南 伸坊
ぼくのコドモ時間
もくじ
まえがき
拾った湖
池袋のパルテノン神殿
あぶないからよしなさい!
大人のツネヒトちゃん
夏休みに死んだリエのこと
オトーサンがオトーサンらしかった日の話
よいにおい 悪いにおい
じーっと見ている
ちっちゃいりんご
街灯の下のコドモ
三本のエリマキ
音楽が苦手だった
おいッ おいッ孔雀!
ヘンなオジサン
小雨のボンボン
夏休みの作文
後ろ向きの記念写真
「遠足」が楽しい|ワケ《ヽヽ》
さみしい子守唄
図書館とテニスコート
思い出の回数
日なたぼっこの侍
ピーコの羽根
しんちゃんのオカモチ
ボクの買った本
はたらくオジサン
不可解なイーダ
がんばった話
大人になったら
運動会の思い出について
五円玉の思い出
ミツエさんのお化粧
泣いた関取
原田くんのズル休み
春を感じる
原っぱの話
仙人の話
掃除当番
ちょっと妙な気分
ガラスの割れた日
ドギマギした話
寒い日に
お正月はどんなだったろう
タケシくんの恋人
おならの人
あとがき
まえがき
「コドモ時間」というのは、ボクの造語ですが、こんなコトバをわざわざ思いついたのにはワケがある。
コドモのころのことを思い出していると、どうもあのころの一日は、いまよりずっと長かったような気がします。大人とコドモでは一日の長さがほんとに違うんではないか?
でもたしかに、大人もコドモも、朝起きてゴハンを食べて、学校や会社へ行って、遊んだり仕事したり勉強したり、また家へ帰ってきて、ゴハンを食べたりテレビを見たり、お風呂に入ったり、同じ時間をすごして、寝るんです。
実感では、違うのに、たしかに同じ二十四時間をすごしているのには違いがない。このことを、どんなふうに理解したらいいんだろう? と考えていた時に思いついたのが、レコード盤理論というものなんですね(そんなに大層なもんじゃないんですが)。
レコード盤の回ってるところを見ながら、思いついた。最近はCDがレコードにとってかわって、レコード盤がうねうね回ってるところを見たりすることは少なくなってしまいましたが、あれを見てると、ちょっと不思議な気分があるんですよ。
ターンテーブルがあって、クルクルと回っている。その上にレコード盤が置いてあって回るわけですね、針を置くと、レコード盤から音がします。
始めはレコード盤の外側です。で、どんどん内側へ渦巻くように回っていくわけですね。始めは大きく回る、でも終わるころの一回転分は、始めに比べるとずいぶん小さくなってるじゃないですか。
でも一回転は同じ一回転、ターンテーブルが一回転するのを一日とすると、これをコドモ時間と大人時間の実感のモデルにできるかもしれない。
実際のレコード盤は、とちゅうで終わってしまってますが、この人生のレコード盤は、中心まで溝が刻まれている。どんどん小さな円になっていって、最後は点になる。ここが人生の終点です。
ボクらはレコード盤の溝に入ってしまうくらい小さな人間で、峡谷の一本道を歩いている。歩いてるつもりなんだけど、これはルームランナーみたいに、地面が動いているんですね。
コドモのころには、ずいぶん長い道のりを歩いている、一日の道のりはどんどん短くなっていって、最後にはまるで立ち止まったようになる。でも一日の回転は、どこにいる時にも同じである、というワケです。
こんなことを言ったり、考えたりしたからってなんでもないんですが、ボクはこんなことをしたりするのが好きなんですね、でレコード盤の上に浮かんでみて、コドモ時間を歩いてる自分のことを見おろしてみたりする。
球の飛んでこない外野で守備をしていたり、街灯をパチパチつけたり消したりしていたり、床屋さんのアメン棒の前に立ちつくしたり、遠足で迷子になったり、ピアノの音に耳をかたむけてたり、大工さんのかんな削りを見ていたり、大相撲のテレビを見ていたりするボクがいます。
さかあがりの練習をしていたり、学芸会で芝居をしたり、渡り廊下で女のコと出会ったりしています。
ここに収めた文は『母の友』っていう雑誌にコドモ時代のことを書くようにたのまれて書いたものです。ボクにとっては、かけがえのない思い出でも、それがほかの人におもしろいものとは思えないので、連載したころには、その時々の話題とからめて、意見めいた結論のためにダシにしていたんですが、一冊にまとめるのにあたって、編集部のすすめもあって、それらをバッサリ省きました。
ここにあるのは、格別とりたてて言うほどのことはない平凡なぼくの平凡なコドモ時間です。楽しんでもらえればいいんですが。
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拾った湖
ボクは、いろいろとモノを拾ってくるコドモだったようですね。拾ってはポケットに入れる。で、また拾ってはポケットに入れるんで、ポケットがいつもふくらんでいた。
どんなものを拾っていたのか?
いま思い出そうとすると、これがなかなかムズカシイの。思い出せないんですね。しかしそのたびに母親が文句言ってたのは思い出せるんですよ。
「ったく、なんでこんなワケのわかんないモンばかり拾ってくるんだろうね、このコは」
あらららら、アブナイじゃないかこんなもの、こういうモノをポッケに入れてくるから、穴があいちゃうんでしょ? あーあーあー、こんなにヨゴレちゃってェ……と思い出の中で母・タカコがボヤイてるところから推測すると、つまり、ガラス瓶のかけらとか、機械部品のボルトやナット、変な形の石だの、ローセキ、ゴム管、ドングリ、たびのコハゼ、みたいなもんだったと思うんですね。
で、そのようにせっせと拾ってきた宝物をボクがどうしてたのか? っていうのもよく覚えてないんです。おそらく先刻の、母・タカコの様子だと、そのまま捨ててしまってたんじゃないでしょうかね。
どうも根気がなくて、あきっぽいから、拾った時の感動が、あんまり長もちしないんですね。いつのまにか捨てられてて、くやしかった、なんていう記憶もないんです。
道を歩いていると、前方で何か光ってたりするものがある。と、そこに行って、その光るものを拾って、じっとそれを眺めてる。ポケットに入れて、なぜかバーッと走ったりする。と、まァこんなことだったろうと思います。
そのころ、ちゃんと役に立つものを拾ってくる、気はしの利くコドモたち、というのも存在しました。アカ≠ニいって、銅線のクズだのを拾う。鉄クズを拾う。これはそのまま、けっこうなお金に換金ができます。
ボクはボルトやナットは拾っても、どうもそういう社会性《ヽヽヽ》がなかったですね。そういう大人っぽいようなことをした記憶っていうのもないんです。
拾ったもんのことで唯一ボクがくっきりと覚えているものがあって、だからこれはかなりちょっとしたモノ≠セったようです。小学校の二年生くらいだったですかね。道バタに銀色に光ってるものを見たんですよ。
なんだかボクは光ってるものに弱かったらしい。それは飛行機のような銀色で、ものすごくカッチリと精密な、何かの機械の一部≠ンたいだったんですね。
〈うおッ! スゲエ!〉
とボクは思ったと思う。初めて見るもんだった。実は折りたたみ式の、いま思えばルーペ、なんだけど、そのころ、ボクの頭ん中にはルーペなんてコトバはないからね、なんだかレンズのはまった、精密機械の一部。
そのスゴイやつが、虫めがねのように使えることに気がついて、うれしくなって、そこらじゅうのものを拡大して見てたんだと思うんですね。
で、そうこうしている最中に、こんどは、真新しいボール紙の箱を見つけたんです。中に厚いガラスの円盤が、薄紙に包まれて四枚入っている。そのあたりに光学機械の工場があったんで、きっとそれは、磨く前のレンズだったんでしょう。
ボクはさっきのルーペを折りたたんでポッケに入れると、そのボール紙の箱を持って、飛ぶようにして家に持って帰っちゃった。ボクはそのころ、道で五円玉を拾っても、交番まで届ける正直なコドモ≠ナしたから(といっても、そのころのコドモはみんなそうだった)、これは、ちょっとイケナイことなんですね。
〈このガラスの円盤を落としてしまった人は、きっと困ってそこいらを捜しているにちがいない〉んです。
ボクは縁側に、さっき拾ったガラスの円盤と、飛行機色のナゾの機械部品を置いて、しばらく考えていたんでした。それはとってもチャーミングなもんだったんですが、落とした人のことを考えると、ドッキンドッキンしてしまうもんでもあったわけです。なにしろ、両方ともピカピカの新品ですからね。
結局ボクは、拾った場所に舞い戻ってました。そうして、落ちてたところに元通りにそれを置いて、さりげなく様子を見ることにしたんですね。落とした人が見つけちゃったらしかたない、でも、誰かそうじゃない人に拾われちゃったら、ザンネンだなァ、とか思いながら、その精密機械工場の裏手の路地で、ボクはしばらくポケットに手をつっこんだままボンヤリ立っていたんです。
その日は何事も起こらずに帰ったんですが、次の朝モンダイの宝物がそのまま置かれてるのを見つけたボクは、こんどは自信を持って自分のものにしてしまったんでした。厚いガラスの円盤は直径が八センチくらいだったでしょうか、四枚重ねると、水色になる。ボクはそれを透かして見たり、並べてみたり、長いこといじくってました。銀色のルーペでは、アリンコをつかまえてのぞいてみたり、縁側の木目を観察したり、朝顔の葉っぱのうぶ毛を眺めたりしていた。
でも、そんなふうにして一時間もしたころでしょうか、近所のガキ大将のツネヒトちゃん(この人はボクより四つ年上です)が近づいてきて、
「なにそれ? すんげえじゃん、拾ったの?」と尋ねたんですね。ボクはギクッと息づまってイロンなこと考えちゃってるのね。でも、ツネヒトちゃんは別に疑惑や批判で興味を持ったわけじゃない。ちょっとほしくなっただけなんです。こんなふうに切り出した。
「メンコ二百枚! でどうだ?」
ボクは頭がクラッときたね。なにしろ、ボクはメンコが弱くてさ、それにそんなに小遣いをもらってたわけじゃないから、百枚とか二百枚、なんていうまとまったメンコ≠手にしたことなんてなかったから。
すぐにツネヒトちゃんは、メンコ二百枚を持ってきて、ちゃんと数えさして、ルーペとガラスの円盤四枚入りのボール紙の箱ととりかえた。ボクはなんだか頭がグルングルンしてボーッとしてる。とってもイロンなことが一挙に起こっちゃった。
しばらく、ボクはしあわせでした。メンコと引きかえに手ばなした宝物のことも忘れかけていた。
三、四日たったころだと思います。その日は雨が降ってたから、ツネヒトちゃんの家で、みんなでプロレスごっこをしていた。そのころのボクらのプロレスごっこっていうのは、かなり本気の真剣勝負で、「ロープ! ロープ!!」がないと、とんでもないことになる、ものすごくキンパクした遊びでした。自分たちで始めたくせに、終わるとみんな上気した顔でホッとしたりするような具合でした。
さて、そのホッとしたころであります。ツネヒトちゃんがボール紙のあの箱を、出してきたんです。ガラスの円盤を中から出して四枚重ね、その上に銀色のルーペを置くと、
「これ、見てみ?」と言うんです。
「こうするとさ(と言って箱の中の薄紙をちぎって円盤の上にのせ)、ヨットが湖に浮かんでるだろ?」
ルーペをのぞくと、たしかに深い透明な水をたたえた湖がそこにあって、まっ白な帆のヨットが浮かんでいるんです。小さな観光地。
「もうとっかえてやんないかんな、オレのだかんな」
とツネヒトちゃんは、ボクの要求を先回りに封じてしまうんでした。
ボクはとっても残念だった。ルーペやガラス板が実は、ヨットの浮かぶ小さい湖だったのに自分で気がつかなかったのが、ザンネンなんでした。
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池袋のパルテノン神殿
〈あっ、これは!?〉とボクは思ったんですよ。
〈これは池袋のパルテノン神殿じゃあないか!?〉と。懐かしいなァってボクはタメ息をついちゃったんですね。
ボクは『フランス百科全書絵引』っていうこまかい精確な絵がいっぱい入ってる、この本を買ってきて、一ページずつその絵を眺めていたとこなんです。そうしたら、ものすごく見覚えのある景色の絵が出てきて、そのまま、ボクは小学校の三年生か四年生のコドモ時間にワープしちゃったんですね。たしかにこの絵とソックリのギリシャの遺跡の絵を見たことがある。
それはゴブラン織りの壁かけで、池袋にあった、かかりつけのお医者さんの待合室にかけてありました。ボクはお使いで、病気のオトーサンの薬を受けとりに来たとこなんですね。ボクはこのお使いを、そんなにキライじゃなかったですね。コドモの足で三十分くらいの距離だったと思うけど、おっくうじゃなかった。
高橋医院は、それほど大きな建物じゃないけれどもドイツふうのしっとりした造りの洋館で、昭和三十年代の池袋のコドモには、外国そのものっていう感じでした。
ドアをあけると、チリンチリンチリンと鈴が鳴るしかけになっていて、受付の小窓から、まっ白な看護婦さんの格好をした、キレイな女の人が顔を出す。そうして、ソファに座って少し待つ間に、その壁かけに対面して、いつのまにやらそのギリシャの廃墟の絵の中に入ってしまってたようなんですね。
大きな円柱がゴロリと転がっていたり、瓦礫《がれき》の積み重なっているあたりが、終戦直後の焼け跡と共通していたからでしょうか、ボクの頭の中では、池袋のもう少し先に行ったところがそのままギリシャになってしまいました。
「日本は島国なんだから、外国へは船でしか行かれないのだ」という知識と、この気分は平気で同居をしていたみたいです。実際、コドモの頭の中っていうのは、常識では判断できないようなところがある。池袋とギリシャがとなりあってるなんて、常識では考えられないですよ。でも高橋医院のゴブラン織りの壁かけに、またいで入ってしまえばそこはもうギリシャ、なんだから、ギリシャが池袋のちょっと先にあってもなんの不思議もないんですね。
〈不思議だなァ〉と思ったのは、むしろ初めて海外旅行をした時でした。香港《ホンコン》に行ったんですね。その時はボクはもう三十歳をすぎたオジサンだったんですが、九龍《クーロン》サイドから、中国の国境まで行って、「あそこが中国との国境です。ここからズンズンズンズン、歩いていきますとインドやギリシャ、フランスやイタリアまで地続きです」とガイドのおねえさんに言われた時でした。
この時の不思議な気持は、「ユーラシア大陸が地続きなのはアタリマエ」だっていう知識と矛盾してました。金貨の裏表みたいな対照ですが、大人もコドモも、ほんとはあんまり違ってないのかもしれません。
絵を見ていてそのままその景色の中に入っていってしまうような芸当は、ボクにはできない、あれは生まれつきの才能なんだ、っていうように大人になってしまった近ごろは考えていたんですが、よくよく考えてみると、小学校の三年生くらいまでは、ボクもアリスが鏡を通り抜けて向こう側へ出かけていけたように、出入り自由の魔法使いだったんでした。
とはいえ、ボクが高橋医院に行くその都度に、ギリシャのアクロポリスまで出かけていってたのかというと、実はそうでもないので、そのゴブラン織りのギリシャの風景の欄外に織り込まれた、地名らしいアルファベットを、習い始めのローマ字読みでなんとか読もうとしていた記憶もある。
それにしても、ボクがコドモのころの現実の行動半径っていうのはずいぶんと狭かったような気もします。徒歩で出かける距離については、むしろ現在よりも遠くまで歩いていますが、電車やバスで移動をするのはたいがい親がかりだったので、半径は国電の一区間くらいに限られていました。
高橋医院まで三十分で歩いていけるなら、そのちょっと先にあるギリシャまで、なぜ行ってみようとしなかったのか? と、いまちょっと悔やまれたりもしますけど、行っていたら、その日からボクの中でギリシャはなくなっていたのかもしれません。
ギリシャへは、まだ旅行したことがありませんが、アクロポリスへいつか出かけていくことがあったら、そこから池袋の高橋医院の待合室へ瞬間移動を試みてみようと思います。
ところで同じように、長いこと凝視《ぎようし》していて、絵の中に入った場所がもう一カ所あったのを思い出しました。それは椰子《やし》の木のジャングルの出口なんでした。ボクは暗いジャングルのほうから、その出口のまぶしい海の景色を見ているんです。椰子の木の切り株に一人の笠をかぶったおじさんが休んでいて、ボンヤリと海のほうを見ているんですね。
これは台所の板の間の、高窓の下のあたりにかけてあった額入りの写真でした。それが物心ついてから、中学三年生で池袋の家を引っ越すまで、ずっと同じ場所にかけられてあったんです。家族全員がその写真が好きで、飾ってあったワケじゃなく、その場所が妙に高いところだったから、そのままになってしまったものと思われます。その証拠に引っ越しの時に、それは惜し気もなく捨て去られてしまったんでした。
ボクは物に愛情の薄いタイプですが、いま思うと、あれは少し残念だった。それに気のついたのは、タイへ旅行した時でした。水上マーケットに向かうのにボクらはサンパンと呼ばれる小舟に乗っていたんですが、椰子林に囲まれた川をさかのぼっていく時にひどくなつかしい、まるで生まれる前にいた場所に向かっていくような錯覚にみまわれたんです。
ボクのオヤジは、十代の少年時代に、フィリピンのマニラに行って小僧働きをしていたっていう話なんで、〈これはつまり、オヤジの記憶の遺伝なのかな?〉なんて思ったんですね。それくらいに、一種神秘的なノスタルジーだった。
ところがしばらくして、いやあれは、池袋の台所だった! あの台所の古ぼけたモノクロ写真だったのだ、と気がついたんです。暗い板の間の台所に、高窓から白い空が見えていて、その空がそのまま写真の明るい空に続いていたんでした。暗い台所で毎日なんとなしに眺めていた熱帯の景色が、いつのまにか生まれる前の記憶になっていたというわけです。
一枚のゴブラン織りの壁かけに織られたギリシャの景色も、一枚の額に入ったモノクロ写真の熱帯も、それを長いこと凝視して、ついにはその景色の中に飛び込んでしまったコドモ時間では、現実の体験と変わるところはないようなんでした。
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あぶないからよしなさい!
これは大人になってからの話なんですが、ボクは立入禁止になっているトンネルを、友だちといっしょに通り抜けたことがあるんです。京都に遊びに行った時のことなんですけど、そこは「そすい」っていう川みたいなところで、ボクらはそこを探検してた。急な坂になってる登山電車の線路みたいなところを、昔は船が登ったり下りたりしていたっていう説明のカンバンがあって、ボクがそれを読んでたら、テルノブくんが、なんか川のほうに勝手に下りていった。
そうしたら、マツダくんも下りていったので、おもしろそうなので、つい、ボクも川のほうに下りたら、そこは川っていっても、自然の砂利とかあるような川じゃなくて、人工の川で、コンクリートの谷間みたいで、すごく変でおもしろかった。
それでテルノブくんが、
「あのトンネル抜けてみよう」と言って、ずんずん歩いて、中に入っていってしまった。ほかにもカッちゃんとかツトムとかいて、みんなトンネルのとこまで行ったけど、カッちゃんが、ここは水のトンネルだから、水が出たらあぶないからやめたほうがいい、と止めました。
トンネルはまっ暗で、遠〜〜くのほうに、ポチンと小さく出口が見えてるだけで、遠いし、やめたほうがいい、と言って、カッちゃんとツトムは帰ってしまった。
テルノブくんとマツダくんは、笑いながらどんどん、奥まで歩いていくので、ボクもしかたないので歩いていった。トンネルは、大きい土管みたいに丸くなっていて、水が流れているので、とっても歩きづらい。
ずいぶん歩いてから、後ろを振り返ったら、入口が遠くなって、ちょっと心細くなってしまった。いまなら、まだ引き返したほうが近いな、と思ったけど、でも、それにしてもずいぶん歩いてきちゃったから、帰るのもシャクだしなァ、と思って口には出さなかったら、テルノブくんたちも、冗談とか言ってて、よけい言えなかった。
「あっ、このへんで、ちょうどまん中かな?」とテルノブくんが言ったので、振り返って見たら、出口と入口の光がちょうど同じ大きさになっていた。
「もう引き返しても、先進んでもいっしょだな」と言ったので、みんなで笑った。それから、みんな、ちょっと足が速くなって、ちょっと無口だったけど、そのうち、どんどん出口が大きく見えてきたので安心して、ついにトンネルを抜けたら、工事現場のオジさんに、
「だめだよ、そこ下りちゃ」と叱られました。テルノブくんが、
「まさか、トンネル抜けてきたと思ってないよね」と言ったので、またみんなで笑いました。
みたいなことだったワケです。トンネルの中で(大人のくせに)ボクはちょっと心細くなってたりしたんですが、その時に、そうだ、コドモのころってこんなだったなァ、って思い出したんでした。
コドモのころは、いろんなことが心細くて不安だったんだけど、それがどうも、おもしろかったんだなァ、と気がついたんです。ガスタンクの階段を、ずんずん、ずんずん上へ上がっていった時も、とってもこわかった。こわかったけれども、薄く夕焼けの始まった景色が、とってもキレイでした。
家へ帰ってきて、ボクは、この話はしないでおきましたね。これは黙っていたほうがよさそうだと思ったんです。そう思いながら、鉄の階段から下界を見た時の手にかいた汗を、もう一度|かきなおし《ヽヽヽヽヽ》たりしていたんでした。
チンドン屋さんにくっついていって、迷子になってしまったこともあった。その日は雨が降ってたんですが、家で一番大きな大人用≠フこうもり傘をさして、ずっとあとをついていったんでした。雨降りですから、さすがについてくるのはボクだけなんですね。
チンドン屋さんも、本当はやめたかったでしょうが、仕事ですからしかたない。雨の日は早めに夕方が来てしまう。ボクはビラ配りのおじさんに、ビラを少し分けてもらって、配ったりしておもしろかったんですが、突然、そのおじさんに、
「ボーヤ、もう帰らないと、迷子になっちゃうよ」と言われて、その場に立ちすくんじゃったんでした。そのあと、どうしたのか、記憶がとり出せないんですね。そこで泣き出しちゃったのか、迷いながらなんとか帰ってきたのか、いっさい、記憶がない。チンドンとクラリネットの音が、肩から下げた大きいポスターをゆらしながらねり歩いていく、おじさんの後ろ姿といっしょに思い出せたような気もするけど、それがホントの記憶なのかどうか、ハッキリしません。心細かったろうなァ、と思いますね、ビラの束をもらったまんま、そこに立ってたボクは。
この時のことも、ボクはきっと報告≠オてなかったと思うんですよ。ボクがこの時のことを覚えているのは、その後何度か、この時のことが話題になったからだと思うんですが、それはボクの報告≠ノよってではなくて、姉チカコの話がモトになってるからなんです。
「ノブヒロったら、雨が降ってんのにチンドン屋のあとくっついてってんだもん、あたし恥ずかしかった。カツヤマ先生が、授業中さ、あのチンドン屋のあとついてんの、南の弟じゃないか? あの顔の大《おつ》きい子……って言って、見たらノブヒロなんだもん。ノブヒロ一人だけよ、誰もいないのに」
そうか。ということは、自力で帰ってきたんだろうな。そうしてドキドキしていたもんだから、きっと黙っていたんだろう。
黙って、あぶないことや、こわい思いや、不安にかられる心細い思いや、を、コドモ時間にボクはくり返していたんだと思う。石垣をよじ登り、線路際のガケを渡り、すべり落ちたり、転んだり、木登りをして下りられなくなってとほうにくれたり、していたのだと思う。
そうして、そういう危機を自分なりにのりこえた、というか、しのいだ、くぐりぬけたっていう充実感が、こわさが薄らぐころにふくらんでいったのかもしれないな、とボクは思う。
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大人のツネヒトちゃん
ツネヒトちゃんは、中学を卒業するとすぐ、家業のYシャツ屋さんになったのだった。大きな音のするモーター付きのミシンで、いくつものカラーをつなげて縫ったり、一人前のYシャツにでき上がったシナモノを玄関のところまで持ってきて、バサッ、バサッ、と、糸くずなんかを落としたりしているようだった。
ツネヒトちゃんはそんな時には無表情で、まだ小学生をやっていてそこらでスイライカンチョーやカンケリや、三角ベースやドコイキをしているボクらを、まるで見ようともしないのだった。
時々ツネヒトちゃんは、そうやってバサバサしながら坂の上のほうの空を見て、「フーッ」とため息をついているようにも見えました。ツネヒトちゃんの家は坂を下りた突きあたりにあって、ボクらはこの短い坂道を遊び場にしていたのだった。
ああ、ツネヒトちゃんは大人の人になったんだな、とボクは思っていた。大人の人は、つまんないんだよなとボクは思った。ボクも来年は中学生になるところなのだった。ツネヒトちゃんが、二百枚のメンコと引きかえにヨットの浮かぶ湖を手に入れてから、もう四年の歳月が流れていたのだ。
ボクはにらむようにツネヒトちゃんを見ていたんだけど、ついにツネヒトちゃんはコッチを見ずに、糸くずを落としたシナモノを持って、ついと奥へ入っていってしまうんでした。
ガキ大将とは、お母さんの敵ですね。お母さんというのは、どんなにのんきでズサンな人でも、コドモがアブナイことをするのを好まないもんです。昔のお母さんたちは、ただ、いつもいつもコドモの行く先々を見張ってるヒマがなかった。だから、ボクたち昔のコドモは、いちいちお母さんに「アブナイ、アブナイ」とうるさく言われないですんだのでした。ある時は塀を越え、ある時はバラ線をくぐり、ある時は石垣をよじ登り、ドブ川をとび越え、線路にクギを置いて電車に轢《ひ》かせて、踏切番のおじいさんにいやっていうほどどやされたりしてましたが、お母さんはコドモがケガせずに戻ってきさえすれば心配しなかった。
だから、いったん、そうしたことが露見すれば、ガキ大将とはとんでもない悪い子で、ウチのコにワルサは教えるし、おやつはまきあげるし、コツンとたたいて泣かせる子ということになってしまうわけでした。
一方、そのころ、コドモはガキ大将との毎日のつきあいの中で意外な一面に触れて、新たなる尊敬の念を抱いたりしているんでした。
「じゃ、三時からカクレ家《が》で会をやるから、おやつ持って集まること!」
とツネヒトちゃんの命令があって、ボクらはそれぞれ、自宅へ戻って、お菓子を持って集まったのだった。住人の引っ越したアパートの空き部屋がボクらのカクレ家で、そのなんにもない四畳半の部屋のまん中に、新聞紙が広げてあって、そこにみんなの持ち寄った、そまつなお菓子が寄せて山にしてありました。お菓子が山になるっていうのは、遠足の時や、お正月や、とにかく特別の日以外にはないことなのだ。
ボクらはその山を、周りから眺めているだけで、もうなんだか、胸が高鳴るのだった。そうして、それぞれが会≠フために持ち寄った、アトラクションが始まった。少年雑誌のフロクについてきた幻燈機を映すもの、歌謡曲の「お富さん」をじょうずに歌うもの。
そうして、ツネヒトちゃんは、時々、まん中のお菓子の山をくずして、みんなにそれを分け与えるのだ。コドモらは自分の家のお菓子だけでない、いろんなお菓子を食べられたし、お菓子を持ってこれない子たちにも、分け前が与えられた。
ボクはその日、学級文庫で借りてきた、なんだかマジメな童話の本を朗読したんですが、終わるとツネヒトちゃんが手をたたきながら、
「とってもじょうずに読めましたね」って、まるで先生みたいに、ていねいなコトバでほめてくれたのだった。いつも乱暴な口をきいてるツネヒトちゃんが、まるで学校の先生みたいだったのにボクはおどろきながら、本当の先生にほめられた時よりも、ずっとずうっとうれしかったと思ったんです。
ツネヒトちゃんは、学校の成績が、とってもいいほう、というのじゃあなかったです。というよりは、むしろちょっとニガテのほうだった。おそらく学校でツネヒトちゃんが「とってもじょうずに読めましたね」と先生から言われることってなかったんではないでしょうか。だからそのぶん、そのやさしさが格別にボクには感じられたのかもしれませんでした。
ツネヒトちゃんには、ホントはこれ以外の時に、いじめられたり、泣かされたり、おどされたりしたことも、きっとあったんでしょうけど、ぜんぜん、そんな時のことは、よみがえってこないんですね。
そうして、ツネヒトちゃん、といえば、湖をつくり出したり、誰よりもカッコイイ先生になったりする、キラキラしたガキ大将のゴールデン・タイムだけが、まぶしいように鮮やかによみがえってくるんです。そうして、それに続けてすぐに、あの、ちょっとつまんなそうに、しかしタンタンと、バサバサ、シナモノの糸くずを落とす、大人の人になったツネヒトちゃんの無表情が、となりあって浮かんでくる。
「ガ――ッ、ガッガッ、ガガ――ッ」
「ガ――ッ、ガッガッ、ガガ――ッ」と、ツネヒトちゃんがお父さんといっしょに踏んでいる、モーターミシンの音がしています。
冬の寒い日に、ちょっとだけ陽が射していて、そこだけあったかいツネヒトちゃんちの板壁に、小さいコドモが五、六人はりついてます。「さむいね」「さむいね」と言いながら、その日だまりのわずかな温もりを、みんなで分けあっているみたいに。ミシンの音にまじって、なんだかものすごく懐かしいようなラジオの音楽が流れています。
そういえば、ツネヒトちゃんが引退したころから、うちの近所では、ガキ大将がとりしきる、コドモの地域社会がなくなってしまったような気がする。つまり跡をつぐはずだったのは、確実にボクらの世代だったんですが、そうして、ガキ大将になりそうな才能は、たしかにいたんですが、それを誰もしなくなっていた時代だったんでしょうか。
さらに、約三年後、ボクの家はこの場所を立ち退くことになりました。ボクは中学を卒業して、やっとのことでひっかかった、定時制の高校生として、池袋を引っ越していった。
そうして、さらに十年くらいたったころでした。ボクはその時、出版社の社員でしたが、この、もと住んでいたそばまで原稿の受けとりにやってきて、ふと懐かしくなって、坂道にあったもとの我が家のあたりまで歩いていったことがあるんです。
モーターミシンの音はしていませんでした。その日は、一家で休暇旅行か何かに出かけたところだったようでした。フラリフラリと歩きながら、なんとなく、その袋小路を抜け出すように戻りかけた時、白いスーツを着た大人の人が、やっぱり大人の人になったボクには妙に狭くなったな、と思える道をこっちへやってきて、そこでスレ違ったんでした。
「あっ」とボクは小さく叫んだんです。その大人の人は、ガキ大将の弟として、いつもお兄さんの後ろに半身をかくしていた、ハナタレ坊主のユーちゃんだったのでした。
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夏休みに死んだリエのこと
ボクには二人の姉がありました。
上の姉がチカコ、下の姉はリエという名で、チカコがぼくの五つ上、リエは三つ上でした。チカコとリエは二つ違いで、ほぼ体格も同じくらいですから、いつもおそろいの(たとえばバンビの絵が大きく入った桃色のセーターだのの)服を着ていて、近所のおばさんに「双子のようだ」と言われたりしていました。
しかし、実際には、二人は顔も性格も、かなり違っていたようです。小学校に上がるようになったころには、着ている服は同じでも、かなり違いが出てきていたらしい。
チカコは学校の成績もよく、美人でした。しかしリエはチカコに比べると、成績も決してよくはないし、顔は……ボクに似ていました。大きくて平べったくて、鼻ペチャで、大口でした。
「りんごひとくち!」とはやされたりしていました。チカコは、いまとなってはおばさんで、とくに美人というもんではなくなってますが、そのかわり、お人好しの朗らかな下町のオカミさんになりました。
人の一生は劇のようだと言う人がいますが、そうかもしれない。チカコは下町のおばさんの役をするようになって、そういう人になりました。しかし、コドモの時は三人きょうだいのいちばん上のお姉さんで、美人で勝ち気の学級委員タイプの役を振りあてられていたんです。
妹のリエには、そういう姉に対抗意識があったかもしれない。あるいはもともとの性格かもしれないけど、やっぱり、そういう役柄だったんでしょうね、愛嬌《あいきよう》とサービス精神で姉よりも人気者になってました。
「リーボのりんごひとくち!」と男のコが悪口するのも、彼女の人気の故でしょう。大きな口をあけて、よく笑っていましたが、その笑顔も人気のもとだったと思います。ところが、残っている写真を見ると、一様にさみしい表情をしている。口が大きく写らないように、笑わなかったせいかもしれません。
父が入院をしていて、母タカコが働きに出ている時は、チカコがお母さんの役をやりました。ゴハンを炊いて、コロッケにキャベツを刻んで添えたり、おみおつけをつくったりして、ちゃぶ台に並べると、ボクとリーボを呼んで、食べさせます。
コドモばっかりで|ほんとの《ヽヽヽヽ》ゴハンを食べたりするのは、劇をしてるようでとってもおもしろいんですが、チカコは|ほんとに《ヽヽヽヽ》お母さんになってますから、はしゃいでいるボクやリーボが大声で笑ったり、ゴハンツブをこぼしたりすると|ほんとに《ヽヽヽヽ》叱《しか》るんですね。
そんな具合で、ボクはリーボが家族の中でいちばん自分の近くにいる、と感じていたんだと思います。遊びつかれて夕方家へ帰ってくると、井戸端でリーボが足を洗ってくれました。ボクはリーボがやさしく足を洗ってくれるのが好きだった。
薄情なもんで、ボクが姉のリエのことを思い出そうとしても、具体的には、この、足を洗ってくれてるとこ、しか思い出せないの。リーボは小学五年生の時に死人になったんですが、四歳からの記憶としたって五年間はいっしょにいたっていうのに、足を洗ってもらった、だけじゃ、まるで女中のおキヨの話みたいじゃないですか。
「薄情者だね、この子は!」と、リーボが死人になった日に、タカコはボクに言ったんでした。タカコはもちろん泣いています。
夏休みのさ中でした。リーボが腹痛を訴えて入院した。盲腸でした。手術して、回復して、きのう退院してきたんです。リーボの入院していた病室が暗くてこわくて、ボクはあそこからリーボが帰ってきたことを喜んでいました。
リーボが大好きなスイカを、母タカコをせかして切らせ、食べろ食べろ、とボクはすすめたんでした。リーボが、それに静かに笑ってるだけで、いつものように元気にスイカに食らいつかないのがボクには不満だったんですが、ともかくひさしぶりにリーボと会えて、ボクはとってもうれしかったんでした。
夕方になると、リーボが「足洗おう」と言って、ボクを井戸端につれていって、なんだか、とってもていねいに、足を洗ってくれました。夜中、ボクが寝ついてしまってから、姉はまた腹痛を訴えて、再入院をした。
腸|捻転《ねんてん》だか腸|閉塞《へいそく》だったか、姉リエは病院で死人になってしまった。一人で留守番をさせられていた六畳間に、死人は戻ってきて、ふとんに寝かされていたのだったか? あるいは、まだ死体は届いていなかったのだったか、記憶はおぼろげなんですが、家族が泣きくれてる時に、ボクは大声で、
「あしたは登校日だなァ」と言ったんでした。その時に、母タカコが、前述のように言ったんです。薄情者だね、この子は。
「お前のお姉さんのリーボが死んじゃったんだよ、リーボが!」
そうして、タメ息をついてこう言ったんです。人が死ぬっていうことがわからないんだ……このコはまだコドモだから……と。ボクは、その時にひどく反発を感じてたんでした。ボクはコドモなんかじゃないし、人が死ぬことくらい知ってる! バカにするな!
で、ふてくされたように、ボクは押し入れからせんべいぶとんを引き出して、それを一枚だけ乱暴に敷くと、なんだかゴロンとなって、天井をにらみつけていたんでした。大人になったボクには、この時のコドモが「人が死ぬとはどういうことか」わかっていなかった、というのがわかります。そして、プリプリとおこっていたのは、もちろん母タカコに対してでないこともわかっています。
その次の日から、ボクには、足をやさしく洗ってくれる姉がいなくなってしまったわけですが、そのことを本当にわかっていたのか? ボクにはよくわからないんです。そうして、その三年後には、父アキラも死んでしまったんですが、それでも人が死ぬというのがどういうことなのか、本当にはわかっていなかったと思うし、本当のことを言うと、いまでもボクには、人が死ぬってどんなことか、よくわかっていないような気がする。
時々、夢で、父が「実は生きていた」というのをよく見ましたが、リーボが現れることはほとんどなかった。ほら、やっぱり、お父さんは生きていたんだ、何を勘違いしてたんだろ、という夢で、その夢のほうが妙に本当らしい気がするんですね。人が死ぬっていうことは、本当に不思議なことだなァ、とボクは考えています。
ボクは前に、「家庭から死人を出すというのは、たしかに不幸なことではあるが、いいことである。死体を見ておくことはいいことなのだ」と書いたことがありますが、それは、体験すれば死がわかるということではなくて、その逆なんです。身近な人が死ぬと、死が不思議なことだと気がつくからなんですね。
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オトーサンがオトーサンらしかった日の話
その日の晩のおかずについては、ボクも、リーボもチカコも知っていました。それにこのコドモたちのオトーサンであるアキラさんも、よく知っていたのでした。どうしてかというと、オトーサンのアキラさんはその日の晩のおかずの「タケノコ」が大好きだったからでした。
コドモたちもタケノコは好きでした。タケノコがおかずの時は、夕方からタケノコの皮をむく手伝いをしたりしたもんです。で、その竹の皮にうめぼしをはさんでしゃぶって竹の皮の色が赤く変わるのを見て遊んだりしました。こないだオトナになってから、これやってみたんですが、
「アレ?」って拍子抜けをするような気分でしたね。コドモの時は、もっとこう、もう少しなんかこうおもしろいことが起こったような気がするんだけど、たしかに竹の皮の色は変わったし、よく見ると、とっても複雑なキレイな色なんですが、こんなもんだったかな、これだけのもんだったかな? って、なんだか違うのね。
それはそれでいいんですが、その日のタケノコは、たしか皮はもうむいてあったと思います。オカーサンのタカコが「きょうはタケノコだよー」とコドモたちに言って、あっち向いて本かなんか読んでたアキラさんも、ピピッとそれを感じてる……みたいな時間があったわけでしたが、そのすぐあとに「じゃ皮むくよー」と言ってうめぼし皮つつみしゃぶり≠ノ突入しようとしていたコドモたちのアテは、はずされちゃったわけでした。
で、その、あらかじめ皮はむいてありましたのタケノコが、煮つけられて、おかずで出てきたとこを、まず想像してみてください。丸干しの鰯の焼いたのなんかと、おしんこ、みそ汁にごはん、で、タケノコの煮つけです。
「いただきまーす」って家族五人で唱和して、さて、とおもむろに、タケノコをつまんで口にもってったオトーサンのアキラさんが、
「ん!?」と、ちょっと不穏な声色で疑問を呈しました。で、いまかじったタケノコを皿に戻して、もう一つちがうタケノコをかじってみたところで、ガゼン、顔がけわしくなっちゃって、
「な・ん・だ・こ・れ・は」とタカコさんのほうにグイと首を曲げて、にらみつけてます。タカコさんはオヤ? って顔で、
「なんですか?」
「なんですかじゃない!」これが食えるのか、食えるものなら食ってみろってんだよ、とオトーサンはカンカンなんですね。で、ボクはタケノコを食ってみた……ら、これがもう、もんのすごくカタイの。どうしたんだろ? っていうくらいのカタタケノコなんですよ。
「食ってみろ!」とオトーサンはまた少し大きな声になって、命令形であります。タカコさんが食ってみると、これはまァ、誰であってもカタイんですよ。〈イヤイヤー、こりゃ失敗、失敗〉っていう顔になってます。でも、タカコさんも強情なところがありますから、すぐほきだしたりはしないのね。なんか平気なような顔で口ン中モグモグしてます。
「こんなものが食えるわけはないだろう、これは|竹の子《ヽヽヽ》じゃねえ! |竹の親《ヽヽヽ》じゃねえか。いつ俺が竹ざおが食いたいと言ったんだ!」と、アキラさんは、こんな時にもダジャレのようなことを言いながらおこるんでした。そうして、箸《はし》で、一キレ一キレつまむと、ピッ、ピッとそれをはじき出すんですね。お膳を飛び越して、座敷の畳の上にタケノコ(のかたいやつ)が散乱します。三人のコドモたちは箸を持ったまま、タケノコが飛んでいくのを見ているんでした。
アキラさんは、ボクが物心つくころには、もう横になっていました。横になって一家に君臨していたんです。我が家では大黒柱は横たわるものだったんでした。オトーサンはとってもおっかない人で、どうしてかというと、非常に声がでかくて、顔がこわかった。短気でおこりっぽくて、気が強かった。コドモだけでなく、家に訪ねてくる人みんなが、アキラさんのことをこわがっているようなんでした。彼が死んだのはボクが小学五年生になった時だったということもあるんでしょうが、ボクはついに、オトーサンに口答えをしたことがありませんでした。(ボクが中学、高校、社会人になっても、年上の人に反抗的気分を持っていたのは、このことと少しは関係あるのかもしれません。)
ボクの家では、オトーサンは病気なのでいつも寝ています。セビロを着て、中折れ帽をかぶってカバンを持って、朝会社に出かけません。
〈うちはフツーじゃないんだな、残念だな〉とコドモのボクは思ってたんだと思います。それが証拠に、ボクはオトーサンが、絵に描いたようなオトーサンをしてくれた日のことを、ものすごくよく覚えているんです。
その時オトーサンは、セビロを着て帽子をかぶっていた。その上カバンを持っていて、
「じゃあ、行ってくるよ」と言って玄関の戸をあけて、空を見上げたりしたんでした。秋晴れのまっ青な空に、赤トンボがスイ、スイーと、飛んでいて、表札のところにとまったんです。
「あ」トンボだ、オトーサン、トンボだよと言いたかったボクの顔を見て、オトーサンは丸く刈ったつつじの植木の上に、フワリとカバンを置くと、片手に帽子を持って、人差し指をクルクル回しながら、表札にとまったトンボに、そおっと、そおっと近づいていったんです。クルクルクルクルと指を回しながら。パッと赤トンボが飛びすさったかと思うと、スイッスイーッと飛んでいってしまいました。オトーサンは帽子をそのままかぶると、アッサリ、そのまま、じゃ行ってくる、と言って何事もなかったように去っていくんでした。
そうして、コドモのボクもまた、赤トンボに関しては、ごく淡白な気持なんでした。逃げられて残念だとか、オトーサンはトンボ捕りがじょうずでないな、とかといった感想はまるで持っていなくて、ただ、そのあまりにも、モロに典型的のよくあるオトーサンのイメージが、とてもほこらしいくらいな、ハレバレとする思い出になっているんです。
自分のオトーサンには、他所《よそ》んちのオトーサンとは違うカケガエのないよさが、あるはずなのに、お膳をひっくり返すような、トンボを捕ってくれるような、そういう、どこにでもあるような、まるで蚊取り線香のブタのようなオトーサンが好きだなんて、変な話ですよねえ。
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よいにおい 悪いにおい
ボクの奥さんは、ボクより十歳コドモですが、もちろんホントウのコドモではありません。なにしろボクはもう四十歳のオジサンですから、奥さんも三十歳のオバサンなんですね。その上、オバサンはボクのすることを、時々、
「コドモォ!」と言ってバカにしたりするくらいで、まァ、ボクよりもずっとオトナなんですね。
しかし、ボクのほうで時々、奥さんがコドモに見える時があって、そういう時にボクは奥さんを尊敬したりするんでした。それはボクの好奇心が鈍磨してしまった方面で、特に感じるのは嗅覚に関する好奇心です。なんでもにおいを嗅いでみるんですね、それがくさいとわかっているもんでも嗅いでみる。
ボクは、においに関してひどく臆病ですね。ちょっとでも、いやなにおいは嗅ぎたくない、と思ってるみたいです。これはちょっとボクの主義に反してます。
「好奇心に鎖はつけない、できるかぎり幅広く受け入れる」
ところが、どうも悪臭≠ノ関しては、ひどく心が狭い人になっている。本当のところはボクは心が狭くて、自分がいままで知りえていないことは、すべてを拒絶してしまう臆病者なのじゃないか? と思えて、我ながらガックリしてしまうんでした。
コドモのころは、うすみどりのキレイなクサカゲロウを見つけてつかまえると、あとで手がとってもクサくなっちゃうのを知ってても、やっぱりつかまえて、しかもそのくさいのを嗅いだりしたもんでした。
冬の陽射しが、畳にたまっているのを見つけて、半ズボンにはきかえると、そこでじっと膝をかかえている。冬の間ずっと外気に触れていなかったその膝小僧のかすかなにおいを、さぐるように嗅いでいるなんてこともあった。
悪臭は悪いにおいだ、だから悪臭は嗅がないっていう考えを、ごくあたりまえだと思っているのは、情けないな、と、ボクは思っているんです。どうしてこんなことになっちゃったのかな? と考えて、あるいはアレが? と思い出したことがある。このことはなるべくなかったこととして、忘れたいと思っていたことで、だからあんまり書きたくないことだったんですが、なりゆきでしかたがない。
実は、小学校の二年生の時のことですが、ボクは授業中に「うんこしに行っていいですか?」と言えずに、とうとうガマンできずにズボンの中に、うんこをしてしまったことがあるんです。
みなさんご承知のように、うんこというものは、たいへんくさいですから、すぐにわかる。これが|おなら《ヽヽヽ》なら、出たあとにフワフワと移動をするものですから、すましているうちに犯人が迷宮入りになることもありますが、うんこというのはそうはいきません。そのままじっとそこに居を構えてしまいますから、誰のところから、くさいにおいが発生しているのか、はっきりしてしまうんですね。
「うッ!? くっせえ〜〜」と誰かが言い出します、で、みんながガヤガヤ、くさがり出します。ちょうど警察犬が四方八方から、ワンワン吠えながら、追いつめてくるみたいに、ガヤガヤするわけです。そうして、
「せんせい! 南くんがうんこもらしましたァ」というふうに、公式発表がなされてしまうんでした。
授業時間が終わると、便所へ行って、よごれたパンツはぬぎ捨てて、体を洗ってズボンを洗って、みんなのいる教室に戻ってくる。洗ってぬれたズボンをかわかさなくちゃいけないんで、きっとストーブのそばに行って、お尻を向けていたんだと思います。
「あー、くっせえなァ、あっちいけよォ」というような、正直な感想を、コドモというのは遠慮なく表明するもんです。少しは遠慮する気持もあるんだけど、なにしろ正直な気持ですから、ダレカが言ってしまえば、みんなもう、とめどなく正直になっちゃうんですね、みんなではやしたてるようなことになる。
「やめなさいよ! かわいそうでしょ!!」とその時、ちょっとお姉さんぽい声で、おこった女のコがいます。その一声で、男のコたちはまたもとの、遠慮する気持が呼びさまされたのでしょう、「しん」としてしまうんでした。
ボクは、この時の助け舟が、よほどうれしかった。そうして、そのやさしい女のコが大好きになったんですね、自宅のくもりガラスにぼくはその気持を表現したんでした。
「今成みつ子すきだ」
エンピツでそう書いてその横に、その女のコの絵が描いてある。助けられてうれしい、やさしいから好きだ、というだけでなく、今成さんの心の寛《ひろ》さを、ボクは尊敬したんだと思うんですね。でも、それが「すきだ」という方向に行ってしまったので、いわば、その本筋の考えかたがゆがめられてしまったのではないか? とボクは考えてます。
つまり、その後、ボクは気をつけるようになって〈授業中にうんこもらすのだけは、絶対にやめよう〉という考えかたになってしまったんです。実際、それからは一回も、うんこもらしてないです! って別にエバることないですが。これは失敗でしたね。なぜ授業中に便所へ行くのを、あんなに遠慮してしまったのか? 授業中にうんこしたらどうしていけないのか? いや、うんこをズボンの中にしてなぜいけないのか? というようなことを考えるキッカケをすべて放棄してしまったわけです。〈いけないからいけない〉と思ってしまった。
さらに、今成みつ子さんの、思いやりや、心の寛さに感動し、尊敬をした気持を、そのように思うことで、いわば「人間として、あたりまえのことをしたまでです」みたいな、外面的な形式的な思いやりややさしさと、同列のものにしてしまったんですね。これは大失敗だったと思います。
ボクが、悪臭に対して、世間一般的の、通り一遍の考えかたしかできなくなってしまったのは、この時の考えかたの失敗に始まっているのではないかと思ってるんです。
〈いけないからいけない〉いけないと言われているからいけないと考えて、その先へはあえてふみ込まない。っていう物わかりのいい考えかたです。
コドモが、どんどん大人になって、コドモの気持を忘れてしまうカラクリというのは、ここにあるんですね。つまり、物わかりがいいこと、物わかりのいいコドモというのは、早めにオトナになっている過程のコドモ、というのにすぎません。むろん、そのほうがオトナとして生きやすいんですが。
「コドモは残酷だ」というような言いかたがあるでしょう。なんにもわかっていないから、ストレートで、思いやりがない……と。でもボクはそう思わないですね、形の上はともかくそれなら大人だって同じです。イジワルになってしまう気持っていうのは、むしろ、そのようにして表面がとりつくろえるようになってから多く身についていくもんではないでしょうか? つまり〈悪臭とは悪いにおいである〉と考えるような考えかたが。
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じーっと見ている
ボクはコドモのころから、よく惚《ほう》けたように一つのものをジッと見てる、ようなところがありました。それも昆虫や草花の観察というような、それをずっと続けていれば学者になれるようなりっぱなもんではなく、どうも、どうしようもないようなものが多かった。
たとえば、床屋さんの看板、あのガラス管の中に赤と青の、アメン棒をとじこめてあって、それがクルクルクルクルクルクルクルクル回っているアレ。あのクルクルをジッと見ている。あの装置というのは、よく見てると不思議な感じのするもので、次から次に、あの赤白青の三色旗の帯のようなもんが、まるで湧いて出てくるように見えるんですね。で、次々に湧いて出てきたもんが上のほうへ行くとどういうわけか、どこへやら吸い込まれていってしまう。一方でどんどん湧いたものが一方でどんどん蒸発していくみたいに見えるんです。
もちろんコドモといっても、バカにしてはいけないんで、そのように見えるからといって、そうなってると思っているワケではないんです。電気が通っていなくてアメン棒が回っていないところもちゃんと見てますから、どうもあれはそう見える≠セけなんだ、というのは知っている。しかもあれは駄菓子屋さんの軒先につるしてある、ブリキのリボンをねじってある、アレとどうも似たようなしくみらしいというのにも気がついているんです。
しかし、気がついたからといって、見るのをやめないんですね。じっと見てるのは、そのしくみを知りたいからじゃない、もちろん最初はそれを知りたいとも思ったんでしょうが、見ていると、その際限のないさま≠ェおもしろくなってしまうんでした。
湯呑茶わんも、同じことです。そのころウチにあった湯呑には中に勢いのいい渦巻きが描かれてあったんですが、空になったこの湯呑を畳の上で回すと、その渦巻きがクルクルとこちらに向かってくる、ように見える。止めて逆に回してみると、こんどはクルクルと畳のほうへ吸い込まれていく……ように見えるんです。それを見ている。茶わんをハンドルのようにクルクル回しながら、それをいつまでもやっている。ボクが親なら、ちょっと心配になってしまう。このコは、どっか足りないのではないか?
メリーミルクの缶を、じっと見ているところ、というのは、そういうことでは親に心配をかける気づかいはなかったですね。どうしてかというと、それが置かれてあったのは、完全個室の中だったからです。メリーミルクというのは、粉ミルクで、その缶のデザインがちょっと奇妙にできていたんですね、S字にカーブしている道があって、そこに青いワンピースを着た女の子が立っている。女の子の名前がおそらくメリーなんでしょう。で、その女の子は両手で大きな粉ミルクの缶をかかえているんですよ。ところがそのかかえてる粉ミルクの缶が、メリーミルクの缶なもんで、その中にまた、さらにメリーがいて、メリーミルクの缶をかかえている、ということは、そのメリーミルクの缶の中にメリーがいて、さらにメリーミルクの缶をかかえ、当然そこにはメリーがいて、しかもメリーミルクの缶をかかえている、というわけです。
昔は、便所のおとし紙というのは、新聞紙を切りそろえたものを使っていたもんですが、これをつまり、うちではその粉ミルクの缶の中につっこんであったわけでした。
「ノブヒロは便所が長いな、中でいったい何をしているんだ?」とオヤジがいぶかったとしても、大便の姿勢のままで、「紙」入れの缶を、じーっと見ている、ところまでは想像がつかなかったハズで、早く出なさい、と言えば出てくるワケで、まァ心配はかけないですんだ。
すんだけれども、ボクはともかく大便のたんびに、この際限のないメリーを追いかけていたというわけなんです。どんどん小さくなって、バイキンみたいに見えなくなってしまうメリーを想像して、見えなくなったところで、この缶をほんとに持っているメリーを想像すると、こんどはとてつもなく巨大なメリーを想像したりしていた。小さくなって見えなくなっても、大きくなって見わたせなくなっても、メリーが際限なくいることに違いはない、というのが、とても不思議で、最後は自発的に頭を振って、その想像を中止して出てくるんでした。
ところでボクは、こんなコドモのころの考えかたの外に立っているかというと、全然そうではないんで、このことを考え出せば、また、コドモの時と同じ時間に戻ってしまうんです。まだ勤めに出ているころですから、あれは十年くらい前だったでしょうか、十年前だから、ボクは三十歳のオトナです。
駅のプラットホームで電車を待っていると、レールに西日があたって、反射をしている。しばらくそれを見るともなしに見ていたんですが、じっと見ていると、太陽の形がハッキリ見えてきた。西日が反射するというのは、レールに太陽が映っているということなんだな、とアタリマエのことに気がついたんですね。で、ボクは横バイにちょっと立つ位置をズレて見たんです。そうすると、この位置からも太陽が一ヶ見える。もう少しズレるとそこにも太陽が一ヶある。
そうすると、あの三メートル先にいる、ハゲチャビンのおじさんも、レールに映る一ヶの太陽を見ているし、そのとなりのデブなおばさんも太陽一ヶを見ていることになる。ということはこのレール上にはそれを見る人の数だけ太陽があって、いや見る人が際限なくふえていけば、太陽の数は無数にふえていくことになる。
レールにすきまなくボタンを並べたように無数の太陽が映っているところ、無限に伸びているレールに、無限に置かれている小さな太陽、をボクは想像していたんですね。
ホームに電車が入ってきて、ボクはそれに乗り「社に戻る」気分になったところで、その想像はやめてしまった。ちょうど、家族に便所の明け渡しを求められた時のようなもんです。
結局のところ、コドモのボクもオトナのボクも、大もとの根っこのところの考え≠ヘ、なんにも変わっていないようなんでした。
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ちっちゃいりんご
「この子のりんごねェ、こんなだよ、こんなにちっちゃいんだよォ」
と、小口哲雄くんはボクの母に言ったのだった。母タカコは、この子は何を言わんとしているのだろう? と思ったが、内職で忙しいし、なにしろコドモの言うことであったから聞き流しているのである。
「それでね、みかんはねェ、こーんなにでっかいの」
「ふーん、そう」とワケもわからずに相槌《あいづち》を打ちながら、タカコさんは、ハナガタ電器の内職をしているのだった。あれはいったい、何の部品だったんだろう? 透明のプラスチックのフィルムを、浅い三角形の箱状にするのに、三つのスミを、花ビラ形のプラスチックでとめていく。ピンクやブルーやレモン色のその花ビラ形の小片に、筆で溶剤をつけて、少しとけた状態で角をとめると、それが固まって、三角の箱、というよりフタ状のものができる。
それをセッセ、セッセとつくりながら、タカコさんは生返事をしているワケなのだった。そばで聞いてるボクはというと、小口哲雄くんの言っていることを、やはり、ホントウには理解していなかったもののようなのだった。というのは、小口くんの帰ったあとに、
「りんごがちっちゃいって何?」
とタカコさんがたしかめたのに、明解な返事ができなかったからだった。
「さあ……」とボクは言ったのである。
一週間後に、タカコさんは、池袋第一小学校の父兄参観に出かけていって、ゲラゲラ笑いながら帰ってきたのだった。
「あれは、あの子があれだけ言うだけのことはある」というわけだ。つまり、ボクのりんごが極端に小さいということだ。タカコさんは小口くんと同じように、夕食の時に家族にそのことを発表した。
それは小学校一年生の図工の時間の最初の課題なのだった。赤い色紙一枚と、みかん色の色紙が一枚、それに緑色のテープの切れ端と画用紙が一枚ずつ、全員に配られた。
担任のアンネン・マサコ先生は、アンネ・フランクのようなメンデルスゾーンのような顔をした、ちょっとハイミス的な先生だった。紺色の長いキュロットスカートをいつも着用されていたが、コドモたちは〈ハカマ……〉と思っていた。と、それはともかく、アンネン先生は、その四種類の紙をみんなに配り終わると、一枚の絵をとり出して、黒板に画鋲でそれを貼り出した。
その絵は、赤い紙とみかん色の紙と緑のテープの切れ端を使って、りんごとみかんを描いたちぎり絵なのだった。その絵をお手本にして、りんごとみかんの絵をつくりましょう、と言ったのだと思う。
ボクはまずみかんから始めたら、これが自分でもホレボレするくらいに、すばやく素晴らしいできばえに仕上がった。ボクは即座に画用紙にそれを貼りつけると、緑のテープをちぎって、みかんのヘタをつくった。これも実にうまい具合にできたのだった。
赤い紙をとって、りんごにとりかかってから、ボクの創作はやや難関にさしかかったのだった。なかなか納得できるフォルムをつかめずに、芸術家は苦闘した。ついに納得できる形にたどりついた時、ちょうど制限時間のベルが鳴ったので、それをすばやくのりづけをして、緑のテープをちぎって、軸をつけると、それを提出したのだった。
ボクは自作に疑いを持っていなかった。納得できるものをつくった、と思っていたのだった。しかし、それは客観的に見るとりんごとみかん≠フ絵には仕上がっていなかった。りんごの形を整えるのに執心したために、それが、みかんに比べて著しく小さくなってしまっていたからだった。その上、みかんは、あまりにも大きく表現されていた。
つまり、彼の絵は、説明を聞かなければ軸の折れたさくらんぼと巨大な夏みかん≠フように見えたのだった。教室の後ろの壁にはズラリと真新しいランドセルが釘にかけられていたが、その上に、りんごとみかんの絵が五十枚貼り出されているのだった。みんな同じように見えて、どれが自分の描いたものだか見分けられなかったのだが、ボクは次の日に教室に行くと、五十枚の絵の中から、自分の絵をすぐに見つけることができたのだった。小口くんが言うように、母タカコが大笑いするように、たしかにボクの絵のみかんは大きすぎたし、ボクの絵のりんごは小さすぎた。
いま、ボクはその時の気分を、いっしょうけんめい思い出してみてるんですが、マイナスイメージというのが、まるで思い出せないんですね。自分の絵がまちがっていたという反省とか、自分の絵がヘタだっていう劣等感とか、みんなと違うことをしてしまった失敗感のようなものが、まるで浮上してこない。
むしろ、何かタカコさんに|ウケタ《ヽヽヽ》、みたいな、喜んでもらった、みたいな、夕食で盛り上がっちゃって……みたいな気分が思い浮かぶんでした。のちになってからも、この話が楽しい話≠ニして何度か反芻されたっていうこともあったんでしょうが、とにかく、主観的には、失敗作と思っていない、納得ずくっていう強みがある上に、朗らかに笑ってもらえたっていうのが、楽しい思い出になっている所以《ゆえん》ではないでしょうか。
いったいに我が家では、学校の成績というものにはひどく無頓着《むとんじやく》で、成績について尻をたたかれたり、逆に、いい成績をとってほめられる、というようなことも、ほとんどなかったような気がします。
「宿題やった?」「勉強しなさい!」っていうセリフを聞かされた覚えがない。さらに学校をズル休みしても、とがめられたという覚えがない。これは学校ぎらい≠ネコドモだったボクにとっては、とてもありがたい、風通しのよい環境だったと言えると思う。
なにしろ、母タカコの最大の長所というのは、このノンビリしている≠ニいうところにあったわけで、これはボクが大人になって就職をするとか、お嫁さんをなかなかもらわないとか、といった時にも、一貫していた態度で、一度でもサイソクがましいことや、督促的なことを言われたタメシがない。
コドモの先々の心配をして、先回りにあれこれ手をつくしたり、言い聞かせたりというのが親というもので、それが往々にしてコドモには仇になってしまったりするようなんですが。タカコさんの場合は、それをまあやらない≠ではなくできない=Aノンビリしてるもんだから思いつかない、というワケでした。
ボクはこのことをとっても感謝してますね、おかげでダイブたすかったと思っています。
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街灯の下のコドモ
ボクは、おだてに弱いタイプなんですね。おだてられるとすごくうれしくなってしまうタイプで、何かをして喜ばれたり、ほめられたりしたら、何度でもそれをしてしまったりするタイプなの。
たとえば、オジさんの家で宴会の芸が種切れになったりした時に、芸をするドーブツみたいに呼ばれたりするんですが、そこで替え歌や|ウソ《ヽヽ》歌を歌ったりして、受けたりすると得意になったりしてしまう。
たとえば、道端で五円玉を拾って、交番などに持っていくと、おまわりさんが、エライねえと言ってほめてくれるもんだから、何度でも拾うと届けに行って、めんどくさがられたりなんかもしてしまう。
街灯をつける。っていうのも、きっと一度誰かがほめたんでしょうね、それからうちの前の坂道に一本ポツンとあった街灯を、夕方になると必ず点灯するっていうのを、ずいぶんと長い間続けていました。
しかし、この街灯っていうのは、暗くなってからつけるならいいこと≠ナすが、明るいうちからつけてしまうのはいたずら≠ナ誰もほめないばかりか、おこられてしまうことなんですね。ですから、街灯は暗くなってから、あくまで暗くなってからつけないといけません。暗くなったのなら、一刻も早く点灯するのがいいのです。暗くて不便だな……と思うスキも与えず間一髪のうちに、暗くなるやいなや即座に%_灯する、のがいいんです。
モタモタしていると、気のつく大人がつけてしまったりしますから、大人がそうする以前にすばやく点灯しないとまずいのです。そのためには、日没ちょっと前には、街灯の下にスタンバイしていないといけない。ただそこにいるのは、なんとなく〈我ながら不自然〉と思うから、街灯下でスタンバる時は、グラブと|なんきゅう《ヽヽヽヽヽ》を持っていって道の反対側の鈴木さんちの石塀にそれをぶつけて、キャッチボールとピッチングの練習をしているというスタイルにしたんでした。
で、そこを大人が、いわば通り抜ける、という形になるんですが、その時に投球を一時的に休止して、無事に大人を通す……っていうのも得意でしたね。本当は自分が往来のじゃまをしているにすぎないんですが、人が来たところで、作業をやめて「どうぞ」って言うのが好きなの。大人が「あ、どーも」とか「ありがとう」とか「あ、すいません」とかって言ってくれる、のがうれしいんですね。
で、けんせい球投げる時みたいに、セットポジションの構えのままで「ドーゾ」とか言うんでした。そうこうするうち、あたりが暗くなった、というんで、
「パッ」
と電灯をつけるんですね。そうして群青色《ぐんじよういろ》の夕空と、ちょっと暗い四十|燭《しよく》か六十燭くらいの、ちょっと黄色く見える電球の色を眺めていると、そこを通る大人が、きまって〈|や《ヽ》感心な子どもだ〉みたいな表情をしたり、気がつくねえ、とか、あ、エライねえとかと声をかけてくれるんですね。で、ボクはスキップをせんばかりの足どりで家へ帰っていくんでした。
その日は、そんな通行人はいないし、壁ぶつけキャッチボールをしようにも、小雨が降っているんで、大きなこうもり傘をさして出てきたボクは、街灯の下で、ちょうどその柱にもたれるようにして、寄りかかって、町内が暗くなるのを待っていたんですね。で、暗くなったけれども、大人は来ない、しかしまァ暗くなりましたんで、スイッチの陶器でできた棒を、クイと横へ倒した、その時です。
「ビリビリッ」
と、電気が来たの。わっ、て、ボクはこうもり傘とり落としてしまいました。感電したのはこの時が初めてじゃなかったと思うんですが、こんなふうに、ハッキリ覚えてるとこみると初めてだったのかなァ、そう思うと、そのように思えたりもしますねェ。
それがどうした? かというと、つまり、その日を境にして、ボクは街灯のスイッチを入れる、無料奉仕をやめてしまった、というワケじゃないんです。ただ、スイッチを入れる意味が変わったのと、スイッチの入れかたが変わっちゃったんですね。暗くなってからというのは以前と変わらないんだけど、その、後ろ向き、後ろ手にスイッチを手さぐりで入れるっていう、|してその《ヽヽヽヽ》目的は、世間の人に喜ばれる、ってことでなく、ひょっとすると、ビリビリッて来るかもしれない……っていう期待のためっていうほうに重点が変わってしまったんでした。
感電するのが|好き《ヽヽ》なのじゃなくて、もしかすると感電するかもしれない……っていうのが好きだったみたいです。で、わざと後ろ向きで、いつビリッと来るかわからないっていうのを毎夕方にやっていた、というわけです。
誰か大人が、漏電に気づいたんでしょう、ボクがその、危険なカケを楽しんだのは、わずか四日ばかりだったと思います。スイッチは新品にとりかえられて、雨にぬれても、もうビリッとしびれたりはしなくなりました。
電気がビリッと来るのは、とってもおそろしいようなことなんですが、それが何か、不思議な惹きつける何かでもあったんでしょうね、そのことをボクは、感電するみたいに今日、思い出したんでした。そうして、あれはいったい、なんだったのかな? と考えているところなんでした。
ビリッと来る前までは、気のつく|イイコ《ヽヽヽ》の、大人もほめる役に立つ善い行い、だったんですが、感電を境に、何か秘密めいた、イケナイムードのへんな趣味の世界になってしまったようなんでした。
ところで、大人になったボクは、感電は大キライです。なるべく感電したくないもんだから、電気カンケイにはあんまりさわらないくらいです。修理なんかもしないし、興味もないです。
〈それなのにおかしいなあ〉と思いながら、やっぱりあの時は、コドモだったんだなァ、と思ったんです。大人に喜ばれよう、ほめられよう、として一度認められた同じことをバカのひとつ覚え≠フようにしてくり返したことも、感電するのを、何か≠ニカン違いしたことも、ともにコドモ時間のできごとなのだなァ、という感慨なんでした。
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三本のエリマキ
雪の日は、ふとんで目のさめた時に、もうそれとわかるんですね。なんとなく明るい。いつもより、雨戸の節穴から入った光が障子にうつってる量が多い。
で、すぐにはね起きて、雨戸をあけようとすると重いです。ホラ見ろ雪だぞ! と思いながら思いっきり力まかせに雨戸を引いたとたん。
まっ……………白!
になってるの。なんでですかねえ、あれはとってもうれしいもんでした。外がまるごと新品になったみたいな、寝ている間に家が空飛んで南極に着陸したみたいな、とにかく、非常にうれしい。
川端康成さんは、トンネルを抜けたら雪が積もってたのが気に入って小説の書き出しにそれを書いてますが、やっぱり、
突然に銀世界………
っていうのが、カンドウするんでしょうね、雨戸で部屋の中が暗いところへもってきて、
パァーッ
と明るい。で、いつもとぜんぜん違う! っていうのがポイントですね。だから雪がちらちら降りだすところ、なんていうのも、わりといいもんではあるけど、ボクはやっぱり、ぜんぜん知らなくて朝起きたら突然! ってのが好きです。
お盆に雪を盛ってきて、さっそく雪うさぎ≠つくったりします。雪うさぎ≠ヘちょうどカレーのライス≠ンたいに、両手ですくった雪をかためたところへ、南天の実なんかの赤い実を目玉に、つばきの葉っぱなんかで耳をつけて、できあがりで、これは雪がそんなに積もってなくても、なんとかできる雪遊びです。
もうちょっと降ると雪ダルマですが、これはかなり積もってないとキレイな雪ダルマができないんですね。最初は雪合戦のタマみたいに固く握った雪のかたまりを、どんどん大きくつくっていって、ある程度の大きさになったら、これをコロコロ転がしてやると雪ダルマ式≠ノ大きくなっていくんです。ところが雪がそれほど積もっていない時は、泥もいっしょについてきてしまって、雪ドロダルマになるんで、どうもいただけない。
東京ではキレイな雪ダルマがつくれるほどに雪が降るっていうのは、そうたびたびはないんで、そんな大雪が降った時のことっていうのは、よく覚えているもんなんです。
東京で七十センチか八十センチの大雪が降った日、六歳のボクは記録的ななくし物≠してしまったんでした。朝、目をさましたら、雪です。しかも、ものすごい大雪、ボクはゴハンもそこそこに外にとび出して、原っぱの、まだダレの足跡もついてないところへ行って、バッターンと顔から倒れてみたり。低い石垣に積もった雪に、等間隔に自分の顔をハンコを押すみたいにつけてみたり、そのうちに、やっぱり雪に誘われて出てきた、近所のみんなと雪ダルマをつくったり、しょんべんで字をかいたり、そりゃあもう楽しいんですよ。
で、気がついたら、うすい空色の地に白くまの絵が入ったエリマキが、ない。エリマキがなくたって、遊ぶのに不都合はないんだが、一応、動き回ったところをチェックしてみたんですね、原っぱのほうとか、工場のほうとか、土手のほうとか、行ったところ全部調べたけどないの。
で、まァ、しかたないから家へ帰ってね、一応報告した。叱られるなァと思ったんだけど、意外にカンタンに、じゃ、これしてきなさいって、こんどは黒と緑のビロードのマフラーを出してきてくれた。
まァ、そうそうない大雪の日≠ネんだし、エリマキの一本くらいは大目にみてあげようと、母タカコは思ったんでしょうね。で、ボクはそんなに叱られない上に、新しいマフラーまで与えられたんで、また大喜びでとび出していった。
原っぱに行くと、みんなで雪合戦になってる。これがもう、雪がおなかのへんまでもぐっちゃうからおもしろいのなんの、ぜんぜん寒さなんて感じないんだな。ものすごくでっかい玉を投げるやつがいたりして、びわの木をゆさぶって雪を落とすのがいたりして、その上、雪がいっぱい積もってるもんだから、いつもは通れないところが通れたり、なにしろ楽しい。
で、ふと気がついたら、ビロードの緑と黒がない。うわー、マズイなァと思ったんで、また抜け出して、いっしょうけんめい捜すんだけど、これがぜんぜん見つかんないの。みんなは、こんどはスキーに挑戦してて、下駄に竹をうちつけたのとか、みかん箱の底に竹の割ったのをくっつけたので、雪の坂をすべったりしてる。楽しそうだな、やりたいなァ、と思うけどエリマキも捜さないといけないから、もうボクはそこらじゅうホンソーしてるんですよ。
とうとう見つからないので、家に帰って、もういきなり正直にあやまった。
「エリマキを二本なくしたのは私です!」
母タカコ、目を丸くして、
「またなくしたの!? さっきわたしたと思ったら、またなくした!?」
まるでエリマキを捨てに行ってるようだね、この子は、とあきれたが、じゃあしかたないと言って、こんどはホームスパンのショール(お父さんに買ってもらったイイ|ヤツ《ヽヽ》)を出してきた。
〈二度あることは三度あるっていうけど、まァ、一日に三度もエリマキをなくすほど、うちのコはマヌケではないだろう〉とタカコが思ったとしても、これはマチガイではないだろう。二度までも許したのだ、こんどこそはなくすんじゃないよ、と言って、彼女は我が子を、またぞろ外へ放ったのである。
果たせるかな、ホームスパンもまた、十数年に一度の大雪の中に吸い込まれてしまった。「吸い込ましたのは私です」と正直に申告する手は、もう使えない。
ボクは幼少のころは責任感の強いコドモだったのだ。我ながらあまりにも情けないではないかと天を仰いで泣いたかもしれない。ともかく見つからない。三本もなくしたんだから、そのうちの一本くらいは見つかってもよさそうなものなのに、みごとに三本とも出てこないのだ。
ボクは昼時になっても帰らずに、あちこちを捜し回った。そうして、もうあたりが暗くなったころに、ついにカンネンして家へ帰っていったところは覚えているんだけど、その時にこっぴどく叱られたのか、泣いてあやまったのか、天井にぶらさげられたのか、竹槍でつつかれたのか、まるっきり覚えていないのだ。
おそらくは、一家じゅうがあきれて、物も言えなかったのではなかったろうか? しかし、ボクはそれ以後、責任をとってエリマキは使わないことにした。〈あるからなくすのだ〉と思ったのだろう、エリマキをふたたびするようになったのは、結婚してからだ。結婚して七年間のうち、三本なくして、一本は返ってきた。何が言いたかったのかというと、まァ、エリマキというのはとかくなくなりがちのものだということだ。
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音楽が苦手だった
〈吉葉山に似てるなァ、ヘンデルは……〉
とボクは思ってそれを見ていたのでした。それは音楽室のカベに飾ってあった大音楽家の肖像画です。バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューベルト、ショパン、シューマン……と、いまでも、その飾ってあった順番まで思い出せる。
なぜかというと、授業中にヨソ見をしていたからなんですね、授業には集中しないのにヨソ見にはばかに熱中してしまいます。授業がイヤだから、何か工夫して遊ぼうとしてるんですね、そこにいろんな顔したガイジンの絵が飾ってあるから、それぞれの顔の品定めなどしてるわけです。
ヘンデルは、右から二番目にいた。男のくせに、パーマかけて長髪で、なんかヒラヒラしたシャツ着てる。そのくせ顔は横綱の吉葉山に似ているのだ。
シューマンは水戸のオジちゃんに似てる、リストはコーリン鉛筆のマークだし、メンデルスゾーンは二年生までの担任の安念正子先生にそっくりだ。とそんなことを考えながら、しげしげと絵を見ているわけでした。
音楽の時間に苦手だったのは「レコード鑑賞」でした。音楽をきくだけならば、そんなにいやがることもなかったんでしょうが、きいたあとに問題≠ェ出るのが問題なんでした。
「ここのところで、何を感じるかな?」と先生が言って、指されると何か言わなくちゃいけない。何を感じるって、何だろう? と思っていると、
「ハイ、朝日が昇っていくような気がします」と答えるコドモがいて、そうだ、よくわかったな、エライぞといってホメられるんです。
なんで、そんなことがわかるんだろう?
〈ボクは音楽を当てるのがヘタだ〉とボクは思って、苦手になってるんでした。音楽を楽しくきく前に、問題として直面してしまったのがどうも敗因ですね。
音楽をきくのは、こんなふうにかしこまって、身がまえてきくか、行進曲「双頭の鷲の旗の下に」にあわせて校庭を行進させられる時くらいだった。家では蓄音機が、とうの昔にこわれたままになっていて、レコードをきくなんてしたことがなかったですから。
もっとも、それですっかり音楽がキライになってたのかというと、そうでもないなァ、と思い出すこともあるんです。その時のボクの後ろ姿が見えてくる。
ボクは、野球の帰りです。左手にグローブをはめたまま、板塀の前にしゃがんで、口を少しあけてじっとしている。
板塀の向こうにはレースのカーテンが引いてある窓があって、そこから「エリーゼのために」が聞こえてくる。ボクはその、つっかえつっかえに弾かれるピアノの音に、まるでビクターの犬みたいに、きき入っている様子なんでした。
そうか、ボクは別に音楽が苦手だったワケじゃないんだな、ちょっと出会いそこねただけだったかもしれない。自分ではすっかり、音楽ぎらいだと思い込んでいたけど、不思議なことがもう一つある。
中学生のころに流行っていた、アメリカのポピュラーソング(フィフティーズとかオールディーズとか呼ばれている)が何かの拍子に聞こえてきたりする時です、ボクはその場でいきなり中学生になってしまう。
これが、気味の悪いほどに強烈な鮮やかさなんですね、中学校のお昼時、海苔弁《のりべん》のにおいや弁当箱のフタで飲んだお茶のにおいや、日向くさい学生服やら、理科室のアルコールランプ、新築校舎のセメントのにおい、ぞうきんがけしてる廊下のにおい、なんかがクッキリ思い浮かぶ。
薄暗い図書館や、渡り廊下を歩いていく上ばきのズックの自分の足や、チョークの粉の飛んだ教壇なんかを、アリアリとその場に見るような気がするんです。まるでタイムマシンかなんかみたいに。
〈懐かしい曲だなァ〉と思って、フト奇妙なことに気がついた。なんでボクはこの曲が懐かしいんだろ? ボクは一度だって、アメリカンポップスなんかに夢中になった覚えがないんです。ところが、不思議なことに曲名も歌手の名前もくわしく覚えている。
学校でそんな音楽が流れてるはずもないのに、思い出すのは学校の中ばかり、というのも奇妙です。まるで記憶喪失にでもなったような(覚えているんだからその反対でしょうが、つまり覚えたことを思い出せない)、不思議なことなんですが、不思議なだけじゃなく、とってもこういう時間、なぜだか懐かしい音楽をきいてる時間というのが、なんだかとっても甘美な、胸がときめくような気分なんです。
自分でレコードやテープを買うということをしなかったから、これは偶然ラジオできいたり、喫茶店で鳴っていたりの、ふいとおとずれる時間なんでした。
なんでこんなことが起きるんだろうと、考えていて、ボクが思いあたったのは、中学生のもっともたいせつな一瞬のことでした。その一瞬のあることで、ボクは学校に出かけていって、その一瞬のことで一喜一憂をしていたのだったなァ、と思い出したんです。
ボクはこのころ恋する中学生≠セったんですよ。上級生のあこがれの人≠ニ、屋上で、廊下で、図書館で、渡り廊下で、階段で、掃除の当番中や、理科室や、ゲタ箱のところなんかで偶然出会う(同じ学校なんだから偶然てことはないんですけどね)、いや、偶然じゃない〈運命的に出会うのだ〉とその時はそう思っていた。
運命的にゲタ箱のところで、バッタリ出くわしたりして、目があったり、笑いかけてくれたり、とそういうことが、もっとも大事なことになっていた時代なんでした。
それで、つまりボクはその運命的一瞬のことを、自宅に帰って反芻していたんだと思う。その時ラジオから「悲しき街角」や「ルイジアナ・ママ」や「グッド・タイミング」「カレンダー・ガール」「恋の片道切符」なんていう曲が流れていたのに違いない。
ボクはまるで、睡眠学習法みたいに、ウワの空でそうした曲をきいていて、ぜんぜんなんの抵抗もなしに、素直に気持よくそれを受け入れていたんでした。
音楽を好きになるのって、こんな気分の時なのかもしれないな、とボクは思います。そう思ってみると、グローブをはめたままの野球少年が「エリーゼのために」にきき惚れていた時も、なんだかそれに近いような気分だったのかもしれないな、とも思うんでした。
ボクはついに、あのころのミュージックテープを手に入れてしまった。でも、あんまり何度もきかないようにしています。何度もきいたら、あの奇妙なタイムマシン効果は、すり切れてなくなってしまいそうな気がするからです。
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おいッ おいッ孔雀!
小学校にあがって最初の遠足は、井の頭公園でした。井の頭公園は広い庭園で、中には動物園もあるし、大きな池や、それを渡っていく橋もあります。
遠足の日の写真には、その大きな池の前で、先生と父兄と同級生で百人近い人が写ってます。その中にボクは、何事もなかったような大きな顔で写ってます。水筒を斜めにかけて、リュックをしょって、スミで名前の書かれたハンケチを名札がわりに胸につけて、その胸を堂々と張ってるワケです。
というのは、この写真を撮る前に、大騒ぎだったはずなのになァと思うからです。
つまりボクは、この広い庭園で学校の遠足の最中に迷子になってしまったんでした。見学は団体行動で、先生のあとについていかないといけない、このことはきっと事前に、注意事項として徹底されてあったハズです。
もちろんボクも言われた通りに、みんなと同じように、前の人と間をあけないように、いっしょうけんめい歩いていたんでした。なんだか、どこまで続いているのかと思うような歩きにくい砂利道だった。
灰色の砂利と、前の人のお尻だけを、じっとにらむようにしながら、必死に歩いていたような気がします。列は動物園に入って、規則正しく、いろんなオリの前で立ち止まって、観察したり、説明を聞いたりしながら進んでいたと思う。
そうしてボクたちは、孔雀のオリの前で立ち止まったのだ。
ボクは絵本で、孔雀が羽根を広げたところを見たことがあった。あれはとってもハデでリッパでゴーカなものだった。動物園に行ったら、孔雀が羽根を広げたところをきっと見よう、とボクはその時思ったのだった。
ところが孔雀はぜんぜん羽根を開かない。トットットッと歩いたり、じっとしてしまったり、めいめい勝手にしていながら、しめしあわせたみたいに羽根はしまったままです。
ロータリーのガソリンスタンドでは、七面鳥を飼っていて、ボクはそれを時々見に行った。外人のお爺さんみたいなヘンな顔だしヘンな声で鳴いておもしろい。でも七面鳥の羽根の色は地味で、とっても孔雀とは比べものにならない。ボクはぜひとも孔雀の羽根の開くのを見たかったらしい。
ボクのすぐとなりには、ソフトをかぶってコートを着た、絵本に出てくるようなお父さんが、絵に描いたような男のコをつれて、やっぱり孔雀の羽根の開くのを待っていたのだった。そのコのお父さんは男のコに孔雀の羽根の開くワケを教えていた。
「孔雀は羽根を見せびらかすのに開くんだけど、オコった時もそうするんだ」
そういえば、オコらして羽根を見ようとするんだろうか、知らない大人の人が、そこらの小石を孔雀のほうに投げたりしている。
ボクは孔雀に「おいッ」「おいッ」と、横柄に呼びかけてみた。そういう呼びかたは失礼だから孔雀がオコると思ったのだろうか?
「おいッ」
となりで鉄柵につかまっていた、お父さんづれのコがこっちを見たけど、ボクはかまわず孔雀を横柄に呼び続けたのだった。
「おいッ、孔雀! おいッ」
と、その時、孔雀が羽根を開いた。絵の通り! いやもっと光ってキレイな、リッパなそれは羽根だった。
よく見るとチリチリと羽根がふるえていてフワフワしている。ボクはそれを鉄柵につかまったまま、ずっと見てたんでした。
「ボーヤ、いいのかい? みんなもう先に行っちゃったよ」とソフト帽のおじさんがボクに尋ねた。男の子もボクを見ている。
そのあたりには、ボクがあんなにケンメーになってついてきた「列」が、まるきりかき消すようになくなっていたんです。
そうして、またしてもそこからの記憶がまるでない。一年生のコドモが迷子になって、原隊≠捜してれば、そこらの大人が力になってくれただろうし、あるいは、さんざん捜して迷ったのかは知らないけれども、とにかくなんとかなったらしい。だから写真にも写ってる。
孔雀を見たのがよっぽどうれしかったのか、その時の遠足の記憶は、孔雀にしぼられていて、そのあと、とほうもなく広がっている砂利の地面とちょっとした不安、というのを思い出すキリなんですね。
遠足で迷子になってしまったことを、家に帰って報告したのかどうか、家族でそんなことを話した覚えがあまりないから、あるいはしなかったのかもしれない。
だいたい、ボクはボーッとしたコドモで、話をするのもひどくノンビリしてましたから、報告しても、何のことかわからなかったかもしれないんです。
「えーとね、うんとね、今日ね、えーとね孔雀が開いた」
「えとね、うとね、あーのね」って具合ですからね。
小学校の一年生くらいの記憶なんて、ふつうはもっとくわしく覚えているもんなのかもしれませんが、ボクが覚えているのは、この孔雀事件と、りんごとみかんの貼り絵事件くらいなもんなんです。
あとはもう、もうもうとしたというか、ボーッとしたカスミの中のようで、ずうーッと長く続いている廊下の景色だの、教室の中の新しいランドセルの革のにおいを思い出すくらいなんでした。
団体行動に不慣れだったのは、小学校にあがる前に、幼稚園に行かなかったこととも関係があるかもしれない、と思ったりもします。二年生のころまでは、ボクはどうも同じくらいの年のコドモが大勢いる中で、なんとなく、ハグれたような気持でいたようでした。
自分はどんなふうにしたらいいのか、立ち往生してるのに、みんなには共通の理解があって置きざりにされてるような気分もあったのだと思う。そうして廊下をボーッと見ていたから、そんなイメージが残っているんでしょう。
ただ、ボクは孔雀のオリで、自分勝手に団体行動を乱したのが、自分にとってはプラスだったような気がします。小学校一年生の記憶が、学校の廊下の景色だけっていうんじゃちょっとつまんない。
廊下の向こうから、孔雀がとっとっとっと歩いてきて、こっちを見ている。
「おいッ!」
「おいッ!」
「おいッ孔雀!」と呼びかけると、失礼な小学生に孔雀がおこって、とびきり豪華な自分の羽根を豪勢に開いて見せる。
「なめんなよ一年坊主!」
と、こんな具合です。
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ヘンなオジサン
「ショクンらなァ……」
と、その角帽のおじさんは言ったのである。呼びかけられたボクたちは、大きい子でも小学校の四年生くらいだ。
今日は、ガキ大将のツネヒトちゃんがいないので、小さいコだけであんまり盛り上がらないスイライカンチョーをしていたのだ。スイライカンチョーは帽子のかぶりかたで、艦長、駆逐艦(ボクらは|キチク《ヽヽヽ》と言ってた)、水雷、の三つの役がちょうどジャンケンのように、三すくみになっていて、これが二手に分かれて鬼ゴッコの乱戦のようになるゲームです。
ちょうど盛り上がんなくて、つまんなくなってたところなんで、ボクらは即座にただの帽子をかぶったコドモたちに戻って、その角帽のおじさんのところに集まってきたんでした。
おじさんは、といっても大学生ですから、まだ若いんですが、コドモから見たら、完全におじさんです。学生服を着て、ちょっとくたびれたような黒の革靴をはいている。顔がちょっと青白くて、ブ厚いレンズの眼鏡をかけてました。でもって、腰に手ぬぐいがさげてある。
「ショクンら、アミノサンを知っているか? フフン、知るまいな……」といきなりバカにしたように言います。残念だがボクらは、だれもアミノサンを知らなかった。しかたないから、黙って聞いてます。
「アミノサンというのは醤油の原料だ。ショクンら、醤油を毎日、使っているだろう、魚にかけたり、ナットウにかけたり……フフ、あの醤油をな、ゴクゴクっと飲んでみろ……死んでしまうんだぞ、醤油を飲むと死ぬ! 醤油はドクだ、知らなかっただろ?」
そう言うとおじさんは、くずれた石塀の石に腰をかけて、タバコに火をつけた。
「ドクのはずない……」と、誰かが小声で言った。おじさんはギロリと首をめぐらして大声で言った。
「よしっ! じゃあダレか醤油を家から持ってこい。これから実験をする!」
ボクらは黙って、誰も醤油をとりに行かなかった。大声がこわかったのもあるけど、毎日使ってるお醤油がドクだっていうのが、なんだかとってもこわかったのだった。
「醤油ってなァ、どうやってつくるのか、知ってるか? オイ、醤油は人間の髪の毛からつくるんだ。鉄板の上に髪の毛をばらまいて、鉄のゲタで……」と言うなりおじさんは立ち上がり、その場で地団駄を踏みながら、
「こ………う、やって踏みつぶすんだ、そうすると髪の毛からアミノサンが出てきて、それが醤油になるんだぞォ」と、おじさんは、自分でも気味の悪そうな顔をして、そのままトートツに、あとをも見ずにスタスタと帰っていってしまうのだった。
ボクらはしばらくおじさんの歩いていく先を見ていました。おじさんはその日初めて見る人だったし、近所の人ではなくて、それからもずっと姿を現しませんでした。
結局、その一日だけのほんの数分間のことだったのですが、いまではその時のおじさんよりずっと年上の四十歳になってしまったボクが、そのおじさんのことをハッキリ覚えている、というのがフシギなことです。
思い出ってフシギですよね、たった一回のたった何分間かのことを三十年四十年たっても覚えているかと思うと、毎日毎日、同じようにやってたことをすっかり忘れてしまってて思い出そうとしても思い出せないんですから。
「オワア〜」っていうような、おそろしい叫び声のことも、同じように、ほんの数瞬のことだったのに、やはりクッキリと覚えてます。戦災で焼け野ヶ原になってしまったところに、すっかり草がぼうぼうと生えていて、もう大昔っからずうっと草っ原だったみたいになってる、原っぱが、あったんです。でもその草むらの中には、鉄砲のこわれたのだとか、松葉杖、何かの機械の一部みたいなもの、電球やら花びんやら、座敷箒《ざしきぼうき》なんかまで、さまざまなものが落ちていて、昔はそこに町内があったのが知れたんでした。
ボクらは、ここで遊ぶのが、とっても気に入ってました。広い原っぱの隅のほうはどうやら昔銭湯があったところらしくて、金魚や鯉の絵を描いたタイルのある、浴槽のあとがそのまま残っていたりする。
風のある寒い日なんかは、その|ムカシの《ヽヽヽヽ》お風呂に入って首だけ出して、日なたぼっこをしていたりすると、とってもあったかくて、おもしろいのだった。
さて、そのおそろしい叫び声が地の底から聞こえてきたのは、ムカシのお風呂とは正反対の端っこのほうにあった、黒いトタンのフタがしてある、ボークーゴーのうちだった。
ボークーゴーは戦争の時に、空襲から避難するために掘った穴ですが、戦争が終わって、かれこれ七、八年もたってたそのころにも、まだそのボークーゴーをそのまま家にしていた人がいくらもいたんですね。
しかし、その原っぱのボークーゴーというのは、ほんとうに大きな穴にトタンでフタをしただけっていう、ひどくカンタンなつくりになっていて、とても人が住んでるようではなかった。でも夕方家に帰る時にあの穴の中から光がもれてたのを見たものがいて、どうもあのボークーゴーには誰かが住んでるらしい、ということになって、ボクらはそれをたしかめるために、そのトタンのフタに乗ってスキマから中をのぞいてみたんでした。
その時に、突然!
「オワウワアギャア〜!」
というような、なんとも形容しがたいようなおそろしい叫び声が、地の底から発してきて、ビックリ、ギョーテンをしたボクたちコドモドモは、バラバラバラッと一目散に逃げてきたと、こういうことだったんです。それから、「原っぱのボークーゴーには狼男が住んでいる」っていうのが、近所のコドモの常識になりました。髪の毛がボーボーの、ヒゲもボーボーの狼男が吠えたところを、ちゃんと見たというコドモもいました。
ボクらはそれ以後、狼男のボークーゴーには近寄らなかったし、いつのまにかその穴は埋められてしまったので、ハッキリと狼男の顔を見る機会はなくなってしまったのでした。あの狼男は生き埋めにされちゃったのだろうか? とボクはずいぶんと長い間、そのそばを通るたびに、あのおそろしい叫び声を思い出したもんでした。
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小雨のボンボン
上海《シヤンハイ》のホテルのバスルームで、ボクは突然吹き出してきた脂汗にますます不安がつのってくるんでした。
〈これはまずいな、このまま不安が昴じるとホントに困ったことになりそうだ〉
とボクは思うんでした。
ボクはコドモのころに、朝礼なんかで長時間気をつけをしていると、気分が悪くなってきて、目がくらんで、時にはバッタリ倒れてしまう、というようなことがしばしばあったんですが、どういうわけか、そうなる時には決まって同じようなイメージが頭の中に浮かんで、まるでそれが合図のように頭から血が引いていって、ついには倒れてしまう、というのがくり返されたもんだから、そんな予感がフトしてくると、それを一所懸命で払いのけてしまう、というテクニックを身につけてしまったんでした。
その予感が、つまりは一言でいうと不安《ヽヽ》な気分なんですが、それが大きく成長をしないうちに散らしてしまう、という技法です。今回の場合、最初の不安は、バクゼンとしたもんではなくてハッキリと理由がある、まァ、もっともな不安だったんです。
上海ではウイルス性の肝炎というのが大流行して、これは経口感染をするので、食べ物には注意するように、と出発前に旅行社の人にボクらは釘をさされたんでした。
「ともかく露店や街の不潔な食べ物屋はあぶないから、ホテルや衛生状態のいいレストラン以外では、絶対食事しないように」と係の人は、たしかに言ってたんです。ボクらもその時は、まァ、そういうことなら、今回は買い食いはヤメだ、とそう考えていたんです。
ところが、街に出て歩いていると、ついついおもしろそうなんで、イロイロ買っちゃあ、食べちゃった。見るからにあぶなそうなチマキやら、緑色したお餅やら、揚げパンやら。
ところが二日めくらいに、咳が出る、鼻がつまるで、ここ十何年風邪をひいたことのないボクが、ハッキリ風邪の症状です。で、現地に留学している日本人の学生さんと話していると、そもそも肝炎の初期症状というのは風邪にソックリだ、と聞いたワケなんです。ヤヤヤ、これはマズイな、ボクは肝炎になっちゃったかな? っていう不安が芽生えちゃった。
そうして、その芽生えた不安が、どんどん成長していくようなイメージが起きたところで、なんだか気分が悪くなって、冷や汗というか脂汗が吹き出てきた、というワケです。これ以上不安を野放しにしとくとイケナイ、というので、例によってこれを、頭から振り落として散らしてしまったト、こういうワケでした。
ボクは基本的にはかなりの楽天家なんですが、病気《ヽヽ》に弱い。病気にほとんどかからないので、病気になるんでは? という不安に弱いようなんです。で、この種の暗示に手もなくかかってしまうようなところがあるんですね。
で、ボクはバスルームの便器に座って、その不安を散らしながら、自分のオソルベキほどの素直さと、あまりにもヤスヤスと暗示にかかる、そのカンタンさを、コドモ時代のエピソードといっしょに想起していたんでした。
「そうだ、あの時も病魔はおそるべきスピードでボクを襲ったんだっけ」とボクは思い出して笑ってしまった。笑ってしまうと不安はもう、ほとんど雲散霧消してしまうんでした。
ボクは、だいたいがあんまりモノをほしがらないコドモで、それはまァ「ウチは貧窮家庭なんだから、両親のことを考えれば、そうそう要求も出せまい」というような、字にするとたいそう大人っぽいような考えになってしまうけど、つまりはなんとなく言い出しにくい、みたいなことで、とにかくお金のいるようなことに関して、要望を出すという習慣がなかったんですね。
習いが性になって、いまでもボクは買い物がヘタだし、あんまり情熱を持って何かをほしいと思ったりしないようなんですね。そんなふうだったんだけど、そう、小学校の二年生ぐらいの時だったでしょうか、どういうワケか、駄菓子屋で売ってる、ボンボンっていう、なんだかとってもそまつな氷菓子を、どうしても一度でいいから食べてみたい、と、めずらしく熱望してしまったことがあるんです。
そのお菓子は、実はそんなに高いものじゃなく、簡単に手に入れることのできるくらいの値段のもんだったんです。それを買うくらいの小遣いは、ほしいと言えばもらえた。つまり五円とか十円とかって値段だったと思う。
それは、ゴム風船でできたヨーヨーを、凍らせたようなもので、つまりアイスキャンデーの材料のような、色つきのサッカリン水を風船に詰めて冷凍庫で固めたようなもんでした。形はひょうたん形で、毒々しいピンクの色水を、そのひょうたんの先端にあけた針穴からチューチュー啜《すす》るっていう、なんともコドモだましなシロモノなんですね。
これの禁止令≠ェ我が家には出ていて、これは前述したような経済的見地からではなくて、衛生的見地からご禁制のシナモノになってたワケなんです。
「あんなもんは、非衛生なところでつくってるんだから、食べたら赤痢になっちゃうよ」とタカコさんは言って、ボクはあの毒々しいピンク色と赤痢の赤がいきなりむすびついて、言いつけを守るよい子をしていた、というわけです。
ところが、これをほかのコドモが歩きながらチューチューやってるのを見ると、ひどく楽しそうだし、おいしそうでもあるんです。赤痢の危険を冒《おか》してでも、アレを一度アレしてみたい、と次第に思うようになってきたんですね。
で、これがまァ、律気で我ながらかわいいんですが、タカコさんがどこか遠くに出かけるかなんかの夏の日に、決意して駄菓子屋さんに買いに行ったんでした。いままで一度も言ったことのないセリフ、
「おばさんボンボンちょうだい」
っていうのを、道々、練習したりしてね、エライ大事《おおごと》ですよ。
ところが、ですよ。ボンボンを買ったとたんに、いままでカンカン照りだった空模様があやしくなって、雨雲がタレ込めてきて、ポツリポツリきたと思うと、なんだか妙に肌寒くなっちゃって、氷菓子なんて気分じゃなくなってきちゃった。
とは言いつつも、なにしろ待望のボンボンですからね、とにかく、さっそくチューチュー小雨の中をボンボン吸いながら歩いて家へ帰っていった。と、百メートルも歩いたころでしょうか、突然、おなかがキリキリと痛くなってきて、これがいままでにないモーレツの痛さなの。ボクはもう「てっきり赤痢」ですよ。イキナリ、せっかくのボンボンはドブに捨てて、走って家へ帰ると、自分でふとん敷いて寝込んじゃいました。ボンボンは五分の一をやっと吸ったくらいでしたが、以来一度も買わなかったし、あの時、赤痢にならなかったのは、早めにフトンで寝たからだ、と信じて疑わなかったんでした。そんなに速効性なら、ほとんど「毒薬」で通用しそうですけどね。ボンボン懐かしいなァ、いまなら二個めを、しかも全部吸いつくせると思うけどネ。
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夏休みの作文
オクさんが、朝顔の苗を買ってきたんで、白いプランターに植えかえてベランダに置いてあります。まだ本式≠フ朝顔の葉っぱの形になってない、コドモの葉っぱがかわいらしくて、毎朝じょうろで水をやるのが楽しみです。
朝顔っていえば「朝顔の観察絵日記」ですね。種は買ってくるんじゃなしに、前の年の朝顔からとれたのを、台所の|乾物の引き出し《ヽヽヽヽヽヽヽ》に入れておいたのを出してくる。庭の端を掘り返してやわらかくしたところでソレをまいて、しばらくして小さな芽が出てくると、とってもうれしかった。もう早々と、つるがからむための細い竹棒をどこからか出してきて、その出てきたばかりの小さい芽のそばに、さして立てたりしてました。
その日から、毎日じょうろで水をやって、そのあとは観察ノートに葉っぱの形を写生して描きつけておく、っていうのを、めずらしく根気よく続けていたりしていたもんでした。
雨の降る日にも、じょうろで水をあげて、家族に笑われたりしましたが、そんなところは四十歳になっても変わっていないようで、先日同じようにオクさんにからかわれてケンカしました。
そうか、まるで変わってないんだなァ、と思わず納得してしまったのは、どうも仕事が進まなくて、アレコレ思いあぐねていた時です。
原稿用紙に向かってんのが、やんなったんで、じょうろを出してきて朝顔に水やってて……思い出した!
「そうだ、まるっきり同しことをしてる!」って。小学校三年生の夏休み、ボクはやっぱり原稿用紙に向かっていて、ウンザリしていたんでした。その日は八月の三十一日で、明日から新学期、夏休み帳≠竍図画工作≠フ宿題はなんとか、やっとこさカタづけたところなんだけど、宿題のほかに、特別に綴方コンクール≠ノ出す作文のシメキリがあったんでした。
担任のホシナ先生は国語の先生で、毎日生徒に自分のペースの宿題≠自主的にさせるっていう方式をとっていました。何をやってもいいから、毎日、家で勉強したノートを見せるんです。算数の問題でも、朝顔の観察でも、漢字の書き取りでも、課題は自由。
で、ボクがやってたのは詩日記≠ニいうので、これはふつうの日記を、どんどん行がえをして書いてしまう、という形式です。なにしろ|ハカ《ヽヽ》がいくのが好都合です。
一学期が終わって夏休みに入る時、発表があった。綴方コンクールの代表は、南に決まった。宿題がもう一つふえるけれども、代表に選ばれたんだから、ガンバルように。
選ばれたのは、少しはうれしかったでしょうが、ボクはいきなり気が重かったです。テーマは以前に、日記に書いていた、去年亡くなった姉さんのことがいいだろう、って、書くことまで決まってるんです。夏休みじゅう、頭のどこかでひっかかってはいたんだけど、なにしろメンドくさいから、忘れたフリをする。そうこうするうちに、ついに夏休み最終日の八月三十一日になってしまったというワケです。
外はとってもいい天気だけど、もうやらないわけにはいかない。締切はもう明日です。
もう|半べそ《ヽヽヽ》です。せっかく、先生が期待して選んでくれたのに、夏休み中に一行だって書いてなかったんですからね。死んだ姉のことを書かないといけない、と思い込んでたのも、なかなか書けない原因だったかもしれません。
姉・リーボに対する気持を作文みたいな作文≠ノしてしまうことへのバクゼンたる抵抗感があったんだと思います。気持があせるばっかりで、いつのまにか机で寝込んでしまったらしい。明け方にハッと目がさめると、寝巻に着がえさせられて、ちゃんと寝床に寝かされてました。
〈先生に叱られる!!〉と思ったとたんに胸がドキドキして、蚊帳《かや》から出ると、いきなり書きかけの原稿用紙に向かったんでした。
窓の外は、きのうとうってかわって、ものすごい嵐です。ゆうべ台風が来たらしい。窓の雨戸をあけると激しく雨が吹き込んでくる。あわてて、ガラス戸をしめて、外を見ると、いちょうの大木が倒れんばかりにしなっている。そんな景色までが自分を追いたてているように見えるんでした。
何がそんなに気に入らなかったんでしょうか、ボクはまるで、コントに出てくる文豪みたいに、書いてはまるめて捨て、消しゴムで消しては、紙をやぶいてしまい、ってなことをくり返してました。
「よし、原稿用紙を持って、こっちに来い」と、父・アキラさんが、お膳のむこうから声をかけました。そんなことをしていちゃ、いつまでたっても書けまい、オレが手伝ってあげよう、というんです。
原稿用紙の束を持って、ボクはアキラさんの前に座ります。いままでのことは全部忘れろ、最初からだ、まず題は「姉さんのこと」だな、とアキラさんは決定しました。
「あれは……ホラ、あれは……だ。あれは去年の夏休みのことだった……」ってこれじゃ、まるで口述筆記ですよ。そのかわり作文はどんどん進みます。十行くらい進んだところでアキラさんは、コドモに質問します。
「ここで、初めて病院に行った時の描写になるわけだが、何か感想はないか、感じたことだ、廊下が暗かったとか長かったとか、何かあるだろう。クレゾールのにおいが、ツンと鼻をさしたとか、薬のにおいは好きか、きらいか、ハッキリしなさい、お前の作文なんだから……」ってこんどは調書≠ゥなんかのようなんでした。
そうこうするうちに朝ごはんの時間になり、もう学校に行かないと遅刻の時間になっちゃった。しかし、すでに|ヤル気《ヽヽヽ》になってしまったアキラさんは、遅刻なんて気にすんな、とにかく全部書くんだ、というので、口述筆記と警察調書のあいのこのような、小学生の作文の完成に没頭してしまうんでした。
台風がさらに激しくなって、学校は休みになった、と、ガンバって登校してしまった近所のコドモたちが帰ってくる。締切は公式に一日伸びたことになります。
お昼ごろ、取り調べと作品は完成しました。ほぼ同時に台風一過して、真夏の太陽がギラギラ光り、夏休みのおまけの一日を典型的に照らしているんでした。すべてが終わった奇妙な虚脱感を小学生は感じていました。
ああ、終わった。もうビクビクしなくていい、っていう解放感と、でもあれはボクの作文じゃない、っていうしこりのような気持が、むやみに明るい青空の下のコドモを複雑にしているんでした。
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後ろ向きの記念写真
秋になったら運動会≠ゥ学芸会≠ナすが、ボクが初めて学芸会≠フ劇≠ノ出たのは秋じゃあなかったと思います。というのも、そのボクが初めて出演≠した劇≠チていうのは、ホントの本式の学芸会≠カゃなかったからでした。
あれは、二年生の終わりのころでしたから、春だったのかな、とにかく一年生の時にも、二年生の時にも劇≠フ役がなかったコドモのために、そういう子たち用の学芸会≠してあげよう。かわいそうだから、ということだったらしいんですよ。
とにかく戦後民主主義教育≠ナすから、運動会の徒競走は手ェつないでいっしょにゴールなんていう、いまどきの極端平等主義ではないにしろ、まァ平等≠先生がたは気にしていたんですね。
わざわざ、先生は手を上げさせたもんです。
「一年生の学芸会でも、こないだの学芸会でも劇に出られなかった人、手を上げて」って、そんな|あまりもん《ヽヽヽヽヽ》みたいのって、おもしろくないですよね。でもまァ、とにかく一度も選ばれなかったやつばっかりで、劇をやれと、こういうことになった。
とにかく、役≠消化させることが主眼ですから、主役というのはないのね。春になったから、カエルやヘビや虫なんかが穴から出てくる、花が咲いてツクシが伸びて、もんしろちょうが飛んできて、
「わーい、わーい。春だ春だ」
「春になった、うれしいな」
「そーだそーだ」
みたいなズサンな芝居なの。で、みんなで輪になって、「春の小川」とか歌う。
ボクはつくしA≠ゥつくしB≠フ役でしたね。つくし@≠ェ、
「春になった、うれしいな」とか言うと、
「そーだそーだ、うれしいな」とか言う。しかも二人いっしょのセリフなの。
でもまァ、とにかく初めての劇≠ナすからね、一応、放課後に残って練習したり、つくし≠フお面を自主製作したりするんですよ。画用紙に茶色のクレヨンでつくしの|ホ《ヽ》のとこの絵を描いて切り抜いて、輪ゴムつけてかぶれるようにする。
つくし@≠フコミト君は、ごっついボール紙でりっぱなつくしをつくりました。ボクのはへにゃへにゃでしたが、でもかなり|リキ《ヽヽ》入れてつくったんですね。
で、当日はヨソ行き≠フコール天の長ズボンはいてね、靴下なんかも新品のはいて出かけていったト、思いねえ。
ところで、昔の小学校、とくに急ごしらえの戦後の小学校では、校舎をつくるのも大変な時期で、講堂だの体育館だの図書館だのってのがまだそろっていなかった。学芸会はブチヌキ教室っていって、いつも教室に使ってる部屋の壁がとりはずしができるようになってて、これを三つくらい使って講堂のかわりにしたんですね。
学芸会の舞台は、規格のそろった頑丈な机をピッタリ並べて、これをたがいにしばりつけ、さらに新聞社からもらってきた、じょうぶな紙型を敷きつめて、さらにゴザを敷いてこれがステージになるんでした。
ところが、この消化学芸会≠フほうは、正式じゃないから、本式のブチヌキ教室が使えない、さらに規格ぞろいの机も調達できないんで、高さがまちまちの古机です。いちいち脚をしばったりはメンドーなり、ってんでただ単にデコボコに並んだ机に、乱暴にゴザが敷いてあるっていう、なんだか情けないようなステージなんですね。
だから、手をつないで円くなってぐるぐる回りながら春の歌≠歌ったりするところは、足もとがガタガタでけっこう要注意です。正式≠フ学芸会じゃないから、父兄のみなさん、というか、お客≠ェもう、極端に少ない。ほとんど出演者の関係者だけ、みたいなんですね。
でもまァ、とにかく選にもれた人々≠フ劇≠ヘ始まった。本式の時みたいな幕≠烽ネい。大道具の草むらとかも、前に使ったヤツの流用です。
「そーだそーだうれしいな」
「そうしよう、そうしよう」
って、|全セリフ《ヽヽヽヽ》を言い終えてしまうと、あとは文部省唱歌「春の小川」その他を歌うだけで終わりです。
そんなワケで、劇初出演もつつがなく、めでたく終えることができましたのも、ひとえにストーリイもセリフも極力カンタンにしてくださった先生のおかげでございます。のであった。
この消化学芸会≠ェ終わって一週間後くらいだったろうか? 先生が、
「こないだの学芸会の写真、ほしい人は申し込んでおくように」とおっしゃった。当然初めての劇出演≠ナすから、記念の写真がほしくないワケはない。
さらに数日たって、大きめの封筒に入った写真を見ておどろいた。とにかく、写真の大きさが異常にでかい。当時は紙焼きは名刺サイズくらいがほとんどだったのに、その記念≠ヘノートくらいに大きいのだ。が、それより何より、その写真に写ってるボクは、カンペキに後ろ向きだったのである。
例によって、家族にこの写真は大笑いされてしまうのだった。
「後ろ向きの写真を、こ〜〜んなに引き伸ばしちゃって……(笑)」というわけです。
ところでボクは、この後ろ姿の舞台写真をいまではとても気に入ってます。このつくしA≠セかB≠セかのお面をかぶった小学生の頭を、なでてあげたいような気分ですね。彼はおそらく、キッとした顔で振り返って、「キモチワリィことすんな」って言うでしょうけどね。
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「遠足」が楽しい|ワケ《ヽヽ》
遠足≠チていうのは、とっても楽しみなもので、ずいぶん前からワクワクしながら待っていたようでしたが、あれはいったい、何が楽しみだったんでしょうね。
「一つにはお菓子である」とボクは思う。遠足っていうのは、リュックサックにお菓子とおべんとを、ギッシリ詰めて、それから水筒に、お茶とかお湯とかを入れて肩からかけていくんでした。
リュックの中には、ビニールとか新聞紙、手ぬぐいなんていうものもたしかに入ってましたが、その大部分を占めているのは、キャラメル、おせんべ、チョコレート(チューブ式のも流行った)、ガム、ラムネ菓子、ビスケット、など。前の日の夕方マーケットまで行って、たくさん仕入れたのを、おせんべやビスケットなら欠けないように、上のほうに入れ、キャラメルやガム等はリュックのポケットに入れる、という具合に夜パッキングするのも、すでに遠足のうちなんでした。
遠足はだいたいが日帰りで帰ってくるっていうのに、ともかく|お菓子《ヽヽヽ》のほうはふだんの一週間分くらいを、いちどきに携帯《けいたい》していて、しかもその日のうちにそれを全部かたづけてしまってもいいんだから、それはうれしいはずなのだ。
水筒っていうのも、ヘンなものであった。出かけていく先は砂漠≠ネわけじゃなく、動物園だったり、植物園だったり、万年筆工場だったり、お台場だったり、横浜港だったりで、行った先にはきっと水飲み場なんかいくらでもあるのだ。だいたいが飲もうとした時には妙に生ぬるかったり、水筒のにおいが移ってしまったりで全部あけて入れ直して、結局その水も家まで持って帰ったりするくらいなのだった。
それでも、遠足にはリュックサックで、水筒を肩からケサガケに、っていうスタイルをみんな守っていた。それも魔法瓶≠ニいわれた保温式のもんじゃなく、キャップに小さな磁石《コンパス》のついたやつを、みんな申しあわせたように持っていたのだった。
お弁当は、おいなりさんとのり巻で、これもみんな同しだった。朝早くタカコさんが、これをつくった。兄弟の誰かが遠足の日は、朝から、こののり巻とおいなりさんが食べられるのがうれしかった。
つまり、特別《ヽヽ》がうれしかったのだ。中学に入ってから、おすしやさんの息子さんが、同じ机のとなり同士になったんだけど、彼のお弁当が毎日、商売物の|おすし《ヽヽヽ》だったのはフシギな気のしたもんだった。ヨシトモくんていう、鎌倉時代のような名前の同級生は、「毎日スシであきちゃうよ」と心から言いながら、ボクのさえない弁当のおかずと交換を迫るのだった。
いまのコドモたちは、ちょうどこの、ヨシトモくんと同じような具合かもしれない。少なくとも、食べ物は特別≠フ楽しみではなくなってしまっているようだ。遠足の日のお弁当を、ホカホカ弁当屋さんの、あの透明のペラペラプラスチック入りのセットで持ってくるなんていう話を聞くと、なんだか無残なような気のするのは、ボクが昔のコドモだからだろう。実際にはそっちのほうがおいしいかもしれないが、そこにはワクワクする楽しさがない。
観光バスの中でまわってくる|マイク《ヽヽヽ》も、いまは特別のものではないはずだ。家庭にカラオケもあるだろうし、オーディオ装置もめずらしくないのだ。
大きくなって、お正月が楽しくなくなったなァ、と感じていたんだけど、これは、|大きく《ヽヽヽ》なったからじゃなく、特別の日じゃなくなったからなんだなァ、と気がついた。お雑煮も、おしるこも、磯辺巻も安倍川も、お正月でない日に食べてしまうようになってから、お正月はつまんなくなってしまった。
姉のチカコは、ゆで卵が大好物だったんだけど、うちのゆで卵は、いつもハードボイルドだったもんだから、たまたまその日、忙しくゆでた卵がみんな半熟で、カラを割って〈くさってる〉と思った彼女は、三コが三コともくさって≠「るので、全部谷底に捨ててしまったのが、いまでもくやしいのだった。
あのころ、卵のねだんはとても高かった。そういえば、バナナのねだんも、とっても高くて、だからバナナはおいしかった。バナナのねだんが安くなってから、バナナはまずい果物になってしまったのである。
バナナのねだんも高くて、それがめずらしい食べ物だったころを知っているボクには、バナナは依然としておいしい果物なんだけどね。ボクはコドモのころから、めずらしい果物を食べるのが大好きで、アルバイトをしてかせいだお金で、パイナップルや、パパイヤやマンゴーや、ヤシの実なんかを、一つずつ試していったころの楽しさをいまでも思い返します。
でも、こんなふうにしていろいろ食べて、めずらしい果物がなんにもなくなってしまったら、と思うとちょっと|考えて《ヽヽヽ》しまうんでした。このあいだ、ニュージーランドのキワノっていう果物を食べました。まだまだ、食べたことない果物はありますが、これからは、あんまりいっぺんに試しつくしてしまわないように、しておこうと思ったりする。
待つことが、おそらく楽しさと関係あるのだ、っていう考えかたは、ビンボウな考えかたかと思いますが、でも、やっぱりボクにとってはとても納得のいく理屈のような気がします。
学校から帰ると、すぐランドセルをほうり投げて、「|なんか《ヽヽヽ》ないのォー」と言ってた日のことを、いま思い出しました。|なんか《ヽヽヽ》っていうのは|なにか食べるもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》の意味ですね。「三時《おやつ》まで待ってなさい」と言われて待っている。
そうして、おイモのふかしたのやら、トウモロコシのゆでたのやら、時には手製のドーナツや、井戸端で冷やしてあった西瓜やら、小さな缶に入った甘いミルクといっしょに出てくるイチゴの実だったりする。おやつがおいしかったのも、学校にいる間、お菓子が禁止で、三時になるまでは、家でもそれを待たないといけない。そうして時には、いっくら待ってても、おやつ自体が中止≠ノなってたりするっていうのが、おいしいの秘密≠セったのかもしれません。
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さみしい子守唄
コドモはなんで寝たがらないんだろう? 起きているほうがおもしろいから、というのもあろうけど、やっぱり寝るのがコワイからのほうがあたっているような気がする。
寝るのは夜で、夜っていうのは暗いのだ。電気を消してしまうと、暗闇は突然、イロイロわけのわかんないおそろしいモノで充満してしまう。
それだけでなく、目をつむって、自分がいまどうしているのかわからなくなってしまうのだ。だから眠るというのは、死んでしまうのと同しことなのである。毎晩眠って毎朝起きるっていうのに、寝ている間のことは、まるっきりわからないというのがコワイのだった。
そんなワケで、なかなか寝ない子に母親は子守唄を歌ってあげる、唄をきいて安心したスキに眠らしてしまおうというワケだ。それでも起きているコドモは、たいてい目をつむっていない。暗いところでパッチリ目をあいている。目をつむるとコワイことになってしまうと思っているのだ。
ボクの母親のタカコさんは、格別器用なほうじゃなく、唄もおとぎ話もうまくはないんだけど、せがまれればオックウがらずに何度でも同じものをやってくれた。
お話は、だいたいコワイ話ばっかりで、鬼婆が夜中に包丁をといでいたり、便所から逃げ出すがどこまでも追いかけてきたりとか、カチカチ山のタヌキがおばあさんをババ汁にして食べてしまって「流しの下《シツタ》の骨《ホンネ》見ろ!」とかうそぶいたりするっていう、いまなら眉をひそめられそうな、教育上好ましくないような残酷シーンの連続なのだったが、そういう話をこわがってさえぎった記憶はまるでない。
それどころか、いま聞いたそのまんまを、もう一度、リクエストしたりしたものだった。
ヘソ曲がりの鬼に「お前もエラそうにしてるが、まさかタンスには化けられまい」とか、「タンスができてもネズミはムリだろ」とか誘導して、ついに豆粒に変身させたところでモチにくるんで食べてしまう、っていう話が好きだった。なにしろタカコさんの話では、伏線なしにイキナリ唐突にモチが登場するので、コドモは話のいきがかりよりも、そのモチのほうに注意が集中してしまうのだ。
ボクはエンドウ豆の入った三角形の豆餅≠ニいうのが、そのころから大好物なのだった。
いまだったら、いったん豆になった鬼が、おなかの中で、もしピサの斜塔≠ノ変身したらいったいどうするつもりか? なんて揚げ足をとるようなことを言うかもしれないが、その時はそんなワケだから、生唾《なまつば》をゴクリとのんでいるというばかりだった。
ボクが必ず口をさえぎって、中断させてしまったのは、子守唄のほうで、この子守唄っていうのは、特段おそろしい歌詞になっていたというのではないのだ。しかし、この子守歌を一小節でも歌うと、ボクはタカコさんの口を押さえて歌わせまいとした。
タカコさんはおもしろがって、スキをねらっちゃあ、この唄を歌ってみせるのだが、どうせ口を押さえこまれるから、その先を歌う気はないのである。
歌うなというのに歌ったといって、口をとがらせているコドモにタカコさんは、
※[#歌記号]……ねろてばよォ、ねろてばねないのかこのガキめィ……
っていう、おそろしくイセイのいい子守唄を歌って、コドモの機嫌を直してやるのだった。実際ボクはこの唄をきくと安心して、すぐに寝てしまったのだった。
さて、では、歌うなッ! と言って両手で母親の口を押さえることまでさせた子守唄はどんなのかというと、歌詞はこんなふうだった。
※[#歌記号]笛や太鼓に誘われて
村の祭りに来はしたが……
で、もうその続きはわからない。が、ボクにはその結果が最初のメロディでわかってしまったのである。
その唄の調べは、あまりにもさびしいのだ。せっかく楽しそうなお祭りのおはやしに誘われて、にぎやかなところに行ってみたが……と、心底さびしいメロディで訴えるもんだから、ボクはもう、それだけでさびしくて、悲しくて、つらくなってしまうのだった。
村祭りの場所に行ってみたが、そんなものはやっていなかったのか、あるいは、そこでにぎやかに盛り上がって、|フィーバー《ヽヽヽヽヽ》してる村民を見ても、自分は少しもうきうきしなかったっていう純文学みたいなのか、そんなことはどちらでも、とにかくそういうシンキクサイのが、いやなのだった。
そんなものを、黙って最後まできいていたら自分がその唄の本人になってしまう! とボクは思ったのである。
唄の本人といえば、ボクはコドモのころに|ボーヤ《ヽヽヽ》と呼ばれていたもんだから、
※[#歌記号]ねんね〜ん ころ〜りィよォ おこォろォりィよォ〜
ボーヤはイイコーだ ねんねーしィなァ〜
っていう、ものすごくポピュラーなこの子守唄を、自分専用の子守唄だとしばらく勘違いをしていたのだった。
ところで、笛や太鼓の子守唄だが、このメロディを、あれだけ口封じをしたというのにものすごく鮮明に覚えている。いまちょっと低く歌ってみてオドロイたのだ、いまでも、この唄をきくととってもサビしくなってしまうのだ。そうして、二度三度と歌う気がしない。
以前に小林亜星さんだったろうか、作曲家のかたが、いまのコドモはCMソングやポップスなんかの明るい長調の唄ばかりをきいているが、これはあまりいいことではないかもしれない、というふうに発言されていて、なんだかとても納得をしたことがあった。
ボクはいまでも、このおそろしくさみしい短調の子守唄を、好きなわけじゃなく、現にいまでも歌い出すなり、そそくさとやめてしまうのだったが、しかし、そんな思い出や、そんな気持のあることは、ありがたいことだと、とてもよかったなァ、と思っているのである。
いまでも、おそらく大多数の家では、夜寝る時には電気を消して寝ると思うけれども、ほんとうに真の闇にしてしまう家は少ないのではないか。夜、便所へ行くのがとてもこわいと思ったり、勇気を奮って、天井ウラの暗闇を体験したり、ボークーゴーに探検に入ったりなんていうことは、やっておいて悪いことじゃない、とボクは思っている。
暗闇がこわくて、夜寝るのが死ぬようでこわくて、そんなふうに不安な時に、子守唄を母親が歌ってくれる。こんなことが、きっとまァ、何かの役に立っているのだと思う。ボクは、「これこれの役に立てるために」といって何かするのにあまり賛成でないけれども、「いずれ何かの役に立つかもしれない」、つまり立たないかもしれないようなこと、というのには、大賛成の者である。
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図書館とテニスコート
ホアン・ミロっていう、スペイン人の有名な画家がいますね。ボクが最初に好きになった画家はこの人でした。中学校の一年生ごろですね。それから、サルバドール・ダリも好きでした。
それならパブロ・ピカソも好きになってもよさそうなのに、どうしてピカソは好きにならなかったんだろう? といま考えてたんですが、これはつまり、ピカソはそのころ、大人の人が「偉い、偉い」と言ってほめる人だったというのがあったと思いますね。
ボクはそのころ、大人と見ると反抗をする、そういうコドモだったんでした。ところで、いまボクは、ミロとダリが好きなら、ピカソも好きなハズだと書きましたが、この三人はそれぞれまったく違った画風です。
ですがこの三人には共通したところがあるんですね。三人ともスペイン人であるということとはあんまり関係ない。中学生のボクにとってこの三人は共通した性格を持っていたんでした。
つまり、この三人の絵は、みんな|変な絵《ヽヽヽ》だったんですね。学校で習うようなことから、ハミダシてるような、ハズレてるような感じがした。そこがうれしかったんだと思うんです。この人たちの絵をボクはほかならぬ、学校の図書館で見たんです。
図書館というのは、フシギなところで、そこにいさえすれば、先生からは大目に見てもらえる場所なんですね。放課後に校庭をウロウロしてますと、食う必要のない小言を食ってしまったりするんですが、図書館で本を読んでいれば、監視されたり、それを気にしたりする必要がない。
図書館が居心地のいい場所だとわかってからは、ボクは放課後はだいたい、図書館に行くことに決めました。しばらくすると場所に慣れてきましたので、ちょっとずうずうしくなる。図書館の奥にベランダに面した小部屋があって、どういうわけか、ここだけ妙に豪華なつくりになってるんですね。そうしてその部屋には一かかえもあるような、大きな本、豪華本が並べてある。百科全書や世界地図や、博物図鑑や画集のたぐいです。画集も廉価版《れんかばん》のものは、大部屋のほうにも置いてあるので、つまりここに置いてあるのは、いわば飾りのようなもんで「見るだけ」と言ってるようなもんなんですね。
そこにある椅子やソファなんかも、ここはコドモの来るところじゃないよ、という感じに威圧してるような感じなんですね。もともと図書館に来る生徒は、そんなに多くないし、館内では静粛にとかって、それだけはうるさく注意されますから、いきおい、おとなしいタイプのコが多いですから、みんなこの、おどかしてるような小部屋のほうには、やってこないんですね。
で、ボクは、ここを自分の特待席と決めてしまって、その映画の中のお金持ちが座るような大きな背もたれのある椅子に腰をかけて、ムチャクチャに大きな、重たい画集を出してきては、それをおもむろに、一ページずつめくっては鑑賞していたんでした。
多くは泰西名画≠ニ呼ばれるようなもので、宗教画や風景画、肖像画のむやみに写実的な克明なものが多い。最初のうちは絵を見るのが目的じゃないですから、そんなことにはおかまいなしに、いわば機械的にページを繰っていたんですが、当然見てもいるわけですから、退屈をする。
そこへ、ヒョコッとミロだのダリだのが出てくると、これはもう、ものすごく変な、おもしろい絵なんですね。だんだん思い出してきましたが、その豪華本の部屋には、ピカソの画集はなかったんでした。これもきっとピカソを好きにならなかった理由だと思う。
とにかく、反抗的な気分で大人の領分で、ふんぞり返っているボクに、ダリとミロは、友だちのような気がしたんですね。なんかこうしかつめらしくお説教をタレたりするタイプじゃなくて、ちょっとお茶目なオジサンのような感じがした。
この二人の絵は、フシギで変わって、ふざけているみたいな楽しさがある。その上、絵の中には女の人の裸が出てきますが、ほかの画家の絵のようにちっともやらしい感じがしない≠ツまんない絵でなくて、なんだかドキドキするような、なまなましさがあったんですね。
もし、こんなふうにボクが絵を見ている時にポール・デルボーの画集や、バルテュスの画集があったとしたら、どんなにボクは至福の時間を味わっただろう……と、いま思います。いや、それがなくともその時に、ボクは実際、至福の時間を味わっていたんでした。
とっても豪華で秘密めいていて、しかも何かイケナイことをしているような緊張と高揚を感じながら、ボクはこの上なくリラックスした姿勢で、ダリやミロの画集を、何度となく、ひっくり返していたワケなんでした。
ボクはその後、画集だけでなく、画廊や展覧会に絵を見に行ったり、ついには自分で絵を描く仕事についたり、美術について作文を書いたりするようになりましたが、この中学一年生の一時期こそがもっとも、鑑賞者として充実をしていたんではないか、あの時間をすごしたことが、非常に大きな収穫だったのではないか、と考えてます。
さて、ボクはいまでもかなり視覚偏重型の人間ですが、一時期、音楽的に鋭敏になったことがあって(これは、あとでわかったことでしたが)、それが、ちょうどこの、画集を図書館で眺めていたころと前後しているんです。
図書館のベランダ越しに、テニスコートがあって、といってもそれは校庭の一画に石灰で白線を引き、ネットを張ってできる、つまりそういうスペースだったんですが、そこに実は、上級生の静江さんが白球を追っていて、ボクは、ミロではなくこの静江さんを眺めるようになってから、音楽がよく聞こえるようになっていったんではないか? と思ってるんでした。
静江さんと、初めて会ったのは、渡り廊下の上でした。渡り廊下というのは、すのこの大きなものを、廊下状に並べてあるもので、離れた校舎同士をむすんでいるんですね。この渡り廊下を一年坊主のボクが歩いていて、ふと顔を上げた時に、二年生の静江さんがいた。
広い校庭を横ぎる渡り廊下の上に、中学生の男のコと女のコがたった一人ずつ(とその時はそう感じました。実際はうじゃうじゃ、うぞうむぞうがいたんでしょうが)で、男のコは、その小さい、ないんじゃないかというような小さい目を、見開いて、そこで立ちすくんじゃったんですね。静江さんがとってもキレイだったからです。それを見て、上級生の静江さんはニッコリ笑った。男のコはこのニッコリの意味をとりちがえてしまったんでした。
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思い出の回数
鬼が金棒を持って立っている。もちろん本物が立っているんではないので、板にペンキで描《か》いてあるつくりものです。胸のところに、標的がついていて、ここをめがけて、ボールを投げる。一回投げていくら、という料金をとります。
的にあたらなければ何事もない。むなしくボールが反射してはずんで転がっていくだけです。ところが的にボールが命中すると、大騒ぎになります。鬼は両腕を高く振り上げ、まるで、サイレンのような声で(サイレンです)雄叫びをあげる。そうして大きな目玉は、まるで電球のように(電球です)ランランと光ります。
この懐かしい昔の遊園地の装置の写真が雑誌にのっていて、ボクは三つか四つくらいの時に、としまえんという遊園地に連れていってもらった時のことを思い出したんでした。
そうして、この遊園地に出かけていった時の思い出というのを、いままでずいぶん、何度となくくり返しているなァというのと、その思い出のオリジナルというのが、たった一度のことだったことに気がついて、とても不思議な気がしたんでした。
ボクのお父さんは、ボクが物心つくころには病人で、家で寝ているか、さもなければ病院に入院をしていたんでした。遊園地にコドモが何度も連れていけるほど、時間的にも金銭的にも余裕がなかったわけです。
ところで、この「としまえん」をボクは、いまでも非常に、断片的ではあるけど非常に、鮮やかに再現できるんです。ウォーターシュートという、すべり台を池めがけてボートですべり落ちる乗り物は、着水の瞬間に船頭のおにいさん(ゴンドラの船乗りのようだった)がピョーンとジャンプして、水しぶきが勢いよく上がったところ、を覚えている。
それから小さなヒコーキがくるくる回りながら高く吊るされていって、またくるくる回りながら降りてくる乗り物に乗ったところも思い出せる。下のほうでお父さんが帽子を振っていた。
そうして、鬼がボールをぶつけると、ウ〜〜〜と叫ぶその三つが、大人の人ごみといっしょに、手すりの金っ気のにおいといっしょに、ありありと思い出せるんでした。
たった一度きり、しかも時間にしたら数十秒のシーンが、なんだってこんなに鮮やかに思い出せるんだろう。と考えながら、ボクは思い出というのは、多くがこんなふうに、一度きりの時間だったのに気がついたんでした。何度もくり返した、毎日見ていたものだから思い出せるとはかぎらないので、むしろ思い出は、ありふれた時間よりも、特別の時間が選ばれることのほうが多い。
そうして、選ばれた思い出の時間は、頭の中で何度も何度も数えきれないくらいに、くり返して再現されるんでした。ですから記憶されるシーンというのは、どんなに短いものでも、たった一度きりのものでもかまわない。むしろそうしたことのほうが記憶される可能性が高いのかもしれません。
くり返し反復したものほど記憶に残るのは当然ですが、このくり返しは、むしろ頭の中のくり返しこそが力を持っているんですね、そうしておそらくは、そうした、たった一度きりのわずかな時間の体験が、人一人の一生の人生を決定していってしまうんでした。人生にはやり直しはきかないし、かといって、どんなに注意深く人生を制御しようとしても、それはしきれないことでもあるんでした。これはおそろしいようでもあり、おもしろいことでもあるとボクは思います。
もしあの時にあの人に会わなかったら、もしあの時にこうだったら、と大人になって考えるようになると、自分の人生というのも、いく通りもあったうちの、単なる一つの可能性だったように勘違いをしますが、実はそうではないので、いま自分がいまのようにあるのは、かけがえのない自分のありようなのだということなんでした。
もし、とボクは思います。ボクが人の親であったなら(ボクにはまだコドモがありません)、たとえばコドモと遊園地へたった一回だけ行く≠アとができるだろうか? コドモがほしがるお菓子を、一生思い出にできるようなタイミングで与えることができるだろうか? もちろん、そんなことはできるわけはあるまい、とボクは思うんでした。
コドモが遊園地に行きたいと言う前に、連れていってしまい、コドモがほしいと思う前に、お菓子を与えてしまうに違いないのです。遊園地は楽しいに決まっているし、お菓子は食べたいのに決まっているんです。どうしてかといって、自分がコドモの時にはそうだったからです。が、自分がコドモの時には、親はいまの自分のようではなかったのだ、ということには気がつきにくい。
コドモや後輩にいい本≠すすめる、というのがこれに似ています。いい本≠、いいタイミングですすめられれば、こんなにいいことはないが、だいたいは、すすめられることでそのいい本とめぐりあえなくなってしまったりするんでした。
つまりボクは、お父さんがたった一度だけ遊園地に連れていってくれた≠アとをいま、感謝しているわけです。一度きりだったから、ボクは頭の中でそれを何度も反復することができた、と。しかし、そのようにボクが考えるのは、ボクがたった一度だけ遊園地に連れていかれたコドモ≠セったからなのでもあったわけでした。
先日、友人と話していて、「明るい顔の人は、楽しい思い出を思い出す才能のある人だ」っていう共通の結論で納得をしました。楽しいことをたくさん思い出せる人は、楽しい顔の人になる。そうして、苦しい時のことをたくさん思い出す才能にめぐまれた人は、同様に、暗く、苦しい顔になれるというわけです。
それにしても、記憶というのは不思議なものです。ほんの一瞬のことでも死ぬまで覚えていることもあれば、何度経験しても記憶されないこともある。楽しいから覚えているというばかりのもんでもないし、苦しいから覚えているというばかりのものでもないんでした。
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日なたぼっこの侍
ボクは日なたぼっこのことを思い出してます。北風が吹いてるような寒い日にも、昔の親はよくこんなふうにどなったもんでした。
「子どもは風の子! 外行って遊んでこい!」
家の中が狭いのもあるし、とにかくいまみたいにコドモ中心の考えかたをしてませんから、家の中でコドモはじゃまものなんですね。コドモもそれがあたりまえと思ってますから、本当はコタツに入ったまま、マンガ読んでいたかったり、ラジオきいていたかったりしても、まァしかたない、野球帽かぶってリバーシブルのジャンパー(裏表で二着分着られる)などを引っかけると、勢いつけるようにして外に出ていきました。
同じようにして、家から追い出されたコドモたちがいて、日なたにかたまっています。ワイシャツ屋さんの小川さんちは坂の下にあって、西向きでしたので、そろそろ夕方になりかかる午後の陽射しが金色にあたった、そのあたりに、コドモがそうしてたかっているのです。
電気ミシンの音が、ゴーッ、ゴ、ゴ、ゴーッと、断続的に鳴っていて、その奥からラジオの歌謡曲が聞こえてきます。ジャンパーのポケットに手をつっこんで、生まれたての子猫みたいに、ボクらはひとかたまりになってそのラジオをきいているんでした。
そうだな、そういえば日なたぼっこというのは意外なくらいにあったかくて気持のいいもんだった。午後、縁側に座ぶとんが干してある。そこへどっと寝ころぶとおどろくほどあったかくて、ホコリくさいような日なたのにおいがした。
そんなことを思い出しながら、大人のボクはマンションのベランダの、その狭いコンクリートの床に、じかに座りこんでみたんです。そうだ、こんなだったな。お尻はちょっと冷たいけど、日なたぼっこというものはこうだった。とボクは思ったのです。目をつむってみたりする。ぜんたいオレンジです。日のあたってるところがとてもいい気持にあったかい。目をあけてみると、いつのまにか猫のミーがそばに来ていて、じっと目をつむってる。
奥さんが新聞紙と座ぶとんを持ってきてくれました。それにおせんべとお茶まで用意してます。ボクらは、その狭いベランダで、並んで座って、日なたぼっこをしながら、お茶を飲んで、おせんべを食べたりしたんでした。日があたってるのは、ほんのわずかの場所なんですが、なんだかずいぶんトクをしたような気分でした。
さて、小川さんちの日だまりのコドモたちですが、日なたぼっこも、そうそういつまでもやってるワケじゃない。人数が集まれば、スイライカンチョーや馬とびや、おしくらまんじゅうや、すもうや、Sケンやチャンバラや、と遊ぶことはいくらでもあります。そうやって走り回ったりすれば、寒いのなんかはすぐ忘れてしまうんでした。
チャンバラは、原っぱへ行って、茎の太い草の枝をはらって刀にしたり、おもちゃの木刀や、板切れを削ったのなんかでやりました。お手本は東映の時代劇で、中村錦之助や東千代之介、大友柳太朗のまねをします。
ボクは、東千代之介の片方の眉毛だけ上げる顔のマネが、|くんれん《ヽヽヽヽ》の結果≠ナきるようになってましたから、敵を斬った後は、千代之介顔で決めました。(これはよっぽど気に入ってしまったものと見えて、このころ、遠足に行った時の写真など見るとだいたい東千代之介顔になってます。)
チャンバラもチャンバラ映画も好きだったがそうヒンパンに映画館に連れていってもらったワケじゃない。近所のコドモたちも同じでみんな一様にビンボーでしたから、映画なんて数えるほどしか見ていないのだ。
チャンバラごっこをひとしきりすると、ボクらは線路むこうの、「北映座」っていう映画館まで、帯刀したまま出かけていく。
入口のところに、ガラス張りのショーウィンドウみたいなのがあって、そこにポスターやスチールが貼ってある。これを一目見て、「これは月形龍之助だ」とか「こっちは吉田義夫だ」とかと脇役の名前が言えるのがエライのである。
そのあと、ボクらは映画館のウラ、つまりスクリーンの真裏にあたる、モルタルづくりの壁のところに行って、その壁に寄りかかって日なたぼっこをしながら映画の音≠きくのだった。
お姫様の声や、悪家老や悪党の首領の声、殿様を|おいさめ《ヽヽヽヽ》している忠義の家臣≠フ声なんかが、くぐもった地の底から聞こえてくるような音で、モルタル壁を震わすのだった。
もともと時代劇のことばはコドモにはむずかしくて、半分もわからない。その上、音は完全に割れているから、チャンバラのシーンになって、なんだか盛り上がってるとか、場内の拍手が聞こえて、これはいいところだな、くらいしかわからないんだけど、とにかくこのピンクのモルタル壁のむこう側が、いま、江戸時代になっているんだなァという感慨が、そこで並んで寄りかかっているコドモたち全員にあって、時々、腰の|もの《ヽヽ》を抜いて、じっとそれを見すえたりするんでした。
そのころ、映画館は三本立てが常識でしたが、なにしろいまのように換気もよくない、喫煙所などないも同然だから、休憩時間になると、扉が全開されて、映画館のお客がいっせいにタバコを吸いに、外まで出てこれる方式になっていた。
この時をねらって、扉のしまるまぎわ、サッとまぎれ込めばタダで映画が見られる。これを実行に移してみよう、と提案するものがいて、そのひとかたまりのコドモたちは、一挙にキンチョーをしてしまったのだった。〈もし、失敗をしたらエライ目にあう〉
休憩時間になるまで、ボクらはドキドキしながら、時々壁に耳をつけたりしていたのだが、そうこうするうち日が沈んで夕方になってしまった。オレは帰る、もう晩ゴハンだといって少しずつ有志が抜けていき、結局、ボクだけが残ってしまった。あきらめて帰ろうと決めた時、休憩所のドアが開いてドッと大人があふれてきた。ウロウロするうち休憩終了のベルが鳴って、大人がいっせいに引き返すので、ボクは流れのままに館内へと押し流されてしまったのだった。
結果的にはまんまと計画通り、ということになったのだけど、ボクはもう、一刻も早くここから帰りたい、とその時は思ってしまって、目の前に黒々と続く大人のお尻をかいくぐって懸命に入口をめざしたんでした。最後の黒幕をはぐると、外はもう、すっかり夜でした。
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ピーコの羽根
マツムラさんちのタケちゃんのところには、ウサギがいました。ウサギは菜っぱの束の中で時々ピョコピョコと動くだけで、あとは鼻をムズムズさせたり、思い出したように菜っぱを食べたり、ウンコをしたりしました。
オミさんのコウちゃんちにはサンペイがいました。サンペイはオスのキジネコで、大福くらいの短いしっぽをつけたデブでした。うちの庭の椿の木の下あたりを、便所に決めてしまったらしくて、必ずそこでオシッコをするので、コラッ! とかシッシッとか言っておどかすのですが、決してとちゅうでやめたりしないで、迷惑そうにこっちを振り向いて、し終わると、ゆうゆうと去っていきます。ずうずうしいネコだ。と、うちの大人、お父さんとお母さんは言っていました。
コンノさんのオバちゃんはコドモがいないので、マサコっていうスピッツを飼っていました。コンノさんはマコちゃん、マコちゃんといって、スピッツのマサコをかわいがりましたが、マサコはいつも吠えてばっかりで、ちっともなついてくれない犬でした。
オミさんのコウちゃんのうちには、鳥小屋があって、ニワトリとチャボが、全部で五羽くらいいました。ニワトリはタマゴを産むので飼っていると言ってました。五羽もいるのでニワトリには名前はついていませんでした。
マツムラさんちのウサギにも名前はついていなくて、名前をつけようとしたころには死んでしまいました。ウサギは水を飲むと死んでしまうと言っていたので、きっとうっかり水を飲んでしまったのだろう、とボクは思って、なんだかおそろしいような気がしたのでした。「水を飲んだら死んでしまう」なんておそろしい話じゃないですか。
タナベさんのミエコちゃんちは、ボクのうちのすぐとなりでした。タナベさんのうちには、ヒヨコから大きくなったニワトリがいて、それは、ピーコという名前でした。ヒヨコの時の名前だからピーコであります。ピーコはでも、大きくなったのでコッコ、コッコとか、コケッコケッとかと鳴くようになっていて、追っかけるとたいそういっしょうけんめいに逃げるので、コドモは時々ピーコをおどかして、あわててバタバタ逃げるピーコをからかったりしていました。
線路土手に遊びに行く時や、カンケリや鬼ごっこの時に、タナベさんちの、道みたいな庭をつっきっていきますが、そんな時は必ずピーコに声をかけたり、足をバタバタッといわせてピーコがおどろくのを見て喜んだりしていたのでした。なにしろ、ピーコは一羽っきりでしたからタナベさんちの庭で放し飼いになっていて、ココッとかココココとか時々鳴きながら、トットットッと歩いたり、トットッと戻ったり、いつも、ちょっとオドロイたような顔で、そこらをほっついていたんでした。
その日、ボクはタナベさんちと垣根で仕切られてる裏庭、というより台所への通路になっている裏の空き地で釘さしをして遊んでいたんでした。釘さし≠ヘ、あまり小石のまじっていない土のやわらかいところで、地面に振り下ろすように釘を投げてさす遊びで、ふつうは何人かでやるんですが、一人でトレーニングをすることもできます。その日はだからトレーニングをしていたんでしょう。
ボクは小学校の二年生か三年生だったと思います。釘をさしては抜き、釘についた土をしごき落とし、また釘をさすと、穴と穴をつないで渦巻き状の軌跡を引いていく、っていう一人っきりの作業に夢中になっているところを、時ならぬ羽音と異様に大きなニワトリの鳴き声がしてビックリしました。と、白い小さな羽根がそのへんをフワフワ飛んでいて、長靴をはいて、カーキ色の半ズボンにランニングのマエダさんがピーコをぶらさげて、仁王立ちに立っていました。そばには石油缶でつくったコンロがあって、上に大きな鍋がかけてあります。中にグツグツお湯が煮たっているのが見えました。
マエダさんはミエコちゃんのお父さんではないが、まァお父さんのような人です。マエダさんはいまではもう、おとなしくなってしまったピーコを、そのお鍋のお湯の中に、ザブリと入れると、こんどはそれを引き上げて、羽根をズンズンむしりとるんでした。
ボクはポカンと口をあけて、そこにしゃがんで、その一部始終をずっと見ていたんでした。まな板が出されて、それがさばかれていくところ、水道で水洗いされてるところや、最後に、そこらに散らかった羽根をホーキで掃いて、チリトリでとるところまで、最後の最後まで見届けていたんでした。
「ミエコォ、今日はミズタキだよ」とおばさんの声がして、これ、ご近所におすそわけしておいで……というのを聞いたころは、もう夕方に近く、薄暗くなっていたでしょうか、ボクは、何やら釘で地面に絵を描きながら、先刻こっちまで飛んできた、白い小さな羽毛をじっと見ているんでした。
「まァ、これはこれは、どうもあいすみません、こんなにいただいちゃって、ホントにどうもありがとうございます」と、母・タカコさんの感謝してる声が、表の玄関のほうから聞こえます。ボクはマキの束の上に座って、なんだか黙ってそこにしばらくいたようですね。
「ごはんだよー」っていう声を聞いて、そのまま台所のほうから座敷へ上がっていった。
「なに、いままでどこに行ってたの……早く手洗ってきなさい、ゴハンだよ」とタカコさんが言いました。
「あ、おニクだ! トリニクだね」と姉のチカコが言いました。家族が唱和していただきますをしたあとも、ボクは黙ったままでした。トリニクには手を出さないで、おしんこや、ひじきなんかを食べていたと思います。お父さんが湯気のむこうからききました。
「どうした? トリニクきらいか? ノブヒロ」
ボクは長い沈黙をやぶって言いました。
「でも、これトリニクじゃないよ、ピーコだよ、これピーコだよ」
この時、うちの家族がどんな顔をしていたか、ボクは覚えてないです。あるいはおこられたかもしれないし、無視されたかもしれないが、とにかく覚えてない。なんだか塗りのはげたチャブ台の縁なんかが思い浮かんでくるだけです。
その時ボクが、どんな気持だったのか、もう、よく思い出せないんですね。〈ピーコが死んで悲しい〉とかっていうような、ハッキリした気持じゃなかったことはたしかですね、もっとボンヤリした複雑なものでした。
ぼくはそれ以来、ずいぶん長いことトリニクがニガテでした。とくに羽根をむしったあとの鳥肌がニガテでした。しかし、それはどうということではない、と思ってます。そんなことはあの時に感じていたこととぜんぜん見合っていない、と考えています。いわばピーコがトリニクになるまでを見届けていたことを、ボクはとっても大事なことだったと思ってるんです。
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しんちゃんのオカモチ
「しんちゃんは、なかなかイイな、カッコイイぜ、アイツは……」
と、ボクのお父さんの明さんは突然切り出しました。明さんはドテラを着て、先刻から縁側で日なたぼっこをしていたところです。
ボクはコタツで貸本屋から借りてきた江戸川乱歩の『青銅の魔神』を読んでいたかもしれない。ヤブカラ棒ですが、お父さんが突然ヨソンチのコドモをほめたので、ボクはちょっとしんちゃんに嫉妬しました。
だいたいが明さんは、自分のコドモをほめたりすることはなかったし、そもそもあんまり人をほめたりしないんです。短気でオコリっぽいので、よくどなられたりしましたが、何かまとまった説教とか、コドモに期待する人間像を述べる、というようなこともされた覚えがない。
「まだコドモだ」というので相手にされてない、という感じでまともに会話をしてくれないんですね。そんなんでボクはお父さんにホメてもらいたい、気に入られたいと思っていたようです。まだ一人前に扱ってもらえないので、とにかく、早く大きくなって相手にしてもらいたいと思っていたかもしれない。
たまに家に、ボクと明さんしかいない、というような状況になると、ボクはスターの前に出たみたいに、あがってしまうというふうな感じでした。いま思うと、明さんはボクのそんな気持はわかっていなかったと思いますね。
で、とにかくその明さんが、しんちゃんのことをほめている。しんちゃんはハシモトくんといって、北池荘っていうアパートに住んでいるボクと同い年のコドモです。ボクはハシモトくんとケンカしてケガをさせられたことがあって、つまり、|テキ《ヽヽ》でした。
明さんは、ケンカしたら勝て、他人の子分になるようなやつはキライ、泣いて帰ってきたらオコル、というような性格でしたから、ボクはケンカに負けた時には、ほとぼりがさめるまで、遠出をして泣き顔は乾かして、何食わぬ顔で帰ってきたりしてました。キズやコブができていても、転んだことにする、という具合です。それもこれも明さんに気に入られたいからでした。
しんちゃんにケガをさせられた時は、ボクの不覚でした。ケンカになってしんちゃんを組み敷いて、首を締めて「まいったか?」と言うと、ウンウンとうなずいて、はっきり「マイッタ」と言ったので、ボクは勝ちほこって、意気揚々と引き返したんでした。ところが、その背中に頭より大きい石をぶつけられたんでした。ボクはその場に倒れちゃって、気を失ったみたいになってしまったので、かつがれて帰ってきたのです。
〈しんちゃんは卑怯なマネをしたやつだぞ〉とボクはその時のことを思い出して、そう思ったんでした。で、口を少しとがらせて、
「どうして!?」と明さんに口答えをするようにきいてしまったのです。
お父さんは、そんなボクの気持とは関係なく、縁側から庭越しに路地のほうを見やりながらこう言ったんでした。
「サンキュー食堂のオフクロさんがさ、しんちゃんにオカモチを持たせたんだ……」
しんちゃんのお母さんは、近くのサンキュー食堂で働いているんです。サンキュー食堂はラーメンとチャーハンとカツ丼と定食を出す大衆食堂で、最近大きなソフトクリームの機械も導入したようなお店です。
上野さんちに出前を持っていくんだが、お母さんは忙しくて、よそにも回らないといけないから、進一ちょっとコレ届けてヨ、とお母さんが言ったのだ。「サンキュー食堂です、お待ちどおさま」ってちゃんと言うんだよ、わかったね! って言ってお母さんオカモチあずけてそのまま帰っちゃった。
そうしたら、周りの子どもがしんちゃんのことハヤすワケだ。サンキュー食堂でーす、おまちどおさまあ! ってさ。そんなことされたら恥ずかしがるだろ、ところがアイツは違うな、ハイお待ちィーッ! サンキュー食堂ですーッ! って楽しそうなんだ。で、カラのオカモチ、スキップしながら持って帰ってくる。そのころはもう、さっきはやしてた連中が、しんちゃん、あんまり楽しそうだから、それ持たしてくれ、持たしてくれって頼んでるんだ。
「よし、じゃあジャンケンしろ、そこにならべーッてさ、ハハハ、ありゃあイイ」
明さんは、親の仕事を手伝う子が偉いとか、親の言うことをきく素直なコドモだとかいって評価してるワケじゃないんですね。ボクには一瞬にして明さんの言ったことがわかった。背中にぶつけられた石のことなんかふっとんで、お父さんと同じように、
〈しんちゃんはカッコイイ!〉とその時、ほんとに思ったんです。自分が楽しくなる天才だって尊敬したんですね。
ボクが明さんから、教わったことの最大の、これが思い出です。ボクはこの時にずいぶんいろんなことを教わったような気がします。ボクはいまでも、しんちゃんを尊敬してますが、その証拠がボクのペンネームに表れてるんでした。
ボクの本名は伸宏(ノブヒロ)ですが、師匠の赤瀬川先生に、伸坊(ノブボー)と命名してもらった名前を、みんなが「シンボー」とまちがって読んだ時、即座にそっちの読みかたをとってしまったのは、その時にしんちゃんのことを思い出したからなんでした。
誰かに「しんちゃん」と呼ばれるたびにボクは明さんにホメられた、しんちゃんになったような気がしてうれしかったんですね。この思い出を、ボクは思い出すたびに、とってもウレシイ。
オカモチ持ってニコニコスキップしていたしんちゃんと、縁側からその様子を見てニヤニヤしていた日なたのオトーサンを思い出すたびにうれしい気持になるんです。
歯をくいしばって耐えたり、ナニクソッ! とかいってガンバッたりするんじゃない、たのしいヤリカタ。ホガラカな思いっきりのよさ、マイペース。説明しようとすれば際限もなくズラズラ続きそうな話を、
「アイツはカッコイイぜ」とだけ言ってわからせてくれた明さんを、ボクはいまでも、とても好きです。
明さんは、ボクが小学校五年生の時に、死んでしまったので、結局ボクは一人前の男同士として、口答えをしたり、ケンカをしたり、反抗したりというようなことができずじまいになってしまいました。
しかし、もし、明さんが死なずにいまでもヨボヨボ生きていたら、こんなふうな、思い出すたびに日なたぼっこをしてるような気分になる思い出も、なしくずしになくなっていたかもしれないし、どっちがよかったか、わかりませんね。
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ボクの買った本
『若乃花物語』っていうマンガ本は、五の日に竹屋横町の先に立つ縁日で買いました。五円か十円じゃなかったかな、マンガ本として独立してますが、これは本誌のマンガの雑誌に豪華十大附録とかといって、はさみ込んである五、六十ページの薄い本です。
『若乃花物語』は当時、栃若時代といって前の春日野理事長の栃錦と、いまの二子山理事長の若乃花が横綱同士で名勝負≠していたころで、おすもうさんがコドモにいっとう人気があったころなんですね、それでおすもうさんの伝記マンガというのが現役バリバリの時にできちゃうわけです。
そのころのおすもうは、栃錦、若乃花、吉葉山、鏡里、千代の山と横綱がたくさんいて、ボクはこの中で千代の山がもっとも好きなおすもうさんで、次は栃錦でした。
千代の山は、とっても強いすもうだったそうですが、ボクがファンになった時は、どうもあんまり成績はかんばしくないころです。で、二番めにファンの栃錦は、強くて人気もあったでしょうが、なんといっても若乃花のほうがずっとコドモに人気がありました。
コドモはいちばん強い人が好きなんですね、ふつうは。ところがボクは、やや落ちめの人と、ちょっと渋めのところのファンだった。ボクはコドモのころからちょっとひねくれていたのかな、と思って、よーく思い出してみたことがあるんです。
そのころのおすもうさんには、なんだかとっても奇妙な人がいたんですね。たとえば、大起《おおだち》っていうすもうは、もうものすごく大きい二メートル近くあります。だからものすごく強いのかと思うと、そうではなくて、その名の通りに、ぼーっとつっ立っているだけで、そのうちに相手のすもうの懸命な働きでもって、この大木のようなものがズデーンと倒れるといったカンジです。すもうでは、双差《もろざし》をとられるのは間抜けなもんですが、この大起はイキナリ相手に双差を許すんですね。で、この手をかんぬきといって締めながら持ち上げる技が、唯一の得意技といったカンジです。
たとえば松登《まつのぼり》っていうすもうは、とにかくぶちかましといって体あたり一本槍です。カギのかかったドアにぶつかってくるみたいに、判で押したようにぶちかましなので、相手は体をかわしてひらりとどいてみたりしますが、そうすると松登はそのまま土俵の外まで飛んでいってしまう。
たとえば岩風というすもうは潜航艇というあだ名があるくらいで、必ず組むと相手の体の下にもぐり込みます。アゴが極端に長い大内山とか、大人が三輪車に乗ってるような仕切りをする鳴門海とか、若秩父がコドモの頭くらいの量の塩をまくと、ワザとナメクジにかけるくらいのごく少々≠つまんでふりかける出羽錦とか、とにかくヘンテコなすもうとりがたくさんいた。
で、ボクはそういうおすもうさんを、たしかに好きでしたが、ファンというんではなかった。ファンになるのは千代の山と栃錦です。ところが、なぜこの二人になったのか、は、とくに理由がないんです。
栃錦が好きになってしまった関係でライバルの若乃花のことはきらいになってしまったんですが、そう決まってしまうと、若乃花はいつも、しかめ面をしていて「だからイヤだ」とかと言うんですが、ホントはそんなことはあとから考えた理屈です。
そのころ、栃錦はお尻にたくさんオデキ、吹き出物ができていて、TVがおもしろがって、そのバンソウコウやデキモノだらけのお尻を、大写しに撮ってみせたりしたもんだから、コドモたちは「ウヘーッ、栃錦のけつ〜〜ッ!」とかと言ってハヤしたてたりしたもんです。「だから栃錦はキライだ」というほうがむしろふつうという空気の中で、ボクは「それでも栃錦が好きだ」と思っていたんですが、なぜそれほどまでに栃錦かということになると、それが栃錦が強いからというのとはどうも違うようなんでした。なぜかといって、一番好きなのは、そのころ、もうあんまり強くはない千代の山がもっとも好きだったんですからねェ。
いろいろ、あれこれ思い出してみて、意外な出発点が判明したんです。なんで千代の山と栃錦か、っていう理由がわかった。友だちの加瀬靖夫くんちに、大きなおそろしい土佐犬が二頭いたんですが、その二頭の名が、千代の山と栃錦だった。で、表門に犬小屋のあったのが千代の山、裏門に犬小屋のあったのが栃錦だったんですよ。二頭とも、とても大きな犬でしたからコドモから見るとライオンのようです。とても頭をなでたりというような関係じゃない。したがってその土佐犬の千代の山と栃錦が好きだったわけじゃないんですね。しかし、千代の山と栃錦を好きになった出発点というのは、どう考えても、ここだったということになる。
不思議な心理ですよね。しかも、きらいなハズの「若乃花」のマンガを、縁日で買うのはともかく、それを暗誦《あんしよう》できるくらいに、くり返して読む、というのも実に不思議な心理というしかない。
「エッホッ、エッホ……ここ北海道は室蘭の港。花田勝治(のちの若乃花)は九人兄弟の長男として、港で荷揚げ作業をする沖仲士をして一家の家計をささえていた……」
いまでも第一ページめの港のシーンのコマを思い出せるくらいに、とにかく何度でも読んだのでした。
家に本がなかったわけではないと思う。二人の姉たちが持っていた本、たまには買い与えられたはずの本と、何かしらはあったと思う。ところがボクは、この縁日で自分が買った、五円の本を、ボロボロになるくらいにくり返して読んでいたようなんでした。別に好きじゃないおすもうさんの、伝記マンガをです。
のちになって、父アキラさんが、どうした風の吹き回しか『エイブラハム=リンカン伝』という本を買ってきてくれた時は、それがめずらしかったこともあって、うれしくてさっそく読んだのを覚えてますが、しかし『若乃花物語』ほどには熱中しなかった。
エイブラハム=リンカンはすもうの大起みたいな人だったらしいな、と当時のボクは思いました。その伝記は若いころのリンカンを、ボーッとした大男として描いていたからです。わりと好ましい人物だと思いましたが、とくにファンにはなりませんでした。
さて、暗誦するほど読んだ若乃花物語でしたが、依然としてボクは若乃花のファンにはなりませんでした。いったい、なんだってあんなに何度もアレを読んだんだろう、とボクは考えます。たしかに次の本≠買えなかった、それしかなかったということはあるかもしれない。でも、そうならば、その以前にあった本をくり返し読んでもよさそうなもんです。
ボクがいまの時点で考えるその理由は、それが自分で選んで、自分で買った本だからだ、っていうことです。誰かに与えられたり、読まされたりするもんでない本、教科書と一番遠いところにあった本、それがつまりスリキレるまでこの本を読んだ理由なんでした。
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はたらくオジサン
トクローくんのオトーサンは、マッチのラベルを刷る人だった。墨をする時のようなにおいのする(たぶんニカワのにおいだろう)アパートの部屋で、座ってセッセと仕事をしていた。
〈せっせと仕事する、というのはこういうことだったのか〉
と、ボクはその時思ったが、それはトクローくんのオトーサンが、バレンに上半身の体重をかけて、刷る時に、
「せっ! せっ!」とホントに言ったからだった。トクローくんはボクより年下なのだったが、あとから引っ越してきたので、なんとなくクンづけて呼ばれているうちに、そのままになってしまったのである。ボクはいつまでたっても、
「ボーヤ」なのだった。年下の三歳や四歳の子も、ボクをそう呼ぶのである。
「ボーヤ、行くよォ!」と、二つ年下のトクローくんはボクを促すのであった。頭がスッカリはげてオジイサンみたいに見えるトクローくんのオトーサンは「こんにちは、おじゃまします」とボクが言った時も、「さようなら」と言った時も、まるで気にしないで「せっ、せっ」と仕事をしているのだった。
小さく切った和紙を、ちょうど砥石ぐらいの版の台に、見当をあわせて置くと、新聞紙をあてて「せっ!」と言ってバレンでこすり、めくってやはり新聞紙の上に並べ、また和紙をのせ「せっ」と刷り、はがして並べ、と同じ作業をタンタンとくり返してます。並べたラベルが乾いたころにそれを輪ゴムで束ねて、バンバンとはたきます。乾いた絵の具の粉がパッとけむりのように出ます。刷りあがったラベルの棒のような束を、そうして座ブトンの後ろあたりに片すと、オジサンはまた、刷り台に絵の具をハケでつけ、見当をつけて紙をのせ、新聞紙をのせ、バレンで「せっ」と刷り……と、続けているわけです。
「ボーヤァ!!」とトクローくんがせかすので、ボクはしかたなく、オジサンにアイサツして、アパートの暗い廊下をぺたぺた歩いて、階段の下のズックをつっかけて外に出ます。
絵ビラ屋さんは、綿工場の加瀬くんの家の向かいにありました。絵ビラというのは、おもに銭湯なんかに貼り出す、新規開店のポスターで、いま思うとぜいたくな、手描き着彩のキレイなものです。ちょうど凧の絵のようなたくさん色を使ったゴーカケンランもので、たいがいはエビス大黒とか、宝船とかオメデタイ絵で、そこに商店の名前や、いついっかに店を開くみたいなことが書いてある。
まず模造紙のでかいのが束になって置いてある、そのまっ白の紙に、太い筆でいきなりなんだかわからない線がグリグリ、サッサッと描かれて、ビラッとその大きな紙が横に置かれます。するとまた白い紙にまたグリグリ、サッサッと同じような線を勢いよく描いていきます。そんなふうにして、全部同じようにワケのわからない線を描き終わると、絵の具をといて、こんどはハケのようなもんで、あちこちに色を塗る、めくって横に置き、また次の紙に色を置く、そうしてまた全部、同じように最後まで塗ってしまうと、こんどはまた色をかえて、チョイチョイチョイと着彩する。
黄色、ボタン色、赤、空色、と何度めかの色を置いたころ、やっと、どうやらこれは宝船だな、とか、大黒さんだな、という絵柄がわかってくるんですね。これがまァ手品みたいに手際がいい、ボクはもうその店の前に半日くらい立って、それを見ているんですよ。どんどん絵ができていって、エビスさんの顔が描かれて、鯛に目が入って、うろこの模様が描かれて、できあがってくる、それも、五十枚くらいか、あるいは百枚くらいなのか、同じ絵がズンズン、ズンズンできていくんです。
絵ビラ屋さんでは、誰も帰れとも言わないし、せかすやつもいない。だからもうボクはずうっとそれを見ているんです。オジサンはやっぱり無口で、もちろん話しかけたりしないし、ボクも喉が乾くくらいにポカンと口をあけて、グローブ持ったまま、そのお店のガラス戸の外のところに、ずっとつっ立ってそれを見てるんでした。
〈うまいなァ〉と思ってるんですね。ボクが絵を描く時は、どうしようか、こうしようか、さんざん迷ったり、失敗して消したり描いたりするのにオジサンは、まるで迷いというものがない。一気に力強く、しかもサラサラ、パッパッと実に水際立って描いていく。
金丸くんちのとなりには畳屋さんがあった。ここでもボクは、畳を縫ってるところを見ていたけど、畳屋さんは、近所にリヤカーで出張してきて、道端で仕事したりするんで、その時のほうが、よく見ました。そばにしゃがみこんで、針のお化けみたいな、荒木又右衛門の手裏剣みたいなのを、ブツッブツッとさしておいたり、ヒジを使ってギュッと糸を引っぱり上げるところとか、そのヒジにピカピカ光ってるカネでできてるヒジアテがあるのや、プーッとやかんから飲んだ水を霧にして吹くところなんかを、カッコイイなァ、と思って見てたりしましたね。
たいこ焼きをつくるところもカッコよかった。メリケン粉をといたのがでっかいバケツに入れてあって、それをひしゃくですくって、やかんみたいなものに入れる、たいこ焼きの型に丸い油バケで、サッ、サッ、サッ、サッと油をつけて、そこにリズムをつけて、クイッ、クイッ、クイッとメリケン粉のといたのを注いでいく、アンコが大きいバットに入れてあるのを、樋に柄のついたような道具にヘラで盛りつけていく、そのころにはたいこ焼きがどんどん焼けてかたまってくるんで、その上の段のところに、同じ量ずつアンコをヒョイ、ヒョイ、ヒョイとヘラで置いていくんですね。で、ちょっとそこらを台ふきんみたいなもんでキレイにしてみたりしていて、ころよしと見ると、こんどは千枚通しのようなもんでアンコを入れてないほうの下の段のたいこ焼きをひっくり返しながら、ポン、ポン、ポンと上の段のアンコありのほうのたいこ焼きにのせていくんですよ、おもしろいねェ。
大工さんがかんなをかけるとこ、ノミでホゾをつくるところ、ノコで切るところ、口にくわえた釘をみるみる打ち込んでいくところ、ペンキ屋さんが、トトッツーッとペンキを塗るところ、みんなこう、カッコイイ。熟練した技の動きというのはなんとも言えずにホレボレするんですね。ボクはこういうものをコドモのころに、たくさん見ていられて、とってもよかったと思ってるんですよ。カッコイイなァと思いながら、そばでそうやって、いつまでも見ていられたのがすごくよかったと思っている。ボクはホントにこういう、道で働いてるオジサンから、たくさん、何か教えてもらったという気がしてるんです。
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不可解なイーダ
ボクはあがりかまちに腰かけて、ボーッとそこから続いてる細い道を見ていました。細い道は大家さんと共用の道になっているんですが、そこを大家さんのおばさんが、庭箒《にわぼうき》で掃除しているところなんです。
サッサッサッ、サッサッサとおばさんの箒の音だけがしています。あれは春のことだったのか、冬のことだったのか、それとも夏か秋かもわからなくなってしまっているのに、その時の気分だけはムヤミにクッキリと鮮明に覚えているんです。
いったいなんで、ボクはあんなことをしてしまったんだろうか? と思い出すたんびに不思議なんですが、ボクはその道を掃いてるおばさんの後ろ姿をボーッと見ているうちに、その大きなお尻に、
「イ――だ!」と言いたくなってしまったんです。言いたくなったというより、イ――だとしたくなった。コドモがよくする、イヤなやつやきらいなやつにするあの顔です。顔じゅうを中心部に寄せてシワだらけにして、その|ヤ《ヽ》な対象へ思いっきり突き出す、アレです。
ところが、そのおばさんはちっともヤなやつでもきらいなやつでもなくて、むしろ、とってもいい人だとボクが思っている人だったのです。なんでそんな気持になったのか、その時もわからずに変な気分だったんですが、ともかく、そのアイデアを実行したくてしかたなくなってしまった。
一つには、おばさんをイヤでもきらいでもないというのがキッカケでもあったのです。そうして、おばさんがこちらに気がついていないというのも一つの要因だったかもしれない。もし万一、イーだ! とこちらでやっているところを、おばさんが振り返りでもしたら〈大変なことになる〉とボクは思いました。
で、ついにやってみずにはいられなくなってしまったのでした。おばさんはサッサ、サッサとあいかわらず余念なく庭掃除をしています。時々草をむしったり、チリ取りでゴミを集めたりしながら、後ずさりしながら、こちらに近づいてきます。
声には出さず、顔だけを、軽く「イーだ」してみました。瞬時に通常の顔に戻せるように細心の注意を払っています。そしていくらもしないうちに、パッと通常顔≠ノ戻しました。こんどは舌を出して「ベーッ」としてみました、すぐまたパッと顔を戻します。
おばさんは何も気がつかずに、まるで何事もない様子です(もちろん、おばさんにとっては何事もないんですが)。そんなふうにしてまるでスリルを楽しむように、イーだのベーだのという顔をボクは何度もしていたんですが、その何度めかのイーだをしたとたんに、
クルリ……
とおばさんがこっちを振り向いて、たしかに、ハッキリとそれを見られてしまった! のだった。そう、万が一のことが、あっさりと、なんの前ぶれもなしに、イキナリ起こってしまったのです。この場をどうとりつくろうんだ!? とボクの頭は大汗をかいたようになりました。
なにしろボクは、その時にコドモでもなんでもないんです。もう高校も卒業して、ハタチになろうかという、大人なんですからね。何が起きたのかおばさんのほうだって信じられなかったでしょう。両方であわてているうち、おばさんは|何も起こらなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことにしてクルリとまた、むこうを向いてしまったのでした。結局その後、このことのお詫びもしないままボクはそこを引っ越してしまうことになってしまうのですが、その後ボクは何度も〈いったいなんで、あんなひどいことをしてしまったんだろう〉と思い返したもんでした。おばさんの、いわれのない仕打ちをうけた不気味な悲しみや、不安を思いました。悪いことをしたと胸が痛みました。
ところがこのことで、ボクは自分の不可解さを感じることができた、とも思っているんです。おばさんに、ほんの少しでもウラミがあったり、不快な感情を持っていたのなら、それでわかりますが、何もそんなことはなかった、とてもいいアンバイのご近所関係ができていた。おばさんもボクをふつうに礼儀正しい青年として見てくれていただろうっていうのに。
コドモのころのようにしてみたかったんだろう……と最初はそのように自分の心理を説明しようと思いました。コドモというのは、たしかに、よくアカンベーだのイーだのをします。コドモのころによくしていたように、何も考えずにそんなことをしたかったんだと思おうとした。
そういえば、一人暮らしをしていたおばあちゃんをハヤして、おこったおばあちゃんが箸を持ったままどなり込んできたことがあったっけ、その前の日には、おばあちゃんのところで、庭でとれた落花生をごちそうになって、仲よしになってたっていうのに……。あの時タカコさんが平あやまりにあやまりながら、おばあちゃんが帰ると、
「コドモの言うことに……あんなに本気にならなくたって……」と小声で言ってるのを聞いて、コドモのボクが何か割り切れない不機嫌を感じていたのを思い出してしまった。
年長の友だちの家へ行って、そこの男のコを機嫌よく遊ばせているうちに、そのコがなんの前ぶれもなく、食べていたビスケットを、ボクの顔めがけて吐きつけた時のことを思い出してしまった。
コドモの気分て、なんだ? 誰彼なく、ただ単に唐突にアカンベーだのイーだのビーだのを、コドモはしていたのだったろうか? 自分でしたことも、自分がされたことも不可解だったように、コドモのアカンベーは、そんなに簡単なものではなかったのかもしれないな、と思ったのでした。
〈なぜそんなことをする!?〉と大人であるボクは思うのだ。信じられん! ボクが親であったりすればどなるだろう。頭をピタリと張るかもしれない。あやまりなさい! バカヤロウ。
大人は複雑だがコドモは純真《ヽヽ》で正直《ヽヽ》で簡単《ヽヽ》である。アカンベーはそのように簡単で正直で純真なコドモの気持の表れなのだと大人は往々まちがうが、それは大きなまちがいだろう。
とっても不可解な、それを深く考えているとコワイ考え≠ノなってしまうような複雑なものを、コドモは大人と同じようにかかえているのじゃないだろうか。
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がんばった話
ボクは英会話ができません。海外旅行などした時に、外国の人に英語で話しかけられたりすると、笑ってしまいます。なんにもわからないからです。英語ができたらこの人と話ができるのになァ、と思うと、ホントは少し悲しいような気分なのに笑っています。
それからボクは、自動車の運転ができません。運転免許証というのも持っていないんです。そりゃあ、この世が地球最後の日≠ゥなんかになって、ボクだけがとり残されたりした場合に、そこに自動車が置きざりになってたりすれば、それを動かすくらいなことはできる気はします。自動車を動かすだけなら、そんなにムズカシそうな気はしない。運転免許っていうのは交通ルール≠フ免許皆伝のことなんで、これがわかってないと、大変なことになるんでした。オートバイを河原でブッとばしたり、広い海で船の操縦をさせてもらったこともある! といってもとにかく自動車の免許はないんです。
最近はこの二つは、できない人のほうがめずらしいような感じになってきました。できないとちょっと肩身が狭い感じなんですが、四十二年も人間をやってると、ズルくなってますから、できないものを「できる」とミエを張ったりすることがなくなってしまいました。
ズルくなったのは、ひょっとすると、もっと前、二十年くらい前からだったかもしれません。もっと昔はズルくなかったので、できないこともできるフリをしました。
小学校の時、ボクは泳ぎができませんでしたが、それを認めるのは恥ずかしい、と思っていたので、ちゃんとミエを張ってました。女子≠ネんかにきかれたら、平泳ぎもクロールも潜水も、おちゃのこさいさいだ! と言ったと思います。実際にはそういう機会がなかったので言いませんでしたが、男子≠フ友だちには、泳ぎができないなんて一言も言わないばかりか「何メートル泳げる?」なんて言われれば「つかれるまで」と答えてました。
実際はいきなり|つかれ《ヽヽヽ》ちゃうんですけどね。でも、こういうミエは、いともカンタンにバレてしまうんですね。で、よくあることなんで、そこをさらに追及したりするっていうことは当時のコドモはあまりしませんでした。
でもいっしょに海水浴なんかに行くと、結局、泳げないですから、背の立つところでポチャポチャやってるくらいで、しかたないので海の家のそばに座って、砂遊びをしていたりするワケです。
友だちは寒くなってブルブル震えるくらいまで海に入ってきて、ポタポタ水をたらしながらはしゃいでいるのに、ラウドスピーカーから流れる歌謡曲やらハワイアンやら、映画音楽なんかをききながらボーッとしてると、ちょっと情けないような気分になるんでした。
ボクは、あのころのウソつきの自分はとてもいいなァ、と思います。ミエ張ってウソつくっていうのは前向きだなと思うからです。ひょっとすると、小学生のころからボクはちょっとズルかったのかもしれないですね。それからというもの、ミエを張り通さないで、できないものはできない、と言って開き直ってしまったんでした。「オレ、ぜんぜん泳げない」と悪びれるふうもなく言えるようになってしまったんです。
「泳げない」と言うのが恥ずかしくて、何が何でも泳げるようになってしまおうとするのはいいことです。ミエを張るというのにはそういう効果があるんですね。ケナゲにがんばるというのはとても美しいことです。
「さかあがり」に関しては、ボクはけっこうケナゲでしたね。小学校の三年生ぐらいだったでしょうか、ボクは「さかあがり」ができなくてくやしくて、放課後になると、すぐに鉄棒のところに行って、ポッケの中にあるものは全部ランドセルに入れてそばに置くと、いっしんにさかあがりを始めたんでした。
一回、二回、三回、四回、何回やってもできません。十回、二十回、三十回、そのうちどんどん日が暮れて薄暗くなってきました。
そういえば、あのころは学校の校庭でいつまでも遊んでいても、あんまりやかましく言われなかったんですね。三時間もたったころでしょうか、ボクは突然さかあがりができてしまったんでした。
うれしくなって、試しに何度かやると、さっきまでのことがウソみたいに軽々とできてしまうんでした。手の平のにおいをかぐと鉄棒のにおいがしました。ランドセルをカタカタいわせて帰ってきた時のことをいまでも覚えてます。タイムマシンでコドモのころの自分が見られるとしたら、ボクはこの時の自分を見てみたいと思いますね、ヒタムキでケナゲで、とてもかわいい。
ふつうの大人は、こんな経験が、もっとたくさん、いろんな時代にあるハズなんです。入学試験のためにガンバッたり、クラブの練習でガンバッたり、試合に全力をつくして負けて泣いたり。ボクがこんなふうに、ケナゲにしてたのは三年生くらいまでだったんでしょうか、それから先にこんな思い出というのがありません。
小学校六年生のころのボクに会ったら彼はこんなふうに言ったでしょう、「さかあがりができたから何になる」「泳げなくたって生きていけるよ、水ッ気のあるほうには行かないようにするし」。かわいくないじゃないですか。
高校生のボクはこんなふうに言うかもしれない。「大学入試が何だ、テストでいい点とってそれがどうした」。そうして、そんなふうな考えのまんま、ボクは現在のズルイやつにそのままなってしまったんですが、三年前、ボクは突然スイミング・スクールに通ってみることにしたんでした。自己流で平泳ぎができるようになってましたが、でも、わりとすぐに|つかれちゃう《ヽヽヽヽヽヽ》泳法で、つまり泳げないも同然だったわけです。
そうして、剣道の先生でもあるっていう、コワイ顔したスイミング・スクールの先生にクロールを教わっている時に、その小川先生というかたが「よし、むこうまで二十五メートル! 立たずに泳ぎきったら昼メシおごる!」と、突然おっしゃった。やっと少し泳げるようになって、八メートルおきぐらいに立ち上がって顔を洗ってるボクにです。
昼メシをおごってほしかったワケじゃなく、先生が奇妙に真剣だったのが、ボクがやる気になった動機でした。十五メートルくらい泳いだところでゲボッと水を飲んでしまった。ものすごく苦しくて、まるでおぼれてるみたいにバタバタしてしまいました。
そこでボクはなぜだか、ガンバッてしまおう! と考えたんでした。とてもメズラシイことでした。ゴールした時は、死ぬかと思うくらいでした。小川先生といっしょに授業を受けていたオバチャンたちが拍手してくれました。うれしかった。
四十二年間生きてきて、ガンバッたのがたったの二回ってのもあきれますが、でも、この二回めの経験で、ボクの考えかたはほんの少しだけ変わったような気がします。
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大人になったら
大人になって、ボクはバーとかキャバレーとかクラブとかにも入れるようになりました。
「水割り」とか「ジントニック」とか注文して、となりにキレイなおねえさんとかがいても平気です。
コドモの時には、バーはアナザーワールドだったのにな、と大人になって、バーとかキャバレーとかに平気で入れるようになってしまったボクはちょっと残念なような気がするんでした。
近所にバーができたのは、ボクが小学校の三年生くらいだったでしょうか、しんちゃんのお母さんが働いていた「サンキュー食堂」が、一部を改造してバーになってしまったのです。その場所でボクは、氷イチゴとか、モナカアイスとか、一枚五円のおせんべとかを食べながら、お相撲を前頭の土俵入りから、弓取り式まで見ていたっていうのに、そこが「トリスバー39」になってしまったとたんに、決して入っていけない場所になってしまったのです。
サンキュー食堂の前は砂利置場になっていて、ボクらはその空き地で、三角ベースをよくしていましたが、まだ明るい三時か四時ころに、黒いドレスを着た、でもまだお化粧前のおねえさんが、お店の掃除をしたりするので、バーの|なかみ《ヽヽヽ》≠ェちょっと見えたのです。
外は明るくても、窓のない「トリスバー39」の店内は、いつも夜になっています。ちょうど青空に四角い夜の穴があいているような、それは不思議な景色なんでした。ボクは一塁手のまま、その夜の部屋をボーッと眺めているんです。おねえさんは、モップで床をふいています。頭にはパーマネントにする、サメの口のような金具をいっぱいつけてます。
部屋が夜になっているのは、暗いこともさることながら、赤や青や黄色や緑や紫の電球が灯っているからです。そうして、見たこともない、変なカタチをした洋酒のビンが、飾り棚にたくさん置いてあります。
それから、脚のついたコップ(カクテルグラスやブランデーグラス)が置いてあるのが見えます。そのころ家庭にはそういうコップはありませんでした。優勝カップみたいな、そういう本式のコップ≠ヘ絵で見るくらいで、キャラメルの箱のセロハンなんかで、つくってみたりしたものです。それがたくさん置いてある。
ボクはグローブをはめたまま、口をポカンとあけてそれを見ていたと思う。でも、それはそんな長い間じゃないんです。おねえさんはバケツの水を、道にぶちまけると、英語の書いてある赤いドアをバタンとしめて中に入っていってしまって、もう外には出てきませんでした。
おせんべを食べながら、寄っかかっていた壁は、もう以前とはぜんぜん違う場所になっていたんでした。ボクも大人になったら、あの中に入れるんだな、そうして、あの脚のついたコップみたいな、高い椅子に腰をかけて(それは実際とほうもなく高い椅子に見えた)あのつるつる光る長いテーブル(カウンター)でお酒を飲むんだな。とボクは想像しました。
あそこに、早く入れるようになりたいな、とボクは思ったけれども、一方でそれは、あの背の高いあぶなっかしい椅子(止まり木というのだというのを知っていた)みたいに、どこかおとし穴≠フような、アブナイ、こわい場所のような気もしたんでした。
バーとかは「あぶない場所だ」というのを、なんとなく大人の会話を小耳にはさんでいたからもあるけれども、自分でも有力な証拠を握っていたからです。
鈴木さんは、クラスが違うけれども、顔がフランスキャラメルなので有名なんでした。どうしてかというとお父さんがアメリカ兵だからだ、と教えてくれるのがいて、そうしていまあそこに歩いていくのが、鈴木のお母さんだというのでボクはそっちを見たのだ。
鈴木さんのお母さんは、まるで顔が似ていなくて、やせた頬骨の高いオバさんだった。それよりボクはオバさんの様子が、ただならないのに気がついて、目が釘づけになってしまったのだった。そうなっているところに、その近所の情報通は、さらに言いふらすように小声でこう言ったのだ。
「あのオバさん、池袋のバーに行くんだゾ」。つまり、オバさんはバーのおねえさんをしているらしいのだった。言われればたしかに、オバさんは派手な服を着ていた。それにものすごく高い「赤いハイヒール」をはいていた。
何よりも、ただならぬ気配を感じたのはオバさんが、ウエストを思いっきり締めつけていることだった。その白いエナメルのベルトは、思いっきり息を吸い込んだままのおなかを締め上げるみたいに留めてあった。
ボクには、ベルトを締めつけてハイヒールで歩いてくるオバさんが、まるでウンコが出そうになるのを必死でガマンしてる人のように見えたのだった。顔色は悪いし表情は息を吸い込んだまま固まっている。
〈バーはおそろしい場所だ〉とボクが思ったのは、このオバさんの表情によるらしかった。これから池袋のバーに行くオバさんは、そのためにあんなに切迫した緊張した顔になってしまっているのだ。とコドモは思ったのだ。いったいバーにはどんな危険が待ちうけているのだろうか?
それでもボクは、バーに行きたい、と思っていたのだった。あの床屋さんにあるような変なカタチの壜《びん》に入った、緑色や黄色のお酒を飲んでみたいと、そう思っていたのだった。
ところが、大人になったころは、そんなことをすっかり忘れてしまっていた。いつのまにか行くようになっていた酒場は、ただ酒を飲むところなだけで、ちっともアナザーワールドでもトワイライト・ゾーンでもなかったからだった。
このことを思い出したのは、銀座の「ルパン」とか蒲田の「金時」に入った時だった。銀座のルパンは、太宰治が止まり木にあぐらをかいてる写真で有名なバーです。ここの店内がいっとう、コドモのころに感じたバーに近かった。もっともトリスバー39は、もっとチャチでケバケバしかったけれども。
蒲田の「金時」はキャバレーですが、ここは店内がまるきり日活アクションの一シーンのようになっている。こういうイメージは、コドモの時にはありません。日活映画を見るようになったのはずっとあとだったからです。ではなぜ、ここでコドモ時間に引き戻されたのかというと、ここにいるおねえさん≠ェ、まるっきり、当時のおねえさんのようだったからでしょう。まるでタイムスリップしたみたいにおねえさんは昭和三十年代になっていたんです。
ただ残念なことには、その時ボクはちっとも大人っぽくできなくて、以上のような話を黒いドレスの、髪の毛がロンドンの衛兵みたいな厚化粧のおねえさんに、いっしょうけんめい話していたんでした。どうもボクはコドモの時に思ったようには大人になれていないようです。
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運動会の思い出について
アダムとイブのアダムさんが、ご禁制のリンゴを食べて楽園を追放されたっていう話はもうずいぶん昔の話ですが、あのリンゴというのは、いまの姫リンゴくらいの小さなものだったそうですね。盗み食いをしてるところを、神様に見つかって、ビックリ、喉につまらしちゃったもんだから、それから男の人には喉仏があるんだそうです。それにしても、なんだって、神様の話に仏様が出てきちゃうのか不思議ですが、もともと、アダムさんの話は名前からもわかるように外国の話なんでした。
果物も、食べやすいように、おいしいようにいろいろ、お百姓さんが研究をして改良をしているんでした。リンゴが大きくなったのはいつのことか知りませんが、ボクが小さな時に比べてもかなり大きくなってると思います。
トマトは一時期、どうしてこんなことになったのか? と思うほどまずくなりましたが、またおいしいトマトも出てくるようになりました。そうなってしまうと、オヤ? コドモのころに食べていたトマトは、こんなにおいしいもんだったかな、もっと青くさくて、なまぬるい味がしていた気がするけど、と思うんですね。
青くさかったり、なまぬるかったりするよりも、おいしいほうがいい。かと思うとそうばかりではないので、あの青くさいのも、ちょっともう一度食べてみたいな、と思ったりするもんで、勝手なものです。
夏みかんのあの、まるでイジめられてるみたいに極端にすっぱいヤツ、あれはもう買いに行っても、どこにも売ってなくなってしまいましたが、房を全部むいて、ガラスの器に山盛りにしたところに、お砂糖かけたの食べたいなァ、とか思うんですね。
実際に食べたって、きっとそれはおいしくなんかないと思うけど、きっとそうして食べてると、夏休みに身震いしながら、夏みかん食べてた縁側のコドモ時間が、そのままたち現れそうな気がする。庭のアサガオや、トンボが二匹とカナブンだけの昆虫採集の宿題や、Yシャツの箱でつくった水族館の工作のことなんかが、そのままイキイキとよみがえってきそうな気がするんです。
本当は、運動会のことを書こうと思って、ずいぶん寄り道をしてしまいました。運動会、というとボクはすぐに、あの青くさくてすっぱいだけの早生《わせ》みかん、あの緑色の果物の秋らしい香りのことを思い出さずにはいられないんですね。あの早生みかんも最近は甘くなって、香りが弱くなってしまったのが不満なんです。
綱引きだの騎馬戦だの棒倒しだの玉入れだの、玉ころがしだのムカデ競争だの、運動会っていうのは、ほんとにいろんなことをしたんでした。お昼の休みになると、この日だけは給食じゃなくて、家族の席へ行って、おいなりさんやのり巻を食べます。
そうして、そういう時に、そこらじゅうから、青いみかんの香りがしてくるんでした。空に万国旗、フワフワの紙でつくったピンクの花飾りがたくさんついた選手入場門とか、テント張りの来賓席、赤白の張り子のダルマや玉、真新しい体操着(といっても男の子は、木綿のトランクスにランニングだが)、赤白のリバーシブルの帽子やハチマキ、それに競争|足袋《たび》っていう、一日でダメになるランニングシューズっていう具合に、一年に一度しかないことがたくさんそろっていた。
一年に一度しか体験できないことを、何度も体験できるっていうのはゼイタクなようで、実現してしまえば、ちっともゼイタク感がないっていうのは、いまの日本人はみんな気がついてることかもしれない。夏にもみかんが食べたいと思うのは、昔なら大店《おおだな》のドラ息子が、しかも病気になった時にやっとかなう夢だったけれども、現代日本人ならいつでも食べられる。
浦島太郎って、なんであんなに家に帰りたがるのか?(帰っても知らない人ばっかりになっているのに)と結末を知ってるボクは、話を聞くたびに残念なのでしたが、しかし一方で鯛や鮃《ひらめ》の舞い踊り攻勢の退屈や、飽食の気分も、うすうす感じてもいたのだった。
運動会の終わってしまったあとに、体育用具の小屋で紅白のダルマや玉入れのカゴを見たりする時の、奇妙なうらさびしさが楽しいこと≠フしくみを感じさせていたのでしょう。
いつもできてしまうこと、というのは楽しくないんです。お正月もお祭りも遠足も学芸会も、一度でガマンするから楽しいのだ、とボクは決めている。
そういえば、あの一日でダメになる競争足袋っていうものも、そういうワケで、すぐれた小道具だったんだなあ、といまさらのように思い出します。布でできたソックスと足袋と運動靴の中間のような、この奇妙な履き物は、裸足で走るのと同じような軽さが身上だった。これを履けばいつもの三割がたは早く走れそうだったが、みんなも同じように競争足袋だからなのか、ボクはそれで一番にも二番にも、三番にもなれないのだった。
ボクはどうも駆け足がおそくて、そんなわけだから運動会の日は、栄光とか得意とか、晴れの舞台というようなことはなかったのです。あの一着二着三着の子が、数字の入った三角の旗の下にたまっていって、テントのところで賞品のノートや鉛筆をもらったりするのを〈いいなあ〉と思って見ていたのだろうと思うんだけど、なぜなのか、その時のくやしい気分とか、不満の気分とかはどうしても思い出せない。
それよりも、終始流れていた音楽やアナウンス、パタパタはためく、ブラジルやインドやニュージーランドやアメリカや、イギリスやイタリアやフランスやネパールやソ連やドイツの万国旗の色に、楽しい、いつもと違う気分を感じていた、そんな様子ばかりが思い出されるんです。
泥がついて、半分やぶれかけてきた競争足袋や、すりむいた膝小僧を洗いに水飲み場まで歩いていくところや、ゆでた栗の湿った皮のにおいを思い出せる。乾いたむしろのにおいや、のり巻ののりのにおいも思い出せる。そうしてそんなことがみんな楽しいのだ。
そういえば五年生ぐらいからは、お昼が給食になった。ざらめのかかった揚げパンとミルクおしるこかなんかの特別メニューでした。それをいったん教室に戻っていつも通りに食べる。家族が来られない子への配慮だったのでしょうが、やはりちょっとさびしいもんでした。
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五円玉の思い出
その五円玉は、ツツツと動いたんです。五円玉は生き物じゃあないんですから、動くわけはありません。動くわけはない五円玉が動いたので、ボクはそれを追いかけた。
すると、その五円玉は、こんどはツツツツツ――と、大幅に動いたんですね。そこでボクはさらにおっとっとという感じで追いかけていったわけです。
当然、五円玉にはエナメル線がつないであって、それを道端にある縁台に座っていた中学生のお兄さんがたぐっていたわけです。それにしても、そのお兄さんだって、ひもつきの五円玉を、こんなにまで深追い≠するやつはいまい、と思っていたでしょうね。
道に五円玉が落ちている。オヤ? 五円玉が落ちてるぞ、と思って身をかがめようとする、とたんに五円玉が、ツと動きますから、ここでふつうは気がつきます。
ちくしょうかつがれた、というんで、そのかつがれたやつは恥ずかしそうに足早で去る、そこでみんなで、ウヒャヒャヒャヒャひっかかったひっかかった大成功! と言って笑う。というのがお兄さんたちの予定だったと思うんです。
ところがこいつは、三度まで、動く五円玉を追ったんですよ。五円玉はもう思いっきりたぐられて空中でユラユラしてます。ボクと目のあったお兄さんは、バツの悪いような顔をしてるんですね。
これが五円玉の思い出の第一です。ボクはそのころ、小学校の二年生くらいでしたかね、五円玉がほしかったんでしょうね。そのころ五円でどのくらい買い物ができたのか、よく覚えてません。
そのころ、そういえばボクはよくお金を拾うコドモでしたね、といっても落ちているのは、一円玉か五円玉十円玉。そのころ百円はお札でしたし、五十円玉というのもなかったと思う。そんなわけで拾うといっても、少額のものです。それをボクはいちいち交番に持っていくんでした。
十円落としたが届いているか? と交番に申し出る人というのも、さすがに昭和三十年代にだっていないですから、正直言ってお巡りさんもメンドウだったに違いないです。
で、お巡りさんは、とりあえず、あ、いい子だねとか言って、その十円玉を引き出しに入れて、自分のサイフから十円玉をとり出すと、それをくれました。
どうせ最終的には、もらうんだから、いちいち届けることはなかろう、お巡りさんだって忙しいんだから、というふうには考えませんでした。
拾うのは、お金だけじゃなく、ガラスのカケラだのネジだの石ころだの、どういうものかいろいろ拾っちゃあ、半ズボンのポケットに入れて家へ戻る。
「なんだお前は、拾い屋か?」とアキラさんがあきれたような顔をしてバカにしますが、このクセはなかなかなおりませんでした。
もう一つの五円玉の思い出は、もっとコドモの時で、小学校へあがる前だったと思います。台所の引き出しをひっかき回してましたら、重曹《じゆうそう》とかサッカリンとか、輪ゴムとかにまじって、五円玉があるじゃないですか。
〈こりゃあいい〉とボクは思った。で、さっそくそれを握って駄菓子屋の「うさぎ屋」さんに行って、五円分のものを物色して、ハイと代金をわたすと、おばさんがいきなり、
「これは違うよ」と申します。当時、五円玉というのは二種類ありまして、黄銅貨で穴のあるものとないものがあったんですね。で、ボクが引き出しで発見した五円玉は、穴のあいてないほうなんです。おばさんは、穴のあいた五円玉しか知らないのだ、大人のくせに困ったものだ、と小学校にあがる前の坊主頭は考えたんですね。
「これはね、五円玉じゃないの、これじゃ買えないのよ」とおばさんは、少しやさしくさとすように言ったんですね。まったく、知らないというのは困ったものだ。五円玉には穴のあいたのと、あいてないのの二種類あってね、たしかにいまは穴のあいてるもののほうが多いが、これだって、レッキとした五円玉なのですよ。とは、口の回らないボクは言えませんでしたけどね、
〈ああ、この人に教えてあげてもラチがあかない〉と思ったんでしょうね、とにかく自分のほしいものをとると、
「これも五円玉なんですよ! おばさんは知らないかもしれないけどね」と頭の中で言いながら、のしイカの入ったガラスケースの上にパチンとその五円玉≠置いて、ボクは走って帰ってきてしまったんですね。
夕方、タカコさんが勤めから帰ってきて、
「ノブヒロ、うさぎ屋さんで五十銭で十倍の買い物してきたんだって?」と笑いながら言うんでした。いったい、どこから五十銭玉なんか見つけてきたの? と言って、その五十銭玉をテーブルの上に出したんです。
なんと、一円玉より安いコインというのがあったんですね。それは色も形も穴なしの五円玉にソックリなコインで、これが二枚で、一円になるというんですよ。
アルミのペラペラの一円玉より、ずっとエラそうな格調ある黄銅貨なんですがね、ともかくそれは五十銭玉であって、まちがっていたのはおばさんではなくて、ノブヒロのほうなのだ、とタカコさんは言って、また笑いながらこう言った。
「うさぎ屋さんが、お宅のお子さんはもうとっても強情で、いくら違うと言っても、おこったような顔してて、しまいにはもう、五十銭玉置いて品物持っていっちゃうんでしょう、もうほんとにガンコですよって。もうおかしくて、おかしくて」
その五十銭玉は、あそこの引き出しから見つけたのだ、とボクが言うと、タカコさんは何を思ったのか、同じその引き出しに、それを戻して、夕食のしたくを始めるんでした。おそらくタカコさんは、どうもすいませんねと言って、五円わたして、その五十銭玉を引きとってきたんでしょうね。
ボクは時々、この五円玉のことを思い出して、結局、オレはあんまり変わってないかもしれないな、昔から、と思います。
強情でガンコだから、まちがってるのは自分じゃないか? とは考えないんですね。
昔から、ガンコ者のことを「這っても黒豆」と言いますが、なるほどうまいことを言うなあ、とボクは冷静に思うんですよ。そうか、それで「這っても五円玉」だったのだと。五円玉がツと動き、追うとツツツと動くのは、それが「這う五円玉」なんだということなんでしょう。「這っても五円玉だ!」と眉を上げて、キッとなってる小学二年生の顔をボクは想像して笑います。
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ミツエさんのお化粧
ボクの家は、お父さんのアキラさんと、その弟のトキヲさんが共同で建てた、いっぷう変わった家でした。玄関を共有にして左右にまったく対称的な間取りを配した、二戸で一戸になったような家だったのです。
アキラさんとトキヲさんは仲のよい兄弟だったのでしょう。そのようにして、長女が両家で同じころに生まれたところまでは、まるで家族構成まで同じの家族が左右対称に住んでいたというわけです。
ミツエさんはトキヲさんの奥さんで、つまりボクにとっては叔母さんになるんですが、思い出にあるミツエさんは、ボクにはどこか、いわば抽象的に女の人≠フような存在でした。ボクが物心つくようになったころ、ミツエさんはトキヲさんと別れてよそへ行ってしまったので、そんなふうに思ったのかもしれません。つまり、ミツエさんとボクは、叔母と甥のような関係で会話したことがなかったのでした。
ところが、ボクには、おそらくもっとも古い記憶に属するころのシーンが、そこだけ割合に鮮明にあって、それがミツエさんにおぶわれて雪の道を歩いているところなんです。ボクは暖かいネンネコにくるまって、ミツエさんの背中にいる。見える景色は夕方の桔梗《ききよう》色に暮れかかった雪景色です。
何があったというワケでもないのに、妙にそのことを覚えているのが、ボクは少しおもしろい気がします。ミツエさんは瓜実《うりざね》顔の少しキツメな美人でした。
母タカコも若いころは、丸顔のかわいいタイプの美人でしたが、これはのちになってアルバムの写真を見て思ったことで、そのころにはもう、さすがにのんきな性格のタカコさんも、生活のリアリズムがかもし出されたオバサン顔になっていて、小学生のボクは少し残念だったと思います。
ボクが小学校の三年生になったころ、姉のチカコと同い年だった純子ちゃんが、そのミツエさんの家のほうで暮らすことになって、引きとられていきました。つまり本当のお母さんのほうへ行った。トキヲさんは新しい奥さんをもらって、そのお母さんと妹がいっしょに暮らしていました。家族構成はずいぶんと変わって、兄弟の対称形の家は、それぞれに違った色あいになりました。実際、建て増しがされたり、庭の趣味などもずいぶんと対照的になっていったりしたものです。
それで、ともかく駒込のほうへ越した純子ちゃんの新しい家、といっても、それはアパートの二階の六畳間でしたが、そこへタカコさんにつれられてボクは行ったわけです。あるいは、ボクは純子ちゃんの新しい家というよりは、ミツエさんの家へ行ったと思っていたかもしれないな、と、突然四十二歳のおじさんとしてボクは思ったりします。
というのも、その日、そこには純子ちゃんがいなかったということもあろうが、ボクが覚えているのは、ミツエさんが鏡台に向かって、一心不乱にお化粧をしている姿だけだからです。
ミツエさんは、水色の色水みたいなものを脱脂綿で顔に塗ったり、白いクリームを指先にとって、顔にプチプチとつけたり、それをグリグリとさせたり、手際よくそうしながらタカコさんと世間話のようなことをおしゃべりしてました。
時々、ノブちゃんは何年生になったか、というようなことをきかれて、ボクは短く「三年」と言って、「三年生です」と言いかえたりしたと思う。そうしてる間もミツエさんは、いま思えばパフというもので、実に思いっきりよく自分の顔をパタパタパタッ、パタパタパタッとはたいているのだった。
ミツエさんは、これから「お店」というところに行くので、そのようにしているので、タカコさんに、ゴメンナサイネエ、こんなふうで、みたようなことを言っているのだ。タカコさんは、イエイエ、でもタイヘンでしょう、夜のお仕事って、ねえ、のようなことを言っている。
まァ、オバさん同士の話なんていうのは、昔もいまも変わりはしないのだ。ミツエさんはこんどは眉毛を描いたりしている。動作が手早くて、キビキビしている。ピカピカ光る口紅のフタをとってクルッと回すと、まっ赤なキレイな色が出てきて、真剣なまなざしで、少し鏡台に顔を寄せる。その時だった。
「あら?」
と意外に大きな声をミツエさんは出して、鏡の中からボクを見たのだ。いやねえ、ノブちゃん、そんな妙な顔をしてじっと見てて、めずらしい? ときくのである。
ボクが黙っていると、タカコさんは笑って、ホラ、あたしがお化粧なんて全然しないでしょ、めずらしいのよ、アハハハと大笑いしている。たしかにタカコさんはお化粧をまるでしなかった。鏡台の置いてあるところが、だいたいからして便所の入口の暗いところである。
鏡台の引き出しには、しかし口紅や化粧水の瓶なども入っていて、姉たちがそれでイタズラをしたりしても、別段叱られたこともなかった。わきの引き出しに人間の毛が、いっぱいいっぱいに入っているのが、不思議な気がしたが、それはカモジだったのだろう。ともかくタカコさんが鏡台の前にいるのは、着物の帯の結び具合を見るくらいな時に限られていたのだった。
タカコさんが笑うのにあわせて、ミツエさんも笑っていた。ボクの記憶は、それがもう三年生の時のことであるっていうのに、その後はタカコさんと二人で、駒込の駅のほうへ、枕木でつくられた柵にそって、ずっと線路際を歩いているシーンばかりだ。
それ以来、ボクはミツエさんには会っていない。その時のことを、ボクは別段深く考えたこともなかったけれども、昔のことを思い出そうとすると、どうしても、自分ではいちばん古い思い出だと思っている、雪の日のミツエさんにおぶさっていた、その青い夕方のことを思い出し、ことのついでにその駒込の、新しい畳の敷かれた一間きりの、ヤケに明るい陽射しが映えていた障子の部屋を、一心不乱に化粧をするミツエさんを、思い出してしまうというわけなのだ。
ボクはいまでも、というか、まァそう意識したもんではないんですが、奥さんがお化粧をしているところを、なんの気なしに見ていることがあって、
「ダメ」とか言われるのです。何がダメなんだか? と思ったりもするワケですけれども、また、
〈たぶん、ダメなんだろうなァ〉とも思ったりするワケでした。
ミツエさんは、やーねえノブちゃん妙なカオして、と言ったけれども、ボクはいったいどんな妙なカオをしていたんだろう? と思ったりして、フフンと笑ってしまうのであります。
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泣いた関取
「そんなに、相撲がしたいのなら、ニショノセキにでも行ったらどうだ」
と、父アキラさんは言ったのだ。ニショノセキは相撲部屋の名前である。ボクはほんとにおすもうが好きだったので、もちろん相撲部屋の名前はだいたい知っている。
呼び出しの前に場内アナウンスがあって、その時に出身地と所属部屋を必ず放送する。
「東方ァ大関朝潮ォ鹿児島県奄美大島出身ン高砂部屋ァア」
それにボクは去年買った『大相撲カルタ』を何度も何度も読んで暗記してしまったから「井筒、高砂、出羽海、朝日山、立浪、二所ノ関、小野川、三保ケ関、時津風……」と、漢字でも書けるくらいなのだ。
その日は朝から雨降りで、しかも場所中じゃないから、大相撲の放送もない。いつもならとなり町内の、お稲荷さんの土俵へ出稽古に行くところだけどそれもできない。
それでボクは、タンスからタカコさんのオビを持ち出してきて、固く巻き込んだ敷きぶとんにまわし≠フようにそれを巻きつけて、画用紙で特製のサガリまでつけ、そいつと勝負していたわけなんです。
まわしは色こそ朱色で、当時はあまりそんな色のまわしはなかったけれども、光沢といい、ぶ厚い感じといいホンモノソックリでとても気分が出ていたんでした。
もっとも相手は敷きぶとんですから、タテミツはなくて、ただ単にコブ巻きのように横に巻いてあるだけなのは、冷静に考えると、ちょっと残念なんですが、重さも適当にあり、身長もあまりかわらない。
勝負がいきなり四つに組んだところから、始まるのもしかたない。そうしないと相手は一人では立っていられないような状態ですから。
「さあ、栃錦、右上手引いて十分の体勢」栃錦はボクのことです。で、その栃錦がNHKの実況アナウンサーも兼ねている。
「おっと、若、寄った若、寄った、栃、あとがないあとがない。若寄った栃ふんばった! 両者必死の攻防であります!」
もちろんふとんは寄ってきたりはしませんから栃が引きずって、畳のへりのところまで持ってくるわけです。
「栃錦体を入れかえた、土俵中央まで寄り返した、アアーッとォ? 栃上手投げ! これは若乃花残りました。大相撲であります。大相撲になりました。両者肩で息をしております。相手の出かたをうかがうように、土俵中央、両者動きが止まっております。それにしても神風さん、いい相撲になりましたね」
「えーえ、いい相撲ですゥ」神風さんももちろんボクが担当している。
「おおっとォ? こんどは若が投げをうった、栃錦残りました、若寄っています、若ガブって寄った、し、た、て、な、げ、これも残ったァ! 栃あぶない栃あぶない、あとがない、若寄った、栃いっぱいだ! うーわっっとォ、うっちゃったア!」
ガッターン! と若乃花は障子にぶつかって、そこでもう動けなくなっている。ボク栃錦は蹲居《そんきよ》して、手刀を切って、けんしょう金≠もらってるところです。
「土俵いっぱい、剣が峰からのみごとなうっちゃりでした! 栃錦全勝であります!!」とアナウンスのあったとたんでした。むこう正面からドスの利いた声がかかった。
「クダラネエ! 何がみごとなうっちゃりだ」アキラさんであります。むこうを向いたままです。気をつけてはいたんでした。オトウサンは病気で寝てるんです。座敷でバタバタしたらホコリはたつ、病人は寝られない。いつもなら、ボクはこんなことはしない。
小学四年生にとっては、アキラさんは、実にオソロシイ存在なんです。こんな大胆なことできるわけがなかった。最初のうちは、ごく地味に座ぶとん相手の、オトナシのぶつかり稽古程度だったのです。
いつもスグにどなるアキラさんが、今日はなんとも言わないので、ついつい本式になってしまった。実際、一人でやってたとはいえ額の生え際が、ジットリ汗ばんでます。
ボクは倒れたままの若乃花のそばで正座しました。叱られてもしかたない、もはや覚悟したわけです。ところがアキラさんはそれ以上何も言わないで、姉チカコに呼びかけました。
「チカコ、あの茶色のナ、大きい風呂敷があったろう、あれを出してきなさい」
チカコは読みさしの本を畳に伏せて、立ち上がり、洋だんすの下から茶色の風呂敷を黙って出した。
「それから、ノブヒロの肌着とな、ヨソイキのズボンとな、歯ブラシ、全部出してあげなさい」
チカコは急にイソイソとなって、ボクのランニングシャツやら、サルマタやら、それにヨソイキのコール天のズボンやらを出してきてていねいにたたんで、茶色の大風呂敷の上に積み上げてます。
「そんなに相撲がしたいなら」とその時にアキラさんは冒頭のセリフを言ったのです。ニショノセキでもトキツカゼでも、行って入門すればいいのだ。そうすりゃ、勉強もせずに毎日相撲ばかりとっていればいいのだ。
ボクは、アキラさんに聞こえないくらいな小さい声で、一応、反抗のことばをつぶやいた。だってニショノセキどこだかわかんないもん、と。これはムロンそのことを言ってるのではない。こんなにもカンタンにボクを家から追い出そうとするアキラさんの理不尽につい何かを言いたくて口をついたコトバなのだ。それなのにアキラさんは、すぐそれを聞きつけてこう言った。
「両国だ、相撲部屋ってな両国にいっぱいある」すると姉チカコも楽しそうに唱和した、
「ノブちゃん、両国だってさ」
その間もチカコは荷物づくりにセイを出してる。『大相撲カルタ』や『若乃花物語』それから、オオヤブさんのおばちゃんにもらった、メタリックグリーンの外車のミニチュアまでチカコは持ち出してきて、
「これはノブヒロの宝物だもんね、これは持ってくでしょ?」と言ってそれを置き、茶色の風呂敷をていねいに包んで、むすび目を直したりしている。
ボクは、相撲部屋へなんか行きたくない。そりゃあ近所では強いほうだけど、スミちゃんやコーちゃんには負ける。お稲荷さんの土俵に行ったら、ボクより年下のハラくんにだって勝てないのだ。相撲のプロなんかになれっこないのだ。第一、チカコもオトウサンも、ボクが家から出ていってもなんともないのか、二人で笑って……と思うとボクは悲しくなってしまった。
「バカヤロウ!」と言ってボクはチカコをぶった。チカコは笑ってボクの顔をのぞき込み、「あー、泣いてるゥ!」「泣いてなんかない!」「だって涙出てる」「うるさい、ばかやろう!」と言ってボクは外に出た。もちろん茶色の風呂敷包みは持っていかない。
「ノブヒロが大きくなってから泣いたのってあの時だけだったねえ」と、いまは三人のコドモの母チカコは笑いながら言うのである。
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原田くんのズル休み
原田くんは、ドンドン橋の上にいた。ボクは小学校の四年生で、学級委員だから、先生にたのまれて、ズル休みをしている原田くんをつれ出しに来たのだった。
原田くんの家にはダレもいなかった。ボクは仔犬を捜すように、ほうぼうを捜し回ったのである。そうして、山手線の車庫の上をまたいだ陸橋「ドンドン橋」に来てみたのだ。
ドンドン橋は二メートルくらいの幅の、ぼく小ぶりな橋だが、長さだけはたっぷり四十〜五十メートルはある。車庫に入る引き込み線が何本もあって、電車がたくさん休んでいる。そのころの電車はどういうわけか、みんなチョコレートのパッケージのようなくすんだアズキ色だった。
電車は動いていても、止まっていても、どこかなつかしいようなところのあるモノで、だからボクがドンドン橋に上がった時には、もう学級委員の義務感からは逸脱していたかもしれない。
原田くんを捜すふりをして、電車を見に来たのかもしれない。ところが冬の陽があたった四十メートルの縁側のようになっている、そのドンドン橋の上に、原田くんはたった一人、足を投げ出して座っていて、何かの工作をしていた。
「先生が学校に来いってさ」とボクは言って、そばに座りこんだ。原田くんは返事をしないのだ。原田くんは学校がキライだ。キライだからズル休みをするので、勉強が遅れるので、ますます学校がキライである。原田くんがつくっているのは模型ヒコーキだった。
模型ヒコーキは千歳飴《ちとせあめ》くらいの紙袋に、木のプロペラや、竹ヒゴや、動力のゴムなんかの材料が入っているヤツで、いまのプラモデルなんかに比べると、まるっきり、デッカイ|おてもと《ヽヽヽヽ》といった具合のそまつなものだった。
設計図というより、カンタンな工作の手順を描いた紙があって、原田くんはそれを見ながらヒコーキを製作中である。原田くんは、知恵遅れじゃないと思うが、なにしろたまにしか学校に来ないから、学校に来ると、どうも周りになじめないし、先生にあてられても答≠ェ言えないのである。
かけ算とか、漢字もキライだ。勉強は仲間はずれにされたみたいでオモシロくないのだ。それで原田くんは無口になる。ほとんど話をしないのだ。
ボクは、無口なタクシードライバーに話しかけるみたいな感じで、つまり相手がなんの気なしに答えられるような無難な話題≠ふってみたと思う。
材料の袋に印刷してある「土星号」とかいうような、そのヒコーキの題《ヽ》をチラッと見て、
「それ、なんていうの?」ときいた。無難な話題だ。原田くんは、やっと答えてくれた。
「モケーヒコーキ……」
そんなこたわかってるよ、とは言わない。
「ふーん」とボクは言って、電車が入ってくるところを見たのだった。奥のほうでは蒸気機関車が、線路ごとグリンと回るのも見える。ドンドン橋はおもしろい。鉄道の人が、きれいな緑の旗と赤い旗を持って、ブラ下がるようにステップに乗ってるのもカッコイイ。
陽あたりがよくてポカポカする。ボクはゴロンとそこに横になった。ゴロンと横になると見えるのは空だけになるのである。
「気持いいなァ」とボクは思って、そのまま口に出したのだ。
「ああ」と原田くんは言った。ここは気持いいオレはいつもここにいる……と原田くんは初めて長いことをしゃべったのだった。
ボクはなんだかウレシかった。でも、それきり原田くんはまた黙って、竹ヒゴをロウソクで焼いて曲げたり、しているのだった。
「もうだいぶできたな」とボクは言った。だいぶできたのである。
原田くんは、もうペッタンコになっているセメダインのチューブを、最後まで使いきりながら、言った。
「のりがないな……」
原田くんは、セメダインも知らないのか? とボクは思った。
「セメダイン買ってきてやろうか」
原田くんは、顔を上げてボクを見て、
「セメダインじゃない、のり……」と言った。こんなことでケンカするのやだしなァ、とボクは思って、黙って原田くんを見ていた。
「金は|持ってんからよ《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|ダガシ屋《ヽヽヽヽ》行こうか」と原田くんは言った。
原田くんは、セメダインとのりの区別がついてないワケじゃなかった。竹ヒゴの骨組に紙を貼りつけて翼にするのにはのりが必要なのだった。
その後、二人で|ダガシ屋《ヽヽヽヽ》に行って、買い食いをしたか、あるいは金を持ってる原田くんに何か|おもって《ヽヽヽヽ》≠烽轤チたか、その後のことは覚えていない。たぶんそうしたのだと思う。その日ボクが学校へ帰ったのは夕方だった。ランドセルをとりに帰ったのだ。先生になんと言ったのかも忘れた。
鮮明に覚えているのは、ドンドン橋と、冬なのにばかにまっ青な空と、それに原田くんを見くびってた≠ニいう反省だった。ボクは反省した。原田くんを|バカ《ヽヽ》だと思ってたのが、とても悔やまれたのだった。
ボクは中学生になってから、よくズル休みをするようになった。毎日遅刻をしていて、先生に言いわけするのが、いやだったのだと思う。そのほかには理由がなかったと思う。
ズル休みをすると、たしかに、クラスのみんなが知っているのに、自分だけが知らないことができたりした。それはつまんないことだったが、「今日はだいぶ遅刻したから、ヤメにしよう、今日は休みだ!」と決めてしまった時の解放感のほうが、ずっとよかった。いきなりドンドン橋の上にいるようだった。
ズル休みをしても、ボクは別に盛り場に出かけたりはしなかった。何をしていたのか覚えてないが、座敷でゴロンとしていたのだと思う。レジャーの使いかたのへたな日本人≠ンたいだなと思って、笑ってしまう。
が、ほんとはそんなふうに思ってない。
「よし、今日は休みだ!」と決断する快感のために、ボクはズル休みをしていたのだと思う。腕組みして座敷のまん中でゴロンと横になり、ニヤニヤしていただろう中学生のボクを、ボクは好きだ。
なにしろ、ボクは、学校に行けば「週番」や「日直」や「生徒会」を責任感を持って果たしちゃうような、マジメなところのある中学生だったんだから。
原田くんとは、そのことのあったあとも、とくに仲のいい友だちになったワケではなかった。よく覚えてないが、原田くんはその後もあまり学校へは来なかったのだろう。
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春を感じる
〈これが春のにおいだ〉
と中学生は思ったのだった。中学生はまるで詩人のようだが、実はボクです。別に詩的の表現をしようとしているのではなくて実感をしている。しきりにクンクンと、その春のにおい≠嗅いでいるのだった。
ただ、そのにおいというのは、たとえば沈丁花《じんちようげ》の、あるいは梅の花、というように一般社会人にも納得のいくようなものとは、ちょっと違っていて、春の香《か》をきく様子≠ニいうかその体勢も、居あわせたらやや異様に感じる人もあるかもしれない。
中学生は、もう口もとにヒゲが生えるほどに大人になりかけであって、脛毛《すねげ》も目立ちはじめてきたのだが、はいているのは小学生時代のきゅうくつな半ズボンで、そこからニョッキリと出た素足を屈曲して、膝をかかえる体勢で、しきりにその膝小僧の表面のにおいを嗅いでいるんですから。
早春のまだ寒いころなんですよ。座敷にはコタツも置かれてあるし、火鉢には鉄瓶がかけてあって、白い湯気が立っている。ボクは、ひょっとすると、その日もズル休みをしているのかもしれません。家には誰もいないんです。
おそらく、先刻までは、背中を丸めてコタツとガップリ四つになっていたに違いない。それで首だけねじ曲げて、障子を見ていると、そこへもう、とってもまぶしいくらいに太陽光があたっている。
ふと……
「アレをやってみよう」と、まるで秘密の儀式をするようにして、それをとりおこなったのだと思うんです。押し入れの行李に入っている、いまはもう着なくなった衣類の中から、小学生時代の半ズボンを出してくる。
そうして、なんかむやみに厚ぼったいメリヤスのももひきと、コタツで生温かくなっているズボンとを、一挙にぬいで、素足に半ズボンといういでたちになる。でも上半身は、厚着のセーター姿のまんまです。
ももひきは、冬じゅうはいているものであって、なにしろ寒がりだから体育の時間だって、トレパンの下にももひきをはいたままで叱られたりする、というくらいなのです。
それをイキナリぬぐ、つまり長いこと外気に直接さらされることのなかった、大事にされてきたようなものを突如として、モロに出してしまった、なにかたよりないような奇妙な解放感がある。
しかも、さっきまでしめきっていた障子を思いっきりあけ放ちます。畳に意外に強い冬の陽射しがあたっている、そこに半ズボンの中学生は腰をおろすわけです。そうして膝をかかえる。その陽あたりの中で目をつむると朱色のまぶたが見えています。
そこに、懐かしいにおいがしてくるんですよ、肌のにおい、肌に日光があたっているにおいでしょう。ボクにはそれが春のにおい≠ネんでした。誰もいない時に、季節はずれの、しかもコドモのころの半ズボンをつけて、その素足にあたった日光のにおいを嗅ぐ。
そのにおいの記憶はいまでもあります。いまでも、いちばん春≠フ実感があるにおいです。が、この奇妙な変態めいた春の儀式を、ボクが毎年とりおこなっていたかというと、そんなことはないので、おそらくこの時一度きりのもんだったのじゃないか? と、いま思い出してボクは疑ってます。
あるいは、半ズボンをはいておかしくない小学生のころに、季節はずれに早めにそれを出してはいて、日なたにポツリと座っていたことが、過去に一、二度あったかもしれない。それを、中学生になって、突然、思いついてやってみた、その時の奇妙な気分というものが強く印象に残った模様です。
ボクは、このせっかくの変態的な趣味を、高校時代にも、浪人時代にも、会社員時代にも、結局やってみませんでした。そうして、いまはもう、リッパなオジさんになってしまったんですが、いま、もしこれをしたところで、それほど倒錯的の気分というのは味わえないのじゃないか? と思っているんです。
一つには、ボクは大人になってしまってから、半ズボンをはくようになってしまったからです。夏や、南洋に旅行する時やに、ボクは半ズボンをしばしばはくようになって、つまり半ズボンに禁忌《きんき》がなくなってしまった。半ズボンをはいても、道にはずれた≠謔、な気分がともなわなくなってしまったんです。
コドモの時には、コドモはコドモがきらいでした。コドモの格好をしたりするのは、学校で女便所(大便をするためのドアのついた便所を昔のコドモはこう言った。実際、男女で便所を共用していた)に入るのと同じくらいに、とても恥ずかしいことだったのだ。
だから、中学生にもなった自分が、小学生みたいな半ズボンを、しかも冬にはくなんて、とっても恥ずかしい=A他人に見られたらとんでもないくらいなことだったワケです。
ボクはその、誰にも言えないようなヘンなことを思いついて、そしてスグに実行してしまった日のことを、その時、まぶしく冬の陽があたっていたそのままに、鮮明に記憶したんでした。そして、それが、もう四十二歳になっているオジさんにとって、いまだに春≠フイメージになっている。
春≠感じることというのは、ほかにもある。試験に落ちて、ヒマをもてあまして散歩する、ちょっと生暖かくなってきた時分の風の記憶や、下駄をはいて散歩していて、よその家の塀ごしに、白いコブシの花を見上げているところ、庭の沈丁花のにおいを嗅いで、ついにはその花をむしって、二つの鼻の穴につめこんで縁側で足をブラブラさせているところ。
しかし、やっぱり、いちばん春らしい≠ニ思うのは、ボクにとっては膝小僧のにおい≠ニいうことになってしまうわけなんでした。
ボクは近ごろ、というか、もう十四、五年、ももひきをはかない人間になってしまいました。そういう習慣になってしまったわけです。ももひきをぬいだときの気持よさ、なんていうものは、ももひきをはいた者にしかわからぬものだ! なんて、まるで戦争体験者のように、思いますね。
そうしていまだに厚ぼったい、野暮でジジくさい、ラクダのももひきを、ズボンの裾からのぞかしている人を見ると、そういう意味でうらやましい。
そのモコモコした、なまぬるい、不格好のものをさ、後生大事にのめのめと冬じゅうはいたままにしていてさ、まだちょっと肌寒いけれども、春の兆しの感じられる時に、一挙に思いっきり! どっとばかりに、
「ぬいじゃうのだ!」
その気持のいいことっていったら、あなた! ありませんよねえ! ねえ!?
とか言ってみたくなる。でも、そのためにね、一冬、ももひきをはき通すという気持には、ぜんぜんならないんですけどね。
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原っぱの話
我が家は現在、十一階建てのアパートの八階にあります。二、三年前からベランダで朝顔を植えるようになったんですが、秋に朝顔が枯れたプランターをそのままにしておいたら、八階まで風が運んできたのか、タンポポや名前を知らない草が勝手に生えてきた。
ボクはこの雑草の生えたプランターを、「小規模原っぱ」と呼ぶことにして、このまま永久保存にする意向であります。いまはもうビッシリわけのわかんない草でおおわれている。
時々、白い小さな花を食べに雀もやってくるようになった。風に乗って野良犬が飛んできたりすれば、その糞や体についた種からさらにいろんな種類の草が育つかもしれないが、なかなかそううまいことはいかない。が、この原っぱは、小なりといえども、現物の原っぱで、盆栽とはワケが違う。自宅のベランダに原っぱを飼ってる人というのは、わりあいめずらしいかもしれないなと、一人満足をしているところです。
ベランダは、雨風をよけるように設計されてあるから、どうしても自然状態とは違ってしまう。だからボクは、雨の降る日には、わざわざ人工雨を降らさなければいけないわけで、雨の季節には忙しくなります。
原っぱというのは、やむをえず空き地になっている場所で、ボクらの子どものころというのは、戦後の混乱が、まだ続いていたもんだから、いくらでもそこらにあった。といって、そこはもともと何にも使われていなかった空き地ではなくて、空襲で焼け落ちた銭湯や工場の、その焼け跡で、ガレキやガラクタを捨てた、ゴミの山のようなものだ。しかしその山を、すっかり雑草がおおっている、というようなところだった。
だから穴のあいた鉄兜や、鉄砲の銃把《じゆうは》や、袋の形に固まってしまったセメントや、ブヨブヨの異星の生物みたいに見えるペンキやらが、一面の草原のアチコチで発見できる。
これはなかなか、退屈させない趣向であって、たとえばキレイな金色の絵が描かれた、タイルの浴槽の廃墟に入って、じっとしていたり、なんだかわからない機械の一部が、すっかり錆びついているのを土中から発掘してみたり、と、いろいろに楽しめるのだった。
以前に、原っぱの話をしていたら、「原っぱには鉄条網がつきものだった」と言う人があって、「ああ、そうだったかな、すっかり忘れてたけど」と、そのつもりでいたのだが、よく考えてみると彼は、ボクよりも十も年下の人で、なるほど十年たつと、原っぱも管理がいきとどくようになったのだなと気がついた。
ボクらもよく鉄条網で服をやぶいたりしていたけれども、それは原っぱで遊ぶ時じゃなく、どこかに遠征をした時だった。となり町の工場にニオイガラス(こするといいにおいのするガラスで、これは飛行機の風防に使った防弾プラスチックだったとあとで知った)をとりに行ったり、電車区の構内にしのび込んだりする時に、つくったカギ裂きだった。
近ごろ、知らない町内をフラフラ歩いていて、時に原っぱを見つけることもあるけれども、いま、原っぱは鉄条網どころか、りっぱな金属製の高い塀に囲まれていて、そこで遊ぶつもりなら、まるで原っぱのほうへ脱獄するくらいの決意がいりそうだ。
原っぱのワキを通っている線路端に、×印の標識があって、これにはめこまれたビー玉をくり抜いてくるのも楽しみだった。夜間にヘッドライトを反射するためのもんだったのでしょうか、板にビー玉がたくさんはめこまれてあったんですが、なんで子どもの遊び道具が、そんなところにあるのかが不思議で、ボクらは見つけしだいにそれをくり抜いてきたんでした。
小学校にあがって、紙芝居で『幸福の王子』を見せられた時、ボクは銅像の王子と、その黄色と黒のダンダラの、踏切注意の標識が奇妙にダブって、行き違ったような後悔を感じたりしたもんでした。幸福の王子は、貧しい人たちのために、自分の体にはめこまれたルビーやサファイヤやの宝石を、くり抜かせて、ツバメに持っていかしたのだった。王子様はやさしいなあ、とボクは思って、いまでもボクはこの話を思い出すとしんみりします。
線路端には、そのころもいまも、名前を知らない草が生えていて、それを無意味にムシったりしていた気分が、少し暖かい陽射しの感じといっしょに思い出せたりします。線路端で何をしていたのかというと、釘を電車に轢かせていたので、それはやってはいけないこと≠セったから、ちょっとドキドキする楽しい遊びなんでした。電車に轢かせた釘をその後、おひなさまの刀に加工したというわけじゃなく、それは一時間もすればあきて捨ててしまったんでしたが。
原っぱには、時々、知らないオニイさんやオジさんも来たりして、しばらく土管の上でボーッとしていました。ネコが草を食べて吐いたりするのを〈キモチワリイ!〉と思いながら、じっと見ていたこともありました。
知らないオニイさんは、やおら、ハーモニカをポケットからとり出すと、やけにさびしい曲を、すっかりその気になって吹いたりもした。それを草をむしりながら、つっ立ってきいていたのは、もう夕方近くでした。あるいは、お豆腐屋さんのラッパも聞こえてきて、泥でガサガサになった手の平を指で感じながら、小走りに家へ帰るところだったかもしれない。
ふと、気がついて夕焼けを見たのも、原っぱの草むらの中だったりした気がするけれども、その前にはいったい何をしていたのか、覚えはないんでした。しかし、最近、夕焼けだの虹だのをずいぶん見ていないな、など、しきりに思います。
原っぱは、その後整地されて、野球ができる場所になったと思ったら、コンクリート会社のジャリ置場になり、さらにコンクリートのサイロのような巨大な建物が建ってしまって、遊び場には不向きになった。
そのころ、あるいは、あらゆる原っぱには鉄条網がつきものになってしまっていたかもしれないが、それでも遊び場はいろんなところにあったし、遊びかたも変わって、とんでもなく遠いところまでボクらは遠征するようになっていました。野球をするようになったのです。
大人のオジさんが、ユニフォームもキャッチャーマスクもプロテクターもスパイクシューズもそろえて本式に野球をしている同じグラウンドで、ボクらは外野の一部にダイヤモンドをつくってゲームしました。
グラウンドにもところどころに草は生えていましたが、そこは原っぱじゃあないので、あのころから、ボクは原っぱと疎遠になっていったのかもしれない。花が咲いたり蝶々が飛んでいたりするような原っぱと、どんどん縁がなくなっていったのだった。
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仙人の話
いまでも、ボクは仙人≠ェ好きで、仙人≠ェ出てくるマンガを描いたりしてるんですが、いったいどうして、いつから仙人≠ェ好きになったのかな、とふと思ったんでした。
それで、記憶をさかのぼっていくと、それはどうも、芥川龍之介の「杜子春《とししゆん》」を図書館で借りて読んだのが初めらしい、ということになった。
「杜子春」は中国の『続玄怪録』っていう、いまでいうなら、UFOと超能力、霊界と超常現象みたいな与太話を蒐めた、胡散《うさん》くさいような本にのっている話ですが、もとの話は芥川龍之介さんがつくりかえたような人間的にりっぱ≠ンたいな教訓話とはちょっと違います。つまり、ずっとおもしろい、ワケのわかんないような話になってる。
でも、原典など知りようもない当時、小学四年生ぐらいのボクには、この仙人になりたいと思った青年の話は、とてもおもしろかった。
杜子春は、気っぷのいいタイプで、遊び好きで親の身上を博打《ばくち》や遊興で使いはたしてしまう、計画性のない人です。財産目あてにたかりにくる友人をもてなしたりして、ついには無一文になってしまうようなタイプです。
で、その日に食べるものもなくて、とほうにくれて都大路にへたりこんでいるようなところから、お話は始まっているんでした。
ここに仙人が登場するんですね、すがめの不気味な老人です。
「いま夕陽に背を向けて立ってできた影の、頭にあたる場所を、夜中に掘り起こしてみるがよい、そこにお前のほしい物があるだろう」てなことを言う。
言う通りにしてみると、そこにとほうもない大金が埋めてあった。突然また大金持ちになった子春は、またもや放蕩三昧《ほうとうざんまい》の暮らしをしてそのお金を使いきってしまう。これがまた、ボクは気に入ったんでした。
〈こいつはいいやつだ〉と思った。
無一文になった子春が、またおなかをすかして、へたりこんでいると、またあの仙人が出てきて、同じように夕陽でできた影の、胸のあたりを掘れ、てなことを言って、夜中に掘ってみると、前の倍の金が出てくるところも豪勢ですね。しかもその金も、すぐに散財してしまう。いよいよ〈いいね〉と思ったわけでした。
三度めにまた、例の影の話を仙人が言い出すと、子春は、もう金はいいから、仙人にしてくれと言い出します。これがまたいいじゃないですか、どうせいくらもらったところで、じきに使ってしまうんだから、もう金はいいから仙人にしてくれ。ってのがボクは賛成でした。
では、というんで仙人の杖に乗って雲台峰っていう深山幽谷まで、空を飛んでいって、無言の行をさせられる。結局、童話の杜子春は、お父さんお母さんの顔をした馬が、ムチでたたかれる幻《まぼろし》≠見て、思わず「あっ」と言ってしまうんでした。ボクはこれがとても納得がいかなかった。仙人になりたいってのに根性がねえな、幻≠見たくらいで「あっ」とか言うな! と思ったんでした。
そうして、仙人が言うセリフも気に入らなかった。つまり、
「お前が父母の打たれるところを見て、声を立てないようだったら、オレは即座にお前を殺すつもりでいた」というような発言です。
〈それはないだろう〉それじゃあ、自分はどうやって仙人になったのだ、とほとんど食ってかかるような気分でした。
そんなわけで、芥川龍之介さんが言わんとするようなことは、ちっともボクには身につかなかったんですが、話のほうはとても気に入ってしまった。杖に乗って雲台峰に飛んでいくところや、「あっ」と言うとイキナリもとの都大路にもどってしまうところや、何よりも、夕陽のつくる影の頭の部分を、「掘れば宝物が埋まってる」というところをすごく気に入ってしまったようでした。
それからは、影を見るたんびに、頭にあたるところや、胸にあたるところを、じっと見たりするようになる。野球をやって家へ帰るころ、夕陽の影を見つめて、
〈あの頭のところに埋まってる〉と思うのです。
歩いているから、その頭のところは、ずんずん動いていく、つまり、ボクの歩くところは、ずうーっと宝物が埋まった道になる、という理屈です。お話のように立ちどまって、場所を特定しないところが、さらに徹底してますね。
つまり、夜中に掘りさえすれば、宝物はどこでもいくらでも手に入るのです。
ボクはすっかり豪勢な気分になってますから、もう、夜中に掘ったりする必要もないんでした。ボクはこの想像が気に入って、自分の影を見るたんびに、何度もそのように考えるようになっていました。
夜、銭湯からの帰り道、街灯がつくる影を見ながら、下駄をカラコロいわせて歩いている時、原っぱの土管に腰かけて足をプラプラさせながら、ふと地面の影を見た時、という具合にいつもボクはこの想像をして愉快でした。
もちろん掘れば出てくるんだけど、あえて掘らない、ってとこが、
〈イイわけだ〉とも思っていた。本当に掘って、もし出てこなかったら……とか考えるとおもしろくないから、そうは考えない。あるいは、ちょっとは考えてたのかもしれない、それで実地≠ノ掘ってみなかったのかもしれないです。
いずれにしても、仙人の話は、ボクの気に入るところとなって、中学生になっても、そろそろ高校受験というころになっても、それは変わらなかった。実際、高校に入ったら、やることにしていた研究テーマの箇条書きに、
「仙人」というのが入っていた。そのほかに「アフリカのお面」とか「西洋中世の甲冑《かつちゆう》」「幻想の動物」なんてのもあったわけですが、仙人と幻獣の部はいまでも気が変わっていない。
一時、仙人が空を飛んだり、一瞬のうちに深山幽谷と都大路を往復したりするのは、あれは「幻覚剤」が効いてるだけなんではないのか? と思って、すっかり熱がさめてしまったことがありました。
丹薬とか金丹とかいうのは、つまり幻覚剤のことで、仙人てのは単なるヒッピーじゃないか、と思ったら、なんだかとってもつまんなくなってしまったんでした。
これは結局、コドモのころから、フタをあけずに持ってきた玉手箱から、少しずつけむりがしみ出てしまっていて、
〈単に空っぽの箱になってしまっているんではないか?〉というような気分だったと思いますが、いまはまた、違う考えかたをするようになってます。「空っぽでもいい」のだ。夜中に実地に掘り起こしてみれば「宝」など出てこないかもしれないが、掘り起こさないでおけば、地面の下はみんな宝だ……というワケです。
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掃除当番
朝起きると、植木に水をやります。狭いベランダの、小さな鉢に植えられた、ちまちました植木が、それでもキレイな緑に輝くのを見るのは、とても楽しい気分です。
まだ自分は顔も洗ってないのにね、うっとりするくらい、いい気分なんですよ。枯木のようだった枝に芽がふいてきたり、その芽が弱々しい葉っぱに生長して、つやつやしたキレイな緑を見せてくれたりすると、なるほど赤ちゃんをみどりごっていうのは、このカワイラシさなんだよなァ、とか思って、本当に葉っぱに語りかけたりしますね。
みんな元気で、ピカピカ光ってくれてると実にマンゾクなんです。もっといろいろしてやることがあるんでしょうが、何も知らないからただもう、水をあげるばっかり。それで枯れた葉っぱをとったり、周りを庭箒で掃いたりします。といっても狭いベランダですから、ちょちょいと掃くともう、すぐ終わっちゃうんですね。
「よおし、今日も元気にやるぞう!」とか言ったりするワケです。日あたりがよかったりするとさらに爽快ですね。「植木はエライ!」とかも言ったりします。顔がニコニコしてますね。
で、ベランダの柵に寄りかかって、外を見る。アパートの前は貨物船の港です。時々、ソ連の客船や日本の客船も停泊してたりしますが、そういう船の様子なんかを眺めたりしながら、ずっと手前に視線を移してくると、材木置場とアパートのすぐ前の道との境に、二メートル幅くらいの緑地が目に入る。ここの緑も桜の木や紫陽花《あじさい》や、ツツジやボクが名前を知らない草や木がみんな、やっぱり元気に緑を主張しているワケです。
ところが、この緑地というのは、前方が材木置場でその先は海っていう、人影のまばらな場所ですから、いろいろに格好の場所なんですね。立小便に格好、路上駐車に格好、休憩に格好で、コンビニの弁当を食べるのに格好、缶コーヒーを飲むのに格好、タバコを一服するのに格好、それでそうしたものを車内から一掃するのに格好なんでした。
空き缶やお弁当の空箱、チリ紙のまるめたのや、不必要な伝票や、読み終わった週刊誌というような、つまりいらなくなったゴミを捨てるのに格好ですから、それをそこに捨てていきます。
ボクの好きなキレイな緑の葉っぱの上に、点々とそういうものが散らばっている。空き缶のプルトップがそちこちで光っていて、タバコのスイガラが、模様のようにちりばめてある。時には灰皿をキレイサッパリにしたんでしょう、コンモリ盛り上げて置かれたりしてます。
ちょっと気分がね、こわれるワケです。思いたって、黒いゴミ袋をポケットに入れて、下に降りていきました。ウチはアパートの八階です。とりあえずベランダから見えるところを、スガスガしくしたくなっちゃったんですね。やってみると、大きな黒いゴミ袋がいっぱいになった。植え込みの奥のほうに、コンビニエンスの白いビニール袋に包んだお弁当や空き缶がひっかかってたりして、これがずいぶんある。下に降りていって、実際に拾い出すと、〈こんなに!〉と思うくらい、いっぱいある。
五十メートルくらいあるのかな、一応全部拾って、ゴミ捨て場に捨ててきて、もう一度、ベランダから見ると、いい眺めです。気分がハレバレするんですね。
それでまた、ニコニコしながら下をこう、眺めてますと、通り抜けざまに、カランカランカランと空き缶を投げていく車があります。おやおや、と思ってると、知らない間に、タバコの空箱やスイガラが、ポツリポツリ落ちてるのが見える。なるほど、これなら袋一杯くらいにはなるよなァ。と思います。でもまァ、先刻に比べれば、ずいぶんキレイだ。というんで顔を洗って、ゴハンを食べて仕事場に行くわけでした。
次の朝です。植木に水をやる。ニコニコ顔になって、こんどは外の植木を見る。と、きのうと同じように、点々とゴミが捨ててあります。〈格好の場なんだよなァ〉とボクは思って、また下に降りて、ゴミ収集をします。今日は軍手とゴミバサミ、それから腕カバーまでそろえちゃって、本職みたいです。
きのうよりは少ないですが、でも袋の五分の四くらいはいっぱいになる。ゴミを拾いながら、〈オレって掃除好きだったのかなァ〉と思ってます。どうしてかっていうと、ゴミを見つけると、ちょっとウレシイんですね、「あっ、見っけ!」っていう感じになる。シメシメ……みたいな気分があるんですよ。
コドモのころもこんなだったかなァ、と思い出してみると、掃除当番のときには箒でチャンバラしたり、ゾウキンがけしてる前の子に激突したり、水泳の実況中継みたいにアナウンスしながら競争したりして、先生に叱られたりしたことや、学級会で言いつけられたりしたことなんかばっかり思い出す。
でも、そういえば、窓ガラスふきなんかさせられた時に、いちばん高いところに登って、一枚だけバカにキレイにしたりしたことがあったなァ、とか、水道で思いっきり蛇口あけてバケツに水がたまるのを見てたりしてたのをアリアリと思い出したりするワケです。
「遠心力!」とか言って、水が入ったバケツを二コ持って、グルグル回して、あげくにビシャビシャになったところなんかが鮮明によみがえってきたりして、あの掃除当番っていうのはなかなかおもしろかったなァ、なんて思うんでした。
白茶けたほこりっぽい廊下をぞうきんがけして振り返ると、しっとりスガスガしい感じになっていて、フッとため息をついた感じとか、ゾウキンのにおいとか、バケツの下に沈澱《ちんでん》した砂を洗い流して、さかさに振ってるところとか、黒板消しを二ツ持って、ハタいた時の白墨の粉のにおいとか、ガタガタ音をたてて机を半分に寄せてるところとか、板目にあわせて机を整列させてる時の気分とか、ほんとに次々に思い出が浮かんでくる。
「近ごろは掃除をさせない学校もあるんだってねェ」と、先日、奥さんのお兄さんと話している時に聞いて、それは娯楽がへってカワイソウだな、とボクは思ったんでした。
掃除も勉強と同じで、強制されるんだからもちろんその時はイヤなものなのだ。でも、やらなければ思い出すこともできないし、サボったり、フザけたりもできない。
ボクはゴミ拾いの趣味は、当分続けるつもりでいる。隠居の身になったら、もっとファッションも本格的に、カゴしょったり、ほっかむりしたりして、プロみたいにする予定だ。それにしても、自分だって、こないだまではスイガラをポイと捨てたりしてたんだからな、みんな植木に水やったりするようになれば、ゴミも捨てなくなるかもしれないな、でも、そうなると趣味ができなくなるかな、とか変な心配したりするんでした。
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ちょっと妙な気分
二年生の時までは、学芸会のその他大勢の役もつかないで、特別にそういうコドモだけ集めた|二軍の学芸会《ヽヽヽヽヽヽ》で、
「それがいい、それがいい」とみんなに付和雷同するつくしA≠フ役で、やっとのこと舞台デビューをした話は「後ろ向きの記念写真」のところに書きましたが、どうしたわけか、その時の、その他大勢≠フさらにその他になってしまったコドモたちが、三年になると、クラスの中心になるようなメンバーになってきたというのが不思議ですね。
三年生の学芸会では『泣いた赤鬼』という劇をすることになって、ボクは主役の赤鬼の役をすることになったんです。そうして、赤鬼の親友・青鬼の役についたのは二軍の学芸会でつくし@≠やっていた小美戸《こみと》勉くんでした。
「泣いた赤鬼ってのはさ、青鬼ってのが|おいしい《ヽヽヽヽ》役なんだよ」
と言ったのは後年の小美戸くんではなくて、カメラマンの小暮徹さんという人ですが、つまり同じころに群馬県のほうではこの少年時代の小暮さんが『泣いた赤鬼』の青鬼役をやっていたというワケです。
たしかに『泣いた赤鬼』でカッコイイ役は青鬼のほうなんですね、里の人間のコドモと友だちになりたいのに、近づこうとするだけで逃げられて悩んでいる赤鬼を、友人として助けてやる、つまり自分が悪者になって赤鬼のいいところを見せる狂言を打って、里のコドモに赤鬼を信頼させるっていう役どころです。
悪い青鬼を思いっきりこらしめることで、赤鬼はやっと信頼を得るわけですから、狂言といったって、ホントに思いっきりなぐりつけなくちゃいけないのです。赤鬼が遠慮をしてると、「ダメだ、もっとホンキでなぐるんだ」なんていうセリフもあるんですね。実に友だち甲斐があるナイスガイ≠フ役です。
ボクだって、赤鬼の演技をしながら、なんだって赤鬼はこんないい友だちがありながら、そんなに里のコドモと仲よくなんかなりたいんだ、変なやつだなと思ったくらいですから。
で、この青鬼役をやった小美戸くんと、大人になってから知りあった小暮さんはどこか共通するキャラクターがあって、二人とも青鬼役にふさわしいなと思ったりするんですが、ここで話したいのは、そのこととは、ちょっと別で、この『泣いた赤鬼』役をやった時の奇妙な気分のことです。
ずいぶん昔のことですし、芝居の内容もストーリイの細部なんか忘れているし、芝居がうまくいったのかどうだったのかも、もう忘れています。
もっとも幕があいて、最初のセリフだけはいまでもハッキリ覚えてます。
「ボクは山の奥に住む赤鬼です」という、まァ自己紹介ですね。これをなぜハッキリ覚えているのかというと、ボクはこの最初のセリフを、自分なりの演出《ヽヽ》でこんなふうにしたんでした。
「ボクは…………………………………………………………………」
つまり、間をものすごくあけた。
「エ? ボクは何だ? 何なんだ?」と観客が思ったころに身分を明かそう、としたんですね。まァコドモの知恵というべきですね。どうしてかというと、説明の要もないように、ボクは赤鬼だったからです。頭には紙テープでつくった赤毛のモジャモジャかつらに角が生えているし、顔はまっ赤に塗ってあるし、虎の皮のパンツ(パンツに黒と黄の絵の具で模様をつけてある)をはいて、ごていねいにも、イガイガのついた鉄棒まで持ってるんですからね。
そんなもの一目で赤鬼とわかる。でまァ、「…………………」とあまりにも長く黙ってるんで、イキナリセリフをトチったのじゃないかと思ったというんですね、母・タカコは。いや、じゃないかどころか、完全にそう思った。で、夕食の時にその旨《むね》家族に発表したんで、ボクはいまでもこのセリフを思い出せるというワケです。いや違うんだ、あれはワザとそうしたんだもんと、その時のくやしさのようなものが記憶のヒッカカリになった。とこれもまァ、この話の本筋じゃないです。
さっき、衣裳のところでワザと触れなかったんですが、顔は赤く塗ったけれども、全身を赤く塗って、トラの皮のパンツいっちょになったというワケじゃないんですね。学芸会は十月か十一月で、もう寒くなっているころだから、上半身には赤いセーターと赤い手袋、下半身には赤いタイツをはいて、全身が赤いことの表現をしたわけです。
「赤いものを着るのは女だ」と当時の少年はみんな信じてました。ボクも紺のセーターにほんの小さな赤い象が編み込まれてるのを、「これは女のセーターだ」と言ってなかなか着なかったんですから。それがまっ赤なセーターにまっ赤な手袋ですよ、学芸会用にワザワザ調達するなんで、物のまだないころだからそんなことはしない。クラスの女の子から先生が借りてきて、それが衣裳になる。
もっとも抵抗があったのがタイツですね。いまは男性用のタイツもあるし、だいたいストッキングといえばタイツ状のもののほうがふつうですが、当時はパンティストッキングがまだ発明されていない。いわば異様なモノです。
二組にシバタさんという女のコがいて、このコがとってもかわいらしいコだったんですが、それだけじゃなくバレエのおけいこ≠している、まるで映画かマンガの登場人物のような、人物だったわけです、当時の少年にとっては。バレエのおけいこは特別の人です。
そのシバタさんのバレエの練習用タイツがつまり赤鬼役、青鬼役の男の子たちの衣裳ということになったんですね。
わたされたそのモノは、まるで赤ン坊のモモヒキか? と思うくらいに小さなもんでした。
「こんなちっちぇの入らねえよォ」と言うと、シバタさんはニコニコしながら、
「だいじょうぶよ、伸びるからァ」と言って長いマツゲをパタパタいわせながら去っていった。
ボクらは、おそるおそるパンツいっちょになって、その靴下とパンツの合体したような変なものを、ムリヤリのようにはいたわけです。そこが便所のスノコの上だったことも作用してか、とんでもなくエロチックな、へ〜んなことをしてしまっているという気分でドキドキしてしまったんでした。
もっとも、そのキューキューの赤いタイツの下にはサルマタ(トランクスのこと)がモタモタモコモコしているわけで、ハタから見たら、ただみっともないだけですが。学芸会で初めて主役をとった劇の思い出が、赤いピッタリしたタイツだった、っていうのは、いまとなっては、ちょっと奇妙でいい思い出だったなァ、と、太腿にはりつくその時の感触を感じながらボクは思うのです。
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ガラスの割れた日
作文の時間は苦手だった。教室の中はシンとして軽口を言うわけにもいかないし、先生は教卓でテストの採点やら、エンマ帳のチェックやらして、ずっと黙っている。黒板には、
「遠足のこと」と一行、作文のテーマが書かれてあるだけだ。
「サラサラサラ」
「サラサラサラ」
と、何をそんなに書くことがあるのだろう、と思うくらいに、作文の進んでいるのは、たいがい成績のよい女子の、吉田さんや高坂さんや高橋さん。原稿用紙がなくなると、教卓に行って、一束積んであるのから一枚ずつ持ってくることになっている。
五枚も六枚も、十枚も十五枚も書く人がある。ボクは結局チャイムの鳴る直前に、自分でも〈おもしろくもなんともない〉と思うような月並な文句を書きつらねて、一枚で終わったことにしていた。一つには、作文では授業中にするような駄洒落や冗談を言ってはいけないと、いつのまにか思い込んでたフシがある。どうも勝手が違うのだった。
何か作文というのは、マジメなタメになることを書かなくてはいけないのじゃないか? と、この思い込みはいまでもいくぶん残っていて、それで時々筆が進まなくなったりする。
このあまり得意じゃない、というより苦手だった作文で、ボクは生まれて初めて賞状というものを朝礼で校長先生から授けられたのであった。右手、左手で賞状をしっかりつかんだら深く一礼をして、回れ右をする。賞状の受けとりかたも、練習させられた。
全国の小学生の作文をコンクール方式で募集して、入賞した作文を薄っぺらな冊子にのせるというようなものだったが、つまりそれにボクの作文が入賞したらしい。
「よくがんばりましたね、おめでとう」
と校長先生は言ってくださったが、ボクはその作文のどこがよかったのかわからなくて、そんなふうに表彰されたりするのがどうも腑に落ちないような気分だった。
賞状と記念品、そのころのことだから、ノートかエンピツくらいなものだったと思いますが、その包みの中に、ボクの作文が活字になっているその小冊子も入っていた。
作文は、小学校の四年生である自分が、来年やっと一年坊主になるツトムくんと、キャッチボールをした日のことが書かれてある。ツトムくんは薫風荘《くんぷうそう》という木造二階建てアパート(|アバート《ヽヽヽヽ》と言ったほうが感じの出るような)に住んでいるまだコドモだ。まだコドモだからキャッチボールをしていても、少しキツイ球を投げるとこわがって逃げてしまうのだ。
しかしコドモだから「自分は違う、もうコドモではないからだいじょうぶだ」と言うのである。ツトムくんは、その住まいである薫風荘の、ガラスドアの前に立って、ボクのボールを受けているのだ。だいじょうぶだと言われても心配だから、そおっとほうって、まるきりキャッチボールをしている気分がしないから、こちらもおもしろくない。そしてコドモのツトムくんも、やはりつまらないので不満を言っているのである。
それではと言って少しキツメの球を投げると、案の定、その球にひるんだツトムくんは頭を押さえて逃げるので、大きなガラスドアは、カンタンにパカンといって割れてしまったのである。
当時はガラスがバカに高価で、しかもむやみに割れやすいものだった。ボクらがキャッチボールしていたのは軟球で(それは字に似合わずカタイものだから)、ガラスはひとたまりもなく割れたのである。
貧乏家庭で、ガラスを弁償させられるのは物入りで、そのことを知っていながら犯してしまったミスだから、ボクはそれこそ、心臓が割れてしまったくらいなショックがあったのだろうが、作文にそれを書いた時分は、もうずっとあとのことであるし、大家さんは大目玉を食らわすより「もちろん、べんしょうはしてもらわにゃあな」と言うばかりな上に、家庭の経済を慮《おもんぱか》ったボクが小さくなってあやまると、両親は、すぐに弁償の金をわたしてくれて、拍子抜けするくらいにアッサリ事はすんでしまったのだった。
まァ、作文の大意はこんなようなことを、コドモの(当時は自分をコドモとは思っていなかったが)へたくそな文で綴ってあったわけだ。その作文がのっていて、末尾にコンクールの先生の評がついている。
「ガラスを割ってしまった時のおどろきや、大変なことをしてしまったという気持の伝わってこない作文です」とただそれだけである。つまり、ヘタクソな作文の例としてのせられたというにすぎないのだった。
〈なんだ、ホメられたのかと思えばケナされたのじゃないか〉と小学四年生は思ったハズである。そうとなれば全校生徒の前で賞状をもらったのやら、校長先生にねぎらいの言葉をかけられたのだって、全部が無意味なようなことで、ボクは〈なんでこんなことをされたろう〉と思うばかりだった。それが、たった一度のゴホービの賞状なのだから、まァ、あわれといえばあわれ。
小学四年生で、くさってしまったというわけでもなかろうけれども、以来、賞状をもらうような機会がいっさいない。もらっても素直な気分になれないのじゃないか? と思ったりするのは、もちろんもらったことがないからだ。
薫風荘の便所は、どの家もそうだったように汲みとり式だったが、アパートには人間も多いから、それだけ糞便の量も多かったのだろう。名前の通りにそこらの風には、香りが濃厚についていた。二階の便所から大便を垂れると、ややあって、たどりついた音がする。
暗い階段は大勢の人の手垢にまみれて黒光りをしていて、人々の履き物のにおいも充満していた。そういうにおいを拡散させるために、風でカラカラと回るにおい抜きの装置があって、ボクはその形にエキゾチックなお伽話《とぎばなし》のお城みたいな気分を感じていたのだったが、ガラスの割れた時に、そのにおい抜きのカラカラ回る様子をボーッと見ていたのを、いま奇妙に鮮やかに思い出した。作文にはそのことは書かなかったと思う。書いてももちろんホメられはしなかっただろうが。仲谷勉くんは生きていればもう三十八歳のオジサンである。
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ドギマギした話
「南クン、クラスで誰が好き?」
と、みさ子さんはこれ以上には考えられないほどの単刀直入さで質問してきた。まるでイキナリ、素手で心臓をつかまれたように、ギョッとして、ドギマギしてしまう。
もちろんボクは、みさ子さんを好きなワケです。それで学校の終わったあとに、わざわざ家まで訪問して、二人でつれだって道を歩いている。つまりデートしてる。火を見るより明らかな事実を白日の下にさらしてくるような、もうダメ押しのプッシュみたいな強引なワザです。
しかし、当時の小学生はウブですから、とても正直な告白なんて、できません。その場で、まっ赤に赤面しちゃうとか、突然、無口になってしまうとかすれば、これはもう口に出したも同然ですから、そうすればいいんですが、だからこそ内心の動揺を気どられないように、つとめて平静をよそおっている。
「そうだなァ、宮内君とかハイコーとか。オトミとか……」
ボクが挙げてるのは、みんな男のコの友だちの名前です。|好き《ヽヽ》というのを、スリかえて、やっとうまいことカワしたと思ってる。
「そうじゃなくて、女子《ヽヽ》で!」とさらにみさ子さんは、土俵際までグイグイ押してきます。
人生には、あの時こうしていたら、というような決定的な分岐点のようなものが、いくつもあるような気のするものです。もう一度やらしてもらえば、もっとウマイことできるんだがなァ、と思う。
でも、それをしてしまえば、いまの自分まで他人にしてしまうことになる。あの時≠、まいことできなかったのが、自分なんで、うまいことできてれば、それは自分じゃない、ほかのヤツの人生なんでした。
ともかくボクはその時、異常に高まった緊張感を、ひたすら緩和する方向でばかり努力してしまって、つまりせっかくの盛り上がりムードに水をさすようなことをしてしまったワケです。
「エッ? 別に、別にいないよ」とボクは言った。
ボクらは公道上を、むろん手もつながずに、ただ単なる学友≠フように並んで歩いていたんでした。その後どうしたのだったか、まるで記憶にない、ただその、あまりにも核心をつく話題というもののショックが、そこにだけスポットライトをあててあるように、鮮明な記憶で残っているわけです。
その後、みさ子さんは、南クンは誰が好きなのかという質問を二度としてはくれなかったワケですが、無論、されればその都度困ってはしまったでしょう。
小学生は中学生になり、クラスが変わると明らかに、みさ子さんの気持は離れていったような気がしました。実は自分のほうの気持も、つまり新しくできた級友のうちの、やっぱり美人の、クラスの人気者の、あき子さんのほうに移っていたからだと思います。
でも、同じ学校の生徒ですから廊下でバッタリ会ったりすると、しばらくおどろいたみたいに見つめあったりしていたんです。どちらかがそんな時に目をそらしたり、そ知らぬふうに通りすぎたりをするうちに〈気持が離れた〉と感じたのかもしれない。
あき子さんに対しては、少し積極的になりました。図工の時間に、ボクはあき子さんの肖像を描いて、それはよく似て描けたんですが、「スゴイ美人に描いてる!」とほかの女のコが言うような出来でしたから、これは無言のうちに「気持を告白」してるようなものです。
運動会の時でした。ボクらはすりばち状になった芝生に寝転がって、競技を観戦していた。ボクの横には赤い鉢巻をして、ブルマをはいたあき子さんが、頭の下に手を組んで仰向けになっている。
陸上部の黒田くんが、あの陸上部員の短くて広がったトランクスで、ボクらの寝転がっているところにやってきて、ボクらよりも奥に座ってる山下くんと何か話しているんだけど、真下からは、そのトランクスの中身が丸見え≠ネのだった。まるで、「見てください!」というようにそれは丸見えなのだったが、ボクとあき子さんは、その縮んだ黒田くんのチンボコを下からじっくりと見た≠フだった。
ボクとあき子さんは目があって、ひそかにニッと笑った。黒田くんが去ってしまうと、
「あいつさァ、百メートルの記録持ってんだぞ」と山下くんは話題を変えた。どうやら山下くんも黒田くんのチンボコが見えてしまったらしい。
話題を変えるといってもまだダレも話題にしたワケじゃないのだが、ともかく黒田くんのために山下くんは話題を変えたのだった。
「あのサ、走り高跳びもアレだし……」とさらに山下くんが黒田くんのスポーツマンとしての才能に言及した時だった。馬場あき子さんはハッキリ言った。
「でも、見えてたよ」
ボクはこの時のことを思い出すたびに、プッと吹き出すような気分になる。
二年生になるころには、ボクはこんどは上級生の静江さんが好きになったのだった。一日、学校のどこかで、屋上や廊下や図書館や職員室で、静江さんとバッタリ会えて、ニッコリ笑いあえると、もうそれでその日はすごく胸がトキめくのだった。
そのうち、もっといつでも、その顔を見ていたくて、顔写真がほしくなった。本人に写真を要求したり、撮らせてもらう、という発想もない。第一、そのころは自分のカメラなんて持っていないのだ。
ところが、そのあこがれの静江さんの顔写真が、意外なところで手に入ってしまったのだった。学籍簿のようなものがあって、それに全校生徒の写真が貼りつけてある。その、つまり学校の備品を、ボクはまんまと盗みとってしまったというワケだ。
ボクはそれを生徒手帳にはさんで、胸のポケットにしまいこんでおき、人のいないのを見すまして、時々、それを出して眺めていた。
その写真は、インスタント写真で、実物をよく写していなかったけれども、それでも、そこから静江さんのイメージを思い浮かべるには十分で、ボクはその盗品を、宝物にしていたのである。
ある日、クラスの女のコが五、六人、何かにたかって話している。
「ダレ? このヒト」
「あ、この人三年七組の人じゃない?」
「テニス部の……」
「なんでこんなとこに、こんな写真あるの?」
何気なくそちらを見て、ギクッとした。何かの拍子にボクは宝物を落としてしまったのだ。
「あ、その写真はボクの宝物だから、よこしなさい」とはムロン言えないのである。
ボクはその宝物が、やぶかれて捨てられるのを、まるで無関係の人間として、看過するしかないのだった。静江さんは、次の年、卒業していった。ボクは静江さんの入った高校へ進学するのだ、と進路を決めたのだった。
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寒い日に
「ノブヒロ、寒くないか?」
とおとうさんは言った。ボクはドギマギしてしまったのだ。
おとうさんの明さんは、肺病で寝ているんで、ボクは学校から帰ると、暗くなるまで外で遊んでくるのだった。もっとも、そのころは近所のどこの家のコドモもそうでした。家が狭いし、コドモってな、大人にとってはうるさくて気にさわるもんですから。
でも、十二月ともなって、外が寒い時には、コタツで本でも読んでたいでしょう。ボクは学校の図書館から借りてきたエジソンの伝記かなんかを読んでいたかもしれない。今日は寒いし、明さんも「外で遊んでこい!」はちょっとナ……と思ったのかもしれない。火鉢の縁につかまって、本をあぶるような感じでエジソンを読んでると、いきなり。
「こっち入れ」と言ってくれたんでした。明さんは病気だから、寒いのは一番体に毒なんですね、で、ふとんにアンカを入れて寝ている。そのアンカにあたれ、と、同じふとんに入ってよし、ということです。
「ハイ」と言ってボクは明さんのふとんに、足のほうから入って、たがい違いの方向にふとんにもぐり込んで、エジソンの続きを読んでるわけです。火鉢にかけた鉄瓶がシューシュー湯気をたてる音が聞こえるだけで、静かです。
ボクは明さんと家の中で二人きりになるってことがほとんどなかった。だいたい、外で遊んでいたし、そうでない時は、姉のチカコや、母タカコもいっしょだった。二人だけで話したことは数えるくらいです。その、わずかに話をした時のことは、「しんちゃんのオカモチ」のところで書きました。
ほとんど話をしなかったから、それを覚えていられたというワケです。そうして、この時のことも、よく覚えているくらいに、数少ない特別の例だったというわけです。
明さんも、何かムズカシそうな本を読んで、薬の包み紙に何か書きつけていたりした。ときどき軽い咳をおとうさんがするほかは、シンと静かになっている。風の音や、遠くでトウフ屋のラッパが鳴っているのが聞こえるような時間です。そういう時に、
「ノブヒロ、寒くないか?」と明さんは、おどろくくらいやさしい声でそう言ったのです。ドギマギする。で、ボクは、
「ううん、さむく|なくなくない《ヽヽヽヽヽヽ》」とフクザツな言い回しをしてしまったんでした。
「チッ」と明さんは舌打ちをした。しまった! おとうさんをおこらしちゃったな、とボクは後悔した。
「いったい、どこの国のコトバだ、|さむくなくなくない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》?……」と語尾を上げて、でもそれきり黙ってます。そしていきなりガバッと起き上がると、パンパンパン! とふとんをたたいて、風の入らないように直すと、またゴロンと横になって、
「…………………………」と黙っている。
思えば、その時おとうさんは、いまのボクの年くらいなんでした。病気がうつるといけないから、病院のお見舞いにコドモをつれてきたタカコさんを叱りつけたりしたころから、ノブヒロはどうも自分をこわがっている。
外で遊んでこい! とどなるのも同じ理由だが、そうしていつもどなるもんだから、少しオレの前で萎縮してるかもしれんな、と思って、少しさびしかったかもしれない。
コイツは、こんなに親父をこわがって、一人前の男になれるのか、と明さんは思って舌打ちをしたのかもしれません。
明さんは、十代のころにお母さんを病気で亡くした後、継母《ままはは》になつかずに家出して、そのままフィリピンに小僧として出稼ぎに行ってしまった人なのです。何をしていたのか知らないけれども、眠りながら大八車を引っぱったこともある、とチカコは聞いたことがあるらしい。
アルバムには、白い麻の上下を着て、ガイジンの友だちと写真に写っているのが貼ってある。明さんは籐の椅子に座ってエラソーに、その友人をしたがえてるというような写真です。ガイジンの美人と写っている写真もある。
ボクがのちにTVの仕事でフィリピンに誘われた時、ついつい引き受けたのは、この明さんの若いころの気分を、少しなぞってみたいと思ったことがあったからでした。
台所の高窓のそばの高い場所に、ガクに入った芸術写真があって、それは椰子の木林の切り株で休息する、菅笠をかぶった漁師の写真でしたが、これは薄暗い板張りの台所の中で、南洋に開いている窓のように見えました。
それを何かといっては見上げていたからでしょうか、ボクはタイに旅行して椰子の木林を舟で移動している時に、まるであの台所の窓からワープしてきたような、不思議な気分を味わったものです。水上マーケットへ向かうサンパンの上で、椰子の木のトンネルを見上げながら、懐かしいな、とボクは思ったのです。
明さんは、そんなワケでフィリピンなまりがあったのかもしれないが、英語とスペイン語をわずかに解したらしい。坂の上の北池荘に住んでいたお姐さんが進駐軍のオトモダチと大声でけんかして、タローさんと呼ばれていたいつもはやさしいその進駐軍さんが、何事か大声で罵《ののし》りながら去っていくのを、ニヤニヤしながら同時通訳してみせたりすることもあった。
ボクは明さんを五年生の時に亡くしましたが、一年後に、押し入れの天袋にあった本の中に、英語で書かれた明さんの日記らしいものを見つけて読んだことがあった。読んだというのは正しくない、全体を眺めていただけですが、ローマ字として読める、女の人の名前が、いくつかちりばめてあるのに気がついた。
中学へあがって英語がわかるようになったら、この日記を読んでやれ、とその時ボクは思ったのでしたが、その後日記はどこかへ行ってしまったし、第一、ボクはいまになっても英語なんか読めないままなのだ。
たまに外出する時に、ネクタイをさんざん選んで、出かけたと思ったらまた帰ってきて違うのに結びかえて、また出ていったりした。と明さんが亡くなってから、母タカコさんは笑って思い出話をしたりしましたが、英語もローマ字も読めないタカコさんも、そのローマ字女の存在は先刻承知之介だったのかもしれないな、と思ったりします。
ボクは中学生になってからも、明さんが生き返って、またいつのまにかいっしょに暮らしてる、っていう夢を何度か見た覚えがあります。ボクは短気でカンシャク持ちの明さんに不満を持った覚えはないのに、夢では明さんはいつも笑っているのでしたが、よく思い出してみると、明さんはたしかに、ほんとに生きている時も、冗談を言ったり、ふとんの中にしたおならを、部屋じゅうにバフバフと行きわたらせて、家族が逃げまどうのを見て、笑うような、トボケた人でもあったのだと気がつきました。
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お正月はどんなだったろう
タカコさんはまず新聞紙を座敷に敷く。で、台所から持ってきたまな板を置いて、そこで大根を切るのだ。そうしておいて、きのうお米屋さんが届けてくれたのし餅(ちょっと大きめの画用紙くらいなやつ)を、切っていく。大根を切るのは、お餅が包丁に粘りつくのを防ぐためです。
切り込み入れてみて、反り返って見当をつけたり、間をおいて、イザと切りかかったり、その都度、ふきんで包丁をふいたり、大根を切ってみたりで、その様子がどこか儀式めいてます。実際、このお餅を切りそろえる時間というのは、お正月を迎える気分というのを、いっとう盛り上げてくれるのでした。
だんだん細かく切っていって、最終的にはタバコの「光」くらいの大きさにするワケですが、端のほうのハンパな形になったものは、おやつ≠ノされることになっていて、座敷の火鉢でさっそく焼かれるワケです。
コドモは、この早めにやるお正月がとても楽しいのだった。まだお正月じゃないのに、お正月の食べ物を食べてしまう。っていうのがおもしろい。火鉢にしがみついて、形の悪い、ヘンなイソベ巻のできるのを、じっと注目して待ってるわけです。
今日は朝から、窓ふきをしたり、庭掃除をして、たき火をしたり、障子の張りかえの手伝いをしたりした。障子の張りかえも楽しかった。どうせ張りかえるのだから、
「穴をあけてもいいよ」と、許可がおりるのだ。いつもは障子をやぶけば叱られるのに、この日は「やぶってもいい」のである。
バリバリにやぶってしまったあとは、ぬるま湯で、桟《さん》にこびりついたノリと障子紙を、ぞうきんで落としていく。ホコリのにおいが、ぬるま湯に湿って立ちのぼる。
キレイにしたところで、タカコさんが障子紙を張っていく。まっ白に、目のさめるような障子紙が張られて、すみからすみまで、ふき掃除されて、部屋がお正月になったところで、いまリハーサルのお正月が食べられているわけである。端っこのイソベ巻はすぐなくなってしまうけれども、正規のお餅は、決して食べてはいけない。
「年越しのゴハンが食べられなくなっちゃうでしょ」だからだ。どこの風習なのか、ウチでは年越しソバじゃなくて、妙にゴーカな晩ごはんなのだった。ゴーカといっても、貧乏なんだから、つまり通常よりも、という程度。でもそれは、そのころはとてもゴーカに思えたのだ。大《おお》晦日《みそか》の晩、明日は元日というその晩に、なぜだかずいぶんハリコンだゴハンを食べる、というのがウチの方式なのだった。
一度、世間ふうに、おソバ屋さんから出前をとった年があった。食べ終わって、みんな何か物足りなくて、以後、この方式が墨守されることになった。そうしないと、お正月の来るような気がしないからだった。
仕上げには、おそくまで開いている銭湯へ行って、念入りに体を洗うと、小ざっぱりした敷布のふとんに入って、ラジオをききながら眠りにつく、除夜の鐘が遠くから聞こえてきて。枕もとには、お正月に着る新品の服が肌着から一そろい、真新しいゲタやタビまで、セットになって置かれてあるのだ。
ついに、明日はお正月なんだなァ、と思いながらコドモは眠りについたと思う。
目がさめると、お正月である。「あけましておめでとうございます」と何度も言いあう。おろしたてのタビをはき、新品のズボン、新品のセーターを着て、お雑煮を食べる。おしるこを食べて、正規のイソベ巻とアベカワと、キントンやナマスの干し柿を食べ、黒豆を食べて、おトソを飲むと、あれほど期待していたお正月は、突然終わってしまうのだった。
もちろん、カルタをしたり、凧を揚げたり、福笑いをしたり、コマを回したり、スゴロクをしたりするけれども、お正月はいつのまにか過ぎ去っていたらしい。
お正月はいつ来て、いついなくなってしまったのか、いまがきのうまでの去年とは、違ってしまったのはハッキリしてるけれども、なんだかハグレたような気のするのがお正月なのだった。ハグレた気分はそのままで、ちょっとキツイ鼻緒のゲタをはいて、外へ出ていくと、ふつうの、ただの冬休みをして、そんな気分も忘れてしまうのだったが、障子を張ったりお餅を切ったり、鐘を聞いたり、新調の服を着たりゲタをはいたり、いつもはしない遊びをしたりのお正月は、その周りがたしかにあるのに、その中心の種のあたりがいつのまにかなくなっている、何か、ボーッとした気分というのがあるのだった。
あるいは、一年が終わって新しい一年の始まることを、時間のことや人生のことを、そのボーッとした顔のコドモは考えていたのかもしれないが、いまもボーッとした顔のオトナであるボクにはよくわからない。
しかし、オトナになってボーッとしているボクは、どうもコドモの時にボーッと考えたようには考えていない気がする。お正月は、初めから単なる休日になってしまった。障子をやぶる者がいないから張りかえないし、正月用に新品の服を用意することもない。
おせち料理は元日から飽きてしまうし、ただムヤミにさわがしいTVを見ているきりである。お正月はなんにも、特別の日じゃなくなってしまったのだった。
周りからさんざん特別の日につくりあげたお正月をしていた時にだって、お正月のことは、ほんとはわかっていなかったのに、こんな、特別でないお正月に、オトナは何も考えたりはしないのだった。
コブ巻きと、里イモの煮物、干し柿だけなくなった大根と人参のナマスが残る。カズノコが残り(昔はカズノコが安かった)、ゴマメが残り、お雑煮に伊達巻が入らなくなって、お正月は完全に、あとかたもなくなってしまうけれども、いつなくなったのかはわからないのである。コドモは漠然とボーッと時間のことや永遠のことや、宇宙のことを、障子の窓から、誰かの揚げてる凧を見ながら、思っていたかもしれない。
コタツでみかんをむいて、買い置きのお菓子を食べて、ひまなしにおなかをいっぱいにさせながら、竜宮城に行った浦島太郎のことを考えていたかもしれない。
しかし、もうオトナになってしまったボクには、ほんとのところはワカラナイのだ。ひょっとしたらなんにも考えていなかったのかもしれないし、お正月を、お正月として楽しんでいたかもしれないのだ。ただ、なんとなく遠くのほうで、そんな感じのするだけだ。
霜柱がとけて、ぬかるんだ道を歩いて、おろしたてのゲタの汚れていくのを見て、何か考えたような、近所の門松を一つずつ見て回りながら、何かを考えていたような、そんな気がするだけだ。
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タケシくんの恋人
タケシくんはボクより五歳も年上でしたから、もちろん「くん」づけで呼んだりはしてなかった。コドモのころは「タケちゃん」でした。アレ?「ちゃん」も「くん」も別に年上呼ぶのにふさわしくはありませんね。
コドモ同士の上下関係って、そういえばそんなにちゃんとしてなかったかもしれない。ボクは「ボーヤ」と呼ばれてて、それはヨチヨチ歩きみたいな、ほんとにモノスゴイ年下のコにも「ボーヤ」と呼ばれてたんで、コドモは敬語とか敬称と縁がなかったな。
「お前、言葉に気をつけろよ」とかあんまり言わなかった。もう少し年かさになって不良≠ネんかになると、こういうことにとても律気《りちぎ》になりますね。
「コラ、俺を誰だと思ってんだァ。えーっ口のききかた知らねえのか」ってスゴんだりしますね。で、これもいつまでもやってるとコドモっぽい≠アとになってしまいます。それはまァいい。コドモのころの話です。
で、ボクはタケちゃんとよく遊びました。タケちゃんがボクと遊びたがったからだ。
「ボーヤ遊びに来いよ」と言われてタケちゃんのところへ行く。タケちゃんのお父さんは大工さんで、お母さんも昼間はいないようだったから、どこかへ働きに行ってたかもしれない。
タケちゃんの家のアルバムを見せてもらったことがあって、それがけっこうおもしろかったのもある。呼ばれるとちょくちょく、そうやって遊びに行きました。アルバムっていうのは、タケちゃんのお父さんが若いころに撮った鼠小僧の扮装でキメてたりするっていうヤツで、お父さんは役者さんだったわけじゃないんですが、ちょっとまァ、オチャメだったんでしょうね。千両箱持つかわりに大工道具の箱しょったりしてる。そんな写真が貼ってあって、ボクはけっこう気に入っていた。
タケちゃんにしたら、もう中学一年ですから、小学生をからかったりするおもしろさもあったかもしれない。宇宙の秘密を教えてくれることもあるが、生命の神秘について質問をしたりもします。
「ボーヤさァ、赤ん坊はどうして生まれるか知ってるか?」とタケちゃんは、二つ年下で五年生のカッちゃんと二人でニヤニヤしながら質問します。タケちゃんは、こういう話を科学的≠ネ顔ではできなくて、すごくダラシナイ笑い顔になってしまうタイプです。そのせいで、姉チカコや同い年のイトコの純子ちゃんには、
「タケちゃんてちょっとヤラシイから|ヤ《ヽ》」と言われていることをタケちゃんは知らない。
「そりゃあケッコンをするからだ、親が」とボクは答えます。
「ホー!!」と二人は顔を見あわせて感心してます。
「知ってるんだ……」
「そんなのジョーシキだよ」とボクは得意です。年上が感心してるからね。カッちゃんはあまりニヤニヤしません、マジメな顔をしていて、
「でもさァ、結婚の意味がわかってるのかなボーヤは。ボーヤ、じゃあ結婚って何だ?」
「ケッコンはケッコンだ、ケッコンシキしてフーフになる」
「で?」
「ケッコンしてコドモができる」
「なんでケッコンするとコドモができるの?」とカッちゃんはあくまで科学的。
「それは、ケッコンして、お父さんとお母さんが寝るからさ」
「オオーッ!!」と、二人はまた感心したのである。実は、ボクはここのところが本当はよくわかっていないのだ。大人の話かなんかで「寝るとコドモができる」という話は聞いている
が、どうもナットクがいかない。なんで、寝るとコドモなんだ? と思っているがわからない。
「ボーヤさァ、寝るってどういうふうに?」と言ってタケちゃんは、さらにだらしない笑いかたになってしまっている。どうもこれは、ヤラシイ話らしいなとは気がつくからくやしいけれども、わからないのである。
「ねえ、どうやって寝るの」
「どうって、ふつうにさ、ふつうに寝る」
ここで、タケちゃんとカッちゃんは大笑いする。あはは、まだわかってないんだ。ヤッパリな。ボクは意地っぱりだから、それじゃあどういう寝かたをするのか二人にはきけないのだった。
「ハハハ、まだ二年生だもんな、まだ知らなくてもいいだろう」とバカにされたみたいなので、
「わかってるよ、そんなこと」と言ってしまうのだ。だから生命の神秘は五年生になるまで結局わからなかった。五年生の学校帰り、アパート住まいのムラマツくんが、犬がさかっているのを指さしてポツリと、
「人間のマネしてる」と言うのでショックだったのだった。
タケちゃんが、しばしばボクを呼んで、プロレスごっこをしたりするのには、目的があった。もちろんプロレスごっこも楽しんではいたのだが、実は寝技にもちこむと、断然ボクが強くて、タケちゃんは必ず「まいった」になってしまうのだ。足をヘビみたいにからませて締めると、ものすごくきくらしくて、大騒ぎして、まいってしまう。中学生をまいったさせるのは気持いいから、タケちゃんが呼ぶとボクは必ず遊びに行ったのだった。
プロレスが終わると、おせんべなど出しながらタケちゃんは、なにげなくキリ出すのだ。
「純子ちゃんどうしてる?」
タケちゃんはどうも純子ちゃんが好きなのだ。どうしてるといったって、立ち入ったことを知ってるワケじゃない。チカコと純子ちゃんはタケちゃんがヘラヘラ笑ってる顔が、スケベったらしくて「ヤ」と言ってるのだが、そんなことカワイソウだから言えない。
「こんど、純子ちゃんに、タケちゃんが好きだって言っといてやろうか?」と言うと、タケちゃんはあわてて笑って、
「いいよお、そんなんじゃないよお」と言うのである。タケちゃんはテレかくしにレコードを持ってきてきかせてくれるのだった。いま思うと、その歌詞はあまりにも心境にピッタリしていたと思う。
※[#歌記号]心で好きと叫んでも 口では言えず……
島倉千代子の歌謡曲だった。小学生のボクは〈こんな女の歌……〉と吐き捨てるように思っていて、ものすごく硬派なのだった。
「こないださァ、まちがっちゃってさァ、タンスの段まちがってさ、サチコのパンツはいちゃったんだよ、女のパンツってツルツルしててヘンなんだよな」
サッちゃんはタケちゃんの妹でボクより三つくらい年上だった。いま思うと、タケちゃんをもう少し尊敬してたら、ボクもかなり軟派少年になってたかもしれない。ヤラシイ関係にもう少し早いとこ明るいコドモになっていたのになァ、と思う。
ボクが中学生になったころ、タケちゃんは信用金庫に勤めるサラリーマンになって、ポマードつけて通勤していた。「マジメな顔して窓口に座ってたよ」とオバさんたちがうわさしてるのを聞いたりした。そのころはもうプロレスも流行らなかったし、タケちゃんに声をかけられることもなくなっていて、ボクはいよいよ硬派っぽい中学生だった。
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おならの人
良夫くんは、なぜか年下のコドモにも、ヨシオ……と呼びつけにされていた。それはまだいいので、大部分のコドモは良夫くんを、
「おなら」と呼ぶのだった。良夫くんが比較的ひんぱんに、おならをしたのが原因だろう。
「あ、またおならがおならした!」と言ってコドモがはやしても、良夫くんは笑っている。笑っているだけで切り返しを言ったり、ウルセェナとか凄んだりしないから、
「おなら、おなら」とコドモはさらにはやすのである。
良夫くんはボクより三つ年上で、とくに勉強ができるでもできないでもなく、相撲が弱いでもなく強いでもなく、格別軽んじられる原因はなさそうなのに、こうなったのは、ガキ大将グループの主流でも反主流でもなかったのと、何を言われてもヘラヘラ笑ってるのがいけないのだ。だからなめられるんだ、年下にと、ボクははがゆい気持だったのだ。
良夫くんとは反対に、ボクはなんだか妙に特別扱いのようなポジションにいて、ガキ大将のグループの主流からも、反主流からも、いわば大事にされていた。いま思えばガキ大将連と姉たちが同い年だったのと関係があるかもしれない。
良夫くんにボクが、じれったい思いをしたのは、きっとどこか良夫くんを気に入っていたのだろう。良夫くんは田舎っぺで、のろまで、ビッとしてないから、みんなにバカにされているが、なぜだかボクは六軒長屋のいちばん奥に「良夫ちゃん! あそぼ!」とよく遊びに行ったのだった。
良夫くんの家は、共稼ぎだったのか、それとも母子家庭だったのか、よく覚えがないが、とにかく家には大人がいないので、その六畳一間のアパートに上がって、敷きっぱなしを丸めただけのフトンに寄りかかって、話をしたり、相撲をとって、うっちゃりの稽古をしたりしたのだ。
「良夫ちゃん、宇宙ってどうなってるか、知ってるか?」と、小学二年生のボクは五年生の良夫くんに言ったのである。
「どうなってる?」と本気できくので、ボクはこの間、中学生のタケちゃんに聞いた通りに言うのである。
「えーとね、地球があって月があって、銀河系があるんだ。で、そういう銀河系みたいのがいっぱいいっぱいあって小宇宙になってる」
「へえ、どのくらいかな」
「えーとね、何万億千百!」と言うと良夫くんは、
「うへえー!」と言ってフトンにバッタリ倒れるのだ。
「それだけじゃない!」とボクはうれしくなってくるのだった。
「小宇宙がね、銀河系みたいのがいっぱいつまった小宇宙がね、いっぱいいっぱいあってね、大宇宙があるの」
「へえ、どのくらいかな」
「何億千万百!!」とボクが断定すると良夫くんは、またも大げさにおどろいて、フトンめがけて、
「うっへー何億千万百ー!」と言いながら、バッターンと倒れ込むのだ。ボクはうれしくなって、タケちゃんに聞いた話を変えたくなった。
「そんなんでオドロイてちゃダメだ! 大宇宙はね、大大宇宙っていうのに、ふくまれてて、大宇宙がいっぱいいっぱいいっぱい集まって大大宇宙になってるんだから!!」
「いくつくらいかな」と良夫くんはおどろく用意をして待っているのだ。
「何億億億億千万百!!」
「うっっへえええ〜〜バタン!」
「何億億億万千!」とボクは言って、良夫くんのように、おどろいてフトンにバッタンと倒れ込むのである。
「何億億……バッターン」と二人でそうやってるとすごく楽しいのだ。
ひょっとすると、あれは良夫くんがからかっていたのかな、といま思い出して考えたが違う。良夫くんはそういう性格じゃないのだ。
「きのうの宇宙の話してよ」と次の日には良夫くんから注文がある。良夫くんは、ボクに大宇宙の数を言ってもらって、おどろいてひっくり返るのを気に入ってしまったのだ。それを見てボクが喜んで笑うのが気に入ってしまったのかもしれない。
ボクはコドモだったが、まるでコドモみたいに同じことを何度もくり返して、ゲラゲラ笑うのが好きだった。ボクはコドモだったがそのころは自分がコドモとは思っていなかった。
良夫くんは、ひょっとすると、ボクのごきげんをとりむすんでいたのかもしれない。なんとなく良夫くんにボクがひかれていたように、良夫くんもボクを好きだったのかもしれない。いや良夫くんは、なんでもヒトが喜んでいるのが好きだったのかもしれない。
だからボクにはチクリと心の痛む思い出がある。何かつまらないことでボクがヘソを曲げてしまって、良夫くんが困っているのである。ボクは自分で、なにもこんなにおこらなくてもと内心は思っているのに、行きがかりで、素直になれないでいる、その時の気分が妙に残っているのである。
「ゴメンナ、ゴメンナ」と良夫くんはあやまって、ボクのキゲンを直そうとしているのである。
「カンベンナ、カンベンナ」とあやまりながら、
「ヤダカ? ヤダカ?」と良夫くんは言っていて、そのカンベンするのがイヤデスカ? という意味なのだろうか、「ヤダカ?」と質問している、その田舎じみた言いかたが、なんだかとてもせつないのだ。
なんで「ヤジャナイヨ」とすぐ言ってあげなかったかな、とボクはその時もきっと思ったし、それからずっと思っていた。それは下手に出られて、ついつけあがってしまった恥ずかしさだった。
下手に出てればつけあがりやがって! ってセリフは、こういう時には、きっと親切なコトバである。ボクにはこの後の良夫くんの思い出がプッツリなくて、いきなりポッと、六軒長屋の元・良夫くんちの畳に土足で立っている記憶だけがある。良夫くんは引っ越していってしまったのだった。
あの時たしかに、ボクは良夫くんを手下にした気分を楽しんでいたのだろう。せっかくあやまっても、ゆるしてやらないワガママを楽しんでいたのに違いない。そういう良夫くんを、イジメて喜んでいたのに違いない。
だから田舎くさい、なまったセリフが耳にこびりついてしまったのである。
「カンベンナ、ヤダカ? ヤダカ?」と言ってる良夫くんの顔は、情けないくらいにお人好しなのだった。
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あとがき
人間は死ぬ時に、一生の思い出を走馬灯のように′ゥるのだと言い伝えられてきました。「あれは本当だ、自分は走馬灯を実際に見た」という人もいます。死の淵まで行きかけて九死に一生を得た人がそんなことを言う。そういう人が以前にもいたから、そんな言い伝えもあるんでしょう。
ところで、ボクらは目に見えたすべてのこと、経験したすべてのことを、ほんとは全部細大もらさず記憶しているのだという説もあります。前述の「走馬灯」の一件を持ち出すと、それは一瞬のうちに見るのだということですから、早回しにでもかけるんでしょうか? 覚えていた記憶が全部一瞬に回ったら、それはものすごい高速回転で、まるで何が何だかわからないんじゃないか? と映像を見るのが好きなボクは考えたんでした。
せっかく、一生に一度の走馬灯が、なんだかワケわかんないってのはつまんないな、とそんなふうに考えた。
そうして、いや、それは違うはずだ。と、また屁理屈をこねたんですね、死んだあとの時間ていうのは、いまの時間とは流れかたが違うのじゃあないか、遺族が死を見とっている、ほんの一瞬間が、死んだ人には、一生分と同じ長さなのかもしれない。
ちょうど、レコードを逆回しにかけたように一生分を逆にたどって、曲の始めに戻るのかもしれない。こんなことを言ったからって、それはたしかめたわけでもないんだし、なんの意味もないんですが、再三言うように、まあそんなくだらないことを、あれこれ考えたりするのがボクは好きなんでした。
一枚のレコード盤のような一生、その曲はまた同じようにかけられるのか? それももちろんわからない。ただ、コドモ時間といい大人時間といっても、ターンテーブルの回転としては同じだったように、ひとつながりで、区別はないのかもしれない。
コドモの心、コドモの目、といったようなものを、大人は反省をこめて、素晴らしいものにして話しますが、ボクにはどうも、そんなにくっきりとそれぞれが分かれるものなのか、どうか? という気持があります。
コドモはコドモの役をやり、大人は大人の役をしているだけのような気もします。そうしてコドモも大人のように考えてみることがあるし、大人もコドモのようになっている時もあった気がする。
気持がいいのは、自分のようであったりする℃桙ネのかもしれませんね。「なかなかそうもいかないんだよ」というのが、あるいは大人の考えということなのかもしれませんが。
一月に一回ずつ、コドモのころのことを思い出して、結局四年間! も書いてしまった。同じようなことを何度も書いたのかもしれません、実際、ほとんど似たようなことを書いていたことがあって、二、三の項目を省くことにしました。
この本を読んでくださった皆さんに、感謝します。読んで笑ってもらえたら、うれしい。ご自分のコドモ時間をすごすキッカケになれたら、もっとうれしい。どうもありがとうございました。
一九九一年六月
[#地付き]南 伸坊
南伸坊(みなみ・しんぼう)
一九四七年、東京に生まれる。イラストライター。美学校「美術演習」(赤瀬川原平講師他)教場修了。雑誌『ガロ』の編集長を経て、一九八〇年からフリーとなり、イラストレーション+エッセイで活躍。また藤森照信、赤瀬川原平らと路上観察学会を設立し、その成果は文章やTV等で発表されている。一九九八年、講談社出版文化賞ブックデザイン賞受賞。主著に、『モンガイカンの美術館』『笑う写真』『ハリガミ考現学』『顔』『歴史上の本人』『仙人の壷』『李白の月』など。
この作品は一九九一年六月、福音館書店より刊行され、一九九七年五月、ちくま文庫に収録された。