名、白子、松阪――と、夜ごとに話を聞くにつれ、鉄太郎は新しい世界を知った。
――一期一会《いちごいちえ》
と言う。殊に少年時代に接した人物の影響は、本人もそれと気づかぬほど大きい。
鉄舟は幕臣として最後まで徳川家の為に尽したが、同時に、幕府が天子の下で国政を司る機関に過ぎないことを自覚するに至った基礎は、この鉄石との会合にあっただろう。
それまで殆ど全く欠如していた国際情勢についての具体的な関心を深めるようになったのも、この時以降である。
「貴公が熱心に聞いてくれるので、私も話甲斐がある。私がこんな話をすると、妙に怖がってそっぽを向いてしまう者が多い。殊に年老いた連中はだめだ。若い者はいいな、素直に聞き、よく理解してくれる。そうだ、三、四年前だったか、出羽国へ遊歴した時、庄内の清川村で、斎藤という醸酒業者の家にしばらく世話になった事がある。そこの子息で八郎と言うのがいた。十七、八だったかな、なかなか頭の鋭い学問好きの青年で、私の言うことをよく理解して呉れたので、互いに俳句や漢詩を作って志を述べ合ったものだ。奥州の片田舎にもあんな俊敏な青年がいる――と私は嬉しかった。貴公もあの八郎に劣らぬ頭脳を持っているらしい」
鉄石がある夜、そう言った。この斎藤家の八郎と言う青年が、後に清河八郎の名で、鉄太郎の前に現れ、その運命と深くかかわり合うようになるとは夢想さえせずに。
五十鈴川に架《かか》った宇治橋を渡り、清らかな川の水で手を清め、亭々と聳える老杉、古樟の中の道をゆく。昼なお薄暗く森厳な空気のひしひし身に迫る眼前に、堅魚木《かつおぎ》をいただいた茅葺《かやぶき》の神殿が見えてきた。
後にブルーノ・タウトが、
――天から降ったような建築
と、驚異の言葉を吐いた建物である。
鉄太郎一行は恭《うやうや》しく神舎の前に跪《ひざまず》いて、拝礼をした。そして外宮《げくう》に向う。
両宮参拝を終えた翌朝、鉄太郎は鉄石の部屋に行って、海国兵談の写本を返却した。
「もっとよく読んで貰うとよいのだが、これ一冊しかないからな」
と言う鉄石に、鉄太郎が答えた。
「いえ、高山に戻ってから、ゆっくり読み直します。全部転写させて頂きましたから」
「えっ、本当か」
「はい、夜は遅くまで起きていると兄に叱られますので、未明に起きて、すっかり写し取りました」
「そうだったのか」
と、鉄太郎を見詰めた鉄石が、
「有難う」
と、頭を下げたので、鉄太郎は吃驚《びつくり》した。
「私の方がお礼を言わなけりゃならないのです。有難うございました」
「いや、私も礼を言う」
鉄石の顔は、朝陽を受けて、晴々と微笑していた。
「私はこれから、神官の足代弘訓に会いにゆく。神典、国文、律令に詳しく、歌道の嗜みも深い人だ。どうだ、一緒にこないか」
「お伴します。兄は今日一日休養すると言っていますから」
足代はすでに七十を越した老人であったが、意外に若々しい熱情で、日本の国体について話した。鉄石と色々な点で討論をしたが、鉄太郎にはよく分らない専門なことばかりだった。
足代の許を辞去し、宇治橋を渡り切った時、鉄石が急に足を止めて言った。
「貴公のお蔭で、このたびの旅は非常に愉しかった」
「私こそ、本当に色々お教え頂いて有難うございました」
「では、ここで別れる」
「えっ」
余り唐突に別離を言い出されたので、鉄太郎は少からず面喰《めんく》らった。
「そんなに、急に――一度、宿へ戻られては」
「いや、ここで別れた方がいい。健勝を祈る」
さっと身を翻《ひるがえ》すと、恐ろしく速い足でさっさと遠ざかってゆく。鉄太郎は、ひどく飽気《あつけ》ない思いで、その後姿を見送っていた。
離れがたい別れには、こうした唐突の別れ方が一番良いのだと言うことを悟ったのは、ずっと後になってからのことである。
[#改ページ]
剣 と 女
嘉永三年も暮に迫った或る日、鉄太郎は父に居間に呼び出された。
嵐山の風景を大きく描いたふすまを背にして、朝右衛門が坐っている。
客が二人いた。
一人は「修武館」の庄村翁助である。他の一人は始めて見る顔であった。細面の、眉の濃い、厳しい顔付きをしている。
庄村に挨拶をした鉄太郎に、朝右衛門がその未知の男を紹介した。
「鉄太郎、こちらは、江戸の千葉先生の玄武館道場で師範代をしておられる井上清虎先生だ」
と言ってから、井上に向って、
「これが、只今お話致した伜鉄太郎です」
と、多少、誇らし気に述べたのは、恐らく、鉄太郎の剣技について話していたからであろう。
鉄太郎の挨拶に対して、井上はややぶっきら棒に名乗り、ちょっと首を下げただけである。
朝右衛門が言葉をつづけた。
「井上先生が京から江戸へ帰られる途中、修武館に立寄られた。それで庄村氏からお願いして、しばらく当地に御滞在願って、御指南頂くことにした。お前もきびしく鍛えて頂くことにしたから、左様心得るがよい」
これは正確ではない。
井上八郎清虎が江戸へ戻る途中、わざわざ遠回りして、旧知の庄村翁助の許に立寄ったのは事実だ。
庄村は、それを直ちに朝右衛門に告げた。
――鉄太郎どのにはもう修武館で誰も敵うものがいない。私でさえも扱いかねている。井上氏が来たのは勿怪《もつけ》の幸い、井上氏を当地にとどめて指導して頂いては如何、
と言う。
鉄太郎はわずか十五歳で、修武館に無敵と言われるようになった事は、朝右衛門にとっても嬉しいことだった。
――修武館の小天狗
などと言う噂を耳にして、内心、誇らしく思っている。庄村から、かねがね、
――鉄太郎には剣の天稟がある
と言われてもいた。
――良い師につければ、もっと伸びる
と考えていた際だったから、庄村の申出にとびついた。
――井上を修武館の師範として招聘する。但し修武館には余裕がないから、井上への謝礼は郡代小野朝右衛門が負担する、
と言うことに、ほぼ話がついた。
一応、修武館の為と言うことだが、実際は鉄太郎の為だったと言ってよい。
「これから井上先生を修武館に御案内して、館生一同に御ひき合せする。鉄太郎も一緒に来なさい」
庄村がそう言って、朝右衛門に暇を告げた。鉄太郎は、庄村、井上両人の後について、白山神社境内の修武館に向った。
来合せていた館生に紹介された井上八郎は、突然、鉄太郎に向って言った。
「年にしては、図体が大きいな」
自分を招聘してくれた郡代の子息に対する言葉としてはかなり乱暴である。庄村は、ちらっと井上の顔を見たが、黙っていた。
鉄太郎も黙っていた。彼にとっては、年にしてはからだが大きいと言うのは、初対面の挨拶みたいなものだ。大抵の人からそう言われているから、何とも思わない。
が、井上は、更に乱暴な事を言った。
「修武館の小天狗とか言われていると聞いたが、少しはつかえるらしいな」
庄村が、眉を寄せた。
鉄太郎も、むっとして、頬に少し血をのぼせた。
「はい、多少は」
と、おとなしく答えはしたものの、その口調が少し尖《とが》っていたのは当然である。
「よし、支度せい」
井上が命じた。
今、この場で、どの程度のものか見てやろうと言うのであろう。
鉄太郎が井上の顔を見返したが、井上はそっぽを向いていた。明らかに、鉄太郎を小さな石ころのように軽視しながら言った言葉らしい。
――くそッ、
少年らしい憤りが、鉄太郎の全身の血を熱くした。
稽古道具を身につけ、竹刀を持って、道場の真中に出た。
井上は、防具は何一つつけず、竹刀を一本もっただけで、その前に立つ。
「手加減はせぬぞ」
いきなり、そう言った。
「お願い致します」
鉄太郎の憤怒は頂点に達していた。
――素面素胴でこのおれに対手をさせるつもりか、ようし、こっちも遠慮はしないぞ、
じっと井上の面を睨みつけた瞬間、何か異様なものが、全身を貫いて走った。
その異様な、閃光《せんこう》のようなものは、井上八郎の眼の中から、稲妻の如く射出されたものらしい。
凄じい眼光である。
つい先刻までの、人を小馬鹿にしたような、何事にも大した関心を示さぬような、あの瞳が、こんなに凄じいものに変貌しようとは、夢想もできないことだった。
――何くそッ、
鉄太郎は、必死に、その凄じく圧しかかってくる眼と、それが射出しつづけている閃光を撥《は》ね返そうとした。
どうしても、それができない。
じりじりと押されて、自分のからだが後に退がってゆくのが判る。
鉄太郎は、自分自身に対して強烈な怒りを感じてきた。その怒りを木刀の先に凝結させ、一気に、猪突した。
――小天狗の突き
として、修武館では恐怖の的になっている一撃だ。こいつを受けて気絶したものが何人いるか分らない。
防具もつけずにこの突きを喰らったら、恐らく息の根がとまるだろう。
鉄太郎はその必殺の突きを、井上の喉首に向って突き入れたのである。
見ていた者の何人かは、一瞬、思わず眼をつむってしまった。
――ぐうッ
と、奇妙な呻り声がした。
声を発したのは、鉄太郎である。
どどッと、二、三間後方にはね飛ばされ、尻餅《しりもち》をついていた。
井上の竹刀が、その喉を衝いたのだ。
しばらくは呼吸ができぬ。
目も眩《くら》んでいた。
全く信じられぬことが起ったのだ。しかしそれは確かに起ったのだ。
その事実を知覚した時、鉄太郎は、パッとからだを起した。
喉がひどく痛んでいたが、そんなことを気にする余裕は全くない。
言いようもない屈辱の念に、顔が燃えるようだった。
竹刀を右手にだらりと下げて突立っている井上の姿が視野に入ると、その喉元をめがけて、まっしぐらに竹刀を突込んでいった。
その竹刀の先が、何かにぶつかった――と感じた時、
――ぱしーん
と高い音がして、竹刀は鉄太郎の手から宙に舞い上った。
――おのれッ
慌てて竹刀を拾いとって、再び井上の方に突込んでいった途端、頭の頂上に強烈な一撃を喰らって、半ば意識を喪った。
気をとりなおした時、
「どうだ、まだ来るか」
と言う冷い声を聞いた。
「むろんのこと――」
と叫んだつもりが、声にならない。
今度はさすがに、すぐには撃ち込もうとはせず、一歩退いて正眼に構えた。
対手は依然として、竹刀を右手で無雑作に握り、下に垂らしているだけだ。
――打ち込めぬ筈はない。
鉄太郎は、渾身《こんしん》の気合をこめて、突きを入れた。
鋭く右に払われ、逆に喉を突かれた。
呼吸が止まるかと思うほどの痛烈な痛みに、不覚にも一瞬眼を閉じると、間髪を容れず頭上に一撃をくらって、鉄太郎は昏倒した。
起き上る力もなくなっている鉄太郎を、上から見下ろした井上が、
「どうやら、根性だけは、多少見どころがあるようですな」
茫然《ぼうぜん》としてこの有様をみつづけていた庄村に向って、落着いた声で言った。
「少々手荒過ぎはせぬか」
座敷に招じ入れた時、庄村が井上の横顔を盗み見ながら言った。
「郡代に改めて申上げて頂きたい。私の稽古は手荒い。それを御諒承の上でならば、師範役をお引受けさせて頂く。手加減せよとのことならば、お断り申上げる――とな」
庄村は、すぐに陣屋にとって返して、朝右衛門に、見たままのことを報告した。
「私から推薦しておきながら、今更かような事を申上げて寔《まこと》に申訳ありませぬが、どうも井上の稽古ぶりは余りに烈し過ぎるようです。一応、師範の話は白紙に戻した方がよかろうかと思いますが」
「きびしく――とは言ったが、まさかそれほど乱暴なことをするとは」
と、朝右衛門も少からず愕いた。
「しかし一旦、お願いしたことを今更、お断りすることも出来まいが」
「いや、井上の方から、自分の実際の稽古ぶりを見せて、再考の余地を与えてくれたのですから、それは構いません。私から適当に話をつけましょう」
と話している時、鉄太郎が戻ってきた。
「父上、只今戻りました」
と言う鉄太郎を見ると、喉元が赤くはれ上っているし、頭に瘤《こぶ》ができている。
「ひどい目に遭ったらしいな、鉄太郎。心配するな、庄村氏から聞いた、井上氏の師範役をお断りしよう」
「何をおっしゃるのです、父上」
鉄太郎が叫んだ。その声が少しかすれている。まだ喉が痛いらしい。
「私は、是非とも井上先生に教えて頂きたいと思います。剣の道のきびしさ、嶮《けわ》しさ、素晴らしさを、これほどはっきりと見せつけられたことはありませぬ。修武館の小天狗などと言われて良い気になっていた自分が恥かしくてなりませぬ。上には上があるものと、つくづく思い知らされました。あんな立派な先生に教えて頂けるのは望外の仕合せです」
「本当にそう思うのか、鉄太郎」
「はい」
朝右衛門と庄村とが互いに顔を見合せた。
――本人がそう言うのなら
――いつ迄我慢できるか分らぬが
と、とに角一応、井上を修武館の師範として迎えることに決定した。
井上八郎清虎、時に三十五歳、すでに北辰一刀流の剣客として名声を馳せている。
武州の郷士とも言うし、日向延岡藩の浪人だったとも言う。
神田お玉ケ池千葉周作の道場玄武館で、海保帆平と並んで、龍虎と称せられていた。
その剣法の特色は、気魄《きはく》凄絶、激烈果敢、稽古の時でさえ少しも太刀先を加減しないので、玄武館の門弟たちは、その対手に選ばれると恐怖におののいたと言われている。
修武館の新師範としての井上に、最初の稽古をつけて貰うために道場に出た鉄太郎に向って、井上は、又しても、人を小馬鹿にしたようなことを言った。
「まだ、私が対手をする段階ではない。太刀先に本当の魂がこもるようになるまで、素振りをやることだ。毎日面と突きとを、それぞれ二千回ずつ練習するがよい」
修武館の小天狗も、まだ一人前の対手としては評価されていないらしい。
だが、鉄太郎は、今度は何の怒りも屈辱も感じなかった。
――井上先生からみれば、自分などはまだ幼児に過ぎぬのだろう。
「はい、先生」
と恭しく頭を下げ、面具を外し、木刀を握って命じられたままに、素振りをやり始める。
対手は、眼前の空気だ。
手応えのないことおびただしい。
だが、その空気に向って、渾身の力をふるって、
――面
――突き
と呶号《どごう》しつつ、木刀を叩き下ろし、突きまくる。
五百回、千回、千五百回とつづけると、全身汗みずくになり、肩がしびれ、眼が霞んでくる。思わず、力が少しでもゆるむと、
「何じゃ、それは。それで人が斬れるかッ、しっかりしろ」
傍らにあって、じっと見詰めている井上が、酷烈な叱咤《しつた》を飛ばす。
面、突きおのおの二千回、合計四千回の素振りを終えると、もう井上に一礼している間気力を保っているのがやっとのことだ。控えの部屋に転がりこんで、そのままぶっ倒れ、しばらくは起き上れぬほど疲労し尽していた。
一ケ月、これがつづいた。新しい年がきた。
まだ、井上は自ら稽古台にはなってくれない。
それどころか、或る日、
「ばか者!」
と、大喝した。
愕いて刺撃を止めた鉄太郎を、ぎらっと光る眼で睨みつけたかと思うと、
「突きは、この気魄でやるものだ」
と言うが早いか、気合もろともいきなり手にしていた木刀を道場の羽目板に向って、一直線に突きつけていった。
――ばりっ
大きな音がして、羽目板が震動した。
井上の木刀の先は、厚さ一寸(三センチ強)もある羽目板を貫いて外に突出ていた。
鉄太郎は、目を洗われたように凝然としてその凄じい羽目板の破れを見守った。
――まだ、自分はだめだ、だが、いつか必ず、先生のように羽目板を突き通すほどの気合を会得してみせるぞ。
新しい意欲が、疲労し尽していた鉄太郎のからだに、ふつふつと沸き上っていた。
三ケ月経って、ようやく、
「面をつけい、対手をしてやろう」
と言われた時は、天にも昇る心地だった。
――また気絶させられるだろう、
と覚悟していたが、井上のやり方は、あの最初の立合いの時とは全く違っていた。
自分でも面具をつけ、
「どこからでも打って来い。竹刀がわしのからだのどこかを掠《かす》れたらお手柄だ」
と言う。
――いかに自分が拙《つたな》くても、その位は、
と、意気込んでかかっていったが、どうしても井上のからだに竹刀の先を触れさせることが出来ない。
三時間位ぶっつづけに翻弄され、ふらふらになった時、一本、強烈な面をとられ、
「参りました」
と、思わず膝をついてしまった。
毎日、そんな日がつづく。
いつ迄経っても、進歩したようには思われなかったが、その実、鉄太郎の剣技は目醒しい進境を示していたのである。
それは、井上に言われて、他の館生と立合ってみた時にはっきり分った。
以前から鉄太郎に優る館生はいなかったのだが、その中の数名に対してはかなり苦戦することがあった。
それが今や、まるで幼児を扱うように簡単に叩き伏せられるのだ。
庄村には三本に一本とるのがやっとであったのに、今や、二本つづけて楽々ととった。
――いつの間に、こんなに進歩したのか、
鉄太郎は自分でも不思議に思った。
――やはり井上先生のお蔭だ、
と、改めて師に対する信頼感を増す。
井上は、ほとんど鉄太郎につききりで指導している。
――ものになりそうなのは鉄太郎だけだ、
と、庄村に対してはっきり言った。
――あとの有象無象《うぞうむぞう》はお主に任せる、
と言うのだ。
――ひとを莫迦《ばか》にしている、
と庄村は苦笑したが、井上の実力を知り、鉄太郎の将来を期待しているので、別に腹を立てるようなこともない。
嘉永四年の春もたけなわになった。
山国の町でも、春の陽はうらうらとのどかに照り、夜になれば月の光も灯の影も、朧《おぼ》ろにかすむ。
日中のはげしい稽古にエネルギーを消耗し尽している筈の鉄太郎が、宵やみの迫ってくる頃になると、何か異様な精気の充実を感じることが多くなってきた。
その得体の知れない精気の充実感は、時々耐えきれないまでになり、大声で絶叫し、縦横に走り廻りたいような衝動が、体の底からつき上ってくる。
――何だ、これは、おれは一体、どうしたのだろう、
鉄太郎は自分自身を訝《いぶか》った
精気の横溢《おういつ》は、それが拡散されないため、次第に堪え難い焦燥感のようなものになってゆく。
その焦燥感は、道場が休みの日などはついに夜ばかりでなく、日中でさえ、鉄太郎を襲ってきた。
何となく苛々《いらいら》しながら、庭石を踏んで池の方に向って歩いていると、書物蔵から出てきた朝右衛門がそれを見つけ、しばらくじっと見ていたが、
「鉄太郎!」
と、声を掛けた。
「どうかしたのか、妙に落着かぬ様だが」
鉄太郎は、少し慌てた。
「どうもしませぬ、ただ――」
「ただどうしたのだ」
「あの――剣の上の工夫がつかないので」
と、辛うじてごま化した。
「井上先生に教えを乞うたのか」
「はい、先生は――自分で工夫せよとおっしゃいました」
これはいつも、井上の言うことである。
「そうか」
朝右衛門は、池の畔《ほとり》の石に腰を下ろした。
「鉄太郎、ここへ来い」
父親として何か伜の為にしてやりたいと言う気になったのかも知れぬ。日頃あまり心を見せ合う機会のない伜に、父親らしい権威をみせたくなったのかも知れぬ。
自分の前にうずくまった鉄太郎に向って、朝右衛門は珍しいことを言った。
「鉄太郎、禅をやれ」
「は、禅?」
「そうだ、剣の道と禅の道は、究極において一致する。わが小野家の先祖高寛|君《ぎみ》は、剣と禅の両道に達しておられたが、旗印には、『吹毛不曾動(毛を吹いて曾《か》つて動ぜず)』と言う五字を記して、しばしば戦功を樹てられた。髪の毛が風に吹かれて動く。すべてが動く。だが己れは動かぬ。渾吹《こんすい》にして不吹、渾動にして不動――この剣禅両道の極意を、高寛君は体得して、生死無二の不動心を養われた。お前も禅学を学べば、剣の上の迷いを解くよすがとなるかも知れぬ」
分ったようなことを言ったが、その実、朝右衛門は剣も大したことはないし、格別、禅学を究めたことはない。
先祖高寛は小野家の自慢で、代々その言行を言い伝えてきている。朝右衛門は、自分の父から聞いていたことを、思い出して、この機会に鉄太郎に向って話して聞かせただけだ。
話はしたものの、禅学については自信がない。
「宗猷寺に行って俊山和尚にでも、少し禅の話を聞いてみるといいな」
と、急いでつけ加えた。
鉄太郎は、父の言ったことを考えてみたがさっぱり分らない。
――和尚に聞いてみよう。
久しぶりに宗猷寺を訪ねる気になった。
堀端町から江名子川を渡ると、その東岸は寺ばかりずらっと並んでいる。その南寄りにあるのが宗猷寺だ。
寺の前の角を曲ろうとした時、ばたばたと駈けてきた娘が出会頭に、鉄太郎とぶつかりそうになった。
鉄太郎は咄嗟《とつさ》にはっと身をかわしたが、愕いて急にとまろうとした娘は、小石に足をとられたのか、前のめりに倒れる。
――危い、
鉄太郎は無意識のうちに片手を差しのべ、娘の胸を抱きとめ、前屈みになった上体を支えたが、慌ててその手をひっこめた。
鼓動がはげしくなり頬が熱くなっている。
母の胸と膝とを離れてから、女のからだに触れたことはない。それが急に女の、それも若い娘のからだの重みをしっかりと抱き止めたのだ。
奇妙な感覚が全身を走り、血管の中の血がぽっと燃えるようだった。
「御許し下さいまし、つい慌てていて申訳ございません」
と、これも頬を紅らめて詫《わ》びを言った娘が、鉄太郎の顔を見上げると、
「あ、陣屋の若様」
と、更に頬の紅るみを濃くした。
――おみよだ、
鉄太郎も、その娘は知っていた。が、何と言ってよいか分らなかった。
「や」
と、うなずいて逃げるように歩き出そうとして、娘が草履《ぞうり》の鼻緒を切ってしまっているのに気がついた。
懐中から手拭をとり出すと、娘の手に押しつけ、
「これで結んで、家に戻ればいい」
怒ったような声で言いすてて、さっさと去ってゆく。
「若様、そんな――」
おみよは、追いかけようとして止め、手拭を固く握りしめたまま、鉄太郎の後姿を見送った。
鉄太郎は、宗猷寺の山門をくぐり、方丈に行った。
座敷で何か書物を展げていた俊山は、庭の方からはいってきた鉄太郎を見ると、
「これは珍しい。よくここへ来る道を忘れなかったの」
「御無沙汰致しました」
俊山は縁側に出てきた。
「さ、ここへ来るがいい。滅多に現れぬものがやってきたところを見ると、何かしでかしおったな」
「何も別に、しでかしてはいません」
「ふふうむ。そうかな、そうかな。さして暑くもないのに上気したように頬が紅い。走って来たとも見えぬのに、呼吸も少々乱れているようじゃ、妙だな、妙だな」
――この和尚、分るのかな、
鉄太郎は、ちょっと驚いた。
「急いでいたので、あそこの角で向うから来たひととぶつかりそうになり、先方は履物《はきもの》の鼻緒を切ったのです」
「何じゃ、そんなことか。それにしても、武芸錬達と噂の高い鉄太郎にしては、不覚なことじゃな」
「不覚でした。修業が足りません」
「ふん、変に神妙だな、今日は」
「その修業のことで和尚様に教えを乞いに参ったのです」
「坊主に剣の修業のことなど分りはせん」
「いえ、父上が言われました。剣の道について迷いを生じたら、和尚様の処に行って禅の話を伺ってこい――と」
「ははあ、剣禅一致と言うお題目か、それはな、口では簡単に言うが容易に到達できる境地ではないな。わしがここで禅とは何ぞや、心これなりと言うような御託《ごたく》を並べても何もなりゃせん。お前さんが自分で自分の心を、心の本体を掴む以外にはないな」
「その自分の心――と言うのが、さっぱり分らないのです」
「わしにも分らん」
「殊にこの頃は、何だか落着かないで、いらいらします。道場で木刀なり竹刀なりを握っている間は何もかも忘れているのですが、陣屋でぼんやりしていると、からだ中が燃えるようで、骨と肉とが互いに格闘し合うようで、頭の中がくしゃくしゃして、どうしようもなくなり、気が変になるのではないかと思われることがあります」
「阿呆!」
「は?」
「それは、心の混乱ではなく、からだの混乱じゃ。むろん、心とからだとは二にして一、形と影のようなものじゃが、言ってみれば心が主でからだは客、心を落着かせねばからだは落着かず、からだを落着かせねば心も落着かぬ」
「どうしたら両方が落着くでしょう」
「それは先刻も言った通り、自分で自分の心の本体をしっかり見極めることじゃ。そうすればからだも同時に、しっかりと自分の心の中に掴まえることができる」
「分りません」
「当り前じゃ、そんなにすぐ分るものなら、禅学も坐禅もいらんことじゃ、ま、聞け」
俊山は、禅の修行について、色々と説明したが、鉄太郎は眉を寄せたままである。
そんな原理的な話は、現に鉄太郎をなやましている混乱を解決するには、何の役にも立たないのだ。
思春期の少年を襲う心情の暴風がどれほど苛烈なものであるか、その余りにも急激な肉体の成長と精神との相剋《そうこく》が、どれほど微妙繊細なものであるかを、俊山は全く理解していないのである。
俊山の話は、乳を求めて泣く嬰児《えいじ》に、新しいおむつを持ってきて押しつけようとするようなものであった。
鉄太郎は、少々がっかりして、宗猷寺を出た。
――和尚の言うことは、よく分らぬ。分るまで何度でも来てみよう、
素直な鉄太郎は、俊山の話が現在の自分の悩みにとっては的外れであることには気がついていたが、剣の修業の上では何か新しいことを悟るよすがになるかも知れぬと考えたのである。
門前の角の店から、おみよが走り出してきた。見張っていたのだろう。
「あの、若様、先程は有難うございました――これを」
と、新しい手拭を差出す。
「それは、私のではない」
「いえ、あの、若様の御手拭は、お言葉に甘えて私は、使わせて頂きましたので、これを代りにお使い下さいまし」
おみよと話をしている間、向い合って立っているのが、我慢のできぬほど苦しい。呼吸が詰まるようで、ひどく照れ臭く恥かしい。
「いらん」
と、一声言いすてて、逃げ出した。
「若様!」
二、三度聞こえた背後の声が聞こえなくなるところまできて、足をゆるめた。
背中にじっとり汗が滲《にじ》んでいた。
その日は一日中、おみよの面影が眼の前にちらついていた。
おみよの胸を支えた時の感触が、いつまでも手のひらに残っている。
――ばかなッ、女のことを考えつづけているなど、
と口惜しくさえ思うのだが、心外千万なことには、その夜、夢にまでおみよが現れた。
が、同時に奇妙なことが起った。
あれほどいらいらし、持て余していたむしゃくしゃした気分が、すっと消えてなくなってしまったのだ。
恐らく、何かをしっかりと掴みたくて焦っていた少年の心が、おみよという対象を掴まえることによって一応の落着きを獲得し、それに伴って肉体的な混乱も鎮静したのであろう。
――和尚に禅の話を聞きにゆこう、
鉄太郎は何日おきかに、宗猷寺に行った。
むろん、自分でもわざと気のつかないふりをしているが、内心の希願は、おみよに会えるかも知れぬと言う方にあった。
おみよは、いつでも、店の前にいた。いや、店の中から鉄太郎の姿を見付けると、用あり気に店の前に出てきたのだ。
それを遠くから認めると、鉄太郎は胸の鼓動が高くなり、眼のふちが千裂《ちぎ》れそうになる。真正面をみたまま、夢中で店の前を通り過ぎてしまう。
とても、おみよの顔などまともに見る勇気はない。にも拘らず、その度に、
――今日もおみよに会った、
と言う鮮明な印象を得ていた。眼でみるよりも、心でみる方が、印象は確かなのだろう。
俊山の話は、依然として、余り多くのものを鉄太郎に与えなかった。
鉄太郎の方にも、罪はある。俊山の話よりもおみよの方がより多く心を占めていたのであるから。
しかし、もっと基本的には、俊山が、禅学と言うものを、形の上で修得し、知識の上では理解していたが、その本来の意味において体得するに至っていなかった為であろう。
書道において、鉄太郎は、一亭と言う良師を得て入木道の真髄に触れることができた。
剣の道において、井上清虎と言う優れた師を得て、その奥義に分け入る道をひたすらに進んでいる。
この両者とも、それぞれの師は、ただその技《わざ》において師であるばかりでなく、その道の魂を鉄太郎に導入する能力を持っていた。技の伝授は、師弟の間の魂の交流と共に行われたのである。
俊山はただ形と知識の点で、禅学の門に鉄太郎を導き入れようとした。
少年の本能は、そのような導入を拒否していた。彼がこの道で、本当の師にめぐり会うのは、ずっと後のことになるであろう。
だが、俊山が、鉄太郎に対して、思わぬ功徳《くどく》を施したこともある。
俊山が鉄太郎と話している時、おみよが顔を出した。
和尚から依頼されていた仏具を持ってきたと報告する。俊山は気軽にそれを受取り、
「あ、おみよ、ちょっと奥に行って、これでよいか調べてくる。お前ここで、鉄太郎の対手をしていてくれ」
と、奥へはいって行ってしまった。
おみよは、鉄太郎に会う為に、必死の勇気をふるって、用件をこしらえてやってきたのだが、思い掛けずも二人切りにされてしまうと、度を失って、眼のやり場に困った。
鉄太郎の方も、突然現れたおみよをみて、全身が悦びに躍るような気がしていたが、同時に、羞《はじ》らいの為、こちこちになっていた。
話が、全くない。
武家の少年が若い娘と二人切りで話をする機会など絶無である。共通の話題のある筈がなかった。
社会・宗教・文学・音楽・演劇などについて自由に話し合える現在の若い男女がこんな二人をみたら、噴き出すだろう。
だが、これらのテーマについて、当時の若い男女は何の知識もなく、話すための語彙《ごい》もなかった。まして、精神的な憧憬や苦悩について語り合うことなど、到底不可能であった。
「いつぞやは――」
おみよが、小さな声で言った。
「いや」
鉄太郎が答えた。
俊山が戻ってくる迄に、十六歳の鉄太郎と十五歳のおみよとの間に交わされた会話は、これがすべてであった。にも拘らず二人は、数日に亘って、夢の如く仕合せであった。
七月半ば、まだ暑い盛りに、おいそは高山に来てから三人目の児を出産した。
七十の半ばを超えていた朝右衛門は、さすがに少々照れくさかったらしく、
――もうこれで、うち留めにしよう、
と苦笑して、生れた男の児に、留太郎と言う名をつけた。
おいそは四十一歳である。高年の出産ではあったし、暑気にも当てられ、産後の回復が思わしくなく、寝たり起きたりしている。前年父秀平が死んだ事もひどくこたえていた。
鉄太郎は、母に代って幼い弟たちの面倒をみることが多く、修武館の稽古も時々は休むことがあった。
その間も絶えず、おみよのことは念頭にある。おみよのことを考えていると愉しい。
――明日も、宗猷寺へ行こう、
と思う。同時に、道場の方は今日も休んだことを、ちょっと恥かしく思う。
妙に甘ったれた気分になっているのだ。
その甘ったれた気分を一挙に粉砕された。
「鉄太郎、どうかしておるぞ、この頃は。その中に自分で気がつくかと思うて容赦しておったが、一向に癒らん。そのだらけ切った性根を叩き直してやる。来いッ」
井上が、恐ろしい眼付きで、頭上から浴びせかけたのだ。
道場に引張り出されて、完膚なきまでに叩きのめされた。
ついに気を喪って、漸く放免された。
――そうだ、自分はこの頃全くだらけ切っていた。おみよに心を奪われてしまって、修業の心を喪ってしまっていた。恥かしいことだ。
鉄太郎は、率直に反省した。
――おみよには会うまい、寺にはゆかぬ、
そう決心した。
それは、恐ろしく辛いことだった。
おみよの姿に対する飢渇感は、肉体的な苦痛にまで高まった。
それでも鉄太郎は我慢した。
――自分の心が抑え切れぬようでは、武士の子とは言えぬ。
必死になってそう自分を説得した。
だが、その説得も、理性の枠も、つき破りそうになるほどおみよの牽引《けんいん》力は強かった。
どうしても堪えられなくなり、
――明日、ほんの一目だけ、それ切りだ、断じてそれっ切りだ、
と譲歩しながら床についたが、夜半に叩き起こされた。
後架《こうか》に立ったおいそが、急に脳卒中で倒れたのである。
家族一同が枕元に集ったが、手の施しようがない。八ツ刻(午前二時)息を引取った。苦痛は殆どなかったらしい。
嘉永四年九月二十五日である。
事実上、陣屋の主とも言うべき存在であったおいその死に、陣屋の人々すべてが、痛切な、いつわりならぬ哀悼の念を示した。
遺骸は、宗猷寺本堂正面の松の樹の下に埋められた。
法名は、喬松院雪操貞顕大姉
おいその死によって、最も痛烈な打撃を受けたのは、むろん、朝右衛門であろう。もはや老い朽ちたとも言うべき年配になって、多勢の子を残されたまま、妻に逝かれてしまったのだ。
それは彼にとって、日常の生活の円滑な快適な進行が止まってしまったことである。そして亦、領内の行政上においても、よき助言者が急に消滅してしまったことでもあった。
従って朝右衛門の、おいそに対する哀惜の念の中には、
――あれが死んでは困る、おれが困る、
と言う手前勝手な理由からくる要素もかなり強かったであろう。
おいその死を、より純粋な意味で、烈しく悲しみ、魂をえぐられるような思いをしたのは、鉄太郎であった。
鉄太郎は、毎夜、陣屋を抜け出し、宗猷寺に行った。
母の墓標の前にぬかずいて母に語りかけた。
――母上、お淋しいでしょう、鉄太郎がここにおります、
厳しい母であったが、優しい父よりも遥かに、懐かしく慕わしく甘えることの出来る母であった。
その母はもう、永久に戻ってこない。
――母上が急死されたのは自分が、おみよなどにうつつを抜かしていた罰であろうか、
などとも考えてみる。
宗猷寺に行くにもおみよの店の前は通らずに、遠回りしていった。たとえその前を通ったとしても、店はぴったり表戸を締めて、家族一同は寝静まっていたに違いないのだが。
深夜の墓参に気のついた者もいる。
陣屋の見張りの者が、最先に深夜裏門から出てゆく鉄太郎を見つけた。後を尾《つ》けていって、事情を知り、翌朝、朝右衛門に告げた。
朝右衛門は、
――うむ、
と、うなずいただけである。鉄太郎に対しては何も言わなかった。
宗猷寺の俊山も、夜半、手水《ちようず》に起きて、怪しい人影を認め、それが鉄太郎であることを知った。
――可哀そうに、
和尚も亦、鉄太郎に何も言わなかった。
鉄太郎に注意を与えたのは、井上清虎である。朝右衛門からこのことを聞くと、鉄太郎に向って、いつになく優しい声で言ってきかせた。四十九日法要の席上である。
「気持は重々分る。だが、そんな事をつづけていてはからだを壊してしまうぞ。それでは却って、母上への不孝になろう。死は何びとにも避け難い定め、母御のことを忘れることはできまいが、どうにもならぬことと諦めることは必要じゃ」
翌五十日目を以て深夜の墓参は中止された。
おいその死後、朝右衛門は急速に老衰ぶりを示した。
せいぜい気を張ってみせてはいるものの、後姿などには、みじめなほどよぼよぼしたものが感じられる。
――郡代はよっぽど奥方に惚れていたのだなあ、
――むりもない。よくできた美しい奥方だったからなあ、
陣屋の人々が、そう言い合った。
馬に乗って町を巡回する時なども、
――あれ、陣屋の殿さまじゃねえか、ずいぶんお痩《や》せなすったなあ、
と、町の人々が噂した。
役向きの仕事がない時は、居間の炬燵《こたつ》に足をつっこんで、しょんぼりしている姿が、今にも消え失せそうに見えた。
おいその残した子供たちの世話は、すべて鉄太郎の双肩にかかってきた。
別居している異母兄鶴次郎夫婦は、全く構いつけないのである。
嬰児の留太郎には乳母をつけたが、乳母が肉親の死亡で実家に帰っていた間などは、鉄太郎が嬰児を抱いて、乳を貰いに歩いたぐらいであった。
すぐ下の十三歳になる弟金五郎は、道場に連れて行った。兄に似て、剣の筋は頗《すこぶ》る良い。
十歳の鎌吉、七歳の駒之助、五歳の飛馬吉の勉学や遊びの対手もしてやらなければならない。休む間もない忙しさだ。だが、その忙しさが、亡き母を憶う哀しみを、どうやら紛らせてくれた。
酷寒の季節がやってきた。
雪が町を覆った。
町の中でも、菅笠《すげがさ》をかぶり、バンドリ(大みの)を被《き》た男たちが、雪水をぽたぽたこぼしながら、ズンベ(藁製の雪ぐつ)の足を重そうに引きずって歩いた。
年が明け、嘉永五年春がやってきた。
鉄太郎は数え年十七歳になった。
その十七歳に対するプレゼントは、無惨なものであった。
珍しく晴れが二、三日続いた或る日、外から戻ってきた茂助が、鉄太郎の顔をみると、ふいと言ったのである。
「若様、宗猷寺の前の、おみよが嫁にゆきましたよ。あれ、若様はおみよのことは、御存知なかったっけかな」
「おみよが、嫁に――」
「へえ、対手は何でも近在の酒屋だとか、器量好みで、むりやりに貰われていったそうですよ。がっかりした者が多いでしょうに」
茂助は、長屋の方に去っていった。
鉄太郎は、茫然と宙を見詰めたままである。両肩の筋肉がすぽっと削りとられたような急激な無力感の中で、しばらくは思考力が回復しなかった。
不意に、言いようもない淋しさが、冷い流れになって体内に吹き入り、胸のあたりからすっと抜け出ていった。
母の死ぬ少し前から、宗猷寺へ行くにも、おみよの店の前は通らぬことにしていたし、おみよのことは念頭から振り棄てようと一心に努めてきていた。
母の死と、それにつづく忙しさが、おみよのことを、思考の片隅に追いやっていた。
だが、むろん、全く忘れ去っていたのではない。
――おみよが、嫁に行ってしまった、
もうどうしようもないと言う絶望感が、鉄太郎の魂を、鷲の爪よりも鋭い力をもってひっつかんだ。
おみよが、嫁に行かなかったとしても、どうにもならなかったろう。郡代の伜が、町方の娘を嫁に貰える筈はないのだ。
だが、
――おみよが、あの店にいる、
と言うことだけで、大きな慰めにも悦びにもなっていた。そのおみよに会うことを自ら禁止することでさえ、傷跡に唾をつけて叩くような痛みに似た快感を伴っていたのではなかったか。
――おみよは嫁に行ってしまった、
鉄太郎は、何十回、何百回となく、頭の中で、脳の底で繰り返した。
信じられぬほど不当な、あり得べからざる間違いのように思われた。
――からだの具合がよくない、
と称して、道場へ行くのを休んだ。事実、余りに烈しい精神の打撃は、彼の肉体をも少からず衰弱させていたのである。
「若様、お稽古をお休みならば、その間に稽古着の綻《ほころ》びなど、おつくろい致しておきましょう」
庭先から声をかけた女がいる。
陣屋の針仕事を引受けているおさとだった。二日おきぐらいに陣屋にやってくるが、いつも、勝手廻りの方で用を足している。この内庭まではいってきたのは初めてだ。
遊び疲れて睡ってしまった飛馬吉の側で、ぼんやり縁に腰をかけていた鉄太郎は、少しびっくりした。
「どこも、綻びてはいない」
「そんなことはございませんでしょう。弟御さまたちの御召物は、どれも綻びておりました」
「私のものは、自分でつくろう」
「何をおっしゃるのです。若様、私がしてあげます。お出しなさいませ」
にこにこ頬笑みながら、色の白い、ぽっちゃりした年増の顔が近付いてくる。
鉄太郎は、慌てて、膝を立てた。
「若様、お逃げにならなくても、いいでしょう」
「逃げはせん」
「じゃ、ここにこうして、じっと坐っていらして下さいな」
おさとは馴々し気に、鉄太郎の横に腰を下ろし、鉄太郎の左腕をとらえた。
――離せッ
鉄太郎は心の中でそう叫んだが、それは声になって外には出なかった。
「若様、奥方様がお亡くなりになってからずっと、五人の弟御様のお世話を独りでなさっていらっしゃいますのね。大へんでございましょう」
「そんなでもない」
「いいえ、みんな本当に感心しています。なかなか出来ぬことですもの」
「自分の弟だ、当り前だろう」
おさとは、横目で鉄太郎を盗み見た。
額が広く、眉が濃い。双眸《そうぼう》はいかにも若々しく澄み切っている。手を当てている腕の筋肉は、齢とは思われぬほど隆々としている。
――美しい、凜々《りり》しい、逞しい、可愛いお方
おさとは、鉄太郎に対して、食欲のようなものを感じた。
だが、出戻りの女だ。あまり急ぎすぎてはいけないと自制するだけの余裕は持っていたらしい。
「ねえ、若様、末の坊ちゃまには乳母がついています。駒之助様と飛馬吉のお二人、私がお世話して差上げましょうか、お遊び対手ぐらいならつとまると思いますが」
――そうして貰えば、助かる。
「うむ、父上に話してみる」
「あれ、そんなことをわざわざ殿様に申上げなくても、私が御陣屋に向う時に、お対手させて頂くだけですから」
「うむ、頼む」
おさとが、くすりと笑った。
「何がおかしい」
「若様が、むつかしい顔をしていらっしゃるからです。何をそんなに憤っていらっしゃるのです」
「別に、憤ってはおらん」
「本当に?」
おさとは、肩をぐっと寄せてくる。
鉄太郎はびくっとしてからだを離した。
「あら、若様、私が怖いのかしら」
「怖くなぞない」
「じゃどうしてお逃げになるの」
「私は修業中の身だ。女に近づいてはいけないのだ」
「まあ、剣の修業に、女は邪魔なのでございますか」
「そうだ」
「その御修業は、いつ迄つづきますの」
「修業は一生だ」
「じゃ、一生、女に近づかない?」
女は少し首をかしげて覗き込む。鉄太郎には答えられなかった。
「道場の庄村先生は奥様もお子様もおいででしょう。でも別に御修業に差支えはないように見えますけれど」
「あの位になれば、別だ」
「うそ、若様の方が、庄村先生よりお強いと聞いています」
「そんなことはない」
「だめ、そんな嘘をおっしゃっても、若様は、女が怖いんでしょう。意気地なし」
おさとは、そう言って、鉄太郎の右肩から腕の方まで、ずっと撫で下ろすと、さっと立ち上って、消えていった。
肩から腕にかけて、変にくすぐったい感触が残っている。そして視野の底には、豊かに左右にふり動きながら消えていったおさとの腰つきが、残っていた。
鉄太郎は、額の汗を拭った。
――女なんか怖くない、
改めて、そう思った。
――だが、何だか苦手だな、
そうも思う。
自分のからだに触れた母以外の二人、おみよとおさとの二人を、無意識の中に比べてみていた。
おみよの憶い出は、すべて、遠く、清らかに懐かしく甘酸っぱい。おさとの接触の名残りは、近く、燃えるように、艶めかしく、多少の生々しいいやらしさをもっていた。
――変な女だ、おさとは、おみよとはまるで違う。同じ女でありながら、どうしてこんなに違うのだろう、
しばらく考えていたが、頭を振って座敷に上り、書物をとり出した。
翌々日、夕刻、書物蔵の前で、おさとに会った。
偶然――と、鉄太郎は思ったが、むろん、おさとが待ち受けていたのだ。男女の偶然の出会いの多くは、実際には、どちらかの意図的な計画の下に現れるものである。
「おや、若様」
おさとが、わざと愕いたような声を出し、ひたひたと、胸を寄せてきた。
「お願いがございます、若様」
と言うおさとの顔が余りに近く接近し、髪の匂いがつんと鼻にきたので、鉄太郎はからだを退こうとしたが、その袖を掴まえられていた。
「何だ」
「お願い、こちらに」
おさとは鉄太郎を引っ張って、書物蔵の背後の方に行った。
「離せ、その手を」
「若様、お願いがあると申したでしょう」
「だから、何だと聞いている」
「きっときいて下さいますか」
「私に出来ることなら」
「こうさせて頂きたいのです」
おさとは、両手を鉄太郎の脇の下に入れて背中に廻し、しっかりと抱きついた。
「何をする、離せ」
「いや」
「離せ」
鉄太郎がつき離そうとすると、おさとは顔をぴったり胸につけてきた。
「いや、いや、離さない」
熱っぽい声で、囁きつづけた。
勿論、本気で突き離す気になれば、それは簡単に出来ただろう。
だが、鉄太郎は、
――女に手荒な事をすべきではない、
と言う常識を信じているから、乱暴なことはできなかった。本当の処は、心のどこかに、そのままでいたいと言う気持があったからでもある。
抱きつかれていると、からだが融けそうに良い気持で、どこからか沈丁花《じんちようげ》の白い花が強く匂ってくるような酩酊感があった。
「離してくれ、おさと」
当惑し切った声になった。
「はい」
おさとは抱擁をゆるめた。
「その代り、若様、明日の夜、亥《い》の刻(午後十時)ここに来て下さいまし」
「そんなことはできん」
「じゃ、離しません」
また、強く抱きつこうとする。
「離せ、来る」
「本当でございますね」
「来る、できたら」
「いや、きっと来て下さい」
勝手口の方に、騒がしい声がした。
「誰か来る、離せ」
「明日」
おさとは、ぱっと手を解いて走り去った。
始めて経験した女人の抱擁は、鉄太郎をひどい混乱に陥れた。
一夜中、殆ど眠れなかった。
翌日の夜になると、時々、からだがびくりと震えた。
――行くか、行くまいか、
迷いに迷う。
行けば、再び強く抱擁されるだろう。そして今度は、自分の方も女を抱き締めてしまうに違いない。その後で、どんなことが起るか、漠然とではあるが、鉄太郎にも分っているのだ。
道場で年長の者が、いや、時には同年輩の者でさえ、女体について、かなり露骨な会話を交わしている。
聞かぬふりをしているが、充分、耳にはいっていた。女体に対する好奇心は、ぎっしりと頭の一隅に詰まっているのだ。
――どうせいつかは知ることではないか、それが、今では何故いけないのだ。
誘惑は、約束の時刻が迫るにつれて、ますますその強度を増していった。
――よし、行く、約束したのだ。
ふとんを蹴って立ち上ろうとした時、奥の座敷から、駒之助が走ってきた。この子と飛馬吉は、母の死後、父の部屋で寝ている。
「兄上――父上が」
「どうしたッ」
答もきかずに、父の寝室に走った。
朝右衛門は、うつ伏せになって倒れていた。起上った瞬間、脳卒中に見舞われたらしい。母の場合と全く同じであった。
鉄太郎は、茂助を起して医師玄庵の許に走らせ、兄鶴次郎を呼びに金五郎をやった。
駆けつけた玄庵にも、手の下しようがない。ただ、
――安静に寝かせておくように、
と言うだけである。
朝右衛門は両眼を大きく開いたまま、仰向けに寝かされていたが、まるで、突如自分を襲ってきた災難が、何とも理解できぬことのようなうつろな表情を凝結させている。
しばらく経ってから現れた鶴次郎夫婦は、眠りばなを起されたらしく不機嫌な顔をして、その枕許に坐っていたが、
「変りはないようじゃな、一応家に戻る。容態が急変するような時は、報らせてくれ」
と言うと、帰って行ってしまった。
金五郎始め小さい弟たちも、それぞれ眠りについてしまったが、鉄太郎は老父の枕許に端座しつづけていた。
――母を喪って半歳、今、この父に逝かれたら、弟たちはどうなるだろう、
と、暗然たる想いである。
「鉄太郎」
不意に、朝右衛門の口から声が洩れた。
「あ、父上、御話ができるのですか」
鉄太郎は狂喜して、父の顔を覗き込んだ。
「できる――らしい」
朝右衛門自身、意外だったらしい。左半身不随になってはいたが、幸いに言語中枢は侵されていなかったのであろう。ややもつれる重苦しい声だが、充分に聞きとれる。
「鉄太郎、いよいよ、わしも駄目らしい」
「何をおっしゃいます。父上、必ずよくなられます」
「いや、だめだ。鉄太郎、わしが死んだら、必ず、宗猷寺のおいその側に葬ってくれ。鶴次郎は江戸の菩提寺にと言うじゃろうが、わしはおいその側に葬られたい」
「父上、万一のことがございましたら、必ず、仰せの通りに致します、しかし」
「いや、おいそが迎えにくる頃じゃ、この齢まで生きればもう充分。ただ、心残りは、お前を始め、金五郎、鎌吉、駒之助、飛馬吉、それに生れて一年にもならぬ赤児のことじゃ。鶴次郎は腹違い、当《あて》にはならぬ。弟たちの養育は、鉄太郎、お前がすべてやってくれねばならぬ」
「御懸念《ごけねん》には及びませぬ。鉄太郎が必ず弟たちを立派に育て上げます」
自信があった訳ではない。そう答えるよりほかないのだ。
「お前を始め弟たちの将来については、おいそも最後まで心配していた。その養育費として、かなりのものを貯めていた筈、そこの戸棚の奥の油紙に包んだものを出してくれ」
言われた通りにする。
「その中に革袋がある。おいそは、少しまとまった金が貯ると江戸に送って、三井為替店に預けていた。その預り証が、革袋の中にはいっているはずだ」
革袋は厳重に封がしてあった。
「父上、封を切りましょうか」
「いや、それはわしが死んでからでよい。中にどの位はいっているか、正確にはわしも知らぬが、まずお前たちが成人する迄の生活に不自由はさせぬだけはあろう。おいそは経済のことは、わしより遥かに巧みじゃったからの」
「とりあえず、このままお預りします」
「それから、あの手文庫の中に現金が八十両余りある。それをわしの葬儀や、皆が江戸に引揚げる費用に当ててくれ」
「父上、そんなことは、まだ――」
「いや、口の利ける間に言うておきたい。何もかもお前に頼むぞ。鶴次郎は気の小さな手前勝手な、冷い男じゃ、頼りにはならぬ。お前も当にするな」
つねづね思っていたらしいことを、朝右衛門は、はっきりと言った。
二度目の発作が起ったのは、その翌日の午後である。
鉄太郎がほんのちょっと眼を離した間に、小用に立とうとでもしたのか、半身不自由なからだをむりに起そうとしてがくりと倒れた。
そのまま意識を喪った。
口も利けず、ただ大きくいびきをかいて眠りつづけるだけ。
四日目に、息が止まった。
嘉永五年(一八五二)閏二月二十七日である。
江戸の幕閣と、朝右衛門の長子小野幾三郎の許に急報する。
葬儀万端、鶴次郎を喪主として行われたが、実際に万事をとり計らったのは鉄太郎である。遺骨は江戸へ運ぶと言う鶴次郎に対して、鉄太郎が、
――父上の御遺言ゆえ、
と、宗猷寺への埋葬を主張すると、
――では、好きなようにせい、
と、鶴次郎はむくれてしまったのだ。
――徳照院殿雄道賢達居士
と記された墓碑の前に、鉄太郎は毎日|跪坐《きざ》して、経を読んだ。
四十九日が済んだ日、江戸の幾三郎から鶴次郎に手紙が来た。
――健康状態が良くない。後嗣のこともあり、至急江戸へ戻ってくるように、
と言う。幾三郎には子供がないので、鶴次郎が後を嗣ぐことに、かねてから決められていたのだ。
「わしは一足先に江戸へ戻る。お前は、いつ迄、ここにいるつもりか」
鶴次郎は、鉄太郎に質ねた。
「せめて百ケ日の済むまでは」
郡代の後任も公表され、やがて赴任してくる筈である。鶴次郎が江戸へ発った後、鉄太郎は、弟たちを連れてその家に移った。
町の人たちは、鉄太郎たちを、依然、
――若様
と呼んで、親愛の情を示してくれる。
それにしても、まだ乳を欲しがる留太郎の養育には、鉄太郎は手を焼いた。
江戸から連れてきた家士たちは、ほとんどすべて鶴次郎に従って江戸へ戻ってしまっていた。残っているのは、茂助のほか二名、それも男ばかりだ。
女手のない子供のうようよしている鉄太郎の家に、当然のことのようにはいり込んできたのは、おさとである。
留太郎の乳母の世話をしたのもおさと、飛馬吉や駒之助の面倒をみたのもおさと、食事の用意から縫物洗濯まですべてやってくれた。それも、無報酬である。
鉄太郎は、おさとと顔を合すのが苦痛であった。
――父が急に倒れたあの夜、自分はおさとと密会するつもりだった。あんな淫らな心を起した罰として、父上は倒れたのかもしれない。
そう考えて、つとめておさとから視線を逸らすようにしているのだが、世話をかける以上、礼ぐらいは言わねばならない。
茂助を通じて、いくらかの報酬も与えようとしたが、おさとは笑って、受けとろうとはしなかった。
「若様、つまらぬ御心配はなさらないで下さいまし」
と言う。
「しかし、世話ばかりかけて――」
「いいんですよ、その中、たっぷりお礼をして頂きます」
意味あり気に秋波《ながしめ》を送って去っていったが、その意味は、間もなくはっきりした。
毎日、金五郎と鎌吉とを、修武館につれていってきびしく訓練し、帰ってくると、読書《よみかき》を教える。夜に入ってから、ひとり宗猷寺に行って、父と母の墓前に、長い間、ぬかずいている。
疲れが、次第に蓄積していたらしい。全く熟睡状態に陥っていた時、何ものかに襲われた。
そいつは、いつやってきたのか、気がついた時には仰向きに寝ている鉄太郎の上に覆いかぶさっていた。
半ば夢の中で、はねのけようとしたが、どうしたことか、からだに力が全くはいらなかった。
それどころか、全身が融けてゆきそうになり、香ぐわしい匂いが、鼻先をくすぐる。
そのくすぐったい感じが次第に全身に拡がってゆき、四肢の中心あたりに凝結した。
眼がはっきり醒めたのは、その凝結感が余りにも鮮明だったからである。
闇の中に、ほの白い顔が、浮んでいた。
そいつが、ぴったりと、鉄太郎の顔にくっついてきた。
「若様」
と、そいつが、囁いた。
――おさとだ、
鉄太郎の全身が巨きく鼓動した。
おさとの素肌が自分のそれに触れるのを感じた時、鉄太郎は眼をつむってしまった。
両腿が、こきざみに震えているのが、はっきり分っていた。
おさとは巧みに誘導して、十七歳の齢にしては逞しい青年のからだを完全に受け入れ、生命の樹液を吸いとった。
それからからだを起し、鉄太郎の横に並んで、その肩により添った。
鉄太郎は、茫乎として、紫色に輝く世界の中に浮遊している。
たった今、経験したことの不可思議さ、めずらしさ、愉悦さが信じられない想いである。何よりも、それが余りに短い時間の間に過ぎてしまったことに物足りなさがあった。
――こんな素晴らしいことが、こんなに早く終ってしまってよいのか、
紫色に輝く世界の中で、鉄太郎は、叫び出しそうになった。
その鉄太郎の心を、いち早く嗅ぎとったかのように、おさとが耳許で囁いた。
「若様、今度は――」
おさとが手を廻して、鉄太郎を己れのからだの上に抱き上げた。
紫色の世界が、ぱっと二つに裂けて、虹色に走り、鉄太郎は呻《うめ》き声をあげた。
爽快な解放感と、限りない酩酊感とが、永くつづいた。
「若様、嬉しい」
おさとが、濡れた声を出した。
「おさと、どうして、こんなことを」
鉄太郎は、恥じらいながら応じる。
「いつか、たっぷりお礼して頂くと申したでしょう」
「あ――」
「私、若様が好きで好きでたまらなかったのです。いえ、御心配には及びません、こんなことになったからと言って、若様の御迷惑になるようなことは決して申しませぬ。私も私の身分は充分弁えています。ただ若様がこの土地にいらっしゃる間だけ――ね、いいでしょう若様」
おさとは、いかに鉄太郎に恋慕しつづけてきたかを、囁きつづけた。
だが、鉄太郎はそれを殆ど聞いていなかった。
骨のすみずみから、筋肉のすべてに亘って浸み渡ってくる言いようもない快《こころよ》さに、思考力は全く消滅してしまっている。
――女体とは何と言う不思議なものだろう、男女のちぎりと言うものは何と言う愉しいものであろう。
それだけが、鉄太郎の全思考を占領していた。
闇の中に向って、鉄太郎の若さは、何かを絶叫したい衝動に駆られていた。
そいつを抑えるにはたった一つの方法しかなかった。
鉄太郎は不意にからだを起し、再び、よりはげしい行動に移っていった。
朝右衛門の百ケ日の法要が終った時、井上清虎は、鉄太郎に言った。
「わしのここでの仕事は終った。江戸へ戻る」
「先生、本当にお世話になりました。何ともお礼の申上げようもありませぬ。私も先生と御一緒に江戸へ戻りたいのですが、留太郎と飛馬吉とが――」
二人の幼児は暑気に当てられたものか、交互に熱を出して病臥していた。
「充分|癒《よ》くなってからにするがよい。わしは一足先に行くが、江戸に戻ってからわしに出来ることがあれば何でもしてやろう」
「有難うございます。幼い弟たちを抱えての将来、何かと御面倒をおかけすることと存じますが、何分ともよろしく」
少くもこの高山滞在中、鉄太郎にとって井上は、兄の鶴次郎よりも遥かに信頼と尊敬とを捧げ得る対手であった。殊に父の死後は、井上の世話になりっ放しであった。
「鉄太郎」
いよいよ別れると言う時、井上が鉄太郎の眼をきっと見詰めて、鋭い声を出した。
「はい」
「女色に溺れるな」
――あ、
鉄太郎は思わず頬を染めた。
――先生は、知っておられたのか。
恥かしさに、消えてしまいたいような思いがした。
だが、始めて知った女体の魅力は、厳師の叱責よりも強かったらしい。
必死の思いで三日は堪えたが、四日目にはまた、おさとを抱いてしまった。
茂助もこの事情には気付いていた。
――早く江戸へ帰った方がよい。
子供たちの病状が少しよくなると、鉄太郎をせき立てる。
おさととの訣別の日が来た。
その前夜、おさとは幾たびとなく鉄太郎のからだをむさぼったが、殆ど口は利かなかった。
どんな哀惜《あいせき》の言葉を述べられるか、それに対してどう答えればよいのかと内心苦にしていた鉄太郎は些《いささ》か拍子抜けした程である。
消えゆく前に、低い声で、
「若様、有難うございました。若様のことは一生忘れませぬ」
と呟くように言っただけである。
七月半ば、鉄太郎一行は高山を去った。
町外れまで多くの者が送ってきてくれた。
別れを告げて歩き出した鉄太郎が、ふっと振向いた時、人垣のうしろにおさとの顔があった。
得も言われぬ哀切の情と優艶を極めた惜別の色とが、その顔を異常に美しくみせていた。
――女とは、何と言う哀しい顔つきをするものか!
鉄太郎は、胸をえぐられる想いをした。このような女人に対する異様な感情はこの後もしばしば鉄太郎を苦しめることになるであろう。
鉄太郎一行が江戸に着いた時、江戸の町にはもう秋の涼しい風が吹き始めていた。
八年ぶりで見る江戸はなつかしかったし、その賑わいに幼い弟たちは、旅の疲れも忘れて悦びの声をあげた。
だが、その明るい気持は、小石川小日向台の兄鶴次郎の屋敷の門をくぐった時に、しゅーんと消え失せた。
見るからに陰気臭くて、何か妙に不吉な感じが漂っている。
屋敷の主、小野鶴次郎は、わずかの間会わなかっただけであるのに、ひどく暗い、年よりじみた顔になっていた。
理由がないのではない。
鶴次郎は、長兄幾三郎が病に倒れた為、その養子として小野家を嗣いだが、その直後、妻さくが実家に帰ってしまった。我儘な病人の看病を嫌ってのことである。
その上、鶴次郎自身、眼疾にかかって、不自由な起居をしている。家の中が明るい筈はない。
折も折、鉄太郎が五人の幼い弟たちをひき連れてやってきたのだ。
疲れている弟たちを寝かせてしまってから、鉄太郎は鶴次郎の前に行き、改めて鄭寧に挨拶した。
「兄上、今後色々と御世話になります。何卒《なにとぞ》よろしく」
鶴次郎は、眉に皺《しわ》を寄せ、露骨に不満を表明した。
「長兄は明日も知れぬ重病、わしもこの通り眼を病んでおる。さくは実家に戻ってしまった。あんなに大勢の弟たちを、面倒を見きれる自信はない」
――お前たちは腹違いだ。お前たちの母はおれの母ではない。おれにはお前たちの世話をする義務はないのだ。
と言う意味が言外に含まれている。
鉄太郎は、この兄からこの位のことを言われることは覚悟していたらしい。
「兄上、弟たちのことについては私が全責任を負うて何とか致します。ただ、差し当って住む処もなき身、しばらくお手許において頂きたいと存じますが」
「お前が全責任を負うと言うのは、何か目当てでもあるのか」
「はい、亡き母が、私どもの為に多少のものを残してくれました。三井為替店に預けてあるそうです」
「始めて聞いた。どの位のものだ」
「それは私もまだ知りませぬ。父上からお預りした母の遺産は、革袋に納めたまま、まだ開いておりません。兄上の見ておられるところで開いてみたいと思っていたのです」
「今、ここにあるのか」
「はい、ここに」
鉄太郎は、父に托された例の革袋をとり出して、封印を切った。
中に納めてあった書附をみて、思わず声をあげた。
「どうした、鉄太郎」
「兄上、これを」
受けとった鶴次郎は、書附をみて、
――ふわッ
と、奇妙な声を発した。
「こ、これは、さ、三千両の、三井為替店の預り証ではないか!」
「はい」
「こ、こんな大金を、どうして」
「私にも分りません」
と答えた鉄太郎が、革袋の中から、もう一通の書類をとり出した。
「兄上、ここに母上の遺書があります。これをみれば分るかも知れません」
母の遺書は、鉄太郎宛になっている。
――この金子《きんす》は、亡き父秀平殿が鹿島神宮に在職中から貯蓄されたものに、私が小野家に嫁してきてから始末をして貯めたものが多少加わっている。そなたと幼い弟たちの為に使って欲しい、
と言う意味のことが記されてあった。
――よくも貯め込んだものだ。父の眼を盗んで、
鶴次郎は義理の母を腹の中で罵《ののし》ったが、実際のところは、この金の大部分は、理財の才のあったいその父塚原秀平が鹿島時代から長い間にこつこつと貯めたものであった。
「これほどの大金があれば、お前たちの将来は心配ない。わしなどよりよっぽど裕福な身の上だ」
鶴次郎は多くの羨望の情をこめて、皮肉な口調で言った。
鉄太郎は母の遺産が、余りに巨額だったので吃驚したが、その夜一晩中考えて、弟たちの将来の計画を樹てた。
翌日は、神田に井上八郎清虎を訪ねた。
本当に頼み甲斐のある相談対手は、兄ではなくこの師である。
「よう、戻ってきたか」
井上は、にこやかに笑って迎える。帰府後、彼は旧師千葉周作の玄武館道場の師範代として、道場の近くに住んでいた。
「先生、今日は、色々お力をお借りしたくて参上致しました」
「何なりと、力を貸そう」
鉄太郎は、母の遺産のことを告げた。
「六人の兄弟に三千両、一人当り五百両になります。弟たちの養育費としては充分だと思いますが、私の手ではとても養育出来ません。そこで考えたのですが、弟たちはこの金を持参金として、しかるべき旗本の家に養子にやってはどうでしょうか」
当時、旗本連中の窮乏は非常なものであった。切羽つまって、富裕な町人の伜を、持参金欲しさに養子に貰い受けて、自分は隠居してしまうものさえ少くない。
れっきとした六百石の旗本小野家の伜が、五百両の持参金を持って養子に来ると言うのなら、悦んで貰い受ける旗本は、必ずあるに違いなかった。
「そうすれば、弟たちも、一生部屋住みの身で暮らすこともなく、却ってよいと思うのです」
「そうだな、それは良い考えだと思う。よろしい、私がこころ当りを探してあげよう」
交際《つきあい》の広い井上が、あちらこちらと聞き合せてみると、養子に貰いたいという家は、すぐに見つかった。
先ず、鉄太郎のすぐ下の弟金五郎が、旗本酒井主水の家に養子としてゆくことに決まった。
つづいて、その下の弟鎌吉が、旗本芝与右衛門の養子となる。
三番目の弟駒之助はからだが悪いし、その下の飛馬吉と末弟の留太郎はまだ幼いので、しばらく鉄太郎の許におくことにした。
「兄上、二人だけ片がつきましたが、まだ私と三人の弟がおります。当分御厄介になりますが、私の分として母が遺してくれました五百両の中、四百両をお納め下さい」
鉄太郎は自分の分として百両だけ除け、残りを全部、鶴次郎の前に差出した。
「なに、四百両をわしに――そんなことをしてくれては困る」
「いいえ、私たちのために何かとお入費がかかることですから、どうぞ」
「そうか、それなら、まあ、預っておくことにするか」
四百両もの大金が手に人ったので、鶴次郎の渋い顔が、正直にエビス顔になった。
一日も早く出てゆけという態度だったのが、ころりと変って、
「ま、不自由だろうが、幼い弟たちの成人するまで、ここで暮らすがよい」
とまで言い出したのは、その幼い三人の弟が、それぞれ五百両の財産を持っていることを考慮に入れてのことであったろう。
鉄太郎は自分の取り分の百両の中から、乳母を一人傭入れて、留太郎と飛馬吉の世話を任せた。
弟たちのことが一応片付いたので、鉄太郎は、井上に願い出た。
「先生、私を玄武館道場に入れて頂けませんでしょうか」
「それは、わしの方からすすめようと思っていた処だ」
北辰一刀流千葉周作の神田お玉ケ池玄武館道場
鏡心明智流桃井春蔵の京橋|浅蜊河岸《あさりがし》道場
神道無念流斎藤弥九郎の神田|俎橋《まないたばし》道場
心形刀流伊庭軍兵衛の下谷御徒町《したやおかちまち》道場
この四つが江戸四大道場に数えられていたが、中でも玄武館は特に有名であった。
尤も、道場主の千葉周作はこの年すでに六十一歳、直接に門弟たちを指導していたのは、周作の次男栄次郎である。
門弟の中では、海保帆平、大羽藤蔵、井上八郎、塚田孔平らが知られていた。
鉄太郎はこの江戸第一の道場に晴れて入門することになったのである。
[#改ページ]
山 岡 静 山
鉄太郎は、目を醒ました。
内藤新宿の女郎屋の一室である。
敵娼《あいかた》の姿はない。余りよく眠り込んでいる若い客の顔をみて、
――若い、逞しいからだをしているから無理もないけれど、本当にゆうべは、
と、やや呆れ顔になったが、くすりと笑って出て行ってしまったのだ。
鉄太郎はこの頃、よくこうした処にやってくる。別に馴染はつくらない。対手は誰でもよいのだ。
強烈なエネルギーを消耗し尽す。
だが、一日経つともうけろりとしていた。
高山でおさとによって開かれた女の世界はほとんど不可抗の力を以て誘惑する。そいつに抗《あらが》おうと頑張っていると、頭が狂い出しそうだった。
結局、そいつに負ける。
――女色に溺れるな、
と言う井上の戒めを決して忘れているのではない。
――おれは溺れてはおらん、剣の修業は立派にやっている。
その弁解は、自信を以て言えた。
玄武館道場での鉄太郎の稽古は、同門の何びとにも劣らない。殊に師匠井上八郎|直伝《じきでん》の激烈無比の突きは、
――鬼鉄の鬼突き
と言って怖れられていた。
十八歳の若さである。多少、自分の腕に思い上ったところがあったとしても已《や》むを得なかっただろう。
床の上に起き上ると、四肢に力は充満していた。
――又、外泊してしまった、
兄鶴次郎の渋い顔を思い浮べた。眼疾が悪化して左眼が失明してから、ますます人相が悪くなったように思われる兄だ。
――友人の処に泊りました、
と言う弁解は、もう信じて貰えない。部屋住みの気楽さ、一日の行動は全く自由であったが、兄と幼い弟たちの目が少々けむたい。
――とに角、家へ戻ろう、
そして、午後はまた玄武館へ行こうと決め、手を叩いて女を呼んだ。
外に出ると陽が眩《まぶ》しい。
嘉永六年六月四日である。
この前日、六月三日午後、日本の運命が大きく旋回する導火線に火が点じられていたのだが、むろん、鉄太郎は夢にもそれを知らない。いや、鉄太郎ばかりでなく、江戸市民の大部分はまだそれを知らなかった。
江戸湾の入口、浦賀沖に、東インド艦隊司令長官ペリーの率いる四隻のアメリカ軍艦が現れたのは、三日の午後二時過ぎである。
夕刻には、飛報が江戸城内に達していた。
城内は大騒ぎになる。
夜に入る頃には、市内の早耳筋にも、この情報ははいっていた。だが鉄太郎はそれを全く知らず、のんきに妓楼に上り女を抱いて寝たのだ。
鉄太郎は町の様子に、妙に慌しいものがあるのを感じた。
――何かあったのかな、
とは感じたが、大して怪しみもせず、家に戻った。
兄鶴次郎は城内に出勤している。
すぐに玄武館に行ってみた。
いつになく、数人の者しかいない。それも稽古をしているのではなく、額を集めて何か話している。皆、部屋住みの連中だ。
「どうかしたのか」
鉄太郎は、間の抜けた質問をした。
「知らないのか、小野」
「何を」
「昨日の午後、アメリカの黒船が、浦賀沖に錨《いかり》を下ろした。江戸湾に侵入してくると言う噂もある。沿岸警備の各藩は、昨夜遅くから総出動だ」
――そうだったのか、
鉄太郎は、呆れた。
だが、どうも、危機感がぴったり来ない。
去年の六月にもロシア軍艦が下田に来て、漂流民を置いて去って行ったではないか。
「違うのだ、小野、今度は違う。アメリカは開港通商を要求してきているらしい」
「やつら、鎖国がわが国の祖法であることを理解できぬのだ」
「黒船には、巨きな強力な大砲が据えつけてある。そいつで射撃されたら、江戸は火の海になると言う」
みんなの顔に、不安の色があった。
「そいつら、江戸湾にはいってくると言うのか」
「分らぬ、やってくるかも知れぬ」
「若先生は」
これは千葉栄次郎のことだ。
「水戸藩邸に喚《よ》ばれて行かれた」
海保・井上らの師範代も姿を見せていない。
――今日は、稽古は休みだな、
鉄太郎は、玄武館を出た。
何となく海辺の方に向って歩いた。そこに出てみたとて、浦賀の黒船が見える筈はないのだが。
足は恐ろしく達者だ。
鉄砲洲《てつぽうず》に出た。
広々と、江戸湾が拡がっている。
左手に、佃島《つくだじま》。
黒船など見えはしなかったが、海辺に面した船松町、十軒町のあたりでは、人々が慌しく走り廻っていた。
「黒船は浦賀にいると言うではないか。何を慌てているのだ」
走り出てゆこうとする子供を叱りつけている女に、聞いてみた。
「いえ、お武家様、黒船はじきにここに乗込んでくるとか、今の中にどこかへ逃げた方がよいのではないかと言う噂でございます」
噂の真偽に自信はないらしい。
だからこそなお不安で慌てているのだ。
鉄太郎は、海浜沿いに歩いていった。
海辺で、船頭らしい男を把えて、何かひどくせき込んだ口調で話しかけている若い侍がいた。
からだは小さく、右肩が少し上っている。
近づくにつれ、あばただらけの、やや貧相な顔が見えた。すすけた髪を無雑作に結えている。着ているものも貧弱で、しかも着附が下手とみえて、少々だらしない。
にも拘らず、その男には何か人の目を惹きつける鮮烈なものがあった。双の瞳が、愕くべきほど澄んで、深い光を放っているのだ。そのために、そのややだらしなく見える身装《みなり》でさえ、
――身なりに関心のない男なのだろう、
と言う好意的な印象を与えている。
「何とかしてくれぬか、頼む、頼む」
侍は、船頭に向って、繰返している。
「旦那、勘弁して下さいよ、それ処じゃねえんで」
「お前も逃げるのか」
「いいえ、あっしはこの浜で育った人間だ。黒船が来ようと何しようと逃げやしねえ、でも女子供のために、逃げたいと言う奴はいる。手伝ってくれと言われりゃ――」
「その役は他にやってくれる者もいるだろう、是非とも頼む。舟を出してくれ」
船頭は、男の熱心さに負けたらしい。
「仕方がねえ、出しますよ。ですがね、もう少し待っておくんなさい、風が少し出なきゃどうしようもねえ、浦賀まで漕《こ》いでゆく訳にゃ行きませんからね」
「よし、ここで、待つ」
侍は、水際に腰を下ろした。船頭は、すぐ近くの自分の家に帰って行く。
鉄太郎は、侍の傍らに行った。
「浦賀へ行かれるのですか」
いきなり声をかけられた相手は、鉄太郎を見上げた。自分とまるで正反対の、からだの巨きな、顔の造作の雄大な鉄太郎を、じっと見上げ、澄んだ声で答えた。
「そうです、どうしても浦賀へ行ってみなければ」
「浦賀へ行って、黒船を見て、どうなさるのですか」
「どうする? それは分らない。でもとに角、黒船を、自分の目でしっかりと見なければならない。あなたはそう思わないのですか」
「それはどんなものか見たいとは思いますが、何もそんなに急いで、むりやりに見たいとは思いません」
「ほう、そうですか」
いかにも不思議そうに見上げる。
「黒船は昨年も下田に来ました。すぐに帰っていったじゃありませんか。今度の黒船は、通商開港を求めているそうですけれど、鎖国の国法を説いてやれば、帰ってゆくのじゃありませんか。大騒ぎすることはないでしょう」
鉄太郎は考えている通りの事を言った。
相手の侍は、急に立ち上った。
鉄太郎の顎《あご》の辺までしかない。
顔を上に向け、鉄太郎を睨みつけるようにして、その侍は、一気にしゃべり出した。
「あなたはよく分っていないらしい。今度やってきたアメリカの黒船は、アメリカ政府のきびしい命令を受けて、わが国に正式に開国を求めに来たのです。どうしても聴き入れなければ、武力を行使する決意でしょう。わが国が鎖国の祖法を楯にして、これを拒絶しようとしても、彼らは承知しないでしょう。世界の状勢はもはや、鎖国の継続を許さなくなっているのです。アメリカがこのような要求をしにくるだろうと言うことは、去年の八月、オランダ商館長クルチウスから幕府に予《あらかじ》め通報があったと聞いている。幕閣の諸侯はそれを黙殺して、格別の対策を考えていなかった。それで今になって大慌てに慌てているのです。これは簡単に片附けられることではない。わが国は三百年来始めての大問題に直面しているのです」
「しかし――」
若い鉄太郎は反撃した。
「彼らが、わが国の方針に反して飽迄《あくまで》開国を迫り、武力を用いると言うのなら、闘えばいいじゃありませんか。たった四隻の黒船が、そんなに怖いのですか」
「あなたは、外国軍艦の威力を知らないのですね。彼らの持っている兵器の精密さを知らないのですね。十年前、清国がイギリスと闘って大敗し、南京条約を結んで、五港を開き香港を割譲するのやむなきに至ったことを知らないのですか。わが国の何十倍もある大清国でさえ、泰西の新兵器には屈せざるを得なかったのです」
阿片戦争のことは、漠然と聞いたことはあったが、深くは知らない。
「清国はそうだったかも知れない。でも、わが国が同じ屈辱を受ける必要はないでしょう。断乎、日本刀を以て闘い、彼らを駆逐すればいい」
「あなたのように考えている人は多い。だがそれは泰西文明の怖るべき進歩を知らないからだ。もしあなたの言うように、伝来の日本刀と旧式の種子島で彼らに対抗できるものなら、幕府も慌てはしないでしょう。少くも幕閣の諸侯は、彼我《ひが》の戦闘力に格段の差があることを知っている。たった四隻の黒船でも、品川沖に侵入してきて一斉に砲撃を開始したら、江戸中が火の渦に包まれるだろうことを知っている。だからこそ、周章狼狽《しゆうしようろうばい》しているのです」
「あなたは――」
明らかに旗本ではない。
「どうしてそんなに意気込んでいるのです。黒船を見て、どうしようと言うのです」
前に出した疑問を再びつきつけた。
「だから言ったでしょう。敵を知り我を知るは兵家の第一法、何よりも黒船がどんなものであるかを見極める。それから後のことは、その上で決める」
「失礼ながら、あなたがどう決めても、黒船はそれに関係なく行動するでしょう」
「それはそうです。微力な私には黒船の行動を押えることも、彼らと交渉することもできない。だが、黒船を直接に見ることによって、自分のこれからの行動を決めることはできる。それが大事なのです。今、日本の国民の一人一人が、何を考え、何をするかを真剣に考えることが必要なのです。それも、今迄のように日本国内のこと、いや、幕府や自分の藩のことばかり考えないで、世界の中に引っ張り出されようとしている日本を、世界の中における日本を、頭において、自分の行くべき路を考え直す時なのです」
これは鉄太郎が今迄一度も踏み入れたことのない思考領域であった。すべての思考は、忠とか孝とか、公儀の為、家名の為とかを基準にしてきたのだ。その為に自分に課した道は、剣の修業に専念することであった。
小さな侍の言うことは、余りに大き過ぎ、日常の思考の基準としては迂遠《うえん》に過ぎるような気がする。
「私は一介の部屋住みの身に過ぎません。あなたの言われるようなことは、別の世界の、偉い人たちに委せておけばいいとしか思われません」
「違う」
侍は、断乎として否定した。
「その偉い人たちと言うのが、全くあてにならないのです。因循姑息《いんじゆんこそく》、目先のことしか考えず、一時しのぎに汲々としている。今はもう、彼らに委せておくべき時ではない。日本国中のすべての者が、自分の頭で考え、自分の心で決めなければいけない。草莽《そうもう》の崛起《くつき》すべき秋《とき》です」
――草莽の崛起
数年後には、天下有志の合言葉となったこの言葉も、何のことだか、今の鉄太郎には分らなかった。
「どうも、よく分りません」
鉄太郎は正直に答えた。
対手は二十四、五歳らしい。年齢の差は六つか七つらしいが、知識の差は遥かに距《へだた》っているらしいことを、鉄太郎は漠然と感じてきていた。
「今に分ります。分るようになることを望んでいます」
船頭が家の前に出てきて、何か大声で侍に呼びかけた。
「あ、船を出すつもりらしい。では、失礼します」
「色々御教示、有難うございました」
鉄太郎は鄭重《ていちよう》に挨拶した。そう言う礼儀は正しい青年なのである。
「私は旗本小野鶴次郎の弟鉄太郎です」
「申し遅れました、私は長州の吉田寅次郎。御縁があったら、また、どこかで」
にっこり笑った。鋭い気魄で語っていた時とは全く違う、柔かい優しいものが、あばただらけの顔一杯に溢《あふ》れていた。
鉄太郎は吉田寅次郎の言ったことを充分に理解する能力を持たなかった。
彼は決して、頭脳鋭敏とは言えない。深く学問を究めたこともなく、新しい知識を貪欲《どんよく》に吸収したこともない。
彼の関心事は、差当り、剣と――そして、女とである。
いわば、自分一個を中心とする狭い世界に、古くからの道徳慣習にとり囲まれた環境の中に、生きていて、そのことに何の不安も感じていないのである。
一方、寅次郎の方は、抜群の秀才であり、鋭《するど》過ぎるほどの知覚と、博大な知識とを身につけている。
この青年の関心は、自己でもなく、自己をめぐる環境でもなく、
――日本の運命
であった。
一般の武士の大部分が、まだ日本と言う国を一つの全体として考える風習を持たず、
――お国のため、
と言う場合、それぞれの藩――幕臣ならば幕府――のことしか考えなかった時代に、彼は、日本全体の運命と自己とを関連させて考え、且つ行動していたのである。
少くもこのめぐり会いの当時、この二人は、全く別の世界に住んでいたのだ。
――一介の田舎侍のくせに、大きなこと言う、妙な男だ、
鉄太郎はそう考えた。
――からだは大きいが、子供だな、だが正直な好い男らしい、
寅次郎は、そう感じた。
そして二人とも、相手を忘れ去った。
ともあれ、このペリーの来航が、日本にとって、近代への扉を開く第一歩となったことは疑いない。
極めて有能なアメリカ軍人ペリーは、一八五二年(嘉永五年)本国のケネディ海軍長官に対して上申書を出している。
――太平洋を航海する捕鯨船その他のアメリカ船舶の為に避難所及糧食薪炭を補給する港湾を手に入れる必要がある。日本政府が港を開くことを拒み兵力に訴えなければならぬような場合でも、とりあえず日本南方の島を一、二占領し、軍艦の集合所を作っておき、日本国民をなだめすかして交際を開くようにするのがよいと信ずる。
この事実から、ペリーの来航は、当時北太平洋で活躍していたアメリカの捕鯨業者の要求を代弁したものだとし、
――捕鯨開国論
と言う珍説を唱えたものもいる。
だが、むろん、ペリーが日本に開港を要求するに至ったのは、単なる捕鯨業者たちの為ではなく、貪婪《どんらん》に新しい市場を求めていた新興国アメリカの産業資本家、大地主、大商人たちの期待に応えるためであった。そしてそれならばこそ、アメリカ政府もペリーの行動を全面的に支持したのである。
当時のアメリカ産業資本が直接に要求していたのは、狭小な日本市場よりもむしろ広大な中国市場であったろう。
十九世紀前半のアメリカの産業資本の発展は目ざましい。例えば紡錘数はこの半世紀に八百倍に増大している。この増大する生産物の市場として中国は極めて大きな期待を持たれた。
太平洋横断航路を開設して中国市場に進出するためには、中間の日本列島に寄港地を獲得しなければならぬ、寄港地の獲得は当然、通商の要求となり、日本もまたアメリカ資本の市場となるであろう。
捕鯨船主らの要求は、この産業資本に便乗し、その口火を切ったものに過ぎない。
アメリカばかりではなかった。
イギリスもフランスも、極東における最大の市場として中国を重要視していた。
しかし彼らは、西の方から、陸地沿いにやってくるのであり、日本に寄港地を求める必要はない。
彼らにとって少くもこの当時は、日本は、中国に比べればそれほど魅力のある市場ではなかった。
しかし、アメリカが日本に触手したとなれば、それを手を束《つか》ねて看過する訳にはゆかない。ペリーの来航後、イギリスも直ちに日本に対する開港要求を決意する。
ペリーは日本と言う国に初めて接触することによって、それが、中国や琉球と多少違う骨組を持っていることを知った。
黒船来航に対して直ちに沿岸に出動してきた各藩兵士は、周章狼狽していたのだが、旗艦サスクエハナ号の甲板から見る限り、その対応は愕くべきほど迅速と思われた。
久里浜に上陸して日本兵士を直接にその目でみると、彼らの武器が極めて旧式であり、その団体訓練はやや無秩序であったが、彼らの眼の中には鋭い憎悪に似た反撥心が光っているのを見た。
――彼らの団結心は強固だ。名誉心も甚だ強い。戦闘となれば多くの損害を覚悟しなければならないだろう。
それよりはむしろ、彼らをなだめすかして、平和裡に開港させた方が得策だ。
ペリーは、久里浜で米国大統領の国書を幕府側に手渡すと、何回かのやりとりの後、
――回答は明春
と、思いがけない寛大さを示して、三日後には錨を抜いて、中国方面に去っていった。
――やれやれ、助かった、ともかくこれで当座の難は脱れた、
と、幕閣では、大きく吐息した。が、
――来春の回答をどうするか、
老中阿部正弘は、当惑し切って、ついに諸大名に対して諮問した。これは未だかつて例のない事である。
幕府の独裁体制は、幕府自らの手によって破られたのだ。
そしてこの騒ぎの最中に、将軍家慶が死亡し、家定が後を嗣ぐ。
八月になって、品川沖のお台場建設が始まった。
台場とは砲台のことである。
――ともかくも江戸湾の警備を固めなければ、
とあせっていた幕府は、江川太郎左衛門|英龍《ひでたつ》の献策を採用し、老中阿部正弘の指揮の下に、台場の築造に踏み切った。
御殿山その他を掘崩して、十一ケ所の砲台を作る計画である。
柴又の五郎右衛門、四谷の吉五郎が工事を請負い、石川島の寄場人足はじめ毎日数百人の人足を入れて工事を急いだ。
ずい分きびしく働かしたらしい。
――死んでしまおか お台場へ行こか 死ぬにゃ優《ま》しだよ 土かつぎ
と唄われたほどである。
財政窮乏の折りである。一つの台場に少くも五万両はかかるので、一朱銀の改鋳を行いこれをお台場銀と呼んだ。
(このお台場建設は翌七年の五月、一、二、三、五、六番が完成し、四番は七分通り、七番が三分通りできた処で中止されている。むろん、財政難の為であった。皮肉なことには、この砲台はついに一度も実用に供されていない)
幕府は更に、大船建造の禁止令を解除したり、オランダに軍艦鉄砲兵書などの注文を発したりした。
正《まさ》しく、泥棒をみて慌てて縄をなうようなやり方である。
江戸市民の中には、黒船の再来に備えて、田舎へ疎開しようと真剣に考えるものも現れてきた。
こうした騒然たる動きの中で、鉄太郎は依然として、剣の道に熱中している。
どんなことでも、徹底的にやらねば気の済まない性質である。まして生来好きなこの道には、他人の目からは、
――気違い
と見えるほど没入した。
玄武館での稽古も、普通はしばらく稽古をした後では面具をとって少し休憩するものだが、鉄太郎は、始めから終りまで面具をつけっ放しで、少しの休息もなく打合いをつづける。それも得意の豪快強烈な突きを、遠慮会釈もなく喰らわせるので、みんな恐れをなして、次第に敬遠するようになる。
道を歩いている時、竹刀の音を聞けば、どの道場でも、片端からはいり込んで、立合いを申込む。
一度も敗れたことはない。
鉄太郎の特徴のある風貌はすぐに評判になって、町道場ではその顔をみただけで、鄭重に立合いを拒絶するようになった。
小野邸に出入りの商人がやってくると、鉄太郎は下帯一つの素裸になって、
「どこからでも打ってこい。お前の木刀がおれのからだに、ほんのちょっとでも触れたら、注文してやる」
と言う。
血気の若い者が手渡された木刀を握って打ちかかったが、鉄太郎のからだをかすることもできない。へとへとになって音を上げ、段々注文を聞きにこなくなってしまった。
日中は勿論、深夜でも、剣の工夫について何か考えつくと、パッと庭に飛び出し、
――ええい、やあッ
と大声を張り上げて、木刀を揮《ふる》う。
兄の鶴次郎は呆れ返ったが、武芸は武士の第一のたしなみ、それに熱中しているものを、むやみに叱る訳にもゆかない。この兄らしく、
――いつまでも、子供っぽくって、困ったものじゃ、
と、顔をしかめている。
たしかに鉄太郎には、どこか滑稽に近い子供っぽさがあった。つまらぬことにやせ我慢を張ったり、呆れるほど馬鹿正直なところをみせるのだ。
いくつかのエピソードが残っている。
ある日、道場で何気なく言った者がある。
「ゆで玉子と言うやつは、小っぽけなものだが、どうしても一度に二十個以上は喰えないものだ、妙だな」
聞いていた鉄太郎がふっと口を辷《すべ》らせた。
「あんなもの、五十や百は何でもないさ」
「言ったな、小野、本当に喰えるか」
「ああ、喰えるとも」
騎虎の勢、そう言ってしまってから、しまった、と後悔したが、もう遅い。
「よし、喰ってみろ」
居合せた連中が面白がって金を出し合って玉子を買いにゆき、ゆで玉子にして鉄太郎の前に持ってきた。
「さあ、喰え」
「よし、見ていろ」
塩をつけて喰い出したが、二十、三十と平らげてゆくうちに、次第に喉につかえてくる。胃が破れそうになり、涙がにじんでくる。
それでも意地を張り通して、とうとう百個を平げ、
「どうだ」
と威張り反《かえ》ったが、それから猛烈な吐き下しで、三日間は死ぬほどの苦しみであった。
又、ある日、健脚自慢の先輩が、
「おれは明日、下駄ばきで成田山に御詣りしてくる。日帰りだ。誰か一緒に来ないか」
と言う。往復三十六里(一四一キロ)だ。誰も返事するものはない。
鉄太郎に視線が止った時、思わず、
「行きましょう」
と答えてしまった。
翌日は大暴風、鉄太郎が、朝早く約束通り先輩の家に誘いにゆくと、この天候ではと、頭を掻いてみせた。
「じゃ、私一人で行ってきます」
と答えて去っていったが、その夜十一時過ぎ、ずぶ濡れの姿で再び姿を現して言った。
「今、帰ってきました」
足駄の歯は半ば以上、すり減っていた。
年が明けて嘉永七年(十一月二十七日安政と改元)一月十六日、ペリーは軍艦七隻を率いて神奈川沖にやってきて、昨年の申入れに対する回答を要求した。
浦賀奉行は慌てて、艦隊に浦賀まで後退することを求めたが、ペリーはこれを黙殺し、羽田沖まで侵入して江戸市街を望遠鏡で偵察した。
幕府はやむを得ず、神奈川宿のはずれにある横浜において交渉を行うこととする。
――何とか、もう一度、うまくごまかして艦隊を退去させよう、
何も自信のある回答が出来ていなかったため、
――ぶらかし(ごまかし)政策
を採ろうとして、将軍代替りなどを理由に再び回答を延ばそうとしたが、ペリーは断乎として聞き入れない。
いくたびかの交渉の後、ついに三月三日、日米和親条約に調印する羽目に追い込まれてしまった。
条約は、
――下田箱館の二港を開き、薪水食糧等を供給すること、両港における遊歩区域を設定すること、アメリカ船の必要品購入を認めること、外交官の下田駐在を許可すること、最恵国約款を承認すること、
などを内容とする。
ペリーがこの際、強いて通商貿易の自由を強要しなかったのは賢明であった。それは、この時点では、極めてはげしい抵抗を惹き起したに違いない。
――今はこれでよい。その中に必ず、自由な通商条約を結ぶことになる。
そう判断したペリーは、優れた軍人であると同時に、賢明な外交官でもあった。
和親条約を締結したペリーは下田に赴き、測量隊を編成して港内を詳細に調査した。士官たちは、上陸して自由に町内及びその附近を歩き廻った。そうした情報は次々に、江戸に伝えられている。
四月にはいって最初の日、玄武館に赴いた鉄太郎は、同門の者が話しているのを、耳に入れた。
「ばかなことをする奴がいるものだな。下田で黒船に乗り込んで、アメリカに連れていってくれと頼んだと言うではないか」
「全く、気が知れぬ。夷敵どもの国へ行こうなどと」
「お公儀の固い御禁制を何と心得ているのかな」
「長州の男だそうな」
「うむ、吉田……寅次郎とか言ったな、もう一人金子とか言う従士がおったそうな」
鉄太郎の頭に、小さなアバタだらけの、瞳の澄んだ侍の姿がパッとよみがえった。
「今の話、本当か、吉田寅次郎が黒船に乗り込んだと言うは」
「本当だ、兄から聞いた」
「で、その吉田寅次郎はどうなったのだ」
「アメリカ軍人はわが国の国法を知っている。お公儀の認めぬ渡航は許可できぬと拒絶したそうな。奴らの方が、物が分っているようだな」
「それで――吉田は」
「捕えられて牢につながれたと言う」
「それは、いつのことだ」
「三月二十七日の夜――と聞いた」
と答えた対手が、
「小野、どうしたのだ、妙な顔をして。お主、その吉田と言う男を知っているのか」
「うむ」
「えっ、どうしてだ」
「知っている――と言っても、たった一度、偶然に出会っただけだ。だが――」
「だが――何かあったのか」
「いや」
口を濁したが、受けた衝撃は大きかった。
――そうか、そうだったのか、
鉄太郎は独りになってから、いくたびか口の中で繰り返した。
寅次郎は、あの時、
――黒船を自分の眼でみて、自分のなすべきことを考える、
と言った。
一体、何をどう考えるつもりなのか、鉄太郎には全く見当がつかず、
――妙な男だ、
としか思われなかったのだが、その寅次郎は自分の進むべき途を、
――海外渡航
に見出したのだ。
黒船をみるばかりでなく、その黒船を建造し、万里の波濤《はとう》を超えてこの日本までそれを送り込んできたアメリカと言う異国そのものを見ようとしたのだ。
敵を知り我を知るは――と、寅次郎は言った。自分の眼で、夷敵――アメリカを見てやろうと、あの男は決心したのだ。
鉄太郎には到底、夢にも考えられない怖るべきほど飛躍した想念である。
――夷敵の国へ、従士とたった二人で、
何と言う大胆なことを考える男だろう、いや考えただけではなく、それを実行しようとしたのだ。それも国禁を犯すことを充分に知りながら。
彼は長州の者だと言った。だが同時に、自分たちは特定の藩の人間としてではなく日本国民の一人として、それも世界における日本国人の一人として、己れの進むべき途を考えねばならぬと言った。
発想の次元が、全く違うのだ。
鉄太郎は、永い間茫然としていた。それから、寅次郎と交わした会話を、繰り返し己れの頭の中に思い浮べてみた。
どう考えても、とてもついてゆけそうもない発想である。
――おれにはわからぬ、
鉄太郎の、鈍重な思考力は、ついにこの問題に対する解答を投げ出してしまった。
――おれにとっては、差当り、剣の道に精進する以外に途はない、
十九歳の青年鉄太郎は、結局、そう結論を下した。
――むつかしいことは分らぬ、おれはただ剣の修業をつづけるだけだ。
鉄太郎の修業は、更に一段と、はげしさを加えた。
もはや、玄武館道場においても、彼と五分に立合えるものはいない。
自然、そこに多少とも驕慢《きようまん》な感じが現れてきたのはやむを得なかったであろう。
井上八郎は、それを敏感に嗅ぎとった。
井上はこの頃、玄武館師範を罷《や》め、自分で別に道場を持っていたが、時折は古巣の玄武館に姿をみせていたのである。
「鉄太郎――」
顔を合せた時、井上が声をかけた。
「ずいぶん、はげしい稽古をしているようだな」
「はい、この頃は対手をしてくれる者が少くなって困っています」
「それほど、強くなったのだな」
「いや、そんな」
と、一応|謙遜《けんそん》はしてみたものの、自信のほどは眉宇に溢れている。
「剣をとっては、もう、わしもお前に敵《かな》うまい」
「とんでもないことを」
「いや、そうだ。だが、鉄太郎」
「はい」
「武芸は、剣のみに限らぬ」
「は?」
「例えば、槍だ、お前は槍を剣ほどつかえるか」
幼い頃、久須美閑適斎に真剣流の剣法を学んだが、その折、樫原流の槍術の手ほどきを受けたことがあるだけだ。
「槍術は、特に学んだことはありませぬ」
と答えた鉄太郎が、
「しかし、先生――」
と瞳を光らせた。
「しかし、何だ」
「特に槍術を学ばなくても、剣の道で奥義を極めれば、対手が剣をもってこようと、槍をもってこようと、立派に闘えると思いますが」
「本当に、そう思うか」
「はい」
きっぱり、言い切った。
「そうか」
とうなずいた井上が、
「わしは、そう思わぬ。対手が一通りの槍術しか修めておらぬ場合には、お前の剣で立派に闘えるだろう。だが、対手が槍術の妙を極めている時は、そうはゆくまいぞ」
「そうでしょうか」
「鉄太郎、これは議論しても始まらぬ。わしについて来い」
井上は、鉄太郎を伴れて外に出た。
「どちらへ参るのです?」
「ついてくれば分る」
井上は小石川鷹匠町にやってきた。
北の三百坂通りと南の同心町の間に挟まれた一帯で、下級の侍屋敷ばかり並んでいる。
かなり古びた屋敷の前に足をとめると、
「鉄太郎、ここが山岡静山先生の家だ」
と言って、意味あり気に微笑した。
「あ、槍術の――」
「そうだ」
静山山岡紀一郎が、槍をとっては無双の名を得ていることは、鉄太郎もよく知っていたが、その静山がこんな見すぼらしい屋敷に住んでいようとは思ってもみなかったことである。だが、山岡家は元高《もとだか》百俵二人扶持、身分は西丸|御徒《おかち》と言うのだから、当然のことであったろう。
「道場が見えませぬが」
「あちらだ」
井上が左隣の家を指した。
なるほど道場らしいものが見える。
「隣は静山先生の外祖父高橋義左衛門の家だ。尤も今は義左衛門は隠居し、先生の弟の精一が養嗣になって家督を嗣いでいる」
高橋家も元高四十俵二人扶持、養嗣精一が御勘定方へ出て足高《たしだか》三百俵。
井上は、つかつかと山岡家の玄関に行って、案内を乞う。
出てきた二十六、七の、柔和な感じの男をみると、
「や、山岡先生、しばらく」
と、挨拶した。
――これが、静山先生か、
余りに若い、そして余りに柔和な感じだ。
これが井上でさえ、
――先生
と呼ぶ、槍術の名手なのだろうか。
「これは、井上先生、お珍しい、さ、お上り下さい」
静山は、声も落着いて、静かである。
「いやいや、勝手ながら早速、道場の方へ御案内頂きたいのです」
「はあ、それは――」
「実は――」
と言いかけた井上が、鉄太郎を振向いて、
「これなる若者、千葉道場の小野鉄太郎、よろしくお見知りおき下さい」
「千葉道場の鬼鉄――と呼ばれている方ですかな」
「さよう」
「御立派な体格だ」
十九歳になった鉄太郎は六尺一寸五分(一八五センチ)の堂々たる巨大漢になっている。静山はそれを見上げるようにして、眼許をほころばせた。
鉄太郎は、静山が鬼鉄の名を知っていてくれたので、少からず、いい気持になった。
「山岡先生、御門下のしかるべき方に、この鉄太郎と立合わして頂きたい」
井上が単刀直入に申し入れた。
「ほう、鬼鉄殿は、槍も遣われますか」
「いや、それが殆ど全くだめなのです。ところが本人、剣の道に練達すれば、槍にも充分対抗出来る筈――と言う。果してそうか否か、実験してみたくなりましてな」
「なるほど、それは面白い。私も是非、拝見したいところ。では、お話は後の事にして、とりあえず道場の方へ」
静山は二人を隣家の道場につれてゆく。
山岡、高橋両家の境は低い生垣になっているが、その一角が開かれていて、自由に往来できた。高橋家の庭にある道場を、両家で使っているらしい。
道場と言っても極めて粗末な作り、広いだけが取り柄と言ってよいくらいのものだ。
四人の門弟が二組に分れて稽古をしていたが、静山の姿をみると、稽古槍を引いた。
「精一は?」
静山は、弟のことを訊ねた。
「まだ、お城からお戻りになりません」
精一は御勘定方に勤めているが、実兄静山と並んで槍の名手、道場は兄弟二人のものと言ってよい。
「そう、まだ少し早いようだな。こちらは井上八郎先生、それから千葉道場の鬼鉄どの。鬼鉄どのが、剣と槍との立合いを試みたいと言う。深沢、お主、お対手をせい」
――鬼鉄
と聞いて、ちょっと眉をあげた深沢真八郎、師の命令に、黙って頭を下げた。
鉄太郎は井上に促されて支度をする。
元来この道場は、静山兄弟の外祖父に当る隠居の義左衛門が、槍、薙刀《なぎなた》、剣を教えていたものだから、道具はすべて揃っている。
防具をつけ、竹刀を手にした鉄太郎は、深沢と相対して、一礼した。
双方、身構える。
鉄太郎としては、槍を対手にするのは初めてである。
いつもと少し勝手が違う感じであったが、
――なに、剣も槍も、源は一つ、
と、巨きな眼を一杯に開いて、深沢を睨みつけた。
深沢は、静山が選んで指名しただけあって、槍は相当遣うらしい。その上、対手を、
――名にし負う千葉道場の鬼鉄
と知って、充分に警戒している。
さすがの鉄太郎も、そうやすやすとは打ち込んでゆけない。しばらくは、じっと深沢の様子を窺った。
睨み合いが続くと、気力の勝負になる。
鉄太郎の圧倒的な気魄に、いささかの気怯《きおく》れを感じた深沢が、己れを励まして、先制攻撃をかけた。
「とう――」
掛声と共に電光の如くくり出された穂先を、鉄太郎はすぱっと左へ払ったが、深沢はやや体を崩しながらも、さっと手許に引く。
鉄太郎、すかさず踏み込んだ。
深沢の槍先が再びその胸板に向って飛ぶ。
あわや胸許を突くかと思われた刹那、鉄太郎の竹刀が、ひゅーっと音をたてて走り、穂先を斜下に叩き下ろした。
間髪を容れず、深沢に向って鉄太郎の巨躯がぶつかってゆく。
「ぐッ――」
と呻った深沢が、仰向けによろめき、
「参った」
と、嗄《しわがれ》たような声を出した。
鉄太郎の得意の強烈な突きが、深沢の喉を刺したのだ。
「お見事」
静山が言った。門弟が惨めな敗北を喫したと言うのに、その声はひどく爽かで明るい。
「満足されたかな、剣も鬼鉄どのぐらいになると、なかなか、槍でも歯が立たぬ」
と賞める。
鉄太郎は少々くすぐったい思いではあったが、自分の自信を裏付けられて、昂然としている。
静山は、これで終ったと言う顔つきで、井上を促して道場を出てゆこうとする。
井上が、後を追った。
「山岡先生、お人が悪い」
「は、何のことで?」
「おとぼけなさるな、鉄太郎が突きを呉れた時、先生はにっこり笑われたではないか」
「それは仲々見事なので思わず――」
「この私まで瞞《だま》そうとしてもだめでござるよ、あれは、なかなかやるが、まだまだ……と言う笑いじゃった」
「ほう、見透かされましたか」
「山岡先生、お願いだ。鉄太郎に一手御教示頂きたい。きゃつ、剣の技には天成のものがある。精進をつづければ無双の名人たるべき素質を持っているが、近頃少々うぬぼれてきている様子。あれではいけない、先生、是非、鉄太郎にこの道の深さを、とくと味わわせてやって下さい、お頼み申す」
「井上先生がそれほどまで嘱望《しよくぼう》されているとは――よろしゅうござる。ちと、手荒に致しますぞ」
「それこそ、願うところ」
静山が井上と共に道場内に引返してくると、鉄太郎は防具を脱いで片付け、深沢らに挨拶しているところだった。
「鉄太郎、待て、山岡先生が一手御指南下さる」
「あ、それは、忝《かたじけの》うございます」
鉄太郎としては、深沢を破った以上、静山が立合ってくれるものと期待していたのだ。静山がさっさと出て行ってしまったので、少からず拍子抜けし、不満にも感じていたところだ。
――海内《かいだい》第一と言われる山岡静山の槍が対手なら、敗れても悔ない。ようし、力の限り闘ってみせるぞ。
再び道具を身につけると、全身に若い闘志をまる出しにし、凄じい表情で、道場の中央にすすみ出た。
静山の姿が見えない。
自宅に支度をしに行ったのかと思っていると、道場の裏口から戻ってきた。
手に七尺(二・一メートル)の青竹を提げている。防具は全くつけていない。
そのまま、鉄太郎の前に進み出ると、
「お対手致す、遠慮なく」
と、涼しい声で言って、青竹を構えた。
鉄太郎の全身の血が逆流した。
――おのれ、いかに静山なればとて、人を莫迦《ばか》にするにも程がある。息の根の止まるほど叩きのめしてくれるぞ。
憤怒に両眼を血走らせ、じりじりと間合を詰めてゆこうとしたが、どうしたことか、足が一寸も前に出ない。
無雑作に切られた青竹の先端が、鋭い真槍の切先のように両眼の間に迫っている。五尺六寸(一七〇センチ)の静山のからだが、頭上にのしかかってくるほど巨大に見える。
――何くそ、ゆけッ、
心はそう叱咤するのだが、全身が金縛りに会ったようで、身動きができない。
汗が、背と額に滲んできた。
不意に、静山が、さっと青竹を手許に引いた。
――誘いの隙、
とは充分解っていたが、この機会を外しては一歩も踏み込めない。鉄太郎は、突かれるのを覚悟で、相打ちにもってゆこうと考えたものか、大喝一声、必死の諸手突き――静山の喉首めがけて殺到していった。
次の瞬間、半ば、気を喪った。
青竹の先が、鉄太郎の喉を突いたのだ。喉がつぶれ、呼吸が止まるほど強烈なものだった。
辛うじて堪え、再び刺撃を試みようとした時、逆に、再度の突きを喰らった。どうしてそれほど素早く、第二の突きがやってくるものか、想像もできないほど、転瞬の間だ。
のけぞって、踏みこたえようとした膝が、床についた。
「参りました」
と言ったつもりが、声にはなっていない。
朦朧としながら正座し、一礼し、面具を外した。
「この位でいいですかな」
静山の少しも乱れのない声が耳にはいった。
「鉄太郎、あとで、山岡先生のお宅の方に参れ」
井上はそう言い捨てて、静山と共に去ってゆく。
鉄太郎はようやく呼吸を整えた。
裏口から外に出て、教えられた井戸端で、赤く膨《は》れ上っている喉を冷やした。
言いようもない恥かしさが、大きなからだ全体を縮めているようにみえる。
――未熟
自分自身を殴りつけたい様な気がした。
上半身を拭い、身装《みづくろい》をととのえると、山岡家の玄関に行った。
出てきたのは、十五、六の娘である。
「小野様、こちらへ――」
と、案内してくれた奥の部屋に、静山と井上とが対座している。
狭い庭に、小さな蓋をした井戸、その傍らに寒椿が数本。
二人が何を話していたか、部屋の空気はなごやかで、静かである。
鉄太郎は、縁側にぴたりと坐り、両手を前についた。
「山岡先生、お願いでございます。私を御門弟の端にお加え下さい」
完膚なきまでに自信を叩きつぶされ、畏《おそ》れ入ってしまっている貌《かたち》だ。
「どうだ、鉄太郎、上には上があるものと言うことが分っただろう」
井上がふり向いて言った。
「はい、ただただ、恥かしくて穴あらばはいりたい気持でございます」
「それが分ればいい。山岡先生、私からもお願いする。鉄太郎を御門下に加えてやって頂きたい」
「志ある方ならば、どなたもお断りはしておりません。いつからなりと」
静山は答えた。
「私もお城勤めのある身、不在の時も多い。しかし、弟の精一が非番で道場に出る日もかなりある。どちらかが、お対手しよう」
「何卒よろしくお願い致します」
余りおとなしくなってしまっているので、井上が笑い出した。
「どうした鉄太郎、こちらへはいれ、そこに大きな図体で坐り込んでいたんでは、お英《ふさ》さんが通れんではないか」
お茶を運んできた娘が、うしろに立ってにこにこ笑顔を見せていた。
さっき玄関に現れた娘だ。
静山の妹に違いない。涼しい眼許が静山によく似ている。
この時、鉄太郎は、自分が将来、山岡家と切っても切れぬ血縁関係を結ぶことになろうとは、夢にも思っていなかった。
だが、この日は鉄太郎の生涯を大きく変えることになったのだ。
静山は鉄太郎が一生の間に出会った多くの師の中で、最も強い影響を及ぼした人物であったと言ってよい。
年齢はわずか七歳しか違わなかったが、年に似合わず円熟し老成した静山に、鉄太郎は全面的に頭を下げた。
槍術については、言うまでもない。
この翌日から、鉄太郎はせっせと静山の許に通った。
静山の弟高橋精一(後の泥舟)は鉄太郎と一つ違い、気心も通じ、ややこわい静山よりは心おきなく話せる。
静山の母おふみ、弟信吉、妹お英、お桂とも、次第に親しさを増してゆく。
ここで静山山岡紀一郎と言う人物について少しく述べておこう。
紀一郎の実父は山岡市郎右衛門、御勘定方出仕、母おふみは隣家の高橋義左衛門の娘である。
夫婦の間に、紀一郎、謙三郎(後の精一)、信吉、お英、お桂の五人の児が生れた。
男の子はどれも、幼少の頃から外祖父に当たる義左衛門に武芸の手ほどきを受けたが、不思議に三人とも抜群の技、殊に義左衛門のお家芸たる槍術にかけては紀一郎、精一の両名は天才的なものを持っていたらしい。
信吉も相当な技倆だったが、これは幼年の頃、唖になって口が利けなかった。
義左衛門には鍵之助と言う男児があったが、病身で若死した為、精一が孫養子となって義左衛門の跡をついでいる。これも山岡家と同じく代々勘定方の家である。
義左衛門の槍は刀心流、長槍を用い、三人の外孫を徹底的にしごいた。
高さ一尺二寸の一本歯の高下駄を履かせ、何十回何百回ともなく突込んでこさせる。兄弟たちがふらふらになってぶっ倒れるまでそれを続けさせた。
静山自身も好む道、その修業鍛錬は、激烈を極めた。
重さ十五|斤《きん》の重槍をひっさげて突衝《つき》を試みること一千回、これを三十日続けたこともある。
平素は七斤の槍を持って、昼間は門人に教授し、夜は突衝三千回、あるいは五千回、ときには夕刻から鶏が鳴き出すまで三万回に及ぶこともあったと言う。
厳冬寒夜には、縄で腹部をぐるぐる巻き、水をかぶってから道場に入って、十五斤槍を操った。流汗淋漓《りゆうかんりんり》として、満身炎の如くになるまでつづける。
高下駄を履き、扇子一本握って立つと、門弟の中誰一人として敵うものはなかった。
筑後柳川の藩士で南里紀介なるもの、義左衛門から免許皆伝を受け、師を凌《しの》ぐ絶妙の技と称されていたが、柳川に帰国するに当って、静山と試合をしたことがある。
午前八時から正午まで四時間、互いに負けず劣らず妙技を競い、ついに勝負がつかない。検分役に当たった義左衛門が、
「それまで!」
と中止を命じた。
――操るところの各槍鋒、摧破《さいは》して寸糸を短くす、
と、中村正直の「静山伝」は記している。
両者の槍先は、はげしく鉄面竹胴に当ったため、どちらも一寸余り(四センチほど)すり減っていたのである。
静山のすぐれた点は、これほど酷烈な修業をして、二十二歳の頃には早くも、
――都下第一
――海内無双
とまで言われたにも拘らず、人物穏和で恭謙、父母に仕えて至孝であったことだ。
静山の父市郎右衛門が病歿してから、静山が残された母ふみに対する孝養ぶりは、はたの見る眼もいじらしいほどであった。
静山の日課表に、
――七ノ日省墓、三八聴衆、一六按摩
と言うのが残っている。
城勤めの合間に道場で門弟に稽古をつけるので、暇と言うものは殆どない、それでも七の日は必ず亡父の墓に詣でる。三と八の日には学問に励む、そして一と六の日には母の按摩をしたのだ。
海内無双の武芸者が、老母の背後に畏《かしこま》って、肩を揉んでやっている図は、ややユーモラスでもあったが、武道の他、精神面においても門弟たちを心服させたのは、そんな点にもあったのだ。
平生、二尺足らずの木刀を帯びていたが、その片側には、
――人の短を言う勿《なか》れ、己れの長も説くなかれ、
と記し、裏側には、
――人に施しては慎んで念とするなかれ、施を受けては慎んで忘るなかれ、
と刻んでいた。
門人に教えて言う。
――およそ人に勝とうと思えば、まず自分の徳を修めねばならぬ。徳が勝てば、敵は自然に屈する。これが真の勝である。
――人間の行いは、道によってなせば勇気が出るが、少しでも我が策をめぐらすと、何となく気力|脱《ぬ》けるものだ。
年に似合わぬ出来た人物だったのだろう。
惜しいことに、その若い肉体を早くから病魔が蝕《むしば》んでいた。
鉄太郎が入門した時には、すでに静山のからだは常態ではなかったと思われる。
にも拘らず、静山はその苛酷とも言うべき鍛錬を一日も廃していない。
からだが段々痩せてきて、皮膚の色つやもなくなってくる。胸が痛んで堪え切れぬことがある。
苦しそうな様子をみて、弟の精一が、
「兄上、少し静養されてはどうですか、昨日も母上が心配して涙を浮べておられました」
と囁くと、静山はその翌朝、暗い中から起き出て、道場で槍を揮い、門弟に稽古をつけてから、母の前に現れ、
「母上、この処少し気分が悪くて御心配をおかけしましたが、もうすっかり癒《よ》くなりました、この通り元気です」
と、にこやかに笑って言った。
静山のきびしい教授とこの優しさとに、門人たちは同じように慕った。
鉄太郎もまた、そうであった。
――先生には武技において到底敵わぬばかりでなく、人間的にも足許にも及ばぬ。
心の底からそう感じ、全身全霊をあげて静山に師事した。
山岡家のすべての人に親しみ、その率直な性格の故にすべての人に愛された。
「鉄太郎は良い青年だ。彼の剣は井上先生の言われた通り天稟だな。その上、性質がいい。純真無垢と言うか、近頃珍しい」
静山は、何度かそう言って、鉄太郎のことを賞める。
傍らで聞いていた末の妹のお桂は、
「鉄太郎さん、私も、大好き」
と、無邪気に応じたが、姉のお英《ふさ》は、ちらっと頬を染めて、視線を逸らせた。
十五歳。
この時代にはもう一人前の女性だ。
だがまだ自分の眼で男を鑑定する力はない。この年頃の娘の男性に対する評価は、父や兄の評定によって左右される事が多い。
尊敬している長兄静山と次兄精一とが、いつも賞めそやしている鉄太郎と言う男に対して、次第に特別の感情を持つようになっていたとしても不思議はない。
最初の日、玄関で会った時は、
――ずいぶん巨きな人、
と眼を丸くした。
その後で、縁側にその巨きなからだを出来るだけ小さくして、一所懸命に畏って、静山に入門を歎願している姿をみて、ちょっと噴き出しそうになった事を覚えている。
何となく頼もしい感じと、多少の親しみ易い滑稽感とが入り混って、わずかの日数の間に、かなり距てのない口を利けるようになってきていた。
それが、このところ急に、何だか鉄太郎に話しかけにくくなってきていた。その姿を遠くから見ているのはひどく嬉しいのだが、すぐ側にこられると、胸が重苦しくなってきて、逃げ出したくなる。
鉄太郎の噂を耳にするのは何より嬉しいが、自分の口から鉄太郎のことを言い出すことが、どうしても出来なくなった。
つい先頃までは妹のお桂と同じように、平気で鉄太郎のことを口に出し、時には相当|辛辣《しんらつ》な憎まれ口も利いたのだが。
緑が燃えるように鮮かな季節がきた。
夜は澄んだ星空に、流星がいくつも尾をひいて、飛ぶ。
その空を見上げて鉄太郎のことを考えていたお英が、不意に真赤になった。
――私は、あの方に恋をしている、
と、気がついたのだ。
胸がどきつき、血管の中で蝶々が舞っているような気がした。
――私は、恋をしている、
お英は心の中でそう繰返すたびに、何だかむやみに躁《さわ》ぎたくなったり、急に哀しくなったりするようになった。
「どうしたのかな、お英、この頃少し妙ではないか」
静山が精一に言った。
「そうですね、どうしたのでしょう」
聞いていた母のおふみが微笑して呟いた。
「ああ言う風になる年頃なのですよ、別に心配はいりませぬ」
次第に痩せ細ってゆく静山は、依然として激しい稽古をやめず、母の手前、殊更に元気そうに見せていたが、誰もみていないところでは、痛む胸をじっと押えていることが多い。
「今日は、隅田川に水泳に行って参ります。御竹蔵裏の先生の遠泳会に招ばれておりますから」
静山がそう言ったのは、六月二十七日である。水泳も武芸十八般の中、本所御竹蔵裏の三木清兵衛と言うのが、泳ぎの師であった。同じ御竹蔵裏の旗本酒井家に養子に行った鉄太郎の実弟金五郎も、同じ師についている。
――そのからだでは、
と、母も精一も止めたが、
――顔だけでも出さねば、
と出掛けていった。夕刻になって、金五郎が付添って、駕籠《かご》で帰ってきた。
水泳中に意識を喪ったと言う。
衰弱したからだが、もう気力だけでは持ち切れなくなっていたのだ。
三日の間、苦痛にうめきつづけた。
――卒痛(心臓炎)
と医師は診断した。
鬱積していた宿痾《しゆくあ》が、ついに破裂点に達したのだ。
六月|晦日《みそか》の夜、息をひきとった。
山岡、高橋両家の悲歎は言うまでもないが、多くの門弟の中で、狂わんばかりの悲しみをみせたのは、入門以来わずか三ケ月にしかならぬ鉄太郎であった。
遺骸は小石川指ケ谷町蓮華寺に葬られる。
間もなく怪しい噂が立った。
夜毎に、静山の墓の辺りに、妖怪が現れると言うのである。
高橋精一は、
――ばかな、おれが今夜、その正体をつきとめてやる、
と、身仕支度を整えたが、生憎《あいにく》その夜は、はげしい大雷雨となった。
むろんそんな事にひるむ精一ではない。蓮華寺に赴き、ずぶ濡れになって墓石の間に身をひそめていると、確かに怪しい人影が静山の墓に近づいてゆく。
精一は、そっと近づいていったが、
――あ、
と、声を喉許で抑えたのは、その人影が鉄太郎であることを認めたからである。
鉄太郎は、静山の墓石に向って合掌し、自分の着ていた合羽をすっぽりと墓石にかぶせると、大声で言った。
「先生、御安心下さい。鉄太郎が御側を守っております」
――そうだったのか、
静山は生前、雷が大嫌いで、雷鳴を聞くと厭な顔をして独りで書斎に引込んでしまう癖があったのだ。
――何と言う純朴な男だろう。
精一は、しばらく声をかけるのも忘れて、大男をじっと見守っていた。
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新 生 活
「困ったのう」
「どう致しましょう」
義左衛門と精一、それにおふみが加わって、頭を悩ましているのは、静山亡き後、山岡家の家督を誰に嗣がすかと言う事である。
静山の死の直前、とりあえず信吉を後嗣として届け出てはあるが、唖の信吉に公けの勤務はできない。
と言って精一が生家に戻って山岡家を嗣げば、高橋家が絶えてしまう。
「誰ぞ、しかるべき者を、お英《ふさ》の婿に迎えるよりほかあるまい」
「そうです。お英も年頃ですし」
「橋村の次男坊などどうかな、武芸の方も熱心じゃし――」
「そうですな、武芸の方はまずまずですが、少し性格が暗過ぎるように思いますが」
「そう言えばそうじゃな、うーむと、尾形の末っ子はどうじゃ、たしか二十一歳、愉快な若者じゃが」
「少々軽過ぎるかとも思いますが、余り贅沢も言っておられません。成るべく早く決定して改めて家督の旨お届けしなければ、勤め方のこともありますし」
「では尾形の伜とするか。先方に話す前に、お英の気持も確かめておくことじゃな」
「お英はまだ白紙。お祖父《じじ》さまのおっしゃることなら、否応《いなや》はありますまいが」
精一が引受けて、お英に話した。
――尾形の末子九三郎を、お前の婿に迎えて山岡家を嗣がせたいと思うが、どうか、
と言うと、お英が、ぶるっと肩をふるわせ、袖で顔を覆った。
「どうした、恥かしがることはない」
と、覗き込んだ精一に向って、お英が、
「私、いやです」
愕くほどはっきり言い放った。
「いやだ? 何故だ、明るい若者ではないか、お前もそんなに嫌っているようには見えなかったが」
「私、いやです」
怖ろしく、明快な拒否だ。
義左衛門に復命した。
「そうか、娘心と言うものは気紛れで分らんな。どこが気に入らんのかな」
「むりに押付ける訳にもゆきません」
「それはそうだ。となると、やはり橋村の源次郎かな」
源次郎の名を特出されると、お英は、またしても、
「私、いやです」
と、顔を覆ってしまった。
何人か候補者を考えてみたが、どれに対しても、お英はきっぱり、いやだと言う。
「どうしたんじゃろう。まだこんな話は早過ぎるのかな」
と義左衛門が眉をひそめた時、おふみが、首をふって言った。
「お英には、きっと、誰か心の中で想っている人がいるのでしょうよ」
義左衛門と精一とが、顔を見合せた。
――まさか、
と言った表情が同じように現れている。
「私がお英に聞いてみましょう」
おふみは起っていった。
隣の自分の家に戻ると、仏壇の前に坐り、お英を呼んだ。
「ここにお坐り」
優しい微笑を浮べながら言う。お英の方も微笑して、母と向い合って坐った。
「紀一郎が亡くなってからもうふた月になります、お公儀には跡取りの信吉が病気と申立ててお勤めをお宥《ゆる》し頂いておりますが、いつまでもこのままでは済みませぬ。山岡家を絶やさぬ為には、お前に婿を迎えて新しい家督とするほかないことは、お前も分っているでしょう」
お英は、母が何を言い出そうとしているかすぐに推察ができたので、微笑を消して、俯《うつむ》いた。
「お父上や精一のお話を、お前はただ、いやだとばかり、はっきりした理由も言わずに断りつづけていますが、この母には、その理由を話してくれるでしょうね」
お英の頭は、ますます下の方に下っていったが、返事は返ってこない。
おふみは、そうした娘の様子を凝《じ》っとみて、唇の端を少しほころばした。
可愛い気がしたのである。
それ以上、いじめる気はなかった。
「言いにくければ、私が言ってあげようかねえ」
娘の肩に手をかけて、横から覗き込むようにして言った。
「お前――好きな人がいるのでしょう」
お英は、耳たぶまで紅《あか》くなった。
「ね、そうだろう」
お英が、わずかに首を縦に動かす。
「ちっとも恥かしがることはありゃしない。その好きな人は誰だか言って御覧」
一人、おふみには心当りがあった。
亡き紀一郎と同じ勘定方に勤めている鳥井と言う男だ。紀一郎在世中、しげしげと訪ねてきていた。お英ともかなり親しくなっている。義左衛門も精一も、
――柔弱な奴、
と、歯牙にもかけていないが、男振りはよく、若い娘にはもてる型だ。
――もしかしたらあの鳥井かも知れぬ。あれだとすると、父上も精一も容易に賛成はしてくれまい、困ったことになる。でもあの鳥井も、父上や精一の言うほど弱々しい男ではないし、お英がどうしても好きなら、私が何としてでも、
と考えているのだ。
お英は、依然、紅い顔をして、膝の上においた袂《たもと》の端を、小さくたたんだり開いたりしているだけで、はっきりした答えはしない。
「黙っていては分りません。悪いようにはしないから、その人の名を言ってごらん」
お英は、唇を動かした。
が、声になっては出てこない。
「え? 誰?」
また、お英の唇が動いた。
今度は、何か聞こえたが、はっきりは分らない。
「ね、誰なの」
「――鉄太郎さん」
――あ、
おふみは、思わず、娘の頬にぴったり寄せていた顔を離してからだを起した。
――そうだったの、
考えもしないことだった。
鉄太郎が山岡家の、そして隣の高橋家の、すべての人に好意を持たれていることは明白だった。
だが、お英の結婚対手として考えていたものは一人もいない。
――身分が違う、
と言うことが、無意識の中に、この二人の結合を考慮の外に置いていたのである。
小野家は六百石の旗本、山岡家は百俵二人扶持の御家人、武芸の上では小野鉄太郎は山岡紀一郎の門弟であるが、社会的身分は遥かに上である。この頃の人々の意識においては、それは容易に超えられない障壁なのだ。
「鉄太郎さん――ねえ」
おふみは、溜息をした。優しい微笑は影を消して、
――困ったことになった、
と言う当惑の色が、深く眉を寄せていた。
お英自身も、
――とても無理なこと、
と思っていたのだろう。それにしても母親までが、あからさまに、
――困った、
と言う様子を見せたことは、娘心にとって大きな打撃だった。
「いいのです、私、諦めています」
小さな声でそう言うと、前に突伏してしまった。
「お英、諦めることはありません、私ができるだけのことはしてみますよ」
おふみは、娘をそこに残して、隣の屋敷に向ったが、
――父上も精一も、吃驚するだろう、
それだけしか考えられなかった。
義左衛門と精一とは、縁先に向い合い坐って話していたが、妙にしょんぼりした恰好で、庭伝いにはいってきたおふみを見ると、精一の方が声をかけた。
「母上、お英は、何か申しましたか」
おふみは、うなずいた。そして自分も縁に上った。
「あいつ――好きな男がいたのですか、愕いたな、いつの間に――」
「ま、待て、まずその男の名を聞かねばなるまいが」
義左衛門は、煙管を強くぽんと吐月峰《はいふき》に叩きつけて、おふみの方に向き直った。
「ふみ、対手は誰じゃ」
「それが――鉄太郎さんなのです」
「鉄太郎!」
これは、義左衛門と精一と二人の口から、殆ど同時に出た。
「でかした、お英、さすがにわしの孫娘じゃ、鉄太郎に惚れたとは、天晴れと言うほかはない。うーむ、そうか、鉄太郎に惚れたか、うむ、そこまでは思うても見なかったが、偉いぞ、お英」
義左衛門は、すっかり上機嫌になって叫ぶように言った。
精一も、瞳を輝かしていた。
「もしや妙な男に惚れ込んだりしていてはと心配しましたが、小野に惚れたとは――彼ならば、男の私でも惚れ込んでいる。父上も惚れ込んでいる。お英の奴、案外、眼が肥えていますな」
「でも――」
おふみは、より現実的な立場に立っているので、二人の男の有頂天の悦び方には同調できない。
「小野家と山岡家とでは――とても釣合いがとれませぬ。鉄太郎さんに、貧乏御家人の山岡家に婿養子に来て下さいとは言えないでしょう」
「うーむ」
これも、義左衛門と精一とが、殆ど同時に発した声である。
「そうじゃ、そこが難問じゃよ」
「ちょっと、無理ですかなあ」
「ちょっとではない。大いに無理じゃ」
「少くも、こちらから、山岡家の養嗣になってくれとは言い出せませんな」
「あの、私から――鉄太郎さんに、頼んでみましょうか」
おふみが、おずおずと口を容れると、義左衛門は、目を怒らせた。
「ばかな、何を言う、あの鉄太郎のことだ、わしらが無理にでもと頼み込めば、やむを得ず承諾をしてくれるかも知れぬ。それだけになおのこと、こちらから言い出すことは遠慮せねばならん」
「と言って、あちらから申入れてくる筈もないでしょう」
「当り前じゃ。第一、鉄太郎はお英など、眼中にないじゃろう」
「困りましたな」
「困った」
三人とも、永い間、考え込んでいたが、不意に、精一が言った。
「井上先生にお願いして、それとなく、鉄太郎の意向を探って貰ったらどうでしょう」
「なるほど、井上氏には鉄太郎も何かと相談をもちかけている様子だし、井上氏は鉄太郎を非常に可愛がっている。鉄太郎の為にならぬと思うことなら初めから断るだろうから、引受けてくれるかどうか分らんが、一応、頼み込んでみるか」
「私がお願いに行ってみます」
精一は、井上八郎の道場を訪ねて、事の次第を述べて、
――何とか力添えを賜わりたく、
と、懇願した。
井上は、大きくうなずいた。
「小野家と山岡家とでは、確かに身分の上の釣合いはとれぬ。しかし、亡き山岡静山は槍をとっては天下無双の名人、鉄太郎はその静山を心の底から尊敬し愛慕していた。山岡家の養嗣となることは、亡き師の跡をつぐことになる。鉄太郎としては必ずしも反対ではないと思うが――」
と口を濁したのは、義左衛門と同じ懸念からである。
――自分がすすめたら、心の中では厭だと思っていても、断り切れずに承諾してしまうのではないか、
鉄太郎の性格を知るだけに、どんな形でも、無理強いになることは避けたかった。
が、それでは、精一の懇願に応《こた》えることにならない。
――何とかうまい方法はないものか、
井上は腕を組んで思案していたが、
「少々日にちを呉れぬか」
と、言う。何か考えついたらしい。
「はあ、決して、今日明日と言うのではありませぬが――」
「分っている、成るべく早く、返事はしよう」
精一は帰っていった。
数日後、井上は、道場にやってきた酒井金五郎を呼び寄せた。
鉄太郎の弟金五郎は、旗本酒井主水の養嗣となってからも、引きつづき井上について剣の道を修業しているのだ。
さり気ない風にしばらく世間話をしていたが、その中、話を亡き山岡静山のことにもってゆき、静山の槍術を絶賛した。そして、ふっと想い出したように言い出した。
「そう言えば、此間《このあいだ》山岡家に行ったが、静山亡き後、弱り果てているらしいな」
「それは、どう言うことでございます」
金五郎は、不審気に問う。
「後嗣《あとつぎ》のことだよ。静山の弟信吉は不具の身で、公儀の勤めはできぬ。このままでは結局、山岡家は絶えてしまうことになるだろう」
「静山先生には、妹さんがいらした筈、婿養子を迎えればいいではありませんか」
「わしもそう思っていた。ところが、よく聞いてみると――金五郎、これは内緒だぞ、あまり人に言うな」
「はい」
「静山の妹御は――その、なんだ――お主の兄貴鉄太郎に惚れ込んでおる」
「はあ、兄に――」
「妙な声を出すな。鉄太郎ほどの男に、若い娘が惚れるのは、当然じゃ」
「愕きました。あんな無骨な大男に、惚れてくれる娘さんがいるとは」
「お前にはまだ分らん、しっかりした娘は鉄太郎のような男に惚れるものじゃ」
「はあ、それなら兄を、婿に迎えればいいでしょう。兄もあんなに静山先生を尊敬していたのですから――」
「いや、物事、そう手軽にはゆかぬ。小野家は六百石の旗本、山岡家は百俵二人扶持の御家人、身分が違うからの」
「はあ」
「お主が仮りに、百俵二人扶持の御家人の娘を貰いたいと言い出したら、お主の養父は必ず反対するじゃろ、釣合わぬは不縁のもと――とか言うてな」
「多分――」
「まして、養子にゆくとなれば、反対は多い。とても、鉄太郎は、山岡家の養子などに来てはくれまい――と、山岡家では思うているし、高橋家でも思うている」
「静山先生のお妹さんばかりでなく、お家の方も、高橋先生のお家でも、兄が静山先生の跡をつぐことを望んでおられるのですか」
「そうだ、静山の跡をつぐ者としては、鉄太郎以上の者はおらぬと思うている。じゃが、それ、今申した通り、小野、山岡両家は身分違い、むりなことは言えぬと、高橋の御隠居も、おふみさんも、頭を抱えておった」
「兄は、そうした事を知っているのでしょうか」
「いや知るまい、山岡家としても高橋家としても、そんなことを鉄太郎に向って言い出しにくいじゃろうしな――あ、金五郎、これは、内緒のことだぞ、よいか、こんなことは、みだりに人に言うてはならんぞ」
「はあ」
金五郎は、むろん、このことをみだりに人に話したりはしなかった。ただ一人を除いては。
その一人は、兄鉄太郎である。
「兄上は案外、女性《によしよう》にもてるのですね」
久しぶりに実家を訪れた金五郎が、鉄太郎の顔をみると、にやにや笑って言った。
「何を言っとる、小わっぱのくせに生意気なことを言うな」
「でも、ちゃんと証拠を掴んだのです」
「何が言いたいのだ、金五郎」
「静山先生の妹さん」
「お英さんのことか」
「そのお英さんが兄上に首ったけだそうです」
「ばか、でたらめを言うな」
「本当です。井上先生が言われたのだから間違いないでしょう」
「井上先生が――何故またそんなことを、お前などに言われたのだ」
「実はこうなのです」
金五郎は井上の言ったことを鉄太郎に伝えた。
「あまりひとに言うなと先生は言われました。だから、まだ兄上のほかには、誰にも言っていません」
少年はうまうまと井上のちょっとした謀略にひっかかったのだが、鉄太郎の顔を見上げて、吃驚した。
「どうしたのです、兄上」
鉄太郎は、凄く真剣な顔をしている。
「金五郎、確かに井上先生はそう言われたのだな」
「そうです」
「うーむ、そうか。山岡家でも高橋家でも、それほどまでこの鉄太郎を高く評価していてくれたのか、うーむ」
すっと、起ち上った。
「兄上、どこへ行くのです」
「井上先生に会ってくる」
そのまま、井上の道場にやってきた。
「井上先生、先生が金五郎に言われたことは本当ですか」
「金五郎には、あまり他言するなと言っておいたのに、仕様のない奴だ。しかし、金五郎に言ったことは本当だよ」
「先生、山岡家で本当に私を跡取りとして御所望ならば、私は悦んで養嗣に参ります」
「えっ、承知してくれるのか」
「はい、静山先生の跡目を相続させて頂けるとは、光栄の至りです」
「先方では、身分の違いをひどく気にしているようだが――」
「そんなことは問題ではありません。私如き者を、亡き静山先生が受入れて下さるかどうか、その方が心配です」
「それは心配ない。静山の外祖父義左衛門、母おふみ、弟精一――静山を最もよく知るこの三人が、それを熱望しているのだ。その上、お英さんが惚れ込んでいるのだから、山岡家にとってこれ以上の婿はあるまい」
「先生から、山岡家の方へ、お話頂けますか」
「むろん、悦んで仲介人の役をつとめよう。山岡家でも高橋家でも、大悦びをすることじゃろう」
井上からこの旨を精一に伝える。
「よかった」
「やっぱり鉄太郎だ」
「お英は仕合せ者よ」
と、高橋、山岡両家では、涙を流さんばかりに悦んだ。
お英は奥の間に逃げ込んだきり。
井上が正式に媒酌人の役を買って出て、鉄太郎は山岡家に婿入りし、お英と夫婦の契りを結ぶこととなる。
鉄太郎二十歳、お英十六歳。
人一倍巨大な鉄太郎と並んだ花嫁は、あまりに若く、あまりに小さく、いっそ痛々し気にさえ見えた。
それがこの二人の新婚生活の将来を象徴したものであろうとは誰一人夢想もせず、この新夫婦の新しい生活を祝福した。
信吉は隠居と言う形をとり、鉄太郎が山岡家当主として、御勘定方に隔日勤務をすることとなる。
初夜の翌朝、鉄太郎が新妻お英に向って、恐ろしく散文的なことを言った。
「おれはこれだけしか持っていない。こんど禄米を貰うまで、これで何とかしてくれ」
投げ出したのは二両一分。
母の遺産の中から百両だけ自分の分として貰ったが、この三年の間にそれは費い果してしまっていた。
大部分は女遊びにである。
お英は頭を下げたまま、
「はい」
と、答えた。
生れて初めての経験をしたばかりの翌朝である、良人の前に坐っているだけでも消え入りたいような気持だったろう。
――鉄太郎の嫁になってから三ケ月ぐらいは、何だか恥かしくてどうしてもまともに鉄太郎の顔が見られませんでした。
お英は後になってそう述べている。これはお英に限ったことではない。この頃の良家の娘はみな、そのような羞らいの心を持っていたのである。
その新妻に対して、いきなり金の話をぶっつけたのは少々ムードの無いやり方だが、鉄太郎にしてみれば、これが一番気掛りだったのであろう。
「これは、お納め下さいまし、お小遣いも御入用でしょう」
お英は、二両一分を鉄太郎の方に差し戻そうとした。
「いや、せめて、それだけは受取っておいてくれ」
鉄太郎は男の面目上、強いてお英にその金を納めさせたが、すぐに外に出てゆくと、金五郎の家に行って、無心をした。
「おい、少々用立ててくれ」
この兄が、弟に向ってこんなことを言うのは初めてである。金五郎はむろん、即座に持っているだけの金を貸した。
山岡家は小野家とは比較にならぬ小禄の貧しい家である。
貧乏生活に慣れている鉄太郎も、少々呆れるほど切りつめた生活であった。
それを知りながら、鉄太郎は平然としていた。
結婚以前と全く同じように、隙さえあればお玉ケ池の千葉道場に通って竹刀を揮う。時には高橋家の道場に行って、精一に槍の稽古をつけて貰う。
「鉄さん、あんたはやっぱり、槍よりも剣だ」
精一は、そう言う。
鉄太郎も、そう思う。
――おれの天賦は、剣にある。槍術では、どう逆立ちしても、精一には敵わぬ、
そう自覚しているから、槍は時たま習うだけ、主として剣に専念した。
それにしても、貧乏の度合はますます甚しくなってゆく。
三度の食事に事欠くこともある。
「これは何だ」
或る朝、鉄太郎が膳の上をみて、お英に聞いた。
どろどろの|かゆ《ヽヽ》のようなものが椀に入れてある。箸でかきまぜると、葉っぱらしいものがひっかかった。
「アカザと大根の葉っぱのおかゆでございます」
「米は――ないのか」
「すみませぬ――もう一粒もありませぬ」
次の日は、玉蜀黍《とうもろこし》だけ。
三日目に、鉄太郎が言った。
「よし、誰かの処に行って、米を借りてこよう」
勢よく飛び出そうとして下駄をつっかけると、真二つに割れた。穿《は》きふるして薄板のようになっていたのだ。
「えい、まずいな」
と舌打ちし、傍らの雑巾を懐中にねじ込むと、はだしで外に飛び出した。
千葉道場の友人関口隆吉の家に行き、
「頼もう」
と声をかけ、案内の者が出て来ない中に、素早く雑巾で足を拭き、さっさと勝手知った客室にはいり込んでしまう。
「小野――いや、山岡、どうした、何かあったのか」
きょとんとして顔を見上げる関口に、
「米を少し貸してくれ」
「そりゃ、いつでも貸すが、米を担いでゆくのじゃ大変だ、金を持っていった方がいいだろう」
「それでもいい」
「まあ、切角来たんだから、とにかく、一杯飲んでゆけ」
「そうするか」
酒まで御馳走になり、借りた金を懐中に入れて玄関の方へ送られて出ると、女中が走り出てきて、履物を揃えようとしたが、客のはいてきた筈の履物がない。
鉄太郎は、
――しまった、
と思ったが、どうしようもない。
「御免」
と叫ぶや否や、ぱっとはだしのまま玄関を飛び出して、一散に走り出したと言う。
一日に三度食える日は、一月の中に何回もなかったらしい。何も食えない日も何日かあった。
――なあに人間は二日や三日食わなくたって死にゃしない、食えなければ食わずにいるまでのことさ。
鉄太郎は後年そんなことを言っているが、それはこの当時の体験から来たのだろう。
家財道具から衣類まで、売り払い、畳まで燃料にしてしまって、八畳の居間に三畳だけ残って、あとは空屋同然だったこともある。
ひどい身なりをしているので、
――鬼鉄がボロ鉄になった、
と陰口を利かれた。
この貧乏生活の中でも、最初の頃、お英は自分を仕合せだと感じていた。
世間知らずの小娘が、初めて抱いた恋心を適《かな》えられて、想う男と一緒になれたのだからむりはない。
鉄太郎がほとんど家に落着かず、外に出歩いてばかりいても、不満には思わなかった。
――男とは、好きな時に出掛けていって、好きな時に帰ってくるもの、
と言う風に仕込まれているのだ。
鉄太郎が昼間外に出ているのは、大抵、武芸習錬の為である。夜遅く帰ってくるのは、必ず酒を呑みくらっていたからである。
鉄太郎の豪酒は晩年でも有名であったが、若い頃は、酒友と二人会合すれば、一斗は呑んだと言う。
事件の起った日――安政二年(一八五五)十月二日の夜も、近くに住む友人の池田徳太郎のところで、数人の友と、痛飲していた。
午後十時頃である。
突然、がくがくっと大きく家が揺れ、目の前の徳利も盃も、肴をのせた皿も、縁側の方に吹っ飛んだ。
坐っていた鉄太郎たちも、横ざまに倒れた。
つづいて更に激しく座敷が動いた。
横倒しになったからだを立て直したばかりの鉄太郎たちは、再び片手を畳について、からだを支えた。
隣家では、庭に飛び出したらしい。
池田徳太郎は、坐り直してから、
「こりゃ凄い――こんな地震は珍しい」
と、照れたような笑いを洩らした。ぐらぐらっと巨きく揺れた時、思わず、
――あっ
と叫んでしまったので、少々気恥かしく思ったらしい。
鉄太郎の顔を見て言った。
「何だ、山岡、ばかに平然たるつらをしているじゃないか」
「うむ――あんまり急だったので、驚くひまがなかった」
鉄太郎は、とぼけた答えをした。
「こいつ」
徳太郎が、一本やられたと言った表情になった時、大きなゆり返しがやってきた。
「庭に出た方がいいな」
「うむ」
皆が、庭に脱《のが》れた。
どこかで半鐘の乱打される音がする。
火が出たらしい。
庭に立っていると、何度となく大地が揺れ、家全体が今にも崩壊しそうに激動する。
「一応、家に戻れ」
「火事が心配だな」
鉄太郎以下、急いで家に戻ることにした。
その間にも、地震はつづいた。
家に帰ると、お英が、飛びついてきた。こんなことをする女ではない。よっぽど怖かったのだろう。明方までに、三十数回に亘って震動があった。
いわゆる安政の大地震である。
江戸近辺が震源地であった為に、被害は甚大であった。
特に下町はひどく、武家屋敷を除く市民の被害は、
――倒壊家屋一万四千三百四十六戸、倒壊土蔵千四百四、市中の出火三十余個所、焼失区域延長二里十九町・幅二町、男女の死亡四千六百二十六人、重傷者二千七百八十九人、
に及んでいる。
武家屋敷でも被害は大きい。
――万石以上の諸邸宅における死者二千六十六人、斃馬《へいば》六十二頭
に上っている。
この死者の中に、水戸藩の二名士藤田東湖、戸田蓬軒も含まれていたことは周知のところであろう。
幕府は応急措置として、罹災禍民の為に、市内各所に、
――お救い小屋、
を設け、凌雲寺以下十二の寺院に命じて、変死者の施餓鬼《せがき》を修行せしめ、諸物価工賃の暴騰をきびしく抑制した。
その一方、武家に対しては本年中の月次諸礼を停止し、諸大名の公借金の年賦返済を延期し、旗本・御家人に対しては金の貸与又は給与を行った。
鉄太郎の住居は、幸いに倒壊もせず、火災にも遭わなかったし、もともと極貧の生活をつづけていたから、特にこの地震の為に著しい困却を感じたことはない。
しかし、鉄太郎の精神は、大きな衝撃を受けていた。
池田に対して、
――あまり急だったので、愕くひまがなかった、
と答えたが、これは負け惜しみである。
――おれは、あの瞬間、たしかにぎくりとした。それは恐怖に近い驚きだった、
反省してみると、そう認めざるを得ない。
――武芸の習錬に十年近くも心魂を傾けつくしてきたこのおれが、たかが地震ぐらいに愕くとは何事か、一体、今までの修業は何の役に立ったのか。
真正直な男だ。
痛烈に己れを批判し、魂の底から恥じ入った。
――これではだめだ。おれの魂を根本から叩き直さなければ、
思案をこらした揚句、
――禅の道を究めることによって、磐石不動の妙境に達することはできまいか、
と、考えついた。
禅は、高山にいた時、宗猷寺の俊山和尚から手ほどきを受けている。
が、それはただ形だけのものだった。
江戸に戻ってきてからは、武蔵国川口芝村にある臨済宗長徳寺の和尚願翁元志について禅の教を聴いている。
が、それも、通り一遍のものであった。
今や、鉄太郎は全く新しい意気込みを以て禅と取り組もうとしていた。
何事でも、一たび本気でやろうと決めると、無我夢中になって飛び込んでいって、自分に納得のゆくまで、徹底的にやってみなければ気の済まない男である。
長徳寺に出かけていって願翁和尚に会うと、
「今日から、坐らして頂きます」
と願った。
今迄、何度も坐禅を組みにやってきているのだが、表情がまるで違う。
――ほう、何かあったな、
と感じた和尚が、微笑しながら聞いた。
「よかろう。じゃが、どう言う心構えで坐ってみるつもりかの」
「大燈国師|遺誡《ゆいかい》の御心を帯して」
鉄太郎は、即座に答える。
――汝ら諸人この山中に来《きた》って、道の為に頭を聚《あつ》む、衣食の為にすることなかれ、肩あって着ずと言うことなく、口あって喫《くら》わずと言うことなし、ただ須《すべか》らく十二時中、無理会《むりえ》の処に向って究め来り究め去るべし、光陰矢の如し、慎《つつし》んで雑用心《ぞうようじん》することなかれ、看取せよ、看取せよ、
遺誡はそう教えている。
衣食の一切を忘れて、ひたすらにこの道の修行に精進すべしと言うのだ。
願翁はこの道の名僧として知られていた。後に万延元年には建長寺に、慶応三年には京都南禅寺に迎えられている。
若い鉄太郎のひたむきの修行を悦んで、この後十二年間に亘って、懇切に導いた。
鉄太郎の坐禅修行は、ほとんど無茶苦茶と言えるほど、はげしいものであった。
昼は剣道、夜は坐禅と決めていたらしい。
毎晩、必ず二時過ぎまで壁に向って坐った。
帰りが遅かった時は、夜を徹して一睡もせずに坐っていることもあった。
鉄太郎の実弟飛馬吉が、後になって話している。
――鷹匠町の兄貴の家にゆくと、あばらや同然なものだから、昼間から鼠が出てくる。夜になっても灯りをともす油がないので、鼠が自由にあばれ廻ると言う状態だった。ところが、兄貴が坐禅を始めてからしばらく経つと、鼠がいつの間にかそこらを走り廻らなくなった。梁《はり》の上にちょろっと姿をみせた鼠を兄貴がぐっと睨むと、鼠がばたりと落ちてきたことがある。おれが坐禅をやっていくら睨みつけても、平気で走り廻っているのに、全く不思議だったよ。
真偽は、筆者もとより知らない。
だが剣や禅の妙境に達した人については、しばしばこのような事があったと伝えられていることは確かだ。
貧苦の中で、鉄太郎はひたすら、剣禅両道に専念した。
貧苦と闘う方は、もっぱら、健気なお英が引受けたのである。
安政三年四月、築地鉄砲洲に建設中であった講武所が竣工し、教授が始まった。
これは、時節柄、武備の増強を急務と感じた老中阿部正弘が水戸斉昭と謀って、講武練兵の機関として設けたものである。男谷《おたに》精一郎信友が参謀役として動いている。
教授課目は、剣術、槍術、砲術、水泳。旗本、御家人及びその子弟を集めて教授した。
教官にはその道の大家が、ずらりと並んでいる。
槍術――神保左衛門、飯室孫兵衛、駒井半五郎、山口弁蔵、吉田勝之助、安藤惣兵衛、勝顕三郎、加藤兵九郎、高橋精一(泥舟)、長尾小兵衛、庵原久左衛門。
剣術――男谷精一郎、戸田八郎左衛門、本目鑓次郎、今堀千五百蔵、松下設一郎、三橋虎蔵、近藤弥之助、榊原健吉、伊庭軍兵衛、井上八郎、藤田泰一郎、松平主税之介、太田六左衛門。
砲術――植村帯刀、松平仲、榊原鍾次郎、友成栄之助、下曾根金三郎、平山籏郎、日根野藤之助、長沢鋼吉、高島秋帆、飯田庄造、川俣鑓之助、尾本久策、田辺孫四郎、望月大象。
槍の教官の中に、鉄太郎の義兄高橋精一がはいっている。しかも、その実力では教授方の第一人者と、みんなが認めていた。
精一はこの三月一日に、旗本市川家からお澪《みお》と言う十六の美しい花嫁を迎えたばかり、悦び事が重なった訳だ。
鉄太郎が祝いにやってくると、精一が待っていたように言った。
「あんたにも、講武所の仕事を手伝って貰うよ」
「私が――何を」
「私から男谷先生に話しておいた。玄武館からの推薦と言うことにして、あんたに世話役をやって頂きたいのだ」
世話役とは、実質上、準教官である。
「そんな柄じゃないが、大先生方の集る講武所で、好きな武芸の修業ができるなら有難い話です」
講武所に世話役として出勤するようになると、鉄太郎の名は忽《たちま》ち喧伝された。
講武所の稽古は型を廃して試合を主とし、猛烈を極めたものである。
鉄太郎は一試合終っても面具もとらず、そのまま次の試合にかかり、道場を去るまで一度も休まずに試合をつづける。
しかも、例の強烈無比の突きで、用捨なく突きまくった。
――玄武館の鬼鉄
が、
――講武所の鬼鉄
となり、同時に、
――ボロ鉄
の異名も、講武所に拡がった。
鉄太郎が講武所の剣の教官の中で、最も尊敬していたのは、教授頭取の男谷精一郎であったらしい。
男谷精一郎信友は直心影流の達人、当時、
――剣神
と呼ばれていた。
直心影流では従来他流試合を禁止していたが、男谷はその禁止を破って、盛んに他流試合をやった。
――自流内のみで互にせり合っていては、一定規枠の外に出ることができない、大いに他流と渡り合って彼の長を採りわが短を補うがよい。負ければ自流の恥辱だなどと言うケチな量見は棄てるべきだ、
と、若い時から諸方の道場に出向いて修業した。自分で道場を構えてからも、諸国からやってくる剣士との試合を一度も拒んだことがない。
その試合ぶりが、変っていた。
最初の一本は必ず自分がとる。次の一本は必ず相手にゆずり、三本目は又、必ず自分がとる。
どんな強い対手でも、どんな弱い対手でも全く同じだった。何とかして二本とりたいと必死にかかっても、誰もが同じように軽くあしらわれてしまう。
――一体どこまで強いのか底が知れぬ、
と、名だたたる剣士たちがみんな舌を捲いて驚嘆した。
九州|柳川《やながわ》の剣客大石進が五尺余の大竹刀をひっさげて江戸に現れ、千葉道場から桃井道場まで破り、男谷の道場に傲然として乗り込んできたことがある。
男谷は遣《つか》い慣れた三尺八寸の竹刀を上段に構えて、いつものように軽くあしらって、三本の中二本をとったので、
――これは人間業ではない、
と、さすがの大石も全く兜を脱いだ。
千葉周作も男谷の剣には敵し得なかった。
試合の後で、男谷は周作を評して、
――あれだけつかうには随分修業を積んだだろうな、
と、まるで子供を賞めるような調子で、賞めている。
小肥りの柔和な人物で、妻や召使を叱ったこともなく、朝は自ら座敷を掃除し、射場で弓を試み、静かに朝饌を待つ。
武芸以外に文学を好み、静斎と号して書画をよくした。
養家は百俵高の小十人《こじゆうにん》であったが、天保元年書院番となり、徒《かち》頭、先手頭、講武所頭取、同奉行に昇進、文久二年には従五位下に叙し下総守に任じている。
勝海舟の父小吉は男谷家の生れで、精一郎信友とは従兄弟同士である。海舟はこの男谷から、
――これからの若い者は蘭学を修め、西洋の事情に通じなければだめだ、
と忠告されて洋学に志したと言う。単なる剣士でなかったことは明白であろう。
麻布|狸穴《まみあな》に道場を持っていたが、後に本所亀沢町の道場もかけ持ちした。これは師に当る団野真帆斎の道場を嗣いだものである。
榊原健吉、三橋虎蔵、横川七郎、島田虎之助など、幕末期の著名な剣客はみな男谷の門弟である。
島田虎之助は豊前中津の藩士で、天成の剣士、二十歳の時すでに、九州一円に敵なしと言われた。
天保九年江戸に出て諸方の道場を荒らし廻る。男谷の道場にもやってきた。
男谷は例の調子で軽く三本中二本とったが、虎之助は、
――今日は二本とられたが、必ずしもおれの方が劣っているとは思わない、江戸随一と聞く男谷も大したことはないな、
と、考えた。
残るところは下谷の井上伝兵衛である。ここに乗込んで試合したが、忽ち鋭く打ち込まれた。呆然として、
「願わくは先生の門下に加えて頂きたい」
と懇願する。
井上伝兵衛が微笑した。
「そこ許は良い太刀筋を持っている。私などより良い師匠についた方がいい」
「いや、江戸へ参ってから、大方の道場は巡ってみましたが、先生の如き妙手にはついぞ出会いませぬ、是非、先生にお教えを頂きたいと存じます」
「大方の道場と言うが、男谷先生の処には行ってみたのか」
「はい、三本勝負で二本はとられましたが、それは時のはずみ、正直の処、さして優れた腕とは思いませんでした」
「それはそこ許の腕が不足で、男谷先生も本気に対手にされなかったからだろう。私が紹介状を書いて上げるから、もう一度お訪ねしてみるとよい」
島田は少々不満だったが、伝兵衛の紹介状を持って、再び男谷の道場を訪れた。
男谷は書面を一見すると、
「ほう、さようか」
と言って、竹刀をとって立つ。
相対した島田は愕然とした。
前回とは全く違うのだ。
男谷の眼光が己れの眼孔から腸の底に滲み込んでくるようだ。竹刀の先が鋭い刃先となってじりじりと胸先を圧してくる。手足がすくみ、呼吸が荒らくなる。いつの間にかぴったりと道場の羽目板に追いつめられて、身動きもできない、脂汗がにじみ出てくる。
思わず、平伏して、
「参った!」
と、叫んでしまった。
即座に門に入って、修業し、男谷門下第一の高弟となったが、不幸にして嘉永五年三十九の時、病歿した。
男谷の門弟で諸大名の師範に招かれたもの二十数名、剣名は一世を圧していた。
この男谷精一郎に、講武所で接触した鉄太郎が推服したのは当然であろう。
だが、山岡静山に対するような、全身全霊をあげての心服とまではいかなかった。
――剣技における資質の違い、
とでも言うのであろう。どんな対手に対しても全力を挙げてぶつかって行き、いささかも容赦しない鉄太郎の若さは、男谷の老成し切った余裕|綽々《しやくしやく》たる剣技が、まだるこしく感じられたのかも知れぬ。
十年後の鉄太郎ならば、男谷のこの境地を充分に理解し、自省の転機を掴み得たであろう。この当時の若く血気溢れる鉄太郎は、男谷の絶妙の剣技に驚嘆しながらも、どこか一点喰い足りないものを感じていたらしい。
そして、十年後には、残念ながら男谷はこの世にいなかった。男谷に代る師として、浅利又七郎が彼の前に現れるのだが、それは後にゆずる。
男谷は鉄太郎に対してしばしば、
――おことの剣は鋭《するど》過ぎる、
と、忠告した。
――あの鋭さが、ふんわりとした靄《もや》の中に包み隠されるようになれば本物だが、
と他人に洩らしたこともある。
――剣は勝つか負けるかだ。鋭すぎるのがなぜ悪い、
鉄太郎は、そう反撥した。
男谷の忠告は、鉄太郎の行状の上にも及んでいる。
――酒に溺れてはならぬ、
と言う。男谷も酒を愛したが、酔って常態を失うようなことはない。
鉄太郎は酒友池田徳太郎と二人で一斗七升の酒を飲んだことがある。さすがに飲み過ぎて頭が痛くなり、吐気がして夜通し苦しんだ。翌朝、池田のことが気になり訪ねてゆくと、徳太郎は蒲団の上に腹ばいになって、頭に鉢巻きをしていた。
「何だだらしがない、この通りおれは平気だぞ」
と強がってみせると、徳太郎が、
「そうか、偉いぞ、おれは昨夜飲み過ぎて少し気分が悪いから、今五升ほど買わせて、迎い酒をやっていたところだ。まだ一升残っている。どうだ飲んでゆかんか」
と、枕許の茶椀を差出したので、さすがの鉄太郎も閉口して、
「そいつは勘弁してくれ」
と兜を脱いだ。
そんな無茶な飲み方をしていることを耳に入れた男谷が軽くたしなめたのだ。
――女に溺れてはいけないな、
と言ったこともある。男谷は愛妻家で、その妻が死んでからは再び娶《めと》らず、下男を相手に清潔な晩年を送っている。若い鉄太郎が、そんな忠告に耳を傾ける筈はなかった。
厳しく叱責したならば、或は利いたかも知れぬ。だが、男谷の忠告はいつも、春風|駘蕩《たいとう》として、柔かく、たしなめるだけなのだ。
鉄太郎は、男谷を煙たがった。一面において推服しながら、他面において敬遠するようになった。人と人の出会いが、ちょうど良い時機に行われる事は少いのであろう。
それでも、鉄太郎が長く講武所の世話役をつづけていたならば、男谷から獲たものが何かほかにあったに違いない。
講武所の空気に、鉄太郎は次第にあきたらなくなり、遠ざかっていった。
講武所に集った武芸自慢の旗本や御家人、そしてその子弟は、次第に武勇をてらい、粗暴な振舞いをするようになった。
――講武所風
と呼ばれる異様な風態が流行《はや》った。
月代《さかやき》を狭く、髷《まげ》を長くする。冬は鼠色木綿、夏は生平《きびら》の割羽織《さきばおり》、真岡木綿の揃いの袴に黒緒の下駄、白柄朱鞘《しらつかしゆざや》の大小に、撃剣道具を肩にかついでいる。
この恰好で、大道狭しと闊歩《かつぽ》する。
喧嘩は吹っかける、乱暴はする。
講武所内の稽古ぶりも、無茶なところが多かった。
当時の|ちょぼくれ《ヽヽヽヽヽ》に
――築地の講武所、これらも当気で始めた所が、稽古にゃなるまい、剣術教授大馬鹿たわけが、何にも知らずに、勝手は充分、初心につけ込み、道具のはずれを、打ったり突いたり、足柄かけては、ずどんと転ばせ、怪我をさせても平気な面付《つらつき》、兄弟(三橋虎蔵と弟新八郎)そろった、たわけを見なせえ、本所のじいさん(男谷精一郎)師範なんぞはよしてもくんねえ、高禄いただき、のぞんで居るのがお役じゃあるめえ、門弟中には、たわけをつくすを、叱らざなるめえ、赤い奴《やつこ》(平岩次郎太夫)も同じく悪い風儀を、直さざなるめえ、
と言うのがある。乞食坊主が木魚を叩きながら唱って廻った。
男谷の余りにも温和な性格が、批判されていた様子がはっきり分る。
幕府も、この風儀の頽廃ぶりには目をつむっている訳にいかなくなり、掟書を出した。
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一、武を講ずるは肝要なり、弓剣槍の芸も学び、礼儀廉直を基として、武道|専《もつぱ》ら研究致すべき候こと
一、生質不器用にて弓剣槍は能《よ》く致さず共、五倫の道に叶ひ、行状正しく候へば、恥辱とすべからざること
右の条々一統大切に心得、油断なく相励むべく候、たとへ武に長じ候とも、血気放蕩にして礼儀を弁へざるか、又は武道に心懸け薄く、世をそしり人を軽蔑する輩は、国家の害、風俗の弊に成り候間、いささかも容赦なくその罪に行ふべく候、面々心得違ひなく勉励致すべきものなり
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粗暴と言う点では、鉄太郎自身もその非難に値したかも知れない。
だが、彼は何よりも、武芸を怠り、虚栄《みえ》のみを張る外形的な、
――講武所風
に、厭気がさしていた。
講武所の門をくぐることが次第に少くなり、むしろ玄武館道場の方に熱心に通って、剣の道にいそしむことが多くなった。
山岡家の貧困はこの時代、その極に達している。
だが、お英は、少くもこの頃は、精神的には仕合せであった。
鉄太郎を、
――本当に男らしい、優しいひと、
と思っていたからである。
鉄太郎は巨大な体躯《たいく》と、いかめしい容貌を持ち、挙措動作はかなり乱暴であったが、妙に優しいところがあった。
若い娘に、理想的な男をと問えば、ほとんどすべての答えが、
――男らしくて、優しいひと、
と言うことになるのは、昔も今も変りはないであろう。
そして、鉄太郎には、そのような優しさがあったのだ。
安政三年も暮に迫った十二月半ば、お英は最初の子を生んだが、乳が出ないので栄養不良で死んでしまった。
出産は真冬だったが、蒲団が足りない。
鉄太郎は自分の着物や羽織を脱いで、お英の上にかけてやり、自分は襦袢《じゆばん》一つになって坐禅を組んでいる。
お英が、目をさまして驚き、
「あなた、それでは風邪をひきます。せめてお羽織でも」
と言うと、
「そうか」
と、襦袢の上に羽織をひっかけるが、お英が眠ってしまうと、またそっと羽織を脱いでその上にかけてやる。
お英が、ふっと眼をさまし、
「あなた――」
と起き上って、羽織を着せようとすると、
「心配するな、裸の寒稽古をやっているのだ。禅では寒中裸修行なぞ当然のことさ」
と、笑い飛ばした。
鉄太郎は、後に述懐している。
――眠っているお英の顔を眺めながら、こんな金を稼ぐことを知らぬおれに、何だって惚れて夫婦になる気になったんだろう。可哀そうにと思って、われ知らず涙がにじみ出たことがあったよ。
友人関口隆吉が、山岡家を訪ね、
「御免、御免」
と声をかけたが、誰も出てこない。
気配からみて、誰かいる様子なので、なおも大声で声をかけると、
「はい」
と襖《ふすま》の蔭からお英が顔だけ出した。頬を紅らめて、うつむく。
どうかしたのかと覗き込もうとした関口が、慌てて首をひっこめ、
「や、また、来ます」
と逃げ帰ったことがある。お英はたった一枚の浴衣を洗濯して、乾く間、襦袢一枚でいたので玄関に出られないでいたのである。
夏冬一枚きりの着物で、冬は夏物の裾にボロ綿を縫込んで冬物に見せかけた事もある。
貧乏話を、もう少し書いておく。
牛山栄治氏が「定本山岡鉄舟」「山岡鉄舟の一生」の中で引用している話である。
山岡家の庭の木は、薪物《たきもの》にするため片端から切られて、柏の木一本になってしまった。
これは近くの菓子屋が、
「あの柏の木だけは切らないで下さい」
と、かねてから言っていたものだ。
毎年、柏餅の時節になると、菓子屋は山岡家に来て、柏の葉を貰い、そのお礼として若干の金を置いてゆく。
それがいくらかでも山岡家の生活費の足しになることを知っていて、菓子屋の亭主は親切心からそう言ったのだろう。
鉄太郎は、お英からその言葉を聞くと、庭に飛び出て、のこぎりでごしごし切り倒してしまった。
菓子屋がやってきて愕き、
「どうして切っておしまいになったので」
と訊ねると、鉄太郎は、
「こいつ、がさがさ枯葉が音をたてやがって、本を読むのに邪魔になるんでなあ」
と、さり気なく言ってのけた。
菓子屋の亭主風情に憐れみを受けるのが心外だったのだ。
少し後のことになるが、年末大晦日に、八両余りの支払いがたまり、掛取りがきても払う金が一文もない。
にも拘らず池田や関口が酒を持ってきて、朝から肴なしに空酒《からざけ》を飲んでいる。
やってくる掛取りが呆れて文句を言うと、鉄太郎は筆をとって、
――払うべき金はなけれど払いたい、こころばかりに越ゆるこの春
と認《したた》め、
「これを持って帰って、主人に詫びてくれ、残念ながら一文もない」
と言って追払ってしまう。
鉄太郎の平素から憎めない性格のお蔭か、掛取りも苦笑して帰っていった。
――どうやらこれで怨敵退散、
と、飲みつづけていると、米屋のおやじが自分でやってきた。
「あいつは手強い、弱ったな」
と覚悟していると、米屋は笑いながら、
「空酒を飲んでいらしたと小僧が言っていました。これでもさかなにして下さい」
と、大きな沢庵漬を三本置いていった。
「こいつは、有難い」
鉄太郎は包丁をもってきて沢庵漬をさかなに切り、
「おい、また一句できたぞ」
と、筆を揮った。
――酒飲めば、何か心の春めきて、借金とりも鶯の声
こんな貧乏が何とか過ごせたのは、信吉やお英の妹のお桂は、いよいよ困ると、隣家の高橋精一の屋敷に逃げ込んで、何とか喰べていたからである。否、むしろ、そっちで過ごすことの方が多かったと言ってよい。
こうした極貧生活を、わずか十六、七のお英が何とかやり繰りして何の不平も洩らさなかったのは、愕くべきことである。
彼女は幼い頃から、貧乏に慣れていた。
ひどい小禄の山岡家では、貧乏が、通常の状態であった。
その上、静山は客好きで、いつも来客が多かったし、門弟の中に居候として転がり込んでくる者も少くない。
母のおふみと二人で、どんな苦しい中でも、来客に出す酒と、居候に喰わす食料とは、何とか都合をつけたのである。
結婚後も、家のまわりの小さな空地に野菜をつくったり、内職の紙捻《こより》をよったり、傘張りをしたりして、僅かの手間賃を得て家計の足しにした。
来客に対して暗い表情をみせたことがなかったと言う。
千石取りの旗本で、後に鉄舟の門人になった中条景昭は、
「あの奥さんは大した傑物だったな、男に生れていれば、頼りになる相談対手になる人だったね」
と述懐している。
鉄太郎は、ずいぶん放蕩はしたが、お英に対する愛情は充分に持っていた。この二つが両立していたのは、当時の日本の男性において、さして不思議なことではない。いや、現在でも、出来ればそれを認めて貰いたいと言うのが、大方の男の願いであろう。
お英は貧苦の中に育ったので、学問らしい学問をする余裕がなかった。読み書きも、不充分である。
鉄太郎は、新婚後、間もなくそれに気がついた。お英が、出納を記しているのを見ていた時である。
「お英、少し習字をやってみないか」
鉄太郎はさり気なく言い、半紙を百枚ばかり買ってくると、手本を二、三枚書いて手渡した。
良人の気持はすぐにお英に通じたらしい。
嬉し気に微笑すると、礼を言ってそれを受取り、鉄太郎の不在の折をみて、懸命に手習いを始める。
百枚の紙が真黒になると、その紙を陽《ひ》に乾かし、その上に水手習をする。
――手筋は、良いな。
鉄太郎は感心し、手をとって教えた。
もともとその素質があったものか、お英の上達は著しく、一年ほど経つと、内外日用の手紙などは、鉄太郎の代筆が出来るようになった。
ずっと晩年になると、よく知らぬ人は、お英の手紙を鉄太郎の書いたものと間違える程だったと言う。
書を読むことも、暇があれば鉄太郎に教えを受けて、努力した。
剣を教える時とは全く違って、鉄太郎は、優しく諄々《じゆんじゆん》と教える。お英にはその優しさが堪らないほど嬉しかったに違いない。
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清 河 八 郎
安政四年(一八五七)鉄太郎二十二歳。
この年、鉄太郎は、彼の二十歳《はたち》台に最も大きな影響を及ぼした盟友と遭遇する。
その人の名は清河八郎。
才能の種類も、人間としての持味も、鉄太郎とは全く違う。
八郎は幼にして才気|煥発《かんぱつ》、溢れるような野心と、複雑怪奇とも言うべき権謀術策の持ち主である。
鉄太郎はむしろ鈍重、世間的な名利に関心なく、純粋素朴な魂を、終生保持しつづけた男である。
この全く異質の存在が、一見旧知の如く、互いに相許し、行動を共にした。
人の出会いの面白さと言うものであろう。
八郎は出羽国(山形県)庄内田川郡清川村の素封家斎藤治兵衛豪寿(雷山)の嫡男である。
斎藤家は醸造石数五百石の酒造業者であるが、田地も四百石を所有していた。度々藩の御用金に応じたので十人扶持を賜わり、大庄屋格を仰せつけられていた。
八郎が生れたのは天保元年(一八三〇)十月十日、折から天地をゆるがす大雷鳴の最中であったと言い伝えられている。
単なる英雄伝説の一つであるかも知れぬ。
八郎の祖父昌義は、学問を好み、文人墨客の来訪を悦んだ。この頃、わが国の各地に、このような素封家がおり、地方遊歴の人に宿を貸し、食を供した。
維新の志士――と言われるもので、彼らの世話にならなかったものは殆どないと言ってよい。
江戸で遊楽に慣れた怠慢な武士たちよりは遥かによく勉学し、真に国家の前途を憂えていた。
八郎の父雷山は庭に、
――楽水楼
と称する一楼を建て、これを八郎の書斎にすると共に、客があれば、ここに迎えて止宿させた。
弘化三年(一八四六)五月、勤王の志士藤本鉄石がここに滞在し、十七歳の八郎の才気に眼を見はったことは、前にちょっと述べた。
八郎は極めて早熟な少年だったらしい。
十四歳の時、酒田に山王祭りを見物に行った時、娼家に上っている。
からだは大柄な方だったとは言え、数え年十四歳で、女郎買いをすると言うのは、相当なしたたか者である。
女遊びはその後ずっと続いているが、祖父昌義も父雷山も、一言も叱責していない。
「ほう、始めたか、少し早いの」
と、苦笑しただけであった。
田舎の大家の若旦那が女遊びするのは、当然のこととして認められていた羨望すべき時代である。
遊んでばかりいたわけではない。
清川関所の役人として赴任してきた畑田安右衛門について詩経や春秋左氏伝の講義を受け、詩文の創作について教えを受けた。
八郎は後年、多くの述作をし、多くの詩文を残している。文学の道には天分があったのであろう。
だが、文弱の徒にはならなかった。
酒田の剣士伊藤弥藤次の許に通って、熱心に剣の道に励んでいる。この方面でも、進歩は目醒しかった。
酒田までは、往復五十六キロ、日帰りには遠すぎる。自然、酒田に泊る。
泊ったのは、酒田今町船場町あたりの遊里《いろまち》である。
何事にも熱心な青年だ。
剣に対すると同じ熱意を以て女に通い、ついには馴染の女をひそかに清川村によんで、舟宿に隠しておいたこともある。
――斎藤の若が、女を囲うている、
と評判になった。
八郎十七歳の冬である。
この時も、祖父や父は不問に付したが、母親はさすがに心配して、
――早く嫁を持たせた方がよい
と、宮曾根村の実家に頼んで、あれこれと適当な娘を選んで八郎にすすめたが、八郎はきっぱり断った。
――私は大志を抱いている。並の女は私にふさわしくない、
昂然とうそぶいた。
――大志
と言ったが、その全貌はただ漠然としていた。さし当たりは、江戸に遊学したいと言うことである。
弘化四年五月、十八歳の時、家出を敢行した。
江戸について最初にやったのは、神田橋の藩国屋敷に行って知人から一両借りたことである。次にはその足で吉原に行って、隅々まで見て廻った。
さすがに故郷の遊里とはスケールの違う吉原の偉容に肝を奪われ、この時は登楼しなかったらしい。
翌日、借りた金の中から銀三十匁の羽織・袴を購入し、東条一堂の塾に赴いて入門を願って、許された。
東条一堂は京の皆川淇園の古学を学び、更に江戸の亀田鵬斎に折衷学を受け、一派を立てた学者で、この時、七十歳、嘖々《さくさく》たる名声を得ており、八郎は故郷においてその名を聞き知っていたのである。
ほとんど同時に、東条塾に近い生方《うぶかた》鼎斎の書道塾と、東条塾の裏通りにある天神真揚流の磯又右衛門の柔道場にも入門した。
気の多い男である。
この翌年正月には鶴岡から上府してきた伯父弥兵衛、金次の両人に伴《つ》れられ、第一回西遊の途についている。
京都では、島原の住吉屋にあがり、九人の女を侍らせてどんちゃん騒ぎをした。同行の伯父は話せる連中だったらしい。
広島へ行き、宮島を見物し、京に戻って大和めぐりをして、伊勢に出た。
伊勢では単身杉本屋にあがったが、その時酒の酌をしてくれたお金、お貞の二少女がひどく気に入り、
――共に十三歳ながら艶美無類、数年後には定めし名妓になるであろう。十年の後、学問を以てわが名が天下にとどろいたら、再びこの地に遊んで、この二人を侍らせよう、
と、日記に記している。
四月末江戸に帰ったが、七月初め、郷里で弟熊次郎が病死したので、一旦、国に戻った。
大人しくしていたのは一年数ケ月である。
嘉永三年(一八五〇)父を説いて、京に遊学。
岡田月洲の遵古堂に入門したが、その乱雑さに失望し三ケ月で退塾。
七月、京を出て九州に遊んだ。
小倉、佐賀、長崎、熊本、日出《ひじ》をめぐり歩いた。長崎では初めてオランダ人に会った。
長崎の丸山で遊女を抱いたことは言うまでもない。
九月江戸に戻り、再び東条塾に入る。
東条塾の西隣は、千葉周作の道場玄武館である。
嘉永四年二月一日、八郎は玄武館に入門した。
一ケ年ほどは無茶苦茶に勉強したらしい。東条塾の塾頭を命じられるほどになったが、八郎はこれを辞退している。
同じ頃、千葉道場では北辰一刀流の初目録を受けた。
文においても武においても、上達は常人の三、四倍のスピードである。
東条塾塾頭を辞退したのは、
――自分はすでに一堂先生の学風は一応理解した。異なる学風に接してみたい、
と考えたからである。
嘉永五年二月、八郎は安積|艮斎《こんさい》の塾に移った。
翌年、蝦夷地(北海道)視察を計画し、一旦帰郷した上、五月、松前に渡り、各地を巡って箱館を経て八月、故郷に戻る。
安政元年(一八五四)二十五歳。
二月、三度目の上府。
江戸に着くと、神奈川沖にペリーの率いるアメリカ艦隊が碇泊していることを聞き、荷物を東条塾に預けたまま、神奈川にアメリカ船を見に行った。
三月、安積艮斎の推薦によって、昌平黌《しようへいこう》書生寮に入る。
この時初めて、斎藤の姓を清河に変えた。
昌平黌には寄宿寮と書生寮とがあり、前者には幕臣の子弟、後者には各藩の俊秀がはいることになっている。
書生寮は全国青年のあこがれの的であった。八郎も久しくここに入ることを熱望していた。
だが、現実にそこにはいってみると、がっかりした。
エリート気取りの書生たちは、大言壮語するのみ、派手な交際《つきあい》に明けくれ、一向に学問に励む様子はない。
――これが天下の秀才か、
と、呆れるほど学力も低い。
――これなら、自分は自ら塾を開いて人に教えることも出来る筈だ。
自信の強いのは生れつきだ。
昌平黌退寮。
父に報じて金を送って貰い、三河町二丁目の武家屋敷の一部を借り、二十一坪の家を新築した。五十二両かかった。
十二月。
――経学文章指南、清河八郎
の看板を掲げた。
門人もぼつぼつ出来て、何もかも順調、書生寮で知合った松本奎堂にすすめられて、結婚の用意までしたが、半月後の十二月二十九日、近くの連雀町から出火、新築したばかりの家が全焼してしまった。
結婚をとりやめて、翌年早々帰郷。
三月には、母を伴って伊勢詣でをし、京大坂から岡山へ、更に四国に渡り、七月江戸、九月十日、無事故郷に帰りついた。
十月、又しても江戸へ。
気ぜわしい男である。
江戸に着いてみると、十月二日の大地震の後で全市混乱、とても落着いて学問など学んだり教えたり出来る雰囲気ではない。
翌月早くも、帰郷。
珍しく楽水楼にこもって、勉学と著述に日を送ることが多い。
――古文集義二巻一冊、兵鑑三十巻五冊、大学贅言一巻、中庸贅言一巻、
安政四年二月までにこれだけ書いている。
勿論、勉学執筆していたばかりではない。
鶴岡八間町の鰻屋の遊女高代に熱をあげて、せっせと通った。
高代は十八歳、鶴岡の南、月山の麓に生れ、家が貧しいため遊里に売られたのだ。
――この女こそ、おれの生涯の伴侶だ、
八郎はそう考えた。かつて、
――なみの女ではおれの妻にふさわしくない、
と放言した八郎が、それほど惚れ込んだだけあって、高代は優れた女人だったらしい。
八郎は、
――その賢貞を愛する、
と言っている。
だが、田舎の大家はどんな放蕩も黙認するが、遊女を妻にすることには強い反対を示した。
八郎はうるさい故郷を脱れ、仙台に行って高代と新世帯を持った。
高代を、お蓮と改名させた。濁った世界に住んでいても、蓮の花のように美しく香り高いと言う意味を示したものであろう。
安政四年四月、八郎はお蓮をつれて江戸に出た。
同じ場所に永くは落着いていられない性格なのだ。
八月、駿河台淡路坂に再び開塾。二十八歳の八郎は、自ら江戸最年少の儒者と称した。
八郎は開塾の傍ら、玄武館道場に通って剣の道にも励んだ。
――儒学を教えるもの、武芸を教えるものが、別個でなければならぬと言うことはない。文武が車の両輪であるとすれば、一人で文武両道を教えるものがいてもいい筈だ、
と考え、いずれは文武両道の塾を開くことを決めていたらしい。
こんな処にもこの青年の発想の多元性が認められる。
安政四年の暮、八郎は玄武館の早朝稽古に赴いた。
玄武館の早朝稽古は文字通り年中無休である。どんな厳寒でも悪天候でも、この道場では竹刀の音が早朝からひびいていた。
一汗かいて、面具を脱いで休んでいると、道場の入口から、みるからに颯爽《さつそう》とした巨漢が、のっそりとはいってきた。
額がばかに広く、眼も鼻も大きい。
先に来ていた連中を対手に稽古を始めたが、その意気込みの凄じさは、眼をみはるばかり、真剣勝負そのままである。
しかも、一人が疲れて他の者に代っても、面具を外さず全く休息なしに、何人でも対手にしている。
多くの者が、激烈な突きを喰らって仰向けに倒れ、そのまま闘志を失って退いてゆく。
八郎は、稽古をつづけるのを忘れて、その豪快な稽古ぶりに見とれていたが、
「あの大きな男は、何者ですか」
と、隣にいた男に訊ねた。
「あれを知らないのですか、ボロ鉄、いや、鬼鉄――山岡鉄太郎ですよ」
「鬼鉄――あ、噂は聞いていた」
――噂にたがわず、凄じい男だ、
八郎は、なおも鉄太郎を注視しつづけた。
休止の拍子木が打たれる。
一休みして、朝がゆが振舞われる。
その後で、職務を持つものは引きとり、仕事のないものは引続き稽古をする。
鉄太郎は、朝がゆをすすりながら、何者かの視線が自分の上に据えられているのを感じた。
顔を上げて、その方を見た。
向い側の、少し右手に、
――凜然
と言った感じの青年が坐っていた。
視線が、ぴったり合った。
双方の、同じように鋭くきびしい瞳がしばらく凝結したが、対手の青年が、急に眼許をほころばして、軽くうなずいた。
鉄太郎も、うなずいた。
隣に坐っている男に、訊ねた。
「あの、向うから五人目の人物は何者だ」
「あ、あれは清河八郎――出羽の産だと言うがなかなかのやり手だ。あの若さで、淡路坂に儒学の塾を開いている。頭が素晴らしく良く、弁口も立つ、評判がいい」
――清河八郎、あの男が、
鉄太郎も八郎の噂は耳に入れていた。
朝がゆが終ると、鉄太郎は八郎のところにやってきた。
「初めてお目にかかります。私は山岡鉄太郎、よろしくお見知りおき下さい」
対手を年長者とみて、鄭重に挨拶した。
「これは、申し遅れました、清河八郎、奥州から上ってきた田舎者、よろしく」
八郎にしては珍しく謙虚な応対である。
八郎は中肉中背だが、鉄太郎はそれを一廻りも二廻りも上廻る大男だ。その鉄太郎が見かけによらず神妙な態度で名乗ってきたので、悪い気はしなかったのであろう。
「出羽の方と承りましたが」
「さよう、庄内田川郡清川村――と言っても、どの辺りか御存知あるまいが」
「はあ、一向に地の理は弁えませんが」
と答えた鉄太郎が、
「しかし、清川村の名は聞いたことがあるように思います」
「まさか」
「いや、確かに聞きました。私は物覚えは余りよくない方ですが、ずっと以前伊勢にお詣りして五十鈴川の清流のほとりを通っている時、出羽庄内の清川村と言う地名を聞いたので、妙に頭に残っているのです」
「ほう、それは――一体、誰から清川村のことを聞いたのですかな」
「旅先で出会った藤本鉄石――と言う方からです。藤本さんは、その清川村で斎藤と言う家に止宿したが、そこで詩文の応酬した子息が素晴らしく俊敏な頭脳を持っていたと、感心して話されたのです」
「いやあ、藤本先生を御存知だったのか」
「では、あなたも――」
「今お話の斎藤と言うのは、私の生家の姓です。藤本先生の言われた伜というのは、私のことでしょう。俊敏などとは、藤本先生のお世辞だが」
二人の会合は、最初から双方が好意を持ち、共通の知人を持つことによって、極めて友好的に終始した。
――淡路坂の家に遊びに来てくれ、
八郎は、そう言って鉄太郎と別れた。
鉄太郎は、年が明けると、訪ねていった。
「あ、山岡さんか、よく来てくれた。さあ、上ってくれ給え、二人、来客があるが、遠慮するような人ではない、紹介しよう」
と、自ら奥の部屋に導く。
二人の先客が、洒を飲んでいた。
「こちらは玄武館道場の鬼鉄と言われた山岡鉄太郎、こちらは安積艮斎先生の門下本間精一郎と東条一堂門下の安積五郎」
本間精一郎は立派な整った容貌で、大抵の女に惚れられそうな色男だが、安積五郎の方は、右眼がつぶれ、顔中があばただらけ、荒らい髯を生やして、仁王のような感じだ。
「それからこれが、私の恋女房お蓮」
色町出だけに、女房になってもどこか色っぽい。客慣れしているので、にっこり頬笑んで、よろしくと頭を下げた。
「山岡氏、今、三人で天下の形勢を論じていたところだ。君も議論に加わり給え」
八郎が言う。
「いや、私など――私は剣以外には、何も知りません」
安積五郎が、ぎょろっと鉄太郎を見て、
「よし、じゃ、そこで酒を飲んでいてくれ、おれたちは議論をつづける」
と言う。多少亢奮しているらしい。
三人はそれまでやっていた討論をつづけはじめた。
議論の中心は、現にアメリカから強要された幕府が、諸大名に下問している、
――通商条約
の可否と言う問題である。
安政元年に締結された和親条約に基いて、アメリカは、安政三年七月、下田駐在総領事としてタウンゼント・ハリスを派遣してきた。
そのハリスから、和親条約を一歩すすめた通商条約の締結を迫ってきている。
幕府は容易に決断がつかず、その可否を諸大名に諮問した。
諸大名の回答は、
――通商を認めるほかはあるまい、
と言うのが圧倒的に多い。五年前にペリーが初めてやってきた時には、
――打払え、
と言う説が多かったのに比べると、著しい変化である。
――何故、そんなに変ったのか、
それを三人は議論していたのである。
「臆病風にとりつかれたのだ。水戸の老公(斉昭)などはかんかんに怒っているらしい。老中堀田備中守の意を帯して川路|聖謨《としあきら》が意見を聞きにいったら、備中も伊賀(老中松平伊賀守)も腹を切らせ、ハリスの首を刎《は》ねてしまえと怒鳴りつけたそうな。あの位の意気がなければだめだ」
安積が吼《ほ》えるように言う。
「元気のよいことを口で言うのは容易だが、実行はむつかしい。通商を拒絶して、戦いになった時に勝算があるかな、水戸の老公にだって、その自信はないだろう」
本間は、落着いて応酬する。
八郎は、うなずいた。
「諸大名の回答の変化も分る。大名の答申と言っても、結局、側近の家臣たちが作り上げたものだろう。近頃、どこの藩でも人材登用が活発になり、下っ端の者の意見をとり上げるようになった。彼らは重臣共と違って、よく勉強しているし、海外の事情も多少は知っている。頭も柔軟だ。外国と今すぐに闘って勝目があるとは考えていない。殊に、各藩とも財政逼迫は著しい。この際とても戦える状態にはないのだ」
「では、君たちも、外国通商に賛成なのか。禽獣《きんじゆう》の如き夷狄どもに、この神国を汚されてもよいと言うのか。おれは断じて反対だ。飛んでもないことだ」
安積は、眼をむいた。
「もとより、我々も反対だ。しかし、夷狄と戦いになれば、彼らは必ずわが領土に侵入してくるだろう。彼らの持つ優秀な砲火に対抗するだけのものは今の我国にはない。だから、しばらく時を稼いで、その間にわが国の武備を固めた方がよいと言うのだ」
本間の声は依然として落着いている。
「時を稼ぐ――一体どのくらい待てばよいのだ」
「それはやってみねばわからん。やり方次第だ。分っていることは、現在の幕府のやり方では駄目だと言うことだ。幕閣の誰も、この難局にどう対処してよいか分らないのだ。前例を破って諸大名の意見を徴しているのは、その何よりの証拠だ」
八郎が、膝をのり出して、口を容れた。
「そうだ、そこが大事な点だ。先にペリーが来た時、幕府は自ら意志を決定することができず、開幕以来の伝統を破って諸大名の意見を徴した。今また、ハリスの強要に会うと通商の可否について諸大名に上申させている。これは幕府がもはや、独力では国政を担当してゆく能力がなくなったこと、重要案件については広く諸大名の衆議を徴するほかなくなったことを示しているものだ。今後の政治は幕府の独裁ではやってゆけぬ。全国、上下一致して国難に当らなければならぬ」
「しかし、全国の意見が一致しなかった時はどうする」
安積が喰い下った。
「その時は、最後の決定は、天朝にお任せすべきだ」
「それみろ、その天朝の聖断は、貿易条約の締結は許し難し――とはっきり下っているのだ。当然これに従って、攘夷にふみ切るべきではないか」
「理窟の上ではそうだ。だが天朝の聖断が果してどのような情報を基礎として下されたかを考えてみねばならん。畏れながら今上《きんじよう》帝は大の夷狄嫌い。理窟なしに頭から毛嫌いされていると聞いている。堂上の公卿方もみな同様であろう。異国人たちの魂胆、彼らの兵力などについて充分に情報を提供し、万一の場合は江戸も大坂も京も、兵火にかかる惧《おそ》れのあることを納得して頂くのだ。それを御覚悟の上で、夷狄と戦えとの聖旨ならば、もはや何も言うことはない。戦いあるのみだ。聞けば朝廷では伊勢神宮はじめ多くの寺社に、国難克服の祈願をされたと言う。元寇《げんこう》の昔のように神風でも吹いて夷狄の艦船が悉《ことごと》く沈没してしまうことを夢みて、夷狄と戦ってもかまわぬと考えておらるるならば由々しいことだ。攘夷――と国策を決定する場合には、畏多いことながら天子様を始め、公卿も将軍も、諸大名もすべて必死の覚悟を決めなければならぬ。それには先ず、将軍自ら閣僚を引きつれて京に上り、堂上方と充分に意見を闘わし、しかる後、もう一度、最後の聖断を願うのが途であろうと思う」
八郎は滔々として述べ立てた。
「それなら分る。だが、将軍家が上洛するどころか、昨年末、林大学頭と目付の津田正路を上京させて公卿衆に条約締結の已むなきことを説明させ、それで片をつけようとした。それが失敗したとみて、今年になってから老中堀田備中を上洛させた。それも噂によれば莫大な黄金や献上物で朝廷を動かそうとしているらしい。愕くべき恥知らずの行為ではないか。断じて黙視すべきではない」
「そうだ、朝廷の窮乏につけ込んで、賄賂で買取しようなどとは不埓《ふらち》千万、天朝に対する敬意と誠意の一片も見られぬ」
本間が、安積に賛成する。
「天朝を尊敬し、誠意を尽すべきだと言うことについては、私もむろん大賛成だ。しかし堀田備中が朝廷を買収しにかかっていると言うのは単なる噂に過ぎぬ。しばらく備中の行動を見守るべきだろう」
八郎はそう言ったが、ふっと傍らにいる鉄太郎の方をふり向いた。
「貴公、先刻から黙っているが、どう思っているのだ。我々と違って、君は幕府の直臣だ、率直な意見を聞きたい」
鉄太郎は、三人のはげしいやりとりに、気を呑まれて、聴き入っていたのだ。玄武館でこのような議論がかわされることはない。それにもともと、舌が流暢《りゆうちよう》に廻る方でない。
「私は、剣の修業以外に、何も考えたことはありません。ただ今のようなお話を承っても、ただ茫然としているばかりです」
「それはいかん」
八郎がきっとなった。
「君が剣の途に熱心で、素晴らしい技を持っていることは、私もよく知っている。だが、剣を学ぶのは一体何の為だ。一旦緩急ある時、君国の為に闘うのが目的ではないのか」
「それは、そうです」
「ところがその国の政治を預る者が無能で、国の非常時に当って、どうしてよいか分らず、君に対してどうしろと明瞭な指示を与え得ないような場合はどうする」
「それは――」
「自分の判断で行動するほかはないだろう。そのためには、国の政治外交について自分から充分の知識を獲得し、正しい道を自分で識別するように勉強しておかねばなるまい。剣さえ学んでおればよいと言うものではないはずだ」
「そうおっしゃられれば、その通りです、自分の怠慢を恥かしく思います」
鉄太郎が極めて素直に頭を下げたので、議論に慣れている三人はやや吃驚したがその代り、好意を持った。
「幕臣として我々の意見には喰ってかかるかと思ったのに、そう素直に出られては、拍子抜けするよ。だが幕府の直臣らしい頑《かたくな》な偏見のないところは大いに頼もしい。どうだ、山岡君、これから時々、ここに来て、こうした議論に加わらないか」
「是非、そうさせて頂きたいと思います」
鉄太郎は、その後、しばしば清河の塾に赴いて、来合せた人々の議論を聞き、八郎の時世に関する意見を聴いた。
八郎は満身これ野心と権謀の塊《かたまり》のような男である。幕臣である鉄太郎にどの程度まで腹を割って話したか疑問だが、素直な、人を信じ易い鉄太郎は、博引|旁証《ぼうしよう》、滔々と懸河の弁を揮う八郎の素晴らしい説得力のある弁舌に圧倒され、魅惑された。
――これは、大した人物だ、
と、心から傾倒し、八郎を、
――先生、
と呼ぶようになった。
八郎が鉄太郎に説いたのは、素朴な尊皇論である。
――天朝を尊ぶべし、
従って、もし、天朝の意思が最後的に攘夷と決定したならば、断乎、夷狄の掃蕩につとむべきであると言うことになる。
いずれにしても、幕府は朝廷と一体になって行動すべきであり、従来のような独断専行は許されない。否、幕府には今や、それだけの実力がない。諸大名は勿論、全国民をその命令に服従させる為には、
――勅命
を、かざす以外になくなっていると八郎は言う。
この時点での尊皇論は正しくこのようなものであったろう。公武合体が具体的眼目であって、まだ
――討幕
など言うことを考えているものはいなかった。衰えたりとは言え、幕府の伝統的威光は、まだまだ残存していたのだ。それはやがて急速な消滅の道を辿《たど》るのだが。
それにしても、尊皇論が、どうしてそんなに、全国的に若い人々の魂をとらえたのか。
むろん、尊皇論はこの時に急に現れたのではない。早くも明和四年(一七六七)に山県大弐、竹内式部らが尊皇斥覇の思想を述べて処罰されているが、寛政以後の国学の復興に伴って、この思想は、全国的に浸透していった。
最初にそれを受容したのは、権力者側ではなく、地方の豪農や、神主・僧侶の中の知的分子、都市の同じ範疇《はんちゆう》の富商や医師・学者である。やがてそれは、下級の武士や浪人たちの間に拡がった。
彼らがこの復古的な思想を受け入れた基盤は、その内容において種々であったが、結局において、
――現状に対する不満、
であったことは疑いない。
狭い封建領国の枠を超えて発展してゆこうとする経済の成長力を、幕府も諸大名も、あらゆる力をつくして、旧来の鎖の下につないでおこうとする。それが、農民にも商人にも、もはや堪え難い桎梏《しつこく》になっていた。
相ついで襲ってくる天災、凶作に対する対策も全く無能の二字につきる。
――このままではやり切れない
と言う気持は、町にも村に漲《みなぎ》っていた
一方、経済的困窮のドン底に陥ちていた各藩の下級武士たちの間にも、上級武士の愚昧《ぐまい》さに対する批判と反撥とが、抑え難いものになってきていた。
こうした人々の焦燥にとって、ささやかな希望は、腐敗し切った無能な現政権――幕府に対する唯一の対抗可能者としての朝廷だったのである。
永い間、幕府の絶対独裁制の下にあって、朝廷は単なる、
――位階の家元
的存在でしかなかった。京都周辺を除けば、大方の人々にとってその存在さえ意識されることは稀れであったろう。
だが、国学の復興、歴史への反省によって、朝廷こそが幕府に対する対抗者たり得る存在であり、現在の秩序に対する反撃のよりどころとなる可能性が明らかにされたのだ。
人々は、渇《かわ》いた者が水を求めるように、そこに新しい打開の拠点を求めようとした。
これが尊皇論の現実の基盤なのだ。
理論的装備は、この現実の要求を基盤として、神秘的にさえ見える外衣をまとって、発展せしめられたのである。
――幕府に対する反感、批判
これが、尊皇論と言うメダルの裏側である。
次第に、大名の中でさえ、水戸藩のように、幕府に対する批判を、尊皇の名において表明するものがでてくる。
ちょうどこの時、ペリーの来航事件が起った。つづいて、ハリスによる貿易条約強要事件が起った。
国民の圧倒的部分は、
――外国すなわち夷狄、禽獣に等しき者、
と考えている。否、永い鎖国の間そう考えさせられてきたのだ。
――朝廷は、幕府の開国政策に反対、
であると言うことは、彼らの多くを朝廷支持に廻らせた。
尊皇と攘夷とが、緊密に結合された。
この時点では、より開明的進歩的政策をとったのは、幕府の方である。
幕府は朝廷よりも、より多く外国事情を知っており、更に我国武力を外国に比べたときの、その著しい劣弱さを知っていた。和親条約を結んだのは、その為である。
その後、ハリスが江戸城に入って将軍に会見した後、堀田以下の幕閣幹部に会い、数時間に亘って、幼い児をさとす如く懇切に世界の大勢を説き、開国通商が不可避であること、そしてその方が日本にとって有利であることを説いた。
その結果、幕府首脳部はほとんどすべて、
――開国通商やむなし、
と、観念した。
ところが、朝廷の方では、孝明帝以下全く外国事情を知らず、嫌悪と恐怖の念から一途に攘夷論を唱える。輿論《よろん》はこの、世界|趨勢《すうせい》に逆行する攘夷論を支持した。
幕府が窮地に陥ったのは当然である。
上洛した老中堀田|正睦《まさよし》は、通商条約調印の勅許を得ようとして、必死の工作を続けた。
――堀田は、禁中(天皇)と関白九条尚忠と前関白鷹司政通に、それぞれ一万両、武家伝奏に千両ずつ贈って、勅許を得ようとしたそうな。
――帝が、絶対にそのようなものは受取ってはならぬと、お怒り遊ばされたそうな。
――梅田|雲浜《うんぴん》、梁川星巌《やながわせいがん》らが、公卿衆を説いて、攘夷論を固めている。
――御三家の一である水戸の老公(斉昭)でさえ、開国に反対で、勅命に従おうとしている。
噂が乱れ飛んだ。
三月十二日には、八十八名の公卿が連名で、条約調印反対の意見書を提出した。こんなことは全く前例がない。
三月二十日、堀田に対して、
――三家以下諸大名の意見を聞いた上、改めて願い出るように、
と言う勅諚が出された。
堀田の使命は、失敗に終ったのである。
堀田はもう一つ他の使命を持っていた。
――将軍継嗣の決定、
が、それだ。
十三代将軍家定は病弱――と言うよりも半病人で、まともに正座もできない有様である。しっかりした後嗣を早く決めなければならないことは万人が認めていた。
その候補者として、水戸斉昭の第七子一橋|慶喜《よしのぶ》と紀州家の慶福《よしとみ》とが挙っている。前者は二十二歳、明敏の評判が高く、後者は十三歳の少年である。
越前藩主松平慶永、薩摩藩主島津|斉彬《なりあきら》、宇和島藩主伊達|宗城《むねなり》、土佐藩主山内豊信、そして幕府有司の中、川路聖謨、岩瀬忠震、永井尚志らの開明派は、慶喜を推す。
これに対して、紀州の付家老で新宮藩主水野|忠央《ただなか》は、彦根藩主井伊直弼以下、将軍側近や大奥を懐柔して、慶福を推す。
堀田は一橋派に傾いており、慶喜を後嗣と決定するような勅諚を得ようと努めたが、井伊直弼の謀臣長野義言は、関白九条尚忠の家臣島田左近と提携してこれを妨害し、堀田の意図を阻止した。
この点でも堀田の使命は失敗したのだ。
かりにそれに成功したとしても、いまだかつて朝廷の容喙《ようかい》を許さなかった将軍継嗣問題について、勅諚を必要としなければならなかったこと自体、幕威の衰退と、朝威の増大とを明白に示すものだったと言ってよい。
堀田は、空しく、四月二十日江戸に戻った。
そしてその三日後、井伊直弼が大老職についた。
六月十九日、勅許を得ないままで、日米修好通商条約に調印した。
六月二十五日、大老井伊は、慶福を以て将軍継嗣とすることを決定した。
七月六日、将軍家定急死。
天下騒然となる。
井伊大老は断乎として強圧手段をとった。
一橋慶喜は登城禁止、水戸斉昭は慎み、松平慶永は隠居慎み。
安政の大獄と呼ばれる志士逮捕が始まった。
最初に捕えられたのは梅田雲浜。九月七日である。
梁川星巌は数日前コレラで死亡した為、逮捕を脱れた。
つづいて、頼《らい》三樹三郎、飯泉喜内、橋本左内、吉田松陰、小林良典、鵜飼吉左衛門らが捕えられた。
断罪は峻厳を極めた。
斉昭は改めて永|蟄居《ちつきよ》、慶喜は隠居慎み、慶永、豊信も同じ、水戸藩家老安島帯刀は切腹、橋本、頼、飯泉、吉田、鵜飼らは死罪、小林は遠島。
京都においても、青蓮院宮は慎み、前関白鷹司政通、前内大臣三条|実万《さねつむ》は隠居落飾慎み、左大臣近衛|忠煕《ただひろ》は辞官落飾を命じられた。
その他、諸家の家臣浪人ら、数百人が処罰された。
島津斉彬の命を受けて、一橋慶喜の擁立に活躍していた西郷吉之助(隆盛)は僧月照と共に鹿児島に脱れ、進退|窮《きわま》って二人相抱いて海に投じたが、西郷だけが助かって大島に流された。
吉田松陰(寅次郎)は、安政元年密航の罪に問われて郷国に送られ、幽囚の身となっていたが、その間に松下村塾を開いて、後進の指導に当たり、すばらしい成果をあげていた。
この時期に彼は、幕府否定論にまで到達していたと思われる。
――草莽《そうもう》の崛起《くつき》
すなわち、下級武士を中枢とする豪農豪商層が協力して立ち上ることを力説している。
その松陰が江戸に送られ、梅田雲浜との関係について訊問された時、自ら、
――老中|間部詮勝《まなべあきかつ》暗殺計画
について自白した為、死罪となったのである。
松陰が小塚原で死罪になったのは、安政六年十月二十七日である。
この日の松陰を目撃した世古格太郎は、
――吉田は死刑に処せられるとは思っていなかったのであろう。縛される時、呼吸を荒くして歯ぎしりし、口角泡を出す如く、実に無念の顔色であった。自分は六尺ばかりしか離れていない牢の中にいたのでよく見えたのだが、彼の心中を思えば無念に堪えぬ、
と記している。
松陰処刑のことは、数日後には、鉄太郎の耳にもはいった。
――あの仁《ひと》が、
鉄砲洲の海岸で会ったあばただらけの、すすけた髪を風になびかせていた小男の、不思議に澄み切っていた二つの瞳をはっきりと思い出した。そして異国への渡航――と言う大胆な計画を立てて捕えられた事を知った日の愕きもまざまざと思い出した。
あの時、寅次郎は、
――外国軍艦を自分の眼でみて、自分の行動を決める、
と、言った。そして、その通り、渡航を企てて捕えられた。
郷国へ送還されたことは知っていたが、その後の動静は全く知らない。
その小男が、松下村塾を開いて、桂小五郎(木戸孝允)、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤俊輔(博文)、品川弥二郎らの俊秀に絶大な刺戟を与えたことも知らない。
だが、寅次郎の風貌の中には、
――あの仁が死罪に値するような罪を犯すはずはない、
と、無条件に信じさせるものがあった。
――何かが間違っている、昨年来の、この無茶苦茶な逮捕断罪は、狂ったもののようにしか思われない、一体どう言うことなのか。
その懐疑を懐いて、師と頼む八郎の許に走った。
八郎の塾はこの時、淡路坂から、神田お玉ケ池表通りに移っている。
この年、八郎が帰郷中の三月、淡路坂の塾が隣家から火が出て類焼してしまった。六月江戸に戻ってきた八郎は、お玉ケ池に適当な家をみつけて、新しい塾を開いた。
――経学文章書剣指南
と言う欲張った大看板を掲げた。
かねて念願であった文武両道を教える塾としたのである。玄武館で中目録免許を受けたので、剣道も教える資格ができていた。
鉄太郎が訪れてきた時は、この新しい塾が完成して、大看板をかかげて間もない頃だ。
八郎の愛妻お蓮が、いつものように愛想よく迎えた。
「先生は――」
「おります。どうぞ」
八郎はこの塾を開くのに八十両かけた。むろん、郷里の父に出してもらったのだ。
建坪七十三坪、なかなか堂々たるものである。
「どうだ、立派なものだろう」
鉄太郎の顔をみるなり、八郎は自慢した。
得意になった時、この男はひどく無邪気な顔つきになる。それがこの男の一つの魅力になっていた。
「御立派です」
鉄太郎は、とりあえず賞めておいて、すぐに本論に切り込んだ。
「先生、吉田寅次郎と言う仁を御存知ですか」
「松陰か、聞いている。今、禁獄中なのではないか」
「二十七日、斬罪に処せられたそうです」
「なに、斬罪?」
「はい、あのひとがどうしてそんな苛酷な処刑を受けなければならないのですか」
「君は、松陰を知っているのか」
「はい、一度会った事があります」
鉄太郎は寅次郎との遭遇について話した。
「ほう、それは奇遇だったね」
八郎は、うなずいた。
「どうも妙に心の底深くに刻みつけられるような人物でした」
「吉田寅次郎のことは私も、色々の人から聞いている。立派な仁《ひと》らしい。だが、惜しむらくは、余りに一本気で、策がないな」
稀代の策士清河八郎は、すっぱりと、そう言い切った。
「しかし、先生、そこがあの人の尊敬すべき点なのじゃありませんか」
「いや、人として立派だと言うだけでは、天下の大事はなしとげられない。殊に国家の政治と言うものは複雑怪奇だ。これを動かすためには、あの手この手と考えて、時には権謀術策によって人を動かさねばならぬこともある。至誠とか熱意とか言ったものだけでは、大きく人を動かし世を変えることはできないものだ」
鉄太郎は、どうしても、そうした思考方法にはついてゆけない。性格的には寅次郎型であり、思考方法については更に単純率直なのである。
「寅次郎が間部を要撃しようとしたと言うのは、倒幕の意思があったものと見てよいだろうな」
八郎がしばらく考えてから言った。
「幕臣としての君は、その点を、どう思うかね」
「私は徳川家恩顧の侍です。むろん、徳川家の存立を希望しています」
「いや、徳川氏の存亡と、幕府の存亡とは違う。徳川氏が幕府を開いていることが、この現在、果たして全日本の為になっているかどうかと言うことだ。幕府が異国の強圧に屈服して開国貿易を行って以来、諸物価高騰して庶民の困窮は著しい。大老井伊は強圧手段をとって己れに反対する者を悉く投獄し、処刑し、言論洞開の途をふさいでいる。内外共に失政相次いでいるではないか。このような無能な幕府に国政をゆだねておいて、よいと思うのか、君は」
そう問いつめられると、鉄太郎も、
――これでよい、
とは、どうしても言えなかった。
開国の結果、貿易に関する商権は全く外国商人の手に握られていた。彼らの大部分は、海外でのボロい儲けを狙ったあくどい連中である。貿易知識皆無の日本商人からしぼりとることは朝飯前の仕事だったろう。
殊にひどかったのは金貨の海外流出であろう。外国商人が取引に使用した貨幣は、洋銀(メキシコ銀)であったが、これは洋銀一枚と一分銀三枚の割で交換する約束になっていた。ところが、当時の日本では金一に対して銀五の比価であり、諸外国では金一対銀十五である。従って外国商人は洋銀を一分銀に交換した上、日本の一両小判に換えて外国に持ち去れば、それだけで三倍近い利益が獲得できたのである。
その上、狭い日本市場から、生糸・茶・銅器・海産物・油・漆器などが大量に買い上げられると、その価格は暴騰し、その他の商品にも波及して、一般的なインフレーションが招来されざるを得ない。
物価上昇の影響は、鉄太郎のような貧乏暮らしの者が最も強烈に受ける。
「先生、一体どうしたらよいとお考えですか」
自分で解答出来ないことについては、鉄太郎は極めて素直に、人の意見を聞く。
――政治担当能力を喪った徳川幕府を倒すよりほかない。
八郎も、今はもうそう考えている。だが、それを、幕臣である鉄太郎に向ってぶっつけるようなことはしない。この男は、松陰吉田寅次郎に比べれば、遥かに狡猾な策謀家なのである。
「第一に政治のやり方を改めることだ。それには、井伊大老のような独裁専断をやめ、朝廷と手を携えて、挙国一致の体制をととのえねばならぬ」
鉄太郎は首を縦にふった。この点は、全く同意見である。
――しかし
と、鉄太郎は、反駁《はんばく》した。
「朝廷と合体する為には、天子の固い御意向である攘夷に踏み切らねばなりませんが」
「そうだ、その通りだ。攘夷をやらねばならぬ。何から何まで異国人の言いなり放題のとり決めに従ったこんな屈辱に満ちた開国はすべきではなかったのだ。遠い将来を考えれば、恐らく国を開いて諸国と交ることは已むを得ぬことだろう。だがそれは飽迄も対等の立場において行うべきだ。現在のような降伏にも等しい開国は断じて許せない。一たび奴らを追い払ってわが国の武威を示した上、改めて開国についての話合いをするのが筋であろう」
これは八郎の創見ではない。攘夷論者の中には、開国に必ずしも反対ではないが、屈辱的条約に反対で、一旦外国に武威を示した上で対等の立場で開国せよと言う者は、少からずいたのである。
八郎はその意見を借りて、鉄太郎に説明した。だが、八郎の真意は全く違う。
彼が攘夷を唱えるのは、それによって幕府を窮地に追い込むためだ。彼にとって、究極の目的は幕府の倒滅にあり、攘夷はその手段であるに過ぎない。
「外敵と戦う――と言うことになれば、朝幕は勿論、全国諸大名も、町人も農民もすべて心を一つにせねばならぬ。そうなれば、堕落し切った人心も一新するだろう。山岡君、どう思う」
「その通りです」
「尊皇攘夷――この旗の下に、志あるものが結集して、広く天下に呼びかける以外に日本を救う途はないのだ」
八郎は滔々として雄弁を揮った。鉄太郎はただ、うなずくばかりである。
「だが、山岡君」
八郎は、急に語調を落とした。
「これは、今直ちに公けに口にすべきことではない、うっかり口を辷《すべ》らせれば、逮捕され、投獄される。井伊大老の眼が至るところに光っているからね。幕臣である君に、こんなことをしゃべったのは、私の不謹慎かも知れぬ」
「先生、私は断じて――」
「分っている。君を同志と信じればこそ、私は胸の中を吐露したのだ。めったな口は利かないように用心しているよ」
「それではいつ迄たっても、この事態は変らないではありませんか」
「そうは思わない。こんな無茶苦茶な弾圧がいつ迄もつづけられるものではない。必ずその中に、井伊大老が退場しなければならぬ時が来る」
八郎がそう言ったのは、彼の持つ歴史的知識からの一般的結論に過ぎず、はっきりした見透しを持っていた訳ではなかった。
が、その漠然たる予言は、半歳も経たぬ中に、事実となって現れた。
年が明けて万延元年(一八六〇)三月三日、桜田門外で、大老井伊直弼は、水戸浪士によって惨殺されたのである。
この日、早暁から寒風が雪を巻いて吹き、春とは思われぬ異常天候であった。
五つ半(午前九時)直弼は供廻りの徒士《かち》以下三十六人、足軽・草履取・駕籠舁《かごかき》など総勢六十余人に護られて、外桜田の邸を出た。
桜田門はつい目の先である。よもや白昼、城門間近で襲撃するものがあろうとは考えず、徒士はことごとく雨合羽を着て、刀の柄には雪水の浸透を防ぐための柄袋をつけていた。
桜田門外に数人の武士が、大名武鑑を手にして立っていた。これは珍しい事ではない。地方から上府した田舎武士たちは、武鑑の紋と照合して、諸大名の登城行列を見物する者が多かったのである。
その中の一人が、訴状のようなものを手にして、大老の駕籠に近づこうとした。供頭《ともがしら》の日下部《くさかべ》三郎右衛門と供目付浜村軍六がこれに近づこうとすると、その男がいきなり日下部に切りつけ、その場に斬り斃《たお》し、更に浜村をも斃した。二人とも雨合羽と柄袋のため抜刀する暇がなかったのだ。
その間に、銃声が一発とどろいた。
これを合図に、道の左右から、十数名が一斉に斬り込んできた。
駕籠を守っていた徒士たちは、鞘のまま刀を揮って防戦したが次々に斬り斃されてしまう。
ただ一人、剣客として知られた供目付の河西忠左衛門は、襲撃者ありと見ると直ちに一旦身を退き、す早く雨合羽・柄袋を脱して、大小両刀を左右に抜き放ち、駕籠脇に走り戻って凄じい防戦ぶりを見せたが、四方から刃を受けて、ついに斃れた。
逃走してしまった徒士もいる。
大老の駕籠は地上に据えられた儘である。
襲撃者たちは白刃を揮って、駕籠の中へ何回か突き刺した上、大老を引きずり出し、首を打ち落とした。
襲撃者は水戸脱藩の浪士関鉄之介以下十七名と薩摩藩の有村次左衛門である。
大老の首級を斬落としたのは有村で、喚声をあげる一同と共に日比谷門に向う。
井伊家供目付側小姓小河原秀之丞、手傷を負うて昏倒していたが、その喚声に気がつき、よろめきつつ追いかけ、有村の背後から斬りつけたが、再び斬り倒された。
有村は、大老の首を持ったまま歩きつづけたが、小河原から受けた傷が案外に重く、辰の口の若年寄遠藤但馬守邸前までくると、どっかり坐り込んでしまった。
大老の首を傍らにおき、革胴を外して腹を切ろうとしたが、弱り果てているため、うまくとれない。あたりを見廻して、
――誰か、首を打ってくれ、
と言う仕種《しぐさ》をするのだが、誰も立止ってこの惨劇に愕いているばかり。後難を怖れて、介錯《かいしやく》をしてやる者はいない。
有村は、脇差を雪の中に逆に立て、何度か失敗しながら、その切先に自分の喉首を叩きつけて自害した。
十七人の水戸浪士の中の一人は闘死し、重傷を負うた三人は自刃し、八人は自首し、残り五人は遁走した。
大老の首は、辻番所の番人が遠藤但馬守邸に届け出たので、井伊家から横地佐平太が出向いて受取った。但し、直弼の首としてではなく、徒士加田某の首と称してである。
直弼の死は公式には伏せられ、幕府には、
――怪我を負うて帰宅、
と届け、将軍から見舞として朝鮮人参が下賜された。むろん、幕閣と井伊家との慣れ合いの茶番劇である。
三月|晦日《みそか》、直弼の大老職罷免が公表されてから、ようやく直弼の喪が発せられた。
白昼、天下の大老が浪人共に襲われて首を討たれると言う未曾有の椿事《ちんじ》に、江戸中が沸き立った。
その報らせを聞いた時、鉄太郎は自分の耳を疑ったほどであるが、すぐに八郎の予言を想い出した。
――やっぱり、先生は偉い、このことをちゃんと見透していたのだ、
感心すると同時に、お玉ケ池の清河塾に走っていた。
途中、小泉町の民家の板塀に何か貼ってあって、大勢の人が集って、ざわめいている。
人々の背後から覗いてみると、
――親玉(将軍)間抜けで井伊なりほうだい、役人腑抜けで夷国にあやまり、井伊きみかご抜け、おまけに首抜け云々、
と書かれてある。
鉄太郎は何かが大きな音を立てて胸の底でくずれてゆくような衝撃を受けながら、みなまで読まずに足を早めた。
「先生、大変な事になりましたな」
八郎の顔を見るなりそう言った。
「痛快な事――と言った方がよいな」
八郎は、得意気に笑った。
「どうだね、井伊の専断政治は永くは続かぬと、私の言った通りになっただろう」
八郎もそれが、こんな形で結末がつくとは考えていなかったのだが、今は何とでも言える。予言は的中したのだから。
「どうなってゆくのでしょう、これからの世の中は」
「幕閣は必死になって、井伊の方策をついでゆこうとするだろうが、もう、それは出来ん。尊皇攘夷の大波が、全日本を覆いつくすだろう」
「われわれは――」
「その時に備えて、同志の者を集め、結束を固めておくことだ。すでに多くの者が、私と盟約している」
「先生、私もその中に入れて下さい」
「むろん、君には加わって貰うつもりだった。すでに松岡、伊牟田、神田橋、益満、池田、村上、笠井などが加わっている。われわれはこの同志の集りを、虎尾《こび》の会と呼んでいる。虎の尾を踏むような危険を覚悟せねばならないからだ」
鉄太郎は、即座にこの、
――虎尾の会
に加入した。加盟者の大部分は、清河塾で顔見知りの者である。
松岡|万《つもる》は幕府の鷹匠、この万延元年二十三歳、堂々たる容姿の男で、常に白柄朱鞘の大刀を帯びていた。後年に至るまで、鉄太郎と刎頸《ふんけい》の交わりを結んだ。
伊牟田尚平は薩摩の産、この時二十九歳、父は山伏であったが、尚平は初め医学を志し、後に江戸に出て益満休之助らの仲間に入って、暴れ廻った。
神田橋直助は薩摩藩士関山糺の家来だったが、尊皇攘夷運動に身を投じた。万延元年十二月五日、米国公使ハリスの通訳ヒュースケンを斬ったのはこの男だと言われている。
益満休之助は薩摩の隠密、早くから江戸に出て、江戸ッ児と同じぐらい伝法な江戸弁で啖呵《たんか》を切れるようになっていた。西郷の秘命を受けて江戸の情報を探っている。
池田徳太郎は三十歳、安芸の産、江戸に出て林家の門に入り、万延元年、麹町に開塾、この以前から鉄太郎と深く交わり、その最もよき酒友であった。
村上俊五郎は阿波の産、二十七歳、元来は指物師だったと言うが、剣にかけては抜群の腕を持ち、下総佐原で道場を開いていた。
笠井伊蔵は、川越の近くの農家の生れ、御家人の株を買って武士となり、この当時清河塾の内弟子として、塾内に住んでいた。
少し後に加わった石坂周造は成田の医師、万延元年二十九歳、八郎が鹿島地方に来た時に知り合って意気投合、鉄太郎とも互いに相許す仲となった。
清河塾における同志の会合はますます頻繁になり、ますます激しい議論が交わされる。
若い、人一倍血の気の多い連中ばかりなのだ。論議がとめどもなくエスカレートしていったのは当然の勢であったろう。
――回天の一番乗り、
と言う勇ましい目標が設定された。
――尊皇攘夷を真先に実行に移して、天下を一新しよう、
と言うのである。
具体策も決定された。
――横浜の外国人居留地の焼き討ちである、
八月末か九月始め、秋冷の候にこれを実行に移すこととして、その準備をすすめることにしたが、どうも幕府の監視の目がきびしい。幕吏は、ヒュースケン殺害に、清河塾出入りの者が関係していると、感づいていたらしい。
――危い、しばらく幕吏の目を逸らせた方がよいのではないか、
と言うことになり、八郎はお蓮や伊牟田尚平らを伴って、しばらく郷里の清川村に帰省しようと言う計画を立てた。
出発予定の数日前、五月二十日、八郎は同志六人と共に水戸藩士吉良弥三郎が開いた両国万八楼の書画会に赴いた。鉄太郎もこの中に加わっている。
会が果ててから、外に出た七人は、
――まだ早い、席を改めて一杯やろう、
と、村松町から甚左衛門町にさしかかった。蔭間茶屋が並んでいて、賑わっているあたりである。
棒を手にした職人風の男が、よろめきながら、八郎の前に立ち、酒くさい息を吹きかけた。
「酔うているな、のけッ」
八郎がたしなめた。
「へっ、二本差しが怖くって、豆腐の田楽が喰えるかい」
対手は、かっと眼をむいて、毒舌を叩く。
――仕様のない奴だ、
と苦笑した八郎が右によけようとすると、男は手にした棒を斜につき出して、邪魔をしようとする。
――酔うているにしても、妙な奴だ、
八郎は眉をひそめ、対手の胸を押して通り抜けようとすると、対手はいきなり八郎の袖をつかんで、大声に叫んだ。
「泥棒、泥棒!」
八郎も酒がはいっている。堪忍袋の緒を切った。
「無礼者!」
と鋭い声が八郎の口から迸《ほとばし》った瞬間、二尺三寸八分の銘刀三原正家が鞘を走った。
男の首が、さっと真横にふっ飛んで、傍らの瀬戸物屋の店先にあったどんぶりの中に、まるで両手でそなえつけたように居坐っていた。
血を噴出させた胴体が、前に倒れる。
「人殺し!」
「喧嘩だッ!」
「危いッ、逃げろ!」
見ていた人々が悲鳴をあげる。
同時に、どこに潜んでいたものか十数名の捕り手が、ばらばらと現れてきて、八郎たちを取り囲んだ。
もともとこれは幕吏が八郎を逮捕する為に仕組んだワナだったのである。
棒を持った職人風の男は、同心の一人で、平素から棒術の腕を誇っていた。
――清河だろうと誰だろうと、おれが棒術で叩きのめす。その時、一同で打ちかかれ、
と約束していたのだが、八郎の腕の冴《さ》えは、全くその隙を与えず、抜討ちの一刀で首をはね飛ばしてしまったのだ。
八郎のうしろにいた七人も、刀を抜いた。
鉄太郎が、小声で、
「斬るな、脅せば充分だ」
と、注意する。
この無類の剣法気違いは、生涯にただ一人の人間も斬っていない。むやみに人を斬ることは、結局、自分を殺すことになると知っているからだ。剣の達人桂小五郎(木戸孝允)も、生涯の中いくたびか白刃の間をくぐりながら、ついに一人も斬っていない。
八郎以下、白刃をひっさげて捕吏に向う。
八郎の素晴らしい剣の冴えを、現実に見た捕吏たちは、ただ遠巻きに罵るだけで、打ち向ってくる勇気はないと見えた。
「突き破って、逃げろ」
鉄太郎が、又、そう言った。幕府の禄を喰む身として、どうしても幕吏を斬りたくはなかった。
一同が刃をかざして一斉に突出すると、捕吏たちは言う甲斐もなく逃足になり、ワーッと四方に散る。
八郎たちは、走った。
追ってきた捕吏も、八郎たちが立ち止って逆襲の形を見せると、後をみせて逃げる。
どうやら振り切って、逃げのびた。
ひとまず清河塾に辿《たど》りつく。
「拙《まず》いことになったな、私が悪かった。斬らねばよかったのだ」
八郎は、頭を下げた。
「いや、幕吏の罠《わな》にかかったのだ。やむを得ぬ。ともあれ、清河氏は早急に身をかくした方がいいだろう」
一同相談の上、八郎は伊牟田・安積・村上の三人と共に身をかくし、池田と笠井と、八郎の弟斎藤熊三郎が塾に居残ること、お蓮は知人の水野行蔵宅に移ること、と決めた。
鉄太郎は幕臣であるし、嫌疑だけで捕えられることもなかろう。自宅に戻って八郎らの潜伏の手助けをする――と決定した。
八郎はまず川越在奥富の広福寺にかくれ、一度江戸に潜入して鷹匠町の鉄太郎の家を訪れたが、鉄太郎はその後の情勢を話し、寸刻も早く江戸を離れることをすすめた。
その後の情勢――は、惨澹《さんたん》たるものだった。
江戸町奉行所から同心四名、手付二十名、合計二十四名が、五月二十三日朝、清河塾にやってきて、八郎を召捕ろうとした。
池田徳太郎が、
――清河は数日来、関西旅行中にて、
と弁解しようとしたが、有無を言わさず引立てられた。笠井も熊三郎も、縄つきで、小伝馬町の牢に入れられた。
お蓮もすぐに探し出されて捕えられた。
奥富で八郎をかくまうのに手を貸した北有馬太郎と西川錬造も、広福寺の僧章意も捕えられた。
――虎尾の会
について、幕府は内偵をつづけていたらしい。この機会に同志たちを一斉に検挙しようとしたのだ。
石坂周造も、佐原の宿で風呂にはいろうとしている時、捕えられた。
牢内の生活は酷烈を極めた。
北有馬太郎は、九月三日、牢死した。
笠井伊蔵は十月十六日、牢死した。
西川錬造は十二月十四日、牢死した。
章意は村人たちの歎願が効を奏し、
――事情を知らず、仏心から隠匿した、
ものと認められて、釈放された。
最も剛強ぶりを見せたのは池田徳太郎である。その強い腕っぷしに物を言わせて、牢名主を殴りつけ、たちまち牢内の顔役となり、番人の浅吉を手なずけて外部連絡をとり、水野行蔵に金子を差入れて貰った。
石坂周造や斎藤熊三郎は、この池田から金子を分けて貰ったお蔭で、どうやら牢内の生活に耐えることができた。金さえあれば、牢内でさえ、多少の自由が利いたのである。
憐れだったのはお蓮である。
――清河の居処を白状せよ、
と、拷問を受けたが、
「存じませぬ。たとえ知っていても、私の主人を裏切ることはできませぬ。まして知らぬものを、何として申せましょう」
と頑張りつづけた。
少し先走るが、この不運な女人の最期を記しておく。
文久二年八月、全国的に麻疹《はしか》が流行した。
お蓮も牢内でこれに感染し、容態が思わしくない。この頃は八郎に対する追及はゆるんでいた。(この九月下旬には、池田、石坂、熊三郎は仮出獄を許されている)幕吏は、お蓮を、
――養生中お預り
と言う名目で庄内藩に下げ渡した。
お蓮は庄内藩中屋敷の揚り屋に移され、そこで、
――八郎らに赦免の沙汰があるらしい、
と言う噂を聞き、思わず悦びの涙を浮べた。
その夜、藩医が、薬をくれた。
翌朝、見回りの番士はお蓮が死んでいるのを発見した。むろん、毒殺だ。
佐幕色の最も強い庄内藩は、攘夷党の八郎を謀叛人同様に見ていたのである。
在京の同志や愛する女がこうした苦難の日を送っている間、八郎自身はどうしていたのか。
彼はまず仙台地方に遁れ、ついで出羽国(山形県)に入り、また仙台領へ戻ったりしていたが、ついに、
――京へ上ろう、
と決心した。
武州から甲州に入り、十一月京に到着、大納言中山忠能の家臣田中河内介に会った。
河内介は京における尊皇派の中心人物の一人である。
――青蓮院宮の密旨を賜わったと称して天下の志士を募り、所司代酒井忠義を血祭りにあげて回天の第一声としよう、
と説き伏せた。
弁口は自信がある。
――どんな対手でも、一刻《いつとき》(二時間)の間、差し向いで話をさせてくれれば、自分の意見に賛成させてみせる、
と豪語したことがある。
――九州で同志を募ってくる、
と、河内介に約束した。
十一月末から翌文久二年正月まで、九州を遊説して回り、平野国臣、河上彦斎、真木和泉、是枝柳右衛門、小河一敏らに会った。
京に戻ってから、意外な人物が三条御幸町にいることを知り、飛んでいった。
藤本鉄石である。
十七歳の折、郷里の清川に来遊した鉄石と心を許し合ってから十六年ぶりの再会であった。
鉄石は涙を流して悦び、同志に加わった。
同志たちは、大坂薩摩屋敷二十八番長屋に集結した。薩摩からも肥後からも、続々と同志が上京してくる。
八郎は、
――おれが舌一枚でこれだけの人間を集めたのだ、
と満々たる自信を持つ。
当然、同志たちの反感を買った。
――傲岸不遜《ごうがんふそん》
――口舌の雄のみ
と、次第に白眼視するものが多い。
八郎は薩摩藩邸を出て、三条河原町の飯居※[#「門がまえ+月」]平の家に移った。
藩邸の同志たちは、この時、一千名を率いて東上の途についている薩摩藩の島津久光が京に到着したならば、これを奉じて尊皇攘夷の義旗を挙げようと待望していた。
だが、入洛した久光は、
――勤皇の志は正しいが、浪人共の軽挙に乗ることはできぬ、公武合体して事に当るべきだ、
と、極めて冷静である。
失望した同志たちの中、十数名は、
――この上は、自分たちだけで、挙兵しよう、
と、文久二年四月二十三日、薩摩邸を抜け出して、伏見の寺田屋に集った。
事態を知った久光は、愕いて奈良原喜八郎以下九人の剣客を選んで、これを鎮撫しようとしたが、蹶起《けつき》組は聴き入れない。
ついに大乱闘になり、有馬新七・柴山愛次郎ら六名即死、二名重傷切腹、田中河内介父子は薩摩に送られる途中、船中で殺害され、急進派は壊滅した。
このいわゆる、
――寺田屋の変
は悲惨な結果に終ったが、幕府の威望の衰弱をより明白にした。
今や、浪士たちが反幕の旗を挙げようとしたことが明白となったのだ。事は破れたが、所司代の権威を冷笑するかのように「天誅」が相次いだ。
九条家の家士島田左近を皮切りに、尊攘志士に睨まれた連中が相次いで難に遭う。
公武合体派、特に和宮降嫁に関係した岩倉具視、千種有文らの公卿は志士の脅迫に怖れて官を辞し、頭を丸めて京の郊外に隠れる。
関東でも、七月に入って一橋慶喜が将軍後見職となり、松平春嶽が政事総裁職となり、朝幕の関係は一変した。
八郎はこの間に、
――回天封事
を起草し、草莽の志士と攘夷を論じ、これを正親町《おおぎまち》三条|実愛《さねなる》を通じて天子に奉った。
――東下しよう、
と決意したのは、もう幕府の追及は厳しくないと見込んだからである。
幕府はもはや、朝廷の攘夷論に正面から反対できなくなっている。従って攘夷論者を、その名目で断罪することはできないのだ。
石坂らが、仮出獄を許されたのも、この時世の変化によるものだった。
八郎は江戸に潜入し、水戸藩邸に入った。
ここで、「急務三策」を記して、山岡鉄太郎、間崎哲馬の手を通じて松平春嶽に奉った。
その一は攘夷の断行、その二は大赦発令、その三は英才登用。
どれも、八郎自身にとって最も望ましいことであるのは言うまでもない。
鉄太郎は八郎の出奔直後、松岡万と共に取調べを受けたが、
――清河塾に出入したのは、専ら武芸に関する談話修業のため、
と、押し切った。鉄太郎の武道気違いは著名であったためか、その後の追及はなかったらしい。
京にいる八郎と連絡がとれると、直ちにその大赦運動を熱心につづけた。
八郎の上書は、その名文の為に、春嶽の心を動かした。
――言論洞開、人心一新
の為に、安政以来の政治犯の大赦を断行した方がよいのではないかと、春嶽は考えるようになる。
その機を外さず、八郎と鉄太郎とは、講武所教授松平|主税《ちから》之介《のすけ》を通じて、「浪士懐柔策」なるものを幕府に献策した。
[#改ページ]
浪 士 組
八郎が松平春嶽に奉った上書は、例によって美辞麗句を並べてあったが、要するに、
――今や天下の浪士たちが、尊皇を唱え攘夷を叫んでその勢は容易に鎮圧し難い、むしろ彼らの既往の咎《とが》に大赦を与え、一括して幕府において召抱え、国家有用の事に用いた方が得策であろう、
と言うことに帰する。
春嶽が、これを幕閣の有司に謀った。
「これも一つの考え方だな、彼らを集めて一隊をつくり、将軍の警衛として京に差し向ければ、京の浪士を制圧できる。その上、江戸が静かになる」
勘定奉行の小栗豊後守忠順が、直ちに反駁《はんばく》した。
「上様の警護は当然旗本がその使に当るべきものでしょう。浪士などの力を借りるのは、幕府の威光を損うものです」
春嶽は、穏かな笑みを浮べた。
「浪士の力を借りるのではない。連中を手なずけて、牙を抜いてしまうのだ。浪士どもが騒ぎ立てるのは、畢竟《ひつきよう》かれらが或は禄を失い、或は志を伸べるができず鬱屈しているからだ。幕府で扶持を与えてやれば、猫のようにおとなしくなる」
松平主税之介忠敏が、浪士募集の任に当ることになった。
主税之介は、家康の六男松平|上総介《かずさのすけ》忠輝の後裔である。禄高は三百石の家に過ぎないが、徳川の一族だ。主税之介は安政年間に家督を弟に譲り、江戸で剣道の道場を開いていた。八郎や鉄太郎と知り合ったのは、剣の上の交りからであったろう。
同時に、鵜殿鳩翁も浪士取扱を命じられる。これは代々の旗本で、嘉永元年目付となったが一橋派に属していた為、井伊大老によって隠居させられていたもの、再び日の目を見ることになった。
老中板倉周防守から公命を受けると、主税之介は、
「この件については清河八郎が特別の役割りを果してきました。是非とも彼を客分として待遇したいと思います。彼は殺人の件でも追われておりますが、大赦を与えて頂きとうございます」
と要請する。
むろん、この要請は直ちに聴入れられた。
文久三年一月、寒風を冒して異様の風態をした浪士たちが、続々と牛込|二合半《こなから》坂の松平主税之介の屋敷に集ってきた。
――浪士
と言う意味は、この頃では本来の浪人すなわち主家の禄を離れたものと言うよりはずっと広くなっている。
町人や地方の豪農の子弟などで剣を学び、書を読んだ連中が、国事を語り攘夷を論じ、勝手に苗字を名乗り刀を帯びて武士の仲間入りをしてしまうのが多い。幕府はもう、それを禁止する実力がなくなっていたのだ。
世の中は激しく動きつつあった。
階級の固い壁は、自壊運動を起しつつあった。
主税之介の屋敷に現れた浪士の顔ぶれを見ればそれは明白である。
芹沢鴨――これは水戸藩を脱藩し、天狗党に加わって暴れ廻っていた男だ。
松前藩の浪人永倉新八、松山藩の脱藩者原田左之助、仙台の浪人山南敬助。
百姓出身もいる。
小石川の試衛館と言う剣道道場主の近藤勇――これは武州の農民の三男だ。
土方歳三――これも武州の農民の四男だ。
八郎の同志石坂周造が医師出身、村上俊五郎は阿波の指物師。
無頼漢でさえ交っていた。
山本仙之助――甲斐の祐天として知られた賭博《ばくち》打ちである。子分二十余名を引きつれて応募してきた。
正しく玉石|混淆《こんこう》である。
人数は二百人を突破した。
八郎は手を拍《う》って悦んだが、主税之介は蒼くなった。
「清河、これは大変な事になった」
「何故です」
「板倉殿から浪人手当としてお下げ渡しになったのは、一人当り五十両として合計二千五百両だ、とてもこんなに多勢の者を召抱える訳にはゆかぬ」
「もっと出して貰ったらいいでしょう」
「いや、公儀においても財用乏しき折柄、非常なむりをして二千五百両下されたのだ。これ以上は望めぬ、これだけでも、勘定奉行の小栗殿はずいぶん渋っておられた」
「大公儀ともあろうものが、ケチな話ですな」
けろりとしている八郎をみて、主税之介は、
「どうしたらよいものかな」
と、深刻な顔付だ。
「浪士たちにその旨を告げて、諒解して貰ったらいいでしょう」
「そんな事は、できん。乱暴者ばかりだ。一人五十両と言う約束をたがえたら、何をやり出すか分らん」
「あなたは浪士募集の責任者だ。そのあなたが浪士たちを抑えられぬと言うのなら、辞任するよりほかないでしょう」
「辞任?」
「そうです」
「うーむ、そうか、しかし、何と言って」
「急病になればいいでしょう」
八郎は主税之介を、家柄以外何の取柄もない人物と見ている。相役の鵜殿鳩翁の方が、まだ使える――と、まるで自分が事実上の首領のような気なのだ。
気の弱い主税之介は、病気と申し立てて辞任した。万事、鵜殿の責任となる。
鵜殿は、鉄太郎を呼んで、事情を訴えた。
「わしにも自信がないが、主税之介が罷めた上、わしまで罷める訳にはゆかぬ」
「それは当然でしょう」
「他人《ひと》事だと思って、呑気な顔をしているが、わしの身にもなってくれ」
「私に委せて下されば、何とか納めましょう。だが、私は浪士取立について口を挟む地位にいませんからな」
「それは私に委せてくれ」
鵜殿が老中板倉に、
――暴れ者揃いの浪士、二、三の者を取締役として採用したい、
と願い出て、鉄太郎と松岡万とを採用する許可を得た。
「さあ、山岡、頼むぞ」
「お引受け致します」
文久三年二月四日、小石川伝通院で、応募した浪士たちの初会合が行われた。
集るもの二百三十四名。
境内の処静院の大広間に、どれもみな一癖あり気なつらが並んでいた。
鵜殿が改めて、浪士取立の趣旨を述べてから、鉄太郎の方に目くばせした。
鉄太郎が、ずいと膝を乗り出す。並の人より首だけ上に出ているくらいの巨大漢だ。炯々《けいけい》と言う文字がそのまま当てはまる鋭く光る瞳を大きく開いて、大音声《だいおんじよう》で述べ立てた。
「取締役山岡鉄太郎、諸君にあらかじめ諒承して貰いたいことがある。先に諸君に対する手当は一人五十両と約束したが、公儀財用窮乏のため、それが不可能となった。改めて一人当たり金十両とする」
居並ぶ浪士たちの顔が、肩が、大きく揺れ、地鳴りのような声が湧き起った。不満の声が、爆発しようとした瞬間、鉄太郎が一段と声を張り上げた。
「諸君はひたすら尽忠報国の赤心を以て、このたびの浪士募集に応じられた筈だ。手当の多少によって志を変ずる如き者は一人もおらぬと信じる。万一、そのような者があれば、只今この場から引き取って貰いたい」
ざわめきは、忽ちの中にしーんと納った。
「どうです、大したことはなかったでしょう」
一同が解散した後で、鉄太郎は、いつもの無邪気な顔つきになって笑った。
「大した迫力だ。これからもお主を頼りにする」
鵜殿は、ホッとした様子であった。
鉄太郎が鷹匠町の自宅に戻ってくると、お英が、
「先刻、兄上が呼んでおられました」
と言う。
義兄高橋精一はこの時、両御番上席の地位にあり、講武所師範役を兼ねて、相当な出世ぶりである。
屋敷も拡げて、二階建ての十二室もある大きなものになっていたが、隣りの鉄太郎は依然として、四部屋しかないもとのままのボロ家である。
生垣の間の、形ばかりの木戸を抜けて、鉄太郎は、精一に会いに行った。
「あ、戻ったか」
精一が鉄太郎の姿を見て声をかけた。
「はい、只今、何か御用でしたか」
「なに、今日はたしか例の浪士組の会合があった筈、どんなあんばいだったか聞こうと思ってね」
「一騒動起りそうでしたが、何とか納めました」
と、伝通院での様子を話す。
「清河は、出席しなかったのかい」
「出席はしましたが、正式には何の役にもついていないので、黙然と控えていました」
「狡い男だな」
「えっ」
「鉄さんはあの人物をひどく信用しているが、なかなか一筋縄ではゆかない、喰えない男だと言う気がするね」
「そんな事はありません。清河先生は当代稀にみる至誠の人傑です」
「傑物だということは認める。だが――」
精一は言葉を呑み込んだ。これ以上言えば、鉄太郎の心を傷つけると思ったからだ。
鉄太郎の清河に対する心酔ぶりは相当なもので、自宅を訪れてきた八郎をすぐに精一に紹介し、言葉を尽して人物を賞めたたえた。
精一も、その初対面の印象を、――清河は天性猛烈で義気|強邁《きようまい》、威風凜々、眼光人を射る、一見して俊傑なるを知る、
と記しているから、ファスト・インプレッションは頗る良かったらしい。
だが、八郎がしばしば鉄太郎の家に出入し、精一の屋敷にも顔を出して、よりよく知り合うようになると、次第にその人物評価は変ってきていたらしい。
質実《じみ》な静温な性格の精一と、派手な激越な気象の八郎とが、どこかしっくり合わなかったのは当然であったかも知れない。
「とに角、厄介な仕事を引受けたものだね。重い御役についたのはめでたいと言わなきゃならないだろうが」
「私としては、やり甲斐のある仕事だと思っています」
「すぐ、京へ向うのかい」
「八日、出発と決まりました」
二月十四日には、将軍家茂が、老中水野忠精、板倉|勝静《かつきよ》以下三千人の士卒を従えて江戸を出発、京に上ることになっている。
将軍の上洛は、寛永年間の三代将軍家光の入洛以来二百数十年ぶりのことだ。しかもその京では、尊攘派の連中が手ぐすねを引いて待ち構えている。
新たに徴募した浪士たちは京における将軍警固の任務を与えられ、将軍より一足先に京に向うことになっていた。
「私は上様のお伴をして十四日に江戸を発つ。あちらで会うことになるだろう」
「高山にいた頃、お伊勢詣りはしましたが、京――と言うところ私は初めてです」
「私も、初めてさ」
精一は、持前の優しい微笑を洩らした。
二月八日、鵜殿に率いられた二百三十四名の浪士たちは江戸を離れ、木曾路を通って京へ向う。
全員を七隊に分け、各隊を伍長三名、隊士二十七名とする。残りの二十数名は取締役付とした。
取締役付の中に、池田徳太郎、芹沢鴨、そして清河の弟斎藤熊三郎らがいた。
清河自身は、隊員名簿に名が載っていない――、定まった役も持っていない。上洛に当っても隊伍に加わらず、高下駄をはいて、鉄扇を手に、隊の後になり先になり、悠然と歩いてゆく。
だが、隊士のすべての者がいつの間にか、
――あの清河八郎と言う男
が、この浪士徴募案の張本人であり、黒幕であることを知っていて、八郎の姿が見えると、声をひそめて畏敬の念を示した。
木曾路の風はまだ冷たかったが、毎日、天気がつづいた。
二月十日、早くも一騒動起った。
本庄宿で泊ることになった時、池田徳太郎の宿割りに手落ちがあって、芹沢鴨が怒り出した。
「おれの泊るところが決ってないのか、よし、それなら野宿する。かがり火を焚け、風にあおられて、宿場中がまる焼けになっても知らんぞ」
と、同じ水戸の新見錦、平山五郎、平間金助らと共に、町の真中で大焚火を始めた。いつ大火になるか分らない。池田が手落ちを詫びたが、聴入れようともせぬ。
鉄太郎が、芹沢の前に立った。
「ばか気たことはやめなさい」
ずしりと腹の底にひびく声だ。
「なにっ」
と、睨み返した芹沢が、焚火の焔を映している鉄太郎の巨きな眼をみると、さーっと冷たいものが背筋を走った。
今にも、抜討ちに斬られるような感じがしたのである。かなり腕が立つだけに、凄じい剣気は、咄嗟に嗅ぎとったらしい。
と言って、大口を叩いた手前、引込みがつかない。
――くそっ、思い切って、やるか、
刀の柄に手をかけようとした時、鉄太郎が、ふいと気合を抜いて、
「お互い、重い使命を持つ身だ。自重を望む。児戯に類することは止めなさい」
と言いすててくるりと背を向けて去って行った。
芹沢は、思わず額の汗を拭った。
「火を消せ、池田さん、宿はみつけてあるのでしょうな」
「むろんのこと、さ、あちらへ」
池田も額の汗を拭った。
こんな事件があったことを、八郎は知らない。その胸の中に、どんな謀略をひそめているものか、山また山のつづく中を通る街道を、ただ一人、悠々と歩きつづけた。
二月十七日、中津川の宿に泊った。
八郎の宿は、新田屋。
少し打合せることがあって鵜殿を訪れ、新田屋に戻ってくると、若い町人風の男が番頭を対手に、呶鳴り立てている。
浪士組が泊った為、どの旅籠《はたご》も寺院も一杯で、断られたらしい。
――今日昨日の客じゃない、前々からの常客を断るとは何事だ、
と文句をつけているつらが、いかにも不敵なはげしさを持っている。
――面白そうな男だな、
八郎は退屈しのぎに対手になってやろうと、考えた。
「おい、相部屋でよければ、おれの部屋に来ないか」
と声をかける。
「へっ、そいつは有難てえ、お武家様、お願いします」
と、遠慮なく八郎の部屋にはいり込んできた。
信濃国上伊那郡赤穂村の生れ、田中平八、二十九歳と名乗った。
「上りか、下りか」
「はい、東へ下ります」
「商用か」
「いえ、これから商用を作りにゆくので」
「江戸で一旗挙げようと言うのか」
「はい、ここらでうろうろしていましても、一向にうだつがあがりません。何と言っても大きな商売は江戸、一か八《ばち》か、やってみようと思いまして」
「江戸で、よそ者が大した資金もなしに一旗あげるのはむつかしいな」
「そうでしょうか」
「しばらく江戸で様子を見て、横浜に出たほうが面白いかも知れんな」
「と申しますと、夷人さん対手の商売で」
「そうだ」
「様子をみて――とおっしゃるのは」
「横浜はその中、攘夷派によって焼き討ちにされるかも知れん。夷人たちも一度は追払われるかも知れん」
「じゃ、商売にならないでしょう」
「攘夷は必ずやるだろうが、永つづきはせん。万国交易は世界の大勢だ」
「はあ」
「そうなった時、現在のように交易の商権を異国人に握られていてはだめだ。わが国の商人が自分の手で、奴らと対等に取引をせねばならん。お前が本当の商人になるつもりなら、その覚悟でやれ」
対手が二度と会う事のない行きずりの町人とみて、八郎は案外、本音を吐いたらしい。
田中平八、後に横浜における大|商賈《しようこ》となり、生糸を扱って、
――天下の糸平
と呼ばれた。
――中津川の宿で清河さんに会ったのが、私の一生を決定した、
と、平八は晩年に述懐している。
二月二十三日、浪士組は京に人った。
三条の大橋近くにさしかかると、橋の下の河原に大勢が群がって騒いでいる。
「何かあったらしい。ちょっと様子をみてくる」
鉄太郎は、河原に降りていった。
人並優れた背丈《せたけ》だから、人々の頭を越えて、その中心部が一目に見てとれた。
どうやら、天誅と称して京で流行している志士たちの手にかかった者の首が梟《さ》らしてあるらしい。
首は三個、位牌らしいものが置いてある。
――妙だな、
鉄太郎が、すぐに疑問を抱いたのは、首が本ものの生首とは見えなかったからである。人々を押し分けて、前にすすんだ。
果して、首は三つとも木像の首である。
傍らに一枚の制札が立ててあった。
――逆賊足利尊氏、同|義詮《よしあきら》、同義満、
名分を正すの今日に当り、鎌倉以来の逆臣一々吟味を遂げ誅戮《ちゆうりく》すべきの処、この三賊巨魁たるによって、先ず醜像に天誅を加うるものなり、
と、墨痕あざやかに記されている。
「これは、どこにあった木像の首か」
町人の一人に、そう訊ねると、鉄太郎の巨きなからだを見上げ、
「はい、あの等持院さんのじゃろうと思いますが」
と言って、怖ろしそうに肩をすぼめて、人の背にかくれてしまう。
――京の尊攘党は、噂にたがわず、相当活発に動いているようだな、
鉄太郎は、鵜殿に事態を報告し、浪士組一同を急がせて、四条通り大宮西入ル壬生《みぶ》に到着し、所定の宿に分宿させた。
本部は新徳寺。
後になって分った事だが、足利将軍木像|梟首《きようしゆ》事件の犯人は、平田学派の浪士たちである。師岡節斎、建部建一郎、三輪田綱一郎らを中心とする十名の者は、将軍家茂が上洛するのを機会に、尊皇運動のデモンストレーションを決行しようと考え、二月二十二日夜、三条の料亭丹虎に集った。三輪田はいつも可愛がっていた峰吉という少年を連れてきている。
夜半丹虎を出発し、衣笠山の裾を廻って等持院に到着、峰吉が命じられた通り、門を叩いた。
門番が、ねぼけ眼をこすった。
「誰じゃ、こんなに遅く――や、坊やではないか。用があるなら明日にしておくれ」
「大事な御用なんだよ、早う門をあけて、大変なことだよ、早く」
何か仔細あり気な様子に、門番が門を開くと、隠れていた浪士たちが一斉に躍り出て門内に躍り込む。門番を縛り上げ、和尚を叩き起して本堂に案内させた。
尊氏、義詮、義満三代の木像が並んでいる。用意の鋸を取り出して片端からその首をごしごし切り落とした。
首と位牌とを風呂敷に包んで、再び丹虎に戻り、制札を書いてから四条河原に持って行って、梟らしたのである。
鉄太郎たちは、見落としたが、別に三条大橋西詰南側の制札場にも、大きな張紙を張って、天誅の趣旨を記した。
――この者どもの悪逆は万人の知る処だ、だが現在、この奸賊以上の逆徒が多い。もし彼らが旧悪を悔い忠節をつくし、積悪を償う処置をとらないならば、天下の有志は大挙してその罪を糾弾するであろう、
これは正しく徳川将軍に対する脅迫状であると言ってよい。
京都守護職、町奉行以下、犯人探索に全力を挙げたが、容易に捕まらなかった。
少し先走るが、この事件の結末をここに記しておく。
数日後、意外にも、京都守護職松平|容保《かたもり》の家臣大庭恭平なるものが、会津陣屋に赴き、容保に謁して、自分が木像梟首事件の犯人の一人であることを自首した。
大庭は容保の命令を受け、密偵として志士の仲間に潜入し、師岡節斎、三輪田綱一郎らと親しくなった。
彼らが木像梟首を企てた時も、大庭は即座に賛成した。これによって、
――不逞の浪士どもの一党、
を全面的に逮捕するチャンスが掴めると信じたからである。
大庭は主君に対する忠誠心から、独断で行動したのだが、容保はその行過ぎに眉をひそめた。しかし、犯人が分った以上放置する訳にはゆかない。
二十六日夜半、七十名に上る追捕隊が、大庭の提供した情報に基き、祇園新地の妓楼と、二条衣棚の三輪田の寓居《ぐうきよ》を襲った。
祇園では、三輪田、建部ら四人を捕え、衣棚では、師岡ら三人を捕えたが一人は自決、その後三名を逮捕した。
逮捕はしたものの、尊攘派の釈放運動は頗るはげしく、三条実美以下の公卿からも、宥免《ゆうめん》するように要求してくる。
――彼らの行動は乱暴だが、ひとえに尊皇の忠志から出たことだから、
と言う理由である。
――足利氏についてどのような議論があろうと、朝廷が大政を委ね官位を賜わった者を辱かしめるのは、朝廷に対する侮辱である、更に彼らは足利氏に名を借りて徳川幕府を侮辱しているものである、これは断じて許しがたい、
容保は反論したが、将軍入洛直前に尊攘派をこれ以上刺激するのは拙《まず》いと言う大勢に押され、処分は、
――諸藩へお預け、
と言う極めて軽いものに決定された。
さて、入洛して壬生に落着いた浪士組――彼らの運命は、到着したその夜、早くも大きく変化する兆しをみせた。
その起動力となったのは、むろん、清河八郎である。
浪士募集から上洛まで、全く蔭に潜んでいる風を見せていた黒幕の八郎は、その夜突然、主役として檜舞台に躍り出た。
長途の旅行に浪士たちは疲労していた。
新しい土地について早々木像梟首という奇妙な事件を知り、名目的には幕府の麾下《きか》におかれている自分たちの将来について、不安も抱いている。
ちょうどその心身の動揺時点を狙って、八郎が、颯爽として登場したのだ。
――食後、一同、新徳寺本堂に集れ、
と言う触れが回った。
――疲れている。明日でもよいのに、
一同はぶつぶつ言いながら大蝋燭を並べた本堂に集った時、悠然として正面に姿を見せたのが清河八郎である。
浪士たちは、当然、鵜殿か山岡かが、何らかの命令を伝えるものと思っていたので、やや意外に感じたが、八郎の正体はみんなもう知っていた。
――いよいよ黒幕登場だ、
と、多くの好奇心をもって八郎の発言を待った。
八郎は須弥《しゆみ》壇を背に端座し、鉄扇を片手にして、しばらく一同を見廻していたが、おもむろに口を開いた。
「今夜は、鵜殿、山岡諸士つまり幕府の任命した取扱や取締役とは関係なく、われわれ浪士だけの集りとしたい」
最初に釘《くぎ》を打っておいて、本音を吐いた。
「われわれは幕府の徴募に応じ支度金は貰ったが、幕府の禄も位も受けていない。われわれは幕府の家臣として幕命に従う為に結集したのではなく、朝命によって尊皇攘夷の大義を明らかにする為に集ったのだ。この点を明白にしておくことが、今後の活動の為に最も大切だと思うが、如何」
うむ、そうだと、うなずく者もいた。
呆然として耳を疑う者もいた。うまく幕府に取入って、旗本にでもなれぬものかと考えていた者も少くないのだ。
「賛成!」
「われらの目的はただ尊皇攘夷!」
威勢のいい声が飛んだ。恐らく八郎から予め言い含められていた連中であろう。
「御異議がなければ――」
八郎が即座につづけた。
「われわれのこの微衷《びちゆう》を、学習院に上書したいと思う」
学習院は、弘化四年、公家子弟の教育機関として設けられたものだが、今や国事参政の詰所となっており、おのずから国政議事堂のようなものになっていた。草莽微賤の者でも国事について意見のある者は、ここに建言することを認められている。
――その意見書の草案は、自分が書いておいた。
八郎は、浪士たちが深く考え直す時間を与えないで、次々に手を打って、自分の思う方向に引きずってゆく。
――われわれは幕府の世話で上京はしたが、幕府から禄位は受けていない。ただ尊攘の大義に励みたいと期している。万一皇命を妨げる者があれば、たとえ誰であろうと容赦なく責めつけるつもりである、
上書はこうした内容のものである。
翌二十四日、河野音次郎、草野剛三ら六名が、八郎の清書した上申書を持って学習院に赴いた。
学習院国事御用掛では、建白書の持参者が昨日入洛した浪士であることを知ると、
――それならば上書は幕府の手を経て提出するがよろしかろう、
と言って受理しない。
河野らは、
――受取って頂けないとあれば、同志に会わす顔がない。この御廊下を拝借して腹を切る、
と、早くも廊下に坐り込んだので、堂上役人は肝をつぶして、中将橋本|実梁《さねやね》に報告した。橋本が六人を召し出して事情を聴きとり、
――一応、受理しておく、
と答えたが、六人が帰ってゆくと、橋本はこの上書を、孝明帝に取りついだ。
二十九日、浪士隊に対して勅諚を賜わった。
――忠勇奮起、速かに攘夷の実を挙げるように、
と言うものである。同時に関白から、
――上書の趣き叡感斜《えいかんななめ》ならず、今後も言論洞開、何びとの言も妨げなく上聞に達するようにする、
との通達があった。
八郎は、欣喜雀躍した。
朝廷から直接に攘夷の勅諚が下ったと同じことなのだ。この上は幕府の命令に関係なく行動できる。
――そしてその首領は、この自分だ、
八郎の胸は、大きく膨れ上った。
奥羽の酒造商の伜が、赤手空拳、幕府に対抗する一勢力を掌握したのだ。
――むろん、今はわずかの人数だ、だが見るがいい、これはみるみる中にふくれ上ってゆく、そして攘夷の名の下に、巨大な反幕勢力が結集されてゆくだろう、
浪士組に対して、
――御所拝観
が許された。上書に対する褒賞の意味であろう。
八郎は意気軒昂、第二回、第三回の意見書を学習院に提出する。
その要旨は、
一、勅命を奉じて直ちに攘夷を断行せしめること
一、各藩から忠節の士を選抜して、朝廷の親兵を組織すること
一、賀茂、八幡、伊勢大廟へ行幸のこと
一、朝廷御賄料・公卿御融通を充分ならしむること
等々である。
親兵設置の点については、長州藩の伊藤俊輔(博文)土州の吉村寅太郎とも会談した。
三月三日、関白から浪士組に対して、命令が下った。
――今般、横浜にイギリス軍艦渡来、昨年八月の生麦事件について三個条の要求をしてきたが、どれも聞届け難いもの故、その旨を伝えて折衝中であるが、場合によっては戦端を開くことになるやも知れず、浪士組は速に東下し、粉骨砕身忠誠を励め、
と言う意味のものである。
昨文久二年八月二十一日、薩摩の島津久光は、四百人の従士と共に江戸を発って京に向ったが、午後二時頃、神奈川に近い生麦村にさしかかった。
英国商人リチャードソン、ボロデール夫人、クラーク、マーシャルの四人は街道筋を乗馬でやってきて、この久光の行列に出会った。傍に寄れと注意されたので道路わきを進んでゆくと久光の駕籠が見えた。
駕籠傍から血相を変えた武士が、
「無礼者!」
と呶号しつつ走ってくる。大名行列の前を馬上乗打するなどは、当時の家臣として許し難い無礼だったに違いない。
リチャードソンたちは、そのただならぬ様子に愕いて引返そうとしたが、武士の数名は白刃を抜き放って斬りつけてきた。
リチャードソンは落馬して斬殺され、他の二人は重傷を負い、ボロデール夫人だけが無事に脱出して横浜に辿りついた。
イギリス代理公使ニールは幕府に対して強硬な抗議を行い、幕府に対しては十万ポンドの賠償金を、薩摩に対しては犯人の処刑と二万五干ポンドの賠償を要求した。
――要求に応じなければ軍事行動に出る、
と称し、十二隻の大艦隊を横浜港に集結したのは、文久三年二月、将軍上洛の為、幕府も大騒ぎをしている最中である。
将軍は二月十四日江戸を出発し、三月四日京の二条城に入っている。
イギリスとの折衝はつづけられているが、事態はどのように展開するか分らない。
関白の浪士組に対する東下命令は、こうした状況の下に発せられたのである。
八郎が実権を握ってしまった浪士組の行動に危惧を感じた幕府方が、関白に手を回して、浪士組を江戸に送り還してしまう手段をとったのだと言う説がある。
逆に、八郎が将軍不在の江戸で自由行動をとるために、関白を動かして、この命令を出させたのだと言う説もある。
恐らく前の説が正しいだろう。だが、この命令を受けた清河が、
――それこそ望むところ、
と、ほくそ笑んだことも想像できる。
八郎は直ちに全員を新徳寺に集めた。
「勅諚によりわれわれは、江戸に戻って攘夷の第一陣として働くことになった。これはわれわれの至誠が朝廷に認められた為であり、一同の名誉である。皇国の為、一層の奮起を望む」
八郎が、例によって高飛車にそう宣言した。何人の反対も許さぬと言う気魄が眉宇に漲っている。
だが、今度は、八郎の思惑が外れた。
言下に、
「待って頂きたい、賛成致し兼ねる」
と叫び、人々を押し分けて、八郎の面前に坐り込んだ男がいる。
芹沢鴨だ。
「清河氏、入京以来の貴公の行動には腑に落ちぬ点が多い。鵜殿氏が何とかされるものと信じて今日まで黙って見ていたが、只今の御意見には絶対に賛成できぬ」
両眼を三角に光らせ、憤りを――否、憎悪を満身に漲らせていた。
「反対――何故だ。理由を言え」
八郎は、その芹沢の眼を、少しのたじろぎも見せずに睨み返した。
「おお、はっきり言おう、われわれは幕府の召に応じて集った者だ。貴公の命令で集ったのではない。一体何の権限があって、幕府の正規の浪士取扱鵜殿氏を差しおいて貴公が命令を下すのか」
「浪士組は関白から勅諚を通達されている、その行動はもはや、幕命に拘束されない」
「それはおかしい、われらは将軍警護の為に入洛したのだ。将軍家の命令がなければ勝手な行動はできぬ筈だ」
「君は朝命よりも、将軍の命令を重しとするのか」
「命令の筋が違うと言うのだ。関東で攘夷が必要ならば、各藩に命じて出兵させればよい。わずか二百余名のわれわれが、将軍警護の任を棄ててわざわざ出動するには及ばぬ」
「君はわれわれの任務の根本を誤解している。将軍警護と言うのは、江戸出発に当っての差当りの名目、真の目的が尊皇攘夷にあることは今更議論の余地はない」
「それは貴公の独断だ。私は朝廷に仕える者でもなく、関白の家来でもない。幕府の徴募に応じ、その命令を奉じてやってきたのだ。関白の命令に従わねばならぬ理由はない。まして貴公の命令など聞く筋合はない」
「君は、この期に及んで、この清河にたてつこうと言うのか」
「その通り」
短気な芹沢は、刀の柄に手をかける。
おろおろして見ていた鵜殿が、鉄太郎に眼顔で合図を送った。
――何とか納めろ、
と言うのだ。問題が起ると、この男は一切を鉄太郎に転嫁する。
鉄太郎は、八郎から予め事の次第を聞いている。京にいて色々面倒な拘束を受けるより、江戸に帰って自由に動いた方がよいと考える点では、八郎に賛成していた。
膝を乗り出して、八郎と芹沢の間に割って入る。
「御両所とも亢奮なさらずに、話合われた方がいいでしょう」
八郎が先に冷静さを取り戻した。
「芹沢君、君はどうしようと言うのだ」
「私は江戸へは戻らぬ。京に残って、将軍警護の任に当る」
「君一人でか」
八郎が、やや皮肉にそう言い返した時、数人の者が立ち上った。
「私も芹沢氏に賛成だ」
「私も江戸へは帰らない」
近藤勇、土方歳三、永倉新八、新見錦、野口健司らが口々に叫ぶ。
鉄太郎が手をあげて、騒ぎを制止した。
「静かに――諸君、坐ってくれ。意見の異なる者に強いて同一行動をとらせるのは無意味なことだ。江戸へ下ることを望まぬ者は京に残ることとしたらいいと思う」
八郎の方を向いて、
「どうです、清河先生、二手に分れることにしては」
八郎の頭は素早く回転した。時間が経てば反対者が殖えるかも知れない。
「分った、山岡取締役の言われる通りだ。江戸東下組と京都残留組に分れよう」
八郎が、立ち上って、
「京都残留を希望する者は」
と呼びかけると、芹沢以下十三名が手を挙げた。
人数が案外少かったので、八郎はホッとしたらしい。
「芹沢君、それではここで袂《たもと》をわかとう」
「と決まれば、われわれはこの場に居ても仕方がない」
芹沢ら残留組は、さっさと新徳寺から引揚げていってしまう。
彼らは芹沢の宿泊していた壬生村の郷士八木源之丞方に集った。
芹沢は意気昂然としている。
「奥州の酒屋上りの清河などに勝手な真似をさせて堪るか、山岡の奴がいなければ、あの場で叩き切ってやるところだった」
「清河は自分独りの功名の為に浪士組を利用しているのだ。公儀に対する裏切り者だ」
土方歳三は憤然として叫ぶ。近藤、土方らは、剣の腕をもって幕府当局に登用され、旗本にとり立てられることを夢みている。
「とりあえず我々として採るべき手段を考えよう」
近藤勇の提案によって協議した結果、京都守護職松平容保に対して、
――われわれは初志を貫いて、将軍家の警護に当りたい、
と言う嘆願書を提出した。
容保からは、公用方の田中土佐を通じて、
――神妙の願いである、差当り肥後守預りと言うことにしておく。将軍家の警護、二条城外見回りの役を勤めるよう、
と回答が与えられた。
悦んだ一同は、相談の結果、
――新選組
と言う隊名を選び、大標札を門前に掲げた。
「鵜殿に委せておいて大丈夫かな」
老中板倉勝静が心配した。
「清河と言う奴、まんまとわれらに一杯食わしおった。何をしでかすか分らぬ」
老中水野忠精は、渋い顔をした。
「高橋をつけてやったらどうであろう」
「あ、あれならば──たしか浪士取締役の山岡の義兄に当る筈、万事好都合かも知れませんな」
高橋精一は、警衛頭として槍隊五十人を率いて京に来ている。
早速呼び出して、鵜殿と並んで浪士取扱とし、浪士組を率いて江戸へ戻る事を命じた。
三月十三日早朝、京都残留組を除いた浪士全員が新徳寺前庭に整列、滞京わずか二十日で早くも江戸に向うこととなる。
出発間際に、講武所師範の佐々木只三郎、速見又四郎、高久保二郎、依田哲二郎、永井寅之助、広瀬六兵衛が、新しく取締役並に任じられた。
これは、幕府有司が清河の行動に極めて強い警戒心を抱いた為であるとも見られるが、実はもっとはっきりした内密の使命がこの佐々木以下の連中に与えられていたのである。それはやがて明らかになるであろう。
高橋精一の指揮下では、さすが乱暴者揃いの浪士組も、無茶なことはできない。道中無事に、三月二十八日江戸に帰着した。
江戸では、八郎の浪士隊が京に出発してからも応募者が相つぎ、その数は百八十名近くに達していた。幕府ではこれを、本所三笠町の小笠原加賀守の空屋敷に収容し、中条金之助を浪士取扱に、窪田治郎右衛門を取締役に任じている。
京から引揚げてきた連中を加えると三百六十名以上になり、到底小笠原邸だけでは収容し切れないので、隣の西尾主水の邸にも入れた。それでも足りず、若干の者は近くの旅宿に分宿することとなる。
彼らは京で関白の命令を受けてきたのだと称して眼中に幕府なく、今にも、
――攘夷実行
と張り切って、連日、刀槍の稽古を行い、足ならしと称して隊伍を組んで市中を闊歩する。
大名の行列でさえ、この浪士組をみると、道を開いて通したと言う。
水戸を始め諸国の浪士で、改めて浪士組に加入してくる者もいる。
四月一日、石坂周造が、鷹匠町の鉄太郎の家に躍り込んできた。
「聞いたか、山岡」
と、息を弾ませていた。
「何を?」
「知らないのか。幕府はイギリスの要求をすべて鵜呑みにしたぞ。完全屈服だ」
「本当か、それは」
「謝罪状も出す、賠償金十万ポンドも支払う、今後のことも保証する――と言うのだ」
「何と言うだらしない話だ」
鉄太郎は幕臣として、幕府に対する忠誠心は持ちつづけているが、幕府の対外政策の軟弱ぶりには憤慨している。そこを清河がうまく掴んで操っているのだ。
「清河さんは?」
と石坂が聞いた。
八郎はこの処、ずっと鉄太郎の家に泊り込んでいる。八郎の身を案じた鉄太郎が強いて自分の家に泊らせていたのだ。八郎が外出する時は、大抵何人かの者をつけて出すように気をつかっている。
「所用で他出中だが――」
と話している時、八郎が戻ってきた。
石坂の齎らした情報を聞くと、沈痛な顔をしていたが、
「そんな事になるかも知れぬとは思っていた。よし、それならば、攘夷の火の手は、われわれで挙げることにしよう」
と、きっぱり言ってのけた。
かねて、この場合を予想して計画を樹てていたのであろう。
「私に一案がある」
と提示したのは、
一、浪士組が大挙して横浜に赴き、火を放って市街を焼き、日本刀を揮って外人を殺戮する、
一、神奈川の役所を襲ってその金穀を奪って軍資金とする、
一、厚木街道より甲州街道に出て、一挙に甲府城を陥れて本拠とし、勤皇攘夷の義旗を掲げて天下の有志を募る、
一、京に使を派し、勅旨を実行したことを上申し、その指揮を仰いで将来の策を決定する、
と言うものである。
極秘の中に、その準備をすすめた。
一般の浪士たちは、むろんこの計画を知らない。幕府の軟弱をののしりながら、
――朝廷がこんなことを容認される筈はない、いずれ攘夷の勅諚によって、すべてひっくり返る、
と信じ、日々大言壮語している。
その中、妙な噂が江戸市中に流れた。
――浪士組のもの
と称するものが、無銭飲食をしたり、借金を強要したり、喧嘩を吹っかけたりした揚句、
――文句があるなら三笠町の邸に来い、
と啖呵を切って引揚げてゆく、と言うのである。
町奉行所から鉄太郎のところに、
――尽忠報国を口にする浪士組にあるまじき所業、厳重に取締って頂きたい、
と申入れがなされた。
鉄太郎は珍しく激怒した。
三笠町の浪士屯所に赴いて一同を集め、
「言語道断のこと、覚えのある者は男らしく名乗り出ろ、この山岡が成敗する」
と呶鳴った。いつもからだに似合わず温和な感じの男が、まるで別人のように猛々しい相貌になっている。
一同、寂として声なき状態であったが、その中、一人が、
「山岡さん、それは何かの間違いでしょう。われわれの中にはそんな不埒なものはいない筈だ」
と言い出すと、みんなが、
「そうだ。恐らく無頼の徒が、われわれの名を借りて横行しているのだ」
「われわれがそんな汚名を被せられるのは、憤慨にたえぬ」
と騒ぎ出す。
「よし、私もそう信じている。では、念の為、今日から五日間、諸君は一歩も外に出ないでくれ、その間に何かあれば、にせ者の仕業だ」
八郎は一同に禁足を命じた。
ところが、その五日間に、浪士組乱暴の訴えが、相ついで町奉行に対してなされた。
――やはり、にせ者だった。よし、ひっとらえてやれ、
と浪士組が手分けして全市中に網を張る。
にせ浪士はすぐ捕えられた。
糸をたぐって、そいつらの首領が、常陸の浪人神戸六郎、上州浪人岡田周蔵の両人で、その命令を受けて乱暴をしていた者が三十余名に上ることが判明した。
神戸、岡田両人は、前に徴募に応じてきたが、所業不良の故を以て除斥された人物だ。
早速この二人を襲って捕え、三笠町の邸の土蔵に連れ込んで、手きびしく痛めつけて自白を強要する。
両人は、意外なことを陳述した。
――われわれは老中小笠原|図書頭《ずしよのかみ》の密旨を受けた勘定奉行小栗忠順に金を貰い、浪士組の悪評を流すためにやったのだ、
と言う。
調べに立合った八郎は唖然とした。
「山岡君、どうだ、幕吏はこんな汚い手を使うのだ」
鉄太郎はまるで自分が悪事をしでかしたかのように顔を紅らめた。
「私には夢にも考えられぬことです。ともかくこのことを義兄高橋に話して、小笠原殿や小栗殿に詰問してみましょう」
高橋精一も、鉄太郎からこの事を聞くと、さすがに顔をしかめ、
「信じられぬことだ、私が確かめてみる」
と、翌朝登城して、先ず小栗に会って言葉鋭く実否を質《ただ》した。
小栗は老獪《ろうかい》である。
「はて、全く記憶にないこと」
と、嘯《うそぶ》き、
「その者共、会うたことも、名を聞いたこともない。大方、拷問にでも会って、苦しまぎれにでたらめを申し立てたのであろう。速かに町奉行の手に引渡し、改めて糾問させることにするがよかろう。浪士組が勝手に裁判するのは筋違いであろうな」
と、逆襲する。正直一方で策略を知らぬ精一は引退るよりほかなかった。
自白以外に証拠のない事である。町奉行の手に引渡してしまえば、うやむやの中に葬られ、浪士組の悪名だけ残るであろう。
高橋の口から、小栗の回答を伝えられた八郎は、激怒した。
「よし、おれの手で奴らを叩き斬る」
「清河先生、それは少し行き過ぎではありませんか」
と鉄太郎は止めたが、八郎は断乎として聴き入れず、石坂周造と村上俊五郎を伴って三笠町に赴き、岡田と神戸を庭に引き出した。
さんざんに面罵した上、自ら首を刎《は》ねようとしたが、石坂が、
「清河さん、私たちに委せて下さい」
と言うなり、岡田を一刀の下に斬首、つづいて村上が神戸の首を叩き斬った。
岡田、神戸の部下三十余名は、両刀をとり上げて放逐する。両人の首は両国広小路に梟らし、罪状を記した札を立てた。
――京の天誅が、江戸にも現れたぞ、
と、江戸市中では大評判になる。
小栗は小笠原と相談した。
「清河の所業、このまま放置しておく訳にはゆきませんな」
「うむ、京の板倉からも密々に連絡があった。佐々木、速見らに命じて、東下の途中で清河を暗殺させるつもりだったらしいが、その隙がなかったのだろう」
「実は清河が、不穏の企てをなしていると言う情報もはいっております」
「ほう、それは?」
「もう少し確証を握ってから申し上げようと存じておりましたが、清河一党、横浜焼き討ちを企図している模様」
小栗は全市に密偵を放って、情報を蒐集していたのである。
「容易ならぬことだ。この上は、佐々木らを督促して、一日も早く清河を消してしまうことだな」
「さよう、奸悪の首魁は清河、きゃつ一人を消せば、あとは烏合《うごう》の衆です」
佐々木、速見らが、小笠原の邸に呼ばれ、
――清河八郎暗殺
の緊急命令を与えられた。
この頃、八郎の方の計画も進展している。
計画実行の為には、横浜の外人居留地一帯を調査する必要があったが、警戒が厳重で容易に近づけない。
幸い窪田治部右衛門の長子が、横浜奉行の組頭を勤めていることが判ったので、鉄太郎は窪田から紹介状を貰った。
四月十日、その紹介状を持って、鉄太郎は清河八郎、斎藤熊三郎らと共に横浜に赴き、要処要処視察を遂げて十一日に江戸に戻った。
――不意を襲って焼き討ち、乱入をすることは不可能ではない、
と言う結論である。
――十五日、断行
と決定、浪士一同には、その日の朝、報らせることとした。
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窮  境
十一日横浜から戻った時、八郎は風邪をひいていた。
横浜焼き討ちの日を十五日と決定して、石坂らが帰ってゆくと、そのまま山岡家の四畳半に引きこもり、蒲団を引っかぶって寝込んだ。
十二日の夕刻、
「お加減は、いかがでございます」
お英の妹お桂が、葛湯《くずゆ》を持ってきた。
このところ山岡家の居候のようになっている八郎の世話は一切お桂が引受けていた。
義兄の鉄太郎が、いつも口を極めて賞讃し、先生と呼んでいる眉目清秀の颯爽たる人物に対して、お桂は、早くから、好感以上のものを抱いていたらしい。
鉄太郎も、八郎にお蓮という女がいなければ、お桂を貰って欲しかったことだろう。
八郎はこの時、うつらうつらしながら、死んだお蓮のことを考えていた。
――憐れなことをした、
と思う。
全く自分のせいでお蓮は牢屋につながれ、殺されたようなものである。
――済まぬ、
日常は忙しさに取紛《とりまぎ》れて、お蓮のことを思い出す隙《ひま》もないが、こうして寝ていると、さすがに懐かしく、恋しく、哀れに思えてくる。
お桂の声に、はっと我にかえって、眼を開いた途端、薄暗い四畳半の中にぼうっと浮んだお桂の顔が、お蓮に見えた。
「あ――」
思わず、声が洩れた。
「どうなされました」
と、心配気に覗き込むお桂を見上げて、
「いや、何でもない」
と、優しく微笑する。
「お桂さん、明日だったな、金子からの招待は?」
金子与三郎は、昌平黌時代に知り合った羽州上ノ山藩の儒者である。十三日、御来邸をお待ちすると招待されていた。
「はい、でも、そのおからだでは、御外出はむりでございましょう。今日の中にお断りの使いを出されては如何でございます」
「なに、大丈夫、私は風邪をひき易いたちでね、だが、いつもすぐに癒る。約束したのだ。明日は行きますよ」
八郎は金子を古い友人の一人として信頼している。上洛の際にも、著述の原稿をすべて金子に預けておいたくらいだ。
――横浜襲撃に当って、もしかしたら命を落とすようなことがあるかも知れぬ。金子にも一度会っておきたい。
そう言う気がしていた。
この金子が老中小笠原図書頭と特別の関係にあったことは、八郎は全く知らない。
金子は小笠原家の重臣多賀隼人とも親しく、この当時、小笠原家の息女を上ノ山藩の世子松平信庸に嫁せしめる件について、奔走していたので、始終、小笠原家に出入していた。
――清河八郎は、その方と交友関係にある由聞いている、国家の為、清河暗殺の手助けをして欲しい、
と、図書頭から頼まれた時、金子は仰天したに違いない。だが、図書頭が、八郎の上洛以来の行動を精細に語り、
――彼は正しく公儀をあざむき、一身の功名の為に勅諚を利用せんとするもの、
と吹きこまれると、心がゆらいだ。
八郎が野心に満ちた、功名心の強烈な人物であることはかねてから熟知している。
小笠原老中の内密の命に背けば、折角今迄に獲得した信頼のすべてを喪う。上ノ山藩における地位も危くなるかも知れぬ。
「清河はともかく友人の一人、私が自ら手を下すことはお宥《ゆる》し戴きたいと思いますが、その手引ならば――」
と、引受けた。
八郎を招待したのは、その為だ。八郎の来邸する時刻、帰りの時刻を、あらかじめ通告することを約束した。
こうした内幕を全く知らぬ八郎は、十三日朝早く起床すると、
「今朝はすっかり気分がよくなった。一風呂浴びてくる」
と言って、近所の風呂屋に行った。
朝風呂はこの頃の江戸ッ子が最も好んだもので、どの風呂屋も早朝から営業している。
風呂上りの、手拭いを下げたままの姿で、隣の高橋精一の宅を、庭から訪れた。高橋一家とも、その位、親しくなっていたのだ。
「何だ、朝風呂とは、御機嫌だな」
登城の支度をしていた精一が声をかけた。
「ええ、今日は久しぶりに麻布の上ノ山藩邸に金子を訪ねてゆきますので、病み上りの恰好ではまずいと思いましてね」
「金子? あの儒学者か」
「そうです。御存知ですか」
「いつか小笠原殿のところで会ったことがある。大分親しげに見えたが」
「金子が小笠原殿と知り合いだとは知りませんでしたな」
高橋は、首をかしげた。
「小笠原殿は、にせ浪士の神戸、岡田を使った御仁《ひと》だ。その小笠原殿と親しい金子を、何で訪れるのだ」
「なに、彼は昔からの友人です」
と答えた八郎が、首をかしげた。
「しかし、どうして金子は小笠原殿のことを今迄一言も話さなかったのかな、何でも話してくれる男なのに」
「清河氏」
高橋が、声の調子を改めた。
「用心した方が良いな、あんたは大分憎まれている」
「はあ、充分気をつけます」
と言った八郎が、精一の妻女お澪《みお》に、
「奥さん、白扇を二、三本下さい」
と、不意に妙なことを頼んだ。
「どうなさるのです」
「なに、風呂に入っている間に、二、三首思い浮べたので――」
八郎の筆蹟の素晴らしいことを知っているお澪はすぐに白扇と筆墨を持ってきた。
八郎は、二本の扇に、すらすらと二首の和歌を書き流した。
――さきがけてまたさきがけん死出の山 迷ひはせまじすめらぎの道
――くだけてもまたくだけても寄る波は 岩角をしも打ちくだくらむ
どちらも、二日後に迫っている横浜襲撃を頭に描いての作であったに違いない。
その密謀を知らない精一は、
「何だか辞世の句のような不吉な作だな、いやな予感がする。今日、金子の処へゆくのは止めた方がよいのではないか」
と眉をひそめたが、八郎は微笑しただけである。
精一の登城を見送ってから、お澪と話していると、鉄太郎の妻お英《ふさ》と妹のお桂とがやってきた。
「清河先生、お風呂がずい分長いと思っていましたら、ここにいらしたのですか」
「今、辞世の歌を記していた処ですよ」
八郎は精一の言葉を、半ば冗談に転向して、白扇をみせた。
「縁起でもない。そんな事をおっしゃるものじゃありません」
お英が眉を寄せてたしなめたが、八郎は、
「あんた方にも、一首書いて上げましょうかな」
と笑った。
「いやです、辞世の歌なんて」
「冗談ですよ、女性にとって良い歌が浮んだから」
白扇をとって、更に一首書き流した。
――君はただ尽くしませ臣《おみ》の道 妹はほかなく君を守らむ
「さあ、出かけますかな」
と立ち上った八郎に、お澪が、
「今日はおやめになったら」
と、良人の言葉をくり返した。
「いや、約束は守らなければ」
八郎が山岡邸に戻ると、石坂周造が来ていた。
「出掛けるのですか」
「うむ、上ノ山藩邸まで」
「大事決行の日も迫っている。よほどのことでない限り、他出は止めた方がいいでしょう。狙われていますよ」
「なに大丈夫さ、約束だから行く」
「じゃ、私もついてゆきます」
「君は金子を知らないのだろう。ついてきてはおかしい」
「おかしくてもいい」
石坂は執拗に言ったが八郎は受けつけぬ。
「山岡君は昨日から戻らぬ。戻ったらよろしく言っておいて下さい。遅くても夕刻までには帰ります」
八郎が、黒羽二重の紋付に魚子《ななこ》の羽織を着、鼠の竪縞《たてじま》の仙台平《せんだいひら》の袴をはいて待っていると、金子与三郎から迎えの駕籠が来た。
八郎と金子とが、どんな話をしたかは分らない。
八郎が上ノ山藩邸を出たのは夕刻である。
かなり飲まされていた。
金子は、迎えには駕籠をよこしたのに、帰りの駕籠を呼ばせようとはせず、藩邸の門前で別れを告げた。
風が涼しい。
八郎はしばらく藩邸の土塀にそって歩き左に曲った。
古川にかかる一の橋を渡った。
左手は大和郡山藩柳沢家の下屋敷、右側は草原、この草原によしず張りの茶店がある。
茶店の縁台に腰を下ろして茶を飲み、菓子をつまんでいた数人の武士があった。
八郎の姿が一の橋を渡るのをみて、その中の二人が、さっと立ち上った。
「お、清河さんじゃありませんか」
一人がすれちがいざまに、声を掛けた。
笠を少しあげた八郎が、
「佐々木氏か」
と応じた時、もう一人の男が近づいた。
速見又四郎である。
被りの物の紐をといて、鄭重に挨拶をする。
八郎もこれに対して、被り物の紐に手をかけた時、いつの間にか背後に近づいていた男が抜き打ちに八郎の肩を斬った。
――あ、
と、八郎が刀の柄に手をやった瞬間、佐々木只三郎が前から斬りつけ、咄嗟に身を引いた八郎の顎のあたりを傷つけた。
速見が、後に回り込み八郎の左の肩側から首筋に深く三の太刀を浴びせる。
八郎は手を伸ばしたまま、どうと前のめりに倒れた。
一の太刀で重傷を負い、三の太刀で息の根を絶たれた。
ばらばらと集ってきた数名がいる。いずれも講武所師範級の遣い手で、京都出発間際に浪士組取締役に命じられた連中――すなわち、清河暗殺団の連中である。
「存外、脆《もろ》いな」
「なに、たかが田舎剣士さ」
笑い声を立てながら、三田小山町の方に向って、さっさと消えていった。
茶店のおやじを始め、通行人が、怖《こ》わ怖《ご》わ八郎の死体の回りに集ってきた。
上ノ山藩士の増戸武兵衛と言う者が、明治になってからこの時の事情を、史談会の席上で詳しく述べている。
「七ツ頃即ち今の午後四時頃、表門の方で人殺しがあったと言うので行ってみた。一の橋を渡って一間か二間ほど行くと、立派な侍が前に倒れて、首が右に落ちかかって転げていました。その様子は左の方の後から横に斬られたものと見え、左の肩先から右の方、首筋の半ば過ぎまで見事に切られています」
「刀脇差は立派なものでした。羽織は黒で甲斐絹の裏付、右手に鉄扇を持って居りましたと見え、右の手を伸べてその側に棄ててありました。髪は総髪、そこに大勢寄って、誰だろうと言っているうちに、中村平助と言う者が、これは清河八郎のようだと申します。清河ならば金子の友人である。金子に聞けば判るであろうと思って、中村ら四、五名と屋敷に戻り金子に聞くと、それは清河に相違ない。今朝から私を訪ね、午食を共にし酒を飲み、色々談話の末帰ったのである。惜しいことをした。残念であると金子は申しました。一緒にいた者はなるほどとうなずいて居りましたが、私は信じません。必ず金子が関係していると思いました」
増戸が金子を疑ったのは、金子が老中小笠原の邸を訪ね、多賀隼人に会って清河のことを話している時、同席していたからである。
金子はいかにも驚いたような様子をみせ、鷹匠町の山岡家に報《し》らせにやった。
鉄太郎は石坂周造と話していたが、
「清河先生が――しまった!」
と、絶句する。
「連判状は?」
石坂が、鋭い声を出した。
「先生はいつも懐中に、肌身離さず持っておられた筈だ」
「そいつは、いかん」
石坂が躍り上った。
「どうするのだ、石坂」
「おれに委せておけ」
「おれも行く、せめて先生の首級《みしるし》を」
「貴公は幕臣だ。その上、顔を知られている。引込んでいてくれ」
石坂は早駕籠をしたてて、一の橋に馳《は》せつけた。現場に到達した時は、すでにあたりは暗い。
――変死人があった時は、その道路に面した屋敷の者が見張りを受持ち、検視の役人のくるのを待つ、
と言うのがしきたりである。
柳沢家の足軽たちが、八郎の死骸をむしろで覆い、高張提灯をつけて見張っている。検視の役人がやってくるまでには、ずいぶん時間がかかるのが例だ。近くの人々が大勢、人垣をつくって、色々噂話をしている。
斬合いの現場を見たようなホラを吹いている者もいた。
石坂は、人垣を押し分けて前に出た。
「斬られたのは、清河八郎と聞いたが、まことか」
と、大声で叫んだ。
見張りの者が、
「清河八郎だと言う――が」
石坂は、血相をかえて死体に走り寄ろうとした。見張りが愕いて、
「これ、まだ御検視も済んでおらん。近よってはなりませぬぞ」
と押し止めようとすると、石坂がいきなり大刀を引き抜いて呶鳴った。
「無念や、清河八郎はおれにとって不倶戴天《ふぐたいてん》の仇《かたき》、この手で討ち得なかったのは一期《いちご》の不覚、せめて一太刀なりと酬いずにおくものか。えい、退けっ、邪魔立てすると、ぶった斬るぞっ」
見張りの足軽が肝をつぶして、引き退る。
石坂は素早く八郎の首を斬り放し、懐中を探って連判状を掠《かす》め取ると、首を魚子《ななこ》の羽織に包んだ。
ちょうどその時、伊牟田尚平、藤本昇ら同志の浪士が馳せつけてきた。
「おお、無念や清河は他人の手に斃れたが、首はこの通り奪ったぞ」
石坂はそう叫んで走り出す。浪士たちも走り出す。見張りの者はただ茫然として見送るばかりであった。
石坂はそのまま鷹匠町に走り戻り、山岡家の塀の外から、
「山岡――」
と叫んで、羽織に包んだ八郎の首級を内側に抛り込んだ。
様子を案じて待っていた鉄太郎が素早くそれを受取り、首級を井戸の水で洗って、仏壇の前に供えて拝んだが、
「先生お許し下さい」
と一礼し、酒樽を首桶の代用としてその中に納めた。屋敷の裏手へ廻った。旗本の筧《かけい》と言う屋敷との間が、ちょっとした雑木林になっている。その中間あたりに、四尺ほども掘って、八郎の首桶を埋めた。
この時、八郎、三十四歳。
三年後、これを再び掘り出して、伝通院内に埋葬し、墓を建て、その傍らにお蓮の墓を建てたのも、鉄太郎である。
八郎暗殺の下手人が、佐々木、速見らであると分ったのは、ずっと後のことであるが、不思議にこれら犯人は、どれも終りを全うしていない。
佐々木只三郎は小太刀の名手として知られ、坂本龍馬、中岡慎太郎を暗殺したのもこの男ではないかと言われているが、鳥羽・伏見の戦いで流れ弾を受け、紀州に送られたが、傷の痛みに悶死したと言う。
速見又四郎も同じく流丸《ながれだま》に当り、その傷痕が瘡《かさ》に変じ、そのために死んだ。
高久安次郎は公用で箱根山を越える時、何人か不明の人物に殺されている。一説には八郎の弟熊三郎が、兄の仇とつけ狙って殺したのだとも言う。
永井寅之助は、原因不明の病で頓死し、その一家は断絶した。
内通者の金子与三郎は、慶応三年の薩摩屋敷焼き討ちの際、流れ弾に当って死んでいる。
八郎の暗殺の背後に、幕閣の手が動いていたことは、その後にとられた幕府の措置によっても明白である。
万事について、怖ろしくスローモーションであった幕府当局は、八郎の死んだ翌日、早くも、異常な迅速さを以て――恐らく、予定通り――行動をとった。
浪士取扱高橋精一並びに浪士取締役山岡鉄太郎が、取締不行届とあって蟄居を命じられたのが、八郎横死の翌十四日。
同じ十四日夜、庄内藩以下五藩の兵数千が三笠町一帯を包囲し、浪士全員を逮捕した。
石坂、村上ら、不穏分子の首魁と目された六名は諸侯にお預け禁錮処分。
同十七日、浪士組は新徴組と命名され、庄内藩に委托して江戸市中|巡邏《じゆんら》の事に当らせることと決定。浪士組は、八郎の初志とは全く反対に、完全な幕府の御用団体にされてしまった訳である。
むろん、この処置に、すべての浪士が唯々諾々《いいだくだく》と従ったのではない。
多くの者が脱走し、或は水戸に走って筑波党に加わり、或は京に脱れて長州志士の仲間に入った。
南雲平馬、菅俊平、吉田五郎らは、元治元年六月の池田屋の変に遭遇し、捕えられて六角堂の牢舎で斬首されている。
横山民平は相楽《さがら》総三の赤報隊に加わったが、会津藩士に殺された。
さて、高橋、山岡の両名、蟄居を命じられたが、それで済むとは思っていない。
「どうだね、悪くすると切腹――かな」
「そんなことになるかも知れませんな」
まるで他人《ひと》事のように話していたが、鉄太郎が、
「私は清河先生と一心同体になって動いていた身故、どうなっても当然ですが義兄《あに》上は私に引張られて清河先生の党派と見られてしまったようなもの、申訳のないことをしました」
と、神妙に詫《あや》まった。
「ばか言っちゃいけないよ、私が清河氏と知り合ったのは、鉄さんに紹介されたからだが、彼の尊皇攘夷論は正しいと思っている。少々策がありすぎる欠点はあったが、あの人は今死なすには惜しい人さ。私は私の考えで多少あの人に肩を入れていた。鉄さんに詫まられる筋合はないさ」
精一も正直一方な人物で、八郎の攘夷論が、倒幕論のカムフラージュであることには気がついていない。
十五日の昼頃、高橋家のものが、外出先から顔色を変えて馳せ戻ってきた。
「先生、大変でございます。伝通院に相馬藩、新発田藩の兵が大勢集っております」
「ほう、何かあったのか」
「ここに押しよせてくる――と言う噂でございます」
「ばかな」
「いえ、本当でございます。何でも先生が御謀叛を企てているとかで――」
「謀叛?」
精一は、きびしい表情になって腕をくんだが、すぐに鉄太郎を呼びにやった。
「鉄さん、私たちは謀叛人として討手をさし向けられるらしい」
「謀叛――一体どう言うことです」
尊皇攘夷は唱えても、幕府に対しては飽迄も忠誠を誓っている鉄太郎にとっては、夢にも考えられない汚名である。
「さあ、私と鉄さんとを清河らの黒幕と見たのかも知れぬ。それに、私は度々御老中に苦いことを進言して憎まれているからな、理由はどんなにでもつくよ」
例のにせ浪士問題で、勘定奉行の小栗や、老中の小笠原に詰問に行った際、直情の高橋は、かなり乱暴な口を利いてしまっている。
「それだけのことで謀叛人扱いはないでしょう」
「邪魔者は片付けるのが安心なのさ」
若党が、庭先に走り込んできて、
「お屋敷の近くに、相馬藩の兵がやってきております」
と、息を弾ませた。
「切腹申しつけると言うのなら、武士らしく腹を切る。だが討手を差向けると言うのなら、闘って死ぬほかないな」
高橋、山岡両家の者が、すべて精一の前に集められた。
精一の妻|澪《みお》子は生れたばかりの三男謙三郎を抱きかかえ、七歳の長女米子、五歳の長男道太郎、三歳の次男誠治とを身の回りにひきよせている。
鉄太郎の妻お英は二歳になる長女松子を抱き、妹のお桂の手をしっかりと握っていた。
「公儀の討手がくると言う。日頃、尊皇攘夷を唱えていたので、謀叛人と見られたらしい。私も鉄太郎も、剣の道を以て立っている身だ。おめおめ縛につく気はない。闘って死ぬ。女子供は今の中に落ちのびてくれ」
精一がそう言うと、澪子が言下に叫んだ。
「いやでございます。良人が討死なさると言うのに、妻が落ちのびると言う法はありませぬ。私は何とおっしゃられてもここにおります。御一緒に死なせて下さいまし」
お英も、つづいて言った。
「私も義姉《あね》上さまと同じです。ここで自害させて頂きます」
「何を言うか」
精一と鉄太郎とが、叱ったり頼んだりしたが、どうしても聴き入れない。
――児供のことを考えよ、
とさとしても、
「たとえ生き延びたとしても、謀叛人の児として、一生日蔭の暮らしをせねばなりませぬ。そんなみじめな生涯を送るよりも、一家一緒に死んだ方が仕合せでございましょう」
と、一歩もゆずらない。
「よし、已むを得ぬ、皆、ここで死のう。だが、見苦しい死に方はするな。私と鉄太郎とが討って出たら、すぐに子供を刺し殺し、胸を刺すがよい。短刀を用意しておけ」
一同が悲痛な決意を固めて、討手の来るのを待ち構えたが、一向にその様子がない。
夕方、若党を派して、様子を見にやると、
「兵たちは立去った様でございます」
と言う。
――謀叛人として討手を差向ける、
と言うのは、単なるデマに過ぎなかったらしい。
相馬、新発田の両藩兵が伝通院に集り、その裏手に当る高橋、山岡の屋敷の辺りを巡邏したのは事実である。
だが、それは、三笠町の浪人屋敷を遁走した者が十数人おり、それが高橋、山岡と連絡をとるのではないかと見て、網を張っていただけである。
伝通院に集った兵も、噂では何百人と言うことだったが、実際には数十名に過ぎなかった。
――何だ、虚報だったのか、
と、高橋邸に集っていた一同は、ホッとするやら拍子抜けするやらで、ぼんやりしていると、今度は本当に上使がやってきた。
精一、鉄太郎両名に無期限の閉門を仰せつけると言うのである。
表門を閉じて、青竹を十文字にかけた。
外出はむろん厳禁。
高橋道場の閉鎖は言うまでもない。
両人とも、月代《さかやき》や髭を剃ることも遠慮せねばならぬ。
たちまちの中に、二人とも、頭髪はぼうぼうとなり、髭は伸び放題。
「だいぶ、男ぶりが下ったな」
と、精一が笑う。
「私のところでは、お英が悦んでいますよ。何しろ、毎晩まともに帰ったことのない私が一日中、家にいますからね」
「私のところでは反対だ、私が一日中家にいるので、口やかましくて敵わぬと思っているらしい」
几帳面な性格の精一の家庭では、恐らくそれがお澪の本音だったろう。
「お互いに槍も木刀も揮えないのが何よりつらいね」
「全く」
「時に――」
精一が話題を変えた。
「お桂は、どうだね」
「当座は独りでそっと泣いてばかりいましたが、どうやら落着いた様です」
二人とも、お桂が八郎のことをいまだに想いつづけていることは知っているのだ。
「それでも毎日、清河先生の首桶を埋めた方向に向って、手を合せて拝んでいます」
「それは、鉄さんもやっているのだろう」
「はい」
「人目に立たぬようにした方がいい、家に使っている連中も、あのことは誰も知らないのだからね」
「清河先生には申訳ないが、当分、御供養もできませんな」
表門は閉じて、一切の来訪客は認められぬことになっているが、裏門からの内密の出入は大目に見られている。
日が経つにつれ、裏門からそっと訪ねてくる者がふえてきた。
それらの人々が、次々に色々な情報を齎《もた》らせてくれた。
一番しげしげと姿を見せたのは、鉄太郎のすぐ下の弟で旗本酒井家に養子に行った金五郎である。
――皐月《さつき》
陽の光りが強くなり、若葉が濃く茂り、空にも地にも夏の逞しさが強く感じられるようになった途端、梅雨がやってきた。
毎日降りつづけ、時には急に肌寒く思われる日さえある。
金五郎が裏口から慌しく這入《はい》ってきて、
「兄上!」
と、大きな声を出した。
玄武館の若手の方では相当な遣い手になっており、からだつきも堂々としてきていた。
「何だ、ばかに慌てているじゃないか」
鉄太郎は、静かに観賞していた宋刻羲之十七帖から眼を放して弟を眺めた。この十七帖は荻生徂徠が秘蔵していたものと言われ、鉄太郎が最も珍重しているものだ。
金五郎は膝をつくと、にこっと笑った。
「兄上、やりましたよ、長州藩が」
「何を」
「攘夷をです。この十日、下関で外国船を砲撃して追っ払ったそうです」
「あ、五月十日は攘夷決行の日だったな」
四月十一日、天皇は石清水八幡宮に行幸、攘夷を祈願した。将軍家茂は病気を理由に随行せず、一橋慶喜が代って扈従《こじゆう》した。神前で「攘夷の節刀」を授ける予定であったが、慶喜は急の腹痛と称して山下の寺に止まった。将軍も慶喜も、仮病だと言って、囂々《ごうごう》たる非難が湧く。
――一体いつから攘夷をやるのか、はっきりその期日を誓え、
と朝廷から迫られた幕府は、やむなく、
――五月十日
と言上した。
その五月十日の夕刻、横浜から長崎を経て上海に向う予定であったアメリカ商船ペムブローグ号が下関海峡を通過しようとして、風波を避ける為、田野浦沖に錨を下ろして待機していた。
ちょうどその時、長州藩の軍艦庚申丸が、三田尻から航行してきたが、これに乗込んでいた久坂玄瑞らは、
――攘夷の第一声、
とばかり、ペムブローグ号を襲撃する。ペムブローグ号は慌てて錨を揚げ、豊後水道に遁走した。
「そうか、やったか」
「そうです。江戸では、清河先生が暗殺されてから、攘夷党は全く鳴りをひそめてしまいましたが、京では尊皇攘夷の運動はますますはげしいと聞いています。そして長州藩がついに攘夷実行に踏み切ったのです」
武力の全くない商船を一方的に攻撃して追っ払っただけのことだが、まるで戦闘で勝利を得たかのように、金五郎は亢奮していた。
長州藩の攘夷はエスカレートした。
五月二十三日、フランス軍艦キンシャン号は、壇ノ浦の長州藩砲台から砲撃を受けた。庚申丸、発亥丸も発砲しながら迫ってくる。キンシャン号は応戦しつつ、辛うじて玄界灘に脱出した。
同二十六日早朝、オランダ軍艦メジュサ号は下関海峡に入ると、たちまち長州藩の砲台と軍艦から猛烈な砲撃を受け、メインマストや煙突を破壊され、死者四名、重傷者五名を出し、辛くも豊後水道に脱れた。
だが、長州藩の優勢は、それが最後であった。
六月一日、横浜から来航したアメリカ軍艦ワイオミング号は、下関海峡で庚申丸、壬戌《じんじゆつ》丸を撃沈、亀山砲台を猛撃大破した。
同五日にはフランス軍艦セミラミスとタンクレードの二艦が下関海峡に入って、長州藩の砲火に応戦してこれを沈黙させ、更に陸戦隊二百五十名を上陸させて、前田、壇ノ浦の砲台を占領し、備砲を破壊し、弾薬を海中に投じて引揚げていった。
ともあれ、長州藩は攘夷実行を京に報告する。
朝廷からは、天皇が嘉賞された旨の御沙汰書が下った。
六月九日、将軍家茂は逃げるようにして、海路、江戸に向って出発した。
攘夷の声は、京を中心に、凄じい勢で高揚してゆく。
七月二日、キューパー提督の率いるイギリス艦隊七隻が鹿児島湾で薩摩藩の汽船三隻を捕獲したのをきっかけに、烈しい風雨の中で砲戦が展開された。
イギリス艦隊側は、旗艦ユーリアラス号の艦長ジョスリング大佐とウイルモット中佐とが、薩摩側の砲弾に斃れた。ほとんどの艦が損傷を受け、死傷者数十名にのぼった。
薩摩側は諸砲台を破壊され、市街の一割を焼失した。
イギリス艦隊は翌日湾口に退却、四日鹿児島湾を去っていった。
長州藩も薩摩藩も、もはや、幕府の統制の枠外で行動していると言ってよい。
幕府はますます窮地に追い込められてゆくかに見えた。
が、突然、大きな変化が現れた。
――八・一八のクーデター
と後世の歴史家が呼んでいる政変である。
この政変によって、京都を制圧していた急進的尊攘派は一挙に駆逐され、公武合体派が政局の主導権を奪回したのである。
奇妙なことに、この政変の武力的背景となったのは会津藩と薩摩藩とであった。会津藩が尊攘派排撃に起《た》ったのは当然であるが、薩摩藩がこれと手を握ったのは、多くの人に意外なことであり、愕きの目をみはった。
薩摩藩は長州藩が尊攘派の中心となって我物顔にふるまっているのが気に入らない。その上、島津久光は、この当時においては、公武合体論者である。
朝廷内部における公武合体論者中川宮を中心に、前関白近衛|忠煕《ただひろ》父子、右大臣二条|斉敬《なりゆき》らの合体派公卿が、会津・薩摩両藩提携のくさびとなった。
八月十八日早朝、中川宮が宮廷に入り、武装した会津・薩摩の兵を以て九門を閉じ、外部からの侵入を阻止しておいて、
――攘夷親征の延期、尊攘派公卿の参内《さんだい》禁止、長州藩の堺町門警衛罷免、
を公表した。
長州藩兵は堺町門で、会津・薩摩の兵と対峙《たいじ》し、今にも火蓋が切られるかと思われたが、
――退去すべし、
と言う勅命が出たため、やむなく洛北に退いた。
完敗と認めた長州兵は、三条実美以下の急進派七卿を奉じて、長州へ落ちてゆく。
一部急進派の尊攘志士は、大和に赴いて討幕の兵を挙げようと図った。
十九歳の公卿中山忠光を名目上の主将にかつぎ、土佐の吉村寅太郎、備前の藤本鉄石、三河の松本|奎堂《けいどう》らが天誅組と唱え、三十余名、大和五条の幕府代官所を襲撃し、代官鈴木源内を斬る。
朝命と称して十津川郷士に呼びかけ、約千名を糾合して意気大いに挙がり、五条の東北にある高取城を攻撃したが、城は陥ちない。
彦根藩、紀州藩の兵が来襲すると、十津川郷士は離散してしまったので、同志三十余名は吉野の山中を潜行して河内に向った。
九月二十五日、ここで両藩の兵に囲まれ、中山忠光以下七名が脱出して長州に赴いたが、天誅組は壊滅した。
こうした事情が伝えられると、鉄太郎は、余りにはげしく動く政情についてゆくことができず、茫然としている。
天誅組の幹部の中に、藤本鉄石が加わって、戦死したことを知った時には、特に感慨が深かった。
「藤本先生がなあ」
十五歳の時、伊勢で遭遇した藤本の面影は、はっきりと眼に残っている。藤本が貸してくれた「海国兵談」を読んだ時の愕きも、鮮明に記憶の中にあった。
「兄上は、藤本と言う人を御存じだったんですか」
金五郎が、いぶかしげに訊いた。
「うむ、少年の頃、お目にかかった事がある。立派な方だった。しかし――無謀なことをされたものだ」
藤本鉄石も、その藤本が推奨していた清河八郎も、非業の死を遂げた。
いや、そう言えば、松陰吉田寅次郎も、斬首されたではないか。
――おれがめぐり会った人々の中で、異色のある人物はみな、いたましい最期を遂げている。どうしてなのだろう。
鉄太郎は頭を振った。こんな時に馳せつけて、その意見を聴きたい清河八郎は、首になって屋敷の裏手の土の中にいるのだ。
急に朝夕の冷えの加わってきた九月も末の或る日、金五郎が、高橋邸に行っていた鉄太郎に新しいニュースを持ってやってきた。
「去る十六日、京で、新選組の隊長芹沢鴨が、殺されたそうです」
京都残留組が芹沢を隊長として新選組を組織し、八・一八の政変にも一役つとめ、京都市中の警備と称して、富商に金を要求したり、女遊びに派手なところを見せて、大分いい気になっていると言う噂は、耳にしていた。
「犯人は誰だね」
「分りませんが、近藤勇じゃないかと言う者もいるそうです」
「何故だ」
「芹沢と近藤とが勢力争いをしていたと言うし、芹沢の死んだ後、近藤が隊長になったと言いますからね」
傍らで聞いていた精一が口を容れた。
「芹沢とか、近藤とか言うのは、名は聞いているが、会った事がない、どう言う人物なのだ。鉄さんはよく知ってるのだろう」
「ええ、一緒に江戸から京まで旅をしましたしね。芹沢と言うのは水戸の脱藩者で、神道無念流を少しは使うようでしたが、人間はどうにもならぬお粗末な奴でした。我儘で乱暴で自惚れが強くて、どっちみち尋常の死に方はしないのではないかと思っていました」
正しく、尋常の死に方ではなかった。
壬生の八木源之丞宅の庭に面した十畳の間に、芹沢はお梅と言う女と寝ていた。これは四条堀川の太物《ふともの》屋太兵衛の妾だったのを芹沢が奪ったのだ。
夜半、その部屋に二人の男が侵入した。
一人が、声もかけずに、眠っている芹沢に斬りつけた。いびきを目当てに斬り下ろしたのだが、芹沢の首に手を回していたお梅の腕を斬って、芹沢の肩を傷つけた。
お梅が悲鳴を挙げた。芹沢がはね起きて、枕許の脇差をひっつかみ、刀を抜いた時、第二撃が真っ向から打ち下ろされ、芹沢はそのまま突伏して絶命した。
逃げようとしたお梅は、もう一人の男に、一突きで刺し殺された。
芹沢を斬ったのは沖田総司、お梅を刺したのは土方歳三であると言う。
「近藤と言うのは」
「これは百姓上りで、小石川で天然理心流の道場を開いていた男です。口数も少く、芹沢よりは分別のある人物ですが、さして高い見識があるようには見えませんでしたね。ただ功名心は非常に強い、それに部下の面倒をよく見るので、若い連中がなついていたようでした。それにしても、とても人の将たる器ではないようでしたがねえ」
その近藤勇は、対立者の芹沢を斃してしまうと、新選組の完全な独裁者となっていた。
そして、新選組は、八・一八政変以後、地下に潜ってしまった尊攘派の志士たちを、しつこく追及して、京の町を血で染める吸血部隊に変容してゆく。
下谷龍泉寺の鷲《おおとり》神社の初酉《はつとり》の祭が、例年になく賑わって怪我人まで出たと言う噂が聞こえてきた。
この春上洛し、六月に帰ってきたばかりの将軍が、また、年の暮か遅くも来春早々に上洛しなければならないと言う話も、耳にはいってくる。
町筋を通り抜けてゆく風が、凍るように冷たくなった。
鉄太郎は、何事も自分には関係ない世界の出来事と聞き過ごしているが、何よりの苦痛は、大びらに武道の稽古ができない事だ。閉門謹慎中だから已むを得ないとは言え、彼にとっては日々の行動の心張棒を外されてしまったようなものだ。
――何も木刀を揮って大きな声を出すばかりが修業じゃないさ、ちょうど良い機会だ、ゆっくり坐禅でも組んでいることだよ。
義兄の精一はそう言ってくれるのだが、そしてその通りなのだが、二十八歳の頑健無比の鉄太郎は、自分の若さをもて余していた。
十一月十五日、夕刻。
突然、火見櫓《ひのみやぐら》の警鐘が、乱打されたのが聞こえてきた。
そんなに近くはない。
庭に出てみたが、はっきり分らない。隣の高橋家は二階家である。
――二階から見れば分るだろう。
鉄太郎は、庭伝いに高橋家の縁に上った。
「義兄《あに》上は」
顔を合せた澪子に尋ねると、
「二階におります。どうやら、火の手がお城の方らしいとか」
「え、お城が!」
鉄太郎が段階を駈け上ってゆくと、窓から遠くをみていた精一が、ふり向いて、
「鉄さん、火事はお城だ、間違いない」
と、指さす遠くの、桔梗《ききょう》色に冴え返った空が真赤に燃えている。
「どうします?」
「こんな時にお役に立つ為に、禄米を頂いているのだ。すぐに市中見廻りに出かける。今、お澪に支度を言いつけたところだ」
「私も、すぐに支度してきます」
わが家にとって返した鉄太郎が、
「お英、出掛けるぞ」
「何をおっしゃいます。閉門中のお身で、とんでもないことを」
「義兄上と共に、お城近辺の見廻り、警戒に行くのだ」
「でも、勝手にそのようなことをなさっては、後日、どのようなお咎めを受けるか分りませぬ」
「そんなことは、覚悟の上だ」
と言っているところに、裏口から躍り込んできた男がいる。松岡万だ。
「山岡さん、じっと家におとなしくしているつもりじゃないだろうな」
「むろんのことだ、すぐ支度する。あっちも一緒さ」
鉄太郎は、高橋家の方を顎で指した。
「と、思っていましたよ、先に、あっちに行って待っています」
松岡がさっさと高橋家の方に行くと、高橋道場の門弟依田碓太郎、鈴木兄弟以下、十名余りが、次々にやってきた。
――江戸城炎上とあれば、たとえ閉門中と雖《いえど》も、高橋先生が黙って坐視している筈はない、お咎めは覚悟の上で、市中取静めのため出動するだろう、
と、期せずして、同じ考えを抱いた連中である。
鉄太郎が、両刀のほか槍を小脇に抱えて、やってきた時には、総勢二十人余り。
精一は、身に白無垢を重ね、黒羽二重の小袖を着し、黒|羅紗《ラシヤ》の火事羽織をまとい、黄|緞子《どんす》の袴をはき、逞しい栗毛の馬に跨がった。
――颯爽
と言いたいところだが、数ケ月に及ぶ閉門中、髭を剃っていないから、頬から顎にかけて無精髭がぼうぼうと伸び、髪も乱れて、まるで鬼界島の流人のような顔つきだ。
その馬の左右に立った鉄太郎も、松岡万も同じく、髭ぼうぼう、何とも形容し難い異様な姿である。
この一隊が、隊伍を整えて、小走りに走り去ってゆくのを見た人々は、
――何じゃ、あれは、まるで地震加藤みたいじゃねえか、
と、驚いたり、呆れたりした。
一行は先ず、高橋の上司に当る寄合|肝煎《きもいり》の佐藤兵庫の邸に至る。
表猿楽町にある大きな邸だ。兵庫に面会を求めた精一が、
「お城炎上と見ました。上様の御身に万一のことあっては一大事、御奉公の為出馬致しました、尊台の御役柄に対し、一応御断り申す」
と大音に呼ばわると、兵庫は、
「そ、それは、しかし――貴公は閉門中の身ではないか。御奉公は今日に限らぬ。このまま屋敷に戻った方がよい」
と、おどおどしている。
「いや、禁を犯したことについてのお咎めはもとより覚悟の上、この通り死装束をしております、御免」
一行は、城に向って走った。
江戸城本丸と二の丸とが、焔と煙に包まれている。
城門に馳せより、
「上様は、御無事であろうな」
と、尋ねると、
「上様、御台様始め、御一同吹上御苑に一応、御避難遊ばされました由」
と言う応答があった。
城から脱れ出てくるもの、消火の為、城内に繰り込んでゆくもの、轟音と共に高く火柱が上り、黒煙が大きく湧き上る。
風下の家々では、慌てふためいて避難騒ぎ、こんな時には不逞《ふてい》の輩《やから》が妄動する。
火事場泥棒などは大したことはない。見つけ次第、ひっとらえればよい。
――江戸城炎上
と聞いて、幕臣が最も警戒するのは、それが反逆分子の策動ではないかと言う点だ。
古くは慶安の昔、由比正雪、丸橋忠弥の一党は、
――江戸城の内外に火を放ち、愕いて登城する老中らを鉄砲で討ちとり、紀州家登城と称して城中に入って城を乗っ取る、
と言う途方もない計画を樹てている。
尊皇攘夷運動の激化に伴って、この慶安のプランを再現しようと図るものがないとは言えないのだ。
精一ら一行は、お濠《ほり》について城を巡邏していった。何回、城を回ったか分らぬ。
火の手は、亥の刻(午後十時)頃になって、ようやく収まった。
――公方様は、清水家御邸へお移り遊ばされた、
と分って、精一は、ホッとした。
そう報らせてくれたのは、大手前の老中酒井|雅楽頭《うたのかみ》の番所である。
「よかった――しばらく休息させて頂く」
四時間に亘って走りつづけた一行は、さすがに少しく疲労していたので、酒井邸番所にはいり込んで、ひと息つく。
「水を頂く」
番所の手桶の水を、一同ガブガブ飲む。
番所に詰めていた連中は、この得体の知れぬ一団にすっかり気圧《けお》されてしまって、何事も言えない。
「火は鎮まった。もう大丈夫と思うが、もう一度だけ、お城を回ることにしよう」
再び巡邏に出発すると、外桜田の辺りで、五十名余りの一団と出会った。
双方とも、高張提灯を高くかかげて、馬上の隊長の顔が見えるようにした上、名乗る。
「講武所奉行沢左近|将監《しようげん》」
と名乗った対手が、精一の名乗りを聞いて、愕きの眼を見張った。ひげづらで、それとは分らなかったせいもあるが、閉門中無断で出動してきたことに対する愕きの方が大きかったに違いない。
「高橋か――思い切ったことをしたな、覚悟の上か」
「もとより」
「さすが――高橋」
馬上うなずいて去っていった沢将監は、その足で酒井雅楽頭の邸に向い、雅楽頭に対して、
――高橋こと、閉門中の制禁を犯しましたが、ひとえに誠忠奉公の心から――何とぞ御寛大な処置を、
と、訴えたと言う。
高橋、山岡の一行は、無事、城外警邏の仕事を果して、屋敷に戻る。
もう、十六日の夜明けが近い。
霜柱の立つ庭に足をふみ入れた時、精一も鉄太郎も、はっきり覚悟していた。
――お咎めの上使は、間もなく見えるだろう、立派に腹を切る、
家で待っていたお澪もお英も、それは知っている。
――からだを浄めなければ、
と、湯を立てていた。
武士の家、特にお咎めを受けた身では、いつでも、それだけの覚悟はしていなければならない時代だったのだ。
――最期の酒宴とゆくか、
――朝から飲めるとは有難い、
などと軽口を叩きながら、盃を回して、上使のくるのを待っていたが、いつ迄たってもやってこない。
「お城炎上で、大騒ぎなのだ。われわれに対する処分などは後のことになっているのだろう。慌てることはないさ」
「となると、もう少し飲めると言うことですかな」
と笑った鉄太郎に、松岡が、
「腹を切る前には、この無精ひげを剃らせて貰いたいものですなあ。あの世に行ってから会う筈の女もいるし、少しは男前をよくしておかなけりゃ」
と、呑気なことを言った。
お咎めの上使は、結局、やってこなかった。不問に付されたのである。
将軍家茂夫妻が清水邸から田安邸に移り、焼跡の取片付が急速に行われ、二十五日には早くも西丸仮御殿造営の命令が下った。
造営総督は備中松山城主老中板倉勝静、副総督は信州高島城主諏訪忠誠。
少し先走って記せば、西丸造営工事が着手されたのは年が明けて文久四年(元治元年)正月、七月には一応完成し、将軍夫妻は西丸に入った。
この時築造された西丸殿舎が江戸城最後の建築であり、王政維新後明治六年の炎上まで存在した。仮殿であるから、旧制のものに比べれば規模もかなり縮小されたものであったが、ついに本格的に再建するに至らぬ中に、徳川幕府の瓦解をみたのである。
ところで十二月十日、高橋邸に閉門宥免の沙汰があり、老中の許に出頭すると、
――二ノ丸留守居席、槍術師範を命ず、
と言う沙汰である。
もとの職務に戻された訳だ。
――こりゃ愕いた。老中方もずいぶん、分りがよくなったらしい、
と少々薄気味悪くさえ思ったが、沢左近将監の執拗な歎願が、この異例の措置の少からぬ原因となっていることが分った。
「こりゃ、沢さんにゃ、頭が上らぬ」
と、精一はさっそく沢の許に挨拶に行ったが、沢は笑って、
「はて、何のことやら」
と話を逸らせてしまったと言う。
年の暮れも押しつまった二十五日になって、山岡鉄太郎、松岡万らに対しても、閉門宥免の沙汰が下った。
「有難い。これで久しぶりに思いきり稽古ができる」
と、鉄太郎は、命が助かったことよりも、自由に動けるようになった事に、より多くの悦びを感じたかの如く叫んだが、精一が、
「当分、講武所へ顔を出すのは遠慮した方がいいかも知れんな」
と言う。
「私もそのつもりです。第一、講武所には大して、教えを受けたいと思う人はいない」
「御挨拶だな、私も講武所の師範だよ」
「義兄上は例外」
「で、どこか目当てをつけた道場があるのかね」
「浅利道場――」
「あ、なるほど、あそこなら良いかも知れぬ。だが、あそこにも、鉄さんの対手になれるほどの遣い手がいるかな」
「ともかく道場主の浅利又七郎に会ってみます」
浅利又七郎には二代あって、初代は又七郎義信、次代が又七郎義明だ。
初代の義信は、武州松戸の生れで、若狭国小浜藩酒井家に仕えた。小野派一刀流の剣士として第一流、初め千葉周作を養子として自分の姪を娶《めと》らせたが、自信の強い周作は義信と剣の上での意見の衝突から離縁して去ってしまった。
そこで四代目中西忠兵衛子正の次男を養子に貰って浅利の家名を嗣がせた。これが二代又七郎義明である。
義信は嘉永六年二月死去、文久三年のこの時、浅利道場の主は義明で、四十二歳の男盛りであった。
閉門の解けた翌々日、鉄太郎は早くも浅利道場を訪れている。
「山岡鉄太郎か、聞いている。私が自分で立合ってみよう」
義明は、気軽に道場に現れ、鉄太郎の挨拶を受けた。
義明の試合ぶりと言うものは一風変っているので知られていた。
じっと竹刀を構えていて、対手の隙を見つけると、静かに、
「私の勝ちですな」
と言う。出来る男は、大抵、その時に、頭を下げた。
対手が、
――何を、ばかな、
と反撥すると、容赦なく打ち込んだり、突いたりした。
――あの人に対すると、突かれもせず、打たれもしないのに、突かれたり、打たれたりしたような気がして、思わず、参った! と声が出てしまう。
有名な剣士中条金之助が、そう述懐している。中条はかなり優れた腕をもっていたから、又七郎義明の腕が、自分より格段に優っていることが、すぐに分ったのだ。そこまでゆかない者は、容赦なく打たれた。
鉄太郎と義明の立合いは、少しく違った形をとった。
義明が下段につけて、ぴたりと構える。
鉄太郎は正眼に構えて、切先鋭く、得意の突きをかけてゆこうとした。
と、その瞬間、義明の竹刀の先がさっと上り、鉄太郎の喉に向けられた。その形のまま、義明は、
「突き――」
と言った。
現実に突かれた訳ではない。だが、奇怪にも、義明の竹刀の先が、喉首にぴたりと喰いついたように思われ、一歩も前に出られなくなってしまった。
切先を外そうとして右へ廻ると、右についてくる。左に避ければ左に従ってくる、後へ退くと、そのままぴったりついてくる。
――えい、ままよ、喉をつき破られようとも、ぶつかってゆけ、
と突進しようと必死にあがいたが、まるで眼前に大磐石が聳えているようで、一歩も進み出ることが出来ない。
いつの間にか、じりじりと押されて、羽目板まで追い込まれ、無念ながら手も足も出ない有様。
「参った!」
鉄太郎は、叫んだ。
面当てを脱ぐと、実際には全く竹刀の当っていない喉首が、激しい突きを喰ったかのように痛んでいた。
――これは、到底、自分などが敵《かな》う対手ではない、上には上があるものだ。
鉄太郎は、完全に頭を下げ、又七郎義明の門に入った。
浅利道場に熱心に通う。
道場で鉄太郎に敵うものは、又七郎義明以外にはいない。それはすぐに明らかになったことである。
だが、そのたった一人の敵手、又七郎には、どんなにあがいても絶対に勝てなかった。
――せめて五本に一本、
と思うのだが、何十回立合っても、一本もとれない。
しかも、常に、一度も打たれも突かれもせぬ中に、参ったと言わざるを得なくなる。中条金之助の場合と似ているのだ。ただ、中条は立合うとすぐに、気圧されて息切れがし、参ったと叫んでしまったが、鉄太郎は、かなりの抵抗をみせている。
しかし、結局は、いつも敗れた。
どんなに工夫してみても、どんなに勇猛心を振い起しても、又七郎に立向うと、その竹刀の先がぴたりと咽喉に喰いついてきて、どうにもならない。
「義兄上、どうした訳でしょう」
思い余って、精一に質ねた。
「鉄さんがそんなことを言うのじゃ、浅利先生、よっぽどの大物だ。剣の技の上だけじゃ敵いそうもないな。心の修業で立向うほかないんじゃないかな」
――そうだ。修禅によって大悟する以外にない、
鉄太郎は、武州芝村長徳寺の願翁の許に馳せつけた。
願翁から与えられた公案は、
――本来無一物
である。
だが坐禅観法を試み、両眼を閉じて想いを凝らすと、浅利又七郎の姿が、頭の上からのしかかってくる。
鉄太郎自身の手記によれば、
――爾来修業怠らずといえども、浅利に勝つべき方法あらざるなり。これより後、昼は諸人と試合をなし、夜は独り坐してその呼吸を精考す。眼を閉じて専念呼吸をこらし、想を浅利に対するの念に至れば、彼たちまち余が剣の前に現れ、あたかも山に対するが如し、真に当るべからざるものとす、
と言う状態だったのである。
願翁は、本来無一物と言う公案を与えた時、鉄太郎に教示した。
「貴公は剣の達人だそうだが、試合の際、対手が凄じい気魄と技とでぐんぐん迫ってきた時、どのような心境になるのかな。多少でも恐怖の念が起り、動揺するようでは、まだだめじゃな。もしこの本来無一物と言うことが本当に体得できて、本来無一物の境に没入できるようになれば、たとえ白刃が咽喉くびに迫ってきても、静まり返って、些かも動ずることなく平常心が保てる。その境地に入れば、幻影などはさっと消えてしまうわ」
そうは言われたものの、現実に――本来無一物の境地など、容易に工夫がつくものではない。
――無とは何であるか、
これが根本の問題なのだ。三十に満たない客気《かつき》満々の青年剣士に、それを会得させようとしても無理であったろう。
それでも、正直な鉄太郎は、倦《あ》くことなく、この難問にぶつかって、想念をこらした。
――一進一迷、一退一惑、口これを状すべからざるものあり(口では言い現せぬ)
と、後に述べているように、少し分ったかと思うと、又迷い、微かに無の本性を把えたかと思うと消えてしまう。
鉄太郎は自ら、
――鈍根
と言っている。が、この疑問に対する解決を求めて、禅門に参じて二十数年、浅利に会ってからでも十数年の間、執拗に工夫をつづけた鈍根は、稀有の天才にも通じるものだと言ってよい。
鉄太郎が、忽然として悟りを開き、無の境地に入って又七郎義明の幻影から解放されたのは、後に詳しく述べるように明治十三年三月のことである。又七郎の門に入ってから実に十七年目だ。これほど鉄太郎を苦しめた義明の剣も愕くべきものであるが、十数年の修養でその剣を破摧《はさい》に至った鉄太郎の努力は更に高く評価してよいであろう。
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色 道 修 業
元治元年から慶応三年にかけての四年間は、幕藩体制が大きな音を立てて倒壊しつつあった激動と混乱の時期である。
この期間、鉄太郎は全く歴史の表面に現れていない。
同じ年配の、いわゆる「志士」たちが、回天の大事業にはなばなしく活躍していた時、彼は一体どうしていたのであろうか。
鉄太郎の一身は、
――幕臣
と言う身分によって緊縛されていた。
しかも、下っ端の御家人に過ぎない。清河事件以後、閉門は許されたものの、小普請《こぶしん》入りとなって、何の役にもついていない。
空しく青春の志を抑えて、剣禅両道に専念するほかはなかったのである。
――剣と禅
この二つは鉄太郎にとって、畢竟《ひつきよう》ただ一つのものに帰する。その剣禅一致の至境を求めて、鉄太郎は時世の混迷をよそに、工夫をこらし、修業をつづけた。
だが、このほかに、もう一つ、鉄太郎が必死になって修業したものがある。
――女
これだ。
晩年の鉄太郎をみると、超然悠揚として、一切の苦悩から超脱したように見えるが、彼は決して聖人でもなく生れながらの君子でもない。若い頃から、最も人間らしく、
――女
と言う問題で苦しんでいるのだ。
鉄太郎の剣と禅の道における苦闘については、しばしば述べられているが、恐らく若い日の彼にとって、これに劣らぬ苦闘の対象は、むしろ、
――女
だったのである。
鉄太郎の妻となったお英が、後になって述懐している。
――私が鉄太郎と結婚しましたのは安政二年、鉄太郎が二十歳、私が十六の時でございますが、その頃から鉄太郎は、色情と言うものは変なものだ、男女の間と言うものは妙なものだ、などと独りで呟いて考え込んでいることがたびたびございました。私は、変ったことを言う人だと、不思議でもあり、おかしくもあり、と言って他人《ひと》に言うことでもありませんので黙っておりました。結婚する以前から女遊びはかなりしていたようでございますが、二十四、五歳の頃から、めちゃくちゃな放蕩を始めまして、それがずい分長くつづきました。御一新のあの騒ぎの間でも、忙しく飛び廻っていながら、女遊びの方は、少しもやめていなかったようでございます。
幕末維新の志士たちは例外なく、猛烈な女遊びをしている。いや、別に志士でなくとも、若い男なら、放蕩に明け昏れる時期があるのは通常のことであろう。
だが、鉄太郎の場合には、はっきり一つの目的をもっていた。
鉄太郎は、自ら言った。
――女と言うものが、不思議で堪らない。いや、人間に男と女と言う区別が何故あるのかと言うことが、そもそも不思議だ。その男と女とが、相互に限りなく惹かれるのも不思議だ。男が女に対する場合と、男に対する場合とは同じでない。何故同じ気持になれないのか、何故、男女の間に差別の心があるのか、どうしても分らぬ。この疑問を解くためには、情欲の世界の真只中に飛込んで、その正体を探ってみるよりほかない。そう思って、おれは女に溺れているのだ。出来れば日本中の女を一人残らず撫で切りにしてみたい。
何事にも徹底しなければ気の済まない性格は、女色の面でも、こうした独得の現れ方をしたのだ。
これは、いわゆる好色の人々の、
――千人斬り
などと言うものとは、全く違う。
鉄太郎が、弟の飛馬吉に、
「色情と言うものは、一切衆生の生死の根本だから、実にしつこいものだ」
と言うと、飛馬吉が、
「色情なんて、年をとれば自然になくなってしまいますよ」
と笑う。鉄太郎はきびしい顔になって、
「ばかなことを言うな。お前の言う色情とは、肉体的欲望、性欲のことだ。そんなことを言っているのではない。男女と言う差別の観念を言うのだ。これが根こそぎに無くならなければ、ほんものではない」
と戒めたことがある。
鉄太郎が必死になって克服し、解脱《げだつ》しようとした対象は、情欲ではない。一切の事物の根元にある男女相対の念である。男女の性を分つ不可思議な一線である。
鉄太郎の晩年、そのホーム・ドクターであった千葉立造は、鉄太郎にすすめられて禅の修行に志したが、ある時、鉄太郎に言った。
「本当に禅を修行するには、情欲を断たなければならないと思いますが、どうでしょう」
「そうだ、情欲は生死の根本につづくものだから、その根を断たねば修行は半途になる。しかし、情欲を断つと言うことは、非常にむつかしいことだ。あんたは、一体、どのようにして情欲を断つつもりですかな」
鉄太郎は、反問した。
「婦女子を避けて、情事を行わないつもりです」
昂然とし千葉が答えると、鉄太郎は微笑した。
「それは情欲を断つのではない。抑えるだけだ。世間で言うくさいものに蓋《ふた》をするだけのことではありませんかな」
「では、どうすればいいのです」
「自分から進んで、その情欲に正面からぶつかり、四つに組んで闘うよりほかないでしょう。そうしてその正体をつかみ、それから解脱するよりほかありませんね。ただ、それは非常にむつかしい」
小倉鉄樹氏の「おれの師匠」の中に、極めて注目すべき、鉄太郎の晩年の言葉が引用されている。
――人は生死得脱と言うことを問題にするが、おれは維新の際たびたび弾雨の間をくぐっていたので、それはさほどむつかしいこととは思っていなかったが、色情と言うやつは変なもので、おれは二十一の時から言語に絶した苦心をなめたが、四十九の春、庭前の草花を見ている時、忽然として我を忘れることしばし、ここに初めて生死の根本である色情を裁断することができた。女人得脱の方が、生死得脱よりもよほどむつかしかった。
この時以後、鉄太郎にとって、男女の区別はなくなり、男も女も全く同じものとして相対することができるようになったのである。
注意すべきことは、これは前に述べたように、ただの情欲からの解脱ではない。
鉄太郎は、三十四歳の頃、放蕩生活をぴったり打ち切っている。女色の克服は、十年の放蕩で完了しているのだ。それから更に十数年たって、初めて、
――女人得脱
が会得されたと言うのは、単なる色欲の問題ではなく、男女相対の根本点についての解脱なのである。
三十四歳の時、急に放蕩をやめた事情については、妻のお英が、はっきりのべている。鉄太郎三十四歳と言えば、明治二年、鉄太郎が静岡藩大参事として、静岡に移った徳川家の為に奔走していた時の事である。
――その頃、鉄舟はしばしば東京に出ており、わたしは三児を抱いて静岡の留守宅を守っていました。ところがある夜のこと、鉄舟の枕辺に顔青ざめ、身やせ衰えたわたしがちゃんと坐っていたそうです。その後、間もなく鉄舟は帰宅して、つくづくわたしの顔を見入り、「お前はこわい女だな」と申しますから、わたしは「なぜでございますか」と聞きますと、今の話をしてきかせますので、わたしは覚えず懐剣を取り出し、「放蕩をやめてくださらなければ三児を刺して自害するよりほかございません」と泣いていさめました。すると鉄舟が初めて色情修業で苦労していることを明かしてくれ「もうお前を心配させぬよ」と言って、それから実に見事に、ぱったりと放蕩をやめました。
放蕩はやめたが、
――女
と言うものについての疑問、それを超克できない苦悩は、それから更に十五年もつづき、四十九歳になって初めて、解脱の悟りを開いたのである。
鉄太郎の、
――女人得脱
の内容が詳しく分ればよいのだが、それは彼について最も詳しく記述している小倉鉄樹氏も牛山栄治氏も描いていない。
少し先走りすぎたようだ、鉄太郎の色道修業時代に筆を戻す。
文久四年(二月二十日に元治元年に改まっているが)の正月は、例年より暖かかった。
将軍が上洛したので、江戸は何となくのんびりしている。幕府のおかれている状態は決してのんびりどころではなく、あらゆる面に難問が山積しているのだが、いわば、政治の中心が江戸から京に移ってしまった感じなのである。
これも、疑いもなく、幕府の権威の急速な衰亡を示しているものだったに違いない。
鉄太郎の家には、相かわらず、松岡万、村上政忠、関口隆吉などが、毎日のようにやってくる。お英がその接待に、どんなにどれほど苦労しているかと言うことなど、大して念頭にないらしい。
ほかに、もう一人、この頃、しげしげと顔を見せる男がいた。
益満休之助――清河塾以来の仲間だ。薩摩の生れだと言うのに、生粋の江戸っ子のように歯切れのよい江戸弁でしゃべった。
益満は、鉄太郎の家に来ても、長居はしない。すぐに、
「山岡さん、出掛けよう」
と、外に誘い出してしまう。来客が居れば、それも一緒に連れ出す。お英は、お蔭で助かることもある。
この男のもう一つ、他の連中と違うところは、理窟を並べたてない事だった。
尊皇だ、擁夷だとわめき散らし、過激な行動を叫ぶ連中の中で、いつもにやにや笑っている。意見を求められると、
――おれは、理窟は苦手だ、みんなでいいように決めてくれ、その通りにする。
横浜の外人居留地襲撃計画の際にも、意見は一言も述べなかったが、計画が決定すると、直ちに連判状に血判を押した。
鉄太郎はその、理窟を並べ立てないところが気に入って、かなり親しくつき合った。
何よりも、遊び仲間としては、一番垢抜けしていて、面白い。
話は面白いし、酒はいくら飲んでもケロリとしているし、珍しい美声で歌も唄うし、三味線や踊りまでちょいとはやると言う器用な男だ。
色町では、大いにもてた
遊び出すと、徹底的に遊ぶ。
三日でも四日でも、流連《いつづけ》した。
「今日は、どこにするかな」
十五日の小正月、鉄太郎を連れ出した益満が、伝通院の長い坂を上りながら言った。
「きまっているだろう」
「吉原《なか》――か、貴公、いつになくあの女にだいぶ熱中しているようだな」
あの女――と言ったのは、新吉原の万字屋の染衣《そめぎぬ》と言う花魁《おいらん》である。
「おれはいつでも、どの女にでも熱中するさ」
鉄太郎は、しゃあしゃあと答えた。
「本当に惚れているのか」
「うむ」
「偉いもんだな、そんなにすぐに惚れられると言うのは。おれはむちゃくちゃに女をつまんでみるが、滅多に惚れん」
「惚れなきゃ、女と言うものは分らん」
「それは違う。惚れてしまうと女の正体は分らなくなる。あばたもえくぼと言うやつでな」
「あばたがえくぼに見えるようにならなけりゃ、対手の本当のところは分りゃしないだろう」
「相当放蕩しとるくせに、貴公は、いつまでたっても――何と言うかな、妙にその、稚《おさな》いところがある」
益満は少々呆れ顔に言う。
――稚いところがある、
と言ったが、もし彼が、現代的な、
――ロマンティック
と言う言葉を知っていたら、その上に、
――ばかばかしいほど、
と言う形容詞をつけて、使った事だろう。
「そうかなあ、おれはまだ女と言うものが分らん、不思議でたまらん、だから惚れる。何もかも分ってしまったら、惚れなくなるだろうなあ」
「何が不思議なのだ。女なんてたあいないものさ、可愛がっておもちゃにしていればいいのだ」
「それが分らないのだ、何故、女がそんなものなのか、何故、人間と言うものが、男と女に分れていて、女が、たあいないものでなければならないのか――」
「ばかばかしい、いい加減にしろ。人間ばかりじゃない、一切の生きもの、ことごとく陰陽に分れているからこそ、生物が永続してゆくのじゃないか」
「だから、種属が永続してゆくために、なぜ、陰陽、男女、雌雄が分れていなければいけないのかが不思議だと言うんだ。どちらか一方で、種属永続できるように作られていたっていい訳ではないか」
「もうやめよう、貴公の妙な屁理窟を聞いていると、頭が痛くなる。おれは理窟は苦手だ」
「議論は、貴公から始めたのだ」
「そうだ、もうやめる」
と、一旦、議論を打切った益満が、少し歩いてから、鉄太郎の横顔を見上げて、独り言のように呟いた。
「貴公、女と交っている時も、そんなことを考えて――不思議だなあと思いながら交っているのか」
「そうだ」
言下に鉄太郎が答えた。
「女と交っていること自体が、不思議で仕方がないし、女と言うものの存在していることも不思議だ――そう思いながら、交っている」
「変な男だな、貴公は」
益満は、つるりと顔を撫でた。
右手につづく屋敷の庭に井戸が見え、そのそばに椿が鮮かな紅色を見せていた。
角町万字屋の染衣――鉄太郎はこの当時、新吉原にゆくと必ずこの女を対手とした。
益満の方は、誰かれなしに、妓楼の方であてがってくれる女でよい。
万字屋はむろん、一流ではない。鉄太郎の経済状態ではとても一流の妓楼には登れなかった。万字屋に通うのでも、相当のやりくりが必要なのだ。
「よう来て下さいました。お待ちしておりました」
染衣が、顔をみるなりそう言ったので鉄太郎はちょっと意外な気がした。この女はついぞそんなことを言ったことがなかったのだ。
不愛想――と言うのではないが、ひどく口が重い方なのだろう。嬉しそうな顔はするが、嬉しいとは口に出して言わない。
鉄太郎の方でも、女に対してただの一度も、優しい言葉をかけてやったことがない。
外からみると、二人の間には、いつも、喧嘩した後のぎごちなさのようなものが見られるようだったが、二人は一度も喧嘩をしたことはなかった。
それどころか、初対面からお互いに、何となく気が合って、好意を持ち合った。今はどっちも、惚れていると言ってよい。
寒中でも単衣《ひとえ》の一枚で平気でやってくる男を、女は、変ったひとだと思う。
おせじの一言も言ったことのない女を、男は、変なやつだと思う。
女は、その変ったひとに会うと嬉しかったし、男はその変な女をしばらく見ないと、無性に会いたくなった。
「何か、用があったのかい」
鉄太郎が、聞く。
「ええ、私を身請《みう》けしたいと言う方がいます」
女は、いわゆる花魁《おいらん》言葉はつかわなかった。男が、それをあまり好まないことを知っているからだ。
「そうか」
男の反応はそっけない。
「でも、私は厭なのです」
男は、しばらく黙っていたが、
「おれに金があれば、お前を身請けしたい、だが、金が――ない」
「分っております」
「どう言う人だね、それは」
「石浜の酒造家《おさかや》の御隠居さんで、広瀬甚兵衛と言うひとです」
「剣の道で争えるものなら、誰でも対手にするが、金の上では、おれは誰とも争う力はない。残念だな」
「私は、厭だと言いつづけていますが――」
金で縛られている身だ。女の意思は認められないだろう。
「やむを得まいな」
「そう、そうお思いですか、やっぱりあなたは、私をお金でからだを売っている卑しい女とお考えになって、一時のもてあそびものにしていらしたのですねえ」
いつも平静な女にしては、珍しくややヒステリックな声になっていた。
「それは違うな」
鉄太郎は、強く打ち消した。
「金でからだを売る卑しい女――などと思ったことは一度もない」
「でも私は、夜毎、違う殿御に抱かれている汚れた身に違いありませぬ」
「それも違うな。お前が何人何十人何百人の男と寝ようとも、その為にお前が汚れたとは思わぬ」
「何故でございます」
「お前も、おれも、いや、すべての人間が、魚を喰らい、鳥をくらい、時には猪の肉を喰らう。そうした生物の臓物まですっかり喰べる。その為に自分のからだが汚れたと思うものは、一人もいないだろう」
――へんな理窟をこねるひと、
女はそう思ったが、そんな変な理窟にはうまく反駁できなかった。
「あなたがもし、少しでも私をいとしいと思うて下さるなら、私の身請《みうけ》話を聞いて、 ――やむを得ぬ――などと、冷いことはおっしゃらない筈です」
しばらくして、女が下を向いたまま言う。この女にしては精一杯の恨《うら》み言だったのだろう。
「それは、私が武士だからだ」
「どうしてお侍だと、そんなに冷いのです。男女のまことには、お待も町人もお百姓も違いはないでしょう」
「違う」
鉄太郎が断乎として否定し、その違いについて説き出しそうにした時、
「御免下さいまし、お客様」
と言う声がして、廊下に面した襖《ふすま》が開かれた。万字屋の亭主安右衛門が手を束ねている。染衣が、びっくりした。
亭主が客室に顔を出すことなど滅多にないことである。
「山岡様でございまするな。お愉しみのところをお邪魔致してまことに申訳ございませぬが、実は、石浜の広瀬と言う酒屋の御隠居が、山岡様が来ていらっしゃることを聞きまして、是非ともお目にかかりたいと申します。それで別室にちょっと席を設けましたので、恐れ入りますが、御顔だけでもお見せ頂けませんでしょうか」
安右衛門が、おずおずと言った。
「石浜の広瀬――と言うと、染衣を身請けしようと言う男だな」
「あ、御存じで――」
「今、染衣から聞いたばかりだ。おれのような悪い虫がついていては心配だから、話をつけておこうと言うのか」
「とんでもございませぬ、そんな――ただ、その広瀬の御隠居は変った方で、山岡様のことを聞かれて――」
「よし、会ってやろう」
みなまで言わせず鉄太郎は立ち上った。
「あなた――」
と、心配そうに見上げる女に、首を横にふってみせた。
――心配するな、
にこっと笑うと、安右衛門に導かれて、別室に向う。
「これは山岡様、お呼び立てして申訳ございませぬ。手前、常州の田舎者、広瀬甚兵衛と申します。よろしくお見知りおきの程を」
六十を二つ三つ超しているだろう。髪はもうすっかり白い。眉毛も半ば白い。二重目蓋の下の方の肉がたるんで、頬のあたりにいくつかの大きなシミが目立っている。
老衰の兆候は明白だが、それにも拘らず、若い頃は相当むちゃくちゃをやっただろうと思わせる何かがあった。
「山岡鉄太郎です、御用の向きは」
鉄太郎は、ぶっきら棒に言った。
――喧嘩になっても構わん、あっちから誘いかけてきたことだ、
と、腹を決めているのだ。
「ま、一杯お飲み下さいまし、しらふじゃ話しにくいことで」
「私の方は一向構わん」
「こりゃ畏れ人りました。じゃ、申し上げます。御承知かと存じますが、私は染衣を身請けしようと思いましてな、かねてその旨はこの万字屋の亭主に話しておきましたが、いよいよその話を決めるつもりで本日、ここにやって参りました。ところが亭主の安右衛門が、御隠居さん、およしなさい、染衣には惚れたお武家がおります。山岡様と言って御家人の筈、支払いはきちんとしているので、お客にはしていますが、懐具合はよくないらしい。それに染衣がぞっこん惚れ込んでいる。身請《ひか》した後でごたごたが起ってもつまらない。女はほかにも沢山いる。何も染衣でなけりゃならないってことはないでしょう――と、まあ、こう言う訳で。私としては、後々、いざこざが起るのは厭ですから、ここで山岡様にお目にかかって、はっきりさせておいた方がいいのじゃないかと思いまして」
「亭主が何と言ったか知らぬが、私は、他人が身請けしようとするのを妨げる気はない。まして身請けされて他人の持ちものになった女に手を出すような不仕鱈《ふしだら》なことはせぬ。懸念無用」
即座に、きっぱりした返事だ。
「さすが――御立派、つまらぬ気をつかいましたことをお恥かしく存じます。田舎者の隠居、お宥し下さいまし」
「別に詫《あや》まることはない。そちらとしては大金を出して身請けするのだから、そのぐらいの気を廻すことは当然だろう」
「これは畏れ入ります。ところで山岡様、失礼ながら、おいくつで」
「二十九歳だ」
「ほう、見掛けよりはずっとお若い。私の上の伜よりも四つも年下でいらっしゃる、その若さで御立派なものですな」
鉄太郎は苦笑した。
「この若さで、天下騒然たる今日、女郎部屋に入りびたっているのが立派とは恐れ入る」
隠居は、慌てて手をふった。
「いえいえ、決してそんな意味で申したのではございません。私も若い頃ずいぶん遊びました。女にも惚れました。本当に惚れた時には、もう無我夢中で、今から思えばまるで気違い、誰が何と言っても――」
と言いかけた広瀬甚兵衛が、急に言葉を切って、じっと鉄太郎を見上げ、その瞳の中を覗き込むようにして、質ねた。
「山岡様、染衣に――惚れていなさるのでございましょう」
「惚れている」
「どうですかなあ、本当に惚れていらっしゃるのですかな」
「本当に惚れている」
「では、何故、身請話を聞いて、平然としていらっしゃるのです」
「それは、私が武士だからだ」
「はあ」
「あんたは惚れた女なら、どうしても諦めぬと言うのか」
「さよう」
「だが、もし、その女の為に先祖代々からの資産全部を棄てなければならぬとしたら、どうする。やはり女をとるか、口先だけのことではなく、実際にそうなった時のことを考えて答えて貰いたい」
「そりゃ、やはり、女を棄てますでしょうねえ、惚れる女にはまた会えるだろうが、資産全部|失《な》くしちゃ、どうにもなりませんからねえ」
「となると、結局、女よりも資産、金の方が大切と言うことになる」
「ま、そう言うことになります」
「ではその全資産を棄てなければ、命が失くなると言う時はどうする。命を棄てても、金は守りますかな」
「いや、命あってのものだね、思い切って金は棄てますよ」
「つまり、あんたにとっては、大切なものは、命、金、女の順になる」
「それは私に限りますまい、大抵の人がそうだ、山岡様にしても同じことじゃございませんか」
「違う、私は武士だ。私にとって大切なものは第一に武士の意地、武人の面目だ。第二が命、第三が――惚れた女だ。私は物心ついて以来ずっと、武士の意地を貫く為、武士の面目を立てねばならぬ場合には、いつでも命を棄てるように教育されてきた。そして、今、いつでもその為に命を棄てることができるつもりだ」
「手前どもには、とてもできぬことでございます」
「町家の者には、そんな覚悟はいらぬ。命と金を何より大切と思うのが当然だろう。だが武士にとっては違う。命さえ、場合によっては、すっぱり諦める。女を諦めることぐらいは出来ても不思議はないだろう」
「なるほど、よく分りました」
甚兵衛は、何度も、うなずいた。
「私の伜よりお若い山岡様に、このじじいが、教えられたような気が致します。お恥かしい次第でございます」
「そんなに大袈裟に言われては困る」
「いえ、山岡様、お若いあなた様が、すっぱり染衣のことを諦めるとおっしゃるのに、このじじいが、命も金も女も抱え込んで離さないと言うのじゃ、全くお恥かしい。山岡様、どうでしょう、今日は良いお話を承ったお礼に、山岡様に一つ引出物を差上げたいと思いますが、お受取り頂けましょうか」
「何か知らぬが、そんなものを貰う理由はない」
「いえ、ただとは申しませぬ。山岡様からも、一枚、何か揮毫《きごう》して頂きます。お近づきのしるしに」
「それなら、いい、頂きましょう」
「では、私が染衣を身請けした上、山岡様に差上げることに致します。お受取り下さい」
突拍子もないことを言い出したので、さすがの鉄太郎も愕いた。
「それはいけない」
「なぜでございます」
「一枚の揮毫に対する引出物としては高価に過ぎるし、第一、私は他人が身請けした女を貰うなどと言うことは厭だ。自分で身請けするか、すっぱり諦めるか、どちらかだ」
「さようですか、それじゃ仕方がありません。私も染衣を諦めましょう。そして身請けはやめにします」
鉄太郎は、黙って杯に手酌で酒をつぎ、口に運んでいたが、
「どうだろう、御隠居、あんたも私も染衣を諦める気になったのだ。それもあんたは身請けした上で、私にくれる気になったのだ。ここで少し考えを変えてみて貰えまいか、あんたが染衣を身請けして、自由にしてやるのだ。むろん、私は今後全く染衣に近付かないことを約束する。つまり二人とも染衣を諦め、手を引く――ただあんたの方は、身請金を出し損と言うことになるが」
「分りました。山岡様、そうしましょう。どうせ山岡様に引出物にするつもりになっていましたのですから、身請金など惜しくはありませぬ。よいことを考えて下さいました。早速、安右衛門に話しましょう」
安右衛門を呼んで、身請話を決めた上、染衣の今後の身が立つよう、多少の金を別に与えて、ささやかな商売の途をみつけてやることにした。
鉄太郎は、甚兵衛の志に対して、
――山河水鳥皆知己
と、墨痕鮮かな揮毫をして、与えた。
この鉄太郎の書いた半折《はんせつ》は、広瀬家に現存していると言う。
奇麗に手を切ったものの染衣の面影は、かなり強く鉄太郎の心に残っていたらしい。
三月の初め、吉原の夜桜を見に行った帰り途で、先に一人で歩いてゆく鉄太郎を顎で指して、松岡万が益満休之助に囁いた。
「先生どうも少し元気がない」
「吉原に来たんで、染衣のことを想い出したんだろう」
「誰か、染衣の代りになるような女を探さなくちゃいけませんな」
「そうだ、あのひとは、いつも誰かに惚れてなけりゃだめらしい」
「妙だなあ、別に惚れなくったって、対手になる女さえいればよさそうなものだが」
「そうはいかんらしいな。どうも、おれたちが女を欲しがるのと、山岡さんが女を求めるのとは少々違う」
「先生はどっか青くさいところがありますよ、女についちゃね」
「おれもそう考えたことがあるが、少し違うようだ。あの人は剣の道に夢中になってその真髄を究めようと死物狂いになっているが、女――と言うものについても、その本体を掴みとろうとして、のめり込んでいっているのだ」
「女の本体なんて、どういうことなのかな、女はただ女、それだけのことじゃないのかなあ」
「と、おれも思うが、山岡さんにとっちゃ、ちがうのだ。何度議論してみても、よく分らないがね」
「とに角、あのままじゃいけませんよ、何とかしなきゃ」
「この吉原じゃ、染衣のことを想い出してだめだろう。どっか他のところに連れ出してみよう」
「心当りがありますか」
「うむ、品川はどうだ」
「そうですね、少し品は下るが」
「偉そうなことを言うな、どうせ吉原に来たって一流どころにはあがれやしない」
「ま、そうですね」
二人は、数日後鉄太郎を誘い出して、品川遊廓に連れていった。
品川は東海道の親宿《おやじゆく》、街道を上っていく者も下ってきた者も必ず通らねばならぬ土地だ。
旅籠屋の名で事実上の女郎屋が並び、遊女は食売《めしうり》女の名で、江戸初期から公認されていたが、中期以降は旅籠屋のほかに引手茶屋も出来て、新吉原につぐ活発な花街を形成していた。
明和の頃、品川の旅籠屋九十三軒、食売女五百人が許可され、天明に入ってから三味線指南の名目で芸妓を置くことも認められた。
諸藩の留守居役、江戸詰の諸侍、日本橋以南の商人などが盛んに利用して、殷盛《いんせい》を極めたので、五百人の女で足りる筈はなく、遥かにその定員を越して、天保初年には一千三百五十人に上っている。
水野越前守による天保改革が始まると、急にきびしい取締りの手が伸びてきた。
天保十四年正月二十四日、関東取締出役中山誠一郎、渡辺団十郎らが三百数十人の手下を率いて出動し、全遊女を召捕り、旅籠屋亭主は、定員超過について、きびしいお咎めを受けた。この土地で、後々まで、
――天保の御難
と言われていたものである。
このため、一時は灯の消えたように寂《さび》れたが、水野の退職と共に、再び息を吹き返して、往年の繁昌をとり戻すかに見えた。
ところが、思いがけない黒船騒ぎ、お台場建設などで、さっぱり落着かない。いつ、
――外敵打払い、
が行われるかも知れぬから、女たちは避難先を決めておくようにと言う通達がある。
近くの高輪東禅寺に浪人が斬込んだり、御殿山のイギリス公使館が焼かれたり、物騒な世情になってきた。
こうなると、以前のように落着いた遊びは出来なくなってしまったが、男と言うものは戦場でさえ女を買い漁るものなのだ。依然として、遊びにくる者はある。
特に、芝の薩摩藩邸の連中は、よくこの土地に遊びに来たし、浪士と呼ばれる人々の中にも、ここを根城にした者が少くない。
南品川宿、北品川、歩行《かち》新宿と分れていたが、最も繁昌したのが歩行新宿で、坂本屋、相模屋、湊屋、新大和、松坂屋など、大みせが並んでいる。
益満は、どこにあがればいくらとられるかよく知っている。最低銀十匁はとられるあたりは遠慮して、北品川の伊勢屋と言うのを選んだ。
三人それぞれ、敵娼《あいかた》が決って、部屋に引きとる、
鉄太郎の対手は、おれんと言う女である。
おれんを押しつけたのは、益満だ。
――染衣に、どこか似ている、
と、思ったからだ。
ところが、鉄太郎は一向にそう思わないらしい。
翌朝、益満が、
「どうだ、似てるだろう」
と聞くと、
「何が」
と、頼りない返事だ。
「昨夜の女、吉原の例のに、似てるだろう。おれも、松岡もそう思うのだが」
「まるで――違う」
とんでもないと言った口調だ。
「そうかな、変だな」
「貴公、そんなことに気を遣ってくれなくってもいい」
「いや、別に、その――」
益満は、少々照れた。鉄太郎は、
「品川も、吉原と変って面白いところもあるなあ」
「うむ、そう思うか、それはよかった」
その後、ちょいちょい鉄太郎は品川に通った。一人で行くこともあるし、益満らを誘うこともある。
店も、女も、あちこちに変えた。
その中に、鉄太郎が、下村屋と言う旅籠にだけ通うようになった。
「益満さん、先生また惚れたらしい」
「うむ、下村屋のおなかだ」
「あの女は、染衣とはちっとも似てない」
「と思うが、山岡はどう思っているか分らんよ」
「おなかと言うのは、でも、良い女らしいですね。名入り都々逸《どどいつ》があるほどだ」
「ほう、そうかい」
「二つ並べし舟底枕、こがれこがれて深い|なか《ヽヽ》――ってね」
松岡はどこで聞いてくるのか、案外、色々なことを知っている。
「ま、よかったよ、山岡さんに惚れる女が出来て」
「ただ、先生は惚れ込むと止めどがないからね。だらしがないくらい溺れちまう」
「溺れるんじゃない――って言うさ。あの人は、おなかと言う女を究め尽そうと、真剣になっているのだ――と答えるだろう。まあ、しかし、心配することはないさ、どんなに女に夢中になっても、剣の修業だけは決しておろそかにしない人だからね」
「それは、間違いありませんよ。その点は、全く偉い、大したものだ」
鉄太郎は、確かに、武芸修業は忘れなかった。浅利道場には、いつも顔をみせて、猛烈な稽古をする。そのはげしさを見た者は、誰一人として、鉄太郎が前夜、放埒《ほうらつ》の限りを尽し、全エネルギーを消耗し尽して昏睡してしまったとは、夢想もできなかっただろう。
彼の強健無比のからだは、どんなに消耗しても、翌朝はケロリとして、常人以上の活動を可能ならしめていたのだ。
最も直接に影響を受けたのは、妻のお英である。
品川にいつづけて何日も全く姿を見せない。たまに帰ってきても、さっと姿を消してしまう。
隣の高橋邸にさえ立寄らない。行けば精一にお説教されるからだ。
窮迫した家庭を放擲《ほうてき》し、借金をして遊びほうけている鉄太郎に、さすがの精一も呆れはてて、お英に言ったことがある。
「鉄太郎は良い男だが、ああ身持が悪くてはどうにもならぬ。思い切って離縁してはどうだ。残念ながら末の見込みはなさそうだ」
お英は、きっぱり答えた。
「いいえ、あの人はいつかは必ず本心に立ち帰ります。別れる気はありませぬ」
お英は、まだ鉄太郎に惚れていたのだ。
「そうか、お前がその気なら、差支えないが――どうしてあんなに女好きなのかな」
精一には、鉄太郎の女人修業の正体が掴めなかった。
「水戸の天狗党、どうにも手がつけられないらしい。お公儀でも、とうとう討伐軍を出すことになったようですよ」
暑さが日々につのってくる五月も半ば過ぎ、松岡がやってきて、鉄太郎に言った。
「梅雨にはいってからの討伐じゃ大変だな――それで水戸の方じゃどうなんだね」
「水戸藩でも、お公儀に任せて放っておく訳にゃいかないでしょう。討伐隊を出しますよ。でもねえ、あそこは御承知のように、藩内の事情が複雑でしょう、内輪もめで大変でしょうなあ」
「天狗党と言やあ、岩谷がだいぶ良い顔らしいが――」
「あいつは、参謀みたいな役だとか聞きました。調子の良い奴だが、あいつが参謀じゃ少し心細いですね」
「天狗党の趣旨はおれも賛成だ。尊皇攘夷――大義名分は立っている。だが、噂じゃ、ずいぶんひどいことをしているようだな」
「いや、あちこちで暴れ廻って、軍用金と称して金を脅しとったり、女に乱暴したりしているのは、みんなにせ天狗ですよ。性《たち》の悪い浮浪の徒が、天狗党の名を借りて、悪いことをやっている。あれをみんな天狗党のせいにしちゃ可哀想だ。江戸でだって、前に、新徴組のにせ者が横行したことがあったでしょう」
「そうだったな」
天狗党騒ぎは、この三月頃からしきりに江戸にも伝わってきていた。
事実上の首領は、藤田東湖の四男小四郎。去年、水戸藩主慶篤が将軍家茂に従って上洛した時、これに加わって京へ赴いたが、藩主の帰東後もとどまって、長州の桂小五郎などと気脈を通じて、攘夷断行の計画を練ったらしい。
薩摩・会津の提携によって、八・一八のクーデターが行われ、攘夷急進派が一斉に鎮圧されてしまったのを憤慨し、水戸と長州とが東西で相呼応して、再び攘夷の気勢を盛り上げようと言うことになったのだ。
小四郎はまだ二十二、三の青年だが、父東湖の血を受けて、俊英の誉れが高い。
――天成の英才で、胆力もあり、特に機先を制する妙は、一軍に冠たり。
高瀬真郷は、水戸史談の中で、小四郎をこう評している。
水戸に還ると、藩内の同志を糾合し、近郷近在の有志の間を説いて廻った。
水戸藩内には各地に藩校の分校とも言うべきものがある。成沢の日新塾、野口の時雍館、小川の小川館、太田の時習館、潮来《いたこ》の文武館など、武士の子弟のみでなく、農商子弟の学習もみとめている。
小四郎はそこに集る血の気の多い連中の多くを同志として獲得した。
――徒《いたず》らに議論をつづけている時ではない。実行によって、攘夷の火蓋を切るべきだ。
小四郎は、心を決めている。
小四郎がいかに俊敏でも、義軍の将となるのには、年齢が若過ぎる。本人もそれをよく自覚していて、水戸町奉行田丸稲之右衛門を名目上の将帥《しようすい》として推すことにした。
三月二十七日、田丸、藤田らの同志六十三名は、山桜の花吹雪を浴びつつ、筑波山に上って、義旗を翻《ひるがえ》す。
噂を聞いて集るもの相次ぎ、百数十名となった。
――いずれ討伐軍が来るだろう。日光に赴いて日光山にたて籠ろう。幕軍も東照宮のある日光を攻めることは出来ぬだろう、
と、意見がまとまり、四月九日、筑波山を下り、宇都宮を経て日光に向った。
宇都宮藩から日光に急報したので、日光では千人組同心らを総動員して防備態勢をととのえ、藤田らがやってくると、
――神廟参拝は認めるが、四、五人ずつ脱刀して境内にいること
と主張してゆずらない。
義軍としても、神廟守護のものに暴力を揮う訳にゆかないので、空しく栃木町の西南太平山に退き、ここを本陣とした。
日光にたて籠る計画は失敗したが、義軍の趣旨に賛同して馳せ参ずる者はひきも切らず、総勢三千近くに増加し、士気すこぶる旺盛である。
幕府はこれを、
――野州辺を徘徊する浮浪の徒、
と宣言し、水戸藩に対して鎮撫の命令を下した。
水戸藩では側用人美濃部又五郎、目付山国兵部らを太平山に派遣して、説得しようと試みたが、この山国兵部は田丸稲之右衛門の兄である。弟と話し合っている中に、どうやら弟の意見に賛成してしまったらしい。
――太平山は地の利が悪い。水戸の同志と連絡する上にも、もう一度、筑波山に戻った方がいいぞ、
と、色々忠告して、還っていく。山国は軍学者だ。その意見は的を射ている。
この意見に従って、一同は六月初め、再び筑波山に戻った。軍の編成替も行った。
総裁田丸稲之右衛門、中軍藤田小四郎、軍正竹内百太郎、参謀飯田軍蔵、補翼岩谷敬一郎、隊長須藤敬之進、田中愿蔵、三橋金六、高畠孝蔵等々。
一見、整然と統率されているようだが、そうではない。それぞれ独自の意見をもっている口うるさいのが多い。
田中愿蔵などは、義軍の動きが緩慢なのにいらいらし、岩谷敬一郎に、
「どうだ、君の部下とおれの部下を合せれば五百人ぐらいある。ここから八王子に出て、甲州に入り、甲府城を乗取ってやろうじゃないか」
と、誘った。岩谷に拒絶されると、不貞腐れて真鍋あたりで乱暴を働き、全く野盗化して、田丸、藤田の指令に従わず、ついに義軍から除名処分となってしまった。
田中ほどではなくても、各地を遊説し、軍資金を集める役に当った連中の中には、かなり強引な手段をとったものもいる。また、地方浮浪の徒で、義軍の名をかたって、金品を強要したり、婦女子に乱暴したり、良民を苦しめたりするものもある。
人々は筑波に拠《よ》った義軍を、
――筑波の天狗党
と称して怖れた。
啼《な》く児も、
――それそれ、天狗党がくるぞよ、
と言うと啼きやんだと言う。
だが、天狗党の乱行として伝えられたものの大部分は、にせ天狗党の所業であったろう。
水戸の弘道館の若い連中は、
――こんなことでは水戸藩の恥だ。天狗党を討伐しよう、
と言い出す。重臣の一人、市川三右衛門が、こうした連中を巧みに煽《おだ》て、五百数十名をひきつれて江戸に上り藩主慶篤に面謁し、
――私にお任せ下されば、筑波の叛徒を撃滅します。お公儀の討伐軍も出るとのこと、私に先鋒《せんぽう》を仰せつけ下さい、
と願い出た。
市川は幕府の討伐軍三千七百と共に、天狗党討伐に向ったが、七月八日、下妻に宿営中、天狗党の夜襲をうけて、ひとたまりもなく敗北、幕軍は補給不充分を口実に江戸に引揚げてしまった。
市川は敗兵を率い、道を変えて水戸に舞い戻ったが、敗北の恨みをはらすつもりか、部下に命じて、城下の攘夷党の家に踏み入って放火斬殺をやらせたり、郡部に潜伏している天狗党の一味や同情者を、片端から引っとらえたりする。
筑波一帯に布陣していた田丸、藤田らは、これを聞くと、
――奸賊市川を、あのままに放置しておくことはできぬ。
――江戸に攻め入り、市川を叩き殺してくれよう。
と、言うことになった。
薄井督太郎が、
――敵は人数が多い、まともに攻めては勝利はむずかしい。先ず数名が水戸城下に潜入し、城内に内応者をこしらえる。そして、不意に城の前後から夜襲をかけ、内応者に内部から火をかけて貰えば成功するだろう。
と提案したが、藤田や岩谷は、
――正義の戦いだ。攻撃を宣言して堂々と攻めてゆく、
と主張して、薄井説を却《しりぞ》けた。
七月二十五日、
――城を攻撃する。婦女子は避難せよ、
と公示しておいてから、攻撃を開始した。
態度は立派だが策戦としては拙劣だ。待受けていた市川勢に大砲を連射されて、筑波勢はさんざんに打ち破られ、総退却のやむなきに至った。
ちょうどこの頃、京都でも大事変が勃発していた。
先に七卿を奉じて西に奔《はし》った長州藩では、
――君側の奸を除き、君公の冤罪を雪《そそ》ぐ、
ため、大挙して京へ進発せよと言う議論が盛んに起っていた。
筑波の挙兵を聞くと、進発論者は更に気勢をあげ、ついに六月から七月にかけて、益田右衛門介、福原越後、国司信濃の三家老は諸隊を率いて東上、七月中旬、長州藩兵及びこれに同調する諸藩の尊攘志士たちは、伏見、嵯峨、山崎方面に集結した。
七月十九日、国司信濃、来島又兵衛の率いる長州兵は嵯峨方面から進出し、蛤《はまぐり》御門を守る会津、桑名、薩摩の兵と激突した。
長州軍利あらず、来島は討死、堺町御門に向った、久坂玄瑞、寺島忠三郎らも敗れて自刃。
砲火のため市中二万八千戸が焼失した。
二十一日には、早くも長州藩追討の勅命が出されている。
敗退した長州藩には、更に大きな困難が覆いかぶさってきた。
八月五日、英、仏、米、蘭の四ケ国が、軍艦十七隻、兵員五千余人をもって、下関海峡に侵入し、前年の長州藩の不法砲撃に対する復讐戦を行ったのである。
旗艦ユーリアラス号の信号と共に一一〇ポンド砲を始め二百八十五門の艦載砲が火を噴いた。
田ノ浦、串崎岬以下各地の砲台は、一時間足らずで完全に沈黙させられた。
英仏の陸戦隊が各地に上陸し、砲台を破壊したが長州軍には全く反撃力なく、彼らのなすがままになる。
長州藩は高杉晋作を起用して講和使節とし、八月十四日、停戦協定を結んだ。連合軍側の要求をすべて受入れた完全降服である。
「だめだな、攘夷攘夷と騒いでみても、武器がまるで違う」
こうした情報を聞いた鉄太郎は、憂鬱になった。
剣――と言うものが、国を守る上に果してどれだけの力を持ち得るのか。
自信がなくなってくる。
――だが、
鉄太郎は、自分を説き伏せた。
――どんな精鋭な武器を持っていても、それを操る人間が駄目なら、効果はないだろう。最後は人間なのだ。その人間をつくるためにおれは剣の道に専念しているのではないか。剣を揮って人を斬るために剣を学んでいるのではない。
そう考えて、相かわらず、浅利道場に通う。隣家の高橋道場でも汗を流す。
長州征討軍が出ると言うので、江戸市中は大騒ぎになっていたが、
――おれは要注意人物なのだ、おれに出動命令が下ることはないだろう、
と、タカをくくっている。呑気なのはいいが、やや淋しい気もする。
品川のおなかにも身請話が起っていたのだ。
この間、水戸の形勢は、ますます混沌としている。
市川一党の暴政をみて、江戸にいた武田耕雲斎、山国兵部らが、慶篤の使節として水戸にゆく支藩の松平|大炊頭《おおいのかみ》を援助するため江戸を出発した。
水戸城下で敗れた藤田小四郎らの筑波勢もこれに合流する。
これを迎え撃つ市川党と、那珂湊を中心に激闘が繰返された。
その中に、事情が激変した。
幕府が若年寄田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》に一万三千の大軍を与えて、天狗党撃滅を命じたのである。
市川はこの田沼といち早く連絡をとり、
――松平大炊頭は、筑波の叛徒と一体になっている、
と訴えた。松平はその冤罪を晴らすため田沼と会見すると、直ちに捕えられ、十月五日切腹を仰せつけられてしまった。
那珂湊はついに幕軍に占拠される。
進退きわまった武田耕雲斎、藤田小四郎らは、合同して西に向うこととなる。
――天狗党の形勢日々に不利、
と言う噂を聞いて、
「岩谷はどうしているだろう」
と、鉄太郎が松岡や関口と話していたのは九月の終りである。
十月にはいって三日目、関口隆吉が鉄太郎のところにやってきた。
「酒は?」
鉄太郎が、お英に聞く。
「少しはございます」
一升徳利を持ってきた。二人にとってはこの位は、少し――と言うことになるらしい。
「さかなは?」
「何も――ございませぬ」
「沢庵があっただろう」
「はい――半分だけ」
「それでいい。もってこい。包丁もだ」
半本の沢庵を包丁でぱんぱんと、無雑作に五つ六つに切り離すと、二人は酒を飲み出した。
「先生、この頃、あんまり品川の方に行かれませんね」
「うん」
「どうかしたのですか」
鉄太郎は、ちらっと台所の方にいるお英の後姿に目をやったが、声を低くして、
「おなかは、身請けされてしまった」
と言う。
「そりゃどうも。道理で先生、少し元気がないと思いました」
「ばか言え、そんなこと位で、意気|銷沈《しようちん》したりはせん」
と言い返したが、大いにこたえているのは間違いない。
「女はいくらでもいます。先生、また新しいのを探せばいいでしょう」
「うむ」
あまり元気のある答ではない。ちょうどその時、お英が妙な声をあげた。
「お英、どうかしたのか」
「あの――誰か怪しい男が――」
鉄太郎より先に、関口が躍り上って、勝手口に飛んでいった。
「奥さん、どこです」
「今、あそこから、覗き込んでいました」
関口が飛び出していったが、間もなく、
「このばか野郎」
と、怒鳴る声がした。
「こっちへ来い。庭に回るんだ」
と大声で叫びながら、縁《へり》黒の廻国笠の六部の腕を引っぱって、庭に回ってきた。
「先生――岩谷です」
六部が、笠をとると、清河塾で馴染の岩谷敬一郎の顔があった。
ひどくやつれている。
「こいつ、堂々と玄関からくりゃいいのに、勝手口から覗き込んで、私の姿を見たら逃げようとしました」
「どうしたんだね。天狗党の名参謀」
鉄太郎が、笑いながら言った。
「先生、どうも、合せる顔がありません」
岩谷はしょんぼりした顔付きで、頭を下げる。
「まあ、そこに立っていたって仕方がない。上にあがれ。ゆっくり話を聞こう」
「はい」
岩谷は、酒を喉に入れると、少し元気が出てきて、話し出した。
「松平大炊頭の軍と共に、那珂湊にこもっていましたが、このままでは先行きの見込みがない。そこで武田耕雲斎先生に相談しましたが、どうも意見が合いません。私は北方に脱出して海路長州へ落ちようと決心し、同志三百名と共に、九月九日、湊を脱出して久慈川に出ました。ここで水戸の市川勢や二本松勢と戦い、助川城に乱入することに成功はしたのですが、僅かの兵で城を守り抜くことはできそうにもないので、城を出て村松に向ったところ、敵軍に追跡され、八溝山に逃げ込みました。その頃は手兵三十人余り、これではどうにもならぬ。一同ここで解散しようと、ばらばらになりました。私は日光今市に脱れ、友人の木村と言う男の処に隠れていましたが、今更武田先生の許にも戻れず、ともかく江戸へ出てみようと思い、六部に身を変えてやってきたのです。江戸でも筑波残党の詮議はきびしく、一身が危くなったので、ともかく山岡先生に御相談してみようと思って――」
岩谷は常州宍倉の生れ、潮来の文武館の世話役として、清河塾に顔を出していた。その頃の鋭気颯爽とした面影は全くない。
腕を組んで、じっと聞いていた鉄太郎が、ぎょろっと、岩谷を睨んで言った。
「潮来を出たのは、武田耕雲斎についていては見込みがないと思ったからだな」
「そうです」
「このばか野郎!」
大喝《だいかつ》した。
余り鉄太郎の声が大きかったので、台所にいたお英がびっくりして顔をのぞかした。
「岩谷、腹を切れ」
「えっ」
「一旦、誓いを立てて同志となりながら、盟主盟友が危地に陥っている時、それを見捨てて自分だけ良い子になろうとするのは、大丈夫のなすべきことではない。まして戦い敗れて自害もせず、のめのめと生きながらえて逃げ回るとは何ごとかっ」
岩谷の顔色が変った。
「先生、それは――」
関口も、さすがに愕いて止めようとしたが、鉄太郎の顔をみて、口を噤《つぐ》んだ。
お英も凝然としているばかり。その時、
「先生、御在宅ですか」
と声をかけて、木戸を排して庭に現れたのは、松岡である。
「やっ岩谷じゃないか。珍しいな」
と、大声を出したが、すぐにその場の異様な雰囲気に気がついた。
「何かあったのですか」
「松岡さん、そうなのだ。岩谷が切腹するのだ」
「なに、そりゃ、どう言う訳だ」
関口が、事情を簡単に説明し、松岡に眼顔で、
――止《と》めてくれ、
と合図した。
松岡は素知らぬ顔をして、
「そうか、分った。それなら先生の言われる通りだ。立派に腹を切れ」
と言い放つ。
岩谷も、覚悟した。
「先生、岩谷一期の過《あやま》り。まことに慙愧《ざんき》の至りです。仰せの通り腹を切りましょう。色々お世話になりました」
と、庭に下りてどっかと坐る。
「松岡君、介錯《かいしやく》してやれ」
鉄太郎が、命じた。
関口が、松岡に促されて、水を張った手桶を持ってくる。
松岡は袴のもも立ちを高くとって、大刀の鞘を払い、岩谷の背後に立った。
岩谷は衣服をくつろげ、脇差を抜く。
お英は、真っさおになって、ぺったり坐り込んでしまった。
「では、御一同、お世話になりました」
岩谷が頭を下げ、脇差を突き立てようとした。
「待て、岩谷」
と、鉄太郎が声をかけたのは、その瞬間である。
「覚悟はみえた。もう腹を切ったも同然だ。お主の命はおれが預る」
関口もお英も、おもわず、ほーっと吐息したが、岩谷は茫然としていた。
岩谷がともすれば口舌に走って、腹が坐っていないところがあると見て、鉄太郎は一芝居打ったのである。
「岩谷、生き返ったのだ。再生の祝いに一杯やれ」
松岡が言う。この男は、始めから、鉄太郎の腹を見抜いていたらしい。
酒をくみかわしながら、松岡が、
「岩谷は江戸にいては危いな。先生、どこか良いかくれ場所がありますか」
「三島の龍沢寺の住持星定和尚は、おれの禅の師匠だ。星定和尚に紹介状を書いてやろう。頼ってゆけば、必ず何とかしてくれる。しばらくは死んだ気になって、禅でも修行しているのだな」
岩谷は、言われた通り、星定和尚について数年の間、鳴かず飛ばず、黙々と修行した。
ついでに、西上を試みた天狗党の末路について、記しておく。
武田耕雲斎を総大将とする一行八百余名は、那珂湊を脱出して、常陸の北境を越えて野州に入り更に上州を経て信州に入った。
幕府は沿道の諸藩に追討令を下したが、各藩とも天狗党を敬遠して衝突を避けた。多少の戦闘が見られたのは、下仁田と和田峠だけである。
美濃路で、薄井督太郎ら数名が脱走した。
越前に入る頃には寒風吹きすさぶ真冬になっていた。
積雪と寒風と飢餓とに悩まされ、疲労の極にあった一行は、加賀藩が、新保の宿営地に、白米、銘酒、漬物、するめなどを贈ってくれると、涙を流して感激した。
――加賀藩の同情にすがって、われわれの衷情を京に訴えようではないか、
と言うことになり、十二月十七日、加賀藩に武器一切を引渡して降服した。
加賀藩では、彼らを囚人扱いにすることなく、寺院に収容して毎日、酒、煙草、紙、菓子などを与えて厚遇したが、幕命を受けた田沼玄蕃頭が敦賀にやってきて、一行の引渡しを受けると、その待遇は一変した。
敦賀の船町に並ぶニシン倉に移され、犬猫にも劣る惨酷な扱いをする。
年が明けて二月一日、全く形式的な取調べをしただけで、武田、田丸、山国、藤田を始め三百五十三人を斬罪に処してしまった。
そのほか遠島三十七人、追放百八十七人、水戸藩へ引渡し百三十人。
首魁四人の首は水戸に送られ、城下を引回した上、四日間に亘って梟《さ》らされた。
更に無慚《むざん》なことには、獄舎につながれている武田耕雲斎の妻ときに、水戸に送られてきた良人の首を無理に抱かせて嘲笑した上、これを打首に処した。娘とし(十一歳)幼児桃丸(八歳)金吉(三歳)も同時に打首。
幼い金吉は母にしがみついて泣き出したので、首斬役が躊躇《ちゆうちよ》していると、立合いの町与力篠島左太郎と言う者が、
「おれが料理してやる」
と言って金吉をひったくり、膝の下に押えつけ、短刀で刺殺した。田丸、山国の家族はすべて永牢処分になったが、多くは獄中で死んだ。
京で会・薩の軍に敗れ、下関海峡で連合艦隊に敗れた長州に対し幕府は三十五藩の兵士五万人を動員して、討伐を宣言した。
長州藩としては正しく存亡の危機である。
――ひたすら謝罪して、藩の存続を図るほかはない、
と言うことになり、全面降服。
京へ進発の責任者として、益田、国司、福原の三家老は切腹、藩主毛利敬親、定広父子は萩に謹慎して自筆の謝罪書を提出する。
征長総督の徳川慶勝は、この様子を見極めると、十二月二十七日早くも全軍に撤兵を命じ、軍を引揚げてしまった。
結局、この第一回長州征伐は、一発の銃丸も射つことなく、一応終結してしまったのである。
――やっぱりお公儀の御威光は大したものじゃねえか、
と、江戸の市民たちは鼻を高くした。
だが、その頃には、高杉晋作と言う無茶苦茶な男が、亡命先の筑前から舞い戻って、三田尻で兵を挙げ、幕府に対する反抗の第一声をあげていた。
やがてこの奇怪な青年は藩論をひっくりかえし、全長州をあげて、敢然として幕軍と闘うことになる。
だが、元治二年(四月七日慶応と改元)の正月の江戸は、
――長州が降服したので、将軍は進発を中止した、
と言うことでほっと一息した姿であった。
鉄太郎の家は、正月だからと言って、特別に御馳走をこしらえる余裕もない。
お英やお桂は、子供をつれて、高橋家におよばれに行っている。
鉄太郎ただ一人、ぼんやり机の前に坐っていると、益満休之助が姿を現した。
「山岡さん、正月だというのに、不景気な顔をしていますね」
「ああ、別に良いこともないし」
「ところが、ある」
「ほう、何かな」
「あんたに是非会いたいと言う女がいる」
「女が会いたがっているのじゃなくって、あんたが会わせようと思っているのだろう」
「いや、本人が熱望しているのだ」
「奇妙な女がいるものだ。一体どう言う女です」
「まあ、私と一緒に来てごらんなさい」
「どこへ?」
「品川ですよ」
――例によって、前の女に似ているとか言う女に引合せようと言うのだろう、
と推測したが、暇なからだだ、行ってみようと、鉄太郎は益満と連立って家を出た。
益満がつれて行ったのは、遊女のいる旅籠ではない。旅籠屋の中でも一流に属する土蔵相模の別荘である。北馬場本照寺の隣にあって、広大な庭と善美を尽した建物とを誇っていた。
「こんな処に這入《はい》る資金があるのか」
鉄太郎が、門の前で足をとめた。
「心配いらん。金を出して遊ぶのではないさ。ここで働いている或る女人が、あんたに会いたいと言っているのだ」
顔の広い益満は、こんな家にもちょいちょいやってくるらしい。
さっさと門を這入ってゆく。
石燈籠、鉄燈籠、鞍馬石の敷石、瓢《ひさご》形の池、亭々と聳える樹木――立派な庭をさっさと通り抜けて、小さな建物の前にやってきた。
「ちょっと待っていてくれ」
と言って中に這入ってしまう。
鉄太郎は、狐につままれたような気持で、庭を眺めていると、いきなり背後から、
「若様!」
と、声をかけられた。
もう三十歳、若様などと言われる齢でもないし、そんな身分でもない。
何者かと、うしろを振向くと、たしかに見覚えのある顔があった。
その顔の中の双《りよう》の眸《め》が、たちまち霑《うるお》ってきて、唇がふるえて、もう一度、
「若様――」
と言った。
「あ、お前は――」
「覚えていて下さいましたか」
「覚えているとも、おさと」
「嬉しい――若様」
十三年ぶりに会う女であった。
飛騨の高山で、初めて女人の世界を教えてくれたおさとを、忘れる筈がなかった。
もう三十の半ばを過ぎているだろう。肌艶にも争えぬ齢が出ているが、まだまだ溢れるような色気が残っている。
「若様――御立派になられましたねえ」
「若様はやめてくれ。もう三人の子持ちだよ」
「存じております。益満さまから伺いました。でも、私にはやっぱり、高山の陣屋にいらした頃の若様と同じ若様です」
「外聞が悪い、若様はよせ」
「はい」
「どうして、こんな処にいるのだ」
「つい三月ほど前に出てきたばかりでございます」
鉄太郎たちが江戸へ戻ってしまった翌々年、おさとは再婚した。高山の町に住む職人である。
その、何の変哲もない良人が、去年の夏、病死した。子供はいなかったが、財産とてもない。
――どこかに勤めて生活の途を立てなければ、
と思案している時、すすめる人があって、この土蔵相模の別荘で働くことになったのである。
たまたま薩摩屋敷の留守居役に連れられて飲みに来ていた益満が、山岡鉄太郎のことを口にし、父親は高山郡代をしていた男と言うのを耳にして、胸をどきつかせた。
「あの、もし、その山岡様とかも、もと高山にいらしたのでございましょうか」
おさとは、思い切って訊ねてみた。
「そうさ、おやじが高山の郡代だったのだから、おやじの生きていた頃は、高山にいただろうな」
「その御父上は小野様では?」
「うむ、山岡は養家先の姓だ、旧姓は小野と聞いた」
と答えた益満が、
「こらっ、おさと」
急に大声を出した。
――えっ!
と愕いて見返した女の顔を、益満は面白そうに見詰めて、
「白状しろ、おさと」
「何のことでございます」
「とぼけるな、お前、高山で、鉄太郎と何か訳があったのだろう」
「そんな――私はただ、郡代屋敷に縫物や洗い物などのお仕事でお伺いし、鉄太郎若様を存じ上げていただけです。お小さい弟さまの方のお守りも致したことがございます」
「それだけか」
「はい」
「はは、頬を染めたぞ、怪しいな」
「益満、ひどくからむのう、いい加減で勘弁してやれよ」
伴れの武士が、たしなめる。
「いや、からむのではありません。私は至って女に親切な男でしてな、もしこの女が、山岡に会いたいと言うのなら、会わしてやりたいと思いましてね」
「あの、小野様を、いえ、山岡鉄太郎様を、よく御存じなのでございますか」
「よく知っている。いつも一緒に女を買いにいっている。あ、こいつは少々まずいことを言ったかな」
「いえ、そんなこと少しも構いません。小野様御一家にはお世話になりましたし、お懐かしく存じております。お目にかかれればどんなに嬉しゅうございましょう」
「と聞いてはこの益満、どうしても会わせてやる、待っていろ」
「本当でございますか」
「武士に二言はない――と言っても、おれは時々、いや、しょっちゅう、女をだましているがな、これは別じゃ」
「お願い致します、益満様」
「ほほう、この益満、どうやら急に株が上がったらしいな」
さんざんおさとをひやかしたが、益満はその言葉通り世話好きな男だ。約束通り、鉄太郎を連れてきたのである。
「若様――いえ、鉄太郎様、ここでは落着いてお話もできませぬ、あちらへ――」
「よいのか」
と答えた鉄太郎が、振向いてみると、益満の姿が見えない。気を利かせて姿を消してしまったのであろう。
「この頃は、すっかり暇でございます」
おさとは、裏木戸から隣の本照寺の墓地に鉄太郎を連れ出した。
「本当に、夢のようでございます」
おさとは、改めて鉄太郎の顔を、喰いつきそうに見詰めて、言った。
「おれもだ、まさか、こんなところでお前に再会できようとは思わなかった」
おさとは、又しても、涙ぐんでいた。
「おさと、どうしたのだ、ばかに涙もろくなったな」
「いえ、いつもは男まさりと言われているのですけれど――今日は余り嬉しくて」
「色々と苦労したらしいな」
「ええ、でも、もうそんな事はどうでもようございます。こうして若様に――鉄太郎様にお目にかかれたのですもの」
「高山では、色々、世話になった」
と言ってから、鉄太郎はちょっとくすぐったい感じがした。おさとも眼許にちらっと羞らいをみせて、
「そんな――私には一番愉しい想い出になっております」
「私にもそうだ」
想い出話になると、それからそれへと、尽きることがない。
「あ、もう戻らねば――鉄太郎さま、近い中にもう一度お目にかからせて下さい。ここではなく――」
「いいとも」
次の逢瀬を約束した。
女を連れ込むに適当な家ぐらいは、鉄太郎はいくらでも知っている。そこへ案内するつもりで、おさとと再び顔を合せると、おさとが、
「私の家に来て下さいまし」
と言った。
「え? お前はあの別荘に住み込みじゃなかったのか」
「住み込みでした。でもそれを通いにして貰ったのです」
実行力のある女だ。さっさと通いにして貰い、部屋を借りていた。
そこに、鉄太郎を連れてゆく。
「誰も邪魔はしませぬ、ごゆるりと」
「手廻しのよいことだな」
「だって、長年の念願がかなったのですもの」
これは嘘ではない。
二度まで結婚生活を送りながら、この女は、二人の良人に失望しか味わわされなかった。ほんのしばらくの間ながら、必死にかき抱いた若い鉄太郎のイメージが最も強烈に心の底に定着していた。
住み慣れた高山をすてて江戸へ出てきたのも、生活の為であることは勿論だが、もしかしたら鉄太郎に会えるかも知れないと言うことが、大きな動因になっている。
そしてその願いは、思ったよりずっと早くかなえられたのだ。
酒もさかなも、ちゃんと用意してあった。
「さ、少し、お過ごしなさいな」
「うむ」
「鉄太郎様、本当に御立派になられましたねえ」
「この通りの貧乏ぐらし、ボロ鉄と呼ばれている」
「御衣裳などのことではありません。目を見張るような御成長ぶりです」
「三十づら下げて、まだ何事もなしとげておらん」
「何もかも、これからでしょう。私はどうも、払下げ品みたいなもの」
「そんな事はない。おさと、まだみずみずしいよ」
「そんなお世辞を言って下さらなくても結構、私のことを覚えていて下さっただけでも嬉しい」
「忘れる筈はないだろう。私に女と言うものの不思議さを教えてくれたのはお前だ」
「女と言うものの不思議さ?」
「そうだ。あれ以来、おれはずっと、女と言うものの不思議さに驚きつづけている。どうしてもよく分らん。あれからずい分沢山の女に接したが、まだ、やっぱり不思議で堪らん。何とか女と言うものを分ってみたいと、必死の修業をしているが、だめだ、分らん」
真面目くさってそう言う鉄太郎の顔を見て、おさとが噴き出した。
「何を言っていらっしゃるのです。でも、そんなところが若様らしくて――いくら女遊びをなさっても、お若い頃のまま純真さを残していらっしゃる――」
「違うのだ、そんな意味ではない」
鉄太郎は説明しようとしたが、どうにもうまく表現出来なかった。おさとは、それを鉄太郎の純真さと解釈している。全く別種のものだと言うことは理解できない。
「おさと、お前は余り素直に解釈しすぎている」
「鉄太郎様、むつかしい事は分りませぬ。私はただ、あなたが好きで好きで堪らないのです」
どうやらおさとの恋慕は大きな誤解の上に成立しているらしいが、凡《およ》そ男女の間の恋慕はすべて相互の誤解の上にこそ支えられているのであろう。誤解が深ければ深いほど、恋慕の情も深いのであろう。
鉄太郎とおさとは、当然、再び結ばれた。
おさとを抱いた鉄太郎の頭の中で、回想と現実とが渾然として一つになった瞬間、鉄太郎のエネルギーは爆発した。
「鉄太郎さま、御迷惑をかけるようなことは致しませぬ。時々お目にかからせて下さいまし」
「うむ、どうやらおれも惚れ直したようだ」
やけぼっくいに火がついたのだ。
――鉄太郎、又、新しいのができたらしいな、
高橋の屋敷で、精一がお澪《みお》に向って苦々し気に呟いた。
[#改ページ]
葵は枯れる
元治二年四月七日、慶応と改元。
その数日後、鉄太郎の屋敷に、ひょっこり顔を出した人物がある。
「山岡先生、しばらく」
と、口では言ったが、まるで昨日別れたばかりのように、けろりとしている。
村上政忠――俊五郎と言った若い頃、清河八郎の塾に出入し、鉄太郎に剣の道で鍛えられた男だ。
「村上君か、ずいぶん長らく顔をみせなかったな」
珍しく家にいた鉄太郎が、なつかし気な声で迎えた。
「京へ行っていました」
「ほう、どんな用件で?」
「仇討」
「え?」
「昨年七月十一日、京の木屋町で佐久間象山を斬った河上彦斎と言う男を殺《や》るつもりで行ったのだが、奴がどうしても捕らない」
「何故、君が象山先生の仇を討つ気になったのだ」
余り突飛な顔合せに、鉄太郎は少々呆れ顔である。
佐久間象山は松代藩士だが、その盛名は天下に喧伝されていた。象山自身は、
――おれの名は五大州に知られている、
と、豪語している。
儒教と西洋科学を融合し、公武合体、開国によって五大州に雄飛すべしと言う壮大な議論で人を煙《けむ》に巻いた。
元治元年七月、幕命を受けて京に上ったが、馬上洋服姿で町を濶歩する。尊攘派から睨まれたのは当然である。
人斬り彦斎と言われた肥後の河上彦斎が、十一日午後五時、三条上ル木屋町で象山を暗殺し、三条大橋に斬奸状を張った。
この象山の妻順子は、勝海舟の妹である。
「その象山の未亡人順子が、今年の春、おれの女房になったのです」
「ほう、それは初耳だ」
鉄太郎はますます愕いた。
村上と言う男は、直情径行の感情家で、鉄太郎はそこを愛しているのだが、世間的にみれば少々常識を欠いているところがある。天下知名の傑物佐久間象山の未亡人の再婚対手としてはふさわしいとは思われない。
「はは、先生もおかしいと思うでしょう。私もおかしいと思った。だが、順子が是非、一緒になってくれと言うので、その気になったのです。ところが、結婚してみると、順子が、しきりに象山の仇を討ちたいと言う。考えてみると、順子の奴、それが目的で私と一緒になる気になったらしい。私は象山先生に一面識もないし、何の義理もないが、女房がそんなに望んでいるなら、その河上の奴を殺ってやろう。人斬り何とかと言われている位だから腕は立つだろうが、おれも、ささやかながら剣の道場を開いている身だ。殺される事はあるまいと思ってね」
京に上って彦斎の消息を探ったが、出没自在、容易につかまらない。
一時の熱が冷《さ》めてみると、
――象山の仇を討つ、
などと言うことが、馬鹿馬鹿しくなって、江戸へ引揚げてきてしまった。
当然、順子との間がうまくゆかない。
家を外に出歩く。
順子は愛想をつかして、村上の許を去り、兄海舟の家に身を寄せてしまった。
「と言う訳で、私は今、独身、大いに愉しんでいます。女房など、いらんものだ」
「相変らず、むちゃをやる男だな」
「それより先生、京は大変ですよ。もう一度、長州征伐が行われるってね」
「うむ、そうらしい。長州では軍制改革をやって、士気頗る旺盛だと聞いたが」
「そうなのです。京で耳にした話ですが、長州の高杉晋作と言う奴、全く以て手におえぬ奔馬らしい」
それは正しく噂通りだったのだ。
わずか八十余名の同志と共に兵を挙げたこの肺病やみの馬面《うまづら》の痩せた男は、疾風の如く馬関の役所を襲って武器と軍資金を手に入れ、つづいて三田尻港にあった長州藩の軍艦三隻を占領してしまった。
奇兵隊隊長山県狂介(有朋)がこれに応じて立ち、領内の豪商豪農もこれを支持する。
萩にあって藩の政権を握っていた俗論派の椋梨《むくなし》藤太は愕いて、追討令を出した。
追討軍と叛乱軍とは、元治二年一月七日、絵堂で決戦し、叛乱軍快勝。
椋梨らの俗論派政権は崩壊し、正義派がこれにとって代る。
正義派は旧尊攘派であるが、今や、倒幕派として、回天の大運動の第一歩を踏み出した。
これは正しく未曾有《みぞう》のことであった。
徳川氏開幕以来二百六十余年、その間に、無数の大名が、全く些細なことを咎められて領国没収、削封、転封などのきびしい処罰を受けているが、その処分に対して反抗した例はただの一つもない。
――幕軍を引受けて城を枕に討死、
と言うような事が叫ばれたことはあっても、現実には、すべての場合、唯々諾々として幕命に従っている。
長州も、最初はそのつもりであった。家老切腹、藩主隠居、そして更に或程度の封土削減さえも覚悟した。
だが、高杉と言うじゃじゃ馬が、
――ばかなっ、闘え、
と、決然として起ったのである。
防長二州の若いエネルギーは爆発した。
――関ケ原の恨みを、
と言う古い言葉さえ繰返された。
――全領土を灰にしても、幕府の不当な要求には屈服せぬ、
と言う態度を明白にされると、幕府としても面目上、放っておくことはできない。
幕府は、先に長州藩が三家老に切腹させて恭順の意を示した時、
――それみよ、幕府の威光かくの如し、
と、どうやら良い気分になり過ぎた。
――毛利父子を江戸に召し寄せて、断乎たる処分をするがよい、
――防長二州を取上げてしまうがよい、
などと勝手な議論が出る。
誰の目にも衰退の色が見えていた幕府の威光を、長州屈服の機会に乗じて、もう一度、昔のように赫々《かくかく》たるものにしようと、望んだのだ。
だが、今や、追いつめられた鼠は、居直って猫にかみつこうとしている。
高杉によって活を入れられた長州藩は上下心を一にして、必要とあればいつでも幕府と闘うぞと言う態勢を示してきた。
幕府も行き掛り上、
――断じてこれを征討する、
と言わざるを得ない。
慶応元年五月十五日、将軍家茂は、江戸城を出発して西上した。
将軍自ら軍を率いて出陣するのだ。関ケ原の役以来の大事件である。
江戸の町民たちは、堵列《とれつ》してこれを見送った。彼らは皆、深い事情は知らない。
「長州も一度は、お公儀の御威光に恐れ入って降参したって言うのに、しぶといなあ」
「なあに、今度は上様じきじきの御出陣だ、上様が京へつかれる頃には、降参の使者がやってくるさ」
「みろよ、あの金扇と銀三日月の馬標は、権現様(家康)が関ケ原役に出陣された時の吉例に慣ったものだとさ」
町民たちの囁きの中を将軍は陣笠を戴き、馬に跨がって進む。新しく訓練を受けたフランス式の歩騎砲三隊がこれに扈従《こじゆう》し、老中・若年寄以下の旗本、諸藩主・藩兵がつづいた。
町民たちの中でも、しぶい顔をしていたものがいる。
御用金を命じられた者たちだ。三井八郎右衛門は三万両、村越庄左衛門、鹿島清兵衛、川村伝左衛門、三谷三九郎、伊勢屋四郎左衛門、田畑屋次郎右衛門は各一万五千両、その他多くの富商が御用金を課せられていたのである。
閏五月二十二日将軍は京都着。
その日の夕刻参内、小御所で天皇に拝謁し、
――毛利大膳儀、昨年尾張前大納言まで悔悟伏罪の趣申出で候ところ、その後、激徒再発に及び、加うるにひそかに家来外国に相渡り、大砲小銃等の兵器多分に取調《ととの》え、その上密商等いかがの所業、確証もこれあり候につき進発仕り候、
と奏上する。
これに対し天皇は、
――防長の処分は重大であるから、尾張、一橋以下とよくよく相談するよう、
との勅語が下った。
長州再征をそのまま認めたのではない。もっとよく相談せよとの聖旨である。
将軍と一橋慶喜、松平容保、松平定敬が老中らと額を集めて相談したが、一向によい知恵は出ない。
――もう少し待っていれば、長州は必ず再び降伏してくる。
と、それを心待ちにしているのだが、その様子は見えなかった。
とうとう、しびれをきらして、六月二十三日幕府は、芸州藩主浅野茂長を通じて、毛利淡路(徳山藩主)と吉川|監物《けんもつ》(毛利支族)とに、
――大坂へ出てくるよう、
と命令した。
両人とも、病気と称して拒絶。
幕府は再び、芸州藩を通じて、毛利左京(長府藩主)毛利讃岐(清末藩主)に大坂へ来るよう命じたが、これも亦、
――病気
を理由に拒絶した。
幕府は全く愚弄された形である。
もともと、幕府から直接に長州藩主毛利大膳太夫父子に対して上坂命令を出すのが当然であるのに、支藩の藩主を呼び出そうとし、しかも直接にではなく芸州藩を通じて話をつけようとしたことが、幕府の弱腰を示していると言えよう。
九月二十一日、家茂は参内して、ようやくにして、長州再征の勅許を得た。
勅許を公けにし、朝廷の威光を借りて、長州藩を服罪させようとしたのだが、たちまち大きな難関にぶつかった。
折あしくこの時、英・米・仏・蘭の四公使が九隻の軍艦を率いて兵庫に来り、翌日はその中の二隻が大坂天保山沖にやってきた。
――開港条約の勅許
を強要しに来たのである。
聴かれなければ武力を行使しかねまじき気勢であった。
朝廷は頑としてきき入れようとしない。進退きわまった家茂は、将軍職を辞任しようとまで言い出す。
一橋慶喜は十月四日、天皇の前で関白二条|斉敬《なりゆき》以下の朝臣と対決し、脅したりすかしたりしたあげく、ついに、
――どうしても勅許を得られぬと言うのであれば、私が責任をとって切腹しましょう。私が死ねば、私の家臣たちは何をするか分りませんぞ、そのお覚悟があるならば御自由になさるがよい、
と、捨てぜりふを残して座を立った。
さすがに公卿たちは怖ろしくなったのであろう。関白以下しばらく座を外して評議し直し、やっと勅許が下った。
安政条約は七年ぶりで、陽の目をみた訳である。
この条約交渉で長州征伐もしばらくお預けになってしまう。征長のために大坂に来ていた兵士たちは毎日することがないので、町に出て悪いことをする奴もでてくる。
大坂における幕軍諸兵の評判はすこぶる悪くなった。
当時はやった数え唄、
――三ツトセ、見かけは強そな陣羽織、行かず戻らずうかうかと、この人でなし
――四ツトセ、よもや下(西国)へは行かれまい、浪花《なにわ》のあたりをうかうかと、この卑怯もの
――五ツトセ、威勢ばかりはたかぶって、心いやしい旗本の、この喰いつぶし
――六ツトセ、むやみに町で宿をかり、あれのこれのといじり喰う。この乞食め
幕軍の人気がこんなに暴落しているのに、長州藩の人気は逆に上昇していた。
禁門の変で、長州兵のために京の中心部を灰にしてしまったにも拘らず、不思議に長州は京の人々にさえ恨まれていない。
――何の故か相分りかね候えども、諸有志は勿論、市中一同、長州を憐慕仕り候。
官武通紀にも、そう記されているが、これは幕府の不人気の裏返しと見るべきであろうか。
幕府に好意的な諸大名でさえ、幕府の長州再征には反対だったものが多い。
第一回征長の役に総督であった尾州藩主徳川慶勝は、将軍に対し、
――再征の大義名分を分明にせよ、
と要求している。
同じく副将であった福井藩主松平茂昭は、
――再征は諸大名の困窮、万民の怨嗟《えんさ》を招く、慎重に図られたい、
と建言した。
備前藩主池田備前守茂政、津藩主藤堂和泉守|高猷《たかゆき》、龍野藩主脇坂|安斐《やすあや》、紀州藩主徳川茂承ら、いずれも明白に、再征反対を唱え、これと同調する大名は極めて多い。
積極的に再征に賛成したのは、彦根藩主井伊直憲、尼ケ崎藩主桜井忠興ら、数名しかいなかった。
が、幕府にとって最も大きな障害となったのは、薩摩藩である。
薩摩藩は、第一回長州征伐に当っては急先鋒となりながら、その後、文久二年以来の公武合体論を一擲《いつてき》し、勤皇雄藩連合によって幕権に対抗する方向に大旋回を遂げていた。
薩摩藩を動かしている西郷も、大久保も、長州藩と提携して幕府に当らねばならぬと考えるようになっている。
しかし、長州の方では、八・一八のクーデターや禁門の変の恨みは忘れていない。
――奸賊薩摩
と、憤っている者も少くないのだ。
土州の坂本龍馬、中岡慎太郎が、薩長の間に立って、周旋した。坂本は、勝海舟が神戸から江戸へ引揚げる時薩摩藩家老小松帯刀に託した関係上、薩摩と親しい。
中岡は文久三年脱藩して長州三田尻に赴き、禁門の変には長州軍に加わって戦ったし、下関の外戦にも参加したほど長州とは深い関係にある。
一方は奔放|不羈《ふき》、一方は綿密俊敏、互に力を合せて、薩長融和に必死の努力を傾けた。
つい先頃まで仇敵であった薩長両藩である。しこりは深い。それをほぐして和解させ、更に固い連盟を結ばせるのは容易なことではない。
多くの障害と停滞とがあったが、龍馬の奇略と慎太郎のねばりとで、どうやら長州の桂小五郎と薩摩の西郷吉之助の会談となり、両者の間に密約が成立した。
慶応二年正月二十一日である。
その内容は次の六ケ条、
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一、幕府と長州との間に戦端が開かれた場合には薩藩兵二千人を急遽東上させ、現在在京の兵と合体させる。大坂にも千人ほど置いて、京坂両地を固めること、
一、戦いが長州藩の勝利となる様子が見えたらば、薩藩は朝廷に進言し尽力すること、
一、戦いが万一負色になっても、半年や一年で長州が潰滅することはないだろうから、その間に薩摩が必ず色々と尽力すること、
一、このまま幕兵が東帰する場合には、薩藩から朝廷に進言して、長州の冤罪が釈《と》けるように尽力すること、
一、薩藩が兵力を上京させた上でも、一橋・会津・桑名等が今までのように朝廷を擁して正義を拒み、薩藩の周旋尽力を妨げるようなことがあれば、ついには決戦に及ぶ他ないこと、
一、長州の冤罪が釈けた上は薩長両藩誠意を以て相合し、皇国の為に身を砕いて尽力することは勿論、今日より双方、皇国の為に、皇威が輝き回復することを目標に、誠心を尽して尽力すること、
[#ここで字下げ終わり]
こうした薩長連合が秘密裡に成立していることを知らない幕府は、薩藩に対して長州征伐の為に出兵すべきことを命じてきた。
これに対し大久保一蔵(利通)は、四月十日、大坂薩邸留守居木場伝内の名を以て、老中板倉周防守|勝静《かつきよ》に奉答書を出した。
――重ねての長州征伐は大義名分立たず、出兵の御命令は受けたが、お断り申上げる、
と言う拒絶状である。
薩藩の動向は天下の注目するところであったし、その強大な武力は長州征伐について是非とも必要であったので、幕府はこの拒絶に肝をつぶした。
板倉は早速、大久保を召し出して協力を要請する。
幕府の老中が、その命令を聞かない大名に対して、説諭を加えなければならないと言うこと自体、幕威がいかに衰えたかを示すものだ。
ましてこの場合は、説諭どころか、 事実上懇願しなければならないのである。それも大名島津にではなく、その一家臣大久保に対してだ。
板倉は、さすがに無念であったが、この場合、万やむを得ない。
形通り平伏して頭を上げた大久保と瞳が合った時、板倉は、
――この成上りの陪臣めが、
と、睨みつけるようにした。
大名といえども、老中の前には頭が上らない筈であるのに、大久保と言う一陪臣は、屹然《きつぜん》として胸を反《そ》らせて、板倉を睨み返した。
大久保は、髪濃く眉太く、眼窩《がんか》落ちくぼんで鼻梁《びりよう》が高く、やや日本人離れのした容貌をしている。
その眼光の冷く鋭いことは、定評があった。板倉は、視線がぴたりと合った瞬間、思わず、先に眼を逸らしてしまった。
人間的な気魄において、老中が一陪臣に敗れたのだ。
「このたび長州征討に当って、薩藩に対し出兵の御上意が下ったのに、これを拒むとは何事か、薩藩は何故に長州征討を非とするのか」
板倉がそう言い出すと、大久保は両手を耳のうしろに立てた。
「何、何と仰せられる。某《それがし》は耳が遠いのでよく聞こえませぬが」
「薩藩が、お上の長州征伐に――」
「なに、これは怪しからん、薩藩も長州と同じく征伐されると――」
「これ、何を言う。よく聞け、お上の長州征伐は薩藩が――」
「意外千万、我藩を征伐されるとは、我藩にどのような罪があるか存ぜねど、征伐されるとあれば已むを得ませぬ、兵備を固めて迎え戦うのみ」
大声で怒号する大久保の凄じい形相に、板倉は大慌てに慌てた。
「大久保、誤解するな、よく聞け。もそっと近くへ来い、薩摩を討つなど一言も言うてはおらん」
大久保は、するすると近づいて板倉とぴったり膝の先を合せた。
「私の聞き違えとの仰せでありますか」
「とんでもない聞き違えだ。征長について薩藩も力を貸してくれと言うのだ」
「ははあ、さようでございましたか、いや愕きました。我藩を討つと聞きましたので」
大久保はしゃあしゃあとして、自分の聞き違えに気がついたふりをしたが、板倉の方は残念ながら初めから度肝をぬかれて、しどろもどろになっていた。
「よく開け、大久保、将軍家と薩摩藩とは従来も特別に深い縁故があって、他の外様《とざま》藩とは訳が違う。速かに上意を奉じて出兵し、諸藩の士気を鼓舞し、幕府を扶《たす》けて貰いたいのだ。今や薩藩は天下が注目するところ、その一挙一動は大いに諸藩の動向に関する。あのような出兵拒絶書は撤回してくれぬか」
出来るだけ下手に出て頼み込んだが、大久保の回答は素気ないものであった。
「我藩は将軍家と縁故深いからこそ、将軍家が大義名分を過《あやま》らぬよう切望しております。もし長州をどうしても討たねばならぬものなら名分を明らかにし、大義を正し、成程むりはないと納得するような理由を示して頂きたい。只今までの処、幕府の示された理由は到底われわれを納得させ得ませぬ」
「どうあっても、出兵はできぬと言うか」
「名分のたたぬ出兵は絶対に出来ませぬ。幕命に応じないため征伐すると仰せあるならばやむを得ぬところ、わが藩としても断乎決するところがありましょう」
まるで喧嘩腰である。どう出ても、幕府がこの上薩摩藩にまで征討軍を送る力は絶対にないと信じているからだ。
ついに板倉は、大久保が提出した奉答書を、つき返した。
「この提出書は、薩摩藩の正式の文書とは認め難い」
と言うのである。
「何故でしょうか」
「これは藩重役名義となっておる。藩主の名義になっておらん」
「分りました。早速、藩主名義のものを提出致しましょう」
大久保はその奉答書を藩邸に持ち帰ると、重役岩下方平と相談して、藩主島津忠義の署名に改めて、翌日、岩下と共に板倉の許に提出した。
板倉が憤然として、
「人を愚弄するも甚しい。薩摩本国と往復するには数十日もかかる筈だ。昨日の今日、藩主の署名が得られるわけがない。お前たち在京藩臣が藩主の名を勝手に用いたものとしか思われぬ」
と、抗議する。岩下は平然として答えた。
「わが藩の京都在留の重役は、藩主から全権を委ねられております。重役の意見は即ち藩主の意見でございます。大体、今日の如く、激動不測の時世にあって、事ある毎に本国藩主に直接指令を仰がねばならぬようでは事は運びませぬ。わが藩ではさような迂遠な方策はとっておりません」
どうあっても、出兵を聞き入れない。
板倉は困り切った揚句、江戸氷川邸に謹慎中であった勝麟太郎(海舟)に上京を命じた。
勝が六月二十五日、京に到着すると、板倉は何とか薩摩を説き伏せてくれと言う。勝が薩摩藩士と親しくしていたのを知っているからである。
ところが、勝自身、長州再征には反対なのであったから、即座に、
「薩藩が出兵を拒むのは当然、これ以上無理強いをなさらぬ方がいいでしょう」
と言ってのけた。
その夜、岩下や大久保に会うと、
「お主たち、板倉さんを窘《いじ》めるのはいい加減にしてやれよ。赤児の手をねじるようなものだ、少々大人気ないぞ」
と、大口開いて笑った。
――ほう、幕府にも、ここまで分っている人物もいたのか、
岩下も大久保も、少々驚きながら、声を合せて笑った。勝に、
「つんぼの真似までしたそうだね」
と言われると、さすがの大久保もしかつめらしい顔を照れくさそうにゆがめた。
悪い時には、悪いことが重なるものだ。
いよいよ征長戦が始まると言うので、軍事上の必要から米の買い集めが行われると、米の値段が暴騰し始めた。
各藩とも自衛上、藩外に米を出すことを制限する。一方、大儲けを狙って商人の買占めが行われるから、六月になると米の値段が前年に比べて五〇パーセント以上も上がる。七月には倍以上、九月には三倍。
米につづいて各種の商品も、次々に値上りしてゆく。
慶応二年五月一日、摂津の西宮で貧民たちの打ちこわし運動が始まり、これに加わるもの二千人に及んだ。
同四日には河内の富田林に、八日には伊丹、兵庫にも打ちこわしが波及し、幕兵が威嚇射撃したが効果はなく、多くの米屋が叩きこわされた。
幕府は騒動が大坂に飛火することを恐れて厳重に警戒していたが、五月十三日夜、大坂の場末、難波新地に打ちこわしが始まり、翌日は早くも全市域に拡がって、米屋を始め日頃憎まれていた奸商や高利貸の家々八八五戸が被害を受けた。
将軍は大坂城にいる。武装した兵が、城下に満ちている。そのお膝許で、ついにこの大騒動が起ったのだ。
大坂町奉行が、引っとらえた打ちこわし参加者たちに対して、
――発頭人《ほつとうにん》は何者か、
と詰《なじ》ったところ、その中の一人が、昂然として大坂城を指さし、
――発頭人は、御城内におられる、
と叫んだ。
――こんな事態を引きおこした責任者は、他ならぬ将軍家ではないか、
と言うのだ。
幕府の権威も、将軍への敬意も、もはや地を払ったかに見えた。
事態は江戸においても、悪化していた。
五月二十三日、武蔵の川崎宿で窮民たちが商家に打ちこわしをかけたが、二十八日には、その怒濤は江戸市中を襲った。
二十八日夜、午後八時頃、南品川本覚寺境内で、多勢の者が集って太鼓を鳴らし、面を布でつつみ打ちこわしを始めたが、以後数日間、江戸市中のすべてが騒動に巻き込まれた。
「先生、大変だ。一揆の連中、あばれ放題に暴れている。お上の手勢でもどうしようもないらしい。まさか片端から鉄砲で打ち殺しちまう訳にもゆかないでしょうしねえ」
鉄太郎の処にやってきた村上が、そう報告した。
「お上が無為無策、諸物価こう値上りしてはどうしようもないな、おれのところだって打ちこわしに加わりたい位だよ」
「先生でも、そう考えますかねえ。私は毎日、町を廻って様子を見ていますが、妙なことを聞きましたよ」
「何だね」
「何でも一揆の大将ってのは十五、六歳の素敵な美少年で、屋根の上を飛ぶように縦横自在に走り廻って、下知を伝えるんだそうです。みんな天のおつかわしになった頭分《かしら》だって言うんで、その美少年の言う通りに動いているそうですよ」
「ふーむ、天草四郎みたいな少年だな」
「全く素敵な美少年だって言うから、私も一遍会ってみたいと思いますがね。はは、何もそんなつもりじゃありませんよ」
村上は女色のほか男色も好むので、何も言われぬ先に、自分の方から慌てて弁解した。
江戸の打ちこわしの特徴は、米屋のほかに、貿易関係の商人が主に狙われたことだ。
横浜の商人と結んで、不当な利益を獲得し、物価値上りの張本人になっていると、世間一般から睨まれていたのである。
江戸の暴動がようやく鎮静しかけた六月十三日、武蔵国秩父郡一帯に、
――世直し一揆
が勃発し、武蔵国西北一帯を覆い、一週間以上に亘って、十万人を超す一揆勢が荒れくるった。彼らの目標としたのは、
――横浜向商人、米穀商、質屋その他の富商、
である。
寺の鐘を鳴らし、法螺《ほら》貝を吹き、太鼓を叩き、
――諸人助けのため、
と呼号して、各地を暴れ廻る。
――平均世直し将軍
と記した旗を押し立てたものもある。
幕府が特定商人に鑑札を下付して生糸買占権を与え暴利を保証してやっているため、養蚕製糸地帯の貧農細民は著しい搾取にあえいでいた。その上、物価は年々高騰し、四、五年前に比べれば四、五倍になっていた。
一揆の暴発は、当然だと言ってよい。
皮肉のことには、江戸町奉行の門外に、
――御政事売切れ申候、
と言う張札をしたものがある。政治の空白に対する痛烈な嘲笑であった。
同じ頃、東北の陸奥国信夫、伊達両郡でも、世直し一揆が起り、八日八晩に亘って、十七万の人が加わって四十九村を荒らし廻り、一六〇戸以上を叩きこわした。
必ずしも無秩序な暴民の群ではない。
彼らは打ちこわすべき家の前にゆくと、赤旗をさっと翻し、ドラ、太鼓を鳴らし、法螺貝を吹き鯨波《とき》の声をあげ、得物をふるって、エイエイと叫んで家をこわす。頭取とみられる者が、大音に、
――みなの者、火の用心を第一にせい、米は散らかすな、質物は諸人の物だから手をつけるな、金銭品物は盗んではならぬぞ、この一揆は私欲の為ではない、万民のためだ、ただこの憎むべき家の道具はすべて打ちこわせ、猫の椀一つも残すな、
と、叫んだ。分取品を凡て女子供に分けてやる事態もしばしばみられたと言う。
物騒な世情だが、鉄太郎としてはどうにも出来ない。義兄の高橋精一は、将軍家に扈従して大坂へ赴いているので、その道場を預った形で、毎日、隣家の道場に行って門弟たちに稽古をつけていた。
「先生、またあいつが覗いています」
門人の一人が、鉄太郎のところに来て言った。
――あいつ、
と言うのは、職人風の若い男で、このところ毎日のようにやってきて、道場の窓から覗き込んでいる奴だ。
「奉行所の犬じゃないでしょうか」
「まさか、おれの道場を探ったって何も出てこやしないさ」
「放っておきますか」
「つれてこい」
門人がそいつを鉄太郎の前につれてきた。
「お前は、何者だ」
「へえ、専蔵と申します、大工職で」
「大工が何故、武芸の道場を覗き見する」
「はい、それが私は子供の頃から剣術が好きで――武州飯能の生れですが、近くの道場で少しは習ったこともあります。ここを通りかかって、ヤットウの声を聞きましたら堪らなくなって、毎日覗き込んでおりました。お願いでございます、あっしに教えて頂けませんでしょうか」
「この頃は農家の若い者や、職人町人などで剣術を習うものが多いが、みんな中途半端でやめてしまうようだな。始めは面白半分でも、段々つらくなる。よした方がいい。職人なら職人らしく仕事に精を出せ」
「仕事はやらなきゃ食っていかれませんから一所懸命にやります。でも、剣術もどうしても習いたいのです。だめでしょうか」
熱意が、若い瞳の中に溢れていた。
本当の熱意には、すぐに打たれる鉄太郎である。
「そんなに言うなら、教えてやろう。だがこの道場は、他の道場と違ってきびしいぞ。悪くすると打ち殺されるかも知れん」
と脅してみたが、専蔵と言う若者、一向にへこたれない。
「どんなことになっても、あっしからお願いしたこと、本望です」
「よし。じゃ、今日から始める」
――熱意は分るが、永つづきはすまい。始めから少し手荒く扱ってやれば、諦めるだろう。
鉄太郎は、門弟の中でも、特に稽古の乱暴な瀬川達之助と言うのを選んで、
「お主、少し稽古をつけてくれ、遠慮はいらんぞ」
と、眼顔で知らせる。
「畏《かしこま》りました」
公然、遠慮はいらぬと許されたのだ。瀬川は、専蔵を最初から手荒く扱った。
好きな道、それに多少は習っているから、専蔵も必死になって立ち向う。
結局は、プロとアマの差である。専蔵は、面と言わず胴と言わず籠手《こて》と言わず、さんざんにぶっ叩かれ、骨がくだけるような痛い目に会わされた。
最後に痛烈な突きをくらって、仰向けにぶっ倒れてしまう。
水を呑ませてやると、目を開いた。
「どうだ、辛いだろう」
「はい」
「今日はこの位で勘弁してやる。明日はもっと手きびしいぞ」
「はい」
半死半生の態《てい》で、腰をおさえ、からだをふらつかせながら帰ってゆく専蔵をみて、
「大分、こりたらしい。もう二度と姿を見せないだろう」
と、瀬川は笑ったが、翌日になると、専蔵はちゃんと姿を現した。
「おお、まだやる気があるのか」
「当り前でさあ」
「ようし、こい」
また、瀬川がさんざんに苛《いじ》めた。
専蔵はひょろひょろになって帰っていったが、その翌日はやっぱりやってきた。
――しぶとい奴だ。思い知らせてやる。
瀬川は意地になってしごいたが、専蔵は断じて諦めない。
毎日やってきて、必死の稽古をつづける中に、瀬川もうっかりしていると、打ちこまれるようになった。
――根性もあるし、筋も悪くない。
じっと観察をつづけていた鉄太郎は、そう判断した。
「専蔵、今日から、おれが教えてやる」
と言うと、躍り上って悦んだ。
「へえ、大先生が直々に教えて下さるんですかい」
「手心は加えぬぞ」
「ええもう、死んだって構いませんや」
鉄太郎は、他の門弟に対すると同様、手きびしく稽古をつけてやる。
鉄太郎の突きをくらって、何度、気絶したか分らない。
しかし、どんなことがあっても、この専蔵、決してただの一度も、
――苦しい、
とも、
――辛い、
とも言わなかった。
――大した奴だ。
鉄太郎も感心している。
腕前の方も上達して、どこへ出しても恥かしくないようになった。
「先生、私は職人はいやだ。侍になりたい。武芸で身を立てて侍になることはできねえでしょうか。今、京で名高い新選組の近藤勇とか土方歳三とか言う人たちも、もとは百姓だったと聞いていますが」
専蔵が、ある日、そう言った。
鉄太郎は、頭を横にふった。
「専蔵、よした方がいい」
「先生、そんな――」
筋がよいとか、上達が早いとか言われて、少からずいい気になっていただけに、専蔵にとっては鉄太郎の言葉は意外だった。
「なぜ、いけねえんです。まだ私の腕じゃ、一人前の侍になるには未熟だとおっしゃるんですかい」
「いや、お前より未熟な武士はいくらでもおる」
「それなら――」
「専蔵、お前は本当の武士になりたいのか、ただ武士の恰好さえつけばよいと思っているのか」
「そりゃ、先生、ちゃんとした本物の侍になりたいと思っています」
「そうだろう、だからよせと言うのだ。ただ姓を名乗り両刀をたばさむだけの武士ならいつでもなれる。だが本物の武士になるのはそう容易なことではない」
「あっしは本物の武士にはなれねえとおっしゃるんで?」
「なれるかも知れぬ、心掛け次第でな」
「じゃあ、どんなにでも――」
「いや、待て。お前はわしの見たところ、目はしが利き過ぎ、やま気があり過ぎる。武士の下っ端に加わるよりも、何か商売をやる方が向いているように思う」
「そ、そうですか、先生」
「情けない声を出すな、本物の武士になるには、才気ややま気は不必要だ。お前はその不必要なものを持ち過ぎている。武士になれば必ず失敗する。むしろ、その才気を生かし、そのやま気を活かして、大きく商売をやってみたらどうだ」
「となると、今迄、さんざん苦労して剣術を習ったのは、何にもならなかったことになりますか」
「とんでもない。お前の堪え忍んだ苦労はすべてお前の身についている。お前が剣を学ぶ上で会得したことはみな、将来お前が商売をしてゆく上に役に立つのだ。決してむだではない。もし、むだと分っているなら、わしはもっと早くお前にやめろと言った筈だ」
「はい」
「今後も、商売の暇があったら、この道場にやってきて、竹刀を揮ってみるがよい。町人が剣を習っても一向に差支えない。剣は人を傷つけるためのものではなく、己れの心を鍛えるためのものだ」
「はい」
「武士が剣を学ぶのも、その魂を磨くためだ。立身出世の為ではない。みろ、このおれを、若い時からこの道一筋に打ちこんできたが、この通りの貧乏ぐらしの御家人の身分に過ぎんではないか。おれはこれでも満足しているが、お前のように才気のあり余っているものは必ず不満が出る。その結果は決してよいものとはなるまい。商人として存分に才を揮い、富を積む方が、お前には適している」
毎日、よくも飽きないものと思われるぐらい雨が降った。
しとしとと、娘の泣くようなしのびやかさで降りつづけているかと思うと、急にざあざあといたずらっ児のわめき散らすように降ることもある。
たまに、数時間、陽が射し、どくだみの花の白さが目を射るようなこともあるが、すぐに空の一方から曇ってきて、また、しとしとと降り出した。
「まだ降っているのか」
鉄太郎は床の中から、おさとの背に向って言った。昨夜は、このおさとの部屋で泊ってしまったのである。
鏡に向いて髪を整えていた女は振向いた。
「ええ、まだまだこの梅雨はあがりそうもありませんよ。あの――私、そろそろ出掛けなければなりません。あなたはどうぞごゆっくりお寝《やす》みになってらして下さいな」
女は、土蔵相模の別邸に、毎日通っている。この部屋に戻ってくるのは夜更けだ、と言っても、目と鼻のところだから、大したことはない。
「いや、おれもそろそろ帰ってみる。一昨日は松岡の処で飲み明かしたし、昨夕《ゆうべ》はここだ」
「やっぱり、奥方さまが怖い?」
「いや、あいつはもう呆れて、諦めているさ」
「さあ、どうかしら、女ってものは、なかなか諦めやしませんよ。殿方の忘れた頃、急に噛みついてくる――」
「その時は、存分に噛みつかしてやるさ」
と、起き上ると、おさとが背に回って、着物を更えさせた。
「おさと」
「はい」
「この頃、益満は来るか」
「そう、時々は――」
「どんな連中と」
「さあ、色々の方と見えますけれど――何かありましたか」
「いや、別に」
深くは質ねずに、おさとと一緒に外に出て、路の角で別れた。
益満のことを質ねたのは、この頃、時々、
――益満は、薩摩の隠密だ、
と言う噂が耳に入るからだった。
清河塾以来、古いつき合いだ。攘夷論でも意見は一致していた。
薩藩が、文久三年、会津藩と提携して公武合体運動をやり出してからは、薩摩の連中とのつき合いも広くなっている。
益満のほか、伊牟田尚平や樋渡八兵衛とも、よく顔を合していた。
その薩摩がつい最近、長州と手を握って、反幕的密約を交わしていることなど、むろん、鉄太郎のような下ッ端の身分のものが知る筈はない。
益満に対する信頼は動いていなかった。
その益満が、ひょっこり鉄太郎の家に姿をみせたのは、長い梅雨が明けて、白い空から陽がぎらぎらっと光り出した頃である。
いつもの松岡万の他に、珍しく石坂周造がやってきて、例によって酒になっていた。
「山岡さん、久しぶりに引張り出そうと思ってきたのだが――」
と、玄関に立ったまま言う益満に、松岡が妙に気負った声で、
「益満さん、いい処に来た。外に出るまでもない、ここでやろう」
と、呼びかける。
「益満君、まあ、上ってくれ」
鉄太郎もすすめた。
「そうか、じゃ遠慮なく――あ、奥さん、どうぞもうお構いなく」
お英にも愛想よく挨拶して坐ったが、妙に座が白けたことに気がついて、なるべく早く辞去するきっかけを掴もうとしている益満に向って、松岡が盃をつきつけた。
「さ、一杯」
「いや、昨夜少し飲みすぎた」
「何を言う。そんな事でへこたれる益満さんじゃないだろう。飲んでくれ、今日は少し聞きたいことがある」
「ほう、改まって、何かな」
「ずばり言おう、あんたは――」
と言いかけた松岡を、石坂が慌てて制し、
「よせ、松岡」
「なぜだ、おれは何でも腹にためておくのは嫌いなのだ」
二人のやりとりを聞いていた益満が、
「何のことだか知らないが、私に聞きたいことがあるなら、遠慮なく聞いて貰おう。石坂さん、とめないでくれ」
「よし、聞くぞ」
松岡の益満に対する語気は、いつになく荒い。
「何なりと」
「益満さん、あんたが薩摩の隠密だと言う噂がある。本当かどうか、正直に答えて貰いたい」
「ほう」
益満が微笑した。いつもの洒脱《しやだつ》な相貌には、何の当惑の色も漂っていない。
「もし、私が隠密だとしたら――」
「永らくわれわれを欺いていた訳だ。今夜一切、交わりを断つ、次第によっては――」
「次第によっては?」
「ただでは済まさぬ」
「斬る? か」
「われわれは幕臣だ。公儀のためにならぬと思えば、斬る」
「隠密でなければ?」
「それは――はっきりそう誓ってくれれば、われわれは従前通りつき合おう」
益満は、鉄太郎と石坂の顔をかわるがわる見た。石坂は困ったことになったと言う表情だったが、鉄太郎の方は、我関せずと言った顔でそっぽを向いている。
「困ったな」
益満が、言った。
「なにッ、やっぱり、隠密なのか」
「ま、聞いてくれ、隠密と言えば隠密、そうでないと言えば、そうでない。隠密と言う言葉の解釈の仕様によるな」
「ごまかすな、隠密なら、隠密とはっきり白状しろ」
「おれは薩摩の禄を喰《は》んでいる。ほんの雀の涙ぐらいのものだがね。それにしても薩摩藩士だ。だから、江戸で見聞したことで、薩摩藩に報らせた方がよいと思う事柄は、当然、藩邸の上司に報告する。これは藩士として当り前のことだろう。誰でもそうするに違いない。これを隠密の行為だと言うなら、おれは隠密と言うことになる。しかし、隠密とは主として専ら他国の情報をさぐる目的で、ひそかに行動し、人を欺いて秘密を探る間者だと解釈するなら、おれはそんな事をした覚えは断じてない。従って隠密ではない」
「うーむ」
松岡が、呻った。
何だかうまくごまかされたようだが、言われてみればその通りだ。
「間者のような行動は一切したことがないと誓えるのだな」
「間者として秘密の情報を集めるつもりなら、松岡君、失礼ながら君たちを対手にはしない。君たちが、重要な秘密の情報を何か知っている筈はないだろう」
「しかし、何か薩摩藩の役に立つ情報があればと言ったではないか。その程度のことなら、われわれでも知っている」
「その通り。だが、その程度のことなら、君たちばかりでなく、町人でも職人でも知っている。何もわざわざ君たちから聞く必要はない」
――こん畜生、人をばかにしてやがる。
松岡はいまいましくなったが、事実、自分たちは政治向きの秘密は何一つ知らない。
「分ったよ、益満さん」
石坂が、仲にはいった。
「松岡の話は聞き流してくれ。われわれは君の友情を信じるよ」
鉄太郎が、口を開いた。
「益満君、あんたが、いわゆる隠密でないことは信じよう。しかし、今後、いかなる点においても、幕府に反抗するための行動をとるような必要が生じたら、われわれと交わりを断つ事を宣言して貰いたいな」
「そうしよう」
「よし、これでこの話は終り。飲み直そう」
――と言ったが、これはいかん、どうやら酒が切れた、
と、額を叩いた時、玄関に大きな声がした。庭に回って姿をみせた専蔵が、
「先生、あ、こりゃお客様お揃いで。実は先生のお教えに従って、横浜に行って商売することに決めましたんで、ちょっと御挨拶に伺いました」
六月の下旬になると、西の方から、思わしくない報らせが、次々に齎らされた。
幕府が、どうしようもなく追いつめられて、いやいやながら始めた第二次長州征伐に関する報らせが、十日ぐらいずつ遅れてやってくるのだ。
征長軍と長州軍との戦闘は、六月七日に火蓋が切られていた。
この日幕府の軍艦が、周防国大島郡の沿岸を砲撃し、八日から十一日にかけて、幕兵及び松山藩兵を上陸させて、長州藩の守備兵を追い払った。
出だしは、まず好調だった訳だ。
が、十二日、長藩の高杉晋作は同志を率いて丙寅丸に乗り込み、夜陰に乗じて、久賀海上に碇泊中の幕府軍艦に夜襲をかけ、大いに砲撃を加えて、幕艦を大混乱に陥れた。
更に十五日、長藩の第二奇兵隊浩武隊は一斉に反撃に出て幕軍を追い払った。幕軍は艦船に乗じて逃れ去った。
戦闘は今や、芸州口、石州口、小倉口の三方面で殆ど同時に展開されるに至った。
芸州口に向ったのは、征長先鋒総督徳川茂承の指揮下にある征長軍の主力である。
六月十三日、先鋒の彦根、高田の藩兵が、芸州藩と長州藩の境界になっている小瀬川畔で長州兵と衝突した。
長州兵奮戦して征長軍を破り、小方・玖波一帯を占領。
愕いた征長副総督本荘宗秀は、独断で停戦を画策した為、大坂に召還され職を免ぜられる。このため七月下旬まで、事実上軍事行動は停頓したが、七月二十七日征長軍は大反撃に転じ、大野・廿日市の辺りで激戦が行われた。
藩領が戦場となった芸州藩は大いに苦しみ、ひそかに長州藩と提携し、藩兵を長州兵と征長軍との中間に入れて、両者の接触を遮断した。
このため、八月以降、この方面の戦闘は休止状態となった。
石州口と言うのは、長州藩と津和野藩との境界方面であり、津和野藩の東には、浜田藩が連なっている。
津和野藩は始めから長州藩に好意的で、衝突を避けたので、六月十六日、長州軍は何の阻害もうけずに津和野領を通過して浜田藩領に突入、翌日は益田を占領。
七月五日には、三隅、大麻山、周布《すふ》、長浜を攻略し、破竹の勢で、浜田城に迫った。
浜田藩では、急遽、広島の幕軍本営に援軍を乞う。幕府は因州藩主池田慶徳に石州口の総指揮をとるべきことを命じたが、慶徳は病気と称してこれを拒否した。もともと、慶徳は長州再征には反対だったのである。
援兵を求められた備前藩も出兵を拒否。
浜田藩はやむを得ず、七月十八日、城を焼いて退城することとなる。
病臥中の藩主松平右近将監武聡は、船に乗じて松江藩に脱れ、藩士も応援の諸藩兵と共に松江藩領内に退去した。
小倉口方面では、最もはげしい戦闘が行われた。
老中小笠原長行が指揮をとり、幕府千人隊のほか、小倉・熊本・久留米・柳川・唐津諸藩の兵が、九州側に集結し、一気に海峡を渡って長州に侵入しようとしたのが、六月半ば頃のことである。
長州軍の海軍総督高杉晋作は、十一日未明、機先を制して攻撃を開始した。先ず丙寅・癸亥・丙辰の三艦を田ノ浦に、乙丑・庚申の二艦を門司に派して猛撃を加え、小倉兵を駆逐して上陸を敢行し砲塁を占領したが、寡兵を以て敵中に止まるのは不利とみて一先ず撤収。
七月三日、長州軍は再び門司に敵前上陸を敢行、大里の小倉陣を撃破、ついで二十七日にも三度目の上陸作戦を行って、小倉・熊本の兵と闘い、大里を占領死守する。
小倉藩では長州兵を駆逐しようとして、熊本藩兵に協力を求めたが、熊本の家老長岡監物は小笠原長行と意見の衝突を来たし、兵をまとめて熊本に引揚げてしまう。
小倉藩は愕いて、幕府千人隊に援助を求めたが、小笠原はこれに応じない。征長軍側の内部不統一は、もはや誰の目にも明らかだった。
――これでは闘えぬ、
と、唐津、久留米、柳川の藩兵も、相ついで藩地へ引揚げてしまう。
ちょうどこの時、全軍の指揮者である小笠原長行が、陣を見すてて遁走した。
七月|晦日《みそか》、将軍家茂死去の秘報が届いたからである。長行はその夜直ちに本営の裏門から脱れて軍艦に搭乗《とうじよう》し、長崎を経て大坂に還った。
少し先走ることになるが、ここで、小倉口方面戦況について、その結末までを略記しておく。
全く孤立状態に陥った小倉藩では、八月一日、家老小宮民部、島村志津摩が相談の上、
――城を棄てるほかはない、
と覚悟した。
城に火を放ち、幼主豊千代丸を奉じて、田川郡香春に退いてゆく。
長州軍はこれを知ると、全軍直ちに海峡を渡って小倉城を占領、高杉は自ら小倉に赴いて、惨憺たる落城の跡を巡見した。
――勝った、これで討幕戦争は勝利だ、
晋作の胸は、悦びに躍った。だが、その胸はこの時すでに、全く肺患に蝕まれてしまっていたのである。
陣営を離れ、病躯を養わねばならなくなった晋作は、年が明けて三月に死んだ。享年二十七年八ケ月、異常児の異常な最期であったと言えよう。
一方、小倉兵は、香春に撤収してからも、山間の嶮路《けんろ》を扼《やく》してゲリラ的行動をつづけ、少からず長州軍を悩ました。
薩摩・熊本両藩の斡旋《あつせん》によって、長州軍との間に停戦協定が成立したのは、十二月二十八日、将軍死去を口実に征長役が停止されてからも、ずっと戦いつづけた訳である。
その夜も、鉄太郎はおさとの処に泊った。
翌朝、勤めに出るおさとと一緒に、部屋を出た。
何気なく空を仰いだ鉄太郎は、雲の光りの中に、ふっと秋の匂いを感じた。
「ずいぶん長い、暑い夏だったが」
と呟く。
「もう、すっかり、しのぎ易くなりました。ゆうべなど少し肌寒い位でしたもの」
二人は路の角までくる。
「では――」
「ええ、お気をつけになって」
おさとはすぐ眼の前の、土蔵相模の別荘の裏木戸に向ったが、
「あ、益満さま」
と、大きな声を立てた。
鉄太郎は、ふり向いた。
「ははは、仲の良いところを見せつけられましたな」
益満が屈託のない顔で、鉄太郎のそばに近づいてきた。
「朝帰りですか、なに私もゆうべは、あそこに泊りましてね」
と、肩越しに後をふりむき、小腰をかがめたおさとにうなずいておいて、
「山岡さん、途中まで御一緒しましょう」
海岸沿いに高輪の方へ向いながら、益満は鉄太郎の横顔をちらと見上げた。
「山岡さん、ゆうべ、奇妙な話を聞いた。私は初耳なので驚いたが、あなたは御存知かも知れん」
「何のことです」
「勘定奉行の小栗上野が、フランス公使のロセツと、しばしば会合していると言うことですよ」
フランス公使レオン・ロッシュは、日本人の間では魯節《ロセツ》と呼ばれていた。
「それは、二人の職掌柄、不思議はないだろう」
「むろん、会って話をするのは勝手だ。しかしね、山岡さん、この頃ロセツと小栗とが会っているのは、容易ならん交渉の為なのだ、それを知っていますか」
「いや、一向に――」
「小栗は、フランスから六百万|弗《ドル》と言う大金を借り入れようとしているのですよ」
「六百万弗!」
その額の大きさに鉄太郎も愕いた。
「何の為に」
「横須賀に造船所をつくったり、幕府の歩・騎・砲三兵の兵備を増強するため――だそうです」
「異国の金で、わが国の軍備を――」
「わが国のじゃない、幕府のです。外国と戦うためじゃない、長州その他、幕府に服従しない藩を討つためですよ」
「軍備の充実は結構だ。しかしそのために金を外国から借りるなどとは――」
「怪しからぬことだ、許し難いことだ。しかも、山岡さん、もっと愕くことがある。その借金の抵当が、何だと思います」
「そんな莫大な借金の抵当になるようなものは、ありはしない」
「ところが、ある。小栗が見つけ出した。えぞ地(北海道)を担保に入れる」
「えっ」
「或は、生糸を幕府が一手に集めて、フランスに直輸出する。どちらも無茶苦茶なやり方だ。六百万弗の金がまともに返済できる筈はない。えぞ地をとられてしまうか、わが国の生糸をねこそぎフランスに持ってゆかれるか――どっちにしても大変な事になる」
「その話は、もう決ったことなのか」
「いや、まだ交渉中らしい。どちらも、さすがに、幕閣の間でも反対があってね」
フランス皇帝ナポレオン三世は、国内の階級対立からくる国民の不安動揺を、対外積極行動によって懐柔鎮静せしめようとし、ベトナム侵略をすすめ、日本への勢力拡大に力を注いでいる。
公使ロッシュは、窮境に立つ幕府を援助して恩を売り、対抗者のイギリス勢力を日本から駆逐しようとして、しきりに画策しているのだ。
これに対して、イギリスは、幕府がすでに日本統治の実力を喪っていることを嗅ぎつけ、次代の実力者としての薩摩と手を握り、これを援助してフランスに対抗しようとしている。
生糸の専売などやられては、自由貿易を主張し、幕府の貿易独占策を強く非難しているイギリスの面目は丸つぶれだ。
ロッシュと小栗との間に進められている案に対して、イギリスがいち早くはげしい論難を浴せ、そのためにロッシュの計画は立往生をしている。
益満はむろん、詳しい内容は知らない。ただ、前夜、薩摩邸の重役たちが、土蔵相模の別荘で会食した際に陪席して、ちらりと耳に入れただけである。
その時、聞き知った話のうち、イギリス側と薩摩との提携については何も言わず、ただ小栗とロッシュの計画についてだけ、鉄太郎に話したのである。
「小栗の計画は、正しく国を売るもの。長州がどうあろうと、それは国内の問題だ。国内の紛争は、わが国だけで納めるべきだ。外国の力を借りて、軍事力を拡大して、片をつけようなどとは、政治の根本を忘れた考え方じゃありませんかね」
「そう、その通りだ」
「山岡さん、小栗は極秘の中に動いている――いつかあんた方は私を薩摩の隠密だと疑ったことがあった。隠密がこんなことを、幕府の直臣に話しますかね」
「いや、私は、疑ったことはない。それにしても、よく話してくれた、忝《かたじけ》ない」
「どうします、山岡さん」
「幕臣と言っても、下っ端の私にはどうしようもない。義兄の高橋に話してみよう。何としても聞き捨てにはできぬことだ」
車町で益満と別れた鉄太郎は、急いで鷹匠町の家に戻った。
足音を聞いて出てくるはずのお英も、お桂も、姿を現さない。
――子供をつれて、隣に行っているのだろう、
鉄太郎は、下唇を少しつき出した。誰もいないのに、独りで照れているのだ。
家中に何も喰べるものがなくなると、みんなで隣の高橋家に転がり込んで、居候になっいる。この頃は珍しい事ではない。
鉄太郎は、庭伝いに高橋家に行った。
「あなた――」
と、走り出てきたお英が、黒紋付の喪服を着ていた。むろん、義姉のものを借用したのだろう。まだ暑いのに袷《あわせ》なのだ。
「どうした、誰か――喪くなったのか」
と、少し愕いて問い返した時、義兄の精一が、これも喪服姿で出てきた。
「鉄太郎、どこへ行っておった――いや、それを詮議する時ではない。早速、喪服に着換えるがよい」
「はあ」
「聞け、大坂において、上様がお隠れになったのだ」
――あ、
さすがの鉄太郎も、粛然と、襟を正す。
「去る二十日のことだ。まだ、公表はされていない。御世嗣が決っておらぬからな」
鉄太郎も借物の喪服で、高橋家の仏間に入り、大樹(将軍)の仮の位牌の前にぬかずく。
「義兄《あに》上、しばらく、お話ししたいことがあります」
鉄太郎が、精一に言った。
「後にせい、今は――」
「いや、天下の大事」
「上様|薨去《こうきよ》の大事の前に、何を――」
「お聞き下さい、小栗上野殿が、国を売ろうとしております」
鉄太郎は、益満から聞いた話を伝えた。
「義兄上は御存知でしたか」
「小栗殿がロセツとこの頃、特に親密にしておることは知っていたが、まさかそのような恥知らずの企みをしておろうとは」
「何とか、防止の策を講じなければなりますまい」
「微力ながら、この高橋、同志の者に説いて、全力をつくしてみよう」
「お願いします」
「これより、お城へ参るところだ。早速に手を打ってみる」
精一はそのまま城に上っていった。
将軍の死は、内密にしてあるとは言え、間もなく一般に知れ渡るに違いない。
征長軍が敗北をつづけている現在、世嗣も決めずに将軍が急逝したとあっては、一体、幕政はどうなってゆくのか。
誰もかれも、暗然たる面持であった。
庭の木立の上を、初秋の風が蕭々《しようしよう》として渡ってゆく。
家茂は、自ら将軍になりたくてなった訳ではない。
弘化三年(一八四六)紀州徳川|斉順《なりのぶ》の長子として生れた。幼名菊千代、嘉永二年、わずか四歳で紀州家第十三代の当主となり、慶福と名乗った。
将軍家定は病弱で子が生れない。
その後嗣として、最も有力だったのが、紀州慶福と一橋慶喜であったが、井伊直弼が大老職につくと、大奥の勢力と連繋して、安政五年六月、慶福を将軍世嗣と決定。
家定が七月七日死亡すると、慶福は、家茂と改名、十月、第十四代将軍の位についた。
時に十三歳、何も分らずに、擁立されてしまったのである。
実際の政治は、大老井伊が独断専行した。
孝明帝の妹和姫を正室として迎えたのも、井伊と、その後をついで政権を担当した老中安藤信正、久世|広周《ひろちか》らの策謀である。
文久元年(一八六一)十一月、和宮は江戸に到着、翌二年二月、婚儀が行われた。家茂十七歳である。
その翌年、家茂上洛。
以後、この若い、虚弱な将軍は、内外の紛争動乱の真只中にまき込まれ、心身ともに極度にすりへらされた。
咽喉が弱く、胃腸障害もあり、その上、脚気にも悩まされていた。
長州再征が思うようにゆかず、しきりに敗報が来るので、病床に臥しながら、はたの見る眼も痛ましいほど焦慮していたと言う。
七月二十日、ついに、大坂城内で、息をひきとった。
二十一歳。
閣老たちは、喪を秘して、二十八日、慶喜を相続人として朝廷に奏上、翌八月二十日に至ってようやく、喪を公表した。
八月二十日まで一橋慶喜がごねて、容易に徳川宗家の相続を承諾しなかったからである。
奇妙な噂が流れた。
――慶喜が家茂を毒殺した、
と言うのである。
むろん、根を葉もない嘘であったが、少からぬ人が、それを信じた。それほど、上下に疑惑が充満し、不安が横溢していたのだ。
家茂死去の当時大坂にいた勝海舟が、当日の様子を記している。
――医官松本良順より隠密の報あり、将軍危篤、ついに死去ありと。余、この報を得て、心腸寸断、ほとんど人事を弁ぜず、忽ち思う所あり、払暁登城す。城内寂として人無きが如し、余最も疑う。奥に入れば諸官充満、一言も発せず、皆目を以て送る。惨憺悲風の影況、ほとんど気息を絶せんとす。余、大いに勇を鼓し、後事を談ずれど答うる人なし、ついになお奥に進み入り、閣老板倉稲葉両氏に面晤《めんご》す。両閣老も痛心、余涙さんさんたるのみ。
大坂城内の茫然自失している状態が、目に見る如くである。
家茂の後嗣は、何としても早急に決定しなければならない。
老中板倉伊賀守勝静は、前福井藩主松平慶永(春嶽)と協議して、一橋慶喜を推すこととした。
二人は慶喜の旅宿である御池御殿に赴き、宗家を嗣ぐことを懇請したが、慶喜は容易にうなずかない。
「いや、私は到底その任ではない。尾張家又は紀井家から将軍世嗣を迎えた方がよい。その場合には、私は喜んで補佐の任に当ろう」
と言う。
慶永が反論した。
「尾張殿はすでに隠退されておられます。当主元千代殿は、わずかに九歳、紀州家の茂承殿は二十三歳だが、からだが丈夫ではない。どの点からみても、一橋殿こそ最適任と思いまするよ」
「しかし、私に対しては、幕府の内外に、反対の意見を持つ者が多い。殊に大奥では私が水戸家の出であることに対して理窟抜きに悪感情を持っているらしい」
慶喜の父である烈公水戸斉昭が、大奥から忌み嫌われていたことは周知の処だった。
「反対論には大した根拠はありませぬ、それはわれわれが説得致しましょう」
いろいろに説いたが、慶喜はどうしても、うんと言わない。
慶喜の前から退去した時、板倉が慶永に向って、
「これはとても見込みがありませぬな」
と嘆息すると、慶永は首を横にふった。
「なに、あれは一橋殿の性癖なのだ。いやだいやだとさんざんゴネた上、いや応なしに押付けられた形で、最後に承諾する気持は充分にある。押してみることだ」
「では、原市之進をつついて、一橋殿に説かせてみましょうか」
「そうだ、原がよい。あれなら一橋殿の性質をよくのみ込んでいるし、第一、己れの主君を将軍にしたいと念願している」
原市之進忠成は、一橋家の側用人で慶喜が最も信頼している腹心、智謀卓抜の策士として知られていた。
板倉が原を呼び寄せて話すと、原は勿論、慶喜の将軍襲職に賛成であるから、松平容保、松平定敬にも説いて、こもごも慶喜にすすめる。
慶喜は、さんざん焦《じ》らした揚句、
「将軍職はどうしてもお受けすることはできぬが、徳川宗家を嗣ぐことは、承諾してもよい」
と言う。
七月二十八日、幕府は、将軍家茂の名で、慶喜を相続人とし、且つ名代として長州へ出陣せしめることを朝廷に奏請し、翌二十九日、勅許を得た。
八月二十日、家茂の喪を公表。
この間、慶喜は将軍襲職を執拗に断りつづけた。
「どうしても、私に将軍職を嗣げと言うのか、よろしい、もし諸大名を会同して、その衆議によって推戴されるなら、お受けしよう」
強引に迫る慶永に対して、とうとう、慶喜は、そう答えた。
慶喜が内心、将軍たらんことを望んでいたことは疑いない。彼は非常に自信の強い才物であり、自分以外に将軍職を果たし得るものはない、結局、将軍職は自分の上に落ちてくるだろう――と見透して、成るべく有利な条件でこれを引受けるように芝居を打っていたのである。そして慶永はそれを充分に見抜いていたと言えよう。
ちょうどこの時、先に蟄居を命じられて洛北の岩倉村に幽居していた岩倉具視は、薩摩藩の大久保一蔵らと気脈を通じて倒幕機会を窺っていたが、将軍襲職問題がこじれているのをみると、好機到来とばかり、大いに同志の公卿を煽動した。
これに応じて八月三十日夕刻、中御門経之・大原重徳・千種有任ら二十二人の公卿が参内して、連名の上申書を提出し、御学問所で天皇に拝謁し、意見を具申した。
征長軍の解兵、諸大名召集、朝政改革を内容としたものであり、王政復古を目的とするものである。
だが、孝明帝は、もともと公武合体論者なので、この時期尚早の論は受け容れられず、かえってこの二十三人の公卿は閉門や差控えを命じられ、岩倉に対する監視はより厳重になった。
朝廷においても、将軍不在はこれ以上永びかせるべきではないとして慶喜に内意が下る。尾州、紀州、福井、加賀、会津、桑名、土佐、熊本、久留米、松山、津山等の諸藩はいずれも慶喜を推す。
慶喜は、ようやく承諾の意を明らかにし、十二月五日、禁中において将軍宣下の式が行われた。
慶喜の将軍襲職に対して、世人がどんな感じを持ったか、次の狂歌が最もよくそれを示している。
――大樹をば たをしてかけし一橋 渡るもこわき徳川の末
――二つ箸持つとて喰えぬ世の中に 一つ橋では喰えなかるらん
慶喜が才智の人であることは誰しも認めていた。が、同時に、敢為果断の気象に欠けていた事も、人々は見抜いていた。
彼は家茂の死後、その代理として長州征伐に進発しようとした。将軍になる前に武勲を表して威名を高めようと考えたのであろう。だが出陣の直前、小倉城陥落、小笠原長行遁走の敗報が伝えられると、忽ち意気阻喪して、出陣の気力を全く失ってしまった。直ちに、朝廷に頼み込み、将軍の死を口実に、
――暫時《ざんじ》、兵事見合せるよう、
と言う御沙汰書を得た。
このいざと言う場合の急激な気力喪失癖は、慶喜の生涯を失敗に終らせている。
[#地付き]〈山岡鉄舟(一) 了〉
〈底 本〉文春文庫 昭和五十七年三月二十五日刊