南木佳士
阿弥陀堂だより
なだらかな山の中腹にある阿弥陀堂の前庭からは六川集落の全景が見渡せた。幅三メートルばかりの六川の向こう岸に十戸、こちら側に十二戸。朽ちかけた欄干の根に雑草のはえる古い木橋で結ばれた、合わせて二十二戸のこぢんまりとした山あいの集落である。
谷中村は七つの集落からなっている。上流で六つの沢が合流して六川と名づけられた渓流が作られ、これに沿って七つの集落が上《かみ》から下《しも》へ並んでいるのである。
六川が町の本流に注ぐまでには七つの急な瀬があり、各々の集落はそれを境にしたわずかな平地を中心に形成されている。国道から分かれた村道は車一台分の幅員のみで、すれ違いはカーブのふくらみか橋でしかできない。最も高いところにある六川集落を過ぎて登るといつしかアスファルト舗装も切れ、車の通れぬ林道になってしまう。
「こんなところだったか」
阿弥陀堂の庭にしゃがみ込んだ上田孝夫は大きく上体を反らせてため息をついた。
これまでに何度も帰郷はしていたのだが、後半生の定住の地と決めてあらためて見渡してみると、いかにも狭く、貧相な集落であった。瓦屋根の家は一軒もなく、すべての家のトタン屋根は例外なく赤錆に侵蝕されていた。薄茶色に乾ききった土壁の崩れた廃屋が向こう岸に三軒、こちらに二軒。
昨日、妻と二人で集落全戸にあいさつ回りをしてきたのだが、老人の独り暮らしの家が九軒。老夫婦だけが五軒。老夫婦と嫁の来ない長男のいる家が三軒。一軒だけ、向こう岸の神山さんの家は老夫婦と長男夫婦、それに町の高校と中学に通う娘がいて、まるで無形文化財のように一昔前の村の一般家庭の様子が保存されていた。
「ここで暮らすのね」
孝夫の横にスカートの上から膝を抱えて腰を沈めた妻の美智子が、白髪の混じり始めた前髪をかき上げながらしみじみと口にした。
彼女の白髪は病を得た頃から目に見えてその数を増していた。髪ばかりでなく、ふくよかだった頬のあたりも脂肪の厚みをうしない、うるおった目が放つ艶やかな光も消えて久しかった。それでも、ここで暮らすのね、ともらした口調の中には、なにかがふっきれたあとの枯れた諦念が込められているように思えて、孝夫は久しぶりに心なごんだ。
周囲を山に囲まれた六川集落であるが、春の訪れを知らせる風は川から山の斜面に沿ってゆるやかに吹き上がっていた。木々の葉は緑の気配を見せ始めたばかりの三月末で、名の知れた花はまだ咲いていない。風が春の先ぶれだと知れるのは、ぬくもった腐葉土の香りを含んでいるからである。南に向いた斜面に建つ阿弥陀堂の庭の端にはフキノトウが枯れた雑草の下から鮮やかな若草色の芽をのぞかせていた。
「ゆっくりしよう」
孝夫はとなりの美智子にか、自分自身にか分からないが、長く吐き出した息にまぎらせて声をかけた。
ゆるんだ口元から、この数年間のつらかった記憶の堆積物が崩れてあふれ出そうだった。しかし、孝夫にとっても美智子にもまだ十分に発酵していない出来事ばかりだったので、語り合うには生臭すぎた。孝夫はあらためて唇をきつく噛んだ。
「おや、どなたさんでありますか」
ふいにうしろから声がした。
極端に腰の曲がった老婆が顎を突き出して立っていた。孝夫と美智子は立ち上がって礼をした。
昨日、集落内の家々を回って引っ越しのあいさつをしたのだが、やれ上がれ、お茶を飲んでけといった具合で、最後の家の戸口に立ったときはすっかり陽が暮れていた。小学校から中学に上がる時点で村を出て、社会人になってからはお盆のときくらいしか帰省したことのない孝夫の帰郷を、過疎に悩む集落のどの家の人たちも素直に喜んでくれた。それに、嫁さんが今度から診療所を担当する内科の医者なので、どんな人物なのか見極めておこうといった好奇心も隠せない様子だった。
阿弥陀堂へ登る路の両側には丈の高い雑木林が迫っており、夜になると気味の悪い暗さになった。阿弥陀堂守のおうめ婆さんへのあいさつは明日にしようということになったのだった。孝夫は暗い山路も平気だったが、美智子が怖がったので、また不安発作でも起こされると大変だと思い、
「まあ、おうめ婆さんは世捨て人みたいなもんだから、俗世のあいさつがおくれたってどうこういう人じゃないよ、きっと」
と、美智子を安心させたのだった。
朝、めしを食べ終えるとすぐに手土産のお茶の包みを持って阿弥陀堂に登ってきたのだが、閉じられた障子に声をかけても返事はなかった。
阿弥陀堂は集落で唯一の瓦ぶきの建物だったが、屋根には苔とペンペン草がはえ、銀色の瓦もすっかり色あせ、いたるところが欠けていた。破れ障子を開けると六畳のささくれだった畳の部屋があり、正面の壁の棚に荒く彫られた阿弥陀仏の木像が坐っている。内部の様子は孝夫が小学生の頃、春と秋の彼岸に阿弥陀堂で行なわれる念仏講に祖母に連れられて出たとき見たものである。そして、気がついてみればその頃から堂守はおうめさんであり、彼女は当時すでに村人たちからおうめ婆さんと呼ばれていた。今年四十三歳になる孝夫がまだ小学生だったのだから三十年以上前の話である。
美智子にそんな話をしてやりながら、ここは眺めがいいので少し待ってみようと両膝に肘をあずけてかがんでいたところにおうめ婆さんが現われたのだった。
おうめ婆さんは黒いもんぺに手縫いらしきあせた灰色のブラウスを着て、頭に谷中村農協の手拭いをかぶり、右手には太い桑の木の杖をついていた。
「どなたさんでありましたかのう」
頭を低くした孝夫と美智子を見上げながら、おうめ婆さんは丈夫そうな白い歯を見せ、小さな顔を皺だらけにして笑った。
「孝夫です。上田せいの孫の孝夫です。このたび村に帰ってまいりましたのでごあいさつにうかがいました。これは妻の美智子です」
美智子とそろって再び一礼すると、おうめ婆さんの陽に焼けた首筋が見おろせた。ほとんど九十度に腰が曲がっているのである。
「まあ、ちょっくら上がっておくんなんし」
おうめ婆さんはうしろを向き、阿弥陀堂の破れた障子を開けた。
孝夫はお茶の包みを渡すタイミングを逃した。二人は上がり口の角の丸くなった石に足をのせ、畳のへりに腰をおろした。
おうめ婆さんは阿弥陀堂の横に回り、茶室のにじり口のような狭い木戸を開けて座敷に入ってきた。室内の様子は孝夫の記憶にあるとおりの簡素なものだったが、木戸の横に置かれた茶だんすがかろうじて生活の跡を感じさせてくれた。
おうめ婆さんは割れたガラスを黄色っぽく変色した絆創膏《ばんそうこう》で貼りとめてある茶だんすからアルマイトの急須を出し、錆の出たステンレスのポットの湯を注いで茶をいれてくれた。
「きのうなの湯だから、ぬるいかも知れねえでありますが」
つぎのあたったもんぺのひざを古畳の上に滑らせながらいざり寄るおうめ婆さんの持つ湯飲みには、たしかに湯気は立っていなかった。
音を立ててすすってみると、微かに番茶の味がするぬるま湯にすぎなかったが、孝夫はいかにもうまそうに口元を引き締めて飲んだ。湯飲みを唇につけたまま助けを求める顔をしていた美智子も孝夫の真似をして急いで奇妙な笑顔を造った。
「おせいさんがだめになったのはいつの頃だったでありましたかなあ」
おうめ婆さんはぬるま湯をいかにも熱そうに一度吹いてから、喉に音をさせて飲み込んだ。まるでビールの一気飲みのように、艶の出た万古焼《ばんこや》きの湯飲みを口にあてたまま曲がった腰を三十度ばかり起こし、あとは顎を突き出して飲み干したのだった。
孝夫と美智子はほとんど感動を覚えながら互いの顔を見つめ合った。これだけまずい茶を、これほどまでうまそうに飲んで見せる人には出会ったことがない。それと、山仕事のあとなのか、手拭いで首の汗を拭きながら必死に水分を補給している老婆の姿には、山の中でしぶとく生きる野生動物のたくましさすら感じられたのだった。二人は久しぶりに愉快な気分になった。
「祖母が死んでもう五年になります。八十一歳でした」
孝夫は半身になっておうめ婆さんの方を向いた。
「お葬式はよく晴れた日だったわね」
美智子が前方に幾重にも重なる山脈にまぶしそうに目をやった。
「おせいさんはわしより十も若かったでありますよ。苦労が身に付いた人だったでありましたなあ」
おうめ婆さんも美智子の脇の下からのぞき見て、川向こうの低い山の中腹にある集落の墓地に向かって手を合わせた。
「そうすると、おうめさんは九十六歳になるんですか」
孝夫は言ってみてから驚いた。
丸みを保つ頬にはまだ艶があり、春の午前の陽を反射する目は活きいきとして声にも高音に独特の張りがある。極端な腰曲がりを別にすればとても九十歳を過ぎた老婆には見えない。小学生の頃、祖母に連れられて来て会ったことのある阿弥陀堂のおうめ婆さんの残像となんら変わったところはなかった。
「九十六だか七だか、わしにもよく分からねえでありますよ。数えで九十八にはなってると思うでありますが。九十を過ぎてっからはめんどうで歳を数えることもなくなったであります。人が言ってくれる歳がわしの歳だと思うことにしているであります」
おうめ婆さんは話しながら、孝夫が畳の上に置いた湯飲みに新たな茶を注いでくれた。
孝夫は左手に持ち続けていた茶の包みを思い出し、
「これ、つまらないものですがごあいさつのしるしに」
と、差し出した。
「これは、これは、ごていねいなことであります」
おうめ婆さんは茶の紙袋を両手で上げて受け取り、膝をずって正面の仏像の安置された棚に置いた。
村人たちから阿弥陀さんと呼ばれる黒く煤けた仏像は、荒く削られた円空仏の趣があった。高さ五十センチほどの座像で、幅広の顔はふくよかな微笑をたたえていた。阿弥陀堂の仏壇には他に緑青の噴き出た真鍮製のロウソク立て、線香立て、お|※[#「金+侖」]《りん》が仏像とおなじ色に黒ずんであるだけだった。
「奥さんは今度診療所の先生になられるそうでありますなあ」
おうめ婆さんは低い姿勢で美智子の顔をのぞき上げながら急須を傾けていた。
「ええ。ちょっと病気をしましたので、月、水、金曜の午前中だけということでやらさせていただきます」
美智子の目はやはり鈍角の頂が連なる遠い山脈を見やっていた。
彼女のわけありげな深呼吸を聞き取ってか、おうめ婆さんはそれ以上の質問をやめた。
空は春特有のぼんやりとした青さで、中空を小鳥の群れが横切っていた。いつしか阿弥陀堂の三人はおなじように視線を上げて、淡い雲をかぶった東京の方の一段高い山をながめていた。
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上田孝夫が信州の谷中村を出たのは中学に上がる春のことだった。
役場に勤めていた母は孝夫が三歳のとき肺結核で死んだ。となり村から婿に入っていた父は零細な農業に飽き、孝夫が小学三年になったばかりの春のよく晴れた日、ふいに家を出た。その後三年間、父からの便りはなかった。
独りっ子の孝夫は祖母の手で育てられた。母が死んでから、三度のめしや身の回りのことは祖母がやってくれていたので、父がいなくなっても孝夫の生活に大きな変化はなかった。金はもとからなかったので、彼の家の生計はほとんど自給自足で成立していた。死んだ母が当時としては珍しい生命保険に入っていたので、最低限の現金はその貯金を取り崩して使っていた。
孝夫の小学生時代の思い出は狭い田と急斜面の畑と奥深い山での厳しい労働が核になっている。合わせて一反に満たない棚田が六川の向こうとこちらに数枚ある。春になれば重い備中ぐわに振り回されながら田起こしをした。しろかきや田植え、稲刈りなどは近所の家々との共同作業になったが、田の草取り、水見など、小学生の孝夫に課せられた仕事は数え切れなかった。
ナス、トマト、キュウリ、ホウレンソウ、ニンジン、ゴボウ、インゲン、カボチャ、ジャガイモ、サツマイモ……。これらを山の急斜面の、足を滑らせれば六川まで転げ落ちそうな畑にへばりついて作り、収穫し、秋には山深く入って、冬越し用の薪や|ぼや《ヽヽ》を伐り、家まで背負ってくる。
要するに孝夫の小学生時代の生活は、生きるためにしがみつかねばならない零細な農業の一人前の担い手として肉体労働に明け暮れていただけだったのである。幸い、祖母は学校を休ませてまで孝夫をこき使うようなことはしない人だった。
きつい労働から解放される唯一の場所として、孝夫は学校が好きだった。小学校は六川集落から二キロばかり下った森平集落にあった。ここは谷中村の中では最も平地の面積が広く、戸数も百戸の上あり、役場、郵便局、診療所、雑貨屋などがそろった村の中心地だった。孝夫の時代はまだ子供の数が多く、一学年四十人が二クラスに分かれていた。今では十八人の一クラスだけになってしまっているそうである。
孝夫は勉強のできる子だった。家では教科書など開いたことはなく、またそんな時間的余裕もなかったのだが、たまに行なわれるテストの成績は常に学年で一番だった。農作業のまたとない息抜き。孝夫にとって小学校の授業はそれ以上のものではなかった。畦塗《あぜぬ》りやしろかきの苦労を忘れて理屈の中で遊ぶ。それが無性に楽しかった。ふだん祖母から、
「理屈っこきの男ほど始末の悪いものはねえ。おめえの父ちゃんがそうだった」
と、聞かされ続けているものだから、孝夫は知らぬ間に寡黙な少年になっていった。
祖母や独り息子の自分を捨てた父のようには死んでもなりたくなかったので、生来理屈好きであるのを意識しながら、家にあっては黙って物事を実行する男であろうとつとめていた孝夫であった。
その頃、目立った産業のない谷中村の人々の生活はどの家も貧しかったが、中でも孝夫の家庭の貧困は群を抜いていた。正月元旦の膳には鯉料理を並べるのがこの村の古くからの風習だが、鯉の買えない家は六川で採れたハヤを食べた。それすら購入できずに、正月から缶詰のサバの水煮を食していたのは、六川集落に限ったとしても、孝夫の家と阿弥陀堂守のおうめ婆さんくらいのものだった。
谷中村の七つの集落にはそれぞれに阿弥陀堂があり、堂守がいる。いずれの集落でも堂守は身寄りのない老婆の役目なのである。集落全体の仏壇である阿弥陀堂に住んで、村人の総代として毎日花や供物をあげ、堂の掃除をする。その代価として村人は米や味噌をとどけてやる。いつの時代から始まったのか分からないが、これは生活保護によく似た村の福祉制度なのである。
堂守が死亡したとき、次の堂守を決めるのは各戸の代表が集まる阿弥陀堂での通夜の寄り合いである。そこで新しい堂守に指名された老婆が喪主となって葬儀が施行される。どんなに貧しく、老いぼれていても、男が堂守に指名されることはない。なぜなのか、と祖母に問うてみたが、昔っからそうだだ、とそっけなく返答された思い出がある。学校で習う理屈は、祖母の、昔っからそうだだ、という村の公理の前では、なんだか薄っぺらで頼りにならないものに感じられてしまったことを孝夫は今でも鮮明に覚えている。
孝夫が小学生の頃、おうめ婆さんはすでに立派な老婆であり、身寄りはなく、十分に貧乏で、それなりにふさわしい六川集落の阿弥陀堂守であった。当時、二十二戸の六川集落に廃屋はおうめ婆さんの板ぶき屋根に石を載せた平屋の一軒だけで、毎月、各戸の仏様の命日には阿弥陀堂に登る人も多く、堂守の仕事はけっこう忙しかった。
昭和三十年代の半ば頃から少しずつ集落を出て行く人たちが目立ち始め、廃屋が増えていった。阿弥陀堂に祭られる仏様は集落全体の祖先たちという曖昧なものだったので、村人たちの考え方が合理的になってゆくにつれて、それぞれの家の仏壇に手を合わせるだけでよしとする者が多くなった。三十年代も後半になると、春と秋の彼岸以外に阿弥陀堂に登る人はめっきり少なくなっていた。
ちょうどそんな時期、三年間連絡のなかった父から手紙が来た。東京郊外で鉄工所に勤め、いくらか落ち着いたので、中学からは東京に出て来ないか、と誘う内容であった。
父に会いたいとも、ましてや共に暮らしたいなどとは思いもしなかったが、「東京」の二文字には抗し難い魅力があった。夜、祖母が寝ついてからひそかに社会科の地図帳を開き、山で囲まれた茶色の谷中村と、鉄道路線で埋めつくされた緑色の東京を見比べていると、孝夫は次第に荒く乱れてくる呼吸をどう制御したらいいのか分からなくなった。
このまま村にいても、中学を出たら家を手伝い、貧乏なまま老いてゆくだけ。もしかしたら川上の文三さんみたいに嫁ももらえないかも知れない。
六川集落の一番|上《かみ》に住む文三さんは二人の兄が都会に働きに出てしまい、年老いた両親と田畑を耕していつしか五十歳になってしまった。谷中小学校で一番の秀才だったそうだが、家が貧しかったので上の学校には行けず、ずっと農作業に従事し続けてきた。路で文三さんとすれ違うと必ず、勉強はちゃんとやれよ、と声をかけられる孝夫であったが、土ぼこりにまみれ、陽に赤黒く焼け過ぎた貧相な禿げ頭を見ると、自分の将来の姿を見せつけられているようで、子供心にも暗然たる思いを抱いたものだった。
文三さんは小さい頃、登っていた柿の木の枝が折れて転落し、下にあった石で金玉をつぶしてしまい、それで嫁がもらえないのだ、と祖母は話してくれた。しかし、この話が嘘らしいことは彼女の目に浮かぶしらじらしい涙で知れた。
「東京に行きてえ。このまま村にいて文三さんみてえにはなりたくねえ」
父からの手紙が届いて三日目の夜、孝夫は考えあぐねた末の結論を囲炉裏端でひね小豆を拾う祖母にぶつけてみた。
「文三さんはそういうかわいそうな人でなあ、おめえは顔もしまって男らしいし、嫁が来ねえなんてわけはねえぞ」
祖母はなおも嘘っぽい涙を流し続けながら孝夫を説得した。
小学校に上がったばかりのとき、母の死因をたずねた孝夫に祖母は涙を流しながら、父ちゃんの悪い病気がうつっただ、と耳打ちした。父にたしかめてみると、
「婆さんが泣いて言うことはみんな嘘だ」
と、ぶっきらぼうに横を向いてしまった。
無口な分だけいつもへらへら笑っている気弱な父だったが、山仕事に出かける地下足袋のコハゼを締めながらきっぱりと言い放った横顔には威厳があった。後にも先にも、父が祖母を批判したのはこのとき限りであった。
ずっと後に知れたのだが、文三さんに関する祖母の証言はやはり嘘だった。秀才だった文三さんは貧しさゆえに家に入ってみたものの、向学の志やまず、東京に出て働きながら夜学に通っていたが、胸を病み、仕方なく谷中村にもどってきたのだった。当時は肺結核の特効薬はなかったので、家で寝ているしかなく、嫁をとるべき二十代を文三さんは病人として暮らしてしまったのだ。
「おめえはなあ、花見百姓になりそうで、おらあ心配してただが、やっぱり東京なんぞに行きたがるようになっちまっただな」
祖母は掌に拾い込んだ虫の喰ったひね小豆を囲炉裏に投げ入れた。
もう泣いてはいない彼女の怒りを表わすかのように、囲炉裏の火が鋭くはぜた。
「花見百姓ってなんだ」
孝夫は初めて聞く言葉だった。
「花見百姓にゃあ嫁に行くなってな。昔っから村の女衆の間じゃそう言われてただ。桜の花ばっかり見てて田起こしもしねえような男はろくなもんじゃねえっつうことだ」
祖母はザルの中の小豆に向かって悪態をついた。
囲炉裏のある六畳と土間の台所、それに奥の八畳。どの部屋の天井も黒い煤で厚く覆われており、四十ワットの裸電球の赤っぽい乏しい光が、その黒に一段と不気味な深みを与えていた。昔、蚕室《さんしつ》として使われていた二階の八畳は父の部屋だったが、今では荒れ放題の物置で、空間はクモの巣に占領されている。
黙ってしまうと家の中には六川の流れる音だけが通り過ぎていた。
「どうしておれが花見百姓なんだ」
祖母に逆らったことはめったになかった孝夫であったが、「東京」が彼をそそのかしていた。
「おめえが一年生に上がって間もねえとき、学校から帰ってきてなあ、桜の話ばっかりしてたのを覚えてねえだか。窓から校庭の桜が散るのを見てて、あんなきれいなもんは見たことがねえってうるさくしゃべってたろうが。ああ、よわった。この子は花見百姓になっちまうんじゃねえかと案じていたら、やっぱりそうなっちまった」
泣くのをやめた祖母の語りは開き直った低い声になっていた。
祖母は花見百姓の存在を頭から否定しているわけではなさそうだった。人は放っておくと花見百姓になってしまうものだからくれぐれも注意しなくてはならない。それなのにおまえはやはりなってしまったか、という老人らしい諦めの口調が多分に混じっていた。
「行ってもいいんかい」
孝夫は念を押してみた。
「おめえの好きにすりゃあいい」
ひね小豆を拾い終えたザルをゆすってゴミを吹き飛ばしながら、祖母は目を閉じていた。
六川集落から東京へ出るにはまず役場のある森平集落まで二キロの路を歩いて下り、そこからバスに乗って単線の駅に出る。二両編成のディーゼルカーで一時間かけて本線の駅に着き、そこで急行に乗り換え、四時間余で上野に到着する。
出発の朝、祖母は森平のバス停まで見送ってくれた。
「休みにゃあ帰って来るだぞ。おめえは腹が丈夫じゃねえから百草丸を忘れずに飲むだぞ」
祖母は別れぎわに曲がった腰を伸ばしてそう叫んだ。
孝夫がバスに乗り込んで後ろの窓に顔をつけて見ると、祖母は振り向くでも手を振るでもなく、トボトボと六川集落への道を登っていた。その姿があまりにも小さかったので、孝夫はたまらなくせつなくなった。
V字形に切れ込んだ谷中村はちょうど春の緑に包まれ始めた季節であったが、高い山の中腹にはまだ斑《まだら》雪が残っていた。村人に農作業の開始を知らせる逆さ馬の雪型が。
孝夫はバスの窓を開け、木々の新芽の香りがする冷気を胸一杯に吸い込んだ。爽快、不安、期待、後悔……。様々な感情が混じり合って、それでなくても赤い孝夫の頬をさらに紅潮させていた。口笛を吹いてみたかったがうまく唇をすぼめられず、音は出たものの細かく震えてしまった。
父は東京都下の、まだいたるところに畑の点在する新興住宅地に住んでいた。四畳半と六畳に狭い台所の付いたアパート。トイレはあったが風呂はなかった。
東京というところはビルに囲まれた華やかで騒々しい場所だと覚悟はしていたのだが、春風に畑の土ぼこりが舞い上がり、農家のニワトリが鳴く環境は孝夫を落胆させるとともにかなり安心させもした。そしてもう一つ、彼を安堵させたのは父の快活さであった。鉄工所の重労働で鍛えられたらしい全身の筋肉を思う存分ゆるめて晩酌の焼酎を飲んでいた。あけっぴろげな笑顔も、晩酌の習慣も谷中村にいた頃は見られなかったものだった。
ただ、一つだけ孝夫ががっかりしたのは、父が女と住んでいたことだった。太っていて喜怒哀楽を表に出さない顔をしていたが、働くことだけはよく働く中年の看護婦で、スミ江という名だった。二人はすでに入籍していた。孝夫にとっては新しい母になる人だったが、父は孝夫に彼女を母と呼ぶように強要したりはしなかった。孝夫も育ての親は谷中村の祖母だけだと確信していたから、得体の知れない女を母さんなどと呼ぶつもりはなかった。そんなわけで、以後、孝夫はどうしても彼女の名を口にしなければならないときはスミ江さんと呼ぶようになった。
スミ江さんの勤務は夜勤があったり、平日が休みだったりでよく分からなかったが、いなくなるときでも食事は必ず作っておいてくれた。アパートから歩いて五分ばかりの中学校に入学した孝夫は比較的早く新しい環境に慣れた。
それから六年間、孝夫はこのアパートで暮らしたのだが、家庭生活の上では特記すべきことは起こらなかった。六畳の部屋で父とスミ江さんが寝起きし、四畳半は食事の場にもなれば孝夫の勉強部屋にもなった。中学一年の秋に東京オリンピックがあって、なにかスポーツをやってみたくなった孝夫はサッカー部に入った。
途中入部だったが、部員全員で五十メートル競走をしたとき、孝夫は三年生を抜いて一位になったこともあり、左ウイングのレギュラーポジションを得た。これで自信がつき、勉強もそれなりに頑張ってみたところすぐに上位になり、高校は学区一番の都立の進学校に進んだ。
この間、春、夏、冬の長期休みには必ず谷中村に帰っていた。そのとき、父は祖母に渡すようにといくばくかの金を持たせてくれたのだが、彼女は受け取らなかった。最初の帰省のときからそうだったので、孝夫は祖母に父が再婚している事実を告げそこねてしまった。
祖母はその金を孝夫名義の郵便貯金にして積んでくれていた。彼女の態度がかたくななままであるのを父に話すのもためらわれたので内緒にしていたから、父は休みに入るたびに孝夫に金を託していた。
孝夫が帰省すると祖母は顔中を皺だらけにして喜び、東京にもどる日は、
「こんなにせつねえ思いをするだら、ずっと一人の方がまだましだ」
と、下唇を突き出して涙をこらえながら、列車の中で食べるようにと暗い台所で塩むすびを握ってくれていた。
孝夫が長く谷中村に滞在したのは高校三年の秋だった。その頃、いくつかの都立高校では大学から飛び火した学園紛争が起こり、全校集会が開かれて授業は中止になった。孝夫の通う高校でも連日クラス討論会が開催され、一部の活動家にあおられた抽象論がとびかっていた。現在の大学受験体制を見直そうというあたりまでは理解できたが、世界同時革命だとかウーマンリブをどう思うかなどと問われても、孝夫はついて行けなかった。
どうせ議論をするなら、もっと地に足の着いたところから話を始めたかったのだが、誰もが熱に浮かされたようになっていて、醒めている孝夫はクラスの中で孤立した。教室にこれ以上存在していても無意味だと感じた日、そっとクラス討論を抜け出し、イチョウ並木の歩道を駅に向かって歩いていた。
「上田君」
うしろから呼び止める声がした。
おなじクラスの神谷美智子だった。
東京に来てから六年も経つのに、容貌やスタイルに田舎びた風情を色濃く残す孝夫が女生徒から声をかけられるのは極めて珍しい出来事だった。孝夫は田舎者であるのを自覚していたから、高校に入ってもあまり多くを語らない少年のままだった。信州の谷中村と東京では言葉で困ることはあまりなかったが、それでも微妙なアクセントの違いを級友から指摘されたりすると、半ば意地になって黙りこくってしまうようなところが孝夫にはあった。
「少し話してもいいかなあ」
走って追いついて来た美智子は孝夫より一歩下がったところで呼吸を整えた。
「うん」
討論会をおなじ日にドロップアウトした共犯者同士としての奇妙な連帯感を覚えた孝夫は素直に答えた。
神谷美智子はとりたてて美人でもないし、成績の良さが目立つ女の子でもなかった。しかし、色白の肌をしているので、紺色のベストとスカートの制服がクラスのどの女子よりも清楚でよく似合っていた。
「私たちの言葉って、まだ地に着いていないと思わない」
美智子は孝夫と並んだ。
彼の肩に彼女の見上げる視線があった。
「うーん」
女の子と話し慣れていない上に、いきなり本質をつく質問をされたので、孝夫はどう答えていいのか分からなくなり、頼りなく周囲を見回した。
二人はちょうど大学の前まで来ていた。長い伝統のあるこの国立大学の建物は古びた赤レンガでできており、イチョウ並木の黄色く色づいた葉とよく調和して落ち着いた秋の雰囲気をかもしだしていた。構内に先に入ったのが孝夫だったのか美智子なのか、あとでこの日の光景を思い出してみても判然としないのだが、二人は松林の中に置かれたベンチに坐った。松の梢《こずえ》の上に広がる秋の青空が快く澄んで高かった。
「なんだか言葉の遊びをやってるみたいで、いたたまれなくて」
プリーツスカートの膝の上に置いたブルーの革鞄に視線を落として美智子は言った。
「言葉って、たぶん、もっと大事に使うべきものなんだよな。たぶんじゃなくて、きっと」
クラス討論会の中でおなじ疑問を抱いていた女の子がいたのだと知ると、孝夫は実に久しぶりに肩の力が抜け、正直な感想を口に出せた。
「私の家、幼稚園のとき父が病気で死んだの。母一人娘一人で、母が高校の非常勤の講師やりながら私を育ててくれたの。経済的に豊かではないから、生活っていうのかな、そういうものをよく知ってるつもりなの。きれい事なんかじゃなくて、毎日生きてくってことは人前で話したところで誰にもアピールするようなもんじゃない、とても地味なものなんだけど、大事なものなんだって……なんだかよく分からなくなっちゃったけど」
美智子は下を向いたまま一気に話した。
「分かるよ。よく分かるよ」
東京に出てから、あるいは谷中村での生活を含めて、他人の話の内容がこれほど胸の内に共鳴したのは初めてかも知れない、と孝夫は高鳴る鼓動を抑えかねていた。
それにしても、おなじクラスで顔だけは知っていたというものの、一度も口をきいたことのなかった美智子がなぜいきなり家庭の内情まで孝夫に話したのか。
「人を信じてみたかったの」
のちに彼女はそう語った。
言葉を信じる人たちは討論をしてさえいれば安心できたみたいだけれど、自分たちの言葉が宙に浮いてしまっているんじゃないかと疑問に思ってしまった私は人そのものを信じるしかなかったの。あなたはクラスの中でも地味な存在で、私とおなじときにクラス討論から抜け出た人なので、仲間かも知れないって直感して必死に話したのよ。誰もがなにかに頼りたかった年代だし時代だったのよ。あの頃の私は今よりもずっと淋しがりやだったのよね……。
その日、孝夫と美智子は大学構内の松林で多くの事柄について話をした。孝夫はもっぱら谷中村での生活を語った。記憶に厚い蓋をして東京っ子のふりをしようと努力していた孝夫が村での祖母との暮らしを他人に話すのは初めてだった。
「その、花見百姓って、なんだかとってもよく分かる気がする」
孝夫が東京に出ると言い出して祖母に止められた話題になると、美智子はようやく笑顔を見せた。白い頬がほんのり赤くなって、伏しがちだった目が空に向いた。
「心のどこかでさあ、この花見百姓にあこがれてるとこってあるんだよな。大学も理系は物理と数学の頭がないからだめなんだけど、文系でも法学部や経済学部はまったく眼中になくて、なんとなく文学部にでもって思っちゃうんだよな」
高校三年になってからずっと胸の内でくすぶっていた進路の悩みも、孝夫はなんのためらいもなく吐き出すことができた。
父とスミ江さんが元気で働いているので、アルバイトをして奨学金をもらえば大学に行けるだけの余裕はある。いつまでも谷中村の祖母を一人にしておくわけにもいかないので、大学を出たらきちんとした職に就いて金をため、家を建てて祖母を呼び寄せる。そのためには、就職に有利な法学部や経済学部に行かねばならない。
理屈は分かり過ぎるほどよく分かっていたのだが、孝夫はなぜか文学部に漠たるあこがれを抱いていた。
文学部でなにをしたいという具体的な目標はない。高校の三年間で図書室にある岩波版芥川龍之介全集を書簡まで含めて全部読んでしまったのだが、文学でめしを食ってゆくのは心身ともに大変そうなので小説家になろうなどとは思わない。しかし、よい書き手にはなれそうもないが、よい読み手にならなれるかも知れない。小説を読んで暮らせたらどんなに幸せだろう。
進学校の三年生としては孝夫の夢は幼稚であり、どこか女の子っぽくさえあった。
「芥川の『秋』っていう小説を今読んでるの。二回目なんだけどすごくいいわよ」
話題がとぎれたとき、美智子は鞄の中から文庫本を取り出して見せた。手製らしい赤と茶色のチェックの布カバーがかけてあった。
「幌車のセルロイドの窓から信子が俊吉を見送る場面がいいよな。小説全体の肌ざわりみたいなものが全部『秋』なんだよな」
孝夫も芥川の小説の中では『秋』が一番好きだった。
「うわー、読んでるの。上田君、文学青年なんだ」
美智子にはやされて孝夫はすぐに頬を赤くした。
高校に進んでからは運動部に入るのもなんとなくおっくうだったし、早くアパートに帰ると夜勤に備えてスミ江さんが寝ていたりするので、孝夫はしかたなく放課後を図書室で過ごしていた。芥川の作品に手をつけ始めたのも、現代国語の教科書に出ていた『舞踏会』の全文を読んでみたいと思ったのがきっかけだった。
中学でもサッカー部を退部した三年生の秋からは孝夫はおなじ理由で図書室にいることが多かった。当時はまだ小説に興味はなかったし、ぼんやり坐っているのも変だったので、授業の復習や予習をしていた。勉強が好きだったわけではない。他にすることがなかったのである。
おかげで成績が上がり、中学でも上位の数名しか合格できない今の高校に入れたのだが、それはあくまでも結果であり、目的としていたわけではなかった。高校に入り、継母との微妙な人間関係の維持に息の詰まる家庭からの逃避の対象は勉強から小説に変わった。フィクションの世界に遊ぶとき、醜い現実は小さく遠のき、色あせた。
人生は一行のボードレールにもしかない。
紺色の布で装丁された古い全集の中に芥川のこんな警句を見つけると、思わず椅子から立ち上がってしまったりした。
「主人公の信子が好きになるのは従兄の小説家だったよな、たしか」
また新たな共通の話題が見つかったのが率直にうれしくて、孝夫は懸命に『秋』のプロットを思い出していた。
「そうよ。信子は学生時代は自分でも小説を書きたかったんだけど、商社員と平凡な結婚をしてしまうのよね。でも、彼女の中には小説とか従兄に対するあこがれみたいなものがずっと残ってるのよね」
美智子も楽しげに声を高めた。
「神谷さんは文学部志望かい」
小説の話になって急に弾み出した美智子の声にそそのかされて、孝夫は初めて会話する女の子に対しては失礼過ぎるかも知れないな、とためらいながらも質問してみた。
「私には小説を書ける才能なんてないもの。それに母に苦労をかけ続けるのは申し訳ないから、そこそこ給料がよくて、才能なんかなくてもできる仕事に就こうと思って」
下を向きがちな美智子の顔がいたずらっぽく、一瞬だけ孝夫を見上げた。あててみて、と言いたげだった。
「才能がなくてもなれて、給料がいいって言ったら……まさか医者じゃないよね」
孝夫はとっさの思いつきを口にした。
「あたり。今の成績じゃ無理だし、私立医大もお金がないからだめなんだけど、一浪してもいいから国立大の医学部に入りたいの。これ、誰にも言ってないの。内緒ね」
調子に乗って少ししゃべり過ぎたとでも思ったのか、美智子の耳たぶが赤くなった。
「医者かあ。実学だよな。花見百姓じゃないよな」
孝夫が胸の前で腕を組んで感心してみせると、美智子は口を押さえて笑った。
「その花見百姓っていうの、やっぱりいい。私はそうはなれないけど、なんとなくあこがれちゃうな。ほら、英語の副読本でサマセット・モームの『アリとキリギリス』をやったじゃない。モームはアリの地道な生き方よりもキリギリスの人生を楽しむ生活をよしとしてたじゃない。私は臆病だからたぶん面白味のない実直な百姓の道しか歩めないと思うけど、どこかで花見百姓になってみたいなって考え続けるような気がするの。そういう者の存在を肯定しながら生きるって言ったらいいかしら」
ほんの短い時間だったと錯覚していたのだが、美智子が話し終えたとき、孝夫が腕時計を見るともう五時に近かった。
「あら、私ばっかり話してたみたいで、ごめんなさい」
美智子も手首を返して腕時計に目をやり、ベンチから立った。
立ち並ぶ松の幹の長い影が大学構内の細い舗装道路に映ってはしご状に見えていた。二人はイチョウ並木に出て駅に向かった。
「明日からどうするの」
改札を通り抜けて下りのホームに昇る階段を一歩踏みかけたところで美智子が振り向いた。
「信州の田舎に帰って祖母の山仕事でも手伝ってくるよ」
孝夫は軽く笑いかけた。
「私は本格的に受験勉強やってみるわ。医者になるための手段だから、ゲームみたいにがんばってみる」
美智子も整った白い歯を見せて右手を振った。
「じゃあ」
孝夫は上りのホームへの階段に向かった。
互いに上りと下りのホームに立った孝夫と美智子だったが、線路をへだてて向き合うと気恥ずかしくなってそっぽを向いていた。階段付近は下校する学生たちでいくらか混み合っていた。
「ねえ」
向かいのホームから声をかけた美智子が下りの方を指さして歩き出した。孝夫はそれに従った。
ホームの端は風が強かったが、人影はなかった。
「ねえ、信州から手紙くれる。待ってるから」
美智子は鞄をホームに置き、両手でメガホンを作って、強風の中にかろうじて聞き取れる声で呼びかけてきた。
「ああ、書くよ」
孝夫が前のめりに答えると、美智子はスカートを風になびかせてホームの中央に駆けもどった。
彼女の走る先の秋空が真っ赤な広い夕焼けに縁どられていた。
クラス討論がいつまで行なわれ、授業がどの時点で再開されるのかはまったく見通しが立たなかった。谷中村の祖母のもとへ行くことだけは決めたが、それからどうすればいいのか分からない。美智子のようにはっきりとした将来計画はないので、受験勉強に精を出す気にもなれない。ただ、言葉をもてあそぶ前に、自分にはやっておかねばならないことがある、と孝夫は明確に気づいていた。
それは己の根の確認である。自分がどれだけの器であるのかをここで冷静に測り直し、その分に合った発言をしたかった。背伸びは若者の特権だから、背伸びしたい者はすればいい。それを非難するつもりはない。
孝夫は東京に出てから、いつも、舞台の上で演技している役者としての自分を意識していた。信州谷中村六川集落の貧農の家で生まれ育った男が、いくらか勉強のできる子という衣装を身に付け、なんとか馬脚をあらわさないように必死に役を演じている。孝夫にとっては精一杯の背伸びであった。だから、これ以上爪先を立てたらバランスを失って倒れてしまいそうな危機感があった。もう一度舞台の裏にもどり、踵を地に着けた身長を測ってみたい。その小ささを知りたい。
今回の谷中村への帰郷は、孝夫の内なる学園紛争が生んだ結論であった。
帰省した孝夫は祖母と二人で毎日せいのみ沢に入っていた。せいのみ沢は家から一時間ばかり山奥に分け入った場所の地名で、幅三十センチ程度の清水の流れる沢の両側に雑木林が急斜面を作っている。そこが孝夫の家の持ち山で、秋になると冬の燃料にする薪を切り、たきつけの|ぼや《ヽヽ》を取る。
まずはぼや取りから始めた。落ちている枯れ枝を拾い集めるのが孝夫の役目。沢の流れの縁で待つ祖母のところまで運ぶと、腰の曲がった彼女がワラ縄で束ねる。枯れ枝は二日ばかりで集め終えてしまい、以後は手の届く木の枝を鉈《なた》で切り落とし、まとめて肩にかついで運んだ。
薪は手頃な太さの雑木を鋸で切り倒し、一メートルくらいの長さに切りそろえる。朝家を出て、陽の暮れるまで山で働く。昼めしは梅干しの入った握りめしとタクアンだけ。水は蕗の葉で沢からすくって飲む。
祖母の作る食事は動物性のタンパク質が極端に少なく、内容は粗末なものだったが、量は十分にあった。孝夫は昼のきつい労働で減らした腹に、缶詰のサバの水煮が入った煮込みうどんをかき込んだ。眠っていた体の細胞が山の冷気を吸って隅々まで目覚めたようで、東京では常に不調だった腹の具合も一日でよくなっていた。
裸電球の下、囲炉裏端で祖母と猫背になって夕めしを食べ合っていると、やはりこの質素この上ない生活こそが等身大なのだと納得させられた。祖母は、
「まっと食え」
とか、
「茶、飲むか」
といった生活する上で必要最低限の言葉しか口にしなかった。
東京の様子や父の体の具合といった事柄は聞く気配すらなかったので、孝夫も父がスミ江さんと暮らしていることなどはずっと黙っていた。今回もいつもの長期休暇とおなじに父がいくばくかの金を持たせてくれたのだが、祖母はその袋を指先でつまんで受け取り、翌日には郵便局に積んでしまった。孝夫が小さかった頃と同様、祖母はほとんど現金を使わなかった。買うものといえば、軽トラックで売りに来る魚肉ソーセージとサバの水煮の缶詰くらい。ニワトリは五羽いたので卵は十分にあったし、牛乳の代わりにヤギの乳を飲む。わずかな田だが食うだけの米はとれるし、野菜も自給できている。
祖母の家にはまだテレビがない。真空管のラジオだけだ。この家の様子が江戸時代と異なるのは、屋根がトタン、裸電球とラジオがあるくらいのもので、これ以上簡素化しようのない生活だった。村にもどって三日間は体がなまっていたので、夕めしを食べるとすぐに眠くなり、字を書く気になれなかった。囲炉裏端でうたた寝をしていると祖母に、
「ほれ、風呂入れ」
と、ゆり起こされた。
台所のかまどの横に朽ちかけた風呂桶が据えられている。夕げの支度でかまどに火を入れるとき同時に焚き始めるので、沸くまでには二時間の上かかり、ちょうど眠くなる時刻と重なるのだった。
風呂桶につかると、くもりガラスの割れた窓から星空が展望できた。人工の光の混じらない暗くて深い空だった。少ない湯の中で膝を抱え、孝夫は肩の冷えるのを忘れて、配置を決めた造物主の存在を信じてしまいそうなほど美しくバランスのとれた星座に見とれていた。
祖母が眠ってしまってから、孝夫は裸電球の下で蒲団に腹ばいになって東京の神谷美智子に手紙を書き始めた。クラスの住所録、便箋と封筒はなによりも先にバッグにつめて東京から持ってきたものだった。
前略
書き出してしまってからおかしいのですが、手紙というものを書くのは初めてだと気づきました。小学生のとき、千葉の学校に転校していった級友にクラス全員で手紙を書いたことはありましたが、こんなふうに、一人対一人で書くのは初めてなのです。
村は紅葉の山に囲まれています。毎日、祖母と二人で山に入り、冬越し用の薪を取っています。一日中働いているので、夜になるとすぐに眠くなり、気がつくともう朝です。教科書や参考書は一冊も持ってきていないので、なんだか高校生であるのを忘れてしまいそうです。
神谷さんは勉強しているのでしょうね。大学でなにを勉強するのか決まっている人はうらやましいです。
体を酷使して働いてみたら、自分の本音が姿を見せるのではないかと思って田舎に来たのですが、今のところはただ疲れるだけでどうしようもありません。それでも、クラス討論に参加している虚しさに比べれば、筋肉の存在を実感できるだけまだましです。
もっと長く書きたいのですが、まぶたが下がってきてしまってもう限界です。
授業が再開されるようでしたらお知らせ下さい。そういうことがなくても、お返事を待っています。
さようなら。
[#地付き]上田孝夫
翌朝、村道脇のポストに手紙を入れて山仕事に向かった孝夫の足取りはテンポが遅かった。書き足りなかった言葉ばかりが次から次へと脳裏に浮かび、そのたびに胸のあたりが重くなった。
実に内容のない手紙だった。美智子にバカだと思われるかも知れない。前略よりも拝啓にすべきだったか。そもそもなぜ美智子に手紙を書いたのかを、もっと率直に、男らしく書けなかったものか。
走ってもどり、ポストの中から手紙を取り返したい衝動に何度もかられた。せいのみ沢に着いてからも孝夫は手紙のことばかり考えていて、何本の木を伐ったのかよく覚えていなかった。
昼めしのとき、握りめしを昨日までの半分の二個しか食べない孝夫に祖母は、
「腹でもいてえんか」
と、ぶっきらぼうに聞いた。
孝夫は首を振った。
「腹具合が悪くねえのにめしが食えねえ百姓なんぞろくなもんじゃねえ」
祖母は一言で言い切って、枯れ葉の上でさっさと昼寝を始めてしまった。
孝夫も首に巻いたタオルを枕にしてあおむけに寝た。葉を落とし終えた広葉樹林の梢の先に澄みきった深い青空が広がっていた。
「秋だあ」
声に出してみると、胸のつかえがいくらか楽になった。
翌日、孝夫はがむしゃらに木を伐った。手紙が東京の美智子のもとに着いて、彼女がそれを読んでいるのを想像すると恥ずかしくていたたまれなかったからだった。
「そんなに伐って、おらあ一人で燃しきれねえぞ」
夕方、祖母が制止するまで、孝夫は手当たり次第に木を伐りまくった。
祖母がこの冬に使う薪とぼやは十分に集め終えた。孝夫が村に来て一週間が経っていた。あとは沢筋に積んでおいたものを背負って家まで運べばいいだけだ。曜日の感覚はなくなりかけていた。祖母が、
「骨休めにするべえ」
と、言った日は金曜日だった。
昼まで寝ているつもりだった孝夫は土間に入って来た郵便配達夫に起こされた。
「上田孝夫さんはあんたかい」
初老の郵便局員は眼鏡越しに孝夫を見た。
美智子からの手紙だった。暗い土間を背景にすると、スヌーピーの封筒の周囲が白く輝いて見えた。
郵便局員のバイクの音が消えるまで土間に立ちつくしていた孝夫は浴衣姿のままだったのに気づき、急いで着替えをした。封筒をYシャツの胸ポケットにしまい、家を出たら足は自然に路を下り、六川の岸に立った。六川の両岸はおおむねススキの深い藪になっているのだが、集落の中で一カ所だけわずかな砂地が開けているところがあり、そこに腰をおろした。
斜め上から射す秋の午前の陽が澄んだ流れに反射してまぶしかった。長袖のシャツを着て暑くなく寒くなく、乾いた砂の上に寝ころんで山仕事で堅くなった全身の筋肉をゆるめてやると、体のいたるところが突き上げられるように甘くうずいた。
ポケットから封筒を出して陽にかざした。ワクワクする厚さだった。そして、美智子は驚くほど達筆だった。寝たまま封を切り、厚い便箋を取り出してみたが、妙に呼吸が苦しくなってきたので、孝夫は起き、陽に背を向けて手紙を読み始めた。
前略
お手紙ありがとうございました。孤独な受験生の私にとって、信州の山の中からのお便りはなによりのはげみになります。
上田君がお祖母様と二人で薪を取っている姿を想像すると、なんだか「日本むかし話」みたいで、ほのぼのとしたものがこみあげてきます。微笑んでいる自分の顔を鏡に映してみたら久しぶりにすっきりした顔になっていました。生きているってのも悪くはないなって感じます。そういうふうに思わせてくれた上田君に感謝します。
私はほとんど一日中机にかじりついています。母が仕事に出ているので夕食は私が作るのですが、体を動かすのはそのときだけなので少し太ってきてしまいました。
こうしてクラス討論をボイコットして受験勉強をしていると、一人だけ時代の流れに逆っているような気がして、精神的にとても疲れます。ちょっとヒマだと、これでいいんだろうか、とか、やっぱりクラス討論にもどろうかな、なんて考えてしまうので、なるべくヒマを作らないように、勉強のスケジュール表をびっしりと埋めました。
もし私に上田君のような帰るべきふる里があったら、私も帰っているでしょう。そこでもう一度、これからいかに生きるべきかをじっくりと考えていたと思います。
でも、死んだ父も、母も東京出身だし、祖母も祖父もみな亡くなっているので、私にふる里はありません。受験勉強しか逃げ場がないのです。どうしても医者になりたいというわけでもなく、受験する学部の目標を高くしていったらそこに医学部があったという方が正しいかも知れません。
先日のキャンパス内での会話はとても楽しかったです。よく考えてみたら、高校に入ってから男子の人と二人きりで長い話をしたのは初めての経験でした。見た目のとおり地味な性格の私がよくあれだけ話ができたものだと家に帰ってから感心してしまいました。母からも、今日はなにかいいことでもあったの、と言われて少々頬を赤らめてしまいました。
昨日、学校の事務室に電話してみましたが、授業再開は当分なさそうです。もし再開されたとしても、二学期の試験はなく、全科レポート提出になる見込み、とのことでした。
信州での自己発見のための生活をお続け下さい。少なくとも私一人だけは上田君を応援しています。
またお手紙ください。首を長くしてお待ちしています。すてきなお祖母様によろしくお伝え下さい。
今、午前一時三十分です。濃いコーヒーを飲んでまたひとがんばりします。
さようなら。
[#地付き]神谷美智子
一気に読み終えてこらえていた深い息をつき、二度目を読んでやっと笑顔が造れた。
「好かれちゃったかな」
六川の瀬音にまぎれる小ささで声に出してみた。
すると、背筋に寒気が走り、頬が熱くなっていたたまれなくなり、孝夫は手紙をポケットにしまって六川の冷水で顔を洗った。流れの淵に浸した顔がまだ笑っていた。
「そんなとこでなにしてるだ。昼めしだに」
ヤギを引いたというより、ヤギに引かれたかっこうの祖母が土手から声をかけてきた。
「ヤギをどうしたんだい」
Yシャツの袖で顔をぬぐい、頬を引き締めて孝夫は立った。
「川向こうの源さんとこで種付けしてきただ」
祖母はそっけなく言い置いて路に痰を吐き、さっさと行ってしまった。
「ステキなお祖母様か」
孝夫はその下品さを我が事の如く恥じながら祖母のあとについて行った。
その日の夕食もいつもと変わらぬ煮込みうどんだったので、おかずはキンピラゴボウとサバの水煮だけだった。
「おめえ、勉強はしなくていいんか」
囲炉裏をはさんでうどんをすすりながら、珍しく祖母の方から聞いてきた。
今回の帰郷に関して孝夫は祖母に臨時の秋休みとだけ告げてあった。学園紛争の話を持ち出しても理解できないだろうし、余計な心配をさせるだろうからと考えたのだった。これまでの長期休暇には必ず教科書と問題集を持って来て、夜には勉強をしていた。祖母はその様子を見ていたので、今回、まったく勉強する気配のない孝夫を不審に思い始めたらしかった。
「大学に行ってどんな勉強したらいいのか分からねえから、とりあえずなにを勉強するべきか考えてみてえんだ」
美智子の手紙を読んで気分のよい日だったので、孝夫は今の正直な心境を祖母に伝えた。
「そんなに大学なんぞに行きてえもんか」
煮込みうどんのとろみの出た汁を音を立ててすすりながら祖母は鼻先で笑った。
「だから、大学に行くべきかどうかを考えてるんだよ」
孝夫はいくらかムキになった。
「迷ったらやらねえこんだ」
祖母は言い切った。
「大学は文学部ってところに入りてえとは思ってるんだけど」
どうせ真意は伝わりそうもないので、孝夫は投げやりだった。
「そりゃあなにを勉強するとこだ」
思いがけず祖母は話題に乗ってきた。
「小説だとか言葉の勉強だな。できれば小説も書いてみてえ」
孝夫もつられて本音を口にした。
「それで、卒業したらなにをしてめしを食うだ」
祖母は囲炉裏にかけた鉄鍋から縁の欠けたお椀に二杯目のうどんをよそった。
「なにをしてって……決めてねえよ」
言葉のつまった孝夫の胸の内を熱いうどんが下って行った。
「ばかやろう。だからおめえは花見百姓だっつうことだ。男だったらなにをしてめしを食って女房子供を養うかぐれえのことは真っ先に決めにゃあなるめえや」
このよたやろうめ、と口ごもりながら祖母はうどんをかき込んでいた。
急所を突かれたので孝夫は黙ってしまった。祖母の言葉に間違いはない。こんな貧しい家に生まれ育った男としては、法学部を出て弁護士になるとか、工学部からエンジニアへといった実学の道に進むべきなのだろう。それは分かり過ぎるほどよく分かっているのだが。
人生は一行のボードレールにもしかない。
いつまでも芥川にかぶれているのは子供っぽい、と担任の現代国語の教師に諭された覚えがあるが、こんな一行に出会うとたまらなく文学にあこがれてしまう。個々の実学よりも、全体を包む文学にひかれてしまうのである。麻薬におぼれるように文学の中毒にかかってしまったのだとしたら、ひたすら本を読めと薦め続けていた教師たちは罪作りなことをしてくれたものだ。祖母の如く、生まれてから一度も小説など読まずに育ったら、もっと地道でまともな進路を描けていたかも知れないのに。
うどんを食べ終えると、祖母は食器を抱えて裏の井戸に洗いに行った。湧水を鉄管で引いて石を丸く彫った器にためた井戸である。簡易上水道もあるのだが、祖母は水道料を節約するために可能な限り井戸を利用している。洗濯板を用いての洗濯も、野菜洗いも米とぎも、すべて井戸ですませている。
手早く食器を洗い終えると、祖母は囲炉裏の残り火に灰をかぶせてしまう。鍋にこびりついた煮込みうどんは、明日の朝湯を足して立派な朝食になるのである。
あとは寝るだけだった。煤けた土壁に掛る八角の柱時計は七時三十分をさしていた。祖母は囲炉裏端にさっさとせんべい蒲団を敷き始めた。
「あー、今日も一日ありがとござんした。ありがとござんした」
蒲団にもぐり込んだ祖母は毎晩おなじ呪文を唱えてすぐに寝息をたて始める。
孝夫も奥の万年床に入った。しかし、今日は山仕事の疲れがないので、いつまでも眠くならなかった。神谷美智子からの手紙をまた開いてみた。整った筆跡の行間に控えめな笑顔が浮かんでくる。鼓動が高なり、さらに寝苦しくなった。
そこで、孝夫は少しでも楽になりたくて、便箋に浮かび上がった美智子の笑顔を懸命に祖母のそれと取り替えてみた。苦しまぎれの連想だったのだが、もしかしたら、と愕然となった。あの美智子も、もしかしたら祖母のように老いて干からびてしまうのだろうか。いくらなんでも知的な彼女のことだから、祖母みたいに品の悪い老婆にはならないはずだが、それでもやはり老いることは老いる。あの白い肌に茶色の染みが出て、乾いた皺がよる。美智子ばかりでなく、自分も老いる。その夜、時間の残酷さについて考え始めた孝夫はいつまでも寝つかれなかった。
孝夫が帰郷して十二日で山仕事は終わった。いつの間にか十一月になっていた。あとは長い冬に備えて崩れかけた家の壁板の修理をしたり、薪を割ったりする仕事が残っているだけだった。もうすぐ本格的な雪が来る。
美智子に手紙を書きたかったが、薄暗く湿っぽい古い家の中では発想も貧困になってしまいそうだった。そこで、孝夫は物置きになっている二階に上がってくもの巣にまみれながら小学生のとき使っていた画板を探し出した。ひもが短くて首からかけることはできなかったが、この上に便箋を置けばどこででも手紙が書ける。
「|ちいぼ《ヽヽヽ》でも採ってくらあ」
画板や手紙の道具を背負い籠に入れて片方の肩にかついだ孝夫は、庭の筵の上で大豆を干している祖母に声をかけた。
「ちいぼなんざあはあ出てねえかも知れねえぞ」
祖母は顔を上げずに大豆の山を手で平たくならしていた。
ちいぼとは乳茸のことで、このキノコは茎を折ると白い液が出る。天ぷらにしたりうどんに煮込むとほんのりした甘みがあってうまい。
孝夫は幼い頃二度、祖母に連れられてせいのみ沢の尾根にちいぼを採りに行った記憶がある。母に死なれた三歳の秋。そして、父がいなくなった九歳の晩秋。遊びなど知らない祖母にとって、親に去られ、家にこもりがちになってしまった孫を外に連れ出す手段としては、ちいぼ採りくらいしか思いつかなかったのであろう。
「ちいぼは乳が出るから、かあちゃんのキノコだ」
枯れ葉の上にうずくまってちいぼを採る背から、祖母のぶっきらぼうな声が降ってきたものだった。
ふりあおいで見ると、濃い灰色の空から初雪が舞い降りており、無性に悲しくなって泣き出してしまった。こんなふうに、孝夫の人生の記憶は泣いているシーンから始まっているのである。
今回のちいぼ採りは昔の感傷にひたるためではなく、せいのみ沢の尾根から深い山々を眺めながら、自然のふところの中で可能な限り忠実に今の心境を書き表した手紙を美智子に送るのが目的なのだった。山路を登りながら、孝夫は何度も文章を組み立てては独り笑いしながら、頭の中で消していた。
山仕事に向かうときは下ばかり見ていたので気づかなかったが、目を上げて歩くと、木の枝にからんだつるにアケビの実が口を開けていた。紫色に熟れた実を採り、白い果肉をすすると、口の中に清涼な甘さが広がった。種を吹き出してもまだ喉のあたりがさわやかだった。
せいのみ沢に着くと沢の水で手を洗ってから尾根に登った。白い便箋をアケビのアクで汚したくなかったからである。ちいぼの液も手に着くとべたつくので、何本か笠が開いているのをたしかめておき、尾根の赤松の根元に腰をおろした。
どこまでも果てしなく山が連なっており、一番遠方に見える鋭角の山脈の頂きはもう冠雪していた。谷中村の集落はみな谷間にあるのでここから人家は見えない。ときおり吹き上げてくる風に冷えた芯が感じられる。
「風に芯が出てきたらすぐ冬だぞ」
これは祖母の晩秋の口癖だった。
広く吹く風の中に、特に冷たい空気の塊が含まれていて、それを芯と呼ぶ。それまで慣れ親しんだ秋の柔らかい風だとなめてかかっていると、その冷気に驚かされる。そんな風が尾根を吹き抜けていた。
孝夫はあぐらをかき、左膝の上に画板をのせ、クリップで便箋をはさんで背を丸めて書き始めた。画板の止め金が錆びていて便箋を汚してしまうのが分かり、すぐに腰に下げていたタオルをはさんで新しい便箋と取り替えた。
前略
お元気ですか。勉強をまったくやっていないのにこんなことを書くのは変ですが、がんばって勉強していますか。
山の薪とりの仕事も終わり、今日はキノコを採りに山の尾根まで登ってきました。古い画板を持ってきて、その上で書いているのです。
ここからの景色はとにかく山、山、山です。遠くの山にはもう雪が見えます。
東京育ちの神谷さんはアケビの実なんて食べたことないと思いますが、甘くてとてもおいしいものです。それを食べながら山路を登っていたら、この時間に東京の学校ではまだクラス討論をやっているのだな、とふと思って、実に不思議な気分になりました。
山路を歩いている自分が本当の自分なのだと信じていますが、では学校にいた自分は何だったのかと考えると分からなくなります。これまで主体的に、一人だけでがんばって生きているつもりになっていたのですが、ほんの十日間ばかり山で暮らしただけでも、そういう考えは間違っているのかも知れないと思うようになりました。
例えば、山の木がなければ冬の燃料がなく、長く寒い冬を越すことができません。ここでは人が生きているのではなく、山によって生かされていると言った方が正しいのです。神という言葉を持ち出すのはまだためらわれるのですが、なにか目に見えない大いなる力によって自然とともに生かされている人間。山の暮らしは人間の小ささばかりを教えてくれます。
ずっと祖母と二人だけの生活をしているので、ものの考え方が老人くさくなってしまったのかとも思いますが、言いたいことは神谷さんなら分かってくれると思います。
己自身の力だけで生きているつもりになっていた東京の自分と、自然の中に生かされている谷中村の自分。十八歳という時点でどちらを大事に、あるいは本物とみなすべきなのか、今、大いに悩んでいるところです。
人を顔だけで判断するなと言いますが、第一印象というのも大事だと思います。三年生になって神谷さんとおなじクラスになったとき、自己紹介で立ったあなたを横の席で見ていて、やさしそうな顔の人だな、と感じました。話してみても、その印象は変わりませんでした。
医者というのは病気で苦しむ人たちが相手なのですから、学力の前にまずやさしさがなければ務まらないし、務めてはならない職業なのだと思います。だから、神谷さんは医者に向いています。山仕事しかしていない男からそんなこと言われても頼りないだけかも知れませんが、向いている仕事につくのが一番幸せだと思いますので、どうかがんばって勉強して下さい。
風の通る尾根に坐っていると気分が大きくなる分だけ書き過ぎてしまった感じがします。失礼な点があったらお許し下さい。
お手紙お待ちしております。
[#地付き]上田孝夫
その日、孝夫は二十本近い季節はずれの大ぶりなちいぼを採って帰った。
山から下りる路で、落葉を終えかけた木々の間を小雪が舞うのを見た。いつまでもこんなことをしていていいのだろうか。背筋がこらえきれないほど寒くなったまま家に帰った。しかし、どうしたことか、ちいぼのうま味の出た煮込みうどんを食べ終えると、異様な寒さが消え去ってしまった。精神的な悩みが懐かしい味覚を介して癒されることもあるのを孝夫は生まれて初めて知った。
次の日から三日かけて錆びたトタン屋根にコールタールを塗った。ペンキは高価なので、六川集落のどの家の屋根も黒いコールタールで塗られていた。
原液のままでは濃過ぎてもったいないので、灯油で薄め、よくのばして塗る。祖母の家の屋根は父が出て行って以来十年近くもコールタールを塗り替えていなかったから、トタンは腐りかけており、危うく足を踏み抜きそうになる箇所も二、三あった。
塗り終えて二日目、ちょうどコールタールが乾いたところで六川集落に初雪が降った。おなじ日、美智子からの二通目の手紙が配達された。祖母は裏の井戸で漬物にする野沢菜を洗っていたし、六川の岸まで下りるには寒過ぎる日だったので、孝夫は囲炉裏にあたったまま封を切った。
前略
山の尾根からのお便り、どうもありがとうございました。便箋に枯れ葉の匂いがするような気がしました。
大学通りのイチョウの葉もきれいな黄色になっています。毎日部屋に閉じこもりきりなので、一昨日、散歩がてら学校に行ってみたのです。教室はまったく掃除をしていないらしく荒れ放題です。クラス討論に出ている人たちも十名くらいしかいません。残りの三十人近い人たちはこの十日間で私たちとおなじにドロップアウトしたらしいです。
事務室の女の人に聞いてみましたが、少なくとも十一月中の授業再開は難しそうだとのことでした。同封したイチョウの葉は帰りに大学通りで拾ったものです。自然だけは人間たちの言葉の遊びを無視して着実に時を刻んでいるのだな、と感心しながら手にしました。
なにか大いなる力によって生かされているという上田君の発見、大学通りのイチョウ並木を歩いていたらなんとなく理解できるような気がしてきました。イチョウの葉を黄色に変え、風を冷たくさせる目に見えない大いなる法則、あるいは力。そういうものに私たちも支配されているのでしょうね。
今回の学園紛争が私にとって無意味でなかったのは、上田君とこうして話ができるようになったことでした。人と話すのが苦手で、内にこもりがちだった私ですが、山で暮らす上田君には正直に今の気持ちをさらけ出すことができます。どうしてそうなのか分かりませんが安心して心を開けるのです。
私が医者に向いているなんて、誰からも言われたことがないのでとてもうれしいです。上田君にそう言われたら、なんとしてでも医者になるべく、とりあえず医学部の難関突破を目指してがんばります。私立の医大なら入れそうなところもあるのですが、家にはお金がないので無理です。でも、社会に出てからお金がなかったので医者になれなかったなんてグチをこぼしながら生きるのは絶対に嫌ですから、一年の浪人を覚悟でやってみるつもりです。
上田君のお手紙には自然の匂いが満ちているのに、私の書くものは、なんていうか、色気がないなと思います。すみません。読みたい本が一杯ありますが、今はがまんして、苦手の世界史の参考書にビニールをかけてお風呂の中まで持ち込んで丸暗記しています。
上田君の文章には読む者に情景を想像させる力があります。小説家の才能があるのかも知れませんよ。小説家は必ずしも文学部を出る必要はないのでしょうが、できたら大学に行ってもお話ができる距離にいたいですね。
また、お手紙お待ちしています。
さようなら。
[#地付き]神谷美智子
祖母が野沢菜を漬け終えた日の午後から本格的な雪が降った。
景色が白くなってから、祖母は囲炉裏端で繕いものをするようになり、孝夫は軒下で薪を割った。すべての薪を割り終えてしまえば谷中村での孝夫の仕事は終わる。その時点で高校の授業が再開されてくれればいいのだが、着いたばかりの美智子の手紙にもその予定は未定であるとしか書かれていなかった。
そろそろ東京に帰らねば、と孝夫は考え始めていた。受験勉強に拍車をかけている美智子の様子を知るにつれて、孝夫もいささかあせってきた。進路は決まっていないが、できるなら浪人をせずに大学に進みたい。早く家を出て一人で暮らしたいのである。
しかし、今、東京に帰っても、授業が始まっていなければ毎日アパートにいることになり、スミ江さんと顔を合わせる機会が多くなってしまう。スミ江さんは父の連れ子としてしかたなく孝夫の面倒をみているという態度をあからさまに表に出す人なので、できるだけ会わない方がいいのである。
学校のある日は夕食のとき十分ばかり面と向かうだけで、スミ江さんの方がさっさと奥の部屋に入ってしまう。孝夫も勉強を始めるので口をきく必要がない。
朝はちゃぶ台の上におかずが一品しかない弁当が出されている。孝夫は一人でパンを食べて出かけるのだった。
継母との緊張関係が続く家庭は居心地が悪かったから、孝夫の方からつとめてやわらかな会話をしかけてみたことも何度かあったが、スミ江さんの態度は変わらなかった。生まれつきそういう人なのだとあきらめる方が楽だと気づき、以後、今に至っているのである。気弱な父は黙ってテレビを観ているばかりであった。
そんなわけで、孝夫は薪割りを終えた後も祖母の家に居続けた。仕事はなかったので、朝は十時に起き出し、土間を竹箒ではき、家の前の雪をスコップで寄せてから祖母と朝食、昼食兼用のせんべい焼きや芋ゆでを食べる。午後からは手紙を書いた。三日に一通のペースでポストに運び、夕方にはうどんをこねて、夜は八時に寝た。
いつしか十二月になり、美智子からの八通目の手紙が届き、その最後に、授業が十二月十日から再開されます、と記されていた。
美智子に会える。
手紙を書くたびに会いたさは募っていたのだが、会ってしまえばまた二人とも退屈な日常の中に埋もれてしまいそうでそれが怖くもあった。学園紛争による授業中止という非常事態が、平凡な二人の高校生の文通を、より緊密度の高いものにする演出家の役割を果たしてくれていたのはたしかだった。
会える楽しみと会ってしまう怖さ。孝夫は二つの相反する想いを胸に雪の谷中村を去った。中学に上がるときに村を出て以来、これほど長く滞在したことはなかったので、戸口で見送る祖母の目には涙があった。それはそれで悲しかったが、美智子に会えるうれしさが孝夫の涙を抑えてしまった。母のいない孝夫にとって、このときが真の意味での親離れの瞬間だった。
国電の駅から高校までは葉を落とし終えたイチョウ並木を歩いて二十分。孝夫はその間、美智子に再会したら最初に言うべき言葉を考え続けていた。胸の内を明かし過ぎてしまったきらいのある手紙の文章が思い出されて、寒い朝なのに頬がほてっていた。
教室に入ったらゆっくりと美智子の姿を捜し、いかにもなにげなく、
「おうっ」
と、声をかけようと決めて玄関で上履きに履き替えていると、背中を叩く者がいた。
「なんだよお」
しばらくぶりの男友だちだと勝手に判断して、間の抜けた声でふり向くと、そこに美智子が立っていた。
孝夫の耳たぶが真っ赤になった。二人は並んで階段を上がりながら、黙って下を向いていた。手紙ではあれほど雄弁だったのに、互いに言葉が出なかった。
「元気そうね」
「ああ」
二人がかろうじてこんな会話を交わせるようになったのは、昼休みに窓際ですれ違ったときだった。
美智子はすぐに机にもどって参考書を開いた。孝夫は男子生徒の仲間と冗談を言い合った。意識すればするほど二人は無関心を装った。
再開された授業に出た生徒たちの顔からは祭りの後のように活気が失せていた。すぐに冬休みになったが、家にいたくない孝夫は毎日市立図書館に通って受験勉強をしていた。
浪人はしたくない。数学が苦手。文学への漠たるあこがれ。消去法で進むべき道は私大の文学部と決め、世界史、英語、国語の三教科のみにしぼっての遅過ぎる受験勉強の開始であった。しかし、この三科目は孝夫の得意科目だったので、要点をチェックするだけでよかったから、思いのほか勉強ははかどった。
翌年の大学受験で神谷美智子は東京近郊の国立大学医学部に合格し、孝夫も東京の私大文学部に入った。そして、文通を再開し、ときに会い、酒を飲み、けんかし、別れ、また会って大学時代を過ごした。孝夫たちが入った頃の大学は、学園紛争も終わり、キャンパスは静かになっていたが、学生たちは一様にしらけた表情をしていた。幻想から覚めた若者たちが個人の生活を大事にし始めた時期であった。
孝夫は阿佐ケ谷に四畳半のアパートを借りていた。部屋代を稼ぐために家庭教師から、地下鉄の工事現場のアルバイトまでしていたので、谷中村の祖母の家へ帰る時間はなくなってしまった。彼が帰省しなくなったのは、一人だけの力で生きているのだと思い込んでいた時期だったので、ふる里のやさしさが不要だったからでもある。
共同トイレ、風呂なしのこの部屋に美智子が泊まるようになったのは孝夫の卒業が近づいた冬からのことだった。おくてであった孝夫にとって美智子は初めての女であり、それは美智子もおなじだった。
卒業した孝夫は小さな編集プロダクションに勤めた。社員二十余名で、健康雑誌の編集企画を主な仕事にしている会社だった。医学部の臨床実習で忙しくなった美智子とは数カ月に一度会えるだけだったが、いつしか結婚を約束するまでになった。
それから三年後、都立病院の内科研修医になった美智子と孝夫は結婚した。
二人は都内のマンションを借りて生活を始めた。定時に出社してあまり遅くならずに帰れる孝夫の方が食事を用意し、休日には洗濯をした。美智子は重症の患者を抱えているときは病院に泊まり込むことも多く、一人の長い夜をもてあました孝夫は小説を書き始めた。多くの小説の読者が一度は試みる作者への変身を、彼も夢見たのである。
学生時代はアルバイトばかりしていたし、会社に入って数カ月は編集の仕事を覚えるのに忙しくて文学を忘れていたが、生活が落ち着いてくるにつれて、書きたい、という欲求が自然発生してきたのだった。文芸誌を定期購読していたので、新人賞に応募すると決めて、美智子のいない夜に原稿用紙に向かった。多い日で三枚、書けない日は一行も進まないで机で寝てしまったりした。
半年後になんとか六十枚ばかりの短編小説を書きあげて応募した。美智子から聞いた、初めて患者の死に直面する若い医者の心の揺れがテーマになっていた。彼女にあやかって、主人公は女医にした。
それなりの自信はあったので、最終選考での落選を知ったときのショックは意外に大きく、二日間仕事を休んだ。蒲団にくるまってため息ばかりついていた二日目の午後、応募した文芸誌の編集者から電話があった。なかなかいいものを持っているから、また書き直して、今度は直接編集者宛に送るように、と伝えてきたのだった。急に元気になった孝夫はその夜ステーキを焼き、美智子とワインで乾杯した。
「なんとかなりそうね」
ハードな仕事で疲れ気味の美智子の表情がしばらくぶりになごんでいた。
「なんとかしなくちゃな」
おどけて彼女の鼻をつつく孝夫であった。
孝夫が新人賞を受賞したのはこの二年後のことだった。その間、孝夫の父が死んだ。
美智子の勤める病院に入院して十日で死亡した。末期の肝臓癌だった。父は入院する前日まで鉄工所で働いていた。
「腹が痛くてな」
と、マンションに電話してきたので、孝夫は美智子に替わった。
「それで、その固いものを触れるのはいつからですか」
医者の口調になった美智子の表情がくもった。
父が孝夫に電話をかけてきたのは後にも先にもそのとき限りだった。美智子の希望で東京郊外の教会であげた結婚式にも、父は、
「おれみたいな田舎もんが、お医者さんの結婚式になんか」
と、出席をしぶったものだった。
結局、美智子が説得して出るには出たのだが、賛美歌を歌えずにただうつむいている父の姿は哀れであった。結婚式に来た孝夫の親族は父だけだった。美智子の方は母親をはじめとして、叔父叔母夫婦など十数人が出席したので、でき上がった記念写真はきわめて釣り合いの悪いものになった。スミ江さんは、
「私は関係ないから」
と、はなから孝夫の招待に首を振っていた。
今回も、スミ江さんが病院に姿を見せたのは父が入院して四日目だった。末期の肝臓癌で予後三カ月と診断された父は、十日目の朝、腫瘍が破裂して腹腔内に大出血を起こし、あっけなく昇天した。
スミ江さんはもちろん、孝夫や美智子の目にも涙はなかった。スミ江さんは手早く葬儀社を手配して、通夜から葬儀までを取りしきった。孝夫は迷った末に、
「チチシス」
と、電報だけを谷中村の祖母に送った。
字の書けない祖母なので、感想は届かなかった。
父の骨はスミ江さんが買ってあった埼玉の霊園の小さな墓に入った。墓石にはすでに二人の戒名が朱で書かれていた。スミ江さんがいかなる理由で墓を購入していたのかは不明であった。聞くつもりもなかった。
「できたら、これっきりにしてもらえませんか」
納骨をすませ、霊園を出たところでスミ江さんはきっぱりと言った。
「分かりました。以後は来ませんのでよろしくお願いします」
孝夫は冷静に頭を下げた。
その言葉どおり、孝夫は現在に至るまで父の墓に参ったことはなく、命日も忘れかけている。東京に出て以来六年間暮らしたアパートも、大学に入ってから一度も行っていないので、スミ江さんがまだ住んでいるのかどうかも分からない。
孝夫が新人賞を受賞した小説の背景には、この実際にあったエピソードが使われている。編集者からは、この話を挿入することによってリアリティーが増し、仕上がりがクールになった、とほめられたものだった。
出版社の自社ビルの一室でささやかな授賞式があった。文芸誌の編集者たちと昼食をともにし、編集長から記念の時計と賞金十万円をもらった。
孝夫はまともに照れてコップに口を持って行った。
「上田さんの小説は素朴で荒削りな部分も目立ちますが、文章の骨格がしっかりしています。こういう新人作家は磨けば光ります。どうぞじっくりと磨いて下さい」
初老の編集長の血色のよい笑顔がバラ色の将来を約束しているかのように見えた。
その夜、賞金で買った高価なシャンペンで美智子と乾杯した孝夫は、
「作家になっていいかな」
と、問うてみた。
正直なところ自信はなかったが、書くからには本気でやってみたかった。美智子の収入に頼れる安心感もあった。
「あなたの食べる分くらい私が稼ぐから、後世に残るような作品を書いて下さい」
美智子の清々しい微笑みが孝夫の作家としての出発を祝福していた。
孝夫も美智子も三十歳になっていた。
しかし、受賞第一作を書き上げて編集部に持ち込んでも、簡単に採用されるわけではなかった。新人賞の作品は荒削りでもどこかに光る部分があればいいのだが、以後のものにはプロとしての手際のよさが要求されるのだ、と編集長は外向きの笑顔を消した三白眼で孝夫をにらみつけた。
勤めをやめてから家事はすべて孝夫が担当した。朝は六時に起きてトースト、ハムエッグ、サラダ、コーヒーを用意し、七時には美智子を送り出す。掃除、洗濯を終えて十時から原稿用紙に向かい、軽い昼食をはさんで四時までは書けても書けなくてもペンを持ち続けている。四時から夕食の用意を始めて、美智子が帰る日は七時に食事、八時から十二時までまた机にかじりつく毎日である。
書く時間は十分にあったが、書くべきことがなかった。孝夫は小説というものを甘く見ているところがあった。書かなければおれなかった哲学的背景、あるいは人生の本質に直結するテーマ。そういうものの感じられない作品は文学ではなく、したがって紙屑とおなじなのだ、と編集長は口癖のように言った。孝夫より若い担当編集者もその口調を真似て書き直しを迫った。
五度目の書き直しを命じられたときは新人賞から一年が経っていた。その間に孝夫が得た収入は、本の広告雑誌から依頼された書評の原稿料、八千円のみだった。
「これ、もう一度書き直してもらえませんか」
学校秀才の面影を残す鋭い眼光の年下の編集者が上目遣いで孝夫を見たとき、細い眼裂の縁に哀れむような微かな笑みがあった。
孝夫は出版社の応接室のテーブルの上に出ていたアイスコーヒー用の小さなミルクカップを手にすると、一気に飲んでしまった。
「おもしろい飲み方をするんですね」
若い編集者があんぐりと口を開けた。
「いやあ、生まれも育ちも田舎もんですから」
孝夫は頭を掻《か》きながら卑屈に笑っていた。
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十分な収入があり、多忙で有能な妻。稼ぎはなく、家事しかできない無能な夫。マンションの住人たちの目には、孝夫と美智子の夫婦はそう映っていたはずである。その事実を一番意識していたのは本人たちだった。
美智子は気を遣える女だったから、孝夫に銀行のキャッシュカードを預けて、自動振込の給料のすべてを彼の管理にまかせていた。酒、タバコ、ギャンブルには興味のない孝夫だったから、自分用に使う本代などの金額はたかが知れていて、生活費を引いた残りはきちんと美智子名義で貯金していた。
家事の全般を孝夫が担当していたわけだが、これも美智子の配慮から、彼女の下着類の洗濯だけは彼女自身が風呂のついでにやってくれていた。置かれた立場を頭では理解していても、どちらかといえば古い体質の男である孝夫にとって、これはありがたかった。美智子は能力の高いキャリアウーマンでありながら、生活の細部をおろそかにしない女であった。
全面書き直しの六作目、五十枚の短編が受賞第一作としてようやく文芸誌に掲載されたのは新人賞から一年半後の秋だった。有名作家の予定原稿が入らなくなったので、と編集者は正直に掲載理由を伝えてきたが、孝夫は素直にうれしかった。
手にした原稿料で週末に美智子と新宿の高層ホテルに部屋を取り、ホテル内の高級料亭で会席料理を食べた。美智子はフランス料理の方が好みのようだったが、テーブルマナーが苦手の孝夫に合わせてくれたのだった。
マツタケの土瓶蒸しをつまみながら吟醸酒を酌み交わし、原稿料というものはどうしてこういう場所で散財したくなるのだろうと語り合った。一年半前、新人賞の賞金も赤坂の老舗《しにせ》の寿司屋での飲み食いに消えていた。
「あなたが患者さんの病気を治して、その代価として受け取った金とは種類が違うんだよな」
自前の金で酒を飲むのはこんなに気分のよいものだったか、と孝夫の口はなめらかになっていた。
「患者さんの病気を治すにはマニュアルどおりにやればいいんだけど、小説は才能がいるわ。その才能で医者よりも多くの人たちの心を救えるかも知れないし。たぶん原稿料は救われた人たちからの感謝の印なのよ。そういうかたちのない収入だから、かたちの残らないものに使いたくなるのよ、きっと」
酔って多弁になった孝夫の気まぐれな話題を、美智子はやわらかく支えてくれていた。
「学生時代に麻雀をやったけど、原稿料って麻雀でもうけた金によく似てるんだよな。貯金するのも、生活必需品を買うのもはばかられる金。博打の金とおなじなんだよな」
今宵は主役だったので、孝夫は好きなだけ一つの話題にこだわった。
「書き終えて、読者の反響を聞くまではその作品がよかったのか悪かったのか分からないという点ではたしかに博打に似てるわよね。丁か半かってところが小説にはあるわね」
美智子は孝夫の話にもっともな相槌《あいづち》を打ってくれたのだが、これを聞いて彼の覇気は急速に失せた。
多忙な美智子のスケジュールが空くのを待っての祝宴だったので、小説が文芸誌に発表されてから一カ月半が過ぎており、新聞の文芸時評など、先月発表された小説へのマスコミの評価は出そろっていた。孝夫の作品に触れたものは一つもなく、編集者からのフォローもなかった。大海に瓶詰めの手紙を投げたが、返事は来なかった。胸の内に期待が占めていた分だけの大きな虚しさの空洞が残った。
「また書くさ。わりと懲りない性分なんだよ」
無理に頬をゆるめて口に含んだ酒は舌先に苦みだけを残した。
「そうよ。書いてなんぼの世界なんだから、とにかく書かなくちゃ」
美智子は座卓の上に身を乗り出して、沈みがちになった孝夫に酒を注いでくれた。
再び家事と小説の日々が始まり、よくて年に一作、平均二年に一作のスロウペースで孝夫の小説は文芸誌に載った。いずれも八十枚から百枚の短編だったので、彼の年収は二十万円前後だった。
美智子は専門とする癌の化学療法の分野で多くの論文を発表し、国際学会に演者として出席する機会も増えていた。母校の大学の非常勤講師となり、都立病院の内科医長の職も兼ねて、その生活は多忙をきわめていた。
夫婦間の会話は少なくなり、それにつれて体を交わす行為も減っていたので、どちらも黙っていたが子供ができなかった。医者である美智子は自分たちが不妊の夫婦という患者になるのが嫌だった。人生の往路を前だけ向いて進んでいたい。できれば人々の先頭を。
美智子は常にそう思い続けていたから、患者となって生物学的弱者とみなされることに抵抗があったのだった。自分はあくまでも救う者なのであり、救われる者になるなんてまっぴらだった。不妊の原因が孝夫のみにある場合でも話はおなじである。夫婦として弱者になるのは耐えられない。プライドが許さないのである。
孝夫も子供のできない理由が気にならないわけではなかったが、医者の美智子がなにも言い出さないかぎり黙っていようと決めてはいた。特別子供が好きなわけでもないし、どうしても子孫を残したかったら、いずれどこかよその女にでも、などと気楽な夢想をする程度の余裕はあった。
年月を重ねるにしたがって、接点の少なくなった夫婦であったが、年に一度の旅行は欠かしたことがなかった。行く先は孝夫のふる里、谷中村だった。結婚した年のお盆に墓参りを兼ねて二人で出かけたのが最初だった。祖母はひと目で美智子を気に入り、おつみっこ汁や切り込みうどん、そばがきなどを作って歓待した。
東京で生まれ育ち、父の死で生家を手放してしまった美智子にはふる里がなかったが、高度経済成長が置き去りにして行った谷中村六川集落の時代遅れの風景は、彼女が夢に描いていたふる里そのものであった。いつも爪先を立てて歩かねばならない東京の生活を抜け出して、川の瀬音やセミの声を聞きながらゆっくりと踵を地に着けて村の路を行く。美智子は初めて来た日からこの村が好きになった。
毎年、お盆には三日間の休みを取って六川集落に出かけるのが孝夫たち夫婦の年中行事になった。孝夫にとってはそれが祖母の近況を知る唯一の機会になった。八十歳に近くなっていたが、祖母は相変わらず元気で無口だった。
美智子は六川集落に来て墓参をすませると、風の通る奥の部屋でひたすら昼寝をしていた。東京での彼女は夜間の患者の急変で呼び出されることも多く、慢性的な睡眠不足の状態にあったのである。祖母は事情をよく理解していて、好きなだけ寝かせておき、夕方になって起き出す彼女を連れて畑に行き、トウモロコシ、キュウリ、トマト、などの収穫を手伝わせた。美智子は新鮮な野菜を山盛りにしたザルを胸に抱え、腰の曲がった祖母と顔一杯に夕陽を浴びて家にもどってきた。
「畑から採ったばかりの野菜をすぐに食べられるってのは最高のぜいたくよね」
六川集落で見せる美智子の笑顔は、東京では決して見られないあけっぴろげなものだった。
「利口でやさしい女はめったにいねえ」
祖母が美智子を評したのはこの一言だけだった。
六川集落に来たときは美智子も料理をした。裏の井戸で冷やしておいたキュウリと祖母の自家製の味噌で作るキュウリもみは美智子の得意だった。しかし、東京にもどると彼女は料理をしなくなるのだった。
「あそこの井戸で冷やしたあそこのキュウリでないと作る気がしないのよ」
六川集落が好きになった度合いでは、美智子はいつの間にか土着の孝夫の上になっていたのかも知れない。
そんな彼女だったから、祖母の死を知った落胆ぶりも孝夫以上だった。
晩秋の朝早く、マンションのベッドルームの電話が鳴った。この時間帯はたいてい病院からの用件なので、ベッドテーブルの受話器は美智子が取った。
まだ覚め切らない声で、はい、ええ、とだけ答えていた彼女が最後に低く、それで、呼吸は止まっているのですね、と念を押した。やれやれ、美智子はまた呼び出しか、と毛布をかぶろうとした孝夫に彼女は受話器を渡してきた。
「谷中村のお祖母さんが亡くなったって」
美智子の目はすでに涙をためて赤かった。
電話はとなりの田辺さんのおばさんからだった。朝、庭に出てみるとお宅の井戸のところに人が倒れていたので行ってみるとおせいさんだった。首に手ぬぐいがかかっていたから、顔を洗いに起きてきてそのまま倒れちまったみたいだ。今、近所の人たちが来て座敷に運んで寝かせたが、もう呼吸も心臓も止まっている。村に医者はいないから町の医者を呼ぶかどうかみんなで相談してたら、孝ちゃんの奥さんが医者だからまず聞いてみたらということになってすぐ電話した。
田辺さんのおばさんの声は落ち着いていて、六川集落の家では早くも葬儀の準備を始めているらしい気配も伝わってきた。おばさんに礼を言って受話器を置くと、美智子は着替えを始めていた。
「私、病院に行って死亡診断書の用紙持って来る。それと、今日は都内のホテルでシンポジウムがあるんだけど、代わりの人に頼んでくるから二時間待ってて」
彼女は短く言い置いて駆け出して行った。
美智子の帰るのを待って車で谷中村に出かけた。高速道を三時間、国道を二時間、村道を三十分。昼をかなり回った頃に六川集落の家に着いた。
祖母は奥の部屋で薄い影を造って寝ており、顔には白い布がかぶせられていた。近所の人たちにあいさつしてから、美智子は祖母の手首と頸部の脈が触れないのをたしかめた。その様子を枕元に坐り込んで見つめていた孝夫は、祖母はただ長く眠っているのだとしか思えなくて、涙が出なかった。朝、顔を洗いに起きて寒気に触れ、心臓発作を起こしたのだろうという美智子の推定死亡診断は集まってくれた近所の人たちの同意を得た。祖母は八十一歳だった。これといった持病もなく、前日も畑に出ている姿を何人もの村人たちに目撃されていた。
通夜、葬儀は六川集落の古老の指示によって行なわれた。町の焼き場で焼かれた祖母の骨は孝夫が骨壺に入れて持ち、うしろを位牌を手にした美智子が続いた。その他、遠縁の者たちによる七、八人の葬列の先頭には古老が小銭を入れた竹籠を頭上に振りかざしながら進んでいた。
墓地のある日影地区の裏山まで、六川を渡って十五分ばかり歩くのだが、沿道には竹籠から撒かれる五円玉や十円玉を拾う老人たちの姿があった。前日まで健康で働いていてポックリ逝った祖母の死に方は老人たちの羨望の的だった。葬列の先頭で撒かれる銭を拾うと、その死者とおなじような死に方ができると言い伝えられているので、いつになく拾う者が多かったと、あとで古老から教えられた。
祖母の骨は六川集落の男衆が掘ってくれた草深い榧《かや》の下に埋められた。祖父や母の墓のとなりである。この墓地からは日向地区が六川の向こうに広く見渡せた。その名のとおり、南に向いて陽のよくあたる日向地区の質素な造りの家並みを、晩秋の午前の陽がやわらかく照らし出していた。このおだやかな風景の中に二度と祖母の姿を見ることはできないのだと気づいた孝夫は、急に両足の力が抜け、その場にうずくまってしまった。
「孝ちゃんはお祖母さん子だもんなあ」
周囲の同情の声に守られて、孝夫は泣きたいだけ泣いた。
涙のつきた目に映る六川集落の風景は、灰色のフィルターがかかったように薄暗く感じられた。
「お祖母ちゃんも含めて、ここは私のふる里なんだ」
六川集落に来るたびにそう口にしていた美智子にとっても、祖母の突然の死は、大いなる喪失感をもたらす出来事だった。
「私のふる里が半分なくなっちゃったな」
東京に帰る車の中で、彼女はうなだれたまま何度もおなじ言葉をくり返していた。
二カ月もすると、二人とも祖母の死を記憶の片隅に押し込め、もとの生活ペースをとりもどしていた。このまま適当に毎日をうっちゃって暮らしていれば、後半生もなんとなく無事かな、と孝夫が中年の諦念と楽観を合わせて抱き始めた翌年の春、美智子が妊娠した。
彼女の勤務する都立病院の産婦人科で確認したときは妊娠三カ月だった。
「お祖母ちゃんが遺伝子を伝えておきなさいって授けてくれたのよ。遺伝子の遺の字は遺言の遺だものね」
美智子は手放しで喜び、休日にはデパートのベビー用品売り場に通ってベビーベッドなどを買い込んでいた。
父になる実感などまるで湧かなかった孝夫は、美智子のはしゃぎすぎがいくらか気になってはいた。
「遺伝子を伝えられて一人前の女ってもんよね」
とか、
「この子はお祖母ちゃんの生まれ変わりよ。輪廻《りんね》なのよ」
などと、少なくとも私生活の言葉では謙虚であったはずの美智子の言動が子供っぽく変化していた。
女は母になると精神的にも腰が坐るといわれるが、妊娠初期からすでにそうなのだろうか。ホルモンかなにかの分泌状態が変わって性格にまで影響するのだろうか。医学に素人の孝夫は勝手に想像しておろおろするしかなかった。
二人の寝室には美智子が買ってきたベビー用品があふれていた。子供が生まれたら、孝夫はこの部屋を出て三畳の納戸に蒲団を敷いて寝ることになっていた。すべて美智子が決めた。それも、内から湧き上がるうれしさを隠さない顔で告げられたので、孝夫は反抗のしようがなかったのである。
母子家庭の同居人。いずれ訪れる侘しい立場を孝夫が納得し始めていたある雨の朝、ベッドに坐り込んだ美智子の顔は蒼ざめていた。
「お腹が冷たいの」
朝起き、トイレからもどってきた美智子は両手で下腹を押さえていた。
「下痢でもしたかい」
覚めない頭を振りながら孝夫が声をかけると、美智子は肩を震わせていた。
「体の芯からお腹が冷えるの」
背を丸めた美智子の声にいつもの張りが失せていたので、孝夫はあわてて起き、背をさすってやった。
その日、孝夫は美智子を乗せて彼女の勤め先の病院に行った。
子宮内胎児死亡。
原因は不明だと告げられ、午後には産婦人科医長の手で掻爬《そうは》の手術が施行された。美智子は第一線の臨床医らしく事態を冷静に受け止め、夕方には病室で孝夫に笑顔すら見せていた。
「ごめんね」
孝夫が外で夕食を食べて病室にもどると、美智子はベッドから手を伸ばして彼の手を求めてきた。
「あやまることなんかないよ。しっかりしてくれよ」
孝夫は冷えきった手を力を込めて握り返した。
泣いてしまえばいいのに、と孝夫は言いたかったが、美智子はきつく唇を噛んでいるばかりだった。
「遺伝子を伝えられなかった女よね」
寝返りをうち、膝を抱えてつぶやく美智子の体は一回り小さくなったように感じられた。
「そんな刃物みたいな言葉は口に出さない方がいい」
孝夫が美智子にきつい口調でものを言うのはめったにないことだった。
その夜、美智子は倍量の睡眠薬を飲んで無理矢理眠った。
三日で退院した美智子は前のようにハードな勤務を再開したが、夜は睡眠薬を飲まないと眠れなくなっていた。食欲も落ち、短期間で頬がこけていった。そして、二週間ばかり経った朝、地下鉄の駅から電話があり、孝夫が車で迎えに駆けつけると、美智子は地下鉄入口脇の歩道にうずくまっていた。
「家に帰って」
すがりつくようにドアを開けて車に乗り込むと蒼白な顔でそれだけ言い、深呼吸をくり返していた。
マンションにもどるとスーツも脱がずにベッドに入り、夜飲むはずの睡眠薬をあせった仕草で飲み下した。数時間眠って起きた彼女に理由を聞くと、地下鉄に乗ろうとしたところで急に動悸が激しくなり、冷や汗が出てめまいがし、立っていられなくなったとのことだった。
「まだ疲れてるんだよ」
顔色がさえないままの美智子のために、孝夫は昼食も夕食もベッドに運んだが、彼女はほとんど手をつけなかった。
翌朝も、次の朝も、マンションから歩いて十五分の地下鉄の駅までは行けるのだが、美智子は同様の発作にみまわれて電車に乗れなかった。四日目の朝には不安感が強くマンションから一歩も出られなくなった。
毎日電話で欠勤を告げていたのだが、さすがに症状の深刻さに気づいたらしい副院長が心療内科の受診をうながしてきた。掻爬で入院したとき、美智子は一般内科的な検査をすべて受けて異常なしの結果を得ていた。精神に問題がありそうなのは気づいていたが、医師としてのプライドがある美智子には精神科領域の科を受診することに大きな抵抗感があったのである。おびえた目つきで蒲団をかぶっている美智子の精神の異常は孝夫にも分かっていた。電話で「心療内科」と話しているのが聞こえたので、孝夫も受診を勧めた。
「おれが付いてくからさあ」
毛布の上からそっと肩を叩いてやるのだが、美智子はかたくなに首を振り続けた。
三日待っても事態は悪化するばかりだった。胸苦しい、眠れない、脈が乱れる、足が冷える、頭が割れそうに痛む、……。美智子は様々な自律神経失調症状を口にしながら必死の形相で深呼吸をくり返し、ほとんど眠らなかった。困り果てた孝夫は外の電話ボックスから郊外に住む美智子の母に連絡した。
母は高校の英語の非常勤講師を退職してからも一人でアパートに住み続け、近所の学習塾で教えていた。母一人、娘一人なのだから、もう少し密着した関係かと結婚前の孝夫は思っていたのだが、彼女たちは互いに独立心旺盛で、母が正月に一日だけ泊まりに来るくらいで、ほとんど行き来はなかった。しかし、夫に早く死なれたあと、教師をしながら美智子を立派に育て上げた母は眼鏡の奥に芯の強い大きな目を隠した女性で、彼女の言うことなら美智子は素直に聞くのだった。事情を話すと、母はすぐに来てくれた。
「みっちゃん。病気なんだから、医者だって病気になるんだから、診てもらいましょう」
母がベッドに腰かけて語りかけると、美智子はそれまでこらえていたものを吐き出すように泣き出し、子を産めなかった悔しさを胸にすがりついて訴えた。
「みっちゃんはこれまで自分の思いどおりに生きてきたけど、世の中、予測のとおりにはならないことも多いのよ。その事実を知るのが大人になるってことなのよ、たぶん。みっちゃんはこれまでよりずっと患者さんの心の痛みが分かる本物のお医者さんになれるわよ」
泣き疲れた美智子に、母はゆるやかな口調で諭した。
翌日、母と孝夫に付き添われた美智子は勤務する都立病院の心療内科を受診し、恐慌性障害(パニック・ディスオーダー)と診断された。診察が終わって、孝夫も診察室に呼び込まれ、説明を受けた。
白髪のきれいな初老の医長は、口元に笑みをたたえて病気の説明をしてくれた。それによると、この病気は最近になって独立した疾患として認められたもので、うつ病によく似ているとのことだった。遺伝的体質などの内因にストレスや精神的ショックなどが加わると発病し、不眠、不安、などの精神症状に加えて様々な自律神経失調症状が出現する。抗うつ剤と抗不安薬がよく効くが、回復までには時間がかかる。
「どのくらいかかりますか」
診断がついて安心したのか、すっかり肩の力を抜いて患者になりきってしまった美智子が聞いた。
「そうですねえ、人によっては数年かかる方もいますよ」
医長は笑顔を保ったまま答えた。
彼はついでにといった気軽な態度で、
「とりあえず一カ月ばかり入院してみませんか」
と、美智子に切り出した。
足元を見つめて考え込んでしまった美智子はしばらくして顔を上げると、
「この人といる方が入院よりも精神的に落ち着きますので、自宅療養させて下さい」
と、胸を張って発言した。
最先端の医療を担う医師として国際的に活躍している美智子には、なんの取り柄もない自分との暮らしなど意味がないのではないかと自嘲することの多かった孝夫にとって、これは意外な一言だった。何年かぶりに、美智子をいとおしく感じた。
「そうさせて下さい」
うしろから両手で美智子を支え、孝夫も医長に頭を下げた。
一カ月の自宅療養の指示が出たが、美智子はマンションで一人になってしまうのを極度に怖れていた。発作が起きるかも知れない予期不安もあったが、自分の精神をコントロールする自信をなくしていたので、窓から飛び降りたくなったり、刃物を手にしたくなったりするのを抑えられないと言うのだった。孝夫は美智子の母に来てもらって留守番をしてもらい、一週間に一度だけ買い物に外出した。あとは一分と離れずに彼女の目の届くところにいた。病んだ美智子を見続けるのはつらかったが、結婚して以来、これほど自分が必要とされているときはないのだと自覚すると、なんとか一日を持ちこたえられるのだった。
彼女の症状を悪化させるのは、早く第一線の医療現場にもどらねばとするあせりだった。
「こんなことしてたら落ちこぼれちゃう」
発作的に叫んでパジャマを脱ぎ捨て、スーツに着替えてマンションを出ようとするのだが、エレベーターに乗ったところで動悸とめまいの発作を起こしてしまい、前よりも精神的に落ち込むのだった。
「ねえ、みっちゃん、この病気はもしかしたら、人生の後半は前半みたいにつっ走るんじゃなくて、少し生き方を変えてみたらって神様が教えてくれているんじゃないかしら」
ある日、留守番を終えて帰る母が玄関でそう言い置いた。
これは美智子にとってまさに天からの啓示であったようで、以後、彼女は出勤をあせらなくなった。一カ月はすぐに過ぎた。彼女はまだ一人で地下鉄に乗れなかったので、病院までは毎日孝夫が付き添って行った。
病院側もエース医師である美智子の病気に配慮してくれて、月、水、金は午前中の外来診療、火、木、土は午前中の人間ドックの診察をすればいいだけの週間スケジュールが用意されていた。孝夫は毎朝美智子を伴って病院に行き、外来の待合室や喫茶店で本を読みながら時間をつぶし、昼には彼女を連れてマンションに帰る毎日を過ごしていた。あれほど好きだった外食も、美智子は緊張して吐き気を催してしまうので、常に孝夫がマンションで昼食を作っていた。
三カ月もすると、美智子は一人で出勤すると言い出し、実行するのだが、地下鉄の改札口を入る前に発作を起こし、マンションへ逃げ帰った。地下に閉じ込められてしまう閉所恐怖感が発作の原因かも知れないと自己分析してバスに代えてみたが、やはりだめだった。となりの停留所に着く前に胸苦しくなり、下着が冷や汗でびっしょり濡れてしまうのである。地下ばかりでなく、バスの窓から見える東京の風景も閉じていた。道路の両側にビルが立ちふさがり、前後左右を車の群れに取り囲まれてしまうと、美智子は生命の危機感を伴う呼吸困難の発作にみまわれるのだった。
ころげるようにバスを降り、停留所にしゃがみ込んで、アスファルトの割れ目にはえる雑草の緑を見つけると、ようやく肺の奥まで空気を吸い込めるまでに回復する。そこでかろうじて公衆電話にしがみつき、孝夫に車で迎えに来てもらうのだった。
三、四カ月ごとにこんな徒労をくり返していた。時の経過とともに発作そのものは軽くなり、体重の減少も止まったのだが、一年経っても美智子は孝夫の付き添いなしでは病院に出勤できなかった。
病院側では美智子が責任者を務めていた化学療法部門の専門病棟に新たな医長を大学から招いた。美智子の身分は人間ドック専任医師に格下げされた。落ちこぼれになるのを納得しつつあった彼女だが、実際にこの人事を知らされるとまた強い発作を起こし、再び一カ月の自宅療養を余儀なくされた。心の病気にとってはプライドの高さも悪化要因の一つでしかないのだと孝夫はつくづく思い知らされた。
発病二年目には内科の外来診療からもはずされ、人間ドックの診察と検査結果を説明するだけになった。こんな仕事は研修医でもできるのよ、と弱よわしく笑いながら、それでも以前のような活気を体の中に取りもどしたい一心で、美智子は孝夫に付き添ってもらいながら病院に通い続けていた。
かわいがってくれた副院長は定年で辞め、病院内に頼れる人物はいなくなった。それは昨日までの自分なのだと分かっていても、健康人の論理だけで物事を決める医師たちのデリカシーのなさを軽蔑し、職場での人間不信はその極に達していた。
何事も原因をつきとめなければ気のすまない性格なので、美智子は通勤途中、自分を不安にする要素を細かく探してみた。果ての知れない暗闇に消える地下鉄の線路、頭上にのしかかってくる高層ビル、取り残されてしまうかも知れない車で混雑する交差点……。どの場所でも、周囲に人は大勢いるのだが、底の見えない孤独感を覚えた。孤島にたった一人取り残され、冷えた風が体を吹き抜けるような、存在が希薄化する気分ばかりでなく、実際に激しい呼吸困難を伴う不快きわまりない寂寞感であった。
発病して三年目になる頃には、美智子は発作の誘因をつかみかけていた。それはあまりにも人工的な東京の都市環境そのものであるらしかった。病む前には快適であったはずの人が人のために創り出した環境は、人間不信に陥った今、彼女の精神を逆なでするものに変質していた。そこに人間の意図が見てとれると、公園の樹木や噴水さえも美智子をいらだたせた。見た目の美しさや合理性ばかりが追求された人工建造物のレイアウトには、弱い心の存在を無きものとみなした健康人たちの奢《おご》りが感じられる気がした。
それに気づいてから、美智子は東京を逃げ出すことばかり考え始めた。そして、元気だった頃、お盆で谷中村に行ったとき、役場に勤める孝夫の小学校の同級生が遊びに来て、
「奥さんと一緒に孝夫が村に帰ってきてくれりゃあ、無医村の問題もなくなるだがなあ」
と、話していたのを思い出した。
そんなにせかなくても、となだめる孝夫の手を取って谷中村役場に電話をかけさせると、担当者がすぐに上京した。病気のことは正直に話したのだが、用意した履歴書を見て担当者は、
「こんなすごい先生に来てもらえるなんて」
と、絶句するばかりであった。
来年の春から谷中村の診療所に就職することが決まった秋、美智子は都立病院を辞めた。不思議なもので、通勤の負担がなくなった安心感からか、美智子はマンションの近所ならば一人で買い物に出られるまでになった。今日は魚屋まで行けた。今日は銀行まで行けた、と幼稚園児のようなことを言って嬉々として帰宅する美智子を、孝夫は両手を広げて迎えた。
山の中の村で暮らすんだから、体力をつけておかなくちゃ、と始めた町内一周の散歩に孝夫もつき合い、毎日五キロ歩いた。速足で歩きながら新しい生活の夢を語る美智子の吐く白い息には、病気が重かった頃には見られなかった勢いがあった。
美智子は三十九歳で発病し、この冬で四十二歳になっていた。治ったのではなく、時が彼女の心身を病の状態に慣らしてくれただけなのかも知れない。発作の再発のたびに美智子とともに疲れきっていた孝夫は、いつしかそんなふうに考えるようになっていた。肯定の意味での諦めこそが最高の薬らしかった。
「病気と治癒の関係ってそういうもんなのよね、きっと。こんなことも分からないで私は医者をやっていたのかと思うと、ぞっとするわ」
スモッグを抜けて射す冬の鈍い夕陽を浴びた散歩の途中の坂の上で、都心の方の高層ビル群を捨ててきたふる里のように懐かしげに望みながら、美智子はしみじみとつぶやいた。
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南に向いた斜面の麦畑を削って確保した平地に新築中の二人の新居は、土台部分が形を現わしたばかりのところだった。ハウスメーカーに依頼した軽量鉄骨造りの簡素な家なので工期は四カ月、梅雨が明ける頃には完成する予定である。それまでは祖母の死後空き家になっていた孝夫の生家に住まねばならない。谷中村に行くのは新居ができてからでも遅くはないのでは、と孝夫は説得したのだが、美智子は聞き入れなかった。
「早く東京を出たいのよ」
すぐに涙でうるみやすくなった目ですがるように訴えられると、孝夫はなにも言えなくなった。
祖母の死から年月が経ち、それでなくても古びていた家は土壁、板壁、トタン屋根と、崩れるべき箇所はすべて崩れ始めていた。畳だけは引っ越し前に急いで入れ替えたのだが、夜になるといたるところから隙間風が入り、二人は蒲団を寄せ合って寝た。
月、水、金曜の午前中、美智子は歩いて森平集落の診療所に出かけた。片道二キロの山路通勤は心身のリハビリに最適のようで、一週間ほどの間にやせすぎていた彼女の体重は三キロ増えた。
現代医療の最先端で活躍していた経験のある美智子にとって、田舎の診療所の仕事は予想どおりの楽なものだった。日に十五人前後の患者たちはほとんど全員が七十歳過ぎの老人で、軽い高血圧や心不全、変形性膝関節症などが主な疾患だった。車で一時間ほど下った町に中規模の総合病院があるので、重大な病気を抱えた人たちはバスで通っていた。村内で急病の患者が出ても、救急車で総合病院に送ればいいだけなので、一人の患者の初診から死亡までに付き合っていた都立病院の頃に比べれば、美智子に課せられた責任は何分の一かに減っていた。
老人患者たちののんびりとした言葉づかいも美智子の気持ちをなごませた。
「いつまでも死ねねえでよわっちまったと思っているであります」
「わしゃあはあ歳だで、薬なんざあ適当に出しておくれていいであります」
ふっきれた言葉を聞かせてくれるのは必ず老婆であり、じいさんたちは意気地がなかったが、どちらと話していても、美智子の頬は自然にゆるんできてしまった。
診療所は瓦ぶきの平屋で、灰色に塗られた板壁はペンキがはげかかっていたが、造りはしっかりしていた。診察室の黄ばんだ白壁には旧漢字の解剖図が貼られており、手洗い用の赤錆の出たホーローの洗面器、クレゾールのきつい匂いと、内と外も一時代前の医療施設であった。
看護婦のとめ代さんは先代の医師の時代から勤めていた人で、今年六十四歳になり、老人患者たちの家族背景や病歴に精通していた。決してでしゃばるわけではなく、美智子が聞けば過不足なく答えてくれるので、村での仕事のパートナーとしては申し分のない人だった。
十二時前には診療を終え、六川に沿う路を歩いて家にもどる。美智子が選んだのは車の通る道ではなく、村人が旧道と呼ぶ山仕事用の細い路である。旧道は舗装道路より五メートルばかり上の斜面をうねりながら村の奥まで続いている。人とすれ違うときはどちらかが斜面の草の上に坐ってゆずらなければならないほど細い路であった。
川に沿い、森を抜ける森平から六川集落への二キロの山路は整備されていない自然遊歩道の趣があり、木や草の香りと野鳥の鳴き声に満ちていた。こうしてわが身一人を歩ますことができれば他に多くは望まない。心の病に悩まされた東京の生活を思い出しながら、美智子は自分の影につぶやきかけた。
山路を一時間以上かけてゆっくり登ると六川集落に着く。家では孝夫が昼食を作って待っている。午後は三十分ほど昼寝をしてから、新しい家の建築現場を見たり、六川の岸を散歩したりして、夕方からは風呂を焚く。
美智子にとって薪で風呂をわかすのは初めての体験だったが、二、三日するとコツを覚えた。土間に太い薪を置いて腰をおろし、膝を抱えておだやかに燃える火を眺めていると時の経つのを忘れた。火に照らされた頬がほんのり暖かくなるまでに、揺れる炎の中に美智子は多くの懐かしい光景を思い出していた。
父がまだ元気だった頃、母と三人で多摩川にピクニックに行って見た夕焼けの赤さ。肩車に引き上げてくれた父の手のぬくもり。高校の帰り道に大学通りのあちこちで見られた焚き火の匂い。……。
長く使われていなかった風呂桶からは、孝夫が隙間に木片をつめたのだがまだ若干水が漏る。新たにプロパンガスのボイラー付き風呂桶を買うのは容易だが、新しい家ができたら不要になってしまうのでもったいない。それならば少しの水漏れはがまんして、と始めた風呂焚きなのだが、美智子にとっては思いがけない精神安定剤の役目を果たしてくれているのだった。
火、木、土、日の休みの日にはまだ何をすべきか決めていない。ただ、これらの日の食事は美智子が作ることにした。朝はトーストと卵とコーヒーだから楽だけれど、昼と夕にはスパゲティー、カレー、コロッケと、高校までに家で覚えた数少ない料理のレパートリーの中から献立を工夫する。
孝夫は稲作を再開するつもりで朝から夕まで田起こしをしている。丈の高い雑草が固く根を張っているので、一日に起こせる面積は限られている。放棄した田を復元する作業は頭で考えていたよりはるかに難事業で、始めて一週間で早くも今年の田植えには間に合わないなと、弱音を吐いていた。
肉体労働で疲れて帰宅する夫の食事を用意するのは美智子にとっては初めての体験だった。食べっぷりがいいので作りがいがある。あたりまえの女としての仕事もたまには悪くないな、と思う美智子であった。
それにしても、谷中村に来てからよく眠れる。睡眠薬は一錠の半分しか飲まなくなった。森を吹く風と川の流れる音が子守歌になる。夜にはそれに加えて、人工の光の混じらない天然の闇そのものが人の意識を吸い取ってしまう濃さを持っているのである。よく歩くようになったので、床に入ると足先や腰の周囲に適度な疲れが残っており、それがほぐれてゆく感覚がなんとも心地よい。
「顔がさあ、おだやかになったよな」
裸電球の下でとなりに横になった孝夫が頬杖をついて言った。
「楽なのよね。なんだかとても楽なのよ」
口で詳しく説明してしまうと、心身をリラックスさせている自然との微妙な調和が崩れてしまいそうだったから、美智子は結論だけを伝えた。
孝夫にとっても、この部屋で横に美智子が寝ているのを見ると気持ちが和んだ。難関の医学部に進み、医師となってからも彼女は常に背伸びをして最先端の医療を追いかけ続けてきた。おなじマンションの部屋で暮らしていても、二人の視線がおなじ高さになることはめったになかった。
それが今、煤けた天井に目を休めながら枕を並べて寝てみると、美智子が踵を下げてくれたおかげでようやく互いに等身大になれた気がする。難しいことではない。もう一度ここから歩き始めればいいのだ。
村に来て二十日が経った。六川は雪解け水で増水していた。今年の日向区の区長であるとなりの田辺さんのおばさんが広報紙を配りに来てくれた。六川集落は六川をはさんで北側が日向区、南側が日影区と呼ばれている。
「せいがでるねえ」
屋根に登って腐ったトタンを張り替えていた孝夫に庭から田辺さんが声をかけてきた。
「広報配りなら今度からおれがやりますよ」
孝夫はあぶなっかしげに軒先に顔を出して下をのぞいた。
「ああ、そうしてもらえるとありがてえねえ。これっからは田んぼとモーテルで忙しいだよ」
腹の出た田辺さんは腰に手をあてて屋根を見上げた。
「モーテル、ですか」
六十歳近い田辺さんの赤ら顔を、孝夫はあらためて見つめ直した。
「ああ、町のモーテルで蒲団敷きの仕事してるだよ。昼間っから来るすけべえがいるから、パートだけんど、けっこう忙しいだよ。それじゃあ」
孝夫の一瞬だけの誤解など知らぬげに、田辺さんは太い腰をゆすって次の家に向かった。
トタン屋根の腐りかけた箇所は見つけ出すときりがなくなるので、適当なところで切り上げ、下に降りた。囲炉裏端に置かれた『谷中村広報』は四ページの印刷物で、村議会報告、小学校の修学旅行の写真集、健康診断の予定などが雑多に配置されていた。写真ばかりで記事の少ない広報紙だったので五分とかからずに読み終えた孝夫は、畳の上に投げ置こうとしてふと裏表紙下段左隅の囲み記事に目を止めた。指で押さえていて気がつかなかったのである。
〈阿弥陀堂だより〉
目先のことにとらわれるなと世間では言われていますが、春になればナス、インゲン、キュウリなど、次から次へと苗を植え、水をやり、そういうふうに目先のことばかり考えていたら知らぬ間に九十六歳になっていました。目先しか見えなかったので、よそ見をして心配事を増やさなかったのがよかったのでしょうか。それが長寿のひけつかも知れません。
読み終えた孝夫は思わず頬をゆるめた。阿弥陀堂のおうめ婆さんのインタビュー記事らしい。内容の乏しい『谷中村広報』の中で、この短い記事だけが光っていた。
まず『阿弥陀堂だより』というネーミングがいい。それに、おうめ婆さんの変化球的な語りを要領よくまとめ、妙なコメントをつけていないところに好感がもてる。
昼食に帰ってきた美智子に広報紙を見せると、彼女も一読して『阿弥陀堂だより』のファンになった。
「おうめさんてねえ、一年ばかり前に血圧が高くなって倒れたそうなのよ。看護婦のとめ代さんが言ってたのよ。先生とおなじ六川集落だからたまに様子を見ておいて下さいって言われたばかりなのよ」
美智子には気になった課題を即座に解決しておかないと安心できないせっかちなところがあった。いら立ってくると目が落ち着かなくなるのだった。
「行ってみるか」
彼女の繊細な性格をよく知り抜いた孝夫が間を置かずに声をかけた。
「そうね。あそこは見晴らしがいいから、気分がすっきりするしね」
美智子の表情がなごんだ。
六川集落から阿弥陀堂までは七曲がりと呼ばれる曲がりくねった急な山路を登る。一息に行けば十五分だが、東京暮らしの長かった二人の心肺機能はいくらか衰えていて、途中で一回休まざるを得なかったので二十分かかってしまった。
阿弥陀堂の障子は開いていて、春の午後の陽が射す破れ畳の上でおうめ婆さんは昼寝をしていた。死んでいるのではないかと思われるほど安らかな寝顔だったので、声をかけるのをためらった二人は脇に回ってみた。
錆だらけの波形トタン板で囲まれ、屋根にもトタンを載せた増築部分がおうめ婆さんの生活場所のようだった。開け放たれたガラス戸から黒くくすんだタイルばりのカマドとドラム缶の風呂桶らしきものが見えた。その横の青いポリバケツに、鉄管で引かれた水が流れ落ちている。井戸なのだろう。
トイレはどこにあるのだろう、と孝夫が周囲を見回しているところにおうめ婆さんの声がした。
「あれ、あれ、わしゃあいつもこの時間は寝ちまうもんで、申し訳ねえことでありました」
正面の上がり口から顔を突き出したおうめ婆さんは両手をついて頭を下げた。
「気になさらなくていいんですよ。診療所のとめ代さんが心配してたんで、血圧だけでも測らせてもらおうと思って来たんですから」
美智子は風呂敷に包んできた血圧計を畳の上に置いた。
「あれまあ、こんな婆さん、いつ死んでもいいですが、申し訳ねえことであります」
そう言いながらも、おうめ婆さんは素早くあおむけに寝て右腕をまくった。
「百四十と八十二です。とてもいい血圧ですよ」
聴診器を耳からはずして、美智子は微笑みかけた。
「冬場でねえ、便所を掘ってたら具合悪くなったのは、ありゃあ一年|前《めえ》でありましたか。とめ代さんが来ておくれて、血圧がえれえ高くなっちまって、二日だけ寝込んだことがありました」
おうめ婆さんは起き上がり、鼻をすすった。
「便所はしたいときに掘るんですか」
孝夫は先ほど抱きかけた疑問を真正面からぶつけてみた。
「小便は畑にしておしめえでありますが、大便の方はそれでも穴を掘らにゃあならねえもんでありますから、クワで掘るですよ。雪が深《ふけ》え冬はちっとばかり大変であります」
おうめ婆さんは、どっこいしょ、と声をかけて立ち上がり、茶の用意をしてくれた。
最近では簡易水洗便所を設置する家が増えたが、ほんの四、五年前まで六川集落のトイレはすべて汲み取り式で、肥えかつぎの光景は往来でよく見られた。老人の独り暮らしの家には近所の男衆が休日に行ってかついでやっていたものだった。阿弥陀堂のトイレ事情が汲み取り式以前の段階にあったとは、孝夫は不覚にも知らなかった。
おうめ婆さんは今でも阿弥陀堂の横にある二十坪ほどの畑で用を足しているらしい。足腰がたっしゃなうちはいいが、弱ってしまったらどうするのだろう。阿弥陀堂の堂守が寝込んだら誰が看病する決まりになっているのか。孝夫が物心ついたときから堂守はおうめ婆さんなのでそれも分からない。
「体の調子はいかがですか。おうめさんは大病なんてしたことないんでしょう」
美智子はぬるい茶で唇を濡らしながら尋ねた。
「娘の頃、寝込んだことがありました。自分でも死ぬかと思っていたでありますが、どうにか死なねえで、それでも五十日も寝てたようでありましたがな」
おうめ婆さんは他人事を話すように笑っていた。
「娘の頃っていいますと、おいくつくらいのときでしたか」
美智子はいつの間にか問診する医者の表情になっていた。
「そうでありますねえ、あれで十五、六の頃だったでありますか。それで、おうめは病気持ちで体が弱えっつううわさになって嫁のもらいてがなかったでありますよ。そのまんま家にいたら親も兄弟も死に絶えちまって、この有様でありますよ。あっはっは」
ここでもおうめ婆さんは他人のうわさ話でも楽しむかのごとく、頑丈そうな前歯を見せておおらかに笑った。
「十五、六の頃っていったら……八十年前ですよね。なんの病気だったのかしら」
美智子は途方に暮れた顔を孝夫に向けた。
「おうめさん、よかったら便所、おれが掘ってあげましょうか。穴の周りを囲って屋根だけつけるなら、家に廃材があるし、女房に食わしてもらっているもんで、おれ、ヒマですから」
孝夫も気にかかっていた用件を早く解決したかった。
欲のなくなった老婆の笑顔は誰でも似たものになるらしく、おうめ婆さんの笑ったところは亡き祖母にそっくりだった。祖母には十分な孝行をつくせなかったので、せめてよく似たおうめ婆さんにはできるだけのことをしてあげたい、という気持ちが孝夫の内に芽生えていた。阿弥陀堂には仏様になった祖先たちの霊が住んでいるのだから、堂守への勤労奉仕は先祖供養にもなるはずだと勝手に決めこんだのだ。
「そりゃあありがてえことでありますが、わしゃあ金はねえでありますよ」
おうめ婆さんははっきりと言った。
「いいですよ。使うのは廃材だし、おれは体を動かしている方が好きなんだから」
孝夫も正直に答えた。
「なにですか、あんたさんはそんなに立派な体しとって仕事はしておられんでありますか。どっか具合でも悪いんでありますか」
おうめ婆さんは孝夫の顔をのぞき込んだ。
孝夫は照れながら黙ってうなずいた。老いても勘はよさそうなおうめ婆さんはそれ以上の追及はせず、
「よろしくお願いしやす」
と、機敏な動作で畳に両手をついた。
翌日から孝夫はツルハシと廃材をかついで阿弥陀堂に登り、脇の畑の隅に直径一メートルばかりの穴を掘り始めた。おうめ婆さんが畑の耕作用のスコップを持ち出して手伝おうとしたが、孝夫は、
「十時と三時にお茶だけ出してもらえれば十分ですから」
と、断わった。
穴を掘り進めながら、六川集落の人たちはなぜ今までおうめ婆さんのトイレの問題をほったらかしにしていたのだろう、と孝夫は疑問に思った。貧しいながらも助け合って今日まで生きてきた人たちばかりなのに。
直接聞いてみた方がおうめ婆さんも遠慮がなくなるかも知れないと判断して、孝夫は十時のお茶を阿弥陀堂の上がり口でもらいながら質問した。
「おうめさんの便所はどうしてなかったんですか。村の人たちが作ってくれるっていう話は出なかったんですか」
と。
「話はあったでありますよ。わしが断わったであります」
おうめ婆さんは丈夫な前歯で野沢菜の漬物の茎を鋭く噛み切りながら答えた。
「おてんとさまの下で穴掘ってした方が気持ちがいいのと、便所から肥をかついで畑に撒くのは一人じゃあおおごとなもんで、はじめっから畑にしといた方が楽だと思ったでありますよ。誰も見てねえから、恥ずかしくもねえでありますし」
おうめ婆さんの顔はごく自然に笑っていた。
「じゃあ、おれが便所を作りましょうって言ったのを断わらなかったのはどうしてなんですか」
とまどった孝夫は苦心してぎこちない笑顔を造った。
「この頃、穴を掘るのがおおごとになってきたであります。それと、あんたさんは芯からヒマそうな顔をしておいでだからであります」
まあ許せ、とでも言うように、おうめ婆さんは皺だらけの喉を震わせて笑った。
ほめられたのか、けなされたのか、おうめ婆さんの奥の深い笑顔にうっちゃられてしまったかっこうの孝夫は便所に関する質問を打ち切った。
「『谷中村広報』に『阿弥陀堂だより』というのが載っていますけど、あれは誰かが話を聞きに来るんですか」
気分を変えるために、孝夫は昨日から持ち越してきたことを聞いた。
「役場の若《わけ》え娘さんが来るであります」
おうめ婆さんの表情がわずかだが動きを止めた。
「その娘さんがおうめさんから聞いた話を書いているわけですね」
あのコラムの書き手が若い娘だと聞いて、孝夫は念を押してみたくなった。
「そうであります」
おうめ婆さんの回答は実にそっけなかった。
「どうもごちそうさまでした」
孝夫は縁の欠けた万古焼きの湯飲みを置き、穴掘りにもどった。
表面から二十センチくらいまではやわらかい黒土なのだが、それから下は石が多く、掘るのに苦労した。どれくらいの深さまで掘ればいいのか、迷い出した三日目の午後に穴の底から水が湧き出した。孝夫の胸までの深さになっていた。
「わしゃあ食うもんも少ねえでありますから、出すもんも少ねえであります。そんなもんでいいでありますよ。それだけ深けりゃあ三年はもつでありましょうや。あと三年も生きやしねえと思うでありますよ」
穴をのぞいたおうめ婆さんが中止をうながす声をかけてくれたので、孝夫は内心ほっとしてツルハシを置いた。
土が崩れないように、内側に掘り出した石を積み、厚い木の板を二枚渡して原始的なトイレのかっこうができたのは作業に取りかかってから五日目の午後だった。あとは周りをトタンで囲って屋根を付けるのだが、孝夫の家から持ってきた古いトタンだけではいくらか足りなくなりそうだった。三時のお茶のときその旨を告げてみた。
「金ならいくらかあるでありますよ。年金があるでありますよ」
おうめ婆さんは茶だんすの引き出しからあっさりと一万円札を三枚出してきた。
「こんなもんでいいでありますか。まっといるでありますか」
無用のものを扱うぞんざいさで札を畳の上に置いたおうめ婆さんは正面から孝夫を見た。
「足りると思います。足りなかったらまた言います」
一万円札のそっけない扱い方は、金があるのだろうかと心配していた孝夫への気遣いのような気がしたから、彼はていねいに一礼して金をポケットに入れた。
次の日、森平集落まで車で下りて農協の販売部でトタンを買い、六川にもどって阿弥陀堂にかつぎ上げるともう十時になっていた。阿弥陀堂の上がり口には先客がいた。首に黄色いスカーフを巻き、赤いギンガムチェックのブラウスに白いジーパンをはいたショートカットの若い娘だった。丸めたトタンをかついで前を通る孝夫に彼女は軽く頭を下げた。
「お茶にしておくんなんし」
おうめ婆さんがすかさず声をかけてくれた。
まだ作業を始めていないのに、いきなりお茶をもらうのは気が引けたが、若い娘と話ができる機会などこの数年なかったので、孝夫は遠慮しなかった。彼が上がり口に坐ると娘はまた礼をした。
「こんにちは」
孝夫があいさつをしたが返事はなく、代わりに白く艶のある八重歯の見える愛らしい笑顔だけがかえってきた。
「この娘さんは口がきけねえでありますよ」
おうめ婆さんは孝夫に湯飲みを差し出しながら、ついでを装ってなにげなく伝えた。
「あっ、どうも」
湯飲みを受け取った孝夫は娘とおうめ婆さんの中間に視線を泳がせて曖昧な会釈をした。
娘はジーパンの膝の上に大学ノートを広げており、その上にボールペンがころがっていた。
「この娘さんがわしの話すことを書いておくれでありますよ。あんたさんが言っておった……」
おうめ婆さんにうながされた孝夫は、
「ああ、『阿弥陀堂だより』の」
と、大きく首を縦に振った。
娘もよく光る丸い目を孝夫に向けてうれしそうに何度もうなずいた。
「あの『阿弥陀堂だより』っていうコラムの題はあなたが考えたんですか」
孝夫が聞くと娘は反射的にこっくりした。
「もうずっと前から書いてるんですか」
孝夫の質問に娘は右の人差し指を立てた。
「一年前から」
孝夫が言うと、娘は、そうそう、というふうに口を動かした。
「この人はのう、今度来た診療所の先生のだんなさんでありましてなあ。この六川の出だが、今は仕事してねえそうで、わしの便所を作っておくれでありますよ」
おうめ婆さんの紹介は簡にして要を得ていた。
「この娘さんはのう、役場の助役さんとこの一人娘さんでありまして、去年、東京の大学出て役場に入ったでありますよ。役場で大学出てるのはこの娘さんだけだそうでありますよ」
孝夫に向かって話していたおうめ婆さんが最後のところで急に顔を向けてきたので、娘は両頬を真っ赤にした。
「あの文章はいいですよ。簡素な中に味があります。もちろん文科系ですよね」
なんとか共通の話題を見つけられそうだったので、孝夫は聞くだけ聞いてみた。
娘は今度は首を動かさずに、ええ、と見てとれるように口角を広げた。
「失礼ですが、大学はどちらですか」
春の陽をそのまま照り返す娘の明るい笑顔につられて、孝夫は話し続けたい一心で不躾な質問をした。
彼女は嫌な顔もせずに膝の上のノートに大学名と文学部出身であることを書いた。整った字だった。やはり聞いてみるもので、孝夫の後輩だった。その旨を告げると、娘は両頬に手を当てて驚いてみせた。
「いゃあ、こんな山の中で後輩に出会えるなんて、不思議な縁ですねえ」
熱心に講義に通った方ではないので大きな顔はできないが、おなじキャンパスの空気を吸い、おなじ机に向かった者同士だと思えばそれなりの親近感が湧いた。
「村からそんな有名な大学に入ったもんはなかったから、そりゃあ評判になったでありましたよ。そりゃあそうと、あんたさんもおなじ大学を出た人だとすりゃあ、わしゃあそんなえれえ人に便所を作ってもらってることになるでありますか」
おうめ婆さんがタイミングよくおどけて割り込んでくれたので、娘と孝夫はうちとけて笑い合った。
口元から始まった笑顔が目尻で消えてゆくにつれて、孝夫の胸の内でくすぶっていた、娘の口がきけない理由を知りたい欲求が頭をもたげてきた。こんなときはその場を去るのが賢明だと判断できる程度の歳にはなっていたので、孝夫は腰を上げた。
「便所工事が遅れちゃうからこの辺で失礼します。どうぞゆっくりおうめさんの話を聞いて、またセンスのいいコラムを書いて下さい」
孝夫が一礼すると、娘も立ってうなじが見えるまで深く頭を下げた。
遠くの山脈が春がすみの中に溶け込んでいるうららかな春の午前だった。孝夫は便所の穴の周囲に柱を立て、板を渡し、トタンを打ちつけていた。静かすぎる六川集落には孝夫の釘を打つ音だけが広く響いていた。
阿弥陀堂の方からはおうめ婆さんの声しか聞こえない。おそらく娘は質問事項をノートに書いておうめ婆さんに見せているのだろう。それにしても、あんな明るい笑顔を造れる彼女から声を奪った原因は何なのか。小さな疑問は孝夫の内で急速に増殖していった。
昼めしの時間が近づいた頃、娘は脇に回って孝夫に一礼してから七曲がりの路を下って行った。孝夫も仕事にひと区切りつけたところで家に帰った。
月、水、金、の午前中は美智子の勤務があるので食事の用意は孝夫の役目である。東京にいた頃は三度とも彼の担当だったのだが、村に来てからは診療所に行った日でも夕食は美智子が作るようになった。彼女は|ぼや《ヽヽ》と細かく割った薪を燃やすカマドに最初はとまどっていたが、今では慣れて、ロールキャベツやシチューを煮込むには薪のおだやかな火の方がいいわね、などと言ってのけるまでになっていた。
家にもどってカマドに火をつけ、スパゲティーをゆでているところに美智子が帰ってきた。
「カマドでスパゲティーなんてイタリアの田舎みたいでいいわね」
最近では美智子の方から会話をしかけてくる機会が多くなった。病気がよくなかった頃は孝夫が話しかけても返事が返ってくるのは稀だったのだが。
「おれを育ててくれたお祖母さんはスパゲティーなんて見たこともなかったはずだから、このカマドで変なもんゆでてるって、あの世でびっくりしてるよな」
会話がなによりの薬であるのを孝夫はよく理解していたから、軽口をたたいた。
「今日ねえ、朝一番に診察に来たかわいい女の子は、かわいそうに声が出せないのよ」
美智子はスニーカーを脱いで囲炉裏端に坐った。
彼女が患者の話題を口にするのも結婚以来なかったことである。村に来てから、美智子の中でなにかが溶け出しているようだった。
「その娘さん、『阿弥陀堂だより』を書いてる人だよ」
孝夫は鉄鍋の中のパスタを箸でかき混ぜながら、阿弥陀堂で会った娘の様子を美智子に話して聞かせた。
「石野小百合ちゃんていうのよ。今まで町の総合病院にかかってたんだけど、今度診療所に私が来たからっていうんで紹介状持って来たのよ。大学生のとき喉に悪性の肉腫ができて、東京の大学病院で放射線治療を受けて、肉腫の方は治ったんだけど、放射線の障害で声帯が動かなくなったそうよ。甲状腺の機能も低下しちゃって」
以前の美智子なら、医者としての立場でしか知り得なかった他人の病歴を夫である孝夫にでさえ気軽に口外したりはしなかった。しかし、今の彼女は話してしまうことで懸命に精神のバランスを保とうとしているらしかった。孝夫は美智子の重荷の一部を背負ってやるつもりで黙って聞いていた。
「それって医療ミスにならないのかい」
あえて素人っぽい質問をするのも自分の役目だと孝夫は心得ていた。
「肉腫は治っているわけだから、主治医はそれだけがんばって治療したわけで、医療ミスとは言えないと思うな。とにかくやっかいな肉腫だったのよ」
美智子は諭す口調になった。
「学生時代の話とすれば何年前になるのかな」
ゆであがったスパゲティーを竹のザルですくって湯を切りながら孝夫は話を続けた。
「彼女は去年大学を卒業して、三年生のときだって言ってたから、三年前になるかしらね」
「再発の心配なんていうのは」
「そうね、あと二年大丈夫だったら心配なくなると思うけど。大丈夫でいて欲しいわよね」
いつの間にか美智子の目がうるんでいた。
人の生命にかかわる、医者としての仕事の本分に触れる話をするとき涙もろくなったのも、病気になってから見られるようになった彼女の変化だった。感情を抑制する力が萎えたのが原因らしいが、孝夫の目にはむしろ、涙っぽくなった美智子の方がより人間として魅力的に映ってはいた。
ベーコンとエノキダケとタマネギ入りのトマトソースをかけたスパゲティーがその日の昼食になった。ベーコンとトマトの缶詰は森平集落にトタンを買いに行ったとき農協のスーパーで求めたものだった。マッシュルームも欲しかったのだが、生はもちろん缶詰も置いてなかったのでエノキダケでがまんした。
「ねえ、阿弥陀堂に登る前に、一緒に家の工事を見に行きましょうよ」
美智子は毎日散歩がてら新しい家の工事現場を見学している。
新居は歩いて五分ばかりの山の斜面を耕した畑に造っている。祖母が腰巻きと呼んでいた畑である。地名の由来は不明だが、腰巻きの畑では小麦、大豆、サツマイモを栽培していた。上に行くほど傾斜が急になるので、土にへばりついて草をむしった幼い頃の記憶が孝夫にはある。
今回、家を造るにあたっては斜面を切り崩し、三方をコンクリの壁で囲って八十坪の平地を確保した。そこに建坪四十二坪の軽量鉄骨住宅を建てているのである。冬に東京で始めた建築計画なので、設計、施工は信州に支社のあるハウスメーカーに依頼した。
家の間取りは金を出す美智子が決定した。ダイニングのとなりは暖炉のあるリビングルーム。トイレと風呂場は可能な限り広く、など、彼女はリラックスして住める環境を第一に考えていた。設計図片手に工事現場を見ながら完成を想像する方が、実際に出来上がった家に入るよりずっと楽しいはずだ、と美智子は毎日飽きずに出かけているのであった。
阿弥陀堂のおうめ婆さんの便所が完成したのはゴールデンウィークの始まる四月末だった。この間、彼岸の中日に阿弥陀堂では念仏講が開かれた。
六川集落の家々から集まった老人たちが、戦死者を中心とした先祖供養のために円座を組んで数珠を回しながら念仏、和讃を唱えるのである。昼飯には各自持ち寄った材料で煮込みうどんを作って食べる。本格的な農作業の開始をひかえて、老人(ほとんどが老婆)たちは一日中思う存分昔話に花を咲かせるのであった。
今年は十一名の老人が集まった。六川集落にはあと、六、七人の老人がいるのだが、足腰が弱くなってしまって阿弥陀堂までの山路を登って来られない。昔から村では、阿弥陀堂に登れなくなった老人の死期は近いと言い伝えられているので、誰もが必死で登ろうと試みた結果がこれだった。
堂守のおうめ婆さんの仕事は客たちの接待だった。茶を出し、先頭を切って和讃を唱え、煮込みうどんの味つけをする。集う老人たちはいつの間にか全員がおうめ婆さんより年下になってしまったので、あまり気は遣わなくなった。三十年も前の頃は、
「みんなから米、味噌をもらってて、こんなまずいうどんしか作れねえだか」
と、七十歳を過ぎた口うるさい老婆たちから罵声を浴びたりしたものだった。
堂の隅で小さくなって、乞食のような境遇を呪ったこともあった。おうめ婆さんの阿弥陀堂での生活は見た目ほどに気楽ではなかったのである。
昔から堂守の食べる米、味噌、醤油などは阿弥陀堂念仏講費の名目で毎月各戸から集められる金で日向区と日影区の区長が購入し、月末に阿弥陀堂に運び上げている。現在ではすべての家が現金で払っており、今月、孝夫のところも三百円取られたのだが、以前は米や味噌の現物を提供する家も多かった。
おうめ婆さんは年金の収入があるので、缶詰や魚肉ソーセージ、その他の乾物は区長に金をあずけて買って来てもらう。野菜はすべて畑で自給していた。区長は月に一度しか登って来ないので、台所の在庫を見ながら来月の乾物を予約する。冷蔵庫を持たないから、生物《なまもの》は食べないのである。
だから、おうめ婆さんにとっては春と秋の彼岸にみんなが持ち寄る稲荷寿司やタマゴ焼きのおすそ分けは大変なごちそうになる。
「わしにとってごちそうはふだん手に入らねえもんでありまして、別に高《たけ》えもんじゃねえであります」
茶飲み話の間に、おうめ婆さんはふともらしていた。
砂糖と塩だけで味つけされた田舎のタマゴ焼きでさえ大いなるごちそうと受け止める粗食の習慣こそが、おうめ婆さんの長寿の秘訣なのかも知れない。孝夫が目にした彼女の昼食は常にナスの油味噌いためとジャガイモの味噌汁にご飯が一杯だけだった。おうめ婆さんは食事を塗りのはげた箱膳にのせて陽のあたる上がり口で食べるので、家にもどる孝夫は庭を横切りながらその内容を見てしまうのだが、毎日決まったものがおなじ量で盛られているのだった。
便所の完成までに二度、孝夫は阿弥陀堂で石野小百合ちゃんに会った。おうめ婆さんは小百合ちゃんに話をして聞かせるのが楽しくてたまらないらしく、彼女が朝から来ている日などは夢中で話しこんで、孝夫が十時のお茶に呼ばれなかったりした。そんなとき、彼は勝手に作業を中断して上がり口に押しかけた。すると、おうめ婆さんは、ああ、あんたさんもおいでだったでありますなあ、と驚いた仕草をして見せてからお茶をいれてくれるのだった。
「おうめさんはこの自然の中で自然に生きてきたわけだけど、そういう人に便所なんか作ってあげたのはよけいなお世話だったんじゃないかって、この頃後悔してるんだよな」
小百合ちゃんにもおうめ婆さんにも本音を伝えておきたかったので、孝夫は二人に背を向けたまま独り言の如く語った。
「そんなこたあねえであります。わしゃあ感謝しているであります」
おうめ婆さんが背を丸めて合掌した。
小百合ちゃんは小さく首を振りながら、膝の上の大学ノートにボールペンを走らせ、孝夫の方に向けた。
私はトイレの問題に気づかなかったことを恥ずかしく思っています。
小百合ちゃんの字は流れる字体でありながら読みやすかった。
「一回の『阿弥陀堂だより』を書くために、こんなに何度も取材に来るのかい」
小説を書くときの取材は一回きりの孝夫は、素朴な疑問をぶつけてみた。
小百合ちゃんはしばらく考えてからノートに書いた。
私の体調が悪いこともありますので、元気なときにできるだけたくさん聞いて、貯めておきたいのです。
ノートを見せた小百合ちゃんの笑顔はぎこちなかった。喉の肉腫の再発がないわけではない、と言っていた美智子の言葉を思い出して、孝夫はまずい内容の質問をしてしまったのを悔いた。
「言うと照れちゃうんだけど、おれは小説を書いているんだよ。新人賞をとってからもう十年以上になるんだけど本が出ない、そんな売れない作家のはしくれなんだけど……。ここしばらくは原稿用紙から離れて、この村で体を使って働いてみて、原点ていうか、根っこっていうか、今のおれの原形みたいなものを見つけてから、書けたらまた書こうと思ってるんだよ」
悔やんだ分だけ、孝夫は小百合ちゃんに対して裸の己をさらけ出そうとつとめた。
小百合ちゃんは両頬に固いえくぼを作って真剣に孝夫の話を聞いてからボールペンを手にした。
新人賞だけでもすばらしいです。小説が書ける人はうらやましいです。私も一作でいいから小説を書きたいのですが、根気がなくてだめです。書き上げるには体力がいりますよね。体力のない私には『阿弥陀堂だより』が精一杯のところです。
孝夫にとって声の出ない人の筆談に応じるのは初めての経験なのだが、答が文語調になってしまいがちな点さえ注意すれば、かえって考えをよくまとめられる会話法であった。
「以前、テレビのインタビュー番組で観たんだけど、生前の井伏鱒二が出ていてねえ、開高健から、書けないときはどうしたらいいんですかって聞かれて、いろはでもいいから毎日書いていなさいって淡々と話してたよ。おれもやってみたけど、できそうでできないんだよな、これが。つい書いてしまうんだよ、つまらない文章をね」
老人だらけの山深い集落で、小説の話ができる若い女性にめぐり会えたのが素直にうれしくて、孝夫はよくしゃべった。
私は話すために書くので、書くために書くのがおっくうになってしまいます。それではいけないんでしょうけどね。
小百合ちゃんは小首をかしげた。
「そうかあ。そういうことがあるんだなあ」
声は出せなくても書けるのだから書けばいい、とありきたりのアドバイスをしようとしていた孝夫は脇の下に冷や汗をかいていた。
「小説っていうのは昔話のようなもんでありますか。ふんとの話でありますか、うその話でありますか」
黙っていたおうめ婆さんが突然割って入った。
「うその話ですけど、ほんとのことを伝えるためのうその話って言ったらいいかな。畑から抜いたままのゴボウは食えないけど、アクを抜いてキンピラにすれば食える。キンピラと畑から抜いたゴボウは、どちらがほんとのゴボウかっていったら畑から抜いた方だけど、ゴボウのうま味はキンピラでないと分からないってとこですかねえ」
孝夫は事実と虚構について説明しようとして失敗した。おうめ婆さんは口を半分開いて呆然としていた。
小説とは阿弥陀様を言葉で作るようなものだと思います。
小百合ちゃんはノート一ページに大書しておうめ婆さんの前に広げた。
「おう、これだらよく分かるであります。わしにも分かるであります」
おうめ婆さんは小百合ちゃんに向かってかしわ手を打った。
小百合ちゃんは困って下を向いてしまった。孝夫は説明の敗北を認めてしきりに頭を掻いた。
「わしゃあこの歳まで生きて来ると、いい話だけを聞きてえであります。たいていのせつねえ話は聞き飽きたもんでありますからなあ」
おうめ婆さんは文章を書く二人に小説のあるべき姿に関する説教を垂れた。
「世の中にいい話っていうのは少ないから、ほんとらしく創るのって大変なんですよ。だから、小説には悲しい、やるせない話が多くなってしまうんですよ」
愉快な小説は悲劇よりも書きづらいのを知っている孝夫は自戒の意を込めて答えた。
「金出して本買って、せつねえ話を読まされるじゃあたまらねえでありましょうや。うれしくなりたくって金を払うじゃあありますまいか」
おうめ婆さんが同意を求めて下から見上げてきたので、小百合ちゃんは何度もうなずきながら白い歯を見せた。
尋常小学校しか出ていないので漢字もよく読めないおうめ婆さんだったが、話題に対する反応のよさには老人特有の鈍さが少しも感じられない。長く生きてきた老人の言うことだから仕方なく肯定するのではなく、道理に合っているから納得せざるを得ないのである。各集落に堂守の老婆はいるはずだが、小百合ちゃんが六川のおうめ婆さんに目をつけたのは正解であった。
「『阿弥陀堂だより』っていうタイトルを考えたときは、各集落の阿弥陀堂守から話を聞くつもりだったんだけど、やっぱりおうめ婆さんに並ぶ人はいなかったってことかなあ」
小百合ちゃんと対話するときは、こちらから相手の考えていそうなことを推察してやる必要があった。さもないと、彼女はノートにびっしりと語りたい内容を書きつらねなければならなくなってしまう。
小百合ちゃんは一行で返事をくれた。
そのとおりです。
よく分かりましたね、と言いたげに小百合ちゃんは目を丸くした。
「わしゃあ自慢じゃねえでありますが、ここに入ってから四、五十年になりますが、六川から出たことはねえでありますから、よその阿弥陀堂にどなたさんがいるだか知らねえでありますよ」
おうめ婆さんはとんでもない事実を何気なく話すのが得意だった。
「四、五十年って言ったら、おれの生まれる前ですよ。ほんとですかあ」
孝夫はとっさに時間のスケールを修正できなかった。
「あんたさんとこのおせいさんだって村から出たこたあなかったはずでありましょうや」
おうめ婆さんに言われてみれば、たしかに孝夫の記憶にある祖母は歩いて森平集落に行くくらいで村からは出ていなかった。
「森平の診療所になんかはかかったことはないんですか」
「ねえであります」
「役場にも行かないんですか」
「用がありゃあこの娘さんのように向こうから来てくれるであります」
おうめ婆さんは実に簡単に答えてくれた。
孝夫はあらためて阿弥陀堂の破れ畳の上にちんまりと坐った皺だらけの老婆を上から下まで眺めてみた。それから、六川の集落と遠くの山脈へ視線を移して行った。空に昇るしか抜け道のないこの閉じた風景だけを見て四、五十年も生き続けることができるのだな、と思い至ると、人間の精神の底力を見せつけられるようで、無性に胸が熱くなってきた。
五月の連休中には六川集落に東京ナンバーの車が何台か入ってきた。釣り人たちであった。釣り雑誌にイワナ釣りの穴場として六川が紹介されているそうで、河原でキャンプする若者たちの姿も見えた。
家から彼らの様子を見ていた美智子が、やってみようかな、と突然言い出した。診療所も役場と同様に三連休になる日があったから、森平集落の雑貨屋で釣り道具と遊漁券を買い、二人で川に出た。
六川集落で生まれ育ちながら、孝夫には六川で釣りをした体験は一度もなかった。孝夫が小さかった頃、村にも釣りをする人は何人かいたが、いずれもまともな百姓仕事には向かない遊び人風の人たちで、子供心にも釣りはやくざなものなのだと決めこんでいた。放課後や日曜は祖母の零細な農業の手伝いで忙しく、釣りを楽しむ時間などなかったのも事実だった。
「こんな近くにきれいな川があるんだから、川で遊ばなくちゃ損よ」
美智子は生まれて初めて手にした釣り竿をかついで、勇んで六川に向かった。
雑貨屋の主人に教わったとおり、エサは家の井戸脇の湿地を掘ってミミズをとり、空き缶に入れて孝夫が持って行った。六川の岸に立ってはみたものの、どのあたりに竿を入れればいいのか見当もつかなかったので、十歩ずつ上流に登りながら交代で竿を振ってみることにした。
集落の中を流れる六川はなだらかな瀬が続いているのだが、釣り人の目で見ると、岸の草の下や枯れた倒木の陰などに魚の隠れていそうな深みがのぞいていた。仕掛けは初心者でも釣りやすいようにと雑貨屋の主人が作ってくれたチョウチン釣り仕掛けで、三・六メートルの竿の先に一メートルの糸とおもりがつき、針に結ばれていた。それを上流に振り込み、川の流れとおなじ速さで下流に移動させろと教わってきた。
美智子から釣り始めて孝夫、また美智子とわずか三十歩余の溯行《そこう》で、三回も針を対岸の柳の木や底石に引っかけてしまい、その都度仕掛けを切って新しいものに交換した。おかげで孝夫は糸結びがうまくなった。
はじめのうちこそきちんと十歩ごとに交代していたのだが、次第に美智子の竿を支配する時間が長くなっていった。最初に釣ろうと言い出したのは彼女だったし、長靴をはいて川岸の草むらを行く足どりに力がこもっていたので、孝夫は黙ってエサを持って付き従った。
集落の切れるあたりまで登ってきたが、まったく釣れなかった。
「初めての人にはイワナは無理かもしれねえよ」
雑貨屋の主人の忠告を思い出したが、真剣そのものの美智子の横顔を前にすると孝夫はなにも言えなかった。
「やっぱり、奇跡なんてそうは起こらないものなのよね」
美智子は乱暴に竿を抜き上げると、草の上にへたり込んでしまった。
「そうだなあ」
適当に相槌を打とうとして上流の方を見た孝夫は急に小声になった。
「ほら、あそこの落ち込み。なんとなくいそうだぞ」
孝夫は五メートルほど上の、川の中にある大きな石の両脇にできている白い泡でおおわれた窪みを指さした。
「うん」
美智子も声を低めて顎を引いた。
孝夫がエサを替えてやると、彼女は誰に言われたわけでもないのに、竿を手にして草の上を這った。太陽を背にしていたので、人影を流れに映さないために自然に身に付けた姿勢だった。
落ち込みに近づくと美智子は草に体を埋め、そっと竿を伸ばして針を泡の中に沈めた。
「来た」
押し殺した声とともに、美智子が弾かれたように起き上がった。
竿がしない、一瞬、中空を黒い影が飛んだ。美智子は竿を捨て、影が飛び込んだススキの茂みの中に走り、両膝をついてつかまえた。
「やったあ」
両手に泥だらけの魚をつかんで孝夫を見た美智子の顔は無邪気に笑い崩れていた。
これほどまでに活きいきとした彼女の顔を見るのは出会って以来初めてではないか、と孝夫に考え込ませるほど、その頬は紅潮していた。
「やったなあ」
孝夫が駆け寄ると、美智子は泣きそうになった。
「うれしい。単純にうれしい」
こらえ切れなかった涙が、ふくよかになった美智子の頬にいく筋か流れた。
彼女の掌中には見事な大きさのイワナがあった。体長三十センチ近いだろうか、口角に薄く針がかかっており、一気に抜き上げていなければ釣り落としていたかも知れなかった。
わずかに涙を見せたあと、美智子は笑いっぱなしだった。孝夫がなにを言っても笑顔で答えていた。夕方まで釣ったのだが、釣果は美智子の一匹だけだった。家への帰り道、彼女は熊笹の茎にエラを通したイワナを手に提げ、夕焼け小焼けの口笛を吹いていた。
夜、囲炉裏の火でイワナを焼いて食べた。美智子は初めに箸をつける権利を孝夫にゆずった。
「釣った人から食べなよ」
孝夫は遠慮した。
「家族のために獲物を採ってた原始人の気持ちになってみたいのよ。お願い、先に食べて」
美智子は笑ったまま手を合わせた。
互いにイワナの表と裏を食べながら、囲炉裏にかけた鉄瓶で燗をつけた日本酒を飲んだ。
「骨酒っていうのがあったわよね。骨を入れればいいのかしら」
美智子は丼を出してきて、食べ残したイワナの骨を入れ、熱燗の酒を注いだ。
イワナの骨酒は焼いたイワナをそのまま用いるのだと知ったのはしばらくのちのことだが、二人で回し飲みした骨だけの骨酒も十分にうま味が出ていた。酒を飲もうと言い出したのは美智子だった。彼女がほろ酔い気分で頬を赤く染めるのは数年ぶりであった。孝夫は都立病院で活躍していた頃の元気を取りもどしつつある美智子を見ていると自分の体の中にも活力が湧くのが分かった。
これまでの彼女はバッテリーの切れかかった電動玩具みたいに、ちょっと動くと疲れてしまい、暗い顔をして横たわっていたのだが、今、彼女の蓄電池には十分な充電がなされつつあるようだった。
「私、釣りを趣味にするわ。今度からミミズも自分で付けるわ」
美智子は連休が明けると森平の雑貨屋で腰まである長靴や、一年間通用する遊漁券を買い、毎日夕方になると川に出た。
六川集落に来て二度目の『阿弥陀堂だより』を孝夫が読んだのは六川の岸に山吹の黄色い花が咲き始めた頃だった。となりの田辺さんのおばさんは孝夫との約束を覚えていて、日向区に配る八枚の『谷中村広報』を持ってきたのだった。
「孝ちゃんも知ってるとおり、日向区は十二戸だけど、二軒は空き家だから、うちとお宅の他に八枚お願いしますよ」
田辺さんは戸口でそれだけ言い置くとすぐに軽自動車に乗り込んだ。
彼女はリウマチで寝たきりに近い夫と二人暮らしなので現金をかせがねばならない。しかし、彼女は愚痴をこぼさず、貪欲かつ楽しげに働く小太りのおばさんである。
「モーテルですか」
孝夫が呼びかけると、
「そうさ。昼間っからくる好きもんたちのおかげで食わしてもらってるんさ」
と、陽気にクラクションを鳴らして田辺さんは出かけて行った。
村道の上に三軒、下の川沿いに五軒。全戸配り終えるのに二十分もかからなかった。家にいるのは老人ばかりだった。どの家にも若者の活気は痕跡すら見当たらなかった。
個人ばかりでなく、人の集合体である集落そのものにも老年期があり、六川集落はまさに老衰死一歩手前の状態なのだと痛感させられた。東京から来た美智子と孝夫が安らぎを覚える自然の豊かさは、耕作放棄された田や畑の雑草の緑によっても構成されているのだった。
田舎生活を楽しむつもりで帰って来た孝夫のはしゃぎ過ぎをいましめるかのように、午前の六川集落は廃村の不気味さを漂わせてひっそりと静まりかえっていた。空はあくまでも青く、六川の流れはどこまでも清らかなのだが、確実に滅びつつある集落の中にいると、普段は忘れてしまっているうそ寒い孤独感を覚えてしまう孝夫であった。
広報紙を配り終え、寂しさにうなだれて家にもどり、上がり口に坐ってコラムだけを読んだ。
〈阿弥陀堂だより〉
畑にはなんでも植えてあります。ナス、キュウリ、トマト、カボチャ、スイカ、……。そのとき体が欲しがるものを好きなように食べてきました。質素なものばかり食べていたのが長寿につながったのだとしたら、それはお金がなかったからできたのです。貧乏はありがたいことです。
読み終えて、やってるな小百合ちゃん、と孝夫はいくらか元気を取りもどした。聞くところによると、おうめ婆さんは村で三番目の長寿者なのだが、一位と二位の老婆は家で寝たきりになっているので、自分のことは自分でできる達者な最長寿者は彼女になってしまうのだそうである。
釣りから帰った美智子に読ませると、
「かわいい顔してるくせに、あの娘《こ》は一人前のコラムニストだわね」
と、陽に焼けた頬をほころばせた。
釣りを始めてから美智子は食欲も増し、体重が増えて頬も心身ともに健康だった頃の丸みをとりもどしていた。腕や首筋が農夫の赤黒さに陽に焼けており、体全体ががっしりしてきた。一方、孝夫の方は相変わらず家の修理や畑の手入れをして一日をやり過ごしており、原稿用紙には向かおうとする気配さえ見せなかった。田起こしは地表が固くなり過ぎていてはかどらないまま中止していた。
便所の様子を見に孝夫が阿弥陀堂に登った日は、美智子も休みだったので、血圧を測りに一緒に登ると言い、土産に自家製のイワナの燻製《くんせい》を持って行った。美智子はアウトドア雑誌で燻製の作り方を学び、孝夫に桜の木のチップを作ってもらって空き缶製の燻製器を自作し、釣れた魚を調理するようになっていた。彼女は今では川に出た日は必ず二匹以上のイワナを釣って来ていたのだった。
梅雨入りを間近に控えて、阿弥陀堂に登る小路をおおう森の広葉樹の緑は、孝夫が便所作りに通っていた頃に比べると何倍も厚く濃くなっていた。うつろな目を射る鮮やかな木漏れ陽とともに野鳥の声が降ってきて、山の奥深くまで反響していた。
おうめ婆さんは畑で草むしりをしていた。孝夫と美智子が、こんにちは、と声をかけると、おうめ婆さんはすぐに顔を上げた。耳は少しも遠くなっていない。
「あれあれ、先生まで来ておくれでありますか。どうぞ、寄っておくんなんし」
黒いもんぺの泥を払いながら腰を伸ばしたおうめ婆さんの身長は、孝夫が覚えている祖母とおなじくらいの低さであった。ちょうど彼女の頭が孝夫の臍《へそ》にとどく程度である。
上がり口に坐ると春の陽がたっぷり全身に降りかかってきた。
「そこはぬくてえでありましょうや。なんにもしねえときはそこでうたた寝しちまうこともしょっちゅうでありますよ」
野沢菜漬と茶を運んでくれたおうめ婆さんは二人の間に正座して腕をまくった。美智子の来訪の意味を素早く察知したのだった。
「どうです。よく眠れますか」
催促されたかたちの美智子は血圧を測りながら語りかけた。
「よく眠《ねえ》れるでありますよ。夜は八時頃寝て、朝は三時か四時にゃあ起きるであります。よけいな夢は見ねえし、よく眠れるでありますよ」
おうめ婆さんは目を閉じて眠る真似をした。
「眠りは健康の基本だものね」
美智子は聴診器を耳にあてたまま自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
この数年間、頑固な不眠に悩まされた彼女だったが、最近ようやく睡眠薬を用いずに眠れるようになった。寝室のベッドの上に正座し、紫色の薬のシートから白い錠剤を押し出し、コップに半分だけ入れてきた氷水で飲むのが美智子の就寝儀式だった。あまりにも見慣れてしまった光景だったので、孝夫はいつからこの儀式が中断されたのかはっきり覚えていなかった。
「おうめさんはこれまでに眠れなかったことなんてありますか」
美智子は、正常ですよ、と血圧計をはずして質問した。
「雨ん日だとか雪の日は体を動かさねえから、やっぱり寝つきが悪いでありますよ。そんなときゃあ、ろくなことを考えねえから、そこの湧水の音を聞いて、水になったつもりで川に出て流れて下ることを考えてみるでありますよ。そうすりゃあいつの間にか寝てるであります」
おうめ婆さんが語り止むと、心なしか、壁越しに聞こえる湧水がポリバケツに落ちる音が大きくなった。
「川を流れてどこへ行くんですか」
今度は孝夫が聞いた。
「わしゃあ、若《わけ》え頃、一度だけ善光寺に参った覚えがあるでありますよ。そんとき汽車の窓から見た町だの村だのの景色が見えてきて、ああ、このまんま下りゃあ海に行くだなあって、気が楽になって眠っちまうであります。わしゃあこの目で海なんぞ見たこたあねえでありますがな」
おうめ婆さんのゆるやかな語りはイメージの喚起力に富んでおり、湧水の音を聞きながら目を閉じてみると、自分も流れ下り始めそうな錯覚にとらわれるのだった。
「私たちも毎晩六川の流れる音を聞いてるのに、おうめさんみたいに流れ下る感じにはならないわよね」
美智子が同意を求めてきたので、孝夫は素直にうなずいた。
「あんた方はまだこれからずっと生きる若え人たちだから、聞かなきゃならねえもんがたんとあるでしょうや。水の身になって聞く水の流れる音なんぞ、他に聞くものがねえ年寄りにしか聞こえねえもんじゃありますめえか」
おうめ婆さんは極めて断定的に言い切って、音を立てて茶をすすった。
「たぶんそのとおりですね。おそれいりました」
美智子は微笑みながら頭を下げた。
「ところで、便所の使い心地はいかがですか」
孝夫は湯飲みを置いて向きなおった。
「おう、それでありますがなあ、小便の方はいいでありますよ、小便の方は。でけえ方でありますがなあ、あすこにしゃがんでみても出ねえであります。おかしいやと思って、前《めえ》のように穴掘ってみたら、これが出るでありますよ。何度やってもおなじこんだから、便所は小便のときだけ使わせてもらっているであります」
おうめ婆さんはすまなそうに頭を低くして孝夫に茶を注いでくれた。
「穴はクワで掘るんですか」
美智子が冷静に問いかけた。
「そうであります」
おうめ婆さんは正座しなおして答えた。
「きっとそれだわ」
右手の人差し指を立てて孝夫を指さすのは、美智子が元気だった頃によく見せた得意のポーズだった。
「クワで穴を掘るとき下腹に力が入っていきむのよ。それで便意を催すのよ。おうめさんは長いことそうやってきたから、クワで穴を掘らないと出ないのよ。私もそんなのって聞いたことないけど、ありそうな気がするのよね」
美智子の目は楽しげによく光っていた。
おうめ婆さんは感心して、ほう、ほう、と首を動かしていた。
「ほんとかなあ」
苦労して便所を作った孝夫だけが納得いかなかった。
「作ってもらったのはありがてえこんで、冬になって雪でも降ったら、なんとしてでも使わせてもらうでありますよ」
おうめ婆さんは孝夫のご機嫌をとって野沢菜漬の盛られた皿を押してよこした。
「いや、いいんですよ。こちらこそよけいなものにおうめさんのお金を使わせてしまったのかも知れません。すみませんでした」
永年のおうめ婆さんの生活習慣を崩してしまった間違いに孝夫は気づいた。
村に帰った。祖母に似たおうめ婆さんに会った。祖母にできなかった分の孝行をおうめさんにつくそうとした。すべては孝夫の勝手な思い入れに過ぎなかったのである。これで定職さえあれば、他人のために便所を作ってやる時間の余裕などなく、したがってこんな反省を強いられることもなかったのだと考えると、孝夫は情けなくなった。はしゃぎ過ぎを大人からとがめられた子供の気分だった。
「そんなにがっかりしたらおうめさんに悪いわよ。冬には絶対有効なんだから、それでいいじゃない」
美智子が声に力を込めて慰めてくれた。
この数年、慰撫するのはもっぱら孝夫の役だったのだが、いつの間にか立場が逆転し、孝夫たち夫婦は元の力関係にもどりつつあった。孝夫が弱者になるのがこの二人の正しいあり方なのである。
「そうだ。イワナ」
美智子は紙袋の中に入れてきたラップでくるんだイワナの燻製を出して、これ、私が作ったんです、とおうめ婆さんの前に置いた。
「あれまあ、こりゃあなんでありますか」
おうめ婆さんは魚を手に取って匂いをかいだ。
「イワナの燻製ですよ。私が六川で釣って、桜の木でいぶして作ったんです」
美智子は得意げだった。
「燻製ですとな。わしゃあそんなもん食ったこたあねえでありますが」
便所とおなじで、これまで体験したことのないものに対する本能的な拒否の反応がおうめ婆さんの語尾のくぐもりに感じられた。
美智子もそれに気づいたらしく、おもむろにラップを開くと、指で背の肉をつまんで一口食べてみせた。
「うまい」
美智子はわざとらしく声を高くしておうめ婆さんをうながした。
美智子の崩した肉を一つまみ口に入れたおうめ婆さんは苦い薬を含んだしかめ面になったが、少しずつ表情がおだやかになってきた。
「うん。うめえであります」
感想はそれきりだった。
めしのおかずによさそうだ、とか、もっと食いてえもんであります、などの賛辞を期待していた美智子は落胆を隠さずに、イワナの燻製をラップにくるみなおした。孝夫の便所もそうだったけれど、ほぼ一世紀にわたるおうめ婆さんの生活史の中に、勝手な善意で新しいものを持ち込むのは善いことではない、と美智子は思い知らされた。
「持って帰りますね」
燻製を紙袋にしまう美智子におうめ婆さんは、
「おそれいりやす」
と、破れ畳に両手をついて深々と頭を下げた。
「おそれいるのはこちらの方です。どうも申し訳ありませんでした」
美智子も立って深く腰を曲げた。
結局、夫婦でおうめ婆さんに非礼をわびるための訪問になってしまった。また来ます、と阿弥陀堂をあとにしたものの、割り切れない思いで山路を下りながら、孝夫は忘れかけていた質問を美智子にしてみた。
「睡眠薬を飲まなくなったのはいつからだい」
と。
美智子は立ち止まり、胸の前で腕を組んで青葉を振りあおいだ。
「そうだ。初めてイワナを釣った日だわ」
二十秒ほど黙っていた彼女は、思いっきり背筋を伸ばして組んでいた両腕を空に突き上げた。
孝夫もあの夜の美智子を思い出した。久しぶりに酒を飲んだ彼女は孝夫が沸かした風呂に入らず、囲炉裏端から這って行って蒲団にへたり込んでしまったのだった。
「最初に抗不安薬をやめたでしょう。次いで抗うつ薬をやめたんだけど、睡眠薬だけはどうしてもやめられなかったのよね。私、やっぱりこの村に来てよかった。大きな声を出すとよいことって逃げてくから小さな声で言うけど、ありがとう」
美智子がいきなり握手を求めてきた。
深い緑葉の層を抜けてきたいく条もの春の白い光の中で握り返した孝夫は、彼女の手が以前よりもはるかにぬくもり、肉厚になっているのを感じた。美智子は全快したのではないか、と安堵したが、口に出すと彼女の言うようにささやかな幸福の種が舞い散りそうだったので、黙って力を込めて握手を返していた。
雨の季節が来て六川集落でも田植えが始まった。まとまった平地のない集落の田はすべて山の斜面を削って石垣を積んだ棚田で、耕作機械を入れる広さはないので昔どおりの手植えである。
マケと呼ばれる血縁で結ばれた共同作業の仲間が互いに助け合って田植えをする様も孝夫の子供の頃と変わっていなかった。ただ、祖母が生きていた時代には村道下の五軒がすべてマケに入っていたのだが、今では孝夫の家を含めて三軒が抜けていた。老人だけの世帯になってしまい、田での重労働が不可能になってしまったからだった。
田辺のおばさんと、一軒おいた営林署を退職したばかりの吉村さんが現在もマケを維持しており、吉村さんの奥さんを加えた三人で毎年田植えを続けてきたのだという。田辺さんからマケに入ってもう一度米を作らないかと誘われた孝夫だったが、荒れた田を復元する作業はみなに迷惑をかけるだけだと判断して断わった。その代わり、体を使った仕事はしたいので、田植えを手伝わしてくれるよう申し出た。
「若え男手がありゃあ楽になるが、それじゃあ申し訳ねえぎだ」
田辺さんは土間に立ったまま手を振った。
「いいんですよ。なにもしていないんですから。めしだけもらえば十分ですから」
孝夫は頭を下げて田植えに加えてもらうことにした。
体を動かしてさえいれば一日をなんとかうっちゃれる。マケの人たちから一人前の労働力と認められるのは子供の頃の記憶でも心躍るものだった。小説は書けなくても田植えはできる。だから、生きている意義はある。小心な孝夫はそんな末梢にこだわって日々の己のささやかな生を確認していた。
中腰の姿勢を保たねばならない田植えは予想以上に孝夫を疲れさせた。昼休みには田の端の草の上に寝ころんで、田辺のおばさんに腰をもんでもらった。
「孝ちゃんは昔は辛抱強え子でさあ、暗くなっても黙って植えてたもんだが、東京でなまっちまっただなあ」
田辺さんの豪快な笑い声が首に降りかかり、力のこもった指圧が孝夫をのけぞらせ、吉村さん夫妻が静かに握りめしを食べていた。草いきれ、雨を予感させる湿気を含んだ風、背後に迫る緑濃い山。
目を閉じてみると、祖母がいて父がいて、マケの人数も今よりずっと多くて、にぎやかだった三十年以上前の田植えの風景が思い出された。昼休みには下品な話題でみな大口を開けて笑い、田に入ると別人になって黙々と植えていた。笑うために働くのか、働くために笑うのか。マケの大人たちを見ていて子供らしくない疑問を抱いたことも、昨日の記憶のごとく鮮明に脳裏をよぎるのだった。
「さあ、がんばってもらわにゃあ」
田辺さんの大きく重い尻が腰に乗り、悲鳴をあげると同時に孝夫は目を開き、現実の世界に引きもどされた。
早朝から暗くなるまで田に入って、マケの田植えは二日で終わった。昔はその日に植えた田の持ち主の家が夕食を用意し、酒を出したものだったが、今では人手が足りないので、昼めしのおにぎりと漬物を提供するだけである。それでも、孝夫は自分の家で田を作っていないのに参加していたから、田辺さんの家と吉村さんのところから夕食に呼ばれた。
どちらの家でも話題は往年の田植えのにぎやかだった思い出に限られていた。働き者だった孝夫の母や祖母の話を聞かされ、注がれる酒を飲むと、自分はまぎれもなくこの山の中の寒村で育ったのだという思いが強くなってきた。人生の折り返し点である四十歳を二歳過ぎたところで原点にもどり、これから復路をどんな軌跡を描いて走ればいいのか。昔話にしきりに相槌を打ちながらも、孝夫は峠を越えた己の人生の行く末を考えてみずにはいられなかった。
多くの地道な生活者たちの平凡な感情に共鳴する小説を書きたい。できれば単行本を出版したい。それさえ実現できれば、他に望むものはないのだが。
腰から全身に広がる筋肉が溶けるような田植えの疲労感に包まれて、孝夫はまたいつもの夢を見ていた。
「若えのに、こんなちっとの酒で寝ちまったらだめだよお」
田辺さんの家でも、吉村さん夫妻にもおなじ言葉で起こされ、土産の赤飯を持たされて家に帰った。
囲炉裏端で美智子に今日の出来事を報告している途中で眠くなり、蒲団に倒れ込む。まだ若いつもりではりきってはみたものの、田植え労働は思っていた以上にハードで、小説が書けなければ土方でもやるか、と肉体労働を甘くみていた孝夫は大いに反省させられた。
田植えの二日間は美智子が早めに風呂を沸かしてくれていたので、夕食に呼ばれる前に体の泥を洗い落とせた。汗まみれで働いて家に帰り、妻の沸かしてくれた湯に入るのは実にいいものだ、と肩の力が抜けたが、二日間限りの亭主気分であった。
水のはられた棚田がすべて緑になると、六川でカジカガエルが鳴き始めた。ヒュルルルルと高く澄んだ鳴き声を初めて聞く美智子は、それが小鳥ではなく、清流にしか棲まないカエルの声なのだと知ると興味深げに驚き、六川までたしかめに行った。
「山の深さを思い知らせてくれる余韻のある鳴き声よね。山に抱かれて眠る気分になって、いいなあ」
寝入りばな、美智子はカジカガエルの声に聞きほれ、母親のやさしい手で背を叩かれた子供のように、すぐに寝息を立て始めるのだった。
梅雨の間、外での仕事がなくなった孝夫は何度も原稿用紙を広げてみた。書かなくては、と自分を追いつめるのだが、握った万年筆は動こうとしなかった。このペリカンの万年筆は新人賞の祝いに美智子が買ってくれたものだった。
「これで世に残る傑作を書いてね」
十年前の美智子の言葉が重荷になっているのならと、ありふれたボールペンに持ち替えてみてもやはり書けない。
「起承転結はそれなりにしっかりしている短編なのだが、人間存在の真実に触れる一言半句が見あたらない。悲しみを描いていながら、どこか突き抜けた明るさが必要なのだが、それもない。要するに駄作である」
孝夫を担当する文芸誌の若い編集者はそう言って彼の作品をボツにし続けている。ぴたりと的を射た意見なので黙してうなだれるほかはないのである。
孝夫が原稿用紙に向かうのは美智子のいない月、水、金の午前中に限られていた。彼女の目の前に書けない自分をさらすことはあまりにもみじめでできなかったのである。
東京に居た頃はマンションの近くの公園に散歩に出たり、喫茶店に寄ったり、パチンコをしたりと、時間つぶしには困らなかったのだが、梅雨の六川集落ではなにもできない。年老いた住民が狭い田畑にへばりついて農作業をしている中を、平然と散歩する鈍感な勇気はない。町のパチンコ屋までは車で一時間もかかる。村に喫茶店はない。
雨に降り込まれて家の中にいると、想いは過去にばかり向かってしまい、徐々に気分が沈んできた。美智子が元気になりつつあるのに、このままではおれの方がおかしくなってしまう、と孝夫が真剣に悩み始めた頃、運よく梅雨が明け、新居が完成した。初夏の『谷中村広報』は引っ越しの最中にとどいた。
〈阿弥陀堂だより〉
九十六年の人生の中では体の具合の悪いときもありました。そんなときはなるようにしかならないと考えていましたので、気を病んだりはしませんでした。なるようになる。なるようにしかならない。そう思っていればなるようになります。気を病むとほんとの病気になってしまいます。
梅雨の間しばらく会っていなかったが、おうめ婆さんと小百合ちゃんのコンビは好調の様子だった。孝夫は引っ越しの荷にまぎれないように『谷中村広報』を小さく折って尻のポケットにしまい、段ボールかつぎに没頭した。
一階にフローリングのダイニングキッチン、暖炉のある居間と和室の客間。二階は広めのベッドルームに机を二つ入れた。そして、もう一つ六畳の洋室。
設計はすべて美智子まかせだったので、部屋をどう使うのかも彼女が決めた。小説を書くのにできれば個室が欲しかった孝夫であったが、たいしたものを書いていない今の状況では強く主張はできかねた。
設計図の段階から二階の洋室の存在は知っていた。その用途を美智子が口にしなかったので、孝夫もあえて問い質さなかった。あからさまな質問をしてしまうと、ようやく修復されつつある美智子のガラス細工のような精神構造が再び壊れてしまいそうな気がしたからだった。引っ越しのとき、二階の洋室はとりあえず不要な本を入れたのみで、空き部屋として放置された。
新しい家は村道の上の斜面に建っているので、二階のベランダからは六川集落の全景が見渡せた。阿弥陀堂からの眺めほど広角ではないが、小さな家々を飲み込みそうに勢いを増した山の緑に向かって深呼吸すると、とりあえず明日を生きる力を吸収できそうな気分になった。
美智子は診療所に通い、孝夫は細々した物の整理をして、毎日段ボールを庭で燃やしていた。いつの間にか夏が来ていた。アブラゼミが鳴き、山の裏にわいた高く白い雲が青い空に突き昇る夏が。
新しい家に越して一週間が過ぎても二人は落ち着かなかった。どっしりと腰を据えてここに住むのだぞという気構えができてこない。この世の仮の住まいだとは分かっていても、現世の定住の場と決めたからにはもっとゆったりできてもいいのに。
「ねえ、仏壇を買ってみようか」
夕食のテーブルについた美智子は居間の方を見ながらふいに言った。
「仏壇かあ」
ここでも金の出所は美智子なので、孝夫は用い慣れた反対も賛成の意志も感じ取れない曖昧な口調で答えた。
古い孝夫の家には囲炉裏の部屋の棚の上に祖母の代から使っていた煤けた仏壇があり、美智子はそこに東京から持ってきた父の位牌を置いて、毎朝手を合わせていた。引っ越しのときに位牌は風呂敷に包んで持って来たのだが、そのまま押し入れにしまってあった。思い立つと気がはやる美智子であったから、翌日には町で新しい仏壇を買った。
紫檀の仏壇は暖炉の右横に置かれた。美智子の父、孝夫の祖父母、母の位牌を中に安置し、二人で合掌すると、ざわついていた気持ちが静かになった。
「仏壇て高いよなあ」
あらためて背丈ほどある仏壇を眺め回した孝夫はため息をついた。
美智子は町で最初に入った家具店でこの仏壇を見つけると、主人と二、三分値段の交渉をしただけで、百万円近くの金を即金で払ってしまったのだった。
「父がいたおかげで今の私があって、お金も稼げてる。そういう人のためにお金を使うのはあたりまえのことなのよね」
ソファーに腰かけた美智子は引っ越してから初めて全身の力を抜いた笑顔を見せた。
「いいねえ。『阿弥陀堂だより』みたいでいいねえ」
安心した孝夫が軽口をたたいた。
「あのお婆さんのなにげない言葉の重みには勝てないわよ」
背を伸ばしてソファーにもたれ、美智子はあらためて阿弥陀堂の方を向いて手を合わせた。
谷中村の夏は短く、八月十日を過ぎると六川を渡る風が冷たく固くなり、秋の気配が漂ってきた。
〈阿弥陀堂だより〉
お盆になると亡くなった人たちが阿弥陀堂にたくさんやってきます。迎え火を焚いてお迎えし、眠くなるまで話をします。話しているうちに、自分がこの世の者なのか、あの世の者なのか分からなくなります。もう少し若かった頃はこんなことはなかったのです。怖くはありません。夢のようで、このまま醒めなければいいと思ったりします。
お盆の間、六川集落ではふだん耳にしない子供たちの声がいたるところで聞かれた。都会に出ている者たちが帰省したからである。この時期になると昔懐かしい川遊びを子供たちに教える人たちが多くなるのでイワナは釣れなくなる。仕方なく、美智子は庭の手入れに精を出していた。
斜面を削った土を盛って二台止められる駐車場と十五坪の庭が確保できた。美智子はそこに芝を植え、朝夕こまめに水をやり、根気よく雑草を抜いていた。東京ではアパートで育ちマンションに暮らしていたので、庭のある生活が夢だった。緑の芝が敷きつめられた庭は、父が生きていた頃に住んでいた大きな家を思い出させてくれたりもしたのである。
帰省客たちが帰ってしまうと、村は前よりも静かに、寂しくなった。六川岸のススキが穂を出し、冷たい雨が降り、雲が薄くなって秋は一日ずつ深まっていった。
村に来て半年、美智子の医師としての評判は上々であった。老人たちの話をじっくり聞いてくれ、しかも、ただやさしいばかりでなく、診断も的確だった。彼女のおかげで早期の癌を見つけてもらって町の総合病院で手術を受けて助かった人がすでに三人も出ていた。村長は機会あるごとに美智子をくどいて、なんとか毎日診療してもらえないか、とひたすら頭を下げてきたが、彼女は、今のままでもう少しやらせて下さい、とゆずらなかった。
患者の評判のよさを糧《かて》にして明日を楽観しつつ生きられるほど単純な精神の持ち主の医師だったら、美智子は心を病んだりはしなかったはずだった。都立病院で自分に課せられていた責任をすべて放棄せざるを得なかったあの苦しみの記憶が、彼女の胸の内でまだ執拗にくすぶっていた。
美智子の身分はあくまでも谷中村診療所の嘱託医師であり、所長ではなかった。なるたけ責任の軽い立場で、気ままにやっていたかったのである。
しかし、逃れ切れない事情から、美智子は現代医療の最前線に復帰せざるを得なくなった。その事情とは、小百合ちゃんの病気の再発だった。
孝夫がそれを知ったのは、秋になって最初の『谷中村広報』を配り終えた日の午後だった。
〈阿弥陀堂だより〉
娘の頃は熱ばかり出していて、満足に家の手伝いもできませんでした。家の者も村の誰もがこの娘は長生きはできないだろうと言っていたものでした。それがこんなに死ぬのを忘れたような長生きになってしまうのですから人間なんて分からないものです。歳をとればとるほど分からないことは増えてきましたが、その中でも自分の長生きの原因が一番分からないことです。
診療所からもどってきた美智子は『阿弥陀堂だより』を読み終えると『谷中村広報』で顔を隠し、ソファーにもたれて大きく肩で息をした。
「小百合ちゃん、こんなこと書くなんて虫が知らせてたのかも知れないわね」
美智子は背もたれからむっくりと起き、今度は前かがみになってため息をついた。
「なんだい。小百合ちゃんがどうかしたのかい」
孝夫は昼食の用意を中断して美智子の前のソファーに浅く腰をかけた。
今日、診療所に小百合ちゃんが来た。咳と微熱があったので胸のX線写真を撮ってみたら両肺に影があった。町の総合病院に入院させるべく紹介状を書いた。
美智子は事実だけを感情を交えずに羅列した。
「肺炎かい」
美智子の固い表情からそんな簡単なものでないらしいことは推察できたが、孝夫はあえて素人に徹して聞いてみた。
「学生時代にやったことのある喉の肉腫の転移じゃないかと思うのよ。町の総合病院で精密検査してみないと分からないけど……」
なにかを確信しているとき、語尾を濁すのは美智子の癖だった。
「だとすると、ヤバイのかい」
孝夫は結論を急がせた。
「発育の早い肉腫だから……化学療法やらないと……珍しい症例なのよね」
美智子は孝夫に対してではなく、自分に向けて結論を突きつけるのをためらっている様子だった。
「もしかして、あんたの専門分野なんじゃないかい」
孝夫はゆっくりと、なるべくやさしい口調を工夫してみた。
「そうだけど……」
美智子は右手の中指のささくれを噛んでいた。これも彼女が精神的に追いつめられたときによく見せる悪癖だった。
「迷ったら逃げるんじゃなくて、前に進んでみたら。もう恐慌性障害は治ってるんだから」
孝夫はつとめて穏やかに話した。
「私は東京で小百合ちゃんとおなじ症例を三例経験しているのよ。化学療法をどこまでやって、どんな薬を組み合わせたらいいのかを知っているのよ。町の総合病院の担当医は多分この症例の経験はないんじゃないかと思うの。電話で連絡したんだけど、そんな様子だったのよ」
美智子は一気に話し終えて、肩を上下に大きく動かしていた。
「だったら決まりだよ。あんたが総合病院に行って、担当医と一緒に治療すればいいんだよ」
孝夫は立って美智子の背筋に手をあてた。
彼女の背は細かく震えていた。
「できるかしら」
美智子の呼吸が荒くなっていた。
「できるさ。小百合ちゃんを治してやれるのはあんたしかいないんだよ。おれなんかなにもできないけど、あんたはやれるんだよ。それだけの腕を持った医者なんだよ」
美智子を立ち直らせるのは今しかないと、孝夫はあせりがちになる自分を抑えつつ、一語一語に力を込めて語りかけた。
「徹夜になるかも知れないし、診療所の仕事もあるし、大丈夫かなあ」
美智子の背の震えはいつの間にか止まりかけていた。
「おれが車で送り迎えするから大丈夫だよ。安心しろよ」
孝夫は美智子の背から手をはなし、リビングルームのサッシ戸を開けた。
川向こうの山々の頂に紅葉が始まっており、六川から吹き上げてくる風がレースのカーテンをあおって美智子と孝夫をやわらかく包んだ。おだやかな秋の午後であった。
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谷中村の谷底を曲がりくねって走る村道から国道に出るまで三十分。それから三十分国道を下ると総合病院のある町に出る。ベッド数三百五十の病院は五階建てで、町で一番高い建物だった。
小百合ちゃんは五階南側の個室に入院していた。美智子がナースセンターで担当医と話している間、孝夫は見舞いに行った。薄いブルーのパジャマを着た小百合ちゃんはトレードマークの黄色いスカーフを首に巻いていた。
「今回の『阿弥陀堂だより』もいいね。来月のも期待してるよ」
孝夫はベッドの横にある丸椅子に腰をおろした。
小百合ちゃんはベッドサイドテーブルの上から大学ノートを取ると、素早くボールペンを手にした。
担当の先生から、美智子先生が治療の応援をして下さると聞きました。上田さんにも御迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いします。
大学ノートを孝夫の方に開いて見せて、小百合ちゃんは大きな目をうるませながら頭を下げた。
「おれなんかいいんだよ。それより、早くよくなってまたおうめ婆さんの話を聞きに阿弥陀堂に行かなきゃな。書きためた原稿はあるのかい」
孝夫が聞くと、小百合ちゃんは右手の指を三本立てた。白く長い指だった。
三カ月分かい、と問うと目を閉じてうなずいた。
「それならいいや。ゆっくり休めるね。完全に治してから出てきなよ。また来るから」
ベッドの上に起きている小百合ちゃんがしんどそうに肩で息をし始めたので、孝夫は早々に病室を出た。
廊下の長椅子に坐って三十分ほど待っていると、白衣姿の美智子と三十歳前後と思われる若い医者が小百合ちゃんの病室に入って行った。担当医らしかったが、孝夫の目から見ても若過ぎる医者だった。
すぐに出てきた美智子は若い医者に軽く会釈をしてから、孝夫とともに階段を下りた。
「あの若さじゃちょっと頼りないな」
玄関から駐車場に向かって並んで歩きながら孝夫は言ってみた。
「いえ、勉強熱心な人でねえ、私が書いた論文も読んでてくれたから話が早かったわ。いい医者っていうのはまず謙虚でなくちゃならないんだけど、彼はとても謙虚な人よ」
車の助手席に乗り込んだ美智子は満足げに五階の病室を仰ぎ見た。
その日から二人は毎日午後になると町の病院に出かけた。孝夫は何度か小百合ちゃんの病室に顔を出したのだが、化学療法の点滴が始まってからは「面会謝絶」の札がドアに下げられてしまった。
美智子は午後の病棟カンファレンスに出席して担当医と小百合ちゃんの治療法について協議していた。担当の中村医師は美智子より十歳若く、固形癌の化学療法を専門としていたが、小百合ちゃんの肺を冒している珍しい肉腫を経験するのは初めてだった。彼はこれまでに学会雑誌に発表されている論文やカンファレンスでの発言内容から、美智子がただの田舎医者でないことはよく承知していたので、小百合ちゃんの治療に関しては全面的に彼女の指示を信頼していた。
治療開始から一週間で抗癌剤の効果が確認できるまでになった。肺に多発している結節影の直径が半分以下になったのである。小百合ちゃんは副作用の吐き気や食欲不振にもよく耐えていた。
「怖いのは肺炎ですね」
効果があった分だけ副作用として小百合ちゃんの白血球は減少していたから、中村医師は投影器のX線写真と美智子を見比べながら首を傾けて不安を隠さなかった。
カンファレンスの終わった小会議室には中村医師と美智子だけが残っていた。
「とにかく全身状態に細心の注意を払って、肺炎の徴候があったら迅速に抗生剤で叩きましょう」
中村医師がいれてくれた紙コップのインスタントコーヒーに浅く口をつけながら、美智子は投影器のX線写真をにらみつけていた。
戦場に臨む戦士の高揚感とでもいおうか、彼女は何年かぶりに自分の中で難病に対する闘争意欲がかきたてられているのを自覚していた。
「こんなこと言ったら失礼ですけど、先生はどうして谷中村なんかにいらしたんですか。なんて言ったらいいか、先生みたいな人はもっと医学の最前線での仕事を続けるべきじゃないかと思うんですけど」
椅子を並べて坐っていたので、中村医師は投影器から目を離さずにわずかに横を向いて質問した。
「最前線こそがエリートの仕事場で、田舎の診療所なんか落ちこぼれ医者にやらせておけばいいって、私も前はそう考えてたの。だから、中村先生から見たら私は落ちこぼれに見えるだろうし、それでいいのよ」
美智子からおおらかに微笑みかけられて中村医師はあわてた。眼鏡を指で押し上げ、きちんと分けたやわらかい髪をいじる彼の頬は蒼くなっていた。
「いえ、そんなつもりで言ったんじゃないんです。すみません」
三十二歳のきまじめな青年は優秀な先輩医師のプライドを傷つけてしまったかも知れないと感じてしきりに頭を下げていた。
「いいのよ、ほんとにいいの。落ちこぼれてみないと見えなかった風景っていうのがあるのよ。背伸びばっかりしていると視野に入らない丈の低いものの中に、実はしっかりと大地に根をおろしている大事なものがあったのよ。そういうことに気づいてから、落ちこぼれっていうのも悪くないなって思ってるんだから」
あまりのあわてぶりがかわいそうだったので、美智子は笑って中村医師の白衣の背中を叩いてやった。
「私はなんていうか、すぐにその人の生き方の本質に触れるような質問をしてしまうんです。さびしがり屋なもんで、心を許せる人かどうかを試してしまう癖があるんです。申し訳ありません」
椅子から立ち上がり、中村医師は美智子の目を見てから最敬礼をした。
「とにかく我々の目的は小百合ちゃんの肉腫をやっつけることよ」
美智子は姿勢を正して立った。
中村医師は白衣のすそで掌の脂汗を拭き取ってから、そっと右手を差し出してきた。それが握手を求めているのだと気づくまでわずかに時間のかかった美智子は、
「がんばりましょう」
と、男にしては肉付きが豊かすぎる中村医師の手を強く握り返した。
小百合ちゃんの病室に入れなくなってから、孝夫は病院の駐車場に止めた車の中で美智子の帰りを待っていた。カンファレンスに要する時間はいつも二、三時間だったから、その間、孝夫は運転席のシートを倒してカーステレオを聴いていた。曲目はいつもベートーベンの交響曲第6番〈田園〉だった。カール・ベーム指揮、ウィーンフィル演奏のテープは小説を書くとき常にラジカセから流していたものであった。
東京のマンションのコンクリに囲まれた部屋でこの曲を聴くと、谷中村の豊かな自然が想起されて、創作のイメージが湧く気がした。しかし、実際に住んでみると、交響曲の甘いオブラートは瞬時に溶けてしまい、貧しげな村の素顔ばかりが目につく今日この頃である。それでも孝夫が〈田園〉を聴き続けるのは、第一楽章の主題である〈田舎に到着したときの朗らかな感情のめざめ〉を大切にしたいからであった。これまでの雑多な前半生に揺られて乱れてしまっていた人生の算盤《そろばん》の玉をすべて御破算にして並べ直してみたくなる原点回帰の想い。この想いさえあれば村でもう少し生きて行けそうだった。
フロントグラス越しに高い秋空が見える。小百合ちゃんもこの空を眺めているのだろうか。彼女の個室にはCDラジカセがあったから、今度見舞いに行くときは〈田園〉のCDを持って行ってやろう。見舞いといえば、彼女が一番来て欲しいと思っているのはおうめ婆さんではないだろうか。あの老婆の、どこか人生をふっきったような発言が大好きで小百合ちゃんは『阿弥陀堂だより』を書き続けていたはずだから、婆さんの一言が彼女の不安を大いに減じてくれるだろう。しかし、おうめ婆さんを阿弥陀堂から病室に連れてくるのには抵抗感がある。阿弥陀堂にいるからこそおうめ婆さんなのであり、下界に降りてしまうとただのしなびた老婆になり下がってしまうのではないか。六川の森に包まれて自給自足に近い生活をしているおうめ婆さんにとって、阿弥陀堂を含めた周囲の畑や雑木林、奥深い山そのものが彼女の体の一部なのかも知れない。
自然がおうめ婆さんの口を借りて語った言葉。『阿弥陀堂だより』は常に難病の再発を意識して、生命のはかなさに敏感になっていた小百合ちゃんにしか聞こえなかった森のささやきではなかったか。
車の運転席にだらしなく寝そべって〈田園〉を聴きながら、孝夫は脈絡のない雑念を脳裏にめぐらせていた。〈田園〉のテープが二、三回くり返されたところで窓を叩く美智子に起こされるのであった。
「ここ一週間がヤマね」
助手席に乗り込んだ美智子はフロントグラスのかなたの高い山脈を見やりながら口を開いた。
「ヤマっていうのはどういう意味だい」
車をスタートさせた孝夫は前を向いたまま問いかけた。
「抗癌剤の副作用で白血球が減少するんだけど、そのピークがここ一週間なのよ。肺炎になる確率が高いのよ。綱渡りなの」
素人の孝夫に説明しながら美智子は再度厳粛な事実を確認するべく胸の前で固く腕を組んだ。
「なにかおれにできることはないかな」
小百合ちゃんの生命を救うプロジェクトにかかわれない自分を、孝夫はこれまでにないほど不甲斐なく感じていた。
「小百合ちゃんはねえ、阿弥陀堂のおうめ婆さんに会いたがっているのよ。もし入院が長びいたり万一のことがあったりしたら『阿弥陀堂だより』が中断しちゃうって心配してるのよ。テープレコーダー持って阿弥陀堂に行って、おうめ婆さんの話を録音してきてやったら喜ぶと思うけどな」
美智子はそこまで話すと、疲れているらしく背もたれに体をあずけて目を閉じた。
小型のテープレコーダーなら持っている。事情を話せばおうめ婆さんも協力してくれるはずである。小百合ちゃんが要点を取り出しやすいように質問を工夫して、可能な限りおうめ婆さんの本音を引き出す。
車のハンドルを操作しながら、孝夫は早く谷中村に帰りたいあせりを抑えるのに苦労した。質問事項を書き出し、小百合ちゃんに喜ばれるインタビューを構成したい。このワクワクした気分が、小百合ちゃんの役に立てるのが純粋にうれしいのか、それとも、ファンである『阿弥陀堂だより』の制作に参加できる喜びなのかは孝夫自身にもよく分からなかった。
夕食後、寝室の机に原稿用紙を広げ、質問すべき項目を書き連ねてみた。孝夫がこの机を使うのは引っ越してから初めてのことだった。となりの美智子の机の上には英文の論文のコピーが乱雑に置かれていて、いかにも仕事に没頭する女の場所といった感じだが、孝夫の机には広辞苑が一冊置いてあるきりだった。
新しい家で、新しい机に新しい原稿用紙を積み、新しい小説を書き始めようと試みたことは何度かある。しかし、インク瓶に万年筆をつけてキングスブルーのインクを吸い上げたあたりで、すでに書くべき内容がなにもない事実に気づく。原稿用紙の三行目下に名前だけを書いて、余白の広さを鼻先で笑い、やがてたまらなく哀しくなる。そんなことのくり返しだった。
しかし、今回は小百合ちゃんに代わっておうめ婆さんに質問するのだという明確な目標があった。できるかぎり多くの本音をおうめ婆さんの話の中から発掘し、その原石を小百合ちゃんに渡してあげたい。彼女には石を磨く腕はある。問題は原石の質と数なのである。
孝夫は気負ってインタビューの草稿まで書き始めてしまったが、さすがに阿弥陀堂でおうめ婆さんと話すだけなのにこれはやり過ぎだ、と気づいて二枚書いたところで中止した。
「あなたが原稿書いてるのを見るのは久しぶりね」
風呂からあがったパジャマ姿の美智子が、髪をバスタオルでくるみながらベッドに腰かけた。
彼女はいつもほとんど化粧をしないのだが、高校時代から変わらない白い肌がほんのり赤みがかって若々しく見えた。心身の具合の悪かった頃は、白い地肌が不気味な蒼色を帯びていて、頬も今よりはるかにこけていた。
「明日、阿弥陀堂でおうめ婆さんになにを質問したらいいか書き出してみてるんだけど、あらためて考えてみるとむずかしいもんだよな」
孝夫は胸を反らせて深呼吸した。
「なにも考えない方がいいかも知れないわよ。おうめさんの作らない発言の中に『阿弥陀堂だより』の種が含まれてるんだし、なによりも小百合ちゃんがおうめさんに会いたがっているのはお婆さんの茶飲み話を聞いてるときが一番安心できるからなのよ。おうめさんは小百合ちゃんにとって春の陽だまりみたいにリラックスできる懐かしい人なのよ。『日本むかし話』に出てくるいいお婆さんのようなものなのよ、きっと」
毎日小百合ちゃんの診察に立ち会っている美智子の意見は尊重すべきだと思われたので、孝夫は机の引き出しに原稿用紙をしまった。
「最近、急に冷えてきたわね」
美智子はガウンを着てから髪にドライヤーをあて始めた。
標高の高い谷中村の秋は日毎に肌と目で確認できる速さで深まっており、夜は半袖の下着では肌寒くなっていた。野沢菜の種まき、稲刈り、せいのみ沢での暖炉用の薪取り、……。孝夫は農作業の予定を頭の中に思い浮かべて、とりあえずやることはある、と手軽な安心を得てから風呂に入った。
翌日、午前中に阿弥陀堂に登ると、おうめ婆さんは脇の畑に出て野沢菜の種をまいていた。極端に腰が曲がっているので、土の上を這っているのではないかと見間違えてしまう。孝夫が、こんにちは、と声をかけるとおうめ婆さんは腰を伸ばす仕草をしたが、それはわずかに尻が下がっただけで、腰の曲がりはまったく変化していなかった。
「あれ、しばらくでありましたなあ」
頭にかぶっていた手拭いを取ると、九十六年間笑い続けてきて完成したような、天然ものの笑顔が現われた。
「お仕事中すみません。今日は役場の娘さん、小百合ちゃんの代理でお話をうかがいにまいりました」
孝夫が口を開くと同時におうめ婆さんの顔から微笑が消えた。
「おう、それよなあ。あの娘さんの姿が見えねえが、まさか体の具合でも悪くしたかと案じておったでありますがなあ」
歩み寄ってきたおうめ婆さんは腰に両手をあてて孝夫を見上げた。
孝夫が話しづらそうに横を向いたので、まあ上がってお茶でもどうでありますか、とおうめ婆さんは上がり口の方を指で示してから、ガラス戸を開けた。
阿弥陀堂からの景色は色彩豊かだった。黄色い棚田、赤いナナカマドの山肌、そして田よりも濃い黄色の頂。尾根の向こうに尾根が重なり、どこまでも山が連なっている秋深い風景であった。
お茶を出してくれたおうめ婆さんに、孝夫はまず小百合ちゃんの病状を報告した。ここ一週間がヤマなのだと正直に伝えた。
「おやげねえことでありますなあ。あんなかわいい娘さんが」
おうめ婆さんはそこまで言うと、膝をずらして奥の阿弥陀仏の前に移動し、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、と合掌した。
額が畳につくほど腰の曲がった老婆の真摯な祈りの姿勢。見おろす煤けた荒削りの阿弥陀仏の木像。それは孝夫が思わず見とれてしまったほどよく調和のとれた枯れて自然な光景だった。秋の午前の低い陽が阿弥陀堂の中を懐かしくも古びた日なた色に照らし出していた。
念仏を唱え終えて上がり口に坐ったおうめ婆さんにテープレコーダーを用いる許可を求めた。
「そりゃあどういうもんでありますか」
おうめ婆さんはテープレコーダーを目にするのは初めてらしかった。
「声をとっておいて、あとでまた聞けるんですよ。おうめさんの話を小百合ちゃんが聞きたがっているもんですから、これに入れて病院に持って行くんですよ」
孝夫はスイッチを入れた。
「こんな婆さんの話をそんな機械に入れてもらうのはもったいねえでありますなあ」
おうめ婆さんの声はテープに入り、孝夫はすぐに再生して聞かせた。
「あれ、これがわしの声でありますか」
おうめ婆さんは意外な人に出会ったように胸を反らせた。
「こりゃあわしのお祖母さんの声でありますよ。九十で死んだお祖母さんの声でありますよ」
おうめ婆さんは断定的に顎を引いた。
孝夫は江戸末期を生きたはずのおうめ婆さんのお祖母さんの生活をとっさに想像してみた。その作業が容易だったのは、今のおうめ婆さんの暮らし様から電球をなくせばいいだけだったからである。お祖母さんの形質の遺伝。江戸末期から明治にかけて六川集落におうめ婆さんとそっくりの声をした老婆がいたのだとすれば、自分によく似た煮え切らない性格の中年男もいたはずであり、森平には小百合ちゃんみたいなかわいい娘もいたのだ。その時代となにが変わって、なにが変わらないのか。なにを得てなにを失ったのか。
勝手な空想が空想を呼んで、孝夫は紅葉の山々に目を泳がせながら独り笑いをもらしてしまった。
「さて、なにから話したらいいでありましょうや」
おうめ婆さんが催促してきた。
「あっ、なにからっていうか、ふつうに話してもらえばいいんです。なんでもいいんです」
畳の上に黒い革カバーをかけた小型テープレコーダーを置いてはみたが、おうめ婆さんの肩に力が入っていそうだったので、孝夫はその上にハンカチを広げてかぶせた。しばらく間があってからおうめ婆さんが語り始めたのは明治四十年の秋に九十で死んだお祖母さんの死因であった。
この老婆は足腰の丈夫な人で、晩年も毎日田畑に出ていた。秋の楽しみは大好きなアケビを採りに山に入ることだった。若い頃からアケビが好きな人だったらしいが、歳をとるにつれて抑えがきかなくなり、山に分け入って見つけたアケビはすべて口に入れなければ気がすまなくなった。
アケビは白っぽい透明な甘い果肉だけを食べ、多量に詰まっている種は吐き捨てるものなのだが、老いた婆さんは意地汚くなって種まで全部飲み込んでしまった。結果としてひどい消化不良を起こし、糞づまりになって苦しむのだった。
そして、九十歳の秋、やはりアケビを食べ過ぎて糞づまりになり、三日苦しんで死んでしまったのである。村人たちの間には、好きな物を好きなだけ食って死んだのだから婆さんも本望だろうという冷静な意見と、九十まで長生きしたあげくアケビの食い過ぎで死ぬのは哀れだと同情する声があった。しかし、いずれの人たちも大往生であったことだけは文句なく認めていた。
おうめ婆さんの家ではそれ以来秋にアケビを食うことが禁忌とされ、子供だった彼女は仲間がうまそうにアケビを食べているのがうらやましくて仕方なく、死んだ婆さんをうらんだものだった。もう少し大きくなると、アケビなんかで死ぬなんてばからしい。こんな変な人が先祖にいるなんて恥ずかしくてたまらなかった。この思い込みはかなり長く続いた。
だが、今、このお婆さんの一生を考えてみると、うまい物などなにもなかった貧しい村の中で、自分なりの最高のごちそうと呼べる食物を持っており、それを腹一杯食べて死ねたのは幸せではなかったかと思える。それに、あの平均寿命の短かった時代、九十歳まで長生きできたのは、欲があったからではないだろうか。秋になればアケビが食える。そう念じて毎年秋を待っていて知らぬ間に九十歳になっていたのだろう。アケビのために生き、アケビで死んだ。なんと単純で素朴な生き様だったことか。テープレコーダーで懐かしい声を聞いたので、思いがけずお祖母さんを思い出した。
「ありがたいことでありました」
おうめ婆さんはテープレコーダーに両手をついて仁義を切り、話をしめくくった。
「こちらこそ、大変いい話をありがとうございました」
孝夫も取材者になり切って礼を述べた。
しばし黙り合ったあと、孝夫はどうしてもこの昔話の結論が欲しくなった。
「体によいといわれる物ばかり食べて健康に注意し、自分の健康のことしか頭にないような老人が最近の日本には増えていると聞きますが、おうめさんはどう思われますか」
孝夫の知識は毎月読んでいる総合雑誌から得たものだった。
「分からねえであります。その人の好きずきでありますからなあ。でありますが、わしのお祖母さんにとっちゃあ、アケビのあった一生となかった一生じゃあ、そりゃあアケビのあった一生の方がずっと幸せだったというもんでありましょうや」
おうめ婆さんは空になりかけた孝夫の湯飲みにアルマイトの急須で茶を注ぎ足してくれた。
「しつこいようですがもう一つ質問させて下さい。おうめさんにとってお祖母さんのアケビとおなじ物、つまり、それがあるために生きていられるといった物はなんですか。教えていただけませんか」
孝夫は湯飲みを口に運びながら、最も聞きたかった質問を茶を飲むついでを装っておうめ婆さんにしかけた。
「そうでありますなあ、こうして毎日南無阿弥陀仏を唱えることでありましょうな。南無阿弥陀仏さえ唱えていりゃあ極楽浄土へ行けるだと子供の頃にお祖母さんから教わりましたがな、わしゃあ極楽浄土なんぞなくてもいいと思っているでありますよ。南無阿弥陀仏を唱えりゃあ、木だの草だの風だのになっちまった気がして、そういうもんとおなじに生かされてるだと感じて、落ち着くでありますよ。だから死ぬのも安心で、ちっともおっかなくねえでありますよ」
おうめ婆さんは茶をすすりつつ、淡々と語った。
孝夫は話の含蓄はもちろん、これだけ分かりやすく、端的に考えを伝え得る九十六歳の老婆の頭脳明晰さに感心させられた。小百合ちゃんが聞きたかったのもおそらく、この打てば響くさりげない解答だったのであろう。テープレコーダーを持ち込んだ意義は十分にあった。
「わしゃあこれから毎日、町の方を向いて手え合わせるでありますよ。あんな若え娘さんに万一のことがあっちゃあいけねえ。六川のご先祖様全部にお願いしてよくしてもらうでありますよ」
孝夫がテープレコーダーをジャンパーのポケットにしまい、礼を言って立つと、おうめ婆さんは下から真剣な目で見つめてきた。
小百合ちゃんの容態が急変したのはそれから三日後だった。美智子が恐れながら予想していた肺炎を併発したのである。診療所は休みの日だったが、朝、総合病院の担当医から家に電話がかかってきた。
「今日は帰れないかも知れないから、家で連絡を待って」
総合病院の駐車場で車を降りるとき、美智子は下腹に両手をあてて深呼吸した。
「そんなに悪いのかい」
美智子の緊張ぶりが、容易に孝夫に伝染してきた。
「勘かしらね。帰れなくなる日は朝の勘で分かるのよ。こんな勘が働くのも久しぶりよ」
美智子は再び深く息を吸ってから車のドアを閉めた。
玄関の方に向かって歩いて行く美智子のたくましい腰回りに見とれて、孝夫は思わず手を合わせてしまっていた。
六川集落の家にもどってはみたものの、孝夫は落ち着かなかった。仏壇に線香をあげ、リビングルームのソファーの上に正座して合掌し、台所で洗い物をしたが、胸の騒ぎはおさまらなかった。
家の中を歩き回り、やがてスニーカーを履いて外に出て、気がついてみると阿弥陀堂への七曲がりの路を登っていた。三日前におうめ婆さんにインタビューしたテープは、次の日美智子に託して小百合ちゃんに渡してもらった。聞いてくれただろうか。
阿弥陀堂では脇の段々畑の二段目でおうめ婆さんが枯れたナスを抜いていた。孝夫は黙って畑に登り、おうめ婆さんの横にしゃがんだ。
「あの娘さんがどうかしたでありますか」
おうめ婆さんは沈んだ孝夫の横顔をとらえて即座に彼の来た理由を言い当てた。
「肺炎を起こして、容態が悪くなったらしいです」
九十六歳の老婆に気の重さを分担してもらうのは申し訳ないと分かってはいたが、孝夫は話さずにはいられなかった。
おうめ婆さんは黙したまま畑を下り、泥だらけの手を洗いもせずに阿弥陀堂の座敷に坐った。孝夫はそのうしろに正座した。
おうめ婆さんは煤けたみすぼらしい木像に向かって合掌し、ひたすら南無阿弥陀仏を唱えた。孝夫も真似をして手を合わせたものの、南無阿弥陀仏の発声が腹の底からできずにうわずってしまったので、より強く小百合ちゃんの回復を念じられるように無言で目を閉じ、頭を低くしていた。
どのくらい時間が経ったのか、足がしびれてしまった孝夫は祈り続けるおうめ婆さんの背後でそっと足をくずし、あぐらをかいた。痛む首を回してみると、枯れて朽ちかけた木の壁には六川集落の死者たちの名を記した名刺大の木札が隙間なく釘で打ちつけられてあった。古い順に向かって左側の壁の上から並べてあるらしく、そのあたりの木札の名は墨が消えかかっていて読めない。右の壁の最上段に母の名があり、その二段下に祖母の木札を見つけた。余白はいくらでもあるぞと誘っているかのように、板壁の空きは十分にあった。
死者の名を書いた木札は家の者が森平の寺からもらってきて、自分で阿弥陀堂の壁に打ちつけるのである。祖母の葬儀のときは急いで東京に帰らねばならない用事があったので、となりの田辺さんのおばさんにこの役をたのんでしまったのだった。今思えば、編集者とのゲラ直しの約束など無視して、木札を打ちつけに来るべきであったと反省させられる。
死ぬことは生者と別れるのではなく、生者よりもはるかに多い死者たちの仲間に入るのだというあたりまえの要領が、阿弥陀堂の壁を眺めていると単純明快な視覚を介して了解できる。毎日この木札の群れに囲まれて暮らしているおうめ婆さんにとって、死が恐れるに足らないものに見えてくるのは当然なのかも知れない。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、……」
おうめ婆さんの低音の念仏は途切れずに続いていた。
もしかしたら、と孝夫はくずしていた足を正座にもどして背筋を伸ばした。もしかしたら、おうめ婆さんは小百合ちゃんの回復ではなく、楽な往生を願っているのではないか。死者たちの木札の数に圧倒されて、小百合ちゃんを生の世界に引きもどそうとする力が萎《な》えるのを自覚した孝夫は、背をかがめて念仏を唱えるおうめ婆さんの小さな坐り姿に初めて不審の目を向けた。
しかし、代わりに自分になにができるのだろうと思いつめたとき、孝夫は再び正座をといて破れ畳にへたり込んだ。美智子には有能な医師としての知識と技術があり、小百合ちゃんの命を救う最も重要な働きができる。阿弥陀堂守として死者たちの霊を慰めるのが仕事のおうめさんには小百合ちゃんの安らかな往生を願う資格がある。それに比べて自分には腕も資格も、小百合ちゃんの命にかかわってやれるものはなに一つない。こうやって念仏の真似事をしている他は……。
無職の書けない小説家だから情けないのではなく、生老病死、人間として生きる基本中の基本をつきつめて考えることもせずに今日まで生きてきたのがふがいなかった。そのくせ、小説家のはしくれだとの自尊心だけは一人前だったのだ。
おうめ婆さんは祈り続けていた。
孝夫はそっと立ってその後ろ姿に一礼し、阿弥陀堂を出て七曲がりを下った。恥ずかしさでほてる頬を風になぶらせながら。
家にもどった孝夫は台所でタマネギをきざみ始めた。なんでもいいから体を動かしていたかったのである。冷蔵庫を開けてみると野菜室にタマネギとキュウリがあったのでとりあえずタマネギを取り出してスライスしてから、オニオングラタンスープを作ろうと思いついたのだった。
孝夫の乏しい料理知識の中では、なるたけ時間がかかり、その間手を動かし続けなければならないメニューはオニオングラタンスープしか浮かばなかった。タマネギ二個を細かくみじん切りにして厚手の鍋にバターを入れ、火を弱めてから木じゃくしで気長にいためる。
タマネギから油がしみ出してくるようになると、なんともいえず香ばしい匂いがしてきた。木じゃくしを休みなく動かしながら焦げかけた香りを胸一杯に吸い込むと、いら立っていた頭の中がしんと静かになった。
ガスコンロの火はくしゃみをしても消えそうなほどの弱火にして、焦がさぬように、時間をかけていためた。料理の手順以外はなにも考えない。小百合ちゃんの容態も、おうめ婆さんの念仏も、そして、心配な美智子の精神状態も。
手だけを動かしてタマネギをいためる。スープは鶏がらから取りたかったのだが、町の肉屋まで行くとまた小百合ちゃんの病状が気になってしまうので、買い置きの固形コンソメスープでがまんした。
三時間かけてタマネギをいため終えた孝夫は鍋にスープと白ワインを加え、おなじ弱火でさらに二時間煮込んだ。アクを丁寧にすくいながら冷えた白ワインを飲んでいたら、いつの間にか一本空けてしまった。
オニオングラタンスープは本来ならばフランスパンを焼いて、耐熱容器に入れたスープに浮かべ、おろしチーズをかけてオーブンで焼いてできあがる。しかし、昼酒に酔った孝夫は煮込んだスープを一皿とフランスパンをそのままかじって昼食兼夕食とし、リビングルームのソファーにもたれて寝込んでしまった。
総合病院のICU医局には安っぽい人工皮革張りのソファーベッドが二台置かれていた。美智子は小百合ちゃんの主治医である中村医師とテーブルをはさんで向き合い、夜食のカップラーメンを食べていた。
夜食といっても呼吸状態が悪くなった小百合ちゃんを一般病棟からICUに移送したのが午後三時で、人工呼吸器につないだのが午後六時だったから、二人は夕食を食べていなかった。鎮静剤の注射で意識を低下させた小百合ちゃんの全身状態が安定し、美智子と中村医師がひと息ついたのは午後十時を過ぎた頃だった。
今日一日、美智子にとっては数年ぶりに経験する救命医療の場面が次から次と展開された。肺炎の予想外の急速な進行。血液ガスデータの悪化。酸素吸入を受けながらも苦しそうにあえぐ小百合ちゃん。命を救うためには人工呼吸器につないでとりあえず呼吸を確保しておいて、その隙に抗生物質で肺炎をたたくしかなかった。場合によっては消化管出血などの危険な副作用を覚悟で大量のステロイドホルモン剤を用いなければならないかも知れない。
救命のためのマニュアルはしっかり頭に入っているのだが、数年間逃げていた第一線の現場を前にして、病んで脆弱になってしまった己の精神がパニック発作を起こさないかどうかがなによりの心配だった。
ベッドの上で苦しそうにもがく小百合ちゃんの冷や汗のにじむ手をきつく握って、大丈夫よ、と声をかけてやった。平気だった。
ICUに入室した小百合ちゃんの呼吸は乱れて浅くなっていたので、薬で自発呼吸を止めて人工呼吸器に接続した。気管内に管を入れる神経を遣う作業も自らこなした。大丈夫だった。
中村医師と二人で小百合ちゃんの両親に、よくなるか死亡するかは五分五分だ、と現場の厳しい状況を説明した。なんともなかった。
以前の美智子なら、このどれかの段階で胸苦しくなり、激しい動悸とめまいに襲われてその場に立っていられなくなり、壁を伝って逃げ出し、医局のソファーに倒れ込んでいたところだった。すべての救命処置を終えてカップラーメンを食べている自分の落ち着き様がまだ十分に信じられない美智子であった。
「お疲れになりませんか」
中村医師は美智子に気を遣ってくれていた。ナースセンターの奥のガスコンロで湯を沸かし、カップラーメンを作ってくれたのも彼だった。
「救命処置は何年かぶりだったんで自信がなかったんだけど、やってみたら案外平気だったのでびっくりしてます」
美智子は空腹だったのでカップラーメンのスープまで飲みつくしてしまってから、正直な感想を述べた。
東西にむき出しのコンクリの壁、南北に金属製のドア、ブラインドのおりた窓が一つあるきりの殺風景な部屋だったが、特別な圧迫感も覚えず、これも中村医師が運んでくれた紙コップのコーヒーをリラックスして飲む美智子であった。
「変なこと聞きますけど、中村先生は医者になってからどのくらい亡くなる人たちを診ましたか」
これまでは小百合ちゃんの病態についての会話ばかりしていた二人だったから、美智子が中村医師に私的な質問をするのは初めてだった。
「ぼくは三十二歳になったばかりで、大学に入るのに二浪してますから、医者になってからまだ五年目です。ですから、受け持った患者さんで亡くなったのは三十人くらいですかねえ」
育ちのよさそうな、まだあどけなさすら残す眼鏡の奥の小さく丸い目が美智子をいぶかしげに見ていた。
「変なこと聞いてごめんなさいね。私が勤めていた都立病院の病棟では毎年四、五十人の患者さんが亡くなっていたの。その臨終のほとんどに立ち会っていたから、私はこれまでに三百人以上の人たちの最期を看取ってしまったの」
こんな話していいかしら、と間に美智子は中村医師の顔を見た。
いいですよ、どうぞ、と右手を出してうながした彼だったが、広い額には乱れた前髪が汗ではりつき、目の下に疲労を物語る黒ずんだ浮腫が出ていた。
「横になって話さない」
美智子はそう提案すると、さっさとソファーベッドの背もたれを倒し、肘掛けに頭をのせて白衣を着たままあおむけに寝た。
「ぼくもそうさせていただきます」
中村医師の声がわずかに弾んだ。
天井には長い蛍光灯が二本、淡く冷えた光を放っていた。
「私が東京の病院で最後の死亡診断書を書いた患者さんは七十六歳の男性で個人タクシーの運転手さんだったの。ちょっと体が疲れるからって外来に来たんだけど、両肺に広がる多発結節型の肺胞上皮癌でね、末期の状態だったの。入院して七日で亡くなったんだけど、夕方でね。食事をしていて急に呼吸状態が悪くなって大部屋から個室に移したんだけど、家族の人たちがまだ来ていなかったのよ。私はベッドの脇に坐って、だんだん遠く浅くなってゆくその人の呼吸を見ていたの。そして、最後の一呼吸が終わったとき、ビルの間を抜けてきた夕陽が病室に射し込んで、私の頭の中からなにかがその光の束に乗って窓から出て行ってしまったの。なんだか医者の話らしくないんだけど、私の頭の中から出て行ったのは『気』なのよね。元気の気。元気の元《もと》の方がいいかな。とにかく、私を元気にしてくれていたなにか大事なものがそのとき大量に抜け出てしまうのを実感したのよ。死者を見過ぎたのかなあって漠然と思ったの。生きるのに正のエネルギーが必要だとすると、死んでゆく人の周囲には負のエネルギーの場が出現して、生き残る人の正のエネルギーを吸い取ってしまうのかしら、なんて本気で思ったわ。妊娠してたのに、子宮の中で胎児が死んで、体調を崩したのはその直後からなのよね。限界だったのよね」
天井の蛍光灯の光を右手でさえぎりながら、美智子は独り語りした。
小百合ちゃんの命を救うために共に彼女の病気と闘っている医者同士として、美智子は中村医師を信用していた。これまでの経験で、仕事仲間が信頼できるかどうかは半日一緒に現場で生活してみれば分かる美智子であった。それに、彼女が同業者である医者を相手に気安く話をできる機会は谷中村に来てからは初めてだったので、思いもかけず多くを語ってしまったのだった。
「限界って言いますと」
手枕をして聞いていた中村医師は肘を立てた。
「太陽と死は見続けてはいられないっていうけど、そのとおりだったのね。正のエネルギーをすっかり死に吸い取られちゃった私は死のことしか考えなくなって、明日を楽観できなくなってしまったのよ。心の病気だわね。私が主人の実家のある谷中村に来たのは病気を癒すのが第一の目的だったのよ」
美智子は語り終えるとあおむけに寝たまま大きく一回腹式呼吸をした。
「病気になんて見えませんよ。上田先生はまったくお元気ですよ」
中村医師は横になったまましきりにうなずいていた。
「病気っていえばねえ、私は自分が病んでみるまで、医者のくせに病気と単なる体の故障の区別がつかなかったのよね。癌で死期が迫っていても病気でない人もいれば、ちょっと長びいた風邪で重い病気になってしまう人もいるのよね。問題は心を病んでいるかどうかなのよ。重篤な疾患にかかっていても心を病んでいない人は病人ではないのよ。そういう患者さんているでしょう。こちらの方が前向きな生き方に励まされてしまうような末期の患者さんが」
美智子も中村医師を真似て肘を立て、横になったまま彼の方を向いた。
「ええ、います。そういう人、います」
中村医師は人なつっこい笑顔を美智子に返した。
「どんな仕事でもそうかも知れないけど、臨床の医者って年齢とともに生命とか死に対する考え方が変化してゆく仕事なのよね。三十歳のときは三十歳なりの死生観があって、それにのっとって患者さんを診るし、四十歳には四十歳の死者の看取り方があるのよね。歳をとったから偉いとかいうもんじゃないんだけど、とにかく違うのよ」
美智子は深く息を吸ってから腹筋運動を二、三度くり返して上体を起こした。
中村医師があわてて起きたので、いいのよ、これからは交代にしましょう、と手で制してドアを開け、ICUに入った。
五床あるベッドの端で、小百合ちゃんは安らかに目を閉じていた。彼女の呼吸は完全に人工呼吸器によってコントロールされていた。点滴用のチューブが両足と右の肩口に三本、気管内チューブと尿カテーテル、心電図モニターのコード類など、小百合ちゃんの体には多くの管がつけられていた。
少なくとも今のところは意味のある救命処置なのだが、肺炎の治癒傾向が見られない場合はどこで手を引くかも問題になってくる。管にからめとられたみじめな死を、若い小百合ちゃんにむかえさせるわけにはいかない。
小百合ちゃんのベッドサイドに坐り、カルテに輸液と投薬のオーダーを書き込んでから、美智子は仕切り前の力士のように両手で自分の頬をはった。死者を多く見過ぎた彼女は、ともすれば患者の命を救うという医療者の原点を見失いがちだった。諦め方だけ上手になって、小百合ちゃんのケースでも、頭の片隅に両親への悔やみの言葉を用意したりしていた。
美智子が頬をはったのは、そんな自分を殴り倒しておく必要に迫られたからだった。生かす手段のみを考え、やるだけのことをやる。もう一度単純なところから出発したかったのである。小百合ちゃんの救命治療に参加することは、美智子にとって自分自身の精神の再生手術を執刀するのと同義の行為であった。
その夜は三時間ごとに交代して、中村医師と美智子は互いに仮眠をとり、小百合ちゃんのベッドサイドに坐ってモニター機器をチェックした。
翌朝、美智子は孝夫に電話してむかえに来てもらい、家で着替えをして診療所に出た。
「眠ってないのかい」
髪の乱れた美智子を助手席に乗せた孝夫は心配気にのぞき込んだ。
「仮眠はしたのよ。私、まだ徹夜で患者さんの治療ができるんだわ。自信持っちゃおうかな」
東京の病院に勤めていたときも、徹夜明けの美智子は午前中妙にはしゃいでいたものだったが、そんな彼女がもどってきたので、孝夫は喝采したくなった。
家でシャワーを浴び、髪を洗った美智子はバスタオルを体に巻いたままの姿でダイニングのテーブルに坐り、トーストと紅茶の朝食をとった。濡れた髪のかかるうなじが妙に色っぽかった。キッチンに立つ孝夫は口を半開きにして、丸みを増した肩口の白い肌に見とれた。美智子に対して性的興奮を覚えるのは何年ぶりなのだろうか、と孝夫は冷静さを失いつつある頭の隅で考えていた。
その日も午後から美智子は病院に行き、徹夜になり、次の日は帰らずまた徹夜。三夜病院に泊まり込んだ朝、車の助手席のドアを開けた美智子の顔にはさすがに疲労の色が濃かった。
「なんとかなりそうよ」
運転席に坐る孝夫が声をかける前に、フロントグラスに射す朝陽をまぶしげによけた美智子はそう言ったなり眠り込んでしまった。土色の顔はいくらかむくんでいたが、安らかな寝息が満足そうだった。
家に着いてようやく起き、朝食の席で、小百合ちゃんの肺炎がヤマを越えたわ、と孝夫に告げた美智子の表情は淡々としていて、うまい歳のとり方をしそうな予感すら感じさせる落ち着きがあった。
「あんた、いいお婆さんになれると思うよ」
ほっとした孝夫は軽い冗談を投げかけた。
「目標はおうめさんよね」
美智子は一瞬笑顔を造ってから、ダイニングテーブルにつっ伏してまた眠った。
それでも彼女は三十分ほどして起き、トーストを食べて診療所に出かけた。車で送ろうとする孝夫に、体がなまっちゃうから歩いた方がいいのよ、と言い置いてスニーカーを履いて行ったのだった。
午前中、田辺のおばさんが『谷中村広報』を持ってきた。小百合ちゃんが書きためておいたらしいコラムが載っていた。
〈阿弥陀堂だより〉
阿弥陀堂に入ってからもう四十年近くなります。みなさまのおかげで今日まで生かしてもらっています。阿弥陀堂にはテレビもラジオも新聞もありませんが、たまに登ってくる人たちから村の話は聞いています。それで十分です。耳に余ることを聞いても余計な心配が増えるだけですから、器に合った分の、それもなるたけいい話を聞いていたいのです。
病気についての詳しい説明や治療法に関する質問など、若い患者なら当然医師に疑問をぶつけてくるものだが、小百合ちゃんはただ、おまかせします、としか言わなかった。それが不思議だと美智子は語っていたが、このコラムにはおうめ婆さんの言葉を借りた小百合ちゃんの本音がのぞいているのではないか、と孝夫は思った。治療者である中村医師と美智子に対する無言の信頼だけを糧にきつい病気と闘った小百合ちゃんのけなげさに、コラムを読み終えた孝夫は胸の底が熱くなった。
四十歳を過ぎてから、こんなことがよくある。なにごとによらず、けなげな態度に弱くなってしまったのである。
数日前から家の庭に二匹の子猫を連れたトラ猫が姿を見せるようになった。親のトラ猫はどこかで飼われていたのが捨てられたものらしく、孝夫が庭に出ると足元にすり寄ってきた。うしろをトラとシロの二匹の子猫が懸命に追っている姿が哀れでたまらなくて、小皿に入れた牛乳を与えてしまった。
次の日も、また次の日も親子連れでやって来ていた猫たちは四日目あたりから子猫だけになった。どうやら賢い母猫は子猫を飼ってくれる家を探していたらしく、孝夫はまんまとその作戦にひっかかってしまったのだ。
二匹の子猫は一日中庭で遊び、夜は軒下で折り重なって寝た。朝と夕、孝夫がハムやベーコン、牛乳を与えると子猫たちは先を争って食べた。生きるために食うそのあさましい姿がまた下品で率直で哀しかった。
もう少し若かったらノラ猫など追い払って終わりにしたはずなのだが、四十歳を過ぎ、人生を折り返してからどうもいけない。それは美智子もおなじで、小百合ちゃんの治療が一段落ついて子猫たちの存在に気づいた彼女は、診療所からの帰りに農協のスーパーでサバの水煮の缶詰などを買ってきた。
どちらかといえば、美智子は動物が嫌いな方だった。そんな彼女がノラ猫のためにせっせと缶詰を買ってくる。
「おれたちも歳なのかなあ」
二人で庭に出て猫に夕食を与えながら孝夫が声をかけた。
「もののあわれっていうか、命のはかなさ、人生の一回性、そういうものが実感として分かる年齢になってしまったのよね、きっと」
サンダル履きで枯れ始めた芝生にしゃがみ込み、子猫の頭をなでながら美智子は山際の赤い夕空をあおぎ見た。
日の暮れが早くなって大気が冷え、夕方にはカーディガンが必要になっていた。
小百合ちゃんがICUから一般病棟の個室にもどり、面会謝絶が解除されたのは谷中村で稲刈りが始まった頃だった。六川集落でもマケ単位の稲刈りが日曜日に予定されていた。その土曜、孝夫は美智子とともに町の総合病院に出かけた。小百合ちゃんがICUを出てから美智子は午後の病棟カンファレンスのみに参加していた。
病室の小百合ちゃんは抗癌剤の副作用で髪の毛の抜けた頭に白い毛糸の帽子をかぶり、ベッドの上に起きてヘッドホンでラジカセを聴いていた。美智子は中村医師に会いにナースセンターに出向いたので、病室には孝夫一人が入った。
「こんにちは」
孝夫がドアを押しながら声をかけると、蒼白く頬のこけた小百合ちゃんは皺の多い笑顔を見せ、ヘッドホンをはずした。
彼女の首にはスカーフが巻かれておらず、赤黒くひきつれた火傷の跡と思われる皮膚が正面に見えていた。小百合ちゃんから声を奪った病気の痕跡らしかった。
「よかったね」
見舞い用のいくつもの言葉を用意していた孝夫だったが、実際にやつれ切った微笑みを前にすると、ありきたりの一言しか出てこなかった。
どうぞ、というふうに小百合ちゃんが右手で示す丸椅子に腰かけると、彼女はベッドサイドテーブルから大学ノートとボールペンを取って掛け蒲団の上に広げた。
おうめさんのテープ、ありがとうございました。アケビとお祖母さんの話、とてもおもしろかったです。何度も聴きました。
小百合ちゃんは書き終えると口元をゆるめてノートを孝夫の方に向けてきた。
「そうかい。それはよかった。おうめ婆さんは小百合ちゃんのために阿弥陀堂で念仏をあげてくれてたよ。ヤマを越えたのが分かった日に知らせたら、泣いてたよ」
美智子から小百合ちゃんが危機を脱したと聞いた日、孝夫は阿弥陀堂に登り、念仏を唱えていたおうめ婆さんに伝えた。婆さんは、そうでありますか、そうでありますか、と孝夫にまで合掌しながら、干からびた老人のどこにこれだけの水分が貯蔵されているのかと驚くほど大量の涙を流したのだった。
ありがたいです。
おうめ婆さんの様子を聞いた小百合ちゃんは唇を噛んでこらえていたが、大粒の涙をノートの上に落とした。
「何だか湿っぽくなっちゃったね。それ、テープ、なに聴いてんのかな」
ベッドサイドテーブルにはラジカセが置かれていたので、孝夫は無理に話題を変えた。
モーツァルト、『方丈記』、『歎異抄』です。カセットブックです。読むのは目が疲れてだめです。毎日少しずつ呼吸が苦しくなっていたので、このまま死ぬのかも知れないと思いました。その前に聴いておきたいものを考えたら、これだけが浮かびました。父が買ってきてくれました。それと、おうめさんのテープ!
小百合ちゃんははるか昔の思い出を書きつけるかのように、ときおり窓の外に目をやりながら静々とボールペンを走らせた。
「モーツァルトはなにを」
別にモーツァルトに詳しいわけではなかったが、孝夫はできるかぎり新しい、明るい話題を維持していたかった。
交響曲四十番と四十一番です。
小百合ちゃんは唇をすぼめ、交響曲四十番の出だしをかすれた口笛で吹いてみせた。
「ああ、知ってるよ。それ、いいよね。四十一番はジュピターだったよね」
乏しい音楽知識の枠内で話ができるのでほっとした孝夫であった。
『方丈記』と『歎異抄』は学生のとき読んでよく分からなかったのですが、なぜだかもう一度読んでおきたくて。この二作は本で読むよりもカセットブックの朗読を聴いた方がずっと迫力がありますよ。でも、まだよく分からないことばかり出てきて、このままでは死ねないなって思っていました。
孝夫の質問に先回りして、小百合ちゃんは回答をくれた。この二冊なら孝夫も読んでいた。高校時代、古典を暗唱するのが好きだった孝夫は今でも格調高い漢文調の『方丈記』の書き出し部分を覚えていた。
「……朝に死に、夕に生るるならい、ただ水の泡にぞ似たりける。知らず、仮の宿り、誰が為に心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主とすみかと、無常を争うさま、いわば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといえども、朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なお消えず。消えずといえども、夕を待つ事なし」
ゆく河の、で始めるのは芸がないと判断した孝夫は書き出しの最後の部分をそらんじてみた。リズミカルな文章が鮮やかなイメージとともに蘇ってくるので、あの頭が柔らかかった時代の記憶はバカにできないものだと痛感した。
小百合ちゃんは拍手してくれた。唇の動きが、すごい、すごい、と読めた。
孝夫はわざと胸を張ってみせた。笑う小百合ちゃんの頬に微かな赤みがさした。
「『方丈記』はドキュメントエッセイだからいくらか分かるんだけど、『歎異抄』は念仏っていうキーワードが解きづらいから、どうにも手が出なかった思い出があるよね」
文学部の学生ならこのくらいは読んでおけと東洋哲学のゼミの教授から指示されて開いてみた『歎異抄』であったが、薄い文庫本の割に難解であった記憶しかない。
私も念仏はよく分かりません。最近では、おうめさんの存在そのものが念仏ではないかという気がしています。入院直前に『阿弥陀堂だより』の原稿を書きましたが、内容はたまたま念仏のことになってしまいました。命の危機を感じてなにかに救いを求める気持ちがあったのだと思います。よく分からないことは書かない方がいいのですが、どうしても書きたくて。
小百合ちゃんは書き終えて、軽く右手を振った。筆談が疲れるらしい。
「今度の『阿弥陀堂だより』が出る頃には退院できるよ、きっと。楽しみに待ってるよ。また来るから」
孝夫は中腰の姿勢で、小百合ちゃんとおなじ目の高さで手を振った。
彼女の唇が、ありがとうございました、と動いた。
帰りの車内で美智子に聞くと、小百合ちゃんの肺への転移病巣は完全に消失したとのことだった。しかし、美智子は治癒とは言わず、寛解という言葉を用いた。今はよいが、またいつ病気が再燃するか分からないという意味だそうである。
「これは小百合ちゃんに限った問題じゃなくて、人間誰でも明日の再発を知らずに生きているだけなのよ」
医療の話をするとき以前のように気負わなくなった美智子の言葉は孝夫の胸にそのまま入ってきた。
翌日、孝夫はマケの稲刈りに出た。田植えのときとおなじで、田辺のおばさんと吉村さん夫婦に孝夫が加わり、二軒の田を手刈りするのである。六川集落の田はどれも狭い棚田なので手押しの稲刈り機も入らない。昔どおりノコギリ鎌で刈るのである。
田に入って腰をかがめると、実った稲の匂いが鼻腔に満ちた。脳の深いところを刺激する懐かしい香りだった。
左手で稲をつかみ、ノコギリ鎌で根元を刈る。五、六束を刈るとまとめて、腰に付けたワラで束ねる。稲刈りは単調な作業のくり返しである。
孝夫の腰はすぐに痛み出した。ここからががまんのしどころで、こらえているとやがてしびれてきて、皮膚をつねってもなにも感じなくなる。そうなればおなじ姿勢を保って作業を続ければいいのである。
百姓仕事の経験のない者は最初の痛みで音を上げてしまうのだが、孝夫の体は幼い日の労働をよく覚えていた。子供ながらも、一人前の労働力として扱われる稲刈りの仕事では特にはりきったものだった。働けば働いた分だけ大人たちからほめられていい気分になったあの頃の単純素朴な生活が懐かしくて、孝夫はせっせと稲を刈った。
田辺さんのおばさんや吉村さん夫婦から孝夫は昔どおり孝ちゃんと呼ばれている。
「孝ちゃん、お疲れさん。めしにするよ」
「孝ちゃんは刈るのが速いや」
「孝ちゃんは生まれついての働きもんだ」
子供の頃と同様の称賛の辞をもらうと、ふだん定職のない身に沁みるせいか、無性にうれしくなる。その分、よけいにがんばってしまうのだった。
マケの共同作業に参加していると、孝夫は祖母と暮らしていた子供の頃のように、肩の力が抜けてリラックスできた。よく知り合った人たちと、よく知り抜いた自然の中で労働することがこれほど精神を安定させてくれるものなのだとは知らなかった。田植えのときと異なり、稲刈りには作物を収穫する人間としての原始的な歓喜の感情が伴っているのも、この奇妙な安心感の一因らしかった。
マケの稲刈りは二日で終わった。初日の夜は田辺さんの家で、二日目は吉村さん宅で夕食をごちそうになった孝夫は何十年かぶりに梅酒を飲んだ。
六川集落ではどの家も庭に梅の木がある。梅の実を焼酎で漬けて梅酒を作り、稲刈りの日に飲むのが昔からの習慣だった。もちろん夏に飲む普通の梅酒もあるのだが、稲刈り用のものはアルコール度数の高い焼酎で作られており、氷砂糖も少なめで辛口に仕上げられている。
食事の前にジャガイモの天ぷらをつまみにこの梅酒を飲まされると、アルコールが疲労した筋肉に素早くしみわたり、体全体が酔ってしまう。清酒よりも安い焼酎を使い、肉体疲労に効く梅のエキスの入った酒を作ったのは昔の人の知恵なのだろうが、回りの早い酒ではあった。孝夫は二日とも食事の途中で覚えがなくなり、気がつくと家のベッドルームに寝かされていた。
「働いて飲む。いいことですよ」
翌朝、赤い目のまま起き出すと、美智子がはやしたてた。
二日酔いをしないのは酒の性質《たち》のためか、酔っ払う前に眠ってしまったからか。
「朝も冷えるようになったわね」
パジャマにカーディガンをひっかけた美智子が紅茶を入れてくれた。
彼女はリビングの暖炉の方を見ていた。孝夫は無言の圧力を感じた。
「そうだな。暖炉の薪を取って来なくちゃな」
痛む腰を伸ばしながら、孝夫は大きなアクビをした。
きっぱりと寒い谷中村の冬に備えて、各部屋には集中給油式の石油ファンヒーターが入っているのだが、美智子はせっかく作った暖炉をこの中途半端な冷えの時期に燃やしてみたかったのである。古い家で薪の炎の懐かしい暖かさを知った美智子は暖炉のためよりも、燃える火を見たい一心で暖炉に薪をくべたかった。
彼女が小百合ちゃんの治療にかかりっきりになっていた間に六川のイワナ釣りは禁漁になった。イワナたちが産卵準備でエサを荒食いする時期になったからである。美智子の唯一の道楽は来年の春までおあずけになってしまい、新たな興味の対象が暖炉に移ったのだった。
この暖炉は途中から設計に加えられたものだった。六川集落に来て、生まれて初めてカマドや風呂に薪の火を入れる楽しさを覚えた美智子が、ハウスメーカーの設計担当者がしぶるのを強引に説き伏せて追加させて作ったのである。
赤茶色の耐火レンガで作られた間口八十センチの小型暖炉は煙突設備も含めると新車が一台買えるくらいの値がしたが、美智子は、
「私の精神安定剤だから」
と、惜しみなく追加の金を出した。
金といえば、新しい家を建てた代金はすべて現金で払った。美智子が精神の負担になるローンを嫌ったからである。ぜいたくをしなかった東京時代の貯金のほぼ全額を支払った。
「人生の折り返し点なんだから、またゼロから始めればいいのよ」
貯金をはたいてしまって、美智子はむしろ身軽を楽しむ様子だった。
「生半可にお金があると、根性まで生半可になってしまうみたい」
金を稼がない孝夫へのなぐさめか、美智子はよくこんな言葉を口にしていたものだった。
入院している小百合ちゃんの状態は、化学療法で減少していた白血球も増える徴候が見え始め、きわめてよい方向に向かっていた。美智子は火曜と木曜の午後に病院に行ってカンファレンスに参加するだけでよくなっていた。
孝夫は薪を取りに、高校生のとき以来行っていなかったせいのみ沢に入った。途中の山路には下草が繁り、ナタ鎌ではらって進まねばならず、里からは分かりづらかった山の荒廃ぶりを思い知らされた。今、六川集落でも薪を主な燃料にしている家は一軒もない。プロパンガスと灯油が普及しているので、雑木の山は無用になってしまったのである。
昔の倍以上の時間をかけてせいのみ沢にたどり着いた。予想していたとおり、沢の湧水だけは清らかに流れていたが、雑木林には一面に下草がはびこり、すべての樹木に幾重にもつるがからんでいた。
斜面を見上げて孝夫はやれやれとため息をついた。まず下草を刈り、つるを切らねば薪にする木を伐採できない。祖母が生きていたら、冬を越すための守り神であった山をこんなに荒らしてしまった罰当たりめ、と孝夫を厳しくしかるであろう。春と夏の二回、祖母は秋に備えてせいのみ沢に入り、全身汗まみれになって下草を刈っていた。そういう努力をしないでいきなり薪だけ取ろうとしていた孝夫をあざ笑い、こらしめるかのように、下草刈りは一向にはかどらなかった。
やけ気味に鎌を振り回していたらアシナガバチの巣を壊してしまい、襲いかかってきたハチに右の手首を二カ所刺され、あわてて沢の流れにつけて冷やした。情けなかった。昔と変わらぬ枯れ葉の匂いに包まれて寝そべってみると、あれからおまえはなにをしてきたのだ、と山の奥から死んだ祖母が哀れむ声で問いかけてくる気がした。子供の頃から通い慣れた山だから、と気軽に分け入ったせいのみ沢から孝夫は痛烈なしっぺ返しをくらったのだった。
半日で下草刈りに飽きた孝夫は尾根に登ってキノコを探した。祖母と採ったちいぼを見つけたかったのだが、荒れた山にはキノコもはえないのか、一本も目にとまらなかった。
尾根の岩に腰をおろし、昔のまま正しく連なる山脈を眺めてみた。高校生の頃、おなじ風景を視野一杯に入れてもっとたくさんの感動を覚えたはずなのだが、今はなにもない。ただ、山々の間より吹く風の中に、あれからおまえはなにをしてきたのだ、と執拗に問う声を聞いたような錯覚にとらわれているばかりであった。
夕食のとき、山が思っていた以上に荒れていた様子を美智子に告げると、
「私も手伝おうかしら」
と、テーブルに身を乗り出してきた。
田植えのときもそうだったが、美智子は気まぐれに農作業の手伝いを申し出ることがこれまでに何度かあった。そのたびに、孝夫は、あんたにはあんたの仕事があるんだから、と諭していた。
体を動かす農作業は美智子のよい気分転換になるのは分かっている。しかし、孝夫にとって農業と山仕事は遊び半分では参加して欲しくない、生きて行くための大事であった。祖母とわずかな田畑を耕し、乏しい作物で自給しながらやっと生きていた幼い頃の記憶は、孝夫の農業に対する考え方をかたくななものにしていた。
遊びがてら農作業を手伝おうとする美智子を許せない狭量さが生き方の幅をせばめているのはよく分かっていたが、孝夫は今回も彼女の申し出を丁重に断わった。固い芯のごとき拒否の態度に、美智子は、ごめんね、と素直にわびた。
ちょうど夕食を終えたところに、珍しく来客があった。役場の助役である小百合ちゃんのお父さんだった。白髪頭に銀縁の眼鏡をかけた、谷中村ではめったに見ない知的な風貌をした初老のお父さんは、リビングルームに入るとすぐに床に両膝をつき、
「このたびは誠にありがとうございました」
と、美智子に土下座した。
「小百合ちゃんに寿命があったんですから」
美智子はお父さんの手を引いて立たせ、ソファーに坐ってもらった。
お父さんはテーブルに菓子包みを出してからも、数え切れないほど頭を下げていた。初めは小百合ちゃんへの治療に対する礼の言葉ばかりが並んでいたのだが、やがて話題は移った。
要するに、これだけ腕のよい先生が月、水、金の午前中だけしか診療所に出ないのはもったいない。来年までに今の診療所のとなりのソバ畑に新しい医療施設を作り、入院ベッドも置く計画があるので、なんとか所長になってもらえないか。毎日診療してもらえないかとの申し出だった。
「今日の村議会で診療所の新築計画案が承認されましたので、善は急げということで、村長の代理として私がまいりました」
お父さんは最後に膝につくくらい深く頭を下げた。
茶を運んできた孝夫は美智子の返事に興味があった。小百合ちゃんの治療の成功で、以前とおなじ先端医療ができる自信のついた彼女が、東京に帰ろうと言い出すのではないかと思っていたからだった。職のない自分はどこで暮らしてもいいのだが、美智子にとって帰京するかどうかは医者としての生き方にかかわる大問題である。
「前向きに検討させていただきます」
孝夫がテーブルに煎茶を配り終えると、美智子はあっけなく言い切った。
「それでは、診療所の設計にも参加していただくということでよろしいでしょうか」
お父さんにとっても交渉が容易過ぎたらしく、付け足すべき謝礼の言葉がすぐには出てこなかった。
「もちろん設計には参加します。完成予定はいつごろですか」
美智子は隠さずに口元をほころばせていた。
「来年秋の竣工を予定しております。毎日診療していただくのはそのときからで結構です。いやあ、村長も喜びます。すぐに帰って報告いたします。実は私でだめな場合は村長がうかがう予定で役場に待機しておりますので」
正直なお父さんは役場の作戦を打ち明けて帰っていった。
玄関まで見送った美智子はドアが閉まると両手を固く握りしめた。
「やるのかい」
と、うしろから孝夫が問うと、
「望まれてやるのが女ってもんよ」
と、美智子はドアに向かって大きく息を吐いた。
小百合ちゃんの退院した日、彼女が入院直前に書いておいたコラムが『谷中村広報』に載った。
〈阿弥陀堂だより〉
食って寝て耕して、それ以外のときは念仏を唱えています。念仏を唱えれば大往生ができるからではなく、唱えずにはいられないから唱えるのです。
もっと若かった頃はこれも役目と割り切って唱えていたのですが、最近では念仏を唱えない一日は考えられなくなりました。子供の頃に聞いた子守歌のように、念仏が体の中にすっぽり入ってきます。
『谷中村広報』を配り終えた孝夫はリビングルームのソファーにもたれて、小百合ちゃんの文章をくり返し読んだ。今回も、入院を前にして揺れる心境を、おうめ婆さんの言葉にすがってなだめようとしている彼女の姿が浮き上がって見える内容であった。
小百合ちゃんの退院は午前中だと美智子から聞いていたが、もう森平の家に帰ったのだろうか。会っておめでとうを言いたいのだが、他人が家まで押しかけるのは失礼であろう。電話では小百合ちゃんの声が聞けない。どうしたものかと迷っているところに、診療所の美智子から電話があった。
小百合ちゃんが退院してきて、今、診療所に寄ってくれたから、出てこないか、との誘いだった。孝夫は車をとばしてすぐに診療所に駆けつけた。
すでに午前中の診療は終わっていて、待合室に患者さんの姿はなかった。小百合ちゃんと美智子、それに看護婦のとめ代さんは診察室のとなりの応接セットに坐って茶を飲んでいた。
小百合ちゃんは白い毛糸の帽子をかぶり、首に黄色いスカーフを復活させ、厚手の茶色いカーディガンを着こんでいた。
「ごくろうさまでした」
孝夫は死の淵から生還した小百合ちゃんの努力に敬意を表した。
小百合ちゃんは立ち、丁寧なお辞儀をしてくれた。病院で見たときよりも頬はいくらかふっくらして、赤みもさしていた。しかし、目深にかぶった毛糸の帽子でも隠しきれない耳のうしろの脱毛の跡は青白く、寒々としていて、難病との闘いのすさまじさを物語っていた。
「今日の『阿弥陀堂だより』もよかったわよね。なんだか小百合ちゃんの方が私よりも大人になってしまったみたいな気がするな」
美智子はテーブルの上に置かれた『谷中村広報』に視線を落とした。
小百合ちゃんは照れて頬を真っ赤にしてから、うれしそうに八重歯を見せて笑った。彼女は退院して家にもどるとすぐに診療所まで歩いて来たらしく、いつもの大学ノートとボールペンを持っていなかったから、質問には首の動きと顔の表情だけで答えていた。
「小百合ちゃんは二十四歳になるだかい」
看護婦のとめ代さんが茶を注いでくれながら聞くと、軽くうなずいた。
「落ち着いて、阿弥陀堂に登れる体力がついたら、みんなでおうめ婆さんにあいさつに行こうや」
孝夫が提案すると、小百合ちゃんは大きくうなずいた。
「とりあえずは週に一回通って来てね。役場の仕事に出るのは二週間様子をみてからにしますから、いいわね」
美智子が医者の口調にもどって伝えると、小百合ちゃんは背筋を伸ばして頭を下げた。
カーディガンの胸のふくらみが意外なほど豊かなのに初めて気づいた孝夫は、勝手に顔を赤くして窓の外を見やった。
せいのみ沢で薪を作る作業は下草刈りに手間を取られてしまい、終了までに十日かかった。暖炉がどのくらい薪を消費するのか分からなかったので、多めに木を切ったせいでもあったが。
大変なのはここから家まで薪を背負って運ぶ仕事である。往復に一時間余かかるので、一日八往復としても一回に運べる量はたかが知れているから、四、五日はかかってしまいそうだった。祖母と暮らしているときは、この薪がなければ冬が越せないのだからというせっぱつまった事情があったので苦労を苦労と感じずにすんだ。しかし、今運ぶ薪はあくまでも家のアクセサリーにすぎない暖炉用である。暖炉などなくても冬は越せる。そうしらけてしまうと、せいのみ沢へと登る孝夫の足から力が抜けてしまうのだった。
暖炉は美智子の欲しがったものだった。火を見ると精神状態が安定するというのが理由であった。
彼女の心が病んでいた頃なら、孝夫も黙って薪を運んでいただろう。しかし、今の美智子は誰の目から見ても完全に回復しているのは明らかである。妻のわがままのために黙々と薪を運ぶ夫。そんな役を文句も言わず演じている自分。
己のだらしなさにあきれつつ下を向いて山路を登っていたら、首筋に冷たいものが落ちてきた。初雪だった。雪は葉を落とし終えて広くなった広葉樹林の間をたよりなげに舞っていた。
知らぬ間に頭上に厚い雪雲が低くたれこめ、晩秋の山は荒涼とした風景に変わっていた。山路の途中で立ち止まった孝夫は腰を伸ばして周囲を見回し、息を飲んだ。
せいのみ沢に登る路と、となり村へ抜ける峠路の分岐点に大人の腕でもひとかかえに余る楢《なら》の大木があるのだが、その落葉した梢に数羽のカラスがとまっていたのである。孝夫は呆然と立ちつくした。
「大学通りの葉を落とし終えたイチョウの木にカラスが何羽もとまっているの。あたりには誰もいなくて、暗い空がすぐそこまで降りてきているの。私の頭もイチョウの木のように枯れていくの」
美智子の病気が最悪だった頃、夜中にうなされて起きた彼女は毎夜おなじ夢の話をしていた。
孝夫も美智子の様子に敏感になっていた時期だったので、彼女とともに起き、聞き役に徹した。すがりつくようにのばしてくる美智子の冷えた掌には脂汗が浮いており、肩で息をしていた。睡眠薬を一錠から二錠に、二錠から三錠にと増やしても、彼女の悪夢は絶えなかった。
大学通りの葉を落とし終えたイチョウの木にカラスがとまっている図はたしかに不気味だろうが、死人のように体が冷えてしまうほど怖い夢なのか、そのときの孝夫には理解できなかった。夢の内容をもっと詳しく話してくれないか、と頼んでも、恐怖感が生々しく蘇るだけだからいやだ、と美智子はきつく首を振った。東京にいた間、美智子はずっとこの悪夢に悩まされていたらしかったが、谷中村に来てからは夢の話をしなくなった。
今、初雪の舞う山路にたった一人立ちつくして楢の大木を見上げる孝夫は、美智子が口にできなかった夢の真の意味での恐怖感を全身で感じていた。それは底の知れない孤独感であった。
祖母と山で働き、木を生活の糧としていた頃には覚えるはずのなかった疎外感。ふところの深い自然に囲まれていながら、それらと無縁であることの寂しさ。そして、すべてのものが枯れ、死に向かってゆくのだと認識せざるを得ない晩秋のもの哀しい寂寥。
楢の大木にカラスの殺風景な図は、おれは美智子の病気のことなど少しも理解していなかったのかも知れない、と孝夫を反省させるに十分な不気味な迫力でそこにあった。喉元を過ぎて忘れかけていた美智子のやっかいな病気を孝夫はあらためて思い出し、肝に銘じ、彼女のためになるなら、と山路を登る足に力を入れなおしたのだった。
すべての薪を家に運び終えた頃、里にも初雪が降った。取り入れの終わった田に薄く雪が積もり、六川集落全体から白以外の色が失われていった。
美智子は診療所の仕事を着実にこなしていた。月、水、金のみの診療に変わりはないのだが、老人患者が増え過ぎてしまったため午後の診察を追加していた。
診療日には朝早めに起きて弁当を作る。それも美智子は楽しみらしく、ハムサンドだ、カツ弁当だと、前の晩からおかず作りに精を出していた。庭で薪を割り終え、肉体労働をやりつくしてしまった孝夫は机に向かった。肩肘を張らず、長いエッセイを書くつもりで小説を書き始めたのである。題はまだ決まっていない。筋も結末も分からない。どのくらいの枚数にするのかも決めていない。
今、孝夫は自由に、書きたいものを書き始めた。六川集落に住んで半年、家事と肉体労働に明け暮れた日々であったが、このまま山に埋もれてしまうわけにはいかないとの想いが募ってきたのである。書くにあたって己に課した唯一の戒めは、谷中村で生活する現実から目をそらさないことであった。医師である妻に食わしてもらい、取り柄といえば農作業の手伝いくらいのものである男が、信州の寒村でなにを見、感じたか。現実のおもりをしっかりと足首に付けて、決して言葉遊びに堕することなく、小説に生命を与えてゆきたい。
決意は立派だったが、だからといって筆がはかどるというものでもなく、よく書けて一日に三枚、不調な日は一枚の半分も書けないでいる。生来の貧乏性なので、夕方机を離れるとき、一日に書いた原稿料を計算してみる。孝夫のような新人賞をとったあと鳴かず飛ばずの無名不流行作家の原稿料ランクは一枚三千円だから、多い日で九千円、不作の日は千五百円である。計算結果を毎日紙に書いて机の引き出しにしまっておく。書き始めてから十日経つが、合計金額は五万三千円にしかならない。この金額とて作品が売れた場合の話で、ボツならゼロである。
机のある寝室の窓ガラスに孝夫のうつろな目が映り、苦い笑顔が反射する。どうして書くことなど覚えてしまったのか。もっと男らしい仕事につけなかったものか。孝夫の一日の執筆はいつも後悔で終わるのだった。
美智子は東京にいた頃とおなじに、給料の全額を孝夫に渡し、必要なときは彼に言って金をもらっている。月末に余った分を貯金するのも孝夫の役目である。これは孝夫がサラリーマンをやめてすぐ、美智子が黙って彼に貯金通帳を預けてくれて以来続いているシステムであった。
書けない欲求不満を料理で解消する癖が孝夫にはあって、たかがキツネうどんの汁を作るのに、干しシイタケ、コンブ、カツオブシ、サバブシにミリン、酒、醤油を混ぜて一晩ねかせてから一煮立ちさせたりしていた。こんなときにも貧乏性が顔を出して、ダシガラを捨てられずに、ミリンと砂糖を加えて煮つめ、佃煮にして食べつくした。
貧乏性といえば、東京生活の間に家を建てるだけの金がたまっていたのも、孝夫のこの性格に負うところが大きい。美智子が質素な生活を好む女だったこともあるが、それに輪をかけて孝夫は金を使えない男だったので、医師としての彼女の収入は二人にとって十分すぎるものだった。毎月少しずつ貯金の額を増やしてゆき、一定の額になると大口定期にして、バブル経済の頃は金利の上昇を見ながら短期で運用し、それなりの額になった。
大口定期が満期になるたびに電卓を叩いて金利を計算している自分を笑うだけの余裕は常にあった。こんな小説家が大成するはずがねえよなと、若い銀行員を相手に寂しく笑い合っていたものだった。
本格的な雪が二度降り、軒下に根雪の積もり始めた頃、小百合ちゃんは六川集落の阿弥陀堂に登れるだけの体力を回復した。美智子の話では、強力な化学療法の副作用で腎臓の機能が低下し、心臓にも負担がかかって、坂道を登れるようになるまで思った以上の時間がかかってしまったのだそうである。
これまで小百合ちゃんは森平集落から六川まで歩いて取材に来ていたのだが、今回だけは孝夫の運転する車に乗った。診療所で美智子の許可をもらうと、小百合ちゃんはその足で阿弥陀堂に向かおうとしたらしい。今日のところは車で行った方が、と美智子が大事をとって電話で孝夫を呼んだのだった。
しばらく阿弥陀堂に行っていなかった美智子を含めて三人で日影に雪の残る山路を登った。小百合ちゃんを急がせないために、先頭に美智子が立ち、ゆっくりしたペースを作っていた。道はぬかるんでいて、足を取られやすかったから、ときおり小百合ちゃんの腰を孝夫がうしろから支えていた。
三人が阿弥陀堂の前庭に入ると、おうめ婆さんは脇で野沢菜を漬けていた。木桶の中に頭がすっぽり隠れていたので、孝夫が声をかけてから返事が返ってくるまでいくらか時間がかかった。
「あれまあ」
頭に手拭いをかぶったおうめ婆さんは腰を伸ばすと同時に小百合ちゃんの顔を見つめて絶句した。
「よくだに。よく帰って来たでありますに」
かろうじてそれだけ言うと、おうめ婆さんは顎を突き出したまま大粒の涙を落とした。小百合ちゃんが駆け寄って漬物塩まみれのおうめ婆さんの手を握った。
「こんなにあったけえ手えして、よくだに。よく帰って来たでありますに」
おうめ婆さんの歓迎の辞に、小百合ちゃんはたまらなくなってセーターの袖で何度も涙をぬぐっていた。
美智子と孝夫はおうめ婆さんの手放しで喜ぶ様子を目の当たりにして、あらためて小百合ちゃんの生還した意義を教えられ、目頭を熱くした。冬枯れた裏山ではカラスが鳴いていた。阿弥陀堂の板壁にはいたるところに苔がはえていた。泣いてなどいる場合ではないと、迫り来る冬が脅しをかけている寒々とした山の中で、四人の小さな人影が肩を寄せ合っている初冬の午後であった。
泣きやみ、残りの菜を手早く漬け終えたおうめ婆さんが茶を用意してくれたので、三人は座敷の上がり口に坐った。
「野沢菜を漬ける時期が遅くないですか」
孝夫は両手をこすりながらダウンジャケットの背を丸めた。
「寒くなって、霜をかぶった方が菜が甘くなるでありますよ」
おうめ婆さんは孝夫の寒そうな様子を見て、陶器の火鉢を寄せてくれた。
座敷を見回しても、暖房らしきものはこの火鉢だけで、板壁からは隙間風が吹き込んでいた。
「寒くないですか」
血圧を測り終えてから、美智子が白いため息をつきながら聞いた。
「あったけえところを知らぬ身でありますから、寒いかどうかも分からねえであります。ここしか知らねえ身でありますから」
おうめ婆さんは鼻をすすりながら笑っていた。
小百合ちゃんはあらかじめ聞きたい事柄をひらがなで大学ノートに箇条書きにして来ていた。それを開き、人差し指で示すと、おうめ婆さんは背をかがめてのぞき込み、はいよ、はいよ、とうなずいてから詳細に答えてくれるのだった。この日小百合ちゃんが取材した内容が、今年最後の『谷中村広報』に掲載された。小百合ちゃんの復帰第一作だった。
〈阿弥陀堂だより〉
阿弥陀堂の野沢菜漬はうまいので漬け方を教えてくれと登ってくる人がいます。教えてくれといわれても、昔からの漬け方で、塩もいいかげんに入れていますから、教えようがありません。
食べてみたい野沢菜漬の味を体が知っていて、その年の体の調子で塩のかげんを変えているのではないかと思います。万事このようにいいかげんなのであります。
取材を終えた小百合ちゃんとともに阿弥陀堂から下った孝夫と美智子は彼女を新居に招いた。リビングルームの暖炉に火を入れてみせると、小百合ちゃんは大いに気にいったらしく、近づいてしゃがみ込み、薪の炎の匂いをかいでいた。
「私もすてきだとは思うんだけど、なんとなく違うのよね」
美智子はソファーにもたれたまま小百合ちゃんに語りかけた。
「古い家でカマドやお風呂に薪をくべているとき、その炎を見てるとなんとなく安心できたのよね。人類の一員としての古い記憶を呼び覚まされるみたいでね。それでこの家にも暖炉を作ってみたんだけど、だめなのよ。暖炉の火はなんとなく白っぽくて、あたたかみに欠けるのよ」
美智子がそこまで話すと、小百合ちゃんはしゃがみ込んだまま頬杖をつき、小首をかしげた。
「問題は炎の材料ではなくて、燃やす場所だったのかも知れないわね。古い家の、煤で真っ黒になったカマドや風呂釜には火の記憶が刷り込まれていて、燃え方をやさしくコントロールしていたのよね、きっと。この暖炉にはまだ記憶が宿っていないのよ。値段は結構高かったんだけど、お金で買えるものはたかが知れているっていう証明だわね。いい勉強をさせてもらったって思うことにしているの」
美智子の口調には消しがたい割り切れなさが混じっていた。
小百合ちゃんはしゃがんだまま考え込んでしまったので、美智子があわてて、いいのよ、いいのよ、とうしろから背を軽く叩いて起き上がらせた。ソファーにもどった小百合ちゃんは大学ノートを開いて短く書き付け、美智子に見せた。
炎の想像力。
「そうなのよ、小百合ちゃん。私はそういうことを言いたかったのよ。炎がかきたてる想像力の質の問題だわね」
美智子は胸の前で腕を組み、力強くうなずいた。
小百合ちゃんは美智子のいささかオーバーな態度にとまどったのか、そっと頭を下げて静かに大学ノートを閉じた。孝夫は彼女に手製のクッキーをすすめた。
昨日は来客の予定があったからクッキーを焼いたのではなく、朝から机に坐りっぱなしで五時間、一行も書けなかったから台所に下りたのだった。ボールを湯につけながらバターを泡立て器でほぐす。ふるった砂糖を入れ、卵、牛乳を混ぜ、小麦粉とベーキングパウダーを加える。頭の中にあるレシピにしたがって手を動かしてさえいれば確かな形をしたクッキーができてゆく。単純作業のもたらす快感を知ってしまうと、原稿用紙の升目を虚構の文章で埋める座業があまりにも虚しく思えてしまって、二階にもどる気がしなくなってしまったのだった。
クルミを載せて焼き、美智子が診療所の患者さんからもらってきた自家製の山ブドウのジャムをはさんで仕上げたかったが、手元にクルミがなかった。そこで孝夫はせいのみ沢まで登り、木から落ちて乾燥したクルミを枯れ葉の中から拾ってきたのである。小説は一行も書けないくせに、クッキーのためなら雪でぬかるむ山路もいとわない。孝夫が作家としてものにならないのは、思索よりも安易な行動を好む性格のためかも知れない。
結局、昨日は一日かかってクルミつき山ブドウジャムサンドクッキーを二十枚焼いた。夜、美智子と五枚食べたので、残りはラップにくるんで冷蔵庫に入れておいた。小百合ちゃんに出したものはジャムがしっとりクッキーになじんでいた。
おいしいです。
クッキーを一口食べた小百合ちゃんは孝夫に向かってゆっくり唇を動かしてみせた。孝夫は右肘を曲げてガッツポーズを作った。小百合ちゃんはほんとにうまそうに口角についたジャムをなめ込みながら、クッキーを三枚食べた。孝夫は昨日の一日が無駄ではなかったことを確認して、頬がゆるんでくるのをおさえきれなかった。
今日は十二月九日です。
クッキーを食べ終えた小百合ちゃんは大学ノートに記した。そのとおり、十二月九日なのだが、それがなにか、と孝夫は聞いてみた。
開高健の亡くなった日です。平成元年十二月九日でした。
小百合ちゃんに教えられて、クッキーのできに満足していた孝夫の浮わついた気分は吹き飛んでしまった。
小説の書き手ではなく、読者の一人だった頃から孝夫は開高健のファンだった。小説を書き始めてからも、作家としてのスタイルを保とうとしてどこかつっぱっているように見える彼の生き方に好感を抱いていた。己の内に閉じてしまう小説ばかりが並ぶ文芸誌の作品の中で、開高健の小説だけは自身の外へ、外へと向かう力が感じられた。
青少年期の読書量を基礎に置いた語彙の豊富さには畏怖の念を抱き、文章の粘り強いタフさにはほとんどあきれかえるほどに圧倒されたものだった。毎年二回、総合雑誌に載る芥川賞の選評では最も辛口の批評をする選考委員であったが、自ら緊張感あふれる新作を発表し続けていたので、読む者としても納得させられた。開高健の名が選考委員の欄から消えて以来、孝夫は新人作家としてあこがれていた芥川賞への興味を急速に失っていったのである。甘口ばかりになった選評をいくら読んでみても、創作の参考にはならなかった。
開高健死亡のニュースは平成元年十二月十日の朝刊で知った。送られてきたばかりの文芸誌に遺作の『珠玉』が載っていた。病床で書き上げられたものらしいが、彼の遺作にふさわしく完成度の高い小説だった。
読了したら涙が止まらなくなった。最後まで小説家としてつっぱりとおした窮屈な生き方に、ご苦労さんでした、とねぎらいの言葉を声に出して送った。一般読者として、同時代を生きていた傑出した作家を失う体験がこれほどまでに悲しいものなのだと、孝夫は生まれて初めて知った。
十二月九日は作家のはしくれである孝夫にとって忘れ得ぬ日のはずだったのだが、不覚にも失念していた。
「小百合ちゃんも開高健のファンだったのかい」
照れ隠しにフケが出るまで頭を掻きながら孝夫は聞いた。
亡くなったのは大学一年生のときでした。『珠玉』は最高です。毎年、十二月九日の夜は『珠玉』を読むことにしているのです。
おなじファンでありながら、小百合ちゃんの方がはるかにねんごろな供養をしている。それに比べて、読者から書き手に転じたことで偉くなったとでも錯覚していたのか、このおれは、と孝夫は胸の内を掻きむしった。
「教えてくれてありがとう。今夜は『珠玉』を読み返してみるよ。……車で送るから」
ソファーを立った小百合ちゃんに孝夫は腰を深く折って礼を述べた。
「どっちが先輩だか分からないわね」
美智子は小百合ちゃんの肩に手をかけて玄関に送り出した。
孝夫がドアを開けると、濃い闇の底の方だけが白く明るんでいた。雪になっていた。
遠心力で書き続けた作家の命日にふさわしい横なぐりの激しい雪だった。
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それぞれの家の屋根が雪をかぶると、山の底にある六川集落は冷えた白一色に静まりかえった。村道が圧雪で滑りやすくなってからは、スタッドレスタイヤにはき替えた車で孝夫が美智子の送り迎えをしていた。
車内の話題はいつもおうめ婆さんのことになった。この雪の中、炭火のみの暖房で大丈夫なのだろうか。身寄りがないのだから、町の老人ホームに入った方が楽に冬を越せるのではないか、などと九十六歳の老体を案じていた。
おうめ婆さんに食料や炭を届けるのは日向区の区長と日影区の区長が一年交代で、月に一度行なう役目になっていた。区長も一年ごとの各家持ち回りなので、六川集落の住人全体がおうめ婆さんの生命線を支えているのだった。今年は日向区の区長である田辺のおばさんがその任にあたっている。
数日前、区費の集金に来た田辺のおばさんに孝夫は聞いてみた。阿弥陀堂に食料や燃料を運ぶ制度はいつ頃から始まったのか。また、おうめ婆さんはもう高齢なので、独居はやめてもらって老人ホームにでも入った方がいいのではないか、と。
米や炭を運び上げるのは私が子供の頃からそうだったから、ずっと昔からそうなのだろう、と田辺さんは答えた。六川集落の祖先の霊は山にいる。古い霊ほど山の奥にいる。おうめ婆さんは阿弥陀堂に入った時点で里の人ではなく、山の人になってしまっている。我々よりもずっと霊に近い存在になってしまっている。
おうめ婆さんは祖先の霊を守ってくれている人なので、こちらからお布施として食べ物を持って行くのはあたりまえなのである。祖先の霊を守る大切な役割を果たしている人なので、勝手に老人ホームにいれるなどとんでもない。くどいようだが、おうめ婆さんはすでに山の人なのであり、阿弥陀堂は里の決裁の及ばない場所なのである。あんたも六川に住み続けるなら、ここのところはしっかり押さえておいてもらいたい。
田辺さんは戸口に立って熱弁をふるった。孝夫はおうめ婆さんが村人たちから山の人とみなされているのを初めて知った。おうめ婆さんに運ばれる食料が生活保護的なものではなく、祖先の霊を守っていてくれるお礼として提出されているというのはすっきりした説明だった。
しかし、おうめ婆さんは九十六歳の老婆なのである。歳よりもはるかに元気だが、カゼでもこじらせて寝込んだらどうするのだろう。
美智子と話し合うのだが、結論は得られない。阿弥陀堂に登っておうめ婆さんの本心をたしかめたくもなるが、そこまで踏み込むにはためらいがあった。もし、おうめ婆さんが、
「あんたさんの家で冬を越してえであります」
と、言ったとしたら、
「ええ、どうぞ」
と、両手を広げて受け入れられるだろうか。
その用意もなしに、もし寝込んだらどうするのですか、と、九十六歳の老婆に質問するのはこれに過ぎた失礼はないであろう。孝夫がおうめ婆さんへの思い入れを深くするのは、老後の面倒をみてやれなかった祖母の生活の残像と重なる部分が多いからである。俗世の欲がふっきれた老婆は誰もみなよく似た顔になるらしく、おうめ婆さんに会うたびに孝夫は祖母の枯れた笑顔を思い出すのだった。
若さゆえの配慮のなさから祖母につくせなかった孝行を、四十歳を過ぎて、人のやさしさに敏感になれるようになった今、おうめ婆さんにつくしたい。これが偽らざる孝夫の真意だった。
クリスマスイブの日は孝夫にとってこの一年で最も忙しい一日だった。朝、いつものように美智子を車に乗せて森平の診療所に着くと、赤いダウンジャケットにジーパンをはいた小百合ちゃんが待っていた。阿弥陀堂に届けたいものがあるので乗せて行ってもらえないか、と頼まれた。
美智子が小百合ちゃんを診察するのは今年最後だったので、胸のX線写真を撮ったりして三十分ほど時間を要した。異常なしの結果をもらって晴ればれした顔で玄関を出て来た小百合ちゃんは脇に紙包みを抱えていた。
阿弥陀堂への路は膝までの新雪におおわれていたので、先に立った孝夫がラッセルしながら登った。十歩で息が切れ、二十歩で足が上がらなくなった。夏場ならば十五分で登れた路に一時間以上かかってしまった。
阿弥陀堂の前庭はきれいに雪が掃いてあり、おうめ婆さんは障子に目張りをしていた。孝夫の心配をよそに、頬の艶もよく、すこぶる元気であった。
小百合ちゃんは紙包みを畳の上に置いてから、ダウンジャケットのポケットに丸めて入れていた大学ノートを出すと、立ったまま素早く書いた。
今年もお話をいっぱい聞かせていただいたお礼です。
小百合ちゃんがノートを見せると、おうめ婆さんは、あれ、まあ、と大きく口を開けた。見てみたらどうですか、と孝夫がうながすと、ためらっていたおうめ婆さんは紙包みのリボンをはずした。中から出てきたのはざっくり編まれた茶色の膝掛けだった。おうめ婆さんが首に巻いたので、小百合ちゃんが手振りで膝に置くものですと教えた。
「まあ、ありがてえことであります」
おうめ婆さんの膝は小さかったので、膝掛けは二つ折りにしても余裕があり、あたたかそうだった。
それから孝夫と小百合ちゃんは障子の目張りを手伝い、座敷に上がって茶をもらった。坐っていると腰のうしろに隙間風があたり、体の芯から冷えてきた。火鉢に手をかざしているのは小百合ちゃんと孝夫だけで、おうめ婆さんは白い息を吐きながら平気な顔をしていた。
小百合ちゃんは手がかじかんで字が書きづらそうだったので、代わりに孝夫が阿弥陀堂で冬を迎える感想をおうめ婆さんに聞いた。おうめ婆さんはいつもの反応のよさで答えてくれた。小百合ちゃんは火鉢の上で手をこすり合わせながら要点をメモしていた。
「最後に、こんなこと聞いたら失礼かも知れませんが、もしカゼで寝込んだりしたらどうするんですか。冬は誰も来ないでしょうに」
孝夫は寒さに耐えかねて、立って足踏みしながら聞いてみた。
「これまでにも何度か冬に寝込むことはありましたがな。これも寿命で今日まで生きておるであります。これからも寿命におまかせするほかはないであります」
よっこらしょ、と声をかけて立ち、二人を上がり口に送り出したおうめ婆さんは笑顔を保ったままだった。
格別の決意も諦めも見てとれない平凡な老婆の顔があるきりだった。孝夫は救いを求めるように小百合ちゃんの方を向いたが、そこにも静かな微笑みだけがあった。
滑らないように踵で雪をとらえつつ路を下り、家にもどって車に乗ろうとしたとき、小百合ちゃんは助手席に置いてあった紙の箱を孝夫に手渡した。
美智子先生と上田さんにクリスマスプレゼント、そしてお礼です。
ノートのメモを見せた小百合ちゃんの頬が赤くなった。孝夫が箱のリボンをとって開けると、中には小さめのペアのティーカップが入っていた。
彼女を家に送りとどけるとちょうど十二時だったので、診療所に寄ってみた。午後の患者がなくて、美智子が帰れそうなら乗せて行こうと思ったのである。
玄関前に車を止めると、美智子はコートをはおりながら飛び出してきた。
「今、家に電話してたところなのよ。お願い、一時までに町の総合病院に行って」
助手席に乗り込むなり、彼女は孝夫の手を握った。
小百合ちゃんの検査結果になにか異変でもあったのか、と問うと美智子は明るく首を振った。それならいいけど……孝夫が質問をやめると美智子はしきりに深呼吸をくり返し、ふっと独り笑いをもらしたりしていた。悪い用件ではなさそうだったので、孝夫はそれ以上問いつめずにいた。
総合病院の駐車場で待つこと一時間。フロントグラスに近づいて来る美智子の頬は上気していた。大ぶりだが軽そうな雪が降り出していたが、彼女はコートの襟を立てず、まっすぐ前を向いて歩いてきた。
「やっぱりできてたわ。三カ月だって」
コートの雪を払ってから助手席に腰を入れた美智子は、勢いよくドアを閉めると同時に言った。
「なに……」
孝夫は喉の奥が固くなってうまく言葉を出せなかった。
「子供ができたのよ。もうすぐ四十三歳になる私に」
美智子は頬を引き締めるべく努力していたが、口元のゆるみだけはどうにも補正できなかった。
「そうかあ、そうかあ」
孝夫はハンドルに顔を伏せて呼吸を整えてから車をスタートさせた。
美智子も孝夫も数年前の不幸な出来事を思い出し、はしゃぐまいとしていた。自然にこみあげてくる微笑みを必死でこらえた分だけ腰の浮いた夫婦が雪の中を走る車にちんまりと坐っていた。
家にもどると、孝夫は仏壇に美智子の妊娠を報告してから台所に立ち、レーズンとラム酒を入れたカップケーキを作り始めた。美智子は孝夫よりはるかに長く仏壇に手を合わせてから、二階の寝室で昼寝をした。
孝夫の本音としては立派なデコレーションケーキを焼きたいところだった。しかし、あまり調子に乗りすぎるとせっかく明るくなった舞台が暗転してしまいそうな予感がしたので、ラム酒をひかえめにして小さなカップケーキを二個だけ焼いた。
紅茶にたっぷりとレモンを絞り入れた美智子は、小百合ちゃんにもらったカップを両手の掌に包んで口をつけた。
「とにかく、おめでとう」
ダイニングルームのテーブルにつき、カップケーキを美智子の前に置いて、孝夫は控えめに言った。
「あなたの、子よ」
美智子はとても注意深く言葉を選んでいた。
雪の降り方が強くなって、陽がいつ暮れたのか分からない夕方になった。互いに黙ったまま紅茶を二杯ずつ飲んだ二人の夕食はおつみっこ汁に決まった。祖母がよく作ってくれたもので、美智子の大好物だった。カボチャとジャガイモを煮込んだ味噌汁に、練った小麦粉を手でちぎって入れるだけの素朴な田舎料理なのだが、寒い日には体の芯から温まる汁である。
美智子の妊娠が明らかになってから、一日の過ぎるのが早くなった。家にいるときはなるべく休ませたかったので、彼女の弁当は孝夫が作ってやるようになった。
正月も特別な行事はせず、美智子が粉ものばかりを食べたがったので、お切り込みや煮込みうどんを作ってあげている間に松が取れてしまった。美智子の子宮の中で育っている胎児に孝夫に似た田舎食の好みがあり、その意にしたがって美智子が欲しい食べ物を告げているのではないかとさえ思われた。それほど、彼女の食べたがるのは、昔、祖母が孝夫に作ってくれたものばかりなのだった。
子供の頃は長くてつまらないだけの冬だったが、変化のない毎日を退屈と感じない年齢になった孝夫にとっては外に気を取られないですむ絶好の執筆の季節になった。美智子の妊娠を知ってからはどうかすると筆がすべり過ぎたり、逆に取り越し苦労ばかりして書けなくなったりと、ペースはまるで一定しなかったが、毎日いくらかずつ書き続けていた。
あえてテーマは設けず、幼い頃から現在に至る谷中村を主な背景にした心象風景を、思いつくままに原稿用紙に書きつけている。この作品を書き上げたら、たとえ文芸誌に掲載されなくても、小説という自己表現手段から自由になれそうな期待感がある。書かなくてはと強迫してくるもの、多分に出世、名誉欲を含んだ脂ぎった欲求から解放されそうな気がする。書きたいものを書きたいように書く。結論はあたりまえのところにあった。小心を起源とする自分を大きく見せたい欲が、書くという行為の本質を見えにくくしていたのだ。
一月の『谷中村広報』を届けてくれた田辺さんにおうめ婆さんの近況を聞くと、きわめて元気だと知らせてくれた。雪の山路で妊婦が転倒しては大変なので、美智子がおうめ婆さんの検診のために阿弥陀堂に登るのはやめにした。その代わり、冬の間は彼女に血圧の測り方を習って孝夫が行くことにした。
毎月一度、彼は阿弥陀堂で一時間ばかりおうめ婆さんと雑談しては、その闊達さに圧倒されて下って来るのだった。孝夫の苦心の作であるトタン囲いのトイレは、冬になっておうめ婆さんに重宝されていた。
「スコップで雪を掃いてから入ると出るでありますよ」
おうめ婆さんは、ありがとござんす、とおどけて孝夫に手を合わせてくれた。
〈阿弥陀堂だより〉
雪が降ると山と里の境がなくなり、どこも白一色になります。山の奥にある御先祖様たちの住むあの世と、里のこの世の境がなくなって、どちらがどちらだか分からなくなるのが冬です。
春、夏、秋、冬。はっきりしていた山と里との境が少しずつ消えてゆき、一年がめぐります。人の一生とおなじなのだと、この歳にしてしみじみ気がつきました。
病み上がりの冬なので、特にカゼに気をつけるよう美智子に注意されていた小百合ちゃんは、大事をとって寒い間は阿弥陀堂に登らなかった。取材の在庫を用いて、一、二、三月の『阿弥陀堂だより』を書いたらしい。この三作を読んだ孝夫は、気のせいか、おうめ婆さんの肉声が遠ざかり、内容が洗練され過ぎている印象を受けた。おそらく小百合ちゃん自身が一番そのことに気がついていら立っているのだろう。
一月の大雪。二月の吹雪。三月の雪崩。白いだけの山を見つめながら、孝夫は今年こそ稲作を再開するのだと決意していた。美智子と二人分でいいから、自作の米で生活したい。この土地に根をはって生きるとは、零細な農業をいとわずに暮らすことなのだと、一年住んでみてよく分かった。
理屈はあとにして、手足をフルに使って人間らしく生きる基本の食料を自給してみる。大地に足を着けた生活の中から、ほんとに頼りになる言葉だけを選び出して小説を書く。この二項目を車の両輪として今年一年を転がり、深い轍《わだち》を残してみたい。
長い冬の間、孝夫の内には少年のような抱負が膨らみ続けた。
四月のよく晴れた日、孝夫、美智子、小百合ちゃんはそろって阿弥陀堂に登り、九十七歳になろうとしているおうめ婆さんと再会した。今、孝夫の机の前の壁には、その日、彼が写した写真が貼ってある。
阿弥陀堂の目張りだらけの障子を背に、右に美智子が立ち、彼女の妊娠七カ月になるせり出した腹の横に、桑の木の杖をつき、九十度に腰を曲げたおうめ婆さんの顔があり、左に小百合ちゃんがいる。三人の女たちは実にいい顔で笑っていた。
九十六歳、四十三歳、二十四歳。老齢、中年、娘盛り。それぞれの年代の女たちはしぶとさすら感じさせるあけっぴろげな笑顔でカメラを見つめている。
谷中村に来て一年。今朝も美智子は孝夫の作った大盛りのコロッケ弁当を持ち、スニーカーを履いて腹を突き出しながら歩いて診療所に出かけた。
軒下の段ボールの小屋で無事冬を越した二匹の子猫たちが庭でじゃれ合っている。
南に向いた畑の土手にフキノトウが芽を出した。
川から吹く風に淡く土の匂いがして、たしかな春の訪れを告げていた。
初出誌 『文學界』一九九五年三月号
単行本 一九九五年六月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十四年八月十日刊