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付き馬屋おえん吉原御法度
南原幹雄
目 次
第一話 初春一番|手柄《てがら》
第二話 遊客ウタマロ
第三話 鉤縄《かぎなわ》仁義
第四話 女郎|蜘蛛《ぐも》は嗤《わら》う
第五話 吉原|御法度《ごはつと》
第六話 裏茶屋の客
第七話 賭場《とば》荒らし
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第一話 初春一番|手柄《てがら》
頭上で凧《たこ》の籐《とう》がうなっている。
正月の空は、いつも騒々しい。晴れているかぎり、日の出から日没まで、籐のうなりがやまぬ。
見あげれば、武者絵凧、字凧、奴凧《やつこだこ》、トンビなどが江戸の空をいろどっている。大人も子供も凧あげに夢中だ。
「外は正月景気だってのに、弁天屋の中だけはずいぶんしけた顔がそろってるねえ」
おえんが外出《そとで》からもどってくると、弁天屋の店先で浜蔵と又之助《またのすけ》が火鉢をはさんで浮かぬ様子の思案顔だ。
おえんの言葉にようやく二人は、
「おかえりなさい、お嬢さん……」
とってつけたようなお義理の挨拶《あいさつ》。
「なんだい、若い男が股《また》火鉢かなんかで灰をつついているなんざ、草紙の絵にもなりゃしない」
おえんはじれて舌をうった。
「そんなことをいったって、おれたちに元気になれっていうのが第一無理ですよ」
浜蔵がふくれっ面をおえんにむけた。
「正月早々、なにが気に入らなくって、そんなに不貞腐《ふてくさ》れているんだえ。理由《わけ》をいってごらんよ」
おえんはぽんぽんといった。おえんは浅草生まれの馬屋そだちで、しんねりむっつりの辛気くさい男が大嫌いだ。
しかしふだんはおえん以上に騒々しくて、お祭りさわぎの大好きな浜蔵が相かわらずのだんまりをきめている。
又之助はふだん以上に口数がない。
「じれったいねえ、一体なんだっていうんだよ。二人してあたしに文句でもあるのかい」
おえんはしだいにいらだってきた。
「お嬢さんに文句なんかありゃあしません。お嬢さんが見合いをしようが、嫁にいこうが、お嬢さんの勝手ですから。おれたちがとやかくいう筋合でも、立場でもないんですからね」
浜蔵がいうと、
「でもそうなると、おれたちは一体どうなるんです。おれたちはまるで糸の切れた凧のような具合になっちまうんじゃあありませんか」
又之助もようやく不満の一端を口にした。
「そうかい、それで二人ともぶんむくれていたんだね。わけはあたしにあったんだ」
おえんはおかしそうにいった。
「そうですよ。お嬢さんのおかげで、おれたちはくらい正月をむかえているんだ」
「まだ、あたしの縁談はきまったわけじゃあないんだよ。先のことなんかどうなるかわかりゃあしないさ」
おえんはそういったが、そんな言葉で二人が承知しないことはわかっている。
「でも、お嬢さん、見合いをしたじゃあないですか。いやいや見合いをしたようには見えませんでしたよ。しかもおわったあとはとても上機嫌でした。一日もはやく祝言《しゆうげん》したいって顔をしてましたよ」
浜蔵はずけずけといった。
「女だてらに馬屋なんかやってるけど、あたしだって女だよ。見合いもすれば、縁談の一つや二つあったっていいじゃないか。あたしを鬼の娘のようにいうのはよしておくれ。ふつうだったら、あたしの年の娘ならもうとついでいる。世間から見たら、あたしは歴《れつき》としたいきおくれだよ。このままずっと嫁《い》かず後家をとおせっていうのかい」
人にいわれてだまっているようなおえんではない。いわれたら倍にしてかえすのがおえんの身上だ。
「なにもそんな、鬼の娘だの、嫁かず後家だなんていってませんよ」
又之助が口をはさんだ。
「たしかに見合いはしましたよ。叔母《おば》さんと兄さんとが、あたしの行く末を心配してくれてるからね。それでときどき縁談をもってくるんだ。あたしもときには見合いの一つもしてみようかって気になるときだってあるんだよ。そんなことお前たちにいったってわからないだろうけど、それが女ごころっていうもんだよ」
「それでお嬢さん、嫁く気になったんですかい」
浜蔵がくいさがってきた。
「だから、先のことはわからないっていってるだろう。縁談だから、むこうのかんがえだってきかなくちゃあならない」
「じゃあ先方さえよかったら、お嬢さんは嫁く気なんですね」
「きめちゃあいないよ、そんなこと」
おもいのほかのきびしい追及におえんは口ごもった。
「そりゃあ、女は年ごろんなったら嫁にいくもんですからね。お嬢さんが嫁にいったって、ちっともおかしくないわけだ」
「あたしは、もしかりに嫁にいったとしても、又之助や浜蔵のことはちゃんとかんがえてるつもりだよ。お前たちが新五郎さんとずっと馬屋をやってけるようにするつもりだから、心配はいらないよ」
おえんがそういうと、又之助と浜蔵が同時に心外な顔をした。
「おれたちはなにも自分たちの行く先が心配なんじゃあありませんよ。おれも又之助も、お嬢さんが親父さんにかわって馬屋をはじめたから古巣にもどってお嬢さんの手つだいをはじめたんです。そのお嬢さんが馬屋をやめたら、おれたちはもう弁天屋ではたらいてる意味はないってことですよ」
浜蔵がいうと、又之助もうなずいた。
「あたしがやめたら、お前たちもやめるのかい」
おえんがいうと、
「当然ですよ。お嬢さんがやめたら、おれたちもやめます」
又之助がおえんを見あげて、きっぱりといった。
浜蔵はじっと足下を見つめている。
おえんは又之助の逡巡《ためらい》のない言葉に脳天を打たれた気がした。二人が自分を慕ってついてきてくれているのはわかっていたが、これほど自分をたよりにしてくれているとは気づかなかった。
「そうかい、二人の言葉をおぼえておくよ。そして自分のこともかんがえなおしてみるよ」
おえんはそういって、弁天屋の店先から、天清《てんきよ》の帳場をとおって天麩羅《てんぷら》屋の客へ挨拶にでた。
弁天屋と天清とは帳場でつながっている。おなじ家だが、表が天麩羅屋で、裏が馬屋である。天清は馬屋を隠退した父の仁兵衛《にへえ》がやっていたが、仁兵衛が死んでからは兄の仁吉《にきち》がやっている。馬屋が暇なときおえんが手つだったり、仁兵衛の妹のおつたが手助けしているのである。
おえんが天清の店頭にでると間もなく、弁天屋に人のおとずれる気配がした。
(正月早々、馬屋の客でもあるまい)
近所の人が年始にでもきたのだろうとおもっていたところ、
「お嬢さんに、お客さんです」
浜蔵が呼びにきた。
弁天屋の用談部屋でその客を見るなり、
(馬屋の客だ)
とおえんは見てとった。
吉原のすぐちかく、田町《たまち》二丁目で生まれてそだったおえんには、吉原の人間は見ただけですぐにそれとわかるのだ。
客は妓楼《ぎろう》か引手茶屋《ひきてぢやや》の番頭とすぐにわかる人物だった。
「明けましておめでとうございます。年明け早々、やっかいな取りたてをおねがいにまいりました。江戸町二丁目|高砂屋《たかさごや》の番頭利三郎と申します」
そう名のった客はかなり額がはげあがり、小男で、律儀そうな顔をしていた。正月早々とて黒の紋付小袖《もんつきこそで》をきて、いんぎんに頭をさげた。
ふつうならばめでたいはずの初仕事の客である。ところがおえんはとっさに笑顔がでなかった。こころづもりでは七種《ななくさ》明けくらいを仕事はじめとかんがえていた。
馬屋の商売といえば、吉原の遊客の勘定の取りたてである。妓楼や引手茶屋などでこげついた厄介な勘定を請け負って取りたてるのだから、正月早々からはやりにくい商売なのだ。
そのうえ、おえんはこのところ稼業に少々嫌気がさしていた。かくべつの理由《わけ》はないのだが、馬屋という商売は無理矢理相手から金を吐きださせる商売柄、つねに合法と非合法のすれすれをいく稼業である。えげつないことも相手の弱みをつくこともあえてやらねばならぬ。ながいあいだつづけてやれば、寝ざめのわるいことも、良心の呵責《かしやく》をうけることも避けてはとおれぬ因業ななりわいである。とても若い女の身空に似合いの稼業ではない。正当な取りたてとはいえ、まともな手立《てだて》ばかりではとれぬ金がおおいのだ。相手をおどし、家族を泣かせる取りたては日常茶飯事なのである。
「ご用談をおうけしましょう」
おえんは心中とは裏腹に客の話をうながした。弁天屋の店をとじたのならばともかく、店をあけている以上は用談をうけねばならない。
「日本橋の廻船《かいせん》問屋に島田屋|紋兵衛《もんべえ》という者がおります。その島田屋が高砂|屋《うち》の澄《すみ》ノ江《え》というおいらんに首ったけとなり、かよいつめたあげく、帳面に四十八両あまりの勘定がのこりました。ところが澄ノ江がこのたびほかの客に身請けされることがきまり、島田屋さんに勘定の催促をいたしましたところ、澄ノ江の身請けが気に入らぬということで、四十八両どうしても支払っていただけません。いくどもおねがいにうかがいましたが、門前ばらいをうける始末で、このうえは弁天屋さんにおねがいするしか手立がなくなりました。正月早々でなにかとさしさわりもございましょうがどうかよろしくおねがい申しあげます」
番頭利三郎は用件のあらましをのべた。
相もかわらぬ取りたての内容だ。ひところのおえんは用談をきくだけで、女だてらに闘志が燃えさかったものであるが、今はいささか気が滅入《めい》った。
「期限はおありですか」
「おいらんの身請けが二月の朔日《ついたち》になります。ですから、勘定はおそくても今月のうちに始末をつけたいのでございます。おたのみできますでしょうか」
と利三郎は頭をさげた。
馬屋の商売としても大きなほうだ。取りたてた金の半分は馬屋の懐に入る。四十八両の半金といえば、大変な額だ。これほどの仕事をひとつやっつければ、馬屋の一カ月の経営はらくになりたつ。
「弁天屋でその仕事おうけしましょう。やらせていただきます」
おえんが請け合うと、ちかくできいていた又之助と浜蔵の顔がほっと安堵《あんど》するのがわかった。又之助と浜蔵はおえんが商売に情熱をうしなったのではないかとうたがっているのだ。
「それは大変ありがとうございます。こちらではもう手立がありませんでした。なんとかよろしくおねがいいたします」
「惚《ほ》れたおいらんがほかの客に身請けされるのは客にとってはこころにそまぬことでしょう。一生懸命おいらんに肩入れしてきた客としては残念にきまっています。だからといって自分の勘定をはらわないというのは言語道断の横紙やぶり。そんなことが世間にとおるはずもありません。そういう客はきびしく取りたててやらねば、またほかでおなじことをやらぬともかぎりません」
自分でしゃべっているうちに、おえんはすこしずつ気持をかきたてられてきた。ときに気持が揺れるときはあっても、やはりおえんは馬屋の子で、おえん自身も付き馬屋だ。吉原の身勝手な客はゆるせないし、そんな話とくれば、おのずからこころが燃えてくる。半金二十四両の仕事にも馬屋のこころがはずんできた。
「島田屋の勘定の始末ができないうちは、澄ノ江の身請けも延期されることになるかもしれません。それが島田屋の澄ノ江へのいやがらせなのでしょう。おいらんのためにもはやく勘定をきれいにしてやりたいところでございます」
「島田屋紋兵衛という男、ずいぶんあきらめのわるい、性質《たち》のよくない男のようです。身請けされるおいらんの立場もわきまえず、身請けの邪魔をするなんて、男の風上にもおけないやつじゃあありませんか」
馬屋は吉原のおかげで成りたっている商売である。遊女屋、引手茶屋のあがりのカスリをいただく稼業である。女郎や遊女屋、引手茶屋の肩をもつのは当然なのだ。
「では後ほど取りたての証文を持参し、島田屋についての身許《みもと》をご説明いたします」
そういって利三郎は弁天屋をでていった。
浜蔵と又之助からさいぜんまでのふくれっ面が消えた。
「浜蔵、又之助、どうしたんだい。初仕事だよ。やる気はないのかい」
おえんがいうと、浜蔵はにやりと照れわらいを見せた。
「お嬢さん、ありがとうございます。お嬢さんの気持をうたがったりして申しわけありませんでした」
又之助は生真面目に詫《わ》びをいった。
「なあに、あやまることなんかないんだよ。今年も一生懸命はたらいておくれ。馬屋だって、吉原《なか》の役にたっていることを吉原《なか》のみんなに見せてやろうよ」
おえんがいうと、
「お嬢さん、すいませんでした。お嬢さんが嫁にいっちまうんじゃないかとおもい、ついさびしさのあまり悪口をいっちまいました」
浜蔵は照れわらいをつづけていった。
「お前の気持はわかっているよ。腹なんかたててないから安心おしよ。弁天屋はなんたって父さんの代からの馬屋だ。弁天屋をたよりにしてくれてる吉原《なか》の人たちもおおいんだからね」
おえんの胸のうちに馬屋の根性が頭をもたげてきた。父の反対を押しきって馬屋をついだ経緯《いきさつ》がおえんにはある。そのためにも、簡単には馬屋の足はあらえないのだ。
七種があけた日。
朝、店をでようとしたとき、天清から兄の仁吉が姿をあらわした。
「あら、兄さん」
「おえん、でかけるのか」
「ええ、これから」
「そうか、ちょいと話があったんだが、かえってからにしよう」
仁吉はそういった。
仁吉はもうすっかり天清の主人が身についている。
〈おえんが男で、仁吉が女だったらよかったものを〉
生前の仁兵衛はよくそういってなげいたものだ。仁吉は気持がやさしくて、いたっておだやかな性格である。その反対におえんは生まれついてのじゃじゃ馬だった。仁吉のような性格の男にはとても馬屋はむかなかった。それで、仁吉が天清をつぎ、おえんが弁天屋をやることになったのだ。
おえんは浜蔵をつれて、弁天屋をでた。
縞《しま》の留袖《とめそで》に浅葱《あさぎ》色の帯をしめている。これがおえんの好みの装いである。
町内の各家々の門松や注連縄《しめなわ》などはとりはらわれ、門前の風景はふだんにもどった。
まだつめたい早春の風が吹きあげ、おえんの留袖の裾《すそ》をめくりあげていく。
とおりがかりに振りかえってながめていく不逞《ふてい》のやからがいるが、おえんは気にもかけぬ。風のいたずらするがままにまかせている。
浜蔵のほうがおえんの白い脛《はぎ》や膝《ひざ》が見えるのを気はずかしげに気づかっている。
浅草橋をわたり、鉄砲町と本石町四丁目のあいだを左にまがって、本船《ほんふね》町へでた。
本船町の中ほどに、島田屋の看板をあげた廻船問屋がすぐに見つかった。廻船問屋としてはそう大きな店舗ではなく、中の上といったくらいの店だ。
間口はかなりひろい。ふだんは人の出入りがはげしそうだが、七種明けの今朝はまだ正月気分の名ごりが店頭にもただよっていて、のんびりとした雰囲気である。正面の縁起棚には御神酒《おみき》があがっている。
「島田屋紋兵衛さんはおいででございましょうか」
おえんは店先にいる手代ふうの者に声をかけた。
「主人はおりますが」
手代ふうの男は廻船問屋の客としては不似合いなおえんの姿を見ていった。
「田町からまいりました弁天屋えん、とおつたえくださいませ」
おえんの言葉をうけて、取りつぎに奥へ入った。
やがて、紋兵衛が姿をあらわした。まだ三十もそこそこの若い主人だ。中肉中背の恰幅《かつぷく》だが、俊敏で意気さかんな感じの男である。
「わたしが島田屋紋兵衛だが」
その男は名乗った。
「わたしは浅草田町に住む弁天屋えん、というふつつか者です。お見知りおきくださいませ。本日はおねがいの筋があっておうかがいいたしました」
おえんがいんぎんに挨拶《あいさつ》をすると、紋兵衛はいぶかしげに見まもった。
「浅草田町といやあ、ひょっとして、あんた馬屋かい」
紋兵衛はいきなり図星をさした。
「そうお察しくだされば、話ははようございます。わたくし付き馬屋をやっております。このたびご主人さまに用むきがあって、うかがわせていただきました」
そういうと紋兵衛の表情がややけわしくなった。
「馬屋の用とは正月早々縁起でもねえな。おれのほうは用はねえつもりだが」
「野暮な用むきですので、三が日、七種をご遠慮いたし、今朝うかがいました」
おえんは顔色もかえず、紋兵衛とむかい合った。
「その用むきをいってごらん、きいてみよう」
紋兵衛はそういって、あたりを見まわした。店の番頭や屈強な若い者たちが店頭にでてきて、二人のやりとりを見やっている。
「その前に、お見せいたしたいものがございます。これをご覧になってくださいませ」
おえんはそういって、高砂屋の利三郎が持参した馬屋証文を紋兵衛にわたして見せた。
紋兵衛はそれをひらいた。
証文
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本ふね町しま田屋もんべい殿への貸し金四十八両二|分《ぶ》、田町二丁めべんてん屋おえんどのに取りたておねがひ申すべく、委細おまかせいたすものなり
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[#地付き]高砂屋うち利三郎
「これが馬屋証文っていうものかい。はじめて見せてもらったよ」
紋兵衛は傲然《ごうぜん》といった。自分はかかわりがないという顔つきである。
「この証文によりまして、わたくしが本日ここにまいったしだいです。紋兵衛さま、ご諒解《りようかい》いただけたでございましょうか」
おえんは言葉づかいにも十分気をつけていった。
「高砂屋と弁天屋とのあいだでどのようなやりとりがあったか知らないが、おれはこんな証文を見せられるおぼえもないし、あんたに取りたてをうけるおぼえもないよ。気の毒だがかえってもらおう」
予想どおりの返事である。おえんが馬屋をはじめてから今日まで馬屋証文にたいして、たいていの者がそういう返事をする。初《はな》っから証文をみとめて借金のいいわけをする者はほとんどいない。馬屋であつかう相手はそれだけ難敵ぞろいだといえる。
「まるでおぼえがないといわれますと高砂屋が弁天屋と島田屋さんをたばかったことになります。けれどもわたくしは利三郎さんから高砂屋さんの帳面を見せてもらいました。島田屋さんの揚げ代、花代、飲み食いの代金、そのほかもろもろ四十八両二分の勘定が帳面にのこっております。嘘いつわりのない貸し金になっております。どうかその代金お支はらいいただきとうございます。たっておねがい申しあげます」
「ばかもやすみやすみいいなさい。おねがいされて、はい左様ですかと四十八両二分はらえるとおもうのかい。まして一面識もない馬屋ふぜいにそんな金がはらえるかい」
紋兵衛はまったく話にのろうとしない。
「証文によってわたしが高砂屋さんから取りたてを依頼されたのです。飲み食い、おいらんとあそんだ金です。気持よくさっぱりとおはらいいただけないでしょうか。駄目だといわれてすごすごと退散いたすわけにもいかないのです」
「それはお前さんのほうの立場だろう。おれの知ったことじゃあない。七種《ななくさ》は明けたとはいえ、まだ正月のうちだ。縁起のわるい掛け合いはご免こうむるよ」
紋兵衛の表情はしだいにきびしくなり、態度も荒々しくなってきた。
しかしそんなことは先刻承知のおえんである。今まで何十度こんなあしらいをうけたかかぞえきれぬ。
相手の固い壁を徐々につきくずし、のっぴきならない窮地に追いこむ。そうでなくては相手は簡単にははらわない。そんな相手を降参させて金をはらわせるのが馬屋の商法であり、醍醐味《だいごみ》である。
「縁起がわるいと申されても、正月いっぱいに勘定の始末がつかなければ、澄ノ江というおいらん、二月一日の身請けができなくなります。そこを情とかんがえて是非とも始末をつけてやってくださいまし」
「澄ノ江だかなんだか知らないが、身請けされようとされまいと、おれのかかわり知らぬところだ。いい加減なゴタクをならべず、かえったらどうかね、おえんさん」
紋兵衛は澄ノ江という名をきいただけで顔色をかえ、身請けときいたとたんに罵声《ばせい》をはなった。
澄ノ江の身請けについてよほど紋兵衛が腹をたてているのがうかがえる。
「今日のところは、えんがご挨拶にうかがったとかんがえてくださいませ。おそらくこれから何度もお宅にうかがうことになろうかと存じます。こちらは商売からして、取りたてを途中でやめるわけにはまいりません。できるだけおだやかに始末をつけとうございます。紋兵衛さま、よろしくご思案くださいまし」
おえんは悠々たる口調で申しのべた。
「何度きてもらっても返事はおなじだ。くるなら無駄足を覚悟でくるがいい。あんたののぞむようなことにはならぬとおもうよ。高砂屋ともよく相談して、この取りたてをやめることだな」
紋兵衛はすこしもひるむことなくいった。馬屋をむかえたときに大抵の者が見せる後ろめたさを感じさせぬ、はらわぬことを堂々と主張している態度である。
「今日のところはこれにて失礼いたします。このつぎにはすこし色よいご返事をおきかせくださいませ」
おえんは初《はな》から大揉《おおも》めになることを避けて、浜蔵とともに島田屋をでた。今日のところは紋兵衛の手ざわりを見にきたのである。紋兵衛は予想どおりの難敵である。この敵をつきくずし四十八両ぶん捕るのはなかなかの事だ。
しばらく二人は無言であるいた。それぞれ自分の感触を整理しているのである。
浜蔵は下をむいてあるいている。ふだん騒々しい浜蔵が口をつぐんでいるのはめずらしいことだ。
浜蔵はおえんよりもすこし年上で、十四五の年ごろから弁天屋に住みこみではたらいてきた。父親は前科者だが、本人は横道にそれず、馬屋稼業ひと筋にやってこれたのは、身ぢかにおえんがいたからだと自分でおもっている男である。
おえんが得意とする鉤縄《かぎなわ》術は二人で若いころから訓練してきたものだ。
「紋兵衛と高砂屋とのあいだになにか行き違いがありそうですね」
浜蔵が口をひらいた。
「ありそうだねえ、だから紋兵衛は遊女屋の代金をはらおうとしないんだ。はらわぬ謂《いわ》れがあるようだよ。これはどうも高砂屋がかくしているようだ」
「そいつをききだすのが肝心ですね」
「それをききださなければ、この糸はたぐれないよ」
「お嬢さんが高砂屋へいっているあいだに、わたしは又之助と紋兵衛のアタリをとっておきます」
「たのんだよ」
アタリをとるというのは取りたてる相手の身許《みもと》をいろいろしらべあげることである。敵を追いつめ、降参させるにはこうしたしらべが大事なのだ。
おえんが弁天屋にもどってくると、しばらくして仁吉が顔を見せた。
仁吉の顔はこのごろ父に似てきた。顔ばかりでなく、体つきまで似てきたようにおえんはおもった。
「兄さん、なにか話があったようでしたね」
とおえんはいったが、どんな話かほぼ想像はついていた。
「先だってのことだ」
仁吉はいった。
おえんの想像はあたっていた。おえんは旧冬十二月、見合いをした。
「ああ、あれね」
おえんのようなじゃじゃ馬の男まさりでも、自分の見合いや縁談のこととなると照れてしまうのだ。
「越前屋さんではお前との縁談に乗り気のようだ。お前をたいそう気に入ったそうだ。嫁にほしいといってきている」
そうきいたとたんにおえんは自分が上気するのがわかった。体のうちがあつくなっていった。
「そうですか」
できるだけ感情をおさえてこたえた。
「お前の気持をききたいといってきているんだ。おえんはどうだね」
と仁吉はきいたが、すでに内心ではよい返事を想像しているようだ。
これは仁吉がもってきた縁談であった。見合い相手の越前屋|嘉《か》右|衛門《えもん》は蔵前の札差《ふださし》であり、天清に天麩羅《てんぷら》を食べにくる客である。
会ってみたところ、おもっていた以上に感じのよい男であった。三十九歳という年齢と、相手が再婚という二点が問題であったが、その二点ともおえんは気にならなかった。越前屋嘉右衛門は若手ではやり手の札差で、ふつうならばおえんの家とは家格の点でつり合わぬ相手である。札差といえば、〈泣く子もだまる〉といわれるほどの勢威がある。天麩羅をあきない、馬屋をやっている家とでは月とスッポンだ。おたがいに見合いをやるような相手ではないのである。天麩羅をたべにきた嘉右衛門がそのときたまたま店を手つだっていたおえんを見染めて、人を介して仁吉に見合いを申し入れてきたのが経緯《いきさつ》である。
「…………」
「おれはなかなかいい男《ひと》だとおもったが……」
とおえんがすぐには返事をしないので、仁吉がいった。
「わたしも、よいお人だとおもいました。とても感じのよい人でした」
おえんは実感よりもひかえめの返事をした。
嘉右衛門は年がかなりちがうせいか、ゆったりとおちついており、いい雰囲気をもった人物だった。押しだしも、男前もなかなかの人物である。札差という勢威からいっても、自分からのぞめば大抵の相手を嫁にのぞめる立場の男だ。おえんがいかに以前〈二丁目小町〉と呼ばれた器量よしであったとはいえ、お侠《きやん》で、嫁《い》きおくれで、そのうえ馬屋などをやっている娘のどこを嘉右衛門が見染めたのか不思議なくらいだった。
「それだったらば、双方同意ということになる。縁談をすすめてもよいのかい」
仁吉はもとからこの見合いを気に入っている。できればまとまればとのぞんでいたことがうかがえた。
「それは、ちょっと待ってください。よい方とはおもいましたが、縁談となると簡単にはいきません」
おえんは仁吉に縁談といわれて、ためらいがおこった。
「それは、縁談、縁組となると簡単ではない。だけれど、おえん、女には潮時というものがあるからな。女はいずれはとつぐものだ。潮時をいえば、お前ははやいほうじゃない。いいとおもった相手がいたときにとつがなければ、潮時をにがすことになるよ」
「兄さんのいうこと、よくわかりますよ。わたしはもう世間でいう嫁きおくれです。それに越前屋さんはわたしにはもったいない相手ですよ」
「だったら、いいじゃないか」
仁吉はわらっていった。
「でも、すぐに縁組という気持にまではいかないんです。わがままをいって申しわけないけど」
「相手は気に入っているけど、縁組にはふみきれないというんだな」
仁吉は、おえんがかつて伊之助という相手との縁組にやぶれて、ふかい傷を負ったことを知っていた。
「越前屋さんのどこが不足だというのではないけれど、今すぐ弁天屋をやめる気持がないんですよ」
「馬屋の悪口をいうわけじゃないが、馬屋なんて、女がいつまでもやっている稼業ではないとおもうよ。こんなことをいうと父さんにもわるいが、おれは一日でもはやく廃業をしたほうがいいとおもっているくらいだ」
「父さんも、わたしが弁天屋をやるのはよろこんでいませんでした」
「だったら、馬屋はやめたほうがいい。馬屋をやめるには、今がいい潮だ」
「でも、わたしの都合だけでやめるわけにはいきません」
「又之助や浜蔵のことかい」
「それだけじゃあありません。弁天屋はこれまで長年、吉原《なか》の妓楼《ぎろう》や引手茶屋にもりたてられて商売をやってこれたのですし、弁天屋をたよりにしてくれている人も多少はいるのですから」
おえんは自分の気持を説明しにくかった。今度はじめて経験した事態であるから、自分でもわかりかねるところがあった。
「まあ、いそいできめることでもないから、しばらくかんがえよう」
仁吉はそういってくれた。二人だけの兄と妹であるから、おえんのことは気にかけているのだ。
おえんは仁吉との話は一応うち切って、店をでた。
行き先は吉原である。
田町二丁目は、吉原へのかよい道日本堤の南側にそう町である。田町一丁目と二丁目が日本堤にほそながくつづいている。田町をすぎると、見かえり柳と高札場が見え、そこの衣紋坂《えもんざか》を左にくだれば吉原の大門《おおもん》である。
おえんは大門をくぐって、仲ノ町の通りをいった。仲ノ町の松飾りはすでに今朝方とりはらわれたが、吉原にはまだ正月気分がただよっている。昼のうちとはいえ、のんびりとした雰囲気だ。カムロをつれて散歩する遊女の姿や手をつないで買い物にでる振袖新造《ふりそでしんぞ》の姿が見える。
江戸町二丁目の高砂屋の店先も閑散としている。
おえんが声をかけると、すぐに利三郎がでてきた。
「ちょいとおたずねしたいことがございまして」
おえんがいうと、帳場にまねかれた。
「いかがなものでしょう、島田屋紋兵衛は」
利三郎はすぐにきいてきた。
「なかなかむつかしそうな相手です。紋兵衛と高砂屋さんとのあいだには、なにか事情《わけ》がおありでしたか」
おえんが問うと、
「少々、事情はありましたよ」
利三郎はあっさりこたえた。
おえんと浜蔵の勘はあたっていた。
「いえないような事情ですか」
「少々みっともないことですが、いえないような事情ではありません。じつは島田屋さんも澄ノ江を大層気に入って、身請けの話をおいらんにもちかけていたそうです。しかも時期は島田屋さんのほうがはやかったということです。後から澄ノ江にきいてわかったしだいです」
利三郎はいいだした。
「それでは、紋兵衛のほうにもいくらかいいぶんはあるようですね」
「いいえ、いいぶんなんてあろうはずもありません。身請けというものは、規|則《きまり》にのっとっておこなうものです。いくら客と遊女のあいだで話がでていたにせよ、そんなことは寝物語だといってしまえばそれまでのこと。本気でおいらんを身請けするのなら、遊女屋の主人とおいらんの親元の承諾をとり、それから身請け金の支払いをしなければなりません」
「それはそうでしょう」
「ところが、島田屋さんは澄ノ江にはそういう話をもちかけていたそうですが、わたしどもへも、親元のほうにもなにも話をとおしておりません。身請け金の相談もありませんでした。そんなときにべつのお客がいらして、規則どおり澄ノ江の身請けの相談をなされ、親元にも話をとおしてきちんと身請け金をおはらいになりました。こちらのお客さまには文句のつけようがありません。後になって、おいらんとそういう話をしていたと申されても後の祭でございます。それを理由にたまったお代をはらわないというのは無茶苦茶ななされようです。島田屋さんにいいぶんなどはないはずです」
利三郎は心外だという顔を見せた。
「番頭さんのおっしゃるとおりです。ぜひともおいらんを身請けしようとおもったら、お店に話があるはずです。親元へも話をしていなくてはなりません。勘定をはらわぬいいがかりにそんなことをいっているとおもわれてもやむを得ないでしょう」
おえんも同感だった。
「島田屋さんの存念はよくわからないところもありますが、自分でつかったお代はきちんとはらってもらわなければこまります」
「まったくそのとおりです。逃げ口上といわれても仕方がありません。これだけ聞けば、十分です。お手間をとらせました」
おえんはそういって高砂屋を辞去した。
江戸の正月は晴れた日がつづいている。
「前をいく駕篭《かご》をつけておくれ。酒手ははずむよ」
おえんは本船町の通りで空駕篭をつかまえていった。
駕篭かきたちはおえんの風体を見さだめて、
「へいっ、ようがす。いきやしょう」
と駕篭をおろした。
おえんが乗りこむや、駕篭は垂れをあげたまま道をつっぱしった。
おえんはこの数日、本船町がよいをつづけていた。連日、島田屋にでむいているのだが、その都度、紋兵衛に門前ばらいをくわされたり、居留守をつかわれたりで、紋兵衛と面とむかって話をする機会がつかめなかった。
業をにやして、おえんは紋兵衛を外出先でつかまえようと機会《おり》をねらっていた。島田屋の店頭をななめ先から見とおせるソバ屋の二階に陣どって、紋兵衛の外出をうかがっていたのだ。
つかずはなれず二|挺《ちよう》の駕篭は浅草御門をとおりすぎた。
駕篭は蔵前通りをずっとすすんでいく。
そして御蔵《おくら》の先の三好《みよし》町で、先の駕篭がとまった。
(渡し船で石原町か……)
おえんも駕篭をおりながら、紋兵衛の行き先に見当をつけた。紋兵衛は本所石原町にある常|磐津《ときわづ》の師匠のところへ稽古《けいこ》にかよっているのだ。
三好町には石原町とをむすぶ御厩《おんまや》の渡しがある。三好町には以前幕府の御厩があったので、その名称がついた。
今時季、船渡しはまだ風がつめたいので、乗合の客はそうおおくない。遠まわりでも両国橋か吾妻《あずま》橋をわたる者がおおい。
渡し場には船が三|艘《そう》つながれており、桟橋に一艘が待っている。番小屋があり、そこに船頭や番人が待機している。
紋兵衛は予想どおり、桟橋をわたり船にのった。
おえんは鳥目《ちようもく》二文の船賃をはらって船にのりこんだ。
「おまえ、おえん……」
おえんが胴ノ間に入っていくと、紋兵衛がおどろきの声をあげた。
「おひさしぶりです、島田屋さま」
おえんは紋兵衛の前にすわって、屈託のない声で挨拶《あいさつ》した。
紋兵衛が見る見るうちににがい顔になっていった。
「おまえ、こんなところまで……」
紋兵衛の言葉はしばらくつづかなかった。
「こんなところでなければ、会えませんもの」
「渡しに乗りこむのは勝手だが、お前の話の相手はしないぞ」
紋兵衛はにらみつけていった。
「では、わたしは独り言をいわせてもらいます。もし気がむいたらご返事くださいまし」
おえんははじめからそのつもりだった。
やがて、船はゆるゆると桟橋をはなれていった。船の客はぜんぶで五人だ。子供をつれた女の客と老人である。
「紋兵衛さまは高砂屋の澄ノ江にとても執心だったようで、身請けの話までなさっていたそうですが、それをはやく見世《みせ》の主人とおいらんの親元へはなしておくべきでした。それをおこたっているあいだにべつの客が身請けの手続をとってしまえば、澄ノ江はその客に身請けされるのはあたりまえです。後になって四の五のいって勘定を水にながそうったって、世間にとおる料簡《りようけん》じゃありませんよ。まったくいいがかりというものです」
おえんがいっているうちに、紋兵衛の表情がけわしくなっていった。
おえんはかまわずしゃべりつづけた。
「第一、身請けの話と遊女屋の揚げ代、花代、飲み食いの代金とはまったくべつのものじゃあありませんか。身請けにかかわりなくはらうべき勘定です。それをはらわないというのは、飲み逃げ、食い逃げ、泥棒のたぐいとおんなじです。それも無頼者《ならずもの》ならいざ知らず、日本橋の表通りに立派な看板、暖簾《のれん》をだした大店《おおだな》の主人がいたすことではありますまい」
「うるさいっ」
紋兵衛の一喝がとんできた。
「だまって聞いておればいい気になって、あることないこといいたい放題。川の中へたたきおとすぞ」
「わたしは間違ったことはしゃべっておりません。紋兵衛さま、耳にいたいことだからお怒りなのでしょう。四十両や五十両のはした金で島田屋さんの身代がびくともするわけではありますまい。遊女屋の勘定などを誤魔化したりすれば、それこそ紋兵衛さまの男がすたりましょう。ここはきちんと始末をなさったほうがおためかとおもいます」
おえんはまわりを気にせず、いいつづけた。
船頭も船の客も、きいていながらきこえぬふり。紋兵衛はききたくなくても、逃げだす場所がない。おえんにすれば、目の前に相手を据えて取りたてるのとおなじである。
「馬屋なんぞという下賎《げせん》の者のでてくる幕じゃない。馬屋などはこの世に益なき商売、女郎屋に巣くううじ虫も同然だ。いっぱしの口をきくな」
「馬屋はたしかに商売往来にない商いですが、遊女屋、引手茶屋からたのまれて悪いやつ、きたないやつから勘定を取りたてる商売です。この世に益なきとほざくのは猫ばばをたくらむ悪いやつのたわ言ですよ」
おえんの口はとまらない。ますます勢いにはずみがついてきた。
「猫ばばとはけしからん。おれが四十八両も勘定をためたのは、高砂屋にも責めのあることだ。おれはおいらんを身請けしたいばかりに見世へかよっていたのだ。一方で身請け話がすすんでいるなら、それを客に明かさねばなるまい。身請け話をひたかくしにして、べつの客を最後までひっぱったといわれてもいたしかたあるまい。澄ノ江が身請け間ぢかのおいらんとわかっていたら、おれは高砂屋へかよいつづけなかった。非の大半は高砂屋にある。だからおれは金輪際、その勘定ははらわぬのだ」
「それは島田屋さんの勝手なおもいこみです。おいらんというものは、見世にでているあいだは商売いたさねばなりません。それがおいらんのつとめです。惚《ほ》れたのはれたのといっても、廓《くるわ》の遊女は売りもの買いもの。それのわからぬ紋兵衛さまではありますまい」
「客をだましてあそばせるのが遊女屋ではあるまい。売りもの買いものにも嘘は禁物。客をだましてつかわせた勘定は見世が尻《しり》ぬぐいをすべきものだ」
二人の応酬はつづいた。
対岸の石原町がちかづいた。
石原町の桟橋につくまで、二人はいい合いをやめなかった。
往《い》きがあれば、還《かえ》りもある。おえんは石原町の桟橋で紋兵衛のかえりを待ちかまえた。
けれどもとうとう紋兵衛は姿をあらわさなかった。渡し船をつかわず、駕篭で両国橋をわたってかえったのだろう。
夕方ちかくまで待って、おえんは浅草田町にもどった。
弁天屋にはひさしぶりに又之助の姿があった。
「なにか、つかんだようだねえ」
又之助の顔を見ると、そんな言葉がおえんの口をついた。又之助は紋兵衛の過去になにか秘密か後ろぐらいところはないか探索をつづけていたのだ。
「それらしいことが見つかりました。ものになりそうなネタがありそうですよ」
又之助は浜蔵よりも年上だが、年齢《とし》のわりにはおちついている。彼の沈着冷静なところはおえんにとってもたのもしいかぎりだ。
「さすが又之助だよ。聞かしておくれ」
どんな人間にも過去にさかのぼれば、大なり小なり後ろぐらいことの一つや二つはあるものである。人に知られたくない汚点もある。まして急速に成功して伸《の》しあがってきたような人物にはあぶない[#「あぶない」に傍点]過去がある。そんな事柄をさぐりだし、えぐりだしていくのも馬屋の有効な戦略なのである。
「紋兵衛は十年くらい前までは一介の船頭にすぎなかったようです。それが急にこの十年間で廻船《かいせん》問屋の主人に伸しあがったそうです。まともなことではかんがえられぬ出世をしたわけですよ」
又之助はまだ行灯《あんどん》をともしていない用談部屋でかたりだした。薄ぐらくて、おえんの顔も又之助の姿も薄く闇にとけ入りかけている。
「一代で伸しあがった廻船問屋にしては年が若すぎるね」
「紋兵衛は阿波屋《あわや》という廻船問屋につかわれていた船頭で、阿波屋がつぶれると同時に紋兵衛が島田屋をおこしたといいます」
「その話の出所《でどころ》はどこだえ」
おえんはそういって手をのばし、ながい煙|管《きせる》をひろいあげた。ちかごろのおえんは仁吉などには決して見せないが、ときに煙草もやるのである。指先で上手にキザミ煙草を煙管につめ、火をつけて一口吸った。
「出所はもっともたしかなところです」
「じれったいねえ、はっきりおいいよ」
「高砂屋の澄ノ江ですよ」
「えっ?」
おえんはおどろいた。
又之助は地道で着実な仕事ぶりが身上だが、ときにこんな大胆な放れ業もやるのである。
「おまえ、澄ノ江の客になったのかえ?」
「いいえ、絵草紙屋に化けて高砂屋に入りこみ、澄ノ江としたしくなったんです」
「いい腕をしてるねえ、又之助。そして澄ノ江の口からききだしたのかい」
おどろきの顔でおえんは又之助を見た。
吉原ではたらく男は遊女屋の客にはなれぬ掟《おきて》がある。馬屋の男もそれにならって遊女屋には揚がらぬしきたりがあるのだ。
「澄ノ江がいうには、紋兵衛は荷をいっぱいにつんだ阿波屋の船を時化《しけ》に会ってしずめてしまったそうです。それで阿波屋の身代がたおれたといいます」
「ありそうなことだねえ。紋兵衛はよほど澄ノ江に惚れていたとみえ、ついこころをゆるして寝物語でしゃべったのだろうねえ。口は災のもとだ」
「紋兵衛が悪事をやったとしても、残念ながら証拠がありません。けれども紋兵衛には十年前のそのとき仲間が二人いたといいます」
「その二人見つからないだろうねえ」
「今その二人をさがしています。今のところはかいもく消息がわかりません」
そうこたえた又之助の顔はほとんど闇の中にしずんでいた。
新春とはいえ、正月はまだ日の暮れがはやい。おえんは探索のかえり道ちょっと寄り道をしたために、おもいのほか時間をくった。
浅草寺《せんそうじ》から馬道《うまみち》をとおって日本堤への道をとればよかったのだが、日が暮れたので、浅草寺の裏から浅草|田圃《たんぼ》をとおりぬける近道をえらんだ。
昼間ならなんということはない畦道《あぜみち》だが、日没とともに暗闇になる。おえんは提灯《ちようちん》をもっていたが、まわりは人家もない田圃と畑の広大な領域である。途中からひきかえすのも業腹なので、痩《や》せ我慢をして畦道をあるいた。
まだ蛙の声もきこえない。つい先だってまで、畦に残雪が見えていた。田畑は今、畦焼と麦踏の季節である。
おえんはこころもち早足になった。夜は男でも一人歩きをきらう道だ。
半分くらいまできたとき、ふと気づくと前方にぽつんと提灯の明りが浮いている。むこうから人がやってくるようだ。
おえんはその明りを見つめてあるいた。
明りはちかづいてきた。
明りが数間前方にせまったとき、不意におえんのすぐ背後に人の気配がした。
とっさに身がまえたが、そのときはもうおそかった。後方からおえんは体をすくわれた。
体が宙に浮いたとき、必死でもがいたが、背後の人間は一人ではなかった。三人くらいはいそうだった。おえんはかつがれたまま数間前方へはこばれた。
そこには、なんと空駕篭が待っていた。提灯の明りは駕篭の先棒の明りだった。
おえんは手拭《てぬぐい》で猿轡《さるぐつわ》をかまされた。両腕を後ろにまわされ、胸の下でしばられた。抵抗の甲斐《かい》もなく、駕篭に押しこめられると同時に、駕篭は飛ぶようにはしりだした。
しばらくいくうちに、道順も方角もわからなくなった。おえんはしばられたまま駕篭でゆられていった。おえんにしては、とんだ失敗《しくじり》をやらかしたものだ。
半刻《はんとき》(一時間)ほどして、行きついたところで駕篭からおろされた。あたりは暗闇の世界だから、そこがどこかは皆目わからない。雰囲気からすると、寒々しく、荒れはてたところのようだ。
男たちにみちびかれ、倉庫のようなひろい建物の中につれこまれた。提灯の明りで見ると、天井がたかく、入口は一つしかない。空倉庫のようだ。
倉庫の中で男たちに悪さをされるのではないかと警戒したが、おえんを中につきはなすや、男たちは扉を閉じ、外からおもそうな錠をおろして、立ち去っていった。命令者に指図されたとおりのことをして去ったのだ。
おえんはしばらく呆然《ぼうぜん》として立っていた。らしくないドジをふんでしまった。まんまと敵にしてやられた。
ここまでやる敵ではないと油断したのが間違いのもとだった。敵は想像した以上に大胆であった。
おえんはしばらく頭の中を空にした。こんなときあわてるとろくなことはない。ドジにドジをかさねる羽目になる。
沈着冷静におちつくことなどとてもできる業ではないが、ともかくくそ度胸を発揮して状況に身をゆだねるしかないのである。ばたばたしたってはじまらない。
時がたつと、しだいに周|囲《まわり》の様子がわかってきた。倉庫であることには間違いなさそうだ。倉庫だとすれば、大川端とかんがえるのが妥当である。廻船問屋の積荷などを一時おさめておくようなところだ。島田屋のもっている倉庫だろうと想像した。
下は土間で、まわりは土壁である。入口の扉をおしてみたが、頑丈でびくともしない。
(あがいたって駄目だ)
おえんはやむなく度胸をすえた。
けれども又之助や浜蔵がたすけだしにきてくれる見込みはない。逃げるとすれば、自力しかないと覚悟した。
(夜明けまで待とう)
夜が明ければ様子がもっとくわしくわかるにちがいない。夜が明けるまでに敵がなにかしでかすことはないだろうと踏んだ。
おえんはひたすら暁を待ちかねて、長い夜をすごした。そのあいだねむろうとこころみたが、さすがに神経はさえるばかりだ。おえんはこの仕返しにひたすら島田屋紋兵衛を追いつめていくことをかんがえた。仕返しをするにしても、まずここを無事に脱出することが先決である。
おえんは、ふと耳をこらした。
チチチ……、と鳴く鳥の声をきいた。雲|雀《ひばり》の声のようだ。朝雲雀だろう。
見あげると、頭上の一角にぼやっと白んでいるところがあった。
(高窓だ)
明り取りだろうとおもった。
おえんの胸が期待にふくらんだ。
もうしばらく待てば、もっと中の様子がわかるだろうとおもった。
空がだんだん白んできたのか、高窓の部分がいっそうあかるくなった。それと同時に倉庫の天井が明り取りのほのぐらい光にぼんやり見えてきた。
頭上にはふとい梁《はり》がとおっている。
(しめた)
おえんはひとつの策をめぐらした。
おえんは自分の懐中をあらためた。
(あった!)
外出のときはいつも持ってでる鉤縄《かぎなわ》が手に触れた。これを取りあげられなかったのが幸運だった。
鉤縄は本来、岡っ引がやる早縄のことである。縄の先に鉤がついていて、その鉤を相手にひっかけ、一本縄でぐるぐる巻きにしばる術である。縄はふつう三尋《みひろ》(約三間)のながさである。父の仁兵衛は昔、岡っ引と馬屋を兼業していて、おえんはずいぶん若いころに鉤縄をならいおぼえた。縄のかわりに丈夫な絹糸を何本もより合わせた紐《ひも》にして、携帯に工夫をくわえたのである。
梁までの高さはおよそ二間余。
おえんは鉤縄をにぎって梁をねらった。
ヒョウ、とはなつと鉤は梁にしっかりと巻きついた。
おえんは鉤縄をぴんと張り、足を壁につけて、一歩、一歩のぼっていった。裾《すそ》がひらいて、腿《もも》から下があらわになった。
ようやく明り取りの高窓の枠までのぼりつめた。
明り取りは縦約二尺、幅一間のものである。おえんはなんとかくぐりぬけることができた。
払暁から、さらに半刻ばかりたったころ、おえんはようやく弁天屋にかえりついた。おえんが閉じこめられていたのは、やはり大川端の、本所元町の倉庫がならぶ一帯だった。
弁天屋には、仁吉、浜蔵、母おとよ、仁吉の女房おりつなどが蒼白《あおじろ》い顔をそろえていた。
おえんが入っていくと、みなが声をあげた。
浜蔵はおえんにとびついてきた。
おとよは今まで我慢していた涙を一気にながした。
「みんな、心配をかけてご免よ。あたしが迂闊《うかつ》でドジをふんじまったんだ」
おえんはつとめて明るくいった。
「でも無事でよかったねえ。あたしは父さんのことをおもいだしたよ」
おとよは仁兵衛がころされたときのことをおもっていたようだ。
「馬屋なんかやってるから、こんな目にあうんだ。おえん、今がひけどきだぞ」
仁吉はおえんに馬屋の足をあらわす好機とみていった。
「わるいやつにつかまって、倉庫の中で一夜を明かしちまったよ。油断大敵というやつだ」
おえんはそういったほかは、この場でおおくはかたらなかった。
「命があっただけよかったよ。これでおえんに死なれたら、わたしは父さんに合わす顔がないもの」
おとよはひとしきり泣いてからそういった。
みなが弁天屋の用談部屋から去っていって、おえんと浜蔵がのこった。
「なにか、いいたいことがあるようだね」
おえんは浜蔵にいった。
「わかったんですよ、澄ノ江の身請けの客が」
浜蔵は高砂屋がひたかくしにしていた身請けの客についてさぐっていたのだ。
「どんなやつだい、その客は」
「それが、存外の大物でしたよ。蔵前の札差でした」
浜蔵がそういったとき、おえんはどきりとなった。
「札差かい……」
「越前屋嘉右衛門という札差ですよ。若手で、今勢のさかんなやつだそうです」
おえんの胸が破裂しそうになった。
「越前屋嘉右衛門、なんだね」
「まちがいありません。何日もかけてしらべあげたんですから」
浜蔵はその男とおえんが見合いをしたことも、越前屋が天清にときたま顔を見せることも知らぬようだ。
「そうかい、越前屋嘉右衛門は澄ノ江を身請けするのか。札差は金も力もありあまってるから、やりたい放題ができるんだね」
おえんはくらくらと目がまわりそうになった。
おどろきといっても、これほどの驚きをうけたことはかつてなかった気がした。目まいがおさまると同時に、なにか胸糞《むなくそ》がわるくなってきた。越前屋は澄ノ江の身請けをすすめる一方、おえんに縁組をのぞんでいたのだ。
おえんは世間を見る目も、男を見る目もすこしは肥えているつもりだったが、その自信がぐらついた。おえんは見合いの席で越前屋に好感をいだいていた。こんな男だったら、とついでもいいかなとおもいかけた。
けれども、おえんもまるきり越前屋にだまされたわけではなかった。かすかな予感のようなものがあった。それでおえんは縁談についてためらったのだ。弁天屋の行く先だけを心配してためらったのではなかった。はっきりとはいえないが、越前屋嘉右衛門にたいしてなにかあぶないおもいをいだいていたのである。
「人気のおいらんを身請けするには、数百両から千両にちかい金がかかるといいますからね。よほどの者でなければ身請けなんぞできませんよ」
「そうだねえ。ところで又之助はまだかえってこないかえ」
おえんは越前屋への怒りよりも、又之助の身が心配になった。
又之助は紋兵衛の過去[#「過去」に傍点]のあらいだしに奔走しているのである。最近、弁天屋にもどらぬ日々がつづいていた。
「ここんとこ、又之助の姿を見ませんねえ」
浜蔵も急に又之助のことが心配になってきたようだ。
正月の晦|日《みそか》を数日後にひかえた昼下り。おえんは浜蔵をつれて、日本橋堀江町にある高級料理茶屋〈魚まさ〉へむかった。
この日、廻船《かいせん》問屋の株仲間の新春祝いが魚まさでおこなわれるのだ。
あつまりは未《ひつじ》の刻(午後二時)からで、ぼつぼつ廻船問屋の主人たちが座敷にあつまりかけていた。
「世話役の島田屋紋兵衛さまにお会いしたくてまいりました」
おえんが魚まさの玄関に立って、座敷女中につたえると、
「島田屋さまは別室にいらっしゃいます」
女中はすんなりと案内に立ってくれた。株仲間では月行司《つきぎようじ》といって輪番で世話役がまわってくるのだ。
おえんが別室にくると、紋兵衛はもう一人の世話役と祝いの進行について相談していた。
おえんと浜蔵は別室の襖《ふすま》をあけて、入っていった。
「おえんっ!」
紋兵衛の顔色がさっと一変した。紋兵衛は黒羽二重《くろはぶたえ》の紋付|小袖《こそで》に白足袋《しろたび》の盛装である。もう一人の世話役も同様のいでたちだ。
「先だっては、とんだ人さらいに出会いましてね、暗くつめたい倉庫の中で一夜をすごさせてもらいました。そのために島田屋さんの倉庫が本所元町にあることがわかりましたよ」
おえんはすらりとした立姿を見せて紋兵衛にいった。
「ここは馬屋なんぞのくるようなところじゃない。場所柄をわきまえろ。ここは廻船問屋の祝いの席だ」
紋兵衛は叱咤《しつた》したが、おもいがけぬところにおえんをむかえて動揺していることはたしかだった。
「退散してもらいたければ、まずやるべきことをきちんとおやりなさい。どうですか、島田屋紋兵衛さま。妓楼《ぎろう》でためた代金四十八両、きれいに支はらう気持になりましたか」
おえんは紋兵衛を見おろしていった。
「いわれのない金ははらわぬ。お前がこんなところにでてきて、なにをいっても駄目だ。とっとと退散しろ」
「紋兵衛さんがあくまでもつっぱねるなら、今日このおめでたい席にさわぎがもちあがるかもしれませんが、かまいませんね」
おえんがぼつぼつ威《おど》しにでた。
「馬屋なんぞに席をさわがせるわけにはいかぬ。つまみだすぞ」
紋兵衛はかっとなって吠《ほ》えた。
「さわぎがおこれば、世話役の紋兵衛さんの顔は台なしになりますよ。しかもさわぎが大きくなると、島田屋さんの旧悪が白日のもとにさらけだされるかもしれません」
「なにをいうか、おえん。おれには白日にさらされてこまるような旧悪はないぞ」
紋兵衛は今にもつかみかからんばかりの態度だが、おえんの言葉にややひるんでいるのはたしかである。
「島田屋紋兵衛っ、十年前、阿波屋の船頭だったことをおもいおこすがいい。そのころの悪事をばらされたくなかったら、四十八両だすんだね。そうすれば、昔のことはだまっていてあげる。お前さまは今までどおり安泰でいられる」
ついにおえんは火のでるような啖呵《たんか》を切った。
「なに世迷言《よまいごと》をぬかしやがる。おれの身にそんな悪事があるならいってみるがいい。でたらめぬかしやがると、本当に命がないぞ。おれがその気になりゃあ、店に荒っぽいのがわんさといるんだ。そいつらが黙ってねえぞ」
「紋兵衛、とうとう本性をあらわしてきたね。それなら、お前の旧悪、みなの前でばらしてやろうか。となりのお座敷じゃあ、廻船問屋のお歴々がひかえているんだろ。十年前の大時化《おおしけ》のとき、お前は仲間とくんで阿波屋の船がしずんだことにして、船の荷を丸ごと乗っ取った。そのために阿波屋の身代はたおれ、お前は一挙に財をなしたのだ」
おえんは一気に旧悪を暴露し、紋兵衛の正体をあばいた。
「いわせておきゃあ、でたらめ放題ならべやがって。みんな根も葉もないつくりごとだ。証拠もなきゃあ、証人もいない。そんな馬鹿げたことを誰が信じるものか」
「紋兵衛、これはでたらめでもなければ、馬鹿げたことでもない。お前が十年前にやったことなんだ」
おえんがきめつけると、紋兵衛は怒りでぶるぶるとふるえだした。
「よくもそんな嘘八百をならべやがって。証拠があるならだしてみろっ、証人がいるならつれてこい!」
「何度もいうようだけれど、証拠、証人をだす前に、四十八両はらったほうがお前の得だとおもうがねえ。ここは紋兵衛、思案のしどころだよ」
「ほざくなっ、おえん」
紋兵衛はついにおえんに飛びかかってきた。
おえんはさっと一歩しりぞいて、紋兵衛をかわした。
「わからず屋だねえ、島田屋紋兵衛。これほどいってもわからなければ、証人を見せてやろう」
おえんはいうや、一方の襖をすっと引いた。
紋兵衛ともう一人の世話人の目がそちらへ吸い寄せられた。
襖のむこうに二人の男が立っていた。
一人は又之助である。
紋兵衛は又之助がつれているもう一人の男の顔を見て驚愕《きようがく》した。
おえんは紋兵衛の様子を見すえた。
今まで強気でいいはっていた紋兵衛の顔色が紙のように白くなった。眸《め》がおびえている。
「紋兵衛、見おぼえがあるようだねえ。この男はお前が昔くんで阿波屋の船を乗っ取ったときの仲間だよ。たしか、丑之助《うしのすけ》といったはずだ。この男を見つけるのに、ずいぶん手間がかかったよ。もう一人の仲間は卯之吉《うのきち》といったが、一昨|年《おととし》の暮に死んじまったそうだ。丑之助が生きていたのが、お前の命とりだったねえ」
おえんは小気味よげにいいきった。
丑之助という男は四十前後の年恰好《としかつこう》で、無職あそび人のような風体だ。この男の行方をもとめて又之助は半月以上も江戸をさがしまわった。昨日ようやく居所をつきとめたのだ。そして金二両で証人になることを承知させたのである。
「丑之助っ、お前……。おれとの約束をやぶったな」
紋兵衛は血を吐くようにいって、丑之助をにらみつけた。
「紋兵衛、いつぞや、おれが少々銭をせびりにいったとき、乞食《こじき》でも見るような顔をして追っぱらってくれたな。あのとき、一両とはいわねえ、一分でも二分でもくれていたら、こんなことにはならなかったろうぜ」
丑之助は恨みをこめた眼差《まなざし》で紋兵衛を見かえした。丑之助と卯之吉とは十年前、紋兵衛に分け前をもらったが、悪銭身につかずで、やがてのうちにつかいはたしてしまった。紋兵衛だけが悪銭をもとでに、廻船問屋に伸《の》しあがったのである。
「馬鹿めっ、うすのろ!」
紋兵衛はいきなり、丑之助につかみかかっていった。
「よしな、紋兵衛!」
いうと同時に、おえんの手もとから鉤縄《かぎなわ》がとんだ。
浜蔵と又之助が同時に紋兵衛にとびついていった。
たちまち紋兵衛はしばりあげられた。
「となり座敷につれていって、廻船問屋のお歴々の前でもう一度、お前の悪事をバラしてやろうかい」
おえんは引きすえられた紋兵衛にむかって毒づいた。
紋兵衛はしばし虚空をにらんだ。
「おえん、勘弁してくれ。あやまろう。四十八両きれいに高砂屋へはらうからゆるしてくれ」
紋兵衛はがくっと首をたれて、おえんの前に両手をついた。
「紋兵衛、嘘をついたらゆるさないよ。本当にわるかったとあやまるんだね」
「嘘はいわない、ゆるしてくれ。今日のうちにも金をもって高砂屋へいく」
「改心するならゆるしてやろう。だが、当分丑之助はあたしがあずかっておくよ。念のためだ」
そういっておえんは浜蔵、又之助、丑之助をうながして部屋をでた。
となりの座敷ではすでに祝いがはじまるばかりになっていた。
おえん一行は悠々と魚まさの玄関をでていった。
江戸の初春は上天気である。
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第二話 遊客ウタマロ
靄《もや》がゆったりとながれている。
空におぼろ月夜。吉原|田圃《たんぼ》のまん中に、不夜城がこうこうたる明りをはなっている。
大江戸は今日も天下泰平である。吉原のにぎわいは江戸|繁昌《はんじよう》のあかしである。今宵《こよい》も大勢の遊客が猪牙《ちよき》や駕篭《かご》、あるいは船宿のみちびきで吉原|大門《おおもん》をくぐってきた。
暮れ六つ(六時)からはじまった夜見世《よるみせ》は宵の今ごろがもっとも宴たけなわである。仲ノ町の引手茶屋《ひきてぢやや》はもちろん、江戸町、京町、角《すみ》町の遊女屋の各座敷はうずまり、遊女、芸者、新造《しんぞ》、カムロで手のあいている者はほとんどない。今どき張《はり》見世をしている遊女など、よほど売れないやつにきまっている。
江戸町一丁目の大見世玉屋でもお茶をひいているおいらんは一人もいない繁昌ぶりだ。玉屋といえば江戸町のなかでも一流でとおる老|舗《しにせ》である。
玉屋の二階でもおいらんの座敷はすべてふさがっている。
呼びだし昼三《ちゆうさん》(最高級遊女)浅霧《あさぎり》の座敷でも、今宵は裏馴染《うらなじみ》の客をむかえて、にぎやかに活気づいている。ふつう、客は三度めの登楼でなじみ客となり、馴染金をつつむものだが、今宵の客は裏をかえしにきて馴染金をつつんでくれた。
〈おいらんに惚《ほ》れたから、今後ながくかよってくるよ〉
二度目の登楼でこういう意志表示をしてくれたのだ。
浅霧の頬がゆるんだのは当然のことである。浅霧とて売れていないおいらんではないが、客のこういう好意はずきんと胸にひびいた。吉原であそびずれした客の手練手管でもなさそうだ。
一見武骨そうだが、誠実な感じの客である。
「吉原《なか》の遊女《おいらん》はね、こういうお客には身もこころもささげたくなるものなんざます」
すれっからしのあそび人をゲップのでるほど見なれている浅霧には、これが逆手の攻略法であったかもしれない。
客は山形屋時三郎。三十代後半のしずかで、おちついた男である。神田で米問屋をやっていて金まわりがよさそうなのも、浅霧が時三郎を気に入ったおおきな理由だ。
時三郎は体ががっちりしていて、若いころ米俵をかついだためか、肩にコブのように筋肉がもりあがっている。口数はおおいほうではないが、けっして無愛想でもなく、世わたりの自信がおちつきになっているようである。
新造もカムロも時三郎に好意をもったようだ。おいらんが客を大切にすれば、新造やカムロはおのずからそうするものだが、時三郎の場合は人柄と裏馴染がきいている。
時三郎は先月、寄合《よりあい》のかえりに仲間に玉屋へつれてこられたのが初会である。そのとき浅霧が時三郎の敵娼《あいかた》についた。そのときも時三郎の印象はこのましかった。とくに通人ぶることもなく、金持の横柄さも見せず、誠実そうな人柄が感じられた。
(初会でもこんな客なら帯をといたって……)
と浅霧はおもったものだが、おいらんのほうから口にするわけにもいかず、時三郎もそれをもとめなかった。
遊女が帯をとくのは三会めからというのが、格式の高い妓楼《ぎろう》の常識である。当世では吉原のこういう慣例もすたれて、初会から細帯をとく遊女もいるけれど、江戸町の大見世などではまだこの慣例がものをいっている。
今夕、夜見世がはじまってから間もなく、引手茶屋から差紙《さしがみ》がとどいて時三郎に裏をかえされ、浅霧は胸をおどらせた。
時三郎も再会をよろこんでくれた。
引手茶屋から玉屋の座敷におさまってからも、浅霧のうれしさは増すばかりであった。
「おいらん、まるで初心《うぶ》な新造のようだね」
新造はまだおいらんになる前の女である。時三郎は浅霧のよろこびようを見てそういった。
「時さまにそうまで見すかされては、わちきも呼出し昼三のコケンにかかわりいす」
浅霧には馴染の客はかなりついているが、馴染金にこうまでよろこんだ相手ははじめてだった。
「玉屋の呼出し昼三によろこんでもらって、おれも光栄だ」
時三郎は謙遜《けんそん》したが、それも浅霧にとってはたのもしかった。
「こんなお客を間夫《まぶ》にもてたら、おいらん冥利《みようり》につきましょうに」
「おいらん、そこまでいっては本当に昼三のコケンにかかわろうというもの」
時三郎はやんわり浅霧をたしなめてくれた。
「どうやらおいらんが客に惚れたようです。もっとも始末のわりいことになりんした」
浅霧は笑いでごまかしたが、半分は本音の言葉であった。
時三郎は酒もつよい。すすめれば、すぐに空ける見事な飲みっぷりだ。
登楼してたちまち半刻《はんとき》(一時間)あまりがたった。
ころ合いをはかったように、玉屋の若い者が座敷に顔を見せた。
「ちっとお片づけ申します」
若い者は声をかけて、膳《ぜん》や台や煙草盆などを片づけだした。床の用意だ。
若い者の言葉を合図に、時三郎は厠《かわや》へたった。
廻《まわ》り仕懸《じかけ》の早がわり、本間《ほんま》の床の栄枯盛衰。座敷の花も引《ひ》け亥《よ》の時(四つ)。新造やカムロは座敷をでていった。
時三郎が座敷にもどると、表が天鵞|絨《ビロード》、裏は緋縮緬《ひぢりめん》、額仕立ての豪華なかさねの布団がのべてある。
やがて、切り前髪、横兵庫《よこひようご》の浅霧が仕掛けを羽織って入ってきた。
「浅霧、ほんとに帯をとくのか?」
簪《かんざし》も笄《こうがい》もとった浅霧の姿を見て、時三郎がたずねた。
「お客の親切には誠意でこたえるのが吉原《なか》のおいらんの心意気でありんす。時さま、わちきを抱いてくんなまし」
浅霧は堅気の女のような羞恥《しゆうち》を見せていった。
時三郎の着物は浅霧がぬがした。
「仕掛けをぬがしてくんなまし」
浅霧は羞恥を廓《さと》言葉でかくしていた。
時三郎が浅霧の仕掛けをぬがした。
浅霧は燃えたつような緋の長襦袢《ながじゆばん》の姿になって時三郎にしなだれかかり、二人はまろぶように夜具にたおれこんだ。
浅霧はもうすっかり上気している。裏馴染で帯をとき、仕掛けをぬいだという意識でやや興奮していた。
時三郎が緋の長襦袢へ手をのばし、紐《ひも》をときはなつと、浅霧は時三郎のあつい胸に顔をうずめた。
時三郎の手が浅霧を愛撫《あいぶ》しはじめた。今までのどんな客の愛撫よりも時三郎は新鮮だった。男の手がふれた肌に鳥肌のたつようなざわざわとする快感がわきおこった。
乳房、乳首にふれられただけで、
「ああ……」
かすかな声がもれた。
唇で乳首をはさまれると、鮮烈な快感が体をつっぱしった。
「ああんっ……」
声はもうあえぎになっていた。
「好きよ、時さん。大好き……」
乳をなめられながら浅霧は本気でいった。客にはよくいう言葉だが、本気でいうのははじめてだった。
「ほんとに大好き、時さん、好きよ……」
うわ言のように浅霧はつづけた。
時三郎は愛撫も存外、上手である。見かけによらず、女の体になれているのかもしれない。
浅霧は時三郎の愛撫にとろけていった。体の骨がやわらかくなって、無くなってしまいそうになる。
しかも時三郎はけっしてあわてない。あせって体をつなごうとはしないのだ。手は先だってから浅霧の下半身を這《は》いまわっているのだが、体はまだ侵入してこない。
浅霧の体はとっくに燃えている。商売上の手管ではなく、本当に体の芯《しん》から燃えだした。
「頂戴《ちようだい》……。はやく……」
浅霧はうわ言のようにもらした。
催促に応じて、ようやく時三郎は浅霧の足をひらいた。
浅霧は夜着の片方の袂《たもと》で顔をおおいながら股間《こかん》に時三郎の腰が入ってくるのをむかえた。
「ああ、時さん……」
浅霧の腰がわずかにあがった。
時三郎は体を合わせ、つなげていった。
浅霧の眉間《みけん》に縦ジワが寄った。
苦痛のような色が浅霧の顔に浮かんだ。
「ああっ」
そういいながらおいらんの顔がゆがんだ。
時三郎がふかく体を入れていくと、浅霧が体をよじった。耐えるがごとく、歯をくいしばった。
「痛い……」
歯と歯のあいだから声がもれた。
かまわず時三郎はふかく入った。
「痛い、痛い……」
浅霧がうめいた。本当に痛そうだ。
しかし時三郎はやめなかった。浅霧のうったえを無視して入りつづけた。
浅霧はまるで未通女《おぼこ》のように痛がった。表情からすると、体の奥に激痛がはしっているようだ。
時三郎はかまわず行為をつづけた。
「ちょっとの我慢だ。すぐによくなる」
そういいながら腰をつかった。
「やめてっ、痛い、やめてえ」
浅霧の声はもう絶叫にちかい。両手で時三郎をつっぱるようにして中止をもとめた。
それにもかまわず時三郎は腰を揺すった。今までの時三郎とはまったく人柄がかわったようである。
さらにふかく時三郎は突き入った。
「ぎゃあっ!」
断末魔のような浅霧の絶叫があがった。
※[#歌記号、unicode303d]おもうて見さんせ
焦《じ》れまいものか
二十日あまりも
逢《あ》いもせぬ……
浜蔵が当世はやり小唄《こうた》の一節を口ずさみながら弁天屋の用談部屋の土間に帚《ほうき》をあてている。
「滅法なご機嫌じゃないかえ。正月ごろの浜蔵ときたら、とんとふさぎこんでいたもんだけど」
天清《てんきよ》の帳場をとおって用談部屋に入ってきたおえんがひやかした。
※[#歌記号、unicode303d]日暮れがたには
ただ呆然《ぼんやり》と
空をながめて
なみだぐみ……
浜蔵はきこえぬふりで土間の掃除をつづけている。
「浜蔵、おまえ、そんな相手ができたのかえ」
おえんがひやかすと、
「そんな相手がいたらいいなあとせめて小唄で気分をあじわってるんですよ」
「それにしても上機嫌だね、このところ。理由《わけ》がありそうだね。わかっているよ」
「さあ……」
と浜蔵はとぼけてみせた。
「わたしの縁談がこわれたからかい」
おえんはわらって見せた。
「まあ、あたらずといえども遠からず。お嬢さんがいやらしい札差野郎の毒牙《どくが》にかからなくてすみましたからねえ」
「毒牙にかかるだなんて、いやらしいいい方だねえ」
おえんは今度はいやな顔をした。
札差の越前屋嘉右衛門との縁談は、遊女身請けの一件がわかって、あやういところで破談となった。
「祝言の前に札差野郎の身状《みじよう》がわれて、よかったじゃあありませんか。そうでもなかったら、お嬢さん、今ごろ亭主の女道楽で泣きの涙でくらしてるところですよ」
「涙なんかながすもんですかい。あたしのほうから三行半《みくだりはん》つきつけて、かえっているよ」
「いくらお嬢さんだって、女のほうから三行半っていうわけにもいきますまい。ま、そんなことにもならず、お嬢さんも無事、弁天屋も安泰。結構なことじゃあありませんか」
「そうだねえ、今年の春も縁起はよさそうだよ。浜蔵も又之助もよくはたらいてくれるから、弁天屋の商売も上々だ。吉原《なか》の景気もいいそうだよ」
「吉原あっての馬屋ですからね。吉原がよくなくっちゃあ、馬屋のおこぼれだってまわってくるはずがありませんや」
そういっているところに、弁天屋の店頭に人影がさした。
入ってきたのは、おえんも浜蔵も見知っている吉原の妓楼《ぎろう》の女|将《おかみ》である。
「いらっしゃいませ、女将さん」
客は玉屋の女将おせんである。父仁兵衛の代から弁天屋では玉屋の取りたてを何度もやっている。
「おえんさん、手があいてたら、ちょっと見世まできてもらえないかねえ」
おせんはやや思案顔を見せていった。
取りたて屋という商売|柄《がら》、さらに依頼する側が遊女屋という立場から、表だってははなしにくいことはいくらでもあるのだ。
「じゃあ、ちょっと吉原の桜見物にでもいってこようか」
おえんはそういって、浜蔵をふりかえった。
どうやら、ちょっとこみいった商談のようだ。
吉原では毎年三月になると、仲ノ町の通りに桜の木を植え、月いっぱいたのしんで晦|日《みそか》になると取りはらうのだ。今は桜が見ごろである。
おえんはおせんとともに店をでた。
弁天屋のある田町二丁目は日本堤にそっている。
堤は春の色一色である。若草はもえ、駘蕩《たいとう》たる風が吹いている。堤の道をあるくだけでもおおらかな気分につつまれる。
堤の端に寝ころんで春の日をたのしんでいる無精者もいる。
縦縞《たてじま》の留袖《とめそで》に浅葱《あさぎ》の帯をきっちりしめたおえんがあるくと、風で裾《すそ》がめくれて、白い脛《はぎ》が上のほうまであらわになる。それを気にするでもなく、おえんは足をはこんだ。
大門の内は見事なばかりの花ざかりだ。仲ノ町通りは水道尻《すいどじり》まで青竹の垣でかこまれた桜が立ちならんでいる。ふだんの仲ノ町とはまるで見まごうようである。毎年この時季、箕輪《みのわ》の植木屋が生けこみにくる。
江戸町は大門を入ってすぐにある。右手が一丁目、左手が二丁目。玉屋は右手の真ん中あたりだ。
昼間の廓《くるわ》は閑散としている。のんびりとカムロや新造とあそんでいる若い遊女の姿が見える。
玉屋でも、芸者や新造《しんぞ》が三味線と踊りの稽古《けいこ》をしている。
おえんは内所《ないしよ》にまねかれた。
「じつはうちの浅霧というおいらんがね、お客に傷をつけられたんです」
おせんは長火鉢の前にすわってきりだした。
「まあ、おいらんが怪我をしたんですか」
はじめはおえんは言葉の真意がわからなかった。客とおいらんの喧嘩《けんか》はままあることである。売りもの買いものとはいえ、嫉妬《しつと》がからむこともあれば、好みや相性のちがいから揉《も》めごとはおこる。おいらんが客の機嫌をそこねて殴られでもしたかとおえんはおもった。
「おいらんが座敷にでられなくなっちまったんですよ。とんだお客にぶつかって」
「つまり、商売ができなくなった……」
「そうですよ。お客に商売道具をこわされたんです。あそこを裂かれちまって、おいらんは血みどろになって座敷から逃げてきたってわけなんですよ」
そういわれてようやくおえんは納得した。
「それはおいらんには気の毒なこと……っていうよりお客が無茶ないたずらでも……」
「お客にいわせれば、無茶も、いたずらもしていないっていうんですよ。ただあたり前のあそびをしただけだって」
おせんはこまった顔をした。
おえんはわがことのように顔をあかくした。
(つまり、客は並はずれて立派な道具《もの》を持っていた――)
おえんはそのように理解した。
「ちっとやそっとのことじゃあ驚くようなおいらんはいないのだけれど。その客はちょっと並はずれていたんだろうね」
おせんはおえんが赤い顔をしているのを見て、いいよどんだ。
おえんとて男を知らぬ女ではない。男女の業のふかさも知っている。しかし女と男の部分について平気で口にするほどのすれっからしでもないのだ。けれど商売ともなれば、そんなこともいってはいられない。
「ずいぶん迷惑なお客がいるもの。そんなお客に登楼されてはこまりますね」
「客をあげたこちらにも責任はあるけれど、あげる前に下調べはできないからね」
おせんは本当にこまった顔をした。
「おいらんはどのくらいでなおる見通しですか」
「お医者がいうには、一カ月は無理だろうって。浅霧は売れてるおいらんだから、見世でも大変こまるんですよ。その損害をお客からとるわけにはいかないだろうかね」
おせんの相談はそれだった。
おえんはしばし返事ができなかった。
「一カ月もやすむとなると大損ですね。泣き寝入りをすることはないでしょう」
とはいったものの、おえんはこの仕事をひきうけるのは少々気がすすまなかった。ずるい男やあこぎな男から金を取りたてるのは女だてらに闘志がわくが、巨根ゆえに金を取りたてられる男には気の毒な気がした。
「でもおえんさん、やる気がなさそう」
おせんはすばやくおえんの心中を見ぬいた。
「ないことはありません。馬屋というのは人にいばれた商売じゃありませんが、それでもやってる当人にはいささか気概があります。悪いやつから取るんじゃなくては、なかなか気持がいうことをききません」
おえんは少々わがままをいわせてもらった。馬屋が妓楼や引手茶屋にたいしてわがままをいう立場にはないが、それでもそんな気概を大切にしていないと、馬屋なんぞというやくざな稼業を女だてらにつづけてはいかれないのだ。
「だったらこの取りたては、十分おえんさんがやる価値はあるとおもいますよ。いやがるおいらんを押えつけ、無理を承知でつきやぶるなんて、男の風上にもおけないよ。おそらくこれがはじめてじゃないでしょう。今までも怪我をさせられた女はきっといるにちがいありません。見せしめのためにも、おえんさん、山形屋時三郎というやつから金をふんだくってやってください」
おせんはこのままでは気持がおさまらぬようだ。
「痛がるのを無理にやったとすれば、見逃してやることはないでしょう」
「浅霧が泣いて痛がるのもかまわずつきやぶったんですよ、その山形屋時三郎。浅霧は呼び出し昼三《ちゆうさん》だから、まけてやっても日に一両、一カ月で三十両の揚代《あげだい》がつく勘定です。おえんさん、その三十両をとってください。でなければ、あたしは我慢ができません。浅霧だってくやしいでしょう」
おせんのいい分ももっともだ。呼び出し昼三は昼間の揚代が三|分《ぶ》、昼夜で一両一分がつく。
「相手はお金に不自由のない金持でしょう。泣き寝入りすることはありません。ちょっとあたってみましょう」
おえんはとうとう商談をうけた。
その場で馬屋証文も書いてもらった。
「こんな取りたて、気がすすみませんよ」
浜蔵はそういいながらおえんについてきた。
「ごちゃごちゃいわずに、だまっておあるきよ」
おえんは叱りつけたが、自分でも今ひとつ気持はのらなかった。
「山形屋時三郎、なんて本名かどうかわかりませんよ。神田|相生《あいおい》町にそんな米問屋はないんじゃありませんか」
浜蔵は半信半疑のようである。
神田相生町は、下谷《したや》の南で、筋違御門《すじかいごもん》のちかくである。下級旗本や御家人の屋敷がたくさんあつまった地域をとおりすぎたところに相生町と松永町がならんでいる。
相生町の目ぬき通りをあるいていると、
「あった……」
浜蔵が声をあげた。
浜蔵が指さすところに」形の商標と屋号を書いた看板が見えた。目ぬき通りのおおきな角店《かどみせ》である。使用人も大勢いそうな米問屋だ。
「ほんとにあったねえ」
おえんも半分くらいしかあてにしていなかった。本気でわるさをする客ならば、名も住居《すまい》もいつわっているだろうとかんがえたのだ。
「わたしがいってみましょうか」
浜蔵がいったが、
「あたしがいくよ」
おえんはさえぎった。玉屋から依頼をうけたのはあくまでも自分だというかんがえからだ。
浜蔵をおいて、おえんは山形屋の前まできた。
はやっている店である。はやっているかどうかは店頭にたてばわかる。活気のあるなしでもわかるし、使用人のうごきでもわかる。
「ご主人の山形屋時三郎さんにお目にかかりたいのですが、いらっしゃいますか」
番頭風の、中年のおちついた男にたずねた。
「主人はただ今|外出《そとで》をしております。やがてもどるでしょうが、番頭のわたしでよろしかったら、ご用件をうけたまわりましょう」
その男は如才なくこたえた。
「ご商売の用むきではありませんので、ご主人ご本人とおはなしがしとうございます。しばらくたってから、またまいります」
そういって、おえんは店をでてきた。きかれぬ以上、おえんは名も屋号もつげなかった。
「しばらくそこらをあるいて時間をつぶそう」
浜蔵のいるところにいったんもどって、おえんはあるきだした。
「山形屋時三郎というのは本名なんですね」
「そのようだよ。番頭もしっかりした男だし、きちんと商売をやってる店だね」
「そんなところの主人が、そんなわるさをしますかね」
浜蔵はまだすこし腑《ふ》におちぬところがあるようだ。
「まだよくはわからない。けれども、女あそびは人柄の埒外《らちがい》というからね。本人にあたってみるしかないさ」
おえんと浜蔵は相生町の目ぬき通りをぶらぶらとあるいて、山形屋の近所を観察した。けっこう大店《おおだな》や老|舗《しにせ》が目についた。
一筋奥に入ると、しずかなしもた屋や町家がならんでいる。しばらくいくと、かなり長い石段があり、その上に神社がある。石段は〈相生神社〉の参道であり、むこうの道との通りぬけにもなっているようだ。
浜蔵が石段の五六段めに腰をおろした。
おえんもならんで腰をおろした。
二人の横を通行人がのぼりおりしていった。
見るともなくそれをながめていた。
しばらくたったころ、肩幅のひろいがっちりした中年の男が石段をおりていった。
その男は法被《はつぴ》を羽織っており、その背中に」形の屋号が染めぬいてある。
おえんと浜蔵は顔を見合わせた。
(山形屋時三郎!)
二人は目と目でいった。
「もし、山形屋さん」
おえんはとっさに言葉をかけた。
その男が足をとめてふりむいた。
「山形屋時三郎さん、でございますか」
おえんは言葉をつづけた。
男はすぐにはなにもいわなかったが、その顔は山形屋時三郎であることをみとめていた。眉《まゆ》ふとく、目鼻だちもはっきりした顔である。
「あんたは誰だね」
その男はききかえした。
「浅草|田町《たまち》二丁目に住む馬屋でございます。弁天屋おえん、といいます」
おえんはかくすことなく名と素姓をいった。
男の顔にはやはり一瞬おどろきがはしった。その表情はおえんがいつも商売で名のったときに相手の男が見せる反応とかわらない。
「吉原《なか》の付き馬屋か……」
時三郎がややあってからこたえた。
「おもいあたりがございますか」
おえんがわらうと、
「おもいあたりがないからおどろいているんだ。何用だね」
時三郎はすぐに切りかえしてきた。
「吉原の妓楼玉屋をご存知《ぞんじ》ありませんか」
すかさずおえんはたずねた。
「玉屋は知っている」
「玉屋のおいらん浅霧をご存知ですか」
「浅霧は知っている。けれども見も知らぬあんたにそんなことをたずねられるいわれはないぜ」
時三郎はきびしい顔でいった。
「浅霧が大怪我をして、見世をやすんでいるのを知っていますか。浅霧も玉屋も大層こまっています。一カ月は座敷にでられない見通しですよ」
おえんはなじるように応じた。
「おれが玉屋であそんだとき、浅霧が怪我をしたのは知っているよ。けれどもおれは格別のことをしたわけじゃない。裏をかえしにいったんで、その日はそのままかえるつもりだった。おいらんがすすんで帯をといたんで、おれはつき合った。怪我をしたのは気の毒だが、おれのせいにされるのは迷惑だ。おいらんと客、寝床の中であたり前のことをしたにすぎないよ。田町の馬屋が手下をつれて乗りだしてくるようなことじゃあないんだ」
時三郎はやや憤然とした面持でいった。
「いくらおいらんが先にさそったとはいえ、それは商売柄でございましょう。いかに売り物買い物の遊女とはいえ、痛がる女に手加減もしなかったというのは、少々お客にも非があるんではないでしょうか。相手が痛がればやめてやるのが人の常、人情ではありませんか」
おえんは女の立場からいっても、相手に文句があるところだ。
「おえんさんとやら、それはあまりに男を知らない言葉だ。今あんた、人の常、人情などと口にしたが、男女が寝床で抱き合って、夢中になったところで相手がなにかをいったって、腹の上にのってる男にはきこえないもの。途中で勢をとめるなんざは困難だよ。まして相手は未通女《おぼこ》じゃあない。源平藤橘《げんぺいとうきつ》と毎夜いろいろな男に抱かれているおいらんだ。男女のおこないをやってそんなに痛がるとはおもわないもの」
時三郎は口のほうも達者である。
「それにしたって、浅霧は商売道具を傷ものにされ、今でも痛みでうなってるっていうじゃあありませんか。そんなお客は吉原であそぶ資格はありません。遊女屋にあがられるのも迷惑ですよ」
「遊女屋は客をあげるのが商売で、おいらんは男に抱かれるのが生業《なりわい》だろう。おれはあたり前のことをしただけだ」
「あたり前のことをしておいらんが傷つくはずがありません。浅霧が一カ月見世をやすむあいだの損害三十両、玉屋さんにはらってください。わたしがかわりに申しうけます」
「そんないわれのない金はらえるもんか。一文たりともはらう気はない」
参道の石段で二人は応酬した。
「山形屋さんがはらわなければ、浅霧の前借がふえていきます。三十両前借がふえれば、浅霧の年季の明けが一年以上おくれます。可哀そうだとはおもいませんか」
「可哀そうなのと、おれが金をはらうのとはべつだろう。遊女屋へあがって、おいらんを抱いた。その揚代ははらってある。おれはどこからも何もいわれる筋合はないんだ。これ以上いいがかりをつけるなら、こちらにもかんがえがあるぞ」
とうとう時三郎はおこりだした。
「どんなおかんがえがあっても結構です。三十両はかならず申しうけます。はらってもらうまではひきさがりません」
おえんも意地を見せた。おおきな取りたてとなれば、争いになることは目に見えている。はい左様ですかと二つ返事ではらってくれる客は金輪際いないのだ。
「取れるものならとってみろよ、おえんさん。世の中そんなにあまくはないぜ」
時三郎は余裕たっぷり胸をそらせた。
「承知しました。かならず頂戴《ちようだい》させていただきます。そのときになって吠面《ほえづら》かかないでくださいまし」
「お前さんの泣きっ面のほうが見ものだぜ」
いい捨てて、時三郎は石段をくだっていった。
おえんと浜蔵はその後姿を見おくった。
弁天屋の用談部屋に四人が顔をそろえた。
おえん、又之助、浜蔵に、今日は鬼面《きめん》の新五郎がくわわっていた。
新五郎は仁兵衛のころ弁天屋の番頭をつとめていた男で、一度は馬屋の足をあらったが、おえんが弁天屋をついでから、ときたま手助けをしてくれている。
「おれはね、時三郎の男の道具を一度たしかめてみなきゃならねえとおもうよ」
新五郎はこれまでの経緯《いきさつ》をだまってきいていて、やおら口をひらいた。
「本当に時三郎の道具がおいらんの股《また》をひき裂いちまうほどのものか。それがわからねえうちは戦術のたてようがない」
新五郎のいうことはいつももっともだが、今回はとりわけ真実をついている。
おえん、又之助、浜蔵はうなずいた。
「ちかくの銭湯にもぐりこみましょうか」
浜蔵がいうと、
「時三郎が銭湯へいくはずはないだろう。内風呂《うちぶろ》があるにきまっているよ」
おえんが一蹴《いつしゆう》した。
「じゃあ山形屋の湯殿の天井裏にひそむか、中をのぞくか」
浜蔵がすぐにべつの案をだしたが、三人の反応ははかばかしくなかった。
「それも一案だが、もっとほかによい手立《てだて》がないかね」
おえんは長《なが》煙|管《ぎせる》をとりだし、煙草をつめていった。
「男の道具ってものは、人の話題になりやすいもんだ。まして並はずれて立派な持物なら、かならず本人のまわりで噂や評判になってるはずだよ。時三郎のまわりをあたってみれば、およそわかるんじゃないか」
「新五郎さんのいうとおりだ。男はそんなことをよく自慢するじゃないか」
おえんが新五郎にこたえた。
「道鏡なみだの頼朝《よりとも》なみだのとよくいうやつがいるけれど、そんな化物のようなやつは滅多にいないんじゃないでしょうか」
又之助がはじめて口をはさんだ。
「これから、手わけをして時三郎のまわりをあたろう」
おえんがいうと、
「おれと又之助でやりますよ。お嬢さんには、こんな聞きこみはできないでしょうから」
浜蔵がすぐにこたえた。
「聞きこみは、わたしと浜蔵にまかせてください。お嬢さんは時三郎を攻めてくださいよ」
又之助も応じた。
「時三郎が女に怪我をさせたのは、これがはじめてじゃないとおもう。あたしは時三郎からひどい目にあった女をさがしてみるよ」
「おれも今は閑《ひま》だから、手つだわせてもらうよ。遠慮なくつかってくれ」
おえんに新五郎はそういった。
用談部屋をでると、浜蔵は手拭《てぬぐい》を一本もって弁天屋をでた。
「銭湯かい」
又之助がきくと、浜蔵はにやりとわらってでていった。
浜蔵がやってきたのは神田相生町である。
〈ことぶき湯〉
山形屋からいちばんちかい銭湯に浜蔵はとびこんだ。番台に湯銭の穴あき銭をおいて、素っ裸になり、ザクロ口をくぐって湯舟に体をしずめた。
湯舟の中で下手なはやり小唄《こうた》を口ずさみながら浜蔵は洗い場を見まわした。
洗い場には数人の客がいて、体をあらっている。
浜蔵はその客たちの股間《こかん》をうかがった。
中に一人、かなり立派な道具をぶらさげている勢いのよさそうな男がいた。
浜蔵は湯舟をでていって、その男のとなりにしゃがんだ。そのとき、あやまって男の背へ水をかけてしまった。
「なにしゃがんだっ、冷てえじゃねえか」
男がどなった。
「あっ、申しわけありません。つい粗相をしてしまいました。おゆるしください」
浜蔵は丁寧に詫《わ》びをいった。
「気をつけろよ、若いの」
その男は一度はどなったが、すぐにおさまった。
「相すいません、お詫びに背中をながさせていただきます」
そういうや、相手の返事もまたず、浜蔵は男の背をながしはじめた。以前、仁兵衛の背をよくながしていたので、手つきは慣れている。
「なかなか立派な体をなさってますね。股座《またぐら》のお持物も結構なものじゃありませんか」
浜蔵は世辞をいいながら糠袋《ぬかぶくろ》をつかい、背をながした。
「いやあ、ほめられるほどのもんじゃねえ。人並みだよ」
男は機嫌をなおし、謙遜《けんそん》した。道具をほめられてわるい気のする男はいない。
「人並みよりは、ずんとご立派でいらっしゃる。これでずいぶん女を泣かせたんでございましょうね。まったくうらやましい」
「そりゃあ、いくらかはこれで泣いたやつもいるだろう。でも、おれのものなんか、たいしたもんじゃねえよ」
「噂にききますと、町内の米問屋の旦那《だんな》さんなんかは、どえらい物を持っていらっしゃるって評判ですが」
浜蔵はきっかけをつくって、たずねてみた。
「米問屋といやあ、山形屋の旦那かい。あの旦那ならこの銭湯でも一二度見かけたことがあるが……、そんな噂があるのかい。おれは知らねえな」
意外な返事だ。
「なにしろすごいそうでございますよ。おいらんの股座ひき裂いたってほどのもんだそうです」
「そりゃあ初耳だな。おいらもこの町内に生まれてそだったが、そんなことをきいたのははじめてだ。本当だったら、町内の男は知ってるはずだが」
「今度よくたしかめてごらんなさいまし」
「山形屋には内風呂があるから、年に一度くらいしか銭湯にはこないだろう。けれども山形屋の旦那がそんなものを持ってるとは知らなかった。今度誰かにきいてみよう」
浜蔵の期待ははずれた。男の言葉にはかなりの真実感がこもっていた。
浜蔵は銭湯をでて、弁天屋にもどった。
又之助はその夜、もどってこなかった。
翌々日の夜もおそく、又之助はもどってきた。
浜蔵と又之助は、目を見合わせた。
「聞きこみはできたか?」
浜蔵がきくと、又之助はうなずいた。
「米問屋仲間をあたってみた」
又之助がいった。
「で、どうだった」
「いろいろあたってみたが、時三郎が巨根だなんて噂はどっからもでてこなかった。問屋仲間で湯治や女郎買いにいく機会《おり》はよくあるといってたが、時三郎のそんな評判は全然ないんだ。こいつは少々|眉唾《まゆつば》のはなしだぜ」
又之助は聞きこみについての成果をかたった。
「そうか、やっぱり。おれの聞きこみもおんなじだ」
「おかしな話だ。この取りたてはそもそも、時三郎の巨根がもとではじまった一件だ。おれと浜蔵との聞きこみでは、そのもとの話がくずれちまう。これでは玉屋の浅霧が大怪我をした出来事が嘘になっちまうぜ」
「妙だな、まったく不思議だ」
「おれは米問屋仲間の何人にもあたった。時三郎としたしい仲間にはぜんぶたずねてみたんだ。間違いはねえはずだ。時三郎が巨根だなんて誰も信じていない」
又之助は沈着で冷静、さらに綿密な性格の男である。今まで調査、聞きこみでしくじったことはなかった。
「浅霧や玉屋が嘘をついてるんじゃあないだろうな」
「玉屋は江戸町きっての大見世の老|舗《しにせ》だ。浅霧だって、かりにもそこの呼び出し昼三《ちゆうさん》だぜ。いいかげんな局《つぼね》女郎とはわけがちがう。そんな狂言は自分の得にならないぜ」
「そのとおりだ」
二人が思案投げ首しているところに、弁天屋の表の戸があいた。
この日、おえんは朝でていったきり、まだかえってきていなかった。
やがて、おえんが提灯《ちようちん》をかたづけながら用談部屋に姿をあらわした。
「おかえりなさい、お嬢さん。聞きこみはどうでした」
さっそく浜蔵がたずねた。
「時三郎は以前にも吉原《なか》で、おいらんに怪我を負わせていたよ。昨年、京町の愛|宕屋《あたごや》で若鶴《わかつる》というおいらんがやはり大怪我を負わされて、とんだ目にあったそうだよ。やっぱり時三郎は相当な道具の持主らしい」
おえんの言葉で浜蔵と又之助は顔を見合わせた。正反対の聞きこみがでてきた。
「そのとき、愛宕屋ではさわぎにならなかったのですかね」
又之助がたずねた。
「愛宕屋の番頭が山形屋に掛け合いにでかけたそうだけど、てんで相手にされなかったそうだよ。怪我をしたのは気の毒だけれど、こちらに非はまったくないとつっぱねられて、とうとううやむやにされちまったらしい。若鶴も外聞がわるいといって、愛宕屋では表沙汰《おもてざた》にしなかったようだね」
「それで味をしめて、時三郎はほとぼりのさめたころを見はからって、またやったというわけか」
「ゆるしちゃおけねえ、わるい野郎だ」
浜蔵と又之助は憤慨した。
「それにしても、やつのものはでかいのか、並みなのかさっぱりわからなくなっちまった。ここが大事なところだが、謎はふかまる一方だ……」
「これはまともな聞きこみだけじゃあ、すみそうにねえな」
「時三郎の内懐にとびこまなきゃあならないね」
三人は事件の壁にぶつかった。
数日後、昼間は春嵐が吹いていたが、夕方になってやんだ。吉原の桜もこの嵐でほとんど散ってしまった。
毎年この時季になるときまって春嵐が吹き荒れ、無情に桜を散らしてしまう。あとは葉桜の季節にうつる。
おえんはこの日も聞きこみにあるいていて、宵のころ弁天屋にもどり、夜更けてから床についた。
聞きこみの成果はさほどはかばかしくないが、時三郎はこちらの神経を逆なでするごとく、ちかごろまた吉原に姿を見せているそうだ。見かけによらず、ずぶとい男だ。
うとうとしかけたころ、とつぜん大きな物音がひびいた。家の屋根や壁、羽目板などに石のぶつかる音だ。しかもつづけざまに十いくつも音がした。
とっさにおえんは起きあがった。まるで大きな雹《ひよう》に見舞われたようなはげしい物音だ。
すぐに二階からあわただしい足音がして、又之助と浜蔵が駆けおりてきた。
「なんだ、なんだ!」
「何事がおこった」
二人はおえんの寝間にとびこんできた。
数瞬間、音がやんだが、すぐにまたすごい物音がつづいた。石が家にぶつかるばかりでなく、窓をつきやぶって鶏の卵くらいのおおきさの石が部屋や廊下にとびこんできた。襖《ふすま》をつきぬけたり、家具にぶつかった。
「誰かが石を投げている」
又之助はすばやく店の三和土《たたき》にとびおり、木刀をつかんで外へとびだしていった。
「又之助、あぶないよっ、気をおつけ」
おえんが声をあげたときには、浜蔵も外へとびだしていた。
おえんも寝巻の上から羽織をひっかけ、外へでた。
「お嬢さん。でないでください。中に入っていてください。変なやつらがまだちかくにいるかもしれない」
又之助の声がおっかぶせてきたが、たしなめられて奥へひっこむようなおえんではない。曲者《くせもの》がいたらひっつかまえようと、とっさに店頭から日本堤のほうへはしった。
日本堤はこの時刻、ほとんど闇である。堤を照らす田面行灯《たのもあんどん》がところどころにともっており、その薄明りの中をいくつかの人影が蝙蝠《こうもり》のようにかすめたのが見えた。
又之助も浜蔵も堤まで人影を追ってきた。しかし人影はその前方を横切って、闇の中へ消えてしまった。
「いやがらせの石投げですよ」
「きっと、山形屋のしわざですよ。あの店には若い者の五六人はいましたからね」
又之助と浜蔵はもどってきて、いまいましそうに吐き捨てた。
「父さんの代から馬屋をやってるけど、石を投げられたのははじめてだね。なんてタチのわるいやつなんだ」
おえんは無性に腹がたってきた。石投げといっても、子供がやるいたずらではない。大人が数人で相当大きな石を投げるのであるから、家の中にいてもあたれば大怪我をする。あたりどころがわるければ大変なことになる。
「手をひけという威《おど》しでしょう」
「石投げなんて、いかにもしゃらくせえ。ゆるしちゃあおけねえ」
又之助と浜蔵は憤慨したが、相手をつかまえたわけではないので、怒りのもっていき場がなかった。山形屋のしわざだという証拠もないのだ。
「今晩だけじゃあ、おさまらないとおもうよ。こういう悪さはきっとつづく」
おえんはそんな気がした。
「今度はきっとつかまえてやろう」
浜蔵は家の中にもどっても切歯扼腕《せつしやくわん》した。
窓や羽目板、襖などがこわされていて、石投げのすごさを物語っている。窓や襖には拳《こぶし》くらいの大きさの穴があいている。三人で片づけをしていると一層怒りがつのった。
翌日の夜、浜蔵と又之助は手ぐすねひいて、戸外の物陰にひそんで曲者たちがくるのを待った。
おえんも家の中で、いつくるか、いつくるかと待っていた。
昨|夕《ゆうべ》石投げがあったのは三更《さんこう》(子《ね》の刻)をまわったころだった。
子の刻をすぎたが、曲者たちは姿をあらわさぬ。
丑《うし》の刻(午前二時)まで待ったが、この夜は何事もなかった。
つぎの夜も、おなじ時刻まで、いつでも飛びだせるよう待機していたが、曲者はこなかった。
そのつぎの夜も待ったが、こなかった。
四日めの夜は、三人ともやや寝不足気味だったので、子の刻より前に寝入ってしまった。ところがねむりこんでそう時刻もたたぬころ、またものすごい音にねむりをやぶられた。
今度は前回以上のすごい音だ。しかもたてつづけに二十発以上の石が投げこまれた。石は屋根や壁、羽目板にぶちあたったり、窓をやぶって屋内にとびこんだ。しずけさの中だけにその音はすさまじく、まるで落雷のような騒ぎだ。
又之助と浜蔵は二階の部屋ではなく、すぐに外へとびだせるよう用談部屋に布団をもちこみ、木刀と棍棒《こんぼう》をかたわらに用意して寝ていた。
「きたっ」
「いけ!」
二人はとびだした。
この夜はおぼろな月が照っていて、戸外はかなりあかるかった。薄ら闇の中に堤の上から弁天屋へむかって石を投げている数人の男たちの影がぼんやり見えた。
又之助と浜蔵が追いかけると、今度は二人にむかって石がとんできた。
浜蔵は肩に一発石をうけた。激痛で肩がしびれたが、又之助に負けずに曲者たちを追った。
しかし曲者たちは二人がとびだすやすぐに逃げだした。しかも逃げ足がはやい。
日本堤をつっぱしる者、浅草|田圃《たんぼ》の闇の中へ消える者、それぞれ前もって逃げ道をかんがえていたとみえ、ためらいなく逃げていった。
又之助は日本堤を、浜蔵は田圃の中を追ったが、いずれも途中で逃げ切られた。曲者たちは闇の中に姿を消した。
又之助と浜蔵はむなしくひきあげてきた。
浜蔵は顔をしかめ、右の肩をおさえている。
おえんは浜蔵の寝巻の衿《えり》をひらいた。
「おおきなアザができてるよ。これは冷やしたほうがいい。顔や頭にあたってたら大変だったよ」
おえんはタライに水をくみ、手拭《てぬぐい》をしぼって浜蔵の肩を冷やしてやった。
「こころにくいやつらですよ。まるでこちらの様子を見ぬいておそってきたみたいだ」
「昨日か一昨|日《おととい》の晩だったらつかまえられたのに。残念だ」
二人はしきりに悔しがった。
「又之助と浜蔵、二人とも気をつけておくれよ。あたしがいない留守に大怪我などしないで。今のうちは石投げですんでいるけど、今後、やつらはもっと牙《きば》をむいてくるかもしれないよ」
おえんは心配になっていった。
おえんは探索のために、明日から長期にわたって、弁天屋を留守にすることになっていた。自分のいない明日からをかんがえると心配でたまらなかった。
「お嬢さん、心配はいりません。おれたち二人できちんと留守をあずかりますよ。お嬢さんのほうこそ、しっかりおねがいいたします」
又之助がいうと、
「くれぐれも後をたのむよ。無理や無謀はつつしんでおくれ。喧嘩《けんか》や病気もご法度《はつと》だよ」
おえんはしっかり念をおした。
馬屋といっても、危険はつきものの商売だ。しかも大金の取りたてとなると、相手は真剣に反撃にでてくることがある。おえんも今まで命の危険にさらされたことが何度かあった。
又之助にしろ、浜蔵にしろ、それはおなじである。父の仁兵衛は稼業の取りたてのために、本当に命をおとした。
石投げのいやがらせなどはそれからすれば序の口である。
仲ノ町をかざった桜も、三月の晦|日《みそか》にはすべて取りはらわれて、箕輪の畑にうつしかえられた。
月があらたまって四月になると、吉原では遊女の座敷着は単|衣《ひとえ》になる。季節はやがて初夏にうつる。
時三郎は黒い単衣羽織の姿で、駕篭《かご》で吉原へのりつけた。
江戸町の玉屋で浅霧に怪我を負わせてからおよそ一カ月、吉原がよいをひかえていたが、三月の末ちかくからぼつぼつ吉原へ足をふみ入れていた。時三郎は遊廓《ゆうかく》がこよなく好きなのだ。一カ月も辛抱していると、もう我慢できなくなる。
四月に入ってからは、数日に一度はひっそりと吉原へ足をはこんでいた。
今かよっているのは、京町二丁目。玉屋のある江戸町一丁目からいちばんはなれたところだ。
仲ノ町をまっすぐすすんで、水道尻の秋葉常夜灯を左におれたところに、大見世立花屋がある。
まだ宵もあさいうち、遊女屋の張《はり》見世においらんたちがずらっと居ならんでいる。時三郎は立花屋は今宵《こよい》が三度めである。敵娼《あいかた》吉野とつまり今度が三会目だ。
時三郎は引手茶屋をとおさず、立花屋の暖簾《のれん》をくぐった。マガキは総籬《そうまがき》。
「おいでなさいまし、旦那《だんな》さま」
「お待ちしておりました。吉野も首をながくしてお待ちいたしておりますよ」
妓夫《ぎゆう》と遣《や》り手がすぐにむかえた。
前の二度で時三郎がいい客だと見世の中で知れているのだ。
番頭、女|将《おかみ》も帳場と内所から出てきた。新造《しんぞ》、カムロ、芸者、仲居まででてきた。
籬にひらく花ぞろい、梅茶、散茶がひきたつるスガガキは人のこころを天界へつるしあげ、こなたへいらせたまへと案内しつ、ならんであがる大梯子《おおばしご》、月の都へいたるかとあやしまる……。
と、時三郎は吉野の座敷に案内された。
三会目で馴染《なじみ》金をだしたので、今宵から単なる客ではなくて、馴染である。前回とは待遇ががらりとかわる。はこばれてきた膳《ぜん》が蝶足《ちようあし》となり、箸袋《はしぶくろ》には時三郎の名がしるされている。
座敷がさだまって、遊興がはじまった。
時さま、時さま……と、大もてである。
とりわけ吉野は上機嫌だ。なんといっても時三郎は上客である。かつての紀文《きぶん》、奈良茂《ならも》の大尽ぶりには遠くおよばぬまでも、金の切れは上々である。年もまだ若いし、男前もしぶい。米問屋の主人という背景はまず特上である。
女将も主人も遊興にくわわり、芸者がおどり、太鼓がさかんに芸を披露した。なんといっても馴染の祝いだ。座敷はにぎやかな上にもはなやかである。
盃《さかずき》が何度もいったりきたり、時三郎と吉野のあいだを往復した。
酒のせいか、うれしさのせいか、それとも今後への期待か、吉野の顔はすでに紅潮している。
「おいらん、何を今から赤くなってる。はずかしがるのは床の中に入ってからにしてくんなんし」
太鼓においらん言葉でからかわれて、吉野はあやうく銚子《ちようし》をとりおとしそうになった。
吉野は呼び出し昼三《ちゆうさん》であるが、まだ年も十八で、初心《うぶ》なところがぬけない。からかわれると、本当にあがってしまう。そこがまた可愛いといってヒイキになる客もいる。
座敷の遊興はたちまち半刻《はんとき》あまりがすぎた。
太鼓が獅子《しし》団乱|旋《とらでん》の舞楽をうたったあと、ほんの数瞬、間《ま》があいた。時三郎がひとつちいさくアクビをかんだ。
それを太鼓が見てとって、
「今宵はこれにて幕といたしやしょう」
こころをきかしてみなに声をかけた。
若い者がすかさず座敷に入ってきて、片づけだした。
新造、カムロ、仲居たちはでてゆき、時三郎は厠《かわや》に立った。
いよいよ床入りである。
吉野はすでに仕度をととのえていた。紫縮緬《むらさきちりめん》と緋鹿子《ひがのこ》縮緬の額無垢《がくむく》、浅黄《あさぎ》縮緬のしごき、寝巻仕掛、みすがみを褄《つま》に持ち添えたなまめかしくも凄艶《せいえん》なおいらん姿に時三郎は見とれた。
「明りを消してくんなんし。こうあかるくてははずかしおす」
おいらんが羞恥《しゆうち》に顔をそめてあまえた。いくら商売柄のおいらんとはいえ、好いた客との初床である。羞恥の様がいっそううつくしい。
「はずかしいといっても真っ暗にしては粋《すい》もねえ。灯芯《とうしん》を減らそう」
時三郎は吉野の床姿にぞくっとしながら、行灯《あんどん》の灯芯を一本に減らした。部屋の中が薄ぐらくなった。
吉野はやっと安心して、夜具の中に身を横たえた。
時三郎が吉野の胸へ顔をうずめていくと、やがてのうちにかすかなあえぎがと切れと切れに洩《も》れてきた。吉野ははじめから気持が高潮しているようだ。
吉野の肌はキメこまかく、絹のようにさらさらした餅肌《もちはだ》である。そのやわらかでふんわりとした肌が徐々に熱をおび、紅潮してくるのが感じられた。
時三郎にしても三会目で手にした大果報だ。吉野の肌には新鮮な感動がある。期待したとおりのみずみずしさだ。予想以上の吉野の羞恥が逆に時三郎のこころをかきたてた。
おぼれそうな予感がした。吉野にのめりこんでいきそうな自分を感じた。
吉野のあえぎがしだいにおおきくなってきた。薄ら明りのなかでもだえていく吉野の姿がなまめかしい。
胸乳《むなぢ》の愛撫《あいぶ》からしだいに下へうつっていった。脇腹や腹部に舌を這《は》わしただけでも、吉野はするどく反応した。吉野はおいらんの手練も手管も捨ててしまったようである。
愛撫はさらに下へうつっていった。
「あ……」
そのとき吉野はちいさな声をもらして顔をあげた。
「ごめんなんし、喉《のど》がとてもかわきいした。時さま、お茶《ぶ》……」
お茶をのみに階下《した》へいってきたいというのである。酒と先程からの高潮のせいであろう。
佳境に入るところをさえぎられて、時三郎は一瞬鼻じろんだ。しかし廓《くるわ》の上等な客はおいらんのたいていの望みはかなえてやるのが作法である。
「いっておいで」
と吉野を床からだした。
ほどなく吉野は寝間にもどってきた。
「ごめんなんし、時さま、抱いて」
吉野は布団に入るなり、からみついてきた。
時三郎は待っているあいだに、気持が高ぶっていた。吉野の寝巻仕掛の裾《すそ》をたぐって、足をひらいた。
ひらいた足をやや持ちあげた。勢いおどる充血した一物が白い股間《こかん》に分け入り、分けすすんだ。感動の一瞬である。
吉野の体が海老《えび》のようにそりかえった。
「主《ぬし》さま、待ってくんなまし」
またしても、最高の一瞬に吉野が声をあげた。
時三郎はもはや聞く耳もたず、突き入れた。
とおもった瞬間、吉野の手がのび、時三郎の一物をむんずとつかんだ。
「これ、おいらん、何をする」
時三郎も声をあげた。
「待ってといったら、待ってくんなんし」
おいらんはおちついていい、一物を自分の股間からつかみだした。ぐいとそれを引っぱると、なんと巨大な男道具が時三郎の股間からはずれた。
「あっ、何をするんだ」
さけんだのは時三郎だ。
巨根だけがおいらんの手の中にのこった。べっ甲[#「べっ甲」に傍点]づくりの巨大な張形《はりかた》である。
「お前! 吉野ではないな。どこでかわった?」
時三郎は抱いているおいらんが吉野ではないことをようやくさとって悲鳴をあげた。
「今ごろ気づいたっておそいじゃないか。ボンクラめ」
夜具の中でそういいはなったのは、おえんである。
「お前はだれだっ、おえんだな!」
薄明りの中でようやく時三郎は気づいて、驚愕《きようがく》の声をあげた。
「巨根の正体がわかったよ。自分の持物に自信がないばっかりに、特大の張形でおいらんの股《また》をひき裂いてたんだね。ど助平野郎めっ」
おえんは飛びおきるなり、罵声《ばせい》をあびせた。
「畜生っ、おえんめ! 階下へおりていったときに吉野と入れかわったな。よくもだましやがった」
時三郎は怒りにふるえて憎悪をむきだしにした。
「今ごろわかったっておそいよ、のろま。吉野が行灯《あんどん》の明りを暗くしたのも、そのためさ。こうとわかったうえは、番所へつきだしてやるよ。女の敵め!」
おえんはすばやく身をつくろって、得意の鉤縄《かぎなわ》をかまえた。
「しゃらくせえ、つきだせるものなら、突きだしてみろ」
時三郎はわめくと同時に、猛然とおそいかかってきた。
すっとはずすと同時に、おえんは鉤を時三郎の寝巻の衿《えり》にひっかけた。
そのとき部屋の襖《ふすま》が右と左にさっとひらいた。新五郎、又之助、浜蔵が無言のうちに入ってきた。
「はかったな、畜生っ……」
時三郎が身がまえるよりもはやく、又之助がおえんの鉤縄をつかんで、あっという間に時三郎をぐるぐる巻きにしてしまった。手練の早わざである。時三郎はあばれたが、すぐにうごきがとれなくなった。
「番所へつきだせば、入牢《にゆうろう》はまちがいないところだ。証拠の張形だってあるからね。一年や二年は牢屋からでてこれないよ。お前も家族も身の破滅だ」
おえんはひきすえた時三郎に罵声をあびせつづけた。
新五郎、又之助、浜蔵がまわりをとりかこんでいる。
おえんが先月来、弁天屋を留守にしていたのは、立花屋に住みこんで、時三郎がくるのを待っていたのだ。
「おえん、勘弁してくれ。ゆるしてくれ」
時三郎が悔しそうにうなだれて弱音を吐いた。
「お前みたいな悪党をゆるせるものかね。お前を見のがしたら、また怪我をするおいらんがでるだろう」
「今後いっさいやらねえ。悔いあらためる。どうか堪忍《かんにん》してほしい」
「そんな言葉が信じられるもんか。喉元《のどもと》すぎればあつさをわすれるだ。しばらくたったらきっとまた張形をおもちゃにしたくなるだろう。吉原のおいらんのためにも、堪忍はならないよ」
おえんはあくまでもきびしくつっぱねた。
「この詫《わ》びになんでもするから、ゆるしてくれ。本気で詫びる」
時三郎はくくられたまま、膝《ひざ》をそろえて畳に両手をついた。
「だったら、浅霧の三十両、耳をそろえてだしてもらおうか。それにあと十両。そいつはあたしにいたずらをした代金だ。四十両きちんとはらうなら、情《なさけ》をかけてやろうじゃないか」
おえんは時三郎を見すえていった。
「四十両かならずはらう。嘘はいわねえ。かならずはらう。おえんさん、勘弁してくれ」
時三郎は泣かんばかりにまた手をついた。新五郎、又之助、浜蔵へも一人一人に頭をさげた。
「今回かぎり、四十両でチャラにしてやろう。今後はゆるさないからおぼえておいでよ」
おえんは時三郎に念をおした。
吉原《なか》の夜はぼつぼつ中引《なかびけ》である。
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第三話 鉤縄《かぎなわ》仁義
駒形《こまがた》をすぎると、材木町の材木置場が見えてくる。
夕暮れの川風が隅田《すみだ》の川面《かわも》をわたってきた。
おえんと浜蔵は十軒店《じつけんだな》の幟市《のぼりいち》をひやかして浅草にもどってくると、もう夕暮れがちかくなっていた。
そのとき、ぱたぱたっと鳥の羽音がして、川端の材木置場の陰から黒い影がとびたち、虚空に舞いあがって消えていった。蝙蝠《こうもり》である。この季節、このあたりでよく見られる光景だ。
「気持のわるい鳥だ。どうも好きになれない鳥だよ」
浜蔵は蝙蝠の影を見おくっていった。
「あたしは別段きらいじゃないよ。愛嬌《あいきよう》のある鳥じゃないか、蝙蝠だって」
おえんはわらいながらいった。
「愛嬌なんてありませんよ。どう見たって、不気味で不吉な鳥だ」
浜蔵は蝙蝠についていやなおもいででもあるようだ。
おえんはもう取り合わなかった。
二人は材木町の町並をあるいていった。
材木町はその先で、雷門《かみなりもん》からきた広小路《ひろこうじ》とぶつかる。
「へんな人がきたよ。蝙蝠よりも気持のわるい男じゃないか」
おえんは雷門のほうからやってきた男を見つめていった。
骨柄風采《こつがらふうさい》にとりたてていうほどの特徴はない町人である。どこの店にでもいる番頭ふうの男だ。ただ顔色はひどくわるく、土気色をしており、精彩が全然ない。魂のぬけたカラが一人あるきしているような感じの男である。
「そういわれると、死人があるいているような気がしますねえ。目がうつろだ」
浜蔵もその男をみとめてこたえた。
その男は往来をあるきながらも、腰が全然すわっていない。夢遊病者のようにおえんと浜蔵の前をつっきって、大川橋のほうへむかってふらふらとあるいていった。
「死神にとりつかれてるのかもしれないよ。きっとそうだ……」
おえんは本気でいった。本当にそんな気がしたのである。
そのとき、大川橋のほうから茶色のおおきな野良犬があるいてきた。その犬は正面からくだんの男がちかづくと、おどろいたように立ちどまった。顔をあわせると、一瞬|釘《くぎ》づけになったように居すくみ、早々に道をよけて男のそばをとおりぬけた。
「付けてみましょうか」
浜蔵は好奇心にうごかされたようだ。
「もの好きだねえ。やってみるかい」
おえんも、なにかことがおこりそうな予感をおぼえていた。
おえんがそういったときには、浜蔵はもう男の後ろからあるきだしていた。
おえんも子供のころから好奇心がつよくて、よく両親をなげかせた。女だてら、という言葉はおえんのためにあるようだと父も母もこぼしたものだ。
その男は材木町と花川戸のあいだをとおりぬけ、大川橋の下流側の欄干に寄りそうようにあるきだした。
隅田川は橋の下を滔々《とうとう》とながれている。橋から水面までははるかに遠い。下をのぞき見れば、吸いこまれていきそうだ。
その男は欄干にたたずんで、川のながれを見やっていた。
「飛びこむつもりでしょうかね」
浜蔵は男の様子を見ていった。おえんの答によっては引き止めにでるつもりなのだ。
「どうだろうね。五分五分じゃないかね」
おえんはそう見た。もうしばらく見なければわからない。日は暮れかけているが、まだ橋の上もまばらに人通りはある。こんな時刻に身投げはないだろうという気もした。
浜蔵はとびだしかねて、男の様子を見まもった。
男はしばらく、川面を呆然《ぼうぜん》と見つめていた。とびこむか、おもいとどまるか思案しているようにも見えた。四十前後の気のよわそうな男である。
「店の金をつかいこんだか、それとも主人の留守に内|儀《おかみ》さんとつい道ならぬ恋の淵《ふち》にでもおちこんだんでしょうかね」
「三座のどこかでやってる狂言だね、その筋書きは」
おえんは浜蔵の想像がおかしくなって、からかった。
「本当に今にもとびこみそうな風情じゃありませんか。手おくれになったって、知りませんよ」
浜蔵はそういって、でていこうとした。
「お待ちよ」
おえんは浜蔵の袂《たもと》をつかんだ。
その男はふとおもいあらためたように欄干をはなれた。そしてふたたび蹌踉《そうろう》とした足どりであるきだした。
通行人も、橋の上の風景も、ほとんど男の視界に入っていないようである。目には入っても、意識のうちにはないようだ。うつろな視線を虚空へむけて、男は本所側へむかってあるいていった。
「やめたのかな」
「わからないよ」
とおえんはこたえたものの、男は死のうとおもいながらためらっているような気がした。
二人は男の後をずっとつけてあるいた。
橋のむこうは、中ノ郷竹町である。竹町の渡し船がつくところだ。
「どこへいくんだろう」
「わからないよ」
おえんはおなじ答をくりかえした。そんなこと、当の男にしかわかりっこない。
男は大川橋をわたりきった。橋詰の細川|能登守《のとのかみ》の下屋敷と中ノ郷竹町にはさまれた道をあるきだした。
そのあるき方はどこに目的があるといった様子ではなさそうだ。
「おかしいな……」
「おかしいよ」
男の目的がいっこうに見当つかなかった。
道は一本道だが、左へ左へとまがっている。左手には門前町がつづく。
中ノ郷元町、瓦町《かわらまち》の角を二度まがってまっすぐにいく男を尾行していると、とうとうふたたび大川橋の橋詰までもどってしまった。
「やっぱり、死ぬ気かな」
「死神がとりついてるようだ。中ノ郷をひとまわりして、おもいきりをつけたんだろう」
二人がそういったとおり、男はふたたび大川橋を浅草側へあるきだした。
今度も、橋の欄干へ寄ってあるいている。
ようやく夕闇が濃くなり、浅草側の風景が薄墨色のなかにしずんでいる。橋の上の人通りもほとんどなくなった。
男はやがて、橋のまん中あたりまできた。
今度はためらいを見せなかった。無造作に欄干を乗りこえた。そして一度水面を見おろし、一気に飛びおりようとした。
浜蔵とおえんは橋の上をつっぱしっていた。
「待て、待て、待てっ」
浜蔵は大声でわめきながら、欄干の内側から男にとびついた。
「お助けくださいますな」
いいつつ男は身を投げようとした。
が、浜蔵は背後から男をしっかり抱きかかえていた。
おえんも身をひるがえして、懸命に男に抱きついた。
「身投げなんかいけねえよ。死んじゃあいけねえ」
浜蔵は必死に男を欄干の内側へつれもどそうとした。
「どんな理由《わけ》があるかしれませんが、おもいとどまりくださいまし」
おえんも甲高い声でさけんで、力をふりしぼり、浜蔵とともに男の体をひっぱりあげて、なんとか欄干の内側につれもどした。
「吉原《なか》の遊女屋の番頭さんでしたか」
浜蔵は身投げをしようとした男の素姓を知って大袈裟《おおげさ》な声をあげた。
吉原には江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角《すみ》町のいわゆる五丁町がある。そこに大きな総籬《そうまがき》の大見世《おおみせ》から小は総半籬《そうはんまがき》の小見世、さらに羅生門河岸《らしようもんがし》の鉄砲見世まで、無数の遊女屋がひしめいている。おえん、浜蔵といえどもすべての店の主人、番頭、女|将《おかみ》を知っているわけではなかった。それにしても男が遊女屋の番頭だとはおどろきだった。
おえんと浜蔵は、ともかく男を橋詰にある居酒屋につれこんで、素姓をきき、さらに事情《わけ》をきいた。
「どんな商売にも裏の事情《わけ》や内幕などはあるもんでしょうが、番頭さんがツケの取りたてに失|敗《しくじ》ったからといって、身投げまでするのはいきすぎじゃないでしょうか」
はじめは口のおもかった男も元気づけにすすめられた酒を二口、三口と飲んでいくうちに、すこしずつ事情をうちあけだしたのだ。
「遊客の貸し金のことだったら、おれたちが相談にのれないこともない。よかったら番頭さん、もっとくわしくはなしてみてくれないか」
浜蔵は身投げの原因が貸し金にからんだこととわかって、勢いこんでいった。
男は京町一丁目の大見世|花房屋《はなぶさや》の番頭清七という者だった。
「わたしどもは日ごろ吉原《なか》に大層お世話になっている者です。田町二丁目で弁天屋という店をやっているえんです。こちらが浜蔵といいます」
おえんが自分たちの素姓をあかすと、清七の表情がいくらかあかるくなった。
「そうですか、あなたが弁天屋の女主人でいらっしゃいましたか。弁天屋さんのお名は以前からうけたまわっておりましたが、花房屋ではツケの取りたてはすべて手前どもで始末をいたしておりましたので、そちらさまがたにお世話になったことはありませんでした」
遊客への貸し金は本来、店の牛太郎《ぎゆうたろう》や若い者、あるいは番頭が取りたてにいくものである。取りたてのきわめてむつかしい勘定にかぎって付き馬屋が依頼をうけて取りたてをおこなう。
「本当ならば馬屋なんて商売はなくたっていいんでしょう。けれども世の中には没義道《もぎどう》な人がいて、自分があそんだ金も始末をつけないものだから、わたしたちのような馬屋がでてくる幕となるんです」
おえんがいうと、清七は猪口《ちよこ》の酒に視線をおとしてうなずいた。
「わたしども店の者ではどうしても取りたてのできないツケがあるものです。今回は身にしみてわかりましたよ。本当にこんなときこそ、弁天屋さんをおもい浮かべるべきでした」
清七は強情をはらずにそういった。
「わたしたちでよかったら、力を貸しましょう」
「今は藁《わら》をもつかみたい気持です。ぜひお力になってくださいませ。かんがえてみれば、他人がつくったツケのことで自分が死ぬなんて馬鹿々々しいことです。おえんさん、どうか取りたてをおねがいいたします。加納屋《かのうや》孫兵衛という染井《そめい》の植木屋が九十五両もの代金をどうしてもはらわないのです」
清七は地獄で仏に出会ったようにすがるように取りたてを依頼した。
「植木屋が九十五両のツケを遊女屋につくるとは、とびきり豪儀じゃないかえ」
おえんはおどろいた。
「これには事情《わけ》があります。飲んであそんで九十五両ためたのは幕府植木奉行の役人で、藤井彦十郎という手代でございます。手代ではございますがこの藤井さまがやり手で植木奉行を牛耳っていたようです。植木奉行は幕府と寺社の植木についていっさいの任にあたり、藤井さまが植木の買いつけの権限をおもちのようでした。幕府と寺社のあつかう植木ですからずいぶん値の張るものもあり、数量はおびただしいものなのでしょう。加納屋は藤井さまのお気に入りで、大層仕事をいただいていました。そのかわり藤井さまがおつかいになった代金はこれまですべて加納屋がかわって支払いをいたしておりました」
清七は植木奉行手代と植木屋とのかかわりについてはなしだした。
「なるほど、ありそうな話だ。幕府役人と出入り商人とのあいだは大方そんなものなのだろうな」
浜蔵はこころえた顔でうなずいた。
「もちつもたれつの間柄で今まではうまくいっておりました。ところが先月、藤井さまが卒中でおたおれになり、お亡くなりになりました。今月からあたらしい手代になったそうです。加納屋はあたらしい手代にもちかづこうとしたのですが、うまくいかず、ほかの植木屋との競争に負けたようです。それで藤井さまがためた代金になんだかんだと難癖をつけてシラを切ろうとしているのです。わたしは十何度も加納屋へ足をはこび、いろいろ掛け合いをいたしましたが、とうとう駄目でした。最後には店に入れてもらえなくなりました」
「掌《てのひら》をかえすとはこのことだ。植木奉行手代のツケをはらっても、もう加納屋はうまみはないのだから無駄なはらいには応じないというのだろう」
浜蔵があきれていった。
「遊女屋は派手な商売をしているように見えますが、九十五両も取りっぱぐれますと、店は立ちゆかなくなります。当座のあいだは借金でしのいでゆけましょうが、いつまでも借金をつづけていくわけにはいきません。主人も女将も頭をなやませており、わたしが身投げをして死ねば、加納屋もこころをかえて、ツケをはらってくれるのではないかと思案いたしまして、飛びこもうとしたのです」
「それは番頭さん、あまいかんがえですよ。加納屋はもし番頭さんが身投げなどしても、ビタ一文はらいはしないでしょう。香典がわりにツケをはらうような男なら、はじめっから難癖などつけずに、はらっているはずですよ」
おえんはやわらかくきめつけた。
「よくかんがえればそのとおりです。わたしが死んでも、加納屋はそんな仏ごころを見せるようなやつじゃありません。おもいつめたあまり、わたしは頭に焼きがまわっていたんでしょう」
「そういう悪辣《あくらつ》な手合いには、それなりの手立《てだて》でわたり合うしかないんですよ。遠慮は無用、目には目、歯には歯で立ちむかうのがいちばんなのです」
おえんがいうと、
「そんなやつらにつける薬はないんだ。まして泣き寝入りはやつらをつけあがらせるだけだからね。味をしめて、二度でも三度でもやりかねない。取るべき金はきっちりととってやらねば」
浜蔵もいい添えた。
「弁天屋さん、おねがいいたします。一文のこさず全額取りあげてください。そうでなくては、遊女屋や引手茶屋はたまりません」
清七は気持の切りかえをしたことで、だいぶ元気をとりもどした。酒も入って顔色もよくなった。
「馬屋の代金は取りたての半金がきまりです。けれども今回はこちらからもちかけたような具合ですから、三分の一にいたしましょう」
おえんは清七の立場を考慮してやった。なにせ金額が莫大《ばくだい》だから、三分の一でも十分商売になる。
「そうしていただければ大層たすかります。お言葉にあまえさせてくださいまし。主人も女将もきっとよろこぶでしょう。けれども相手はしたたか者です。十分気をつけてくださいまし」
「悪いやつであればあるほど、こちらも気合いが入ります。かならず取りたててやりますよ。本当ならば、飲んであそんでツケをためた藤井彦十郎もわるいのだけれど、死んだやつからは取りたてられないからね」
「まったくそのとおりです。藤井さまにも五分の責任《せめ》はあるのですが、今はもう仕方がありません」
「生きているやつにぜんぶひっかぶってもらうのだね。今まで加納屋はずいぶんいい目を見たのだろうから」
こうして双方の談合はなりたった。
新緑がまぶしい。
青嵐《せいらん》が吹きぬける。
染井の天地は今がいちばんあざやかである。
染井の地名は、かつてここに染井とよぶ泉があったことによる。が、今ではその泉はかれてしまった。それにかわって、現在の染井には色あざやかな緑の木々がある。
元来は農村であるが、花木や植木を栽培する者がおおく、江戸の植木類はほとんどここで供給している。植木畑、田圃《たんぼ》、森があたり一帯にひろがっている。藤堂家、前田家などの下屋敷があるほかは、人家はほとんど百姓家と植木屋である。
ひろびろとした田園の地をおえんと浜蔵はあるいてきた。
今は桜、つつじがおわり、ぼつぼつさつき[#「さつき」に傍点]のはじまるころである。
土地の人に加納屋をたずねると、すぐにわかった。染井稲|荷《いなり》の境内に加納屋の敷地は隣接している。
ひろい植木畑にかこまれた家屋敷だ。松、杉、桧《ひのき》、槇《まき》、柘植《つげ》、伽羅《きやら》、楓《かえで》、桜、梅、桃、さつき、藤、つつじ……、植木類はおよそことごとく栽培され、形がつけられている。
堂々たる門がまえがあり、門から玄関まで大名屋敷の庭をおもわすようなながい前庭がつづく。
加納屋孫兵衛は駒込《こまごめ》、染井一帯にあまたいる植木屋のなかで三本指に入るといわれている。植木屋としての腕もたいしたものだが、商売上手でも群をぬいている。蓄財ぶりも相当なものだといわれている。
尻端折《しりはしよ》りをして前庭の植木を手入れしているあまり風采《ふうさい》のあがらぬ職人か下男のような者がいた。
「加納屋孫兵衛さんにお会いしたいのですが、お目にかかれるでしょうか」
おえんはその男にたずねた。
「どんな用かね」
男はぶっきら棒にこたえた。
「少々こみいった話がありまして」
おえんが言葉をにごすと、
「こみいった話だったら取り合わぬかもしれないよ。閑《ひま》な人じゃないからねえ」
男はうそぶくようにいった。
「ともかくご主人に取りついでおくんなさい。浅草田町の弁天屋の者だとおつたえください」
浜蔵が横合から言葉をはさむと、
「あんたたち、吉原《なか》の馬屋かい」
男はじろりとおえんと浜蔵をながめていった。
「もしかしまして、そちら様が加納屋孫兵衛さまでいらっしゃいますか」
もしやという気がしておえんはたずねた。
「いかにもおれが加納屋だよ。なんの用だ」
その男は正体をあかしたが、その目にははやくも警戒の色が浮かんでいる。
「それはお見それしました。こちらは加納屋さんのお見とおしのとおりです」
縞《しま》の留袖《とめそで》、浅黄《あさぎ》色の帯をきりっとしめたおえんはいくらか笑みをこぼしていった。
「馬屋にはおもいあたる用事はないな。お前さんがたまねかれざる客だ」
加納屋はにべもなくいった。
「こちらにはおねがいの用むきがございます。お耳ざわりでございましょうが、きいてくださいまし。吉原《なか》は京町一丁目花房屋からたのまれまして、植木奉行手代藤井彦十郎さまが帳面につけてためた九十五両のお勘定をこちらさまからいただきにまいりました。いかがでございましょうか。一度に全額いただきたいとは申しません。何分《なにぶん》かさばる金額でございますから、そちらさまのご都合に合わせた方法でおはらいいただきたいと存じます。よろしくおねがい申しあげます」
おえんは馬屋の口上をのべた。
おえんがいいおわるや、孫兵衛はとつぜん声をあげてわらいだした。
「弁天屋おえんさん、あんた今、藤井彦十郎さまの勘定九十五両をはらってくれといったようだが、藤井さまのツケなら藤井さまのところではらってもらえばいいじゃないか。藤井さまはお亡くなりになったが、お屋敷がなくなったわけじゃない。奥様もいらっしゃるし、まだ年はいかないが、跡取息子もいるはずだよ」
孫兵衛はおかしくてたまらぬようにいった。
「ふつうならばツケをためた人がはらうのが当然でしょうが、藤井さまのツケはいつも加納屋さんがおはらいになっていたそうじゃございませんか。藤井さまも加納屋さんもおたがいに内々に納得ずくだったとうけたまわっております。だからこそ、花房屋さんは加納屋さんにお支払いをおねがいしているのでございます」
「花房屋はどうおもってたか知らないが、おれと藤井さまが納得ずくだったとはとんでもない。一人のみこみの早合点だ。藤井さまのつかった代金をぜんぶおれがはらうなどと藤井さまと約束したこともなければ、花房屋にうけ合ったわけでもないよ」
死人に口なし。孫兵衛は頭から取り合わなかった。おえんが予想したとおりの難物だった。
「この数年、藤井さまの代金はぜんぶ帳面につけて、それを加納屋さんがはらっているではありませんか。花房屋の帳面にはっきりそう書きしるしてありますよ」
「おれが藤井さまの勘定をはらったことはある。けれどもそれは事情《わけ》があってそうしたまでだ。だからといって藤井さまのツケをぜんぶ加納屋がはらうといったもんじゃない。そんなべら棒な話は世間に通用するわけもない。とんでもないいいがかりだ。おえんさんとやら、馬屋の商売も一歩まちがえたら強|請《ゆすり》になるところだよ」
おえんを小娘あつかいにして、逆にやんわりと威《おど》しを見せた。見かけはさほどでないが、やはり相当な強者《つわもの》である。
「藤井さまと加納屋さんはもちつもたれつ、切っても切れないかかわりでむすばれた仲だったと聞いております。藤井さまと加納屋さんの栄耀《えいよう》栄華はおたがいが相手をささえ合っていたからこそとも聞きました。植木奉行の一役人が吉原《なか》の大見世でおもいきりのあそびができたのも、裏で加納屋さんがその尻《しり》ぬぐいをしていたからでしょう。藤井さまが亡くなったからといって、にわかに掌《てのひら》をかえすのは、いかにも理不尽だとおもいませんか」
おえんも負けてはいない。威されれば逆に舌の回転もなめらかになってくる。
「自分のツケに小便ひっかけるような手合を理不尽というのだよ。他人の勘定をはらえというのも、いわば理不尽のうちだ。おえんさん、よくかんがえて商売をおやりなさい。馬屋も商売のうちだろうが、娘だてらによくそんないいがかりの取りたてができるものだ」
「娘だてら、女だてらといわれましょうと、わたしは親の家業をついだだけのこと。馬屋をずいぶん見くびっておいでのようですが、弁天屋は花房屋にかわってまいっているのです。筋道にまちがいはございません。加納屋さんも藤井さまのお力ぞえでずいぶん結構なご商売をなさったはずです。藤井さまのお立場もかんがえて、九十五両おはらいくださるのが真っ当な道とこころえます」
「手前勝手なゴタゴタをならべたって駄目だ。金はつかった者がはらえばいい。おえんさん、お門《かど》ちがいだ」
孫兵衛は突きはなすようにいった。
これ以上あらそっても、今は無駄だ。
「加納屋さん、じっくり頭を冷やしてください。今日はご挨拶《あいさつ》に参上いたしただけでございます。今後たびたび足をはこばせていただきます」
おえんはそういうと浜蔵をうながした。
孫兵衛はわらって見おくった。
月が五月にかわった。このところ五月|雨《さみだれ》がつづいている。五月雨がすっかりあければ、本格的な夏がやってくる。
五月雨の降りつづく中を、おえん、又之助、浜蔵の三人は人さがしに躍起になっていた。伊三次《いさじ》という男をたずねあるいていた。伊三次は加納屋と藤井彦十郎との間柄と経緯《いきさつ》をもっともよく知っている男である。四十前後のやや色黒で、中肉中背である。
おえんと浜蔵はこの日も伊三次の消息をたずねあるいて、夕闇がだいぶ濃くなってきたころ、聖天町《しようでんちよう》から山谷《さんや》橋へでて、日本堤までもどってきた。
日本堤をずっといった先に吉原がある。その途中の左手につづくのが弁天屋のある田町である。
今時分、日本堤には吉原へむかう客の姿が見える。舟や駕篭《かご》をしたてて廓《くるわ》へのりこむのは、一にぎりの裕福な客である。ふつうの者はあるいて日本堤をかよう。
砂利場をすぎようとしたとき、
エッ、ホー、エッ、ホー
威勢のいい駕篭が後ろからちかづいてきた。
「豪儀な客だ。三枚肩ですよ。しかも二|挺《ちよう》つづけてだ」
浜蔵は後ろをふりかえり、濃い夕闇をすかし見ていった。
舟も駕篭も吉原へかよう客ははやいのをこのむ。それで三挺立ての猪牙舟《ちよきぶね》や、肩がわりのついた三枚肩と呼ぶ駕篭が水路、陸路をつっぱしることになる。
エッ、ホー、エッ、ホー
駕篭の声がしだいにちかくにせまってきた。
「藤井もきっと三枚肩や猪牙をとばしてさかんに吉原へくりこんだんでしょうね。死んでしまえばおしまいだが」
藤井の派手なあそびを想像して浜蔵はいった。
「自分の腹は痛まないから、おもいきりよくあそんだのだろう」
おえんがそういったとき、韋駄天《いだてん》のように二組の三枚肩が追いつき、あっという間に追いこしていった。とおもったが、先をいく三枚肩が、とっとっとっ……日本堤の真ん中でとまった。
(なにかあったか?)
おえんも浜蔵もそうおもった。
先棒、後棒、肩がわりの三人は立ちどまったと見るや、とつぜん駕篭をそのままにして、おえんと浜蔵におそいかかってきた。
「なにしやがるんだっ」
浜蔵は大声をあげて、おえんをかばおうとした。
そのときもう一挺の駕篭もとまって、やはり先棒、後棒、肩がわりの男たちが殺到してきた。
「この野郎っ」
浜蔵がわめき、
「なにするんだい!」
おえんも甲高い声をあげた。
浜蔵は果敢にたちむかっていった。
三人の男たちが浜蔵を取りかこんで殴りかかってきた。なかに強いのがいて、浜蔵の頬桁《ほおげた》をいきなり殴りとばした。
浜蔵はよろけたところを、もう一発、顎《あご》にすごいのをくらった。目から火花を発したが、懸命にこらえ、三発めをかろうじて避けた。自分のことよりもおえんが気になって、気が気でなかった。敵に集中できないのだ。
「手前《てめえ》たち、一体、何者だっ」
浜蔵はおもいきって一歩踏みこみ、正面の男の腰へ蹴《け》りを入れた。
男はがたっとよろめいたが、浜蔵が威勢のよかったのは、このときまでだった。夕闇のなかでとつぜん顔に目潰《めつぶ》しをあびせられた。
「ああっ……」
さけんだときにはもう視界は闇だった。目に痛みがはしり、なにも見えなくなったところに、三人がわっとおそいかかってきた。たちまちうごきを封じられて、三人に体をひきずられ、駕篭のなかにおしこめられた。三枚肩は空駕篭だったのだ。
おえんは、もっと簡単に駕篭のなかにおしこめられた。さすがにおえんには男たちは目潰しをつかわなかった。目潰しをつかわなくても、屈強な男たちにおえんは手とり、足とり搦《から》めとられてしまった。一人がおえんの後ろへまわって羽交い締めにしてきた。おもいきりあばれたけれども、しだいに身うごきができなくなった。
おえんも、浜蔵も敵の不意打ちにしてやられた。油断をしていたわけではなかったが、ねらいすました奇襲にまんまとはまってしまった。
おえんと浜蔵はあっけなく駕篭ではこばれた。三枚肩は日本堤の濃い夕闇の中をつっぱしった。
駕篭は田町一丁目、二丁目の町並みをたちまちすぎ、吉原への入口である衣紋坂《えもんざか》の前もすぎた。
日本堤は箕輪《みのわ》までつづくが、吉原をすぎれば、もう左右は田圃《たんぼ》ばかりだ。どこまでいっても田圃である。
駕篭は垂れをさげ、上下左右にはげしく揺れながらはしっていった。
だいぶいったところで、どすんと荒々しく駕篭がおろされた。
垂れがはねあげられて、おえんと浜蔵は駕篭の外へひきずりだされた。
そこが、田圃の畦道《あぜみち》だとすぐにわかった。畦道の左右は水をいっぱいに張った水田である。
夕闇というよりも、もう宵闇にちかいが、五月雨の晴れ間とあって、おぼろに星明りがさしている。
(田圃のなかでころされるのだろうか……?)
おえんは一瞬おもった。
浜蔵がすこし先の畦道で寄ってたかって殴られているのが、気配と物音でわかった。殴りつけるにぶい音と、あらい息、畦道をふみならす足音が入りみだれ、見ているよりも凄惨《せいさん》な光景が想像された。
浜蔵の呻《うめ》き声、唸《うな》り声が不気味にきこえた。
(浜蔵もころされるだろう)
とおえんはおもった。情景が見えぬだけにより以上の恐怖がおこった。
(もう、たすからない……)
おえんは今まで何度となく危険な場に遭遇してきたが、今夜が最後ではないかとおもった。
手足はしばられていないので、自由である。しかし、おえんの最大の武器である鉤縄《かぎなわ》はない。身につけてでたのだが、駕篭で田町二丁目をつっぱしっていたとき、おえんは弁天屋へむかって鉤縄を投げていた。又之助か新五郎が運よくちかくにいて、それをひろっていてくれたら、おえんの危機がわかるはずである。おえんはイチかバチか自分と浜蔵との運をたくして身をまもる武器を投じていたのだ。
(できるだけがんばってみよう)
こんなところでころされたり、半ごろしにされてはかなわない。そうおもうと闘志をかきたてられた。
おえんは手を後ろへまわし、帯のむすび目のところをさぐった。ふだん懐剣を帯の後ろにかくしている。
「痛めつけてやれ」
一人がいうと同時に、おえんは突きとばされた。
前へつんのめっていきながら、おえんはすばやく懐剣をぬいた。
暗いので、男たちはおえんが懐剣を手にしたことに気がつかなかった。
無造作に殴りかかってきた男たちにむかって、おえんは懐剣をふるった。
「ああっ」
男が悲鳴をあげ、手で顔をおおいながらその場に立ちすくんだ。切っ先が男の頬をかすめたのだ。
「やりやがったな、アマ。許しちゃおかねぇ」
べつの男が側面からはげしく体当りしてきた。
たまらず、おえんは吹っとばされた。水田の中におちこむのをようやくこらえ、畦道の縁に横だおしになった。
「やっちまえっ、手加減無用だ」
一人が吠《ほ》えると、ほかの二人もいきりたって飛びかかってきた。
一人の足蹴《あしげ》りがおえんの肩に入った。もう一人が無謀にもバッタのようにおえんに飛びついてきた。
そのときおえんの懐剣がふたたびきらめいた。
「ぎゃっ」
男が悲鳴をあげて、畦道をころげまわり、音をたてて水田へ落ちこんだ。懐剣は男の二の腕をふかく切り裂いた。
「浜蔵、がんばるんだ。今すこしの辛抱だ。やがて応援がくるからねっ」
浜蔵を元気づけるため暗闇にむかって大声をあげた。
むこうの暗闇ではげしい揉《も》み合いの気配がきこえた。浜蔵はなんとか持ちこたえているようだ。
「お嬢さん、大丈夫ですか。今こいつらを片づけてたすけにいきますから」
空《から》元気かどうか、浜蔵は存外元気な声で応じた。が、すぐに殴打の音とともに浜蔵のうめき声がきこえた。
おえんは必死におきあがって、おそってくる男たちに懐剣でたちむかった。
男たちはすでに二人|傷《て》を負っているので、用心ぶかくなった。おえんの隙をねらって、懐剣をとりあげようとねらってくる。一人が音もなく背後にまわった。その男が背後からとびついてきた。
おえんはまたもや羽交い締めにされた。懐剣をふりまわしたが、刃先がとどかぬ。ぐいぐい締めつけられていった。
前からきた男が三つ、四つ、五つ、六つ、ものすごい平手打ちをおえんの両頬に交互に見舞ってきた。はじめに頬を切られた男だ。
打たれていくあいだに、気が遠くなりかけた。羽交い締めもきいてきた。
(なにくそ! 負けるもんか)
おえんは必死にこらえた。だが、しだいに力がうしなわれてきた。
(もう駄目かもしれない)
一方で弱気がおこってきた。息がくるしくてたまらない。ぜえぜえと喉《のど》で息をした。懸命に足をばたつかせて、平手打ちの相手を蹴とばしたが、ぜんぶ空《くう》を切った。
そのとき、おえんは遠くかすかに自分を呼ぶ声を聞いた気がした。
はじめは錯覚かと思ったが、そうではなかった。
「お嬢さあん……、お嬢さあん……」
たしかに又之助の声のような気がした。
「お嬢さあん、いたら声をあげてください。たすけにきましたよ」
今度は新五郎のたのもしい声がきこえた。
うれしさのあまり、あつい涙がこみあげてきた。
「又之助っ、新五郎さあん……」
おえんは必死で声をふりしぼった。
「又之助っ、新五郎さん、はやくたすけてくれっ。お嬢さんがあぶない」
浜蔵がさけんだ。
暗闇のかなたに提灯《ちようちん》の明りが二つ見えた。
提灯の明りが大きく揺れている。
(今すぐたすけにいくぞ!)
という合図であろう。
明りがぐんぐんちかくなってきた。
「ここだっ、ここだあ!」
浜蔵が懸命に声をあげている。
又之助と新五郎の足音がちかづき、明りがおえんの足もとを照らした。
おえんは気がゆるんで、一気に体から力がぬけていった。
男たちと新五郎、又之助のやり合うひびきがしばらくつづいた。
やがて、男たちが逃げていく気配をおえんは察し、畦道にへたりこんだ。
「駕篭かきどもの正体は、加納屋の職人たちにちがいない」
ほうほうの体で弁天屋につれもどされて、浜蔵がいった。
浜蔵は水田の中に何度もおちこみ、さんざん痛めつけられたので、明りのなかに照らしだされると、見るも無残な泥まみれ、傷だらけの惨状だ。呼吸《いき》もたえだえの身でおえんを気づかった。
おえんも負けずおとらずの惨状ながら護身の懐剣があったために、最悪の状態はまぬがれた。が、やはり体中は傷だらけで、いたるところに打ち身を負っている。
又之助はさっそく外科の医者を呼びにはしっていた。浜蔵は肋骨《ろつこつ》をやられている心配があった。
「あたしが顔と二の腕に証拠の傷をつけてやったから、かくしだてはできないよ」
おえんは一度は力がぬけて放心状態におちいったが、弁天屋にもどると元気をとりもどした。しかし全力でたたかいぬいたので、さすがに疲労ははげしかった。用談部屋の床に身を横たえて、体をやすめた。
「又之助がお嬢さんの鉤縄を見つけ、すぐに二|挺《ちよう》の駕篭を追ったんですよ。おれも丁度よいときに弁天屋にきていた」
新五郎はおえんを見ていった。
「本当にありがとう、新五郎さんに又之助。命びろいをしたよ。二人がきてくれなかったら、おそかれはやかれ、あたしと浜蔵は力つきていただろう」
おえんは一息つくと、加納屋孫兵衛への怒りがこみあげてきた。藤井のツケをはらいたくないばかりに、浜蔵と自分を手ひどく痛めつけにでた。もしころしたにしても仕方がないという覚悟が孫兵衛にはあったとうかがわせる。
「孫兵衛というやつ、ここまでやるとはおもわなかったが」
新五郎も前からおよその経緯《いきさつ》はきいていた。
「見かけは百姓くさい野暮天だけど、なかなか図太い根性をしてるよ。金のために人ごろしくらいやろうって男だ」
おえんもこんな男を相手にするからには、もう一度|肚《はら》をすえなおしてかからねばならなかった。
「九十五両といやあ、ふつうの者には手のとどかぬ大金だが、加納屋ならば工面のできぬ金ではないだろう」
新五郎がいうと、
「工面できるできないはあの男にはかかわりないんですよ。ともかくもう役にたたない他人のために金をはらうのがいやなんだ」
おえんは吐き捨てるようにいった。
「こうなったら、一日もはやく伊三次をさがしあてるしかないね」
浜蔵が口をはさんだ。
「伊三次ってのはね、元は加納屋の番頭だった男です。藤井の腰巾着《こしぎんちやく》みたいについてまわって面倒を見ていたのです。藤井が死んでから孫兵衛は伊三次を体よく加納屋から追い出したか、それともほとぼりがさめるまでどこかにかくしたかしたんです。この男をつかまえれば、加納屋と藤井のかかわりをぜんぶ白状させることができるんですがね」
おえんは新五郎へいった。
新五郎はおえんの父親の代に弁天屋の番頭をしていたが、今は手だすけはしてくれても、弁天屋の使用人ではなくなった。おえんを心配して、ときどき顔をみせてくれるのだ。
「こちらの攻め手はその男だな」
新五郎の戦略もおなじと見えた。
「植木職人あがりの番頭ですから、きっとどこかの植木屋にもぐりこんでるとおもうんですよ。そうすれば食いっぱぐれはないからね」
「おそらくそんなところだろう」
「染井でなければ、駒込、千駄木の植木屋か、それとも武州大宮あたりじゃないかな」
弁天屋の者たちは手をわけて毎日そのあたりをさがしあるいているのだ。植木屋というのは江戸中どこにでもあるというのではなく、きまったところにあつまっている。だからさがすのはわりあい容易だとおもったが、伊三次はなかなか見つからなかった。
やがて、弁天屋の表戸がひらいた。又之助が医者をつれてやってきたのだ。
医者は良源《りようげん》という者で、聖天町に住んでいる。
「派手な喧嘩《けんか》をやったものだ。骨の二三本は折れてるかもしれんな」
良源は浜蔵のひどい有様を見ていった。
「お医者さま、わたしは後で結構です。まずお嬢さんを診てあげてください」
浜蔵は当然のことのように遠慮していった。
「なんだ、ここの娘も喧嘩をやったのか。すこしもじゃじゃ馬がなおらんようじゃな。これでは嫁のもらい手がないのも仕方ないわい」
良源はあきれておえんをながめた。
浜蔵ほどではないにしても、おえんも泥まみれ、傷だらけの状態である。
「良源さま、相すみません。わたしの怪我はたいしたことありません。浜蔵のほうを先におねがいいたします」
おえんも先をゆずった。
「いえ、お嬢さんを先に」
ふたたび浜蔵がいった。
「うるさいわい。いい加減にするがいい。両方とも命に別状はない。どちらが先でもおなじこと」
良源はそういって、浜蔵の前にどんと薬箱をおいた。
梅雨があけた。本格的な夏が到来した。
五月晴がつづいている。
木々の緑はいっそう濃くなってきた。
伊三次はまだ見つからぬ。消息を得る手がかりもなかった。
昼間のあつさがすこしおさまりかけた夕刻、ここ二三日弁天屋にもどらなかった又之助がかえってきた。
浜蔵は怪我がだいぶよくなって外回りをしていたが、折よくおえんがすこし前にもどってきていた。
「なにか、つかんだようだね」
おえんは又之助を見ていった。
「たいしたことじゃありません。加納屋が下谷|広徳寺《こうとくじ》の境内の植木を請け負ったそうです。おおきな境内ですから、職人の手はいくらあっても足りないところです」
又之助は今日仕入れてきた情報をつたえた。
「広徳寺の境内は大変なところだよ。植木を入れるだけでも相当な数だ。藤井がいなくなっても、孫兵衛のやつ結構やるじゃないか」
おえんは感心した。
「そうじゃなさそうです。広徳寺境内は藤井がまだ生きているときに加納屋にきめたのだそうです」
「この世の置き土産に藤井がおいていったんだね。これじゃあ加納屋は丸もうけじゃないか。何百両もの稼ぎになるんだから、藤井のツケくらいはらってやってよさそうなものなのに」
「藤井だって、よもや自分のツケがこの世で宙に浮いてるなんてかんがえていないでしょうに」
「広徳寺の仕事に伊三次がくるかもしれないというんだね」
おえんは又之助の心中を読んだ。
「たしかなことはわかりませんが、きてもおかしくはありません。加納屋は人手はほしいのだから」
「そうだよ、広徳寺に姿を見せるかもしれない」
「伊三次は右手の人さし指が真ん中からないそうですよ。植木|鋏《ばさみ》であやまって自分で切りおとしたそうです」
又之助が今日聞きこんできた大事なところはそこだ。
「右手の人さし指が目じるしだね」
おえんは脳裡《のうり》にきざみつけるようにいった。
臨済宗広徳寺の境内の整備は端午の節句の翌日からはじまった。
広徳寺は下谷大通りにある巨刹《きよさつ》で、寺の敷地は約一万坪。寺門を中に生垣が約二丁つづいている。今回の整備はとくにその生垣と境内の植木を中心におこなわれる。参道の杉並木の手入れ、柊《ひいらぎ》、からたちの生垣の手入れがおもな仕事である。
加納屋には日ごろ約十人の職人がいるが、これだけの仕事をするには十分とはいえぬ。植木屋仲間から職人を数人まわしてもらい、十数人ではじめた。それでもこれだけの仕事となると、短期間では片付かない。
巨刹だけに参詣人《さんけいにん》の数はおおい。檀家《だんか》に加賀百万石の前田家がいるし、左|甚五郎《じんごろう》が彫ったキリンが山門の欄間をかざっており、見物や行楽にくる者もおおい。
おえん、又之助、浜蔵は参詣、見物人にまぎれて毎日広徳寺へでかけていった。
おえんは町家の若妻の容儀をこらし、又之助、浜蔵は店者《たなもの》や職人ふうの身ごしらえをしてでかけ、参詣や見物にことよせて加納屋の職人たちに目をこらした。
「伊三次のやつは今日もいないようだね」
おえんはひろい境内をゆっくり一巡してそういった。
「伊三次らしい男はいませんでしたが、顔におおきな膏薬《こうやく》はりつけた職人がおりましたね」
浜蔵は目をひからしていった。
「あれはあたしがつけてやった傷だろうね。相当ふかいはずだよ。二の腕をつってるやつは見あたらなかったけど、あのときの駕篭屋が加納屋の若い衆だったことは、これで間違いなくなった」
おえんも門前の生垣に鋏を入れている職人の中にその男を見つけていた。体はそう大きくはないが、精悍《せいかん》な顔だちで、いかにも敏捷《びんしよう》そうな体つきの若者だった。こいつがあのときの男だとおもうと、飛びかかっていって殴りつけてやりたくなった。その男はおえんだと気づかず、仕事に熱中していた。加納屋には孫兵衛の命令しだいであのような乱暴なはたらきをする若者が何人もいるのである。
毎日足をはこんだが、伊三次の姿は見えなかった。そのかわりに、孫兵衛はほとんど毎日きて、指図をとっていた。孫兵衛は悪党ではあるが、仕事の指図はてきぱきとしており、見事なものだ。指図ばかりでなく、自分でも鋏を入れるし、高い木にのぼり、手際よく枝をおろしていった。その仕事ぶりは小気味よいほどだ。
「あれだけの腕を持っているのに、悪党とはねえ。惜しいもんだ」
浜蔵は感心していった。
「腕前と人間のよしあしは別なんだよ」
おえんも孫兵衛の腕を惜しんだ。
広徳寺にかよいはじめて十日目くらい、境内の仕事も八分どおりできあがったころ、おえんらは昼時分、参詣にでかけた。
植木職人らは客殿の軒下に十数人ならんで腰をおろし、昼飯の弁当をひろげていた。
おえんらはほかの見物人たちにまじって、客殿の廻廊《かいろう》をあるいた。
廻廊から下に職人たちが見えた。
「ごらんよ」
おえんは廻廊をあるきながら又之助をそっとつついた。
又之助も気づいていたようだ。
おえんの視線はいちばん階《きざはし》にちかいところに腰をおろした男の右手にそそがれている。
箸《はし》をつかう男の人さし指の半ばから先がない。
「イの字ですね。間違いありませんや」
浜蔵が小声でいった。
その男は四十前後の中肉中背で、顔色が浅ぐろい。いかにも目先きがききそうな男である。
「とうとう姿をあらわしたな、伊三次め」
又之助は浜蔵よりもっと小声でいった。
「伊三次のかえりをひっさらうんだ。ぬかりのないようにやるんだよ」
おえんは廻廊をおりて、そういった。
今日が広徳寺の境内整備の最後の日だ。門前の生垣も参道の並木も今日で手入れは完了する。木々はどれも枝をきれいに剪定《せんてい》され、丈をつめられ、見事なほどさっぱりした。境内全体の風通しがよくなった。
広徳寺の住職|陰徳《いんとく》と植木奉行水野昌守がこの日整備の検分をおこない、つつがなければ約一カ月におよんだ仕事はおわる。立合い、検分は昼おこなわれ、それがすむと、孫兵衛はじめ職人たち一同は方丈にまねかれ、陰徳から精進料理、般若湯《はんにやとう》の振舞をうけることになっていた。
その朝、職人一同はあるいて広徳寺へむかった。孫兵衛一人は駕篭《かご》で加納屋を出た。
駕篭は染井から千駄木をへて、不忍池《しのばずのいけ》方面へむかった。
不忍池の東岸と寛永寺境内とのあいだのながい道をぬけた。
上野|広小路《ひろこうじ》から山下《やました》へぬければ、広徳寺はちかい。
駕篭は山下をぬけた。この一カ月かよいなれた道である。車坂《くるまざか》のほうへまがれば、その先が広徳寺である。
ところが、どうしたことか、駕篭は車坂へまがらず、まっすぐにすすんだ。
「道がちがうぜ」
孫兵衛は駕篭の中から声をかけた。
ところが、先棒からも後棒からも返事がなかった。駕篭はかまわず、まっすぐすすんだ。
「駕篭屋、ふざけたことをするなよ」
孫兵衛は異常を察して、ドスのきいた声をあびせた。
それでも駕篭屋は返事をしないし、止まりもしない。
「駕篭をとめろっ」
孫兵衛が怒鳴ると、駕篭はいっそう速度をくわえて、寛永寺の屏風坂《びようぶざか》御門の前を駆けぬけた。
「加納屋孫兵衛、あまりうるさいと、背中にぶすりと刃物が突きたつぜ」
後棒の凄《すご》みのある声が孫兵衛の背につきささった。
それ以後は、駕篭屋は声をかけてこなかった。
孫兵衛も無言である。しかし孫兵衛はなかなか度胸がすわっている。じたばたせずに覚悟をきめて、なりゆきに運命をまかせたようだ。
駕篭屋はもうひとつ先の曲り角を右へ入った。
どんどん駆けて、とある荒れはてた寺院の境内へ入っていった。日蓮宗|妙倫寺《みようりんじ》の跡地である。妙倫寺は文化年間に牛込《うしごめ》へ移転し、跡地は廃寺のままになっている。間口はさほど広くはないが、境内の奥行はふかい。
夏草が丈ながくのびて敷石をおおった参道を、駕篭は奥へ奥へとすすんだ。本堂の階段はなかば腐って、くずれかけている。
駕篭は本堂の前でとまった。
「おりて、階段をのぼれ」
孫兵衛にそう声をかけた先棒は又之助であった。
「弁天屋の者たちだな。こんなしゃらくせえことをやって、後悔するなよ」
孫兵衛は又之助をにらみつけて駕篭をおりた。
「おれをしばらなくていいのかい。あばれだすかもしれねえぜ」
孫兵衛はそう後棒にいって、人体《にんてい》をうかがった。
後棒は新五郎である。
「大丈夫だよ。お前は逃げだすことはできねえのだ」
新五郎はさらりといってのけた。
「なにか小細工をしているようだな」
警戒しながらいい、孫兵衛は階段をのぼった。
「本堂のなかで誰にも気兼ねなく、じっくりと用談をしようって寸法だ。一時《いつとき》ですますも、丸一日、二日、三日とのばすのも、それは加納屋の勝手だ」
又之助は廻廊を鉤《かぎ》の手にまがって、孫兵衛を本堂の裏口から中へ押しこんだ。
廃寺の本堂であるが、建築の骨組はしっかりしている。天井や柱にはクモの巣がいたるところに張りめぐらされ、床には埃《ほこり》や鼠の糞《ふん》がつもっている。その中に二つの人影がうごめいた。おえんと浜蔵が待っていた。
「おえん、なにをたくらんでいるのだ。こんなことをしたって、九十五両はでねえぜ」
孫兵衛はおえんが待ちかまえているのを予想していたらしく、憎々しげにいった。
「でるかでないか、たのしみだねえ。そんなことがいえるのは今のうちだよ。先だっての闇討ちのお返しをたっぷりしてやってもいいんだ」
おえんはにこにこわらっていった。
本堂の中は三十畳ぶんくらいの薄暗い板の間である。本尊の菩薩像《ぼさつぞう》ならびに脇菩薩は移転のときに牛込へもちはこばれて、なにもない。
「前にもいったが、藤井さんがためたツケは藤井さんの屋敷ではらってもらったらいい。藤井さんにはずいぶん世話になったが、それと勘定とはかかわりはねえ。ごちゃまぜにしないでくれ」
孫兵衛は四人に取りかこまれ、虚勢を張っていった。
「その気持がかわるまでここにいてもらおう。ここはいくら長居をしたって、誰にも文句はいわれないんだ。それよりも孫兵衛、あんたは昼までに広徳寺の検分に顔を出さなければならないのだろう。陰徳|和尚《おしよう》と植木奉行水野さまがお前をお待ちだよ」
おえんは孫兵衛の弱みをついていった。
「おえん、いい加減にしねえと、お前、お縄になるぜ」
「それは孫兵衛、お前のほうじゃないのかえ。お前と植木奉行手代藤井さんとの薄ぎたないつながりがあばかれたら、お白洲《しらす》にひっぱりだされて、二三年の牢屋《ろうや》ぐらしはまぬがれまい」
「おれと藤井さまとのあいだにはなにもない。あばかれてこまるようなことはなんにもないぜ」
孫兵衛は鼻先でわらった。
「お前が本当にそうおもっているなら、おめでたいよ。お前と藤井さんとは持ちつ持たれつ、さんざ甘い汁を吸い合ってきた仲だ。その腐れ縁もお前が九十五両をだし惜んだばっかりに白日のもとにあばきだされるかもしれないねえ。目先の損得に目がくらんで自分の一生を棒にふることはないとおもうよ」
「おえん、いくらいっても駄目なものは駄目だ。おれの身にやましいところはなにもない。お天道さまが知っていらっしゃる」
孫兵衛はぬけぬけとほざいた。
そのとき孫兵衛が耳をそばだてて横手をうかがった。
横手は桟《さん》のぬけおちた襖《ふすま》が四枚ならんでいる。襖のむこうは経蔵か納戸、あるいは空部屋であろう。
鼠がうごいているにしてはおおきな物音が襖のむこうからきこえた。
「おとなしくしておれといってあるのに、じたばたしやがって」
浜蔵が舌うちをひとつした。
「くだらねえ小細工をしたって、無駄だ。はやくおれをここからだしたらどうだ」
孫兵衛はさすがにかすかに顔をこわばらせた。
「孫兵衛の前にだしておやりよ。生き証人を」
おえんがいうと浜蔵はすっと襖のほうへ寄った。
おえんが顎《あご》でうながした。
襖がひかれた。
「あっ……」
孫兵衛が声をあげた。
襖のむこうには、手足をしっかりとしばりあげられた男が床に芋虫のようにころがされている。
孫兵衛はすぐにその男が何者かわかったようだ。
男は必死でおきあがって逃げようとしていた。
「伊三次、逃げようったって無駄だ。お前は大事な生き証人だ。逃がすもんじゃねえ」
浜蔵は伊三次のちかくへ寄って脇腹をおもいっきり蹴《け》っとばした。
「ううう……」
伊三次は音をあげてうめいた。
一昨々|日《さきおととい》、伊三次は仕事がおわって広徳寺からもどる途中を又之助と浜蔵にさらわれて、ここにとじこめられた。
「伊三次をさらったのは、お前たちか」
孫兵衛は唸《うな》り声をあげ、憎悪の形相で三人をにらみつけた。
「伊三次は一昨々日から昨|夜《ゆうべ》にかけて加納屋と藤井さんとの腐れ縁をあますところなくしゃべってくれたよ。なにしろ三日間、たっぷり痛めつけてやったからね」
おえんが小気味よく気炎をあげた。
つぎの瞬間、孫兵衛の顔がみにくくゆがんだ。憎悪と憤怒が孫兵衛の体のうちで煮えたぎり、それが瞬時のうちに爆発した。
「伊三次、死ねっ。おめおめと生きながらえやがって」
憎悪を噴出させ、孫兵衛はとつじょ身をおどらせ伊三次に駆け寄った。
「死ねえっ」
もう一度さけんで、孫兵衛は伊三次に飛びかかり、両手で首をしめた。
「たすけてくれえっ」
伊三次はもがきながら絶叫した。
孫兵衛は本気でしめころそうと、渾身《こんしん》の力でぐいぐい伊三次の首をしめあげていった。
「いい加減にしろ!」
浜蔵と又之助が孫兵衛をひきはがした。
と同時に、孫兵衛は猛然と身をひるがえし、本堂脱出をはかった。
シュッ、
おえんの鉤縄《かぎなわ》が鳴ったのはそのときである。
鉤縄は蛇のように孫兵衛の帯のむすび目にまきついた。
縄がぴんと張り、孫兵衛がずるずるとたぐり寄せられた。
「おえん、負けたよ。か、勘弁してくれ。九十五両、み、耳をそろえてはらおうじゃねえか」
孫兵衛は口惜しそうに顔をゆがめて、ついに音をあげた。
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第四話 女郎|蜘蛛《ぐも》は嗤《わら》う
(あの客、今日もきている)
おえんは天清《てんきよ》の帳場から店内をながめて、一人の男に視線をとめた。
おえんはこの数日、天清の帳場にすわっている。ふだんは兄仁吉の女房おりつが帳場をあずかっているのだが、このところはやっている夏風邪にやられて、おえんがかわっていた。
その客は注文した天麩羅《てんぷら》がくるのを待ちながら、ときどきおえんに視線をむけてきた。その表情にはなにやらおもいつめたものがある。金のかかった紗《しや》の縮《ちぢみ》を無造作に着た四十前後の男だ。
視線がまたおえんにむいたとき、
(いやな客、あたしに気があるんだろうか)
そうおもって、おもいきり見かえしてやった。
すると男はあわてて視線をそらし、おどおどした様子で所在なげに天麩羅を待った。
天清は昼時とあって、縁台と小座敷はほぼ客でうずまっている。
(あたしが帳場《ここ》にすわると、とたんに客がふえるんだから)
おえんは満更でない気持でくだんの男を見ると、そいつはまたおえんのほうを見ていた。
(助平おやじめ、一体なにかんがえてるんだろう)
金まわりのよさそうな男だからきっと金ずくか甘言でいい寄ろうとしてるんだろう、そうおもってにらみつけようとしたとき、天麩羅と飯が男の前にはこばれた。
男はおもいなおしたように箸《はし》をとった。天麩羅をたべはじめたが、こころここにあらずといった様子である。
(あたしは遊び男の誘|惑《さそい》にのるような尻軽女《しりがるおんな》じゃないよ。もし嫁にほしいっていうんなら、仲人《なこうど》をたてておいで。そうしたらかんがえてやったっていいよ)
腹のなかで毒づいていると、男にはおえんの気持がいくらかわかったとみえて、あきらめたようにその後は箸を口へはこんだ。
男が帳場のほうをむかなくなると、
(ふん、意気地なし。気があるんだったら男らしく声をかけてくればいいじゃないか。どうせあしたか、明後|日《あさつて》もくるんだろう)
おえんは今度は男の弱気に腹をたてて毒づいた。
ようやく男は天麩羅と飯をたべおわった。
ややあってから、男は縁台から立ちあがり、帳場にむかってきた。
おえんはそっぽをむいていた。
「弁天屋おえんさんですね」
男は勘定をさしだしながらそういった。
おえんは男の言葉をきいて、
(あ……)
とおもった。
馬屋にきた客だと感づいたのだ。とんだおえんの勘ちがいだった。
「はい、わたしがえんです。こちらの店が手がたりないもので、手つだいにきております」
おえんは、もう馬屋にかえった気分でこたえていた。商売となると、さすがに瞬時に気持がかわるものだった。
「少々おねがいごとがあってうかがいました。話をきいていただけましょうか。わたしは花むら屋|庄八《しようはち》と申します」
男は店内の客にはよくきこえぬようひくい声でいった。
「お客さん、昨日もいらっしゃいましたね」
おえんはそういって花むら屋庄八の顔を見た。
「昨日まいりましたが、ついいいだしにくくなって、そのままかえっちまいました。今日は恥をしのんでおねがいすることにいたしました」
弁天屋はあいているのだが、昼間はずっとおえんがこちらにきているので、庄八は天清にやってきたのだ。
「お話をうかがうのは結構ですが、花むら屋さんとおっしゃいますと?」
吉原の遊女屋や引手茶屋で花むら屋という屋号をきいたことがなかった。
「まずそこから申しあげますと、うちは吉原《なか》とはかかわりがありません。神田橋で料理茶屋をやっております。弁天屋さんには筋違いでございましょうが、どうしてもおえんさんにおねがいいたしたくてやってまいりました」
おえんにとっては意外なことだ。
「弁天|屋《うち》は馬屋ですから、吉原の遊女屋や引手茶屋のお仕事をひきうけてやっております。ほかのことでしたらお門ちがいでございますので、お話をうかがっても仕方がないとおもいますが」
おえんは相手に失礼にならぬよう気をくばってことわった。
「それは重々承知いたしております。けれどもどうしても弁天屋さんにおねがいいたしたいのです。そうおもって、昨日も今日もやってきたようなわけでございます。わたしの話をきいてくださいませ」
庄八はもう後へはひかぬ様子でいった。
「そうですか、それならばお話だけでもうかがいましょう。ここは店がちがいますので、わたしがご案内いたします」
おえんはそうこたえて、店の女中に帳場をたのんだ。
「こちらへ」
おえんは外へはでず、天清の帳場の裏をとおって弁天屋の用談部屋に案内した。
天清と弁天屋とはおなじ棟で商いをしている。表が天清で、裏が弁天屋である。
「お手数をとらせまして、申し訳ありません。お恥ずかしい話でございますが、ある女に百五十両だましとられそうなのです。色じかけでせまられて、つい目がくらみ百五十両貸しましたところ、言を左右にして一両たりともかえそうといたしません。その金は商売でつかう金ですので、もどしてもらわぬことには商いがなりたたないのです。今は金貸しから借りてなんとかしのいでおりますが、利子がかさむので、そういつまでも借りておくわけにはまいりません。どうか、おえんさん力をかしてくださいませ」
庄八は用談部屋にすわってはなしだした。
おえんは聞いていて、しばらく沈黙した。
「百五十両なんてお金を借りてれば、利子だって大変でしょう。よくそんな大金を貸したものですね」
おえんはあきれていった。
「面目もない話でございます」
庄八は身をちぢめるようにしていったが、目には貸した女にたいする怒りと憎しみがあった。
「色じかけとおっしゃいましたが、花むら屋さん一度でも望みを達したわけでございますね」
金のもつれには借り手、貸し手双方に原因のある場合がおおいものだ。
「はい、お察しのとおりでございます。わたしにも弱いこころと、みだらな欲がありました。それでついまんまと、相手の罠《わな》にはまったようなしだいです。相手は、吉原の太|夫《たゆう》あがり、手練手管の駆け引きには豪の者で、はじめは警戒しておりましたが、ついしてやられました」
「それで借用証文もとってないんだね。金に色がからむと、泥沼の揉《も》めごとになる恐れがあるんだ。相手は太夫あがりか……」
おえんはかんがえこんだ。話をうけるべきかどうか思案した。
「もと江戸町の高木屋でお職《しよく》をはった千代里《ちよさと》という女です。料理茶屋の主人に身請けされ、そこの女|将《おかみ》におさまったが、すぐに旦那《だんな》が死んで、今度は店の女主人になっちまったという凄《すご》い女ですよ」
「ふうん、なにか奥がありそうな女だね。そんな女にひっかかった花むら屋さんがわるかったんだ」
「まことにご説のとおりです。相手はなにせ、陰で女郎|蜘蛛《ぐも》と呼ばれているような女でした。わたしが太刀打ちできるはずがなかったのです」
庄八は殊勝に自分の非をみとめた。
「罠にはまった男もわるいが、はめた女はもっとわるいよ。それが太夫あがりとなると、吉原のおいらんたちの面よごしだ。吉原の女の評判がまたわるくなる」
おえんは複雑な気持である。おえんはふだんは吉原の女たちの味方のつもりだ。庄八の話をひきうけるとすれば、今度は吉原の太夫あがりを敵にまわさなければならなくなる。
「弁天屋さんにこんな話をおねがいにあがったのは、相手が女郎あがりの女だからです。おえんさんのような女《ひと》でなければ、こんな取りたてはできぬとかんがえました」
「相手が女じゃ、気がすすまないねえ。まして、吉原であそんだ金の取りたてでもないんだから」
おえんはあくまでも二の足をふんだ。
「女といっても、男以上にわるいやつです。並の男じゃあ、到底太刀打ちなんかできません。女郎蜘蛛と呼ばれてるだけあって、男の子分たちを顎《あご》でつかってるような女です」
「それほどいうなら、引きうけようかね。今回だけは番外だ」
ようやくおえんはその気になった。
晩夏に涼風が吹きぬけていく。土用あい[#「土用あい」に傍点]である。
土用あいの吹く大丸新道《だいまるしんみち》を三|挺《ちよう》の駕篭《かご》がとおりぬけていった。
七月には盂蘭盆《うらぼん》がひかえているので、新道の商家の軒にはさまざまな盆提灯《ぼんぢようちん》がさがっている。夕方になれば盆提灯や切子灯篭《きりこどうろう》に火が入ってうつくしい光景となる。
三挺の駕篭は大丸新道から瓢箪《ひようたん》新道へでて、天神屋という洒|落《しやれ》た門がまえをもつ料理茶屋の店先にとまった。天神屋はさほど大きな店ではないが、うまい料理を食わせることで知られている料理茶屋である。
駕篭からおりてつよい日差のなかにすっきりと涼しげな姿をあらわしたのは、おえんである。このみの縞《しま》の留袖《とめそで》に浅黄《あさぎ》色の帯をきりっとしめている。日差をうけて、おえんの美貌《びぼう》がかがやいている。
おえんにつづいて駕篭をおりたのは、又之助と浜蔵である。二人とも夏の一張羅《いつちようら》の麻の縮《ちぢみ》だ。履物もおろしたての草履《もの》で、ふだんとは人がかわったような上品なよそおいである。
「馬子にも衣装、髪かたち、とはよくいったものだ。まるで別人のようだよ」
おえんは二人を見やってにこりとわらった。
「お嬢さんだって、すごい別嬪《べつぴん》ですよ」
「それはいつもとおなじだよ」
おえんと浜蔵はみじかいやりとりをかわして天神屋の門をくぐった。
門から玄関まで凝った前庭である。料理茶屋は味だけが勝負ではない。庭のうつくしさ、
屋敷のつくり、風呂《ふろ》のよしあしなども大事な要素である。それらの条件を天神屋はみたしている。
「ようこそお越しくださいました」
玄関には番頭や仲居がでていて三人をむかえた。
「ご三人さま、奥のお座敷にご案内ぃ」
番頭の声に仲居がうなずいて、一行を奥座敷へみちびいていった。
つぎの間つき八畳間である。床の間の柱や欄間の彫物、置物の壷《つぼ》などが見事である。障子をあけはなしてあるので、庭を一望にできる。
茶や煙草盆、団|扇《うちわ》がはこばれた。
「お料理はいかがいたしましょう」
仲居の問いに、おえんはしばらく品書をながめ、
「松[#「松」に傍点]の料理にしてください」
いちばん高価な料理を三人前注文した。
つきだしの皿と酒がはこばれた。
「さあ、たらふく飲んで、お食べよ。こんな豪儀な昼|餉《おひる》は滅多にないだろうから」
「こんな仕事が毎日つづけばいいものを」
「仕事とはいえ、こんな昼飯にありつけるとは極楽だ」
「それじゃあまるで、あたしがおいしいご飯を食べさせてないみたいじゃないか」
三人はいいながら冷酒をそそいで飲みはじめた。かわいた喉《のど》に冷酒がうまい。腸《はらわた》にしみとおる。
しばらくするうちに、松の膳《ぜん》がはこばれてきた。吸物、刺身、焼物、煮物、揚物……、季節の魚介と山菜を吟味しぬいた料理である。
三人は酒を飲んでは、料理に舌鼓《したつづみ》をうった。
歓談の時はすぎてゆき、しだいに料理の皿はあいていった。
ほぼ料理をたべおわって、麦湯をすすっていると、
「店の女将がご挨拶《あいさつ》にまいります」
仲居がそうつげた。
やがて、襖《ふすま》がひらいて、女中頭をつれた女将が座敷に姿をあらわした。
三人は固唾《かたず》をのんで見まもった。
一陣の涼風が廊下から座敷に吹きこんできた。黒髪をふっくらと丸髷《まるまげ》にゆったいかにも上品な女が入ってきた。年はまだ二十五六だが、女将というよりは、大家の若内|儀《おかみ》といったおちついた雰囲気がただよっている。
「わたしが当店の女主人で、女将をやっておりますとよ[#「とよ」に傍点]でございます。本日はわざわざおこしいただきまして有難うございました」
女将は流儀にかなった挨拶をして、三人へ笑顔をむけた。その臈《ろう》たけたうつくしい笑顔が座敷の雰囲気のなかでいっそうひきたって見えた。濃紺の紗《しや》の着物から白い下着がすけて、そこはかとない色気もただよっている。
女のおえんですらもおとよの上品なうつくしさにおもわずひきこまれそうになった。女郎蜘蛛の渾名《あだな》から想像される妖艶《ようえん》な毒婦の印象はカケラもなかった。まるで予想がはずれた。
庄八が嘘をいっているのではないかと、一瞬おえんはうたがったほどだ。
「弁天屋えんといいます。お噂をうかがいまして店の者たちとまいりました。噂にたがわず、おいしいお料理をご馳走《ちそう》になりました。今後もちょいちょい足をはこばせてもらいます。それから、おうつくしい女将さんのお噂も人づてにききましてやってきたしだいです。こちらもやはり噂にまちがいなく、見ごたえのある女将さんを拝見できまして、本望でございました」
おえんも口上にはなれているので、おとよを前にしておちつきはらった挨拶を口にした。
おとよはおえんの挨拶をきいて、にっこり頬笑んだ。
おえんもやんわりと笑顔で応じた。
百花にひけをとらぬ美人と美女との一瞬の対決である。両者のあいだに暗黙の火花が散った。
(この女が本当に吉原の女郎あがり、しかもお職をはった太夫とは……)
信じられぬおもいで、おえんはおとよをながめた。美貌だけではない。気品にも教養にもめぐまれていそうだ。こんな女が相手だったら花むら屋庄八が目がくらんだというのも無理ではないとおもった。庄八ばかりでなく、どんな男でもひとたまりもあるまいと心中うなった。
けれどもこのような女がどのようにして男にちかづき、男を罠におとすのだろうかという好奇心が湧きたってきた。女郎蜘蛛は節足動物のうちでもっとも凶暴な種類である。樹間に丸網をはってその中央にかまえ、夕方虫のかかるのを待って、毒をふくんだ上顎でかみころす。黒地に黄の縞をもつ凄味《すごみ》のある蜘蛛だ。こんな渾名がつくような凄さと凶悪さをおとよは美貌のうちに秘めているのだろうかとおえんはおもった。
「いいえ、わたくしなぞは主人に先だたれた後家でございます。もうこの世にほとんど用もない身です。主人の供をしてあの世に行けばよい身の上ですが、そうもならず、やむなく主人の商売の後をつづけております。家業|柄《がら》つとめてにぎにぎしくやっておりますが、心《しん》は身寄りもたよりとする者もないさびしい女です」
おとよの口からたよりない言葉がもれた。こんな言葉も男がきけば、こころのうちをぞくっとさせる口説《くぜつ》となるのだろう。
「女|将《おかみ》さんのような方がたよりなくては、ほかの女などは一体どのようにして生きていったらよいのでしょうか。わたしなどはいかず後家のじゃじゃ馬とみなからいわれる罰あたりな女です。女将さんのような方がうらやましいかぎりでございます」
今度は謙遜《けんそん》と相手への褒め言葉が二人のあいだをいき交った。
又之助と浜蔵は二人のあいだに言葉をはさむ余地もなく、やりとりをだまって、聞いていた。
「今後とも、よろしくごひいきにおねがいいたします。またお姿を見せてくださいませ。これは天神屋でお客さまへおだししている団扇でございます。およろしかったら、つかってくださいませ」
そういっておとよは三人にそれぞれ二枚ずつの絵入り団扇を差しだした。おえんがもらった団扇の一枚には、緋鯉《ひごい》が池の波紋のなかで悠々とおよいでいる絵があった。おえんはその絵が緋鯉ではなく女郎|蜘蛛《ぐも》のように見え、池の波紋がまるで巣の丸網のように見えた。
「涼しそうな団扇をどうもありがとうございます。よろこんでつかわしていただきます。それからこれは、わたくしが女将さんへ差しあげるご挨拶です」
おえんはそういい、懐中から封書におさめたものをとりだし、おとよへわたした。
「それはまあ……」
おとよは意外な面持で封書を手にして、その場で封を切った。
おとよの視線が封書のなかの書面を追った。
けげんな視線がしだいにかたい視線にかわった。表情にもいくらかけわしさがあらわれてきた。
「一体、これは……」
不快な眼差《まなざし》がおえんにむけられた。
「女将さんにはおぼえがあるとおもいますが」
おえんはやんわりとうけた。
「あなたは、いったい何者ですか」
おとよはおえんを見すえてきいた。
「わたしでしたら、はじめに名乗りましたとおり、弁天屋えんという者です。家業をあかせば、浅草田町で馬屋をやっております。いわば焦《こ》げついたツケを遊女屋にかわって取りたてる商売ですよ」
おえんが素姓をあかすと、おとよの美貌にすっと刷《は》いたように険がはしった。
「付き馬屋だね」
そういうや、おとよは書面をおえんにつきかえした。
その書面がひらりと舞って、おえんの膝元《ひざもと》におちた。
証文
[#ここから3字下げ]
おおでんま町二丁目てんじん屋おとよ殿への貸し金、百五拾両、田町二丁目べん天屋おえん殿に取りたておねがい申すべく、委細おまかせいたすものなり
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]花むら屋庄八
その書面にはこう文字が書かれている。いわば委任状である。馬屋証文になぞらえて、おえんが庄八に書いてもらったものだ。これがなければ、おえんがいくら取りたてにいっても効力はない。
「わたしが今日、こちらへご挨拶にまいりました用むきはこれでございます。女将さん、よろしくおねがいいたします」
おえんは丁寧に畳に両手をついた。
「天神屋はこんなお客に用はございません。料理をたべおわったら、さっそくお引きとりくださいませ」
おとよは無表情にいってのけると、しずかに座をたち、奥へひきあげていった。
蜩《ひぐらし》が鳴きだした。
盆がすぎれば暑さがだいぶおさまるのが普通だが、今年はなお残暑がきびしい。空の色や雲のかたちもまだ晩夏のものだ。朝夕の風だけがときに新秋のさわやかさをもたらすことがある。
やがて薄暮がくるころ、日本橋|界隈《かいわい》の町内では店前や往来などに涼み台をだし、煙草盆、団扇をもちだして家々の主人や使用人、子供たちまでが寄りあつまって納涼をおこなう。花火であそぶ子供もあり、将棋や囲碁をあらそう大人もある。どこの町内でもよく見られる光景だ。
「エ、ひゃら、ひゃこい、ひゃあ、ひゃあこい」
瓢箪新道につづく大丸新道に白玉《しらたま》水売りの声がきこえてきた。
若いいなせな男が豆しぼりの向鉢巻《むこうはちまき》をし、法被《はつぴ》姿も威勢よく、紅白の白玉を瀬戸の鉢に盛り、砂糖を皿に山のごとくもりあげ、真鍮《しんちゆう》の朝顔形の水呑《みずの》みをひかりかがやかせ、酸漿《ほおずき》提灯をつった荷をかついで、新道に姿をあらわした。
「エ、ひゃら、ひゃあこい……」
白玉水売りの声が夕方の町筋によくとおる。
「よう、白玉おくれ」
「白玉四皿だ」
新道の往来の縁《へり》においた涼み台をはさんで将棋をさしていた二組の男たちがさっそく白玉水売りに声をかけた。
「へいっ、白玉四人前、ありがとうございますっ」
てきぱきと四つの皿に紅白の白玉をとりわけ、その上に砂糖をふんだんにふりかけて涼み台においた男は又之助である。
向鉢巻に紺の法被が又之助によく似合う。
「兄ちゃん、明日もまた今じぶんにきておくれ。兄ちゃんの白玉がいちばんうまいや」
そう声をかけてくれたのは、四人のなかでいちばん年かさの男である。
又之助は儲《もう》けが目的ではないから、白玉の数もおおいし、とりわけ江戸っ子の好きな砂糖をたっぷりとかけてやる。
「兄ちゃん、気前がいいから、顧|客《とくい》もおおいだろう。それに苦みばしった男前だ。商家の娘や女中たちが寄ってくるだろうな」
もう一人が勝負の手をやすめて声をかけてきた。
「そんなこともありませんが、たまさかには声をかけてくださる娘さんや女中さんたちもいらっしゃいます」
又之助がかるくうけると、
「そうだろう、お前さんの男前なら、女たちがほうっておかねえや。ときには、往来から家ん中や庭にひっぱりこまれたりすることもあるだろう」
もう一組のほうからもからかい半分の声がかかった。
「そうでもありやせん。そんなことをしていたら商売《あきない》になりません」
「それはそうだな、お前さんにはこれが商売だ。だがな、まちがっても天神屋の中へひっぱりこまれちゃあいけないぜ。天神屋には性質《たち》のよくねえ女郎蜘蛛が巣を張ってる」
いちばん年かさの男がいうと、ほかの三人はみなわっとはやしたてた。
「女郎蜘蛛がいるんですか」
「目のくらむほど色っぽい女郎蜘蛛だ。世の中にこれほどいい女はまたとないといっていいほどの女だよ。これが寄ってきた男の精を吸いつくし、そのあげくにがぶりと一と噛《か》み、男は地獄いきだ。それでも男は女の魔力にひかれていくそうだ」
「一体、それはなんの話で?」
又之助はとぼけてきいた。本当は、又之助が白玉水売りになったねらいはそこにあるのだ。
「天神屋の美人の女将だ。できることなら、お前さん、この女将と顔を合わさないほうがいいよ。ちょっと見には虫もころさぬ顔をした上品な女将だ」
「左様でございますか。ちょいと面白そうでござんすね」
「嘘はいわねえから、お前さん、この女だけには気をつけたほうがいいぜ。この女の罠《わな》にかかった男は今までに幾たりもいるんだ。もとの旦那《だんな》なんかは、ころされたって噂だぜ。女を吉原から身請けしてやって、そのまんま店もろとも乗っとられたってのが真相だよ」
男たちは冗談半分、からかい半分に饒舌《じようぜつ》になりながら白玉をたいらげていった。
「おそろしい話でございますね。十分気をつけますよ」
又之助はそういって勘定をうけとり、
「エ、ひゃら、ひゃらこい……」
声をあげて、新道をあるいていった。
約半月ぶりに又之助は弁天屋にもどった。
そのあいだ又之助は天神屋おとよのアタリ[#「アタリ」に傍点]をとっていた。
弁天屋の用談部屋ではおえんと浜蔵が待っていた。
「ご苦労さんだったね。又之助の白玉水売りは本当によくできてたよ。粋《いき》でいなせで、にがみばしってて、又之助がこんなにいい男だったとは、あたしも今度はじめて気づいたよ」
おえんはまず又之助をねぎらった。
「そんなこともありませんでしたが、白玉水売りはなかなか面白い商売でしたよ」
又之助は男前をほめられて、すこし照れて見せた。
浜蔵も又之助もずっと以前からおえんの手足となってはたらいているが、こころの底ではすこしばかりおえんに気があるのだ。
「町の娘や商家の女中にもててたそうじゃないか。ずいぶんアタリはとれただろうね」
おえんはずっと又之助の成果に期待をしていたのだ。
「めぼしいものがいくつかありましたよ」
こんなとき浜蔵だったら大騒ぎだが、又之助はおちつきはらっている。
「はやくおいいよ。あの女郎|蜘蛛《ぐも》にころしのうたがいでもあるのかい」
おえんのほうが気がせいていた。
はじめは気のりのしなかった仕事だが、天神屋でおとよに会ったときから、その気になりだした。おとよのとりすました態度を見ているうちに、化けの皮をはがし、女郎蜘蛛の正体をあばきだしてやりたくなったのだ。
「お嬢さん、いい勘をしてますね。知ってたんですか」
又之助はおどろいた。
「なんとなく、そんな気がしたんだよ。亭主ごろしのうたがいだね」
おえんはさらりといった。
「そうですよ。天神屋太兵衛は吉原《なか》の高木屋の千代里にぞっこんだった。一年かよいつめて、おがみたおして身請けをして女房にしたところが、二年たつかたたぬかのうちに死んじまった。店は女房のものになっちまった。しかも葬式で亭主の遺体を見た者はいないという噂ですよ。そんなこんなで、おとよはほんのわずかのうちに吉原の女郎から料理茶屋の女主人に成りあがったんですよ。これがもし自然のなりゆきだったとしたら、おとよにはものすごい幸運の星がついていたんでしょう。そうでなかったら、噂のとおり、おとよが亭主を手にかけたか、それとも色じかけでほかの男にころさせたといっていいんじゃないでしょうか」
又之助はころしの噂についてはなしはじめた。
「あまりうますぎる話じゃないか。そんな話、信用できないよ。おとよが仕組んだにきまってる。あのとりすました顔の下には夜叉《やしや》の顔がかくれているんだ」
おえんは自分の勘に自信があった。
「けれども今のところは噂だけです。証拠も証人もおりません。これからさがしていくしかありませんね」
「証拠も証人も見つかりそうにないかい」
「相当くわしくあたってみましたが、今のところはありませんでした。これからもさがしてゆきます」
「もし太兵衛がころされたとしたら、葬式で遺体が見えなかったことと辻褄《つじつま》が合う。おとよが金と色気で医者と坊主を篭絡《ろうらく》させたとかんがえられるよ」
「そういう見通しがたちますね」
「けれどもそうだとしたら、太兵衛の死体をどう始末したかが問題だよ。川へながしたか、それとも山にうずめたか、焼き捨ててしまったか」
おえんは目明しになったような気分で推理した。
「太兵衛の死体についての噂もしらべてみましたが、当時もそれにあてはまる噂はなかったようです」
「よほどうまく始末をしたんだろう。太兵衛の死後、天神屋にかわったことはなかったのかい」
太兵衛が死んでからまだ一年余りしかたっていない。かわったことがあればまだ人々の記憶にのこっているはずだ。
「おとよのまわりには得体の知れぬ男の影がうろうろしてるようですが、ころしにつながるようなことは噂にのぼっていませんね」
「丹念にさぐっていけば、でてくるとおもうよ。きっとなにかでてくるはずだ」
「わたしもそんな気がしています」
「ころしのネタをつかむのが、この取りたてのいちばんの近道だよ。あたしたちは目明しじゃないんだからおとよをお縄にしなくたっていいんだ。ころしをあばいて百五十両ぶんどることができれば万々歳だよ」
おえんは自分がいくらか興奮しているのをおぼえた。体のなかで血がざわめいている感じがある。馬屋としての闘志なのか、それともおとよへの対抗心なのか、自分でもさだかでなかった。
七月の三の午《うま》の日、おえんは浜蔵をつれて弁天屋をでた。町内の田町《たまち》稲|荷《いなり》へ参詣《さんけい》にむかった。
稲荷は商売の神で父の仁兵衛が毎月午の日にかならず参詣にかよっていたことから、おえんもいつとはなしにその習慣が身についた。よんどころない用事でもないかぎり、弁天屋のだれかをさそって田町稲荷にもうでていた。お供えにはかならず油揚げを持参してゆく。
おえんと浜蔵は田町一丁目のほうへむかった。田町稲荷は別名|袖摺《そですり》稲荷とも呼ばれている。そういったほうがとおりがよい。田町一丁目と二丁目とのあいだにあり、往来に面していて人が群集して袖が摺れ合うので、そういう呼び名がついた。
今日も、相かわらず人通りがおおい。
「人通りのおおいのは田町の繁昌《はんじよう》だから結構なことだけど、掏摸《すり》や物盗《ものと》りがおおいってのは迷惑だね」
「女の乳や尻《しり》をさわったり、袂《たもと》切りもでるようですから、お嬢さんも気をつけてくださいよ」
「だまってさわらせるもんかね。そんなやつは腕をさかさにして、へし折ってやるよ」
「少々やっとう[#「やっとう」に傍点]がつかえたり、鉤縄《かぎなわ》が投げられるからって、男をあまく見てはいけませんよ。世の中には信じられない馬鹿もいるんですから」
「お前から説教されるようじゃ、あたしも落ち目だね」
「お嬢さんに万一のことがあっちゃあこまりますからね。おれと又之助とじゃあ馬屋の客もきませんから、飯の食いあげになっちまう」
「人のことを心配してくれてるんじゃあないんだね。あきれたやつだ」
「でも心配はしてますよ。又之助だって、お嬢さんのこととなったら、目の色がかわりますからね」
「どうだか。お前たちのことは当てにはしてないよ」
「そいつは手きびしい。お嬢さんに当てにされてないんじゃあ、わたしだって、又之助だって立場がありやせんや。なんのためにはたらいているんだかわかりませんよ」
「まあ当てにはしてなくたって、少々くらいはたよりにしているよ。おこることはないだろう」
おえんと浜蔵とは十代のころから弁天屋で一緒にそだったので、家族のような感情もまじっているのだ。
むこうに稲荷の赤い鳥居が見えてきた。
参詣の客もかなりいる。これから参詣へいく者、参詣をおえてもどってくる者。善男善女の姿はたえぬ。
むこうから懐手をした三十代のあそび人ふうの男がやってきた。これは稲荷の参詣人ではなさそうだ。顔色が不健康で蒼白《あおじろ》い。
着物の衿《えり》をあさく合わせ、裾《すそ》をみじかめに着ているところは正業についている者ではなさそうだ。
あるきながら、ちらと一瞬その男はおえんを見やった。が、その後は前方の虚空を見つめてあるいてきた。
二間ほどちかくにせまったとき、とつぜんその男が身をひるがえした。懐手をぬいて、おえんめがけておそいかかってきた。その右手にはぎらりと匕首《あいくち》の刃がひかっている。
「あっ」
おえんがみじかい声をあげたとき、
「何しやがるっ!」
浜蔵はとっさに男へむかっていった。
だが、相手の男のほうが行動ははやかった。逆手ににぎった匕首がおえんの顔めがけて振りおろされた。
おえんの顔が裂けて、血しぶきが空中にとんだ。と見えたのは浜蔵の錯覚だった。おえんは一瞬はやく横へとんでいた。
しかし一度空を切った匕首はふたたびおえんをおそった。今度は水平に匕首がひかった。
「この、ひとごろしっ、相手をしてやるよ!」
もう一歩、二歩、とびすさったおえんの口から炎のような啖呵《たんか》がほとばしった。
おえんは距離をとりながら、懐中の鉤縄をつかんだ。
さらに三度めの匕首がおそいかかろうとしたとき、
シュッ、
鉤縄が音をたてて、至近距離をとんだ。
鉤縄は匕首ではなく、男の利《き》き腕をとらえた。二重、三重にしっかりと腕に巻きついた。
男は腕を振りまわしたが、そんなことで鉤縄がとけるはずがなかった。
おえんは一定の距離をとりながら、縄をしぼっていった。
縄がぴんと張って、男の腕がのびきった。男は必死に力をこめて縄をひきもどそうとした。
そこを見はからって、おえんが縄をくりだした。そのはずみで男は後ろへたおれかかった。
ようやく男はふんばって踏みこたえたが、そこをねらっておえんが今度は縄をぐいぐいひいた。
男の体がずるずると前にひきずられた。
おえんの鉤縄の妙技である。おえんは縄をひいたり、くりだしたり、男を存分に翻弄《ほんろう》しにかかった。
浜蔵は二人のやりとりをそばで見ていた。おえんの鉤縄の技が冴《さ》えているので、下手に手をだすのがはばかられた。技の呼吸をみだすことになるからだ。
浜蔵ばかりではない。白昼の往来でとつぜんはじまった男と女の活劇に、通行人たちがおどろいてあつまりだした。人々は息をのんで見まもった。
必死で鉤縄をあやつるおえんの着物の裾がみだれ、白い脛《はぎ》から膝《ひざ》の上までのぞいて見えた。袖《そで》もめくれて二の腕があらわになっている。
男がずるずるとひきずられた。
浜蔵は機を見て男にとびかかろうとした。
そのとき、男は躍起になって渾身《こんしん》の力を右腕にこめた。
さすがは男の力である。縄がぴんと張って、今度はずるずるとおえんがひきずられた。
「やっ」
男がみじかい気合いを発した。と同時に、自分の左手で右手の匕首をとった。と見るや、匕首で縄をすぱっと切った。
その勢いでおえんの体が後ろにくずれ、尻餅《しりもち》をついた。
「この野郎っ」
浜蔵はさけんで男にとびかかっていった。
男は二度、三度、匕首をふるった。
あいにく浜蔵は素手である。ふだんはなにかしら得物を身につけているのだが、稲荷の参詣なので、殊勝なこころがけから得物を店においてきていた。
「浜蔵、およしっ、怪我をするよ!」
おえんの声がとんだ。
浜蔵はとっさに往来上の泥と砂をつかんで、男の顔に投げつけた。
男が無言で顔をおおった。おおったのがはやいか、それとも泥と砂が顔をうつのがはやかったか。瞬後に、男は身をひるがえした。脱兎《だつと》のごとく男は野次馬の輪を突っ切って、田町一丁目のほうへ疾走《はし》っていった。
「待てっ!」
浜蔵が追おうとした。
「浜蔵、おやめっ、素手じゃあ無理だよ!」
おえんがそれを一喝した。
浜蔵は数歩はしって、追跡を断念した。
「畜生っ、大事なときに得物がないとは……」
浜蔵はしきりに悔しがった。
「相手はおとよの手下だろう。下《した》っ端《ぱ》相手にむきになることはないよ。お稲荷さんのお参りが先だよ」
おえんは浜蔵をたしなめた。
「それにしてもお嬢さん、あぶないところでした」
「あたしは、平気さ」
おえんはうけながして、野次馬の輪を割って、赤い鳥居へむかった。
薄曇りの一日、新五郎はやや身なりをあらためて塒《ねぐら》をでて、日本橋大伝馬町へむかった。
ひさしぶりにおえんから仕事の助太刀をたのまれたのだ。一昨日、浜蔵が使いにきて、新五郎は弁天屋へでむいた。そのとき大掛りな取りたての助力をもとめられた。百五十両の取りたてというのは長年馬屋をやっていた新五郎でさえ二三度しか前例がなかった。馬屋は遊客のツケを取りたてる商売だから、それほどの金額にはいたらないのだ。
しかも遊客でないところから金を取りたてる仕事は、新五郎にとってもはじめてだった。はじめはあまり乗り気でなかったのだが、話をきいていくうちに新五郎もその気になった。
しかし、その助太刀というのが妙なことだった。
『瓢箪新道の天神屋の女|将《おかみ》が用心棒をもとめているから、なってみてくれないか』
というものである。天神屋の女将が用心棒をもとめているというのは、又之助が白玉水売りにあるいて、ひそかに近所からききこんできた。
大伝馬町の大通りは江戸でも屈指の目ぬき通りだが、瓢箪新道は大通りから一筋入った、わりあいにしずかな町並である。新五郎は大丸新道からあるいてきて、天神屋の門がまえを見あげて、ひとつかるい溜息《ためいき》をもらした。
新五郎は門前を素通りして、天神屋の裏へまわった。勝手口とはいっても料理茶屋のそれであるから、そんなに粗末なものではない。洒|落《しやれ》た木戸があって、ちいさな植込みもある。
敷石をつたって勝手口で声をかけた。
女中がでてきたので、
「ここの女将さんに面談したいのだが」
用向をつげた。
女中はいったん奥に入ってから、ふたたびでてきて、
「女将がお会いすると申しておりますから、どうぞ」
と店内にまねきあげられた。
客間というよりは、料理茶屋の空部屋のようなところである。
待つことしばし、かすかな香の匂いとともに、女将のおとよが入ってきた。
単|衣《ひとえ》の着物をすっきりと着た姿が絶品であった。品と色香が渾然《こんぜん》ととけ合い、それを美貌《びぼう》がささえている。新五郎のように女を知りぬいた男がくらっと目|眩《めまい》をおぼえたような女であった。おえんがいったのは嘘ではなかった。
「この店で人をやといたいといっているときいたもので」
新五郎はややぶっきら棒にいった。
おとよはしばらく返事もしないで新五郎に見入ってから、
「店ではなくて、わたしですよ」
新五郎の言葉を訂正した。
「どちらでもおなじことでしょう」
新五郎がいうと、おとよはわずかに頬笑んだ。
「腕には自信がおありですか」
「腕っ節と度胸には少々おぼえがあるが、なんならためしてみたらどうです」
新五郎はおちつきはらってこたえた。
おとよはその返事が気に入ったようだ。
「ためしてみなくたって、およそはわかるよ。なかなか度胸がありそうだ」
やや伝法《でんぽう》な言葉になった。
「江戸の生まれで、江戸そだち、まあこの年齢《とし》までいろんなことをやってきましたよ。用心棒のようなことも二、三度はやった。新二郎と呼んでください」
「場数もかなり踏んできたようだね。亭主のいない女が一人で店を切り盛りしてると、いろんなことがあるんですよ。弱みにつけこんでくるのもいるし、親切ごかしにちかづいてくるやつもいる。高飛車にすごんでくるような者もいる。わたしも並みの女ほどにはやわ[#「やわ」に傍点]じゃありませんけど、用心棒の一人や二人はいないとあぶなくて仕方がないんですよ。新二郎さん、あなた、わたしをまもれますか」
おとよははなしながら新五郎という男を嗅《か》ぎわけているようだ。おとよのような女は自分で実際に見て、においを嗅いで、その人間を見わけようとするのだ。
「やとってもらえば、それが仕事だ。女将さんのためにどんなことでもいたしますよ」
「たとえ人ごろしでもやりますか」
そういったとき、一瞬おとよの眸《ひとみ》の底がきらっとひかった。
「時と場合によるでしょう」
新五郎はさらっとかわした。
「冗談ですよ。料理茶屋には人ごろしなどする用はありません」
言葉をあらためておとよはかるくわらった。
「女将さんの命令にはかならずしたがいましょう。このお約束はまもります」
新五郎は律義な一面を見せてこたえた。
「それでは今日から、天神屋にうつってもらいましょう。手当は月二両で十分でしょう」
おとよの言葉にもとより新五郎はうなずいた。
新五郎が天神屋に住みついて約半月たった。
その日、おとよは料理茶屋仲間の寄合《よりあい》があって、夕方でていった。日本橋地域の料理茶屋仲間は月に一度寄合をひらく。
新五郎は時刻が四つ(夜十時)にいたったころ、そっと天神屋の勝手口をでていった。
寄合は住吉町の料理茶屋〈船重《ふなしげ》〉でやっている。
新五郎の足は住吉町へむかった。ぶら提灯《ぢようちん》をさげて、ぶらり、ぶらりと人形町通りをあるいた。
おとよが夜あるきをするときは、新五郎はかならず陰についていて警固の役目をはたしていた。
今夜も、新五郎は寄合がおわるころには船重についた。
駕篭《かご》が十数|挺《ちよう》、船重の玄関に呼ばれ、それぞれの客をのせて散っていった。
おとよが駕篭に乗るとき、ちらっと新五郎と視線が合った。
駕篭は夜更けの人形町通りを大伝馬町へむかってはしった。
新五郎も駕篭から半丁ほど後ろを駆けた。
人形町通りはもう人影がまばらだ。ところどころに夜店の明りがともり、ときたま千鳥足の酔っぱらいや、残飯をあさる野良犬の姿が見える。
駕篭はほどなくして、瓢箪新道に入り、天神屋の門前についた。
おとよは門前で駕篭をおりた。
駕篭屋は酒手をはずんでもらって、大喜びでかえっていった。
新五郎は門前の陰で、駕篭屋が立ち去るのを見とどけた。
おとよは門をくぐって、玄関へむかった。そのおとよが前庭の中ほどで立ちどまり、
「新二郎」
闇の中へ声をかけた。
「おかえりなさいまし」
新五郎は闇の中に立って挨拶《あいさつ》した。
「よくむかえにきてくれましたね。有難う」
おとよはそういったが、立ちどまったままだ。ほろ酔い気分のようだ。
新五郎はそこへ足をはこんだ。
おとよの足がすこしもつれた。
すばやく新五郎はおとよをささえた。
すると今度はおとよの体がぐらっともたれこんできた。ふんわりとした芳香とともに、やわらかな女体の感触がつたわった。
顔と顔がちかづいて、おとよの吐息が新五郎の顔にかかった。いつの間にか、おとよの手が新五郎の手をにぎっていた。
「新二郎、あとでわたしの部屋に」
おとよはそうささやくと、体をはなし、玄関へ入っていった。
しばらく新五郎はその場にたたずんでいた。おとよのささやきが耳の奥にのこっている。
(妖魔《ようま》のささやきだ)
新五郎はそうおもった。おとよがいよいよ正体を見せかけた。
(鬼がでるか、蛇《じや》がでるか……)
しかし、いかぬわけにはいかぬ。
新五郎は自分の部屋にもどってから間もなくおとよの部屋へむかった。
居間から行灯《あんどん》の明りがもれている。
声をかけると、
「お入り」
おとよの声が応じた。
新五郎は女にかけても強者《つわもの》だが、さすがに緊張をおぼえた。相手がただ者ではない。女の部屋に入るのにこんな気持の高ぶりをおぼえたのははじめてだ。
居間におとよの姿はなかった。おとよは居間のとなりの寝間から声をかけたのだった。
もう躊躇《ためらい》の余地はなかった。新五郎は寝間の襖《ふすま》をあけた。
行灯の明りのなかに屏風《びようぶ》が見えた。屏風におとよの着物や襦袢《じゆばん》などがかかっている。今まで着ていたものを脱いで掛けたのだろう。
屏風のむこうに夜具がのべてある。おとよはもう夜具の中だ。
新五郎はすでに意を決していた。屏風をまわって、夜具の前に立った。もう、そのとき帯をとき捨て、着物もぬぎはなっていた。新五郎は下帯ひとつの裸になっていた。
筋肉のたくましい新五郎の背中一面に鬼面の夜叉《やしや》の姿が色あざやかに彫りあげられている。夜叉の鬼面が明りに浮かびあがった。
「新二郎、見事な彫物《ほりもの》……」
男の背中一面の彫物におどろきの声ももらさなかったおとよもさすがである。
「女将さん」
一言かけて、新五郎は夜具に入っていった。
「待っていたよ、新二郎」
おとよはおくれも見せずに新五郎をむかえた。すでに素肌にうすい夜着一枚、腰の薄布までおとよはとりはらっていた。
夜着をひらくと、たっぷりと脂《あぶら》ののった白い乳房が二つもりあがっている。
新五郎は一気に下までひらいた。胴がほそくしまり、あざやかな曲線をえがいた腰部の中央のくぼみにあわい影がおちている。
乳房と股間《こかん》の影がいやがうえにも新五郎をまねいている。おとよは目をとじ、口を半びらきにあけている。
新五郎はたくましい裸身をおとよの白い体の上にかさねていった。
はやくと、おとよがかすかなあえぎをもらした。
艶《つや》があって張りに富んだおとよの裸身がくねった。女郎|蜘蛛《ぐも》がまさに餌をくわえこんだかにみえた。
新五郎は一気に侵入をはたした。手ごたえも歯ごたえもしたたかな反応がかえってきた。
白い裸身が二度も三度も夜具の上をくねくねとのたうった。乳房がゆれて、やわらかな下腹の肉がぴくぴくとけいれんをはじめた。
女郎蜘蛛が歓喜にむせび、声をあげはじめた。
新五郎も陶然たる世界にみちびかれていった。力づよくぐいぐいひきずられた。
おとよはもだえ、股間に新五郎の腰をかかえこんでしめつけた。昼間のおとよからは想像もつかぬ淫蕩《いんとう》さだ。
甘美なうえにも快感にみちあふれた世界へつきすすんでいった。
そのとき、妙な声がきこえた。しかも意外にちかくからだ。
気にしないで、ふたたび甘美な世界に没入しかけた寸前、
ワン ワン ワワン
今度ははっきり犬の声がきこえた。それが手のとどきそうなちかくからの声だ。
新五郎がうごきをとめると、おとよがうっすらと目をあけた。
「畜生、またきやがった」
おとよは顔に汗をうかべながら、気味の悪そうな顔をした。
「野良犬でしょう」
新五郎がいうと、
「以前ここにいたサブという犬さ」
おとよは憎々しげにつぶやいた。
八月晦|日《みそか》の昼前ごろ。
おえんは又之助と浜蔵をつれて、弁天屋をでた。むかうは大伝馬町、瓢箪新道の天神屋である。
この日が、おえんがおとよに指定した百五十両返済の最終期限であった。この期限までおとよからなんの連絡もなかった。
「女が相手といっても用心おしよ。なにせ只者《ただもの》じゃないんだから。亭主の一人くらい簡単に始末するような女だからね」
浅草御門へむかってあるきながら、おえんは二人に注意をあたえた。
「女郎蜘蛛って渾名《あだな》されるくらいの女だから、よほどのわる[#「わる」に傍点]にちがいないでしょう」
浜蔵はおえんのすぐ後についてあるいた。
又之助は黙々と足をはこんだ。
蔵前のにぎわいをとおりすぎて、浅草御門をわたった。
浅草御門から往来をまっすぐすすむと、小伝馬町にでる。小伝馬町一丁目と二丁目のあいだの大路を南へくだっていけば、大丸新道と瓢箪新道の境にいたる。
折しも午《ひる》の時刻で、天神屋の店頭はにぎわっていた。
見おぼえのある番頭や仲居の顔も見えた。
おえんは又之助と浜蔵をつれて、さっさと門をくぐり、玄関へむかった。
店頭がざわめくのをよそに、玄関にいる仲居に、
「お昼の御飯を三人」
とつげた。
仲居は三人を階下《した》の角部屋に案内していった。
「松の料理を三人前。それから女|将《おかみ》さんを呼んできていただきましょう」
おえんは仲居に注文した。
だが、おえんがそういうまでもなく、おえんがきたことはすぐにおとよにつたわったようだった。
間もなく、番頭や店の若い者がどやどやと座敷に入りこんできた。
「おえんっ、何しにきたんだ」
体のおおきな四十前後の番頭が吠《ほ》えた。
「ばたばたするなよ、騒々しい。まず第一におれたちは天神屋の客だ。飯の客だよ。それから女将にじっくりと用談があってきた」
浜蔵が威勢よく応じると、店の若い者たちがいきりたった。頭数だけでも番頭をふくめて四人いた。みな腕っ節のつよそうな者たちだ。ふだんは手代をつとめ、いざなにかあったとき荒っぽい仕事をこなす役目なのだろう。
「つまみだせ」
「たたんじまえ!」
若い者たちと又之助、浜蔵がにらみ合っていると、廊下からおとよがやってきた。
丸髷《まるまげ》をふっくらとゆいあげ、今日もおちついた紺の単|衣《ひとえ》を隙なく、上品に着こなしている。うっすらと紅をさした口元に色香がにおう。
おとよが姿をあらわしただけで店の男たちはしずまった。
「おいでをいただきまことに有難うございました。ごひいきをいただき、店の者一同よろこんでおります。料理はのちほどはこばせます。お客さまには女将にご用があるとうかがって、参上いたしました。どのようなご用むきかうかがいましょう」
おとよはきちんと手をついて一礼してから、挨拶を口にした。おちつきはらった悠然たる態度である。したたかな自信をひめている。
「さっそくおいでいただき恐縮でございます。ぶしつけながら当方の用むきを申しあげますと、今日が花むら屋庄八さまから依頼をうけた百五十両取りたての最後の日です。女将さんには、よもやおわすれではございますまい。借りた金はかえすべきもの。その理《ことわり》は子供でも知っておりましょう。花むら屋さんでは貸した金がもどらず、商売に難渋していらっしゃる。身代のたおれる心配もあるとか。どうかそこを斟酌《しんしやく》いたしてかえしてやってくださいまし」
おえんはおとよの自信をつきくずすべくまず口火を切った。
おとよはおえんの口上をわらってうけた。
「借りた金はかえすべきもの。それは当然でございましょう。けれどもわたしは花むら屋さんからビタ一文金を借りたおぼえはありません。弁天屋おえんさんとやら、あなた勘ちがいをいたしておりませんか。借りぬ金をかえすわけにはまいりませんよ。まして百五十両とは法外な。おえんさん、証文でもおありですか」
おとよは嘲《あざわら》うようにいった。おとよは花むら屋庄八に借用証文を書いていないことをいいことに、嘘でいいぬけようとしていた。
「女将さん、それをいうのは筋違いというものでしょう。女将さんが証文についていうなら申しあげます。花むら屋さんが女将さんから証文をとらなかったのは、二人が男女の仲だったからでございましょう。男女の仲ゆえ、花むら屋さんは証文のような水くさい便宜をとらずに、女将さんを信用して貸したのでしょう。証文をとって貸すも、とらずに貸すも貸しは貸しです。それを逆手にとってシラを切るのは泥棒同然のきたないやり方ではありませんか」
おえんがきびしくきめつけると、わずかにおとよの顔色がかわった。
「泥棒とはずいぶんおもいきったことをいってくれるじゃないか。あんたは遊女屋の手先じゃないか。えらそうなことをおいいでないよ。あたしが泥棒でない証拠はちゃんとある。百五十両はあたしが花むら屋庄八からもらった金だよ。だから証文が入っていないんだ」
おとよはあらたな理屈をならべた。
「そんなでたらめな理屈はとおらないよ。どこの世界に百五十両なんて法外な金をただで人にくれてやる者があるもんか。お白洲《しらす》だって通用しないよ」
「ただでもらったわけじゃないよ。かわりのものは、あげてある」
おとよはせせらわらった。
「一体、なにをあげたのだえ、まさか女将さんの体というんじゃないだろうね」
おえんがいうと、おとよは声をあげて嗤《わら》いだした。
「まさに図星だ。わたしをたった一回抱いた代金が百五十両というわけだよ。庄八は百五十両ぶんのいいおもいをしたんだよ」
おとよがついに女郎蜘蛛の正体を見せた。
「女将さん、冗談もいい加減にしてください。吉原《なか》の大見世で入山形《いりやまがた》に二つ星の太夫《たゆう》(最高級遊女)を昼と夜抱いて豪遊したって一両一分あればたりるんだ。百五十両もの金があれば、そんな太夫が百何十人も買えるじゃないか。女将さんだって吉原《なか》のことならよく知っているだろう」
たまりかねておえんはいった。
「吉原とシャバとはちがうんだよ。吉原のおいらんは一両で抱かれるかしれないが、シャバの女はいい値できまるんだ。いい女にはいくらでも値段がつくんだよ」
おとよは勝ちほこったように声をあげた。
「どうやら、あんたは男を罠《わな》にはめて百五十両で体を売ったようだね。だったら、こっちも女将さんに買ってもらいたいものがある」
おえんはとうとう奥の手にでた。
「買うも買わぬもこちらの一存。まさかあんたの体を買えというんじゃないだろうね。あんたじゃあとても百五十両じゃ買えないよ」
おとよは憎まれ口をきいたが、おえんはうけながし、懐に手を入れた。
おえんの手が懐中から印篭《いんろう》をとりだした。黒地に金蒔絵《きんまきえ》をほどこした精巧美麗なもので、サンゴ玉の緒締がついている。
おとよがその印篭に見入った。
見入っていくうちに、おとよの目にほんのわずかな動揺がうかんだ。
おえんはそのさまを見のがさなかった。
「この印篭に見おぼえがあるはずだよ」
おえんはその印篭をおとよのほうへさしだしていった。
「この印篭は以前天神屋太兵衛さんが可愛がっていたサブという犬がくわえてもってきたものだよ。きっとお亡くなりになった太兵衛さんが死ぬ直前まで身につけていた印篭だろうね。泥がいっぱいついていたからサブはきっと土の中から掘りだしてきたんだろう。だとすると太兵衛さんの死体は土ん中にうまっているということになるね」
おえんがそういうと、おとよの顔からすっと血がひいた。あきらかに動揺があらわれた。
「そんなものは知らないね」
おとよは虚勢でシラを切った。
「だったら、サブに印篭のあったところをおしえてもらおうかね。太兵衛さんは墓地じゃないところにまだねむっているかもしれないよ。きっところされて埋められたんだね」
おえんがそういうや否や、
「畜生っ」
おとよが獣のようにさけんで、その印篭をかっさらおうとした。
おえんが一瞬はやくとりあげた。
「それほどほしい印篭ならば、百五十両で売ってやろうか。おのぞみならば印篭にサブをつけてやってもいいよ。サブは今うちの庭で昼寝をしている。ときどき、太兵衛さんを恋しがって天神屋さんの床下などをうろついたりするけどね」
おえんは小気味よげにいいはなった。
「新二郎っ、でておいで。こいつらをやっつけておくれ!」
おとよは廊下のむこうにむかってさけんだ。
その声に応じて、新五郎がのそりと姿をあらわした。
「新二郎、こいつらを一人のこらずやっつけておしまい。ころしたってかまわないよ」
おとよがわめくと、新五郎が苦笑いをした。
「なにをわらってるんだ。はやくやっつけて」
半狂乱のようにおとよはわめいた。
「女郎蜘蛛が正体をあかしたな。太兵衛ごろしはサブがあばいた。おれが太兵衛の死体のありかを知っている」
新五郎は冷笑をおとよにあびせた。
「新二郎っ、お前は何者だい。おえんの手先だったのかっ……」
おとよは愕然《がくぜん》として、憎悪の眸《ひとみ》をひからせた。そしてやにわに新五郎に無茶苦茶にとびかかっていった。
「裏切者っ……、この野郎っ……、ころしてやるうっ」
おとよの絶叫がしばらくのあいだつづいた。あばれつづけて、おとよはかくし持っていた懐剣をふりまわしたが、やがて新五郎にとりおさえられた。
「百五十両で、印篭とサブを買おうじゃないか」
最後にとうとうおとよはくたびれはてて弱音を吐いた。
「あたしは町奉行所《ばんしよ》の役人でも目明しでもないんだから、太兵衛さんのことはかかわり知らない。百五十両かえしてくれればそれでいいんだ。あたしの商売はなりたつんだよ」
おえんはおとよを見すえてさばさばといった。
「畜生っ、そのかわりおぼえておいでよ。この敵はいつかかならずとってやる」
おとよは無念の恨みを吐きだした。
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第五話 吉原|御法度《ごはつと》
遠い座敷のさわぎが潮騒《しおさい》のようにきこえてくる。
吉原は今時分が最高潮のにぎわいである。方々の座敷から宴のにぎわいがきこえてくる。三味の音、唄声《うたごえ》、鼓の音や、わらい声。これらのものが混然とひとつになって、まるで朝夕の潮騒のようなひびきをもたらすのである。
(ちいっ……)
千石屋《せんごくや》庄太郎は腹のうちで舌打ちをひとつした。
いや、さきほどからかぞえれば、舌打ちを十以上も腹のうちで鳴らしていた。
ほかの座敷は今が最高潮のにぎやかさだが、庄太郎のいる座敷だけがうってかわったさびしさである。客はいるのに、座敷の主は不在である。
吉原の大見世《おおみせ》、宝屋の呼びだし昼三《ちゆうさん》(最高級遊女)黄菊《きぎく》の本間《ほんま》はいやがうえにも豪華なつくりだ。定紋|蒔絵《まきえ》と金具をうったかさね箪笥《だんす》、そのうえに人形をのせた用箪笥、二つ枕に飾夜具、屏風《びようぶ》、鏡台や琴がおいてある。床の間には兆殿司《ちようでんす》のダルマの掛物、花活《はない》けには遠州流に秋の花がさしてある。何からなにまで立派なこしらえで不足はない。
庄太郎は黄菊の本間にあがって、もう一刻《いつとき》(二時間)ちかくすごしている。さいぜんまで仲居が相手をしてくれていた酒の膳《ぜん》がかたわらにおいてある。その仲居も帳場に呼ばれて、席をはずしたままだ。
庄太郎はひえた燗酒《かんざけ》を盃《さかずき》にそそいで、自棄《やけ》になって飲んだ。
(間のわるいときは、えてしてこんなものだ)
庄太郎は不運をなげくしかなかった。
引手茶屋にあがるのが億劫《おつくう》だったので、いきなり宝屋をたずねたら、案外なことになじみの黄菊は不在であった。具合がおもわしくないので、新造《しんぞ》一人とカムロを一人つれて今戸にある宝屋の別荘へ病気出養生にいったというのだ。
だからといって、あそばずにかえるのは通人の客のすることではないとされていた。おいらんのいない本間にみちびかれて、芸者か仲居を相手に飲むのが通人の作法なのである。いやな顔をしてはならない。いやな顔や振舞をしたら、不粋な客と陰口をきかれる。
千石屋は浅草蔵前で代々|札差《ふださし》をつとめており、世間でいくらか知られている。札差といえば旗本や御家人たちの蔵米《くらまい》を請け負う者で、彼等の金融にも応じている。したがって江戸で札差の権勢といえば、〈泣く子もだまる……〉といわれるくらいのものである。
庄太郎も商売や仲間付き合いなどで吉原にもよく顔をだす。宝屋の黄菊とは年来のなじみである。黄菊が宝屋から突き出し[#「突き出し」に傍点]の披露目《ひろめ》をしたときからの縁である。したがって庄太郎は宝屋からも黄菊からも大切にされている。
しかし、黄菊が不在ではいたしかたない。遊女が病気出養生をした場合、別荘からなじみ客へ手紙をだすことは遊廓《ゆうかく》のしきたりとして禁じられている。
ともかく間のわるいときはどうしようもないものだ。ほかへの八ツ当りはみっともない。
そのとき、階段をのぼってちかづいてくる足音がきこえてきた。
「へい、お客さま、失礼いたします」
廊下から男の声がきこえて、障子がひらいた。
宝屋の若い者が夜具をかついでやってきたのだ。その後ろに黄菊の妹分の振袖《ふりそで》新造がついてきた。
「旦那《だんな》さま、今夜は大変に申しわけありいせん。おいらんは一昨|日《おととい》からの出養生でありんす。今夜はふつつかながら、わちきにお相手させてくんなまし」
振袖新造、通称振新が精いっぱいの愛嬌《あいきよう》を見せて挨拶《あいさつ》をした。いわゆる〈名代《みようだい》〉というやつである。なじみの遊女が病気やさしつかえがあったときは、妹分の振新が名代として座敷に代理ででる。
「黄菊は別荘へいっておるそうだの。病気とは気の毒だ。今夜は小菊に相手をしてもらおう」
庄太郎は腹の虫をおさえて、大様にこたえた。
「ではお客さま、ご用意をさせていただきます」
若い者はそういって、本間に名代の夜具をしきはじめた。
おいらんの豪華な五ツ布団や二つ枕はつかわしてもらえぬ。名代の一つ布団に寝るのである。
(ちいっ)
もう一度腹のうちでおおきな舌打ちを鳴らして、庄太郎はやせ我慢をしながら、つくり笑顔で見まもった。吉原の客はやせ我慢や辛抱がなによりも肝腎《かんじん》なのだ。
名代が客の相手をしてくれるといっても、話し相手だけである。客は名代には手をつけられぬ。じっと我慢の一人寝である。それでいて、名代においらんとおなじ値段の花代をとられる。我慢なくして吉原のあそびはやれぬ。
それになんといっても、小菊はまだ十五の小娘である。食指もうごかぬ。色里のそだちで、多少はませているように見えても、まだねんねである。
せんべい布団が一枚しかれた。
「風情がなくて、どうも申しわけありません」
若い者も恐縮して頭をさげてでていった。
聞こえぬは名代おなじ値段
口惜《くや》しまぎれに詠んだ句があったのを庄太郎はおもいだした。廓《くるわ》であそぶ人間にはときにこうした試練があるのだ。
「今夜は小菊とおとなしくあそぼう。一人で寝ても仕様がない」
庄太郎が声をかけると、小菊の顔がほころんだ。
「そうおっしゃってくださると、うれしゅうありんす。名代ででてお客さまのご機嫌がわりいと、一晩中、針のムシロにすわらされているようでありいす」
庄太郎の機嫌が案外なので、正直小菊はほっとした様子だ。
「名代の新造が八つ当りをされては可哀そうだ。不粋な客がいるものだな」
「わちきが大人のおいらんだったら、旦那さまにさびしいおもいをさせずに、おもてなしできいしたのに」
小菊はけなげな新造である。まだおさない自分をうらむようにいった。
「なあに、小菊だってあと一、二年もすれば、立派なおいらんだ。やがて宝屋を背負ってたつ米櫃《こめびつ》になるかもしれない」
庄太郎は小菊を相手に話をはじめた。
「わちきが黄菊|姐《ねえ》さんのようなおいらんになれるでしょうか」
「振袖新造というのは立派なおいらんになるための修業をいうのだ。小菊はきっと呼び出し昼三になれる」
「わちきがおいらんになったら、今夜のお返しにきっと旦那さまをおもてなしいたしいす」
小菊はまるで約束をするかのようにいい、白い小指をのばして、庄太郎の小指にからませた。
はじめの半刻ばかりはすぐにすぎた。
各座敷のにぎわいはようやくしずまって、客もおいらんも床についたようである。引け四つ(夜十時)もすぎて、大門《おおもん》もしまった。ときに廊下をあるく足音は、行灯《あんどん》の油差しか不寝番である。
そのとき、どこからともなく妙な声がきこえてきた。
あえぐがごとく、ときにすすり泣くがごとく、なんとも切なげな女の声だ。風のなかで鳴る草笛のように、とぎれとぎれにきこえて、しだいに高なり、一気にたかまってつんざくような悲鳴となった。
小菊が先にくすりとわらった。
つられて庄太郎も苦笑した。
庄太郎は小菊との話にもあいて、小菊がしかけてきた綾取《あやと》りのあそび相手をしていたのである。旗本や御家人をもひしぐ大の男が一人寝の床で新造を相手に綾取りとはなんとも情ないが、これも男の修業のひとつと庄太郎はやせ我慢をしていた。
ううう……、うっ、うっ、うっ……
しばらくたつと又はじまった。
「ふふふ」
声をだして小菊はわらった。その様子はなんとも屈託がない。
「遠慮のない声をだしやがって、仕方のねえおいらんだな」
庄太郎も屈託なくわらった。そのとき綾取りに熱中している小菊の膝《ひざ》が割れているのに気づいた。
小菊は羽衣の染模様のついた縮緬《ちりめん》の仕着せを着て、絞りの掛衿《かけえり》をして、帯を前結びにゆっている。可憐《かれん》なうえにも愛くるしい。色里そだちだけに、小娘とはいえなまめかしさもある。
小菊の膝のあいだから下着の紅絹《もみ》がのぞいている。紅絹のからんだ内腿《うちもも》がぞくっとするほど白くすけている。
おもわず庄太郎は唾《つば》をのんだ。内腿の白さはもう十分に女のものだ。
小菊は気づかぬだけに、うごくたびに膝が割れて、はっとするほど奥がのぞいた。今日まではまだ色づきもしない小娘とあなどっていたのだが、気づいてみると、小菊はすでに女になりかかっている年ごろだ。まだ青い果実だが、いかにもういういしく、歯ごたえもありそうだ。
庄太郎は小菊の内腿のもっと奥を想像した。胸のふくらみ、腰の厚みへも目をやった。
押したおして、おさえつけてやりたい衝動がにわかにこみあげた。
(どうしたことだ、おれらしくもない)
庄太郎は自分がおもわずいだいた欲望をいましめた。
ううう、うっ、うっ……
そのときまた例の声がきこえてきた。
「いやだあ、千鶴姐さんったら」
小菊は声をあげて、やや顔をあからめた。
庄太郎はそのとき、無性に荒々しい欲望のかたまりが体の奥底からこみあげてくるのをおぼえた。それは宵のうちから我慢しつづけてきた理性を一気につきやぶるはげしいものだった。酔えぬまま体の中にたまった大酒もこのとき一挙に酔いを発した。
一瞬、目前で閃光《せんこう》がきらめくのを庄太郎は感じた。つぎの瞬間もう体をおどらせて、小菊を押したおしていた。今までねむっていた狂暴なまでの欲望がはじけ、小菊をおさえこんだ。
小菊は鷹《たか》の爪にとらえられたあわれな小鳥であった。のけぞりながら白い喉《のど》をふるわせて悲鳴をあげようとした。
庄太郎は掌《てのひら》で小菊の口をふさぎ、あいているほうの手で膝を割り、足を押しひろげていった。
小菊は両足をばたつかせたが、庄太郎は難なく着物の裾《すそ》を上までまくりあげた。
「あんまりひどい話じゃないか、ひどすぎるよ……」
宝屋の女|将《おかみ》おせきは悔しさをかみしめた顔でおえんにうったえた。
おせきの前には皿に天麩羅《てんぷら》がもりあげてあるが、箸《はし》は一度もつけていなかった。
おえんとおせきは天清のいちばん隅の小座敷にすわっている。
「格のひくい中見世や小見世ならまだしも、大見世の振袖新造が名代にでて客に押さえつけられるなんて、ちかごろあんまり聞かない話じゃないか。その上怪我を負わされたんじゃ、踏んだり蹴《け》ったり。それじゃあ、大見世の名が泣こうというもんだ。女将さん、泣き寝入りする手はありませんよ」
おえんはおせきの話をきいてあきれた。
「あんまりやることが乱暴じゃないか。あたしは腹がたって腹がたって仕様がないんだよ。だけど相手が蔵前の札差だからね。今までずいぶんうちをひいきにしてくれてるもんで、どう手を打ったものかとまよってるんだよ」
おせきはおえんよりもひとまわり年上だが、父の仁兵衛が馬屋をやっていたころからの知り合いで、たがいに気ごころがつうじていた。仁兵衛はよく宝屋の仕事をたのまれてやっていたものである。
「札差だからって、見のがしておくことはないとおもうよ。金の威力にものをいわせて、ふだん威張りかえってる連中じゃないか。それに日ごろ、通だの粋だのって気取ってる客がそんな横紙やぶりをやったのをゆるしておくのは、もってのほかだ」
はじめは憤慨のあまりおせきがおえんに相談にきたのだが、話をきいてからはおえんのほうがあつくなった。
「あんまりことを荒だてるのも本意じゃないけれど、このまま見のがしておくのは業腹だからね。ただなんといっても相手が天下の札差だから、すんなりこっちの言い分をみとめるとはかぎらない。むこうだってコケンにかかわることだ。もしかしたら札差と喧嘩《けんか》になるかもしれない」
おせきの心配はそこにあったのだ。
「非は一方的に客にある。遊廓《ゆうかく》の御法度《ごはつと》をやぶった千石屋がわるいんだ。喧嘩になるのをおそれてこれを見逃したら、吉原《なか》の掟《おきて》をまもれなくなりますよ」
「どうあっても御法度やぶりをゆるしちゃおけないねえ。ここはどうでも、おえんさんに出てってもらおうか。小菊の治療代と見舞金を合わせて十両ほども頂戴《ちようだい》しようか」
おせきはここでようやく決断をした。
「治療代はいくらでもないだろうが、見舞金がちと安すぎはしませんか。法度をやぶって生娘《きむすめ》を手ごめ同然にしたんだ。そんなやつはゆるしておけない。百両ふんだくったっていいとこだけど、まあ、ぜんぶまとめて五十両にまけておいたら」
おえんは正義感が燃えたぎって、おせきがつけた値段をなんと五倍に値上げした。
「値段はあって無いも同然、おえんさんにすべてまかせますよ。小菊のためにもこうしたことはきちんとしてやらないとね」
おせきはそういって納得した。
「相手が札差だろうとなんであろうと、御法度は御法度だ。きちんときまりはつけてもらうよ」
いやがうえにも、おえんの血は燃えた。
札差は吉原にとってはすこぶるいい客だが、御法度やぶりはゆるせない。しかも、札差は旗本、御家人の金融の元締として権勢を張るようになってから、江戸を我がもの顔でのしあるいている。札差の横暴、傲慢《ごうまん》な所業はよく耳にするところだ。金にあかし、権勢にものをいわせるわがままぶりは江戸の庶民の怒りを買うことがしばしばである。札差がすべて傲慢なのではないが、総じていえば、わるいやつが断然おおい。
おえんにとっても、札差ははじめての相手である。いつかこんなこともあろうかと待ちかまえていた節も、こころのどこかにひそんでいた。それだけに相手が札差だからといってひるむところは毫《ごう》もなかった。請け負った瞬間、体のふるえるようなこころよい緊張をおぼえた。
翌日。
おえんは浅黄《あさぎ》の縞《しま》の留袖《とめそで》にきりっと朱の腹合せ帯をしめて弁天屋をでた。
むかうはおなじ浅草、蔵前である。町駕篭《まちかご》をひろい、日本堤をつっぱしって、聖天町から花川戸へでた。花川戸から奥州《おうしゆう》街道をいくと、やがて浅草御蔵がたちならぶ蔵前にでる。
蔵前通りにたちならぶ間口がひろく、奥行もたっぷりある豪奢《ごうしや》なかまえの建物が、江戸を代表する商人札差の店舗屋敷である。
駕篭は鳥越橋をわたった先、天王町の一角でとまった。
駕篭をおり立ち、おえんは千石屋の店の前で、看板と堂々たる大暖簾《おおのれん》を見あげた。
札差の起源ははやいが、当初は浅草御蔵に蔵米をとりにくる旗本や御家人たちの雑用を弁じた零細な縁台商人であった。ところが享保《きようほう》の年代に株仲間としてみとめられ、旗本、御家人の蔵米の受けとりと販売を依託されるようになり、さらに彼等の金融を一手にひきうけてから札差たちは一挙に富をきずいていった。今では旗本、御家人の死命を制するまでの存在になっていたのだ。
「はじめてお目通りをねがいます。わたくしは浅草田町に住むえん[#「えん」に傍点]と申す者でございます。千石屋庄太郎さまにおねがいいたしたいむきがございます。いたってぶしつけでございますが、ご在宅でしたら、ぜひお目にかからせてくださいませ」
おえんは千石屋の帳場にいた番頭に挨拶《あいさつ》をした。
「主人は今店におります。お取りつぎいたしましょう」
番頭はあっさり請け合った。
番頭は一度奥へ入り、やがてでてきて、
「お上りくださいまし。主人は会うといっております。どうぞ、座敷へ」
と招じてくれた。
おえんは履物をそろえて、上へあがった。
みちびかれたところは、千石屋の客間である。数寄屋《すきや》造りの木の香もあたらしい見事な座敷だ。
やがて、千石屋庄太郎があらわれた。
しっとりとした光沢をもつ秋物の単|衣《ひとえ》を無造作に着ながした風姿はなかなか粋《いき》で立派である。
〈十八大通《じゆうはちだいつう》〉の昔から、大口屋暁雨《おおぐちやぎようう》、大和屋太郎次など札差は粋、通の世界で幅をきかせているものだ。
おえんが名乗ると、
「わたしが千石屋の主人だが」
意外なほどのおちついた物腰の挨拶がかえってきた。
四十前後で、男ざかりの自信がうかがえ、人生分別ざかりの年ごろにもちかづいている。
おえんはこんな男が本当に名代の新造を押えこんで、傷まで負わせたとは信じられないくらいであった。
「吉原《なか》の付き馬屋といっても、旦那《だんな》さまのようなお方には無縁の稼業でございましょう。わたしは馬屋をやっております弁天屋えん、といいます」
おえんがそう切りだしたときまでは、庄太郎はよもや自分が取りたてにこられているとは気づかぬようだった。
「馬屋のことなら、吉原《なか》などでときに耳にすることがある。あそんだ金をはらわぬ客から取りたてる商売だそうじゃないか。女の馬屋とはめずらしい」
庄太郎はいくらかおえんに興味を見せた。
「あそんだお金を取りたてますのがもとより馬屋の本業でございます。ですが、ときにはお客がおいらんや遊女屋へ迷惑などをかけた謝罪のお金や見舞のお金を申しうけることもございます。こちら様ではそのようなおこころあたりはございませんか」
おえんがやや遠まわしに切りだすと、ようやく庄太郎の面に不安の色がわずかに浮かんだ。こころの動揺がいくらか表にあらわれたのだ。
「おえんさん、あんた、わたしに用があってきたのかい」
庄太郎の言葉にはおどろきがかくされていた。
「千石屋さんは宝屋をごひいきになさっているとうかがいましたが、先日、なじみのおいらん黄菊に逢《あ》いにいかれましたか」
おえんがそういうと、庄太郎の顔にようやく苛《いら》だちと怒りの色があらわになった。
「わたしが吉原へいこうと、どこのおいらんを買おうと、馬屋のあんたにかかわりはないはずだがね」
今までとうってかわった険のある言葉がかえってきた。
「それは千石屋さんのおっしゃるとおりでございます。お客が吉原の遊女屋へあがり、なじみのおいらんとつつがなくおあそびになっておかえりになるなら、わたしどものような馬屋のでてくる幕はございません」
おえんは応じた。
「だったらどうだというんだ」
「千石屋さんは宝屋の黄菊の座敷へあがったところ、あいにくおいらんは不在でした。千石屋さんは仕方なく名代にでた新造《しんぞ》の小菊と夜をすごされましたね」
そういったとたんに、庄太郎の顔がさっと蒼《あお》ざめた。
「おまえ、誰になにをたのまれたか知らないが、おれを強請《ゆす》りにきたのか」
「強請りにまいったのではございません。馬屋の稼業柄、千石屋さんが宝屋にはらうべきお金を、かわって取りたてにうかがいました」
おちつきはらっておえんはこたえた。
「おれは宝屋の長年の客だが、見世には一度だって借りをつくったことはない。宝屋がなにをいってるか知らないが、馬屋がのこのこおれの前に顔をだすのははなはだもって筋違いだ。おれは宝屋にも馬屋にもはらうべき金は一文もない。先日の夜も勘定は翌朝きちんとすましてきた。宝屋の番頭が承知のはずだ!」
庄太郎は声をふるわせてがなりたてた。
「その夜の揚代はきちんと勘定がついております。けれども、名代の新造小菊に無体をしかけ、怪我を負わせた始末がついておりません。その始末の代金五十両、本日、わたしが頂戴《ちようだい》にまいりました」
おえんはそういいつつ、懐中から馬屋証文をとりだし、庄太郎へ見せた。
庄太郎は証文を読みくだすなり、怒りにまかせてひきやぶった。
「おれは宝屋でなんの不始末もしていない。新造に怪我も負わせていない。五十両などととぼけた勘定、はらう謂《いわ》れはなにもない。取れるものなら取って見ろ。そのかわりこちらも黙ってはいないぞ!」
庄太郎はすごい剣幕でどなり散らした。
「庄太郎のやつ、あの夜の不始末はまったくなかったことと嘘をつきとおすつもりのようだ」
おえんは弁天屋にもどってきて、用談部屋で又之助と浜蔵へいった。
「嘘をつきとおすといったって、そんなことができますかねえ」
浜蔵がおどろいた顔でいいかえした。
「天下の札差だから、そんな恥っさらしはみとめたくないのだろう。金をはらえば、吉原《なか》の御法度やぶりをみとめたことになる」
「みとめるも、みとめないも、やったことはやったことだ」
「といっても、その場を見ていた者はいないのだ。庄太郎が小菊に無体をはたらいたのは、黄菊の本間だからね。庄太郎がかえってから、小菊は痛みをこらえかねて女|将《おかみ》さんへうちあけた。そうしたら小菊の体に裂き傷ができていたんだそうだ」
「ひどいことをやったもんですね、年端《としは》もいかぬ振袖新造《ふりそでしんぞ》を手ごめにするなんて、一人前の男のすることじゃない。まして、札差ともあろう者が」
「だからこそ、千石屋はなにがなんでも嘘をつきとおそうとしてるんだ」
おえんはこのときはじめて、千石屋の一件を又之助と浜蔵へうちあけた。又之助と浜蔵はそれぞれ、二両だの三両一分だのといったちいさな取りたてにしたがっていた。馬屋にくる仕事のおおくは十両未満の仕事である。それらもひとつひとつこなしていくのが馬屋の大切な商売である。こまかい取りたてをいくつもやっているうちに、ときたま何十両という大仕事がころがりこんでくるのである。
「でもお嬢さん、大変な仕事を請け負いましたね。札差を相手にするのは、並大抵じゃありませんよ」
それまでだまって聞いていた又之助がこのとき口をひらいた。
「札差の権勢がいくら大層だって、商売相手を選《え》りごのみするわけにはいかないじゃないか」
おえんがいいかえすと、
「そうですね。札差はやりません、武家も受けません、なんてことをいってたら商売になりませんからね」
又之助はすぐに納得した。
「こっちがやるなら、むこうも黙ってないと千石屋はいっていたよ。きっとおもいきった邪魔だてをしてくるだろう。お前たちも用心しておくれ。暗闇から鉄砲玉がとんでくるかもしれないからね」
「きたら受けてたちますよ。札差や鉄砲玉がこわくって、馬屋がつとまるわけもねえ」
浜蔵がむきになっていった。
「ともかく、地道にアタリ[#「アタリ」に傍点]をとることからはじめよう。どこに千石屋の弱みがあるか、それを見つけるんだ。見つけたら、とことんそこを攻めていく」
おえんはいつもの仕事のやり方を踏襲するつもりである。相手が札差だからといって、とくべつな戦法をとるつもりはなかった。
相手の家族、親戚《しんせき》、商売の関係、近所づき合いなどもろもろを手がたくしらべて、その中からつかえそうなものを引きだしていく。地味なようだが、そうした手立が馬屋の基本的な戦法なのだ。一気に相手を攻めたてていく、そんな戦法は馬屋にはない。
「十分に用心してアタリをとっていきますよ」
「あたしは小菊の治療をしたっていう医者をあたってみよう。出養生からかえってきた黄菊をあたってみると、庄太郎のことがよくわかるかもしれない」
「そうかといって、遊客に化けて黄菊から寝物語りで話をひきだすわけにはいきませんからねえ」
浜蔵が顎《あご》をさすりながらもらすと、
「吉原の男《もの》がおいらんを買うのは御法度《ごはつと》だよ。馬屋だって、その御法度はまもらなきゃならない」
おえんは叱りつけるようにいった。
「おいらんを買わなくたって、ちかづく手立はありますよ」
「いつだったか、又之助は絵草紙屋に化けて、おいらんからアタリをとったことがあったじゃないか」
「そんなことがありましたねえ。今度もなにかやってみましょう」
又之助はそういって思案をめぐらした。
翌々日。
秋晴れの空には一片の雲もない。澄みわたった午前である。
一日のうちで遊廓《ゆうかく》ではたらく者たちがいちばんくつろいですごすのが、この頃合《ころあい》である。遊女たちは湯に入ったり、食事をしたり、化粧にかかったりする。親元やなじみ客に手紙を書いたり、絵草紙をよみふける遊女もいる。髪結いがきたりするのもこのころである。
宝屋の遊女たちも同様である。くつろいで、それぞれにのんびりとした時刻をすごしている。
黄菊は先だっての不調からすっかり立ちなおり、今は体の具合もととのっていた。今戸の別荘に出養生にいったのがよかったとみえて、気分も晴れ晴れとあらたまった。ただひとつ気がかりといえば、自分の留守にかわって座敷にでた妹分の小菊がおもわぬ怪我を負ったことだ。
その件は女将の口から黄菊の耳に入っていた。なじみの客で、信頼をしていた千石屋がおもいもかけぬ振舞をしてくれたものである。黄菊も千石屋庄太郎に腹をたてていた。なじみの客のとんでもない御法度やぶりはおいらんの恥でもある。
まして怪我を負った小菊は可哀そうだ。新造といえども、体は将来の商売道具である。しかもいずれは突き出しの披露目《ひろめ》をうけて呼びだし昼三にもなろうという大切な振袖新造だ。女将のいかりももっともだと黄菊はおもった。
髪結いの手に自分の頭をゆだねながら、黄菊は小菊へやろうとおもっている見舞いの品をあれこれ思案していた。
そのとき、むかいの千鶴の座敷からでていく呉服屋の挨拶がきこえた。なじみの呉服屋ではなく、飛びこみのようだ。おいらんの着物をあつかう呉服屋は大抵きまっているが、ときには飛びこみで出商いにくる呉服屋もいる。
「ちょいと、呉服屋さん」
黄菊は廊下へむかって声をかけた。
「へいっ、越前屋でございます」
打てばひびくように声がかえってきた。
「お手すきでありいしたら、こちらにも寄ってくんなまし」
黄菊は小菊に着物を見たててやろうとおもった。
「毎度ありがとうございます。お声をかけていただきまして」
いいながら若い男が顔をだした。生真面目そうだが、なかなかきりっとした若者である。唐草模様の入ったおおきな風呂敷包《ふろしきづつみ》を背負っている。
「振袖新造に似合いそうな着物を見たててやってくんなんし」
黄菊がいうと、
「新造さんへ似合いの反物がたくさんございます。見てやってくださいまし」
えたりとこたえ、座敷の中に入ってきた。
風呂敷包をとくと、反物の束が山のようにでてきた。
「縮緬《ちりめん》の染模様か、小紋か縞《しま》でえらんでくんなんし」
いいながら黄菊は自分でも反物をえらびはじめた。色彩、柄《がら》、種類は数々ある。だが、すぐにはこれといったものが見つからなかった。
「今日の荷はこれだけですが、店へもどればまだいくらでも品がございます。明日、もう一度でなおしてまいりましょう」
あれこれ見立てたあげくなかなかきまらず、呉服屋は明日を約して、黄菊の座敷をでていった。
この呉服屋は、又之助である。
九月十日は、今戸|妙法寺《みようほうじ》の縁日である。
隅田川《すみだがわ》にそって細長くつづく今戸の町並に緑福寺、広楽寺、心光寺、安昌寺、妙高寺……といった寺が何丁にもわたってつづくが、妙法寺はそのうちのひとつである。縁日には道ぞいに露店がずらっと立ちならび、参詣人《さんけいにん》と縁日の客であたり一帯がにぎわう。
「今日も又之助はもどらなかったね」
田町からぶらぶらと日本堤をあるいて今戸にやってきたおえんと浜蔵は露店でにぎわう道筋をあるきだした。おえんも浜蔵も縁日は好きである。界隈《かいわい》のおもだった縁日には、事情のゆるすかぎりでかけていく。縁日をひやかすだけで、気分が晴れるのである。以前は、仁兵衛がおえんと浜蔵をよく縁日につれていってくれた。
「又之助は呉服屋に化けて、黄菊にしきりにちかづいておりますよ。縁日の散歩などにはとても付き合っちゃいられないんでしょう」
「なにかいいアタリが取れたら、みっけもんだよ」
おえんも浜蔵も、千石屋庄太郎の身辺をしつこいくらいに嗅《か》ぎまわっていた。店の近所や顧|客《とくい》先、親類などをたずねて、庄太郎の人物をあらいだしていた。
千石屋は代々の札差だから、何代も前からの地つきである。だから家族、親類のこと、商売関係もわりあいにつかみやすかった。庄太郎の子供のころのことまで情報が入ってきた。そのなかから取りたてにつかえそうなネタを選りわけていく段階である。
「いろいろなネタはあがってきているのだけれど、今ひとつ、ぴんとくるものがないねえ」
露店のつづく町並をあるきながらおえんはもらした。
「なあに、そのうちには、浮かびあがってくるでしょう」
浜蔵は沿道にならぶ各店々の玩具《おもちや》や食べ物、飾り物などに興味を見せながらあるいていった。豆太鼓、豆人形、おきあがり小法師《こぼし》、風車、独楽《こま》、手毬《てまり》、お面、ようよう、笛、人形などを売る店、飴玉《あめだま》、こんペい糖、あるへい糖、饅頭《まんじゆう》、ようかん、筏餅《いかだもち》、落雁《らくがん》、淡雪、砂糖豆……などの菓子をならべた店々に大人や子供たちが大勢たかっている。
にぎやかに口上をのべて客を寄せている見せ物、麦湯、あられ湯、甘茶などを飲ませている屋台もでている。似顔絵をかいているへぼ絵かきもいて、いやがうえにも縁日の浮き浮きした気分にかりたてられる。
「縁日をひやかしてると、昔のころをおもいだすねえ」
いそがしい仕事のさなかにあっても、おえんはいくらかの閑《ひま》を見つけては縁日をたのしんでいた。浜蔵は少年のころから弁天屋に住みこみでいたから、おえんとは兄妹のようにしてそだった。浜蔵の父は前科者であったが、浜蔵が道をそれなかったのは、弁天屋に住みこんでいたからである。
「お嬢さんも、子供のころから祭りや縁日が好きでしたねえ。娘だてらによく男の子をいじめたり、泣かせたりしていましたよ。今でもそれはあまりかわらないけど」
浜蔵も以前をおもいだしていった。
「浜蔵だって、ちっともかわっていないじゃないか。浜蔵がいじめられてかえってきて、あたしがかわりに仕返しにいったことをおぼえているよ」
「そんなことがありましたかねえ」
「ありましたかねえもないもんだ。浜蔵は弱虫で、よくそんなことがあったよ」
「お嬢さんのじゃじゃ馬ぶりも以前とすこしもかわらないねえ。あまり色気もでてこないし、いたずらに馬齢《ばれい》をかさねている感じだ」
「わるかったねえ、色気がなくて。でも、お前や又之助が感じないだけじゃないのかえ。世間じゃ、あたしのことを……」
「わかってますよ。二丁目の小町といわれてたっていうんでしょ。それは、以前はもっと可愛げがあったから」
「今だって、あたしを目あてに天清《てんきよ》に天麩羅《てんぷら》たべにくるお客だっているんだよ」
「そりゃあ一人や二人くらいはいるでしょう。嫁《い》きおくれでも、まだ娘なんだから」
「浜蔵、いいたいことをいうじゃないか。それなら今度縁談がきたら、ほんとに嫁《い》っちゃうよ。あたしが嫁にいったら、浜蔵と又之助は泣きあかすだろう。今年の正月だって、浜蔵と又之助はからっきし元気がなかったじゃないか」
二人はいい合いながら、銭座《ぜにざ》のちかくまできた。銭座は以前幕府の鋳銭所のあったところで、ここで寛永通宝などがつくられた。その後、砂糖製造所、油しぼり所になった後、近年は幕府の銀座役所へひきわたされていた。
そのとき、向うからくる人波にまじってお多福の面とひょっとこの面、天狗《てんぐ》の面をつけている三人づれがちかづいてきた。縞の単|衣《ひとえ》や市松格子《いちまつごうし》の単衣をあそび人ふうに着ながした男たちである。手に露店で買ったらしい風車や花笠《はながさ》を持っている。
三人はかたらいながらやってきた。
おえんはかくべつ三人に気をかけなかった。しかしわずかに意識の隅っこで気にとめていた。
すれちがいかけたとき、お多福が懐から手をだした。ほとんど同時に、ひょっとこが花笠を捨て、袖《そで》から手をだした。
すれちがった一瞬、男たち三人がおえんと浜蔵の顔にむかって、なにかをぱっと投げつけた。
「あっ……」
おえんは顔一面にツブテを投げられたようなはげしい衝撃をうけ、両手で顔をおおった。
浜蔵もおもわず顔を伏せ、両手でおおいながらちいさな声をあげた。
砂か砂利のようなものが顔中いたるところ、首や胸のあたりに投げつけられたのだ。顔全体が痛みを発し、脳の芯《しん》まで頭がしびれた。むろん両目ともあかず、周囲が見えなくなった。
「浜蔵、敵だっ、逃げるんだよ!」
おえんは男たちが千石屋の手下どもだと感づいた。さけびながらおもいきり身を転倒させた。
「人ごろしだっ、人ごろしい!」
おえんは往来を二転、三転ころがりながら、沿道の屋台へとびこんだ。
屋台は麦湯や葛湯《くずゆ》を売っており、数人の客がたむろしていた。その連中の足もとへおえんはころがりこんだのだ。
「たすけてっ、人ごろし!」
もう一度大声でさけぶと、おえんを追ってきた天狗の面の男がさすがにたじろいだ。
まわりの通行人たちがみな天狗の面の男へ非難の眼差《まなざし》をむけている。屋台の客たちはすわと一斉におえんをかばった。
「なにをしやがる、若い女に!」
客の一人が天狗の面を怒鳴りつけた。
「娘さんの顔にツブテを投げたな」
一瞬の光景を見ていた客のもう一人がすばやく着物の裾《すそ》をはしょって、腕をまくった。
天狗の面はおもわぬことの成り行きにたじたじとなった。おえんをつかまえ攻撃をしかけたものの、屋台の客たちにはばまれた。
「まごまごしていると、とっつかまえて、ひっくくるぞ!」
腕まくりの客が草履をぬいで、応戦体勢に入ると、天狗の面は形勢わるしと見て、くるりと背をむけた。いっさんに人ごみの中へ逃げこみ、そのまま銭座のほうへ駆けだした。
屋台の客が二、三人追いかけたが、逃げ足がはやく、縁日の人ごみの中へまぎれこんでしまった。
おもいきったおえんのとっさの機転が身の危険をすくった。けれども、両目ともにあかない。目の痛みはひどくなる一方だ。
ともかく目をあらわなければとおもったが、浜蔵の身が気がかりだった。
「わたしのつれが目をやられております。どうしたでしょうか」
おえんは顔をおさえながらたずねた。
「つれの人は安昌寺の境内へ逃げていった。お多福とひょっとこの面をつけた男が追っていったよ。つれの人は顔をおさえていたから、目をやられているんだろう。つかまっているかもしれない。けれども姐《ねえ》さんのほうだって、はやく目をあらったほうがいい。手おくれになると目が見えなくなるおそれがある」
屋台の客たちは心配して、そのうちの一人が、沿道の商家へ水をもらいにはしっていってくれた。
水をいっぱいに張ったタライがすぐにはこばれ、おえんは丁寧に目をあらった。ゴロゴロするものが目からながれおちた。
しばらくすると、ようやく目が見えるようになった。タライのなかに米粒がいくつもしずんでいた。
「あいつら、米をツブテがわりに投げつけたんだ。かわったことをするもんだ」
屋台の客がおどろいたようにいった。
毒物がツブテにまじってなかったのは幸いだった。けれどもおえんは浜蔵が気がかりだ。
屋台の主人や客たちへ礼をいって、安昌寺の境内へむかった。
安昌寺にも参詣人はいるが、なんといっても今日は妙法寺に客をとられ、ふだんより閑散としていた。
見わたしたところ、境内にさわぎの様子は見えないし、その気配もない。
(浜蔵は……?)
おえんは心配になって、境内をずっとすすんだ。
浜蔵の姿はどこにもなかった。だが、参道の敷石の上に米粒がばらまかれているのが見えた。
浜蔵とお多福の面、ひょっとこの面がこの境内にきたのはまちがいなかった。
さらにいくと、鐘楼のちかくにまた米粒がぱらぱらとおちていた。
しばらく先へいくと、本堂の手前の御手|洗《みたらし》の横にも米粒がおちていた。
おえんの不安が増していった。浜蔵の身がしきりに案じられた。
本堂の周囲をぐるりとまわったが、不審な人影はなかったし、乱闘や揉《も》み合いをしたような跡も見えぬ。
米粒が落ちていないかよくさがしてみたが、それもなかった。
「浜蔵っ……、浜蔵……」
声をあげて境内を見まわったが、浜蔵の行方はわからなかった。
おえんは途方にくれて、安昌寺をでてきた。
おえんは縁日から弁天屋にもどると、帯をときはなち、留袖《とめそで》をぬいだ。
さらに長襦袢《ながじゆばん》をぬいでいくと、ぱらぱらと米粒が畳におちた。
浜蔵はまだもどってきていなかった。
「おえん、どうしたのだえ」
母のおとよが心配して寄ってきた。
「お米の雨をあびてきたのさ」
そういいながら島田の髷《まげ》を簪《かんざし》でかくと、さらにぽろぽろと米粒がおちた。
「空から米が降ってくるのかえ。そんな雨だったら、あたしもあびたいよ」
おとよがけげんな顔をしていった。
「あびるのもいいけど、そのかわり命がけだよ」
「父さんが命がけの仕事をつづけて、とうとう命をおとしてしまったのに、今度はお前が命がけの仕事かえ。あたしは気持のしずまるときがない」
おとよは事情《わけ》はわからぬものの、おえんが命の綱渡りをしていることをなげいた。
おえんは浜蔵のことはいわなかった。この上の心配をおとよにかけたくなかったからだ。
又之助も、いまもってかえってきていない。
又之助も浜蔵もいないのでは、仕方がなかった。
縁日でお面をかぶっておそってきたのは、まちがいなく千石屋の手下どもだ。
しかし米をぶつけてくる喧嘩《けんか》の戦法があろうとは、おえんは今まで知らなかった。いかにも米をあきなう札差らしい戦法である。
千石屋がやったという名乗りをあげた戦法であろう。千石屋の戦闘布告といってさしつかえなかった。
その夜、おえんは深夜まで床につかず、浜蔵のかえりを待った。
四更をまわったころ、仕方なく床についた。
けれども浜蔵の身の上が気がかりで、ねむれるはずもなかった。ねむる気もなかった。今後どういう戦法を千石屋にとっていくかを思案しつづけた。
暁がちかくなったころ、おえんは床のなかで聴き耳をたてた。
外では風が音をたてていた。けれども風ではない音をおえんは耳にした。裏木戸があいたような音だ。
それからやがて、雨戸のむこうに人のうごく気配がした。
(浜蔵だ!)
おえんはとっさに起きあがっていた。
廊下に出て、しずかに雨戸を一枚あけた。
外の空気はまだ夜の闇と朝の光が半々にまじり合っていた。そのなかで薄く闇のうごく気配がした。
おえんは薄ら闇のなかに眼をすえた。
「浜蔵」
ひくい声で呼びかけると、
「お嬢さん」
まぎれもない浜蔵の声がかえってきた。
「大丈夫かい……」
いいながらおえんは裸|足《はだし》のまま庭先へとびだしていった。
浜蔵は庭にうずくまっていた。
「ええ、お嬢さん、大丈夫ですよ。命には別状ありません。でも、体中が痛くて、いたくてね。おもうようにあるけねえんですよ……。だらしのねえ話ですがね、這《は》うように、ぼつぼつともどってきたんです。ようやくかえってきましたよ」
いつものはずんだような浜蔵の声ではなかった。息も絶えだえな声だった。
「元気をおだしよ。もう大丈夫だからね。しっかりおしよ」
おえんは力づけながら声をかけ、浜蔵の体をかかえこみ、ささえながら廊下へひきあげた。
「お嬢さんも、無事でよかったですねえ。お嬢さんのことが心配で、心配で、生きてるここちがしませんでしたよ」
浜蔵はおえんにささえられながら、かぼそい声でいった。
「馬鹿だねえ、自分のほうが大怪我してるっていうのに」
おえんは叱りつけたが、わけもなくあつい気持がこみあげてきた。
「馬鹿は生まれつきですよ。だけど、お嬢さん、やつら、おもいきりおれをいためつけやがった。境内の裏でとっつかまりましてね。棍棒《こんぼう》や青竹でさんざん打ちすえられました。百までかぞえましたけど、それ以上はかぞえられませんでした」
浜蔵は呼吸《いき》をするのも痛そうだ。それでかぼそい声をだしている。
有明行灯《ありあけあんどん》のよわい明りのなかでも、浜蔵のぐったりとした有様は正視するにたえなかった。
「医者を呼んでくるから、ここでやすんでおいで。骨さえ折れてなければ安心だけど、ともかく四、五日はうごけないよ」
おえんは浜蔵をやすませて、医者を呼びにはしっていった。
寝ていたところをおこされたちかくの医者の大村|石庵《せきあん》がまもなくやってきて、浜蔵の手当てをした。
さいわい、骨折や捻挫《ねんざ》はなかった。棍棒や青竹による打撲や、足蹴《あしげ》りでできた裂傷がいたるところにあって、塗り薬や膏薬《こうやく》の治療をうけて、背と腕、足に繃帯《ほうたい》をぐるぐるまかれた。
その後、一昼夜、浜蔵は死んだようにねむりつづけた。
一度おきて食べ物をすこし口にした後、また一昼夜ねむりつづけた。
二度めに目ざめると、浜蔵はむっくりおきあがった。
「お嬢さん、千石屋へ乗りこみましょう」
いったとたんに、体の痛みに悲鳴をあげた。
「浜蔵、ねぼけてるんだね。千石屋をやっつけるのは、まだまだ先だよ。準備がととのっていないじゃないか」
おえんはたしなめた。
浜蔵は傷の痛みで、今度ははっきり目がさめた。
「お嬢さん、礼はたっぷりと二倍にしてかえしてやりましょう」
浜蔵の闘志はおとろえなかった。
「仕かえしの手立はあたしがかんがえているよ。でもなかなか名案がでてこないんだ」
おえんも馬屋稼業に入ってから、すでにおおくの仕事を手がけてきた。むつかしい取りたても数々こなし、馬屋がもちいる大概の手立は経験ずみだ。乱暴な手口、少々きたないやり口にも通じていた。だが今回、千石屋にたいするこれといった名案が浮かんでいなかった。
「名案でなくたってかまいやしません。少々雑な手立だってかまいませんよ。一日もはやく千石屋をやっつけてやりましょう」
浜蔵はまだ満足に立ちあがれないというのに、あつくなっている。
「あわてることはないよ。期限はないのだから、ゆっくり準備をする暇がある」
おえんはまだ弁天屋にもどってこない又之助に望みをかけていた。又之助がこれほど店を空けているということは、なにか恰好《かつこう》の手蔓《てづる》をつかんでいると見ていた。
「吉原《なか》の遊女屋や引手《ひきて》茶屋に廻状《かいじよう》をまわすというのはどうでしょう」
浜蔵がいった。
「なかなかの名案だね。札差の千石屋は宝屋の名代《みようだい》小菊に手をつけ、そのうえ怪我を負わせました、爾今《じこん》、千石屋庄太郎の出入りは差し止めましょう、と口上を書いた廻状を吉原の遊女屋、茶屋にまわせば、千石屋は今後吉原に出入りができなくなるよ。千石屋の面|子《めんつ》も見栄《みえ》も丸つぶれだ。札差の交際《つきあい》や商売にもさしさわりがでるかもしれない。あたしもこの案はずっとかんがえていたんだよ。けれどもこれで千石屋をいためつけることはできても、降参させるとこまでは追いこめないとおもうよ」
以前、吉原の遊女屋が手癖のわるい客にたいして廻状をまわした例があった。そのときは客のほうが折れて遊女屋に詫《わ》びを入れ、しかるべき者があいだに入って謝罪の文を書いて、廻状をとりさげてもらって事件は落着した。
「遊女屋、茶屋に廻状がまわると、吉原《なか》をあそびや商売の舞台にしている札差にはおおきな痛手になるでしょう」
「痛手にはなっても、千石屋がひらきなおれば、五十両はとれなくなるよ」
「千石屋は五十両よりも面子をとるとおもいますがね」
「だったらいいけど、千石屋は一筋縄《ひとすじなわ》じゃあいかない男だ」
「もっといい手があればいいんだが」
「浜蔵はしばらく仕事をわすれて、傷養生をしてればいいんだ。仕事はあたしと又之助にまかせておくれ」
おえんがそういったとき、弁天屋の店の戸があいた。
人の入ってくる気配がした。
(もしや……)
とおえんがおもったとき、
「又之助だ!」
聴き耳をたてていた浜蔵がいった。
秋が闌《た》けた。春夏秋冬のうちで、いちばんうつりやすいのは秋である。秋がきて間もないうちに、青北|風《あおきた》が吹く。するともう季節は晩秋である。
吉原でも、昨夜、十三夜の月見がおこなわれた。市中の町家などでも、枝豆や栗をそなえて月見に興じた。
千石屋の別邸がある根岸《ねぎし》の里も月の名所である。この地は上野の山の北陰で、幽邃《ゆうすい》閑雅、風光|明媚《めいび》な江戸の郊外であり、豪商の別邸や文人、風流人などの住居があった。上野山を背景にした田園風景、清流|音無川《おとなしがわ》の名勝があり、鴬《うぐいす》、水|鶏《くいな》、藤、蛍《ほたる》、月、雪、枯野……かぞえあげればきりのないほど、四季の雅趣に富んでいる。
昨夜は、千石屋の別邸でも月見がおこなわれ、蔵前から庄太郎と長男の庄之助もやってきた。別邸には女房のおみちと一人娘おひさと女中、下男などが住んでいる。おみちは生まれつき体がよわく、浅草蔵前のような雑踏の巷《ちまた》は体質に合わないので、空気がよくて閑静な根岸の別邸で一年の大半をすごしているのである。
庄太郎は妻子とはなれての本宅ずまいであるが、蔵前から根岸は駕篭《かご》をとばせばほんのひとっぱしりの距離であり、不自由なことはなかった。女房、娘とはなれてくらしているので、庄太郎は気がねなく吉原であそぶのにも好都合であったのだ。
昨夜はおそくまで、ひさしぶりの家族|団欒《だんらん》をすごした。この月末にはおひさの祝言がきまっており、やがてとつぐ娘と家族の最後の月見となった。
おなじ札差仲間の松貝屋《まつかいや》の跡取息子玉三郎とおひさは許婚《いいなずけ》で、祝言の準備もほとんどととのっていた。玉三郎はおひさよりも六歳年上の二十三である。
おひさは十七歳の箱入娘で、庄太郎はまだ嫁にやるのははやいとおもっていたが、松貝屋がはやく息子に跡を継がせたくて、やいのやいのというので、祝言がきまった。
おひさは昨夜の月見で、床についたのがおそく、今日は昼前におきた。
朝餉《あさげ》をぬいて、おひさはかるい昼餉をとった。日本橋通旅|篭《はたご》町の呉服屋大丸屋が昼過ぎに花嫁衣装をおさめにくるので、おひさは昼餉の後しばらくして、入浴に立った。
千石屋の別邸の湯殿は渡り廊下でつづいた別棟になっている。脱衣の四畳半があって、その先が湯殿である。
渡り廊下をとおって湯殿へむかうおひさの姿を、女中が見ていた。
だが、おひさはとうとう湯殿には姿をあらわさなかった。風呂焚《ふろた》きの下男はおひさがなかなかあらわれぬので半刻《はんとき》(一時間)ちかく待ったあげく、その旨《むね》をおみちに告げにきて、別邸のなかは大さわぎになった。
別邸は庭がひろく、裏は雑木林につづいている。みんなで屋敷中をさがしたが、おひさの姿は見つからなかった。
下男が蔵前にはしり、庄太郎と番頭|弥兵衛《やへえ》が駕篭をとばしてやってきた。
おみちは泣きながら庄太郎にうったえ、屋敷内ばかりでなく、別邸のまわり近所へもさがしにでたが、おひさの行方はわからなかった。花嫁衣装をおさめにきた大丸屋の番頭も一緒になってさがしたが、日が暮れても、とうとうおひさはもどらなかった。
おみちは泣きくずれ、気が動転し、
「おひさがいなければ、わたしはもう生きていられない」
狂ったようにわめいた。
「これだけさがして見つからないのだから、神隠しにあったのかもしれぬ」
夜がふかまったころ、庄太郎もがっくりと肩をおとしていった。
九月も末にちかづいた昼下り。
秋《あき》時|雨《しぐれ》にぬれた蔵前通りを二|挺《ちよう》の駕篭がゆき、鳥越橋の先、千石屋の前でとまった。
駕篭からおりたのは、おえんと浜蔵である。
大暖簾《おおのれん》をわけて、おえんと浜蔵は千石屋の店内に入っていった。浜蔵はもう体はすっかり回復していた。大村石庵は完全によくなるまでに一カ月かかるといったが、そこは若さの強みか、およそ半月で元へもどった。
店内にいた手代たちがすばやく、おえんと浜蔵をみとめた。札差の店ではどこでも、旗本や御家人たちの強談やら強請《ゆす》りにそなえて、対談方という腕っぷしのつよい屈強な手代をおいていた。札差が手を焼くといえば、金融につまった旗本や御家人が返済の見込みのない借金を強引に申し入れてくることである。彼等は切羽つまると腕ずくや、腰の一刀をすっぱ抜いて強談におよんでくる。それに負けないだけの度胸と腕っぷしを持つ荒手代をやとっているのだ。
「なんだっ、お前たち、何用だ!」
「なにしにきたっ」
荒手代三人が目をいからせて、迫ってきた。
「妙法寺の縁日じゃあ、あらっぽい馳走《ちそう》をしてもらったねえ」
おえんが怖《お》じけるふうもなく、うっすらと笑みをうかべて三人へいった。
「お多福、ひょっとこ、天狗《てんぐ》の歴々だな。礼はかならずさせてもらうぜ」
浜蔵がにらみつけていうと、一人が今にもつかみかかろうとした。
「しずかにおしよっ、今日はお前たちに用はないんだ。大事な話が千石屋にあるんだよ。前をおあけ!」
おえんが張りのある声をひびかせると、おもわず三人は後ずさった。おえんの度胸と態度が強がりや虚勢ではないことが、三人にわかったのだ。
おえんは番頭弥兵衛のいる帳場まですすんだ。
「千石屋庄太郎さんへ、のっぴきならない用談がございます。今日はどうしても五十両うけとりにまいったとおつたえください」
おえんがきめつけていうと、弥兵衛はその見幕におされて奥へいった。
このころ、千石屋の奥の座敷では、花嫁道具のもろもろをひろげた中で、庄太郎とおみちが思案投げ首、いてもたってもいられぬ風情で、呆然《ぼうぜん》としていた。おひさと玉三郎の祝言はとうとう明日にせまっていた。けれどもまだおひさはもどっていなかった。庄太郎とおみちは祝言をどうするか、これまでさんざんまよったが、おひさが今夕にでもひょっこりもどってくるような気がして、仲人《なこうど》にも松貝屋へもこと[#「こと」に傍点]をうちあけていなかった。もしとつぜんもどってきた場合、いなくなっていたことが相手にわかれば微妙な問題を生ずるおそれがあった。それでつい一日のばしにしてきたのであった。庄太郎もおみちも十三夜の翌日から今日まで、事柄ゆえに町奉行所へもとどけずに、内々でおひささがしをつづけ、憔悴《しようすい》に憔悴をかさねていた。
そうしているところに、弥兵衛がやってきた。
弥兵衛が帳場から立っているあいだ、荒手代たちがおえんと浜蔵を周囲から見張っていた。
浜蔵はその一人一人をゆっくり見やった。さんざん痛めつけられた礼をどのようにしてかえすかかんがえた。
そこに庄太郎が姿をあらわした。
「おえん、まだ懲りないか。今度はなにしにきた」
庄太郎はいきなり罵声《ばせい》をあびせた。
「五十両取りたてにまいりました。今日はきちんとはらっていただきます。明日はこちらさんにはおめでたい日でございましょう。その前にきれいにすべきものはしたほうがようござんしょう」
切り口上でおえんはいった。
「めでたい日であろうとなかろうと、馬屋なんぞの知らねえことだ。何度もいうが、お前たちにはらう金は一文もない。縁起がわるくなるからかえってもらおう」
庄太郎は今までいらいらしていたので、噛《か》みつくように声を荒らげた。
「めでたい日をひかえながら、千石屋さんの顔色が晴れませんね。おちつきもうしなっていらっしゃる。なにかよくないことがおこったのではありませんか」
しらじらしい言葉をおえんはならべた。
「お前たちにかかわりのないことだ。五十両のかわりに波の花をたっぷりまいてやるから、とっととかえれ。また痛い目にあいたいか」
庄太郎がいったとき、おえんは笑みを浮かばせた。
「今度痛い目を見るのはどっちだろうね。わたしが取りたてにきているうちにきちんと始末をつけたほうがいいとおもうよ。今度わたしがかえるときは、千石屋の誰かが痛い目を見るときだ」
おえんの啖呵《たんか》がじわりと庄太郎にきいた。
「千石屋の誰かとはどういうことだ」
庄太郎はふと気になっておえんをにらんだ。
「自分でよおくかんがえてみるといい。主人の不始末は女房の不始末といってもいい。家族の不始末にもおよぶだろう。それだけの責|任《つとめ》が一家の主人にはあるんだよ。だから主人は滅多にいい加減なことはできないんだ」
「なんだと、お前、妙なことをいうな」
おえんがちくりと刺した言葉に、庄太郎はさらにおそれをいだいたようだ。
「妙なことはいってないよ。主人の不始末で家の者が痛い目を見るのは可哀そうだといってるんだ」
「お前、かくしていることがあるな。おえん、ひょっとして、うちの娘をかどわかしたのじゃないか?」
庄太郎はおもいあたって、急におちつきがなくなった。
「どうもしちゃあいないよ。先だって、神隠しかなにかに会って、うちにまぎれこんできた娘がいるけど、まさか千石屋の娘じゃあないだろう」
おえんがそこまでいうと庄太郎の顔が蒼《あお》ざめ、目の色がかわった。
「おえん、その言葉嘘じゃあるまいな。本当に神隠しの娘がいるのか」
「娘はいるけど、身もとはいっこうにわからないのさ。その娘、なにも口をきかないのでね」
「お前、その娘に手出しをしちゃあいないだろうな。その娘はきっとうちの娘だ」
庄太郎の顔が苦しげにゆがんできた。
「まさか、嫁入りを明日にひかえた娘がうちにまよいこんできてはいないだろう。お宅の娘じゃないとおもうよ」
おえんは庄太郎を翻弄《ほんろう》していった。その娘は又之助が千石屋の別邸からさらってきたおひさである。
「その娘の身もとをあかす物はないか」
庄太郎は苦悩を見せながらいった。
「さあ、たしかな物はなかったけれど、お守りはひとつ持っていたね。たしか、成田不動|八幡《はちまん》さまのお守りだった」
そういっておえんは手を袂《たもと》に入れた。
成田不動八幡といえば、浅草御蔵のはずれにある蔵前の産土《うぶすな》神だ。
「気になるんなら見てごらんよ」
おえんはいいつつ袂からだした赤い守り袋をぽんと庄太郎の前へ投げてやった。
そのとき、甲高い悲鳴があがり、襖《ふすま》の陰から人影がおどった。
「あんたあっ、おひさのお守りだよ! おひさが肌身はなさず持っていた守り袋だっ」
おみちが金切声をあげながら守り袋をとりあげ、わっと泣きだした。
庄太郎も狼狽《ろうばい》し、動転していった。
「おえんっ、大層なことをしてくれたな。まさかおひさを傷つけちゃいまいな」
「お前でも、自分の娘が傷つけられるのは心配のようだね。だったら、まだ十五の新造を手ごめにして、傷つけて平気でいられるのはどういうことだいっ、鬼、畜生!」
おえんが真っ向から罵声をあびせた。
「こいつらをかえすなっ、つかまえろ!」
庄太郎は荒手代にいいはなち、帳場の机にぶらさげた木身刀をとるやいなや、おえんにおそいかかった。
札差の店の帳場や内所《ないしよ》などには、用心のために大抵、隠し刀や木身刀がさげてあるのだ。
おえんはとっさに身をひるがえした。二間ほどぱっと飛びすさるや、懐中から鉤縄《かぎなわ》をとりだし、庄太郎の手もとへとばした。
こころよい音をたてて、鉤縄の先端が木身刀にからみついた。
ぐいとたぐると、木身刀が庄太郎の手をはなれ、庄太郎は前にくずれた。
「馬鹿野郎っ、娘の命は惜しくないのかよ。お前が宝屋の新造にしたように、お前の娘にたっぷり傷をつけてやろうかい!」
浜蔵がここぞとばかりに啖呵をあびせた。
「ゆるしてください、娘をかえして……」
おみちがもう一度悲鳴をあげ、身も世もあらず泣きだした。
「畜生っ、おれの負けだ。降参だ……、おえん、五十両と娘と交換してくれ」
庄太郎もとうとう音をあげ、帳場の横にへたりこんだ。
手代たちはこそこそと奥へひっこんだ。
「改心するなら、ゆるしてやろう。けれども罰として、むこう三年、吉原には出入り禁止だ。一歩も入るんじゃない。わかったかい」
おえんがいうと、庄太郎は肩をおとして、うなずいた。
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第六話 裏茶屋の客
秋だとおもっていたのが、いつのまにか初《はつ》時|雨《しぐれ》が降り、北風の吹く季節になっていた。
吉原|田圃《たんぼ》も荒涼としてさむざむしい初冬の景色だ。一面に稲の刈株がのこるばかりで、ところどころに稲架《いねかけ》ののこりや藁塚《わらづか》が見える殺風景な有様である。
この季節になると、吉原の客には寒さしのぎの頭巾《ずきん》や覆面をした者がふえてくる。武士などは面体をかくすためにも山岡頭巾をかぶったり、編笠《あみがさ》茶屋で編笠を借りて大門《おおもん》をくぐる。町人でも頬かむりする者、頭巾をする者、さまざまのよそおいが見られる。
仲ノ町のにぎわいをよそに、吉原の裏通りはいつもわりあいにしずかで、ひっそりとしている。妓楼《ぎろう》も裏通りには大見世や仲見世はなく、小見世や格子見世などがある。茶屋でも引手《ひきて》茶屋のような格式たかい大店《おおだな》は仲ノ町に軒をならべており、揚屋《あげや》町や京町などの裏通りには、人目をしのぶように裏茶屋がひっそりとちいさな半暖簾《はんのれん》をだしている。
場所柄、裏茶屋は密会をする場によくつかわれている。とくに芸者が密会をするのに裏茶屋をよくつかった。吉原では客と芸者との色事は禁じられていた。それを内密でやろうとすると、裏茶屋をつかうしかなかった。
今宵《こよい》も、揚屋町の裏通りにある桐屋《きりや》という裏茶屋に、薄茶色の頭巾をかぶった旦那《だんな》ふうの男がやってきて、すばやく半暖簾の奥へ消えた。
それからしばらくたったころ、人目をさけるように紫のお高祖《こそ》頭巾で顔をかくした粋《いき》な女が揚屋町の表通りのにぎわいをぬけてやってきた。お高祖頭巾の女は路地の角にうえてある一本《ひともと》の桐のそばまでくると、周囲を見まわしてから、小ばしりに桐屋の半暖簾をくぐった。そのさまははじめて裏茶屋で密会するといった風情ではなく、これまで何度も桐屋に出入りしている風情が感じられた。
店の入口は三和土《たたき》の沓脱《くつぬ》ぎに体裁のいい伊豆石《いずいし》がおかれ、かたわらに枝折戸《しおりど》をもうけ、坪庭がこしらえてある。坪庭にはちいさな石灯篭《いしどうろう》と手水鉢《ちようずばち》、桐の木が植えこまれている。裏茶屋はどれも洒|落《しやれ》た家づくりになっている。
お高祖頭巾の女は仲居にみちびかれ、坪庭の横手をとおって座敷に案内された。女が頭巾をとったのは、座敷に入ってからである。
座敷には六枚折の障子|屏風《びようぶ》をたてまわし、くだんの旦那ふうの客が火鉢を横に、煙草をやりながら女を待っていた。
「ぬしさん、お待たせして、ごめんなさんし」
女はほっとした顔で廓《さと》言葉を口にした。
「いや、今きたところだ」
男の客は女をねぎらうようにいった。
「見世からでにくくて、つい手間どってしまいした」
女の顔は男にあまえている。
「おいらんに苦労をかけるな。いつもすまぬとおもってるんだ」
男は女を気づかっていった。女は芸者ではなくて、おいらんである。おいらんと客の密会である。不義理ができて妓楼にあがれぬ客や、表むきあそんではならぬ間柄の客とおいらんが秘密で逢《あ》うとしたら、裏茶屋しかないのだ。
女は江戸町の大見世|辰巳屋《たつみや》のおいらん芙蓉《ふよう》である。
芙蓉が半月ぶりの密会で間夫《まぶ》にあまえているころ、桐屋の入口にしのび足でちか寄ってきた若い男がいた。
その男は辰巳屋の若い者で、芙蓉が見世をでていったときから後をつけていた。
芙蓉も尾行には気をつけていたのだが、なにせ恋しい男との逢瀬《おうせ》に胸をはずませていただけに、尾行者の姿を見おとしてしまった。
芙蓉が理由《わけ》をいいたてて、月に二度ほど見世をぬけだすようになってから、もう二年がたっていた。芙蓉は売れている昼三《ちゆうさん》(最高級遊女)であるし、なじみの客が芙蓉の留守に登楼することが何度かかさなり、見世では不審をいだいていた。それで今宵、芙蓉がまた理由をかまえて、脱《ぬ》けだしたので、女|将《おかみ》が若い者吉平に尾行を命じたのである。
「ぬしさん、ちかごろわちきは半月が待ち切れなくなってきいした。もっと逢ってくんなまし」
芙蓉は仲居が座敷からでていくと、おもいつめたように男の胸へ体をたおしていった。
「そうはいっても、おれとおいらんとは公には逢えぬ仲だ。おいらんだって見世を脱けだしてくるのは大変だろう。おれだって、もっとしばしば逢いたいが、すこしは世間の目も気にしなくちゃならない。無理をすれば、おれとおいらんとの仲はこわれてしまう」
芙蓉をあやすようにいったのは、酒問屋伏見屋の主人|八十助《やそすけ》である。しかも伏見屋は吉原の酒屋である。下谷《したや》にも店を持っているが、吉原のなかでもう三代、百年ちかく商売をしているのだ。
吉原のなかで仕事をしている者は、登楼しておいらんを買うことができぬようになっている。これは長いあいだ吉原でまもられてきたきまりである。京都の島原や大阪の新町など他所の遊所がどうかは知らないが、吉原では廓《くるわ》内の商家の主人も駄目なのである。
「ぬしは吉原《なか》の酒屋の主人、わちきはおいらん。逢えぬ理《ことわり》は重々承知でも、胸のうちがくるしゅうありんす」
芙蓉はおもわず涙声になって、八十助にうったえた。
「くるしいおもいは、おれとておなじだ。おれだって、できることなら三日にあげずおいらんと逢瀬をたのしみたいさ。けれども月に二度でさえ、おいらんは見世をぬけるのがむつかしいのだ。それ以上見世をあければ、主人や女将に見つかってしまう。長くつづけようとおもえば、おたがいに無理をしないことだ。おたがい辛抱をすることだよ」
八十助はやさしく芙蓉を抱いて、さとすようにいいふくめた。
芙蓉はつらさもつらいことながら、好きな男にやさしく抱かれて、しだいに感情がたかまってきた。男の胸でちいさく泣きじゃくりながら唇をもとめると、芙蓉の花のようにはかなくあでやかな顔に男の顔がちかづき、ちいさな唇を男の口がおおった。
それからは一気に芙蓉の感情がはじけた。
「ぬしさん、抱いて。わちきを抱いて」
芙蓉ははげしく催促をした。
八十助は女のはげしさに負けて、芙蓉の帯のむすび目へ手をかけた。赤の地に芙蓉の花を白くあざやかに染めぬいた帯が青畳にほどけおちていった。
芙蓉は八十助の帯のむすび目をぬいた。そして一気に解きおとしていった。
夜具はとなりの部屋にとってある。
芙蓉は昼三のおいらんだから、本間《ほんま》で客と寝るときは豪華な三つ布団、四つ布団につつまれて寝る。けれども裏茶屋の座敷となれば、そんな贅沢《ぜいたく》はいっておれない。裏茶屋では一つ布団が相場であるが、桐屋の女将が芙蓉の心情を察して、いつのころからか二つ布団が用意されるようになっていた。
八十助が芙蓉の着物をぬがし、芙蓉が八十助の衣類をとっていった。
男も女も長襦袢《ながじゆばん》姿になって、もつれるようにとなりの部屋の夜具にたおれこんだ。
芙蓉の長襦袢の衿《えり》のあいだから、白い乳房がはらりとこぼれた。
八十助は乳房に顔をうずめて、吸いたてた。
それだけでもう芙蓉はちいさくあえぎだした。さきほどの感情のたかぶりが尾をひいているからか、今宵の芙蓉はふだん以上に感じ方がするどくなっていた。
八十助が吸いつづけると、芙蓉はほそい体を海老《えび》のように反らせてあえいだ。
そのころ……。桐屋の玄関先では、二人の男と店の女将がいいあらそっていた。
二人の男は、辰巳屋の番頭と若い者吉平である。
吉平がいったん辰巳屋にもどって、芙蓉が密会をしていることをうったえたのだ。辰巳屋ではつねづね芙蓉の行状に不審をいだいていたので、さっそく番頭の清兵衛《せいべえ》が吉平の案内で桐屋へでむいた。
女将との押し問答がしばらくつづいた。
桐屋の女将も気丈な女であったが、男二人のいいぶんにはかなわなかった。いくら女将が押しとめても、理は清兵衛と吉平のほうにあったのだ。
理屈で攻めて、女将がややひるんだ隙をとらえて、清兵衛と吉平は桐屋へあがり、そのまま、座敷のほうへ足ばやにむかった。
清兵衛と吉平は一気に座敷の前へすすんだ。
「お客さん、失礼いたしますよ」
それでも清兵衛は一応座敷のなかへ声をかけた。
むろん、返事のあろうはずがない。
それをいいことに、清兵衛は襖《ふすま》をひらいて、なかへ踏みこんだ。
吉平もつづいた。
座敷からとなりの部屋が見えた。夜具のなかで、男と女があられもない姿でからみ合っている。
「芙蓉、なにしてる!」
清兵衛が叱声《しつせい》をとばしたとたん、
「無礼者っ、他人《ひと》の座敷に何事だっ。すぐにでていけ!」
半裸の男がおきなおるなり、猛然と叱咤《しつた》をかえしてきた。
その男の背後にかくれるように、芙蓉はおびえながら身をちぢめていた。
弁天屋の格子戸ががらりとあいた。
「浜蔵は……?」
といいながら店に入ってきたのは、吉平である。
浜蔵と吉平は年ごろもおなじで、ふだんからこころやすく付き合っている。
「どこで油を売ってるんだか、今朝から浜蔵は見えないよ」
こたえたのはおえんである。
「留守なら仕方ないな」
吉平はやや気のぬけた顔をした。
「つたえることがあるなら、きいておくよ」
辰巳屋の取りたてを何度かやったことがあるので、おえんも吉平のことは知っている。
「ちいっと相談ごとがあったんだが……」
「なにか悪だくみの談合かい、それとも商売のことなら、かわってあたしがきいたげるよ」
このところおおきな取りたては途切れているので、弁天屋はわりあい閑《ひま》である。こまかい取りたては又之助や浜蔵がてきぱきと片づけてくれているのだ。
おえんから気やすく水をむけられて、吉平はその気になったようだ。
「浜蔵に相談しても、いずれはおえんさんのところへ話がいくんだろうから」
「まあ、そうだろうね」
とおえんはわらった。
「じゃあ、はなしちまおう」
「そうおしよ」
おえんはちかごろ少々手持ち無沙汰《ぶさた》でもあるのだ。
「じつはうちのおいらん芙蓉が、いけねえ客と理《わり》ない仲になっちまった。それがもとで少々こじれたことになったんですよ」
吉平は浜蔵よりもおえんのほうがたのみ甲斐《がい》があるとおもってか、すぐにはなしはじめた。
「いけない客っていうと、よそのおいらんの間夫か、それとも入墨者かい」
「全然そんなんじゃねえんですよ。酒屋の主人なんですよ」
「酒屋の主人ならばいい客じゃないか」
「これが伏見屋の主人なんです」
「えっ? それじゃあ駄目だ、うまくないよ。遊女屋の主人がよそのおいらん買うのと大差ないじゃないか。いいふくめてわかれさせなければ揉《も》め事になる恐れがあるよ」
「それがもうなっちまってるんです。昨日、芙蓉のなじみ客がおいらんの留守に登楼し、仲居を相手に酒だけのんでもどる途中、おいらんと伏見屋の主人が密会してる裏茶屋の前をとおりかかり、でてくる二人を見つけて大騒ぎになっちまいました」
芙蓉のなじみ客というのは神田の袋物《ふくろもの》屋の主人田村屋|米七《よねしち》で、おいらんとは三年ごしのなじみである。これまでにも芙蓉の留守にあがって味気ない酒を飲んでかえったことが二三度あった。昨日もたまたま芙蓉の留守にぶつかって、一刻《いつとき》ちかく仲居とすごしてかえったのだが、その途中、滅多にとおらぬ揚屋町の裏道をとおりかかった。そのとき桐屋という裏茶屋の玄関口で、ききおぼえのある辰巳屋の番頭清兵衛のやや声高《こわだか》な声を耳にしたので、そちらへ寄っていった。そこにいきなり芙蓉と伏見屋八十助が玄関からでてきて、バツのわるい鉢合わせをしたのである。八十助は清兵衛とはげしいいい争いをしていたところで、そこには吉平もいた。
八十助は密会の現場に踏みこまれて、一時は激昂《げつこう》し、清兵衛と険悪な雰囲気《ふんいき》になった。しかしすこし冷静さがもどると、自分の立場のわるさがすぐにおもいだされた。ここで大喧嘩《おおげんか》をすれば自分の立場がますますわるくなるし、外聞もよくない。けれども素直にあやまる気には到底なれぬし、それだと芙蓉がいっそう傷つくとおもい、中っ腹のまま桐屋をでてきた。そのとき、かさねて運のわるいことに田村屋米七と会ってしまったのだ。
米七はその場は八十助、芙蓉と鞘当《さやあ》てになるのを避けてとおりすぎたが、腹の虫がおさまらず辰巳屋にもどって、女将に事情《わけ》をぶちまけた。三年ごし芙蓉のなじみをつづけたが、今回かぎり辰巳屋には登楼しないとつげると同時に、おいらんの不始末を見世が取りしまれなかったことにたいしての詰問をして米七はかえっていった。
見世では米七の立腹は当然であるとして、今朝、主人と女将が田村屋へでかけ、おいらんと見世の不始末を詫《わ》び、芙蓉と八十助との仲はきちんと清算させることを約束した。米七がこれで納得してくれたかどうかはべつとして、見世としての態度をあきらかにしてきたのだった。そして芙蓉には仕置をして見世を幾日かやすませて、前借をふやす一方、八十助のところへも主人と女将がでむいて、伏見屋への態度をしめした。今後芙蓉と逢わぬこと、過去二年間にわたって芙蓉を見世からぬけださせて商売をおこたらせたことの損害料として一日につき一両、とおして二十四両、それに謝罪金として十両、ぜんぶで三十四両を請求したのだった。
「伏見屋がそれをはねつけたというんだね」
おえんは吉平の説明をきいて、そういった。
「伏見屋は吉原で商いをしており、おいらんを買うのは御法度《ごはつと》にされているにもかかわらず、主人と女将のもとめをはねつけたんですよ。伏見屋の主人もバツのわるいおもいをしたあげく、ケジメを食って意地ずくになったんでしょう。損害料と謝罪金などビタ一文だす気はないと居なおって、主人と女将を追いかえしたそうです」
吉平は自分もこの事件の一端にかかわったので、この解決に苦慮している主人夫婦を見かね、弁天屋に相談をもちこむことを提案したのだそうだ。
「どうころんだって、伏見屋には分《ぶ》がわるい一件だね。少々バツはわるいだろうが、辰巳屋さんのいうとおり損害料と謝罪金をすんなりだしといたほうが、伏見屋にとっても都合がいいはずだよ。辰巳屋さんのいいぶんは過不足なく、よく情理をわきまえているとおもうね」
おえんには吉原にかかわって生きている者としてのかんがえがある。吉原のキマリをやぶった八十助を表だってとがめるのではなく、しかし一方できちんとけじめはつけてもらうという辰巳屋の態度は当然だとおもった。
「主人も女将も、弁天屋さんに始末をたのむのがいちばんいいといっております。浜蔵をとおしておねがいしようとおもったけれど、ここはおえんさんよろしくおねがいします」
吉平は経緯《いきさつ》をいって、取りたてを依頼した。
「わかった、ひきうけるよ。少々面倒な取りたてだけれど、面倒だからといってことわる理由はないからね」
おえんは二つ返事で承諾した。
おえんが面倒だというのは、当事者の伏見屋が吉原の酒屋だということである。吉原の酒屋は伏見屋だけではなく、ほかに何軒もある。けれども伏見屋はなかでもいちばん古くから吉原で商売をやっており、顧客にしている茶屋や遊女屋もおおい。伏見屋のほうも本当ならば、吉原で揉《も》め事はおこしたくないはずである。しかしこういう間柄も、いったんこじれてしまえば、双方意地ずくになって、ことはもつれにもつれる可能性がある。なかなかすっきりした解決にはならないのではないかとおえんは踏んだのだ。
浜蔵は吉平がかえってから間もなく弁天屋にもどってきた。
「浜蔵の出番だよ。といっても一人じゃ大変だろうから、あたしが付き合うよ。相手は吉原《なか》の酒屋伏見屋だ」
おえんはいきなりいった。
「やっかいな取りたてが舞いこんできましたね」
浜蔵は経緯《いきさつ》をきいて、そうこたえた。
二人つれだって伏見屋へでかけたのは、翌日の昼ごろである。
「取りたてに吉原《なか》へでむくのははじめてですね」
浜蔵はそういいながら、おえんについて大門をくぐった。
「馬屋がしばしば吉原《なか》へ取りたてにいくようじゃこまるじゃないか」
「そのとおりで」
おえんは吉原でおおきく商売をやっている伏見屋の主人のような者がおいらんに手をだし騒ぎをおこすことに腹をたてていた。そんなことをしていたら吉原の規律がくずれてしまう。吉原ではたらく者にはきちんと節度をまもってもらいたかった。そんな相手に取りたてにいくのも本心はいやなのである。
伏見屋は京町に店をもっていた。
店の中にはいろいろな銘柄の菰《こも》かぶりがずらっとならべてある。茶屋や妓楼《ぎろう》には菰樽《こもだる》ごと売るのである。なかでも剣菱《けんびし》がいちばんよろこばれたので、剣菱の菰かぶりが最前列にならんでいる。
「田町二丁目の弁天屋えんです。ご主人さまにお目にかかりとうございます」
尋常に名のって番頭に挨拶《あいさつ》したところ、
「主人は留守です」
と、つっけんどんな返事だ。
「いつごろ、おかえりになりますか」
かさねていうと、
「いつになるかわからないよ」
ニベもない返事である。
八十助はもしや馬屋がくるかもしれぬと踏んで、居留守をかまえているのか、それともわざと家を空けているのだ。
「では、外で待たしてもらいます」
そんな手立には慣れているので、おえんと浜蔵は八十助のかえりを待った。
夕方、宵、夜まで待ったが、八十助はもどってこないので、この日はだまってひきあげた。
恵比須講《えびすこう》が過ぎたころから、江戸の町に凩《こがらし》が吹きはじめた。木の枝にすがりつくようにのこっていた黄葉が、これでほとんど吹きおとされた。江戸の落葉樹はこのころのつめたい風で裸木になってしまうのだ。
下谷|広小路《ひろこうじ》を吹きぬける風も、この夜はことのほかつめたい。
広小路の両側には昼間はいろいろな店がならんでおおいににぎわう繁華街だが、宵もすぎて、夜も更けだすころともなると、店々は戸をおろし、人影もすくなく、さびしくなる。広小路から一筋奥へ入った上野|黒門町《くろもんちよう》の通りなどは、往来の通行人がほとんどいない。野良犬の影さえ見かけぬ。
その往来の四辻《よつつじ》にぽつんと提灯《ちようちん》の赤い灯がともっている。おでん、燗酒《かんざけ》を売る屋台である。夜あそびのかえりの店者《たなもの》か御家人屋敷の中間《ちゆうげん》がふと立ち寄るのを待っているのだ。
この夜、伏見屋八十助はおそくなって、ぶら提灯をさげて広小路にある伏見屋のちかくまでもどってきた。伏見屋の店は吉原のほか下谷広小路にもあるのだ。
このところ八十助は馬屋にしきりにつけまわされているので、昼間は吉原の店も広小路の店も留守にしている。外で泊まることがおおく、店にかえるとしたらほとんど夜おそくだ。
八十助は自分の留守中、馬屋が辰巳屋から委任されたといって三十四両の金を請求してきたのが心外でならなかった。吉原で商売をする者として、八十助は今まで馬屋という仕事を理解していた。吉原にはそういう取りたて屋が必要だとおもってきた。が、その馬屋の鉾先《ほこさき》が自分にむかってくるとはついぞかんがえたことがなかった。
八十助は妓楼に客としてあがったことがなかったから、妓楼に借金があるわけではない。茶屋にはあがることはあっても、付き合い酒である。酒を売る立場であるから、借金などする筋合もなかった。
八十助も吉原で商売をする者がおいらんを買ってはならないことは知っている。それは吉原で長年つづいてきたしきたりである。けれどもこの世は男と女の世界だ。どんな成り行きで吉原の男とおいらんが理《わり》ない仲になるともかぎらない。こういう場合はえてしてあることだ。そういうときには公に登楼できぬから、仕方なく裏茶屋で密会することになる。好き合った男と女ならば、どのような法網やきまりの網をくぐっても逢《あ》うすべを見つけるものだ。だから吉原でも裏茶屋の密会ならば、それとなく黙認されるしきたりがつづいてきた。
それなのに辰巳屋では尾行をつけたあげく密会の座敷に番頭と若い衆が乗りこんできた。とんだ大恥をかかされ、面|子《めんつ》をうしなわされたうえに、馬屋をさしむけ、なんと三十四両もの法外な大金を請求された。こちらにも後ろ暗い面はあるにせよ、こんな無礼をうけ、わけもわからぬ大金をはらわされる理由はなかった。
八十助は断固金をはらわぬ決心をかためていたが、馬屋のしつこさといったら、当初かんがえていた以上だった。吉原の店にも広小路の店にも弁天屋の者が幾度となくやってきた。八十助はなるべく店には寄りつかぬようにしているのだが、そうすると立ちまわりそうな場所をしらべあげて、そこに姿を見せるといった執拗《しつよう》さだ。八十助は馬屋の根気としつこさには本心から舌をまいた。いやがる相手からなんとしても金を吐きださせる稼業だから、それくらいは平気でやるのだ。
八十助はここ三日ばかり外泊をつづけて、今夜おそく広小路にもどってきた。寒さに身をこおらせながら広小路を伏見屋のちかくまできた。
そのとき八十助はふといやな予感がめばえ、白い月光のふりそそぐ町並に目をこらした。
灯の消えた掛行灯《かけあんどん》と用水|桶《おけ》の陰にひっそりと立っている男の影がみとめられた。
(またか、ここにもいた)
八十助はあきれて、ただちに踵《きびす》をかえした。
馬屋の者などおそろしいことはなにもないが、そのしつこさには根負けしてしまう。やつらを見るのもいやになるのだ。
ほかに行くあてはなかったが、とりあえず八十助は道をひきかえした。
広小路から上野黒門町の通りへそれた。
その先の四辻《よつつじ》に赤提灯が見えた。八十助の足は屋台へむかった。屋台のおでんが食べたいわけではなかったが、馬屋の目をくらますために、ともかくそこへ一時避難しようとおもった。燗酒《かんざけ》で冷えきった体をあたためて、それから先を思案しようとしたのである。
「親父、あついのを一本」
八十助は屋台の暖簾《のれん》をわけて入った。
「へいっ、あついの一本」
初老の親父が威勢よくこたえて、あつい燗酒をとりあげた。
八十助はそれを猪口《ちよこ》にそそいで、ぐいとやった。あつい酒が喉《のど》の奥をとおって、臓腑《ぞうふ》にしみわたっていった。
「ううっ、生きかえったようだ。冬の夜はこいつにかぎるな」
そういって八十助はもう一度猪口にそそいで口へもっていった。猪口をかたむけようとした瞬間、八十助の手がとまった。そのとき、屋台のなかに一人、先客がいることに気づいたのだ。
それが夜目にも粋《いき》で、いい女だ。浅黄色の留袖《とめそで》に朱の帯をきりっとしめ、すらりとした立姿を見せて、燗酒をやっている。夜の屋台にしてはめずらしい客だ。なかなか度胸のすわった女のようである。
八十助と一瞬、目が合った。
(馬屋だ!)
その瞬間、八十助は女の正体がフにおちた。
(弁天屋おえん)
と察した。
八十助はこれまでおえんとは顔を合わせていなかったのだ。
一瞬、八十助は浮き足だった。
「まあ、おちついて一杯おやりくださいな」
心中を見すかしたように、その女はいった。
「今すぐに金をだせとは申しませんから、ゆっくり体をあたためなすってください。伏見屋の旦那《だんな》さま」
女は完全に八十助を呑《の》んでいた。
「馬屋に世話を焼かれるいわれはないぜ」
八十助は急に腹がたってきて、この場で居なおった。
「いつまでも逃げまわっていては、商売にさしさわりがありましょうし、お体にもよくありません。仕でかしてしまったことはもう仕方がありませんよ。素直に反省なすって、始末のお金をだせば、すっきりなさるでしょう。いつまでも意地を張っていては、ことがこじれるばかりではありませんか。このままほうっておいては、伏見屋さんの立場がわるくなるばかりです」
おえんはやんわりと、しかも急所をそらさずいった。
「馬屋がいくらおれを追いまわしたって、金輪際、金ははらわないぜ。取りたてをうけるおぼえはないんだ」
八十助は今さらここを逃げだすわけにはいかなくなって、おえんにいった。
「遊女屋にあがってあそんだわけではないから揚代《あげだい》なんかはらえないといいたいのでしょう。けれども、伏見屋さんは辰巳屋の昼三《ちゆうさん》おいらんを裏茶屋に呼んでかくれてあそんでいたのじゃありませんか。芙蓉はそのあいだ辰巳屋で客をとれず、商売に損をさせたのだから、伏見屋さんがその穴埋めをいたすのは当然です。それでなくても、吉原の御法度をやぶったのですから、伏見屋さんには文句をいう立場はないはずですよ」
おえんは八十助をたしなめるようにいった。
「裏茶屋で密会をするのは、御法度ではないはずだ。裏茶屋では客と芸者が密会もするし、遊女屋の主人や番頭がよくおいらんとあそんでいる。そんなことくらい、馬屋ならば知ってるだろう」
八十助はいい分の一端を口にした。
「世の中には何事にも裏があります。裏茶屋が芸者やおいらんの密会の場になっていることは知っていますよ。けれどもそれは法度の裏でひそかにおこなわれていることです。あくまでも目こぼしにされているというにすぎません。公にみとめられていることではありません。見つかって、ことが公になったならば、それ相当の始末をしなければならないことは当り前ではありませんか。まして辰巳屋では田村屋というヒイキを一人しくじってしまっているのです。伏見屋さんが男として、また吉原で仕事をする商人として辰巳屋さんに義理をとおすのは当然ではありませんか」
おえんの言葉はなかなか手きびしい。
「義理だの法度だの始末だのと、お前さんずいぶんむつかしい理屈をいうじゃないか。本音は金をよこせの一言だろう。体裁のいいことを口にするのは馬屋らしくないぜ」
八十助はせせらわらって燗酒をほした。
「物わかりのいいお人でしたら、金よこせの一言で始末がつきます。けれども物わかりのわるいお人には筋道をいってきかせなければ納得しないでしょう」
「筋道なんぞ馬屋なんかに説教されることはねえ。うちは百年も吉原《なか》で商売してるんだ」
「だったらよけいに、吉原《なか》のケジメはきちんとつけたらいかがです。吉原であきないをする人間の面よごしでござんしょう」
「吉原のケジメや法度をお前に指図されることなんかねえ。あんまり出しゃばると、吉原の出入りを差しとめるぞ。お前んとこの弁天屋ばかりじゃねえ、越後屋も青柳にも出入りできねえようにしてやるぞ」
八十助が虚勢を張ったので、おえんはわらいだした。
「吉原《なか》といやあ、誰だって区別なく出入りできるこの世の別天地だっておもっていたのに、伏見屋さんがそんなことできるのですか」
「この世は金の世の中だ。役人に鼻薬かがせりゃあ、どんなことだってできるってもんだ。おえん、他人のことでそう出しゃばったり、粋がったりしねえで、もう家にかえって寝たらどうだね」
「それよりも伏見屋さん、あまり横紙やぶりをやってると、吉原で爪はじきになって、商売ができなくなりますよ。大事にならないうち、火事はボヤのうちに消すにかぎるよ」
それぞれにいい合って、この場はわかれた。
弁天屋でいやな事件がつづけておこりだしたのは、翌々日からだった。
第一日めの被害者は浜蔵だった。
浜蔵がめずらしくはやくおきて、店頭を掃除するために帚《ほうき》をもって格子戸をあけてでていった。その瞬間、やわらかいものを踏みつけ、浜蔵はなんともいやな感じがした。踏んだ感触で、大体それが何物か想像することができたのだ。
やおら視線を足下へむけると、自分の足が想像したとおりのものを踏みつけていた。
「ちいっ、今朝は端《はな》っから縁起でもねえ」
舌打ちをしたが、もうおそい。黄金色をした汚物が踏みつぶされて、草履の四方にはみだしていた。
とんでもないところに犬の糞《くそ》だ。犬の糞は江戸名物であるから、誰しもときにはこんな経験がある。
ところが、浜蔵はまわりを見まわして肝をつぶした。一つや二つではないのである。犬の糞が店頭に五つも六つも置かれている。
野良犬が群をなしてやってきて、みなで土産をおいていったのか、と浜蔵ははじめおもった。が、すぐにそれを打ち消した。同時におなじ場所で野良犬が五匹も六匹も糞をおとしていくはずがなかった。
浜蔵はよごした草履の片方を投げ捨てて、
「お嬢さん、大変ですよ。店先がとんだことに」
大声をあげた。
おえんもでてきて店頭を見まわして、顔をしかめた。
「意趣があってやったにちがいないよ」
ずっと以前、仁兵衛の代に一度取りたてをうけた者がこれとおなじような意趣がえしをやったことがあった。
「伏見屋のしわざにちがいありませんよ。店の使用人かなにかにやらせたにちがいない」
「ずいぶんきたない意趣がえしをするじゃないか。酒屋ならば、もっとべつの手立がありそうなもんだよ」
「これをそっくり、伏見屋の店先にかえしてやりましょうか。それとも倍がえしにして」
浜蔵が悔しまぎれにいうのへ、
「馬鹿なかんがえはおよしよ」
おえんはたしなめた。
「それにしても伏見屋のやつ、むこうから喧嘩《けんか》をしかけてきた。こっちもそのつもりで取りたててやりましょう」
ともかく浜蔵はこれでいっそう闘志をかきたてられた。
その翌朝も、浜蔵が店頭で大声をあげた。
「今朝も昨日とおなじかえ?」
おえんもすくなからず腹をたてて、店先にでていった。
「今朝はこれです」
浜蔵が指さした先には図体《ずうたい》のおおきな黒猫が金色の目をむいて横たわっている。むろん死骸《しがい》だ。
「気持のわるいことをするもんだねえ。わざわざころされた猫も可哀そうだ。伏見屋は本気で喧嘩をするつもりだよ」
「こんなことをするやつだ、今後どんなことをしてくるかわかりませんよ。きっと明日もくるでしょう」
「今晩、不寝《ねず》の番をしてみるかい」
「きっとつかまえてやりますよ。又之助と交代で番をします。今度はなにを持ってくるつもりでしょうかね。つかまえたら、田圃《たんぼ》に穴ほって、首だけだして埋めてやりましょう。伏見屋が金をはらうまでは穴からだしてやらないっていうのはどうでしょうか。烏や雀に顔をつつかれて悲鳴をあげるでしょう」
浜蔵は本当にその気でいった。
「伏見屋がたくらんでるのは、こんなことだけじゃないかもしれない」
おえんは先だって、上野黒門町の屋台で見た八十助をおもいだしていった。八十助が意地になって争いをしだいに大きくさせているような気がした。
その夜、又之助と浜蔵は弁天屋の店内に火鉢をすえ、格子戸の後ろにひそんで不寝の番に入った。
格子戸をとおして、店頭が見える。店頭にちかづく者は店内からでも見ることができる。
店内の行灯《あんどん》を消して、まず又之助が見張り役についた。
「あやしい者がちかづいたら、すぐ声をかけてくれよ。いつだっておれはおきてるからな。手柄の一人じめはご法度《はつと》だぜ」
「わかってるさ。一人でたたかうより、二人のほうがこころ丈夫だ」
「又之助、きっとだぜ」
そういって浜蔵は用談部屋に布団をもちだし、体を横たえた。
浅草田町といえば、吉原への往還、日本堤に面している。といっても、夜では堤の田面《たのも》行灯の明りがぼんやりと見えるだけだ。土手道の水茶屋も明りを消し、一帯に闇がひろがっている。ときたま日本堤をかえる駕篭《かご》やあるいてもどる遊客の提灯《ちようちん》の明りが見えるだけである。
「又之助、これで体をあたためるといいよ」
おえんが天清《てんきよ》の料理場からのこりの燗酒を差し入れてくれた。
「今夜もきますか、どうか」
「むこうも三日めは警戒してこないかもしれないね」
又之助とおえんがはなしているころ、浜蔵ははやくも、用談部屋でこころよい寝息をたてていた。
「もう寝こんじまいましたよ」
「たよりない相棒だねえ」
おえんがわらい声をたてると、寝息がやんだ。
「おいら、おきてるぜ、又之助」
浜蔵の寝ぼけた声がきこえた。
「本当に浜蔵の耳ったら、都合のいいときだけきこえるんだから」
おえんがからかったときには、ふたたび寝息がはじまっていた。
十月といっても晦|日《みそか》のちかい夜は、底冷えのするさむさだ。もう真冬がちかい。
ボウ ボウ……
さむさのきびしい夜はとくに木菟《みみずく》の声がよくとおる。
又之助は火鉢に手をかざし、掻巻《かいまき》を着こんで見張りをつづけた。
けれども待ちかまえていると、曲者《くせもの》はあらわれぬものである。
子《ね》の刻(真夜中零時)をだいぶまわったが、何事もおこらなかった。
又之助は浜蔵をおこして交代した。
今度は浜蔵がねじり鉢巻をし、襷《たすき》がけに尻端折《しりはしよ》りのいさましい恰好《かつこう》で見張りについた。かたわらには樫《かし》の木刀と六尺棒をおいている。用談部屋の隅には刺股《さすまた》、袖搦《そでがらみ》もおいてある。先代の仁兵衛が若いころ、十手、捕縄《とりなわ》をあずかっていた当時の道具がのこっているのだ。
「もう、でてきてもいいころだが……」
と浜蔵がいったのは丑寅《うしとら》(午前三時)のころであった。
だが、あやしい者がちかづく気配はなかった。野良猫、野良犬の一匹もちかづいてこないのだ。
やがて、寅の刻(午前四時)をまわった。いちばんねむくなるころだ。浜蔵はねむ気をもよおし、必死で睡魔とたたかった。
それでも曲者はあらわれぬ。
睡魔はますますおそいかかってきた。
(今夜はもう、こないのかもしれない)
そうおもったとき、背戸《せど》のほうから一番鶏《いちばんどり》の声がきこえた。
やがて朝だ、とおもったころ浜蔵は掻巻にくるまって眠りにおちていた。
どのくらい寝入ったか、
「浜蔵」
又之助の呼ぶ声で、はっと目ざめた。
「誰もこなかった、何もおこらなかったようだ」
浜蔵はおきあがっていった。
外はしらじらと夜が明けかかっていた。
「念のためだ。店のまわりを見てくる」
そういって又之助が外へでていった。
それからしばらくたって、又之助の呼ぶ声がきこえた。
浜蔵は念のために樫《かし》の木刀をたずさえてでていった。
又之助は弁天屋と天清の背戸のあたりに立っていた。
「又之助、どうかしたか」
浜蔵がいったが、又之助は返事をしなかった。
又之助は背戸の一角にじっと立ちつくしていた。
浜蔵は足ばやに寄っていった。
「浜蔵、これを見ろよ」
又之助は浜蔵のほうをむかずに、背戸の戸口のあたりを指さした。
そこに黒ぐろとした物体がおいてある、というよりも落ちている。一見しただけではその形体ははっきりわからなかった。
「なんだ、これは?」
「犬の首だ、黒犬の首だよ」
又之助の言葉ではじめてその形体がわかった。首のところから切断された犬の首であった。
その日、昼前、浜蔵は吉原の伏見屋を見張るために、弁天屋をでた。
「浜蔵、十分に気をつけるんだよ」
おえんの言葉を背中できいて日本堤へむかった。
田町二丁目から吉原は目と鼻の先だ。
日本堤を半丁もゆけば、左手に今はすっかり葉をおとしたさむざむしい見返り柳と高札《こうさつ》場になり、そこから衣紋坂《えもんざか》が左へむかっている。この坂道を五十間道という。三つ折りにまがりきったつきあたりに、黒塗り板ぶき、屋根つき冠木門《かぶきもん》の大門がひかえている。
大門の右手には、入口に縄暖簾をたらした〈増田屋〉という釣瓶《つるべ》そば屋。駕篭で乗りつける客はこの前でおりる。駕篭のままでは大門をくぐれない。釣瓶そば屋のむかいには吉原|細見《さいけん》を売る版元が店をだしている。
まだ昼見世《ひるみせ》の前であるが、大門はひらいている。大門は夜明けと同時にひらく。
浜蔵は大門をくぐった。
浜蔵は吉原が好きである。自分では登楼しておいらんを買ったりはできないが、いつも遊客や遊女、芸者、仲居、吉原の者たちでにぎわっている遊廓《ゆうかく》が好きなのである。
大門を入ったところには、右手に吉原会所、左手に面番所《めんばんしよ》がひらいている。
「いつもお世話になります」
浜蔵は面番所につめている同心にむかって一言|挨拶《あいさつ》して、とおりすぎようとした。
「ちょっと待て」
そのとき面番所から声がかかった。
面番所には町奉行所から同心が二人派遣されていて、そのほかに目明しもいる。不審者を見張るところであるが、弁天屋はつね日ごろ出入りしているし、盆暮れの節句にはきちんと挨拶もしており、今までとがめられたことは一度もなかった。
浜蔵ははじめ自分が呼びとめられたのだとはおもわなかった。が、そのときほかに通行の者もいなかった。
振りむくと、
「お前だよ」
いやな感じの中年の同心が浜蔵を手まねいた。
「へい、わたしでございますか」
浜蔵は無理に愛想わらいをこしらえて、面番所にちかづいた。あいにくと、顔見知りの同心の姿が見えなかった。目明しもいない。
「お前は?」
同心は頭ごなしにいった。
「へい、田町二丁目の弁天屋の者でございます」
浜蔵はこたえたが、それにたいしては何もいわぬ。
「何用だ、どこへいく」
又もや頭ごなしの言葉がとんできた。
いまだかつてこんなことをきかれたためしは一度もない。浜蔵はぐっと腹にこたえたが、おくびにもださず、
「馬屋でございますから、妓楼《ぎろう》や茶屋などに用事がございまして」
あくまでも下手にでた。泣く子と地頭《じとう》には勝てぬ――はここでもおなじである。お上にはあたらずさわらず、が庶民の生きる知恵である。
「馬屋はわかった。どこの妓楼、茶屋へ何用ででむく」
切口上の尋問だ。
面番所で尋問されたことはないので、浜蔵はすこしへどもどした。伏見屋の名がすんなりと口にのぼってこなかった。伏見屋は妓楼でも茶屋でもない。そこを追及されるような気がしたのだ。
「行き先も用件もいえないのか」
意地のわるい尋問がまたむけられた。
浜蔵ははっきり同心の悪意を感じた。かんがえられるのは、伏見屋の差し金である。伏見屋が面番所の同心へ手をまわしたとしかかんがえられなかった。
(地獄の沙汰《さた》も金しだい――)
世の中、金によわいのは役人もおなじだ。妓楼や茶屋は面番所の同心がかわるたびに挨拶の祝儀は欠かしてないが、伏見屋ではとくべつの祝儀をつつんだものとかんがえられた。
「辰巳屋へ取りたての相談にいきます」
浜蔵はいちばんさしさわりのない返事をした。
同心はじっと浜蔵の顔に見入ってから、
「しかと間違いはないか。辰巳屋へ取りたての相談だな。ほかにいくところはないな」
念を入れて釘《くぎ》を刺してきた。
「へい、間違いありません」
おもわず浜蔵はそうこたえた。ふだん腹のなかではお上をあざけっていても、いざ直面したとなるとお上はこわい。浜蔵はわがことながら、自分の意気地なさが情なかった。
「よし、とおれ」
同心がそういったので、浜蔵はほっとした。
冷汗もので面番所の前をとおりぬけた。
足はしぜんに、江戸町の辰巳屋へむかった。今しがた自分でいった言葉にしばられていたのである。
辰巳屋の前までいったが、かくべつの用はない。どうしようかとおもっていると、吉平の姿が目についた。
今ごろは吉原がいちばん閑《ひま》な時刻である。吉平も所在なさそうに店の仲居と立ち話をしていた。
「浜蔵」
吉平のほうが浜蔵を見つけて、店頭にでてきた。
「うまくはこんでいるのか」
吉平はやや心配そうにたずねた。
「馬屋の取りたてははじめからうまくはこぶわけはないさ。相手だって必死だからな。そこはおたがいせめぎ合いだ。ここの難所をくぐりぬけなきゃあならない」
「むつかしい仕事だな」
「商売々々さ。商売となれば、どんなことでも大変だろう」
「そりゃあそうだな」
「簡単にとれるくらいだったら、取りたての半金も馬屋がもらえるわけもないだろう」
「それだったら誰でもやるな」
「今も面番所で同心に睨《にら》みをきかされた。伏見屋がいやがらせに手をまわしたのだろう」
自然に今さっきのことが口にのぼった。
「伏見屋はそんなきたない手をつかってるのか」
「伏見屋にとっても、三十四両は大金だ。簡単には用立てできぬだろう」
「見とおしはくらいな」
吉平はややむつかしい顔をしてきいた。
「なに、そんなことはない。金の取りたてはいつだってむつかしい。けれども今までみな取りたててきた。今度だっていずれは取れる」
ここでにやっと顔がくずれ、いつもの浜蔵にもどった。
「それならばいいが」
「面番所の同心がなんだっていうんだ。吉原《なか》は天下公認の大人のあそび場じゃねえか。どこへいこうと、何をしようとおれの勝手だ。同心の指図なんかうける筋合もねえ」
浜蔵のなかに元気がもどってきた。
「浜蔵のいうとおりだ。面番所の同心ががたがたいうことはない。伏見屋だって、面番所を買い切りにすることはできねえだろう。せいぜい同心が睨みをきかせるくらいのことさ」
吉平がいった。
「伏見屋を見張ろうが、取りたてようがこちらの勝手だ。強請《ゆす》ってるわけじゃねえのだから」
浜蔵は勇気がでてくるのがわかった。
「吉平、いい返事を待っていろよ」
そういって浜蔵は伏見屋へむかった。
十月が過ぎて、十一月になった。真冬である。
この間、又之助も浜蔵も、ときにはおえんも八十助の見張りをつづけていた。見張りは退屈で辛抱のいる仕事だが、これが馬屋の基本の仕事である。どんな難事件でも、見張りが成功したときに、解決の方向が見えてくる。又之助も浜蔵も、おえんの父仁兵衛に馬屋の基本を徹底的にしこまれたのである。
この日は朝《あさ》時|雨《しぐれ》が降り、昼になってあがったものの、今にも雪が降ってきそうな空模様であった。
又之助は下谷広小路の伏見屋、浜蔵は吉原の伏見屋を見張っていた。
こんな日は吉原もわりあい閑散としている。吉原の位置するところは江戸もはずれの地で、駕篭《かご》でくる客はいいが、あるいてくる客にとって、雨や雪は大層難儀なのである。
又之助は広小路の繁華街をいったりきたりして店をひやかしながら、中ほどにある伏見屋をしっかり見張っていた。
広小路には老|舗《しにせ》もおおく、蓬来《ほうらい》の酒楼、無極《むきよく》の切蕎麦《きりそば》、翁屋《おきなや》の取肴《とりざかな》、金沢の菓子屋がなかでも有名である。そのほか松屋の呉服屋、島田の古着屋、飛|鳥《あすか》の団子、立花の餅菓子《もちがし》などが世間に知られている。
又之助はこのところ広小路の店で八十助を見ていないが、今日はこちらにとまりこんでいるだろうと踏んでいた。はっきりした理由はないが、そんな気がしたのである。
しかし、この天気だから八十助は今日はでかけないだろうとおもっていた。だからといって警戒をゆるめてはいなかった。
昼がすぎて、さらにだいぶ時間がたった。
そのとき、町駕篭がきて、伏見屋の裏口へまわった。
(これだ!)
又之助のこころがにわかにはやった。伏見屋で駕篭をつかって外出をする者といったら、主人夫婦と大番頭くらいのものだ。
又之助はすばやく、伏見屋の裏口が見とおせる場所につけた。
物陰からうかがっていると、薄茶色の頭巾《ずきん》をすっぽりとかぶった男が駕篭に乗りこむのが見えた。
(八十助にまちがいなし!)
又之助は気持がたかぶった。
町駕篭は垂れをあげたまま広小路をはしりだした。
当然のことながら、又之助は駕篭をつけはじめた。相手が駕篭であるから、又之助も駆けた。
三橋をわたって、山下へぬけた。
寛永寺の支院がたちならぶ道幅のひろい往来を、駕篭は入谷《いりや》のほうへむかった。
(行き先は、吉原!)
又之助は大胆に推量した。
いよいよ八十助がうごきだしたのだ。
ひさしく吉原に寄りつかなかった八十助がようやく吉原へむかったようだ。
又之助は駕篭をつけてはしりながら胸がわなないた。
いつかしら、また時雨が降りだした。音もなく、風をともなうこともなく、しずかな雨が往来や町並をぬらしている。
又之助ははらはらと降る雨のなかをはしった。
駕篭は又之助が予想したとおり、入谷から田圃《たんぼ》と畑のなかの道へすすんだ。この田圃と畑の一帯はひろく、ずっといけば、吉原田圃につづく。
田圃のなかを又之助もはしった。
駕篭の行き先は吉原だが、吉原のいずこかが問題である。吉原の伏見屋へいくならば、駕篭に頭巾ではいかぬだろう。
八十助のいく先に、芙蓉があらわれそうな予感がした。八十助と芙蓉とはこの一件がおこっていらい会っていないはずである。もう一カ月以上がたっている。二人のあいだの連絡もぷつりと切れているはずだ。
田圃のかなたに吉原の黒塀《くろべい》が見えてきた。吉原は黒塀とおはぐろどぶでかこまれている。
駕篭はぐるりとまわって田町二丁目にでて、日本堤をとおって、吉原へ入った。
面番所には今日は又之助も顔見知りの同心がつめていて、呼びとめられることもなく通過できた。
仲ノ町に白いものが舞いだした。とうとう雪になってきた。雪の吉原も風情のいいものだ。
八十助は仲ノ町を角町のほうへまがった。伏見屋とは方角ちがいだ。
角町の裏通りも裏茶屋が何軒かある。
一二度、八十助はあたりに気をくばった。
路地を一つまがると、
〈染井〉と行灯《あんどん》をかけた裏茶屋があった。その入口から奥へ八十助の姿が消えた。
又之助はしばらく染井の玄関口を観察した。松と石灯篭《いしどうろう》を配した粋《いき》なつくりで、両側は建仁寺垣《けんにんじがき》になっている。入口から玄関までは飛び石である。
八十助は一カ月以上つづけていた逃避の暮しにあいて、とうとう裏茶屋に入った。辛抱づよい見張りの網に八十助はひっかかったといえる。
(これで勝った)
又之助はほぼ勝利を確信した。
女は後からくるのか、それとも先にきて待っているのか。これをたしかめねばならぬ。
又之助は一刻もはやく浜蔵やおえんに応援をもとめにはしりたかったが、女を確認するまでは現場《ここ》をうごけなかった。
どうしたものかと見張りをつづけているうちに、半刻《はんとき》(一時間)がはやくもたってしまった。雪がうすくつもりだした。
このまま待ちつづけるか、それとも浜蔵にしらせにはしるか、又之助はしばらく逡巡《しゆんじゆん》した。伏見屋を見張っている浜蔵がいる京町はほんのひとっぱしりだ。が、そのあいだに八十助がもし裏茶屋をでることがあったりしては大変だ。
しばらく決断しかねていると、角《すみ》町の通りに紫のお高祖《こそ》頭巾の女がまがってきた。
(芙蓉だ!)
又之助は直感した。お高祖頭巾の女は地味な色の道行《みちゆき》を着て、蛇目傘《じやのめがさ》をさし、雪降るなかをややおぼつかぬ足取りでやってきた。
又之助が身をひそめた向いの商家の木戸の前をとおって、女は染井の玄関口へそそくさと入っていった。
その直後、又之助は身をひるがえし、京町へむかった。
浜蔵はちゃっかり京町の蕎麦屋にしけこんで、あつい蕎麦をすすりながら、むかいに入口が見える伏見屋を見張っていた。
「又之助はすぐに染井へもどってくれ。おれはお嬢さんをつれてくる」
浜蔵は又之助の報《しら》せをきくなり、腰をあげた。二人だけでやれぬ仕事ではないが、万一をかんがえておえんに出馬してもらうことにしたのだ。
又之助が染井のちかくにもどって、四半刻(三十分)ほどたったころ、おえんと浜蔵が姿を見せた。
すでに夕闇がちかくなり、雪はやんでいた。
「その後、様子はかわっていません」
又之助がいうと、おえんはうなずいた。
おえんは染井の玄関口や裏口の様子をたしかめてから、
「三人一緒に乗りこもう」
といった。九月末の千石屋庄太郎の取りたていらいの大きな仕事だ。おえんの顔にもいささかの緊張がある。
おえんを先頭にして染井へ入っていった。
「ごめんくださいまし。お座敷を拝借ねがいます」
玄関にでてきた仲居におえんがいうと、男女三人づれの客に仲居はややおどろいたようだ。が、不審をいいたてるほどのことではない。
「ご三人さまでございますね」
念をおしただけで、一行をあげた。
三人はおえんを先頭にしてあがっていった。
裏茶屋は二階づくりだが、そう座敷の数があるわけではない。
ふさがっている座敷の気配をうかがいながら、二階座敷へ案内されていった。
「肴《さかな》はなんでもかまいませんから、お酒を三人ぶんたのみます」
おえんは仲居へ心付《こころづけ》をわたしてさがらせた。
「八十助は階下《した》の奥座敷にいるようだ」
まず又之助がいった。階下の奥座敷へ行灯の火を入れに入っていく仲居の姿が見えたからだ。ほかの座敷はふさがっていないのだ。
やがて、熱燗《あつかん》がはこばれてきた。
三人はそれぞれ手酌《てじやく》で喉《のど》をしめし、体をあたためた。
仲居が去ると、おえんが立ちあがった。
音もなく戸襖《とぶすま》をあけて、おえんは足をしのばせ、座敷をでた。
又之助と浜蔵もそれにつづいた。三人|数珠《じゆず》つなぎのように、ぬき足、さし足で階段をおりた。
あとは一直線に奥座敷へむかった。
戸襖をひいて、はじめに座敷へふみこんでいったのは又之助である。
浜蔵がつづいた。
おえんは最後に入っていった。
座敷には二人分の酒肴《しゆこう》の膳《ぜん》がおかれている。みだれ箱には男用の薄茶色の頭巾とお高祖頭巾がきちんとたたまれ、道行もたたんである。
又之助は声もかけずに、となりの部屋の襖をひいた。
屏風《びようぶ》にかこまれ、花模様のあでやかな夜具が部屋いっぱいに敷かれ、男と女の頭が布団《ふとん》の外へでていた。
男女の羽織や着物、帯などは屏風にかけてある。
「おとりこみのところ、失礼しますよ。伏見屋さん」
おえんが声をかけた、
おどろいた八十助の顔がこちらをむいた。
芙蓉がちいさな悲鳴をあげて、八十助にすがりついた。
「人の座敷に無断で何用だっ」
八十助の顔が怒りにふくらんだ。
「無断で入って、わるかったねえ。何用ときかなくたって、わかってるはずだ。馬屋の用は取りたてだよ」
おえんは八十助を見おろして伝法《でんぽう》にいった。
八十助と芙蓉はおきあがろうにもおきあがれぬのか、布団に入ったままである。
「おれの答もわかってるはずだ。野暮はいうなよ、付き馬屋おえん」
存外、不敵に野放図に八十助はこたえた。
「吉原《なか》の御法度《ごはつと》やぶりもこう度かさなると、もうお目こぼしはできねえ。きっちりケジメをつけてもらうほかはないよ」
おえんが叱りつけると、
「どうケジメをつけるんだ」
八十助はまだ寝たままいった。
「三十四両、耳をそろえてだしてもらおう。いやだというなら、桶伏《おけぶ》せが待っているよ」
おえんは奥の手のおどしにでた。桶伏せというのは無銭遊興をしたり、悪質な無法をやった客にたいして吉原が科した刑である。おおきな桶に四角い窓をあけて往来上に伏せ、そのなかに客をしばってとじこめ、晒《さら》しものにするのである。ひどく悪質な客にはそのうえ裸にしてしばりあげる。残酷すぎるというのでちかごろあまりやらなくなったが、それでもあまりに悪質な客にたいしては時たまおこなわれた。
「ちかごろめずらしいことを聞くじゃねえか。一度桶伏せとやらをやってもらいたかったんだ」
八十助がなおも強がりをいうと、
「横着者めっ、起きてものをいえ」
浜蔵が見かねて、夜具の上から八十助を蹴《け》りつけ、布団をはがした。
「あっ」
声をあげたのはおえんであった。
夜具の中は裸の男女ではなかった。なんときちんと長襦袢《ながじゆばん》を着た男と女が裾《すそ》もみださず横たわっていた。
おえんらの予見ははずれた。八十助が今まで不敵にかまえていた理由はこれだった。
「同衾《どうきん》はしても、おいらんを抱いちゃあいないぜ。桶伏せというのをやってみるかね」
八十助は勝ちほこったようにいい、夜具から立ちあがり、悠々と着物を着はじめた。
「罠《わな》にかけたね」
おえんは唇をかんだ。
「おれたちはここでおまえさんがたを待っていたんだ。何もかも見とおしだよ」
八十助がいいおわると同時に、となりの座敷に今まで息をひそめていたらしい男たちがどっと座敷に乱入してきた。伏見屋の手代や出入りの鳶《とび》の者らしい男が四人だ。
いずれも屈強な者たちで、手に手に鳶口《とびぐち》や棍棒《こんぼう》を手にして三人におそいかかってきた。
「やっ」
おえんはとっさに身をひるがえし、すばやく鉤縄《かぎなわ》を投じて鳶口をたたきおとした。
けれども相手は八十助をくわえた男五人だ。又之助も浜蔵も果敢に立ちむかっていったが、旗色はわるかった。まず浜蔵が鳶口で肩をやられた。
又之助も鳶口を臑《すね》にうけ、おえんもたじたじとなった。
罠におちたぶんだけ、精神的にもひるみが生じた。相手は逆にのんでかかってきた。
「どうやら勝負はついたようだな」
八十助が勝ちほこってそういったとき、
「勝負はおわるまでわからねえものだ」
座敷の一角から、今まできいたことのないドスのきいた男の声がひびいた。
今まで優越感にあふれていた八十助の顔が急に蒼《あお》ざめ、さらに引きつった。
いつの間にか、八十助の背中に匕首《あいくち》の切っ先がつきつけられていた。匕首をにぎっているのは鬼面の新五郎だ。
おえんが弁天屋をでるとき、万一をかんがえて、もし新五郎が姿を見せたら、と天清の仁吉に場所をことづけておいたのだった。
「畜生っ、しゃれた真似をしやがって」
八十助はうめいたが、身うごきはとれなかった。
このあいだに、おえん、又之助、浜蔵がめざましく立ちまわった。四人の男たちが手にした得物をすべてたたきおとして、座敷の外へ追いだした。
「本当に、勝負がついたようだね。又之助、浜蔵、こいつを桶伏せにしておやり。八十助を裸にしてしばりあげるんだ」
おえんがいいはなつや、又之助と浜蔵が八十助に飛びかかった。
たちまち八十助は裸にむかれ、芙蓉のシゴキや腰紐《こしひも》でしばりあげられていった。
「鳶口のおかえしをしてやろう」
又之助と浜蔵は鳶口で傷つけられた礼をたっぷり八十助にかえした。
八十助の口と鼻から血が吹きだし、飛びちった。目からも血がでた。
又之助の一発で八十助は腰から畳におちた。
「おえん、降参だ。おれの負けだ」
とうとう八十助が力つきて、音をあげた。
「まだ桶伏せがおのぞみかい。真冬の空の下の桶伏せは乙《おつ》なものかもしれないねえ」
ここちよげにおえんはわらった。
「かんべんしてくれ。おいらんとはきっぱり手を切ろう。三十四両、今日にもはらう」
「桶伏せがいやになったのかい」
「桶伏せなんて真っ平だ。かんべんしてくれ」
八十助は意地をなくして頭をさげた。
「今回だけはゆるしてやろうか。これにこりて、二度と吉原《なか》でふざけた真似をするんじゃないよ」
おえんはそういって、ゆっくり鉤縄を懐におさめた。
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第七話 賭場《とば》荒らし
浅草の町がにぎわっている。浅草は一年とおしてにぎやかな町だが、今日のにぎわいぶりといったら、大変なものだ。
早朝のうちは雨だったが、浅草の年の市は雨雪にかかわらずもよおされる。浅草寺《せんそうじ》境内を中心にして、南は駒形《こまがた》から御蔵前通り、浅草御門まで、西は門跡前より下谷車坂町、上野黒門前にいたるまで仮屋、露店がたちならび、群衆が雑踏する。これほどの市といったらほかでは決して見られない。師|走《しわす》十七、十八の両日、地元の者ばかりでなく、江戸市中の各地、近在からも人が浅草にあつまってくる。
しめ飾り、山草、羽子板、凧《たこ》、餅台《もちだい》、桶類《おけるい》、破魔《はま》をはじめもろもろの日用雑貨が各店頭に山のようにつみあげられて、露店商と客たちのにぎやかなやりとりの中で売られていく。年の市がはじまれば、江戸の歳末はまさに本番である。
おえんと浜蔵は、朝日がだいぶ高くなってきたころ、田町から馬道《うまみち》へでて、年の市をぶらつきはじめた。
「はやいもんで、もう一年がたっちまいましたね」
「年の市も正月もいいもんだけど、毎年かならず年をとるっていうのは、具合のわるいものさ」
「へえ、もうお嬢さんも自分の年が気になりますか」
浜蔵はひやかすようにいった。
「娘ざかりとおもってたのがつい昨日、一昨|日《おととい》のような気がするよ。今やわたしも年増《としま》の部類だ。花の色はうつりにけりないたずらに……っていう心境だよ」
おえんはやや自嘲《じちよう》まじりにいいながら、雨あがりの水溜《みずたま》りをよけた。
馬道は浅草寺の東側の道で、日本堤へつうじている。以前は馬で吉原へかよう客がよくとおった道である。年の市となると、この道の両側にも仮屋、露店がたちならび、人通りはほとんど切れ目がない。
「そうのたまわったのは、清少納言《せいしようなごん》か紫式部ですね」
浜蔵が本気でいったので、おえんはぷっと吹いた。
「それをいうなら、小野小町といっておくれよ」
「あたらずといえども遠からずじゃありませんか。名前を二人知っているだけでも上出来でしょう。寺子屋でならったことは、もう忘れちまいましたよ。お嬢さんは自分が二丁目小町っていわれてたものだから」
「そんなのはもうだいぶ昔のことだよ」
おえんと浜蔵が他|愛《たわい》ないことをいいながら市を冷やかしていると、
エッ ホー エッ ホー
背後から威勢のいい駕篭《かご》屋の声がきこえてきた。
駕篭屋の声はたちまちちかづいた。往来にいる人々はあわてて駕篭をさけて、道の両側へ寄った。
「馬鹿に威勢のいい駕篭屋だな」
浜蔵がやや非難がましくいったときには、もう背後まできていた。
おえんと浜蔵もせきたてられるように道をよけた。
人々がよけた往来の真ん中を、そこどけ、そこどけ、とでもいうように一|挺《ちよう》の駕篭がはしり去った。とおりすぎる瞬間、駕篭の中にふんぞりかえった坊主頭が見えた。
「ちいっ」
浜蔵が舌うちをしたとき、
「あっ……」
おえんのちいさな悲鳴があがった。
おえんの白い縞《しま》の着物に無残な泥水のハネがあがっている。水溜りのなかを駕篭屋がかまわず駆けたので、おえんはハネをよけきれなかったのだ。
「ずいぶん乱暴な駕篭屋じゃねえか」
浜蔵は追いかけようとしたが、駕篭屋はもうだいぶ先へいっていた。
「横柄なやつがいるもんだねえ。こんな人ごみのなかを突っぱしっていくなんて。駕篭屋も悪いが、乗ってる客だってわるいよ。どこかのクソ坊主だったね」
おえんは着物についたハネに顔をしかめた。ハネは一カ所や二カ所ではない。着物の片側をひどくよごしていた。
「吉原がえりの生ぐさ坊主でしょう。まったく今時の坊主ときたら、礼儀も作法も知らねえのだから」
浜蔵はいまいましそうに駕篭の駆け去った方をにらんだ。
「あの坊さんはたしか、長円寺《ちようえんじ》の和尚《おしよう》ですよ。なかなか鼻っ柱のつよい、あまり評判のよくない和尚です」
そのとき、ちかくの露店をひやかしていた品のよさそうな初老の男がいった。
「長円寺の和尚……」
浅草一帯は寺のおおいところである。寺の名をいわれても、おえんも浜蔵もこころあたりがなかった。
「ハネがあがってからじゃあ後の祭りだよ。後から文句をつけたって、ハネがおちるわけじゃなし」
おえんは仕方なしにあきらめた。
「あんな坊主にも檀家《だんか》がいるんでしょうに。経をあげられる者だって迷惑だ」
浜蔵はぺっと唾《つば》を吐いた。
「もう、かえろうか」
意気があがらなくなってそういうおえんに、
「どうせのことだから、もうすこしぶらつきましょうよ」
浜蔵はかえりたがらなかった。
「浜蔵は昔から、縁日とお祭りがなによりも好きだったからねえ」
おえんは仕方なくついてきた。
年の市はどこまでもつづいている。
おえんと浜蔵は人波にしたがって馬道を右にまがり、伝法院の表門の前をもう一度まがって、雷門《かみなりもん》へむかった。
人出は昼から午後にかけて最高潮に達する。浅草の年の市は今日、明日とつづき、二十日、二十一日は神田明神へうつる。さらに二十二、二十三両日の芝神明へいき、芝|愛宕山《あたごやま》、麹町《こうじまち》平河天神とうつって、ついに大《おお》晦日《みそか》の捨市《すていち》となり、江戸は元旦《がんたん》をむかえる。
雷門のすぐちかくまできたとき、
「まあ、弁天屋さん」
人波のなかからやや甲高い声がきこえた。
雷門は風雷神門《ふうらいしんもん》の略称である。門の左右に雷神立像、風神立像がおかれている。風神立像のそばににこやかにわらいかけている顔が見えた。三十前後の、地味で粋《いき》づくりな女|将《おかみ》である。
「寿屋《ことぶきや》の女将さん」
おえんも声をあげた。
「おえんさんも市をひやかしたりすることがあるんだねえ」
寿屋の女将ひさ江がいった。
「あたしだって、一年中お金を取りたててるわけじゃありません。年越しの買い物でもしようかとおもってでてきたんですよ」
「そりゃあ、あたしもおんなじだよ。たまには大門《おおもん》をでて、そこらをあるきたくなるんだよ。中にとじこめられているおいらんの気持もわかるってもんさ」
ひさ江はそういってわらった。
「あたしも時には家業をわすれて命の洗濯がしたい」
「そういうおえんさんには悪いんだけど、いいところで出会ったというもんだわ。おえんさんに相談があるんだよ」
ひさ江がおもいだしたようにいった。
「お金のこと?」
「うん、そう。お金」
「お話ききますよ。家業ですから」
おえんはわらっていった。
「すまないわねえ、命の洗濯してるときに」
「いいんです。今日はついてないから、洗濯はやめにしますよ」
「雷団子、たべようか」
ひさ江はおえんと浜蔵をさそった。
雷門のすぐ先に団子を売る店がある。雷団子という名で近所に知られている。
店の前に縁台がでており、年の市の客が団子をたべている。
ひさ江は店の中へ入っていった。
店の座敷に三人はあがった。
「縁起のわるい話だけど、うちのおいらんが先月末に病気で死んだんですよ」
団子の注文をしてから、ひさ江ははなしだした。
「お気の毒に……」
おえんは幼いころから吉原になじんで、おいらんや新造《しんぞ》、カムロなどの暮しをよく知っているので、彼女たちの身の上が他人事《ひとごと》ではなくおもえるのだ。まして近年、馬屋の稼業に入ってからは彼女たちがはたらいた金の取りたてによって生|活《くらし》をたてているため、一層、他人事におもえなくなっていた。
「照菊《てるぎく》っていう気立てのいいおいらんだったけど、男によわいのが玉にキズでね。つい客にだまされたり、みついじまったりをつづけていて、可哀そうなおいらんだった。風邪をひいたのがもとで、こじらせて胸をやられて、あっけなく死んじまった。照菊の見世への借金はかなりあってね。そのほとんどが間夫《まぶ》の遊んだ金をおいらんが肩がわりをしていたんだよ」
「惚《ほ》れたおいらんの弱みにつけこむわるい男がどこにもいるものです」
「その客、けっして金にこまってるような男じゃない。しかも人に説教をする坊主だよ。照菊とただであそんで、乗り逃げ、食い逃げの悪坊主なんだ」
ひさ江は腹をたてながらしゃべりつづけた。
「おどろいたねえ、あたしの着物に泥のハネをあげてった坊主が照菊の間夫だったとは」
おえんはひさ江と団子屋でわかれて、弁天屋へもどる道すがら浜蔵にいった。
「長円寺の極道和尚というんなら、あいつのほかにはいないだろう」
「よりによって、そのすこし前にハネをあげてったんだから、この仕事には縁があるんですよ。どうしたって、うちで取りたててやらなきゃあケリがつかねえし、おいらんだってこのままじゃ浮かばれませんよ」
浜蔵もくだんの坊主にはおおいに腹をたてているのだ。
おいらんが見世から借りた金ははたらいてかえすのが建前だが、死んでしまえばチャラになる。しかし貸した客がわかっていたなら、見世から取りたてがいくのは当然である。
三十七両二分と一朱。それが長円寺の和尚|道善《どうぜん》が照菊にみつがせた金額である。その金は丸ごと照菊の借金として見世の帳面にのこっていた。
「しかし、きたない坊主がいるもんだね」
「おいら大体、坊主と医者と岡っ引は大嫌いなんだ。あの駕篭ん中でそっくりかえってた坊主をしめあげてやりましょうよ」
浜蔵は闘志が燃えてきたようだ。
寿屋から番頭が長円寺へでむいていって道善に掛け合ったところ、てんで問題にもされずに追いかえされたそうだ。それでひさ江は始末にこまっていたのである。
「浜蔵がおもってるほど簡単なやつじゃあないよ。一筋縄ではいかない難敵じゃないかね」
「今までだって、いろんな難敵強敵を相手に始末をつけてきたじゃあないですか。今度だって十分用心して立ちむかえば、なんとかケリはつけられるとおもいますよ。またつけられないようじゃ馬屋の面目がたちませんからね」
「浜蔵、今いったことを忘れるんじゃないよ。いつもそのこころがまえでやればいいんだ。そうすれば立派に一人前の馬屋だよ。又之助と浜蔵がはやく一本立ちの馬屋になれば、あたしは安心していつでも身をひけるってもんだよ」
「そうしておいて自分は嫁にでもいっちまおうって魂胆はいけませんよ。おれたちは弁天屋から離れるつもりはないんだから」
「いつまでもお前たちがまとわりついてたら、あたしは一生お嫁に行けないじゃないか。いい加減にしておくれよ」
「お嬢さんはお嫁にいくよりも、馬屋のほうが似合ってると思いますよ。それに馬屋をやってれば、遊女屋や茶屋のたすけにいくらかはなれるのだから、そのほうが世間のためにだってなりますよ。お嬢さんが嫁にいったって、誰の助けにもなりませんからね」
「浜蔵、ずいぶんひどいことをいうじゃないか。それじゃあ、あたしは一生いかず後家かい。あたしだって以前は」
「わかってますよ。以前は、二丁目小町っていわれた器量よしだっていうんでしょ。だけど性根のところは手のつけられないじゃじゃ馬だって、親父さんがよくいってましたっけ」
「死んだお父つぁんを持ちだすことはないだろう。ともかく長円寺の性わる坊主を相手にするには、十分アタリをとって、根性をすえてかかることだよ」
「わかりました。今日から早速、道善坊主のアタリを取りますよ」
いっているうちに二人は田町にもどってきた。
数日後、おえんは又之助と浜蔵を連れて田原《たわら》町の先にある長円寺をおとずれた。
周囲には寺がいくつもたちならんでいる。
「ずいぶん荒れた寺だねえ」
長円寺の山門をくぐったとき、おえんがつぶやいた。
参道は掃ききよめられていないし、境内の植木には手が入っていない。籬《まがき》のくずれたところも放置されている。堂塔伽藍《どうとうがらん》は一応配置されているものの、雑然とした感じはぬぐえない。
「以前は立派な寺だったんだろうが、今住んでる和尚がだらしないと、こうなっちまうんだ」
浜蔵もおそらくおなじような感じを抱いたようだ。
境内に人影はみえるが、参詣者《さんけいしや》というよりは、自堕落なあそび人が暇つぶしをしているような雰囲気がある。
「お寺さんへ付き馬にくるのははじめてだねえ。ちょっと勝手にまごついちまうよ」
いいながらおえんは庫裡《くり》へむかった。
「たのもう」
玄関で声をかけたが、返事はなかった。しかし奥から人の話し声はきこえる。
三度めにようやく人がでてきた。
小僧でもなければ、内弟子の坊主でもない。寺の庫裡には不自然なあそび人風の男である。
「和尚さんはご在宅でしょうか」
おえんが声をかけると、その男は三人をじろじろと見て、
「和尚は今ちょっと取りこみ中だよ。どうしても会いたいんなら、待ってみるかい」
人を食ったような挨拶《あいさつ》である。
「お取りこみが終わるまで待たしていただきましょう」
おえんは顔色もかえずに、にこやかにいった。
「じゃあ、そこいらで待っていてもらおうか。和尚につたえておくよ」
そういって男は奥へ姿を消した。
「まさか真っ昼間から女をつれこみ乳繰りあってんじゃないでしょう」
浜蔵がいうと、
「庫裡か方丈で盆茣蓙《ぼんござ》ひらいてるんでしょう」
又之助がはっきりといった。
「寺のなかで御開帳かえ」
おえんはまさかと思ったが、境内にいる男たちや今でてきた男はどう見てもまともな人種ではなさそうだ。それに浜蔵と又之助がアタリをとったかぎりでは、道善は飲む、打つ、買うの三拍子そろった破戒僧だということははっきりしている。
大名の下屋敷には町方が手を入れられぬので、よく盆茣蓙がひらかれるときいたことがある。寺なども寺社奉行の管轄で町奉行所の手は入らぬから、賭場《とば》をひらくにはもってこいの場所かもしれぬ。
四半刻《しはんとき》(三十分)くらい時間をつぶした。
やがて足音がして、墨染《すみぞめ》姿の坊主があらわれた。
これが四十前後の、にがみばしった堂々たる好男子である。さすがに自堕落な雰囲気はあるが、これとても男好きの女にはたまらぬ魅力とうつるかもしれぬ。寿屋の照菊がみついだというのもうなずけぬことはない。
「浅草田町二丁目に住むえん[#「えん」に傍点]と申す不つつか者です。このたび和尚さまにおねがいの筋がありましてお邪魔いたしました」
おえんが挨拶をすると、
「浅草田町か……。少々こころあたりがありそうだ」
道善はおえんに見入っていった。
「おこころあたりがあれば、話がはようございます」
「あんた、もしかして馬屋じゃあないかね。田町に腕のいい女の馬屋がいるときいたことがある」
道善はやや険しい表情を見せてたずねた。
「お寺の和尚さまのお耳にまでとどいていたとは、なんともおどろきです。たしかにわたしは弁天屋という馬屋をやっております」
「そうか、やっぱり。それで今日は馬屋の用件があるのかね」
道善は警戒の色をふかめていった。
「身に覚えがあるのなら、いっそう話がとおりやすうございます。いたって野暮用で申しわけございません。吉原|揚屋《あげや》町寿屋のおいらん照菊に借用なされたお勘定三十七両二分一朱、ご返金いただきたいとおねがいにまいったしだいでございます。わたくしがまいりました経緯《いきさつ》はこの証文によって御理解いただきたいと存じます」
おえんはそういって懐中から馬屋証文をとりだして道善に見せた。
証文
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浅草長えん寺和尚への貸し金、三十七両二分一朱、田町二丁め弁てん屋おえん殿に取りたておねがひ申すべく、委細おまかせいたすものなり
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[#地付き]揚屋町寿屋内ひさ江
おえん殿
道善は馬屋証文を読みくだしていった。
「たわけたものを持ちこんできたな」
読みおわるなり、道善は第一声をはなった。
「和尚さまにはおぼえがございませんか」
「おぼえがあるもないも、他人にはかかわりのないことだ。寿屋はなにをいってるか知らないが、おれと照菊とのあいだのことは二人だけしか知らないことだ。しかも照菊はもはやこの世の者でない。他人が嘴《くちばし》を入れたって、なにもならない。弁天屋おえんさんのでてくる幕はどこにもないのだ。気の毒だが、手ぶらでかえってもらうしかないようだな」
道善はわらっていった。
そのわらいにはふてぶてしい自信がこもっている。一山の住職が女を買うことの恥も、おいらんから遊興の代金を用だててもらった負い目もまったく感じていないようだ。
「世の中にはとんだ和尚がいたものです。人の世に明りを照らし、人のなやみをときはなち、人の罪をすくうのがお坊さまのお役目かと信じてまいりましたが、世の中に罪をつくり、人の不幸をこしらえていく和尚もいるのがわかりました。今度はこちらもそのつもりで和尚さまから取りたてをいたす覚悟です」
おえんはこうした手合いにぶつかると、人並み以上に闘志がわいてくるこまった気質だ。なんとしても取りたててやろうという意欲がかきたてられた。
「おえんさん、悪いことはいわぬから、それはやめたほうがいい。おれには第一寿屋に一文だって借りはないんだ。あんたのほうが理不尽な取りたてをすることになる。無理な取りたてをやれば、そちらが大《おお》火|傷《やけど》をするはめになるかもしれない」
道善はやんわりと威《おど》しもまじえた。人に説教をする住職だけに弁舌はいたってたくみだ。
「馬屋に威しはつうじません。威しで貸し借りがチャラになると思ったら大間違いです」
おえんも負けてはいない。
「間違いかどうか、いずれわかるだろう。火傷をおってからわかっても手おくれだよ」
道善はとうとう無頼者《ならずもの》のような言葉をはいた。
「和尚さまがどういおうと、わたしはかならず照菊にかわって貸し金を取りたてます」
いいおえて、おえんは又之助と浜蔵をうながし、庫裡をでた。
正月のめでたさをいわっているうちに、たちまち三が日があけ、とかくしているあいだに松の内もすぎた。
正月のにぎやかさも、店頭の松飾りがとれてしまうと、とたんに初春が去っていったようなさびしさにおそわれる。
吉原でも、仲ノ町の傘のついた松飾りがとれて、大通りがひろびろとした。
天清《てんきよ》と弁天屋の双方にかざった門松も注連縄《しめなわ》もとれて、輪飾りだけがわすれられたようにのこった。
おいらんたちの年礼と初湯、初買いでにぎわった吉原の正月も七種《ななくさ》があけると、まったくふだんとかわらぬおちつきにもどった。天清や弁天屋も同じである。
その朝、おえんは兄の仁吉、兄嫁のおりつとともに天清の店をあけ、おえんは帳場にすわった。おえんが帳場にいるのといないのでは売上げがおおいにちがうので、仁吉に世辞をいわれて時間のゆるすかぎり帳場にすわっているのだ。
そろそろ時分時《じぶんどき》の昼前、いかにも柄の悪そうな四人づれの男が天清に入ってきた。三十代の男が二人、二十代の男が二人、店内を横柄に見まわしながら、真ん中の飯台にどっかと陣どった。
いずれもはじめて見る客で、一見して無頼者とわかるいでたちの男たちだ。すこし前に入ったほかの客たちが顔を見合わせ、声をひそめた。
おりつが注文をとりにいくと、
「天ぷらと酒だ」
いちばん年かさに見える男がいった。
おえんは帳場から見ながら、なんとなく嫌な予感がした。食べ物屋だから、天清にもいろいろな客がくる。無頼者もたまにはくる。どんな客でも、客は客だ。おとなしく食べたり、飲んだりしていく客はすべて天清の客である。ところが、この四人にはそれとはちがう雰囲気があった。
やがて、天ぷらと酒が運ばれると、
「よう、茣蓙《ござ》をかしてくれねえか」
四人のうちの一人がいった。
おりつが茣蓙はないとこたえると、
「じゃあ、座布団をかしてくれ」
もう一人の髭《ひげ》の剃《そ》り跡の濃い男がいった。
おりつが店の座布団を一枚持っていくと、その男はなんとそれを飯台の上へおいた。四人の真ん中においたのだ。
おえんはなにがはじまるのかと見ていた。
いちばん年の若い小柄な男が、懐から花札をとりだし、たくみな手つきでそれを切りはじめた。飯台で花札カルタをやらかそうというのだ。
ほかの客たちは巻きぞえをおそれて、見て見ぬふりをしている。
おりつはあきれて、何かいいかけたが、彼らの様子に気おされて、何もいえなくなった。何かいおうものなら、どんな仕返しをされるかわからぬ雰囲気だ。
仁吉は料理場から店内のただならぬ雰囲気を察したようだが、どのように処置をすればよいのかわからぬ様子である。父の代から店内で飯台をかこんで花札カルタをはじめた客ははじめてだった。
四人は天ぷらを食べ、酒を飲みながら、まったく傍若無人に花札に興じはじめた。声高で下品な言葉がいきかい、もし誰かが口をさしはさもうものなら狼藉《ろうぜき》のおこりそうな空気となった。
ほかの客は早々に天ぷらを食べると店をでていった。
彼等のほかに店内に客がいなくなったところで、おえんはすっと帳場からたった。
おえんが四人の前にちかづいたが、男たちは無視して花札をつづけた。
「お客さま方に申しあげます。ここは天ぷら屋です。花札に興じる場所ではございません。ほかのお客様にご迷惑ですから、おやめください」
おえんは怒りをおさえながらいった。
「天ぷら屋は承知している。だから四人とも天ぷらを食い、酒も飲んでるじゃねえか。客に迷惑だというが、ほかに客はいるかい」
いちばん年かさの男がおえんを見あげて、馬鹿にしたようにいった。
「今はいなくても、お客はすぐにきます。天ぷら屋で花札カルタをやるなんて、馬鹿げてますよ。商売の邪魔になるからやめてください。どうしてもやりたいのなら、店をでてってください」
おえんはかさねて客を叱った。
「おれたちはまだ天ぷらを食いはじめたところだ。酒も飲みおわっちゃいねえ。帰るのは飲みおわってからだ。飲んでるあいだ、何をしてようとおれたちの勝手だ」
小柄な若い男が嘲《あざけ》るようにいった。
「あなた方の勝手放題にはできません。お店の中でこんなことをやられたら、商売ができなくなります。代金はいりませんから、今すぐでていってください」
おえんの見幕もしだいにはげしくなった。
「おれたちは、タダで飲み食いしようってんじゃねえ。おれたちを乞食《こじき》あつかいにするなよ。ねえちゃん、言葉に気をつけねえと怪我をするぜ」
髭の剃り跡の濃い男がすごんでいるところに、二人づれの男の客が入ってきたが、店内の異様な空気におそれをなして、早々にでていってしまった。
「一体、お客さん方、どこの人です。なんのために天清にいやがらせにきたのですか」
おえんは恐れも見せずにいいせまった。こんな客に弱みを見せたら、どこまでつけあがるかわからない。少々こわくても、痩《や》せ我慢をするしかないのだ。
「おえん、よしなさい。怪我でもしたらどうするんだ」
そのとき、背後で仁吉のたしなめる声がきこえた。
「店の親父のいうとおりだ。ねえちゃんの奇麗な顔も、怪我をしちゃあ台無しだぜ。それよりも、酒を四本追加してくれ」
「あんた方に飲ませる酒なんかないよ。あるだけ飲んだら、さっさとでておいき」
ついにおえんはたまりかねて、啖呵《たんか》をとばした。
「おえん、つけあがるんじゃねえぜ。おれたちの後にはまだ大勢いるんだ。ちょっと馬屋のほうで評判になったからって天狗《てんぐ》になると、ねえちゃんの奇麗な目がつぶれるかもしれねえ。馬屋のほうでも、あまりはねあがらねえほうがいい。長円寺の取りたては今日かぎりやめることだ。わかったか」
年かさの男がそういった。
これで男たちの意図と背後がはっきりとした。
「そうかい、あんたたちは……」
「そういうことだ。おえん、長円寺の取りたてから手をひくがいい。ひかねえと面倒なことになる」
「お前たちの指図はうけないよ」
「だったら、命がいくつあっても足りねえぜ」
「威しがこわくて、馬屋がつとまるかい」
おえんはあくまでも強気につっぱった。
「つとまらねえように、そのうちしてやるよ」
そういうなり、四人の男たちは同時に立ちあがった。
おえんは半歩しりぞいた。
「ねえちゃん、奇麗な顔を大事にしなよ」
いい捨てて、男たちは店をでていった。
おえんは彼等がいなくなると、へなへなと腰がくずれかけたが、それを我慢して、ゆっくりと帳場へもどっていった。
「兄さん、ごめんなさい。わたしのために迷惑をかけてしまって」
帳場にすわって、おえんはいった。
「おえん、迷惑なんかかまわないが、お前が怪我をしたら、元も子もない」
仁吉がしずかにいった。
「又之助と浜蔵がいなくてよかったよ。いたら天清で大喧嘩《おおげんか》がおっぱじまったところだった」
おえんはほっとしたようにいった。又之助と浜蔵は仕事で弁天屋から出はらっていたのだ。
翌日から、おえんは例の四人がいつまた天清にあらわれるか気がかりですごした。おえんは天清の帳場にすわるのは午前中だけで、午後からは馬屋の仕事でいそがしく立ちまわっている。長円寺の取りたてはその後もつづけているが、はかばかしくはこんでいなかった。執拗《しつよう》に道善を尾行したり、待ち伏せて取りたてをせまっているが、道善を追いつめるまでにはいたらなかった。
その夜もおえんは浜蔵とおそくかえって、天清の料理場で酒をあたため、疲れと寒さをいやしてから床についた。
寝入りかけたころ、勝手口のほうで物音がきこえたが、又之助がおそくかえってきたのだろうとおもっているうちに眠りにおちてしまった。
この家では兄夫婦が天清の二階に寝て、又之助と浜蔵が弁天屋の二階に寝泊りし、その階下《した》におえんが寝る。母のおとよは離れの隠居部屋にいる。
眠りにおちてから間もなく、おえんはまぶしい光を感じ、異常事がおこったことをさとってはね起きようとした。
ところが、それよりも一瞬はやく、いきなり二つの黒い影がとびかかってきて、つよい力でおえんを押えつけた。
声をあげて助けを呼ぼうとしたが、口の中に手拭《てぬぐ》いのようなものをつめこまれ、その上から猿轡《さるぐつわ》をかまされた。おえんは女にしては俊敏なはずだが、抵抗する余地はほとんどなかった。相手の二人はこういう仕事に手慣れていて、おえんに抵抗の余地をまったくあたえなかった。
懸命にあばれようともがいたが、相手の物凄《ものすご》い平手打ちが交互に左右からとんできて、おえんは一瞬|脳震盪《のうしんとう》をおこし、気が遠くなっていった。そのあいだに寝巻のヒモが抜きとられ、あっという間に寝巻をひきはがされた。
寝巻の下は肌襦袢《はだじゆばん》と腰巻だけである。その肌襦袢まで無残にむしりとられて、両手を後ろへまわされ、手首をしばられた上に、乳房の下に荒縄の目がくいこんだ。両足首と膝《ひざ》のところも二カ所しばられて、畳の上にごろりところがされた。
油断があったといわれれば仕方がない。よもや自宅をおそわれるとは夢にもおもっていなかった。敵は想像していた以上に、大胆で乱暴だった。龕灯《がんどう》をもって勝手口から押し入り、無言でおそいかかってきたのだ。しかもそのあいだの動作に無駄がなかった。
二階からも、おもい音がひびいてきた。浜蔵も同時におそわれているのだ。
音がひびくたびに、おえんは自分が殴打されているようなはげしい痛みをおぼえた。が、やがてのうちに二階もしずかになった。
龕灯がむけられ、おえんの屈辱の姿がまぶしいばかりの光の中に浮かびだされた。
「いうことをきかぬから、こういう目にあわされるのだ」
龕灯を持った男がこころよげに声をあげた。
よくは見えぬが、天清にやってきた中のいちばん年かさの男だろうとおもった。
おえんは顔を横へむけた。悪態をつこうにも猿轡がしっかりきいていて、声がでないのだ。
「二階でも、お前の手下の男がいためつけられている。腕の一本や二本は折れているかもしれぬ。長円寺の和尚《おしよう》の意にさからうから、痛い目を見るのだ。おとなしく手をひけばよかったのだ」
男はもう一度いった。
龕灯の明りがおえんの乳房や腰巻一枚の下半身を照らしている。腰巻の裾《すそ》がはだけて、内股《うちもも》ののぞいているのが、おえんにもわかった。
「おえんにもう一度だけ、いっておく。長円寺の和尚には手荒な男が大勢ついている。一件から手をひかねば、今度こそ怪我ではすまなくなるぞ。命が惜しかったら、手をひくんだ。そうでなければ、天ぷら屋の夫婦にまで累がおよぶぞ」
底力のあるふとい声がおえんを圧した。
この状態では、おえんは手も足もでなかった。おえんは拳《こぶし》をにぎりしめて、怒りと屈辱にたえた。
男たちの姿や顔はほとんど見えぬ。闇の中で声と物音だけがきこえた。
今はただ嵐がすぎ去るのをひたすら待つしかなかった。
やがて、男たちは音もなく部屋からたち去り、外へでていった。
真夜中をすぎてもどってきた又之助に、おえんと浜蔵は発見された。
浜蔵は素裸で後手にゆわえられ、さらにその上から茣蓙《ござ》でまかれて、上部と下部の二カ所を縄できびしくしばられ、勝手口の三和土《たたき》にころがされていた。
「ひでえことをするやつらだ。戦をしかけてきたも同然だな」
又之助はおえんと浜蔵をたすけ、ひと息入れていった。
「この借りはかならずかえしてやるよ。オマケをたっぷりつけてかえしてやろう」
おえんはしばらくだまっていたが、ようやく第一声を口にした。半裸でしばられころがされていたあいだ、仕返しのことだけをおえんはかんがえていたのだ。
「畜生っ、すんでのところで簀巻《すま》きにされるところだった。お嬢さん、道善坊主をおなじような目にあわしてやりましょう。でなけりゃあ、虫がおさまらねえ」
浜蔵は冷えきった体をふるわせながら、悔しそうに仕返しをちかった。
「又之助、道善の弱みを見つけだせたかい」
おえんはあたらしい寝巻に着替え、気持がややおちついてから、はやくも復讐《ふくしゆう》の手立をかんがえはじめた。
又之助はこのところ、道善の過去にまでさかのぼって身許《みもと》や生いたち、経歴などしらべあげていたのだった。
「だいぶいろいろわかってきましたよ。つかえそうなやつの弱みもほじくりだしてきました」
又之助はおちついてこたえた。
「そうかい。やはり又之助だけのことはあるね。きかしてもらおうか」
おえんのこころは復讐に燃えていた。今度こちらの出方次第によっては、相手は今夜以上の手荒な行動にでてくることはたしかだ。命を本当にねらわれることは覚悟しておかねばならない。だからこそ、こちらも一気に勝負にでなければならないのだ。道善の急所をついた奇襲攻撃こそ必要なのである。
「道善が悪の道へそれたのは、どうやら父親のせいのようです」
又之助はしらべあげたことについてはなしはじめた。
「道善の父は浪人者で、道善とその兄が生まれたころもとても貧乏だったようでした。父は武州川越で版木の字彫りを内職にしていたそうですが、それだけではとても生|計《くらし》がたたず、母が着物の仕立てなどをしてようやく食べていたのです。父はしだいに気持が荒れて、酒をのんでは息子たちや母にあたるようになったといいます。幼いころの道善はとても母親おもいのやさしい子だったそうですよ。兄弟でかばい合い、母をなぐさめ、学問や武芸にはげんでいた近所でも評判の孝行息子だったようです」
又之助の話はおえんにとっても意外であった。
「そんな孝行息子がどうしてあんな極道坊主に」
「道善は母につらくあたる父としだいに折合いがわるくなったようです。十四五歳のころ、おさだまりの夫婦喧嘩があって、父が酒を飲んでいた茶碗《ちやわん》を投げつけ、母は囲炉裏《いろり》におち、運わるく煮たった茶釜《ちやがま》をひっくりかえし、両目ともつぶしてしまったそうです。それから道善は父とはげしくやり合い、大喧嘩のはてに家出をし、江戸にでてきて食うために寺の小僧に住みこんだのが、仏道に入るきっかけだったのでしょう。元来、道善はかしこくて、目先のきくたちで、そのうえ美少年とあって寺の和尚や先輩坊主などに目をかけられたそうですが、裏ではひそかに悪の道へ足を踏み入れていたということですよ」
「そうかい。あんな極道坊主にも、素直な子供のころがあったのかね」
「武士の出で、頭もあり、腕っぷしもつよく、仏門でも悪の道でもたちまち頭角をあらわしたというのですから、そのころもう現在《いま》の道善のもと[#「もと」に傍点]ができあがっていたのでしょう。数年前、長円寺の住職になったころからは、飲む、打つ、買うの破戒僧として自分の寺で賭場《とば》をひらくわ、檀家《だんか》の女房を寝取るわ、無頼、放埒《ほうらつ》のやりたい三昧《ざんまい》に毎日をおくっているそうです」
「そこまでよくしらべあげたものだ。それで、道善の弱みというのは、母親かい」
おえんは又之助の話をききおわるなりいった。
「ほとんど世を捨てた極道坊主ですから、弱みといってもなかなかありません。なかで弱みをさがすなら、今も武州川越に住んでいるという母親でしょう。失明した母は今でも兄が一緒にくらして面倒を見ているそうです。父親はずっと以前に死にました」
「道善は今でも、川越の実家とは行き来をしているのかね」
「道善はあまり実家のことについてははなしたがらぬようですが、年のうちに二三度は母親の顔を見に川越へいくそうですよ」
「こいつは、ちょっとモノになりそうだねえ。悪党にも人の情はいくらかのこっているようだ」
おえんはため息をつくようにいった。
「お嬢さん、あんな悪党に情は禁物だ。世の中にあっては不為《ふため》なやからです。少々あくどい手でもつかってこらしめなければ、つけあがるばかりですよ」
そのとき、浜蔵が割って入っていった。
「できればあくどい手はつかいたくないけれど、道善をやっつけるためにはやむをえないかもしれないね」
おえんも今うけたひどい仕打ちで、すっかり覚悟ができていた。
九里(栗)より(四里)うまい十三里
で知られるのが川越芋である。十三里はゴロ合せのために実際より長くなった。江戸から川越まで本当の里程は十一里である。陸路をあるいて丁度丸一日の里程だ。
川越は御家門の一家松平|大和守《やまとのかみ》の城下である。江戸からちかく、文化程度もたかいので〈小江戸〉と呼ばれ、天海のひらいた喜多院と東照宮があって、代々の将軍がたびたびここをおとずれた。
城下町は、侍屋敷、社寺地をのぞいて十カ町四門前町がととのえられている。十カ町のうちの一つ、連雀《れんじやく》町に田村彦太郎の陋屋《ろうおく》がある。
彦太郎は父の代からの浪人者である。当然のことながら、生まれていらいの貧乏ぐらしを四十余年つづけてきた。三十歳をすぎてようやく近在の農家から嫁をもらった。父の代からつづけてきた版木の字彫りをやっているが、それだけでは到底家|計《くらし》をささえていくことはできない。彦太郎には九歳を頭《かしら》に三人の子と老母がいる。嫁おとくの実家が多少の穀類や野菜などをはこんできてくれるので、一家の生計はようやくたっている。
おとくの両親は川越の中農で、彦太郎に好意をいだいており、なにかと娘の婚家に気をくばっている。今日も、おとくは三人の子供をつれて、実家へあそびにいっていた。
彦太郎は昼ごろ、城下の版元武|蔵屋《むさしや》へ版木をとどけにいき、家では老母一人が留守をしていた。
昼下りの一時《いつとき》、若い男が二人、彦太郎の家をおとずれてきた。一人は唐桟《とうざん》、もう一人は双子縞《ふたごじま》の着物を無造作に着たいかにも江戸ふうの町人である。
「田村彦太郎さんのお宅はこちらでございましょうか」
やや年上のおちついた感じのほうの男が声をかけた。又之助である。もう一人は浜蔵だ。
しばらくの間があってから、盲目の老婦人が壁や襖《ふすま》をつたって玄関にでてきた。
「はい、こちらは田村彦太郎の家でございますが、あいにく彦太郎は留守にいたしております」
老婦人は見えぬ目をこらすようにして、申しわけなさそうにいった。
「留守はわかっております。わたしどもは武蔵屋の者でございますが、こちらの彦太郎さまが店で主人とはなしをしているあいだに、とつぜんご気分がわるくなられて、たおれました。彦太郎さまは今、武蔵屋でやすんでおられます。医者にきてもらいましたところ、ご家族の方に一人きていただきたいといわれて、おつたえにまいりました」
又之助がそういうと、
「えっ、彦太郎が……たおれましたか。容態はどんなでございましょうか。命に別条はありませんか」
老婦人は愕然《がくぜん》として、まず安否をたずねた。暮しむきのまずしさは老婦人の装いにもあらわれているが、それでも武家そだちの品のよさが立居のなかににじんでいる。
「今のところ別条はありませんが、今後容態がどうかわるかわからないあぶない状態だそうでございます。わたしどもがお供をいたしますので、とりあえず武蔵屋までご足労いただけませんでしょうか」
又之助は真にせまった芝居で、罠《わな》をしかけた。
「わたしでは何の役にもたちませんが、あいにく彦太郎の家内が家を留守にいたしております。わたしでよろしければ、すぐにもつれていっていただきます」
老婦人は今にも動転しそうな様子で、必死にいった。
「身内の方ならば結構です。さっそく、ご案内いたします」
とるものもとりあえず家をでてきた老婦人の手を又之助と浜蔵が左右からとった。
「彦太郎は大丈夫でございましょうか。もし万一のことでもありますと、わたしはもう生きていくすべがございません。なんとしても彦太郎をよろしくおねがいいたします」
老婦人はおろおろとすがりつくように又之助と浜蔵についてきた。
「彦太郎さんにはしっかりした医者がついておりますから、医者におまかせして幸運をおいのりいたしましょう」
又之助と浜蔵はまんまと彦太郎の母をつれだすことに成功した。
川越と江戸をむすぶのは川越街道ばかりではない。俗に九十九曲りといわれる新河岸《しんがし》川がある。新河岸川は川越の町はずれ伊佐沼《いさぬま》に源を発し、下流の野川と湧水《ゆうすい》をあつめ、河の口と称する新倉河岸で荒川に合流する。荒川にでるまでを内川、でてからを外川と称するが、そのあいだずっと武蔵野の平坦部《へいたんぶ》をながれるため、川は勝手気ままに蛇行する。それで九十九曲りといわれるほどの曲折をもった。
その新河岸川の船着場に、又之助と浜蔵はいつわって彦太郎の母親をつれてきた。
船着場には江戸へむかう高瀬舟が繋留《けいりゆう》されている。
長円寺の境内で、白梅がちらほらとひらきはじめた。白梅は百花にさきがけて咲く気品の高い花だ。早春の寒気のなかにきよらかな雰囲気がかもしだされる。
その午後から、三々五々と長円寺に人があつまりだした。梅見というのは、本来風流人士のおこなうもので、文人、医師、絵師などがおおい。
ところが、長円寺の山門をくぐった者たちはとても隠士、墨士、粋士たちには見えず、みな一癖も二癖もありげな無頼者《ならずもの》、定職をもたぬ遊び人。あるいはまともな娯楽に飽いた商家の旦那《だんな》といった面々である。彼等は梅見をたのしみにやってきたのではなさそうだ。境内の梅の木にはほとんど興味をしめさず、それぞれ方丈へちかづき、その裏口から中へ消えていった。
方丈の裏口や山門の脇には、やはり風体のあまりよろしくない若い者がいて、それとなく人々を案内している。二日、十二日、二十二日は月に三度、長円寺で賭場がひらかれる日である。
とはいっても、道善といえどもおおっぴらに賭場をひらけるわけではない。天下の御法度《ごはつと》であるから、寺社奉行の目を気にしなければならぬ。それで若い者に客の案内と見張りを兼ねさせているのだ。
若い者にみちびかれて方丈の裏口を入ると、住職の居間と客間が廊下でつながっている。客は居間でなく、客間のほうへ案内されていった。
客間の杉戸をひらくと、中は賭場である。床の間つきの十畳間と六畳の次ノ間の襖がとりはらわれ、中央に盆茣蓙《ぼんござ》がしかれ、二十人あまりの客をあつめて、丁半|賭博《とばく》がおこなわれている。
盆の中央、胴元のすわる位置にどっかと陣どっているのは、法衣の道善である。道善がみずからひらいている賭場である。坊主頭の胴元というのはいささか賭場の雰囲気に不似合いだが、道善の堂々たる貫禄《かんろく》は賭場を圧している。
賭場は見つかれば客も御用となるので、胴元に貫禄がなければ、客は心配で寄りつけない。
「胴元がしっかりしておりますから、この賭場は大丈夫です」
といって若い者は客を案内するのである。
客たちは丁座《ちようざ》と半座《はんざ》にわかれて位置をしめている。
「さあ、張った、張った」
中盆《なかぼん》の声が賭場を仕切っている。
客はそれぞれ丁方、半方に張っているのだ。
そのころ……、長円寺の山門をくぐった白い縞《しま》の留袖《とめそで》に朱の帯をきりっとしめた粋《いき》な女の姿があった。おえんがとうとう道善の本拠に乗りこんできた。
おえんには中年のどっしりとしたつれ[#「つれ」に傍点]の男がいる。
「新さん、賭場への出入りはひさしぶりだろう」
おえんにそういわれたのは弁天屋の先代仁兵衛の番頭をしていた鬼面の新五郎である。
「へえ、賭場への出入りは親父さんからかたくとめられました。それ以後|博打《ばくち》には手をだしておりませんから」
新五郎はにこりともせずにこたえた。新五郎はぐれてあそんでいるころ、おえんの父仁兵衛にひろわれて、やくざから馬屋になったのだった。
「父さんも死んじまっていることだし、今日一日、博打を解禁して、おもう存分あそんでおくれよ」
おえんがそういっているとき、参道にいた若い者がおえんと新五郎に目をつけ、うさんくさそうに近寄ってきた。
おえんと新五郎はそれに見むきもせずに参道をあるいた。
「おまえ、おえんという馬屋だろう。ここは馬屋のくるところじゃねえぜ」
若い者はいいとがめて、二人の行く手をはばもうとした。天清にいやがらせにきた四人のうちの者ではなかった。
「今日はちょいと手なぐさみにきたんだ。お前なんかが気にすることはないんだよ」
おえんはいいすてて前へすすんだ。
なおも若い者は口をだしかけたが、新五郎がじろりと睨《にら》みをくれると、立ちすくんで言葉をにごした。
「新さん、見てごらん。白い梅がきれいだよ」
おえんが指さす方を新五郎はながめた。
「昔は花の咲いてるところなんか気づかずにとおりすぎたものでしたが、ちかごろはようやく花が見えるようになりましたよ。紅い梅ははなやかでいいもんですが、白い梅もきれいだ」
「新さんも年をとって、おちついてきたんだよ。あたしは紅い梅のほうが艶《つや》があって好きだけど」
そういいながら二人は参道を本堂へはむかわず、方丈へちかづいた。
裏口へまわると、とたんに若い者が目を光らせた。
「そこの二人、お前さん方お門《かど》ちがいだよ。ここに用はないはずだ」
すぐにやってきて、二人を制した。
「なに、かまわないんだ。ここで賭場がひらかれてるのは百も承知だよ。今日はゆっくりあそびにきたんだ」
おえんはあっさりとこなしてとおりすぎようとした。
けれども、相手も賭場の玄関番である。そう盆暗《ぼんくら》ではなかった。
「だめだよ、こちらからまねいた客でなければ入れないんだ」
執拗《しつよう》にはばんできた。
「そんな堅くるしい賭場はきいたことがねえ。弁天屋のおえんさんがあそびにきたと和尚《おしよう》にいってみろ。きっといいというぜ」
新五郎がそういうと、若い者は奥へうかがいをたてにいこうとした。
その隙におえんと新五郎は裏口から方丈に入った。
若い者はとってかえしてきたが、
「いいんだ、いいんだ」
いいながら新五郎が先にずんずんすすんだ。
廊下までくると、もう賭場の熱気と中盆の声がつたわってきた。
「駄目だ。だめだ。入っちゃいけねえ」
若い者はなおも追いすがってきた。
が、おえんと新五郎はかまわず賭場に踏みこんでいった。
「賭場荒らしだっ」
「たたきだせ!」
若い者の声におどろき、賭場で客の世話をしている男たちがにわかに殺気だった。
そのために客たちも騒然となった。
「ばたばたするなよ、騒々しい。こっちはしずかにあそびにきたんだ」
新五郎は男たちをにらみすえて、一喝した。さすがに昔とった杵柄《きねづか》だ。たった一声で男たちはしずかになった。
道善だけは微動もしなかった。胴元の座にすわって、おえんと新五郎につめたい眼をすえていた。
「おえん、いい度胸しているぜ。あそびにきたのなら、あそんでってもらおう。ただし、あそぶには元手がいるぜ。元手の用意はあるんだろうな」
道善は小馬鹿にしたようにいった。
「賭場にくるのに、文なしでくる者はいませんよ」
「この賭場は借り貸しなしの、当日勝負だ。その場になって泣きごとはいうなよ」
道善はいたぶるような残忍な眼差《まなざし》でいった。
「念にはおよびません。そのくらいの用意と覚悟はしていますよ」
おえんは顔色をかえずにこたえた。髭の剃《そ》り跡の濃い中盆と小柄な壷振《つぼふ》りにおえんは見おぼえがあった。天清にいやがらせにきたうちの二人である。
道善が顎《あご》をしゃくると、壷振りのとなりの客が二人席をあけた。
おえんと新五郎はその席にすわった。二人は道善とほぼ相対する位置にすわった。
「ならば、おえん。二人でサシの勝負はどうだ」
道善はおえんにいどんできた。
「もとよりのぞむところです」
おえんはびくともしないで、受けてたった。
中盆、壷振りをはじめ、賭場の客たちは二人と道善のやりとりを息をのんで見まもった。
おえんと道善は丁座と半座で相対した。
「張った、張った」
中盆の低く張りのある声が流れた。
「丁に三十七両二分一朱」
おえんは新五郎から袱紗包《ふくさづつみ》を手わたされて、それをぜんぶ丁座に張った。
周囲の客たちはみなおどろいた。ふつうなら一度に五両、十両の勝負である。道善は一瞬いやな顔をした。が、すぐに、
「半に三十七両二分一朱」
と応じた。
道善のとなりの若い者がさっそく金箱のなかからそれだけの金を半座に張った。
「丁半、コマそろいました。勝負っ」
中盆の声とともに壷振りが、あざやかな手さばきで壷を振った。
全員の耳目が盆茣蓙の壷にあつまった。
一瞬の静寂と緊迫が賭場を支配した。
壷がひらいた。
サイコロは、五と二がでている。
「五二《ぐに》の半」
中盆の声が賭場にひびいた。と同時にどよめきがおこった。
「おえん、気の毒だが、おれの勝ちだ。三十七両と二分一朱はおれのものだ」
道善は勝ちほこったようにいった。
おえんの顔が緊張で白くなり、悔しさがにじんだ。
「どうする。おえん。一回こっきりで尻《し》っ尾《ぽ》をまくか」
道善は見くびるようにいった。
「勝負は一回ではきまりませんよ。もう一度」
おえんはいった。
そのとき、入口の襖《ふすま》がひらいて、若い者が入ってきた。
「川越からいそぎの使いの者がきております」
若い者が和尚にそういったとき、不吉な予感でもしたのか、道善の傲岸《ごうがん》な表情にかすかだが不穏な色が浮かんで、消えた。
「ちょっと中座する。待っていてくれ」
道善はそういって席を立った。
しばらく待つと道善がもどってきた。道善の態度は今までとうってかわって、おちつきのないものになっていた。苛《いら》だちと不安が道善の面をおおっている。
「いそぎの用ができた。勝負をいそごう。おえん、今度はいくら賭《か》ける」
道善がうながした。
「和尚さんは七十五両と二朱賭けてください。わたしは体を張ります」
おえんが平然というと、賭場のなかがどっとどよめいた。負けた倍の金額である。
「おれはかまわねえが、おえん、覚悟はできているのか。負ければ、お前の体はおれのものになる。好きなようにするぜ」
道善もやや唖然《あぜん》としていった。
「念にはおよびません。負けたら、わたしの体さしあげます。好きになさいまし」
おえんの二度めの言葉で賭場のどよめきは去り、しいんと沈黙した。
「ようし」
道善はすわりなおし、
「半に七十五両と二朱」
すでに勝負はもらったという態度で張った。
「丁に、おえん体」
おえんも応じた。
「丁半、コマそろいました。勝負!」
中盆の声がひびいた。
壷振りが壷をさばいた。
一瞬の間をおいて、壷がひらいた。
「三二《さに》の半」
中盆の無情な声がふたたびひびいた。
サイコロは三と二がでている。
おえんは目をとじた。
「おれの勝ちだ。おえんは負けた」
道善は勝ちほこっていった。
「おれはいそいでこれから川越まで親をさがしにいかなければならない。じつは親の行方がわからなくなった。おえん、お前の体はそれまでおあずけだ。おれがもどるまで、ここにいてもらう」
「和尚さん、勝負はまだおわっていませんよ。勝ち逃げはゆるしません」
道善にたいしておえんは鋭くいいはなった。
「おえん、もう賭けるものはあるまい。つれの用心棒の命なんか賭けてもらっても御免だぜ」
「賭けるものはあります」
おえんはきっぱりといった。
「じゃあ、三回勝負。これで最後だ。勝っても負けても恨みっこなしだ」
「道善和尚、わたしの今までの負けに三十七両二分一朱たして張ってください」
「おえんは何をかける?」
「和尚さんのたずね人。わたしがその人をさがしだしてあげましょう」
おえんの言葉で、道善の顔色がさっとかわった。
道善のまわりの若い者たちも騒然となった。
「おえんっ、お前たちの仕わざだな。きたねえ手をつかったな」
道善がしぼりだすように吠《ほ》えた。
「きたないやつには、きたない手で応じるのが、あたしの流儀だよ。文句があるかい。勝負をするかい。自分を生んでくれた母親を賭けてみるがいい。実の母親を賭場《とば》の犠牲《いけにえ》にするのも、お前のような極道坊主には似合いだろ」
おえんがおもいきり啖呵《たんか》をきるや、
「ふざけやがって!」
中盆と壷振りがほとんど同時におえんにおそいかかってきた。
おえんがすばやく身を避けると、新五郎がとっさに身をおどらせた。今までじっと沈黙をまもっていた新五郎が目にもとまらぬうごきを見せた。中盆が頬桁《ほおげた》を拳《こぶし》で殴りとばされ、壷振りが腰車にかけられて、二間も投げとばされた。
中盆も壷振りも、その一撃だけで、おきあがれなくなった。中盆は頬骨がくだけ、壷振りは腰の骨を折って伸びてしまった。
おえんが鉤縄《かぎなわ》をつかう遑《いとま》もなかった。鉤縄をとりだしたものの、若い者たちはみな居すくんでうごかなかった。
おえんも新五郎のこのようなつよさを目前で見たのははじめてだった。鬼面の新五郎の渾名《あだな》の由来を想像させるものだった。
新五郎が一歩道善のほうへ踏みだした。
「おえん、勝負はきまりだ。壷を振るまでもねえ。お前の勝ちだ。三十七両二分と一朱、持ってかえれよ。かわりに母親をかえしてくれ」
道善がおえんの前に両手をついた。
「お前のおっ母さんは、うちの若い者があずかっているよ。もう二度とおいらんを泣かせたりはしないことだ。むこう三年、お前が吉原に出入りすることを禁止する。お前にはつらいだろうが、それが一番のお仕置だ」
おえんは道善にいいわたした。
「わかった。お前のいうことを聞こう。おれの負けだ」
角川文庫『付き馬屋おえん吉原御法度』平成15年3月25日初版発行