半村 良
闇の中の系図
目 次
第一章 列外の男
第二章 赤い影
第三章 オレンジ色の夏
第四章 黄ばんだ葉
第五章 グリーン・ホール
第六章 蒼《あお》ざめた男
第七章 藍《あい》より青し
第八章 紫色の制服
第九章 市 街
第一章 列外の男
道ひとつへだてた向うに、かなり大きな染物工場があり、ブロック塀《べい》をこえて湿気の強い染料の匂《にお》いが漂《ただよ》って来る。
その染物工場では、毎年何回か必ずストさわぎがあった。そのたびに正門の前に大きな赤旗が何本もたち並び、あたり一面に小さなビラがベタベタと貼《は》りつけられるのであった。
その正門はだだっぴろい道路に面していて、一日中車が騒音をたてて流れていた。乗用車よりは貨物車の数のほうが多く、それも長大なトレーラーやコンテナー車が目立つ。その中に都営バスと私鉄のバスが混っていて、このあたりの通勤の足を一手に引受けていた。
染物工場の正門横から、大きな道路と直角に、トラック二台がやっとすれ違える幅の道があって、両側に同じようなブロック塀がつらなっている。染物工場の塀には、この前のストの時のビラがそのまま残っていて、何かたけだけしい乱雑さを感じさせる。
反対側のとば口は、時々腹に響くような大型プレス機の衝撃音をたてる鉄工場だ。その鉄工場と染物工場の塀の間の道を進んで行くと、だいぶ奥へ入ってから、「山県《やまがた》プラスチックス」という小さな工場の門が見えて来る。鉄工場の敷地はそこまでだが、向い側の染物工場の塀はその先へずっと続いて、突きあたりのT字路でおわっている。
それだけ染物工場は大きいわけだが、丁度《ちようど》山県プラスチックスの前に、特に染料の匂いを強く出す設備があるらしく、プラスチック工場の従業員たちは、その匂いをまるで自分の職場で出す匂いのように感じてしまっていた。
浅辺宏一《あさべこういち》はブロック塀によりかかり、すっかり慣れてしまった染料の匂いを嗅《か》ぎながら、仲間の工員たちがやる卓球を見物していた。そこは塀と工場にはさまれた細長い道路のような場所で、工場の屋根の端から塀の上へ、斜めに青いプラスチックの海鼠《なまこ》板が張ってあり、下はコンクリートで舗装してあった。本来は工場で使うフェノール樹脂のあき罐《かん》や、製品を詰めた段ボールの箱を積むためのスペースだったのだが、仕事をくれる大企業の指導で、反対側に倉庫を作ってから不要になり、卓球台を二台入れて、工員達が昼休みに使えるようにしたのだ。
「考えて見ると情ないもんだな」
宏一は元気のない声で言った。
「何がだい」
同じような恰好《かつこう》で卓球を見物していた仲間のひとりが言った。
「厚生施設だぜ、こいつは」
「厚生施設……」
「そうさ。この卓球台二台だけが、わが社の厚生施設さ」
「そう言えばそうだ」
「東洋染色にはサッカーのグランドまであるって言うのにな」
「でもあんたはいいさ。いずれここを出て独立できるんだから」
宏一より七つ八つ年上の工員がそう言って溜《た》め息《いき》をした。
「よくはないよ。独立したところで、ここの半分もないちっぽけな町工場さ。今は使われてる身だから厚生施設がどうのと気楽に文句も言えるけど、その時になったら卓球台ひとつ置けないだろうからね。経営者になったら、第一残業したって手当も出ないよ」
「でもいいよ。とにかく抜けだせるんだから。俺《おれ》なんか一生このまんまだものな。せめて東洋染色みたいにボーナスや賃上げを要求できるといいんだけど……」
それたボールがころがって来て、宏一はひょいとそれを拾おうとした。ブロック塀の下に細長い隙間《すきま》があいていて、軽いボールはそこからの風に煽《あお》られてバウンドが狂った。
「ちぇっ」
宏一は舌打ちして体を起す。
「近頃《ちかごろ》飲みに行った……」
「え……ああ」
宏一は微笑を泛《うか》べた。
「飲みたくて飲んで歩く時はいいけど、そんな金もないしね。俺なんか貧乏性だから、金持と付合うのは肩が凝《こ》っていけないよ」
「金持って……」
「仕事を憶《おぼ》えると言ったって、もう二年だろ。いくらなんでも、そうのんびりもしていられないさ」
「ああ、会社をはじめる準備か」
すると宏一は声をたてて笑った。
「大げさだよ、会社だなんて。おやじと共同ではじめるんだから多寡《たか》が知れてるさ」
自嘲《じちよう》のようであった。
午後五時三十分を過ぎると、その工場地帯の中央のだだっぴろい道を走るバスは、急に混雑をはじめる。最初の内は事務系の若い女たちが多い。五時半の終業とほとんど同時に、各工場の門からそういう女たちがとびだして来て近くの停留所に列を作る。
別に事務系と現場従業員の間に終業時間の差があるわけではない。しかし、なんと言っても、オフィスにいる者のほうが帰り仕度《じたく》がしやすい。手や顔を洗わなくてもいいし、お仕着《しき》せの事務服があっても、それを脱げばその下は出勤した時の服装である。しかし、大部分の工場の現場従業員は、そう手早いわけには行かない。たいていはジャンパーとズボンといった作業用の制服に着換えている。それに帽子などもかぶらされているから、身仕度に事務系とどうしても二十分近い差が出てしまうのだ。
したがって、六時近くになると今度は現場の連中で、列がいっそう長くなる。通勤の装《よそお》いだけがたのしみ、といったような若い娘たちのはなやかさもあるが、実際には大半が生活のために働く質素なみなりをしており、派手な服装のグループが幾《いく》つか帰ってしまうと、バス停の列は陰気な色にかわる。
女たちの年齢が少し上になり、バス停の列の色がくすんだ感じになる頃、定時で退社する男たちが現われる。六時すぎると、だからバスの中は男と女の比率が半々になる。二、三人ずつ連れだって工場を出るから、グループごとに終点までお喋《しやべ》りが続き、車内はひどく騒々しい。みな終点の国電駅か地下鉄の駅まで行くから、一度満員になったら最後まで空かない。男たちが出て来ると停留所ごとの列はますます長くなり、工場地帯の出口に近いところでは、バスはほとんどノン・ストップの状態になる。
乗客は九割がた定期券を持っている。以前は都営と私鉄の両方のバスの間に協定がなく、定期券ではどちらかのバスにしか乗れなかったが、工場の連合組織が直接運輸省にかけ合って共通定期券を認めさせたから、その点では少し便利になっている。それに、朝夕の通勤時間には、両方ともかなり増発に力をいれている。大きな工場地帯は一種の離島で、そこに大変な数の労働力が集中しているのだから、文字通り踵《きびす》を接するような運行をしないとたちまち工場の連合組織から文句が出る。一般の住民組織と違って、政治力のある大企業につながっているだけに、連合組織の注文にはすぐ応じてくれるらしい。
そんなわけで、ノン・ストップでバスが通り過ぎても、バス停の工員たちはあまり気にしない。どうにか乗れる余地を残した車がすぐ来てくれるからである。
バス停は目ぼしい工場の門を目安に作られていて、中にはバス停を前と後に二つも持ったマンモス工場もある。そして、その地域の退社ラッシュは意外に長く続く。各工場とも、残業時間が三十分きざみで一単位になっているせいだ。昔は個人個人の処理量や処理時間に応じて作業を切りあげるのが普通だから、残業と言っても時間に端数が出たが、今はほとんど流れ作業で、工場側の計画どおりに仕事が進められている。だからバス停の列も、六時すぎからは三十分ごとにひと山来る感じだ。もっとも、五時半から六時半までの山がなんと言っても一番大きく、六時半になるとバスの運行間隔もずっと長くなるし、バス停の列もずっと短くなる。
山県プラスチックスのようなごく小規模な工場の工員たちは、そのラッシュの山をうまく避けている。残業が昔風におおむね任意に切りあげられるので、適当に谷間の時間にバス停へ現われるのだ。彼らの生活の知恵はおそろしく正確に、すいたバスが来る時間をとらえている。だから浅辺宏一もほとんどバス停で並んだことがない。朝、国電の駅前で並ぶのは仕方ないとしても、宏一は帰りにはほとんどバス停で並んだことがない。ひょっとすると、この工場地帯へ出入りするようになってから、一度も並んだことがないのではなかろうか。
どうも、そういうことが嫌《きら》いな性分らしい。嫌いというよりは苦手《にがて》と言ったほうがいい性格なのだろう。たまにタイミングを合わせることに失敗して、列が出来ていたりすると、染物工場の塀によりかかり、列の外でいつまでも煙草《たばこ》を吸っていた。最後尾が乗ってもまだゆとりがあるとはっきり判ると、やっと煙草を棄《す》てて、ゆっくり一番最後から乗るのだ。さもなければ、誰《だれ》もいなくなったのを見すまして、バス停の標識の下にポツンと立って次のバスを待つ。すぐうしろに列が出来ても、それと俺とは無関係だというような冷たい顔をしている。
似たような行動をとる女性のグループが、染色工場から時々出て来る。彼女らは染色デザイン課のデザイナーらしく、その連中にだけは、宏一も関心があるようであった。
その夕暮れ、浅辺宏一は例によってバス停の列外にいた。もうその時刻では、バスを待って並んでいるのは男ばかりであった。六、七分おきに、ドスーンと腹に響く音が、宏一のよりかかっている東洋染色の塀をふるわせて聞えて来る。山県プラスチックスのとなりの鉄工場の、大型プレス機がたてる音だ。
宏一がいつものように塀によりかかったのとほとんど同時に、東洋染色の門から、妙にとりすました感じの女が二人、足早に出て来た。宏一が列の外でバスを待っているのを知ると、ちょっと怯《ひる》んだように足をとめ、自分たちも宏一から三メートルほど離れた場所の塀ぞいに立った。
宏一は彼女たちがいつも列外に立つ心理に、だいたいの見当をつけていた。彼女たちは染色図案の専門家で、いわばデザイナーであるから、工場で単純な手先の作業を繰り返す女子従業員たちとは、まるで違う立場の人間だと思っているのであろう。また、近頃では工場にもコンピューターが導入されているから、バスで通《かよ》う男たちの中にはエレクトロニクスの要員も少しはいる。製品の研究、開発、企画、といった頭脳労働者も多くなっている。しかし、主としてプリント生地《きじ》のパターンを作りだしている彼女らにとっては、そういう工場地域の頭脳労働者とも、同格には扱われたくないという心理があるようだった。同じに見られたいとすれば、それは広告関係、出版関係、芸能関係……つまりマスコミのタレントたちであるはずであった。だが、この工場地帯にそういう人種はいない。彼女らは階層として孤立しており、なろうことなら同じ路線バスで通うのすら、本当は不当なのだと主張したいらしい。
宏一には、時々一緒になるそのデザイナー・グループの、いつもバス停の列外に立つ心理が、手にとるように感じられる。ということは、宏一自身もほとんど同じ心理で列に加わらないということになる。
宏一は、もし自分にこの工場地帯でロマンスが生まれるとすれば、それは東洋染色のデザイナー・グループの一人に違いないときめていた。だから偶然同じバスに乗り合わせることをたのしみにしていたし、時にはわざと同じになるように時間を見はからったりした。現にそうやって二人の女が自分を意識しているのが判《わか》ると、心の底に何か期待以上のものが湧《わ》きあがって来るのであった。あと必要なのは、自然で正当なきっかけだけである。
だが、そのきっかけがなかなか得られなかった。宏一にも、「お茶でも……」と強引《ごういん》に誘いかけるだけの図太さはあった。しかし、そういう不自然なきっかけづくりを嫌う美意識が強かった。「お茶でも……」はぶざまにすぎると思うのだ。断わられたときの態勢がまるで整っていない。断わられたら、あとはせいぜい物に動じない図太さを演ずるよりない。それでは自分の値打というものが、一挙にゼロになってとり返しがつかない。だから、宏一は彼女らに対していつまでも醒《さ》めた姿勢をとりつづけ、ただひたすら、自然で正当なきっかけが与えられるのを待っているのだ。
列は少し長く、一台目のバスが客をつめこんで去った。二人の女は宏一と同じように、塀のそばで動かなかった。次のバスがすぐ近くに迫っていることが判っていた。
次のには確実に乗れる。……宏一は後続のバスの車内の明るさをちらりとたしかめてそう思った。混んでいれば暗く見えるのだが、次のバスの車内はかなり明るかった。女たちもそれを知ったのだろう。ためらわず今度はバス停の標識へ近づいた。宏一も、ふらり、といった感じで塀から背を離し、そのうしろへ近寄って行った。
バスが停《とま》りかけた時、あたふたと一人の男が追いついて来て宏一のうしろについた。
「ひゃあ、間に合った」
男はなれなれしく宏一の背中に手をあてて言った。ふり向くと同じ職場の係長で、沢井という男であった。宏一の上司にあたる。
「この前のが見えたんだが、混んでいたから多分やり過すだろうと思っていたよ」
少し息を切らせながら言い、バスへ持ちあげるように背中を押して、自分もあとに続いた。ドアがしまり、すぐ発車した。車内は思ったとおり混んでいなかった。といって、座席があいているわけもない。押さずに奥へつめられるといった程度で、宏一は二人の女と並んで吊革《つりかわ》を握った。
「まったく、浅辺君はすいたのにしか乗らないんだからなあ。やっぱり違うよ。俺たちとは」
沢井は宏一より三つ四つ上だろうか。職場でのキャリアが長く、成型技術のコーチ役をつとめて、係長という肩書をもらっている。宏一は黙って笑った。浅辺という名を女たちが聞いたことは確実であった。ひょっとすると、すでに彼女らの間で噂《うわさ》ぐらいされているかも知れないといううぬ惚《ぼ》れがあり、沢井の口からごく自然に自分の名が先方に伝わったのが、ちょっといい気分であった。
「浅辺君は立派だな」
沢井が言いだした。工場の仲間ではわりと話の判るほうであったが、それでもバスの中で声高《こわだか》にそんなことを喋る大まかさがあった。
「俺なんか。どうしてそんな……」
宏一は二人の女を充分に意識していた。前を向いたまま冷笑的に言う。
「いや、ほんとさ。俺たちは生活のために仕方なく働いているんだけど、君は違うだろ。仕事を憶えに来てる。いずれ経営者になるのが判ってるんだから、俺たちだったらそう真面目《まじめ》にはしていられないよ。気が向かなくて休んだって、誰も文句なんか言いはしないからな。その点、君は立派さ。なかなかそうは行かないもんだよ」
「冗談じゃないよ」
宏一は軽く笑って見せる。
「人間にはそれぞれ立場があってね。その立場になって見なければ本当のことは判らないものさ」
バスは工場の長い塀が続く道を走っている。この辺《あた》りでは、余程の事故でもない限り交通渋滞は滅多に起らない。或《あ》る意味で、東京の道路を埋める車輛《しやりよう》群の出発点であり、同時に車庫地帯でもあるのだ。ここからワッと一度に押し出して行き、よそで渋滞を起して、また戻《もど》ってくるわけである。
「それはそうだろう。会社の経営だって楽な仕事じゃないもの。でも、俺たちの仕事よりはずっとやり甲斐《がい》があるさ。第一|儲《もう》かるしね。今に口も利《き》いてもらえなくなるよ」
「そんなことあるかい」
宏一は照れていた。照れながら、バスの窓ガラスに映る自分を観察した。経営者になるべき人物だとしても、どの程度の経営者になりそうに見えるだろうかと思った。
「そりゃ、中にはお高くとまってると言う奴《やつ》もいないことはないけど、俺は君の人柄を買ってるぜ。お世辞じゃない、本当さ。冷たく見えるけど、案外人情家だからな。社員旅行の時そう思ったよ。西田の爺《じい》さんがゲロ吐いてへばっちまった時、最後まで面倒みてやってたもの」
西田の爺さんとは、六十近い年で工場に住み込んでいる、独身の守衛兼雑用係である。
「みんなが薄情すぎるからさ。物のはずみでしようがなかったんだ」
「誰でもできるってことじゃないよ」
今夜の沢井は妙に宏一びいきであった。
「あすは土曜、あさっては日曜……」
宏一は話題を変えようとした。
「日曜は日曜で結構いそがしいんだってね。勉強してるんだって聞いたよ」
沢井はしつっこく元の話を離れない。
「どんどん新しい技術が出てくるからな。業界誌なんかたまに読むと、知らないことばかり書いてある。その内浅辺君に教えてもらおうかな」
「やだな。生徒はこっちじゃないか」
「射出成型機《インジエクシヨン》のことくらいだったらなんとかなるけど、ほかのことは君のほうがくわしいはずさ」
バスは工場地帯のはずれにある、小さな橋を渡ってとまった。そこから先は住宅や商店の密集した街路になる。乗客の半分ほどはそこで降りる。新しい地下鉄の駅がその辺りに出来ていて、荒川をこえ、西船橋まで行っている。東洋染色の女の一方がそこで降りた。
「あ、失礼」
ワンマン・バスを降りる客の動きに押されて、残ったほうの女が宏一の脇腹《わきばら》に強くハンドバッグをこすりつけ、軽くそう詫《わ》びた。先に降りたほうよりずっと美人であった。ちらりと宏一を見た瞳《ひとみ》には、いつも工場の近くで彼女らのグループが示している、気取った感じがなかった。宏一は曖昧《あいまい》な目礼を返し、すぐ沢井に話しかけた。話しかけながら惜しいと思っていた。今のをきっかけに親しくなってもそう不自然ではないようであった。明日は土曜だし、それで明日の帰りにまた会えれば、それこそ本当にお茶ぐらい誘ってもいいのだ。
しかし、すぐに気がついた。若い女と付合うには、ふところが淋《さび》しすぎた。工場の給料は多寡《たか》が知れているし、その半分以上は家へ入れないと母親がうるさいのである。もっとも、しっかりした口実があれば時々免除してもらえるが、それは半年に一度か年に一度の取っておきの切り札で、そんな大切な切り札を使ってしまう程の事態ではない。とにかく今は給料日前のいちばん金のない時だし、今月は少しプラモデルに小遣いをはり込みすぎてしまっていた。
宏一の趣味はプラモなのである。それもかなり本格的だから、セットばかりではなく、塗料や工具にも意外に金がかかるのだった。
バスが終点へ着くと、沢井は一杯付合えと言いだした。どうやらはじめからその気で宏一の乗るバスへ追いついたらしかった。宏一は沢井が誘うのを聞きながら、人が押すにまかせたふりで、うまく東洋染色のデザイナーのうしろについてバスのステップを降りた。襟脚《えりあし》の髪が背中へ形よく生《は》え伸びていた。
「ねえ、たまにはいいじゃないか」
沢井はそのうしろから、機嫌《きげん》をとるような声で言った。宏一ははっきり答えず、女のあとについて駅へ向かった。亀戸《かめいど》駅から電車に乗るらしいことは見当がついていたが、それが国電なのか東武亀戸線なのか知りたかったのである。
「薄情だな。奢《おご》るからさ……」
沢井もしつっこくついてくる。改札口の近くまで行った時、不意に女が振り返った。その振り返りかたは、明らかに宏一に対してであるようだった。ただ、もうかなり離れたはずだと思っていたらしく、意外な近さに宏一がいたのを知ると、うろたえたように微笑を泛《うか》べた。うまい具合に宏一はその時沢井に話しかけようとしていた。傍《そば》にいたのは偶然で、女のほうが一方的に関心を示した形になってしまった。宏一は意外そうな表情で見返してから、知らぬ相手に挨拶《あいさつ》をしかけられた時の、怪訝《けげん》そうな、しかし好意のある微笑を送った。女は少女っぽい羞恥《しゆうち》を示して構内へ駆け込んで行く。国電に乗るということが判った。国電なら八割がた下りにきまったようなものである。あの工場地帯へ通勤している人間で、亀戸から都心寄りに住んでいる者はそう多くないはずであった。といって船橋から先でもないだろう。それなら先にバスを降りた女のように地下鉄を使うはずだ。とすれば、平井、新小岩、小岩、市川あたりか、せいぜい中山どまりである。
宏一は満足していた。この次彼女に会った時に声をかける、ごく自然でしかも正当な理由が出来たのだ。「どなたでしたっけ……」といまだに名前を思い出せぬ顔で、詫《わ》びるように言えばいいのだ。
「それじゃ、付合おうか」
宏一は沢井に言った。
「でも、あまり飲まないよ。帰ってちょっと調べ物があるし、それに今日は金も持っていないから」
沢井は喜色満面といった笑い方をした。
「奢るよ。安いとこだけど」
二人は人の流れにさからって外へ出た。
「ほんとに安っぽいとこだよ」
いざとなると、沢井は気おくれしたように念を押した。
「君なんか高級なとこばかりだろう……」
「そんなことはないよ。銀座なんて、スポンサーの尻《しり》にくっついて行くだけだし、行ったっていつもこんなになってるのさ」
宏一は肩をすくめ、背を丸めて見せた。
「俺たちの十倍も給料をとるホステスがいるんだからな。俺なんか息がつまって酒も喉《のど》を通らないだろう。……でも、一遍ぐらい行って見たいな」
「くだらないよ」
宏一は沢井の夢をたしなめるように言った。
沢井が連れ込んだ所はたしかに安っぽかった。もうこの下は屋台があるだけ、と言ったようなクラスの店で、うすぎたない軒先に、本当に赤提灯《あかぢようちん》がぶらさがっていた。
「よう」
沢井は精々《せいぜい》常連らしい声で戸をあけたが、工員風の客でほとんど満員に近く、夫婦らしい二人がカウンターの向うで顔もあげずに注文に追われている。
「混んでるな」
沢井はそう言って、L字形のカウンターの角にふたつだけあいていた丸い木の腰掛けへ坐った。カウンターは一応|素木《しらき》だが、いちめんにしみがついていて薄茶色に見えた。中の汚れた白衣の男がちらりと顔をあげ、すぐうつむくと口の中で「いらっしゃい」と言った。その奥にいた肥《ふと》った中年女が、客の頭ごしにいきなり大声で尋ねた。
「お酒……ビール」
沢井が宏一に好みを聞こうとすると、宏一は委細《いさい》かまわず、
「お酒」
と、女と同じように高っ調子で言った。
「ご新規お酒二本」
女はそう言いながら自分で伝票をつけた。
「はじめてだね、浅辺君とは」
「うん」
「馴《な》れてるなあ。やっぱり違うんだなあ」
沢井は感心したように言い、酒が来るとすぐ宏一の盃《さかずき》に酌《しやく》をした。
「俺、君の新しい会社で使ってもらえないかな」
宏一は驚いたように沢井をみつめた。
「もうすぐなんだろ」
沢井は本気らしかった。
沢井はかなりの早口で、酒を二本あける間に職場の愚痴のありったけを言ってしまった。
「だから、たしかにおやじさんは職人だよ。成型のこともよく知ってるし、働く人間の気持もそれなりに判ってくれているさ。それは否定しないよ。でもさ、ほかの連中はなんだい。おやじさんが腕一本で叩《たた》きあげてあそこまで来てから、なんだかんだ言ってへばりついた奴らじゃないか。そうだろ。仕事のことなんかまるで知らないし、俺たちの気持なんてはじめっから無視している。俺はいやなんだよ。新聞にこれっぱかりの広告だせば……」
そう言って左手の人差指と拇指《おやゆび》で輪をこしらえる。
「自分のかわりが十人も二十人も来るって考えちゃうことがさ。どうせ俺なんか、工場など持てやしない。死ぬまで真面目に働いたって、木造アパートの風呂《ふろ》つきのに住めれば精一杯さ。ひがんで言ってるんじゃないよ。今の工場長はもうすぐ停年だけど、そのあとにはあのドラ息子が納まるにきまってるじゃないか。専務も常務もみんな親戚《しんせき》だ。西田の爺さんてのはね、あんた知らないだろうが、おやじさんの最初っからの同僚だった人だぜ。だからおやじさんは一生懸命面倒見ようとしてるんだよ。でも、ほかの連中は邪魔者扱いさ。おやじさんは工場を作る時、奥さんの実家の力を借りたらしいんだな。だからあの糞《くそ》ばばあは副社長で威張りくさってる。おやじさんは西田の爺さんに何かしてやるんでも、こっそりかくれてやってるんだぜ。そんな具合だから、もしおやじさんでもポックリ行ったらあとはもう滅茶苦茶さ。去年一度軽い脳溢血《のういつけつ》で倒れたろ。危ないもんさ。そうなったらもうあそこにいたってどう仕様《しよう》もないもんね。風呂つきのアパートは、いま四万も五万もするんだよ。俺たちの給料でどうやって食って行く……」
沢井はそう言って宏一の肩に手を置いた。
「夢が欲しいんだよ。君がこれからおったてる会社に入れてもらえれば、俺、物凄《ものすご》く頑張《がんば》って見せる。スタートからだし、それに君っていう人も、俺は買ってるんだ。なんだか君は成功する人みたいな気がしてるのさ。だからその成功にひと役買いたいんだよ。やらせてくれ。なんでもする。最初の内、少しぐらい給料が下がったって文句言わないよ。俺はことし三十になった。まごまごしてるわけには行かないんだよ。今の内にやることをやらなきゃね。君に賭《か》けて、君を盛りたてて行きたいんだ」
宏一はハイライトに火をつけた。
「判った」
「え、判ってくれた」
沢井はうれしそうに叫んだ。
「でも、ここではたしかな返事をしないでおこう」
「どうして。いいじゃないか」
「そうは行かない」
宏一は諭《さと》すような言い方になった。
「僕だっていずれ人を使う身です」
沢井はかしこまった様子で頷《うなず》いている。
「そう軽率に人さまの運命を左右するようなことは口に出せない。第一、その会社の社長には僕の父がなる予定だ。父はもうすぐ停年で、まとまった退職金が入る。それだけでは会社は出来ないが、いろいろと父には父の築いた地盤がある。どうやら通産省や防衛庁へのパイプもあるらしい。だから僕を使って会社をやろうというのだが、人事については父が決定権を持っている。たしかに、君のことくらいは僕が引受ければそれでいいだろう。でも、たとえ親子でも会社の組織となればまた別だ。だから、いよいよになったら父に君を推薦しよう。年上の人にこんなことを言っては僭越《せんえつ》だが、それまでは今の工場で、気を散らさずに一生懸命やってはもらえないだろうか。僕もあそこで仕事を教わっているわけだし、恩義がある。有能な人を引抜いて行くような真似《まね》は出来ない。筋を通すというより、これは新しく生まれる会社の将来のためだ。世に出る瞬間から曲ったことをするようでは、そんな会社などすぐに潰《つぶ》れてしまう。父の承諾が出たら、向うの社長に正式に君をくださいとたのむよ。それだったら、万一僕の所がすぐ駄目《だめ》になっても戻れるじゃないか」
宏一はそう言って沢井の盃にぬるくなった二級酒を注《つ》いでやった。
「えれえ……」
二人はカウンターの角に右と左に別れて坐っていて、沢井のとなりにいた初老の工員風の男が嘆声を発した。
「若えのにえれえ人がいるもんだ。ほんとうにえれえ。脇から話に口だしてすまないが、その人の会社はでかくなるぜ。ええ、あんちゃん」
男は沢井の背中をどやしつけた。
「そういう人にくらいつくんだ。そういう人にな……人の上に立つ器量のない奴は、誰に仕えるかを選ばなきゃどうしようもねえんだ。俺を見ねえ……俺ァやりそこなった。いい大将に会いそこねたのよ。だからこの年になってまだドブ臭《くせ》え借間《しやくま》ぐらしさ。これでおしまいだ。一生|這《は》いあがれっこねえ」
男はそう言って酒の追加を言い、来た熱燗《あつかん》を大げさな手つきで宏一に献じた。
結局宏一は沢井の希望に確約を与えないまま別れた。それでも沢井は充分に満足したようであった。横から口を出して来た老工員の酒を二本ほどご馳走《ちそう》になり、結構上機嫌で帰っていった。
だが、東武亀戸線に乗った宏一は浮かぬ顔をしていた。沢井が突然あんなことを言い出した原因が気になっているのだ。
沢井はきのう遅くまで残業をした帰りに、妙な男にバス停の所でつかまって、宏一のことについて質問されたというのである。沢井はそれを興信所の身上調査だと信じ込んでいた。そして、いつとはなしに耳に入っていた宏一の事業のことと結びつけ、会社設立の時機が迫っていると考えたのだ。質問した人物は身なりのきちんとした男で、沢井の言葉によると、やはり会社関係の調査であると洩《も》らしたそうだった。だがそれは沢井が一方的に思い込んでいたためかも知れず、宏一としては信用するわけには行かなかった。
ひょっとすると、結婚のための調査かも知れない。宏一はそう考えた。どこかに自分に目をつけている相手がいて、それがひそかに素行や身許《みもと》を調べている……そう考えるほうが余程たのしかった。
曳舟《ひきふね》駅で降りた宏一は、逆戻りするかたちで京成電車の踏切をこえ、ひどく入りくんだ道をたどって自分の家へ戻った。
「只今《ただいま》ァ」
木のドアをあけてそう言うと同時にワーッという大勢の笑い声がした。テレビの音であった。もとは一|間《けん》の間口に格子戸《こうしど》が二枚はまって、中は畳二枚分の玄関だったが、そこに床をつけ、間口の半分を板壁で塞《ふさ》いでしまったので、ドアをあけると三尺四方の靴《くつ》ぬぎスペースがあるだけの、安アパートの入口みたいな形になってしまっている。残り一畳半のスペースには、母親の内職材料が山のように積んであった。
ドアをしめ、歪《ゆが》んだ障子《しようじ》をあけるとまた二畳の部屋だ。音はそこの玄関を入ったとっつきの部屋だったのである。このあたりの家はみんな、多かれ少なかれそういう改造をしてしまっていた。
障子をしめて襖《ふすま》をあける。四畳半のまん中の卓袱台《ちやぶだい》に酒の支度《したく》がしてあって、父親が白黒テレビを見ながら一杯やっていた。唐桟《とうざん》の大島を粋《いき》に着こなして、宏一同様清潔な男ぶりである。
「なんだ、只今ぐらい言え」
「言ったよ」
父親は軽く頷《うなず》いて酒とテレビに戻る。
突き当りの障子をあけると台所だ。右手に便所、その前から二階へあがる階段。
「あら、遅かったね」
母親は洗い物をしていた。宏一は手摺《てず》れのした革鞄《かわかばん》から弁当箱をとりだして渡す。
「おやじ、まだ起きてるね」
「いいんだよ。あしたは八時出庫だから」
「そうか」
「お前もお相伴《しようばん》したら。お酒ならまだあるから」
「ちょっと飲んで来たんだ」
すると母親は濡《ぬ》れた手を流しの上へたらして宏一に顔を寄せた。
「あらやだ、ほんとに飲んでるよ。よくお小遣いがあったねえ」
「奢《おご》ってもらったんだ」
四畳半で父親が大きい声をだした。
「いいから来て飲めよ」
「聞えてるんだね、ちゃんと……」
宏一はそう言って母親と笑い合った。
「聞えてるさ。俺の耳は両側についてる」
「ご機嫌だね」
障子をあけて入りかけると、
「馬鹿、猪口《ちよこ》を持って来ねえかよ。手づかみで飲む気か」
と父親が笑った。言いおわらない内に母親が猪口を渡してくれて、
「すぐ熱いのを持ってってあげるから」
と言う。
「よし、注《つ》いでやる」
父親はテレビから目を離し、宏一の盃に酒を満《みた》した。
「お前、まだ毎日弁当持ってってるのか」
「そうだよ」
「いいかげんによせ……いい若いもんが」
工場には付近一帯に昼飯を配る、江東配菜社という仕出し屋が入っていて、毎朝注文を取って行く。だが宏一はいつも弁当持参であった。
「どうでもいいが、こっちは麦飯の付合いで閉口するぜ」
一家三人の時ならぬ酒宴だ。母親も少しは飲む。
「あしたは土曜だから弁当は要らないよ」
工場は最近土曜を半休にきめた。理由は世間が週休二日になりはじめたせいである。
「でも、なんだって麦飯の弁当なんか作らせるんだ」
「いいじゃないさ。麦のが安いんだから」
母親が宏一をかばっている。
「なあ、どうしてなんだよ」
「くどいねえ、お酒が入ると。……この子はお洒落《しやれ》なのよ。あんたに似て。安月給じゃ碌《ろく》な服が買えないから節約してるのよ」
「それで麦飯かい」
父親は納得《なつとく》が行かぬようだ。
「弁当屋が入ってるのに弁当持ってったら、節約って判っちゃうだろ」
「へえ……」
父親は毒気を抜かれたような顔になる。
「見栄っぱりだな、お前も。それで脚気《かつけ》の真似《まね》か」
「麦ご飯がいいのは脚気ばかりじゃないわよ」
と母親が助け舟。
「見栄張って屁《へ》こくなよ」
「お洒落はおやじゆずりさ」
「違《ちげ》えねえ」
父親は頭を掻《か》いて見せ、唐桟の着物の袖口《そでぐち》をつまんで突っ張らせた。
「これがタクシーの運ちゃんとは気がつくめえ」
「袖の分くらいはあたしの内職なんだからね」
母親が威張った。
「その通りその通り。さ、さ、どうぞおひとつ」
夫婦仲は至っていいほうだ。
「今日|奢《おご》ってくれた奴だけどねえ……」
宏一は憮然《ぶぜん》とした表情で言った。
「俺に、一緒に会社やらないかって言いやがんのさ」
両親が揃《そろ》って目を剥《む》いた。
「お前にかい」
「ほんとか、それ」
父親は疑っていた。
「ほんとさ」
「危ねえな。お前って奴は、時々根も葉もないことを言いだすからな」
「工場の係長で沢井って奴だよ。独立する気らしいな」
「よくそんな金があるな」
「知らないけど、どうせ親の金だろ」
「ま、そんなとこだろうな。幾つくらいの男だい」
「三十……」
「若いな。お前を工場から引き抜いて行こうって言うのか」
「だろう。手伝えってさ」
「なんて返事した」
「考えて見るって」
母親が心配そうに言う。
「で、どうする気なの」
「危なっかしい話さ」
「そうさ、三十じゃな。折角《せつかく》腰が落着いたところだ。君子危うきに近寄らずだぞ」
「でもうれしいじゃないの。宏一でもそんな誘いを受けるようになったのかねえ」
「そう言えばそうだな」
父親と母親は目を細めて宏一をみつめた。
「これで下らねえ嘘《うそ》さえつかなければ、もう立派な一人前なんだが……」
「嘘なんかつかないよねえ」
母親は宏一の酌を受けながら言う。
「ところで、何か俺のこと聞きに来た人いるかい」
すると両親は顔を見合わせた。
「実はいるんだよ。前のうちで何か聞いてったそうだよ。うちのことを」
「俺のことをかい」
「お前のことを聞いたらしいけど……心あたりがあるのかい」
宏一は本気で首を傾《かし》げたが、折角両親をいい気分にさせたところなので、余計な心配をかけたくなかった。
「もしかするとその会社の件じゃないかと思うんだ」
「へえ……そうだとすると、お前を誘った奴は案外しっかりしてるんだな。本式じゃねえか」
「それはそうだよ。いやしくもこれから人の上に立とうという人間だもの」
「三十にしちゃ、えれえ奴だ。そういう相手に見込まれるようじゃ、お前も益々《ますます》たのもしいぞ。とにかく、お前なんかは人様に引き立ててもらわなくてはな。少なくとも俺よりは良くなってくれねえと、母さんが泣くぞ。タクシーの運ちゃんじゃ退職金もありゃしねえ」
父親はちょっとしんみりしたようである。
始業は九時三十分である。昔は八時だったそうだが、今は軒なみその時間にきまってしまったので、山県プラスチックスもやむを得ず時代の流れに合わせていた。
工場は小粒なくせに、始業の合図のベルだけはやたら大きな音をたてさせる。九時になると西田の爺さんがすべての成型機に点火してまわるから、九時半には鋳型《いがた》が充分に温度をあげている。
宏一は手先も器用だし憶《おぼ》えも早かった。多くの工員が方法だけを憶えて原理にうといのと較《くら》べると、仕事の手順をなぜそうしなければいけないのかとか、温度はなぜ守らねばいけないのかというような原理的なことに理解が深く、だから先輩たちをすぐ追い越して、一番高級な技術を要する仕事をあてがわれていた。
手動プレスを使う一個どりの鋳型を扱っている。鋼鉄の内側に、微細な陰型を刻み銀メッキをほどこした鋳型が一個だけあって、約五分かけてひとつの製品をとりだす。従って一時間の生産量は十二個。それ以上のスピードで作るとたちまち細部のサイズに狂いが生じ、別な会社で作っている金属部分と噛《か》み合わなくなる。
製品は一時間ごとに仕上係りの女子工員が持ち去って、パフで研磨《けんま》する。それをすぐ検査係が各部分をノギスで計測して、誤差の許容範囲内にあるかどうかたしかめる。不良が多ければすぐ成型者へ連絡し、鋳型温度からプレスの圧力、鋳型の歪《ゆが》みなどをチェックする。だから一個一個に油断がならない。そのかわり半日連続不良品ゼロなどというと大手柄で、工場長が肩を叩《たた》きに来たりする。完成品は一個ずつ薄葉紙にくるんでボール箱へつめられる。大きさはハイライトの箱を縦にふたつ割りにした程度のもので、用途は新型魚雷の進路誘導用電子装置の中核部品である。不良品といえども持出厳禁で、不良品が出ると半日ごとにクラッシャーというプレス機械の中へ入れて粉々にされる。
それが調子よく十五、六個出来上ったとき、係長の沢井がやって来た。
「ゆうべはどうも」
そう言って成型台の横の帖面《ちようめん》をひろげ、
「今日も快調らしいね」
とお世辞《せじ》を言った。
「こっちこそ……」
「ちょっと事務所でお呼びだ。おやじさんだよ」
「社長が……」
「かわってやるよ。ガス抜きは済んだんだろ」
「うん」
宏一は成型台を離れた。工場を出て事務室へ入って行くと、肥った工場長が顎《あご》をしゃくって社長室を示した。ドアをノックして入ると、茶のダブルを着た社長が大きな湯呑《ゆの》みで茶を飲んでいるところだった。
「あ、掛けなさい」
痰《たん》のからんだような声で言った。
「きのう、君のことを興信所が調べて行ったそうだ。副社長が応対したそうだが、もちろん悪いような返事はしなかったという。君のことだから悪く言いようもないが」
「うちへも来たそうです」
「君の出身地はどこだったかな」
「東京です」
「東京生まれか。で、ご両親は」
「父も東京だそうですが、祖父は三重県らしいです」
「お母さんは」
「神奈川です」
「なるほどね。で、お母さんの旧姓は」
「ええと、オミです。小さく見ると書きます。でも、どうしてです」
「妙な興信所で、君の体つきとか、日常の癖とかまで熱心に尋ねたそうだ。結婚の調査にしては念の入れようが違うので、あらためてわたしからもちょっと聞いて見たのさ」
宏一は黙って首を傾げた。
「ところで、ざっくばらんに聞くが、いいかな」
「はい」
「だいぶ大きな所と君は手を組んだらしいな」
「は……」
「そこまで煮つまって来たのなら隠さんほうがいい。君は会社を作るそうじゃないか」
「は……ええ。いいえ」
宏一はうろたえた。
「君は真面目な青年だし、仕事を憶えるにも非常に熱心だった。二年目ですでに熟練工たちを追い越して、実質的にはナンバー・ワンの地位にいる。そういうしっかりした裏付けがあれば、誰でも真剣に仕事を憶えようとするだろう。君の将来がひらけることを祈るよ。だが、ひとつだけ納得して欲しいことがある。今は技術者の足りない時代だ。ここもご多分に洩《も》れない。君が抜けるだけでも傷手《いたで》だ。どうか、そこのところはお手やわらかにたのむよ」
社長は頭をさげた。
「余分なご心配をおかけして申しわけありません」
宏一は複雑な気分で言った。言うとあとがすらりと出た。
「仕事をお教えいただいただけでも、充分ご恩を感じております。たしかに、一部にはわたしの所へという声もあるようですが、わたしにはそういう気はまったくありません。第一、皆さんは多少誤解なさっているようです。個人的なことなので強《し》いて弁明しなかったのが悪いのですが、わたしの今後の計画においては、プラスチック関係は部分でしかありません。ここと同じような工場を持つのではないのです」
「なんだ、そういうことか」
社長はほっとしたように頷《うなず》いた。
10
瓢箪《ひようたん》から駒《こま》と言うが、少し大きすぎる駒がとびだしてしまったようである。三流の高校を出てからすぐ就職したが、腰が落ちつかずに何年か無駄《むだ》に過してしまった。山県プラスチックスへ入ったときは、だから見習工にしては少し薹《とう》が立ちすぎていて、なんとも恰好《かつこう》がつかなかった。それに宏一は外見が父親ゆずりで白皙《はくせき》の美青年という感じだったから、周囲の工員たちにも馴染《なじ》めず、また周囲もちょっと間隔を置くような態度で好奇の目を光らせていた。
ホロリ、と何気なくこぼれ落す感じで、宏一は少しずつ自分の身の上を飾って行った。嘘《うそ》の部分を控え目に控え目に誇張して行ったのである。と言って、積極的な嘘は一度もついていない。ただ、想像する方向を少しばかり誘導し、それで相手が納得して自分勝手な結論を打ち出すと、謙虚に否定するふりをしてその架空のイメージを定着させてしまうのだ。
二年かけてじっくりそれをやったら、大きすぎる駒がとびだした。得体の知れぬ興信所の動きにつられて、社長まで信じ込んでしまった。多分、副社長である細君が、ヒステリックに工員の引抜き防止を喚《わめ》いたのであろう。
これでひとつの嘘が見事に完結した。宏一は近々新会社を創立することになって、誰ももうそれを疑いはしない。成功である。とびきりの大成功である。しかし、その成功の報酬は、山県プラスチックスという会社から去ることであった。去らねばならなかった。嘘がバレて失業するのではなく、嘘が真実となって失業するのだ。この虚構の設定を背景に、全工員に対して精神的な君臨をして楽しみたかったが、もうやれたとしても長い期間ではない。沢井を引取るという難問は、さっきの社長の発言で筋の通った解決をしたが、こうなるとまるで交流のない別業界へ移らねばどうにもならなくなった。
まあいいさ、ちょうど飽《あ》きたところだ……宏一は図太く居直って、社長室から戻ったあと、ニヤニヤしながら仕事を続けた。
しかし、興信所の動きが不安であった。どこかで自分の嘘を見破ってはいないだろうか。そういう不安だった。自分以外の誰にも迷惑のかからぬ嘘だが、その嘘が見破られたとあっては、死ぬ程の恥辱である。宏一には、生まれつきそういう嘘つき魂のようなものがあった。
とは言うものの、この他愛もない、どこにも実害を及ぼさない嘘を、誰が興信所を使ってまで破ろうとするだろうか。そんな馬鹿がいるようにも思えない。とすれば、興信所の動きはまったく別なものなのであろう。ひょっとすると本当に、結婚の調査かも知れないと思った。それ以外に、調査されるようなことで、何も思い当らなかった。
土曜の終業時間近く、宏一はふと隣りの東洋染色の、あのデザイナーの顔を思い出していた。相手が彼女だったらいったいどういうことになるだろうか。
宏一は普段より十五分早く作業をやめ、鋳型を掃除して帰る準備をはじめた。会うならあと幾日も残っていない。次の給料日には辞めなければ納まりがつかなくなっていた。
彼女が出て来るまで、しつっこく待つ覚悟をきめた宏一は、終業のベルと同時に呆《あき》れたように見送る同僚の間を突っ走って、女たちより早く洗面所へとびこんだ。手と顔を洗い髪に湿り気をくれると、木造の更衣室へ行って手早く身仕度をした。
あのデザイナーがどんな恋の相手を夢想しているか、ほぼ見当がついていた。マスコミの舞台裏をフリーパスの、悩み多き文学野郎がそれだ。
「畜生、俺がそいつになってやるぞ」
二年がかりの嘘を作りおえて、宏一は新しい嘘に闘志を燃やしはじめていた。
第二章 赤い影
その土曜の午後、東洋染色のデザイン課グループは、珍しくバス停の列に素直に並んで、来たバスに順番に乗り込んだ。デザイン課には男も少しいたと見え、十二人ばかりの男女が入り混って陽気に喋《しやべ》っていた。
どうやら一緒にどこかへ遊びに出るらしく、かなりはしゃいでいるようであった。もちろん例の女もいて、それとなく網を張っていた浅辺宏一が彼女らのあとに続いてバスに乗り込むのを、二度ほどちらりと見たようであった。明らかに宏一を意識している。
それも当然で、いつも列外にいる宏一が、彼女らが列のうしろにつくと、どこからともなく現われて、そのすぐあとに並んだのである。宏一はその微妙な不自然さを、ひとつの意志表示として用いたつもりであった。したがって、バスの中でもさり気ない風を装《よそお》うのは無用なことであった。宏一はいつもの超然としたポーズをかなぐりすて、工員たちの頭ごしに、熱っぽい視線を送り続けた。女はそれが判ると、ことさららしく仲間に話しかけたりした。
しかしその午後、宏一は彼女に対してそれ以上どうという策を持ってはいなかった。はじめから成り行きまかせで、もし口をきくチャンスがおとずれたら、その時は状況に応じた出方をするつもりでいた。むしろそのほうが結果はいいのだと信じている。咄嗟《とつさ》に出て来る、ほとんど生理的と言ってもいいほどの対応のしかたを、宏一は信頼していた。
というのは、どうころんでも彼女に対して嘘《うそ》をつかねばならぬのが判り切っているからであった。なぜなら、宏一は彼女が恋の相手として描いている男性像を、かなり正確に把握《はあく》していたからだ。彼女はデザイナーという、この工場地帯では例外的な職種に、必要以上のプライドを持っているのである。同じデザインの仕事でも、彼女がこの工場地帯ではなく、銀座、赤坂、六本木、青山といった地域に職場を得ていれば、それほど高い姿勢にはならないはずであった。ところが、ここには単純労働を反復する、彼女にとって絶対に同列に見られたくない工員の大群がいた。彼女はそれら工員群と自分の間に、なんとしても一線を画《かく》していたいのだ。そのために、彼女は不自然なまでに、職種による差別感を育ててしまっている。その結果、自分の恋の相手は絶対に工員であってはならないときめてしまっているはずだった。ひょっとすると、工員ではなくても、この工場地帯のバスで通勤する男は、すべて彼女にとって無視すべき存在になっているのかもしれない。
そういう女にアタックしようというのだが、現に宏一は工場地帯の工員であり、そのことはどうしようもない。幾分風変わりな、そして興味ある男としての印象を植えつけはしたとしても、彼女のほうから積極的になるような人種ではないと自覚している。だが、嘘を武器とすれば、その差別観を突き崩すことも可能である。たまたまこの工場地帯に、何かの理由で仮りに生活している人物。本来は彼女が望むような社会の男。その社会へ戻れば彼女のほうから追いかけても手が届かぬような優れた男……。もうすぐそこへ戻る男。
では、それはどういう人物か。……煮つめて考えれば比較的簡単にその像が打ち出せるだろうが、宏一はその像をあらかじめ固定しておくことを避けるのだ。むしろ出たとこ勝負の勘にまかせたほうがいいと思っている。その点、宏一は自分の嘘の才能を信頼しているようであった。
嘘には鮮度が重要だと思っている。嘘である以上、どんなに周到に用意しても、どこかに破綻《はたん》がある。嘘とは構築するものではなく糊塗《こと》すべきものであるからだ。なぜなら、嘘の本質とは現実の破綻にほかならないからである。現実が破綻した時にそれを埋めるのが嘘なのである。
いま宏一はその女を欲している。欲した瞬間、彼の現実は破綻を来《きた》している。その女は工員を嫌《きら》い差別していて、宏一はその嫌われ差別された工員であるからだ。それでもなお、宏一は女に接触しようとしている。つまり破綻の中に身を置こうとしているわけだ。
身を置けば、連続した日常に裂け目が出来る。その裂け目をうまく埋めるのが嘘である。だが、言葉以外に埋める材料はない。あらかじめ用意した嘘では材料不足なのだ。第三者が加担してくれれば、大がかりな嘘も可能だが、今の場合宏一ひとりでその裂け目を埋めなければならない。
通り過ぎる他人、足もとの小石、天候……その場にあるすべての材料を咄嗟《とつさ》に用い、その鮮度で相手の目をくらますつもりだった。
工場地帯の出口にある小さな橋を渡ると、次の停留所でデザイナーのグループがぞろぞろとバスを降りはじめた。地下鉄で都心へ出る気だと判った。
宏一はそのあとから続いて降りようとしたが、目あての女がもう一人の仲間とバスに残ったのを見て、あわてて自分の動作を誤魔化《ごまか》した。広告の小さな文字を読みに出口のほうへ近寄ったふりをしたのだ。さいわい女は窓の外の仲間に手を振っていて気付かぬようであった。
バスは高層アパートのつらなる団地を通りすぎ、終点へ向った。宏一はツイていると思った。仲間と一緒に都心へ出られると、それはそれでチャンスがあろうけれど、尾行したことが鮮明になりすぎる。二重、三重の嘘が必要になるだろう。だが、このまま国電にでも乗ってくれれば、事はずっと簡単である。宏一は急ピッチな展開を期待した。
だがそうは行かなかった。連れの女は彼女から離れず、終点でバスを降りるとまっすぐ国電の切符売場へ行った。連れが自動発券機の穴に硬貨を入れるのを、女は横に立って見ていた。宏一は少し離れたところにかくれてそれをみつめていた。
連れがいては細工にならなかった。おまけに、一人だけ切符を買ったところを見ると、どうやら自分の家へ連れて行くらしい。
そう直感すると、宏一の態度は急に変わった。今まで存在を顕示していたのをやめ、完全な尾行者になった。二人のあとから、人混みにかくれるようにして改札口へむかう。服のキー・ポケットから切符をとりだし、鋏《はさみ》をいれさせる。船橋まで行ける切符であった。こういうこともあろうかと、今朝出勤のときに買って置いたのである。
だが、船橋までは行くまいと見当をつけている。それなら地下鉄を使うはずだからだ。工場地帯そのものをさえ嫌っているような女だから、同じ船橋から通うなら、古くからある国電より、少しでも都心の匂いの強い地下鉄にするはずであった。
思ったとおり、二人は下り電車に乗った。尾行に自信のある宏一は、悠然《ゆうぜん》と次の車輛に乗った。宏一は休みの日などに、時々行きあたりばったりに相手を選んで尾行することがあるのだ。タクシーに乗られればそれまでだが、電車やバスを使うかぎり、滅多に見失うということがない。相手はたいてい女で、それも好みのタイプの美人であった。そうやって女の行動を追うのは、ひま潰《つぶ》しにはもって来いだった。一度日比谷の映画館へ入ってしまったのを、上映時間を調べてまんまと再|捕捉《ほそく》したこともある。その時の女はいかにも用ありげに歩きまわるくせに、実はなんの目的も持っておらず、まるまる半日都心をうろついてから自分の家に帰った。家は南千住《せんじゆ》の古ぼけたアパートで、電車の中で見かけた時の令嬢風の印象は完全に裏切られてしまった。多分、本人もその半日、どこかの贅沢《ぜいたく》なマンションに住んでいるようなつもりでいたに違いない。
そういうわけで、電車が市川駅に着くやいなや、前の車輛の二人よりも早く、さっさと降りてしまうという離れ技《わざ》までやってのけた。二人の気配を覚ったというより、宏一の鋭敏な勘のせいであった。電車に乗っている時間の感覚と、彼女を観察することで得られたイメージが、市川駅でピタリと重なったのである。
駅を出て商店街へ入ると、二人の女の足どりが急に遅くなった。工場の塀《へい》の外のあたりで示す突き立ったような姿勢が消え、何か少しボテボテとした感じであった。
商店街を抜けるとしばらくして左に折れた。宏一は終点が近いのを感じた。二人はその道へ入るとまた少し足を早め、とうとう右側にある建物の中へ消えた。
それは八階だての高層住宅であった。マンションと呼ぶには少々世帯臭く、入口のところで子供たちが三輪車をぶっつけ合って遊んでいたりした。宏一は少し間を置いてその中へ入った。素早くエレベーターのランプを見ると、4・5・6、と昇って行き、七階で停《とま》ってすぐ降りて来た。
宏一はそのあと、丁度真向いにあった喫茶店へ入り、辛抱強く入口を監視した。すると小一時間もたってから、自転車に乗った寿司《すし》屋がやって来てマンションへ入りかけた。宏一は急いで喫茶店をとびだし、寿司屋と一緒にエレベーターで七階へ昇った。
訪問客を装って七階の通路をうろつくと、寿司屋は七〇四号室のドアをあけて体を入れた。
「いくら……」
若い女の声が聞えた。尾行した女に間違いないと思った。寿司屋が去ってから表札を見ると、津坂礼造《つさかれいぞう》と書いてあった。
翌日、雨が降った。憂鬱《ゆううつ》な日曜日であった。給料日は次の水曜で、宏一にとってそのあと当分日曜はないはずであった。
給料日に会社をやめなければ、始末がつかない情勢である。いや例の件はご破算になりましたと、そのまま勤め続けるわけには行かないのだ。会社を作るという嘘を消しても、そういう立場にいる人間だということは残ってしまう。宏一は然《しか》るべき資産と社会的背景を持つ家庭に生まれたことになっている。値あげを言って来る家主といがみ合い、隣近所で気を揃《そろ》えて家賃を供託しているボロ家に住んで、もと都電の運転手だったタクシーの運ちゃんを父に、結婚以来内職を休んだことのない女を母としていることなど、今では誰に言ってもすぐには信じてくれなくなっている。
実際の浅辺宏一に戻ろうとすれば、会社設立の動きから、修業のためのプラスチックの仕事を選んだこと、父の退職金や勤め先のこと、休みの日にもいろいろな人物と会わねばならぬ愚痴など、数知れぬ虚構をひとつひとつ自分から剥《は》ぎ棄《す》てて行かねばならない。その嘘の数は、もう忘れてしまったささいな分まで入れると、百近くなるかも知れないのである。その嘘をいちいち取り消して、決定的にダメな人間になった自分を生かし続けるくらいなら、たったひとこと、「長い間お世話になりました」と言って別な世界へ消えてしまったほうが余程気楽だ。真実のまま生きるなら、新しい所でそうすればいい。だから、次の水曜で山県プラスチックスをやめるのは決定ずみなのである。
だが、そのあとどうする。正体不明の興信所の動きで嘘が一気に完結してしまい、会社から押しだされたあとの対策がまるで立っていなかった。
「沢井の会社を手つだうか……」
二階の古畳に寝そべって、宏一はひとりごとを言った。係長の沢井が会社を作ろうとして、自分に誘いをかけて来たという伏線は、両親に対してすでに張ってあった。ほとんど無意識に張った伏線だが、退社したあとの宙ぶらりんな生活は、その伏線がある程度支えてくれそうであった。
だがその先は……。次の就職で、その伏線は瓦解《がかい》してしまう。両親は失望し、くどくどと幾日も責めたてるだろう。宏一には、埋めようのない裂け目が見えていた。その裂け目をみつめていると、やがてじわじわと自己否定がはじまるのだ。いっさいの嘘を棄てよと、宏一の内部のもう一人が喚《わめ》きはじめるのである。そのもう一人が深刻な自己|嫌悪《けんお》をまき散らしながら表面へ浮上し、猛烈な挫折《ざせつ》感を味わわせた上で、この嘘つき男と交代するのだ。その過程で起るみじめなひと騒動……母は泣き父は怒鳴る。友人を避けうつむいて歩く。
「冗談じゃない」
宏一はむっくりと起きあがり、あぐらをかいてまたつぶやいた。市川の津坂という女の顔が泛《うか》んだ。……あいつの恋人になってやるんだ。あいつをワクワクさせてやるんだ。あいつは俺の獲物《えもの》だ。嘘の標的だ。
宏一は机の抽斗《ひきだし》をあけ、青い小さなボール箱をとりだした。ボール箱の蓋《ふた》には長方形の白い紙が貼《は》ってあり、そこに「MK4=C662/09/1147」という番号が印刷してあった。そして番号のおわりに、赤いマル秘のスタンプが押されている。
宏一は慎重な手つきで蓋をあけた。薄葉紙にくるまれた黒っぽいものが見える。
「なるほど」
宏一は急に何かを思いついたらしく、剃刀《かみそり》の刃で青いボール箱の表面にケバケバを立てはじめた。
箱の中身はこのところ毎日彼が作っているプラスチックの製品であった。工場の厳重な管理ぶりに刺激され、うまく一個だけ持ち帰ったのである。
その新型魚雷の進路誘導用電子装置の部品が、津坂という女を夢の世界に連れて行くはずであった。それをいれた小さな青い箱が、宏一を一時あの工場へ追いやったことになるのだ。その箱さえなければ、宏一は津坂という女に会うこともなく、まったく別な社会で、もっと知的な生活を送っていたはずなのである。
宏一は箱にちょっとした細工をしおえると、それを抽斗《ひきだし》へしまって勢いよく立ちあがった。
「どこへ行くの」
階段をおりて台所の戸をあけかけると、内職をしていた母親が尋ねた。
「ちょっと文房具屋へいってくる」
宏一は本当のことを言った。文具店へ行って、嘘のかたまりをいれる適当な封筒を探す気だった。
嘘には鮮度が必要なら、同時に一種の賭博《とばく》性もついてまわる。その点、嘘つきは漁師に似ていないこともない。
魚を獲《と》るには腕が要る。しかしまず魚がいなければ仕様がない。そして魚は、いつも漁師の近くへまわってくるとは限らないのだ。
そこには運があり、網をおろすのは投機であった。宏一は津坂という女に対し、結局給料日である次の水曜まで、機会を待ってじっと動かなかった。動きたいのはやまやまであったが、うまく条件が揃わなかった。帰りのバスでも会えなかったし、工場の長い塀と広い敷地が、彼女の気配を消してしまって、宏一の勘には何ひとつ響いて来なかった。
そういう時、強《し》いて何かしかけることの愚劣さを宏一はよく知っていた。無理に作りだした条件は、スケールも小さく、その上すぐに不自然さを見抜かれてしまう。自分の意欲と先方の反応がここまでたかまっている以上、最後の給料日にすべてを賭《か》けるつもりであった。
だが、もし隣りの染物工場と山県プラスチックスの給料日が同じ日であったら、宏一は水曜に賭けはしなかっただろう。給料日には予測のつかない行動の変化が現われるものなのだ。その日の帰路、工員たちは多かれ少なかれ、いつもとは違う人間になっている。給料袋の中の、自由にできる小遣いの額を実際以上に多く感じてうわついている者。必要な支払いを差引くと生活費すら満たせないことが判って、普段より陰気になっている者……。
津坂という女も例外ではないはずであった。ただし、陰気になるよりは、充実感でいきいきとしている可能性のほうがずっと強かった。詐欺《さぎ》をたくらむならそのほうがよかろうが、今の場合盗むのは金ではなく心だった。はじめから波立ち騒いでいる池に石を投じても意味がない。波紋を投げかけるのは、静かな水面に限るのだ。その点、彼女たちの給料日は山県プラスチックスより、五日ほど先だということが判っていて、時期としては水面がいちばん静まっている頃《ころ》のようであった。
その水曜の午後、宏一は事務所に呼ばれた。社長室で副社長が和服の上に青い事務用の上っ張りを着て待っていた。
「会社の規定では、こんなことは書いてないのだけど、あなたはとても一生懸命やってくれたから、わたしが特に社長にはからってこういうことにして置いたのよ」
そう言って小切手をデスクの上へ置いた。丁度《ちようど》宏一の一ヶ月分の給料に相当する額であった。宏一は、その小切手の端に斜めに押された銀行渡りのスタンプをちらりと眺《なが》めながら、助かったと思った。例の沢井の会社を手伝うという話と一緒にすると、一ヶ月はなんとかしのげるわけである。
宏一はいかにもそれらしい態度で、固苦しい礼を言った。礼を言っている内におかしくなった。ただの貧しい工員がやめて行くなら、こんなことはしてくれないはずであった。要するに副社長は、いや社長の細君は、宏一がやがて同じ業界の一角に姿を見せることを計算しているのである。業界内で、自分たちの内情を悪く言われたくないのだろう。非情な女経営者というレッテルを貼られてはかなわないと思っているはずであった。
その一枚の小切手は、彼女にとっていわばパブリック・リレーションの費用なのだ。小切手は宏一に与えられたが、実際には宏一の父親に振り出されているのだ。通産省や防衛庁に特殊なコネを持っている父親に……。
もしかすると、副社長は父の運転するタクシーに乗ったことがあるのかも知れない。宏一はそんなことを考えながら、小切手をポケットにいれて工場へ戻った。
給料袋は、いつものようにその日の夕方係長たちがめいめいの仕事場へ配りに来た。宏一の態度がいつもとまったくかわらなかったので、やめるという噂《うわさ》を耳にした者さえ、半信半疑でいるようであった。
だが、いつものように冷静にふるまっていたのは、宏一が慎重にタイミングをはかっていたからにほかならない。今日は必ず津坂という女に会えるという確信のようなものがあって、さいさきを占《うらな》うように、いつも通りの帰り仕度をしているのである。その時間経過の中でバッタリ会えなければ凶。うまく会えれば吉。バス停や亀戸駅あたりでいくらか相手を待つようなら小吉、とそんな風に何段階かに分けて考えている。それをツキという汐《しお》の流れの強さに見たて、汐具合に応じた出方をしようとしているのだ。
宏一はベタベタとビラを貼った塀にそって通りへ出た。角を曲ると東洋染色の門の向うのバス停に、二十人ばかりの列が見えた。
そして塀のそばに、あの女がひとりで立っていた。宏一は背筋をのばした。卦《け》は大吉と出ていた。
宏一は一直線に女へ歩み寄った。急がず、歩調を乱さず……。
「今晩は」
頭をさげず、かすかにほほえみかけながら相手をみつめて言う。女は宏一が近寄って行くのを、幾分身構えながら待ったが、当然のような態度で声をかけられて、軽く挨拶《あいさつ》を返して来た。
「いや……とっても申しわけなくて」
宏一は苦笑して見せる。女は口をきかないつもりでいたのかも知れないが、思わず怪訝《けげん》な表情で宏一をみつめ、そのあけっぱなしな態度につりこまれたようであった。
「何がですの」
「どうしても思い出せないんですよ。……あれからずっと気にしているんだけど」
改札口へ入ってすぐ、彼女は振り向いた。意外な近さに宏一を見て、バツが悪そうにほほえみかけてしまった。……その事実を、宏一はいやおうなく相手に押しつけている。先に意志表示をしたのはお前のほうだぞ、と。
「市川かなあ」
宏一は首を傾《かし》げた。女に反応があった。意外そうな表情をした。
バスが来たので、宏一は視線をそらせた。バスは半分ほど積み残して去ったが、あとからすぐに空いたのが来た。
「これに乗ってしまおう」
宏一は誘いかけるともなく言った。ふらりと塀を離れると、女もついて来た。列のうしろへつき、宏一は先にバスへ乗った。女が最後尾だった。
前のバスは満員で、地下鉄の駅のところまではノン・ストップのはずであった。ということは、このバスが次の停留所からの客を全部引受ける。すぐ満員になるはずなのだ。
案の定、次とその次にとまると、すしづめになった。宏一は女の先に乗っている。あとからの客に押され、体を押しつけて来るのは女のほうであった。
「ごめんなさい」
女は宏一の脇腹《わきばら》の辺りに体を押しつけ、困ったように言った。宏一は無理をして少し間隔をあけてやった。
「土曜日も一緒になりましたね」
「ええ」
女は何気なく答えた。
「あの時まで、石渡という人かなと思っていたんだけど、途中で別人だって気がついた。ジロジロ眺めたりして、悪かったかな」
女は声をださずに笑った。
「その石渡君は以前市川にいてね。どうも、君にも市川あたりの記憶があるんだが」
「あたし、市川」
「やっぱりそうか。でも、ごめん……名前が出て来ないんだ」
女は謎《なぞ》めいた表情をして見せた。出て来なくて当り前だ。自分もあなたを知らないのだから……そう言うかわりに、事実を謎にして見せたのだ。嘘の一種であろう。だが誰でもやることだ。
ひょっとすると宏一をからかう気になったのかも知れない。そんな小さな真実をかくして、優位に立ちたかったのだろう。
宏一にはそれが判った。しめたと思った。相手は自分から舞台に登った。嘘は相手のそういう自発性がなければ成功しない。二重三重の意味を持つ言葉を投げかけて、勝手に好きな面を選ばせるのだ。そして結局は宏一の思いどおりの選びかたをしてしまう。相手にそうさせるのが嘘である。本当の嘘とは、相手のほうから掴《つか》みに来るものなのだ。
宏一は喋《しやべ》らなくなった。余分なことを言う必要はなかった。いま彼女は、宏一に関していろいろと想像をめぐらせはじめたのだ。好きなイメージで判断するだろう。それは彼女自身が宏一の嘘の材料を作りだしていることである。あとで彼女がどんな宏一像を作りだしたか、正確に探ればいい。その結果で次の出方がきめられる。
「その人、わたしに似ています……」
だいぶたってから女が尋ねた。橋を渡ったところで半分ほど降り、女が空いた座席に坐ったところであった。
「え……」
宏一はうっかりしたように問い返し、
「そうだなあ」
と、しげしげとみつめた。
「彼女とは随分長いこと会っていないんだ」
吊革《つりかわ》にぶらさがり、上からのぞき込むようにして、急に笑った。
「そう言えばまるで似てないや」
女は宏一を見あげていた。
「あたし、よく誰かに似てるって言われるの。平凡な顔なのね」
「君が」
宏一はおどけたように目を丸くして見せた。遠まわしな讃美《さんび》であった。
バスが終点へ着いた。女は胸で宏一の背中を押すようにして、混んだ車から出た。乗客に揉《も》まれてたまたまそんな具合になったのであるが、歩道へ降り立ってから顔を見ると、たった今柔らかい胸の隆起を感じさせたくせに、そんなことはまるで憶《おぼ》えていないような表情であった。
「そうか……」
宏一は乗客たちが足早に駅へ去って行く流れの外に立ちどまって、女の顔を眺めながら少しうつろな表情で言った。その、幾らか虚無的なポーズが、彼の十八番《おはこ》であった。
実を言えば、宏一はその時肉欲があったことを突然思い出したのであった。女の胸の膨《ふく》らみを背中で感じ、男女の関係が結局は肉体の欲望を満たし合うことに落着くのだと言う、ひどく当り前な事実をいまさらのように悟ったのであった。迂闊《うかつ》と言えばこれほど迂闊なことはない。しかし、宏一の意欲はいつもそれほど嘘という精神的な方向に偏《かたよ》っているのであった。
「何ですの」
女は訝《いぶか》るような微笑を泛《うか》べて言った。
いまや、ありとあらゆるものが宏一の嘘の材料であった。宏一の心は女の前でまったく自在な動きかたをしていて、嘘を作りだそうという構えすらなくなっていた。ぼんやりと自己を宙に浮かせたような心理状態になり、しかも神経は周囲のあらゆる材料を選択して鋭敏に動いていた。
そういう時、宏一は自分を天才のように感じてしまうのだった。次の瞬間、自分ですら思いがけない材料を選びだして、見事な嘘を作りだすはずであった。自分自身にも、それが何か予測がつかない。ただ絶対的な自信に満ち溢《あふ》れ、何秒間かを待つのである。
女の頭ごしに、駅のほうから二人の男が急いでやって来るのが見えていた。二人とも、きちんとしたスーツを着ていた。一人は濃紺、一人は黒い服で背恰好《せかつこう》から服の仕立て、ネクタイの感じまでがよく似ていた。工員風の多いバス停の辺りでは、ひどく改まった、それでいて俊敏な様子の男たちだ。
とたんに宏一は、低く落着いた声で喋りだした。
「白状すると、いま君をお茶にでも誘おうかと思っていたんだ。でも、残念だがそうしていられなくなった」
そう言ってさりげなくポケットに手をいれ、艶々《つやつや》した茶色の、防水紙の封筒をとりだした。封筒を持った手は、女の体にかくれて駅のほうからは見えない角度にしてあった。
宏一は急に頼りなげな微笑を泛べた。
「たのむから振り向かないで欲しい」
女は驚いたように目を丸くして宏一をみつめる。封筒を差しだされ、釣《つ》り込まれて受取ってしまう。
「もし何か起っても、まっすぐ電車に乗って帰って欲しい」
ささやくような早口になった。
「どうして……」
問い返すのへおしかぶせるように、
「預かってくれ。迷惑かけてすまない。必ずあとで連絡する」
そう言うと、くるりと背を向け、いきなり駅と反対側へ走るように去った。女が呆気《あつけ》にとられている横を、仕立てのいいダーク・スーツの男が二人、足早に通りすぎて行った。
女は、宏一とそのあとから似たような急ぎ方で行く二人の男を、怯《おび》えたように見送っていたが、宏一が途中から本格的に走りだしたのを見ると、あわてて踵《きびす》を返し、駅のほうへ自分も小走りに去った。
ダーク・スーツの男たちは、宏一の直感どおりの道筋を選んでいて、走り去る彼のあとを追うかたちになったが、女は宏一のその素晴しい演技を見る前に、早くも何かを充分感じ取って、胸を高鳴らせながら現場を離脱していたのであった。
宏一はタクシーで浅草へ行った。
別に浅草には用がない。しかし、二人の敵に追われて道路を横切り、向う側へ着くと丁度空車が客欲しげに歩道に寄せてゆっくり走って来た。追われている身としては、まさに渡りに船であった。手をあげるとすぐドアがあき、中へとび込んで、
「浅草」
と短く言うと、丁度信号が変わってタクシーはガクンととびだした。逃げ切ったわけである。
浅草で車を棄《す》てると、宏一はぶらぶらと町を歩き、洒落《しやれ》た飾りつけをした酒屋を見ると、衝動的に中へ入ってウイスキーを一|瓶《びん》買った。いつもよりふたクラスほど上の酒であった。
そのまま電車に乗って家へ帰った。そのコースなら、絶対にあの女に会う気づかいはなかった。
「ただいま」
家へ入ると茶の間兼客間兼内職場といった四畳半で、母親が畳の上に夕刊をひろげ、両手を突いて読んでいるところだった。
「おかえり」
「会社、やめたよ」
四角い紙包みを差出しながらいきなり言う。晴ればれとした表情であった。
母親は眉《まゆ》を寄せた。
「俺《おれ》もやっとツイて来たな」
丸い座卓の前にあぐらをかき、溌剌《はつらつ》とした声で言った。
「だいじょうぶかい」
「心配するなよ。今度は失業じゃないんだから」
「へえ……」
母親は呑み込めぬ様子である。新聞をどけて、包みをあけかける。
「浅草へ行ったのかい」
「うん。ちょっと顔合せで。給料があがると思ったけど、会社がスタートするまでおあずけになっちゃった。今までと同じさ。でもいいだろ。はじまればあがるんだから」
「そう。そりゃ、どこへ移ったってお前の自由だけど……もう一人前だからね。しっかりおしよ」
「うん」
「あら、上等なウイスキー」
「そうそう」
宏一は給料袋をとりだして、母親にいつもの分を渡した。
「はい、ご苦労さま」
母親は軽く額《ひたい》にあてるようにしてから納めた。
「どうしたの。買ったの」
「もらったんだよ。ほんとなら前祝いに一席設けるんだけど、そういうことはあとにしようって……みんな張り切ってら」
「父さんも言ってたけどさ、そのなんとかっていう、お前を誘ってくれた人、余程しっかりしてるようだねえ」
「そんなこと言ったのかい」
宏一は目を輝やかせた。
「うん。本物らしいってさ。うちはこんなだから何もしてやれないし、お前だってそうそう人の上に立つ柄じゃないけど、なんとかいい上の人にめぐりあわせてやりたいもんだ、って」
「心配してくれてんだな」
「そりゃそうさ。あたしだって父さんだって、いつもお前のことを考えてるんだよ。ひとりしかいない子だからね」
「判ってるよ。でもこんどはうまくやるよ。やらせてもらえれば俺だって結構やれるんだ。でも今までは誰もやらせてくれなかった」
すると母親は居ずまいを改めた。
「それは違うよ。今まではお前に力がなかったの。やっと幾らか使えるようになったから、人さまが声をかけてくださるんだよ。大切な時期なんだから、しっかりやっておくれ」
「判った。おやじは」
「二時にあがる番だよ」
「じゃ、話せないな。あした早いんだ」
「早いって……」
「いつもとおんなじに出なければならないんだ。工場をやめてものんびりしていられないや」
「いいじゃないか。いそがしい方が」
母親はうれしそうに言った。
「おやじのウイスキー、あるかい」
「あるよ」
「これととりかえてよ」
「こんないいのとかい」
「おやじに飲ませたいんだよ」
「損するよ。七分目ぐらいに減っちゃってるし」
「今におやじの酒ぐらい俺が買ってくるようになるさ」
母親は笑った。
「大きなこと言わないほうがいいよ」
「ちぇっ、今に見てろ」
「ああ、見てるとも。見させてもらうよ。たのしみだねえ」
母親は台所へ立った。宏一はがっくりと肩を落した。家の中をなごやかにするということは、気骨の折れる仕事だと思った。
翌朝、宏一はいつもと同じ時間に家を出た。母親は例によって麦の入った飯をたき、弁当を作ってくれていた。
「ばかだな。もう要らないんだよ」
宏一が言うと、
「それならゆうべの内に言っといてくれればいいのに」
と文句を言った。
「あしたっから、もう麦なんか入れなくてもいいんだよ。俺は脚気なんかじゃないんだからね」
すると母親はしげしげと宏一をみつめた。
「変な子だねえ、お前は」
「どうして」
「二年も見栄張って麦ご飯の弁当で通しちゃったんだからねえ」
「やなこと言うなよ、朝っぱらから」
「でもさ、見栄張って白米って言うなら判るけど」
「いってまいりまァす」
宏一は閉口して家をとびだした。
浅草から地下鉄で上野へ出た宏一は、その日一日、都内全域を乗ったり降りたりできる国電の切符を買った。時間を潰《つぶ》すにはそれが一番安いのである。
行けるだけ行って引き返し、山手線に入って池袋、新宿、渋谷と歩きまわった。昼飯には安いラーメンを食い、疲れる様子も見せず、デパートを梯子《はしご》した。
そして夜の八時をすぎると、宏一は帝国ホテルのラウンジへ姿を現わした。ふかふかのソファーにどさりと坐り、紅茶をたのんだ。
紅茶が来るとひと口飲んでから、煙草《たばこ》に火をつけ、すぐ灰皿《はいざら》の上へ置いて席を立った。赤電話のところへ行って、ポケットからメモをとりだし、小銭を穴へ流し込んで市外の番号をまわす。メモには市川市のマンションに住む、津坂礼造の電話番号が書いてあった。女を尾行したあと、公衆電話の番号簿で調べて置いたのだ。
「はい、津坂です」
「あの、東洋染色の浅辺といいますが、もうお戻りになっていますか」
「ああ、ちょっとお待ちください」
受話器を置く音がして、
「ヨーコ……」
と呼ぶ声が聞えた。
「浅辺さん……」
不審そうな女の声にかわる。
「関係のない君に迷惑かけて、本当に申しわけないと思う」
「あらッ」
張りのある声になった。
「あなたね」
「そう」
「バス停で随分待ったのよ。お返ししようと思って」
「あそこへはもう戻らない」
「やめたの」
「いや。行かなくなっただけだ。もう行く理由もないし」
「何だか知らないけど、とにかくお返しするわ。気味が悪いんですもの」
「すまないけど、十分後にそっちから電話してもらえないかな」
「いいわよ」
宏一はマッチを見ながら帝国ホテルの番号を言った。
「そこのラウンジにいる客で浅辺と言って呼びだして欲しい。あそこなら落着けるから」
「どこ、それ」
「じゃたのんだよ」
宏一は電話を切って席へ戻った。
紅茶を飲みながら時計を眺めていると、十二分後にボーイが静かな声で、浅辺さま、浅辺さまと言いながら歩いて来た。宏一はすらりと立ちあがり、軽く頷《うなず》いて見せた。
「あちらのお電話でございます」
同じような年頃のボーイが丁寧《ていねい》にそう言った。
「帝国ホテルなのね」
電話に出るとすぐ、女はそう言った。
「すまなかった。例によってちょっといそがしかったんでね」
「物騒な人ね、あなたって」
満更《まんざら》でもない声であった。
「それで、お目にかかりたいのですが」
宏一はわざと丁寧に言った。
「ねえ、どうしてうちが判ったの。電話番号まで」
「そんなことに興味がおありですか」
「あるわよ。物凄《ものすご》く知りたいの」
宏一は笑って言葉つきを元に戻した。
「簡単なことさ。だって君は自分で市川だって言ったじゃないか」
「たったそれだけで……」
「それだけで充分さ」
「どうして」
女は甘え気味であった。あれこれ宏一のことを考え続け、もう身近な人物のように感じてしまっている証拠であった。
「君はデザイナー。そうだろ」
「どうして知ってるの」
「見たときすぐ判ったよ。東洋染色だってことも判っている。会社には君の身上調書もある。住所も電話番号も、津坂礼造さんの……」
「あらッ、お父さんの名前まで」
「僕らには簡単な仕事だよ。それより、いつ会ってもらえるかな」
「いつでも、って言ってあげたいけど、日曜日じゃないと」
「悪いけど急ぐんだ」
「だって、無理だわ」
「十時にもう一度電話していいかな」
「ええ、いいけど」
「十時丁度に電話のそばにいてもらいたいな。さっきの、お母さんかい」
「ええ。……そうするわ」
「それじゃ、十時に」
宏一は電話を一方的に切ってしまった。
十時ジャスト。
宏一はピンクの受話器を耳にあてがっていた。呼出音が二回して、すぐ相手が出た。
「浅辺です」
「はい、ヨーコです」
神妙な声であった。宏一は快活な態度に出た。
「気がついたら、ヨーコってどういう字を書くのか知らないんだ」
「容器の容です」
「ポリバケツみたいだな」
すると津坂容子は吹きだしたらしかった。声が変わって、ひどく親しげになった。
「ひどいこと言うのね、あなたって」
「会いたい」
「でも、もう遅いわ」
「いつも何時に寝るの」
「十一時半かそこら」
「じゃ、まだ一時間もある」
「どこにいるの、いったい」
「窓の下さ」
「え……」
「セレナーデでも唄《うた》おうか、わがいとしの君に」
「どこよ、どこなの」
「例の封筒を持って出ておいでよ。前の喫茶店にいるんだ」
「ボアにいるの」
容子はうれしそうに叫んだ。電話が近すぎて、宏一はびくっと受話器を耳から離した。
「来れる」
「当然……」
今度は容子のほうから電話を切った。
「ココアをひとつ」
宏一は店の女に注文した。
すぐ来ると思ったが、容子は七、八分もかかってやって来た。風呂《ふろ》へ入った直後らしく、頬《ほお》の辺りが艶々《つやつや》としていた。
「神出鬼没なのね。あなたみたいな人、はじめてだわ」
眩《まぶ》しそうな顔で宏一を見ながら前へ坐った。タイミングよくココアが来た。
「あら、あたしの」
「君にはココアが似合いそうだったから」
「甘く見たっていう意味……」
容子はうれしそうであった。
「渡してくれ」
店の女が遠のくと、宏一はピシャリと言った。僅《わず》かの間だが、鋭く陰気な顔になった。
容子は怯《おび》えたように、黙って茶色い封筒を渡した。
「何なの、それ」
宏一は素早くポケットへ入れ、憮然《ぶぜん》とした表情になる。
「駅で人違いをしたのがはじまりだった。あの土曜日、邪魔が入らなければ君とお茶ぐらい飲んでいたろう。誘うつもりだった」
「その彼女、どういう人」
「君と間違えた奴かい」
「ええ」
「幼馴染《おさななじみ》だ。君がいけないんだ、僕に向って何だか曖昧《あいまい》に挨拶《あいさつ》したみたいだったから」
「あなたって、工場の辺りでは一風変わっていたから」
宏一はしんみりと言う。
「あのまま工場へ通っていられたらな……土曜日にはじめて一緒にお茶を飲んで、そのうちデートぐらい申込んでいたかもしれないのに」
「いったいどういうことなの。複雑な事情がありそうだけど」
「とにかく僕はもうあそこへは帰らない。工員はこれでおしまいさ。長かったなあ」
ポケットの上から封筒を軽く叩いた。
「中を見たかい」
「封筒はのぞいたわ」
容子は真剣な顔で言った。
「秘密のものらしいわね。マル秘の判が押してあったから、箱の中は見ていないわ」
「悪いな」
宏一は頭をさげた。
「君の工場のとなりにプラスチック工場がある。小さいし、通りからかくれるように引っこんだ場所だから、ちょっと気が付かないけれど」
「知ってるわよ。あたしたち、塀《へい》にビラを貼《は》ったりするから」
「これは、あそこで作っている特殊な電子装置の精密部品なのさ」
容子は黙ってみつめる。
「別に気にすることはない。この程度なら誰が知っても構わないことだ。でも、心配なら言わない。君が危険だと思うならね」
「言って……」
「核兵器を積んだ潜水艦があることを知ってるね」
「ええ」
「これは魚雷の誘導装置の一部なんだ。それも、一番新型の。つまり、水中ミサイルの部品だよ」
「どうしてそれをあなたが」
「僕なんか、大きな仕掛けの歯車のひとつさ」
自嘲《じちよう》気味であった。
「でも、歯車にだって腹を立てる権利はある。政府にも知らせずに、勝手にとんでもない兵器を作ろうなんて……そんな権利があいつらにあるか。僕らの国がどこへミサイルを使おうというんだ。証拠を集めてぶっ潰《つぶ》してやる」
「危い立場ね、あなたは」
容子は同情を示した。宏一はじっとその目を見返していた。容子は宏一の赤い影を見たようであった。
10
恋人たちは迫害されるべきだ。宏一はそう思う。忍ぶ恋ほど激しく燃えるものだと考えている。だから、津坂容子と浅辺宏一の恋は、最初から結ばれにくいという前提ではじまらなければいけない。
第一、円満に結ばれてしまっては嘘《うそ》にならない。宏一は帰りの電車の中でそう思い、ニヤリとした。その顔がすいた電車の窓ガラスに映った。宏一は吊革《つりかわ》をはなし、座席に腰をおろした。
魚雷とミサイルをごっちゃにしたのは失敗だったが、女はその辺の詮索《せんさく》などするまいと多寡《たか》をくくっていた。
とにかく成功したようであった。これで彼女は自分のほうから宏一に連絡できなくても、それが当然だと思い込むわけだ。そして、そんな立場の宏一に悲劇的な翳《かげ》りを感じるのだ。自分は平和で安全な岸に立ちながら、時々激流から抜けだして来る男と忍び逢《あ》う。ロマンチックでスリリングな、すばらしいドラマのヒロインになれるのだ。
宏一はぞくぞくするような快感を味わっていた。その快感の根底には、一種の徹底したサービス精神があった。自分のためだけにつく嘘では、それほどの快感は決して味わえないだろう。ない物を与える。架空の恵みをほどこす。それは与え、ほどこす者の喜びであった。しかも、実在しない贈り物、架空の恵みを創《つく》り出す喜びも同時にあった。もしそれで、最後まで実在を信じ通させることができれば、これほどすばらしいことはなかった。
やりとげれば、神と同じことになる。宏一の心にはそういう確信があった。神と違うところは、それを一人だけにしか与えられないという点だけであった。神は無数の相手に、愛といつくしみを与えるという。神の愛やいつくしみとは、いったい実在するのだろうか。神と人との間には、ただ風が吹いているだけなのではなかろうか。いったい誰《だれ》が神の愛を本当に受けただろうか。受けたという証人がいるとすれば、それはただ、証人がそう信じただけではないだろうか。
宏一は確信する。愛やいつくしみを受けたと信ずる者はたしかにいるはずである。だが、神の側の愛は実在しない贈り物なのだ。神の側のいつくしみは架空の恵みなのだ。
今夜、津坂容子は仏に帰依《きえ》したのだ。神を信じたのだ。宏一はその容子に愛を贈り、夢を授けるのである。
宏一はそう感じながら、ポケットの中の封筒にさわろうとした。左の内ポケットに入れたはずであった。
あわてて服の上から二、三度左胸をさぐった。なかった。右胸を探った。なかった。宏一は両手を一度に脇《わき》のポケットへいれた。ない……。
その時、一人の男がうしろの車輛《しやりよう》へ走りだした。すぐに男が二人、宏一のとなりから立って追いすがった。
「スリだッ」
誰かが喚《わめ》いた。うしろへ走って行く男の前に別な乗客が立ち塞《ふさ》がり、追いついた二人と、四人がひとかたまりにもつれた。
「判ったよ、畜生」
貧相な男があっさり兜《かぶと》を脱いでふてくされた。一瞬の間の騒ぎで、他の乗客たちはかかりあいにならぬよう、知らぬふりをしていた。
宏一のとなりからとびだした二人の男が、貧相な男を引っ張って来た。
「あんたから何か盗《と》りましたよ。さっきあんたがそこへ坐るとき、こいつがやったのを見たんですよ。俺たちが睨《にら》みつけてたら、いま急に逃げだしたもんで……」
二人の男の一方が宏一に言った。貧相な男は黙って宏一の膝《ひざ》に封筒を投げつけた。
「大丈夫ですか。中を調べてくださいよ」
宏一はあたりを見まわした。みんな好奇心に燃えた表情をしていた。宏一はおずおずと青い箱をとりだした。
第三章 オレンジ色の夏
二、三日は瞬《またた》く間にすぎた。工場をやめたのが水曜で、翌日の晩には津坂容子に夢を授けて箱を取り戻し、金曜は午後から家を出て映画を見た。土曜は九時になると急に思いついて銀行へ出かけた。小切手を換金できる口座が必要であった。
はじめ近くの銀行でいいと思っていたが、見なれた場末の商店街を歩くとすぐ気が変わって、また遠走りをした。丸の内の一流銀行の本店へ行ったのだ。普通預金の口座をたのむと、オンラインと書いた通帖《つうちよう》と一緒に、小さなカードをくれた。それで自動引出機が使えるらしい。小切手を少額の現金と一緒に預けた宏一は、メモとマッチとペーパー・タオルをもらって、擽《くすぐ》ったそうにその大きなビルを出た。正直なところ、宏一は自分の銀行預金を持ったのはそれがはじめてであった。いつの間にかオンラインだの自動引出機だのというのが出来ていて、それをよく知らないでいたことがくやしかった。ポカポカと暖かい陽《ひ》ざしの皇居前広場へ行って、宏一は銀行の説明書を熱心に読んだ。カードを使うと一万円以下でも各支店の機械から引出せることを知った時には、思わず指を鳴らした。あまりこまかい金額を引出すのは、窓口でバツの悪い思いをすると思ったからである。
春がおわろうとしていた。もう勤めてはいないのに、習性で土曜日の解放感があり、宏一は何かを期待するようにビルのかたまりを眺めた。
津坂容子に肉欲から近づいたのではないように、宏一はそこに秘められた富についてはまったく欲望を感じないようであった。しかし、その富を秘めた環境については、痺《しび》れるような欲求があった。人生での、社会での、いい役柄が欲しかった。味方に勝利をもたらす戦士、慰める友、憧《あこが》れの対象……そういう存在になりたかった。
だが、宏一のまだ知らない領域が、この大都会には無数にあった、近寄れぬ階層があった。学ぶ過程を知られずにすべてを知り尽したかったし、閉鎖された社会に優しく忍び込んで行きたかった。
或《あ》る意味で、宏一は自己の才能を非常に高く評価していた。特定の状況に投入してくれれば、一見不可能なことでもやってのけられる自信があった。ただ、自分の才能とは、いわば遊軍的なものであって、年功序列の社会向きではないと思っていた。常に列外にいなければ役に立たないのだ。もし列から抜けだすことができなければ、あの丸の内のどのビルの部屋にも、一生行きつけないだろうと思うのだ。
宏一は夢想しはじめていた。
自分があの銀行の本店へ現われると、さっと席を立って出迎える行員がいる。その行員に冗談を言って笑わせ、そのついでのように通帖を渡す。若い女があわてふためいてそれを処理し、やがて自分は分厚い封筒を持って外へ出る。
「待たせたね」
外に出ると男が待っていて、自分はその男に封筒を渡す。男は蘇生《そせい》したように顔に血をのぼらせ、何か言いかける。
「とにかく、早く戻らないと間に合いませんよ」
自分はそう言って男を去らせる。そのはるか向うで、鋭い目つきのビジネスマンが何人か、こっちを見てささやいている。
「よそう。浅辺が出て来たのではこれまでだ」
男たちはあきらめて戻って行く……。
宏一は帰りはじめる。皇居前をぶらぶらと横切って、日比谷へ向っている。銀行の通帖と、マッチとメモとペーパー・タオルのおまけがポケットに入っている。どこにも宏一を畏怖《いふ》するビジネスマンはおらず、頼りにしてくれる者もいない。職も棄《す》て、架空の出来事に追われていそがしくとび歩くだけだ。洒落《しやれ》た背広は麦飯の弁当の代償、容子の視線は宏一の本体ではなく、赤味を帯びたその影に向けられているだけだ。
舗装した道に小石がころがっていた。宏一は思い切りその石を蹴《け》った。石は少し先にころがり、宏一は追いつくとまた蹴った。今度はうまく爪先《つまさき》にひっかかり、石は遠くへとんだ。
石を蹴り、石は蹴れたけれども、慚愧《ざんき》は蹴りきれなかった。熟《う》れ切った春のせいだった。春を宏一は嫌《きら》っていた。その浮々《うきうき》としたところがいやだった。人がみな、春らしい顔をして歩いていると、自分だけがとり残されたような気分になるのだ。
何かしたかった。嘘からのがれたかった。今までの嘘はいくら重ねて着てもうそ寒かった。もっと本物の嘘が欲しかった。
「宏一か」
父親の声だった。
「ただいま」
宏一が襖《ふすま》をあけると、父親がにこやかな表情でみつめた。
「なんだ、元気がないな」
「疲れちゃったよ」
「どうだ、ウイスキーでもやらないか。そうそう、礼を言い忘れてたっけ」
宏一は鼻を鳴らして坐った。
「人が訪ねて来たぜ」
妙に勿体《もつたい》ぶっている。
「誰かな」
宏一は父親の前にあった朝刊を引き寄せて言った。今朝一度読んだ新聞だった。
「仕事のことだとか言ってた。広瀬さんという人だ」
「広瀬さん」
宏一は本能的にうつむいて表情をかくした。知らない相手だと思われるのは不利なようであったからだ。
「広瀬さんか」
「知ってるのか」
「仕事のことだろう」
いかにもささいなことだというように軽く言った。
「夜、また来るとさ」
「へえ……」
「お前、大した連中とコネをつけたな」
「どうして」
「母さんが応対に出てな。俺はここで聞いてたんだ。でも心配じゃねえか。お前がどんな連中と今度の仕事にかかっているのか。だから様子を見に台所から外へまわったんだ。向うは俺の顔なんぞ知っちゃいめえから平気だろ。驚いたね。チンピラだと思ったら、うちの会社の社長より立派な男だぜ、あれは。俺だって人間ぐらい見れるさ。あれは本物だよ。どんな役をしてる人だい」
「ずっと上のほうさ」
「あたりめえだ、馬鹿やろ。あんなのが下にいる会社なんて日本中にあるもんか。年功を積んで、自分のためだけじゃなく、人さまのために貢献して来たって顔だなあ。あれなら間違いねえ」
父親はうれしそうに何度も頷《うなず》いた。
「それで、こっちもうれしくなっちまったからよ、ついてったんだよ。通りまでな。そしたらお前、こんなせま汚ねえとこまで歩いて来るわけだ、リンカーンを待たせてやがんだよ。コンチだぜ。尋常の車じゃねえや。それも、あれは新車だ。まだ五千と走っちゃいない」
プロだけに車のことにはやかましい。しきりに感じ入っている。
「ちょっと上へ行って着換えて来る」
宏一は内心の狼狽《ろうばい》をかくして父親の前をのがれた。広瀬という、そのとほうもない訪問者が何者なのか、見当もつかなかった。
服を丁寧にハンガーにかけ、宏一は普段のスラックスにはきかえた。上着のポケットから通帖を出して抽斗《ひきだし》にしまう。
ふと手がとまった。抽斗の中に、あのマル秘の青い箱があった。机の前に坐って、そっとあけて見る。
人間は誰でも多かれ少なかれ嘘をつく。津坂容子もついていた。封筒の中はのぞいたが、箱の中身までは見なかったと言った。だが、あらかじめ宏一はボール箱の表面にケバケバをたて、その先に糊《のり》をつけていた。容子と別れてすぐたしかめると、見事に蓋《ふた》をあけた証拠が残っていた。
だがそれは、容子に蓋をあけてもらいたくてしたことであった。中を見てくれなければ嘘がかたまらない。蓋をあけたことを確認したくてそんな細工をしたのである。
だがそれを、電車の中でもう一度自分からあけて人に見せることになろうとは思っていなかった。ひょっとすると、広瀬という訪問者は、あの時のことに関係あるのではなかろうか……。
宏一はあわてて箱をしまい、抽斗をしめた。畳の上にあおむけにころがって頭の下に両手を組み、じっと天井を睨《にら》んだ。
あの貧相なスリは、次の駅で引きずりおろされた時、まんまと逃げてしまった。それを追うように二人の男もどこかへ消えた。偶然の出来事だと思ったが、ひょっとすると意味があるのかも知れなかった。今のところ、それ以外に、広瀬という訪問者に心当りがなかった。
万一その事だとすると、これはかなり厄介《やつかい》なことになると思った。高級車に乗った恰幅《かつぷく》のいい人物というのが問題であった。事の重大さを象徴しているような、ひどく場違いな客ではないか。
あの部品は、本当に重大な機密に属していたのではないだろうか。職場では馴《な》れすぎてそれほどの雰囲気《ふんいき》はなかったけれど、出るところへ出ればトップクラスの機密事項だったのかも……。宏一はえらいことをしたと思った。
夜になってまたその男が訪ねて来た時、両親はすっかり出世した息子を見る目付きになっていた。宏一は手早く昼間着ていた服に着換えて外に出た。そんな立派な見なりの人物を招き入れる部屋はどこにもなかった。
「申しわけありませんな、遅くに」
男はゆったりとした声で言った。そのまま黙って通りまで出た。父親が言っていたように、大きな外車が待っていた。運転手がさっとドアをあける、宏一は白いカバーのかかった座席に身を沈めた。どこかで話がしたいと言われ、すべて先方にまかせてしまったのである。観念してしまっていた。
「せわしないようですが」
男はそう断わってから、すぐ切りだした。
「例のエム・ケー・よんのことなのです」
MK4=C662/09/1147というのが、あの部分のナンバーであった。宏一はそっとポケットに触れた。青い箱を持って来ていた。案の定《じよう》、その箱のことであった。
「あなたも例の物の意味はご存知らしいし、価値についてもよく判っておられるようだから、ややこしいことは抜きにしましょう。どうです。ズバリ譲っていただけませんか」
男は小肥りだがそう大柄ではない。それにかなりの年輩だ。しかし運転手は肩幅の広い、ごつい男であった。宏一は肉体的な危険をひどくおそれるほうだった。
しかし、車が走りだすと急に宏一のプライドが頭をもたげた。
「判らないことがあります」
勘だけが頼りであった。
「なんですかな」
男は落着いていた。
「興信所だなどと、なんであんなあからさまなことをなさったのですか」
宏一はそっと太い息をついた。もともと縁のない世界の住人らしい。どんなに本性を見すかされても、恥じるには及ばないと自分に言い聞かせた。
「正直に言いましょう。我々は最初のうち君をただの技術者だと思っていたのですよ」
言葉つきが微妙に変化していた。丁寧さが減ったかわり、仲間……同じ仕事を持つ者同士の臭《にお》いがしている。
「あれを持っていると、どうして判りました」
「工場をやめたでしょう。それも、会社をやるとかいう口実で……」
しめた、と思った。相手はすべてを知っているわけではないらしい。あの部品をくすねたのは随分前なのだ。それに、部品のことと会社設立の嘘《うそ》をからめて考えている。宏一は自分の立場が保たれていると感じた。
「総武線の中の騒ぎもおかしいですね。ただで奪《と》ろうとしたのですか」
「さすがです……と言ってあげたいが、中身を確認したかっただけです。我々は正当に買い取れるほうを選びますよ。暴力は好みませんし、盗みも……」
「でも、僕はもう逃げられないんでしょう」
「ええ」
男は慰めるような目で言った。
「僕も暴力はいやですからね。自信がないんですよ」
宏一はあっさり内ポケットから青い箱をとりだした。男はそれを受取り、眼鏡をかけながら、
「ルームランプを」
と言った。運転手が小さな灯《あか》りをつける。
「ますます君が気に入りましたよ」
男は箱をあけ、薄葉紙を無造作《むぞうさ》にはがして中身をたしかめると、宏一をみつめた。すぐルームランプが消える。
「着いたらお支払いします」
宏一は黙って夜の街を眺《なが》めていた。
車は川を渡り、銀座を抜け、溜池《ためいけ》から横にそれてホテルへ着いた。その間、宏一はぼんやりとしていた。あの冴《さ》えた自在な心理状態を呼び込もうとしていたのだ。大きな偶然と、それにともなう勘違いがあるのはたしかだった。その正体はよく判らない。しかし相手が完全に嘘の舞台に乗っていてくれる点では、津坂容子の時以上に完璧《かんぺき》であった。
これを利用しないわけには行かない……。宏一の嘘つき魂が燃えさかった。
男はロビーへ入ると、宏一を従えてフロントへ行き、キーを受取ってまっすぐエレベーターへ向った。フロントの男の様子では、顔馴染《なじみ》らしく、ルームナンバーも告げずにキーを受取っていた。
それはスイート・ルームというらしかった。ふた間か三間か判らなかったが、とにかく続き部屋で、宏一は内心目を瞠《みは》っていた。
男は部屋へ入るとすぐ、ドアのかげに消え、やがて小さな黒い革鞄《かわかばん》を持って出て来た。
「これでいかがでしょう」
テーブルの上に、札束がひとつかみのった。
宏一は贋札《にせさつ》ではないかと疑った。広瀬という人物の金の出し方はそれほど無造作であった。
「何か封筒でも差しあげますかな」
テーブルの上の札束にいつまでも手をつけないので、広瀬が不審そうに言った。
「正直言いますと、僕はまだ青二才で……」
宏一はひどく恥ずかしい思いに駆られ、それをおしかくしてくれる言葉を探しながら、札束に手をのばした。
「余分な見栄があるようです」
一万円札の山を三等分した。
「ほう……」
広瀬は微笑した。
「全部が全部金でころんだと思われたくない気持です」
ひと山ずつ、トントンとテーブルの上で端を揃《そろ》えた。
「そうは思いませんよ」
「品物をお渡しした以上、僕もそれ相応の危険をおかさなければなりません」
ひとつを左の内ポケット、もうひとつを右の内ポケットにいれて言った。
「判っております」
広瀬は深く頷いた。かすかに葉巻の匂いがしている。宏一は最後のひと山を左手で掴《つか》むと、椅子《いす》の背にもたれ、脚を組んでくつろいだ姿勢になる。パラパラと本のページを繰るように札束をいじった。
広瀬も姿勢を崩し、膝《ひざ》の上に黒革の鞄をのせて、中を調べるようにのぞき込みながら言った。
「ひとつだけ、参考のためにお尋ねしたい」
「どうぞ」
宏一は札束を無意識のようにいじりながら答えた。だが上着の両胸と手の中にある札を、自分でも嫌《いや》になるほど強く意識していた。
一世一代の大金であろうと思うのである。胸の躍《おど》らぬわけがなかった。そして一方では、その程度の金で、胸はおろか胃や腸のあたりまでがふわふわと落着かぬ自分がくやしく、また恥ずかしくもあるのだ。
「我々の存在をいつからお気づきになりましたか」
宏一はハッとして広瀬をみつめた。重大な質問だと思った。ここで縮尻《しくじ》ればすべてはご破算になりかねない。広瀬はさりげなく鞄の中をいじっている。
「興信所と称する動きです」
気がつくと羞恥《しゆうち》心も胸のときめきも綺麗《きれい》に消えて、警戒心だけが鋭く冴《さ》えているようであった。宏一はまた悠然《ゆうぜん》と札束をおもちゃにしはじめた。
「やはりそうですか」
広瀬は鞄の留め金をかけ、テーブルの上へ戻した。今度はシガレット・ケースの蓋《ふた》をとり、吸口に金色の筋が二本入った煙草を咥《くわ》えて火をつけた。
「兜《かぶと》を脱ぎます。君はまったく工員そのものだった。その点、我々はまったく警戒しなかった。それがあの土曜日、突然君が工場をやめると言うことが判った。君へのアプローチに手ぬかりがあったのではないかと疑ったわけです。調査の動きがあらわれたとたんですからね。それでも我々はまだ君がアマチュアだという考えから抜けだせなかった。すぐに手をまわして、国電の駅の辺りで直接君に接触しようとしたのです。だが君は素早く反応した。こちらの人間が二人、君に近づいて行くと、あっさり逃げだしてしまった。見事でした。完全に撒《ま》かれましたよ。タクシーに飛び乗って……あれでは手が出ない」
宏一はさりげなく聞き流す態度を保つのに、全精神を集中していた。津坂容子をお茶に誘おうとした時、駅のほうからやって来た二人づれは、本当に宏一をめざしていたのだ。
「だが、あれで君が品物を手に入れていることも判った……したがって、君は今夜こうしてここへ来ているわけです。一勝一敗ということですかな」
広瀬は軽く笑った。
「しかし次の日もキリキリ舞いさせられましたからな。朝早くからあんなに歩きまわられたのでは、いくらベテランの尾行員でもとてもたまりませんよ。あなたが市川へ着くまでに三組交代させたのですぞ。おかげでわたしは人員の手配にキリキリ舞いだ。帝国ホテルでおわりかと思ったら、まだ市川があった。あと一回動かれたら投げてしまうところでしたよ」
宏一は落着きをとり戻した。
「それであのスリ騒ぎですか」
「焦《あせ》って少々無理をしました。君の傍《そば》に二人もガードがついていたとはね」
宏一は楽しくなった。相手の思い違いが、すべてを過大評価へみちびいているのだ。広瀬の仲間でないとすれば、スリを見つけてくれた二人の乗客は、本当に行きずりの男たちだったのだろう。宏一は札束をいじりながら、津坂容子とのデートを考えはじめていた。
銀座通りのセンターライン近くを、宏一と津坂容子が駆け出していた。歩行者天国が始まったばかりの時刻であった。
「待ってよ。あたしを置いて行く気」
宏一が立ちどまると、容子がなじるように言って追いついた。たのしそうに笑っていた。
「いい気分じゃないか。普通の日ならすぐ車に跳《は》ねられるか、警官につまみだされるかだぞ」
車道にとびだしたのは宏一たちが最初で、通行人や付近の商店の人々が、両側から湧《わ》きだすように出てくるところであった。
「もうすぐ夏ね」
容子は宏一の腕につかまり、のけぞるように空を見た。たしかに春のおわりというより、夏に似た気配がその晴れた空にはあった。
「まだ梅雨《つゆ》があるさ」
「でも、もう水着を売ってるわよ」
「水着なんか、今では一年中さ」
宏一はそう言い、ふと気づいて容子の体をしげしげと眺めた。
「なによ、いやねえ」
容子は宏一を睨《にら》んだ。工員とは別な人種だと言わんばかりにお高くとまっていた女が、すがりつかんばかりに宏一に甘えていた。呆気《あつけ》なさすぎる気もしたが、それにもまして誇らしかった。彼女たちが下に見た工員ではないのだ。自分は彼女が仰ぎ見る位置へ登ってしまっている……宏一は嬉《うれ》しかった。
「ねえ、どこへ行くの」
「君は黙ってついてくればいい」
誇らしい気分が、容子を一方的に引きまわして見ようという悪戯《いたずら》っ気《け》を誘ったのだ。
「いやよ、そんなの。案外ワンマンなのねえ」
口先では不満そうに言いながら、容子はそういう宏一を好ましげに盗み見た。宏一は彼女の手を引いてデパートへ入った。
休日のたび、デパートを散歩コースのひとつにしていたから、宏一は売場の位置にくわしかった。確信のある足どりで容子を連れて行く。
水着売場へ着くと、宏一は外側の通路に立った。
「好きなのを探しなよ」
容子は目敏《めざと》くもう見つけているらしく、
「あれ、どうかしら。あたし今年はああいうのを着てみようと思ってるんだけど」
と指さした。
「男の入る売場じゃないだろ。自分で見つけてサイズを合わせてみて、よかったら買ってくれよ。プレゼントしたいんだ」
「だって……」
「いいじゃないか。そのかわり、夏になったら僕と海へ行くんだぞ」
いいね、というようにみつめると、容子はその目を見返し、こくりと頷《うなず》いて水着の並んだせまい通路へ入って行った。
宏一はその売場から少し離れ、デパートの中を見まわした。
見なれた光景であったが、今日はまるで違う世界に思えた。そこに並ぶどの商品も、今日は自分を待っているように思えた。今までは、ただ見るだけであった。何が欲しいか、何が欲しくないか。どれが買えるか、どれが買えないか。ただそれだけを見て歩いたのであった。しかし今は違う。すべてが買えるのだ。手にとりあげて金を払えばそれでよかった。宏一は王様であり、商品はおどおどとお召しを待つ奴隷《どれい》だった。
「ねえ、これどう……」
容子は承諾を得るように、片手に水着を持ってやって来た。宏一はちらりと値札を見た。
「駄目《だめ》だよ、こんな安っぽいの」
即座に言った。
「あれなんかどうだい」
一番奥まった一角に、オレンジ色の大胆なデザインの水着を着けた人形が立っていた。
「あれ凄《すご》く高いのよ。でもすてきね」
「着るかい、ああいうの」
「ちょっと恰好《かつこう》よすぎるんじゃないかしら」
宏一は容子がためらっているので、腕を組んでその人形のそばへ行った。
「買えよ」
「いいの……」
「自分で払って来てくれ。水着売場って苦手なんだ」
宏一は閉口したように腕をとくと、ポケットから今朝買ったばかりの茶色い革の紙入れを出して渡し、さっさと売場を出た。容子は店員を呼んだ。
さっきの所へ行って待っていると、彼女は紙袋をぶらさげ、困ったような表情で戻って来た。
「悪いわ。調子に乗って買っちゃったけど」
そう言って紙入れを返して寄越す。宏一は容子に自分の財力を確認させたわけであった。
宏一は容子と婦人服売場を歩いた。服飾に関係しているだけあって、商品知識も豊かだし、センスもいいようであった。
宏一は容子が興味を示す柄《がら》や形を頭に刻みこんだ。今日はまだ早くても、その内彼女にもっと贈り物をしてやるつもりであった。
「昼飯を食いに行こう」
宏一はそう言って下りのエスカレーターに乗った。食事をする店もひそかにきめてあった。デパートの外は、さっきよりいちだんと華やいでいた。たった今婦人服売場で容子に着せて見たいと思ったような服を、たくさんの若い女が着て歩いていた。そういう女たちと較《くら》べると、容子の着ている服は無難すぎ、地味すぎて見えた。
宏一はふと不満を感じた。水着の入った紙袋をぶらさげて歩く容子が、ひどく意気揚々としているようなのである。地味というより質素ですらある自分の装いを、一向に気にかけていないのだ。
世の中には、もっと大胆で華やかな女たちがいる……。宏一はそう思った。
「ねえ、何たべる……」
容子が尋ねた。宏一は黙って裏通りへ入って行った。
それは鉄板焼の店であった。以前雑誌でその店の紹介記事を読み、どうしても行って見たくて一人で入ったことがあった。宏一の給料ではかなりきつい値段であったが、給料日直後ならなんとかなった。入口の狭い、凝った造りの店で、宏一はまずメニューが雑誌に書いてあったとおりかどうかよくたしかめ、あらかじめきめて来たステーキを注文した。焼きあがるまでに、赤ワインのサービスがあったが、勘定を払いおえるまで本当にそれがサービスかどうか気になって仕方なかった。万一金が足りなかったらどうしようと、肉を食いながら心配し続けていたのだ。
だが今日はまったく心配なかった。この前の十倍とられても平気なのだ。ところが、入って見ると満員で、入口の壁のそばの椅子《いす》に、三組ほど待っている男女がいた。待合用の椅子がもう二つだけ空いていて、容子と宏一はなんとなくそれに腰をおろしてしまった。
「出ようか」
「丁度お昼どきだから、どこも満員でしょ」
容子は臆《おく》したように、かしこまって店内を見まわしていた。
宏一は舌打ちをした。出てもいいが、ほかに適当な店を知らなかった。それがもどかしかったのである。
「待ちましょうよ。すぐ空くわ」
容子はその舌打ちをとり違え、なだめるように言う。
「そうだな」
宏一は気をとり直し、ゆったりした気分になることにきめた。
「わりとうまいんだぜ」
「そうみたいね」
目の前の飾り棚《だな》にワインが何本も並べてあって、値札がついていた。宏一はそれを注文してやろうと思いついた。
次々に席があいて、年輩のディナー・コートを着た男が、
「どうぞ」
と呼んでくれた。席へ案内される途中で、宏一はその男に今読んだワインの名を言って注文した。いや、注文したつもりであった。
「はい、ございます」
男は宏一の顔を見てにこやかに微笑しながら答え、二人が席につくと入口のあたりに戻って行った。容子は鉄板の向う側で他の客の肉を焼く、コックの鮮やかな手つきに見とれていた。
ウェイトレスが来て宏一に大きなメニューを渡した。宏一は最高級ではなく、中の上よりは少し高いクラスの肉を二人分注文した。注文しおえてからさっきのディナー・コートの男を見たが、ワインの注文をどこかへ通す気配はなかった。
その男が注文を受ける役ではなかったことが判ると、宏一は唇《くちびる》を噛《か》んだ。恥辱を感じたのであった。
コックが自分たちのほうを向き、鉄板の上を油で拭《ふ》きはじめると、宏一はコックに向って、ワインをたのみたいと言った。ウェイトレスを呼んでくれると思ったのだ。しかし、コックがオーダーを受けるらしく即座に銘柄を尋ねた。宏一が銘柄を言うと、はっきり値段を言ってからウェイトレスを呼んだ。みっともない間違いこそおかさずにすんだが、少しずつチグハグであった。
それでも肉はうまかった。
「こんな高いワイン、はじめてよ」
容子がそっとささやいたりした。宏一は少しずつ機嫌《きげん》が直り、たっぷり時間をかけた食事がおわると、伝票を持って悠然と立ちあがった。
容子は少し酔ったようだと言っていた。
家への土産《みやげ》には気をつかった。いくら金があっても、工場の部品を売った金だとは言えるわけがない。仮りに言えたとしても、受取った額が法外すぎた。どんな寛大な親でも、ひと騒動起るにきまっているだろう。だから、分相応の土産にしなければならなかった。
と言って、土産を持たずに帰る気もなかった。やはり獲物は両親とわかちあいたいのだ。買わずにはいられず、買えばつい高いものに手が出そうになる。宏一はあべこべの苦心をして、やっと天津栗《てんしんぐり》の大袋で我慢をした。
それでも両親は大よろこびをしてくれた。よろこばれると、よけい何かしてやりたい欲求がうずいた。実はきのう支度金をもらったのだと、何度金包みを渡そうとしたか判らないくらいである。しかし、昨夜は出て行ったのが遅く、それに土曜日であった。金を受取って来るには不自然すぎるわけである。
宏一は二階の自分の部屋に戻り、蒲団《ふとん》を敷いてから銭湯へ行った。風呂《ふろ》は混んでいて、洗い場を確保するのが面倒であった。
宏一は湯につかってきのうからのことを考え直して見た。
土曜の晩、広瀬という男は別れぎわ、君さえよければ自分たちの仲間に加わって欲しいと言っていた。宏一はとんでもないと思い、曖昧《あいまい》に言葉を濁して帰って来たのである。長く付合えば必ずボロが出ると思ったからだ。それに、とほうもなく危険な相手らしかった。
しかし、今になると気持がぐらついて、あの世界へとび込みたい気分にかわっている。
それは、今日のデートのせいであった。自分には知らないことが多すぎると思った。のぞいたことのない世界が多すぎるのだ。たとえばあのレストランである。たしかに今の自分には高級な店に思え、それを一応は征服できたわけだが、果して本当にそれほど高級なのであろうか。客は若い男女がほとんどだったではないか。自分の水準がひくすぎるから、あの程度でもびくつくのであって、それを征服したと言って得意になるのは可愛らしすぎて憐《あわ》れではないのか。同年輩の男で、毎日のようにあの程度の店へ出入りするのはいくらでもいるようである。
津坂容子にしてもそうだ。工場のあたりでは他を圧する気位《きぐらい》とセンスを持ち合わせ、下っ端工員の憧《あこが》れの的であったかもしれないが、出る所へ出せば田舎《いなか》っぺではないか。しかも、自分ではトップ・モードの娘たちとの差をまるで感じていない。服を選ばせればかなりのセンスを示すのに、自分がそういう服を着ていないということについては、はじめからあきらめてしまっているようである。
「なんだ、俺とおんなじだ」
宏一はそうつぶやいた。欲しいものと欲しくないもの、買えるものと買えないもの……それを区別するだけのデパート歩きをしていた自分と、まるで同じなのだと思った。買えないと区別してしまったら、欲しいという気すら起きなくなるのだ。天然自然に自分の手には入らないものがたくさんあって、それが当然だと思い込んでいる。ダイヤは富士山と同じで、欲しいと言うのは冗談になってしまう。しかし、本当はダイヤと富士山とはまるで違う。富士山を買う者はいないが、ダイヤは毎日売れている。人間には二種類ある。ポケットの中の札束をとおしてダイヤを眺《なが》める者と、ダイヤを富士山のようにただ眺めている者と……。
ダイヤが欲しいのではない。もっとうまい料理が食いたいのでもない。しかし宏一は、ダイヤを富士山のようには見たくなかった。どんなレストランへも平然と出入りしたかった。自分が高い所から見おろされているのはごめんだった。人々を見おろしたくもないけれど、見おろしている連中を横から見ていたかった。
広瀬のところには、そういう場所へのドアがあるようであった。現に、あんなプラスチックの小片に、ひとつのポケットだけでは納めきれないほどの一万円札を支払ったではないか。生活の単位が違うのだ。あの部品を自分は五分に一個ずつ作り出していた。一時間に十二個、一日八時間として毎日九十六個……。それがどんなに神経をすりへらす作業であったか、宏一の体がよく憶《おぼ》えている。同じ動作を反復する仕事ほど収入が少ない。繰り返しのパターンが複雑になるほど収入が多い。複雑になるほど動作は小さくなり、最も収入が多いのはまったく動作をともなわない、決断するだけの仕事であろう。容子たちが工員を見下しているのもそれだ。彼女の繰り返しのパターンは、プラスチック工であった宏一の仕事の繰り返しより、はるかに複雑で、その分知的であったわけだ。
広瀬のところには、それ以上に知的で、及びもつかぬくらい複雑な仕事がある。……宏一は体を洗わずに家へ帰った。
次の週、はじめの内宏一はほとんど外へ出なかった。ごろごろと部屋で寝てすごし、一日中考えこんでいるようだった。
「仕事のほう、うまく行かないのかい」
宏一の深刻な様子に、母親はたまりかねたように言った。
「そうじゃないよ。たのまれたんだ」
「何をさ」
「企画さ。今度の仕事の中心になるプランを考えて来てくれって……」
「それならいいんだけどさ。……そうだね、お前はどっちかって言うと、そういうことに向いてる性分だからね」
母親は納得《なつとく》したらしく、そのせいで父親も別に文句を言わなかった。
宏一はタイミングをはかっていたのである。週がかわってすぐでは、広瀬に足もとを見すかされると思った。さりとて長く間をあけては、先方の事情もかわろうし、気もかわる危険性があった。第一相手はホテルずまいで、いつ所在がわからなくなるかもしれないのである。
広瀬の申し出をいれて、彼の傘下《さんか》に加わるのは、この週の内ときめている。ただ、水曜以降のいつにするか、その辺の呼吸がむずかしかった。
「毎日うちにいるんならお前がやってくれ」
水曜の朝早く帰って来た父親は、そう言って宏一に長方形の大きな箱を渡した。六素子のテレビ・アンテナであった。
「テレビも古いが、アンテナがすっかりいかれちまった。二重に映って目がチカチカしやがる。運転手は目だけが頼りの商売だからな」
父親はそう言って寝てしまい、昼ごろ宏一は屋根に登った。アンテナもアンテナ線もボロボロで、これでは室内アンテナのほうがまだましなくらいであった。
アンテナをたてかえ、屋根馬《やねうま》をしっかりと固定して、アンテナ線を軒へたらすために身をのりだした時、ガクリと瓦《かわら》が動いた。ハッとして足を踏んばると、その足が滑って宏一の体はバランスをうしない、一気に一階の庇《ひさし》へころげ落ちた。庇はトタンばりで、錆《さ》び放題だったから、宏一の体重をうけるとベリベリッと破れ、ワンクッションして玄関の脇《わき》へどすんと肩から落ちた。
「どうしたっ……」
父親がとび起きて来た。近所の女たちもびっくりして出て来た。
下になった左腕に鈍痛があった。その肘《ひじ》で脇腹をしたたかに打って息がつまった。顔に右手をあてると、左の頬骨《ほおぼね》の辺りに血が流れているのが判った。
「大丈夫か」
父親がはだしで抱き起してくれた。
「大丈夫……」
「血が出てるぜ。ほかはなんともないか」
母親が買物から帰って来て騒ぎが一層大げさになった。
「病院……父さん、病院へ連れてって」
おろおろと母親は言った。
「ほら、俺につかまって。しっかりしろ」
痛いとか痒《かゆ》いとかにはひどく大げさな一家なのである。宏一は父親にかかえられるようにして近くの外科へ行った。
その帰り、宏一はくすくすと笑い続けていた。左腕を白い布で吊《つ》り、頭に斜めの包帯をまいている。
「変な奴だな、こいつ。頭でも打ったんじゃねえか」
父親は苦笑しながら言った。
「屋根をこわしちゃったね」
「そうさ。とんだ物要《ものい》りだ」
「俺に払わせてよ」
「心配するな。そのくらいの金はある」
「そうじゃないんだ。近い内支度金が入るんだよ。だから……十万でどうだい」
「十万円」
父親は目を剥《む》いた。
「どうせ、支度金が入ったらうちへ入れようと思ってたんだ」
「いつからそんな親孝行になりやがったんだ」
父親はうれしそうに笑った。
「でもよ、それじゃ屋根の直し賃だけ結局俺と母さんの損じゃねえか」
「そうだな」
宏一も朗《ほが》らかに笑った。
広瀬に会う絶好の道具だてが揃《そろ》ったのだ。腕を吊り、頭から斜めにぐるぐると包帯をまいて……、これ以上の演出はなかった。しかも本物の傷だ。癒《なお》ってもしばらくは跡が残る。
「支度金、いくらだ」
父親が尋ねた。
「大したことない。でも、父さんの一ヶ月分よりは多いだろうな」
「こいつ」
父と子は仲むつまじく家へ入った。
溜池のホテルに、まだ広瀬は泊っていた。
「何があったんです」
温厚で冷静な人物が、宏一を見るなりそう言って目を丸くした。
「実は、この前の件で伺ったんですが」
「この前の……」
広瀬はそう言ってちょっと考え、すぐ明るい表情になった。
「それじゃ、来てもらえるんですな」
「こちらのご意向がかわっていなければ……」
「かわるもんですか。これは有難い。君は若いが、今度の件で才能があることは充分すぎるほど判っています。思い知らされましたからな」
そう言って、宏一の傷をじっとみつめた。
「すると……」
「多少|揉《も》めましたが、綺麗《きれい》な体になって参りました。よろしくお願いいたします」
広瀬は唸《うな》った。
「そうでしょう。気の毒なことをしてしまいましたなあ」
「ただ、ひとつだけお願いがあるのです」
「条件ですな。いいでしょう。そちらも犠牲を払ったわけだ。できるだけの譲歩はしますよ」
「今までの組織については、一切お聞きにならないでいただきたい。それだけは勘弁していただきたいのです」
広瀬は宏一をみつめた。宏一はその視線をはね返すように、力をこめて睨《にら》み返した。すると広瀬は急に笑いだした。
「ますます気にいりました。そうでなくてはいけませんよ。……いや、あなたは合格です。もし前の組織のことを土産になさるようなら、お断わりするつもりでした」
「そんなタイプに見えたのですか」
宏一はニヤニヤしながら言った。不快をかくしているように見えるはずであった。
「いや、これは失礼」
広瀬は真顔になった。
「どんなタイプに見えようと、我々は事実を確かめるのが仕事です。判っていただけますな」
「それはもう……」
「そのお年で、大したものです。いや、お世辞ではありませんよ」
宏一は内心ほっとした。これで何も聞かれずにすむのである。肚芸《はらげい》ですべてが納まったのだ。産業スパイか政治スパイかまだ判らないが、案外自分は本当にスパイの素質があるのではないだろうかと思った。
「食事でも、と言いたいところだが、その手では不自由だな」
広瀬はざっくばらんな態度になった。言葉つきも仲間の、それも先輩の口調になっていた。
「ええ。ことに洋食は勘弁してください」
宏一は新しい上司に言った。
「それではまず、給与その他についてきめなければいけないな。今までどうだったのか……」
とそこまで言ってニヤリとする。
「これもいかんかな」
宏一は真剣な表情で頷《うなず》いた。
「すべてと言ったらすべてです。そのかわり、ほかのことではこちらの条件に従います。文句は言いません」
望みの給料を言えと言われても、相場の見当すらつかないのだ。
その時広瀬が提示した額を、もし宏一の父親が知ったら、即座に手を引いてもとの工員に戻れと叱《しか》りつけたであろう。まったくそれは、とほうもない高給であった。
おまけに、
「前のことにこだわるようで悪いのだが、しばらく君を冷やして置くつもりだ。いいかね」
と言った。
「ほとぼりをさませというのですね」
「秋ごろまでだ」
「その間、どうしていたらいいのです。どこかへ身をひそめますか」
広瀬は鷹揚《おうよう》に首を振った。
「遊んで欲しい」
「遊ぶ…………」
「この仕事には、安全に出入りできる場所をたくさん持たねばならない」
「はい、その通りです」
宏一はいかにも当然というように軽く言った。
「だったら判っているだろうね。キャバレー、バー、クラブ、ホテル、レストラン……舞台に使うような場所は、すべて新規にしてもらわねば困る」
「全部ですか。それは厄介《やつかい》だな」
「ガイドをつけるよ。ガイドの指定した場所の経費は、全部こちらで持つ。仕事の内だ」
やはり未知の世界へのドアがあった。
10
その夏は、宏一にとってオレンジ色に輝やいていた。
広瀬がガイドと言ったのは、一見不動産業者風の中年男であった。夜ごと都内の盛り場を、それも一流の店ばかりへ案内された。男は気前よく札びらを切り、少々下品ですらあったが、それはそれなりに結構顔をきかせていた。
宏一は慎重に振舞い、飲む酒を殺してそういう店での態度を素早く学んで行った。せっせとそれらしく身なりを整え、またたくまにあかぬけのした青年紳士になって行った。
ガイドははじめの一ヶ月たらずで引っ込み、あとは宏一のひとり遊びになった。女たちと親しくなると、その女たちが別な、似たようなクラスの店を教えてくれた。若くてハンサムで金があって、宏一はそういう女たちに何人も言い寄られた。
日曜日はたいてい容子とのデートだった。二人は毎週海へ行った。容子はあの時買ったオレンジ色の水着がすっかり気に入っているようであったし、またよく似合ってもいた。
広瀬とはあれ以来|碌《ろく》に顔を合わせなくなったが、一度だけ赤坂のマンションを借りるとき会った。それは一流不動産会社が経営する貸マンションで、必要な家具は全部揃っていた。
曳舟のボロ家を出たわけだが、両親は宏一の獲得した思いがけない経済力を、手ばなしでよろこぶだけであった。広瀬はホテルのほかに、霞ガ関にオフィスを持っていて、両親がそこへ電話をすれば、社員としての応対をしてくれる仕組になっていたのだ。
だが、仕事は何もなかった。毎日|贅沢《ぜいたく》に遊び暮らすだけで、しかも宏一はその生活にいっこう倦《あ》きなかった。
何人もの美しい女と浮気をし、高級な連込みホテルの場所も憶えた。すると、そんな宏一に女臭さを嗅《か》ぎとったのか、容子が嫉妬《しつと》めいたことを言うようになった。
「あたしはいつまでたってもあなたの腰巾着《こしぎんちやく》でしかないのね」
それは伊豆のホテルのすぐ下にある海岸だった。
「何言ってやがる」
砂の上に腹這《はらば》いになった宏一は、砂で灰皿の形を作り、その中へ煙草の灰を落しながら笑った。
「だってそうじゃない」
二人ともこんがりと陽焼けしていた。容子は宏一の裸の背中に斜めに重なって来た。濃いサングラスをかけているのが、容子を大胆にさせていたのかも知れない。
「あなたって、すてきよ。ほかの若い男はお食事に行ったって、すぐあたしにメニューを見せて選ばせるの。でもあなたは違う。お料理をよく知ってて、あたしの分までどんどん注文してくれる……女って、そうされたいんだわ。あたしだけじゃないわよ」
容子は宏一の肩に唇をあてた。
「好きなのよ、あなたが……」
耳もとでささやくように言う。
「それなのに、あなたったら、大事なことになるととってもつめたいんだから」
「つめたいかな、俺が」
「つめたいわよ」
「どこが」
すると容子のささやきはいっそう低くなった。
「愛してくれないじゃない」
「愛してくれない……」
宏一はクスクスと笑った。
「そうかい。俺はいま口説《くど》かれてるんだな」
「からかわないで。いつもそうやって逃げちゃうんですもの」
「俺が好きかい」
「うん……だから言ったじゃないの」
「抱かれたいんだな」
「いじわる」
「いつ……いつ抱いたらいいんだ」
容子は両手を宏一の肩先きにまわし、強く胸を押しつけて来た。
「あなたが好きなとき」
「それじゃ判らない。はっきり言えよ」
「いや」
「言えったら」
すると容子は胴をかすかにくねらせ、宏一の裸の背中にバストをもみこむようにした。容子の胸はかなり見事であった。高さのわりに半径が小さいようである。左右がくっきりと分れ、谷が深かった。
宏一は低い真面目《まじめ》な声になって言った。
「もし俺が最初の男になるのだとしたら、君に悪いような気がするのさ」
すると容子はふるえ声でささやいた。
「ごめんなさい。前にそういう彼がいたの」
「それで、いつ食べようか」
「いつでも」
片肱《かたひじ》をついてふり返ると、容子は泣くような顔をしていた。真実とは、あまり美しいものではないと思った。
第四章 黄ばんだ葉
車の音が遠い汐騒《しおさい》のように聞えていた。
近くに高速道路があり、しかもその高さがこの部屋とほぼ同じくらいだったから、二重窓にしてあっても、一日中部屋の空気をかすかにふるわせ続けるのである。
カーテンの色は煉瓦《れんが》色で、カーペットもそれに近かった。壁はそれよりずっと淡いベージュで、よく見ると薔薇《ばら》の線描が地紋になっている。天井も同じ壁紙を使っていて、宏一はセミダブルのベッドの上で、じっとそれをみつめていた。
車の音の様子では、もう朝もかなり遅いようであった。首を左に曲げると、枕《まくら》に顔を押しつけ、顎《あご》をあげるような恰好で容子が睡《ねむ》っている。
宏一は首をあげ、容子の体を眺めた。うつぶせになった彼女の左手首は宏一の腰の下へもぐっており、右手はベッドの反対側へたらしている。いつも、わりと伸び伸びとした寝かたをする女で、背を丸めたり膝《ひざ》を折ったりしているのを見たことがなかった。今も背骨はまっすぐくびれた腰へ一直線に伸び、丸く盛りあがったふたつの丘の先に、弛緩《しかん》した二本の脚の爪先《つまさき》を互いに内側に向けて、屈託のない姿勢で寝ていた。
寝そべるというのはこういう姿勢のことだ……宏一はそう思いながらそっと起きあがると、腰骨の下あたりに並んでいる靨《えくぼ》のようなへこみの一方に、そっと唇をつけた。盛りあがったヒップがもぞもぞと猥雑《わいざつ》な動きかたをした。それをよく見たくて宏一は顔を離し、今度は人差指で軽くそのへこみを擽《くすぐ》った。
脇腹がひくりと動き、左手が睡そうに動いて擽られたあたりを掻《か》くように払った。肩胛骨《けんこうこつ》の間から、指でYOKOと筆記体でくり返して行くと、左手は何度もそれを払いのけようと動きかけたが、よほど睡いと見え、背中へはあがって来なかった。宏一の指先はヒップの谷間へまでもぐりこみそうになる。
容子はとほうもなく甘ったるい声をだした。枕に顔を押しつけたまま左手で宏一を探し、相手の姿勢が判ると急にそれを首にまきつけて引寄せた。寝返りを打って腰をだきかかえ、胸を合わせてまた睡ろうとする。
「いつまで寝てる気だ」
宏一が言うと、目をとじたままいいかげんな位置へキスをひとつして、
「なんじなの、まだ……」
と籠《こも》った声で妙な尋ね方をした。宏一は首をあげて時計を眺め、
「十一時四十分だよ、まだ」
と答えた。
「十時四十分でしょう。嘘《うそ》つき」
目もあけず言う。宏一は舌打ちをした。そのとおり、時計は十時四十分をさしている。
宏一は容子の腕をふりほどき、肩を押してわざとあおむけにころがすと、するりとベッドを降りた。落ちていたパジャマのズボンをはいてベッドを向くと、目をあけた容子が、あっけらかんとした表情でみつめていた。肢《あし》を少しひらき、両脇に腕を伸ばして、クッションのいいベッドにふわりと浮いている感じであった。
「変なとこに蠅《はえ》がとまってるぜ」
宏一はわざと下腹部に視線を移して言う。
「嘘つき。蠅なんかいるわけないわ」
そう言うとくるりとうつむき、脚から先にベッドを這《は》いおりようとした。宏一はそのつやつやした尻を軽く平手で叩き、
「とにかくシャワーだ」
と去りかけた。
「いや、あたしが先……」
容子は勢いよく言い、裸のまま宏一を追い抜いてバスルームへとびこんだ。バスルームに生温かいシャワーがふきだし、二人はその下でもつれ合いながら石鹸《せつけん》を塗りたくった。
電話のベルが鳴った。
バスルームを出た宏一は、タオルで髪をふきながら受話器をとりあげた。
「浅辺君かね」
広瀬の声であった。
「はい、そうです」
「正午にわたしの所へ来てくれ」
「承知しました。例のホテルですね」
「そうだ。仕事だから食事はすませておいたほうがいいな」
「はい、そうします」
電話は切れた。宏一はじっと左手の受話器をみつめた。
仕事がはじまるらしい。夢のような休暇はおわったのだ。春のおわりからこのひと夏、なんと贅沢《ぜいたく》な毎日だったろうか。理由のない報酬をたっぷりと先どりしてしまったのだ。もうあと戻りはできない。
宏一は容子がいることを忘れていた。
マンションを出て近くのレストランで食事をしたあと、宏一は容子をタクシーの拾えるところまで送って行った。
宏一もこの二、三ヶ月でだいぶ変わったが、容子のほうもすっかり変化していた。
美人になっている。宏一が連れ歩く世界では、お洒落《しやれ》にならざるを得ないようであった。工場地帯のデザイナーがマスコミ地帯へ出て来て、あっという間にそれらしくなった感じであった。欲が出て、自分には手の届かないモードがあるとは考えなくなっていた。そして宏一がそれに積極的に手をかしていた。あのオレンジ色の水着を手はじめに、次から次へと新しい服を贈られた。手頃なのは家へ持ち帰ったが、あまり高級すぎるのは金の出所の説明がつけられないから、宏一のマンションに置いてあった。靴《くつ》、バッグ、帽子、サングラス、アクセサリー…………。容子もまた、宏一と共に広瀬たちの得体の知れない世界にさそわれて、引き返せない所へ来てしまっているようである。
それに、よく外泊するようになっている。宏一がいるから当然のことであったが、どんな口実を使っているのか、週に二度も泊ることが珍しくない。家へ帰る時や、そのまま工場へ出勤する時は、宏一の部屋から電話でタクシーを呼ぶのが習慣になった。一度ハイヤーで工場へ出て行ったことがあったが、かえって不便だと言って二度とハイヤーは使わなかった。まさか工場の前でハイヤーから降りるわけには行かないのだろう。
宏一には、その気になればいくらでも女がいた。それもみな容子よりはずっと洗練されていて、お洒落も本格的な女たちであった。
しかし、いわれのない贅沢をあてがわれている宏一にしてみれば、そういう女たちでは不安の解消にならなかった。それはいわれのない贅沢の一部であって、かえって不安感を助長させるだけだった。
その点、容子は自分と一緒にどこかへ堕《お》ちこんで行く女であった。真実は知らせずとも、同じ時に同じ場所から出て、同じように未知の世界へ首を突っ込んだ仲間であった。
「お仕事って言ったわね」
秋のはじめの明るい陽ざしの中で、容子はふと眉《まゆ》を寄せて言った。
「ああ……」
「はじめてじゃないの」
「そうかな」
宏一はなんの気なしに答えていた。
「よかったわ」
「なぜ」
「だって、あなたには本当に仕事があったんですもの」
え……と宏一は立ちどまった。
「気にしてたのよ。もしかしたら仕事なんてないんじゃないかと思って」
「馬鹿言うない」
宏一は鼻に小皺《こじわ》を寄せ、吐きすてるように言った。
「仕事がなくてどうやって暮らせるんだ」
「だから心配だったの」
二人はまた歩きだした。すぐ近くにタクシーのよく通る道が見えていた。
「仕事だなんて教えなければよかったな。なぜ今日に限って言ってしまったんだろう」
「あら、今までもしてたの」
「あたり前だよ」
ふうん……と容子は煮え切らない返事をした。宏一にはその気持が手にとるように判った。容子も自分と同じように不安の中で遊びくらしていたのだろう。
「あたしたち、ほんとに結婚できないのかしら」
容子は元気のない声で言った。宏一はそれには答えず、手をあげてタクシーをとめた。
「そっちの勤めは八時なら確実におわっているだろう」
「ええ」
「今晩八時にマンションのほうへ電話してみてくれ。体があいていれば必ずその時間には部屋にいるようにする。でも……」
「お仕事ね。いいわ、毎晩八時に電話する」
容子は車に乗り、ドアをしめた。黄色い車は呆気《あつけ》なく去って行った。
それを見送っていると、急に宏一は淋《さび》しくなった。孤独の風が吹き抜けて行ったような気分であった。
毎晩八時に電話する……容子はそう言ったのだ。つまり、今日から宏一が所在不明になりそうなことを、覚悟したわけであった。
いったい自分はどこへ連れて行かれるのだろう。宏一はそう思いながら、トボトボと広瀬のいるホテルのほうへ歩きだした。ゆっくり歩いても充分間に合うはずであった。
そう言えば、随分長い間新しい嘘をついていなかった。容子にこの夏中一度も仕事の匂いを感じさせなかったのがその証拠だ。宏一は前途に暗いものを感じていた。
以前と同じ部屋に広瀬はいた。しかし、その部屋で宏一ははじめて広瀬以外の人間を見た。
それはいつかあのリンカーンを運転していた男であった。宏一もそう背は低くないほうだったが、その男は見あげるような体格をしていた。肩幅が広く、首がおそろしく太かった。胸も分厚く、自分の倍ぐらい服地が要るはずだと思った。
その男は、四角ばった顎《あご》を軽くしゃくって宏一に挨拶《あいさつ》した。
「呼ばれたんだけど、広瀬さんは」
そう言うと、男は宏一のうしろでドアの鎖錠をかけてから、黙って左側のドアを指さした。宏一は振り返ってその男の顔と鎖錠を半々に眺めた。男はまったく無表情で部屋の隅《すみ》の椅子に戻った。その前の小さな丸いテーブルに、灰皿もグラスも何ひとつ置いてないのが妙に不気味であった。
宏一はドアをノックした。
「入りなさい」
広瀬の落着いた声がした。中へ入ると、広瀬は大きな焦茶色のデスクの向う側に坐っていて、まっすぐ宏一を見ていた。
「その椅子をここへ持って来て……」
広瀬はデスクの正面を示した。ドアの横に、となりの大男が腰かけていたのと同じ、ルイ王朝風とでもいうのだろうか、飾りの多い華奢《きやしや》な椅子が置いてあった。
「お久しぶりです」
軽い椅子を片手で運び、デスクの正面へ置いて頭をさげた。
「かけなさい」
広瀬の態度には甘やかすところがなかった。いつかの晩わざわざ家へたずねて来た時の、あの丁寧さはかけらもなかった。
「もう慣れたね」
ニコリともせず言う。
「は……」
「いろいろなところへ出入りしたんだろう」
「あ、はい。おかげさまで」
広瀬の手はデスクの上で何もいじらず、互いの指同士を触れ合わせるようなこともしなかった。視線も宏一以外には関心がないといった様子であった。
「充分たのしんだろう」
「はい。でも、仕事ですから」
「本当にそう思うか」
「最初にいただいた命令が……」
「たしかに命令はした。だが君にとってそれは仕事だったかね。それとも遊びだったかね」
宏一は無意識に笑いを泛《うか》べ、頭を掻《か》いた。
「仕事ですが遊びました。結構たのしみました。でも、早く本式の仕事に移りたかったのも事実です」
「本式の仕事か。それはどういう仕事かね」
「ですから、以前僕がしていたのと同じ仕事です。私はそのためにお呼びを受け……」
「自分のことを僕と言ったり私と言ったり、君はいろいろ使いわけるんだな」
「そうですか。自分では気づきませんが」
「僕とわたし。わたしとわたくし。君は状況に応じて使いわけるタチなのだな」
「そうかも知れません」
「主体性がないのかな。自分という人間を一点に固定している人物は、自分の呼び方はどんな場合でも一定しているそうだ」
「はあ……」
「まあ、そのことはあとまわしにしよう。ところで、以前の仕事というと、プラスチックの成型工のことかね」
「いえ、あれは任務で……」
「任務とは何かね」
「MK4の件です」
「これかね」
広瀬の手がはじめて動いた。黒いものをつまんで宏一の目の前に置いた。宏一が将棋の王将で、そのあたまへ金を打ったような具合であった。宏一はじっとそれをみつめた。
「我々はそれが嘘《うそ》だということを知っているよ」
「嘘……」
宏一は目をあげて広瀬を睨《にら》んだ。
「これは新型魚雷の誘導装置の……」
「たしかにそうだ」
「じゃ、何が嘘です。僕がどういう嘘をついたんです」
「たしかに魚雷の部品だが、それだけのことだ。手に入れようと思えば簡単に手に入る。二年もかけて盗み出すほどの代物《しろもの》ではない」
「あなたが今になってそういう評価をなさるのなら、それもやむを得ません」
「では聞くが、君はスパイだったのか、それとも金持の父親を持って、いずれは会社を作るために成型技術を学びに行っていた感心な倅《せがれ》なのか。どっちだ」
宏一は思わず目を伏せた。膝の上に置いた両手がじっとりと汗ばんでいた。
「君は嘘つきだな。まったくよく嘘をつく男だ」
宏一には答えることができなかった。うつむいて、そのまま消えてしまいたかった。ホテルの外の明るい通りが目に泛び、その通行人の一人になっている自分を夢想していた。
「亀戸の駅前で二人の男が近づいた時、なぜそれが敵だと思った。なぜ逃げた。君がスパイだからか。折角《せつかく》手に入れた秘密の部品を奪われると思ったからか。咄嗟《とつさ》に津坂容子に部品を預けたわけか。それまではそんなことになろうなどとは思ってもいなかったのか。次の晩帝国ホテルへ行って津坂容子と連絡を取った。なぜ帝国ホテルの必要があったのだね。なぜ一度電話を切って向こうから掛け直させたのかね。わたしが君を仲間に迎えたいと言ったとき、なぜ即答しなかったのかね。もしかしたら君は、あの部品が一|文《もん》の値打ちもないということを知っていたのではないかね」
「言いだしたのはそっちだ」
宏一は立ちあがり、テーブルの上を右の拳《こぶし》で叩いた。
「値打ちがあるのかないのか、僕はそんなことは知らなかったんだ。払うと言ったのはあんたじゃないか」
「おやおや。すると、二年もかけてやっとの思いで盗み出したのはどういうわけだね。君はそのためのスパイなんだろう。だからこそ一介《いつかい》の工員に身をやつして……」
「スパイはあんたらじゃないか」
「いつわたしがそう言ったね」
宏一は返事に窮した。
「それに、おかしなことがある。あの部品を山県プラスチックスが受注したのは、君が勤めてから約一年後だよ。随分早手まわしに潜入したものだな」
「そんなこと知るか」
宏一は弱々しく言い、椅子に坐った。
「君に関しては判らないことだらけだよ。だが、ひとつだけ、君を割切れる答えがある」
広瀬は長い間《ま》を置いてから、声を高くし、ゆっくりと言った。
「君は嘘つきだ」
宏一は耳をふさぎたかった。
「君に関する方程式の未知数の部分に、君が嘘つきだということを代入すると、その方程式はかんたんに解けてしまう」
二人の間に長い沈黙が続いた。
「どうかね」
しばらくして広瀬が言った。
「嘘つきだということを認めるかね」
宏一はさっと椅子を立った。軽い椅子はその勢いでコトンとうしろへひっくり返った。宏一は無言で部屋を出ようとした。
ドアをあけて次の部屋へ入ると同時に、大男が素早く立ちあがって鎖錠のかかったドアの前へ行った。
宏一は大男の胸に両手をついてどかそうとした。
「どけよ、帰るんだ俺は」
奥から広瀬が静かに言った。
「戻って来なさい」
「いやだ。ひっかけたのはそっちじゃないか。勝手に大金をくれたんだ。仕事だとかなんとか言って……どいてくれよ。つかまえたければつかまえろ。もう金なんかないからな。おやじにだってそんな金はあるもんか。俺は貧乏なタクシーの運ちゃんの小倅《こせがれ》だ。麦飯の弁当持って工場に通う下っ端の工員なんだ。ざま見ろ、金なんかとり返せないぞ」
大男はびくともしなかった。宏一は相手が自分の力でどうにもならないことに、幾分救われているのを感じながら、がむしゃらに組みついていた。涙がポタポタと絨緞《じゆうたん》の上へ落ちて行くのが、大男の腹に頭突《ずつ》きをくらわせる時ちらりと見えたようであった。
「何のとり柄《え》もない貧乏人の倅だ……。一生|鋳型《いがた》のケツを叩いて暮らすしかない男なんだ。なぜそうなんだ。なぜなんだ。なぜおやじはタクシーの運転手なんだ。なぜそうじゃない奴らがいるんだ。なぜ順番を待ってるだけでいい家に住んじゃう奴がいるんだ。なぜ大学へ通ってる上に女の子と高いレストランで贅沢《ぜいたく》な飯を食える奴がいるんだ。工員は一生工員らしくしてろと言うのか。工員らしくない服を着たらおかしいのか。夢を見てはいけないのか。嘘をついてはいけないのか……」
気がつくと、宏一はもとの部屋へ戻って、デスクごしに広瀬に向って喚《わめ》いていた。
「水を飲むといい。そこにある」
広瀬は窓際のテーブルを指さした。宏一は相手の目をみつめ、ふと我に返ったようにポケットからハンカチをだして涙を拭《ぬぐ》った。
教えられたように窓際へ行って水差しから水を飲んだ。厚手の重いグラスであった。宏一は久しぶりにひどく高級なものを味わったような気がした。泣きながら喚いている内に、本来の自分に戻っていたようであった。
「落着いたかね」
広瀬が言った。ドアの所にいた大男が、広瀬の目配せで向うの部屋へ戻り、ドアを閉めた。
宏一は窓の外を眺めながら深呼吸をした。
「わたしはこういうことに慣れているのでね。別に驚いてもおらんし、気を悪くしてもおらん。落着いたら、ここへ来てかけたまえ」
宏一はおずおずとデスクの前へ戻り、倒れた椅子を起して坐った。
「麻薬やアルコールの中毒患者には、禁断症状というのがあるのを知っているね」
優しい言い方であった。宏一は黙って頷いた。容子はどの辺りを走っているだろうかと思った。
「いま君が示したのも、それに似ている。体から嘘が抜けて元の自分に戻る時のショックなのだよ」
広瀬はデスクの抽斗《ひきだし》からパイプと刻み煙草《たばこ》の容器をとりだしていじりはじめた。相手の指が彼自身のために何かしはじめるのを見ていると、宏一の気持は急速に落着いて来るようであった。
「君はまったく嘘つきだ。大変な嘘つきだ」
広瀬はパイプに煙草をつめながら軽く言った。
「どうかね。認めるだろう」
「ええ……」
「わたしの今の言い方に気がついたかね。さっき言ったのとはまるで意味が違うと思わんかね」
「よく判りません」
「さっきのは、君を嘘から覚醒《かくせい》させるためのショック療法のようなものだ。それでないと、これから先の話はできんからな」
広瀬はそう言って苦笑した。
「ところでこれはわたしの好意で言うのだが、嘘つきな人間には九割がた共通した弱点がある。判るかね」
宏一は首を横に振った。
「他人は自分ほど嘘をつかないという前提に立って嘘をついていることだ。世の中はみんな正直者かな」
「さあ……」
「ひょっとすると、嘘つきはこの世で一番善良な人間かも知れんね。だが、嘘で生きようとするなら、それには気を付けなければいかんよ。ずっと観察させてもらったが、君の嘘つきとしての欠点は、何につけ欲望が淡泊だということだな」
広瀬はテレビでよく見る評論家のような顔つきになった。
「だから、欲求不満が解消すると、嘘をつこうという衝動がなくなってしまう。この夏、君は自分がとても正直だったとは思わないかね。あの程度のマンションに住み、あの程度の遊び場へ出入りして、君はそれで満足してしまった。こんな所にいるのは仮りの姿だ、一時わけあって身をやつしているのだと、まわりになぜそう思い込ませようとしなかったのかね。そうだろう。欲が薄いのだよ。だから嘘に隙《すき》が出る。この夏の間、我々に対して一度くらい、昔の仲間が……例の君が所属していた架空の組織さ。それが再接触をして来たと、そういう嘘をつかなければ、かえってこちらが怪しむとは思わなかったのかね」
「そう言えば」
「そうだろう。満足してしまうと君は嘘をつかなくなる。嘘をつくことを忘れてしまうのだ。それがいかん。今後よく注意することだね」
宏一は、ハイと言いかねて広瀬をみつめた。広瀬は何もかも判っているように微笑していた。
「さて、本題に戻るか」
広瀬はパイプを咥《くわ》え、長方形のライターを鳴らして、丹念《たんねん》に火をつけた。
「よく訓練されていない、いわばアマチュアの通弊《つうへい》として、相手も嘘をつくということを見落してしまうのだが、そうするとどうなるか、ひとつ具体的に説明しよう」
広瀬はたのしそうにパイプを吸った。
「まず、君は職場でただの工員と思われたくなかった。あの工場へ就職する前、何度か職につき、年齢的にも少し遅かったからだ。そこで君は事情があって仕事を習いに来たというように見られたがった。ここがポイントだ。君にすればそういう嘘をつこうとしたわけだが、逆から見ると君にはそう思われたい欲があったということだ。相手の欲求を利用して都合のいい方へ思い込ませるのは、嘘の基本的なテクニックのひとつだ。だから相手の欲求を見抜いて嘘をつきはじめようとする時、必然的に自分の側にも隙が生じる。もし相手も同じような嘘つきなら、君はその時引っかかってしまうだろう」
広瀬は笑って見せた。
宏一は広瀬が次々に吐きだす煙をみつめ、ぼんやりとしていた。
「君がまもなく会社を作ろうとしていたのだという嘘をついていることを、我々は知ったわけだ。我々は君のような人間を必要としているので、テストすることになった。それでまず、興信所の調査という陽動作戦を用いた。自分の嘘を利用されたわけだな。興信所の動きで君の嘘は加速され、君を会社から追い出してしまうことになった。君の嘘は完結し、嘘でなくなってしまった。君は嘘を成功させ、現実では職を失う結果となった。不満かつ不安な状態が発生し、君はあの工場地帯で具体的な収穫を得ようとした。それはプライドのためだ。あのまま工場をやめたのでは、現実には君は自分の嘘に敗れたことになる。君は急いで相手を物色し、津坂容子に狙《ねら》いをつけた。よそへ転出する時、勝利を持って行きたかったのだ。今はどうか知らんが、あの時点では津坂容子でなくてもよかったのだ。我々は君を追い込んで置いて、綿密に観察させてもらった。君が会社をやめる前の土曜の帰りに彼女を尾行して家をつきとめたことも、電話番号を調べたことも判っていたよ」
宏一はそれを随分昔のことのように思い出していた。
「だが何をする気だったかはっきりしなかった。したがって、会社をやめた日、亀戸の駅前で津坂容子の前から突然走り去った時は、それがどうしてなのか見当もつかなかった。走りだした君に気をとられて、彼女に何か渡したことを見落してしまったのさ」
「え……するとあの二人の男は」
広瀬は笑った。
「君の嘘の才能のすばらしさがあの時はっきりと判ったのだ。あの二人づれはただの通行人だよ。君は見事にあのささいな偶然を利用した。君は我々の求める人物だったのさ」
「あなたのほうの人というのは嘘だったんですか」
「気をつけなさいと言うのはそこだ。あとで君はわたしの思い違いを期待し、利用しようとした。そこで我々に自分の嘘を利用され、ころりと信じてしまった。我々は遠くで君を見ていただけさ。同じことはあのスリの件にも言える。スリも、君のとなりの二人も、こちらの手の人間だ。君が市川で津坂容子から何かを受取ったことを知った時、やっと君の嘘の全貌《ぜんぼう》を掴《つか》んだのさ。それで中身を知ろうとした。同時に我々の嘘の伏線にもなった。あれがあったので、君は我々のスパイ組織らしいものを信じた。わたしはスリ騒ぎの時の二人を、君の側の人間だと思い込んだように言った。君は疑うべきだったのに、わたしの思い違いを期待するあまりそれにとびついてしまった。結論を言えば、君の嘘は相手の欲求なり期待なりを利用するような時、驚くような冴《さえ》を見せる。しかし、ノー・ガードだ。プロの嘘つきは、相手が欺《だま》されたという嘘をつくことを最も警戒しなければいけないのだ。それに、君には欲のない相手に欲を起させる技術が今のところまったく見られない。それでは町の詐欺《さぎ》師の片棒かついだとしても、脇役しかつとまらん。要するに、非常に才能のあるアマチュアというわけだな」
「いったい、僕になにを求めていらっしゃるのですか」
「君は自分を何の能もない人間だと言ったが、実はあるじゃないか」
「嘘をつくことですか」
「そうさ。我々は本物の嘘つきを探しているのだよ」
「待ってください。いったいどうやって僕に目をつけたんです。僕が嘘つきだということは、そんなに有名なんですか」
広瀬は体をゆすって笑いだした。テーブルの上にパイプから灰がこぼれ、それをティッシュ・ペーパーで丹念に拭《ふ》き取った。拭き取る時、ティッシュ・ペーパーの端を舐《な》めて濡《ぬ》らしたのが、印象をいっそう柔らかく変えた。
「心配することはない。曳舟あたりから溜池にまで聞えるような評判になっては、もう嘘もつけんだろう」
「じゃ、どうして僕が嘘つきと判ったんです。あんなはずれの工場地帯の、それもちっぽけな工場にいる僕の嘘が、どうしてあなたのアンテナにひっかかったのです」
「結論に着いたようだな。君はこれから、本格的に嘘について学ぶのだ。君のような嘘つきを、我々は日本各地から何人も探し集めた。いろいろ遊んでもらったのは、その顔ぶれが揃う間、贅沢《ぜいたく》な場所に物おじせずに出入りできるよう、馴《な》れてもらうためでもあった。したがって、給与その他一切今までどおりだ。君のこれからの仕事は嘘をつくことだ。プロの嘘つきになるため、これからみんなと一緒に箱根へ合宿して、研修してもらいたい。そうすれば探し出された理由も判るはずだよ」
「嘘の研修ですか」
「いや、本当に研修するのだ」
広瀬はそう言ってまた大笑いした。
宏一は自分の部屋へ戻った。ひどくさっぱりとした気分であった。何よりもまず、正式な仕事を得たという喜びがあった。
たとえそれが嘘をつくということであるにせよ、自分の持って生まれた才能に見合っているのがうれしかった。嘘をつくという行為についてまわった、あの陰湿なイメージが消えて行きそうであった。正々堂々と嘘を職業にできれば、どんなにか自信が持てることだろうと思った。
それに、これはとほうもなく割りのいい仕事でもあるようだった。歌の好きな人間が流行歌手になったようなもので、もともと歌いたい歌を歌った上に、いい金になるのだ。やって見なければ判らないが、もちろんそれはそれなりに苦労があることにちがいない。しかし、鋳型のケツをひっぱたいているよりは、よほど我慢のし甲斐《がい》があろうというものだ。
スーツケースに下着をつめながら、宏一はふと今夜の八時を思った。目の前の、窓からさしこむ明るい陽ざしを浴びた電話が、やがて暗い闇《やみ》に沈むだろう。そして八時になると、無人の部屋にベルが鳴り響くのだ。何回鳴るのだろうか。長くつらなった線の向うでは、容子がむなしくその呼出音を聞くはずであった。明日の晩も、あさっての晩も……。
だが、行先を告げるわけには行かなかった。行先も、仕事のことも、広瀬は今後いっさいが秘密だと言った。それだけは厳重に守らねばならなかった。
容子……。宏一は手をとめてベッドを見た。寝乱れたままであった。
「待ってろよ」
ベッドに向って、声に出してそう言った。窓ぎわに、いつか容子が気まぐれに買った蔦《つた》の鉢植《はちう》えが飾ってあった。水のやりようが足りないのか、ガラスごしの日光が強すぎるのか、白っぽい葉の下のほうが何枚か、枯れかけて黄ばんでいた。
果たして自分は容子を本当に愛しているのだろうか。……宏一は自問した。広瀬の言ったことが強く記憶に焼きついているようであった。
「君は津坂容子でなくともよかったのだ」
そう、たしかにそのとおりだ。バス停の列の外にいた時、宏一はたしかに恋人とするべき女を求めていたが、それは津坂容子でなくてもよかったのだ。
そのあとも、津坂容子でなければならないということはなかった。何人ものバーやクラブの女を抱いて寝た。正直言って、そのどれもが容子よりセクシーだったし、ずっと美人であった。
だがしかし、それで容子に対する感情が不純だときめつけられるだろうか。はじめはただの女。幾らか自由にすることのできそうな相手。みんなそんなものではないだろうか。それがだんだん本物の愛情にかわって来る。はじめが嘘だからと言って、最後まで嘘であるとは限らない。たとえばあの銀行の口座だ。はじめあの本店に口座を作ったときは、ただそのほうが恰好よく、自分を満足させてくれるというだけで作りに行ったのである。しかし、その後広瀬から高額の給料が支払われるようになると、あの口座に必然性が出て来たではないか。広瀬が口座を作るように指定した銀行が、あの銀行だったのだ。場所もそう不便ではなく、マンションは夜寝るためだけのような存在だから、かえって丸の内の本店のほうが便利でさえあった。
多かれ少なかれ、そんなものだろう。はじめは気まぐれのようにしてきめられる。それが長く続けば本物ということになるし、本物という結果になれば、気まぐれできめた最初のことも、本物ということになってしまう。
「容子。俺は嘘をつかなかったのかもしれないぞ……」
宏一はベッドに向ってそう言い、荷物をまとめはじめた。広瀬は約一週間のつもりで行けと言っていた。
宏一が着いた時、箱根はすでに暮れかけていた。湯本で電車を降り、タクシーで山あいの林の中のホテルへ乗りつけると、建物の中には灯りがともっていた。
「黒虹会《こつこうかい》の者です」
広瀬に教わったとおりに言うと、
「お名前をお聞かせください」
と尋ねられた。
「浅辺です」
「浅辺宏一さまでいらっしゃいますか」
「ええ」
フロントの男は帖面《ちようめん》に何か書き込み、ボーイを呼んで荷物を持たせた。ボーイは、
「こちらへどうぞ」
とロビーからいま入って来たばかりのドアを通って外へ出た。ばかに小さなホテルだと思ったが、案内されてよく手入れの行き届いた小庭園を抜けると、広大な敷地のあちこちに、山小屋風の離れが建っていた。
ほんのひとまたぎほどの小さな流れに飾りのような橋がかけてあり、それを渡った先の、Rという標識を軒に打ちつけた小屋で、ボーイはドアをノックした。小屋をアルファベット順に呼んでいるとすると、かなりの数があるらしい。
「ハーイ」
中から間《ま》のびのした声が聞えた。ボーイはドアをあけ、
「お出入りにはよく靴をおぬぐいください」
と言った。宏一は入口のマットで何度か靴《くつ》の底をこすって中へ入った。
居心地のよさそうなツインの部屋であった。一戸だてだけに、都心のホテルなどとはくらべ物にならぬ広さで、ベッドとソファーが二人分のほかに、山小屋風の外観にふさわしい、木の丸テーブルをかこんで、それとセットになった木の椅子が四つ窓ぎわに置いてあった。
ひどく物柔らかな顔つきの男が、その窓ぎわの木の椅子から、びっくりしたように立ちあがった。年齢は宏一より七つ八つ上のようであった。
「ボーイさんだけかと思った」
男は宏一を見て照れ臭そうに言う。
「黒虹会のかたですね」
宏一が尋ねる。
「ええ。ひと足お先についたようです」
男はかすかに訛《なま》りのある言葉で答えた。北国らしかった。
「浅辺宏一と言います。どうぞよろしく」
宏一が頭をさげると、
「ありゃ……」
と男はおどけたように言った。
「僕も同じ名だ。これはややこしいことになったぞ」
「僕は浅い深いの浅に、辺りという字を書きます」
「渡辺のナベですね。こっちは朝寝坊の朝に野球部だの柔道部だのという部です」
ボーイがスーツケースを置いて帰って行った。
「それにしても、黒虹会というのは何だかごつそうな名前ですな」
二人は椅子に坐り、朝部が煙草に火をつけながら言った。
「黒い虹《にじ》……怪しげですね」
「ふつうの虹ならあそこに見えていますよ」
朝部は煙草をはさんだ指で窓の外を示した。暮れかけた空が赤く染まっているだけだった。
虹なんて見えない、と言おうとした宏一は、ふと気づいて相手の顔を見た。目が悪戯《いたずら》っぽく笑い、わざと何食わぬ表情で見返した。
「ほんとに。一度に二つも虹が立つなんて珍しいですね」
「じゃあひとつ消えたんでしょう。さっきまで三本だった……」
言いおわらぬ内に宏一は笑いだした。朝部ものけぞって笑った。
「仲よくなれそうですな」
朝部が右手をさしだした。宏一はその手を固く握りしめた。考えて見れば、それまで宏一は友人らしい友人を持ったことがなかった。
「やっと自分の居場所が見つかったという感じですよ。何しろひどい嘘つきで……」
朝部はしんみりと言った。
「僕もそんな感じがしはじめてます」
「広瀬という人に会いましたか」
「ええ。来るとき一発いびられました」
「何か言っていました。僕は自分に満足すると嘘をつかなくなるんだそうです。居場所を見つけたのはいいが、もしこのまま嘘をつかなくなったら、また失業ですよ」
どうやら似たような体験をしているらしかった。
「不平不満のタネを探せばなんとかなるんじゃないですかねえ」
「おや、君もか」
「そうですよ。欲張りじゃないんだそうで……」
「おんなじだ。この先どうなることやら」
「まあ、嘘をついて給料をもらうんだから、精々いい嘘がつけるように頑張《がんば》りましょう」
「おや」
朝部は目を丸くした。
「君は給料がもらえるの」
「ええ。あなたは違うんですか」
「よしましょうね」
朝部はまた笑いだし、手を振った。
「同じですよ、僕だって」
「なあんだ」
宏一も釣られて笑ったが、こんな具合ではその内何が本当か判らなくなると思った。
電話で教えられ、一度本館のダイニング・ルームへ行って夕食をとったあと、宏一と朝部は林の中央部にある、離れの中ではひときわ大きい建物へ入った。
そこは会議場にも使える、小さな舞台つきの建物であった。ぎっしりつめて四十人ほど入るだろうか。そこへ各棟《むね》から集まって来た二十人たらずの男女が集まり、思い思いの席へ陣どった。
明らかに教師側と思える人物が二人と、そのアシスタントらしい女が一人いた。女は二十七、八くらいで眼鏡をかけた地味な身なりをしており、もう一人は大学教授と言った風采《ふうさい》の老人、最後の一人は三十四、五のスポーツマン・タイプのきりりとした男であった。
「え……満場の嘘つき諸君」
若い男が舞台に置いたテーブルに両手をついて切りだした。みんなくすくすと笑いだした。
「諸君をリラックスさせるのが僕の役目ですが、同時に僕はこういう研修をおえた、いわば卒業生です。この意味がおわかりですか。僕はみなさんと同じ、とても正直な人間なのです」
また笑い声が起った。
「諸君は選ばれて黒虹会に入会しました。日本中から、たったこれだけの人が探しだされたのです。そして、ここへ来るまでに、それぞれ状況に応じて厳重なテストをうけ、しらずしらずの内に必要な教育をほどこされています。黒虹会は非常に社会的地位の高い団体であることを充分に自覚していただきたい。どのくらい地位が高いかと言えば、天皇家に準ずるほど高いのです」
半分くらいがゲラゲラと笑った。
「リラックスさせるのが役目と言いましたが、今のは冗談でも嘘でもありません。その証拠は、君たちの受けている待遇です」
急に静かになった。
「最初におことわりしますが、黒虹会には通常の団体には見られない、きびしい特徴がふたつあります。ひとつは、その内容が絶対に世間に洩《も》れないこと。もうひとつは、いったん入会したら生涯《しようがい》脱退の自由がなくなることです。特に、世間に洩れないことというのは、洩らさないようにという注意ではないことを銘記しておいてください。黒虹会は会の内容を絶対に世間に洩らしません。わかりますね。皆さんの誰かが洩らそうとしても洩れない仕組になっているのです。そのために黒虹会にはたくさんの外郭組織があります。そのもっとも有名なもののひとつをあげれば、それは警察です」
男はよく口をあけ、正確な発音で堂々と喋《しやべ》っていた。
「洩れないという意味が判りましたね。洩らそうという人がいたら起立してください。いませんね。結構です。もし起立なされば、その方は一時間以内に確実に死亡します。おどしではありません。事実を申しあげただけです。皆さんの高給はこの先生涯にわたって保証されます。物価に応じてスライドし、常に一般より高いレベルにあるように保たれます。その理由のひとつには、今言ったような厳しいルールがあります。掟《おきて》と考えていただいて結構です。でも、それは実のところ、そんなに厳しい掟ではありません。なぜなら、黒虹会についてよく知ったあとは、誰も秘密を他に洩らす気など起きなくなるはずだからです。この研修会は、嘘のプロとなるための知識を学ぶのが目的ですが、その前に、黒虹会についてのあらましをご説明いたします。こちらにいらっしゃるのは、すでに書籍、新聞、雑誌などでご存知の方も多いと思いますが、T大学の橘《たちばな》教授です。橘博士は日本の歴史の最高権威でいらっしゃいますが、実は黒虹会の創立以来のメンバーのお一人でもあるのです。研修会のはじめは、橘博士から重要なご講義をうけたまわることになるわけですが、それによって皆さんは、今まで故意に省略されていた或《あ》ることの説明、つまり、なぜご自分が黒虹会から探しあてられたか、という理由を知ることになると思います。では橘博士のお話をよくお聞きください」
アシスタントの女性がテーブルの向う側にあった椅子の背を持って、博士が坐るのを助けた。少し脚が悪いようであった。そのあと女は舞台の中央に移動式の黒板をころがして来た。
「みなさん、おめでとうございます」
博士はいきなりそう言って頭をさげた。
「みなさんは選ばれた人々です。あえて私はみなさんをエリートと申しあげます。みなさんは歴史を作り、動かし、方向づけるために生まれて来た人々だからです。こうして私はみなさんのお顔を見ていると、一人の歴史学者としても、また生きかわり死にかわり、たえざる人間の流れをかたちづくっている日本人の一人として、深い感動をおぼえるのです。それは私が皆さん一人一人の祖先を知っているからです。みなさんは今日の社会へ、黒虹会を通じて浮上なさいましたが、その源をたどれば、ひとつの名前に行きつくのです。オミさん。オウミさん。アサベさん。トモベさん。アサナベさん。……字も違えば読み方も違います。たとえば」
博士は手にしたメモをひろげ、
「浅辺宏一さんという方がいらっしゃいますね」
博士は会場を見まわした。宏一はおずおずと手をあげた。
「あなたの母上は旧姓を小見《おみ》。まことに運命とはふしぎなもので、浅辺と小見はもともとは同じ家系なのです。無数に枝わかれしたその先が、またひとつに結ばれています。私たち黒虹会は、その本《もと》の一族からどう枝わかれして行ったかよく知っていて、名前をたよりに皆さんを探しあてたのです」
宏一は体を堅くして聞き入っていた。
10
「さて、それでは黒虹会という名称ですが、黒い虹と書くことはご存知でしょう。黒い虹……神秘的なことばですね。虹は七色、美しいものの代表とされています。では、黒い虹とはいったいなんでしょう。わかりやすく極端な表現を用いれば、それは嘘のことです」
ざわめきの気配が起った。
「だが、単純な嘘ではありません。私はこれを日本の歴史を動かしたコロだと思っています。コロとは車|扁《へん》に鹿と書きますし、木扁に害とも書きます。転子と二字で表わす場合もあります」
女が黒板にその三つを書きわけて見せた。
「転子……つまり、重い物を動かす時、その下にしく丸い棒のことです。黒い虹というコロのおかげで、今日の日本が出来あがったのです。そして皆さんは、その黒い虹を作りだした人々の子孫なのです。これから私は、幾つかの歴史的事実を例にあげます。それは遠いむかしの出来事です。しかし、単なる歴史の講義と違って、直接皆さんにかかわりのあることです。今まで皆さんは、多かれ少なかれ、ご自分の嘘にお悩みになったのではないでしょうか。思ってもいない嘘をついてしまう。とめようと思っても嘘がとまらない。……時と所を得ぬ時、そういうお苦しみは、皆さんにとってやむを得ぬことだったのです。なぜなら、皆さんは嘘をつく家系に生まれついてしまったのです。語り部《べ》が語るように、みなさんの先祖は嘘をつくことを使命としていたのですから、その家系のすえずえに、嘘をつく人が生まれて来るのは当然のことだったのです」
博士は舞台を見あげる顔を眺めまわした。
「では歴史について少しお話ししましょう。そうですね、欽明《きんめい》天皇のころからはじめましょうか。欽明天皇というのは、第二十九代目の天皇とされています。西暦でいいますと、紀元五百四十年ころのことです。その頃イギリスでは侵入して来たアングロ・サクソン族が支配を確立しかけていましたし、フランク王国はプロヴァンスを自分の土地にしていました。東ヨーロッパで猛威をふるったヴァンダル人の勢いがようやく下火になり、一時休戦したペルシャと東ローマ帝国が戦争を再開しかけ、インドでは新しい王朝が西と南にあいついで起っていました。中国には南朝の梁《りよう》と北朝の魏《ぎ》があり、北アジアでは突厥《チユルク》の帝国が間もなくできあがるところでした。その欽明天皇の十三年目、百済《くだら》から日本に仏像と経典《きようてん》が渡来しました。それを送るという連絡は以前からあって、十何年目かに実現したもののようですが、仏教そのものは、もっと以前から日本に来ていたようです。とにかく欽明天皇の時に仏教が正式に海を渡って来たわけですね。ところで、いくら私が図々《ずうずう》しくても、世間に堂々と口にするわけには行かないことですが、いったい日本はなぜ仏教を必要としたと思いますか。みんなが仏による魂の救済を必要としていたのでしょうか」
博士は謎《なぞ》めいた微笑を泛《うか》べて見まわした。
「はっきり申しあげましょう。それは当時の国を治める側……つまり政府が、ひとつのシステムとして必要に思ったのです。宗教ならば古くから日本には神道《しんとう》があり、皇室はじめ一般庶民に至るまで、それを奉じて支障なく生活していたからです。今の社会で、コンピューターを導入しないと競争に遅れると言って焦《あせ》るのと同じような事情が、そのころの政治にもあったわけです。考えて見るとおかしなことは、仏を招けば当然神との間にイザコザが起るわけです。それを承知の上で、あえて仏を呼び入れたのには、それなりの理由があったのです。仏にあって神にないものは何か……それは来世思想です。ということは、政府側が欲したのは来世だったのです」
博士のうしろで、女のアシスタントが、仏教、来世、と書いた。
第五章 グリーン・ホール
少し風が出て、山小屋風の離れが点在する林の樹々《きぎ》が、時折りいっせいに音をたてるようになった。
しかし、その音も宏一の耳には入らないようである。舞台の中央に置いたテーブルに左|肱《ひじ》をつき、反対側の肱を左の掌にのせるような姿勢で語る橘教授の言葉を、熱っぽい表情で聞き入っていた。
「私は仏教伝来の頃の事情について講演しに来たのではありませんし、歴史の講義をするためにここにいるのでもありません。黒虹会というものを知ってもらうため、そしてみなさん一人一人がご自分について知るためにお話ししているのです。だから私が学者として喋《しやべ》っているのと、少し言い方が違います」
橘教授はちょっと高圧的な言い方をして、すぐ態度を柔らげた。
「歴史なんて、よく判らんのですよ。昔のことですからね。だが、注意しなければいけないのは、千年も昔の人だから単純|素朴《そぼく》に違いないなどと思い込んでしまうことです。たしかにそういう面もなきにしもあらずだが、現代にだって単純な面はいくらでもある。六世紀の日本人だって、外交面とか一国の進路とかということになれば、現代人に劣らぬくらいよく考え、複雑な操作をしていたようです。欽明天皇の十三年、百済《くだら》から献仏がありました。……ああ、これはいい宗教だ。仏を拝むと気がはればれするし、清らかになるようだから、これをひとつ国中の人間に拝ませてやろう……。当時日本の国を動かしていた上層部が、百済の献仏でそういう反応のしかたをしたとすれば、これは政治家として落第だし、統治者として失格です。それだったら天皇家は今日まで地位を保てなかったでしょう。日本があの時期仏教を導入したについては、それなりの大きな理由があったのです。それはどういうことかというと、近代国家の建設です。当時の人々にとっての近代国家ですよ。日本は外国と較《くら》べ、国家として大変に遅れている。なんとか形を近代的に整えねばならない。……それまでの日本は、大和《やまと》朝廷を確立するので手いっぱいだった。やっと統一政権を樹立したところだった。蝦夷《えみし》とか隼人《はやと》が帰伏したのは日本書紀によれば欽明天皇一年の三月。国造《くにのみやつこ》とか県主《あがたぬし》とかいう制度も、やっと充実しはじめたばかりの時です。いっぽう朝鮮半島では、四世紀末から進出していた日本の勢力が明らかに後退のきざしを示し、お互いに力を合わせて高句麗《こうくり》の南下をくいとめていた百済が危いことになっていた。東の新羅《しらぎ》の発展が目ざましかったからです。もっとも、根拠地である任那《みまな》の一部を百済に譲って任那離反の原因を作るという日本側の失敗も大きかったわけですが、ほぼ百年後には例の白村江《はくすきのえ》の戦いに敗れて朝鮮から手を引いてしまうことになるわけです。とにかく、半島にはそういう情勢があり、ことに新羅が脅威だった。その時の百済の王様は聖明王という人ですが、その聖明王が仏像と経典を日本へ送ったのだって、ほらこんないいものがありますよというだけのことではないでしょう。その証拠に、献仏があってから一年とちょっとあと、百済から援軍の要請が来ています。その時にも、ただお願いしますではなくて、易学や医学の博士、採薬師、楽人などを貢物として送って来ているのです。だが、その聖明王は結局戦死してしまいます。この辺の事情は古代史上有名な部分ですから、よくご存知の方も多いと思います」
アシスタントがみんなの席へ、益子焼《ましこやき》の大きなカップに入れた紅茶を配りはじめた。橘教授もそれを受取ってひと息いれた。
「このお話についてのペーパー・テストなどありませんから、気楽に聞いてください」
橘教授はざわついた席へ向って言った。
「例の仁徳《にんとく》天皇陵は五世紀の……そう、まん中よりちょっと早いくらいの頃でしょうか。その辺で完成しています。日本にも、あれほどのものを作らせる大きな権力が生まれたわけですね。ところが中国の北魏《ほくぎ》……北朝ですね。その北魏では、仁徳天皇陵から五十年もたたぬ内に均田の制を実施しています。日本ではやっと宮廷工芸らしきものが興《おこ》った頃で、統治者側の贅沢《ぜいたく》……つまり権力の安定が見られているにすぎないのに、中国では均田制などという非常にモダンな考えが実行に移されている。まあ、その辺では大して感じなかったかも知れませんが、新羅が仏教をとりいれたのは刺激になっていたでしょうね。そのせいかどうか、新羅は急に強くなり、発展したわけですからね。聖明王という人はたしかに熱心な仏教徒だったかも知れませんが、それ以上に政治と仏教のつながりをよく知っていたのかも知れません。あんたのところも早く近代化しなさい……そういう意味での献仏であり、学者や技術者の派遣であったと思われます。聖明王の戦死を知らせて来たのは、王子の恵《けい》という人で、その時百済の王位は恵の兄さんの余昌《よしよう》……威徳王といいますが、その威徳王が継いでいました。恵王子も、来るときにたくさんの技術者を従えて来ました。これはたしかに亡命だと思います。土木、冶金《やきん》、彫刻、絵画、音楽、そして蚕桑《さんそう》、織工……日本にとっては貴重な近代技術を持った人々です。日本書紀では、この頃|倭国《やまとのくに》高市郡《たけちごおり》の屯倉《みやけ》に、百済や高麗《こうらい》の人々を預けたような記録があります。ところが、いつの時代でもそうですが、この時代にもやはり時流について行けない人々がいました。もともと日本には神道があり、仏教を移入すれば何かトラブルが起るのは予測されていたことですが、やはりそれが起りました。物部守屋《もののべのもりや》をはじめとする保守派が蹶起《けつき》したのです。蘇我馬子《そがのうまこ》が自分の邸内に仏殿を作り、大野の丘という場所の北に塔を作ったりしたのですが、守屋たちは塔を焼き、仏像や仏殿を焼きました。まあ、そういう風にして保守派は結局敗れ、近代化を標榜《ひようぼう》した、というと少し大げさかも知れませんが、仏教を足がかりにした蘇我氏が大きな勢力になるわけです。だが、蘇我馬子が近代化を強く考えていたかどうかは別として……政治家というのは時流に敏感な面がありますから、近代化だ近代化だと言いながら、その実宮廷内での勢力拡大しか頭になかったのかも知れませんが、とにかくその辺りでの海外の動きとしては、均田制のような新しい制度や、仏教のような新しい宗教をとり入れないと、競争に敗けてしまうというような傾向が、事実として日本人の前へはっきり示されていたようです。物部守屋らの仏教排斥運動が失敗したあとも、仏教をとり入れた新羅に任那の日本府が倒されてしまいますし、武帝という王様が仏教を弾圧した北周《ほくしゆう》では、国そのものが滅んでしまうのです。そして、北周にかわって興った隋《ずい》は見事に中国を統一し、均田制を施行します。しかしその隋も長くは続かず、今度はあの唐《とう》が興ります。偉大な唐帝国です。その唐は、官制、律令《りつりよう》、税制を厳しく布《し》いて、均田制を採用します。第二次大戦後の日本が、ことごとに先進諸国を模倣し、技術や制度を夢中になってとり入れたのを、私たちはひとつの歴史として目撃しています。同じことだったと思いますね。つまり、私がここで皆さんに判ってもらいたかったことは、当時の日本が、どうしても律令という制度をとり入れないわけには行かない立場にいたのだということです。では、なぜ仏教のことから話しはじめたのか……実は、律令と仏教は表裏一体をなしていたのです。あの唐でさえ、孫悟空《そんごくう》で有名な玄奘三蔵《げんじようさんぞう》を西域《せいいき》へ派遣しています。そういう動きが、六世紀のなかばから七世紀|中葉《ちゆうよう》にかけて、日本、朝鮮、中国という一帯に強く存在していたのです。さっきからたびたび引用する日本書紀によれば、物部守屋のことがあったあと、法興寺というお寺が作られ、そのあと難波《なにわ》四天王寺、広隆寺、そしてあの法隆寺、浄土寺、百済大寺《くだらだいじ》、弘福《こうふく》寺、崇福《すうふく》寺、山城山階《やましろさんかい》寺、近江三井寺《おうみみいでら》、薬師寺と、仏教は一瀉《いつしや》千里に日本へ入りこんだのです。欽明から敏達《びだつ》、用明、崇峻《すしゆん》、推古とこの間に天皇も何代か交代し、聖徳《しようとく》太子があらわれて仏教は完全にこの国に定着しました。だが、律令、つまり近代的な統治体系はなかなか実現しない。聖徳太子が没し、つづいて蘇我馬子も死んで、その子供の蝦夷《えみし》が大臣になったけれど、この蝦夷などは律令の重要さなどまるで判っていない。権力の座のうま酒に酔うだけで、せっかく官吏の勤務時間を定めても、大臣からして従おうとしない。推古天皇のあとの舒明《じよめい》天皇の時代は、そのように蘇我氏の思うままにされ、天皇がなくなるとその皇后が即位し、蘇我|入鹿《いるか》が執政になる。こんなことではこの先日本はどうなるのだというわけで、中大兄皇子《なかのおおえのおうじ》らが入鹿を殺して大化《たいか》改新となるわけです。ここではじめて近代化らしいことに手をつけることができる。冠婚葬祭の制度やら私有の土地や人民の収公やら、位階の改革やらがやっと実現するのです。もちろん均田制……班田収授の法にも手をつけ、戸籍を整える糸口もできます。だが、遅れはますます目立って来ます。新羅は勢いにのって高句麗を攻め、高句麗は日本に援《たす》けを求め、日本は百済にテコ入れをしてから、三万近い大軍を送り込みます。そして、唐と新羅の連合軍と戦い、白村江で決定的な敗北を喫するのです。敗戦によって日本は朝鮮半島の権利を放棄し、沢山の百済の亡命者をうけ入れた上、いやでも応でも国力の充実につとめなければならなくなったのです」
教授はこれからだというように坐り直した。
「大化改新で都は飛鳥《あすか》から難波へ移ることになりましたが、新たに決定された政策は、まさに先進国である中国のものそのままでした。まず皇族や諸豪族の私有地、私有民をすべて廃止させます。これは凄《すご》いことですよ。ことさら力のある連中からその富を奪おうというのです。また、私有民にしたところで、イコール奴隷《どれい》とは言えません。今日、大企業に勤めているサラリーマン諸君を政治権力で配置がえしたらどういうことになります。しかしずっと未来の人々が、歴史の本でそういうことを知ったら、とてもいいことをしてやって、サラリーマンたちはさぞよろこんだだろうと思うかも知れませんね。それと同じことです。上にも下にも不満があるわけで、長い間考えているだけで実現できなかったのも当然だと思います。地方行政組織もあらためました。今までの知事がクビになり、税務署長や警察署長として威張っていた者が失業するのです。これも大変なことです。また、戸籍を編成して班田収授を実施するわけですが、これも土地制度の大改革ですから、授けられる土地をめぐって利害が対立し、どこでも大もめにもめたはずです。それから税制です。今日我々は、租、庸《よう》、調などと軽く言ってすませていますが、税が苦にならぬ時代は一度もなかったはずです。租は田の種類によって違いますが、とにかく一生のあいだ個人的に使用する田はすべて租をとられます。庸、調は課役ですが、むしろこれのほうが実際には大変だったらしい。ご承知でしょうが、庸は労役で調は織物の物納です。庸は米、布などで代納することができますが、へたをすればこの庸と調が民衆のゆとりを決定的に奪ってしまいます。租はむしろそのダメ押しというかたちになるでしょう。さすがの中大兄皇子もその猛烈なリアクションに参ったと見えて、最初の五年間くらいで改新へのファイトを急におとろえさせてしまいます。しかしとにかくこうして、律令はやっと日本に根づいたのです。多分そのころのインテリの間にはこういう会話がひんぱんに行なわれたのではないでしょうか。……きみ、もっと律令的に行こうよ」
教授は冗談を言ったあとのような顔でみんなを見まわした。
「我々が民主的に行こうと言い、それは封建的だと非難するのと同じように、新しく、そして良いことが律令であり、古くいけないことが、それまでの氏姓制度であったわけです。そして戸籍を整備したことは、一人一人から厳密に税をとりたてることでした。いや、税収をふやし、国の力をつけることこそ、統治する側が長い間夢みて来た律令の実施であったのです。とすれば、律令は人々のくらしの向上よりは、むしろいっそうのがれようのない搾取に立ちむかわせることになったわけです。それなのに、大化改新は実現し、一応定着しました。なぜでしょうか。そこで仏教が出て来るのです。徐々に仏教がひろめられ救いへの窓がひらかれていたのです。さきほど私がのべた初期の寺々は、みな官営の寺なのです。取りあげる者と与える者は同一だったのです。収穫物をとりあげ、仏の慈悲を与えたのです。これがなければ律令は施行できなかったでしょう。我々は第二次大戦のあと、占領され支配されたかわり、自由を与えられましたね。米軍に対する反乱が起ったでしょうか。起らなかったではないですか。あの時代において、律令と仏教が表裏一体の関係にあると言ったのはこういうことです。日本の強力なバックアップを欲した百済の聖明王は、このメカニズムを知り抜いていたのかも知れません。なぜなら、百済が日本に仏教の吸収をすすめはじめたのは、例の献仏のずっと以前からなのです。それによって早く律令が根づけば、日本の力はそれだけ大きくなると思ったからでしょう」
教授は立ちあがり、黒板に自分で字を書いた。
白雉。
教授はそう大書して椅子に戻った。
「白い雉《きじ》……白雉《はくち》と読みます。大化改新は西暦六百四十五年の六月に、蘇我入鹿が殺されたことで始まります。舒明天皇の皇后であった女帝の皇極《こうぎよく》天皇は退位し、軽皇子《かるのおうじ》が孝徳天皇となって大化という年号になるわけですが、その五年目、政権内に紛争が起り、せっかくの改新も少し怪しくなります。と、ちょうどその時、長門《ながと》の国から珍しい白い雉が献上されて、これは大変|縁起《えんぎ》のよいことだからというので、年号を白雉とあらためてしまいます。果して本当に白い雉がいたのでしょうか」
場内に軽いざわめきが起った。
「たしかに動物には白子《しらこ》という色素の奇形がよく出るようです。だから白い雉がいることは否定しません。しかし、タイミングがよすぎます。長門のどこかでずっと以前から飼われていた白い雉かも知れないし、白く塗って誤魔化したのかも知れません。とにかくこれ見よがしの献上があり、大々的にそれが瑞祥《ずいしよう》であることが宣伝されたようです。私は誰かが嘘をついたのだという疑いを持っています。律令の重荷をもう一歩前進させるための転子《コロ》にされたらしいのです。というのも、似たようなことがそれからさき頻発《ひんぱつ》するからです。大化改新で施行された法律が、本格的な律令にまだまだ遠かったことははっきりしています。軽皇子の孝徳天皇が新しい難波宮《なにわのみや》で死んだあと、さきの皇極天皇がふたたび女帝として復活し、斉明《さいめい》天皇になりますが、これで都は飛鳥へ戻り、板蓋宮《いたぶきのみや》、川原宮《かわはらのみや》、岡本宮《おかもとのみや》などをへて、女帝の死後中大兄皇子が天智《てんじ》天皇となり、やがて近江大津宮《おうみおおつのみや》に移ります。ここで中臣鎌足《なかとみのかまたり》が近江|令《りよう》という日本最初の令を作ったということが伝わっています。この所伝には学問上問題があるのですが、より完全な法体系をめざして研究が続けられていたことはたしかです。その近江宮が焼け、天智天皇が没して大友皇子《おおとものおうじ》が即位しますが、ここで例の吉野へ入った大海人皇子《おおあまのおうじ》との間に壬申《じんしん》の乱が起ってしまいます。天皇側が敗《ま》け、大海人皇子が飛鳥の浄御原《きよみはら》宮で即位して天武《てんむ》天皇となり、浄御原令《きよみはらりよう》という法律を施行します。天武即位は六百七十三年の二月で、おかしいことにその三月、備後国《びんごのくに》からまた白い雉の献上があります。二番|煎《せん》じでは大してききめもなかったでしょう。だがそれで放っておくわけには行かない。ゴタゴタのあった天皇ですし、法律は言ってみれば一方的に人々をしばりつけるものだ。それ以前にもずっとあったのならとにかく、令《りよう》はなかったのですからね。どうしてもおめでたいお祭りさわぎをやる必要がある。と、そこへ、なんとタイミングよく、対馬国《つしまのくに》から銀が出ましたというニュースが出た。本当なら日本最初の産銀です。まあそれでなんとか天武朝廷はしのいだようです。そうやって天武時代がおわると、またその皇后が立って持統《じとう》天皇という女帝になる。でもはじめは草壁皇子《くさかべのおうじ》という摂政《せつしよう》がいたので持統と名乗っただけだが、その摂政が死んで持統四年に正式に即位をします。するとまた、伊予国《いよのくに》から白銀《しろがね》と鉱《あらがね》が出て来ます。銀と鉄です。藤原宮へ移って女帝は位を文武《もんむ》天皇にゆずり、自分は太上《だじよう》天皇ということになる。するとすぐ因幡国《いなばのくに》から銅が出ました……」
みんなが笑った。失笑のようであった。
「丹波《たんば》からは錫《すず》がでてきた。その年、浄御原令よりもっと進んだ法律が、大急ぎで作られていたのです。編集にたずさわっているのは藤原不比等《ふじわらのふひと》、刑部《おさかべ》親王ら十九人のインテリです。それらの名前は全部判っていますが、その中に伊余部馬養《いよべのうまかい》という人物の名があることを覚えておいてください。この人が一応諸君に関係あるのです」
アシスタントが黒板にその名を書いた。
「翌年、文武天皇は新しい法律の完成を待って、年号を大宝《たいほう》と改めました。これ以後年号の制が確立するのです。そして、この新しい法律こそ、決定版ともいうべき、大宝律令なのです。おりしも西暦の世紀がかわって七百一年。大化改新から半世紀がたっています」
教授は年に似ぬ悪戯《いたずら》っぽい表情になって、ジロジロと一人一人をみつめた。
「今度は何だと思います」
宏一のとなりに坐っていた朝部が言った。
「金《きん》だ……」
「そう。黄金が出ました。藤原宮では盛大な黄金献上の儀式が行なわれました。黄金発見の地は対馬。このとびきり上等の瑞祥《ずいしよう》があったので、年号を大宝、大いなる宝《たから》とあらためるというのです。この時きめられた官名は幕末まで残ったし、勲何等という位も残っています。この式典で、金を発見した対馬の住民や役人に対して褒美《ほうび》が与えられ、その金を精錬した三田五瀬《みたのいつせ》という金工にも、貴族に近い位やら莫大《ばくだい》な恩賞やらが与えられました。この三田五瀬は任那王の末裔《まつえい》ということですが、金の技術を持っていたので、大化改新の時も朝廷が手放さず、身分は良民としてはいちばん下の雑戸《ざつこ》にされていました。それが、いわば解放されたわけです。自由な身になったばかりか、正六位の上という位までたまわったのです。世間ではよほどめでたいことだと思ったに違いありません。ところがその後書かれた続日本紀《しよくにほんぎ》によれば、これは嘘《うそ》だったのですね」
また会場がざわめいた。互いに顔を見合わせ、首をひねったりしていた。
「大ペテンでした。そう言えば、浄御原令《きよみはらりよう》の時も対馬から銀が出ましたね。その時の対馬の島司《しまのつかさ》は忍海大国《おしぬみのおおくに》という男で、奈良南部の忍海《おしぬみ》が彼らの土地です。そこはとりわけ帰化人の多い所で、実は三田五瀬も忍海の人間なのです。続日本紀は詐欺を働いた三田五瀬を罰したとは記していません。続日本紀は文武天皇の即位から桓武《かんむ》天皇までの間の出来事を記録した文書で、藤原一族の継縄《つぐただ》という人が完成させたのですから、この時代の都合の悪い記事はうまく削るはずです。多分、ちょっとした見落しで三田五瀬のことを削りそこなったのかもしれません。とにかくそういう演出……かなりきわどい嘘ですが、その嘘を転子《コロ》にして律令という近代化が進められた事実は歴然としていますね、これはいわば、勅命による嘘と解釈してもいいでしょう。そして、このように朝廷が嘘を必要としたとき、皆さんの先祖が出動したのです」
場内は静まり返った。全員が教授の口もとをみつめていた。
「三田五瀬は忍海に住んだ一人の金工です。そして、忍海大国が支配するその土地に、天性のすばらしい嘘つきたちが住んでいたのです。現在宮中に保存されている或《あ》る文書に、その証拠がはっきりと記されています。天皇家が保存して来た門外不出の古文書には、日本史の定説を根底からくつがえすような記録がごろごろしています。そのひとつに、嘘部《うそべ》という集団があったという記録があるのです」
黒板に、麻績部、という文字が書かれた。
「麻をつむぎ、麻布を織る部族です。オミベともオウミベとも読みます。……麻を績《つむ》ぎ、もって衣を織り、神明に供す。古い記録にそう記されているこの麻績部《おみべ》は、神衣を作ってもいたでしょうが、のちには一般の人が着る布も織ったことでしょう」
宏一はふと母親の旧姓を思い出した。彼女の実家は小見《おみ》という名である。
「延喜《えんぎ》式の伊勢大神宮の項には、服部《はつとり》氏と麻績部氏がそれぞれ分担して神衣を作ることが記されています。想像力の豊かな人が多いはずなのでつけ加えますと、忍海《おしぬみ》の忍《おし》は忍びという字ですし、のちに徳川氏に仕えた服部半蔵は忍びの統領でした。私はこれでも大学の教授ですから、それが伊勢神宮の神衣職とつながりがあると断言することは勘弁してもらいますが、嘘をつくこととスパイのような仕事には、かなり深いつながりがあるようです。そして、さっき申した皇室の古文書には、麻績部と服部の項の一部に、嘘部という特別な記入があるのです。麻績部には非常に支流が多く、ほとんど全国に麻績部が分布しています。これは伊勢神宮のことで判るように、各地に神衣を要する神社があったことで理由がうなずけます。それに、布、服などというものは、人間のいる所にはどこででも必要なものですから、そういう技術者が分散して行ったのも当然のことでしょう。だが、全部が嘘つきということではないはずです。ことに、天性嘘の能力に恵まれた人々は、ずっとあとになっても朝廷の周辺に残って、転子《コロ》をころがし続けたはずです。現在もいろいろな学者がその時代のことにとり組んでいます。たとえば藤原京やそのあとの奈良京の時代、いったいどれくらいの人間がこの日本を動かしていたかというと、役人の数は約一万、貴族が二百人以下、大臣、長官、参議など、閣議に列席するようないわゆる公卿《くげ》となると二十人足らず。つまり、天皇を入れても二十人に満たない人数が、この日本という国を動かしていたのです。当時の日本の人口を推定すると約六百万人程度、奈良の平城京の人口が約二十万。それをたった十何人かで支配するわけですから、これには相当の技術が要るわけです。さいわい一般庶民の知的レベルはぐんと低くなりますから、嘘でもなんでもいいからとにかく丸く納めてしまえというやり方が可能になるわけですね。とにかくこうして、嘘部というかくされた役目の人々が、政府の都合のいいような宣伝をやる。民度が恐ろしく低いから、ま正直に説得したって余計判らなくなるという、同情すべき点もあります。ここで嘘つきである皆さんにちょっと考えてもらいたい。律令を施《し》かなければ日本は滅びるんだよ、と貧しく無知な人々に説明してまわるとしますよ。そうすると、或《あ》る人は、滅びるんだよ、というところだけ聞いてしまうでしょう。或る人は、帰化人が何か企んでいるぞと理解するでしょう。当時でもそれなりの差別観はあったでしょうからね。したがって、説明者が帰ったあとで、帰化人がぶん撲《なぐ》られたり、他人の米を盗んでいざという時に備えたりする妙な現象が起ってしまう。そういう人たちの反応を予測するには、彼らが日頃何を望み何を期待し、何を怖《おそ》れているかよく知っていなければならない。その上で、彼らの反応を政府にとって好ましい方向へ誘導してやることが必要です。それが古代社会における嘘部の役割りだったのです。衣服に関する職業は、どんな人々の間へも入って行けた。特に神麻績部とか神服部とか呼ばれた神衣を供する人々は、多分祭りの際の占《うらな》いを操作したり、奇蹟《きせき》を演出したりしたのではないでしょうか。仏教時代に入ると、それが今度は寺院や人々の間に直接もぐり込んで活躍したわけですね。日本霊異記《にほんりよういき》が採録している数々の珍しい話は、律令の背景を形成するために、代々の為政者が懸命に布教につとめた裏側で、天才的な嘘つきたちが、愚昧《ぐまい》な民衆の間に、ひどく判りやすい形で仏教の理念を植えつけて行った痕跡《こんせき》らしいのです。或る僧を徳高く、或る寺を霊験《れいげん》あらたかに、或る仏像を奇蹟の所有者に見せるため、麻績部や服部の名にかくれた嘘部の人々が暗躍したのです。彼らがひと仕事したあとには、人々がうっとりと眺める美しい虹《にじ》が立ったのです。嘘部は虹を立てる人でした。皆さん、皆さんもここへ来るまでに、あちこちでたくさんの虹を立てたはずです。それはあなたがたが、かつての嘘部の末裔だからです。嘘部は民衆の間へとけこんで行きました。やがて、日本の政治が本当に近代化され、嘘部の活躍の時はおわりを告げます。集団としての嘘部は分解し、日本史の闇《やみ》から闇へ消えて行きました。だが闇の中の系図は続いていたのです。その闇の中の系図で、時々鋭い感覚を持った天性の嘘つきが復活しました。だが、その人々はすでに正当な嘘の場を与えられてはいませんでした。そういう人は、いつの時代でも自分の嘘に苦しみ、泣かされ、ともすれば自滅したのです。そして、千数百年の時が過ぎたのです。その間に、服部は特殊な発達をとげ、自分たちの嘘を別な形で利用したようです。しかし麻績部はそのまま古代の体質をうけついで行きました。麻績部の一部には嘘部の血が流れているのです。時代が移ると、麻績部も本来の職業から離れ、ただの姓に変わります。麻績部は、いろいろな姓のバリエーションを生み、小見、尾味……」
教授はまた立って自分で黒板に書いた。
「大小見、若小見、尾見、小味、尾美、それから、部の字を残した麻部《アサベ》、麻が朝に変わった朝《アサ》部。朝がトモに読まれて朝《トモ》部。トモを音で当てた友《トモ》部。麻部《アサベ》の部《ベ》を辺と当ててしまった麻辺《アサベ》。麻を浅いという字であらわした浅辺《アサベ》、同じく浅部。大ざっぱに言って、こういう名前の家が、かつて忍海《おしぬみ》にいた麻績部《オミベ》という嘘部の分流なのです。我々はひとつの組織を作り、長い時間をかけて、こういう名前の家々を調べました。そういう家のどれかに、とほうもない大嘘つきが生まれていることを信じたからです。そしてあなたがたが発見されたのです。我々はその嘘の程度を厳重にチェックしました。本物の嘘部の末裔かどうかたしかめたのです。あなたがたは本物だったわけです。このまま嘘の場を与えなければ、一生自分の嘘に苦しみ、人にあなどられ嫌《きら》われ、つまらない生涯《しようがい》をおえるしかなかったはずです。そう大きな失敗をしなくても、運が悪ければすぐ刑法に触れて罪におとされる立場でした。黒虹会の目的のひとつには、そのような不幸を防ぐこともあります。私がおめでとうと諸君に言うのは、そういう意味なのです。大変話が長くなりましたが、以上の歴史をご説明した上で、みなさんに自分自身をよく理解してもらいたかったのです。極言すれば、あなたがたは黒虹会以外では正当に生きられない闇の中の血筋なのです。黒虹会はひとつの目的を持って組織されました。黒い虹。目的はその言葉が象徴しています。いま、各家庭のテレビやラジオからは、コマーシャルと称して、数々の虹が立ちのぼっています。赤、橙《だいだい》、黄、緑、青、藍《あい》、紫という七色の虹です。だがその七色の虹は日本を正しい方向に運ぶ転子《コロ》にはなっていません。七色の虹だらけの現代社会で、本当に必要とされるのは、あなたがたがこれから立てる、黒い虹なのです。黒い虹はあなたがたにしか立てられません。あなたがたはこれからプロの嘘つきとしての訓練をうけ、自分の才能を十二分に発揮して、黒い虹をたててまわってください。十数人の人間がかつての日本を動かしたように、ここにいる二十人たらずの人が、日本を正しい方向に進めて行くのです。古代の由緒《ゆいしよ》ある一族がよみがえり、ふたたびこの国を動かす力になるわけです。私は歴史学者として、皆さんのお顔をこうして見ていると、縄文《じようもん》時代の植物の種が、たくましく芽吹いたのを見るような驚きと喜びを感じないわけには行きません」
橘教授の話でその夜はおわった。宏一は朝部と一緒に自分たちの小屋へ戻り、すべて洋式なのにそこだけ和風になっている風呂へ入って緊張をほぐした。
緊張がとけると喜びが湧《わ》きあがって来た。生まれてはじめて自分の嘘をかくさなくてもすむ場所へ来たという喜びであった。
風呂から出ると、窓ぎわのテーブルで、備えつけの冷蔵庫から冷えたビールを出して朝部が待っていた。
「乾杯しようじゃないか」
宏一は朝部にそう言われてニヤリとした。湿った髪をかきあげ、朝部がビールをついでくれたグラスをとって、互いにカチリと合わせた。朝部はそれを高くかかげ、宏一もそれと同じようにした。青白い月の光が、そのグラスを照らしていた。
「闇の中の系図のために」
「黒い虹のために」
二人はそう言ってビールを一気にのみほした。朝部はテーブルにグラスを置くと、
「ヤッホー」
と奇声を発してとびあがって見せた。ダンスがうまいらしく、パートナーをかかえる真似《まね》をして、部屋中を踊りまわった。
「誰がこのことをよそに洩らすもんか。そうだろう」
宏一は頷《うなず》いた。頷きながら自分でついでまた飲んだ。
「凄《すご》い。凄いことになりやがった」
思わずそう言った。
「そうさ。こいつはやはり才能だったんだよ。僕は自分の嘘のつき具合を、以前からそう思ってた。でもね、なんと言ってもネガティヴだろ。人に威張れないからなあ」
朝部はそう言ってテーブルに戻り、宏一についでもらってひと口飲んだ。
「あのもう一人の人は、あそこで自己紹介しなかったけど、僕は名前を知ってるよ」
「なんという人……」
「伊余部《いよべ》さんだ」
「伊余部」
「ほら、橘教授が言っただろう。大宝律令を作った伊余部の馬養《うまかい》」
「ああ、それで憶《おぼ》えておけと言ったのか」
「きっと嘘部に関係があるんだろうな」
「なるほどね」
「それに、もしかすると聖徳太子も関係してるぜ」
「聖徳太子がかい」
宏一はいつかの晩、溜池のホテルで広瀬から思いがけない札束を受取った時の、胸のときめきを思い出していた。
「だって、嘘部は仏教の浸透に力をかしたわけだろう。聖徳太子は本当に偉い人物だったかも知れないが、それをいろいろ言いひろめる役くらいはしただろうじゃないか」
「そうかな」
「知らないね、聖徳太子のお妃《きさき》を……」
「うん」
「橘《たちばな》という姓だ。橘|大郎女《おおいらつめ》とか言う人だよ。たしか刺繍《ししゆう》なんかをしたはずだよ。服部や織物に関係ありそうじゃないか」
宏一はなるほどと思った。
「それで橘教授か……なるほどね」
「そうして見ると、嘘部というのは何だか古代の大組織の一部みたいな気がするな」
「それはそうさ。政治の裏にいるんだから」
「そういう意味じゃない。いわば嘘部は錐《きり》の先っぽさ。柄《え》がついてて、まわす手がある。どこに穴をあけるかきめる目も要る。橘は目、伊余部は手というのはどうだい」
「そうかも知れないな」
「そんなことはとにかく、やはり僕らはエリートだったんだ、君は自分をエリートだと思いたがらなかったかい」
宏一は月を眺めた。たしかにそのとおりであった。そのとおりどころか、そう思われたくてついた嘘ばかりであったようだ。
「うん」
「やっぱりそうだったんだ。エリートの血筋が、僕や君にそう自覚させていたのさ。でも証拠がなかった」
「いや、あったんですよ。嘘をつくことが証拠だもの。だから嘘を使って一生懸命証明しようとした」
「だけどそれは嘘だった。みんな嘘だと思った」
朝部は笑いだした。
「みんなに嘘だと思われた。嘘が証拠なのにね。ややこしいことさ」
「でも、もうおわりましたね」
「うん。もう人にエリートだと思わせなくてよくなったね。エリート……どこにいるの、そんな人」
朝部は振り返ってうしろを見た。
「そういう顔をしてればいいのさ。今度はエリートじゃないという嘘をつくわけか」
「とにかく本当とは縁が薄いですね」
「それは本当」
「きりがないや」
宏一と朝部は一緒に笑った。天下晴れてという感じであった。
「ところで、君も僕も字は違うけど同じ名前だ。どうしよう」
「年下だから僕はあなたを朝部さんと呼びます」
「君の名は」
「宏一」
「それじゃ宏ちゃんだ。そうしよう」
二人はまた乾杯した。
朝食後、グリーン・ホールと呼ばれる林のまん中の建物で、また橘教授の講義があった。
「昨夜は嘘部についてのあらましを説明しましたが、古代の嘘部の黒い虹についてはまだお話ししてありません。霊異記にのっている嘘部の働きの痕跡などは、どちらかというと七色の虹のほうですからね。まあ、それはそれで大した貢献を果したわけですが、実はその後、嘘部はもっと驚くべき、世界の歴史に例のない偉大なことをやってのけているのです。我々があえて少々|《しろがねあらがね》妖《あや》しい感じがする黒虹会を名乗っているのも、実はその嘘部の偉大な実績を尊重したからなのです。会結成についても、これからお話しする事からの着想なのです」
アシスタントが舞台へ出て来て、きのうと同じ黒板に、東大寺、正倉《しようそう》院、という六つの文字を書いて去った。
「奈良の東大寺をご存知ですな。東大寺というのは、我々学者にとってもまったく不思議なお寺です。実に魅力的です。古代の魂のようなものが満ち溢《あふ》れています。もっとも古代と言っても、正確には天平《てんぴよう》時代に属していますから、もうそろそろ平安がはじまるわけで、後白河《ごしらかわ》あたりからが中世ですから、古代のまん中ごろということになりますね。それで、天平も含めた奈良時代の特長のひとつに、言葉に対して日本人が非常に敏感になって来たということがあります。それは、文字をだんだんマスターしたということでしょうね。たとえば……」
教授は黒板に立ってチョークの音をたてた。
「倭《わ》という国名です。当時の中国人は、外国の人名や地名、国名を自分たちの文字であらわすとき、わざと悪い字を選びました。魏志倭人伝《ぎしわじんでん》で判るように、邪馬台《やまたい》、鬼奴、烏奴など、ひどい字をあてています。末盧《まろ》や不弥《ふみ》はまだいいくらいです。彦《ひこ》についても、卑狗《ひこ》だのと書きますし、鄙守《ひなもり》という役の名などを、卑奴母離と書いています。日本側でもだんだんそれに気がついて、倭を大倭から大和《やまと》に変え、とうとう日本国という国名にたどりつきます。唐の玄宗《げんそう》から聖武《しようむ》天皇にあてた勅書では、日本国王|主明楽美御徳《すめらみこと》と、ベタベタのお世辞を使われています。そういうお世辞が通用するようになったわけですね」
黒板に次々に書いて行く教授のチョークが、主明楽美御徳と記すと、ワーッと生徒たちが笑った。
「そうなると一生懸命いい字を使う。奈良は寧楽《なら》、大倭《おおやまと》は大養徳。そのほか、信楽《しがらき》は紫香楽、木曾は吉蘇《きそ》といった具合です」
教授は手を叩きながら椅子に戻った。
「古くからあった民話や伝説などの収集も一部のインテリははじめています。昨晩ちょっと触れた伊余部馬養という人物は、丹後の国に伝わる浦島伝説を文字にして残しました。こうして文字が一般化して行くにつれ、本来の中国文字から離れた日本の文字が出来上って行くわけで、そうなると聖徳太子のような偉人の伝記などが和漢混合の文章で書かれたりするようになります。また、神社や寺院の縁起なども判りやすい文書にされ、人々が広くそういうことを知り、また信じるような土台が作られて行ったのです。ところでまたきのうの続きになりますが、和同|開珎《かいほう》とか和同|開珍《かいちん》とか呼ばれるこの時代の貨幣は、武蔵国《むさしのくに》の秩父《ちちぶ》郡から日本ではじめて銅が出たのを記念して作られたようです。国産の銅なので年号も和銅とあらため、通貨に和同と、同じくの字を用いました。いろいろな説がありますが、同じくという字で金扁《かねへん》をさけたのは、同のほうが縁起のいい文字であったことや、銅銭のほかに銀のお金も作り、両方とも和同開珍と呼んだので、銀のことを考えて金扁をとったらしいことが判っています。さあ、もう気づいたでしょうが、金や銀や銅が出て来る時は何かあるわけです。年号をあらためて和銅とした年の前には、文武天皇がなくなっています。今度はそのお母さんが元明《げんめい》天皇として立ったのです。この和同開珍はとても広く使われましたし、催鋳銭司《さいじゆせんし》というものが置かれたりしていますから、どうやら本物のようです。それと同時に藤原京から奈良へ都がうつされます。奈良というのは平《たいら》という意味の地名です。今でも平にならすという言いかたをするでしょう。こうした大規模な……奈良の平城京はまったく画期的な一大都市計画で、そうした大土木工事や通貨の一般化という現象は、日本もかなり経済的にしっかりしはじめ、少なくとも朝廷側の富が非常に大きくなったということです」
教授は一度背筋を伸ばしてひと息いれた。
「今までは、嘘部を使って一生懸命形をつくって来ましたが、形ができるとそれを守らねばなりません。金持は塀《へい》を高くしなければいけないのです。七色の虹を立てて来た嘘部は、黒い虹を立てるよう要請されたのです」
みな真剣に聞いていた。
「現代の七色の虹であるテレビのコマーシャルは、メリットを数えたてています。みんなに好感を持たせ、欲しがらせるわけです。ところが、嘘部は黒い虹を望まれました。デメリットを人々に叩《たた》きこむわけです。つまりタブーを作りだすわけですね。元明天皇のあとも女帝で元正《げんしよう》天皇、そしてそのあとに、あの強力な聖武天皇が立ったのです。聖武天皇の妃は光明皇后です。この時代が律令国家と古代天皇制の極盛期とされ、日本全国に国分寺《こくぶんじ》を建てて行くに際し、その中心となる国立寺院が必要になりました。天皇はみずからその徳に心服していた良弁《ろうべん》という華厳宗《けごんしゆう》の僧にたのんで、一大寺院の建設に着手しました。たのまれた良弁は、橘|諸兄《もろえ》や行基《ぎようき》と協力して、自分の住んでいた金鐘寺……羂索《けんじやく》院ともいい、今の三月堂ですが、そのあたりから八丁四面の区域に金光明四天王護国寺《こんこうみようしてんのうごこくのてら》と称する大国立寺院を作ったのです。これが東大寺です。本尊は盧舎那仏《るしやなぶつ》でこれがまたとほうもない大仏です。現在の大仏のサイズを言うなら、坐高十六メートル、顔五メートル半、目の長さ一・一八メートル、てのひらの上に十数人のれるということです。もちろんこれには嘘部の大動員がありました。日本中を一致協力させなければ不可能な仕事です。良弁は偉いという話も広めねばなりませんし、仏の有難さも今までにもまして強調しなければなりません」
教授はそこで意味ありげに笑った。
「良弁|僧正《そうじよう》は東大寺の初代別当になった人ですが、その生まれは一説に近江といい、また相模《さがみ》とも言います。ここに良弁に関する仏教辞典からの写しを持って来ましたので読みあげます」
教授はことさららしくメモを持ちあげた。
「良弁。華厳宗。近江の人。俗姓は百済《くだら》。一説に浅部氏。相模の人という……」
ホーッというため息があちこちで聞えた。
「帰化人の多い忍海《おしぬみ》が嘘部の本地だと言いましたね。そうすると俗姓は百済でもおかしくありません。私は相模の人で浅部氏というのが正しいと思います。相模国の国分寺は、なぜか東大寺式ではなく、法隆寺式配置を持っている点で全国分寺中唯一の例外ですし、成立年代も不明ながら、どうも非常に早くに出来た疑いがあります。ひょっとすると、東大寺の配置がきまる前にいち早く国分寺のほうができたのかもしれない。そのため法隆寺式になってしまった……と、まあそういう想像ができますし、オミ、オウミという呼び方が近江の人という誤解を生んだことも考えられます。麻績《おうみ》のもの、というわけですね」
宏一は自分の親の片方が神奈川県出身であることを思って頷《うなず》いた。
「つまり、良弁もまた嘘部か、それにごく近い人物であったらしいのです。さて、東大寺が完成し、大仏が開眼《かいげん》しました。この大仏開眼に用いられたという、いわゆる天平宝物筆は今日でも正倉院に保存されています。径約四センチ、長さ五十六・六センチの巨大な筆です。奈良時代の文献では、正倉は正税倉《しようぜいそう》のことで、租税である稲やその他の財物を納めた倉を指します。院とは囲いをした中を言い、正倉はほうぼうにありました。東大寺正倉は勅封されたので勅封倉ともいわれますが、ほかの正倉がなくなったあとも、ここだけが残ったので、正倉院と言えば東大寺のものをさすことになりました。東大寺正倉院にはその創建に諸説がありますが、だいたい、聖武天皇の遺品を納めるために作られたと考えてもらって結構です。その納めた宝物は、ふたつに分けて考えられます。ひとつは光明皇后が先帝の冥福《めいふく》を祈って遺愛の品を献納し、その後もたびたび追加して行ったものです。もうひとつは東大寺にもともとあった別の倉から移されて来た宝物です。そのほかに、非常に高価な薬草薬物のたぐい……ことわって置きますが、古く珍しくなったから価値の出た宝物ではありません。金や銀をふんだんに使った、その当時から値打ちのある財宝群なのです。正倉院はシルクロードの終点とも言われ、遠い西域の宝までが今日まで安全に保管されて来たのです。これはきわめて不自然なことであり、世界史上の一大奇蹟なのです。では、このあとは、諸君の先輩であり、同じ古代の仲間である伊余部君から聞いてください」
橘教授はそう言って降壇すると、さっさと会場を出て行ってしまった。
伊余部がかわって舞台の上に立った。
「僕は大宝律令を編集し、浦島伝説を書き残した伊余部馬養の子孫だそうです。伊余部馬養はそれほど身分の高い人物ではなく、国博士という文科の教官です。したがって僕もそう威張るつもりはありません。ただ、嘘部には企画部のようなものが別にあったかのちに設けられたかして、馬養はその秘密の部門に籍を持っていたのです。そんなことはあとにして、黒い虹について説明します。みなさんは、世界中の王様の墓が、かたっぱしから荒されていることを知っていますね。エジプトのファラオたちも、中国の王侯も、墓へ宝を持ち込んだ者はみなやられています。エジプトには王の墓の盗掘を代々世襲の仕事にしている連中が本当にいたそうですし、ヨーロッパでは盗掘人たちが組合を作っていたそうです。中国に至っては、王が死ぬ前に、墓の位置を推測して、王がまだ生きている内にもう掘り進めたケースがあるほどです。そんな先まわりをするのは、ライバルがたくさんいたということです。また、あとで学者たちが掘り出してみると、宝物を納めたところが凄《すご》く乱雑になっていたケースも少なくありません。盗賊の仕業ではなく、最初からそうなっていたらしいのです。宝物を運び込んだ人々が、そのまま埋められるのを恐れ、あわてて放りだして逃げたからです。場所の秘密を保つため、たびたびそういうことが起った証拠です。エジプトのファラオの墓も、ピラミッドではどうしても盗掘が防げないと判ると、地下へそっと埋めこまれ、場所が極秘にされました。しかしそれでもやられました。こいつは、考えてみればあたり前なんです。宝物というのは人間の欲望とイコールで結べるからです。所有する人間も欲なら盗む人間も欲です。宝の値打ちとは、欲の度合にほかなりません。だから埋めかくせば必ず嗅《か》ぎつけ盗まれるのです。ところが正倉院だけは、あれほどの宝物が、校倉《あぜくら》造りの壁一枚向うに、地面の上にニョッキリと姿をあらわして置かれているのです。場所も秘密ではありません。兵隊が守ろうが坊主が番をしようが無防備に等しいわけです。何しろ、千二百年の間なのです。兵隊が盗んでもいいし坊主がくすねてもいい。本家本もとの天皇にしたって、食うや食わずの時代があったのです。天皇がアルバイトに字を書いて売っていたこともあるそうですし、即位したけれど改元の費用がなくてそのままほったらかしていたこともあるんです。そんな時、宝に手をつけたって少しも不思議じゃありません。ところがちゃんと今日まで残った。いったいなぜだ。普通の人は首を傾《かし》げるだろうけど、諸君はもうその防犯上の仕掛けが判ったはずです。嘘部が守ったのです。人間のあくどい欲望を萎《な》えさすほどの迷信、たたり、つまりタブーを作りだしていたのです。諸君が日本各地から集まったのは、そのために嘘部が各地へ散ったからでしょうね。そういうタブーは、一度だけ作ってあとは放っておくというわけにはいきません。恐ろしいもの、こわいものは、世につれ人につれて変化しますからね。その時代時代に見合った恐ろしさを作りださねばなりません。タブーのリフレッシュメントです。つまり、嘘部の最終的な仕事は、正倉院へ寄ってたかって黒い虹をたて続けることでした。そして見事にやってのけたのです。僧侶、貴族はおろか、天皇でさえ手をつけられなくしてしまったのです。松永|弾正《だんじよう》が手をつけたと言い、織田信長が開かせたと言いますが、現に宝物は残っています。全部は奪れなかったのです。恐らくそういう時、嘘部は必死にはたらいたはずです。自分が立てた黒い虹を守るために、自分自身がタブーに触れて死んで行ったことすらあったようです。恐ろしさをそうやって証明したのです。諸君もきっと、自分の嘘の証明のためなら、死んでしまっても悔いはないと思った経験があるでしょう。しかもその嘘は、文書に残してはいけない、書くことの許されない嘘だったはずです。時がたち、明治になって、やっと黒い虹が不要になりました。諸君のお子さんが諸君を嘘つきな親だとは思わぬように、君たちの祖父や祖母も嘘つきだと思われないで死んで行きました。秘密は呆気《あつけ》なく闇《やみ》に消えました。……ついこの間まで、東大寺には床下|乞食《こじき》と呼ばれる連中が巣食っていました。正倉院のあの高床の下をねぐらに、腹をすかせた連中が、ごろごろしていたのですよ。頭の上には物凄い宝物があったのにです。宝庫へ入るには、錠にまきつけた綱に貼《は》った勅封のシールをはがし、刃物で綱を切り、錠を鉄棒か何かでぶっ叩けばそれでよかったのです。僕らの先祖はやってのけたのです。嘘をつきまくり、人々の心から正倉院の宝を遠ざけ、忘れさせ、忘れさせられない人間には恐怖を与えたのです。こんなすばらしい防禦《ぼうぎよ》システムがまたとありましょうか。こんな天才の集団がほかにいるでしょうか。しかも嘘部は、一般の人間とくらべ、とても淡泊です。欲望はすべて嘘の完成にふりむけられ、物欲もなにもかも、その嘘への欲望の前に薄らいでしまうのです。我々は嘘をつくために生まれた人間です。嘘で社会に貢献するのです」
伊余部はきっぱりと言い切った。
第六章 蒼《あお》ざめた男
グリーン・ホールにおける最初の晩と翌日の前半の講義は、宏一はじめ全国から集まった嘘つきたちをひどく満足させてくれた。麻績部《おみべ》という古代の名が親しげに口にされ、神麻績《かむおみ》という耳なれぬ名も身近なものになった。
朝部という男は読書好きらしく、
「服部《はつとり》などというのはたしかにそうなんだろうな」
と言って教えてくれた。
ハトリベ。ハトリ。……機織りである。神衣を作る神《かむ》ハトリ、呉から帰化した呉《くれ》服部、棚機《たなばた》を用いる殿《との》服部などの別があり、帰化人系とそうでないものに二分されるという。
「忍者《にんじや》に興味があって調べてみたことがあるのさ」
朝部はさりげなく言ったが、宏一はその横顔に嘘つきとして共通の業《ごう》のようなものを感じた。忍者のような存在に、朝部も血縁的なものを無意識に感じていたに違いないからだ。それは宏一がスパイとして容子の前に存在したがったことと同じ心理であるはずであった。
「しかし面白いことだね」
朝部は講義の内容を引用して自分独自の考えを言った。
「もちろん、古代の民衆操作に嘘部が活躍したのは本当だろう。卑弥呼《ひみこ》のような人物が神がかりで神意を伝えるとしても、それが一回勝負の本物である時代はそんなに長く続くわけがない。舌三寸、腹づもりしだいでどうにでもなるのははっきりしている。だんだんそれを本物に見せるテクニックが必要になって来るわけだ」
したがって、より古くは特に嘘部ばかりではなく、支配側関係者のすべてがその演出にたずさわったのだろうと言う。その演出の過程における主役がすなわち天皇であり、民衆側へ入って反応を誘導するのが、のちの嘘部であったと言うのだ。
「例の盟神探湯《くがだち》だが、熱湯に素手《すで》を入れてやけどをしない人間なんているだろうか。やけどをしなければ正しい人間であるなんて、少しめちゃくちゃだと思っていたんだよ。でも、裁かれる側に嘘部がひそんでいるとなると話は違って来る。きっと、熱湯に手を入れてケロリとしていた奴がいたに違いないね。トリックがあったのさ。だからやましい人間は熱湯に手をいれる前に兜《かぶと》をぬいでしまうんだ。みんながやけどをするのなら、別に恐れることはないんだ」
多分そういう場合の嘘部は麻績部ではなく服部のほうだろうという。後代のありようからそう考えたようだ。忍者のように物理的トリックを主とするのが服部、心理的なほうが麻績部というわけである。
しかし、あのグリーン・ホールにおける歴史以外の、いわゆる訓練というのは、どうも立派とは言えなかった。嘘つきの訓練と言っても、方法が確立されているわけではなく、心理学の入門的な勉強とか、嘘を用いる時に必要な事実関係……つまり一般常識の強化程度のことであった。
すでに教育をおえた先輩たちがいると伊余部は言ったが、あとで判って見るとそれは黒虹会設立の際にすでに集まっていた関係者にすぎず、実質的には宏一たちが第一期生であった。したがって教範がないのもあたり前で、教える側はそのあやふやな分を、ペーパー・テストで気分的におぎなっているようだった。
宏一はなんとなく、自分が営利本位の各種学校か、なんとか講座、なんとか教室といった曖昧《あいまい》なところで、いいかげんな勉強をさせられているような気分になった。
しかし、グリーン・ホールでの教程が後半にさしかかると、内容は急に充実し、息をのむ迫力が出て来た。黒虹会の尋常でない性格がはっきりしたからである。
たしかに黒虹会は嘘つきの集団であった。ひとつの独立した嘘つきタレント集団であるが、それは同時に各種の機能を持った集団が連携し合う、巨大な組織の一部分でもあった。宏一の頭の中で、それまでの国家というものの像が急速に変形されて行ったようであった。
国家を存続させることが社会の最終的な目的であり、国民はその目的を遂行するためのエネルギー源なのだ。官民を問わず、すべての組織はそのためにあった。黒虹会もまた国家を存続させるための組織、つまりひとつの手段なのである。
したがって、黒虹会の機能が国家の存続のために作動する時、黒虹会は他のすべての組織の全面的な協力が得られるのだ。
他の組織とは、諸官庁、民間企業を問わず、警察、裁判所すら含まれている。ただ、それらが直接国家存続のために動いていることを一般に知らせ、エネルギー源である国民の意欲を阻害する恐れのある場合には、すべてが秘匿《ひとく》されなければならない。
「つまり、いつでもナイショ、ナイショというわけじゃないか」
あとで朝部はそう言って笑ったが、宏一にとってそういう小むずかしいことはどうでもよかった。要は自分が本物のスパイになれそうなことであった。
もう、一人で他人を欺《だま》さなくてもよくなった。必要な時、これから宏一は自分以外の人間を、自分の嘘の協力者としていくらでも投入できるのであった。
たとえば宏一が誰かと道を歩いている時、向うから有名なスポーツマンがやって来て、すれ違う時「やあ……」と宏一に挨拶《あいさつ》したとする。同行者がそのスポーツマンに憧《あこが》れていたとすれば、宏一を見る同行者の目は一遍にかわるはずである。
これからそういうことが宏一には可能になるのだ。ただし、それには上司である伊余部たちの承諾を得なければならない。多分伊余部たちは更にその上の連中にはかるのであろうが、とにかく宏一たちにとって伊余部は嘘計画の相談役であり、上層部への企画提出責任者であるのだった。
どうやら伊余部氏は、伝統的にそのような役目を受持って来たらしかった。嘘部と伊余部の関係はそうした古代からの糸につながれていて、多分その糸の先には、いつか朝部が言ったように橘氏がいるのだろう。橘氏の先には、聖徳太子のような主役が存在していた時代もあるのだ。
それはそれとして、こと嘘に関する限り、実力は宏一や朝部や、その他の旧麻績部氏系嘘部の末裔《まつえい》たちのほうが段違いに上であった。実技訓練と称する教程の中で、伊余部はしょっ中生徒たちに笑われた。それは宏一たちにとって楽しい遊戯であった。集団で遠足に出たり、小田原あたりまでドライブするのである。その間に生徒はありとあらゆる嘘のテクニックを用いて先生を欺《だま》すのだ。
たとえば、小田原のレストランにいた時、一人が外へ出て少し服を濡《ぬ》らして戻って来た。
「ちぇっ。とうとう降って来やがった」
彼はそう言って席に戻った。みな、そうかと軽く考えた。ところが、宏一が部屋の外へ出て見ると、窓から陽《ひ》がさしていた。宏一はさっきの男よりもう少し余分に濡れて部屋へ戻った。ひとことも言わなかった。
何人かが出るたびに濡れて来て、最後に伊余部が言った。
「まだやまないのか。さっきは晴れていたのになあ」
その時嘘つきたち全員が声を揃《そろ》えて言った。
「もうやみましたよ……」
その程度の嘘はいくらでもあった。そして伊余部という男は、だんだんみんなに好かれて行った。嘘を判ってくれるのである。伊余部は嘘つきのよき理解者であった。それもまた、古代から連綿《れんめん》とつらなるひと筋の糸であったのだろう。
やがてグリーン・ホールにおける教育もおわった。その間に伊余部は鋭く各嘘つきの個性を観察し、分類していたらしい。彼は各人の担当部門を発表し、その決定に誰も文句をつけなかった。伊余部は嘘つきに信頼されていたのだ。もう誰も伊余部に本気で嘘をしかける者はいないようであった。そしてその事実に気づいた時、宏一は日本人が作りだした血筋の組合せの妙に感嘆した。古代の氏姓制度の中核には、国家を運営して行く血統の組合せが秘められており、嘘部と伊余部は常に円滑な協力体制がとれるようになっているのだ。
「そうだな」
朝部は宏一の見解に同意した。
「古代の政治はその氏姓制度が充分うまく行ったのだろうね。各職能別の部族は、それに才能があり、それをしていれば楽しいという生まれつきの人々の集団だったのだろう。だから他の職業をうらやむこともなかった。だがそれは血の組合せで、永遠に保つことはむずかしい。時代がさがれば末端から崩れて来る。中国など先進国の律令《りつりよう》はその崩れた時代を再編成する技術だったのだろう。日本もそれをとり入れた。だが律令後も日本では国体の中心部にその血統の働きが強く残っていた。源氏や平家が血を重んじたのもそれだ。本格的に崩れだしたのは多分|室町《むろまち》中期以降……下剋上《げこくじよう》の戦国時代が崩壊期だったのかも知れないな」
「すると、まだ残っているわけだ」
宏一は深い淵《ふち》をのぞいたような顔で言った。
「そう。麻績部の末裔にはね」
「違うよ。僕は天皇のことを言ってるんだ」
宏一は首をすくめて言った。
朝部は国内部へ配属されて行った。黒虹会の実施部門は、国内部と国際部に分れていた。宏一はなぜか国際部へ編入された。多分彼の嘘の資質が、容子に対して示したような傾向に強く偏っていたためだろう。
国際部へは宏一のほかにあと二人まわされて来た。二人とも男で、語学の才能に恵まれていた。嘘には真似《まね》の要素があり、それが演技者的才能にまわる場合や、その二人のように語学的才能になる場合があるようだった。その二人は語学の才のため、すでに英語以外にも何ヶ国語かをマスターしていて、黒虹会はあたふたとした感じでその二人をすぐ海外へ送りだしてしまった。国際部の海外班というわけで、あとには内地班の宏一だけが残された。
黒虹会のオフィスは虎《とら》の門《もん》の立派なビルの中に置かれ、宏一一人だけしかいない国際部内地班のためにも、ちゃんと一部屋あてがってくれた。国内部も同じ建物にあり、朝部たちとも自由に交際することができた。
国内部は経済班と政治班に分れ、政治班は国際部の海外班同様、はやばやと姿を消していた。経済班に入れられた朝部の言葉によると、政治班にはすでに十人近い先輩がいて活動しているらしいという。新しい連中は彼らからどこかで特別な訓練を受けているらしかった。
経済班もぼつぼつ動きはじめているようで、朝部に聞くと公害関係の仕事だという。
「特に嘘を考えだすというわけじゃないんだ。実際に発生していて、まだそう問題になっていないのを、じわじわ大きな問題へ持ちあげて行く作業さ。まあ小手調べといったところで、軽いもんさ」
朝部はそう言ったが、新しい仕事に結構満足しているようであった。
その黒虹会のオフィスへ、宏一は毎日他のサラリーマンたちと同じように、赤坂のマンションから通勤している。容子とも連絡がつき、以前のように週に一、二度泊って行く生活が戻った。
「うちでは、あたしに恋人ができたってこと、もうみんな判っちゃってるわ」
容子はそう言った。
「いいじゃないか。必要な時はいつでも市川へ行ってやる。そろそろオープンにしてもいいぜ」
宏一は強気であった。黒虹会という名は当然のことながら表には出されていないが、そのかわり広瀬社会問題研究所というもっともらしい看板がある。正式に所員の身分を証明することができるし、収入の点ではそんじょそこらの安サラリーマンなど足もとへも及ばない。
現に宏一は両親にも、沢井の会社設立のメンバーから抜けて、いつかの晩訪ねて来てくれた広瀬の下で働いていると説明してある。もうマンションへ遊びに来られても平気だし、相当な金額を毎月送ってやっても不思議に思われなくなっている。いざとなれば容子の両親の前へ出て、正式にもらいうけてもかまわないのだ。
容子はそんな宏一に安心したのか、結婚についても以前のように言わなくなった。宏一にして見れば、それはそれで結構なことで、相変らず容子にいろいろ買い与えてはたのしんでいる。
伊余部はしばらく国内部のほうの仕事にかかり切っていた様子だったが、それも一段落して宏一の部屋へ足しげく来るようになった。宏一の部屋にはデスクが四つあり、海外へ出た二人の分と、伊余部の分がいつもあいたままになっていた。伊余部は本来国際部の部長で、国内部の部長が現場へ出てしまっている間、代理をしていたらしい。
「君は結婚しないのかい」
或《あ》る日伊余部はデスクに坐って言った。
「さあ」
宏一は首を傾《かし》げて見せた。
「津坂容子という恋人がいるんだろ。結婚してもいいんだよ。禁じられてはいないんだからね。現にはじめから所帯持ちで会へ入って来た連中もいるんだ」
「その内情勢によっては結婚しますけど、それよりどこかに彼女の就職口がありませんかね。デザイナーなんですが、東洋染色の工場へ通っているんで、余りパッとしないんです」
「いいよ」
伊余部はかんたんに言った。そしてその月の内に、容子は日比谷のデザイン会社へ職場を変えた。大企業の上層部ともつながっている黒虹会にして見れば、そんな手配はごくかんたんなことだったようである。
「どうして国内部では公害バラシなんかしてるんです。革新勢力のあと押しですか」
宏一が尋ねると伊余部はとがめるように言った。
「我々には保守も革新もない。そういう先入観はとり除いてもらわねば困るね。僕らは国をどうするかという一点にしぼって考えて行かなければいけないんだ。仮りに保守、革新という区別があっても、それは君にとって材料でしかないんだよ」
そんなやりとりをしている時、一人の男が国際部をたずねて来た。ひどく肌《はだ》の蒼《あお》ざめた感じの男であった。
「この人ですか」
その男は陰気な声で言った。宏一は以前父親が急性肺炎で入院した時のことを思いだした。医者が首を傾げるほどの病状の時、ベッドの上で父親が彼と母を呼んだ声に似ていた。
「どうぞ」
伊余部はすでに会ったことがあると見え、ソファーへ移った。部屋には立派な応接セットがあり、その日まで仕事のない宏一が恰好《かつこう》の昼寝の場に使っているだけであった。
「上から今度こそ黒虹会を使って見ろと言われました。大丈夫でしょうな」
「ご安心ください」
伊余部は胸を張って言い、宏一を招いた。
「この人物ならうってつけです」
宏一はその蒼ざめた男に丁寧《ていねい》に頭をさげた。一見|貧相《ひんそう》だが、どこか尋常でない匂《にお》いを漂わせていた。秘密の重さでやっと体を動かしているというような……。
「今度集まった人材の中でも、特に創作力にすぐれています」
「お手並拝見というわけか」
蒼ざめた男は期待しているとも信用していないとも、どちらにでもとれるような表情をした。
「名前を」
男が言う。
「浅辺です」
宏一は答えた。男はげんなりしたようであった。
「やれやれ……またか」
意味はすぐ判った。黒虹会は三分の二くらいアサベなのである。
「コード・ネームをつけよう」
男は伊余部に言った。伊余部はすぐ立ちあがり、デスクの抽斗《ひきだし》からファイルをとりだして眺《なが》め、
「プラスチック・モデルはどうです」
と言った。
「プラモデル、プラモか。いいだろう」
男は目をうすく閉じ、胸へしまいこむように言った。それは宏一の嘘以外の唯一の趣味であった。
「さてプラモ君。これは大仕事だよ」
男は睡《ねむ》ったように体をソファーの背にあずけ、宏一を薄目でみつめた。
宏一は生唾《なまつば》をのんだ。
「国際問題だ。ただし、非常に高度な、すなわち秘密の、長期的な、すなわち遠まわしな問題だ。遠からず、世界中に、石油に関する問題が、起るはずだ」
男は切れぎれな言い方をする癖があるようだった。
「判りやすく言うと、産油国、ことにアラブ諸国が、中東戦争を理由に、世界に対し、石油の供給を、中止、もしくは削減する。それはそれで、ひとつの問題だ。だがそれはすでに決定された。それについては、別の対策がある。中東産油国が、そういう動きを示すのは、根底に大きな問題がある。彼らは次の時代を考えている。米ソ二大国。米中ソ三大国。いまのところは、そういうことだ。だが、時代は動く。米、英、仏、中、ソ、そして日本。まだほかにも、次の時代を支配する可能性を持つ国が、あるかも知れん。十年、二十年後だ。いや、五十年、百年後かも知れん。彼らは、現在は現在、未来は未来で考えている。現在への手段として、供給の制限を考え、それとは別に、未来を知りたがっている。遅れをとり戻し、一気に追いつくには、未来の強大国と今から手を結ぶのが、一番早い。そこで、彼らは、ある機関を作った。一種の、未来予測機関だ。最新の方法で、各国の次の時代への可能性を、探った。もちろん、現在の技術で、未来が確実に掴《つか》めるわけはない。だが、ある程度までは、可能だ。その機関の研究は、今の世界の水準を、大きく、抜いている。結果は、日本にも目が出た。日本は、すでに欧米諸国から、吸収すべきものを、すべて吸収した。技術吸収の結果が、現在の、経済的成功だ。そのデメリットとして、世界一の公害国にもなった。これからどうする。吸収するものがない。ディオールの作品をコピーした服は、もう売ることができない。真似をするものがない。つまり、発展がとまる。打開せねば、公害に埋まって、滅びる。予測機関は結論をだした。日本の、流動的能力を、評価した。切り抜ける可能性、大……」
蒼ざめた男は去った。
「つまりこの先日本はまったく新しい技術を開発して行くことで、次の時代へ生きのび、同時に次の時代で最も有力な勢力になる可能性があるというわけか」
伊余部はソファーに坐り、脚をなげだして言った。
「でもまだそれらしいものはないんでしょう」
宏一は首を傾げる。実を言えば、何かもやもやとしたものが腹の辺りから湧《わ》きだしているようだった。
「欲しいね、そいつが」
伊余部が言った。もやもやは胸の辺りへあがって来ていた。
「作ればいいでしょう」
伊余部は笑った。
「それが僕らの宿題さ。すぐ答がでるわけもなかろう」
「出そうですよ」
伊余部は黙って目を剥《む》いて見せた。宏一は自分の着想をたしかめるように喋《しやべ》りはじめた。もやもやは急速にかたまりはじめ、喉《のど》を通って頭へあがってしまったようであった。
「嘘には具合がいい状況ですよ」
「どうして」
「相手に期待が生まれてます。嘘の舞台へ相手がもう自分からあがっているんです。もし日本に予測どおりの動きが出たらこうしよう。そう思っているでしょう。大金をかけて作った自分たちの機関が、実際に役立ってくれることを期待してもいます」
「当然だな」
「次の時代を変えるような凄《すご》い発見か発明をこっちがしたとすれば……」
「それができれば苦労はないさ」
伊余部はやはり嘘つきではなかった。
「実際にできなくても、可能性を示せばいいんです。半分成功、半分失敗……それで充分です。ただしその場合、こっちが向うの機関のことをまったく知らないということが条件です。さっきの人たちのほうで、もう一度それを確認してもらいたいですね」
伊余部はデスクへ移って、何かメモをしはじめた。
「先方の期待を、こっちが全然知らないということになれば成功するでしょう。日本がその機関についてスパイ活動をしたことがバレていないかどうか」
「それは確認をとろう。で、どうする」
「確認できればあとはかんたんです」
「それが問題じゃないのか」
「逆ですね。嘘をつく場合、僕らが一番苦労するのはそこですからね。相手の気持を推測するしかないんです。でも、それをあの人たちが確実におさえてくれるなら、こっちは考えるだけですみます。どの程度の規模の嘘で、どの程度まで第三者をまき込むか、次はそれをきめてください。中心になるアイデアはもう僕にはあります」
「ほんとか、おい」
「ええ。明日までに具体的に言えるようにします」
「嘘じゃないだろうな」
すると宏一は思わずニヤリとした。
「もちろん嘘ですよ」
「そういう意味じゃない」
伊余部はあわてて言った。
「明日までにあら筋をまとめるのなら本当です」
「君たちはややこしくてかなわんよ。国内部でもそうだったが、仕事になるとみんな急に冗談が多くなる」
伊余部はぼやいた。
「僕は嘘というものは、現実の裂け目を埋めるものだと思っています。身に余る欲は現実に裂け目を作ってしまうのです。今だって日本はないものを欲しがって、その裂け目を作ったじゃありませんか。僕はそれを嘘で埋めようとしています。体からまだ形にならない嘘がふきあげているのです。裂け目を埋めるそのタールみたいなものを現実の上へ落せば、それはつまり冗談ですよ。仕事に近づくとみんな冗談を言い出すのは、当然な生理的現象でしょうね」
「嘘つきはユーモリストってわけか」
「フィクションを扱う落語家なんかが、ウイットを要求されるのはそういうことなんでしょう」
「なるほどね」
伊余部は納得したようであった。
翌日宏一はオフィスへ出なかった。朝のうちにそのむね連絡はしておいたのだが、昼近くに伊余部が赤坂のマンションへ電話して来た。
「なんだ。きのうの話では今日中に具体的な企画を出すということだったじゃないか」
それほど責めてはいない調子であった。
「資料が要りますよ」
宏一が答えると、どんな資料かと聞く。
「出版物です。ごく普通の科学雑誌でいいんですが、バックナンバーが揃っていないと……」
伊余部はなんだそんなことかと言い、すぐ出て来るよう命じた。オフィスへとんで行くと、伊余部はすぐ宏一を霞ガ関にある小さな建物へ連れて行った。小さいと言っても、それは超高層と較《くら》べるからで、かなり古い三階だての、どっしりとした建物であった。
「大日本著作研究会……」
石段をあがった入口のドアの上に、そんな大時代な名称が刻んであった。
「戦前からのものだよ」
伊余部はニヤリとして言った。
「出版物を調べたい時は、これからここへ来るといい。恐らくなんでも不自由しないはずだよ」
伊余部は自信ありげだったが、まったくそのとおりであった。採光の悪い建物の天井に、蛍光灯《けいこうとう》が妙にわざとらしい感じで並んでいて、小さな部屋ごとに雑誌や新聞の山に埋もれた男女が静かな作業をしていた。
閲覧室にはひどく素《そ》っ気《け》ない態度の女が二人いて、伊余部が黒虹会だと名乗ってから科学関係をというと、びっくりするほどの素早さでガリ版刷りをもう一度湿式複写機でコピーしたらしい一覧表をくれた。
「ここは雑誌専門だ。国会図書館と併用するとないものはなくなるだろう」
伊余部はそう言い、堅い木の椅子に坐って一覧表にマル印を記入して行く宏一の手もとを見ていた。
「一般の雑誌や新聞だけじゃない。学界報から社内誌、PR誌、地域商店街ごとのミニコミ誌まで、手に入るものはなんでも揃ってる」
「いったい何の目的で……」
「それはいろいろ目的はあるさ。利用価値も高いよ。ことに、どんな人物がどういう発言をしているかということを知るにはな」
「なるほど」
宏一は伊余部にリストを見せた。
「この程度でいいんじゃないかと思います」
「上の階へ行くと最新式のマイクロリーダーを使うパテント・ファイルがある。そっちも要るんじゃないのか」
「そんなもの僕が見たって判りませんよ。それに僕が探してるのは大嘘のタネですからね。すでにパテント・ファイルに入っていたんじゃ役に立ちません」
「それもそうだ」
伊余部は苦笑した。
「でも、これでいったい何を探そうというんだね」
「今度のことは要するに石油問題でしょう。アラブの求める未来像といっても、結局問題は現在につながるし、言って見れば石油資源の未来ということになるわけですよ。そう思ったから、石油をタネにしてやろうと思ったわけです。先方にとってはすべてが石油ですし、したがってそれに関する特別な感情があるわけです」
「石油問題は完全に嘘の舞台へのってしまっているというわけだな」
「ええ。だからそこを突っつくのです」
「どうやって」
「運輸、交通に関して石油がまったく無用の長物になる未来像を作りだすんですよ」
「それじゃ石油の価値はゼロじゃないか」
「そうでもありません。それに、完全にゼロにしたらかえって反感を買うだけです。一|目《もく》か二目置かせるだけでいいんでしょう」
「うん」
「輸送エネルギー源としての価値だけ失わせて、あとは残しておけばいい。それと同時に、軍事力の面で日本が画期的なことをやって見せるんです。ちらっとね。ハッとさせればいいんですよ」
「そのふたつが一度にできれば充分だな」
宏一は係りの女たちの所へ行ってリストを渡し、出された別の用紙に何か記入して席へ戻った。
「重力関係だって」
伊余部はちらりと聞えた言葉をいぶかしげに口にした。
「まあ見ていてください。これからとんでもない大発明をしてごらんにいれますから」
宏一はたのしそうに笑った。
それからほぼ一週間、宏一と伊余部は企画書づくりに没頭した。とほうもない嘘の筋道が設定され、細部が塗りかためられた。その作業は、伊余部はとにかく宏一にとってはひどく楽しいものであった。
広瀬にそれを提出したのは次の週の水曜日であった。
広瀬はあの溜池のホテルの部屋の大きなデスクでそれに目を通し、もう一度要所要所を読み返してから、パサリと書類をデスクの上に抛《ほう》りだすと、回転椅子にもたれて葉巻をつけ、それから立ちあがって窓際へ行った。その窓から見える風景は、いつか宏一が広瀬に嘘を次々にバラされて泣きながら見た風景であった。
「古代に嘘部がいたことをわたしが知らなかったとしたら、わたしはそんなものは半分読んだところで屑籠《くずかご》へ抛《ほう》り込んでいるだろう」
ふり向いて眩《まぶ》しそうに宏一を見る。
「えらい立場へ追い込んでくれたものだ」
広瀬はつらそうな溜《た》め息をした。
「とほうもないペテンだ。常識では考えられん。たわごとだよ。だが必要なことは全部|揃《そろ》っている。君は歴史に詳しいか」
「いいえ」
宏一は堅くなって答えた。
「長い世界の歴史の中で、いったいどの国の政府が、どんな政治権力が、こんなばかげた茶番劇を考えついた……これを我々がやったとすれば世界の歴史はじまって以来のことになるだろう。トロイの木馬のほうがまだましだ。そのくせ必要なものは全部みたしている。嘘部というのは始末に負えない人間だぞ。ばかばかしいが見事だ。だがわたしには重い荷だ。これを常識でこりかたまっている連中に説明しなければならん。説得しなければならんのだぞ。これがどんなに素晴しいか、どんなに効果的か……浅辺君。君はひどい奴だ。大嘘つきだ。きっとこれはうまく行く。何がなんでも実現させよう。企画書は読んだ。さあもう一度、君の口から説明してくれ。何しろわたしの相手は判らず屋ばかりだからな。こっちも肚《はら》を据《す》えて説得しなければならんのだよ」
「なんだ、判ってもらえたんですか」
宏一が叫び、伊余部が宏一に握手を求めた。
「わたしも嘘つきの仲間入りだ」
広瀬はそう言ってニヤリとした。デスクへ戻って葉巻を咥《くわ》えると、目を細めて宏一たちの企画書をとりあげた。
「それはあくまでも企画書ですから、実際には変更可能な部分がたくさんあります」
伊余部が言った。
「まず重力を研究している物理学者が必要だな」
広瀬は伊余部を無視して宏一に言う。
「ええ。企画書では個人にしてありますが、それには特にこだわりません。グループでもいいのです」
「だができれば個人がいいな。人数が多いほど嘘はバレやすい」
「でも、多いほど真実らしく見える効果があります」
「しかし、その連中をまず欺《だま》さねばなるまい。個人のほうが楽だ」
「それはそうです」
「次……その科学者が或る重大な発見に近づいていたという痕跡《こんせき》を作る。これは楽だな。この程度のことは通常の諜報《ちようほう》技術で充分可能だ。さて、そこで防衛庁の一部がその男の研究に介入して行く形をとるわけか。企画書のこの部分は少し安易だぞ。現実に起ったとすればもっとずっと複雑な形になるはずだ。この点はわたしにまかせてくれ。過去にこれと似たようなケースが実際に何度も起っているからな」
「研究者はいや応なく防衛問題にまき込まれて行くわけです。そして国が極秘裡《ごくひり》にその研究を支援することになります。大金を投じて研究が進められ、実験に一応成功するわけです」
「その間に秘密が一部国外へ洩れるのだな。この問題をちらつかせれば、世界中のスパイどもが目の色を変えて羽田へとんで来るに違いない」
「産油国側だけに向けられた情報ではないということを打ち出さなければなりませんから、できるだけ多くの国にとびついて来させる必要があります」
「その上で、この単純きわまるマジック・ショーを演ずるわけか」
広瀬はたのしそうに笑った。
「君はいったい、どんな具合にこれを思いついたんだ」
広瀬はひとわたり説明がおわると砕けた様子で尋ねた。
「以前何かの雑誌で読んだことがあるのです。だいぶ前のことで、記事もよく憶えてはいませんが、重力というごくありきたりな現象が、実はまだまるで判っていないということを知ってびっくりしたんです。……ご存知でしたか」
「いや。重力と言えばニュートンの林檎《りんご》を思いだすくらいなものだよ」
「物質は互いに重力で結びついています。太陽をめぐる惑星や、地球と月との関係がいちばん判りやすいのですが、ミクロの世界でも同じことです。原子の構成は太陽と惑星の関係に似ています。その集合体である……たとえば僕の体は、重力をなくしてしまうとバラバラに分解してしまうでしょう。もし重力が自由にコントロールできるとすると、物質を静かに分解させたり、合成したりすることが可能になるわけです。その方面の研究はソ連やアメリカで実際にはじまっているようです。ソ連の学者が発表したグラヴィトロン粒子論や、アメリカの天体物理学者が検出した銀河系中心部からの重力波などは、かなり有名だそうです」
「まるっきりのでたらめではないのだな」
「ええ。この間、伊余部さんと文献をあたりましたら、アメリカの物理学会報で、フィジカル・レビュー・レターズというのに、重力波が検出されたことがでかでかとのっていることが判りました。アインシュタインは五十年以上も前に重力波の存在を予告していたそうです。今度の件をはじめて聞いたとき、いきなりそれが頭にうかんだのです」
「いきなりかね」
「ええ。僕が嘘をこしらえるときは、だいたいそんな具合なのです。何の脈絡もなく、いきなりパッと来るんです」
「その辺が嘘部の末裔なのだな」
広瀬は珍しく感心した表情を示している。
「そこから先はかんたんです。もし物質が一方から一方へ電波のように送れたらと想像するだけでいいのです。その夢のような話を今度の件に結びつけて、もしそれを信じたら、相手はどういう反応をするかと考えてみるわけです」
「それがわたしらにはかんたんに行かんのさ」
広瀬が笑った。
「どうしてです。もっと単純なことはみんないつでもやっているのではありませんか」
「というと……」
「もし自分が本当に億万長者だったとしたら……そんな風に考えることはありませんか」
「近頃はなくなったが……」
「実際にはポケットの中に硬貨一枚ないとしても、相手に自分が大金持だということを信じさせることができたら、相手はどんな反応を示すだろうか。そう考えることはあるはずです」
「なるほどな」
「産油国側は将来日本が画期的な技術を開発する可能性があると考えています。だから日本は重力問題の解明にとり組んでいるというふりをして見せるのです。向うは苦労して得た解答が正しいことを期待していますから、さてこそとばかり重力の餌《えさ》にとびついてくるはずです。ところがこっちはあわててそれをかくすわけですね。お前たちになんかやらないぞと言って。かくしかたが厳重であればあるほど、嘘の餌は本物らしく見えて来ます。こっちが必死にかくしているのですから、餌の実体はよく見えないのが当然で、その点では向うもよく判らなくても怪しみません。要するに問題はここで大きくすりかわって、中身よりも外側のほうがまず重要になってしまいます。嘘というのは言ってみれば、問題の核心よりも外側のほうに注意を向けさせる技術です」
すると広瀬は何に思いあたったのか、急に大声で笑いだした。
「そんな悪いことをする人間かどうか、俺《おれ》の目を見てくれという奴だな」
「そうです。犯した罪の痕跡は操作しにくいが、目ならどうにでもなります」
「よし、判った。わたしはそういう言い方を探していたのだ。その言い方ならあの連中にもすぐ理解できるだろう」
どうやら広瀬がこれから企画を説明しなければならない相手というのは、政治家たちであるようだった。
さらに一週間後。
宏一は溜池のホテルのすぐ近くの、小さなビルへ移動を命じられた。
そこは一階と二階がタクシー会社のオフィスで、裏口はじかにその会社のモーター・プールに接していた。
宏一が三階へ着くと、すでに広瀬が来ていて、たのしそうな笑顔で迎えてくれた。
「当分ここが君の作戦本部だ」
「作戦本部……」
「例の企画にオーケーが出たのだ」
「で、この人たちは」
宏一は二十人ほどの、いずれもキビキビとした態度の男女を眺めた。
「君の要求どおりに動いてくれるその道のベテランだ。ただし、君の部下というわけではないから、人間関係には注意して振舞《ふるま》って欲しい」
宏一はあらためてその男女を観察した。
「スタッフのチーフを紹介しよう」
広瀬は一人の男に手招きをした。
「チーフ。これがわたしのほうの浅辺宏一君だ」
その男はかなりの長身で、髪を短く刈り、丸顔で血色のいい肌をしていた。
「外部の方から見たら変わり者ぞろいですが、仕事は安心してまかせてください。ところでお名前ですが、赤というコードで呼ばせてもらいますよ。何しろアサベばかりで参るんです、広瀬さんのところは……」
男は広瀬をからかうような目でみつめ、すぐ仕事に戻った。通信機器らしいものの配置をきめている最中であった。
「赤……」
宏一は怪訝《けげん》な顔でつぶやいた。
「赤、レッド、リンゴ、日の丸……赤のイメージさえ明確ならどう呼んでもいいことになっている。伊余部はオレンジだ」
「へえ。オレンジですか」
「チーフのいたずらが判るかね」
「いいえ」
「真っ赤な嘘の赤さ」
広瀬は笑った。
「ここは政府の情報活動センターのひとつだ。七階まで全部その筋の組織のオフィスがつまっている。それに、下のタクシー会社もまるごとスパイ組織の一部だよ」
宏一はビルの裏側の窓へ行ってモーター・プールをみおろした。黄色く塗った、何の変哲もないタクシーが並んだ一隅《いちぐう》には、ハイヤーらしい黒い高級車も見えている。
広瀬がうしろへ寄って来て耳もとで言った。
「あれがあるおかげで、時々とほうもない手品ができるのだ。通りすがりのタクシーをとめて乗ったら、そのまま行方不明というような具合にだよ」
宏一はふり返って広瀬をみつめた。
「誘拐《ゆうかい》ですか」
「ごく自然にいなくなるわけさ」
「東京というのは恐ろしい町ですね」
「東京ばかりではないが……」
広瀬は曖昧《あいまい》に言って窓を離れて行った。
「伊余部さんはどこへ行ったのです」
追いついて宏一が言う。
「ヘリの演技訓練を発注しに行った」
宏一は自分の考えだした大掛《おおがか》りな嘘が、実際に逞《たくま》しく推進されはじめているのを感じた。企画段階で思っていたより、ずっと重い手ごたえであった。
「うまく行きますかね」
宏一は思わずそういうと、広瀬は厳しい表情で睨《にら》んだ。
「もう冗談を言っている場合ではない」
宏一は首をすくめた。狼《おおかみ》が来ると怒鳴ったら、バタバタと戸が閉められて行った感じであった。
「ようし。その窓はふたつとも当分しめ切りだ」
チーフが命令し、部屋がすっと暗くなった。それまで天井からいっぱいに壁面を掩《おお》っていたカーテンが、ジーッという低いモーター音とともに開かれると、色どりもあざやかな東京の市街図があらわれた。いちばん下はモノクロの航空写真をつなぎ合わせた地図で、その上に一般、中・幹線道路と電車路線、その上に高速道路網を描いた透明なプラスチックの一枚板が重ね合わさり、一番上に宏一には意味不明の区分図があって、全体として東京の精密な立体地図になっている。
「テスト」
チーフが言い、宏一に手招きした。
「あなたの知人の住所を言ってください。実在のですよ」
宏一は擽《くすぐ》ったそうに曳舟《ひきふね》の家の番号を言った。言っている間にもう電子装置が動きだし、言いおわるとすぐ、一番下の地図に緑色の点が輝いた。近寄ってよく見ると、たしかに自分の家であった。
「このために政府は町名地番の整備をしたようなものです。ではもうひとつ……」
宏一は自分のマンションを言った。今度は緑の光が点滅した。
「点滅は監督下にあることを意味します」
チーフは何気なさそうに言い、コントロール・パネルのキーのひとつに触れた。ヘッド・ホーンを宏一に渡す。
水音とハミングする声が聞えた。容子の声だった。部屋を掃除しているらしい。
「畜生」
宏一は赤くなってつぶやいた。ずっと監視されていたのだ。
チーフは委細かまわず次の命令を出す。
「テスト。オレンジ」
六本木の近くに点滅する緑の点があらわれた。竜土町あたりにいるようである。
チーフは次々にテストを命じた。宏一はほとんど自由自在に個人の行動を知れる強力な監視態制に呆《あき》れた。
これならどんな嘘でも大丈夫だと思った。
10
スクリーンに一人の男の姿が写っている。
「年齢、三十四」
「出身地、鳥取県」
「家族……両親死亡。兄弟なし。鳥取市に叔母《おば》。氏名、西田斉子。年齢五十七」
一人の人間の背景がそういう基本的な事柄から次第に微細な部分まで説明されて行く。
「山本一郎とはまた平凡な名だな」
暗い部屋で広瀬が言った。その横に伊余部と宏一がおり、チーフが機械を操作していた。
「この男が憐《あわ》れないけにえというわけだな」
広瀬が笑った。
「ええ。申し分ないようです」
チーフのとなりにいる情報分析の専門家が言った。
「どう思います、レッド」
宏一はちょっと自分が呼ばれたのに気づかなかった。
「恋人がいるんですね」
「かまわんじゃないか」
広瀬が言った。
「それが邪魔になるようでは、こっちの技術が未熟だということだ」
「決定しますか」
チーフが尋ねた。
「ちょっと待ってください。いったいこの人物は、最後はどうなるんです」
伊余部は心配そうであった。
「知らんね」
広瀬の答はにべもなかった。
「となりの赤ん坊に聞いてくれ」
「おい、どうなるんだい」
「困ったな。そこまで考えていないんだ」
宏一が言うと、広瀬は励ますようにその肩へ手をのせた。
「嘘を守るなら自分さえ死ぬのが嘘部だろう。覚悟するんだな。この人物は今度の嘘の中心だ。奇術のタネだ。進行次第によっては死ぬこともあり得る」
「そうですね」
宏一は答え、企画責任者として決断した。
「僕はこの人で充分です」
「よし、決定だ」
部屋に灯りがついた。チーフはその小部屋の隅の電話をとりあげ、
「|M《エム》・|K《ケイ》・|4《フオー》、スタート」
と告げた。
「全体の作戦名だ」
広瀬が説明してくれた。
「MK4は三段階にわかれる。初動段階はC662。ここでは嘘を作る。第二段階では嘘を相手に与える。09だ。フィニッシュで嘘を信じ込ませる。1147だ」
広瀬は立ちあがった。
「どうだね、気分は。……赤いプラモデル君」
そう言うとポケットに手を突っ込み、黒く細長いものを宏一に渡した。
「なんだい、それは」
伊余部がのぞき込んだ。
「新型魚雷の部品だよ。以前こいつを世界中のスパイが狙《ねら》っていた」
すると電話から戻ったチーフが、ちらりとそれを見てゲラゲラと笑いだした。笑いながら機械のスイッチをオフにした。
「本当かい、それは」
伊余部はチーフの笑いで疑いだしたようであった。
だが宏一は、真顔でそれをみつめていた。その部品の横に、小さなナンバーが刻みつけられている。あまり小さくて一本の線のように見えるが、それにはMK4=C662/09/1147と書いてあるのだ。
感無量だった。
カン、カン、カン、と鋳型を外《はず》す時の音が聞えるようであった。厚い手袋をとおしてプラスチックを融《と》かす高熱が感じられるような気がしていた。
第七章 藍《あい》より青し
偽造部文書課、と伊余部が冗談に言ったあるセクションから、一人の男が来てスタッフに加わった。
JCIA、と宏一が仇名《あだな》をつけた組織から、山本一郎という男の書いた書類がひと箱届いた。
あの蒼《あお》ざめた顔の男もよくセンターへ顔をだすようになった。名前はいまだに判らないし、スタッフもだれ一人尋ねようとしない。
国際部から定期的に連絡が入るようになった。大部分はオン・ライン・システムでいきなりコンピューターが呑《の》みこんでしまうらしい。
偽造部文書課は伊余部と宏一の間だけの仇名になったが、実際そのお洒落《しやれ》な男は、文書偽造の……特に他人の筆跡を真似《まね》る名人だった。原稿用紙の枡目《ますめ》十字分くらいの細長い特殊な窓をはめこんだ感圧計という板のような装置を持っていて、山本一郎という人物の筆跡をまたたく間にマスターしてしまった。
ある日冗談に伊余部と宏一のサインを真似て見せた。ことに伊余部の書体は真似しやすいらしく、彼が書いて見せた見本どおりの字のほかに、三つほど違った書き方をしてみせた。
「あなたのような書き方をする人は、こういうように書くこともあるはずです」
言われて伊余部は目を丸くした。
「するよ。そっくりだ」
「でもこれは子供だましです。プロが分析したらすぐ偽筆だと判ってしまう。わたしは本職を欺《だま》すわけですからね。だからこの感圧計が要るんです。筆圧を丁寧《ていねい》にマスターしないと、とんだことになりますからね」
「でも、そんなことをしていると、自分の字がなくなりはしないかね」
「そんなことはありませんよ」
男は笑い、一気に二字書いて見せた。綺麗な、少し女性的な字であった。
「羽鳥……君の名前かい」
「ええ」
宏一は思わず伊余部を見た。伊余部はしばらく気づかず、やがてハッとしたように宏一へ顔を向けた。宏一が頷《うなず》く。
「ハトリ。機織り。つまり服部だ。ここにも嘘部の末裔《まつえい》が活躍しているのだな」
「なんのことです」
羽鳥は知らないらしかった。遠い昔に別れた嘘部集団の一方の流れを、宏一はまぢかに見た気分であった。
「麻績部《オミベ》系は心理的な方向へ、服部系は物理的な方向へ分化したんだろう」
宏一はつぶやくように言い、今度の嘘の成功を信じた。
その羽鳥が専門家の科学的分析にたえられる筆跡をマスターすると、MK4は一気に動きだした。
羽鳥のセクションからもう一人文体の専門家が来て、山本一郎が書いたことになるはずの文章をせっせと書きはじめ、それを羽鳥がいろいろな用紙に書きわけて行く。
それと平行して、新科学研究財団という組織との連携作業がはじまった。
新科学研究財団は実在していた。
それは科学技術庁の外郭を粧《よそお》っていたが、実際にはアメリカのランド研究所に似た、軍事技術開発組織で、軍事問題に関する国情の相違から、ランド研究所とは比較にならぬほど複雑な機構を持って、学界、産業界の内部に深く根を張っているようであった。
蒼ざめた男はその財団と深い関係があるらしく、センターへやって来る財団系の男たちは、ひどく丁寧な口の利《き》きようをしている。
「車輛の整備工場がここに三棟並んでいる」
男は例の陰気な喋《しやべ》り方で男たちに説明している。どこかの自衛隊基地の図面がテーブルの中央に置いてあった。
「通信隊の建物がこれだが、工場のかげになるから問題はない。工場の一番北から、これが医局、そのとなりが司令部その他のある本屋《ほんおく》で、その先が居住区になっている。B点はこの中央の広場だ。以前はここで特車の操縦訓練などをしたが、今はやっていない」
「B点の設置もこちらでやるのでしょうか」
「いや。いま中央の広場には車輛が集められ、それにかこまれた中で、B点の設置作業が進められている」
伊余部がその打合せを横目で見ながら宏一に尋ねた。
「B点というのはなんだい」
「ああ、きのう呼び名がきまったんだ。例の手品のタネをしこんでおく位置さ」
「あれか……」
伊余部が失笑した。
B点は自衛隊基地の広大な庭の中央部に作られる、秘密の穴ぐらのことであった。極秘の内にそこへ穴を掘り、昇降機《リフト》を据えて戦車を一台かくして置くのである。
「A点だが、A点をかこむ建物の入口は、当然この前を通る国道に向いて作る。建物を設計する上で特に必要なのは、いずれ厳重な防諜態勢が施《し》かれるのだから、ロビー、廊下などに作られる検問位置とその設備のスペースをあらかじめ想定しておいてほしい」
「わかりました」
「A点に必ず要るのは、大型機材搬入用の開口部だ。くれぐれも言っておくが、建物の壁にとりつけるこの厚い扉《とびら》の位置を、東側へ持ってこないこと。東側では外部からの観察が容易すぎる。基地に隣接してマンション、公団住宅その他の高層建築物がたくさんある。いずれ、それらの窓の幾つかに、このA点を監視する敵の目が光ることになる」
「承知しました」
「しかし、考えれば考えるほどふしぎな気分になるな」
伊余部は財団の男たちが戻って行くのを見送りながら言った。
「こんな単純なことでいいのだろうか」
「だからいいんです」
宏一は左手を胸の前へ横にして指をまっすぐ揃《そろ》え、右手をその上へかぶせるようにして、例の拇指《おやゆび》が伸びちぢみして見える子供だましの手品をやって見せた。
「A点へ戦車を一台置く。布をかぶせて気合もろともパッととる。戦車は消える。B点の箱から戦車が出てくる。戦車がAからBへみごとに移動した。物質を瞬間的に任意の位置へ移動させる新技術です。重力現象をコントロールして物質を光のような波に変え、再生装置で元の形に組み直すのです。戦車のような複雑な物体が送れるなら、何だって送れるでしょう。パイプ・ラインもいらないし、タンカーもいりません」
「うまくそう思ってくれるだろうか」
「思わせるのですよ。嘘を誤解しているんじゃありませんか……。戦車がAからBへ移る。それが嘘なのではありません。移ったと先方が自分から信じ込むようにさせるのが嘘です。ふつうの人の嘘は、狼《おおかみ》が来たと結論だけを叫んでしまいます。何かいるらしい……そう言って藪《やぶ》の中の仕掛けをゴソゴソさせると、相手は狼じゃないかと疑うわけです。狼ではないかと相手に言わせるのです。言わせておいて、まさか……とこっちが言えばどうなります」
「いや狼だ。狼にきまってる」
伊余部は芝居がかって言い、笑った。
「それで、山本一郎はもう財団と接触しはじめているんですか」
「いや、まだだ。いまいる大学に嫌気《いやけ》がさすような事件が進行中だよ」
「着々と進んでいますね」
「僕はどうも山本が可哀そうでしかたがない。君はひどい奴だよ」
「僕はプランをたてただけです」
「でも、そのおかげで山本は罠《わな》にはまるんだぜ。罪もないのに」
「でも、満更でもないと思いますよ」
宏一は自分があのプラスチックの製品を広瀬に売りつけた時のことを思いだしていた。
「ある日突然みんなが自分のことを認めはじめる。……山本は無名の科学者でしょう。才能も大してないらしいじゃないですか。うれしいですよ、それは。高く評価してくれて、えらい人がひきたててくれて」
「でも中身はなんにもないんだぜ」
「いいえ。プライドがあります。才能がないとはじめから判っていたら学者になどならないでしょう」
「それはそうだが……」
「ふつうなら一生味わえない思いをするのです。人生を一度に味わうのですよ」
伊余部は妙な笑い方をした。
「こんなことを教えるべきじゃないが、今の君の発言はこの次のレポートに書かせてもらうよ」
「おや、そんなシステムだったんですか。勤務評定ですね」
「心配しなくていい。今のは君にとってプラスになる発言だよ」
宏一はちょっと気になったが、深く考えないことにきめた。評定がどうだろうと、自分がどうこうできることではないように思ったからである。
「国内部はいま何をやっているんです」
宏一は話題を変えた。
「例の奴さ。政治班は地下活動をしている連中の間へさかんに爆弾をしかけているよ」
「セクトを反目させ合うのですね」
「そうそう、この間の件を聞いたかい」
「いいえ」
「まったく君たち嘘部はいたずらが好きだな。潜入した一人を、反対派を装った連中が大勢で袋叩きにした上、どこかへ連れ去ってしまったらしい」
「芝居でしょう」
「あたり前さ。仲間同士でそんな手荒なことができるかい」
宏一は強くかぶりを振った。
「いよいよになればやりますよ。嘘部ならそうあるべきです。……それにしても、単純だけに直接的で、いい効果があったでしょうね」
「ああ、あったとも。一日しない内にやられたほうが逆襲したよ。一人殺されたらしい。血で血を洗う抗争劇の開幕と言ったところだな」
「手伝いたいな……」
宏一が言うと、伊余部は畏怖《いふ》をまじえた瞳《ひとみ》で彼を見守った。
山本一郎が新科学研究財団に接触したのは、それから半月ほどした頃であった。
「どうだい。実物を一度見て置かないかね」
広瀬が来て、山本を物か何かのように言った。
「今の内によく見て置きたいですね」
宏一がいうと、すぐ車が用意された。
「君の思い出の場所だよ」
車の中で広瀬はそう笑った。
たしかに思い出の場所には違いなかった。それは帝国ホテルのラウンジであった。
「諜報技術の基本をどれほどマスターしているか拝見しよう」
大きなドアを通るとき、広瀬は真顔でそう言った。
二人はラウンジに行き、一番隅のソファーに坐った。広瀬は悠然《ゆうぜん》としていたが、宏一はばかにそわそわとあたりを見まわし、ときどき腕時計を見たりした。
広瀬と宏一では風格がまるで違っていた。二人並ぶと、会社のトップと同席した新入社員のようであった。だから、そういう宏一の落着かぬ態度は、かえってぴったりと柄に合っていた。
「少し演技過剰だな」
広瀬は苦笑したが、満更でもないようであった。
山本一郎は入口に近いソファーに坐って、二人が入って来た時から誰かを待っている様子であった。
宏一は視線を一度も彼に固定させず、断片的な観察をつなぎ合わせていた。
下からいうと、靴《くつ》は茶であった。それもまだごく新しい。靴下も茶。ズボンは灰色のフラノで、上着が焦茶の無地。ニットらしかった。ワイシャツはアイボリーのカラーシャツで、ネクタイはごく地味な黒っぽいのをしめている。
写真で見なれたとおり、ちょっと精悍《せいかん》な顔だちで、少し手ずれのした薄い革の書類|鞄《かばん》と、書店の包装紙をかけた厚目の本を一冊横に置いている。
あとで広瀬にいろいろ質問されそうだったので、宏一はことこまかに山本一郎を観察し、記憶にしまいこんだ。
彼が今日の会見に充分気をつかっていることが見てとれた。なぜなら、靴はおろしたてで、多分まだ普段ばきにはしていないもののようだし、アイボリーのカラーシャツは襟《えり》の辺りの突っ張った感じから、ひと目で買ったばかりということが判る。色の選び方もカラーシャツでは一番無難な色で、ネクタイはきっと普段しめたこともない地味な古物を引っぱりだしたのであろう。
それにしては服がラフだが、案外きちんとしたスーツで満足の行くものがなかったのかも知れない。上下とも明らかに既製服で安物には違いないが、貧乏臭くあらたまるより、それのほうがいいかも知れなかった。
調査によれば山本は大学その他で、幾分異端視されることを好む傾向を示しているという。たしかに実物はその調査の正しさを証明しているようであった。
だがそれは主流の波に乗り損《そこな》っているからで、ところを得てしまえば、案外三つ揃《ぞろ》いでそれらしくふんぞり返るほうかも知れないと思えた。つまり、異端派好みは現状における一種のポーズで、本質はどうやら出世欲の強い人物であるようだ。
広瀬が脚を組み直し、退屈を紛らすような笑い方で宏一を見た。
「何人いると思うね」
は、と言って宏一は怪訝《けげん》な顔になる。
「こちら側の人数だよ」
なにをボヤボヤしているというような目で、しかしのんびりした笑顔で言った。
しまった、と思った。テストの問題は別のことらしかった。
「八人」
あてずっぽうだった。
「四人見落したな」
十二人も味方が張り込んでいるらしい。
「向う側のまん中に女づれの外人がいるだろう」
「ええ」
「どこの国の人間か判るか」
宏一はそちらを観察し直すより兜《かぶと》を脱いだほうが失点が少ないと思った。
「ドイツ人じゃありませんか……判りませんが」
「ブルガリアだよ、判るまいな」
広瀬は笑った。
「アテンション・ゲッターが来た」
そう言われて見ると、一人の日本人がやって来て山本の近くの席へ腰をおろした。すぐ二人づれの、見憶えのある財団の男たちが山本へ近寄って行った。山本は急いで立ちあがり挨拶《あいさつ》をした。
すると急に先に入って来た男が立ちあがり、足早に出て行く。財団の男たちは坐る気配を見せたが、気を変えたように山本を別な場所へ誘ったようであった。山本たちは呆気《あつけ》なくどこかへ去ってしまう。
「アテンション・ゲッターとは……」
「あのブルガリア人はプロだ。彼はまったく別な用件で来ているのだが、後日山本のことが問題になったとき、今の光景を思いだすだろう。ちょっと来てすぐ出て行ったのは、こちら側のちょっとした名士さ。ブルガリア人は知っているはずだ。それに急に出て行ったのは敵がいるぞという合図だ。ブルガリア人は自分をけむたがる相手がいたことにもう気づいているだろうし、山本とあの二人の顔も憶えてしまっただろう。それに、あのブルガリア人はわたしの顔も知っているし、何かここではじまろうとしたのに感づいただろう。どうだ、わたしらの嘘も満更ではなかろう」
広瀬は得意そうに言った。後日そのブルガリア人から、世界中に情報が流れることを見込んでの狂言らしかった。
「僕ならもっとうまくやりますよ」
宏一は不遜《ふそん》な態度で言った。
思ったより、センターの日常は単調であった。スパイ組織の活動とは、派手な活劇などまず起るものではなく、監視につぐ監視、尾行につぐ尾行と言った、地味なデータの収集作業であるらしい。
宏一と伊余部はすっかり退屈して、彼らのデスクにはいつの間にか雑誌の山ができてしまっていた。
読みだすと案外あとを引くもので、週刊誌などは次の号が出るとすぐ買うようになり、久しぶりに劇画ののった漫画雑誌にも触れることになっている。
だがスタッフのほうは、三交替で二十四時間ぶっ通しに、外部のエージェントとの連絡を保っている。時々エージェントたちにスケジュールの通告をし、臨時の交代要員を呼びだしたりもするようであった。
スタンバイに三種あって、午前中待機が|S《エス》・|1《ワン》、午後が|S《エス》・|2《ツー》、ただスタンバイと言った時は全日待機だというようなことも自然に判って来た。
交代の時、きまって次の者に言うのは、「兆候なし」という言葉であった。それは宏一の嘘計画に対する他からの行動の兆候がないという意味である。
「そうだ……」
宏一は雑誌を手に急に立ちあがった。
「なんだ、びっくりさせるなよ」
伊余部が言い、スタッフも半分以上顔をあげて宏一を見ていた。
「ごめんごめん」
宏一はみんなにわびて見せた。
「でも、こいつは気がつかなかったな」
「なんだい」
伊余部が宏一の雑誌をのぞきこんだ。
「劇画でも漫画でもいいから、早くこういう絵を描くタレントを一人探してください」
「どうするんだ」
「装置のデザインをさせるんですよ。適当にそれらしいものを組合わせればいいと思っていたけれど、それでは充分じゃありません」
雑誌は時代ものの劇画のぺージで、南蛮の妖術《ようじゆつ》師が得体の知れない機械で次々に妖魔を送りだしている場面であった。
「こんなのをか……」
伊余部は呆《あき》れ顔で言った。
「それらしく見えるものです。科学者ではなく、空想家の描くイメージだから、どう分析しても正体は掴《つか》めないでしょう」
「冗談言うな。それはA点に置くわけだろう。A点はわざと何度か中を覗《のぞ》かせるんだぞ。ちらりと見られるだけならそれもよかろうが、高性能カメラで撮《と》られたらおしまいじゃないか」
「撮ってもらいましょう」
宏一は胸を張った。
「いいタレントをみつけてくださいよ。そいつにジャンジャン描かせるんです。遊園地の企画とかテレビの子供向け番組の企画とか言っていい報酬で乗せれば、本気になってやれるでしょう。若くて突拍子《とつぴようし》もないことを考える奴がいいな。絵の質やネームバリューは関係ありません」
「本気なのか」
「本気ですとも。それから、山本の罠《わな》のほうに本物の物理学者が何人もこの作戦へ加わっていますね」
「ノーベル賞受賞者がいるよ」
「絵をそこへ運んでチェックさせるんです。本職が深読みするとひっかかる奴を探すんですよ」
宏一はそう言って笑った。
「厳重な審査の上、入賞者には海外旅行と賞金五十万円を差しあげます」
伊余部は広瀬へ連絡するため、直通電話へとびついた。
「ちょっと厄介《やつかい》なことになった」
若い漫画家の手配がおわってから二週間ほどして、広瀬が宏一を呼びつけて言った。
「どうしたんです」
「山本一郎が今のすまいを出たがらんのさ」
「なぜです。ボロアパートでしょう」
「やはり女のことだ。恋人が近くのオフィスに勤めていて、昼休みにひょいとやって来て掃除して行ったりする」
「それはちょっと動きにくいでしょうね」
「近くのマンションを借りてやればよろこんで動くだろうが、それではこっちの思いどおりにならない」
「なくせばいいでしょう」
「え……」
広瀬は問い返した。
「アパートがなくなれば行き場がありませんよ。彼の預金高は判ってるじゃありませんか」
「二十万足らずだ……」
そう言って広瀬は急に宏一をみつめた。
「なんという奴だ」
宏一はニヤリとした。
「国益のかかった嘘です。お国のためにはみんなに焼けだされてもらいましょう」
山本一郎はいま、大学の研究室に在籍のまま、新科学研究財団の新しい研究に参加することになっていた。彼を大学の有力な先輩が推薦し、財団側の立場にいる学界の権威者たちに適材という太鼓判を押させた段階であった。
山本は有頂天《うちようてん》になっているはずであった。一挙に前途がひらけ、しかも桁外《けたはず》れの高給とりになる予定なのである。
だが、こちら側には大きな条件があった。山本が自衛隊の基地に隣接してできる、新しい財団の研究所へ移るのが前提なのである。そこへ山本を巧妙にとじこめてしまわないと、手品のタネが客の前にころげ出ることになって、すべては水の泡《あわ》なのだ。
広瀬はデスクの上のレポート用紙に、ボールペンで幾つか符号を書き、線を引いていろいろ組合せを考えているようであった。
「なんだ、それが正解か」
広瀬は不機嫌《ふきげん》な声で言った。自分の迂闊《うかつ》を責めているようでもあり、宏一の不人情ぶりをなじっているようでもあった。
「よし、焼いてしまおう」
広瀬は渋々そう言った。だが火事はすぐには起らなかった。それからまた二週間ほどたち、驚くべきスピードで財団の研究所が落成したあと、やっと放火された。
まったく庶民の運命など、この組織の前では自由自在であった。突然名もない市民たちが十何世帯か、家財を失ったのである。
勿論《もちろん》消火活動には何の制約も加えられず、何台も消防車が駆けつけたし、さいわいなことに死傷者はなかったが、同時に放火だということも不明におわった。漏電ということでかんたんにけりがつき、家財を失った人々も、めいめいどこかへもぐりこんで行った。
「これだけの組織があればこわいものなしですね」
広瀬がやって来てその話題に触れたとき、宏一が気負った様子で言うと、広瀬と伊余部はちらりと顔を見合わせて苦笑したようであった。
伊余部は抽斗《ひきだし》からケント紙の束をとり出して広瀬に渡した。
「これは没になって返って来た分です」
広瀬が椅子に坐ってそれをめくりはじめた。こまかいタッチのペン画で、A点に据える物質瞬送装置の想像図が描かれていた。
おどろおどろしいものあり、つるりとスマートなものありで、どれも丁寧な仕事ぶりをうかがわせている。
「どうかね。うまく行きそうかね」
広瀬は伊余部に尋ねた。
「だんだんそれらしくなって行くようです」
宏一が答えた。
「専門家の批評をいちいち伝えていますから、だんだんどう描けばオーケーがもらえそうか判ってきたようです。でも、まさか自分が本物を描かされているなんて思ってもいないでしょうね」
広瀬は宏一を咎《とが》めるように言った。
「本物を描くわけではなかろう。これは君の嘘だ。嘘はどこまで行っても嘘だ」
「これは藍本《らんぽん》ですよ」
「藍本……」
「種本のことです。青は藍《あい》よりいでて、という例の言葉から出ています。まず原典を作ってそのとおりにこしらえれば、それは本物ということになるではないですか。原典の誤りを信じてそのまま引用することはいくらでもあるでしょう」
「妙なことを知っている……」
広瀬は腹立たしげに言った。
宏一には、伊余部や広瀬が自分に対して、好感ばかりを持つとはかぎらなくなっているのを自覚していた。
しかし、MK4は恐るべき勢いで展開しはじめていた。宏一の嘘が唸《うな》りをあげて回転しているという感じである。
もう広瀬といえどもそれをとめることはむずかしかった。なぜなら、山本一郎は焼けだされ、新しい研究所へ恩着せがましく連れ込まれてしまった。まだ自由に出歩いてはいるが、最高度の監視下に置かれ、実際にはVIP扱いになっていた。いま日本でそれ以上の扱いをうけている人物と言うと、他に二人しかいないということであった。しかしその二人とも何人かのボデーガードを従えて歩きまわっており、自分に対する監視を知らないのは、そのレベルでは山本だけということであった。
まだ山本に対しては、「兆候なし」である。しかし、着々と「兆候」を生じさせる工作が進んでいた。
山本の書いた論文が、学界報の編集局はじめ、二、三の出版社に持ち込まれていた。同じように、トピックスとして、別な雑誌社でコラムが用意されていた。
まだ一般の目には触れていないが、来月中旬には各誌とも発売され、人々がそれを読むはずであった。
偽造部文書課の二人は、もうとうに仕事をおえてセンターには来ていないが、必要があればすぐに来て、山本の字で、山本の文章のくせどおりに、次の原稿を書くことになっている。
山本はそれまでのんびりと、監視つきながらわが世の春をたのしめるはずである。
宏一も、言ってみれば山本同様わが世の春であった。生まれてはじめて、自分の力で大勢の人間を動かしているのである。上司に伊余部がいて広瀬がいる。たしかにそうであるが、力はいまや歴然と宏一の上にあった。問題が微妙になると、広瀬でさえ宏一に相談せずにはいられないからである。
力とは嘘の力であった。
たとえば、偽造された山本の原稿は、広瀬たちの細工で要所要所の出版社に持ち込まれたが、それが活字になって人々の目に触れるや否や、まったく別のセクションが、本気になってそれを可能なかぎり回収しはじめる手順になっているのである。
誰がその極秘の動きに気づくか、それは宏一にも判っていない。そして、その嘘をつく側にさえ判らないという点が、嘘部の嘘の恐るべきところなのである。広瀬たちでは、そのようなことは、不確かさを理由に、一度は考えついたとしても、一蹴《いつしゆう》してしまったに違いない。だが、宏一の嘘感覚では、それこそが最も見事な嘘なのであった。
特殊な訓練を受けた者が、一心に耳を澄ませても聞き落してしまうほどのかすかな音が、そこに生じるはずである。そして、そのまるで見当違いのところに立ったかすかな物音に気づいた者は、それに気づいたことを誇りに思い、誇りに思うと同時に疑わなくなるのである。
嘘を相手に与えてはいけない。相手に奪いに来させるのだ。それが宏一の持論になっていた。
広瀬もその理屈には賛同している。しかし理屈は判っても、そういう嘘を自在に操ることはできなかった。つい嘘を作りすぎてしまう。そして宏一にたしなめられるのだ。宏一は、不特定多数の敵の内の誰かが、そのかすかな物音に気づくことを確信していた。宏一はたしかに諜報活動の専門家ではない。しかし、稀有《けう》の嘘つきの血を享《う》けた人間であった。そしてスパイというものは、多かれ少なかれ、嘘の中に身を置いているはずだと思っていた。嘘をつく者が何に対して鋭敏になるか、心理学者など及びもつかぬ深さで知っていた。理屈ではなくほとんど生理的な水準での理解と言っていい。
気づいた相手は、回収された雑誌に何が書かれていたか知ろうとするだろう。だが同種の雑誌の内容はほとんど重複しており、掴《つか》めないかもしれない。そうなれば、罠《わな》は二重に確実になる。彼らは本腰を据えて調査するだろう。
そして、山本一郎という若い科学者の論文に、驚倒すべき可能性を発見するのだ。
軍事的に見れば、それは強力な戦闘部隊を敵地へ一瞬にして送り込む可能性があった。
平和利用の面から見れば、すべての船舶、航空機、鉄道、車輛が、趣味の対象としかならなくなる時代が近いことを示している。
さらに予測を拡大すれば、ほとんどの物質が任意に合成できるということでもある。元素間の結合をコントロールし、灰からダイアモンドをかんたんに生みだすのである。いったいそれを知ったとき、相手はどういう顔をするだろうか。宏一は夢中で無電機をベッドの下からひっぱりだす、古典的なスパイのイメージを描いてほくそ笑《え》んでいた。
山本の原稿が載った雑誌が発売される寸前、研究所に侵入した者があった。正体不明の侵入者は、まだ機材の搬入されていない実験室をのぞいたあと、山本の私室にあてられている二階の南側の部屋へ入って、手当り次第にひっかきまわして去った。
その被害の発見者は当然のことながら山本自身であった。彼は研究所の管理者にすぐ通報した。
山本は単なる物盗《ものと》りの仕業だと思っていたが、それで事態は急転した。財団の上層部から何人もいかめしい連中が派遣され、本物の科学捜査班が念入りに調査して帰った。
山本はそこで新しい研究テーマの重要性をはじめて知ったようであった。どこの国でも、これからはじまる財団の研究については、そのすべてを知りたがるはずであった。
その研究テーマというのは、別に物質瞬送技術には関係なく、うすうすは山本も承知している、まったく別のものであった。そして山本は、早くもそれについて他国のスパイ活動が始まっていることを理解した。
「警戒を厳重にせんといかんですなあ」
山本はもっともらしい顔で自分からそういったという。
そのとたん、研究所は外部からガッチリ遮断《しやだん》されてしまった。完全な防諜態勢が施《し》かれたのは、なんとタイミングのいいことに、最初の雑誌の発売日であった。
そしてその日こそ、MK4の三段階のうち、文書ではC662と記される、第一段階が終了した日であったのだ。
宏一は、あいかわらずセンターにつめていて、研究所の騒ぎを見てはいなかった。しかし、侵入者があったという報告は、ただちに受取っていた。
そして、その日センターのスタッフが交代する時口にした言葉は、いつもどおり、
「兆候なし」
であった。
宏一は広瀬にまったくの好奇心から、山本一郎の私室を荒らすことに成功した人物が、組織の中でどの程度に仕事ぶりを評価されるのか尋ねた。
広瀬は首を横に振った。
「あんなことぐらい、ここのスタッフの……」
そう言っていちばん若い女を顎《あご》でしゃくってみせた。
「あの子でもやる」
宏一は失笑した。山本の緊張ぶりを想像したからであった。
多分いまごろは、自分の仕事の重要さを自覚して奮《ふる》いたっていることであろう。荒らされた室内に立って、自分が狙われたことをひそかに誇りにしているに違いなかった。
だが、その研究所には、あらかじめ用意されていた検問用の大道具小道具が運びこまれ、山本ですらすべての通路を自由に往《ゆ》き来《き》することは許されなくなっているに違いない。何段階かに厳しく区分された身分証が渡され、それを胸につけた山本はスパイ活劇の主人公になったような気分で、用もないのに所内の廊下を歩いてみていることだろう。
山本の書いた記事をのせた雑誌は、すでに発売されていた。引き続き何誌かが書店に現われ、すぐに回収されてしまうのだ。
だが山本はその雑誌を読みもしないはずである。原稿を書いた憶えもないだろう。しかし、いかなる精密な筆跡鑑定でも山本自身のものだと断定される原稿が、厳として存在していた。その中の一部はいずれどこかへ流出して、何人かの重要人物が薄暗い灯《あか》りのもとで、それを読むはずであった。
いつ、どこで……それは判らない。しかし、日本の古代王朝以来連綿と続いた闇《やみ》の中の系図に名をつらねる浅辺宏一は、この現代の闇の中で蠢《うごめ》く者たちの動きを、わがことのように的確に感知しているのであった。
「兆候あり」
宏一の予想より早く、センターでその声が聞かれた。
そのとたん、伊余部は立ちあがって宏一に握手を求めた。だが宏一は熱のない表情でそれを握り返そうともせず、
「これからですよ」
と壁の地図を見に行った。
ひと頃より赤い光の点がずっと増えていて、そのほとんどが点滅していた。監視下にある敵の位置であった。
「今ごろ何をやってると思う」
そばへ来て伊余部が言った。宏一は眉《まゆ》を寄せて地図を見あげたまま、
「少し浅かったかな」
とつぶやいた。
「浅い……何が」
「嘘が。食いつきが早すぎる。もっと相手が餌《えさ》の発見に苦労してくれなければ困るんだ」
すると、いつの間にかやって来た広瀬が、チーフに何か書類を渡しながら言った。
「案外心配症だな」
二人は振り返った。
「あ、いらっしゃい」
広瀬は宏一に近づき、並んで地図を見ながら言う。
「君は我々のこの組織をどう思う」
「すばらしいものです。完璧《かんぺき》です」
広瀬は苦笑した。
「そうおだてるな」
「おだててはいません。実際に第一線へ出れば不備な点もあるんでしょうが、僕はなんと言っても部外者に近いですから、欠点など判りません。びっくりしてばかりいます」
「そこさ」
広瀬は真顔で言った。
「君は相手もこれに近いものを持っていると思わないかね」
宏一は広瀬を見た。
「あるんですか、敵にも」
「おいおい。君はすぐ敵というが、それはどうも感心しないね。こういう活動では、敵も味方もないのだよ。同業者だからな。考えてみたまえ。ひとつの業界に同業者がたくさんいて、おたがいに競争している。しかし利害があい反すると言っても、それは部分的なことだ。一時的なことと言ってもいい。業界全体の利益についてはみな一致協力する。それでなければ生きて行けないのだ。我々も同じことだ。A国の秘密に対してはBとCが協力する。だがB国の秘密に関してはAとCが協力関係にあるかも知れない。そして表舞台では、ABCが団結してD国に対抗しているなどという図式は日常茶飯《さはん》のことさ」
「そのみんなが、こういう組織を持っているんですか」
「それは彼らそれぞれの日本へのかかわり方に比例する問題だ。たとえば、アメリカなどは大国だし日本との関係も深いから、これとほぼ同じくらいの組織を東京に作りあげている。韓国や台湾も、国の所帯はアメリカほどではないのに、やはりそれに準ずるくらいの組織を持っている。国の大きさではなく、かかわりの深さだということだな」
「そうですか。相手もこういうのを持っているんですか」
宏一は地図を眺めなおした。壁面いっぱいにエレクトロニクスを駆使した複雑な仕掛けの地図が、赤や緑の点をいっぱいに散らしていた。
「そこには分野ごとに細分化された専門家がいる。君は食いつきが早すぎると心配しているが、どこかではその専門家たちが、この幾日か不眠不休だったかも知れんじゃないか」
「そうですか。それで安心しました」
「しかし、君がこんなに仕事熱心になろうとは思わなかったね」
伊余部が笑った。
「昔のことを考えると、自分でも不思議になります」
宏一は広瀬に言う。
「場所を得たのさ。ところで、ワシントンとベイルートとマニラから報告が入っている」
「なんです」
伊余部と宏一はさっと緊張した。
「兆候ありさ。国際部海外班も新しいメンバーばかりでだいぶ苦労したらしい。しかしこれでいよいよ09も本格的になって来たわけだな。今のところ、アメリカと韓国。それから、いつか君に教えた例のブルガリア人が、実にうまいところにいてくれている。ベイルートだ。多分彼は東京へ大急ぎで引っ返して来るだろう。彼の動きはたのしみだ」
「どうしてです」
「彼はいわば一匹狼でね。フランス、イギリス、それに西ドイツあたりかな……とにかくその辺をMK4にひきずりこんでくれるはずさ」
広瀬の指揮ぶりも見事だったと言わねばなるまい。海外班と国内班を巧みに組合わせ、どちらからともなく、ものの見事に黒い虹《にじ》をたてたのである。
日本の黒い虹を追って、世界各地から続々と大物が羽田へやってきた。伊余部は以前から広瀬に直属して、世界の諜報活動の様相にも知識があったから、いわばそうした闇《やみ》の世界の大スターをじかに見たくて、毎日のように羽田へ通いだした。
しかし、宏一にはそんな個々のスパイに対する興味はほとんど起らなかった。ここから先が彼の嘘部としての腕の見せどころなのである。
宏一は次々に来日する大物スパイたちが、広瀬のずっと上位にいる者たちと同格の相手だということを、ことあるごとに自分に言いきかせていた。
それは宏一自身に対する圧迫感を作りだすためであった。デスクをチーフの横に移してもらい、刻々と移りかわる状況をすべて把握《はあく》しようと努めている。
それは、たとえて言えばあの亀戸駅前の状況に、自分を持ちこもうとすることである。
あの時宏一は工場を辞めてしまっていた。容子とバスに乗って帰るチャンスは、もうなかった。背後のない圧迫感が、嘘部の血を燃えたたせた。バスから降りて容子と向き合った時、宏一には何の嘘の用意もなくなっていた。吹く風、日のかげり。すべての状況を、解脱《げだつ》したような心で感じているだけであった。
二人の男がやって来たのはそういう時であった。嘘部の本能がその二人をとらえた。ほとんど無意識に部品の入った箱を渡し、宏一は走りだした。その瞬間嘘が成立したのだ。
それと同じ状態になろうとしている。宏一はすでに赤や緑の点のひとつひとつを、あの時視界にあったものと同じように、焦点を定めずに感じていた。
その横顔は、チーフをはじめ、センターのスタッフ全員にとって、驚異であったらしい。放心とも違う。集中とも違う。最も近いものをあげれば、一種の宗教的浮揚状態であった。そして、宏一の生得《しようとく》の容姿は、その状態において最も美しく、逞《たくま》しく、深遠に見えた。
「あんたは何かの神の裔《すえ》か」
滅多に個人的な発言をしないチーフが、ささやくようにそう言ったりした。まさに宏一は、その状態において、八百万《やおよろず》の神々の一人の末裔《まつえい》であった。
何かの神の裔。チーフもまさに見事な日本人であった。その現代的な若者が、宏一を見て、何かの神と言ったのだ。石や木や川や山に神を視《み》た日本の古代人の血が、嘘の神の末裔《まつえい》を言いあてたのであろう。
アメリカの情報機関がまっ先に活動を開始していた。東京における最大の組織を持つアメリカが、山本の記事を最初に発見したのは当然であった。
しかしアメリカ側の欠点は、当の日本をはじめ、韓国などとの連携が過密であるということだった。アメリカは当然のことのように、そうした既成のパイプを通じて日本側当局者からいきなり秘密を聞きだそうとした。普通ならそれで充分だった。
しかし今回は様子が違っていた。壁が異常に厚い。彼らがそう思って本来の諜報活動を開始した時は、最初の陽動的な段階ですでに多くの情報が流出してしまったあとだった。ほとんどの国がそれを知ってしまった。大国も小国もいっせいに動きはじめた。
宏一は、壁の地図を睨《にら》み、ほとんど生理的に嘘のタイミングを知った。闇の中の複雑な動きの中へ、一旦《いつたん》はとんでもない方向へ導くが、やがて彼ら自身で新科学研究財団の真意に気づく嘘の手が介入した。
とんでもないところから、山本のいたアパートが放火ではないかという疑いが提出される。すると誰かがそれを調べてみる。たしかにその可能性がある。真実だからだ。しかしそれは広瀬たちが本気でやったことであり、隠蔽《いんぺい》のしかたにも嘘は感じられない。山本の身柄を新しい研究所に移すためにやったのだということも、同じように嘘ではない。そこで相手は山本が何らかの画期的な発見をし、新科学研究財団が強引に彼を所有してしまったことを知るのだ。
嘘はなかった。
今の段階で唯一の嘘は、山本一郎の雑誌原稿である。しかし、それには嘘を見破られない対策が充分に講じてあった。それに自信があるからこそ、逆に相手の手中におちるような工作がなされている。最も疑《うたぐ》り深い人間が、山本の日常の筆跡と照合して見たとしても、それはまったく同一としか考えられない。結局、最も疑り深い人間が、最も完全に嘘を信じ込むことになるわけである。
兆候あり、とは予測された反応があったという意味である。はっきり言えば、ひっかかったということだ。そして09はその言葉で実質的に開始され、以後センターからは、兆候あり、という言葉が消えた。
そのかわり、今度は発生という言葉が増えた。発生とは予測されなかった現象や行動を意味する。ただし、センターへ持ち込まれる〈発生〉は、MK4に影響ありと思われるものだけに選別されていた。どこかにもっと大がかりな同種のセンターがあり、宏一のいるところはMK4に関する分局のようなものであるらしい。
やがて、例の研究所への侵入事件も、こちら側の山本に対する工作であることが発見されてしまった。
10
「早い。まったく早い」
MK4に対する各国の反応が早すぎると宏一が心配した時は、そのくらい当然だと言った広瀬であったが、その後の展開のスピードを見て宏一以上に驚いている。
ということは、前例のないことであるらしい。宏一は相手側が全力を投入して来たことを感じ、心細くなっていた。
しかしそれはますます嘘の勘《かん》を鋭くさせてくれてもいる。
「伊余部さん。これはまずいですよ」
新着の情報カードを検索していて、宏一は鋭い声で言った。伊余部があわてて駆け寄ってくる。
「なんだ。例の漫画家じゃないか」
「今まで監視なしで歩きまわっていたんですか」
「ヨーロッパにいるんだし、第一奴は日本語しか喋《しやべ》れない」
伊余部はほっとしたように言った。若い漫画家はボーナスの海外旅行を楽しんでいる最中であった。オーケーの出たスケッチをもとにして、実物を製作中である。
「まずいです」
「なぜだ」
「どのくらいの予定で行っているんです」
宏一が尋ねると、伊余部はチーフのところへ調べにとんで行く。
「あと一週間だよ」
宏一は首を横に振った。
「急に帰国する可能性があります。もう二週間もあっちにいるんでしょう」
「そう心配ばかりするな。まだ二十四の男だし、今どきああいう連中に外国へ行かせたら旅券が切れても帰って来ないほうを心配したほうがいいくらいだぜ」
「とにかく監視をつけてください。今この騒ぎの所へあいつにとび込まれたらえらいことになりますよ」
「どうしてだ。ただ例のものの原画を作っただけじゃないか。しかも、奴は自分の描いたものが実際に製作されたなんて、一生気づくこともない」
実を言えば、宏一は危険を直感したにすぎない。伊余部はとりこし苦労だと言いたげだが、その直感を否定することは宏一にとって嘘部の血を無視することになるのだ。
「おかしいな。いったい何が危険なのかな」
宏一は考え込んだ。
「MK4のことで相手はみんな雑誌などに対する評価を変えているはずですよ。しまったな、あいつの報酬をよくしすぎたらしい。そうでしょう、帰って来て自慢しますよ。向うの土産《みやげ》話を喋りまくり、挙句《あげく》にどうして行けたかも言ってしまうでしょう。ひょっとすると、雑誌の注文を受けて得意のSFマンガを描く時、あれに似た機械を登場させるかも知れない……」
そこまで言った時、宏一はギョロリと目を剥《む》いて沈黙した。伊余部とはそれ以上議論せず、センターからの帰りがけ、広瀬を訪ねていた。
「そういうわけで、あの男を何かに捲《ま》きこんで、当分帰れなくしてください」
宏一は広瀬にそう要求した。広瀬は考え込み、やがて頷《うなず》いた。
「なるほど、戻ればあいつにまた何人かさかねばならないからな」
「そんな単純な理由ではありませんよ」
宏一は言い渋っていた。
「なんだ、言って見ろ」
さすがに広瀬は宏一が何かほかに重大な発言を持っていることに気がついたらしい。
「迂闊《うかつ》でした」
「ん……」
広瀬はビクッとしたようである。
「MK4に重大な欠陥があったのか」
「期間の点で見落しがありました」
「期間……」
「そうです。MK4がおわっても、これはおわりになりません。茶番でしたではすまないのです。あなたもあのいつも顔色の悪い組織の人も、外交上の一時的なテクニックとしてMK4を考えています。でも、たとえばA点の偽《にせ》の装置は相手方が写真に撮《と》って本国へ送るわけでしょう。いずれほとぼりが冷めた時、何らかの形で公表されるかも知れません。それを、たとえば大家に育ったあの漫画家が見たらどうなります」
「十年二十年先のことか」
広瀬は唸《うな》った。そして次第に顔色を変えた。
「この嘘は解けぬというのか」
「そうです。どんな遠い将来でも、これほどの大嘘を仕掛けたと判れば、以後日本の評価は変わるでしょう。二度と今度のような嘘は信じられなくなります。百年、二百年後でも、世界はMK4を引合いに出して考えるでしょう。この嘘は、だから永遠に解くことはできないのです。すぐに、重力波の研究を本当にスタートさせてください。出来ても出来なくても、研究を続けるしかないのです」
広瀬は狂笑した。虚《むな》しい笑い方であった。
「君は……」
立ちあがり、部屋の中央で宏一を指さした。
「なんという大嘘つきだ。歴史を相手にしようというのだな。いつかは本当に日本が物質瞬送装置を開発するかも知れんぞ。そうしたら、わたしは君にノーベル賞をもらってやろう。発明者は君なのだからな」
「珍しくないことでしょう」
宏一は憮然《ぶぜん》として、笑い続ける広瀬を見あげた。
「正倉院は宝物を保存し抜いたじゃありませんか。天皇制をもです」
宏一はその部屋を出て行った。
第八章 紫色の制服
そこは東京から車で一時間半ほどの距離にある陸上自衛隊の基地であった。広大な敷地にコンクリートの塀《へい》をめぐらし、各種の施設が建ち並んだ中央に、以前は戦車の操縦訓練などにあてられていた広場があった。
敷地の北側をまあたらしい道路が通っている。特によく整備された本格舗装の三車線で、いざという時機甲部隊がとびだして行くための道路であることが、どんな迂闊《うかつ》な人間にもすぐ見てとれる。
道路の向う側は、道に沿って幅のせまい緑地帯があり、それを境にして大きな団地になっている。
団地は四階建てのと九階建て、それに小さな庭つきのメゾネット型式の低い建物群の三種類に分れていて、北側は高層、中央部は低層、道路ぞい基地と向き合っているのが、四階建ての中層住宅群である。
その大きな団地の北側に国道が通っていて、米軍時代には団地を含む国道までの土地が、全部基地であった。
途中まで国道で来て、その新しい道路へ入って真西へ進むと二十分ほどで基地の塀のはずれへ着く。ただし道路が混雑していなければのことで、昼間はいつもその先の市街地へ抜ける車で渋滞気味であった。
基地の塀の東はずれ、つまり東京寄りに、昔その辺りが山林であった頃の名残りをかすかに留《とど》める空地があった。それは基地の端へほぼ方形に食い込んだ形になっていて、草も木も枯れほうだいで荒れたままになっていた。基地のコンクリート塀もそこでは省略され、錆《さ》びついた有刺鉄線《ゆうしてつせん》がごたごたと張られたりたるんだりしながら、境界を示していた。
ところがそこへ最近急に工事がはじまり、あっという間に白い立派な建物が完成し、前庭などには芝生《しばふ》が植えられて団地の人々の好奇の目を誘った。
自衛隊の新しい建物だろうというのがおおかたの結論であった。事実、その部分を入れると基地の東西南北は方形に完成するわけである。出来た当初は基地を訪ねた車が、間違えてその建物の玄関へ乗りつけたほどであった。だから、やがて前庭の道路ばたに、〈新科学研究財団第四研究所〉という標識が建てられた。しかしそれを読んだあともなお、団地の住民たちは自衛隊の基地の一部だという考えを棄《す》てぬらしかった。
実際そのとおりなのである。その財団は戦略、戦術、それに兵器体系などが専門で、今はなごやかに肩を叩き合っている国々を仮装敵とした、物騒な研究などをしていることで、一部にはすでに有名な存在であった。
団地の出現以来、その辺りの地価も急騰していて、道路が出来るとすぐバタバタと何棟かのマンションが建った。マンションはいずれも九階、十一階といった高層で、外人の入居者もいるようであった。
宏一がその研究所へ来たのは、MK4も09のおわりに近づいた頃であった。
宏一はそれまで、一世一代の大舞台となるその研究所へ、一度も来たことはなかった。しかしセンターでは毎日のようにその図面を見て芝居の細部を検討していたし、付近の建物の状況も、どの窓にどんな顔が覗《のぞ》くかということまで憶《おぼ》え込んでいた。
研究所の見える位置にもう各国のスパイ達が腰を据《す》えていたのだ。彼らは外人とは限らなかった。いや、ほとんどが日本人であったと言えよう。白人なのに、どう見ても日本人としか見えない人物が随分いたし、東洋人ならば誰でも簡単に日本人になれた。そして、本物の日本人がいちばん多かった。彼らは一時研究所の内部を監視できるいい位置をとろうと、競争していたようであった。
どんな場合でも同じ結論が出るわけだが、スパイたちにとって最上の位置は、力の強い者と、熱心な者が獲得した。
それはずっと西側にある、市街地寄りの三つのマンションであった。中でも基地の西南の角に道路をはさんで隣接した、十一階建てのマンションの最上階は、まさに呉越《ごえつ》同舟といった有様であった。その位置からだと、基地の整備工場の屋根ごしに広場が一望に見わたせ、方形の敷地の対角線上に、研究所の南と西の側面が監視できるのである。距離はかなりあるが、その程度なら彼らの小道具で簡単に解決できる。何しろ偵察衛星が地上の車輛の移動まで見わける時代なのである。
宏一と伊余部は、わざと財団の下級職員に案内されて、いかにも物珍しそうにその建物へ入った。出入りする人物がすべて記録され、必要に応じて調査されることは明らかであったからだ。
黒虹会はそうした闇の中の男たちの間で、決して秘密の存在ではなかった。実は広瀬は右翼の理論家として知られており、彼の民族主義的な主張を実践するために作られたのが黒虹会という組織であるという風に理解されていた。
言ってみれば、それは広瀬の道楽のようなことであって、彼は主として財界に深く根を張る、黒幕的人物なのである。だから新科学研究財団のような、時としてとほうもない利権を生みだす団体へ、自分の触角を送り込んだとしても、一向に不思議はないのだ。これまでにも、財団は防衛産業にかなりの恩恵を与えている。それは制式小火器類の改造から、新型護衛艦の設計に対する問題提起、ヘリ母艦戦術の理論作成など、どれをとっても巨額の予算に結びつくものばかりであった。
そうした広瀬という人物の設定に従って、宏一と伊余部はごく他愛のない存在として研究所入りをした。二人とも身の廻りの品をつめこんだスーツケースを両手にぶらさげ、いかにも責任のない気楽な態度を装《よそお》っていた。
内部の保安態勢はまったく厳重であった。ほとんどは陸上自衛隊系の要員が流用されて来ているが、十人ほどは本物の科学者もいる。
玄関を入ってすぐロビーがあり、そのロビーの右側に受付があるが、ロビーを抜けて廊下を進むとすぐ、第一の検問所にぶつかる。検問所には米軍のMPに似た制服のガードマンがいて、客は通行許可証を見せた上で内部の訪問先に照会され、それでやっと通される。その検問所には廊下の幅いっぱいに透明な厚いガラスがはめこまれていて、通過を許された者は、内側のガードマンのボタン操作であけられたガラスのドアを通って奥へ進むのであった。
そんなわけだから、所員はすべて外来者とひと目で区別できるように制服をつけさせられている。部署によって制服のデザインが異なり、同時にそれが通行証となって、出入りを許された場所と許されない場所が区分されている。
よく便所のドアなどに、男女の服装を描きわけて標示してある場所があるが、所内は至るところに、それに似たステッカーが貼《は》られていた。自分の制服を描いたステッカーが貼ってある場所以外へは入れないわけである。
宏一と伊余部は所内に部屋をあてがわれてすぐ、紫色の制服に着換えた。それはサービス要員のもので、かなり広範囲に歩きまわれるはずであった。
二人は本当にその仕事をした。郵便物を配ったり、コーヒーを運んだりするのだ。昼休みには外へ出て、他の紫色の服の若者とキャッチボールをしたりした。
しかし、その研究所の真実の秘密とは、紫色の制服を着て雑用に駆けまわる宏一だったのである。
だが誰一人それに気づいてはいない。
二つ目の検問所が建物の奥の短い渡り廊下風になった部分の手前にあり、それから先は十人ほどの白い制服の学者と緑色の技術員、それに黒の管理職しか行けないことになっている。ただしそこのガードマンは、伊余部と宏一を服の色でなく顔で見わけるように命令されていて、二人は自由に出入りできた。
それどころか、二人は所員のすべてが出入りを禁じられている、地下へのドアの奥へさえ行けたのである。
それこそ、この大嘘の最奥部、手品のタネの隠し場所であるA点なのであった。
A点は暗くガランとしていた。なめらかに動くリフトが据えつけてあり、天井に長方形の溝《みぞ》がついていた。
A点は、最後の最後まで何もないただの空き部屋なのであった。
「わたしはもう顔を出さない。これからは君が伊余部君の助けをかりて、この大嘘の仕上げをするのだ」
広瀬が訪ねて来てそう言い、椿《つばき》という名の肥《ふと》った男を紹介した。
「MK4の仕上げはこの男が表に立ってやる」
椿は踵《かかと》を合わせ、背筋を伸ばして立っていた。
「君とはいいとり合わせだと思う」
「よろしくお願いします」
宏一が言うと、椿は太い声で、
「こちらこそ」
と挨拶《あいさつ》を返した。
「このあと、どうなさるのですか」
宏一は広瀬の冷淡な態度が気になって尋ねた。
「わたしはいわばプロモーターだ。MK4はとにかく一応これでおわる。もっとも、君の言うように本当にはおわりはせんが」
広瀬は去りかけた。
「待ってください」
宏一は追いすがり、なじるように尋ねた。
「何か僕のことであったんですね」
「君について特に何かあったらはっきり言うよ」
宏一の勘が働いた。
「漫画家はどうしました。彼が何かまずいことをやりましたか」
すると広瀬は立ちどまり、ちょっと意外そうな顔になった。
「気がつかなかったというのか」
「何がです」
「漫画家について言いだしたのは君じゃないか」
「そうですが」
「君の着眼は全面的に正しかった。上層部もMK4に対して長期的な視野が欠けていたことを認めた。嘘はつきとおさねばならんときまった」
「漫画家はどうなったのです」
「死んだよ」
宏一は凍りついたように、言い棄てて帰って行く広瀬を見送っていた。
どこかがポロリと欠け落ちたような感じであった。嘘では守り切れなかった何かが……。
「あいつが消された……」
宏一はつぶやき、呪縛《じゆばく》を脱したようにふり返った。椿と伊余部がこちらを見ていた。
羨《うらやま》しかった。
その二人は、仕事として嘘の片棒をかついでいるにすぎない。しかし、自分は人生そのものとして嘘をついている。戻るべき真実を持っていないのだ。たとえ殺し屋でも、戻るべき真実の生活があった。その生活を保つために人を殺して歩く。しかし自分は、ありのままでいる生活を拒否してしまっている。自分の存在理由のために嘘をついている。しかもその嘘で、人が死ぬのだ。
見せかけの装置をデザインした若い漫画家は、死なねばならなかった。彼が生きている限り、宏一が嘘を作ったことを証明できるのだ。たとえそれが十年先、二十年先であろうと。
「どうしたんだ、妙な顔をして」
伊余部が言った。
「いや、あることで叱《しか》られて……」
宏一は無意識にそう言った。
「気にするな」
伊余部は笑った。
「では自分はこれで失礼して……」
椿はさっと右手をあげかけ、急にそれをやめて去ろうとした。
「椿さん」
宏一は咎《とが》めるように鋭く言った。椿がふり返った。
「あなたは俳優ですね」
すると椿の顔色が変わり、しばらく宏一をみつめてから、急に相好《そうごう》を崩して頷いた。
「参った」
そう言って剽軽《ひようきん》におでこをひとつ叩いて去って行った。
「どうして判ったんだ」
伊余部が言った。
「自衛隊員らしく振舞えと言われていたんでしょう。だが子供だましですよ」
「どこで見破った」
「証拠はないです。ただ僕には俳優が演技している時の顔がたまらないんです。みんな嘘をついている顔をしています。だから映画もテレビも昔から嫌《きら》いでした。椿氏はその顔をしていました」
「どうしてかなあ」
伊余部は感心したように言った。
宏一はその理由を感じていた。他人の嘘が許せなかったのだ。それは踊り子が同じ踊りを踊る他人を嫌うのに似ていた。嘘を積みあげる手つきのようなものが、よく判るのだ。そしてそれは、自分を写す鏡のように、自己|嫌悪《けんお》をさそいだすのだろう。
夕陽《ゆうひ》の中を紫色の制服を着た宏一と伊余部が、一人の自衛隊員と共に基地の広場を横切っている。
すべての敵がそれを監視しているはずであった。
「何人乗れるんですか」
「スピードはどのくらい出るんです」
「うるさいだろうなあ、中は……」
宏一と伊余部は少しはしゃいだ様子で、隊員に質問を浴びせている。
仲良くなった基地の隊員の一人に、これから本物の戦車を見せてもらおうという思い入れである。
整備工場へ行って戦車を見ることは本当である。それと同型式のものが、今度の手品で使われるのである。
三人は整備工場へ入った。
油臭い工場の中に、何台も戦車が置いてあった。
「こいつですか」
伊余部が低い声で言った。
「いや、これは国産の61式です」
隊員はそう言って別な戦車の前に立った。
「これです。M4A3、米軍の供与で、61式にくらべるとだいぶポンコツです。硫黄島《いおうじま》や沖縄で働いていた奴ですからね」
宏一は少しさがって全体のイメージを頭へ焼きつけようとした。その型の戦車は同じものが三台並べてあった。
「重さは」
伊余部が尋ねた。
「三十トン近いですね」
「リフトがうまく動いてくれるかな」
宏一に向って言う。
「音をたてられたらえらいことになる」
「それは考えてあります。ちょうどそのころ上空でヘリが大騒ぎをやっているはずです。それよりも……」
宏一は首を傾《かし》げた。自分の嘘を守ろうとする、あの理屈抜きの不安感にとらえられたのだ。
「何か気になるかい」
「なりますね。どこかにエラーのもとがかくれています」
「心配だな。早く探してくれ」
だが宏一には不安の源が何であるか、なかなか掴《つか》めなかった。研究所へ戻っても不安感は納まらず、よけいいらいらして来た。
「伊余部さん。僕に安心させてくれませんか」
宏一はたのんだ。
「よしきた」
二人はベッドに腰をおろし、煙草を吸いながらお互いの顔をみつめ合った。
「戦車について僕は心配ないと思う」
「どうして」
宏一が反問した。
「車にはそれぞれ個性があります。流れ作業で組立てられても、ひとつひとつ微妙に違うはずですよ」
「僕らの二台の戦車は任意に選ばれたわけじゃない。その点を考慮して、ごく早い時期に、まったく同一の外観を保つよう、入念に手を加えられているんだ」
宏一は煙草の灰を注意深く灰皿へ落しながら言った。
「そこんとこがどうも信用し切れないな」
「細部には瑕《きず》もある。キャタピラにある修理のあとも同一だ。信用しろよ。山本一郎の筆跡と同じさ」
「筆跡ね……」
何かがピカリと光ったようであった。
「山本の手紙を羽鳥がそっくり真似《まね》したとします。……そうだ、偽造したのと原本とふたつ出て来たらすべてはおしまいでしょう」
「そんなことはあり得ない。A点へ入った戦車は分解され、切断されて永久に消えてしまうからな」
「そうじゃない」
「心配するな。おまけに両方とも赤一色に塗装されている。よしんば目に見えない瑕が一方にあったとしても、その塗装で消えてしまっているよ」
「それだ、それ」
宏一は煙草を消して立ちあがった。
「僕の心配は逆のことでしたよ。戦車はみな同じに見える。細工をしなくてもちょっと見にはすぐどれがどれだか判らなくなる。そうでしょう。だから二台を一台に見せかけようとすると、素人だってよく似た別物だろうと疑うでしょう。素人ほどそう思うんです。僕らはプロを相手にしすぎているんですよ。もっと素人だましのトリックが要る。ナマのトリックです。見物の目の前で……。準備をしすぎて安心すると、かえって失敗するんです。もっとその場その場で場あたりのことをしなくてはいけないんです」
宏一は解答をみつけたようであった。
「なんと言ってました」
伊余部が戻って来ると、宏一はベッドの上へ起き直って尋ねた。伊余部は宏一の提案を広瀬に伝えに行ったのだ。外部との通信は、ガードマンのいるオフィスでしかできないことになっている。
「君が自分の嘘を守る為の嘘を考えついた時は、言うとおりにして間違いないとさ」
「冷たいな」
宏一は頭のうしろへ手を組んで、あおむけに寝た。
「しかし君の着想には僕も脱帽するばかりだ。赤い戦車を引っぱりだしてから、相手の目の前でペンキの撲《なぐ》り書きをして見せようというんだからな」
「そういうことのうまい人間はいるんでしょうね」
「例の羽鳥たちのセクションから出してくれるそうだよ。それにしてもむずかしいぞ。本物の隊員が何も知らないで急に言いつけられて書くんだ。いくら1という数字をひとつだけだとしても、どうせいい恰好に書けるわけがない。ペンキが下へ流れるだろうし。そいつをそっくりもう一台の戦車へ真似るわけだ。こいつは誰だって信じてしまうよ。その上よく調べれば車体の瑕跡《きずあと》まで同じだ。二重の証明になる」
「三台目の赤戦車も手配してくれましたね」
「もちろん。明日すぐ塗らせるそうだ」
「1を書くことは2があるってことですからね。三台目がないとおさまりがつきませんよ」
「まったく驚いた奴さ、君って奴は」
「交通関係の手配はもうすんだようですか」
「いや、いま調整している最中らしい」
「遅いな」
「前の道路はなんとかなりそうだが、周辺の細い道をどう規制するかがむずかしいのさ。下水やガスの工事ということで、二、三日前からはじめないと、規制エリア内の車がいつ走りだしてしまうとも限らないからな」
「送電は」
「それはかんたんだ。さいわいこの辺りには大病院がないし」
「ヘリの墜落訓練のほうはおわったでしょうね」
「ああ、面白がってたそうだ。まるでサーカスだとさ。ところで、君と広瀬さんの間に何かあったのかい。この間叱られたとか言っていたが、どうも様子がおかしいんじゃないのかな」
「判りましたか」
「判るさ。君のことを言う時の広瀬さんは妙に冷淡になる」
「教えましょう。例の漫画家が消されたのですよ」
「え……」
伊余部は凝然《ぎようぜん》と宏一をみつめた。
「僕が言いだしたんです」
「君がか。なぜ」
「結果的にそうなったんですよ。この嘘はおわらせてはいけないと言ったんです」
「どうして」
「国体の名誉にかかわる」
宏一はなんとなく古めかしい言葉を持ちだし、それに気づいてペロリと舌をだした。
「本当のことを言うと、二度と世界を相手にこんな嘘はつけなくなるからです。このMK4がおわっても、重力波の研究は続けなければいけないんです」
「それとあの漫画家とどういう関係がある」
「放って置けば、今に彼は自分の作品でそっくりか、そうでなくても似たような絵を使うにきまっています。山本の記事の時と同じように、きっと連中はみつけるでしょう。たとえ十年、二十年あとでもね。スパイたちが写真に撮った装置が、科学トピックスとしてどこかの国で発表される可能性もあります。それを逆に彼が見ることだってあるでしょう」
「つまり、未然に禍根を断ったわけか」
「ええ。それで憤《おこ》っているんでしょう」
「だって、君が消せと進言したわけじゃないんだろう」
「もちろんです。ただ帰国を延ばせと……あなたにも言いましたね」
「うん、聞いた。そうか、嘘はその場限りでいいのと、永遠に保たねばならないものがあるんだな」
「永久的な嘘が存在しうることを憤っているのかも知れませんね」
「永遠の嘘か。君はどう思うか知らないが、それはあんまりぞっとしたもんじゃないな。でも理由はほかにありそうだ」
「というと」
「永遠の嘘を君が持ちだしたので、死なねばならぬ人間が増えるのさ。山本一郎もあぶないし、ほかの学者たちもどうなるか判らない。君はそれに気づかなかったのか。君は要するにエゴイストだ。自分の嘘にしか知恵がまわっていない。嘘を作ったり守ったりする時の鋭さがあれば、そんなことぐらいすぐに見抜けたはずだ。広瀬さんは君の嘘の危険性に気づいたらしいな。僕は山本一郎の時、君を冷酷非情な奴だと思った。広瀬さんも恐らくそう思ったろう。しかし君は本当は冷酷でも非情でもない。ごく普通の人間さ。しかし嘘をつく時、君は怪物になってしまう。他人の死を要求して、要求したことすら気づかなくなる。広瀬さんは漫画家のことがきっかけで永遠の嘘を提案した時、とことん君の嘘の能力を思い知らされたのだろう。君は我々にとってすでに絶対必要な人物になった。このさきもっと大がかりな嘘をつく立場に置かれるだろうと思う。だが、その嘘はしまいにすべてをまきこんで滅ぼしてしまうかも知れない。君と同室だった朝部君が、いま国内部でとんでもない企画を実行に移している。朝部君と君は実によく似ている。朝部君の嘘も、永遠を得るために手当り次第滅びをまきちらす嘘だ」
伊余部は憎悪するような目で宏一をちらりと見た。
「彼がどんな嘘を考えだしたのです」
宏一はライバル意識を刺激されたようであった。
「この件に関係している。国内部には国内部で君の知らないテーマが出ていたのさ」
「どんな」
伊余部は紫色の服を脱ぎ、ロッカーへしまって私物のパジャマと着換えた。
「敗戦以来日本は一生懸命やって来た。それは認めるだろう」
「ええ、まあ。まずい面もあるけれど、とにかく豊かになったことはたしかですよ」
宏一は伊余部のほうへ体の向きをかえ、肱枕《ひじまくら》をして答える。
「豊かになりすぎたらしい」
伊余部は部屋の隅にある洗面台の水をだしはじめた。水音と重なって声が続く。
「というと……」
「みんなが贅沢《ぜいたく》している。テレビだクーラーだ車だ海外旅行だ……。そのくせ土地があがって家は持ちにくいが、国が狭いから外国と比較してもはじまらない面もある」
伊余部は顔を洗い、宏一は次の言葉を待った。
「とにかく大したもんさ。千万二千万というマンションが安物の時代になった」
伊余部はタオルを顔にあて、籠《こも》った声で言ったあと、鏡を覗《のぞ》きこんだ。
「そろそろ床屋へ行かなければ」
タオルを壁に戻してきちんと揃《そろ》えた。
「朝部のことを教えてくださいよ」
すると伊余部は笑った。
「気になるだろうな。君と彼は黒虹会きっての嘘のエキスパートだからね」
ベッドへ腰をおろし、一回伸びをしてから横になって仰向きになり、脚を組んだ。
「豊かになって、みんな少しくらいの金をやっても言うことを聞かなくなったのさ。いろんなものの値があがったが、一番あがったのは何だと思う」
「土地」
「いや、違うね。政治資金だよ。こいつはベラ棒にあがった。千円で買えた一票は一万円になった。たとえばの話だよ。実際には、もっと高くつく。考えてみろ、田舎《いなか》のじいさんばあさんが、海外旅行に気楽に出て行く世の中だぜ。一升|瓶《びん》を並べればそれですんだ時代とはわけが違う。たとえばそれなりの地位がある人間が、香奠《こうでん》に一万円札一枚つつんだらケチといわれるだろう。普通列車より急行が混み、その急行でもグリーン車の席から先になくなるんだ。上京した陳情団は最新の高級ホテルへ泊めなければ失望されるにきまっている。村の世話役でそれだから、県のレベルで来たらどうなる。おして知るべしだろう。つまり政治にベラ棒な金がかかりはじめたというわけさ。政治というより選挙というわけかな」
宏一はベッドの上へ起きあがり、伊余部のほうを向いて壁によりかかっていた。伊余部は天井を向いたまま喋《しやべ》っている。
「そういうわけで、自分の地位を守るためには利権を作りださねばならない。昔からそんなことは判り切っているが、どんどんエスカレートして、今では唯一の方程式になってしまった。当然腐る。今は腐り切ってる。二人の首相候補がいて、どっちが権力を掴《つか》むかという時、二人はうしろを振り向いて利権の約束競争をすることになる。ケチな利権ではない。国民全部にその計画を納得させるだけの大義名分を持ち、その実とほうもない利益が一部にころがりこむ大がかりな仕掛けだ。極端にいうと、新しい都市を全国にあと五十くらい作るとか、道路を一度に十倍に増やすとか、全部の鉄道を新幹線なみにしてしまうとか、もっと極端に言えば、その全部を一度にやるとか……」
「とほうもない金がいるな」
宏一は思わずつぶやいた。
「愚かな者はそれでバラ色の夢を見る。土地を持っている奴は値上がりを期待する。山奥に住む者は町が近くなると思う。働きぐちが増えると言って安心する者もいるし、景気がよくなって店がはやるとうれしがる奴もいるさ。だがセメントを増産したり、鉄を作ったり、建設機械や木材やプラスチックや……そういうものをそいつらにこしらえられるわけがない。こしらえて儲《もう》けるのはごく僅《わず》かな人間だ。うるおいかたのケタが違う。だから、そんなうまい話ならいくらでも出しましょうということになる。百円二百円を集める共同募金とはわけが違う。一軒で億が出てくる。二人の候補者が似たようなことをやり、スケールの大きい仕掛けを考えついたほうが勝つわけだ。そういう仕掛けのエスカレート合戦だ。あっという間に政治資金は倍にも三倍にも、いや十倍にもなる。だが出すほうにしてみれば、いくらなんでも楽な金ではなくなる。昔のように余分な金から付合いのつもりでというわけには行かない。商売のもとでと同じになる。払ったんだから早くしてくれと、貸しの意識が露骨になる。政治家など自分らが作ったんだと甘く見る。勝手なことをしはじめて、問題になれば政治家にかばわせる。もみ消させる。昔からあった図式だが、本来なら闇《やみ》に置くことが、だんだん日なたへはみだして来てる。それは建前《たてまえ》じゃないかというような議論が、明るい所で大手を振ってまかりとおる」
伊余部は寝返りを打って宏一をみつめた。
「これが今の社会だ。与党は野党に言うだろう。たしかに企業から大金をもらっているが、お前たちだって労働者から資金を集めているじゃないかと。昔ならこれは闇の中でいう台詞《せりふ》だった。労働者っていうのは、つまり名もない庶民だ。国民だ。そういう人々のために働くのが政治家だという建前があった。だから、お前たちだって労働者から金を集めてるじゃないかという言い草はないはずなのだ。自分たちも一人一人から集めた金で動けばいい。そうだろう。ところがそれはしない。企業から集めたほうが楽だし、効率がいい。手っとり早く金を掴めるほうが勝つわけだし、だからこそずっと与党でいられたわけさ。いつも負けるほうは一人一人から会費をとっている。いつも勝つほうは一人一人に金をやっている。勝つのがあたり前だ。でもこれではいけない。広瀬さんたちはそう考えだした」
「あの人は右だろうに」
「そうさ。だから切実なのさ。企業と保守党の組合せ。それでうまくやって来た。だがここへ来て限界が見えた。これ以上エスカレートしたら、みんなが憤《おこ》りだす。現に革新の票が増えはじめているじゃないか。どういうことか判るかい」
「あんたの言ったように言うと、一人一人に金をばら撒《ま》いても、一人一人から企業が吸いあげるほうが多くなりかけているからでしょう」
「そうだよ。都市で革新が伸びているのは教育レベルや意識の問題じゃない。都市のほうが農村よりよけい吸いあげられているからさ。ところが始末の悪いことに、吸いあげている連中が金をバラ撒く連中と結びついていることを、誰もかくそうとしなくなってしまった。革新は金をくれない、保守は金をくれる。だが金をくれる保守に票を入れると、企業がそれ以上の金を持って行ってしまう。単純に言うと、そういう絵がみんなに見えはじめたのさ。闇の限界をこえて光の中へ出はじめている。なんとかしなければ世の中は左へひっくり返ってしまう。広瀬さんたちはそれの対策がなくて困っていた」
「それで朝部か」
「はじめはそう期待もしていなかったらしい。ただ君で成功したので、ひょっとしたらと今言ったような状況を説明し、右を救う方法を考えさせたのさ。どんな嘘をつけばいいかね」
宏一はじっと考えていた。伊余部が好奇心の溢《あふ》れる表情でそれを見守っていた。
「嘘がどうしようもなくバレそうになったとき……そういう設問ですね」
宏一は目をとじてひとりごとのように言う。
「僕だったら逃げかたはひとつだ」
「どんな」
「守って見せながら相手に嘘をバラさせます。あくまでも相手が知恵をしぼって追及し、こっちが破綻《はたん》して降参したようにするんですよ」
「それで新しい嘘をつくわけか」
「いいえ。古い嘘を守るんです。いちばん古い、全部の嘘のもとになっている奴をです」
「なるほどね」
伊余部はうれしそうに笑った。
「今の社会にそれをあてはめると、バレそうになっている嘘、つまり政治資金がふくらみすぎたことや、本音をかくさなくなった企業を、今までどおり守るふりをしながら、棄《す》ててしまうのです。それが一番安全でしょうね」
「そんなことをしたら何も残らないぞ」
「残すんです。一番大事なところだけ」
「どこだ、それは」
「天皇です」
「え……」
「これはたとえに用いる極端な図式ですよ。そのつもりで聞いてくれないと困るんですが、今あんたが言ったようなことで右が潰滅《かいめつ》したら、あとは左です。すぐには手をつけますまいが、いずれ天皇問題が出て来てしまう。広瀬さんや、そのもっと奥にいる人たちにはいちばん困ることです。天皇が仮りに勅語みたいな奴をだしたらどうなんです。腐った奴らを征伐しろってね。みんなでワッと右をやっつけていい気分になって……でも左はそのあとにはすわれませんね。右のトップがやったことですから。みんな世直しをしたつもりでいい気分になって、今度こそしっかりたのむぞと広瀬さんたちの送りだしたリリーフ投手に声援を送るわけです」
「まさか天皇が先に立つわけはないよ」
「ええ。これはたとえですからね。でも、右の中から白馬にまたがった一群の正義の剣士が出てくれば同じ結果になるでしょう」
「驚いたな。朝部と同じことを君は言ってるよ」
「そうですか。彼の答もそうでしたか」
「いま国内部はそれを大々的にはじめている。保守をふたつに割って攻め合いに持っていっている。黒虹会は攻撃側の味方だ」
「ほう……」
「守備側がこの前のとき使った仕掛けを、かたっぱしから壊してまわっている。すぐできるはずだった新幹線や道路や都市が、至るところで反対にあっている。政治課は極左問題から手を引いて、そういう市民運動へ移らされた。こちらと同じようなセンターを持って、すべての組織を動員しているよ」
「朝部は経済課でしょう」
「こっちの君の立場と同じで、すべてが彼の嘘にかけられている」
「どういう嘘です」
「この前の仕掛けは駄目《だめ》になったから、早く資金を回収したほうがいいと言うんだ」
「嘘じゃないじゃありませんか」
「それがどうも別な意味で嘘らしい」
伊余部は苦笑した。
「そうやれば攻撃側は勝つという嘘さ。朝部は両方叩くつもりなのさ」
「ほう……」
宏一は目を丸くして見せた。
「ちょろりちょろりと、守備側の秘密を革新に流したりさせている。もちろん丁寧に出どころをかくし、攻撃側を安心させているがね」
「ひとつ穴のむじなだから、そういうのは今までタブーでしたね」
「そうさ。保守のモラルをぶちこわすのが目的だ。それはひどい時限爆弾になって、いずれ攻撃側をも叩くことになる」
「で、こっちにも関係してると言いませんでしたか」
「うん。MK4と連動している。広瀬さんたちは、やがて中東で石油に関する脅威が起ることを、その両方に隠してしまった。だから、その脅威をとり除くためのMK4も、当然|上《うえ》は知らない。関係しているのは軍関係だけさ。軍人は左が嫌《きら》いだから立場は広瀬さんたちと同じだ。腐った保守では困るんだよ」
「石油か……それで経済課の朝部がイニシャティヴをとったわけですね」
「攻撃側は再編成して、企業を新しい形で保護し直すことを約束している。相手の致命的な問題を一気にさらけだして潰《つぶ》すからとかなんとか、その辺は手品のタネだから僕もくわしいことは知らない。でも、例の大仕掛けに乗って金を出した連中は、今の政権がみじめなおわりかたをすることを信じ込んでいる。今にほんの一時だけだが、石油の供給がとまるかどうかするだろう。その時連中はいっせいにもとをとり戻すはずだ。そうなるように朝部たちが仕組んでいるのさ。それで火の手があがる。腐った部分が光の中へ姿を見せるわけだ」
「攻守交代かな……」
「いや。もう判ったようだな。攻守ともどもとってかわられるのさ。時間はかかるだろうが、買い占めだ売り惜しみだと朝部たちが煽《あお》りたてている内に、小ざっぱりとした青い服を着た連中が、古いダークスーツの連中を追い払ってしまう。お前も悪いお前も悪い。企業が悪なら潰してしまえ……そういって保守の思い切った大掃除をやってのけるんだ」
宏一は黙って聞いていた。
その翌日、研究所に装置が運び込まれて来た。死んだ漫画家のスケッチをもとにした、物質瞬送装置である。
全体が宏一には見当もつかない合金でできていた。ノーベル賞を受賞した物理学の権威が、もしそういう装置が可能ならということで本格的に細部を考え、その合金を使わせたということであった。
研究所の西側にあらかじめとりつけてあった厚い扉がひらき、装置が何時間もかかってその中へ納められた。
その間ずっと、スパイたちは研究所の主実験室を覗けたはずである。だが、装置には厚いシートがかけられて、およその輪郭しか見えなかったはずだ。
大型機材搬入のため、という名目で、実はスパイたちに秘密を覗かせるために作った側壁の大きな扉が閉じたあと、宏一はシートをとり除いたその装置をゆっくりと見物した。
まさに申し分ない出来であった。物々しく、複雑で、部分的には触れるのをためらうほど危険な感じが出ている。
「要するに、こいつが石油を保証してくれるわけか」
宏一は装置をみあげてつぶやいた。
「そういうわけさ。でも近い内に石油がなくなる」
伊余部が耳もとへささやくように言った。
「この装置はそのずっとあとに役立つだけで、近い将来の石油不足には何のご利益《りやく》もないわけだよ」
伊余部はニヤニヤしている。
「石油が不足すると、ずいぶんいろいろなことが起りますね」
宏一は言った。
「車、プラスチック、電気、ガス……」
「もし君が大金を掴みたければ今がチャンスだな」
宏一は、え……、と言うように伊余部をみつめ、急に笑いだして相手の肩をどやしつけた。
「うまいもんだ。朝部に会ったら言ってやってください。僕も仲間に入れろってね。今みたいに言われて動きださない人間は、この日本には一人もいませんよ」
その時椿が山本一郎をまじえた学者たちを連れて入って来た。伊余部は肱《ひじ》で宏一をつつき、紫色の服にふさわしい態度で主実験室を出た。
「彼らはいまはじめてA点へ入ったんだ。嘘の全貌《ぜんぼう》を教えられ、協力する気になったのさ。山本の顔がなければはじまらないからな」
宏一は力のこもった声で答える。
「肚《はら》をきめましたよ。彼らは多分死ぬんでしょう」
伊余部は弁解するように言った。
「何人かは生きのびるかも知れない。このあとの嘘を続けるためにな。だがそれは嘘が安全に保たれる人間でなくてはならない。何人かはどうしても不適格になるだろう」
「いいんですよ。僕はもうそういうことは考えないことにしました。ゆうべ朝部のことを聞いて、すっかり肚がきまったようです。嘘部は嘘部の生き方しかできないんですし、それはそれなりに生き甲斐《がい》を見つけられそうです」
伊余部は肩をすくめた。
「僕だって嘘部をとりまくしくみの一部だ。嘘についてはほかの人間より抵抗感がない。まあ仲よくやっていこう」
準備が急テンポで進んでいた。
椿はたしかに俳優の経験があるようだったが、それはかなり以前のことらしく、長い間闇の組織のどこかに所属して、今度の任務のように素人たちにそれらしく見える演技を指導していたようである。だいたい椿という名からして、その肥った体と剽軽《ひようきん》な性格にどこかそぐわず、何やら偽名めいていた。
椿は学者たちに実験当日の演技をつけているのだ。彼の指導法は一風かわっていて、学者たちとミーティングを重ね、外見ばかりで中身のないその見せかけの装置について、もし本物ならどの部分がどういう働きをするかなどと、遊戯めいたことばかり話し合っていた。
そのうちに各部位の機能や作動中のイメージが、全員の頭になんとなく固定してしまうのである。そうなってから、今度は一人一人の担当部署をきめる。それもまるで遊びめいていて、冗談を連発して笑わせながら、そのゴッコ遊びにまんまとのせ、自分の担当部分がこうなったらこう反応するというように、学者たちが自発的に考えはじめるのだ。
椿はそれを全面的にとりいれてしまう。
つまり台本は相手に書かせるのだ。そして一旦個人の作業イメージがきまると、それをまとめあげ、時間経過に従って各人が互いに連携したひとつのチームプレーを作りあげてしまう。
それを何度もくり返して基本をマスターさせると、今度はそれに突発的な変化を想定した動きを加えて行く。所定の時間経過の中へ何ヶ所かそうしたものを挿入《そうにゆう》してもう一度全体をまとめ直し、何度も何度もくり返して最後には見事なドラマに仕立てて行った。
学者のほかにA点である主実験室へ出入りする者は、本物の技術者であってもすべて組織の者だから話はかんたんである。
また、B点側に配置される自衛隊員も、そうしたことを心得ている者ばかりで構成されるはずであった。
研究所の周辺に各種の工事がはじまり、それとなく車の通行を規制して行った。規制エリア内に常時駐車しているドライバーたちは、この数日へたをすると出入りができなくなるぞと、なかばあきらめ気味に感じはじめていた。
黒い虹の立つ時刻は次第に近づいている。
第九章 市 街
遂《つい》にその日がやって来た。
その日朝早く、まず研究所の前を通る道路のずっと東のはずれ、国道と分岐してすぐのあたりで、大型トラックの横転事故が起された。トラックは大量の瓶《びん》を積んでいて、その破片の処理に手間どっている内に、朝のラッシュ時に入ってしまった。
それでも団地から出て行く車はスムーズに流れた。ほとんどは東京へ行く車で、逆に西へ向う車は、国道からすぐの所で事故車が道を扼《やく》した形になって、いっそう楽々と去って行った。
しばらくすると、今度は西のほうで衝突事故が起きた。道がすいていたためにスピードを出しすぎた西行車が、東行車と正面からぶつかったのである。奇蹟《きせき》的に死者はなかったが、車輛が火を噴いて大さわぎになった。
そのため上下線は十時近くまで渋滞し、おかげで研究所の前の道はいつもよりすいた状態にさせられている。
その頃、自衛隊基地の広場のどまん中へ、ひとつの仮小屋が建てられはじめた。何もない平坦《へいたん》な土の上へ、隊員たちが慣れた手順で柱をたて、コンクリート・ブロックを積みあげて、またたく間に囲いを作ってしまう。ギラギラと光をはね返す金属板が研究所のほうから運ばれて、その囲いの中へ持ちこまれ、内貼《うちば》りするように四面と床、天井へとりつけられたようである。多分それは気密室を作っているようであった。完全に密閉されると黄色い服を着た研究所員が出て来て、何度も計器を使って調べていた。
その横に重そうな機械が運びだされ、据えつけられたのは午前十一時ごろであった。小屋の四隅に同じものが四基置かれ、太い高圧ケーブルが整備工場のほうから引きだされて、四基の得体の知れない機械につながった。
その頃には営舎から武装した一隊が出て来て、広場をぐるりととりかこむ形で警備態勢をとった。研究所のまわりにも物々しく兵士が立ちならんで、あたりの雰囲気《ふんいき》が急に緊張したものになる。
仮小屋にあらかじめとりつけられていた平べったい円型の部分と、まわりに据えた四基の機械の上部を、こわれ易いものを運ぶ様子でそろそろと持って来られた金属の円筒が接合され、仮小屋は何やら神殿めいた威厳をそなえたようであった。
白い服の男たちがそれを点検に出て来る。
宏一はそれを遠くから見ていておかしかった。素人俳優にしては上出来の名演技で、何か相談し合ったり、黄色い服の男たちに手直しを命じたりしている。
白い服の男が引っ込んでしばらくすると、営舎のかげからジープが走りだして来た。小屋の近くにいた兵士たちがいっせいに緊張し、高官であることが判る。
高官は車に乗ったまま完成した小屋を見物し、すぐジープを研究所へまわさせた。
高官が小屋を見物しているうしろで、自衛隊員による消火班が、物々しい耐熱服の勢ぞろいと言った恰好で待機位置に入る。
パタパタとヘリの音が近づいて来たと思うと、基地の広場でホバリングをはじめ、もう一機が周囲をぐるぐるととびまわる。随所でトランシーバーの声がとびかい、やがて遠くからパトカーの警笛まで響いて来た。
パトカーは一台ではなかった。一度に六、七台もやって来て、そのあとから警官たちの乗った金網つきのバスまでついて来る。
研究所の前で、東西に分れた警官たちは、素早く道路に散って交通規制をはじめる。鋭く笛を鳴らし、上下とも三車線を二車線にする。
それでなくても朝から事故車のために堰《せ》きとめられていた道路は、東西の障害物がやっととりのぞかれてみるみる交通量をましていたが、それが二車線に規制されていっそう渋滞をはじめる。
パトカーが基地の外側をゆっくりとまわりはじめ、それとなく作られた交通規制エリアの車輛をチェックしている。
研究所の内部にも、嘘でなく緊張感が高まっている。白い服の学者たちが、黄色い服の連中と最後の演技訓練をはじめているし、その他の者は一ヶ所に集められて、ガードマンの厳重な監視下に置かれている。廊下や主実験室への渡り廊下には、着剣した銃をかまえた自衛隊員が溢《あふ》れていた。
主実験室の中二階の南側には紫外線よけのガラスがはまったコントロール・ルームがあり、装置とB点の小屋が同時に眺められるようになっている。
宏一と伊余部も、今日は紫色の服を黄色にかえてそのコントロール・ルームの隅にいた。椿も管理者を示す黒い制服を着て、司令官然とした態度でかまえていた。
感情移入することに熟達しているとみえ、ただの演技や冗談ではない迫力があった。
すべてが宏一の嘘であった。宏一ははじめ、もう自分の手を離れてしまったのだから、どうあがいても仕方がないと、関係者にまかせて自分は高処《たかみ》の見物をきめこむつもりであった。
だがその宏一にしても、これほど大がかりな嘘ははじめてであった。嘘とはいえ自分の作品が次々に実際の絵になって行くのを見るのはたのしかった。たのしい以上に昂奮《こうふん》させられた。自分は全能の神であり、造物主であり、人々の運命をつかさどっている者のような錯覚さえあった。
なぜなら、人々の動きの先が、宏一にははっきりと判っているからである。いったい今|迄《まで》他人の行動をこれほど細部まで理解したことがあっただろうかと思った。
誰がどこへ行くのか宏一は知っていた。名は判らずとも、その者のいる位置と時間で判るのだ。実験は着々と成功に向って進んでおり、失敗の兆候はまったくなかった。
しかし、はるかかなたの窓の中に対してはどうであろうか。彼らが自分の期待どおりの反応を起してくれるであろうか。宏一は決して自信を喪失したわけではなく、実験の進行状況を見てますます自信を深めてはいたが、それでも心臓の音を強く感じるようになっていた。
厚い壁をとおして、ヘリコプターの爆音が続いていた。研究所内では念のため電力を可能な限り浪費させていた。こうした実験の前兆を、電力の消費量で知るのは、諜報活動のイロハだったからである。
それに、これは或《あ》る意味で本物の実験だったのである。警官、自衛官、ヘリの乗員……その他数多い関係者が、一定の時間にそれぞれの演技を開始しなければならないのだ。
したがって、タイミングが重要になり、秒読みの必要があった。
六十分前から、十分きざみに残り時間が知らされる。そしてその六十分前に、あの赤い戦車がM32と呼ばれるずんぐりした戦車に牽引《けんいん》されてあらわれた。
戦車回収車であるM32は、主実験室までまっすぐに引っぱって行き、一度西側の壁の手前で赤い戦車を外すと、すぐ整備工場へ戻ってもう一輛の赤い戦車を引っぱって来た。二台は西南へ側面を見せて縦に並んだ。
側壁の扉が僅かにあいて、戦車のそばの自衛隊員に大声で何か叫び、腕をあげて二台の赤い戦車の砲塔のあたりを示した。隊員はあわてて整備工場へ駆け戻って行く。
空でヘリが唸り、十分ごとに残り時間を告げるアナウンスが、次第にぶきみさを加えている。
白いペンキの罐《かん》をぶらさげた兵士が走って来ると、一人が身軽に赤い戦車にとびあがった。ペンキの罐を受取り、砲塔の右側面に刷毛《はけ》をペタリとつけた。
宏一は息をつめて見守っている。コンクリート・ブロックを積んだ時、そこで三人の男が消えていたはずなのだ。何もない平坦な広場が、このMK4がはじまって、焦点が研究所へ移って以来、ずっと監視の目にさらされていたのだ。B点の仮小屋は、今まで何もない場所へ急に作られたのだ。
だが、B点はそれ以前に工作されていた。車輛群で目かくしを作り、穴を掘ってリフトが据えられ、赤い戦車がかくされてもとどおり土で掩《おお》われたのである。
コンクリート・ブロックの壁ができた時、その中へ三人の男がもぐり込んでいたはずであった。ピカピカと光をはね返す金属板は、それらしい内壁材を誇示すると同時に、ムービーやビデオに記録されていることを想定して、三人の男が消滅するチャンスを作りだしていたのである。
宏一は体をのりだして、ペンキで砲塔に手早く数字を書く兵士をみつめている。
「どうしたんだい」
「あれだ。靴だ。靴のあとだ」
赤い戦車には、とび乗った兵士の靴についた土がこびりついていた。
伊余部はB点の地下へ直結するマイクへとびついた。早口で靴あとのことを言っている。
ペンキ塗り役の兵士は二台目へとび乗った。今度はやや落着いた様子で書いている。
「伊余部さん。あんた向う側へまわって、よく見て来てくれないか。覗《のぞ》いている奴らにサービスしたら、こっちからは数字の具合がまるで見えない」
「よし」
伊余部はコントロール・ルームをとびだして行った。
「まだ入《い》れないのですか」
宏一はさっきから何度もそう催促されていた。
催促に来るのは黄色い服を着た四十がらみの男である。宏一がこのMK4の現場責任者であると知ったとたん、ためらわず言葉づかいを改めていた。
「ペンキが乾くのを待っているのですよ」
宏一は笑顔で言った。
「戦車が動いてまたしずくがたれたら、B点の連中がやりにくくなるでしょう」
A点へ入る赤い戦車をポラロイド・カメラで素早く撮影し、それをB点へうまく渡してしまっていた。地下では今ごろ砲塔に、しずくのたれ具合から1という文字のかすれ具合までそっくりに模写されているはずであった。もちろんそれを書いた兵士の靴のあともだ……。
「どうです、伊余部さん」
宏一はニヤニヤしながら言った。例の嘘に直面した時の迫力が湧いていて、伊余部は気《け》おされ気味であった。
「なんだ」
「この辺でもうひと芝居つけ加えましょう」
「どうする気だ」
「時間を二、三十分延ばしましょう」
「え……今からか」
「一発で本番オーケーというのは虫がよすぎます」
宏一はそう言って悪戯《いたずら》っぽく舌をだして見せた。
「本当はもっと迫力をだしたいんです。ゼロ・アワーを変えれば本物の混乱が起るでしょう。みんなじりじりするし、タイミングの調整にあわてなければなりません。ヘリの滞空時間はどうです」
伊余部はあわててノートをとりあげた。
「片道でいいのだからまだ一時間くらいある」
「よし、それじゃ行きましょう。二十五分延期……お願いしますよ」
伊余部は椿のところへとんで行き、すぐ外部と連絡をとりはじめた。
各部署から苦情がとびこんで来たが、こうなっては宏一の決定に従うよりない。宏一は研究所から黄色い服の連中をB点へくりだして、いかにも調整をし直しているという状況を作りだした。
道路では大あわてに警官が走りまわり、広場を固める武装兵の間に伝令がとびかう。
やがてその二十五分の延期も残り二十分というところへ来ると、宏一は戦車をA点へ入れるよう命じた。A点は外部から見ると、戦車が出入りできるのは西側の大きな扉だけで、地下のリフトに感づかれない限り、中へ入れてしまえば戦車は消えようがないのである。
宏一はギリギリの時間まで戦車をA点に入れるまいと考えたのだ。このショーを見守っている連中に、分解したのではないかと思われたくなかったのだ。専門家に尋ねると、二十分では絶対に分解不可能だという。その答は見物している側でも同じはずであった。
扉がひらかれた。
まさに、文字通りの見せ場であった。
戦車を入れなければ実験にならない。入れるためには扉を大きくあけねばならない。あければ謎《なぞ》の装置が見えてしまう。
だから戦車をA点に入れる自衛隊員たちは、必死で作業を急いだ。ほとんど罵声《ばせい》に近い声がとびかい、三十トン近い戦車はのろのろとA点へ入った。
そのいくらかの時間こそ、このショーの眼目であった。どこかで必死にシャッターを押している連中がいるのだ。夢中でムービー・カメラをまわしている連中がいるのだ。その連中が装置を見てくれねば困るのだ。そして確実に見ているはずであった。
扉は呆気《あつけ》なく閉じた。
ドーンというこもった音が響きわたった時、伊余部と椿は全員を一旦主実験室から退去させた。そして誰もいなくなった部屋で、リフトの作動音が鈍い音をたてはじめた。
戦車をのせた床が沈んで行った。
戦車の姿が完全に床の下へ消えると、軽い音をたてて新しい床がすべりだし、穴をふさいだ。宏一と椿はニヤリと顔を見合わせた。
「いよいよ本番だ」
伊余部はコントロール・ルームへかけ登りながら叫んだ。主実験室へ白や黄の服の男たちが戻って来た。
「いいか。本番だぞ」
椿が下の連中に怒鳴った。稽古《けいこ》を重ねた芝居がこれからはじまるのであった。
秒読みに入った。
研究所の前の道路の規制が一段ときびしくなって、西行する下り車線は閉鎖され、上り三車線の内二車線だけが、のろのろと車を通していた。研究所の側にはできるだけ近寄せないための配慮であった。
何か大きな事故か、基地内に爆発の危険でも生じたのだと思ったドライバーが多かったろう。事実芝居の筋書きはそのように組まれていた。遠い二車線に上り下りの車が動いていた。警官たちもできるだけ研究所から遠ざけられ、実験に関係のない所員たちも、待機していたバスに乗せられ、パトカーの先導で使用を中止されたガラガラの道を遠のいて行った。
「6・5・4・3・2・1・ゼロ……」
突然研究所の白い建物全体が青光りした。そのような閃光《せんこう》を発するように作られていたのだ。あたりに鉄臭《かなくさ》さがたちこめた。
ブウーンという得体の知れない唸《うな》りが聞えた。広場の中央にあるB点の四基の機械がその唸りの発生源であった。B点とA点との空中に何か青いものがたしかにとんだようであった。
とたんに周辺全域の送電がとまった。もし電話をかけている者がいたとしたら、プツッと切れた音を聞いたろう。
研究所前の道路を、上下一車線ずつに規制されてのろのろと走っていた車やトラックのエンジンが、一様にエンストを起して停止してしまった。
そればかりか、空中のヘリが急に不調音を発し、みるみる高度をさげた。広場の兵士たちが逃げまどい、ヘリは辛うじて広場へ着地した。しかし二台の内の一台は傾いて降り、ローターを大地に打ちつけて転倒した。乗員たちが這《は》いだすと、すぐボッと火を噴いた。
B点の仮小屋近くにいた兵士たちは、ヘリの墜落どころではなかった。失神してバタバタと倒れた。だがみんなそれを救出にも行けず、凍りついたように見守っていた。
その時、研究所の西側の壁の大きな扉が、内側から押しあけられた。最初の黄色い服が、その僅かな隙間《すきま》からとびだしてB点へ疾走をはじめた。二人、三人、四人……そしてしまいには椿や白服の学者連中まで出て来た。
みんな雀躍《こおど》りしていた。
「バンザーイ……」
誰かが怒鳴ると、それに続いていっせいに万歳の声があがった。誰かれの差別なく握手し合い、肩を叩き合い、抱き合ってとびはねた。
その頃になって、やっと救護班と消火班が行動を起した。倒れた兵士たちはだき起され、担架が駆け寄った。
家々に送電が再開された。道路の車のエンジンがかかりはじめた。
タイミングはまさにぴったりであった。
「やったな」
コントロール・ルームの中で伊余部が宏一に握手を求めた。宏一も感激していた。すべてがうまく行ったのだ。研究所前を通りがかっていた車の中に、一台でも部外者の車が混っていればそれでおしまいだった。ヘリが広場の真上にいなかったら、墜落の芝居はこうも完璧《かんぺき》にはならなかったろう。
やがてB点のコンクリート・ブロックがとり除かれ、あのピカピカ光る内壁材が破られると、真っ赤に塗った戦車が広場へ引きだされ、慎重な点検を受けた。
宏一の物質瞬送技術は完全であった。
車体の瑕も兵士の靴あとも、そして撲り書きした白ペンキの字と、そこからこぼれ落ちたしずくまで、完全にA点からB点へ移っていた。
「兆候あり」
センターへ海外から、またそういう報告が入りはじめた。
実験を見たスパイたちの本国に、予期された反応が出たということである。
「つまり、泣き女や泣き男というのは、嘘部の原始的な一形態なのでしょうね」
宏一が伊余部に言っている。二人とものんびりとしていた。
「故人を悼《いた》むというひとつの儀式の演出効果を盛りあげる嘘だと思うんですよ。律令《りつりよう》の制定や施行の式典には、それのもっと複雑なことが行なわれる。ああ、これさえあれば世の中は穏やかに納まると、百官の居並ぶ背後で誰かがつぶやいても、信用しちゃいけませんよ。その名もない庶民こそ、居並ぶ百官にもまして重要な、式典の演出者かもしれないんですからね」
「でも、考えてみるとつまらない役まわりじゃないのか。だって、表だった地位とも権力とも縁のない、闇の中の存在じゃないか」
「もちろんそうでしょう。でも、氏姓制度もはじめは律令のように新しく、すばらしいものだったのではありませんかね。封建制がモダンで有効な政治技術だったのと同じようにです」
「古すぎて想像もできないな」
「たとえばあなたの祖先の名を引合いに出しましょうか」
「え……」
「伊余部馬養さんですよ。部《べ》は伴《とも》、または品部《ともべ》と言って、一定の職業に従事する人々の集団をさした言葉です。伊余部はさて置いて、馬養という名はかなりいい名です。伊余部馬養から話がそれますが、馬養、犬養、牛飼、猪飼《いかい》などはかなり力のあった部族で、決して賤業《せんぎよう》ではありません。ところで、現代ですが、牧場主の息子に生まれた男が、必ずしも牧場経営に適した素質を持っているとは限りませんね。また、商売で馬を飼ってるが、本当は馬なんか好きじゃないという人物も多いはずです。でも、ある時代、本当に馬好きな男たちが馬を養っていて、それ以外のことには見向きもしなかったことがあるんじゃないでしょうか。同じように、土器を作る人間は土器を作ることが気に入っていて、ほかの仕事は考えてもみないのです。みんながそれぞれの性格に合った、いわば天職を持っていて、その技術を持ち寄って社会を作っていた。馬ぎらいな馬|養《か》いはいなかったし、土器よりも機織《はたお》りのほうがよさそうだと思う土器職人もいなかったわけですよ。それが集まって、めいめいの部《べ》を作り、呼び名になったわけです」
「嘘部は嘘が天職か」
「ええ。今の人間はその点不幸ですね。天職を探しあてられない人間が大部分でしょう。セールスマンになり、事務員になり、運転手もやって見る。だがどれも自分の性《しよう》に合わない。その内年齢が来て、いいかげんのところで手を打ってしまう。大して楽しめもしないまま、自分の性に合わぬ仕事を続けて一生をおわるのです。もし自分の本当の仕事にぶつかっていたら、他を羨《うらや》むこともないでしょうし、自分をみじめだと思うこともないはずです。だから、世を治める側にとっては、めいめいの天職を外れさせないようにするだけでよかったのです。金ではなく仕事のよろこびで、みんなめいめいの仕事に打ちこんだのですからね」
「しかし、それを上から統治した者はいただろう」
「そこですよ。統治の仕事もまた、それを天職とする人々がいたのです」
「そんなわりのいい……」
「いいえ。僕の例で判るとおり、嘘部も統治に一役買っています。経理マンもいたでしょうし、書記役を天職とする者もいたでしょう。中間管理職、長官……みなそれぞれに性《しよう》に合っていたとしたら、それは平等な集団じゃないですか。僕は古代の王を信じたいですね。それは人々の中心に坐っているだけの人物です。人々が通りがかったらニッコリ笑って挨拶《あいさつ》するだけの人物です。仕事としてそうするのです。その横に、王の代理としていろいろな問題に決断をする部《べ》……がいます。その下にそれを補佐する部《べ》……みな持ちつもたれつですよ。嘘部はその王をたたえ、人々の心を一ヶ所にひきつけて、団結させる役だったかもしれません。でもそれが崩れたのです。どこから崩れたか、それは判りません。でも、王の部《べ》が王に執着したとしたら、それはどこかに天職を失って、いちばん楽で得《とく》に見える王の仕事を狙《ねら》う人間がでたことでしょうね。どこかそこいらから混乱したのでしょう。みんなをそれぞれの部《べ》に留《とど》めて出入りを禁じたのは、逆に言うとそういう不届者《ふとどきもの》がいたからですよ」
「それは誰だろう」
「さあね。どこかから、そのおだやかな社会へやって来て、王の部へ入りこんだ奴がいるかも知れませんよ」
宏一はそう言って笑った。伊余部は嘘にひっかかったかと、警戒したようであった。
「どちらにせよ、おっしゃるとおり、嘘部は権力に利用され、奉仕するだけです。嘘さえついていればたのしい人間としては、嘘をつかせてもらえるなら、甘んじてそうなるより仕方ないのです。米を作るのが楽しい人間も同じことです。作らせてもらえる以上、権力には逆らいません。警官も運転手もセールスマンも経理マンも、今やっている仕事が楽しい以上、同じことです。そして、よそから入りこんだような、妙な連中がその奉仕をうけて肥えふとるのです。仕事のたのしみを知らないから、際限もなく富を欲しがるのです。本質的には僕らのほうが幸福です。仕事のたのしさを知っていますからね」
宏一は久し振りに、黒虹《こつこう》会のオフィスへ行った。MK4のセンターはまだ解散せず、実験日以後の相手方の動きを監視し続けていたが、もう彼らに与える嘘も必要はなくなって、闇《やみ》の世界の大物たちの中には、ぼつぼつ帰国する者も出はじめていた。センターが解散する日も遠くないはずである。
目と鼻の先にある黒虹会のオフィスだが、宏一にとっては随分久し振りのような気がした。自分のデスクがある国際部の部屋はガランとしていて、長い間無人だったせいか、なんとなく侘《わ》びしげであった。
宏一はしばらくそこに坐って抽斗《ひきだし》をあけて見たりしていたが、やがてふらりと国内部へ足を向けた。
実を言うと、朝部に会うのを期待していたのである。朝部とはかなり深い縁で結ばれているような気がしていた。箱根の合宿でも同室であったし、その期間中毎日のように嘘部の歴史や自分たちの嘘の技術について語り合ったものである。
それが現場へ配置されてみると、二人ともめきめきと頭角をあらわし、今では国内、国際の両雄と言った感じになり、現に宏一と朝部が最も優れた現代の嘘部であることは、広瀬はじめ関係者のすべてが認めてくれているのだ。
年齢は朝部のほうが上だが、宏一は僚友といった感情を彼に対して強く抱いていた。国内問題について彼が構築した嘘を、見事だと思っている。そのテーマを与えられたら、自分でも同じことを考え出したに違いないと思うのだ。
人間の感情とはおかしなものだ……宏一は朝部に会えることを期待しながらそう考えていた。
MK4がはじまった時、宏一は朝部のことなどまるで忘れていた。与えられた嘘の舞台に夢中になって、自分ひとりが嘘部のように思っていた。しかしMK4の末期に国内部の活動を聞かされると、なんとなく羨《うらやま》しくなった。それに参加できないことが淋《さび》しかった。だから朝部に対しても、たしかに羨望《せんぼう》とか嫉妬《しつと》とかいう感情が湧《わ》いた。
しかし、朝部にはそれ以上に友情を感じていた。頑張《がんば》れという声援を心の中で送りはじめているのだ。仲間内では誰よりもよく知っている朝部が、そのような才能の持主だったことをよろこんでいるのだ。
できれば一緒に仕事をしたいと思った。朝部と自分が組めば無敵だと信じていた。
国内部へ顔をだすと、ちょうど朝部が居合わせていた。
「やあ……」
宏一はうれしそうに声をかけた。
「おや、これはこれは、国際部のエースのおでましじゃないか」
朝部もよろこんで迎えてくれた。他に六人ほどの嘘部がいて、すでに彼はその中で確固とした地位を築いてしまっているようであった。朝部が言うと他の者がいっせいに宏一のほうを眺め、敬意のこもった挨拶をした。
「凄《すご》いことをやったじゃないか。大成功だったそうだな」
宏一は照れて肩をすくめた。
「ちょっとした小手調べだよ。それよりこっちもやってるそうだね。手伝わせてもらいたいくらいさ。もう暇になってしまったから」
「まあのんびり休んでいてくれ。何しろ大仕事のあとだからな。こっちも負けちゃいられない。と言っても、国際部さんのように派手なことはできないが……」
朝部は自信たっぷりな態度で言い、挑《いど》むような気負った視線を向けていた。
「ちょっと失礼するよ」
入口に立っている宏一に言い、そのまま仲間と額《ひたい》を集めてひそひそと打合せをはじめた。
宏一は近くの椅子《いす》に浅く腰をおろして朝部を待った。久しぶりなのでお互いに積もる話があると思ったのである。
ところが朝部は打合せがおわると、書類の入った紙袋をかかえ、
「じゃあまた……」
と軽く手をあげて、あっさり出て行ってしまった。お前は勝手にしていろというような、冷淡な態度であった。
「いそがしそうだね」
宏一は仕方なく残った連中に言った。
「ええ、当分のんびりできそうもありませんよ」
その中の一人が笑って答えた。
「どんなことをやっているんだい」
すると相手は困ったように仲間を眺め、
「すいません、機密保持がうるさいもんですから」
と言った。
宏一は憮然《ぶぜん》とした。彼らの仕事のことなら、とうに伊余部に聞いて知っているのだ。宏一は国内部の競争意識を見せつけられたように感じた。
朝部が構成した今度の嘘は、まず国内に不安感を醸《かも》しだすことから始まっている。その不安感は、最終的に政治と企業活動に対する不信へ向けられなければならない。
朝部の着眼のよさは、それを現代社会の豊かさに求めた点であった。彼は物資のあり余る社会の中で、人々の心の底に一種の頂上感のあることを見抜いていた。豊かさの中で前途に急な下り坂を予感しているのである。人々はそれを否定し、無視しながら暮らしている。富者の怯《おび》えであった。
朝部はまずそこへ第一のゆさぶりをかけることにした。現代の富者とは何かを考え、その富者のいちばん身近な、そして意外性のあるものに打撃の焦点を定めた。
現代の富者とは、できるだけ多くの人工のものを利用して生きている人々である。エレベーター、クーラー、テレビ、車……。もしそれらがなくなったら、富者は一転して最も貧しい者になってしまう。エレベーターがなくなれば十階、十五階という長い坂を歩いて登らねば自分のすまいに行きつけない。クーラーがなくなれば橋の下の乞食以上に暑い夏に耐えねばならない。
だが、そういうものに対する不安は、彼ら自身に気づかせねばならない。嘘とは相手に自分から掴《つか》ませるものだからだ。
朝部たちは今、富者たちが最も無造作《むぞうさ》に捨てているものに目をつけている。それは紙であった。トイレット・ペーパーであった。鉄とガラスとコンクリートにかこまれた中では、それがなければ排泄《はいせつ》ひとつできなくなる。国内部経済課の嘘部たちは、それの不足を演出するためにとびまわりはじめている。
ただひとつの、考えようによってはユーモラスでさえある問題が、人々の頂上感に作用して、一気に下り坂を直感させるのだ。人々はみずから不安を先どりしてうろたえ、少しでも長く頂上にとどまろうと場所の奪い合いを演ずるに違いない。だから朝部たちは、その第一の混乱を拡大して行くため、すでに別な方面から手を打っている。一部の流通業界にテコ入れをして、在庫を極端に増加させている。業界はまだその真意を知らないでいるが、やがて自己の支配地域内で小さなパニックが起った時、幸運に目を丸くして驚きながら、朝部たちの期待どおりの行動をしてしまうに違いない。そして同業者たちがいっせいにそれを真似《まね》るだろう。それは人々に不安を感じさせる第一のショックとなるのだ。
朝部たちはすでに、石油供給の問題が発生することを知っている。問題発生の日時まですでに掴んでいて、小さなショックをその直前に設定しているのだ。人々はトイレット・ペーパーが崖《がけ》の崩れる前兆であったことを感じるだろう。関係業者たちは、トイレット・ペーパーでいともやすやすと大金を掴んだ流通業者の前例を教訓とするだろう。朝部たちのほんのひと押しで、あとはすべてが勝手にころがりだしてしまう。それは際限もなく拡大するのだ。
政治家たちに大きな貸しを持ったあらゆる企業が、闇の中からいっせいに汚れた手をさしだして、そのチャンスをものにしようとすることは目に見えている。政治家がその手を叩き、たしなめ得ないことは計算の上であろう。咎《とが》める者のない無法時代がはじまるのである。
汚れた手の強者は互いに協定し、個々に不当な利益をかくし、彼らに莫大《ばくだい》な借りを持つ政治家たちを、あえてたしなめざるを得ない所まで追い込むことになるのだ。
朝部たちはその時点で、この前の戦いに敗れた一群の政治家を利用するはずであった。巧妙に隠蔽《いんぺい》されてはいるが、その実調べればすぐ判るルートで、汚れた手の強者たちの実態が少しずつ明るみへ出されて行く。保守政権内の内部抗争という形を演出するのだ。価格協定の実態や脱税の手口、不当利益の額など、正常な状態では決して知られることのない強者たちの秘密が、弱者たちの前へさらけだされるのである。
借りを持つとは言え、政治家は自分たちの地位の生みの親である企業群に対し、一応の攻撃姿勢を示さざるを得ない。活動を規制し、借りの少ない者をいけにえに仕立てねばならなくなる。
だが、そのいけにえといえども、企業であるからには当然政治家に資金を支出している。ただその支出先が、少しばかり見込み外れであったというにすぎない。
引責辞職した社長、シェアを逆転されたメーカー、倒産した流通業者……そういった中から、政治資金の実態を暴露《ばくろ》する強力な証人が生まれて来る。
朝部の筋書きのあらましはそういうことであった。そしてそれは、広瀬たちがもくろんでいる、保守政権の存続……腐った部分を切除してあらたに人々の支持をとりつけることに、みごとに結びつくのである。
いま広瀬たちが準備している保守の第三勢力は、自陣営から汚れた者を追いだし、告発し、保守の本質が汚濁と悪徳だけではなかったことを証明してみせるはずであった。
その段階では国内部政治課が介入し、革新側の団結を弱める工作が進行するわけである。人々は保守の醜さを知ると同時に、革新の脆《もろ》さを知らされて、広瀬たちの用意した第三勢力にとびついて行くのだ。
その先に何があるか、宏一はすでに察知していた。公正で信頼できるものの象徴として、最も古いものが復活するのだ。それは国の中心として尊崇され、不可侵のものになって行くに違いない。石油資源問題については、MK4が長期的な安定工作を成功させてしまっていた。産油国側は、日本に近い将来ふたたび神の座へ近づく存在があることを知るはずであった。国際部海外班がそのための活動をはじめていた。
高速道路には相かわらず車がひしめいていた。石油が不足しているのに、車が動いているのがおかしかった。そのくせガソリンは、メーカーや流通業者の段階では極端に不足しているらしく、商品を運ぶトラックの数が激減し、出荷が鈍っているということであった。輸送費がそのために高騰し、その分が商品の価格に上《うわ》のせされていた。
ありとあらゆる商品がどこかへ行方《ゆくえ》をくらまし、値をあげてまた現われてくる。
宏一はマンションの窓から、朝部たちの作りだした混乱のさなかにある市街を眺《なが》めていた。
「容子……」
なかば放心したように呼んだ。容子はさっきから、自分の職場の噂《うわさ》ばなしを続けていた。どこのポスターを作ったとか、あのモデルはどうだとか……念願の広告業界に入れて、すっかり満足しているようであった。
「なあに」
容子はブラウスのボタンをはめながら近づいて来た。着換えて一緒に外出することになっていた。
「結婚しようか……」
「あら」
容子は笑顔になった。
「とうとうそこまで来たの」
ひとごとのような言い方であった。宏一はふり向いてその顔をみつめた。
「嫌《いや》か」
容子は首を横に振り、下腹部を打ちつけるようにして宏一を抱いた。腰を押しつけ、上体をそらせて宏一を見た。
「あたしたち、今やっと着いたのね」
「そうだな」
「どこに住むの」
宏一は容子の体を離し、椅子に坐ると煙草に火をつけた。
「今の仕事、気に入っているんだろう」
容子は宏一が坐った椅子の腕木に浅く腰をおろし、肩に手をまわして言った。
「でも結婚したらやめるわ」
「どうでもいいけれど、それによってどこに住むか決めるよ」
「あら、あたしはあなた次第よ。デザイナーと言ったってあたしなんか大したことないんだし、一生やれるはずないんですものね」
「それなら聞くけど、小さな店をやってもいいかな」
「あら、そんなつもりがあったの。で、なんのお店」
「まだ決めてはいない。ことわっておくが、その店で生活して行かねばならないわけではないんだ。今までどおりここにいてもいいし、もっと大きなマンションへ移ってもいい。土地を買って家をたててもかまわないんだ。今の仕事は僕にとって一生のものだし、収入もいい。別に商売をする必要はないんだ」
「じゃ、どうして」
「ただ、金持のような暮らしでおさまり返っていたくないのさ。僕の仕事は君らの広告の仕事に似ている。大衆の気持が肌で判っていないとうまくやっていけないのさ。もっともそんなことはおかまいなしの奴もいるけれどな」
宏一は朝部の顔を思い泛《うか》べていた。
黒虹会は宏一たちの次の世代を育てはじめている。新たに発見された嘘部が訓練をおえて戦列に加わっていた。発展しはじめた嘘部組織の中でも、宏一と朝部は破格の待遇で扱われ、それぞれ独自のチームを指揮することになっていた。
朝部は隠れ蓑《みの》に小さな商事会社を作る予定で、早くも高級住宅街にかなりの豪邸を入手して住みはじめていた。
本当の嘘はそんな暮らしからは生まれて来ない……宏一は朝部のやり方を、そんな風に内心批判していた。
「何のお店でもいいわ。でも、あたしがうまくお手伝いできるかしら」
「僕がやりたいのは、君にはわりとつまらない店かも知れないな」
「そんなこと……あたしは何だっていいのよ」
容子は頼り切ったというよりは、どこか間隔をとった表情で宏一の頭をみおろしていた。
「仲人《なこうど》、結納《ゆいのう》、式場の手配、案内状、新婚旅行……いそがしくなるな」
宏一はその顔をみあげた。容子はひどく母性的な笑い方をすると、宏一に上から顔を押しつけて行った。
朝部たちの仕事は着々と進展して行った。物不足、買占め、売り惜しみ……伊余部を通じて聞かされていた進行予定どおりに事態が進展していた。不安な人々の住む市街から急にケバケバしいネオンサインが消え、何か悪い時代が前途にあることを暗示しているようであった。
新しくなったら……。そういう言い方が伊余部や広瀬の口からひんぱんに聞かれるようになっていた。
それは保守政権が腐れを切り捨て、肥大しすぎて化膿《かのう》しはじめた企業が整理されて、第三の保守勢力が政権を握ったらという意味であった。
「国際的にもそれが支持されるようにさせねばならない」
広瀬はそう言った。
「天皇を中心に団結した日本を、海外では問題視する向きも多いだろう。だが、戦前のイメージを突き破る何かがあれば、逆に期待させることもできよう。それに、いずれ天皇のイメージも若返る時が必ず来るのだし。その時どういう手を打つかだ。国際的な面からそれを考えて欲しい」
「国際企業や無国籍資本の問題で、社会の中心を失った悩みがヨーロッパなどには出て来るんじゃありませんかね。そういう心理をうまく動かせば、天皇を持つ日本が羨まれることだってあり得ます」
宏一は新しいテーマを与えられ、急に元気づいて言った。
「それからもうひとつ、東南アジア問題がある。やはり同じように、新しくなってからの日本に対する警戒心や抵抗感をなくさせねばならない」
「当然さっきのことと関連させることになるでしょうね。一連の問題として考えてみます」
「それに、産油国側に貸しも作りたい。なんとかならんかね」
「むずかしいですが、やれないこともないんじゃありませんか。まだよく判りませんが、向うの例の過激派グループと、日本の赤軍派などをからめると、何かひとつできそうな気がしますね」
「とにかくそれもやってくれ」
「承知しました」
「ところで、いよいよ結婚するそうだな」
「ええ、おかげさまで」
「店をやる気だそうだが、いったい何をはじめる気だ」
「プラモデル屋ですよ」
宏一が言うと広瀬は弾《はじ》けたように笑いだした。その笑い方の中に、宏一は広瀬の素顔をのぞいたような気がした。
「本気かね」
広瀬はまだ笑い続けていた。
「本気です。昔からの僕の趣味でしたから」
「結構だよ。趣味と実益を兼ねるという奴か。しかし、なんとなくおかしいな。プラモデルという君のコードネームは、伊余部がなんとなく思いついたのだそうだが、今になって見ると君の本名よりずっと君に似合っている」
「どうしてです」
「プラモデルというのは要するに模型だ。偽物《にせもの》だよ」
「けなされたような気がしますよ」
宏一も笑った。
「けなしはせん。しかしいい趣味を持ったものだ。プラモの面白さをわたしはまだ知らないが、結局いかに本物そっくりかという点だろう」
「そうですよ。プラモは、そのモデルの原型をよく知らないと面白くないのです。たとえばゼロ戦ならゼロ戦で、細部がどうなっていたか、どんな型式に分れていたか、だからこの模型の実物はいつごろどこでどんな活躍をしたのか……そういうことが判ってはじめて本当の面白味が判って来るのです」
「君は結局心の底からの嘘部なのだな」
「褒《ほ》められたと思って置きましょう」
「褒めたのさ。古代の嘘部の血を君ほど濃く残した人間は、黒虹会といえども他にいない程だからな」
「でも、プラモデルは絶対に本物の身替りにはできません。縮寸してありますからね。僕のようなマニアには、その縮寸してあるところがまた、こたえられない魅力なのですが……」
広瀬は頷《うなず》いた。
「だから遊びになるのだろう。原寸通りで実物と並べてまぎらわしくなるのだったら、それはもう遊びではあるまいな。それだとMK4のA点に持ち込んだ装置と同じことになってしまう。今だから言うが、MK4は冷や汗の掻《か》きっ放しだったのだぞ。何しろ本格的に嘘部を使うのははじめてだったからな。君のプランに最初はわたしもかなりのぼせて、夢中で実施に踏切りはしたが、だんだん熱がさめて来ると、実際のところ恐ろしいような気がして来た。こんな嘘が通用していいものだろうかとな……」
広瀬はどうやら本音を吐いているらしかった。
「ご自分の嘘じゃないからでしょう」
「いや」
広瀬は首を横に振った。
「わたしが嘘部ではないからだよ。ああいうケタ外《はず》れの嘘にもたじろがないのは、やはり君らが嘘部だからだ。朝部に国内をまかせた時、君のケースと思い合わせてつくづくそう思ったね。普通の人間は、嘘に対してどうしても罪悪感を感じてしまう。それは自分が処世上のひとつの技術として嘘をつくからだ。もっと堂々としたやり方があるのにと思ってしまうんだな。だが君らは、嘘が人生なのだ。本当だけが並んでいる日常の暮らしは、君らにしてみればかりそめのものでしかない……わたしもやっと君らがそう理解できるようになった」
広瀬はそこでポケットから手帖をとりだし、ちらりと眺めて言った。
「MK4は完了したよ」
「ほう。どうなりました」
宏一にはもうどうでもいいことだった。新しい嘘が待っているのだ。
「山本一郎をはじめ、かなりの人間が消去された。仕方のないことだ。わたしにはどうにもならん……」
宏一は立ちあがって広瀬に挨拶した。
「そろそろ帰ります。しかし、国家というのは本当によく人の血を欲しがるものですね」
広瀬はそれについて、何も答えなかった。
10
宏一と容子は結婚した。朝部たちのおかげで、結婚式はかなり高くついた。式場の料金から案内状の印刷費まで、すべてが高騰《こうとう》していた。
代々木の駅近くに、宏一のプラモデル専門店が開店した。プラモデルのセットも、かなり値あがりしていた。
しかし根強いファンがいて、店は結構|繁昌《はんじよう》するようであった。
外から容子が帰って来て、店の奥で飾り窓に置くモデルを作っていた宏一に声をかけた。
「あら、もうそんなに出来上がっちゃったの」
宏一は旧ドイツ軍の戦車を作っていて、もうほとんど完成しかけていた。
「パーティーだって……」
客がちょうど跡切《とぎ》れたところで、小さな店の中には夫婦だけであった。
「ごめんなさい。でも、どうしても出かけたいの。あの工場のデザイナーたちが、新しいプリントのデザインで賞を取ったんですもの。久しぶりにみんなに会って来たいし……」
「いいとも、平気だよ。行っておいで」
「どう、この髪」
美容室から帰ったばかりで、まだ濡れ光ったような髪に手をあてた容子が言った。
宏一はちらりと目をあげ、
「いいじゃないか。お前はやはりそういう髪のほうが似合うよ」
と言った。
「そう言えばあなたも床屋さんへ行って来たらどうかしら……」
「うん、もうそろそろ行かなくてはと思っていたんだ」
宏一は模型の戦車を容子に示した。
「どうだい」
「うまく出来たじゃないの。それで完成……」
「いや、赤く塗ろうと思ってるんだ」
「赤い戦車……」
「うん。まっかに塗ってやろうと思うんだ」
「綺麗でしょうね」
宏一は赤い戦車を飾り窓に置いたら、伊余部や広瀬がなんと言って笑うだろうと考え、たのしくなった。
「塗装は晩にする。あまり早く仕上げるとたのしみがなくなるからな」
宏一はそう言って、ぶらりとよく晴れた道へ出た。
「床屋へ行ってくるよ」
容子が送って出た。
「それがいいわ。そのかわり今晩少し遅くなるけどいいでしょう」
「ああ」
宏一はぶらぶらと駅のほうへ歩いて行った。まだ、広瀬に与えられたテーマに対する、うまい嘘を考えついていなかった。のんびり散髪でもしていれば、ふとこの前以上の大嘘を思いつくかも知れないと思った。
容子は宏一がずっと先のほうへ行くまで、店の前に立って見送っていた。そして宏一が確実に理髪店へ入ったのを見ると、大急ぎで店の中へ引きかえし、電話のダイアルをまわしはじめた。
「もしもし……」
容子は受話器を両手で持って、自分の口もとをかくすようにしながら相手を呼び出した。どこかの会社らしかった。
「あ、た、し……」
容子は艶《つや》っぽい忍び笑いをした。
「うん。いまお店の中……床屋へ行ったわ」
前の通りを見ながら言う。
「この前のところね。ええ……七時までには着くわよ」
しばらく相手の言葉を聞きひどく深刻な表情で目を伏せて答えている。
「無理よ。泊れっこないじゃない。あたしの立場も少しは判ってくれたって……」
外には明るい光が溢れていた。宏一は床屋の椅子に坐ってゆったりと目を閉じ、新しい嘘を考えていた
角川文庫『闇の中の系図』昭和54年10月20日初版発行