指揮官と参謀 コンビの研究
〈底 本〉文春文庫 平成四年十二月十日刊
(C) Kazutoshi Handou 2001
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総合戦略としてのリーダーシップ
現代は急速に、めまぐるしく変化する時代であり、しかも変化は地球規模で、待ちうける未来は不安と動揺に満ちているといわれている。組織は、それぞれが大きな問題をかかえたうえ、世界的な変化に対応すべくあまりに無為無力で、慢性的危機に陥っている。そこから「リーダーシップ」ということが声高に要求され、それはいかにあるべきかがしきりに論じられている。かつてのリーダーのように、組織を作るよりも支配することを重視し、説得よりも服従を求め、人びとを変革させるよりも抑制することにつとめる、そんなリーダーではない指導者を多くの人びとは求めている。
しかも、新しい時代のリーダーが、かつてのような、歴史に輝く偉大な個人といったものでないことも人びとは予感している。たしかに過去には、強力なリーダーシップによって時代をひっぱった人物が存在した。歴史が人をうんだと同時に、人が歴史を作った。英雄は“血と汗と涙”のなかから生まれた。しかし、いまはそうした際立った個人ではなく、総合的戦略としてのリーダーシップを、人びとは期待しているのである。
現在、あらゆる組織において、指揮官と参謀、端的にいえば、政治指導者と補佐官、社長と副社長、小さくは部長と課長、そうした複眼的な見方が要請されるのは、そのためである。しかも組織そのものの規模が違うのである。運営が違うのである。つまり総合力が違うのである。日露戦争にさいして東郷平八郎大将が率いた連合艦隊と、太平洋戦争における山本五十六大将のそれは、人員、隻数、戦場面積、鉄や火薬の量、スピードそのほかあらゆる面で、比較研究できぬほどにかけ離れていた。
とはいえ、いかに強大を誇る軍隊あるいは組織であろうと、所詮、それらを動かすものは人である。そこには人本来の過誤、油断、不手際、|逡巡《しゆんじゆん》などがつきまとう。その集積の如何によっては、思いもかけない|脆《もろ》さや弱さとなって、強大な組織をも崩壊させる。とくに彼我が互いにせり合う戦いの場において、錯誤の多いほうが敗者の悲運を背負わねばならない、という戦理は昔も今も変りなく、そのことを語ってくれている。
そのために、歴史に学ぶ指導者論、あるいは参謀論が多く書かれ読まれてきた。しかし、それらはややもすれば、かつての英雄史観にしばられすぎてはいなかったか。あまりに個人にとらわれてはいなかったか。われわれの周囲ではっきりと見られるように、組織内のさまざまな人間的組合わせがいかに大事か、その如何によって、人間ひとりひとりが、そして組織そのものが、いかに動かされ錯誤や失敗を重ねてしまうものか、その教訓的類例にはこと欠かないはずなのである。
昭和初期の満洲事変から太平洋戦争へ、いわゆる十五年戦争下の昭和史が、大きくあらぬ方向へねじ曲げられ、国家敗亡の道をたどることになったのも、数多い“運命的”ともいえる人と人の結びつきによることが多かった。人と人とのコンビネーションが、いかに人や組織の興亡隆替を決定づけたことか。本書では、政戦略決定の場において、戦場において、人と人との結びつきがはたした役割の典型をいくつか追ってみた。
指揮官・参謀の組合わせ
ここに登場する例には“指揮官と参謀”と分類されるコンビが多くなった。指揮官同士あるいは参謀と参謀の場合もあるが、軍隊特有の先任順があり、結果的には指揮官と参謀型とみていい。
そしてよく論じられているように、日本の軍隊という大きな組織は、日露戦争からとくに参謀に重点がおかれ、「指揮官たるものは」についてあまり考えられることがなかった。昭和三年にできた『統帥綱領』にも、
「軍隊指揮ノ消長ハ指揮官ノ威徳ニカカル。|苟《いやしく》モ将ニ将タル者ハ高邁ノ品性、公明ノ資質及ビ無限ノ包容力ヲ|具《そな》エ、堅確ノ意志、卓越ノ識見及ビ非凡ノ洞察力ニヨリ衆望帰向ノ中枢、全軍仰慕ノ中心タラザルベカラズ」
と有難いことがならべられているだけで、要は威徳(威厳と人徳)をもつことに最重点がおかれていた。結果は、太平洋戦争の指揮官をあえて分類すれば、権限を行使せず責任もとらず、権限を行使せず責任はとる、権限は行使するが責任をとらない、権限も行使するし責任もとる、の四通りにわけられる。しかし残念なことに、多く共通しているのはとであり、参謀長や参謀の意見具申に大きくうなずくだけの指揮官が多かった、といっていい。
対して参謀は、陸軍大学校・海軍大学校出身の俊秀の活躍の場となり、それがまた将来の指揮官たるの道を決するとあって、存分に腕をふるうことがむしろ責務となっていた。とはいえ、参謀はあくまで指揮官の補佐役でなければならなかった。ところが日本陸軍の場合はドイツの制度をとりいれたため、師団長とか方面軍司令官の部下でありながら、中央の参謀総長につながるという二重構造をもっていた。そこから“幕僚統帥”という弊害も発したのである。
右のような事情もあり、陸海は大きく異なるが、参謀もやはりいくつかのタイプに分類される。書記官型(または側近型)=指揮官の意思を伝達するだけで自分では判断しない。指揮官の知的、肉体的ロスを最小限にとどめる。代理指導型(分身型)=指揮官の身となって自分でも判断し、適切な指導調整を行い、補佐する。専門担当型(独立型)=指揮官を補するが、同時に自分の専門に関しては独自に判断し指導する。準指揮官(方針具体化型)=みずから権限をもって振舞い、ときに指揮官をのり越えて指揮官としての役割を果たす。長期構想型(戦略型)=長期的な戦略展望にとり組み独自の構想をもつ思索型の参謀。
これにもう一つ、軍中央(陸海軍省や参謀本部・軍令部)にあっては、政略担当型(政治軍人型)=各官庁や政界・財界トップとの折衝に特殊才能を発揮する参謀、もつけ加えておく。しかも、これらは|劃然《かくぜん》としたものではなく、要素は微妙に混交しているのである。
ごく大雑把な分類ながら、以上の指揮官と参謀の分類をさまざまに組合わせてみるだけでも、適不適が歴然とするばかりでなく、その結果もたらされるものに慨然たる想いを味わわせられるであろう。権限は行使するが責任をとらぬ指揮官のもと、準指揮官型の人を人とも思わぬ参謀がついたら、という例を考えただけで十分であろう。さらにこれに人間相互の性格、俗にいうウマが合う合わぬが加わり、派閥の要素が影響し、生まれながらの環境的なものが響き合い|反撥《はんぱつ》し合う。コンビ如何によって発せられるものは千変万化としかいいようがないかもしれない。
この意味から正確には、本書はいくつかの類型を追ったもの、というほかはない。
現今の組織にも見られる
これら各篇は雑誌「オール讀物」に昭和六十一年十月号より六十二年十月号まで連載した。これに「永田鉄山と小畑敏四郎」をこんど書き下ろして加え、昭和史の流れを少しでも追えるようにと、編集し直した。「天皇と大元帥」は昭和五十八年八月刊の叢書『昭和史の軍部と政治』第四巻(第一法規出版KK)のなかの一篇として書いたものである。本書の各編ならびに太平洋戦争下の政治軍事関係の理解を深めるに役立つと思い、再録することとした(ただし脚注は略した)。同一人格のなかの二つの役割、帝国憲法下における天皇のやむをえざる悲劇といえようが、現今の組織においても同様の、二律背反的な兼任例をみることがある。深く想いをいたさねばならぬ重要事ではあるまいか。
このほか、海軍に分裂をもたらした艦隊派の加藤寛治と末次信正、二・二六事件での磯部浅一と村中孝次、陸軍皇道派の総帥たる荒木貞夫と真崎甚三郎、二・二六事件後の陸軍を率いた寺内寿一と梅津美治郎、戦争末期の軍令部の豊田副武と大西滝治郎などのコンビを加えれば、昭和軍事史の流れはいっそう明確になると考えている。
昭和六十三年春
[#地付き]半 藤 一 利
目 次
謀略で満洲事変を演出した“智謀”と“実行”
統制派対皇道派に陸軍を分裂させた盟友
蘆溝橋とインパール・最大の“無責任”司令官
ノモンハン敗北から開戦へ・不死身の参謀たち
対米開戦へ引っぱった海軍の主戦派
対米開戦・「居眠り大将」と「グズ元」の二人三脚
伝統の海軍戦略を破った異端の二人
ミッドウェイ惨敗をもたらしたもの
「東條の副官」といわれた海軍大臣
「レイテ湾突入せず」栗田艦隊反転の内幕
東條に嫌われた二人のルソン籠城戦
沖縄攻防・仏の軍司令官と鬼の参謀長
終戦工作に生命をはったア・ウンの呼吸
同一人格のなかの二つの顔
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指揮官と参謀 コンビの研究
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謀略で満洲事変を演出した“智謀”と“実行”
ドイツのあまりにも有名な政戦略研究家のクラウゼヴィッツは『戦争論』に書く。
「いかなる名参謀も、将帥の決断力不足だけは補佐することはできない」と。
いわゆる十五年戦争の発端となった柳条湖事件、それにつづく満洲事変をみるとき、この戦理が至当であることに気づく。関東軍の謀略によるこの事件は、作戦参謀|石原莞爾《いしはらかんじ》中佐の原作、脚本、演出によるものだった。だが、どんな天才的作家・演出家でも、これを舞台にのせてくれるプロデューサーなくしては、紙の上の名作にすぎなくなる。そこに高級参謀|板垣征四郎《いたがきせいしろう》大佐の出番があった。かれはうってつけの製作者だった。決断力にすぐれ、ねばりがあった。
この二人の協同が軍司令官を動かし、決断させ、事件の点火から爆発、さらに|燎原《りようげん》の火の如くに事変へと事件を展開させるにいたったのである。
「直ちに決行すべし」
ときの関東軍司令官|本庄繁《ほんじようしげる》中将のあだ名はたくあん石であった。参謀長|三宅光治《みやけこうじ》少将のそれはロシア|飴《あめ》、そして実行の板垣、智謀の石原とよばれていた。これが満洲事変における現場のトップの陣容である。
この“たくあん石”本庄中将が|菱刈隆《ひしかりたかし》大将にかわり、関東軍司令官に親補されたのは、昭和六年(一九三一)八月の陸軍定期異動によった。折から、中国側の国権回復の激しい動きと、日本側の権益維持の圧力とで、|満蒙《まんもう》問題はいずれが譲歩するか、双方が妥協しないかぎり、外交交渉で解決が困難という、一触即発の状況に追いこまれていた。しかも板垣・石原が国防を全うするために武力行使による一挙解決を期し、ひそかに謀略をねっているときでもあった。その時点での司令官の交代なのである。
板垣参謀はただちに東京に飛んでいる。そして軍事課長|永田鉄山《ながたてつざん》大佐、補任課長|岡村寧次《おかむらやすじ》大佐、第一(作戦)部長|建川美次《たてかわよしつぐ》少将らとつぎつぎに面談する。このときになにが語られたかについては歴史の裏面に秘められてしまっている。しかし、関東軍によってひそかに計画されていた九月下旬(二十六日前後)の武力発動が、板垣大佐の口から陸軍中央によって再確認されたであろうことは間違いない。
八月下旬、本庄中将が正式に満洲に赴任し旅順の官邸に入ると、板垣はすぐに訪ねた。このとき、満洲の状況を説明するとともに、実にきわどい質問を投げかけた。
「閣下は、満洲で事件が突発するようなことがあったなら、中央からの請訓によって事を処せられますか、それとも、その任務にしたがい、独断で事を断ぜられますか」
そしてギロリと目をむいた。考えようによっては、本庄の胸元に|匕首《あいくち》を擬したにひとしい詰問だったろう。本庄は殺気を感じて熟慮しばらくあって、
「自分は着任前、|南《みなみ》陸相(|次郎《じろう》、大将)から目下の満洲の事態にかんがみ、慎重に事を処するようにとの指示をうけてきた。したがって及ぶべくかぎり慎重に事に当りたい。しかし、突発事件などに際会したときには……」
と、ここで言葉をのんで、つづけて明快に結論をいった。
「自分に負わされた任務にしたがい、独断事を決するに|躊躇《ちゆうちよ》するものではない」と。
官邸を辞したのちの板垣は、すこぶる上機嫌であった。これで先手をとった想いなのである。「やっぱり本庄中将は菱刈なんかとは違うよ」ともいった。たしかに、この対決は軍司令官の腹を読むばかりでなく、謀略実行への一つの布石、さらにはいざというときに本庄を動かすための糸口をつかんだことにもなる。
こうして軍事的解決の歩を着実に一歩進めたときに、東京では思いがけない事態が生じた。九月十一日、天皇が南陸相をよんで、きびしく陸軍の独走に注意し、軍紀についていましめた。
「軍紀は厳重に守るようにせねばならない。明治天皇の創設された軍隊に間違いがあっては、自分としては申し訳のないことである」
この一言に、陸軍中央はあわてふためき、天皇に謀略を知られたのではないかと|恐懼《きようく》し、このさいは関東軍の軽挙をおさえねばならぬと決した。不意に反対の方向に回りはじめたのである。陸軍のトップは、事情にいちばん通じている建川少将を派遣して、事件の発火をおさえることとした。建川は、九月十五日、東京駅を出る。
しかし、在京の同志でもある参謀本部ロシア班長|橋本欣五郎《はしもときんごろう》大佐は、そのことを知って板垣参謀との間で打ち合わせずみの暗号で、電報を送っていた。電文は三本であった。「事|暴《あば》かれたり直ちに決行すべし」、「建川奉天着前に決行すべし」、「内地は心配に及ばず決行すべし」
独断専行
満洲事変は|割箸《わりばし》からはじまったといわれている。
この三本の電報を手にした関東軍の陰謀者たちは、十六日の夜、実行か中止かをめぐってはてしない議論をつづけた。板垣と石原は黙ってそれを聞いていたという。九月十七日の夜明けも間近くなったころ、板垣が最後の決をとるようにいった。
「おれが箸を立てるから、これが右にころべば中止、左にころべば決行とする。それで決めよう」
指が離れ、箸はころんだ。一説には箸ではなく鉛筆だといい、ころんだのは右だったともいう。しかし、機会はいまを逃せば永遠に訪れてきそうにもない。右でも左でも、ほとんど問題にならないことであった。また板垣の不謹慎ともいえる“箸占い”は、若い同志の心底を見きわめるための、板垣・石原が策謀してうった芝居ともいう。
二人の腹は予定を十日もくりあげての決行とすでに決していたのである。こうなれば否応もなかった。「九月十八日深夜決行」で手はずはぐんぐんととのえられていく。だが、武力発動そのものは訓練どおり容易だが、問題なのは新任の関東軍司令官の存在であった。本庄が事件発生当時に現場近くにいては、日本軍謀略説がいいたてられるだろう。幸いに、本庄は十八日夜に奉天から旅順に帰る予定だから、決行は帰ったあとが望ましい。それともう一つ、その夜あるいは十九日の朝には建川少将が奉天につく。これをいかにだましたらよいのか。
石原は板垣の顔をみていった。
「建川少将のことはおまかせします。そして、場合によっては、高級参謀(板垣のこと)に独断で、軍命令を出していただくことになりそうですな」
板垣は不敵な笑いをうかべて答えた。
「大いにあり得ることだろうね」
奉天北方の、柳条湖付近で線路を爆破する、その発火は少数の同志でできる。しかし、東北軍(張学良軍)を撃破して満洲を手中におさめる満蒙解決計画を実現するためには、関東軍の全力を作動させねばならない。それには関東軍司令官の命令が必要である。その軍命令を板垣高級参謀が軍律違反を覚悟でだす。板垣と石原との対話は、その統帥無視・独断専行の危険きわまりないことを、さりげなく語っている。
九月十八日午後七時、奉天駅に着いた建川少将を板垣大佐が出迎えた。本庄軍司令官以下の幕僚たち全員は旅順の関東軍司令部に戻ったことを伝え、板垣は奉天特務機関員の同志|花谷正《はなやただし》少佐とともに、建川を料亭菊文に案内した。
板垣は別のあだ名が「ごぜんさん」。午前三時にならなければ、酒盃を下におかぬ酒豪である。この決行の夜、建川を動けないよう酒で飲みつぶす作戦である。
「いろいろ危険な情勢はつづいていますが、こちらはまだ冷静ですから」
「そうか、それで安心した」
「ま、詳しい話は明日ということにして」
板垣はそんなつかみどころのない“こんにゃく問答”をくりかえしながら、建川を飲みつぶして、夜十時少し前に菊文を引きあげる。
そして、十時二十分、柳条湖付近で満鉄の線路が爆破、事件はひき起こされた。すべて予定どおりである。
ほとんど前後して、奉天特務機関に姿をみせた板垣大佐は、機関長|土肥原賢二《どいはらけんじ》大佐が東京出張中をよいことに、機関員を陣頭指揮して、全満洲の各部隊に軍機電報を発せしめるのである。それは柳条湖の衝突が全面戦争に発展するかもしれぬ状況を知らせ、かねての命令どおり行動せよと告げたものであった。さらに午後十一時すぎ、板垣は歩兵第二十九連隊長、独立守備歩兵第二大隊長らを招き、奉天城および|北大営《ほくだいえい》にたいする“攻撃せよ”の関東軍命令を示達する。
すべて板垣参謀の独断である。もしこれらを関東軍司令官が追認しなかったら、統帥違反で軍法会議での処断はまぬがれないが、板垣は泰然自若として下令した。実行の板垣・胆力の板垣そのままの豪腕が見事に示された。
「不拡大」の命令
旅順にいた本庄軍司令官、三宅参謀長、石原作戦参謀以下の関東軍司令部は、事件|勃発《ぼつぱつ》の報に九月十九日午前十一時、奉天まで急ぎ進駐する。中央広場の北側、東洋拓殖KK奉天支店の二階三階を借りて司令部とした。「関東軍司令部」の垂れ幕がさがり、|鉄兜《てつかぶと》の|歩哨《ほしよう》が立ったが、伝令と当番兵は奉天中学の中学生があたるほど、人手不足のままの前進であった。
だが、石原参謀らの意気は|軒昂《けんこう》としていた。なぜなら本庄軍司令官が列車中で、すでに石原らの献策にもとづき、(一)奉天作戦が終れば第二作戦としてハルビン進駐を断行する、(二)手うすになる南満洲防衛のため、朝鮮軍を越境進駐させてこれに当てる、という大綱を承認、その盛んなる決意を|披瀝《ひれき》したからである。板垣があらかじめ打っておいた布石が効を奏した。しかも朝鮮軍の|神田正種《かんだまさかず》参謀とは打ち合わせずみで、混成旅団が十九日には、満洲・朝鮮国境の新義州に到着し越境命令を待っている。
しかし、楽観するのは早かった。ここで石原の綿密な計画が根本からくずれてしまう大事が起こったのである。午後六時、参謀総長|金谷範三《かなやはんぞう》大将と南陸相の電報が相ついで、関東軍司令部にとどけられる。
「帝国政府は……事態を拡大せざる様、極力努力することに方針確定せり」
「事件の処理に関しては、必要度を越えざることに閣議の決定もあり……軍の行動はこの主旨にのっとり善処せられたい」
思いもかけぬ「事件不拡大」の命令なのである。
また、このあと朝鮮軍司令官|林銑十郎《はやしせんじゆうろう》大将からも「本職再三の意見具申にかかわらず、ひいて増援軍の|差遣《さけん》を差止めらる」との連絡も関東軍にとどけられた。
この報になんと、本庄中将がこれまでのすべての決心をひるがえして、動かなくなった。事は起こしたものの、第一段階で全面的ストップがかかったのである。天皇の強い意思をうけ、政府と陸軍中央の不拡大方針は絶対なもの。関東軍の参謀たちの意気はいっぺんにそがれ、全員は沈みこんだ。
「これでは|張作霖《ちようさくりん》爆死事件の二の舞になってしまう。わがこと成らずか」
と石原も天を仰いでしまう。ついには、宿舎となった|瀋陽《しんよう》館の板垣の部屋にひっくりかえり、
「俺はもう作戦主任はやめた。下りたぞ。だれか、かわりにやってくれ」
と投げやりな放言をする始末になった。
頭脳鋭敏のエリートにありがちのあきらめの早さを、板垣は|憮然《ぶぜん》としながら見ていたが、性来ともいうべきねばり強さをここから発揮しはじめるのである。板垣は長々とのびている石原の耳にささやいた。
「ハルビンがだめなら|吉林《きつりん》省へ進軍したらどうか」
それは当初の作戦計画にはない番外劇ともいうべきものである。が、振りあげたコブシのもっていき場のない以上、もう一度事を起こし陸軍中央を動かすほかはないであろう。なるほど、と石原はあらためて身体を起こした。よし、ちょうどよく奉天に来ている作戦部長の建川少将を説得しよう、そして石のように動かなくなった本庄中将をゆさぶろう、と二人は合議した。
板垣・石原の満蒙問題解決のための部内に向かっての熱戦が開始されたのである。深夜にかかわらず、菊文から瀋陽館の宿舎まで建川少将のおでましを願い、こもごも満蒙問題解決のための所論を述べたてる。といっても、たとえば板垣の、「今日の事態を機とし、全満の解決、すなわち全満洲をわが領土とするのは得策である」という熱弁は、石原の所論のうけ売りにすぎない。現在および将来の世界情勢から説きおこし、もっぱら雄弁をふるったのは、やはり石原であった。
その結果、建川少将は翌二十日午前に本庄中将と会い、三宅参謀長が同席のもと、
「現下の一般の情勢にかんがみ、長春以北には兵を派せざるを可とすべきも、吉林・|南《とうなん》などは一刻も早く打撃を加うるを有利とす」
という意見を、のべるにいたったのである。
だが、これでも“たくあん石”本庄はがんとして動こうとはしなかった。
三時間の説得工作
二十日正午少し前に、三宅参謀長以下の関東軍参謀たちは会同し、関東軍の新方針として吉林派兵を決した。すでに建川少将との深夜の会談で了解をえているのだからと、幕僚たちは楽観した。ところが、いぜんとして本庄はうんといわないと知って、またまた意気消沈。陸軍中央の「作戦禁止指令」は本庄の心を固く縛りつけている。
三宅参謀長の二回にわたっての建言にも同意せずとなって、参謀のなかから石原に、
「作戦主任みずからも、作戦上の立場から献言せられては、いかがでしょうか」
というものもでた。石原は自信なさそうにいった。
「このさいは、成るか成らぬか、もはや石原個人ではなく、幕僚全員でうちそろい、軍司令官を動かすを可とする」
三宅参謀長もそれに同意し、こうして幕僚一同が軍司令官室に入ったのは、二十日も夕陽がすっかり落ちてからである。情報参謀が吉林の情勢を説明し、居留民会長からの電請文を読みあげた上で、石原が用兵作戦上の見解ならびに派兵の意義を説明した。つづいて板垣が、
「中央の意向がどうあろうと、このさいは軍が|断乎《だんこ》として所信に|邁進《まいしん》することが最善であります」
と進言したが、本庄はいぜんとして首をたてにふらなかった。
参謀たちの強硬論はなおもつづいたが、本庄は動かず。のみならず、参謀のひとりがとつとつとしてのべるうちの「軍がここでぐらついては」の語を聞くと、色をなして、参謀長と板垣のほかの参謀の退席を命じるほど、憤然とした態度をみせたのである。
時計の針は午後十一時をとうに回っている。追いだされた石原はもうサジを投げていた。
「ああ、せっかくの事変もこれでおしまいだよ。あとは林(奉天総領事)の下手な外交にでもまかせて、こっちは撤兵あるのみだよ」
そしてひっくり返ってもう口を利こうともしない。夜は沈々とふけ、参謀たちの集まった部屋には|咳《しわぶき》ひとつなく、憂色のみが濃かった。参謀たちは静まりかえった軍司令官居室のほうへ、ときどき視線を送るばかりであった。
手伝いの女性に茶をはこばせて様子をうかがわせたが、三人が石の羅漢さんのようににらめっこをしているばかり、と彼女は驚きを隠さず報告した。一同はまたまたがっくりする。
時刻は空しく過ぎていく。……やがて時計が三時を打ったときである、という。板垣大佐が石原たちが待ちわびる部屋に「すんだよ」といいながら入ってきた。石原が即座に聞いた。
「決裁は?」
「いただいてきた」
と板垣はさすがに疲労の色をにじませながら、ぽつりといった。
“やったァ”とばかり参謀たちは躍り上った。胸奥の火が再び赤々と燃えあがったのである。石原はさっそく命令起案紙を机にのせると、すらすらと鉛筆を走らせる。生色を|蘇《よみがえ》らせたときの石原の頭脳は、他の追随を許さない。
ねばりがプランを救う
板垣がいかにして本庄を説得したかには、さまざまな臆測がなされている。理論的に説きに説いたという説もある。吉林の在留邦人を救うため出撃すれば、南部満洲はがら空きになるから、朝鮮軍は派兵せざるをえなくなる。陸軍中央も認めるほかはなくなる。結果は邦人を救い、満蒙問題解決の使命達成を促進できることになる……。
また一説には、本庄の真正面にぴたりと坐って三時間、身動きひとつせずにらみとおしただけである、ともいう。「板垣という人はウィスキー一本くらいあけると能弁になってくるが、へいぜいはトツ弁で、それを本人も知っているから無口で無表情である。この夜もおそらく、なにもしゃべらずに、ただ本庄中将をにらんで、三時間すわりとおしたのだろう」という人もいる。
どちらかといえば、あとのほうが板垣その人をよく語っているようにも思えてくる。いずれにせよ、このねばりが石原プランを救ったことになる。独断専行の謀略で点火はできたであろうが、もし本庄の許可がなければ、世界注視のなかで、ふたたびの謀略はおよそ不可能であったと思われる。
史書はほとんど、満洲事変とくれば石原莞爾ということになっている。事実、この初期段階で|頓挫《とんざ》の危機をのりきってからは、石原は疾風迅雷の活躍をみせる。朝鮮軍の救援も実現し、関東軍は北へ北へと張学良軍を追いつめ撃破していく。その後も陸軍中央はいろいろな指令、訓令を飛ばして「不拡大方針を貫徹するにつとめ、外交官と協力せよ」と抑えにかかるが、石原はもう問題にしなかった。
「|幣原《しではら》(|喜重郎《きじゆうろう》、外相)のヒステリーを南(陸相)がいちいち取りついでいるにすぎん。そんな電報を見るから気になるんだ。見ないでくずかごに放りこめ」
そして「統帥権の独立」を錦の御旗としてふりかざし、板垣・石原を中心に関東軍は、本庄軍司令官を動かして兵を全満にすすめていった。やがて中央の中堅幕僚までが新聞世論の援護をうけて、陸相を突きあげて、政略を自由にふりまわすことになるのである。ときの|若槻礼次郎《わかつきれいじろう》内閣はほとんどなすところを知らなかった。
だが、そこにいたる作戦|蜂起《ほうき》の序幕戦においては、鋭敏の石原プランもまさに崩壊の寸前にあったことはたしかなのである。それ故に、九月二十日夜の、三時間にわたる本庄軍司令官の説得工作の成功こそが、満洲事変の基礎づくりとしてはきわめて意義深い。九月十八日点火の謀略事件をのぞけば、これ以後の命令、重要指示などに軍司令官、参謀長の決裁をうけぬものは一切なかった。まさに勝てば官軍の勢いで、関東軍は満洲侵略をおし進めた。
コンビの残したもの
板垣は明治十八年、盛岡に生まれた。父は旧南部藩士。そのねばり強さは東北人のよき典型なのかもしれない。仙台幼年学校から陸軍士官学校へ。石原は明治二十二年、同じ東北地方の山形県生まれ、その父は旧庄内藩士。そしてこれも板垣と同じく仙台幼年学校から士官学校へ。同窓の間柄である。
ただし板垣は幼年学校・士官学校とも成績は|芳《かんば》しからず。永田鉄山が優等で、ほかに|小畑敏四郎《おばたとしろう》、岡村寧次、土肥原賢二と多士|済々《せいせい》の十六期卒のなかで、はるか下位の二十五番。陸軍大学校への入学も同期生よりは三年も遅れていた。それだけに頭のよしあしにある種のコンプレックスをもっていた。
一方の石原は幼年学校首席、陸士(二十一期)こそ十三位とやや振るわなかったが、陸大は恩賜の軍刀(二位)をもらって卒業。本当は陸士・陸大ともに首席の成績だったが、行儀作法が悪かったからとか、天皇への御前講義で山形のズーズー弁が出ては困るから二番に下げたとか、そんな伝説つき。つまり型にはまった学術優等・品行方正の将校ではなかったのである。
石原の|不遜不羈《ふそんふき》の異端児ぶりは、その軍歴についてまわった。過度の自信をもち、あたりかまわず、遠慮会釈なしに他を酷評する峻烈さは、いくら序列本位の陸軍とはいえ、自然と敬遠される。いったんこうと信ずれば反抗も事としない行為は多くの人に嫌われた。関東軍作戦参謀までの歩みは、だから、陸大優等卒としては異例の二流コースといっていい。しかし、その人間は純真で、毒気がなく、また創意に富む異材であった。
板垣は、石原より二年早くビリに近い成績でやっと陸大を出た。だから参謀本部支那課の部員としてわずかに陸軍中央に勤務することはあったが、ほとんどが第一線の部隊勤務で通してきた、いわば酸いも甘いも|噛《か》みわけた実戦的な軍人であった。鋭さにかけては疑問符がつくが、親分肌で、そのねばり強さと実行力にかけては、陸軍部内でも定評があったのである。なによりも名利を|蝉脱《せんだつ》していること、そして承知でみずからロボットになりうることが強味であった。
板垣の満蒙問題解決に対する考え方は、実に単純であったという。長春(新京)のホテルで独特な世界観をもつ石原から丹念な説明をうけたとき、例によって酒ですっかり紅潮させた顔をさらに火照らせて、
「そうか、満洲だけに限定するのか、王道政治が目標か。わかった、わかった。それでいこうじゃないか」
と心から共鳴してしまったのである。
こう見てくると、昭和四年(一九二九)五月、張作霖爆殺で退役処分になった|河本大作《こうもとだいさく》大佐の後任として板垣が関東軍高級参謀に赴任してきたことは、マルス(軍神)の最大のいたずらだったような気がする。天才的ともいえる智謀と、それをうけて何があっても実現してみせようというねばりと胆力、このどちらが欠けていても、昭和史を激動へ導く転換点をつくりえなかったであろう。
石原の板垣評はこうである。「板垣さんの足に、もし、ブスッと、針をつき差したとしたら、板垣さんは、一時間ばかりたってから、はじめてアッ痛いと気がつく人だよ」
大賢か、大愚か、板垣の人物の大きさをたとえた石原一流のたとえ。その力量は鋭敏な部下をえて光を放つ。
また、板垣の石原観は――、
「石原君は日本陸軍でも有名なナポレオン研究家で、戦略知謀にかけてはまず独歩といってよい。満洲事変の作戦は石原君の平素の研究に基づく点が多い。世の中のことは、頭のよい人に案をたてさせておいて、時がきたら、それを皆で実現していくところに発展性がある。小我を張るのは禁物だよ」と。
だが、板垣・石原の結びつきがもたらしたものは何であったろうか。たしかに石原の戦略史観は卓抜しており純粋だった。だが計画の根柢には理想主義でありすぎ、甘さがつきまとっていた。いかに既成財閥を満洲に入れないとしても、その王道楽土の夢は簡単に打ち砕かれる。結局は日本の満洲独占であり、石原が去ったあとは関東軍の満洲政治の|壟断《ろうだん》であり、そして国家的信用の失墜であったのである。しかも残されたものは長大な国境線と、五カ年計画で増強されたソ連軍に対決する軍事的|危殆《きたい》でもあった。
しかもそれ以上に、二人の結びつきがもたらしたのは、軍人の第一義は、統制に反しても大功を収めることにある、という悪弊を陸軍内部に残したことである。陸軍刑法第三十八条に「命令ヲ待タズ故ナク戦闘ヲ為シタル者ハ死刑又ハ無期……」とあるにもかかわらず、勲功さえたてれば、どんな|下剋上《げこくじよう》の行為を犯そうが、やがてこれは勲章ものとなるのである。そしてそれを抑制しようとした上官たちは追いはらわれ、板垣・石原の統制不服従の徒輩が軍中央に坐り、新たな統制者になりうるのである。これ以後の陸軍は、そんな下剋上と謀略優先の集団になりはてる。
このコンビの残したものは、致命的に大きかったというほかはない。
このあとも陰に陽に二人は助け合い協力を惜しまなかった。そして戦功輝かしい板垣は陸軍大臣(第一次近衛〜平沼内閣)までのぼりつめるが、所詮は軍の総意のロボットにすぎず、しかも、その|膝下《しつか》には石原その人はもちろん、第二、第三の石原もいなかった。そして戦い敗れたのち、A級戦犯として東京裁判で絞首刑を宣告され、昭和二十三年その生涯を終える。知友が評した。
「板垣はさしたる頭脳ある人物にあらず、人にかつがれて陸軍大臣になったまで、|木曾《きそ》義仲の感あり」と。市ヶ谷法廷において、デス・バイ・ハンギングの宣告に、他の被告がしたように一礼もなく、くるりと後ろを向いて去った姿が印象的であった。
稀にみるスケールの大きさをもちながら、独立不羈の異端児で終始した石原は、二・二六事件や蘆溝橋事件のさいにその抱負を実現しようと努力するが、陸軍主流の|容《い》れるところとならず、失意につづく失意を重ねる。そして昭和十六年、陸相|東條英機《とうじようひでき》と合わず、第十六師団長を最後に陸軍から放逐された。「陸軍大学創設いらいの頭脳」の秀れた着想を、組織の手続きにのせて実現させる根気もなしに、たえず少数の同志だけで専行しようとする石原の性癖は、かれを孤高の自信家にすぎなくしたのである。その死は昭和二十四年八月十五日、奇しくも敗戦記念日のその日であった。禅僧のごとく|諦観《ていかん》して|逝《い》ったという。
〈付記〉
満洲事変の成功の結果、昭和七年三月に満洲国が建国された。そのあとの九月八日、本庄繁関東軍司令官以下の幕僚たちは東京に帰り、昭和天皇に状況の奏上を行った。かれらは宮中差しまわしの二頭立ての馬車に乗り、無慮数万の群衆の歓呼の声に迎えられ、二重橋から宮中へ入った。まさに、かがやく大勝利をえた将軍と参謀たちの凱旋であった。
このとき行われた昭和天皇のいくつかの下問のうち、つぎの一問一答は興味深い。
陛下 満洲事変は、一部のものの謀略との噂もあるがどうか。
本庄 一部軍人、民間人によって謀略が企てられたということは、私もあとで聞きおよびましたが、関東軍ならびに本職としては、当時断じて謀略をやっておりません。
本庄大将のなんと厚顔無恥な返事であることか。しかし、この一言によって、満洲事変は完全に正当化されてしまった。帰途、宮中の東御車寄せで、石原参謀が洩らした一言も意味深長である。
「随分いろいろなことを陛下の御耳に入れている奴もあるな」
当時の陸軍、とくに石原が天皇を機関と考えていたことが明らかな話である。
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統制派対皇道派に陸軍を分裂させた盟友
日本の戦国時代、毛利|元就《もとなり》の「三本の矢」の故事にあるように、合体したときには数層倍の力を発揮しえたものが、離反したときには、かえってもっとも力ある競争者となり、互いに|斃《たお》さざればやまぬ強敵となる。そうした例は史実のなかにいくつもみることができるが、なかでも昭和初期の陸軍部内の闘いにおいて最悪の例を見出せるのである。これをふつう統制派対皇道派の抗争という。しかもその血で血を洗うような主導権争いは国家の運命にまで影響を及ぼした。
宋代にまとめられた中国の古典『文章軌範』にある。
「君子は|交《まじ》わり絶つも悪声を|出《いだ》さず」
たとえ絶交するようなことがあっても、相手にたいする非難を口にしない。一つにはかつての友を完全な仇敵としてしまうし、一つにはおのれの人を見る眼のなさを証明することになる。中国人の実に見事な人間学というほかはない。
“バーデンバーデンの密約”
ドイツのミュンヘンの西南、ボーデン湖の近くにバーデンの森という景色のよいところがある。この森のなかにバーデンバーデンという温泉郷があり、その温泉郷に大正十年十月二十七日、三人の日本人が宿をとった。スイス駐在武官の永田鉄山少佐、ソ連駐在を命じられしばらくベルリンに足をとめている小畑敏四郎少佐、それと慰労休暇の意もありヨーロッパに派遣されてきた岡村寧次少佐である。いずれも当時三十七、八歳の男盛りであった。
かれらは陸軍士官学校の第十六期生。無類の仲好しである。とくに永田と小畑は陸大も同期、ともに優等卒の英才である。常に首席を歩みつつ、清濁あわせ呑む人間的な魅力をもつ永田を、かりに正宗の名刀にたとえれば、同じ斬れ味をもちながら気骨稜々たる小畑は村正ということになろうか。そして間に性格的にふくよかで調和性にとむ岡村が加わることで、不思議なバランスのとれた力強いトリオが成立していたのである。
かれら三人は|久濶《きゆうかつ》を叙するために温泉郷に集まったのではない。発案者は岡村で、目的は一言でいえば、「現状打破はいかにすれば可能か」を話し合うために、である。ベルリンで岡村に会い、この提案を聞き、人一倍血の気の多い小畑はただちに賛成し、それならスイスにいる永田もよぼうということになった。
徒党を組むよりも自力独行をモットオとする永田は、はじめ承知しなかったが、小畑の押しと岡村の説得とに負けてバーデンバーデンにやってきたのである。
小畑がまず情熱的に弁じたてた。第一次大戦という史上例をみない大戦争の結果、もはや国防という大事を、単に軍事面からみていられない時代が到来した。であるのに、陸軍の現状はどうか。陸相|山梨半造《やまなしはんぞう》、参謀総長|上原勇作《うえはらゆうさく》、教育総監|秋山好古《あきやまよしふる》の三巨頭をいただき、すべて薩長中心の藩閥に固められている。いかに有能なものであろうと、閥外のものは前途に大きな望みを託しえないではないか。まずこの明治いらいの大|磐石《ばんじやく》を打破しないことには、高度国防国家もへちまもない。
岡村が冷静にそれをうけとめ|敷衍《ふえん》して説明する。そこでわれら少壮中堅将校が団結し、まとまった力をもって突破するほかはない。しかしそれはおのれたちの栄進のためであってはならない。窒息しそうな軍内部に新しい血を流すことで大きな窓をあけ、つまりは人事的な課題を解決し、そうすることで軍隊の質を向上させることができる、と同時に純軍事的な課題をも、いっきょに解決することができようものではないか。
永田は二人の友の論に耳を傾けながら、二つのことを思っていた。一つは第一次大戦におけるドイツの敗戦の教訓である。戦術的な勝利をいかに積み重ねようが、結局は国家のすべてをあげての総力戦に勝たなければ国防は完うできない、という非情の国際的な現実。「戦争技術の高度化、複雑化、学問化、そして国民化」をいかにはかればよいか。他の一つはロシア革命の成功である。明治四十年の「帝国国防方針」の決定によって、陸軍の仮想敵となったソビエト連邦が、いまや強大な軍事国家として立ちあらわれた。必然的に、満蒙には暗雲がただよいはじめた。そればかりではなく、“思想敵”としても影響力を日本に及ぼしはじめているのである。忍びよるソビエト共産主義国家の巨大な影。大戦の結果大きく勢力圏の変った列強。これはまた、永田のみならず、三人に共通した世界情勢認識でもあった。
こうした内外ともに切迫した情況下にありながら、陸軍はのうのうとしていまなお日露戦争勝利の夢をむさぼっているのである。見よ、かれらの上にあってわが世の春を|謳歌《おうか》している面々を。かれらはすべて日露戦争に出征した戦場の殊勲者ではあるが、感状とか|金鵄《きんし》勲章とかの精神的誇りにだけ生き、急激に変転しつつある情勢に対応しようという意欲を失っているではないか。三人の意見はたちまちに一致する。
この場合、三人が陸士十六期というところに大きな意味がある。日露戦争の実戦に参加しえたのは第十五期の卒業生までということである。かれら十六期は明治三十七年十月卒業、ごく一部をのぞいては弾丸の下をくぐらず、輝かしき勝利の戦いの後方勤務がいいところ。つまり陸軍内部における戦後派である。そこに焦りがあるとともに、かれらを固く結びつける要因もあった。
こうして秋の一夜を、遠く異国で三人は語りに語り合った。この“バーデンバーデンの密約”で知られる一夜から、昭和の陸軍史が開幕したのである。
それほど大きな意味をもった話し合いは、(1)派閥の解消、人事刷新、(2)軍制改革、総動員体制確立のために積極的に同志を求め、その目的達成のために相互に協力していくことを誓いあい、それを結論として終った。かれらは友である以上に同志として固く結ばれた。さらに翌二十八日には、東條英機少佐がこれに加わって、血盟の輪は大きく、かつ強くなった。
二葉会の同志
いまは長々と陸軍史を書く場ではないから、以下は簡単にするが、永田鉄山・小畑敏四郎という立ち技でもよし、寝技でもこいの二人が、中心として結びついたことが、つまりは歴史を動かすことになった。二人の名を慕ってたちまちに同志が形成された。といっても、余り雑多な人間を集めると面倒が起りやすいことから、まず二人のめがねにかなった優秀な人材が集められた。
第十五期からは有数の中国通の河本大作、|山岡重厚《やまおかしげあつ》。第十六期では土肥原賢二、板垣征四郎、|小笠原数夫《おがさわらかずお》、|磯谷廉介《いそがいれんすけ》。第十七期から東條英機、|渡久雄《わたりひさお》、|工藤義雄《くどうよしお》、|松村正員《まつむらまさかず》。そして研究会を名目として、会の名は「二葉会」と名づけられた。
のち昭和に入って、永田・小畑につづこうと、さらに第十八期以下の志ある俊英が「|一夕《いつせき》会」というグループをつくっている。これも主なメンバーをあげると、|山下奉文《やましたともゆき》、|岡部直三郎《おかべなおさぶろう》、石原莞爾、|村上啓作《むらかみけいさく》、|鈴木貞一《すずきていいち》、|鈴木率道《すずきよりみち》、|牟田口廉也《むたぐちれんや》、|岡田資《おかだたすく》、|土橋勇逸《つちばしゆういち》、|武藤章《むとうあきら》、|田中新一《たなかしんいち》、|富永恭次《とみながきようじ》の面々。第二十五期までの、ほぼ目ぼしい人材が集まっている。
二葉会と一夕会は、一緒に会同することもあり、別個のときもあったが、国策の論議から部内の人事まで|忌憚《きたん》のない議論をかわしつつ、陸軍内部の刷新のため陰に陽に協力して影響力をひろげていった。要は藩閥の壁を破り、同志を陸軍省、参謀本部、教育総監部の重要ポストにはめこみ、内部から合法的に革新していこうというのである。さらには、頭の上に重くのしかかっているソ連の影、それに対応するための満蒙問題をいかにすべきか、についても論じ合った。
岡村寧次の「日誌」をみると、かりに部内的には合法であったとしても、かれらの動きは、結果的には日本という国を陰謀によってとんでもない方向へひきずっていったことが推察されるのである。そう断ぜざるをえない。「岡村日誌」はくわしい内容はともかく、その動きだけは手にとるように明瞭に語ってくれる。
〈昭和二年〉
一・一六 二葉亭で会合。出席者、永田、小畑、板垣、東條、岡村、江副(浜二)。
六・二七 二葉亭で、山岡重厚、河本、永田、小畑、東條、岡村会す。
〈昭和三年〉
一・二九 小畑の私邸で、永田、小畑、岡村、黒木親慶会す。
ここにでてくる河本大作大佐が、満洲軍閥の頭領・張作霖を爆殺したのは、実に昭和三年六月のことなのである。しかも史実にあるように、陸軍中央は、中堅将校たちの突き上げに動かされ、犯人は日本軍人にあらずと意思を統一し、単に責任者を行政処分(監督不行届)にした。「岡村日誌」には、そうした突き上げの様がまざまざと以下に記されている。
〈昭和四年〉
二・一〇 二葉会、渋谷の神泉館で。黒木、永田、小笠原、岡村、東條、岡部、松村、中野(直晴)参集。在京者全部出席。河本事件につき協議す。
三・二二 二葉会。爆破事件(河本事件)人事につき相談。
六・八 二葉会、九名全員集合。河本事件につき話す。
以上は、ほんのわずかな|抜萃《ばつすい》である。それにしても、こうしてしばしば会合し、かれらが論じあったのは何であったろうか。張作霖を殺したが、満洲は張学良によっていぜん統治され、介石の国民党の勢力と、ソ連の圧力とが南北から|堰《せき》を切って浸透してきている。このまま|坐視《ざし》していれば、せっかく日露の戦いに勝ち、満洲の|曠野《こうや》に得た権益は無になるやもしれない。明治天皇の|皇謨《こうぼ》は一片の昔語りとなろう。もはや一人や二人の首脳を殺しても詮ないこと。満洲を軍事的に占領しないかぎり、真の高度国防国家建設の目的は達成されないのではないか……。そうした政戦略であったと思われる。
こうして昭和四年から六年にかけて、二葉会と一夕会は談合と改革の突き上げをさかんに重ねていく。それは昭和六年九月十八日、満洲事変勃発のその日まで、つづけられたといっていい。永田・小畑を核とする工作は完璧であった。「バーデンバーデンの密約」は見事に実現された。薩長中心の閥は勢いをみるみる失い、柳条湖付近で、いわゆる「十五年戦争」の導火線に火がつけられたときの、省部の陣容はつぎのものであった。
〈陸軍省〉軍事課長・永田鉄山、課員・村上啓作、鈴木貞一、土橋勇逸。補任課長・岡村寧次。徴募課長・松村正員。
〈参謀本部〉第一課長・東條英機、第二課員・鈴木率道、武藤章。第五課長・渡久雄。
〈教育総監部〉第二課長・磯谷廉介。
まさに陸軍中央に揃い踏みの感がある。そして関東軍には、高級参謀・板垣征四郎、主任作戦参謀・石原莞爾、奉天特務機関長・土肥原賢二が集合していたのである。満洲事変はその総意をバックとする謀略であった。ちなみに小畑敏四郎は張作霖爆殺後の昭和三年八月まで作戦課長の重職にあり、満洲事変のときは陸大の教官であった。
皇道派集結
昭和初期陸軍の中心人物である永田鉄山は、明治十七年(一八八四)長野県諏訪市に生まれた。家は代々の医師だったが軍人を志し、陸軍中央幼年学校(東京)へ進んだ。その頭脳の|明晰《めいせき》さは陸軍八〇年史上でも一、二に指を屈するといわれる。幼年学校、士官学校、陸大とすべて優等卒。部内では、合理適正居士というあだ名をつけられるほど理性的な人物だった。しかもいわゆるコチコチの秀才ではなく、気の合うものとなら、紅灯の巷に出入りして美妓の酌にほろ酔うのも嫌いではなかった。
大秀才にして円転滑脱、その人間的にも能力的にも群を抜いたスケールの大きさから「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」といわれた。必然的に軍政畑を歩くようになる。その上に勉強家で、俸給の半分は書籍代にあてられたといわれる。しかしその反面で、|鋭鋒《えいほう》を包みかくしながら、あまりにも合理的であり非合理を極力排斥したことから、エリート官僚的にすぎると、隊付きの|猛者《もさ》的将校から敬遠される傾向がないでもなかった。
その意味で、同じように頭脳鋭敏ながら、直情径行で青年将校に好かれる面を多くもつ小畑敏四郎とのコンビが、永田を助けたのかもしれない。小畑は明治十八年東京生まれ。父は土佐藩の足軽であったが、維新いらいの功もあり、明治二十九年には男爵を授けられている。大阪地方陸軍幼年学校から士官学校へ。家の富裕のためもあり、土佐ッポの血もあってか、栄達にとらわれず、若いときから|叛骨《はんこつ》稜々たるものがあった。終生かれには“妥協”の二字がなかったという。軍歴としては、永田と違い、参謀本部を中心とした軍令畑を進んだ。作戦の鬼才ともいわれるほど、独特の構想をもっていた。
軍政の永田と作戦の小畑、いわば車の両輪、ともに一つの目標に向かって|切磋琢磨《せつさたくま》しつつ進むことができた。しかも間に立つのが、調和のとれた温厚な性格の岡村寧次なのである。
しかし、かれらが|刎頸《ふんけい》の友であり血盟的同志でありえたのは、満洲事変までである。軍政畑と軍令畑、冷徹と情熱、良識主義と重点直行主義、孤高と親分肌といった対照的なもち味も、ある目的に向かって協心|戮力《りくりよく》してことに当っているときはよかった。しかし、その目的を達し、必然的に地位もあがり軍中央(陸軍省と参謀本部)に歩を進めるにいたれば、それぞれが一城の|主《あるじ》として、より高位の将来をめざし行動せねばならなくなる。
バーデンバーデンの一夜からすでに十年がたっている。永田も小畑も、将官への栄進はもう目前である。その昭和六年暮、|荒木貞夫《あらきさだお》中将が教育総監部本部長から颯爽たる姿で陸相に就任したときから、二人の間は一挙に悪化しはじめるのである。
だが、荒木その人の陸相就任は、二葉会と一夕会の軍人にとっては、長年にわたって強く願望してきたことの実現なのである。省部の実力者として主要ポストにまで昇ってきたかれらは、その申し合わせ事項を実行してもらおうとの期待に燃えて、荒木を大臣室に迎えた。それは派閥の解消であり、部内の粛正であった。また満蒙問題を中心とする陸軍の新しい政策であった。それらを強力に推し進めるために、荒木登場に大いなる拍手を送った。
にもかかわらず、荒木陸相のしたことは……。
その手はじめが、陸大教官の小畑の参謀本部作戦課長への復帰であったのである。荒木と小畑は、同じ対ロシアの専門家、互いに信頼し合っていることはつとに知れ渡っていたが、この人事はさすがに|唖然《あぜん》とさせるものがあった。
小畑は張作霖爆殺事件当時にすでに中佐で作戦課長をやっている。このとき作戦屋の本領発揮で、あたりをかまわず方針をきめると真一文字に推進したことから、他の課との折り合いが悪かったという評判があった。それが陸大教官へ転出の一つの理由とみられていた。その小畑を荒木がふたたび陸軍中央に呼ぶとは。
いや、それほどまでに、この|傲岸《ごうがん》ともいえる作戦の鬼にたいする荒木・|真崎甚三郎《まざきじんざぶろう》の信頼は厚かった。しかも、その実は、長く作戦課長に小畑をおくつもりが荒木にはなかったのである。少将進級をまち、作戦部長(第一部長)へ進めるための布石としての、荒木の処置であった。
荒木はその構想どおり、満洲事変勃発いらい半年、関東軍の陣容を一新する必要もあり、昭和七年四月に人事異動を断行する。陸軍省軍事課長の“軍政の”永田を参謀本部第二部長(情報)へ。作戦課長小畑を第一部長にするつもりだったが、小畑が「第一部長はいまの|古荘幹郎《ふるしようもとお》のままでいい、作戦上の重要な問題は自分が片づけてやる」といい、あまり忙しくない第三部長(運輸通信)におさまった。後任の作戦課長に、小畑は腹心の鈴木率道中佐をひっぱってきた。
小畑が作戦課をでるとき、課員にたいする|挨拶《あいさつ》は自信に満ちたものであった。
「統帥おおむね常道に復したるを喜ぶ、終り」
これにたいして新任の鈴木がいった。
「正しきを踏み、|而《しこ》うして正しきを踏む、終り」
そっけないといえば、これ以上のそっけなさもない。参謀本部はわれわれ二人に任せておけといわんばかりの高飛車ぶりを示したのである。しかもこのときの荒木人事ほど、主義主張を同じくするもので陸軍中央の陣容を固めたものはなかった。いわゆる皇道派の集結である。それはすべて知謀の小畑の差しがねによるものとされた。小畑は荒木の私設参謀長であり、また刀剣鑑定だけが自慢の軍務局長山岡重厚をさしおいて、かれこそが実質的な軍務局長であると噂された。
虎を同じ山に放つ
その荒木・小畑の前に、大手をひろげて立ち|塞《ふさ》がったのが、かつての盟友永田であった。そしてやがて、それは抜きさしならぬ対立と化した。
この七年四月の異動で関東軍参謀副長となって、東京を去ることになった岡村は、このことあるを憂えて、荒木陸相と参謀次長真崎甚三郎中将にずっと前から切言していた。
「私は補任課長としてこれだけは申しのべる。永田も小畑も近く少将に進級する予定だが、その進級後の職を、どうか同じ役所におくことは厳にやめてほしい。同じ山に、性格の異なった虎を放つようなものである。危険この上ない」
しかし、荒木・真崎のコンビはなぜか虎を同じ山へ放つ危険をあえてした。
戦後に書かれた岡村の回想録は、永田・小畑の対立、分裂そして抗争を刻々伝えてくれる。
「昭和七年六月、帰京してみると、すでに部長会議で永田と小畑が激論したの噂を聴く」
「同年七月中旬、|小磯《こいそ》(|国昭《くにあき》)陸軍次官は私にたいし、ひそかに、第十六期はまさに陸軍の中堅であるが、いまやその分裂の兆候があるのははなはだ遺憾である。これが調整に当るべきは君よりほかにない、大いに努力してくれ、と言われた」
「昭和八年八月、一夕会の下層の人々から永田、小畑の間がようやく険悪になってきたということを|洩《も》らされた」
「昭和九年四月二十三日、招かれた宴に往ってみると永田、磯谷、板垣、東條、工藤の五人のみで、小畑その他のものとは|分袂《ぶんべい》したのだという。極力融和再結の必要を説いたが、気性の烈しい東條などは、不平ならば向う側へ往けなどと極言し、もはや復元の見込ない」
「同月二十七日、小畑と約三時間懇談したが、その永田一派にたいする反感は|熾烈《しれつ》で、とうてい妥協を許さない底のものであった」
史書はこれを統制派(永田一派)対皇道派(荒木・真崎すなわち小畑一派)の対立としてとらえる。そして、それは人事の争奪をふくめて、陸軍中央の権力争いと一般的に説かれるのである。
たとえば、永田の秘蔵ッ子の東條編成動員課長が、用事があって鈴木率道作戦課長をよびつけたところ、「同じ課長だ、用事があるならそちらから出かけてこい」と部下に返事させて、東條を激怒させた。東條は陸士で鈴木の五期上である。しかし鈴木は小畑の|直参《じきさん》旗本なのである。二人はついに廊下で会っても口をきかなくなった。
こんな笑うに笑えぬエピソードをまじえて、皇道派対統制派の対立とは権力欲と感情論も加わっての、どろどろとした派閥抗争とみられている。
しかし、永田・小畑コンビの分裂、対立という観点から考えるとき、単なる権力闘争とする見方はもっと大事なところを見落とすことになる。バーデンバーデンいらいの同志、互いに人間性をとくと知り合っている分別ざかりの二人の軍人が、立身出世主義や個人的な好悪の感情によって敵対したとしてしまっては、あまりに浅はかな歴史認識となってしまうのである。
永田・小畑の対立の根本には政策上の大問題がすえられていた。それは対ソ連戦に関する国家国防の政戦略に、直接的な影響を及ぼすほど重大な意見対立であった。
それが決定的となったのは、昭和八年六月のことである。このとき陸軍中央は、画期的な軍制改革の断行にさきだち、もっとも危険な仮想敵を想定し、これに対する戦略戦術を考究する秘密会議をひらいている。このとき、それまでさまざまな点でこじれ、くすぶりつづけていた永田・小畑の間が、一挙に火を|噴《ふ》いた。完全に正面衝突をして、互いに一歩も引かなくなった。
席上、もっとも危険な仮想敵国がソ連である、とする点にはだれひとりとして反対意見をのべるものはなかった。関東軍の石原莞爾参謀の戦略にのっかって、満洲事変→満洲国建設→国防国家完成という構想を、陸軍中央もまた謀略的に抱いたが、成ってみるとそれが夢想にひとしかったことを再認識せざるをえなかった。より長大となった国境線。そして共産革命の成功にともなう以後の五カ年計画などで、極東赤軍は飛躍的に強化され、外蒙はその侵略をうけ、|新疆《しんきよう》もまたソ連の勢力圏と変っている。そして不凍港を求めての東進の政策は、帝政ロシア時代からまったく変っていない。
この強敵を前に日本の国防はいかにあるべきか。
対ソか、対中か
“作戦の鬼”小畑は、その軍人としての半生を|賭《と》して考えぬいた戦略戦術を、その席上で熱弁をもって説いた。いまならまだ間に合うのである。あまりに極東ソ連軍が強力にならぬ以前に、機会をとらえてソ連軍を撃破しておく。それは、北方最重点の「予防戦争論」ともいうべきものであった。そのためには、いかに抗日の姿勢をみせようとも中国とは事を構えず、米英とも|静謐《せいひつ》を第一義とする。
会議は小畑の論にひきずられていった。だが、そのときであった。永田第二部長が断乎たる反対論をのべはじめた。
「ソ連に手をだせば全面的な戦いとなる。いまの日本の国力と軍事力をもってしては、単独ではとうていソ連に抗しえなくなっている。それよりも、満洲事変の戦果を拡大して、謀略をも併用した上で、まず抗日、侮日の方針を堅持する中国との問題を処理することが緊要である。すなわち中国を屈伏させ、大陸に後顧の憂いをのぞいたのちに、それらの資源を利し国力を増進した上でソ連に当るべきである」
たしかに、中国との関係は日に日に悪化の一途をたどっている。そのときに抗日に燃える中国をそのままにして、対ソ作戦の遂行は困難であることは、明瞭すぎている。「まさか信ずる永田が」の思いにかられた小畑は、猛烈な勢いで反論した。
「ソ連一国を目標とする自衛すらが困難、と予想されるのに、さらに中国を敵とすることなどとんでもないことである。中国を屈服させるべく全面的に戦うことは、わが国力を極度に消耗させるばかりではなく、それは米英の権益と衝突し、世界を相手とする全面戦争になる恐れがあろう。短時日に屈服、戦争終結など至難のことである。ひとしく東洋民族たる中国とは、実力によらず、あくまで和協の途を求めるべきである。それよりもソ連がより強大となる以前に、好機を求めてこれを打倒すべきである」
小畑の論の背景には、かれ自身の抱く強烈な反共主義があった。それは恐ソ感情にそのままつながっている。第一次大戦のさなかロシア駐在を命じられ、ロシアの対独戦を直接その眼にし、さらにソビエト革命とその内乱を体験した小畑には、これからの日本の対外政策は対ソ一本槍にしぼるべき、という信念が強く固められていた。
もし中国などと敵対していれば、その間にソ連はより強大となり、日本の自衛が不可能となった時点で南下を策してくるであろう。国力を消耗し、時を無駄に消費してからその時期を迎えては遅すぎる。その前に、まだ戦えるときに好機を求めてソ連を討たねばならない。
対する永田の主張は北守南進の「対中一撃論」(中国軍は一撃を加えれば屈服する)といえるものであったろう。中国国民政府の抗日政策はいわば不変の国策とみるべきであり、対ソ戦が起こったときには、中国が対日参戦してくるのは避け難い。ならばこそ、将来の対ソ戦にそなえてまず中国に一撃を加えて、介石政権の基盤を|挫《くじ》く必要があるのである。また、強烈果敢な一撃をもってすれば、国民政府の基盤を挫くことは可能なのである。そうした立場に立つ硬論でもあった。
こうして第一回の陸軍中央の合同会議は紛糾した。一旦はまとまりかけたものの、永田・小畑の|応酬《おうしゆう》につぐ応酬で、結論はまとまりそうもなかった。その後に第二回会議がひらかれたが、永田は公用旅行を理由に欠席、小畑を憤激させる。このとき、一応の結論らしきものをまとめたが、強固な反対論が一押しすれば崩れるような、足して二で割るようなものとなった。対ソを重点とするものと、対中国を優先するものなど、陸軍の戦略は分裂したままでついに統一されることはなかった。このときをもって、小畑は、完全に永田と|袂《たもと》を分かった。
さらに永田・小畑の対立は、この会議と前後してはじまった北満鉄道(中ソ合弁)の買収交渉がからんで、さらに相乗化された。買収すべしとする永田鉄山と、そのうち一銭も要せずして入手できると主張する小畑とが、ここでも数時間も大激論して相譲らなかった。
二人の論争はともに世界観、独自の戦略論にもとづくものであった。それだけにいかに舌端火を|吐《は》こうが、互いの心にわだかまるものはなかったことであろう。しかし、二人を代表とする陸軍部内の二つの流れは、バランスを失い、感情的にもつれにもつれ、どうにもならぬところまで突き進んだ。その典型がすでに書いた東條対鈴木の救いようのない反目でもあった。
「永田は北満鉄道をバカげた高い額でソ連から買うばかりではなく、軍需工場育成の名目でこの金を、財閥にばらまき、かれらと組んで利潤をむさぼろうとしている。しかも、この金は国民の血税だ。その金でソ連の軍事力をかえって充実せしむることになり、それによって造られたトーチカは、やがていつの日にかわが将兵の血をもって攻撃せねばならないものとなるのだ」
そうした|誹謗《ひぼう》が一方の陣営からとぶかと思えば、また一方で、
「小畑は神がかり的な男で、せっかちな対ソ主戦論者だ。戦争狂だ。その対ソ予防戦争論なんて底の浅いなんの根拠もないものだ。ソ連討つべしと叫んでいるが、玉手箱をひらいてみれば、戦略も戦術もないお粗末さだ」
と片方がやり返すという無分別さを露呈するようになるのである。
統制派の時代
永田・小畑の抗争は|喧嘩《けんか》両|成敗《せいばい》的な形で一挙にケリがついた。昭和八年六月、参謀総長|閑院宮《かんいんのみや》の意向で、真崎次長の転出を契機に、小畑は一つの有力な背景を失った。その年の八月、永田も小畑もそれぞれ旅団長となって参謀本部から転出する。二人の対立にほとほと手を焼いた荒木陸相の、腰のひけた処置といえようか。その荒木も翌九年一月には、大酒の揚句に肺炎を起こし、陸相を辞任することになる。
荒木・真崎の去ったあとの陸軍は、荒木にかわって陸相に就任した林銑十郎と、真崎嫌いの閑院宮参謀総長のもとで、九年三月、軍務局長としてあっという間に陸軍省に戻ってきた永田鉄山が牛耳っていくことになる。永田軍務局長実現のため、東條が目に余る運動をしたため、一応は、林陸相もかれを旅団長として久留米にとばさざるをえなくなる。東條は久留米から毎日、ときには三度も永田に手紙をだし、小畑、鈴木への他日の|復讐《ふくしゆう》の決意をのべた、という裏のエピソードを残しながら、永田中心のいわゆる統制派の時代がはじまろうとするのである。林陸相は永田一辺倒となった。
軍務局長として、|近衛文麿《このえふみまろ》の朝飯会に出席するなど政治的に動く永田のあり方にたいし、陸大校長としてひたすら作戦研究に全精魂を打ちこむ小畑は、たえず批判的であったという。しかし、小畑には陸軍中央に復帰する目はほとんどなかった。
だが、勢威をふるった永田も、昭和十年八月、白昼の軍務局長室で、皇道派の隊付き将校の|相沢三郎《あいざわさぶろう》中佐に|斬殺《ざんさつ》され命を落とす。昭和の陸軍は永田時代を迎えようとする寸前で、大転換を余儀なくされた、といわれるが、はたしてどうであろうか。よくよく観察すれば、永田は死んだが、かれのいう「対中国一撃論」はその後も陸軍の主流を歩むことになるのである。
二・二六事件(昭和十一年)以後、皇道派と目される荒木・真崎・小畑らの将軍と、同派の中堅将校を放逐した陸軍主流は、いわば永田鉄山の|衣鉢《いはつ》をつぐものたちによって固められる。翌十二年七月、蘆溝橋事件が起きたとき、陸軍中央の多くのものの頭を支配していたのは、明らかに「対中国一撃論」であった。ときの陸相|杉山元《すぎやまはじめ》大将は天皇にいった。
「事変は一カ月で片付くでありましょう」と。
しかし当時、陸軍が貯蔵していた弾薬量は兵力三十個師団の四カ月分にすぎなかった。蘆溝橋事件後に陸軍が政府に要求したのは、兵力十五個師団、六カ月分の予算なのである。一撃にして国民政府の基盤を破砕することが可能と楽観していたとしかいうほかはない。この不足の戦力で、一撃をもってはたして介石政権の打倒が可能か、この重要な方程式にたいしてどれほどの厳密な検討が加えられたのか、まことに疑わしい。
永田亡きあと、精細|緻密《ちみつ》な戦理を無視し、|曖昧《あいまい》いい加減のままに、ただ「一撃論」のみがひとり歩きしてはじめられた日中戦争は、だから半年後には早くも「長期持久戦」へと戦術転換せざるをえなかったのである。極東ソ連軍の無言の重圧をたえず考慮して、兵力の逐次投入という|下策《げさく》に陥った対中国戦争は、介石からもその兵力や弾丸不足をみすかされて、どろ沼の長期戦へひきずりこまれた。永田鉄山の亡霊が陸軍中央を動かしていたと評するのは、はたしていいすぎだろうか。
二・二六事件ののち、事件そのものには直接関係はなかったが予備役となった小畑は、淡々として軍服をぬいでいる。ときに五十一歳。その後は市井の一隅に身を隠しふたたび世にでようとはしなかった。いや、でられなかった。そして皇道派びいきの近衛文麿の蔭の参謀として、わずかに歴史にちらほら名をとどめている。太平洋戦争がはじまると、たえず「東條の憲兵」に見張られ身動きができなかったと思われる。
昭和二十年二月、いよいよ悪化する戦局に、天皇はつぎつぎに重臣をよびだして、その意見を聞いた。近衛はこのとき、満洲事変から太平洋戦争への進展は一貫した思想と計画にもとづく陸軍の大陰謀である、と上奏している。それは日本を共産革命化しようとする陸軍主流派の意図によってあやつられている、とまでいった。天皇は驚いて、ではどうすればよいのか、とたずねた。近衛はいった。
「これにたいして常に反対の立場をとってきたものもあります。これらを起用して粛軍せしむるのがよいと思います」
そしてかれは宇垣一成、真崎甚三郎、小畑敏四郎、石原莞爾らの退役の将軍の名をあげた。統制派と皇道派による二・二六事件までの、忌わしい派閥抗争の亡霊が、敗北の日本になお生きつづけていたことになろうか。
小畑が、近衛、吉田茂らと協力して、永田鉄山の|寵児《ちようじ》であった東條に反対し、東條内閣倒閣に暗躍したのは事実である。そして、逮捕投獄こそされなかったが、二週間以上自宅に軟禁され、憲兵の取調べをうけたことが記録に残っている。敗戦後、|東久邇《ひがしくに》内閣の国務大臣に親任され世に出たが、さしたる活躍の場を得ることなく、あっけない内閣総辞職とともに市井に戻り、二年後の昭和二十二年持病の|喘息《ぜんそく》を悪化させて死去した。享年六十二。
その小畑は晩年に幾度か切歯せんばかりに|罵倒《ばとう》したという。
「国を滅ぼした|元兇《げんきよう》は永田鉄山だ」と。
だが、永田ではなく小畑が天下をとったとしても、昭和史が|波瀾《はらん》なく歩んだとも思われない。「対ソ予防戦争論」がいつ火を噴き、それが国家をどう動かしたか、ある程度は想像できるからである。
「対ソ予防戦争論」も「対中一撃論」も、どちらも危険な選択であった。ならば第三の道はあるのか。バーデンバーデンの誓いに戻るほかはなかったのである。派閥解消・人事刷新、軍制改革・総動員体制の確立、それがいかにすれば厳しい国際情勢下において可能かの原点へ、である。しかし仇敵となったかつての盟友に、それは望めぬことであった。やはり歴史に「もしも」はないのである。
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蘆溝橋とインパール・最大の“無責任”司令官
アメリカのR・ニクソン元大統領は、その著『指導者とは』(文藝春秋刊)のなかで、
「(リーダーは)何をすべきかを決断する責任は委譲できないし、委譲すべきではない。……決断に至る過程を部下に代行させれば、それはもう指導者ではなく、追随者になってしまう」
と明記し、部下に狂信のもの、剛毅なもの、積極的なものをもつ場合のリーダーの、心すべき重要な資格を示している。
戦史のなかには、名コンビを謳われながら真実は妥協や保身や人情論などにひきずられ、リーダーが正しい判断を誤るケースがまことに多い。これはそのよき典型である。
蘆溝橋事件の現場
昭和六十一年の夏、いろいろと論議をうんだ「日本を守る国民会議」編の『新編日本史』は、蘆溝橋事件についてこう記述した。
「昭和十二年(一九三七)七月、北京郊外の蘆溝橋で、突如日中両国軍が衝突した(蘆溝橋事件)。発足まもない近衛内閣は、事件不拡大方針をとり、現地では停戦協定も成立したが、現地日本軍の積極的華北戦略と中国側の対立はきびしく、北京周辺では両国軍の衝突がつづいた。そこで政府も不拡大方針を放棄し、内地三個師団の動員令を下した」
これにたいして文部省は検定の結果、右の記述の「近衛内閣は、事件不拡大方針」以下の部分をつぎのように直した。
「……不拡大方針の声明をだしたが、現地の日本軍はつぎつぎと軍事行動を拡大し、政府も内地三個師団の動員令を下した」
歴史の記述というものは実にむつかしい。「現地では停戦協定も成立したが」の一行を文部省側がなぜ削除したのかよくわからぬし、『新編日本史』の「現地日本軍の積極的華北政策と中国側の対立」というとらえ方はあいまいだし、疑問点もある。それほど蘆溝橋事件にはさまざまな事情が複雑にからみ合っていた。(ただし教科書は原案が採択された)
だが、ここで重要なことは、『新編日本史』が記述するように「現地では停戦協定も成立し」いったんは平和に妥結した、という点である。作戦行動をいっさい停止し、日中両軍はおのおの原守備に復帰する、と協定が結ばれたのに、なぜそれが実施できず、小競り合いが拡大したか。実は、日本側だけからいえば、事件が起きた現場の指揮に任じていた支那駐屯軍の歩兵第一連隊長が、積極的な、好戦的な、名誉心の強い軍人であったことに、拡大へとつながっていく直接の因があったということになる。
この夜、蘆溝橋の北方の龍王廟付近で、第一連隊の第三大隊(大隊長・|一木清直《いちききよなお》少佐)がはげしい夜間演習をおこなっていた。午後十時すぎ訓練終了、各隊が集結していたとき、西の方角から数発、つづいて十数発の実弾が射ちこまれた。
第八中隊(中隊長・|清水節郎《しみずせつお》大尉)百三十五名のうち、このとき兵一名が行方不明、発砲によるためかと騒然となった。実は、この兵は立小便のため隊列を離れただけで、約二十分後には無事に部隊に戻っていたのだが、なぜか報告が上司に達するまでに四時間以上もおくれた。
清水中隊長から、被弾と兵一名行方不明の報告をうけた一木大隊長は、大隊主力をいざという場面にそなえて前進、ひろく展開させた。その直後の、八日午前三時半ごろ、ふたたび西の方角からはげしい射撃をうけた。歴史は皮肉なものであるというが、どうやらこの辺のところを示すのだろう。二度目の射撃をあびたとき、一木少佐が、行方不明の兵一名は無事帰隊の報告をうけていたか、残された記録からはハッキリしない。時間的にあまりにも微妙な交差で、前後関係はあいまい|模糊《もこ》としている。
残されているのは、一木大隊長からの“中国側からの敵対行動は確実なり”との、上長である連隊長への報告である。それにたいして連隊長はこう命令した。
「敵に撃たれたら撃て。断乎戦闘するも差支えなし」
午前四時二十分のこと、連隊長の名は牟田口廉也大佐。
この攻撃命令は牟田口連隊長の独断によるものであった。直属上長の旅団長・|河辺正三《かわべまさかず》少将はたまたまこの夜不在で、牟田口は思うように作戦指揮をとった。
旅団長は遂に一言も発せず
検閲のため南台寺にあった河辺旅団長が、北京にもどったのは七月八日午後、牟田口は自信満々に昨夜来のことを報告する。河辺がそれにたいし叱責することもなく、これに同調したことは戦後の牟田口のつぎの発言でも、残された記録からも、間違いない。
「蘆溝橋事件のさい、私の連隊が独断で敵を攻撃したが、当時の河辺旅団長は私の独断を許され、旅団命令で攻撃したようにとりつくろっていただいた。私は当時、旅団長の処置に非常に感激した」
そして八日夕刻も近くなったころ、旅団司令部も現地蘆溝橋付近に前進する。夜十一時には援軍の第一大隊(大隊長・|木原義雄《きはらよしお》少佐)も到着、いよいよ九日早暁を期して、中国軍主力が配置されている宛平県城への総攻撃を実施することとした。そこへ北京の特務機関から、宛平県城の中国軍は永定河右岸へ撤退することを確約した、との通報が入ってきた。九日午前二時、停戦協定が日中両軍の間に一応成立した。
これにしたがって、河辺旅団長は午前八時に攻撃準備の中止を命令。その後にも、中国軍の撤兵がぐずぐずして、日中両軍の間に衝突や小競り合いがつづいたが、午後になって河辺みずからが中国側と交渉、協定の実行を求めた。結果、午後三時四十分には中国軍は永定河の右岸にひき、日本軍も一部の監視兵力を残して、豊台方面へ後退することになった。
この時点における河辺は、駐屯軍の方針にのっとり、不拡大の意思を明確にしたのである。こうして、戦火は夕闇とともに鎮まるかにみえた。
翌十日、いぜんとして情勢は流動的で、大きな衝突はなかったが、不穏な動きがここかしこであった。牟田口はこの煮えきらぬ状況に不満であった。その上に、かれは中国軍をまったくといっていいほど信じていなかった。この朝に「主力をもって東五里店・西五里店付近に、一部をもって一文字山を占領し、中国軍の協定違反を認むるや、ただちに立ってこれに一撃を加える」態勢につくよう|麾下《きか》の連隊に命令を発していた。
これは消えかかろうとする戦火をあおるような独断の処置であった。当然、中国軍は警戒した。中国側の協定履行が判然としないまま|対峙《たいじ》することにあきたらない牟田口は、まったく意に介さなかった。さらに敵情監視の名目で、一個小隊を龍王廟に派遣。これは宛平県城を挟撃するような形になり、同時撤退を主張する中国軍を強く刺戟した。
午後四時ごろ、たちまち龍王廟付近で衝突が起った。牟田口は中国軍が協定を破って南下したものと判断し、またしても独断で第一大隊に下令、廟にある中国軍軍隊を|殲滅《せんめつ》せよと命令したのである。
一文字山東方五百メートルにある旅団司令部にも、この激しい戦闘の銃声が聞えてきた。河辺は何事が起きたのかと、連隊本部にかけつけた。牟田口は泰然としてこれを迎え、そして現況を説明した。河辺は、それを黙ってうけていたが、第一大隊に攻撃を命じたことを聞くと、みるみる形相を変えた。
連隊副官だった河野又四郎氏の戦後の手記は、このときの異様な状況を書く。
「旅団長は顔面蒼白、今にも一喝するかと思わるる相貌となった。両者相対する距離僅かに三|米《メートル》。恐ろしき剣幕に私は圧倒され〈これは困ったことになった。両者の考え方は相反す。一つは向戦的、他は避戦的、これでは今後が……〉と苦渋に満つる思いであった。
両者睨み合うこと僅か二、三分ではあったが、私には長い長い時間があった。旅団長は遂に一言も発せず|踵《くびす》を|反《かえ》して旅団司令部に引き返された。日はなお高し」と。
対照的な上司と部下
河辺・牟田口というのちのインパール作戦におけるコンビを考えるとき、この情景はまことに印象深い。無言の睨み合い、統帥上からは河辺のほうに命令権はあったが、牟田口はおのれの信念にもとづいてそれをはね返したのである。
明らかに、河辺は部下の独断専行に激怒していた。しかし「遂に一言も発せず」、ということは、つまり河辺がそれを追認したということになる。そして牟田口は、自分のとった処置が上司の意に反したものであることを悟った。にもかかわらず第一大隊への突撃命令を中止しようともしなかった。
なるほど当時の陸軍には「対中一撃論」というものがあった。牟田口にはそれを守り、当然の判断をしたまでという確信がある。河辺には妥協的あるいは消極的な性格から、その積極果敢さに圧倒されるとともに、この「一撃論」に|与《くみ》するほうが得策とする栄達保身の傾向がかなり強くあった。満洲事変いらいの“勝てば官軍”意識である。
このために、真に防禦の必要というやむをえない場合をのぞいては、「天皇の軍隊」を軽々しく動かしてはならぬ、という指揮官の守るべき鉄則が、河辺の頭からはすっぽり抜け落ちた。大した危険がなかったゆえに、現地連隊長の統帥違反の命令に目をつぶってはならなかった。にもかかわらず、河辺は「無言」のうちに、部内的にいちばん抵抗の少ない道を選んだのである。
河辺正三は明治十九年富山生まれ、地主の子弟。陸士十九期、陸大優等卒。当時四十六歳。外国駐在武官や陸軍中央勤務の多いエリート軍人、つまり事務的軍人として、ごく自然に階級を昇りつめてきた。将官としては珍しく酒も女も好まず、まじめ一方で、|諧謔《かいぎやく》や冗談を日常のそぶりにもださなかった。
痩せた小柄な身体、どこか病気がちであり性格的には静かで用心深く、それは戦後に牟田口が酷評したように「軍隊指揮官として適格でない」一面を強くもっていた。むしろ学者的といってもよく、在家の僧籍ももっている。
反して牟田口は精神的にも肉体的にも完全な対照をなしていた。野心的であり、情熱的であり、酒にも女にも強かった。明治二十一年佐賀県の旧鍋島藩士の家に生まる。陸士二十二期、陸大卒(中の上)。近衛歩兵連隊付より参謀本部入りし、庶務課長を勤める。学校成績は華々しいものでなかったが、ここまでは順調に陸軍中央のエリート参謀コースの波にのった。
しかし、昭和十一年の二・二六事件がかれの運命を狂わせる。大佐になっても頑として主義を変えず、皇道派の一人と目されていたため、事件後の人事刷新で支那駐屯軍の歩兵第一連隊長に転出させられたのである。それは“情念の人”牟田口にとっては“飛ばされた”ものであり、屈辱的な人事と考えられた。
それだけに、辺地で|髀肉《ひにく》の|嘆《たん》をかこつ牟田口にとっては、思いもかけずに発した蘆溝橋の戦火は、おのれの存在を明らかにする絶好の機会となった。当時四十三歳、血気さかんのとき、そして性来の直情径行の気質がそれに輪をかけた。しかも上長の河辺旅団長は学者肌で、野戦の将にふさわしい気概の持ち主ではない、強引にひっぱっていけるとの判断もある。
それゆえに、もっと慎重な対処がありえたときにも、牟田口は断乎戦闘を決断し、命令した。しかも独断で。いや、断じて行えば、旅団長はかならず追認する、中央もやがて同調するに違いないとの確信のもとに……。
事実、七月十日、龍王廟に突入した第一大隊は敵を殲滅して武勲をあげた。そしてこの日、陸軍中央は北京・天津地区在留日本人約一万二千人の保護のため、必要な兵力を増派することを内定するのである。蘆溝橋事件の大事な転換点は、この日から翌十一日にかけての二十四時間にあった。
近衛内閣は十一日夕刻に政府声明を発表し、今次の事件を中国の計画的武力抗日であると断定し、「重大決意」をなしたと内外に公表した。そしてわずか半年のうちに上海攻略、南京占領と、日本は泥沼の戦争にのめりこんでいくことになる。
“コンビ”の復活
予期したように牟田口の功績は見落とされはしなかった。野戦の指揮官としての勇名をとどろかした。河辺の武勲もまた同様であった。表面的には、むつかしい局面で深刻な労苦を分かちあい、河辺は牟田口の積極果敢な指揮を信頼し、牟田口はまた河辺の端然とした人格に心服し、あれこそが名コンビと評されるようになっていった。
少将に進級(昭和十三年三月)した牟田口は、その後も戦場で勇名をはせる。のち満洲の第四軍参謀長をへて、昭和十五年八月には中将に昇進、第十八師団長に補せられ、この師団を率いて太平洋戦争ではマレー・シンガポール攻略戦でますますの武功にかがやいた。そして蘆溝橋いらいの“常勝将軍”の異名をほしいままにする。
そこからビルマ戦線に転じ、昭和十八年三月、ビルマ方面軍が新設され、その戦闘序列の改定にともない、第十五軍司令官となった。このとき、ビルマ方面軍司令官として、牟田口の上長となったのが河辺正三中将なのである。“蘆溝橋のコンビ”の復活、とだれの眼にもみられた。
だが、二人の力関係はすでに微妙に異なっていた。牟田口は蘆溝橋事件前後から、当時関東軍参謀長であった東條英機大将にとりいり、いらい知遇をえて、東條軍閥の秘蔵将官になっている。反して、河辺中将は反東條派として睨まれ、優等卒でありながら同じ陸大同期生のなかで、かれの大将進級はいちばん最後まで放っておかれる、という弱い状況下にあったのである。蘆溝橋においてさえ牟田口に引っ張りまわされた河辺に、どれほどのことができるといえようか。
しかも、かつての第十五軍の幕僚たちの大部分が、そのまま方面軍司令部要員に格上げされたため、北部および中部ビルマの情勢にもっとも通じるものは、牟田口軍司令官ということになってしまった。つまりはその作戦構想は、幕僚の補佐をうけることなく、牟田口ひとりのイニシアチブによって勝手次第となったのである。
無謀なるインパール作戦の悲惨はここに発している。牟田口の作戦構想は、攻勢防禦によるビルマ防衛という本来のものからはるかに逸脱したものにふくれ上った。防衛ではなくインドへ進攻する――それがかれの野望となった。かれは新聞記者たちに語った。
「私は蘆溝橋事件のきっかけを作ったが、事件は拡大して支那事変となり、ついに大東亜戦争にまで発展してしまった。もし今後自分の力によってインドに進攻し、大東亜戦争遂行に決定的な影響を与えることができれば、今次大戦勃発の遠因を作った私としては、国家に対して申し訳が立つ。やるよ、こんどのインパールは五十日で陥してみせる」
この大言壮語の裏には野望と、勘違いしている使命感の|混淆《こんこう》がある。そしてそうすることで、戦況の思わしくないいま、親分である東條内閣にたいする国民の信頼を再燃させる契機となるであろう、という牟田口の狙いである。
東條の威をかりる牟田口は、だから、一作戦軍司令官でありながら、上長のビルマ方面軍も、その上の南方総軍も、そして参謀本部をも黙殺して、作戦構想をすすめた。それが戦理的に否定さるべきものであろうと、平気で推進した。そして、煮えきらぬ河辺にたいしてはこう激情的に説くのである。
「閣下と本職は支那事変を起こした責任があります。だから、なんとしてでも、この支那事変を解決しなければなりません。それが軍人としてのわれわれの責務です。それには重慶向け物資を、どんどん送りこんでいる策源地インパールを攻略せねばなりません。……それに現戦局は、まるで天日を失ったように、真ッ暗であります。これではお上に対して申しわけない。ひとつビルマで大攻勢にでて、閣下と二人してこの暗雲を払い、明るい天日を迎えたいと、牟田口は常々考えておるのであります」
まさに悪魔的な言葉というほかはない。冷静な河辺が、この激論にひきずられたとは思えない。しかし河辺のなかには、牟田口の背後に冷厳な眼を光らせる東條への恐れがあった。方面軍司令官に任命され東京を立つとき、東條に強くいわれた言葉を河辺は思いだす、「インド進攻は政略のため必要である」と。その怒りを避けたいとする弱気と打算があった。
「総攻撃再開」命令
当時、ビルマの戦場ではだれがいいだしたのか、こんな歌がひそかに歌われていた。
牟田口閣下のお好きなものは
一にクンショー
二にメーマ(註―ビルマ語で女の意)
三に新聞ジャーナリスト
ビルマ方面軍あるいは第十五軍の、心ある幕僚たちはそのことを見抜き、憂慮した。たとえば牟田口に嫌われ第十五軍参謀長を免ぜられた|小畑信良《おばたのぶよし》少将は、満洲に赴任するにさいして河辺に涙とともに切言した。
「牟田口中将の無謀なるインド進攻論を制止し得るものは、今や方面軍司令官たる閣下以外にはない。牟田口は大将になりたがってこの作戦を強行しようとしている」
また方面軍の参謀たちによる図上演習のときにも、第十五軍の作戦構想がいかに数理的に無謀であり、子供だましのものであるか、反対論が噴出した。
だが河辺はいった。
「わたしは蘆溝橋いらい牟田口をよく知っている。牟田口の心事をよく呑みこんでいる。最後の断は必要に応じわたし自身が下すから、それまでは方面軍の統帥を乱さない限り、牟田口の積極的意欲を十分尊重するように」
あるいはまた、こうもいった。
「なんとか牟田口の意見を通してやりたい。あの牟田口ならやり通すだろう。角を|矯《た》めて牛を殺すようなことがないよう、牟田口の案が成り立つよう研究してくれ」
これがよきコンビの信頼関係というものなのであろうか。単なる私情でしかない。しかも一戦略としてではなく、東條内閣存命のための政略としての作戦決定であるとは。それは冷徹な戦理の場に決してもちこんではならないものであった。河辺の承認をえた牟田口の夢想を、もはやとめる手だてはない。何をいっても無駄というムードが幕僚たちを包みこんでしまった。
三個師団八万五千人余の日本軍を、飢餓と弾薬不足によって、ジャングルの|泥濘《でいねい》のうちに白骨化させたインパール作戦は、こうした“蘆溝橋のコンビ”の野望と保身によるものであったといえる。|兵站《へいたん》や自然条件や敵戦力を無視した戦闘の細部は、あらためて記すまでもなく、その犠牲は異常と悲惨そのものであった。
だが、犠牲をこれほどまで大きくしない以前に、作戦中止命令をだすべき機会が、ただの一度だけあったのである。
三月上旬に開始された作戦は、四月末には戦力は四〇パーセント前後に低下し、限界に近づいていた。雨季も例年より早くきた。五月中旬には参謀本部も作戦失敗と判断、東條参謀総長に中止を示唆するにいたった。
だが、東條首相兼参謀総長は「戦いは最後までやってみなければ判らぬ。そんな気の弱いことでどうするのか」と一顧だにしなかった。
戦場の実相を知らぬ東京にあっては、あるいはそんな放言ですまされるかもしれないが、鉄の暴風のもとにある第一線においては、手遅れではあったが、いまこそ緊急に決断すべき最後の機会があった。それが六月五、六日と二日間におよぶ第十五軍司令部での、河辺と牟田口の会談なのである。
五日――河辺を迎えた牟田口は「今が峠であるから、これ以上のご心配はかけない」という意味の挨拶を、眼に涙をたたえてしたという。その後、戦況報告あり、結論として第十五軍司令部は「インパール攻略の必成」を誓う。これにたいして河辺は「華々しさを求めず、地味な寸進尺略主義でいけ」と激励する。
六日――河辺・牟田口だけの懇談がもたれた。牟田口は、指揮下の第十五師団長の更迭を要請。河辺は、師団長更迭はすでに二人目でまずいと感じたが、やむをえないと同意する。兵力増強を牟田口は願い、河辺はこれも承認。ここでよきコンビである二人の会話はとぎれた。牟田口はものいいたげに唇をふるわせ、河辺は黙ってその顔をみつめていたが語らず、しばし睨みあった。そして、そのまま会談を終えた、という。
それはまさしく蘆溝橋事件における連隊本部での、睨み合いの再現ではないか。もしその場に副官があれば「私には長い長い時間があった。方面軍司令官は遂に一言も発せず踵を反し」と記したにちがいない。
牟田口の戦後の回想はいう。
「私は『も早インパール作戦は断念すべき時期である』と咽喉まで出かかったが、どうしても言葉に出すことができなかった。私はただ私の顔色によって察してもらいたかったのである」
河辺は『戦中日記』の六月六日に記す。
「牟田口軍司令官の面上にはなほ言はんと欲して言ひ得ざる何物かの存する印象ありしも、予また露骨に之を|窮《きわ》めんとせずして別る」
そして河辺はさっさとラングーンに帰還してしまうのである。そして出されたのは「総攻撃再開」命令であった。河辺も牟田口も、飢えて死んだ日本兵の死体がインパール街道に山をなしているのを知っていたはずである。おき捨てられた死体をネズミが襲い、目の玉をかじった。負傷兵の上を英軍戦車が|驀進《ばくしん》していた。
二人が会見しているその時にも、インパールの各戦線ではこの惨状がくりひろげられていた。だが、よきコンビは黙りつづけた。言うべきことを言おうともせず、つまり責任をみずからとろうともせず、相手の顔色をただうかがっていたのである。
戦後、牟田口元中将に会い取材する機会を何回かもった。そのつど、老境を迎えつつもなお闘争心を顔面にみなぎらせながら、声を大にして語るのを常とした。
「大本営にいた連中はこの作戦に反対だったのに、この牟田口に押しきられたのだと常に弁明している。責任をみんな私にかぶせるつもりなのだ。みんな私の一本気の性格を利用している。ずるい連中ばかりだ。だいたいが、あれだけの大作戦を敢行するのに、最高統帥者として、過去に優柔不断の経歴のある(蘆溝橋のときを指す)持ち主を充当したことが間違っていたのだ。優柔不断ということがもっとも戒むべきことなのだ」
陸軍中央にたいする憤りのうちには、大将になるどころか、敗軍の将として昭和十九年十二月に予備役(クビ)とされたことにたいする恨みもこめられているのだろうか。当然、ともに責任をとらねばならぬ河辺は、二十年三月にはかえって大将に進級、そして終戦時には航空総軍司令官に任ぜられている。自負心の人一倍強い闘将のうちには、あの優柔不断の男がなぜ、の想いのみが強かったのではないか。
その河辺は、インパール作戦にたいして戦後に語っている。
「この作戦には私の視野以外さらに大きな性格があった。この作戦には日本とインド両国の運命がかかっていた。チャンドラ・ボースと心中するのだと、予は自分自身にいい聞かせた」
チャンドラ・ボースとは自由インド国民軍の指導者で、かれのすぐれた政治的手腕が東條に強く働きかけ、ついに東條にインパール作戦決行を決心させたことはよく知られている。チャンドラ・ボースと心中する、それはつまり東條との心中を意味する。それが「総攻撃再開」命令となったのであろうか。あまりにも政治的というほかはない。戦場の指揮官のやってはならないことであった。
河辺は戦後も長く生きて昭和四十年三月に死去した。牟田口が痛憤を胸に抱きつつ世を去ったのは、それから一年後の四十一年八月のことである。
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ノモンハン敗北から開戦へ・不死身の参謀たち
ともに稀にみる俊才であった。体力・気力ともにひとに秀でていた。ひとりでも|一廉《ひとかど》の仕事をやったであろうが、協力すればもてる力はより相乗化される。かれらは軍人である。戦うことを職業とする。戦い、勝利をおさめることによって、勲功にかがやく。だが、その能力が勲功のため権道や覇道に使われたとき、災害もまた、相乗化される。
それゆえに、このコンビを考えるとき、シェイクスピアの名言を想起せざるをえないのである。
「戦いを交えるに当っては、その唯一の目的が平和にあることを忘れてはならない」
戦争というものが魔物である以上、魔性の参謀によって作戦指導された戦闘の悲惨は、いくら強調しても強調しすぎることはない。
ノモンハンの作戦指揮
太平洋戦争開始の直前、|服部《はつとり》|卓四郎《たくしろう》は参謀本部作戦課長、|政信《つじまさのぶ》は同じく作戦課の戦力班長の職にあった。この二人が力をあわせ、かれらを信頼する東條英機首相兼陸相を動かし開戦の決断をさせた。このコンビが開戦の原動力だったといってもいい。
まとめ役としての服部と、斬り込み隊長としてのとは、相反する性格ながら、その相違がかえって有無を相おぎなって、固く結びついたのである。開戦決断の南部仏印進駐から、ガダルカナル奪回作戦まで、智謀の服部のあるところに実行のが常にあった。積極果敢のの派手な作戦指導を保証するように、服部の冷徹綿密な地味な作戦計画があった。それは影と形ではなく、いわば車の両輪だった。一方が欠けてはあれほどの活躍ができなかったことであろう。
そして、この二人が最初に縦横無尽の指揮をとった戦いがノモンハン事件である。無意味にして悲劇的な戦いとされるこの戦闘を語ることは、二人の軍人の作戦指導の、もっともよき典型を示すことになる。とくに緒戦の独断専行において……。
ノモンハンは、満洲国と外蒙古との国境を流れるハルハ河の支流にそった蒙古人村落である。その位置は、この方面を防備する関東軍の第二十三師団司令部のあったハイラルの西南約六十キロのところ、満目|蕭条《しようじよう》たる|曠野《こうや》のただなかにあった。
このノモンハンのあるホロンバイル高原は国境線が不明確で、それまでもしばしば日ソ両軍の間で紛争がくり返され、対ソ危機感が色濃くおおっているところでもあった。
昭和十四年五月十一日、数十名の外蒙古兵があいまいな国境線を越えて侵略してきた。一応は撃退されたが、翌十二日、さらに六十名余の大々的な越境があり、外蒙古軍と満洲国軍とのあいだに交戦が展開された。
この報が第二十三師団司令部にとどけられたのは五月十三日朝、たまたま師団長|小松原道太郎《こまつはらみちたろう》中将は重要な師団会議をひらいていた。それは四月二十五日に関東軍司令官より下達された『満ソ国境紛争処理要綱』を、全部隊に徹底するためのものであった。紛争処理のためにあらかじめ検討しておこうとした日が、実行第一日となったのである。
師団長は即座に命令を下した。ノモンハン方面の外蒙軍を|捕捉殲滅《ほそくせんめつ》すべし、と。国境線の小ぜり合いは、こうして大々的な戦闘へと転じていった。
第一次戦闘の敗北
この『満ソ国境紛争処理要綱』は、関東軍作戦参謀政信少佐が主となって起草し、作戦主任参謀服部卓四郎中佐が承認、強力に推進することにより、司令官|植田謙吉《うえだけんきち》大将の名のもとに、関東軍作戦命令として発せられたものである。
「国境におけるソ連(外蒙軍を含む)の不法行為にたいしては、周到なる準備のもとに、徹底的にこれを|膺懲《ようちよう》し、ソ軍を|慴伏《しようふく》せしめることによってのみ、事件の拡大を防止し得る」
という強硬な方策にその主意があった。そして、国境線が不明確な地域においては、防衛司令官が「自主的に国境線を認定し……兵力の多寡、国境の|如何《いかん》にかかわらず必勝を期す」ことが命じられていた。
「国境を自分で認定する」というような、あまりにも積極的な作戦指導に、発表に会同した参謀長のひとりが「これを本当にやってよろしいということかね」と反問し、満蒙に布陣する各師団の参謀長会議は笑いにつつまれた、というエピソードが残されている。関東軍参謀長磯谷廉介中将が「書かれているとおりにやって結構です」とテレくさそうに答えるのに、かたわらの参謀が、きっとなって言い放った。
「やってもらう、それが命令です」
小松原師団長が、外蒙軍の越境にさいして即座に攻撃命令を発したのは、だから、関東軍命令に忠実な処置といっていいのである。ハルハ河右岸で外蒙騎兵と接触した|東八百蔵《あずまやおぞう》中佐指揮の騎兵部隊は、この命にもとづき、これを急襲撃破した。
植田関東軍司令官は陸軍中央に報告するとともに、決意をのべた。
「戦闘を拡大しないことに関しては、万全を期している」
大本営の参謀次長|中島鉄蔵《なかじまてつぞう》中将は、二十四日、関東軍司令部に返電した。
「関東軍の適切な処置に信頼する」
事件の処理と推移はここまではどうやら順調であった。戦闘もすぐに収束されるものと期待されたが、緒戦に勝ったの報で、関東軍の作戦班の意気はすこぶるあがった。ただちに作戦主任(班長)服部中佐は、ノモンハン方面の作戦担当に少佐をあて、現地に派遣した。
だが、この間にも国境付近では本格的な戦闘がつづけられ、側面攻撃で直進していった東騎兵部隊が、戦車と重砲を中心としたソ連機械化部隊に包囲されて、「徹底的に膺懲」するどころか潰滅していた。現地についたばかりの参謀は激怒した。
「友軍の死体を放置して、それでも貴様たちは皇軍かッ」
戦闘拡大も意に介せずと、後方から主力部隊が突入し、やっと東部隊の死体を収容したが、それ以上は進めず、五月三十一日、小松原中将は無念の涙をのんで命令した。
「戦場を離脱すべし」
参謀はこの第一次戦闘の敗北を信じようとしなかった。の胸中には|復讐《ふくしゆう》の念がはげしく燃えあがった。
参謀の最強硬論
事件は終った、と東京の大本営では判定した。これ以上ソ連側に事件拡大の意図はない、と判断したのである。参謀本部作戦課はそこで、今後も事件の不拡大方針を堅持しようと腹案をまとめておくことにした。六月初旬に、作戦班長|有末次《ありすえやどる》中佐がそれを完成させた。
「相手方に一撃を与えることがあっても、目的達成したならば、速やかに兵を後方に退ける。航空部隊の越境行動については、当初から強い抑制を加える」
という主旨のものである。しかし、この、大本営の判断は甘かった。
第二次ノモンハン事件の発端も、小松原師団長からの緊急電報であった。六月十九日、関東軍司令部は、ソ連機約三十機がカンジュル廟付近を空爆し、燃料と|糧秣《りようまつ》の集積場を炎上させたことを知らされた。小松原中将の意見具申がそれに添えられてある。
「防衛の責任上、進んで|撃攘《げきじよう》したい」
第一次戦闘での無念を、こんどこそ晴らしたいのであろう。
小松原電報をめぐって関東軍司令部の参謀会議は大激論となった。対ソ全面戦争となってはまずい、静観すべきか、小松原師団に命じ断乎これを|膺懲《ようちよう》すべきか。この決定こそが、これ以後の、ノモンハンの関東軍の全局を左右するのである。
高級参謀|寺田雅雄《てらだまさお》大佐は、不拡大の大局的見地に立って、われからの積極的な攻撃はなお時機をみるようにと、慎重論をとって論じつづけた。しかし、参謀は、大声でまくしたてた。
「傍若無人なソ連側の行動にたいしては、侵犯の初動において、徹底的に痛撃を加え撃滅すべきである。それ以外には良策はない。また、かくすることは関東軍の伝統である不言実行の決意を如実に示すもので、これによりソ蒙軍の野望を封殺することができるのである」
眼光|炯々《けいけい》、容貌|魁偉《かいい》、何ものも恐れぬ参謀が怒りをこめて説くのである。しかも、主動積極的な意見は好感をもって迎えられ、受動消極の意見は蔑視される、という軍人共通の心理があった。会議では、「過激な」「いさぎよい」主張が大勢を占め、「臆病」とか、「卑怯」というレッテルを貼られることを恐れるのである。
その上に、のいう「関東軍の誇るべき伝統」という言葉にたいして参謀たちの心理的抵抗は弱かった。初代関東軍司令官本庄繁大将をいただいて、作戦班がひそかに策をねり、中央の意志に反して実行した満洲事変の成功をみよ、なのである。積極的に事を構えて国威を発揚する、それこそが関東軍のよき伝統ではないか。……と、参謀の弁は熱をおびてとどまるところがない。
官僚的軍人と斬り込み隊長
このとき、の最強硬論をおしとどめるものがあったとしたら、それは声望ならびなき作戦班長服部中佐の、確たる一言であったろう。直情径行、攻撃一点ばり、“信念”のにたいし、卓越した識見と豊かな人間味、機にのぞみ変に応じて発揮される正しい判断力をもって、陸軍の大道を直進する服部。その発言の重味はおのずと異なった。かれの大局的な見地からの発言だけが、の|猪突《ちよとつ》猛進をおしとどめえたと思われる。
山形県出身の服部は陸軍士官学校三十四期、は石川県出身で三十六期生。ともに陸士および陸軍大学校を優等卒のとびきりの俊秀である。が内剛外剛、かれのいう“信念”によって、行くところしばしば風雲をまきおこし、敵をつくったに反し、服部の歩みはその性格の内剛外柔にふさわしく、先輩後輩の尊敬を集めつつ、包容力ある人物として、エリート幕僚の道を一歩一歩のぼってきた。いわゆる組織の人であった。
剛毅不屈、のちに鬼参謀とか勇士参謀とかよばれたであるが、服部には心から信頼し尊敬する上司として仰いで仕えている。逆に暴れん坊のを部下としてよく使いこなした上司としては、服部が随一の人であった。
二人をよく知る旧軍人がさまざまに、二人の奇妙なとり合わせを説明してくれる。
「相反する性格が深く両者を結びつけたというほかはない。服部は自分にないものをのなかに見出したのだ」
「は単なる侍大将さ。大軍を統率できる男ではない。それができる服部にがうまく乗っかったのだし、服部もまた権謀術数の|辣腕《らつわん》をふるうには、のような男が必要だったのさ」
「ともに東條英機に可愛がられたからだ」
それはまた、こうもいえるのであるまいか。という軍人は、個人の行動で局面が左右できる場合には、縦横無尽の働きができる男であったが、ひとたび組織というものの力に頼らねばならぬときは、ほとんど並みの人でしかなくなる。そのときこそ服部が必要なのだと。そしてその逆が、官僚的軍人服部における斬り込み隊長の存在であったのではないかとも――。
服部と郷里を同じくする先輩に石原莞爾がいる。服部は石原を超えようとした。だが、そのためにも石原にあっておのれにないものが、すなわち余人にはない発想、断乎たる決断とか人を引っぱる強烈なカリスマ、それが服部には必要であった。それを服部はのうちに見たのではないか。
そのためかどうか、関東軍司令部での参謀会議の席上では、組織の人・服部は、の熱弁と説得にあっさりと賛意を表明するのであった。この瞬間に、慎重論は吹きとんだ。会議の結論の決定は、いわゆる多数決方式ではなく、会議の主催者の、たとえば作戦会議であれば作戦班長の決定にしたがう、それが陸軍のきまりである。
このとき、服部は、満洲事変のときの石原の成功を夢みたのかもしれない。
のちの話になるが、昭和十六年夏の、対米開戦か否かの論議にさいしても、若手参謀からでた慎重論をしりぞけ、戦力班長中佐の積極論をとって、作戦課長服部大佐が決断した。そして反対論は|霧消《むしよう》した。軍人たるものは、いかに不服だろうと、決裁されたのちは自己の意思を捨ててその決定に従う、それが軍紀軍律というものである。
こうして関東軍司令部は、侵犯してきたソ連軍に断々乎として痛撃を与えることに決した。磯谷参謀長の「事は重大だから、参謀本部の了解をとるべきだ」という冷静な穏健論も、たちまち昂奮した幕僚たちによって破砕されてしまう。エースの服部中佐がいまや拡大論の先頭に立っているのである。そんな|些細《ささい》なことに中央の鼻息をうかがうようでは「関東軍の伝統」に|背馳《はいち》することになるではないか。
植田司令官までもが押しまくられ、やむなく「第二十三師団に処理のため武力行使を許そう」と同意した。そして、関東軍司令部は二十日午後二時、「軍は越境|跳梁《ちようりよう》する外蒙軍を殲滅するため、|爾後《じご》の作戦を準備す」という作戦命令を各部隊に発した。総攻撃は七月一日を期すことになった。
参謀本部と関東軍
東京の陸軍中央では、報告されてきた関東軍の強硬作戦計画に|驚愕《きようがく》しあるいは|喝采《かつさい》し、派兵をめぐって、猛烈な論戦がつづけられた。
「事態が拡大したらどうするのか。収拾のための確固たる成算もないのに、大して意味のない紛争に大兵力を投じ、貴重な兵力に大きな犠牲をうむような無謀な用兵には、断じて同意できぬ」
という反対論にたいし、
「優勢なソ連軍にたいし国境防衛の大任をまかせている以上、関東軍独自の、ある限度内の武力行使は認めるべきであろう」
と現実論から一方が|反駁《はんばく》した。その裏には、陸軍中央の「不拡大方針」に関東軍は完全に同意しているから、という楽観があった。
こうした長く、重苦しい論議を黙然として聞いていた陸軍大臣板垣征四郎中将が、最後に結論をくだした。
「一師団ぐらい、いちいちやかましくいわんで、現地にまかせてもいいではないか」
陸相のこの一言で、関東軍の作戦は容認された。ただ一つ、関東軍の作戦実施報告が、いつも事後承諾であることに一抹の不安を感じつつ、陸軍中央は積極的攻勢を認めたのである。
東京の不安は当っていた。関東軍の作戦計画はすべてが報告されているわけではなかった。参謀はひそかに考えていた。「ひとつ大戦果をあげて中央を喜ばしてやれ」と。そのために国境を越えた外蒙古領内への飛行機による爆撃が、攻撃計画にふくまれていた。陸軍中央には報告されていなかった。
服部班長もまた、全軍の士気を鼓舞するため、勝てば官軍、という名目で東京にはあえて秘することを容認した。なぜならば、当然のことながら反対してくることが見えすいているからである。
しかし、陸軍中央は偶然のことからこの越境攻撃の計画を知るところとなった。関東軍がまたしても独走しはじめていることに、愕然とした。六月二十四日午後六時、中島参謀次長はあわてて磯谷関東軍参謀長に電報を打つ。
「外蒙内部爆撃は統帥違反であり……事件をかえって長引かしむるものにして適当ならず」
さらに作戦班長有末中佐を派遣し、その中止を強く申しわたそうと、早急に手を打った。
服部・を中心に関東軍参謀たちは、なぜバレたかと一時は頭をかかえたが、
「かまわん、有末中佐がくる前にやってしまいましょう」
と自重派の高級参謀寺田大佐に強要。そして寺田参謀名によって、待機中の第二飛行集団の主任参謀あてに、
「明二十六日可能ならばただちに爆撃を決行せられたし」
という運命の一電を打った。矢はついに弓を放れたのである。
百七機によって敢行された爆撃は、大きな戦果をあげた。撃墜破百二十四、たいして未帰還機は四機。この爆撃行に同乗した参謀は、鼻高々となって帰ってきた。
関東軍の寺田参謀もさすがに喜色満面となって東京に電話した。参謀本部の作戦課長|稲田正純《いなだまさずみ》大佐は陸士の同期生、その気安さもあって、どうだ、大戦果だぞ、と送話器に明るい声でいった。しかし、受話器に返ってきたのは、ものすごい怒声であった。
「馬鹿もんッ、戦果がなんだ。いったいなにを考えているのかッ」
寺田大佐は顔面蒼白となり、受話器をもつ手を震わせた。国境侵犯には天皇の大命がいる。統帥の厳正からいえば大喝のほうが正しい。だが、このやりとりは関東軍を完全に硬化させた。
「死を賭しての大戦果にたいし、何が参謀本部だ。許せん、断じて許せん」
とは怒り狂った。「稲田大佐は実戦の経験などまったくないじゃないか。そんな男がなんだ、あまりといえば無礼の一言だ」とまでいった。
温厚な(とみられる)服部までそれに和して激昂した。所詮はかれも軍人であった。軍功を軽んじられることには我慢がならぬのである。どこが満洲事変のときのやり方と違うのか!
参謀本部はあわてた。上下の統帥を明確にしようと、外蒙領内の爆撃は「甚だ遺憾」であると叱り、「|貴方《きほう》かぎりにおいて決定せらるべき性質のものにあらず」と、強く警告電報を関東軍に送ったのである。
しかし、これにたいし関東軍は真ッ向から突っぱねた。
「現状の認識と手段においては、貴部とはいささかその見解を異にしあるがごときも、北辺の|些事《さじ》は当軍に信頼して安心せられたし」
国の大事に直結する国際紛争を「北辺の些事」とは、なんということであろうか。陸軍中央は天を仰ぐほかはなかった。“頭脳”の服部・“実行”のコンビの憤激が目にみえるようである。
このあとにつづくノモンハンの本格的な戦闘は、こうして関東軍の独断専行のかたちではじまったのである。ソ連軍はジューコフ中将を総指揮とし、機甲五個師団(戦車・装甲車各四百三十両)を中心とする近代化された大部隊が、機動力を発揮して日本軍を迎撃した。戦闘は激化かつ長びき、悲惨は増大した。九月十五日の停戦協定まで、その戦闘と結果については詳しくのべるまでもない。
事変に参加した日本軍の全兵力約五万六千人、うち戦死八千四百四十人、負傷八千七百六十六人、通算の死傷率は三二パーセントという惨たる数字が残されている。第一線の将兵は、名誉と軍紀の名のもとに、若き参謀らの起案した無謀な計画に従わされた。そして寡兵よく力戦した。
そして参謀は戦後になってしるすのである。
「(敵が)まさかあのような兵力を外蒙の草原に展開できるとは、夢にも思わなかった。作戦参謀としての判断に誤りがあったことは、何とも不明の致す所、この不明のため散った数千の英霊に対しては、何とも申しわけない」
そしてまたこうも書く。
「戦争は、指導者相互の意志と意志との戦いである。……もう少し日本が頑張っていれば、恐らくソ連側から停戦の申し入れがあったであろう。とにかく戦争というものは、意志の強い方が勝つのだ」
あるいはまた、いう。
「戦争は敗けたと感じたものが、敗けたのである」と。
服部参謀の事変観はこうである。
「ノモンハン事件は明らかに失敗であった。その根本原因は、中央と現地軍との意見の不一致にあると思う。両者それぞれの立場に立って判断したものであり、いずれにも理由は存在する。要は意志不統一のまま、ずるずると拡大につながった点に最大の誤謬がある」
いかにもエリート幕僚らしい観察であり、批評である。変り身の早さともいえる。だが、その不統一をあえてもたらしたものはだれなのか。当事者はだれなのか。もっと広い視野から情勢を判断しようともせず、硬軟自在に作戦指導すべきなのに、ただただ敵を甘くみて、攻撃一辺倒の部下の計画を推進したのは、いったいだれなのか。
対米開戦の原動力
そしてより不思議なのは、ノモンハン事件の責任を問われいったんは左遷された服部とが、それからいくばくもなく陸軍中央に華々しく復帰する、という陸軍人事の奇ッ怪さであろうか。服部は一年後の十五年十月には参謀本部作戦課の作戦班長となり、翌十六年七月には作戦課長に昇格し、八月には大佐に進級する。はやや遅れるが、十六年七月にひっぱられて参謀本部部員となり、作戦課戦力班長として服部作戦課長を補佐し、太平洋戦争の発動に得意の熱弁をふるうのである。いや、むしろが作戦課全体をリードした。
十六年夏、独ソ戦の開始によって大本営はその全体の戦略方針の決定をせまられた。ソ連を攻撃するか、米英との開戦を覚悟で南方の資源地帯へ出るか、である。
服部作戦課長はいった。
「いま必要なのは、南北いずれにも進出しうる態勢を完整することだ。北にたいしては、ドイツ軍の作戦が進捗してソ連がガタガタの状態になったら、北攻を開始する。いわゆる|熟柿《じゆくし》状態を待つ。南方にたいしては好機を求めて攻撃を決断する。すなわち“好機南進、熟柿北攻”の方針あるのみだ」
いかにも秀才が考えそうな手前本位の、絵にかいた|餅《もち》のような方針である。若い参謀が反論する。好機南進はかならず米英との戦争となる、独ソ戦の見通しもつかないうちに、日本が新たに米英を相手に戦うなど、戦理違反そのものではないか、と。
参謀が、とたんに大喝した。
「課長にたいして失礼なことをいうな。課長は広い視野に立っておられるのだ。課長もわが輩もソ連軍の実力は、ノモンハン事件でことごとく承知だ。現状で関東軍が北攻しても、年内に目的を達成するとは到底考えられない。ならば、それより南だ。南方地域の資源は無尽蔵だ。この地域を制すれば、日本は不敗の態勢を確立しうる。米英恐るに足りない」
若い参謀はなおねばる、「米英を相手に戦って、勝算があるのですか」
参謀は断乎としていった。
「戦争というものは勝ち目があるからやる、ないから止めるというものではない。今や石油が絶対だ。油をとり不敗の態勢を|布《し》くためには、勝敗を度外視してでも開戦にふみきらねばならぬ。いや、勝利を信じて開戦を決断するのみだ」
いつか、どこかで聞いたような参謀の|啖呵《たんか》ではあるまいか。こうして“太平洋戦争への道”は強力にきりひらかれる。そして服部とのコンビが「不明のため」に|詫《わ》びねばならぬ“英霊”は、数千のノモンハンと異なり、数百万におよぶ悲惨を迎えることになるのである。
ノモンハン敗戦の責任者である服部・のコンビが、対米英開戦を推進し、戦争を指導した全過程をみるとき、個人はつまるところ歴史の流れに浮き沈みする無力な存在にすぎない、という説が、なぜか疑わしく思えてならない。
たしかにノモンハン後の不遇の一年に、は南方作戦に心をくだき、対ソ戦略一本槍であった陸軍部内にあって、好機南進論の第一人者となっていたことはたしかである。しかし、一中佐が立案した作戦計画がほとんど採用されたのも、上長に服部大佐があったからこそ、なのである。それだけに、いざ対米英開戦となってからの南方での連戦連勝に、服部・コンビの得意やまさに思うべしであった。
とくに参謀の活躍たるや天馬空を|征《ゆ》くという形容そのものである。しかし、この「不死身で戦争が好きで好きでたまらぬ男」が、戦場でおこなった拭うべからざる道義上の汚点につき当ると、思わず背筋に冷たいものが走るのを感じるのである。
その一つはシンガポールで、占領直後にやった抗日系華僑の大量虐殺であり、他の一つは終戦直前の、敗走のビルマ戦線で他人にも強いた人肉食用である。
かつての上司であり、をよく知る元関東軍参謀|片倉衷《かたくらただし》氏が書いている。
「は……敵を凌駕する勇気を養うため、英兵の生肉を食用に供させた……この点について、真向から筆を取ってを書いた者は、これまでいない。だが、いくら悪戦苦闘の戦陣中とはいえ、参謀勤務でありながら、自分ばかりではなく、他人にまでそうさせたことは、人間として私には許せない」
いや、だれにも許せぬことであろう。
冷徹無比といわれる服部参謀は、そうしたと知っていて重用したのであろうか。
ただ“勝つために”という男が必要なのだと、冷徹だからこそ、|満腔《まんこう》の信頼をおいたということなのか。
戦後、は参議院選挙にうって出て当選、国会の壇上で|獅子吼《ししく》した。そのたくましい行動力は昔のままであったが、それを百パーセント活かす頭脳がうしろにいなかった。そのため政治家としては不遇な一匹狼に終った。
そして服部は連合軍総司令部(GHQ)に認められ重用され、その歴史課に勤務するなど、見事な転身ぶりを示すのである。しかも服部は、GHQのウィロビー将軍に深く信頼された。ウィロビーが服部を中軸として、旧日本軍将校を主体とする参謀本部(仮称)の編制と、日本軍隊の建設をマッカーサーに提案した裏には、あきらかに服部の献策があったのである。
ときの首相吉田茂はこれを知って強硬に反対した。「東條側近で太平洋戦争の開戦に参画した旧軍中堅幹部を主体とした再軍備は、絶対に不可なり」と。当然である。
また、もいう。「防衛問題については|傭兵《ようへい》的性格を是正し、日本的自衛軍をつくり、編制、装備、訓練に根本的改正を加えること。そのためには憲法を改めて祖国の防衛は国民の崇高な義務であることを明かにし、自衛隊の精神的基質を確立すること」(「偕行」昭和三十年一月号)。かれもまたもう一度、軍を率いる夢をみつづけたのか。
ともに「よくやるよ」というほかはない。わが非を恐れず、正当化もここまでくると天才的である。
結局、戦後日本再軍備の主柱となりえず、服部が世を去ったのは昭和三十五年四月。翌年四月、あとを追うようには参議院議員のまま、ジャー平原に入り一切の消息を絶った。なんのためにラオスに潜行したのか、さまざまな臆説だけが残されている。
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対米開戦へ引っぱった海軍の主戦派
日本海軍が無謀な対米英開戦になぜノウといわ(いや、いえ)なかったのか。解くカギはさまざまにあるが、根本的にはときの海軍中央(海軍省・軍令部)の中堅幹部に、開戦は歴史の必然あるいは運命とする“戦争宿命論”が支配的であったことにある。かれらの戦略観からは、米英は打倒されなければならない仇敵であった。
フランスの哲学者アランはいう。「宿命主義は、根本的には悲劇的情熱であって、悲劇のうちに力と理由とを見出し、荒々しい満足を感じるのである」と。
これは、アランのいう「悲劇的情熱」の物語といえるかもしれない。
“対米強硬”人脈
戦前から敗戦まで、天皇第一の側近として政治・軍事の動きに知悉していた元内大臣|木戸幸一《きどこういち》は、戦後に「取調べ記録」と題するノートを克明につけている。これはA級戦犯容疑者として、巣鴨に収監され、国際検察局のきびしい訊問に答えたことを備忘録として、木戸がその日のうちに記したものである。その取調べ第一回(昭和二十年十二月二十一日)の記に興味深いことが書かれている。
「……(開戦の動機について)海軍が油の禁輸の結果焦燥気分となり、其の中堅将校中に急進強硬論の出たる事情を話す。此の点は|聊《いささ》か意外とせしやに見受けられた。海軍の強硬論者の氏名を問はる。|末次信正《すえつぐのぶまさ》、|中村良三《なかむらりようぞう》、石川大佐等を挙ぐ。……」
実は、粟屋憲太郎ほか編の『木戸幸一訊問調書』によれば、これはキーナン主席検事の問いに答えたもので、さらにこのあとサケット捜査課長の「誰が対米戦争の準備を急ぐのに積極的だったのか」という質問に、海軍側の中堅リーダーとして、
「さきに石川などの名前をあげましたが、彼の上に岡がいました」
と内情をさらに明らかにしている。
末次も中村もともに海軍大将、いわゆる艦隊派の頭領格である。この時点では二人とも故人。そこで検察側は「あなたは故人ばかり挙げている」と木戸を皮肉ることになるが、ほかの二人は存命であった。|岡敬純《おかたかずみ》中将と|石川信吾《いしかわしんご》少将である。それにしても、この余り名の知れぬ二人を木戸が名指したのは、米検事団にはある意味では不思議なことであったかもしれない。だが、不思議でも奇妙でもなかったのである。
戦後、いわゆる条約派の|米内光政《よないみつまさ》・|山本五十六《やまもといそろく》・|井上成美《いのうえしげよし》のトリオを、海軍関係者および海軍シンパが特筆大書することによって、見事なほど陸軍悪玉・海軍善玉が昭和史の上で定着した。それはかならずしも正確ではない。木戸がいみじくも喝破したように、対米開戦までの|紆余《うよ》曲折の道程において「日本の歴史上、このときほど陸海両軍の若手将校たちが緊密になったことはな」く、ひたすら直進していったのである。その海軍側の牽引車が石川大佐(当時)であり、それを背後から支えたのが当時の軍務局長岡少将であった。
岡は海兵三十九期、山口県出身。大正十二年に海大を優等で卒業。四歳年下の石川は海兵四十二期、山口県出身。海大を昭和二年に卒えている。つまり二人は郷里を同じくする。
かれらが中堅の佐官になるころまでは、艦隊派・条約派に分裂することもなく、海軍は一枚岩の団結を誇っていた。かわりに出身地や出身学校の先輩後輩のつながりが強かった。海軍強硬派の御大である末次信正大将も、同じく対米不信の、のちの外相|松岡洋右《まつおかようすけ》も山口の産。かれら(とくに石川)はこれら先輩に実によく可愛がられた。さらに、岡と石川は中学(東京目黒・攻玉舎)の先輩後輩の間柄でもあった。当時、海兵予備校とまでいわれた攻玉舎出身の先輩には、|加藤寛治《かとうひろはる》大将・末次大将とならんで“艦隊派の三羽烏”といわれた高橋三吉大将があり、また艦隊派に同調した|大角岑生《おおすみみねお》大将もいた。
岡と石川は若くして主流の、加藤・末次の流れをうけつぐべき“対米強硬”人脈のなかの貴重な人材であったのである。そしてロンドン軍縮会議(昭和五年)いらい、条約派対艦隊派に分裂した海軍のなかにあって、二人は陰陽あい助けあって海軍政策を推進した。木戸が強硬派として末次・岡・石川の名をあげたのは、単なるかれの保身のためや、口からの出まかせではなかったと思われる。
超大型戦艦建造案
満洲事変の拡大で大きく状況が変化してから三カ月後の、昭和六年十二月十日、大谷隼人の名で『日本之危機』という本が発行され、五日後には再版と、大きな話題をよんだ。二百数十ページのなかに「満蒙の重大性」「米国の西進」「国策と軍備」などの各章がならんでいる。国防の未来論というべき書で、明らかに陸軍の満蒙での策謀に一脈通じている内容だった。著者は説く。
「東洋に対する米国の野心は一八五三年ペルリの浦賀来航当時すでにその|鋒鋩《ほうぼう》を現わし……一八九九年ヘイの門戸開放宣言なるスローガンを考え出して支那侵略戦の火蓋を切った……」。つづいてワシントン・ロンドン両軍縮会議にいたるアメリカの野心と企図を列挙し、「すべては支那、満蒙侵入のため米国が立案した整然たるプログラム」である……。それゆえに日本は「生存権確保のための民族的一大行進」を行わねばならぬ。この一大行進とは具体的にはアジア・ブロックの形成、つまり日本の満蒙占領である……、と。
こうした論法は、右翼やアジア主義者に共通の、いわば常套的なものではあった。だが、この大谷隼人が実は軍令部第二班課員石川信吾少佐のペンネームとなれば、おのずと話は別となる。「軍人ハ政治ニ干与スベカラズ」の鉄則などどこ吹く風の、思いきった行動であった。
とくに強く押しだされた反米意識が、前年のロンドン会議後にもちあがった“統帥権干犯”問題をめぐり、大きく分裂した海軍内部に、とくに中堅士官に与えた影響は大きかった。
「ワシントン会議は……米国の勝利、日本の敗戦となり、ルーズヴェルト以来の米国の極東侵略策はその成功に向って大きく歩を踏みだしたのである」
「ロンドン会議は、米国に関する限り……侵略戦を予期したものであり、軍縮ではなくて軍拡であり、世界平和でなくて、日本を屈服しての米国の平和であるのだ」
こうした思いきった論法が、軍縮そのことに鬱屈した気分を味わい、国際協調を説く条約派にあきたらぬ想いをかみしめる血気の中堅士官の胸中に、火をつけた。とくに第一次大戦(大正三年〜七年)中、日本は「大英帝国の番犬役」としてさんざんに働いた。にもかかわらず、戦争が終ったとたんにイギリスは日本をふり捨ててしまった、と憤慨する海軍士官が、そのころは部内に多くいた。ワシントン条約締結にともない日英同盟も葬られ、造船将校のグリニッチ海軍大学留学も大正十二年で打切り。「英米は日本に冷淡になり、もはや信用することはできぬ」という悪感情が、青年士官にとりついた。そして反作用的に、勃興するナチス・ドイツにたいする親近感がうまれていた。
そんなときに、石川少佐の激越な反米英かつ対米強硬論が声高に主張された。国家革新の激しい気持をいだく若手士官の間で、才気縦横の石川がもっとも「話せる存在」になっていったのは、しごく自然のことであった。性格にバランスを欠き、唯我独尊的、考えに狂信的なところのあることなど、だれも問題にしなかった。
その石川がさらに頭角をあらわしたのは、昭和八年十月、長文の意見書「次期軍縮対策私見」を、加藤寛治および加藤を信奉する艦隊派で固められた海軍中央に提出したときである。もはやペンネームではなく、堂々と対米強硬策を力説した。
――満洲事変を機に、日米のアジア政策は正面衝突し、アメリカは東洋進攻作戦に必要な諸般の準備を着々として進めている。さらには英国およびソ連も陰に陽にアメリカを支援しつつある。このとき、それに対抗し、侵略意図を不可能にするためには、軍縮条約から脱退し、兵力の均等をうることが絶対条件である。
軍縮を決裂させても、近年の日本の産業、文化の長足の進歩と、満蒙の経営によって、状況は大きく異なり心配はなくなっている。無条約時代に入ったならば、その後十年間に、パナマ運河を通れぬような超大戦艦五隻を建造、これを中心とする、日本の国情に合った効率のよい軍備を充実することによって、対米勝算は得られるのである――。
ときの、無策の海軍首脳は、この案にとびついた。軍縮条約に縛られた劣勢比率が、いかに士気に害毒を与えてきたことか。このがんさえ切除すれば、「我海軍はそれより生ずる士気の振興と自信とにより、たとえ想定敵国の何分の兵力なりといえども必勝を期し得ること、日露戦役の如くならん」と豪語する加藤・末次の論を大義名分に、海軍中央は軍縮脱退に突き進んだ。(ワシントン条約廃棄は九年十二月に決定)
そして、軍令部が艦政本部に、四十六センチ主砲八門以上、速力三十ノット、パナマ運河を通れない超大戦艦――大和・武蔵・信濃などの建造要求をだしたのは、実に、石川提案のあと一年たった昭和九年十月のこと。これによって「主力艦兵力比較ノ尺度ハ根本ヨリ変革セラレ……一躍我ガ方ノ絶対優勢ニ帰ス」と。石川の得意は思うべしとなった。
二・二六事件の嵐
石川はさらに昭和十年十月から約十カ月にわたって、東南アジアとヨーロッパ、アメリカの視察旅行にでかける。そして独特の世界政戦略の仕上げにかかるのである。このとき石川がつかんできたのは、南方地域(特に石油資源地帯)の重要性にたいする認識であった。そしてまた、軍事国家化するナチス・ドイツに驚嘆した。ドイツの覇気とイギリスの|凋落《ちようらく》を目のあたりに見、ドイツ駐在武官の|神重徳《かみしげのり》少佐から、
「一九四〇年ごろ、ドイツは実力をもって立ち上り、ヨーロッパの地図を変える」
という悪魔的な観測予言をしっかりと耳にとめてくる。
七月末に帰国した石川は、大いに意気ごんで視察報告ともいえる「帝国ノ当面スル国際危局打開策私案」を提出した。昭和八年提出の「私見」と違い、「私案」では、米英との建艦競争は楽観できないとし、さらには米英オランダ三国の包囲下に日本はあり、文字どおり四面|楚歌《そか》である、と危機感を論じ、このまま放置すれば、
「九死ニ一生ノ戦争ニ訴ヘ局面打開ヲ策スルカ、戦ハズシテ屈スルカノ二途何レカヲ選バザルベカラザルニ至ルハ、|蓋《けだ》シ必至ノ勢ナリ」
それだからこそ、これからの日本のとるべき道は、いかにしてこの包囲態勢を突破するかに、基本方略を定めねばならない。海軍政策としては、軍備補充計画をどんどん進め、昭和十六年までに国防力を充実させておく。なぜならそのころドイツは立ち上るであろう。そのときに米英蘭の包囲陣を打開する無二のチャンスがあり、
「和戦両様ノ構ニ立ツ外交威力ノ発揮ニ依リ局面ノ一大転回ヲ計リ、以テ当面ノ危局ヲ脱スル……」
と「石川私案」は|滔々《とうとう》として論じたのである。国際問題をパワー・ゲームとして処理しようという考え方である。
しかし、このときの海軍中央は「甚だ冷淡」に石川を迎え、意見を聞き流した。そればかりではない、海軍政策樹立の中核者たらんと意気ごむ石川は、予想さえしない脳天への一撃を|喰《く》らうことになる。この年に起った二・二六事件が、陸軍のみならず海軍にたいしても粛軍、統制強化の嵐を吹きつけたからである。一挙に時勢が変っていたことを、日本にいなかった石川は察することができなかった。
加藤・末次・高橋の艦隊派は、真崎甚三郎や荒木貞夫の皇道派とよしみを通じていた。その皇道派が一朝にして勢威を失ったいま、海軍部内でも、加藤・末次の流れをくむものにも自粛が強く要請されていた。とくに石川はロンドン条約いらい海軍軍人としては珍しいほど、政治的に動いてきた。海軍の“青年士官”たちの兄貴分的存在だった。「実行力もあり雄弁家」という評価も、こうなると「|越軌《えつき》の行動が多く煽動家」と変じた。そんな危険な人物を中央部にはおいておけないのである。いや、海軍そのものがかれを必要としなくなっていた。処罰罷免の声があがった。つまりクビである。
ときの軍務局長|豊田副武《とよだそえむ》中将は、石川をよぶといった。
「貴様をクビにするかどうかだいぶ議論があった。クビにせよの意見のほうが強かったのだが、岡大佐が頑強にいい、岡が貴様の身柄を預かることになった。いいか、今後はおとなしくせよ」
幸運というほかはない。同郷にして中学の先輩岡大佐(当時・海軍省臨時調査課長)が救いの手をさしのべてくれた。石川のような海軍に例をみぬ異材を放りだすのは、海軍の損失になると、真剣に上長を説得した。と同時に、石川の「海軍が何だ」の鼻ッ柱の強い気持を|和《やわ》らげることにも成功する。
こうして一時、石川は岡調査課長のもとにあずかりとなり、三カ月後のその年の十一月、特務艦|知床《しれとこ》の艦長として赴任することになる。左遷はきわめて明瞭だったが、石川の首は曲りなりにもつながったのである。岡の一言が、海軍にとって、いや日本にとって、どんな結果をうむことになるか、その時点でだれにもわかるはずもない。歴史の恐ろしいところ、というほかはない。
会議向きの政将
石川を救った岡は、“どん亀”といわれる潜水艦出身の、秀才ながら若いときからあまり目立たぬ人物で終始した。だが、昭和十一年暮から一年間、潜水母艦|迅鯨《じゆんげい》艦長として海にでたほかは、昭和初頭の少佐時代からずっと一流コースである軍令部、海軍省の中枢の勤務をつづけ、軍縮問題や国際連盟問題など軍政面で着実な実績をあげてきたいわゆる調整役。海大優等卒が物語るように、昭和海軍の官僚化した部分をうけもつ典型的な事務軍人であった。
戦後、東京裁判で、A級戦犯として|永野修身《ながのおさみ》、|嶋田繁太郎《しまだしげたろう》両大将と肩をならべて、海軍側三被告のひとりとして岡は裁きの庭に立ったが、だれの目にも地味で小柄で、とても有能な軍人とは見えず、被告席ではいつも前屈みの姿で眼を閉じていた。その半生と同じように、まったく目立たぬ存在に映ったといえる。が、陸軍側の被告が、不思議がる弁護人にこんな述懐をもらしている。
「陸海軍の交渉で岡がおとなしいので、いい気になってやっていて、後になってみると、いつの間にかこちらがバッサリ、してやられていた。あれは相当な男だよ」
穏和であり慎重である印象の裏側に、策士的な、寝技師的な鋭鋒をひめていたというところか。たとえば昭和十一年に海軍は海軍制度調査会をつくったが、臨時調査課長の資格で、第一・第二・第三とわかれていた各委員会の幹事を兼ねていたのは、岡大佐ひとりである。かれがいかにとりまとめ上手な、根回しのいい会議向きな政治的官僚軍人にできているかを、如実に示している。三代目の昭和海軍は、組織いじり、あるいは制度いじりの巧みな、岡のような政将をも必要とした。
その岡が、二流の軍歴をたどりながら、内外どちらにたいしても派手な言動で、とかくの評判をとる石川を支持したのは、同郷・同中学出身という内輪な感情だけであったと思えぬことは、改めて記すまでもない。岡もまた、はげしい反英米感情を抱く艦隊派の流れに乗る人物であった。とくに日中戦争がはじまってからは、対米英との新しい対立関係が重なり、異常なまでに対米英|敵愾心《てきがいしん》を燃やす軍人の代表ともなった。
石川がドサ回りに去ったあと、この地味な岡が、昭和史の表面に躍りでねばならぬときがあった。昭和十四年の日独伊三国同盟をめぐる紛糾である。折から海軍は米内・山本・井上のトリオが中央にあり、断乎反対でテコでも動こうとしなかった。しかし実のところかれら三人は、陸軍にたいしてだけではなく、陸軍に共鳴する海軍中堅層(とくに海軍省軍務局)の激越な主張とも対処せねばならなかったのである。軍務局第一課長岡大佐、神重徳局員、|藤井茂《ふじいしげる》、|柴勝男《しばかつお》らがその急先鋒となって同盟賛成論をとなえた。
「日中戦争は、つまるところ対英外交戦に帰着する。だから事変解決のためには独伊と組んで、対英外交のバックを強化すべきだ」
と岡たちは頑強に主張した。山本・井上は、三国同盟は対米英戦につながると、これを一笑に付した。これに岡たちは反論する。
「伝統的に孤立主義に固まっているアメリカが、強力な日独伊に対抗し、いまや落ち目のイギリスと組む危険はない」
海軍首脳のトリオが、これら部下の下剋上を封じる手段としてとったのは、基本方針も審議内容や経過をも、いっさいかれらに関知させないことであった。これが主務者である岡たちを憤激させ隠微な反対運動に走らせた。そして、首脳三人は次第に部内でも孤立化して浮き上っていった。それが実相なのである。
結局、三国同盟問題はこのときはいったん雲散霧消したが、海軍部内に残したものは大きかった。
米内・山本・井上にたいする深刻な誤解であり、不信である。さらにはかれら中堅層の意図に反する海軍政策にたいしての|苛立《いらだ》ちであった。それでも海軍部内を辛うじて抑え得たのは、トリオの強烈な人格力であった。しかし、それはまことに個人的なものでしかなかった。だから、この三人が海軍中央を去ったとき、歯どめがゆるんだばかりではない。猛烈な反動が起ったのである。
軍務局第二課長
昭和十五年十月十五日、岡少将は軍務局長に栄進し、海軍政策の中心に位置した。第二次大戦はとどまるところなく激化し、世界情勢は急変につぐ急変で、日本はいかに生きるべきかの、緊急解決をせまられていた。北部仏印進駐・三国同盟締結後の、米英からのきびしい経済的圧迫と軍事的威圧にたいし、国策も海軍政策も完全に行き詰まりつつあった。しかも、ときの海軍トップにはさしたる戦略観も、定見もない。
新任の岡局長がそこで、その政治に敏なる頭で考えだしたのは、陸軍にひきずられることなく、この状況に対処する強力な政策を、海軍も独自にもたねばならない、ということである。そのために、自主的に国防政策を策定すべく事務機関をつくる。これを軍務局第二課とする。この組織改造は、たしかに陸軍に対抗できる政策をもつための名案であった。人事局は、その二課長に|矢牧章《やまきあきら》大佐を充てようとしたが、「陸軍関係に知人もないし、自信もない」と矢牧大佐は断わり、かわりに石川信吾大佐を推してきた。
石川はこのとき、「おれはもうやめるよ」とぼやきつつ、そのたびに岡たちに説得され、田舎まわり数年の不遇をなめていた。すでに三年たつ。だが、岡の推薦もあって、この年の初めに石川は、興亜院政務第一課長として東京にいつの間にか戻ってきていたのである。戻ってきていたばかりではない。希代の「政治軍人」は水を得た魚と化していた。海軍とは直接関係はなかったが、精気|溌溂《はつらつ》、談論風発の政略マンよろしく自家用車をのりまわし、今日は松岡外相、明日は近衛首相とかけめぐり、夜は料亭で政治家や官僚、財界人と盛大に飲んでいた。
陸軍の鈴木貞一、武藤章。外交畠の松岡、白鳥敏夫。そして右翼の岩田愛之助らが、石川とツウカーの間柄になっているのである。
そんな石川を|要《かなめ》ともいえる新設の二課長にすることに、海軍省人事局は猛反対した。
「石川大佐は“不規弾”の確証のある人物である。その性格からみて、二課長のような重要配置におくのは危険きわまりない」
一斉射撃で飛びだした砲弾のなかには、ときにあらぬ方向へ飛んでいく一弾のあることがある。それを不規弾という。石川はまさしく昭和海軍が生んだ不規弾であり、海軍部内をとびこえて政・財、外務など各界の“対米強硬”陣営のなかに広い知己をもつ、有能だが危険な人物であったのである。そんな男に二課長はまかせられぬ……。
だが、人事局の意向に軍務局長岡少将から強烈な反対意見がよせられた。ぜひ石川をよこしてくれ、ほかに人材はない、の強い要望に、人事課長|島本久五郎《しまもときゆうごろう》大佐は頑強に拒否し、人事局長|伊藤整一《いとうせいいち》少将に意見具申。その旨を岡局長に回答したが、重ねて強い要望がきた。
「人事局長は石川を嫌っているようだが、自分なら使ってみせる。石川は陸軍のたくさんのものを知っているし、情報もとれる」
そうまで軍務局長からいわれては、人事局も折れるほかはなかった。
新任の軍務局長となった“陰”の岡は、自分にはない、また不得意とする対外的政治折衝、とくに陸軍と張り合うための手練手管を、目をかけてきた“陽”の石川に期待したのである。おそらくかれの機略とともに、この“不規弾”が日頃からくまなく張ってきている情報網が、政治にうとい海軍首脳に珍重され、これからの政策確立のために大いに役立つであろう。そしてまた、この岡の期待は、まさしく髀肉の嘆をかこつ石川にとっては、ワシントン会議いらいの米国戦略に対抗し、これを打破するためのおのれの抱負経綸を実現すべき絶好の機会到来となった。
さらに岡軍務局長を中心に、海軍中央は対米戦争への有事のときに備えて、人事や機構の整備も完整をめざし着々と手を打ち、昭和十五年暮にはほぼ陣容をととのえる。軍務第一課長|高田利種《たかだとしたね》大佐、軍令部第一課長(作戦)|富岡定俊《とみおかさだとし》大佐、そして石川、すべては岡少将と志を同じくするものが先頭に立つ。
十二月には“南洋王”と称され、海軍南進論の先駆である|中原義正《なかはらよしまさ》少将を人事局長にすえた。かれもまた岡・石川と郷里を一にする。
同志の藤井茂中佐がいった。「金と人(予算と人事)をもっておれば、このさき何でもできる。予算をにぎる軍務局が方針をきめて押しこめば、人事局がそれに適した同志を必要なポストにつけてくれる」と。
「この戦争はおれがはじめさせた」
こうして“太平洋戦争への道”を押しひらくための海軍中央の中堅陣容は完整する。岡はその上で、海相|及川古志郎《おいかわこしろう》大将の認可を得て、「海軍国防政策委員会」を発足させ、機構を整備した。のちに井上成美中将に「百害あって一利なし」ときめつけられたこの政策機関は、第一から第四まで四つの委員会により成っていた。その中心となったのが第一委員会で、国防政略や戦争指導方針を分担業務とした。
委員は海軍省から高田一課長、石川二課長、軍令部から富岡一課長、|大野竹二《おおのたけじ》戦争指導部員の四大佐で、幹事役として藤井茂、柴勝男(ともに石川の部下)と|小野田捨次郎《おのだすてじろう》(作戦課員)の三中佐が配属された。
高田大佐がのちに語った。「第一委員会が発足したのちの海軍の政策は、ほとんどこの委員会によって動いたとみてよい。……この委員会の中心は何といっても政策担当の石川第二課長と、作戦担当の富岡第一課長であり、陸軍との連絡もこの二人で当っていた」
若いころから考えぬいて形成した独特の世界観をもち、それにもとづいて独特の戦略を抱懐する石川が「よし、海軍はおれが引き受ける」と肩で風を切り、自信満々でその衝に当ったさまが、|彷彿《ほうふつ》としてくるようである。第二課の部下であった|中山定義《なかやまさだよし》中佐はこう回想する。
「海軍の中のただ一人の政治的実力者を自認し、巨大な陸軍の政治力に立ち向かおうとする石川の姿勢は、|颯爽《さつそう》たるものがあった」
いくら颯爽としてもよい、いかに肩で風を切ってもよい。だが、颯爽として石川が樹立した政策は、正確に戦争への道であったのである。「政治が軍の垣根の外にあってはならぬ」といい、また「戦争必至の大局観をもって、戦争決意をおこない、その対策をたてよ」とも石川はいった。一言でいえば、いまや、英米の包囲陣の下に八方塞がりの日本の生きる道は、死中に活を求めるほかはない。そのためには、対米戦の決意を明定し、タイ・仏印に早急に武力進出のほかはない。すなわち中央突破の政略である。そう石川は大局から断定する。
かつて予言したとおり、ドイツは立ってヨーロッパを|席捲《せつけん》している。そしてわれに対米七割の戦力の整備も成り、マンモス戦艦大和・武蔵の完成は眼前である。「もうやるべきだ、負けはせぬ」と石川大佐はいい切った。
石川戦略の基調は、明らかに「日米戦必然」の宿命論である。石川は語っている、「私は昭和十二年当時から、支那事変をやめなければ、日米戦争になると考えていた」と。しかし、それはなにも海軍の“不規弾”だけの思想ではなかった。永野修身軍令部総長すらが、昭和十六年四月の就任直後に、「事態は危篤の病人と同じく、これを助けるには死生は別として、手術をほどこすほか道は残っていない」と語ったように、対米開戦やむなしの諦めの境地に海軍首脳もまた陥っていた。
昭和十六年七月末、日本は第一委員会(というより石川)の描いたシナリオどおりに、南部仏印進駐という強硬な政戦略を実行した。アメリカはこれに即応して、在米日本資産凍結、さらに石油の全面禁輸という|峻烈《しゆんれつ》な戦争政策を発動する。日米交渉妥結への最後の綱が切り落とされたにひとしかった。
石油禁輸という戦争必至の処置を知らされたとき、岡はいった。「しまった。米英の態度がシリアスになるだろうと考えてはいたが、まさかいま全面禁輸をやるとは……」
岡の想いのなかに、陸軍に張り合うために“不規弾”の政治力・情報収集力に頼りすぎ、“なしくずし”に戦争決意へと押しやられ、ついに国家を不規弾と化してしまった、という後悔がはたしてあったのか、どうか。
しかし石川は平然としてうそぶいた。
「当然あるものと覚悟していたさ。対米戦をやるなら、今年の秋だと早くから確信していた。石油は俺たちの生命である。その息の根をとめられたら、戦争さ」
その対米英戦争が開始されて、連戦連勝で提灯行列の赤い灯が東京を|蔽《おお》うように揺れているのをみながら、酒席で石川大佐はよく豪語したという。ときに四十七歳、男ざかりであった。
「この戦争は俺がはじめさせたようなもんだよ」と。
昭和二十年八月、天皇の聖断によって降伏ときまった夏、石川は少将、海軍運輸本部長として東京にあった。十五日正午の天皇放送に先立って部下全員を本部長室に集めた石川は、蒼白な顔を引締めて口を切った。
「天皇陛下は全面降伏を決意された。天皇が敵国の司令官の前に膝を屈して情けを請うがごときことは、日本の歴史にいまだかつてないことである。日本の国体は滅びた。二千六百年の|金甌無欠《きんおうむけつ》のわが国体はここに滅んだのである。本官はそれを思うと……」
不敵をもって鳴る石川はここまでいうと、白い手袋で眼を蔽ったまま、あとの言葉をつづけることができなかった。はたして、国を滅ぼした元凶として責任を痛感する、とそのあとにつづけるつもりであったろうか。石川は昭和三十九年十二月に病死したが、生前に米英の世界制覇の世界戦略が日本を自衛戦争にかりたてたのだと、抗議とも自己弁明ともとれる一書を記している。
岡は東京裁判で終身禁錮の刑をうけ、のちに出所したがあまり公的な場所には姿をみせず、昭和四十八年十二月にひっそりと世を去った。
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対米開戦・「居眠り大将」と「グズ元」の二人三脚
押したり引いたり、|威《おど》したり|賺《すか》したり、それが交渉術や説得術の極意であることは衆知のことであろう。昭和十六年夏からの、太平洋戦争への道程における海の永野、陸の杉山、二人の軍統帥部長の天皇にたいしてはたした役割は、およそそのようなものであった。一方は強硬論を吐いて驚かす、一方は叱責されて亀の子のように首をすくめて恐縮しきってみせる。そして二人がかりで歩一歩と戦争への道をひらいていった。
フランスの名参謀総長といわれたデブネー将軍はいう。
「指揮官の最高の能力とは、言行を一致させ得る意志力である」と。
二人の統帥部長の“戦略なき主戦論”は、まさしくこの戦訓に|背馳《はいち》するものであった。
叱られた杉山
無謀ともいえる対米戦争への道を大きく一歩進めたのは、昭和十六年九月六日の御前会議での国策決定である。
その前日の五日の夕刻、ときの近衛文麿首相と参謀総長杉山元大将、軍令部総長永野修身大将の三人は翌日にひかえた御前会議の議案をもって参内、天皇のきびしい質問に答えている。このとき提出した国策案とは、
一、米英に対し戦争準備をする
二、併行して日米交渉をすすめる
三、十月中旬になっても交渉成立の目途なき場合は、戦争を辞せざる決意をする。
というもので、外交交渉の妥結をねがう天皇には大いに不満なものがあった。それだけに五日の天皇の追及ははげしかった。
天皇 日米に事おこらば、陸軍としてはどの位の期間に片付ける確信があるか。
杉山 南洋作戦だけは三カ月くらいで片付けるつもりであります。
天皇 杉山は支那事変が勃発当時の陸相である。あのとき陸相として「事変は一カ月くらいで片付く」と申したように記憶している。しかし四カ年の長きにわたり、まだ片付かぬではないか。
杉山 支那は奥地が開けており、予定通り作戦がうまくゆかなかったのであります。
天皇 支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか。如何なる確信あって三カ月と申すのか。
この叱責に杉山はすっかり弱ってしまい、肩をすくめ、真ッ赤になり、ただ頭をたれたきりで答えることもできなかった。「太平洋戦争への道」を読むとかならずでてくるこの有名なくだりは、近衛が戦後に残した『手記』によるもので、第一級資料ということからすっかり定着してしまった。しかし、これはかならずしも正しくはない。第一に|兵棋《へいき》演習そのほかで南方作戦が五カ月はかかるというのが、陸軍統帥部の定論で、杉山総長がそれを誤って奉答するはずはないからである。
事実は、もっと突っこんだ質疑応答であった。天皇は三人の責任者に「なによりもまず外交である。できるかぎり平和的な外交でやるように。外交と戦争準備は並行せしめず、一と二とを入れかえるのがよい」と前提した上で、杉山に問いかけるのである。
天皇 南方作戦は予定通り行くと考えているか。
杉山 作戦は冬季に予定しておりますので北方方面に大した心配もなく、専念できます。海軍との協同研究の結果からみますと、南方要域攻略作戦は大体五カ月で終ることができると考えております。なおできるかぎりこの時日を短縮すべく努力いたします。
天皇 予定通りに進まないこともあろう。
杉山 作戦なれば予定通りに行かぬこともあります。ただし陸海軍にて数回研究しております上の結論なので、大体予定の通りできると思います。
天皇 上陸作戦がそんなに楽々できると思うのか。敵の飛行機と潜水艦もいる。
杉山 決して楽々とは思いませぬが、陸海軍は常時訓練をしてきておりますので、まずできると思います。
天皇 九州の上陸演習のとき(四月に行われた実戦演習を指す)船が非常に沈んだではないか。ああなればどうか。
杉山 あれは敵の飛行機を撃滅する前に、船団の航行をはじめたからでありまして、あのようにはならないと思います。(この辺から杉山の答弁はしどろもどろとなりはじめる)
天皇 航空撃滅はできぬこともあろう。
杉山 はい、しかし、航空撃滅は一回というわけではありません。できるような時を選んで何度も実施することになります。
天皇 天候の|障碍《しようがい》はどうするのか。
杉山 はい、どんな障碍があろうと排除してやらねばなりません。
永野がだした助け船
こうしたはげしい追及ののち『近衛手記』にあるような天皇の叱責に近い言葉が、杉山にあびせられる。
「本当に予定通りできると思っているのか。支那事変のはじめに、杉山が陸相のとき、閑院宮(当時参謀総長)と一緒に報告し、介石はすぐ参るからと速戦即決を主張したが、はたして如何。いまになっても事変は長くつづいているではないか。あれは考え違いなのか」
杉山はすっかり|恐懼《きようく》して言葉に窮し、
「一挙に事変を解決するよう申しあげ、まことに恐縮のほかはありません」
と深く頭を垂れて立ちすくんだ。
このとき、みかねた永野総長がそばから助け船をだした。『近衛手記』によると、
「統帥部として大局より申しあげます。今日の日米関係は病人にたとえれば、手術をするしかない瀬戸際にきております。手術をしないで、このままにしておけば、段々に衰弱してしまうおそれがあります。助かる望みもないではありません。まだ七、八分の見込みのあるうちに最後の決心をしなければなりませぬ。統帥部としては、あくまで外交交渉の成立を希望しますが、不成立の場合は思いきって手術しなければならんと存じます」
と杉山にかわって答えたという。天皇はこんどはその永野に対して大声で|質《ただ》した。
天皇 勝つか。絶対に勝つといえるか。
永野 絶対とは申されません。事は単に人の力だけでなく、天の力もあり、算があればやらねばなりません。クラウゼヴィッツも戦争は必ず勝つと予言するのはまちがいで、勝算の多い少ないということがいえるだけであって、実際の勝敗はやってみなければわからないといっています。必ず勝つかと仰せられれば必ず勝つと奉答しかねますが、全力を尽して|邁進《まいしん》するほかはありません。
そしてこのあとも永野は長広舌をぶっている。大坂城の豊臣秀頼は、冬の陣での和議の結果、徳川家康に城の|外濠《そとぼり》を埋められ、間もなく起きた夏の陣で落城・滅亡した例をひき、相当の心配はあろうとも、大決心をもって国難排除を決意するよう、天皇に強く訴えるのである。
そして最後に永野と、気をすっかりとり直した杉山は、言葉をそろえていった。
「戦争を好むというのではありません。この国策案は、避くべからざる危機の場合に対処するためのみのものでございます」
天皇は、さらに念をおしている。
「それでは重ねてきくが、統帥部は今日のところは外交に重点をおくつもりだと解するが、それに相違ないか」
両総長はケロリとして答えた。
「その通りであります」
この確答をえて天皇は「わかった。承認しよう」といった、ということになっている。事実、宮中から戻ってきた永野は、幹部の部下に、いろいろご説明申し上げた結果「ようやく御気色もやわらいで、御前を引き下がるを得た……」とわが弁舌の効ありしを得々と語っている。
だが、この段階にまできての、外交による日米間の妥結など、およそ二人の統帥部長は信じてはいなかったのではないか。半年以上もかかって妥協のできぬものを、日時を一カ月に限って可能と考えたのか。少なくとも永野はほとんど信じていない。にもかかわらずケロリとして答える。このことは、最高の|輔翼者《ほよくしや》にウソを平気でつけるものを、それと知りつつおいていた天皇の不幸であった。いや、それ以上に、そうした軍事的トップに国家の運命がにぎられていたとは、日本国民の最大の不幸であった。
御前会議
今日に残されているいくつかの資料によって、宮中での秘せられた応答を長々と再現してみたが、これによってみても、助け船をだした永野の泰然にくらべて、杉山の|尻腰《しつこし》のなさが対照的である。善玉海軍と悪玉陸軍の定評の逆をいっている。
翌六日の、日本の運命を決した御前会議においても、同じ様相をふたたびみせる。|原嘉道《はらよしみち》枢密院議長より「……戦争が主で外交が従のようにもみえるが、政府・統帥部の趣旨を明瞭にうけたまわりたい」との質問があったとき、海軍大臣及川古志郎大将が政府を代表して答弁した。が、統帥部からはだれも発言しなかった。
そして、このあとに、これもあまりに有名なシーンが展開された。御前会議では黙って聞くのみで発言をいっさいしない天皇が、「突然御発言あらせられ」たのである。
「いまの原の質問はまことにもっともなことと思う。これにたいし両統帥部長が一言も答弁しなかったのは、甚だ遺憾である」
天皇はこういうと、懐中から紙片をとりだして読みあげた。
「私は毎日、明治天皇御製の、
よもの海みなはらからと思ふ世に
など波風のたちさわぐらむ
を拝誦している。どうか」
予想もしなかった展開に、満座粛然、しばらく一言も発するものなし、という状況のもとですっくと立ち上ったのは、このときも永野のほうであった。
「統帥部にたいするお|咎《とが》めは恐懼にたえません。実は海相の答弁がすべてを代表したものと存じ、ひとり合点しておりました次第であります。統帥部としましても外交を主とし、万やむをえざる場合は戦争に訴うる……」
あとから杉山がよたよたと立ち上った。
「永野総長の申しましたのと全然同じでございます」
この会議のあと、陸軍中央はさすがに「これは外交を妥結せよとの仰せだ」と正確に感じとった。「とはいえ、どうせ戦争なんだが、大臣や総長が天子様に押しつけて戦争にもっていったのではいけない。天子様がお諦めになって戦争の御決心をなさるよう、御納得のいくまで手を打たねばならぬ」と、外交にたいし熱心な姿勢を示しはじめるのである。
叱られて杉山もすっかり弱気になった。|茫洋《ぼうよう》とした風貌、左眉毛がさがり、細い目、骨格はがっしりしているが全体としては田舎の|老爺《ろうや》を想わせるこの大将は、外面とは違い、内面は細心|緻密《ちみつ》な性格、手堅く、|几帳面《きちようめん》な男であった。そして何より「国家イコール天皇」と考える天皇のよき忠僕なのである。つまりは三軍|叱咤《しつた》の戦将でもなく、|帷幄《いあく》にあって縦横に策をめぐらせる謀将でもなく、見せかけとは別の机上整理の上手な官僚的軍人であった。
明治十三年(一八八〇)、福岡県出身、陸軍士官学校十二期。陸大卒。ともに輝かしき成績を残したわけではなかったが、陸軍の長老|宇垣一成《うがきかずしげ》にみとめられ、エリートコースを歩みだした。それも「精励|恪勤《かつきん》、承詔必謹」が買われたためという。しかも二・二六事件後の粛軍で、先輩の大将連が退役し、いっぺんにトップに躍りでてしまった、いうところの“三等重役”。部隊勤務が少ない典型的な官僚軍人として次第に昇りつめ、教育総監から陸軍大臣へ。さらに参謀総長と、陸軍最高の三長官ポストを歴任したのは、昭和陸軍になってこの人だけである。
その陸相のとき蘆溝橋事件が起きた。部内統制の実力はなく、中堅幕僚の意のままに動き、みずから策をほどこすことを知らなかった。その結果、つけられたあだ名が「グズ元」、またの名が「便所のドア」、押されればどちらにでも動く典型的なロボット将軍の意。そのグズさは、国家最大の危機にさいしての参謀総長のときも同じであった。
「短期決戦で打って出る」
この「グズ元」が閑院宮が退いたあとの参謀総長の席についたのは、昭和十五年十月、日本は日独伊三国同盟を結び、ドイツのポーランド進攻にともない、世界大戦にまきこまれる危機に直面しようとしているときである。
杉山は参謀総長に就任したとき、側近に、
「参謀総長は陛下の幕僚長である。その務めは、何よりも陛下の威徳を守ることにある」
と、その心境をもらしている。その言葉のとおり、杉山が貫こうとしたのは天皇への忠誠だった。いや、忠誠というより忠僕主義といったほうがいいか。天皇に嫌われることを極度に畏怖した。当時六十一歳の杉山は、四十一歳の天皇の前にでると心身ともに硬直させた。その揚句に叱られては「また天ちゃんに叱られちゃったよ」とペロリと舌をだし、冗談めかしていうが、その実は頭をかかえて考えこみ、小心翼々、天皇の前にでて説明することをますます恐れるようになった。
たしかに、記録をみると杉山は実によく天皇に叱られている。叱られ役に徹している。昭和十六年となり、日米関係の悪化、独ソ戦の勃発など世界情勢の緊迫につれて、日本は南へは南部仏印への進出、北では関東軍増強による特種大演習(関特演)と、日和見政策をとることを決した。天皇の憂いは大きくなり、このころから杉山を叱る回数がふえていく。
「北にも支那にも、また仏印にも兵力をさき、八方手を出すことになるが、大丈夫なのか。支那事変処理の信念はあるのか」(七月四日)
「どこもここも重点がなく、兵力を分散して遂に困ることにならぬか。また兵力増強の結果、かえって関東軍が(ソ連に)手出しをするに至らぬか。特に注意せよ」(七月七日)
しかも、日本軍の南部仏印進駐の結果、アメリカは資産凍結、つづいて石油の全面禁輸という強硬手段で対応してきた。天皇は杉山にきびしく問いつめている。
「杉山は絶対に大丈夫と申しておったが、南部仏印進駐が、やはり米国の経済圧迫をうけることになったではないか。それにまた、関東軍充実のための動員、召集は各国に悪影響を与えつつあるではないか。こんなことばかりつづけていては、わが国の立場はだんだん悪くなるばかりではないか」(七月三十一日)
こうして一途に“叱られ役”で通し、ひたすら真ッ赤になって弁解につとめる杉山にたいし、一方の永野は天皇の弱気を励まし叱咤するかのように、たえず強硬論を開陳しつづけるのである。七月三十日(杉山が叱られた前日)、天皇は永野にもアメリカの強硬策にどう対処するつもりかを問うている。永野はひるむことなく答えた。
「三国同盟あるかぎり日米関係の調整は不可能なのであります。したがって石油の供給源を失うことになります。石油の備蓄は現在二年分ございますが、戦争となれば一年半で消費してしまいます。でありますから、このさい短期決戦で打って出るほかはないのであります」
天皇はこの決戦論にびっくりして、対米英戦回避が海軍の方針であったはずだが、海軍の方針は変ったのか、と問うた。
永野 いいえ、主義としては変りませぬが、物がなくなり逐次貧しくなるので、どうせいけないのなら早い方がよいと思います。
天皇 それならばもし戦争となった場合、その結果はどうなるというのか。提出されている書面には、勝つと説明されているから、自分も勝つと信じたいが、日本海海戦のような大勝は困難であろう
永野 仰せのごとく日本海海戦のような大勝はもちろんのこと、勝ち得るや否やも|覚束《おぼつか》ないと存じます。しかし戦さとは本来戦ってみなければわからぬものであります。いまならば戦勝の算があります。時を追ってはこの公算は少なくなるのであります……。
永野は天皇の憂慮をはらいのけるように、主戦論を力強く述べつづけるのである。永野が退出したあとで天皇は、内大臣木戸幸一にその胸中を訴えている。
「あれでは捨てばちの戦いをすることになり、本当に危険だと思うのだが……」
自称天才の主戦派
永野は杉山と同じ明治十三年生まれ、当時六十一歳。高知県出身。海兵二十八期、百五名中二番卒業だが、トップの|波多野貞夫《はたのさだお》が技術畑に進んだため、兵科将校としては永野がクラスの首席となった。そして海大卒で、ますます「特別あつらえのエリートコース」を突っ走ることになる。
容貌魁偉と自称する豪傑。青年のころ清水の次郎長に傾倒し、弟子入りしようとしたことがあるという|仁侠肌《にんきようはだ》の、からりとした性格。情と義に生きるのがモットーで、みずからは勇猛な大天才を誇っていた。が、まわりの目には「衝動的で、初もの好きの、決心の変りやすい居眠り大将」と映っていた。
この居眠りには注釈が必要かもしれない。総長室でこんこんと居眠りするか、ぐったりと椅子に身を沈めている大将の姿を認めては、口さがない海軍省詰めの記者たちが「後添いに三十も年の違う若い奥さんを貰っては、仕方があんめいよ」と噂していたという。
この「居眠り大将」が軍令部総長に就任したのは、昭和十六年四月である。実は前総長伏見宮の退任の話が出ると、連合艦隊司令長官山本五十六大将を筆頭に、心あるものたちが、米内光政大将の現役復帰、総長就任を強く及川海相に申し入れた。そこには米内・山本・|古賀峯一《こがみねいち》・|小沢治三郎《おざわじさぶろう》・井上成美らが結集することによって、海軍中央を建て直して対米不戦にもっていこうとする深慮遠謀があったのである。
だが、対米不戦の方針よりはむしろ対米戦覚悟への歩みにのりはじめていた及川は、山本の切々たる願いを聞き流して、永野を伏見宮のあとがまにすえた。それに永野は伏見宮お気に入りの提督でもあった。山本は天を仰いでいったという。「天才でもないのに、自分を戦略戦術の天才と思っている男が総長になったのでは、もう戦争ははじまったと同然だ」と。
山本の歎きは実によく的をついていた。永野の戦略観は、すでにして日米戦宿命論で一貫して固まっていたのである。そしてその戦術となれば、予防戦術論の一本槍。侵攻をうけると判断されたときには、機先を制して攻撃をかけ、相手国の戦力を叩き潰して侵略の危険性を排除する、これあるのみである。
対米比率七割の戦備を完整しているいまをおいて、敵の侵攻意図を潰滅させる絶好のときはない。これを逃せば、建艦に全力を投入しはじめたアメリカに、一年はおろか半年後に戦力において太刀打ちできなくなる。
この戦略戦術論を、天皇の前であろうと、大本営政府連絡会議であろうと、永野は断乎として主張し続け、変ることはなかった。
「アメリカは、英・蘭・中国と結んで包囲陣を形成しようとしている。そしてわが首をめぐる鉄鎖が完成したとき、彼のいうことを聞け、しからざれば締めるぞという|肚《はら》である。ことここに至っては決然立って未完成の鉄鎖を切断するのほかはなく、外交交渉による妥結など到底望みえない」(七月二十五日)
「国民の疲労していることは自分もこれを認める。しかし戦う以外に途はない。国民には辛抱してもらうのだ。……今まで芝へ行く、芝へ行くといっていたものが、にわかに本郷にも行けまいではないか」(七月下旬)
「いまなら戦勝のチャンスがある。この機は時とともになくなる」(九月三日)
「戦わざれば亡国、戦うもまた亡国かも知れぬ。前者は魂まで失った真の亡国、後者なら……児孫は再起するだろう」(九月六日)
「もはやディスカッションをなすべき時にあらず、早くやってもらいたい」(十月九日)
そして「こうなったら戦争だ」とことごとに部下にいう永野の言葉に煽られたかのように、海軍中央(とくに軍令部)は対米撃滅論の一色にそまった。それを眺めながら、
「何といっても課長級がいちばん勉強しているから、その意見を採用するのがいい」
と永野は、いわば平然と居眠りを続けていたのである。
二人三脚で開戦を奏上
歴史の皮肉としかいいようがない。国家危急存亡のときに、片やどちらにも動く「グズ元」といわれた参謀総長、片や自称天才の主戦派「居眠り大将」の軍令部総長では、天皇もやりきれぬ想いではなかったか。しかも“叱られ役”のグズ元を叱責している間は、天皇の胸中もいくらかはおさまることもあったかもしれないが。十月七日、その杉山総長は二人だけの会談で、ついに永野総長の強硬論に説得されてしまうのである。
永野 この上、なお外交交渉をつづけるというなら、かならず目的を達成する確信をもってやってもらう。十月十五日が和戦決意の時という考えは|毫《ごう》も変らない。
杉山 外交で目的が達成できると思うか。
永野 それは結局むつかしいと思う。陸軍はどんどんやって行くように見えるが、どうなのか。
杉山 いや、そうではない。慎重にやっている。
永野 それはいかん。九月六日の御前会議決定で「戦を辞せざる決意の下に十月中旬を目途とし戦争準備をする」ようおきめになったのは、語弊や美文ではないぞ。
杉山 そうだ、全く同感である。
その十月中旬がきて、外交的妥結ならず、近衛内閣は逃げだし、東條英機大将を首班とする内閣が成立した直後の十月二十一日、永野は杉山と会談して、明確にいった。
「内閣が更迭したとて、従来の決心は海軍統帥部としてはなんら変更していない。九月六日の決定の内容を変更する余地はない」
さらに翌二十二日、永野はもう一度杉山の尻を叩いた。
「作戦準備(展開も含む)は今や本格的にやる。わが要求を貫徹し得るという自信と見込みがもてぬなら、もう外交はやらぬがよい」
海軍統帥部の強腰を奇異に感じながら、陸軍統帥部も、ふらふらする「便所のドア」にしっかりと|蝶《ちよう》つがいをかって|驀進《ばくしん》を開始する。こうして杉山はもはや単なる“叱られ役”ではなくなっていった。永野との二人三脚で、天皇に堂々と対米開戦のやむをえないことを奏上するようになるのである。
戦いがはじまって、直後の真珠湾攻撃の大勝利に、永野は満面を笑みにして語った。
「それみてみろ、戦争はやってみなければわからんもんだよ……」
そして戦いがはじまってからの永野・杉山のコンビは、ますます肝胆相照らすようになる。手をたずさえて陸海相互の最高の秘密工場を視察したりした。大本営の一室で机をならべ、互いの心境を楽しそうに語りあったりした。
永野にたいしてはそれほどでもなかったように思われるが、天皇は杉山のよき忠僕ぶりを好んだようである。緒戦のまだ勝利のつづいたある日、東條・杉山との水入らずの懇談のとき、天皇は二人の将軍に面白いことを問うた。
「自分は酒は少量は身体によいので摂ることにしている。煙草は身体に悪いからやらないが、東條はどうか」
“カミソリ”東條は即座に答えた。
「私は万物の霊長でありますので、煙草は大いに好みます。亀や蛇など酒はのみますが、人にいちばん近い猿でもさすがに煙草はのめませんから」
天皇は間髪をいれず「杉山は?」と問うた。細い目をぱちぱちさせた杉山は、|朴訥《ぼくとつ》に答えた。
「私は酒が大好きであります。神様はみなお酒を上ります。ただし煙草は上りません。ですから私も煙草は余りやらないのです」
天皇はこの返事に心から|娯《たの》しそうに笑ったという。
戦勢がようやく傾きはじめた昭和十八年六月、永野と杉山はなぜか元帥の称号を得た。大本営での会食の席で、永野はいった。
「わしのようなボンクラが、よくもまあ、元帥にまでしていただいたものだと思うよ」
開戦前から何となく永野にリードされてきた杉山は、この手放しの喜びようにボソッとした声で応じた。
「閣下は眠っていても、ものが見えたり聞こえたりするからいいが、わしは眼があいていても、陛下の御前ではいつも冷汗三斗です」
戦い利あらずに責任を感じはじめた小心の杉山が、相変らず「敷島の煙草を下唇につけたまま居眠りする」永野の無神経にたいし、精一杯に放った皮肉であったかもしれない。
戦機はいまにありと推進した戦いに完敗したあと、責任をとり気骨を示したのは、グズ元の杉山のほうであった。八月十五日、天皇放送が終ったあと、幕僚長としての責務をはたしえなかったことを詫びる「御詫言上書」を書いた。そして杉山はその夜自決しようとしたが、終戦事務処理の責任ありといったんは思いとどまった。
杉山がすべての処理を終えて、四発の拳銃弾を胸に射ちこんで死んだのは九月十二日朝、すでに多くの人が生きることを考えはじめたときであった。
永野はA級戦犯として逮捕され、昭和二十二年一月、巣鴨の獄中で死んだ。東京裁判がはじまってまだ間もないときで、海軍のため大いに弁じようと闘志満々であったという、かれの意図は空しくなった。
[#改ページ]
伝統の海軍戦略を破った異端の二人
『孟子』のなかでもっとも知れ渡っている有名な言葉がある。
「天の時は地の利にしかず、地の利は人の和にしかず」
太平洋戦争前半の、海軍中央の軍令部と山本五十六大将率いる連合艦隊司令部との間の、ぎくしゃくとした、互いに反目するような作戦指導には驚かされるほかはない。だが、仔細にみれば、その山本の司令部内部も、かならずしも人の和がうまくいっていたとは思えない一面があった。
それは、すべてが主将たる山本の、独自の戦略戦術観にもとづく部下にたいする偏愛に因を発する。天の時、地の利を失うのも、そのためであったと思われる。
“どんでん返し”の人事
海軍中将山本五十六が、突然の政変のため、海軍次官から連合艦隊司令長官に親補されたのは昭和十四年八月三十日である。いっしょに海軍大臣を辞めた米内光政大将が、「山本をこのまま東京においたのでは殺される」と憂慮して、山本を海へだしたといわれている。ときの連合艦隊参謀長は|高橋伊望《たかはしいぼう》少将、先任参謀は|河野千万城《こうのちまき》大佐であった。山本の新司令部となれば、その陣容も一新されるであろうと、人事にかんするさまざまの風評が、海軍部内をいっときにぎわした。
いうまでもなく、艦隊なり戦隊なりの司令部の|要《かなめ》にあたる重要なポストは、先任参謀である。まして連合艦隊の先任参謀となれば、軍令部の作戦課長とともに、実際に手を下して、中心となって仕事をするもっとも円熟した人材の坐るべき位置とされた。参謀長は長官のよき話し相手であり、先任参謀の抑制監視役にすぎないので、実質的には先任参謀が連合艦隊を動かす重要な役割を与えられている。それだけに頭脳、体力、信望、教養ともに人一倍優れているものがえらばれてきた。
昭和十年代になってからも|金沢正夫《かなざわまさお》(昭10・1・1〜)|宇垣纏《うがきまとめ》(昭11・1・1〜)|中沢佑《なかざわたすく》(昭12・1・1〜)中原義正(昭13・1・1〜)河野千万城(昭14・1・1〜)と|錚々《そうそう》たる人物がその任をうけついできた。しかも、見るとおり任期は一年。
だから、来年度には長官も代り司令部も一新されるかもしれぬ。そのときには、先任参謀として当然あの男、と衆目の一致している人物がすでにいたのである。島本久五郎大佐で、海軍省人事局もそのつもりで業務をすすめていた。
山本が突然に親補される直前の八月中旬、日本海軍は四国沖で青軍(日本)対赤軍(敵国)の両軍にわかれ洋上演習をおこなっていた。青軍指揮官は連合艦隊司令長官の|吉田善吾《よしだぜんご》中将で、赤軍は海軍兵学校校長|住山徳太郎《すみやまとくたろう》中将が指揮をした。ところが、演習が終るころに|平沼騏一郎《ひらぬまきいちろう》内閣が、「独ソ不可侵条約」の締結で“複雑怪奇”の一言を残して総辞職し、ついで|阿部信行《あべのぶゆき》内閣の発足とともに、吉田が海相に、住山がそのまま次官に、そして次官の山本が連合艦隊司令長官へと、あわただしくトップ人事を決定した。来年度もへちまもない急転直下の異動だった。
この演習のとき、青軍の先任審判員を島本久五郎大佐がつとめていた。当時海軍大学校の教官だったかれは、すでに演習のはじまる前に、人事課長|大西新蔵《おおにししんぞう》大佐から転任を予告され、つぎのポストは連合艦隊先任参謀であると打ち明けられ、そのつもりでいた。
そこへ演習終了後の突発的なトップの異動があり、山本の率いる新司令部が誕生することになる。それでさまざまな噂が流れ飛んだ。しかし、島本の先任参謀は動くまいというのが、共通したものの見方であった。
山本が着任してから五十日後の十月二十日に、予定が早められて先任参謀の発令があった。だが、人事はすべて海軍省人事局の命課による、という海軍の伝統が打ち破られたかのように、内示ずみの島本大佐の名があっさり消えた。そして島本と海兵同期、同じく海大の教官で演習のときに先任審判員をしていた|黒島亀人《くろしまかめと》大佐が、先任参謀としてえらばれた。島本は大西の後任者として人事課長へ。
それは長官山本の意向による“どんでん返し”ともいえる人事であったのである。島本と黒島とでは海兵同期とはいえ人物がまるで違う、というのが一般の印象。席次の、島本の甲の上、黒島の乙の上という差はどうでもいいとして、その視野の広さ、たとえば島本は同年輩間では最大のアメリカ通であり、しかも山本の欠く潜水艦経験をもっていた。黒島は山本と同じ砲術出身。中国警備の体験があるくらいで国際経験は貧弱この上ない。しかも人間が奇矯である。
山本が島本を嫌って、しいて黒島を要望した理由が、ほとんどの人には理解がいかなかった。
「変人参謀」への信頼
少し遅れて十一月五日、参謀長に|福留繁《ふくとめしげる》少将が着任して、山本の新司令部は旗艦|長門《ながと》艦上にその陣容をととのえた。
連合艦隊司令部の日常業務がはじまってみると、副官や従兵ばかりでなく各参謀たちまでが、黒島大佐の聞きしにまさる変人ぶりに驚嘆させられた。プランニングはなるほど優秀かもしれないが、事務能力は皆無といっていい。スマートを旨とする海軍軍人らしさは片鱗もない。ひと月に一回くらいしか風呂に入らず、寝衣は|垢《あか》まみれのまま。口付き朝日(煙草)をひっきりなしにふかしながら、|濛々《もうもう》と煙を立て、灰をあたりかまわず落とす。会食にもめったに姿を現わさず、人を人とも思わぬ。司令部の従兵たちがやむなく下着まで買いそろえねばならなかった。
従兵たちは、先任参謀ではなく「変人参謀」とか「仙人参謀」とかげでよんだ。長身で|痩《や》せて、高く張った頬骨の|凹《へこ》んだ眼、どことなく遠くを見ているような異相の風貌から、同僚たちは「ガンジー」とあだ名した。半ばは蔑視を交えながら、である。
だが、この異相の参謀は、牧羊犬のように山本にだけは献身的であった。山本も風評を無視して黒島に深い信頼をよせ、軍令部にたいする交渉には、躊躇することなくかれを起用した。そして黒島の人間性を危ぶんでとかくの批評を直接に下すものには、山本ははっきりといった。
「優秀な参謀は数多くいるが、大体の発想法はおなじだ。顔が違えば考えが違っていいはずだが、質問すると、いつだって皆おなじ答えをする。おれの言うことに反対する者はあいつだけだ。黒島だけがおれの思いもつかぬ発想をだしてくれる」
山本にこれほど信頼された黒島亀人は、明治二十六年に広島県呉市郊外の貧しい|石工《いしく》の家に生まれた。ウラジオへ出稼ぎにいった父が急死し、母は同時に離婚となり、三歳で孤児同様になる。叔母夫婦にひきとられ、小学校を卒えるとすぐ家業の手伝いをし、中学の夜間部で苦学しながら、官費でゆける海兵をめざした。
実母がときどき訪ねてきたが、黒島はいささかも感情を動かすことがなかった。孤独を好む性格。無口で、他人にいささかでも心の動きをさとられるのを嫌う性情。自分ひとりで工夫し、考え、向学心を燃やすことで、自分自身を救わねばならぬ少年時代であった。後年の偏屈人がこの辺から形成されたとみられる。
海兵入学は大正二年、第四十四期生。卒業成績は九十五人中の三十四番。海軍特有のハンモック番号からいえば平凡なスタートということになろう。それでものちに海大の甲種学生を卒業、大器晩成の一面を示したが、昭和八年に一度、陸にあがって海軍省軍務局にあったほかは、重巡の砲術長など海上生活一本で通している。いわゆる赤煉瓦のエリートコースとは無縁であった。
昭和十一年末にふたたび海に出て、第四戦隊、第二艦隊のそれぞれ先任参謀をつとめたが、このとき第二艦隊司令長官が嶋田繁太郎中将。ここで黒島は嶋田の絶大な信頼をえた。とくに夜戦部隊である第二艦隊の用兵をめぐっての研究会で、黒島の考案は、よく重点をとらえ簡潔の上に、意外性にとみ奇抜で評判を博した。
山本と黒島の軍歴を重ねあわせると、容易に交差するところが見出せないから、黒島を山本に推薦したのは嶋田であったと思われる。型破りの着想をする先任参謀はいないかと、山本は海兵同期の友の嶋田に意見を求め、嶋田の口から黒島の存在を知って、ひき抜いた。事実は案外にそんなところかもしれない。
だが起用してみると、黒島は山本の意にもっともよくかなう男であった。
その性格に欠陥があろうと、日常の動作進退がいかに奇矯であろうと、山本はまったく意に介さなかった。海軍中央が、奇想のこの参謀に全作戦の中枢をゆだねることに不信の念を強く抱こうと、山本は委細かまわなかった。|抜擢《ばつてき》して自分の|膝下《しつか》においてより、みずからが戦死するまでの三年半、山本は異例の信頼をこの「変人参謀」におきつづけたのである。
海軍戦略への反逆
明治十七年新潟県長岡市生まれ、海兵三十二期の山本は、黒島の九歳上ということになる。最近になって凡将説まででるにいたったが、やはりその戦略戦術観は抜群のものがあった。ただ、かれのもつ最大の欠点は、人間にたいする不信ないしは偏愛にあったと思われる。
しかし、山本が黒島参謀を偏愛するもっと根本の理由を探ってみれば、山本の海軍中央にたいする不信感が底にどっしり根を張っているのである。「大体の発想法は同じだ」という言葉の裏には、明治いらい、あまりにも伝統的な“|邀撃《ようげき》漸減”という海軍戦略への反逆があった。そして対米比率七割あらば「米国恐るに足らず」と次第に声高に叫びだした統帥部に、山本は孤独の、果敢な戦いを|挑《いど》んでいたのである。
山本は、アメリカと戦って勝つはずはないと、誰よりも明確に考えていた。対米戦は国家を敗亡にみちびくといいつづけた。その戦争の先頭に立って戦わねばならないのは悲劇だが、それをどうしてもやれといわれるのなら、伝統的戦略や戦術を無視して“自分の戦争”をやるまでだと決心し、それに固執した。それが開戦冒頭の真珠湾攻撃であった。海軍中央が考える長期持久戦構想あるいは“邀撃漸減”の艦隊決戦による勝利など、かれにあっては、夢想でしかなく愚の骨頂なのである。ともかくも、攻勢の主導権をにぎり、短期決戦の連続で勝ちをおさめ、条件をつけての和平にもちこむ。それ以外に亡国を救う道はない、と山本は断言した。
いってみれば奇蹟をたのむほかはなかったのである。山本の戦術をどうのこうのと批判するよりも、積極的な対米開戦論者を責めるのがさきであろう。山本は既成概念に反逆する“異端”の作戦で、この奇蹟をよび起こそうとしたのである。しかも山本には越後人特有の孤高を楽しむ風があった。説明や説得を嫌い、わからぬものにおのれの心の内を語りたがらず、ついてくるもののみを好む傾きがあった。それがかれの人間にたいする不信、いいかえれば偏愛となってあらわれた。
山本が黒島を信頼したのは、黒島が性格的にも経歴的にも、その思考のあり方からも、既成概念から容易に飛躍することのできる異色の軍人であったからである。秀才にありがちな出世主義的な、官僚的なところもなく、正統に|憧《あこが》れたり固執することもなく、黒島はおのれの分のなかで考え、想を練り、出世など念頭になく生きていける男であった。しかも黒島は、山本と同様に、軍令部畑に足を踏み入れたことがないから、伝統的な考え方に縛られずに、容易に脱却することができた。
山本は、“自分の戦争”を実現するために、黒島参謀のなかに、無二の理解者と推進者とを見出したのである。山本は奇蹟の成立を公然と期待したところから、海軍中央のどんな意見や反対をも無視して、黒島を最後まで手放さなかったのである。
昭和十六年八月――前月の七月末の、日本軍の南部仏印に進駐によって、日米国交は極端に緊張した。もはや対米開戦は避けられぬと、この八月に戦時態勢に応ずる最後の人事異動を、海軍中央は実施する。それを直前にした一夜、呉市の料亭で連合艦隊司令部だけのささやかなお別れの宴がひらかれた。
黒島自身は、先任参謀として異例の二年近くの在職、当然転任になるものと覚悟していた。しかも人事局の内示案にも転任先がちゃんと書いてあったことも、参謀長から知らされていた。黒島は、山本の前に別れのつもりで盃をいただきにいった。
山本はニコッと笑って、
「お前には盃をやれんネ」
といった。盃をやらぬとはお前との別れはない、ということ。山本は人事局案をひっくりかえす腹を、黒島にみせたのである。黒島はその殊遇に感動し、この人のために死のうと改めて誓ったという。
ハワイ作戦計画
山本が黒島の異動に首をタテにふらなかったのは、いわば当然のことである。すでに山本の極秘の意をうけて、黒島はそのとき、寝食を忘れて真珠湾攻撃の作戦計画の完成に没入していたからである。昼も舷窓を閉じた真ッ暗闇の私室にこもって、|褌《ふんどし》一本、香をたき、ときに毛布を頭からかぶり、ひたすら|瞑想《めいそう》にふけって、黒島は奇想をあみだそうと一心不乱であった。どうしてそんな黒島を、山本が手放すことができようか。
これより前の十六年四月の定期異動のときも、黒島転任の内示案があったが、山本はこれを蹴とばしている。黒島の頭のなかに、やっと真珠湾攻撃のイメージが固まりはじめたとき。それが四月とすれば、その案がいよいよ結実しようとしているのが八月なのである。ハワイ作戦計画のハの字も知らず、平時と同じように水の流れるがごとき異動を行おうとしている人事局の考え方に、山本は憤慨せざるをえなかったに違いない。
四月の定期異動といえば、このときにも山本の、人間にたいする偏愛を証するようなことが起きている。ときの海軍大臣及川古志郎大将が、山本に「参謀長の福留少将を軍令部第一部長にくれ」と申しこんできたのである。
「時局もしだいに切迫してきたように思われる。ついては航空兵力を急造する必要があるのだが、財源の関係もあり、建造に四年も五年もかかるような大和・武蔵につぐ第三艦以後(四隻建造の予定)を中止しなければ、飛行機の増産が思うようにならない。ところが軍令部第一(作戦)部長の宇垣少将がどうしても、大艦建造中止を承知しない。軍令部第一部が艦船兵器の要求元であるから、このさい宇垣第一部長を福留に代えたいのだ……」
という及川に、山本は訊ねた。
「それで福留君の後任は?」
「宇垣でどうだ。交代ということで」
このときの山本の返事は、及川の予想をこえるほど強いものであった。
「宇垣少将は断わる。第一にまだかれは戦隊司令官も経験していないではないか」
山本のいった「戦隊司令官云々」の理由は、実はとってつけたものであった。山本は六歳下の宇垣が嫌いであった。明治二十三年岡山県生まれ。海兵四十期、宇垣は卒業成績百四十四人中の九番の俊秀である。だが、「鉄仮面」とあだ名される|傲岸不遜《ごうがんふそん》な性格、そして抜きがたいほどの大艦巨砲主義者。それだけに勇戦力闘型の闘将であるが、「海軍航空の父」ともいわれる山本とは、合わぬ戦術観をもっていた。
それよりも何よりも、山本が宇垣を嫌う理由は、山本が一命を賭してまで反対した日独伊三国同盟に、当時軍令部第一部長の重職にあった宇垣が承諾を与えたから、という点につきた。同盟を結ぶことが対米開戦を必至にすることを、作戦部長たるものが気づかぬはずはない、それを承知したことは、かれもまた対米戦積極派に|与《くみ》するものだ、と山本は宇垣を観じたのである。それが宇垣参謀長を“断わった”山本の真意であった。
やむなく宇垣は四月十日付で、第一部長から第八戦隊司令官に任命される。福留が第一部長に移ったあとの連合艦隊参謀長には、伊藤整一少将が着任した。あえて歴史に「もしも」を適用して、海大優等卒の冷静な知将の伊藤を間にはさんだ山本・伊藤・黒島のコンビネーションでそのままつづいたなら、と考えてみるのも興味深い。真珠湾以後の作戦経過はもう少しましなものであったかもしれない。
伊藤と山本とは縁が深く、互いに相知る後輩であり先輩であった。海兵三十九期は宇垣の一年上。伊藤が海軍大学校学生のころ、山本はその教官、さらに伊藤の霞ヶ浦航空隊、米国駐在、人事局長時代、山本は常にその上司として伊藤をつぶさにみていた。
伊藤は、山本のみるかぎり有能な知米派の部下であり、公正無私で偏らず、思慮周密、かつ|鷹揚《おうよう》な資質は参謀長としてまことにふさわしかった。かれならば、黒島をうまくさばくこともできそうに思えた。
だが、海軍中央はわずか四カ月後の八月の人事異動で、ふたたび宇垣を連合艦隊参謀長に押しつけてくるのである。断わる表面上の理由を失った山本は、こんどは受けざるをえなくなった。それに、戦争への道を歩みつつあるようにみられる海軍中央の強硬ぶりを憂え、気心の知れた福留に加え伊藤を軍令部次長として送りこむことで、戦争回避の方策を推進してもらおうとの、山本の深い思惑もあった。
しかし、それとは別に唯我独尊的な宇垣を押しつけられたことに、ついに釈然としなかったのだろうか、山本は宇垣をあまり信頼せず、よき相談相手としようとはしなかった。そして黒島により心を傾けていった。
宇垣の有名な戦時日誌『|戦藻録《せんそうろく》』に、なんと山本にかんする記事の少ないことか。酒席などいつも別々であり、これが長官と参謀長の間柄かと、疑わざるをえないそっけなさである。昭和十七年十二月に、戦艦大和艦長に着任した|松田千秋《まつだちあき》大佐に、宇垣はこうこぼしたという。宇垣は松田夫妻の仲人であったから、立ち入った話もできた。
「おれは参謀長とたてまつられてはいるけれどもね、ここでただぼんやりしているだけだ。戦さは山本さんと黒島さんがやっているんだよ」
「鉄仮面」と「変人参謀」とが人間的にそりの合うはずはなかった。長官・参謀長・先任参謀の間に十分な意思の疎通もなく、苛烈な戦いを指導していたというのだろうか。連合艦隊の作戦指導がしばしばぎくしゃくとして、不手際や|齟齬《そご》をきたすのも、そのためとみられるのである。
“二人の戦争”の終り
太平洋戦争の前半は、山本五十六と黒島亀人という異色のコンビによって戦われた、といってよい。
人情味豊かで、茶目で開放的な山本と、およそ正反対の性格(無口で人付き合いの悪く閉鎖的な)をもつ黒島とが、なぜあれほど相許し二人三脚で戦ったか、二人を知る人のほとんどが理解に苦しむという。事実は、その予想外のコンビが、伝統的、ということはマンネリ的になっていた海軍の作戦指導というものを、根本からくつがえしてしまった。かれらが「戦艦の世紀」「大艦巨砲主義」に終止符を打った。
日本海軍は、日露戦争後に制定された『国防方針』『用兵綱領』にしたがい、米海軍を仮想敵国として作戦計画の研究、訓練にはげんできた。それは、太平洋を渡ってくる米艦隊をマーシャル群島、さらにマリアナ諸島海域で待ちうけ、戦艦同士の日本海海戦なみの艦隊決戦によって撃滅する、という構想だった。それを山本・黒島のコンビは必敗の戦法としてしりぞけた。
そのかわりに、真珠湾攻撃につづく一連の攻勢につぐ攻勢作戦、そしてミッドウェイ作戦を敢然として実施した。これらは戦術の総本山軍令部の反対など押しきって、連合艦隊が推進した作戦なのである。黒島がハワイ作戦を認めさせるために、軍令部でいった有名な言葉がある。
「山本長官は、ハワイ作戦を職を賭しても断行すると主張しておられる。もし、この案が容れられなければ、皇国の防衛にたいしもはや責任がもてないと伝えよ、といわれた。長官はその職を辞するほかない。われわれ全幕僚も同様である」
黒島は「われわれ全幕僚も」といったが、より正確にいうなら「小官自身も」といいたかったにちがいない。そして同じ言葉はミッドウェイ作戦のときも、反対する軍令部に突きつけられている。
真珠湾攻撃の機動部隊参謀長だった|草鹿龍之介《くさかりゆうのすけ》中将は戦後に語った。
「黒島という男は、何を考えているか、さっぱりわからない変なヤツだった」
黒島だけではない。おそらく草鹿中将をはじめほとんどの提督たちには、伝統的戦法を|弊履《へいり》のごとく捨ててかかる山本五十六もまた、何を考えて全軍を指揮したのか、真に理解することができなかったのではないか。
しかし、ミッドウェイ海戦で|驕慢《きようまん》が災いして敗れたとき、山本の決戦主導の戦略は空の空たるものとなり、このときに、本質的な意味において、山本と黒島の“二人の戦争”は終ったのである。それでもなお黒島は、山本のために血と汗を絞った。奇謀怪策の通じない米海軍の、圧倒的な戦力をバックとする正々堂々の正攻法に抗して……。
ミッドウェイ敗戦いらい背骨をぶち折られたように消極的となった山本が、黒島を手放すことを決心したのは、昭和十八年四月。ガダルカナル撤退後に、ラバウルを基地として最後の攻勢をとった「い号作戦」が終った直後のことである。作戦終了後の打ち合わせで、四月十四日、山本は|草鹿任一《くさかじんいち》中将や|小沢治三郎《おざわじさぶろう》中将と三者会談をもった。そのときに山本はいった。
「これからは戦さのやり方を変えてみたい。さしあたり黒島を代えたいと思うが、小沢君は二回も海大教官をやったので思い当る適任者がいるだろう。推挙してもらいたい」
小沢はいった。
「|宮崎俊男《みやざきとしお》大佐(海兵四十八期)がいいと思います。黒島より四期下で若い。アメリカ駐在の経験もあり、奇想天外、無茶な戦法をやることもできるから適当と思います」
しかし、そのことは実現されなかった。四日後の四月十八日、飛行機にのって視察にとんだ山本は南の空に散った。当然長官機に同乗すべき黒島参謀は、数日前からの下痢のため、ラバウルに残っていた。そして山本戦死後の連合艦隊司令部の陣容一新に伴い、死に遅れた黒島は軍令部第二部長(戦備・補給担当)に転補されて日本内地へ帰るのである。
山本流の戦術眼をもつかれには、米軍が圧倒的な戦力で津波のように攻撃をかけ、日本軍は防ぎようもない末期的な戦況に及んでなおさら、正攻法では勝機もなく、戦争の終末が日本帝国の敗亡としか映らなかった。黒島の異端の戦法は、ついに特攻兵器の採用にまで行きついてしまう。回天、震洋、蛟龍などの特攻攻撃は黒島の発案になる。かれは結論する。アメリカと最後まで戦うために「我の最大の長所は特攻の無限なるに存し」ていると。戦争末期の黒島は、すでに鬼神の相貌であった。いや、すでに狂っていたという。
敗戦後の元海軍少将黒島亀人は、生き残ったものの家庭を捨て、交際を絶ち、孤独な瞑想生活に明け暮れた。過去のいかなる哲学や思想にも無縁の、かれだけの宗教的哲学の世界を構築し、そのなかに没入しきっていた。昭和四十年十月、奇才黒島は肺がんで死んだ。享年七十。息をひきとる間ぎわに、うわごとのように一言、
「南の空に飛行機がとんで行く」
といった。なつかしい山本長官の後を追っていたのかもしれない。
〈追記〉
戦後、防衛庁防衛研修所戦史室は生存の関係者から、山本五十六にかんするさまざまな証言を集めた。そのなかになかなかの適評がある。
「山本長官は非常に先の見える政治家的資質をもった人物のようである。自分の考えを表面に出して強行するようなことを極力避け、よく周囲の情勢を観察して、できるだけ摩擦を避け、円滑に自分の考えを実行に移していくタイプの人であった」
「かれの気性として、当然、少し勉強すれば、だれでもわかるはずの知識と解釈を勉強しないで、旧態を固守する“頑迷な”人々を相手に、時間をかけ、根気よく反覆し説明することなど、願い下げであった」
「親しい間柄の人々は、山本は情緒的で、好き嫌いが激しく、ナイーブで子供っぽく、わんぱく者である、と見ていた」
正反対のことを語っているようにみえて、実は同じことが語られている。
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ミッドウェイ惨敗をもたらしたもの
フランスの軍事的天才ナポレオンは、戦争について、あるいは指揮について、いくつかの|箴言《しんげん》を残している。
「勝利から没落への距離はただ一歩にすぎない。私は、最も重大な情況において、ほんのちょっとしたことが最も大きな出来事を常に決定するのを見てきた」
「軍人は才気と同じ程度に性格を持っていなければならない。才気は非常にあるが性格のほとんどない人々は、軍人には最も不向きである。才気はほとんどなくても性格があった方がよい」
あるいはまた、
「部下将兵を救ったり保持したりすることは第二義的なことにすぎない。将帥が大胆であり頑固であってこそ、将兵は救われるし保持される」
真珠湾攻撃、ミッドウェイ海戦さらに南太平洋海戦と、運命を決する戦闘を三度も戦った南雲機動部隊のことを考えると、これらの言葉の正当性に思いあたらざるをえないのである。
つかのまの勝機
連戦連勝で幕をあけた太平洋戦争の分水嶺が、開戦半年後のミッドウェイ海戦であったことはよく知られている。日本海軍にとって、ナポレオンがいうように、真珠湾の勝利からミッドウェイでの没落への距離は「ただ一歩」にすぎなかった。
この海戦での敗北以後、日本海軍は積極的攻勢をとる|術《すべ》を失った。攻勢の主導権は米軍のほうに移ってしまった。戦争は、連合艦隊司令長官山本五十六大将がねらう短期決戦による和平への方途が、完全にとざされてしまい、最終的勝利のもくろみのない長期戦へとひきずりこまれたのである。
ミッドウェイ海戦は、作戦そのものに無理があったこと、さらに戦術的失敗の原因について、さまざまな面から論じられてきた。二兎の目標を追った誤り、索敵線の不備、暗号の解読、あるいは爆装転換の遅れなど、ほとんど完膚ないまでに分析されつくしている。だが、はたして勝機はなかったのか。
昭和十七年六月五日朝まだき、日本の機動部隊は予定どおりミッドウェイ島空襲部隊を発艦させた。その後、米基地空軍に来襲されたが、敵飛行艇に触接されていたから、当然のこととみなされた。しかも、これら陸上機はつぎつぎに上空直衛の零戦に撃墜された。こうして飛んできては落とされ、また飛来しては撃墜されている敵機の応接にいそがしい時間をすごしているときに、重巡|利根《とね》の索敵機から、“敵空母発見”の電信がとどけられたのである。
この海戦に勝機があったとすれば、まさしくこの時点であった、と思われる。
このとき、機動部隊の空母四隻の甲板上に待機し、ただちに発進できるのは艦上爆撃機三十六機だけである。いや、魚雷ではなく陸上用八百キロ爆弾をかかえた艦上攻撃機三十六機も、出せないことはない。しかし、どちらにも戦闘機の護衛はつけられない。第二次攻撃隊として待機させていた戦闘機三十六機は、重なる空襲でやむなく飛び立って上空にあり、敵陸上機と戦闘中なのである。
機動部隊司令部は、ただちに決断せねばならない。航空戦はスピードが勝負である。間もなく敵空母からの攻撃隊が殺到してくるのは目にみえている。
そこへ、|麾下《きか》の第二航空戦隊司令官|山口多聞《やまぐちたもん》少将から、
「タダチニ攻撃隊発進ノ要アリト認ム」
と意見具申がとどく。幕僚のなかからもその意見に賛同するものがでた。
だが、出した攻撃隊はどうなるのか? 敵艦隊上空で敵戦闘機に迎撃され、いま眼前で見た敵陸上機同様の悲惨にあうかもしれない。がっちり護衛していく戦闘機をつけてやらねばならない。それに陸用爆弾でなく、確実に敵を仕止めうる魚雷を装備してやりたい……。
こうして機動部隊司令部が即断を決しかねているとき、爆音をとどろかせてミッドウェイ島攻撃隊が帰還してきた。なかには被弾して煙の尾をひいている飛行機もあった。着艦を許さなければ、攻撃隊百機近くと歴戦の士二百名余は、燃料つきて不時着、むざむざ海に捨てねばならぬことになる。
いくつかの選択肢があった。「遭遇戦の|要訣《ようけつ》は先制にあり」という古くからの兵理もあり、また「戦闘の要訣は先制と集中にあり」と『海戦要務令』に明記されている。山口少将は先制を重視し意見具申してきた。しかしハダカの小兵力の先制がどれほどの威力を示せるのか。全力集中こそとるべき手段ではないか。それに真珠湾作戦いらい五カ月、五万海里の|波濤《はとう》を蹴って大作戦をともに苦労してきた部下将兵をどうしたらいいか。
およそ状況はそのようなせっぱつまったときである。機動部隊司令長官|南雲忠一《なぐもちゆういち》中将は、それゆえに、つらい決断をみずからが下さねばならなかったのである。それこそが、ナポレオンのいう、南雲という一人の軍人の“全人格”から発しなければならない命令であったはずである。
戦場にあっては、燃え上るような闘志がものをいう。先制といい、集中といい、ハダカといい、護衛つきといっても、まず分別をかなぐり捨てた戦意がなくて、どんな威力も発揮できぬ。リーダーの|壮《さか》んなる闘志の火が、部下の胸に燃え移っていくのである。いわんや航空戦は転瞬の間に変る。速力の遅い戦艦同士の洋上決戦とちがって、時間とスピードを競い、広い空間をいかに利するか、そこに勝敗がかかっていた。
だが、主将の南雲は、その航空戦が何たるかに、まったくのシロウトであった。長い軍歴において、これまで航空母艦の艦上で寝起きしたことがなかった。戦争直前に突然のように機動部隊の総指揮を命じられ、空母|赤城《あかぎ》に来艦していらい、航空作戦はすべて幕僚とくに参謀長の草鹿龍之介少将に一任してきていた。
そのときの南雲にとって、機動部隊指揮官のおのれとは、四隻の空母、二百八十の飛行機、四百八十の搭乗員を責任をもって|預かっている《ヽヽヽヽヽヽ》にすぎなかった。かれには、おれと共に死んでくれ、と搭乗員に強制する主将としての自信はなかったのである。
だから、南雲は草鹿の顔をみるだけであった。これにたいして、
「第一次攻撃隊を収容し、そのあと戦爆雷連合の正攻法でいきましょう」
と草鹿はいった。そして航空戦に関してはまったく“無性格”の南雲は、黙って大きくうなずいた。勝機はあっという間もなく遠ざかっていった。
ハンモック番号ゆえに
このミッドウェイ海戦ほど、過去の名声とか栄光といったものが役立たず、新しい時代に適応できたものが勝利者となることを、見事に示した戦いはない。新しい時代は虚名ではなく、実力あるものの手によってひらかれる。南雲はその選択と決断において指揮官として不適格であり、補佐すべき草鹿もまた、流動する戦局に対応するためにはあまりに不動の信念の持ち主でありすぎた。
なぜこんなことが起きたのか。日本海軍の人事序列に「軍令承行令」というものがある。そこに原因がもとめられる。
これは別名ハンモック番号ともいい、兵科将校を主計、機関などほかの兵種将校の上位におき、また兵科将校でも序列がきちんときめられ、抜擢人事は大佐どまり、将官は先任序列に従う、というもの。つまり人物よりも成績、現在の実力よりも過去の軍歴がものをいうシステムだった。
大佐以下の先任序列は、考課表というものがありこれによって毎年変った。同じ階級、また海兵同期といえども厳正に格差づけられた。このためにその椅子に少々不適任のものが坐ることがある。しかし、平時はそれでも十分であった。チームとしての団結が強く、先輩後輩の規律をよく守り、黙々として与えられた任務に精進することを、海軍は最高の徳目としていたからである。下級のものはごく素朴に、善意をもって、上級のものに肩入れし押しあげていった。
この軍令承行令の成立には、明治建軍いらい、「長州陸軍、薩摩海軍」といわれるように、鹿児島県出身のものが海軍の中心派閥として勢威をふるったことに起因していた。明治の終りごろまで、同郷意識による薩閥の人事の横暴がまかり通った。いわゆる“薩摩の芋づる”である。こうした情実をなくすために、緻密な考課表システムと、海軍兵学校卒業成績にもとづくきちんとした序列制度がのちに考案されたのである。
平時の海軍にあってはまことに有効だった。派閥の横行はなくなり、独特の海軍家族主義によって和気|藹々《あいあい》たるなかに、そのよき伝統を築いていった。だが、同時に、実地の成果よりも外見と事務能力と上司の覚え如何によって、その人の出世がきまるという形式主義が、ひそかに忍びこみだしていたことに、海軍は気づかねばならなかったのである。
この致命的な欠点は、対米英戦争の開始前からもろにでた。厳密な、ある意味では融通のきかない人事政策が、山本五十六海軍大臣、井上成美次官、米内光政軍令部総長、古賀峯一次長というような、国家生死の関頭に立って、危機を乗切るにふさわしい海軍中央の、陣容実現を妨げたのである。
それは|詮《せん》ないことを悔いる愚者の後知恵でしかないかもしれぬ。しかし、万が一の対米英開戦にそなえて新たに編成する第一航空艦隊(機動部隊)に、日本海軍が、航空にまったく無知の南雲中将をあてたのは、ハンモック番号にしばられた硬直した人事と評するほかはない。
その|根柢《こんてい》には、山本五十六ら何人かの開明的な提督をのぞいて、海軍全般に、航空部隊を主力部隊(戦艦部隊)の補助兵力にすぎないとする考え方(大艦巨砲主義)があった。南雲中将に機動部隊を指揮させようと考えた人事局員も、人事局長も、海相も、まさか飛行機が戦艦を海の王者の地位から蹴落とし、革命的な兵器として海戦を支配するものになろうとは、夢にも考えていなかった。
昭和十六年四月、機動部隊が世界海軍史上はじめて日本海軍に編成されたとき、司令長官人事の候補は二人あった。一人が南雲であり、一人が小沢治三郎中将。小沢は南雲の一期下だが、その俊秀、率先遂行、勇猛ぶりはつとに知れ渡っていた。しかも小沢は航空畑の出身。この空母を中心とする機動部隊構想は、かれの|脳漿《のうしよう》から世界にさきがけてしぼりだされたものである。航空部隊をどう組織し、そのスピードを利し、どう使い、どう戦うべきかを総合的に、柔軟に考えた数少ない提督の一人なのである。
山本長官は、小沢に機動部隊をまかせたかった。しかし、ここで軍令承行令が大手をひろげた。小沢は中将になってまだ半年足らず(南雲は一年半)。昇進後一年をへていない中将は、艦隊|司令長官《ヽヽヽヽ》にはなれないという内規があった。山本はしぶしぶ小沢案をひっこめ、海軍中央からの南雲長官案に同意した。
海軍は、つまるところ平時の序列をもって、戦争に突入したことになる。
艦隊派の寵児
しかし、そう評することは結果論を論じることになる。その時点の常識からいえば、南雲の軍歴は申し分のないものであり、司令長官着任はごく自然なものといえたからである。識見においても技倆においても高い評価をうけ、その上に部下の信望も厚かった。
山形県米沢の出身、明治二十三年生まれ。開戦時は五十四歳である。
海兵三十六期、卒業成績は百九十一人中の七番。のち海大を卒業したときは二番で優等の俊英ぶり。専攻は“水雷屋”。海大卒の後は、軍令部参謀、海大教官、駆逐隊司令、軍令部第二課長、水雷戦隊司令官、水雷学校長、第三戦隊司令官、一方で赤煉瓦系統の要職をふみ、片方で実務部隊での体験も豊富と、出世街道を着実に歩んできた海の男である。
酒を好み、小柄ながら豪放|磊落《らいらく》の一面を示した。だが、反面ではなかなか周囲への目くばりもいい、むしろ真面目な努力型といったほうがいい、という人が多い。
「南雲は負けん気も人一倍の|豪傑《ごうけつ》型だが、その実は細心|緻密《ちみつ》な秀才だったよ」
とは海兵同期のよき友の言である。
若き日の南雲が豪快な兄貴分として、若い士官の信望を集めたのは、昭和九年ごろ、海軍部内にやかましかったワシントン軍縮条約廃棄論の急先鋒であったことによる。アメリカ恐るに足らず、アメリカ海軍に艦隊決戦で勝てる、と豪語し、南雲は手八丁口八丁の“パリパリの艦隊派”中堅士官であった。
のち航空部隊の攻撃総隊長として真珠湾に殺到した|淵田美津雄《ふちだみつお》中佐は、当時、まだ大尉という若手である。その眼には南雲大佐(当時)の颯爽たる活躍ぶりがまぶしく映じた。淵田は戦後の書に記している。
「南雲大佐は廃棄通告賛成の音頭をとって、しきりと艦隊の各艦長を歴訪する。何でも各艦長の連判をとって、連合艦隊中堅幹部の意見書をまとめ、艦隊の総意として、長官を通じて上申するのだとの噂が耳に入る。何事によらず強硬をよろこぶ当時の若い私たちにとって、これはまた一層よろこばれた」
そのときの連合艦隊司令長官は末次信正大将。艦隊派の総帥である。そしてこの連判状はたしかに南雲大佐の手から、末次へ、さらに海相大角岑生、軍令部総長伏見宮、最古参軍事参議官加藤寛治へと渡った。かれら艦隊派の頭領たちは、南雲らの“憂国”をテコにして、軍縮条約廃棄・対米英強硬戦略へと突っ走るのである。
こうしてみると、豪気果断な、酒飲みの単なる武弁ではなく、南雲は時勢の動きに敏感な、根まわしのうまい有能官僚的軍人でもあったのではないか、とも想像される。それはまた平和時に求められる人材ではなかったか。こうしてすべりだしにおいて成績優秀、将来を約束された南雲は、艦隊派の寵児として、いちだんと高い階段を昇った。そして軍令承行令により当然のこととして昇りつめたのが、畑違いの第一航空艦隊司令長官という大任であったのである。
かれが旗艦の空母赤城に着任したころ、かれの若き日の豪語そのままに「米英恐るに足らず」と、国は戦争への道をひたすら突き進んでいた。準戦時といえるこの緊急のとき、かれに預けられた航空部隊はすでに、真珠湾攻撃を目標に猛訓練に入ったところである。まったく勝手の知らぬ航空作戦計画を前に、どう指揮したらよいか。南雲は茫然とするのみであったろう。
しかし、海軍中央はさすがに周到だった。年功序列による司令長官の不備は、幕僚で補うのである。南雲の参謀長として、霞ヶ浦航空隊教官、ドイツ飛行船「ツェッペリン」で太平洋横断、航空戦隊参謀、航空本部課長、各空母艦長、航空戦隊司令官と航空作戦のベテラン草鹿少将を配していた。
さらにいえば航空参謀として戦闘機の名パイロット|源田実《げんだみのる》中佐を起用。そのほか部下の第二航空戦隊司令官には山口少将、空母飛龍艦長に|加来止男《かくとめお》大佐、淵田総隊長と航空畑の逸材偉才がずらりとならんだ。南雲機動部隊は海軍航空の粋を集めて編成されたの観があった。平時なら南雲はおみこしにのっていればよかった。
「|金翅鳥《きんしちよう》王剣」戦法
参謀長の草鹿は明治二十五年に大阪に生まれた(出身は石川県となっている)。海兵四十一期、南雲の五期後輩である。海大卒、このときの同期の優等が山口多聞。はじめ砲術科だったが、大正十五年に海大を卒えるとすぐ航空畑に転じ、初期の海軍航空の育成に力をつくすことになる。
昭和十二年、日中戦争がはじまると、南京・南昌空襲作戦がしばしば渡洋爆撃でその名を|謳《うた》われたが、これはかれが軍令部の航空主務参謀をしていたとき、計画立案したものという。さらに重慶・成都・昆明にいたるまで長距離爆撃圏が拡大され、これら航空作戦での成功がかれの名を高めた。
昭和十五年暮、少将に進むと、航空戦隊司令官として南洋群島パラオに本拠をおいて、猛訓練にはげんだ。かれが指揮した戦隊は、大型飛行艇と、渡洋爆撃で名をあげた陸上攻撃機(中攻)である。銀翼をつらねた攻撃隊が高々度から一挙に襲って爆撃し、あるいは息もつかせず低空から雷撃し、その訓練成績をぐんぐんとのばしていった。
こうして草鹿が訓練を通して知った航空戦とは、猛烈なる|一撃《ヽヽ》によって敵目標を|潰滅《かいめつ》させるというもの。そのために被害は何パーセントまで許容できるというような計算の立つものであった。したがって勝つためには、“その来たるや魔の如く”目標を襲い、“その去るや風の如く”でなければならない。ごちゃごちゃした格闘戦に引きこまれては、被害を増大するだけで目標を叩き|潰《つぶ》しえない。名乗りを堂々とあげてえんえんと戦うような洋上の艦隊決戦と異なり、航空戦はこすっからく、非情にして猛烈な一撃とならざるをえない。そう草鹿は観じていたのである。
草鹿はそこからおのれ独特の戦法をあみだした。単なる戦法ではなく、かれにあっては、哲学の境地にまで高めたものであった。子供のときから修練してきた無刀流剣道の極意のうちに、それを見出したのである。無刀流の型に五典あり、その一つが金翅鳥王剣という。金翅鳥が羽を天空一面にひろげたような心で、太刀を上段にとって敵を追いつめ、ただ一撃と振り落とし、また上段に返る。これである。
南雲の参謀長となった草鹿は、人知れず坐禅瞑想のうちにこの戦理をより深めた。とくに連合艦隊司令部が破天荒ともいえる真珠湾攻撃計画を推進していると知ってからは、常住〈|只管打坐《しかんたざ》〉の心境におのれをおいた。そして思いを深めた。深い思念の底から浮かんできたのは、一撃必殺、の文字。これこそは海軍が長年にわたって練ってきている伝統的思想にもかなうではないか。
部下の、若い航空士官たちのなかには「なあに、ありゃ|野狐禅《やこぜん》だよ」と冷笑するものもあったが、意に介さなかった。戦理もすべて禅境に一致すると、草鹿は確信してやまなかった。無刀流の極意がはたして近代戦に通じるか、かれの念頭にそんな疑問の浮かぶべくもなかった。草鹿は頑固な信念の人となってしまったのである。
旗艦赤城にあって南雲は、ことあれば目を半眼にすえつつ瞑想に打ちこむそうした参謀長を、頼もしげに眺めることを常とした。艦橋にならんで立つ南雲と、偉丈夫の草鹿の後姿をみて、幕僚たちは「参謀長のほうが長官らしくみえる」と噂し合った。一つには容姿体格にあったが、一つにはすべてに判断を下すのが草鹿という役割にもあった。
有能にして、専門家の部下をもつかぎり、“水雷屋”の将は泰然として航空作戦にはうなずくだけしか用がなくなったのである。知らぬことに口をだせぬし、だせば余計な訓練妨害となるであろう。だから長官拝命いらい、習い性となって、南雲はすっかり人が変った。しきりに部下のことを気づかった。それとても、重責をにないながら、おのれのすべきことを失った上将が、おのれの孤独をなぐさめるためのものではなかったか。
好意をもってみる人は「南雲は円満になった」といった。しかし、性格的に無色となった南雲が、いよいよ戦場にのりだしたとき、円満とか人情深い長官ではすまなかったのである。
長くなるが、ふたたび淵田美津雄の南雲評の言を引く。
「畑違いの要職についたのであろうが、旧に倍して情味豊かな長官ではあるが、|溌剌《はつらつ》颯爽だった昔日の闘志は失われ、なんとしても冴えない長官であった。年のせいで、早くも|耄碌《もうろく》したのではないかと感ずるのであった。作戦指導が極めて|退嬰《たいえい》的で、長官みずから乗り出してイニシァチブをとるというふうはなかった。いつも最後に、『ウン、そうか』で決裁するというふうであった。……長官として必要なのは、戦闘推移を見通す見識と、卓越した統率であるが、南雲長官は二つとも欠いていた」
戦う集団にあらず
「|技精《わざくわ》しからざれば胆大ならず」という。人はだれでも、|齢《よわい》も五十五になってまったくはじめてのポストについて、勝手の違った仕事をやらされ、大きな責任がかかってくれば、孤独となり、おのずから慎重ならざるをえまい。|もうろく《ヽヽヽヽ》したのではない。字義どおり胆大ならず、|因循姑息《いんじゆんこそく》となるのが自然、というべきかもしれない。ましてや南雲は表面の豪快さの底に、官僚軍人的な慎重さを多分にもっていた。過去の自分の体験から割り出せないから、自信はなく、失敗を恐れて優柔不断となるばかりである。
それは南雲の罪とばかりあながち責められない。人材不適所でもスタッフに優秀な専門家をつければよい、という海軍の人事行政が間違っていたのである。戦場にあっては、ナポレオンのいうように、指揮官の性格、能力が作戦の|帰趨《きすう》を決する。最高リーダーに、大局から適切果断な判断と決定を即座に下す強い性格なくしては、勝運は足もとから逃げていく。
そしてもっとも優秀な専門家であるべき参謀長は、剣禅|一如《いちによ》の信念の持ち主である。補佐する参謀長というより、かれが長官であった。またそれだけの自信があった。アメリカ相手の戦闘が一太刀できまるものでなく、ボクシングと様相を変えたのを理解しようともしなかった。「金翅鳥王剣」戦法こそは、一撃必殺、一発必中などの言葉で象徴される海軍の伝統的戦法に|適《かな》っている、との信念をついに戦い終えるまで草鹿は変えようともしなかった。
ミッドウェイ作戦が、連合艦隊が敵機動部隊に仕掛けた決戦であるなら、なおさらその直前の春になぜ小沢中将に代えなかったのか。すでに小沢は中将一カ年で、司令長官の資格はある。山口多聞が、真珠湾攻撃いらいの南雲司令部の作戦ぶりにあきたらず、「長官は一言も言わぬ。参謀長、先任参謀等どちらがどちらか知らぬが、|億劫《おつくう》屋ぞろいである」と、連合艦隊参謀長|宇垣纏《うがきまとめ》中将にもらしたことが、宇垣日記『|戦藻録《せんそうろく》』にみえている。しかも連合艦隊司令部は、真珠湾への第二撃の猛攻をかけなかった根因が、草鹿の一撃必殺の信念にあることを知っていた。にもかかわらず大作戦を前に連合艦隊司令部は人事に手を打とうともしなかった。
そればかりではない。ミッドウェイ海戦敗北後の六月十日朝、連合艦隊旗艦大和によばれた草鹿は山本五十六長官の前に立ったとき、無念の涙を流しつついった。
「おめおめと生きて帰れる身ではありませんが、ただ復讐の一念にすがって、生還して参りました。このままでは何としても死ねません。できれば今一度、特別のお計いで現職のまま陣頭に立たせ、死に場所を与えていただきとうございます」
山本は、声をあげて泣く参謀長に、確然と答えた。
「承知した」
これを山本の人情の厚さととる声も多い。「ミッドウェイ敗戦の|責《せめ》は私にある」と山本はいい、そして「いまやめさせては南雲にきずがつく」と南雲解任の声を、山本は退けたともいう。が、その山本もまた「責任はある」といったが、「責任をとる」とはいわなかったのである。情に流され、ハンモック番号に縛られた日本海軍は、残念ながら戦う集団ではなかった、というほかはない。
昭和十九年七月、山本の温情に応えそのあとを追いたいと、死処を求めていた南雲は、中部太平洋方面艦隊長官として、サイパン島でピストル自決した。若きころから、アメリカ恐るに足らずと豪語してきた南雲が、日本の貧しい国力をもってアメリカと戦うことの無謀さを、広大な海を埋めて殺到してくる上陸用|舟艇《しゆうてい》をみながら、恐怖をもって痛感したであろうことは間違いない。
草鹿元中将には、戦後も昭和三十四年に、宝塚の家を訪ね、真珠湾から大和特攻までの、さまざまな話を取材した。目鼻立ちの全体に大きくくっきりした容貌、老いてなお剣の道にいそしむ立派な|体躯《たいく》が印象に残っている。ミッドウェイの敗因を語るとき、
「|驕慢《きようまん》、これ以外に真の敗因はありません」
と強くいいきったまま、しばらく口をつぐんだ。信念とする剣禅一如は不動、毫もゆらぎのないようであった。草鹿は昭和四十六年十一月に狭心症で死去した。以前から「死んだら軍艦旗で|柩《ひつぎ》を巻いてくれ」といっていた。海軍軍人として誇るに足る生涯と考えていたのであろう。
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「東條の副官」といわれた海軍大臣
「天下は一人の天下にあらず、天下の天下なり。天下の利を同じくする者は天下を得、天下の利を|恣《ほしいまま》にする者は天下を失う」
太平洋戦争下の東條“独裁”政権を考えるとき、この言葉が自然に想いだされる。釣りで有名な戦略家太公望が説いた兵法書といわれる『|六韜《りくとう》』にある。天下(国家)は国民の共有物であり、権力者はこれを独占してはならない。とくに命運を左右するような危機にさいしては、一人の力では何一つできはしない。そのことを骨身に|沁《し》ませて知るべきときに、わが陸海軍のリーダーは何を行ったか。現代の組織にも通じるよき教訓がある。
“殿下人事”の海相
最後の海軍大将井上成美は、先輩の嶋田繁太郎大将にたいして、
「大臣の器にあらず」
と|烙印《らくいん》をおした。また海兵三十二期の同期生である山本五十六大将も、かれが東條英機内閣の海軍大臣として、ついに対米開戦に|猪突《ちよとつ》猛進することに判を|捺《お》したことを歎いて、
「嶋ハン(繁)はおめでたいから」
と厳しくクラスメイトを評した。
昭和十六年十月の東條内閣成立から、十九年七月の総辞職前日までの三年間、海軍大臣として、さらに十九年二月から八月までは軍令部総長をも兼務し、太平洋戦争における海軍の政戦略を指導した海軍最高のリーダーであったこの人ほど、悪評にさらされる提督はいない。その最たるものは「嶋ハンは東條の男メカケだ」であり「東條の副官」であった。
しかも嶋田の軍歴をみると妙なことに気がつく。さまざまな艦隊の参謀長を歴任してから軍令部に入ると、情報部長、作戦部長、次長と一直線に昇進していく。この軍令部時代に、軍令部総長|伏見宮《ふしみのみや》を直接補佐して覚えめでたくなった。ついで支那方面艦隊司令長官、横須賀鎮守府長官などをへて海相へ。つまり嶋田は軍令系一本をたどったのであり、軍政畑には、海軍省の次官、軍務局長はおろか人事局、教育局にすら足を踏み入れたことがなかった。その人が国家非常事態のとき、海相の席についたのである。
海軍には、昭和七年から十六年四月まで九年間も軍令部総長であった伏見宮をあがめ、最長老として、トップ人事にさいしその了解をえて発令するという悪習慣ができ上っていた。伏見宮に嫌われたら海軍中央にはいたくてもいられなかった。嶋田は、若くから上司に苦言を呈したり、型破りの独創的な考えをだしたり、反骨を示したりする人物ではなかった。精勤で保守で、情に厚く、かつ信仰心にみち、しかも風貌姿勢がいかにも海軍提督らしく、それが伏見宮に大いに好まれた。
いまでも元海軍軍人のなかには、開戦時に山本五十六海相、井上成美次官、米内光政軍令部総長、嶋田連合艦隊司令長官、山口多聞参謀長の陣容だったら、対米避戦は可能だったと死児の齢を数える人も多いが、伏見宮のご威光の前に、到底できない人事であった。米内・山本・井上のトリオは宮様の好みではなかった。そして軍令畑育ちの嶋田の海相就任はいわば異例の人事。だから「あれは殿下人事よ」と蔭口が叩かれた。
しかし、海相となってからの嶋田の日常|挙措《きよそ》は、まことに堂々とし、戦況の如何を問わず端然としていた。その日課は判で押したように正確である。毎朝起きぬけに明治神宮に参拝、朝食をすませると迎えの車で登庁。部下の説明をじっくり聞き、会議では黙々と耳を傾け、要点をきちんとおさえて他人まかせでなく自分で案件を裁決した。上奏関係の書類にはとくに神経を使い、いかなる質問にも答えうるように準備したから、天皇のお覚えも悪くはなかった。夕方は五時半に退出、まっすぐ家に帰る。政財界とのつきあいは少なく、酒も好まない嶋田は、夜の会合はほとんどなかった。
こう書いてくると、これがそのまま首相東條英機大将の日常の説明に使えることに気がつくのである。東條もまた仕事には熱心で、几帳面で、酒も飲まず、忠誠一途でほかのだれよりも天皇に愛された。それは「カミソリ」とあだ名されたほど、官僚として有能な軍人であった。嶋田もまた能吏型の軍人であり、そこにウマの合う理由があったのである。
絶妙のコンビ
東條と嶋田はともに東京に生まれた。東條が明治十七年(一八八四)、嶋田が明治十六年、一歳違いである。ともに山の手育ちで、東條が府立四中から東京幼年学校、さらに陸士(十七期)へ進んだのにたいし、嶋田は東京中学校をへて海兵へ。少尉任官も嶋田が一年さきで、途中若干の差があったが、大将になったのも嶋田が昭和十五年、東條が十六年と同じような歩み方をしている。ただ、首相・海相という関係で相知るまで、二人がその軍歴において交差したことはほとんどない。
だが知り合ってからの二人は絶妙のコンビを形成した。同じ東京人であり、一つに嶋田の岳父が陸軍砲術界の長老筑紫熊七中将で、東條の尊敬する先輩であったこともあろう。それよりも嶋田が年長であるにもかかわらず、首相である東條の立場を重んじ、一歩下った姿勢で対したことが何よりよかった。その性格が対照的であることもあるいは一因だったかもしれない
一言でいえば東條は自信家であり、攻撃的であり、反対するものには退役・召集などあらゆる手段で報いた。性格が鋭角的であり鮮明である。嶋田は反して温厚であり、協調的であり、東條が目を血走らせてかけ回っているときも、|悠揚《ゆうよう》迫らぬ風を保っていた。丸く、ふっくらとした性格だった。だから二人がぶつかり合うこともなかった。
嶋田の神社参拝好みは、そうしたゆったりとした性格に根ざすのであろう。毎朝の明治神宮参拝をあわせて数えると三千を超えるというたいへんな数になる。それだけ敬神の心が厚い、というより神社のもつ様式美と静寂に包まれることを好んだのである。つまり嶋田は「精神主義的な形式主義者」(元副官|吉田俊雄《よしだとしお》中佐の評)であったのである。
戦争がはじまって、つぎつぎと艦船に被害がではじめたとき、嶋田海相は、艦と運命をともにしなかった艦長はただちにクビにし、即日召集して懲罰的配置につけた。東條を真似たかのように苛烈であった。山本連合艦隊司令長官がこの事態を重くみて、抗議の一書を前線から送った。
「艦長はそこで死ねというような作戦指揮は士気を喪失させる。その上、そのような精神主義で人材を過度に消耗させていけば、長期戦を戦えなくなる」
しかし嶋田はこの切言を無視した。かれにあっては、艦と運命をともにするということは、武人の崇高な責任感の発露であり、軍人の義務感を気高く象徴する作法であったのである。
東條もまた、そうした精神主義・形式主義を尊重する軍人である。戦時下、森厳な明治神宮境内の茶店で、ともに参拝をおえた首相と海相が縁台に腰かけ、楽しく語る様がよく見かけられ、それが「陸海協調」の真の姿のように噂されたとき、「ところもよし明治神宮」と、二人は大いに満足を感じるのである。
緒戦の順風満帆のときは、こうした形式主義的かつ能吏的軍人によって指導されていても、ほとんど問題にならなかった、というより、精神主義と能率とがむしろプラスに作用した。しかし、ミッドウェイ海戦に敗れ、ガダルカナル争奪戦に敗退、山本長官戦死と戦勢非になるにつれて、もはや“必勝の信念”だけでは国民は動かなくなってきた。にもかかわらず、東條内閣は統制と弾圧をもって真一文字に戦争推進に突っ走った。
そこで戦闘的な東條首相がしたのは、局面を|弥縫糊塗《びほうこと》することで、万一の戦局打開の|僥倖《ぎようこう》を期待したことである。つまり内閣改造である。人心転換・統帥と国務の緊密化などさまざまな理由があげられたが、要は延命工作であり、世の目をあざむくごまかしにすぎない。昭和十七年十一月、昭和十八年四月、同じく十一月、さらに十九年二月と四回を数える。
しかし嶋田海相のみは不動であった。ときに弱気になって辞職をほのめかす嶋田を、東條は叱咤激励。東條側近の陸軍武官までが、|唾棄《だき》することはあってもほめることのない海軍軍人を、「嶋田大将のほかに話のできるものは現在の海軍にはいない」と大いに賞讃する始末なのである。海軍部内の観点に立てば、海相の椅子を陸軍に奪われたにひとしかった。「東條の男メカケ」「東條の副官」と陰で毒づき、ぼやいてもどうにもなるものではなかった。
その|憤懣《ふんまん》を爆発させるような“事件”が、ついに起った。昭和十八年暮から十九年にかけて、陸海の味方同士の間で、字義どおり|戦われた《ヽヽヽヽ》航空機争奪である。
陸海軍の航空機争奪
日本の陸海軍の抗争は、戦前から世間の噂になっていたが、戦いがはじまり、しかも戦況が悪化するにつれ、激化する一方となった。問題の多くが国家レベルの政策や、物質や人員などに関係していたから、陸海の見解は容易に一致することはない。とくに同じ資材を使う飛行機の生産について、陸海の間に常に不快な敵対意識があった。とくに戦いが進むにつれ、米軍の新しい攻勢に対処するためには、空を制しなければならぬことがいよいよ明らかとなり、そのためには予算の割当て、資材、工場などの争奪で、まず眼の前の“敵”に勝たねばならなかった。
昭和十八年九月、大本営が絶対国防圏を設定したとき、こんごの軍需整備は航空機を絶対優先ときめた。さらに十一月に東條内閣は軍需省を発足させ、その徹底化を計った。施策よろしきをえれば、年に五万機の生産は可能という報告もあり、陸海の関係者は勇みに勇み立った。
軍需省はとにかく急げと、最大能率を発揮して五万機を目標に大活躍をはじめ、とともに、その五万機をいかに陸海に分配したものかと知恵をしぼり、半分半分なら文句はないだろうと、この旨を陸海軍に通知する。
一応それで納得したかにみえた一カ月後の十二月の終りに、海軍は割当て量をこえる二万六千機を要求してきた。海軍の主張には説得力があり、陸相東條はこれを承諾した。そのとたん、陸軍部内から猛反対の突きあげがでた。これからの戦いは陸軍が主役となるのに、何ということであるか。東條はあっさり非を認めるとともに「陸軍二万五千二百二十五機、残り海軍」と、何を基準にして数えたのか、自分でペンをとって記し、
「これを海軍に伝えよ」
ときめた。激論のタネはここにまかれたのである。
航空機をめぐっての陸海軍の|相剋《そうこく》は、“撃ちてし|已《や》まむ”で殺気立ったものとなった。海軍は二万六千機は譲らずに頑張ると、なんと陸軍は「よく調査したら余力があったから」と、陸軍の割り当て三万二千機に増して突きつけてくる。「これは謀略いがいの何物でもない」と海軍はいきり立った。こうして協議(というより喧嘩)を重ねるばかりで、陸海はついに歩み寄ることなく、決定できぬまま昭和十九年を迎えた。
ついに二月、天皇の耳にこの情けない始末が入った。天皇は大いに憂え、東條と嶋田をよび「航空機のことで陸海の意見が一致せぬということだが、早くまとめるようにせよ」と下問、というより叱った。両相は大いに|恐懼《きようく》し、二月十日、杉山元参謀総長、永野修身軍令部総長の四者協議でこの問題に結着をつけることになるのである。
会議がはじまると、永野がいった。
「同じ日本の男の子でも、山で育てれば金太郎となり、海辺で育てれば浦島太郎となるのである……」
だから海上作戦は海軍航空で、陸上作戦は陸軍航空でなければならぬ、と永野は長広舌をぶち、広い太平洋での戦いは海軍航空でなければならぬことを強調した。これをうけて杉山が、
「それじゃ、海軍に航空機を全部あげたら、この戦勢を|挽回《ばんかい》できるか」
と詰問すると、根が正直な永野はいった。
「そんなことは確約できない。それは陸軍だって同じことじゃないか」
頼りない論争に東條が突っかかった。「いつまで洋上決戦などとできもしないことを、海軍はいっておるのかッ」。永野が真ッ赤になって反論し、たちまち空気は険悪化する。このとき、嶋田が割って入り、しきりに永野をなだめるほうに回った。
自称“天才”永野ひとりの奮戦では甲斐もなく、論争はやがて陸軍側が勝ちをしめた。「かつて軍令部総長は敵がマーシャルにきたら、そのときこそダンケルクの二の舞いをさせてやる、と豪語されたが、実際マーシャルに敵が来攻したとき、艦隊どころか飛行機一機さえ出なかったではないか。日本海海戦のような洋上決戦はいまや夢となった。となれば、これからの戦いは水際における上陸防禦戦で、つまり陸軍戦術でいかなければなりません。もはや太平洋の決戦主力は海軍ではなくなったのですぞ」
永野は沈黙し、そして嶋田は何とか丸くおさめたいと、しきりに陸軍にやわらかい言葉を投げかけつづけた。
統帥部の総長兼任
四首脳会談の結果は、陸軍二万六千四百機、海軍二万四千四百機に落着したが、軍令部、連合艦隊司令部、航空本部などがこれに納得せず、なおもみにもんだ末、資材を水増しして陸軍二万七千百二十機、海軍二万五千百三十機、計五万二千二百五十機に修飾してとりつくろった。
しかし紙上の計画にすぎなかったのである。鋼鉄、アルミニウムなど資材面から正確に計算すれば、四万二千機から四万三千機が最大限の生産目標であったのである。
軍令部や航空本部の中堅クラスから、艦隊海軍から航空海軍に脱皮すべし、の声が高まっているとき、こんな幻の協定ができたことで爆発し、嶋田・永野両首脳にたいする不信感と憤怒はいっそう増幅された。とくにあらゆる面で陸軍に妥協または同調した嶋田に向ける海軍部内の目は、いっそう冷ややかになった。とくに永野がなお頑張ろうとするのを、
「いまさら問題をむし返すと陛下にご心配をおかけするから」
と嶋田がとめたという話もいつか伝わり、名誉とか責任感を説くくせに、|夫子《ふうし》自身の海相としての責任感のなさはどうか、と痛憤するものが続出。そして古賀峯一連合艦隊司令長官が怒りをこめて歌ったというもじり歌が、ひそかにいいつがれた。
世の中にもしも陸軍のなかりせば
人の心はのどけからまし
しかし、戦勢が急変するとき、航空機の争奪に三カ月近くもかけて論議に全精魂をこめている陸海軍を、何と評していいかわからない。アメリカは待ってなどいてはくれなかった。二月十八日、“日本の真珠湾”トラック島は米機動部隊の奇襲をうけて壊滅。この異常ともいえる事態に東條・嶋田のコンビがとった方策は、統帥部の総長を兼任するという前代未聞の非常手段であった。政戦略の独裁である。
およそ軍政と軍令とは|混淆《こんこう》してはならないとするのは、陸海軍ともに建軍いらいの本義である。それをこのコンビは踏み破ろうとする。「難局に直面し、軍政と統帥の摩擦・矛盾が戦争遂行を大いに妨げている。政治と軍事が|乖離《かいり》していては戦争はできない。それ故の兼任」と、東條も嶋田もそう説明したが、結局は同一人に過大な権力を集中することになる。それをあえて二人は強行しようとした。
当然のことながら参謀総長杉山元帥は反対し、スターリングラードの悲劇は、ヒトラーが権力を一手に掌握した結果からきたものである、と指摘した。しかし東條はいった。
「ヒトラーは兵卒の出身である。私をそれと一緒にされては困る。自分はいやしくも大将である」
さんざん論じあったのちに、杉山は最後に、我慢がならぬようにいった。
「こんなことを君がやったら、陸軍の中が治まりませぬぞ」
「そういうことはありません。もし文句をいう者があれば、ただちに取り換えます。文句は一切いわさない」と東條は決然といい放った。
嶋田ははじめこの案をもちかけられたとき、「いや、むしろ自分は責任があるから辞めたい」と断わったが、東條は執拗であった。上長でもある杉山・永野両総長を排除し、直接に嶋田と抱き合うことによって、陸海軍の統帥を一元化し、みずからヒトラーのように全軍を率い戦局を挽回したい、という|一縷《いちる》の望みに東條はすがった。
二月十九日、説得されて嶋田は、さっそく熱海に伏見宮を訪ね、「軍令部総長も兼任しないかと、首相から要請されました。引き受けようと考えますが、いかがでしょうか」と、政軍の統合調和の利点をもっともらしい理由をつけて、くどいた。伏見宮は、
「同一人が兼ねるとすれば、軍令・軍政両方に経験豊かな君がいちばん適任だろう」
とあっさり同意、それは鶴の一声となった。はじめは強く異をとなえた永野も抵抗すべくもなく、退かざるをえなくなった。のちに横須賀鎮守府長官の豊田副武大将が「総長兼任は陸軍の誘いによるものか」と尋ねたとき、二月二十一日に正式に総長を兼任した嶋田は胸を張っていった。
「そうではない。自分の発意である。しかし兼任したあとで報告したら、東條閣下は非常に喜ばれた」
「喜んだとは陸軍が誘ったことを示すものじゃないか。これでは陸軍の第一弾が命中したと同じだ。つぎは陸海軍統一の形で命中弾がくるぞ。これにたいし準備はあるのか」
嶋田はキッとなった。
「嶋田健在の間は、そんなことは絶対にさせぬ。何をいうか」
だが、海軍部内では航空戦備は期待はずれとなり、最低の海相が総長兼任では何をかいわんや、という空気でみな口を閉じてしまった。不満は|内訌《ないこう》の形となり、表面は沈滞気味というか、あきらめのムードが海軍全体を支配した。何が、嶋田健在の間かよ、海軍はもうだめだよ、と心あるものはただ|自嘲《じちよう》するばかりとなった。
“東條幕府”の崩壊
戦いは猛烈なスピードと、一分もゆるがせにできぬ正確さが要求されていた。
とくに広大な太平洋を舞台とする海軍の戦闘は、第一線司令官・連合艦隊司令長官・軍令部総長との間の、緊密かつ最速の無線連絡によって指揮されねばならなかった。にもかかわらず、総長が海相として閣議に列席し、長時間も軍令部を留守にするような制度は、本来の作戦指導とまったく背馳している。指揮官や参謀たちの憤激は極に達した。
だが、嶋田は悠揚として日常を変更しようともしなかった。登庁すると、海相として訓示をおえ、ちょっと姿を消し、こんどは参謀|飾緒《しよくしよ》(肩章ともいった)をつけてまた出てきて、内容も変らぬ総長訓示をおごそかにのべる。執務は午前と午後で一階の大臣室と二階の総長室を使いわけたりした。大臣室で報告をうけるとき、それが統帥にかかわることとわかると、
「ちょっと待て、それは総長室で聞く」
と二階に席を移し、参謀飾緒をつけて改めて聞くという形式主義の|律義《りちぎ》(?)さを示し、失笑を買った。几帳面な東條も同じ、というより首相・陸相・軍需相も兼任しているかれは、千手観音よろしくかけめぐり、山積する問題の決裁は遅れに遅れる一方となった。こうしている間に、米機動部隊は日本の最後の防衛線であるマリアナ諸島に殺到してきたのである。
東條内閣は完全に信を失った。その独裁色が極度に濃厚となるに及んで「東條幕府」「東條道鏡説」もささやかれ、施策の混濁と不徹底を糾弾する声のみが高くなった。そして倒閣の動きはいよいよ顕在化していった。
だが、憲兵によって四囲を固めた防禦は鉄壁であり、完全に行き詰まっているが、この内閣を打倒するためには、東條自身が病気で倒れるか、またはテロなどの非常手段による以外に道はないように思われた。知恵をしぼり必死に模索した陰謀者たちの達した結論は、
「合法的方法をもってしてはほとんど不可能なるも、ただ一つ、海軍全体が動き、東條の|腰巾着《こしぎんちやく》たる嶋田海相を更迭させ、連鎖反応を起こさせて内閣を崩壊に導く、これが唯一の方法なり」
ということだった。
結果論からいえばこの狙いは正しかったといえる。|岡田啓介《おかだけいすけ》、米内光政ら海軍の大先輩までが身を挺して動き、ついに伏見宮を説得、嶋田にたいする信を失わせることに成功するのである。大きなきっかけとなったのが、サイパン島の失陥だったが、遅きに失したというほかはない。
七月五日、サイパン防衛の陸海軍最高指揮官は訣別の電報を打ってきた。「われら太平洋の防波堤たらんとす」。しかし嶋田は、岡田、|鈴木貫太郎《すずきかんたろう》ら海軍の先輩たちの責任追及にも、
「いろいろご心配をかけ申しわけない。マリアナは必ず確保して、ご主旨にそうよう努力します」
と白々しいことをいい、防戦につとめるのである。しかし海軍部内の嶋田退陣要求の火の手はおさまるべくもない。
東條は反撃にでた。七月十二日夜、非難の的となっている嶋田をよぶともう一度気力を奮い起こせとばかりにいった。
「われわれが政権をゆずり渡すことは、降伏を第一義とするバドリオ政権の出現に寄与することとなり、内外におよぼす不利益は甚大となる。あくまで難局の担当に邁進したい。戦いは勝てる。よりいっそうのご協力を願いたい」
そしてとるべき策として、勅語の|渙発《かんぱつ》を奏請して国民の奮起をうながす、陸海の航空の協同の実現、そして部内にきびしい訓示を布告し、統制を強化する。開戦責任をもつ嶋田にも異存のあるはずはなかった。
しかしいかにあがこうが、東條内閣の命運は尽きていた。サイパン失陥という現実に、なによりも天皇の信が、東條・嶋田からは離れてしまった。七月十八日、“東條幕府”はあっけなく崩壊する。総辞職の報にバンザイを叫んだものが多かったという。
陸相時代を合わせて権力の頂点にあること四年、転落して野の人となった東條に残ったのは、元首相・予備役陸軍大将という肩書だけである。そのあとの陸軍は部内にメスを入れ、東條の息のかかったものをつぎつぎに中央から追いはらった。何の力もなくなった東條は、なお徹底抗戦・必勝の信念を説いたが、耳を|藉《か》すものはなかった。
“東條の副官”嶋田も同じ運命をたどる。元海相・予備役海軍大将にほとんど寄りつくものもない。孤影|悄然《しようぜん》という形容がもっともふさわしかったろう。“影”といえば東條内閣における嶋田の存在は、字義どおり東條の影であった。そして戦い破れ、東京裁判にA級戦犯として被告席についた嶋田も、いるのかいないのかわからぬほど淡い印象しか残していない。勤勉さと綿密さで、法廷でしきりにメモをとり、あくまで太平洋戦争が自衛自存の防衛戦争だったと主張しつづけた東條と対照的に、嶋田は最後まで茫洋としていた。ただ一度、内輪喧嘩めくのも辞せず、海軍の名誉のため、元外相東郷茂徳被告とはげしく論争したのが印象にのこる。そのあとはわが事終れりといわんばかりに、裁判の成り行きにも無関心となった。
裁判の判決は東條は絞首刑。死刑囚の獄舎で、夫人に語った遺言ともいうべき東條の言葉がある。
「第一、裁判の結果、皇室に大きな迷惑をかけずにすんだことを感謝している。第二、私は大和民族の血を信じているから、前途に明るい見通しをもって死んでいく」
そして昭和二十三年十二月二十三日、絞首刑が執行されている。
一方の、海軍最高の責任者である嶋田は終身刑で死をまぬがれた。日本独立後の恩赦もあり昭和三十年に獄舎をでて、嶋田はその後もひっそりともとの仲間とも縁を切り、東京の一角で生きつづけた。存命の提督を、戦史の取材で二度ほど訪ねたことがあったが、二度とも玄関まで悠然たる姿をみせてくれたが、質問にはいっさい答えてはくれなかった。のちに人を介して知らされた。
「このまま静かにしておいてくれ」と。
昭和五十一年、九十三歳の誕生日を目前にして、“影の人”は影のように世を去った。その墓がどこにあるのか、つい最近まで、旧海軍関係者にきいてもだれも知らなかった。
〈追記〉
これを発表したのちの一九九〇年十二月号の『文藝春秋』に「昭和天皇独白録」が掲載された。実はその解説ならび注をわたくしが書いたのであるが、ペンをとりながら、昭和天皇の東條および嶋田にたいする深い信頼には、まこと感服せざるをえなかった。まず東條について――、
「元来東条と云ふ人物は、話せばよく判る、それが圧制家の様に評判が立つたのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持が下に伝らなかつたことゝ又憲兵を余りに使ひ過ぎた」
「東条は一生懸命仕事をやるし、平素云つてゐることも思慮周密で中良い処があつた」
また、東條内閣の末期、岡田啓介・米内光政らの説得によって、伏見宮が嶋田海相の更迭を昭和天皇に勧告した。このときのことを天皇はこう語っている。
「この時私は伏見宮に対し、二つの条件を云つた、即この人事の為に、東条内閣を倒す事は困るといふ事、私の意見で嶋田を止めさせる事は困るといふ事である。(中略)嶋田の功績は私も認〔め〕る。彼が下僚から嫌|ら《(ママ)》はれたのは、余り智慧があり、見透しがいゝので、東条と話す時でも、充分議論せず、直に賛成して終ふ、その半面下僚に対して相当強硬であつた事が、不評判にした事と思ふ」
しかし結局、嶋田は海相を辞任した。そのことについても昭和天皇は語っている。
「この時東条は嶋田に対し、私が信任しないかの様に話したらしい、それで嶋田も妙にとつたらしいが私は寧ろ前述の通り彼を信任してゐたのだ」
こうなると、わたくしが本文中に「なによりも天皇の信が、東條・嶋田からは離れてしまった」と書いた一行は、あるいは訂正が必要なのかもしれない。昭和天皇は、サイパン陥落、敗戦必至という状況下にあって、なお東條内閣の交代を望んでいなかったことが、『昭和天皇独白録』で明らかなのである。驚嘆せざるをえなかった理由がそこにある。
[#改ページ]
「レイテ湾突入せず」栗田艦隊反転の内幕
サハラ砂漠で、名将ロンメル元帥率いるドイツ戦車機甲師団を破ったイギリス第八軍司令官モンゴメリー大将は、戦場の指揮官について論じている。
「リーダーシップとは、人を共通の目的に団結させる能力と意志であり、人に信頼の念を起こさせる人格の力である」と。
そして、それに|敷衍《ふえん》して、自分がなにをせねばならぬかを知り、それを断行する決断力をもつこと、そのさいに、自分に協力する将兵に信頼されるようでなければならないこと。とくに協力して共通の目的を達成しようとするとき、相互信頼がなくて、どうして成功をかちえようか、といいきっている。
このモンゴメリーのいう指導者論を裏書きするような、悪しき典型を、われわれは昭和十九年十月下旬のレイテ沖海戦においてみることができるのである。
ナゾの反転
その日――灰白色の|精悍《せいかん》な姿を光らせて、二隻の重巡(熊野、利根)が全速力で近接していったとき、レイテ湾のなかでは、米攻略部隊総指揮官マッカーサー元帥が、上陸点を少し南にさがった仮設の司令所で、黙りこくっていた。重巡のあとから戦艦大和を中心にした艦隊が、殺到してくることは目にみえている。
〈日本艦隊が間もなくこの湾内になぐりこんでくる。群がっている輸送船や補給船はたちまち粉砕されるだろう。波打際に積みあげられたばかりの糧食や弾薬は、一、二発の砲撃で、あとかたもなくなるだろう。上陸した四個師団は、食糧弾薬を失い補給もなく、海に追い落とされる。フィリピンに片脚をかけたところまできて、ここで全滅の憂き目をみなければならぬのか――〉
無念さに血も凍る想いで、マッカーサーは唇を強く|噛《か》んでいた。
また、上陸部隊護衛の空母部隊司令官スプレイグ少将は、レイテ沖で、天を仰いだ。
「あと五分で、おれも天国行きか」
かれは思わず時計を見た。十月二十五日午前九時二十五分。あたりは妙に静かになっている。一瞬、かれは鼓膜が破れたと思った。その耳にそばに立つ見張員の歓声がとびこんできた。
「へい、見ろ、ジャップが逃げていくぞ」
思わずスプレイグ少将は立ち上った。双眼鏡に映ったのは、食いつくように湾口へ迫ってきている日本艦隊の艦首がすべて北に向いているという、奇蹟とも思える現実であった。たしかに、かれらは遠ざかっていく。スプレイグは書く。
「自分の眼を信じることができなかった。しかし、日本艦隊は一艦のこらず、私の目でみるかぎり、退却しているようであった。……戦闘で疲れきった私の頭には、敵反転の事実がすなおに受け入れられなかった。そのときまでに私が考えていたことは、といえば、いつ泳ぐかということだけだった」
日本海軍の最後の勝機は、この瞬間、永遠に去った。窮余の一策としてたてた作戦が、ものの見事に図に当り、栄光が頭上に輝こうとした。にもかかわらず、日本艦隊はそれをつかみとろうともせず、背を向けて捨て去っていった。
この海戦が終ったとき、空母四、戦艦三、重巡六、軽巡四、駆逐艦十一隻、計三十万トン余を日本海軍は失い、なけなしの航空機百機以上が撃墜され、七千四百七十五名の将兵が戦死した。その意味することは、明治いらいの国民の辛苦の結晶、戦力としての“大海軍”の消滅である。そしてフィリピン諸島のレイテ島に上陸した米軍と護衛船団を撃滅し、比島を確保するという作戦目的はついに成らなかった。
なぜ、このように千載一遇のチャンスをつかみながら、「ナゾの反転」をし、完膚なきほどに大敗を喫さねばならなかったのか。
相互不信
「史上最大の海戦」といわれるレイテ沖海戦は、複雑多岐であり、かつ異常な戦いであった。広大な戦場に艦艇二百四十隻以上、飛行機千七百機が敵味方にわかれ、四日間にわたって入り乱れて死闘を展開した。それも|栗田健男《くりたたけお》中将が率いる水上部隊がレイテ湾になぐりこむ、それを成功させることができるか否か、その一点をめぐり戦われた。
追いつめられた日本海軍にとっては、水上部隊が全滅するをも厭わぬ捨て身の作戦であった。これ以外に、フィリピンを守る手だてがない。このために、生身の体を爆弾と化す|神風《しんぷう》特攻までくみこまれている。
この作戦は、もともとは基地航空部隊をフィリピンに集中し、米軍の上陸進攻に乗じて最強の米機動部隊を撃破することを骨子とした。ところが、敵上陸を迎える直前に、さまざまな誤断や錯誤がかさなり、基地航空戦力の大半を喪失してしまった。
そこから、ほとんど戦力を持たぬ空母部隊をオトリにして、米機動部隊の強打力を吸いとり、そのスキに乗じて全水上部隊がすべりこみ、レイテ湾になぐり込んで米上陸部隊を砲撃、|殲滅《せんめつ》する、という苦肉の、戦理を無視した作戦が計画されたのである。
制空権のない海上を水上艦隊がハダカで突撃しても、何の成果もなしに、全滅するかもしれないことは目にみえていた。だが、連合艦隊司令部は、比島に米軍を上陸させてはならない、これを阻止するためにはいかなる犠牲をはらってもいい、水上部隊をすり潰しても悔いはないと、惨たる覚悟をきめた。
この作戦計画にもとづき、栗田、小沢、|西村祥治《にしむらしようじ》、|志摩清英《しまきよひで》各中将が指揮する四つの艦隊がばらばらに出撃、それぞれが与えられた任務を達成しようと進撃した。それだけに、時間的に空間的に、各艦隊の作戦行動は有機的な連関をもたなければならなかった。整然たる協同とタイミングの一致が重要であり、それには正確な情報交換と、なによりも確固たる統一指揮が必要であった。
それは軍事史家ボールドウィンがいうように「優れた通信連絡と正確な行動調整と大胆な作戦指導」とに成否のかかった決定的な海戦であったのである。とくに、日本本土から南下してくる小沢治三郎中将指揮のオトリ空母艦隊と、レイテ湾なぐり込み栗田艦隊との“協同”が最重要なのである。
だが、結果的には完全に失敗して、惨敗した。たとえば栗田中将は、小沢オトリ艦隊のつりあげ作戦が成功し、付近に敵機動部隊がいないことをまったく知らなかった(という)。また、一方の小沢中将も、栗田艦隊がレイテ湾口にまさに迫りつつあったという事実をぜんぜん察知しなかった(という)。
終戦後、来日した戦略調査団の質問にたいして、栗田元中将は答えている。
「全作戦の失敗は、通信の欠落による」
さらに、レイテ湾内の上陸部隊より、北方すぐ近くにいると思われた機動部隊を攻撃するほうが有効だったか、と追及され、
「然り」
と明確に応接した。
しかし、栗田艦隊が攻撃しようとした米機動部隊は、幻の艦隊であった。発信者不明の「北方に敵機動部隊あり」の電報(したがって記録にはない)を信じて、レイテ湾を|目睫《もくしよう》の間に指呼しつつ栗田艦隊はくるりと反転した。この「ナゾの反転」にたいして、栗田中将は精いっぱいに答えても「通信の欠落のため」というほかに、はっきりした理由をみつけられなかったのである。
これまでにも、レイテ沖海戦の敗戦の戦訓は多くの人によって指摘されている。通信連絡の不備、航空部隊|掩護《えんご》の欠如、指揮系統の複雑性、タイミングの驚くべき悪さ、などなど。なかでも作戦の成否をにぎる小沢と栗田の二つの艦隊の、神経系統ともいうべき通信情報が、互いに交換されることもなく、協力態勢がとれず、勝手ばらばらに戦ったことに最大の敗因がある、とされている。
だが、真の戦訓はそうした戦術的なところにあるのではない。それはモンゴメリー大将がいうように、協力して共通の目的を達成しようとするとき、|相互信頼なくて《ヽヽヽヽヽヽヽ》、どうして成功をかちえようか。指揮官の性格や人柄、あるいは精神活動が、作戦の去就を決定する重大な要素であることはいうまでもない。それゆえに、作戦の主将となる小沢・栗田という二人のコンビの、相互不信にこそ失敗の本質があったのである。
避敵の傾向
栗田健男は茨城県出身、海軍兵学校三十八期、当時五十五歳。海軍生活三十四年のうち陸上勤務は約九年だけ。専門は水雷で、ひたすら駆逐艦・巡洋艦のりで終始した根っからの“船乗り”提督である。外面的には武骨な、不言実行を信条とした潮くさい荒武者とみられていたが、いざ開戦となって戦場にでると、その戦闘指揮ぶりにはなぜか優柔不断の|陰翳《いんえい》がまとわりついた。
戦場における指揮官は、第一に戦意(勇気)、第二に冷静な判断力、第三に決断力、第四に戦術指揮能力が要求される。その第一の戦意の稀薄さが栗田には目立つ。“船乗り”らしく艦を愛し、艦の喪失を恐れすぎるのである。それはかれが|艦隊保全主義《フリート・イン・ビーイング》を信条としていたからといわれている。
緒戦のバタビア沖海戦(昭和十七年二月末)がそうであった。ジャワ攻略部隊の護衛を支援せよ、の命をうけた栗田少将(当時)の率いる第七戦隊は、ジャワ海西部に入った。が、敵艦隊発見の報にそれに向かおうともせず、ひとり北方(敵と反対方向)に針路をとっている。本隊の指揮官から「貴隊ノ位置知ラサレ|度《たし》」という連絡をうけても、何ら回答せず。
いくつかのすったもんだがあり、午後になってやっと本隊と合同したものの、栗田少将は「追撃ヲ止ム」と一方的に通知し、またもや反転北上を開始する。やむなく本隊も追撃を断念する。
翌日ふたたび敵艦隊を発見した本隊は、勇躍これを攻撃し、壊滅させた(バタビア沖海戦)。このとき作戦協力したのは、分派された第八戦隊の一部だけで、栗田自身の第七戦隊は砲煙弾雨の外にあって、これを傍観していた。合戦のなかに、栗田は踏みこもうとはしなかった。
とくに昭和十七年六月のミッドウェイ海戦では、その消極的な動きが全軍の憤激を買った。栗田少将指揮の第八戦隊は、赤城など三空母炎上の敗色濃厚のさい、ミッドウェイ島夜間砲撃を命じられた。しかし、このとき栗田は、
「ぐずぐずしていると夜が明ける。敵航空機の攻撃をうけるから砲撃は一航過だけおこない、全速力で避退する」
と麾下の各艦に命じている。陸軍を満載した攻略部隊が敵攻撃圏内にいるし、その時点では空母飛龍は健在。敗勢を挽回するためにも、ミッドウェイ基地だけは徹底的に破壊しておかなければならなかった。にもかかわらず、栗田が座乗していた重巡熊野の艦長の眼にも、
「栗田少将はとにかく避敵の傾向が強かった」
と映じるほど、戦意の乏しさを示した。
結果的には飛龍も炎上し、砲撃命令はとり消される。全作戦中止の連合艦隊命令が下ったあとの、栗田のひたすらな避敵ぶりは、敗北の日本海軍をよりがっくりとさせた。衝突して傷ついた麾下の二隻の重巡を見捨てて、現場を去ったまま、栗田は|杳《よう》として行方をくらました。何とか損傷の二隻を助けようと、連合艦隊司令部以下が必死の努力を重ねているのをよそに、ほとんど一昼夜、連合艦隊の指示に従うこともなく、沈黙を守ったまま、栗田はひたすら西北方へと航行をつづけたのである。
マリアナ沖海戦・夜戦の夢
そうした「あらぬ方向へ走る癖」や「所要のことを連絡しない癖」(石渡幸二氏の評)など、とかくの噂のある提督を登用し、最後の決戦における水上部隊の指揮をまかせた日本海軍の人事とは、一体どこに基本をおいておこなわれてきたのか疑問なしとはしない。単に軍令承行令による年功順なのか。
文字どおり命をかけた場で、人より優れた特質を発揮できる人間とは、もともと異常な人といえるのだろう。平時の俊秀、能吏、人格者といった評価と「武将」とは一致しない。兵学校や海大卒の優等生も、あるいは平時では抜群の“船乗り”も、戦場にあっては無能な指揮官でしかない場合が数多いのである。戦史をひもとけばわかるが、かれらにひとしく欠けているのは、勇気と判断力、それに責任感である。
栗田もまた残念ながらその一人というほかはない。だが、その人を最重責の“殴りこみ艦隊”の指揮官としたことは、かれ自身に関係はない。海上生活の連続で昇進がおくれ、最古参の戦隊司令官となり、慣例ではつぎは予備役であろうと、栗田はみずから首を洗っていたほどであるから。
その栗田を戦勢いよいよ急のとき、第二艦隊(戦艦・重巡の主力艦隊)司令長官に任命したのは、ときの海軍大臣嶋田繁太郎大将である。嶋田はお気に入りの栗田の任命を、同じくお気に入りの後輩にあたる連合艦隊司令長官豊田副武大将を説得してきめた。豊田も嶋田の特別の頼みだからと承諾。ここに派閥的な匂いのする人事が成立する。
このため、指揮はほとんど幕僚まかせで、見敵必戦の闘志も勝負度胸もそなえていない栗田が、主力艦隊を指揮することになったのであるが、豊田は栗田起用をあまり深くは考えていなかった節がある。なぜなら戦闘の局面が変り、いまや主戦力は戦艦や重巡ではなく空母となった。戦艦・重巡はむしろ空母直衛を任務とする。つまりは空母部隊の司令長官がつぎの決戦の全軍の指揮をとる。次席の栗田が全責を負うような局面が出現することはないであろうからと……。
その空母部隊の指揮官が小沢治三郎中将である。宮崎県出身、海軍兵学校三十七期、当時五十八歳。水雷出身ながら航空戦略に着眼し、機動部隊編成をいいだし、早くから近代海戦のありようを見抜いた提督。豪放な外見とは別に慎重であり、戦略・戦術に独創性をもち、戦場では積極的。意思決定に幕僚の補佐を必要としない稀な指揮官で、それだけに不屈、剛直すぎる一面をもっていた。
この小沢が、戦勢いよいよ傾いたとき、栗田とコンビを組み、|乾坤一擲《けつこんいつてき》の戦いを挑み、態勢の一挙挽回をはからねばならなかったのである。そして栗田の援護をうけながら、初めて小沢が戦ったのが、昭和十九年七月、米軍のサイパン島上陸を迎え撃ったマリアナ沖海戦であった。
この日、小沢は全知全能をしぼり、果敢に戦ったが利あらず、昼間の航空戦は思うような戦果もなく、帰投する飛行機も|寥々《りようりよう》たるものという敗北を味わわされた。しかし小沢はひるまず、薄暮航空攻撃からさらに戦艦・重巡部隊の突進による夜戦を企図。ただちに小沢は午後五時に栗田に電令している。
「遊撃部隊は速やかに進出、わが薄暮航空攻撃に策応、敵機動部隊を撃滅せよ」
しかし、命をうけた栗田の動きはにぶかった。栗田が自分の率いる水上部隊に「集レ」を下令、速力二十ノットで進撃を開始したのが、実に二時間近くたってからである。
遠く日本本土から全般的な指揮をとっていた連合艦隊司令長官豊田は、この栗田の消極的な動きをみてとると、小沢に電令し(午後七時五十分)追撃を中止せよと命じた。小沢は無念の歯がみをしながら「夜戦の見込みなければ北西方へ避退せよ」と栗田へ。打てば響くように、栗田は小沢に電報を打ちかえす。
「敵情不明にして夜戦の望みなきにつき、北西方へ進出す」(午後九時五分)
夜戦の夢は消え、のちに小沢は痛烈きわまる皮肉を放った。
「もし自分が連合艦隊司令長官として現場にきていたのであったとすれば、二十日夜、全部隊を率いて夜戦を敢行したであろう」
消極的でありすぎる栗田にたいする不信であるとともに、それはまた神奈川県日吉にあって決戦の陣頭に立たぬ豊田にたいする激越な批判でもあった。
主将たちの人間性
こうしてつぎのレイテ決戦にのぞまんとする主将たちの人間性を素描しつつ、コンビネーションに思いをいたすと、なんとも|暗澹《あんたん》たる想いにとらわれざるをえない。
敗れれば連合艦隊消滅を覚悟したほどの決戦。しかも作戦実行上に、また精神的にも、緊密な連係なくしては万に一つの成功を期しえぬ流動的な水上決戦に、主将たちは互いに“不信”と“不満”を抱きつつ臨んだ、としか思えない。豊田と小沢はその胸底に明らかに“栗田不信”をひめていた。
豊田は、マリアナ沖海戦で錬成した空母航空隊を失った小沢部隊に、比島防衛戦では、やむをえず副次的な任務を与えた。しかし、豊田の真意は、一日も早く空母航空部隊を再編し、いざ決戦には、小沢に敵上陸地点なぐり込みの総指揮をとってもらうことにあった。
豊田は、おのれの企図する「連合艦隊をすり潰しても比島を保持する」という悲壮な大戦略を、責任をもって遂行できるのは、その軍歴からも海軍随一の戦術家で、声望もあり、積極的に前にでる小沢しかいないと思っていた。一日も早く実力ある空母部隊を再編成してもらい、栗田が待機するシンガポールのそばのリンガ泊地へ、小沢を送りこみたいのである。
この意味から、栗田司令部にたいしては、作戦打ち合わせを八月十日にマニラで、ただの一回しか豊田は行おうとしなかった。その日に備えて、栗田司令部には港湾突入の猛訓練に励むことだけを期待したまで。綿密な作戦の打ち合せをしようとはしなかった。真の指揮はいずれ小沢がとるであろうからである。
だが、当の小沢は、マリアナ海戦のときの命令にたいし、消極的な動きしか示さなかった栗田と、コンビを組んで戦うことに嫌気がさしている。水を飲みたがらぬ馬に水を飲ませることはできぬ。ささやかれている蔭口そのままに、栗田の「敵のいない方へ走る癖」「所要のことを連絡しない癖」には大いに悩まされた。つぎの決戦が真に“最後”なら、連合艦隊司令長官の豊田が先頭に立ってひっくるめて全軍を指揮すべきであると、小沢は頑としてリンガ泊地への進出を拒否した。小沢の剛直さが発揮された。
ここから長い間、日吉の豊田と瀬戸内海の泊地にいる小沢との間に激論が闘わされた。両方の参謀が右往左往した。業を煮やした豊田は軍令部へ働きかける。
「豊田大将は次期作戦にはみずから戦場で指揮をとることを望んでいる。そこで次席指揮官である小沢中将が早く最前線へ出ることを求めている」
いわば天皇の命令によって、小沢をリンガ泊地へ動かそうとしたのである。
こうした論議の根柢に、おのれにたいする不信があるとも知らず、遠くマレー半島のリンガ泊地で、栗田は、確たる成算のない訓練をなんとなくつづけていた。たった一回の打ち合わせのほかは、海軍中央がつぎの作戦に真に何を企図しているのか、根本にまでつきつめて知らされることはなかった。
だから栗田司令部は、「少し呑気なりと言うべし」であり、「水上部隊を指揮し決戦せんとするのに、根本問題につき明答できるだけの腹無きはそれ如何」と、指揮下にある闘将宇垣纏中将の冷ややかな批判をあびるお粗末さであったのである。主将たる栗田の資質のためもあろう。それにかれは主力艦隊の港湾突入という作戦と任務そのものにはじめから反対してもいた。
オトリ部隊となぐり込み部隊
日本海軍がこうしていたずらに時をついやしているうちに、戦況のほうが猛烈なスピードで動いてしまった。米軍は比島進攻作戦を開始、日本軍に決戦を強要した。すべての論議は捨てられ、作戦計画不徹底のまま、|蒼惶《そうこう》として小沢オトリ艦隊も、栗田なぐり込み艦隊も、それぞれの|錨地《びようち》から出撃する。
主な戦闘は十月二十四日と二十五日にわたってくりひろげられたが、この両日の栗田艦隊の動きはもどかしいの一語につきる。栗田の座乗した戦艦大和は、敵に向かうかと思うと反転し、また敵に向かうかと思うと反転を何度となくくりかえす。
とくに二十四日午後三時半の反転が全作戦を崩壊させる端緒となったのである。戦艦武蔵がやられるのをみた栗田は、突然のように麾下の部隊に反転して西へ向かうことを命じ、その報告を連合艦隊に電報した。これが午後四時。「無理に突入するも|徒《いたずら》に|好餌《こうじ》となり成算期し難きを以て、一時敵機の空襲圏外に避退」するというものだった。
だが、この電報が海軍中央につく前の六時十三分に、日吉にあった連合艦隊司令部は、栗田部隊の苦戦をみてとって、激励電報を全艦隊に発信する。
「|天佑《てんゆう》を確信し全軍突撃せよ」と。
ところがそのほぼ一時間あとに、栗田からの「西へ向かって避退する」ことを知らせる報告が、やっと連合艦隊にとどくのである。日吉の司令部は愕然、そして憤激した。突撃電をうけながら栗田はそれを無視して、要するに“退却している”と判断したのである。
豊田は眼をつむる思いでふたたび|叱咤《しつた》電を打ちこんだ。栗田部隊がレイテ湾に突入しないことには、全作戦の根基は覆ってしまう。断乎として「突撃せよ」(七時五十九分発信)なのである。
歴史の皮肉としかいいようがないのだが、これより以前の五時十四分、栗田艦隊は反転して東進、つまり勇を鼓してレイテ湾に向かってふたたび航進をはじめていた(という)。だが、なぜか再反転の電報を栗田は打とうとはしなかった。栗田の「所要のことを報告しない癖」がいちばん肝腎のときにあらわれた。
この連合艦隊と栗田艦隊とのやりとりを傍受しつつ、オトリの任務を忠実にはたそうと南下をつづけていた小沢は、主力の栗田艦隊が避退したのではもはやこれまで、と夜半になって北上を決意する。栗田の西進を任務遂行断念とうけとったのである。小沢にはおのれが捨て身であるだけに、なお「栗田不信」の思いを拭いきれなかった。
それが結果的には、米機動部隊のつり上げに成功することになるのであるが、踏みこみすぎたため、翌二十五日の白昼の海面で、小沢艦隊は米大機動部隊の猛攻に完膚なきまでに叩かれるのである。
しかしこのとき、小沢もオトリ作戦成功の状況をくわしく報告していない。電報七本を発しているが、すべて簡潔そのもの、地点も敵兵力も報ぜず、敵機動部隊の全力攻撃をうけていることを詳細に知らせたものではない。栗田の退却で作戦が崩壊したものと判断していたから、としか思えない。
しかもそれら電報は、栗田が座乗する戦艦大和に着電しているのに、栗田の手には一本も渡っていない、というのだから驚くほかはない。栗田は戦後になって語っている。「小沢部隊の戦況を報ずる電報は、二十五日の夕方になって見た。しかし今となってはもう時期遅れだと思った」と。
語らざる提督
このお粗末さゆえ、何の抵抗もうけずに比島東方海域に忍びこみ、レイテ湾へ向かって進撃していた栗田は、小沢のオトリ成功などつゆ知らなかった。もっとも、栗田司令部は小沢艦隊のオトリ作戦などにはじめからほとんど信をおいていなかった。堂々たる航空戦力をもったマリアナ沖海戦ですらあの惨敗であった。まして、いまや戦力のない、ハダカの空母部隊に何ができるというのか。そこにまた、栗田司令部が、小沢司令部からの通信に慎重な注意をはらわなかった理由もある。
栗田はレイテ湾に向かいつつ、すべての協力がえられず、自分たちだけが孤立して戦っていると思った。敵機動部隊の包囲の輪は刻一刻とせばまり、湾口には敵戦艦部隊が手ぐすねをひいている。このさい、北方の近距離にいるとみられる敵機動部隊に向かえば、敵の意表にでた有利な戦いができるのではないか。
栗田は電報で連合艦隊に報告した。
「(レイテ湾への)突入は徒に敵の好餌たるの|虞《おそれ》なしとせず……敵機動部隊を求めて反転北上するを|爾後《じご》の作戦上有利と認め……」
またしても「敵の好餌」の文字!
くり返すが、北方にいると思われる機動部隊は幻の艦隊である。そしてその存在を報じた電信も発信者不明。幻影を現実にそこにいるものと錯誤し、作戦命令を無視して栗田は反転北上の最終的決断を下したのである。
そして、こうした麾下の艦隊のバラバラの戦いを、一つのものにすべく統一指揮をとらねばならない連合艦隊司令長官の豊田は、はるか彼方の日吉の防空壕のなかにいた。
軍事史家ボールドウィンは「どんな時代でも、人間が依然として戦いの最終的な裁決者である」という。戦いをするのは人である。一人の人間の意思と信念と、勇気と決意とによって、戦闘の方向は変るのである。しかも、その協同がうまく作用すれば、力は三倍にも五倍にもなり、歴史の流れをすら変える。レイテ沖海戦でもそうであった。作戦の成否は「指揮官」そのものにあり、コンビの協同の如何にあったのである。
戦いが壮大なだけに、その|破綻《はたん》は無残だった。作戦計画が酷薄であり、奇道なために、指揮官相互の亀裂は、より大きな敗北となっていったのである。
戦後の小沢元中将は「語らざる提督」として、昭和四十一年十一月に世を去るまで剛直の生き方を貫いた。なんども世田谷の家に、母屋は人に貸し狭い離れに隠れすむ小沢を訪ねたが、結局は一言も戦争については語ってはもらえなかった。ラジオで英語の勉強をするのを楽しみにしている、とそんな日常のことはいくらでも話すのだが……。ただ何回目かの訪問のとき、ぽつんとこういった苦渋にみちた風貌が、印象深く心に刻まれている。
「本当に多くの優秀な人を死なせてしまった。申しわけないと思っている。私はこのまま一日も早く消えたい気持でいる……」と。
その小沢が、真に信じられる旧部下にだけ語ったという言葉を、その死後に聞かされた。
「レイテでは、本当に真剣に戦ったのは西村君ひとりだけだ」
西村中将は作戦目的のレイテ湾突入を忠実に守って、ひたすらスリガオ海峡から突進していった。出撃前に麾下の艦長と打ち合わせすらやっていない。しかし、それをいうなら、小沢自身もオトリとして撃滅されるという作戦目的に徹していたのではなかったか。
栗田元中将とは、時をおいて二回会っている。その語る内容が妙に違っていたことが、いまも記憶に残っている。昭和五十二年十二月、この人もあまり多くを語らざる提督として逝った。
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東條に嫌われた二人のルソン籠城戦
ある烙印をおされ、ひとたび主流から離れたとき、組織に生きるかぎりは非情の人事に身をまかせるほかはないのだろうか。マキャベリはその著『政略論』のなかにいう。
「君主は将軍の名声を喜ばない」と。
この場合、“君主”は“組織”といいかえると、その意味はよりハッキリする。歴史に求めれば、源義経の悲劇がある。われわれの周辺でも、組織のため大きな働きをした有能な人が、上長に好まれなかったばかりに、意外に不幸な末路をたどる例をしばしばみる。その人の人間性や、主義主張となんら関係ないことで。
太平洋戦争の戦史のなかにも類型を数多く見出すことができる。これはその典型といっていい二人である。
「山下は軽率である」
満洲の曠野にあって対ソ戦に備えて指揮をとっていた山下奉文大将に、第十四方面軍(在フィリピン)軍司令官の大命が下ったのは、昭和十九年九月二十三日である。マリアナ諸島防衛の決戦に敗れ、この戦争における大日本帝国の勝機はまったくなくなっていた。このとき、山下は明らかに自分の国の最終的な敗北を予期し、あわせて自分の運命についても正確に見通した。
一緒に満洲にいた久子夫人ら家族のものに山下はいった。
「内地に帰って、最後のときには両親と一緒に死ぬほうがよい」と。
その覚悟をきめて九月二十九日に東京に戻ってきた山下を激怒させたのは、そのきめられた日程であった。戦況緊迫を理由に、十月一日には比島へ出発せねばならなくなっている。正味二日しかない。これでは大本営での諸打ち合わせで手一杯で、各方面の人に別れを告げたりする余裕はない。ましてや天皇に拝謁する時間がないではないか。
対米戦争の緒戦のマレー攻略において、山下は殊勲の将軍となった。だが、シンガポール作戦で苦心|惨憺《さんたん》、ようやくこれを攻略すると、軍機の名のもとに、東京の土を踏むことなく、一直線に満洲の牡丹江へ赴任させられてしまった。軍司令官の新任務への就任には、天皇に拝謁し、戦況上奏とともに、親任式が行われることになっている。山下にはこのとき、武人の無上の光栄ともいうべきこの式を、省略させられた痛恨の想いがある。
「こんどもまた親任式を省略するというのか。大本営は一体何を考えているのか。この出陣におれは服するわけにはいかん」
戦争がはじまっていらい、はじめての帰京なのである。大本営の命なりといえども絶対に後へは引かぬ決意が、山下のいかつい顔面にみなぎった。だが、その反面にかれの心中には、沈潜していたある淋しさが消えずに再び湧きあがってきていた。陛下はそれほどまでに山下を嫌っておられるのか、というつらい想いである。
――昭和十一年二月二十八日、雪の東京の中央部は、叛乱軍鎮圧のために派遣された甲府・千葉の部隊で埋められた。日比谷に重砲の砲列が布かれ、出動した戦車がキャタピラの音を底ごもりにひびかせていた。いわゆる二・二六事件が起きてすでに三日目、皇軍相撃の瞬間が刻一刻と近づきつつあった。軍事調査部長の山下(当時少将)はこの状況を憂え|蹶起《けつき》した青年将校らが叛乱軍としてではなく、義軍の名のもとに自決することで、事件を|終熄《しゆうそく》させたいと、強くのぞみみずから行動にのりだした。
この日、山下は陸相|川島義之《かわしまよしゆき》大将と第一師団長|堀丈夫《ほりたけお》中将をくどき、午後一時ごろ、宮中に川島とともに参内、侍従武官長本庄繁を訪ねた。かれは青年将校の|苦衷《くちゆう》を語り、かれらが罪を謝するために切腹する覚悟でいることを、武官長に語った。ついては、かれらを安んじて自刃させるためには特別の慈悲をもって「勅使を賜り死出の光栄を与えてもらえまいか」と涙ながらに申し出たのである。
はじめは気のすすまなかった本庄も、その熱意に動かされて天皇への伝奏を引きうけた。だが、侍従武官長の言葉をすべて聞き終える前に、天皇はかつてない怒りを顔にあらわしていい放ったのである。
「たとえいかなる理由があろうと叛軍は叛軍である。自殺するならば勝手にさせるがいい。かくのごときものに勅使などもってのほかのことである」
そして天皇は語をついでいったという。
「そのようなことで軍の威信が保てるか。山下は軽率である」
あからさまに臣下を名指しで|戒《いまし》めることをしない天皇が、はたして「山下は軽率である」といったかどうかについては確証はない。しかし、「軽率」の一語が天皇の言葉として山下の耳に入ったことは確かである。その日、宮中をさがる悄然たる山下の姿は、川島陸相の脳裏に深く残っているし、この言葉で山下が軍を退く覚悟をもったことは、いくつかの友人宛ての手紙などによっても察せられる。
皇道派の流れ
あのときから、すでに八年半もの暦日がすぎている。にもかかわらず、山下の名のあるところにまだ雪の日の惨劇が大きく立ちはだかるのか、という絶望的な想いがかれの胸中を埋めるのである。それでなくとも、陸軍人事の非情さが、あの日いらい山下の心奥を|苛《さいな》みつづけている。
東京に着いた翌三十日、山下は参謀総長|梅津美治郎《うめづよしじろう》大将と会うと、おのれの胸中を訴えた。武士の情けであるとまでいった。梅津はその希望は当然のことのように万事を請合った。こうして山下の出発は延ばされた。
山下が久しぶりに天皇と皇后に拝謁したのはその翌日である。襟を正した山下が、やや上気した面持ちで退出してきたとき、控えていた副官にはその表情が「もうこれで心残りはない」といっているように感じられたという。事実、皇居を辞するとき、侍従長に「私の生涯においてもっとも幸福なときでありました」と、山下はしみじみと語ったのである。
山下はそれほど天皇に忠誠な男であった。これまでも中国大陸や満洲や、マレーの戦場にあるとき、山下は自分の机の位置を変ったほうに向けて坐っていた。尋ねられればこのほうが坐り心地がよいからだと答えるのを常としたが、あるとき、ただの一度だけ自分の本心を打ち明けたことがあった。
「実は東京の方向を磁石で正確に標定して、机を宮城に向けてある。自分はお上の御前にあるつもりで部下の指揮に当たっている」と。
かれは二・二六事件いらい、その日常座臥のすべてを天皇の馬前に死す、その覚悟のままに生きてきていたのである。にもかかわらず、天皇に、そして東條英機の支配する陸軍中央に、うとまれていると思いつづけた。そこにかれの軍人としての不幸があった。
山下は明治十八年十一月に高知県に生まれた。広島陸軍幼年学校から陸士へ進んだ。陸士十八期。同期に岡部直三郎、|阿南惟幾《あなみこれちか》がおり、一期上にかれを敵視したという東條英機がいる。陸大を五番の優等で卒業、外国駐在をおえてからは軍政畑を歩む俊秀の一人に目されていた。
その彼の前途が大きく閉ざされたのが、二・二六事件であった。軍人らしい軍人として声望の高かった山下は青年将校を擁護した皇道派に属する将官として、みずから身を退くことを考えねばならなかったのである。史書は、統制派といい皇道派という。が、それほど劃然としたものではなかったという。人脈的派閥の係争という面でみれば、山下がかならずしも皇道派に属しているとはいい難かった。ただ政策的な対立の観点からすれば、反ソに徹した皇道派に近寄っていたが……。
二・二六事件ののち、陸軍は粛軍の名のもとに皇道派と目される将星らを一掃した。荒木貞夫、真崎甚三郎、|柳川平助《やながわへいすけ》、山岡重厚、小畑敏四郎らの大物をはじめ、少壮将校がつぎつぎと去っていく。わずかに残ったのが山下奉文とされている。それも夫人の父が|寺内正毅《てらうちまさたか》元帥の副官を長く勤め、その縁で粛軍の指揮をとった|寺内寿一《てらうちひさいち》陸相(正毅の長男)に救ってもらったともいう。残ったものの山下は、陸軍中央を離れ、長く“田舎まわり”を余儀なくされたのである。「山下は軽率である」との天皇の叱声をたえず胸のうちに聞きながら……。長い年月であった。
比島方面軍司令官に任命されたとき、山下は国家が滅亡か生存かの最後の段階にきていることを知っていた。つぎに米軍が比島に来攻することは当然の戦理。そこが決戦場となり、自分の死処となるであろう覚悟はついた。そのときになってはじめて天皇の許しをえた想いがかれにある。その顔がやっと晴れ晴れしく副官の眼にも見えたのは、当然であったのかもしれない。
奇妙な組合わせ
その山下が、十月二日、大本営で比島兵力の検討や作戦の打ち合わせに終日没頭したあとで、参謀長の希望をはっきりいいだしたときには、内情を知る参謀たちを驚かせるに十分なものがあった。山下はいった。
「武藤章中将を希望する」と。
それは山下の口からは出そうにもない、思いもかけぬ名といってよかった。つまり、武藤章こそは、ちゃきちゃきの統制派の|寵児《ちようじ》と周囲から見られていた軍人。永田鉄山に私淑した武藤は、二・二六以後にそのもてる才覚をフルにふるい、皇道派退治に|辣腕《らつわん》をふるった、と考えられている、その人であるからである。
当時、近衛第二師団長としてスマトラにいた武藤は明治二十五年生まれ、熊本県出身、陸士二十五期、山下の七歳下である。かれもまた陸大優等卒。しかも山下と違い挫折することなく陸軍の主流を歩みつづけた。弁舌さわやかで頭のキレも鋭く、寝技や根回しなどすべての面で有能な軍人だった。だが、その無愛想と傲岸不遜は軍の内外に不人気で、ムトウにあらずムトク(無徳)なりと陰でよばれ、恐れられた。
その権謀術数に|長《た》けた政治的軍人を、軍人らしく性格単純、大らかな山下がなぜ参謀長に選んだのか。戦局がそんな派閥的なことを許さなくしていた、とか、死処の道連れにもっとも嫌うものを選んだ、とか、人びとはさまざまに噂した。それほどに、その組合わせは知らざるものには奇妙なものとして映じたのである。しかも親補職の近衛師団長から方面軍参謀長では、序列では下位にある。
だが、他人の評はどうあれ、武藤がいうほどの政治的軍人ではなく、緻密で合理的な思考力をもつ幅広い武将であることを、山下自身が数年前にすでに見ぬいていたのである。むしろ内に秘めたものを容易に外へ出さぬ慎重さが、かれを誤解せしめている点であることをも。
昭和十三年七月、北支方面軍参謀長だった山下のもとに、参謀副長として武藤が着任したことがあった。山下が武藤の豪気と知謀を知り、武藤が山下の人間の大きさを知ったのはこのときのことであった。
蘆溝橋事件が起きたとき、参謀本部作戦課長として武藤が、作戦部長の石原莞爾とことごとに衝突したことを山下は知っていた。石原の不拡大論にたいし、武藤は日中戦争を満洲事変の延長にあるものと考え、対ソ戦に備える前哨戦として現地の積極派を支持した。結果は喧嘩両|成敗《せいばい》となり、石原は関東軍へ、武藤は中国へ参謀として転ずることになった。それだけに、武藤が副長として着任したとき、山下はいった。
「きみの来てくれるのを大いに期待していたよ。きみの積極策をひとつここらで発揮して、支那事変解決の方策をひっぱり出してくれ」
上司だろうと議論となれば一歩も退かない武藤は、これを皮肉ととり、言い返そうと身構えたが、山下の微笑をたたえている顔をみると何もいえなくなった。山下が皮肉や悪意でそのようなことをいう人物でないことを、武藤もまた知っていたからである。
武藤は、士官学校時代の山下の印象として、のちに書いている。
「山下さんは性格の単純、親切、勤勉さから級友の人望もあり尊敬もされていた。指導者欲もなく、どの徒党、党派にも加わろうとしなかった。彼はいつも仲裁役で、級友のうち激しやすい連中も、彼の田舎育ちのカラッとした公正さには頭があがらず、彼の中正公平な判断に従ったものだ」
武藤が北支の戦場でみてとったのは、士官学校生徒がそのまま将官になったような山下の姿であった。武藤のように生まれながら頭の働きの緻密な男には、性根も日常も平凡、さっぱりとした性格の前には、張り合う気も起らず、むしろ暖かく包んで協力してやろうという気にしかなれないのである。
北支時代の山下と武藤とは、およそそのような関係を形造った。ゲリラ戦のほか大した戦闘のない戦場ではあったが、なお治安は悪く、民衆の生活は安定していなかった。山下と武藤がそこでやったことは、|王克敏《おうこくびん》の臨時政府にたいする、日本軍の政治関与を禁止するという思いきった方策であった。武藤の鋭敏な政治的判断と、山下の大局だけを見定める大らかさとが二人三脚となって、実にうまく作用した。
比島決戦のかぎ
武藤を参謀長に選んだ理由の一つには、決戦にさいして、そうした政治工作の必要がフィリピンにあることを、山下が見抜いていたという点も考えられる。日本に協力するラウレル政府あり、米軍に味方するゲリラあり、その上に|頽廃《たいはい》しきった日本軍の占領行政があった。山下の前任者の黒田重徳軍司令官のもと、戦局どこ吹く風と、比島方面軍の軍紀は酒と女にただれきっていたのである。
三年におよぶ日本軍の治政の結果は、フィリピン人が“解放者としての日本人”に軽蔑と憎悪とを抱くようになってしまっていた。かれらはいった。「日本の兵隊がもってきたのは、むずかしい日本語と淋病だけである」と。
山下がまずせねばならぬのは、そのように|弛緩《しかん》しきった軍紀を引緊め、決戦の準備を整えることであった。それが間に合うかどうかに比島決戦のかぎがある。
山下はそのためにも武藤を必要とした。
しかし、それがすでに遅すぎることを、ほかの誰よりも当時スマトラにあった武藤が知っていたのである。
対米英戦争を長期戦の泥沼に落としてはならないと、昭和十四年いらい、軍務局長として活躍した武藤は、開戦前から東條陸相に力説した。そして戦いがはじまるとすぐ、外相の東郷茂徳に「一刻も早くこの戦争を終結に導くよう直ちに外交を進めて戴きたい」とまでいった。実はそれが赫々たる戦果に英雄気分に酔っていた首相東條の機嫌をそこねることになった。しかし、武藤は屈せず、なおも戦勝ムードのなかで早期和平を説きつづけた。東條は、武藤の正論がうとましく、かれを忌避するようになる。軍務局長として勢威をふるい、憎しみの対象となっていた武藤の転落は、あまりに早くあっけなかった。昭和十七年四月、主流をはずされた武藤は、東京から追いだされた。
いらい二年余、山下が満洲の曠野で悪化していく戦況の推移を空しく望見していた以上に、武藤はスマトラの|椰子《やし》の葉蔭で、日々敗色の濃くなるさまを身近に感じとっていたのである。山下が比島防衛の大任を負わされたとの報を知ったとき、武藤は副官にいった。
「この処置は半年遅れた。いまごろ山下大将が行ってもダメだ」
まさかこのとき、自分に参謀長のお鉢がまわってくるとは、武藤は思いもしなかった。その命課が下ったのが十月七日、このときの想いをかれは手記に書いている。
「私は比島の作戦準備が、何も出来ていないことを薄々知っていた。私の命課は死の宣告であった。私は最後のご奉公だ。十分山下大将を補佐せねばならぬと誓った」と。
山下といい、武藤といい、国家の運命を賭けた戦いへの出陣を、死刑の宣告とうけとらざるをえなかったとは、何とも評しようがない。もはや何らの策を施しようもないほど、二人の着任は遅きに失していた。
山下がフィリピンの地を踏んだのは十月六日の夕刻。その夜、軍司令部の将校一同に山下は訓示した。
「由来戦勝は人の和より生じ、人の和は、お互い|扶《たす》け合う精神より生ず。第二は悔いを後日に残さぬことである。今から直ちに準備に取り掛からなければならぬ。私は、われに海軍なく、航空軍なくとも、陸軍は陸軍として、独自の戦争を敢行するつもりである。諸官は今より|褌《ふんどし》をひきしめて、この覚悟を固めてもらいたい」
この山下の獅子吼をあざ笑うかのように、一週間もたたぬうちに米機動部隊は、比島の日本軍陣地に空襲をかけてきた。準備よりさきに戦闘がはじまったのである。
そして、山下が待ちに待った参謀長の武藤が着任したのが十月二十日。すでに二日前から米軍のフィリピン上陸作戦は開始され、二十日は、マッカーサーがレイテ島に上陸、「私は、ついに帰ってきました。全知全能の神のみ恵みにより、わが軍はいま、フィリピンの土を踏んでいるのです……」と誇らしげに放送したその日に当っていた。
山中の“戦友”
武藤のいう「実戦の指揮官としては抜群」の山下と、その山下の評する「知謀は底知れぬ」武藤をしても、こうまで後手を踏んでは、フィリピンの戦いはどうにもならなかった。
「観念的な大福帳のような勘や精神力だけでは、これからの戦いは困難である。真の彼我の戦力、作戦能力を比較検討して、これを数字的に深く掘りさげなければ不覚をとる」
というのが山下の作戦指導の根本なら、武藤のそれは、
「制空権、制海権の冷静な判断と、敵の火力(鉄量および後方補給能力)を正確につかむことがまず緊要である」
であった。ともに太っ腹の剛将とみえる二人のうちの、合理を重んじる考え方と、繊細な神経を思わせる。なおかつ、それでもどうにもならなかったのが、この比島防衛戦であった。
ましてや、ルソン島に兵力を集中しての一大決戦という当初の作戦計画が、大本営のとんでもない誤判断から、兵力分散のレイテ決戦に変更、という愚劣さが加わっては、手の施しようがなかったのである。もちろん、山下も武藤も、この愚策に猛烈に反対した。史書は二人の悲痛な言葉を記録にとどめ、その心中の無念さをあますところなく伝えている。
「レイテ決戦は、後世史家の非難を浴びることになろう」(山下)
「方面軍レイテに殉ず」(武藤)
しかし、大本営も、上級司令部の南方軍も、頑として耳を|藉《か》そうとはしなかった。米軍上陸前の台湾沖航空戦の大誤報的な戦果発表と、それに引きずられ「レイテ決戦こそ神機」として天皇の奉勅命令をひきだしてしまった誤断とが、山下・武藤の合理性を粉々に打ち砕いた。政治が作戦を圧殺したのである。
面をおかして反対する山下に、上長の南方軍司令官寺内寿一元帥はただ一言、
「陛下のご意思に基づき、元帥は命令する」
といった。この言葉の前には、忠誠な軍人として山下には、もはや抗弁すべく残された言葉はない。あるいは、二・二六事件において、かれの頭上に|鉄槌《てつつい》となって下された奉勅命令のことが、この瞬間に浮かんで消えたかもしれない。しかも相手が二・二六後に自分を救ってくれた元帥なのである。
はじめから無謀の一語につきたレイテ決戦に敗れ、兵力の大損粍をまねき、昭和二十年二月からは米軍のルソン島上陸を迎え、山下軍は北部山中に籠城し抵抗をつづける持久戦に入った。はじめ約十二万の兵力を擁した部隊も、レイテ決戦で三万を注入し、残るは九万足らず。広大なる守備範囲、食糧と弾薬もままならず、補給路なしの態勢では、ほかに戦いようもなかった。
しかし、“敗軍の将”と決し、山中に入った山下も武藤も、淡々として落着いていた。とくに山下からは剛直さや焦燥感がすっかりとれ、沈静不動、というより悟りのような|諦念《ていねん》がにじんでいた。武藤にはゆとりさえでてきた。さすがに軍政では一時代をつくった男らしく、空襲下にあえぐ国内政治の裏が見えているのであろうか。
「東京はどこまで国民を引っぱっていくつもりか、そろそろ考えていい時分ですね」
と山下に話しかけたりした。
「どこでもいい一度反撃してから、という腹なんだろうがね」
と山下が応じた。武藤は皮肉の笑みをうかべた。
「まあ、比島でわれわれが米軍を|釘《くぎ》付けにしている間に何とかしてもらいたいですがね」
山中の野陣であるから、山下と武藤とは薄い板壁で仕切った部屋で隣り合わせて寝た。翌朝、武藤が「昨夜は閣下のいびきで寝られませんでした」と笑うと、山下が「いや、君のいびきはダムの水音よりすごかったよ」とやり返し、護衛憲兵が一夜両将のいびきを聞くことになった。結果は、山下のいびきは高いが休止があり、武藤のは低いが休止なしで、勝負なしとなった。そんなエピソードが残っている。
武藤の俳句もいくつか残されている。その一つ、
老将の蠅叩きをり卓一つ
いつも蠅叩きをもっていた山下は、ふしぎそうに武藤に聞いた。
「これはどこのだれのことを|詠《よ》んでいるのかね」
「どこ? 閣下、ここですよ」と武藤がいうと、
「でも、ここには老将はおらん」
|朴念仁《ぼくねんじん》さながらにニコリともせぬ山下の言葉を聞き、さすがに武藤も二の句がつげなかった。もはやかつての統制派も皇道派もなく、そこには老年にさしかかった“戦友”があるだけとなった。二人は、昔から意気投合した仲間のように、最後まで行動をともにした。
責任をとるもの
ただ時をかせぐためのルソン籠城作戦計画では、いよいよというときには両将自刃、ということで終幕の予定であった。しかし、その前に国家そのものの降伏のほうが早かった。八月十四日夜の東京放送でそれを傍受した山下司令部では、参謀たちが、|虜囚《りよしゆう》の恥かしめをうけず、また敗戦の責めを負って両将軍は自決すべきかどうかで議が闘わされた。
しかし、山下も武藤も、まったく別の意見をもっていた。
「私はルソンで敵味方を問わず多くの人間を殺している。この罪の償いをしなくてはならんだろう。祖国へ帰ることなど夢にも思ってはいないが、私が一人で先きにいっては、責任をとるものがなくて残ったものに迷惑をかける。だから私はあくまで生きて、私一人で責任を背負うつもりである」
と山下は明瞭にいい、武藤も合同慰霊祭でこう挨拶した。
「われわれの戦友の英霊は、今日の慰霊ではたして鎮もるであろうか。かれらの|御霊《みたま》は、プログ山の峰に、アシン河のほとりにさ迷っているであろう。かれらは祖国の再建によってのみ慰められるであろう。このことを深く銘記して、われわれはこの祭壇の前に祖国の再建を誓おうではないか」
そして、山下はその言葉のとおり、ルソン作戦中にたびたびあった住民虐殺の責任を負い、マニラのアメリカ軍戦犯裁判で絞首刑を宣告された。このとき、武藤は憤然とし、かつむせび泣きながら弁護人を通じて、
「なぜ名誉ある第十四方面軍司令官山下大将を遇するに、銃殺刑をもってしないのか」
と厳重に抗議した。しかし通らなかった。
最後の訣別を許された武藤と会ったとき、山下はそのことを謝し、最後の言葉を残している。
「おれは大勢の人命を損耗させてしまった。かつて二十五万の兵力を擁していたのに、半数は戦死してしまった。そして残った人員を無事に日本へ帰してやるのがおれの責任だと思っていたが、今度は武藤君よ、君の責任となった。気をつけてやってくれ。これだけが最後の望みでもあり、最後の命令だ」
武藤はそれを|諾《うべな》った。しかし、かれもその大任を実行するわけにはいかなくなった。連合軍から、軍務局長時代の開戦謀議の追及をうけ、東京へ呼び戻され、A級戦犯として東京裁判の被告席につかねばならなかったからである。そしてかれも、山下と同様に、絞首刑の宣告をうけた。
山下は昭和二十一年二月に刑死した。
独房にあったとき、山下は毎日のように「アメアメフレフレ、カアサンガ……」を口ずさんでいたという。その山下が、絞首台にのぼる二、三日前に珍しく一首よんでいる。
満ち欠けて晴と曇りに変れども|永久《とわ》に冴へ澄む大空の月
武藤の刑執行は二十三年十二月である。ともに祖国再建をみることなく逝った。
散る紅葉吹かるるままに行衛かな
武藤が巣鴨刑務所にあってよんだ一句である。
〈追記〉
軍務局長としての武藤章の辣腕については、これまでにも多く書かれている。その武藤の転落については本文にふれたとおりであるが、ほかに開戦直前の昭和十六年秋、対米英開戦への滔々たる流れに抗し、かれが外交交渉による危機打開に全力を投じていたことは、あまり書かれていない。
「N工作(野村大使の対米交渉)開始以来における局長の態度がいかばかり陸軍の態度を晦冥に陥れたるや、言語に絶す。
彼は優秀なる大政治家、良好なる能吏に過ぎず、ぬらりくらりとその態度に節操もなく主義もなく、慨嘆に絶えず」
「……要は武藤章局長一人の灰色的存在が然らしめるにあらざるや」
などなど、参謀本部の『大本営機密戦争日誌』で、武藤は罵倒されていることでも、そのことは理解される。東京裁判の席で、武藤に反省の色がなかったのは、この事実があったからではなかったか。
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沖縄攻防・仏の軍司令官と鬼の参謀長
日本陸軍の『統帥綱領』は、戦場における将帥のあり方として、
「将帥は超然として大勢の推移を達観せよ」
の一行を示している。そして、具体例として、日露戦争における満洲軍総司令官|大山巌《おおやまいわお》元帥と、総参謀長|児玉源太郎《こだまげんたろう》大将との絶妙のコンビをあげることを常としたという。満洲軍の作戦用兵のいっさいを児玉にまかせきった大山は、終始悠々超然として大勢を観望していた。つまり、将の将たるものは、最も信頼できる優秀な幕僚長を選びだし、かれに用兵作戦のすべてを一任し、その能力を最大限に発揮させ、自分は最終的決断のみを行って全責任をとる。それを日本陸軍は将帥道の理想としたものである。一言でいえば、指揮官たるの条件は威徳(威厳と人徳)にあるとした。実は、それは誤った指揮官像であったのであるが、それでよしと日本陸軍は考えていた。
太平洋戦争最後にして最大の陸の戦いとなった沖縄防衛戦では、この誤った理想形が見事なほど具現した。そしてその結果としてもたらされたものは何であったか。沖縄県民が惨たる戦闘にまきこまれるという悲劇であった。
陸軍切っての暴れん坊
関東軍総司令部付で対ソ戦術を練っていた陸軍少将|長勇《ちよういさむ》が、昭和十九年六月、急ぎ東京によびよせられたのは、戦争の死命を制するサイパン島奪回作戦のためにである。「大勇猛心」を信条とする長少将を指揮官として、サイパンに逆上陸させ、これを奪い返そうというのが、陸軍中央が必死の想いであみだした妙策であった。
しかしつまるところサイパン奪回作戦は中止。「よき死処を得た」と|欣然《きんぜん》としていた長は、大いに落胆した。そんな猛将を陸軍中央は放っておくわけにはいかない。つぎの決戦場はおそらく比島。さらにそのつぎには台湾ないし沖縄が狙われることであろう。米軍は九州上陸作戦を敢行するためにも、多数の良好な港湾のある沖縄本島の攻略をめざして進攻してくるに違いない。まだわずかな時間が残されている間に、防衛陣を固めねばならぬ。そのための切り札的存在として長少将が急速に浮かびあがった。この長勇の名前は、つとに陸軍部内に鳴りひびいていた。|不羈《ふき》奔放、|剛毅《ごうき》果断、陸軍切っての暴れん坊と自他ともに認められる存在。勢いの赴くところ、猪突猛進も辞せぬ。スケールの大きい親分肌で部下をよく可愛がったが、同等以上の目上のものには意見が合わぬとなれば頑として譲らない気概をもつ。
明治二十八年生まれ、福岡の出身。熊本の幼年学校から陸軍士官学校へ。陸士二十八期。陸大卒と順調に軍歴をたどったようにみえるが、実は中尉、大尉ごろより型やぶりの将校ぶりを発揮して有名になっていた。夜間演習のときなど、水筒に酒をいれて休憩時間にはぐびりぐびりとあおった。そして昭和五年に橋本欣五郎中佐が若手将校中心に結成した桜会に|馳《は》せ参じたあたりから、|光焔《こうえん》万丈の生涯のスタートをきることになる。
桜会で国家改造の具体案の作成委員として果たした役割。あるいは昭和六年の、満洲事変に呼応して計画された十月事件で、事件成功後のクーデタ内閣の予定名簿に「警視総監長勇」とある事実などをみると、いかにも政治的軍人の風貌を示しているが、かれの真面目はやはり野戦での指揮官にあった。
昭和十三年ごろの歩兵第七十四連隊長のとき、駐屯地である北朝鮮一帯でかれの名はだれよりも知れ渡っていた。|色街《いろまち》では長大人、民間人には素晴らしい連隊長、部下の将校団には大酒のみの神様。酒をぐいぐいやりながらの作戦講義であったが、理路整然、説明は巧緻をきわめ、しかも天才的な閃きをもっていた。ときには、また作戦要務令の研究かと将校団が集まってくると、
「今日は花柳病治療法について講義する」
といったその道の達人ぶりを示し、かれらの胆をぬいた。
こんなときに、長の豪胆を天下に示す|張鼓峰《ちようこほう》事件が起きたのである。昭和十三年七月、ソ連と北朝鮮との国境でおきた侵入紛争事件だが、その停戦協定における日本側代表として、長勇大佐が交渉に当った。ソ連側は極東軍参謀長のシュルテン大将。
長はその朝、すでに一杯きこしめし、さらにはにんにくをいくつも食べて出かけていったという。握手して一言かわすやいなや、シュルテンは思わず顔をそむけたが、これを遠くでみると、長のニラミに負けたような形となる。こうして先制をかけた上で、長は日本側の要求書を突きつけると、「これは日本の最後の案です」と一言。あとは椅子に掛けたまま雷のような大いびきをかいて寝入ってしまった。
二時間ののち、揺り起こされた長大佐は、シュルテンの応諾の旨の返答を聞き、心から嬉しそうににっこり笑って握手した。こうして不利な情況下での停戦の談判を、見事に成功させたという。絵に描いたような豪傑肌の性格の反面に、きわめて緻密な思考力と、国際情勢にたいする鋭敏な洞察力のあったこともわかる。
この長少将を、陸軍中央がつぎの決戦人事の要員として起用しようとしたのは、いわば戦理にかなった自然の流れ。戦勢いよいよ非になろうとするとき、スケールの大きさでは陸軍きっての将軍こそが最前線にふさわしいのである。そしてまた、それは長の望むところでもあった。
天性の教育者
長少将を沖縄防衛第三十二軍の参謀長に。その構想はときの参謀次長|後宮淳《うしろくじゆん》大将の胸に描かれたものであった。張鼓峰事件ののち、長は第二十六師団参謀長に転じたが、そのときの師団長が後宮大将。後宮は“暴れん坊”長参謀長の特質をよく知り、絶大な信頼をこのとき長にかけた。そしていま、積極果敢な決勝作戦を指導できる大物参謀長ということで、後宮は|躊躇《ちゆうちよ》することなく長に白羽の矢を立てたのである。
さらに後宮の人事構想は大きくふくらんでいた。この型やぶりの猛参謀長を完全に使いこなせる太っ腹の将軍を、トップの座にすえなければならない。長に児玉源太郎の役割を十分に果たさせるためには、大山巌はだれがいいか。熊本幼年学校出の、長少将の先輩であり、鹿児島出身、部下たちから“軍服を着た西郷”とあだ名されている|牛島満《うしじまみつる》中将の名が、後宮大将の脳裏には早くからあった。
明治二十年生まれの牛島は、長の七歳上ということになる。陸士二十期。陸大を優等卒の秀才である。小柄な長と違って牛島は長大な|体躯《たいく》、血色のいい温顔、堂々たる将軍の風貌姿勢をもっていた。沖縄に着任する前は陸軍士官学校長。軍事評論家伊藤正徳氏がいうように、「小学校の校長にもよし、大学の総長にしてもよし。およそ校長として牛島ほど似合いの人はいない」と、そんな天性の教育者であった。
牛島自身も、それをうべなうように、
「陸軍の教育家として、戸山学校、予科士官学校、陸軍士官学校の三つの学校をつとめたのは、陸軍のなかでも私ぐらいであろう。自分でも性格に合っていると思っているし、ほんとうに幸せものである」
と郷土の後輩に語っている。
と同時に、牛島はまた卓越した指揮官の声名も高かったのである。二・二六事件において叛乱部隊の汚名をうけた歩兵第一連隊を、連隊長として率いて満洲へ渡り、光輝ある連隊の名誉を挽回するために、牛島は全力をつくした。北満の駐屯地での|匪賊《ひぞく》討滅作戦に、牛島連隊長は先頭に立って、不眠不休の作戦指揮を行った。
そこには、幼少のときからの薩摩武士の|躾《しつけ》教育が生きていたようである。それはつまるところ“議を言うな”につきる。作戦出動を終えて帰隊したときの連隊長の訓示は、
「一つ、任務を忘れるな。
一つ、火事を出すな。
一つ、風邪をひくな。
一つ、生水を飲むな。」
を二回大声でくり返しただけであった。すべてにおいて具体的、実戦的である牛島の指揮ぶりがよく示されている。
さらに第三十六旅団長としての、南京攻略戦での不敵な指揮ぶりも、薩摩男子の面目を如何なく発揮したもの、といわれた。南京城壁を眼前にした雨花台上の戦闘指揮所に、指揮下の各部隊長を集めて、みずから攻撃命令を下達した。
「一、旅団は、これより南京城西南角を奪取せんとす
二、古来勇武をもって誇る薩隅日の三州健児の意気を示すは、まさにこの時にあり。各員、勇戦奮闘、軍の先頭を切って南京城頭に日章旗をひるがえすべし
チェスト! 行けい!
[#地付き]旅団長 牛島少将」
南京攻略後、牛島旅団はさらに漢口攻略戦の先陣を切る。このころになると、陸大優等にして、かつ歴戦の勇将としての牛島の名は、戦場はもとより陸軍中央にも定着するようになっていた。
参謀長と主任参謀
こうしてみると、後宮大将が描いた、第三十二軍司令官に牛島中将(のち大将に進級)、参謀長に長勇少将(のち中将)の構想は、いわば大本営が抜いた伝家の宝刀といえるものであったかもしれない。国家の安危を賭けた一戦に、考えられるかぎりにおける最高のコンビを陸軍中央は選びだしたことになろう。
事実、昭和十八年八月十一日、牛島軍司令官が悠揚たる大躯を那覇飛行場にみせるとともに、沖縄防衛軍の士気は大いに揚がった。さらに決戦軍にふさわしく、ぞくぞくと大兵団が第三十二軍の指揮下に入った。とくに第九師団は、長少将とともにサイパン逆上陸用にと満洲の曠野からきた訓練十分の最精鋭であった。兵力の急速な増強と、新軍司令官・参謀長着任で、過去の沈滞したムードはすっかり拭いさられた。
軍参謀部は、長参謀長を中心に新兵力をもってする決戦作戦計画の立案に、あらんかぎりの脳漿をしぼった。『統帥綱領』にいう威徳そのままに、牛島軍司令官はそれを眺めながら悠々淡々としていた。いっさいを参謀長以下にまかせ、幕僚がもってくる決裁書類には、一字一句も修正せずに押印し、「ご苦労でした」と一言つけ加えるだけであった。そして暇があれば静かに読書にふけった。
あるとき、世間話に興じていた客人が、「まことに無遠慮ながらお尋ねしますが、閣下はなぜ作戦指揮について一言も述べられないのですか」と尋ねたとき、牛島はニッコリ笑って答えたという。
「軍司令部には、長参謀長以下有能な参謀がそろっています。私がとやかく口を差しはさむ必要はありません。幕僚を信頼し、その責任をとればいいのですよ」
一方の長参謀長は口ぐせのように、「軍司令官は実に偉い人だ。その軍司令官に迷惑をかけてはならない」といい、それをおのれの責務として最大の努力をそそいだ。
だが、時がたつにつれ、軍参謀部のなかにややぎくしゃくした一面が露呈するようになった。その因はほとんどが作戦主任参謀|八原博通《やつはらひろみち》大佐の存在であった。明治三十五年生まれ、鳥取県出身、陸士三十五期。陸大優等卒の俊才、陸軍大学の兵学教官をつとめ、戦略戦術の権威を自認し、かつ徹底した合理主義の持ち主である。このためこれまでにも協調性を欠き陸軍部内で孤立し、批判をうけることも少なくなかった。しかも神経質であり、陰気で女性的ですらあった。
陽性の豪傑肌の参謀長と、陰性の学者タイプの主任参謀とでは、衝突は必然と思われ、長の参謀長内定のさい、陸軍中央で八原との組合わせの是非について、かなりの論議があった。しかし、猪突猛進の参謀長の補佐役には慎重かつ合理的な人物がいい、勢いに押しまくられる付和雷同型ではだめ、となれば性格的に合わなくとも、八原大佐が最適であろう、ということになったのである。
まことに手前|味噌《みそ》的な陸軍中央の人間判断というほかはない。長・八原の組合わせは下世話にいう水と油もいいところではなかったか。しかも八原が中央部に入れられず、「田舎回り」をつづけた揚句、次なる激戦場に赴任させられたことに不満をひそかに抱いていることを、陸軍中央は知りながら、である。評すべくもない安易な人事構想であったのである。
しかしながら、米軍上陸までは、わずかながらも意気軒昂かつ和して同ぜずの、楽しい日々がかれらに残されていた。ときに沖縄在住の名士たちを、那覇市内の料亭に招待しての懇親の宴がひらかれたりすると、参謀長は豪快に盃を重ね、興がいたると得意の|浄瑠璃《じようるり》から浪曲に|端唄《はうた》とつぎつぎに披露、はては立ち上って手踊りまで上手にやってのけた。酒に強くない軍司令官は顔を真ッ赤にしながら、乞われれば歌を唄い、座を楽しくさせた。突如として素ッ裸となり、直立して石の地蔵さんのポーズをとる、それが軍司令官のとっておきの芸。専属副官はあわてて男性自身を蔽い隠さねばならぬにぎやかさなのである。
そんなときにも、八原参謀は苦虫をかみつぶしたような、不景気な面持ちをあらわにして坐っていたという。といって、楽しい雰囲気を壊すわけではなかったが。
陣地防禦線
この、牛島・長・八原との間にどうやら保たれていた蜜月も、米軍のレイテ島上陸にともなう昭和十九年十一月の大本営命令で、終止符を打つことになる。虎の子ともいえる第九師団を台湾へ引っこぬかれたのである。長は前々から大本営に「沖縄本島防衛には最低三個師団は必要とす」と強く申し出ていた。また「真に護りぬくつもりなら、沖縄本島に五個師団を増強せよ! もし我輩の意見を採用せず、ために沖縄が玉砕するようなことになれば、参謀本部の首脳部は全員腹を切れ」とも、長はいつもの調子で陸軍中央に脅しをかけたりした。が、レイテ決戦に狂奔してすべてを忘れた大本営は、長の脅迫的反対も押し切って、第九師団を引きぬいた。
残ったのは広大な沖縄本島の防衛軍として第二十四師団、第六十二師団、混成第四十四旅団と軍砲兵隊など。それに防衛召集者。その総兵力十万、というのは建て前である。実際に戦闘し得るのは多く見積って五万、ほかは訓練もできていなく、銃もろくろく持たぬ人々であった。
沖縄軍の失望は大きかった。これで“上陸地点で敵を撃つ”と長が主張する当初の水際作戦計画はけし飛んでしまった。牛島は「沖縄作戦はこれで敗けと決まったね」と嘆息し、長も「牛島閣下のいわれる通りだよ」と腹心の参謀にがっくり気落ちした心境をもらしている。しかも投げやりになった長は、参謀がもってくる書類に、これ以後は何の文句もいわずハンコを押すようになっていった。
|秋霜《しゆうそう》烈日のきびしさの反面にある人情家、暴れん坊の異名の裏にある緻密な思考力、という長のカラッとした人間性のなかには、もう一つ、あまりに情勢判断がすばやすぎて、粘着力に欠けるうらみがあった。そして“軍服を着た西郷”の牛島は、黙然として絶えず温顔に微笑を|湛《たた》えているだけなのである。二人の将は早くも運命を悟りきってしまったのである。
こうなれば、合理主義の戦術家八原大佐の出番となる。もともと決戦主義には反対の戦術観を抱いていた。沖縄は地形と地質から陣地防禦戦にうってつけである、という年来のかれの主張を生かすべき絶好の機会が訪れたのである。数倍する米上陸軍を迎えて、決戦を挑むのは無謀、持久こそがとるべき唯一の策。すなわち陣地防禦戦によって戦うのが、その任務を果たすゆえんである、と八原参謀は作戦方針を変えた。
鉄(砲弾)にたいして土(洞穴陣地)で防ぎ、敵の挑発にのらない。そのため上陸地点を明け渡し、沖縄南部に全軍を集め、首里を中心とする堅固な陣地網をつくり、そこに敵をひきつけ出血を強要する。これ以外に沖縄防衛の方策はない、と八原は説いた。
大本営にあいそをつかしている長は、この八原案にあっさり賛同した。兵力不足の現状ではそれ以外に策はないだろう。防衛正面への兵力展開をやめ、配備を島の南部にだけに緊縮した新作戦計画は、もともとは強気の長の性分に合うものではなかった。しかし第九師団を引きぬかれてからは、かれもまたやむなく持久戦思想に傾いていた。
「われ本土の捨て石とならん」
と長はしきりと口にするようになった。そして牛島はなんの疑問をはさむことなく、新計画を承認する。
ところが、この作戦計画には案の定、大本営より非難と注文が間断なくつけられてきた。これでは島の中央部の二つの飛行場を放棄したことになるではないか。情勢が緊迫の度をますごとに、中央からの抗議と改善要望の申し入れもまたきびしさをもった。長はこれらの電報をくしゃくしゃに丸め、
「九師団を引きぬかれたあと、代りの師団も派遣されずに、どうして飛行場防衛に兵力を|割《さ》けるか。それなら兵団を送ってよこせ。出来もしないことをやれやれと尻を叩いてやらせようとするのは、統帥の|外道《げどう》である」
と口ひげをふるわせた。そして「沖縄防衛の責任は負えぬ」と軍司令官署名の一札を、長は大本営に送り届ける始末である。
こうした闘将の無念の想いが、それにともなう不貞腐れが、のちの沖縄戦の戦いぶりにどんな影響をもたらすか、この時点で気づいたもののあるはずもなかった。いや、総指揮官の牛島大将が気づくべきであったのであるが……。
過った幕僚統帥
昭和二十年四月一日、米軍の無血上陸にはじまった沖縄戦の悲惨については、すでに多く語られている。そして、それを生んだものが大本営と第三十二軍の戦略観の不一致であり、軍司令部内の、とくに長と八原の戦術上ならび人間的な確執にあったことに、目をつむるわけにはいかない。
大本営は二つの飛行場が簡単に奪取され、沖縄中央部に米軍の|橋頭堡《きようとうほ》が容易に築かれたことに大きな衝撃をうけた。連日にわたる航空機の特攻攻撃をよそに、第三十二軍の戦いぶりがまことに消極的で、攻撃にでることなくひたすら自己保存主義をとることに、大いに不満をもったのである。そこから四月二日夜「敵の出血を強要し飛行場地帯を再確保すべし」との要望電が起案された。しかし、作戦が開始されたいま、干渉はつつしむべきであると作戦部長は同意せず、その日は発信はされなかった。
だが、この日、天皇は参謀総長梅津美治郎大将にいった。
「沖縄の敵軍上陸に対し防備の方法はないのか。敵の上陸を許したのは、敵の輸送船団を沈め得ないからであるのか」
さらに翌三日、さらに天皇は問うた。
「沖縄作戦が不利に推移すれば今後の戦局はまことに憂うべきものとなろう。陸海軍にたいする国民の信頼も消滅しよう。第三十二軍はなぜ攻勢にでないのか。兵力が不足なのであるか。それなら増援部隊を送りこんではどうか」
大本営は|恐懼《きようく》するとともに、憤激した。いや、憤激したのは大本営ばかりではなかった。沖縄軍を直率する台湾の第十方面軍司令部も怒り狂い「水際撃滅の好機に乗じて攻勢をとられたし」と要望電報を送り、海軍もまた連合艦隊参謀長電をもって、
「敵の陸上飛行場の使用を封止するため、あらゆる手段を尽し右目的を達成せられたし。これがため主力をもって当面の敵主力に対し攻撃をとられんことを熱望する次第なり」
と、長参謀長あてに“熱望”を打ちこんできた。またそれと前後して、大本営から「戦艦大和を基幹とする残存艦隊が三十二軍の攻勢に策応して沖縄へ突っ込む」という内容の電報も第三十二軍に舞いこんできた。全軍特攻のとき、沖縄防衛軍は何をしているか、と叱咤されたにひとしいのである。
“暴れん坊”長参謀長の血は一挙に逆流したかのようであった。八原参謀の案を採り、しぶしぶ陣地防禦戦と作戦方針は決したものの、いざ敵の大軍を眼前にし、そして連日のように海上で果敢な特攻攻撃がくり返されているいま、何でおめおめと後方陣地で手をこまねいていられようか。自然と長の八原を見る眼が険しくなる。この秀才参謀は、卑怯未練な、逃げ腰の戦さを得々としているかのように映る。
長は断乎撃って出る肚を固めた。
八原の反対意見がどんなに客観的であり、戦理上妥当な線にそっていようと、長はもはや耳をかさなかった。そして牛島は、「作戦は、わしより参謀長のほうがうまいから」と微笑して、これを採可する。そこには明鏡止水というか、こだわらず、いつも心を澄ませることに意を向けている禅僧そのままの姿があるだけであった。
結果論でいえば、この総攻撃は状況の変化で延び延びとなり、かつ中途半端なものとなり失敗する。しかも八原が「攻撃はどうせ失敗に終ることは明瞭だから、大なる兵力を一挙に注ぎこまず、小部隊ごとにキリもみに敵陣を突き破ったほうがよい」と連隊長クラスに作戦指導したことがわかり、軍司令部内は混乱し、殺気だった。軍司令官の命を、作戦主任参謀が独断で極秘裡に|歪曲《わいきよく》指導するとは何事であるか。そんなことが許されるのか。
生き残ったある参謀はそのときのことを戦後に記している。
「過った幕僚統帥! “こんな事で作戦ができるか”と若手幕僚は憤激する。作戦主任は蒼白な顔に冷然と笑いをうかべており、軍参謀長は口を固く喰いしばったまま一言も発せぬ。暗澹たる参謀部の空気、……」
「八原を斬れ」の声もあがった。長はいったんはその覚悟をきめたともいう。しかし、さすがの長にもそれはできなかった。
“火と鉄の暴風”による虐殺
沖縄防衛軍は、さらにこのあともう一回、五月上旬にやはり長の「死中に活を求めるのだ」という猛烈なる主導のもとに、総攻撃を敢行して、完全に敗退する。もはやその時点では遅れに遅れていた。
長はおのれの生命を賭けて強行した攻撃が失敗したいま、腹を切ろうと図った。しかし牛島に強くたしなめられ、死は思いとどまったものの、完全な|死《し》に|体《たい》となった。いらい長は積極的に自分の意見を述べることがほとんどなくなった。完全に諦めきってしまった。そして「まだおれの切腹の時機は来ないのか」とか「まだ戦略持久をつづけるのか」とぼやくともなく、八原に尋ねるようになっていた。
そして死に急ぐ長の気持を逆なでするかのように、最後の死処ときめていたはずの首里城と弁ヶ岳付近の陣地を捨て、島の最南部に撤退し抗戦をつづけることを八原は提案し、牛島がこれを認可、それが軍の新作戦となった。一日でも長く持久して、本土決戦のために時をかせぐ……と大義名分が押したてられていたが、南部島尻付近には避難した沖縄県民の多くいることがまったく忘れられていた。撤退案はこれら十数万もの民衆を、戦火のなかに否応なしにまきこむのである。軍は敢てそれをなさんとする。
長にかわって、作戦の主導権をにぎった冷徹な合理主義者の八原の頭のなかには、沖縄県民のことなど毛ほどにもなかったのか。ひとりよがりの大戦術家が考えるのは軍自体だけなのか。いや、そうではなく、戦闘開始前には十分に考慮されていた。しかし、戦況がこの段階に及んではやむを得ないということなのか。当然猛反対するであろうはずの長参謀長は、唯々諾々と、ひとりウィスキーをあおっていた。完全な責任放棄である。そして牛島は軍人精神にのっとって「最後の責任は自分がとる」ときめ、大悟徹底していたのであろうか。撤退は「祖国のため、国民のため」という名分はあったのであろうが、その祖国と国民のなかに、沖縄県民は含まれていなかったのだろうか。悠揚泰然と微笑をうかべるのみではいけなかったのである。
そして歴史の皮肉は示している。第三十二軍が南部撤退による持久抗戦を決した五月下旬、大本営陸軍部は沖縄戦(天号作戦)にこれ以上力をそそぐことをやめ、総力を本土決戦(決号作戦)に傾注することに切り換えていた。そうとも知らず五月三十日零時すぎ、牛島、長、八原は専属副官や当番兵と一緒に一台のトラックにのり、最南端の|摩文仁《まぶに》の軍司令部洞窟をめざして出発していった。
沖縄の戦いはそれから二十数日間にわたってつづけられる。しかし、それはもはや組織だった戦闘といえるものではなかった。沖縄県民をまきこんでの“火と鉄の暴風”による虐殺に近かった。県民の死者は軍関係一万四千八百六名、一般住民十五万六百九十八名という。
無残ともいえる戦いの終ろうとする六月二十三日朝まだき、牛島と長は部下の一人一人にこれまでの労苦を謝したのち、死の装束に着替えた。牛島は略綬を|佩用《はいよう》して軍服を整え、長は上衣を脱ぎ「義勇奉公、忠則尽命」と|墨痕《ぼつこん》あざやかに大書したワイシャツ姿。軍人としての、敗戦の責任を二人して負おうというのである。
「さあ軍司令官閣下、先きは暗いようですから、私がご案内しましょう」
「頼みましょう」
と二人は洞窟開口部近くの自決の場所へ歩を運ぶ。午前四時半、はるか東方を拝し、
「潮の香はいいものですな。ところで閣下、長がお先きにやらせて貰います」
「いや、私が先きにやりましょう」
とかわしながら、二人は顔を見合った。しばらく無言。やがて長が、
「なるほど、閣下は極楽、私は地獄。お先きに失礼してもご案内できませんな」
といって破顔一笑した。
大本営や方面軍から|掣肘《せいちゆう》され、さらには参謀部内部のさまざまな確執があったとはいえ、お互いの信頼だけは毫もゆるがなかったという満足が、二人にだけはあったのかもしれない。そしてその死はいずれもが、古式にのっとった見事な切腹であったともいう。
牛島軍司令官も長参謀長も、一死もって敗戦の責めを負った。しかし、それはあくまでも軍人としての責任のとり方であった。また、互いの信頼は最後の瞬間まで固く結ばれていたことは、まことによきコンビであった。しかし、それだけのよき人間性を示し合える指揮官と参謀長であったのなら、軍人としてでなく、人間としての正しい判断を下せなかったものなのか。
命令の決定者として牛島大将はすべてを参謀まかせではいけなかった。直接に補佐する長中将は私情に流されて自己放棄してはならなかった。
軍が非戦闘員である沖縄県民を盾にして戦ったという事実を、払拭することは永遠にできない。歴史はまことに苛酷きわまるものなのである(八原は米軍の捕虜となり生きのびたが、その生還の問題をめぐってなお論議がつづけられている)。
[#改ページ]
終戦工作に生命をはったア・ウンの呼吸
中国の兵法書、というより戦略研究書の『孫子』は、戦争に勝つためには基本となる五つの条件がある、と説いている。道、天、地、将と法である。このうちの「将」の章で、リーダーがそなえなければならぬ資性についてふれ、
「将たるは智、信、仁、勇、厳なり」と。
それならば、おのれに欠けたものがあると思うときは、次席のものにそれを備えたものをおくことによって、困難を克服しうることも可能かもしれない。
戦争末期の海軍大臣米内光政大将と次官井上成美中将の組合わせが、その好例。信、仁、勇は米内の徳性であった。たいして井上には智と厳と、それに勇もそなわっていた、といわれているのであるが……。
退役将官の現役復帰
昭和十九年(一九四四)七月七日、サイパン島の陸海軍守備隊が全滅した。その責めをおって七月十八日には勢威を誇った東條英機内閣が倒れ、二十二日には小磯国昭内閣が成立と、太平洋戦争必敗を裏書するかのような慌しい動きがつづいた。
新内閣には、副総理格の海軍大臣として米内光政大将が就任した。
七月十八日の、陸軍の「大本営機密戦争日誌」に、興味深い一文が書きこまれている。
「米内大将現役に復帰し、海相に就任す。六十五歳の老骨の出馬を|俟《ま》たざれば海軍に人なきか?」
米内なにするものぞ。おそらくこれが陸軍中央の正直な観察であったろう。陸軍には、昭和十五年七月に陸軍みずからの手によって、ときの米内内閣を執政わずか半年で倒した鮮烈な記憶がある。その後は重臣としてときには姿をみせるが、ほとんど語るべきこともなく、|野《や》にあること四年、米内はすでに時代に忘れられた人なのである。
のみならず、陸軍の秀才参謀たちの目からみれば、米内は盛岡の出身、海軍兵学校の秀才でもなく、第二十九期生百二十五名中の六十八番卒という中位、軍歴からいっても中年までは平凡な、光った存在ではない。それが昭和十二年に林銑十郎内閣で、とつぜん海軍大臣として登場してきて陸軍を驚かしたが、軍政家としての正体は、策もなければ、術もないとの印象が濃い。
その米内が第一次近衛、平沼と三代の内閣に海相として留任。海軍部内では、識見・徳望ともに群をぬくゆえといわれているようだが、陸軍はひそかにかれに「金魚大臣」のあだ名を奉っていた。見かけは立派だが使いものにならぬという意味である。
わずかに米内が陸軍をてこずらせたのは、平沼内閣のときの、日独伊三国同盟問題の論戦だった。米内は同盟締結に反対し、その主張をついに閣議などで変えなかったが、むしろ反対の元凶は海軍次官山本五十六中将であると、陸軍はにらんだ。それと軍務局長の井上成美少将が頑強だったとも。
陸軍が抱いている米内観とは、およそそのようなものである。ミコシにかつがれているが、自身には雄弁も、熱気も、政治的|炯眼《けいがん》もない。会議を引っ張り、国の方針を逆転させうるほどの政治力をもたぬ。そんな見かけだけの隠退した提督を、この非常時にひっぱりだしてこなければならぬほど、海軍には人材なきか、と、陸軍中央の若手幕僚たちは率直な感想をいだいたのである。
そう観察しながら、しかし、陸軍は一応の警戒をはらった。およそ陸軍ではありえない退役将官の“現役復帰”ということの真意である。開戦いらい海軍をリードしてきた永野修身・嶋田繁太郎のラインを捨て、この“金魚大臣”を中心にしていったいどんな方針で、海軍は一つにまとまろうというのか。
戦局をどう収拾するか
この陸軍の懸念は当っていた。海相就任の少し前に、米内ひっぱりだしを企図したグループの一人が訪れて、その胸のうちを叩いたことがある。ふだんは軽々しく意見を吐かぬ米内が、このときは妙にはっきりといいきった。
「この戦争はもうだれが出て何をしても確実に敗け戦さだから、これからの問題は戦局をどう収拾するかだけが課題である」と。
これが米内現役復帰の直接の契機となったが、陸軍がひそかに冷笑したように、山本五十六戦死、古賀峯一殉職のあと、米内のほかにこれはと頼める骨太の軍政家が、海軍の指導層にいなかったのも事実。いるのは戦術の天才を自称する鼻高々の提督ばかりであった。
では米内は群をぬいた軍政家であったろうか、となると、陸軍の観察がむしろ当っていると思われる。もともと海軍は政治下手なのだが、米内みずからも戦後になって述懐して、「僕は政治が嫌いでな」といい、
「僕はね、クラスの者から“グズ政”といわれていた。僕は口ベタで議論してもウマくいえないし、また議論してもはじまらぬと考えていたので、議論しなかった」
ともいっている。おのれの抱負経綸を明らかにし説得できなくて、どこがすぐれた軍政家であったのか。
しかし、海軍が最後の段階で「米内のほかに人なし」としたのは、実はそこにあった。大勢の前とか、信頼できぬ人の前ではしゃべらぬ、という茫洋さと無器用さにあった。最後の段階になれば、色気たっぷりの才気とか見識とかで、国家や組織の危機は救えない。むしろ信ずる目的地に一直線に、十字架を背負って登っていける人間的大きさこそが必要である。それが米内という存在。つまりは、海軍が掲げるとっておきの“軍艦旗”であったのである。
半ば警戒しつつ、半ば冷笑しつつ米内海相の出現を迎えたが、実は陸軍がもっとも警戒せねばならぬのは、米内という“軍艦旗”を支える人はだれかということである。三国同盟問題のときの山本次官の役割をだれがはたそうとするのか。当然のことのように陸軍の目に好ましく映るのは、東條内閣が倒れる直前に、次官に進級したばかりの岡敬純中将である。開戦前より軍務局長として、海軍部内をきりまわしてきた対米強硬派の軍政家。陸軍省や参謀本部ともなじみの深い岡が、そのまま米内を補佐するものと陸軍は期待した。岡自身もそのつもりでいた。
だが、それを新海相はあっさりと裏切った。初登庁してきた米内は、教育局長の|高木惣吉《たかぎそうきち》少将から、
「次官には岡中将をそのまま使いますか」
と聞かれると、即座に、
「一夜して放逐する」
と答えた。軍務局長として海軍中央に気の合うものを集め、結局は対米戦争への道を推進することになった岡中将が、海相就任のおのれの本旨ともいうべき終戦成立の方針に、合致するはずがないではないか。
米内はそういわんばかりに|吐《は》いて捨てた。事実、岡は鎮海警備府長官に飛ばされ、二十年四月には出仕、そして六月に予備役となっている。米内はまず着任直後に、海軍部内が|瞠目《どうもく》するような峻烈さを示したのである。
将たるものの人徳
そして八月六日、新聞は海軍兵学校長井上成美中将の次官就任を「大臣級の大次官である」として報じた。「部内人多しといえども米内海相の満幅の信頼をうけている点では、井上中将の右にでるものはない」とも書いている。それは報ぜられたとおりであった。大臣就任とともに米内の意中には、次官には、井上、しかなかった。
だが、はじめ井上中将は「政治嫌い」を理由に、米内の頼みに頑として応じなかった。それに戦局とは別天地の江田島の生活が性に合っている、とも井上はいった。
米内は「他に人はいない」とまでいい、あきらめなかった。それが東北人・米内の特質であった。確信するところは粘り強くくり返しくり返して貫きとおす。井上もまた、仙台出身の東北人であるが、海兵優等の明敏さとスマートさとをもっている。
「それじゃ政治の問題になったとき、君は天井を向いていろ。それでいい。次官を君にすることはもう伊勢神宮に奉告ずみだ」
と米内にそこまでいわれたとき、ついに井上は首をタテにふった。しかし、政治にそっぽを向いた次官があるわけがない。相知る二人の間には、余人には知りえないア・ウンの呼吸が一瞬にして通ったのである。
サイパンを失った段階での“政治の問題”とは何なのか。戦争終結しかないのである。《おれが表に立ってそれをやる、そのとき頼みの海軍がガタガタしては成るものも成らぬ、内側を固める、それを貴様に頼む》と米内がいい、《承知しました。国を救うものは海軍を措いてほかにない。海軍のことはお任せ下さい》と井上が無言のうちに答えた、ということではないか。つまり、戦争終結のためにともに死せん、の覚悟である。
井上は海軍兵学校三十七期、米内の九歳下である。卒業成績は百七十九人中の二番。若いころから理知的な分析力、客観的な判断力をもって知られたが、その反面で合理的かつ冷静な硬骨漢、臆せず直言するため上級者と衝突し、かれ自身もなんどか海軍を捨てようとした。官僚的な組織にあっては謹直すぎて始末におえぬ、かわい気のない存在で終始してきた。
だが、名誉欲や権勢欲がなく、生活もつつましく、なによりも自分を殺して任務に邁進できる男。派手なことは望まず、俗にいう縁の下の力持ちを自認し、それに全力をつくせる人物、それが井上という“カミソリ”軍人なのである。
包容力だけが取柄ともいえる米内には、横須賀鎮守府の長官と参謀長という間柄ではじめて仕え、井上はこの茫洋たる大人物を知った。昭和十年末のことである。翌十一年には二・二六事件が起き、米内も井上も「これは叛乱軍である」とただちに意見一致、これに対応すべく適切な手をつぎつぎに打って「横鎮にこの人あり」を世に印象づけた。
翌十二年、米内が海相に就任するとともに、やがて井上は軍務局長に抜擢され、コンビが復活する。もっとも二人の間に次官として山本五十六があったので、岩手の米内、新潟の山本、宮城の井上で“北国トリオ”といったほうがいいか。そして三国同盟問題をめぐって、三人が一歩も退かず、全陸軍一致の強力な主張と渡り合い、ガタガタした海軍部内を引き締めたことは、よく知られている。
戦後に井上が書いたり、語ったりしている米内評をまとめてみると、こうなる。
「米内さんに仕えたものは、だれでも自分がいちばん信頼されているように思いこむ。それほど包容力が大きい。将たるものの人徳というべきだ。または中国の大人ということか。大功は|細瑾《さいきん》を顧みず、というようなもの。だが、道理をしっかりわきまえた上だから、委せるところは委せるが、いけないことはいけないとはっきりいった。心底から誠実な人だと思う」
この誠実さに井上はほれこんだのである。
海軍という組織の力
こうして信頼で結ばれて歩みだした、とみられる米内海相・井上次官のコンビではあったが、結果的には昭和十九年八月から翌年五月十五日までの、十カ月足らずしかつづかなかった。それはなぜなのか。
その間、カミソリ井上は大いなる“軍艦旗”を表面におしたてて、精いっぱいの努力をしている。その一つは、永野・嶋田色にそまっていた海軍部内の建て直しである。サイパン失墜いらい加速度を加える米軍の攻勢と、ますます声高に叫ばれる陸軍の徹底抗戦・一億玉砕の声に押しまくられ、うろうろと針路を見失いがちな海軍を、きちんとした統制をもってシャンとさせた。
当時のある幕僚の言葉を借りれば、
「海軍省構内無線大鉄塔の上へ、米内井上という、大きな灯台がともった気がした」
というほどに、海軍自体が日一日ときっちりとしていった。
井上はさらに、国力の現状、実際の戦況、世界情勢をも、その精緻な頭脳で調べあげた。次官室に局部長を毎日のようによんでは、所掌事項を説明させ、過去にさかのぼって機密書類に丹念に眼を通した。そして「戦いを一日つづければ、それだけ人命、資材、国富を失うばかりでなく、和平の条件はますます悪くなる」と判断した。
だが「和平」は禁句だった。憲兵の目が周囲に光っている。直言家の井上も、次官就任いらいぴたりとこの言葉をいうのをやめたが、この事態には意を決せざるをえない。八月二十九日、大臣室の扉をきっちりと締めて、副官にいかなるものの入室も禁ずと命じ、井上は米内とさし向かいになっていった。
「現状はまことにひどく、私の想像以上です。敗戦は必至というほかはありません。一日も早く戦さを止める工作をしなくてはなりません。今から極秘裡に、どういう風にして戦争を終結させるかの海軍としての研究をはじめますから、大臣だけご承知願います。及川(古志郎)軍令部総長には私から申しあげておきます。研究には高木教育局長をあてたいと思いますので、あわせてご了解願います」
“政治の問題”には天井を向いているはずの井上が、自分からいってくるのを、米内はむしろ待っていた。
病気のためという理由で教育局長を免ぜられた高木惣吉少将が、「軍令部出仕兼海軍省出仕海軍大学校研究部員次官承命服務」という長い辞令をうけ、ひそかに終戦処理研究に入ったのは、それから十二日後の九月十日のことである。
海軍が主導権をにぎって“戦争から平和へ”歴史をぬりかえるであろう第一歩が、こうして踏みだされたかにみえる。その日がくれば“軍艦旗”をかついで倒れるかもしれないことを、井上は覚悟したと思われる。しかし、テロであろうとクーデタであろうと、何が起ろうとやらねばならぬ。そのためにも海軍という組織の力を、いや、あえていえば存在そのものを残しておかなくてはならない。実際に陸軍に抗して戦争を終えることの能力は、いまや海軍にしかない。海軍がきちっとまとまっていなくて、その大事業の成ろうはずはないのである。
だから「最後の段階で陸軍にハッキリものをいえるのは、海軍だけである」と井上は海軍部内のだれに対しても明言してはばからなかった。
陸海軍の一元化をつぶす
しかしながら、海軍が終戦工作に具体的に踏みだすはおろか、海軍の存在そのものを踏み潰さんばかりに、息つくひまもなく戦局は変転していったのである。十月末、レイテ島上陸によってひき起こされた比島沖海戦で、海軍は海上部隊としての戦力を完全に喪失。残されたのは航空機による特攻によるほかはなくなった。
そして、サイパン島からの日本本土への空襲もはじまった。
この惨たる戦勢と国情に直面し、陸軍の音頭とりで、地方長官と軍司令官の一元化、政党の一元化、軍需工場の一元化と何でも一つにまとめて敵に当れば、万事が解決するような政治的風潮がますます強まった。政治はその施策に追いたてられた。
だが、陸軍がねらう一元化の最大の目標は、実は、陸海軍の一元化にあった。陸軍と海軍とが省部とも合して「国防省」をつくろうという構想である。最高の戦略戦術の決定者を一人とする。
ときの陸軍の軍務課長|赤松貞雄《あかまつさだお》大佐が、意味深長な手記を残している。
「市ヶ谷の陸軍|官衙《かんが》に海軍側を収容する案で内協議を進めて、ほとんど合意点にまで達し得たのである。そして海軍側を収容するにあたっては、あたかも分家したが事業に失敗したので実家に帰った形式で合流することとした。海軍側の当事者は家出人を収容し座敷牢に入れ、禁治産的日蔭者のような処遇だけは絶対にやめてくれ、と強く申出た」
この回想は、陸軍の一方的な思いこみにすぎぬということも考えられる。が、戦力をほとんど失った海軍側が、本土決戦を豪語する陸軍に一方的に押しまくられ、土俵ぎわに追いつめられていたのは確かである。
ときの海軍省調査課長|末沢慶政《すえざわよしまさ》大佐も、これを裏書きするような観察を語っている。(二月二十六日)
「海軍としては決戦兵力の消耗にしたがって政治的発言権は急角度に低下すべく、とくに米内大臣の|恬淡《てんたん》、軽率なる応諾ぶりは、いっそう右の傾向に拍車すべし。かくの如き情況下において、海軍戦備の促進と国内諸政策、とくに対陸軍国防軍問題などの応酬には、よほど内外にわたる準備対策を必要と信ず」
海軍が頼みの“軍艦旗”は、例によって多くは語らず、恬淡としてすべてを包容するかのような態度を示していたのである。
だが、その真うしろには、冷厳無比ともいうべき井上がひかえていた。海軍という組織を失って、どうして和平への道をきりひらいていけるものか。井上は陸海一元化に頑として承知しないばかりか、米内にきつく進言して「国防省などとんでもない。すべてを白紙に戻すよう明言すること」を強要するのであった。
「陸軍は、日本は陸軍でもっている、日本を背負うのは陸軍のみであると、そんなバカな考えを全員が抱いている。海軍をも包含し国軍を一元化しようとするのは、一つには空襲の激化などで国民の間に増大している反軍的感情を、海軍にも負担せしめようとするためであり、一は国家を完全に乗っとるための第一歩として、邪魔になる海軍を抹殺してしまおうという意図によるものである」
そう説いて井上は、米内の尻を叩いた。
陸軍はこれにたいして猛烈な勢いで押しまくってきた。二十年三月三日、陸海軍統合問題を天皇の耳に入れることで、いっきょにこの論争の片をつけようと、追いつめられた海軍は意図した。井上次官の策略である。天皇の質問に答える形で、米内ははじめて海軍の意思を明らかにした。
「任務と伝統を異にするものが制度的に一つになることは適当でないと思います。戦局が不利であるから、陸海軍を統合するということは、かえって不利と考えます」
天皇は深い信頼を米内においていた。その結果どうなったかを、さきの赤松大佐は書き残している。
「陸軍だ海軍だとセクショナリズム的争いの根源を|芟除《せんじよ》できる機会がきたと安心した。ところが、米内大将の“合流は中止せよ”との鶴の一声で、海軍側は一挙に崩れてしまったのである。実に残念なことであった」と。
米内・井上コンビの明らかな作戦勝ちである。
喧嘩別れ
たしかに陸海軍が対立、互いに縄張りを争い、資材を分取り競争して生産を妨げ、価格を釣上げているのが、そのころの日本の現状ではあった。陸海が一本化できないかの声は、民間にすら上っていた。そこに陸軍の主張する一元化の大義名分がある。
それを米内・井上のコンビは頑強に否定し去った。かれらは“戦うために”ではなく“戦いをやめるために”一元化を無用としたのである。だがその真意は二人だけのものであり、だれにも語れぬことであった。そこから「米内と井上には海軍のみがあって、国家はない」とのきびしい批判が、陸軍部内をはじめ政界にうまれてきた。
「井上次官は無能なり」という風評がやがて流れはじめ、「海軍次官は何でも反対」とささやかれた。「縄張り根性が捨てきれぬ利敵者」とさげすみの声もあった。井上はまったく|我不関焉《われかんせずえん》であった。そして、陸海統合問題が陸軍側からむしかえされるたびに、“軍艦旗”を押したてて、一切の妥協を排し無言の抵抗を示しつづけたのである。
そしてこの問題に結着がつき、組織に変更なし、陸海は従来のままとなったのは、実に二十年四月下旬のことである。海軍の政治的発言権はここに辛うじて留保された。
だが、米内は、影武者であるべき井上の尖鋭化された意見が、どんどん正面きって部外に流れていき、無用に陸軍や右翼を刺戟するのをこの前後から恐れだしていた。裏に和平構想があることは片鱗たりともみせぬが、ことごとに|反撥《はんぱつ》し「すべて陸軍の国家乗っとりの策謀」とまでいいきる井上の身辺を、真から心配しだした。この男を死なせては最後の段階で海軍を率いるものがいなくなるではないか。
かつての日、三国同盟問題で紛糾し、陸軍の怒濤のような攻撃を|凌《しの》ぎきったときも、つねに暗殺のリストにのった山本次官の身辺を、米内は本気になって憂慮したものであったが、こんどもそれと同じ心の憂いを抱いたのである。あのときは山本を連合艦隊司令長官として海へ出して救った。そしていま、同じような手段を使えない米内は、前から懸案となっていた井上の大将進級問題を実現し、井上がどんなに反対しようと、井上を政治の表面からはずすことをひそかに決意するのである。
稀にみるほど深く人を信頼することができ、信頼した人のことを、わがこと以上に心にかけてしまう米内という男の真情がそこにある。それが常に「信を相手のうちにおく」度はずれたこの人の誠実さというものであった。
五月十五日、大将に進級し、進退に恬淡たる井上は次官をやめた。「海軍のきまりに大将の次官はない」といい切って。井上はその内示があっていらい不機嫌な顔をしつづけた。気をまぎらわせるためかピアノ|三昧《ざんまい》にひたった。終戦のために生命を投げだすことをア・ウンの呼吸で誓い合った、それを米内が平気で破ることは、合理的な硬骨漢井上には考えられず、許せぬことであった。裏切り以外のなにものでもないではないか。
退任の日、挨拶をおえてから、
「負けいくさ大将だけはやはり出来。後世のいいもの笑いですな」
といい捨て、井上は米内と喧嘩別れをした。かれの合理主義の限界はここにある。そしてこの日海軍省を去っていらい、米内の心を知ってか知らずか、井上は姿をみせず、米内をふくめて海軍関係者とつき合おうともしなかった。
戦争終結にたいする海軍の功績を、過大に評価する人は多い。だが、事実はどうなのか。高木少将の和平への考察は評価されようが、それとてもどれだけ具体的な力を発揮したかとなれば、疑問なしとはしないのである。井上の去ったあと、和平への海軍の勢いが少しくおさまったとみられるのである。
“高木和平案”の第一稿ができたのは、井上が次官を辞任した直後のこと。このときに井上はあっさりと、
「私はもはやその任にはない。だから読まないほうがよい」
といい、見ようともせずに返し、高木を落胆させているのである。たしかに海軍には英国流のデュティ (Duty) の思想が確立されていた。“列外のものは発言せず”、当事者以外は余計な発言をしないのである。井上の頭にはそれを厳しく守ったにすぎぬという想いがあったのであろうが、国家浮沈のときには破られてよい原則もあるのではないか。第一に、それが緊要なら大将の次官があってもよかったのではあるまいか。
しかし、井上はそれをしなかった。清濁あわせ呑むことなどおよそかれの辞書にはなかった。米内の真情をかりに読みとれたとしても、それを納得できる幅が井上にはなかったとしか思えない。だから裏切った米内を捨てた。いや、いい方を変えれば、米内を誤解し、井上はひとり相撲をとったといってもいい。そして口の重い米内は、さっさと背を向けて去っていく井上を、容易に引きとめえなかった。
これを企業の例でいうのは当らぬかもしれぬが、井上はまたとない厳格な主計局長であり、米内は社長の器であった。この社長は茫洋として何を考えているかわからぬ一面がある。だからその中間に、鋭くもあり、また遊び人でもある専務の山本五十六が必要であったのである。そう考えれば、三国同盟阻止と部内引締めのとき、米内・山本・井上はまたとないコンビネーションを組んだといえる。その山本亡きあと、互いに深い信頼感はあったとしても、ついに米内と井上は最高のコンビとはなりえなかった。
そして、残された米内はこのあとで判断のつきかねる部内異動をしはじめるのである。次官には凡庸としかみえぬ多田武雄中将が就任、そして軍令部次長は、井上と志を一にする小沢治三郎中将から、“神風特攻の父”|大西瀧治郎《おおにしたきじろう》中将にかわった。このため井上が和平をめざして引締めた海軍統制はふたたび崩れ、軍令部員は徹底抗戦の旗印のもとに結集するようになる。
正直のところ、井上の去ったあとの“軍艦旗”は、それほど高くひるがえることができなくなった、といっていい。優柔不断となり冴えたところが失われた。米内・井上で海軍の政治的発言力をやっとの想いで維持できたのである。それが崩れ去り、いまや軍令部という「内部の敵」をかかえては、海軍が一丸となって陸軍に抗し主導する歴史的転換など、所詮は、無理というものであった。
その後は米内がたったひとりで、戦争終結への信念のもと、最後の御奉公と悪戦苦闘した。それは米内という男の偉大さであるが、いかに人物だろうと、陸軍と、「内部の敵」とに押しまくられ、個人の力でどうにかできる時代の流れではなかった。だから、正確には、米内はひとりでうろうろした、といったほうがいい。
いよいよ情勢も終局を迎えようとしているある日、水交社で米内と井上が久しぶりに出会い、簡単な立ち話をしている。そのとき米内は、
「何もかもおれがひとりでやっているよ」
と疲労もあらわに、愚痴めいたことをいった。井上は「当然でしょう」とプイと横を向いた。理非曲直をわきまえ、けじめを正す井上は、ついに米内と和解しようとはしなかったのである。
戦いも終ったあとの昭和二十三年、米内は知友の言をそのまま使えば「心身はぼろぼろで、巨木の倒れるがごとく」に世を去った。その葬儀の席上に井上の姿はなかった。戦後は公的なところへは一切出席を拒否した井上の、首尾一貫した生き方であったろうが、心ある人に淋しい想いを抱かせた。
そして井上はその後もずっと隠棲したまま清貧に甘んじながら、剛直な生き方をつづけた。昭和五十年十二月、“サイレント・ネイビイ”を象徴するかのように、一言も語ることなくひっそりと、八十六歳の生涯を終えた。
〈追記〉
陸海軍一元化の問題についても『昭和天皇独白録』にある。
「……海軍側に相当反対があつた為、陸軍側では案の実現を容易ならしむる為に、幕僚長は海軍より出すべしといふ意見を云つて来た。/私は米内ならば良からうと思つて、米内に会つた時この事を話した。米内は研究しませうと云つて帰つたが、(中略)」
しかし、米内は正式に海軍が反対であることを奏上し、この案は不成立となった。
「私はこの案を実現させて平和を促進する考であつた」
と昭和天皇はなお心残りを示しつつ戦後に語っているのである。
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同一人格のなかの二つの顔
天皇として戦った
東京裁判で、元内大臣の被告木戸幸一は答えている。「一たび政府が決して参ったものは、これを御拒否にならないというのが、明治いらいの日本の天皇の御態度である。これが日本憲法の運用上から成立してきたところの、いわば慣習法である」と。
たしかに、帝国憲法によれば、天皇の国務に関する大権事項は、国務大臣がこれを|輔弼《ほひつ》する(憲法五五条)と定められている。輔弼というのは、それぞれ憲法上の責任機関が天皇を助ける、つまり各大臣たちが天皇に進言し、自分たちの責任において補佐することを意味する。これが木戸のいう、天皇は憲法上その行われたことの責任を問われず、一切の責任は国務大臣がとるというたてまえなのである。
しかし、統帥に関する大権事項は、憲法一一条に、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあり(これを統帥大権といった)、この統帥大権に限っては、他の大権事項のように、内閣の輔弼を排し、天皇自ら陸海軍を統帥することになっていた。そして陸海軍の|帷幄《いあく》機関がこれを|輔翼《ほよく》するのである(輔弼ではない)。
帷とは周囲にめぐらされた垂れぎぬであり、幄とは幔幕を張り渡した仮小屋をいう。合して秘密に|謀 《はかりごと》をめぐらす「本営」の意で、これが事変や戦時ともなれば大本営となった。その仮小屋にあっては、軍隊の指揮命令は天皇の下すところであり、幕僚たちはこれが輔翼すなわち助言者、ないしは命令の伝達者にすぎなかった。
大本営は昭和十二年(一九三七)十一月二十日、宮中に設置された。参謀総長を筆頭とする陸軍の参謀本部幕僚、軍令部総長を筆頭とする海軍の軍令部幕僚の大部分で構成し、別に参謀本部・軍令部にない部門、すなわち戦備、補給、報道などの諸機関が付随した。また、陸海軍大臣は、軍政に関する業務処理のため、必要な人員を従えて大本営の一員となっている。
日中戦争から敗戦までの八年戦争は、この大本営において立てられた作戦と、そこから発せられた命令によって戦われた。
戦争を阻止しえなかった理由としての、天皇が|藤田尚徳《ふじたひさのり》侍従長に戦後になって語った有名な言葉がある。
「憲法によって、国務上にちゃんと権限を委ねられ、責任を負わされた国務大臣がある。この憲法上明記してある各国務大臣の責任の範囲内には、天皇はその意思によって勝手に|容喙《ようかい》し干渉し、これを掣肘することは許されない。だから内治にしろ外交にしろ、憲法上の責任者が慎重に審議をつくして、ある方策をたて、これを規定に|遵《したが》って提出し裁可を請われた場合には、私はそれが意に満ちても、意に満たなくても、よろしいと裁可する以外に執るべき道はない」
開戦までの国政においてはそのとおりであった。しかし、戦いが始まってからの統帥行為においては、かならずしも右のようなものではなかった。統帥権は天皇に帰着することによって、逆に統帥部が天皇にチェックされるということがしばしば起っているからである。作戦・用兵の実行には天皇の裁可が必要だった。それゆえ天皇もまた戦争となってからは共に戦ったというほかはない。
『大東亜戦争肯定論』で論陣を張った作家林房雄が、東京裁判を主題に書いた一文が想い出されてくる。
「私は私なりに戦った。天皇もまた天皇として戦った。日本国民は天皇とともに戦い、天皇は国民とともに戦ったのだ。“太平洋戦争”だけではない、日清、日露、日支戦争をふくむ“大東亜百年戦争”を、明治、大正、昭和の三天皇は、宣戦の詔勅に署名し、自ら大元帥の軍装と資格において戦った」
天皇は最高統帥機関=大本営で、最高の統帥者としての責任と大権によって陸海軍を統帥し、戦争を指導したのである。そして参謀総長・軍令部総長という輔翼者は、この中心に焦点を合わせることに汲々とした。緊急時を除いても、戦況報告はほとんど隔日に行われ、その奏上資料を、大本営幕僚はしばしば徹夜して作成した。太平洋戦争全期間を通して、軍事的にはもちろん、国内政治までを含め、おかれた情勢について誰よりも|知悉《ちしつ》していたのは、おそらく天皇その人であったろう。天皇の|允裁《いんさい》なくしては、陸海軍ともに大きな作戦を行いえなかった。開戦より終戦までに、海軍に対する天皇の命令(大本営海軍部命令、略して大海令)は五十七回発せられ、その前後において、必ず軍令部総長は拝謁し、戦況の説明をしている。また必要あらば、天皇のほうから総長を召すこともあった(陸軍の場合〈大陸令〉もまた同じである)。
もちろん、膨大な戦力をもつ陸海軍をすべて一手に掌握して指揮することの不可能なことは、いうをまたない。そこでそれぞれは幕僚に任せる。が、その統帥の大綱は天皇が親しくこれを|統《す》べていたのである。
陸海両総長は、平たくいえば、天皇の幕僚長にすぎなかった。現場を統轄する事業本部長のようなものと考えたらいい。総長は天皇を補佐(輔翼)して作戦計画案を策定し、天皇の裁可(允裁)を受け、天皇の命令として、必要なラインの長(たとえば軍司令官や連合艦隊司令長官)に伝達する。だから、両総長は、大命によって権限を与えられた場合にのみ、その命令を実施するために細部の作戦を指示することはできた(これを大陸指または大海指といった)。が、彼らに直接にラインの長に命令を下す、いわゆる戦争指導権はなかったのである。
これが軍における天皇親率ということである。そして、そこに軍の生命があった。この生命なくしては日本軍隊は|烏合《うごう》の衆にすぎず、第一線の将兵がいさぎよく死線に飛び込み敢闘を示すのも、天皇の命令(奉勅命令といった)によってのみ、であった。天皇の権威を絶対とし、「上官の命を承ること実に直に朕が命を承る義なりと心得よ」という「軍人勅諭」の意義もまた、ここにある。
それゆえに、天皇の耳に入る(上聞に達す)、あるいはお言葉を賜るということで、戦場の将兵の士気が奮い、奉公の意欲を高めるという効果もあり、大作戦の前と終了後に、陸海両総長が天皇の言葉をいただき、前線に伝達した。それらが多く記録として残されている(以下、歴史的史料として敬語を略して記すことをお断りする)。
ガ島奪回の大命
真珠湾攻撃とマレー半島上陸の両作戦で戦端が開かれた太平洋戦争は、日本軍の快進撃をもって推し進められた。昭和十七年(一九四二)二月十五日にはシンガポールが陥落し、アジアからイギリスの勢力が追い払われた。翌日、祝意を奏上する内大臣木戸幸一に、天皇はいった。
「次々に戦果があがるについても、木戸には度々言うようだけど、全く最初に慎重に十分研究したからだとつくづくと思う」
しかし、天皇の心を安ませるような戦果は五月の|珊瑚海《さんごかい》海戦までであった。細心にして律義、柔軟な感性の人柄の反面、かつて二・二六事件に際してみせた剛毅な性格をもつ天皇は、珊瑚海での戦果を喜ぶとともに、大いなる気概をも示し、戦果奏上の軍令部総長永野修身大将に、「戦果は大いに良かった。弱った敵を全滅することに手ぬかりはないだろうね」といった。
運命の、と形容詞をつけて呼ばれるミッドウェイ海戦が|惹起《じやつき》したのは、その一カ月後のことで、六月五日から六日にわたって戦われた海面から、真珠湾以来の武勲に輝く空母四隻が姿を消し、海の|藻屑《もくず》となった。新聞は大勝利のように報じたが、この完敗で、戦争の短期決戦による講和の道は厚く閉ざされたのである。海軍統帥部の憂色は深かったが、天皇はいった。
「今回の損害はまことに残念であるが、戦いのことなれば、これくらいは当然である。士気を衰えしめず益々努力し、今後の作戦が消極|退嬰《たいえい》とならざるようにせよ」
しかし、戦局は、天皇の不屈の精神をもってしてもどうにもならないほどに、ここから悪化の一途をたどりはじめる。ソロモン群島の名を聞いたこともない小島ガダルカナル(以下ガ島とする)から、アメリカ軍の反攻が始まったのである。
このときの大本営の判断は非常に甘く、単なる偵察上陸にすぎず、その撃退は陸戦隊で十分であると、永野総長は上奏している。また、折からニューギニアのポートモレスビー攻略作戦が展開中であり、陸軍の関心はむしろその方面に傾いていた。永野に続いて、上奏する参謀総長杉山元大将に、天皇はいった(八月六日)。
「ニューギニア方面の陸上作戦において、海軍航空では十分な協力の実をあげることができないのではないか。陸軍航空を南東に出す必要はないのか」
総長は今のところその必要はない旨を答えたが、その後のガ島上空での制空権争奪戦を考えると、この天皇の質問はきわめて印象的である。太平洋戦争は飛行機の戦いであった。空を制したものが戦争を制したのである。天皇はそれを予見したとすら思えるのである。
八月十三日、大本営はガ島奪回を上奏し正式に允裁を受けた。ここにガ島奪回は大命となった。が、なおモレスビー攻略が主点で、奪回については楽観的であったのである。
そしてまた、奪回に成功したなら勅語を下賜すると早くから天皇はいった。それだけの楽観と自信をもって大本営がガ島に送り込んだ陸軍の一木支隊主力(一木清直大佐指揮)が、第二|梯団《ていだん》の来着を待つことなく攻撃を開始、全滅したのは八月二十一日である。また第二梯団は作戦上の錯誤から反転避退していた。八月二十四日、戦況上奏の杉山総長に天皇はいった。
「一木支隊はガ島に拠点を保持できるのか。また南海支隊(モレスビー攻略部隊)の方面はどうなっているか。ひどい作戦となったではないか。なぜ一木支隊第二梯団の上陸をのばさねばならぬのか」
作戦と現実の戦闘との断層が大きくなり、両総長の奏上に次々と矛盾が露呈しはじめる。天皇はたちまちにそれを見抜いたが、状況が悪化すればするほどに戦争にのめり込み、真正面に向き合い、大本営と憂いを分かち策を共にする意思を明らかにする。
「近頃わが戦果揚らざる傾向があるがどうしたのか」(八月二十六日)、「マレーやチモール方面の航空隊を転用するか」(八月三十日)。折から中国大陸で四川進攻作戦が準備されていたが、「米軍の反攻がきびしくなりつつある現情勢において、南方から兵を引き抜いてもいいのか」(九月三日)などと、次々に両総長にポイントを下問するのである。
いたずらに時日が経過した。連合艦隊司令部が知恵をしぼり、陸軍もまた躍起となって奪回部隊を送り込んだが、ガ島の戦勢は好転しない。零式戦闘機の航続距離一杯の戦場では、制空権の保持ができなかったからである。九月中旬、川口支隊による総攻撃失敗。杉山総長の上奏に対して天皇はいった(九月十七日)。陸軍航空をソロモン方面へ進出させる必要があるのではないか。再度の下問は、陸軍統帥部にとって衝撃であったが、実情は出せない状況にあると杉山総長は答えるほかはなかった。天皇は押しかぶせていった。
「では、ガ島奪回の自信は本当にあるのか」
最重要戦略地点としてのガ島に対する天皇の認識にはなみなみならぬものがある。さらに、ガ島の奪回ならびにその後の確保に関して、海軍側には本当に熱があるのか、天皇がすこぶる憂慮しているとの杉山総長の発言がある(九月十八日)。航空戦において自信を失いつつある海軍と、戦況認識が楽観にすぎたために容易ならぬ事態を招き、今や奪回のための|暴虎馮河《ぼうこひようが》に走ろうとする陸軍。そのような状態で奪回作戦が成功するはずはない当然の理が、米軍上陸一カ月後にして早くも、天皇に疑念をいだかしめたと思われる。
だが、この日(九月十八日)、そうした天皇の憂慮を振り払い、期待に添うべく、大本営は十月下旬を期してのガ島総攻撃を策定したのである。連合艦隊は陸軍部隊(第二師団)を送り込むため、戦艦(金剛・榛名)のガ島海域投入を決意、また総攻撃を支援すべく機動部隊を作戦海域に進出させた。ミッドウェイ敗北以来錬成を重ねた搭乗員に、真珠湾攻撃参加の生き残りのベテランも加えて、迎撃のアメリカ機動部隊と激しく渡り合った。そして米空母一隻を撃沈、一隻を大破した(十月二十六日。「南太平洋海戦」と呼称)。
翌二十七日、奏上する永野総長に天皇はいった。
「有能なる搭乗員を多数失いたるは惜しむべきも、多大の戦果を挙げ満足に思う。なお一層奮励するよう、連合艦隊司令長官に伝えよ」
さらに二日後、戦功を|嘉《よみ》して勅語を出したあと、天皇は総長にいった。
「この際付け加えて申しおきたいのは、いまの勅語の後段に関することであるが(筆者注――「|惟《おも》ふに同方面の戦局は尚多端なるものあり。汝等|倍々《ますます》奮励努力せよ」)、ガダルカナルは彼我両軍力争の地でもあり、また海軍としても重要なる基地につき、速やかにこれが奪回に努力するように」
制空権を奪えずややもすれば消極的になろうとする海軍を、激励しての言葉であろうか。天皇その人が、ガ島奪回に最大の努力を重ねているあかしでもあろう。永野総長は答えている。「上下一心努力して最善の努力をいたし速やかに作戦の目的、すなわちガ島奪回を達成せん」と。しかし、海の勝利をよそに第二師団の総攻撃はみじめな失敗に終っていた。天皇の激励と賞賛の言葉を受けながらも、連合艦隊司令長官山本五十六大将は、このとき、ガ島奪回は不可能とひそかに結論づけていた。
依然としてガ島作戦の続行を主張し、あとに引けないほど深みにはまっているのは、大本営とくに参謀本部であった。増援部隊を送り込み最後の決戦を計画し、着々とその準備を進めた。天皇もまだその期待を捨ててはいない。十一月三日、明治節である。天皇は拝賀の式を終えると、直ちに侍従武官を呼び、昨夜のガ島への輸送はどうであったかとたずね、見事成功しましたとの答えを得てはじめて「御安心の御様子にて御祝膳につかせらる」のである。さらに五日、戦況報告に参内した杉山総長に、天皇はいった。
「海軍機の陸戦協力はうまくゆくのか。陸軍航空を出せないのか」
翌六日、陸軍統帥部はやっと重い腰を上げて、陸軍航空の派遣を決意、上奏した。あまりに遅すぎる判断ではあったが、陸軍はようやくにしてガ島争奪が「日米間の決戦」(十一月八日上奏文)であることを天皇に報告した。そして、海軍の南太平洋海戦での戦果もあり、もう一押しの努力により局面は打開できると確信するのである。こうして、陸海の協定もやっとなり、再び大兵団(第三十八師団)をガ島へ送り込む作戦が練りあげられていった。
天皇の憂色もようやく晴れたかにみえる。しかし、十一月十一日、天皇は杉山総長にいった。
「ガ島に敵の大船団が入泊しているというではないか。これでもガ島は奪回できるのか。陸軍航空部隊を早く増派する必要があるのではないか」
天皇のこの心配を休めるために、参謀本部は、ガ島の現地視察から帰国したばかりの作戦課長服部卓四郎大佐を参内させ、状況を仔細に説明することとした。大佐は、ガ島に関するあらゆる条件がこれまで不利であったが、これからは異常な覚悟と努力とで、まず敵航空勢力を制圧し、あくまでガ島奪回を策することを確言した。
しかし、この異常な覚悟と努力をもってなされた陸海軍の賭けは、輸送船団全滅、援護のため出撃した戦艦二隻(比叡・霧島)喪失という致命傷を受けて、完全に破れ去るのである(十一月十三〜十五日。第三次ソロモン海戦)。これ以上、日本軍の面目にかけて|捲土重来《けんどちようらい》を期すためには、大兵力の集中、ばく大な軍需物資の輸送が必要であり、それは膨大な量の高速輸送船が必要ということであり、それにもまして、制空権を掌中にせねばならぬのだが、それは絶望そのものである。陸軍省部(陸軍省と参謀本部)内にもやっとガ島撤退の声がささやかれるようになった。
その間にも、日を追ってガ島は餓島になっている。二度と本格的な作戦もかなわぬままに、苦しまぎれの、どことなく錯誤の多い作戦が小出しに続けられたが、補給なきガ島の消耗戦は悲惨そのものであった。しかし、天皇の闘志はなお衰えをみせていない。
十一月十六日、ソロモン方面の総指揮をとる第八方面軍司令官に親補された|今村均《いまむらひとし》中将に、天皇はいった。
「今村、しっかり頼むぞ」
十一月二十三日には、侍従武官に天皇はいった。「内地には飛行機が相当あるのだが、これをソロモン方面に派遣してはどうか」。また、十二月五日にも「ガ島の敵増援を何とか阻止する方法はないものか」といった。そして十二月十一日、極秘のうちに東京を立ち、ガ島での戦勝を祈願するために、天皇は伊勢神宮参拝を目的に西下するのである。日清、日露両戦争のときでさえ、天皇自らがひとり内宮の神殿の前に立ち、御告文を奏して祈願するようなことはなかったという。
しかし、その間にも大本営は、船舶の徴用をめぐり作戦部長田中新一中将と軍務局長武藤章中将が殴り合い(十一月五日)、さらには作戦部長が首相兼陸相の東條英機大将に対し「この馬鹿野郎!」と怒鳴るというお粗末な一幕(十一月六日)をまじえつつ、ガ島撤退へとその腹を固めていったのである。だが、彼らの頭を重く押さえつけているものがある。ガ島奪回の大命であった。しかも大命を大本営は確約した。たとえ陸海軍の合意のもとであろうと、ガ島撤退を天皇の允裁なしに公式に表明することは、その大命ある限り不可能である。大本営は苦悩し、連日のように論争が続けられた。が、いかに苦悩しようと、ガ島奪回は今や国力上からみて許されない。ならば、大命(大元帥命令)を天皇によって変更してもらう以外に道はないのである。
昭和十七年も暮になると、補給の完全に杜絶したガ島の状況は悲惨の極にあった。弾薬はもちろん、食糧・医療品は底をついた。十二月二十二日、天皇は、ガ島の物量補給がどのように行われているか、憂慮の下問を侍従武官にしている。
こうしたなかで、新作戦課長|真田穣一郎《さなだじよういちろう》大佐が、ラバウル視察より帰京し、総攻撃か撤退かの再度の論争に終止符を打ったのは、二十五日のことである。ガ島奪回ができるとすれば、それは奇蹟に近い、現地指揮官のまったく自信をもっていない作戦を続行し、今後の大局の作戦すべてを危うくすべきではない。それが持ち帰った報告だった。
真田報告と、この日から行われた陸海統帥部の研究結果を受けて、結論の出ないままに二十七日、杉山総長は目下の作戦検討を上奏した。二十二日夜いらい、ガ島へ空中補給すらも実施されていない、食糧不足は極度に切迫し、木の芽や草の根で将兵は露命をつないでいる状況であり、ガ島再攻勢は船団輸送がきわめて困難で、目下攻勢をさらに実施すべきか否か、海軍側とも研究中であると、天皇に実情を報告したのである。
翌日、侍従武官長を通し、天皇の言葉が大本営に伝えられてきた。
「陸海軍統帥部は、ソロモン方面の情勢について自信をもっていないようである。参謀総長は明後三十日に研究結果にもとづいて退くか否かについて、もう一度、上奏すると申していたが、そんな上奏だけでは、満足できない。如何にして敵を屈伏させるかの方途如何がもっとも知りたい点である。事態はまことに重大である。この問題について大本営会議を開くべきであると考える。このために年末も年始もない。自分は何時でも出席するつもりである」
軍の最高統帥者としての天皇の失望が、この強烈な言葉のなかに込められている。米軍上陸以来のガ島の戦局の推移は、大本営の見通しとまったく一致せず、陸軍航空の派遣など細部にも及ぶ指示もほとんど実行されず、この事態に陥ったことで、天皇は統帥部に不信をいだかざるをえなかったのであろう。
十二月三十一日午後二時から、宮中の大広間で大本営御前会議が開かれた。会議は決議の会議ではなく、研究会議というたてまえをとった。終って、陸海両総長が列立し、永野総長が代表して奏上した。ガ島奪回作戦を中止し、一月下旬ないし二月上旬にわたる期間に、陸海協同してあらゆる手段を尽して在ガ島の部隊を撤収したい、といい、
「南太平洋方面の作戦が当初の見通しを誤りまして、事ここにいたりましたことは、|洵《まこと》に恐懼の至りに堪えざるところでございますが、今後とも陸海軍緊密に協同いたしまして、万難を排して戦局を打開し、誓って聖慮を安んじ奉らんことを期しております」
と結び允裁を請うた。軍の最高首脳が公式に、しかも天皇の前で、作戦の見通しの誤ったことを詫びたのは、これが初めてである。しかし、注意すべきは、統帥部はけっしてガ島攻略の大命を否定ないしは中止したわけではなかった、ということである。従来堅持してきたガ島攻略を断念し、新たにニューギニア作戦に大命の重点を転換せんとするものであったのである。
天皇は「陸海軍は協同して、この方針により最善を尽すように」と決裁、ガ島の撤退が正式に決定した。そして大本営会議のあとで、天皇は侍従武官長を通してその意思を大本営に伝達した。
「ガ島の撤退は遺憾であるが、今後一層陸海軍協同一致して作戦目的を達成するようにせよ。実はガ島が取れたら勅語をやろうと思っていたが如何か? 今日まで随分苦戦奮闘したのだから勅語を下しては如何か? やるとしたらいつがよいか」
公式には、現在、この言葉だけが残されている。だが、実はもう一つ意味深長な言葉が、侍従武官長を通じて伝達されていたという。
「ただガ島攻略をやめただけでは承知し難い。どこかで攻勢に出なければならない。どこかで積極作戦を行えぬか」
これに対して杉山総長は、ニューギニア方面で華々しい攻勢を行い士気を盛り返しますと奉答したという。もっとも、作戦重点がニューギニアに転換した以上、そこで攻勢をとることは理の当然というべきであろう。だから、ガ島を撤退するかわりに、ニューギニアを確保することは、機械的に第八方面軍に指示されている。しかし、そのときニューギニアの戦勢はどうであったろうか。すでに有利な条件が絶無であったにもかかわらず、その後にきわめて不合理と思われる作戦を強行し、損害をより大にしたニューギニアの戦闘の不思議を解くかぎは、ここにあると思われる。
ともあれガ島戦は終り、太平洋の戦局は完全に逆転した。ガ島戦で得た教訓を、天皇は|東久邇宮《ひがしくにのみや》にいった(一月二十七日)。
「ノモンハンの戦争の場合と同じように、わが陸海軍はあまりにも米軍を軽んじたためソロモンでは戦況不利となり、尊い犠牲を出したことは気の毒である。しかし、わが軍にとってはよい教訓となった」と。
サイパン失陥
ガ島は太平洋戦争の分水嶺であった。そして昭和十九年(一九四四)のサイパン島をめぐる攻防戦は、これに敗れれば大日本帝国に勝利のないことを示す決定戦となった。それだけに陸海軍統帥部は短期間ではあったが懸命に防備を固め、十分な作戦を練って、その日を待ち構えていた。天皇もまた国運の前途に期するところがあったのであろう。六月八日、内大臣木戸幸一を呼んで、時局いよいよ重大な折柄、生物学の研究や散歩なども中止したいと思うが、と問うていることが『木戸日記』にみえている。
昭和十九年六月十一日、アメリカ軍はサイパン島に対して攻撃を開始した。この報に接した大本営はあわてないどころか、この堅固なる防衛正面に猪突しきたれるは敵の過失なりと、むしろ喜んだのである。
四月二十八日、大本営で陸海合同の研究会議がもたれたとき、作戦課長服部大佐は「マリアナは確信がある」と説明した。五月十九日、第四十三師団の増派が一兵、一物を失うことなく成功した直後の、大本営連絡会議では、参謀総長東條大将(首相、陸相を兼任)は「サイパンの防衛はこれで安泰である」と豪語した。席上、海軍側よりの「敵上陸が始まろうとも少なくとも一週間、飛行場を確保してもらいたい」との要請に対し、総長は胸を張った。
「一週間や十日は問題ではない。何カ月でも大丈夫である。けっして占領されることはない」
おそらく、天皇に対して誰よりも忠誠であった東條総長は、同じような確信を上奏していたに相違ない。しかし、その基盤には、一キロあたり三・三門でよいものを五門も砲が配置される予定、師団の装備も最新鋭の満洲第一線師団の装備の二倍、という現地視察の参謀のわずかな報告があったにすぎないのである。そして糧食は何カ月ももつほど蓄えられてはいなかった。
天皇は、その点を実に見事について、奏上の東條総長にいった。
「四十三師団が中部太平洋に入ったことは結構である。が、弾薬や食糧は大丈夫であろうね」
六月十三日、いよいよ米軍上陸が明らかになった日の夕刻、軍令部総長嶋田繁太郎大将(永野総長の任を解き海相と兼務)が「あ号作戦計画用意」の下令を奏上したとき、天皇はいった。
「あ号作戦の決意はまことに結構なことである。このたびの作戦は国家の興隆に関する重大なるものなれば、日本海海戦のごとき立派なる戦果をあぐるよう、作戦部隊の奮起を望む」
翌日、東條総長に対しても、天皇はいった。
「第一戦の将兵は善戦しているのだが、兵力が敵に対して足らぬのではないか。万が一にもサイパンを失うようなことになれば、東京空襲もしばしばあることになるから、是非とも確保せねばならない」
東條総長は自信を込めて、「海軍部隊の作戦と相まって米軍の上陸企図を破砕できるものと信じます。いまや、連合艦隊は決戦用意の態勢をとりつつありまして、陸海軍は緊密に協力して、米軍を撃破し、その進攻意図を破砕することを期しております」と奏上した。
六月十五日、米軍のサイパン上陸が開始された。その九日前の六日、連合軍のノルマンジー上陸作戦が展開され、ロンメル将軍指揮下のドイツ軍が迎え撃った。東でも西でも、この戦いに勝てば全戦局に転機をもたらしうる決戦が時を同じくして始まったのである。
水際で追い落とされるはずの米軍が続々と上陸に成功しているの第一報は、大本営を|愕然《がくぜん》とさせた。一キロあたり五門の砲で対抗が可能と考えていたのに、米軍の火力は、日本統帥部の想像をはるかに超えていた。上陸以前に三〇〇〇トンの砲爆撃が実施され、上陸後には艦砲射撃だけで一三万八三九一発、約八五〇〇トンの弾丸が集中して撃ち込まれた。日本軍の火砲二一一門に対して米軍は二四一七門。
第四十三師団長は東京に電報した。日没後、当師団は主力をもって夜襲を決行し、上陸した敵を一挙に殲滅せんとす――。しかし、その夜襲も、一時間にして戦車の大部分が破壊されるか放棄された。斬込み隊は夜明けまで戦闘を続けたが、米軍の橋頭堡は微動だにしなかった。参謀本部は打電した。
「大日本帝国の運命は貴軍作戦の結果によって決す。将兵ますます攻撃精神を発揮し、最後まで堅忍|克《よ》く敵を破砕し、以て天皇の|宸襟《しんきん》を安んじ奉るべし」
これに対しサイパン守備軍は返電した。
「御言葉を拝受し、宏大無辺の皇恩に感泣す。万死を以て太平洋の防波堤となり、皇恩に報いんとす」
参謀本部は、翌十六日、何としてもサイパン島を確保するため応急の増援兵力の輸送を検討しはじめ、連合艦隊に戦艦山城などによる主力艦艇の使用を申し入れ、同時に東條総長は天皇に緊急対策を上奏した。軍令部もこれを受けサイパン反撃作戦について、さらに研究を重ねた(この陸海協同の増援作戦をY号作戦と呼んだ)。東條総長の意志は固かった。十八日、参謀本部部課長以上に指示して「いまや最後の決戦段階である。敵を撃滅する方針で進む」と強調した。東條総長は必死だった。サイパンの水際防禦の失敗は陸軍の重大責任であるとし、是が非でも、上陸点に強力な部隊を逆上陸させ、米軍を撃滅せねばならないのである。
また、それが天皇の希望でもあった。戦況説明に参内するごとに,天皇はサイパンは大丈夫かとたずね、そのたびに東條総長は絶対に自信がありますと答えているのである。天皇を安心させるためにも、万難を排し、サイパンは確保せねばならないのである。
六月十八日夜、サイパン守備隊に天皇の言葉が送られた。
「前線将兵の善戦を|嘉賞《かしよう》する。万一サイパンを失うようなことになれば、東京空襲もしばしば行われることになるから、ぜひともサイパンを確保せよ」
しかし、サイパン島確保がなるかならぬかは、陸軍力ではなく、機動部隊の海上決戦のいかんにかかっていたのである。隠忍自重、訓練に訓練を重ねてきた連合艦隊の総兵力が出撃し、マリアナ海域でアメリカ大機動隊を迎え撃とうとするのである。日本海海戦に揚がった栄光あるZ旗が、司令長官小沢治三郎中将が坐乗する旗艦の|檣頭《しようとう》にはためき、統帥部は日米の艦隊決戦を六月十九日と予想した。
戦闘は予定どおりのときに、予定どおりの海面で開始された。次々に入電する戦闘の情報に機動部隊の完勝を念じながら、緊迫のうちに、大本営はサイパン奪回作戦計画の大要を決定し、東條総長はその実施に関して上奏、裁可を仰いだ。マリアナの要域は絶対国防圏として確保せねばならない、そのためにも、有力なる約二個師団に相当する精鋭部隊を、七月上旬ごろまでに日本内地より増派しようというのであった。いわば全力をこの決戦に集中し、国の命運を賭け一か八か撃って出ようというのである。
天皇はいった。「実行に忠なれ」と。
小沢機動部隊の決戦は、天皇の期待にそうべく果敢に展開された。その十九日の夕刻、天皇は報告を待ちきれぬように侍従武官長にいった。
「一体、海軍の戦いはどうなったのか。敵はサイパンを奪ったら小笠原だよ。準備は良いのだろうね」
しかし、奇蹟は起らなかった。日本海海戦のような完勝を、アメリカ海軍がつかみとることになった。日本艦隊の戦果ゼロ、もてる航空兵力潰滅の惨憺たる戦闘の後に、急速に海戦の幕を閉じたのである。空中と海上と陸上の決戦に敗れてマリアナの大勢は去り、戦争に大日本帝国の勝利のないことは明白になった。
それだけになおいっそう、天皇はサイパン島確保、さらには奪回に最後の希望をつないだ。翌二十日、機動部隊敗退の戦況について嶋田総長が奏上の際、天皇はいった。
「緊急に増援部隊をサイパンに送り、何とか、これを奪回できないか」
再び大本営内の論争は激化した。焦点は、増援作戦の可否ではなく、論議の焦点は作戦能力の有無にあった。海軍統帥部が奪回作戦を具体的に立案し熱心になったのに比し、陸軍統帥部は海戦前の熱意とは裏腹に、海戦の敗北を知るとたちまちに作戦に消極的になった。陸軍大将朝香宮が「陸軍も陸軍航空兵力を投入し、|乾坤一擲《けんこんいつてき》やったらどうか」と力説すれば、海軍元帥伏見宮が「日本の作戦に乾坤一擲はない。よろしく慎重にすべし」と応じる場面も加え、論争は日本の上層部をすべて巻き込んでいった。
そこへまた、天皇の発言が伝えられる。
「何とかサイパンを奪回できないか。奪回作戦はどうなっているか」
天皇が同一問題について再度下問するのは、例のないことである。大本営は驚愕した。
六月二十二、二十三日の両日にわたって最後の決着を示すべく、奪回作戦について陸海合同の研究会議が開かれた。陸軍側は、制空権なくして二個師団もの兵力を投入する成算は立たぬこと、たとえ成功しても米軍は再度攻略を企図し、消耗戦に引き込まれる、サイパンだけを確保すればよいというわけにはいかない、小笠原もパラオも比島もある、さらには陸軍航空を出す余裕すらもない、と反対意見に終始する。軍令部もまた強気には出てみたものの、二千数百キロの彼方の島への大部隊の輸送は思い半ばにすぎるものがある。サイパンに所在する敵飛行艇のため、虚に乗ずることはまったく不可能である。また、残存全航空兵力を投入して制空権をとってみたところで、大部隊の揚陸完了までには十日間はそれを保持せねばならない。それほど長期に持続しうる戦力は、機動部隊決戦に敗れた今、もはや海軍にはない。
結論は落ち着くべきところに落ち着いた。現下の情勢にあっては、本作戦はいたずらに陸海の兵力を喪失するのみで目的を達しえぬ、つまり奪回作戦の全面的断念である。六月二十四日、両総長が列立してこのことを天皇に上奏した。このとき、前例にないことに両総長は直面させられるのである。天皇が彼らの奏上に対し、ついに無言のままで終始したのである。無言というのは、彼らの奏上に不承知であることを意味する。この天皇の異例のきつい態度に、両総長はすごすごと退出するほかはなかった。
さらに、天皇は侍従武官長を呼び、事は重大なので、統帥部の方針を検討する元帥会議開催の意向を伝達した。これもまた異例である。天皇自身が元帥会議の召集を発議されるとは……。元帥府とは勅令により設置されているもので、元帥府条例中には「元帥府は軍事上に於て最高顧問とす」の条項がある。その顧問会議に、さながら両統帥部の上の軍事決定機関があるかのような印象が天皇によって与えられている。統帥に限っていえば、これも異様なことであった。
六月二十五日、伏見宮、|梨本宮《なしもとのみや》、永野修身、杉山元の四元帥(閑院宮は病気欠席)が宮中一の間に参集、両総長と両作戦部長がそれに控えた。天皇は四元帥の一人ひとりに意見を直接に求めた。
杉山元帥は「ガ島の作戦の例からしても、十数隻の輸送艦船のうち二、三隻が海岸につく程度で、海上で相当の打撃を受けるであろう。敵が飛行場を使用していては、揚陸は困難であり上陸後の作戦も容易ではない」といい、永野元帥もそれとまったく同意見であり、「これから敵は全力を尽して圧迫してくるであろうから、大至急最小限の処置をとることが、むしろ肝要であり、なかでも航空機の活用が緊急事であり、陸海軍を統一して、これから後にどこででも敵を破れるような準備のことを考えるべきであろう」と奉答した。伏見・梨本両宮もこれらの意見に同調し、とくに伏見宮は、後の特攻作戦のきっかけとなる「陸海軍とも、何か特殊兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない」とまでいった。
天皇は「ほかに、さらに申し述べることはないか」とただしたが、目ぼしい意見のないまま会議は終った。そして、いったん天皇が退出したあとで元帥たちが協議し、その結論を出すのである。ない袖は振れないのである。無謀な作戦は強行できぬとして、元帥会議は統帥部の意見支持にまとまった。
伏見宮の上奏を受けると、やむなく天皇もサイパン奪回中止を含む今後の作戦計画を裁可した。再び前にかしこまった東條・嶋田両総長に天皇はいった。
「昨日の上奏のことはあれで差し支えない。しかし、実行にあたりては迅速にやるように。陸海軍の航空兵力の協同を一層緊密に行うように」
こうして難攻不落を呼号したサイパン島の守備隊の戦闘も、二十四日間しか続かなかった。大日本帝国の運命は決した。アメリカ戦略爆撃調査団の報告書にあるように、「サイパン失陥以後、いかなる奇蹟も、“日出ずる国”を救うことはもはや不可能だった」のである。
七月七日、サイパン島は玉砕。そしてこの月のはじめ、天皇はインパール作戦中止を裁可した。大戦果はおろか、海に山に、みじめな敗走の列が続いた。大本営は重苦しい空気の底に沈んだ。
その前々日の五日、戦況上奏の東條総長に天皇はいった。
「サイパン島の将兵の奮闘は非常によくやってくれ、満足に思う。報告にあるように守り通せなかったことは|洵《まこと》に残念に思うが、将兵の奮闘は深く多とする。それにしても、敵の飛行場を作ることは何とか阻止されぬだろうか」
B29による本土空襲を憂慮しているのであろう。天皇は、さらにいう。
「(この後の)比島の確保はまことに大事と思う。比島の確保についてどう考えるか。硫黄島の戦いも始まるであろう。準備に資材をどんどん入れてやったら如何か。インパールは残念であるが、戦況上やむを得ぬと思う。フーコン方面は大丈夫なのか。現地軍司令官の“フーコン方面の判断”はなんら来ないが、これをどう考えるか」
サイパン戦は終ったが、天皇のうちには、すでに別の戦いの始まっていることが、よく察せられる。それもやや絶望的な。
それだけに七月八日の、侍従武官にぽつりとつぶやくようにいった言葉は印象的である。
「巧く行っているのは支那方面だけだね」と。
天皇の二つの顔
昭和二十年(一九四五)になると、戦況は誰の目にもいよいよ絶望視された。天皇にあっても憂慮と心痛の毎日だったろうが、このゆえにまた、両統帥部を指導し、より激励しつづけた。だが、大本営の作戦指導に対する天皇の不信は、部外者は、皇族であろうと誰だろうと、作戦に口をはさむなと禁じていた沈黙の原則を破って、一月六日、木戸内大臣への提案となって表われた。
「米軍はルソン島上陸を企図し、リンガエン湾に侵入し来りとの報告あり、比島の戦況はいよいよ重大となるが、その結果如何によりては重臣らの意向を聴く要もあらんと思うがどうか」
しかも、こうした発言が、この日を境にやや数を増してくる。
リンガエン湾上陸後の戦況奏上の参謀総長梅津美治郎大将に、天皇はいった。「|兵站《へいたん》はどうなっているか」「制空権はとれるのか」(一月八日)。
侍従武官長を呼び、「南方方面のわが航空兵力の再建の状況はどうなっているか」「フィリピンの邦人の現状は?」「ヨーロッパのドイツ軍の東西戦線の見通しはどうか」などと、天皇はいった(二月五日)。
二月十四日、ソ連軍がベルリンに迫ること一〇〇キロ、米軍のマニラ突入の戦況報告に、天皇はいった。
「この戦いは頑張れば勝てると信ずるが、それまで国民がこれに堪えうるや否や、それが心配である」
硫黄島への米軍上陸に守備軍の防戦よく効を奏すの報に、天皇はいった。「海軍部隊がよく陸軍と協同し防備に任じ、敵上陸以後においても|寡兵《かへい》をもって奮戦力闘して敵を撃破し、全作戦に寄与せることを深く満足に思う」(三月七日)。
三月下旬、いよいよ沖縄への米軍上陸が確実視され、大本営は天一号航空作戦に多大の期待をかけた。天皇もまた、参謀総長にいった。
「天一号作戦の重要性にかんがみ違算なきようにせよ」(三月二十八日)。
四月一日、米軍の上陸は開始された。三日、戦況上奏の梅津総長に天皇はいった。
「この戦いが不利になれば陸海軍は国民の信頼を失い、今後の戦局は憂うべきものがある。現地軍はなぜ攻撃に出ぬのか。兵力が足りないのであれば、逆上陸もやってはどうか」
四月四日、戦艦大和を中心とする特攻作戦が策定された。それを決定づけたのは、軍令部総長及川古志郎大将が天一号作戦による航空総攻撃を奏上したとき、天皇がいった言葉だった。「航空部隊だけの総攻撃なのか」。これに総長は答えた、「もちろん海軍の全兵力を使用します」と。
沖縄の戦闘とは鉄に肉体をぶち当てる特攻あるのみであった。特攻につぐ特攻の、|凄惨《せいさん》な流血の突撃にアメリカ軍総司令官が悲鳴をあげた四月十七日、天皇は侍従武官にいった。
「海軍は沖縄方面の敵に対して非常によくやっている。しかし、敵は物量をもって粘り強くやっているから、こちらも断乎やらなくてはならぬ」
四月二十四日、戦況報告の侍従武官にこうもいった。
「今日は早くもってきたが、|獲物《えもの》がないのではないか」
同月二十九日は天長節である。聖寿の万歳をことほぐために参内の連合艦隊司令長官豊田副武大将に、天皇はいった。
「連合艦隊指揮下の航空部隊が天号作戦に逐次戦果をあげつつあるを満足に思う。ますますしっかりやるように」
だが悲劇は|踵《くびす》を連ねてくる。その翌日、必勝を絶叫しつつ、ヒトラーがベルリンの地下防空壕で死んだ。ベルリンの国会議事堂の建物の破風を飾る彫刻群像の上に、勝利の赤旗がはためいた。ドイツの来るべき日がついに来たのである。五月八日、ドイツは無条件降伏した。
五月二十五日、宮城正殿が空襲により炎上、焼失し、その報告を受けたとき、何事かを考えるかのように沈黙を続けていたが、やがて天皇は「そうか、焼けたか」とだけいった。同じ五月下旬、梅津総長は天皇に戦争の見通しを報告、徹底抗戦のため宮城の長野県松代移転を願い出た。しかし、天皇はいった。
「私は国民とともに、この東京で苦痛を分かちたい」と。
こうして発言を追っていくと、この時点で、天皇は迷いつつも最後の決意を固めた、と思われる。それは、深い絶望感もあったことであろうが、連合軍が突きつけてきている“無条件降伏”をそのままにはのめないという軍の強硬な考えに、天皇も歩調を合わせた、ということである。
頼むべき鈴木貫太郎首相も議会で演説した。
「日本国民は皇室の献身的な|僕《しもべ》である。日本人はその国体が|毀損《きそん》されれば生存の意義を失うであろう。無条件降伏などは一億の日本国民の死にひとしいのである。われわれは最後の一兵まで戦う以外にとるべき道はない」
伝えられる無条件降伏のドイツの悲惨、仮に和を請うとしても、もう一度大戦果をあげてからという大本営の主張は、それゆえに重みを増している。きたるべき本土決戦において、日本軍は勝利かしからずんば死の一念に徹し、全軍が刺し違え戦法によって戦い抜く。海上の輸送船団に対する特攻攻撃で四分の一を沈め、水際の攻撃でさらに四分の一を倒し、残りは上陸後に連続集中攻撃で殲滅する。夢みるように華々しい大作戦である。これによって講和の条件を有利に導く。この大いなるフィクション。しかし、考えてみれば、日本人は誰もが戦争中はフィクションのなかで生きつづけてきたのである。天皇は神であり、民族は世界一優秀であり、軍は無敵であり、日本の使命は世界史を新しく書き替えることにあったのである。
天皇もまた、絶大な力をもつ|大元帥《ヽヽヽ》という架空の上に戦いつづけてきたのだろうか。
いや、大元帥はけっして架空ではない。天皇の統帥大権とは、まさしく大元帥のそれなのである。今になって気づくのは遅いのだが、ここまで“戦う天皇”として記してきた“天皇”は、すべて“大元帥”と書き改めたいと思う。そのほうがより正確である。それにしても天皇=大元帥なのか、別の人格なのか。
再び天皇親率の問題について考えてみよう。明らかに、戦前の天皇は、立憲君主としての天皇と、統帥君主としての大元帥としての二つの側面をもっていた。意識してか無意識のうちか不確かだが、天皇は、あるときは重大発言をし、あるときは沈黙を守った。そうした天皇の二つの顔を知りながら、とくに軍は、天皇の|御稜威《みいつ》のもとに、いわゆる錦の御旗を振りかざして、政戦を指導した。統帥命令はすべて大元帥の命令として出たが、これが上奏允裁ずみの場合は当然として、内奏程度の場合(準備的な上奏)にも、時として、上奏ずみなりとして政府や現地軍の作戦を、大本営は強制指導したのである。
軍にとって、天皇が同時に大元帥であることは都合よかった。それを巧みに使い分けることで、戦略が政略の上位に立ち、ましてや戦争ともなれば作戦は絶対であった。作戦で勝たない限り政治も経済も文化もないからである。
そして、天皇は天皇であると同時に、大元帥であることにも忠実であろうとしていたかにみえる。二・二六事件に際しての天皇の毅然たる態度は、軍の頭領たる大元帥のそれであったのではないか。事件終息までの四日間、天皇は大元帥の軍服を身につけて、事に対処し、命令し、叱咤した。近衛内閣が倒れ東條内閣に代ったとき、いわゆる「白紙還元の|御諚《ごじよう》」があったが、それは天皇から内閣に対してであり、大元帥からは大本営になんらの御諚もなかったのである。軍はひたすら戦争準備に邁進していた。
昭和十六年(一九四一)十一月十三日、岩国において連合艦隊最後の打ち合わせがあったときの、山本連合艦隊司令長官の訓示は、その意味からも印象深い。日米交渉が成立した場合には直ちに反転帰投せよ、と命じ、いったん弦を離れた矢を戻すのは無理との部下からの反対意見が出ると、色をなしていいきった。
「百年兵を養うはただ平和を護らんがためである。命令に従えぬ指揮官がいるなら只今から出動を禁止する。即刻辞表を出せ」
大元帥による攻撃命令が下っていようと、外交による平和が国策と決せられたときは、開戦か否かの大権をもつ天皇命令に従わねばならぬとする山本の、卓抜した国体観がそこに読み取れる。
さらに開戦直前の十一月三十日夕刻、高松宮(当時海軍大佐)に“海軍に自信なし”の意を伝えられ、驚いた天皇が、嶋田海相と永野総長の二人を呼び出したときの会話も興味深い。大元帥として、また天皇として、二人の海軍の指導者にいうのである。
「いよいよ矢を放つときになるね。矢を放つとなれば長期戦になると思うが、予定どおりやるか」
永野総長は統帥問題として大元帥に答える。「大命いったん降下されれば、予定どおり進撃します。わが機動部隊はすでに真珠湾の西方一八〇〇マイルに迫っております」
嶋田海相は軍政の面から天皇に答える。「人も物もすべて準備完了しました。山本連合艦隊長官もすべての訓練を完了し、将兵の士気旺盛、自信ありとのことでございます」
こうして「自若として、|些《いささか》の動揺」もなく、天皇にして大元帥は存亡の戦いに直面していったのである。戦火のもとの、天皇と大元帥の二つの側面はさまざまな局面に現出する。和平を口にするのは天皇の顔であり、前線に勅語や賞詞を送るのは大元帥の顔なのであろうか。
昭和十九年十月二十五日、神風特別攻撃隊による最初の体当り攻撃が行われた。二十六日、軍令部総長よりこの奏上を受け、天皇はいった。
「そのようにまでせねばならなかったか。しかし、よくやった」
無電で伝えられた前線基地の将兵は感奮したという。われわれはまだ宸襟を悩まし奉っているのかと。この、天皇の言葉と将兵の感奮の事実を見つめていると、奇妙な感慨にとらわれてくる。「そのようにまでせねばならなかったか」のうちには、仁慈に満ちた天皇の姿がある。そして同じ人が、大元帥として「しかし、よくやった」と賞詞を述べるのである。一人の人間のなかに、政治的人格として二人の人間が共生しているかのような感じにとらわれざるをえない。
しかし、いかによく将兵が特攻によって奮戦しようと、昭和二十年六月ともなると、戦いの結末はもうみえていた。国体護持のための徹底抗戦か、民族の滅亡を救うための無条件降伏か、底知れぬ苦悩と迷いのなかに日本の指導者は追い込まれた。四十五歳の天皇その人も、このとき、大元帥と天皇の間で揺れつづけていたと思われる。
大元帥を“否定”する
大日本帝国最後の混迷を映して、昭和二十年(一九四五)六月八日、政府と大本営は御前会議によってドイツ降伏後の国策を決定した。書記官長によって読みあげられた基本大綱は、“終戦内閣”の予想に反して徹底抗戦をうたいあげた。
「方針=七生尽忠の信念を源力とし、地の利、人の和をもってあくまで戦争を完遂し、もって国体を護持し、皇土を保護し、征戦の目的の達成を期す……」
天皇にして大元帥はこれを裁可した。しかし、このとき天皇は別のことを考えはじめていたのではあるまいか。御文庫へ戻った天皇の姿をみて木戸内大臣はすばやく悟った。国の|舵《かじ》をなんとか和平のほうへ向けねばならぬ、と。翌九日、木戸は和平のための方策を天皇に提出する。(一)天皇の親書を奉じた特使をソ連へ派遣し、(二)世界平和のため忍びがたきを忍んで、(三)名誉ある講和を結ぶことにある、というものである。天皇は内大臣の提案をみて「やってみるがよかろう」といった。
木戸は動きだす。鈴木貫太郎首相、海軍大臣米内光政大将、東郷茂徳外務大臣、陸軍大臣阿南惟幾大将と次々に会談する。この四者はすでに五月中旬に、ソ連を仲介とする戦争終結案をめぐって、ひそかにして十分な討議をすませていた。意見は一致したが、一つの大問題が残された。東郷外相がいった。
「あなたの試案の趣旨にはほぼ賛成だが、先日の御前会議で決定された“戦争完遂”の方針はどうなるのか。あの決定がある以上、和平工作を進めることはやりにくいと思う」
たしかに、御前会議の徹底抗戦の議決を無視することは、立憲君主国家としてのたてまえを崩すことになる。天皇の意志はどうなのか。
その天皇にして大元帥は九日、驚くべき報告を梅津参謀総長から受けていた。
「満洲と支那にあります兵力は、すべてを合しましても、米国の八個師団ぐらいの戦力しかありません。しかも弾薬保有量は近代式な大会戦をやれば一回分しかないのであります」
大元帥はいった。
「内地の部隊は在満の部隊よりはるかに装備が劣るというではないか。それでは本土決戦など成らぬではないか」
さらに大元帥は十二日、これもあまりに率直な、影響の大きい報告書を受け取った。大命によって特命の査察官として三カ月間、兵器廠、各鎮守府、そして第一線の航空基地を訪れた海軍大将長谷川清が、戦力をすべて喪失した海軍の現状を報告したのである。
「自動車の古いエンジンをとりつけた間に合わせの小舟艇が、特攻兵器として何千何百と用意されているのであります。このような事態そのことがすでにして憂うべきことであります上に、そのような簡単な機械を操作する年若い隊員が、欲目にみても訓練不足と申すほかはありません。動員計画そのものも、まことに行き当りばったりの|杜撰《ずさん》なものでございまして、浪費と重複以上のなにものでもありません。しかも、機動力は空襲のたびに悪化減退し、戦争遂行能力は日に日に失われております」
天皇は黙して聞いていたが、長谷川大将の報告が終ると、いった。
「そんなことであろうかと想像はしていた。お前の説明でよくわかった。本当にご苦労であった」
これまでの大元帥の事実確認は音を立てて崩れる。陸海軍統帥部のしてきた戦況報告は、大元帥を安心させるための、虚偽と言い逃れと|欺瞞《ぎまん》に満ちている。打つべき対応策もないのに「十分研究して善処します」という答えを奏上するが、豪語する本土決戦による有利な講和は幻想でしかなく、大本営そのものが、軍の意志で指導する力を失って、天皇の権威に依存して戦いをここまで引きずってきているにほかならない。
六月十五日、天皇は倒れた。胃腸を害し、戦争始まって以来休んだことのない政務を休んだ。
「聖上昨日から御不例に渡らせらる」と海軍の侍従武官日記にあり、陸軍の侍従武官も「聖上昨日夕よりご気分悪く数回下痢遊ばされ、今日は朝よりご休養なり」とある。悲惨な戦闘に尊厳と意義を見いだせなくなったとき、初めて天皇は病んで倒れたのである。
このわずかな二日間、天皇が何を考え何を決意したかは、想像する以外にない。しかし、健康を回復して再び政務室に姿を現わしたとき、その顔は和平のほうへ向けられていた。六月二十日午前、東郷外相は参内し、健康を回復した天皇に、五月の戦争指導会議で極秘裡に対ソ秘密工作に入ることを決め、交渉しはじめたことを報告した。初めて知らされる事実に耳を傾けたのち、退出する外相を追いかけるようにして天皇はいった。
「最近うけとった報告によって、統帥部のいっていることとは違って、日本内地の本土決戦準備がまったく不十分であることが明らかとなった。なるべく速やかに戦争を終結せしめることにとり運ぶよう希望する」
宣戦あるいは講和の権は、憲法によって決められた天皇大権である。大元帥としてではなく、大元帥を乗り越えて、その大権を行使しようという姿勢が、この発言で明らかである。“大元帥”から“天皇”への転換である。
六月二十日の午後、さらに木戸内大臣が、天皇の明確となった和平への意志に、拍車をかけるような奏上を行った。ソ連を仲介とする和平工作の意志がまとまった以上、もう一度最高戦争指導会議の全員を呼び出す必要がある、と木戸は前提し、「その席で、八日の御前会議の決定を解除していただきませんと、和平工作を進めるのがむずかしくなります」といった。
天皇自らが御前会議を召集し、前に決めた最高国策を無効にすることは、憲政上前例のないことであろう。しかし、天皇はいった。
「それはよろしい」
こうしてすべてのお膳立ては整ったのである。理性を戦場から拾いあげるときが訪れた。六月二十二日午後三時、天皇は最高戦争指導会議を召集、鈴木首相、東郷外相、阿南陸相、米内海相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長の六人の男は、これまでの御前会議と違い、天皇を中心にしてU字型に坐った。御前会議ではなくて親しく懇談という意味を含ませ、立憲君主制に抵触しないようにと配慮したのである。
それにしても、これほど天皇のリーダーシップの不思議をみせた瞬間はない。大元帥としての統帥大権による徹底抗戦の決定を、天皇としての国務大権によって講和へとくつがえそうとするのである。形式をいかに糊塗しようが、天皇が大元帥を否定することになろう。
立憲君主制の守護神ともいえる西園寺|公望《きんもち》が、秘書の|原田熊雄《はらだくまお》に語りながら、後に削除を指示した言葉が重い意味をもって、今、立ち現われるのである。
「陛下は天皇であると同時に大元帥である。よく大元帥=天皇というように考えているようだけれども、大元帥は天皇の有せられる一つの職分であって、大元帥=天皇などということはないのである。そういうことがよく判っていないように思われる」
天皇と大元帥との間はそのような関係にあったのか。すでにいわれている戦前の、政府と陸軍と海軍の三頭立て(さらに軍は省・部に分かれるから五頭立てともいえる)の政治機構の無責任性のうえに、天皇が二つの役割を使い分けていたのか。とすれば、それぞれが責任をもち、それぞれに責任をもたない。だから、最終の国家としての責任は誰ももっていなかった、という不思議は、いっそう強まるだけであろう。何ということか。
六月二十二日の会議は何から何まで型破りであった。しきたりを破って天皇が最初に発言したのである。
「戦争指導について六月八日の会議で方針を決定したけれども、戦争の終結についても、この際いままでの観念にとらわれることなく、速やかに具体的方策を考究して実現につとめてもらいたい……」
この天皇の召集による異例の御前会議は、三十五分で終った。しかし、この短い時の流れのなかに、大きく歴史を転換する偉大な時があったのである。これ以後、記録されている天皇の発言は、「対ソ交渉はどうなっているか。早くことを運ぶように」の繰り返し、といっていい。なお、ときどきは大元帥の激励や指示の発言がまじることがあるにしても、昭和二十年の六月中旬以降は、結局は講和を求める天皇の姿に終始するのである。
結果的には、日本の指導層が知恵をしぼって決定した“ソビエトの仲介による和平”の構想は、ソビエトからの宣戦布告という背信で水泡に帰した。そして八月九日、十四日の二回にわたる終戦決定の天皇の聖断がこれにつづく。この八月の聖断も、正確にみれば六月二十二日の天皇の、大本営不信による“大元帥否定”の延長線上にあると、指摘しておけばよいかと思う。つまり天皇大権の行使によるのである。
昭和二十年九月十三日、敗戦日本は大本営を閉鎖廃止、そして十一月三十日、内地復員をひとまず終えた陸海軍省を廃止した。この日、最後の陸軍大臣|下村定《しもむらさだむ》大将が宮中に参内し、復員の順調に進んでいることを報告、あらためて敗戦の詫びを天皇に述べた。終戦後は主に背広、モーニングだったが、天皇は久しぶりに大元帥の軍服を着てこの奏上を受けた。太平洋戦争中は寝るとき以外は脱いだことのなかった大元帥の軍服であったが、それを、拝謁が終ると天皇は脱いだ。そして戦後ずっと、天皇は軍服を身にまとったことはない。
これからもけっして着ることはないであろう。
[#地付き]〈了〉
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石川信吾 「真珠湾までの経緯」 (時事通信社)
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今西英造 「昭和陸軍派閥抗争史」 (伝統と現代社)
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〃 「関東軍(1)」 ( 〃 )
陸幹校編 「沖縄作戦」 (原書房)
[#改ページ]
1.一九八八年五月刊の単行本のさいには、主タイトルを『コンビの研究』、サブタイトルを“昭和史のなかの指揮官と参謀”とした。こんど文庫化するに当ってはそれを逆転させた。ひとつにはそのほうが主題がはっきりすると思うからであり、他の理由は『研究』に値いするほどの研究がなされていないことに気づいたからである。早くいえば、読み物を研究と題するのは、傲慢にすぎると考えたからである。
それに今春『歴史探偵 昭和史をゆく』(PHP研究所)の一冊をまとめた。そこでも記したが、わたくしは歴史好きのシロウト探偵をこれからは名乗ることとした。その自称に忠実であるためにも、麗々しく研究などとするのはオコガマしき限りとしなければならない。
2.単行本が世にでた直後の『週刊朝日』(一九八八年七月一日号)の書評欄に、畏敬する先輩で作家の丸谷才一氏の有難い一文が掲載された。勝手ながら一部引用することを許して戴きたい。本当は全文引用したいところであるが、氏の最新書『山といへば川』(マガジンハウス刊)という書評論集のなかにすでに収録されているので、全文はそちらに敬意を表して譲りたい。
「著者は普通の書き方の伝記には疑念をいだいてゐるらしい。個人を単に個人としてとらへたのでは、社会のなかに生きる人間がうまく出て来ない。そこで二人一組(つまりこれがコンビ)の生き方に注目すれば、それは社会の最小単位だから、社会がきれいに浮びあがる。そんな気持があつたやうに見受けられる」
と丸谷さんは鋭く理解を示してくれている。普通の書き方の伝記に「疑念」まではもっていなかったが、二人一組として書いたほうが面白い見方ができる、と思ったことは確か。それに歴史的事実を理解するにはそのほうが正鴻な場合が多い。
「普通の書き方の伝記に対する著者の疑問は、もう一つあつたらう。人間は多面的あるいは多層的なものなのに、とかくそれは忘れられがちだと著者は考へてゐるらしい。この本の最後の章『天皇と大元帥』は、この観点から書かれた|当今《とうぎん》の伝記の一節で、これは昭和史論としてまれに見る鋭利なものになつてゐる」
丸谷さんのこの指摘は身に余るものであった。
と書けばそれ以上につけ加えることはないのであるが、人間は多面的あるいは多層的であるとともに、ある歴史的局面において、それがコンビを組むことで、自分で考えてもみぬようなさらに複雑な面をだすこともある、と思っている。つまり歴史とは人間学ということで、歴史探偵としては、それを探りだすことに喜びを感じている。
3.この本が出たあとで『昭和天皇独白録』(文藝春秋刊)が発表された。本書では、わずかに余白のあるところで〈追記〉としてちょっとふれたが、『昭和天皇独白録』をふまえて指揮官と参謀を新たに書くことが可能かつ必要なのかもしれない。それほど背景のさまざまな話とかみ合わせてみると、この『独白録』はきわめてショックな内容をもっていた。たとえば東條首相と嶋田海相への天皇の信頼の探さひとつを考えてみても、人間とはなんと多面的ないし多層的であることか。
4.文庫化するにさいして、若干の補正をほどこした。しかし、ほとんど文章の正確さを欠くところに手を入れたもので、大幅な変更はない。ただ一つ「牛島満と長勇」の章はかなり|斧鉞《ふえつ》を加えた。丸谷さんの書評でこの章が「呆れるくらゐロマンチック、いや、感傷的」ときびしくやられたからである。たしかに、沖縄戦を書く場合にもっとも肝腎な、沖縄県民をなぜ軍は犠牲にしたか、についてきちんと書きつくさなければならなかった。いまさらの、少々の修正では所詮かなわぬことであったのではあるが……。
5.本書をまとめるために先人の書を大いに参考にした。著者および出版社に蕪雑ながら御礼申しあげる。
一九九二年八月十五日
[#改ページ]
単行本
昭和六十三年五月文藝春秋刊
[#改ページ]
文春ウェブ文庫版
指揮官と参謀
コンビの研究
二〇〇一年二月二十日 第一版
二〇〇一年七月二十日 第三版
著 者 半藤一利
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
http://www.bunshunplaza.com
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