半藤一利
聖断 天皇と鈴木貫太郎
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目 次
序 章 八月十五日早朝
第一部 日本海軍史とともに
第 一 章 鬼貫太郎の突進
第 二 章 水雷戦術の雄
第 三 章 海軍最悪のとき
第 四 章 大正から昭和へ
第二部 大侍従長として
第 五 章 「君側の奸」となる
第 六 章 満洲事変から上海事変へ
第 七 章 世界の孤児となった日本
第 八 章 二・二六事件に倒る
第三部「破局の時代」にあって
第 九 章 もはや日本に勝利はない
第 十 章 最後の宮廷列車
第四部 モーニングを着た西郷隆盛
第十一章 至誠の仁人、敢為の武将
第十二章 無条件降伏との戦い
第十三章 本土決戦への道程
第十四章 迫られる最後の決断
第十五章 天皇と大元帥の間
第五部 聖断ふたたび
第十六章 ポツダム宣言と黙殺
第十七章 天皇の決意に従う
第十八章 日本が降伏した!
第十九章 八月十四日午前十一時
終 章 じいさんばあさん
[#改ページ]
[#小見出し] 序章 八月十五日早朝
[#地付き]●「君に難しい方を頼む」[#「●「君に難しい方を頼む」」はゴシック体]
総理大臣|鈴木貫太郎《すずきかんたろう》元海軍大将は、すっくと立つと、原稿はおろかメモ一つなく、語りはじめた。八月九日の第一回の聖断いらいのすべての出来事をよどみなく報告するのである。そして最後にいった。
「ここに重ねて、聖断をわずらわし奉るのは、罪軽からざるをお|詫《わ》び申し上げます。しかし意見はついに一致いたしませんでした。重ねて何分のご聖断を仰ぎたく存じます」
無気味な静寂がしばし流れた。やがて天皇|裕仁《ひろひと》が静かに口をひらいた。
昭和二十年八月十四日、時刻は正午に近かった。天皇は言葉を何度ともなく中断し、落ち着きをとりもどしてはまたつづけた。
「反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは、この前いったことに変わりはない。私は、国内の事情と世界の現状をじゅうぶん考えて、これ以上戦争を継続することは無理と考える。国体問題についていろいろな危惧もあるということであるが、連合国の回答文は悪意をもって書かれたものとは思えないし、要は、国民の信念と覚悟の問題であると思う。この際、先方の回答をそのまま、受諾してよろしい」
鈴木首相をはじめいならんだ二十三人の男たちは、深く頭をたれ、|嗚咽《おえつ》し、眼鏡をはずして眼を|拭《ぬぐ》った。天皇の、とぎれとぎれに訴える語気が、憔悴しきっている男たちの胸をうった。
「この際、自分にできることはなんでもする。私が国民によびかけることがよければ、いつでもマイクの前にも立つ。ことに陸海軍将兵は非常に動揺するであろう。陸海軍大臣が必要だというのならば、自分はどこへでもいって親しく説きさとしてもよい。内閣では、至急に終戦に関する詔書を用意してほしい」
聖断はここに下った。連合国の回答を受諾するということは、休戦ではなく、事実は降伏である。連合国の意志いかんによっては、天皇の身がどうなるのかわからない。しかし、国家の分断を阻止し、国民をこのうえ無意味な犠牲から救うために、戦争をやめることが絶対に必要である。たとえその身がどうなってもよい──天皇は身を投げだしている。
やがて鈴木首相が立ち上がると、終戦詔勅案奉呈の旨を拝承し、くりかえし聖断をわずらわしたことを詫びて、深々と|痩身《そうしん》を二つに折った。その礼をうけて天皇は椅子から身を起こした。|蓮沼蕃《はすぬましげる》侍従武官長が静かに扉をあけ、天皇の姿は消えた。
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それから実に七時間あまり、鈴木内閣は終戦の詔勅案を完成させた。昼に、一室に集まりいっしょに鯨肉と黒パンだけの食事をとったが、聖断が下っていらい飲まず食わずの審議だったように思う閣僚もあった。かれらの大部分は灰色の顔に連日の苦悶の跡をはっきりと残し、その上に深い悲しみと落胆の色を明らかにしていた。最高の長老である鈴木首相の頬がいちばんつややかであった。七十九歳のこの老人は、長男でもある秘書官の|鈴木一《すずきはじめ》が驚くほどの頑健さを示し、|狂瀾怒濤《きようらんどとう》の時を支えるリーダーとして、実によく眠りよく食った。いつも平常の心を失わず、自然に行動した。
午後八時半、首相がうやうやしく差し出した詔書に、天皇は「裕仁」と署して、|御璽《ぎよじ》をおした。大日本帝国は昭和十二年七月いらい戦いつづけてきた長い戦争を、「降伏」をもって正式に終結した。
天皇の二度に及ぶ聖断によって戦争を終結に導いたとはいえ、憲法の規定に従えば、聖断とは天皇直接の裁決ではなく、いわば意思の表示にすぎない。聖断が国家決定となるのは、内閣がそれにもとづいて全員一致で決議し、あらためて天皇の裁可を受けてからである。いま、老首相はその手続きのすべてを完了させたのである。歴史はじまって初めて味わう「降伏」という名の苦汁を、鈴木首相は天皇とともに深い疲労感と虚脱感とをもってのみほした。
午後十一時すぎ、終戦詔書に全閣僚の副署をおえ、閣議を散会させたのち、鈴木首相は書記官長|迫水久常《さこみずひさつね》と秘書官の一をともなって、総理大臣室にひきあげた。
大きな執務机の上には紙片一枚もなく、ただ一冊の書物がおかれている。『老子』である。椅子に深く身を沈めた鈴木はその表紙にうつろな視線を送った。両眼は赤く充血し、眼のふちは|腫《は》れているようだ。ほとんど不眠不休だったこの数日の激務に、よくぞ八十歳に近い老首相が耐えられたものだと、二人の側近者は驚きをもってながめやった。が、ただ見守るだけで、かれらはそのまま部屋の調度の一つにでもなったかのように、行儀よく腰かけていた。
隣の、閣僚休憩室との境のドアが、このときノックされた。陸軍大臣|阿南惟幾《あなみこれちか》大将が姿をみせた。軍帽を左小脇にたばさみ、帯刀、白手袋の陸相は深々と一礼して、鈴木の机の前まで一直線に足を運ぶと、直立不動の姿勢をとった。そして老首相の顔にひたと視線をあてて静かに口を開いた。
「終戦の議が起こりましていらい、私は陸軍の意志を代表して、これまで随分いろいろと強硬な意見を申し上げましたが、さぞや総理にご迷惑をおかけしたことと思い、ここに謹んでお詫び申し上げます。私の真意は一つ、ただ国体を護持せんとするにあったのでありまして、敢て他意あるものではございませんでした。この点は何とぞご了解下さいますように」
鈴木首相もいつか椅子を離れて陸相に近づいていた。長い眉を動かして、わが子を見るように陸相のひき|緊《しま》った顔をみつめてから、首相はその肩に手をやった。
「そのことはよくわかっております。私こそあなたの率直なご意見を心から感謝し、拝聴しました。みな国を思い、お上を思うまごころから出たものなのですよ」
鈴木首相は、事実、阿南陸相に感謝していた。よくぞ最後までついてきてくれたの想いだけがある。阿南の血色のいい頬には涙が透明の線となって流れている。「自分の立場は苦しいのだ。苦しいけれども必ず鈴木首相と進退を共にする。日本を救い得るのは鈴木内閣以外にはない」と、陸士同期の国務大臣|安井藤治《やすいとうじ》に陸相が|洩《も》らしたという言葉を、誰からともなく知らされ、鈴木はどんなにか|嬉《うれ》しい想いで聞いたことか。
八月六日の広島に対する原爆投下により、内閣で終戦か戦闘継続かをめぐっての議論がはじまっていらい、鈴木内閣の閣僚たちは、いつ陸相が辞表を出すか、びくびくしつづけた。陸相の手が胸のボタンに触れ、ポケットにのびるたびに、さては辞表かと気遣ったのである。
しかし、阿南陸相はついに辞表を出すことなく、終戦詔書に淡々として署名し、一人の閣僚としてその全責任をはたした。鈴木はそのことを阿南に、言外に感謝したのである。「国を思い、お上を思うまごころ」は私もまた同じであると。陸相は首相の言葉に深くうなずいた。
「しかし、阿南さん」と首相はつづけた。「日本のご皇室は絶対に安泰ですよ。陛下のことは変わりません。何となれば、陛下は春と秋のご先祖のお祭りを熱心になさっておられますから」
「私もまた、そう信じております」と陸相は寂しげに答えた。
首相はいった。「それに日本の前途にも私は悲観ばかりしていません」
陸相が強くうなずいた。「まったく同感であります。日本は君臣一体となって必ず復興すると堅く信じております」
外観からは、二人はさりげなく会話をかわしているようである。しかし、その中にこめられた深い意味は、二人だけに相通じた。そばにいる書記官長や秘書官ですらも理解することは極めて難しかった。
鈴木首相は昭和四年一月から十一年まで、侍従長として八年間も天皇裕仁の身近にあった。この間の昭和四年八月から八年八月までの同じ時期の四年間、阿南陸相は中佐の侍従武官として、これまた天皇のそばに奉仕したのである。歴史は皮肉なことをすることが多いが、時として未来をさりげなく準備する。時を隔て、また陸海とわかれてはいたが、ただ一筋に武人として生きてきた二人の軍人が大内山の緑深き中に知り合い、互いの心の琴線を十年余も前に触れ合わしていた。
鈴木侍従長は阿南武官が軍人である以上に、人間として常に純正であろうと、それを第一に心掛ける人物と認めた。温厚で、折目正しく、権力欲の皆無な人柄をその言動に見、「徳義は戦力なり」と説くその言葉に同感した。侍従長もまた、率直純真な、義に生きる武辺の人であった。
阿南中佐は、連合艦隊司令長官、軍令部長の要職を勤めあげた武人侍従長に、なみなみならぬ尊敬を払った。茫洋とした村夫子のような風貌のうちに、底知れぬ大きさを感じ、いざというときの胆の太さを見抜いていた。「ただの提督ではない、大提督だ」と、陸相になってからも鈴木に崇敬の言葉を惜しまなかった。
この二人の武人は、特殊な宮中生活にともに相当な気骨を折りつつも、誠心誠意、若き天皇に仕えたのである。天皇はまた、誠実さを何よりも愛する人であった。鈴木侍従長を類のない忠誠の士と、そして阿南武官を信頼するに足る数少ない軍人と、天皇は認めた。
昭和二十年四月、天皇は鈴木貫太郎を首相に任命するとき「もうほかに人はいないから、鈴木、頼む」といった。終戦と決してから、天皇の地位の確保のため、「最後の一戦」による講和を泣いて主張する阿南陸相に「アナン、お前の気持はわかる。しかし、もういいから」といって天皇は慰めた。太平洋戦争終結への道程での、天皇のこれらの言葉のなかに、二人の武人に対する深い信頼をみることができる。その姓で親しく天皇が臣下をよぶことなど考えられぬことであった。
陸相として阿南は、天皇の身を案じ無条件降伏には反対しつづけたが、最後に天皇の明確な意思を知ると、おのれの忠誠心に基づいて真一文字に行動した。その阿南を、この人以外に陸相はいないとみずから選び、求めたのは鈴木貫太郎その人である。鈴木は阿南の至誠尽忠の性格に信をおき、|毫《ごう》も揺るがせにしなかった。その信にこたえ、大提督鈴木に対する人間的信頼によって、陸相は苦悩しつつもその職責を|完《まつと》うした。なすべきことを遺漏なくやった。歴史に「もしも」はないが、天皇側近として互いに人間性を知る機会がなかったならば、事態はどう変わっていたことか。
「陛下のことは変わりません。何となればご先祖のお祭りを熱心になさって」いるから、と鈴木首相がいった意味もここに求められる。明治以降三代のうち、裕仁天皇は皇室の祭祀にいちばん熱心であった。皇祖相伝の四方拝の儀式から、紀元節、神武天皇祭、|新嘗《にいなめ》祭、明治節、|神嘗《かんなめ》祭など、一年十一日の祝祭日には、深夜から早朝にかけて宮中のおまつりが賢所で行われる。通常は侍従長以下の侍従、武官らが賢所裏門まで、衣冠束帯の天皇に供奉するのである。鈴木侍従長も阿南武官もともに参列し、入母屋造りの屋根を見上げつつ、天皇と心を一つにして国の安泰と隆昌を祈ったものだった。そして天皇がいかに覇道を好まぬ性格であることかと、身近にいたものだけが知る共通の想いを抱いた。あれほどまでに|天照大御神《あまてらすおおみかみ》をあがめ、神武いらいの歴代の皇霊をまつり、|八百万《やおよろず》の神々に祈る天皇が、たとえ戦争に敗れたりとはいえ、神々の加護もなく、悲運に遭うはずはないのではないか。
そうした祈りにも似た確信が、電光のように行き交い、二人の武人の心を固く結ばせたのである。君臣一体となって敗戦日本はかならず復興するであろう、いまはそれを信じようではないかと。
こうしてしばらく沈黙のうちにみつめ合っていたが、やがて陸相が手にもった新聞紙包みの葉巻を差し出した。そして、
「これは南方第一線からの届けものであります。葉巻がお好きなのに品不足で、さぞお困りだろうと思い持参いたしました。私はたしなみませんので、総理に吸っていただきたく」
といって、首相の机の端の方においた。
陸相はきちっと頭を下げて静かに退出していった。書記官長が玄関まで送って、総理室に戻ってきたとき、鈴木首相がぽつりといった。
「阿南君は|暇乞《いとまご》いにきてくれたのだね」
鈴木には、若いときから知っている阿南という男の生きようが、その場で手にとるようにわかった。生死はその人の信念の問題である。降伏するという不名誉に耐えきれぬ己れを|生贄《いけにえ》の祭壇にのせ、陸軍四百万の無念の心中を思い、その犠牲となることを潔しとする、それが阿南という男の武士道なのである。口には出さずとも、葉巻の贈り物で永別の|挨拶《あいさつ》をする。武人である鈴木には武人阿南のたしなみがよくわかった。
武士道とは、決して武を好む精神ではない。正義、廉潔を重んずる精神であり、慈悲を尊ぶ精神であると、元海軍大将の鈴木は信じている。とすれば己れもまた陸相のようにと|逸《はや》る気持があっても自然である。降伏に甘んじねばならぬ武人としての不名誉をいえば、最も不名誉なのは己れであろう。しかし、そんな切羽つまった気に老首相はなれないでいる。
鈴木は立ち去る阿南の背をみながら、漢籍で読んだある話を思い出した。昔、亡国にのぞんで中国のある忠臣が殉死しようとし、後事を友人に託してこういったという。
「自分は易しい方に就く。済まぬが君に難しい方を頼む」
真っ先に死にゆく陸相が、老いたる己れに難きことを頼んだかのように、鈴木には思えた。国家の不名誉を招来した責任は、生き恥をさらしてでも生きられるだけ生き、国家が再び名誉ある存在に復活するまで見守っていくことにあろう。淡々とした心境で首相はそう思う。自分には死しても守らねばならぬ天皇裕仁がいる。この人の行く末を見定める責務にくらべれば、自分一個人の不名誉など、何するものであろうか。
七十九歳の老首相は、書記官長や秘書官にわからぬような何事かをつぶやきながら、再び深々と椅子に身を沈め、まず机上の『老子』に、それからおもむろに阿南陸相の形見の葉巻に視線をやるのだった。
[#地付き]●「いつも私は大丈夫でした」[#「●「いつも私は大丈夫でした」」はゴシック体]
首相官邸の後庭にあった首相の日本式官舎は、その年の五月二十五日夜の空襲で灰と化していた。鈴木はその後はずっと、小石川丸山町(現文京区千石)の私邸に寝泊りした。その夜、日も変わった八月十五日、鈴木首相がその私邸に帰ってきたのは午前零時半を回ったころである。
すでに「降伏」決定の|噂《うわさ》はひろまり、陸軍や海軍の一部、民間右翼に、「徹底抗戦」「日本のバドリオを倒せ」の声とともに、過激な行動に出ようとする動きが強まっていた。叛乱軍の一つに横浜警備第三旅団司令部付の佐々木武雄大尉の指揮する「国民神風隊」があった。かれらは国を亡国へと導く内閣の決定を転覆させるため、閣僚や重臣たち、とくに首相鈴木貫太郎の殺害を第一に企図し、首相が私邸で寝についてまだ間もない午前四時すぎ、横浜から車輛を連ねて入京、首相がいるものと即断し永田町の官邸を襲った。
官邸交換手監督の日沖とく子は、機関銃の銃声を身近に聞きながら第一報を私邸に送った。
「いま官邸に襲撃隊が来ました。総理が不在と知って、石油をまいて官邸に火をつけました。その兵隊はすぐそちらへ向うと思います。ただちに避難して下さい」
その官邸・私邸間の直通電話は、実に八月十二日に出来上がったばかりのものであった。首相が執務を終えると小石川の私邸に帰るようになった六月いらい、官邸と私邸との間の連絡は日ましに頻繁となったが、空襲下で電話線の故障が多くなり、急な連絡がしばしば遅滞した。ただちに直通電話の新設が命じられたが延び延びとなり、催促に催促を重ねて、架設されたのがやっと終戦の三日前。それがこの危急の第一報をつたえるのに役立ったのである。
襲撃隊が自動車で来るの報に、私邸では、それっと一同は床を離れた。幸い|柄沢好三郎《からさわこうさぶろう》運転手は帰らずに車の中で仮眠をむさぼっている。着物を着かえ、それぞれが手放せぬ|鞄《かばん》や風呂敷包みを手に表に出る。鈴木首相は国民服のズボンをはき、|上衣《うわぎ》ははおるだけで、護衛の坪井警部に押し出されるようにして出てきた。モンペ姿のたか夫人がそれに従う。てんでの姿で仮装行列のようだったというが、笑うものとてなかった。
ここにもう一つの偶然があった。この朝、いつもなら方向転換し、電車の通る大通りの方に頭を向けている自動車が、この日は入ったなりに背を向けて止められていたのである。いまさら転換している余裕がない。細い道を直進して右折し、隣家の代議士千葉三郎邸をぐるりとめぐるようにして走るほかはない。
首相の孫の大学生哲太郎も一緒に車にのりこもうとするのを、何を思ったか父の一が、「お前はよせ」と止めた。|訝《いぶか》しげに視線をなげる息子に、父はいった。
「お前はまだ若い。お前の道をいけ」
秘書の一は、たとえ逃げようとも逃げきれるものではなく、父の首相とともに生命を捨てる覚悟をしていたのである。前途あるものまで道連れにするのは忍びぬことと思った。
首相の|甥《おい》の鈴木武秘書官が、このとき、ふと気付いた。無事に逃げられれば、いずれあとで首相が宮中へ伺候することになろう。その折には用意にモーニングがいる。そこで屋敷に引き返して探し当てて戻ってくる。だが、慌てているから、今度は自分の重要書類や金をいれた鞄を玄関に置き忘れてしまった。
「そんなもの|諦《あきら》めろ、出発だ」
と|一《はじめ》秘書官が思わず怒鳴った。誰もが殺気立っていた。襲撃隊がこっちへ向っていることはたしかである。首相と夫人、両秘書官に坪井警部をつめこんだ自動車が走り出したが、細い道を行って右折したところが急坂になっている。|松根油《しようこんゆ》をまぜた品質の悪いガソリンではエンジンの馬力が出ず、ここで車輪は空転するばかりとなった。
一刻も早く一刻もと、せきたてられた気持と、迫りくる銃剣の恐怖の想像とで、避難行はすっかり落ち着きを失った。車中から二、三人が飛び降り、それッと私邸警護の警官がかけつけて後押しで、車を押し上げる。そのもどかしさ。急げ、走れとか口々に叫んでやっとのことで坂上に昇りつく。そしてまた車に乗りこむ。
こうした喜劇的とも見える人々の|狼狽《ろうばい》と怯えとを、おどけたような老いの相貌で眺めていた首相が、このとき、ぽつんといった。
「皆さん、ゆっくり落ち着いて下さい」
人々は思わず落ち着きはらった首相の顔をみつめた。首相はにっこりした。
「日清・日露の役にも、二・二六事件にも、いつも私は大丈夫でした。その私と一緒なのですから、皆さんは安心しておって下さい」
ここでも奇妙な偶然が働いた、というほかはない。首相の車が坂上に押し上げられようとしていたとき、大通りから佐々木大尉らの「国民神風隊」の車が突入してきた。実は、首相たちは毛抜き合わせのほんの一瞬の差で、生命拾いをしていたのである。
そうとは知らぬまま、首相の言葉に落ち着きをとり戻した一行をのせた車は、朝の街を突っ走った。不忍通りから駕籠町へ、さらに右折して本郷三丁目へ。そして西片町の実妹の邸に身を寄せたが、そこから私邸に一度電話を一秘書官が入れてみた。「哲太郎はどうした?」「逃げて、いない」、ホッとして一が本郷へ来た旨を告げると、電話口の相手が、
「君は、貫太郎さんか!」
と怒鳴った。さてはもう叛乱軍に占領されていたのか、それではこの家も気どられたことになる、また逃げ出すという始末だった。まさに有為転変、敗北の国の首相にふさわしい|遁走《とんそう》曲であった。
車は上野広小路を通って、隅田川にかかる厩橋を渡った。行き交う車もなく猛スピードだが、確たる行くあてもない。しかし誰もがもう慌てても恐れてもいなかった。「日清・日露でも二・二六でも無事だった」という老首相の言葉が、かれらをひとしく勇者に変えていた。
秘書官の鈴木一も鈴木武も、ともに二・二六の血の事件を体験していた。武秘書官は、時の首相岡田啓介の秘書官としてその救出で活躍した。一秘書官の網膜には、血の海に虫の息となって倒れ伏していた父貫太郎の姿が焼きついている。
昭和十一年のあの歴史的な日の夜明け、邸に乱入した兵と青年将校は、物もいわせず侍従長鈴木貫太郎の身体に四発の弾丸を射ち込んだ。そして倒れ伏した鈴木にとどめを刺すため、一人の兵が拳銃の銃口を|頸部《けいぶ》にあてがったのである。しかし、とどめは、たか夫人の必死の制止によって中止され、叛乱軍将兵は血まみれの侍従長の仮死に対し、|捧《ささ》げ|銃《つつ》の礼を行って立ち去った。
もし拳銃が発射されていたら、いまの鈴木貫太郎はない。九死に一生を得た侍従長の頸部には、その後もかなり長い間拳銃の銃口の痕がはっきりと残っていた。その痕跡の中に、父も子も一度は死≠凝視したのである。
逃走の車の中で、一秘書官が血の海の中に横たわった父の姿を想起している間に、首相の車は、亀戸から両国、そして門前仲町から再び永代橋を渡って隅田川をまた越えた。どこへ|辿《たど》りついたらいいのか。行きつくあてもないが、ただかれらにわかっているのは、都心は危険であろうという想像だけであった。叛乱軍によって完全に宮城付近を占拠された二・二六事件の恐怖の四日間が、秘書官たちの脳裏に再び蘇っている……。
そのころ、空襲にも焼け残った小石川の私邸は「国民神風隊」の手によって焼き払われていた。襲撃隊は残っていた書生やお手伝いに私物をもって出ろといい、二・二六事件のときの岡田首相のように、鈴木が押入れなどに隠れているのではないかと疑い、十分に捜索したうえで、家に火を放ったのである。このとき、燃え上がる火も恐れず、手伝いの原百合子がいつまでもいつまでも仏壇の前に坐し拝んでいるので、かえって襲撃隊ははらはらしたという。そんな挿話と駈けつけた消防団が、
「国を売った首相の家に水をかける義理はない」
と手をこまねいて眺めていたという哀れむべき事実を残して、私邸はメラメラと|灰燼《かいじん》に帰してしまった。
同じころ、陸相阿南惟幾は陸相官邸において割腹自刃し、果てていた。午後十二時少し前に戻った陸相は、入浴して身体を清め、訪れた部下と別れの盃を酌みかわし、そして「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」と書いた遺書をしたためた。宮城に向って官邸の廊下に突っ伏した陸相の遺骸の前に、真っ赤に血に染まったその遺書がひろげられていた。
首相の車はなお走りつづけている。ゆったりと落ち着いた鈴木首相は、すべてを周囲の指図にまかせきって、無念無想の境にある。身も心も漂泊するような、|模糊《もこ》とした想いのなかで、ふと二・二六でうけた銃口の痕をさすった。いや、単に二・二六事件のときばかりではなかった。この世に生を受けていらい、何度死にかけたことであろうか。日清・日露の戦火をくぐったときはいうまでもない。自分が生まれたその日、その生地の近くで、鳥羽伏見の戦端が切られている。死は生まれてすぐのおのれの隣にあった、車の揺れに身をゆだねながら、老首相はふとそんなことを思うのだった──。
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第一部 日本海軍史とともに
[#小見出し] 第一章 鬼貫太郎の突進
[#地付き]●「いままで死んでいました」[#「●「いままで死んでいました」」はゴシック体]
日清・日露の戦争で弾雨をくぐった勇者、二・二六事件で四発の弾丸をうけた侍従長、そして終戦の大業を完とうした首相として、日本近代史のいくつかの面で名を知られる鈴木貫太郎は、慶応三年(一八六七)十二月二十四日、大阪府(当時和泉国)|久世《くぜ》村伏尾の久世家の陣屋で生まれた。父親がいまの千葉県関宿町に城をもつ大名久世家(五万八千石)の代官として、飛び地の泉州に出向いていたからである。鈴木が生をうけたこの日に、鳥羽伏見の戦さが起こっている。この人には戦乱というか非常時の男という星めぐりがあったのかもしれない。お七夜には、大坂城の火薬庫に火が入り大爆発、その振動で生家の座敷の障子がはずれたという。
物情騒然の世相を背景に歩みだした鈴木の半生には、民間右翼の襲撃をうけ私邸を焼かれ、終戦のその朝まだき、ほうほうの態で避難したときみずからが述懐したように、なんどか危機に見舞われながら命拾いをする、奇妙な幸運に見守られている。鈴木自身は『自伝』のなかで、
「幸運というだけではもったいなくて説明ができない。何かこのほかに目に見えぬ大きな力が自分の身辺にあって、そのご加護で、当然死なねばならぬような場面に出会いながら、しばしば危ないところをまぬがれてきているように思われてならぬのである。これを私は堅く信じている。神仏のご加護のためだとこう申せば一番よく判るように思う」
というが、のちに鈴木は熱心な観音信仰者になっている。
瀕死の体験の最初は、三歳のときであった。明治戊辰の役が終わり、徳川幕府側の久世家の代官であった鈴木一家は、大阪を引き払い江戸に下ることになる。その折の島田の宿の|昼餉《ひるげ》どき、チョコチョコと街道に走りでた貫太郎は|悍馬《かんば》の足掻きの下にころんだ。だれ一人これを|救《たす》ける暇のない一瞬の出来事だったという。しかし馬が利口だった。幼い子供の身体が|蹄《ひづめ》の前に投げられたとたん、その|膝《ひざ》を折り、つぎにぽんと一跳ねして何事もなかったように飛び越して、街道を馳せ去った。
この話はのちに父母に聞かされたものであろう。が、関宿に戻り、水に|溺《おぼ》れかかったことは鈴木の脳裏に刻まれている。七歳か八歳のころ、関宿町のはずれの「神橋の入り堰」とよぶ水門の上で釣をしていたとき、魚にだけ気をとられた貫太郎少年は、水門の扉が上に押しあげられ開いているのに気づかず、ついつい扉に登ってしまった。同時に、がくんと扉が降り、勢い身体はひとたまりもなく投げ出され、深い水溜りの中に吸いこまれた。少年は泳ぎを知らなかった。とっさの間ではあるが、地獄の底にでも吸いこまれるような想いを味わったが、暴れているうちに頭が水面に出て、一生懸命にもがいて、ようように岸に|匍《は》いあがることができた。
その後に海軍に入ってから、職務上の不注意で、三度も死にそこなっている。
その第一回は少尉のときだった。巡洋艦天城が入港の際、岸に乗りあげてしまい、船を浮かさなければどうにもならぬ、ということで鈴木少尉らが二隻のカッターで艦首両舷の|錨《いかり》をはずし、運搬する任務を仰せつかった。深いところへ運び、二隻のカッターが合図で同時にロープを切る。これがうまくいかぬと錨もろともカッターが沈む危険性があったが、それが現実となって鈴木艇の方のロープが切れず、アッ危ないと思う間もなく、錨ごと十メートルも海中にもっていかれた。
『自伝』にこう記されている。
「こんな時の人間の頭の働きには極めて微妙なものがあると感心するのであるが、舟が逆さまに覆る折、ボードのシートに入ったらお陀仏となってしまうのだが、もし舟べりにつかまって上がるなら助かると思ってそうしたのである」
これがよかった。やがて水面に浮きあがることができた。
二度目は明治二十九年の初秋、海防艦金剛の航海長、少佐のときだった。呉から東京へ回航の途次、伊勢神宮参拝のため金剛は鳥羽に碇泊した。鈴木航海長は先任者として艦に居残っていた。
以下は『自伝』が迫真性もあり、風流味もあり、少し長いが引用したい。
「初秋とはいえ南の国の残暑は月が昇っても去り難く、狭い船室は蒸すように寝苦しいので、つい月に誘われるまま私はフラフラと艦尾につき出たノルデン砲座の|鉄格子《クレーデング》の上に出てすわった。ここはまた格別涼しい場所で、下に満々たる海、頭の上には大砲があるというぐあいで、月の光を浴びながらいつとはなしに一寝入りしてしまった。ウトウトと眠った後にフト眼が醒め、なんの気なしに立ち上がった拍子にいやというほど強く頭を一つ大砲に打ちつけてしまったのである。フラフラとしたかと思うまもあらず、そのまま重心を失って二十尺ばかり下の海中へもんどり打って真逆様に墜落した。自分の身体が|凄《すご》いほどの速さでグイグイと潮流に押し流されているのに気付いたので、素早くかねて子供の頃から習い覚えた抜き手を切って泳いだが、流れる潮流が強くてなかなか艦尾に泳ぎ着けぬのである。救いを求めようかと|咽《のど》まで声が出かかったが、海軍将校が海へはまって救けてくれえ! などということは恥かしさが先に立ってできない。仕方なしに眼と鼻の近くにある艦尾に向かって、月光のうちに伊勢の海と死闘をつづけたものであった。(中略)」
|咽喉《のど》にまで出かかった救いの声を止めるあたり、貫太郎の面目が躍如としている。このころはもう、日清戦争での威海衛突入の武勲もあり、鬼貫太郎≠ニしてかれの武名は、海軍部内に鳴りひびいていた。
三度目の九死に一生は日露戦争のさなかのことである。旅順港内に封鎖したロシアの艦隊を撃滅するために、|乃木希典《のぎまれすけ》大将指揮の第三軍が二〇三高地を落とした直後に、軍艦セバストポールだけが港外へ出て、警戒中の日本艦隊に頑強に抵抗した。
明治三十七年十二月九日夜、司令鈴木貫太郎大佐指揮の駆逐隊(司令艦・|不知火《しらぬい》)が、脱出を許さじとこれに|対峙《たいじ》した。夜を徹して艦橋にいた鈴木司令は、午前四時ごろ仮眠をとろうと部屋に戻って横になった。部屋は従卒が気をきかしたのか、炭火をかんかんにおこして暖めてあったのだが、あいにくと通風がぜんぜんきかない軍艦内である。
七時ごろ、憎きセバストポールめの想いが鈴木司令を起こして、艦橋への階段のところまでかれを運ばせたが、鈴木はそこでばったり倒れた。倒れたことも知らずに人事不省。気がつくと上甲板の椅子の上に寝かされて、洋服は水だらけ、眼をあけると心配そうな駆逐艦長らがのぞきこんでいるので、鈴木司令はいった。
「僕はどうかしたのかな」
艦長が答えていった。
「いままで死んでいました」
完全な一酸化炭素中毒だったが、セバストポール監視の責任感が仮死の鈴木を生き|還《かえ》らせたのである。敵の直前でなければ夢うつつのうちに、その命は奪われていたにちがいなかった。しかし、この失敗も生き還ってみればさすが鬼貫太郎、死神も敬遠したとの勇猛談となってひろがった。勇武を尊ぶ時代の気風というものはそうしたものであった。
[#地付き]●「長男は家の大黒柱だ」[#「●「長男は家の大黒柱だ」」はゴシック体]
しかし、生来の貫太郎は決して勇猛な少年ではなかったのである。強健で体格も大きかったが、それに似ず泣き虫であり、しかも大きな声をあげてわんわん泣いた。そこで幼少時代のあだ名は「鬼貫」にあらずして、「泣き貫」であったという。
しかし、父親譲りの心の優しさ、心の広さをもっていた。父は鈴木|為輔《ためすけ》、維新後に|由哲《ゆうてつ》と改名した。体が大きく、剣も槍も、弓も馬も抜群の武士で、安政年間に老中をつとめた久世大和守|広周《ひろちか》の警護役をつとめた。元治元年に代官として泉州に移ったのだが、その寛仁さで領民に慕われたという。
由哲には四男四女があり、上の三人は女子、ついで貫太郎、次男はのちの陸軍大将の孝雄、三男は実業界入りした三郎、そして弟、妹である。次男の孝雄は幼少から強情で、腕白で、暴れん坊であったから、父の武≠フ面をもっぱらうけ継いだことになろう。
母きよは、栃木県佐野の修験道場総本山の遠江寺の住職の三女、当然のことながら|躾《しつ》けはきびしく、教育には熱心であった。きよは常にいったという。
「一家の内は秩序を保つことが大事である。長男は家の大黒柱となる。次男は別れて一家を創立せねばならぬ。ともに絶えず心を磨き、学問に精励して立派な人間にならねばならぬ。これが親に対する何よりの孝行である」
その教えの甲斐あってか、子は例外なくなかなかの英才ぶりを示した。それよりも何よりも、長男貫太郎は、明治という折目正しい時代においても特に折目の正しい男として育っていった。親孝行であり、礼儀も正しく、長幼の序をわきまえ、心のうちの規律がきっちりとしていた。それが母をよろこばせた。外へ遊びにいきお菓子かなにかを|貰《もら》ってくると、何よりも「ただいま帰りました」と手をついて挨拶してから、貫太郎はその包みをそのまま母に差し出した。母は「お前がお上がり」というが、母が手をつけないかぎり決して食べなかった。
妹弟ら全部がそうしたわけではなく、貫太郎のみがこれを励行した。幼いときからこの人は心のうちに則を定め、それを超えようとはしない律義さをもっていたのである。おのれに対しては|恪勤《かつきん》、しかし、他人に対しては寛仁であり親切であり、優しかった。そして悲しいとき、辛いとき、情けないときには全身で泣いた。人間性を丸出しにした。「泣き貫」のニックネームはかならずしも弱虫という意味ではなかった。
両親は、この心優しい貫太郎を医者にすすませることを望んだ。おそらくいちばん自然の、というより最良の道と思ったのであろう。久世家は小なりとはいえ、譜代の幕臣であり、維新に際して、薩長を代表する新政府軍と対立した。鈴木家はその賊軍派に属し、貫太郎の叔父二人は五月の上野の戦さのとき、彰義隊に加わって戦い、敗れてからは、父のところに長くお預けの身となっていた。
鈴木貫太郎という男は賊軍の血筋をひくものなのである。輝かしい明治新政の時代にあって、賊軍子弟の官途はぴたりと閉ざされている。立身出世の道が官界にないとすれば、おのれの技術や力量で未来を切りひらかねばならない。盛岡藩、仙台藩、会津若松藩、越後長岡藩などの出身者が、多く医師の門を|叩《たた》き、あるいは実業界に入り、そして軍人の道を選んだのは、そのためである。貫太郎の両親が、医者に子息を仕立てようと考えたのは、いわば自然な選択だった。
維新後、父の郷里の関宿に帰った鈴木は、関宿小学校に入学、のち父の勤めの関係で前橋市に移り、桃井小学校から群馬中学(現前橋高校)にすすんだ。この群馬中学三年のとき(明治十五年)、父母の希望に反して鈴木はおのれの一生を海軍に捧げる決心を固める。それも新聞でみた「日本の軍艦がオーストラリアへいって大歓迎を受けた」という小さな記事に心惹かれたのが契機だったという。鈴木少年はかなり前から外国へいきたいという強い希望をもっていた。
父由哲は猛反対し、医者になれば好きな洋行もさせてやると説得したが、おとなしい少年がこのことだけは容易に説得されなかった。むしろ折に触れては両親のほうを口説く。地方の小官吏として身を埋めるつもりだった由哲は、やがて文明開化の|跫音《あしおと》が新しい日本帝国に満ち満ちていることに気づいた。そして子供は、子供の志望する|途《みち》を歩かせるべきだと決意する。
それには新設の海軍兵学校に進ませた方がいいと知った由哲は、鈴木少年を東京に送り、芝新銭座にあった近藤|真琴《まこと》の|攻玉社《こうぎよくしや》に入れることにした。近藤は築地の海軍兵学校の教官をするかたわら、この私塾をひらき海洋思想の鼓吹につとめ、私塾は兵学校への予備門の観を呈していた。
鈴木少年は群馬中学を退き、この攻玉社に入って刻苦勉励する。とくに英語と数学をみっちり叩きこんだ。こうして明治十七年九月、鈴木は第十四期生として築地の海軍兵学校の門をくぐった。同期生に小笠原|長生《ながなり》、佐藤|鉄太郎《てつたろう》らがいる。
明治二十年七月、鈴木は同期生四十六人中十三番で兵学校を卒業する。佐藤鉄太郎が四番、小笠原長生は三十八番だった。翌二十一年八月、海軍兵学校は江田島に移ったから、鈴木らが築地における最後の兵学校卒業者ということになる。
翌二十一年六月、海軍少尉に任官。いよいよ海軍軍人としての第一歩を踏みだす。そのスタート時において、鈴木少尉に大きな影響を与えたのが、山本|権兵衛《ごんのひようえ》だった。山本は当時軍艦高雄艦長、大佐。そして副長が斎藤|実《まこと》中佐という奇しき組み合わせで、その艦に鈴木少尉が分隊士として乗りこんだのである。
山本艦長は暇なときにはかならず若い士官と談笑し、海軍を語り、軍人精神を語った。「武士は金銭を軽蔑するが、武士も人間だ。|霞《かすみ》を喰っては生きていけまい。時と場合によっては、上司と意見を異にして辞めなければならんこともある。治にいて乱を忘れずは武士のたしなみだ。平素からその日のことを考えておかねばならん。散財して大人物ぶるのは馬鹿のやることである」
一生を通して、鈴木貫太郎は山本艦長の|訓《おし》えをよく守った。質素にし、治にいて乱を忘れぬ人間を、鈴木はみずから造りあげていく。
明治二十三年十二月鈴木は迅鯨乗組となった。迅鯨は水雷術練習艦である。山本艦長の推薦によるいわば抜擢で、「鈴木は正直で素直だからよい」と、山本はこれからの戦力というべき水雷術研究に鈴木を推したのだという。鈴木の海軍における前半の運命は、水雷術練習生となった、このときに決まった。しかし、あこがれの海軍に入り、こうしておのれの道をきりひらき、また大尉へと進級していきながら(当時は中尉という階級はない)、鈴木の心はときに微妙に揺れていた。それは明治中期の日本海軍が内包していた難題を、そのままに映しだしたものであった。
この時代の海軍は、旧幕府海軍と各藩海軍の出身者、私費留学生、海軍兵学寮出身者、それに新設の海軍兵学校出身者など、さまざまな系統の士官によって構成されている寄り合い世帯であった。だが、ただ一つの派閥として勢威をふるっていたのが、官軍の雄であり、海軍藩として鳴らした薩摩藩出身者なのである。
「長の陸軍、薩の海軍」とは、明治時代にもっともいいつづけられた言葉である。維新の大業をなしとげ、薩長二藩を中心に新政府が樹立されたという歴史性に起因していよう。それに多くの俊秀を擁したのも事実だろう。だが、それ以上に派閥として、官界はもちろんのこと、軍の要職を二藩が独占しすぎていたことは否めない。薩摩出身にあらざれば海軍軍人にあらず、とばかりに、明治中期の海軍は出身と派閥を異にする士官を排斥したり、冷遇したのである。新しい教育を受けた海軍兵学校出身の青年士官も例外ではなかった。他藩のものには乗艦勤務もゆるされないものまででた。
「薩の海軍」をもっともよく証するのは、やがて日本帝国が初の対外戦争として戦わねばならなかった日清戦争での陣容であろう。海軍大臣・|西郷従道《さいごうつぐみち》、軍令部長・|樺山資紀《かばやますけのり》、海軍省官房主事(のち軍務局長)・山本権兵衛、連合艦隊司令長官・|伊東祐亨《いとうゆうこう》という薩摩人事で戦いはおしすすめられた。
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そして十年後の日露戦争もまた、首脳陣は薩摩出身者によって独占されている。海軍大臣・山本権兵衛、軍令部長・伊東祐亨、軍令部次長・|伊集院《いじゆういん》五郎、連合艦隊司令長官・|東郷平八郎《とうごうへいはちろう》、第二艦隊司令長官・|上村彦之丞《かみむらひこのじよう》、第三艦隊司令長官・片岡七郎。こうあげてくれば「薩の海軍」の威風を思い知るほかはない。
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このなかにあって、賊軍派出身の鈴木貫太郎は辛抱強く生きぬかねばならぬのである。「泣き貫」の性格は自然と変わっていく。温厚篤実の面はいよいよ磨きがかかったが、と同時に胆のすわった千万人と|雖《いえど》も|吾往《われゆ》かん≠フ気概をもった軍人が次第に養われてきた。
しかも、組織に疎外されながらも自暴自棄にならず、懸命に努力するものは、往々にして組織内にどっぷり浸った主流派がもたないような、組織に対しての強烈な忠誠心を抱くようになるものである。片想いとでもいえるひたむきさで奉公の誠をつくす。鈴木貫太郎の心のうちに、何があろうと身も心も捧げうる義≠ェうまれた。それが海軍に対する不惜身命の奉公となり、そして海軍をつきぬけて大日本帝国に対する一途な誠忠となっていった。
勝負事もせず、大酒を飲めない鈴木は、|無聊《ぶりよう》をかこつことがあると、よく本を読んだ。歴史書や伝記を好み、さらに古今東西の兵学書を耽読した。折から世界的に有名になった海軍戦略論が、各国からつぎつぎと出版された。コロムの『海戦論』、マハンの『海上権力史論』、さらには『孫子』、『呉子』などの中国の兵法の書。鈴木はこれを徹底的に渉猟したのだが、のちに海軍大学入学にこれが役立つことになる。
いまにみていろ≠ニいう薩閥にたいする|烈《はげ》しい闘争心と、熱心な読書からくる教養とで、この賊軍派出身の海軍士官は、次第にスケールの大きな人物になっていく。自然と注目を浴びるようになったが、いかんせん傍系である。わずかに攻玉社出身ということから、薩摩の、同じ攻玉社出身の上村彦之丞、伊集院五郎らの知遇を得たのが救いとなっていたが……。
[#地付き]●「私は腹は切りませんよ」[#「●「私は腹は切りませんよ」」はゴシック体]
明治二十七年七月、豊島沖の海戦で日清戦争がはじまったとき、鈴木は海軍大尉で、水雷艇の艇長をしていた。時こそ至る、と勇みたち、いまこそ賊軍派出身の汚名≠晴らすべく帝国のためにいさぎよく死ぬことを、大尉は心に決するのである。日清開戦にさいして貫太郎が、父由哲あてに墨痕もあざやかにしるした八月九日付の書簡が残されている。裏には「対馬国竹敷港・水雷隊攻撃部」と発信地のあるその一部を、少しわかり易く書き直せば──、
「……もはや一日も猶予すべからず、わが威武を発揚し、光栄を世界に輝かすは実にこの時にござ候へば、軍人はすべからく必死に力をふるつて敵国を征伏せざるべからざるはもちろん、国民また死力もつて護国の任に当らざるべからざるは、誠に今日の時節にこれあり候。……当対馬へ在勤致しいらい、もはや一月ばかりに相なり候へども、いまだ敵艦一艘もみず、誠に遺憾にござ候。……」
若き日の貫太郎の心の昂ぶりが筆端におどっているようである。
その鈴木大尉を、上村彦之丞少佐(当時|秋津洲《あきつしま》艦長)がよんで好意をもって諭した。
「会津戦争のとき、わしは兵隊で参加した。敵が強くて壕をへだてて何日も対峙した。不眠不休がつづくと、いっそこんなことなら斬りこんで死んだほうがいい≠ニ思うようになり、実行して死んだものも何人かいた。そこで隊長が堅く戒めて命令があるまで斬り込んではいかん。眠気に負けて斬りこむのは大の卑怯者だ≠ニいった。これが大切なことだ。君たちも戦争の途中でそのようなことがきっとある。そのとき、この話を想いだせ。犬死などせんように気をつけろよ」
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この教訓は、のちに鈴木の戦闘の基本となる。忍耐と沈着と勇敢とがミックスした見事な戦いぶりを、鈴木はおのれのものとした。
日清戦争には、鈴木艇をはじめ二十四隻の水雷艇が参加したが、およそ艦艇といった名でよぶに価いしない、四十トン足らずの川蒸気のようなものだった。こんなケチな艇にのり、一直線に走らぬような怪しげな魚雷をたのんで鈴木大尉は、鬼貫太郎≠フ異名をつけられるほどの奮戦を、翌明治二十八年厳寒の威海衛でやってのける。しかもこの威海衛戦は、水雷艇による海戦史上最初の夜襲として、世界的に有名になった。小艇が防備厳重な軍港内に進入強襲したことは、かつてその例がなく、まさに世界を驚倒させたのである。
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作戦計画は前年の十二月十六日の、大本営命令に従って|樹《た》てられた。黄海の海戦に敗れた清国艦隊は、山東半島の威海衛軍港に閉じこもり、日本艦隊の挑戦にも応じてこようともしなかった。しかし、日本軍が北京にまで攻めこむためには、この残存艦隊が|障碍《しようがい》となるから、水雷艇を威海衛港内に潜入させて魚雷攻撃を強行するほかはない。清国政府はそのことあるを予期し、ドイツ砲兵少佐ハンネッケンの指導のもと、陸に多数の砲台、湾口に機雷と防材、金城鉄壁の軍港に整備しあげていた。
連合艦隊司令長官の命をうけた第三水雷艇隊司令の今井|兼昌《かねまさ》大尉は、突入路を拓くためこの防材破壊の重任を第六号艇長の鈴木大尉と、第十号艇長の中村松太郎大尉とに命じた。鈴木大尉とその部下は躍るように喜んだ。零下何度という寒さのなか、日夜をわかたぬ|哨戒《しようかい》勤務でいいかげん神経が参っていたからである。
「とにかく辛抱せよ。そのうち華々しい戦さをさせてやる」
と、部下を慰めたり励ましたりしていた鈴木の勇猛心は、爆発せんばかりになっていた。
二月三日、月明の夜、薄氷を踏んで二隻の水雷艇は港口に接近した。東口は約五・五キロ、西口は約一・八キロ、その幅いっぱいに防材が鉄のワイヤーで結ばれて、第一の防備線をつくっている。鈴木艇は悠々と近づいていく。破壊予定時刻は四日午前零時である。上崎辰次郎上等兵曹が身も軽く飛び移ると、爆薬を手早く防材にくくりつけ、電線を引っぱって戻ってくる。それを伸ばしながら後退し、適当なところで爆発させる。第一回の爆発とともに気づいた敵の砲台はただちに砲撃を開始。砲弾の弾着水柱の林立するなかで、二回、三回と防材破壊をくり返した。巧妙に大胆に艇をあやつりつつ、ブリッジに仁王立ちした鈴木は、
「オレを信じよ。絶対に貴様たちを死なせぬぞ」
と大声をあげて励ました。
一応の目的ははたしたが、爆薬量が不足で突破口は十分にひらいたとはいえなかった。根拠地の栄城湾に生還した鈴木からこの状況を報告された今井司令は、その勇戦を謝するとともに、襲撃は予定どおり二月五日夜明けに実施しようと決心した。
出撃を前に若い艇長たちの間で激論がかわされた。敵艦にどこまで肉迫して魚雷を射てばよいか、|甲論乙駁《こうろんおつばく》ではてしなかった。三百メートルで敵に発見される前に発射するべきだ、とひとりが説けば、百メートル以内に入らなければ当らぬ、と他が主張した。魚雷は五百メートルは優に走る、そこで撃てば十分と慎重論もでた。最後に鈴木大尉がぼそりといった。
「それぞれの信ずるところで射てばいい。オレは五十メートルまで近寄って射つ。どんなヘボ魚雷でもそれなら当るだろう」
そして出撃に際して、鈴木は今井司令に|眦《まなじり》を決して主張した。
「もし、防材が修理されていたりで、進入が難しいときは、自分の艇が魚雷を抱いて突入破壊します」
肉弾をもって穴をこじあけようという。その勇壮な決意に、だれいうともなく「鬼貫太郎」の|渾名《あだな》が鈴木につけられたのである。その鬼貫太郎は、出撃を前にして部下にいった。
「今日は、いよいよ襲撃である。いいか、思う存分に戦おう。どんなに危険なときでも、決して心配するな。わが輩は、お前たちを殺すような下手な戦さはしない。落ち着いて安心していけ」
鈴木の脳裏には、上村少佐のいった「犬死などせんように」が刻まれている。
第二艇隊と第三艇隊の水雷艇十隻がいっせいに錨をあげた。威海衛の東口から突入するのである。先頭に鈴木艇が立って、誘導する。第一艇隊五隻は西口に待機し、脱出する敵艦あらばこれを撃つという作戦だった。
真っ暗闇の狭い海面である。しかも合図の|火箭《ひや》があがるとともに、敵艦は探照燈を点じて猛撃を加えてきた。生死も定かならぬ戦場において訓練どおりに整然と襲撃が行われるはずもなかった。その先頭に立って、鬼貫太郎の第六号艇は突進した。だが、首尾はまことにみじめなものとなった。
港内の最大の艦・定遠を目標に二百メートル以内にまで接近した。十五センチ砲、四十七ミリ砲、小銃が猛射を浴びせてきた。しかし、ものともせずに肉迫し、鈴木は、
「発射ッ!」
と命令。そして発射ボタンが押された──。しかし、厳寒のなかだった。右舷の魚雷は凍結のため発射管から半ばしか射ち出されずに、空まわりするだけとなった。
敵の直前で泣くに泣けない失敗で、鈴木は一度は体当りを決意したが、装甲の厚さ三十センチもある敵戦艦に、空中で魚雷を爆発させただけでは撃沈できぬ、とすぐに沈着に判断した。
「やり直しだ」と回頭し、弾雨のなかで再度の攻撃をかけた。しかし左舷の魚雷も同じように凍結しており、こんども発射不能に終った。そればかりでなく、暗黒のなかから突然に出現した第十号艇にぶつけられ、艇内への浸水のおそれはなかったが、もはや襲撃どころではなくなった。
鈴木艇は辛うじて沈没をまぬがれて根拠地に帰ってきたが、有史いらい初の夜襲攻撃は大きな戦果をあげた。清国の誇る戦艦定遠は魚雷をうけ、浸水はなはだしく、|錨鎖《びようさ》を切って南航、浅瀬に|擱坐《かくざ》してやっと転覆をまぬがれた。何艇が撃ったのかわからぬが、暗闇で艦が見える近距離まで迫って、不完全な魚雷で、小魚にひとしい水雷艇が大鯨を葬ったのだ。
失敗したとはいえ、鈴木艇が意気ごんで肉迫したことは、その弾痕によって明らかで、命中した小銃弾は六十余発、そして四十七ミリ砲弾が石炭庫で眠っていた。しかも指揮よろしきを得て、全員無事で負傷者ひとりなかった。観戦のために在泊していたイギリス軍艦から、艦長以下十数人の士官が鈴木艇を訪れた。連合艦隊司令部が鬼貫太郎で名の高いかれの艇を指定したのである。イギリス人艦長は、蜂の巣のようになった艇体をみると、鈴木大尉の手をにぎりしめていった。
「本当によく戦われました。あなたと知り合えたことは誇りだ」
[#改ページ]
[#小見出し] 第二章 水雷戦術の雄
[#地付き]●「鈴木の説が正しい」[#「●「鈴木の説が正しい」」はゴシック体]
清国との戦いに勝って、明治日本は一気に国際舞台に躍りでた。日本は「圧迫された国」から「圧迫する国」へと転換した。しかし、日清の戦いは、無名の師≠ナあった一面もある。戦争路線をひたむきに進んだのは、むしろ日本帝国であった。明治天皇がのちに、開戦のことは十分に論議されず「不本意」と|洩《も》らした、ということの意味はここにある。
このために、戦勝後の日本帝国はヨーロッパ列強によって冷水を浴びせられた。ロシア・フランス・ドイツからの厳しい干渉に直面し、軍事的には勝ったが、外交で敗北せざるを得なくなった。この三国干渉の背後には、三国東洋艦隊の集結という無言の|恫喝《どうかつ》があった。
しかし、明治日本人は最初の驚愕と沈痛から立ち直ったとき、首相伊藤|博文《ひろぶみ》のいう「大砲と軍艦に相談する」決意を固め、ひたすら忍耐することにし、|臥薪嘗胆《がしんしようたん》が時代の合言葉となった。参謀次長川上|操六《そうろく》大将がいった。
「おれの目玉の黒い間は臥薪嘗胆十年じゃ」
こうして臥薪嘗胆をお題目のようにとなえ、一途に富国強兵をめざす若い帝国日本の人びとには、やがて迎える二十世紀が、なにか新しい時代の開幕を告げるように思われた。また、社会も日清戦争後の産業的発展によって、ようやく封建的な暗さから抜けだそうとしていた。
その二十世紀の第一年目、日清戦争が終って六年後の明治三十四年(一九〇一)四月二十九日、午前十時十分、|迪宮《みちのみや》裕仁親王が誕生した。二十一歳の皇太子|明宮嘉仁《はるのみやよしひと》親王(のち大正天皇)と十六歳の|節子《さだこ》妃(のちの貞明皇后)の第一皇子、体重三千グラム、身長五十一センチの、万世一系の国体を継ぐりっぱな|日嗣《ひつぎ》の|皇子《みこ》≠ナあった。『書経』『易経』や『詩経』など中国最古の史書からとられた「迪」宮「裕」仁には、徳をすすめ、大らかな心で国を治める、という意味がこめられている。臥薪嘗胆のスローガンはあったが、上昇していく明治国家の象徴とも、その誕生が考えられた。
たしかに張りつめた明治の精神が国家を覆っていた。日嗣の皇子≠フ成長と歩を一にして、国民は国家建設に歯をくいしばった。国民は三国干渉で、日本が島国であり、国防は海上権の確保によらねばならないということを思い知った。
日本海軍は、痛憤する国民感情に巧みに乗っていった。政治的に卓抜した才覚をもつ軍務局長山本権兵衛少将がすべての計画をリードし、明治二十九年の軍事予算は、二十八年度の三倍にはね上がった。その翌年は四倍になった。とくに海軍の拡張は大規模で、山本軍務局長の構想のもと、拡張十カ年計画が議会に提出され、満場一致をもって議会を通過した。明治二十九年より三十八年までに軍艦百三隻、十五万三千トンを建造することが決定。ただちに戦艦四隻、重巡六隻の建造が着手され、すでに発注されている戦艦二隻を加えたいわゆる六六艦隊の実現をはかろうとするのである。
こうして「帝国海軍」は帆に順風をうけて走りだしたが、海軍大尉鈴木貫太郎にとっては晴れたり曇ったりの海軍生活がつづいている。
明≠フ方は、日清戦争の論功行賞がおこなわれ、鈴木大尉は武功抜群の故をもって、功五級|金鵄《きんし》勲章と勲六等瑞宝章とを授与されたのである。下積みの地方官では勲六等など望むべくもない父由哲には、それも喜ばしかったが、それ以上に金鵄勲章とは何という光栄であろうかと思えた。賊軍の汚名をわが子貫太郎の奮戦が見事に晴らしてくれたのではないか。
もう一つの喜びは貫太郎の結婚である。明治三十年一月、出羽|重遠《しげとお》大佐の媒酌により鈴木は華燭の典をあげた。花嫁は会津藩出身の大沼竜太郎の妹とよといった。竜太郎の姉が出羽大佐夫人ということから、この縁組となったのだが、同じ幕臣出という経歴が若い貫太郎の心に微妙に作用したと思われる。鈴木は三十歳、とよは十八歳であった。
暗≠フ面はかれの前に立ちふさがる、いぜんとして厚い海軍部内の派閥の壁であった。英国で建造した日本最初の駆逐艦|叢雲《むらくも》の回航委員となって渡英することになろう、との噂が日清戦争の勇士・鬼貫太郎のまわりでしきりにささやかれ、鈴木もまた、名誉ある委員の人選に大いに期待した。しかし閥外の鈴木はあっさりとメンバーからはずされてしまい、鈴木大尉はさすがにくさった。戦場での奮戦が何の意味ももたなかったのか。
しかし、これらに対する反撥が鈴木を一層奮起させた。根が精励恪勤にできているかれは、心機一転して海軍大学校へ入学し、おのれの道をおのれの力でひらこうと決意するのである。どんなに冷たく扱われようが、いや、扱われれば扱われるほど、自分の力量以外に頼るべきものはない、と思い定めるのであった。
海軍大学校受験には若き日の古今東西の史書、兵法書の渉猟が役立った。試験科目のうちの重要な論文の題が「艦隊における最上の戦闘陣形を論断せよ」という、鈴木がもっとも興味をもって研究したことと同一だった。鈴木は論じた。
「|豈《あに》それ最良の戦闘陣形なるものあらんや。千変万化の敵と対戦するに当っては、変に応じ機に臨んで戦闘陣形は変化せざるべからず。|而《しこう》してなおよくこの変化に応じ得る基本的陣形は実に単縦陣なり。……」
鈴木の戦術眼の若くして秀れていたことを証するような説論といえよう。のちの日露の戦いにおいて日本海軍は、この一本棒のような単縦陣戦法によってロシア海軍と戦ったのである。
鬼貫太郎が単に戦場の荒武者であるだけでなく、戦略戦術においても一日の長を示していたことは、明治三十二年から海軍省軍務局軍事課に勤務したときの論戦においても、大いに発揮された。三十年三月に海大に入り、翌三十一年十二月に卒業した鈴木が、少佐に進級し、海軍に入ってはじめて陸上の中央勤務を命ぜられたときのこと。論争は、鈴木が専攻する水雷戦術をめぐってであった。
ことの起こりはロシアの海軍戦略家マカロフ大将の「水雷戦術」に発した。魚雷の速力を十二ノット(時速二十二キロ)程度におとせば、その射程を三千メートル以上にのばすことができる。この遠距離魚雷を利用し、これからの海戦における艦隊運動と砲戦の|掩護《えんご》的な役割に使用するべきである。マカロフはそう論じた。軍令部はこの水雷戦術論を是とし、それまでの魚雷の性能標準(速力三十ノット〈時速五十六キロ〉射程千メートル)を改変する方針を採用したのに対し、海軍省の鬼貫太郎少佐が真っ向から反対したのである。
「第一に速力の遅い魚雷は、昼間、航行中の敵艦にすばやく回避されてしまうおそれがある。第二に、かりに命中しても力が弱く、いまの爆発装置では発火しない。魚雷の速力が、敵艦より少なくとも五ノット(約九キロ)以上早くなければ、爆薬は発火しないのだ」
長年の研究の裏付けもあり、魚雷の信管がいかに発火しないものか、実戦での苦い体験もある。
「夜間に碇泊中の敵艦を襲撃する場合はどうか。二千も三千もの遠距離では、敵艦をはっきり認識できぬではないか。少なくとも五、六百メートルまで接近しなければ、確実な成功を期すことができない」
ここには銃砲弾の|雨霰《あめあられ》を冒して距離百メートル近くにまで、定遠に肉迫したかれの闘魂が生かされている。
さらに鈴木は、士気の点からも猛反対した。「このような遠距離襲撃方法は、いたずらに勇敢なる将兵を卑怯ものにするにすぎない。この論は、机上の空論であり、日清戦争の実戦の経験から、これに賛成することはできない」
新戦術を採用した軍令部は、鈴木少佐の「不同意」に弱りぬいた。実戦者の体験の集積がものをいっている上に、軍事課長加藤|友三郎《ともさぶろう》大佐も鈴木の意見に同意、さらには軍務局長の|諸岡頼之《もろおかよりゆき》少将も賛成している。海軍省と軍令部がこれでは真っ向に対峙することにもなりかねない。
鈴木と仲のいい軍令部の高島万太郎少佐が、足を運んで説得した。
「貴様、因業なことをいわずにハンコをおしてくれ。悪いようにはせん」
鈴木はこれを突っぱねる。
「友情と軍事上の意見は別だ。これは将来かならず海軍に悪影響を及ぼすから、譲らん」
鈴木に自説を|枉《ま》げさせるのは無理と悟った軍令部側は、第一局長の|瓜生外吉《うりゆうそときち》大佐が先頭に立って、上長の加藤軍事課長を説得にかかったが、加藤大佐は、「鈴木の説が正しい」と頑として|斥《しりぞ》けた。
「一少佐の分際で生意気な……」と軍令部次長伊集院五郎中将が、海軍大臣山本権兵衛に談じこむ騒ぎになった。しかし、相手がなにびとであろうと、鈴木少佐は屈しない。山本海相も処置に困って、一切の処置を次官斎藤|実《まこと》中将に命じた。斎藤実は、のちに内大臣として二・二六事件で鈴木とともに襲われ、一命を落としたその人である。その斎藤次官が若き鈴木の説得にかかった。
「軍令部長が太鼓判をおして海軍省に移してきたのだから、それを信じておとなしく判をおしたらどうか」
「私は常に大臣に過ちのないようにと心掛けて勤務しておるものです。非なることを知りつつ、また後日かならず大臣の責任となると知りつつ、判をおすことは良心が許しません」
斎藤次官は、聞きしに勝る気骨ぶりと感服しながらも、
「よし君の主張はよくわかった。しかし大臣が決裁されることになれば、君はどうするか」
と切り札をだした。鈴木は答えた。
「それは別問題です。私は海軍将来のために自説に固執しているのであります。大臣の方で、君の説は間違っているといって軍令部案に同意せられるなら、何の文句も不満もありません」
それなら書類をすぐ官房のほうへ回せということになり、官房から次官、大臣の決裁をへて軍令部案は一応承諾された。ほぼ半歳に及んだ論争はケリがついたが、軍務局関係者のハンコのないままに決裁されたということは、前代未聞であったという。山本海相は自分の判断で決裁したが、鈴木説の正当なことを内心では認めていた。そこで政治力にすぐれた海相は、魚雷の開発を遠距離低速度用と、近距離高速度用の二種類をひそかに命じ、一旦緩急に備えたという。
[#(041.jpg、横151×縦167)]
こうして当否は結局、戦場において審判されることとなったが、鬼貫太郎の剛直さはさすがに海軍部内を驚かした。人間的には派手なところのない朴念仁、とも一見みられる男のどこに、これだけの気骨があったのか。鈴木にとっては、海軍のためにという無垢な真情であったろう。だが、かならずしも正当に理解されなかった。海軍中央に対する反撥、薩閥に対する挑戦とみられた面があったのである。
[#地付き]●「心配じゃったなあ」[#「●「心配じゃったなあ」」はゴシック体]
明治三十四年、迪宮裕仁の降誕した年に、鈴木も男子を得て父となった。その知らせを鈴木はドイツの首都ベルリンで受けた。その年の七月、ドイツ国駐在を命ぜられ、身重の若妻を残し、九月に鹿島立ちをしていたからである。日嗣の皇子≠ニ同じ年の長男の誕生は、忠誠心|溢《あふ》るる鈴木を喜ばした。名誉なことでもあると思った。しかし、命名して|一《はじめ》としたわが子の笑顔を当分の間は送られてくる写真で偲ぶほかはなかった。
ドイツでの任務は「ドイツ海軍の教育調査」である。もともと遊興に関心の薄い鈴木少佐は、海軍省から支給される十分な手当をもっぱらヨーロッパ列強の視察旅行に使った。駐在武官として鈴木ほど克明に視察して回ったものはいなかった。三国干渉いらい、太平洋の出口(不凍港)を求めてアジア進出の強硬政策をとりつづけているロシアにも、当然鈴木の関心がいった。近い将来に日本海軍がロシア海軍と洋上で相まみえることは必至であろう。鈴木は露都ペテルブルグからコロンスタット軍港まで足をのばした。鎮守府長官マカロフ大将は、少佐を歓迎し、いま新造の戦艦があるから是非見ていけという。軍艦スワロフである。艦内に大きな部屋があるのを妙に感じた少佐が「これは何に使うのか」と尋ねると、
「ダンスをするための部屋だ」
と答えがかえってきた。鈴木は、真剣な戦技訓練とダンスは両立しないと、とっさに感じた。ロシア艦隊恐るるに足らずとこのとき少佐は直感した。
ロシア旅行からベルリンに帰って間もないとき、鈴木は中佐に進級する。明治三十六年九月二十六日付である。本来ならば一年前に進級していてよかったのを、筋が通らぬと思えば上司の指令にしたがわぬ武骨な一面がたたって、さし止められていたのである。そのことだけでもかなりムカッ腹を立てている鬼貫太郎だった。そのときに、東京からきた中佐進級の知らせは、完全に鈴木を激怒させてしまった。発表された先任序列は、|財部彪《たからべたけし》、竹下勇、小栗孝三郎のつぎが鈴木貫太郎となっている。すべて海兵一期あとのものだが、財部は山本権兵衛の|女婿《じよせい》、竹下は鹿児島出身、小栗も薩閥の恩恵に浴しているもの。それが自分より右翼の序列で進級しているではないか。
温厚篤実な鈴木の腹の虫もついに納まらなくなった。三十六歳という血気にはやる若さもあった。日清戦争で金鵄勲章ももらっていない後輩に追いぬかれたとあっては、|憤懣《ふんまん》やるかたもない。日本帝国のため、日本海軍のため、それ一筋に献身奉公をしてきたことに対する報いが、こんな侮辱であるのか。海相山本権兵衛が口ぐせのようにいう「薩摩の海軍から日本の海軍へ」も空念仏にすぎぬではないか。
海軍に入っていらいの不公平に我慢に我慢を重ねてきたが、もはや限界に達した想いだった。どこに向けようもない怒りが|嵩《こう》じ、やがてそれが愛想づかしとなった。こんな無法な人事をする海軍には、一日もいられない。国家に奉公するのは何も海軍にかぎったことではあるまい。人を見る眼のない連中の下で働くよりも、明るい空気の中で精一杯働きたい。
「海軍に御免こうむろう。病気と称して帰国してしまおう」
だが、荷物をまとめに下宿に戻った鈴木を待っていたのが、父由哲からの手紙であった。父は手紙の中で無心にわが子の中佐進級を喜び、しかも次第に迫りくる祖国の危機を真から憂え、「ロシアとの一戦は避けられないであろう。このときこそ大いに国家のために尽さねばならぬ」と、切々と訴えていた。
それは疑いもなく鈴木の脳天に打ちおろされた痛棒だった。鬼貫太郎はおのれの心を恥じた。一時の怒りにかられたとはいえ、愛する海軍を去ろうなどと考えた自分が情けなかった。進級が遅いなどとこだわるのは間違っている。おのれ一個の些事に惑溺して、大事を誤るのは愚者のやることであろう。
父の手紙をくり返して読みながら、自分の不心得を吹きとばした鬼貫太郎は、あらためて国家への忠誠について深く考えた。おのれが海軍を通しての国家への奉公を選択したのであり、強制されたものではない。ならば選択したことに何よりも忠実でなければならない、それが人間の生き方というもの。われらが|高邁《こうまい》な心をもって義務をはたしていくならば、出身がどうであろうと、身分がどうであろうと、われらの労に報いぬような国家はないであろうと。
鈴木貫太郎という男の長い人生行路において、このときが最大の危機であったろう。位階勲等や怒りに目がくらんで帰国していったなら、のちの鈴木貫太郎はなかった。父の手紙がそれを救い、鈴木貫太郎は再び国への忠誠を誓った。実は、このとき、日本帝国そのものも鬼貫太郎を必要としていたのである。
明治三十六年十月、ロシアは日本側からの協約提案を黙殺し、朝鮮半島の北半分(北緯三十九度以北)をロシアの勢力下におくことを要求してきた。父由哲の手紙にもあったように、「日露開戦」は必至と考えられた。それまでにもロシアは、旅順とウラジオストックに分駐する東洋艦隊を増強し、東部シベリアに陸兵を送り、日本への軍事的威嚇を強めていた。そしていま、日露交渉を無視するとともに、軍艦十六隻を増派し、陸兵をさらに動員した。日本帝国にとって、もはや大砲と軍艦で解決するほかはなくなった。
明治三十六年暮、ベルリンの鈴木中佐のもとへ一通の電報がとんだ。内容は、目下イタリアで建造中のアルゼンチンの軍艦二隻を、|急遽《きゆうきよ》購入することとなった、その日本への回航委員を任命する、急ぎゼノアへ行くように、というものだった。
日本海軍はロシア艦隊に対抗するため、アルゼンチン政府と交渉、これを横どりしようとしたロシアより一日早く、二隻の軍艦の購入に成功したのである。ともに排水量七千六百二十八トン、同型の装甲巡洋艦で、主砲の射程は世界一という優秀艦。それぞれ日進、春日と命名された。だが、緊迫した日露の情勢のなかで、この二艦をいかにして無事日本まで回航するか、それが問題となった。
そこで鬼貫太郎に白羽の矢が立ったのである。出港前に開戦となれば、ロシア海軍はこの両艦を捕獲するであろうし、また回航中であれば撃沈すべく大艦隊をさし向けるだろう。いずれにせよ、沈着にして勇敢な指揮官を日本側は必要とした。そこで日進を竹内平太郎大佐、春日を鈴木中佐にゆだねようというのであった。
海軍を辞めようと思ったことなど|嘘《うそ》のように、鈴木中佐の心身は重責に勇みたった。年が明けた三十七年一月七日、雇いの水夫をかき集め、遮二無二両艦はゼノアを出港する。兵装は一応整っていればよし、機関も航海中に整備すればよい。日露の国交がまだ一本の糸でつながれているいまがチャンスなのである。ロシアはこの出港にすぐ気がついた。軍艦三隻が日進・春日の前方を無気味に接触しながら航行した。だが、日英同盟(明治三十五年成立)を表面に立て、イギリス海軍が陰に陽に護衛役を買ってでて、地中海から無事インド洋に入り、どうやら一触即発の危機は回避される。そして、シンガポールに寄港、両艦は二月四日にそこを出て横須賀へむかったのである。
この朗報を待っていたかのように、日本政府は生命線≠守るために同じ二月四日、御前会議において対露開戦を決意する。明治天皇はいった。
「私の志ではないが、やむをえない。もしやこれが失敗したら、皇祖皇宗と国民に対しなんとも申し訳がない」
二月六日、日露国交は断絶した。二日後に連合艦隊の旅順港奇襲によって戦争がはじまり、全世界が宣戦布告の報に驚いた。日本に勝算ありと思うものは、ほとんど皆無だった。アメリカの好意的な講和工作をひきだそうと渡米を要請された金子堅太郎は、開戦直後に参謀次長の児玉源太郎中将に戦争の見込みを聞いている。児玉は不精|髭《ひげ》をなでながら、ぼそりといった。
「いまのところは五分五分とみる。それをなんとかして六分四分にまでもっていきたい」
金子は、さらに山本海相をたずねた。権兵衛大将は明快に語った。
「日本の軍艦の半分は沈むし、兵も半分殺す。残る半分でロシアの軍艦を全滅させる」
それだけに、二月十六日、日進・春日がつつがなく横須賀に入港してきたときは、海軍当局はもとより、国民は歓喜した。山本海相が、竹内大佐と鈴木中佐の二人をつれ、さっそく宮中に参内したのも、心から入港を待ちわびていたからである。
鈴木中佐は、明治天皇との初の拝謁を『自伝』で記している。
「服は持っていたから差し支えなかったが、|蝶《ちよう》ネクタイがないので銀座でやっと調えた。そこへ伊集院軍令部次長が来て、宮中へ行くのにそんなに汚い靴ではいかんといわれる。すると大臣が隣の副官室で磨いて貰えといわれ、副官の所で大臣用の靴磨きで掃除して貰った。参内すると御前に召されて奏上した。明治天皇はとてもお喜びになり……竜顔|殊《こと》の外麗しく、『心配じゃったなあ』と仰せられた。われわれは|暢気《のんき》にやって来て、陛下のそれほどの御心配も知らずに来たことは、|恐懼《きようく》に耐えず、有難いことだと思った。言上し終ったら、『御苦労じゃった』と仰せられた」
面目をほどこして鬼貫太郎の喜びはいかばかりであったろうか。
しかし、のんびり喜んでばかりはいられない。国家の命運を賭した戦いはすでに火ぶたを切っているのである。鈴木は、わが子一の顔を初めて見、そして抱き、父としての感慨にふける間もなく出陣せねばならない。ひと目逢ったことが、今生の別れとなるかもしれないと覚悟して、鬼貫太郎は家をあとにした。
[#地付き]●「鬼の司令は新聞を読んでいる」[#「●「鬼の司令は新聞を読んでいる」」はゴシック体]
足立たかという一人の女性が紋付き姿で皇孫御殿の門をくぐったのは、明治三十八年五月十八日のことである。東京の街角では、いよいよバルチック艦隊が近づいたというニュースに沸きかえっていたが、二十二歳のたかの胸は自分の運命が今日から変わるような思いがして、重苦しいものでいっぱいであった。なぜか、敵地に入るような悲壮な覚悟をかためた。
「殿下、このたび侍女としておそばにお仕えすることになりました足立たかでございます」
東宮侍従長木戸孝正が、迪宮裕仁と弟の|淳宮雍仁《あつのみややすひと》(秩父宮)に紹介した。裕仁親王が声をかけた。
「足立たかと申すか」
たかは、二人の皇孫殿下の顔をみることもなく、深く拝礼するだけであった。
足立たかは明治十六年札幌に生まれた。東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大)を卒業し、竹早町の附属幼稚園教師をしていた。たかが世話をしていた園児に東大教授菊池|大麓《だいろく》の愛児がおり、その菊池の推薦があり、皇孫殿下の養育係をさがしていた木戸孝正東宮侍従長が、突然に幼稚園に姿をみせ「是非に」といいだしたのである。
足立たかは「畏れ多い所へ出るだけの値打ちがございません」と固辞したが、木戸は諦めようとしなかった。未来の天皇である第一皇孫殿下の御相手など飛んでもないことなのである、というたかの想いと、とにもかくにも幼い二人の殿下に心から愛情をそそいでくれるひとを、との木戸の願いがぶつかり合った。
迪宮裕仁が四歳、淳宮雍仁が三歳。里親として養育をまかされていた川村|純義《すみよし》伯爵が死去し、やむなく二人の親王は沼津のご用邸でしばらく過ごしたのち、新築された皇孫御殿に移ってきたばかりだった。木戸はただ「頼みます、頼みます」の一点張りで、たかを口説いた。その真剣さに応えてついにたかは承知し、今日の初のお目見得となったのである。
若いたかは、固く決心して皇孫御殿に上ったものの、不安の念はいっそう深まっている。宮廷という規則やしきたりのやかましい社会に適応できるだろうか。しかも身分の違う女官たちがいっぱいいる。幼児の扱いには自信があったが、自分の育った環境と違う異次元の世界で、周囲とうまくやっていけるのであろうか。
「これから私の戦争がはじまる」
と足立たかは思いを定めるのである。
同じころ、第四駆逐隊司令として鈴木貫太郎中佐は、対馬の基地から、東郷平八郎大将の率いる主力艦隊が待機する朝鮮の鎮海湾におもむいている。かれにもまた心に深く決するものがある。連合艦隊司令部の期待以上の奮戦をしてやろう、それこそが往年の主張どおり、近距離高速の魚雷が最良の戦術であることを証明する機会となろう。
連合艦隊司令部との打ち合わせのとき、参謀長の加藤友三郎少将がいった。
「なんとかロシアの戦艦を一隻でもいいから沈めてくれ」
鈴木中佐は胸を張った。
「私の隊は、四隻の各駆逐艦長が一隻ずつ敵艦を仕留めるといっていますから、四隻は引き受け、ご期待にそいます」
加藤参謀長は思わず笑った。
「そんなに欲ばらんでもいい。一隻でもやってくれれば戦艦・巡洋艦の部隊は大いに助かる」
軍事課長として鈴木の主張に理解を示し、|庇護《ひご》してくれたのが加藤参謀長だった。それにむくいないですむものかの気迫が、鬼貫太郎のうちに満ちている。
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その言葉どおり、五月二十七、八日の日本海海戦での、駆逐艦朝霧、村雨、朝潮、白雲の四隻を率いた鈴木司令の溌剌たる戦いぶりは、がぜん全軍の注目を浴びた。ときに気骨ある面をみせるが、平常はおだやかなこの男が、戦場にあってはだれよりも実戦型の闘将であることを示した。軍人の本務が戦場にあることを思えば、かれこそ真のもののふであったろう。
鈴木の率いる第四駆逐隊の第一の殊勲は、いよいよ両軍の主力が会戦する寸前の、敵前横断である。バルチック艦隊の針路を確認するためのとっさの決断だったが、これが偶然にも敵の判断を迷わせ、敵陣形を混乱におとしいれたのである。司令長官ロジェストウェンスキー大将の幕僚が書いている。
「提督は敵駆逐隊が前路に浮流水雷を撒布したのではないかと恐れ、第一艦隊を右に横陣にたて直し、広正面の砲火をもって敵に相まみえようとした。ところが、二番艦がその動きを過ったため横陣に変ずるの企図は不成功に終ったのである」
結果は、敵主力艦隊は二列縦陣という変則的な陣形で、単縦陣の東郷艦隊との決戦を戦わねばならなくなった。
五月二十七日午後四時すぎ、主力砲戦でさんざんに射ちのめされたバルチック艦隊は、陣形千々に乱れたままウラジオへ遁走をはかった。旗艦スワロフのみが戦闘海面に残り、断末魔の砲撃をつづけていた。第四駆逐隊が「襲撃命令」の信号をうけたのは、このときである。
鈴木中佐はつい一年前にコロンスタット軍港で建造中だったスワロフを見学している。あの広いダンス場のフロアを想い出した。しかし、あのとき海の王者さながらに威容を誇っていた巨艦のマストは折れ、煙突はふきとび甲板上には煙が|濛々《もうもう》とたなびいている。あのダンス場に魚雷を命中させ、海水で満たしてやれ。駆逐艦四隻は水柱の林立するなかを突進した。午後五時五分、距離三百、各艦は魚雷を発射する。しかし海面は波が高く、朝霧艦橋の鈴木には魚雷の突進はみえない。すばやく回頭し、避退行動に移る。だが瞬時もなくスワロフの艦底を撃ち砕く一本の水柱が望見された。艦は左舷に傾きはじめ、猛烈な|焔《ほのお》を噴きあげた(後に沈没)。
そしてつぎは夜戦である。四十四隻の駆逐艦と水雷艇が、主力によって撃破され、わずかに残存して遁走をくわだてるロシア艦隊を暗闇の中で三方から包囲して集中攻撃を行った。第四駆逐隊は東方から進んだが、襲撃行動の打ち合わせでは、最後に襲撃することになっていた。|閃々《せんせん》たる探照燈の光、敵の砲撃を目標に、小艦艇群がくらいついた。
鬼貫太郎はこのときも一つの伝説≠残している。
「鬼の司令は夜襲のとき新聞を読んでいる。敵の探照燈で新聞が十分読めるようになると、はじめて魚雷発射を命じる」
まことしやかに伝えられた話だろうが、それほどの豪胆さを示したことは事実だった。
その勇猛を知られた鈴木の率いる第四駆逐隊がしんがりの攻撃を敢行したときは、すでに二十八日午前二時三十分をすぎていた。戦艦ナワリンを撃沈、同シソイウエリーキを雷撃して一発命中させたが、なかなか沈まず、海面から姿を消したのは二十八日昼近くであったという。
「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の有名な電報にあるように、激浪は三百八十トンの駆逐艦を思うように翻弄した。魚雷を、綱でしばって水兵二人が馬の手綱のように引っぱっていないと、滑り落ちてしまうほどの傾斜動転に屈せず、実に三百メートルまで踏みこんでの雷撃だった。
日本海海戦は東郷艦隊の完勝で終った。
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鈴木の第四駆逐隊が佐世保に帰還したのは、五月三十日である。二十七日未明の出撃いらい、まる三昼夜の奮闘で全員が綿のように疲れきっていた。その身体を無理にもしゃんとさせて、鈴木司令が戦闘報告をすましたとき、東郷長官がいった。
「いや、あなたがスワロフを攻撃されている状況はよく見えましたよ」
東郷のカール・ツァイスの双眼鏡には、鈴木の見事な攻撃ぶりが手にとるように見えたのである。
六月に入って間もなく鈴木の隊は対馬の尾崎湾に入った。そこには第三戦隊、第四戦隊の装甲巡洋艦隊が碇泊していた。敬意を表しに第三戦隊旗艦千歳を訪れた鈴木司令は、祝勝の宴で顔を赤くした第四戦隊司令官瓜生外吉中将につかまった。瓜生司令官はすぐグラスを鈴木に渡して、シャンペンをなみなみとついだ。
「いいところへきた。鈴木君、とくに君のために祝杯をあげたい。君の先見の明に敬服する」
と機嫌よくいった。鈴木は、眉を寄せながらそのわけを聞いた。
「例の水雷論争のとき、オレは軍令部の第一局長だったんじゃ。部下がマカロフ論に共鳴して意見をだしてきたとき、水雷のことはよくわからんが、オレは低速長距離魚雷に賛成した。ところが君はあくまで反対した。あのとき、融通のきかぬ頑固なとんでもないヤツと、君のことを考えたんだが、いまになってみると、君の説が正しいとわかった。いや、まことに見事じゃった。そこで君のため祝杯をあげようというわけだ。さあ、飲め、一気にぐっとやれ」
鬼貫太郎は、勝利の酒とはなんと甘くうまいものかと思った。そしてまた、好物のそばが食いたいという切なる望みが胸を満たしているのを知った。
水雷戦術に鬼貫太郎ありの名があがり、具眼の士は、かれの闘志と誠実さと、同時に卓抜した識見とを認めた。のちのことになるが、明治四十年、大佐に進級のとき序列は正しく戻され、鈴木の前途はやっと洋々とひらけた。
皇孫御殿で、女官たちの嫉視と戦いながら、なれぬ大役に心労をくだいている足立たかの、不安も畏怖もいつか消えていた。迪宮も淳宮もよくたかになついてくれたからである。
たかの育児の方針は、亡き川村純義伯爵がたてたものに添うようにした。
一、心身の健康を第一とすること
二、天性を曲げぬこと
三、ものに恐れず、人を尊ぶ性を養うこと
四、困難に耐える習慣をつけること
五、わがまま気ままのくせをつけぬこと
しかも、たかの気持はなぜとなく軽かった。なぜなら二人の皇孫殿下は性格の違いこそあれ、素直な、のびのびとした天性をもっていたからである。これをそのままに伸ばしていけばよい。そして、弟の淳宮は活発であり、兄の迪宮は優しい性格であると、たかはひそかに観察した。
日本海海戦大勝利の報は、国家の運命がかかっていただけに、皇孫御殿をも喜びで沸かせた。足立たかは後年になってそのころのことを回想している。
「表町の御殿は外が近いもんですから、号外、号外<`リン、チリン、チリンと歩くんです。すると皇孫さんが『鈴を出せ』とおっしゃるんです。皮のヒモに鈴のついたのを差しあげると、紙をもって『号外、号外』と御殿中ぐるぐる回っておられる。だれか来ると『号外』っていってお渡しになる。表町の御殿のすぐ外が道路ですからなんでも聞こえてまいります。ですから時どき号外を見に御門の所までお出になったんです。迪宮さまがお五つ、淳宮さまがお四つ、お可愛いことでございました」
この喜びは日本国民すべての歓びであった。
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[#小見出し] 第三章 海軍最悪のとき
[#地付き]●「用兵は道徳を基礎とする」[#「●「用兵は道徳を基礎とする」」はゴシック体]
日露戦争の勝利によって、東洋の一島国は世界の一等国に躍進した。新橋駅前につくられた凱旋門をつぎつぎに将軍や提督がくぐって帰還したとき、国民の歓喜は狂喜に近くなった。国家総動員法という法律もなく、一億一心のスローガンもなかったが、この戦争では国民は一丸となって戦った。勝利は軍の勝利ではなく、国民全員の勝利でもあった。
費消した戦費は十九億五千四百万円、戦前の通常歳出の八カ年分に達した。日本にとっては巨大な消耗ののちの「惨勝」であったのである。同時に、日本の勝利はペルリ周航いらいつづいた日本とアメリカとの「黄金時代」が終ったことを意味する。戦争をくぐりぬけて出現した日本帝国は、アジアと太平洋の覇権をめざして、アメリカと並び立つ強力な競争者となった。
明治三十八年にはパナマ運河の開さくに着手し、アメリカは太平洋・大西洋の両艦隊の自由連携という戦略構想のもと、一意海軍力の充実に努力してきていた。ルーズベルトは、移民問題で明治三十九年に日米関係が悪化しつつあったとき、「二十世紀は太平洋の時代である」といい、
「アメリカが将来大いに発展するかどうかは、一に太平洋を支配するかどうかにかかっている」
と演説し、太平洋の支配権をにぎらねばならぬと、強く訴えたのである。
この新しい太平洋時代≠ノ直面させられ、日本海軍は「仮想敵国」をアメリカとして、軍備と戦略戦術の整備強化の指標にせざるをえなくなった。
明治四十年四月、参謀本部と軍令部の共同起草による帝国国防方針、所要兵力、用兵綱領が、明治天皇の裁可によって決定された。この国防方針では陸軍がロシアを、海軍がアメリカを仮想敵国とした。所要兵力は陸軍が戦時五十師団、海軍は五十万トン。そして海軍は、このとき、来攻するアメリカ艦隊を途中で迎撃しながら、その兵力を|漸減《ぜんげん》し、近海に入ってから決戦をもとめてこれを撃滅する、という確固不抜の基本戦略方針を定めたのである。
水雷戦術の雄である鈴木貫太郎中佐が、日露戦争が終った直後の十一月、海軍大学校教官に迎えられたのは、太平洋時代≠ノ備えて新戦略戦術をねるために、であった。同じときに、海軍の智恵袋とも謳われた秋山|真之《さねゆき》中佐も海大教官に迎えられている。
秋山中佐が、今日でいう戦略と戦術をわけて考え、これに戦務という概念をとりいれ、体系づけた理論家であるに対して、鈴木中佐は実戦派、実行派の教官であった。その指導法は言葉も少なく、一見したところ、|杣人《そまびと》然とした地味な教官ではあるが、語るところの「水雷戦術」は、実戦に裏づけられた確信と信念に満ちたものであった。
そのころの学生であった山梨勝之進(のち海軍次官・大将・学習院院長)はこう語っている。
「鈴木さんはどちらかといえば、曾国藩のような人でして、水雷戦術、肉迫戦術、夜戦、すなわち部隊としての……牢固とした用兵戦法を確立されたのです。あまりうまそうなことも言われない。賢そうなことも言われない。練りきった鋼を水の中に沈めたように、静かなものです。しかし、敵を見て行くときは、おれのものだ、おれの領分だという確信がある。静かであって、それに押しがあった」
山梨元大将のいう曾国藩とは中国の清朝末期の政治家の軍人で、長髪賊の乱(太平天国の乱)を治めた人。ときの女帝西太后が「曾国藩の兵を用いることは道学に基礎をおいている」と評したように、兵学と道徳を一本化した稀有な軍人宰相だった。
身を捨てて戦う勇士も、祖国のためというほかに、ややもすれば自己の功名心が加わりがちである。だから軍人の修養として絶大の克己心が必要である。曾国藩はそう説くのである。「安逸と驕慢とを戒めなければ、いつに一敗に帰せん」とは味わうべき言葉だろう。
鈴木の兵学思想もまた、それに相通うものがあった。修身、修養、徳義と兵学は一体であり、むしろまず克己があり、その延長に兵学がある、と鈴木は身をもって示したのである。いかに戦略戦術が秀でていようと、克己という犠牲的精神がなければ、真の勝利はない。おれは勝ったと図に乗り、怠りや慢心がでるのがいちばん悪い。鈴木教官の指導はその一点にかかっていた。
学生たちには、田舎の村長が|袴《はかま》をはいたような感じの教官と感じられ、ヨーロッパ流の近代兵学の理性や叡知とはおよそ無縁ともみえる指導だった。むしろ禅の匂いと香り、隠者の風格があり、その静かさや穏和さの底に、無限の沈勇大胆が包蔵されているのをかれらは感じさせられた。
こうして、国防方針にもとづく日本海軍の戦略戦術の基礎は、秋山の理知と鈴木の沈勇、さらに、やや遅れて海大教官となった佐藤鉄太郎中佐の戦史から学びとった「帝国国防史論」という理論づけ、この三本の柱によって固められたのである。
この基礎にのっとって海軍建設がすすめられていく。ひとつは用兵思想としての大艦巨砲を骨幹とする艦隊決戦主義であり、迎撃漸減作戦であり、もうひとつは建設の目印としてのアメリカ艦隊であった。つまり、国防方針にある「仮想敵国」とは、現実には地理的な問題であり、艦隊建設の「基準」としての敵性なき敵国≠セったが、やがてこの仮想敵国が真性敵国にまで昇格し、危険な海軍イデオロギーとなっていく。
それは曾国藩の、あるいは鈴木が説く「用兵は道徳を基礎とする」とは、まったく正反対の、夜郎自大的な戦略となっていくのである。
陸上勤務も三年近くなった明治四十一年九月から、鈴木大佐(四十年に進級)はふたたび海上に出た。第二艦隊の旗艦明石の艦長へ。さらに一年後、練習艦隊の宗谷艦長に転じた。僚艦は阿蘇、艦長には同期生の佐藤鉄太郎大佐がなった。
鈴木の克己を旨とする、実戦的な指導はこのときに本領を発揮した。明治四十三年二月、練習艦隊は阿蘇を旗艦とし横須賀を出航し、海軍兵学校を卒業した候補生(三十七期)をのせて、オーストラリア方面への遠洋航海の途につく。航程一万四千六百|浬《かいり》、百五十三日間。
宗谷艦長鈴木貫太郎の教育方針は、座学は兵学校で十分に教わっているだろうから、実地を主とせねばならない、というものだった。航海は士官としての素質に磨きをかけ、軍人としての魂を錬成する道場であるとして、艦長みずから身をもって垂範した。当然のことながら、指導官たちも、この方針を体して、さあ、おれについて来いという積極さを示し、艦が一つになって乗組員の魂と魂が結ばれていくような活気ある航海がつづいた。
指導官には高野五十六大尉(のちの山本五十六)、指導官付には古賀峯一中尉がいた。そして宗谷乗組の候補生に井上|成美《しげよし》、草鹿任一、小沢治三郎、大川内伝七らの名がみえる。のちの対米避戦派ともいうべき、山本、古賀、井上、小沢らの初の出会いと結びつきは、このときに発している。
鈴木艦長は航海中のある日、候補生たちに「奉公十則」を示した。それは、海軍に身を投じてよりこの日までの、その間に二度の戦いに生命を捨ててかかった体験をも織りこんだ、鈴木大佐自身の生き方の表白だったともいえる。
一、窮達を以て節を|更《か》うべからず
一、常に徳を修め智を磨き日常のことを学問と心得よ
一、公正無私を旨とし名利の心を脱却すべし
一、共同和諧を旨とし常に愛敬の念を有すべし
一、言行一致を旨とし議論より実践を先とすべし
一、常に身体を健全に保つ事に注意すべし
一、法令を明知し誠実に之を守るべし、自己の職分は厳に之を守り他人の職分は之を尊重すべし
一、自己の力を知れ、驕慢なるべからず
一、易き事は人に譲り難き事はみずから之に当るべし
一、常に心を|静謐《せいひつ》に保ち、危急に臨みては尚沈着なる態度を維持するに注意すべし
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鈴木貫太郎はのちに首相として、戦争終結への懸命な努力のうちに、みずからが「奉公十則」の実を示すのである。自分の力を知り、驕慢にならず、平常心を保ち、そして沈着冷静な判断のもとに、大勇をもって狂瀾を既倒に|廻《かえ》すことに成功する……。その意味でも、「奉公十則」は、かれの人生観そのものであり、自分で実行できたものだけをあげた終生の座右銘であったといえる。
そして、偉そうに論示するよりさきに、航海中に、みずから実践してみせた。
メルボルンへ入港したとき、午前中の石炭積みが終ったら、午後から上陸できると候補生が心を躍らせた。が、無情にも甲板士官の号令が響きわたった。
「候補生は上陸とりやめ、昼食。のち急ぎ石炭積みにかかれ」
阿蘇乗組の候補生が純白の軍装で上陸していくのに、宗谷ではこの号令である。しかし、候補生は憤慨しながらも、それに耐え、夕刻近くまで炭塵にまみれて頑張った。そこへ鈴木艦長が陸上から帰艦したのである。
「なんで石炭積みをやっておるのか。指導官を呼べ」
甲板士官とともに指導官が姿をみせると、艦長はびしりといった。
「石炭積みは内地でもできる。外国に来たときは一刻も早く上陸させ給え。それが何よりの訓練だ」
甲板士官や一部の指導官がこんな労働を強いたのは、練習艦隊司令官伊地知彦次郎少将の考えで、卒業成績の悪い候補生が多く宗谷に乗艦していたからである。このため、航海中にもしばしば「宗谷の候補生は……」という言葉がでていた。だが、鈴木艦長の指導は「頭より誠実」「議論より実践」である。
あるとき、鈴木艦長は候補生を集めて訓示した。
「宗谷の候補生の精神教育はなっていないとの評もあるが、誠に心外である。はたして諸君の精神教育はなっていないか。また精神教育というものは、半年や一年でその効を奏するもではない。十年ののち、二十年ののちだ、宗谷の候補生諸君!」
ふだんから悲憤している候補生のなかには、涙で眼を光らせるものもいた。
航海中に行われた教科目試験のあと、成績をきめる会議があり、席上、伊地知司令官が、
「宗谷の成績は実に悪い」
と批評した。鈴木艦長が反問した。
「それなら実務の成績はどうですか」
「実務はよい」
「ならば、実務の成績も参考とすべきです」
この結果、宗谷では実務の成績も加味することとなった。
成績会議が終ったのち、鈴木は候補生全員にいった。
「伊地知司令官に、宗谷の候補生の成績が悪い、といわれたが、教育の成果は短日月の間に表れるものではない、われわれはそんなケチくさい教育をしてこなかった。私は司令官に、十年、二十年ののちをみていただきたい、ということを申し上げた。私たちの教育の良し悪しは、お前らのこれから先の実績によって評価されることとなった。よいか、すべてはそのときに証明されるだろう。一生懸命にやれ」
ここに鈴木の本領がある。鈴木は小手先だけの才子を好まなかった。時流を泳ぐに巧みなものを嫌った。不細工だが表裏のない、胆のすわった人材を好もしとしたのである。
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鈴木自身が、四十歳をこえたこのころから、その風格と態度には重々しさと厚みを加えた。精神家とも映り、東洋的な|大人《たいじん》という感じをみる人に与えはじめた。宗谷艦長から水雷学校校長となり、さらには練習艦隊司令官(大正六年)、海軍兵学校校長(大正七年)など、鈴木が海軍建設の人材育成面にその後も多く力をつくしたのは、鈴木のそうした道義的なものの考え方、生き方によるところが大きかった。
海軍兵学校校長をつとめたのは五十歳をこえたとき。鈴木は新入校生徒に訓示した。
「足るを知るものは富む」
それは『老子』第三十三章にある言葉で、分に安んじて満足できるものは、たとえ貧しくとも精神的には貧しくはない、という意味である。世には立身出世主義の風潮が|滔々《とうとう》と流れ、華美や絢爛を謳歌している時代に、鈴木校長の短いこの訓示は生徒たちに大きな感銘を与えた。
また、鈴木校長は海軍兵学校の伝統ともなりつつあった鉄拳制裁を厳禁した。それも、
「鉄拳制裁は厳禁する。違反者は退校させる」
という厳命だったのである。上級生の野蛮としか思えぬ制裁に精神的にも肉体的にもへとへとになっていた下級生は、|旱天《かんてん》の慈雨ともいえる校長の徳に|感泣《かんきゆう》した。反対をとなえる教官や上級生に対して、鈴木校長はいった。
「鉄拳によってしか部下を心服させ指揮しえない士官は、士官たるの資格はない」
日常の温容、悠揚迫らない態度のうちに、毅然として所信を断行する校長の人格は、やがて全校の崇敬をあつめていったのである。
また校長は、生徒にはいつもこう訓示した。
「軍人は国防という本分のみをつくすべきである。軍人が政治に頭をつっこむのは、二心を抱くようなものだ」
「縁の下の力持ちが軍人の道だ。黙々として国を守ること、それが政治などという権力の一時的な争奪よりは、ずっと高尚で重大な任務である」
鈴木貫太郎が、権謀術数の渦まく世界を極度に嫌っていたことは、これらの言葉からもよくわかる。元帥大将をのぞむことはいらない、軍人は本分をつくすことが大事と、それだけを学生の頭に叩きこむようにした。
「そのために常に反省を忘れてはならぬ。それを忘れぬことが自己修養なのだ。将たるものは、智仁勇、この三つをおのれのものとせねばならぬ」
兵学校においては、校長が直接に生徒に対してする訓示や訓話は、すべて校長みずからが起草し、幕僚には一切タッチさせなかった。それが伝統になっている。それだけに校長としての鈴木の言葉は精神家としてのかれの本領を、十全に語っている。
建設期の海軍はよき教育者をもった、ともいえようか。大前敏一、|黛治夫《まゆずみはるお》、|神重徳《かみしげのり》、原為一、|実松《さねまつ》譲、大井篤ら太平洋戦争を戦った人たちがこのころの生徒で、日曜日には二、三十人もつれだって校長官舎に遊びに出かけては、鈴木夫人のつくる汁粉に舌鼓をうったものだったという。
夫人の名を|たか《ヽヽ》、とかれらは記憶している。
[#地付き]●「将来の大元帥であらせられる」[#「●「将来の大元帥であらせられる」」はゴシック体]
その、のちに鈴木夫人となる足立たかの、皇孫御殿での懸命の奉公は申しぶんのないほど順調につづいている。迪宮が満五歳のとき、御殿のなかに幼稚園≠ェ設けられて、皇孫殿下の遊び仲間として華族の子弟五人が選ばれ、いっそう賑やかになった。
喚声をあげて走りまわるうちに、廊下の障子を破ったりする。足立たかはすかさず皇孫殿下をつかまえ、障子の前につれていき、きびしく叱責するのである。「いけないことをした」と迪宮はすぐ反省するが、淳宮は「たかッ」と彼女をにらみつけると、障子にとびつき大きく破いたりした。足立たかは、そうした|悪戯《いたずら》や遊びごとを通して、迪宮の純な人となりに、ただ驚きを大きくするのだった。
嘘とか、ごまかしとか、トリックとかを一切知らず、遊びのルールや約束に反するようなことをまったくしない、それが迪宮なのである。まわりが嘘をいっても、それを嘘ととらない、すべてを真実とする。人の世の表裏というものと、生まれながらに無縁な人格を、足立たかはみたのである。
そのなかで、迪宮が幼い日から生物に深い関心をいだくようになったのは、足立たかの影響が大きかったと思われる。採集した虫の名などがわからぬときは、たかが父の友人の松村松年北大教授のところに送り、その名をたしかめた。
ずっとのちのことになる。昭和五十三年十二月の須崎御用邸での記者会見で、天皇はしみじみと話している。
「たかとは、本当に私の母親と同じように親しくした」
親しくした≠ニいう天皇の発言はなまなかのことではない。しかも私の母親と同じように≠フなかには、幼き日の天皇が受けた精神的な影響の大きさをもしのばせるのである。それほどまでに足立たかは、献身的に皇孫の育成につくしたといえる。
その一例に──学習院初等科の授業で、「尊敬する人物」に、クラスのほとんどのものが「明治天皇」と答えたとき、迪宮はひとり源義経をあげた、という事実がある。その理由を問われて、迪宮は答えた。
「おじじさまのことはあまり知らないが、たかから源義経の話をよく聞かされていたから、私は義経の名をあげた」と。
その迪宮が学習院初等科に入学したのは、明治四十一年四月のことである。
迪宮が学習院で接したのは、明治天皇の希望で前年から学習院院長となっている乃木|希典《まれすけ》陸軍大将である。乃木はその晩年の全精力を迪宮の訓育にそそいだ。足立たかの眼にも、素直で優しい迪宮の天性が磨かれていくさまがよくわかった。相撲や運動のために穴のあいた靴下などをとりかえておくと、幼い迪宮がいった。
「院長閣下は、着物に穴があいているのは着てはいけないが、つぎの当ったのを着るのはちっとも恥じゃない、とおっしゃった。穴のあいたのにはつぎを当てて下さい」
そして、つぎの当った服を誇らしげに着て通学していく。
迪宮の聡明さを語るいくつかの話が、やがて皇孫御殿にもとどけられてきた。上級生になったころのあるときの、白鳥庫吉博士の歴史の時間のことだ。講義のあとで「仁徳天皇のなげきの原因」について博士が質問した。学友たちは、洪水のためとか、飢饉のためと答えたが、迪宮は、
「いちばんの原因は神功皇后の三韓征伐です。これで当時の国が大へんに疲弊したのです」
と、政治の急所をついた明答をし、博士を驚かせたという。
足立たかはそうした話をきかされるたびに喜びを新たにした。優しさ、素直さ、几帳面な迪宮に、聡明さ、判断力の確かさ、記憶力の豊かさがそなわっている。そして、ときにのぞめば剛毅闊達の面を示すことも、足立たかにはよくわかっていた。
それにつけても、とたかは心のうちにある種の寂しさを感じるのだった。いずれこの幼き人がわが手から飛び立っていく日がくる。皇孫から皇太子へ。その日、養育係の自分の役割は終るのであろうと。
たかの予感は当って、そのときが急激に訪れた。
明治四十五年七月三十日の深夜、(午前零時四十三分)明治天皇が最後の呼吸を停止した。六十歳である。年号はただちに大正と変わった。天皇発病の知らせは、七月九日いらい刻々と克明に国民に知らされていた。宮城前には老若男女が折からの炎天をついて、敷いた玉砂利の焼けつく上に坐り、天皇ご回復を心から祈念したが、すべては空しくなった。
「世界は最も偉大なる人物の一人を失った。天皇の治政は日本の歴史上、もっとも深く記憶すべき時代として残るだろう」
タイムス紙はこう報じてその死を惜しんだ。わずか五十年たらずに成しとげた日本の近代化を、世界は奇跡の歴史≠ニみたのである。
御大葬は九月十三日夜、東京青山で行われると発表された。その二日前の九月十一日、乃木学習院院長が皇孫御殿(十一歳で初等科五年生だった迪宮は皇太子となり、東宮御所と名が変わっている)を訪れた。院長を迎えた人々が驚いたことは、乃木がすっかり憔悴していることであった。乃木院長は静かに皇太子迪宮に語りかけた。
「いまさら申しあげるまでもないことでありますが、皇太子となられた以上はいっそうご勉強をお願いいたします。また、殿下にはもはや陸海軍の将校であらせられる。将来の大元帥であらせられることとて、その方のご学問もこれからお励みにならねばなりませぬ。……希典が、唯一のお願いは、どうぞ幾重にも、お身体を大切にされんことであります」
ここまでいって乃木はしばらく言葉をきった。声がしめってつづけていうことが困難なようにみられた。ややしばらくして、
「今日は希典がふだん愛読しておる書物を殿下にさしあげたいと思って持参いたしました」
と乃木はやっといった。その書は、ともに山鹿素行の著『中朝事実』と『中興鑑言』という二冊である。乃木は泣いていた。聡明な迪宮は何ごとかを直感していた。しかし、何もいわず、深々と頭を下げる乃木をみつめた。乃木が名残り惜しそうに退下していったあと、迪宮が、
「院長閣下はどっかへ行かれるのか」
と訊ねるのに、足立たかは何のことかといぶかしく思った。そのときはまったく気づかなかったが、御大葬の夜、乃木大将夫妻が自刃したの報が東宮御所にもたらされ、たかは茫然としつつも、乃木の真情を思い涙した。
そして迪宮のうける衝撃を思った。たかは迪宮がいかに乃木を尊敬していたかを知っているからである。明治天皇のあとを追って、殉死という大事であらわした乃木の誠忠を、迪宮は意識下に強烈に刻みこむであろう……。
[#地付き]●「海軍がお前を必要としている」[#「●「海軍がお前を必要としている」」はゴシック体]
天皇の死という国家としての不幸を迎えた明治四十五年は、鈴木貫太郎個人にも最大の不幸が見舞っていた。大いに張り切って就任した水雷学校校長をわずか一年半ばかりで退き、このとき、戦艦敷島の艦長に移り、再び鈴木は海上に出ていたのである(これは、一定トン数以上の軍艦の艦長をつとめなければ、将官になれぬという内規によるものだった)。訓練をおえて伊勢湾に入った鈴木大佐は、とよ夫人重体の知らせをうけとった。夫人は第一艦隊司令長官出羽重遠中将夫人の妹である。出羽長官はそこで「とにかく一度帰って様子をみてこい」と、任務に忠実であろうとする鈴木を東京の自宅へ帰した。八月中旬のことである。
鈴木は『自伝』にこう書いている。
「東京へ帰ってきましたところ妻は段々悪くなる、腎臓で尿毒症を起こしておりました。せっかく第一艦隊の活動をする敷島にいましたが、そういう都合で筑波艦長に転ずることになりました。そして妻は九月十八日に亡くなりました。非常な不幸な目に会って、ちょうど明治天皇のご葬儀が九月十三日でお見送りに出なければならぬのであったが、妻が死にかかっていて何時何刻臨終か判らぬのでどうすることもできず、ご大葬の儀式に列することができなかったのは誠に残念なことでした」
淡々として語ったことを|纏《まと》めたこの『自伝』は、私的なことはできるだけ抑えられている。
だが、いよいよ息をひきとろうとする妻の枕辺で、鈴木は子息の一に、
「お母さんとよんでみい。一ッ、大きな声でお母さんとよんでみよ」
と何度もくりかえし大声でよばせている。おそらく鈴木自身が心の底から叫びたかったのであろう。それほどに、鈴木の悲嘆の想いは深く大きかったのである。明治三十年に十八歳で鈴木に嫁していらい十五年、|舅 《しゆうと》|姑 《しゆうとめ》によく仕え、一男二女の母として家を守り、鬼貫太郎の活躍をほしいままにさせたのも、この夫人あってのことであった。結婚すると間もなく外国駐在、そして出陣、やっと陸上に戻ればたちまちまた海上勤務と、この間、鈴木はほとんど家を顧みる暇がなかった。それは明治の海軍軍人の宿命といってもよかった。たとえば明治二十五年までの海軍兵学校卒業者の数をみれば、その事情がよくわかるだろう。総計七百二十七人、この少数の士官が中心となって日清・日露を戦い、戦後の近代海軍建設に大車輪をまわして働かねばならなかったのである。それだけに、夫人の死の現実は鬼貫太郎の胸を引き裂いた。
ともあれ、偉大なる明治は終った。そして幕をあけた大正時代は、日本海軍にとって|八八《はちはち》艦隊建設の夢をいよいよ実現するときであった。その構想は、明治四十年に国防方針とともに明治天皇によって嘉納された「所要兵力」にもとづいている。アメリカに対抗して、西太平洋の制海権を確保するため、新鋭戦艦八隻、新鋭高速巡洋艦八隻の八八艦隊を整備保有しようというのである。
明治四十年成立の建艦費は二億五千万円、四十四年度には追加予算の一億八千六百万円が決定、海軍にあるものはすべて大きな夢をふくらませた。しかも大正二年二月、大海軍建設の父ともいうべき山本権兵衛大将が、内閣を組織したのである。海軍の出身者が内閣総理大臣となったのは、明治いらいこのときが最初である。
海軍大臣は、それまで次官として七年、海相として八年あまり海軍拡張に力を尽くしてきた斎藤実大将の留任。軍令部長は伊集院五郎大将、連合艦隊司令長官が加藤友三郎中将というベストメンバーである。海軍にあるものだれもが、新規の造艦継続費が認められるものと予想した。
そしてその年の十二月、夫人を亡くして一年余の、傷心うつうつたる鈴木貫太郎少将(五月進級)は、思いもかけず海軍省人事局長の辞令をうけた。公正無比の鈴木の人柄に、斎藤海相がほれこんでの人事だった。海軍に入っていらいおよそ行政に触れたこともない鈴木は、
「これは一体どうした風の吹きまわしか」
と、明治三十二年の海軍省軍務局課員いらい、久しぶりの東京の赤煉瓦の門をくぐった。だが、鈴木を待っていたものは、かつての魚雷論争というようなものではなく、海軍そのものを吹き倒すかのような大暴風雨だったのである。
大正三年の第三十一議会で海軍は一億五千万円余の追加予算を提出した。ところが、一月二十三日の予算総会で、立憲同志会の|領袖《りようしゆう》島田三郎代議士が、倒閣を目的とした爆弾発言をぶつけた。その日の朝の時事新報が半信半疑で報じた海軍高官の収賄問題をとりあげ、
「かくのごときが内外の新聞にあらわれるに至っては、海軍の軍紀を疑わざるを得ぬ」
と、政府と海軍当局の責任を追及した。いわゆるシーメンス事件の発端である。
この事件は旋風のように海軍を包んだ。現役の呉鎮守府長官を筆頭として海軍将校が、建艦のコミッションとして数十万円を収賄したという。出羽重遠大将を委員長とする査問委員会は、綿密な捜査の結果、やがて不正事実の存在をつかみ、海軍省は、大臣・次官・人事局長が協議し、疑惑の明白となった沢崎大佐らをただちに待命処分に付した。このとき剛直で知られた鈴木貫太郎人事局長は、軍紀粛正の見地から、呉鎮守府長官松本|和《やわら》中将も同時に待命とし、査問委員会で尋問するようにと、斎藤海相に強く進言した。
しかし、日ごろ果断な海相にはめずらしく、山本首相と協議した結果、親任官である松本中将の処分はいましばらく事態の推移を見守ってから決めることになった。これが海相や首相にはまずく作用し、世論は、首相も海相も同じ穴のムジナではないかと、あらぬ疑いをかけはじめた。
そして二月十八日は、帝国海軍にとって最悪の日となった。松本中将の官邸と私宅の家宅捜索がおこなわれ、証拠書類が押収されたのである。海軍の三大軍港の一つが司直の手で汚されたという事実と、時の勢いは、山本権兵衛内閣も海軍予算もいっしょに根こそぎ吹きとばしてしまった。当然のことのように、それまでにも長い間、外国に註文した軍艦にはことごとくリベートがつき、海軍首脳は私腹を肥やしてきたのではないか、という疑いが国民の間に広がり、海軍に対する信頼は地に落ちてしまった。
三月二十四日、山本権兵衛首相は予算案の不成立を理由に辞表を提出し、内閣はあっけなく崩壊。山本首相は海軍の恥をかばおうと努めたが、|赤手《せきしゆ》で洪水をとめるようなものであった。
紆余曲折をへて大隈重信内閣が成立し、後任の海相には|八代《やしろ》六郎大将が選ばれた。愛知県出身、幼少のころから勇猛果敢の声が高く、海軍兵学校の試験のとき「もし落ちたら、新門辰五郎のところへいって侠客になる」と豪語したというが、その言葉のように侠と義で一生を貫いた軍人。しかし、あまりに清廉な精神家であり、薩摩系の海軍主流から敬遠され、ずっと中央のポストからは離れていた。そして、日露戦争勝利後の余勢にあぐらをかいて、しだいに慢心し、また山本権兵衛を中心に官僚化し、偏向な人事をする海軍中央には、批判的な態度をとっていた。
それだけに八代大将は海相就任を承諾したとき、心のうちに期するものをもち、大将は次官に秋山真之少将の就任を勧説したが、秋山は鈴木人事局長の昇格を強く進言した。海軍はいま浮沈の瀬戸際にある、そのときだからこそ人事は公正に、どこにも縁故のないものでなければならぬ。
「正直に奉公一途で今日まできた鈴木局長こそ、無色な、部内に異存のない最適の次官である」
と、鈴木より三年後輩の秋山はいった。「それではそうしよう」八代もまた、自分と同じような薩長何するものぞ≠フ剛直の闘将鈴木の人となりを知っていた。
これを秋山から聞かされた鈴木は、とんでもないという顔をした。
「自分は戦術家として育ってきた。軍政はからきし駄目である。第一、不向きだから絶対に引き受けない」
事実、鈴木は権謀術数とか舞台裏での根まわしとか、政治が嫌いだった。それを正直に語ったのである。人事局長として、収賄事件関係者をつぎつぎに待命とする大ナタをふるうという、楽しからざる任務をはたした直後でもあった。
それにもまして、親孝行な鈴木は病床にあって再起の危ぶまれる父由哲のことが頭にあった。なみなみならぬ覚悟の八代海相を補佐するとなれば、二人で全海軍を相手にせねばならぬ。部内粛正の目標は、大御所山本権兵衛につながる薩閥とその一党となる。海軍の汚名を拭うとなればやむをえないにせよ、ふところに辞表を秘め、あらゆる抵抗を排して当るほかはない。だが、病床の父に心配をかけることは、子としては忍びない……。
由哲は、しかし、徳川の武士の出であった。
「それほどまでに海軍がお前を必要としているなら、お受けしたらいいではないか。たとえそのため海軍をやめねばならなくなっても、私は少しも愚痴はいわぬ。これまで幾度も死生の間を往来してきたお前ではないか。海軍のため討死する覚悟でやりなさい」
鈴木は四月十七日朝、八代海相に会見して次官就任を承諾する。同時に秋山少将が軍務局長になり、海軍建て直しのトリオが成った。
省内の人事がつぎつぎに決定された。問題は山本権兵衛と斎藤実という海軍の大立者の処遇である。海軍建設の大恩人を海軍から葬ることは是なのか、非なのか。
八代海相は鈴木次官と秋山局長を前に、|容《かたち》をあらためて言明した。
「山本、斎藤両大将にたいしては、遺憾ながら待命をお願いするつもりだ。これまでの功績も、海軍の名誉には替えられないと確信している」
この提案を、鈴木次官はひるむことなく了承した。おのれは国家への忠誠一筋に行動するのみだ。山本、斎藤両大将の待命が発令されると、海軍部内は震撼したが、時期がくればまた現役に復するのだろうとの観測も一面において強かった。しかし、軍法会議で松本和らがすらすら罪状を自白するに及んで、八代海相は鈴木次官と語らったうえで、五月十一日、山本、斎藤両大将を電撃的に予備役にした。
海軍部内は前にもまして騒然となった。海軍育ての親を残酷にクビにしたと激怒するもの、妄断を憤るもの、いや勇断であると八代、鈴木をほめるもの。ついには東郷平八郎元帥までが出馬して、海軍省に八代海相を訪ね、山本を海軍から葬ることの非を大いに力説した。
しかし、八代海相にとって死を賭しての決断だったのである。道義的責任のみならず、海軍予算を不成立にさせた政治的責任も重大である、と海相は突っぱねた。
一分刈りの坊主頭を、何といわれようとも動かそうとしなかった八代海相をバックアップし、自身もまた合理と信念において行動した鈴木次官は、自分の嫌う政治の世界で多くのことを学んだ。まずつねに海軍を見るが、同時に一段と高いところを見ることを忘れてはならぬ。そして物事の本質だけはしっかり捉えて離さぬこと。そのためには、何よりも私心を去り、忠であり義であり、誠心であらねばならぬのである、と。
[#改ページ]
[#小見出し] 第四章 大正から昭和へ
[#地付き]●「私には待合政治はできません」[#「●「私には待合政治はできません」」はゴシック体]
山本権兵衛海軍を去る≠フ|余燼《よじん》がまだおさまらないその年の七月二十八日、第一次大戦が勃発した。シーメンス事件の悪い後味は、この戦争の砲煙によって消された。日英同盟を結んでいた日本帝国は、その義によって対ドイツ開戦を決意、八月二十三日、ドイツに対する宣戦の大詔が発せられた。
海軍は勇み立った。人事行政のごたごたをいつまでもわだかまっている暇はない。日露戦争中においてイギリスからうけた好意的支援に対する恩返しもあり、参戦をむしろ積極的に迎えたのである。こうして日本軍はアジアからドイツの勢力を駆逐するため、山東半島の青島へ、南洋群島のドイツ領の島々へ兵を進めた。日露戦争を勝ちぬいた日本の陸海軍にとっては、むしろ容易すぎる敵≠ニいってよかった。
この年(大正三年)三月、学習院初等科を卒業し、四月から高輪御所内にひらかれた東京御学問所に通っている迪宮は、連戦連勝の報を喜ばしく聞いた。太い眉と隆い鼻がりりしく、父の大正天皇が病弱のせいか、年よりも大人びて育っていた。帝王学を習得しはじめた皇太子のまわりには、すべてに順調な時が流れている。
しかし、年が変わって大正四年になると、迪宮はなつかしい二人の男女がお側を離れることを耳にした。それは天皇家全体からすれば小さな波紋でしかなかったが、迪宮にとっては、少しく心の痛むことであった。皇子養育主任であった丸尾錦作が老齢のため辞任し、養育係足立たかが結婚のため辞職して去っていくという。
迪宮が皇太子になってからは、二人とも、皇子専任として淳宮と|澄宮《すみのみや》(三笠宮)のそばにあり、じかに接することはなくなっていたが、迪宮裕仁にとってはいぜんとして心の支えともなる欠かせぬ存在であった。
足立たかは不安を胸に抱いて御殿の門をくぐってから、幼き日の皇太子に仕えた、この日まで約十年間の歳月を想った。やがて天皇となることを宿命づけられたただ一人のひとに、自分がどれだけの誠をささげえたであろうかと、そのことを恐れるのだった。
たかは、いよいよ御殿を去るの日、皇太子よりの格別の感謝の言葉を、人づてにうけとった。迪宮さまはこれからも疑いを知らぬ素直さ、真正直さ、寛容、優しさという徳質をもって、お一人の道をゆかれるのであろう、私の役割は終ったと思った。
たかが去ってからしばらくして、迪宮は、彼女が結婚する相手だという「海軍次官鈴木貫太郎」の名をはじめて耳にした。
大正四年六月、鈴木貫太郎少将は、青島攻略戦で名をあげた加藤貞吉海軍大将の仲人で、足立たかと再婚した。たかは初婚である。親孝行の鈴木は、たかになによりも両親への孝養を第一に頼んだ。貫太郎四十八歳、たか三十二歳。縁談は海兵同期の小笠原長生の尽力によるものであった。同じ同期の佐藤鉄太郎の遠縁にあたるものが、たかの妹を|娶《めと》り、その口からまだ独身の姉のいることを知ったのがことのはじまりであったという。海軍仲間の友情の深さが知れる話である。
[#(073.jpg、横226×縦350)]
先妻を喪ってから火の消えたようであった鈴木の気持も、その家庭も、新夫人を迎えて何年かぶりで明るくなった。貫太郎には長男の一をはじめ娘たちには淋しい想いをさせているとの負い目がある。せっかく海上生活から陸上へと移ってきても、荒れ狂うような海軍部内の騒動にまきこまれ、困難な任務をはたすべく東奔西走、家族をかえりみる暇もなかったのである。
そうしたある日、鈴木が長男の一に語った言葉は、当時のかれの心境をそのままにあらわしているようで興味深い。
「お前も海軍を志望しているのかもしれないが、海軍はやめたほうがよい。お前がせっかく海軍に入って立派にやっても、あれはおやじの威光だといわれては、お前のために気の毒だ。しかし、海軍でみがいた鈴木戦術は、ぜひお前の子供に伝授したいものだ」
山本・斎藤両大将を現役から引退させた折の述懐であったという。海軍内部のごたごたに幾分か気を滅入らせている点もあるし、閥や係累を嫌い、これまでの海軍人事がかならずしも公正でなかったことにやや愛想をつかし、その建て直しのむつかしさに苦労している心境もうかがえる。
長男の一は、皇太子裕仁と同年の生まれである。小学校を|卒《お》え中学に進もうとする夢多きときであった。父の言葉に一は賛成であった。海軍へは進むまいと思った。しかし理由は父と違って、海軍軍人の家庭というものは貧しく、しかも幸せ多いものではない、ということを子供心に痛感していたからであった。苦労多く、かつ寂しく逝った母の死が、人生について少年に何事かを教えていたのである。
足立たかは、そうしたすべてを承知して嫁いできた。長男一のなかに、あるいは全身全霊をこめて育ててきた同い年の迪宮の投影をみたのかもしれない。この勝気なひとは一つの役割が終ったとき、さらにもう一つの困難に立ち向かおうという気になった。老いたる両親と三人の子供、条件は何一つよくはなかったが、自分が精一杯につくすことには強い自信をもっていた。
家庭的に落ち着きをとり戻した鈴木次官は、八八艦隊建設のため新規の予算獲得の、馴れぬ政治折衝に身を粉にして働きだした。一夜漬けで政治家にはなれぬし、鈴木は手練手管が嫌いだった。なんら駆け引きのない正真正銘、海軍の要望するところをうちあけてほうぼうに頼んで回った。弁舌は爽やかではないが、|訥々《とつとつ》として説く言葉に、政党人や大蔵省の役人たちは動かされた。鈴木の率直さが好感をもたれたのだろうが、他面からみれば、国防のためにどうしても通さなくてはならぬという次官の決意が相手を打ち負かしたのであろう。
シーメンス事件で吹っとんだ予算案が再び生き返った。第一次大戦での、地中海に遠征までした海軍のよき奮戦ぶりがこれをバックアップした。国民の海軍に対する信頼をよびもどし、そして再び八八艦隊への夢を蘇生させた。
史書は大正四年から大正十年までを八八艦隊の時代と総称してよんでいる。それほど毎年の議会で、建艦の予算案が中心問題となって論議されたからである。海軍当局も秘密主義をとらず、世論の支持によってそれを達成しようとの方針をとった。
その先頭に立ったのが加藤友三郎海相だった。山本・斎藤引退の責任をとってさっさと辞めた気骨の八代海相のあとをうけて、大正四年八月に海相に就任していらい、かれの努力は海軍の信頼の回復とともに、八八艦隊計画に傾注された。そしてその海相の前半の活躍を助けるのがだれであろう、政治嫌いの次官鈴木貫太郎だった。
八代海相の辞任とともに鈴木もいさぎよく次官をやめるつもりだったが、加藤海相がこれを許さない。海軍建て直しと、予算成立の大仕事を放棄するのは無責任、とまでいわれては鬼貫太郎は引き退れなかった。それと加藤海相には鈴木の誠心誠意が必要であった。
「君がいなくなると後が暗闇になるから、もう一年いてくれ」
鈴木はこういう泣き落としには弱かった。
鈴木が新海相にだした就任の条件は、八代海相のときにいったことと同じものだけだ。
「私には待合政治はできません。それはやりませんから、それでよろしければ」
事実、鈴木が次官として登場していらいすでに一年、自然と、待合政治の弊風は消えていたのである。加藤に否応のあるはずはなかった。鈴木はひきつづいて次官就任を快諾し、八八艦隊案のために再び忙しく働きだした。だが、大嫌いな政治の世界に残ることを自分に納得させたことの裏には、たか夫人を迎えてせめてあと一年は陸にあり、家庭の基礎をつくろうという気持があったのかもしれない。
こうして加藤海相と鈴木次官の努力は実を結んでいった。日本の財政事情を考えれば、一挙に八八艦隊計画を実現することは不可能である。このため第一段階として八四艦隊案を提出し、大正六年六月、特別議会で予算が可決され、八八艦隊計画の基礎がやっと成ったのである。
しかし、その喜びの直前に、鈴木次官は関宿町長をしていた父由哲を失った。胃ガンである。享年八十五。その死の直前に、就任時にあれほど心配していた次官も見事に勤めあげ、中将に進級したと聞いて、由哲が涙を流して喜んだのが、鈴木にはわずかな慰めとなった。
予算も議会を通りひとまず女房役としての責任をはたした。父を喪った悲しみもある。鈴木中将は約束どおり海上に出してもらうことを海相に要望する。陸上での、錯雑した利害や複雑な人間関係の渦のなかに、鈴木は一刻もいられない心境だった。
友人たちは、かれの次官ぶりを評していった。
「お前は真正直だから、政治家には向かないよ」
鈴木は苦笑しつつ応じたものだった。
「政という字は、正と|攵《ぼく》とを組み合わせたものだ。正直が政治の本道なんだ。正直で政治がやれないのなら、そりゃあ、世の中が悪いんだ」
その政治の世界から足を洗うのである。水雷屋として叩きあげてきた鈴木の身体が、心が、海の気を吸いたがっている。自分は骨の髄からの船乗りだと思う。小さな艦に乗り、全身ずぶ|濡《ぬ》れに塩水をかぶり、夜となく昼となく、|怒濤《どとう》の中をあばれ回って心身を鍛えてきたのである。上も下もない。一つになって働く水雷屋の世界はざっくばらんで、嘘も情実もない。そこで育った男には、|裃《かみしも》を着て左様しからばの世界なんか似合わないのである。
加藤海相は「本当にご苦労だった」といって、鈴木を海に送りだした。
[#地付き]●「太平洋を平和の海に」[#「●「太平洋を平和の海に」」はゴシック体]
鈴木中将が練習艦隊司令官となって海上にでたあとも、海軍中央は加藤友三郎の指揮のもと統制をたもち、軍備の整備と充実に直進した。つぎの大正七年度予算では三億円余を獲得し、八六艦隊建設へと前進。しかし海軍はこれでも満足しなかった。大正九年度予算で、いよいよ完全な八八艦隊案が提出されたのである。この案によれば大正十六年には、戦艦八隻、巡洋艦八隻の主力第一戦部隊(艦齢八年以内)を中心に、第二戦部隊(艦齢八年以上)の戦艦四隻、巡洋戦艦四隻の威容を誇る大艦隊が編成されるのである。
実に大正九年度の海軍予算の歳出額は三億九千万円余となった。国家予算二十五億五千万円余の十五・五パーセント、陸軍予算二億円余を合わせると、軍事費は四分の一を占める。いかに第一次大戦後の好景気時代とはいえ、国家の負担は大きく、財政的に無理があった。しかし、仮想敵国アメリカに備え太平洋時代≠ノ伍していくためには、これだけの軍備が必要である、と海軍は主張した。
第一次大戦の結果、オーストリア海軍は消滅し、ドイツ海軍は徹底的に縮小され、ロシア海軍も再び大打撃をうけた。勝者であるイギリス、フランス、イタリアの各海軍も戦争の疲弊から、兵力を整備する力がなく、ひとり拡張をほしいままにしているのがアメリカ海軍であった。アメリカ海軍は、太平洋に台頭してきた日本海軍を圧迫すべく、大正六年より三カ年計画で戦艦十隻、巡洋戦艦六隻、巡洋艦十隻を主力とするバランスのとれた大艦隊を建設しようとしていた。
建艦競争をめぐって太平洋はまさしく波立っている。ジャーナリズムではこの世界情勢の流れにのって、未来戦記、軍事学上の研究などで「日米もし戦わば」がさかんに論じられた。そうした勢いが「仮想敵国」である両国関係に、いつか「真性敵国」であるかのような海軍イデオロギーをうましめつつあったのである。
練習艦隊(磐手、浅間で編成)が、兵学校卒第四十五期生をのせ、アメリカを訪問したのは、そうした情勢のもとにである。大正七年の春から夏にかけ、司令官鈴木中将は久しぶりに海の気を胸いっぱいに吸い、太平洋横断の遠洋航海に生き返ったかのような想いを味わった。
サンフランシスコでは艦隊は大歓迎をうけ、それに応えて市長招待の歓迎会でおこなった鈴木司令官の演説は、来会者ばかりでなく、アメリカの官民に大きな感銘を与えた。それは海軍次官当時から「軍艦をつくり、動かすのは万が一のときの国防のためであり、それ以外のなにものでもない」と常にいっていた鈴木の、一貫した信念に根ざしたものであった。
「日米戦争ということと、日本人を好戦国民と外国人のいうことと、これは二つながら非常に誤っている。これは日本の歴史を知らない無知のものでなければ、他になにか悪意をもつもののいうことだ。日本の歴史を調べてみれば判ることだ。日本人ほど平和を愛好する人間はほかに世界にはあるまい。日本は三百年間、一兵も動かさずに平和を楽しんだのである。これは平和を愛好する証拠である」
このスピーチを鈴木は日本語でおこなった。それを参謀の佐藤市郎大尉が少しずつ区切って、同時通訳で英語に直していった。しかし、日清・日露の「鬼貫太郎」の気迫が、訥々たる日本語のうちに来会のアメリカ人にも感じられたのである。
「近来、不幸にして米国においても、また日本においても、日米戦争ということをしばしば耳にする。しかし、日米は戦ってはいけない。もし日米が戦い、日本艦隊が破るるにしても、日本人は断じて降伏しない。なお陸上であくまで戦う。もしこれを占領するとしたら、六千万の兵を上陸させて、日本人の六千万人と戦うほかはないだろう。アメリカが、六千万人を喪って日本一国を奪いとったとしても、それはカリフォルニア一州に相当するかどうか……。日米相戦っても相互に人命と物質をいたずらに消耗し、第三国を益するばかりで、日米両国は何の得るところもない。これほど馬鹿げたことはない。太平洋はその名の示す如く、太平でなければならぬ。平安の海でなければならぬ。この海は神が貿易のためにおき給うたもので、これを軍隊輸送に使うようなことがあったなら、日米両国ともに天罰をうけるであろう」
会場には割れるような拍手が起こった。移民をめぐって排日運動もあり、日米関係がぎくしゃくしているときだけに、鈴木の率直な意見はアメリカ国民の心をもうった。鈴木もまた「米国人には他人の雅量をうけ入れる雅量がある」ことを学びとった。
このときの四十五期生からは、太平洋戦争で戦った多くの将がでている。軍令部作戦部長富岡定俊、大和艦長森下信衛、翔鶴艦長岡田為次、第二水雷戦隊司令官古村啓蔵らの名がみえ、かれらの記憶にも、この「平和の海」演説が一種の驚きと不思議な感銘となって残っている。
かれらはまた、鈴木司令官が「鬼貫」の名でささやかれる単純な猛将ではないことを、この遠洋航海において知った。読書家で、漢籍と洋書とを問わず縦横に読み、とくに歴史についての造詣の深いことを賛嘆した。南米ペルーに寄港したとき、候補生を集め、鈴木が、
「諸君にインカ帝国の歴史を説明しよう」
と、アンデスの高原に栄え滅びたインカ文明を滔々と語りだしたときは、一同はアッケにとられた。当時はまだインカ文明など日本でろくに研究されていないころである。
海上にある鈴木司令官はすこぶる気分が爽快だったのであろう。板につくとはこのことなのだ、と候補生は思った。演習や軍紀維持についてはやかましいが、ほかのことは艦長まかせ風まかせ、悠々としている。達弁でも能弁でもないが、座談となると奇妙な持ち味をもっていて、腰をあげさせない温かさをもっている。何度も死に損った話には、だれもが腹をかかえて笑った。
こうした周囲にかもしだす温かい雰囲気は、大正七年十二月から大正九年十二月までの、丸二年間の兵学校校長のときも鈴木はもちつづけている。ときに鬼貫太郎の性格を発揮することはあったが、全体としては村夫子であり、ゆったりとした田舎の村長の風貌姿勢をみせていたのである。
[#地付き]●「国防は軍人の専有物にあらず」[#「●「国防は軍人の専有物にあらず」」はゴシック体]
世界情勢がこの間に一変した。同時に静穏を保持していた海軍中央は新たな難局に直面した。大正九年に襲った世界的恐慌が、海軍の夢である八八艦隊の実現を妨げたのである。建艦のための総予算は、大正十年には国家予算の三十二パーセントを超えることが予想され、もはや艦隊建設は国家財力の負担の限界を超えた。海相加藤友三郎大将は冷静に判断した。こうした建艦競争をつづけるかぎり、荒立ちはじめた太平洋の波を静めることはできぬ、ならばこの計画を放棄するほかはない。国力を破綻させて真の国防はない。
世界的恐慌にゆさぶられたのは、日本海軍ばかりではなかった。アメリカ海軍もまた、増税反対の国民の声に押しつぶされつつあった。建艦三カ年計画は行きづまり、戦艦十隻の工事|進捗《しんちよく》率は平均四十三パーセント、という惨憺たるありさまで、軍縮を求める声がアメリカの世論となった。
大正十年八月、アメリカがワシントン軍縮会議開催の案内を各国にだしたのは、この世論が背景にあった。
日本代表加藤海相は、この軍縮会議において、戦艦、航空母艦の保有トン数比率を米五・英五・日三とするという米国の爆弾提案に対し、
「日本は米国案の高遠な目的に感動し、主義において|欣然《きんぜん》この提案を受諾する」
といった。海相として四代の内閣に歴任し、苦心惨憺して成立させた八八艦隊を、テーブルの上でみずから葬ろうというのであった。いや、加藤海相が卓上海戦≠ナ沈めたのは、軍艦だけではなく、明治四十年の国防方針いらいの海軍政策そのものだったかもしれない。
米国提案の五・五・三の比率受諾はやむを得ないと決意した十二月二十七日、加藤海相は海軍省あての伝言を口述した。そこには、冷静な加藤の国防観が示されている。
「国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を|涵養《かんよう》し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。すなわち国防は軍人の専有物にあらず」
加藤海相がうちたてた新しい国防論とは、軍備と外交とが相まって不戦の方針を貫きとおそう、というのである。これからの戦争は未曾有の総力戦、消耗戦となる。さらに流動的な国際関係、とくに利害のからみあいの複雑化と鋭敏化は、戦争を国家群と国家群の争いに導くであろう。ならばこそ、軍事すなわち国防であるという十九世紀的な概念をすて、国防すなわち政治という新しい戦争論をたてねばならない、とした。
しかし、この五・五・三の比率をめぐって、鉄の規律を誇った海軍部内が分裂を起こしはじめるのである。対米六割では国防に自信がもてぬ、アメリカ艦隊との決戦兵力は絶対に七割はなければならぬとする強硬派の台頭である。その七割厳守論もそれほど厳密な数字的裏づけがあったわけではなかったが、かれらは五・五・三を米英による劣勢比率の押しつけであると憤激した。
こうして国際的には、比率問題以上に日米関係を重視、会議をまとめた加藤海相の英断によって、いわゆる|建艦休日期《ネイバル・ホリデイ》に入り、荒立ちはじめた太平洋の波はおさまろうとした。軍縮会議の条約締結を、海軍力にかぎってみれば、西太平洋の日本の制海権が認められたことになる。
日本の財政も、建艦費の削減で、建て直しの軌道にのせることができた。太平洋の不安を鎮め、財政的にも三十パーセントを超えた海軍費を半分に切りつめることが可能になったのであるから、ワシントン会議は成功とみるべきだった。しかし、海軍部内の強硬派の不満はくすぶりつづける。反対は海軍部内ばかりではなかった。ワシントン条約は野党による政府攻撃の手段とされ、国内的には騒然たる様相を呈しはじめたのである。
皇太子迪宮が、大正天皇の病弱のために、摂政宮として「天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ」ことになったのは、その直前の、大正十年十一月のことであった。
その年の三月、二十歳の迪宮はヨーロッパ各国の訪問の旅にたち、九月三日に帰国したばかりである。半年にわたる天皇家初の壮挙を無事におえ、帰国した迪宮は、だれの眼にも一まわりも二まわりも立派になったように映じた。
東宮御用掛|二荒芳徳《ふたあらよしのり》伯爵は、両陛下や弟宮たちの土産品を自分でえらぶ迪宮の姿をみながら、ふと思った。
「これならご帰朝後にまっているご天職におつきになっても何の不安もない」
皇太子迪宮は帰国後にお|詞《ことば》を発表し、その一筋で切実な平和への希求を語った。
「予ハ遂ニ大戦ノ跡ヲ尋ネ、惨憺タル光景歴々猶存スルヲ目撃シテ、|弥々《いよいよ》世界ノ平和ノ切要ナルヲ感ジ……」
それは純粋な一人の青年が身をもって味わった美しい信念であった。
大正十年といえば、第一次大戦が終って間もないときだから、いたるところで青年皇太子は戦争の悲惨と無意味さとを、その眼で見た。戦争は自然や都市ばかりではなく、人間性をも荒廃にみちびく。ヨーロッパ各地には荒廃がそのまま残っていた。激戦地ベルダンでは、不発弾がいまなお時に破裂して、復興建設のために働く農夫などを殺傷するという話を、皇太子は聞いた。砲火に焼かれ毒ガスに枯れた樹木が奇怪な形で立つ野を吹く風は、死臭をかすかにただよわせていた。
おともをしていた日本軍人が、ある日、その感想を求めたとき、皇太子はこういった。
「戦争が人類の悲惨事だということは、従来種々聞きもし、読みもしたが、眼のあたりに戦跡をみるに及んで、予想以上にひどいものであることがわかった。戦争は決してやっては、いけないものだ」
そしてうっすらと涙ぐんだという。その心やさしい皇太子を、大正天皇の憂慮される病状のため、十一月二十五日の皇族会議と枢密院会議が、満場一致で摂政と決したのである。各新聞はこぞって、皇太子の摂政就任を祝った。史上はじめての摂政である聖徳太子になぞらえ、「国礎のいよいよ盛んならん」と国の前途を慶祝した。
摂政裕仁は、十二月六日、高輪御殿から霞ヶ関離宮に引越し、原則として毎週水、土曜日に宮城におもむき、摂政の政務をとることとなった。
その初仕事に近い軍務の一つに、第二艦隊司令長官鈴木貫太郎中将を、第三艦隊司令長官とする親補式(武官の任命式)があった。大正十年十二月一日である。摂政としての初の親補式とあって、ときの首相高橋|是清《これきよ》が侍立した。二十歳の裕仁親王と五十四歳の鬼貫太郎のこれが初の対面となった。鈴木は『自伝』にあっさりと記している。
「高橋さんもそういう儀式に初めて列せられ、私もそういう光栄を荷なうことが初めてであった。みな初めての事なので、誠に有難い光栄に浴したことだった」
のちにともに二・二六事件で襲われ、暗殺された高橋と、重傷の鈴木とも、このときが初対面であった。初めてずくめの親補式に、なにか奇しき因縁というものが感じられる。
翌十一年夏、摂政裕仁親王が北海道を巡察したとき(七月六日〜二十五日)、鈴木長官は戦艦日向に坐乗してお供した。その帰途、海が大荒れに荒れ、日向はときに二十度ほども傾くことがあった。艦首はしばしば波濤にかくれ、荒波は甲板を躍りこえた。ヨーロッパ旅行のときも、船酔いのものが続出するなかで、後部甲板でデッキゴルフに夢中になっていたほど船に強い摂政も、さすがに艦橋になんども姿をみせ、心細げに荒れる海をみつめた。そのたびに、鈴木長官が疾風怒濤で鍛えぬいた海の男の厚い胸で、さながら摂政をうけとめるかのように、無言でうしろに立つのである。
長い航海中は、たえず鈴木長官がお相手をつとめ、親しく裕仁親王と話す機会を多くもった。日清・日露での鬼貫太郎の肉迫攻撃や独自の水雷戦術から、死にそこなった話など、思いつくままに語った。人間としては几帳面で純朴で、権謀術数を斥ける。職務にはいつも真剣で、徹底的に理を窮め納得のいかないことは実行しない、そんな鈴木の人となりが摂政裕仁の心に好もしく|沁《し》みとおった。
母がわりともいうべき足立たかが嫁いだ鈴木貫太郎とはこの男なのか、という想いも摂政にはあったろう。その偉丈夫ともいえる男が、摂政にたいして尊崇の念一途に、全身全霊を傾けて尽くすのである。それも一夜漬け的なものでも、虚飾や演技といったものでもない。精神の根底にどっしりとすえられた忠誠心の、自然な発露として、鈴木貫太郎は皇太子に仕えた。
航海が終りに近づくとともに、摂政の胸は楽しい想いに満たされた。旅行そのものも有意義で、充実したものであった。そして、この旅が終ったあとには、久邇宮|良子《ながこ》女王への納采が待っている。大正七年一月の皇太子妃内定いらい、すでに四年半の歳月がたっている。納采は公式の儀式だ。皇太子の心にはおのずとはずむものがあった。
[#地付き]●「月月火水木金金」[#「●「月月火水木金金」」はゴシック体]
大正十三年一月二十六日、裕仁親王と良子女王の御成婚の儀がおこなわれた。
そして五月三十一日、御成婚を祝う夜会が、宮中豊明殿でひらかれた。皇族、親任官待遇以上の高官、各国外交官夫妻二百五十人が招かれた。日本側の男は大礼服、夫人の多くは|袿袴《けいこ》姿だった。
連合艦隊司令長官鈴木貫太郎夫妻の姿もそのなかにみられる。鈴木は前年に大将に進級、軍人として最高の地位にのぼっていた。地位や名誉に関しては若いころから|恬淡《てんたん》としていられるようになった鈴木は、この辺が潮時だろうと観じていた。事実、鈴木より一期下の竹下勇中将が連合艦隊司令長官の任についている。これで海軍を去らねばならぬとしても、鈴木には心残りはなかった。にもかかわらず、皇太子の御成婚の儀がおこなわれた翌日、連合艦隊司令長官に突然のように鈴木が親補された。
海軍中央が、日清、日露を戦った残り少ない現役の、歴戦の勇将ともいえる鈴木を連合艦隊司令長官に据えた裏には、大きな意味があった。ワシントン条約いらい静穏を保ちえたかにみえた日米関係が、前年後半あたりから移民問題をめぐって、再びきなくさくなっていたからである。とくにカリフォルニア州日本人排斥連盟を中心とする排日運動は、西部の各州に拡大していき、「排日移民」のアメリカ連邦法の制定を要求する勢いにまでなった。
五・五・三の比率にしばられた日本海軍が、一旦緩急あるとき、いかにしてアメリカ艦隊を撃破するか、このとき、国家の興亡を賭する意気ごみで特別大演習を敢行する必要を、海軍中央は深く認識した。その総指揮をとる海の男には鈴木こそが最適の人材であった。
春の周防灘での水雷訓練をおえ、連合艦隊主力は中国沿岸の巡航にでた。秋の大演習に備えての艦隊訓練であり、同時に関東大震災によって日本の国力は激減したという侮日宣伝を打ち消すための、一大デモンストレーションを兼ねていた。
その留守中に、アメリカ海軍が参加艦船二百五隻という未曾有の大演習を、太平洋で実施するという電撃的な報が入ってきた。しかもオーストラリアまで遠征するという。ということは、距離的にはほぼ同じである対日本渡洋進攻作戦の演練ではないのか。排日移民法成立に憤慨し、なお余熱のさめきっていなかった日本の世論は刺激をうけ、ふたたび排米の熱を高めた。実はアメリカ海軍のこの演習も恒例行事にすぎなかったのだが、その規模とタイミングが悪かった。
それだけに海軍中央は世論を鎮静させるべく冷静に対処した。そして、その裏側で、本格的な対米作戦を想定した大演習の実行を計画した。
大正十三年十月、鈴木連合艦隊司令長官の統率による大演習が、太平洋のまんなかで実戦さながらに壮烈におこなわれた。長門・陸奥という虎の子の戦艦の各主砲八門が、初めて一斉射撃したのもこのときであった。それまでは艦体を損傷することがあってはならぬと、せいぜい四門ずつの斉射を試みるだけであったのである。
陸奥艦長原敢二郎大佐から意見具申があったとき、鈴木長官は即座に、
「よろしい」
と快諾した。大事をとって斉射実験をしないでおいて、実戦にのぞんだらどうするのか。
こうして、陸奥、長門の順に八門の斉射がそれぞれ敢行された。それは一瞬虚空高く身の吹き飛ばされる思いであったというし、腸がひっくりかえるのではないかと思われるほどの衝撃であったともいう。
こうして、この年の太平洋上での日米両艦隊の大演習は、日本海軍の将兵に、この広漠たる海原が将来における決戦の舞台になるであろうことを、実感させた。鈴木がサンフランシスコで演説したように「太平洋はその名の示す如く、太平でなければならぬ」のであるが、国際政治を主導しようとするアメリカの国策と、ワシントン条約に不満を抱く日本の国策との間で、次第に太平洋は波立ちはじめてくるのであった。
鈴木貫太郎にとって、ともあれ、連合艦隊司令長官としての一年間は男の本懐ともいえるもっとも充実したときであった。そして、幸いなことに排日移民法で荒れた情勢も、やがて鎮静化し、対決の意識は少し薄れた。大正十三年十二月、鈴木は軍事参議官に補せられ、しばしの閑職を楽しんだ。しかし、ワシントン条約下の対米戦略戦術をねるために、鈴木には海軍軍人としての最後の奉公が待っていた。大正十四年四月、戦略戦術の総本山・海軍軍令部長の最高要職にかれは就くことになる。
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軍令部長としての鈴木大将は、三年半以上その席にあって対米戦術樹立のために精魂をつくした。といっても、鈴木の軍令部長就任以前に、軍縮下の新しい「帝国国防方針」が改定されて、大正天皇の裁可をえて、成立していた。大正十二年、鈴木が呉鎮守府長官をつとめていたときである。
この改定作業をすすめたのは、対米六割反対の海軍強硬派であった。策定の主導者はときの軍令部。部長山下源太郎大将、次長加藤|寛治《ひろはる》中将、第一班長(作戦担当)|末次《すえつぐ》信正大佐、作戦課長高橋三吉大佐らである。
「帝国の国防は、われと衝突の可能性最大にして、かつ強大なる国力と兵力を有する米国を目標としてこれに備え、われと接壌する支露両国に対しては親善を旨として……」
と、国防方針は第一の主敵をアメリカとしたのである。
「仮想敵国」についての解釈が、明治四十年の「米国ヲ目標トシテ……兵備ヲ整フ」から大きく飛躍していることがわかる。国防すなわち軍事という、加藤友三郎の国防観から逆転している面もある。これがのちの昭和十年ごろには「宿敵アメリカ」にまで発展していく。
この国防方針が策定されて半年後の八月、長く病床にあった加藤友三郎が死んだ。加藤の死は、対米不戦海軍≠またしても敵国アメリカという時代遅れのイデオロギーにこり固まった海軍にひき戻してしまう。そして翌十三年の、太平洋を舞台としての日米両海軍の大演習は、さらには国民の対米心理のなかに不信≠フ感を与える転機ともなった。
鈴木軍令部長の時代とは、国防方針改定から対米不信という、そうした大きな潮流を背景にして、ワシントン条約後の対米戦術を練らねばならぬときであった。その成果が昭和三年六月の、第三次改正をみた「海戦要務令」だったといえる。ここには日清・日露の夜戦の雄である鈴木部長の戦術観が色濃くにじみでている。来攻するアメリカ艦隊を迎え撃って、潜水艦や軽快部隊(水雷戦隊中心)の夜戦で、その力を少しずつ減らし、主力同士の決戦にもちこむ、という従来の戦法に、数少ない巡洋戦艦をも夜戦に活用する考え方を注入した。
つまり、夜戦が単なる|減殺《げんさい》戦術にとどまることなく、六割の主力による決戦のための必須作戦にまで格上げされたといっていい。虎の子の快速の巡洋戦艦での夜戦とは、世界各国の戦策にない画期的な戦法である。独特の水雷戦術をもっている鈴木の真骨頂がでている華々しい戦い方であった。
鈴木部長の三年八カ月は、海相は財部彪大将から岡田啓介大将へ、ともに鈴木と心を一つに相知る仲間同士で、海軍部内はしっかりとした統制のもとにあった。いわゆる「建艦休日期」のなかでの戦力の整備強化のとき、「たとえ軍備に制限があっても、訓練に制限はない」と、「月月火水木金金」の猛訓練がくりひろげられているときであった。
だが、政界は折から政友会と憲政会とが対立を深め、混沌としていた。中国大陸では、大正十五年夏、※[#「くさかんむり/將」、unicode8523]介石が国民革命軍総司令に就任、軍閥反対、国内統一をのぞむ民衆の気運にこたえ、北伐の軍をおこした。軍閥混戦の状態から国民党による国内統一へ、国際政治の大きな焦点は中国となっていった。
それは第一次大戦の結果として全世界を襲った三つの大きなうねりともいえる。第一はソ連という社会主義国家の誕生、第二にアメリカが最強の資本主義国として進出してきたこと、そして最後がこの中国における民族主義の高まりである。
宇垣一成陸相が断行した宇垣軍縮(大正十四年)に不満と危機感をもつ日本陸軍の、将来をになうと目される中堅将校のひそかな活動が、すでにはじまった。三つの世界の新情勢下、日本帝国はいかに生きるべきか。アメリカとの対立、ソ連への恐怖、それらは中国情勢と複雑にからまってきた。国民革命軍の北伐が、揚子江沿岸から中国中部、さらに北部へ、そして満洲まで波及していくであろう状況をアジアの優等生≠自認する日本は黙って見逃しておけなかった。
昭和という時代はこの複雑な国際情勢下に幕をあけるのである。
[#地付き]●「本当に、いいのか……」[#「●「本当に、いいのか……」」はゴシック体]
大正十五年十二月二十五日、午前一時二十五分、長く患っていた大正天皇は息をひきとった。ただちに摂政裕仁親王は第百二十四代天皇に|践祚《せんそ》する。その日、十二月二十五日から昭和と元号がかわった。
「昭和」は世界平和、君臣一致≠意味する『書経』の「万邦協和、百姓昭明」からとられたという。だが、平和どころか昭和は内外情勢とも多事多難な幕開きとなった。昭和二年には金融恐慌がおこって破産する銀行が続出、全国に三週間のモラトリアムが施行された。米大統領は、ワシントン会議につづく補助艦艇の軍縮を提唱し、海軍部内にはいらざる議論がおこりはじめた。
そして中国大陸では、革命軍の上海や南京占領、※[#「くさかんむり/將」、unicode8523]介石の反共クーデタ、満洲から北京へと出てきた大軍閥の頭領|張作霖《ちようさくりん》が大元帥就任と、風雲はいよいよ急を告げたのである。しかも、昭和二年四月に内閣を組織した元陸軍大将田中義一首相は、この中国に対して、猛烈ともいえる強硬策をとった。組閣一カ月後の五月に、早くも中国山東省に出兵し、国民革命軍の北上を防ごうとする態度をとった(第一次山東出兵)。そして六月の東方会議で、満洲と内蒙古を中国から切りはなし日本の支配下におこう、とする国家方針を公認するのである。
翌三年四月にはまた山東省に兵を出した(第二次山東出兵)。そして五月、いよいよ※[#「くさかんむり/將」、unicode8523]介石軍が済南に迫ること必至とみた田中内閣は、青島に上陸待機していた日本陸軍を済南に進め、ここに原因不明の戦闘を惹起させ、全世界を驚かせた。
天皇裕仁は沈痛した。践祚いらいまだ半歳で早くも海外出兵があり、いままた済南で、中国側死傷四千以上という戦闘がおき、中国民衆を憤激させ、全土にわたる猛烈な反日運動をまきおこした。
出兵の裁可をもとめて参内した田中首相と参謀総長鈴木荘六大将を待たせ、天皇は書類に著名をしようとし、筆に墨をふくませたが、ふと手をとめて黙読した。ふたたび筆を近づけたが、途中でやめ、ついに筆をすずり箱にもどした。そして双眼をつぶりじっと考えこんだ。侍立する侍従武官長奈良武次陸軍大将の耳には、かすかに独語する声が聞こえたという。
「これでいいのか……いいのか……本当に、いいのか……」
それほどまでに憂慮したうえで決定した海外出兵だったのである。それがついに※[#「くさかんむり/將」、unicode8523]介石軍との交戦となり、事態は天皇の憂慮したように悪い方へと向った。
そればかりではなかった。その後一カ月もたたない六月四日、天皇の眼をみはらせる意外事が発生したのである。張作霖将軍の爆死事件である。
のちに関東軍の謀略と判明するのだが、その遠因に田中内閣の施策に対する鈴木軍令部長の強硬な反対意見があったのである。国民革命軍が北京に迫るにおよんで、田中内閣は「戦禍が満洲に及ぶときは、治安維持のため、有効な措置をとる」と言明、これに中国国民政府は内政干渉だと反駁した。陸軍はこれにたいして第九師団を中満国境の山海関に派遣することを決定し、政府もまた同意する意向をしめした。
それを第三班長の米内光政少将から聞かされた鈴木部長は、ただちに海相岡田啓介に談じこんだ。
「内閣が事情やむなしと派兵を実行するなら、英米から抗議のくることを覚悟しておかねばならない。それを強硬に突っぱねれば、事態は悪化し、英米と最悪の関係におちいらぬともかぎらない。自分は政治の決定には従うつもりであるが、断行するなら、かねて軍令部が要求している弾薬、水雷などの補充をこのさい至急に解決してもらいたい。そうして十分に戦争準備をしておかねばならぬ。それには経費五千万円を要する。政府に要求しこれはぜひとも獲得してもらいたい。それなら軍令部は文句をいわぬ」
山海関出兵のおよぼす国際情勢の悪化を見抜いているあたり、鈴木の国際感覚のたしかさが感じられる。それと統帥部は政治に干与しないという軍人の本分を、鈴木は厳重に守っている。
結局、岡田海相が首相にねじこんで、山海関派兵は中止された。だが、満蒙防衛の責任を負う陸軍ならびに関東軍の戦略観は、内閣や海軍と違っていた。それならば、いかにして国民革命軍の北上を阻止するか。国民革命軍と対抗する張作霖軍の弱体を知っていればこそ、思い切って張作霖を退け、むしろ日本軍との衝突をひきおこし、それに乗じて一気に奉天を占領、そして満洲を制圧してしまおう。それが張作霖爆殺の目的だった。
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昭和史はこうして陰謀から開幕していく。陸軍出身の田中首相はさすがに張作霖爆死を一応は疑ったが、
「まさか……オラの後輩の陸軍軍人にこんなバカなことをするものはおると思えない」
と、天皇の心配をつたえた奈良武官長にいった。天皇は微笑して、武官長の報告を聞き心から安堵した。
明けて昭和四年一月、天皇の周辺でひとつの騒ぎがもち上がった。天皇即位とともに侍従長となっていた珍田捨巳伯爵が、脳出血で倒れ死去したのである。老練な外交官だが、身なりには無頓着、虚飾を好まぬ誠実さを、天皇は好んでいた。後任の侍従長にだれを選ぶか。元老|西園寺公望《さいおんじきんもち》の指示を仰ぎながら、宮中をとりしきっていた宮内大臣|一木喜徳郎《いちききとくろう》と内大臣|牧野伸顕《まきののぶあき》は、このとき、ただちにひとりの男の存在を想いうかべた。軍令部長鈴木貫太郎大将である。
侍従武官長および侍従武官の大多数は、陸軍が任命する上級陸軍士官である。しかも、陸軍はわれこそが天皇大権を捧持する最大の資格者であると、強い自信と主張をうちだしている。それに対抗するためにも、海軍提督を天皇側近につれこもうという宮中指導層の思惑があった。また、鈴木の考え方が、西園寺を中心とする立憲君主主義者と相似かよっているところもある。政治が大きらいで、軍人は政治に干与すべからずを信奉している鈴木に対する、かれらの信頼感もあった。
いや、それ以上に、牧野内府も一木宮相も、鈴木の人格、そこに発する風格にほれこんでいた。かれらばかりではなかった。若き天皇が、鈴木という生粋の海軍軍人にだれよりも深い信頼をおいていると、かれらには以前からわかっていた。
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それは──昭和二年の秋のこと、であった。東京湾沖で天皇が統裁する実戦形式の海軍特別大演習があった。お召艦比叡に牧野内大臣、岡田海相、加藤寛治連合艦隊司令長官らとともに、鈴木軍令部長が天皇裕仁と四日間起居をともにした。
天皇と鈴木にとっては、大正十一年の日向艦上いらいの、何年ぶりかの艦内生活だった。このときもまた、鈴木は形影相ともなうように常に天皇のそばにいた。来攻する赤軍主力に向って、単縦陣の青軍主力が迎撃した。図上演習そのままに洋上で、はげしい艦隊運動が展開されるのである。このとき、演習の説明は、加藤連合艦隊長官より鈴木部長がもっぱらした。
当時、侍従であった野口明がいう。
「陛下に戦況のご説明する余暇には、われわれ供奉の小官に対しても、海図にならぶ両軍の駒について、気軽に説明して下さった。そのときの鈴木さんの、双眼鏡を胸にかけて、太平洋の波を背に悠然と立たれた姿は、まったく油絵にでもしたいほどの堂々たる提督の姿だった」
その四日間で、牧野内大臣はつくづくと鈴木の風格にみせられた。演習が終って数日後、ちょうど訪れてきた岡田海相に、牧野はいった。
「私は鈴木軍令部長に実にほれこんだ。ああいう人が、常時、陛下にお仕えすることができれば、どれだけ陛下もお力強く、お倖せだろうかと拝察する」
あまりに率直な申し出に、岡田も気圧されてか、
「武官は文官と違って、いつまでもその地位にいられるものではないから……」
と、了解したようないい方をした。
しかし、さらに数日後、当の鈴木軍令部長はわざわざ内大臣を訪ねてくると、はっきりと断った。
「野人礼に|忸《は》じらわずで、私ごときものが、そんな大任を勤まるわけがありません」
そのすこぶる謙虚な態度が、またまた牧野内大臣の心を奪った。武ばらざる武人のすらりとした人間性に、ほれにほれこんでしまった。その後も、珍田侍従長みずからが、自分の後任にと鈴木を希望し、海軍省に直接交渉することがあった。海軍省人事局の返事はにべもなかった。
「鈴木は海軍として手放せぬ」
だが、それから一年余たって、当の侍従長の不慮の死に出会ったのである。過去のいきさつもあり、もはや有無をいわさぬ|強《こわ》談判しかなかった。海軍当局は承諾したが、「口添えはするが、交渉は宮内省でじかにやってほしい」といった。そこで一木宮内大臣が鈴木の私邸を訪ねた。
「侍従長の職は重大なることで、特にお上はご即位そうそうのことでおありになる。それをお|輔《たす》け申すべく、あなたは軍令部長の要職におられるけれども、承諾をしてもらいたい。まったくほかに候補者はないのであるから、|枉《ま》げて承諾してもらいたい」
と、宮相は真っ向から、得意の弁舌でまくしたてた。鈴木は頭をかいた。
「まこと武骨いっぺんで、到底むつかしい。お勤めはできないと思う。どうか勘弁してもらいたい」
一木はひっこまなかった。この会談は延々三時間に及んだ。そして宮相はついに最後の切り札をだした。
「お上もそれを強くのぞんでおられる」
驚いた鈴木はいった。
「みずからは不適任だと思う。しかし、そうであるなら、なお考えてみたいと思う」
二日後、鈴木軍令部長は就任を承諾する旨を一木宮内大臣に報告した。
その理由が、いかにも地位や名誉にこだわらぬ清潔な鈴木らしくて、ふるっている。侍従長になるということは、軍籍は予備役ということになり、現役最高峰の軍令部長とは比較にならぬ。宮中席次が三十番近くさがるのである。もし侍従長が栄転の位置であったなら、断乎としてことわるほかはないが、ずっと下の位置につく。それが鈴木の気持に合致したのである。宮内大臣がそのことを承知のうえで、ということは、実際によくよくのことに違いない。
「そう考えれば、不適任であることは承知しながらも、出来るかぎりご奉公申し上げたい」
一木宮相も、牧野内府も心から喜んだ。いわばかれらの二年がかりの宿願がようやくに達成したと同様なのだ。天皇もまた鈴木承諾の報に喜びをあらわしたという。
侍従長親任式は昭和四年一月二十二日、鈴木大将の後任である加藤寛治軍令部長の親任とともに、宮中でおこなわれた。謙虚にして精忠の人、軍人は政治に干与すべからず、という明治天皇の|訓《おし》えを固く守り、またみずから分を|弁《わきま》えた鈴木大将が、かりに軍人以外に職をもとむるとすれば、侍従長がもっとも適任であったかもしれない。
だが、昭和史はまさに危険な曲り角をまがってしまったことになる。歴史に「もしも」はないが、あと一年間軍令部長の席に鈴木大将があったならば、のうらみは残る。後任の加藤寛治大将は連合艦隊司令長官であったとき、「すでに艦隊に関するかぎり、対米戦争は開始されているのである」と訓示した対米強硬派であった。太平洋の波は、鈴木が海軍の軍服をぬぐと時を同じくして、またしても、いや、より一層はげしく荒立ちはじめるのである。
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第二部 大侍従長として
[#小見出し] 第五章 「君側の奸」となる
[#地付き]●「困ったもんですなあ」[#「●「困ったもんですなあ」」はゴシック体]
鈴木貫太郎の侍従長就任をだれよりも喜びとし、誇りとしたのは母きよであった。とって九十三歳の高齢だが、夫を喪ってからも|矍鑠《かくしやく》とし、やや耳が遠いだけで腰も曲がらず、端然とした日々を送っている。鈴木は巣鴨の家を長男の一夫妻にまかし、喜ぶ母とともに麹町三番町の侍従長官舎に移った。このとき貫太郎は六十二歳。しかもなお、軍人にはめずらしく親に孝を心情とする情感の豊かな人物であった。朝、宮中へ出勤するときは、かならず、まるで小学校の生徒のように、
「お母さま、行ってまいります」
と行儀よく|挨拶《あいさつ》して出かけていった。
そして帰ればどんなに遅かろうと「ただいま帰りました」ときちんと坐って、手をついて挨拶した。母きよはその声をきいてから、はじめて眠りについた。
たか夫人に、日頃から口ぐせのように鈴木はいっていた。
「世の中には、親に孝養をしたいと思ってもできない人がいる。この年になってなお親孝行ができるほど、こんな幸せなことはない」
この実直純情ともいえる精神で、侍従長として鈴木は二十八歳の天皇に対するのである。忠節無比の臣として。そしてときには慈父≠フように。天皇の食事が一汁二菜だと知ると、鈴木は夕食でさえ一汁二菜とした。たか夫人がときに気を利かして三菜以上をだしても、かならず二菜でとめた。
「せっかくのご好意の、よそからの到来ものですから、少し|箸《はし》をつけられては」
と、たか夫人がすすめても、鈴木はそっと押しやって食べようとはしなかった。
「陛下が一汁二菜である。陛下以上のご|馳走《ちそう》を食べてはもったいない。罰が当る」
昼食も、単調でうまくない宮内省の食堂ですました。歴代侍従長でこのように質素なものはいなかったが、鈴木は平気でそれを通した。
とはいっても、海軍生活四十年、しかも疾風怒濤にもまれて育った水雷屋、それから一転しての宮中入りだったから、鈴木は就任当初、相当にとまどった。のちにアメリカ大使ジョセフ・グルーが語ったという「かつてみたこともない悠長なる精密さと威厳を備えた宮廷」のなかに、一野人が突然に放りこまれたようなものであった。
宮中の習慣は、およそ世間一般と隔絶したものばかりだった。奥御殿から表御座所へお出ましになる天皇を、侍従長がどこで待つか、その場所が宮中行事ごとに違うのである。とても簡単な説明ぐらいで覚えられるものではない。
それに連合艦隊司令長官のときも、軍令部長のときも、まわりには参謀なり副官なり当番兵がいた。身のまわりの雑用やこまかい世話は、かれらがしてくれていた。それが今度はだれひとりいなくなった。質素で几帳面で手のかからない鈴木ではあったが、当座は本当に途方にくれた。しきたりや慣例のまったくわからぬ自分が、自分のことを自分でせねばならぬ。
「困ったもんですなあ」
と、侍従長は心から嘆息した。
だが、間もなく馴れてきた。野人は野人なりに宮廷生活のなかにとけこめるのである。ほどなく宮殿のぴかぴかに磨かれた長い廊下を、下駄箱がないから自分の靴をぶらさげて|飄々《ひようひよう》と、自室まで猫背で歩いていく侍従長の姿が、侍従や職員たちにほほえましく眺められるようになった。
鈴木侍従長は、任官するとすぐに侍従たちに、
「陛下側近のことは、万事あなた方に頼みます」
とあっさり宣言した。馴れないためもあるが、同時に、事に処して出しゃばらず、無理をせず、人の話によく耳を傾けるというかれの処世観からきたものであった。それが小うるさい侍従たちを心服させる結果となった。偽りのない、装うところのない、だが頼り甲斐のある東洋的隠士、つまりは大侍従長≠ェ、若い宮中奉仕者たちがはじめに受けた印象だった。
こうして信頼絶大で宮中に迎えられたが、新任の侍従長がほとほと困却したのは、およそするべき仕事のないことである。軍令部長時代は書類が回ってくる、会議はある、報告は聞くで、またたく間に一日が過ぎ、時間の不足を嘆いたが、こんどは時間があり余るのである。事務的なことは侍従次長河井弥八の裁量にまかせておけば十分。書類一枚すら、よほど大事なもののほかは、侍従長の机までとどかない。といって、いつ天皇からお呼びがあるかもしれないから、席を外すわけにもいかなかった。
鈴木侍従長は、やむなく手もち無沙汰、無聊をまぎらわすため、好きな漢籍にますます親しんだ。『老子』、『十八史略』、『孫子』……。歴史の造詣はますます深くなったが、何となく「謹慎させられている」ような気分になるときもあった。
しかし、ひそかに動きだしている国内情勢がいつまでも新侍従長を謹慎≠ネどさせておかなかった。張作霖爆死事件が中国側から真相がもれ、外国にも伝わり、満洲某重大事件≠ニして一月二十五日に、中野正剛代議士らによって衆議院で追及された。田中義一首相は「調査中」の一点張りで答弁を回避し、真相要求決議案も否定された。が、憂いの色を濃くした天皇のきびしい追及に、田中首相はすでにつぎのような旨をいっていたのである。
「犯人は日本軍人のなかにいるように思われる。万一日本軍人のやったことなら強く軍紀をただし、厳重に処罰する。目下、陸軍大臣が調査している」
それはもう調査するまでもないことだった。真相は時のたつにつれてますます明らかになった。事件の首謀者が関東軍参謀河本大作大佐であり、実行者の名も判明していた。問題はその処罰をどうするか、発表をどうするか、ということにしぼられる。
五月二十八日から六月九日まで、八丈島・大島をへて関西方面へと、天皇は軍艦那智にのって巡航した。鈴木侍従長もおともをし、久しぶりに太平洋の空気を吸った。天皇はゲートル、地下タビ姿で三原山にのぼり、和歌山では雨に濡れながら海生物を採集した。
その天皇巡航中の留守の東京に、満洲視察から軍事課長梅津美治郎大佐が帰ってきた。そして関東軍の強硬な意志を陸軍中央に伝えたのである。河本大佐を処罰するならば、関東軍司令官も責任をとることになる、河本大佐の処罰には反対である、というものだった。
このころようやく部内で力をもち、軍中枢をにぎりはじめた陸軍中堅将校たちが、河本大佐を処罰させてたまるものかと、陸軍中央をつきあげ、単なる行政処分でおわらせることに、陸軍の意志をひきずろうとした。行政処分なら、河本大佐らは警備担当者としてそれを防ぎえなかった、ということが問われたことになる。つまり関東軍は犯人ではない、と立証しえるのである。
陸軍の最長老であり長州閥の大御所である首相田中義一は、この陸軍の主張をみとめることとした。六月二十七日、田中首相は参内して天皇に報告した。
「張作霖爆死事件につき、いろいろ取り調べましたけれど、日本の陸軍には幸いにして犯人はいないということが判明しました。しかし、警備上責任者の手落ちであった事実については、これを処分いたします」
天皇は不審げに首相をみつめていたが、
「責任をはっきりととるのでなければ、私には許し難い」
と明瞭にいいきり、首相も聖旨にそうようにすることを誓った。
だが、翌二十八日午前、陸軍大臣白川義則大将が内奏したのは、天皇が思ってもみなかった軽い行政処分だったのである。関東軍司令官は依願予備役、河本大佐は停職、そのほか参謀長らは|譴責《けんせき》ですませるという。
若き天皇は憤慨した。
「総理が上奏したものと全然ちがうではないか。それで陸軍の軍紀が維持できるというのか」
弁明のため顔色を変えて田中首相が参内したのは午後一時半すぎである。しかし、天皇の怒りはおさまってはいなかった。
「お前の最初にいったことと違うではないか。説明を聞く必要はない」
とはっきり拒絶し、席を立って奥へ入ってしまった。そして心配して顔をみせた侍従長に、
「田中のいうことはちっとも判らない。再び聞くことは自分は|厭《いや》だ」とまでいった。
田中首相は数時間後に再び天皇に拝謁を願ってきたが、鈴木侍従長は冷やかにこれを迎えた。そして天皇の気持が手にとるようにわかるから、侍従長はいった。
「たって拝謁を願われるならばお取次はいたしますが、本件に関することならおそらくお聞きになられますまい」
田中首相は侍従長をみつめてしばらくたっていたが、両眼からみるみる涙をあふれさせた。それ以上いうべき言葉もなく、やがて頭をたれて退出していった。
七月二日、田中内閣は総辞職した。結果的には天皇の一言が内閣を倒したことになる。
「満洲某重大事件に関し、聖徳をわずらわし奉るに至ったことは、何とも|恐懼《きようく》にたえない」というのが、辞職の口実だった。だが、田中内閣の閣僚のなかには、それを大いに不服とし、侍従長を訪ね詰問するものがあった。
「お上と総理の間に立って、おとりなしをするのが侍従長の職務ではないか。それをあなたは何ということをするのか」
これに対し鈴木は厳然としていった。
「それは違う。侍従長はそういう位置にあるのではない。総理の辞意は、まことに気の毒とは思ったが、それ以上どうということをしてはならぬし、できないのだ」
だが、この田中内閣辞職問題は、昭和史の歩みの上に大きな影響を投げかけることになった。天皇は辞任の直接の動機が、侍従長に不用意にもらした自分の一言にあったことを、のちに知った。立憲君主として、首相を弾劾して辞職させるということは、許されるべきことではないのではないか。
天皇の唯一のご意見番ともいえる元老西園寺公望は、牧野内大臣を通して、
「天皇は直接に自己のご意見を表明すべきではない」
と、天皇に伝えてきた。西園寺や牧野はイギリス式の立憲君主方式を理想とし、主張しているのである。|日嗣《ひつぎ》の|皇子《みこ》≠ニして育てられて、あらゆる帝王教育をうけ、忠実に、几帳面に、心からその教えを守る天皇にあっては、イギリス式君主たらんとするために、自分の意思を表明してはならぬことであった。たとえ軍部の暴走をきびしく処罰することが理にかなうものであっても、立憲君主としてとるべき道を踏みはずしてはならない。意思を通すことは大元帥の私兵≠ノなる。
天皇はそのことを強く反省したのであろう。のちに鈴木侍従長にこういった。
「あの時は自分も若かったから……」と。
そしてこれ以後は、次第に政府や軍部の決定に「不可」をいわぬ「沈黙する天皇」をみずからつくりあげていく。そして歴史はそのときから、ぐんぐんと「不可」をいわぬ天皇の名のもとに、あらぬ方向へと日本帝国を押しやっていくのである。
それと、この事件は、鈴木侍従長が、天皇のそばにあって党派的に動いている存在と誤解をうみ、非難されるきっかけを作った。天皇と首相の「中間に立つ」ことを頼まれたとき、「侍従長とはそういう位置にない」と鈴木がいったことが正しいにせよ、宮廷外のものからみれば、侍従長とは潜在的な政治的調停者としてみられていたのである。
つまり法律上も、現実的にも、侍従長の役割はあいまいだった。侍従長は天皇の日常的な相談相手であり、公的には、総理大臣や各大臣の国務に対する拝謁スケジュールの作成者でもある。そのために、首相や大臣が天皇に上奏できなかったり、上奏を遅らされたりするようなことがあれば、「天皇に近づくのを妨げている」と非難される余地は常にあったのである。日本の意思決定が宮中という「密室」でなされることもそれに悪く作用した。
事実は、鈴木という人間がそのように権謀術数を巧みにするひとでないことで、明らかなことなのだが、伝聞による誤解が誤解をうみ、鈴木侍従長はいつしか「君側の奸」の筆頭になっていくのである。
[#地付き]●「私は陛下の親衛隊だ」[#「●「私は陛下の親衛隊だ」」はゴシック体]
そうした悪評もどこ吹く風で、鈴木の侍従長としての悠揚とした日常がつづいた。天皇の身辺のこまごましたことは、侍従にまかせ、うるさくいうこともなかった。その一見頼りなくみえる鈴木が、天皇については人一倍気をつかい、大局的に、天皇の精神の支柱たらんとしていることは、侍従たちにも察せられた。
鈴木ものちにこう語っている。天皇の侍従長への「ご下問」は実に多岐にわたっていた。それに対して「軍事のほかのことについては甚だうといので、政治上の問題とか、文芸の問題とかになると、暗黒をたどるような気がして、みずからかえりみて恥かしいような気分がいたしつつ過ごしていた。それでも、細かいことよりも大要をつかんでいれば、政治のことも大して違ったわけでなし、孫子の兵法や|六韜《りくとう》三略をみても、その内容には政治の要綱もふくんでいるので、大きな問題もそのうちに判断ができてきた」
鈴木の侍従長ぶりのおおよそが察せられるというものである。
この大侍従長のもとにまとまっていた宮中に、陸軍の侍従武官として|阿南惟幾《あなみこれちか》中佐が着任したのが、鈴木の侍従長就任に遅れること七カ月後の、昭和四年八月一日である。当時、阿南は四十二歳の男ざかり。
侍従武官をつとめることは、栄誉であるとともに、軍隊という一つの官僚機構のなかで高位の役職につくための踏み台でもあった。しかし、常に天皇のそばにある軍事面の補佐役として、才幹よりも、人格的に申し分のない軍人がえらばれるのが当然のこととなっていた。
阿南中佐はまさに最適の人物であった。大分県出身、陸軍士官学校第十八期。卒業成績は三百人中の九十番、光彩陸離というわけにはいかない。陸軍大学校を大正七年に出たが、六十人中十八番、その後の努力が実ったのであろう。
陸大合格の知らせがあったとき、阿南は中尉で中央幼年学校の生徒監だった。この知らせは本人よりも、彼の教え子たちをひどく喜ばせた。なぜなら阿南の陸大受験は三回落第して、背水の陣の四回目であったからだ。教え子の一人が、未来の閣下を約束されたとして、冗談をいった。
「たとえ将官になられても、閣下とおよびするのは気持がしっくりしません。このまま生徒監殿≠ニよばせて下さい」
阿南の答えがふるっていた。
「いいとも、いいとも。しかし、私は閣下になれそうもないから、そんな余計な心配はするな」
言葉の上だけでなく、心底から若き阿南中尉はそう考えていた。事実、歩みは遅々として地味なものであった。第一次大戦後の、高度国防国家をめざして、ようやく政治的に|蠢動《しゆんどう》をはじめた陸軍部内にあって、阿南は政治的無色と高潔な人格を表看板に歩みをつづけた。軍人としての阿南の関心は、位階勲等や軍隊内の華々しい椅子ではなく、おのれの精神の内側だけに向けられていた。
「誠なれ、ただ誠なれ誠なれ、誠、誠で誠なかれし」という道歌をかれは好んだ。「顔を直せ」という語をしきりに口にした。容貌を整え体裁を飾れという意味ではなく、阿南がいおうとするのは、人は人格を錬磨修養することにより、よい顔ができてくる、それを目指せ、ということだった。悪友はかれを「一穴居士」とよんだ。阿南の愛妻ぶりはそれほど有名だった。はじめはおそらく多少の嘲笑と口惜しさまじりに悪友たちがいったのであろうが、これを崇敬にまで昇華させてしまうところに阿南の真価があった。
そして、その生涯を通じて抱きつづけた信条は、大義である。男には名利や損得勘定にとらわれず、なすべきことがあるという思想だった。阿南は陸士同期の友にいった。「私は陛下のもっとも近くにいる親衛隊なのだ」。この|醜《しこ》の|御楯《みたて》の精神にこりかたまった阿南が、全精魂を傾けて仕えたのであるから、天皇が阿南を信頼できる陸軍軍人として認めたのは、ごく自然のことであったろう。
阿南侍従武官の天皇に対する気持を語るいくつかのエピソードがある。のちの昭和八年のことだったという。岡山県下の特別大演習で、テントから出て双眼鏡を手に戦況を眺めていた天皇の、服装がやや乱れた。肩からかけた眼鏡サックを前に回したため、バンドがねじれ、上衣の背中のあたりに大じわが寄ったのである。このとき、ツカツカと天皇のうしろに近寄った阿南侍従武官は、手早く上衣の|裾《すそ》をひっぱり服装を整えた。天皇のそばには各宮殿下や将官が大勢ひかえており、だれもが思わず注目した。そして何人かの陸軍軍人はこの情景に心打たれた。かれらの眼には、それはちょうど新兵の服装の面倒をみる班長の仕方そっくりに映ったのである。
阿南はまた、天皇の「ご差遣」の侍従武官として、朝鮮や台湾、そして日本各地に視察旅行をすることが多かった。そのたびに、天皇が生物学に趣味をもっていることを承知し、珍しい蝶の標本などという土産をもち帰るのを忘れなかった。
のちに終戦の大業を完成させた天皇・鈴木貫太郎・阿南惟幾のそれぞれの心は、阿南が近衛歩兵第二連隊長に転任になる昭和八年八月までの四年間に、しっかりと結びついていたのであろう。
阿南も鈴木もいわば同質の軍人だった。先輩友人はいうまでもなく部下に対して優しい心遣いをする性格、みずからには厳しく謹直であり、いざとなれば千万人と|雖《いえど》もの大勇を発揮するなど、育った時代と環境こそ違え、あまりにもよく似かよっている。鈴木侍従長は阿南武官のうちに、純粋な、私心のない、なによりも正しく生きようとしている人物をみた。阿南は、春風|駘蕩《たいとう》たる侍従長のうちに鍛えぬかれた骨格の太さ、厚徳の人柄、そして誠忠無比の精神をみたのである。
そして、それよりも何よりも、かれら二人は、立憲君主制度の天皇として、自分の意思を率直に表現することをしようとしない、いや、できない天皇の苦悩と、真の心を、そば近くにあって知ることができた。
[#地付き]●「君にはその覚悟があるか」[#「●「君にはその覚悟があるか」」はゴシック体]
天皇を中心に内大臣、侍従長、侍従武官長らがとりまき、宮廷の生活は平穏のうちに、昭和五年が明けた。天皇は拝賀から観兵式まで恒例の新年の儀式をすますと、一月九日、葉山の御用邸に避寒した。この別邸生活では静養を本旨として、不急の政務などで天皇をわずらわさぬよう、側近のものたちは細かく気をくばった。天皇はそこで好きな海生物の採集を楽しみ、皇后や内親王たちとの団欒にひたることができた。
しかし、その安穏さもつかの間のこととなった。三月十四日、ロンドンの軍縮会議に出席していた全権の|若槻《わかつき》礼次郎前首相からの電報がとどくと、それをきっかけに宮中は強引に政治の暗闘にひきこまれていくのである。
このとき、日本全権団は東京を出発する直前に、政府から「三大原則」の訓令を受けていた。国防の安全を確保するために、「対米補助艦総括して七割、重巡洋艦七割、潜水艦七万八千トン」をどんなことがあっても要求する、という。ことに軍令部は、部長加藤寛治大将、次長末次信正中将で、二人はワシントン会議にも出席し、五・五・三に大いに悲憤し、その鬱積をロンドン会議ではらそうと心にきめていた。かれらは新聞に働きかけ、各地に遊説のための将校を派遣した。会議開幕より前に、三大原則を発表したのも、その意図からであった。
ロンドン会議は一致点が見出せずに難航した。外交的常識から考えて、初めから七割を公表してその通りになるはずはなかった。そして三月中旬に、最終的妥協案がアメリカから提案されたのである。総括六割九分七厘五毛、重巡六割、潜水艦五万二千トン均一、というものである。
首席全権若槻は悩んだ。まだ七割には二厘五毛足りないのである。しかしアメリカが七割を認めれば、世論が完全な譲歩であると騒ぎ、米議会を通過しないかもしれぬ。会議をこわさぬためにも、日本がこのくらいの譲歩をすべきであろう。若槻はそう決心した。
三月十四日の若槻の電報は、これで妥結してよいかという政府の訓令をもとめるものであった。七割にはわずかに足りないが、七割を確保したといってもいい。外交の産物としては上出来の部であろう。海軍省側は、会議をまとめる観点から、ひとまずこれで協定すべきである、という統一見解をとった。が、軍令部側は承知しなかった。加藤軍令部長は「わが海軍の死活をわかつ絶対最低率を確保できぬなら、この協定は断乎破棄するほかはない」と、首相浜口|雄幸《おさち》に強硬に申し入れた。
海軍の長老である東郷平八郎元帥が、
「要するに、七割なければ国防上安心できないのであるから、一分や二分という小さなかけ引きは無用である。先方が承知しなければ断乎として引き揚げるのみ。この態度を強く全権団にいってやれ」
と強硬意見を吐くにいたり、加藤友三郎亡きあとも、辛うじて鉄の団結を誇っていた海軍は二つに割れた。
海軍省側の次官山梨勝之進中将、軍務局長堀悌吉少将は、軍令部の強硬論のなかにあって、会議成立のため海軍部内をとりまとめようと必死に奔走した。論争は二週間もつづき、海軍首脳は苦悩した。
そして三月二十六日、軍事参議官岡田啓介大将を中心に、加藤軍令部長、山梨次官、末次次長、堀軍務局長ら省部の最高幹部が参集し、最後の徹底した論議のあと、良識ある海軍は「今後の方針」を決した。それは、たとえ政府が海軍の意見に反した決定を下したとしても、海軍はそれに従うことを承認したものである。つまりは、兵力量の決定権が政府にあることを言外に認めたのである。
この海軍の決定を背景に、浜口首相は政府の回訓案をまとめ、そして三月二十七日、参内して天皇に単独拝謁し、天皇が会議の分裂を欲していないことを確かめ、その|肚《はら》を決めた。
「自分が政権を失うとも、民政党を失うとも、また自分の身命を失うとも、奪うべからざる堅き決心である」と。
軍令部は政府の強硬姿勢に再び激昂した。岡田大将がしきりに加藤部長を説得したが、部長は単独上奏の決意をのべ、「いざとなればハラを切る」とまで口走った。
首相は四月一日にこの回訓案を閣議決定し、ただちに上奏ご裁可を仰ぎたい旨を、前日に鈴木侍従長に通じ、そして「午後四時拝謁」の許しがでた。これでおさまれば何事もなかったのである。ロンドン会議をめぐって政府と海軍の論争だけでケリのついたことであったろう。だが、同日に、四月一日の首相上奏前に拝謁したい旨を、侍従武官長を通し、悲壮な決意をもって加藤軍令部長が願いでてきた。こうして政治の争いが宮中にもちこまれた。
鈴木侍従長は思いもかけなかった事態に困惑した。首相がロンドン会議妥結の回訓の裁可を願いでる、その直前に断乎反対を軍令部長が願いでるというのでは、天皇がどう決定してよいか、その判断を迷わせるだけではないか。
鈴木はロンドン会議問題が紛糾しはじめたとき、自分の意見をはっきりと表明している。
「これはどうしても、まとめなければいけませぬ。自分が侍従長という職にいなければ、出ていって加藤あたりを説得してやるのですけれども、現在の地位ではどうすることもできない。いったい、陛下の幕僚長である軍令部長は、もっと沈黙を守って自重してくれなければ困る。民衆に呼びかけて、世論を背景に自分の主張を通そうとするが如き態度はまことに遺憾である。だいたい七割でなければ駄目だなどというのは凡将のいうことで、軍令部長というものは、与えられた兵力でいかにこれを動かすか、六割でも五割でもきめられたら、その範囲内でどうでも動かせますというところに軍令部長たるゆえんがあるので、七割でなければ駄目だとか、今日の若い士官たちは昔と違うとかいう風なことを言うのは、第一おかしな話で、若い士官たちを導いてよくするのは、軍令部長たる人の心がけ|如何《いかん》でどうにでもなると思う。今と昔と精神的にもすべてにおいて、違ったことは決してない。どうも加藤は一徹で、感情的で困る」
そうはっきりと条約締結に賛意を示している鈴木侍従長は、加藤軍令部長を侍従長官邸へよびつけて面談した。自然と先輩としてたしなめるような口調で、鈴木はまず「拝謁は反対上奏のためという噂があるが、事実かどうか」と訊ね、加藤の「そうだ」という返事をえてから、いった。
「そういうことになれば、いちばんお困りになるのは陛下である。一方は国政上の責任者たる総理大臣、他方は統帥部の幕僚長、この二人が相反する上奏をしたのでは、陛下をお苦しめさせることになる。その辺のところを十分に考慮しているのか」
「もちろん十分考慮した上の決意である。幕僚長として責任がもてぬから、上奏申し上げるのだ」
鈴木侍従長はかつての鬼貫太郎≠フ気迫をもってせまった。
「シーメンス事件の折、八代大将はみずからの主張を強く主張するときは、常に辞表を懐にして閣議などに出られた。次官の自分もまた然りだった。君にはその覚悟はあるのか」
言葉に窮した加藤を、なおも鈴木は急追した。
「今後の方針≠ナ海軍は政府方針ノ範囲ニ於テ最善ヲ尽クスベキハ当然≠ニきめたというではないか。兵力量の決定はもともと軍令部長の任務であり、軍令部長がいかんというたら、総理大臣はそれに従わねばならぬ。実は自分が軍令部長のとき、昭和二年、ジュネーブ海軍軍縮会議において、兵力量を出先で勝手にきめたことについて、私は岡田海相を通じて斎藤実全権に反対だと電報してとり消させたことがあった。軍令部長の責任とはそういうものだ。ところが、今回の騒ぎではどういうことか。海軍が今後の方針≠きめ、君はそれを承認した。そしていわば自分が従うときめた兵力量を、総理が陛下に奏上するのに、自分は反対です、いけませんと、真っ先に上奏するというのは、道理にもとることになるではないか。君はどう考えるのか」
「とにかく用兵作戦上、これでは困るのです……軍令部長としては……」
加藤軍令部長はますます答えに窮した。鈴木はさらに問いただした。
「いわゆる三大原則なるものは、自分が軍令部長在職時代にはなかったと記憶する。潜水艦保有量についても、わが保有量を多くすれば、米国もまた保有量を多くする。そうすれば、大いに考えねばならぬことになろう。対米作戦においては、アジアにある米根拠地を速やかに奪取すること、つまりフィリピンを即座に攻略することが絶対必要の先決問題である。しかるに米国が多数の潜水艦をフィリピンにもつことは、わが作戦を非常に困難ならしめるように思われるが、この点も君はどう考えているのか」
「それはそうかもしれない……しかし、いまさら……如何することもできぬ」
それはもう文官の侍従長としてよりも、軍令部長であるかのような追及だったのである。
「政府が国家の大局上より回訓を決定したのであるから、これに対して国防上不安があるというなら、適切な手段を講じ、むしろ軍令部が率先して、最善の努力で不安をのぞくのが本務というものではないか」
加藤は「なおよく考えてみましょう」といって、侍従長官舎を辞去した。送りだすとき、鈴木はなおいった。
「この協定で日本がつぶれるとは思わない。君も|宸襟《しんきん》を悩まし奉ることのないよう、とくと考えられたい」
加藤は後刻、「政府上奏前に、上奏することはやめにした」と侍従長に通知した。
四月一日、閣議は政府回訓案を了承し、午後二時すぎ終了、ただちに浜口首相は参内、回訓案を上奏して天皇の裁可をえた。午後五時、外相から在ロンドンの全権団に回訓が発令された。
翌二日、加藤軍令部長は天皇に拝謁した。このとき異例のことながら、陸軍出身の奈良武次侍従武官長ではなく海軍出身の鈴木侍従長が侍立した。このためだろうか、加藤の上奏は、政府回訓に示された兵力量では、「大正十二年にご裁定になった国防方針にもとづく作戦計画に、重大な変更をきたしますので、慎重審議を要するものと信じます」というにとどめ、会議を決裂させ海軍内部の分裂をも辞さないというほどの、強硬な態度を示しはしなかった。
海軍次官山梨中将の詳細な報告をうけた東郷元帥はいった。
「いったん決定された以上は、それでやらなくてはならない。いまさら、かれこれいう筋あいではない。この上は部内統一につとめ、愉快な気分で上下和衷協同、訓練の励行に力をそそぎ、質の向上により、海軍本来の使命に精進することが肝要であろう」
海軍全体のこうした明快な意見と良識のもとに、ロンドン条約は四月二十二日に調印されることとなった。万事は円満に終るかにみえた。
だが、その前日のことであった。歴史は大きく逆転した。
[#地付き]●「戦争にかかあを連れていくとは」[#「●「戦争にかかあを連れていくとは」」はゴシック体]
四月二十一日、海軍軍令部は海軍省に一通の|通牒《つうちよう》を発した。
「海軍軍令部はロンドン海軍条約案中、補助艦に関する帝国の保有量が、帝国の国防上最小所要海軍兵力として、その内容十分ならざるものあるをもって、条約に同意することを得ず」
このときになって明白な反対論なのである。それは加藤軍令部長の見事な豹変だった。
四月二十五日、折から開かれた第五十八特別議会で、野党政友会の犬養毅、鳩山一郎らが、突如として統帥権干犯の爆弾を本会議場の壇上から政府にむかって投げつけた。
「ロンドンで締結した軍縮会議には、国防上の欠陥と統帥権干犯があるのではないか」
なぜなら、国防兵力量はそもそも統帥事項である。少なくとも「内閣と統帥部との共同|輔弼《ほひつ》事項」である。それを浜口内閣は軍令部の同意をえずして決定した、明らかに統帥権≠ないがしろにしたものだ、と雄弁家たちが論じたのである。もちろん政友会が統帥権問題をとりあげた裏には、軍令部との暗黙の了解があった。そして軍令部の背後には、勢い当るべからざる若い将校群があった。いわゆる「青年将校」は、軍令部長はすべからく|死諫《しかん》せよとか、即刻辞職して天下に訴えよとか、ぐんぐんと上長を突きあげていた。
その勢いは東郷元帥と伏見宮のかつぎだしにまで発展する。加藤大将に吹きこまれた元帥は、激怒した。とくに元帥の感情を害したのは、全権の財部彪海相がロンドンに夫人を同伴したことであった。
「戦争に、かかあを連れていくとは何事か」
議会での統帥権干犯論争に呼応して、海軍部内や右翼団体にくすぶっていた|憤懣《ふんまん》がいっきょに火を噴いた。そのきっかけとなったのが、軍令部参謀草刈英治少佐の自刃である。ロンドンから帰国した財部海相が、東京駅につく五月二十日、その機会をとらえて海相を暗殺しようとくわだてたが決行しえず、|怏々《おうおう》として少佐はみずからの生命を断った。死をもってロンドン条約に抗議したと、少佐の死をたたえ、反対の火の手はますます大きくなった。
海軍部内では霞ヶ浦航空隊の飛行科士官たちの条約反対パンフレット配布、水雷学校学生の建白書提出などの事件がつづいた。
そして、六月十日、加藤軍令部長はついに政府を弾劾する上奏文を奏上し、直接に天皇へ辞表を提出する。その思いきった行動によって、事態の重大化を期待したのだが、天皇はただ沈黙をもってそれに答えた。同時に、政府が軍令部長の反対を無視して回訓をきめ、鈴木貫太郎侍従長が軍令部長の上奏を阻止し、統帥権干犯をしたと攻撃する怪文書が、さかんにばらまかれはじめた。
鈴木侍従長を指弾する噂は各方面に飛びかった。軍令部長を阻止した件ばかりではなく、ロンドン条約反対派の伏見宮が参内しようとするのまで邪魔したという事件までがささやかれた。それは三月末のころだった。伏見宮が参内して拝謁のとりつぎを求めると、気骨の鈴木侍従長が、
「兵力量はロンドン条約でさしつかえありません。条約に関する奏上はもってのほかであります」
と諫言をし、伏見宮は怒って、
「お前らが奏上するときは直立不動だが、私なら雑談的に陛下にとくとお話することができるのだ」
と反駁した、というものだった。しかし、結局、拝謁は阻止されてしまった。
軍令部長の四月二日の奏上のとき、侍従長が侍立したことも問題視された。これまた統帥権干犯だという。侍従長は侍従武官長を無視した、明らかに越権行為であると非難の矛さきはすべて鈴木に向いた。
さらに草刈少佐の自刃に対する鈴木の見解が、右翼や青年将校らを憤激させた。鈴木はいった。
「軍人は勅諭を奉戴し、一旦緩急あるとき戦場に屍をさらすのが本分である。故に、帝国軍人たる|矜持《きようじ》と名誉のため、ロンドン条約の経緯などで生命を捨てたものとは信じない。たしかに神経衰弱のせいだと思う」
こうした鈴木侍従長の発言や行動は一年近く前の田中義一首相の辞任の引き金をひいたと非難されたときと同じように、いや、それ以上に君側の奸℃汲ウれ糾弾されることになったのである。侍従長の行動は不謹慎であり、大きく逸脱していると、軍や政党や右翼の反条約派から仇敵視された。
たとえば、右翼の日本国民党は、九月十日には「亡国的海軍条約を葬れ」と題する|檄文《げきぶん》を各方面に配布し、さらに九月九日付をもって最後的決定行動に入るべく決死隊を組織したと宣言した。目標は首相、海相およびそれと通謀した牧野内大臣であり鈴木侍従長であった。血盟団員小沼正、菱沼五郎らが、同党の勧誘に応じ、決死隊員として東京に集結した。
憲兵隊からも注意が鈴木侍従長にとどいた。しかし、侍従長は泰然としてまったく動じなかった。策士陰謀家のためにする宣伝と、おのれの生き方はまったく無関係、自分の行蔵に恥じるところはないと、鈴木は観じていたのである。なぜなら天皇その人が条約の締結を強くのぞんでいることを、侍従長は確実にみてとっていたからである。
財部海相が帰国して報告したときも、天皇はひときわ力強く「ご苦労であった」と海相の労をねぎらった。それを侍従長はたしかにみとどけている。
それにしても侍従長就任いらいわずか一年や二年の短い歳月に、何という重いものを学ばせられたことかと、鈴木は思う。軍人は政治に干与すべからずを信奉し、武弁一本槍で政治ぎらいで通してきた鈴木にとっては、これまでの六十年余の生涯のなかで、経験のないことの連続であった。鈴木はおのずと深刻に考えさせられた。それは、大日本帝国憲法における天皇の大権というものについてである。天皇は、天皇の名において行政・司法・立法を統治し、大元帥の名において陸海軍を統帥するのである。こんどの統帥権干犯の大騒動は、その国政の大権と統帥の大権の隙間をついた暴論ではあったが、しかし、純粋の用兵にかんする第十一条(「天皇は陸海軍を統帥す」)の統帥大権が正面にふりかざされるとき、はたして国政を担当する政府は何ら|容喙《ようかい》しえないのであろうか。日本帝国は政府のほかに、陸海軍というもう一つの政府をもつのであろうか。
ともあれ、統帥権干犯問題は十月二日に条約が批准されて、一応の終止符を打った。ウォール街暴落によってひき起こされた世界恐慌の波が日本にもようやく押しよせ、なによりも世論が軍縮をのぞんだからである。それにしても高い代価を支払ったものである。残されたものは、生硬な条約反対論であり、強烈な反米感情の鬱積であり、右翼や政党と結びついた軍人の下剋上的な傾向であった。それにもまして、海軍に残された傷は大きかった。いわゆる条約派≠ニいわれる加藤友三郎の後継者たちが、強硬派がかついだ伏見宮や東郷元帥の威名のもとに、のちに予備役へとつぎつぎに編入されていくのである。
宮中にはまた静寂が戻ってきた。鈴木侍従長が好物のそばをうまそうにすすり、自室にこもって漢籍を読みふける日々がふたたび訪れてきていた。だが、そうした大内山の静寂とはまったく裏腹に、あらたに政治と軍人の世界では、満洲問題が緊迫の度を加えていた。満洲はいまや台風の目となっていた。
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[#小見出し] 第六章 満洲事変から上海事変へ
[#地付き]●「満蒙は日本の生命線である」[#「●「満蒙は日本の生命線である」」はゴシック体]
昭和四年八月、京都でひらかれた第三回太平洋問題調査会で、満鉄副総裁の松岡洋右(のちの外相)が、
「満蒙≠ヘ日本の生命線である」
とぶちあげた。これが公にはじめて、生命線≠ニいう語がかたられたときという。
「その生命線≠守ることの重大なことはいうまでもないことではあるが、満蒙政策の危機を覚ゆるに、今日より甚だしきはない」と松岡はこのときにいった。
そしていま、策謀家の代議士森恪の発言に、日本民衆は共感をよびおこしていた。
「二十億の国費をついやし、十万同胞の血をもってロシアの勢力を払いのけた満洲≠ヘ日本の生命線である」
のちに親米派の平和主義者といわれた奉天総領事吉田茂も、『対満政策私見』を執筆し、こう主張した。
「わが民族発展の適地たる満蒙の開放せられざる以上、財界の恢復繁栄の基礎なりがたく、政争緩和すべからず。これ対支、対満蒙政策の一新を当面の急務となさざるをえざるゆえんなり」
満蒙の開放≠ニは、満蒙を日本の支配下、植民地とすることである。
この生命線が、※[#「くさかんむり/將」、unicode8523]介石の国民革命軍の北伐の勢いによって、おびやかされはじめている。張作霖爆殺、三次にわたる山東出兵で、中国の国家統一の火を消そうとしたが、いよいよ燃えさかる一方であった。国民革命軍のこれ以上の北上は生命線*桴Fのみならず朝鮮統治にも大きく影響を与えるであろう。日本陸軍は焦燥にかられた。特に第一次大戦後、戦争は国家総力戦となった。日本陸軍は内には政治、経済、思想での国家の近代化をはかり、外には満蒙の地に確たる地歩をしめることで国防の拠点とし、総力戦に対応しうる強固な国防国家をつくらねばならないと、やみくもに走りだした。
昭和六年三月に発覚し、未遂におわったクーデタ計画「三月事件」がその|嚆矢《こうし》となった。目的は政党政治を打倒し、宇垣一成陸相を首相とする強力な軍事内閣を現出させようというもので、陸軍次官杉山元、軍務局長小磯国昭、参謀次長二宮治重ら、陸軍中央がすべて参画した。
だが、計画は宇垣陸相の変心や第一師団長真崎甚三郎中将の反対などで、不発におわる。そして、宇垣陸相が加わっていることから、陸軍は秘密にし関係者をだれひとり処罰せず、新聞には記事差しとめを命じた。このため、一般国民には知られることはなかったが、政財界の上層部には、しだいに知れわたっていった。
そして、内閣がかわって若槻礼次郎内閣が成立した四月もかなりすぎたころ、天皇の耳にも入った。統帥権上の最高上官の大元帥に知らせようとしないことに天皇は不審を抱き、別のことで参内してきた新陸相南次郎大将に注意した。
「いうまでもないことだが、軍は軍規をもって成りたっている。軍紀がゆるむと大事をひき起こすおそれがある。軍規は厳守するようにせねばならない」
陸相には、天皇の言外の怒りがすぐに察しられたが、「その点は十分に戒心いたします」と、とぼけて退いた。のちに、同じことを若槻首相から抗議されたとき、南陸相は逆襲していい放つのであった。
「それはもう部内で解決ずみだ。だいたい若い将校がそんなことを考えるようになるのも、もとをただせば、政党や財閥が勝手な振舞いをして、国利民福を真剣に考えないからである。軍規をとやかくいう前に、政治家自身がもっとも反省すべきなのである」
すでに、軍人は政治にかかわってはならないという「軍人勅諭」の精神が、かなぐり捨てられている。陸軍大臣がクーデタを画策したことは、陸海軍軍人たちに、政治運動をしてもいいという暗黙の認可を与えたかのような、風潮をいだかせてしまった。
天皇が若槻首相に対し、
「満蒙問題については、もちろん日支親善を基調にしていくように」
と話し、いかに軍の行動に反対の意思を表明しようが、軍は耳をかそうとはしなくなった。現状は打破されねばならない、満蒙問題は解決されねばならないのである。
昭和六年の夏には、陸軍と国家主義者がこの気運のもとに、一挙に断行へと進んでいった。そして日中の敵対意識に火をつけるかのように、六月の参謀本部作戦課員中村震太郎大尉が殺害された事件、七月に長春郊外での中国農民による朝鮮人農民襲撃(万宝山事件)がおこり、|暴戻《ぼうれい》支那キャンペーンが強化されていった。これを機に関東軍はかねての計画を実行する決意をかためるのである。目的は武力を行使しての満蒙領有。陸軍中央も、関東軍の意見具申に積極的に応えた。謀略の中心人物である関東軍参謀石原莞爾中佐が、昭和四年七月に書きあげた『満蒙問題解決案』には、満蒙を日本の領土とすることが「日本の|活《いき》る唯一の途」とすでに戦略決定がなされている。つまり、国内の不況とか失業問題はこの満蒙領有によって解決されるのである。
また、このなかで、領土化するには軍事力によらねばならぬ、そのときにはアメリカがでてくるであろうから、「対米戦の覚悟」も必要である、とまで石原はいいきっている。すなわち太平洋戦争への道≠ナあり、その青写真である。その路線にそってのひそやかな動きが、いまや、一挙に顕在化しようとするのである。「国防は政治に先行する」と陸軍は一致して決意を固めた。
それとも知らぬ天皇は、例年どおり那須の御用邸で涼しい毎日を送っていた。乗馬と生物採集、そしてときに皇后や側近とともにゴルフのクラブをふった。鈴木侍従長もともにあり、天皇との雑談をたのしみ、相変わらずの読書にふけった。
八月三十一日、天皇は近衛文麿や鈴木侍従長らとともに昼食をしながら、もっぱらゴルフの話をした。侍従長は聞き役で通したが、腕に自信のある近衛はときに天皇の話に軽く反撥したりした。一般的には「宮中は笑いを忘れた世界」とささやかれていたが、その席では笑いが絶えなかった。
たしかに、天皇のいるときの会話では、政治向きのことと、人物評は一種のタブーになっていたが、そのほかのことは至極ざっくばらんに話し合われていた。とくにとぼけた座談のうまい侍従長のいるときは、快い笑いが常に渦をまいた。
食事が終って別室でコーヒーを味わいながら、なお談笑があった。あいにくの雨もよいの天気。晴れていたら二時ごろよりともにゴルフの腕を競うはずだったが、それもならず近衛はひどく口惜しがった。ゴルフがうまくない鈴木侍従長は「晴耕雨読、晴耕雨読」とお経のように何度もとなえて、近衛をからかった。
天皇は九月七日に那須から帰京した。そして早くも十一日には、南陸相の参内をまち注意をうながした。毎日の新聞を精密に読む天皇は、満蒙問題についてすでに憂慮していた。
「万宝山事件といい、中村大尉事件といい、まことに困ったことであるけれども、これにはいろいろと複雑な事情もあろう。よくそれを糾明してかからねばならぬ。すべて非は彼にありというような態度で臨んでは円満な解決もできないことになる」
さらに、陸相の眼をじっとみつめて天皇は言葉を強めた。
「いつかもいったとおり、軍紀は厳重に守るようにせねばならぬ。明治天皇の創設された軍隊に間違いがあっては、自分としては申しわけがない」
陸軍中央はさすがに震撼した。のちの「軍部独裁」となってからふるったような絶大な政治権力を、まだ獲得していなかったから、陸軍中央は関東軍の軽挙妄動をおさえねばとまで考えた。
「どうも陛下はやかましくいわれる。だれか陛下の耳に入れたものがあるにちがいない。しばらく時機をみることにしよう」
南陸相と、参謀総長|金谷範三《かなやはんぞう》大将はそう意見一致した。そして事情にいちばん通じている作戦部長|建川美次《たてかわよしつぐ》少将を、関東軍に派遣することとした。だが、その報はたちまちに極秘電報で、石原参謀のもとへとんでいた。電文は三本だった。
「事暴れたり直ちに決行すべし」、「建川奉天着前に決行すべし」、「内地は心配に及ばず決行すべし」
石原参謀は一度は「中止に一決」したのだが、情勢を検討の上、腹をきめた。決行をくりあげ十八日夜としたのである。満蒙問題を解決できず退却となったら、これ以上の不忠はない。たとえ逆臣となろうと決行あるのみ。「満洲事変」はこうして、天皇の意思をふみにじって、点火された。柳条湖付近の鉄道が爆破されたのが午後十時二十分ごろ。十一時ごろには早くも関東軍高級参謀板垣征四郎大佐が、現地駐屯軍に北大営・奉天城への攻撃命令を下している。少数参謀の独走はたちまちに関東軍の軍事行動へと直結していった。
翌十九日の若槻内閣の臨時閣議は「戦局をこれ以上拡大せず、わが軍優勢を持したるときに打切る」ことを決定し、午後一時半には首相が参内し、天皇にこのことを奏上した。天皇はこれに答えていった。
「首相のいうとおり、中国側が満鉄を爆破して、その現場におもむいた日本兵に発砲して挑戦した、というのであれば、防衛上衝突もやむをえなかったであろうが、閣議で決定したとおり事態を拡大させず、局地解決するように努力せよ」
天皇をはじめ宮中側近は、事変が謀略によるものであることを知らなかった。
しかし、天皇の意思がどうであれ、閣議決定が不拡大と決定しようと、関東軍は計画どおり一方的に軍を進めた。止め役として渡ったはずの建川作戦部長の「南満洲に新政権樹立が第一だ。グズクズしていたら、第三国の干渉がはいる。事はいそぐ」という言葉で象徴されるように、陸軍中央も同腹だった。朝鮮軍も動きはじめた。「朝鮮軍の来援がなければ、張作霖のときの二の舞となる。苦心は水泡に帰する」と板垣、石原らがその出動を画策、要請していたからである。そして十九日夕刻には、朝鮮軍先遣部隊は天皇の裁可がないままに出動、鴨緑江の線に到達し、越境時期は今夜半と東京へ電話してきた。
金谷参謀総長はこれを知りあわてて参内した。越境に関する天皇の裁可を仰ぎ、つじつまを合わせるためである。ところがこれをうけた鈴木侍従長は、
「陛下のご都合もあり、本日の拝謁はお許しになりません」
と、はっきりと拝謁手続きを拒否してしまった。これ以上の拡大を望まぬ天皇の意思を、侍従長は知っていた。
朝鮮軍は鴨緑江で足どめを食った。関東軍は憤慨し、かつ苛だった。陸軍中央も焦慮し、鈴木侍従長の態度は明らかに参謀総長の上奏権を阻止したもので、軍の革命的な行動に水をかけたものとして、激しく敵視した。一度ならず二度までも、鈴木は勝手な判断で党派的にうごいている……。
九月二十一日午後一時、関東軍からのたっての依頼に応じ、朝鮮軍司令官林銑十郎中将はついに前進の断を下した。鴨緑江に待機すること一日半、しびれを切らしたように|麾下《きか》の混成第三十九旅団は国境を越えていった。
その報告は参謀本部に午後三時すぎに到着する。ここにいたってはもはや政務の事項ではなく、出動軍隊を統帥大権のもとにおく必要があった。金谷参謀総長は単独|帷幄《いあく》上奏をし大令降下を求めようと、午後五時すぎに参内したが、再び鈴木侍従長と一木宮相によってその機会を失わせられた。
では、どうすればよいか。陸軍中央は智恵をしぼり、政府に対し工作をおこない、閣議の決定事項とする方針をとることにした。翌二十二日の午前の閣議は、このため重苦しい雰囲気のなかではじまったが、若槻首相は「すでに出動してしまった以上しかたがないのではないか」という意見をとった。閣僚の多くは積極的に意見を吐かず、すすんで賛成するものはなかったが、あえて不賛成を口にするものもなく、結果として閣議は軍費支出に同意する形で、朝鮮軍の出動を追認≠キることになった。いわば内閣は、南陸相の空手形的な「不拡大」の約束とひきかえに、出動費を計上し、朝鮮軍の独断の軍事行動を認めてしまったのである。
鈴木侍従長は激怒した。
「田中内閣の前例があろうがあるまいが、陛下のご裁可なしに軍隊を動かしたりするのは、一種のクーデタであり、実にけしからん。これこそが統帥大権干犯というものである。それを、何ということか」
だが、閣議が出兵の可否を論ぜず、出兵の事実と軍費の支出を認めてしまったということは、つまりは、軍事行動は閣議の対象とならないという、軍の主張する統帥権独立を認めたにひとしい。
そして若槻首相は、軍部にうながされて参内し、閣議決定を天皇に奏上した。朝鮮軍の越境を内閣が認めたということで天皇は愕然とするが、いわゆる輔弼事項≠ナ内閣一致できめたことに「不可」をいわず、天皇はただ裁可を与えるほかはなかった。単なる軍規違反ではなく、叛乱にも近い一連の軍事行動を、天皇は許すだけでなく、独断越境した朝鮮軍に関東軍を救援せよ、と命じたにひとしくなった。
しかし、天皇と側近はサインした上で最後の抵抗をこころみる。南陸相と金谷参謀総長を相前後して宮中によんだのである。参内した南陸相にたいして、天皇は鈴木侍従長の侍立のもとに、
「軍は即刻原駐地にひきあげて事態の収拾をはかるように」
と強い指示を与えた。鈴木侍従長も退出する陸相をつかまえて、
「陛下は激怒遊ばされていますぞ」
と言葉強くいい切った。
金谷参謀総長にたいしては、天皇はもっと激しく行きすぎを|詰《なじ》った。
「私は天皇大権を行使するについては薄氷をわたるほど慎重に考えている。にもかかわらず、お前たち軍部が平然と大権をもてあそんでいるではないか。そんな書類に印をおすことはできない」
総長は言葉につまり、しばらくうつむいていたが、やがていった。
「お言葉を返すようで恐れ入りますが、それでは罪もない幾万の兵隊をいたずらに苦しめるだけでございます。ご裁可がなければ、経費を支出するわけにはまいりませぬ。これから寒さにむかいます満洲の広野で、兵隊たちはどうなりますのでしょうか」
天皇は黙して、じっと総長をみつめていた。そして低い、くぐもった声でいった。
「今度だけであるぞ。今後はよくよくつつしむように。そして早く収拾するように」
[#地付き]●「これが日本の運命なのか」[#「●「これが日本の運命なのか」」はゴシック体]
この始末はただちに広く伝えられた。陸相と参謀総長へのこの天皇の「不拡大」発言は、軍中堅層を憤慨にみちびいたのである。
「事ここにいたっても政府と高官はまだ不拡大をいい、外国の出方ばかりを心配している。天皇もお喜び遊ばされず同調されている。これは天皇が不明だからではない。天皇の側近が天皇の明を曇らせているからである。このままでは戦死するも犬死同様の結果となる。このさい一挙にその側近を倒し、軍事政権をつくらねばならぬ」
満洲の原野での関東軍の進撃に呼応して、ふたたびロシア班長橋本中佐を筆頭に、省部の中堅幕僚、隊付の大尉・中尉らの陸海軍の青年将校、そして民間右翼が同志となってクーデタ計画がねられた。これを「十月事件」という。
陰謀に加わった血盟団の井上日召はいう。
「われわれ遊撃隊はテロを引き受けた……西園寺公、牧野伯、それから海軍側の希望もあり、鈴木侍従長、一木宮内大臣……」
事件は十月十七日に発覚して、憲兵隊におさえられて雲散霧消した。こんども首謀者らは叛乱罪として厳重に処罰されることもなかった。軍中央がかれらを黙認したのは、いわば「満洲事変の完成」を目的とする国内的な作戦行動の一つとみなしたからである。張作霖爆殺→ただちに軍事行動、という構想が宮中の抵抗にあって、失敗した前例を陸軍は十二分に学びとっていた。政界や宮中をゆさぶり威圧する、そこに真の意図があったのである。
陸軍の、満洲事変と十月事件を巧妙に組み合わせた作戦は、見事に成功した。世論をリードする新聞がまた、陸軍の陰謀に追従していく。独断越境の朝鮮軍司令官林銑十郎中将を、猛将とか、越境将軍とかいって、勇気をたたえるような報道をした。ジャーナリズムにあおられて、国民もまた熱烈に軍部を支持した。神社には必勝祈願の参拝者がきびすをつらねてつづき、血書や血判の手紙で陸相の机はいっぱいになった。天皇にきつく叱責されたとき、返答も満足にできなかった南陸相は、
「日本国民の意気はいまだ衰えぬ頼もしいものがある。この全国民の応援があればこそ、出先軍人もよくその本分をはたしうるのである。実に感銘にたえぬ」
と胸を張った。また、事件前に、
「日本人は戦争が好きだから、事前には理屈をならべるが、|火蓋《ひぶた》を切ってしまえば、アトはついてくる」
と予言した軍務局長小磯国昭少将の豪語は、悪魔的に的中した。生命線≠フ特殊権益を守るどころか、いまや線は面となって領土化しつつあるのである。
軍は自信と事実上の力をえた。軍事について政府はとやかく論議するな、という態度を露骨にも参謀本部が示すようになった。柳条湖での爆発いらい腰の定まらない対応を示してきた若槻首相は「日本の軍隊が、日本の政府の命令に従わないという奇怪な事態となった」と、ただ嘆くのみ。そしてクーデタを恐れた閣僚や天皇側近たちが、天皇その人の発言や行動をおさえるようになる。
ひとり宮中にあって気を吐く硬骨の鈴木侍従長だけが、暗殺のリストにあげられようが、まったく恐れを知らぬげに振舞っていた。陸軍は、南陸相を送りこみ、参謀総長阻止事件や統帥権干犯発言をとがめ、侍従長におどしをかけることを策した。
だが、鈴木はなおひるむことなくいった。
「あれは林君が独断でやったことだ。朝鮮軍がほかに出兵するときは、勅命を奉じなければならないだろう。それを勅命なしにやったのだから大権干犯に当るのだと思う」
なるほど内閣は出兵経費を認め、天皇はこれを裁可した。これは政務という輔弼事項である。しかし、軍隊を動かす、戦闘を命じる、これは大元帥としての統帥権で、それは内閣の政務権限とは別なこと。越境問題はその統帥事項なのである。それを勅命なしでやったではないか。
「独断専行には二つの種類がある」と鈴木はつづけた。
「一つは、軍命令でこれから先のことは独断専行すべしという場合だ。もう一つは、上からの命令がなく、また上司の命令を聞くことなしに、自分の意見によって決行する場合だ。前者はもちろんとがめる必要はない。が、後者の場合はどうか。なるほど、将帥の任に当るものが大局からみて、国のためにこうしなければならぬというときに、王命にも従わぬこともあろう。そのときは、孫子もいうとおり、進んで名を求めず、退いて罪を避けず、一身をなげうってその責に任ずる、もし誤ったら刑罰に処せられるのが当然で、孔明が泣いて|馬謖《ばしよく》を斬ったのがこれだ。場合によってはそれが国を救い、賞を与えられるかもしれぬが、大権干犯に変わらない。林君の越境はこの後者に属する。それが国を誤らなかったらむしろ幸いとする。しかし統帥権干犯は変わらない。私の兵術上からみた独断専行の解釈は以上のとおりである」
侍従長の長広舌に、というよりその論理の正しさに、陸相はおそれをなして引き退ったが、陸軍の少壮軍人の侍従長に対する白眼視が強まる一方となった。
こうして満洲事変のその後は|一瀉千里《いつしやせんり》で拡大、展開していった。現地独走、中央追認、そして沈黙する天皇≠ニいうパターンである。十月八日の錦州爆撃は国際世論からの日本の孤立をもたらし、そして、十一月には北満にまで日本軍は侵入した。
錦州爆撃の報に、天皇は驚きと絶望でしばらくものもいわなかった。やがて天皇は顔をあげ、侍従長に、
「自分の代に大戦争が起こるのであろうか。それが日本の運命なのか」
と悲しそうにつぶやいた。
満洲事変発火いらい、天皇は|痩《や》せ、足音も重苦しくひきずるようになっている。体重は減少をたどる一方だった。季節によって多少の相違はあるが、朝は六時前後に目ざめ、朝食後に新聞によく目を通し、十時には政務室にでる。正午に昼食でいったん大奥に入るが、午後二時ごろふたたび政務室へ戻り、五時すぎまで執務をする。それが天皇の日課だった。ただ土曜日だけは、好きな生物学の研究にあて、このときはできるだけ侍従たちも邪魔をしないようにした。
それが満洲事変いらい、少しく変化しはじめた。重要な上奏があれば就寝中でも起こすようにと、天皇はいった。土曜日も必要あればすぐ研究の手をやめて政務室に戻った。研究は私ごと、上奏は公務。天皇は憲法を守り、それに忠実であろうという意識がきわめて強かった。そして自分の意に反し、戦火がぐんぐんひろがっていくと、天皇の日常はますます狂いはじめた。一晩中、一睡もすることなく|輾転《てんてん》反側する夜がつづいた。そして苦悩することがあると、ひとり政務室のなかを熊のようにぐるぐる歩きまわり、大きな声でひとり言をいうのである。
「またか……、またこういうことなのか」
戦火がひろがっていらい、なんど軍にたいする不信をつぶやいたことか。くりかえしくりかえして、金谷参謀総長、南陸相にたいし、不拡大方針を厳命し、若槻首相や|幣原《しではら》喜重郎外相に、あくまで不拡大方針を貫くようにと激励した。にもかかわらず、関東軍は満洲領有をめざして突っ走った。
十月二十二日、国際連盟理事会は「十一月十六日までに日本軍の撤退を要求」する決議案を採択するにいたった。天皇は牧野内大臣をわざわざ鎌倉からよぶと、きっぱりとした口調でいった。
「状況は緊迫しているように思われる。もし、列国が経済封鎖をやるような恐れがあるとすれば、その覚悟はあるのか。また、列国を相手として開戦するとすれば、その覚悟と準備があるのか。陸海軍大臣に聞いてみたい」
天皇が心にいだいたこの危機感を、この時点で、ほかのだれがもっていたであろうか。この天皇の苦悩をがっしりとうけとめうるものは、だれなのか。元老西園寺も内大臣牧野もひきこもってあまり上京せず、政治にうとい鈴木侍従長の茫洋とした顔だけが、苦悩する天皇をうけとめていた。
「私は国際信義を重んじ、世界の恒久平和のため努力している。それがわが国に発展をもたらし、国民に真の幸福を約束するものと信じている。ところが軍の出先は、私の命令をきかず、無謀にも事件を拡大し、武力をもって中華民国を圧倒しようとするのは、いかにも残念である。ひいては列国の干渉をまねき、国と国民を破滅におとしいれることとなっては、まことに相すまぬ。九千万の国民と、皇祖皇宗からうけついだ国の運命は、いま私の双肩にかかっている。それを思い、これを考えると、夜も眠れない」
天皇の、だれに訴えるともない言葉を聞き、鈴木侍従長をはじめ、そば近くはべる侍従たちは、暗澹たる想いを色濃くするばかりであった。しかし、かれらには、統帥権に干渉できる権限がない。
[#地付き]●「一夫一婦が人倫の根本だ」[#「●「一夫一婦が人倫の根本だ」」はゴシック体]
その年の暮れ近く、時代の激浪に流されつづけた若槻内閣は、このさいは軍部と協力して非常時強力内閣をつくるべきだ、という策謀によってあっけなく倒された。元老西園寺は、後継内閣の首班として犬養毅を推薦した。天皇はこれを承知すると、しみじみとした声でいった。
「このさい、後継内閣の首相になるものにたいしては、とくにねんごろに西園寺から注意してもらいたい。今日のような軍部の不統制、ならびに横暴──要するに軍部が国政、外交に立入って、かくのごときまで押しとおすということは、国家のためにすこぶる憂慮すべき事態である。自分は深憂にたえない。この私の心配を心して、十分に犬養にふくませておいてくれ」
天皇が軍の政治介入に反対し、なにを期待しているかが、ここにはよくあらわれている。
しかし、軍部はそれを天皇みずからの意志とは思わなかった。側近どものいらざる悪智恵である、として多くの悪質なデマがまことしやかに流され、軍部の青年将校や民間右翼はそれに憤激し、それをたねに君側の奸打倒の気勢をしきりにあげた。
「満洲の野で戦う将兵は泣いて口惜しがっている。なぜなら、最近、陸軍大臣がご裁可を仰ぐために参内したところ、三時間待たされた。どうしてそんなに待たされたかと思ってきいたところが、陛下は内大臣・侍従長を相手にマージャンをしておられたというのだ。実にけしからん話ではないか」
「近衛の勤番の兵隊が御所の中をまわっているときに、陛下のお部屋に遅くまで灯がついている。陛下が政務多端の折からご勉強かと思って|畏《おそ》れ入っていると、あにはからんや、皇后さまらを相手にマージャンをしておられた」
こうしたタメにするデマは天皇の明を蔽う○@臣たる鈴木侍従長らの耳に入らぬわけはなかった。牧野内大臣は「実に言語道断だ」と憤慨したが、侍従長はのほほんとしていった。
「だいいち、私はマージャンなどというものは、見たこともない」
だが、実はこのとき、それ以上に侍従長の気持をくさらせている難問が、宮中もはるかな奥にもちあがっていたのである。この知られざる騒動の主役は、伯爵田中光顕という、天保生まれの長老で、明治末年ごろに宮内大臣をつとめ、いらい宮中で権勢をふるっている一徹の人物であった。
この老人が宮中にのりこみ、侍従長、宮内大臣らを前に妙なことをいいだした。それは万世一系の天皇の世継ぎに関することである。この年の春、昭和六年三月、天皇家には|順宮《よりのみや》厚子内親王がうまれた。それが残念であり、田中伯爵の気にいらなかったのである。
天皇皇后はご成婚いらいすでに七年を数えている。そして三人の子をえていたが、照宮成子、久宮祐子、孝宮和子と、いずれも内親王であり、こんどこそ親王のご誕生という期待が高かった。だが、またしても内親王だった。
たしかに『皇室典範』の第一条にうたわれている。
「皇位ハ男系ノ男子之ヲ継承ス」
日本史をみれば、皇位継承の問題からしばしば乱がひきおこされている。世継ぎの皇子がなければ、という熱い想いが皇后を悲しませる。
その皇后にとってもっとも切ないことを、もちろん天皇皇后の耳に入らぬよう注意を払いつつ、田中伯爵がいいだしたのである。
「皇室典範には養子は認めないが、お妾は認めている。あんた方は気をきかして、お上の心を察してやるべきなのだ。それをようしないあんた方一同は不忠の臣というべきだ。お上はうぶでいらっしゃる。そこへいくと明治さまは自由闊達でいらっしゃって、よかった」
そればかりではない、田中はみずから愛妾にふさわしい女性を物色しはじめたのである。そして三人の有力な候補をえらび、内諾を得てから、宮内省にのりこんでくるまでに、この問題は発展した。
はじめは「お睾丸をさえつけて生まれるなら、庶子であってもよろしいということなのか、ハハハ」と笑ってとりあわなかった鈴木侍従長も、一木宮相もこれにはあわてた。天皇その人が宮中改革でお局制度を廃したほど、宮中のしきたりを否定していることを知っていたからである。
天皇はご成婚と同時に、女官は未婚の処女でなければならぬということを改め、既婚婦人も採用し、もちろん華族や社寺家の出身ということもこだわらず、ただ側近のご用をたす係りという制度にした。尚侍、典侍、掌侍、命婦といった階級と格式も廃し、また華族は「|早蕨《さわらび》」とか「初菊」、士族は「楓」とか「柳」とかいった源氏名も廃止した。
そこまで決心して皇室を新しくしようとしている天皇に、どうして妾をもてといえようか。
「それができんなら、侍従長も宮内大臣もやめなされ」
と田中は土佐弁でまくしたてた。鈴木も負けてはいなかった。
「お上は一夫一婦を人倫の大本としておられます。天皇みずからそれを守らねばならぬとしておられます」
田中はいった。
「天皇は神であられる。その道徳は庶民とは違う。一夫一婦なんて有害無益だ。大正さまがその犠牲である」
「少なくともお上が信念とされていることを破らせるべく言上するのは、忠の忠たるゆえんではありません」
と鈴木は押し返した。天皇は、鈴木の頑強な抵抗を心から喜んだ。鈴木のみが天皇の気持を本当にわかってくれている……。
こうしたことはどんなに秘密裡にしていても、やがて宮城内全体に、そして宮城外へと流れでていった。それがまた強硬派の怒りをよびおこす。この国際情勢の緊迫のとき、君側の奸どもがそうやって、天皇の心から剛毅さを奪っているのであると。その結果は、国民の末端で、あからさまに口外することではなかったが、ひとりのひとの名がささやかれるまでになっていた。秩父宮のことである。宮は勇武果敢なことで軍部の間にも非常な人気があった。
しかし、天皇はわずかな味方である鈴木侍従長に、このことについては明確に語っていた。
「皇室典範の条令を遵奉するのが私の任務である。男系の男子は私ひとりではない。それに条令にふれぬからとて人倫の大本を、私はみだしたくはない」
[#地付き]●「本当に白川はよくやった」[#「●「本当に白川はよくやった」」はゴシック体]
内に外に、昭和五年から六年にかけ、天皇にとっても鈴木侍従長にとっても、多事多端、苦悩することのみの深い年であった。それは日本帝国にとっても歴史の大きな転換点であったといえる。「危機の時代」といいかえてもいい。それはつぎの「破局の時代」をまねくことになる前夜でもあった。
だが、天皇にも侍従長にも、真相は知らされていなかった。鈴木たか夫人がいうように「この世にウソのあることを知らぬ」ほど純粋な天皇は、政府や軍隊の上奏をすべて頭から正しいと信じた。侍従長は、元軍人らしく戦略眼、戦術眼に卓抜したものをもつ人であったが、海軍育ちの特徴である現場第一主義をかたくななまでに信奉している。折目正しく、おのれの職分のみを守るのである。
それに侍従長は困ったことに政治がなにより嫌いであった。軍部の詐術や陰謀を見破るためには、あまりに駆けひきにとぼしく、常におのれの信条のみを吐露するだけ、そしてそれが、政治的な混乱をまねき、誤解をまねくことにへきえきしつつも、訂正すべくなんらの行動もおこさなかった。
翌七年一月八日、天皇は関東軍参謀板垣大佐に異例の拝謁を許し、関東軍にたいし勅語を下賜した。この勅語は、柳条湖事件を自衛措置と認め、チチハル、錦州の攻略を「皇軍ノ威武ヲ中外ニ宣揚セリ」として賞するものであった。さらに九月八日、関東軍司令官を武藤信義中将にゆずって東京に帰った本庄繁中将は、軍状奏上のため、幕僚一同をひきつれ天皇の前にでた。拝謁ののち、豊明殿で天皇主催の昼食会、ついでお茶の会、懇談会という凱旋将軍に与えられる最大級の待遇をうけた。
その懇談会の席で、天皇は「満洲事変は一部の謀略との噂があるが、これはどうか」と、ずばり本庄中将に問いかけた。ハッとしたように座は静まりかえった。本庄は背すじをのばして立ち上がると、恭しく一礼して答えた。
「一部軍人、民間人によって陰謀がおこなわれたということは、私ものちに聞きおよびましたが、関東軍ならびに本職としては断じて謀略はやっておりません」
ともあれ、日本陸軍は勅語下賜に大義名分と勢いをえた。これまで、満洲全土にたいする軍事進出が国際的な非難をまき起こし、これに対応する政府の外交政策は軟弱にすぎると、軍部は腹わたを煮えくりかえらせていたからである。そして、折から満洲進出の成功に上海居留の日本人が強気になり、排日侮日の空気など一掃できるとばかりに、いたるところで小衝突をくりかえしている。軍部はそこに目をつけた。中国本土で抗日をあおることで衝突がおきれば、国際世論の目を満洲からそらすことができるのではないかと。
昭和七年一月十八日の夜、日本人の日蓮宗僧二人と信徒三人が中国街で托鉢中に、中国抗日隊に襲われ、二人死亡、三人重傷という事件が発生、戦火は中国本土にひろがった。実はこれも勢いに乗じた日本陸軍の田中隆吉少佐が、中国人を買収して仕組んだものであった。一月二十八日夜、国際都市上海は一挙に戦火の街となった。
この報は、天皇を驚愕させた。柳条湖付近の鉄道爆破いらい休まることのなかった天皇の神経は、もはや耐えられないまでに傷ついていた。鈴木のうちにも、「またしても陸軍が……」の怒りが湧いた。田中義一いらいの陸軍の覇道≠鈴木は口をきわめて批判した。
天皇は、侍従武官長に、国際連盟が総会を三月三日に開くことをきめたから、
「その期日までに上海の陸軍をひきあげねばならぬ」
ときつくいい、犬養首相もまた二月十九日に上海には増兵しないと上奏する。天皇や政府の意志は不拡大だったが、しかし、事変は満洲事変のときと同じ様相をとりはじめる。
四日後の二十三日に、首相は苦しげに、二個師団の増派のやむなきにいたった旨を上奏するにいたった。そして二十五日、新設された上海派遣軍の司令官白川義則大将の親補式がおこなわれたとき、天皇はとくに「条約尊重、列国協定を旨とせよ」と指示し、さらに親しい言葉でいった。
「それからもう一つ頼みがある。上海から十九路軍を撃退したら、けっして長追いしてはならない。計三個師団という大軍を動かすのは戦争のためではなく、治安のためだということを忘れないで欲しい。とくに陸軍の一部には、これを好機に南京まで攻めこもうとする気運があるときく」
「存じております」
「私はこれまでいくたびか裏切られた。お前ならば守ってくれるだろうと思っている」
白川大将ははらはらと涙をこぼした。翌二十六日、白川大将は東京を発った。三月三日までに六日間の余裕しかない。悲壮な決意を固めた。
二月に入ってからすでに戦闘は本格的になっており、天皇の心痛は極度にひどくなった。ほとんど眠れぬ夜がつづいた。世界各国の非難は当るべからざるほど強くなっている。慎みのある態度を示してきたイギリスを先頭に、満洲問題までは日本の主張を許すとしても、上海における日本の行動は国際的信義を破り、言語道断であるとして、日本をはげしく難詰するにいたったのである。天皇の神経はもはや耐えられなくなった。
深夜に突然、当直の侍従をよぶと、侍従長をすぐよんできてくれ、と天皇が命ずることがしばしばとなった。ほかにわが苦しみをわかってくれるものはない。そのたびに鈴木はとび起きて、あたふたと麹町の官邸から宮城へかけつけた。三十一歳の天皇がただひとりの相談相手として頼めるのが、六十五歳の元提督だった。天皇の憔悴は目に余るほどである。しかし、いま、鈴木が求められた意見を、ことさらに悠然として述べ、その心を落ち着かせるよりほかに、天皇のまわりには心慰めるものは何一つなかった。
天皇は酒ものまず煙草も吸わなかった。その真率な真面目さには、侍従長の生真面目なくらいの節義、折目正しさが救いであったのであろう。部屋には二人のほかに姿はない。鈴木はときに昔の武勇談を語り、『老子』などの哲学をとき、そして歴史についての見解を述べたりした。それに天皇は耳を傾けた。何時間であろうと、たとえそのため夜が明けることがあろうと、鈴木は天皇と心を一つにしてそば近くにあろうとした。
興津にいる元老西園寺は、鈴木侍従長から「まことに畏れ多い話ではあるが……」と天皇の様子を知らされると、長いため息をついた。
「文臣銭を愛せず、武臣命を愛せざれば天下泰平……≠ニいうが、いまの世は、文臣は暴力団を恐れ、武臣は銭もうけをはかっている。情けない世の中だ」
だが、その末世ともいえる世にも忠臣はいた。三月三日、白川上海派遣軍司令官は十九路軍を上海付近から一掃すると、停戦命令をだした。参謀本部からは追撃の指令がつぎつぎにとどけられたが、司令官の権限をもって、白川大将は停戦を断行した。結果は、ジュネーブの国際連盟総会の険悪な空気が一挙に好転し、日本は見直されることになった。しかし、陸軍は白川大将にたいし激怒した。
天皇は、参謀本部と違い、心から喜んだ。
「本当に白川はよくやった」
白川大将の果断なる処置はその後もつづいた。軍参謀や第一線指揮官の「南京まで一挙に進撃」を断乎しりぞけて、五月五日には停戦の正式調印にまでもっていき、事変は終熄した。
しかし、調印直前の四月二十九日、平和も間近とあって、上海北部の新公園で天長節(天皇誕生日)祝賀の式典が盛大に行われた。このとき式台に投げられた反日朝鮮人の手榴弾によって、白川大将は生命を奪われてしまった。天皇はこの報に驚愕し、立派な将軍を殺してしまったと、何度も侍従長にもらし、その死を心から|悼《いた》んだのである。のちのことになるが、翌年の春、天皇はだれにいわれたわけでもなく、白川大将の功を偲んで歌を一首よんでいる。そしてそれを短冊に書かせ、鈴木をよぶと「これを白川の遺族に届けてもらいたい」と手渡した。
をとめらの|雛《ひな》まつる日に戦をばとどめしいさを思ひ出にけり
三月三日の白川大将の停戦命令が、いかに天皇を喜ばせたかを、この歌は明確に語っている。
五月七日、伏見宮軍令部長と参謀次長真崎甚三郎中将がつれだって参内し、停戦協定の成立を奏上した。天皇は晴々とした笑顔でいった。
「うん、よかった、本当によかった」
だが、心から喜ぶには早かった。その一週間後、思いもかけぬ大事件がおこったのである。五・一五事件である。首相官邸で夕食中の犬養首相が海軍の「青年将校」らによって「問答無用」と射殺され、牧野内府官邸、警視庁、政友会本部などに手榴弾が投げこまれた。
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[#小見出し] 第七章 世界の孤児となった日本
[#地付き]●「すべて撃ってしまえ」[#「●「すべて撃ってしまえ」」はゴシック体]
元海軍大将鈴木貫太郎が侍従長として宮中に入った昭和四年から、退任する十一年までの八年間は、田中義一内閣の末期、浜口雄幸内閣、若槻礼次郎内閣、犬養毅内閣、斎藤実内閣、岡田啓介内閣、そして広田弘毅内閣と、七人の内閣首班が更迭した。うち浜口、犬養、岡田の三内閣はテロで倒されている。とくに「三月事件」、「十月事件」の同じ流れから、昭和七年二月ごろより八年七月にかけては、陸海軍人や民間右翼が、クーデタを計画し、暗殺を決行した恐怖の時代となった。
血盟団事件 昭和七年二月、三月(決行)
五・一五事件 昭和七年五月十五日(決行)
神兵隊事件 昭和八年一月〜七月(未遂)
これらは参加したおもな人々が一つの人脈をつくり、その共有する政治意識、社会や国際認識はほぼ同質のものをもっている。そして血盟団事件でも神兵隊事件でも、常に元老西園寺公望、内大臣牧野伸顕、侍従長鈴木貫太郎の名が暗殺リストの筆頭にかかげられていた。しかも海軍軍法会議による五・一五事件の判決は、昭和八年十一月におりたが、死刑を求刑された三人のうち二人を禁固十五年、一人を禁固十三年にという大幅な減刑となって、識者を唖然とさせた。が、当時の世論はほとんどが「花も実もある名判決」としてこれを讃えたのである。
元老西園寺公望はこれらのことに失望し、日本の政治にいや気をきたした。そして、興津に訪ねてきた近衛文麿に、老齢のゆえをもって、元老の仕事を返上したいと、弱気を|洩《も》らすようになる。鎌倉に私邸をもつ牧野内大臣も上京する機会をぐんと減らした。
ひとり侍従長鈴木貫太郎だけは意気軒昂としていた。天皇の信頼をうけ、純情な一途さと、底知れない深さとを、矛盾させないでもつこの人の人間性はいよいよ光をましてきた。五・一五事件の判決にたいして、鈴木侍従長はきびしく批判した。
「軍人がだんだん政治に干渉し、政権にのりだす気運がさかんになってきてから、それに障害になるものを漸次犠牲にするような世相になって、犬養内閣も結局この災いにかかったのであった。犬養さんがやられた原因は満洲問題といわれるが、一面には政友会内閣の勢力争いがふくまれていると観察された。そしてその徒は軍人と結託したといううわさがあった。犬養さんは満洲の独立に反対した。そしてそういう策動家の手先になった軍人がついにあの暴行を敢てしたのであったが、その後の始末に至っては、まことに遺憾な点が多い。
私どものそのときの感想からいえば、いかなる理由があるにしても、あの暴徒を愛国者と認め、しかも一国の宰相を暗殺したものにたいして、減刑の処分をして、一人も死刑に処せられるものもなかったということは、いかにも国家の綱紀からみて許すべからざる失態であったと思う。
そのために政治の大綱が断ち切られたような気持がした。もしあの場合に真実に政治に明るいものがあったなら、もっと厳格に処分しなければならなかっただろう。それが緩やかであったために、ついに二・二六事件を惹起した。二・二六事件のおこる温床は、五・一五事件の後始末によるところが大なりと思う。真に遺憾にたえない次第だ」
鈴木がいうように、それは二・二六事件への一直線の道を敷いた。満洲事変と五・一五事件によって、国内・対外の問題の主導権はより確実に軍の手に移っていく。
しかも、五・一五事件や神兵隊事件ののちも、国内はテロの恐怖でゆれ動いた。斎藤実首相暗殺予備事件、天行会独立青年社事件、藤原銀次郎暗殺予備事件、救国埼玉青年挺身隊事件、皇国義勇隊事件、岡田啓介首相暗殺未遂事件、天皇機関説問題とからんでの美濃部達吉暗殺未遂事件など、二・二六事件への道≠ヘいずれも軍部革新派を背景とした直接行動のこころみであった。
宮中でもその危険な空気を敏感に感じとっていた。五・一五事件後のある日の侍従会議では、こんご万が一にもクーデタのため軍人らが宮城内に乱入し、陛下を擁せんとするものがあらば、われら侍従はいかに行動すべきかが検討された。
甲論乙駁があった。もし近衛師団の将校のごときがのり込んできたときはどうするか。下手に抵抗すればかえって陛下に危害が及ぶのではないか、と心配する意見があったが、これを聞いた鈴木侍従長は好物のそばをすすりながらいった。
「近衛の軍人だろうと何だろうと、いやしくも不法に侵入するものあらば、すべて撃ってしまえ」
侍従長の豪快な意見にひっぱられて、結局は、侍従は警衛|内舎人《うどねり》を指導して陛下のご身辺を守護し、暴徒のせまりくるものあらば、なにびとなりとかまわず身を挺して阻止、倒れてのち|已《や》むである、とする勇ましい意見に落ち着いた。そして、ひそかにピストル数十挺が宿直室に用意された。ひまがあるとき、侍従たちは交代に、高輪の高松宮邸の付属の空地で、実弾射撃の練習にうちこんだ。そこはかつて大石内蔵助らが切腹したところだったという。
[#地付き]●「よろしく国連を脱退すべし」[#「●「よろしく国連を脱退すべし」」はゴシック体]
五・一五事件で犬養内閣が倒れたあと、元海軍大将斎藤実が内閣を組織した。その役割は、五・一五事件以後のすさんだ人心の鎮撫にあった。次官として八年、また海相として八年、海軍建設に力をつくし功のあったこの人は、|万歳《マンセイ》事件で混乱した朝鮮にも、人心鎮撫の役目をおび、朝鮮総督として赴任した人でもあった。京城駅に着いたとたんに爆弾の歓迎をうけたが、眉一つ動かさず、馬車で悠々と総督府にはいり、六年の在任中、だいたいその任務を|完《まつと》うした沈勇の人である。それだけに、ときにスローモーの悪評がとんだが、国内的には、非常時≠ニ挙国一致≠フほかに、「自力更生」の旗印をかかげ、天皇の期待に応え、よく任をはたしたのである。勇敢に前方に急進せず、強いて後方に退くこともなく……。
だが、内政の成功に反して斎藤内閣は外交では大きな過誤をのこすことになった。外相内田康哉は昭和七年八月にひらかれた議会で、満洲国承認のためには、「挙国一致、国を焦土と化しても、この主張を通すことにおいては一歩も譲らない」と卓を叩いて演説した。しかし、勇ましい口ぶりとは裏腹に、かれは軍のロボットにすぎなかった。
ときの陸軍は荒木貞夫、真崎甚三郎らのいわゆる皇道派の全盛期であり、政治家もジャーナリズムも陸軍の鼻いきをうかがって汲々としていた時代であった。陸相荒木大将は、閣議の席上で、
「国際連盟にとどまっているから、日本は思うとおりの軍事行動ができぬ。いま、熱河省は張学良らの策謀の基地となっている。これを討たなければ満洲国の安寧をはかることはできない。熱河討伐が熱河省だけでおさまるかどうか。あるいは北京・天津にまで兵を出さねばならぬようにならぬともかぎらない。そういう場合、連盟の一員でいることは、いろいろな拘束をうけるだけで、日本の利益になることは一つもない。よろしく脱退すべきである」
とまで公言する始末だった。海軍はさすがにこの暴論にすぐ賛成はしなかったが、結局において陸軍にひきずられた。斎藤首相は最初から国際連盟脱退反対だったが、外相をはじめ無軌道外交を推進している外務省に押しきられた。外務省は軍部の代弁者と化し、陸軍省外務局の名称をつけられていた。
昭和七年春から駐日アメリカ大使として赴任していたジョセフ・グルーは、この年の十月八日に米国務長官あての極秘文書の終りに書き足している。
「参謀本部の一員が米国武官に語ったことは、意味深長であります。『今日われわれは八時から六時まで働いている。陸軍省と外務省という二つの官庁を管理しなければならないからだ』と」
外務省が陸軍のサーベルの前にひれ伏していた様がうかがわれる。
「国際友好」と「憲法遵守」を政治上の理念としている天皇は、連盟脱退には終始反対の意向をもらしていたが、天皇の希望は希望としてとどまったにすぎず、斎藤内閣は昭和八年の初頭から、対外的に陸軍にひきずられておこった一連の事件を、つぎつぎに承認していった。それはグルー大使がひそかに日本の穏健派の影響力によせていた信頼をぶちこわしてしまった。
そして国連総会は、八年二月二十四日、満洲から撤兵≠キるようにという対日勧告案を四十二対一で可決。日本代表松岡洋右らは、これをみるといっせいに退場した。
天皇は最後の最後にいたるまで苦しみぬき、連盟脱退に反対の意向をもらしつづけた。鈴木侍従長にはその心が手にとるようにわかる。天皇の機嫌がよろしくない、何か運動でもして気持の転換をはかってもらおうと、
「お好きな乗馬をお勧めしろ」
と侍従にいったものの、さていかがかと、馬場へいった鈴木侍従長がみたものは、心ここにあらずといった天皇の姿であった。手綱をとる手もとが怪しく、すわ落馬か、とハッとさせられる瞬間がしばしばあった。
それではピンポンだ、と侍従にお相手をさせると、天皇はミスばかりし、どうも平常のような冴えた球が打てない。これも長くつづかなかった。
鈴木侍従長は心を痛めた。しかし、政治向きのことは、こちらから触れるようなことは厳に謹まねばならぬ。そして天皇の意志がどうであれ、政府が決定したことに天皇はノウとはいわれぬ立憲君主制という建前に、侍従長はあらためて深く考えざるをえなかった。
政府はついに国際連盟の脱退をきめた。なお天皇は脱退に反対であり、牧野内大臣に、
「しいて脱退するまでもないのではないか」
ときくのである。牧野は答えた。
「ごもっともとは思いますが、脱退の方針で政府も全権もすでに出処進退しております。いま、にわかに脱退の方針を変更することは、海外の諸国にたいしては、いかにもわが国の態度が浮薄なるように思われ、侮られます。また、国内の人心が動揺するおそれもあります。ですから、この方針を政府がつらぬくほかはございません」
天皇はやむなく納得した。
三月二十七日、日本は国際連盟から正式に脱退する。これは巨視的にみれば、世界史の流れを変えた出来事だった。もし日本が脱退しなかったならば、ナチス・ドイツも連盟を脱退しなかったであろう。ドイツがもし連盟にとどまっていたら……を問うことは、決して無意味ではない。
日本は、軍部の圧力のもとに外交は無為無策。栄光ある孤立≠ニうぬぼれながら、ひたすら破滅への孤立≠ノ突き進んでいった。
天皇は嘆くようにいった。
「連盟を脱退するというのも、結局は、そのときの情勢にまかせるほかはないのだろうか」
天皇の嘆きをよそに、この間にも関東軍は連盟脱退に勢いをえて、熱河省の兵をぐんぐんと前方へ押し進めていった。三月下旬には、中国との国境の長城線の要地をほとんど占領、そして長城を越えて、中国領域にまで進入する勢威を示した。中国側もついに本土にあった中央軍の大部隊を、長城線に進出させ、日本軍と|対峙《たいじ》させた。
グルー大使はこの状況をみると、ただちに本省へ報告をおくった。「いまや穏健分子の根本的な敗北と、軍部の完全な優位を示した」と。そして軍がその主張を押しとおすため、国内的テロの脅迫をふりかざし、穏健派がこれに屈服するという型が、日本の|常套《じようとう》となった。斎藤、西園寺、牧野たち分別ある人びと≠ヘこの恐怖政治≠フ前では無力であるとし、グルーはこうも記した。
「これ以上暗澹たる前途の見とおしは、ちょっとありえない」
天皇の憂慮はまたしても深まった。柳条湖爆破事件いらい戦火は戦火をよび、心配事はきびすをつらねてくる思いであったろう。天皇のほほはこけ、眼光だけが鋭く光っている。となれば、鈴木侍従長の出番である。侍従長は頻繁に何かと用事をみつけては、天皇と会い、話相手となり、心のうちに淀むものを吐きださせるべくつとめるのだった。
あるとき、天皇はこういった。
「明治天皇の御代には、御前会議、あるいは御前閣議というものがあった。この熱河問題はどうにも心配でならぬので、今度はそのような会議をしたらどうかと思っている」
鈴木侍従長からこの提案がもちだされたとき、西園寺公望の返事はにべもなかった。
「御前会議できまったことがその通りにいかなかったら、陛下の御徳を汚すばかりである。当分まあ、何をやってみたところで、大海の水を|柄杓《ひしやく》ですくうようなもので、陸軍がおいそれということをききやしまいよ」
天皇はまた侍従長にこうも語った。
「侍従長は『論語』にこういう話があるのを知っているか。子貢というものが、政治とは何かを問われて、答えたというのだ。国家に不測のこと起これば、まず兵を去れ、つぎに食を去れ、国家の信義に至りては遂に去る|能《あた》わず≠ニ。国家というものは、いかに信義を重んじなければならぬかを『論語』は説いている。深く味わうべきではないか」
また、あるときは、実に見事な歴史観を天皇は語り、歴史に強い鈴木を驚嘆させた。
「ナポレオンの前半生は、本当によくフランスにつくしたが、後半生は自己の名誉のためにのみ働き、その結果はフランスのためにも、世界のためにもならなかった。帝政ロシアの滅亡は、ロシア皇帝が自分の栄華のためを計って、その国民のためを思わなかったところに原因がある。ドイツ帝国の滅亡は、ドイツのみのことを考えて、世界のためを思わなかったことに|由《よ》る。私はそのようにみている。そして日本はその轍をふみたくはない。鈴木はどう思うか」
これらの言葉は、天皇がいかに熱河作戦の暴走ぶりを憂慮しているかを語っている、と鈴木侍従長には思えた。軍事がひっぱり外交が追従していくアンバランスが、日本という国をどこへもっていこうとしているのか。統帥権の名のもとに、どこまで軍の横暴を許すのか。そう考える鈴木は、その憂いを口に出して、友人に語ることがあった。
「日露戦争以後、日本は下り坂だ。日本人はうぬぼれて悪くなる一方だ。陸軍がとくに悪い。その元凶は山県有朋公だ」
山県、寺内正毅そして田中義一へとつづいた長洲閥にたいする手きびしい批判なのである。
天皇は、侍従長にも強く進言されはげまされて最後の決意をかためた。四月十八日、新しく侍従武官長になったばかりの本庄繁大将をよぶと、天皇はいったのである。
「関東軍にたいし、その前進を中止させるよう命令を下してはどうか」
諸外国にたいし、中国本土には野心がない、進出しないと声明しながら、ぞくぞくと北京・天津地方に軍を進めていくのは、世界に信義を失うことになる。もし関東軍や参謀本部が前進を強行するなら、勅令で戻すまでだ、と天皇の語調はきびしかった。
さすがの陸軍も武官長から報告をうけ恐れ入った。というよりも、満洲の国内問題≠フ一つとして発動した熱河作戦であり、本格的な戦闘になることは、軍の好まぬところであった。軍事行動に早く終止符をうち、満洲国の内政を固めたいとする希望があり、参謀本部も関東軍も、その点では一致した。二日後に、関東軍から前線部隊に長城線内への撤退命令が発せられ、第一線の不満をおさえて実施された。そして五月下旬、ようやく停戦が成った。長城線を国境とすることで紛争は終結したのである。
こうして柳条湖爆破に発した「満洲事変」は、天皇を懊悩させ、鈴木侍従長を心配させ、やっと終った。実に一年八カ月。満洲での戦いで千百九十九人、上海で三千九十一人──日本軍の戦死者である。そして得たものは「満洲国」というつぎの大戦争の火ダネとなる|似非《えせ》国家であった。
そして連盟脱退いらい、イギリス・アメリカと|袂《たもと》をわかった日本は、世界の孤児となり、連邦をもとめてあがき、やがて昭和八年一月に政権をにぎったナチス・ドイツに相寄っていく。陸軍の強力な指導によって。
[#地付き]●「たしかに男の子か」[#「●「たしかに男の子か」」はゴシック体]
熱河作戦も終り、柳条湖爆破に端を発した戦火がおさまり、やっと国際緊張が一段落した。前々から辞意をもらしていた一木宮内大臣にかわり、湯浅倉平を宮相に迎えた宮中にも、どうやら静かな日々が訪れた。それはグルー大使のいう「情勢は穏健派の顕著な勝利であり、日本を正気の道に戻すことができるのではないか」と思わせるようなときであった。
天皇の体重はもとに戻り、血色もすっかりよくなった。夏には葉山の御用邸で例年よりも楽しく水泳や海生物の標本採集に熱中した。それにもう一つの喜びもあった。皇后が懐妊したのである。こんどこそ親王の誕生をという期待が自然に宮中を活気づけた。どうやら腹部が目立ちはじめた皇后を、しきりに天皇は海辺などに連れだそうとするのを、鈴木侍従長は心配した。
「ご大切なときでございますから、万一のことがあってはなりませぬので……」
天皇は不満そうにいった。
「もっともなことだが、あまり制限しては運動ができぬではないか」
皇后も、天皇と行をともにするのを好み、採集のときには水の中にも入り、磯辺の岩をひらりと飛んでみせたりした。湯浅宮内大臣が「アッ」と思わず眼をつぶって声をだすのに、天皇はさもおかしくてたまらないふうに、明るく笑いつづけた。
いやがる侍従長をひっぱりだし、天皇は侍従武官長と三人でゴルフに興じることもあった。そのとき、きまって天皇は侍従長をいたわるようにいうのだった。
「鈴木にはキャディをつけてやるように」
鈴木は、なんの、まだ若いものには、というふうに下がり眉をつりあげた。
八月中旬、南方洋上で特別大演習があり、天皇のお供で鈴木侍従長は久しぶりで潮の香を思うぞんぶんにかいだ。お召艦比叡は、天皇にとっても鈴木にとっても、はじめてたがいに心を結びあったなつかしの艦である。あのときと同じように、天皇のいくところ背後に影のように侍従長が従うのを、多くの比叡乗組員がうるわしい様をみるかのように遠望した。
航海の甲板上で、天皇をかこみ侍従長と宮相と侍従武官長の三人が椅子にすわり、朗らかに長いこと談笑しているのもしばしば眺められた。君臣一如≠ニいう語そのままの、なごやかな語らいである。あるとき、突然、天皇がスッと椅子から立って歩きだした。とたんに、三人の老臣はあわてて直立の姿勢をとった。
天皇はびっくりしたような顔をした。が、やがてニッコリとして、やさしい冗談をいった。
「私は私の勝手で、ちょっと甲板を散歩してみたくなっただけで、供などしなくてよい。お年寄はどうぞ坐ってそのまま話をつづけるがよい」
また、甲板でグループを組んでデッキゴルフを競うことがあった。器用に球を打ち、天皇のチームが見事な成績をおさめたことに、すっかり感心した侍従長に、天皇はいった。
「私の組は常に協同一致にでたのがよかったのだよ。作戦としては、たえず敵の球を分散させるように打ち、また玉突きの要領により、幾何学の考え方をうまくとり入れて戦った」
鈴木は「わが水雷戦術の上をいくご明敏さですな」と、何度も何度もうなずいて感心してみせた。
天皇は心身ともにすっかり回復していった。
演習は炎暑のなかで行われ、これを予想して風通しのよいところに仮の休憩所が準備されていたが、侍従武官がそれを奏請すると、天皇ははっきりと断った。
「将兵はみなこの炎暑のうちで働いている。自分ひとりがどうしてその仮室に入る必要があろうか」
そのくらいまでに天皇は気力を充実させていたのである。
その姿をみるにつけ鈴木侍従長は思うのだった。明治天皇は肋骨のついた軍服が気にいって、いつも常用していたが、裕仁天皇は軍服があまり好きでなく、平素は背広で通している。それほど武張ったことが嫌いなのである。それを心の狭い軍人どもは軍務に熱心でないと不満をいうが、何という愚かなことか。そしてこの平和のときにこそ、ずっと心にかかっている難問を何とか解いておきたい、と鈴木は考えた。
「一時も早く重臣たちが集まって、統帥権の正当な解釈を決定してもらわなければ困る。さもないと、今後ともこの問題でたえずごたごた紛糾をまぬがれない」
鈴木は元老西園寺に強くこのことを進言したが、西園寺は秘書をよぶと、
「統帥権の歴史と、問題の解釈について調べておいてくれ」
というのみであった。立憲君主制の権化とも言うべき西園寺は、統帥権をもつ大元帥というものは、天皇大権のほんの一部分にすぎないと、頭から思いこんでいたのである。せっかくの鈴木侍従長の|炯眼《けいがん》による提案も、空振りとなって、統帥権にかんする統一意見のないままに、やがて昭和史は大元帥の命令のもとに大きく方向をねじまげられていく。
それまでの束の間の静穏を祝うかのように、昭和八年十二月二十三日早朝、待ちに待った皇太子が誕生した。この日、皇后が産気づかれるとともに、天皇は起きて衣服をあらためると、御座に入り、報告を待つことにした。ご産殿の見届け役は鈴木侍従長である。
待つ間もなく、「皇太子さま誕生」との第一報が入り、天皇は、喜びにわく侍従たちの詰めている常侍官候所まで、その姿をみせた。そこへ喜色満面の鈴木侍従長が飛ぶように駈けてきていった。
「ただいま親王さま誕生あそばされましたぞ」
「そうか、たしかに男の子か」
天皇は、めったにないことだが、念を押した。謹厳そのものの侍従長は、大声で答えた。
「ハッ、たしかに男子のおしるしを拝しました」
どっと侍従たちが笑い、天皇もにっこり笑った。鬼貫太郎≠フ生地が老臣から思わずとびだしたのがおかしかったのか、男子誕生の、心からの喜びのせいなのか。頭をつるりとなでて、侍従長ひとりが真っ赤になっていた。
国民は、サイレン二声によって皇太子誕生を知らされた。農村疲弊と景気沈滞、そして増えつづける軍事予算と、憂鬱な世相のなかで、国民は活をいれられたかのように祝賀の万歳を叫んだ。
お七夜に「継宮明仁」と名前がきまった。三週間も産殿にあった皇后のもとに、たえ間なく、二重橋前での慶祝の催しの声がとどいてきた。そうした大きな喜びのなかで、鈴木侍従長のたった一人の叛乱≠ェ、年が明けると間もなくはじまったのである。問題は東宮の養育問題をめぐってであった。
その根底には天皇の、口にはっきりだしてはいない|希《のぞ》みがあったのである。天皇は、天皇家に生まれた子がかならず民間に養育を委託される、という宮中の|旧《ふる》い慣例にたいして、強く批判的であり、せめて皇太子が学齢に達するまでは手もとにおきたいと、ひそかに切望し、その想いを、天皇はつねづね側近のものに、
「わが子にたいする愛情を体験しないで、どうして国民にたいするほんとうの愛情がわかろうか」
という言葉で、吐露していた。
まさに「以心伝心」で鈴木侍従長は、天皇の真の気持を汲みとった。
「物ごころもつかぬ子供を両親のもとから引き離すことは、何としても不自然だ。親子の情愛すら解しないものが、円満な温かい人格を形成することはできない。両陛下と皇太子との関係もこれよりほかに出るものではない」
と鈴木は考えを固め、天皇の希みをかなえるべく、生えぬきの宮廷官僚にはげしく抵抗を開始するのである。
牧野内大臣、湯浅宮内大臣、広幡皇后宮大夫、大谷宮内次官、坂巻総務課長、大金事務官ら、すべてが反対だった。かれらは口々にいった。
「お上は上ご一人として、現人神として、申し分のない特別の教育をお受けになったのです。世の常の親、常の子、普通の人間であってはならないのです。いいですか、侍従長、わがままは絶対にお謹みいただきます」
「鈴木さん、あなたの理屈はそうでしょうが、事実はどうですか。お上は冷酷で円満でないといわれるのですか。両親のもとから引き離されても、立派に育てられ、あのように神のようなご人格をそなえられている」
「侍従長、親子の情愛かくあるべし、などとは失礼ながら無益な感傷です」
しかし、鈴木侍従長は一歩もひきさがらなかった。
「お上の、一点の私心もなく、愛情深い玉のような性格を考えれば、やはりご一緒の方がよい。いまの、お三方のむつまじい幸福そのもののご様子を見ておりますと、それがいちばんだと思います」
規律と格式と礼法の牙城ともいえる宮城の奥深くで、静かな論戦はつづいた。前後九回、約半年にもわたったが、侍従長の意見は変わらない、ばかりか、ますます頑強になった。たった一票の反対なのだが、それが侍従長であるだけに、暗礁にのりあげたも同然だった。
「しきたりを守って、たとえば臣下の家にあずけたとしますよ」と侍従長はいった。「ろくなご教育はできません。五十歩百歩です。いまの時代、だれが自信をもって引き受けられますか」
宮中には乃木大将流の儒教的教育こそ至高、と思っている向きがあったから、侍従長の発言はいわば無法に近いいい方とうけとられた。
「何をおっしゃる。明治さまも大正さまもそうでした。代々の陛下はみなそうであったということは、この皇室の伝統の正しさの証明です。それを五十歩百歩とは何ということをいわれるか。根拠があっての発言ですか」
鈴木は太い眉をぐいとあげた。「根拠? ございます。申しあげましょうか」
ハッとなって、一同は思わず黙りこんだ。侍従長夫人こそが、天皇の養育係であることを思いだしたからである。根拠は山ほどあるにちがいない。鈴木の確信の裏付けには、たか夫人の証言があるにちがいない。
鈴木侍従長はいった。
「皇室のよき伝統も何もありません。先般も、両親から離されてきびしく養育されたから、お上の神のような人格が形成された、とのお説がありましたが、そうではないのです。お上のご性格は天成なのですよ。教育とは関係がありません。畏れ多いことですが、あとのお三方(秩父、高松、三笠の各宮)も同じ方針で育てられましたが、お上のようにはならなかったではありませんか。もって生まれた玉のような性質には、どんな教育であっても、自然に光り輝くのです」
鈴木侍従長の脳裏には、満洲事変いらい、上海事変いらい、やつれにやつれ、精神的にうちのめされた天皇の姿があった。心癒やすべき何の楽しみもなく、孤独のうちに、苦悩する天皇。照宮を手放し、孝宮を手放し、すぐに順宮を手放さねばならぬ。家庭の暖かさはかけらもなかった。
「しかし、宮中の伝統はやはり守らなくては……」
「いや、もう時代が違います。お局制度もすでに廃止されたいま、伝統を墨守する意味は失われているとみた方がよろしい」
高輪御所内のご学問所で幼年期をすごした天皇は、どちらを向いても白毛頭の|傅育官《ふいくかん》たちの間で、どんなに味気ない天皇教育をうけたことか。ものいわぬ昆虫だけを友として遊んだ孤独な日々。幼い天皇は、母代りとも思う足立たかにふと寂しさを語ることがあった。
「民間に教育を委託というしきたりに、特別の意味や奇蹟がないとするならば、私はやはり両陛下のお|膝《ひざ》もとで育てられるのがほんとうだと信じます」
しかし、鈴木侍従長のあえて面をおかしての名演説にもかかわらず、結果はあっけなかった。伝統重視派の智恵者が、それならば貞明皇太后と、元老西園寺におうかがいをたてようと提案した。宮中制度をだれよりも好む貞明皇太后は、旧例を固執して譲らなかった。元老西園寺もまた同意見。鬼貫太郎≠烽アの二人には頭があがらないから、抵抗は空しく終った。
しかし、天皇は鈴木侍従長の懸命の努力を耳にし、鈴木こそはわが心を真に知るもの、だれよりも信頼できるとの想いを固めたにちがいない。天皇はそれを決して口にだすことをしなかったが、はたのものの眼には、いつか天皇と鈴木の呼吸が絶妙なくらいまで合致していると感じられ、これぞ水魚の交わり≠ゥとうらやましく眺められた。のちに天皇はいった。
「西園寺と意見が衝突したのはあのときだけだったが……」と。
また、鈴木自身も身内のものに天皇のことを聞かれて、
「畏れ多いことだが、私とは父子のようなものなのだ」
とつつましく答えたという。
[#改ページ]
[#小見出し] 第八章 二・二六事件に倒る
[#地付き]●「機関説は少しも不都合はない」[#「●「機関説は少しも不都合はない」」はゴシック体]
グルー大使が大いに期待したように、穏健派が日本をリードするのではないか、というやや落ち着いた時代はそれまでだった。宮中の知られざる会議がつづけられている間に、ふたたび不穏な傾向があらわれていた。斎藤内閣が帝人疑獄という陰謀のため、遮二無二倒されてしまったことに端を発する。首相の椅子を|狙《ねら》った枢密院副議長平沼騏一郎を中心に、政友会の久原房之助が加担したというが、裏に軍や右翼の尻押しがあったことはいうまでもないだろう。
昭和九年七月八日、つぎの岡田内閣が成立した。斎藤内閣の延長ともみられ、グルー大使も「またしても穏健派の勝利である」とワシントンに打電して、その成立を喜んだ。だが、議会の多数をしめる政友会の協力がえられず、その一方で息をひそめていた軍部や右翼勢力がふたたび台頭しはじめ、岡田内閣はたえず動揺をくりかえすことになるのである。日本帝国の振り子は、グルーの予想に反して、国際協調から反外国感情をともなう激しいナショナリズムの方へ大きく振られはじめた。
一つには海軍のワシントン条約脱退にはじまる「海軍の休日」廃棄があった。そして軍部はロンドン条約の期限の切れる「一九三五、六年の危機」を宣伝するのに全力をあげた。他の一つは陸軍内の派閥抗争の激化であった。
昭和六年の犬養内閣で、荒木貞夫が陸相に就任していらい、皇道派の全盛時代がつづいていた。だが、それは隊付の青年将校に人気があるだけで、軍中央の中堅幕僚級にはいわゆる統制派と目されるものが多かった。かれらはじっと時のくるのを待っていた。そして昭和九年一月、荒木大将が肺炎のため陸相を辞任、越境将軍@ム銑十郎大将がそのあとに就任すると、その権力争いは一挙に噴出し、立場は逆転しはじめるのである。
林陸相は、全陸軍の中枢を握るといわれる軍務局長に、歩兵第一旅団長の永田鉄山少将を抜擢する。かれこそは統制派といわれる派閥の中心人物だった。主導権をにぎった林・永田のコンビは皇道派にたいする報復人事を断行しはじめる。これが、隊付将校たちの憤激を買い、かれらを政治行動へとかりたてることとなった。かれらの背後には革命浪人の北一輝や西田|税《みつぐ》がひかえていた。
統制派といい皇道派といい、ともに国家改造をとなえる点では一致していた。高度な国防国家を建設するためには、軍の近代化と国家の近代化をはからねばならないとし、国の内外の情勢認識についても一致していた。国家観においても大きな相違はなかった。ただ、その国家改造の方法論において、対ソ戦略において、統制派は漸進をとなえ、皇道派は急進を主張していた。だが、結局は権力闘争にすぎなかったのだが。
しかし、隊付の青年将校たちは、かならずしもそうは考えていなかった。かれらが目指すのは、尊王と討奸だった。現人神である天皇の神聖にあこがれた。その大御心をおおっている君側の奸(重臣・統制派軍閥・財閥・官僚)を討伐することによって、国家が直面している貧困・腐敗・堕落を消滅できると信じたのである。
そこから重臣や財閥を|誹謗《ひぼう》するさまざまな怪文書がとびかって、世間の不安はだんだんに高まった。「ああロンドン条約〈元老重臣の罪万死に当る〉」という文書は、西園寺公望、牧野伸顕、鈴木貫太郎、一木喜徳郎を第一等の責任者としてあからさまに糾弾した。皇宮警察がわざわざ鈴木侍従長にとどけてきた文書「武人の道義的権威」にはこんな文章が記されている。
「統帥権を干犯してまでも強いてロンドン条約に調印せしめたるものは……政府と宮中と時の陸海軍首脳部と侍従長鈴木貫太郎を加えた大がかりなものであった。加藤軍令部長と末次次長とは相ついで毒刃に|仆《たお》れ、大日本帝国の至重至宝たる東郷元帥は憂心|怏々《おうおう》、孤塁を守り、軍令部長伏見宮殿下の如きはその参内拝謁をすら牧野伸顕、鈴木貫太郎らのために拒まれたる状態であった」
またしてもテロの恐怖が人びとの脳裏によみがえってきた。九年十一月、内務省は、驚くべき事実を政府および関係方面に知らせた。士官学校在学中の士官候補生を中心の、皇道派青年将校のクーデタの陰謀が発覚した事実だった。第一次行動の暗殺目標には、斎藤実、牧野伸顕、一木喜徳郎、岡田啓介、湯浅倉平、西園寺公望にならんで鈴木貫太郎の名があげられていた。
[#(155.jpg、横226×縦326)]
恐怖をテコに、統制派の支配する陸軍中央は、皇道派にかわって政治の舞台への登場を策すのである。陸軍省新聞班は「国防の本義とその強化の提唱」いわゆる陸軍パンフレットを発行し、「たたかいは創造の父、文化の母」と謳い、国防国家の建設を力説した。軍人の政治干与であるというので、政界やジャーナリズムがこれをきびしく批判した。こうした軍部批判にたいする軍部や右翼の反撃が昭和十年初頭の天皇機関説問題であった。美濃部達吉ら憲法学者の通説である「天皇は国家の最高の機関なり」とする学説が、わが国体に反するから、これを学界から一掃すべし、という主張である。右翼団体も連携して軍部に同調し、怪文書はつぎつぎにまきちらされた。在郷軍人の動きも激化し、天皇機関説の大逆思想を排せよ、と大書した旗を先頭にした壮士の一隊が東京市中を闊歩してねり歩いた。
この険悪な空気のなかで、ジャーナリズムはさわらぬ神に祟りなしで、あえて論陣を張ろうともしなくなったが、天皇だけは明快な意見を側近のものにもらしている。
「軍は在郷軍人の名において各方面へ機関説に関するパンフレットを配布したということであるが、このようなことは軍人のやるべきことではない。軍部は、機関説を排撃しながらも、このように私の意見にもとることを勝手に行うのは、すなわち私を機関説扱いにするものではないか」
と、本庄侍従武官長にいい、広幡侍従次長には、
「憲法学説としては機関説は少しも不都合はないではないか」
と非公式に感想を述べている。また、
「自分は憲法にしたがって国を統治するものであって、自分自身が国体であるとは考えない」
とも岡田首相にいっていた。
独特の政治感覚をもち、とぼけることが巧みで、体をかわす軽妙さをもつ岡田は、狸≠フ名にもふさわしく、青年将校グループを擁する皇道派を抑制すれば、陸軍統御ができるとすばやく判断した。そこから、内閣は林陸相を支援する形で、ついに天皇機関説を否認するような声明を発して、統制派と妥協した。だが、実は陸軍大臣が部内を統督しえないほどに秩序は乱れていたのである。誇るべき国軍の規律は地におち、青年将校たちの秘密結社的行動は阻止することができなくなっていた。時潮の流れの激しさによって、内閣の施政も朝に一城を抜かれ、夕に一城を失うことになった。それが二・二六事件へとつながる道であった。
譲歩の代償によって政府が期待した陸軍の軍紀は、七月十六日、教育総監真崎甚三郎大将の更迭で、水の泡と消えた。陸軍中央は統制派によって占められ、これを知った皇道派の青年将校は痛憤、八月十日の白昼の軍務局長永田少将斬殺という陸軍史上空前の事件をひき起こした。そして、これにともなう林陸相の辞任は、陸軍部内の対立をますますはげしくし、情勢は不穏の度を加えていった。軍内部の緊張は極度に達し、統制・皇道両派の和解の試みもあったが、それも成らず、追いつめられた青年将校は最後の決意を固めはじめた。
さらに、天皇機関説問題はあるねらいをもっていた。美濃部達吉の先生筋にあたる一木喜徳郎枢密院議長を標的とし、さらには牧野内大臣、鈴木侍従長を攻撃目標とするもの、つまりは国体明徴の名をかりて、天皇側近にある自由主義的な考え方のもち主を排除しようとしたのである。天皇が国体明徴の運動にたいして批判的なのは、つまりは側近のせいなのである。側近をとりのぞかずして国家革新はない。運動の目標はつねに天皇の側近をとりのぞくことに向けられた。
ついには、一木枢密院議長が襲撃された。日本刀をもった国粋大衆党の挺身隊員が襲い、折から亡くなった夫人の葬儀で、奥の間の柩の前に坐っていた枢相は、危うく一命を落とすところであった。
これは大きな衝撃だった。排撃の鋒先がおよんだ牧野内府、一木枢相、金森徳次郎法制局長官は、いずれも辞意を抱いた。十年末には、牧野内大臣はついに辞任(後任斎藤実)、十一年一月に金森もまた辞職した。宮中重臣にまでのびてきたファッショのどす黒い手──。
「鈴木侍従長も危ないのではないか」
と侍従たちの不安はひろがった。侍従たちは相談し合った。新聞にでていた防弾チョッキの話にヒントをえて、東北大の本多光太郎博士が上京した折、真剣にそのことを聞きにいったりした。
しかし、鈴木侍従長は動じなかった。若いころから何度も九死に一生をえたり、砲煙弾雨のなかをくぐりぬけてきた大提督には、一つの死生観があったのである。死は偉大な事実だが、死についてのセンチメンタルな感情は鈴木には無縁であった。
そうしたある日、侍従長官舎に、ひとりの青年将校が民間人二人とつれだって、鈴木に面会を申しこんできた。訪れるものは拒まない主義の鈴木は、これを応接間に招じ入れた。青年将校は安藤輝三大尉と名のり、率直にいった。
「政治の革新についてご意見をうかがいたい」
ついては、という風に、大尉はもっている国家革新にかんしての考え方をすべて語った。
鈴木侍従長はしばらく耳を傾けていたが、やがてきっぱりといった。
「軍人は政治に干与してはならない。軍人は専心国防に任ずべきものである。もともと軍備は、国家の防衛のために、国民の|膏血《こうけつ》をしぼって備えられるもので、これを国防以外に、みだりに国内の政治に利用することは間違いである」
これは鈴木の信念だったから淀むところがなかった。明治十五年に下された明治天皇のご勅諭でも明らかなこと。軍人が政治に干与したらどうなるか。
「それは亡国の徴である。政治は多数の意見を聞いて論議し、中庸に落ちつくようにするのが要道である。武力をもって論議すれば、武力を政治に使うようになり、日本は戦国時代と同じようになる。三人の軍人──連隊長が三人意見合わずして対立していたらどうか。互いに兵をもって戦ったらどうか」
安藤大尉の第二の問いは、「政治でも経済でも運営する人の如何によって変わる。現下の日本は、荒木大将を総理にせねば、国家はダメになると思うが……」というものだった。
「安藤君、総理大臣は政治的に純真無垢の荒木大将を、といわれるが、いやしくも総理大臣は陛下のご親任によるものである。それを臣下が勝手にひとりの人を主張するということは、天皇の大権を無視することになりはしないか。このようなことを口にすべきではありませぬ。不当な意見です」
鈴木はびしりといった。
安藤大尉は第三の主張に転じた。「いまの兵は農村からでているものが多い。そして農村は疲弊しきっている。これを何とか改良せねばならぬ。農村改革を軍隊の手でやって、後顧の憂いを断つ。兵に後顧の憂いがあるようでは、戦いには勝てぬ」
これにも鈴木は一応正面から応じた。
「一応、君の意見はもっともらしく聞こえる。しかし、歴史はこれとまったく反対のことを語っているのである。国にどんなに困難があろうと、民族全体が奮起してはじめて国が興るのである。農村が疲弊しているから兵隊に後顧の憂いがある、戦争に臨めないという弱い意志ならば、そういう民族は滅びるのが当然である。日本は、そんなものじゃあありません」
そして侍従長は得意の歴史に転じた。
フランス革命が起こったとき、列国は軍隊を入れてこれに干渉しようとした。このときフランス軍隊は、敢然として|起《た》って国境を防いだ。常備兵はもちろん義勇兵まで加わって、侵入軍に勇敢に対抗した。革命のため、兵の親兄弟は、あるいはギロチンにのぞんでいるものもあり、また妻子が飢餓に瀕しているものもあった。しかし、国内の難儀を考えているときではない。兵はひたすら、フランスという国を失わざらんとして、国境で戦った。これはフランスの歴史の誇りとしているところである。
こう論じきたって鈴木はいった。
「後顧の憂いとは何ぞや。そういうことを考えるのは、民族として|愧《は》ずべきことではないか。日本国民は、君のいうように、外国と戦いをするのに後顧の憂いがあっては戦えない民族だろうか。私はそうは思わないのです。日清・日露戦争のときのことをよく考えてごらんなさい。親兄弟に別れ、妻子を捨てて勇ましく戦場に赴いたのをごらんなさい。国民もまた、お国のために身体をささげて、心残りなく奮闘してくれと激励してこれを満洲の野に送ったのです。フランスのやれたことを、日本ができないということは、ないではありませんか」
静かな議論は二時間近くつづいた。侍従長は心をひらいて語り、安藤大尉もまた素直にこれをうけとめた。帰りぎわに、大尉はいった。
「今日はいいお話を侍従長から伺うことができた。胸がサッパリしました。よくわかりましたから、友人にも説ききかせます。また他日お目にかかり教えをうけたいと思います」
「いつでもどうぞ」と鈴木はいった。
「そうだ」と思いついたように、大尉がいった。「侍従長の書を、このさい記念にいただけませんでしょうか」
鈴木は快諾し、後日送ってやることを約束した。そして鈴木はその約束を守った。色紙には筆太の字で、「天空海濶」とだけ書かれていた。海軍時代、揚子江を航海したとき、岸壁に大きく彫ってあった四文字に鈴木は共鳴し、いらい|揮毫《きごう》はこの句にきめていたのである。
この安藤大尉は、最後の最後まで決行派と意見を異にし、安藤が起てば麻布三連隊は動くとまでいわれていながら、容易に起とうとはしなかった。そして安藤が決行に踏みきったときが、二・二六事件の導火線に口火が切られたときであった。その後、鈴木の色紙がどうなったか、だれも知らない。
[#地付き]●「高師直のように……」[#「●「高師直のように……」」はゴシック体]
昭和十一年が明けた。
その年の歌会始の題は「海上雲遠」であった。天皇はおおらかな歌をよんだ。
紀の国のしほのみさきにたちよりて沖にたなびく雲をみるかな
鈴木侍従長はありがたく拝誦した。いつのころか、侍従長は歌会始の天皇の歌から天皇の心を察する独特のうけとめ方をするようになっていた。
昭和十一年(一九三六年)、天皇満三十四歳、この年は雪の多い年であった。二月四日、東京地方豪風雪、交通機関が途絶した。七日にも、八日にも雪が舞った。二十三日から二十四日、東京にふたたび豪雪。二十五日にもふった。銀世界の吹上御苑で、天皇は久しぶりのスキーにうち興じた。
この夜、鈴木貫太郎侍従長夫妻は、グルー大使夫妻に招待されて、アメリカ大使館におもむいた。大使が、知友の斎藤実の前年の暮の内大臣就任を祝って、斎藤夫妻を招いての盛大な晩餐会をひらいたからである。鈴木夫妻はその相伴にあずかった。
晩餐のあと、内大臣のために映画「お転婆(ノーティ)マリエッタ」が上映されることになった。斎藤がまだトーキー映画というものを観たことがなかったので、グルー大使が前日の午後わざわざ映画会社試写室へいき、選んできたものである。甘美で古風な音楽が流れ、美しい場面も多く、映画は愛すべきロマンチックなストーリーをもっていた。斎藤夫妻も、鈴木夫妻もこのもてなしを心から喜んだ。途中で一休みして茶菓を喫し、また映画観賞をつづけた。二時間の映画が終ったとき、グルー夫人は、斎藤夫人の、そして鈴木夫人の眼が真っ赤になっていることに気づいた。映画に退屈したら眠れるようにと、安楽な|肘《ひじ》かけ椅子を用意された内大臣も侍従長も、はじめてのトーキー映画が楽しく眠るどころではなかった。
グルー夫妻に見送られて、鈴木は斎藤とともに十一時半ごろ大使館をでた。鈴木夫妻は麹町の侍従長官邸へ、斎藤夫妻が四谷仲町の私邸に着くころ、また雪がふってきた。
その雪を|蹴《け》たてて皇道派青年将校の指揮する叛乱軍将兵が、二十六日の夜明け、それぞれの襲撃目標に殺到した。斎藤内大臣私邸は午前五時五分ごろ、そして鈴木侍従長官邸は同十分ごろに、それぞれ百五十名の襲撃をうけた。
内大臣斎藤実夫人春子は火を吐く機銃にすがって「殺すなら私を殺してから」と身をもって夫をかばったが、無理やりひき離され、内大臣は四十発余の弾丸を撃ちこまれ即死した。
高橋是清蔵相も私邸で襲われた。射たれた上に左腕を打ち斬られて死んだ。直後に来訪の新聞記者に向って、夫人志なは毅然として「青年将校は卑怯に存じます」といい放った。
教育総監渡辺錠太郎も私邸で絶命した。夫人すずの態度も毅然としていた。「帝国軍人が土足で家にあがるのは、無礼でしょう。それが日本の軍隊ですか」と侵入する銃剣の前に立ち塞がった。しかし、甲斐はなかった。
鈴木侍従長官邸の襲撃を指揮したのは、安藤輝三大尉である。最後まで去就に迷っていた大尉は、心をきめるとともに、同志への証しとして侍従長襲撃をみずからえらんだといわれている。あるいは、侍従長からうけた諫告をふり切り、おのれの決意をより強く固めるための、非常手段だったのかもしれない。官邸表門および裏門の道路上に機銃をすえ、外部からの障害を排除すると、曹長永田露を裏門から邸内に突入させ、大尉は曹長堂込喜市につづき表門から屋内に侵入した。
不穏の状況は数日前から伝えられていたのである。だが、五・一五事件に少し念を入れたぐらいで、青年将校二十名くらいが襲うことがあるだろうが、軍隊を動かすことはないという。そこで警察当局は、斎藤内大臣、高橋蔵相の私邸の護衛を増強し、首相官邸日本間の警備を、警視庁へ直通する非常ベルをとりつけるなど、厳重なものにしていた。そのため、警官隊が応戦し、襲撃を惨烈なものにした。
侍従長官邸は、鈴木の辞退もあって、平常の警備陣であった。しかも、襲撃隊の接近を眼の前にしながら「いつもの演習だ」と思って少しもあやしまなかった警官隊は、無抵抗のままたちまちに武装解除された。襲撃隊は勝手知らぬままに押しいった。
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鈴木は『自伝』にこう記している。
「二十六日の朝四時頃、熟睡中に女中が私を起こして、今兵隊さんが来ました。後ろの塀を乗り越えて入って来ましたと告げたから、直感的にいよいよやったなと思って、すぐ跳ね起きて、何か防禦になるものはないかなと、床の間にあった白鞘の剣をとろうとした。それを取って中を改めると、槍の穂先であって物の用にも立とうとも思われなかったから、それはやめてかねて納戸に|長刀《なぎなた》のあることを記憶しておったから、一と部屋隔てた納戸に入って捜索するけれども、いっこうに見当たらない。そのうちに、もう廊下、あるいは次の部屋あたりに大勢|闖入《ちんにゆう》した気配が感ぜられた。そこで納戸などで殺されるというのは恥辱であるから、次の八畳の部屋に出て電燈をつけた」
侍従長の寝室は階下の十畳の部屋であった。そのとなりが八畳間、そして納戸ということになる。襲撃隊は寝室にまで押し入ってきた。そして電燈をつけ、蒲団に手をいれてだれか寝たあとのあるぬくもりを確認している。殺気だった興奮と恐怖のなかで、兵隊の証言と鈴木の『自伝』の静かな記憶は一致している。鈴木はどっしりと落ち着いていた。
たか夫人の回想はこうである。襲撃と知って、夫人も眼を覚ました。
「その前の晩、米大使館に宴会があって、私ども夫妻は列席いたしましたので、その着物をとってとりあえず着換えて待っておりました。実は武人の妻としては、白無垢を着用したかったのでございますが、その時間がありませんでした。
また平素床の間に、剣と槍の穂が飾ってあり、納戸に二十本ばかりの日本刀が縛って束になってありました。それを私、風呂敷に包んで他の場所にしまっておきました。このことを知らない主人は暗殺軍がはいってきたというので、刀を取りに納戸へはいったのですが、そこに刀がないので、あきらめて座敷へ帰りました。このときもし刀があったら、きっと凄惨な斬合いがはじまったのではないかと思います。
主人はあとで、
『|高師直《こうのもろなお》のように、物置にかくれてもおれんので出て来た』
といって笑っておりましたが……」
八畳と十畳の間の|襖《ふすま》があけられた。|眩《まぶ》しい光があふれ、裏門からの襲撃隊はそこに一人の老人が寝衣姿で立っているのを認めた。老人は電燈の下に立った。兵たちにも写真で見おぼえのある鈴木侍従長だった。ただちに三方から銃剣とピストルで包囲された侍従長は、当り前のようにいった。
「どこの兵隊か」
下士官の一人が答えた。
「麻生歩兵第三連隊」
侍従長は「静かになさい。理由を話し給え」とさらに静かに聞いたが、だれも答えるものがなかった。鈴木はさらにいった。
「簡単でいいから話したらどうか」
だが、険しい声がそれにおっかぶせた。
「閣下、時間がありません。昭和維新のため一命を頂戴します」
鈴木は|従容《しようよう》としていった。
「やむをえませんなァ、それではお撃ちなさい」
拳銃が発射された。銃声は五発、侍従長は|俯《うつぶ》せに前に崩れた。鮮血は畳の上にどくどくと流れた。発砲したのは表門組の堂込曹長と永田曹長であったという。「とどめだ。とどめを」という声がしたとき、二階の捜索に向っていた指揮官の安藤大尉が駈けこんできた。そして、銃口を頸部に力一杯押しあてている下士官の手をおさえた。
襲撃隊将兵が、倒れた侍従長から二メートルほど離れたところに坐すたか夫人に気づいたのは、そのときだった。夫人は微動だにしなかった。
安藤大尉は夫人に向って、
「麻生歩兵第三連隊第六中隊長、安藤輝三」
と名乗った。襲撃理由は、昭和維新断行のため、とだけいった。たか夫人は一言も発せず正座をつづけている。瀕死の侍従長は、かすかに安藤大尉の名乗りを記憶した。
このとき、下士官がまたいった。「まだ脈があるからとどめを刺しましょう」
このとき、たか夫人がはじめて口を開いた。
「武士の情けです。それだけは私に任せて下さい」
少しも取乱したところはなかった。安藤は「では、とどめはやめます」といって立ち上がった。とどめを刺すことは、同志の規約であったが、安藤は瞬間に考えを変えた。そして、大尉は、
「気をつけッ! 閣下にたいして……|捧《ささ》げ|銃《つつ》」
と号令した。安藤大尉と部下は一礼して整然と去っていった。
拳銃弾は四発が命中していた。致命傷といってよかった。一弾は眉間から頭蓋骨をぐるりとまわって左の耳にぬけ、一弾は左の乳から心臓すれすれに背面にまわり、一弾は左の|腿《もも》から入り、股を貫通し睾丸にとまった。残る一弾は肩に当ったが、平素から毛糸のシャツを着、その上に本ネルの単衣をかさねた真綿入りの寝衣をきていたので、肩の線にそって下に落ちた。
血の海の中に横たわって鈴木は動こうとはしなかった。出血時の武人の心得であったからである。鈴木は意識をしっかりたもちこう指図した。
「動かしてはいかん。出血が多くなる。それにまだ敵が外にいるかもしれぬ」
しかし、あまりの事態に気も動転し、おろおろしたのは、侍従長官舎の使用人たちである。主人は呼吸こそかすかにしているが、真っ赤な血をどくどくと流し、手のつけようもない。浅野執事もお手伝いのふさ子も、もう助からぬと泣きくずれ、「ご臨終だ」と、手を合わせていた。
たか夫人はしっかりとした声でいった。
「何をしているのですか。早く宮内省に電話をかけて下さい」
[#地付き]●「鉛玉、金の玉をば通しかね」[#「●「鉛玉、金の玉をば通しかね」」はゴシック体]
天皇がうけた二・二六事件の第一報は、鈴木たか夫人からのものであった。侍従長が軍隊の襲撃をうけ重傷、甘露寺受長侍従に起こされてそのことを聞いたとき、天皇は沈痛な声でいった。
「とうとうやったか」
五時半すぎのことである。
だが、つぎの瞬間には、天皇の心のうちには烈しい怒りがわいていたのだろう。
「そして暴徒はその後どの方面に向ったかわからないか。まだほかにも襲撃されたものはないか。支度して、すぐ表に出る」
といった。すでに天皇は襲撃部隊を暴徒≠ニよんでいる。そして天皇は軍服に身をかためた。事件が四日間で終熄したあとも、戒厳令が撤廃されるまで、天皇は軍服をぬがず、軍を統率する大元帥であった。
殺された重臣たちの夫人の立派さにたいして、政府と陸軍首脳の周章なすところを知らずといった状態は、目を蔽うばかりだった。二十六日から二十九日午後の叛乱終熄にいたるまでの混乱と当惑はその極に達した。
最初から態度が明確だったのは、青年将校が絶対≠ニ仰ぐ天皇だけだった。その日、午前九時、天皇は陸相川島義之大将をよび、
「今回のことは精神の如何を問わずはなはだ不本意なり。国体の精華を傷つくものと認む」
とはげしく怒った。
陸軍は軍中心の暫定内閣をつくることを申し合わせたが、天皇はこれを認めず、最も信頼していた老臣をことごとく倒すのは、「陸軍は自分の首を真綿でしめるもの」と、本庄侍従武官長をきびしくせめた。岡田首相も殺害されたとはじめは思われていた。そこで首相臨時代理を宮中によぶと、「速やかに暴徒を鎮圧せよ」と命じた。暴徒とは余りのお言葉と本庄武官長が一言口をはさもうとしたとき、天皇は厳然としていい放った。
「|朕《ちん》の命令に出でざるに勝手に朕の軍隊を動かしたということは、その名目がどうあろうとも、朕の軍隊ではない」
さらに天皇はいった。「なんなら近衛兵を率いて朕みずから討伐してもよい」と。
その人柄に似合わぬほどの天皇の、この強烈な意思。いわゆる機関≠ナはなく、まさに天皇親政である。何とよんでいいのかわからず、義軍とよび|蹶起《けつき》部隊とよんでいたほど腰弱の政府も軍首脳も、これに|慴伏《しようふく》した。「勅にそむき」いたずらに兵を構えた叛乱軍以外のなにものでもなかった。
このように天皇が涙を流さんばかりに怒ったのは、多くのものに意外だった。それ以上に、事件の模様をだれよりも早くからつぶさに知っていることに、政府も軍も驚愕した。のちに憲兵隊の調書は、その理由をこう推察している。
「鈴木侍従長夫人は前に宮仕えした人であるから、あるいは当日朝叛乱軍が引き揚げると、早速参内して、襲撃被害の状況を内奏申し上げたのではないかと、当時判断せられた」
そのような事実もあったのだろうか。いずれにせよ、鈴木夫人や、第一報をうけた直後ただちに侍従長官舎を見舞った湯浅宮相から、血の海に虫の息で伏した老提督の姿の克明な報告を、天皇はうけた。イメージは鮮烈であり、天皇には耐えられない衝撃であった。
襲撃部隊が引き揚げたあと、たか夫人は鈴木を抱き起こして、出血している個所、とくに頭に手を強く押しあてて心得のあった血止めにつとめた。それから宮内省に電話し、侍従職に事件を伝え、侍医の来診を乞うたのである。折悪しく宮内省の侍医は鎌倉へ他出中で不在、当直の黒田侍従が機転をきかして知り合いの塩田広重博士と輸血協会の飯島博士に電話、至急診療を頼んだ。
塩田博士は事は重大と判断した。ただちに日本医大病院に用意を電話で命じ、自分の車を待つのももどかしく、幸いに拾えたタクシーですぐ駈けつけてきた。そして、あまりに急いだため、「私が来たから安心だ」といいながら、部屋に入ると鈴木の血ですってんころりんと転倒した。が、すっくと起き上がると怒ったような声で、
「包帯はないか」
といった。真剣そのものであった。包帯がなかったので羽二重の反物を切って、一応それで出血をとめた。鈴木はうわごとのように「寒い寒い」といっていたが、『自伝』によれば、「だんだん冷たくなる。脚が冷える。何とかしてくれそうなものだと思った」という。そのうちに意識はもちろん、脈もとまってしまった。
そうした危機も、リンゲルの注射と輸血と、塩田博士たち医師団の懸命な努力で、なんとか脱したが、そこには幸運も手伝っていた。輸血協会の飯島博士が、血液提供の青年とともに車を飛ばしてきたとき、赤坂見附の叛乱軍の前哨線でストップをかけられてしまった。だが、歩哨は何と飯島博士のかつての患者であったのだ。そして輸血の青年の血液型が偶然にも、侍従長と同じO型であったという。
輸血の効果は絶大だった。脈もしっかりとしてきた。鈴木侍従長の生命を救ったことが、輸血にたいする医学界の眼を大きく開かせる素因となった。夜に入ってから、塩田博士がポータブルのレントゲン器械を運びこみ、床の下に乾板を入れてレントゲンを撮り、弾丸のありかが調べられた。体内にとどまった弾丸は二発、心臓のうしろと陰嚢のなか、であった。内出血で侍従長の陰嚢はボール玉のようにふくれ上がっていた。
二月二十八日、塩田博士は、ふと思いついたように、「鉛玉、金の玉をば通しかね」という駄句をものして|呵々《かか》大笑した。もう安心、こっちのものになりましたよ、という笑いであった。たか夫人もはじめて愁眉をひらいて、久しぶりにホホホと笑った。
のちに陰嚢におちていた弾丸は手術でとりだされたが、心臓すれすれを通って背中にまわった弾丸は終生鈴木の体内にとどまった。それから十二年後、鈴木の遺体が火葬に付されたとき、尖端が少しひん曲がった弾丸がでてきたのを、長男の一は確認した。
重傷の鈴木侍従長が絶対安静の日々をすごしているうちに、叛乱はあっけなく|潰《つい》えた。「オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ……」という『下士官兵ニ告グ』の勧告の効もあり、皇軍相撃つの危機は回避され、二十九日午後には、つぎつぎに叛乱部隊が原隊に戻りはじめた。最後まで抗戦をつらぬいていた安藤中隊も、ここに及んでは屈する以外にとるべき途は失われた。安藤大尉は部下の兵士にたいして暗然としていった。
「お前たちに叱られたことがあったなあ。中隊長殿、いつ蹶起するのですか。このままでは農村は救えません≠ニいってねえ。お前たちの心配していた農村はとうとう救えないなあ」
そしてつぎの瞬間、拳銃で自決しようとした。しかし部下の阻止ではたすことはできなかった。
二・二六事件は、天皇の怒りをもって終った。大元帥の大権で軍を従わせた。これもまた聖断であったといえるだろう。もう一人、烈しい怒りを公的に表明した人がいる。前年に東京陸軍幼年学校長に着任したばかりの阿南惟幾少将である。陸軍部内で去就に迷い発言をひかえる将官の多かった時点で、阿南の言は厳然としていた。全生徒を前に、校長訓話としてかれはいいきった。
「軍人の本分を越えて政治に干渉することは大罪と申すほかはない。陛下のご信任の厚い重臣を殺害し、非合法に走ったものを許してはならない。農村の救済をとなえ、政治の改革を叫ばんとするものは、まず軍服を脱ぎ、しかるのちに行え」
聞く生徒の眼には、校長の背に後光がさしているように感じられたという。阿南もまた、みずからには厳しく謹直であり、筋目をたてケジメをわきまえる鈴木と同根の軍人だった。
[#地付き]●「長いことお世話になった」[#「●「長いことお世話になった」」はゴシック体]
七十歳で老骨でありながら驚くほどの気力と体力とで病い癒えた鈴木貫太郎が、天皇と対面したのは事件後ほぼ四十日の、四月六日のことである。頭の包帯はとれたが、胸の包帯は巻いたままであった。二十一貫(七十九キロ)もあった体重は、十三貫(四十九キロ)に減り、フロックコートもオーバーもだぶだぶだった。
天皇は、村夫子然とした鈴木の参内を非常に喜んだ。やさしい視線を生き還った老臣から離そうとはしなかった。そして、鈴木がうやうやしく、療養中に毎日のようにとどけられたスープや、皇后からうけた|蘭《らん》の花など、お見舞品をいただいたことのお礼をのべるよりさきに、天皇はいたわりの言葉をなげかけるのだった。
「無理をしないよう、早々に帰って休めよ」
一カ月前の三月九日に、広田弘毅内閣がどうやら成立。それより前の四日に緊急勅令にもとづく東京陸軍軍法会議が開設されている。といって、事件の余波はなおおさまってはいなかった。叛乱軍の残党が、うまく急を脱れた岡田首相や牧野元内大臣、命をとりとめた鈴木侍従長を襲撃する|惧《おそ》れありと、当局はまだ警備をゆるめてはいないのである。天皇の憂慮は晴れていなかったときに、なつかしい侍従長の元気な姿をみたのである。おのずと心に和むものがある。
それからさらに一カ月たった。体力もすっかり回復したので、鈴木はふたたび侍従長として毎日出仕するようになった。しかし、七十歳になったら辞任すると前々からいっていたし、事件のこともあり、宮内大臣から転じて新しく内大臣になった湯浅倉平に、鈴木は辞意をはっきりと表明した。湯浅内府は頭をかかえた。侍従長として、鈴木ほど天皇の信頼、いやそれ以上の心の結びつきをもった人材はいないことは明白だったからである。
「この事件に関連して辞めるということでなしに、後進に道を拓くということで……」
と鈴木がいうと、湯浅は、
「それはその方がいいが……。後任があなたに劣るような人では困るし……」
と、もぞもぞというばかりだった。
その年の夏、鈴木侍従長は天皇のお供で葉山にいった。例によって暇なときは、葉巻をくゆらし書に親しむという日課だったが、天皇のうしろにこの人のいることが、周囲の人びとにどっしりとした安心感を与えた。そして風波の強い日に生物採集にでようとする天皇の身を危ぶみ、侍従たちがおたおたしているのをみると、鈴木は大声でいった。
「なんだ、こんなのは波ではない」
死の淵から生還した鬼貫太郎≠フ大喝だった。
天皇は夏の葉山で一気に明るい心境をとり戻した。そして九月二十四日から往復十九日の北海道陸軍大演習旅行にも、|凛乎《りんこ》として出発した。北海道までのお召艦はあの比叡である。鈴木侍従長ももちろんその艦上にあって、襲いかかる波の飛沫を浴びた。「身体のこともあるから」ととめるものが多かったが、意に介そうともしなかった。
帰京してから、鈴木はまたしても辞意を表明した。
「今度の大演習は内大臣も宮内大臣もはじめてのことであるから、実は強いて自分がお供をして最後のご奉公を行ったようなわけであるが、何事もなくすみ、自分の健康もまことに無事にご奉公ができたようなわけで喜んでいる。自分としてはこのさいぜひ引退したいと思う」
しかし、これを聞いた天皇は奇妙に強く留任を希望した。
「狙撃されたから申しわけないというので、側近がかわるのは面白くないことだ」
しかし、宮中にその後もさまざまなニュースがとびこんできている。たとえば九月二十二日、二・二六事件の残党、神兵隊の関係者ら四十三名検挙、その襲撃目標は陸相、首相そして鈴木侍従長なりと。天皇の聴許がないとはいえ、これ以上、鈴木に無理をいい、侍従長にひきとめておくわけにはいかなくなった。
十一月二十日、鈴木貫太郎は侍従長を退任する。特に華族に列し男爵をさずけられた。退職の|詞《ことば》の中に「すでに七十の馬齢を加え……」とあった。母きよは二年前の昭和九年十一月にこの世を去っていたが、生きていたらどんなに喜んでもらえたことか、と鈴木は思った。
天皇は鈴木にいった。
「長いことお世話になった。どうぞ身体を今後とも大事にするように。外にあっても私を助けてくれるよう依頼する」
退下し、姿を消そうする鈴木に、さらに、
「本当に世話になった」
と天皇は高い声でよびかけた。
宮城をあとにする鈴木貫太郎を見送ったとき、湯浅内大臣と松平恒雄宮内大臣の二人は、期せずして同じことを思った。それは本州の東方海上を北海道へ航進する比叡艦上でのことであった。「終日天気晴朗、浪ヤヤ高ケレドモ天機至ツテ麗ハシク拝セラル」と比叡艦長の報告電にあるように、浪高き大海原に|燦々《さんさん》たる落日がいまにも沈もうとしているとき、供奉の一人が、鈴木侍従長にこう問いかけたのである。
「閣下、どうですか。もう一度連合艦隊を率いて、太平洋を|馳駆《ちく》する元気がおありですか」
まわりのものはだれもが、謙遜な鈴木の人柄を知り、のみならず死線をやっと脱れでてきたいま「とてもそんな気はありません」という返事を予期していた。
しかし、鈴木は破顔一笑すると、何のわだかまりもなく答えた。
「ああ、ありますとも……ただし艦長は勤まりませんね」
そして、夕陽に赤く染まる大海原を、そのさきのさきの彼方を見つめてじっと立っていた。これぞ海の男との思いと、そしてこの老水夫の海への限りなきあこがれがじいんと感じられ、内大臣も宮内大臣もほれぼれと眺めたことを、いま想いだしたのである。
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第三部「破局の時代」にあって
[#小見出し] 第九章 もはや日本に勝利はない
[#地付き]●「お前を助けてやる」[#「●「お前を助けてやる」」はゴシック体]
二・二六事件は叛乱軍の処刑で終りを告げた。しかし、重臣たちの血で|購《あがな》った事件は、根の浅い日本の自由主義の終焉ともなった。国民はだれもが、大事を惹き起こしたその後の陸軍に「謹慎」の二字があるだろうことを期待し、事実、陸軍は、十人の大将のうち七人までを引責辞職させ、粛軍の実を示すかにみえた。が、それは表面だけのこと、背後で形成されていたのは、「新統制派」ともいうべき強固な官僚的陸軍ラインだったのである。
この新しい「軍閥」は、二・二六事件の恐怖をテコにして、政府を軍の意志によって引きずるという軍独裁の方向を強める手段をよく心得ていた。軍の発言力は異常に強くなった。「皇軍相撃つ」危険性はなくなったが、その膨張する軍事力は国外へ向って|溢《あふ》れ出していく。それは世界的には、持たざる国の生活圏獲得のための武力膨張政策ととられていた。
翌昭和十二年七月には、国民期待のうちに成立した近衛文麿内閣は盧溝橋の一発をきっかけに、支那事変へとまきこまれていった。名称こそ事変であるが、事実は日中全面戦争である。十一月には大本営が設置され、幾度か和平の機があったがすべて見送られた。歴史の歩みを転換させるためには、中日和平こそが何よりも先決であったが、さまざまな要因からそれも成らず、事変の解決を模索して日本は対決を深め、対米英戦争への道を突き進んでいった。ヨーロッパではナチス・ドイツがその野望をあらわにしはじめた。
そうした急転する世界情勢をよそに、侍従長の大任を解かれ、枢密院顧問官専任となった七十歳の鈴木貫太郎には、静かな日々が訪れている。一日に葉巻三本と、相変わらずの一汁二菜、ときに好きなそば、節度ある生活、老齢とは思えぬ健康を誇った。
そして、根っからの海軍軍人であるこの元海軍大将は、海軍の伝統であるDUTYの精神≠堅持している。与えられた任務には全力を尽くすが、その任を去った後の列外のもの≠ヘ一切の干渉をせず、余計な口出しはしないのである。
鈴木は、昭和十二年の二月二十六日から毎年、その日には斎藤実、高橋是清、渡辺錠太郎の非命に倒れた人々の墓詣りをすることを定例とした。それが残されたものの義務であるが如くに。それとたか夫人を伴っての浅草の観音詣でである。鈴木夫妻の観音信仰は二・二六事件後の奇蹟的快癒にそのはじまりをもっている。出血と、銃創による痛みと発熱で、鈴木の生死はその日から数十時間も不明という状態にあった。塩田博士も首を傾げるほどの重態がつづき、長男の一やその夫人の布美をはじめ、だれもが助からないのではないかという危惧をもっていた。ところが、三日目(二十八日)の朝、このとき初めて意識をとり戻したのか、鈴木侍従長は眼をあけると、
「おたか」
と夫人をよんだのである。そして、
「昨夜は面白い夢をみたよ」
といった。突然のことで驚く夫人に、
「真っ白い着物を着た観音様のような人が来て、私は大和からきた、お前を助けてやるから大丈夫だ、心配するな、というお言葉をたまわった。だからもう心配しなくともいいよ」
と貫太郎がはっきりとそういって、また眼を閉じたというのである。
鈴木の上には姉が三人いた。母が、このつぎはどうか男の子を授かりたいと、大和の|信貴山《しぎさん》の|毘沙門《びしやもん》さまに参詣したところ間もなく妊娠し、生まれたのが貫太郎だったという。夢枕に現れたのはその毘沙門天かもしれない、観音さまだったかもしれない、と後に貫太郎は述懐したが、病床にあったとき、突然に語ったかれの言葉に勇気づけられ、少なくともたか夫人は観音さまの妙智力にひたすらおすがりすることにしたのである。
貫太郎の生命は、三十三身に応現する観音によって助けられた、とたか夫人は信じている。そしてまた、鈴木自身が霊魂の不滅を信じる男でもあった。
毎年のお盆の十三日、紋付羽織に袴をつけ、定紋の入った|提灯《ちようちん》をもって門前に立ち、生きているものを迎えるかのように、鈴木は威儀を正し丁寧に頭を下げて祖霊の御迎えをするのを常とした。鈴木の日常は典型的な明治人の、悠々としたそれであったのであろう。
[#地付き]●「結局の所は、負けるだろう」[#「●「結局の所は、負けるだろう」」はゴシック体]
大日本帝国はこの間にノモンハン事件、日独伊三国軍事同盟、仏印進駐と強硬な政策のもとに、破滅へと向って歩みを早めていった。
枢密院顧問官時代の、政治家としての鈴木の生活と意見について、伝えられているものはきわめて乏しい。もともと政治嫌いの人柄であった上に、枢密院顧問官という立場が時代の変転の外側にある存在といってよかった。支那事変がどろ沼の戦いと化し、非常時が叫ばれた昭和十年代の半ばから、内閣そのものが軍部独裁にひきずられた|傀儡《かいらい》にすぎなくなった。それ以上に憲法上の天皇の顧問機関である枢密院は無用の長物と化し、はなはだしく無視されていたのである。
つまり枢密院は、天皇が諮問する国務の重要事項が憲法にかなうかどうかを審議するところであり、「施政に関与することなし」(枢密院官制第八条)であった。国政への発言権もない。いわんや戦争指導機関ではなく、いわばお飾り。たとえば枢密院で対米開戦について審議がかけられたのは、十二月八日すでに交戦状態に入ってからである。だから審議するのは「開戦の決定如何について」ではなく、「宣戦布告の詔書を公布すべきか否か」に限られていた。政治的には無力というほかはない。
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わずかに戦後の、東京裁判に木戸幸一元内大臣が弁明のため提出した『手記と日記』が刊行され、その書物のところどころに書き込まれた鈴木の感想や、米戦略空軍調査団の質問に対する答弁によって、当時のかれの時局観が|窺《うかが》えるだけである。
たとえばその一つ、昭和十四年八月、ドイツがいきなり独ソ不可侵条件を締結して、日本との同盟に対する裏切り行為をし、このため平沼騏一郎内閣は総辞職に追いこまれた。このことについて「辞職セズ日独交渉ヲ打切ルコトハ何故ニ出来ヌカ?」と鈴木は書きこんでいる。鈴木が、三国同盟締結は対米戦争を惹起すると、強く反対していた米内光政・山本五十六ら海軍穏健派と心を一つにしていたことを、この言葉は語っている。
つぎに、第二次近衛内閣の松岡洋右外相の起用について、鈴木の批判は手きびしい。
「松岡ヲ外相ニシタノハ誰カ。近衛公トシテハ認識不足モ甚シ」
さらには、木戸内大臣の東条英機大将を首相に推挙したことについて、『木戸日記』がいろいろ弁解的理論を表明している個所には、
「コノ点木戸君ノ考エハ禍根ナリ」
と書き、さらにもう一筆、
「大過誤」
と酷評を下している。
海軍の先輩として、国力の限界を知り、また側近の元侍従長として天皇の心を知る故に、鈴木貫太郎は基本的には対米非戦派に組していたことは確かである。米調査団の「米国と戦端が開かれたとき、いったいどうなると思ったか、どうして結末がつけられると思ったか」という質問に対しての、鈴木の返答はそのことを裏書きしている。同時にそこには、日清・日露を戦った勇士、軍縮条約後の、月月火水木金金の猛訓練を指揮した連合艦隊司令長官だった男の、烈々たる闘志、戦略思想の一端をもふと垣間みることもできるのであるが……。
「この戦争がはじまったばかりの時には、日本は防御の役割をやっている限りは、勝つかも知れないと感じていました。しかし、私自身としては、長期戦になるといろいろ不利な状況に落ち込むだろうと思いました。
例えば、あなた方は五・五・三の比率のワシントン条約を成立させました。アメリカはこの五対三の比率の海軍を持っているばかりでなく、国土は日本の十倍の広さでした。その上、アメリカと戦うことは、イギリスとも戦うことです。そこで十対三の比率で対抗することになりました。当時、その圧倒的な優勢に対して、日本はとても太刀打ちできないと考えていました。
こんなわけで、開戦当初から、ちょっとの間は、うまく事は運ぶかも知れないが、結局の所は、日本は負けるだろう──というのが、海軍的見地での私の観測でありました」
そして妥協による講和の可能性については、
「交渉による和平はとてもむずかしいと考えました」
と、鈴木ははじめから覚悟していたようだ。しかし、その一面で、
「日米両者とも、決定的勝利を得ないで、長期戦になれば、お互いに戦争を止めようという交渉も出来る可能性がないでもないとは考えました」
と正直なことも語っている。
しかし、その鈴木のいう「結局の所は、負けるだろう」戦争への道を大日本帝国はひたすら直進していったのである。二・二六事件から対米開戦までは、ある意味で一直線の坂道であった、といえようか。この六年間は時代区分としても、多様に組みこまれた因果関係からいっても、大きな枠組みでくくれる時代である。|滔々《とうとう》たる歴史の流れは、だれによっても止めるべくもなかった。米内光政大将がいうように個々人の反対など、ナイヤガラの瀑布に逆行して孤舟を漕ぐような、はかないものであったろう。
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そして天皇はまた、日中戦争いらい、大本営にあって陸海軍を指揮する軍服の大元帥でなければならなかった。個人の天皇としては、日中戦争の不拡大に、日独伊の同盟の阻止に、そして対米戦争の回避に、いかに心を砕き悩んでも、大元帥としては日中戦争を指揮せねばならないのである。
対米戦争前夜の天皇の苦悩は、昭和七、八年ごろの再現であった。しかし語るべき剛毅な侍従長は、もはやそばにはいない。鈴木の後任の百武三郎侍従長はずっと控え目な、事務的な存在となり、天皇の相談相手は、軍事について無知な現実主義者木戸幸一内大臣しかいなかった。
政務室における天皇は孤独な存在である。用がない限り侍従は別室の侍従室に控え、身近の用をする|内舎人《うどねり》も裏の自室にこもっている。天皇はだれに訴えようもない苦悩と焦慮をぶつぶつ独り言で吐きちらしながら、室を歩きまわるのである。
そのコツコツという靴音が、近くの侍従室にまで届いてくる。それは何かひどい悩みごとがあるときだ、と侍従にはわかっているが、どう対処したらいいのか。
「また、始まった」
と、暗い顔を見合わせるよりほかに、かれらは成すすべがないのである。
その、いつまでも止まらない天皇の靴音と歩調を合わせるかのように、日本は対米戦争への扉を一つ一つ開けていった。
そして天皇は、天皇として立憲君主制をかたくななまでに守りつづけた。閣議や政府大本営連絡会議で決定してきた国の方針については、これを拒否しない大原則を天皇は破ろうとはしなかった。そして軍部はすでにして、天皇にして大元帥、という天皇制の二重構造を巧みに使いわける技術を、昭和史の流れのなかで自家薬籠中のものとしてしまっていた。
昭和十六年九月六日の「戦争を辞せざる決意の下に」国策を定めた御前会議において、天皇が異例の発言をし、明治天皇の御製『四方の海』を二度までも読み上げたことは有名である。
四方の海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ
それは、戦争を望まぬ天皇の意思を何よりも明確にしなければならない重大なとき、であったのである。また天皇にもそれだけの覚悟があった。この朝、天皇は木戸内大臣を呼んで、「今日の御前会議でいろいろと質問したいがどうか」と下問している。それを木戸がおしとどめた。
「最後に統帥部は外交工作の成功に全幅の協力をせよ≠ニの意味のご警告を遊ばすくらいにした方がよろしいかと思います」
天皇はこれにうなずいたという。
それはまたとない絶好の機会であった。時の首相近衛文麿が敏感に避戦の天皇の意思を汲みとり、その天皇大権によって国策を大転換すべきときが、そこにあった。明治天皇の『四方の海』の御製はその暗示ではないか。その機会は、しかし、|後禿《こうとく》のうらみを残し去っていった。近衛はついに天皇の心を知らず、聖断を仰ぐ勇気をもち合わせていなかった。
のちに鈴木貫太郎はそのことを知り、激しく残念がった。歌によって天皇の心を知る。それは長いこと侍従長として仕えた鈴木だからできることであったかもしれない。
十六年に入って三回目の十一月五日の御前会議は、事実上の開戦を決定した会議である。特別に列席した原|嘉道《よしみち》枢密院議長は会議の終りにこう結論した。
「今を措いては戦機を逸して、米の|頤使《いし》に屈するもやむないことになる。したがって、米に対し開戦の決意をするもやむなきものと認む。初期作戦はよいのであるが、先になると困難を増すが、なんとか見込みありというので、これに信頼す」
陸海軍が描いたなんとか見込みあり£度の未来図で、天皇は、内閣の開戦の決定をその天皇大権において裁可した。
十二月八日、午前八時きっかり、宮中東の間で枢密院会議が開かれた。出席した副議長鈴木貫太郎の前には、宣戦の大詔のコピーがおかれていた。
非の打ちどころのない海軍の軍装に身を固めた天皇のかたわら、二つの相対するテーブルの一つの端に、原枢密院議長と鈴木副議長が坐った。鈴木は向う側のテーブルにずらりと坐して並んでいる東条英機首相とその閣僚たちを眺めながら、軍人は政治に干与すべからずという自分の強い信念を思い出していた。
枢密院は法的には政府の決定に対して拒否権を行使できたが、それが用いられたことは実際にない。ましてや戦闘の開始されたいま、何の発言権が十六名の枢密顧問官にあろうか。池田成彬顧問官がしきりに雄弁をふるって政府に質問していた。
「アメリカの正式の名称はアメリカ合衆国であり、イギリスはグレート・ブリテン、ないしは大英帝国とよばれております。したがって、この両国に宣戦するさい、たとえ敵国であっても、米国および英国というような略称を用いるのは、礼儀をきわめて重んじますわが大日本帝国にとって……」
所詮は、会議そのものが儀式であり、無意味な芝居だった。対米英およびオランダとの宣戦を認めるか、また大詔を原案どおり承認するか。顧問官はひとりひとり賛成と答えた。鈴木副議長の順番がきて、鈴木は応えるとき思わずつばを呑んだ。形どおり「賛成」といった声はやはり少し年寄りじみていると自分で思った。そして無言のままに立ち上がって部屋を出ていく天皇を見送った。その日の朝の天皇は、生気に満ち溢れているように老人の眼には映っていた。鈴木がそのわけを知ったのはそれから数時間後のことであった。帝国海軍の機動部隊が、この日の朝まだきに、米太平洋艦隊の根拠地真珠湾に奇襲攻撃をかけ、その大半を覆滅したという。
その日、帰宅した鈴木は、ラジオが叫びつづける大戦果の報道を耳にしながら、たか夫人や子息の家族たちに表情を暗くしていった。
「これで、この戦争に勝っても負けても、日本は三等国に下がる。何ということか」
[#地付き]●「山本連合艦隊長官は戦死しました」[#「●「山本連合艦隊長官は戦死しました」」はゴシック体]
真珠湾攻撃とマレー半島上陸の両作戦で戦端がきられた太平洋戦争は、緒戦においては日本軍の快進撃をもって推し進められた。十七年二月にはシンガポールが陥落、アジアからイギリスの勢力が追い払われた。祝意を奏上する木戸内大臣に天皇はいった。
「つぎつぎに戦果があがるについても、木戸には度々言うようだけど、まったく最初に慎重に十分研究したからだとつくづく思う」
だが、鈴木貫太郎はこの戦争の勝利にまったく信をおいていなかった。「えらいところまでいくなあ、これでは長期戦になるほかはない」と嘆じた。そして同憂の士でもある岡田啓介とひんぱんに会い、戦争を早期に終結させる方法はないものかと、ひそかに話し合った。そのためには東条内閣を倒すほかはないということで、意見の一致をみたが、政府とはすなわち全陸軍であり、憲兵隊をにぎった陸軍がどんなに強力であるか、二人の元海軍軍人にはわかりすぎるほどわかっていた。
岡田が小石川丸山町の鈴木邸を訪れていたある日、外出先から帰ってきた長男の一夫人布美が、顔色を蒼白くして鈴木にいった。
「お向いの奥様とお話してまいりましたら、奥様のお話では、毎日露地のところに一人の男が立って、家の方を見張っているというのです。出入りする人のことをみな書きとめているんですって……」
嫁の話に鈴木は表情を変えなかった。驚きも怒りもない。自分が危険人物とみられていることには、侍従長の時代いらい鈴木は馴れていた。
「お布美さん、心配しなくてもいいですよ」
とはいったものの、岡田にそのことを伝えるときには、さすがに鈴木はうんざりした。
「|大廈《たいか》の|顛《たお》れんとするは……、ということなのか」
「勝っているいまが最後のチャンスなのだが」と岡田が応じた。
鈴木は葉巻をおいて、岡田にいった。
「わしらが会う場所を変えた方がいいかもしれんね」
さらに戦果は後をついだ。三月八日、ビルマのラングーン占領、ニューギニアにも上陸、九日にはジャワのオランダ軍は降伏した。フィリピンのバターン半島ではなお戦闘がくり広げられていたが、これも時間の問題だった。『木戸日記』の三月九日にある。
「御召により御前に伺候したるに、竜顔ことのほか麗しく、にこにこと遊ばされ〈余り戦果が早く挙がりすぎるよ〉と仰せあり」
たしかに、これほどの大戦果が連続的に挙がるとは、だれもが予想しないことであった。だが鬼貫太郎≠ヘ、戦況の行方にかれ独特の戦略眼による憂色をいっそう深めた。先制の成功に有頂天になり、攻勢につぐ攻勢は確かに威勢がいいが、それも程度問題であろう。途方もなく手を広げることで、広大な海洋上いたる所に少ない兵力を分散配備せねばならなくなり、その連絡補給のため、それでなくとも寡兵の海軍力が食われてしまうことになる。
「やはり、この戦い方は上策とは思えない」
と、かつての集中・肉迫の水雷戦術の第一人者は、醒めた眼をもって、身近な人に開戦当初から|洩《も》らしていた。
この憂いはすぐに現実となった。先制につぐ先制を企図し、短期決戦による戦争終結を目指した山本連合艦隊司令長官の作戦は、ミッドウェイ作戦で大きく|蹉跌《さてつ》した。六月五日から六日にわたって戦われた海面から、真珠湾攻撃の武勲に輝く精鋭空母四隻が姿を消し、藻屑となった。海軍統帥部の落胆は深かった。新聞は大勝利のように報じたが、この戦争の、短期決戦による講和の道は厚く閉ざされた。しかし、戦う大元帥≠ヘいった。
「今回の損害はまことに残念であるが、戦いのことなれば、これくらいは当然である。士気を衰えしめず益々努力し、今後の作戦が消極|退嬰《たいえい》とならざるようにせよ」
だが、戦勢はヨーロッパでも太平洋でも、潮が変わるようにおもむろに変わっていった。ミッドウェイでの手痛い敗北からほぼ二カ月後、ドイツ軍はスターリングラードでソ連軍との死闘を開始した。さらに、太平洋戦域でも、ソロモン群島の名も聞いたことのない小島ガダルカナルから、米軍の猛反攻が火ぶたを切った。
戦闘は泥沼の消耗戦となった。鬼貫太郎≠ェ予言したように、海軍力は補給と小競り合いのうちにぽろぽろと失われていった。陸海軍を統率する大元帥としての天皇の憂色は、このあたりから深まっていく。
昭和十八年二月、日本軍はガ島争奪戦に敗れ、このはるかな南の島から撤退した。同じ二月、スターリングラードでの全面降伏、これを境にヨーロッパ戦域でもじりじりドイツ軍の後退がはじまっていく。開戦前に、天皇はしばしば陸海軍統帥部に質問した。勝てるか、と。統帥部の答えは、絶対に勝てるとはいい切れないが、必敗ともいえぬ、というものだった。が、その必敗の状況がおもむろにではあるが、広い太平洋のそこかしこに生じつつあった。しかも、参謀本部と軍司令部の作戦責任者の間で一切の情報がオープンにされず、ときに陸軍も海軍もおのれの|面子《メンツ》から重大情報をひた隠しにする傾向さえ生まれてきた。
ましてや、たとえ海軍の先輩であろうと、部外者に情報が与えられるはずもなかった。昭和十五年六月から枢密院副議長となり、枢密院のさまざまな委員会のまとめ役の重職にあった鈴木貫太郎もまた、例外ではない。飾りものの枢密院は、戦況については完全に部外者であった。
十八年五月初旬のある日、枢密院の委員会の審議の席上、説明に立った海軍大臣嶋田繁太郎大将が、思いもかけぬことをすらすらといってのけた。
「山本連合艦隊長官はすでに戦死しました」
委員長席にあった鈴木は驚いて、
「山本が戦死した? それはいつのことか?」
と思わず聞いた。これに嶋田海相がぬけぬけと答えた。
「軍の機密に属することですからお話できません」
鬼の貫太郎≠フ本領が、この瞬間、|奔《はし》り出た。すっくと立った鈴木副議長は、平常の穏和な風貌や言葉遣いをかなぐり捨て、烈火のごとく怒った。
「おれは大日本帝国の海軍大将だ。その返答は何であるかッ」
そしてその後もずっと、腹の虫が余程おさまらなかったのか、鈴木は嶋田海相を語るとき、「けしからんやつだ」と話すことを常とした。
ここには鈴木貫太郎という海軍軍人の、山本五十六に対する熱い想いがある。親しく交わったのは練習艦宗谷での遠洋航海のとき以外にはないが、同じ維新の賊軍¥o身、薩長閥に抗すれど国や天皇に対するその心情はおのれの心に通じている。三国同盟に反対、対米避戦、山本が海軍次官だったころから、自分と同意見の軍人であった。戦争と決してからは黙々と太平洋の最前線へ赴いた。戦争に勝ち目のないことを承知しての出征である、ただ遺憾なきまで懸命に戦えば自分の使命は足りる、そう山本は考えていたに違いないと鈴木は思う。若くありせば、おのれもまた同じ心の戦士として戦ったであろう。義気の武人を、鈴木はこよなく好んだのである。
この状況に鈴木の憂いは深まっていった。開戦前の非戦論はまったくかれの口の端にのぼらなくなったが、そのかわりに政府や統帥部の戦争指導ぶりに辛辣な批評をとばすようになった。枢密院会議に東条首相が出席し、答弁につまると「必勝の信念でゆく」と逃げるのに、鈴木は帰宅してからたか夫人に嘆きに嘆いた。
「東条の信念、信念にも困ったものだ。信念だけでは戦争には勝てないのにねえ。いったい国はどこへ行くのだろうか」
戦局の推移をみるかぎり、国家間で同じテーブルについて和平交渉をするという機会は完全に失われた。昭和十八年一月のカサブランカ会談いらい、米英の戦争指導者には、ドイツと日本の「無条件降伏」以外に戦争の終結はない、という強硬策が打ち出されている。話し合いによる和平の道がないならば、国民は一致協力して戦争努力をつづけるほかはない。字義どおり「欲しがりません、勝つまでは」であった。
天皇は、開戦直後の十七年二月、東条首相に「戦争の終結について機会を失せざるように十分に考慮せよ」と命じていたが、戦局が悪化したのちはぷっつり口にしなくなっていた。状況が悪化すればするほど天皇は戦争にのめり込み、軍と憂いを分かち、策をともにしようとしていた。
しかも、木戸内大臣の意見も入れ、責任者以外からの余計な雑音に耳を傾けるのを嫌った。大元帥として大本営幕僚に全幅の信頼をおいたのである。天皇は|孤《ひと》りで懸命に戦っている。直宮の高松宮や三笠宮をさえ近づけようとしなかった。
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[#地付き]●「敵はついに倒れた」[#「●「敵はついに倒れた」」はゴシック体]
こうして昭和十九年が明けた。開戦後丸二年を経過して、国力の差から大日本帝国の勝機は完全に失われた。鉄の暴風ともいうべき航空機の空襲、戦艦群の艦砲射撃、そしてはるかに優勢な火力と兵力による上陸という米軍の島づたい作戦の前に、孤島の日本軍の玉砕戦がはじまったのである。日本軍にとって戦闘とは、鉄に人間の肉体をぶち当てることにほかならなかった。
四月三日のタイムズは報じた。少なくとも二十万の日本軍を南太平洋および南西太平洋に閉じこめたので、これら日本軍は、
「弾薬が尽きるまで戦うか、ジャングルの奥深く逃げこんで餓死するか、病死するか、という絶望的な将来に直面している」
五月十四日のニューヨーク・タイムズの見出しは、わがアメリカが太平洋の支配権を掌握した、という華々しい文字で飾られた。
ガダルカナル島争奪戦は太平洋戦争の分水嶺だった。そして十九年六月十五日の米軍の上陸によるサイパン島をめぐる攻防戦は、これに敗れれば大日本帝国に勝利のないことを示す決定戦になった。それだけに陸海軍統帥部は短期間ではあったが防備を固め、十分な作戦を練って、その日を待ち構えていた。天皇もまた国運の前途に期するところがあったのだろう、六月八日、木戸内大臣をよんで、時局いよいよ重大な折柄、生物学の研究や散歩なども中止したいと思うが、と問うほどの意気ごみを示した。
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その聖慮を安んじようと、隠忍自重、訓練に訓練を重ねてきた連合艦隊は総兵力を結集し、マリアナ海域で米大機動部隊を迎え撃った。日本海海戦に揚がった栄光のZ旗が、旗艦の|檣頭《しようとう》にはためいた。統帥部は日米の艦隊決戦は十九日と予想した。
その前日、天皇は東条参謀総長(首相・陸相を兼任)をよぶと、強く警告した。
「万が一にもサイパンを失うようなことになれば、東京空襲もしばしばあることになるから、是非とも確保せねばならぬ」
しかし、天皇の期待は空しかった。日本海海戦のような完勝を、米海軍がつかみとることになる。連合艦隊は戦果ゼロで持てる航空兵力全滅という惨憺たる戦闘ののちに、急速に海戦の幕を閉じた。空と海の決戦に敗れてマリアナの大勢は去った。戦争に大日本帝国の勝利のないことが明白になった。
「来月上旬にはサイパン守備隊は玉砕すべし。もはや希望ある戦争指導は遂行し得ず。残るは一億玉砕による敵の戦意放棄をまつあるのみ」と大本営は六月二十四日の戦争指導日誌に記した。陸軍統帥部の自暴的な判断はどう読んだらいいのだろうか。
岡田啓介、米内光政、近衛文麿らの重臣グループが戦争終結をめざす和平工作へと動きだしたのは、サイパン戦勢が絶望となる前夜からである。そのためには東条内閣の打倒である。だが国務と統帥の両実権をにぎり、憲兵でにらみをきかした東条体制のガードは堅い上にも堅かった。作戦は、新聞などに「東条の副官」とまで書かれている嶋田繁太郎海相(軍令部総長を兼任)に標的をしぼることにした。かれに辞職を強い、海相に米内、総長に末次信正大将をすえて、海軍の体制を建て直し、そして東条の陸軍にあたろうというものだった。
岡田大将と秘密裡に会談した鈴木貫太郎は、政治にかかわらずの主義をのりこえて、このとき非常な張り切りをみせた。「けしからぬやつ」を辞めさせるに否応はない。二人の元大将の意見は、ともかく海相か軍令部総長かいずれか一方の椅子を奪うには、嶋田が唯一の頼みとしている伏見宮元帥に、その旨を申し渡して|貰《もら》った方がいい、という点で一致した。
ここで、東条・嶋田のコンビは反撃に出た。わざわざ熱海より上京した伏見宮に、嶋田はねじこんだのである。
「私が辞めれば東条も辞めます。現に政界には、海軍を使って東条内閣を打倒せんとする陰謀があります。殿下はそれに加担遊ばされるというのですか」
この|威《おど》しに、伏見宮は驚き入って、熱海へほうほうの体で帰っていった。「東条幕府」とも称せられたその権威は、宮様をも|威嚇《いかく》するに十分な力をもっていた。
岡田と鈴木は、それにもなお屈しなかった。かれら重臣グループのほかに、軍の一部や知識人、官僚のなかにも東条打倒でひそかに動きはじめた。東条暗殺が企てられたのもこのころである。あらゆる反政府・反軍の考え方を反戦または厭戦のあらわれとして官憲の弾圧が加えられ、国民総監視のなかで、和平工作をすすめることは非常な危険を覚悟せねばならなかった。
だが、その東条内閣はあっけなく倒れた。七月六日、サイパン島守備隊は玉砕し、「サイパン防衛は絶対安泰である。一週間や十日はおろか、何カ月でも大丈夫である。決して占領されることはない」と常々豪語し奏上していた東条参謀総長に対する天皇の信頼が、一挙に失われてしまった。内閣改造によって生きのびようとした東条のもくろみは、天皇の拒否にあって|潰《つい》えた。天皇の信を失ったと知った東条首相は、最後のあがきを示すことなく、七月十八日に辞表を提出、世田谷用賀の家へ引きこもった。
「敵はついに倒れた」
海軍省詰めの記者が叫んだというが、なぜかその「敵」という言葉が、だれの胸にも実感として響いたという。これが国家の運命を賭しての戦時下における国内体制であろうとは。
東条内閣の辞職は単なる政権交代ではなかった。それは、いわば二・二六事件からひきつがれた陸軍主導の膨張政策、同時に「最後の一兵まで」という戦争完遂路線の終焉をも意味していたのである。
同じ日、ただちに重臣会議がひらかれ、小磯国昭陸軍大将が推戴され、米内大将がこれに協力を命じられ、小磯・米内内閣が成立したが、この席上で首相候補として鈴木貫太郎の名が、近衛文麿の口からいい出されている。表面立った政治的な動きをせず、ただ枢密院顧問官として余生を送ろうと決めていたかにみえる鈴木の存在を、重臣たちがどう見ていたか。それを知るためにもこの一問一答は面白い。
近衛「世間では鈴木貫太郎氏を首相に、という声もあるが……」
平沼騏一郎「個人的な事情はともかく、今日国家のためになれば、鈴木氏に出馬を願うのが至当であろう。自分は鈴木氏をよく知ってはいるが、立派な人と思う」
広田弘毅「穏当な人柄の人と思う」
平沼「強いところもあり、人の言を|容《い》れる人である」
そして、妙なことに近衛が鈴木に執心しつづけた。元外務次官・吉田茂、元陸軍大学校長・小畑敏四郎中将らと語り合い、その後にも鈴木を首相に擁立し和平の手がかりを得ようと画策するのである。天皇に信任の厚い元侍従長のほかに、天皇に近づき、「戦う大元帥」に戦勝後和平≠ヨの未練を断ち切ってもらう適役はいないと、かれらは互いに確認し合ったのである。
十月中旬ごろ、近衛と吉田の二人が鈴木大将と会い、じっくりと話し合った。二人の眼にはのんびりとした老人とも眺められる鈴木が、このとき、奇妙なほどはっきりと反対意見を述べた。
「戦争というものは、最後の最後まで戦ってみなくては、結果のわからぬものなのです。したがって、途中で軽々しく和平だの妥協だのと考えるべきではありません。こっちが苦しいときは、敵もまた苦しいときなのですよ。結局は、我慢したほうが勝利を収めることになります。かつて支那において、元朝に対する軽率な和平工作をしたために、結果として宋朝の滅亡をまねいた南宋の政治家、|賈似道《かじどう》の例もあるのです。そう思えば、あまりに軽々しくこれを扱って、わが国に南宋の二の舞いを演じさせてはなりません」
日清・日露の戦役で敵弾をかいくぐり、肉迫の夜襲の水雷攻撃をかけた海の男の闘志が、風雪でより鍛えぬかれて生きているようであった。
ねばりのない近衛はすっかり鈴木に失望した。鈴木内閣による和平工作など期待すべくもないと断念しようとしたが、吉田はブルドッグのようにあきらめなかった。戦争を終らせるという至難のことは、この耳の遠い老人の誠忠にすがるほかはない、と信じきり、その後も数回にわたり会談し、説得を試みた。
しかし、八十歳に近い元提督は、「年をとりすぎている」と提案をはねつけ、積極的に動こうとはしなかった。
その間にも戦況は絶望的な様相を呈していった。日本本土の上空に、十一月一日、サイパン基地を発したB29がはじめて姿をみせた。一週間前、すでに連合艦隊は、米軍のフィリピン諸島レイテ島上陸を阻止しようと出撃し、「全軍突撃セヨ」の命のもとに夏の虫が火に入るごとく突入して潰えた。同じとき十死零生の攻撃、すなわち神風特別攻撃隊が正式の作戦となっていた。
小磯内閣はなんら手を打とうともしない。宮中の木戸内大臣もまた同様だった。要は、陸軍を押さえ切れないのである。その陸軍にも焦土抗戦、一億玉砕という無謀な策しかたてられなかった。
吉田との何度目かの会談のとき、政治嫌いの鈴木が珍しく、|噛《か》んで吐き捨てるようにいった。
「お上のそばに公明正大な人を多く据えなくてはいけない。木戸内大臣なんか早く辞めさせた方がいい」
穏和なこの人には想像もできないほどの激しい口調を、吉田は記憶にとどめたのである。
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[#小見出し] 第十章 最後の宮廷列車
[#地付き]●「陛下を仁和寺にお迎えしよう」[#「●「陛下を仁和寺にお迎えしよう」」はゴシック体]
昭和二十年、東京の不幸な新年は、零時五分、警戒警報の長いサイレンの音で明けた。連合軍は圧倒的な兵力を展開させ、ひた押しに日本本土に迫りつつあった。これを迎え撃つべき艦隊も、十分な航空兵力もない日本帝国は、敵の思うがままにまかせるよりほかなかった。
しかし、一つの国家が崩壊していくきしみの中で、戦う大元帥≠ゥら憂悶の天皇≠ヨの顔を、おもむろにではあったが、天皇はあらわにしはじめたのである。
このころの天皇の生活は、国家の元首でありながら質素をきわめていた。午前八時から政務につき、夜の九時、十時まで精励することが多く、前年に建築されたご文庫を住居とされていたが、大半の部屋を女官たちが占め、数室を天皇と皇后が使用するにすぎなかった。朝はトースト、オートミール少量、魚または卵の料理、果物。昼と夜は、和食なら一汁二菜、洋食なら魚か肉一皿、野菜一皿、それと果物である。七分づきに麦をまぜたご飯は一日一回、あとはうどん、そば、いもなどの代用食ですます。皇后がつんできた宮城内の野草で作った手料理を天皇はもっとも喜んだ。
この天皇を擁して、米軍の日本本土上陸を迎え撃ち最後の決戦≠統帥部が構想したのは、一月の中旬である。これによれば、小笠原諸島(硫黄島を含む)には一月か二月、台湾あるいは沖縄には三月か四月に敵は進攻する。本土上陸は秋ごろ、本土防衛の主線は九州と統帥部は判断している。一月十九日、この『帝国陸海軍作戦計画大綱』をもって参謀総長梅津美治郎大将と軍令部総長及川古志郎大将が列立して、天皇に奏上した。
天皇は、いつもの通り、この本土決戦の計画方針を黙って認可した。
こうして日本列島を焦土にしても徹底して戦う計画が菊のカーテン≠フ内側でたてられたことを憂えるかのように、近衛・岡田・米内の三重臣が京都の近衛の別邸で、天皇の将来について密議したのは、それから六日後の一月二十五日のことである。
もはや敗戦はまぬがれない、とすれば、国土が徹底的に破壊されないうちに戦争を終結させる、それがせめてもの残された道だ、というのが三人の共通な認識だった。
「そこで国体の護持をどうはかるかだ」
と近衛がいった。米内が答えた。
「領土が削られ、本土だけとなっても仕方はない。われわれとしては、皇室の擁護ができればいい」
「しかし、和平といっても……」と近衛は強い口調でいった。
「無条件降伏を覚悟してかからねばなるまい。連合国は当然に陛下の責任を追及してくるであろう。万一の場合には、陛下をどうするかだ。私は、先例にならって、陛下を仁和寺にお迎えし、落飾(出家)を願ってはどうかと考えている」
かれらは最悪の場合を予想した。カサブランカ宣言いらい無条件降伏政策を公言している連合国を相手にするからには、国体護持を放棄せねばならぬかもしれぬ。つまり裕仁天皇か天皇制の双方、または一方を犠牲にする覚悟が必要ではないか。そう思えば、米内も岡田も暗澹たる気持となり、近衛の言葉にうなずくほかはなかった。
近衛は翌二十六日にも、同じ別邸に海軍大佐の高松宮を迎え、前日の密議の模様を伝え、自分の決意を語っている。
「お上は責任のないものがあれこれ言ってはいかん、ということで、われわれ皇族でもお話しする機会がないのだ。自分も今年になってただの一回だけ拝謁はしたが、直接にお話し申し上げることは許されなかった」
と高松宮は嘆いた。皇族ですらその状態で、だれが天皇に戦争終結を訴え、連合国との和平交渉の一日も早きことを勧めることができるというのか。
「ともかく、戦争終結に際して、連合国が皇室に対してどうでるか楽観は許しません。万一を考慮して思い切った対策を立てておくことが必要です」
と近衛は、天皇退位、出家という、かれの腹のうちの秘策を言外に皇弟にもらしたのである。高松宮はその夜九時すぎに京都を離れ夜汽車で帰京したと、宮内庁記録は伝えている。その夜の近衛は至極機嫌がよかったという。
一月三十日、東京に戻った近衛は、さらに木戸内大臣をたずね、戦局の重大化していることを力説し、
「どうしても陛下に、戦争の見通しについて、形式的なことでなく事実のところを伝えねばならないときだ」
といった。いまの日本にとって大切なことは、天皇に真実を知らせることにある。そうすることで、戦う大元帥≠フ顔を、和平の方へ向けさせねばならぬ、たとえ最悪が予想されようとも、と近衛は木戸に説くのである。
近衛だけではなかった。小磯内閣の外相重光葵も木戸に深刻な意見をもらしてきていた。
「もはやネゴシエーテッド・ピース(講和)で時局を収拾することは困難で、形をどう取りつくろうかはともかく、結局はサレンダー(降伏)ということになるほかはない」
そして、いまから最悪にそなえておく必要がある、と重光外相はいった。
「私も到底立派な講和条約などはもはやできないと思っている」
と木戸は苦しそうに答えた。
かれら日本の上層部は、戦いに敗れても、せめて皇室だけは存続させなければならない、という点では意見の一致をみた。そのためにもすみやかに戦争を終結させることが必要だった。だが、その結果、最悪の場合があれば、裕仁天皇その人をどうするか。誰もはっきりと口に出すものはいなかったが、漠然とある種の意見の一致があったとみることができる。
元侍従長鈴木貫太郎はこうした政治の裏舞台での密議とは、まったく無縁の存在であった。前年の十九年八月、原嘉道の急死にともなって、枢密院議長にまつり上げられはしたが、いぜんとして政治嫌いの老提督でしかなかった。だが、その鈴木が、いざというときには裕仁天皇を出家させ仁和寺に移す、などという密議を知らされたら、はたしてどう思ったであろうか。満身これ武人、武士道の伝統に忠なる義人である鈴木は、裕仁天皇のために一身を捧げていささかのためらいもない誠忠の人なのである。かれの胸中のどこを割っても、おのれの身分を安全にするために裕仁天皇か天皇制のどちらか一方を犠牲にするような、無条件降伏を甘受する気持はないのである。
副議長時代から鈴木は、たずねてくる人があればだれであろうと委細構わず、その好みとする戦さ話を語った。非開戦論者であったから和平派であろうと予想して、かれをたずねる人は、思いもかけぬ鼻息を示されて、当惑して帰るのを常とした。
「アメリカという国が力の論理に立っている以上は、弱味をこれっぽちも見せてはいかんのですよ」と鈴木は断乎として語った。
「そう簡単に手を挙げるわけにはいきませんよ。いざとなったら三方ヶ原でゆかなくちゃ……」
そして、日本の戦史や軍略に深い洞察を示した海軍大学教官時代に戻ったかのように、鈴木は楽しそうに、武田勢と戦って不利におちいった三方ヶ原の戦いでの徳川家康について、語りに語った。
いまは膝を屈して武田の軍門に|降《くだ》るよりほかに策はない、と重臣連に勧められた講和論に耳をかさず、家康は全軍に令して城中に引き揚げさせた。そして逃げ帰った居城の大門を|殊《こと》さらに大きく開け放ったままにさせた。徳川の家来も、追撃してきた武田の軍勢も何事かと驚いたが、家康は、
「来らば来れ」
と挑戦的に身構えた。家康という将は狡智で聞こえているから、勝ちに乗じた武田の大軍も、かえってその振舞いの裏に計りがたい深謀奇略が秘められているのではないか、と疑心暗鬼。あえて突入せずについには軍をひいたという。
「この家康の軍略こそ、いまの日本になくてはならぬものなのです。敗れたりといえ、敗れたと気落ちして闘志を失ってはならないのです。苦しいから一日も早く戦さを終らせたいなどと弱味をみせては、亡国あるのみ。飽くなき頑張りなくては、真の最悪を招くことになるのです」
ここには近衛たちのような政治家としてではなく、海軍軍人としての時局観があり、戦略眼がある。和平へと政策の転換を計るにせよ、鈴木にあっては、頑強に抵抗しつづけることが前提でなければならないのである。
しかし、講談に近い「三方ヶ原」を聞かされる人は、鈴木の気炎を怪しみ、かれを「徹底抗戦派」と誤解する人が多かった。近衛もまた、その一人だった。岡田、米内らと語らい、時局転換のために少しずつでも動くことを決め、下準備として若槻礼次郎や鈴木貫太郎に積極的に働きかけることにしたが、鈴木と会談した近衛はまたしても大きな失望を味わった。鈴木が近衛に説いたのは、こんどは長久手の合戦であった。
織田信雄を助けて、日の出の勢いの豊臣秀吉の大軍を小牧・長久手に迎え撃った家康は、戦いが長びき、前途に打開の方策が期待できない苦しい対陣となったが、諦めたり弱気になったりすることなく、陣を一層固めて最後まで勢威を示して頑張りぬいた。近衛にとって教えて貰わなくともわかる軍記を、鈴木は楽しそうに語ってからいった。
「この家康の一歩も退かじという激しい闘志が、ついに秀吉に和平した方がいいと思わせたのです。家康のように、われわれもあくまで抗戦しつづける。そしてアメリカをして戦いに|倦《う》ましめて、もって和平への道をとらしめる。無条件降伏など日本にはないのです」
貴公子の近衛は、ついに老提督の果敢な闘志を理解できなかった。「この老人は当てにはならぬ」と思う。だが、同志ともいえる吉田茂はすぐに気落ちをみせる近衛の尻を叩いた。手をこまねいている時間的余裕はない。しかも、このままでは小磯内閣もいつ瓦解するかわからないほど、追いつめられ、なお無策をつづけている。
そうした日本に追いうちをかけるように、二月四日いらい八日間にわたって米英ソ三国首脳が話し合ったヤルタ会談の声明が、二月十四日に発表された。すでに壊滅に瀕しているドイツを徹底的に破壊しようとしている、と日本国民には受けとられた。
さらに五日後の二月十九日、朝日新聞は連合国十二カ国が合議して作成したという「対日処分案」を掲載した。
一、日本憲法の改変
二、カイロ宣言に基づく日本帝国の分割
三、日本の全面的占領、主として重慶軍が担当
四、軍首脳部を含む戦争責任者の処罰
など、八項目がならんでいた。これは国家そのものの奴隷化である、と大本営は絶叫し、ますますもう一度の大戦果≠ノ固執することになった。
[#地付き]●「あとは鈴木貫太郎さんに頼んだら」[#「●「あとは鈴木貫太郎さんに頼んだら」」はゴシック体]
小磯内閣の政策は一層行き詰まった。重臣たち同様に、政府もわかってはいても無策だった。そして大本営のとなえる「本土決戦」のみが声高に日本中に響いている。心ある人は、その声にかき消されながら低い声で「天皇制護持のための終戦」をいいつづけたが、その方策となれば「戦争を強力に遂行することにより有利な機会」をつくって、ということにつきた。しかし、有利な時機とは、いつ、どのような状況が現出すれば、それだと判定できるというのか。
機会を空しくすりぬけ、その間にマリアナ基地からB29の爆撃作戦が、「軍需工場の精密爆撃」から「都市の無差別爆撃」に変更された。戦術の根幹は低空からの夜間の焼夷弾攻撃である。三月九日深夜から十日未明にかけて、東京下町の市民が最初の|生贄《いけにえ》となった。零時八分に第一弾が投ぜられ、七分後に、空襲警報が発せられたが、大きな火炎が地上から噴出、やがて円形の炎と煙が数千メートル上空に達し、その円塔を東から西へ、南から北へ突きぬけながら二千トン以上の焼夷弾を、B29三百余機が投じて去っていった。
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その夜、天皇は侍従の先導で、そっと宮内庁の屋上にお忍びで立ち、火の海と化した下町一帯を遠望した。幾万の生命がそのなかで失われている。天皇の苦衷もありありの顔が火炎のほてりで赤々と照らし出された。天皇はただの一語も発することもなく、杭のようにいつまでも、微動だにせずみつめていた。
その日の午後二時、第一生命館で岡田、近衛、若槻、平沼騏一郎の重臣四人がひそかな会合をもった。明け方の下町全滅の空襲の話がいやでも中心となったが、平沼が突然に思いもかけぬようなことをいい出した。
「もう小磯内閣はだめですね。あとを鈴木貫太郎さんに頼んだらどうですか」
岡田も若槻もあっけにとられたように黙って、平沼の顔を眺めるだけであった。近衛は「長久手の戦い」の長談義を想い出しながら、
「いや、それはどうかな」
と不賛成の意を口に出した。
小磯のつぎに鈴木を、という強い提案が出されたのは、これが初めてであった。いずれにせよ、小磯内閣ではもはや悪化の一途をたどる戦争指導はできないという想いだけは、四重臣共通のものである。倒れればすぐ重臣会議がひらかれ、何の準備もなく数時間で次の内閣が決まる。それはまことにまずいことである。この重大時期に、軽々しく次の内閣を決めず、これはと思う人物をあらかじめ物色しておこう、とだれもが考えだした。
それでは、だれか。近衛その人、または宇垣一成、そして鈴木貫太郎……。
「鈴木さんなら、まず長く侍従長をつとめたから陛下の気持を察してうまく動くだろう、と思うのは間違いですよ。一度鈴木老に会ってみればわかるが、必ず三方ヶ原か長久手の軍略を一席弁ずるでしょうから……」と近衛は投げだすようにいった。
しかし、この危機の政治情勢下、狂気に指導されているなかで、「|乃公《だいこう》出でずんば」とみずから言い得る人物は払底していた。近衛に最大の期待がかけられるが、その|長袖《ちようしゆう》育ちの無責任さと勇気のなさには、何度も煮え湯をのまされている。重臣たちの視線は自然と鈴木に集まりはじめた。日清・日露の両戦役の勇士、シーメンス事件での見事な硬骨ぶり、そして二・二六事件での生命を拾った運の強さ、それに何よりも裕仁天皇への稀な忠誠心。いまの危機を乗り切るために必要なのは、この抜群の純朴さと不動の勇気の持主であろう。
しかし七十九歳という老齢、それ以上に、鈴木の政治嫌いには定評があった。あの「三方ヶ原」の老人に「うん」といわせるのは至難のことかもしれない。
岡田啓介は、同じ海軍育ちとして、またこよなき話相手として、鈴木の政治嫌いの心情がわかるような気がした。海軍次官として、シーメンス事件から八八艦隊の予算成立まで、馴れぬ政治の世界でもまれた体験が、素質的に政治向きでない鈴木を、より政治嫌いにさせたのであろう。権謀術数や裏取引きにもっとも無縁な、徳操一本槍の海の男。だが、その誠実さにこそいまの国家の政治は頼らねばならない。岡田はこれを皮肉といわずして、これ以上の皮肉はない、と思う。
岡田が動き出した。根回しの名人ともいえる元大将が、平沼の案に乗ったのである。小磯の次に鈴木を首相に、そして陸軍をおさえるために陸相には、これも鈴木と同じように政治的に無色の阿南惟幾大将を、という案で、岡田・平沼会談は意見の一致をみた。阿南大将はどちらかといえば、陸軍の教育畑育ちの闘将である。統制派にも皇道派にも属さぬ清潔な人格者という定評がある。政治的には無色で未知数だが、その不確定要素にむしろいまの陸軍を仮託した方がいい。
岡田はさらに若槻を説いて、賛成を得た。若槻は、近衛内閣を主張したが、岡田は、
「近衛公は最後のためにとっておくべき人である」
といい、若槻を説得した。岡田の|老獪《ろうかい》さというほかはない。さらに岡田は近衛と会い、鈴木後継内閣説を納得させ、木戸内大臣の意向を聞いてほしいと依頼した。木戸も、鈴木内閣構想に格別の異存はなかった。皇室をいかに安泰にするか、それのみが木戸の最大の関心事である。その点について小磯内閣は何を考えているかわからぬ、といい、
「小磯は今日自分以上に忠誠なるものはなし≠ニみずから言うほどの馬鹿ものなり。陸軍に人がなければ、鈴木氏でよいだろう」
と賛成した。しかし、木戸は内心では、だれが首相の印綬を帯びようと、ドイツが崩壊せぬうちに戦争終結のために積極的な措置を強行しようとすれば、必ずやクーデタの危険にさらされるに違いない、と考えていた。そのために、むしろ阿南を首相に、と構想していたのであるが……。
三月二十七日ごろまでには、重臣の間で後継はいつか鈴木にしぼられていた。問題は、その鈴木が引き受けるかどうかである。米内の意見も確認し、海軍の勢威を落とさないためにも、海軍出身の鈴木の出馬を、と岡田は直接鈴木に打診してみた。鈴木は案の定はっきりといった。
「自分は政治家ではないから、大命が下っても受けない」
岡田はねばった。「だが、ほかに人なし、鈴木内閣を最後の内閣とするつもりで、奮発願えまいか」
このとき、鈴木は珍しくきっと居ずまいを正すと、激しい口調でいった。
「最後の内閣だから、貴様出て死ね、と言われるならお断りはできぬ」
この言葉を聞いたとき、岡田は「これは脈がある」と内心にんまりとした。
四月三日、鈴木内閣構想を知らされた高松宮もこう感想をもらした。
「鈴木大将を総理とするという案は、考えてみるとなかなか面白いと思うね。第一に、陛下のご信任がだれよりも厚いということ。第二に、お上の|思召《おぼしめ》しどおりに政治を運用しようと努力するだろうこと。第三に意志が強固だということ。この三点からみても最高の人事だと思う」
しかも、政治嫌いで政治に向かない人柄であるから受けないかもしれない旨に対しても、高松宮はこんな智恵を授けるのであった。
「もうこうなれば政治がどうのというときではない。まして陛下の御親政ということになれば、思召しを具体化することだけをやればいいのだからね。そういって鈴木を説けばよいではないか。あの、至誠一途の鈴木に断れるはずはない」
こうした動きが鈴木にまったく知られることなく運ぶはずはない。鈴木は私宅で、たか夫人や長男の一夫妻らに「困ったことだ」とぽつりともらしたりした。家族のものたちはもちろん猛反対した。
「こういう国歩|艱難《かんなん》のときに、そんな老齢で総理になられることは、はたして真の忠義といえるのでしょうか」
「もう日清や日露の時代とは違うのです。それに耳も遠いことだし……」
鈴木も深くうなずいていたが、いや、艱難のときだからこそ鬼貫太郎≠ノ、政治の表舞台で働いてもらおうという構想が、人びとには最良のものと映じるのである。老齢や政治に無縁といった辞退の砦は、時がたつにつれ、外堀はおろか内堀まで埋められていたのである。
[#地付き]●「もうほかにひとはいない」[#「●「もうほかにひとはいない」」はゴシック体]
四月一日、米軍は日本本土である沖縄に上陸を開始した。上陸部隊は十八万、迎え撃つ日本軍は七万七千。日本海軍はこの戦をもって最後の決戦と考えたが、陸軍は本土決戦のための時間稼ぎの戦いと判断していた。
この重大危機を迎え、陸軍にそむかれたまま何ら有効な政策を実行できなかった小磯首相は、四月五日、天皇に辞表を提出した。これを待っていたかのように午後五時から、重臣会議が宮中表拝謁の間で開かれた。重臣たちに木戸内大臣、それと枢密院議長として鈴木貫太郎が初めて出席した。
木戸と四重臣(近衛・若槻・岡田・平沼)、欠席した米内の間では、すでに鈴木推戴が決まっていた。知らぬは東条と鈴木のみである。その二人の出席者を意識したかのように、会議は「飽くまで戦う以外に途なし」という基本原則を確認することで、口火が切られた。戦いぬくとなれば軍人宰相でなければならず、それも陸海いずれにてもよし、と論議が進められていった。
シナリオに無関係な鈴木は、要所要所で発言する。
「どこまでも戦争は戦いぬかねばならない。それが先決だと思う。つまり後継内閣の首班はその意思をもっているものでなければ不適当と思う」
「日清の役のときは、伊藤首相であった。かならずしも軍人の要はないのではないか」
「これまで国家を指導してきた重臣が大奮発されてはどうか。国家に殉ずるの覚悟はもつべきだ。またその責任もある。御前にて討死の覚悟が必要であろう。また首相は身体を労すること故、いちばん若い近衛公がいい。そして重臣が一致して応援する。重臣の四人の方々が奮発されてはいかがなものか」
と、鈴木自身は近衛を推薦しようとしたのだが、すでに仕組まれているから四人の重臣には聞き流され、かえって鈴木はみずから覚悟のほどを述べたような結果になってゆく。そして平沼が筋書どおりに鈴木の名をもち出した。
「まず軍人であること、さらに近衛公はこれまでに行きがかりのない人≠ニいわれたが、これも誠にごもっともなご意見である。とすれば、この際は、国民の信頼をつなぐ意味からも、鈴木大将にお引き受け願いたく希望するものである」
近衛がすぐに和した。「同感である」
若槻が「そうなれば申し分なし。これ以上に結構な案はない」と、さらに強調した。
驚いたのは鈴木である。四重臣が一致して押し返してこようとは夢にも思っていない。
「とんでもないお話である。かねて岡田閣下にも申し上げたことであるが、軍人が政治に干与するのは国を滅ぼす基いなり、と私は考えている。ローマの滅亡が然り、カイザーの末路、ロマノフ王朝の滅亡また然りである。それ故に、自分は政治に出ることは自分の主義上からもできないと信じている。それに耳も遠い。きっとお断り申し上げたい」
必死ともいえる鈴木の辞退の弁をはねのけるように、平沼はいいきった。
「そのお考えは原前議長よりも聞かされたことで、われわれはよく承知している。しかし、いまの場合はそんなことをいっているときではないのです。行きがかりのない人が何よりも大事です。鈴木氏は海軍軍人ではあるが、長く文官としても仕えられ、陛下のご信任の最も厚い人ではないですか。国民もみな、鈴木氏が行きがかりのない精忠無比の人であると、信じているのでありますぞ」
重臣会議はシナリオがすでに書かれているかのように進行した。東条ひとりが「畑俊六内閣」を主張したが、すでに昔日の勢望を失っている陸軍の威嚇に、重臣たちに動揺はみられなかった。そして、それ以上の鈴木の発言を封じるように、木戸が結論を下した。
「今日は国内が戦場になろうとしているときである故に、一層政治の強化が必要であり、国民の信頼のあるようなどっしりとした内閣を作らなくてはならない。自分はこの際、鈴木閣下のご奮起をお願いしたいと考える」
重臣会議は夕食のために八時すぎに終了した。必ずしも説得が成功し、鈴木が納得したわけではない。しかし木戸には自信があった。天皇の命令に、この政治嫌いの老人が従うであろうことはわかりきっていた。その天皇は、重臣会議の結論を何よりのことと喜んだ。
十時すぎ、深夜ではあったが、天皇は鈴木大将を宮中御学問所によんだ。この夜はただの一機の来襲もなく平穏さが保たれたが、それだけに無気味な静けさと暗さが東京の街を深々とおおった。天皇は、七十九歳の、丸い背をさらに丸くして立つ老臣にいった。その声には心なしか親しさがこめられていると、侍立する藤田侍従長には感じられた。
「卿に内閣の組織を命ずる」
暗幕にさえぎられたほの暗い燈火が、天皇と侍従長と、鈴木大将の影を映し出している。天皇はこのあと「憲法の条規を遵守するように、また外交のことは慎重に考慮し、無理おしをせぬように、国内の経済についても大変動を起こさぬよう……」と、言葉をつづけるきまりになっているが、このとき、天皇は一言もいわず、じっと老臣に視線をそそいだ。
しばらく沈黙が流れたあと、鈴木はこれも異例のことになるが、大任をせっかくだが辞退したい意を表明した。一介の武弁には政治はわからぬこと、軍人は政治に干与せざるべし≠ニの明治天皇の言葉そのままに自分の一生を生きてきたことなどを述べ、
「なにとぞ、この一事だけは拝辞のお許しを願い奉ります」
といった。声は低かったが、鈴木は大いなる信念のもとに毅然としていた。天皇はまた、その毅然たる風格を殊のほか好んでいた。
天皇は、鈴木の言葉の終るのを待っていたかのようにいった。
「そう申すと思っていた。その心境は、よくわかる。しかし、この重大なときに当って、もうほかにひとはいない」
天皇は、ここで言葉をきった。そして「ほかにひとはいない」ともう一度くり返した、独白のように。
人々を深淵にひきこむ大内山の閑寂が、ふたたび部屋を包みこんだ。
鈴木はやがて顔をあげて天皇を見上げ、天皇もこの愛すべき老臣をみつめた。そして、おもむろに、
「頼むから、どうか、まげて承知してもらいたい」
と天皇はいった。もともと後継内閣の組織は天皇が命じるものなのである。それが帝国憲法の示すところである。にもかかわらず、天皇は「頼む」といった。
老提督は、深々と頭を下げた。
こうして、政治をいとう鈴木が首相の印綬を帯びることになった。「自分は法律とか経済とかいっさい知らぬ」といい、朋党も子分も持たぬ七十九歳の老人、そして長い生涯を名利を望まず、誠の一字を信じ、ひたすら裕仁天皇に仕えることのみを念じてきた老提督が、戦時下の最後の内閣をひきうけるのである。
鈴木がついに承諾と知らされたとき、岡田啓介はいった。
「この内閣が最後の宮廷列車だ」と。
その最後の宮廷列車の機関士ともなるべき鈴木貫太郎が、小石川区丸山町の自宅に帰ったのはもう十一時を過ぎていた。たか夫人をはじめ一夫妻は、まさか大命を拝するようなことはあるまいと思いつつも、気がかりで待っていた。
だが、帰ってきた鈴木の悲壮な面持ちに接し、だれもが事の成り行きを察した。「困ったことになった」と頭を抱えるようにして居間に通った鈴木は、この日一日の経緯のすべてを語った。
「退下してから木戸内府に『大命を拝受したが、どうしたらよかろう』と相談したが、内府は『誰か知ったものがあれば、これに相談して組閣せられては如何』というだけで、別に手助けしてくれるわけではない」
大命を拝したものの組閣のイロハすらも知らぬ父が、その重責をになわねばならぬ政治のむごさを、一は思った。
「しかし、自分は海軍軍人で、戦争がおこれば、艦と運命を共にすることを、教えられもし、また|希《ねが》ってきた」
と鈴木はいった。
「いま陛下のご命令のあった以上、一身の利害をいってはいられない。赤紙をもらったと思い、命がけで、最後のご奉公と承知してお受けするばかりである。みなには迷惑をかけるが、よろしく頼む」
そういうと、鈴木はすっくと立ち上がり、家族のものひとりひとりに最敬礼をした。
《日ごろ父は『出先の軍の勝手な行動が、日本をここまで追いこんできたのだ。負け戦さを建て直すには、どうしても統帥権を確立せねばならぬ』といっている。いま首相として最後のご奉公で君国の難に殉じようというのであれば、当然のこと、父は統帥権に口を入れるに違いない。そうなればまた二・二六だ。父が抗戦派に暗殺されることは火を見るより明らかだ。父の生命は肉親で守らねばならぬ》と四十五歳の長男の一は思った。そして、農商省山林局長のポストを捨て、「ボディガード兼おやじの耳代り」の秘書官になることを決意する。
布美夫人が「そんな年の秘書がどうして勤まるのですか」とたずねるのに、一はきっぱりといった。
「国破れて役所も局長もない。子供でなくてはできぬ秘書の仕事があるのだ」
鈴木はこの夜、一人の力強い味方を得た。
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第四部 モーニングを着た西郷隆盛
[#小見出し] 第十一章 至誠の仁人、敢為の武将
[#地付き]●「陸軍として三カ条の条件がある」[#「●「陸軍として三カ条の条件がある」」はゴシック体]
四月六日朝、大将はいつものように五時には床を離れた。モーニングに長躯を包み、居室で威儀を正して瞑想をはじめた。秘書官第一号の長男一の指示で、必要な人らがよび集められ、玄関に小さな貼紙がはられた。
「組閣本部」
その本部の要談用の部屋には、階下奥八畳の書斎があてられた。肘かけ椅子二つ、籐椅子二つ、畳の上に敷かれた淡い色の|絨毯《じゆうたん》は少しすり切れていた。床の間から廊下へと追い出された伝記や史書などの書籍の山が壮観で、この家のあるじの読書家であることを語っていた。
午前八時、岡田啓介大将が最初の訪問者として鈴木邸の奥室に入った。岡田は起きぬけに、鈴木から電話をもらい「軍需大臣になってくれ」といきなりいわれて、驚いて駈けつけたのである。だれかいい組閣参謀がついているのかどうかを、まず疑ったからである。来てみれば、案の定の始末で、電話のかけ方にも馴れていないものが、新総理のまわりでうろうろしていた。さすがに岡田は頭をかかえた。早速に鈴木と相談し、岡田内閣当時の首相秘書官であり、岡田の|女婿《じよせい》でもある迫水久常をよび寄せることにした。
鈴木邸の奥室に入った迫水の眼に最初に入ったものは、小さな机をはさんで対座している新総理と岡田の姿だけだった。机の上には一枚の紙がおかれていた。それには内閣総理大臣、外務大臣、陸軍大臣というように官名が書きこまれている。しかし、具体的に氏名の書かれてあるのは、最初の内閣総理大臣の下に鈴木貫太郎とあり、末尾の内閣書記官長というところに迫水久常と書かれてあるのみ、ほかは全部空欄の白紙だった。
「何ということか。岡田内閣組閣のときの活々とした雰囲気にくらべれば……」
と迫水は心底から思った。こんな心細いことで、内閣はうまく成立するのだろうか。
午前九時、鈴木邸から「枢府1」のナンバーをつけた自動車が走り出した。乗車するのは新総理と一秘書官。岡田と迫水は鈴木邸に残って策をねる。車は陸軍省に向った。そこには政略とは無関係な、そして迫水の心配を裏切るような、人間鈴木の真骨頂、または政治的センスがあった。陸軍にソッポを向かれると、かつての宇垣一成の流産内閣や小磯内閣と同じ運命になる、と鈴木首相は考えたからである。
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老躯をひっさげてまっ先に市ヶ谷台の陸軍省に出向いた鈴木を、陸相杉山元は恐縮しながらもすっかり気をよくして、大臣室に迎え入れた。陸軍中央はたちまちに新首相に好印象を抱いた。
新首相は杉山に率直に希望をいった。
「阿南惟幾大将を陸軍大臣にほしい」
ある意味では、全陸軍が予想する陸相人事ではあったが、杉山は別室で、梅津参謀総長と土肥原賢二教育総監との三長官会議をひらき、阿南の承諾を得た後、大臣室に戻った。
「承知しました。阿南大将をご希望どおり入閣させましょう。ついては、全陸軍として三カ条の入閣条件があります」
陸軍の示した条件は三つあった。
一、あくまで戦争目的を完遂すること
二、陸海軍を一体化すること
三、本土決戦必勝のため、陸軍の企図する諸政策を具体的に|躊躇《ちゆうちよ》なく実行すること
軍務課で作成したこの三条件のとくに第一項戦争を完遂する≠ナなく、戦争目的を完遂する≠ニしたところに、なんらかの方法で講和にもっていきたいという陸軍の意志を言外に含ませた、というが、見るものにとっては陸軍の強硬な横車とも感じられた。
だが、鈴木首相は質問もせず、別に難色も示さず、一読すると書面を一秘書官に渡し、
「お説ごもっともです。承知しました」
と、杉山が拍子抜けするほどあっさりと条件をのんでしまった。こうなっては、陸軍は何をいうこともなくなる。杉山は「しっかりやっていただきたい」と激励するばかりとなった。
鈴木はその足で同じ市ヶ谷台にある陸軍航空総監部にまわって、総監阿南大将に会い、三条件を含む杉山との会談を伝え、入閣を要請した。阿南は黙ってこれに耳を傾けていた。昭和四年から八年までの、侍従長・侍従武官として天皇に直接奉仕した時代のことが、改めて共通の想いとして蘇ったかもしれない。
鈴木は、阿南の忠誠心と純朴な人柄にすべての信をおいた。同時に期待したのは、全陸軍を掌握できる力量であったろう。戦争終結は、いかなる形であれ、一歩誤れば内乱を惹起する。内乱によって国の根幹を揺るがしてはならないのである。鈴木は、最後まで陸軍が整然たる秩序を保ちつづけることを希い、また、そうできる力のある陸相を欲した。
「枢府1」の車が十時十分、組閣本部の小さな門をくぐった。追いかけるようにして、将官旗をひるがえした「航総1」の自動車が鈴木邸前に着く。阿南大将の正式の来訪である。陸相就任を受諾するためと察し、テント村はどよめいた。
懇談三十五分、帰途につく阿南を追いかけて記者が「お受けしましたか」と口早に質問した。阿南は一言、
「解らない」
と答え、だれの眼にも来たときと変わらない無表情な姿で帰っていった。
発表係は首相の|甥《おい》の鈴木武秘書官が受けもっていた。それもまた陸相決定を秘して、「陸相に最重点をおいて組閣を進めているので、その返事があれば、急速に進行するであろう。敵前組閣だけに完了を急ぎたいが、これが戦時の最終内閣のつもりでじっくり構えている」と発表した。
もう一人の軍部大臣である海相はだれなのか、それも組閣の焦点だったろう。しかし、鈴木の意中の人はただ一人、米内光政大将の留任である。海軍次官井上成美中将もそのほかに案はないとしたが、むしろ井上は鈴木大将その人の首相就任について非常な危惧を抱いていた。
「今度の内閣では何としても戦さを止めてもらわなくてはならん。鈴木さんの本心はどうなのか」
息まく井上に、「鈴木さんは大丈夫」という木戸や近衛からの内密の知らせがもたらされた。
「それなら海軍は異存がない。米内海相留任です。これが絶対条件です」
井上は、このとき練習艦宗谷の時代を想い出していたかもしれない。艦長としての鈴木の、海の男らしいほれぼれとする指揮ぶり。人格も度胸も申し分ないが、その人が総理となれば、また別の戦略や政治感覚という条件が必要となろう。そのために総理の片腕として米内をそばにおいておく、これを海軍の総意≠ニして井上次官は組閣本部に申し入れた。
ところが、米内が小磯内閣失政の責任もあるとして、留任は絶対不可と固い辞意を書面で鈴木に申し送ってきていた。鈴木はこれを許さずとした。この辺は、井上と以心伝心というところだろう。米内が招かれて鈴木邸を|訪《おとの》うたのが午後一時すぎである。
その後に、またしても鈴木の、老齢にも似合わぬ積極的な行動がはじまった。海軍伝統の指揮官先頭である。午後三時二十分、ふたたび「枢府1」あずき色の自動車が静かな本部の門から走り出て一路首相官邸へ。小磯前首相に対して、米内留任そのほかの了解をとるために、である。
車はさらに近衛、平沼、若槻の各重臣の邸を走り回った。が、東条邸の用賀の方にはついに向わなかった。そして七時半、すでに灯りのともった組閣本部に帰る。鈴木は疲れもみせず、例によって例の、とぼけた表情の裏にすべてを隠して、奥室に入った。テント村の新聞記者の眼にも、組閣の根本方針についての相談は成ったのであろうことは、背筋をのばした後姿にありありと映っていた。
午後八時三十分、鈴木武秘書官がこの日最後の発表をした。
「組閣は順調に進みつつあって七日中に組閣完了の見込みである」
鈴木内閣発足の第一夜は静かにふけていった。鈴木の駕を|枉《ま》げての歴訪は重臣たちの無形の協力を得ることになったし、国民一般も翌七日の朝刊の社説にあるように、おおむね好感をもって鈴木首相を迎えた。
「至誠の仁人、敢為の武将、忠節の重臣……まことに国家の柱石という言葉がぴったりあてはまる人物と申すべきであろう」
テント村をはった記者たちも、この未知に近い新首相に親しみを感じた。
「私はもう来年は八十になります」
それがその夜はじめて記者たちに語った第一声であった。
「この私がこういうところに引っ張り出されなくても、政治の好きな人が沢山いると思っていました。私は一介の武弁、政治が嫌いです。その私がなぜに……」
|訥々《とつとつ》として語りながら、老人は自問自答している風なのである。
「何分にも老齢で、どれだけのことができるものやら……自分で危ぶんでいます。この重大な危機に当って、私が出なければならなかったということは、諸君のご想像におまかせします」
気負いもなく、あまりに率直であった。
だが、陸軍の一部や民間右翼には、早くも鈴木内閣に白い眼を向けるものがあった。あの政治力をもってしては国難打開は不可能なりとし、かれらの望む軍政実行を強く要望、あるいは鈴木のうちに和平指向を直感するものがいた。
六日夜、憲兵司令官大城戸三治中将は陸軍軍務局長吉積正雄中将に「鈴木大将は日本にバドリオ政権の樹立を企図する算があるから、組閣を阻止せねばならない」と強く意見を具申している。しかし、吉積も、吉積から報告をうけた杉山陸相も、単なる憶測としてとり上げなかった。
また、五・一五事件の首謀者でもあった三上卓、四元義隆らは昼すぎに組閣本部を訪ね、鈴木に面談して拝辞を迫ろうとしたが、かえって鈴木に先手を打たれ、「よろしくご指導ご援助を」と頼まれ、一旦は空しく引き上げている。
[#地付き]●「親がわりになって」[#「●「親がわりになって」」はゴシック体]
鈴木内閣は四月七日、外相など一部閣僚を首相兼任のまま、親任式をおえて成立した。この日、最後の連合艦隊十隻が沖縄へ向けて進撃中、九州南端の坊ノ岬沖で終焉をかざる勇戦ののちに壊滅した。戦艦大和は二十本の魚雷と無数の爆弾をうけて沈没。無敵海軍≠ヘ黄海海戦、威海衛夜襲、日本海海戦いらいの長い勝利の伝統を、全滅をもって閉じた。
さらにやり切れないようなニュースが、遠くモスクワからもたらされた。ソ連が日ソ中立条約を廃棄したのである。中立条約は締結国一方の廃棄通告後一年は有効と規定されているが、国民はだれもその通りにはうけとらなかった。
鈴木はその日、新首相として慣例に従って、大宮御所の貞明皇太后に「御挨拶」に参上した。謁見室にすすんだ鈴木に、皇太后は椅子を賜ると、しきたりを破っていった。
「鈴木もよく知るように、いま、年若い陛下が国家興廃の岐路に立って、日夜、苦しまれております。もともと陛下が、この戦争をはじめるのが本意ではなかったことを、これもよく知っているでしょう。それが、いまは敗戦につぐ敗戦をもってし、国土にまで惨害が及び、祖宗にうけた日本が累卵の危機に瀕しています」
貞明皇太后は、ここで言葉を切ると、小さなハンカチで溢れる涙を拭った。
「鈴木は陛下の大御心をもっともよく知っているはずです。どうか親がわりになって、陛下の胸中の|御軫念《ごしんねん》を払拭してあげて下さい。また、多数の国民を塗炭の苦しみから救って下さい……」
皇太后が臣下のものに自分の心を吐露することは、およそ例のないことだった。しかも、天皇の「親がわりになって」とまでいうのである。明治天皇と幼くして別れ、大正天皇を成人の直後に失い、いらい白頭と女官にかこまれた生活。長年の天皇の寂しさを知る鈴木の胸に、皇太后の言葉が応えた。外は爛漫たる春。空に浮かぶ桜の花びらを眺めながら、鈴木はこの桜花の如くに散り果てることを、改めて覚悟した。
ふと、頸部に残る二・二六事件の銃口の痕跡が、再び現れたかのように、鈴木はその辺をなでさすった。いずれは、徹底抗戦の極端分子のため暗殺されるかもしれぬという予感があった。しかし、いたずらに君の馬前で死ぬつもりはない……。
その夜、午後十時四十分、鈴木首相は国民に対し第一声を発表した。
「今は国民一億のすべてが既往の拘泥を一掃して、ことごとく光栄ある国体防衛の御楯たるべきときであります。私はもとより老躯を国民諸君の最前列に埋める覚悟で、国政に当ります。諸君もまた、私の屍を踏み越えてたつの勇猛心をもって新たなる戦力を発揚し、ともに|宸襟《しんきん》を安んじ奉らむことを希求してやみません」
翌八日午後七時、さらにマイクを通して国民に訴えた。
「戦局かくのごとく急迫した今日、私は大命が降下した以上、私の最後の御奉公と考えると同時に、まず私が一億国民の真っ先に立って、死花を咲かせるならば、国民諸君は私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進することを確信し……」
二度にわたって鈴木は「わが屍を踏み越えて」と国民に訴えた。空襲下の不安におびえつつも、老首相にこの決意ありと国民は感激した。そして今さらのようにおのれの運命の尽きる日の早いのを思った。最前列に立って首相さえもが死ぬ覚悟を定めているではないか。
しかし、鈴木はこの言葉の真意を戦後になって述懐している。
「第一に、今次の戦争に全然勝ち目のないことを予断していたので、大命が下った以上、機をみて終戦に導く、そして殺されるということ。第二は、わが命を国に捧げるという誠忠の意味から、このことをあえていったのである」
そのときに国民が受けとったのは、後者の意味だけであった。日々に生活は苦しくなる一方であり、たとえば四月一日から葉書は三銭から五銭へ、封筒は七銭から十銭に値上げされるという最悪の状況のなかで、なお必勝を信じて国民は命を国に捧げて戦いつづけていた。せっぱ詰まった、追い立てられるような毎日の中で、「機をみて終戦に導く、そして殺される」という隠された首相の覚悟を、読みとれるほどの余裕はなかった。
鈴木にしても、組閣直後のその時点で、はたしてどのように和平≠考えていただろうか。「すぐに終戦にもっていこうという気持じゃなかった。もう少し戦さをしてから、という意味のことをいっていた」と木戸がいうし、第一に、鈴木が首相に選ばれたのは、重臣会議で平沼の「最後まで戦うこと、国体を守るために国民が全部死ぬこと」という主張にそって、のことであった。早くいえば、抗戦内閣として重臣は鈴木を推したのであり、鈴木もそのことがよくわかっていた。にもかかわらず、終戦直後に、鈴木は米戦略空軍司令部の質問に対してこう答えている。
『〈問〉首相就任に際して、あなたはどんな勅命を受けられましたか。
〈鈴木〉私は天皇からなんら直接のご命令を受けませんでした。しかし、そのときはっきりと言われたお言葉から、天皇が日本の直面している戦局に深い関心を寄せられ、また戦災のために生命をおとす国民のことや、前線の甚大な損害について、ご心痛になっていることが分かりました。そこで、できる限りすみやかに戦争を終結に導くために、あらゆる努力をすることが、私に寄せられた天皇のご期待であることを了解した次第です』
むしろここには貞明皇太后に頼まれた言葉が投影していると考えられる。
鈴木は「戦争終結」をはっきりと口にしている。ただし、天皇にいわれたわけではない。以心伝心で確信したというのである。
だが、沖縄戦たけなわの時点の天皇は、なお戦う大元帥≠ナあったのである。いうまでもなく、沖縄の戦闘とは鉄に肉体をぶち当てる特攻あるのみ。特攻につぐ特攻の、凄惨な流血の突撃にアメリカ軍総司令官が悲鳴をあげた四月十七日、天皇は侍従武官にいった。
「海軍は沖縄方面の敵に対して非常によくやっている。しかし、敵は物量をもって粘り強くやっているから、こちらも断乎やらなくてはならぬ」
四月二十九日は天長節である。聖寿の万歳をことほぐために参内の連合艦隊司令長官豊田副武大将に、天皇はいった。
「連合艦隊指揮下の航空部隊が天号作戦に逐次戦果をあげつつあるを満足に思う。ますますしっかりやるように」
そして、ときに和平のことが木戸らとの間で口の端にのぼるとき、天皇は、
「そうはいってもなかなか困難だろうね」
と正直にいうのを常とした。
そしてそれが戦争の偽りのない実情だった。しかし、鈴木は以心伝心で天皇の心を了解したという。いかに困難であろうと戦争を終結させねばならぬ。それは小磯内閣がそうであったように、また天皇がその時点で期待をかけていたように「一撃して敵に大損害を与え……それを機会にすみやかに講和に導く」という方針でうまくいけば、それに越したことはない。鈴木もまた、それをいちばん期待していたのである。
なぜなら、その時点での、日本の戦争終結のためのあらゆる提案は、鬼畜&ト英の「無条件降伏」政策に正面から突き当らねばならなかったからである。日独伊三国は無条件降伏する以外に戦争を終えることはできない、と連合国はいいつづけている。鈴木の忠誠心は、国体を破壊してまでも、さらにいえば裕仁天皇の身柄を生贄にまでして、和平を請うことは許せないのである。もしそうであるなら最後の一兵まで戦うのみ、鈴木はそのときには先頭に立つ。
何よりも鈴木は軍人であった。戦局が当然和を講ずべき状況にあることは理解しぬいている。しかし、軍人としてのかれの体験は、戦うも和するも全国民の強靱な団結なくしてはならぬことを骨身にしみこませていた。和を急ぐばかりに内部的に崩壊しては、戦いに敗北する以上に国家を滅亡に導くことになろう。
内といい、外といい、そこに鈴木の困難な立場があった。急激に和平を計れば、おそらく主戦派から襲撃され、生命を奪われる。そして、その前に連合軍の無条件降伏といかに対決するか。鈴木は首相として、統帥部、政府、国民とともに徹底抗戦への努力と決意の強化を策し、敵に大打撃を与えねばならぬ、そう戦争指導をする。同時に反対に、何らかの手段を通じて戦争の終結を図らねばならないのである。
戦争の本質、国民の状況、陸軍の大勢などからみて、鈴木はゆるゆると進むほかはないと思う。軍人であるかれには、少しでも有利な和平の条件とは、戦意の持続と、敵に対するより甚大な打撃を基盤にして望みうるものである、とよくわかっている。
鈴木はかつて少尉候補生に「奉公十則」を示している。それは首相としてのいまのおのれにも当てはまる。「自己の力を知れ、驕慢たる|可《べ》からず」、まさにその謙虚さこそが必要なのであろう。そして機≠とらえたそのときには、決死の覚悟で立ち向うものにしか、和平は成就し得ない。鈴木は、そのときには死ぬことができる、とそう思って首相を受諾したのではなかったか。その機≠ェくるまではごくごく自然体でいく。
新聞記者たちも、つき合えばつき合うほど漠然として、焦点を合わせるのに苦労する大物宰相に好感を抱きつつも、ややもすると戸惑いを隠せなかった。首相として初の記者会見の席で、現戦局の見通し如何、との問いに、首相はあっさりというのである。
「戦局の見通しは、私は勝つと思っています」
あっけにとられる記者を尻目に、鈴木は訥々とお得意の「三方ヶ原」を語りつづけた。
「たとえば徳川家康は負けて勝っている。家康の精神、戦いの仕方、兵士の勇敢さ、これで勝っているのです。相手の武田信玄は下手をすると、家康にかかり合っていては自分の目的が完成できないと考えた。ただ戦さの形を見て負けたようにいうのは間違いである。硫黄島などは私は負けたとは思っていない。これは精神的に大打撃を与えている」
首相はここで口を閉ざすと、下り眉毛の愛嬌ある顔をニッコリさせた。そして、
「戦争の本質をこういう風に研究しているものは、わが国でも少ないでしょう」
と遠慮がちに明言した。記者たちは思わずどっと笑った。首相はつづけた。
「今日あることは非常に心配なことであるが、すでに開戦の初めに約束されていたことと思う。こうなったからといって少しも驚くに足りぬ。世界の強国を敵にして戦っている。大小を論ずれば、向うは大、こちらは小、余程の決意がなければ戦争は出来ぬ。日露戦争のときもそうであったろう。あのときの戦いも負けるかもしれないと、押さえに押さえた揚句に始まっている。それでも戦わねばならぬという事情であったろうし、そういうことは今度も同じである。大東亜戦争の今日あるも、悲観することは決してない」
こうした首相記者会見の一見のどかな雰囲気の外側で、国民のなかから、絶望と不安と疑心暗鬼による反戦的、厭戦的言辞を、しきりとささやくものがあらわれていた。
「負けるなら早く負けたほうがいい。負けて米英の支配下に入ったほうが幸福だ」
「戦争に負けたところで、われわれは殺される心配はない。殺されるのは天皇や大臣などの幹部ばかりだ」
こうした声を圧殺するかのように、四月八日、陸軍統帥部は「本土作戦準備計画」を全軍に示達した。
「一、日本陸軍はすみやかに戦備を強化して、米軍必滅の戦略態勢を確立し、米軍の|侵寇《しんこう》を本土要域において迎撃する。……戦備の重点を関東地方および九州地方に保持する……」
政治も戦争であり、生活も戦争となった。怒号とささやきが入りまじり、悲観と楽観、闘志と絶望とがぶつかり、ようやく騒然としてきた状況を背に、鈴木内閣はその第一歩を踏みだす。民族戦争の最終段階では、軍も官も民もない、純一無雑、滅私奉公の心で一丸となれと期待する鈴木首相。しかし、依然として、日本国民には自我があり、弁解があり、執着があり、保身があり、虚飾あり、名誉心あり、最終内閣はこれをどうやってまとめていこうというのであろうか。
[#改ページ]
[#小見出し] 第十二章 無条件降伏との戦い
[#地付き]●「霧の晴れるを待つ」[#「●「霧の晴れるを待つ」」はゴシック体]
首相公邸に移った鈴木たかは、「命がけで最後のご奉公」といった夫貫太郎の心のままに、生きることとした。周囲より貴重品などの疎開をすすめられたが、命もいらぬ、物もいらぬ、とみずからも思い、そっくり公邸に運びこんで、たかは、「最後だから、みんな使ってしまうことにしましょう」と貫太郎にいった。夫はいつもの微笑で妻の健気な心意気に応えるだけであった。
生命も物もすべて投げだして鈴木内閣はゆるゆると動きだした。首相は兼任していた外務大臣には、開戦時の東条内閣のときの外相だった東郷|茂徳《しげのり》が、鈴木のたっての要請で就任した。東郷は就任の条件として何度も「終戦の決意」を鈴木に問いただした。が、ついに鈴木は|言質《げんち》を与えることなく、しかし、外相になってもらう以上は、
「外交のことはすべてお任せする」
と、例によって野放図に大きな信頼をおくことで、東郷を納得させた。
しかし、すべてを任せられても外交的に日本が何らかの手の打てるときは過ぎ去っていた。外交ばかりでなく、内政面でも、あらゆる問題の抜本的な解決をせまられていたが、それ以前に、内閣成立のその日から事務処理として着手せねばならない焦眉の問題が山積みされていたのである。工場や住居の疎開、重要物資の増産と確保、運輸通信の維持、食糧の確保、戦災者への援助と、政務は空襲対策に追われっぱなしになっていた。
そのなかにあって鈴木首相は、日本の戦争政策の根本的な問題に手をつけることとした。四月八日、鈴木は迫水書記官長に国力の徹底的掘り下げを命じた。
「私は今後の戦争指導についてはとくと考えなければならないと思っている。しかし、陸相入閣のときに陸軍がつけた条件もあるから、すぐに動きだすというわけにもいかん。ここしばらくは静観していかねばいけないと思っている」
と正直な気持を前提として、
「その陸軍だが、連中は徹底抗戦を主張している。いまの日本には、ほんとうに戦争をつづけていくだけの力があるのかどうか。これを調べてみる必要がある。和戦いずれの道をとるにしても、政府として国力の現状をつかんでおかなければ、どうにもならん。そこで、君に頼むんだが、なるべく広い範囲にわたって国力を調査してくれないか。それもできるだけ早くね」
迫水は首相の依頼は当然のことと思った。同時に一国の宰相が、戦略面でまったく圏外におかれ何一つ知らされていない日本の政治というものの奇妙さに、いまさらのように唖然とした。
陸軍のいう徹底抗戦の基盤にメスを入れよう、と鈴木はいうのである。つまり統帥権にあえて踏み入ろうとする。陸軍を怒らせないようにと静観しながらも、ひそかに戦略に介入し、日本の行方を内閣そのものが決しようという強い意志を、首相が表明したのである。
腹心にはこうして意志を明らかにしたが、首相としての鈴木の動きは気負いもなく静かなものであった。午前五時起床、午後十時就寝というそれまでの日課は、首相になってからは時に崩れることもあったが守り、万事を各大臣や側近たちにまかせ、悠揚迫らず、暇があれば総理室の机に向って『老子』などの漢籍を読んでいる。その鈴木が、ただ一つかたくなに拒んだことがあった。それは、大政翼賛会ならびに日本政治会の総裁は、歴代の首相が就任するという慣習に、だれが何といおうとノウといいつづけたことである。日本政治会総裁などという政党首領になることは、その信念に反するのである。そんな色気は微塵もない。この権勢欲のない誠心無比の人柄は、接する人々を打たないではおかなかった。
秘書官たちは、その風貌、言動、人生経歴なかんずく春風駘蕩の人柄から、
「モーニングを着た西郷隆盛」
という|渾名《あだな》を、ひそかに鈴木に奉っていた。
この「モーニングを着た西郷隆盛」と国民とが、ほんとうに強く温かな親しみの太い綱で|繋《つな》がれているとはいえない、というのがまた側近たちには残念この上ないことであった。国民のなかには、鈴木内閣の成立に、「エッ、鈴木貫太郎大将は生きていたのか」という言葉を洩らしたものもあるという。そんな話が伝えられてくるたびに、側近たちは口惜しがった。
同時に、それがまた鈴木首相の苦慮するところだった。海軍軍人としては長く海上にあり、その後は侍従長として宮中奥深く、さらに枢密院顧問官、その一生を通して、国民と接触する機会なくして首相となった自分が、いかにして国民の心奥に触れ、なまなましい叫びを|掴《つか》んで、それに応え得るか。
首相になる前から、特別の事情のないかぎり、すべての面談希望者にこころよく会う、というのが鈴木大将家のしきたりであった。だから、首相になってまっさきに秘書官たちに、鈴木はいった。
「私はだれにでも会います。だれの言うことでも聴きたいと思っています」
といって、首相がすべての人に会えるわけではない。そこで秘書官たちが万障繰り合わせて面会することにしたのである。
そして毎日午後九時から、かならず鈴木一、鈴木武、西村直己の三秘書官が、首相を囲んでその日一日のすべてのことを報告する会合をもつようになった。内閣発足いらい、首相官邸に舞いこむ手紙、投書のたぐいも、この席でありのままに首相に伝えられた。
「口さきばかりの指導はまっぴら御免だ」
「八面|玲瓏《れいろう》や温厚篤実で救えるようなこの難局ではない」
「人を斬るのは易しく、人を動かすのは難し。指導者諸君よ、かんどころはここですぞ」
国民のなまの声にふれながら、鈴木はとぼけた温顔をほころばせる。
しかし、陸軍を主軸とする主戦論、一億玉砕論という一大暴風雨の中に、鈴木ははじめから立たされている。急激な進路の変更は、国内を四分五裂、同胞相撃つの修羅場を現出する。といって陸軍を納得させて、スイスやスウェーデンなど中立国を通す和平工作を試みることは、連合軍の「無条件降伏」の要求に突き当るだけであると、東郷外相は熱意を示さない。連合軍に直接接触したりすれば、陸軍から猛烈な鈴木抹殺論がとび出し二・二六事件で九死に一生を得たが、こんどは無事ですまないのは自明の理である。
快刀乱麻の妙策もなく八方塞がりの情勢に、側近たちはただ溜息をもらすだけであった。そんなとき、泰然として葉巻をくゆらす首相だけが頼りだった。「そんなに苛々としてもどうにもなりませんな」と首相はさとすようにいった。
「僕は船乗りだからね。濃霧などで行くべき方向がわからなくなったときには、いろいろ無理して手探りで動きまわるのは禁物なんですな。危険きわまりない。落ち着いて、止まって霧の晴れるのを待つ。それが船乗りの常道なのです」
モーニングを着た西郷隆盛は、深々と腰を下ろして動かない。
[#地付き]●「深甚なる弔意を申し上ぐ」[#「●「深甚なる弔意を申し上ぐ」」はゴシック体]
鈴木が待つうちに、国際情勢の方がさきに動いた。四月十一日午後三時、日本時間十二日早朝、「無条件降伏」の提唱者ルーズベルト大統領が保養地で急逝したのである。六十三歳、死因は脳溢血と発表されたニュースは全世界をゆすぶった。ルーズベルトこそが第二次大戦における連合国側の政策上の指導者であった。その戦争哲学は、世界平和確立のため、ドイツと日本の戦争能力を完全に除去する、征服と隷属を他国民に強いる思想を根本的に破壊することを目的とした。この目的達成のために、交渉による和平ではなく、ドイツと日本に無条件降伏を強制し、妥協によって中途で戦争を終らせることはない。昭和十八年一月のカサブランカ会談いらい、ルーズベルトはこう全世界に公言しつづけてきた。それはドイツや日本の現存する政府を否認する、ばかりではなく、これを抹殺しようとする政策ではなかったか。
少なくとも日本はそのように受けとっていた。朝日新聞は「敵米が|喚《わめ》く無条件降伏≠ニは」という解説を載せている。(七月二日付)。
「アメリカのいう無条件降伏とは相手国の本土を完全に占領し、これに思う存分の苛酷な処置を加えることだ……英紙オブザーヴァーも去年の秋『無条件降伏は、米国式の考え方である』と指摘した。拳闘試合の簡明直截な打倒≠ノ女子供までが熱狂歓喜すると同じアメリカ的なものが、まちがいなく彼らの戦争観を支配している。相手をトコトンまで自分の足で踏みにじらずにはやまぬ彼らのこの性格は、アメリカ戦争史を脊髄の如く貫いて冷酷残忍な特徴を彫りあげている」
その冷酷残忍な*ウ条件降伏の指導者が死んだのである。日本の指導層のなかにはその死によって、連合国の政策が変わるのではないかと、ひそかに期待するものが多かった。話し合いによる和平の道が開かれるのではあるまいか。
鈴木首相には楽観も悲観もなかった。きわめて冷静に敵大統領の死をうけとめた。その夜、訪れた同盟通信社長古野伊之助を前にして、いつものように淡々として老首相は語った。
「今日の戦争において、アメリカが優勢であるのは、ルーズベルト大統領の指導力がきわめてすぐれているからです。それが原因であったことは率直に認めないわけにはいきません。その偉大な大統領を今日失ったのですから、アメリカ国民にとっては、非常な悲しみであり痛手でありましょう」
ここで言葉を切った首相は、つづけて古野が不意を打たれてハッとするようなことを表明した。
「ここに私は深甚なる弔意をアメリカ国民に申し上げる次第です」
古野社長はただまじまじと温容溢るる首相の顔をみつめた。
「しかし、ルーズベルト大統領の死去によって、アメリカの戦争努力が変わるとは思いませんよ。より激化するとも思われます」と首相はつづけた。
「われわれとしても、大国である米英の覇権と世界支配に反対の、すべての小国の共存共栄のため、この戦争をあくまで戦いぬく決意を一層固めねばならぬと思います」
古野には、敵将に弔意を表明という事実があまりにも衝撃的であった。このことを、陸軍の徹底抗戦派や憲兵が知ったら、どういう事態が惹き起こされるだろうか。かれらは反戦反軍はいうにおよばず、親米的などんなに些細な言辞にも弾圧を加えている。鈴木新内閣をバドリオ政権視する憲兵隊は、きびしい監視の眼を絶えず向けていた。そのことを十分に承知しながらも、首相は平然として人間として、敵味方といった次元を超えて、人の死を哀惜する。
これこそが人間の真情、というものであろう。それを何ものも恐れず自然にだせるところに、鈴木貫太郎という老将の真骨頂があり、危機のときに宰相として選ばれた理由がある。古野社長はさまざまに思念をめぐらせて、そう思い当ったとき、かかるときにかかる人ありき、ということに心底から感動した。そして、この新首相の大いなる心遣いを、全世界に伝えたいという衝動にかられた。古野もまた勇気を奮い起こした。
同盟通信の北米向けの英語の無線放送を通して、鈴木首相の弔意≠ヘ一人の記者の勇気ある決断によって、全世界にひろがっていった。
同じころ、ナチス・ドイツの公式見解がラジオを通じて、ヨーロッパに流れていた。
「ルーズベルトは今次戦争を第二次世界大戦に拡大した煽動者であり、さらに、最大の対立者であるボルシェビキ・ソビエト同盟を強固にした愚かな大統領として、歴史に残るであろう」
この悪意に満ちた放送に心を傷めたのは、アメリカに亡命中のドイツ人作家トーマス・マンである。ニューヨーク・タイムズが報じた日本国首相のあり方と比して、何という心ない行いであることか。たとえ戦火の下にあるとはいえ、人間性だけは喪われてはならないのではないか。
トーマス・マンは祖国ドイツへのラジオ放送で訴えた。
「ドイツ国民諸君。皆さんは大日本帝国の鈴木貫太郎首相が、故ルーズベルト大統領を偉大な指導者とよび、その死に際してアメリカ国民に対し深甚なる弔意を表したことを、どう考えますか」
トーマス・マンの言葉はより深いところに触れた。
「東洋の国日本にはいまなお騎士道が存し、人間の品性に対する感覚が存する。いまなお死に対する畏敬の念と、偉大なるものに対する畏敬の念とが存する。これが日独両国の大きな違いでありましょう……」
英首相チャーチルも、鈴木の弔意≠ノは深く心を打たれた。かれの『第二次大戦回顧録』には、こんな文字がみえる。
「日本の首相は、ルーズベルトの死に深甚な同情≠表明した。指導者を失ったアメリカ国民に、今日のアメリカの有利な地位をもたらした人を失ったことは同情されると語った」
鈴木内閣の閣僚も、軍も、日本国民も、だれひとりとして、このことを知らなかった。当の鈴木総理自身が、そして同盟の古野社長も、一人の日本人の真率な発言が世界に道義的な波紋をなげかけていることに気づかなかった。
しかし、反動は思いがけないところからやってきた。ドイツ政府当局が、ルーズベルトの死をめぐるこうした一連の国際的な動きに怒ったのである。ドイツ駐在日本大使大島浩に、弔電を発したことに対する不満を訴えてきた。大島大使より報告をうけた陸軍はこれを重大視した。
陸軍中央の青年将校らが首相の真意を詰問すべく、首相官邸に面会を強要してきた。軍刀を威嚇的に音させながら、正面に立つかれらににこにこと笑いかけて、鈴木はあっさりいった。
「古来より、日本精神の特性の一つに、敵を愛す、ということがある。私もまた、その日本精神に則ったまでです」
あっけにとられた将校たちは、それでも態勢を建て直しながらさらに問うた。「ならば首相の決意は、いぜんとして最後まで戦うということに変わりありませんか」
鈴木は淡々としていった。
「うん、そうとも。変わりはない」
ルーズベルトの後継者となったトルーマンもまた、あくまで戦うことを米国民に誓った。
「日独両国は、アメリカが最後の一片を破砕するまで戦いぬくことを疑ってはならない。われわれは前途にまだ幾多の困難がある。しかし、要求は常にただ一つ、無条件降伏である。たとえ地の涯まで追いかけようとも、戦争犯罪者を罰するわれわれの決意は微動だにしない」
日本指導層の、あるいは政策に変化がもたらされるかもしれない、という甘い夢は砕け散った。またしても無条件降伏≠ェ、鈴木内閣の政策を和平に転換するための大きな障害となった。抗戦派はいきり立った。「地の涯までも追いかけて」とは、何という驕慢なことかと、いよいよ本土決戦の腹を固めた。
たしかに、米国指導層としては、ルーズベルトの無条件降伏政策が、勝利も目前の状況下にしては、危険性を含んでいることを認めてはいた。が、このときに及んで、この方式から一歩でも後退することは、アメリカが弱腰になった証しとして、日本の軍国主義者どもをいい気にさせるだけであろう。そう危ぶむ空気の方が米政府内には強かったのである。
連合国もまた大きなジレンマに直面している。戦いつづけることはあまりに犠牲が大きい。これ以上の無駄な血を流すことなく、日本に戦闘行為を一日も早くやめさせる戦略がないのだろうか。米国もまた、その方策を求めていた。
折もよく、かつての日、日本の宮中穏健派と親しく交わっていた知識人、二・二六事件の前夜に斎藤実や鈴木貫太郎とともに映画を楽しんだよき友人、知日派の代表といわれるグルーが昭和十九年暮から国務次官に就任、対日和平工作のイニシアチブをとっていた。
グルーは考える。かりに連合軍が提唱する無条件降伏≠のんで日本政府が降伏することがあったにせよ、それだけで東アジア全域で戦闘中の数百万の軍隊が武器を捨てる保証はまったくない。ましてや無条件≠ナ、誇り高き日本人が降伏を|肯《がえ》んじるはずがないのではないか。
アメリカ大使として昭和初期の、満洲そして中国の権益をめぐっての日米関係の大きな矛盾と格闘した体験が、グルーにそのことを教えていた。対立を推し進めるより、避けて、第三の道をさぐること。米国の政策は政策として残しながら、戦後日本がどのような形体で残り得るのか、どんな待遇が期待できるのか、暗黙裡に知らせることによって、日本を降伏に誘い得るのではないか。
グルーもまた、日本の鈴木首相が直面していると同様の、国政と統帥権という二頭立て三頭立ての日本という国の政治指導の複雑さに、苦悩せざるを得なかった。日本政府の直進的な降伏は、やたらに無秩序をきたすだけであろう。予想されるクーデタを防ぎ、かつ和平をもたらし得るであろう唯一の権威、それは天皇以外にはない。その天皇の廃絶を意味するかのような無条件降伏では、戦争を終らせることが不可能である。グルーは、天皇のもっともよき話相手であった鈴木貫太郎の相貌を、いまさらのように懐しく想起した。かの哲学者のような老人が国政の頂点に立ったことの意味を考えた。そのことは日本帝国が和平への希望を語り、その方法を連合国にそれとなく示しているように思えてならなかった。
もう一人、鈴木貫太郎の登場に心を躍らせているものがいた。エリス・ザカリアス海軍大佐といい、対日心理戦争を担当する心理戦争課の課長である。大佐は、鈴木首相が海軍軍令部長をしていた一九二七年から三〇年まで来日し、会合に出席した鈴木部長の話をしばしば聞く機会があり、好印象を与えられていた。
大佐は、かつての日本に、また、鈴木大将に対し抱いた好印象を、あらためて暖めた。この人が期待するような人物であることを信じた。ザカリアスはこう書きとめている。
「鈴木大将が首相に任命され、われわれの最大の希望が実現することとなった。大将の登場によってわれわれに最も都合のよい政治情勢が生ずるであろうと、われわれは考えていたからである。鈴木大将はよくアメリカを理解しており……加えて大将が天皇の側近であることからして、私は大将が和平派の指導者になるであろうと確信していたのであった」
そしてこの信頼は裏切られることがなかった。鈴木首相がルーズベルト死去の際に寄せた弔意≠フうちに、大佐をはじめ心理戦争課のメンバーはサムライ≠感じとったのである。ザカリアス大佐はいまこそ日本に対して心理戦を開始すべき機が熟したと判断した。
グルー同様にかれらも、連合国側がある種の満足できる条件を認めさえすれば、「最後の一兵まで」という軍の豪語とは関係なく、鈴木首相の指揮のもと日本帝国は武器を捨て、降伏もあえてするであろう、と感じとった。それがサムライの名分というものなのだ、と観察するのである。
[#地付き]●「獲物がないのではないか」[#「●「獲物がないのではないか」」はゴシック体]
だが、サムライと目された鈴木首相も、そして大元帥としての天皇も、なお闘志をかきたてている。本土の一部の沖縄では肉弾攻撃がつづけられ、水上部隊をすべて喪失した連合艦隊は、敵の上陸いらい特攻につぐ特攻の攻撃をもってし、四月十七日の菊水第三号作戦までに六百六十三機の突撃で沖縄近海を血で染めた。
大本営発表の戦果は誇張されて報じられた。天皇は、陸海軍部より提出された戦況資料を読み、毎日の夕刻には陸海の侍従武官から戦況について上奏をうけた。特攻機によって米戦艦や空母を撃沈したという報告には、
「そうか、本当によかった」
と心から喜んだ。夜遅くになってからであろうと、戦況追加の報告には、天皇は進んで政務室に姿を見せた。夕刻、B29が百機父島上空から北上中の知らせを受けながら、深夜に及んで日本本土のどこへも来襲のないときなど、侍従武官をよび、
「今夜のB29は訓練中であったのか」
と声をあげて笑うこともあった。
天皇は、打ちつづく悲報のなかにも、性剛毅な一面を見事なくらいにのぞかせた。平常よりも早く武官が戦況報告で顔をみせたりすると、
「今日は早く報告をもってきたが、獲物がないのではないか」
と、冗談に近いことをすら口の端にのせたりした。
しかし、ときには懸命に耐えている悲痛な心の一端をあからさまに示すこともあった。説明のために侍従武官が机の上に地図をひろげ、いちいち地点を指し示して報告していると、頭髪に何か触れるものがある。何かと訝しんで顔をあげた武官が目にしたものは、特攻機が突入したと思われる地点に深々と、最敬礼している天皇の姿であった。
四月中旬の時点で、天皇はなお戦う大元帥≠セったのである。そして首相鈴木貫太郎もまた、天皇と同じ心に生きる果敢なる戦士であった。だが、かれの戦術観からすれば、十死零生の特攻は、およそその名に価しない戦法だった。責任をとれないことは命じないのが将たるもののあり方である。日露戦争のときの旅順閉塞隊は、いかにして乗員の生命を救うかに万全の配慮がとられ、実施決定まで半歳近くを要したのである。
秘書官から、「連合国は特攻隊を自殺機とよんでいるようです」と聞かされたとき、鈴木はひどく落胆した。そして、
「こうした戦術でなければ態勢が挽回できぬとは、一体、いままで大本営はどんな戦略戦術を練っていたのか。これでは戦争は明らかに負けである。何が大和魂か。これはもう日本精神のはき違えというほかはない」
と珍しく怒りをあらわにした。しかし、なお鈴木は戦う指導者の面目を失ってはいなかった。戦う大元帥と心を合わせ、憂うる天皇の心を少しでも休めんと、陸海軍首脳部を集め、宮中において、「陸海軍は沖縄決戦において、断じて敵を撃滅せよ」と激励するのだった。
だが、そうした首相の闘志を|嗤《わら》うかのように、三月十日いらい戦術変更でもあったのかと思われていた東京大空襲が、四月十三日夜に再開された。この夜の空襲で、小石川の首相私邸付近も一面の火の海となった。
その夜たまたま私邸にあった首相は、防空頭巾をかぶりステッキをついて、火に追われて大塚駅付近まで家族とともに逃げ出さねばならなかった。泥まみれになって防空壕にとびこんできた老人夫婦を迎え、壕内にあった人は恐怖のなかで正直な感想を語ったが、何かと聴き上手なこの老人が総理大臣と思うものとてなかった。そのうち国民学校の一教師が、
「あれッ、鈴木さんだ」
と気づき、周囲の人がやっとそうと気付くほどに、首相は周辺に焼夷弾の降りそそぐなかで、国民のなかに同化し、励まし合い、語り合っていた。
幸いに私邸は近隣の人や警察官の消火活動が効を奏してか、広大な焼け跡のなかにその隣邸とともに助かった。が、宮城の一部と明治神宮の本殿および拝殿は被爆炎上した。
その夜はもちろん一睡もしなかった首相は、十四日午前四時半には官邸に赴き、いつもより忙しい政務をそのままつづけた。その夜におこなわれたラジオ放送は首相の発意によるものだった。
「宮城の炎上する御様子を拝し奉り、臣子としてまことに|恐懼《きようく》に堪えません。一億国民の胸中も私の気持と同じであると信じます。私ども一億国民は、ここに|挙《こぞ》ってお詫び申し上げるとともに、天人ともに許されざる驕敵を徹底的に撃砕し、もって宸襟を安んじ奉らんことを誓うものであります」
鈴木は沖縄戦で勝機をつかむことを真に期待した。この戦闘に勝てば、悲観的になり、捨て鉢になっている国民が再び奮起し、結束して政府の政策を支持することになろう。そのときにこそ和平のチャンスがある。窮地に追いこまれている日本帝国を救う道はこれ以外にないであろう。鈴木はそう確信していた。
そして、この首相の断乎たる決意と気迫とは、首相側近のものたちをも動かさずにはおかなかった。秘書官鈴木武は、そこまで伯父の首相が期しているならば、この際、中央からも飛行機で使者を沖縄に送りこみ、総理のメッセージをとどけ、島民を激励することが必要であろうと考えついた。そうすることで、さらには日本国民全体の戦意の昂揚と人心の結集をはかるための一助ともなるであろう。武秘書官はそのことを首相に提言していった。「それには、鈴木の一家から一人ぐらい使者として、沖縄へ赴き犠牲となることが大事だとも思えるのですが……」
鈴木首相は破顔一笑した。
「お前が行くことはむしろ沖縄の作戦の邪魔になるだけだろう。しかし、苦しい戦いをつづけている兵官民の人びとに、私の思うところをメッセージとして送るということは、是非にも実現したいものだね」
単なる言葉の弾丸では役立たないと承知はしているが、首相はみずからが銃をとっているような気持で、マイクの前に立つことを|希《のぞ》んだのである。
四月二十六日午後七時四十分から、首相の言葉は短波放送で沖縄へ送られていった。
「私ども一億国民は諸子の勇戦敢闘に対し無限の感謝を捧げている」
と、首相はこの放送のなかで感謝という言葉を二度、三度となく繰り返した。
「去る四月十三日夜半より十四日にかけての東京空襲の夜、自分の家の周囲も火の海と化したが、雨と降る焼夷弾を踏み越えながら、自分の頭にふと浮かんだことは、沖縄に健闘せらるる諸君の愛国の至情に燃えた尊い姿であった。今や前線銃後の別はない。前線銃後渾然一体となって、戦闘に、生産に、ただ決死敢闘あるのみである」
同じ二十六日、首相官邸に陸海軍首脳を招集して、鈴木は極秘の打ち合わせ会議をおこなっている。陸軍より組閣の条件として突きつけられた三原則の二項「陸海軍一体化」を実現するための、予備的な会合であった。いつもは寡黙な首相が珍しくこの日は意見を長々と開陳した。
「今日打ち合わせて明日実現できるような、そんな簡単な問題でないことは承知しております。しかし、歴史上かつてない領土侵寇というゆゆしき状況を前に、作戦的な面からだけでも陸海軍を一体化することは必成の必要事といわねばなりません。いまは何があっても沖縄の作戦を成功させる。そして国民に対して戦いに勝つメドをもたせ、どんな苦労にも耐え忍ぶ勇気を出させる。そのことにわれわれは全力を傾注せねばなりません。沖縄の戦さに勝ってこそ外交政策も有効に行われるというものです」
首相は語りながら、天皇もまた同じことを望んでいると明確に感じとっていた。だからおのずから語りにも熱が入ったが、これに応える陸海軍首脳の返事は鉛のような沈黙だけであった。
翌二十七日、正式な返答をもって午後四時から陸海軍大臣・次官、陸海の総長・次長、それに両軍務局長が首相官邸に集まった。首相主催のもとに「陸海軍一体化」に関する正式の討議がはじめられたが、約二時間におよぶ会議は、終始重苦しい空気に包まれた。
根底に陸海軍の戦略観の根本的な相違があったのである。水上艦艇のほとんどすべてを喪失した海軍は、沖縄の戦いをもって最後の決戦、すなわち湊川の戦い≠ニして全力をふりしぼって戦い、でき得れば作戦を有利に展開し、その間に戦争終結の好機をとらえようと考えていた。しかし、決戦とは陸軍にあっては特別な意味をもっている。総力を結集して猛攻撃にでることであり、単なる防禦戦であってはならない。敵上陸軍を相手の本土決戦こそが総攻撃にでるチャンスであり、沖縄戦はそのための時間かせぎでしかなかった。
陸海軍の両首脳は互いに、互いの発言に耳を傾けようともしなかった。こうして何の収穫もないままに一同は解散した。折から靖国神社臨時大祭がひらかれ、山本五十六元帥をはじめ太平洋上に散った四万一千余の新柱の招魂の儀がとりおこなわれていた。沖縄では陸上部隊の総反攻が失敗し、米軍の先鋒がじりじりと首里城めざして迫ってきた。こうして陸海がそれぞれ独自の戦術のもとに戦われている沖縄攻防は、日一日と鈴木首相の期待を裏切りつつあったのである。
会議後に、長大息していったという鈴木首相の言葉が、印象深く秘書官たちには刻まれた。
「どうも、どうも、どちらも困ったものだ」
笛吹けど踊らざることに対する嘆きでもあったろうか。
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[#小見出し] 第十三章 本土決戦への道程
[#地付き]●「和平とはまだきまっていない」[#「●「和平とはまだきまっていない」」はゴシック体]
天皇と政府と海軍が沖縄での戦勝による和平の機を模索しているとき、ヨーロッパの戦局は一挙に終末を迎えていた。息づまるような歴史的転回であった。
必勝を絶叫しつつ、ヒトラーがベルリンの地下防空壕で死んだのが四月三十日である。数時間後、ベルリンの国会議事堂の建物の破風を飾る彫刻群像の上に、勝利の赤旗がはためいた。同じころ、ベルリン攻撃の総司令官ジューコフ元帥は、モスクワのスターリン首相にヒトラーの自決を電話で伝えた。スターリンは受話器に喜びを怒りにかえて投げこんだ。
「とうとう死んだか、悪党め、生かして捕らえられなかったのが残念だった。無条件降伏以外はヒトラー主義者といかなる交渉も行ってはならぬ」
その日の夜十時、ハンブルク放送はブルックナーの第七交響楽の荘重な調べを中断し、総統ヒトラーの戦死をドイツ国民に伝えた。このハンブルク放送は日本時間の五月二日の夜明けである。この日の陽が昇るとともに午前七時、日本のラジオもヒトラーの戦死を流した。三日にはベルリン陥落が新聞に大見出しで報ぜられ、全世界を相手に戦うのは日本帝国のみとなったことを、国民はだれでもが意識した。
ナチス・ドイツ崩壊の報は、すでに予想されていたとはいえ、現実となってみると、鈴木にはさすがにショックだった。いまさらのように、日本帝国が対米英開戦に踏みきった最大の理由であるドイツの勝利≠ニいうことの愚かしさに、愕然たる想いを味わった。
すべてが幻影と化したいま、徹底抗戦か和平か、日本は再び決断を迫られた。軍部は、いうまでもなく、断乎抗戦である。ドイツの敗北は日本と無関係であり、いまや日本の戦争目的は、敵軍侵攻の危機に瀕した祖国を救うにある、と主張するのだった。
鈴木首相は思い悩んだ。いまこそ和平へ動かねばならぬときかもしれないが、国民感情や雰囲気は「鬼畜米英」であり、「撃ちてし|已《や》まむ」であり、まだ熟しているとはいいきれない。クーデタの危険性が常にあった。それに沖縄の戦線では首里北方で、日本軍の総攻撃がいま果敢に戦われている。首相として闘志を失ってはならないのである。
五月三日夜七時、鈴木首相は放送によって全国民の奮起を要請した。
「……わが戦争目的が大東亜、ひいて世界において、道義に基づく共存共栄の真の秩序を建設せんとする人類正義の大本に立脚するもので、欧州の戦局の急変によって、わが国の信念はいささかも動揺するものではない。……私はすべてを捧げて戦いぬく覚悟である。国民諸君もまた、前線における特攻の勇士のごとく、一人もって国を興すの|気魄《きはく》と希望とをもって、勇奮邁進されたいのである……」
天皇もまたドイツ敗北の報に憂慮を深くした。ある意味で、戦略的にも戦術的にもだれよりも|知悉《ちしつ》している最高責任者として、この激変にどう対処すべきかに迷うほかはなかった。しかし、陸海軍を統率する大元帥としては、なお戦わねばならぬとの決意を固めるのみ。いぜんとして日本帝国の前には「無条件降伏」政策が突きつけられている。戦争を終結させるための方法はそれ以外にはないのか。
五月八日、ドイツが無条件降伏した。トルーマン大統領は声明を発して、「最高によろこばしい一瞬である。自由の旗がヨーロッパにひるがえっている。今日は、私の誕生日でもあります」と誇らしくいった。さらに、勝利はまだ半分だ、と太平洋の戦いに言及した。
「われわれの攻撃は、日本の陸海軍が無条件降伏のもとに、武器を放棄しないかぎりつづくだろう。日本軍が無条件降伏するということは何を意味するか。それは戦争の終結することを意味する。それは軍指導者が、この惨禍のどたん場に日本を投げこんだ力の終末を意味する」
だが、トルーマンはこのとき、無条件降伏を軍隊そのものだけに限定することを明らかにする。
「それは将兵が家族のもとに、田園へ、職場へ復帰できることを意味する。それは勝利へのむだな望みに、日本人が苦しみ耐えることを終らせることを意味する。無条件降伏とは、日本国民のみな殺しとか奴隷化を意味するものではない」
それは注目すべき発言であったろう。さらに、この大統領声明につづく日本向け解説放送で、国務省筋は、無条件降伏は抵抗の終了と武装解除を意味する軍事用語である、と強調したのである。この驚くべき内容を日本に伝えるべくマイクの前に立ったのは、心理戦争課のザカリアス大佐であった。
「……あらゆる敵対行為を中止なさること、これこそ、あなた方の家族を、建物を、生活を、ひいてはあなた方の祖国そのものを破滅から救う唯一の方法なのです。……あなた方の将来は、ご自身の手に握られているのです」
しかし、日本人で短波受信機をもっているものはいなかった。ほとんどの日本人がこの放送を聞くことはかなわなかった。いや、たとえ聞いたとしても、降伏に関連するもっとも重要な問題は、天皇裕仁であり天皇制がどうなるかである。天皇の身柄に対する確実な保証なくして、どんな声明も解説も一片の紙きれでしかない。忠勇なる軍が無条件降伏で武装解除されてしまった後で、国体の変革を迫られたとしたら、だれが天皇を守れるというのか。
追いつめられた日本は、トルーマン声明やザカリアス勧告よりも、全面降伏にあたって連合国がとったドイツ処理の報に、むしろ迫真性を感じつつ耳を傾けたのである。連合軍総司令官アイゼンハワー大将は、ランスにおいて降伏文書に署名するドイツ陸軍参謀総長ヨードル上級大将にいった。
「降伏条件が苛酷きわまるものであることを承知しているか。また、忠実に履行する用意はあるのか」
ドイツ代表は短く答えた。
「承知している」
この、新聞に発表されたチューリッヒ特電七日発に接したとき、日本国民は粛然として声もなかった。
ドイツ無条件降伏の報とともに、前後して首相は、一カ月前に迫水書記官長らに命じて調査させた「我方の戦争遂行能力」の報告をうけとった。迫水は説明した。
「調べてみますと、驚くべき結果が出てきてしまいました。鉄鋼の生産計画では昭和二十年は三百万トンほどですが、一月以降の実績は月平均十万トン足らずですから、計画の三分の一です。飛行機は月産一千機と予定されていたものが半分もできず、しかも原料のアルミニウムがなくなって、九月以降は計画的な生産の見込みが立ちません。石油はまったく底をついており、海軍の艦隊は重油に大豆油を混ぜて使っているのが現状です」
首相は一言も発せず、これに耳を傾けた。
「要するに、日本の生産は九月まではどうにかこうにか組織的に運営されるでしょうが、それからさきはまったく見当がつかないと判明しました。そのうえソ連も兵力をどんどんソ満国境に集めはじめまして、その状況では九月までに戦争の結末をつけなければならないということです」
迫水の報告は終ったが、首相はなおも長いこと黙っていた。七、八月ころには重大な危機に直面する、と痛感しつつ、戦争の結末のつけ方を首相は考えていた。同時に、ドイツ敗北後の戦局再検討のための御前会議をしきりに要求している闘志あふれる阿南陸相の顔を思い出した。
最悪の場合を首相は予想せざるをえなくなった。天皇に会うたびごとに鈴木は包まずに奏上した。
「軍が、この沖縄の戦いで一度勝利をおさめないかぎりは、無条件降伏を呑まざるを得ないかもしれません。そのときには不肖鈴木もついて参ります」
鈴木のきつい表情に天皇は打たれた。そして何事かを洩らした。耳の遠い首相は聞きとれなかったらしく首を傾けた。これをみて天皇は首相に聞こえるように近づいてまた口を開いた。忠誠な鈴木はあまり近くでは|畏《おそ》れ多いと少しずつ退ったからまた聴こえない。それを追って天皇が少し進む。鈴木が退る。こうして、首相は壁際に立ってこれ以上退ることができなくなると、また少しずつ方向を変え、入口の扉の方へ行き、ついに廊下に出てしまいハッと気づいて、なおも近づく天皇と顔を見合わせると一緒に声を合わせて笑う、というおかしな始末となった。
天皇は鈴木の必死の気持が嬉しかった。だが、天皇はこの戦争が敗れたことを、よく知っていた。特攻につぐ特攻をもってしても、包囲する米艦艇の数はほとんど変わりがない。五月十五日、天皇は木戸内大臣に打ち明けた。
「鈴木は講和の条件などについては弱い。木戸はどう考えるか。軍の武装解除については、何とか三千人か、五千人の軍隊をのこせるように話ができないものだろうか」
沖縄で勝機を|掴《つか》んで和平へ、それ以外には無条件降伏を強制されるだけだ、と常に奏上する鈴木首相は、和平交渉を強く進めるつもりはないのではないかと、天皇は「弱い」という言葉でそれを表現したのか。木戸はまだ、この時点では保身もあり強気に組しているから、
「三千、五千の兵が残りましても、ほとんど有名無実でございます」
と答えた。天皇は黙っている。木戸が押しかぶせるように、
「和平とは、まだきまってはおりません」
とはっきりいいきった。天皇は再び黙ったままであった。
[#地付き]●「ソ連に和平の仲介を頼む」[#「●「ソ連に和平の仲介を頼む」」はゴシック体]
天皇の和平へ傾斜する気持、鈴木首相の沖縄戦に賭ける気迫、そして海軍の全力集中の特攻作戦に背離するように、五月に入ってから陸軍の本土決戦計画は着々と軌道にのって進められている。だが、その陸軍にしても、ドイツ降伏後の最大の懸案の事項として、ソビエト連邦がはたしてどうでてくるかについて、確たる自信をもつことができなかった。
対日平和維持から、さらに進んでソ連の対日参戦の公算が大となっている。これをいかにして局外中立の立場においておけるか。たしかに日ソ中立条約は破棄されたが、まだ約一年の有効期間がある。この間に、政策よろしきを得ればあるいはソ連をうまく使って、米英との和平仲介を頼めるかもしれない。なぜなら、戦後の世界経営において米英対ソの間には相剋が予想されるからである。
もしソ連仲介が実現すれば、無条件降伏にあらざる有利な講和も可能ではないか。
陸軍中央は、この夢想に近い策を苦境にワラをも掴む心境で、東郷外相に申し入れた。それは勧告でもあり、願望でもあり、脅迫でもあった。参謀次長河辺虎四郎中将と第二部長(作戦)有末精三少将が、異口同音に対ソ工作を放胆かつ果敢に決行するように申し入れたのである。
外相はソ連に信をおいていなかった。
「対ソ施策はもはや手遅れである。軍事的にも、経済的にも、ほとんど利用し得る見込みがない」
と主張した。しかし、ソ連を手放してしまえば、和平の道が完全に閉ざされてしまうことも事実である。
鈴木首相もソ連に対して信頼をもってはいなかった。外相より、大本営陸軍部からの申し入れがあり、対ソ問題を最高戦争会議の構成員だけで議したい旨の提議があったとき、さして気が進まなかったが、役立つことはすべて積極的にやろうという主義から、首相はこれに同意した。
こうして五月十一、十二、そして十四の三日間にわたる連続討議が、補佐の幕僚を列席させず、最高戦争指導者六人(首相・外相・陸相・海相・参謀総長・軍令部総長)だけに限定されてひらかれた。これも首相の強い主導によるものだった。会議は六人だけでだれにも拘束されずに、互いに本心を打ちあけ|忌憚《きたん》なく話し合われた最初のものとなった。
会議の冒頭で、まず梅津参謀総長が「ドイツ降伏後、ヨーロッパのソ連軍がぞくぞくとシベリア方面に送られている」状況を説明した。それ故に、一日も早く外交手段をつくしてソ連の対日参戦を防止することの必要を、総長は強調し、一同が同意した。ついで米内海相が珍しく積極的に口を切った。
「海軍としては単にソ連の参戦防止どころだけでなく、できればソ連から軍需物資、とくに石油を買い入れたいとすら考えている」
外相は海相の言に愕然となった。
「ソ連という国を知らないにもほどがある。今日の情勢下でそこまで求めるのは無理というほかはない」
外相は知らなかったのである。いや、鈴木首相すら知らないことをすでに海軍中央は実行していた。五月に入るとすぐ、米内海相の使いとして軍務局第二課長末沢慶政大佐が駐日ソ連大使館を訪ね、残っている軍艦の全部である戦艦長門、重巡利根、空母鳳翔と雪風など駆逐艦五隻とひきかえに、ソ連の飛行機とガソリンが欲しいと申し込んでいた。もちろんだれにも通告せずに、である。しかし話はひきのばされ、その後、ソ連大使館に何度足を運ぼうが、ただウォツカを振舞われるだけとなっている。
梅津参謀総長と阿南陸相は、海相の意見に同調した。
「ソ連はアメリカと対抗上、日本が弱体化するのを好まないはずだ」
外相は強く反駁した。
「ソ連に甘い幻想を抱いてはいけない。ソ連という国は徹頭徹尾現実的な国なのだ。それよりも、日本の現状は終戦工作を開始すべき時期に達していると考える。そのための対ソ交渉であるべきで、いざというときにわが国がうけいれられる和平の最低線をきめておくべきだと思う」
このとき、いつもは沈黙を守って、閣僚たちに活溌に意見を交換させ、自分は聞き入るだけの鈴木首相が、突然口をはさんだのである。
「ソ連の積極的友情を得ることはすでに遅すぎる、という外相のご意見は正しいと思う」
とまで一気にいってから、一言一言考える風に首相はゆっくりといった。
「ソ連との、交渉は、連合国との一般的な講和を締結する上で、ソ連に仲介を頼む、という目的を第一にして、進めることにしましょう」
ごく身近な側近以外には、極度に慎重な態度をとりつづけてきた首相が、公式の場で講和≠はじめて口にした。五人の男は思わず視線を一点に集めたが、当の首相は自分が何をいったのかも存じないかのように、春風駘蕩たる表情を崩さないで坐っていた。ソ連からの軍事的援助などという小さな問題は、この首相の発言を契機に吹きとんでいた。和平といい講和という、かつて公的にだれもが口にしたことのない命題が、会議の中心にどっかとすえられていた。
「講和条件は」と、外相が真っ赤になっていった。
「占領地域の面積とはなんら関係はありません。戦場が本土に及ばんとしているいまの戦局が問題なのです」
梅津参謀総長がずばりといった。
「本土決戦なら必ず勝てる」
会議の空気は悪化した。陸相、海相、参謀総長、軍令部総長そして外相と、五人がある面では対立し、ある面では一致して、激論を闘わせた。この間、鈴木首相はいつものように特に発言するでもなく、黙々としてそれぞれの意見に耳を傾けていたが、やがておもむろに口をひらいた。
「日本に有利になるような、なんらかの方法においてソビエトを利用しないのは賢明な策ではないようです。とにかくソ連のハラをさぐりつつ運んでみることにしましょう。スターリン首相という人は、なにか西郷南洲に似ているような気がする。当ってみましょう」
こうして最高戦争指導会議は、三つの段階的目標をもって対ソ交渉を開始することをきめた。
(一)ソ連の参戦の防止。(二)ソ連の好意的中立の獲得。(三)戦争終結に対しソ連をして有利な仲介をさせること、である。そして、この第三点に関してはしばらく時期をみて≠ニいう条件がつけられた。
それにしても、日本の最高のトップの情勢判断は、あまりにも楽観的かつ喜劇的ではなかったか。もちろん、昭和二十年二月ヤルタにおいて、ソ連がドイツが降伏してから三カ月後には対日参戦≠フ密約を、連合軍との間で結んだという事実は知らなかった。としても、四月には日ソ中立条約が破棄され、ソ連の新聞などの論調も、はっきりと日本を敵視したものになってきている。なによりも第一日目の会議の冒頭で、シベリア鉄道による軍事輸送が日をおって増加している事実を、梅津参謀総長が報告しているのである。
にもかかわらず、いや、だからこそ対ソ工作が緊要だったというのであろうか。
会議の焦点は、対ソ工作を進めるために何を代償とすべきか、という点に移った。陸軍は、参戦防止のためにはいかなる代償も辞さない態度を堅持した。本土決戦のためには、ソ連の中立がどうしても必要なのである。海相も外相も、陸軍に同調した。鈴木首相も首をタテに振った。南樺太の返還、漁業権の解消、津軽海峡の開放、北満における諸鉄道の譲渡、旅順・大連の租借をソ連に許す。場合によっては千島北半の譲渡もやむを得ないものとした。
こうして日本帝国は日露戦争以前に戻ってまで、アメリカと戦うことを決意するのである。歴史は皮肉にとんでいる。長い間、陸軍がもっとも猜疑し、敵対し続けてきたソ連の好意を、あらゆる犠牲をはらっても、いまはいちばん当てにせねばならないとは。
さりとて、この代償が国民にもれたら、国民はどういう反応をおこすだろうか。鈴木内閣はそれをもっとも恐れた。かつて日露戦争の講和締結のとき、東京のここかしこで焼討ち事件があった。しかし、いまはそれどころではない。民衆も兵も狂気となって|起《た》ち上がるのは必至だろう。流血のクーデタ、そして日本はひたすら一億玉砕の道を突っ走っていくことであろう。
「とにかく、国家最高の機密として対ソ工作を進めることにする」
と鈴木首相が結論した。
[#地付き]●「宮城が炎上しています」[#「●「宮城が炎上しています」」はゴシック体]
最高戦争指導会議がはじめて講和について議したことは、天皇も知らなかった。その天皇は、個人的に和平への希望を洩らしながらも、公的にはなお戦う大元帥の顔を全面に押したてている。
五月二十三日、天皇は大元帥の軍服に、大勲位と功一級の副章をつけ、元帥刀をもって、参内してきた各連隊長に軍旗を授与していた。陸軍はこの日、本土決戦のため師団十九、独立混成旅団十五の第三次大動員を下令したのである。いかに数が多くとも一括ということはなく、連隊ごとにいちいち勅語をだし、宮中に伺候する連隊長にたいして、天皇はみずから軍旗を授けた。三月に十六|旒《りゆう》、四月に八旒、五月に四十旒という軍旗が新設連隊の先頭にはためいた。これほどの軍旗が親授されたのは明治建軍いらいのことであった。この大動員で本土の在郷軍人は根こそぎ召集された。未教育の兵、役立たない老兵、そして不十分の装備。これで四面を封鎖された小さな島国にたてこもって戦いつづけようというのである。
このころワシントンの統合参謀本部でも、日本本土進攻作戦の計画が活溌に進められていた。第一次上陸目標地点は南九州、これをオリンピック作戦とよび、攻撃目標日は十一月一日と決した。このための準備として海上封鎖と空襲強化が太平洋方面のマッカーサー、ニミッツおよびアーノルドの陸海軍の三指揮官に対して指令された。
いまや沖縄作戦は連合軍の勝利が確実となっている。そしてマリアナ基地には焼夷爆弾の補給も十二分にととのった。五月二十一日、ニミッツ大将は九州方面に向けられていた航空部隊が、本来の作戦にもどることに同意した。ふたたび都市に対する夜間焼夷弾爆撃である。最大の目標は──やはり天皇のいる東京だった。
四月中旬いらい久しく大空襲のなかった東京は、五月二十四日の五百二十機による焼夷弾三千百三十六トン、さらに二十五日から二十六日の未明にかけて五百二機による三千二百六十三トンの猛攻をつづけて受け、焼け残っていた西部、北部ならびに中央部が灰燼に帰した。東京駅、乃木神社、海軍省、陸相官邸、三笠宮邸、秩父宮邸、大宮御所などから首相官邸内の、鈴木首相夫妻が起居する日本式公邸までが炎上したのである。
それは二十五日の深夜だった。鈴木首相は空襲とともに、夫人、迫水書記官長や秘書官らと官邸防空壕に難をさけていた。あたりに焼夷弾の投ぜられる裂くような音がしていたが、やがて防空壕の中までも煙が臭ってきた。公邸が燃え落ち、夫人が最後のつもりで使っていた調度類はすべて灰となった。そして「どうせ灰になるのだから、惜しまず使っておいたのがかえってよかった」と、たか夫人が貫太郎にささやいたときであった。午前三時ごろ、警備のものが防空壕内の首相に、「宮城が炎上しています」と知らせたのである。
首相は若者のようにすばやく壕からおどり出た。そして暗闇に|巍然《ぎぜん》として立つ官邸の屋上に駈け上がった。書記官長や秘書官もそれにつづいたが、屋上でかれらが見たものは、帝都が赤黒い火に包まれてのたうち回る凄絶ともいうべき姿だった。山王神社の森から麻布の連隊へかけ、芝から京橋・日本橋へ、山手も下町も見るかぎり火炎と煙を噴きだしている。参謀本部の建物も炎に包まれていたが、その向うの大内山の茂みの中からも、大きな火片が舞い上がっていた。
首相は一言もいわず、青黒い森の中から、次第に高く大きく数しげく、燃え上がる火焔を凝視していた。宮城が炎上していることに間違いはなかった。やがて首相の頭が低く垂れた。暗然として詫びる老首相の胸中の想いが、まわりにいる秘書官らの心に突き刺さった。
皮肉にも、宮城本殿を焼いたのは参謀本部からの飛び火にあったという。満洲事変、支那事変を起こして日本帝国を破局に導いた歴史を象徴するかのようであった。
火災の状況は、宮内省の防空本部から電話で逐一ご文庫に報告された。すると天皇の言葉が伝えられてきた。
「私の御殿は焼けてもよい。それよりも局たちの御殿にまだ火がついていないならば、全力をつくして助けてもらいたい。局たちは私物もあることだし、丸焼けになったら明日から困るだろうから」
明治二十一年十月に完工した表と奥をあわせて大小二十七棟の、歴史を誇った美しい宮殿は、午前一時五分に出火し三時間五十五分で焼け落ちた。火焔にまきこまれて警察官三人、消防隊員十六人、近衛兵十四人が焼死した。苦闘の夜を明かした人々は、くすぶる広大な焼け跡に集まって茫然自失となりながらも、ひとしく考えたのは、お上に対して申しわけがない、ということだった。
その少し前、桜田門の前で一人の老人が宮城に向って土下座し、両手を芝生につけて平伏していた。海軍の軍服をつけている。危険とみた巡査が注意しようと近寄って驚いた。海軍大臣の米内光政大将だったのである。海相は宮城炎上と知ってお詫びに駈けつけたのであるという。
鈴木首相は、初夏の空のようやく白みかかってきた午前四時すぎ、車で坂下門より宮城に入った。内庭にふりそそぐ火の粉、ふき上がる黒煙の中をぬけ、火柱となっている豊明殿を仰ぎつつ、車は宮内省にたどりついた。かれもまたお詫びに参内したのだ。鈴木は明治に育ち、明治に生きた人であったから、明治いらいの建物の喪失をだれよりも悲しんだ。そして激怒した。こうなれば最後の一人まで戦って戦いぬくほかはないと思うのだった。
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五月二十七日のワシントン・ポスト紙は、「東京焦土と化す、宮城は大破」の大見出しで、この爆撃成功を報じ、これを読んだグルー次官は、いまこそ降伏を勧告する心理的契機が到来した、と確信する。翌二十八日、そのグルーの手に一通の回答が手渡された。情報局の第三部第一課長稲垣一吉、放送協会の海外局編成部長大屋久寿雄、同盟通信の海外局次長井上勇の三人が、軍には内密で電波をワシントンへ打ちこんだのである。いわば生命がけの問い合わせといっていい文書だった。
「無条件降伏といっても、すなわち無条件という条件があるはずである。無条件のなかには、どういうことが含まれるのか。もっと具体的に示してほしい」
グルーはさっそくトルーマン大統領に会見を求め、具体的に対日戦争終結案についてかれの意見を開陳した。
「日本側にとって無条件降伏の最大の障害となるものは、無条件降伏をすれば、それが天皇ならびに天皇制の永久的排除ないしは廃止につながるのではないか、と考えていることです。天皇の保障なしにはかれらを降伏させることは、きわめてむつかしいと思うのです……」
大統領は黙って耳を傾けていた。
アメリカはまだ動こうとはしない。その前に、鈴木内閣に揺さぶりがかけられてきた。宮城や大宮御所炎上の責任を問う声。さらには、沖縄で敵を追い落として話し合いによる和平を、としきりに説いた鈴木首相の決心を迫る声もあった。沖縄戦の不利はもはや|蔽《おお》いがたい、ならば、これが成らざるときは切腹せよ、と強硬派が陰に陽に倒閣を画策しはじめたのである。
そうしたことを知ってか知らずか、鈴木首相の日常は変わりがなかった。空襲で公邸が焼けるとともに、着るものが全部燃え、内外の勲章までもすべて金属の塊となった。たか夫人が嘆いたように、「主人の下着といえば、海軍の茶色のじゅばん一枚しか残りませんでした」というほどの、まったくの無一物になっていた。
だが、鈴木は淡々としていた。人びとが噂するような自刃はおろか、辞職すらも念頭になかった。首相就任時に語った「この内閣で戦争のけりをつける」という決意を、より強く固めた。
打倒鈴木内閣派の揺さぶりは、すべてに馬耳東風的な鈴木に対する直接攻撃をあきらめて、迫水書記官長に向けられた。内閣成立いらい執拗なくらいまでかれに対し攻撃の矢が向けられていたが、さらに激越になった。かれを共産党員とよび、新官僚のボスと中傷し、いい加減に迫水書記官長は気をくさらしてしまった。
揺さぶりは鈴木たか夫人の耳にまで達した。夫人の耳に迫水のあることないことを吹きこみ、書記官長の職からかれを追い出そうとの運動がはかられたのである。たか夫人からさまざまな嫌がらせの話を聞かされたとき、鈴木首相は不敵な笑いをうかべていった。
「耳が悪いというのは便利なものだね。何にも聞こえん」
たか夫人からこのことを聞かされた迫水は、思わず胸を熱くした。その日、かれは出勤すると、すぐにメモ用紙に鉛筆で、自作の歌一首とその下に花押を記し、首相の机の上においた。
親おもふ子のまごころはよその人の知らざるところよ知るを求めず
それから三日目の朝、珍しく首相がベルを押して迫水をよんだ。鈴木首相はめったに人をよんだりしないのである。おかしなくらい自分からは用件のない人であった。総理室に迫水が入っていくと、これを迎えた鈴木はにこにこしていた。
「先だっては、いい歌をありがとう。そのお返しに、これを差し上げます」
書記官長が受けとった色紙には、墨くろぐろと八つの漢字が書かれていた。
「治大国者若烹小鮮」
とっさに迫水には意味がわからなかった。しかししばらく見つめているうちに、寓意が自然に浮かんできた。小魚を煮るときは、ほどよい火加減でそっとしておかねばならない。|箸《はし》で突ついたりすれば、小さい魚は容易に崩れてしまう。大国を治めるものは、さながら小魚を|烹《に》るようにしなければならない、ということか。
「愛読する『老子』にある言葉です。迫水君、何事もその極意ですよ」
これが鈴木首相の流儀である、と迫水書記官長には思い当った。閣議などにおいて、鈴木首相はほとんど発言することもなく、もっぱら聞き役にまわっている。当然、会議は長時間に及ぶのである。進行係の迫水はしばしば首相に文句をいったのだが、鈴木はかたくななまでその方針を守っていた。
いま、書記官長は首相の幅広いゆったりとした胸中がわかったのである。この内閣を瓦解させるわけにはゆかぬ以上、一人でも反対論をとなえ辞職の挙にでる閣僚があってはならないのである。急いで箸で突つくような愚をしてはならないから、自分が誠心誠意で閣議にのぞみ、閣僚には存分に意見を戦わしてもらう。それは七十九歳の老躯にとっては、根気のいる疲れる仕事であろう。
しかし、首相は決して急がない。風貌姿勢から精神状態まで、いつも平常心なのだ。迫水はなぜか鈴木というたぐい稀な広大な人格にはじめて触れた想いがした。閣僚が自由に発言し、議論を戦わせ、十分に意見を出しさえすれば、おのずから一つの結論にたどりつく。それが、長い人生において鈴木という政治嫌いの一軍人が得た信条なのであろう。
書記官長は色紙を胸に深々とお辞儀をして総理室を出た。もはや小うるさい中傷や誹謗や冷罵に負けない晴々とした顔をしていた。そして、この内閣は忠誠あふるる鈴木首相の無私の人格でやっともっているのだな、と思った。
しかも、迫水書記官長は気づかなかったが、陸軍がこの揺さぶりに加担しなかったことが、鈴木内閣にとって幸いであったのも事実。それには鈴木に劣らず忠誠無比の阿南陸相の存在が大きかった。
しかし、実は、それ以上に陸軍中央を悩ませている大問題がこのときあったのである。天皇の動座である。とくに、宮城炎上という現実に直面し、天皇の身柄をほかへ移すことの必要性が、緊急かつ絶対的な力をともなって、陸軍統帥部を衝き動かしていた。
陸軍はその日のために三月二十三日に「陸亜密第二四七四号」という秘密命令を発し、長野県松代の白鳥山の地下に「仮皇居」を建造する工事をはじめていた。そこに天皇・皇后・皇太子らの皇子、秩父・高松・三笠の三宮家、そして貞明皇太后を移し、まず安全にしておいた上で、最後の一兵となるまでの本土決戦を挑もうという。陸軍は、おのれの意志を貫徹するため、いわゆる玉≠奪う決意であった。
五月も押しつまったある日、梅津参謀総長は天皇に戦局を奏上した折に、思いきったように徹底抗戦のための大本営の松代移転を強く願いでた。天皇は、しかし、陸軍の意のままにならなかった。
「わたくしは国民とともに、この東京で苦痛を分ちたい」
天皇のこの悲痛な意志を耳にしては、梅津参謀総長もそれ以上は押せなかった。総長の退出したあと天皇の怒りは噴きだした。
「わたくしは、行かない」
木戸内大臣は、天皇がこれほどまでに怒ったのをそれまで見たこともなかった。
鈴木首相はこの一部始終を知ったとき、心から喜んだ。堂々たる大元帥ぶりを惚れ惚れとして讃えるのだった。「帝都固守、帝都固守、これこれ、これあるのみですよ」と、秘書官たちにすっかりご機嫌で鈴木は何度もいった。
こうして天皇と鈴木首相は、国家の存亡を東京にくくりつけたのである。陸軍のいいなりにならず、生死は宮城内において決するのである。この日、地方へ疎開をするため別れを告げに、長男一の娘道子が首相官邸を訪れた。官邸の庭には戦火をよそにバラの花がいっぱいに咲き誇っている。乙女心の感傷にかられたように、彼女はふだんに似合わぬ強情さをみせていった。
「私は疎開したくはない。お父さまもお母さまも、お祖父さまもここで死ぬなら、私も一緒に死ぬ」
それをピシッとはねのけるように祖父の貫太郎がいいきった。
「いや、そんなことにならん。私がそんなことを決してさせはしない」
同じ五月もおしつまった日、大統領特使としてモスクワに赴き、スターリンと会見したハリー・ホプキンスは、大統領に報告書を発した。
「ソ連軍は八月八日までに、満洲国境の諸要点に配備されるだろう。スターリンは、日本に対しその武力と国力を完全に破壊するため、無条件降伏を要求して進むことを希望する、といっている」
そのソ連に、鈴木内閣は和平工作をもちかけようというのである。何ということか。
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[#小見出し] 第十四章 迫られる最後の決断
[#地付き]●「七生尽忠の信念を源力に」[#「●「七生尽忠の信念を源力に」」はゴシック体]
六月に入って、鈴木首相が唯一の期待をかけていた沖縄の戦局は、絶望的な様相を呈した。五月二十九日、米軍は那覇市内に突入、組織的な抵抗が終りつつあった。
六月四日、元首相広田弘毅は東郷外相の要請にもとづいて、ヤコブ・マリク駐日ソ連大使と接触した。五月十四日の最高戦争指導会議の決定にしたがい、ソ連の中立をなんとか保持しようという苦肉の策。箱根のホテルにいたマリク大使を、散歩のついでと称して訪れ、広田元首相は話の緒口をきった。
陸軍中央はこの対ソ外交の進展に大きな期待をかけてはいたが、万に一つの危険は常にはらんでいる。梅津参謀総長は天皇の命をうけて、同じ六月四日に中国大陸に急行。関東軍総司令官山田乙三大将と支那派遣軍総司令官岡村寧次大将に、対ソ作戦計画要綱を直接伝達するためである。その計画によれば、対ソ開戦となったときは、満洲の四分の三は放棄してでも、持久戦によってソ連軍の攻撃をもちこたえるべし、というこれも窮余の策なのである。そうすることによって、本土決戦の一環として十分に実効を発揮することができる、と梅津参謀総長は両将軍にいった。
たしかにさまざまな局面で情勢は急を告げていた。ドイツ降伏いらい一カ月、伝えられる報道は、ドイツ民衆が悲惨な境遇に陥っていること、そしてドイツが東西に分断されてしまったことなど。日本国民は不吉な徴候をそこに感じた。国民の間には漠然とではあるが、局面の転回を望む気分が生まれてきていた。軍部への信頼が根本からゆれ動き、少しずつではあるが、和平を求める焦燥に近い気分があらわになりはじめた。鈴木内閣は、最後の一兵まで戦おうと改めて決意するのか、思いきって和平の方向に舵を回すのか、否応なしに最後の決断を迫られる情勢になっている。
しかし、歴史はまっすぐに進まない。目先の利く陸軍中央がすでにして行動を開始していたからである。ドイツ降伏の直前より、陸軍統帥部は「今後採るべき戦争指導の基本大綱」を作成し、これを海軍統帥部に提議し、大本営案として御前会議において決議しようともちかけていた。海軍中央はほぼ一カ月近くなんらの返答もせず、にぎり|潰《つぶ》してはいたが、いつまで放っておけるものではなかった。阿南陸相がたびたび鈴木首相に、ドイツ降伏後の国策を決定しようと、御前会議の奏請をせまっている。やむなく海軍統帥部も意見をまとめて陸軍側に返答、最高戦争指導会議に議案がかけられることとなった。
六月六日、午前九時から十二時までと、二時から六時までの二回にわたって会議は、はげしい論議のはてに、調子の高い『戦争指導基本大綱』を決定する。
会議の冒頭から、事前に何ら知らされていなかった東郷外相が、憤然として猛反対した。対ソ交渉が動き出すか出さないかのときに、あくまで戦争遂行の根本方針を決定するというのである。外相が驚愕するのも無理はなかった。参謀総長が中国出張中のため、代理出席した参謀次長河辺虎四郎中将が、烈々たる闘志をむき出しにして、
「本土に敵を迎えての作戦は、沖縄・硫黄島・サイパンなどの孤島作戦とは本質的に違うのであり、敵の上陸点に全軍を機動集中し、大いなる縦深兵力をもって、連続不断の攻撃を強行することができるのである。かつ地の利と、忠誠燃ゆるがごとき全国民の協力をもあわせて期待することができる」
と、本土決戦必勝を豪語した。それは夢みるように華々しい刺し違え大作戦である。東郷外相が、これに頑強に反駁した。
「戦争が本土に近づけば近づくほどわが軍に有利であるかのような議論をされるが、わが空軍が優勢なる場合にのみ、あるいはそれが可能なのであって、その条件が完備せざるかぎりは、わが方に有利なりとは到底考えられない」
この間、例によって鈴木首相は沈黙したままで議論に耳を傾けていた。ただ一つ、『基本大綱』の方針案をきめるとき、「帝都固守」を方針の中に採り入れることを強く主張し、列席の五巨頭をびっくりさせた。忠誠なる首相が、天皇の意思をそこに織りこもうとしたとは、ほかのだれもが気付くはずもなかった。この案は、しかし、陸軍側の反対が強く、結局ははぶかれてしまったのだが、それでも鈴木は、この翌日、閣議で再びこれをもちだし、閣議決定事項にしてしまうのである。
ともあれ、必勝の信念に基調をおく『戦争指導基本大綱』は、外相の反論や海相の沈黙の反対をおしのけて、まる一日の討議の末にきまった。その基本方針は、
「七生尽忠の信念を源力とし、地の利人の和をもって飽くまで戦争を完遂し、もって国体を護持し皇土を保衛し、征戦の目的の達成を期す」というものだった。しかし、前提となる『国力の現状』をみれば、どうしてこのような国策が遂行できるというのか。
会議が終っても、東郷外相の怒りと|憤懣《ふんまん》は解けなかった。書記官長や秘書官に事前未通知に対し厳重な警告を与え、
「こんご和平が問題になるときを考えて、このような方針を御前会議で決定するのは、不都合の点がある、と総理に強く申し上げてもらいたい」
と異議をくり返した。このことを知らされた鈴木は、ただにこにことしていった。
「いいや、あのくらいのことは決めておいていいのです。それに、和平が問題となったときにも、何にも不都合はありません」
鈴木首相はそれ以上を語ろうとしなかったが、この「方針」には重要な意味が秘められていたのである。太平洋戦争の目的は、開戦の詔書にいわれているように、自存自衛とアジア解放、にあった。しかし、いま決議した『基本大綱』では、国体を護持し皇土を保衛≠キるのが戦う目的に変わっている。少なくとも戦争目的は転換されたのであり、国体護持と皇土保衛を条件に、和平をはかることは可能なのである。
鈴木の微笑の裏にはそうした想いがかくされていた。
この戦争にひきずられた政治≠フ最高決定が決定されたのは六月八日である。午前十時五分、中央の玉座に天皇が坐った。『戦争指導基本大綱』を至高の国策とするための会議──御前会議というより、儀式≠ェおごそかにはじめられたのである。予定されていた閣僚の発言が終ったとき、鈴木首相がゆっくり立ち上がった。
「以上のお話を総合しますと、こんごとるべき戦争指導の大綱は、おおむね一昨日の最高戦争指導会議で審議しましたところにつきる、と思いますので、その決定の大綱を書記官長に朗読させます」
すじ書きどおりに会議はクライマックスに達しようとする。天皇はしきたりに従って一言も発しない。
「方針=七生尽忠の信念を源力とし、地の利人の和をもって飽くまで戦争を完遂し……」
迫水書記官長が立って大綱案を読みあげていく。国の行方は決した。首相はつづけて、
「帝国の現下の情勢はまことに危急でございます。いわば、死中に活を求める立場にあると思いますが、これはもはや智恵とか才覚をもってよく成しえないところで、簡明直截、|右顧左眄《うこさべん》することなく、まっしぐらに所信に向って邁進するほかないのであります」
儀式≠ヘ終る。いや、田舎芝居が終ったのである。政府も統帥部も、それぞれの役割を大元帥の前で演じてみせたにすぎなかった。芝居の演題は「戦争と平和」であり、テーマは運命≠ナある。智恵とか才覚とか政治力などではどうにもならぬ、というのだから、それは運命というほかはない。
『基本大綱』は一言でいえば、徹底抗戦≠ナある。しかし、全般的な敗北を正しく認めることが政治というものである。国際情勢、人的および物的な国力の現状、民心の動向などさまざまな条件から、軍事上の失敗を、降伏≠ニいう言葉に翻訳せねばならないときではなかったか。これ以上戦いつづけることは、すべての日本人を底なしの奈落へ誘うことである。にもかかわらず、その道へ大きく踏み出すことが、いま、大元帥の名において決定されたのである。
この御前会議の決定は、口から口へと伝えられ、噂がとびかい、日本の指導層をさまざまな形に揺り動かした。
「あれは、間もなく開かれる衆議院議会を静めるために必要な、カムフラージュだ」
また、こんな噂も伝わった。
「御前会議で鈴木はつぎのようにいったというから、なかなか頼もしいではないか。……私は長年にわたって、侍従長として天皇陛下に仕えてきた。誠に出すぎたようではあるが、陛下ほどの世界の平和と人類の福祉にふかく関心をもたれている方は、全世界に一人もないことを、私は確信する。敵は無条件降伏を吹聴しているが、それはわが国体と国民の破滅を意味するものである。このような放言に対して日本国民のとるべき手段は、ただ一つ、すなわち徹底抗戦あるのみだ」
しかし、真に心ある人びとは、この愚劣なる本土決戦方針に大いに悲観し、鈴木首相の政治性のなさに失望しきった。いったい首相は何を考えているのか。やっぱり鈴木は軍人なのだ、と判断する人が多かった。根は非開戦論者であり和平論者であろうと、本職の軍人というものは、永年の軍隊教育によって降伏を死よりも切なしと思うのである。いざ講和すなわち降伏となれば、理性的にそれをうけ入れるのは容易なことではない。そんな軍人宰相に国の運命をゆだねておいて、はたして大丈夫なのだろうか、とかれらは疑うのである。
だが、ほかのだれよりも御前会議決定に落胆し、不安を抱いている人がいた。天皇である。大元帥として、しきたりのままに一言も発することなく、徹底抗戦の総帥方針を裁可した。だが、それがあの「国力現状」で可能だろうか。レイテ決戦が天王山といい、それがルソン決戦となり、さらに沖縄決戦となり、ことごとく敗れている。日本海海戦や奉天会戦の栄光はもはやあり得ない。
御前会議が終り、天皇はご文庫に戻ると、すぐに木戸内大臣をよんだ。木戸内大臣は日記に簡潔に記している。「一時五十分より二時二十五分まで、ご文庫にて拝謁」と。この短い文章のなかに、御前会議の決定をくつがえし、日本帝国に大きな転換をもたらそうとする会話が秘められていた。
天皇は机の向う側に立った内大臣に、
「こういうことが決まったよ」
と、ただそれだけをいい、ひょいと書類を差し出した。御前会議の内容を内大臣にみせることはかつてないことであった。訝る木戸の眼に映じたのは、天皇のひたすらに淋しそうな顔である。
木戸は眼の前に投げ出された文書に眼を通し、天皇の胸の|裡《うち》の底知れぬ苦悩と憂愁と焦慮とを感じとった。天皇は御前会議の決定に不満なのであろう。鈴木首相に戦争終結への舵とりを託したはずであったが、首相は国の舵を和平へ向ってではなく、民族の滅亡に向ってとっているのではないか。天皇の憂いはそこにある。
この日、木戸は心中に深く決するものがあった。政治を軍の手からとり戻さなくてはならない。舵を百八十度回転させるために「猫の首に鈴をつける役割」を自分がしなければならない。
鈴木首相がいうように、死活いずれにせよ国民が一丸となって、という事態を無為に便々と待つわけにはいかない。国策の転換が下からできない以上は上から試みるよりない。それも秘密で、しかも危険きわまるなかで。はたして政治力のない鈴木の爺さんにそれができるであろうか。木戸は危ぶんだ。しかし、鈴木を説いて旗を振らせる以外に、もはや残された道はない……。
[#地付き]●「平和を愛する天皇と国民」[#「●「平和を愛する天皇と国民」」はゴシック体]
木戸内大臣に大きな期待をかけられた鈴木首相は、六月九日からはじまった第八十七回臨時議会で、主戦派便乗議員らの激しい攻撃にあってもみくちゃにされていた。この議会は、戦時緊急措置法と国民義勇兵役法を審議するため、二日間の会期でひらかれたものだったが、その要なしと米内海相が反対するのを、鈴木首相が意志を押し通して召集したのである。
米内海相が「いったい議会で総理は何を訴えるつもりなのか」ときびしく問うたのに対し、首相はこういった。
「戦争をトコトンまで遂行する決意をいうのである。それと、どうしても訴えたいことがある」
だが、そうまでいって海相の意見を退けて開いた議会冒頭の、首相の施政方針演説が物議をかもし大混乱をひき起こしたのである。
この演説において、首相はあくまで強気なところをみせている。
「今やわれわれは全力をあげて戦いぬくべきである。一部の戦況により失望し、落胆するは愚である。一切を捨てて御奉公申し上げてこそ日本国民である。政治の要諦は国体を明らかにし名分を正すにあると信ずる。国体を護持し、皇土を保衛し、全国民一体となり、しかも各自が一人もって国を興すの決意を固め、みずから責任を負い……」
しかし、首相が真に訴えたかったのはそんな強い調子のものではなかった。あらゆる反対を抑えてでも議会をひらこうとしたのは、演説を通し連合国の無条件降伏政策に反対し、日本の立場を訴え、その翻意をせまろうという秘められた意図のためであった。
書記官長や秘書官らが施政方針演説を合作中、首相がどうしても入れてほしいと希んだのは、実につぎの二点である。
一つは「私は多年側近に奉仕し深く感激いたしておるところであるが、世界においてわが天皇陛下ほど世界の平和と人類の福祉とを|冀求《ききゆう》遊ばさるる御方はないと信じている。万邦をして各々その所を得さしめ、侵略なく、搾取なく……実に、わが皇室の|肇国《ちようこく》いらいの御意思であらせられる」
そこには、天皇が神経を病まれるまでに悩んだ上海事変など平和を願っていることを、侍従長時代に身近に知った鈴木の、ゆるぎない確信があった。
もう一つは、「私はかつて大正七年練習艦隊司令官として、米国西岸に航海いたしており、サンフランシスコにおける歓迎会の席上、日米戦争観につき一場の演説をいたしたことがある。その要旨は、日本人は決して好戦国民にあらず、世界中でもっとも平和を愛する国民なることを歴史の事実をあげて説明し、日米戦争の理由なきこと、もし戦えば必ず終局なき長期戦に陥り、まことに愚なる結果を招来すべきことを説き、太平洋は名の如く平和の海にして、日米交易のために天の与えたる恩恵なり、もしこれを軍隊輸送のため用うるがごときことあらば、必ずや両国とも天罰を受くべしと警告したのであります……」
これが鈴木の真に訴えたいところだった。そうした平和を願う天皇であり、平和を愛する日本国民なのである。政府の政策もまた、天皇や国民の意志を具現しようとしているにほかならない。にもかかわらず、連合軍は無条件降伏政策を強い、戦争を最後の一人までつづけさせようというのか。
「わが国民の信念は七生尽忠である。わが国体を離れてわが国民は存在しない。敵の揚言する無条件降伏なるものは、|畢竟《ひつきよう》するにわが一億国民の死ということである。われわれは一に戦うのみである。……」
このように悠揚として語った鈴木首相の演説が終ったとき、その内容に疑義ないしは不審の念を感じた代議士が多かった。大日本政治会幹事長松村謙三は、ただちに迫水書記官長の室を訪れ、問いただしている。
「おい、総理の演説は、いったいどうしたというのだ。お上のこと、平和を愛せらるること、自分のサンフランシスコの平和スピーチのことを演説の中に入れているが、国内に対する放送ならこれは変なことだぞ。それともまた、外国に対する放送なら、もっと非常に重大な影響をうむぞ。どういう考えでやったのか」
迫水書記官長は返事に困った。
「そう聞かれても正直、なんとも返事はできない……。だが、あの演説をするまでの経過だけは申し上げられる。きのうの閣議で施政方針演説の草稿を検討したのだが、そのとき下村情報局総裁などからいろいろ議論がでたので、委員会をつくって直した。……すると、けさ五時に、総理から電話で『あの両事項をぜひ入れてくれ。閣議では削除されたが、一晩考えてみたが、やはり入れたい。各大臣に電話して了解を求めるように……』とのことで、そのように取り計らった。なぜ総理が、たっての希望で閣議の決定を変えてまで原稿を元通りにするよう要求されたか、その心中のほどはわかりかねるが……これだけを申し上げる」
それでなくとも、弱腰にみえる内閣を揺さぶってやろうと、強硬派議員が手ぐすねひいて待ち構えている議会である。提出された戦時緊急措置法案は法律というものではなく、一億国民の生命財産をあげて生殺与奪の権を政府に一任する白紙委任状ではないか、と議会は烈しく追及した。
政府はしばしば立往生した。質問がしつこく、うるさくなると、首相は、「どうも耳が遠くてよく聞こえません。こんど耳鼻科にいって、みて貰ってきましょう」と、にこりともせず答えたりした。
事実、耳が遠いから、質問や答弁は書記官長がメモにして首相に渡していた。そのために野次が飛んだ。
「総理はロボットか」
また、首相の答弁がついついとんちんかんになるのに、海相が代りに説明に立つと、
「よう、米内総理」と悪態をつかれた。
しかし、馬耳東風というか、枯淡なというか、激することも|怯《ひる》むこともない首相の人物に、抗戦派の議員たちもどうにも歯が立たなかった。
議会第二日目の十日、衆議院特別委員会に首相の出席を要求し、護国同志会の小山亮委員が質問を発した。これが大騒動の発端となった。
「昨日、総理は施政方針演説で、かつて、太平洋を軍隊輸送のために用いるならば、必ずや日米両国は天罰を受けるだろうと警告したことがある、と申されました。これは、いったい何事ですか。開戦の詔勅にも『天佑ヲ保有シ』とあり、万世一系の天皇をいただくわが大日本帝国に、天罰があるとはどういうことだ。わが国体を|冒涜《ぼうとく》すること、これより甚だしい言葉はないッ」
卓を叩いて絶叫する声に合わせて、委員会の席上には「そうだッ、そうだッ」「それでも侍従長だったのか」と、いっぺんに怒号が湧いた。もはや収拾のつかないような大混乱の中に首相は立ち上がると、とつとつと釈明をはじめた。しかし、ウソのつけない首相は弁明にならぬどころか、火に油をそそぐような発言をもらすのだった。
「詔勅にあります『天佑ヲ保有シ』というお言葉の意味につきましては、学者の間にもいろいろな議論のあるところでございまして」
ふたたび、卓が叩かれ、怒号がとび、立ち上がって首相の席に殺到する議員もあった。「|不逞《ふてい》だぞッ、総理」「反逆者ッ、辞職せよ」。制止しようとする議員と衛視に鉄拳がとんだ。委員長が声をからして、「休憩、休憩」と連呼したが、乱闘は容易に収まらなかった。
委員会は数回の休憩がくりかえされたが、そのたびに混乱に陥った。議事はまったく空転した。ついに会期二日の議会は法案のどれもが片隅にのけられたままで、特別委員会の終了が告げられた。とたんに、米内海相が眼鏡をはずしながらすっくと立ち上がり、首相より先んじてサッと退席してしまったのが、他の閣僚にも印象的だった。温厚な海相がかつてみせたことのない厳しい怒りの動きであった。
あとにつづいた鈴木首相は、つと窓の方に近づくと、外の空模様を仰ぎ、一言、
「いいお天気だね」
とつぶやいた。さきほどまでの議場の紛糾をまったく気にもしていない風であった。
控室に戻ってからも、首相の風貌には、怒声や罵倒もまったく関心なしといった平然さで、葉巻をのんびりとくゆらし、新聞をひろげて読みふけった。急を聞いて心配して駈けつけてきた下村宏情報局総裁に、「どうも皆さんは大いに話したいために話しているようですな」とだけ、首相はいって、忍び寄る夕闇と窓外にゆらぐ青葉をしばし眺めるのだった。
小日山運輸相が「これが大海戦のさ中に司令長官として艦橋に泰然として立っている提督の姿ですな」と感に堪えたようにいった。
しかし、委員会を休憩にしたまま、議事はまったく停頓した。護国同志会は声明書を公表して首相をはげしくののしった。
「鈴木総理大臣は、|畏《かしこ》くも詔勅を批判し……放言せるは、神聖なる国体を冒涜し、兼ねて光輝ある国民的信仰を破壊する不逞悪逆の言辞にして、大逆天人倶にゆるさざるところ、吾人同志は飽くまでその不忠不信を追及、もってかくの如き敗戦|卑陋《ひろう》の徒を掃滅し、一億国民あげて必勝一路を邁進せんことを期す」
この宣伝ビラを東京市中にまきちらし、鈴木内閣倒閣の気勢をあおった。
首相を反逆者扱いにされて各閣僚は憂鬱の極みとなった。米内海相は腹が立つやら腐るやらで、十一日夕刻からひらかれた臨時閣議では捨て鉢な発言までした。
「だから、いわないこっちゃない。この有様は何事か。こんな議会を相手にしていては、われわれの主張を通すことは望めないから、断乎として解散すべきではないか」
だが、閣議は一応明十二日に議会を再開することをきめた。とたんに米内海相は立ち上がりきっとなって、
「皆さんがそういう御意見なら、それはそれでおやりになればいい。私は私で善処します。しかし皆さんに迷惑はかけないつもりです」
と言い放って、退席していった。
閣僚たちはこの言葉に顔色を変えた。海相が辞表を出すのではないか。となれば、鈴木首相は閣内不統一ということで総辞職しなければならなくなる。しかし、鈴木首相は少しも騒ごうとはしなかった。ごくごく短くなった葉巻に楊枝をさし、それを支えにして、口を寄せるようにしてうまそうに紫煙をくゆらしているだけだった。
迫水書記官長はその夜、枕を高くして寝ることができなかった。各方面に手をのばして情報をあさり、首相の身辺護衛をさらに十数人もふやした。そんなことをまったく気にせず、首相はいつものように、五月二十五日の空襲の夜、警備の巡査がかついで救い出した仏壇の前で、長いこと黙座して何事かを祈り、早目に寝につくのである。
海相は明らかに辞意を抱いていた。しかし翌十二日朝、阿南陸相からの強い翻意のすすめもあり、思いとどまった。陸相からの手紙を黙読した米内は、ふうむ、と深い吐息をもらし、
「陸相がこうまでいってくれるのか」
と嬉しげにつぶやいた。それからしばらく無言でいたが、やがて突っぱねるようにいった。
「鈴木さんにはもっとしっかりして貰わねばならぬ。タガがゆるんでいる。しっかりネジを巻いてやらねばいかん」
その日、再開された衆議院議会の議場で、鈴木首相は立って「全部取消しまして、あらためて、私の真意を申し上げたいと思います」と前おきして、つぎのように語った。
「両国とも天罰を受くべしということは、その当時米国で米国民に向って申したことでありまして、私の真意は、小山君の仰せられた通り、戦争挑発者が天罰を受けるという意味でありまして、すなわち米国は天罰を受けるのだという心持で申したのであります。また、天佑ヲ保有シ≠ニいう御詔勅の言葉につきまして、私の申し上げようと思いましたのは、天佑ヲ保有シ≠ニいうお言葉の意味は、通俗世間で天佑神助などと申すものと違って、非常に有難い崇高深遠なものであるという私の信念を申したいと思ったのであります。天罰ということとならべて使われるようなことではないのであります……」
しかし、小山亮はなお執拗に、首相の責任を追及し、最後には「答弁のできない内閣に対しては、私は質問はいたしません」と棄てぜりふを残して退場していった。これを契機にさらに倒閣を策動すれば、あるいは内閣はより窮地に立ったかもしれない。しかし陸軍や右翼の強硬派といえども、それだけの力はもはやなかった。
臨時議会はこれで終った。所定の法案を通過させ万歳で終ったあとの臨時閣議には、虚脱させられたような空しさだけが残った。首相の政治力に対する失望感がいちばん大きかった。臨時閣議の席上で、下村情報局総裁までが率直にして痛烈な意見書をつきつけた。「時局、内外ともに非なり。腹を切る覚悟にて、職務完遂に努められたし」。まさに四面楚歌であった。しかし、老首相はあえて弁明しようとしなかった。鈴木の真意は、演説を連合国にきかせたかったのである。
議場でも閣議の席でも、首相は膝の上に手を重ねて、少しかがみ腰に耳をそばだてて、無心の境地で聴きいっている姿勢を変えないのである。水を打ったように静か、という形容がいちばんふさわしい。そして甥の武秘書官に議会の印象を首相はこう語った。
「沢山の蛙がいっぺんに鳴いているような声が聞こえて、その間に単語が切れ切れに聞こえる」
|老獪《ろうかい》とみる人もいた。しかし装ったものでないことはいうまでもない。|生地《きじ》なのである。首相はとうに生命を投げだしている。何が起ころうと、自分の手でこの戦争に終結をつける、その一点にすべてをしぼる。しかも国体を護持することを最大の条件に──首相の眼は、ずっと遠くを見つめていたのである。
首相の方針演説は、結果的に、国内的には大混乱を招いたにすぎなかったが、そのひそかなる意図は、同盟通信の古野伊之助や部下の井上勇らによって、アメリカに伝えられていったのである。グルー次官やザカリアス大佐は、鈴木内閣が和平に関心を抱いていることを明確にみてとった。
「鈴木は戦いのことを語っているが、かれが実は平和のことを考えているのだ、ということをこの演説は明瞭に示している」と大佐は心理戦争課の部下にいった。
「鈴木は、もうわれわれの無条件降伏政策に条件をつける材料のないことを覚悟している。それでいて、なお降伏を受けいれることを鈴木がためらっているのは、将来の天皇の地位が不明だからだ」
その推察はまったく正しかった。
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[#小見出し] 第十五章 天皇と大元帥の間
[#地付き]●「おたたさまは、分って下さらない」[#「●「おたたさまは、分って下さらない」」はゴシック体]
グルーやザカリアス大佐がはるかに視線を送っている天皇は、このころ傷心にうち沈んでいた。十七貫もあった体重が十五貫を割っている。侍医や侍従たちが病気ではないかと心配したがそうではなく、激務の心労からくるものであった。
もちろん、食事の粗末さや不足もそれを手伝っている。天皇とて例外ではなかった。
宮内省食堂はうどん、雑炊ばかりの日々がつづいた。侍従たちが天皇の食事に陪席して、君臣語り合うという永年の美風は失われてしまった。ヤミは一切できなかったから、侍従たちは、天皇家の十分な食事のために、自宅から弁当もちでこようと話し合った。これを聞いた天皇はいった。
「皆に食事の心配をさせて、気の毒だな。しかし、弁当の会食とは、よい考えだ」
そのような軽い、どうでもいいような楽しみに心を紛わすよりほか、天皇をなぐさめるに足る華々しいことは何一つなかった。
この苦悩する天皇にして大元帥は、臨時議会で鈴木首相が「天罰論」を訴えていると同じ九日、驚くべき報告を満洲と中国大陸の視察より帰国した梅津参謀総長からうけた。
「満洲と支那にあります兵力は、すべてを合しましても、米軍の四個師団ぐらいの戦力しかありません。縦深戦力は内地の五分の一程度であり、しかも弾薬保有量は近代的な大会戦をやれば一回分しかないのであります」
天皇はいった。
「内地の部隊は在満部隊よりはるかに装備が劣るというはずではないか。その在満部隊がその程度の戦力では、いったい総帥部のいう本土決戦など成らぬではないか」
さらに十二日、天皇はこれもあまりに率直な、影響の大きい報告書をうけとった。大命によって特命の査察官として三カ月間、兵器廠、各鎮守府、そして第一線の航空基地をみて回った海軍大将長谷川清が、戦力のすべてを喪失した海軍の現状を報告したのである。
「自動車の古いエンジンをとりつけた間に合わせの小舟艇が、特攻兵器として何千何百と用意されているのであります。このような事態そのことがすでにして憂うべきことである上に、そのような簡単な機械を操作する年若い隊員が、欲目にみても訓練不足と申すほかはありません」
大将のいわんとするところは、兵器も人員も底をついている事実≠ナあり、にもかかわらず、なお勝利のみが叫ばれている悲しい幻想≠ナあった。「最後の一兵まで」あるいは「特攻肉弾攻撃」という言葉がもつ真の意義について、政府も軍部も再思三考してみようともしない。そのことは国そのものの徹底的破壊であり、民族の滅亡を意味するのである。
大将はつづけた。「動員計画も、まことに行き当りばったりの|杜撰《ずさん》なものでございまして、浪費と重複以外のなにものでもありません。しかも、機動力は空襲のたびに悪化減退し、戦争遂行能力は日に日にうしなわれております」
天皇はじっと耳を傾けていたが、老提督の報告が終るといった。
「そんなことであろうと想像はしていた。お前の説明でよくわかった。本当にご苦労であった」
これまでの天皇の事実認識は音を立てて崩れた。陸海軍統帥部のしてきた戦況報告は、大元帥を安心させるための、虚偽と言い逃れと欺瞞にみちている。打つべき対応策もないのに「十分研究して善処します」という答えを奏上するが、陸軍の豪語する「本土決戦の戦勝による有利な講和」は幻想でしかなかった。大本営そのものが、軍の意志で指導する力を失って、大元帥の権威に依存して戦いをここまで引きずってきたにほかならない。
天皇は事実の裏の裏までを見通した。陸海軍の無責任な楽観説にたえず裏切られ、幻滅と失望を重ねながら、勝利への期待を捨てないできた。憲法にだれよりも忠実な天皇は、そうせざるを得ない立場を守りつづけた。しかし、これ以上、兵や国民を栄光へ駆り立てることは望んではならない。にもかかわらず、相も変わらない虚偽と欺瞞にのせられて御前会議で本土決戦≠認可してしまったのである。
六月十四日、天皇は皇后とともに大宮御所に貞明皇太后を訪ねた。午前中より気分すぐれず、外交に関する進講も途中で中止せねばならなかったほどだが、何事にも几帳面な天皇は予定を変えず、無理をおして母君の戦災見舞いに出かけたのである。天皇は心から大宮御所焼失を詫び、この上になお災禍の及ぶことを恐れて、軽井沢への疎開をお願いした。すでに何度も皇后の口を通してすすめてきたことなのである。
しかし貞明皇太后ははっきりとそれを断った。
「私は何があろうとこの帝都を去らない」
天皇は、母君の強い言葉に胸の張りさける想いを味わった。「おたたさまは、分って下さらなかった」と肩を落として天皇はつぶやいた。本土決戦となれば首都の東京は最大の攻撃目標となる。宮城をめざすアメリカ軍の重戦車のキャタピラの音が聞こえてくるようだ。飛び交う銃砲弾と火炎放射器の|紅蓮《ぐれん》の炎。その中に母皇太后を巻きこまねばならぬのか。
宮城へ帰ると、天皇は倒れた。胃腸を害し、戦争はじまっていらい休んだことのない政務を休んだ。翌十五日も天皇は病床にあった。「聖上昨日から御不例に渡らせらる」と海軍の侍従武官日記にあり、陸軍の侍従武官も「聖上昨日よりご気分悪く数回下痢遊ばされ、今日は朝よりご休養なり」とある。悲惨な戦闘に尊厳と意義を見いだせなくなったとき、初めて天皇は病んで倒れたのである。
このわずかな二日間、天皇は輾転反側する想いで悩んだと思われる。何を考え何を決意したかは、想像する以外はない。しかし、健康を回復して再び政務室に姿を現したとき、その顔は和平の方へ向けられていた。
宣戦および講和の権は、憲法によってきめられた天皇大権である。その大権を避け、軍と政府の一致した策定による和平交渉をいかに期待しても、具体化することがないならば、国家の意思を転じ得るのは、自分しかいないと天皇は思い定めたのである。天皇、時に満四十四歳。
[#地付き]●「本土決戦こそ絶好の勝機」[#「●「本土決戦こそ絶好の勝機」」はゴシック体]
時を同じくして、時局の流れをみるに|敏《さと》い木戸内大臣が、重い腰をあげて舞台裏で動きはじめた。
まず御前会議のあった翌日の六月九日、木戸は時局収拾対策試案を天皇に上奏し、具体的方策として、一、天皇の親書を奉じた特使をソ連に派遣し、二、世界平和のため忍び難きを忍んで、三、名誉ある講和を結ぶことにある、とした。天皇はこの内大臣の提案を、即座にして、
「やってみるがよい」
と承認した。数日後に、近衛に会った木戸は、かれをこの陰謀に加担させた。近衛は強くうなずいて木戸を力づけた。
さらに六月十三日、木戸は鈴木首相と米内海相にそれぞれ別個に会い、構想を語っている。首相は木戸の熱弁を聞き終えると、力強く応じた。
「それはいい考えです。やりましょう。是非とも実現させましょう」
しかし、問題は陸軍なのである。徹底抗戦を標榜する多数派の圧力である。陸軍はこれまでにも、天皇の考えがかれらと一致するときは喜んで計画を実行したが、天皇の意思がかれらと衝突すると、君側の奸によって陛下は迷わされているといい、君側の奸を斬るべしと軍刀の音をさせて計画を推進した。満洲事変にはじまる過去幾多の歴史的事実と、二・二六事件などの血の体験を、鈴木は侍従長として骨身にしみて味わってきた。戦争終結を準備する、しかし、そのことが洩れるようなことがあれば、主戦論者から襲撃され、生命を奪われることは必定である。それでは任務を|完《まつと》うしたことにならない。同時に、戦争継続の努力と決意の強化は、戦時内閣の頭領としての義務でもある。
そんな鈴木の心の動きも知らぬげに、木戸は率直にきいた。
「いったい、わが国の戦力はいつごろまであるとお見込みか」
「自分は、八月になったらガタ落ちになるだろうとみている」
と、鈴木首相は淡々と答えた。
「それならば、皇室のご安泰、国体護持のため、戦争終結へ進みましょう」
鈴木はニッコリした。
「当然、私もその覚悟です。それ以外にはない」
こうしてみると、初めから鈴木首相が胸裡に秘めた深謀を理解し、信頼しつづけているのは迫水書記官長らひとにぎりの側近のものたちだけということになろうか。
いや、天皇がいた。しかし、その天皇が倒れた六月十四日、重臣会議がひらかれ、首相はここで御前会議の決定を報告した。このとき、若槻礼次郎が質問した。
「この国力判断は、総帥部も了承しているのであるか」
「もちろん総帥部を含めての国力判断である」と鈴木首相が答えた。
「それなら、いずれの点よりみてもこれ以上の戦争遂行は不可能という判断がでる。にもかかわらず、なお抗戦するという結論はどういうことなのか」
鈴木は、温厚な人柄にしては珍しく、
「本土決戦を決意しているのに、いまさら何をいわれるか。理外の理をいうこともある。徹底抗戦して利あらざるときは、死あるのみ」
と卓をたたいて、声を荒らげて激語した。東条英機のみが、わが意を得たりというようにしきりにうなずいていた。そのうしろで近衛が静かに微笑しているのが若槻には妙に思われた。
翌六月十五日、天皇がついに政務室に姿をみせなかったその日、沖縄決戦が絶望となったことを知りつつ鈴木首相は記者会見し、木戸に語った決意を裏切るかのように「本土決戦こそ絶好の勝機」と謳いあげた。
「沖縄が天王山などとは考えていない。元寇のとき壱岐・対馬をとられたのと同じことで、これから本土で、九州で戦う。あるいは他の地域で戦う。……敵が海上にいるときは輸送船をたたき、海岸では上陸軍をたたく。たとえ武器において劣るとしても必勝の道はあると確信する。それに私は陸海軍の備えに満幅の信頼をもっている」
その夜、首相は鈴木一、武の両秘書官をお伴に、東京を立って伊勢に向った。伊勢神宮に必勝を祈願するためにである。
首相の留守の東京では、木戸内大臣の暗躍がつづいている。十五日夕、内大臣室に東郷外相を招き、鈴木、米内との会談の模様を伝え、木戸は和平推進の協力を請うた。外相はいった。
「あなたの試案の趣旨にはほぼ賛成だが、先日の御前会議で決定された戦争完遂≠フ方針との関係はどうなのか。あの決定がある以上、外交事務的にみれば和平工作はやりにくいと思う」
外相の言は的を突いていた。御前会議の決定は国家最高の議決のはずである。それを無視することは、立憲国家としてのたてまえを崩すことになる。木戸は痛いところを突かれてとまどった。
東郷外相は精力的で、不屈の主張と合理的なものの考え方で知られた外交官であった。かれの辞書には「適当に」という文字はないと噂された。砂糖大さじ一杯、塩少々というかわりに、砂糖何グラム、塩何グラムといわねば気がすまぬという。その人が対ソ外交の全権をいま与えられたのである。
木戸内大臣のせねばならぬ大役はもう一つ残っている。もう一人の不屈の闘将阿南陸相との懇談であった。この猛虎のような将軍の首に和平の鈴をつけねばならない。十八日の朝、内大臣は沖縄戦の事実上の終結について語った上で、そこで、と陸相にいった。「われわれはいまこそ戦局の収拾について、果断な手を打つ必要があると思うのだが……」
陸相は血色のいい顔を真正面に内大臣に向けて、しばらく黙って聞いていたが、口もとをほころばせるといった。
「木戸さん、あなたのいまの地位からいって、いまいわれたことを考えるのは至極当然なことと思うのです。しかし、われわれは軍人なのです。軍人としては、本土決戦において敵に一大打撃を与えてから和平を交渉すべきだ、と考えるだけなのです。そのほうが日本にとって有利な条件で和平を結べると信じるのです」
内大臣はせきこむように早口で答えた。
「お上は、戦争を終末までつづけるのは無駄なことだと考えられ、憂慮されておられる」
忠誠な軍人として阿南陸相は言葉を失った。天皇が戦争を終結させたがっているのか。戦う大元帥≠ヘついに剣を投ずることを覚悟したというのだろうか。
この日の午後、木戸と東郷の要請にもとづいて鈴木首相は、最高戦争指導会議の構成員による懇談会を極秘裡にひらき、つぎの申し合わせを行った。連合国が無条件降伏に固執するかぎりは、日本帝国としては戦争を継続するほかはないが、なお国力を相当に保持している間に、中立国とくにソ連を通じて和平を提議し、少なくとも国体(天皇制)を維持し得る条件のもとに戦争を終結させることが賢明であると考える。
この考えにもとづいて、戦争をでき得れば九月までに終結する目的をもって、七月初旬ごろまでに、ソ連の態度を打診することを外相に依頼する。
このようにきまるまで、なお幾つかの屈折があった。阿南陸相と梅津参謀総長とが、敵に決定的打撃を与えた上で、外交交渉をはじめるべきだ、という変わらざる主張を力説した。
とくに阿南陸相の「古来、民族興亡の跡を顧みれば、徹底抗戦して最後の一兵まで戦いぬいた民族は必ず復するが、中途半端で降伏した民族は結局は滅びるのである」という論は強く首相の胸を打った。それはまた、軍人としての鈴木貫太郎の持説でもあった。しかし首相はあらゆる雑念をふりきってこの対ソ交渉の決定に同意した。和するも戦うも、国体を護持し皇土を防衛するため、である。その一念で進む以外にはない。
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同じ六月十八日、海の向うでも、ホワイトハウスに政府主要閣僚が参集して、トルーマン大統領を囲んだ。議題は日本本土進攻について、である。海軍、国務省、陸軍に代表される三つのアイデアが主張された。
1 空襲と海上封鎖で降伏させ得る(海軍)
2 降伏条件次第で政治的に手をあげさせることができる(国務省)
3 日本本土で敗北を味わわせる以外に降伏を認めさせることはできない(陸軍)
トルーマン大統領は結局、国務省の政治的降伏案≠謔閨A陸軍の軍事的降伏案≠とった。十一月予定の九州進攻のオリンピック作戦計画書にサインした。つづいて翌年三月には、関東平野に上陸のコロネット作戦が計画されている。
閣議をおえて大統領が自室に引き揚げるのを、グルー国務次官が追って、面談を申しこんだ。
「何千何万というアメリカ兵の生命を救おうとするならば、どうしてもこのことを心得ていただかなければなりません。軍や国務省の首脳の多くは、日本の国情も知らずに、対日降伏勧告に天皇制廃止を謳うよう主張していますが、それでは、いっそう日本人を戦争にかり立てます。天皇の地位の保障がどうしても必要です」
グルー次官はここで言葉を切った。脳裏にかつての友鈴木貫太郎のさびしい顔容が浮かんで消えた。
「少なくとも、日本国民はその将来の政体に関しては自分自身で決定できる、という言明を行うことが必要なのです。そうすれば、鈴木内閣はメンツが失われずにすんだと思い、進んで降伏を受諾するでしょう」
しかし、無条件降伏政策を継承したトルーマンは一挙にそこまで踏みこむわけにはいかないのである。天皇の地位を保障したら、アメリカの世論がどんなに激昂するか、目に見えるようであった。天皇に対する世論がいかに険悪であるか、政府がギャラップ社に依頼して六月に行った調査が物語っている。これは結局公表しなかったが、トルーマンはその結果に思わず瞠目した。
設問=戦争のあと天皇をどう処置するべきか。
(1)殺せ。拷問し餓死させよ 36%
(2)処罰または流刑にせよ 24%
(3)裁判にかけ有罪なら処罰せよ 10%
(4)戦争犯罪人として裁け 7%
(5)|傀儡《かいらい》として利用せよ 3%
(6)なにもするな 4%
(7)その他、不明 16%
実に七十七パーセントが天皇の処罰または裁判を要求している。
さすがに政府高官のなかにはこれほど極端な議論はなかったが、天皇の地位に保障を与えることの無謀さは察するに余りあった。たしかにグルー次官のいうように、天皇は軍国主義に対する反対勢力の拠り所であるかもしれない。日本人はほとんどが天皇に愛着をもっている。日本人と日本政府が無条件降伏を受諾しないのは、それが天皇と天皇制の破壊、あるいは永久的廃止をともなう、と考えるためなのだろう。
トルーマン大統領は、すべてを理解できたとしても、なお無条件降伏を提唱せねばならない立場にあるのである。それはアメリカ国民がそう考えているからである。その代表的意見が、軍事評論家ハンソン・ボールドウィンが六月二十日に新聞発表した主張ではないだろうか。
「日本軍国主義の|破摧《はさい》はわれわれの根本目的であるから、この点については、いささかの妥協もできぬし、また、すべきでもない。いかに耳ざわりのいい美名でよばれようとも、|宥和《ゆうわ》は問題外である。日本の犯罪はドイツと甲乙ない」
ルーズベルトの主張した無条件降伏政策は、いまや両刃の剣になって、日米両国政府に血を流すことを要求するのである。
[#地付き]●「これで勇気百倍です」[#「●「これで勇気百倍です」」はゴシック体]
六月二十日午前、東郷外相は宮中に参内して、健康を回復したとはいえ憔悴の色があらわな天皇に、極秘裡に対ソ秘密工作に入ることを決定した旨を奏上した。さらに、広田弘毅元首相が二回にわたって駐日ソ連大使マリクと会談したことについても、東郷は報告した。
はじめて知らされる政府の新しい動きに耳を傾けていた天皇は、退出しようとする外相を追いかけるようにしていった。
「最近うけとった報告によって、統帥部のいっていることとは違って、日本内地の本土決戦準備がまったく不十分であることが明らかとなった。このうえは、なるべくすみやかに戦争を終結せしめるようとり運ぶことを希望する」
くり返すが、宣戦あるいは講和の権は、憲法によってきめられた天皇大権である。陸海軍を統率する大元帥としてではなく、本土決戦の国策を指揮する大元帥をのりこえて、その大権を行使しようという天皇の姿勢が、この発言のなかに明らかである。天皇は立憲君主としての天皇と、統帥君主としての大元帥という二つの側面をもっていた。いま、政略を戦略の上位におき、徹底抗戦をやめ、和平への模索を、大元帥にして天皇が希望したのである。
その日の午後、木戸内大臣が、天皇のようやく明確となった和平への意思に拍車をかけるような、思いきった奏上を行った。ソ連を仲介とする和平工作をすすめるためにも、もう一度戦争指導会議の構成員をよび集めることが必要である、と木戸はいった。
「その席で、八日の御前会議の決定を解除していただきませんと、和平工作をすすめるのが難しくなります」
天皇みずからが御前会議を召集し、国家の最高決定を無効にすることは憲政上前例のないことであった。天皇はやがてぽつりといった。
「それはよろしい」
鈴木首相にもいよいよ強まっていく天皇の意志が伝えられた。首相就任いらい覚悟していた統帥権に口出しをせねばならないときが来たのである。だからといって、軍の戦意をその瞬間まで発揚しておくことも必要である。軍人としての鈴木はそのことをほかのだれよりも知る男だった。軍さえその形を崩さないならば、終戦でも何でも可能である。もし軍が分裂して二・二六事件のときのように混乱の極みとなったら、負けることすらも不可能になる。首相はそのことについて、阿南陸相もまたおのれと志を一にする武弁であろう、との確信がある。攻むるにせよ退くにせよ団結こそが絶対であると、常々部下に説いているという陸相の姿のなかに、首相はおのれの投影をみていたのである。
こうして慎重の上に慎重を期してすべてのお膳立てがととのった。理性を戦場から拾いあげるときが訪れた。六月二十二日午後三時、天皇は最高戦争指導会議をみずから召集する。首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長の六人の男は、これまでの御前会議のときと違い、天皇を中心にしてU字型に用意された椅子に坐った。御前会議ではなく、親しく懇談という意味をふくませ、憲法の責任内閣制に抵触しないように配慮されたのである。
それにしても、このときほど天皇のリーダーシップの不思議をみせた瞬間はない。大元帥としての統帥大権による徹底抗戦の国家決定を、天皇としての国務大権によって和平へと覆そうというのである。形式をいかに|糊塗《こと》しようが、天皇が大元帥を否定することになろう。
立憲君主制の守護神ともいえる西園寺公望が、生前に秘書の原田熊雄に語ったという言葉が、重い意味をもって想起されるのである。
「陛下は天皇であると同時に大元帥である。よく大元帥=天皇というように考えているようだけれども、大元帥は天皇の有せられる一つの職分であって、大元帥=天皇などということはないのである」
天皇と大元帥との間はそのような関係にあったのか。
長年にわたって侍従長として仕えてきた鈴木にはそのことに対する深い理解があったと思われる。この六月二十二日の懇談は、その重大なことをあらためて鈴木首相に想起させた。同時に二・二六事件における天皇の聖断≠ニいう事実を。そうだ、いよいよ最後の決定というときには、天皇の聖断≠ノよって主戦派すなわち陸軍を抑えるというとっておきの手段があるのではないか。
天皇が沈黙を守ることは憲政の正道である。しかし、皇室の安泰、国体護持のためには、その正道をも破らなければならぬときがくるかもしれない。そして、問題は、首相が全責任をかぶり、いつ、どのようにして、どんな条件のもとにそれを破るか、ということであろう。
六月二十二日の会議は、何から何まで型破りであった。しきたりを破って天皇が最初に発言した。
「戦争指導について六月八日の会議で、あくまで戦争を継続すると方針を決定したけれども、この際いままでの観念にとらわれることなく、戦争終結についても、すみやかに具体的研究をとげて、これが実現に努力することを望むのであるが、皆はどう思うか」
公然と、戦争終結≠口にするのをだれもが|躊躇《ちゆうちよ》してきた。それを天皇が言葉にしたのである。長い沈黙が……。進んで答えるもののないのをみてとって天皇は、親しそうな視線を首相に向けた。
「それでは聞こうか。総理大臣の意見はどうか」
老提督はこれもおだやかな目差しで応えて、ゆっくりと立ち上がった。
「お言葉を拝しまして|恐懼《きようく》の至りにたえません。あくまで戦争完遂につとむべきはいうまでもございませんが、また、お言葉のようにこれと並行して外交的な方法をとることを必要と考えております。その点につきましては、海軍大臣よりご報告させます」
いきなりバトンを渡された米内海相は、
「これは外務大臣から奉答申しあげるのが順序かと存じますが、便宜上私から申し上げます」
といった。海相の役割は具体的に説明することであった。五月中旬にすでに対ソ問題について最高戦争指導会議で討議したことを報告し、ソ連をして戦争終結の仲介をさせることに六人の意見一致をみたこと、その時期をいつにするかについては状況をよく見守っての上のことにした、と米内は説明した。
海相の長い説明が終って、東郷外相が指名された。外相は、海相の説明を補足し、たとえ相当の危険が予想されようとも、ソ連の仲介による和平工作以外に方法のないことを奏上した。
天皇は重ねて聞いた。「では、外交的解決の日どりは、いつごろに、予定しているのか」
連合国首脳によるポツダム会議が七月半ばにひらかれる。そのことを考慮すれば「七月のはじめには、なんとか和平の協定に達したいと望んでおります」と、外相は答えた。
天皇は視線を移して、さらに追及した。
「軍部はどう考えているのか」
梅津参謀総長が躊躇することなく答えた。
「海相のご説明申しあげましたとおり、われらも意見の一致をみました。ただ、和平提唱は内外に及ぼす影響が大でございますので、実施には慎重を要するものと考えます」
天皇の追及はきびしかった。
「慎重を要するのはもちろんであるが、そのために時機を失うようなことはないのか」
参謀総長は逃げられず、「はい、そのためにもすみやかなる外交交渉を要すと考えます」と奏上するほかはなかった。
阿南陸相は、ひと言、「特に申し上げることはございません」と答えたのみであった。
天皇の召集による異例の御前会議は、三十五分で終った。会議室を出るとき、天皇はもう一度親しげな視線を鈴木首相にあてた。わが心をよく知るものは鈴木以外にないと思う、とその眼が語りかけているように、首相には思われた。
天皇の姿が消えるとともに、鈴木首相が立ち上がってすぐに口を切った。
「今日は思いがけないお言葉を拝しました。われわれが口に出すことをはばからなければならないようなことを、陛下が率直におっしゃって下さった。まことに、有難いことである。今後は、この六人が集まって十分にその方策をねることとしたい」
「賛成です」と打てば響くように阿南陸相がいった。「しかし、これは極秘にしなければなりません。陸軍の若いものは自分たちの考えのみが正しいと思いこんでおります。陛下が終戦の決意を遊ばされるのは、側近にだまされておるため、としか考えませんから……」
だれにも思い当る陸相の、これもまた率直すぎるような発言であった。
首相官邸に戻ってきた鈴木首相の眉宇には、それだけに深い決意が刻まれていた。迫水書記官長に、会議の始終を語ったのちに、首相は強い語調でいった。
「陛下が、命令ではなく懇談であるとおおせられたのは、憲法上の責任内閣の立場をお考えになってのことと察せられ、恐懼にたえない。しかし、これで勇気百倍です。断乎やりましょう」
書記官長にも首相の激しい意気込みが手にとるようにわかった。組閣当初からの覚悟であった終戦の大業に向って、「モーニングを着た西郷隆盛」はいよいよ本格的に着手するハラを決めたのであろう。しかし、それにつけても、狂気の軍部や右翼がどうでてくるであろうか。
この日、米軍は沖縄戦の終了と正式占領を表明する。米軍上陸いらい、日本海軍は菊水第一号より六月二十日の第十号作戦まで、のべ二千八百六十七機の特攻機を出撃させた。その特攻作戦もこの日で打ち切られた。戦後の米軍の記録は伝えている、米艦隊の損傷三百六十八隻、沈没三十六隻、飛行機七百六十八機を喪失し、沖縄を占領したことを。
二日後の二十四日、モスクワでは折からの滝のような雨をついて、赤の広場で、大元帥スターリンを頂点にいただいた赤軍の凱旋パレードがおこなわれた。数百|旒《りゆう》のドイツ軍旗が行進する兵士の足もとに投げ捨てられ、踏みにじられた。そして、撃滅すべきつぎの目標は、日本陸軍である、とスターリンはいった。
そうとも知らぬ鈴木首相を筆頭とする日本政府は、対ソ外交の進展にすべての夢を賭けた。
東郷外相を中心に外務省も眼の色を変えた。しかし、マリク大使との会談をすすめている広田元首相からの報告をうけた東郷外相は、マリクを通しての交渉に見きりをつけざるを得ない、と判断した。時間は待ってはくれぬ。日本にとって残された時間は少なかった。突破口は一つ──モスクワへ天皇の特使を派遣し、その地で直接交渉するほかはない。
「特使には近衛公がいいと思う。いや、近衛公がいい。これに決めましょう」
そう老首相はひとりでうなずいた。
六月二十八日、その天皇と皇后を宮城に、貞明皇太后が訪ねてきた。宮中と大宮御所との間で、しばしば皇后宮大夫と皇太后宮大夫が往復し、話し合われた母君皇太后の疎開問題はいぜんとして暗礁にのりあげたままであったが、そのことを抜きにして、貞明皇太后の宮城訪問は天皇にとって喜びひとしおのことだ。
貞明皇太后を案内して、天皇・皇后はつれだって宮殿の焼け跡をみて回った。銅板葺きの屋根も華麗な格天井もまぼろしのものとなった。桐の間、鳳凰の間も炎上した。吹上御苑の立木までが燃え、噴水も芝生もみな焼けた。
三陛下は静かに歩みを運ぶだけで無言だった。|瓦礫《がれき》の黒焦げの材木などはすでに近衛兵や皇宮警察の手で片づけられているが、それだけに宏大な宮殿の焼け跡は、より広く眺められた。
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第五部 聖断ふたたび
[#小見出し] 第十六章 ポツダム宣言と黙殺
[#地付き]●「一億総穴居で頑張る」[#「●「一億総穴居で頑張る」」はゴシック体]
天皇も鈴木首相も対ソ外交交渉の進展に熱い視線を送っている。
六月も押しつまった日に、高松宮がたまたま鈴木と面談する機会をもったとき、こう|質《たず》ねた。
「いつ戦争を終結するのがいちばんいいと思いますか」
首相は明瞭に答えた。
「兵力による反撃がまだ可能な時機、すなわちいまが絶好のときです」
だが、和平実現のためには、陸軍の内部と一般治安の維持に相当以上の不安が残されているのは否めない。極秘裡にすすめているとはいえ、やがては|洩《も》れるであろうし、そのときには多少の反対を押し切っても国策を転換する覚悟と用意をしておかねばならない。
壮年時代の体重二十三貫はいくぶん減ったが、いまなお二十貫は保ち、鈴木の血色はつやつやしている。首相になったすぐのちに、岡山県のある町の町長をしていた元海軍軍医大尉小林堯太が、「鈴木閣下のお体は自分が引き受けました」と駈けつけ、いらい首相も欣然としてその人に体を「引き受け」させていた。だが、海軍時代の部下の一人でもあるこの小林医師が、気抜けするほどの健康さを、鈴木は保っている。小林医師は官邸の一室を医務室とし、たえず首相の健康を気づかっているが、就任いらい一度として首相が体をそこねたことがなく、月に一度の定期診断をするかたわらで、内閣職員のために医療することをもって甘んじねばならなかった。
よく眠ること、よく食べること、この二つをたか夫人は首相が守ることを求めた。この日常の鉄則を鈴木は実に忠実に履行した。よく食うことの許されぬ時勢下にあったからともかくとして、眠ることには首相みずからも十分な注意をはらったのである。夜十時就床、五時起床をできるかぎり守った。
このころの首相の楽しみは、日曜に狭い私邸の庭の植木の手入れをすることだけであった。好きな葉巻も二本に減らし、完全に灰になるまで吸いきるのを例とした。
迫水書記官長ら側近のものが、そうした首相をなぐさめ、同時に閣内のより一層の緊密をはかるために、六月に入ってから毎月一回ずつ全閣僚が寄って晩酌をともにする会を計画した。一人わずか五勺ほどの日本酒でしかなかったが、首相をはじめ各閣僚が実にこれを楽しみにした。
七月の会合のとき、書記官長らは来るべき本土決戦のため「一億総|蹶起《けつき》の歌」をひそかに作詩・作曲し、これをタイプしたものを全閣僚に手渡した。首相はこれをみると、眼を細めていった。
「一億総蹶起はすなわち一億総穴居で頑張ることだね」
珍しい首相の冗談に思わず沸いたが、ともあれ一同はこの歌を非常に喜んだのである。
仰ぐも無念宮城の
御垣に残る弾丸のあと
この敵撃ての御心を
安んじまつる時はいま
わずかな酒で酔うはずもないのだが、鈴木首相を真ん中にして閣僚たちは、大きな口をあき、大声を出して斉唱した。議論では好敵手の阿南陸相と米内海相が肩をならべて歌う姿が、秘書官たちにはきわめて印象的に映じた。
「もういっぺんやろう、もういっぺん」
と、アコーデオンに合わせて、かれらは束の間の間奏曲を楽しんだ。
しかし、天皇にはともに歌うものがいなかった。独りでじっと待ちつづけねばならぬ。大元帥である天皇はすでに「この敵撃て」とは望んでいなかった。待っているのは、六月二十二日の御前会議いらい、いまは、ただただ砲声の鳴りやんだ世界だけなのである。
七月三日、侍従長藤田尚徳に天皇は催促した。
「対ソ交渉はその後どうなっているのか。木戸に聞くように」
このころ、地方都市に対する空襲はいぜんとして激烈ではあったが、東京にはそれも中断し、奇妙なほどの静かさが保たれていた。が、天皇が真っ先に示す居ても立ってもいられぬような焦燥感が、宮城内全体を熱くしていた。
木戸はちょうど下痢で欠勤中で、自宅も空襲で焼かれ弟の家に転げこみ、その一室で|臥《ふ》せていた。訪れた藤田侍従長から天皇の言葉が伝えられたが、どうにもならない憔悴ぶりであった。
「私は動けない。この上は陛下より直接に首相に対してご督促遊ばされるのが、いちばんいいと思う」
多くのものが栄養失調からくる慢性的な下痢に悩まされているなかで、鈴木首相はさすがに荒海で鍛えた健康さをずっと示した。六月いらい毎土曜・日曜はかならず勤労者激励に各軍需工場を回って歩く。名古屋の愛知時計をはじめ、大宮、吉見、浅川、湘南方面とどんなところでもその長身を運んだ。重要工場を一日も早く地下工場化することが急がれていた。首相の語呂合わせではないが、国民総穴居の生産態勢をととのえ、あくまで抗戦しようというのである。夏の酷暑のなかを老首相は、そうした地下工場を訪れ、率先して頑張りを示すのである。
だが、すでにして日本帝国は半身不随に陥っていた。主食の配給も一日に二合三勺を辛うじてつづけてきていたが、天皇が藤田侍従長に催促したと同じ七月三日、政府は閣議で主食の一割減を決定、ただちに実施を発表した。鈴木首相は食糧欠乏からくる人心の悪化を恐れたが、ない|袖《そで》はふれなかった。
農商相石黒忠篤が無策の策≠説明した。
「幽霊人口を整理することで約五十万石を浮かすことができましょう。密造酒をきびしく取締ることで、少なくとも三十万石、いや百万石を確保することができます。そして、イモのつる、桑の芽、ヨモギ、どんぐり、かぼちゃなどによる代用食を大いに奨励せねばなりません。モミガラだって食せるのであります……」
閣議のあと、首相官邸の一室で国民義勇隊用の武器の展示があるとのことで、連れだつ閣僚たちはその室に入った。そこで鈴木首相らが見せられたものは、竹槍、江戸時代の火消しや捕り手が使ったような鉄の棒、|刺股《さすまた》。銃もあるにはあったが、銃口から火薬を棒で押しこみ、そこへ鉄の丸棒を輪切りにしたタマ≠入れて発射するという原始的な先込め単発銃である。そして「射程距離おおむね三、四〇メートル、通常射手による命中率五〇パーセント」と説明書がつけられた弓と矢。
鈴木首相は顔面をくしゃくしゃとさせた。平常でも笑い顔ともみえる表情、それを大きく崩して思わず笑ってしまったのか。いや、泣いているのかもしれない。そして一言、
「これはひどいなあ」とつぶやいた。
鈴木首相がこのときに及んで、なお信じたものがあるとすれば日本民族というものに対してであった。日に二十通は下らぬ投書ないしは手紙は、さまざまな国民の声を伝えていた。秘書官らはそれら国内情勢の種々相を隠すことなく知らせ、意見を述べた。
道義が日に日に地に堕ちていること。盗難は頻々として生じ、ある大通りで、焼け残った電柱に中年の男が縛られていて上に貼り紙がしてあった。「焼け跡で盗みを働いた不届至極のものである。見せしめのため衆目にさらすものである」と書かれてあった。人びとは生きるためにのみ努力をしていること。爆弾が人間を裸にし虚栄の観念を奪ったあとには、人びとは砂糖も塩もない食事に馴れ、妙齢の女性がはだしで歩くことに馴れ、入浴は週一度、そして私的な旅行はリベートを贈るとか、あるいは前日になんらかの公的な用向きを|捏造《ねつぞう》して申告書を通過させるより仕方がなくなっていること……。
どこにも希望はなかった。国力の面からも士気の面からも、日本帝国が気息|奄々《えんえん》の状態に陥っている現実を、秘書官たちが首相に語るのである。しかし、そのたびに首相はこう強調し、なおも国民性への余裕ある信頼をみせた。
「そんなに心配はしないでよい。日本の国民は背水の陣をひかえれば、ほんとのすばらしい力をきっと出す。ギリギリのいざというときになれば、真の底力を出す」
そして例によって首相独特の歴史観を例にひき出して語るのである。
「よくいまの時局を人は元寇の役になぞらえるが、敵は壱岐、対馬にきた程度でまだ博多まできていない。あわてふためいて気を落とすのはもってのほかだし、神風を期待するのはもっともってのほかだ。元の第一回の侵寇のときは決して神風がいきなり吹いたのではない。日本の歴史書では神風を強調しているが、実は相手の元の歴史では、日本軍が仲々に手ごわく、自分たちの弓矢を打ちつくして、ついに引き揚げざるを得なくなったと伝えているのである。要はあわてず、肝をどっしり据えて、総力を出し切ることがいつの時にも大事である。そのことを元寇の役は教えてくれている」
そのように説き、あるいは公的にも「一人興国の志」という言葉によって、国民一人ひとりの真剣な結束を訴えていただけに、首相官邸での武器展示にはさすがの首相も頭をかかえた。
[#地付き]●「特使をソ連へ派遣しては」[#「●「特使をソ連へ派遣しては」」はゴシック体]
落胆する首相に追いうちをかけるかのように、七月七日、天皇はとくにご文庫に鈴木をよんで、親しく尋ねた。
「鈴木のことだから信頼はしているが、対ソ交渉は、その後どうなっているのか。難しいであろうことはわかっている。しかし、ソ連のハラを慎重にさぐるといっても、時機を失してはいたし方がないと思う」
途中から天皇は椅子から立ち上がると、一歩前に進んでいた。鈴木首相は一歩退きながら低く頭を下げた。
「ごもっともでございます」
天皇はさらに一歩進んでいった。
「この際は、むしろありのままにソ連政府に和平の仲介を頼むことにしてはどうか。そのために、私の親書をもつ特使をソ連に派遣してはどうか。鈴木、もう退らんで答えよ」
老首相は止まった。そしてほっとしたように面をあげて、天皇をみた。
「陛下のそこまでのご決心、まことに有難く、恐懼にたえません」
むしろ欣然とした表情になった。実は、と親しいものに打明け話でもするかのように、鈴木は奉答した。政府としても特使派遣を考え、暗に使節として近衛文麿公をきめている、といい、
「ちょうど本日、外相をして近衛公爵のもとにつかわし、特使就任を依頼する手はずになっております。外相はただいま軽井沢に向っております」
この報告に天皇は喜んだ。この老首相の政治の技術が下手であることはわかっていた。天皇が期待しているのは、そんな技巧の巧拙ではなかった。明治天皇における乃木のように、鈴木首相のうちにある無欲無私の奉公にこそ天皇は全幅の信頼をおいている。
「それはよい。この上とも急ぐように」
天皇と老首相の想いは一致していた。
アメリカ時間のこの日夜、巡洋艦オーガスターは、トルーマン大統領、バーンズ新国務長官らをのせてノーフォークから出港した。行き先はポツダムだった。
バーンズ新長官の|鞄《かばん》にはポツダムの宣言案が秘められている。それはグルー次官の案を基礎にして起草されたものであった。第十二条の後半には、実に微妙なことが記されていた。
「(降伏後に成立する)政府が、将来日本における侵略的軍国主義の発展を不可能ならしめるような平和政策を、真に追究する決意のあることを、平和愛好の諸国に確信させるならば、現皇室のもとの立憲君主制を含みうるものとす」
つまりは降伏後の、立憲君主制下の天皇制の保全が明記せられていたのである。
だが、中国通のオーエン・ラティモア、極東部長のヴィンセント、戦時情報局長官デーヴィス、国務次官補アチソンらは猛反対であった。その上に、対日感情の悪い一般世論がかれらの背景にあった。「天皇制の保存は、日本を帝国主義的侵略に駆りたてた封建的・反動的勢力の温存につながるものだ」と、かれらは主張した。ラティモアにいたっては「日本の皇族は一人残らず終身中国へ追放すべし」と極論できめつけている。
バーンズ長官は、日米開戦当時の国務長官だったハルに電話して意見を求めた。
「立憲君主制の保全の可能性を明記したりすると、宥和政策ととられてまずいぞ。グルーのやり方では手ぬるすぎる。日本に二度と真珠湾奇襲をやらせないためには、天皇制ばかりではなく、封建的な特権支配階級までつぶさねばならない」
ハルはにべもなかった。バーンズ長官は両意見の中間の線で行くことにきめた。日本に対しては、政府の形態を日本側にまかせることを保証すれば、それで万事うまくいくだろう。バーンズは楽観的だった。
鈴木首相は悲観も楽観もしていなかった。対ソ交渉が表沙汰になれば陸軍の反対が起こり、クーデタによるか、個人のテロにより、自分をはじめ米内、東郷、木戸らが殺されるかもしれないと考えている。だからといって、この政策を進めていくほかはないから、推進していくだけである。
安倍源基内務大臣の更迭説なども噂にのぼっており、倒閣の動きはたえずつきまとっていた。これに対しても首相は一向に動ずる気配をみせなかった。ある日の閣議のはじめに、首相はそのことについて明言した。
「近ごろ内閣の一部改造やら総辞職やら、いろいろと噂も飛んでいるようですが、さようなことはありませぬ。私はそんなチッポケなことは考えておりませぬ」
九日、軽井沢から帰った東郷外相と会い、ソ連への特派使節として、近衛公を正式に起用することを首相は協議してきめた。悲劇的な時間の浪費をつづけながらも、ばらばらな集団と化さずに、「この戦さのけりは自分たちでつける」という信念のもとに、和平を目ざし鈴木内閣は一つにまとまっていた。
七月十日、この日は早朝から東京とその周辺は米機動部隊艦載機による空襲に見舞われた。警報は各地区ごとに発令されたり解除されたりしたから、国民の神経は一日中鳴りつづけるラジオのブザーに痛めつけられた。空襲のただなか、国民の多くが行動の自由を奪われているとき、午後五時、首相官邸の地下防空壕において最高戦争指導会議がひらかれた。
例によって重い沈黙が席を圧した。ソ連へ特使を派遣するとなれば、満洲を経てシベリア鉄道ないしは空路を利用するほかはない。となれば、陸軍中央や関東軍にたいし、これを極秘にすませられるものでもない。特使を送る方法そのこと自体がすでに重大問題なのである。おのずと海相や陸相の発言は慎重となった。六月二十二日、天皇は「これは命令ではない」といったが、だれもが大命としてうけとめている。ならば万難を排してもその実現を計らねばならない。
静かに議すること二時間余で、事を急ぐ天皇に対する奉答要旨がまとまった。
「早速思召しにそうごとく、特派大使差遣につき外交交渉を進むることにいたしたく。ただし特使の人選、ソ連の査証許可ならびに特使のモスコー到着までには、相当の時日を要する見込みであります。しかし、陛下の思召しは事前に間接ながらスターリンに通ずるようとりはかることは可能なりと存じます……」
軍部首脳も特使派遣については承諾せざるを得なかったことが、この要旨でよくわかる。首相の熱意が、ついに猫の首に鈴をつけることに成功したのであろうか。
老首相は真一文字に進みだした。翌日、天皇に奏上、さらにその翌十二日早朝、電話の予告もなく、出勤前の木戸内大臣の仮宅を訪れると、挨拶ももどかしく首相は用件だけをいった。
ソ連派遣特使に近衛公を任命したいこと、それも本日、陛下じきじきに任命されるようとりはからってほしいこと、折よく近衛が疎開先の軽井沢から上京していること。本日参内して申し上げるが、あらかじめ奏上しておいてほしいこと。それだけの、いうべきことをいい終えると、せかせかと老首相は帰っていった。木戸があっけにとられるような邁進ぶりだった。
その日の午後三時、近衛は天皇のお召しをうけて参内した。二月の重臣伺候いらい、久しぶりの天皇との対面である。せまい謁見室に、布をかけたテーブルがあるだけで、ほかに調度品はなかった。近衛は、いつもの謁見と違い、天皇と向い合ってほかに侍立するものがいないことに気づいた。思っているままをいうことを決意した。天皇はいちいちガクンガクンとうなずいていたが、近衛の言葉が終るとすぐに応じた。
「では近衛も、一日も早く講和を結んだほうがよい、という意見だね。私も、そう思う。それについて、近く近衛にソビエトに特使として行ってもらうようになるかもしれぬ。これについては総理、海相、外相はもとより賛成で、阿南陸相も承知しているから、そのつもりでいてほしい」
近衛は天皇の「ソ連へ行ってもらうようになるかもしれぬ」という遠回しのいい方に、くすぐったい思いを味わった。すでに決定していることは、鈴木首相の言葉をまつまでもなく、既定の事実。何を気がねし、あるいは大事をとる必要があるのだろうか。
だが、これは近衛の察しの及ばないところなのであった。天皇にそういうように頼んだのは鈴木首相なのである。特使を送るにしても時間がかかる。とりあえずは、ソ連駐在の日本大使佐藤尚武に、特使を派遣すること、それは戦争終結に関するものであることを電報し、ソ連政府に伝えておく。特使の使命やご親書などのことは、追って打電する……。
「そのほうがよいかとも存じます。でありますから、近衛公には、万一特使派遣の場合にはよろしく頼むかもしれないから、というくらいに、ゆとりをとっておかれたほうがよろしいかと存じまする」
老首相は、ここで言葉を切って天皇の顔をみた。天皇は思わず笑みを洩らした。通い合うものがあった。確定してしまっては、お|喋《しやべ》りの近衛が何を語り、出発までに陸軍の反撥をまねき、ご破算になる可能性もまた大きかった。
「………」
老首相は何も語らず、深々と頭を下げて退出していったものだった。
そんなことも知らぬ近衛は、
「こういう際ですから、ご命令とあれば身命を賭してやります。ソビエトへ行けと仰せられればただちに参ります」
と感激して答え、自分より十歳も若い天皇をみつめた。
天皇を中心に、首相、外相、海相、木戸さらに近衛と、日本のリーダーの意志はきっちりと和平へ固まった。日本帝国は急ぎだした。和平は抽象的な望みではなく、天皇の命令によるもう一つの国策となった。あわただしい一日を締めくくるように、十二日の夜八時五十分、外務省からモスクワの佐藤大使のもとに、長文の電報が送られていった。
「天皇陛下におかせられては……戦争がすみやかに終結せられんことを念願せられおる次第なるが、大東亜戦争において米英が無条件降伏を固執するかぎり、帝国は祖国の名誉と生存のため、一切をあげて戦いぬくほかなく、これがため彼我交戦国民の流血を大ならしむるはまことに不本意にして、人類の幸福のため、なるべくすみやかに平和の克服せられんことを希望せらる」
モスクワには十三日朝着電。佐藤大使は長文の電報を手にすると、長嘆息を禁じ得なかった。日本帝国が悲鳴をあげているように思われた。さっそく大使はモロトフ外相に会見を申しこんだが、ポツダムへの出発準備に追われてその時間がないと断られた。やむなく、大使はロゾフスキー外務次官に会い、これは天皇の内意による近衛派遣であることを含みおかれたい、と強く要望した。次官は丁重だった。
「スターリン、モロトフの両首脳がポツダム到着後に連絡をとり、一日も早く返事をするでありましょう」
こうしてすべての手続きは終った。あとはソ連からの返事を待つだけとなった。それは日本の運命のサイコロがどう転がるかを待つことを意味している。
[#地付き]●「天候が目視爆撃を許すかぎり」[#「●「天候が目視爆撃を許すかぎり」」はゴシック体]
七月十六日からベルリン西郊ポツダムにおける連合国首脳会談がはじまった。各国代表は元宮殿のレセプション・ルームに集まり、複雑な外交戦の幕をきって落とした。情報は洪水のように日本にも流れこみ、天皇も政府も軍も、それらに一喜一憂しながらひたすらソ連政府からの回答を待っている。
ただひとり水のごとき静かさを保っているのが鈴木首相であった。午前九時に官邸の総理室に入り、午前中は一般の面会を謝絶してもっぱら思索にあてる毎日だった。そして午後六時に退庁する。あわてて小細工をやったりせずに、万事ゆっくりやれ。日清戦争で上村提督よりうけた忠言をしっかりと守った。首相にとっては、それを政治の要諦としたばかりではなく、人間としての根本的な生きようでもあった。
公邸が焼けたとき、蔵書をすべて焼き、総理の机上においてあるのは『老子』一冊である。東大一年在学中の孫の哲太郎が、古本屋で探してきたものだという。これを首相は日課のようにひもといて、静かに読みふける。
相変わらずのよく食べよく眠りも励行していた。七月中旬の日立、釜石そして室蘭へと、日本本土に近接したアメリカ機動部隊からの夜間の艦砲射撃にも、痛心のあまり眠れぬ人が多かったなかに、首相の平常の落ち着きにも熟睡にもみじんの乱れがなかった。
しかし、だれもがそんなに落ち着きはらっていられるときではなかった。ソ連からの回答を待ち、と同時にポツダムでの米英ソ三国会談の成りゆきを見守りつづけた。厳重な報道管制がしかれていたから、国民はもちろん、少数をのぞいた陸海軍部の中堅クラスもまた、ポツダム会談の詳細がわからず神経を途方もなくいら立たせた。徹底抗戦と決した日本になんの関係があるのかと強がりをいい、せせら笑いしながらも、遠くに不安のまなざしを向けた。
その、待ちに待ったソ連政府からの回答が日本にとどいたのは、七月二十日午前十時三十分である。佐藤大使が打電してきた回答をみたとき、政府は茫然とした。天皇のメッセージをうけとったことをソ連政府は確認する、ただし、内容は一般論でありすぎ特使の使命も不明であり、ソ連政府としては確たる回答をすることは不可能である、という返答ならざる回答であった。
七月二十一日、東郷外相よりの「さらに努力せよ」の訓令電報が再びモスクワへ飛んだ。もちろん連合国はそれを傍受し暗号を解読している。日本の指導層には、それが米英ソ三国の合意による引きのばしだと、明敏にもかぎとるものはいなかった。
そして、またしても待つだけの時が訪れている。
この間に、連合国側では二つの重大な歴史的決定を行った。
その一つは、トルーマン大統領が、グルー次官が起案してバーンズ長官に手渡した宣言案のなかの、第十二条の後半の「天皇に関する」文章を削りとったのである。
ポツダムでは、天皇の問題について連合国の参謀総長の間でもこまかく論じられ、イギリスのアラン・ブルック元帥はいった。
「アジアの各地に散在している日本軍に対し、降伏命令を下すことのできるものは天皇のほかにはない。天皇の地位の保障をはっきり宣言にもりこんだほうがいい」
しかし、マーシャル参謀総長は反対だった。
「戦闘が完全に停止されるまでは、天皇制の問題にはふれない方がよい」
トルーマン大統領の決断はあっさりしたものだった。
「天皇に関する文章は一字もいれないことにしよう」
もう一つ重要な決定は、ワシントンでおこなわれていた。七月二十四日午後六時三十分、マンハッタン計画(原爆製造計画)の総指揮官レスリー・グローブス少将が、正式に作成された原爆投下命令書の写しを、ポツダムへ送ったのである。
「第二十空軍五〇九爆撃隊は、一九四五年八月三日ごろ以降、天候が目視爆撃を許すかぎり、なるべく速やかに、最初の特殊爆弾をつぎの目標の一つに投下せよ。
(目標)広島、小倉、新潟および長崎……(以下略)」
そこに記されているのは八月三日ごろ以降なるべく速やかに原爆を落とせ≠ニいうことであり、準備命令でもなければ、別命あるまで待てというのでもない。正式の投下最終命令である。
七月二十五日朝まだき、ポツダムよりの至急報がワシントンの国防総省にとどいた。
「陸軍長官はグローブス命令案を承認す」
原爆投下命令は、トルーマン大統領、スチムソン陸軍長官、マーシャル参謀総長、アーノルド陸軍航空軍総司令官らの承認を得て発動された。新しい歴史がはじまろうとする。しかし、何も知らぬ東京では、日本の政府と軍が一途にモスクワだけをあてにして待ちつづけている。原爆の存在も知らず、またソ連がすでに日本の敵となっていることも知らずに──。
しかもソ連に特使派遣の秘密工作が、尾ひれのついた噂として広範囲にひろまり、各方面から混乱をいやが上にもますような動きが加えられた。終戦反対、内閣打倒、特使阻止の策動が燎原の火のようにひろがり、同時に、長野県松代に天皇ともども大本営は移転せよの議論が強烈にむしかえされた。
その天皇は、二十四日の伊勢大神宮爆撃さるの報に衝撃をうけていた。七月二十五日、天皇は木戸をよんで、思いあぐねたように語った。
「このままでは、対ソ交渉もうまくいかず、本土決戦となるのであろうか。もし本土決戦となれば、敵は空挺部隊を東京に降下させ、大本営そのものが捕虜となることも考えられる。そうなれば、皇祖皇宗よりお預かりしている三種の神器も奪われることも予想される。それでは皇室も国体も護持し得ないことになる。もはや難を忍んで和を講ずるよりほかはないのではないか」
こうして、日本のトップはじりじりしつつ、和平か抗戦かで再び大きく揺れだした。連合国がカサブランカ会談いらい鉄則としている無条件降伏の重圧からのがれ、ソ連の仲介によって、なんとか話し合いによる和平にもちこもうという天皇と政府の切ない意志。だが、それははかない望みなのか。
そのなかにあって、鈴木首相の日常だけが淡々として変わらなかった。ソ連からの正式の回答がくるまでは、余計な想像や憶測で判断しないのである。首相にあっては、事実だけが重要なのだ。側近のものの眼には、首相はすでに心配や杞憂を通り越しているように映った。どんな事態が襲おうと、すべてを承知しつくして、その上に確たる安心の境地をきずいている。
首相はソ連がどうでるかに不安がないのかと側近に尋ねられたとき、ぼそりとこういった。
「対ソ交渉が思わしくないものとなったら、直接にアメリカに放送を通じて交渉するまでです。陛下をお護りするためには、できることはすべてやります」
[#地付き]●「ただ黙殺するのみである」[#「●「ただ黙殺するのみである」」はゴシック体]
ポツダム宣言が東京の中枢神経を震撼させた運命の日の朝、二十七日午前八時は、その日の暑さを予想させるカラッとした晴天だった。今夜は何事も起こるまいと関係筋が見当をつけたその夜に、電波は巨大な|楔《くさび》を日本の歴史に打ちこんできたのである。多くの関係者は突然のようでもあり、当然来るべきものが来たと感じながら、ポツダム宣言をうけとめた。東郷外相をかこむ外務省の緊急幹部会は、この宣言を受諾したほうがよいという意見でまとまった。
しかし問題はソ連だった。当然ポツダムでソ連政府は日本帝国の問題について何らかの相談をうけたと思われる、しかし、宣言には名を連ねず、直接、関与しなかった。それはソ連がこのまま中立を維持するということであろう。とすれば、現在行われている対ソ交渉をすっぽかして、ポツダム宣言を即時受諾することは好ましくないのではないか。
しばらく様子をみることが、日本にとっては賢明な策であろう、との結論に外務省幹部は達した。
これだけの討議と検討を経た上で、東郷外相は午前十一時に参内し、天皇に報告した。ポツダム宣言の仮翻訳をうやうやしく提出すると、東郷は低い、ふるえ声で説明した。ソ連首相の署名のないこと、国体あるいは天皇の地位については不明瞭のまま残されていること、しかし無条件降伏という言葉が軍に対してのみ用いられていること。
重い沈黙が流れた。やがて天皇がいった。
「ともかく、これで戦争をやめる見通しがついたわけだね。それだけでもよしとしなければならないと思う。いろいろ議論の余地もあろうが、原則として受諾するほかはあるまいのではないか。受諾しないとすれば戦争を継続することになる。これ以上、国民を苦しめるわけにはいかない」
「陛下……」
外相は絶句して上体を起こした。天皇は泰然としていった。
「近衛にソ連へ行ってもらわなくとも、直接に連合国側と交渉できるということは、何かにつけていいのではないか。この際は、戦争終結に力をいたしてもらいたいと思う」
東郷外相は心からホッとした。だが、対ソ交渉の継続中という外交努力が、外相の心を動かしていた。
「しかし、目下、ソビエト政府と調停依頼のことについて鋭意交渉中でございますので、これが成功いたすならば、ソ連を介してポツダム宣言の条件もより有利になるよう交渉できるかと思われます。従いまして、事を急いで諾否の回答を与えず、ソ連側の回答を待ってわが国の態度を決すべきが良策かと存じております」と東郷はいった。
午後一時半、定例の閣議がひらかれた。鈴木首相は、東郷外相の報告に耳をじっと傾け、天皇の意思を知り、そして外相の意見にあっさり賛成した。とにかくソ連に仲介を申し込んでいるのだから、ソ連からの正式回答があってから宣言に返事をしても遅くはないであろう、この際は一応事態の推移を見守ろうということになった。
鈴木首相にとっては、ポツダム宣言に書かれている項目は驚くようなことは何一つない。そして、知りたいことは書かれていないのである。天皇がどうなるか、という一点であった。
こうして政府の態度は静観≠ノきまった。しかし、ここに大きな錯誤があった。ポツダム宣言は、そのおわりに厳然と声明している。「われらは右条件より離脱することなかるべし」。つまりは、それ以外にはいかなる交渉にも工作にも応じないというのが連合国の意志だった。にもかかわらず、最高戦争指導会議でも閣議でも、これを最後通牒≠ニみなしたものはひとりもいなかった。また、この通牒には何ら時日の制限はない。それを即決を迫られている≠ニ判断したものもいなかった。
歴史にもしも≠ヘないというが、惜しみてもあまりあるifを一つだけどうしても付け加えておきたい。ポツダム宣言に、もしも天皇の地位についての確かな保証が与えられていたら、つまり第十二条の後半が残っていたら、である。鈴木貫太郎の死を恐れぬ大勇をもって、興味深い歴史的展開が成されたであろうことは確かである。
翌朝の新聞発表は政府の方針を忠実以上に守った。国民の戦意を低下させぬようにという配慮が、かえって紙面では戦意昂揚をはかる強気の文字となってあらわれた。読売報知は「笑止、対日降伏条件」と題して要旨をかかげ、朝日新聞は、「政府は黙殺」と二段見出しでかかげ、毎日新聞は「笑止! 米英※[#「くさかんむり/將」、unicode8523]共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦を飽くまで完遂」と壮語した。すでに朝日新聞の見出しに「黙殺」の文字がある。
この新聞発表にあおられて、こんどは軍の中央部が強硬になった。軍令部次長大西滝治郎中将が、迫水書記官長に厳重に抗議してきた。さらに最高戦争指導会議構成員による情報交換会議の席上(外相欠席)、軍令部総長豊田副武大将は、
「この宣言をこのままにしておくことは、軍の士気に関するところ大であるから、政府としては、この際本宣言を不都合なりとし、大号令を発するなどの措置をとられたい」
と強硬に主張した。梅津参謀総長も阿南陸相もこれに賛成、「拒否を明らかにすべきだ」と発言した。米内海相も無言のうちにこれに和した。
あまり気の進まなかった鈴木首相はついにこれを容れた。たまたまこの日の午後三時に首相の新聞記者会見が予定されている。その席で、首相が軽く意見を述べるということに、妥協点を見出したのである。軍部もとりあえずそれで納得した。
記者会見の席にあらわれた首相が、いつもと違って沈痛な顔をしていることが、記者たちに印象的だった。それでなくとも高僧といった面影をやどした人という印象があったのだが、この日は特に表情に深い|翳《かげ》りがあった。
記者団が質問した。「最近敵側は戦争の終結につき各種の宣伝を行っているが、所信はどうか」
鈴木首相はシナリオどおり答えた。
「私は三国共同声明はカイロ会談の焼き直しと思う。政府としては何ら重大な価値あるものとは思わない。ただ黙殺するのみである。われわれは断乎戦争完遂に邁進するのみである」
それはたしかに首相の口から語られたものであったが、首相自身のものではなかった。情報局総裁を中心に政府側が作成したものである。しかも「黙殺」はノー・コメントまたは「黙過する」程度の軽い意味だったという。
だが、対外放送網を通して全世界に放送されたとき、この発言が日本の首相談として重大視されてしまった。そしてこの黙殺≠ェ、後の原爆投下やソ連の対日参戦を正当化するための口実に使われたことはよく知られている。鈴木首相も戦後に「この一言は後々に至るまで余のまことに遺憾と思う点」と嘆くのだが、それは字義どおりアメリカやソ連の口実であり、言い訳でしかない。なぜなら原爆投下命令はすでに発令ずみなのであり、ソ連の対日参戦は二月のヤルタ会談で、ドイツ敗北の三カ月後に日本に対して攻撃を開始することを、スターリンは確約していたからである。そして米英両国の首脳もそれを歓迎していたのである。
七月三十一日、テニアン島最前線基地に飛んだマンハッタン計画副司令官ファーレル准将から、歴史的な報告がワシントンに発せられた。原子爆弾の投下準備はすべて完了したと。そして、
「七月二十五日付で発令された命令は、天候が許すならば、明日にでも実行できるものと、当地では解釈している」と。
その七月の最後の日、天皇はご文庫に木戸内大臣をよんで、決意を語った。
「三種の神器はすべて私のそばに移して、私が身をもって護ることにしたい。しかし、それは人心に与える影響が大きいから慎重にことを運ぶことにする。そして万一の場合は、自分が守って、運命をともにする以外に道は考えられない」
この日、東京は晴。しかし、沖縄南方海上に台風が発生、九州から西日本にかけて天候がくずれ、夕方から雨となった。風雨強かるべし≠フ予報が発せられた。
テニアン島の原爆部隊はこのため待機するより仕方がなかった。
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[#小見出し] 第十七章 天皇の決意に従う
[#地付き]●「大道廃れて仁義あり」[#「●「大道廃れて仁義あり」」はゴシック体]
ソ連へ赴く和平交渉特使の随員もほぼ決まった。近衛を中心に、松本俊一外務次官、加瀬|俊一《としかず》、宮川ハルビン総領事、高木惣吉少将、松谷誠大佐、そして酒井|鎬次《こうじ》、富田健治、伊藤逑史、松本重治、細川護貞らの近衛の知友たち。それにソ連通の重光葵も候補に上っていた。
陸路は時間もかかるし、危険も予想されたので、空路を使用する。高崎近くの秘密の飛行場から一気に満洲里へ向う。万事順調裡にいけば、ソ連機がそこで待ちうけ、一行をモスクワへ運ぶはずであった。
鈴木首相の日課は、ポツダム宣言黙殺′繧煦ネ前とまったく変わりなかった。午前中は、官邸の総理室にあって、特別の用のないかぎり大きな机に『老子』一巻をひろげて読みふけり、瞑想にふけった。老首相にとって『老子』はまことに刺激的な書物だった。
「人は地にのっとり、地は天にのっとり、天は道にのっとり、道は自然にのっとる」
人間の生くるところは衣食住そのほか、みな地によらねばならず、その地は天の雨露霜雪、日に当らぬところには何も生じない。その天地というものは道によらねばならぬ。道とは天地万物の母、作為を少しも加えたものではない。という意味から、道とはすなわち自然のままということであろう。
また、こんな章もあった。
「大道廃れて仁義あり、|智慧《ちえ》出でて大偽あり」
無為の大道をもって政治をすれば、仁だの義だのということはない。その無為つまり自然のままが失われるから仁だの義だのということがでてくる。自然にまかせて世界をあるがままでおくには何の智慧もいらぬ。それをいろいろと余計な智慧を出すから、大きな偽をつくることになる。
首相は『老子』を自分のものにしていたと考えられる。その信条とするところは「自然」ということである。言い換えれば平常心ともいえよう。個人としての好悪や名誉心など微塵もかかわりのない無私、そして忠誠に徹する強烈な思考力。非常時だからとて無理を強行しガタガタする必要はない。明確な一点を見定めてそれに向ってゆるやかに進むのである。それだけに、直情的な即時降伏論や、無道な徹底抗戦論のどちらも、鈴木にとっては縁なきものであった。
これに反して対ソ交渉の衝に当っている東郷外相は、なんら交渉に進展をみないことにやみくもに焦慮していた。それだけに、閣議の席上などで、鈴木首相が、
「戦争終結のことを急ぐのは、第一線の将兵に叛乱を起こさせるようなものです。昔から|※[#「門<困」、unicode95ab]外《こんがい》(王城の外)の臣は君命といえども聞かず≠ニいうことがある……」
といってみたり、あるいはお得意の、
「ここはそれ、家康の小牧山とか大坂冬の陣で行かないと……」
と、たづなを|緊《し》めるような発言をしたりするのに、憤慨もし、困りぬいていた。
木戸内大臣や近衛、およびその周辺からも、鈴木不信の声がしきりにささやかれていた。ソ連からの当てにもならぬ回答を待ち、|荏苒《じんぜん》として時を過ごし、国内の情勢をそのままに放置しておくことに対する焦慮と不安とが、日本の指導層のなかに流れこんでいた。
鈴木首相は、しかし、待ちつづけた。
戦争を終結にもっていく機が訪れていないとみていた。国民的熱狂がまだそれを許さない。戦争は狂気の時代と結語してしまえば容易だが、それだけではない。国民は一人ひとりがあらんかぎりの力をつくして戦い、自分と家族の生命を守ろうとしている。かりに反戦思想をもつ人がいたとしても、無残にも死んでいく友に対して、特攻隊の若ものに対して、なんらかの負い目をもたずにはいられなかった。共通の危難を背負った国家という共同体があるとき、共同体と個人のどちらに重い真実があるのか、それを簡単に割り切れる人のあろうはずはなかった。
しかも、その背後に強大な力をもつ陸軍があった。かれらに戦争継続を諦めさせるための、はたしてどんな具体的な妙策があるというのか。
海軍大佐として軍籍にあった高松宮の興味深い述懐がある(八月一日)。戦争終結への努力という話題をめぐって、宮大佐はこういった。
「陸軍のなかには、きっと皇室が国家を売ったというようなことを言うものが、必ず出てくると思う。そうなれば大変で、そういうことのないよう注意すべきだ」
だから、国内体制をしっかりまとめていくことが大切であり、
「そのためにも、鈴木首相は、そのままの方がよいと思う。この人は、陛下の仰せのとおりになる人だから、いちばん安心だと思う」
国民的熱狂、陸軍の脅威に圧迫されながら、多くの信頼に支えられて、鈴木首相はなお泰然として待っていた。「大道廃れて仁義あり、智慧出でて大偽あり」と。無責任ともとれるほど時の動きをじっと見つめながら、ソ連からの回答を待っている……。
そのころスターリン首相はまだポツダムにいた。八月二日午前三時(日本時間午前十一時)トルーマンは会談の無事終ったことを祝し、次はワシントンでやりましょう、と希望を述べるのに、
「もし生きていたらね」
と、スターリンの|敵愾心《てきがいしん》はすでに日本などを問題にしていなかった。
それとも知らぬ日本の、東郷外相はなおスターリンにすがりつこうとしていた。モスクワの佐藤大使あての電令は、訓令というよりも、むしろ泣訴に近い。
「講和条件のいかなるものなるべきやは、ドイツの例を観るまでもなく、多数の戦争責任者を出すことも、あらかじめ覚悟せざるべからず。さりながら今や国家は滅亡の一歩手前にあり。これら戦争責任者が真に愛国の士として、従容帝国の犠牲者となるも真に|已《や》むを得ざるところとすべし」
しかし、四日の日が暮れても回答はない。この日深更、広島地域を飛んだB29観測機は、グアム島の司令部に、目標地区の天候がおもむろに回復しつつあることを伝えた。そしてこの日、ザカリアス大佐は最後の勧告を日本へ投げかけた。「必然的な敗北と日本の未来のため、ただちに決断されたい」と。
だが、同盟通信からの答えは苦渋にみちたものであった。「|急《せ》くなかれ。史上初めて外国との戦争に負けるのであり、あなたの知っている東京はもはやない。見渡すかぎりの焼野原に人は掘っ立て小屋を建てて住んでいる。そういう状況下にある政府がどんな立場にあるか、わかっていよう」
八月五日、日曜日、台風は去って、広島の天気は回復した。夜九時二十分、広島地区警戒警報が発令された。七分後に空襲警報と変わり、B29一機が七つの川がゆったりと流れている城下町の上空を飛んだ。この、第五〇九爆撃機の一機である観測機は、翌日の天候も良好であり、市内に異状のない旨をテニアン島に報告した。
[#地付き]●「右か左か、ご決断の秋」[#「●「右か左か、ご決断の秋」」はゴシック体]
八月六日、広島の朝は、むし暑く雲もほとんどない快晴であった。七時九分、三機のB29がレーダーにうつり、警報が発せられたが、敵機は姿をみせず、三十一分に解除になった。敵機は偵察のため飛来したもの、とラジオは伝えた。やれやれという気持で約四十万人の市民が日常の行動に入った。
八時十五分、烈しい閃光とともに大爆発が起こった。一発の爆弾が四十万の人間にもたらしたものは、〈死〉の一語につきる。
東京にある日本の中枢で、広島壊滅の報をいちばん早く知ったのは海軍省だった。八時三十分、呉鎮守府よりの第一報がとどいたのである。海軍省は正午ごろには調査団の派遣を決定している。陸軍中央がこの報を知ったのはずっと遅かった。広島の通信網が完全に破壊されたため、第二総軍司令部(在広島)からの報告は、呉鎮守府経由で送られてきたのである。内容は簡単であったが、敵がいまだかつてない大きい破壊力をもつ高性能爆弾を使用したことを伝えていた。
陸軍省から迫水書記官長を通じて、広島の第一報が政府に知らされたのは午後も遅くなってからである。天皇もまた、同じころ蓮沼侍従武官長から広島市全滅の報告をうけた。進入してきた米軍機は三機、そのなかの一機が一発の爆弾を投じたという。たった一発で広島市が死の町と化した。天皇は顔を曇らせたが、それ以上にたずねようとはしなかった。
下村情報局総裁はいそぎ首相官邸に駈けつけ、首相に強く進言しようとした。あいにく首相他出中と知ると、「右か左か、ご決断の|秋《とき》」と巻紙に書いて、それを総理室の机の上に文鎮で押さえておいてきた。鈴木首相がそれを読んだかどうか記録にはないが、まさしく決断の秋であることは首相にもわかっていた。だが、終戦への段階のもっとも重要で決定的な要素は、抗戦に猛る軍部の動きである。軍部がクーデタに走れば国内は混乱し、すべての苦心は水の泡となる。不確定な情報、真偽不明な報告をまともにうけて、試行錯誤を承知の行動を起こすわけにはいかない。
首相はなお動かなかった。
その夜、首相官邸の仮ベッドの上で輾転反側をくりかえしていた迫水書記官長は、午前三時ごろ、電話の音でわずかなまどろみから起こされた。同盟通信社の海外局長長谷川才次からのもので、受話器の向うでせきこむような声が、
「トルーマン大統領が広島に落としたのは原子爆弾であるといっている」
と、恐るべき事実を告げた。長谷川の知らせは、サンフランシスコ放送が大統領声明を全世界に流した、というものであった。
夜が明け、同じ放送を聞いた外務省筋よりこのことを知らされた藤田侍従長は、ただちにご文庫へといそいだ。報告を聞いた天皇は侍従長を通し、政府と大本営へもっと詳細を報告するように命じた。しかし、大本営はその可能性を認めつつも、なお連合軍の宣伝または策略かもしれないとして、強気と冷静さとをよそおった。あらゆるところに|箝口令《かんこうれい》がしかれた。
午後になって閣議がひらかれたが、当然のことながら原子爆弾が論議の焦点となった。
東郷外相が烈しい口調でいった。「かかる残酷な兵器を用いることは、毒ガスの使用を禁じている国際公法の精神に反する不当行為であります。スイス公使館、万国赤十字社を通し、すみやかに原爆使用を停止すべき旨を厳重に抗議することとしたい」
この提議は、首相の「それがいい、強く強く抗議して下さい」の一言で閣議決定された。
このような爆弾が完成した以上、これ以上戦うのは無意味だから、ポツダム宣言を受諾する方式で戦争を終結せしむべきだ、という論が一、二の閣僚の口から洩れたが、阿南陸相が激越にこれをはね返した。
「原子爆弾ときめてかかるのは、きわめて早計である。あるいは敵の詐術やもしれぬ。この際は、確実に実地を調査してから方針を定むべきものである」
参謀本部第二部長の有末精三中将を団長とする調査団の派遣が、こうして決定された。理化学研究所の仁科芳雄博士が政府と軍の要請によって同行することになった。
さらに新聞発表についても激論がかわされた。が、これも軍の強い意志があらゆる思惑や事実を打破って、公式の調査によって事実が確認されるまで、原子爆弾≠ニいう言葉は使わないことに落ち着いた。午後三時三十分、大本営はラジオを通し、無気味な、しかし簡単な文字をつらねて、国民に報じた。
「一、昨八月六日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり
一、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」
この放送をきっかけにしたように、首相官邸にさまざまな立場の、さまざまな意見の人たちが陸続としておとずれた。即時終戦をいうもの、徹底抗戦を揚言するもの、国体護持を絶叫するもの、皇国の使命を説くもの。強硬派とみられた元企画院総裁鈴木貞一中将が、思いがけぬことをいって迫水や秘書官らを驚かしたのも、この日の夕刻だった。
「原子爆弾が出現した以上は、すみやかに終戦すべきである。これは、日本の科学技術がアメリカの科学技術に負けたのであって、決して、日本の軍隊が、米英の軍隊に負けたのではないのだから、軍の恥辱にはならぬ。面目は十分に立つ」
この話を秘書官から伝えられたとき、鈴木首相はぼそりといった。
「そんな簡単なことで戦争を終えることができるなら、苦労はありません」
この日の夕刻から夜にかけて首相はいつもより厳しい表情で終始した。「戦争を止めようとするなら、先頭に立つものが、および腰でなく生命がけで、だれよりも強い主戦論で先頭に立つ。そうして全体の流れを一つにまとめておいて、機をみる。その機をとらえることができなければ、万事休すだが、かならずその機会はある」と常々語っていたが、鈴木首相はいままさにその機≠とらえようとしているのだな、と秘書官たちには思えた。奔流を止める、はたしてそれが出来るのかどうか。
秘書官たちの頭の中は混乱で渦を巻いている。光と闇、不吉と幸運、生と死とがくるくる交代しつつも、なぜか暗い方へ、暗い方へと思念が落ちこんでいくのを止めることができなかった。
天皇は、その日、終日正式の報告を待ちつづけていた。しかし詳細の報告はついに来なかった。有末調査団は夕刻広島着の予定で所沢飛行場を出発したのだが、飛行機のエンジンが故障でひきかえした。そして、かわりの飛行機を用意するため、翌八日まで待たねばならなかった。
その八月八日の朝の新聞は、昨日ラジオで報ぜられた「新型爆弾」の大本営発表を掲げた。だが、日本の政官界および言論界をかけめぐったのはトルーマン声明の方であった。だれも大本営のいう「策略」説を信ずるものとてなかった。
鈴木首相は、心配してかけつけてきた衆議院議長島田俊雄と、午前十時から一時間にわたって会談した。有末調査団はいぜんとして所沢で足どめを食ったままだったが、残存現地部隊や呉鎮守府より派遣された海軍部隊の調査および救護活動が進められていた。その報告がつぎつぎと首相のもとにとどけられている。首相は暗鬱そのままにいった。
「現在までのところ罹災者約二十万人ということです。うち死者一万、重軽傷十四万とも聞いています。一発の爆弾でこの被害ということなんです」
島田議長はつりこまれて低い口調になったが、言葉は自然に荒立った。
「これからどうしようとしているのか。考えるだけではダメです。所信を断行あるのみですぞ」
首相がうなずくのをみると、さらにおっかぶせていった。
「それにつけても、陛下のご安泰が緊要です。その確信はあるのですか」
首相はそれには答えなかった。そして議長をじっと見つめる眼の底に、沈痛の色を浮かべるのみであった。ふだんでも口数の少ない首相の唇は一文字に閉ざされたままとなった。総理室でひとり瞑想にふける時間が多くなった。原子爆弾という言葉を使わないことにきめたものの、地球上に|忽然《こつぜん》として出現した全能の支配者に、日本帝国があえて背を向けようとしても、それは不可能であろう。戦争継続のための望みも条件も失われたのである。
ギリギリのところまで考えつづけている首相を訪ねて、東郷外相が新しい提案をもってきた。
「私はこの新しい情勢をお上にご報告申し上げることにしたい」
という外相に、首相は励ますようにいった。
「すべてをありのままに申し上げて欲しい」
そこから大きな転換が生まれるかもしれないと、二人は互いに顔を見つめ合いながら思った。
その日の午後、東郷外相はご文庫地下壕で天皇と会い、原子爆弾に関する昨日からの米英の放送をくわしく報告した。アメリカからの短波の流れは狂ったように原子爆弾(アトミック・ボン)をくり返していると語り、
「これを転機として戦争終結に向うほうがよいかと存じます」
と、首相との了解事項を奏上した。
天皇は決意の色を表情にうかべていた。
「そのとおりと思う。このような武器が使用される以上、戦争継続はいよいよ不可能となった。有利な条件を得ようとして戦争終結の時機を逸することはよくないと思う。また、条件を相談してもまとまらないかと思うから、なるべく早く戦争の終結をみるようにとり運ぶことを希望する」
そして天皇は、「このことを鈴木にも伝えよ」と外相に命じた。
このことを外相から聞かされたとき、首相は背筋にしびれの走るのを感じた。天皇は、すでに陸海軍部指導者との間に、はっきりと一線を画している、という痛烈な想いだった。完全に戦う大元帥≠ゥら脱却していた。首相としてのおのれの責務は明白だった。天皇の意を体し、一日も早く戦争を終結に導く。鈴木の決意は固まった。
折から決定的な報告が鈴木首相にもたらされた。広島に飛んだ有末調査団からの正式な「原子爆弾である」とする現地報告だった。この知らせをもって、迫水書記官長は総理の室をたたいた。
「明九日の朝、閣議をひらいて今後の方針をきめねばなりません」
首相は「そうしましょう」といい、さらにあっさりとつづけた。
「明日の閣議では、私がはっきりいいます。戦争はやめるべきだ……官長、発言の原稿を書いておいて下さい」
こうして首相の意志がようやく強固にきまったものの、なお終戦の方策は未定のまま、またしても無意味な一日が終ろうとした。いや、無意味などではなかった。それは決定的な一日の終りになった。
[#地付き]●「ソ連が日本に宣戦布告をした」[#「●「ソ連が日本に宣戦布告をした」」はゴシック体]
八月九日午前三時、首相官邸の卓上電話が鳴った。迫水書記官長の半ば眠っている耳に投げこまれたのは、またしても同盟通信の長谷川海外局長の声だった。
「たいへんです! サンフランシスコが、ソ連が日本に宣戦布告をした、と放送しましたぞ」
受話器をにぎる書記官長の手が震えた。日ソ中立条約は、廃棄の通告があったとはいえ、来年三月まで有効ではないのか。しかも、和平斡旋に一度は色気をみせたソ連ではなかったか。
夜が明けると、さまざまな情報と閣議での発言草稿をたずさえ、書記官長は首相私邸に飛んだ。鈴木首相は冷然として、「来るものが来ましたね」といった。
午前五時、私邸には東郷外相も駈けつけてきた。首相はぽつんといった。
「この戦さは、この閣議で結末をつけることにしましょう」
内閣がすすめてきたソ連を仲介とする和平工作が完全に失敗したのだから、鈴木内閣はこの際総辞職するのが、それまでの政治常識であった。書記官長は首相と会うなり、そのことをいった。首相のこの言葉は、そんな常識を無視し、みずから火中の栗を拾うことを決意したものであった。では、内閣としてとるべき措置はつぎの二つ、になる。ポツダム宣言を受諾して終戦にすること、あるいは対ソ宣戦詔書の発布を仰いで一億全滅を賭して戦争を継続すること。東郷外相は前者を強く主張した。それに対する首相の返答が「この内閣で結末をつける」というだけであった。外相は意外の面持ちを向けた。一億玉砕か終戦か、どちらともとれる漠然とした首相の言葉にとまどったのである。
首相は平常と変わらなかった。少しも悲壮ではなかった。例によって茫洋とした感じを周囲に与えながら、たか夫人に手伝わせてモーニングで身ごしらえした。
「ともかくも陛下にご報告いたします」
車が走りだしたのちに、見送った外相、書記官長、たか夫人らが感じとったものは、「すべて天皇のご決意に従う」という明確な老首相の意志だけであった。
車を運転する柄沢運転手は、いつもと変わらぬ首相を背後に感じていた。歴代の首相の運転手を勤めてきた柄沢には、この老首相のうちに、ほかの首相とは違った底の知れない大きなものを察知することができた。どこまで奥行きがあるのかわからない、と思った。ほかの多くの人がそうであったように、柄沢運転手も鈴木首相を主戦論者と信じていた。原子爆弾とソ連参戦という国家存亡の関頭に立って「モーニングを着た西郷さん」は、どんな秘策を考えているのか。
首相を乗せた車が乗り込んだ首相官邸では、上を下への混乱のさなかにあった。鈴木首相はまず内閣綜合計画局長官の池田純久中将をよんだ。中将は七月末まで関東軍の参謀副長をし、新任務のため帰国したばかりだった。
「池田君、関東軍はどうですか。ソ連の攻撃を阻止できますか」
池田長官は、淡々とした首相の質問の裏に、真実を知りたいという気迫を感じた。
「残念ながら駄目です。二週間後には新京を奪取されましょう。遅れれば遅れるほど、事態はとり返しのつかぬことになりましょう」と、池田は答えた。
「よく解りました。関東軍はそんなに弱かったのですか」
鈴木首相はしばらく信じかねる面持ちであった。
午前九時すぎ、首相は宮城へ向った。そして何よりも先に天皇に会った、と考えられるのだが、確たる記録がない。少数の、資料的価値のやや劣る書には、九時十五分、天皇があわただしく参内した鈴木首相から報告を聞いた、とある。また、首相拝謁のあとに、
九・三七〜 九・四五 参謀総長
九・五五〜一〇・〇〇 内大臣
一〇・〇〇〜一〇・一〇 海軍大臣
一〇・一五〜一〇・二七 宮内大臣
一〇・五五〜一一・四三 内大臣
と午前中に、天皇が会った人々が掲げられている。(侍従長や侍従武官長ら側近の拝謁は省略してある)
確かなのは、『木戸日記』によれば、この朝十時十分に首相は木戸内大臣と面談したことである。内大臣はこの席で、天皇の意向を伝え、ポツダム宣言を利用して戦争終結の要のあることを、首相に力説したという。これに対して首相が、「十時半から最高戦争指導会議をひらいて決定したい」とあいまいに答えたことになっている。『木戸日記』にもとづくと、記録はほぼこのように統一されるのである。
忠誠一途の首相が、ソ連参戦という驚天動地の事態に直面し、天皇に会わなかったというのはおよそ考えられぬ。木戸内大臣という第三者の言葉を通し天皇の意思を確認しただけ、というのも、鈴木貫太郎らしくない。
いずれにせよ、この朝の天皇と鈴木首相との会話は記録には一行も残されていない。しかし、興味深い事実は迫水書記官長の回想のなかにある。
九時ごろ(おそらく九時半すぎ)鈴木首相は宮城から首相官邸に帰ってきたという。書記官長ら出迎える側近たちに向って、
「戦争はやめるよ」
と一言いった。さらに首相は「官長」と迫水だけをよびとめた。何事かと前に立った書記官長に、首相はごくあっさりとこういった。
「いざというときには、陛下にご決定していただく」
そして濃い八字眉の、にこにこした温顔でつけ加えた。
「どう決まるにせよ、手続きや順序を|過《あやま》たず、適当な方法を考えておいてくれたまえ」
天皇に決定してもらう、聖断≠ナある。首相はこの時点ですでにこのとっておきの方策を考えていたことになる。天皇に会い、天皇の決意を知り、それに従うのみ、と首相は決意を固めた。
しかし聖断を仰ぐといっても方法はいくとおりもあろう。首相ひとりが聞き「陛下の思召しはかくかくである」というのも一つの行き方である。全閣僚が参内し言葉を賜るも聖断の一つだし、そして政府と軍部合同の御前会議による方法もある。首相はその方策をどれと決めかねていた。連合国の無条件降伏の要求もさることながら、何よりも降伏≠サのことに反撥する軍部の意向をあやしたりなだめたり、段々に期待する方向へみちびいていかねばならぬ。さらには原爆という残虐な武器とソ連進攻という刻々たる戦況の推移とも競争し、なおかつクーデタによる内閣崩壊だけは回避せねばならない。
九日の午前十時すぎより宮中で開かれた最高戦争指導会議で、鈴木首相がいきなりこういった。
「広島の原爆といいソ連の参戦といい、これ以上の戦争継続は不可能であると思います。ポツダム宣言を受諾し、戦争を終結させるほかはない。ついては各員のご意見をうけたまわりたい」
数分間、重苦しい沈黙が議場を押しつつんだ。陸相や参謀総長らは、あくまで戦争をつづけるか否か、その根本問題を協議すると考えていたのである。
米内海相が口火をきった。
「黙っていては分らないではないか。どしどし意見を述べたらどうだ。もしポツダム宣言受諾ということになれば、これを無条件で|鵜呑《うの》みにするか、それともこちらから希望条件を提示するか、それを論議しなければならぬと思う」
この発言で、会議はなんとなくポツダム宣言を受諾するという前提のもとに、つけ加える希望条件の問題に入ってしまった。だが、その過程で会議は暗礁にのりあげた。
米内海相、東郷外相は(一)天皇の国法上の地位を変更しないことだけを条件として、ポツダム宣言受諾説をとった。阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長は、天皇制を守りぬくためにも(一)の条件のほかに、(二)占領は小範囲、小兵力で、短期間であること、(三)武装解除と(四)戦犯処置は日本人の手にまかせること、以上の四条件をつけることを主張したのである。鈴木の意見は海相・外相説に近かった。
会議は紛糾した。しかし、それは静かに沈んだ調子で語られていた。雄弁をふるうものは一人もなく、暗澹たる空気のうちにすすめられた。長崎に第二の原爆が投下されたのは、この会議中のことであった。
最高戦争指導会議は予定時間を一時間も超えたが、ついに結論が出ず、つぎに閣議が予定されているため一時すぎ休憩に入った。その閣議も、夕食をはさんで、第一回が午後二時半から三時間、さらに第二回が午後六時半から十時までひらかれたが、ポツダム宣言を受諾すべきか否か、ここでも閣僚の意見はまとまらなかった。
議論に疲れたとき、文部大臣太田耕造が突然に思いついたように、首相にいった。
「対ソ交渉が失敗したことの責任、そしてただいまの内閣の意見不統一という点からみましても、筋道からいえば内閣は総辞職すべきではなかろうか。総理はいかがお考えになりますか」
これは重大発言だった。事実、ソ連仲介の和平工作は天皇に上奏済みである。その見通しを誤って大失敗したこと、この一点をもってしても総辞職は当然であった。
鈴木はつむっていた眼をあけると、無造作にいった。
「総辞職をするつもりはありません。直面するこの重大問題を、私の内閣で解決する決心です」
閣僚の何人かは阿南陸相をこのとき注視した。陸相がここで太田文相に同調すれば、内閣を総辞職に追いこむこともできるのである。陸相はこうしたやりとりを聞かなかったかのように、背筋をのばして端然たる姿を崩さなかった。
そうした阿南陸相に、陸軍部内からの突き上げは時々刻々と激しさをました。閣議中によび出された陸相は、参謀次長河辺虎四郎中将から、全国に戒厳令を布き、内閣を倒して軍政権の樹立をめざすクーデタ案をひそかに提示されていた。
しかし、阿南は動かなかった。そして、かりに戦争を終結するにしても、四条件を連合国に承知させることが絶対に必要なことを、静かに、だが力強く閣僚たちにいいつづけた。日本は国家の命運と民族の名誉をかけ、自存自衛のため戦いつづけてきた。それであるのに、相手の言うなりに、国体の存続も不確実のままに無条件降伏するのでは、あまりに惨めではないか。手足をもぎとられて、どうして国体を守ることができようか。
「このまま終戦とならば、大和民族は精神的に死したるも同然なり」
陸相はそう主張して不動であった。
この長い長い一日、天皇は軍装のまま、最高戦争指導会議そして閣議へとつづく国のなりゆきを見守り、じっと待ちつづけていた。記録にあるその日の午後、天皇に拝謁した人々はこうである。
一・四五〜 二・〇五 陸軍大臣
三・一〇〜 三・二五 内大臣
四・四三〜 五・〇九 内大臣
五・三五〜 六・〇八 参謀総長
一〇・五〇〜一〇・五三 内大臣
一〇・五五〜一一・一八 首相および外相
だが、この記録からずり落ちた首相の参内があった。午後一時半、最高戦争指導会議が終った直後、つぎの閣議までの間に、会議の報告のために天皇に会った鈴木首相は、実はだれもが想像すらしなかったことを天皇に願い出ていたのである。
[#地付き]●「陛下のお助けをお願いいたします」[#「●「陛下のお助けをお願いいたします」」はゴシック体]
それは戦争を終結させるために、あえて憲法の運用上のルールを破ろうという緊急非常の手段であった。これまでの憲法のルールによれば、天皇には国家機関が決定することに対する拒否権はない。それ故に、国政における天皇に責任はなく内閣が全責任をとる。それが立憲政治というものであり、天皇はそれを遵守しつづけてきた。だが、そのルールを破り、大元帥命令によって軍をおさえ、国の方針を天皇の意思によって決したらどうなるか。必然的に天皇にして大元帥に全責任が生じてくる。しかし、天皇に責任を負わすことはできぬ。ということは、成否にかかわらず、もしこの方式を採用すれば、|輔弼《ほひつ》の最高責任者たる総理大臣は一命を投げだしてかからねばならぬ。いや、最大の責任者として死刑すらも覚悟せねばならぬのである。
鈴木首相はそこまでの覚悟をきめた。徹底抗戦という軍事上の決定──つまり統帥権にまで、責任のない政府が土足で踏み入り、すべてをご破算にし、戦争を終結させるためには、天皇の大権を天皇自身によって駆使してもらうほかはない。聖断≠ナある。
鈴木首相はこの方策によって戦争を終結にみちびく以外にはない、と熟慮に熟慮を重ねた上で心に決めたのである。そのためには御前会議をひらき、そこで聖断を仰ぐのがいちばんいい。戦争指導会議での論議を聞きながら、いまこそ機が熟したとすでに首相は判断していた。だから、午後一時半に参内したとき、首相はおずおずと、ひそかに決した方策をいった。
「終戦の論議がどうしても結論の出ませぬ場合には、陛下のお助けをお願いいたします」
それを聞くなり天皇はいとも明快にいった。
「それはよかろう」
思わず首相は眼を上げた。ひ弱そうにみえるが、二・二六事件で示したようにシンの強い天皇の、やつれてはいるが毅然たる姿がそこにあった。陛下もまた、私と同じギリギリの手段を考えておられたのか、と老首相は思った。
のちになって考えれば、それは何かしらごく自然の成りゆきの決定であったかのようにみえる。しかし、その時点で、だれが聖断による戦争終結を思いつこうか。いや、重光葵も東郷外相も、民間にあっては南原繁、高木|八尺《やさか》教授らを中心とする東大七教授も終戦方策として考えた、といわれている。しかしそれらは机上の論として、あるいは希望的観測としての面を多分にもっていた。その実行を確信できるものは一人もいなかった。
ましてや、事前にそのことを天皇に願い、いわば打ち合わせをすましておく、などということを鈴木貫太郎以外のだれができたであろうか。数人の人をのぞくほかの日本人にとって、天皇は神聖にして|冒《おか》すべからざる現人神であった。
鈴木首相は死を覚悟しつつ水の流れるごとく淡々としてやってのけた。侍従長として昭和初期の、いうところの大いなる転換期を、「危機の時代」を、天皇とともに生きてきた武人の確たる自信が背景にあったのである。
統帥権独立という立派な名目のもとに、歴史の歩みが何度ねじ曲げられてきたことであろうか。天皇は、立憲君主としての天皇と、統帥君主としての大元帥の、二つの側面をもっている。軍にとって、天皇が同時に大元帥であることは都合よかった。それを巧みに使いわけることで、戦略(統帥)が政略(国政)の上位に立ち、まして戦争ともなれば作戦を絶対的なものとして押しつけることができた。そして天皇は、立憲君主として憲法に忠実であるとともに、大元帥であることにも忠実であろうとした。多くの重大局面で沈黙を守った。
いいかえれば、天皇は折にふれての感想や意見をのべることがあっても、自発的に決定または命令を下すことはなかった。そして、自分の意に反することでも責任ある機関の決定であれば、それを裁可するだけなのである。このためにか、侍従長として、天皇の意思とは反対の方へ国家が動いていくのを、何度も鈴木は見せつけられてきた。天皇の命令ないしは裁可の名のもとに国を滅亡の淵までひきずってきたのは、一体だれなのか。天皇は苦悩し、憂慮し、ときには神経を病むほどに懊悩した。なおかつ、おのれの意志を明白にすることは控えねばならなかった。
いまこそ、その天皇に意志をはっきり表明してもらうときがきた。たとえ憲法運用上のルールに反しようとも、統帥権≠天皇大権≠ノよっておさえるのである。鈴木首相にとって、ロンドン会議の統帥権干犯をめぐって、あれほどにも頭を悩ましたことが、いまになって血となり肉となって役立とうとは思いもしないことであった。
敬愛し、心の底から|鑽仰《さんぎよう》する裕仁天皇ならばできると、老首相は考える。国家を存立させるために、そして天皇みずからがいう「国民にこれ以上塗炭の苦しみを味わわせぬために」も、天皇の名によってはじめられた戦争を、天皇の本当の意思によって収拾して頂こう、それには、御前会議を要請し、その席上で天皇の意思を聞く……。
八月九日午後十時、第一回からひきつづいて延々七時間に及んだ第二回閣議を、鈴木首相は一旦休憩することとした。もう一度、最高戦争指導会議をひらき、政戦略の統一をはかり、再度閣議をひらくことにする、と首相はいった。
だが、この最高戦争指導会議を御前会議とし、一挙に聖断によって事を決するというのが、首相の肚だった。閣議の席からは、すでに迫水書記官長が姿を消している。首相とその側近たちは、首相の命のもとにあらかじめ万全の準備を、秘密裡に着々とすすめていた。
かりに御前会議で決したとしても、そのまま国策として採択されるわけではない。閣議の承認を得て初めて国家意志として発動される。しかし余裕のある日程ではない。よかろう、閣議は散会でなく休憩ということにし、閣僚たちをそのまま待機させておこう。さらに、どんな条件付きにせよ、ポツダム宣言の受諾ということになれば、形式上は一種の条約締結になる。条約だとすれば、枢密院の|諮詢《しじゆん》を経なければ発効しない、ということになるかもしれない。もちろん、そのような手続きをとっている余裕はない。どうすればいいのか。
首相の側近たちは、八面|六臂《ろつぴ》の活躍をつづけながら頭を悩ました。
「そうだ、枢密院代表として平沼議長を列席させることにすれば、万事解決だ」
このことがそっと閣議の席の首相に伝えられた。
だが、こうした首相と側近の動きが、米内海相に疑心暗鬼を抱かせたのは事実である。同じ海軍出身の左近司国務相に、米内はそっとささやいた。
「左近司、今夜はまずいぞ。どうも総理は多数決というようなことを考えているらしい。そんなことをすれば……」
左近司国務相も暗然とした。多数決をとって国の方針をきめるような手段で、あとの始末がうまくいくはずはない。抗戦派将校の叛乱をそそのかすようなものではないか。
「これはまずい。総理にそのようなことのないよう言ってくる」
と米内は立ち上がって、総理室に向った。が、首相の姿はそこにはなかった。鈴木首相はすでに参内上奏のため、宮城への車の中にあった。
御前での最高戦争指導会議開催の突然の知らせに、より大きな危惧を感じたのが大本営だった。
「いつもの御前会議の例と違うではないか。御本ができていないではないか」
御本とは御前会議のシナリオのようなもの。何が語られ、結論はこうだ、とあらかじめ十分な打ち合わせの上で作成された台本であった。開戦前の重要な御前会議であれ、過去のそれはすべて御本にのっとってすすめられた芝居の如きものだったのである。それが今回はまったくない。
「何のための御前会議なんだ。結論はどうするんだ」
電話口の向うで怒声が書記官長の耳にがんがんと響いた。
「結論はない。結論の出ないままの議論を、陛下に申し上げるのだ」
「そんな馬鹿な……それにしても陸海両総長の花押は|貰《もら》ってあるのかッ」
御前会議開催には、法的に首相と参謀総長、軍令部総長の承認〈花押〉が必要だった。その花押をこの日の午前中に迫水書記官長はすでに貰ってあった。
「急な場合に、いちいち両総長を追いかけまわして花押をいただくのは、大変ですし、緊急に間に合わなくてもいけません。この書類に花押を下さい。もちろん会議をひらくときは、手続きを守り、あらかじめの了解を得ますから」
と、そういわれて、両総長は深い魂胆が隠されているとも思わず、花押をした。
御前会議の正規の手続きはそろっている。
午後十時五十五分から十一時十八分まで、首相が参内し、天皇にいった。
「御前で最高戦争指導会議を開催することをお許し下さい」
天皇は快諾した。
シナリオといえば、この御前会議には書かれざる御本ができていたといっていいだろうか。すでに首相がお願いしてあることを、天皇が実行するという……。「発言を求めるというのであるなら、私にはいささかの不都合もない」「ありがとう存じます。鈴木は全国民になり代りまして御礼を申し上げます」と、そのような以心伝心の会話がかわされることによって。
[#改ページ]
[#小見出し] 第十八章 日本が降伏した!
[#地付き]●「外務大臣の意見に同意である」[#「●「外務大臣の意見に同意である」」はゴシック体]
八月九日午後十一時五十分、ポツダム宣言受諾をめぐる御前会議が、ご文庫付属の地下防空壕でひらかれた。出席者は、六人の最高戦争指導会議構成員のほかに平沼枢相、そして陸海両軍務局長と池田綜合計画局長官および書記官長が陪席した。三間に五間の十五坪の狭い部屋は、換気装置はあったが、息詰まるように暑くるしかった。しかし、だれも暑さなどを気にとめていなかった。にじみでる額の汗をぬぐうハンカチが、ときおり白く揺れた。
台本のない議論は、低い声ではあったが、真剣そのものにかわされた。一カ条件案と四カ条件案をめぐって、会議は三対三にわかれた。鈴木、東郷、米内と阿南、梅津、豊田の対立となったのである。
[#(331.jpg、横414×縦299)]
時刻は十日午前二時をすぎた。いぜんとして議論はまとまらなかった。結論は出ないままにこの会議は終るのだろう、平沼議長も加えて、まさかに票決という強硬手段を首相がとるとも思えぬ。首相がどうしたものか、もてあましているようにだれもが考えた。人々の注意が自然と首相に集まった。
そのときである。首相がそろそろと身を起こして立ち上がった。多数決かと米内はハッとした。しかし鈴木は軽く|咳《せき》ばらいして、一同に向っておもむろにしゃがれ声を押し出した。
「議をつくすこと、すでに二時間におよびましたが、遺憾ながら三対三のまま、なお議決することができませぬ。しかも事態は一刻の遷延も許さないのであります。この上は、まことに異例で畏れ多いことでございまするが、ご聖断を拝しまして、聖慮をもって本会議の結論といたしたいと存じます」
一瞬、緊張のざわめきが起こった。陸海軍首脳には不意打ちだった。が、鈴木は席をはなれ、侍従長時代のもの馴れた仕草で、天皇の前に進み出ていた。老首相はうやうやしく一礼すると、顔をあげていった。
「会議の状況は、ただいまお聞きのとおりでございます。はなはだ異例で畏れ多いことではございまするが、お上の思召しのほどをお示し願いとう存じます」
だれの眼にも、侍従長としてもっとも天皇に信頼され、天皇にだれよりも忠誠だった武人の、折目正しく堂々たる所作だけがあった。天皇は正座のまま、少し上体を動かし、
「帰ってよい」
といった。耳の遠い老首相にはそれがよく聴きとれなかったらしい。「は?」と、老首相は聴こえる方の右耳を手でかこって、天皇を見上げた。
「席に戻ってよろしい」
天皇の声は前より大きかった。しかし、優しさがこめられていると、書記官長には感じられた。首相は|鞠躬如《きつきゆうじよ》たる素振りでまた深々と一礼し、静かに席に戻った。
天皇は少し身体を前に乗りだすような恰好で、しずかに語りだした。
「それならば私の意見をいおう。私は外務大臣の意見に同意である」
一瞬、死のような沈黙がきた。天皇は腹の底からしぼり出すような声でつづけた。
「空襲は激化しており、これ以上国民を塗炭の苦しみに陥れ、文化を破壊し、世界人類の不幸を招くのは、私の欲していないところである。私の任務は祖先からうけついだ日本という国を子孫につたえることである。今となっては、ひとりでも多くの国民に生き残っていてもらって、その人たちに将来ふたたび|起《た》ち上がってもらうほか道はない。
もちろん、忠勇なる軍隊を武装解除し、また昨日まで忠勤をはげんでくれたものを戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。しかし今日は忍び難きを忍ばねばならぬときと思う。明治天皇の三国干渉の際のお心持を偲び奉り、私は涙をのんでポツダム宣言受諾に賛成する」
降伏は決定された。午前二時三十分をすぎていた。その夜は輝かしい月が中天にかかり、宮城の庭の老松の葉影が一本ずつ数え得るほど明るかった。そして夜明けを告げる鶏鳴が聞かれた。この夜は空襲がまったくなかった。
地下道を出て、玄関の車寄せまで首相がきたとき、後ろから階段を昇ってきた陸軍軍務局長吉積正雄中将が、つかつかとその前に立ちふさがると、
「総理、約束が違うではありませんか。今日の結論でよろしいですかッ」
と|噛《か》みつくようにいって、詰めよった。首相は温顔でにこにこしていたが、何も応えなかった。ふっと阿南陸相のしまった体躯が間に入った。陸相は自分の身体を張って、吉積の強烈な意志を防いだ。
「吉積、もういい」
と、陸相は軍務局長の肩を何度もたたいた。
軍務局長の痛憤には理由がないわけではなかった。御前会議をひらくときは事前に了解をとる、また、本日は結論は出さぬと、迫水書記官長にいわせておきながら、首相みずからぬけぬけと聖断を仰ぐという畏れ多いことをしたのである。陸軍をこけにしたともいえるのである。
細かい議論はあったが、ただちにひらかれた閣議は、御前会議の決定をそのまま採択した。午前四時近く、全閣僚は必要な文書に花押して閣議は散会した。阿南陸相も躊躇なく花押した。東郷外相の頭は心労のため、真っ白に変じていた。
陸軍出身の安井国務相が、士官学校同期の陸相の心情と立場を思いやって、人影のないところで、ざっくばらんに聞いた。
「阿南、ずいぶん苦しかろう。陸軍大臣として君みたいに苦労する人はほかにないな」
「けれども安井、オレはこの内閣で辞職なんかせんよ。どうも国を救うのは鈴木内閣だと思う。だからオレは、最後の最後まで、鈴木総理と事を共にしていく」
侍従長、侍従武官としてともに天皇のもとにあり、互いに信じ親しみあった武人同士の同じ心の流れがそこにあった。
鈴木首相は午前四時すぎに小石川の私邸へ帰っていった。迫水書記官長は官邸のソファでしばらく休んでいたが、ふと気付いたように、車を飛ばして岡田啓介邸を訪ねた。だれよりも先に、御前会議の結果を自分の口から報告したかったのである。
岡田は、天皇の決断を聞くとホロホロと泣いた。
「やはり鈴木でなければできなかった。わしには、陛下のお声が聞こえるようだ」
そして迫水の顔をじっと見つめていたが、また瞼から涙を|溢《あふ》れさせて、
「軍人がみずから降伏を決心する気持は、お前のような普通の人間の考えているところとは、まるで違うのだ」と叱るようにいった。
前後して聖断のことを聞いた重臣の一人、若槻礼次郎は思わずこう洩らした。
「鈴木だからできた。ほかの総理大臣にはできないことだ。いや、できないことはないかもしれぬが、あまり際どいことは言いにくいものだ。しかし、長い間侍従長として仕えていた鈴木には、それがいえた……」
二度も首相を経験した人の言葉だけに、聞くものにはしみじみ納得できるものがあった。
こうして、もう一つの日本のいちばん長い日≠ヘ終って、十日の夜が明けた。聖断は下ったとはいえ、まだ、戦争は終ったわけではない。天皇の側近と政府と、陸海の最高トップの少数のものがその事実を知っているだけだった。これから何が発火するか予測することはできぬ。前途はまだ多難だった。
[#地付き]●「日本の申し込みは無条件ではない」[#「●「日本の申し込みは無条件ではない」」はゴシック体]
八月十日午前七時、国民がようやく寝床をはなれはじめるころ、一条件ともいえる「天皇の大権に変更を加うるがごとき要求は、これを包含しおらざる了解のもとに」ポツダム宣言を受諾する旨の電報が、中立国のスイスとスウェーデンの日本公使に送られていった。スイス公使の加瀬俊一がアメリカと中国へ、スウェーデンの岡本季正公使がソ連とイギリスへの通告をうけもっている。
陸軍中央部は聖断くだるを聞いて驚愕した。まったく予期しないではなかったが、いちばん恐れていたものが現実となって、猛り狂ったのである。午前九時、陸軍省各課の高級部員を集め、阿南陸相は「厳粛な軍紀のもとに一糸|紊《みだ》れず団結せよ」と訴えた。悲壮な面持ちであった。
「この上はただただ、大御心のままに進むほかはない。和するも戦うも、敵方の回答のいかんによる」
しかし、時の経過とともに、陸軍部内の抗戦派の動きは露骨になっていく。公然と、または秘密裡に、国家の決定に|叛《そむ》くべく険悪になった。
迫水書記官長や秘書たちの耳に、さまざまな情報が乱れこんできた。元首相東条英機大将を擁してクーデタを計画している、という噂はもっとも信憑性をもって伝えられた。阿南陸相を強要して辞職させ、内閣を倒し軍政を布く、それはすぐにでも実現しそうだった。
内閣や各省の穏健派たちは、これに対抗し勅命による宮様内閣をつくって一気に中央突破しよう、とか、天皇の親電を連合国の元首におくるのが手っとり早い、とかさまざまな意見をぶつけ合った。しかし、そういった強硬手段が何を惹き起こすかに思いをいたすとき、だれもが方策に窮し口を閉ざすほかはなかった。そして改めて、多数決などという愚かさを避け、異例といえば異例な聖断という方策をとった首相の、人間ばなれした大智と大勇に人びとは感嘆の念を抱くのであった。
午前四時すぎに私邸に帰ったその首相は、眠らずに待っていたたか夫人とともにほとんど語らざる、くつろいだ一刻をすごし床についた。若ものも顔まけするほどの熟睡で、七時やや前に眼覚めたときは、もうすっきりとした顔色をみせていた。また忙しい一日がはじまるであろう。内閣のポツダム宣言受諾決定に対して軍の怒りと狂気の反抗は、目にみえている。
午後一時から重臣会議がひらかれた。ほとんどの重臣は、天皇制の存続さえ保証されるならポツダム宣言受諾に異議はない、と政府の方針に賛同したが、陸軍出身の小磯と東条はそれを不可と反対した。小磯は怒りをみなぎらしていった。
「しかも本日の集まりは会議というものではなく、決定通告のように思われる。一体、だれの考えによるものであるか」
首相は知らん顔をしてすましている。視線を移された東郷外相がしぶしぶ答えた。
「大命に基づいたものであります」
「それならば何も申し上げる必要はない」
と憮然たる小磯の発言に押っかぶせるように東条が大声を出した。
「小官も小磯大将と同意見である」
東条元首相はこの後の、午後三時からの参内のときにも、天皇に対してポツダム宣言受諾反対を熱心に訴えた。
「軍はサザエの殻と申し上げてもいいのであります。殻を失ったサザエはその中味も死なないわけには参りませぬ」
天皇の動植物好きに例を合わせて、軍の武装解除がついに天皇制破滅に及ぶであろうと指摘したのである。しかし、天皇はもはやだれの意見にも動かされることはなかった。
日本帝国は降伏へ向って歩みはじめた。だが一挙に方向転換を全国民に知らせることには、軍も政府もためらった。もし交渉が成立しなかった場合、一旦破れた緊張感をふたたび回復することは困難と考えられたからである。
午後の臨時閣議は意気もあがらぬままに、ポツダム宣言受諾の決定を、いつ、いかにして発表したらよいかをめぐり、ボソボソと話し合われた。なによりも不測の事態が起こり、収拾しがたい状況となるのを恐れねばならない。結局は、国民にはいよいよ確定するまではジリジリと終戦の空気の方へと、方向転換の歩みをすすめさせるやり方を採ることとなった。
「この交渉はおそらく不調にはなるまいと思うが、先方もアメリカ一国ではない。ソ連もある。連合国との間に相談もあろうから、そのために日時がのびることも覚悟せねばなりません。ここはより一層気をひきしめてまいりましょう」
と首相はゆっくりとした口調でいった。
だが、そのようにのんびりした気持でいられないものもいた。同盟通信の古野伊之助社長である。国を代表する通信社としての立場からも、この重大決定を世界に伝えないではおられないではないか。正式に外交ルートを通しての通告が出てからもう十時間余もたっている。古野は新聞人としてこれを欧米に伝えるのはむしろ義務というものであると決心した。
古野は長谷川海外局長をよび、
「かまわん、オレが責任をもつ。流せ」
と命じた。日本放送協会の海外放送には軍による事前検閲があるが、同盟のモールス符号による放送にはそれがなかった。
長谷川海外局長はさすがに慎重に構えた。外務次官松本俊一へ連絡、スイスとスウェーデン両公使へ訓令の内容を流すことを伝えた。当面の責任者である次官は、度胸をきめていた。全世界へ速く伝えることにどんな支障があるというのかと、長谷川の意見に同意した。
同盟通信は短波で午後七時(ワシントン時間午前五時)すぎこれを流した。いち速く受けとったAPは、さらに同盟の報道として全世界にばらまいた。ワシントン時間で朝の七時すぎにはトルーマン大統領が同盟の報道を手にした。折からホワイトハウスにはペンキ屋が入り、お化粧中だったが、半分白塗りの終った建物をかこみ、情報を知った群衆が集まっていた。
「ハリーに逢いたい、ハリーに逢いたい」
群衆は口々に叫んだ。ハリーとは大統領のファースト・ネームである。
ニューヨークでも情報が知れ渡るにつれ、サイレンが鳴りひびき、やがて窓という窓から紙つぶてが滝のように間断なく降った。ブロードウェイでも五番街でも群衆が踊り出していた。
ロンドンがそれを知ったのは午後一時ごろだったという。ここでも色とりどりのテープがいたるところのビルから投げられ、風に舞った。ピカデリー・サーカス一帯では路上で踊り狂う群衆に満たされ、一人の娘が交通信号機によじのぼり、
「日本が降伏した!」
と叫んだ。
UP電は「トルーマン大統領は同盟の報を手にすると、朝食がすんだばかりなのに、そのまま執務室に入った。スチムソン陸軍長官とバーンズ国務長官らが相ついでホワイトハウスへ入り、重要会議を開いている」と報じた。
それは事実だった。午前九時からトルーマンは回答を審議するため緊急会議をひらいた。スチムソン、バーンズ、それにフォレスタル海軍長官とリーヒ大統領付幕僚長の四人が参集した。
スチムソンはグルー国務次官以上の知日派であり、「日本がこのような苦境に陥っても、なお天皇制の保証を求めている」と、しばし言いしれぬ感動に浸った。それだけに硫黄島や沖縄におけるものすごい流血を再現しないために、日本の申し入れを受け入れようと主張した。リーヒも同調した。
「戦争が長びくことにくらべれば、天皇制は小さな問題だ。承知してやればいい」
と勧告した。フォレスタルもほぼ同意見だった。
だが、バーンズは強硬だった。
「日本の申し込みは無条件ではない。われわれはいままで何度も無条件降伏を宣言している。なぜに日本に譲歩する必要があるか」
そして対日回答案を作成してみたいからと、一時間の猶予を請うた。トルーマンは承認した。
起草は国務省極東課の課員によって進められ、正午前には完成した。それは、日本の提案に対して明確に答える形をとらず、天皇制は否定しないが、はっきり保証はせず、ポツダム宣言に変更がないことを改めて主張したものとなった。午後になって五人は再び参集し、この案を承認した。
天皇制について、もう少し明瞭な表現で約束した方がよいのではないかと感じたフォレスタルは、退出するとき、バーンズをひきとめて真意をさぐってみた。国務長官はニヤリと意味深長な笑いをうかべて、小声でいった。
「秩父宮という弟がいるね。だれが天皇になっても、天皇制さえ残ればいいんだろう」
この回答案は連合国の承認を得るためにロンドン、モスクワ、重慶に送られた。重慶からはすぐ承認の返事がきた。ロンドンは慎重に検討して承認を答えてきた。
モスクワは返答を翌日にのばすと強硬な態度だった。しかし、これは急を要するもので、今夜のうちワシントンに返事を送らねばならないと、駐ソ米国大使ハリマンは必死の面持ちで催促した。やがてソ連の返答がきた。ソビエト政府としては日本占領は、米国から一名、ソ連から一名のふたりの最高司令官による、それを条件に承認するという。早くもドイツ同様に、戦後の日本分割の意図を明らかにした。ハリマンは「まったく受け入れる余地はない」と突っぱねた。
こうした複雑なやりとりがいくつかあって、結局ソビエト政府は折れて、条件なしでバーンズ回答書を承認したが、これがモスクワ時間午前二時。そしてワシントンが連合諸国の返事をすべてそろえたときには、八月十一日になっていた。
こうした事情を知らない日本にとって、八月十一日は、九日から十五日までの激震の一週間のなかで、中休みににた空白の一日になった。しかもこの日は終日、日本全国のどこにも空襲警報がなく、連合国側からの回答を待つほかのない鈴木首相は、午前は読書と瞑想で終え、午後からは書記官長や側近と細かい打ち合わせなどで費やした。書記官長は御前会議での天皇の言葉を文案の材料とし、終戦の詔書の草案づくりをはじめていた。涙にむせびメモもとれなかったが、たしかな首相の記憶と、自分の耳の底に残っている言葉とを組み合わせることで、どうやら漢文読み下し調にまとめられそうであった。
[#地付き]●「制限の下におかる」[#「●「制限の下におかる」」はゴシック体]
八月十二日は日曜日だった。その午前零時半すぎ、迫水書記官長は同盟通信の長谷川海外局長から、サンフランシスコ放送が回答を流しはじめたことを知らされた。
「まだ全文がわからないが、どうもあまりいい返事ではなさそうだ」
迫水は暗澹たる想いに捉われた。こんどの場合も正規の外交ルートを通じてのものより、放送の方が早かった。正式ではないとはいえ、希望的観測は空しかったのか。
陸軍中央もサンフランシスコ放送を傍受し、|前轍《ぜんてつ》を踏まないようにと、こんどはみずからの手で翻訳を開始した。
しかし、外務省幹部は連合国の回答は不満足ながら、国体は護持されるとし、受諾する方針をきめた。全文を読むと天皇制に対する確たる保証はないが「最終的の日本国の政府の形態は……日本国国民の自由に表明する意志により決定せらるべきものとす……」というのであるから半ば保証されたも同様だと判断したのである。
松本次官は長谷川海外局長と首相官邸を訪れ、迫水と会った。外務省の結論を政府の方針としてもらおうと判断したのである。迫水は長谷川が訳したものを正式の回答にしようといった。そして、「総理は、いま食事中だから、ちょっと待ってくれ」と二人を待たした。
このとき、首相はいつもの時間にいつもの服装で出勤し、総理室のテーブルに向って|茹《ゆ》で卵を食べていた。スプーンでひと|匙《さじ》ずつその味を舌で確かめるかのように、ゆっくりとゆっくりと口に運んでいた。その静かな一刻を迫水は乱したくはなかったのである。
行動を起こしたのは大本営の方が早かった。午前八時すぎには早くも梅津参謀総長と豊田軍令部総長とが参内、軍は回答文に絶対に反対である旨を奏上した。回答文中にある subject to を軍はずばり「隷属する」と訳した。こう訳せば「天皇および日本国政府の国家統治の権限は……連合軍最高司令官に隷属するものとす」となるのである。これを受諾するということは、
「国体の根基たる天皇の尊厳を|冒涜《ぼうとく》しあるは明らかでありまして、わが国体の破滅、皇国の滅亡を招来するものです」
と両総長は力をこめて説くのである。
外務省幹部は、この subject to を「どうせ軍人は訳文だけをみて判断するだろうから」ときめてかかり、傑出した名訳を案出していた。「制限の下におかる」である。長谷川海外局長は「従属する」と訳していたが、のちに政府は外務省案をとり、「制限の下におかる」で統一した。だが、陸軍はこんどは乗せられなかった。かれらの訳出した「隷属する」でいかにして国体を護持できようかと硬化したのである。俗にいう「玉」の奪い合いとなった。
外相が鈴木首相に会い、首相の意見も受諾案であることを確認し、参内したのは午前十時半をやや回っている。軍に遅れること二時間半である。外相は、回答文を読みあげた。それを聴く天皇の頬の肉はそげ眼鏡の奥も生気にとぼしく、また奏上する外相の声には力がない。秋風落莫たる空気のなかで、外相がいった。
「この回答中の制限の下におかる≠ニいう点、国民の自由意志によって決定される≠ニいう点、この二点は、軍部を刺激し、種々の議論をよぶものと思われまするが……」
しかし、天皇の返事は明快だった。
「議論するとなれば際限はない。それが気に入らないからとて戦争を継続することはもうできないではないか。自分はこれで満足であるから、すぐ所要の手続きをとるがよい。なお、鈴木総理にも自分の意思をよく伝えてくれ」
東郷の闘志はふたたび蘇った。天皇の意が確定したいま何の躊躇やある。退出後、木戸内大臣と協議した外相は、そこでもこのまま受諾という力強い返事をうけた。
そして勇んで帰ってきた外相は、鈴木首相に天皇の意思を伝える。鈴木首相にはもはや何の迷いもない。
午後三時から宮中では皇族会議が、首相官邸では閣議が、それぞれひらかれた。
ご文庫防空壕に参集した十三名の各宮は皇族の順位にしたがって、左から高松宮、三笠宮、閑院宮、|賀陽宮《かやのみや》……そして最後が竹田宮、李王垠、李鍵公の順に天皇を囲むようにして、弧形の長い机を前にして坐った。だれもが天皇と会うのは久し振りであった。
高松宮も三笠宮も、バーンズ回答受諾に賛成する旨をいったが、閑院宮はちょっと考える風で、
「陛下のご決心がかくある以上、意見はございませんが、はたしてわが国の存立が維持できるものかどうか、まことに心配でございます」
とだけいった。久邇宮が、同じように国体護持について懸念をもらしたが、この二人をのぞけばすべて無条件賛成である。李王垠と李鍵公は「うけたまわりました」とだけいったのが各皇族には印象的であった。
すべてが終って最年長の梨本宮が立ち、「私ども一同、一致協力して聖旨を|輔翼《ほよく》いたします」と答え、着席すると、これで会議は終了した。泣くものも、興奮するものもなかった。虚脱しているわけでもなく、ありのままに事実を十三人の皇族は受け入れたのである。会議が終ってアイスティと洋菓子がでると、天皇を囲んでしばらく談笑がつづいた。それぞれの近況や見聞が語られ、天皇もときには微笑むことさえあった。
こうした和やかな会議とは異なり、閣議の方は重苦しい雰囲気に包まれている。即時受諾の東郷外相案、全面反対の阿南陸相案、それと国体護持確認のための再照会論とが入り乱れたのである。陸軍の策動は思いもかけぬ効を奏していた。それに平沼枢密院議長がしきりに強硬論をぶちあげ、それに何人かの閣僚が動かされていた。東郷外相が躍起となった。
「再照会などすれば、すべては御破算になる。とんでもない話だ」
阿南陸相が厳然として言い放った。
「このままこれを認めれば日本は亡国となり、国体護持も結局不可能になる」
閣議の流れはいつか再照会説に傾こうとした。外相ひとりの防塞ではいつ突破されるかわからなくなってきた。頼みの米内海相は沈黙を守り、そして鈴木首相は、再照会論に近いことを口にしている、と外相の眼には映った。東郷外相はついに堪忍袋の緒を切った。
「われわれはサンフランシスコ放送による回答に対して議論をしている。正式文書でもない回答を前にいろいろ議しても、それはナンセンスというものではないか。総理、この閣議を正式の回答がくるまで休憩にすることを提議いたします」
だれもがホッとした。責任をもって答えることのできない議論を重ねれば重ねるほど、自分の本心や真意とはかかわりのないことを、口に出して主張しかねない不安を感じていたからである。
東郷外相は心身ともにぐったりとしていた。外務省に帰ると松本次官をよんだ。
「外務大臣を辞めるほかはない。ほかに方法はない」
しかし、松本次官は冷静に、大臣を|諫止《かんし》するとともに、和平派がもう一度態勢を建て直すためには時間を稼ぐしかないと思った。東郷にはすぐに木戸内大臣を訪ね、鈴木首相に対する説得をもういっぺん頼むようにといい、次官はただちに電信課づめの当直課員をよんだ。
「よいか、今夜間にきた公式通信はどんなものでもそのまま手もとにおき、明朝きたことにする。これを厳守されたい」
バーンズ国務長官の公式回答は、この夜、午後六時四十分にスイスの加瀬公使から送られて東京に届いている。しかし、その通信には八月十三日午前七時着と麗々しく書きこまれた。
東郷外相辞任の意志は、木戸内大臣を驚かした。木戸はすぐに鈴木に面会を申しこんだが、来客や打ち合わせ事項も多く手を離せないとの書記官長からの返事をもらい、それならば都合のつき次第できるだけ早くといい、その夜の面談はあきらめた。木戸はそのくらいの余裕がまだ残されていると考えていた。
しかし、追いつめられた日本帝国に余裕などあるわけがない。ソ連軍の侵攻は樺太、満洲でつづき、関東軍総司令部は通化に移動した。「ポツダム宣言受諾するやもしれず」の電報に激昂した外地の軍からは、つぎつぎと徹底抗戦を訴える意見具申電が大本営に打ちこまれてきた。陸軍中央の抗戦派幕僚らによるクーデタ計画は詳細に練りあげられている。かりにそこまでいかぬとしても、変転する情勢に対処するため戒厳令を布くべきである、との意見は圧倒的多数に支持された。
軍部の示唆や煽動をうけて、民間右翼の強硬派も動きだしていた。内務省の特高第二課長石岡実は、この日、陸軍省軍務課の畑中健二少佐と名のる軍人の訪問をうけている。
「右翼を使って、鈴木、米内、東郷、木戸を葬ることにした。黙って見ないふりをしてくれ給え」
少佐は表情も動かさず、課長にそういい放って帰っていった。驚いた石岡課長はただちに手配した。この知らせに警視庁は特別警備隊を配して、右翼分子の監視をはじめた。そうしてテロリストの蠢動を極力押さえにかかった。
自宅を焼け出されて、いまは奥深い宮城内の一室で起居している木戸内大臣には、ここまでは容易に魔手ものびまいとする楽観があったと考えられる。だから、午後九時半には寝巻に着かえていた。そこへ、精力的に一日の職務を終ったフロックコートの老首相が訪ねてきたのである。内大臣は寝巻姿にひどくバツの悪い想いを味わった。
その想いを拭き消さんとするかのように、木戸はせかせかとした口調でいった。
「私は国体論者の論がわからぬわけではありませんし、軽視するわけでもありません。しかし、外相の研究によれば、この連合国の回答で大丈夫というではありませんか」
首相は何を内大臣が怒っているのか解せぬ面持ちで、よく動くその口もととチョビ|髭《ひげ》を眺めた。
「この危急の場合、個人個人の意見に左右せられていては、まとまりは到底つけられません。責任当局たる外務省の解釈を信頼するよりほかに道はないと思うのです」
首相はボソリと「私もそう思っていますよ」と答えた。木戸はさらにいった。
「回答を受諾することで、万一に国内に動乱などの起こるとも、私たちが生命をなげうってもよいのですから、このさい迷うことなく受諾の方針を断行しようではありませんか」
鈴木首相は打てば響くように即答した。
「やりますよ。私はそのつもりですから」
木戸はすっかりご機嫌になった。わが説得のいかに効があったことかと。九時四十五分に東郷外相に電話した木戸の声は躍っていた。
「総理を受諾に同意させたから、ご安心を」
そのころ宮城を後に、小石川の私邸へ向う車の中で、鈴木首相は中国の兵法書『六韜』のなかにあり、常日頃愛誦している文句をしずかに誦している。
事するに必克より大なるはなし
用ふるに玄黙より大なるはなし
動ずるに不意より神なるはなし
謀するは識らしめずを善しとす
木戸内大臣の狼狽ともとれる説得が首相にはおかしかった。平沼枢相のいう強硬論に変身したつもりはまったくない。枢相の意見に反対を表明しなかったのは、首相のいつもの流儀なのである。あくまでも慎重な姿勢を保持したにすぎない。戦争継続派の陸軍中堅将校が今朝いらいさかんに平沼邸に出入りし、かつぎだそうとしている、という情報を首相は得ていた。後継首相の椅子をちらつかされて、かつがれはじめた人にどうして本心をいえようか。事をなすときは必成を期し、動の場合には不意をつく、謀は他人に知らしめず、そしてことごとに|喋々《ちようちよう》することなく玄黙──もの静かに黙することこそがいちばんと首相は考えている。
眼に走りゆく窓外の首都は、|蕭条《しようじよう》たる焼野で、|黒洞々《こくとうとう》たる闇に包まれている。底なしの淵のようにみえる。国体を護持し得ての戦争終結の望みも、まだまだはるかなる彼方にあるのかもしれない。灯はまだ見えぬ。
同じころ、宮内省の一室で、宮内大臣石渡荘太郎がひとり悲痛の想いに捉われていた。それは、首相が底なしの淵をのぞいたと同様に、天皇もまた前途に光明のない運命をみつめているのだ、という胸の痛くなるような回想だった。
この日、宮相は天皇によばれ、やっと疎開を納得された貞明皇太后に会いたい、という希望をいわれたのである。天皇は、至急にその手続きをとってくれるように、といい、
「自分はいま和平を結ぼうと思って骨を折っているが、これが成功するかどうか、正直いってわからない。だから、あるいは皇太后様にお目にかかれるのも、こんどが最後になるかもしれない。一目お会いしてお別れを申し上げたい」
と淋しそうにいった。
石渡宮相は、天皇が決死の覚悟をしていることに打たれた。聖断が下ったとはいえ、和平はなお遠いのか。宮相もじっと窓外の闇をみつめた。
東京湾へ向う第三艦隊(機動部隊)旗艦の艦橋で、猛将ハルゼイ大将もじりじりする想いで闇をみつめていた。一時日本に対する空襲を見合わせ、警戒態勢のみで東京湾へ向うように指令されていたからである。
アメリカ政府は、日本からの一分一秒でも早い再回答を待ちのぞんでいる。すでにバーンズ回答を送ってから一昼夜になろうとする、にもかかわらず日本政府からは何らの反応もない。米政府は次第に焦燥をつのらせていった。日本軍が何事かを策し、時間かせぎをしているのではないだろうか。
ついにワシントンは日本近海に|遊弋《ゆうよく》中の第三艦隊指揮のハルゼイ大将に命令を発した。十三日午前一時、さきに発した待機指令は取消す、として、
「攻撃を予定どおり続行せよ」
猛将ハルゼイは勇み立った。
[#改ページ]
[#小見出し] 第十九章 八月十四日午前十一時
[#地付き]●「アナンよ、もうよい」[#「●「アナンよ、もうよい」」はゴシック体]
十三日の朝が明けた。早くも警戒警報のサイレンが東京の空をかき乱した。
そのなかで、この朝の阿南陸相はなお、虎のように屈しなかった。天皇に謁見を願い、広島にある第二総軍総司令官の畑俊六元帥の召致の上奏を行ったさい、天皇その人に天皇の地位存続にたいする心配を訴えたのである。
だが、天皇は前日にも陸相をさとした言葉をさらに強めて、はっきりといった。
「阿南よ、もうよい」
なぜか天皇は、侍従武官時代から阿南をアナンとよぶのを常としていた。
「心配してくれるのは嬉しいが、もう心配しなくともよい。私には確証がある」
陸相の闘志はやや萎えた。この上なお反対論をとなえることは、天皇に反逆することになるのではないか。国体護持を考えるからこそ、そして天皇の地位を憂慮するからこそ、迷い悩んできたのではなかったか。しかし、天皇がそのことに確証があるという……。
結果論になるが、この時点で、国体護持という抽象概念の固縛からもっとも解きはなされていたのは、天皇その人だったのである。陸相の退ったあと、なお一抹の不安を抱いて木戸内大臣が諸情勢を奏上したときにも、天皇はいとも簡単にいった。
「人民の自由意志によって決定される、というのでも少しも差支えないではないか。たとえ連合国が天皇統治を認めてきても、人民が離反したのではしようがない。人民の自由意志によって決めてもらって少しも差支えないと思う」
こうした明快な天皇の決意も知らぬげに、午前九時よりひらかれた最高戦争指導会議は、再三再四にわたって紛糾した。このまま回答をのんで降伏し和平するか、かなわぬまでも死中に活を求め条件を少しでも有利にして和するか。あらためて外交ルートを経た正式の回答を前に、六人の男たちは最後の闘志を燃やして論じ合った。
陸相、参謀総長、軍令部総長の三人は、回答に対し再照会し、神聖な天皇の地位は交渉の対象になるようなものではなく、確実に保証されねばならない、そのために武装解除は自主的であるべきだ、と論じた。
外相は再照会は交渉の決裂を意味する、と突っぱね、「陛下が皇位におとどまりになれることが保証されている、という良い面をもっと考慮すべきである」といった。
海相はいら立たしげに珍しく大声をだして論じた。
「もう決定ずみではないか。それをいまさらむし返すのは、陛下のご意思に逆らうことになる」
梅津参謀総長がきっとなった。
「われわれは陛下のご意思に反対しているのではない。はっきりさせねばならぬことについて議論しているのである」
長い時間、じっと黙って議論に耳を傾けていた鈴木首相が、このとき坐り直すようにして、口をさしはさんだ。
「軍部はどうも、回答の言語解釈を際限なく議論することで、政府のせっかくの和平への努力をひっくり返そうとしているように、私には思えます。なぜ回答を、外務省の専門家の考えているように解釈できないのですか」
このきっぱりとした言葉に、外相が愁眉をひらき、陸相がすっかり気落ちしたことは、だれの眼にも明らかであった。首相が再照会派に組したというのは、やはり虚報もしくは希望的観測でしかなかったのである。
会議は、途中昼食休憩をはさんで、実に三対三のまま五時間におよんだ。行きづまりが打開されるきざしはまったくなく、鈴木首相は会議の散会を宣した。
首相の思念は、すっかり陸相ら三人の軍統帥者のそれとは離れていた。これまで首相は、天皇制を護持しようという真剣な想いから、回答をそのまま受諾すべきかどうか討議を重ねてきた。が、軍部のとなえる異議は、和平決定を無効にしようという抗戦派の絶体絶命のあがき、としかみられなくもない。もう十分すぎるくらい統帥部の意見を聞いたと首相は考える。残るは閣僚たちの意志の如何であろう。そこまで思慮をつくせば、あとは「動ずるに不意より神なるはなし」である。一挙に解決へもっていくチャンスがあろう。
午後三時、閣議がひらかれた。朝から延々たる会議につぐ会議。老首相はまったく疲労の色をみせぬ。予想されたように甲論乙駁ははてしなくつづいた。
ここでも陸相はなお条件をつけることを主張しつづけてやまなかった。
「武装解除を自主的にする、それこそ国体護持のための最小の必要条件なのである。これを条件としてこのさい提示することは、少しもおかしいことではない。この回答をこのまま受諾して降伏する場合は、天皇制の護持は期し難い。ならば、むしろ死中に活を求める決心で、抗戦をつづけるべきであります」
悲痛な抗議をつづける陸相の顔を、もはや多くの閣僚はまともに見ようとはしなかった。だれもが少しずつ堂々めぐりの議論に飽きはじめたが、首相は依然として端然たる姿勢を崩さなかった。そのとき、迫水書記官長が閣議室に入ってきた。首相の席に近よると、ほとんど耳に口をつけるばかりに、書記官長は何事かを話した。首相はうなずくと気軽に席を離れた。一時休憩で閣僚たちはやれやれという感じで椅子に身体を沈めた。
廊下に出た首相を迎えたのは、憲兵司令部総務課長大越兼二憲兵大佐である。十五度の敬礼をすますと、すぐ口を切った。
「降伏の場合には、叛乱は必至でありますが、総理には成算がありますか」
首相は無表情で上から見下ろすように聞いている。
「総理の生命も保証のかぎりではありません」
首相は右耳に手をあてがって首をつきだした。びくともしない。
「白紙委任状を敵に渡しては、天皇制は有名無実となります。これでは軍は承服できません。また自由なる国民の意志による政治とは何でありますか。天皇は現人神であり絶対無比のものであります。それが日本人の信念であります。軍は降伏を願ってはいない。降伏すれば、ソ連は男子を集団労働に追い、女子を集団強姦し、弱肉強食の世となるでありましょう。総理、総理はただの大臣ではないはずだ。武人の魂をよく知る人だ。いいですか、このさい、断乎として再照会すべきです。いたずらに迷い、因循姑息な手段をとれば、軍は蜂起する。事態はそこまできています」
大越大佐は一気にまくしたてた。鈴木首相は何をいわれたかまったく忘れたように、
「私の考えは違うのです」
というと、くるりと後ろを向いて、大佐のあっけにとられた顔を背に、ゆっくりと閣議室に戻っていった。書記官長はあわてて後を追った。
「いい息抜きだったよ」
と、首相は追いついた書記官長にいった。
会議室に戻ると、首相はすでに意を決したように、背筋をしゃんと伸ばすと個別に閣僚の名をよび、意見を訊きただしはじめた。まずよばれたのは、首相の左隣に坐している松阪法相だった。
「国体の本義よりみて即座受諾には反対であります」
と、法相はあわて気味に答えた。つぎの豊田軍需相は何やら綿々と論じはじめたが、首相に「簡潔に結論を」と叱られ、受諾説に落ち着いた。首相のリードは、それまでの茫洋としていた耳の遠い老人とは裏腹に、実にてきぱきしたものだった。一人ひとり名をよび、所信をしっかりと聞き、不明のところは質問した。
国務大臣桜井兵五郎は、指名されて思わず、「総理一任」とやり、首相に「私はあなたの意見を聞いておるのです」と手きびしく難詰されて、「それでは受諾です」という無定見ぶりで思わず失笑を買った。結果は、真っ向から受諾反対を主張したのは阿南陸相と安倍内相の二人だけであった。松阪法相と安井国務相は再照会論をとったが、結局は首相の方針に従うといった。のこりの閣僚は受諾に賛成した。
すべての閣僚が意見をのべ、若干の熱心な意見交換のあったのち、首相は立ち上がるといつになく力強い声で、自分の意見を述べはじめた。その堂々たる武者ぶりに、さすがは元連合艦隊司令長官だ、と思わざるを得なかった閣僚もある。
「私は先方の回答に受諾しがたい条件もあるように思い、背水の陣の決心をしましたが、再三再四この回答を読むうちに、米国は悪意あって書いたものではない、国情はたがいに違う、思想も違う、実質において天皇の位置を変更するものではない、と感じたのでありまして、文句の上について異議をいうべきでないと思う。このさい、辞句を直せというても、先方にはわかりますまい」
首相の言葉は諄々として、さながら兵学校生徒に説く兵学校校長時代の面影が|髣髴《ほうふつ》としていた。
「問題は国体護持であります。もちろん危険を感じておりますが、さればとていまどこまでも戦争を継続するかといえば、畏れ多いが、大御心はこのさい和平停戦せよとのご|諚《じよう》であります。もしこのまま戦えば、背水の陣を張っても、原子爆弾のできた今日、あまりに手遅れであるし、それでは国体護持は絶対にできませぬ。死中に活もあるでしょう、まったく絶望ではなかろうが、国体護持の上からみて、それはあまりにも危険なりといわなければなりませぬ」
阿南陸相はきっと顔をあげ、胸を張って首相の言葉を追っていた。東郷外相はそれに視線を送りながら、この午後の陸相にはときどき思い惑う様子があり、いつもほど議論には熱がなかったなと、妙なことが感じられた。
「われわれ万民のために、赤子をいたわる広大な思召しを拝察いたさなければなりませぬ。また臣下の忠誠を致す側からみれば、戦いぬくということも考えられるが、自分たちの心持だけは満足できても、日本の国はどうなるのか、まことに危険千万であります。かかる危険をもご承知にて聖断を下されたからは、われらはその下にご奉公する外なしと信ずるのであります」
この長い発言には八月六日いらい、首相として鈴木貫太郎が考えに考えてきたすべてのことがある。政治性ゼロの宰相の真情だけがある。
「したがって、私はこの意味において、本日の閣議のありのままを申し上げ、明日午後に重ねて聖断を仰ぎ奉る所存であります」
これが閣議の結論となった。六時半をすぎていた。
陸相の想いは複雑だった。すでにクーデタ計画が秘密裡に策定されつつあるのは承知している。一触即発の状況にあった。かれは大きな楕円形のテーブルに広げてあった書類をとりまとめて、それを副官に渡した。そして思い決したように総理室に向った。
鈴木首相はこころよく陸相を迎えた。
「総理、御前会議をひらくまで、もう二日だけ待っていただくわけにはいきますまいか」
首相は、陸相がいんぎんに少しも脅迫的でないのに、心から好感をもった。しかし、この申し出を毅然としてことわった。
「時機はいまです。この機会をはずしてはなりません。どうかあしからず」
陸軍の抗戦派の怒りより、時間の遅延のもたらす結果の方を、首相は恐れたのである。
阿南陸相はもう一言なにかいおうとしたが、思い諦めたという表情で、丁寧に敬礼をすると邪魔したことを詫び、部屋を出ていった。同席していた小林堯太元軍医大尉が、首相にいった。
「総理、待てるものなら待ってあげたらどうですか」
鈴木首相は答えた。
「小林君、それはいかん。今日をはずしたら、ソ連が満洲、朝鮮、樺太ばかりでなく、北海道にもくるだろう。ドイツ同様に分割される。そうなれば日本の土台を壊してしまう。相手がアメリカであるうちに始末をつけねばならんのです」
小林軍医はいった。「阿南さんは死にますね」
「ウム、気の毒だが」
鈴木首相は眼を伏せるようにしていった。
陸相官邸に帰った阿南陸相を待っていたのは、兵力動員計画だった。
竹下正彦、椎崎二郎、稲葉正夫、井田正孝、畑中健二らの中少佐クラスの幕僚たちが説明した。具体的には明十四日午前十時に予定されている閣議の席に乱入し、主要な和平派を監禁、天皇に聖慮の変更を迫ろうというのである。たとえ逆賊の汚名を着ようとも、それを覚悟で、こうした行動にでる。なぜなら、万世一系の天皇を戴く君主制こそ日本の国体であり、それを護らねばならぬからである。かれらにあっては、その天皇の一人にすぎぬ裕仁天皇より、国体が優先するのである。「右の実行には、大臣、総長、東部軍司令官、近衛師団長の四者が一致することを条件とする」とあった。
ついに来たるべきものがきた、という想いで陸相はこれを何度も読み直した。
「あらゆることを考えぬいた上の結論なのか。それにしては根本が漠然としているではないか」
と陸相はいい、この計画を支持するとも、しないともいわなかった。
その夜、鈴木首相は久し振りによく眠った。明日はまた、天皇に|援《たす》けを求めねばならぬ。それが少し精神的に重い負担であった。情けないと思うが、ほかに方法はないのである。
天皇が終戦を固く決意し、国家再建のために国民の生命を一人でも救う、そのためには自分の身柄はおろか、天皇制までも犠牲にしてもやむを得ないと考えている。その天皇の意思に添うためには死に損いの自分の生命を投げ捨てることなど、何ほどのこともあろうか。
その覚悟を定め老首相は熟睡に入った。
[#地付き]●「わたくし自身はいかになろうとも」[#「●「わたくし自身はいかになろうとも」」はゴシック体]
八月十四日午前五時にいつものように目覚めた鈴木首相は、窓外のまばゆいばかりの朝陽をいっぱいに浴びながら、とつおいつ考えていた。昨日の閣議で「重ねて聖断を仰ぐ」ことを結論としたが、その御前会議をどうやってひらくことができるか、その方法に苦慮していたのである。
九日夜から十日未明にかけての第一回目の聖断は不意討ちであり、いわば軍部を詐術にひっかけて成功させたようなものであった。こんどは、陸海の両統帥部長は事前に連絡のない御前会議にはかたく反対している。通常の手続きによれば、奏請書類に署名、花押をしるすことを拒むことは容易に予想された。
首相は一汁二菜の朝食をとる間も考えていた。たしかに昨夕の閣議段階では、即時受諾説が多かった。しかし多数決をもって再照会説を制することは、虎の尾を踏むより危険だった。生命を捨てることはたやすいが、大切なのは死ぬことではなく、天皇の意思をきちんと実現することなのである。これまでの老躯に鞭打っての、不眠不休の努力を水泡と帰すことは許されない。
「水雷を撃つようなわけにはいかんわい」
老首相のつぶやきに、たか夫人はいぶかしげに眉をあげた。|皺《しわ》の多い顔をくしゃくしゃにして、首相は苦笑した。
その直後に、迫水書記官長があたふたと私邸の門をくぐってきて、首相の顔をみるなりいった。
「情勢は緊迫以上です。予定どおりに閣議を十時にひらき、もうこれ以上議論を重ねてみても、|埒《らち》があきません。総理、もはや決断あるのみです」
「まあ、な」はっきりものを言わないのが首相の流儀だった。書記官長はおっかぶせた。
「陛下にお願いして、もう一度……」
とたんに、首相が大声で「そうですッ」と叫ぶと、びっくりする迫水に眼もくれず、いった。
「六月二十二日の方法がありました。あれがいい、あれが最後の、とっておきの|術《て》です」
そして、たか夫人に「すぐ参内するから」と首相はいってすっくと立った。
首相は車を飛ばして木戸内大臣を訪ねた。木戸もまた、その日の朝にB29の散布したビラを手にし、ここに至っては一刻も早く終戦にもっていかねばならぬと、朝早く天皇に奏上していたところであった。これまでの交渉の詳細を伝えた上で、ビラには「和戦の決は一にかかって日本政府にある」ことが記されている。
「至急、終戦の手続きをとるようご下命願います」
天皇は強くうなずいた。そして退下してきたところで、木戸は首相の姿をみたのである。
「総理、もう一刻の猶予もなりません」
「そのつもりです。しかし、この三日間の陸海軍の態度をみると、もはや円満に収拾など不可能です。陛下にご苦労をおかけするのは、まことに畏れ多いのですが、ほかにとるべき方法がないと決心せざるを得ません」
といいながら、老首相は心から情けないという顔をした。
「私は陛下に、陛下からのお召しという形式で、いま一度御前会議をひらいて下さるようにお願いいたしたいのです。木戸さん、あなたも一緒に拝謁して、陛下にお願いしてくれませんか」
木戸内大臣は、自分が構想していたと同じことを首相にいわれて、あらためて政治性ゼロの鈴木貫太郎という軍人の、人間性の大きさと深さを感じとった。小手先の技巧はないが、こうと信じたことには真っ正面から|打《ぶ》つかってくる。それが異例であろうと、法的に問題があろうと、それをのり超えてやってくる。
八時四十分、天皇は二人の股肱の臣と謁見し、奏上を聞くと、即座に、明快に同意した。
昭和十六年十二月一日の開戦決定の御前会議いらい、たえて行われなかった最高戦争指導会議の構成員と閣僚全員の合同の御前会議がひらかれることとなった。しかも、正式の御前会議ではなく、天皇のお召しによる、という……。
合同を策案したのも首相だった。
「もうここまできたら一挙に終戦へと決しましょう」
「そう」と木戸が和した。「私とあなたと、ほかに二、三名が生命を捨てればすむことですからね」
迫水書記官長は、首相官邸に戻って待っていた。九時半すぎ、首相の自動車が回ってきた。「平服にて差支えなし、午前十時半までに吹上御苑に参集するように」とのお召しを、全閣僚および最高戦争指導会議構成員、ならびに陪席するものの名をあげ、さらに平沼枢相の名をつけ加え、「これを確実にこの人たちに伝えて下さい」と首相は暗記してきたようにすらすらといった。書記官長はしてのけたりと、万歳を叫びたいくらいに心身が躍動した。
だが、首相がすぐそのあとで、
「この席で陛下がご詔勅をお下しになる。詔勅案はできているでしょうね」
といったのには、迫水は仰天した。
「陛下がそう|仰言《おつしや》ったのですから」
「そんなはずはないと思うのですが……内閣で審議もしていないご詔勅が下されるはずはないのですが、総理の聞きちがいではありませんか」
こんなときの首相は実に気さくだった。
「そうかな、じゃもういっぺん行ってくる」
車を飛ばして去っていく。猛スピードで戻ってくると、御前会議開催の準備をしながら待っていた書記官長にいった。
「やっぱり君のいうとおりだったよ。詔勅案を作れと陛下が内閣にお命じになるそうだ」
書記官長は思わず吹きだした。首相はにこにこしながら、頭をかいた。これほど重大な手続きについて初歩的な思い違いをするような、およそ政治的行政的な諸事にうとい首相が、無私の精神だけで、とにもかくにも国の運命を背負ってここまできた、そのことを考えると、天の配剤という言葉しか書記官長には思いつかぬ。
私邸の玄関に「組閣本部」という紙を貼りだし、だれ一人相談相手もなく、もたもたとして発足したときのことを、迫水は思いだした。指折って数えるまでもなく、あれから百三十日。はじめ処女の如く、そしていま猛牛の如くに戦争終結になだれ込もうとする。素朴な感想だが、短くもあり無限につづくような長い暦日であったと思う。
午前十時五十分、天皇と鈴木首相とのいわば|阿吽《あうん》の呼吸による異例の御前会議が、ご文庫地下防空壕でひらかれた。午前中に閣議、そして午後に御前会議というはじめの予定をくりあげたことは、結果論でいえば、無血終戦の大ヒットになった。
このため、中堅幕僚団によって計画された和平派軟禁、聖断変更の強硬手段は、空振りに終らざるを得なくなった。時間かせぎも天皇のお召しとなればできない。すべての目算ははずれた。
天皇は、これよりさき午前十時に永野修身、杉山元、畑俊六の三元帥をよびよせ、戦争を終結することに決意したから軍はこれに服従すべし、という命令をくだした。その知らせも、抗戦派にはショックだった。軍の頭領としての大元帥が停戦大命をくだし給うたのである。
そしていま、その人が国家の最高元首として意思を明確にしようとしている。会議室は特別のお召しという形式に合わせて、模様がえしてあった。両側の壁にそって椅子が二列にならべてあり、真中に金色の錦織の布をかけたテーブルが一つ、それと背の直立したひじ掛け椅子が一脚おかれてあった。
十時五十分、大元帥服に身をかためた天皇が入室し、椅子に着席した。鈴木首相が立った。原稿はおろかメモ一つなく、老首相は静かに語りだした。聞いていた迫水書記官長は驚愕した。内閣成立いらい原稿なしに公的発言をしたことのない老首相が、言うべきことは正確に、触れない方がいいことはカットし、九日の御前会議いらいのすべての出来事をよどみなく述べていくではないか。
|老耄《ろうもう》している、自分の意見はない、ただ乗っかっているだけだなどという、すべての中傷や雑言は、この堂々たる発言の前にすべて消し飛んだ。|老獪《ろうかい》などという批評めいた言葉ではいい表せぬ、この老人の深く大きい正体に書記官長ははじめて触れた気がしたのである。
「ここに重ねて、聖断をわずらわし奉るのは、罪軽からざるをお詫び申し上げます。この席において反対の意見あるものより親しくお聞きとりのうえ、重ねて何分のご聖断を仰ぎたく存じます」
首相は約十分間の説明をこう結んで着席した。梅津、阿南両将軍が立って簡潔に見解を述べた。豊田提督はかなり長く心をこめて切言したが、新しい見解はなに一つなかった。
無気味なる静寂がしばし流れた。やがて、天皇が静かに口をひらいた。
八月十四日正午に近かった。昭和史が涙によって新たに書きはじめられた。天皇はその言葉を何度ともなく中断し、落ち着きをとり戻してはまたつづけた。
「……国体問題についていろいろ危惧もあるということであるが、先方の回答文は悪意をもって書かれたものとは思えない。要は、国民全体の信念と覚悟の問題であると思う。このさい先方の回答を、そのまま、受諾してよいと考える」
その席にある二十三人の男たちは、深く頭を垂れ、|嗚咽《おえつ》し、眼鏡をはずして眼を拭った。
「……国民が玉砕して君国に殉ぜんとする心持ちもよくわかるが、しかし、わたくし自身はいかになろうとも、わたくしは国民の生命を助けたいと思う……」
たしかに、天皇の身がどうなるか、だれにも確信はない。しかし、国民をこのうえ無意味な犠牲から救うためには、ただ一つ降伏≠オか残されていなかった。戦争を終らせることが最高に必要だから、たとえ身がどうなってもよい──身を投げだしている天皇の痛ましさが、人びとの心も身をもひき裂いた。悲痛な空気は、やがて|慟哭《どうこく》に変わっていった。
[#地付き]●「老人の出る幕ではない」[#「●「老人の出る幕ではない」」はゴシック体]
御前会議につづくその日の二十四時間は、日本歴史上いちばん長い日≠ニなった。陸軍強硬派のクーデタの恐れをはらみつつ刻一刻とすぎていった。
詔書案の辞句をめぐっての陸相と海相との論争、天皇放送をいつにすべきかのさまざまな意見、詔書が枢密院によって許可される必要があるかどうかの法制的な問題など、日本帝国の通夜ともいえる閣議は、延々と夜になるまでつづいたのである。
そして終戦の詔書は閣議で決定され、十四日の午後十一時公布手続きが完了。それが国家意思の憲法上の最終決定となった。天皇もまた、マイクの前に立ち、二度も詔書を読み、録音に協力した。自分にできることがあればなんでも|厭《いと》わない、と御前会議でいった言葉そのままの天皇だった。
陸軍は阿南陸相の強い意志のもとに「承詔必謹」の大方針をうちだした。陸軍が本土決戦を呼号したのも、名誉ある講和を最終条件としたためである。武装解除のあとでは、イタリアの先例もあり、国体護持ができぬと考えた。しかし、天皇がはっきりと国体護持に確信ありといい、終戦を聖断したのである。もはやそこになにもつけ加えるものはないであろう。いまは、全軍の退却を正々粛々たるものにする。そこに天皇のよき股肱としての帝国陸軍の最後の栄光がある。義務がある。阿南陸相はそう信じたのである。
すでに序章で書いたように、陸相は、陸相としてなさねばならないすべての任務をおえると、東郷外相に別れをつげ、さらに葉巻を形見とし鈴木首相にも別れをつげた。あと陸相に残されているのは、亡国の惨にみちびいた陸軍の責任者として、天皇と国民に大罪を詫びることだけであった。
だが、陸相がどう思おうと、陸軍の方針がどうであろうと、万世一系の天皇制を護ることこそ国体であり、その国体は裕仁天皇個人のものではない、天皇の国体観念は誤っている、と考える青年将校のグループがあった。かれらは、それを正すための「直諫」は許されると、蜂起した。反逆者たることをむしろいさぎよしと覚悟するのである。降伏を認めないかれらの、最後の抵抗がその夜、宮城内でくりひろげられた。近衛師団長を殺害し、ニセ命令を発して一時宮城を占拠したが、録音盤も奪取することはできず、叛乱は所詮「真夏の夜の夢」であり、あっという間に終熄した。
阿南陸相は敗戦の責任を負って、十五日朝まだきに自刃した。陸相はひとりの人間としてできるかぎりのことをした。軍の長として、しなければならないと感じていることを過不足なくやって、駈け足で去っていった。陸相の死は武人の義務をひとびとの心によみがえらせ、陸軍中央は心に喪章をつけて喪に服した。
天皇は陸相自刃の知らせを耳にしたとき、
「アナンにはアナンとしての考え方もあったに違いない。気の毒なことをした……」
と武官長にもらしたという。
[#(361.jpg、横220×縦230)]
十四日の夕刻、木戸内大臣と会い、再度の聖断による終戦の決定を知らされたときの、近衛文麿の言葉が印象的である。
「成功だ! これは」と近衛は思わず口走った。そして、
「鈴木総理の無為無策がかち得た大成功なんだね、これは」としみじみといった。
八月十五日午前六時(ワシントン十四日午後四時)バーンズ国務長官は、日本政府の発した最終回答をうけとった。「これで一生を通じての一日千秋の待ち遠しさは終った」と思った。そして、すぐにロンドン、モスクワ、重慶との間の無線電話をつながせた。
トルーマン大統領は、マッカーサー元帥に命令を発した。
「貴官を、米英中ソの連合軍の最高司令官に任命す。日本降伏のいまから、天皇の国家統治の権限は貴官に属する……」
佐々木大尉の率いる「国民神風隊」の襲撃をうけ、小石川の私宅を焼かれた身一つで鈴木首相らの一行が、芝白金の実弟鈴木孝夫陸軍大将の娘の嫁ぎ先の小田村邸にたどりついたとき、八月十五日の朝はとっくに明けていた。
朝食のあたたかい味噌汁の香りに、一同がほっと緊張を解いたのを見計らって、鈴木一秘書官は首相にむかって話しかけた。
「どうやら正午の御放送の見通しもついたようです。これで私たちの任務は終ったと考えていいと思います。総辞職を願い出る時期ではないでしょうか」
久し振りで、父と子の心がしみじみとかよいあった。首相はすぐに賛成し、辞表の案文を書いてほしいといった。いずれこういうこともあろうと一秘書官にはかねての心づもりがある。
「|曩《さき》に重任を拝し戦局危急を打開せんことに日夜汲々たり。然るに臣微力にして遂に戦争終結の大詔を拝するに至る。臣子として|恐懼《きようく》するところを知らず……」
老首相は、読みあげられる案文を黙して聞き終ると一言、「よく出来た」といった。そして言を継いで、
「これからは老人の出る幕ではないな。二度までも聖断を仰ぎ、まことに申し訳ないことだった。新帝国は若い人たちが中心になってやるべきだね……」
憔悴しきった老首相の顔にも、かすかに安堵の影が漂っている。天皇の信頼によりかかって首相がうった大芝居は終ったのである。
鈴木武秘書官からの連絡をうけ、首相無事を知った迫水書記官長が避難先にとびこんできたときは、九時をわずかにまわっていた。九時間ぶりにみる茫洋とした、八の字眉毛のいつもの首相の顔をみて、書記官長は胸をつまらせた。くしゃくしゃになりそうなその顔を見ながら、首相は静かにいった。
「今日の閣議で、全閣僚の辞表をとりまとめて総辞職したいと思っていますから、そのつもりで……」
その日の日程の詳細を、首相と打ち合わせて門を出た書記官長の胸中は軽やかだった。就任いらい今日がちょうど百三十日目、最後の仕事が辞表のとりまとめとは、おかしくもあった。六十六キロあった体重が八キロも軽くなっていたが、減ったことにいまは満足を感じている。
午前十時三十分、大本営は発表した。開戦いらい八百四十六回目の最後の大本営発表であった。
「わが航空部隊は八月十三日午後、鹿島灘東方二十五|浬《かいり》において航空母艦四隻を基幹とする敵機動部隊の一群を捕捉攻撃し、航空母艦一隻を大破炎上せしめたり」
国民のなかにはこの発表に奇異なものを感じたものも多かった。朝からラジオは「|畏《かしこ》きあたりにおかせられましては、このたび詔書を|渙発《かんぱつ》せられます……畏くも天皇陛下におかせられましては、本日正午おんみずからご放送あそばされます」と荘重な口調で、予告をいいつづけていたからである。終戦の噂はデマで、徹底抗戦を天皇が訴えるのであろうか。
[#(363.jpg、横220×縦283)]
その天皇は、昨夜いらいほとんど休息をとらぬまま、表御座所で、つぎつぎにもちこまれる終戦関係の書類を処理していた。木戸内大臣、内閣、宮内庁関係者の拝謁がつづいた。敗戦を知った国民の動揺はどうか、天皇は新しい顔をみるたび同じ質問をくりかえした。
十一時に宮城内で枢密院本会議がひらかれることになった。議長平沼騏一郎を筆頭に枢密顧問官十四名と、政府側から鈴木首相、東郷外相、村瀬法制局長官の三名が加わり、かつての大本営会議室にきちんとならび、天皇の親臨を待った。これも一つの儀式だった。しかし、形式を何度でもくりかえし行うことによって、日本帝国の敗北の認識が深められていく。
十一時二十分、小出侍従の先導で天皇が議場に入った。平沼議長が立って、うやうやしく一礼し、天皇にかわってご沙汰書を朗読した。
「朕は政府をして米英支ソのポツダム宣言を受諾することを通告せしめたり。これはあらかじめ枢密院に諮詢すべき事項なるも、急を要するをもって、枢密院議長をして議に参ぜしむるにとどめたり。これを諒承せよ」
平沼議長は読み終ってゆっくりと紙を巻いて、高くいただくようにした。各顧問官たちもそれに合わせて礼をし、そして椅子に音をさせて腰かけた。たちまちに静けさがもどってきた。しわぶき一つなかった。
「鈴木内閣総理大臣」と議長が指名した。首相は深く息をして、背を少し伸ばすようにして立ちあがった。モーニングを着た西郷隆盛≠フ役割はこれで終りになるはずである。首相は、口をひらいて、
「戦争終結の処置につきましては……」
と重々しくいった。口調とはまったく裏腹に、相変わらず首相はとぼけて、茫洋としていた。「処置」は人の力によらず、時の流れによってつけられた、そういいたそうであった。
十一時五十五分、東部防衛司令部、横須賀鎮守府司令部の戦況発表をラジオは告げた。
「一、敵艦上機は三波にわかれ、二時間にわたり、主として飛行場、一部交通機関に対し攻撃を加えたり。二、十一時までに判明せる戦果、撃墜九機、撃破二機なり」
宮中、防空壕内の枢密院会議を一時中断し、首相と顧問官たちは細い回廊に一列にならんだ。天皇は、会議室のとなり控室の御座所にあって、小型ラジオを前にした。みずからの重大放送を聴こうというのである。
ラジオは最後の情報を流した。
「……目下、千葉、茨城の上空に敵機を認めず」
十一時五十九分をまわっていた。つづいて正午の時報がコツ、コツと刻みはじめた。
「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くもおんみずから大詔を|宣《のたま》わせ給うことになりました。これより謹みて玉音をお送り申します」
つづいて「君が代」が流れた。一億の日本国民がいまや偉大な葬儀に列するのである。天皇が喪主であったといえる。椅子に坐ったまま天皇は自身のラジオの声に聴き入った。侍立する侍従には後姿のゆえにさだかではなかったが、天皇も涙を流していると感じられた。ポケットからハンカチを探している風であったが、もどかしくついに机上の白手袋をもって顔を拭いた様子に、侍従はたまらなく声を出して泣いた。
玉音放送が終って、天皇は裸電球のゆらゆらしている地下道を通って、ご文庫に戻った。皇后と女官たちがこれを迎えた。
「ながみや(良宮)、ラジオを聴いたかね」と天皇は皇后に声をかけた。
「はい……」とのみ皇后は答え、それから二人は重苦しい昼食をとった。
[#地付き]●「本当によくやってくれた」[#「●「本当によくやってくれた」」はゴシック体]
再開された枢密院会議では、一人の顧問官の「日本国民の自由に表明する意志」となると、「はたして国民は天皇制を支持するだろうか。それが心配だ」という意見に、同感の意を表する顧問官も少なくはなかった。敗戦とともに、国民の積年の恨みつらみが皇室に集中するのではないかと怖れ、天皇制の将来に自信をだれもがもてなかったのである。
だが、その国民は敗戦のお詫びのために、二重橋前に集まっている。玉砂利の上に土下座して宮城を拝する人でいっぱいになった。人びとは陸続としてつづいた。腹をかき切り、自決する人もあった。それを見やりながら首相の車は、宮城より退出し、首相官邸にむかった。午後二時より臨時閣議をひらくのである。
阿南陸相自刃の報は、閣議のために官邸に参集する各大臣の胸を衝いた。あるいはと思う予感のないわけではなかったが、それが現実となってみると、衝撃は大きすぎた。冷静この上のない東郷外相までが、
「そうか腹を切ったか。阿南というのは、いい男だな」
といい、眼を真っ赤にした。
鈴木首相もまた、自決を選ぶのではないかと予感する閣僚もいた。そのようなことは万々あるまいと思いながらも、首相が生粋の軍人であることに想いをいたし、凡俗には|窺《うかが》えぬ覚悟があるのではないかと危惧するのである。下村国務相がその一人で、思い立つと、ひとり首相公室を訪れた。宮城から戻ったばかりの老首相は椅子に疲れた身を沈めていたが、差し出された紙片をみてにっこりとした。紙片には国務相の筆で「この上の覚悟御無用」と書かれている。
「有難う。ご心配には及びませぬ。ご安心下さい」
閣議がひらかれた。陸相の席が一つだけ空席であった。そこに視線を送りながら、鈴木首相は重々しく口を切った。
「阿南陸軍大臣は、今暁午前五時に自決されました。反対論を吐露しつつ最後の場面までついて来て、立派に終戦の詔勅に副署してのち、自刃して逝かれた。このことは実に立派な態度であったと思います。遺書は『一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル』とだけありますが、『神州不滅ヲ確信シツゝ』として、辞世の歌もありますので、ご披露いたします。
大君の深き恵に浴みし身は言ひ|遺《の》こすべき片言もなし
というのであります。実に武人の最期らしく、淡々たるものであります。……謹んで、弔意を表する次第であります」
つづいて東郷外相の長い報告があった。降伏にともなう複雑な交渉もあり、また「艦隊や軍隊の本土進駐はあらかじめ予告されたい」「停戦に関し遠隔地には猶予を与えよ」など混乱や無用の流血をもたらさぬよう、日本の希望を連合国に申し入れてあったのである。
各閣僚とも、敗戦にともない責任者として処理しなければならない事務が山積していた。閣議は一旦休憩とし、四時半より第二回閣議をひらくこととし、解散した。官邸を後にしながら、端然とした首相の姿から閣僚たちは早くも悟っていた。つぎに自分たちがしなければならぬことは「辞任」ということであろうと。
第二回閣議がひらかれると冒頭で、だれもが予想したとおり鈴木首相が立ち上がって、淡々としていった。
「これで終戦と決定したわけですが、何としても二度までご聖断をわずらわしましたことは、恐懼にたえません。それで私は辞表を献呈することにしましたが、そのけじめが考えられません。……東郷さん、どんなものでしょうか」
東郷外相は打てば響くようにいった。
「こう矢つぎ早にいろいろなことが起こるわけですから、どこでけじめをつけていいか、わかりません。ですから……」
いつでも構わんというのであろう。事実、過去の事例に照らしていえば、鈴木内閣は何度も辞任ないしは崩壊しているはずであった。平常の当然な理由があっても、素知らぬ顔で押し通してきたのも、鈴木首相の人徳、いや政治力といえるのかもしれない。それがいま辞任の理由に困るとは……。
「どうも困りましたが、とにかくこのさいよりほかに、この内閣のけじめをつける機会はないように思います。ご了承下さい。それにつけても、この席に阿南陸相のいられないことは、かえすがえすも悲しいことです」
首相は、阿南陸相との昨夜の別れにかわした言葉を想い出して語った。
「まことに陸相は忠誠恪勤、まれにみる立派な軍人でした」
辞任は衆議一決で決まった。
「|曩《さき》に大命を奉じて輔弼の重任に当り、報効を万一に期し以て今日に及べり。然るに今、鈴木総理大臣辞表を捧呈するに至りたるを以て、此際併せて臣が重任を解き給はんことを願ひ奉る」
これが閣僚の辞表の文面だった。
鈴木首相はとりまとめた辞表を懐に参内した。首相にとって今日は早朝からたびたび参内し拝謁した天皇の姿であったが、なぜか久し振りに会うように感じられた。侍従長としておそば近くに仕えたころのことが首相には急速に蘇ってきた。昭和六年の満洲事変いらい、外へ外へ進出していく日本の国策。天皇が平和への悲願とその相剋のために、いかに悩み苦しんだことか。無告の民という言葉があるが、天皇こそは無告の帝王であった、鈴木にはその想いのみが深い。
天皇を仰ぎながら、首相は最後の御前会議で語った天皇の発言を胸のうちに|反芻《はんすう》した。
「今日まで戦場にあって戦死し、あるいは内地にいて非命に|斃《たお》れたものや、その遺族のことを思えば、悲嘆に堪えないし、戦傷を負い、戦災を|蒙《こうむ》り、家業を失ったものの今後の生活については、わたしは心配に堪えない。このさい、わたしのできることはなんでもする」
この言葉のなかに、徹底抗戦を標榜する軍を説得しようとする天皇の必死の気迫がひしひしと感じられた。情理をつくし、国民のために軍を犠牲にしようとする天皇の意志は明確に表明されている。
モーニングの首相が差し出す辞表を、軍服の天皇が受けとって儀式は終った。だが、そのとき天皇が、
「鈴木」
と親しく名をよんで、退出する首相の足をとめた。
「ご苦労をかけた。本当によくやってくれた」
と優しく天皇がいった。さらにもう一言、
「本当によくやってくれたね」
といった。千万言をつらねるより、なお深い君臣の情がこの一言に集められたようであった。同じ言葉が二度、ほかに余計の言葉はない。天皇と鈴木貫太郎との長い年月の心のふれ合いを示すように、互いに温かい視線がかわされた。鈴木は天皇の視線の中に光るものをみたように思った。そしてかれもまた涙を流しながら、背を丸めてしずかに退出した。
その夜遅く、芝白金の小田村邸に帰ってきた鈴木貫太郎は、たか夫人、長男の一らをよび、
「今日は陛下から二度までもよくやってくれたね∞よくやってくれたね≠ニお言葉をいただいた」
と語り、しばし面を伏せてむせび泣いた。
二・二六事件で生き残ったのも、この大業を成すためにほかならない。幾多の苦難に堪えてきた苦労も、陛下の一言で報いられたにちがいない、と思うと、たか夫人も声をあげて泣いた。
その夜七時半、ラジオは鈴木の首相としての最後の言葉を流した。原案では、そのなかの一節に、「私は今日|揣《はか》らずしてこの悲痛なる終局を、政府の首班としてみずから措置するの運命を荷ないましたが、私の一生の大半は帝国軍人たるの生活でありました。将兵諸君の胸中は、この私も十分お察しするところであります」とあったものを、鈴木首相はみずから加筆して、
「将兵諸君の胸中は、この私も老兵の一人としてよく存ずるところであります」
と訂正し、ホロリと涙を落とした。鈴木貫太郎は、文官の首相としてではなく、「老兵」の文字に示されるように武人として、最後まで海軍大将として、この難局に対処したのであろう。
翌十六日の朝は、よく晴れて雲一つなく、朝からまた暑さを予想させた。
天皇は朝食のあと庭に出て、バルコニー前の花壇に、如露でゆっくり水をやっていた。背広姿で帽子もソフトに変わっている。細くみえ、いっぺんに年をとった感じだった。みずから何度も如露に水をいれては運び、ひとり静かに水を撒く姿からは、もはや戦いは終ったという、ふだんの姿そのものに変わっていた。
上空を、しかも低くB29の大編隊が威圧するように飛来し、去っていった。天皇はそれを見ようともしなかった。花に水を撒く手を一瞬とも休めなかった。
この日、スターリン首相はトルーマン大統領に親展秘密の一書をしたためた。
「一、ソビエト軍に対する日本国軍隊の降伏区域に千島列島全部をふくめること。(中略)
二、ソビエト軍に対する日本国軍隊の降伏地域に、……北海道の北半分をふくめること。北海道の北半と南半の境界線は、島の東岸にある釧路市から島の西岸にある|留萌《るもい》市にいたる線とし、右両市は島の北半分にふくめること。
この第二の提案は、ロシアの世論にとって特別の意義をもっています。……もしロシア軍が日本本土のいずれかの部分に占領地域をもたないならば、ロシアの世論は大いに憤慨することでしょう。私の、このひかえめな希望が反対をうけることのないよう、私は切にのぞんでいます」
このときになっても、まだ北海道北半分を領土とすることを主張するソ連の提案を、トルーマンは真ッ向から否定した。
そしてこの日、鈴木前首相の一行は、逃げのびた家が親類宅では目立つということで、隣家の磯村邸に移ったが、倉庫に怪火があり、夕刻にそこを逃げだすという無残なことになっている。後継内閣首相の東久邇宮の好意で、自動車が借りられたのが有難かった。
公邸を空襲で、私邸を襲撃で焼かれた鈴木一家は、字義どおり無一物であった。逃げだす車中の客となりながら、鈴木はいった。
「国家のためだ。家財が焼かれたくらい安いものだ。逃げだすのに便利でいい」
行き先は目黒の知人宅にとりあえずきめた。車の走る焼跡の街のさきざき、電柱などに、「日本のバドリオを殺せ、鈴木貫太郎を殺せ」などと書かれたビラが貼られ、はがれた部分が風にひらひらしていたが、鈴木前首相は眼をくれようともしなかった。
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[#小見出し] 終章 じいさんばあさん
[#地付き]●「心はいつも清々している」[#「●「心はいつも清々している」」はゴシック体]
千葉県の最西北端、東側には東西に流れる利根川をもって茨城県の、西側は利根川から分流した江戸川で埼玉県の、それぞれの県境に接して犬の尾のように細長くはいりこんだ三角洲に、関宿という小さな町がある。いまは水戸街道に通じる沿道の通過点の一つにすぎず、ダンプカーやダットサンがあげる砂ぼこりを、年がら年じゅう浴びているだけの忘れられた淋しい町。隣接する|醤油《しようゆ》で有名な野田市との合併を断ったばかりに、産業が何一つない上に税金が高く、先人の凡庸さのツケを町の人びとは払わされている。
しかし、徳川時代には幕閣のひとり、五万八千石の久世大和守の城下町、利根川と江戸川の分岐点の水路の要衝として著名なところであった。赤松宗旦の『利根川図志』が、「君侯世々徳沢を布き給ひて、藩民鼓腹し市店繁栄なり」と記すように、船宿が多くならび、河上には白帆がひきもきらず航行し、江戸へいく旅人はここから関宿船として知られる夜船で、一睡のうちに日本橋へいくことができた。
明治維新とその後の陸上交通の発達が、この城下町の息の根をとめた。徳川方に属したため、新政府によって城を焼かれ、水利による交通の自然|衰頽《すいたい》のあおりをくらい、この町は一軒の旅館すらもない|僻邑《へきゆう》と化してしまった。
昭和二十年十一月二十五日、敗北を迎えた年の秋の暮れ、この町に、八の字眉毛の武骨で大柄なじいさんと、小柄だが品よく若き日の美貌をしのばせるばあさんとが、ひっそりと住みついた。大きな引越し荷物があるわけではなく、身のまわりの手荷物だけの老夫婦は、いまは亡い元町長の鈴木由哲の屋敷に入った。
敗戦の混乱と虚脱からまだぬけきらぬ関宿町民は、かれらが終戦にみちびいた前の総理大臣鈴木貫太郎と、その夫人たかとすぐわかり、夫妻が空襲と右翼の襲撃ですべてを焼かれ身一つと知っても、どうという手助けもできなかった。だれもが自分の生きることに精一杯だった時世だからである。それに警察からは噂することもせぬよう、できるだけ知らぬ顔をするようにとの達しがあった。
敗戦当初から、まだ日本中のいたるところで、敗戦の責任を追及する声が強かった。事実、責を負って自決する軍人や高官が薄っぺらな毎日の新聞をにぎわせた。全国の自決者は五百二十六名にも及んだという。天皇の戦争責任を糺弾し、退位をせまる声も高かった。前総理のすっかり遠くなった耳にもその声は入っている。
しかし、職を退いてからいっそう寡黙になった鈴木は、そのことにたいしては明確に発言した。
「陛下に戦争責任があるのは明白だし、責任をおとりになるのが至当だろう。しかし、この混乱している日本の現状において、他の何人が代っても日本は復興しない。退位など考うべきではない。退位されれば日本は大混乱するだけだ。在位のまま責任をとり、国民とともに苦難の道を歩まれるべきだ」
こうした発言がまた、風にのって伝わり、いまだに聖戦を信じ敗北を|肯《がえ》んじない血気の元青年将校や民間右翼を怒らしていたのである。亡国の総帥として鈴木夫妻は、八月十五日早朝から転々として所在を移さねばならなかった。実弟の鈴木孝雄邸から、その娘の嫁ぎ先へ、そして隣家の磯村邸へ、さらに目黒の木村邸へ。だが付近に右翼のものが住んでいるからとのことで、碑文谷署からすぐにでも立ち退くようにとあいさつがあった。
「不穏の空気がつねにあり、警視庁からも数日以上同じ場所に留まらないようにと、注意されましてねエ」
と、のちにたか夫人は語っている。その要請に鈴木は笑いながらすなおに従って、居を移していった。目黒から尾山台二丁目の佐藤宅へ、ついで洗足の明石邸へ、さらに田園調布多摩川園の岡の上まで。終戦から三カ月の間に七たびも姿をくらまさざるをえなかった。そしていま、ようやくに故郷の関宿町の実家に身を寄せ落ちつくことができたのである。
しかし、地元の警察は神経をとがらしている。外部に鈴木前首相ここにありと知れぬようにと、町民に注意をうながすとともに、鈴木夫妻には大ぴらに出歩かぬようにと懇切に要請し、警戒をおさおさ怠らなかった。関宿町民もまた、住みついたじいさんばあさんが町の生んだ英雄なのか国賊なのか、よく判断もつかぬままに、いつか、それとなく老夫婦の身辺を護るような形になっていた。
しかし、世をはばかり隠れ棲むような境遇になっても、老人はまったく屈託がなかった。首相時代にも、私邸で時間をもてあますことがあると、かれは古くなったトランプで長いことひとりで遊んでいた。官邸では『老子』をひもといた。同じようなことをこの関宿でもゆったりとくりかえしている。ときに、歩いて七、八分ばかりの、利根川や江戸川の堤に夫人と連れだって散歩するくらいで気晴らしは十分であった。モンペをはいた村夫子然とかまえた老人の姿は、静かな田園風景に、とけこんで、実によく似合った。だれの眼にも、国家の分断を阻止し、狂瀾を既倒に|廻《かえ》すような大仕事をやってのけた人物とは、とても見えなかった。
鈴木の心中はまたおだやかであり、すがすがしかった。
「私はするだけのことはすべてしてきた。決して間違った道を歩いたとは思わない。だから心はいつも清々している」
と老妻に朗らかに語るのを常とした。そのたびに、たか夫人は黙ってにこにこと夫を眺めるのである。敗戦ということで、夫人が唯一つ心配したことは、若いころ一生懸命につくした裕仁天皇の身の上がどうなるか、ということだけであった。すがりつくように尋ねる夫人の眼を見すえながら、八月十五日の夜、夫はいった。
「大丈夫だ。心配はない」
その言葉を夫人は信じきっている。
だから、ほかに思いまどうものもなく、余生を年老いた夫のために捧げることを夫人はおのれに誓っていた。だから、この勝気なばあさんの心もまた、清々としているのである。そしてかれらの新生活は仲むつまじく百姓になることからはじまった。
ときに、こうした悠々自適のじいさんばあさんの日常を乱す無作法ものが、いきなり訪れないでもなかった。なぜ祖国を敗戦に導いた責任をとろうともしないのか、ときまってそのものたちは詰問した。鈴木はたいていのとき、相好を崩して笑いながら「私は年老いた臆病ものでね」といった。それは日清戦争いらいの、口ぐせのような文句なのである。それとも知らぬ血気のものは「腰抜けめ」と侮ったような眼で鈴木をにらむばかりだった。
しかし、老いたりとはいえ鬼貫太郎≠ヘ親しい人には、
「死んで果たさなければならん責任もあれば、生きて果たさなければならん使命もある。いま、わしのような|老爺《ろうや》が死んでも生きても国のために何の値打ちもない。終戦を自分の責任でやった以上、その行く末だけは見守りたいじゃないか」
と、毅然として語っていたのである。その生涯をみれば、この人は野心家でもなければ、口舌の徒でもない。虚栄心すらももっていない稀有の人ともみられた。しかも一度は殺されかけたほどの人間である。鈴木の述懐を耳にした人びとは、下り眉毛の、おどけたような老いの相貌の下に、人間ばなれした、深く蔵された品格というものを感じないではいられなかった。八月十五日以後には、それがとくに感じられたという。
そして、天皇もまた八月十五日以後、終戦を自分の責任でやった以上、その行く末≠フ苦難の道を、日本の復興を、おのれの責務として負って歩もうとしているのである。鈴木が関宿に安住の地を得た直後の十一月三十日、それは敗戦国日本の陸海軍省が七十三年の歴史を閉じる日だった。最後の陸軍大臣下村定大将が宮中に参内し、復員の順調にすすんでいることを報告、そしてあらためて敗戦の詫びを述べた。
天皇はこの日、大元帥の軍装をふたたび着てこの奏上をうけた。昭和十二年の大本営設置いらい終戦まで軍服で通し、太平洋戦争中は寝るとき以外は脱いだこともなかった大元帥の軍装だった。それを拝謁が終ると天皇は脱いだ。
昭和二十一年、背広の天皇の東北巡行のとき、徒歩で沿道の人たちの歓迎をうけている天皇の前に、一人の若い娘が進み出た。真っ白な布に包んだ白木の箱を胸に抱き、写真まで添えられてあった。娘は天皇に向けて遺骨を差し上げた。眼前一メートル余の間に、この白い包みと直面した天皇は立ち止まった。そして天皇は……。いや、何もいわなかった。天皇は娘と遺骨に眼を注いだまま、しばし動かなかった。その頬はすこし|痙攣《けいれん》しているようにみえた。天皇の習慣を知っていたお付きのものや新聞記者は、そのとき、天皇が泣いていることに気がついたのである。小さく痙攣する頬をみながら、かれらは胸を衝かれた。われわれは涙で泣くが、天皇は、頬がやや痙攣するだけなのである。
戦後ずっと、天皇は軍服を身にまとったことはない。これからも決して着ることはないであろう。
[#地付き]●「永遠の平和、永遠の平和」[#「●「永遠の平和、永遠の平和」」はゴシック体]
昭和二十一年六月、頼まれて枢密院議長として約半カ年、ふたたび公職についていた鈴木貫太郎は、議長を後任とかわり、やっと無官の隠居生活を楽しめるようになった。東京へ行ったり来たりの繁雑さもなく、世の中もどうやら落ち着いていまさら元首相の生命を|狙《ねら》うものもなくなって、鈴木夫妻の関宿生活は閑雲野鶴を友として板についてきた。
元閣僚がときどき訪れたり、皇太子の英語教師ヴァイニング夫人がクラッカーやチョコレートをみやげに訪問したりした。無一物になったはずの生活も、鈴木の人徳でか、食糧や物資が完欠のときであるのに人びとの個人的な助けがあり、何一つ不自由でなくなっている。元駐日大使のグルーまでが、わざわざアメリカからカナダ米を送りとどけてくれるのである。
しかし、海軍から四十万円を贈るという話があったときは、鈴木はきっぱりと断った。また、郷土の偉人顕彰の意もあり、千葉県の県会議員が五百万円の贈与をきめて寄附を申し出てきたときも、鈴木は「いかなる事情があるにせよおうけできぬ」と、謝絶しとおして「鬼貫」の気骨ぶりを発揮した。国家に不名誉をもたらしたおのれの責任は、重すぎるほど重いのである。おのれが生き恥をさらしているのは、日本国民が再出発し、苦しくとも健全な国家を建設していくであろう、その前途を見守りたいばかりにである。鈴木はそう無言の気迫をもって語った。
鈴木は、たか夫人にしばしば天皇の歌を誦させては、耳を傾けることがあった。昭和二十一年の歌会始での、
ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞをゝしき人もかくあれ
という歌。もう天皇とは久しく相会うこともなくなったが、御製によってその心を知る鈴木の誠忠は、田野の老爺となっても、侍従長時代と少しもかわらなかった。たじろがず、黙って耐えている天皇の固い覚悟が、鈴木の心には沁みとおった。
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老人はときに、自分は運命とともに歩いてきたように感じることがあった。天皇の意を体し終戦という仕事をするために生きてきた、そう思うのである。それまでの自分の生涯は、そのための準備期間でしかなかったのではないか。薩の海軍のもとで国や天皇への忠義を心の根にすえたのも、長い海上生活で心身を鍛えぬいたのも、侍従長として国体の二重構造を深く学ばされたのも、そして二・二六事件において落とすべき生命を救われたのも、すべてはあの八月十五日≠フためにあった。
そう観ずれば、おのれの八十年の人生において、いまが、初めて与えられたといってよい自分だけの生活であるのだろう。こんどこそ一野人になり、静かに余生を楽しむことができるというもの。ときどき一夫妻や孫たちがくるほかは、ようやくにして訪れる人もまばらになって、気の優しい貫太郎は、気丈ともいえるたか夫人の指図や世話にしたがっている。若くして死なせてしまった前夫人とよへの、贖罪の気持を貫太郎は常に秘してきていた。いまさら詫びてどうなるものではないが、それだけにたか夫人のいうなりになろうとする。
はた目には実にうるわしいじいさんばあさんの姿であった。仲がよくて、それでいてきちんとした節度を保っている。鈴木は天気のよい日、モンペ姿に杖をついて、付近を散歩することを日課のようにし、そのときだけは、たか夫人も鈴木をひとりにし、自分は畠仕事にいそしんだ。そんなとき、鈴木は道で会う町の人の挨拶に、快濶に、大きな声で答礼するのを常とした。海で鍛えただけに声には老人とは思えぬ張りがあった。
利根川と江戸川の合流点である町は東西を堤防で囲まれている。鈴木は散歩の途中で、そこに生える草にふと注目した。この草を利用して牛を飼い、このさびれた町に酪農事業を起こしたら、と思いついた。さっそくまじめな青年層や農家によびかけ、鈴木は農事研究会を組織した。
しかし、農村の保守性は容易なことでは動こうとはしないのである。口の重い元首相が懸命に、日本再建はまず食糧からと説き、そのための農事改良、酪農をいっても、急速に成果のみえてくるはずはなかった。鈴木は、しかし、ねばり強かった。
「この関宿の地はその昔に堤防を築くため、三百町歩にもおよぶ水田が堤防にされてしまっているのです。この|潰《つぶ》された水田のかわりに、堤防をうまく利用する。それには堤防に牧草のタネをまき、そして乳牛を飼うことだ」
自宅の全部で二十四畳ほどある部屋を開放して、熱意を示した若ものを集めては、鈴木はとつとつとしてこんな風に講義した。ついでに宗谷艦長時代にまとめた『奉公十則』を示しては、呵々と笑った。ときならぬ大事業(?)の出発に、眼を丸くしながらも、たか夫人はお茶などのサービスにつとめるのである。青年たちは、その説く内容よりも、鈴木がいかにこの関宿という小さな町を愛しているか、そのことに強い感動をおぼえた。そして事業は少しずつ発展しはじめていった。(本当に実現するようになったのは、鈴木が他界してからであるという……。)
老夫婦の、たがいに手をとり合ったような、静かな日々がつづいた。それは、関宿に閑居してまだ間もないころ、ときの外相吉田茂が訪れたとき、
「戦争は勝ちっぷりもよくなくてはいかんが、負けっぷりも思いきりよくしなさい。鯉はまな板の上にのせられてからは、疱丁があてられてもびくともしない。あの調子です」
と、鈴木が語ったという「鯉」のように、何事があろうとびくともしない落ち着いた鈴木の毎日であった。そしてたか夫人がぴたりとその貫太郎に寄りそっている。
昭和二十二年の春がめぐってきたとき、しかし、その鈴木の体力にやや翳りがみえはじめた。その年の七月、第一回の病魔が鈴木をおそった。後頭部に悪性の腫物ができ、夏の暑い盛りを、小石川の東大病院に二カ月ばかり入院し治療する。これは完治したが、もとの元気さをとり戻すことはできなかった。どことなく達観し、生命に執着しないようになった。
八月末に関宿に戻り、折からの九月の暴風雨で利根川の土手が決壊したとき、埼玉県栗橋河畔までいき、付近の罹災者を見舞ったというが、これが公に外出した最後となった。私的には、気が向くと我孫子町に疎開していた牧野伸顕を訪ね、思い出話などを楽しんでいたが、どことなく気力におとろえをみせはじめた。
たか夫人が、夫のうちにほんとうに病人らしいものを感じたのは、その年の暮れからであった。体調をしばしば崩し、老人は日課の散歩も自分からやめるようになった。それでも昭和二十三年も、二月ごろまでは横になったり、椅子にかけたりの生活を保っていた。顔色がすっかり悪くなり周囲は不吉な予感を与えられはじめたが、鈴木の態度は淡々として少しも変わるものがなかった。しかし、死期の迫りくるのを明らかに鈴木は悟っていたのである。
看護の手伝いに訪れた長男の一夫人に、
「布美さん、今年の鶯はまだ鳴かんのかね。遅いねエ。もう一度、生きている間にあのいい声を聞きたいと思っているのにね」
と語って、布美夫人を悲しませた。衰えはじめた貫太郎の、遠い耳にはもはや何ものも入らなくなっていた。
三月はじめのある日、病床にあった鈴木は、たか夫人に頼んで経書をとりよせてもらって、こういった。
「もういつ死んでもいいように、自分の戒名を作っておきたい」
しばらくして夫人をもう一度枕もとによびよせると、にこにこしながら、貫太郎は、
「戒名を作ってみたよ。大勇院盡忠日貫居士、これはどうだろうかね」
といい、たか夫人が、
「大変に結構でございますね」
と答えるのを待っていたようにいった。
「ついでにおたかの分も作っておいてやった。貞烈院賢徳日孝大姉、というのだが、気にいるかな。どうかな」
「私にはもったいなさすぎます」
と夫人が当惑する顔を、満足そうに微笑してみていた貫太郎はぽつりといった。
「まあ、どちらも嘘じゃあるまい。……さてと、戒名もできた。これで|娑婆《しやば》へのおき土産ができたわけだ」
それはまさしく、ともに死生の間をくぐりぬけてきた老夫婦の間においてだけ、屈託なくかわせる会話であったろう。死を覚悟した夫と、それを覚悟して見送ろうとする妻。遠くからみれば、じいさんばあさんの淡々たる会話としか眺められなかったろうが、そこには電光のように通いあっている強い人間信頼があった。
四月十二日、鈴木は危篤状態に陥った。海で鍛えた気力と体力でなお生きつづけた。十五日には、天皇皇后よりわざわざ関宿町に侍従の差遣があり、紅白の葡萄酒が下賜された。そのことを夫人が耳もとで告げると、このとき不思議と意識をとり戻して、
「ありがたいことだ。もったいないことだ」
と起き上がろうとしたが、もはや体力も気力も失せていた。やっと合掌し瞑目したが、その瞼からは涙があふれて頬に線を作った。それからはもう口をきかなくなった。
枕頭に集まった親族縁者が、突然に鈴木の唇が動き、うわごとのように国の行方を暗示する言葉を聞いたのは、時計の針が四月十七日にわずかにまわったころであったという。非常にはっきりとした声で鈴木は語りかけたという。
「永遠の平和、永遠の平和」と──。
二度くり返された言葉にハッとした一同は、なお鈴木の顔を凝視したが、再び口はひらかれなかった。
このとき、たか夫人の口から観音経が唱え出されたという。爾時無盡意菩薩……座敷には身動きもならぬほど人が大勢集まっている。その人びとの口からも観音経がもれはじめた。即従座起偏袒右肩合掌向仏……。近所の人や農事研究会の青年、関宿の町の人はすべて庭に立っている。ときならぬ部屋内の唱和の声にあわせて、この人びともまた大きな声で和しはじめた。而作是言世尊観世音菩薩……それは壮麗荘厳ともいえる大合唱であった。素朴な読経の流れるなかに夜は明けはじめた。
四月十七日未明、涙の観音経につつまれ、たか夫人に手の甲を撫でられながら、鈴木貫太郎は呼吸を消えるように止めた。享年八十二、死因は肝臓ガンであった。
関宿町には火葬場がなく、遺骸は利根を越えてとなりの茨城県境町にはこばれて、|荼毘《だび》にふせられた。自宅より大利根の堤防までの二キロメートルほどの道の両側に、会葬者がびっしりとならんで見送った。そして利根川の河面には二十艘以上の舟が、これもまた水の上を渡り行くのを送ろうと、ゆらゆらとゆれて浮いている。
その年の残りの桜花が風に舞う春の坂東太郎を、元海軍大将鈴木貫太郎の|柩《ひつぎ》が渡っていった。小さな和船がそれを包むよう漕ぎ上り漕ぎ下りしていつまでも見送った。国破れたいま、百万トンの|艨艟《もうどう》を指揮した連合艦隊司令長官のそれというよりも、水雷艇にのりこんで肉迫夜襲攻撃に血を沸かした鬼貫太郎≠フ葬いに、それはむしろふさわしかった。
[#(383.jpg、横413×縦296)]
単行本 昭和六十年八月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和六十三年八月十日刊