半村 良
英雄伝説
目 次
1 広告《アド》マン
2 銃 撃
3 二ツ目
4 小さな花
5 新薬情報
6 闘 志
7 浮 気
8 裏切り
9 死者の環《わ》
10 外側の道
11 作 家
12 雨と霜
13 秘 花
14 アルカロイド
15 事 業
16 崩れた朝
17 十二時すぎのシンデレラ
18 寝台特急
19 神の里
20 終 章
1 広告《アド》マン
佐伯《さえき》は安物の安全|剃刀《かみそり》で丹念に顎《あご》の下を逆剃《さかぞ》りしおえると、もう一度|石鹸《せつけん》をつけて顔を洗った。電気剃刀の生暖かい感触が嫌いで、デスクの抽斗《ひきだし》の中にはいつも使い棄《す》ての安剃刀が一ダース近く突っ込んであるのだった。
画材屋の名を刷り込んだ帯封がしてあるタオルを鏡の前からつまみあげ、濡れた指で封を破ると、ひろげて顔に当てた。新品のタオルは水の吸いが悪く、佐伯は鏡に向かって顔をしかめた。彼のまうしろにある小さな窓から、午後の陽《ひ》がいっぱいにさしこんで、トイレの中の白いタイルを眩《まぶ》しいほど光らせている。
水をとめ、使った安全剃刀を隅の屑入れに抛《ほう》りこんだ佐伯は、ドアをあけて廊下へ出ると、すぐ左に並んでいるスチール・ロッカーの前へ行って、その細長い扉をあけた。
扉の内側についている小さな鏡の下にタオルをかけ、いちばん上の棚から薄いビニール袋に入ったワイシャツをひっぱり出して、手早く着換えはじめた。上背《うわぜい》もあり、かなり締った体つきをしている。
外から戻って来たらしい男が廊下の向こうから茶色い紙袋をかかえて、ワイシャツのボタンをとめている佐伯のうしろを通りすぎた。
「いいですねえ、佐伯さんは」
通りすぎるとき、男はそう声をかけた。
「どうしてだ」
背中を見せたまま佐伯が言う。
「なんと言っても独《ひと》り者はいいですよ。気楽で……」
男はドアのノブに手をかけながら笑顔で言った。
「泡食って結婚なんかするからだ」
佐伯は振りむきもせずに答え、ロッカーの扉をバタンと閉めて、男が来たほうへ去って行った。
佐伯のデスクがある部屋は、その階の表通りに面した一画にあった。部屋と言っても、規格品の間仕切りをたてまわしたスペースで、紙屑だらけの雑然とした中に、七人ほどの若い男女が机を並べている。
三人のデザイナーにアシスタントが一人ずつ付いて計六人。それにコピーライターが一人。コピーライターは佐伯のサブといった格で、佐伯を入れた総勢八人がひとつの課を形成している。
ただし佐伯の肩書きはコピーライターでもディレクターでもない。株式会社|東《あずま》エージェンシーの第二営業課長だ。
伝票に数字を書きこみながら、佐伯はちらりと腕時計を眺め、
「吉岡《よしおか》、東洋海産の版下《はんした》はどうなってるんだ」
と言った。
部屋のいちばん隅にいた青白い顔の男が、筆洗いに絵筆を抛《ほう》り込むと、椅子の背にもたれて、伸びをするように天井をみあげた。
「もうすぐ写植《しやしよく》があがって来ますよ。夕方までにはけりがつくでしょう」
「それならいい。明日の朝、一番で印刷屋が取りに来るはずだ。でも、どうせお前は十一時過ぎでなきゃ出社しやしないんだから、帰るとき誰にでも判《わか》るように用意して帰れよ」
すると吉岡はそり返った姿勢のまま、首をねじ曲げて佐伯のほうを眺め、
「うちのチーフは物判りがよすぎるんじゃねえのかな」
と笑った。佐伯はニコリともせず、抽斗《ひきだし》から三文判をとり出して伝票に押す。
「そう思ったら、せめて遅刻は三日に一度ぐらいにしろ」
「どうでもいいですがね、そんなことは……」
佐伯と背中合わせに坐っている、もう一人のデザイナーが口をはさんだ。
「何だ」
「どうしてこんなパンフレットが要《い》るんでしょうかね」
「シューマイ屋か」
「ええ。シューマイにパンフレットなんか要らないでしょう」
「スポンサーが作るってもの、作らせたらいいじゃないか。こっちは商売だ」
「でもさ、俺《おれ》嫌なんですよ。ゆうべ銭湯へ行ったんですよ。アパートずまいだからね。六分ぐらい歩かなきゃならない」
「遠いほうじゃないさ」
「それはいいんですよ。それでね、のんびりお湯につかってたら、急に淋しくなっちゃったんです」
「どうして」
「俺はいま会社でシューマイのパンフレット作ってるんだなあと思ったら……」
「莫迦《ばか》」
「莫迦じゃないですよ。美大の卒展の時、俺が何を出品したか知ってますか。国連のポスターですよ」
部屋の隅で吉岡がケタケタと笑った。
「お前はそういう奴だよ。大袈裟《おおげさ》なんだよ」
「笑うな吉岡。ねえチーフ、判るでしょ。パンフレットって言ったって、ピースの箱とおんなじ大きさなんですよ。それもシューマイの……折詰の中へ入れられちゃうんだ。どんな奴がそんなものを読むと思いますか。小学校二年生の時、おふくろが死んだんですよ。お通夜の晩、どういうわけか金沢のお菓子をもらったんです。ちいさな箱に入ったの……その箱の中にね、丁度ライターくらいの大きさのパンフレットが入ってたんですよ。しおりのですよ、これとおんなじね。それを俺は読んだんだなあ……一生懸命、全部読んじゃった。線香の匂いがプンプンする中で、ちっちゃなパンフレットを、何度も何度も読み直しちゃったんです。そんな時ででもなかったら誰が折詰の中の、こんなパンフレットなんか読むもんですか。国連のポスターってのはたしかにオーバーだけど、こんなつもりでグラフィック・デザイナーになったわけじゃないんですよ」
佐伯は苦笑しながら立ちあがり、その男の肩に手を置いた。
「しようがないさ、あきらめろ。その仕事だって俺が取って来たんだ。その内もっといい仕事をもって来る。第一、お前にシューマイばかりやらせてるわけじゃない。相模《さがみ》製薬が来たらお前にまかせるからな」
吉岡は「あ……」と口をあけ、「だめですよ、そんな安手の泣落としにかかっちゃ」と冗談半分に抗議した。
「いいか、仕事のえり好みばかりしてやがると保守党のポスターを持って来てやらせるぞ」
棄て台詞《ぜりふ》のように言って佐伯は部屋を出る。ドアの内側でスタッフの笑い声がはじけ、「持って来かねないからな、あの人は」
という声が聞こえた。
広告代理店東エージェンシーは、昭和通りに面した小さなビルの五階と六階を借りていた。五階は制作部門が入り、六階を営業部と経理部が使っている。
佐伯は伝票を持って階段を昇り、六階の経理部のドアをあけた。彼の顔を見て、すぐに経理課長の津島《つしま》が席を立った。
「午前中に言ってた仮払いか」
「そうだ」
佐伯は伝票をカウンターの上にすべらせ、津島がそれを受け取ってしげしげと眺めた。
「この製薬会社は本当にモノになるのかね」
「ならなきゃ困る」
佐伯はカウンターによりかかって言った。津島は渋い顔で佐伯を眺め、
「どうなんだ」
と釘をさすように言った。
「今夜が大詰めさ。テレビに婦人誌、新聞が三紙にポスター類……新製品が出れば発売キャンペーンもまかせてもらえるはずだ」
「はずじゃ困るんだ、こっちはね」
津島は青い手提金庫の前の女に伝票を渡しながら、恩に着せるような言い方をした。彼は二年ほど前まで営業を担当していた。まるで戦力にならなくて経理へ廻されたのだが、近頃では何かにつけて営業の経験をふりまわすようになっている。
女は一万円札を数えて銀行の封筒に入れ、津島に渡した。津島はそれを手に持ったまま、急に表情を柔らげて言った。
「ここんとこ、わが社は楽じゃないんだ」
「知ってるよ」
津島は機嫌をとるようにうなずく。
「君のチームはうまく行ってる。相当なプラスが出てる。うまくないのは営業一課のほうだ。社長もな、行く行くは君の所のようなシステムに切りかえたいらしいんだが、誰にでもできるっていうもんじゃないしな。営業は制作が判らない。制作スタッフを引っぱって行ける営業マンなんて、そうざらにいるもんじゃないからな」
「俺はもともと制作部員だ。営業じゃない」
「そうさ、そこだよ。君みたいに制作で営業の腕があるのが理想なんだ。専門の営業マンなんて要らないんだ。本当はそうなんだ。君みたいのがもう何人かいれば、こんな苦境に立たなくてもいいんだよ」
津島はお世辞《せじ》たっぷりに言い、銀行の封筒を佐伯に渡した。
「どこかにいないかね」
「誰《だれ》が」
「君みたいな人さ。そうすれば役に立たない営業を二、三人斬るんだがな」
佐伯は苦笑した。
「後方部隊は気楽でいいな」
「そうでもない」
津島はムキになって言った。
「経理のきつさなんて、あんたらには判らないんだよ」
「そうだろうな」
佐伯は慰《なぐさ》めるように答え、経理部を出ると、通路をはさんだ斜め向いの部屋のドアをノックした。
その部屋には大型のスチール・デスクがひとつと応接用の三点セット、それにデスクと揃いのスチール製|書架《しよか》があって、その横の壁に黒板がかけてあった。
部屋の主《あるじ》である島村《しまむら》専務と社長の長谷川駿太郎《はせがわしゆんたろう》がソファーに身を沈め、入って来た佐伯を鈍《にぶ》い表情でみあげた。
「まあ掛けたまえ」
社長が椅子を眼で示し、隣の営業部との境の間仕切りを、窺《うかが》うような表情でみつめた。
「今夜|寒川《さむかわ》会長に会うそうだな」
島村専務が言った。
「ええ」
佐伯はセブン・スターをくわえながらうなずく。
「見込みはどうだ。去年もおととしも、営業の山崎たちがアタックしたが、かんたんに太平洋アドにしてやられた。今年は君がやってくれているから何とかなると期待しているんだが……」
社長は膝を指でこまかく叩きながら言った。
「今のところ、四分六《しぶろく》です」
「いい方に六か」
「ええ」
すると社長は隣に坐っている島村専務の手からメモをとりあげ、眉を寄せて眺めた。
「相模製薬がうまく行けばなんとかなりそうだな」
専務の島村はテーブルの上に体をのりだすようにして佐伯に微笑を向けた。
「君だから安心して卒直に言うが、今のところ相模製薬がたよりなんだ。……いや、この状況はそう長いことじゃない。来週になればまた情勢が変るかもしれんが、少なくとも現状では相模製薬が唯一の明るい見通しになってしまっている。頑張ってくれよ」
「そんなに悪いんですか」
「悪いな。今すぐ、どうこうということはないが、四ヶ月から半年先にむずかしい時期が来る。このままどん底をつづけると、半年先には厄介なことになりそうなんだよ」
「我儘《わがまま》を言って第二営業課を作ってもらったんですし、スタッフも好きなように集めさせてもらったんですから、精一杯のことはやっているつもりです。もっと戦力になれればいいんですが、何しろ八人のチームで十二のスポンサーをかかえてしまったので……ゴミみたいな仕事を整理できるといいんですが、今までの行きがかりでそうも行きませんしね。シューマイ屋だのプラスチック雨どいだの、ああいうのを第一営業で引きとってくれるといいんですが」
「その件は聞いている。だいぶ以前から君のほうでそう言ってるそうだが、何しろ制作部員をリーダーにした変則的な課を新設するだけでも、相当な抵抗があったもんだからね」
「抵抗なんかあったってかまわんでしょう。第二営業を身軽にしてくれればもっとやりますよ」
「判ってる。できるだけ早く調整するが、それまでなんとか頑張ってくれよ」
島村専務は社長の顔を見ながらそう言った。その頭の上にかけられた黒板に、大手自動車メーカーの名前が、妙に気負った感じの楷書《かいしよ》で記されていた。
相模製薬の本社は、佐伯が籍を置く江戸橋の東《あずま》エージェンシーからそう遠くない、蠣殻《かきがら》町にあった。
専務の部屋で社長の長谷川駿太郎が言ったとおり、東エージェンシーは二年前から相模製薬に働きかけ、かなりの金をかけて年間広告計画とその表現方法の試作を提出していたが、今までのところこれと言った成果をあげられないでいた。
ことし、その相模製薬に佐伯が乗り出して行ったことを、社員の多くは営業部に対する彼の反発だと考えているようだった。
佐伯はもともと制作部のコピーライター兼ディレクターだった。ふつうの場合、営業部がまず広告主《クライアント》に接触し、具体的な広告表現技術が必要になってから、適当なディレクターとそのスタッフが起用される。
しかし、セールスマンたちは、どこか佐伯たち表現技術者と体質が異なっていて、広告主《クライアント》が比較的卒直に述べた要求ですら、それを社へ持ち帰って伝達する上で、微妙なニュアンスの欠落が起りがちなのだった。
悪いことに、そうした微妙なニュアンスというのが、広告表現では最も重要なポイントになる。おまけに営業部員的体質というのは、広告主《クライアント》の要求を自社に持ち帰る際、とかく自己の希望的観測ないしは勝手な判断をつけ加えがちなのだ。
それは要するに作家と商人の違いとでも言えるものだった。コピーライターやデザイナー、カメラマンたちは、一回ごとに多かれ少なかれオリジナリティーを求めようとしている。ところが商人、つまり営業部員たちは、提出される作品の安全性を要求する。成功した前例がつねに脳裡《のうり》を去来し、新鮮ではあっても同時に失敗の危険をはらむ作品を回避しようとするのだ。
広告主《クライアント》の要求だと称して、あらかじめ冒険に対する牽制《けんせい》を織りこんだ営業部員の発言に、佐伯は何度も苦汁を飲まされたものだった。広告主《クライアント》への試作競争で、自分たちの作品が敗れるたび、本来味方であるはずの営業部員が、たたかう前すでに足を引っぱっていた事実を知って、歯がみしなければならなかった。
その挙句《あげく》、佐伯が考えついたことは、自分自身が営業マンになることだった。広告主《クライアント》に対する第一接触の場から参加していれば、コミュニケーションの問題で苦汁を飲む必要はないのだ。
佐伯は営業部長である島村専務を口説《くど》き落として、独立したチームを作らせることに成功した。制作部長はデザイナーの古手で、すでに時代感覚もずれ、無気力で全く頼りにならなかった。
だが、独立採算制に近い形で、社内に佐伯のチームができあがると、批判や中傷が一度に火を噴《ふ》いた。失敗のたびに啀《いが》み合って来た営業マンたちは、自分たちの職域を侵されたと感じ、まるで協力しなくなった。他の制作部員たちは営業マンの制約を排して自由に行動する新しいチームに、羨望《せんぼう》と嫉妬《しつと》の入り混った中傷を向けはじめ、中立的な立場の社員たちも、佐伯が地位に対する野心を持っていることを疑わなくなった。新チームの成績が上昇するにつれ、無気力な制作部長までが、自分の椅子に対する執着を示しはじめた。
だが佐伯は、純粋にいい仕事をしたいだけだった。広告の表現技術者の一人として、少しは世間に誇れる仕事を残したく、その情熱が営業活動にまで彼をかりたてたにすぎない。
それに、今回相模製薬でもぶつかっている広告代理店、太平洋アドに対するライバル意識が、彼の闘争心をいっそう煽《あお》りたてていた。数多い広告代理店だが、めいめいその発生的なことから、行動半径に関する特有な偏《かたよ》りを持っている。機械関係に強いもの、食品関係に強いもの、金融、不動産、出版、レジャー、雑貨……どの分野にも万遍なく手を出しているのは、よほど大きな規模の広告代理店で、そのような会社は数えるほどしかなかった。
太平洋アドはB級の上といった格で、どういうわけか佐伯とはいつも相手方にまわるめぐり合わせだった。それは多分、佐伯がいま東《あずま》エージェンシーで専務をしている島村の下について広告業界を転々として来たせいだろう。島村の営業マンとしての行動半径が、太平洋アドのそれとよく似ているらしいのだ。
何度か勝った経験もあるが、その倍の回数くらい、佐伯は太平洋アドにしてやられている。自分が自由に操《あやつ》れるチームを持って、真《ま》っ向《こう》から太平洋アドと力くらべをしてみたいというのが、いつの頃からか佐伯の夢になっていた。それをいま、佐伯は相模製薬で実現させているのだった。
橋頭堡《きようとうほ》は相模製薬宣伝部にいる、今野《こんの》という平社員ひとりだった。今野は二年間にわたる東《あずま》エージェンシーの攻撃作戦が獲得した、唯一の戦果だった。銀座のバーと箱根のゴルフ場と葉山のヨットハーバーで、今野はほぼ東《あずま》エージェンシー側に心を移していた。
三年たてば三ツ……という言葉があるように、今野も今年あたり、宣伝部で係長ぐらいにはなりそうな様子だった。佐伯はその今野を百パーセント活用し、部内の情報をとりまくった。
「佐伯さんが出て来たんで、太平洋アドがスタッフを強化するらしいですよ」
今野の口から出たその情報は、太平洋アド相手に駆けまわった佐伯の青春に対する功労賞のようなものだった。頼りない今野ひとりを頼りに、試作提出にまでこぎつけた佐伯は、そのひとことでますます闘志をつのらせて行った。
太平洋アドばかりでなく、すべての代理店を、相模製薬から叩き出してやる。……それは広告《アド》マンの誰もが一度は考える、パーフェクト・ゲームの夢だった。
だが、太平洋アドの防戦もひととおりではなかった。取引銀行筋からのプッシュや厚生省関係からのしめつけ、はては流通機構に手をまわして、問屋や薬店主らの働きかけまで、運動性の鈍い東エージェンシーの営業部とは、くらべものにならない多彩な策を用いてくるのだった。
三十二歳になって、暴れられる時期もあと何年かと、指折り数えてみるような心境になっている佐伯は、そうした悲観的な状況の中で、だからこそいっそう情熱を燃やし、この一発の勝負に賭けていた。
そんな苦戦のさなか、佐伯は思わぬ味方を拾った。
まさにそれは拾ったという表現がぴったりだった。ある日、佐伯は相模製薬本社の正面玄関を入った受付の前で、中学から高校にかけてのクラスメートである、笠原隆志《かさはらたかし》にめぐり会ったのだった。
その時、笠原はちょうど相模製薬から出て来るところだった。入って行く佐伯と、どちらが先ということもなく、ほとんど同時に声をかけ合った。笠原は「やあ、全く奇遇だ……」と大声で言い、何の用でこんな所へ現われたのだと威勢よく訊《たず》ねた。学生時代はどちらかと言えば陰気な性格だった相手の変わりように驚きながら、佐伯は名刺を出して見せた。すると笠原はちょっと得意そうな表情になり、佐伯を連れ出して近くの喫茶店に入ると、相模製薬の仕事が欲しいのなら力になってやろうと言った。話を聞いてみると、恐ろしく内情に詳しい。今の社長は二代目でほとんど実権がなく、おととし引退して会長になった、創業者の寒川正信《さむかわまさのぶ》さえ口説けば、たいていのことはなんとかなるのだと教えてくれた。どうやら笠原は、その寒川正信とつながりが深いらしく、自信たっぷりだった。
半信半疑で何日かたつと、笠原から電話連絡があり、すでに提出済みの表現試作のうちの何点かを、もう一度練り直すようにという指示を寄越した。
一度手ばなしてしまったのだから、本来ならそういうことはアンフェアなのだが、指示どおりに宣伝部へ行ってみると、課長が仏頂づらで返してくれた。課長は太平洋アドベったりの人物だけに、その一事で笠原のコネが尋常でないことが判った。
大急ぎで作りなおして納《おさ》めると、すぐにまた笠原から連絡があり、近いうちに会長の寒川正信に引き合わせてやると言ってきた。どうやら強力なコネを掴んだらしいと判って、佐伯は大いに安心し、自信も深めたが、会社には笠原の存在は伏せておいた。成功すればしたで何か言いたい連中が大勢いるだけに、手品の種は隠しておくに越したことはないと思ったからだ。
その寒川正信に引き合わせてくれる日が、いよいよやって来たのだ。どうやら相手は今夜銀座へ現われるらしく、笠原は午後八時丁度《ちようど》に待っているようにと、並木通りの喫茶店を指定して来た。佐伯は大きな獲物を目前にした思いで、八時になるのを待った。
笠原隆志は十五分ほど遅れてその喫茶店へ入って来た。明るい色のスーツを軽快に着こなして、人待ち顔の多いテーブルの間を、颯爽《さつそう》と近づいて来る。
「待たせたな」
前の椅子に腰をおろすと、笑顔になってそう言った。
「会わせてもらえるのか」
待たされて幾分|焦《あせ》りかけていた佐伯は、思わず念を押した。笠原は軽くうなずき、
「すぐそこのクラブへ来ている。ユリカという店だ。知ってるか」
「知らない。で、どんな様子だ」
「そう焦るなよ」
笠原は手をあげてウエイトレスを呼び、コーヒーを注文した。
「他のことならとにかく、相模製薬のことだったら俺にまかしとけ」
「それは有難い。有難いが、お前も本当に変わったな。あの貧乏臭い笠原と同一人物だとはとても思えないよ」
すると笠原は嬉しそうに笑った。
「学生時代の、それも高校生の頃のことなんか当てになるもんか。そりゃたしかに貧乏だったさ。親父は早くに死んじまっていなかったし、お袋は病気ばかりしてた。俺のうちは豆腐《とうふ》屋だったが、そんなわけで商売だってできやしない。お前覚えてるか、あの下谷《したや》の豆腐屋を。二、三度遊びに来ただろう」
「ああ。でも商売してたじゃないか」
「人に貸しちまってたんだよ。俺たちは二階の六畳ひと間を間借りしてたようなもんさ。店をやってたのは、親父が生きてた頃の使用人夫婦さ。豆腐屋ってのは朝早いからな。いつも寝不足だよ、こっちは」
「そうか、それでお前はいつも早く学校へ出て来てたんだな」
「そうだよ」
「それでお前、今何をやってるんだ。この間は聞きそびれたけど」
「何でもいいさ。とにかく万事好調だ。子供の頃のあんな貧乏ぐらしは真っ平だからな。それよりお前だってずいぶん変わったぜ。学生時分はもっと威勢がよかった。大物になる奴だと思ってたがな」
佐伯は苦笑した。コーヒーが来て、笠原はスプーンをいじりはじめる。
「ちっぽけな広告予算のとり合いに目の色を変えているんだからな」
「いや、予算としてはそう小さくもないさ」
笠原は真顔で打ち消してから、コーヒーを啜《すす》った。
「予算の額より、お前の焦りようさ。お前はもっと物に動じない男のはずだった」
「生活がかかってちゃな」
「結婚してるのか」
「いや。しかし何かと扶養家族が多くて」
佐伯はチームのデザイナーたちの顔を思い浮かべながらそう答えた。
「そうだな。そう言えばお前はよく責任をしょいこむ方だったな」
笠原は過ぎた十代の昔を思い返す風情《ふぜい》だった。
「ところで時間はいいのか」
佐伯は腕時計を眺めてから言った。
「大丈夫。連れとちょっと内輪の話をしてるから、もう少したってからがいい」
「連れ……誰だ」
「俺の叔父貴《おじき》さ。それとその家来《けらい》が一人」
「叔父さん……」
佐伯の記憶に何かが浮かびあがろうとしていた。
「ああ、俺を大学へやってくれた人だ」
「そうか、思い出したよ」
ほとんどが大学へ行くなかで、早くから受験を諦《あきら》めていた笠原が、間際になって急に進学すると決まったとき、その叔父のことを話して聞かせたのを思い出した。
「お袋は大学二年のとき死んじまったが、卒業以来あの叔父貴とはずっと腐れ縁でね」
「その叔父さんが寒川正信氏と知り合いなのか」
すると笠原はあいまいに首をふり、
「ま、適当に想像してくれよ。とにかく会えばなんとなく判るさ。それより、今度のことがうまく行っても、あまり人に俺たちのことを言って歩くなよ」
「なぜだ。会社にもいずれ礼ぐらいさせるつもりでいるんだぜ」
「それはやめてくれ。そんなつもりでしてるんじゃないんだから」
笠原は真顔で強く言い、すぐしんみりした口調になった。
「お前ならよく判ってくれるだろうが、俺は昔からあまり友だちづき合いのいい方じゃなかった。大学へ行ってからも同じことさ。今考えてみても、友だちらしい友だちはお前くらいのもんだった。会った時は本当に懐かしかったよ。そんなお前に礼なんかしてもらいたくない。それより何かあった時に、俺の力になってくれよ……実は好きな女がいるんだ。俺は叔父貴以外に身寄りのない男だし、万一俺に何かがあったら、彼女は途方に暮れちまうだろう。……そういう女なんだ。向こうも身寄りたよりがない奴なんだ。近い内に紹介する。家も教える。できればちょいちょい行ってやって欲しいんだ」
笠原はひどく生真面目《きまじめ》な表情で言った。
「行ってやって欲しいって、まだ結婚してないのか」
すると笠原は照れ臭そうに笑った。
「ああ。まだ指一本触れちゃいないよ。何もかもきれいにかたがついたら結婚するけれど、それまでは大事にしまっときたいんだ」
「なるほど、そいつは本物らしい」
佐伯は笠原の照れた顔をみつめ、なんとなくこそばゆい思いで微笑した。
2 銃 撃
笠原が案内したユリカという店は、並木通りに面したかなり大きなビルの八階にあり、ひと気《け》のない一階のエレベーター・ホールに、白地に黒い文字で「百合花《ゆりか》」と書いた行燈《あんどん》型の置看板が、しらじらとした光を放っていた。
バーやクラブなど水商売の店をつめこんだビルが多い中で、「百合花」のあるビルは名の通った企業が何社も入っており、そのことが「百合花」というクラブの格の高さを証明しているようだった。
八階に着くと、肥った初老の白人が、エレベーターの前で、両手をひろげてにこやかに出迎えた。
その恰幅のいい白人は、フランス語で愛想よく何か言い、威風堂々といった態度で、二人の先に立って店の中を案内した。
かなり銀座ずれしているつもりの佐伯だったが、「百合花」の内部をひと目みるなり、「これは凄い店だ」
と思わずつぶやいてしまった。
スペースのとり方がまるで日本ばなれしていた。巨大な弧状のソファーが十二ばかり、お互いにたっぷりと間隔を置いて散らばっている。体の小さな日本人が膝送りにぎっしりとつめて坐ったら、十五、六人は並ぼうというソファーだった。
凝《こ》った和服あり、肩もあらわなイヴニングあり……きらびやかに粧《よそお》った粒選《つぶよ》りのホステスたちが、その常識はずれなスペースの中に納まって、まるで小さな人形のようにさえ見えるのだった。客もホステスも、ほんの。パラパラとしかいないような感じだが、よく見るとどの席にも、三、四人の客と五、六人のホステスがついて、ほとんど満員に近いようだった。
肥った支配人風の白人は、さっきフランス語で挨拶したくせに、目的の席へ着くと流暢《りゆうちよう》な日本語で、
「若|旦那《だんな》のお帰りですよ」
と、色の浅黒い、しなびた老人に言った。数歩あとから近寄って行く佐伯には、その老人と、もう一人肩幅の広いがっしりした体格の男と、どちらが寒川会長か見当がつきかねた。
すると突然ホステスたちの間から、派手なブレザー・コートを着た若い男が、とびあがるように立って、素《す》っ頓狂《とんきよう》な大声をあげた。
「これはまた意外や意外玉手箱。佐伯の旦那じゃござんせんか」
佐伯は呆気《あつけ》にとられて相手の顔をみつめた。笠原は二人を見くらべ、
「何だ知合いか」
と言った。
「知合いも何も……いやだな旦那、お見忘れとは情けない」
男は酔っているらしく、右腕を顔に当てて泣く真似をして見せた。
佐伯は笠原に向かって、
「知ってる。あれは三笑亭《さんしようてい》小つぶだろ」
と言った。ホステスが二人立ちあがり、席をあけた。
「これが僕の古い友人の佐伯君です」
笠原は体格のいい方の男に言った。
「まあおかけなさい。にぎやかにやりましょう」
男は鷹揚《おうよう》にそう答えた。笠原は佐伯に、
「寒川さんだ」
と耳うちした。佐伯は緊張気味に、ふかぶかと頭をさげた。
席につくと、色の黒い老人が、体に似ず大きな声で言った。
「隆志《たかし》の友だちがどうして小つぶを知っているんだ、ええ……」
佐伯はその老人が笠原の叔父らしいと知り、丁寧に答えた。
「だいぶ前のことになりますが、テレビのコマーシャルに出てもらったことがあるのです」
「どんなコマーシャル」
老人は場にそぐわない厳《きび》しい表情で訊ねる。
「プラスチックの雨どいです」
「ああ、あれか。……判った、君は広告屋さんだったな」
「はい」
すると老人はコロリと表情を変え、柔和《にゆうわ》な笑い方をした。
「そうか、この小つぶをコマーシャルに使ってくれたのか。どうも有難う」
礼を言われて戸惑《とまど》った佐伯は、救いを求めるように三笑亭小つぶの顔に視線を移した。
「久しぶりだな」
「どうもこれはえらい所でお目にかかったもんで……一度おたくへお礼にうかがわなきゃと思ってたんですが、つい売れてるもんでどうも」
小つぶはおどけて頭を掻《か》いた。
「それで、まだ旦那は先《せん》のおたくで……」
すると老人は嬉しそうに笑って、拳固で若い落語家の頭をコツンとやった。
「先生、これで今日はもう三つ目ですよ。しめて三万両のいただきで……」
小つぶはへらへら笑いながら手をだした。
「ツケとく」
「撲《なぐ》るだけ撲っといてツケはないでしょう。あたしゃ取るもんはきちんと取りたてますからね」
老人と落語家はたのしそうにふざけ合っている。
「君の叔父さんて、どういう人なんだ」
佐伯は左隣にいる笠原に訊ねた。
「上野で古くから漢方の薬局をやってるんだ。檜前《ひのくま》薬局と言って、昔は割合い名の通った店だったそうだ」
「あ、黒門町《くろもんちよう》の……」
「そうだ。今は上野一丁目とかって町名が変わってるが」
「知ってるよ、それなら。檜前《ひのくま》善五郎さんだろ。何だ、有名な人じゃないか」
すると若いホステスの肩に腕をまわして飲んでいた寒川正信が、
「君らみたいな若い人でも檜前さんを知っているのかね」
と口をはさんだ。
「はい。東京切っての古い寄席通《よせつう》でいらっしゃるそうですね。僕らも商売柄、檜前《ひのくま》さんのお書きになったものを参考にする時があるのです」
佐伯はお世辞でなくそう答えた。ただし、檜前善五郎が書いた本は、演目《だしもの》や古い演者たちの略伝をまとめた堅いものが一冊あるだけで、むしろ本人以外の人物が書いた寄席の裏ばなしなどによく登場している。佐伯の知識も、どちらかと言うとその方面から得たことの方が多かった。
三人の会話が耳に入ったらしく、檜前《ひのくま》善五郎がホステスの体ごしに佐伯に向かって言った。
「若い人に名前を憶《おぼ》えてもらって有難いような気もするが、わたしらはもうおしまいだな。いい芸人を可愛がれたのは昔のはなしで、今じゃ芸人のほうが俺たちより余《よ》っぽど稼ぎやがる。昔の夢を追って芸人と遊《あそ》びたがったって、売れ損《そこ》ないのこんな若僧しか来やがらねえもんな」
「売れ損ないは酷《ひど》うござんしょう、先生」
どうやら三笑亭小つぶは老人の扱い方を心得ているらしく、古きよき時代の寄席芸人を演じているようだった。
「いや、お前のこっちゃない。お前は修業のしっかりしたいい芸人だよ。何たって二ツ目を足かけ十二年もやってるんだからな」
「ええ、そうですとも。あたしゃ先生がお骨《こつ》になるまでずうっと二ツ目で頑張っちゃう。売れて先生と遊べなくなったら大変だから……」
寒川正信は、見かけによらずすすめ上手だった。と言うより、ひょっとすると酒の席で目の前に素面《しらふ》の相手がいるのを嫌ったのかも知れなかったが、とにかく小まめにホステスに合図して、佐伯に酒の手を休ませなかった。
その間、二度ほど笠原が広告の仕事の件を口にしてくれた。寒川正信はそのたびに、
「判った。まかしておけ」
と答え、笠原の檜前《ひのくま》老人の手前ばかりではなく、佐伯に好感を抱いたらしく見えた。
「若い時は君のように突撃精神を持ってなければいかん。いくじのない青年は酒の飲みっぷりひとつ見てもすぐ判る」
そう何度も繰り返し、佐伯も寒川正信とはなんとなくウマが合いそうなのを感じて、この分なら間違いなく相模製薬は自分のものになりそうだと確信した。
檜前《ひのくま》老人はよほど酒好きと見え、とめどもなくブランデーの水割りを飲みつづけていた。
「君らは知るまいが、俺は江戸っ子も江戸っ子、記紀《きき》、万葉の時代からの江戸っ子だぞ」
酔った挙句《あげく》にそんなことを言い出して佐伯を失笑させた。
「おや、笑ったな。やい若いの。お前はこの檜前《ひのくま》という名前に、どんな大変ないわれがあるか知るまい。檜前《ひのくま》だぞ、白熊《しろくま》じゃねえぞ」
老人はそう言ってホステスたちを笑わせたあと、すぐ真顔になって続けた。
「金竜山浅草寺《きんりゆうざんせんそうじ》の元祖が俺の家だ。今を去ること千三百五十年余りのむかし、推古《すいこ》天皇三十六年の春三月は十と八日、俺の先祖の檜前浜成《ひのくまはまなり》、同じく竹成《たけなり》のふたりが、浜辺で網を引いている時、その網にかかって引きあげられた黄金像を安置したのが、何を隠そう今の浅草寺《せんそうじ》のはじまりなんだ。檜前《ひのくま》というのはそれだけじゃない。今に残る延喜式《えんぎしき》に、兵部《ひようぶ》省の官牧《かんぼく》として、武蔵の国に檜前《ひのくま》馬牧と神崎《かんざき》牛牧ありと記されている。檜前《ひのくま》は浅草、神崎牛牧は今の牛込《うしごめ》のことだ。そのうえ檜前《ひのくま》一族のふるさとは、大和《やまと》の国高市郡《たけちごおり》檜前《ひのくま》村と、ちゃあんと続日本紀《しよくにほんぎ》に明記されている。高松塚のある所だ。しかもその一族の先祖と言えば、後漢皇帝の曾孫《ひまご》、阿知見使主《あちみのおみ》その人とくる。どうだ、中国から高松塚経由浅草行きだぞ。驚いたか……」
冗談とも本気ともつかずそんなことをまくしたて、挙句のはては年甲斐もなく、もう一軒まわろうと言い出して腰をあげた。
様子では、檜前《ひのくま》老人のそうした梯子《はしご》酒にみな慣らされているらしく、異議なく行こう行こうと揃《そろ》って席を立つのだった。
佐伯はそんな一座の雰囲気を、少し奇異なものに感じはじめていた。一介の漢方薬店主である檜前《ひのくま》善五郎のどこに、一部上場銘柄である相模製薬株式会社の会長をつき従えるだけの実力があるのか、見当もつかなかったのだ。
ビルを出て並木通りへ出ると、手まわしよく寒川正信のクライスラーが、ドアをあけて待っていた。
三笑亭小つぶは、このあと新宿に用事があるから勘弁してくださいと言ってその車には乗らず、手を振って一同を見送り、車はそのまま上野へ向かった。
「妙ちきりんな場所にあるが、なかなかおつなものを食わせる店だぞ」
車の中で老人は佐伯にそう言い、
「仕事のことなど心配しなさんな。この会長がついていれば大船に乗ったようなもんさ」
と、隣の寒川正信の肩を叩いた。寒川正信は運転手の隣に坐ってふり向いている佐伯に、何度も黙ってうなずいてみせた。
御徒町《おかちまち》のガードの近くで車が止まり、佐伯は寒川正信と並んで、人影のまばらになった裏通りを、上野駅の方向に向かって歩きはじめた。檜前《ひのくま》老人は笠原の肩に腕をかけ、ぶらさがるようにして少しさきを進む。酔っていて、ときどき笠原を道の端へ押すようによろけた。
「君は笠原君とはだいぶ古くからの友達だそうだな」
寒川は大した関心もなさそうに訊ねた。だが佐伯は、少し発しはじめた酔いを頭の隅におしやり、充分に計算して答えた。
「はい、中学時代からずっと」
言葉|尻《じり》を濁し、高校卒業以来ずっと会っていなかったという事実は伏せるようにした。
「彼は農大を出たそうだが、君はどこかね」
「早稲田《わせだ》です」
「どうだ、広告屋は儲《もう》かるかね」
「…………」
佐伯は答に窮《きゆう》して軽く笑ってみせた。
「近く新薬をお出しになるとか伺いましたが」
「まあな。その時は君らに大いに協力してもらわねばならんな」
「ぜひそうさせてください」
佐伯はぞくぞくするような気分で言った。いま大魚が両手の中に入ったらしいのだ。今まで、さんざんこづきまわされていた自分が、会社の救世主になったら、いったい社の連中はどんな態度でうけ入れることだろうか……彼は上機嫌でそんなことを考えはじめていた。
もつれ合って先を進む二人との距離がだいぶひらき、老人は大声で歌を唄いはじめていた。
「ご機嫌ですね、檜前《ひのくま》さんは」
佐伯がそう言ったのは、アメ横の中ほどへさしかかった時だった。彼はだいぶ前を行くふたりの真正面に、背のひょろ高い人影が現われたのを、なんの気なしに眺めていた。老人の大きな歌声が続いていた。
その瞬間、鋭い、そのくせ妙におしつぶした、余韻《よいん》を叩き切ったような破裂音が、ガードぞいのうす暗い通りに響いた。とたんにもつれ合った笠原と檜前老人のシルエットがあおむけにひっくり返り、ひょろ高い影が立ちどまって、じっと佐伯たちのほうを睨《にら》んでいるような様子だった。
一度倒れた笠原がぴょこんと立ちあがり、急に大声で叫ぶと左側へころがるように走って、商店のシャッターにぶち当たって大きな音をたてた。
同時に寒川正信も左側の物かげへ、信じられないような速さで駆けこんだ。佐伯は何が起こったのか理解できぬまま、釣りこまれて寒川のあとを追った。
「どうしたんです」
訊ねると寒川は鋭い叱声を放ち、佐伯に沈黙を強制した。二人は狭い横丁の暗がりに身をひそめ、じっと次の物音をうかがっていた。
「見てくれ……」
しばらくして寒川がささやいた。佐伯はそっと通りへ顔をのぞかせて、檜前《ひのくま》老人がひっくり返ったあたりを眺めた。背の高い影はすでに消えて、灰色の道路に老人の体だけがこんもりと黒く盛りあがって見えた。
その時になって、佐伯はやっとさっきの破裂音が銃声だったらしいと気がついた。
「撃たれたんですか」
そう訊ねると寒川は及び腰で立ちあがり、「傍へ近寄るな。このままわたしと引きあげるのだ」
と低い声で言った。佐伯の腕をつかみ、それを自分の左脇にかかえこむようにして、ゆっくりと通りへ出る。
「振り向くんじゃないぞ。通行人のふりをして、何も気がつかなかったように……」
声がふるえていた。強引《ごういん》に右腕をかかえこまれた佐伯は、自分の体が寒川正信の楯《たて》がわりにされていることに気づいた。寒川の足がしだいに早くなり、しまいには小走りに近い状態で現場から遠ざかって行った。
その薄暗い裏道をのがれ、車の行きかう表通りへ出た二人は、すぐ左に曲がって御徒町駅のガードをくぐりぬけた。
昭和通りの少し手前に有料駐車場のゲートが見え、そのゲートの照明を浴びて、見覚えのある黒い服を着た運転手が、歩道の端で煙草をふかしていた。
「谷口……」
寒川正信がだいぶ手前から鋭い声で呼ぶと、運転手は慌《あわ》てて煙草を車道へはじきとばし、急いで駐車場の中へ消えた。
車が料金所の前へ出てくる短い間、佐伯は寒川正信の横に立って、彼の荒い息づかいを聞いていた。あまり突然のことなので、いったい何が起こったのか、頭の中でまだ事態の全体像がまとまっていなかった。
次第にそれがまとまりはじめたのは、車がいまくぐったガードをこえ、銀座方向へ戻りはじめてからだった。
肩を組み合って歩いていた檜前《ひのくま》善五郎と笠原隆志の前に、背のひょろ高い男がたちふさがって、突然発砲したのだ。二人があおむけにひっくり返ったところを見ると、どちらかにその銃弾が命中したのだろう。
佐伯の頭の中で、その時の情景が、いやに鮮明によみがえって来た。老人は跳ねとばされたように、勢いよくうしろへひっくり返った。笠原はその左側にいて、老人にひきずられた恰好で、右|肘《ひじ》を下にするかたちで倒れた。倒れてすぐ横に一回転し、さっと立ちあがって、中腰の姿勢でうしろをふりかえりながら、やみくもに左側へ逃れた。左側の店のシャッターがおりていて、そこへ思いきりぶつかって大きな物音をたてた。……その間老人は動かなかった。
撃たれたのは老人のほうだったらしい。そのあと佐伯は、素早く左側の横丁へのがれた寒川正信の動きに気をとられて、ひょろ高い男がどの方向へ去ったのか、笠原がどんな行動をとったのか、まったく見ていない。どちらにせよ銃声は一発だけだったから、それが老人に当たったのだとしたら、笠原が無事だったことはまず間違いない。
赤い空車ランプをつけたタクシーがきりもなく上野方面へ向かって疾走して行くのとすれ違いながら、佐伯を乗せたクライスラーは須田町の交差点を渡った。
隣で寒川正信が煙草をくわえたので、佐伯は素早くライターをとりだして火をつけた。寒川は車のライターに伸ばしかけた手をとめ、それをくわえた煙草にそえて、佐伯の火を受けた。寒川が最初の煙を吐き出す間、佐伯は相手の指がこまかく震《ふる》えているのをみつめていた。
ライターの火を消して上着のキーポケットにしまうと、急に不満のようなものが佐伯の心に湧きあがってきた。その不快なものは、意外に根深い感じだった。
佐伯は多少反抗的な態度であるのを承知の上で、思い切って体を斜めに坐り直し、寒川正信の横顔をみつめた。
「檜前《ひのくま》さんはどうしたでしょうか」
相手が視線に気づかない様子なので、佐伯はそう切り出した。一緒に歩いていた仲間の危難を見棄ててさっさと逃げ出したばかりか、この男は初対面の自分を楯がわりに使いやがった……佐伯の不満は忿怒《ふんぬ》に近くなりかけていた。
寒川正信は佐伯の声で我に返ったらしく、前方を凝視《ぎようし》していた瞳《め》を彼に向け、すぐ運転手の背中へ顎をかすかにしゃくって見せた。
どうやら今の出来事を運転手に知られたくない様子だった。その怯《おび》えてはいるがしぶとい悪賢《わるがしこ》さを示す表情を見て、佐伯はふと自分の怒りに対して弱気になった。……このアクシデントで、せっかくここまでこぎつけた仕事の話が、流れてしまうのではなかろうか。
佐伯は沈黙し、唇を噛んで反対側の窓へ顔をそらせた。
「やっぱり帰ろう。もう酒はたくさんだ」
寒川はつぶやくように言い、乗ったとき「銀座へ」とひとことだけ命じたのを訂正して、
「家へ戻る」
と運転手に言った。車は八重洲《やえす》通りをすぎ、銀座へ近づいていた。
「佐伯君の家はどこかね」
寒川はいやに柔らかい声音《こわね》で訊ねた。
「自由ガ丘です」
「そうか、それは都合がいいな。この車は厚木《あつぎ》へ帰るんだ。君の便利のいい所で降ろしてあげよう」
「そうですか。それじゃ僕は渋谷から東横線に乗ります」
すると寒川正信は運転手に、「判ったな」と言い、運転手は軽くうなずいて見せた。
この男はなぜあんなに素早く逃げられたのだろうか……佐伯は考えはじめた。
どんな種類の銃器だったか見はしなかったが、そう長いものを持っていた様子もなかったから、あれは多分拳銃だったのだろう。とすると、拳銃の発射音というのは、そう派手なものではないらしい。余韻のない、鋭くはじけるような音だった。
寒川正信は六十をこえている年齢だから、軍隊の経験は充分にあるはずで、あの音を聞いてすぐ、拳銃だと判ったのかも知れない。しかし、音を耳にして咄嗟《とつさ》に軍隊時代の経験がよみがえったにしては、ずいぶん時代もたっていることだし、余りにも反応が素早すぎたようだ。まるで次に狙われるのは自分だと思いこんでいるようだった。……この男に銃を向けるような敵がいるのだろうか。
佐伯はそっと首を曲げ、寒川正信の横顔を窺《うかが》った。寒川は身じろぎもせず。凝然《ぎようぜん》とまた前をみつめている。
三十代半ばで相模製薬をおこし、独力で今日の規模にのしあげた人物だけに、相当な敵を作っているとしてもそう不思議ではない。しかし、すでに第一線から退いて会長に納まっている人間だ。刺客が現われるにしては、少しタイミングがずれていはしないだろうか。
それに、寒川正信を狙った刺客なら、どうとりのぼせても、しなびたような檜前《ひのくま》老人と、まだ老人とは言いかねる精気を示すこの男を間違うはずもない。肩幅の広いいかにも実業家といった脂肥《あぶらぶと》りの体つきは、笠原や佐伯のような若い男とも、シルエットがまるで違っているのだ。
とすると、寒川正信は勝手に自分が殺《や》られると思い込んだのだろうか。そしてあたふたと老人を見棄てて逃げ出したのか。
どれも佐伯には辻褄《つじつま》が合わない感じだった。いちばん納得が行きそうなのは、相手が人違いをしたのか、それとも相手かまわずぶっ放す狂人の場合だった。それに寒川の早呑込みが重なれば、あの状況の説明が一応は納得できそうだった。
だが、それでも完全ではない。
どうにもあの逃げ出しようが異常なのだ。あともふり向かず、老人の心配どころか、まきぞえになりたくない一心で、そうそうに現場からこうして車をとばして遠ざかっている。運転手か佐伯に命じて、様子を見に行かせても不自然な状況ではないし、むしろその方が当然だったような気がするのだ。
まるで、いつの日かこういう事態が起こりそうだと、予期していたようではないか……そう思ったとき、佐伯は急に暗い車内で目を剥《む》いた。
老人と寒川正信に共通の敵があったとしたら……。
「会長に連絡申しあげたい時は、ご自宅のほうへ電話をさしあげてよろしいでしょうか」
佐伯は反射的にそう言い、しかも自分の声を、まるで他人が喋っているもののように聞いていた。
寒川正信は、ギョッとしたように佐伯をみつめた。
「うん。……うん、いいだろう」
そう答えて、うろたえ気味に何度もうなずく。
「いろいろなことが起こるものですね」
佐伯は自分が余裕たっぷりにそう言ったのを、我ながら意外に感じていた。
「まったくだ。しかし、君には……」
と寒川はそこで一度言葉を切り、意味ありげにみつめ直してから、
「かけんよ」
と言った。迷惑をかけないということらしかった。
「とんでもありません。これからお世話になるわけですからね」
佐伯は、これで勝てた、と思った。苦労して仕あげた試作のダミーが一瞬目の前をよこぎり、キャッチ・フレーズやボデー・コピーが頭の中で沸《わ》きたったようだった。そして最後に、田村町のビルの壁を飾っている、「太平洋アド」という看板を思い浮かべた。思いがけぬ深さで自分の体にしみ込んでいた広告《アド》マン根性が噴《ふ》きだして、たったいま相模製薬の最高幹部の首根っこを、がっしりととらえたのだ。
佐伯はそう思い、すらりと、ほとんど無意識に口をついて出た自分の言葉の矢を、うっとりとなぞり返していた。
渋谷の高速道路ぞいの道ばたに車を寄せてもらい、
「では失礼いたします」
と挨拶して降りかけると、
「いや、どうもどうも……」
と寒川正信は一緒に車の外へ出た。大スポンサーと広告代理店の一社員といったへだたりが消え失せ、相手は完全に佐伯の機嫌をとる態度を示していた。
「絶対口外せんようにたのむよ」
通りすぎる車がまきおこす風に吹かれながら、寒川正信はドアの外に立ってそう言った。
「承知しました」
佐伯はきっぱりとうなずいて答えた。
「今夜一緒だったことはまったく偶然としか言いようがないが、人間の縁とはこういうものだよ」
そう言って殊更《ことさら》らしく佐伯の肩に左手をのせ、
「じゃあ、宣伝のほうはよろしく頼んだよ」
と言い残して車の中へ戻った。ドアがしまり、クライスラーが滑りだして行った。遠ざかりはじめるとその車のリア・ウインドに、佐伯をふり返って見ている寒川正信の弱々しい表情があった。
車の列に紛《まぎ》れてその顔もすぐ見えなくなる。佐伯は歩きはじめ、左のてのひらを右の拳《こぶし》で打った。パチンと小気味のいい音がした。
「こいつを逃がしたら俺は阿呆《あほう》だ。バカヤローだ」
声に出して言った。
みあげると、デパートの屋上の時計が十一時を示していた。とても帰る気分にはなれなかった。獲物をつかんだよろこびと、不人情きわまる寒川正信の逃げ出し方への怒り、それにまき込まれて、なすすべもなかった口惜《くちお》しさ、笠原や檜前《ひのくま》老人に対する心配、不安、好奇心……それらが入り混って佐伯の心を昂《たかぶ》らせているのだ。
足は駅とは反対の方向へむかい、佐伯はいつしか坂を登っていた。
代官山方面への近道であるその坂の途中に、「ドン」という馴染みのスタンド・バーがあるのだ。姉妹でやっている小さな店で、ボトルが買ってある。
「何よ、むずかしい顔しちゃって……」
店へ入ると、いきなり姉のほうがそう言った。だいぶ飲んでいるらしい。カウンターに三人ずれの客がひと組いるだけだった。
「そんな顔してるかな」
スツールに尻をのせながら言うと、
「そうね」
と妹が首をかしげてのぞきこみ、
「振られて来たんでもなさそう……」
と笑った。佐伯のボトルを出して手早くオンザロックを作る。
「それどころか前祝いさ」
「あら、結構ね」
「大物を仕とめたよ」
佐伯は弓をひく恰好《かつこう》をした。右手の、矢じりを持ったつもりの指をパッと放して見せると、佐伯と同じ年だという姉が、すかさず正面の棚のいちばん上に飾ってある明治神宮の破魔矢《はまや》を指さして、
「外《はず》れたわよ。へたねえ」
と言った。
「莫迦《ばか》言え、外れるもんか」
佐伯は自分だけにしか判らない答えをした。
「外れたらあしたから飯の食いあげだ。わがチームは解散だよ」
島村専務の顔を思い出しながらウイスキーを舐《な》める。
「そうか。ここでのぼせちゃブチこわしだな。満貫を聴牌《テンパ》ったんだ、ヤミテンに気をつけよう」
「なんだ、また接待マージャンだったの」
妹のほうは勝手に納得しながら、ピーナッツの皿を佐伯の前に置いた。佐伯は無意識に手を伸ばし、前歯でピーナッツを噛んだ。
寒川正信とは、今夜笠原に引き合わせてもらったばかりだった。暴漢が襲った件に笠原も何らかのつながりを持っていたと仮定すると、寒川は案外笠原を通じて幾分事情を知っていると思い込んだのかもしれなかった。だとすると、仕とめたと言って喜ぶのはまだ早いような気がするのだ。
思い返してみると、たしかに佐伯は事情を知っているかのように行動してしまっていた。だが実際は、何が起こったか余り突然なので理解できぬうちに、車に乗せられてしまったにすぎない。事情をまるで知らないことが判れば、寒川正信は権力者の威厳をとり戻すことだろう。
時間がたつにつれ、明らかに今夜の寒川の行動は、単なる巻きぞえ回避ばかりではなさそうに思えるのだが、さりとて、「いや、巻きぞえになって新聞や週刊誌に追いまわされたくなかったのだよ」と言われてしまえば、それ以上圧力をかけることはできないのだ。
もっとよく知っておかねばならない。それには笠原隆志に会わねばならない。……佐伯はそう気がつくと、眉を寄せてウイスキーを呷《あお》った。
笠原の連絡先を教えられていないのだ。笠原のほうから連絡して寄越すだけで、彼は自分のことに関して、まるで何も教えてはいないのだ。その時になってはじめて、佐伯の心に笠原に対する疑惑が湧きあがって来た。
3 二ツ目
檜前《ひのくま》善五郎は、上野アメ屋横丁の路上で死亡していた。
遅くまで「ドン」で飲んで、終電をかなり過ぎてからタクシーで帰った佐伯は、そのことを翌朝の新聞で知った。
檜前老人は寄席《よせ》通で知られていたから、古い落語家や批評家などの談話をまじえて、かなり大きく扱われていた。しかし、事件そのものについてはほとんど昨夜佐伯が目撃したとおりで、犯人がどんな人物だったかとか、どんな理由で撃たれたかなどということは、いっこうに要領を得ていなかった。
甥の笠原隆志さん(32)はとっさに大声をあげて近くの商店のかげにかくれ難をのがれたが……
警察ではモデルガンを改造したガンマニアの通り魔的犯行の疑いもあるとして……
記事のどこにも寒川正信や佐伯の名はなかった。
佐伯はほっとすると同時に、妙にしらけた気分になった。昨夜の気負いがひどく愚かしく思えたのだ。銃声を聞き、老人が倒れたのを目撃した以上、こういう記事を読むことになるのは当然だったはずなのだ。一夜明けてみなければ、このような非常事態であることが理解できないとは、なんという迂闊《うかつ》な神経だろうか。
佐伯はそう自責し、また自分自身に言いわけもしてみるのだった。
あのように、突然ポコンと人が死ぬ現場に出くわしたら、誰だって実感が湧かないに違いない。つね日頃法律を守り、平和で正常な生活を送っている人間ほど、さしたることではないように感じてしまうに違いない。
とにかく、どちらにせよ問題はこれからなのだ。現場に残って、警察に参考人として協力すれば一番よかったのかも知れないが、そうすれば当然寒川正信の名も出てしまったことだろう。そうなっていれば自分の仕事はどうなる。相模製薬における寒川正信の支持を確保できただろうか。
いつものように、トーストとハムと一本の牛乳で腹ごしらえをすませると、佐伯は追いたてられるような気分でアパートをとび出した。空はいやによく晴れていて、頭のどこかに残っているゆうべのウイスキーの酔いが、朝の光を眩《まぶ》しがっているようだった。
だが、慣れた電車に揺られて会社へ着き、自分のチームの部屋へ入って椅子に坐ると、新聞の記事を見て怯《おび》えかけていた心に、なんとなく闘志が舞い戻ってくるようだった。
俺はこのチームを守らなければならない。自分の気の持ちようひとつで、この東《あずま》エージェンシーという会社が持ち直すのだ。別に罪を犯したわけではなし、自分のような立場の人間が、寒川正信と一緒にあの現場に居合わせたら、寒川正信の希望するように動いてしまうのは当然のことだ。
佐伯は自分にそう言い聞かせると、デスクの抽斗《ひきだし》をあけて名刺帖をひらいた。とりあえず自分にできることは、三笑亭小つぶをつかまえて話を聞くことだと思ったからだ。
小つぶは江東区の大島町あたりに住んでいるらしいが、そこへは電話の連絡がつけられないことは判っていた。それに、小つぶを使ったのはだいぶ以前で、売れない芸人が目まぐるしく転居するのはそう珍しいことではないから、探すとなると心当たりをありったけ聞いてみなければならないはずだった。
名刺帖から七、八枚も抜き出してデスクに積み、佐伯は順にダイアルをまわしはじめた。まだ時間が早く、何軒かは応答もなかった。
「どうした、ゆうべは……」
報告を待ちかねたのか、専務の島村が部屋へ入って来て言った。
「会いましたよ」
佐伯はニヤリとして答えた。
「ほう、会えたか。大したもんだな」
島村は意外そうに言う。
「上には上があるもんですね。これだけ銀座へ出入りしていて、まだびっくりするような店が残ってる……百合花《ゆりか》っていう店ですよ」
「百合花か。知ってるよ」
「なんだ、知ってるんですか。凄い店ですねえ」
「あそこは太平洋アドが使っているらしい」
「太平洋アドが……」
島村をみあげてそう言うと、島村は妙な表情になって、
「らしいという噂だ。よくは知らんがね」
と言葉を濁した。
「で、感触はどうだった」
「わがほうを支持してくれるそうです」
佐伯が事もなげに言ってみせると、島村はまさかという薄笑いを浮かべかけた。
「本当ですよ。万事好調に運びました」
島村は笑いを消し、隣の椅子に腰をおろした。
「信じられんな。もし本当だとしたら、まるで僕は君に手品を見せられているようだ。……いや、信用しないわけじゃないが、そんなことが起こりうるのかと思ってな」
佐伯はちょっとつむじを曲げた。
「とにかく持って来りゃいいんでしょう」
「そりゃそうさ。勝てばいいんだ、勝てば」
島村はそこで佐伯が腹をたてかけているのを察したらしく、急に明るい笑顔になった。
「しかし佐伯も伸びたもんだな。寒川さんにじかにくらいつくとはな。とにかくこれはめでたい。社長がひっくり返って喜ぶぞ」
「専務から報告しておいてください。いまちょっと手が離せないもので……」
よし、と島村は立ちあがり、部屋を出がけにふり向くと、
「あとで下でお茶でも飲まんか。どういう具合だったのか様子を聞きたいからな」
と言い残して去った。
「やりますねえチーフ。本当に相模製薬がウチへ来るんですか」
アシスタント・デザイナーの一人が訊ねた。
「来る……」
佐伯は短く答え、またダイアルをまわしはじめた。
三笑亭小つぶの所在は、結局、あるラジオ局のディレクターに電話して判った。
同じ三笑亭の、ついこのあいだ真打《しんうち》に昇進したばかりの兄|弟子《でし》がスタジオに来ていて、その落語家が教えてくれたのだ。
小つぶは昼すぎから午後三時頃まで、新宿の寄席へ顔を出しているはずだということだった。佐伯は昼飯に外へ出たあと、そのまま地下鉄で新宿へ向かった。
寄席の裏の通りへ入って、狭く急な階段をあがると、楽屋《がくや》の連中が集まる小さな喫茶店になっている。そこへ佐伯が現われたのは、一時二十分頃のことだった。
「おやお珍しい」
スポーツシャツを着た若い男が、目ざとく佐伯に気づいて立ちあがった。いつも小つぶの尻について歩いている、三笑亭の前座の一人だった。
「よう……」
佐伯は前座の肩をひとつ叩いてから、空いた席に坐った。
「何を差しあげましょう。と言ったって、あたしがご馳走するわけじゃないんですけど」
前座はこの店の人間のように注文をきいた。
「俺はコーヒー。お前は何にする」
「へっ……それじゃ遠慮なく」
前座はちょっと考えてから、カウンターへ向けて大声で言った。
「コーヒーいっちょ、アイスクリームいっちょ……」
佐伯は苦笑した。思い当たるのだ。仕事で人に会い続けると、朝からコーヒーかコーラばかりで腹がボカボカになるのだ。そんな時、しまいにはアイスクリームでもたのむよりテがなくなる。この男も、先輩が姿を見せるたび、コーヒーばかり飲んでいたに違いなかった。
「今日はまたどういう風の吹きまわしで」
「野暮《やぼ》用さ」
「よっ、また誰かをコマーシャルに引っぱりだそうってんで」
佐伯が黙って煙草をつけていると、前座は勝手に仲間の一人を呼び寄せた。
「お前にこの人を紹介しちゃう。この人は佐伯さんと言って、あたしら若手を順番にコマーシャルに出してくれる人……お前はあたしの次だよ」
呼ばれた男は半《なか》ば本気にしたらしく、あらたまった様子でお辞儀をして名乗った。
「林屋せん平《ぺい》でございます」
「ほう、師匠よりだいぶ数が多いんだな」
「違うんですよ。本当はせんべいって読まなきゃいけないんです」
三笑亭の前座がそう教えて笑った。
「俺はただの広告屋だよ。それに今日はそんな用じゃない」
「いえ、今日じゃなくても結構なんです」
せん平は真面目な顔で言い、
「よろしくお願いします」
と挨拶して戻って行った。
「ね、あのとおりまだ洒落《しやれ》も判らないんで。おもしろいでしょ」
前座はクスクスと笑った。
「小つぶは来てるかい」
「あ、兄《あに》さんはもうすぐ出て来ます。兄《あに》さんにご用なんですか」
「まあな」
「行って呼んで来ましょうか。さっき楽屋でコキ使われてたから、喜んでとんで来ますよ」
「いや、いいよ。別に急がないし」
「そうですか。それじゃ、来るまでお相手しましょう」
前座はそう言うと、自分でカウンターへコーヒーとアイスクリームをとりに行った。
その前座は案外座もちがよくて、退屈もせずに三、四十分たった頃、階段を昇って来る足音がして三笑亭小つぶが姿を見せた。
「兄《あに》さん、こっちこっち」
前座に呼ばれて振り返り、驚いたような顔をした。
「ゆうべはどうも……えらいことが持ちあがりましたね」
「まあ坐ってくれ。……俺も驚いたさ」
小つぶは真剣な表情で前座を追いやり、声をひそめた。
「で、一体どうなっちゃってるんです」
「こっちはお前、会長を巻きぞえにしないんで精一杯だ」
「見たんですか」
「目の前さ」
「ひどい話ですねえ」
小つぶはおぞましげに言う。
佐伯はその顔をじっとみつめながら、ここへ来るまでに考えて来た台詞《せりふ》に入った。
「ちょっと刑事《デカ》めくけれど、どうしてもお前に会って事情を聞いときたくてな」
「事情って、どういう事情で」
「断わっとくが、俺にとぼけるなよ」
「へえ」
「お前、おかしいとは思わないか」
「何がです」
「なぜあそこで檜前《ひのくま》さんが殺《や》られたかだ」
「そんなこと言ったって、殺った奴は通りすがりで、先生でなくとも誰でもよかったんでしょう」
「それは新聞社が書いてたひとつの見方にすぎない」
「というと……」
「犯人がはじめから檜前《ひのくま》さんを狙《ねら》ってたとしたらどうなる。檜前さん一人をだ」
「そうなんですか」
小つぶは真面目だった。予期していたことだが、その反応のしかたは、小つぶが今度の事件にまったく無関係であることを示していた。
「仮りにだ。仮りにそうだとしたら、あの時間にあそこへ檜前《ひのくま》さんが行くことを、犯人はどうして知ってたと思う」
「さあ……」
小つぶは考え込み、急に顔をあげ、瞳をキラキラさせた。
「そりゃ、プロの殺し屋なら、そんなの調べるのは訳はない」
佐伯は噴き出しそうになるのをこらえた。
「テレビの見すぎだよ。でも、仮りにお前の言うとおりプロの殺し屋だったとしても、誰かがあそこへ檜前さんが向かったのを、殺し屋に知らせなければならないだろう」
「ええ、そうですね」
「誰だい、それは」
「やだな佐伯さん。冗談じゃないですよ。あたしゃあのまんま、まっすぐ地下鉄にのって新宿三丁目で降りたんですからね」
「証人は」
小つぶは蒼《あお》くなっていた。
「い、いませんよ。そんなこと言うなら、佐伯さんだって会長さんだって」
「俺たちは四人一緒だ」
「百合花《ゆりか》の誰かかも」
「そうだな。しかし一番疑われるのは、檜前《ひのくま》さんと親しかった人間だよ。俺は初対面、笠原は檜前さんの甥《おい》……その上並んで歩いてたから、まかり間違えば笠原が死んでたところだ。笠原が知らせたのなら、用心してもう少し離れて歩くはずじゃないか」
すると小つぶは引きつったような薄笑いをはじめた。
「洒落《しやれ》がきついよ、佐伯さん。本気じゃないんでしょ」
「いや、本気だ。ただ、お前を追求しに来たんじゃない。それより、心配だったから来たのさ。俺に聞かれてさえへどもどしてるじゃないか。これが刑事《デカ》だったら、もうお前は疑われてるよ、とっくに」
「そうですかね……いや、ほんとだ。俺は危《ヤバ》いんだ」
「あんなことが起こって、俺はいまお前にばかりではなく、会長にもひと肌脱がなければならない立場なんだ。ま、とにかく、会長のことにしろお前のことにしろ、笠原をつかまえなきゃどうにもならない。お前、笠原のすまいを知ってるか」
「檜前《ひのくま》薬局じゃないんですか」
佐伯は何か欺《だま》されたような気分になった。檜前老人と一緒に住んでいるのが一番自然な形ではないか。
「そう言えばそうだな」
やはり逆上《あがり》気味なのだと思った。だが小つぶはその足もとをすくうように、
「でも、あたしゃちょいちょいあそこのうちへ行ってるんですよ。笠原さんが住んでる風には見えなかったな」
と言って考え込んでしまった。
「いったい全体、檜前《ひのくま》善五郎って人はどういう人物だったんだ。戦前からの古い寄席通だってことは知ってるが……」
「若い頃はずいぶん道楽をしたそうですよ。向島《むこうじま》の芸者と一緒になったりしてね。あっちこっちに土地なんかも持ってたそうなんですけど、とっくのとうに人手に渡しちまって、今じゃあの薬局があるっきりで……」
「それじゃ懐《ふところ》具合は余りよくなかったんだ」
「それが、近頃は大層な羽振りで、ウチの師匠なんかもときどき首を傾けてましたよ」
「ほう。すると最初は道楽してて、そのために土地を手ばなすくらい金につまって、最近また景気がよくなったというんだな」
「ええ。これもうちの師匠に聞いた話なんですがね、檜前《ひのくま》薬局ってのは、戦後のヒロポンがはやった頃なんか、そういうのをじゃんじゃん売ってたそうです。取締りが厳しくなってからも続けてたそうなんで……みんな射《や》ったらしいですね」
小つぶは左腕へ注射をうつ真似をした。
「そういう危《ヤバ》いくすりの闇をやるくらいだから、その頃から苦しかったんでしょうね。もっとも、当時は楽屋でも大はやりだったそうで、今の古い人たちはみんな檜前《ひのくま》薬局のお世話になったそうです。あの先生は芸人が好きだから、タダでくれたりなんかしたっていいますよ。そんな筋でかどうか知りませんけれど、こっちのほうにもばかに顔の通る人でね」
小つぶは上着の袖の上から、人差指で腕に渦巻きをかいてみせる。
「やくざか」
「ええ」
「すると博奕《ばくち》をやってたな」
「いいえ、それが賭事はまるでやらないんです」
「どの辺に顔がきいたんだ」
「上野の佐田組に浅草の仁平《じんぺい》一家。それに本所《ほんじよ》と向島の……」
「土屋組だな」
「ええ」
「東京の下町の古いテキ屋ばかりじゃないか」
佐伯はなんとなく納得した。道楽者で寄席通のそういう人物が触れて行く社会には、当然ぶつかりそうな集団ではあった。
納得はできたが、それでは話が行きづまってしまう。
「そんな人が相模製薬の会長なんかと、どうして知り合ったのかな」
「そのわけはかんたんですよ」
小つぶは気安く言った。
「知ってるのか」
「ええ。あの先生は道楽もんだけど、決して浮気っぽい人じゃないんで……ひとつ道にこりかたまっちゃう性質《たち》なんでしょうね。だから芸者に惚れれば入れあげちゃうし、寄席|通《がよ》いをはじめるととことん通《かよ》っちまう。おんなじことで、家業の漢方薬のほうだって、なかなかどうして大したもんだったらしいですよ。でも今どき漢方じゃそう大きな稼ぎにもならないでしょうし」
「そうだろうな」
「ところが、そこがあの先生の偉いとこだったんでしょうね。とうとう何か凄いききめの奴をみつけちゃったらしくて、その権利を買うかどうかしてたのが相模製薬なんですよ。よく先生のおともをして会長さんと話をしてるのを聞いてましたからね。そこんところは間違いありませんよ」
「なるほど、そういうわけか」
「笠原さんなんか、その手伝いをするんで農業大学へ行かされたって言いますからね」
「漢方で農大か。どうやら辻褄《つじつま》が合ってきたな。すると笠原は大学を出てから、ずっとその研究を手伝っていたのか」
小つぶは首を横に振った。
「古いお友達だってのに、そんなことも知らないんですか」
「高校からあと、ずっと会っていなかったんでな」
「あの人はお役人をしてたんですよ」
「どこの」
「農林省にきまってるじゃありませんか」
「農林省か……」
「あ、忘れてた」
小つぶは小膝《こひざ》を叩いて高い声をあげた。
「なんだ」
「笠原さんの居所《いどころ》みたいなのをひとつ知ってるんです。一度行ったきりなんで忘れてましたよ」
「どこだ」
「それがね」
小つぶは右手をつきだして小指をたてた。
「そうか。女か……」
「ええ。どういう素性の人だかよくは知らないけど、豪徳寺《ごうとくじ》のほうですよ」
「世田谷《せたがや》のか」
「何か書くもの持ってますか」
小つぶに言われて、佐伯は内ポケットから手帳をとりだし、背表紙のうらから小さな鉛筆を引き抜いて渡した。
「どんな女だ」
ひょっとしたら水商売風の、と考えながら佐伯は鉛筆を舐《な》めて道順を書きだした相手に言った。
「そう言っちゃなんだけど、ヘナヘナしてるばっかりで、どうも……」
パッとしない、というような表情で顔をあげ、
「でも、こんなことあたしが言ってたなんて、笠原さんに教えないでくださいよ」
と念を押した。
「たしか、五階か六階の三号室ですよ。行けばすぐ判ります。白くてかっこいいマンションですから」
「女の名前は」
「ショウコさん……苗字《みようじ》は知りません。車でつれて行かれましてね。マンションの名前も覚えてないんです。すいません」
「あいつの彼女が、かっこいいマンションにねえ……」
佐伯は地図を見ながらつぶやいた。
「まっ白なマンションでしてね、おまけにその部屋の中の家具やなんかがまた、みんなまっ白けのけなんです。ああいう家具で揃《そろ》えた部屋ってのは、若い女の子なんかにはこたえられないんでしょうね。とにかく、外国の恋愛映画を見てるような具合ですよ」
「年《とし》はいくつぐらいだった」
「そうですねえ。そう言われると、妙に年の踏みにくいタイプだな、あれは。何かひどく若いような気もしたし……色気がまだ出てないっていうような……それでいて、どうかするとくたびれてるみたいな。病気持ちみたいな感じでしたね、言っちゃ悪いけど」
「笠原は農林省をいつやめたんだ」
「知りません。あたしが檜前《ひのくま》さんに可愛がってもらいはじめたんだって、ことしで四年ぐらいでしょ……笠原さんに会ったのは、その一年あとだったかな。そうそう、先生と一緒に、大宮《おおみや》の百合畑を見物に行った時、そこで会ったのがはじめてですよ。氷川《ひかわ》神社のすぐ傍《そば》でしてね。笠原さんは作業服着て、はじめ、あたしはそこの百合の面倒を見てる人かと思ったんです。それが笠原さんでね。帰りはパリッとした服に着換えて一緒に戻って来たんです。そうそう、百合って言えば、会長さんもお好きなんだそうですよ。あれとあれをかけ合わせたらこんな花が咲いたなんて、会うたんびにそんな話ばかりなんですよ」
佐伯は内ポケットのボタンをかけながら言った。
「そう言えば、ゆうべ行ったユリカというあのクラブも、百合の花と書くんだっけな」
「ええ。あれは会長がレコにやらせてる店なんですよ」
小つぶは好色そうな笑い方をした。
三笑亭小つぶに会った帰りの電車の中で、佐伯の心理には事件の拡大を期待するようなものがあった。
競争の熾烈《しれつ》な広告業界で、大きな広告主《クライアント》を握るとすれば、かつての味噌や眼鏡《めがね》などのように、それまで広告する業界でなかったものが、情勢の変化によって突然活発な広告活動に突入する場合とか、未知の全く新しい商品や企業に突如として需要が発生する場合とか、そういう現場に早くから居合わせない限り望みが薄くなっている。まして既存の大広告主に新しく食いこんで行くには、全社をあげた徹底的な攻撃が必要で、若手の一社員ごときがどう逆立《さかだ》ちしても、ものになる可能性はまずないと言ってよかった。
その点では、けさ専務の島村が示した佐伯の報告に対する疑いは、むしろ常識的な反応であると言えた。
そういう困難な状況下で、単身、相模製薬のような大物に食い込むには、未発表の新薬の秘密とか、経理上の醜聞とかを踏み台にするのが、最も見込みのある方法だった。
だから、昨夜の事件から、檜前《ひのくま》善五郎と寒川正信の延長線上に、相模製薬の漢方系新薬の存在を望む心が、佐伯の内部に期せずして湧きあがって来るのだった。
もし、それが原因で殺人が起こったのなら、寒川正信の態度も納得できるし、佐伯は彼に対して抜きさしならぬ弱味を握ったことになる。
地下鉄をおりた佐伯は、留守の間に笠原からの連絡がありはしなかったかと、小走りに階段をかけあがった。
部屋に戻ると、専務の島村が佐伯の椅子に坐って週刊誌のページを繰っていた。
「おい、どこへ行っていた」
だいぶ待ちかねていた様子で島村は立ちあがった。
「相模製薬の件でちょっと」
「話があるんだ。お茶を」
言いかけた島村をおさえるように、佐伯は大きくうなずいて見せ、コピーライターの清川に訊ねた。
「俺に電話が入らなかったか」
「いいえ」
清川は雑誌や年鑑のたぐいをうずたかく積みあげたデスクから顔をあげて答えた。
「もし電話が入ったら、下の喫茶店にいるから、そっちへ掛け直すように伝えてくれ」
「はい」
佐伯は言いおいて、島村が閉りかける扉をおさえて待っているエレベーターへ向かった。二人は沈黙したまま、地下へおりて行く。
「まったくいそがしそうだな、君の所は」
「やる気のある連中が揃ってますから、今のところは大した不満も出ていませんが」
喫茶店のテーブルにつくと、二人はおしぼりを使いながら喋りはじめた。
「でも、次のボーナスはこの前のような悪平等にさせないでくださいよ」
佐伯がとがめるように言うと、島村はちょっと皮肉な表情になり、
「よほど力がないと信賞必罰は実行しにくいものだ」
と言う。
「それにしてもこの前のはひどすぎますよ。ボーナスたった一ヶ月分の幅の中で査定されちゃ、うちの連中なんか莫迦《ばか》臭くてやってられませんよ。いちばんやってる人間と、いちばん手を抜いた人間との幅は、最低三ヶ月分なければうまく引っぱって行けません」
「そりゃそうだ」
「島村さんが言ってくれなければ、誰があの社長を動かせるんですか……誰もいないですよ。経理の津島なんて全然あてにならないし」
すると島村はひどく生真面目《きまじめ》な表情で、
「まあ、まかせておいてくれ。俺が佐伯を今の状態のまんまで放っておくわけがないだろう。いつも言ってるとおり、俺たちは独立したひとつの会社のようなもんだ。その会社がひとの会社へ入って仕事の場を借りてるわけさ。今度もう一度やって見て、どうしても見込みがないというんなら、またこの前みたいにどこかもっといい代理店へ移籍すればいい」
と笑った。佐伯は意表をつかれ、
「まだそこまで考えなくたっていいじゃないですか」
と言った。島村は軽く手を振り、
「いや、俺には君らに対してそこまで考えておく責任がある。君は自由にやってていいよ。今までどおり、万事俺にまかせておけ」
そう言ったとき注文したコーヒーが来て、二人はカップをとりあげた。
「話というのはけさの件だ」
「けさの件……」
「君が俺に報告したろう」
「ああ、寒川さんと会った件ですね。すみません。ついとりまぎれて、島村さんに詳しく言う前に出掛けてしまったもので」
「それはいいんだ。君のことだからソツのあろうはずもないし、寒川会長に会ってうまく行ったとなれば、七割か八割がた、もうかたまったのだろうからな」
「会長の反応はかなりいいんですが、まだ安心はできません」
「それそれ、そのことだよ」
島村は物判りのいい兄貴といった笑顔でうなずいた。
「実は俺はまだ社長に報告していない」
佐伯は、ホウ、と答え、上目づかいに島村を見た。
「さっき社長に、どうなった、と聞かれたから、そう簡単には結論が出んでしょうと答えておいた」
佐伯はカップを置いて眉をひそめ、煙草に火をつけた。二回ほど吸ってから、
「島村さんの考えどおりにしてください。こっちはかまいません。とにかく必ず相模製薬は持って来るつもりなんですから」
と答えた。
「あの社長は、わりと軽率に動くことがある。今は少し苦しい時期だから、その分慎重になってくれればいいが、君の報告を楽観材料に、苦しかった反動でパッと派手に始めんとも限らない。万一、それで相模製薬を失敗したら、君にとっては敢闘賞にもならん。社長が先に立って君を責めるぞ。それじゃ面白くない。俺も困る。だからこの際は、もっと確実になるまでおさえて行こうじゃないか」
「いいですよ。そうしましょう」
すると島村は、佐伯の機嫌をとるように微笑した。
4 小さな花
佐伯は笠原からの連絡を待ったが、二日目も三日目も、依然として連絡は絶えたままその週は終わってしまい、日曜になった。
追われているような一週間が過ぎて、佐伯はその日曜を久しぶりの休日のように、一日中自由ガ丘のアパートで、外出もせずごろごろとテレビを眺めて過ごした。
夜になって、やっと静かな気分に戻った佐伯は、ふと専務の島村がとった処置を思い出し、疑問を感じた。
専務取締役と言っても、島村は社長の長谷川駿太郎が経営の強化のために他社から引き抜いて来た人物だった。それだけ島村は有能で、広告《アド》マンとしての力倆《りきりよう》が世間に知られていたわけだが、結局、株主でもなんでもなく、東《あずま》エージェンシーの真のオーナーは、社外にいる某実業家だということだった。その人物が長谷川駿太郎に出資し、広告代理店を設立したのだ。
長谷川は富裕な一族に生まれついただけで、そう大した経営手腕の持主ではない。島村が佐伯などを引きつれて東エージェンシーへ移籍して来たのは、条件のよさもあっただろうが、それよりも現社長を含む経営陣の手薄さが魅力だったと佐伯は見ている。
社長は乾分《こぶん》をつれた有能な部下を一人、高給で迎え入れたと思ったのだろうが、日がたつにつれ、その部下が社長以上の実力者になって行くのがはっきりしてきた。
そこで社長側の島村に対する牽制《けんせい》がはじまったのだ。と言っても、そう露骨な対立ではなく、どちらかといえば力不足の社長側の、一種の背伸び行為のようなことかもしれなかった。
最近の島村の口ぶりでは、その隠微《いんび》な対立が多少表面化し、彼は受けて立つ気になっているらしい。
それだけに、相模製薬の件に関して島村が示した慎重論は、筋が通っているようないないような、はっきり納得できない部分があるのだった。
九分どおり固まりましたという情況が、どたん場へ来て呆気《あつけ》なく逆転するのを、佐伯は東エージェンシーへ来てからもよく見ている。営業のそういう判断が、今の佐伯の場合より、もっとずっと甘いものであったことも、数えあげればきりがないほどある。
現場担当が島村ならとにかく、佐伯のような若手なら、そういう報告が入っても、最終的な判断は長谷川駿太郎自身の責任で行なわれなければならない。それを材料に軽挙しようが慎重になろうが、すべて社長の責任ということになる。
だとしたら島村は、佐伯の報告をそのままぶっつけて、俺はこう思うが社長はどうする、とそれでいいはずではないか。前の会社から島村とつき合って来た佐伯には、その態度が一匹狼的ないつもの島村とは違うように思えるのだった。
しかし、禄《ろく》をはんだ以上、すべてその会社の利益本位という立場に立てば、社長の軽挙をおそれて今しばらく様子を見ようというのも筋の通ったことではある。
だが、それではまるで忠義一途の家老めいていて、島村の態度としては似つかわしくないようだ。たとえば麻雀《マージヤン》にしても、島村の打ち方はつねに積極的で、ツキがまわればかさにかかり、落ち目の時はなんとかしてツキを呼び込もうと、思いがけない邪道を打ってまで暴れまくる。だから勝つ時同様、敗ける時も大きく敗ける。しかし、運のない時にあえてジタバタするだけに、勝つことの方が圧倒的に多く、卓を囲むとうんざりするほどしぶとい相手だった。
その島村がなぜ今度の場合、穏やかな態度に出ているのか、佐伯にはよく判らないことだった。佐伯が彼の能力にしては手に余る相模製薬のような大物にアタックしているのと同じように、だいぶ以前から島村も超一流の自動車メーカーに食いこもうと、彼らしい強引さで動きまわっているのだ。
もし佐伯の相模製薬と島村の大手自動車メーカーが手に入ることになれば、移籍して来た島村一派が東エージェンシーの主流になって、長谷川社長はかすんでしまうかもしれない。ひょっとすると、そんな事態を目前にして、島村はじっと爪《つめ》をといでいるつもりなのかもしれなかった。
どちらにせよ、しばらく相模製薬のことで社内の動きから遠ざかっていたが、来週からもう少しそちらのほうにも気をつかって行く必要がありそうだと、佐伯は枕の上に顎をのせ、指にはさんだ煙草のけむりをみつめながら考えていた。
だが、月曜日そうそう、相模製薬が大きく動きはじめたようだった。
月曜の十時半ごろ、佐伯に橋詰《はしづめ》と名乗る男から電話が入った。
「失礼ですがどちら様でしたでしょうか」
そう訊ねると、相手は落着いた声で相模製薬の秘書課の者だと名乗った。
――お忙しいでしょうが、ご都合がよろしかったら、今日の昼にでもお目に掛りたいのですが――
「はあ……」
秘書課というのが意外で、佐伯は一瞬戸惑ったが、すぐに、来たな、と思った。
――お会い願えますか――
「はい。で、何時にどこへうかがったらよろしいでしょう」
――日本橋の新|薬粧《やくしよう》会館をご存知ですか――
「はい」
――新薬粧会館の九階受付で、相模製薬の秘書課分室とおっしゃっていただければ判ります。そこで一時ちょうどにお待ちしております――
「承知いたしました」
――それで、つきましては、この件をほんのしばらくのあいだ佐伯さんお一人のことに留めておいていただきたいのですが、お願いできますでしょうか――
これはもう確実だった。どんな申出にせよ、秘書課を通じて寒川正信が先夜の件の決着をつけようということに間違いない。
「判りました。仰せのとおりにいたします。それでは一時に必ずうかがいます」
――お待ちしております――
電話は切れた。
いよいよ詰めの段階に入ったか……佐伯はそう思い、うきうきした気分になった。寒川正信はいったい何と言って来るだろう。まさかこの数日間で態勢を整え、お前とは関係ないからそう思えと言いはすまい。少なくとも殺人事件だったのだ。気やすく自分を外すことはできないはずだ。佐伯には自信があった。
日本橋の新薬粧会館は、薬品、化粧品の流通機構を牛耳《ぎゆうじ》る、日本薬粧連合会の本部のようなものだった。
まだ完成して日が浅く、どこからどこまでつやつやと冷たく光っているその建物へ入り、エレベーターで九階へ出た佐伯は、化粧品のCMに出ても不思議はないような美人に案内され、相模製薬秘書課分室という標札のかかった部屋へ入った。
大企業の秘書課や株式課が、よく都心に独立した応接室を持っていることは聞いていたが、これなどもそのひとつらしかった。豪華な絨緞《じゆうたん》とソファー、壁には号何百万とかという噂の巨匠の絵がかけられ、その贅沢《ぜいたく》きわまりない部屋に、まるで雰囲気のそぐわない人物が、肩をすくめるようにして坐っていた。
三笑亭小つぶだった。
その向かい側にいた、エリート社員を絵に描いたような男が、すらりと立ちあがって笑顔で迎えた。
「お呼びたていたしまして恐縮です」
男は名刺を交換し、小つぶの隣へ佐伯を坐らせると、そう言ってすぐ要件に入った。
「実はこれは本来なら宣伝部が取扱うべきことなのですが、ただいまのところ、いろいろな事情でわたくしども秘書課がかりだされたようなわけでして……」
橋詰というエリート社員は、お互いに使われる身は辛いといった風な、くだけた態度を示した。
「とにかく、わたくしには専門外のことなので、そちらさまのほうがおくわしいはずですが、実はわたくしどもの会社の次期宣伝活動につきまして、その一部が決定したのです。……いえ、と申しましてもまだほんの一部だそうでして」
橋詰はそこで言葉の調子を変え、佐伯に訊ねるように言った。
「テレビのコマーシャルというのは、制作の準備にずいぶん時間が掛るものなのだそうですね」
「ええ、まあ……」
佐伯は、それほどでもない、と言いかけてやめた。橋詰は佐伯の返事に、やっぱり、という様子で専門家をたてたうなずき方をして見せた。
「詳しいことは存じませんが、全体の方針の決定には今少し時間が掛りますようで、それですと、テレビ・コマーシャルのほうがちょっと遅れてしまうのだそうです」
たしかにいま佐伯が知らされているタイム・リミットでは、そういうことになりそうだった。
「それでですね、何かコンテと言うのでしょうか、テレビに関するそういうものだけは一応きめたというわけなのです。これがそのコンテです」
橋詰は相模製薬の大型封筒をさしだした。佐伯はそれを受け取り、封筒からコンテを出してドキリとした。東《あずま》エージェンシーのではなく、太平洋アドのものだった。佐伯はそれが太平洋アドの何という人物が立案したものかまで、すでに情報を得ていた。全部で四案提出した中の一点で、佐伯のほうは三案にしぼって出してある。
「太平洋アドのものですね」
佐伯はつとめて冷静に言った。
「この際、太平洋さんも東さんも、そういうことは一応ないことにしたいのです」
「と言いますと」
「案は大筋として太平洋さんのものが採用になりました。しかし全面的な採用ではないのです。その案ではわが社がいま使っているコマーシャルにも出ている、大牟田志郎《おおむたしろう》とかいう人を引きつづいて起用することになっていますが、宣伝会議の結論では、そこにいらっしゃる三笑亭小つぶさんということにきまったのです」
佐伯は納得した。小つぶにも口かせをはめて来たのだ。小つぶは佐伯と視線をあわせ、照れ臭そうに微笑した。
「すると制作はうちですか」
「いいえ。コマーシャル・フィルムの制作については、ずっと、鷲《わし》プロダクションという所が当たっておりまして今回もそこへ発注いたします」
鷲プロと太平洋アドとは一心同体のような間柄だ。
「太平洋アドの企画が採用された場合、予算は一応太平洋アドが扱いまして、下請けに鷲プロが指定されるというのが、今までのやり方だったのです。実を申しますと、鷲プロという会社には、わたしどもの会社の有力な関係者のお子さんがいらっしゃるのです。まあこればかりはどうにも致し方のないことでして」
橋詰は弁解気味に種あかしをした。それは佐伯も初耳だった。
「それでですね、小つぶさんのキャラクターと申しますかパーソナリティーと申しますか、そういうことがよく理解できている人物が、鷲プロにも太平洋アドにもおりませんで、あなたなら以前からお親しいわけですし、ベテランでいらっしゃるから心配ないわけで、ひとつこの際、個人の資格で指揮をとっていただこうということになったのです」
短いCMフィルムでは、タレントが変わるとその個性に応じて、予定したコンテがまるで意味をなさなくなることが多い。その点では筋の通った話だった。
「お話は判りました。しかし卒直に言って、東《あずま》エージェンシーはいま、太平洋アドと、この件で競合《きようごう》状態にあるのです。個人でタッチするのは一向にさしつかえありませんが、予算の扱いとかそのほかのことは、最終的にどちらになるのでしょう。それによっては僕の立場は微妙になりますね」
「ごもっともです。しかし、まだ太平洋さんとも東さんとも、あるいは他のどこかとも、まったく決定していない時点ですし、とくに東さんの場合はこれからわたしどもに協力していただこうということなので、最終決定がくだされるまでの一時期、東さん側のサービス行為とお考えになっていただければよいのではないでしょうか。もちろん太平洋アドでも、セールス・アプローチのひとつとしてそういうサービスはしたいでしょうが、あちらには人材がいないのです。かといって、東さん側に会社として手を出していただいては、ご期待にそむく詰論がでたとき、わたくしどもが何かこう、インチキをしたようで……」
秘書課を出すとはうまいテを考えたものだと、佐伯はその時になって舌をまいた。宣伝部ならある程度の言質《げんち》を出すことを覚悟してかからねばならない。要するに最終決定を出さぬまま、とりあえずありあわせの材料で、小つぶと佐伯の口を封じてしまったのだ。
三笑亭小つぶは、相模製薬の会長である寒川正信が、先夜の御徒町《おかちまち》の件で関係者に口どめする必要があったらしいなどとは気がつかず、
「やっぱり凄いや。さすがは佐伯さんだ」
と持ちあげるように言い、案外本気で佐伯に礼を述べた。
彼と別れたあと、佐伯は何やら茫然とした思いで江戸橋の会社へ戻った。
大物相手だと、よくこういうはぐらかされかたをするものだが、それにしても少し掴《つか》みどころがなさすぎて、気負った気分のやり場に困るようだった。
今日はどうでも結論が出るはずだと思っていたのに、結局勝ったのか敗けたのかまだ判らないのだ。まだ太平洋アドが持って行くのか、こっちへ来るのか見当がつかない。……いったい何をモタモタしているのだろう。佐伯は宣伝部の決定が遅いのに焦《じ》れはじめている。
だが、佐伯個人の利害ということになれば、一応も二応も前進していた。小つぶのギャラにせよ、佐伯の演出料にしろ、橋詰は法外と言ってもいい金額を提示して来ている。個人の資格だから、会社には関係のないことだ。その上、いつもよくやるアルバイトと違って、この件はあらかじめ会社に断わって堂々とやれる。勤務時間中でも仕事の一部として出掛けてさしつかえない。内密にと言ったのは、あの応接室へ行くまでのことで、承諾した今となっては、誰にかくしておく必要もない。
むしろ、今度こそ社長に報告すべきだった。そうでないとかえって具合の悪いことになる。社長に言えば、企画が太平洋アドのものだけに、敵陣の一角を斬り崩したとしか考えようがなく、それこそ大よろこびで佐伯の労をねぎらってくれるだろう。島村にしてもそれは同じはずだ。
だが彼らは、この件の裏に、檜前《ひのくま》善五郎射殺事件がひそんでいることを知らない。知っていればそう手ばなしで喜んでいられもしないだろう。まして漢方系新薬の存在がその事件にからんでいるとすれば、この時点で相模製薬の宣伝予算が一挙に転がりこんでもいいくらいなのだ。
デスクに肘《ひじ》をついて、佐伯は視点を変えて考えてみた。
まず、寒川正信から直接回答があると思いこんでいたのは誤りらしかった。あの現場にいなかったという工作をする以上、口どめするにしても、極力接触を避けるのが筋ではないだろうか。その直後ひんぱんに会っていたというのでは、どうも幼稚すぎるようだ。
その点、今度のようなやりかたをすれば、万一警察が嗅ぎつけてきても、どうにでも言いのがれができる。すべて正常な仕事の上のことなのだ。
第二は佐伯自身の社内的な立場のことだ。今度こそ社長に報告しなければならない。そして報告すれば、それこそ九分どおりかたまったと思い込まれてしまう。だが事実はそれほど甘くはない。今後の進展が思わしくなく、万一失敗ということにでもなれば、島村が先週言っていたとおりの事態に陥ってしまう。
幾分前進はしたが、立場はいっそう危険なことになっている。佐伯はそう思い、唇を噛んだ。
この程度のことで寒川にごまかされてはたまらない。先方がこれで済んだと考えているとしても、こっちはそれでは納まらないのだ。なんとしても、もっと詳しいことを知らねばならない。結論が保留され、提出した企画が宙に浮いている短い期間に、もう一度決定的な圧力をかけておかねばならない。
佐伯は雑用にまぎれて先週の後半をむだにしたことを悔いた。相模製薬の件はすべてに優先してしかるべきだったのだ。もし自分が檜前《ひのくま》老人や笠原から何ひとつ知らされてはいず、ただあの晩偶然一緒に居合わせただけだと知ったら、いまのコマーシャル・フィルムの件も出て来なかったかもしれないではないか。寒川正信が疑心暗鬼にとらわれている間に、是が非でも秘密の一部を嗅ぎつけておかなければならない。……佐伯はそう思い、豪徳寺のしゃれたマンションにいるという、ショウコという女性を探す決心をした。ひょっとすると、笠原はそこにいるのかもしれなかった。
佐伯は部屋を出て階段を昇り、島村に報告した。島村は妙に深刻な表情で聞きおわると、ふんぎりをつけるように、よし、と言って佐伯を社長室へ連れこんだ。案の定、社長は大喜びで報告を受け、口をきわめて佐伯の功を褒めたたえた。
佐伯は手早く切りあげ、相模製薬の件で至急手配したいことがあるからと言って、会社のセドリックを調達すると、若い連絡部員が運転するその車で世田谷へ向かった。
三笑亭小つぶが書いた頼りない地図を見くらべながら豪徳寺のあたりを探すと、やがてひときわ目だつ白壁のマンションに行き当たった。
佐伯はそのマンションの前で腕時計を眺め、しばらく待って遅くなりそうだったら適当に帰ってくれと言いおいて車を降りた。
まず五階を探し、次に六階へ登ると、その三号室のドアのところに、榊原紹子《さかきばらしようこ》、という、小さな名札が出ていた。佐伯はその下のボタンを押した。
ノブが内側から廻され、ゆっくりとドアが引かれた。壁とドアの間にできた細いすき間が、白いもので満たされている。鎖錠《さじよう》の伸びた間で、かぼそい女の声がした。
「どちら様ですか」
佐伯は名刺を渡し、
「笠原隆志の友人で、佐伯と言います。笠原のことでお尋ねしたいことがあるのですが」
と言った。ドアのすき間から、女は脅《おび》えたように細い指をだし、危険な棘《とげ》でもつまむように、名刺をそっと内側へ引き入れた。
「あの、笠原さんの学校時代のお友だちですね」
「そうです」
すると女はドアの間からはっきり顔をだし、ほっとしたようにほほえんで見せた。どこかひよわな稚《おさな》さを感じさせる白い顔だった。
「どうぞおはいりください」
鎖を外す音がして、ドアが大きく引きあけられた。佐伯の前にひらけた内部の様子は、いかにも夢多き乙女の部屋といった、清潔で柔らかい感じに満たされていて、女自身それにふさわしいゆったりした純白の絹の部屋着をまとっていた。白い小さな顔に長く柔らかそうな髪。細くしなやかな腕、指、そして頸《くび》の線。佐伯は壊れやすい人形箱の中へ入って行くような感じで招き入れられた。
「とり散らしておりますが……」
榊原紹子は、どこからどこまできちんと整頓された部屋の中で、恥ずかしそうに言い、臙脂《えんじ》と黒の縞柄の、華奢《きやしや》なソファーをすすめた。佐伯は弱々しい相手に戸惑って、たっぷりと襞《ひだ》をとった薄いレースのカーテンの外を眺めた。
「この辺《あた》りはずいぶん静かな所ですね」
「は……ええ。お紅茶でよろしいですか」
「どうぞお構いなく」
榊原紹子は、淡いベージュのカーペットをしきつめた床に、純白の部屋着の裾を触れさせて、キッチンらしい部屋へ消えた。佐伯は拍子ぬけしたようにそれを見送り、かすかなためいきをつくと、あらためて部屋の中を見まわした。
肉の匂いがしない。
佐伯をなんとなく拍子ぬけさせたのは、そのことだった。意外だったのだ。三笑亭小つぶから紹子の存在を教えられた時、彼はごく当たり前のこととしてそれを感じた。男と女。恋人。肉体関係……。
ところが、榊原紹子という女からは、肉欲の匂いなどまるで漂《ただよ》ってはこない。病身のような、ひよわなあやうい印象だったのだ。佐伯は三笑亭小つぶの言葉が、案外正確だったことを知らされた。
ただ、部屋の中がすべてまっ白だと言っていたが、壁面は白ではなかった。ごく淡いピンクで、こまかい花柄を散らした壁紙が貼ってあった。大ざっぱに白と言えば言えなくもないが、どちらにせよ、きわめて品のいい柄の選び方だった。仕事の関係で幾分インテリアにも目のきく佐伯は、国産ではなく、多分フランスの壁紙だろうと思った。
家具類は、それこそ白一色で統一してあり真鍮《しんちゆう》の金具の細工や塗りの仕上がりから見て、かなりの高級品らしい。
飾り棚に並んだ陶器類も、照明器具も、小机の上の置時計や小さな人形なども、若い女の部屋としては一分の隙《すき》もなく整い、見事に調和していた。佐伯の生活感覚からすれば、どれもこれも華奢《きやしや》すぎて非実用的なものばかりだが、これはこれで素晴らしい部屋だと思わずにはいられなかった。この上につけ加えるとすれば、壁にペイネの絵を飾ることぐらいだ……佐伯はそう思った。
紹子は重そうな銀の盆に紅茶のセットをのせて戻って来た。佐伯は黙って彼女がテーブルの上にそれを並べるのをみつめていた。
よく観察すると、紹子はますます不可解な存在になって行く。彼女がこの部屋のあるじのはずなのに、そうやっていると佐伯にうやうやしくかしずいているように見えて仕方なかった。それは、入社したての女子社員が部長のデスクへお茶を置いて、逃げるように去って行く風情を思わせた。
いつもどこか目に見えない空間にひっそりとひきこもっていて、必要なとき必要なことを最低限に演じて、またすぐその空間へ消えてしまう……そんなような、影のうすい、存在感の希薄な女だった。
「どうぞ……」
紹子は紅茶をすすめた。
「いただきます」
佐伯は見知らぬ少女にままごとの相手をしてやっているような気分で、薄い紅茶のカップをとりあげた。別の皿にしいた紙ナプキンの上に、少女にふさわしい可愛らしいクッキーが幾つか並んでいた。
「笠原さんに聞きました。仲よしだったそうですね」
紹子は恥ずかしそうに言った。佐伯は、自分から話題を出すべきだったと後悔した。自分の沈黙が、彼女に対しては図々しすぎたと思った。
「すてきな部屋ですね。あの壁紙はフランス製じゃありませんか」
「そうだそうです」
「いい柄をお選びになった……」
白く薄い肌に血の色がさしたようだった。
「笠原さんが選んだのです」
「ほう、あいつが……いつからそんなに趣味がよくなったのだろう」
すると紹子は顔をあげ、ムキになったように答えた。
「みんな笠原さんが選んだものばかりです」
「へえ……そうか。それじゃあいつは大したものなんだ」
佐伯はそう言って紅茶をのみほした。紅茶をそんなにうまいと思ったのははじめてだった。それに、彼は自分が紹子をいたわるように言葉の調子を合わせはじめているのを感じていた。
「笠原とは、けんかしたり、遊んだり……あの頃はたのしかったなあ」
紹子はニコリとした。かよわい、どうさからっても相手を傷つけることができそうもない、優しいというには余りにもしとやかな微笑だった。
「お豆腐屋さんだったんですってね」
「そう。あいつの家は豆腐屋……だから朝が早くて、一度も遅刻なんかしなかった」
紹子に合わせた言いかたで昔ばなしをはじめると、佐伯の内部で次第に少年時代の感覚がよみがえって来た。雲を眺めて歌を唄《うた》っているような、おだやかな気分だった。腹の底のほうに、生存競争に耐えるためいつの間にか築きあげた、脂肪質のうす汚れたバリケードがあるように感じられ、それがうとましかった。
「いいな、この部屋は。だんだん好きになる」
「ゆっくりしていらっしゃってください」
「そうもいかないんです。くだらない仕事をかかえていましてね」
紹子はまた微笑した。労をねぎらっているような表情だった。
「笠原に会わなければいけないのです。ところがあいつの居所がつかめない……探しているんですよ」
男女関係を感じさせないように、佐伯はつとめて淡々と言った。しかし、それでもなお、質問は紹子を傷つけたようだった。悲しそうにうつむき、恥をしのぶように答える。
「いずれ来るはずなんですけれど……いえ、もう来なければいけない頃なんですけれど。でも、笠原さんの居所を知らないんです」
「それは困った」
「すみません」
「いや、君に責任はないのだが」
「来たらすぐあなたに連絡するように言います。電話番号を……会社のと、それからおうちのも教えておいてください」
「そうですね」
佐伯は名刺を出し、裏にアパートの電話番号をメモして渡した。紹子はそれを貴重品のように眺め、
「来ていただいて、とても嬉しいんです」
と言った。
「実はね、僕は君があいつの奥さんになる人だと思っていたんですよ。だから、ひょっとするとここに住んでるんじゃないかと思ってしまったんです」
佐伯が詫びるように言うと、紹子はかよわいなりに毅然とした態度で首を横に振った。
「当然ですわ。笠原さんと婚約しているのですもの。それでなかったら、こんなお部屋に住みはしません。みんな笠原さんが揃えてくれたんです。家具も絨緞もカーテンも、何から何までです」
「なんだ、そうか。笠原の奴、すてきな嫁さんをみつけたもんだな」
佐伯は笑った。そして、旧友の心理が自分の心にじかに触れて来るように感じた。笠原は愛しているに違いない。兄か父のような寛大な愛情さえ持って、笠原はこの女性を優しくつつみこんでいるに違いない。紹子になら、自分もそうするにきまっていると思った。庇護《ひご》していつくしみ、外ではそのために懸命にたたかうに違いない。この類《たぐい》まれな楚々《そそ》とした、かぼそい美しさは、男をそのような人間にさせる力を持っている。たくましく生きる女も美しい。逆に男をつつみこむ大きな女も美しい。賢い女も、それはそれで愛すればみな美しいに違いない。だが、美しさそのものを保護しなければならない気持に駆りたてる、かよわく、名もない草花のような女こそ、男にとって最も愛し甲斐のある女ではなかろうか。
「でも、どうして笠原は君に自分の居場所を教えないんだろう」
「宿なし……なんだそうです。お仕事でほうぼうとび歩いて、一個所に住むところをきめていられないんです。でも、もうすぐそれが終わると言ってました。笠原さん、そうしたら私と結婚するんです。それまでここで待っていろって……だから私、待っているのです。でも今度は少し長すぎるようです」
紹子はそう言って悲しげに顔をそむけた。
「僕はちょうどいい所へ来たようだ。急用があって僕もあいつを探しているんですから、みつけたら君が待っていると伝えましょう」
「それじゃ、ここの電話番号を佐伯さんに」
紹子は急いで椅子を離れ、部屋の隅の小さな机へ行ってペンを走らせた。机の上には飾り物の鵞《が》ペンが立ててあり、キューピットの形をしたブックエンドに、二冊の赤い表紙の本がはさまれている。その横に、青磁の細長い一輪ざしがあって、細い茎の上に、濃い紫色の小さな花が鈴蘭のようにうなだれて咲いていた。
佐伯はその花を眺めながら思った。放ってはおけない。万一笠原がこのまま姿を現わさなかったら、彼女は死んでしまうかもしれない。待って待って待ち抜いて、この、少女の夢のような部屋から一歩も出ずに、嘆き死んでしまうかもしれない。
「ではお願いします」
紹子は電話番号を書いたメモを佐伯に渡した。佐伯は感傷的な、甘酸っぱい想像の世界から立ち戻り、自分自身に少し照れて意味もなく微笑した。
「綺麗な花ですね。白い家具の部屋に小さな紫色の花……あの花は君によく似ている」
紹子は、あら、と笑い、
「あれは百合ですのよ」
と答えて机から両手で細長い花瓶を捧げるように運んで来た。
「笠原さんはこのムラサキイトユリが大好きなんです。この部屋へ来るたび、おみやげに持って来てくれるんです。農林省にいたとき、笠原さんがこの花を作り出したのだそうです。だからどこにも売っていません。とても珍しい花なんです」
「ムラサキイトユリ……」
顔を寄せて匂いを嗅いだ佐伯は、そう言って目をあげた。
農林省……新種の植物……漢方薬。佐伯はその小さな百合の花の向こうに、寒川正信に通じるひと筋の道を見たように思った。
5 新薬情報
佐伯は榊原紹子の部屋で、寒川正信に通じるひと筋の道を発見すると、今までのことを洗いざらいぶち撒《ま》けて、紹子の協力を求めた。紹子は檜前《ひのくま》善五郎が射殺されたことを知ると怯《おび》えて蒼《あお》ざめ、一途《いちず》に笹原隆志の身を案じはじめた。
「新聞も、とってはいますが余りよく読みませんし、テレビも好きじゃないんです」
紹子は、檜前老人の件を知らずにいたことを、消え入りそうな態度で弁解した。そして慌《あわて》て古新聞をとりに行き、記事を読み直していっそう怯えたようだった。
「どうしましょう……」
すがりつくような眸《め》で言われ、佐伯は自分の仕事のためばかりではなく、この生きていることすら頼りなげな紹子のためにも、できるだけのことをしたいと思った。
佐伯は紹子をはげまし、勇気づけ、手がかりになりそうなことを、根掘り葉掘り聞きだした。
紹子は悲しげな表情だったが、それでも今は頼れるのは佐伯ひとりと判って無用なはじらいを棄て、素直に答えた。
榊原紹子は、江戸川の小松川橋に近い場所で生まれ育った。
父親は付近の染色工場の社員、というよりは職人と言ったほうが正確なような、ごくごく平凡な人物らしかった。
紹子はその二度目の妻の子として生まれている。先妻との間に七つ年上の兄がいて、その兄はやがてひどいグレかたをした。そのために、紹子の家庭の記憶は、暗いものばかりだった。
貧しく狭い家で、母親はいつも革製品の内職をしていたという。内職と言っても、ほとんど本職に近く、紹子も学校から帰ると、よく革紐を穴に通したり、ハトメの金具を打ったりして手伝った。
貧しくとも働き者の一家ではあったらしい。紹子は四畳半に二段べッドと机を置いた狭くるしい部屋で兄と寝起きし、両親はうず高く内職の材料を積みあげた六畳に床をしいて寝て、食事はほとんど台所でした。それだけのふた間の家で、表へ出ると似たような家がずらりと軒を並べている路地の奥だった。
それでも紹子は高校に通い、卒業する頃、兄の非行も納《おさ》まった。兄は本気でつき合う恋人ができ、近くのメッキ工場に就職したのだ。
卒業すると紹子も仕事についた。仕事は霞ガ関の農林省にある売店の店員だった。そして次の冬、母が死んだ。先妻の子の非行に泣かされ、働きずめに働いた女の生涯が終わったのだ。そしてそれは、彼女の娘が安住の地を失う時でもあった。
非行から立ちなおった兄には、結婚の機が熟していた。父親はそれを逸《いつ》してふたたび息子が非行にはしるのをおそれ、結婚をすすめた。息子は前非《ぜんぴ》を悔いて父に孝養を尽すことを誓い、継母の墓前へ妻となる女とぬかずいて、涙して詫びた。
紹子はそうした一家の成りゆきを、心から祝った。平和が戻り、幸福が来るようだった。
しかし、四畳半の二段べッドはとり払われ、父親の荷物がそこへ入れられた。兄が両親のいた六畳に移り、はなやいだ新婚の家具が、ひとつ、ふたつと運びこまれた。
そうした家で、紹子はしばらく居候《いそうろう》のように過ごし、やがてわずかな世帯道具とともに、池袋の安アパートに移ったのだ。
その部屋は三畳だった。洗面台のような小さな流しと、ガスのコンロがひとつあった。二段ベッドの上半分を鋸《のこ》で切り外《はず》したベッドを置き、夜は巨《おお》きな鼠の出現に怯えた。やがてそれにも慣れ、鼠に名前をつけたりした。
農林省の売店で働き、ひとりぼっちの暮らしが続いた。無口で目立たず、生きて行くためにはあたりの風物に溶け込んで、人の邪魔にならないことだと信じ込み、必死に孤独を守ったのだった。佐伯が最初目に見えない空間にとじこもっているようだと感じたのは、そういう紹子の保身法から来る印象だったに違いない。
誰もそういう紹子に気づかなかっただろう。年頃の娘として紹子を発見する男は、ひとりもなかったはずだ。とじこもって隠れつづける紹子は、売店にあっては売子、電車の中では乗客、路上では通行人のひとりといった、没個性の技術を身につけてしまったのだ。
だが、その不可視の殻《から》を見破る男が現われた。農林省の研究職員で、ときどき何かの用で本省へやって来る笠原隆志だった。笠原は紹子の類《たぐい》まれな美しさを発見した最初の男だった。いや、紹子のような女に美を感じる、数少ない男の一人だったのかもしれない。
笠原は夢中になって紹子を保護しようとしたのだ。はじめの内、紹子はかたくなに笠原を避けた。不可視の殻を破られて、恐れおののいたのだ。しかし、やがて笠原の誠意が理解でき、世の中にはすがるべき相手があったのだと、はじめて青空を見たように感じたという。
「……他人の厄介になってはいけないなんて、そんなおこがましい考え方ではありませんでした。生まれてからずっと、私は見て来たのです。父も兄も母も、生きているのが痛くて苦しくて、自分ひとりを生かして行くことが、やっとだったのです。兄が不良になって行くのを、父も母もどうしようもなく眺めているだけでした。残業で疲れた父、内職でへとへとになっている母……それでも、みんな働きつづけたのです。おなかがすいたって、何か着るものが欲しくたって、父や母がゆとりを取り戻して気がついてくれるまで、私は言ってはいけなかったのです。何かしてもらいたいことがあるのを、父や母に知らせてはいけなかったのです。だから、人を頼るなんて、頼られて喜ぶ人がいるなんて、信じられませんでした」
それがいたのだ。命がけででも紹子をかばい、与え、紹子が満ちたりるのを無上の喜びとする男がいたのだ。
一枚の緑色のスカーフが、はじめて紹子にそれを理解させた。笠原からの、その最初の贈り物を受けとって、紹子が嬉しそうに笑ったとき、笠原は手ばなしでその何倍もの喜びようを示した。
あとになって紹子はそれが安物ではなく、高価な外国製の品だと知り、そのことを笠原に言うと、こと紹子に対しては、自分にできる最高のことをしたいのだと答え、それでなければ意味がないのだと笑った。
一年ほどして笠原は急に農林省の研究職員をやめた。二人は婚約し、やがて笠原に説得されて、紹子はこのマンションへ移った。それ以来、美しい家具にかこまれた夢のような世界で、紹子はひたすら待っている。笠原のいう「今の仕事」が終わって、彼の妻になる日を。
プラトニック・ラブだ。
佐伯は笠原の姿を思い泛《うか》べながら、そう確信した。笠原さん、という紹子の言い方、男物がひとつもない部屋の様子、雰囲気。いや、それにもまして、紹子の稚《おさな》さを留めた躯《からだ》つきは、まぎれもなく処女のものだと思った。そして笠原の気持がよく判った。
紹子のかよわさは、男の欲望の中から精神的なものを洗い出すはたらきがあるようだった。そして昔の笠原には、たしかにロマンチックな性向があったように思えた。
三笑亭小つぶには、紹子のあの美しさはとうてい理解できまい。そして笠原の気持が判り、紹子を美しいと感ずる自分も、幾分ロマンチストなのだろうと思ったりした。
が、それにしても、いったい笠原は紹子にあれほどのことをしてやるだけの金を、どこから稼ぎだしたのだろう。しかも、あのマンションの権利を、笠原は榊原紹子の名義にしているというではないか。いずれは夫婦になるつもりなのに、果たしてそこまで考える必要があるだろうか。結婚しないつもりでいるのなら、紹子のさきざきを考えてそのような処置をとることも考えられるが……。
佐伯は帰りのタクシーの中でそう思った。
どちらにせよ、笠原が農林省で新種の植物を作りだすような研究員だったことが判ったのは収穫だった。漢方薬と新種の植物と来れば、どうやら寒川正信がからんでいる理由も理解できる。
そうだとすると、かなり強力な薬に違いない。効力というよりは、製薬会社の収益の点で、相当以上に重大な新薬なのだろう。何しろ殺人まで起こるほどなのだ。製薬業界の業界誌にでも探りを入れたら、案外その辺からネタが割れるかも知れない。笠原への手がかりは切れてしまったが、寒川正信や相模製薬の周辺を洗っていれば、いずれひょっこり姿を見せてくれるはずだ。それまでは、笠原のかわりにあの紹子を支えていてやらなくてはなるまい。
車は渋谷へ向かって世田谷通りを走っている。もう社へ帰る時間はとうに過ぎていて、佐伯はまたドンへ寄るつもりだった。心の底に榊原紹子のような女を所有している笠原を羨《うらや》む気持が湧いて、なんとなく人恋しかったのだ。
車を降りた佐伯は歩道橋を渡り、坂を登って左へ折れ、ドンの扉を押した。
混んでいた。煙草のけむりで店の中が霞んで見えるほどだった。入口から縦に伸びたカウンターに、男の頭が並んでいる。手前にいた姉のほうは佐伯がドアをあけたのも気づかずにカウンターの中でうつむいており、奥にいる妹のほうが、手をあげて甲高い声をだした。
「佐伯さん。こっち、こっち」
顎でいちばん奥のあたりを示している。佐伯はドアの前で体を斜めにし、並んだ客の背中ごしにそのほうを見た。
「あ、来た来た……」
デザイナーの吉岡だった。
「なんだ」
ドアをあけたとたん、席がないなら帰ろうと思っていた佐伯は、思わず相好《そうごう》を崩して店の奥へ入った。
「なんだ、専務まで……」
佐伯のチームの主力デザイナー三人が並んでいるあいだに、専務の島村の笑顔があった。
「満員だな。佐伯の坐る所がない」
島村は入口のほうを背のびするように眺めて言った。
「チーフ、ここへ……」
度の強い眼鏡をかけた淵上《ふちがみ》というデザイナーが、島村の隣のスツールから降りて言う。
「お前はどうする」
空《あ》けてくれたスツールに尻をのせながら佐伯は淵上の顔を見た。淵上はグラスを手に、佐伯の肩に手をあててカウンターへ押しつけるようにした。
「いいですよ。立ってますから」
「ちょっと待ってね、いま椅子を出すから」
妹のほうが素早くカウンターをくぐって外へ出てくると、突き当たりのトイレのドアの脇のカーテンの中から、腰の高いスツールをころがして来た。
「気をつけてね。この椅子ちょっと具合が悪いんだから」
姉のほうは入口の客に、少しつめてくれるように頼んでいる。
店中が一斉にゴトゴト動きだした感じで、それが納まるのに二、三分かかった。
「こんなにお客さまが押しかけて来てくれるほどのお店じゃないんですけどねえ」
姉は島村へ詫びるような声をかけた。島村は、ドンははじめてだった。そして、姉が気にするように、どう見てもこの店にはそぐわない客だ。島村はやはりクラブのタイプだ……佐伯はそんなことを考えながら、自分の水割りを作っている女の手もとを眺めていた。
「用事は終わったのか」
島村が言った。機嫌よくはしているが、明らかに少々無理をして若いデザイナーたちの相手をしている感じだった。
「なんでまたドンなんかへ」
「久しぶりにみんなと一杯やるかと言ったら、まずここへ来ようということになったのさ」
島村が答え、吉岡が続けた。
「ここへ来ればいるかもしれないと思ったんですよ。佐伯さんがいなければ面白くないですからね」
「この野郎、俺じゃ不足だって言うのか」
島村は人差指で、左隣の吉岡の額をこづいた。
「専務と一緒じゃ肩が凝《こ》って……」
「何をいまさら」
島村はおかしそうに声をあげて笑った。ここに並んだ五人は、一緒に前の会社から東《あずま》エージェンシーへ移った仲間だった。
「でもね、前の会社で部長だったのが今度は専務でしょ。佐伯さんだって課長になった。ところが俺たちはずうっと平社員……」
吉岡が冗談半分に言うと、島村は急に生真面目《きまじめ》な表情になり、
「本当にご苦労だったな。でもこれからは違うぞ。今度は君たちの番だ。そのうち、うんといい仕事をやらせてやるから」
佐伯は首をすくめた。相模製薬の件で、島村までが張り切りだしたと思ったからだ。
「それにしてもあの社長には参るな。毎度のことながら、どうしてああずっこけるんだろうなあ」
島村は愚痴を言いはじめた。佐伯は冗談まじりのぼやきを聞きながら、水割りを呷《あお》った。
榊原紹子のところへも東《あずま》エージェンシーにも、笠原隆志からの連絡は依然として入らなかった。
佐伯はもどかしい思いで日を送っている。すべてが急に渋滞しはじめたようなのだ。試作を提出してある相模製薬の宣伝部も、出させる時はやかましく言っていたくせに、ぴたりと静まり返ってまったく反応がない。急ぐからお前にまかせるのだということだったテレビ・コマーシャルの件も、いっこうに急ぐ気配がない。鷲プロはお義理のように一度打合わせを求めて来たが、それにしたところで昼食会のような具合で、熱の入らないことおびただしかった。
そんな中で、佐伯はできるだけ動いてはいる。三笑亭小つぶを使って、檜前《ひのくま》家の葬式からそのあとの相続問題など、逐一《ちくいち》情報は得ているが、特許とか専売とかいう権利問題はどこをつついても出て来ないらしい。ということは、相模製薬との間に何らの契約関係も生じていなかったということになりそうだ。
おまけに、檜前《ひのくま》家の関係者の間では、笠原隆志はまるで殺害犯人ででもあるかのように悪く言われている。警察の取調べが終わって以後、ふっつりと姿を見せないからだ。大学まで出してもらった甥が、その後も叔父を引きまわして食いものにし、挙句《あげく》の果てに殺されるような目にあわせてしまった、というわけだ。
それでは顔もだせまい、というのはまだおだやかなほうで、中には笠原が犯人を知っているのではないかとか、犯人とぐるらしいとか言う親類まで出る始末だ。
何しろ旧家で、親類縁者はことのほか多いらしい。死んだ檜前《ひのくま》善五郎は偏窟者《へんくつもの》だったから、彼らに財産その他内情を知らせることをまったくせず、おまけに死ぬ直前はひどく金づかいが荒らかったので、笠原が相当吸いとっていたと思うらしいのだ。ということは、檜前《ひのくま》家の遺産が、蓋《ふた》をあけてみたら案外貧弱だったということになりそうだ。
一方、二、三の業界誌に探りを入れてみると、相模製薬の新薬はたしかに存在しているようだった。しかし、さらに突っ込んで様子を聞いてみると、どの会社にも常時そんな噂がある状態で、その中から本当にモノになるのを嗅ぎわけるのが、業界誌の腕のみせどころということになるのだそうだった。
佐伯は最も信用の置けそうなひとりに、ポケットマネーをはたいて情報料を渡し、漢方系の新薬はどうだと訊ねた。相手は首を傾《かし》げて今のところ聞かないようだと答え、よく調べてみると約束した。
まる二十四時間後、その相手から連絡があり、現在はないが、つい最近手を引いた……つまり失敗したのならあると報告した。
それは肥る薬だということだった。処方その他、内容は不明だが、こう痩《や》せてスマートになりたい人間が多い時代に、肥る薬というのは、たとえ効果がたしかでも、そう高収益をあげられる種類の商品ではないだろうと言って笑った。
「広告屋さんのことだから、いずれ宣伝予算の奪《と》りっこでしょうが、素人があまり私らの守備範囲に手をだしても効果ないですよ」
業界誌の男は、情報料が無駄になった手前もあって、親切顔でそう忠告した。
「こういうことはむずかしいんですよ。仮に今あんたがあてにしている情報が手に入ったとしても、そのあとが大変なんです。その新薬情報を掴むと、素人はすぐ勝負に出てしまうんですが、どっこいどうして、そういうのがモノになるかならないかは、市場に出してみないと判らないんですよ。癌《がん》の特効薬とでも言うんだったら話は別ですがね。……それに、今の相模さんは玄人《くろうと》の私らでさえ見当がつけにくいんです。何しろ会長と社長がゴタついていますからねえ」
佐伯は緊張して訊ねた。
「どうして……そいつを教えてもらいたいなあ」
「そんなもの、私らの所じゃ秘密でもなんでもありませんよ。寒川って前の社長が一度追いだされたんだけれど、どうしてしぶとい人でしてね。返り咲こうというんで、だいぶ前から大変なさわぎなんです」
「ある筋から、今の二代目社長はほとんど実権がなく、寒川会長さえ口説けばたいていのことはなんとかなると聞いたのだが……」
相手は驚いてみせた。
「そいつはいい耳だ。最新情報ですよ。お家騒動ってのはデマばかりとんで厄介《やつかい》なんですが、その情報は保証します。会長が逆転に成功したらしいって言うのは、まだ私らのところが掴んでるぐらいなもんでしょう。一時はその逆だったですからね。よほどの切り札があったんでしょうな」
「それが新薬ということは考えられないかなあ」
未練がましく佐伯が言うと、男は急に黙りこんだ。しばらく考え、顔をあげた時は、かなりやくざめいた薄笑いをしていた。
「恐れ入りましたね。素人と言ったのは取り消します。いい線ですよ。どでかいネタが会社にはなくても、会長のところにはあるかもしれない。……そうか。だから引っくり返ったのか。いや、ありそうな話だ」
おわりのほうは自分に言い聞かせるようだった。
その高浜という業界誌の男と別れたあと、佐伯は焦燥感に駆りたてられて、直接相模製薬の宣伝部へ顔をだしてみた。鷲プロとのことに秘書課がのりだして以来、彼は遠慮して一度も行っていなかったのだ。
行ってみると、宣伝部はいやにのんびりムードだった。課長はじめ主だった連中はみな席を外しており、今野だけが所在なげに煙草をふかしていた。
「どうしたんだ。がらあきじゃないか」
近くに誰もいないので、佐伯は外で会う時の喋り方になった。今野はいわば佐伯に使われるスパイで、社外では佐伯のほうが上の関係だった。
「課長はこれらしいです」
今野は両手でゴルフ・クラブを握る真似をしてみせた。
「おかしいね」
佐伯は不服顔で言った。
「本当なら、火がついたようになってる時期じゃないか」
相模製薬に限らず、各社とも広告計画の編成がえをする時期にさしかかっているのだ。
「ええ。僕にもよく判らないんですが、急に風が止まってしまったような具合で……」
今野は頼りない返事をした。佐伯は苦い顔で立ったままあたりのデスクを眺めていた。
佐伯は日に一度、必ず榊原紹子に電話をかけていた。電話をする時間は、一応退社時間ということになっている午後五時三十分だった。
時間をきめておかないと、紹子が買物などで外出するのに不便だと思ったからだ。電話のベルが鳴るのを待って、一日中家にこもっている紹子を思うと、佐伯は胸がしめつけられるようだった。
それ以外の時間でも、手があくと紹子に電話をしたくなるのだが、笠原の消息が知れたかと期待に胸おどらせて受話器をとる紹子を想像すると、つい我慢してしまうのだった。
ところが、その紹子から逆に電話がかかって来た。
何気なく取った受話器の奥から、
「榊原でございますが……」
というかぼそい声が聞こえたとき、佐伯は我にもなく胸を高鳴らせた。
「佐伯です。連絡があったの……」
思わずそう言った。
「いいえ」
紹子は案外冷静な声で答えている。
「笠原さんをたずねて、お客さまが見えているんです」
傍にその人物がいるらしかった。
「誰です」
「埼玉県の不動産屋さんで、茂呂《もろ》さんという方です」
「埼玉県の不動産屋……」
「ええ。笠原さんが土地をお買いになるために、手付金をお払いになって、そのままになってしまったのだそうです。どうしたらいいでしょうか」
「どうしてそれが君の所へ来たんだろう」
「それが、今見せていただいたんですが、手付金の時の書類が私の名前になっているんです。笠原さんは、私の代理人だという風におっしゃっていたそうなんです」
「つまり、君の名義で土地を買おうとしてたわけなんだな。……会いたいな、その不動産屋に」
声が遠くなり、紹子はその客と話しはじめたらしい。すぐ声が戻り、
「そちらへいらっしゃるそうです」
と答えた。
「君も一緒に来ないかい」
「はあ……」
「うちにばかりとじこもってちゃ体に毒だよ。出ていらっしゃい」
「ええ、でも」
紹子は渋っている。
「留守のあいだの電話が心配なんだね」
「はい」
無理|強《じ》いはできなかった。
「それじゃ、その人にこっちへ来てもらって、その結果をあとで報告しよう」
「電話ではなんですから、来ていただけるといいんですけど」
「そう……それじゃ会社が終わったらお邪魔しよう」
「お待ちしています」
紹子はほっとしたような言い方をした。
淋しかったのだ。無理もない……佐伯は電話を切ったあと、疲れたように椅子の背にもたれ、あらためて紹子の立場を考えてみた。
もちろん、まず第一に笠原の身を案じて死ぬほど心配しているに違いない。だがそれだけではないはずだ。笠原が自分に飽きて見棄ててしまったのではないかと、不吉な想像に怯《おび》えているかもしれない。たしかにその考え方は、笠原が病気や怪我で連絡不能に陥っているのより、紹子にとっていっそう不吉であるに違いない。
あれこれ考え抜き、堂々めぐりをしながら、幾日も幾日も電話器をみつめつづけていた紹子を考えると、なぜもっと早く訪ねてやる気になれなかったかと、自分の迂闊《うかつ》さがくやまれて仕方なかった。
佐伯は、笠原が紹子を棄てたりしたのではないと確信している。何かにまきこまれたのだ。窮地に陥っているのか、それとも今の自分のようにここ一番の勝負をかけ、何事かに忙殺されているのか、そこまではよく判らないが、紹子という女は自分や笠原のような人間にとって、そう軽がるしく抛《ほう》り出せる女ではないと思った。
安心させてやりたい。信じさせてやりたい。……異常な事態には違いないが、少なくとも紹子が笠原に棄てられたのでないことだけは、信じさせてやりたかった。佐伯は立ちあがり、いらいらと歩きまわりはじめた。
6 闘 志
「こうややこしくてはかないませんな」
不動産屋はそう言いながら腰をおろした。地下の喫茶店だった。
年輩は五十五、六か。赫《あか》ら顔の、強情そうな顔つきの男だった。渡された名刺を見ると、埼玉県|児玉《こだま》郡児玉町……有限会社茂呂商事社長茂呂儀平とあった。
「児玉町といいますと、どの辺りでしょう」
「寄居《よりい》からふた駅さきですよ」
「寄居……ああ、八高《はちこう》線ですね」
そこは埼玉県の北西部、群馬との県|境《ざか》いに近いはずだった。八王子と高崎の間を走る国鉄|八高《はちこう》線の沿線だ。
「笠原が手付金を払ったというのは、いつごろのことでしょう」
すると茂呂は鞄から、簡単な書類やら地図やらをひとまとめにとりだし、黙って佐伯に渡すと、自分はコーヒーをのみはじめた。
手付金が入った日付は、檜前《ひのくま》善五郎が射殺された日の二日ほど前になっている。
「農地か……転用許可をとるつもりだったのかな」
佐伯はつぶやくように、地図を見ながら言った。
「いや、違いますね。そのまま畑に使うということでした」
「畑……」
佐伯は青い複写の地図をみつめながら唸った。
「寄居《よりい》や児玉町ならとにかく、その辺りはもう神川《かみかわ》村でしてな。そう派手に物件の動く土地柄ではないのです。おまけに農地ときては、まだ手放す者もほとんどありません。だいぶ以前から笠原さんに頼まれていまして、やっと地主を口説き落として承知させたんですが、笠原さんはそれきりになるわ、肝心の買手だという人のところへ行ってみればあのとおりの娘さんでしょう。今まで苦労した私の身にもなってくださいよ」
佐伯は相手の顔を眺め、間口一間ほどのガラス戸にベタベタと貼紙をした、小さな不動産屋の店を想像していた。
「笠原は僕らも探している最中なんです。近い内に姿を見せてくれるとは思いますが」
茂呂という不動産屋は眉を寄せて低い声で言った。
「あのお金持ちの娘さんの後見人か何かで……」
持ち逃げとか、そういった不正な事件を想像したらしい。
「いや、彼女は笠原の婚約者です」
すると茂呂はほっとしたような笑顔を見せ、
「それならいいんですが」
と言った。
「放っておくと手付金が流れてしまいますね」
「それなんです。流れても売手のほうは少しも困らんのですよ。渋々承知したんですから、かえって喜ぶでしょう。儲けたと言って触れて歩くでしょう。だがわたしのほうは商売になりません。口さがない土地ですし、わたしの信用も落ちる……」
「しかし、手付金が流れてしまうまでにはまだ少し日がありますね。どうと言ってお約束はできませんが、もう少し待ってみてください。そういうやりかけの仕事があるのなら、きっと明日にでも連絡がとれるでしょう。こちらで先に連絡がとれれば、もちろんあなたが見えたことは言いますが、万一そちらが先になった場合には、僕らが探しているからと伝えてください」
茂呂はうなずいて書類を鞄へしまった。
「しかし、あの辺りには住む気もないようなのに、畑など買ってどうする気なんですかね。笠原さんは何も教えてくれんのですが、あなたご存知ないですか」
茂呂は粘っこい目つきで言う。佐伯はそんな相手に嫌悪感を持った。
「見当はつきますが、ちょっと口外しかねますね」
わざと意地悪く答える。すると茂呂は、佐伯の手の内に何もないのを見すかしたように、ニヤリとして立ちあがった。
「どうも東京はわたしの性《しよう》に合いませんわい。車は多いしやかましいし、空気は汚いし……今日はどうやら無駄足だったようですが、笠原さんが現われたらよろしく願いますよ」
「承知しました」
伝票を手に茂呂のあとについてレジへむかい、そこで相手を見送った佐伯は、ふと父親が死んだ時のことを思いだしていた。証券会社のちょっとした地位にいた父親は、ある日脳溢血で呆気《あつけ》なく死んだが、葬式のあと何ヶ月たっても、いろいろな問題が出て来るので驚かされたものだった。一人の人間が急に姿を消すと、その手で進行されるはずだった数多くの事柄がそのまま放置され、時の経過とともに不自然なものとなって浮かびあがって来るのだ。
吸いさしの煙草、書きかけのメモ……そういった身ぢかなことから、呼んであった人、借りていた金、すませてあった仕事の報酬。それらのひとつひとつが時限装置つきのように、一定の時間が来ると残された人々の前へ次から次へと姿を現わすのだった。
笠原は死んだのではあるまいか。佐伯の心をふとそんな疑いがかすめた。欲のかたまりのようなあの田舎の不動産屋は、死んだ佐伯の父に貸しがあると言ってあらわれた男たちに似ていた。
いったいどこにいるのだ。早く出てこい。……佐伯は笠原の姿を思い泛《うか》べながら、いらだたしく部屋へ戻った。
五時少し前、佐伯は早めに社を出た。豪徳寺の紹子のところへ、手ぶらで行く気はまるでなかった。というより、土産《みやげ》を持って行って紹子をよろこばせることが、今宵の訪問の第一の目的だった。
よく泡のたつフランス製の浴剤の小瓶。スイス製の美しい箱に入ったチョコレート・キャンデー。引っくり返した回数がひと目でわかるキッチン用の砂時計。商売柄、佐伯は若い女性むけの商品についても充分に知識があった。
佐伯はサラリーマンの引き汐《しお》にのって、都心から渋谷へ、渋谷から世田谷へ、いそいそと向かっている。そんな早い時間に退社したことなど久しぶりで、それだけに新鮮で甘ったるい気分だった。
紹子のいるマンションの白壁に夕陽が映《は》えて美しかった。小さな名札の下のボタンを押すと、呼吸ひとつくらいですぐドアがあいた。
「どうぞ」
紹子はかすかに上気した顔で言った。
「早すぎたかな」
佐伯はおどけ気味に笑った。ほのかに料理の匂いがただよっていた。
「うまそうな匂いがする」
「用意していたんです。食事していただけますわね」
「そのつもりで腹をすかせてある……」
佐伯はまた笑い、紙袋から土産の品をとりだして、テーブルの上に並べた。
「まあすてき」
紹子がいちばんさきに手にとったのは砂時計だった。ピエロがふたり、互いに爪先を支え合って環《わ》を作り、その中に三分計の砂瓶《すなびん》が入っている。
「デンマーク製でしょ。雑誌で見たんですけど、どこに売っているか判らなかったんです。私、お料理だけは自信があるんです。とても好きなんです。キッチンを見てください」
紹子は佐伯をキッチンへつれて行った。小型ぞろいだが、本物のレストランばりに何でも道具が揃っていた。
紹子のようなタイプの女が自慢することは、ひどく他愛のないことか、さもなければずば抜けて水準をこえたことか、どちらかであるようだ。
紹子の料理の場合、後者だった。オードブルからデザートまで、完璧なフランス料理が食卓に現われた。笠原が彼女の趣味を十二分に満してやっていたことは、グラスや皿、ナイフ、フォークのたぐいをひと目見れば判った。そして紹子の腕前は、充分それに価した。
「実は、この前の紅茶、生まれてはじめてあんな旨《うま》いのを飲んだ。……体の調子か何かで旨く感じたのだと思っていたんだが、どうも君の技術《うで》のせいらしいな」
食事の途中で佐伯はそう褒《ほ》めた。食い道楽には縁遠い佐伯だが、紹子の料理の腕が並々でないことはよく判った。
紹子は料理のことになると人が変わったように明るく、そして多弁になった。あれこれ味や調理法のことに話が咲き、佐伯はいつの間にか極上のブランデーをついだチューリップ・グラスを手に、華奢《きやしや》なソファーへ移っていた。
本物の料理上手はあとかたづけもみごとだという。紹子はまさにそれだった。皿数《さらかず》の多いフランス風のディナーのあとが苦もなくとりかたづけられて、テーブルセンターの上には赤いカーネーションの一輪ざしがのっていた。
「このあいだの紫色の百合は、もう枯れてしまったの」
佐伯はキッチンにいる紹子に声をかけた。
「ええ、あの花は何日も保《も》たないんです」
「あの紫の百合のことだがね」
紹子はエプロンを外し、パンタロンと同じ淡いブルーのブラウスの大きな襟のあたりをいじりながら佐伯の前へ坐った。
「ムラサキイトユリ……」
紹子は教えこむように微笑して言った。
「うん。ムラサキイトユリのことについて、あいつは何か君に教えなかったかい」
「別になにも……あの花がどうかしたんですか」
「笠原は、農林省時代にその珍らしい植物を、交配で作りだしたそうだね」
「ええ、そう言っていました」
「僕は植物のことはよく知らないが、百合というのは球根になっていて食べられるはずだったね」
「種類によると思いますけど、百合はたべられます。百合のお料理というのが、どの本だったかに写真入りで説明してあります。お見せしましょうか」
「いや、いいんだ」
佐伯は立ちあがりかける紹子を制した。
「薬としても用いられるだろう。知っている……」
紹子はかぶりを振った。
「漢方で使っていると思うんだよ。漢方薬にあるはずなんだ」
紹子は、それで、というような眼《め》をした。
「あいつの叔父さんは有名な漢方薬屋さんだった」
紹子の小さな唇が、アッ、という声の形になった。
「あいつが急に農林省をやめたのは、ムラサキイトユリを作りだしたからじゃないのかな。あいつはそれが大金になることが判っていた。役所をやめて、そっちのほうの仕事に一生懸命になった。そう考えられないかね」
「わかりません」
紹子は熱心に考えはじめたようだった。精一杯むずかしい表情をして首を傾《かし》げている。それが佐伯にはこの上もなく可憐に見えた。
佐伯にみつめられているのに気がついて、紹子は恥かしそうな笑顔になった。
「お仕事のことは何も喋らないんです」
「そうだろうな。しかし僕にはなんとなくそんな気がするんだよ。仮りに僕が笠原だとしたって、自分の作りだした新種の植物が貴重な成分を含んでいると知ったら、ばかばかしくて安月給の役所づとめなんかしていられないだろうな」
紹子はあいまいな微笑で佐伯をみつめている。佐伯はその頼りない微笑に戸惑ってしまった。このさき彼は、漢方薬屋の叔父が笠原の学資を出していたのだから、ひょっとするとはじめからムラサキイトユリを作る目的で農林省の研究職員になったのでは、と言おうとしているのだ。しかし、その言葉を口からだすことは、紹子にも世間の生臭い風をあびせることになる。
結局、佐伯は言わなかった。
「あいつは埼玉の畑を買いかけている。ムラサキイトユリを作るつもりじゃないかな」
「そうかもしれませんね。珍しいお花ですし、とても綺麗ですから、たくさん花屋さんに置けば、どんどん売れるでしょうね」
言わなくてよかったと、佐伯はひそかにためいきをついた。そして、まっ白な花屋で紫色の花を売っている、紹子と笠原の姿を想像した。
乳白色のアクリル板でライトを透過し、半逆光でソフト・フォーカスの、滲《にじ》んだような画面にしてやる。紹子の透けるような肌色の指にムラサキイトユリが……。
「何を考えていらっしゃるんですか」
紹子の声で我に返った。
「そうだね。君は花屋さんをやればいい。君の店だけにしか、ムラサキイトユリは売っていないんだ。そうすればみんなが買いに行く」
「でも、あの花|保《も》たないから損をしますわ。赤字になっちゃいます」
紹子は笑った。
赤字になってもいい。笠原はよろこんでそれを埋めるだろう。ムラサキイトユリと紹子のイメージが重なり、同時に佐伯は笠原と自分を混同していた。
あくる朝、佐伯は自分の部屋で目覚めるとすぐ、
「こん畜生……」
と言ってはねおき、べッドにパジャマの上着を叩きつけて顔を洗いに行った。
それは呪《のろ》いのことばではなかった。闘志の表現だった。敗けてはいられない。情勢が煮え切らないなら、こっちから出て行ってはっきりさせてやる。そう決意し、猛然とこの一日に立ち向かうかけ声だったのだ。
紹子の面影《おもかげ》が目の前にちらちらした。彼女が、かぼそく、ひよわであればあるほど、佐伯の雄々《おお》しさがますようだった。
それっ……というような勢いでアパートをとびだし、会社へつくとはやばやと車の手配をすませた。相模製薬の今野に電話をかけ、寒川正信の自邸の場所を教えさせた。地図をだして見当をつけ、十時になると出発した。
厚木市まで、道路は佐伯の闘志に迎合するように渋滞ひとつなく、車は明るい空の下を快適に走った。
寒川正信の邸は厚木市の南のはずれの小高い丘にあり、まわりの人家を徳川のむかしに復元すれば、ちょっとした館《やかた》のように見えなくもない。
舗装した自家用の道を一気に登って、車は寒川家の門の中へのり入れた。黒塗りのクライスラーが停まっていて、見覚えのある運転手が窓を拭いているところだった。
佐伯は寒川が在宅かどうかもたしかめないで来た。礼を失しないように、小心な手続きをとっていれば、会うのに何日もかかったかもしれない。……佐伯はそう思うと、果敢《かかん》な今朝の一連の行動が、いい結果をもたらしそうな予感がした。
佐伯が車から降りるとすぐ、正面に見える大きな玄関があいて、寒川正信が出て来た。
しめた、と思い、佐伯は大声で挨拶した。
「おはようございます」
寒川正信は意表をつかれたように、近づいてくる佐伯をみつめた。
「急用ができましたので、おゆるしも得ずおしかけて来ました」
詫びる態度ではなく、胸を張って堂々と言った。
「お出かけのようですが、お手間はとらせません。車中でお話しします」
「すぐそこへ行くのだよ」
寒川は指をあげて南を示し、運転手にドアをあけるよう合図した。
「それでは、わたしの自慢の花をご披露《ひろう》するか。草いじりが道楽でな」
寒川はそう言った。佐伯は自分の車の運転手について来るよう命じて、寒川のあとからクライスラーにのりこんだ。
「会長はこのあたりに古くからお住みなのですか」
車が邸を離れはじめると、佐伯はそう尋ねた。
「古いな。このあたりでは一番古いほうだろう。わたしはそういうことに興味がないので調べたこともないが、親類の者でよく調べている者がいる……なんでも寒川神社《さむかわじんじや》と関係があるそうだ」
「寒川神社ですか」
「知っておるだろう。茅《ち》ガ崎《さき》から少し北に入ったところにある」
佐伯は知らなかった。
「そうすると、古いお家柄なのですね」
「だろうな。だが、昔は昔、今は今だ。家系を誇って何になる。源氏平家の時代でもあるまいが」
寒川はおかしそうに笑った。
「実は笠原隆志の行方が判らなくなったのです」
「困ったことだ」
寒川は前を向いたまま即座にそう言った。
「ご存知だったのですね、彼の行方不明を」
「行方不明……大げさだな。まだ一ヶ月もたってはおらんょ」
「しかし、いろいろ彼の身辺に支障ができています。会長なら彼の居所をご存知ではないかと……」
「なんだ、それを聞きに来たのか。それならわたしも知らんよ」
「それでは仕方ありません。僕のほうで探します」
「そのうち出てくるさ」
寒川は平然としていた。
「しかし、早く現われてくれないと困るのです」
「なぜ……」
「彼はある土地に手付金を払っています。出て来ないとそれが無駄になってしまいます」
「どこの土地だ」
寒川は明らかに反応を示した。しかし佐伯は目で運転手を示した。
「よし。その話は降りてから聞こう」
ふり返ると、乗って来たセドリックが、ぴたりとついて来ている。
「話は変わりますが、いろいろお手配《てくば》りをいただいて有難うございました」
「なんのことだったかな」
寒川は空とぼけているようだ。
「僕の商売の件です」
「ああ……大したことじゃない」
鷹揚《おうよう》に答える。
「会長は現場をご存知ないでしょうが……」
ダンプが二台、やかましくクラクションを鳴らしつづけて追い越して行った。
「実は、もうひと押ししていただけると有難いのですが」
「ほう。あれでは不足か」
「卒直に申しあげて、以前とそう状況が変わっていないのです。今のままでは、折角のご好意も、お気持ちだけをいただいたという形になってしまっているのです」
「宣伝部が協力せんのか」
「そうではありませんが、するほうにも、しないほうにも動かないのです」
「どういう意味かな。もっと判りやすく言いなさい」
佐伯は秘書課が鷲プロの件を持ちだして来たことを具体的に説明した。
「ところが、その後まったく動きがとまってしまったのです。急ぐと言ったCMフィルムの制作も中断したままです」
「けしからんな。わたしはそのような指示はしてないぞ。君に予算の相当部分を取り扱わせるよう言ったのだ」
「すると、どこかでそのご指示が曲げられたわけですね」
とたんに寒川正信は哄笑《こうしよう》をはじめた。
「やるな、君は。若いのにいい度胸をしている。いや、若いからやれるのか……そうだよ。会長のわたしと今の社長の間はうまく行っておらん。部下の中には、そのもめごとの中に入って、なにか小細工をしたがる者もいるだろう。どんなささいなことにせよ、わたしの命令が守られなければ、そりゃおもしろくあろうはずがない。君はわたしに腹をたてさせに来たわけだな。君への好意ということではなく、わたしに自分自身のこととしてやらせようというわけか」
「広告づくりには自信があります。場所さえ与えてもらえれば、立派な仕事をします」
「立派な仕事など要らん。どんどん売ってくれればそれでいい」
「売れる広告をします。風邪薬でも、綜合保健薬でも……新薬でも」
「判った、判った」
寒川は笑いを納めかけながら言った。車は国道をそれ、やがて前方にひとかたまりの森が見えて来た。その手前の線路をこえて、いっそう森に近づく。大きな鳥居が見え、その奥の森に寒川神社があるらしかった。
クライスラーはその外側を迂回して走り、やがて止まった。
「自慢の百合を見せてやろう」
寒川に言われ、佐伯はぎくりとした。
いちめんに蔓《つる》バラを這《は》わせた低い煉瓦の塀の中に、そう大きくない温室が五ツほど、光を眩《まぶ》しくはね返していた。
そのまわりはよく手入れされた百合の畑で、短い畝《うね》ごとに整然と育てられている。どうやら、ふた畝ずつ異なる種類の百合が植えてあるらしく、大部分がまだ花をつけていない中で、ふた畝だけ同じ形の白い百合の花が今をさかりと咲き競《きそ》っていた。
よく見ると蕾《つぼみ》をつけて開花寸前の畝もあるし、ふたつみっつ咲き残して、すでに花期をおえた畝もあった。
「どうだ、みごとなものだろう」
寒川は並んだ温室を顎でしゃくってみせた。ガラスの中にさまざまな形の百合が咲いている。佐伯は眩しそうに目を細めて眺めた。多分その中にはマニアを驚喜させるような珍種が混っているのだろうと思った。
「笠原が買おうとしている土地にも、今にみごとな花が咲くことでしょう」
佐伯は寒川の反応を見た。寒川は堅い表情で温室のまわりを歩きはじめる。
「そうだな……」
つぶやくように答えた。
「笠原はその土地を手に入れるのに、だいぶ時間をかけていたようです。第三者の名義で、慎重に事を運んでいたのです。多分、まだ誰も知らないでしょう」
「君は知っているのか」
寒川は立ちどまり、蕾《つぼみ》を調べながら言う。
「はい。知っています」
「教える気はあるのかな。君は彼の友人だろう」
手探りで、寒川の反応をみながら、あてずっぽうにカマをかけていた佐伯は、その言い方で笠原と寒川の関係をやっと少し掴んだ。笠原は何かの売手。寒川はその買手なのだ。買手は売手の手の内を知りたがっている。多分それは相模製薬の内部抗争に決着をつけさせるほどの値打ちをもっているのだろう。
「条件によります」
「宣伝予算などというのは、どの広告代理店であろうと、一応の水準の機能さえ持っていれば、どこへ扱わせようと大した問題ではない。君にやるよ。全部君にまかせよう。そんなことはかんたんなことだ」
寒川は薄笑いを泛《うか》べて言った。佐伯の力《りき》みようを嗤《わら》っているようでもあり、有利な取引きにほくそ笑《え》んでいるようでもあった。どちらにせよ、佐伯と寒川とでは、やはり格が違っているようだった。
佐伯の心に、豪徳寺のマンションで待ちつづけている紹子の姿が一瞬よぎった。
「お約束いただいて恐縮です」
佐伯は決心した。殺人が起こるようなことに笠原をまきこませておくことはできないと思った。たとえ自分のひとことで笠原がどんな利益を失おうと、紹子が笠原を失うよりはましだと思ったのだ。今度の事件はどこか陰湿で危険な臭いを漂わせており、紹子にさえ居所を教えない笠原の行動は、決して正常なものではないといえた。
紹子のためにはこのほうがいい……そう思いながら、佐伯は喋った。
「埼玉県の寄居《よりい》をご存知ですか」
「うん。この真北に当たる見当だ」
「八高《はちこう》線でそのふたつ先に児玉という町があります」
「知っている」
「児玉に茂呂不動産という小さな不動産屋があるはずです。笠原はその業者に扱わせています」
「茂呂……」
寒川は背中を見せていて、表情は判らなかった。
「茂呂儀平という人物です」
「判った」
「手付をうった土地は、神川《かみかわ》村というところにある畑です。畑の持主の名は確認しておりません」
「それだけ聞けば充分だ。君はこのまま帰るのか」
寒川は向こうをむいたまま言った。
「はい」
「君に会うのはこれが二度目だ。たった二度で話をここまで進めたのだ。君にとっても悪くない取引だな」
からかうような響きがあった。
「ちかぢかまた本社へお戻りだというもっぱらの噂です。今後はたびたびお目にかかれると思います。その節はよろしくお願いします」
佐伯がそう言うと、寒川は意外そうな表情で振り向いた。
「では失礼いたします」
ボロが出ることをおそれて、佐伯は早々に別れることにした。深ぶかと一礼してその百合園の出口へ向かいながら、彼は温室のひとつひとつを注意深く観察した。
ムラサキイトユリはないようだった。
7 浮 気
会社へ戻った佐伯は島村と社長を探した。しかし二人とも外出していて、社内にはいなかった。
「行先を誰も聞いていないんで、連絡がとれないんだよ」
出はらってガランとした営業部の部屋で、課長の篠崎《しのざき》が言った。威勢よくとびこんだので、急用と思ったらしい。
「いいさ。よく考えてみたらそう急ぐことでもなかったよ」
佐伯にしてみれば、今日はじめて寒川の口から確約を得たのだが、それ以前に勝利の報告を一度してあるのだから、単に戦果が拡大したということであって、社長や島村は佐伯ほどの受け取り方をするとは限らなかった。
「張り切ってるね、相変わらず」
篠崎はだらしなく椅子にもたれ、爪切りのやすりで爪をこすりながら言った。
「相模がとれたんだって……」
「一応そういうことになったよ」
「大したもんだな。相模ならどこへ持ってったって立派なもんだ」
「どこへも持って行きはしないさ。うちへ持って来たんだ」
「わが社もこれで持ち直すかな」
爪をみがく手を休めず、篠崎は気のない言い方をした。
狭い料簡《りようけん》だ、と佐伯は思った。そんなことだから、以前から預っている広告主《クライアント》を次々にダメにしてしまったのだ。相手が成績をあげたら抜き返せばいい。それだけのことだ。人の奮闘ぶりを冷笑してなんになる。しかも同じ会社の仲間ではないか。
佐伯は不愉快になって下の自分の部屋へ戻った。篠崎の下にはかなりの人数の営業マンがいて、彼らが運んで来る仕事を制作部が処理している。
しかし佐伯の部屋は違う。営業マンとして動くのは佐伯ひとりで、しかも彼自身がコピーライター兼ディレクターなのだ。佐伯が外から持ち帰った仕事は、ディレクターである佐伯自身の指揮で七人のスタッフが処理している。いわば自給自足だ。それでいて、相模製薬が入れば完全に上の営業部を追いこしてしまう。
しばらくの間、佐伯は上に対する優越感と同時に、経営的視点で東《あずま》エージェンシーの構成を考えてみた。全部をこの第二課のようなシステムに切りかえたほうがいいと思った。
だが、その場合、制作技術を持たない古い営業マンたちをどうするか。一度に処理してしまえば全く新しい会社に生まれかわることができる。浮いた人件費で営業的に動けるクリエーターをつれて来る。探せば、いるはずだ。その上に島村級の、本当に力のある営業マンをもう一人か二人ふやせば、太平洋アドにだって決してひけをとらない代理店ができあがるだろう。
だが、それは恐らく無理な話だ。今の営業マンを全部切りすてるわけには行かぬはずだ。
佐伯はそこで首をすくめ、その考えを打ち切った。それよりも、あと何年かしたら、なんとかして独立したかった。島村にせがんで今の形でやらせてもらってみて、小さなプロダクションだったら、やって行ける自信がつきはじめている。やれるはずだった。デザイナーやコピーライターにはたっぷりしたスペースを与え、ひとりひとりが個室に近い理想的なスタジオの中で、どこにも真似のできないデザインのポスターやパンフレットを送りだしてやりたい。やる気のある若いクリエーターたちがそこのスタジオにデスクを持つことを夢みるような、そんな会社を作りあげたかった。相模製薬級をあとふたつみっつ持っていれば、それもあながち夢ではないのだ。
佐伯は煙草をくわえ、デスクの上の電話をとりあげた。ダイアルをまわす呼出音が二度聞こえ、三度目の途中で紹子の声がした。
「はい……榊原です」
「僕だ。ゆうべはご馳走さま」
「あら……珍しいですね、こんな時間に。何かありましたの」
昨夜の親密さが嘘のように、相変わらず怯《おび》えたような声だった。
「いや、何もないんだ」
佐伯はうろたえて言った。
「何もないが、ちょっと暇だったものでね」
「そうですか……」
がっかりしたようだった。
「変わったことはない……」
「はい」
「あんまり心配しないで。どう、今晩は外で食事してみたら」
「ええ」
「六本木でも歩いてみるといいんだがなあ」
「ここはお買物が少し遠いですから、結構運動になるんです」
「そうか、残念だな。ちょっと乾杯したいことがあってね。例の仕事の件だけど」
「いいですわね、佐伯さんは。でも私、長く留守にしてるとお部屋が心配になって落ちつかないんです」
笠原と一緒ならいいのだろうけれど……と言いかけて佐伯はあわてて話題を変えた。
「風呂へ入ったかい」
「ええ。とってもいい匂い……ありがとうございました」
紹子は佐伯がくれた浴剤がバスタブの中でどんなによく泡だったか喋りはじめた。佐伯はそれを聞きながら、しだいに淋しい気分になっていった。
紹子の心を占めているのは、笠原隆志ただひとりなのだ。あの部屋へ行き、その家具調度をすべて知った佐伯は、笠原の紹子という女に対する扱いかたに、完全に近い共感を抱いてしまった。佐伯がしたくなるとおりのことを笠原はひと足さきにしてやっていたのだ。しかも、佐伯なら空想にとどまってしまうことを、笠原は実行しているのだ。あのマンションの部屋と同じ部屋を、今の佐伯はとうてい作りだせない。もっとボロのマンションの部屋を借りる金さえもないのだ。
電話を切ると、佐伯はつぶやきながら別の番号をまわした。
「仕方ねえ……あいつをダシに社用族といくか」
相模製薬の今野を呼出すつもりだった。
その夜、佐伯は今野と銀座のバーにいた。そろそろ今野を接待する時期でもあったのだ。場所は銀座でなければいけなかった。今野は福島県の出身で東京の生活は大学の四年間と相模製薬の数年間だけだ。そうした若手は、二流でも銀座の店を好んだ。
雑誌などで、虚栄に満ちた銀座の夜のくだらなさを、関西の文化人がこきおろしているのを見ることがある。東京生まれの佐伯にしても、それはまったく同感だった。だが一方、だから東京の人間はと論じられると、ひどく理不尽な言われように思うのだ。そういう店々を繁昌させているのは、おおかたが実は東京人ではない。上京人なのだ。
高級、といわれる店へ連れて行かれて、場馴れした振舞いをしたい気持ちは佐伯にもある。しかしそれは都会的教養を身につけたいということにすぎず、そんな店へは、一度行けばもうたくさんだ。
だから、関西人がそういうことで非難する東京人は、本当は東京に来た地方の人々のことであって、案外その中には関西人も混っているのかもしれない。
本当の東京人は、本所《ほんじよ》の馬肉屋や深川のどじょう屋で、分《ぶん》に合った値段の酒を飲んでたのしんでいる。その点で、佐伯は関西の実質的な楽しみかたに深く共感している。だから銀座の虚栄を指摘することが、そのまま東京人の欠点へつながって行くと、論者の観察力に不満を感じてしまう。
だが、今野を遊ばせてみていると、今さらながらそういう指摘ももっともだという気になる。
「いま行くんなら、パリなんかやめたほうがいいよ」
ホステス三人に囲まれて、海外旅行の話をしている。
「あらそう……あたし一遍でいいから行ってみたいわ」
長いつけまつ毛を揺らせて、中性的な感じのホステスが言った。たしかそれも東京人ではなく、上京人のはずだった。
「ローマの近くにあるアシジって町を知ってるかい」
「アシジ……知らないわ」
「九世紀ごろできた城塞《じようさい》都市さ。城壁にとりかこまれて、小さな丘ひとつがびっしりと石造りの建物で埋まっている。今ごろの季節に、そこの石だたみの道を、てっぺんの教会へ向かって散歩してごらん。いい気分だから」
果たして行ったことがあるのかどうか、佐伯は知らない。だがなんとなく気分はでている言い方だった。
「そう、アシジ……」
ホステスは記憶にとどめようと、上目づかいになって軽く下唇を噛んだ。だが、あなた行ったの、とは尋ねない。必要もないし、むしろ尋ねないのが銀座の知性だ。
今野はまるで社長の御曹子《おんぞうし》が、修業のために平社員をしているようだった。頼りない横顔だが、清潔で身だしなみがよく、背任横領をしてもせいぜい百万円どまりという善良さがあった。
「佐伯さん、ピッチがあがらないですね。どうしたんです」
今野は自分が接待役のように、佐伯のグラスを気にした。
「いや、そんなことはないさ。実はね、あんたにも喜んでもらおうと思って」
「なんですか」
「今日、会長に会ったよ」
今野は目を丸くした。
「住所の問合わせがあったから、ひょっとしたらとは思ったんですけど、本当に行ったんですか」
「ああ。強引にのりこんでやった」
「どうでした」
今野が言い、佐伯はグラスをあげて、相手のグラスに合わせた。
「乾杯だ。うまくいったのさ。全部くれるそうだ」
「全部……」
そして今野はいやに大物ぶって笑いだした。
「そりゃ気の毒だ」
課長その他、彼の上役、先輩に当たる男たちの名前をならべ、
「みんないっしょに太平洋へドボン……」
と冗談を言った。
「かわりに東男《あずまおとこ》の登場だ。あんたにもずいぶん世話になったけど、これからはいくらか恩返しもできるだろう」
「恩返しなんてとんでもない。しかしそれにしても凄い腕だなあ。ことしから佐伯さんが出て来たというんで、太平洋が警戒態勢をとってたから、かなりの人なんだとは思ってましたがね。そうですか、早くも逆転ですか」
「断わっとくが、敵はまだ知らないでいる」
「ええ」
今野は口をつぐんでみせた。
「景気のよさそうなはなしね」
佐伯の隣についていたホステスが、水割りの氷をグラスに入れながら言った。
「当然……」
今野が言った。
「佐伯ちゃんはやり手ですもの」
ホステスは佐伯の身内ででもあるような調子で今野に答えた。
「とにかく前祝いだ。景気よく行こう」
佐伯はそのホステスの肩をだいて言った。ホステスは、重みのある躯《からだ》を無抵抗に押しつけて来る。
佐伯はピッチをあげてのみはじめた。冗談がとびかい、はやりのテレビCMのせりふが、順送りに一座をまわりはじめる。だいぶにぎやかにやって、佐伯は今野と河岸《かし》を変えることにした。けさのファイトがそのまま持続していて、その店を出る時も、新宿征服に出発するような気分だった。
「ねえ……」
店の外まで送って来たホステスが、佐伯の耳もとに口を寄せて言った。今野はネオンで明るい裏通りのまん中に立って、ずらりと並んだバーの看板を眺めていた。
「これから新宿でしょ」
「うん」
「あとで行っていい……」
「いいとも」
佐伯は威勢よく答える。
「じゃ、あとで電話で場所教えて。あたしも遊びたいの」
「よし」
佐伯はホステスと握手し、今野と並んで歩きはじめた。
「忘れちゃだめよ……」
少し離れてからホステスが黄色い声を送って来た。ふたりはふり返り、今野が手を振ってこたえた。
「美人ですね」
「そうかい」
「美人ですよ。でも気が強そうだな」
「ああいうとこの女は、みんな気が強いさ」
ふと紹子を想《おも》った。彼女はホステスになれるだろうか。とうていなれまい。そんなことは、男としてさせるわけにはいかない。佐伯はそう思いながら裏通りを出て、タクシーをとめた。まだ十時前で、タクシーはいくらでもあった。
新宿に移って、最初に腰を落ちつけたバーで飲んでいると、十一時近くなって、今野は急にキャバレーへ行こうと言いだした。威勢よくピッチをあげはじめた佐伯の飲みっぷりに煽《あお》られて、少しはめを外しかけているようだった。
今野が馴染みだというのでついて行ってみると、そここそは彼の分《ぶん》に応じた安直なキャバレーで、安直ななりにイキのいい若いホステスを揃えていた。彼女たちは今野が上役をつれて来たと思ったらしく、彼に対しては仲間どうしのようなぞんざいな口をきくくせに、佐伯には一目置く様子だった。
上には上があるし、下には下がある、と感じた佐伯は銀座の百合花《ゆりか》を思いだし、その記憶が自然に昼間の寒川正信の態度につながって行くのだった。
じかにぶつかってみれば、案ずるより生むが易《やす》しのたとえどおり、別に大したことではなかった。だが、心理状態が違っていたら、ひょっとすると一生できない芸当だったかもしれない。
経験、場数《ばかず》、立場……そういうものが、人間同士のあいだに、越えがたい格差を生じさせるのだ。あるふんぎりをつけてかからないと、口もろくにきけなくなる相手がいるものだ。相手はこっちがそこにいることなど、風が吹いた程度にしか感じていないというのに……車の中や百合園で示した寒川正信の態度は、下手《へた》をすると自分を萎縮《いしゆく》させ、ろくに喋ることもできなくさせるだけの底力を持っていた。いや、普段だったら直接許しも乞《こ》わずに乗りこもうなどとは、考えもしなかったかもしれない。紹子の存在が自分を勇気づけているのだ……。佐伯は自己の内部を点検するようにそう思った。その内部には、常にない勇気と決断力が漲《みなぎ》っているようだった。
今野はホステスの一人を露骨に口説いていた。それを佐伯はけしかけるような気分で眺めている。どういうわけかビールを注文すると、一度に三本ずつ運ばれてくる仕掛けだった。途中で叩き切ったような、中途半端な長さの中瓶だった。乾した小海老《こえび》に、巻いた酢昆布《すこんぶ》、裂きイカにピーナッツ……そんなつまみをのせた皿がわりの軽い笊《ざる》が、ホステスたちの手がのびるたび、ひとりでにクルクルとまわっていた。
そうだ、頑張れ今野。いまのお前ならこの世界がふさわしい。その緑色のアイシャドーをつけた女を口説いてしあわせに寝るがいい。俺もやる。だが次のステップでは、今野よもっといい女をつかまえろ。頑張って、望みどおり毎晩銀座へ通う身になれ。アシジとかいうイタリーの町へ、本当に旅行しろ。男はたたかうものだ。欲しいものを持て。それを手にするためにたたかえ。
「強いのね」
ホステスがビールをつぎながら言った。佐伯は彼女の手から瓶をとって、半分ほどに減ったグラスについでやった。
「乾杯……」
女は意味もなくグラスを合わせた。二十四、五か。いやに髪の多い、骨格のたくましい女だった。それが佐伯の手をとって、自分の太腿の上へ置いた。盛りあがった両腿のまん中の、ほぼデルタに近いあたりだった。
「今晩かわいがってくんない……」
体を押しつけ、耳もとで小さく言った。
「すかんぴんを口説くと損するぞ」
女はじれったそうに体をゆすった。
「お金なんかいらないわよ。ねえ、だめ今晩……」
佐伯はビールを飲んだ。女を見ると本気らしかった。
「なんだ、俺は惚れられたのか」
「そう」
女は声を大きくし、聞こえよがしに言った。
「惚れちゃったのよ。彼女にして……」
仲間が聞けば冗談に聞こえ、そのくせ本気で意志を伝えようとしている言い方だ。
「いやにモテる晩だな、今夜は」
「あら、先約があるの」
鼻声をだし、名刺をせがんだ。佐伯は受け流し、腕時計を見る。
やがて店内の照明が一度暗くなり、そしてかなりの明るさに戻った。閉店時間らしかった。だが、まだ客もホステスも、いっこうに動じない。
「そろそろ看板かい」
いやに明るくなった店を見まわして言うと、今野は急に気がついて、何やらソワソワとしはじめた。口説かれていた女が、ボーイに勘定を命じたようだった。佐伯は勘定書きを持ってボーイが戻ると、テーブルへ来る前にさりげなく立って伝票をさらい、さっさと払って振り返った。今野は気がついていなかった。
「さあ出よう」
今野はうしろに立っている佐伯をみあげ、あわてて立ちあがった。
「ここは僕の縄張りですからね。僕が払います」
「払っちゃったよ」
「えっ、やだなあ」
ホステスたちがぞろぞろ送って来た。
「またね……」
入口のところでひとかたまりになり、そのうしろでボーイたちが、さあ跡《あと》かたづけだというような顔で立っていた。
通りへ出ると、
「じゃ、今日は僕、これで失礼します」
と今野は言った。どうやら話をまとめたらしい。佐伯は苦笑して、
「あした遅刻するなよ」
と言って別れた。今野はそこに立ったまま見送っている。あたりに五、六人、似たような若い男たちが、ガードレールに背をむけ、キャバレーの入口のほうを眺めて立っていた。
その店は歌舞伎町《かぶきちよう》を見おろす坂の上の、小さなビルの地階にあった。
ドアをあけると、白とブルーで統一した内部に、柔らかいエレクトーンの音がしていた。
ディナー・コートに蝶タイ姿のマネージャーが、静かな声で迎えた。
「やあいらっしゃい。カウンターにしますか」
「うん」
まだ午前零時にはだいぶ間があり、店内は閑散としていた。
白い中国服を着た女が、客席に背をむけてゆるい曲を演奏している。そのすぐ脇の椅子に坐って長い脚を組み所在なげに女の顔を眺めていた男が、佐伯に軽く顎を引いて挨拶した。隅田《すみだ》という建築家で、マンションのカタログを作る時、会ったことがある。
この店は、写真家や画家、小説家などが、下の歌舞伎町をひとまわりしたあと、深夜から早朝までよくたむろしている店だ。
「ひとり……」
カウンターの前に坐ると、ゲイ・ボーイ風のバーテンが言った。
「ふたり」
佐伯は笑顔で言う。
「どこの」
「銀座」
「あんたも好きね」
バーテンはそう言って笑った。
「ジンライム」
「もうだいぶ入ってるんでしょ」
「うん」
「いいの……」
「何がだ」
バーテンは宣誓するように左手を肩のところまであげ、手首から先をガクンと倒してみせた。
「莫迦《ばか》。俺は難萎症だ」
「ナンイショー」
「萎《な》えにくいと書く」
「ほんと……」
バーテンはカウンターへ上体をのりだし、下をのぞいた。
「嘘つき」
佐伯は笑い、煙草をとりだした。
「誰か来たかい」
「さっきまでそこに堀越《ほりこし》さんが坐ってた」
「よかった。あの先生の絵を複写して使ったら、印刷が悪いって文句言われたんだ。そういうことは案外うるさい人なんだな」
淡緑色の酒が出て、佐伯はその酸味をたのしんだ。
午前零時ピッタリというタイミングで、女はやってきた。黒いミディのスカートに白いブラウス。スカートと共ぎれの小さなヴェストをつけ、大きな紙袋をぶらさげていた。
「いじわる。十一時半ギリギリに電話くれるんですもの。いらいらしちゃったわ」
「着換えたのか」
佐伯は女の服装をみて言った。
「ホステスでござい、なんて恰好で通《かよ》うの嫌でしょ。だからいつも……」
女はそう言って紙袋の中から小さなハンドバッグをだし、バーテンに、
「お化粧落としたいんだけど」
と尋ねた。バーテンは奥の白いドアを示し、
「お飲物は」
と言う。
「おんなじのでいいわ」
女はそう答えてドアへ向かった。
「いい子ね」
バーテンが言う。
「そうかい」
「ビール飲みたい」
「このやろう」
佐伯は笑い、バーテンが素早くカウンターの上へ出したビールの小瓶をとりあげて、相手のゴブレットについでやった。
女が戻って来た。化粧を落とし、素顔になっている。
シンプルな服装と素顔を好むだけあって、スタイルがよく、化粧をしないほうが美しかった。クラシックのヴァイオリンを弾く、しっかりものの芸術家といったように見える。
「どういう風の吹きまわしなんだい」
すると女は佐伯の横でジンライムのグラスを持って前を向いたまま、照れたように笑った。
「なんだか知らないけど、急にそういう気になったのよ」
「魔がさしたっていうわけか」
「さあ」
女は流し目で佐伯を見た。
「何か食うか。ここのものは旨い」
「そうね……」
女はカウンターの隅に手をのばして、置いてあったメニューをとった。
注文しているのを聞きながら、佐伯はまた紹子を想った。いくら旨くても紹子の料理にはかなうまい。そう思い、誰かに自慢してやりたかった。
食事のあと、佐伯と女は腕を組んでホテルへ入った。佐伯がよく利用する場所で、このあたりでは清潔感の点で群を抜いていた。
通されたのは洋間で、壁の一部に裸婦像を浮き出させた、大きなガラスがはめこまれていた。
佐伯はさっさと風呂へ入った。浴槽全体が厚く透明なプラスチックでできていた。洋間の灯りを消すと、裸婦像の入ったガラスが素どおしになり、入浴風景がたのしめるようにできている。
佐伯といれかわりに女が入り、彼はコップに水道の水をいれて、洋間へ持って行った。冷蔵庫の扉をあけ、コップをその中に置く。明日の朝、冷たい水が欲しくなるにきまっていた。冷蔵庫の中に飲物は揃っていても、ただの水だけは用意してないのだ。
煙草をくわえ、面白半分に部屋の灯りを消した。女は体を流し、浴槽に入るところだった。入るとき、ガラスの壁へむかって脚をひらき、爪先だちになると、両手を水平にひろげた、見られているのを承知しているのだ。そうして艶っぽく笑い、浴槽に入った。茂みはそう濃いほうではなく、茶色がかっていた。浴槽の中でも、体をくねらせて挑発して見せている。形のいい胸を持った、すっきりした肢体《したい》だった。
態度が少しも卑猥《ひわい》ではなかった。むしろ明朗で屈託がなく、そうするほうが自然なことのように思えた。男と女が大したいきさつもなく体を求め合う以上、じめついた羞恥はきたならしいボロのようなものかもしれなかった。
宿の浴衣《ゆかた》を着る気でいた佐伯は、あかりをつけたあと、途中で着るのをやめた。女はしばらく壁のかげにかくれて見えなくなったが、案の定出て来た時は、男がするようにバスタオルをあやうげに腰にまいただけだった。きちんと畳み重ねた衣類を素早くソファーの上へ置くと、両手を拡げてだきついて来る。
「私が発見したのよ」
最初のキスのあと、女が言った。
「何をだ」
「あなたという男性を発見したのよ。男性があるとき急にある女に気がつくのと同じよ。何度もあなたとお店で会ってたけど、今夜急に気がついたのよ。あなたってすてきよ」
女は佐伯の顎を人差指でなぞりながら言った。
バスタオルの上から腰をだくと、バスタオルはかんたんに外《はず》れ、佐伯の手にかぶさった。
「判るような気がするな」
「経験あるでしょう」
女は佐伯の裸の胸に唇をつけ、左の乳首を吸った。
女の言い方をまねるなら、佐伯が紹子に気づいたのは、最初の訪問で、紅茶をのんだあとだった。道ですれ違っただけなら、おそらくただの通行人として記憶にもとどまらなかっただろう。それが今では自分の心の中いちめんに彼女の面影《おもかげ》がある。ミーハー族が、ごひいきの歌手のありとあらゆるポーズの写真を、自分の部屋の壁いちめんに貼りちらしたように……。
女はブリーフの上から佐伯を育てようとしていた。肌に唇を這わせてずりさがり、床に膝をついていた。背筋がくびれたウエストのあたりへいったん落ちこみ、急に登り坂になって艶々とした双丘に至っていた。
それは紹子とは全く異質な女体だった。みずから求め、挑《いど》みかかる、張りつめた逞《たく》ましさがあった。彼女はブリーフに手をかけてひきおろしはじめた。ブリーフはくるくるとまるまって、白い環のように抛《ほう》りだされた。佐伯は女が首をねじり、顔を横にして味わいはじめるのをみおろしていた。苦しげで、真摯《しんし》な表情だった。牛が産み落とした子を浄《きよ》めるのに似ていた。その顔に手をやり、頤《おとがい》を持ってあおむかせると、唇を濡らせた女は、瞳を大きく開いて佐伯をみつめた。
その夜、佐伯は我ながらあくどいと思うほど女を責めさいなんだ。たしかに彼女は美しく、一夜だけでなしに愛する価値があった。しかし佐伯は、紹子と反対の極に、そのような美があることを憎んだのだ。紹子の持ちえない、そのような種類の知性と美を、焼きほろぼすつもりだった。女は炎をあげて叫び、満ちたりて睡《ねむ》った。
8 裏切り
あくる朝、佐伯はいつもよりおそめに出社した。とかく風当たりの強いチームの責任者として、仕事の質や量よりも、形を問題にしたがる連中に対する配慮から、佐伯は部下の出勤状態に関してはやかましいほうだった。定刻にきちんと出社せよというのではないが、目だたないように要領よくやれというのだった。四人も五人もかたまって遅刻されるのがいちばん面倒だった。だから、できれば輪番制で遅れてもらいたいほどなのだ。
だが、チームで仕事をしていると、遅れる条件は同じになる。部下たちは前日の労働状態が頭にあるから、ややもすると大威張りで遅刻してくる。それが期せずして四、五人の集団になってしまうと、会社全体の秩序ということで大げさにとりあげられるのだ。最前線へ出てこない連中に限って、そういうことをとがめだてする妙な才能に恵まれていた。したがって佐伯は部下をかばう意味からも、少しはやめに出社しなければならなかったのだ。
だが、その朝は違っていた。申し分のない戦果があり、こまかいことに気をつかわずにすむ状態を作りだせる自信があった。たとえその日全員が無断欠勤しても、独断で休暇を与えたのだと申しひらきできるはずだった。
会社へ入って自分の部屋のドアをあけると、そういう日にかぎって全員がはやばやと顔を揃えているのだった。部下たちも全員定刻に揃って気分がよかったらしく、
「お早うス」
と気合の入った声をかけてきた。
「上出来……」
佐伯はドアの中へは入らず、笑顔になってそう答えると、階段を登って社長たちにきのうの報告をしに行った。
まず島村の部屋をのぞくと彼は不在で、次に社長室のドアを叩いた。
ドアをあけたとたん、真正面に渋い顔で腕を組んでいる社長が見えた。ドアに背を向けていた島村がさっとふり向いて、これはまた対照的に柔和な笑い方をした。
「来たか……」
そう言って奥の椅子に移り、佐伯の場所をあけた。
妙な雰囲気だった。社長はまるで仇《かたき》が入って来たように、冷たい、というよりは、憤《いきどお》りを無表情でおしつつんだ態度を崩さなかった。そういう社長と向き合っていた島村は、味方が来たと言わんばかりに、佐伯にあからさまな追従《ついしよう》の笑顔を示している。
喧嘩したな……佐伯は咄嗟《とつさ》にそう思った。
「あとで参りましょうか」
佐伯は坐るのをためらって言った。
「いや、いてくれ。君にも話がある」
そう答えたのは社長のほうだった。佐伯は居心地のよくない思いで坐った。
「専務はやめるそうだ」
社長が吐きすてるように言う。
「えっ……」
佐伯は驚いて島村を見た。島村は入って行った時と同じ笑顔を続けている。が、よくみるとふてくされたような感じがした。
「どういうことなんです」
「いや……」
島村は笑顔を消し、企画会議の場などで見せる、わざとらしい真剣な表情に変える。
「実はきのうはじめて社長に打ちあけたんだが、一身上の都合《つごう》でどうにも仕様がないんだ」
「佐伯。君もこの件は知っていたんだろう」
社長は忿懣《ふんまん》やる方ないといった調子で、叩きつけるように言った。
「知りませんよ」
社長の理不尽な言い方が癇《かん》にさわって、佐伯の答えもつい荒らくなる。
「どうしたんです。なんでやめるんです」
島村は左手で眉のあたりを掻《か》きはじめながら答える。
「俺もこの商売は長いからね。まあ、ひとつの壁を感じたってわけだよ。ここらでひと区切りつけて、行くさきざきをゆっくり考えてみたいと思うんだ」
「でも、こんな急に……」
「こういうことは、どっちかって言うと生理的な現象に近いんでね。いったん思い込むと、もう自分でもどうしようもなくなるもんさ」
島村は自分の青臭さを恥じるように笑った。
「君、もうそういう言い方はよさないか。恰好をつけるのもいいかげんにしろ」
社長は組んだ腕をさっと解いて声高《こわだか》に言い、手のやり場に困ってテーブルの上のシガレット・ケースの蓋《ふた》をあけた。一本とりだして火をつける。
「なんか複雑なようですね」
佐伯は社長が吐きだすけむりをみつめながらつぶやくように言った。
「いや、弱ってるんだ。社長は妙な噂を聞いて怒っておられる」
島村の社長に対する言葉づかいが、いつもより丁寧になっていた。
「噂じゃない。わたしにだって目も耳もある。きのう君がやめると言いだしたあと、夜おそくなってある人間のところへ電話をしたんだ。今の君のごく近くにいる立場の人間だ。そう言えば判るだろう」
社長は島村に向けていた顔を佐伯に移し、今度は救いを求めるような表情になった。
「たしかに、島村君はこの会社をいったんやめる。だが、一、二ヶ月ほどすると太平洋アドへ再就職するんだよ。壁をのりこえ、新しい道をみつけたと言ってな。太平洋アドへ引き抜かれたんだ。君、これは裏切り行為だよ。そうだろう、佐伯」
やりやがったか、と佐伯は思った。この会社へ移って来た時もそれだった。前の会社の内紛に見切りをつけ、佐伯、吉岡、淵上、といった主力スタッフを根こそぎひきつれて移籍して来たのだ。そして部長から専務に変わった。
たしかに、前の会社の内紛はひどかった。社長の一族が主要なポストをおさえ、どんぶり勘定に近いめちゃくちゃをやっていた。佐伯も戦闘意欲をなくし、独自で移籍を考えていた。だから島村の誘いに従ったのだ。
島村はもう一度それをくり返そうというのだ。だが、今の会社は傾きかけているといっても、この前の会社ほどひどくはない。この前ほどの大義名分はつきにくいのだ。その上、今、島村や佐伯が手を引いたら、それこそ東エージェンシーを潰《つぶ》すようなものだ。
「待ってください。とにかくもうちょっと待てませんか」
佐伯は島村に言った。
「きのう、僕は寒川会長にじかに会って来たんです。会長の口から、予算を全部扱わせてくれると、はっきり約束してもらって来てるんです。手柄顔するわけじゃありませんが、相模製薬がそうなれば、会社は保《も》ち直《なお》すはずです。ガタついている時に、あと味の悪い形で出ることはないでしょう」
「それは僕もよく考えたよ」
島村は深刻そうに首をふった。
「考え抜いた末だ」
「それにしても……」
俺にぐらい言っておいてくれてもよさそうなものを、と言いかけて、佐伯は急に気付いた。島村は自分を太平洋アドへつれて行くつもりでいるのではあるまいか。もしそうなれば、相模製薬の扱いはどうなる。東エージェンシーへ置いて行くのか。……そんな馬鹿正直をする人間は、今の世の中のどこを探したっているはずがない。佐伯は唇を噛んだ。
長谷川社長は怒りをぶつけるだけだった。島村はそれを受け流し、相手の怒りが頭上を通りすぎてしまうのを待っている構えだった。そのやりとりを聞きながら、佐伯は自分の体から、急速に闘志が消えていくのを感じていた。
自分は独立した特殊部隊をひきいて、夢中になっていたから判らなかったが、多分営業部全体に、そのリーダーである島村専務の気分が反映していたに違いない。業績の急な下降に、それは必ず関係しているはずだった。怠惰《たいだ》な恰好で爪を磨きながら課長の篠崎が言った言葉を佐伯は思いだしていた。
ひょっとすると、島村退社の気配がすでにあったのかもしれない。そういうことに、社員は案外敏感なものだ。戦う気のない大将の気配を察し、退嬰《たいえい》的になっている篠崎たちの前で、佐伯ひとりが奮闘をつづけていたのだ。冷笑的にもなろうし、ひとりよがりに見えたのも無理ないことだと思った。
事態を好転させるすべを持たない社長は、未練たっぷりに言うだけ言い、結論をださず、
「とにかくお互いにもう一度よく考えてから話しあおうじゃないか」
とあいまいにその場を一応打ち切った。
「外で話そう」
社長室をでた島村は、佐伯にそう言ってエレベーターへ向かった。二人は東エージェンシーの応接間兼会議室といった形の地下の喫茶店をさけ、昭和通りを渡ってデパートの横の喫茶店まで歩いて行った。
「太平洋アドは、君や俺をひじょうに高く評価してくれている。今までさんざん渡り合っていためつけて来たからな。当然だよ……」
島村は愉快そうな高笑いをした。
「島村さんが一匹狼だってことは承知してましたよ。陣借りをしてるんだ、心まで会社に売り渡してるんじゃない。そういう島村さんの考え方に僕も同調して来ました。でも今回は少し手厳しすぎるんじゃないですか」
「どうしてだ。こっちがやればやるほど、むこうは倚《よ》りかかってくる。社長や津島や篠崎たちの面倒まで見るために働いているんじゃない。そうだろうが」
「それはそうですが」
「だろう。彼らの会社だ。彼らがやることをやって、ちゃんと一本だちしていればこそ、こっちの働きがうわ乗せになって繁栄するんじゃないか。俺たちが来て、彼らはすっかり甘えてしまった。彼らは楽でよかろうが、こっちは迷惑だ。君にしたところで、苦労して二課を引っぱって稼いで来るのを、あの役たたずの経理や小姑《こじゆうと》めいた篠原に食われちまってるんだぞ。どうころんだって、君たちの働き相応のものを次のボーナスでひねり出すことは不可能なんだ。あの社長の妙な温情主義や、それにともなう悪平等《あくびようどう》は充分判ってるはずじゃないか」
「だからと言って、選《よ》りに選《よ》って今までずっと敵にまわしていた太平洋アドになんか……」
「人生とはそういうもんさ。理屈では割り切れない因縁みたいなものがあるんだよ。今まで何度もぶつかってやり合って来たが、結局縁のある相手だったんだ。仕事の上で敵味方とはいえ、何も殺し合いをして来たわけじゃない。縁と言うことから考えれば、太平洋アドと俺たちはすでに結ばれている間柄さ」
佐伯は島村のそういう言いくるめ方にいらいらしてきた。
「はっきり教えてもらいたいことがひとつあります」
「何だ」
島村はひどく臆病な顔になった。
「この件と、僕の相模製薬のことに、何か関係があったんですか」
すると島村は安心したように声をあげて笑った。
「そう人を勘ぐるもんじゃない」
佐伯はじっとそれをみつめた。どうやら島村はその答えについては真実を喋るようだった。言いたくない秘密は別にあり、真実を喋れるのを喜んでいるようだった。
「まったく、君って奴はまずい時に派手なことをやらかしてくれたもんだよ。こっちはおかげで大あわてさ。深く静かに潜航して、事が八分どおり運んでいるとき、とんでもない爆弾を入れやがるんだからな。……いや、俺もまさか君が相模製薬を、ああすんなり持って来ようとは考えてもみなかった。と言ったら君は腹をたてるだろうが、誰が考えたってあれだけのスポンサーを……そうだろう」
「たしかにフロックには違いないです」
「怒るなよ……」
島村は笑って胡麻化《ごまか》した。
「太平洋も君の動きにはえらく泡くってな。おかげでこっちの件をオープンにするタイミングが、二ヶ月ほど早まってしまった」
「というと、太平洋アドが欲しがっているのは島村さん一人じゃないんですね」
「当たり前さ。俺があんな所へ君を見棄てて行かれるかい。みんな一緒だよ。それはこの話が持ちあがった当初からきまっていたんだ。太平洋アドへ行くのに、一度|東《あずま》エージェンシーというまわり道をしてしまっただけのことさ」
佐伯は考えこんだ。
この間の晩、久しぶりで島村がデザイナーたちと飲んだのは、このことがあったからだったのだ。相模製薬に関する報告を、最初社長に伏せてしまったのもこのせいだ。二度目にはやむなく報告したが、それとても嫌々だったに違いない。
ということは、佐伯は一人で無駄骨を折っていたことになる。太平洋アドの上層部は、相模製薬における佐伯の奮闘ぶりを、滑稽な独り相撲と見ていたのだろう。
「なんだ。無駄骨だったのか」
そうつぶやいてみると、何かしら物哀しいものが湧き、それが次第に腹だちに変わって行くようだった。
「無駄骨じゃないさ」
島村は慰《なぐさ》め顔で言った。
「無駄骨なんかであるものか。君がホームランをかっとばしたことに変わりはない。太平洋アドはひや汗をかいているよ。向こうの連中は俺より君が行くことを喜んでる。俺はすっかり君に食われてしまった」
島村はそう言ってまた笑った。
その笑い声を聞いている内に、佐伯は自分がなぜ腹をたてているのか、急に気がついた。
銀座のクラブ百合花《ゆりか》は、寒川正信の愛人が経営している店だという。そこへ太平洋アドが出入りしているということは、この島村の口から教えられたことだった。島村は多分、百合花《ゆりか》で太平洋アドと何度も話しあったことだろう。そして太平洋アドは、当然、寒川正信ともつながっている。となれば、島村移籍のことを、きのうの時点で、寒川がすでに聞き知っていたとしても不思議はない。
くそ狸《だぬき》め……。
去りかけていた闘志が、佐伯の身内に猛然ともり返して来た。
「島村さん」
佐伯は背筋をしゃっきりとのばし、腹を据えて言った。
「僕はあんたの所有物じゃない」
「何を言いだすんだ」
島村がうろたえた。顔に血がのぼり、見苦しく唇を歪《ゆが》めた。
「いつ君を所有物のように言った」
「ついて行くか行かないかは僕自身がきめることです」
「…………」
島村は性急に煙草をとりあげ、スパスパと続けざまに吸った。
「島村さんの予定を狂わせてもいけないから、この際はっきり言いましょう。多分、僕はついて行かないでしょう」
島村は鼻を鳴らした。
「強気になったもんだ。だが世間はそう甘くないぞ」
「寒川会長は広告予算の扱いを全部僕にまかせると約束しました」
「よせよ、佐伯」
島村は血をわけた兄のような態度で微笑した。
「会長はこの件をご存知だったのだ」
「多分そうでしょうね。否定はしません。それでも僕は東《あずま》エージェンシーに残ります」
「なぜだ。泥舟《どろぶね》と判っているのに、一緒に沈もうというのか」
「浮かばせてみせます」
「あほ臭い……よせよせ。俺は君のためを思って言ってるんだぞ」
「島村さんは寒川会長にじかに会ったことがありますか」
「あるさ」
「どうせ百合花《ゆりか》あたりででしょう」
島村は黙っていた。図星《ずぼし》らしかった。
「僕は違いますよ。もっとふところの深いところへ食いついているんです。あんたはせいぜい僕が寒川会長に可愛がられた、目をかけられたくらいに思っているんでしょう。しかし寒川さんは今、僕を嫌いでも、僕を憎んでいても、僕に仕事を渡さざるを得ないんです。相模製薬は必ず東《あずま》エージェンシーのものになります」
佐伯は断言した。いや、自分に向かってそう宣言したのだ。金銭の問題ではなく、人生の問題だと思った。ムラサキイトユリの線をもっと明確にして、あの古狸を身動きできないようにしてやろうと決意していた。パーフェクト・ゲームを成就《じようじゆ》してやろう。勝利をこの手で掴んでやろう……。
「いや、君の気持ちを無視したような言い方になって、俺も軽率だった。このとおりあやまるよ」
島村は佐伯の気迫におされたらしく、神妙に頭をさげた。
「腹も立ったろうが、なんとかひとつ勘弁してくれ」
「許すとか許さんとかいうことではありません。純粋に僕自身の人生の問題ですからね。あなたは行く。僕は残る。わかれ道だったんですよ、ここが」
「困るよ、それは。な……俺が困るんだ。今さら君は来ませんじゃ、どうにも恰好がつかない。さっきも言ったろう。先方じゃ俺より君のほうを高く評価してくれてるって」
「僕にとって太平洋アドはいいライバルでした。今後もライバルとして大切にして行きます。僕は太平洋アドがあるから今日までやってこられたんだ……それをなくしたくない。そう言っていたと伝えてください」
「参ったなあ。こんなことになるとは、今の今まで考えてもいなかったからなあ」
「すみません。さんざんお世話になっておきながら、こんな形でご迷惑をおかけして」
佐伯は他人行儀な言い方をした。島村の額に青筋が浮き、一度もみ消した灰皿の中の煙草を、もう一度つまんでおし潰した。
「そうときまれば、僕も吉岡や淵上たちにこのことを言わなければなりません。それとも、もう言ってあるのですか」
島村は考えこみながらかぶりを横に振った。
「僕同様、彼らも自分で判断するでしょう。行きたい者は行き、残りたい者は残るでしょう」
「なんだ。俺と君の競争になるのか」
「そうではないでしょう」
佐伯はたしなめるように言う。
「あなたのすすめに、僕は僕なりの判断をしました。彼らにもそうさせます。自分で考えろと言います。無理にひきとめるようなことはしません」
島村は拗《す》ねたように、椅子から立ちあがる佐伯をみあげた。
「残るときめた君がそう言えば、あいつらには引きとめられたも同じことになるんじゃないのか」
「どうでしょうかね。子供じゃありません。みな損得の計算はできますからね」
「それにしても、判らんなあ」
島村はため息をついた。
「とにかく、僕はこれで失礼します。大事な電話が入るかもしれませんし」
それは口実だった。佐伯は島村に軽く頭をさげ、階段を降りて通りへ出た。背後で自動ドアがしまり、それが長かった島村とのつきあいの終わりを象徴したように思えた。
その朝から、東《あずま》エージェンシーに混乱がはじまった。噂と臆測、怒りと嘆きが渦をまいた。佐伯がいち早く残留という旗色を明らかにしたにもかかわらず、その混乱の中では信じようとしない者が多かった。
佐伯と島村は堅く結束している……そういう先入観が根強くあるために、佐伯の残留を芝居だと見る者がほとんどだった。経理の津島などはその最たるもので、喫茶店へ誘いだして面と向かって尋ねた。
「な……芝居なんだろう」
「莫迦《ばか》言うなよ」
「いいじゃないか、教えてくれよ」
津島は怯《おび》えているようだった。事と次第によっては自分も身の振り方を考えねばならない、といった様子だった。
「俺が芝居してどうするんだ」
佐伯は閉口して逆に尋ねた。
「知るもんか。俺は君や島村さんみたいな高度な世渡りはできないんだ」
ふざけるな、と佐伯は心の中で吐きすてた。積極的にたたかう。自分の力で生きて行く……なんとか努力してそういう生き方をしているものを、この小心男は処世術と勘違いしているのだ。津島のような男となら、敢然と裏切りを決行した島村のほうが数段まさっていた。
「俺は動かん」
叱りつけるように言うと、津島は驚いて口をつぐんだ。
「利害で動かないのは辻褄《つじつま》が合わんと言うのか。そんなにお望みなら、あんたの帳尻りを合わせるために俺も太平洋アドへ行こうか」
「そんなわけじゃないけど……じゃ、本当に行かないんだろうね。信じていいね」
信じていいね、と疑いの溢《あふ》れた目でみつめた。
佐伯は言いたかった。俺が残るのを、お前はなぜそんなに望むのだ。残ることをたしかめて、何を安心させようというのだ。友人を失いたくないというのか。今までお前は俺をそんなかけがえのない友人だと思ってくれていたのか。いや、少なくとも、会社が無視してはならないほど貢献している社員だと思ってくれていたのか。そうではあるまい。実績を示せば示すほど、古参社員として新参の俺を嫌ったではないか。つねに俺の上位にありたがったではないか。本来ならうろたえるべき立場ではないのだ。仮りに佐伯を含めた島村派が一度に移籍してしまっても、おのれの両足でしっかりと大地を踏み、日々のたたかいを真剣にたたかっていれば、異分子が去ってかえってすっきりするはずなのだ。それなのに、倚《よ》りかかるべき柱が倒れ、居心地のいいねぐらが吹きとばされたようにうろたえている。
それもいい、人それぞれの性分だ。だが、社員が全部いなくなってしまうというわけではない。彼にとって身内同然の、少なくとも同志であるはずの、社長や篠崎たちが残っているではないか。
「でも、頼りにならないよ、篠崎たちじゃ」
さすがに社長とは言わなかったが、津島は当然のようにそう言ってのけた。つまり彼は、彼にとって本来、異分子である佐伯のことも、古い仲間である篠崎たちのことも、どちらも信じてはいないのだ。津島は、自分がまったく信じていない世界に倚りかかり、信じていない壁のかげで風を避けていることになる。佐伯はその醜悪で悲惨な実態に気づくと、自分をほっとするように見なおした。そして、去る決心をした島村は、長い間これを見つづけていたのだろうと、幾分同情気味に理解した。
そうした混乱の渦の中で、佐伯が愛し、誇りにしていた営業第二課も崩壊した。勝負となると、島村は甘えを許さない男だった。佐伯のチームの全員に強引な誘いをかけ、七人のうち四人を引き抜いてしまった。残ったのは吉岡と淵上の二人のデザイナー、それにコピーライターの清川だけだった。もっとも、清川はまだキャリアが浅く、島村もそう強くは引っぱらなかったらしい。
だが、吉岡と淵上という、最も才能のある二人のデザイナーが残留の意志を示してくれたことは、佐伯にとって救いだった。佐伯はその二人に対し、心から感謝した。
「どこへ行ったって食ってはいけるんだ」
二人ともそう言った。
「好きな人の所にいるよ。いずれは佐伯さんとも別れる時が来るだろうけど、まだ今はその時期じゃないものな」
島村の誘いを蹴ったのは、彼らに一本だちしてもやって行けるという自信があったかららしい。
さすがに長谷川社長だけは、佐伯に対する疑いを示さなかった。佐伯のスタッフのほかに、制作部からも三人ほど目ぼしいのを抜き去られ、会社は急拠営業第二課を廃して、佐伯を制作部次長に据えた。前の制作部長は嵐の海を港へ逃げこむような恰好で、喜んで連絡部へ移って行った。佐伯の次長という肩書きは、年齢的なものを考慮したのであって、実質的には制作部長だった。
ただ、そのかわり頼るべき人間を失った社長の長谷川駿太郎は、佐伯を恰好の愚痴相手にしはじめ、社長室へ呼び入れては、くどくどと愚痴をこぼすようになった。
その愚痴から、島村移籍の全容がしだいに明らかになって行くようだった。
問題は、島村がアタックしていた一流自動車メーカーにあったらしい。さる市中銀行の上層部にルートを発見した島村は、その筋から食いこんで行ったのだ。それは佐伯の相模製薬同様、ひとクラス上の島村にとっても乾坤一擲《けんこんいつてき》の大勝負だったのだ。
その進行中、島村は自社の主力取引銀行を、仲介の労をとってくれている銀行に移す必要に迫られた。ところが、長谷川社長の一族で、彼の背後にいる実力者は、現在の取引銀行と深いつながりがあり、長谷川はその実力者を恐れて取引銀行の移動に踏み切れなかったというのだ。
それを社長の口から愚痴として直接聞かされた時、佐伯は去って行く島村のうしろ姿をみたような気がした。
長谷川もまた小器だったのだ。島村の狙っている広告主《クライアント》が来れば、会社の業績は一挙に何段もはねあがるだろう。蔭の実力者といえども、利益を追求する実業家ではないか。堂々と理由を説明して銀行を移せばよいのだ。どれほどの大企業でもあるまいし、大銀行が目の色を変えるほどの預金量でもないはずだ。
だが長谷川はかたくなに固執した。それは自己の一族の長老に対する怯《おび》えであり、合理的なことではなかった。本当は彼が堂々と了解を求めに行けば、その実力者は彼を見なおしてくれることになったかもしれないのに……。
結局、島村はそんなささやかな協力も得られぬまま、自動車メーカーにアタックしつづけていたらしい。多分、悪戦苦闘したことだろう。そしてなんとか曙光《しよこう》を掴みかけた。
成功のきざしが見えたところで、いったい島村が何を考えたか、佐伯には容易に想像できた。彼は多分、その成功の次を考えたに違いない。仕事はそこで終わるわけではないのだ。佐伯はふと自分が島村を裏切ったように感じた。
9 死者の環《わ》
佐伯が、島村と最後に話しあったのは、地下鉄江戸橋駅のプラットホームの中央あたりでだった。そのとき地上は雨が降っており、島村はしずくのたれる傘を手にしていた。
「俺にとっては、雨降って地かたまるというところだ」
島村は傘の先でリズミカルにコンクリートの床をつつき、しずくを切りながら言った。
「長谷川社長がああじたばたしなければ、二ヶ月ほど遊ぶところだった。しかし、こうなればその必要もなくなったよ」
その日、正式に退社の事務手続きをおえた島村の顔には、はじめのうち色濃く漂わせていた策謀の臭いが消え、さっぱりとした落着きが戻っていた。
「それじゃ、あすにでも、むこうの戦列に加わるわけですね」
「うん。こうなったら一日も遊ばんつもりだよ」
佐伯はいかにも島村らしいと思った。
「もうあなたと麻雀もできませんね」
「そうだね」
島村は佐伯と視線を合わせ、穏《おだ》やかに微笑した。
「なあ佐伯」
「なんです」
「万一、会社がどうしようもなくなったら、なるべく早目に若い連中の身のふりかたを考えてやれよ」
「はい。そうします」
佐伯は島村をみつめ返して答えた。感傷のようなものが心の奥に湧きはじめていた。
「吉岡たちのように腕のたつ連中じゃなくてもいい。そうなって制作部員に頼られたら、俺のところへ寄越すといい。その頃までには、俺もむこうで自分の場所を作りあげておく。少しぐらい頼りない奴でも引きうけるよ」
「僕が負けるときめているようですね」
佐伯は微笑を返して言った。もうわだかまりはなかった。
「君に悪いような気がしてるんだ」
「何です、今さら……」
「いや、どうせ佐伯と競争になるのなら、五分五分か、できれば少しハンデをつけてやりたかったよ。俺が太平洋アドをバックにしたのでは、君に歩《ぶ》が悪すぎるからな」
「このほうが勝った時いい気分です」
「こいつ……」
島村は軽く声をあげて笑った。
「島村さんの打ちかたを見習って、ツキを呼びこんでみますよ」
「ああ。頑張ってくれよ」
電車が入って来て、島村は騒音の中で右手をさしだした。佐伯はそれを握りかえした。微笑しあい、島村は電車のドアへ向かった。郊外の、ささやかな庭のついたわが家へ帰って行くのだ。だいぶ前に手に入れた、下が三部屋、二階がふた部屋の建売りで、あちこち一斉にいたみだしてどうしようもないとぼやいていた。長女は中学二年で、その下に男の子がふたりいる。
「奥さんによろしく」
ドアのしまる寸前、佐伯はそう言った。しまったドアの中で、島村は二、三度うなずいていた。電車が走りだし、すぐ半円形の闇の中へ去った。
明日から島村は佐伯にとって最も手ごわい敵になる。佐伯はプラットホームの端に口をあけた半円形の闇を睨みながら、爽快な緊張感を味わっていた。
だが、そのような佐伯の覚悟も、翌日になるとまだまだ甘いものだったことが判った。島村が、相模製薬本社の始業時間ぴったりに、宣伝部へ挨拶に現われたのだ。
今野がかなりうろたえてそれを報らせて来た。佐伯はその電話を切るなり、大声で笑いだしてしまった。その時間に相模製薬の本社へ現われるということは、移籍第一日目の出社前ということになる。
東エージェンシーでは営業会議が始まったばかりで、篠崎が話の腰を折られて不愉快な表情になった。
「どうしたんだ、佐伯君」
佐伯が笑いながら説明すると、みなシュンとしてしまった。
「駄目だな、みんな。みんな一度ぐらいは彼と麻雀したことがあるだろう。彼の気合に押されたら敗けるにきまってるんだ。やり返さなくては駄目なんだ」
「やり返すって、どうやればいい」
「彼は第一日目の出社前に相模製薬へ寄ったんだ」
「今度の会社に対するスタンドプレイだろう」
「いや、違うな。そういうことをやれば、こっちが気合まけするにきまってると読んでるのさ。なめられてるんだよ、俺たちは」
畜生……というつぶやきがあちこちであがった。
「第一、彼が相模製薬を担当するとは限らない。俺は多分、彼は担当しないと思う。彼はどぎついやり方をしても、太平洋アドはまた別だ。あの会社は彼よりだいぶおとなしい。そんなことより、折角、元の営業部長が手本を示してくれたんだ。こんな会議なんか早くやめて、こっちの広告主《クライアント》で彼が挨拶に立ちまわりそうな所へ、逆に先手を打ちに行ったらいい」
社長は立ちあがった。
「そうだ。そのとおりだぞ」
篠崎の部下の一人が気負いこんで言った。
「行ってきます。でもどうやればいいんですか」
「おい、あまりずっこけるようなことを言うなよ。島村はやめて今日から太平洋アドへ参りましたが、相変わらずよろしくお願いしますと言えばいいんだ。決して彼を悪く言ったりするなよ。広告主《クライアント》の中には、それはひどいとかなんとか言うのがいるだろうが、乗っちゃいかん。できるだけ綺麗さっぱりと、いさぎよい態度で言うんだ。そうされるのが、彼にはいちばん困ることなんだ」
佐伯が言い終わると、社長は喚《わめ》くような大声をだした。
「判ったな。出かけろ」
その勢いに煽られて、営業部員たちはかつて見せたことのないキビキビした態度で、我がちに社を出て行った。
あっと言う間に佐伯と二人きりになった社長は、ニヤリと嬉《うれ》しそうに笑った。
「この調子なら、なんとかやって行けそうだな」
佐伯は眉を寄せてその顔を睨みつけた。
「ムードじゃ勝てませんよ。何か確実なテを考えださなきゃ……」
「そうだな」
社長は肩をすくめた。
立場とはふしぎなものだった。島村の立場になってみて、佐伯はしみじみ長谷川社長の人の好さを実感していた。
営業会議、制作部会、企画会議……連日会議ばかりだった。篠崎も非力ながらやる気を見せ、営業部の動きを軌道にのせようと必死だった。制作部次長になった佐伯に、職掌分担の境界をこえて、何かと協力を要請するようになった。
「佐伯さんて、とうとう篠崎さんを追いこしちゃったのね」
そんなある日、昼食に出ると小さな洋食屋のカウンターで隣合わせた女子社員の一人が、憧れるような目つきで言った。
「くだらないことを言うなよ」
「本当よ。このごろ急に立派になったって。みんなそう言ってるわ」
「俺がか」
「ええ。体中がエネルギーでピリピリしてるかんじ」
女は眩《まぶ》しそうな顔で言う。
「よせやい」
佐伯は笑った。だが、実は彼自身もそんな気がしていた。ときどき飛び跳ねたいような衝動に駆られるほど、精気に溢れているのだ。
「でもたまには息抜きしたほうがいいわよ」
触れなば落ちんといった風情《ふぜい》を示し、女は流し目を残して去って行った。佐伯は、ふとこの間の浮気を思いだし、この頃妙にモテはじめたな、と苦笑した。
そのカウンターで佐伯が鮭のフライを食っていると、ひと足先に帰って行ったさっきの女子社員が戻って来て、意味ありげに肩を叩いた。
「何だ」
「電話よ。すぐ連絡してくださいって」
「どこからだ」
「女の人よ。榊原さんだって……、五時半の君《きみ》のことでしょ」
女は好奇心に眸《め》を輝やかせて言った。毎日五時半きっかりに電話をするので、彼女たちはそんな仇名《あだな》をつけていたらしい。佐伯は食事を中途でやめ、素早く勘定をしてとび出した。女がうしろから大声で何かからかっていたが、ろくに耳へ入らなかった。
「何かあったのかい」
社へ戻って大急ぎでダイアルをまわした佐伯は、緊張した声で言った。
「朝刊お読みになった……」
紹子の声もそれにおとらず緊張していた。
「ざっと目は通したが」
紹子は自分が読んだ新聞名を言った。佐伯が目を通したのと違っていた。
「あれ以来、テレビのニュースや新聞に気をつけていたんです。とにかく今朝のを読んでもらえれば判りますけど、この間うちへ訪ねて来た不動産屋さんだと思うんです」
「埼玉の……」
「ええ。殺されたそうです」
「なんだって」
「新聞に出ています。とにかく読んでください。私なんだかこわくて……」
「じゃあ一度電話を切って待っていなさい。すぐかけなおすよ」
「はい……」
乱暴に受話器を戻すと、佐伯はあわててその朝刊をひろげた。
たしかにあった。埼玉県児玉郡児玉町の不動産業者茂呂儀平が、大宮市の新興住宅地の路上で刺殺体となって発見されていた。記事には、不動産取引のもつれか、という見解があった。犯人はまだ不明、被害者が何の用でそこへ行ったのかも調査中だった。
佐伯はすぐ電話をかけなおした。
「見たよ。間違いないね」
「どうしましょう」
「心配することはない。君に関係はないから」
「でも、一度たずねて来た人ですし」
「あれからだいぶ日がたっている。安心しなさい」
「気味が悪くて……また来ていただけます」
「うん。じゃ、今日行くよ。また君の料理をご馳走になりたいな」
安心させるためもあったが、佐伯はあれ以来ずっと機会を待っていたのだ。紹子は少し明るい声になり、
「ええ、それじゃ用意してお待ちしてます」
と答えた。
電話が終わると、佐伯はあらためて新聞を読みなおしながらつぶやいた。
「畜生、あのくそ狸。今にみてやがれ……」
百合園の中の寒川を思いだしたのだ。なんとしてもあの約束を守らせねばならなかった。それが東エージェンシーを救い、笠原を発見して紹子を幸福にする唯一の道だと思った。
「おい島村さんよ。こっちにツキがまわって来たらしいぜ」
佐伯はまたつぶやいた。その記事が、寒川正信という古狸のしっぽに思えた。
直感だった。
茂呂儀平の死の裏に寒川正信の顔がある……むろん寒川ほどの地位にあれば、そのようなことに直接関係するわけはないが、間接的にはどこかでつながっているはずだ。佐伯はそう思い、胸を躍《おど》らせた。
いま、相模製薬で何かがうごめいているのだ。ほんのきれっぱしでもいい。それを暴《あば》きだして寒川正信につきつけてやるのだ。島村も、太平洋アドも、このことだけは関知していないのだ。ひょっとすると警察でさえ、茂呂の死と相模製薬を結びつけることは困難なのかもしれない。
あの百合園で一度手ばなした切り札が、また自分のところへ廻って来た。佐伯はその早さが嬉しかった。ツキは去っていないのだ。なんとかして、もう一歩だけ踏み込めればいいのだ。
相模製薬は依然として結論をだし渋っている。百合園での約束を、もう一度寒川正信に言いだしてもいいのだが、その間自分のほうには島村の移籍という失点があった。状況が違ったと言われればそれまでだし、島村の件を企業経営という点でとがめられれば、いっそう具合が悪かった。寒川はあのとき、宣伝などどの代理店に扱わせても大差ないと言ったが、それには「一応の水準に達してさえいれば」という但し書がついていたのだ。専務をライバル会社に引き抜かれたというのは、その但し書きに抵触《ていしよく》しそうだった。
だがこれで事態は変わった。それをとがめられても相殺《そうさい》できるだけの、新しい要素が加わったのだ。こうなれば堂々とあの時の約束の履行《りこう》を迫れる。
東エージェンシーの救世主になってやる。島村に苦汁《くじゆう》を飲ませてやる……佐伯は立ちあがり、精いっぱい伸びをした。
その時、また電話が彼を呼んだ。
「何だ、君か」
「何だ君か、じゃありませんよ」
電話は今野からだった。
「どこにいるんだ。ずいぶんやかましいな」
電話の声は高いギターの音にかき消されそうだった。
「おたくの近くの喫茶店まで出て来てるんです。会ってくださいよ」
「よし判った。どこだい」
今野は喫茶店の名を告げた。佐伯は電話を切ると、デザイナーの一人に行先を教えて、東エージェンシーを出た。
それはいつか島村と険悪な話合いをした、昭和通りの向こうにあるデパートの横の店だった。
「僕の身にもなってください。島村さんが太平洋アドへ移ったのでは、僕が今まで何をやってたか筒ぬけじゃありませんか。責任とってくださいよ」
今野は本気で憤《おこ》っていた。佐伯は今野の怯《おび》えを笑った。
「島村さんは言いやしない」
「どこにそんな保証があるんです」
「そりゃ、はた目には少々うす汚なく見えるかもしれないが、移籍には移籍のルールがある。それを破ったら、男じゃなくなる」
「男……」
今野は聞きなれない言葉を聞いたように、ひどく疑わしそうに問い返した。
「そう、男だ」
「やくざじゃあるまいし」
「彼は男だよ。信用してやってくれないか」
「佐伯さんは島村さんに腹をたててないんですか」
「たてたさ」
「じゃ、どうして……」
「もう済んだ」
「判らないな。一緒に太平洋アドへ移るのならとにかく。これで敵味方でしょ」
「そうだよ。たしかに彼は何をやらかすか判らない男だが、君のことなんか喋りはしない。そこまで腐っちゃいないよ。いや、むしろそういうことをペロリと喋っちまう人間だったら、あんな図々しい移籍の仕方なんかするもんか。はじめからどこかの代理店にへばりついて、年功序列のぬるま湯にひたっているよ」
「そういうもんかなあ」
「そうだよ。君もここらで男の見方を憶えとくんだな」
「男か……」
今野は、あいまいな、やや自嘲の混った表情を示した。年功序列のぬるま湯と言われ、何か思い当たったらしかった。
「ところで何か変わったことはないかい」
佐伯は話題を変え、相模製薬の内部について尋ねてみた。
「東《あずま》エージェンシーにいたデザイナーがふたりほど、うちの担当スタッフに加わりましたよ。島村さんについて行ったんですね」
「そうだ。ほかには……」
「次期の計画はペンディングになったままだし。特に変わったことってないですね」
「何でもいいんだよ。たとえば工場を拡張する計画とか、新しいセクションができるとか……」
佐伯は今野の表情を観察しながら並べたてた。
「社長か会長が特に変わった行動をしたとか、土地を買ったとか、新薬が出そうだとか」
新薬のところで今野の表情が動いた。
「どうした。新薬の動きがあるのか」
「いいえ」
今野はケロリとして答えた。
「実はこれから中野の研究所へ行くんですよ。きのうも行って来たんです」
「何の用でだい」
「社内報ですよ。いつもの……」
今野は宣伝部で社内報の一部を担当していた。
「来月は開発部を中心にするんでね。社内報なんて、すぐネタ切れになるから参っちゃいます」
相模製薬の開発部は中野に独立した研究所を持ち、各国の文献、資料を集積調査する調査課をはじめ、開発本部、開発課、薬理研究課、試験課などに分れている。
「そうか。新薬が動いていれば、研究所へ行くとすぐ判るな」
「とんでもない」
今野は佐伯の無知を嗤《わら》った。
「あそこは新しい薬を作るのが仕事ですからね。そういうことはのべつ動いてますよ。行ったって判るもんですか」
「いや、そうでもないさ。君と俺とでは立場が違う」
「判りっこありませんよ。こうみえたって僕は専門家ですよ」
「そうかなあ」
「変わった動きなんかありませんよ。交通事故で死んだ奴がいるくらいかな、変わったことと言えば」
「死んだ……」
佐伯は自分の表情が堅くなったのを意識した。
「ええ、ついきのうのことです」
「どこで」
「休暇をとって千葉のほうへ遊びに行ってたらしいんです。そこでやられましてね」
「なんだ」
佐伯は緊張をといた。
「そいつ、僕と同期なんです。でも大変な秀才でね。薬理研究課へまわされたんですけど、学問的な頭脳というのは、実生活では余り役にたたないんですかね。本当は開発部あたりでバリバリやれる力があったんですがね」
今野は惜しむように言った。
「どうだい。これから行くんなら、一緒につれてってくれないか。久しぶりにのぞいてみたいんだ」
「そりゃ、僕と一緒なら見学はかんたんにできますが」
中野研究所なら宣伝関係者の目もないし、今野は気軽に引きうけてくれた。
今野の仕事は、研究所にある開発本部の部屋へ行って、きのう依頼してあった社内報用の原稿を受け取るだけだった。彼はそれを入れた茶色い封筒を手に、三棟ばかりある低いコンクリートの建物の内部を、佐伯と一緒に歩きまわってくれた。どこもここも薬品の臭《にお》いがたちこめているだけで、佐伯の勘に訴えてくるものは何もなかった。
「だから言ったでしょう」
今野は佐伯の無駄足をからかいながら、最後の建物へ入って行った。
「ここは調査課と薬理研究課です。調査課はちょっとしたもんですよ。マイクロ・リーダーとか、そのほか最新式の事務機が揃《そろ》ったばかりですからね」
「こっちは事務機メーカーの広告もやっているんだ。珍しくもないよ」
佐伯は今野がドアの中へ入りかけるのをとめて廊下を進んだ。
「そこが薬理研究課です。調査課でひっかかったものの中から、疑問や興味のあるものを実際にとりあげてみるセクションですよ。そこで何か発生すれば、開発課へまわします。どっちにしろ、いちばん無駄骨の多い役どころで……」
課員の数も少なく、部屋も小さいようだった。佐伯は廊下のガラスごしにその中を眺めた。
「ふうん……」
つまらなそうに言い、素通りして歩きかけたが、何かがひっかかって足をとめた。
「なんです。何かありましたか」
今野が言った。佐伯は二、三歩あと戻りをし、もう一度中をのぞいた。
「待ってくれ……」
佐伯は生つばをのみこんで言った。高鳴る胸をおさえ、今野に昂奮を気どられぬよう、しばらく呼吸を整えていた。
「交通事故で亡くなった人がいると言ったね」
「ええ」
「その男のデスクを当ててみようか」
今野は佐伯よりだいぶ背が低い。それが佐伯の隣に立って背のびをし、同じように中をのぞいた。
「ほんとですか」
背のびをやめて佐伯の顔をみつめる。冗談だと思ってニヤニヤしていた。
「あの紫色の花が置いてあるデスクだろう」
今野はそう言われて、もう一度背のびしてのぞいた。
「あの赤いガラスの花瓶ですか」
「そうだ」
「入って聞いてみましょうか。でも当たったらどうします」
「同期だったんだろ。形見に押花《おしばな》にするとかなんとか言ってもらって来てくれ」
「外れたら……」
「この間の彼女の所へ、ホテル代つきでどうだ」
今野は舌をだして照れた。
「やだな……でも本当ですか」
「賭けよう」
「よしきた」
今野はドアをあけて中へ入って行った。白衣を着た男に何か言い、デスクを指さしている。相手がうなずくと、ふり向いてガラスの外の佐伯へ驚いたような視線を送り、花瓶に手をかけて白衣の男にまた何か言った。男が答え、今野は花瓶から紫色の花を抜くと、左手に持ちかえて出て来た。
「当たりましたよ。驚いたな」
差しだした花は、ムラサキイトユリだった。佐伯はそれを受け取る手の指が、こまかくふるえているのを感じた。
「どうして判ったんです。僕だって彼のデスクかどうか知らなかったんですよ」
出口へ向かいながら今野が言う。
「この花がなんとなく淋しそうだったからさ」
「なんだ……」
そんなことか、と今野はがっかりした表情を見せた。
「どこでやられたんだね」
「青木ですか」
「青木というのか、この花の持ち主は」
「ええ。おとなしい真面目な奴でしたよ……。そう、香取《かとり》神宮へ遊びに行ったらしいですね。あのお宮のすぐ近くで車に跳ねられたらしいんです。それが、轢《ひ》き逃げなんですよ。悪いドライバーが多いですからねえ」
佐伯は手早くハンカチでムラサキイトユリをつつんでいた。
「どうするんです、その花」
「別に。持って帰ってデスクに飾っとくか」
「縁起《えんぎ》が悪いですよ」
「物は考えようだ。この花は一度|死運《しにうん》を吐きだしてしまっている」
「あ、そうか」
今野は無邪気に感心した。
「これでツキがまわったら、さっきの約束を果《はた》そうじゃないか」
芝生の間の道を門のほうへ向かいながら、佐伯は一刻も早く研究所を離れたいと思っていた。
「ホテル代つき、って奴ですか」
今野は笑った。
「そうだよ。あの晩がはじめてか」
「ええ。いい子だったでしょ」
「まあまあだな」
佐伯はうわの空で答えた。
研究所を出ると、佐伯は寄る所があると言って今野を国電の駅へ追いやり、自分はタクシーを拾った。車のシートに納まると、一度に抑《おさ》えていたものがふきあげ、膝がしらが震えはじめるほどだった。
やはり、ムラサキイトユリが関係していたのだ。いろいろな事柄が、次から次へと結びつきはじめ、車がどこを走っているのかさえ気づかなかった。
まず第一に、寒川正信の百合園が、やはりムラサキイトユリと関係があると確信した。これまでは臆測《おくそく》の域を出なかったが、相模製薬の社内に、それも基礎的な問題を解明するセクションにこの花があった以上、関係なしと考えるほうが無理だった。
とすると、第二番目に不動産屋の茂呂儀平の死が浮かびあがって来る。佐伯の所へ来たとき、茂呂は笠原隆志が手付金を打った畑の利用法に疑問を示していた。あの時茂呂はそれを知っていてとぼけたのではないだろうか。そう言えば、わざわざ紹子のマンションから佐伯の会社までまわって来るのも、ご苦労千万な話だ。たしかに手付金が流れれば商売にならぬだろうが、あのタイプの男なら、高飛車に電話で怒鳴りこんでくる程度ではないだろうか。
その茂呂とほとんど同時に死んだ青木という薬理研究課員には、他殺の疑いが濃い。轢き逃げというのが臭《くさ》いし、刺殺された茂呂が畑の利用法……すなわちムラサキイトユリの栽培を知っていたとすれば、青木はさらにその上をゆく成分の秘密に関与していることになる。茂呂を殺《や》る必要があれば、当然、青木も殺《け》されるに違いない。
笠原と檜前《ひのくま》善五郎は、その秘密の発生源と言ってもいい位置にいたのではないだろうか。だから檜前《ひのくま》老人が殺《ころ》されると、笠原は身の危険を察していち早く姿を隠した。紹子《しようこ》の身辺に近づかないのも、彼女に累《るい》が及ぶのを恐れてだとすると、充分に納得できる。
檜前《ひのくま》老人が射殺された夜の寒川正信のうろたえようは、どう考えても襲われる側のものだ。とすると、寒川は狙われこそすれ、この一連の殺人事件の加害者側ではあるまい。笠原の土地の件を知らなかったことを考え合わすと、笠原たちから秘密を入手している段階で破綻《はたん》が生じ、それきりになったと見てよさそうだ。
つまり、笠原と檜前《ひのくま》老人は、寒川正信を通じてムラサキイトユリの秘密を、相模製薬に売りつけようとしていたようだ。そして寒川は、その秘密を入手することで有利な立場に立ち、会社の経営権をとり戻すことができる……一度追いだされ、名目だけの会長に納まったのが、ふたたび社長に復帰できるのだ。
佐伯はそう考え、これからしなければならないことが山積しているのに気づいた。
おとなしい秀才だったという青木は、いったいどこで寒川正信とつながるのだろう。それを調べねばならない。
茂呂がなぜ大宮へ現われたのか、それも知らねばならない。ということは、同時に香取神宮の傍で死んだ青木についても、そこへ行った理由を解明する必要がある。
相模製薬の内紛についても、もっとくわしく知らねばならないが、それは例の業界誌の高浜に当たればかんたんに判るはずだ。
そして最後に、この花が青木のデスクへ、どういうルートで現われたかだ。大して長くはもたないというムラサキイトユリが、こうしてまだしおれずに咲いているのだから、どこかで栽培されているのは間違いない。その場所をつきとめることが、この事件の全容を掴むことになるのだろう。ひょっとすると、笠原はこの花の咲いている場所にかくれているのかも知れなかった。
紹子に土産《みやげ》ができた……。佐伯はそう思った。砂時計やチョコレート・キャンデーなどという子供だましなものより、ずっと紹子がうれしがってくれる土産だ。
佐伯とムラサキイトユリをのせたタクシーは、新宿をすぎ、四谷を抜けて半蔵門を右折していた。その中で佐伯は、三人の死者がひとつの環《わ》をつくっているのを感じていた。
10 外側の道
佐伯はコピーライターの清川が運転するライトバンに乗って、香取神宮へ向かっていた。
よく晴れた朝で、バックシートには、標準レンズをつけたブロニカと、広角レンズをつけたニコンが置いてあり、それにモノクロフィルムが何本か、ひとまとめにゴムバンドでくくってあった。
ロケハンに行く、ということになっていた。ロケハンは本来カメラマンとデザイナーの仕事であるように思われている。だが、一概にそうきめてかかることはできなかった。結局は、どの技術者が行くかというより、どんな人間が行くかということだった。
佐伯のやり方は、ロケハンの段階で、コピーライターを重視していた。なぜなら、コピーライターには、その企画の全体像が、いちばんよく理解できているからだった。
もちろん、コピーライターには絵が判らない。しかし、絵を作ることにかたよりすぎて、意味を失ってしまうよりはずっとよかった。単に景色のいいところへ行くのではなく、商品の説明と画面の美的構成が折り合える接点を求めに行くのだから、こまかいアングルではなく、大まかな背景の中で、探せば美しい画面を求めうるような地形を考えればいいのだ。その地形の枠がきまったら、カメラやアート・ディレクターを投入すればよい。
もっとも、単に山の緑とか、海の青とかを求める場合はその限りではないし、アートディレクターたちが正確に意味をとらえてくれていれば、彼らをロケハンに出してもいっこうにさしつかえない。
とにかく、そういうわけで佐伯は今までもたびたびロケハンに出たから、車を調達して急に出かけても、どこからも文句はでなかった。まして今は全社の制作物を預かる責任者で、どの仕事のロケハンなのかさえ、誰も知ろうとはしなかった。
佐伯は睡《ねむ》くなるような助手席の暖かさの中で、昨夜のことを思い返していた。
笠原の手がかりが掴めそうだと言うと、紹子は泪《なみだ》ぐまんばかりによろこんでいた。だが、それが茂呂儀平の死に関連してだと判るとひどくうろたえ、調査する佐伯の身に危険はないのかと、くり返し心配した。
危険はないのだと説得しながら、佐伯は幸福だった。今や彼は、笠原隆志と同じくらい、紹子にとって重要な人物になっていたのだった。彼女に頼られ、彼女を保護するということが、佐伯にはこの上もない喜びをもたらすのだった。
そのあとの食事は、いっそう楽しかった。紹子は料理の説明に熱中し、そうやって物哀しいかげりを忘れ去ったときの表情は、うっとりするほど清らかで愛らしかった。
もちろん料理は、期待にたがわぬ傑作だった。仕度がまるでままごとじみているくせに、味だけはどんな高級なレストランの料理よりもコクがあり、美味だった。
それを紹子に言うと、彼女は恥ずかしそうに口ごもりながら、それなりの説明を加えた。
どんな名コックにも、得意なものと、比較的|得手《えて》でないものがある。だが、プロである以上、メニューに並べたものは、注文どおり作らねばならない。いちいち店へ出て行って、こちらのほうが私は得意なのですとは言えないのだ。
その点、ある特定のものがうまく作れるアマチュアのほうが、料理人としてはずっと幸せではないかと言うのだ。その得意な料理を、どこまでも掘りさげて行くことができるからだ。
「フランスのある有名な料理人が言ったそうです。お金を払って食べる料理に、本当の料理はあり得ない。だから、もし本当の料理が食べたかったら、私の友人になりなさい。そうしたらあなたを自分の家に招待して、この世でいちばんおいしい料理を、ひとつだけご馳走します……」
紹子はそう言って微笑した。万事控え目でひよわな感じの彼女が、その時だけは実に堂々とした、自信たっぷりな主婦に見えた。
これは芸術家だ……佐伯はそう思いながら眺めていた。
「案外すいてましたね」
千葉から国道五一号線へ入ると、清川はそう言って佐伯の回想を中断させた。
「そうだな。でも、午前中の下りなら、いつもこんなものじゃないか」
上り車線の方が、車の密度が濃かった。
「いったい、広告主《クライアント》はどこですか」
「まあいい。黙ってつれてってくれ」
佐伯は笑って胡麻化《ごまか》した。なにも教えてはいないのだ。
「当ててみましょうか」
「うん」
「相模製薬でしょう」
「ほう……どうしてそう思う」
「当たったんでしょ。だって、佐伯さんの意気込みが全然違うもの」
「そうかな」
「けさは怖《こわ》いくらいでしたよ。それでなくても、近ごろの佐伯さんは人が変わったみたいに迫力が出て来た。僕だけではなく、みんなそう言ってます」
「女の子たちか……」
「いいえ、みんなですよ。嫌だな、自分じゃ気がついていないんですか。会議の時だって、佐伯さんが何か言いだすと、みんなしんとして聞くようになったでしょう。そればかりか、あなたの顔色ばかりうかがってる」
「やれやれ」
佐伯はがっかりしたように言った。
「それだけわが社から骨のある人材が減ったということさ。島村さんがいてくれれば、こんなことになりはしなかったろう」
「どうしてですか」
「多少は俺にそういう雰囲気がでたかもしれん。だがそれは立場が変わったせいだ。島村さんがいた位置で俺がものを考えなければならなくなったせいだ。だが、残念ながら俺にはまだ島村さんほどの器量はない。……この程度の人間に気押《けお》される社員ばかりじゃ、長谷川社長も気の毒なもんさ」
「ついて行った連中は今ごろどうしていますかねえ」
清川は懐かしむように言った。吉岡や淵上も、今では制作部でそれぞれひとつのグループを預かっている。元の営業第二課はばらばらに散ってしまっていた。
「そうだな。……ま、いいさ。もう少し待っていろ。そのうち俺がすばらしいチームを作ってやる。気の合う腕のいいのが集って、好き勝手な仕事ができる奴をな」
そうだ、あれと同じようなチームを作りだしてやろう。佐伯はそう思った。
佐伯も清川も、そのあたりの地理にはうとかった。佐原市内を抜けて香取神宮の前へ出ると、佐伯は一度大ざっぱに神宮の外側をまわってみることにした。裏手には国鉄成田線が走っており、ロケ地としてはさしてとりえのある場所ではなかった。
「何を探しているんです」
清川は運転するだけで手伝えないのが残念らしく、しきりにそう言って企画の説明を要求した。
「案外だったな。もっと恰好のいい森かと思ったんだよ」
「森をバックにしたいんですか」
「そうだ」
佐伯が適当なことを言って胡麻化している内に、車は最初の参道のあたりへ戻ってしまった。
「あの辺で昼飯にしよう」
どこの門前町《もんぜんまち》にもある、土産物屋を兼ねた古くさい食堂を指さして言った。参拝客の姿もほとんど見えず、閑散としていた。
近くの駐車場にライトバンを置き、二人はカメラをぶらさげて、その貧弱な食堂へ入った。
「おばさん。飯は何ができるの」
所在なげに店番していた中年の女は、急に愛想のいい笑顔になって、
「いらっしゃいませ」
と節をつけた挨拶をした。
「あんまりうまそうじゃねえな」
清川が首をすくめた。通りのすぐ向こうに、もう少しマシな店が見えていた。
なめこ汁つき親子丼という、土地柄も何もない妙な組合わせの昼飯を注文し、黄胆《おうだん》の疑いがある、と言った程度にほんのり黄色い出がらしのお茶を飲んでいると、
「あんたがた、雑誌の人だろう」
と中年の女はいけぞんざいな尋ね方をした。カメラをぶらさげていたし、どう見ても参拝客には見えない風体《ふうてい》だった。
「どうして判ったね」
佐伯はしめたと思いながら、さりげなく言った。こんな店を選んだのも、気さくに喋ってくれそうな感じだったからだ。
「ほら……そうだよ、やっぱり」
女は大声で奥にいる誰かに言った。
「轢き逃げがあったものね。あれ、本当は轢き逃げじゃなくて、よそで殺して抛《ほう》りだして行ったんだって……」
佐伯は意味ありげに目を剥《む》いて見せた。
「そうだろう。きのうもね、新聞社が何人もこの辺りを聞いてまわったそうだよ」
清川は親子丼を食いながら、佐伯の顔をみた。
「何のはなしですか」
佐伯はわざといたずらっぽく笑った。
「俺にもよく判らない。何か勘違いされているらしいな」
いかにも女をからかっている、というように、わざとらしく尋ねた。
「現場はどの辺かね。これから行くんだが」
「この道をまっすぐ行ってね……」
女は待っていましたとばかり、店の前へ出て大声ではじめた。清川はおかしそうに忍び笑いをしている。
それで調子づいてしまった女の、際限もない噂ばなしにあい槌を打ちながら食いおわると、佐伯は面白がっている清川をうながして店を出た。
「そこへ行ってみようか」
「ええ。どうせ無駄足だったようですからね」
清川は一も二もなくついて来た。
言われた場所は、香取神宮の南側に当たる。ほぼ国鉄の線路と平行に走る舗装道路だった。どこへ抜ける道か知らないが、歩道と車道の区別がなく、左側は農地が続いていた。
その農地へ入りこむ土の道の入口の角に、まだいきいきとした小さな花束が置いてあった。付近の人が供えた弔花《ちようか》らしい。
「この道の入口に死体が転がっていたわけだな」
大型トラックがたてつづけに通りすぎて行った。清川は報道カメラマン気どりで、ブロニカのファインダーをのぞきこみ、シャッターを切るとフィルムをまきあげてまた狙った。
佐伯は土の道へ入って行った。両側は畑だった。そして、その前方の右側で、何かが光っていた。
ビニール・ハウスだった。陽光を浴びたビニールの屋根が、風を受けるたびにかすかに息づき、鈍《にぶ》い反射光を動かすのだった。
佐伯は足を早めた。
「百合だ……」
人けのない畑の道で、佐伯はしぼりだすような声で言った。
ニコンを構え、夢中でシャッターを切った。モノクロであることが惜しかった。ビニール・ハウスの中には、斑《ふ》の入った百合や、純白の百合が吹き乱れていた。ただ、ムラサキイトユリだけは見当たらなかった。
「佐伯さあん……」
清川が呼んでいた。夢中でビニール・ハウスのある畑へ入りこんでいたので、姿が見えなかったのだ。佐伯は急に身の危険を感じた。誰かに見られたら、今度は自分が狙われるかもしれなかった。
あわてて道へ戻り、清川のところへ駆けて行った。
「何してたんです」
「小便……」
そう答えて来た道を歩きだした。
「いい天気ですねえ」
清川は空を仰いで深呼吸した。
「帰るか」
「そうですね」
それっきり二人は黙りこんで歩いていた。清川にとって、今日は退屈きわまる一日だったに違いない。
だがそのとき、佐伯は叫びだしたいような烈しいショックを感じていた。目の前に香取神宮の森が見えているのだ。そして背後には百合の温室がある。
三人の死者が形づくった環《わ》の上に、もうひとつの環が重なったのだ。
寒川神社と寒川正信の百合園、香取神宮とあの百合のビニール・ハウス。そしていつか三笑亭小つぶが言っていたこと……笠原とはじめて会ったのは、大宮の百合畑だった……そうだ、大宮には氷川《ひかわ》神社があるのだ。小つぶはきっと、氷川神社の近くの百合畑で笠原を見たに違いない。
大宮へ行かねばならない。小つぶをつれて……。佐伯は西の空を睨んだ。氷川神社、寒川神社、そして香取神宮。いったいどうしたというのだ。何が始まっているのだ。
あくる日の十時すぎ、三笑亭小つぶは会社中に愛嬌をふり撒《ま》きながら、佐伯のデスクへやって来た。
尻をまくったような、その徹底したサービスぶりに苦笑しながら、佐伯はデスクの前の椅子をすすめた。
「今日はどうだ、夕方まで時間があるかい」
「夕方までだろうと来年までだろうと。なんならおたくへ住みこんじゃう」
小つぶはあたりに聞こえるように大声で言い、周囲に笑い声が立つといっそう調子にのった。
「いいですよ。もうすぐお昼休みでしょ。結構ですねえ、一席やらせていただきましょうよ。あたしゃ、この机の上へあがらしていただいて、ええ毎度ばかばかしいなんてんで……みなさんはそちらでお弁当を。鮭の切身かなんかで」
佐伯は閉口して手を振った。
「そいつはこの次でいい」
「へえさようで。それじゃ踊りかなんか軽く一発……」
「よせよ。真面目な話で、ちょっと一緒に行ってもらいたい所がある」
「ようっ、お供いたしましょう。スポンサーのご接待で料亭かどこか」
ふざけながら、小つぶは急に探るような目付になった。
「おや、そうじゃない。なんだか本気みたい……やだな、そうこわい顔しちゃ。わたしゃおまんまのこわくなったのと旦那のこわくなったのが大嫌いなタチでして」
声をだんだんに低くし、女の子が気をきかして運んで来たお茶に手を伸ばした。ゆっくりと含み、上目づかいで佐伯を見た。
「大した用じゃない。大宮までだ」
「大宮……」
と眉を寄せる。
「案内してもらいたいんだ」
「どこへです」
「いつか言ったろう。笠原とはじめて会ったのは大宮だって……」
「ああ……でも三年も前の話ですよ。憶えているかなあ」
「とにかく行こう」
佐伯は立ちあがった。
「電車のほうが早いだろう」
「ええ、でも大宮の駅から一キロちょっと歩く感じですよ。氷川神社の裏あたりでしたからね」
「やっぱりそうか」
「やっぱりって……そうか、笠原さんを探してるんですね」
ビルを出た佐伯は歩道橋を渡り、タクシーを待った。
「例の薬屋のコマーシャル、どうなったんですか」
小つぶは芸人の声でなく言った。
「悪いな。先方の都合で少しのびているんだよ」
「遅れるのはいいんですが、必ずやらせてくださいよ。あそこの会社のならテレビに写る回数も多いし、あてにしてるんです。このあたりでいいかげんに二ツ目からぬけ出さないとね」
彼にとって相模製薬は金銭ではないのだ。CMがヒットすればテレビ、ラジオの仕事も自然ふえる。なんとなく格があがり、真打の声もかかりやすくなる。キャリアの点では充分すぎるほどの小つぶなのだ。
「そうだよな。少し二ツ目が長すぎたな」
「嫌なこともあるんですよ、これで……」
小つぶは溜息まじりに答えた。
幸い足立《あだち》ナンバーの空車が拾えて、運転手は機嫌よく二人を乗せた。
「まん中へ連れこまれちゃどうしようもないですよ。朝っから抜けだそうとしてたんだけど、マが悪くて今までかかっちゃってね」
運転手は気やすく小つぶに話しかけている。テレビCMにも何度か出たし、大喜利《おおぎり》ものの番組で、座ぶとん運びのような役をレギュラーでやっているから、もう顔は充分に売れている。
小つぶはまた芸人の顔に戻って、運転手にそつなく愛嬌をふり撒《ま》いていた。
道路は混んでいて、メーターはどんどんあがって行く。だが、運転手は小つぶと駄洒落《だじやれ》のとばし合いに夢中になっていて、その渋滞を楽しんでいるようだった。佐伯はうとうとしはじめ、何度か短いあいだ睡《ねむ》ったようだった。
昨夜は寝苦しかった。
神社の傍《そば》に百合がある。百合のある神社の傍に死体がある。香取《かとり》、氷川《ひかわ》、寒川《さむかわ》……いったいどういうことなのだ。偶然の一致か……それをたしかめに、いま小つぶをつれて大宮へむかっているのだが。
うとうとと、そんなことを考えていたが、佐伯はふと何かアイデアのようなものに刺戟されて目をあけた。
「いまどこだ」
「え……睡ってましたね。産業道路へ入ったんですよ。さっき蕨《わらび》を通りすぎて、もうすぐ浦和です」
小つぶは佐伯に教え、
「うなぎ屋があったよな、この辺に」
と運転手へ言った。
「あるよ。左側だ」
運転手の声を聞きながら、佐伯はまた目をとじた。……何のことだったろう。そうだ、塩谷秀夫《しおやひでお》だ。作家の塩谷秀夫のことだ。佐伯は二年ほど前に会った、背の高いきつい目をした男を思いだしていた。
塩谷秀夫は推理作家として知られている。かなり上背のある佐伯より、さらに十センチ以上背が高く、その分だけ実際の肉づきより痩せた感じに見える。すまいは阿佐ヶ谷《あさがや》にあり、佐伯は伊豆の別荘分譲地の仕事で知り合ったのだった。
あの作家に、神社のことを尋ねてみよう。佐伯はそう思った。
広告《アド》マンをやっていると、ありとあらゆる商品を知るようになる。その中でも、不動産関係の広告づくりは、よく考えてみると最も奇妙な仕事のひとつだ。
マンションにせよ、分譲地にせよ、広告を用意する時点では実体がないのだ。竣工《しゆんこう》してから、造成が終わってから、というのでは、発売広告の間に合わない。宅地など、まごまごすると狸でも出そうな様子の段階でパンフレットを作りはじめる。
商品が示せないから、自然に背景地の説明に重点が移る。道路、交通、景観、文化施設、名勝、神社仏閣……そういうものにおんぶせざるを得ない。
伊豆の分譲地のとき、歴史や風土を解説するのに、作家の塩谷秀夫が起用されたのだった。そのとき、彼は三島神社の由来から、遠い古代にそのあたりに住んでいた人々のことまで、驚くべき博識ぶりを示したのだった。とりわけ、各地にある古い神社が、なぜそこにあり、どうしてまつられて来たかという話は、佐伯の頭に強い印象となってこびりついていた。
寒川神社と香取神宮の経験から、佐伯は目的の氷川神社へつくと、すぐにその外側の道をえらんで歩きはじめた。あまり神社から遠のいても意味がないように思った。
「参ったなあ、これは」
小つぶは嘆声を発していた。
「三年のあいだに、まるで変わっちゃってますよ。もう少し畑みたいのがあったような気がするんだけどなあ」
「百合畑があったんだろ」
「ええ」
小つぶは自信なさそうに首をふる。
「でも、ちっぽけな畑でしたからね」
「そこに笠原がいたんだったな」
ゆっくりと歩きながら尋ねた。小つぶは記憶をよみがえらせる手がかりをみつけようと、キョロキョロしながらついて来る。
「作業服着てたんですよ。そこんとこはよく憶えてるんですが」
「どんな作業服……」
「木綿のね。ほら、工場なんかでよく着てる奴ですよ。カーキ色の。上はジャンパーになってて。だから畑の人かと思ったんです」
「畑の人……」
「百合の面倒をみる人ですよ」
二人は氷川神社|境内《けいだい》の入口にある神社会館のあたりから、左まわりにその外側を歩いていった。道はすぐ、かなりの広さの駐車場につきあたり、その左前方に官庁らしい建物が幾つか並んで見えている。
「こんな場所じゃなかったようだな」
小つぶは首をひねった。
さらに進むと、その官庁らしい建物は、簡易裁判所や検察庁だと判った。
「違う。こっちじゃありません」
小つぶはようやく自信のある言い方をしはじめた。
そこはすでに氷川神社に隣接した大宮公園で、佐伯はバレー・コートと瓢箪《ひようたん》池の間の道を突きぬけたとき、目ざす場所はどうやら神社の右外縁部だったらしいと思いはじめていた。足をはやめ、文化会館やスポーツ・センターの横を、池ぞいに反対側へ向かう。
「あの電車は東武《とうぶ》野田線のはずだろ」
「ええ」
小つぶはうしろをふりかえりながら答えた。
「あの線路のむこうっかたは、盆栽町《ぼんさいちよう》とか植竹町《うえたけちよう》とかって、盆栽に凝《こ》ってる連中がよく行くんです」
小つぶは仲間の名をふたり三人あげた。
「そうか。するとこの辺で百合なんかを作っていても、別にそうふしぎということもないわけだな」
「この大宮公園てのは、もと氷川神社の森だったそうですね」
「あ、そうか……」
小つぶに言われて、佐伯は歩きながら何度もうなずいた。
やがて野球場とサッカー場にはさまれた道へさしかかると、小つぶは、二、三度匂いを嗅《か》ぐように鼻を鳴らしてみせ、
「このあたりの感じだがなあ」
と言った。
「そうだ。このさきはさっき川口から入った産業道路ですよ。北へまっすぐ行くと上尾《あげお》です」
「くわしいんだな」
「あたしゃどういうわけか北関東にくわしくなっちゃって……」
小つぶは頭を掻《か》いた。ドサまわりで憶えたということらしい。
「そうだ。あんときもたしか産業道路へ出たような気がするな。すぐこのさきに……」
と言って、小つぶは道路の南の方角を指さした。
「国道十六号線とぶつかる交差点があるんです」
「十六号線か」
「ええ。東へ行くと岩槻《いわつき》市で、西へ行くと川越《かわごえ》……去年の今ごろだったかな。マイクロバスに乗せられてね。看板はおんとし十六歳のジャリ。Kレコードの新人歌手なんですけど、あたしが司会。そんなの売れっこありませんや。甘ったれた娘でね。川越から日高《ひだか》へ行った晩、うちへ帰りたいって泣きだしちまいやがんの。それが、こんなボインをしてるくせにですよ。今どきの餓鬼《がき》は……」
「待て」
佐伯は立ちどまって小つぶをみつめた。
「日高って、八高《はちこう》線だったな、たしか」
「ええ。駅の名前は高麗川《こまがわ》てんですけど。ここから電車だと、川越線になります。高麗川で八高線にぶつかるんですよ」
「すると、児玉《こだま》郡……いや、寄居《よりい》のほうへはどういうことになる」
「ええと……そう近いってこともないですが、行くのはかんたんですよ。電車なら川越から東武電車にのりかえればいいし、まっすぐ熊谷《くまがや》へ出て秩父鉄道にのりかえるってテもありますね。熊谷からだと五つ目くらいですよ」
東京を中心に考えて、扇形にひろがった両はじ……そんなように漠然と考えていたが、笠原が三年前にいた百合畑と、最近買おうとしていた畑は、思ったよりずっと近い位置にあったのだ。
「地理に明るそうだからもうちょっと聞くがね」
「へい、なんでしょう」
小つぶは得意そうにおどけてみせた。
「ここから千葉のほうはどうだい」
「ええと、電車なら大宮から野田線がありますからね。でも、千葉のどのあたりで……」
「成田から佐原といった方面はどうだ」
「成田のほうとくると、あたしゃまたやたら明るいんで……年に一度か二度、必ず協会で連れてってくれますからね。おまいりなんです。京成電車を借り切っちゃうこともあるんです」
「ここからは京成じゃ行けんだろう」
「ええ、東武野田線でいったん柏《かしわ》へ出るでしょ。それから常磐線で我孫子《あびこ》へ行って、あとは成田線ですよ。成田から総武線の千葉駅へ出るのも、佐原のほうへ行くのも、両方とも成田線です。どんづまりは香取を通って鹿島《かしま》神宮……鹿島線に乗りかえるんですが、釣りのおともでよく行きます」
「参ったな、これは」
佐伯は渋い顔で顎に手をやった。今度の事件が、大きな弧をえがいて東京を外側からおしつつみはじめたのだ。
「どうしたんです」
そのとき、前方から乳母車を押した初老の女がゆっくり近づいて来て、小つぶの顔をみるとニコリと笑いかけた。
「こんちは」
小つぶは愛想よく挨拶した。女はテレビで顔を憶えただけの、一面識もない相手だったと気づいたらしく、
「あらいやだ……」
と口に手をあてて笑いだした。
「そうだ。あのおばさんに聞いてみてくれないか」
「何をです」
「この辺で人殺しがあったそうだが、場所はどこだって」
「えっ……」
小つぶは顔色を変えた。
「やだな。そんなことで連れて来たんですか」
「いいから聞いてこいよ。行っちまうじゃないか」
小つぶは通りすぎた女を追って駆けだした。女はふりかえり、得々《とくとく》とし指さしはじめた。茂呂儀平が殺されたのは、やはりこの近くだったのだ。
11 作 家
二年ぶりに訪問する手土産に、佐伯はカティー・サークを一本買い、国電阿佐ヶ谷駅の北口商店街を抜けて左へ入ったところにある、作家の塩谷秀夫の家へ向かった。三笑亭小つぶと大宮の氷川神社へ行った二日後の午後だった。
曲がりくねった狭い道の奥に木の門があり、塩谷、と銅板を腐蝕させた表札がかかっていた。門の戸を引くと、昔よくあったバネつきの回転ベルが、チリチリチリ、と妙に懐かしい音をたてた。
比較的よく手入れされた庭に、濃い緑色に塗ったバーベルがころがっており、佐伯は玄関の戸をあけて、ごめんください、と声をかけた。裏手で犬が吠えていた。
玄関はふつうより大きめで、一坪半ほどあり、小綺麗に掃除が行きとどいていた。
五十を少し越えたくらいの小柄な和服の女が現われ、黙礼して畳に膝をついた。
「お約束をいただいてあがりましたのですが」
佐伯は名刺を差しだした。
「佐伯君だろ。こっちへ入ってもらってくれ」
左の壁のかげから、聞き憶《おぼ》えのある塩谷秀夫の声がした。
「どうぞ」
女は佐伯の横の板戸を示す。
「失礼します」
ガラガラと乾いた音をたてる板戸を、できるだけ静かに引くと、佐伯は中へ入った。
ソファーのかわりに畳を貼った床几《しようぎ》が並んでいて、絨緞《じゆうたん》のかわりに床《ゆか》は三和土《たたき》になっている。中央に大谷石《おおやいし》で囲った炉《ろ》があり、天井から煤《すす》ぼけた自在|鉤《かぎ》がさがっていた。塩谷自慢の応接間なのだ。
先客がひとり、炉の傍で塩谷にビールをさされていた。どこかの編集者らしい。佐伯はそっと近くの床几に腰をおろした。塩谷はそれをちらっと眺め、微笑を送ってきた。
十五分ほど、先客の話はつづいていた。会話はよく聞こえるのだが、何の話をしているのか、省略が多くてまるで判らなかった。
「じゃあそういうことで」
話は急に終わったらしく、客は立ちあがり、封筒をかかえて佐伯にお辞儀をすると帰っていった。
「悪かったね、待たせて」
塩谷は両手をあげ、背のびして言った。
「ここへ来いよ。久しぶりだな」
去った客のあとを顎で示して言った。スポーツ選手のように、青いトレーニング・ウエアを着ていた。
「妙な恰好をしてるんですね」
「これか。運動不足だからね。近頃バーベルを持ちあげたりしてるんだ。それで、何の用だい。この前みたいな仕事だと、今はちょっと無理だぞ。たてこんでるからな」
佐伯は床几にすわった。どこからか覗《のぞ》けるのだろう。客がかわったので、さっきの女が盆にビールとグラスをのせて来ると、先客のととりかえて去った。
「プライベートなことなんです」
「ほう……」
塩谷はビールをつぎながら、きつい目で佐伯を見た。その鋭い目つきは彼の生得《しようとく》のものらしいが、芯《しん》は案外、優しいところのある人物なのだ。
「俺にプライベートな用か。難問だな」
塩谷は佐伯が言う前に見当をつけようとして、眉を寄せて考えこんだ。
「判らん。言ってくれ」
「事件です」
「犯罪か。それならお門《かど》違いだぞ。……いや、待てよ。推理作家だからと言うので、素人《しろうと》にときどき事件めいたことを持ちこまれるが、君はそんなことをするような男じゃなかったはずだ。とすると……」
塩谷はうれしそうに柔和《にゆうわ》な笑顔になった。
「だいぶ変わったことだな」
「ええ」
佐伯は笑い返しながら答える。仕事で二、三週間断続的につき合っただけなのだが、塩谷とはウマが合ったらしいのだ。気に入られていることがはっきり判るし、自分も塩谷が好きだった。
「これを見てください」
佐伯は、カティー・サークと一緒に持って来た、筆箱ほどの紙の箱をとりだして蓋をあけた。しおれたムラサキイトユリが三本入っていた。
「何だ、これは」
「新種の百合らしいのです」
塩谷はちらりと花を眺め、ビールを飲みながら佐伯をみつめた。
「それで……」
「この花に関連して三人の人間が殺されているんです」
「ふうん」
塩谷は鼻を鳴らした。
「たしかかい」
「ええ」
「そいつは大ごとだ。で、警察は……」
「一人は上野、一人は大宮、一人は千葉県の香取神宮の近くで死んでいます。上野は射殺、大宮は刺殺、香取のは轢《ひ》き逃げですが、どうやらよそで殺《や》られて道ばたへ棄てられたらしいんです」
塩谷はグラスを置き、しおれた花をとりあげた。
「つまり、警察はその三つをまだ関連づけてはいない……というんだな」
「ええ」
「あ……」
塩谷は驚いたように顔をあげた。
「上野の射殺というのは、寄席《よせ》通の例の檜前《ひのくま》さんの事件か」
「ええ。ご存知なんですか、檜前さんを」
「寄席は昔から好きだし、捕物帖《とりものちよう》なんかも書いたからね。いま、少しでもあの方面を調べだせば、すぐあの爺さんに行き当たるんだ。彼の資料は、客の側のものとして貴重だし、それにやけに正確だからね。寄席の資料としてばかりではなくて、大正、昭和の風俗資料になってるんだ。電車賃とか煙草代とか、どの店でどのくらい飲み食いしたらいくらだったとか、そういうことが克明に書いてあるんだ。ケチだったのかな」
「漢方薬が本業でしょう。植物とは縁のある人です」
「そうか。いや、そうだな。こいつは本物らしい。ちょっと向こうへ行かないか」
塩谷はムラサキイトユリを箱ごと持って立ちあがった。佐伯はそのあとについて靴をぬぎ、となりの書斎へ入った。書物に埋もれた大きな洋間だった。
塩谷は撞球《どうきゆう》台のようなグリーンのカーペットの上にじかにあぐらをかき、三種類ほどの植物図鑑を並べて、佐伯が持って来た小さな紫色の花とみくらべはじめた。
「どうも植物は苦手《にがて》だな」
塩谷はすぐ諦めたように言った。
「新種じゃ図鑑にのってるはずもないし……だが、紫色の百合というのは案外ないものなんだな」
「それにしても、百合というのはずいぶん種類が多いんですね」
「そうだ。最初に断わっとくが、こいつはたしかに百合なんだろうな」
「ええ」
「百合というのは、図鑑でわかるとおり仲間も多いが、親戚も多いんだよ。ユリという名がついてるくせに本当は百合でないものがかなりあるはずだよ。クロユリというのも、ユリ科には違いないが、たしか属が違ってるはずなんだ。ユリ科の属には、ユリ属、ウバユリ属、ワスレグサ属、バイモ属……バイモなんて知らんな、俺は」
塩谷は図鑑のページをくりながら言う。
「そうか。ヒガンバナ科、アヤメ科……こいつらもユリ科にごく近い連中か。これは厄介だよ。花のことは花のことで、ちょっと棚あげにしておいて、先を聞きたいな。必要があれば、あとでくわしい人に尋ねてみよう。花は借りるよ」
「どうぞ。お願いします」
「君はこれが新種だとどうして判ったんだ。それに、どこでこの花を手に入れたんだい」
「相模製薬の研究所から、半分かっぱらうようにして持って来たんです。新種だということは、人から聞きました。そうですね、わりと頼りないといえば頼りない筋です。その人物がムラサキイトユリという新種だというので、そう思いこんでいるだけです。たしかめようもありませんでしたからね」
佐伯は、そう言いながら塩谷のおかげで、自分がこの件にぐんぐん踏みこんで行けそうなのを感じた。彼は肚《はら》をきめ、まず檜前《ひのくま》老人が射殺された晩の前後の事情から説明をはじめた。
塩谷はみるみる話にひきこまれ、寒川正信と話合った寒川神社のそばの百合園のあたりからは、腕を組み目をとじて聞き入っていた。
話は紹子を訪《おと》ずれた茂呂儀平に移り、彼が大宮で射殺されたという新聞記事を読んだ直後、中野の研究所で青木という所員のデスクから花を盗《と》って来たあたりにさしかかると、塩谷はあぐらを組んだ右膝をいらだたしそうにゆすりはじめた。
「君はいったい何を持ちこんだんだ……」
ひととおり話しおわったとたん、塩谷は大声で佐伯をどなりつけた。
「本当なのか。実際にそんなことが起こったのか」
塩谷は立ちあがり、佐伯を上から睨《にら》みつけた。
「本当です」
「冗談じゃないよ。もしフィクションだったら俺は君をタダではすまさないよ。ぶん撲《なぐ》るぞ」
「どうぞ。でもどうして……」
「どうしてもこうしてもあるか。仕事は全部中止だ。みんな断わってしまう」
塩谷はひどく昂奮していた。書棚から、あっと言うまに数冊の書物を引っぱりだし、佐伯の前に積んだ。
「君は三つの神社が事件でつながっていると言ったな」
「ええ」
「三つじゃない。五つだ」
塩谷は中腰で緑色の床の上に大きな地図帳をひろげた。二十万分の一の地図を集めて貼り合わせ、自家用に製本したものだった。
「いいか、よく見ろよ」
塩谷は地図の上を指で示した。
「君の言うのは、東から香取、氷川、寒川の三つだ。三つとも延喜式《えんぎしき》に載っている式内社《しきないしや》だ。それも格の高いものばかりだぞ。香取は名神《みようじん》大社。神武制では惣社《そうじや》になる。次の氷川も名神大社で、武蔵国一之宮《むさしのくにいちのみや》だ。武蔵の国の最高位という意味だよ。そして寒川も相模国一之宮《さがみのくにいちのみや》だ。どれもみなひどく古い。創建は神武の頃と伝えられる神社ばかりだ」
「五つとは、あとどことどこです」
「金鑽《かなさな》神社がそのひとつ」
塩谷はまずおもむろに茅《ち》ガ崎《さき》の北の寒川神社を指で示し、それをずるずると上へ引きずって行った。
「金鑽《かなさな》……やはり名神大社だ。武蔵の式内社は社格が小社ばかりだが、氷川と金鑽だけが大社にされている。常陸《ひたち》の鹿島、下総《しもうさ》の香取と並んだ関東屈指の神社だよ」
「いけねえ……」
佐伯は指の落ちついた先を見て叫んだ。なんとその金鑽神社は、埼玉県児玉郡神川村にあるではないか。
「香取、氷川、寒川と、三つの神社のすぐそばに、問題の百合園なり百合畑なりが共通してあったのだろう。そして茂呂という児玉町の不動産屋が殺されなければ、金鑽神社にも君の友人の百合畑がひとつできるはずだったのさ」
「あと……あとひとつは」
佐伯は生つばをのんで尋ねた。
「百合畑はない。百合園もありえない。そいつは行って見なくても判ってる所だ」
「どこです」
「東京のどまん中だ。武州《ぶしゆう》惣社、江戸の総鎮守《そうちんじゆ》……判らんか。神田《かんだ》神社だよ。神田|明神《みようじん》だよ」
佐伯はなぜか頭から血がひき、背筋が寒くなるのを感じた。
それは国電お茶の水からわずか数百メートル。千代田区が山の手線の外へわずかに張りだした外神田にあり、その町の境界は檜前《ひのくま》薬局のある黒門《くろもん》町……新しい町名になった上野一丁目とじかに接しているのだ。
「飲むぞ、俺は。飲まなきゃおれんよ。こんなとほうもないことにまきこみやがって」
塩谷は憤《おこ》ったように言い、グラスふたつを持って来ると、カティー・サークの包みを破って封を切った。
「憤ってるんじゃない。うれしくて震えが来そうなんだ」
塩谷はそう言って佐伯に乾杯を催促した。
「間違いなく、この事件は相模製薬につながっているな」
塩谷はムラサキイトユリの入った紙の箱を、宝物でも扱うように慎重にとりあげて言った。
「そう思いますか」
「うん。絶対間違いない。だが、その説明の前に、なぜ俺がこう夢中になってるか教えてやろう。君がいま持ちこんで来た事件は、俺の仕事に関係あるんだよ。ひょっとすると、ライフ・ワークにもなりかねん仕事にな」
塩谷はウイスキーをのみ、床に体を倒して乾ぶどうの入った容器を引き寄せると、二人の間へ蓋をあけて置いた。
乾ぶどうをつまみながら話す。
「時代物を書くと時代考証が必要になる。歴史も物書きには必然的についてまわる興味だ。ちまたの邪馬台国《やまたいこく》ブームは別としても、やはりどんどん調べて行くうちに、そういう古代史にも行きついてしまうわけだ。小説というのはみな人間を扱うわけだからな。この日本という国はどうしてできたか。日本民族というのはどういう人間たちなのか……つまり俺という人間はどこから来てなぜここにいるのか。そいつを知りたくなるのは当たり前のはなしさ」
「僕も邪馬台国ものはよく読みます」
「騎馬《きば》民族説、照葉樹林《しようようじゆりん》文化論、黒潮《くろしお》、稲作、土器、金属器……あらゆる方面の知識を集めている内に、すでに消えてしまったものを追いかけても、とても全貌は掴めないと考えるようになった。そこで古い神社を中心に考えてみることにしたんだ。どんな民族が、どんな神を祀《まつ》ったかだよ。たとえば、庭に子供が飼っていた金魚や小鳥の墓を作ったとする。大人の俺にすれば遊びだよ。でも、その次に俺が庭の手入れをして草花を植えようとするとき、その遊びの墓がとても壊しにくいんだな。禁忌《きんき》になるんだよ。無意識のうちにタブーになるわけさ。まして、ひとつの民族全体が崇《あが》める神の祀りどころだろう。そういう聖地、聖域は非常に消えにくいものなんだ。氏族が滅んでも、そのあとを継いだ氏族がその聖地に自分たちの神を持ってくる。時には消えるものもあるだろうし、仏教などが入ってからは、寺に変わるものもあっただろうさ。だが聖地としては残される。消えたと言っても、石の地蔵さんみたいなものがあったり、妙ないわれのある池があったり……完全に消えはしないんだ」
「そうだそうですね。寺なんかも、歴史を調べるとときどき宗派やご本尊が変わってるそうですね」
「ところで、黒潮に乗ってきたり、稲作文化を運んできたり、馬をつれてきたり……どうやら日本はいろんな民族の集合体らしいじゃないか。とすれば、先住民の問題はさておいても、新しい連中がはじめてこの土地へやってきて、どこかへ落ちついたという時点が、歴史の上には点々としてあるはずだ。インディアンの土地へ、開拓者が幌《ほろ》馬車で現われた時代がだ」
「ええ、そうですね」
「ここんところをよく考えてみて欲しいんだが、その連中は大部隊で一括して来たのではないだろう。あちら、こちらにひとかたまりずつ、ある時間の幅の中でこの土地へやって来た。故郷を離れる何かの原因が共通していて、旅の能力や技術も同じ連中だ。気分だってそう変わらない。噂を伝え聞いたり、偶然同じ方角にむかったりしてな……」
佐伯は塩谷にうなずいてみせた。塩谷は満足したように続ける。
「どこへ行こうと、彼らを養うのは土地だ。そして、連中の生きる技術はみな同じだ。神を同じくするもの、つまり同一民族だからな」
「はい」
「とすると、彼らがここを第二の故郷にしようときめるのは、みな一定の条件を満足させる、似たりよったりの土地ということになる。地形も気候も動、植物の相も……つまり、地質的にも共通していたはずなのだ。そして、そこに落ちついてまず神を祀《まつ》った。自分たちの神をだ。だから俺は、古い神社の位置、環境を徹底的に調べあげ、分類することで、古代社会の文化の差や氏族の分布が、かなり正確に判ってくるはずだと思ったのさ。後世、氏族の盛衰や権力の移動で、真の祭神が判りにくくなっているものも、この方法でやればはっきり知ることができると考えたのだ」
塩谷はそこで照れたような表情になった。
「こいつは学者の仕事だよ。小説家は小説書いてりゃいい……だがね。フィクションをリアルにリアルにと思って書いていると、だんだん本物に触れたくなるもんなんだ。そういうわけで、神社の過去を掘りちらし、調べまくってある程度の、結論とまでは行かないが推論ぐらいは立ったところへ、こいつがころがりこんで来たわけなんだ」
塩谷はムラサキイトユリをつまみあげた。
「やはり塩谷さんの所へ来てよかったわけですね」
「ま、正解だったな」
塩谷は声をあげて笑った。
「そんなわけで、この植物と神社が殺人事件でつながったという君の話を聞いたとたん、俺は話がうますぎるんで疑いたくなったほどだったのさ。古い神社は俺の考えでは、みんな稲作以前の、縄文色の濃い時代からそこにあったはずだと思うんだ。例の照葉樹林文化論にもあるが、神社を語る時に外《はず》せないのが森だ。神社はすべて森の中にあると言っても間違いない。なぜ森の中にある。そこに森があり、昼なお暗い森に神がいそうだったからか。違うな。まず、あたりいちめん森なんだ。大ざっぱに言うと、ブナ、ナラ、クヌギ、クリ、カシ、シイ、クスノキ、ツバキ、モチノキ、サザンカ……そんな木の生えた森の世界だよ。彼らはその中で暮らしたんだ。森は食物を与え、この土地の自然が森にそれを生産させたのだ。その森が神社のまわりだけになったのは、ずっとあとのことだ。焼畑で失われ、稲作で決定的に消失した。だが神社の森は残された。木の実や草の根を食う時代にあった、神の食いぶちを作りだす広さの森だ。それは神のものであり、神のものを奪うことは恐ろしいことだったからだ。神に稲を捧げるようになっても、神の森は残された。平地にこんもりと繁るそれは、さらに神のものであることをはっきり主張していたからだ」
「それでは、結局どの森の中でもよかったのではありませんか。あたりいちめん森の時代なら……」
「そこだよ。俺はなぜそこでなければいかんのか、ずっと考え、調べつづけて来た。そして、森の中でも特に変わった相を示す場所……岩とか、見なれない巨木とか、そんなことを考えていた。そこへあらわれたのが、このムラサキイトユリとかいう怪しげな花だ」
「あ……するとこの花は、古い神社のある土地でしか育たないのかも」
「それさ」
塩谷はパチンと指を鳴らした。
「百合と、畑と、殺人……古い神社にまつわる以上、それしか考えられんじゃないか」
しばらくすると、塩谷は低く忍《しの》び笑いをはじめ、しだいにそれが高くなって、最後にはいささか狂気じみてさえ見える大笑いになった。
「どうしたんです」
たまりかねて佐伯が言った。
「いや失敬失敬。その、農林省にいたとかいう君の友人……なんと言ったかな」
「笠原隆志ですか」
「そう。その笠原という男のことを考えていたんだ。無理もないよ。ろくに恋人のところへも顔をだせず、すまいもきめられなかったわけだ。そうだろう。彼はその百合の適地を求めて、西に東にとびまわらねばならなかったのだからな。たとえ関東と区切ってみても、いざとなれば広いもんだ。一人でやるには広すぎるよ。しかも彼は、多分、土壌とか地質とか、そっちのほうばかりに気をとられていたのだろう。そんなことなら、俺が一発で適地を教えてやれたのにな」
「そうですか……」
「うん。三年前に大宮の氷川神社のそばの百合畑にいたんだろう」
「ええ」
「氷川や、金鑽《かなさな》や神田明神は、祀《まつ》ってある神様はみな同じなのさ」
「同一神……本当ですか」
「本当だとも。俺はそっちのほうじゃ、すでに半分専門家だよ。神田明神は|大 己 貴 命《オオナムチノミコト》と|少 彦 名 命《スクナヒコナノミコト》。氷川は|素 戔 嗚 命《スサノオノミコト》、|稲 田 姫 命《イナダヒメノミコト》、|大 己 貴 命《オオナムチノミコト》。金鑽《かなさな》も天照《アマテラス》、|日 本 武 尊《ヤマトタケルノミコト》、そして素戔嗚《スサノオ》。寒川神社は現在寒川|比古命《ヒコノミコト》、寒川|比女命《ヒメノミコト》ということになっているが、これは実は明治のはじめに政府の側がよく判らないので、その二柱《ふたはしら》だというようにきめつけてしまっただけで、一宮巡詣記《いちのみやじゆんけいき》などという書物には、スサノオやオオナムチだと記されているんだよ。判るかい、スサノオやオオナムチがどんな神々か」
塩谷に問われて、佐伯は首を傾《かし》げた。
「たしか、どっちも大国主《おおくにぬし》の関係だと思いますけど」
「長くなるから説明は省《はぶ》くが、オオナムチは大国主《おおくにぬし》と同一人物だ。母国での尊称がオオナムチ、中央から……つまり大和朝廷から与えられた称号が大国主《おおくにぬし》という風に考えておいてくれればいい。スサノオはスサという一族の王、またはスサの男といった名前で、稲田姫の亭主に当たり、オオナムチはその直接の子とも、五世の孫とも伝えられる人物なんだ。のちに大和朝廷と接触してその傘下に組みこまれ、地元では勢力が強かったから、大きな国のあるじ、大国主という名を与えられたのさ。だから大国主というのは、実はあちこちにいたわけで、例の出雲の神話に出て来る大黒様は、オオナムチなんだよ」
そのあたりは、だいたい知識があり、佐伯は軽くうなずいただけだった。
「ところで、香取神宮だけれど、この祭神は経津主命《フツヌシノミコト》と言って、やはり出雲系の神なのだ。鹿島神宮には武甕槌命《たけみかづちのみこと》が祀られていて、これは両方とも、例の大国主の国譲りのとき、大和朝廷側代表として交渉にあたった軍神で、鉄器の製造に関係した氏族の代表らしい。スサノオのスサ族は、どうも大陸系の帰化人集団らしくて、韓鍛冶《からかぬち》……韓《から》の鉄打《かねう》ち部族ではないかという説もあるが、そのスサの一支族が、早くに大和側に立ったと考えてさしつかえないだろうな。その証拠に、例の八俣《やまたの》大蛇《おろち》を退治したとき、しっぽから出て来たという草薙剣《くさなぎのつるぎ》が、斐伊《ひい》川の砂鉄を利用した鍛治部《かぬちべ》の製作になるということは、すでに定説になっているし、大蛇《おろち》を斬ったスサノオの剣の名は、フツノミタマという名であったことも伝わっている。そのほか日本書紀にはスサノオが御子神《みこがみ》のイタケルと一緒に新羅《しらぎ》のソシモリという場所へ旅行し、作物の種を持ち帰ったとか、クマナリという朝鮮系の地名に関係して記されたりするんだ」
「つまり、みんな出雲系の神々を祀ってあるわけですか」
「そうだ」
塩谷はうなずいた。
「笠原という男が、もしもこういう事実を知っていれば、長い間ねぐらもきめずにとびまわる必要はなかったわけだよ。出雲系の神々は、香取、鹿島からさらにもう少し東へ分布していて、茨城県の大洗にある大洗《おおあらい》磯前《いそざき》神社にも、オオナムチとスクナヒコナが祀られている。また、日光の二荒山神社も大国主《おおくにぬし》説があるし、逆に氷川と金鑽を結ぶ線上には、正一位、上野国《こうずけのくに》一之宮として、富岡市の貫前《ぬきさき》神社が現われてくる。やはり延喜式内の名神大社で、祭神は経津主《ふつぬし》だ。行って調べてみると、案外|貫前《ぬきさき》あたりにも百合が育てられているんじゃないかな」
「すると、この百合は出雲系の神々の花ですか」
佐伯はあらためてしぼんだムラサキイトユリをみた。
「それは判らん。これから解いていく謎だ」
塩谷は楽しそうに言った。
「第一、これは新種だと言ってたじゃないか。新種だとすれば、昔はなかったわけだ。しかし、百合そのものは、たしかに日本の神々の花である可能性が強い。日本の代表的な花は桜。皇室のシンボルは菊。今ではそう思われているが、菊や桜がそうなったのは、かなりあとになってからだ。日本の歴史上、最初にあらわれてくる花は、百合ただひとつだけだ。神武天皇が、のちに皇后となる伊須気余理比売《イスケヨリヒメ》と狭井《さい》河のほとりで出会ったとき……ええくそ、ずいぶん大ざっぱな言い方だな」
塩谷はじれったそうに言って続ける。
「其《そ》の河辺に山由理草《やまゆりぐさ》多かりき。故《ゆえ》に其《そ》の山由理草の名を取りて佐韋《さい》と号《なつ》けき。山由理草の本《もと》の名、佐韋と言いき……古事記の一節だよ。伊須気余理比売《イスケヨリヒメ》は、神武天皇の后《きさき》となって、|媛蹈〓五十鈴姫命《ヒメタタライスズヒメノミコト》と変わるが、彼女は実は三輪《みわ》神社の巫子《みこ》で、三枝祭《さえくさのまつり》で有名な奈良の率川《いさかわ》神社は、三輪明神|大神《おおみわ》神社の摂社《せつしや》、つまり支店だな。三枝《さえくさ》は三輪山に多く咲くササユリのことだ。茎《くき》が上部で三つに分かれ、そのひとつひとつに花をつける日本の代表的な百合だよ」
「大神《おおみわ》神社というのは古いんでしょう」
「ああ古いとも。神武天皇があのあたりへやって来たとき、すでにあったことがはっきりしている。神武は三輪山の祭祀《さいし》権を得ることで、大和を支配することに成功したんだからな」
佐伯は一瞬、途方に暮れる思いがした。
テレビ、ラジオ、新聞、雑誌……そういうものへの広告予算を取るためにはじめたことが、遠い神武のさらにその昔へさかのぼっているのだ。
12 雨と霜
佐伯はためらっている。
檜前《ひのくま》、茂呂《もろ》、青木と、あいつぐ殺人事件が古い神社に関連していることをあげて、もう一度寒川正信に迫らねばならないタイミングなのだが、こんど会えばこの前のようには行くまいと思えるのだ。
知っていることを匂わせる程度ではだめだろう。具体的に、相当突っこんだ話を持ちださなければならない。
だが、そうなると佐伯の手にあるのは、出雲系の神を祀《まつ》る古い神社の環と、百合畑と、その近くで死んだ茂呂、青木の件だけなのだ。あとのことは、檜前老人の死にしても、ムラサキイトユリにしても、推測の域を出ない。
だが、今野には青木の背景を調べるように指示したし、塩谷秀夫も大乗り気で調査活動をはじめていてくれる。業界誌の記者の高浜にも連絡をとっている最中だから、寒川正信に会う準備が整うのは、そう遠い先の話ではないと思えた。
さすがに、テレビ・コマーシャルの件は動きはじめた。いくらなんでも、そう長く放置していられる時期ではないのだ。
佐伯は鷲プロに呼ばれて本格的な制作会議に顔をだし、新しいコンテをきめてきた。起用された三笑亭小つぶは大はりきりで、鷲プロのスタッフに万遍なく愛嬌《あいきよう》をふりまいていた。
その件に関しては、小つぶさえ満足させればよかった。佐伯はコンテをきめてからはすべて鷲プロにまかせ、放置している。先方もその方がやりいいだろうし、今の佐伯は忙しくてそれどころではなかった。
東《あずま》エージェンシーのすべての制作物が、佐伯のデスクに集中しはじめているのだ。以前のように間仕切りをたてた中へ逃げこむわけには行かない。そんな中で、佐伯にとって頼りになるのは、もとのスタッフである吉岡と淵上だけで、この急場を切り抜けるには、その二人に仕事の配分をかたよらせるしかなかった。
ところが他の制作部員にすれば、そのかたよりが面白くないらしい。彼らは日を追ってなげやりになり、仕事に追いまくられる者と、無気力に過ごす者の差が目立っている。
佐伯はその状態からぬけだそうと、社長の長谷川駿太郎に相談を持ちかけた。
「そういうわけで、もう一人制作部に責任者をふやしてもらえませんか。僕の上だって構いませんよ。そうすればもう少しうまく仕事が回転すると思うんです」
「うん。だが、淵上や吉岡では余計にギクシャクするぞ」
「あの二人ではまとまりません。連絡部長に戻ってもらうか、兼任してもらってはどうでしょう」
「そうだな。ではそうしよう」
社長は簡単に承知した。どこか上《うわ》の空といった気配があった。
「そうなれば僕も相模製薬に本腰でとりくめます」
佐伯は励ますつもりで言った。このところ、相模製薬以外に新しい動きが起こっていないのだ。篠崎などは、佐伯と顔を合わすと、詫びるような表情で、それとなく逃げだしてしまう状態だった。
「君ひとり、孤軍奮闘だな」
社長はそう言って気の抜けた笑い方をした。
しっかりしろ、と言いたかった。佐伯がその言葉を探して唇を動かそうとしたとき、社長室のドアをあけて篠崎がのぞきこんだ。
「やあ……」
佐伯を見てバツの悪そうな顔をした。
「おう」
社長はあわてて立ちあがり、
「じゃ、そういうことにしよう。頑張ってくれよ」
と、急に勇ましく言い、
「外で打合わせがあるんでな」
そう言い置いて出て行った。佐伯は社長室に残されたまま、苦《にが》そうに煙草の残りを吸った。
少し侘《わび》しかった。
彼らなりに努力していることは、充分に理解しているつもりだった。会社を建て直そうとして懸命なのだ。今もきっとその話で行ったに違いない。だったら、なぜ自分をまじえて話し合ってくれないのだろう。実績の差があるので遠慮しているのか。
佐伯は、そればかりではないものを感じている。創立以来の、いわば譜代《ふだい》と外様《とざま》のギャップだった。そうして、そういうギャップを生む人間の心に、みじめさを味わった。
島村という有能な先輩と別れて残留したことで、そのギャップは埋まるはずだった。そう信じていた。しかし、結果はこのとおりなのだ。味方をなぜ信じない。なぜ仲間に入れない。こうなったら一蓮托生《いちれんたくしよう》ではないか。
佐伯は煙草を灰皿に押しつけた。わずかに残っていた皿の底の水に触れて、煙草はジュッとかすかな音をたてた。彼は立ちあがり、社長室を出た。出るときに、ふとそう思った。
……相模製薬の予算を掴むことが仕事なのではないようだ。それを持って帰ることで、このギャップを埋めてしまうことが、自分の人生のひとつの勝利を意味するのだ。太平洋アドに勝つというのは、それにくらべたら、ひどく子供っぽいことのようだ、と。
「佐伯さん。四番に電話……」
階段をおりかけていると、頭の上でそう声がした。佐伯は腕時計にちらっと目を走らせ、紹子かな、と思った。あれ以来、紹子はよく電話してくるようになっていた。佐伯が危険なことにまきこまれはしないかと、心配でたまらぬ様子だった。
デスクへ戻って電話をとりあげ、ランプのともったボタンを押した。
「佐伯です」
「俺だよ。すぐ会いたいんだ」
塩谷だった。
「いいですよ」
そう答えた。仕事はたまっていたが、彼に会うことのほうが重要だった。
「いま日本橋へ来てる……」
塩谷はそう言って、三越の向かい側の裏通りにある寿司屋の場所を教えた。佐伯は電話を切ると、デスクの上の伝票に素早くサインをして、コピーライターの清川に経理へまわして置くように言い、急いでビルを出た。
空が汚なく曇っていた。上をみあげても、雲があるかないかさえ判らなかった。
長い歩道橋を渡り、汚れた空気をかきわけるような気分で、塩谷の待つ寿司屋に向かいながら、佐伯はふと自分を道化のようだと感じた。
社内の地位があがって、責任が重くなった。しかし、それは島村移籍のドサクサにまぎれた応急の処置で、考えてみるとそれ相応の昇給など、まだ話もでていない。
相模製薬というかなりの大物にくらいついて、首尾よく予算をぶんどって来たところで、いったい自分にどの程度の利益が約束されているのか、見当もついていない状態だ。
俺は何のために……佐伯は歩きながらそうつぶやき、榊原紹子の白い顔を思い泛《うか》べた。
彼女は自力で恋人の笠原を探しだすなんのてだても持っていない。そこへ都合よく現われたのが自分なのだ。頼られて、いささか騎士気どりで、その恋人を探しだそうとしている。探しだしたらそれで役目は終わるのだ。笠原と紹子がしあわせな夫婦になったら、よき隣人として満足するほかはない……そう考えると思わず苦笑せずにはいられなかった。
行きかう人はみな忙しそうに足ばやだった。
小綺麗な寿司屋だった。
十一時半から一時半まで営業し、いったん夕方まで店をしめて、五時からまた店をあけるシステムらしかった。
佐伯が着いたのは四時ちょっとすぎで、板前も店員も姿を見せない。どうやら塩谷は身内同然の関係らしかった。
「おい。あがりをもうひとつくれ……」
佐伯が太い白木の桟《さん》のガラス戸をあけて入って行くと、塩谷は無遠慮な大声で店の奥へ言った。暖簾《のれん》が戸の内側に入っていて、佐伯はふり返ってその白抜《しろぬ》きの文字を見た。文字は裏返しだった。
「忙しかったんだろう」
塩谷は笑顔で言った。店の左奥の小間に、右足だけ靴をぬいですわっていた。
「ええ。まあ……」
「いいさ。こっちのほうがさきだ」
小間の上の黒い漆塗りのテーブルに向き合ってすわると、塩谷は佐伯の顔をのぞきこむように眺めた。
「判らんな」
「何がです」
六十がらみの職人風の男が、下駄《げた》を鳴らして湯呑を運んで来た。
「ごゆっくり」
そう言っただけで、すぐ引っ返してしまう。
「つまらん仕事をしてるよ、君は」
塩谷はからかい気味に言う。佐伯は思わず声をたてて笑った。
「僕もいま、道みちそれを考えてたんですよ。何かもっといい仕事はないですかね」
「何だってやれるだろう。好きな仕事にかわればいい」
「ところが、今の仕事が好きでしてね」
塩谷はしばらくみつめ、
「哀《かな》しいね」
と笑わずに言った。
「で……」
佐伯は話をうながした。
「まず、例の百合の件だ」
塩谷は出版社の名が入った紙袋から、薄桃色の表紙のファイルをとりだした。B6ぐらいの大きさに切ったケント紙を引っぱりだして佐伯の前へ置く。
「ほう……」
佐伯は手にとって眺めた。萌黄《もえぎ》と紫のインクを使い、丹念な点描でムラサキイトユリがかいてあった。
「ちょいとしたもんですね。これなら百科事典に使えますよ」
「雑誌社へ寄ったら、ちょうどカットを描く奴が来ててね。見本を見せてその場でかかせたのさ。カラー写真も撮《と》っておいたよ。しおれ切ったらどうしようもないからな」
「よく間に合いましたね。もうだいぶいかれてたのに」
「大急ぎでやったんだ。……それはいいが、専門家に聞くと、こいつはやはり新種らしいな。それも、かなり変わってる」
塩谷はムラサキイトユリの点描を自分のほうに引き寄せた。
「顕花植物門、被子《ひし》植物亜門、単子葉植物綱、ユリ花群、ユリ科、ユリ属……。これがユリの正式な戸籍だ。重名《じゆうめい》法による分類をはじめたリンネは、たった七種類しかユリの仲間を挙げていない。もっとも、それより前、十七世紀前半にいたパーキンソンという植物学者は、十二種類のユリを記録している」
「今は……」
「今は……判らない。面倒だよ、数なんて。どっちにしても、ユリという奴は厄介きわまるな。種類がどんどんふえているし、それだけに研究も行き届いてる。ということは、調べだすと奥行きが深くてな。たとえば、日本国内での名称にしたって、東北じゃ、ニョロとかヨロとかヨルとか……北陸ではドウレン、ゴロ。西へ行くとゴロがゴーロ、ゴーラ、ガウロ。愛媛《えひめ》あたりではガウルと言ってるらしい。それが伊豆諸島になるとイネラ。南の鹿児島の甑島《こしきじま》ではユイさ。だから、ヤマユリなんてのはひどいもんだ。各地方の山でいちばんよく見かける奴がヤマユリになってしまう。岐阜《ぎふ》、三重《みえ》、奈良《なら》のあたりのヤマユリはササユリのことだし、東北、三陸ではイワトユリやオニユリのことをヤマユリと呼んでしまう。外国語のほうがその点で楽だ。ラテン語のリリウムを基《もと》に考えとけば、リリー、リス、リーリエと、だいたい似たようなもんだ。リリウムの語源はケルト語にあるらしいな。リ・リウム、で白い花という意味だそうだ。ただし、イタリアではジリオ、ギリシャではクリーノンだ。俺もはじめて知ったんだが、スーザンという女名前は、ヘブライ語でユリを意味しているらしい。ヒンドスタンではスーザンがソーサンにかわっているよ。タイではプルング、蒙古ではチチック、朝鮮ではカイナリさ」
「呆《あき》れた……それをみんな覚えちまったんですか」
「うん。商売柄さ。でも、こんなもの、すぐ忘れるよ」
塩谷は少し照れたような顔になり、
「神奈川県の県花がユリだった」
と言った。
「妙な因縁《いんねん》ですね」
「本当だな。それで、このユリの種類なんだが……」
「判りましたか」
塩谷は黙って首を左右に振った。
「おそらく、ユリに関しては日本一だろうと思われる先生に見てもらったんだが、すぐには見当がつかなかった。三本ともそっくり預けて調べてもらってるが、できれば球根も欲しかったよな」
「球根……」
「そうだ。そいつがあればもっと楽に見当がつけられるそうだ」
「そいつはうっかりしてました。相模製薬の研究所へ行けばあるかもしれない……」
「でも、どうやって持ちだす気だ。今度の殺人事件の核心かもしれない物《ぶつ》だぜ」
そう言われれば、佐伯にも探して持ちだす目あてはなかった。
「やはり、笠原が農林省時代に交配で作りだしたんでしょうか」
「それがね、そのユリ博士は園芸種の可能性は薄いと言ってるんだよ」
「というと」
塩谷はファイルから乾式複写でとったこまかな表をとりだして見せた。
「これが、ユリの種間交雑親和表という奴だ。どのユリとどのユリならかけあわせがきくかという表だ。ここまで判っているのだから、近いものがあればだいたい見当がつくんだそうだ。そういう斯界《しかい》の権威ともなれば、新種情報は細《こま》かく入ってくるだろう。したがって、未知のものでも、一目見ればこれはどのユリをマザーにしているか判るんだ」
「とすると、これは交配じゃなくて……」
塩谷は当惑したように首を傾けた。
「こいつは、かたわみたいな奴だそうだ。珍しいのを通りこして、ふしぎ千万な存在だそうだよ」
佐伯は思わず点描のムラサキイトユリを眺めなおした。
「このユリのいちばんの特徴は何だと思う」
「さあ……」
「ユリであることの条件をすべて備えていることだそうだ」
塩谷は妙な言い方をはじめた。
「どういう意味です」
「ユリでなければ判るというのさ」
塩谷はコピー用箋を見ながら言う。
「ラッパユリはサトイモの仲間、ノユリはマメ科、トラユリはアヤメの親戚だ。アマゾンユリはヒガンバナ科で、ウオーター・リリーはスイレンのことでヒツジグサ科だ。このムラサキイトユリなるしろものは、妙に葉っぱが少ないだろう。このテだと、マジック・リリーというヒガンバナ科のナツズイセンがある。写真を見せてもらったが、どう見たってユリにしか見えなかったよ。そのほか、ショウガ科、モクレン科、ラン科などにも、ユリとまぎらわしいのがあるそうだ。だから、こいつもユリに似た、ほかの科の植物でなら、考えようがあるというのさ。ところが、専門家の目でどう判断しても、ユリには間違いないらしい。ほら、絵をもう一度よく見てみろ」
塩谷は点描の茎《くき》の部分を指で示した。
「気がつかんか」
「さあ……絵だとどうも」
「何言ってる。君が一番先に触れた花じゃないか」
塩谷は責めるように言う。
「丈《たけ》はだいたい三、四十センチから長くても五十センチ……どのくらいの高さで切りとったか、くわしいことはわからなくても、茎の組織を見ていけば、根までの寸法がだいたい判るらしい。君が持って来た奴は、ほとんど地上スレスレで切ったものらしい。となると、葉っぱがたった六枚しかついていないことになる。そのユリ博士は、最初イトハユリの仲間かと思ったらしい」
佐伯はじっとムラサキイトユリの絵を観察した。てっぺんに咲いた一輪の花まで、ほとんど等間隔に、右、左、右、左と、細い葉が交互についている。片側三枚、計六枚だった。
「イトハユリの分布は、北緯五〇度を中心に東経一三五度から八〇度まで。つまりウラジオからノボシビルスクあたりということになるそうだ。北朝鮮、旧満州、そしてシベリア一帯だな。ところが、イトハユリには紫の花が存在しない。黄色か濃い赤だ。濃い赤があれば紫もありうるかもしれんが、胡麻化《ごまか》せないのは花粉の色さ。イトハユリの花粉は赤で、あらゆるユリの中でも、こいつのように紫色の花粉を持っているのは聞いたこともないそうだよ。それに、イトハユリは花がひとつきりということはないらしい。となると、同じ葉が針形のユリでは、マツバユリというのが考えられるそうなんだ。こいつはうす紫の花があるし、花粉も赤味がかった色だ。しかし、花の形がまるで違う。葉も六枚ばかりじゃない。どちらにしても、こんなようにスズランみたいな形でうつむきに咲く、紫色の花粉を持った紫色のユリなんて、ないそうなんだ。いちばん奇妙きてれつなのは、葉のつき方だそうだ。たいていは、茎に一定の間隔で螺旋《らせん》状に順について行く旋生《せんせい》か、何ヶ所かで傘をひろげたようにつく輪生《りんせい》だそうだ。ところがこいつは、右、左、右、左と、ふたつの側面だけに交互に並んでいる。さすがのユリ博士も目を白黒させていたよ」
「奇形ですか」
「だから球根を見たいんだそうだ。球根と言っても、あれは地下で茎が短縮した芯《しん》の上に、葉が変形して養分をたくわえたものなんだそうだ。だから鱗《うろこ》のように重なりあった、いわゆる鱗片《りんぺん》は、一枚一枚がもとは葉なんだな」
「成分は……」
「麟茎《りんけい》、つまり球根のか」
「新薬に関係あり、ですからね」
「一般的に約二分の一が水分。残りは蛋白《たんぱく》に脂肪に含水炭素……それに繊維と無機が少々。まあそんなところだ」
「百合料理があるそうでしょう」
「うん。洗いざらい聞いて来たさ。百合料理は、昔ずいぶんポピュラーだったそうだ。幕末に日本へ来た外人が江戸の八百屋で、百合の球根が野菜にまじって売られているのをみて、見聞記に書きのこしている。ヨーロッパで百合を食うのはスペインだけらしいな」
「中国料理じゃさかんに使うそうですね」
佐伯は紹子の面影《おもかげ》を追いながら言った。
「アイヌや、もっと北の民族は、百合からとれた澱粉《でんぷん》を貯蔵食糧にするそうだよ。ところで、中国の古い文献には、百合病というのがあって、その病気を治すには百合しかないとされているそうだ」
「百合病……」
「一種の機能減衰と考えていいだろうな。ノイローゼもその中に入るかもしれん」
「大変でしたね、百合を調べるのは」
佐伯は同情していた。神話からノイローゼまで、百合と関係する事柄の間口は、思ったよりはるかに広かったからだ。
「ところで、問題なのは分布だ」
塩谷は複写した地図を何枚もファイルからとりだして、漆《うるし》塗りの座卓の上へひろげた。
「テッポウユリは薩南《さつなん》、琉球《りゆうきゆう》の島々。エゾスカシは北海道沿岸部。カノコユリは四国太平洋岸と九州西部。スゲユリは九州以西。オニユリ、コオニユリはほとんど日本全域。クルマユリは静岡、福井の線から東。イワユリ、イワトユリは本州東半分の沿岸部。ササユリは箱根以西。だいたい、こんな具合になっている」
「ユリにはこんな資料までそろっているんですか」
「ああ。だが、これじゃ、こんどの事件のメドはつかん。神社と百合の関係はな……」
塩谷の顔に、突然、得意そうなものがうかんだ。
「俺は発見したぞ」
彼は気負いこんで言った。
塩谷は佐伯の持ちこんだ話にすぐ乗った。それは彼が以前から考えをまとめあげようとしていた、各地の古い神社……とりわけ出雲系の神々を祭神とする式内社に関係していたからだった。
彼はそれらの神社間に共通の要素を発見し、古代人がどのような理由で聖地を選んだかという問題を解決しようとしていたのだ。
「だから俺は、三つの連続殺人事件によってうかびあがった五つの神社を、あれ以来なんとか結びつけようと夢中だった。だが、なまやさしい問題ではない。五つの神社の共通項が、さらに西へのび、山陰に入って出雲の神社と完全に結びついてくれなくてはいけないからだ」
「塩谷さんのお仕事としては、当然そうなりますね。本場の出雲はもちろん、スサノオやオオクニヌシを祀る神社はほうぼうにあるんでしょうから……それで、そのすべてに対する共通項が発見できたというわけですね」
「まあ、そういうわけだ。おそらく、ムラサキイトユリという植物が登場しなかったら、まだ当分発見できなかっただろう」
「というと、共通項はやはりムラサキイトユリの適地ですか」
「そうだ。地質、土壌、日照、風向……そういうことについては、これからもっとよく調査しなければならないが、問題はこの花が咲ける場所ということにしぼられてくる。ある植物を育てる大まかな条件はなんだ」
塩谷は佐伯をみつめて言った。
「それはまず気候でしょう」
「そうだ。気候だ。だが、植物にとって気候とはいったいなんだい」
佐伯はニヤリとした。そのテの質問には慣れていたからだ。メーカーにとってマーケットとはいったいなんだ。人々にとってシューマイとはなんだ。家にとって雨どいとはいったいなんだ。……それは広告の基礎であり表現法を発見する最も確実な手段だった。
「植物を動物に置きかえてみましょう。たとえば金魚を一匹水槽の中へ入れます。水温を何度まであげれば死ぬか。何度までさげれば死ぬか。酸をどのくらい混ぜたところで死ぬか。塩をどのくらい入れると死ぬか……そういう、生存のための条件でしょう。水が流れないで酸欠になるとか、干あがって死ぬとか、そういうことは別の問題になります。そういうのは、局地的な問題ですからね」
「そのとおりだ。まず平均気温が何度から何度までということ。それから、植物だから水分の問題だ。この場合、降水量だな。しかし、平均気温はもちろん重要だけれど、それだけじゃ大ざっぱすぎる。平均気温を見れば、当然生きられるはずの場所でも、植物は別の要素にやられてしまうことがある。たとえば、夏のまっさかりに、突然|零下《れいか》何度という寒さが襲って来たら、たいていの植物は参ってしまう。これは極端なたとえだが、開花、結実、そして冬ごもりと、そういう植物のサイクルに、うまく合う気候でないと適地とは言えない。ユリなら、鱗茎《りんけい》が冬仕度をまだしおわっていないとき……花や珠芽《しゆが》をつけているとき、冬の第一波にやってこられるのでは、そこには安心して住めないわけだ」
「というと、気温が一応適していて、その上に春の暖かさや冬の寒さのはじまる時期が問題になるわけですね」
「それに年間降水量……特に生命活動のさかんな時期のな。冬の来かたや春の来かたがちょうどよくても、肝心の夏場がカラカラにかわくのではどうしようもないじゃないか。俺たち日本人は、イネでそのことを骨身に沁《し》みて知っているはずだ」
塩谷は日本列島にさまざまな曲線を書き加えた十枚ばかりの地図をとりだした。
「これはサクラとツツジの開花日曲線。これはツバメの渡来日曲線。これは一月の平均気温と降水量。これは年間降雪日数と年間の平均最深積雪」
「これはおもしろい資料ですね」
「俺は今まで植物の開花や発芽、それに渡り鳥の来る日、帰る日などばかりを調べていたんだ。そのどれかの曲線の中に、出雲と、各地の出雲系神社がうまく納《おさ》まってくれればいいと思っていたのさ」
「で、どれが納まったんですか。発見したんでしょ」
「これだ。このふたつを重ねればいい」
塩谷は七月の平均気温曲線図と、平均|初霜日《しよそうび》曲線図の二枚を残して、残りを全部薄桃色のファイルへ戻した。
「日本の夏の降水量は、そうひどいバラツキがないんだ。一〇〇ミリ未満というのは、北海道の東端部だけで、あとは二〇〇ミリを中心に、一〇〇から三〇〇ミリの間だ。三〇〇をこえるのは、九州と四国の一部。それに紀伊半島南部だけなのさ。ところが、平均気温のほうは一六度から二六度まで、一〇度近いバラツキがある。その曲線も、地形によって、かなり入りくんでいるだろう」
「そうですね。二六度線などは、大阪あたりを中心に、淡路《あわじ》島をのみこんだ円をかいていますね」
「こんどは霜だが……年間霜日数というのは、地下の鱗茎がガードをかためてしまえば、あまり問題でなくなる。影響が大きいのは、ガードをかためる寸前の初霜日《しよそうび》だ。かためおわってから、霜、雪、とならなければ、植物としては困るわけさ」
「でも、これをどう重ねるんです」
「そのヒントをくれたのは、香取神宮に祀られているフツヌシノミコトだ」
「フツヌシ……」
「そうだ。スサノオ、オオクニヌシと、氷川や金鑽《かなさな》や、寒川、神田などがはっきり出雲色を打ちだしているのに、今度の事件では香取のフツヌシだけが、例の国譲りのときの敵方にまわった神だ。出雲系には違いなかろうが、香取もオオクニヌシやスサノオだったら、問題はもっとすっきりする。俺は気になっていたんだ。ところが、この七月の平均気温曲線を見ていたら、香取が二四度線の東の端に位置していたのに気づいたんだ」
七月の平均気温が二四度を示す地域は、房総《ぼうそう》半島の太平洋側、勝浦のあたりからはじまって九十九里《くじゆうくり》浜の中途から内陸部へ北上し、水戸の少し西から、宇都宮《うつのみや》、前橋、高崎と西へ向かい、少し南下して甲府、飯田と伸びている。そして高山と岐阜の中間、下呂《げろ》温泉のあたりを抜けて富山へ曲がり、日本海ぞいに高田、長岡、新発田《しばた》を通って急に海へ消える曲線の西側一帯だった。
本州の七月はそこから下関《しものせき》までほとんど平均気温二四度を示し、わずかに、京阪神、淡路島、和歌山西部をかこむ円内が、それより二度高い二六度地帯になっている。
「あ……」
佐伯は驚いて塩谷の顔をみつめた。
「何だい」
「邪馬台国《やまたいこく》が畿内《きだい》だったとすると、そこは本州の中で唯一《ゆいつ》の二六度地帯じゃありませんか」
塩谷は慌《あわ》てて手を振った。
「それは俺もとっくに気づいている。しかし、それはちょっと待ってくれ。この次のことにしようよ。そいつに触れると、きりもなくこんがらかってしまうからな。それより……」
塩谷は二枚の地図を重ね合わせ、七月の平均気温が二四度になる地域の境界を示すS字型の曲線を、ボールペンで強くなぞった。
「ほら、初霜の十月三十一日線とよく重なるだろう。夏のさかりが平均二四度で、十一月に入るまでは霜のおりない地域、ということになりはしないだろうか。その地域に出雲系の神々が祀られているんだよ。この枠内がムラサキイトユリの適地であり、同時に外からやって来たその神々を奉じる連中は、何らかの理由で、この線の外では最初のうち暮らせなかったのさ。それは多分、彼らの生存技術に関係しているはずだ。農耕にせよ、採集にせよ……」
「これと神社の分布が重なりますか」
「越後国一之宮《えちごのくにいちのみや》の弥彦《やひこ》神社があるな。祭神は天香山命《アメノカヤノミコト》というが、経津《フツ》の霊剣《みつるぎ》を鎮《しず》め祀《まつ》ったという説が残されている。新潟県|西蒲原《かんばら》郡にあって、二四度線の東北の限界に近い。次が越中国一之宮の高瀬神社。オオナムチを祀り、富山の礪波《となみ》郡にある。次が能登国一之宮の気多《けた》神社でオオナムチ。次は加賀国一之宮の|白山比〓《しらやまひめ》神社。祭神はイザナギ、イザナミだが、そのほかに神系不明のクワリヒメノミコトを祀っているから、スサノオや、オオナムチが背後にかくれている可能性がある。つづいて越前国一之宮の気比《けひ》神宮。これと若狭国《わかさのくに》一之宮の若狭彦《わかさひこ》神社はもっと調べなくてはならないが、南側では伊豆国一之宮である三島大社に事代主命《コトシロヌシノミコト》。豊橋のあたりには三河国一之宮の砥鹿《とが》神社にオオナムチ。熱田《あつた》神宮にはスサノオ。名鉄津島線の津島神社もオオナムチとスサノオで、伊賀国一之宮の敢国《あえくに》神社にはスクナヒコナノミコトがいる。二六度線円内の京都にも八坂《やさか》神社のスサノオがいるが、オオナムチやスサノオはさすがに多くない。奈良の春日《かすが》大社はタケミカツチとフツヌシ。石上《いそのかみ》神宮はフツノミタマ。大神《おおみわ》神社はオオナムチ、スクナヒコナ。和歌山に入ると死んだ檜前《ひのくま》善五郎氏との関係を考えなければならない日前《ひのくま》神宮、国懸《くにかかす》神宮……これはひとつの境内《けいだい》にふたつ並んだ妙な神社だ。そしてスサノオの熊野三山神社。大阪の住吉《すみよし》大社もスサノオと関係があり、西宮神社もやはりスサノオだ。播磨《はりま》には伊和《いわ》神社のオオナムチとスクナヒコナ。広島の厳島《いつくしま》神社はスサノオ。山陰へ入ればもちろん言うことなし……出雲大社で終点さ」
さっきお茶を運んで来てくれた、小ざっぱりした老人が、白い上っぱりを着てガタガタと店へ出てくると、ガラス戸をあけて暖簾《のれん》を外へ出しはじめた。もうそんな時間になっていた。
13 秘 花
佐伯は日本橋の寿司屋を出て、いったん東エージェンシーに戻り、デスクにたまった仕事を手早く始末すると、六時ごろ神田駅へ向かった。
塩谷も一度出版社へ寄り、その時間に神田駅で落ち合う約束だった。
「さっき寿司をつままなかったわけが判るかい」
塩谷は退社するサラリーマンの波に押されながら言った。二人とも、切符を指にはさんで改札口へ向かっていた。
「これから御徒町《おかちまち》の檜前《ひのくま》さんの現場を見たあと、まだどこかへまわるんですか」
「そうじゃない」
塩谷は切符を切らせながら言い、階段を昇りはじめた。佐伯はプラットホームにでてから、また塩谷と並んだ。
「判らんかなあ」
「推理作家じゃありませんからね」
「考えてみろよ」
塩谷はおもしろそうに言った。電車が来て押しこまれる。ふた駅めの御徒町まで、佐伯はあれこれ考えてみた。塩谷が紹子に会いたがる可能性はあったが、彼女の料理のことまで佐伯はしゃべっていない。
結局、判らないまま御徒町駅で降りた。
「降りるというより、ぬけだしたという感じだな」
ふだんラッシュ時の国電などに乗ったことのない塩谷は、降りた電車をふり返って言った。
「教えてくださいよ。考えたけど判らないんです」
「考えろ」
塩谷は意地悪そうな笑いをうかべて歩きだした。
寒川正信がクライスラーをとめさせた駐車場を教えてから、佐伯はあの晩歩いた裏通りへはいった。
すべてがこの道から始まったのだ。
佐伯はそう思い、あの晩のことをまざまざと思いだして緊張した。
「事件は現場……ということばがある。君はまだそれ以来、きてないんだろう」
「ええ」
「いかんなあ」
塩谷の言い方は得意そうだった。
「どのくらい檜前《ひのくま》さんたちと離れて歩いてたんだ。先に行ってみせてくれないか」
そう言われて佐伯は足を早めた。だいぶ歩いてからふり返り、また少し距離を作ってから手をあげてみせた。塩谷はとまらずにそのまま歩けと、てのひらを見せて押すように振った。
佐伯はひとりで歩いた。時間がこの前よりはだいぶ早く、人通りが桁《けた》ちがいに多かった。
アメ横と呼ばれる一郭《いつかく》へ入り、左側の道が合流する三叉路の手前で、佐伯は足をとめた。ふりかえると塩谷もとまり、寒川がとびこんだ右側の細い横丁へ入っていった。
佐伯はその間、あの銃撃した背の高い影になったつもりで、御徒町駅の方角をじっと眺めていた。三叉路の先からは商店の業種がガラリと変わり、パチンコ屋やキャバレーのライトが煌々《こうこう》としている。そのために、佐伯に近づいて来る通行人の顔は、はっきりと見わけられた。
人違いはあり得ない。佐伯はそれを確認した。
そのとき塩谷が、横丁からひょいと首をつきだした。はっきり見えたし、人相まで判った。
俺は見られた……。
塩谷が首をのぞかせたのを見たとき、咄嗟《とつさ》に佐伯はそう思った。
現場へ来てよかった。自分も危険にさらされている一人なのだ。これは呑気《のんき》にかまえてはいられないぞ。……緊張が増すと同時に、佐伯は薄気味が悪くなって、うしろをふり向いた。だが、怪しげな人物は見当たらなかった。
塩谷は気楽そうに横丁から出て近寄ってきた。
「君の説明はなかなか要領を得ているな。話に聞いて想像してたとおりだよ」
そう言ってから、佐伯の表情の変化に気づいたらしく、
「どうした。何かあったのか」
と心配した。
「僕はあの時の犯人に顔を覚えられましたね」
「そうか」
塩谷もふりかえって、自分が出て来た横丁のあたりを観察した。
「うん、そうだな。こいつはよく見える」
「でしょう」
「危《ヤバ》いな」
塩谷は真顔で言った。
「そういうのを、乗りかかった船という」
塩谷は急に明るい笑顔になった。元気づけているらしい。
「人相を覚えられたって、殺《や》られるとは限らないさ」
「人のことだと思って気楽に言いますね」
佐伯はなんということなしに、塩谷について先へ歩きだした。
「そんなことはない。覚えられた君と一緒にこの辺をウロついていれば、俺だってあぶないもんさ。おまけに俺はよくデカに間違えられる」
眼光が鋭く、たしかにそんな感じの塩谷だった。ただ、刑事だとすれば本庁のパリパリというところだろう。
「何を探してるんです」
佐伯はあたりを見まわしている塩谷に尋ねた。
「何か食おうと思ってな。君も腹がすいたろう」
あ……と思った。あの晩、銀座のクラブ百合花《ゆりか》からここへ移ったのは、檜前《ひのくま》老人がうまいものを食わせる、と言いだしたからだった。妙な場所にあるが、料理はうまいと自慢していた。佐伯はそのことを塩谷に言いながら、まったく気づかなかった自分を慚《は》じた。
「さすがは推理作家……」
「莫迦《ばか》。そういちいち推理作家を持ちだすな」
塩谷は苦笑してみせ、心当たりがなかったのか、両側を眺めまわしながら道を三叉路のほうへ引き返しはじめた。
「どんな店を探してるんです」
「変な場所にある……檜前《ひのくま》さんはたしかそう言ったんだったな」
「ええ」
「それじゃ、あのガードをくぐってみよう」
塩谷はうす暗い口をあけた、国電のガードへ足を向けはじめる。
「君も探してくれよ」
「だから、どんな……」
「俺にも判らん。ただ、百合の料理を食わせそうな店だ」
「あ、そうか」
「俺もまさかとは思うんだが、こう百合が重なっては、そう考えてみるテもありそうじゃないか」
二人はガードの向こう側を、行ったり来たりしながら探した。とんかつ屋、焼肉屋……。
「焼肉か……」
塩谷が立ちどまってつぶやいた。
「韓国、朝鮮……高麗《こうらい》、高句麗《こうくり》とやれば、百済《くだら》、新羅《しらぎ》、任那《みまな》と、そうなるわけだ。その前は馬韓《ばかん》、辰韓《しんかん》、扶余《ふよ》、そして魏志倭人伝《ぎしわじんでん》か。そのころ鮮卑《せんぴ》は魏の北にいて、烏孫《うそん》、大宛《たいえん》、康居《こうきよ》にササン朝ペルシャとローマ帝国か。イスラムがとりもつ縁でスペイン人は今でも百合のサラダを食うわけだな。どうだい、焼肉でも食ってみるか」
「でも……」
佐伯はためらった。焼肉屋は何軒もあるのだ。
「どの店ですかね」
「きまってるじゃないか。妙なところにある店さ」
「だったら一番怪しいところがまだですよ」
「どこだ」
「ガードの中です」
「ガードの中……そうだ、それだ」
塩谷は勢いづいた。
国電の線路が高架になっていて、その中に小さな商店がひしめいている。ひと口にアメ横といっても、外側は菓子|問屋《どんや》のあるアメ屋横丁、ガードの中は米軍の放出物資を並べたアメリカ横丁で、アメ横の語源が二説にわかれているのだ。
「こっちです」
佐伯はガード下の中央に口をあけた通りの、上野駅寄りへ塩谷を誘《さそ》った。
入るとすぐ、塩谷はギクリと足をとめた。佐伯は彼が注視している小さな看板を読んだ。
「ガイバ……ですか」
その看板には、蓋馬、と書いてあった。
「ケマだよ。北朝鮮の中国国境ぞいに、蓋馬高原という場所がある」
「料理を食わせる店でしょうかね。蓋馬とだけで、なんにも書いてありませんよ」
「君はこの匂いより文字のほうを信用するのかい」
塩谷は突き放すような言い方をした。たしかに、肉の焼ける匂いがしていた。
油で汚れたガラス戸を、ガラガラとあけて入ると、思ったより中は広く、長さ三メートル、幅一メートルほどの木のテーブルが三本、二本は横に、一本は縦に置いてあり、二十人ほどの客が、煙草と脂《あぶら》を焼く煙の中で、がやがやと飲み食いしていた。
「ェいらっしゃい」
入口にカウンターをめぐらしたオープン・キッチンがあり、白衣白帽の、その両方ともうす黒く汚れたコックが威勢よく言った。
「こいつはうまそうだ」
塩谷はうれしそうに佐伯にささやいて、空いた席へ体を斜めにして入っていった。
テーブルにつくと、ふてくされたような若い女が、プラスチックの湯呑を、向こう側から手を伸ばして、王手飛車とりをかけるような勢いで、二人の前へ音をたてて置いた。
ポットからうすい茶をつぎながら言う。
「ご注文……」
「酒」
塩谷は馴れた調子で応じた。
「二級、酎《ちゆう》……」
「二級」
「はあい、お酒二本……」
女はオーダーを通し、まだ突っ立っている。こん畜生、世話を焼かせるな……そういう顔つきでみおろしている。
「とりあえず肉豆腐と辛焼《からやき》」
塩谷は壁に貼った札を見て素早く注文した。
「はあい、肉豆腐に辛焼。二丁《にちよう》二丁ね」
女が去った。
「辛焼って何です」
佐伯は尋ねた。
「知るもんか」
塩谷は声をたてて笑った。
その笑いが終わる間もなく酒が来た。お酒二本、と言ったくせに、ぬるい二級酒は厚手のガラスのジョッキに入って来た。ビールのおまけについてくる奴にそっくりだった。
まわりを見ると、みんなそれで飲んでいる。
「いよいよ本格的だ」
塩谷は一人でうれしがっていた。
肉豆腐は豆腐半丁に肉の入った熱いあんかけ、辛焼は大蒜《にんにく》と鷹《たか》の爪《つめ》を思いきり効かせた焼肉……牛だか豚だかの内臓だった。
「そう言えば、大蒜もユリ科だぜ」
塩谷は辛焼をひと口食べ、あわててジョッキの酒で辛さを消したあとで言った。
「草の丈《たけ》はこのくらい……六○センチほどで、花はたしか紫。いや白だったかな」
「ムラサキイト……」
言いかけたのを塩谷に肘《ひじ》で小突かれた。佐伯はあたりをうかがい、首をすくめた。
「ほら、あったぜ。ユリ粥《がゆ》だとさ」
塩谷は右手の壁の札を指さして言った。すぐ斜め前の客が、小さな耳つきの土鍋に入った湯気の立つ粥を、白い中国風のスプーンで口に運んでいた。
二級酒、と言っても、どうやら水を割ってある気配で、その水っぽい酒が、とびきり辛い肴《さかな》によくあった。二人とも、あっという間に三杯目のジョッキをつかんでいた。
「ユリ粥も食ってみなければいかんな」
塩谷は辛焼を噛みながら言った。
「あのユリでしょうか」
佐伯が小声で言う。
「まさか」
塩谷はありえない、といったように首を横に振った。辛焼も肉豆腐も、ほぼおわりかけていた。三杯目のジョッキも、三分の一くらいに減っている。
何組かがその間に帰り、何組かの新しい客が来ていた。
ちょうど佐伯が残りの酒を呷《あお》ろうと、ジョッキの厚いふちを唇にあてて目をあげたとき、いちばん奥まった所にいた二人の客が立ちあがった。一人はごく普通の背恰好だが、もう一人はいやに背が高かった。
佐伯はそのままのポーズで二人をみつめた。背の高いほうは、奥の壁に背を這わせるようにして、客のうしろをすり抜けて出口に向かっている。
「何か注文するか」
塩谷が隣で言っていた。佐伯は答えずに残りの酒を飲みほした。
二人は出口のところにあるオープン・キッチンの前へ行くと、立ちどまって勘定を払いはじめた。顔馴染みらしく、背の高いほうが、オープン・キッチンの梁《はり》に右手をかけ、コックに何か言って笑わせた。キッチンの中の強い照明で、その姿が逆光ぎみになり、うすぐらいシルエットになっている。
勘定は低いほうが払っているらしい。ふり向いて高いほうに、ひとことふたこと何か言った。
「え、どうする」
塩谷がまた言った。
「あの男……」
佐伯はキッチンをみたままでささやいた。
「見憶えがあるのか」
塩谷の声が緊張した。
「なるほど、のっぽだな」
「ええ」
「出て行くぞ。こっちに気がついてた様子か」
「いいえ」
「よし、出よう」
塩谷はさっと立ちあがった。佐伯も細長い伝票をつかんであとを追う。
「俺はさきに出る。払いをすませてついてこい」
塩谷は命令口調で言い、佐伯が入口の女に伝票を渡すまで、ちょっとキッチンの前で立ちどまってから、すぐ戸をあけて出ていった。
支払いに一分もかからなかった。佐伯もすぐにあとを追う。
通路を出ると、ちょうどガード下の出口を塩谷が右へ曲がって消えるところだった。佐伯は足早につづいた。暗いガード下へとびだすと、塩谷はアメ横を左へ、御徒町駅方向へ曲がろうとしていた。わずかに手を振って、余り近寄るなと合図した。
事件のあった晩と逆に、佐伯はだいぶ灯りの減りはじめたその裏通りを、塩谷の二十メートルほどあとから、御徒町駅へ向かって進んだ。塩谷の前方には、高いのと低いのと、ふたつのうしろ姿が並んでいた。
高いほうが先夜の犯人だという確証はなかった。だが、どうもそんな気がした。低いほうはびっこを引いていた。右足が悪いらしい。何か話しながら、のんびりと歩いているようだった。
塩谷が急に歩度を早めた。どんどん早くして、二人に追いつこうとしている。二人は右に折れる気配を示していた。そこを曲がれば、不忍池《しのばずのいけ》ぞいに来る道と、上野公園からおりてくる道の交差点へ出るはずだった。
塩谷はその角のところでさりげなく二人を追い抜いた。顔を見る気だろう。佐伯は彼の動きにつられて思わず早くなっていた足を、気をしずめて元の歩度に戻した。塩谷は顔を知られていないが、彼は知られている可能性があった。
二人が表通りへ出たので佐伯は少し距離をつめた。二人は左へ曲がり、横断歩道のところで立ちどまっていた。向こう側へ渡る気らしい。十二、三人がそのまわりで信号を待っており、塩谷は二人のすぐうしろについて、腕時計を眺めたりしていた。話声のきこえる近さだった。
信号が変わり、歩行者のかたまりが動きだした。塩谷はゆっくりと渡っている。びっことのっぽの二人は、その塩谷との距離をひらいて行く。スタートしたときの間隔に戻って、塩谷と佐伯の二段尾行がつづいた。
のっぽとびっこは不忍池《しのばずのいけ》ぞいの道の左側の歩道を進んで行く。そのあたりはうす暗く、人通りも少ないが、うまいぐあいに塩谷の前後にそぞろ歩きのアベックが二、三組入ってごまかしてくれる。その道の左側は新興の歓楽街になっている。キャバレー、ゴーゴー喫茶……横丁があるたび、赤いネオンが奥に見える。
不忍池の水上音楽堂がある辺《あた》りで、二人は急にその方角へ入った。塩谷が中に入っていたアベックを追いこして、また間隔をつめた。佐伯は二人が曲がった横丁の一本手前へとびこんで一気に走った。次の角で立ちどまり、二人の影が出て来るのを待った。二人は角へ出てくると、すぐにまた右へ曲がった。佐伯の位置からはまる見えだった。
右へ曲がってすぐ、二人は左側のけばけばしいネオンがともったビルへ吸いこまれて行った。佐伯は急いでそこへ近づいた。次の角で塩谷と肩を並べるタイミングになった。
塩谷は、オヤ、というような顔で佐伯を眺め、
「やるな」
と微笑した。肩を並べて、ゆっくりと二人を吸いこんだビルの前を通りぬけた。ネオンは、この辺りでは珍しくもない、ソープとキャバレーの看板だった。
「あの二人、遊びに入ったのか」
「だったら、どっちでしょう」
少し行きすぎてから立ちどまり、ふりかえって言った。
「キャバレー・ハチャハチャとトルコ・にゅう上野か」
塩谷の声は笑いを含んでいた。HACHAHACHAという赤いネオンのネオン管がジーッという耳ざわりな音をたてていた。
「たしかにあいつかね」
塩谷はタクシーの中で言った。車は新宿へ向かっている。ひとまわりハチャハチャとトルコ・にゅう上野のまわりを歩きまわったあとだった。
「証拠はないですよ。僕の勘です」
塩谷は鼻を鳴らし、
「まあ、その勘を信じておこう」
と言った。
「どうだね、君。教えてやっては」
「教えるって言うと……」
「警察にさ。ブチこわしにしなくてすむうまいルートがあるんだがな」
「待ってくださいよ」
佐伯はあわてた。何よりも最初に頭へうかんだのは、紹子に累が及んではいけないということだった。
「商売になりませんよ」
佐伯はつとめて図太そうに言った。塩谷は、ホウ、と言って佐伯をみた。
「やっぱり相模製薬か」
「会社が左前ですし、なんとかしなければいけないんです」
「商売熱心なことだ。それに忠義|一途《いちず》か……妙な愛社精神なんかごめんだぞ」
「ライバルがいるんですよ。正直言えば、会社なんか仕事を消化してくれさえすれば、どこだってかまわないようなもんです。それより、これは果たし合いみたいなもんでしてね」
「勇ましいんだな」
「僕の先輩で、兄貴分に当たる男なんですが、それがライバル会社へ寝返ったんですよ」
「いつだ」
「ついこのあいだです。僕のいる会社の専務で営業部長をしてました」
「ひでえ野郎だな」
「別にひどいとも思いませんがね。本来なら一緒について行くところだったんですが、何しろ長い間しのぎをけずって来たライバル会社ですからね。一度コチンという目にあわせてやりたいんです」
「それで移るのをやめたのか」
「ええ。相手がいなければ戦争はできませんからね」
「戦争か」
塩谷は笑った。
「たたかうとか、たたかいとるというのが流行語みたいになってる世の中だが、君は本当に戦争をしてる気か」
「会社に所属するのは、陣借りしているわけですよ」
「えらいな」
「いえ、こいつはその寝返った兄貴分の教育です」
「ほう。それじゃ、君はその兄貴分氏が好きなんだな」
「どうしょうもなくえげつない男ですが、たしかに尊敬してます」
「面白いね。面白そうな社会だな」
「資本主義のあぶくみたいな商売ですよ。過剰包装と同じようなもんでしてね」
「それだけに妙にキリキリしてそうだよ。で、この件は兄貴分氏も知ってるのかい。競争なんだろう」
「いいえ、教えてありません」
塩谷は口笛を吹いた。
「だって、ついこの間まで上司だった人間だろう」
「功名の種あかしをするほど馬鹿じゃありませんよ」
「なるほど……」
塩谷は佐伯の膝を叩いた。
「気に入ったね。サツには当分教えずにおこう。そのかわり勝てよ」
「ええ。そのつもりです」
「しかし注意しろよ」
「はい」
「新宿のどこのあたりでとめるんです」
運転手が言った。
「コマ裏」
塩谷が答え、
「ユリに殺しに神社に薬屋か」
と、シートにもたれこみながら言った。
「それに、広告屋とキャバレーとトルコと肉豆腐……」
「まだ口の中がヒリヒリするよ」
塩谷は笑った。
佐伯は猛烈に紹子に会いたくなっていた。紹子を抱きたいと思ったのは、それがはじめてだった。セックスの意味ではなく、本当に抱きしめたかった。あのひよわな肩をだきしめて、あの柔らかな髪の匂いを嗅ぎたかった。この妖《あや》しい影で満ちあふれた世の中から紹子を遠ざけ、保護し、かぼそくとも清らかな人生をまっとうさせてやりたかった。
「動物でも植物でも、みなそれぞれに身を守る手段を持っていますね」
「うん。棘《とげ》のある花、毒の花。やたらふえる花、高嶺《たかね》の花……だがその自衛力が、みなどうやら罪につながっているようだな」
「どうでしょう、清純さだけがその身を守っている生き物なんて、ありますかね」
「さあ……」
塩谷は本気で考えこんだ様子だった。
「なんとしても手折《たお》る気のしない花。踏みつけたら一生後悔するような花。ひと目みたら守り育てなければならなくなるような花」
「おいおい。それはまさか……畜生、女の話だったのか」
塩谷は口惜しそうに言った。
「そんな花はいちばん罪深いよ。君、やめろよ、そんな女は。男をほろぼす花だぞ」
本気で忠告しているようだった。
「言ってみたまでですよ。そんな女、この世知辛《せちがら》い世の中にいるもんですか」
「莫迦、世知辛いからいるんだよ」
車はコマ劇場裏の通りに入った。佐伯は硬貨を算《かぞ》えはじめた。そしてふと、秘花、という言葉を頭にうかべていた。
それはムラサキイトユリのことでもあるようだったし、榊原紹子のことでもあるようだった。
14 アルカロイド
佐伯が四つ目の殺人が発生したことに気づいたのは、塩谷秀夫と上野を歩きまわってから三日たった日の朝だった。
ちょうど日曜日で、佐伯は遅く目ざめ、十時ごろその新聞記事を読んだ。
夜の池袋でまた銃声。業界誌記者殺さる。……昨夜十時四十分ごろ、豊島区池袋二丁目の通称ガス通りのトルコ・にゅう池袋正面入口付近で突然銃声が聞こえ、薬品業界誌の記者高浜七郎さん(40)は左胸部に銃弾を受けてその場で死亡した。高浜さんはトルコ・にゅう池袋から出て来たところを出あいがしらに撃たれた模様で――
佐伯は新聞を掴んで立ちあがっていた。
今度ばかりは、身を護《まも》らなくてはならないという防衛本能が卒然と湧きあがっていた。死者の環が、自分のほうへまたひとつ、音をたててしめられた気がした。
高浜とは二度会っただけの仲だった。一度は佐伯が江戸橋へ呼び寄せ、二度目はその翌日、彼のほうから江戸橋へやってきた。だが、問題は会った回数ではなく、その内容だった。
佐伯は、高浜が自分に会うまで、相模製薬の漢方系新薬が、社長対会長の内部紛争にからんでいる可能性に気づいていなかったことを知っている。会長である寒川正信の復権の動きが、最近急に積極的になり、社長派勢力が後退しはじめている情勢の裏に、寒川正信がかくし持つ、いわば切り札ともいうべき新薬が存在していそうなことを教えられて、高浜は業界誌記者として、猟犬のようにとびだして行ったのではなかったか。
そういう種類のジャーナリストは、ニュースを追うばかりでなく、えてして個人的な利益のために、業界の秘密に介入して、それを利用することが多いのを、佐伯はよく承知している。
高浜が何度呼びだしても現われなかった理由が判ったような気がした。彼は最近になって何かを掴んだのだろう。最初の情報源である佐伯には、そのことでいささか恩義を感じていたかも知れず、それならばなおさらのこと、佐伯の前に姿をだしにくい立場にいたのだろう。
なぜ姿をだしにくかったか。その答えはかんたんだ。佐伯から得た情報を手がかりに、さらに高度なものに接近したのだ。それは彼に利益をもたらし、しかもそのためいっそう、佐伯には打ちあけられないことになったのだ。
佐伯も企業活動の裏面で踊る人間の一人だ。幾分立場こそちがえ、高浜の置かれていた状況はよく判るのだった。
が、そのために高浜は殺された。
業界誌筋から情報をとろうとしたとき、高浜という男を選びさえしなかったら、彼は殺されずにすみ、この日曜の朝を、どこかで平穏にむかえていたにちがいないのだ。
佐伯は電話の通話ボタンを押し、赤いランプがつかないのをたしかめてから、急いで塩谷秀夫の自宅の番号をまわしはじめた。そのアパートには代表番号システムで電話が三回線入っており、入居者は自動交換で使うようになっている。
塩谷は不在だった。どこかへ旅行しているという返事だった。応対に出たのは、例の五十がらみの小柄な女らしく、ひどく無愛想で、いつ帰って来るかもはっきりしなかった。
佐伯は電話をかけかえ、榊原紹子を呼びだした。急用だからすぐに会いたいと言うと、彼女としては珍しく屈託のない声で、起きたときから誰かがたずねてくるような気がしていたと答えた。
てばやく着がえてアパートをとびだし、タクシーを拾って豪徳寺へ向かう佐伯は、自分が紹子同様ひどくたよりない存在であったことに気がついていた。
考えてみれば、塩谷秀夫も榊原紹子もアカの他人だ。それも、ごく最近知りあったばかりで、つきあいの長さから言えば、会社の篠崎や津島のほうがずっと長い。
そういう点からすれば、佐伯にとってかなりの非常事態が発生したいま、味方として頼るべきは、吉岡や淵上など、いちばん古くから身内同然のつきあいをして来ているデザイナーたちであるはずだった。
しかし、事態の変化に追われ、こうしてタクシーで急いでいる身にとって、仕事の仲間は遠い存在でしかなかった。
たった二人しかいない……自分が連絡をとるべき相手の数の少なさを知ったとき、佐伯はあらためて、この大都会に住む人間の、生活の根拠の薄弱さを思うのだった。
マンションの階段を駆けあがるとき、佐伯は高浜の記事が出ている朝刊を置いて来たのに気づいた。
チャイムを鳴らすとすぐドアがあき、紹子の白い顔がのぞいた。
「おはようございます」
紹子は、カラリと晴れあがった日曜の朝にふさわしいはなやいだ表情だった。佐伯は靴を脱ぎながら、そんな明るい感じの紹子に目をみはった。
ピンクの縦縞が入った、ミディのワンピースを着ていた。襟と肩と袖口と裾にレースの飾りがついて、ともぎれのベルトをうしろでむすんでたらしていた。
彼女はいつもと違うその派手な可愛らしい衣裳を意識していて、軽く膝を折り腰をおとして、外国風のおじぎをしてみせた。
「かわいいね、その服。似合うよ」
佐伯は緊迫感をはぐらかされて、中途半端な言い方をした。
「でも、子供っぽすぎないかしら」
「そんなことない」
佐伯は部屋の中を見まわし、新聞を探した。新聞は奥の部屋の白いテーブルの上にのっていた。
「ちょっと……」
佐伯は入口に立ちはだかるようにしている紹子の両肩に手を当てて、そっとわきへ寄せ、大股で次の部屋へ入った。
「あら……」
紹子はとがめるような声をかけた。ふりかえるとバツが悪そうに微笑した。
「まだきちんとなっていないのに」
「君の部屋はいつだって、きちんと整頓してある。……ちょっと新聞が欲しいんだ」
佐伯はふり返って言い、白いテーブルに近寄った。新聞がひろげてあり、ちょうど高浜の事件がのっている面が上になっている。彼はバサバサとそれをたたみ、その記事の部分が目立つように細長くして左手に持った。
「これを見てごらん」
紹子は歩み寄り、新聞をうけとった。かすかに眉を寄せて読む。まだ低い太陽が朝の光をいっぱいにそそぎこむ部屋で、淡《あわ》い絨緞の上に立った桃色の衣裳の紹子は、まるで人形のように可憐だった。
「どれ……」
顔をあげて困ったように尋ねる。
「トルコ・にゅう池袋の事件だよ」
佐伯は彼女の横にまわりこみ、記事を指で示した。
「これ、さっき読んだわ。何かあなたに関係があるの」
小首をかしげて言う。佐伯は立ったままいきさつを説明した。
「あのムラサキイトユリが……そんな……」
紹子の顔はみるまに曇った。新聞を胸にだくようにして、佐伯の顔をじっとみつめた。
「いやっ」
くるりとうしろをむき、新聞をだきしめてかたくなにうつむいた。
「笠原は大丈夫だよ。きっと見つかるさ」
肩に手をのせて言うと、紹子はその肩をゆすって呻《うめ》くように、
「ちがう……」
と言ってふりむいた。放心したようにまた佐伯をみあげた。長いまつ毛が濡れていた。
「あなたまで……」
そう言って絶句した。
「なんだい」
佐伯は優しくたずねた。胸に重なっていた両手が離れ、バサリと新聞が足もとに落ちた。それを佐伯が目で追ったとき、紹子は思いがけない激しさで一気にだきついて来た。
「いや……。いや。あなたまでいなくなったら、私どうすればいいの。ねえ、どうすればいいの」
じかに着たシャツをとおして、佐伯の胸に紹子の泪《なみだ》の熱さがつたわってきた。佐伯はその華奢《きやしや》な両肩を、思わず強くだきしめていた。紹子はいつのまにか、佐伯の上着の下に手をまわし、ベルトのあたりをだいている。佐伯は紹子をつつみこんだ形になり、その細く柔らかな髪をみおろしていた。紹子の髪に朝の光があたり、栗色に輝いていた。
「俺がついている。どんなことをしても、君を不幸な目にはあわせたくないと思っているんだ」
佐伯は両掌を紹子の細くとがった肩先にあて、おさえつけるようにして言った。紹子は佐伯の腰をだいたまま顔をあげた。頤《おとがい》をあげ、喉の線が伸びきっている。白いレースの襟の中に彼女の胸の肌があり、佐伯の胸にブラジャーの堅い感触があった。
瞳の外側の白い部分が青味を帯びているようだった。童女のように無防備な、その頼りきった目をみつめていると、佐伯の心に清潔な感動が湧きあがって来た。彼は自分をみあげている白い顔に顔を寄せた。紹子は目をとじた。佐伯は紹子のなめらかな額に唇をあてた。乾いて、少し熱っぽいような額だった。
額へのくちづけがおわると、紹子は安心したようにため息をついて、腰にまわした両腕に力をこめなおし、もう一度彼の胸に頬をおしつけた。両肩をすぼめ、まるで佐伯の体温であたたまろうとしているように見えた。
「佐伯さんまでいなくなったら、私死んじゃうから……」
声に幾分明るさが戻っていた。
その日曜の夜十時すぎまで、佐伯は紹子の部屋にいた。遅い朝食をともにし、三時ごろからは、ディナーの仕度《したく》を手伝った。
佐伯は彼女に、エビの殻《から》を叩きつぶすよう命令された。小さなキッチンで、紹子は命令という表現が少しもおかしくないほど、堂々として見えた。
そのあいだ、紹子は野菜のごった煮を作っていた。佐伯は、彼女がさまざまな野菜類に、ほんのわずかの間しか、手をふれなかったのに気づいた。野菜はアッという間に鍋に入れられ、グツグツと煮られたのだ。
長年デザイナーたちと暮らしている佐伯は、なるほどと思った。腕のいいデザイナーは、仕事のとき紙に触れている時間が非常に短いのだ。料理も同じことで、へたな者ほど材料を長くいじりまわすのだろうと思った。
叩きつぶしたエビの殻は、ビスクという濃いポタージュになった。野菜のごった煮は仕上がったあとで冷やされた。ラタトゥイユという名の南フランス風の料理だそうだった。
紹子は粒胡椒《つぶこしよう》を粗《あら》くつぶすように言った。佐伯がつぶしはじめると、すぐにもういいととめ、首を傾《かし》げて、少しつぶしすぎたと佐伯を睨《にら》んだ。
ステーキに使う肉を冷蔵庫からとりだしたとき、紹子はひどく誇らしげな顔になった。口をとがらせ、トゥールヌドだと言った。佐伯はその肉の名をトルネードと誤まって憶えていた。フィレのうしろの部分の名称だった。
粗くつぶした粒胡椒は、そのトゥールヌドの両面にすりこまれた。すりこむというより、押しつけて押しこむようなやり方だった。
仔牛の肉と骨と野菜で、紹子はフォン・ド・ヴォーを作った。フォン・ド・ヴォーは、ステーキのソースに使った。
ポテトのうす切りを重ね、その間にバターをいれ、地の厚い深鍋で焼きあげると、表面にパリパリの皮が張った。ポンム・アンナで、ステーキにそえる用意だった。
二人だけのディナーがはじまったのは、七時ごろだった。
キャビアはいいものがないからと言って、前菜はフォワ・グラのブリオーシュ包み。スープはラタトゥイユ。魚はかれいのシャンパン蒸《む》し。そしてトゥールヌドを使ったステック・オー・ポワーブルの焼き方は、レァーよりもっと生の、ほとんど焼いたとは見えないくらいの、オー・ブルーだった。
チーズは紹子のコレクションの中から、キャマンベールとポン・レヴェーク、ポール・サリュー、そして青かびのついたロックフォールの四種類を、それぞれほんの少しずつ。
デザートはリヨンというパン屋の自家製シャーベットとル・コントのケーキ。両方とも六本木にある店で、佐伯がタクシーで買いに行かされたものだった。
佐伯は、トルコ語のカハーヴィヤがキャビアにかわり、日本語だと思っていたイクラが、実はロシア語そのままの外来語だというようなことを、その美味きわまるディナーのときに教えられた。
酒は最後まで、ドン・ペリニョンというシャンパンだった。かれいを蒸すとき栓を抜き、それが食卓を飾った。グラスはバカラ製で、胴の少しくびれたプロヴァンス型だった。
最後のコーヒーのとき、紹子は宝物を扱うようにして、マール・ド・シャンパーニュを佐伯にすすめた。シャンパン用の葡萄液のかすからとった蒸溜酒で、その強いアルコールが小気味よく五体にしみわたった。
「くどいようだけど、こんなうまい食事ははじめてだった。本当だよ」
佐伯はマール・ド・シャンパーニュに陶然としながら言った。
「こんなの、まだ序の口よ」
紹子はもてなしが成功して、はしゃいでいるようだった。
「これから、もっとうんと教育してあげる」
「たのしみだな。うまいものを食うと、ファイトがわいてくるよ」
事実、佐伯はこの可憐な料理の天才に対して、心の底から保護欲をわきたたせていた。朝の不安がけしとび、殺人者に対する猛烈な闘志だけを感じていた。
佐伯にとって久しぶりに愉《たの》しい休日だった。
翌朝。
塩谷のほうから、わざわざ東エージェンシーへ出向いて来た。彼は店をあけたばかりの地下の喫茶店で佐伯を待っていた。
「どうしたんですか、こんな早くに」
佐伯がテーブルへ近寄って言うと、塩谷は小さな旅行鞄を指で示した。
「東京駅へついて、まっすぐやって来たんだ。……それにしても平気な顔をしてるじゃないか」
佐伯はその前へすわった。高浜と話したのも、茂呂儀平に会ったのも、その喫茶店の同じテーブルだったことを思い出していた。
「にゅう池袋の件ですか」
「そうだよ。高浜七郎というのは、君が新薬情報を依頼した例の業界誌の男だったんだろう」
「ええ」
「にゅう上野。にゅう池袋……こいつはただごとじゃないぜ。同じ経営にきまっているよ。俺はもう調べるよう手配したが、にゅう巣鴨《すがも》、にゅう歌舞伎、にゅう新宿、にゅう高円寺と、明らかにチェーンをつくっていると思われるソープが、ほうぼうにあるんだ」
「あののっぽは、どうやら間違いなく檜前《ひのくま》さんを殺《や》った奴らしいですね」
「もう放っておけんじゃないか。俺はこの件を警視庁へ通すぜ」
「それで、わざわざ断わりに来てくれたのですか」
もう放っておけないというのは、佐伯にしても同じことだった。
「じゃ、いいね」
「ええ。お願いします」
「君のところへはとばっちりが行かんようにするが、そのほかに別な情報がある」
塩谷はきつい目で佐伯を睨《にら》んだ。
「実は前からの約束で、新潟、富山、それに石川県の七尾《ななお》と、あのあたりを駆け足でまわってきたんだ。一年間連載してたのがおわるんで、グラビア用の写真とりだ。北陸を主な舞台にしていたからさ。ところが、旅行中に、妙にひっかかることを発見したんだ」
「何です」
「最近急に、関西系の暴力団があの辺りへ進出して来ているんだ。北陸新報が世話をやいてくれたんで、わりと正確なことを教えてもらえたんだが、その拠点《きよてん》が、新潟、富山、それに七尾線の羽咋《はくい》だというんだ」
「羽咋……」
「そうだ。おかしいだろう。なぜ金沢や七尾じゃいけないんだ。羽咋なんて……」
「七尾のだいぶ手前ですね」
「呑気《のんき》だな、君は」
塩谷は昂奮気味で、佐伯の態度を責めるように鋭く言った。佐伯は理由が判らずに首をかしげた。
「こんどの件に関係あるんですか」
「ある。新潟、富山、金沢とか、新潟、富山、七尾というんなら、俺も平気でみのがしたろう。しかし羽咋となると話は別だ。羽咋ひとつがあるために、新潟、富山の意味がガラリと変わってしまうんだ」
「どうしてですか」
「羽咋市|寺家《てらや》町というのは、気多《けた》神社の所在地だ」
あ……と、佐伯は顔色を変えた。
「新潟は弥彦《やひこ》、富山は高瀬。両方とも出雲系の祭神がいる神社じゃないですか」
「だから俺は、ゆうべ現地から東京へ電話して尋ねてみたんだ。その方面に強い新聞記者を一人知っているんだ」
「で……」
「関東にも進出してて、あちこちでちょっとした騒ぎを起こしてる。それがなんと」
塩谷は舌で唇を湿《しめ》してつづけた。
「千葉の佐原市。群馬の富岡《とみおか》市と藤岡《ふじおか》市。茨城《いばらき》の那珂湊《なかみなと》市。栃木《とちぎ》の日光市。埼玉の大宮市。そして神奈川の茅《ち》ガ崎《さき》市」
佐伯は凝然《ぎようぜん》と塩谷の口もとをみつめていた。
「判ったか」
「ええ。茅ガ崎は寒川神社、大宮は氷川神社、日光は二荒山《ふたらさん》神社、那珂湊は大洗《おおあらい》の磯前《いそざき》神社でしょう。佐原は香取神宮で富岡は貫前《ぬきさき》神社。藤岡は……」
「群馬だが埼玉の県境ギリギリにある。神川村の金鑽《かなさな》神社だよ」
「関西系の暴力団ですか」
「ああ。主体は梅川組さ」
「え……あの麻薬で有名な梅川組ですか」
二人はしばらく黙ってみつめ合った。
「君はとんでもないことに足をつっこんでしまったらしいな」
塩谷は憐れむような表情で言う。
「でも、ムラサキイトユリがどうして麻薬に関係あるんですか。新種とはいえ、ただのユリじゃないですか」
「そんなこと、俺に言ったって知るか」
佐伯の言い方がつい抗議するようになり、塩谷は憮然《ぶぜん》として答える。
「だが、ちょっと考えてみてくれないか。俺は小説などを書いているから、考えが飛躍しすぎるのかもしれん。それにしても、麻薬で悪名高い梅川組があらわれたとなると、今までのことにいっぺんで筋がとおってしまう。古い神社がある土地にしか成育しない特殊な植物がある。俺たちは麻薬の件が出る前に、すでにそれに気づいている。ムラサキイトユリという奴だ」
塩谷は念を押すように佐伯を見た。
「ええ……」
「ところが、ここで梅川組という暴力団が、関東、北陸の古い神社のある場所へ急激に進出していたことが判った。大きなお宮のある場所は、昔からやくざが縄張りにしていた。定期的に市《いち》がたち、人が集まるからだが、この時代にまだそんな所へ固執しなければならんのか……。おかしいじゃないか。やくざの収入源と堅気の人間の収入源の根本的な差を知ってるか」
「合法か非合法かでしょう」
「いや、違うな。利益率なんだよ。やくざのは一種の短絡《たんらく》さ。とてつもない利益率でなければ、やくざの仕事としての要求をみたせないんだ。仮に利益率が二割か三割だったら、堅気の仕事にだって珍しくないし、その程度で法の目をくぐるのなら、コツコツまじめにやったほうがいい。つまり、利益率が高いから無理があり、その無理が法に触れて非合法になるというわけさ」
「それはそうでしょうが……」
「梅川組の件にどうかかわると言いたいんだろう」
「ええ」
「藤岡市や那珂湊市や羽咋市のどこに、そんなおいしい仕事があると思う。よしんばあったとしても、それならすぐ近くの金沢や高崎や水戸にもあっていいんじゃないかな。そして、金沢や高崎や水戸のほうが、よほど繁華《はんか》な土地じゃないか」
佐伯は、自分が塩谷の言葉に、じわじわと追いつめられて行くような気がした。
「連中は土地そのものを掌握《しようあく》したいんじゃないか」
「ムラサキイトユリの栽培ですか」
「そうだ。しかし、それで花屋をやろうというんじゃないぜ」
「麻薬……」
「ああそうだ」
「ムラサキイトユリが麻薬になるんですか。珠芽《しゆが》を傷つけたら阿片《あへん》を分泌《ぶんぴ》するんですか」
「まだ判らん。しかし、ニコチン、コカイン、エフェドリン、ストリキニンなどのアルカロイドは、大部分が顕花植物のものだ。ケシ、キナ、マチン、タバコ、黄麻、大麻、ベラドンナ、ヨヒンベ、サフラン……」
「ムラサキイトユリのアルカロイドが麻薬になるわけですか」
「アルカロイドというのは、植物体の中にある塩基性|窒素《ちつそ》を含む有機化合物のことだ。そして、植物がアルカロイドを持っている場合は、たいていたくさんのアルカロイドをいっしょくたに含んでいるんだ。たとえば、アヘン・アルカロイドというのは、モルフィン、コカイン、ナルコチン、パパベリン、コデインなどのことなのさ」
「もしそうだとしたら、どこの部分からどうやってとりだすんです」
「葉のつけねにできる珠芽《しゆが》か、地下の短縮茎の上に生ずる木子《きご》か……どちらもケシでいえば果実に相当する部分だ。だが、俺の勘では多分……」
「どこです」
「俺たちの手に入らなかった部分さ。笠原という男も、青木という男も、ふたりとも平気で花を飾っていただろう。だから君はムラサキイトユリの存在を知ったわけだ。だが……」
「根だ……そうでしょう。球根だ。鱗茎がアルカロイドを含んでいるんだ」
佐伯は昂奮して言った。
「うん。だが、そうだとしたらこいつは凄いことになるぞ」
塩谷はそう言うと、ポケットから無雑作に大きな球根をとりだして、テーブルの上にころがした。
「これは富山で買った料理用のハカタユリの鱗茎だよ。みろ……」
塩谷は指でその鱗茎の一片をはがし、大きな瓜《つめ》状の鱗片をまふたつに折った。
「北方民族が澱粉《でんぷん》にして貯蔵するほど養分をたくわえているじゃないか。このぎっしりつまった澱粉から抽出《ちゆうしゆつ》するのだとすると、麻薬源として恐ろしく効果的だぞ」
殺人がつづくわけだ。佐伯はそう思い、じっとハカタユリの大きな球根をみつめた。
15 事 業
電話のベルが鳴り、デザイナーの吉岡が佐伯を呼んだ。睡《ねむ》くなるような午後の陽ざしが、昭和通りに面した窓から、制作部の部屋へななめにさしこみ、佐伯のデスクのすぐそばにまで伸びてきていた。
「ご婦人ですよ」
受話器を掴んだ左手の指で、通話ボタンを押しかけた佐伯へ、吉岡はからかうように言った。
「なんだ……」
佐伯はまた紹子からだと思い、そうつぶやいた。彼女はちかごろ、用もないのによく電話をしてくるようになっている。だが、そのとき佐伯が待っていたのは、女からの連絡ではなく、しかも、受話器の奥から聞こえてきた女の声は、紹子の声でもなかった。
「あ、た、し……」
「は……」
「あたしよ。案外、薄情なのね」
銀座の女だった。
「なんだ、君か。仕事で別な電話を待っていたところだから」
「言いわけ無用よ。お店へ来なくてもいっこうにかまわないけど、連絡ぐらいしてもらわなきゃ」
佐伯は頭の中で日数をかぞえていた。今野と銀座へ行き、その女と新宿のホテルで泊ってから、もうかなりの日がたっていた。
「店へ行こうと思ってたんだよ」
嘘だった。すっかり忘れてしまっていた。
「嘘……」
あっさり見抜かれた。だが女の言い方には媚《こび》があった。
「連絡ぐらいしてもらわなきゃ……私のプライドの問題よ」
「すまない。このところ、ちょっとゴタゴタした事件にまきこまれてね」
佐伯はそう詫びた。すると女はひどく寛大な調子で、
「うん、知ってるわ。あなたも大変ね」
と言う。佐伯はちょっと驚いて問い返した。
「知ってるのか。君が……」
「ううん、ちらっとよ」
「誰に聞いたんだ」
「そうとんがらないでよ。あなたの会社の人に聞いたんだから」
「社内の人間……いったい誰にだ」
佐伯は眉をひそめて言った。
「私から聞いたなんて言わないでね。おたくの篠崎さんよ。営業部の」
「篠崎が……」
「あんまり私を放っておくんで、少しばかり憤《おこ》ってたの。そんなに軽い女に見られたのかってね……でも、篠崎さんたちが話してるのを聞いて納得したのよ。会社がそんなになっているんじゃ、やり手のあなたなんかのところへも、相当負担がかかっているんでしょうね」
佐伯は、はぐらかされたように苦笑した。てっきり、ムラサキイトユリの件だと思い込んでいたのだ。
「まあそういうことだよ。一段落したら会いに行くよ」
「あれ以来、こっちは白紙で待っているんですからね」
女は押しつけるように言った。が、声がかなり真剣だった。
「とにかく、もう少し待っててくれ」
「ええ。いつごろ会えるの」
「そうだな……近いうちにこっちから連絡する」
本気で惚れられたのかもしれない。佐伯はふとそう思い、電話を切ったあと、自分の体の芯に、女体への欲求が妙に重苦しく堆積《たいせき》しているのを感じた。しかもその排出口は、紹子の面影でぴったりとざされているようだった。
ほんの一、二分すると、佐伯の電話が鳴った。通話ボタンを押したままにして待っていた電話だった。
「はい、佐伯です」
「相模製薬です。少々お待ちください」
交換手のなめらかな声が聞こえ、ちょっと間を置いてから男の声にかわった。
「秘書課の橋詰《はしづめ》です」
それはいつか新薬粧会館で会った、あのエリート社員の声だった。
「佐伯です。どうなりましたでしょうか」
佐伯はかなり冷たい、事務的な声でしゃべっている。
「会長とは連絡がとれました。あなたのお申し出はそのままお伝えいたしました」
「それはどうも。で、ご返事は」
佐伯は、朝から強引に寒川正信を追いまわしていたのだ。ムラサキイトユリに麻薬の匂いが漂いだしては、もう遠慮している必要はなかったのだ。社内をたらいまわしにして寒川正信への連絡を渋る連中をおどしつけ、とうとう秘書課の橋詰をとおして連絡をとらせたのだった。
「会長のほうでも、あなたにお目にかかる必要を感じておられるそうなのですが、なにせ、臨時株主総会を目前に控えておりますので、それがすみしだいということにしていただきたいそうなのです」
「臨時総会ですか」
初耳だった。
「はい。それが終わらなければ、どうにもお会いする時間がとれないそうで」
「いつですか、その総会は」
「四日後です」
「結構です。ではお待ちしましょう。しかし、総会のあと、少なくとも一両日中にはご面会いただけるよう、くれぐれもお手配ください」
「はい。判っております。会長のスケジュールは当方で調整しておりますので……」
「では、必ずお願いします」
満更《まんざら》、逃げではなさそうな言い方だった。それに、株主総会ということであれば、理由も筋が通っている。多分、それは社長派との対決の場だろうし、会長派の圧倒的優勢がつたわっているだけに、佐伯にとっても悪いことではなかった。
電話を切り、佐伯は大きく息を吸いこんだ。吸った息をしばらくそのままに、窓の外を睨《にら》んでいた。いよいよ大詰へ来たという気がしていた。
一時間後。佐伯は東京タワーのすぐ近くにいた。いま東エージェンシーがとりかかっている仕事の中では、いちばん予算の大きいキャンペーンの準備が、ほぼ終わりに近づいていて、最後に残ったポスターの撮影に立会う必要があったからだ。
撮影は、東京タワーと道ひとつへだてたビルの地階にある貸スタジオで行なわれる。佐伯はそのビルの前でタクシーを降り、地下のスタジオへ入った。
モデルが三人、すでにメイク・アップをおえて、ほこりっぽいスタジオの隅でお喋りをしていた。カメラのうしろの椅子で、アート・ディレクターの淵上が煙草をふかしており、カメラマンたちが、純白に塗った床にあがって、大道具の位置をきめていた。ライトマンがガサガサとトレーシングペーパーをひろげ、別のライトマンが変圧器のハンドルをまわして、光量を急にあげた。
その眩《まぶ》しい光の中へ佐伯が踏みこむと、コカコーラの瓶を片手に、背景の位置を指図《さしず》していたカメラマンが、大げさな態度でとんで来て、ささやくように言った。
「隣は太平洋アドですよ」
「そうか」
佐伯はふり返って淵上を見た。淵上も近寄ってくるところだった。
「島村さん、やりましたね」
淵上が言った。
「島村さんが来てるのか」
「いえ、僕は見かけませんでしたが、T自動車の新車が入ってるんです」
「T自動車……」
佐伯は思わず隣のスタジオのほうを見た。白い壁の向こうは、都内でも有数の大面積を持つスタジオだった。地上から大型車を自由に出入りさせられる。
「そうか。とうとうやったか」
佐伯は唸《うな》るように言った。太平洋アドがT自動車の新車をそこへ入れているなら、間違いなく島村の仕事だった。汚ない言い方をすれば、島村は東エージェンシーの経費でその大物を射とめ、太平洋アドへ移籍のみやげにしたのだった。
淵上たちは不快そうに顔を歪めている。
「ま、人は人だ。もし島村さんが来てれば、挨拶ぐらいしておかなくてはな」
「そうですね。向こうから顔だされたら気分がよくありませんからね」
淵上は敗北感にとらわれているらしく、陰気にそう言って、佐伯と一緒にとなりへ向かおうとした。
「君はやめておけ」
佐伯は淵上を見て言った。敵意がむきだしで、連れて行くわけには行かなかった。それをどう受け取ったのか、淵上はニヤリとうなずき、
「じゃ、まかせますよ」
と言った。喧嘩はまかせる、というほどの意味らしかった。
佐伯はドアをまわって、となりのスタジオへ行った。純白の床と壁にかこまれた広いスタジオのあちこちに人影があり、左奥に新車が光っていた。見覚えのある太平洋アドのアート・ディレクターが佐伯に気づき、さっと緊張した表情になった。
「やあ、どうも……」
佐伯は屈託のない態度を示して声をかけた。
「どうも」
「Tの新車だね」
「ええ」
相手は昂然と答えた。
「おう、佐伯じゃないか」
車のかげから島村が現われて大声で言った。佐伯の名を聞いた太平洋アドの連中が、さっと視線を浴びせかけて来る。
「どんなもんだ。いい眺めだろう」
相変わらずだった。島村はてらいもなく言い、胸を張って近づいてくる。
「祝盃のおこぼれにあずかれなくて残念ですよ」
「そうだろう。こっちはみんな二日酔いだ」
なあおい、と島村はアート・ディレクターの肩を叩き、佐伯の前に立った。
「肥《ふと》ったな、だいぶ」
ちょっと眉を寄せて言う。
「ええ。どうも近頃肥りぎみでしてね」
「ぎみなんてもんじゃない。急に肥ったじゃないか。どういうことだい」
「うまいものを食ってるからですよ」
佐伯は笑った。
「そうらしいな、どうも……」
島村も微笑した。
「ちょっと出ないか。玄人《くろうと》に見られてると、うちの連中がやりにくいからな」
「ええ」
佐伯はアート・ディレクターに軽く手をあげて挨拶し、島村とスタジオを出た。
「といって、こっちへ来られたら、うちの連中が顔色を変えるし……」
「憤《おこ》ってるか。そうか」
アハハ……と島村は高笑いをして階段を昇りはじめた。
二人はビルの外へ出ると、並んで道を横切り、東京タワーのほうへ向かった。
「ほんとに肥ったぜ」
タワーの鉄脚を支える巨大なコンクリート塊のそばで、島村はまた言った。
「まだ中年ぶとりには間があるはずなんですがねえ」
佐伯はズボンのベルトの辺りに手を触れながら答えた。
「精悍《せいかん》なところがなくなったらモテんぞ」
島村は病気をいたわるような言い方をした。
「大丈夫、まだモテてます」
佐伯は軽く笑った。
「貫禄がついた。やはり男は荷物を背負うべきだな。自分じゃ気がつかんだろうが、別人のように気迫が漲《みなぎ》っている」
「あげたりさげたり、相変わらずいそがしい人だ」
「どうだ、うまく行ってるか……と言ってやりたいが、同情するよ。あの社長じゃ、いくさになるまい。そろそろ俺の気持ちが判って来た頃じゃないのか」
「まだまだ……」
佐伯は強がりではなくそう答えた。すると島村は驚いたように佐伯をみた。しばらく沈黙して、探るようにみつめている。
「強気すぎると言いたいんですか」
佐伯は冗談半分に言った。島村は視線をそらし、タワーの赤い鉄脚を目で追った。かすんだ空に、東京タワーがのしかかるようにそびえ、島村の顔にはどこか憮然《ぶぜん》としたものがうかんでいる。
「どうかしましたか」
島村はまた佐伯に顔を戻し、失敗をとがめるように唇をまげた。
「女でもできたのか」
「女……」
「そろそろ結婚する気になってもおかしくはない。いい嫁さんをみつけてくれればいいと思っているさ。だが、女と仕事は別だ」
「以前にも一度、そんなことを島村さんに言われましたね」
「気に入らんな」
「何かやらかしましたかね」
「莫迦《ばか》だよ。さっきスタジオへ入ってきたとき、俺にあとのことを相談に来てくれたのかと思った」
「あとのこと……」
「もう知らん。自分で処理しろ」
島村は怒りを示してくるりと踵《きびす》を返し、スタジオへ戻りはじめた。佐伯は唖然《あぜん》としてそのうしろ姿を見送った。島村は少し行って立ちどまり、ちょっと考えてからふり向いて大声で言った。
「長谷川社長ごときにしてやられる奴とは思わなかったよ。のほほんとしてないで、足もとをよく見るんだ」
悲しげな表情で言うだけ言うと、大股で去って行った。
夕方。
退社しようとする佐伯を、社長の長谷川駿太郎が引きとめた。
「佐伯君。ちょっとつき合ってくれんかね。それともデートかい」
いやに優しい声だった。佐伯は島村の言葉もあって、一瞬不吉な予感がした。
「いえ。よろこんでお供しますよ」
「それはいい。じゃ行こう」
社長は自分でエレベーターのボタンを押し、何やら愉《たの》しそうな様子で下へ降りた。
「どこへ行くんですか」
「いや、すぐそこだよ」
ビルを出ると、社長は築地の方角へ歩きだした。あれやこれや、当たりさわりのない話題を選んでしゃべりながら、ビルの裏の高速道路ぞいの道を歩き、やがて新富町《しんとみちよう》の小さな料理屋の格子《こうし》戸をあけて入った。
「まあ、あがってくれ」
勝手知った様子でさっさとみがきこんだ廊下へあがりこむ。すぐ、お女将《かみ》らしい女が顔をだして、
「菊の間です」
と言った。
「これがいつも噂してるわが社の佐伯君だよ。優秀だぞ……」
社長は笑《え》みこぼれんばかりに、佐伯を紹介した。
「あらまあ、ずいぶんお若い方だこと。わたし、もっとずっとご年輩かと思ってましたわ」
佐伯は黙って頭をさげた。何か尋常でないものが待ち構えている雰囲気だった。
部屋へ入ると、意外なことに営業部の篠崎がすわっている。佐伯は銀座の女からの電話を思い出していた。
「やあ、どうも」
篠崎は、堅苦しい挨拶をする。
社長は客をもてなす態度で佐伯を席につかせ、わざとらしい性急さで女中を呼んだ。
「ほら、顔ぶれが揃ったんだから、どんどん酒や料理を持ってきてくれよ」
女中はすぐ引っこみ、入れかわりに別の女中が徳利《とつくり》とつきだしを運んで来た。
「まあ一杯……」
社長は徳利を取って佐伯に酌をした。
「いったい、どういう風の吹きまわしです」
佐伯は苦笑して酒をうけた。篠崎が社長につぎ、自分の盃も満たして乾盃の形になった。
「いや、どうもいろいろ、毎日ごくろうさん」
社長は幾分うろたえた様子で言い、盃を一気に乾すと、居直った態度で姿勢を崩した。
「今日は君が主賓《しゆひん》だ。用件はふたつある」
篠崎が注《つ》ぎ、社長が飲む。篠崎は佐伯のほうへも徳利をさしだす。佐伯は受けた。
「何ですか、あらたまって」
「縁談さ。話のひとつは縁談だよ」
社長は大声で笑った。
「君はモテるそうだから、これは無駄な鉄砲になるかも判らんが、実はK紡績の専務から話があってな」
K紡績というのは、二流の下くらいの綿紡会社で、ラベルやシールのデザインを通じて、東エージェンシーとはかなり以前から取引があった。だが佐伯の担当ではなく、篠崎たちのグループが扱っていた。
「縁談ですか」
佐伯は拍子抜けして言った。
「奥さんのほうのご親戚なんだが、二年ほどヨーロッパへ勉強に行っておられてな。何度か前に会ったことがあるが、大変な美人だぞ」
「そういう上流家庭の女性は、僕なんかに向いていませんよ」
「無理にとは言わんが……」
社長は得々《とくとく》として、先方の資産状況や親類関係をしゃべりはじめた。要するに、海外から戻って来る適齢期の娘に、一応それらしい候補者を探しておこうということで、その娘の意向とはまったくかかわりのないことだった。単身海外留学をこころざすほどの娘で、しかも、言うとおりの美人なら、まとまるあてもない親側の押しつけプランにすぎないようだった。それにどうやら、社長は佐伯が乗ってこないのを見すかしている気配だった。
一応考えておこう、というあたりで、料理が揃い、座もなんとなくほぐれた気分になりはじめた。
「二つ目は、会社の経営方針のことだ」
社長は鴨《かも》の肉をつつきながら、さりげなく本題に入った。
「まあこれも縁談みたいなもんだが、わが社としては願ってもない話なんでな」
「縁談……」
「そうだ。東エージェンシー創立以来、ずっとお世話になっている方がいるのは君も知ってるな」
社長は、かなり世間に知られた実業家の名を持ちだした。この長谷川社長はその人物の一族のはしにつらなり、会社創設の資金から取引関係まで、陰に陽に支援をうけているのだ。
「関東から西の各地に、点々と土地そのほか、レストランとかホテルとか……まあいろいろとあるわけなんだ。もちろん、みながみなあの方の持ち物というわけではない。だが、血縁でつながっているそういうものを、バラバラにしておくのは、当節なんとももったいないし、合理的でもない。ゴルフ場があるし、タクシー会社やバス会社もあるし、君も知ってのとおり、都内のLホテルだってあの方のものだ。新幹線が西へどんどん伸びて行き、四国への橋もできあがれば、どれもこれもたいへんなレジャー拠点だよ。そうじゃないか」
「それはそうですね」
「そうだろう。偉い方はやはり目のつけどころが違っている。そういうご一族のものを統合して、あらたに会社をお作りになることになったんだ。もちろん、人材にもこと欠かないさ。三番目の息子さんがその新会社にタッチされることになっている」
「すると、東エージェンシーは……」
佐伯がきっとなって言うと、社長は目をそらせて篠崎を眺め、胸を張って宣言するように答えた。
「その新会社の宣伝部門を担当する」
「東エージェンシーとして扱うのですか」
「違うよ君……」
社長はかさにかかった言い方になる。
「こちらが向こうへのりこむんだ。全面的にな」
「なんですって」
佐伯は思わず声を大きくした。東京タワーの下で島村が憤然としていたわけが呑みこめた。
「つまり、広告代理店はやめるんですか」
「代理店はやめても、広告はやる。エージェンシーからクライアントに昇格するのさ」
「そんな莫迦な……」
佐伯は言いかけ、したり顔で微笑している篠崎に気づいて、その言葉をのみこんだ。のみこんだが、それは固いかたまりとなって胸につかえた。
社長の長谷川駿太郎は、口ばやにそのメリットをかぞえたてていた。大樹のかげに倚《よ》って、営業的な面でのエネルギーを使わずにすむ。そのうえ、一般の広告主《クライアント》からくらべれば、広告代理店そのものがそっくり傘下《さんか》へ入るのだから、業務に精通した驚異的な能率を誇示できる。これからはレジャー産業がもっとも有望で、社員の収入も飛躍的に増す……。
それは要するに撤退だった。戦場放棄だった。いかにも無能な長谷川社長がとびつきそうな、安易な局面打開策だった。算盤《そろばん》がごはさんになり、他人の丼《どんぶり》で飯を食うことになるのだった。
……これに気づかなかったとは、島村が失望するのも道理ではないか。ムラサキイトユリを追って、足もとに口をあけた大穴に気づかなかったのだ。よく見ていれば、決して気づけないことではなかった。篠崎や社長たちが、何かこそこそ動きだしたのは気づいていたのだ。だが、彼らを男として信用しすぎていた。考えるにこと欠いて、まさか逃げだしを策していようとは……。
佐伯は心中ほぞを噛む思いだった。だが、話を聞けばすでに手遅れなのだ。じたばたしてもはじまらない所まで、すでに話は進展してしまっていた。
「うかがいたいのですが」
佐伯はつとめて冷静に言った。それでも怒りがあらわれているのが自分でも判った。
「なんだね」
熱弁の腰を折られて、社長は鼻白《はなじろ》んだようだった。
「この件を、島村さんは知っていたのですか。退社するときに」
「あの卑怯者のことだ。察知して退社したと……まあそう言ってやりたいところだが、実は彼の退社後に持ちあがった話なのさ。そんな時点でこの件が持ちあがっていれば、当然君にもすぐ打ちあけているさ」
愚劣な自己弁護だった。そんな気があるなら、なぜ今まで伏せていたのだ。
「そうでしょうね。そうでないと、僕は引取り手のない獲物を追って解散の日まで走りまわっていることになるわけですからね」
「君、そういう言い方はないだろう」
社長は酒の入った顔をいっそう赤くし、黄色い声でテーブルを叩いた。うしろめたさが噴きあげて、怒りの表情に変わったのだ。
「解散とはなんという言い方だ。いつ解散すると言った。東エージェンシーは絶対に解散なぞせん」
「その新会社の宣伝部になるわけでしょう。さもなければ総務部広報課ですか」
「われわれは広告《アド》マンだ。どんな形であろうと広告をやることにかわりはなかろう」
「たしかに。しかし、世の中には勝つ広告マンと敗ける広告マンがいます。いや、広告マンじゃない。勝つ男と負ける男がいるんです。もっとはっきり言うなら、勝ちたいために苦しくともたたかう男と、楽なら敗けてもかまわん男がいるんですよ。あんたは苦しい場所を見棄てて、楽なほうへばかり行きたがる人なんだ」
「事業とはそういうもんだ。経営にたずさわったこともない若僧が、聞いた風《ふう》なことを言うな」
「なるほど、事業には性別がありませんな。男としての気がまえなど要らんのですね。他人にぶらさがって、誰が持ちあげてるのだか判らない状態で荷物に手をふれてさえいれば、停年までとにかく食って行けるのが会社というもんなんでしょう。僕はまっぴらごめんです。僕は自分の戦場を棄てる気はありません。どこかへ行って太平洋アドと喧嘩をつづけますよ。いや、太平洋アドばかりじゃなく、世の中の全部の広告屋を相手に喧嘩をつづけますよ。お世話になりましたが……」
佐伯はわれしらず座を蹴っていた。
「もうお目にかかる折もないでしょう」
大股に二歩半歩いて襖《ふすま》に手をかけた。
「待て。佐伯君」
社長のうわずった声を聞いた。襖を引き、赤茶色に光る廊下へ出た。うしろ手で襖をしめたとき、力が入ってピシャリと烈しい音がした。
俺はまだ若いな……佐伯はその襖の音を、自分の犯した失敗のひとつとして聞いていた。帳場の横にさがった海老茶《えびちや》色の暖簾《のれん》をわけたとき、うしろのほうで襖《ふすま》があき、篠崎が追って出てくる気配を感じた。
佐伯は水を打った玄関に並んだ靴につまさきをいれ、あめ色の靴べらを使うと、格子戸を静かにあけて外へ出た。
酒が自分の頬のあたりに、ほんのりと残っているのが癪《しやく》だった。酒屋の軽トラックが、その料理屋の黒板塀すれすれに停めてあり、若い男が掛声をかけて空瓶のつまった箱を荷台へ抛《ほう》るように置いた。ガシャンという大きな音が小気味よかった。
16 崩れた朝
佐伯は新富町《しんとみちよう》の料理屋を出たあと、黙々と歩いた。
付近のオフィスから地下鉄の駅へ向かう退社の人波はすでにうすれ、夕暮れの白っぽさも去って、濃い夜の色の中にネオンが濡れたようにしっとりと光っていた。
これは本物の怒りらしい。……佐伯は自分の体の中に、思いがけぬ重さで澱《よど》んだ感情を、ひとごとのように観察してそう思った。
それは逆流し、噴出するような勢いは持っていなかった。烈《はげ》しく泡だって佐伯を支配したのは、席を蹴って社長の前を去ったときの一度だけだった。歩くひと足ごとに、それは呆気《あつけ》ないほどの速さで沈澱し、ヘドロのように堆積して動かなくなった。
はじめて、佐伯はそのような感情を経験したのだった。
長谷川駿太郎や篠崎たちに対する怒りでは、まったくないと言ったら嘘になる。だが、それよりは自分自身を責める気分のほうがはるかに強かった。
迂闊《うかつ》だった。甘かった。まだ世間というものをよく知らなかった。つきつめれば、みんな自分とそう違わない人間ばかりだと、楽観していたのだ。その楽観の分だけ他人に無意識に倚《よ》りかかり、下駄を預けて呑気《のんき》に暮らしていたのだ。
それでいて、結構自分は冷酷な掟《おきて》の中に身を置いているつもりで、クールにたたかっている気になっていた。
だが、世の中はもっとド深かった。ひょっとすると、社長のほうがそのド深さをよく知っており、広告代理店から一企業の宣伝部に転身するのも、やむを得ないというよりは、むしろ積極的にとりあげるべき、正解のひとつではなかったかと反省しはじめている。
そして、佐伯の怒りは、むしろその点へ強く向けられたようだった。
反省はしてみても、反省の結果をしまいこんで自己を改造しようとは、決して思わないのだ。もし社長が正しいとするなら、そういう正しさのある世の中が憎かった。いとわしかった。
そして、結局は、そういう世の中に生まれ落ちてしまった、自分という人間を憎まねばならないのだ。
佐伯は、サラリーマンたちが吸いこまれて行く地下鉄の入口を通りすぎ、黙然と歩きつづけた。歌舞伎座の前から、三原橋《みはらばし》の交差点へ、そして西銀座へ……。
体が酒を欲しているわけではなかった。知性も、いま酒を飲むことの愚かしさを告げていた。しかし、佐伯の足はどうしようもない確実さで、佐伯をその酒場へ運んでいった。
それは気分だった。長谷川駿太郎や篠崎たちによって傷つけられた自分の心を慰めようとするのでもないようだった。ただ、何かしら、動いていたかったのだ。どの酒場でもかまわなかった。できれば酒場などではなく、体育館とか広い運動場で、激しく、無心にボールなどを追っているほうがよかった。しかし佐伯はそういう場所も仲間も持ってはおらず、幾分くやむような思いで、その酒場のドアを押した。
時間が早く、女たちはまだ半分も来てはいなかった。カウンターでぼんやりと酒を注文し、疲れたような表情で飲んでいた。はっきりした目的もないまま、昼間、電話をしてきた女を待ち、彼女が来るとテーブルへ移った。四人のホステスにかこまれて二時間ほど、多少冗談も言ったし、大声で笑いもした。だが、それも遠い出来事のように、どこかで醒《さ》めてみつめているもう一人の自分がいたようだった。
佐伯がその店へ現われたというだけで、女との間にひとつの会話が成立してしまっていた。昼間、彼女はもう一度抱かれたいという意味の電話を寄越《よこ》し、それにこたえて佐伯がやって来た形になっていたのだ。
「あら、お勘定払って行くの」
帰りぎわ、女はそう言った。
「あたり前だ。今日はプライベートだ」
「会社につけとけばいいのに……この間のと一緒にしとくわよ」
女は当惑気味だった。
「そうもいかない」
佐伯は勘定を払い、ドアへ向かった。女は、高い買物をさせられた男の女房のような表情で、
「しようがないわねえ」
と言いながら外へ送って出た。
「この間のところで、この間と同じ時間に……いいでしょう」
別れぎわ、そう言った。佐伯はうなずいて離れた。
ひとつの約束ができ、それが何時間か目的を与えてくれた。佐伯は夜の町を歩きまわり、十二時少しすぎに、彼女とホテルの部屋に落ちついた。女は少し酔っていて、酔っているくせに、妙にこじれた羞恥《しゆうち》心を示した。この前のときの、居直ったような積極さはなく、どことなく後悔しているような感じだった。行きがかりでこんなことになってしまった、という表情があらわで、佐伯にはそれがひどく理不尽なことのように思えた。
「どうしたんだ。気が乗らないようじゃないか」
佐伯は女の左の乳首にあてた唇をはなして言った。
「変ね。どうしたのかしら……」
女の右掌が上を向いて、佐伯をまさぐっていた。
「気が乗らないのはそっちじゃないの」
からかうように言う。
「だいぶ飲んだからな」
すると女は鼻を鳴らし、くるりと横向きになって佐伯に顔を向けた。
「変よ、あなた」
「変……どうしてだ」
「なんだかしらないけど。病気じゃないの」
「莫迦な。元気だよ」
「私ってね、どういうわけだか、昔から男性の気分に凄《すご》く敏感なのよ。……気配っていうのかしら。この間のあなたはすてきだったわ。私、いま彼がいるのよ。でも、この間からずっと会っていないの。あれからあなたにイカれちゃって、彼に会う気もしなかったの。でも、今夜会ってみたら、あなたってぜんぜんイメージが違っちゃってる……ねえ、どうなっちゃったの」
「そんなに変わったかな」
「変わったわよ。肥《ふと》ったし、少し鈍《にぶ》くなっちゃったみたい」
女は逃げるように体を離して言った。
「それじゃ、この前は俺の幻影をみたのさ。そっちの調子がおかしかったんだ」
佐伯は、手をのばしていきなり女の中心をとらえた。何かしら、彼女に自分の真実の姿を把《つか》まれたような気分がして腹だたしかった。仕返しをするように左腕で女の首をだき寄せ、のしかかってまた唇を胸に当て、右手の指を執拗に動かしはじめた。
女のしなやかに伸びた左脚が暴れ夜具をはねのけた。蛍光灯の白い光の中で、女の腹が堅くへこんでいった。腰がせりあがり、短い叫び声が聞こえはじめた。
「狡《ずる》い……狡《ずる》いわよ」
抗議するように最初はきつく、やがて甘く喘《あえ》ぐように言っていた。悦楽のしるしが溢《あふ》れ、女は両方のかかとをついて体を持ちあげようとした。早く、早く、と佐伯に貫ぬかれたがり、唇が腰骨のあたりを刺戟すると、おし潰したように呻《うめ》いて硬直した。
体の中に埋っている佐伯の指を上から押しつけるようにおさえ、動きをとめさせて言った。
「恨むわ。あなたに抱かれたくて、こんなになっていたのよ」
佐伯はそこで襲いかかるべきだった。彼女を刺《さ》しつらぬき、本物の悦楽を注ぎこむべきだった。
だが彼は萎《な》えていた。女はもどかしがり、逆襲をこころみてきた。佐伯はあおむけになり、深く含まれた。舌で励まされた。
しばらくして、女はいきなり立ちあがった。佐伯の足もとに、みごとな裸身をさらし、胸を張ってみおろした。
「帰るわ」
「……そうか」
佐伯はつぶやくように言った。女は腹をたてたように、浴室へも行かず、そのまま服を着けはじめた。
「惜しい人ね。本当にそう思うわ。どうしちゃったの……セックスのことばかりじゃないのよ。何だか変よ」
女は追いたてられているような態度であわただしく着おわると、部屋を出て行った。出がけに声だけが聞こえた。
「気をつけてね……」
いたわるような言い方だった。
佐伯は目をとじてその声を聞いた。萎《な》えたのははじめてだった。会社のことが、案外|深傷《ふかで》だったらしいと思った。
のろのろと起きあがり、煙草を吸った。吸いおわるとシャツを着、ズボンをはいた。その部屋にいる理由がなかった。そこは、男と女の快楽の場所だった。
自分のアパートに戻って、翌朝、目覚めるとすぐ、佐伯は今日も東エージェンシーへ出勤したはずの、淵上《ふちがみ》と吉岡の身の振り方を考えはじめた。
あの二人なら、引取り手はいくらでもあった。佐伯は昼近くなったら、心当たりへ電話をしてみることにして、のんびり朝寝をたのしんでいた。外を通る車の音や足音が、みな鮮《あざ》やかな朝の音に聞こえた。そして、普段ならその朝の音のひとつとなっているはずの自分が、こうしてのうのうと寝ていることに、軽い解放感を味わっている。
が、十時半ごろ、電話のベルが佐伯を呼んだ。東エージェンシーから、という直感があって、佐伯はのろのろと起きあがった。億劫《おつくう》だったが、四度目のベルの途中で受話器をとりあげた。
「はい……佐伯です」
「あ、いたな。どうしたんだ。具合でも悪いのか。会社のほうへ電話したんだぞ」
塩谷秀夫だった。佐伯はほっとしたように明るい表情になり、電話の横にある鏡に顔をうつして、寝乱れた髪をかきあげた。
「このところ、だいぶ早起きが続くじゃありませんか」
「うん。ムラサキイトユリのおかげさ。ところで、今日はどうしても会社へ出なければいかんのか」
「いいえ……」
「それなら来てくれないか。本当は、出なければいけなくても、君は俺の家へこざるを得ない立場になったんだぞ」
塩谷はおどすような言い方をしている。
「なんですか。こわいような具合ですね。どうせ時間をもて余しているんです。今すぐにでもとんで行きますよ」
「そうしてくれ。午前中に、例のことで客が来ることになっている」
「お客さんが……誰です」
「警察の人間だ。警視がひとりに警部がひとりさ。すぐ来いよ」
「ええ……」
塩谷の声は明らかに緊張していた。佐伯は電話を切ると手早く着がえ、朝の光の中へとびだして行った。
阿佐ヶ谷の塩谷秀夫の家へ佐伯が着いたとき、すでに二人の客は例の囲炉裏《いろり》を切った応接間へ入っていた。
「まず紹介しよう。これが佐伯惇一君だよ」
塩谷はそう言って佐伯に挨拶させた。すると、若いほうが先に立ちあがり、丁寧《ていねい》に頭をさげた。
「警視庁の須藤です」
佐伯より若かった。濃紺の背広に空色のネクタイをしめ、髪をきちんとなでつけていて、一見銀行員風の物堅そうな青年だった。
もう一人の男は、三十四、五といった年輩で、陽焼けしたいかつい顔をしており、狭い額と黒々とした髪が、いかにも現場から叩きあげた、という感じを漂《ただよ》わせていた。
「木下です」
そのいかつい男は、佐伯を値ぶみするような目で眺めながら言った。須藤は名刺をさしだし、木下は渡さなかった。
「この人はね、こんなに若くてもう警視なんだぞ」
塩谷は須藤のくれた名刺を見ながら腰をおろす佐伯に言った。
「ずいぶんお若い警視さんですね」
佐伯は感嘆した。
「上級職だからね」
塩谷が言う。
「失礼ですが、おいくつですか」
「二十八です」
須藤は微笑しながら答えた。
「僕より四つも年下で……」
「佐伯君。あんまり年のことを言うなよ。そっちに年上の警部がいるんだからな」
塩谷はそう言い、
「なあ、キノさん」
と笑った。
「何を言ってる。三十四で警部ならいいほうだ。須藤さんが少し早すぎるんだ」
どうやら木下と塩谷は古いつき合いらしかった。
「ところで佐伯君。一応最初に断わっとくが、ここでの話は当分コレだぞ」
塩谷は唇にチャックを引く真似をした。
「あなたは今度の件の重要な関係者なので、全貌をお話することになりましたが、世間には絶対に洩《も》らさないようにお願いしたいのです」
「はあ……」
佐伯は、須藤という若い警視をみつめ返しながら言った。
塩谷が、あらためて紹介するように口をはさんだ。
「内閣総理大臣官房という所を知ってるか」
「聞いたことはありますが」
「そこに最近、麻薬対策室、というのができたんだ。いずれは麻薬問題対策本部とか何とか、そういう名称に昇格する予定で、今のところはそれの設立準備室といったかたちなんだそうだ」
「麻薬対策室……」
佐伯はムラサキイトユリの可憐《かれん》な姿を思いうかべた。
「老人問題とか交通問題とか、各省庁にまたがる社会問題に関して、専門機関がないような場合、首相の判断で特設できる、いってみればプロジェクト・チームのようなものです。各省庁から必要な人間が集まって、そういう問題を協力して処理するわけです。われわれの麻薬対策室もそのひとつで、放置すれば非常に大きな社会問題に発展することは明白ですし、諸外国への影響も大きいと判断されたので発足させられたのです」
須藤が説明した。
「ムラサキイトユリですか、やはり」
「その名前は、われわれのほうでは塩谷さんの報告で、はじめて掴んだ名前です。われわれは新麻薬と呼んでいました」
「まだその程度だったのさ」
塩谷はそう言い、木下という警部をみた。
「だいぶ以前から、国内の麻薬取引が活発化していたことは、新聞などを通じて一般市民にも知られていました。しかしそれは、例の米軍の麻薬問題……つまりベトナムとからんでいると考えられていたのです。ところが、厚生省の一部や、この木下さんたちは、どうもそればかりではないような、不審な点があるのに気づいていたのです」
佐伯は警部のほうに視線を移した。木下はごつい指で囲炉裏《いろり》の火箸《ひばし》をいじりながら喋りはじめる。
「神戸、呉《くれ》、横浜、横須賀……それに一、二の米軍基地の周辺で、妙な動きが続いて起こったというわけですよ。輸入してくる側と国内で売る連中とが、どうもいがみ合いをはじめたようなんで……おかしいですよ、これは。そういう関係の殺しが十数件、集団暴行事件が、大きいのだけで五件。新聞にも出ましたが、こういうのは氷山の一角でしてね。麻薬組織の中で起こった事件が、われわれや新聞の目にさらされるというのは、内部でよほど大きなことが始まっている証拠なんです。だが、どうもただの縄張り争いじゃなさそうなんでね。そうでしょうが。言ってみれば卸《おろし》商と小売商の喧嘩です。麻薬なんてものは、外から入ってくるしかないんで、卸と小売はうまくやって行かねばどうにもならないはずなんだ。そうでしょうが。だから、どうにもわけがわからなかった……」
警部は首をかしげて佐伯をみつめた。
「そうですね」
「そうでしょうが。ね。そこへ持ってきて、いいあんばいか悪いあんばいか、こっちの摘発成績がどんどんあがりはじめた。新聞で読んだでしょう。月に二度も三度も、大がかりな麻薬の密輸が水ぎわで食いとめられるようになったんです。そんなことは今までなかったことだ。しっぽ一本つかまえるのに、ひどいときは二年も三年もかかってた。……なぜだと思います」
「さあ……」
「タレコミですよ。さかんにタレコミがある。たとえば、このまえ神戸でつかまえたイベリア船の時なんか、二ヶ月も前から、船のどこに積んで来るか判ってた。これじゃまるで、日本国内の密売組織が、ブツは要らないと断わってるみたいでしょうが」
「そうですね」
「改心したのかな……」
木下という警部はそう言ってから、自分で失笑した。
「そんな連中じゃない。ところで、もうひとつ奇妙なことに、値が下がったんです。もちろん全部というわけじゃありませんがね。とにかく、あちこちに安い品物が出まわりはじめたんです。万事値上げの世の中に、ですよ。おかしいでしょうが。こっちも考えこんじまって、まったく今までとは違うルートができたのかと疑ったわけです。じゃ、それはどのルートだろう。まるで安くて方角の違うルート……」
木下はニヤリとしてみせた。
「疑いをかけられたお国には誠に申しわけないんですが、何しろ能登《のと》半島へ梅川組系の奴らが急に進出してたもんで、これはてっきり赤いほうだと……」
「ソ連、ですか」
「ええ。能登の七尾《ななお》港は、いまじゃあちらさん専用の港みたいなもんですからね。材木を積んだ船がひっきりなしに出入りしてる」
「この人たちは、梅川組が七尾でなく、その手前の羽咋《はくい》でとまっていることを、まるで無視していたのさ」
塩谷が得意そうに口をはさんだ。
「そう威張らんでくださいよ。われわれの頭じゃ、とても神様のことまで気がつかんですよ。だから、能登半島のほかにも、梅川組が各地に点々と拠点をふやして行く理由が判らなかったわけです」
そういう情勢のさなか、突然、麻薬対策室の設置が急がれるようになったのは、なんと相模製薬から厚生省に出された、一通の極秘報告書だったという。
「相模製薬がこの件に関連して開発しようと試みていた薬品は、かなりの点数にのぼるようでした」
須藤は事務的な喋り方をする男だった。
「薬品に関しては専門外なので、詳しくは知りませんが、精力を増進させ根気のつく薬とか、精神安定剤……トランキライザーのようなものも含まれていますし、体力をつけ、痩せているのを肥らせるとか、いろいろな方面に応用がきいたようです。ところが、それらのもとになるものが、実は麻薬の一種だったんですね。アヘン系のアルカロイドであるモルフィンも含まれていますし、ローウォルフィアというインドジャボク系のアルカロイドであるレセルピンなども含まれているようなのです」
「いつか君にこの家で話したろう」
塩谷は持ち前の鋭い目つきで言った。
「レセルピンというのは、トランキライザーの元祖みたいな奴だ。ノイローゼの特効薬として有名だ……ノイローゼ。ユリ病だよ。昔の中国の古い文献にのっている……」
「レセルピンは血圧降下剤にも使われますよ」
「そうか、佐伯君は製薬会社のパンフレットなども作っているんだったな」
「副作用があるはずでしたね。過度の緊張やいらだち、不安感、集中困難、不眠などを解消するかわり、多用すると感動しなくなり、植物人間的になって行くのです」
「相模製薬の報告には、あなたがたが知っていらっしゃるムラサキイトユリの件が欠けていました。ただ、サンプルとして、通常の麻薬程度に精製されたものが添付《てんぷ》されているだけでした。だが、報告書はそれが国内で栽培可能な、ある種の植物から抽出できる、まったく新しいアルカロイド群であると警告していたのです」
「それで対策室がスタートしたのですね」
「ええ。われわれは信用しました。木下さんのほうで掴んでいた密売組織の不可解な動きが、これできれいに割り切れたのです。世界の密売業者の多くは、戦後の日本社会が、アメリカとほぼ同じコースを、二、三歩おくれでたどっていたことを知っており、近い将来、わが国も今のアメリカと似たような、麻薬を大量消費するマーケットに成長すると踏んでいるようなのです」
「そこへ急に国産品が出まわっては困るわけですよ。連中はだいぶあわてたようですな」
須藤と木下が顔を見合わせた。
「相模製薬は、なぜユリの件を報告書にのせなかったのですか」
「その報告書の段階では、報告者側自身、知らなかったのです」
「知らなかった……」
すると塩谷が吐きすてるように言った。
「君はもう広告屋などやめちまえ。企業という企業が腐りはじめてる。連中の片棒かついでとびまわったって、世の中には何も貢献などできんさ」
「どういうことです」
佐伯は須藤に尋ねた。
「われわれが相模製薬の報告書を信用したのには、別の理由もあります。現在、新しい薬品の開発は、世界的な規模で非常な困難に直面しています。ひとつの製薬会社が新薬を発見し、独占的に市場に君臨するチャンスが、どんどん少なくなっているのです。開発競争の激化と、有効性および安全性を確証する過程で、巨額の費用と同時に、情報の流出をまぬがれ得ないからです。ところが、添付されたサンプルに含まれているアルカロイド群には、既知のものが数多くあり、たとえばモルフィンひとつをとっても、それは相模製薬にはかりしれない利益を、しかも有効性と安全性の確証を得る困難な作業なしに、きわめて効率よくもたらしてくれるはずだったからです」
須藤が言葉を切り、塩谷が口をはさんだ。
「大もうけをパアにしたわけさ」
「そうです。だからわれわれも信用したのです」
佐伯は愕然《がくぜん》とした。
「そうか。報告書はムラサキイトユリの実体を知らない連中が出したんですね。精製したサンプルしか知らなかった……そして、何かわけがあって、会社の利益を放棄して監督官庁に報告した……」
「おそれながら、というわけさ」
塩谷はせせら笑うように言う。
「新麻薬と知っていて、途中まで開発に動いていた。利潤追求が企業の本能じゃないか。しめたと思ってもみ手していたに違いない。それがどこかで、コロリと正義の味方にかわった。開発しても、いずれ公開しなくてはならんのさ。しかし、それまでに世界にさきがけた技術を誇れるところまで、他社と水をあけておこうというのが当然なんだ。そして、それこそサラリーマンが会社に尽くす最善の道だったんじゃないのか。だが報告した。いや、こいつは密告だよ。莫大な利潤をうみだしてくれると言ったって、その本体を自分が握っていなければなんのたのしみもない。社内の別な勢力に握られたのでは、自分たちの地位があやうくなる。それならいっそのこと抛《ほう》りだしちまえ、さ。会社の儲けより自分たちの地位のほうが大事な連中がいたわけだ。潰れても社長でいたいってわけだな」
「すると、相模製薬の今度の臨時株主総会は……」
佐伯がつぶやくと、須藤ははじめて感情らしいものを示し、驚いたように言った。
「ああ、それをもうご存知なのですね」
「四日、いや、三日後でしょう」
「ええ。前社長である会長、およびその支持勢力である一派が、経営権奪回の機会を狙っていたようです。そこへムラサキイトユリという、願ってもない材料があらわれたのです。会長派の優勢はそれで確定したようでした。会長派は総会を要求し、社長派はそれを呑まざるを得ないところまで後退しました。そして、最後の手段として、莫大な利益がみこまれるその件を、突然、放棄してしまったのです。会長派は多分、臨時総会で手の内の切り札が消え去ったことを知らされるでしょう。形勢逆転です」
すると木下が大声で笑いだした。
「しかもあんた、社長派は梅川組系の総会屋を大量動員しているんですぞ。梅川組としては願ったり叶ったりだ。連中は相模製薬のずっと以前から、ムラサキイトユリの秘密を知って、それで稼ぎはじめていたんですからな。梅川組はまだ社長派がわれわれにタレこんだことを知らんのでしょう。大手の製薬会社に手をだされたら、必ず厚生省に知れてしまう。なんとかしてそれを防止したいし、できんまでも、一日でも引きのばしたいのですからな。会長派に再三再四圧力をかけ、殺しまでやって口を封じようとしてきたのですから」
「社長派は梅川組が、すでにムラサキイトユリから麻薬を採《と》りはじめていることを知らないんですか」
「知りませんとも。会長派がそんなことを教えるわけがない。そうでしょうが……」
「汚ない話だ。佐伯君。君には気の毒だが、寒川正信の線はもうあきらめたほうがいい。早いとこ会社にダメでしたと報告するんだな。総会のあとでは恰好がつかんぞ」
佐伯は失笑した。いや、自嘲だったかもしれない。
「僕の会社は、もうありませんよ」
仕事のことは、これで何もかも一度に崩れ去ってしまった。島村の移籍、東エージェンシーの解散、寒川正信の転落……どれひとつをとりあげても、清潔なものはなかった。そして佐伯は、自分がいかに汚濁した社会に身を置いていたかを、しみじみと感じていた。
だが、まだすべてが終わったわけではなかった。仕事とは、たたかいだ。たたかいに、清潔も不潔もないはずだった。しかし、佐伯惇一個人に関しては、まだそう汚れ切ったことばかりだとは思えなかった。騎士気どりと笑われようと、榊原紹子の幸福を守ることは、広告マンとしての仕事以上に、自分の人生にとって重要な意味を持っているように思えた。そして、それをなしとげようとする誠意だけは、紛《まぎ》れもなく清潔なもののようだった。佐伯は笠原隆志《かさはらたかし》の身を案じた。
「実は、僕と塩谷さんは、この事件に関連して幾つかの殺人事件があることを知っています……」
須藤と木下は同時にうなずいた。塩谷がすでに打ちあけているらしかった。
「じゃ、教えてください。まず第一に檜前善五郎《ひのくまぜんごろう》氏はなぜ殺されたのですか」
「まだ確証は掴んでおらんのですよ。だが見当はついています。容疑者をとらえました」
「え……犯人をつかまえたんですか」
「梅川組の組員で、井田一郎という男でしてね」
木下が言うと、塩谷は待ちかねたように口をはさんだ。
「のっぽだよ。背の高い奴だそうだ」
「のっぽ……」
「本名は姜萬殖《きようまんしよく》。東京生まれで、梅川組の中でも、この件にいちばん早くからタッチしているグループの一人ですよ」
「高浜という業界誌の記者を殺《や》ったのも、その男だそうだ。このキノさんたちが逮捕したのさ」
「檜前《ひのくま》事件と池袋の高浜殺しはすぐに結びつきましたよ。檜前はどうやら梅川組がそのユリを持っていることを、途中から知っていたようです。相模製薬のユリは檜前が独自に手に入れたものらしいんですが、あの老人はもともと麻薬取締法で引っぱられたこともある人物でしてな」
「ヒロポン、ですか」
「ヒロポンも売りましたが、一時もっと本格的なほうともつながっていたんですよ。だから、われわれはすぐ麻薬関係だと当たりがつきました。あなたに、のっぽを見たという証言をもらえたら、もっと早くに井田一郎をとっつかまえられたでしょうにね」
佐伯は返事に窮して唇を噛んだ。
「いや、これは失礼。そのことは抜きだという塩谷さんとの約束なんです」
木下は頭を掻いてみせた。
「業界誌の高浜も相当な奴だったらしい」
塩谷が話題を変えた。
「ええ。製薬業界をたかり歩く、ダニみたいな連中の一人で、おどしや金品強要で何度か抛りこまれたことのある奴です。トルコ・にゅう池袋とか、にゅう上野とかいうのは、徳田興業といって、梅川組系の合法収入源のひとつですよ。新麻薬の匂いを嗅ぎつけて何かやりすぎたんでしょうな。井田一郎はそれを始末したところで、こっちにパクられたというわけです」
「相模製薬の青木は……」
「あれは別な事件ですね。その件ではいま警視庁が、千葉県警と協力して猛烈に追い込んでいます。手口がまるで素人なんですよ。青木は真面目で、今どき珍しいくらい純粋な男だったと言いますが、相模製薬の会長派の一人とかなり近い縁故関係を持っています。だから、ひょっとするとこれは、そっちの線が出てくるんじゃないでしょうかね。つまり、新麻薬に気づいて騒ぎたてたか何かしたんじゃないのかな。どっちにしても社長派の仕事じゃない。そうでしょうが。言ってみれば会長派のウィークポイントなんですからね。といって梅川組の手口でもない。総会の前後から、その会長さんが脂汗を流すことにならなければいいんですがね」
「じゃ、不動産屋の茂呂儀平《もろぎへい》は……」
「あれは迂闊《うかつ》でした。しかし神様のことなんか、こっちは気がつく道理もないですよ。大宮と金鑽《かなさな》神社だなんて、結びつきもしませんし、相模製薬にも顔を出しちゃいなかったんですからね。あれはただ、古いお宮のそばの畑が、とほうもない値打ちがあるということだけに気づいていて、先物買いに走ったらしいんです。現に、大宮で殺《や》られた時も、鞄に大金を入れていて、ついでに犯人がそれを奪って行ったもんだから、てっきり強盗《たたき》という線で……われわれの所へは廻わっても来なかったんです。どっちにしろ、梅川組の仕業《しわざ》には違いないでしょうな」
いずれ判る、という顔で木下は佐伯をじっとみつめた。
さっきから沈黙を守っている須藤の様子といい、何かためらい気味な塩谷の表情といい、佐伯は彼らが自分に対し、ひどく言いにくい要件を持ってとりかこんでいることを感じはじめていた。
佐伯は三人を逆に眺めまわした。
「笠原隆志の件ですね」
木下が目を伏せた。須藤はあいまいにうなずいた。そして塩谷の顔には、憐れむようなかげりが見えていた。
「あなたのご友人だそうですね」
須藤が言った。
「ええ、でも、高校以来ずっと会っていませんでした。会ったのは、今度の相模製薬の件で……」
「そのことは、塩谷さんからくわしくお聞きしています。あなたにお願いというのは、まずその笠原隆志さんの写真を手に入れていただきたいのです」
「写真を……手配に使うんですか」
木下が居直った様子で強く言った。
「笠原はムラサキイトユリに関する、日本でただ一人の専門家と言える男でしてな。それが檜前事件の直後から、梅川組の組織の奥深くにかくれてしまったのですよ」
「梅川組のですか」
「そう。これは厄介なんです。梅川組には、われわれにはどうもよく理解できん一面があるんです。その……なんというか……」
塩谷が助け舟を出した。
「妙に宗教的な側面を持っているのさ。やくざなんて、昔から何かというと天照大神《あまてらすおおみかみ》とか神農黄帝《しんのうこうてい》とかを持ちだすもんだが、梅川組の中核には、まるで宗教秘密結社的な部分があるらしい。狂信的な若者たちが、それこそ体あたりで邪魔者を殺《け》してしまう。梅川組が急速に伸びた最大の理由がそれさ。多分、そいつはムラサキイトユリに関係してくるんだろうな。ムラサキイトユリが育つ古代の神社が、彼らの中に神秘的なものを持ちこませたんだろう。キノさんたちから聞いたところでは、古代|神道《しんとう》の匂いがプンプンしてくるようなんだ」
「神道ですか」
佐伯はふたたび不吉な予感に襲われていた。
17 十二時すぎのシンデレラ
紅茶が運ばれて、応接間の四人はひとしきり、気まずい沈黙の中で、カップやスプーンをいじっていた。
佐伯は、自分の身に何かが起ころうとしているのを感じていた。だが、それが何であるか、いくら最近の出来事をふり返ってみても思い当たらなかった。
やがて須藤が煙草をとりだし、佐伯にすすめた。
「どうぞ……」
佐伯は会釈《えしやく》して袋から一本抜きとった。須藤はライターを鳴らし、二人はほとんど同時に煙を吐きだした。木下は天井からさがった自在鉤《じざいかぎ》をみあげ、塩谷は紅茶をのんでいる。
「あなたは榊原紹子さんを知っていますね」
「ええ。笠原の恋人です」
軽く答えたとたん、佐伯はハッとして煙草を左手の指にはさみかえた。
「榊原紹子が何か……」
塩谷をみた。塩谷は常にない優しい目でみかえしていた。
「どの程度のお知合いですか」
須藤は憎たらしいほど事務的に言う。
「どの程度、と言いますと」
「笠原さんを通じたお知合いなのですね」
「ええ」
「紹介されたのですか」
「ええ……いいえ。紹介されていません。笠原の奴がいなくなってからです」
「住所を教えられていたのですか」
「いいえ。一度笠原に話を聞かされていただけです」
「どうしてその女性の居場所を探しあてました」
「聞いたんです」
「誰にですか」
「三笑亭小つぶ……落語家の」
木下は内ポケットから手帳をとりだし、素早くメモをして、手帳をまたポケットへ戻した。関係ないような顔であらぬかたを見ている。佐伯は、これほど友好的な接触であっても、警察官というのは、どこか人の心を傷つけるところがあると思った。
「落語家の三笑亭小つぶさんが、榊原紹子さんの居場所を知っていたのですね」
「そうです。笠原に連れられて一度行ったことがあるそうなんです。僕は仕事のことで、笠原にどうしても会いたかったので、たしか檜前さんの葬式の前後ですが、小つぶに笠原の居所を聞いたのです。小つぶは檜前さんに可愛がられていましたし、笠原と檜前さんはご存知のように……」
須藤は大きくうなずいてみせた。
「三笑亭小つぶさんは、どうして榊原紹子さんの家へ行ったのでしょう」
「笠原は、小つぶでも連れて行って、なぐさめたかったんじゃありませんか。小つぶは落語家でにぎやかな男ですし、彼女はあんな風な女ですから……」
「あんな風、とおっしゃいますと」
「つまり、その……影のうすい子なんですよ。いつも淋しがってるとか、何かに怯《おび》えてるとか、そんなかげのある子でしてね。可憐でひよわなんです」
言ってから、佐伯は耳が急に熱くなるのを感じてうろたえた。
「どんなすまいです」
「世田谷の豪徳寺《ごうとくじ》にあるマンションで、若い女の子のすまいとしては、まあ理想的なかんじです」
「何室ありますか」
「バス、トイレ、キッチン。ダイニングとリビングのあいだに仕切りの壁があって、あとは寝室と、それに小さなサンルームです。バルコニーは寝室側にごく小さなのがついているだけです」
「何平方メートルぐらいあると思いますか」
「そう……あれで八十か九十。百はないと思いますが」
「中の家具調度の様子はどうです」
「まず、若い女の子のものとしては贅沢《ぜいたく》といえるでしょうね」
「榊原紹子さんは、よく外出なさいますか。旅行とか……」
「いいえ。いつも家にこもりっぱなしです。人間嫌い、というより、少し他人をおそれる傾向があるようです。いったい、彼女がどうしたと言うんですか。麻薬密売組織に関係あるとでも言うんですか」
「井田一郎の妹なんです」
「井田……」
ショックだった。佐伯には、一瞬何がどうなっているのか、すべてが混乱して判らなくなった。
「実の妹じゃありませんよ」
木下が言った。塩谷のほうを向いて、彼に説明しているようだった。
「紹子の母親というのは、もと亀戸《かめいど》の水商売で働いていた女です。その母親と、最初の夫の間に生まれたのが榊原紹子です。井田のほうは、小松川の近くの工場で働いている韓国人夫婦の子供なんですが、母親が死にましてね。親父が榊原の母親とできたんですね。入籍もせず、ずるずるべったりに小松川の家で暮らすようになり、紹子と井田一郎……姜萬殖は兄妹ということで、しばらく一緒に暮らしてたんです。そのうちに井田はグレましてな。池袋あたりで顔をきかすようになったわけです。そうすると、紹子もそれを追いかけるように家を出てしまったんです」
須藤が木下から話をひきつぎ、事務的につづけた。
「榊原紹子は、もとトルコ・にゅう池袋の従業員です」
「そんな、まさか……」
佐伯の語気がつい荒らくなった。
「私らね、塩谷さんと一緒に心配してるんですよ。万一あなたが榊原紹子をその……愛しているとか……」
木下は案外物柔らかに言うすべを心得ているようだった。
「いや、あれは笠原の恋人です」
「それならいいんだよ」
塩谷が言った。
「ざっくばらんに言っちゃいましょう。紹子はその道じゃ少しばかり有名な女だったんです。看板娘というんですかな」
「何のです」
「トルコのですよ。ああいうとこの、いわゆるサービスってやつ……知ってるでしょ」
佐伯は唇を噛んだ。なぜか鼻がつまり、目頭に熱い感覚があった。
「少女時代、井田一郎とすでに関係を持っていたようですね。井田を追って家を出て、井田の手引きでトルコ嬢になったようです。その後、笠原隆志さんと会うわけですが、そんなわけで、笠原さんが今回の新麻薬では、非常に重要な役割りを果たしていると考えられるのです。われわれの側も、現在相模製薬から提出されたサンプルを使って、薬効、副作用その他、懸命に分析していますが、何しろ笠原さんは梅川組と別個に、独自でそのユリを作りだした人物ですし、われわれのずっと先を走っているわけです。したがって、笠原さんがわれわれのもとに現われてくれれば、いろいろな問題が、時間的な面でも非常に都合よくかたづくわけなのです。ところが、先ほど申したように、梅川組の中核体というのは、非常に厄介な組織でして、そこへ笠原さんに入られてしまった以上、唯一の手がかりは榊原紹子さんしかないわけです」
佐伯はうわの空で聞いていた。
榊原紹子がソープの女。それも広域暴力団ナンバーワンの梅川組系の店で、絶妙のテクニックをうたわれた女……。おスペ、泡おどり、ダブル……。
佐伯は声をあげて泣きだしたかった。生きていることを、辛《つら》いと思った。
二人の警察官が去り、応接間は塩谷と佐伯だけになっていた。
「いやな役を引きうけさせてしまったな」
塩谷は詫びるように言った。
「いいえ、このほうがいいでしょう。笠原はいやがるかもしれませんが、生涯麻薬の世界に身を沈めるよりはましでしょう」
「そう思ってくれると有難いよ」
なり行きだった。今のところ、紹子に接触しているのは佐伯ひとりだし、笠原が連絡をとりそうな相手は、紹子しかいなかった。須藤と木下は、佐伯がこのまま紹子と今までどおりの接触をつづけ、笠原の情報を探りだす役を果たすよう要請したのだった。佐伯は引きうけざるを得なかった。
「御徒町《おかちまち》の事件は、檜前善五郎を消すと同時に、寒川正信に対する警告でもあったわけだな」
「そうですね」
佐伯は沈んだ声で答え、薄い煙をあげつづける煙草の先をじっとみつめていた。
「ひとつ聞きたいんだがね」
「何ですか」
「その豪徳寺のマンションを買う金の出所について、君は考えてみたことがあるのかい」
「笠原が何かの方法で儲けた金には違いないでしょう」
「大金だぜ。しかも、笠原自身は何の財産もない人間だ。榊原紹子名義にしてどんどん買い与えて、自分はどうするつもりだったんだろう」
「あれはほんの手はじめで、ほかにもっと大きなアテがあったんじゃないでしょうか」
「結局麻薬の稼ぎか」
「そうとも言えませんでした。僕は、笠原がそれほどの大金を掴むくらいだから、相模製薬の新薬の件は、よほど重大な秘密だろうと踏んでいたんです」
「でも、犯罪の匂いくらいはしてたんじゃないかな」
「彼女を見たら、とてもそんなことが背景にあるとは思えませんよ」
「惚れた欲目か……」
「惚れた。僕がですか」
「こうみえても、人間を観察するのが商売だからね。君が誰かに恋をしていることはすぐ気づいたよ。今の君はどうみても恋する男だ」
「しかし、仮りにそうだとしても……いや、それならなおさらのこと、僕は莫迦な男ですよ」
佐伯は自嘲した。
「兄貴分と一緒にやっているつもりだったのが、あっさり逃げだされてしまったし、よしそれならばと、会社に肩入れしてこんな事件に首をつっこんでいる間に、肝心の会社がなくなってしまう……」
「おい、君の会社、どうなったんだ」
塩谷は驚いた様子だった。
「莫迦莫迦しくて話にもなりませんがね」
佐伯はそう前置きして、東エージェンシーが、新設の観光会社の宣伝部に吸収されることを説明した。
「そうか、失業か」
塩谷はため息をついた。
「ま、それもよかろう。その身売りした兄貴分や、今の話の社長たちがやったことを、君がやらなかっただけでも、俺は佐伯惇一のために喜びたい気分だな。君にはそういうことをやって欲しくない。やれない人間だと思って信用しているんだ。このうえは、できるなら、広告屋以外の仕事にかわらせたいな。その気があるならひと骨折るぜ」
「まだそこまで考えていません。二人ばかり、ハメ込み先を考えなければならないのがいるものですから」
「俺は仕事に戻るつもりだ。相手が麻薬組織では、ここからさきはプロの仕事だからな。ま、さっきのキノさんあたりから情報はもらうつもりだが……どうだい。少しのあいだ遊ぶようなら、俺の仕事を手つだってもらえんかな」
「塩谷さんの仕事を僕がですか」
塩谷は笑った。
「書くのを手伝えとはいわんよ。今度のことでだいぶ仕事がたまってしまったが、雑誌の仕事が追いついたら、長編をひとつはじめなければならない。その準備を手つだってもらいたいんだ。君にしたって、すぐに別の代理店へとびこんでというのは、能のない話じゃないか。少し冷却期間を置いて、将来のことなどもよく考えたほうがいい。実は、これは以前、伊豆を一緒に歩きまわった頃からの考えなんだ。君はこっちの仕事のほうは素人だが、なんというか、視点のようなものが俺とよく似ている。俺が行けない場合でも、作品の舞台になる土地へ君をほうりこんでおけば、相当役に立ってもらえると思っているんだ」
塩谷は本気らしかった。
「有難うございます」
佐伯は素直に礼を言い、しばらくの間、そうするのも悪くないと考えていた。
「いいですね。旅行なら……」
「やってくれよ。場所は出雲《いずも》なんだ」
塩谷は佐伯の気分を変えさせようと、一気に長編小説の構想をしゃべりはじめた。
佐伯は最高級の林檎《りんご》を土産に、榊原紹子をたずねた。小ぶりなメロンほどもある大きさの、新しい品種だった。
何の変哲もない紅茶だが、どこにどういう秘訣があるのか、紹子の手にかかると、うっとりするほどうまくなる紅茶をたのしみながら、佐伯は新しい目で彼女を観察しようとした。
「そういうわけで、会社はもう俺を必要としなくなったのさ」
東エージェンシーのことだけ、佐伯は愚痴《ぐち》るように打ちあけた。
「しょうがない人たちがいるのね。男の人って、みんなたくましく生きてる人ばかりだと思ってたのに」
紹子は佐伯に同情のこもった目をむけて言った。相かわらず、白い部分が青味を帯びてみえる、清純な瞳だった。
「で、どうなさるの」
「うん。今度はしばらく冷却期間を置いてみようと思ってるんだ。僕自身、少し頭を冷やしたほうがいいかもしれん」
紹子は気づかなくとも、それは彼女に対する皮肉のようだった。佐伯は何気なくそう言ったあとで、その皮肉な意味に気づき、ひどくうろたえた。弁解したい気分だった。皮肉のつもりはなかったし、無意識にせよ、そういう皮肉な響きを、自分の言葉が帯びてしまうことが哀《かな》しかった。
「だったら、毎日来てくださる……」
紹子は嬉しそうに言い、かすかに頬を染めた。
「いいかい。毎日来ても」
コクリ、と紹子はあどけないしぐさでうなずいた。
「じゃ、中華や和食なんかもご披露しなくちゃ……」
紹子は少しはしゃいで言った。
「うん、結構だね。しかし、君の料理は本当にうまいな。天才的だよ。おかげでこのところ、だいぶ肥りぎみだがね。それに、よその飯がまずくてかなわない。君が味を憶えさしたからいけないんだぞ」
実際そうだった。なぜか佐伯は、このところ、紹子の作った料理以外は、まるで食い気をそそられなくなっている。それほど、紹子の料理は抜群であると言えた。
「遊んでいると、もっと肥るわ。少しは運動なさらなくては」
「うん。まるっきり遊ぶわけじゃないんだ。作家の塩谷秀夫って人、知ってるかい」
「推理小説を書く人でしょ。有名だわ」
「彼のアシスタントみたいなことを、しばらくやってみるつもりだ。取材ということで旅行もさせてもらえるし、お金のことも決めて来たんだ。貯金だってろくにないし、働かなければ食えないからね」
「旅行って、どこへ」
遠くへ行かれてしまう、といった様子で紹子は表情を曇らせた。
「松江だの、出雲大社だの……長い期間じゃない。何しろ身がわり取材だから、小まめに帰って報告や打ちあわせをしないとね」
「出かけるとき言ってね。お弁当作ってあげる」
紹子は機嫌を直し、珍しく悪戯《いたずら》っぽい表情で言った。
「そいつはいいや。楽しみだな」
「今日は何にしましょうか」
紹子は佐伯に注文をつけさせた。
「このあいだみたいにフルコースじゃなくていいから、何か君のとっときの奴を食わせてもらいたいな。作るのがかんたんで、これなら最高という奴」
「むずかしい注文ね」
紹子は微笑して言った。
「かんたんというわけには行かないけど……」
そう言って置時計を眺め、
「晩ごはんが八時ごろでよければ、ブッフ・ア・ラ・モードなんか、どうかしら」
「なんだい、それは」
「牛肉を大きめの賽《さい》の目に切って、香りの強い野菜とブランデーに漬けてから、ベーコンと一緒に強火でいためるの。実は、そこまではもう二人前作ってあるのよ。あなたが来たらと思って用意しておいたの。あとは、玉ネギ、ニンジン、仔牛の骨なんかと牛肉がとろけそうになるまで煮て、煮あがったらお鍋ごと冷やせばそれでできあがり。冷たくなると仔牛の骨のゼラチンで、お鍋のかたちにかたまっちゃうの。ちょうどピクルスがいい具合につかっているし……そうね、あとのコーヒーはちょっと乱暴なとりあわせだけど、カップチーノなんかおもしろいと思うわ」
紹子はいそいそとしはじめ、キッチンへそよ風のように走りこむと、小さな手つき鍋をもって出て来た。
「ブッフ・ア・ラ・モードは、本当を言うと、このブイヨンが勝負なの。グツグツ煮るとき、水と一緒にこのブイヨンを使うのよ」
「なるほどね」
佐伯は感心したように聞いてやっていた。それが愉《たの》しかった。やはり愛すべき女だと思った。
そうだ、たしかに俺はこの女に惚れている……佐伯はひどく安らかな感情の中でそう思った。
人間には、それぞれ過去がある。辛さを背負って生きている。義兄の井田一郎こと姜萬殖と、小松川の貧乏長屋で暮らしていれば、お互いに間違いやすい年頃だったし、何かあっても責めるわけには行くまい。ソープで働いたのだって、ひたむきに生きようとした結果かもしれない。なるほど、ソープのサービスということを考えた時は、手ひどいショックを味わった。なぜ嘘の身の上ばなしを聞かせたのかと、恨めしく思った。しかし、ソープにいたからこそ、嘘が必要だったのだ。
笠原という男が現われて、いきさつはどうあれ、彼女をそうした汚濁の世界から引きあげたではないか。榊原紹子は生き返り、こうしてひよわげではあっても、すがすがしく生きはじめている。彼女を守る、笠原を探しだすと、一たんそうきめておいて、元ソープ娘という事実にひるんで初志を撤回したのでは、長谷川駿太郎の生き方と五十歩百歩ではないか。
佐伯はそう思い、かえって紹子をいたわるように眺めはじめた。
塩谷の次の作品の構想は、出雲地方を舞台にした現代小説だった。
山陰地方を中心に、コツコツと地盤を築いた小さな化粧品メーカーがあった。はじめ、一軒の店で自家製として売っていたものを、その地方の資産家が後援して、しだいに販路をひろげたのだった。
塩谷は、地方都市のこまやかな人間関係を、郷土色ゆたかに描きだしたかったらしい。だが、全体の構想がまとまるにつれ、それだけでは現代小説として物足らなくなったのだ。至るところにその化粧品の看板が目立つようになり、近代的なメーカーとしての体裁が整うにしたがって、中央の大メーカーの干渉が強まってくる。そのブランドをさらに大きなものに発展させるかわりに、傘下に吸収しようとして、数社がさまざまなかけひきをしはじめるのだ。地方メーカーの内部は、それぞれの思惑《おもわく》から対立をはじめ、塩谷得意のミステリーへと発展して行く。
「要するに、俺はこれを出雲の国譲り伝説の現代版にしようと思うんだ。だが、そのテに気づいたのはごく最近で、そっちの方面からの調査はこれから始めなければならない」
ひと足さきに行って、そのストーリーに合いそうな神話、伝説、それに古い神社などの下調べをしておいてくれというのだった。
「その小メーカーは中央の大手に吸収され、大国主《オオクニヌシ》……つまりその化粧品の創始者は名のみの重役として迎えられる。だが、発展に心血をそそぎ、命をかけてきた男……これが事代主命《コトシロヌシノミコト》にあたるわけだが、そいつは抛りだされ、みじめに去って行かねばならない」
塩谷は熱のこもった言い方で説明してくれた。佐伯もそのテーマには共感した。神話にあらわれる事代主《コトシロヌシ》という人物が、どこか身近に感じられたからだった。
それとは別に、経済紙は今になって相模製薬の内紛を大々的に報じていた。佐伯は、その記事を吉岡と淵上に会ったとき見せられた。
「相模製薬はパアですね、これじゃ」
「この寒川って会長に食いついてたんでしょう」
二人は佐伯に同情するように言った。
「もうすんだことさ。総会のちょっと前に情報が入ってね。それよりお前らはどうするんだ」
「クライアントも一度はやってみたいですがね。あのへっぴり腰社長とじゃごめんだ」
「アテはある。よければ紹介するぜ」
「いいんです。俺は先輩がはじめたデザイン・ブティックへ行きます。実を言うと、以前から引っぱられてたんですよ」
吉岡は悠然としていた。
「それはよかった。で、淵上は」
「僕はここいらでイラスト専門になりたいんですよ。親父に無理言って、しばらくアメリカへ行って来ます」
「ほう、そいつはいいな」
「でもね」
二人は声を揃えて言った。
「いつかもし佐伯さんが会社をおったてたら、必ず声をかけてくださいよ。太平洋アドへ行った連中もみんなそう言ってます。あの営業第二課は本当によかったってね。あんなチームだったらぜひ働きたいって……」
「そうか」
佐伯はうれしかった。少なくとも、何人かの記憶に残る仕事はできたのだと思った。
「じゃ、がんばってくださいよ……」
別れぎわ、二人はそう言って手を振った。その視線を背中に意識しながら、佐伯は大股に歩いて行った。人生のひとつの時期の、わびしい幕ぎれだと思った。
笠原の顔写真を手に入れるのは、そう楽な仕事ではなかった。紹子の部屋に入りこんでいるのだから、抽斗《ひきだし》や手箱を調べる隙はいくらでもあった。しかし、彼にとって、それは紹子の聖域に手をふれることだった。三日、四日とむなしく日がたち、塩谷の仕事で明日旅だつという晩、やっとそれを手に入れた。
写真は、白い小さなデスクの、いちばん上の抽斗に入れてあった。どこかの花壇をバックに笠原と紹子が、わりとあらたまった様子で並んでいた。花壇の花は、白いユリだった。
佐伯は一度それをポケットにしまったが、すぐそれをとりだして紹子に見せた。
「この写真、くれないかな」
「あら……」
紹子はとがめるように言い、白いデスクにちらっと目を走らせた。
その目の色で、佐伯の勇気が萎《な》えた。
「持っていたいんだ」
「どうして……」
「取材も取材だが、笠原も探しだしたいんでね」
そう答えた。
「それなら、あの人ひとりだけのがあるわ」
「いや、これが欲しい。君が写っているからだよ」
佐伯はもう、笠原の顔写真を警察に渡す気をなくしていた。そして、自分が真実をしゃべっているのを覚った。
「君の写真を持っていたい」
「どうして……」
また紹子は言った。
「笠原は君を愛しているんだろ」
「…………」
「俺もだ」
紹子はエプロンを両手でいじっていた。
「誤解しないでくれ。君と笠原の間へ割って入ろうというんじゃない。探しだして君をしあわせにしてやりたい」
紹子は首を左右に振った。
「帰って来ないわ、きっと……」
「それじゃ俺が困る。みつけだして君に会わせる。そのうえで、もし二人が……もし君に悲しいことが起こったら、その時は俺の話も聞いてくれ」
「あたし、そんな女じゃない……あなたが思ってくれているような」
紹子の目から涙がこぼれた。頬からポトリとエプロンへ落ちていった。
知っている。何もかも承知している。だからこそ、より深く愛するようになってしまったのだ……佐伯は心の中でそう言った。
「とにかく、まず第一に俺は笠原を探したい。どこへ行けばいいんだ」
紹子はよろめくように佐伯の胸へすがりついて来た。
「愛してるって……言ってくださったのね」
佐伯は肩を強くだいて返事にかえた。
「あの人は、あたしを棄てたのよ……いいえ、恨んではいないわ。こんなにしてくださったんですもの。ひどい暮らしをしていたのをたすけあげてくださったのよ。感謝してます。とても……でも、もう帰ってこないってわかったとき、どうしていいかわからなくなったの。あたし、働いてないでしょう。それに、お仕事なんて……ちゃんとしたお仕事なんて、何も知らないの。あの人が置いて行ってくれたお金が少しずつ減るのを、じっとみつめているだけよ。このお城みたいなおうちをお金にかえるなんて、あたしにはできない。夢からさめたくないのよ。十二時の時計が鳴っても帰らないシンデレラなんだわ。このおうちで死のうと思ってたのよ。今だってそう思ってるわ。きれいにお掃除して、お姫さまみたいに着飾って、それで死ねたらいちばんしあわせだと思っていたの……」
「そうか……」
佐伯は紹子をだきしめてつぶやいた。
そうか、俺にはまだやることが残されていたのだ……そう言うつもりだった。闘志が湧きあがり、ひどく燥《はしや》いだ気分になった。
「心配することはないさ。どんなことからも君を守ってやる」
紹子は顔をあげた。放心したように涙で濡れた瞳でみつめ、背伸びをすると佐伯の首に両手をかけた。
「あなたが好き」
稚《おさ》ない言い方だった。その稚なさにつられて、佐伯は唇を合わせた。
紹子の唇は微妙にうごめいた。はじめ乾き、すぐぬめぬめと濡れた。佐伯の舌を誘い、小さくとがらせた舌が逆にすべりこんできた。耳たぶのあたりを紹子の細い指が這いおり、背中から脇腹をつたわって、ゆっくりうごめきながら腰へさがって行った。
鬱積《うつせき》した佐伯の欲情がはじけ、衣服をとおして紹子の下腹部を圧迫していた。紹子はその槍をさけるように身をくねらせ、かえって鋭くさせている。
吐息をついて唇をはなすと、紹子は首をねじ曲げて佐伯の喉に唇を押しあてた。佐伯は首をのけぞらせ、呻《うめ》いた。紹子の両手がじりじりと前へまわり、佐伯の尖端にかすかに触れた。そのとたんに、佐伯はまた急に萎《な》えはじめた。
「さあ……」
佐伯は紹子の体をつきはなすようにして、くるりとうしろを向いた。
「明日は旅行だ。君の弁当がたのしみだな」
そう言ったが、声がくぐもっていた。紹子をそんな風にした世の中がうらめしかった。唇の技巧のすばらしさが哀《かな》しかった。腕の中で、怯《おび》えて震えていて欲しかった。
それこそ、この十二時すぎのシンデレラにふさわしかったのに……。
18 寝台特急
佐伯は東京と出雲の間を往復している。
出雲での滞在は永い時で一週間、短い場合は二、三日という調子だった。最初は佐伯自身がその土地を知るためについやされ、実際に塩谷のために何がしかの報告らしいものができるようになったのは、三回目くらいからだった。
近畿、東海、関東を中心に暮らしてきた佐伯にとって、山陰の、それももっとも山陰らしいといわれる出雲地方を歩きまわることは、仕事以上に個人的な興味が先だって楽しかった。繁雑で面倒な古代史の知識を身につける必要があったが、それもいちいち現地とつき合わせて行くのだから、たいして苦にならず、かえってそこまで遡《さかのぼ》って物事を考えるので、地理や地形をのみこむのも早いようだった。
最初その地方へ入ってすぐ気づいたのは、塩谷の構想の基礎にある化粧品会社が、実在していたことだった。聞き憶えのない化粧品のチェーン・ストアーがあり、見慣れぬブランドの広告が目についた。
佐伯は最初のうち、その仕事は塩谷が自分を慰撫《いぶ》してくれるために考えついた、形ばかりのものだろうと思っていた。ところが、いざはじめてみると、かなり持ち重《おも》りのする、本物の身がわり取材であることが判ってきた。報告に帰るたび塩谷の態度は厳しくなり、彼が持ちだす疑問の量は、たとえば沿道に見える樹木の種類から、通行人の着衣の色の、東京、大阪との大ざっぱな対比に至るまで、ふえていく一方だった。
それに塩谷が佐伯の撮影技術をアテにしていたことも判ってきた。佐伯はカメラの専門家ではなかったが、長年ロケハンやらロケやらで、構図に対する感覚がセミプロ級になっていた。そして、佐伯が実際の風景から切り取って来る写真の構図は、塩谷が小説を書くとき頭の中にうかべる構図と、非常によく似かよっているらしいのだ。ひょっとすると、塩谷にとっていちばん利用価値が高いのは、そのスチール写真だったのかもしれない。
そうした中で、佐伯のほうも塩谷の次の作品に対する考え方をだんだんと理解し、一種の共鳴現象を起こしたようだった。断片的な場面の提案ができるようになり、ストーリーに直接関係はなくても、登場人物たちの生家を想定して、山あいで発見したいかにも出雲らしい民家を、克明にフィルムに納めて来たりした。
佐伯は、島根県の山間部が深刻な過疎問題をかかえていることを知った。県の統計では、松江市をのぞく全市町村に人口の減少がみられる。減少率日本一という記録さえたててしまっていた。戸数が三分の二に減った部落があり、残された人口の構成では、老人と女性の比率が高まっていた。
そのことは、出雲地方を考える上でかなり重要なことだった。東北地方の遠距離出稼ぎと違って、中国山脈の向こう側、特に瀬戸内地方は、急激な工業化で労働力を求めているのだ。過疎が目だつ山間部からだと、山陽の工業化地帯まで、車でほんの二、三時間という距離なのだった。
塩谷はその事実に作家らしい反応を示した。仮りに畿内《きだい》の大和朝廷の勢力が、現代の工業化の波動と同じように各地へ伝わっていったとすると、出雲はそれを腹背にうける地形だというのだ。たとえば、日本海に顔をむけ、山を背にした神社は、その背後から大和の神々にしのびこまれる可能性があるという。
また、そう古代へさかのぼらなくても、大陸との関係に鋭敏にならざるをえない土地柄でもあった。その例のひとつとして、島根県史は、明治三十九年、半官半民の山陰道産業という会社を用いて、朝鮮半島に植民地経営をはかった記録をとどめている。また、県として朝鮮半島海域における漁業権を取得したりもしているが、これは当時の日本の国策に同調したというよりは、古代からその方面とのつながりが深く、ごく自然に起こった行動のように思えた。
塩谷はその明治末期における島根県漁業の半島進出に興味を持ったようだった。
進出は船団単位で行なわれた。当時の船団の母船となったのは一〇〇|石積《こくづみ》の帆船《はんせん》で、その母船に対し漁船五隻がついて一船団を形成したという。
問題はその漁船で、幅の最大が約二メートル。乗員五人の小舟だったのだ。
「母船が曳《ひ》いて行ったんじゃないんだぞ……」
塩谷は報告した佐伯に逆にそう言った。
「古墳時代の丸木舟が出土した例はかなりある。埼玉からは全長八・五メートルばかりのもの、大阪からは一一・五メートル。中には一三・五メートルという丸木舟まで発掘されている。年代でいうと、紀元三〇〇年くらいの日本に、その程度の丸木舟があったわけだ。宮崎県の古墳から、非常に大型の、全長一メートルにも及ぶ船の模型がみつかっている。埴輪《はにわ》船だ。こいつは両舷に六|対《つい》の櫓《ろ》べそを持っている。こぎ手だけで十二人のクルーがいたわけだよ。明治時代に朝鮮半島へ往復した舟より、はるかに大型だ……」
二人の前には、佐伯が美保《みほ》神社で撮影して来た二艘の神船、諸手船《もろたぶね》の写真があった。
全長六・五メートル、最大幅一・一二メートル、深さ五一センチで、強くそり反った船形をしていた。
塩谷は明治の例が実証するように、出雲と朝鮮半島が、古代から密接にかかわり合ってきたのだということを、しきりに強調した。
「昭和二十年の八月二十三日に起こった松江市の武装蜂起事件だって、あの地方の半島に対する距離感を考えれば、暴挙だとはけっして言えまい。大陸から軍隊が占領軍として進駐してくれば、自分たちがいちばん先にめちゃくちゃにされる……そうした危機感のないほうがおかしいくらいだ。スサノオ以来、出雲はつねに朝鮮半島を意識しないわけにはいかなかったのさ」
報告に戻るたび、佐伯は塩谷のそうした考え方を仕入れさせられ、そのつど新しい視点で出雲という土地を観察しなおすのだった。
塩谷は取材費については金を惜しまないようだった。往きは必ず夕方の六時半近くに出る特急出雲のA寝台を用意してくれた。帰りは関連事項があって寄り道をしない限り、岡山へ出て新幹線を利用することにしていた。
帰るときは、一刻も早く紹子の顔がみたかった。出雲|土産《みやげ》のあれこれが、しだいに紹子の部屋にふえ、それを持ち帰るたび、佐伯は彼女の料理を心からたのしむのだった。
そんな日々がつづき、佐伯のつもりでは二ヶ月ほどの予定だった出雲がよいが、とうとう三ヶ月目に入ってしまった。夏になって、列車にも宿にも、冷房がはじまっていた。
その日、紹子は東京駅まで佐伯を送って来た。今までにも二度ほど紹子は送りに来たが、そのつど色の濃いサングラスをかけていた。佐伯は紹子がそうやって人目を避ける気持ちがよく判った。トルコ・にゅう池袋時代の客に顔を見られるのを怖《おそ》れているのだ。佐伯は早く紹子をそうした過去から引きはなしてやりたいと思った。塩谷の仕事が終わり、また広告の仕事に戻って生活のメドがつくようになったら、結婚を申しこんでもいいと思いはじめている。
だが、それには笠原の問題に、一応の決着をつけさせなければならない。いまの紹子の真実の気持ちはどうあれ、彼女は笠原を待ちつづける姿勢のままだったし、佐伯も彼女のために笠原を探す立場を崩してはいなかった。
奇妙な関係といえる。紹子はとうに笠原に棄てられたものときめてしまっていたし、佐伯は笠原を探しだしたとしても、紹子のもとへ帰ってやれと言う気はなくしている。むしろ、笠原を発見しさえすれば、それで紹子と自分はいつ結ばれてもいいのだと、そのために探すと言っているようなものだった。
そして現実には、二人は笠原を探すことについて、何もしてはいない。佐伯は笠原の顔写真を手に入れたが、それを塩谷経由で警察側へ提出することは中止してしまっている。紹子は紹子で、あれ以来笠原のカの字も言いだそうとはしない。二人とも求め合いながら、笠原という男の存在に呪縛《じゆばく》されて、あいまいな距離を保ったまま日を送っている。
何かが起こるまで、二人はそのままじっとしつづけているつもりのようだった。
塩谷は笠原の写真のことについて、くどくは言わなかった。ときどき、何も情報は入らないのか、と軽く尋ねるだけで、佐伯が東京へ帰ると、紹子の部屋に入りびたっているのを知っていても、それに触れようとはしなかった。
「今度は少し長いぞ。十日間くらいだ」
佐伯はデッキの前でそう言い、紹子に別れの握手を求めた。ホームの時計の長針がピクリと動いて、六時一九分の目盛へ移ったところだった。紹子は佐伯の手を両手でつかみ、黙って笑った。ホームは混雑していて、隣の十五番線には、博多行き特急のあさかぜが入っていた。
ベルが鳴り、佐伯は列車へ入った。小さなショルダーバッグを置いたA寝台の席に戻り、窓の外で手をあげている紹子に笑顔を送った。列車が動きだし、紹子は見えなくなった。佐伯は彼女がどんなうしろ姿でホームを去るのか急に見たくなり、窓に顔を寄せた。紹子は人ごみにまぎれて見えず、見送りの人々の顔がうしろへ流れ去っていった。
その後方へゆっくり流れ去る人々の顔の中に、佐伯は知っている顔を発見して、おや、と思った。いつか塩谷の家で会った、木下という警部の顔だった。そのいかつい顔は、明らかに注意を反対側に停まっているあさかぜの方へ向けていた。
それも数瞬のこと。特急出雲はホームを離れ、いつものように宵の街路をみおろしながら西へ向かっていった。
佐伯は本を読みはじめた。塩谷の助手として出雲神話に関係ができてから、佐伯はその国譲《くにゆず》り伝説に登場する、コトシロヌシノミコトに興味を抱くようになっていた。
八重事代主《ヤエコトシロヌシ》と、八重をかぶせて呼ばれることもあるコトシロヌシは、大国主《オオクニヌシ》の子とされているが、コトシロは本来、神の呪言託宣《じゆげんたくせん》を人々に伝える神職の呼称であり、この場合は、オオクニヌシを祭祀《さいし》する、最高位の神官と考えられた。日本の神々の系譜には、このように神を祭祀する有力な神官を神格化してしまう例がよくあるらしい。
まず神があり、それを祀る神官がいる。神官の権力は大きく、のちに神官自身も神とされ、それは最初の神にとって子に相当する扱いをうける。また、ある有力な人物に神が憑《つ》いて、信ずべき託宣を発した場合、その現象が神格化されて、そこにもコトシロヌシの存在を生じさせる場合がある。神功《じんぐう》皇后にのりうつった神がコトシロヌシであったり、出雲以外の地にもコトシロヌシがいるのは、そうした事情による。
だが、佐伯が関心を抱いていたのは、大和の勢力が出雲に及んだときの、コトシロヌシの立場だった。
出雲にもはじめ数々の神がいて、それらが互いに勢力をきそい合っていた。つまり、諸部族が群立していたわけだ。
やがて大穴持命《オオナムチノミコト》がしだいに勢力を拡大し、出雲の大半を支配するようになる。このために、一部の神々はその勢力圏外へ逃げだしたりしている。
オオナムチがスサノオの子として扱われているところをみると、彼もまたスサノオを奉ずる有力神官として実在した可能性がある。つまり、スサノオを奉じたオオナムチが出雲統一に近いことをやってのけ、神に昇格したのだろう。オオナムチはのちに大和側からオオクニヌシの称号を与えられた……と佐伯は考えるようになっている。出雲の王たる神として認められ、大和体制に参加するのだ。その過程でスサノオはアマテラスの一族ということにされる。
そういう古代出雲の勢力図形を描けるようになったところで、佐伯の頭に具体的にうかびあがったのが、いかにも悲劇的なコトシロヌシの横顔だったのだ。
もちろんそれは塩谷の出雲神話観に強く影響されてはいた。しかし、佐伯はそれ以上に、ひとりの実在した人物像として、コトシロヌシを肌で感じたようだった。
出雲に、大和の優勢な文化が押しよせて来ていた。民衆は出雲の尊厳が汚されるのをいとい、口々に大和排斥を叫んでいた。そうした世論をうけて、コトシロヌシは敢然と大和に抵抗した。民衆にとってコトシロヌシは抵抗のシンボルであり、英雄でもあった。
稲佐《いなさ》の浜においてくり返された、大和との国譲り交渉で、コトシロヌシは一歩も退《ひ》かなかった。
ところが、出雲の内部に微妙な変化がはじまっていた。それは平野部を開発、灌漑《かんがい》して富をもたらす大和の新技術だったかもしれず、協力すれば新体制成立後、さらに高い地位を与えるという、各部族への切崩し工作だったかもしれない。
世論が変化し、コトシロヌシの抵抗は民衆にとって迷惑であり、無用の沙汰《さた》とされるようになった。
民衆の裏切りに、コトシロヌシは憤《いきどお》ったに違いない。失望したに違いない。
やがて失意のコトシロヌシは、国譲り交渉の舞台である杵築《きずき》の稲佐の浜を遠く離れ、島根半島の反対側の端である美保の岬《みさき》へ退去してしまう。海洋神でもあったスサノオを支持する母集団が、その日本海へ突き出した岬に勢力を占めていたのかもしれない。
コトシロヌシの美保岬退去は、最終的な結論を回避する延引策であったのだろうか。しかし、そうだとしても無駄なことだった。出雲の民衆は彼の留守中に大和歓迎の旗幟《きし》を明らかにし、神官であるコトシロヌシぬきに、大和側が直接オオナムチ……すなわちオオクニヌシと対話することを許してしまったのだ。
大和側の意を汲んで行なわれた、オオクニヌシの託宣は、当然イエスだった。その大和側によって作られた神託は、形式としてコトシロヌシの認証を要し、大和側は二隻の早船を仕立てて美保岬へ急行する。出雲大社の古伝|新嘗祭《にいなめさい》が十一月の二十三日。二隻の早船をくりだす美保神社の諸手船《もろたぶね》神事が翌月十二月の三日。……佐伯は、今に残るそれらの行事に、往時の事件の日付けまでをも嗅ぎとる思いだった。
そしてそれは、島村の移籍、東エージェンシーの崩壊、寒川正信の転落とつづく今度の一連の事件の渦中で、佐伯自身が演じさせられた、道化《どうけ》に似た役まわりを思い起こさせるのだった。
コトシロヌシは、父であるオオクニヌシにさえ裏切られ、時の勢いに抗して滅んでいったのだ。
コトシロヌシは、ついに万策つきて国土献上を認めた。認めたあと、彼は乗船を踏みかたむけ、天地を呪う天逆手《あまのさかで》を打ったのち、入水《じゆすい》してしまった。
その故事をとどめる美保神社の青柴垣《あおしばがき》神事は四月七日で、佐伯は今度の仕事の初期にその神事を見物した。そして、今も昔も、世の事情はさして変わらないように思ったのだった。
A寝台の二段べッドがセットされ、佐伯はジュラルミンの梯子《はしご》を昇った。
このところ、佐伯はその梯子を昇りおりするのが苦手になっていた。
ほんの数ヶ月前だったら、上段も下段も佐伯はほとんど意識しないですんだ。だが、彼は急速に肥りはじめていた。余り肥り方が急なので、服の新調が追いつかないくらいだった。現にいま引っぱりだして着ているのは、去年こしらえたばかりの、紺のトロピカルの上下だったが、上着はボタンが合わないどころか、胸が圧迫されて息苦しく、アパートに置いて来てしまっている。ズボンも思いきりさげてはいて、やっとどうにか前が合うといった具合だった。
それが、昇りにくい梯子を昇り、天井の低い上段のべッドに脚をなげだしてすわったとたん、フックとボタンが一度にとんでしまった。ベルトと、ファスナーのストッパーだけがたよりという、なさけない始末になったのだ。
佐伯は舌打ちをしてズボンをぬぎ、薄っぺらな浴衣に着がえた。
生来ちょっとしたおしゃれであった佐伯は、そのささいなズボンの破損に、ふと我をとり戻す思いだった。
ぶざまに肥りだしている。そう思い、列車の天井が弧を描いている部分にとりつけられた、小さな鏡を引っぱって顔を写した。
はちきれそうな丸い顔があった。指で触れると頬の肉が大げさに動いた。久しく会っていない島村や吉岡たちが見て、これが佐伯惇一だと判るだろうかと思うほどだった。
容貌を気にしたことは一度もなかった。しかし鏡に写っている顔は、ひどくなさけない肥りように思えた。あまりにも急な変貌だった。いくぶんきつめの、どちらかといえば鋭い、以前の表情が懐かしくなった。失うのが惜しいような気分だった。
いったい、どうしてこんなに肥ったのか、見当もつかなかった。取材旅行で、今までよりずっと歩く距離も多くなっているというのに……。
佐伯はいやになって鏡をもとに戻した。小さな灯りの下で読みかけの本に目を移したが、いっこうに読む気にはなれなかった。目の粗《あら》い茶色のカーテンの外は、食堂車へ行く足音や、寝仕度をする物音でざわついていた。
こちらが事件から身を引いたせいもあるが、あの臨時株主総会以来、寒川正信の消息はまったく絶えていた。新しい麻薬についても、内閣総理大臣官房の麻薬対策室が、麻薬問題対策本部となって本格的な活動をはじめたという以外、塩谷は何も教えてくれていない。
ただ、新聞の紙面には、毎日のように広域暴力団梅川組に関する記事がのりはじめている。各地の警察が協力して締めつけにかかっているらしい。ムラサキイトユリの知識がない者には、それら梅川組の拠点間に、何の意味もみいだせないだろうが、佐伯には、警察が彼らの麻薬栽培地を根こそぎやっつけようとしている動きが、手にとるように判った。
どれもこれも、出雲系の神を祭神とする古社の所在地ばかりだ。……そう考えはじめたとき、佐伯はふと塩谷の顔を思いうかべた。
ひどく奇妙な感じだった。
佐伯自身も、その時まで完全に見落としていたのだから、塩谷も同じだと言ってしまえばそれまでだったが、あの鋭敏な塩谷がなぜこんなことを見落としたのだろうか。佐伯の心はなぜか動揺しはじめた。
香取神宮、氷川神社、貫前神社、神田神社、金鑽神社、寒川神社……。さらに北陸、東海、近畿とひろがる出雲系の神々の社《やしろ》が、新麻薬ムラサキイトユリの適性地であるなら、出雲はどうなのだ。出雲地方そのものはどうなのだ。
出雲こそ、ムラサキイトユリの最大の適性地ではないのか。
だが出雲地方に梅川組の勢力が侵入している様子はなかった。それは、このところ出雲各地を歩きまわっている佐伯自身が確認していた。新聞も騒がないし、土地の噂も聞かなかった。
栽培者側の梅川組も、見落としているのだろうか。……佐伯は空恐ろしい気がした。出雲系の神々の拠点を追っているのに、誰もその本家本元の出雲に気づいていないようなのだ。
いったい、こんなことがあり得るだろうか。それとも、人間とはこれほど迂闊《うかつ》なものなのだろうか……。
睡りそびれた佐伯を乗せて、特急出雲は走りつづけ、いつしか豊橋をすぎていた。
減灯し、うす暗くなった車内には、通路を行く足音もとだえ、やがてひとしきりレールの交差する震動が続いたのち、特急は静かに停止した。楕円形の小窓の蓋を引くと、ひと気のない名古屋駅のホームが目の下にあった。出雲はそのホームの右側に入っており、佐伯の窓から、隣のホームの右側に停《とま》っている、長野行き急行きそ七号が見えた。
名古屋では五分停車だった。東京駅を出るとき、隣の十五番線に入っていた特急あさかぜ一号が、もうすぐ追いついてくるはずだった。
佐伯は東京駅のホームでみかけた木下といういかつい顔の警部を思いだしていた。
数分後、夜行列車の停車駅風景特有の物哀しさをふきとばすように、あさかぜ一号が入って来た。
と、あさかぜが停まるか停まらないかの内に、デッキの戸をあけて、ひらりとホームへとびおりた男の姿があった。同時に、佐伯が覗いている小さな窓の視界の外から、もう一人の男が駆け寄って、とびおりた男があけた戸の中へ吸いこまれて行った。とびおりた男は入れちがいにこちら側へ寄り、小窓の視界から消えた。
佐伯は狭いべッドの上で、凝然《ぎようぜん》としてその光景を反芻《はんすう》していた。追いついたあさかぜ一号からとびおりたのは、中肉中背の足の悪い男だった。向こうへ行った男も似たような背恰好で、どちらも同じような白の半袖シャツを着ていた。
びっこの男……。
佐伯はあわててべッドのランプを消した。ドアの開く音がして、誰かが通路へ入って来たからだった。
佐伯は目の粗いカーテンの中央にあいた、換気用の四角い窓をあけ、そっと下をのぞいた。白い半袖シャツの男が、びっこを引きながら真下を通り、ひと枠先の下段へもぐりこもうとしていた。靴をぬぎ、べッドの下へおしこむと、するりと背をカーテンの中へすべりこませた。そのあと、カーテンはぴくりとも揺れず、列車がガタンと動きだした。あわてて楕円形の小窓からあさかぜ一号を眺めたが、何の変化もなく、ホームには人影もみあたらなかった。
両方とも寝台特急だった。ふたつの列車が名古屋で一分間ほど同じホームの左右に並んだすきに、寝台の客が入れかわったのだ。そしてあさかぜから出雲へまわったのは、びっこの男だった。あさかぜには木下警部かその部下が乗っていた可能性が濃い。
のっぽの井田一郎こと姜萬殖はすでに逮捕されている。びっこはあの時のびっこだろうか。もしそうなら……。
佐伯はその列車が出雲に向かっている事実を強く意識した。そして、出雲と朝鮮半島の近さにも、何か不快な暗合を感じるのだった。
窓が白くなり、やがて朝の光がべッドの中へさしはじめた。佐伯は何度かうとうとし、そのあい間に、昨夜の出来事にひとつの結論をくだしていた。
びっこの男を警察が尾行していたのだ。だが、びっこの男も、それに対する用意をしていた。五分さきに出る出雲に、似た風体の男を乗りこませ、名古屋でまんまと入れかわったのだ。朝になって、あさかぜの尾行者は、人間が入れ替ったのに気づくだろうか。
どちらにせよ、びっこの男は佐伯のひとつ先の寝台の下段にいる。福知山《ふくちやま》、豊岡、城崎《きのさき》への停車は真夜中だった。鳥取で朝になり、倉吉《くらよし》、米子《よなご》と降車客がふえ、松江でほとんどの客が降りてしまった。この先は出雲。それをすぎると終着の浜田まで、大田市と江津の二駅しかない。
だが佐伯は、そのびっこの男が出雲で降りることに賭け、松江を過ぎるとすぐ、荷物を持って梯子を降りた。下段の、カーテンをあけ放した無人のベッドに腰をおろし、問題の男が現われるのを待っていた。カーテンの中で人の動く気配がしていた。
やがてカーテンがあき、男の頭があらわれた。べッドの下の靴を探し、足をだしてはきおわってから、やっと顔をあげた。面長の、どこといって変わりばえのしない顔だった。
男は誰もがするように立ちあがって背を伸ばした。両肩を二、三度あげさげしてあたりを見まわし、佐伯を見るでもなく見ないでもなく、前を通りすぎてドアのほうへ歩いていった。タオルをぶらさげていて、顔を洗いに行くことは明らかだった。
右足が悪いらしく、ひきずるようにしていた。佐伯も思い切って洗面道具をとりだし、ドアの外へ出た。小さな更衣室のカーテンの前で煙草に火をつけ、デッキへ歩いて行った。洗面所で水音がし、男が鏡に顔を写していた。そのうしろ姿が見える位置で煙草をふかしていると、男はすぐ水を落とし、タオルで顔を拭《ぬぐ》いながら出てきた。
頭をかるくさげて戻って行く。佐伯も会釈《えしやく》を返してから洗面所へ入った。
手早く顔を洗って席へ戻ると、男はボストンバッグをぶらさげて、反対側のドアへ歩いて行くところだった。距離は顔を洗った側のデッキのほうがはるかに近い。
警戒しているな、と思った。
ともすればずり落ちそうになるズボンを気にしながら、佐伯は出雲駅へ着くのを待った。そのハコには、もう一人だけ中年の乗客が残っていて、出雲駅へ近づくと、その中年男と一緒に、佐伯は近いほうの出口からホームへ出た。
ひとハコ分、佐伯は足早に歩いた。びっこの男にぴたりと食いついてやるつもりだった。ところが、たしかに降りたはずのびっこの男の姿がみえなかった。次のハコの通路を歩いて、もうひとつ先の出口へ行ったのかと思い、さらに急ぎはじめたとき、真ん中ごろの窓から、びっこの男が自分を冷たい目で睨《にら》みおろしているのに気づいた。
思わず立ちどまっていた。窓の外と内で、睨み合いになってしまった。佐伯は目をそらし、その窓から逃げるように遠ざからなければならなかった。
列車が走りだし、佐伯は立ちどまって通りすぎて行く窓を眺めた。びっこの男の顔は、最後の窓まで見当たらなかった。穏やかな朝の光の中を、特急出雲は二本の白く光るレールの上を、すべるように遠ざかって行った。
佐伯はため息をつくとまた歩きだした。
あの男は出雲駅で降りる気だったに違いないのだ。それが、何かの理由で急に佐伯を警戒し、そのまま乗って行ってしまった。よほど用心深くふるまっているのだろう。
佐伯は常宿にしている宍道《しんじ》湖畔のホテルへ引っ返すことにした。東京へびっこの男のことを報告したかったし、服も買う必要があった。だが時間はまだ八時半で商店があくまですることがなかった。
19 神の里
東京へ電話をすると、すぐ塩谷がでた。仕事で徹夜をし、これから寝るところだと言う。びっこの男を見たと言うと、睡気がさめたようにテキパキした言い方で、一度電話を切り、東京からかけ直すのを待て、と指示した。
佐伯は宍道湖《しんじこ》のみえるホテルのロビーで、コーヒーを飲みながらぼんやりと朝のひとときを過ごした。対岸は袖師《そでし》焼の窯《かま》元がある袖師ガ浦あたりで、貨物列車を引く|SL《エスエル》の黒い煙が、紫色がかった山なみを背景に、ゆっくりと松江のほうへ動いていた。
ロビーには、東京からの客らしい家族づれの一団がいて、四つか五つくらいの男の子が二人、チョコチョコと走りまわっては、ときどき甲高《かんだか》い叫び声をあげていた。
空は青く晴れていた。しかし南のほうには、すでに青灰色の雲塊があらわれている。降る気づかいはないが、いずれ昼近くなればその雲がひろがり、八雲たつ出雲にふさわしく、照ったりかげったりの日和《ひより》になるはずだった。
もうこのあたりで自分の生活に戻ろう……。佐伯はふと、そう思った。穏やかな宍道湖畔の朝の風景に浸《ひた》っていると、何もかもが遠いできごとのように思えてくるのだった。
それは、スサノオやオオクニヌシやコトシロヌシなど、神話の英雄たちが、この土地ではひどく身近な存在に感じられるせいでもあったようだ。スサノオたちが見た雲と同じ雲を、いま自分はみているのだと感じることが、現実の生活をごく小さな、つまらないものに感じさせてしまうのだった。
佐伯は出雲へくると、天と地の距離を近く感じてしまう。それは、八雲たつ出雲の雲が遠い地平にたちこめて、常に天と地をつないでいるからだろう。地平を雲で仕切られた出雲の空は、無窮よりは有限を感じさせ、スサノオたちのすみかを、その雲の下の、歩けば行けるところに思わせてくれるのだった。
東京に置き忘れたようにしている、あの広告《アド》マンの世界が、ここでは異郷のようだった。雲で仕切られた出雲は、ひとつの完結した世界であり、人間はその中で、それぞれの命にみちたりて暮らしているように思えるのだった。
いったい何を望んであくせくと……。佐伯は自分の過去をそう反省していた。考えてみれば、具体的には何も望んでいなかったようだ。器《うつわ》の中で沸きたった水のように、ただやみくもに表面へ駆けあがりたがり、あがったところで上には何もなく、冷えてまた下へ吸いこまれて行く。駆けあがり、吸いこまれ、駆けあがり、吸いこまれ、いつのまにか蒸発して減ってしまう。
都会とは、いや現代の社会とは、そんな器の中にいるようなものだろう。結局煮つめてしまえば何も残らない。だが、この出雲のように、結界《けつかい》をもうけ、固有の色を持つことができれば、火に煽《あお》られることもなく、自分なりの人生を過ごせるのではないだろうか。
スサノオが出雲をひらいた。オオクニヌシがそれを治めた。コトシロヌシはそれを大和という火から守ろうとした。
大和……現在の東京につながるその名を考えたとき、佐伯の心にふと嫌悪が湧いた。それは、今も変わらずに人々のくらしにおし寄せてくる何かであったようだ。古代出雲の人々も、それを騒がしく、いらだたしく聞いたに違いない。欲望、権力、術策……とりこまねば次の時代へ生きのびられず、とりこめばおのれを腐らせてしまう何か……。
その何かに、自分は操《あやつ》られていた。今も操られている。そういう確信めいたものがあった。それを佐伯は肌からひきはがしたいと思った。札束がなぜ富なのか。なぜ友情はあったほうがいいのか。愛はなぜ貴いのか。正義はなぜ正しいのか。それらの問いが一度に湧いて来るようだった。どれかひとつにでも、まやかしがあり、疑問があれば、自分の体からひきはいで棄てなければならないと思った。何かに惑わされている。誰かに操られている……。
気がつくと、子供がひとり佐伯のテーブルへ来て、灰皿のそばに置いたマッチを指ではじいていた。顔を合わせると、悪たれて舌をだした。
「デブ……」
子供はいとも冷酷な目で佐伯をみつめ、短くそう言って駆けだして行った。
「佐伯さん、お電話です」
フロントのほうで、顔馴染みになった男が呼んでいた。佐伯は立ちあがり、大またで電話へ向かった。
「びっこの男の名は須佐《すさ》というんだ」
塩谷は弾《はず》んだ声で言った。
「須佐ですか」
佐伯はその名前を奇妙な感覚で口にした。須佐というのは出雲の代表的な古族だ。
「俺もまさかと思っていたよ。須佐という男は、どうやら梅川組でも別格扱いで、今度の麻薬の件では中心的な役割を果たしているらしい。キノさんたちがずっと追いまわしていたんだが……住まいが西宮《にしのみや》市のどこかにあるらしいという以外、あまりくわしいことは判っていないそうだ。組員ではなく、顧問か参謀といった人物なんだが、とにかくユリの件では指導者らしいんで、泳がせて尾行してたのさ。そいつが笠原隆志などと直接つながっているらしいんでね。だが、須佐がそんなトリックを使って出雲方面へまぎれこんだとなると、ちょっと面白くなってきたな。今度の件ははじめっから出雲がらみだったんだから……」
「塩谷さんは最初からそれに気づいていたんですか」
「出雲系の神社に関係しているのを発見したのがそもそものはじまりじゃないか。しかし出雲では梅川組も動いていなかったし……だがもう違うぞ。須佐は出雲のどこかに必ずかくれているはずだ。ユリの件もひょっとするとそこらが震源地かもしれない」
「僕はどうすればいいんです」
「君か……」
塩谷の声がしばらくとぎれた。
「別にどうということはないだろう。用心するにこしたことはないが、びっこの須佐のことなどは、いずれキノさんたちが始末するだろう。君はこっちの仕事をつづけてくれればいい」
素《そ》っ気ない言い方だった。佐伯はなんとなく不快な気分で電話を切った。そろそろこの仕事も打ち切る潮《しお》どきだと思った。
昼ごろ、佐伯は松江の商店街へ出て新しい服を買った。肥ってしまったので気に入った柄の服はたいていサイズが合わなかった。結局、かなりだぶだぶの、白いダクロンのスーツを着ることになった。ズボンがすそひろがりのパンタロンで、歩くたび目の下に白いものがちらついて気になったが、胴まわりがぴったりだったし、上着もゆったりとしていて楽だった。
その日の予定は、例の化粧品会社に接触するルートを作ることだった。この次からは塩谷の手があいて、彼自身が現地へやってこられるはずだった。化粧品会社の内情については、塩谷が出て来ないと先方を妙に警戒させてしまうことになりかねなかったので、今まで手つかずで置いてあったのだった。
佐伯は一時近くに松江大橋の近くの料理店で、放送局の男たちと落ち合った。東京で手配をし、そのルートで化粧品会社に接触して行く予定だった。相手は佐伯が扱いなれた職種の人物たちで、話は至ってかんたんに進んだ。彼らはその会社とは身内同然のつきあいをしているらしく、塩谷が小説に書くなら先方もよろこんで協力するはずだと言った。むしろ話題はそんなことより、塩谷をテレビかラジオに出演させる交渉にかたより、佐伯は面倒になって、言うとおり彼らの要求に応じておいた。
午後、まだだいぶ陽が高いのに時間があいて、佐伯はぶらぶらと町を歩きはじめた。塩谷の仕事で来るのもこれが最後かもしれないと思い、いつのまにか自分が出雲という土地に愛着を感じはじめていたのに気づいた。
佐伯は急に思いたってタクシーを拾い、神魂《かもす》神社まで走らせた。
松江近辺では、そのあたりがとりわけ気に入っていた。田の中を直線にのびる幅のせまい参道は、出雲大社や伊勢神宮の、あの大規模な区画が必要になる以前の、住民と神々がじかにつながっていた時代の神社をしのばせてくれた。付近の山々は丸くおだやかで、佐伯はそのあたりへ来るたびに、奈良南部の風景と共通したものを感じるのだった。
昇りにくい素朴な自然石の階段をあがって、しばらく神魂《かもす》神社の蝉《せみ》時雨《しぐれ》を堪能してから、佐伯は参道を引っ返し、途中で田んぼの中の道を左に折れて、八重垣神社への近道を歩きはじめた。小さな丘が土地をこまかく区切り、丘と丘の間にまた田んぼがひろがっていた。
八重垣神社の前には、バスやタクシーがとまっていた。はなやかな夏姿の娘たちが、その女宮《おんなみや》のつややかさを、いっそう引きたてているようだった。佐伯は拝殿の横から、まっすぐに裏の鏡池へ向かった。
そのとき、佐伯は誰かに呼ばれたような気がして、ふりかえった。小さな女の子がトコトコと駆け寄って来て、ハイ、と右手をつきだした。佐伯の体に痺《しび》れのようなものが走った。
ムラサキイトユリだった。
「誰がこれを……」
女の子はふり返って指をさした。鳥居のそばに、半袖シャツを着た男が立って佐伯のほうをみつめていた。
佐伯はムラサキイトユリを左手に持って、一歩一歩たしかめるようにそのほうへ近づいていった。
「よくお会いしますね」
男は柔らかい声で言った。佐伯は男の顔をみつめ、その目をムラサキイトユリに移した。
「なぜこのユリを僕に……」
「偶然ですよ。神魂神社にいらした時みかけたのです」
「君は須佐さんだろう」
相手は佐伯よりやや年嵩《としかさ》にみえた。
「名前まで、よくわかりましたね。警官たちに教《おそ》わりましたか」
「僕は以前君をみている。井田一郎と一緒に上野にいた」
男は歩きはじめた。
「百穴《ひやつけつ》へは行ったことがありますか」
「いや……」
佐伯は一緒に歩きだしながら答えた。
「ここから五分ほどです。古代の穴居《けつきよ》と古墳が同じ場所にあるのです。このあたりは、かつて出雲文化の中心でした。神の里ですよ」
「名古屋で入れかわったのは、君の配下かね」
「配下……」
須佐は呆れたように首をふった。
「わたしは暴力団じゃない。むしろ、そういうものから逃げだしてきたのです。あれはわずかな金でやとった、ただの失業者ですよ」
須佐は軽く笑ってみせ、
「それにしても、あれをあなたに見られたとは運がなかった。うまく行かないわけだ、何ごとも」
と言った。佐伯は、須佐が案外穏やかな人間であることを感じた。
「しかし、警察では君をムラサキイトユリの首魁《しゆかい》だと思っているらしい」
須佐は首をすくめた。その仕草が、妙に子供っぽかった。
「あの森の名を知っていますか」
須佐はたちどまり、八重垣神社の裏の、鏡池がある森を指さした。
「稲田姫《イナダヒメ》が八岐《ヤマタノ》大蛇《オロチ》の難を避けて籠《こも》っていた森だろう」
「佐草女《さくさめ》の森と言います」
須佐は佐伯が手にしていたムラサキイトユリを示して言った。
「佐草《さくさ》……」
「大和では佐韋《さい》と呼びました。佐草女《さくさめ》、つまり、イナダヒメは、その佐草でスサノオをとりこにし、ヤマタノオロチを退治する英雄に仕たてていったのでしょうね」
「スサノオは麻薬で……」
「そうですよ。その佐草《さくさ》をよくみてごらんなさい」
佐伯は言われるままにムラサキイトユリを眺めた。
「まだ勢いがいいから、根についていたときのままの形をしています。その花は手折るととてもしおれやすいのですよ」
紹子の家で一度、相模製薬の中野研究所のを一度、佐伯は見ていたが、そう言われれば、いま手にしているのはまるで違う植物のようにいきいきとし、細い葉は上むきに空をさしてとがり、花もうつむきではなく、ま上をみあげていた。
須佐は手をのばして、茎のいただきに一個だけついた、紫色の小さな花をつみとってしまった。
「スサノオの須佐氏は出雲をきりひらき、オオクニヌシの世へみちびきました。これがその須佐氏のシンボルだったのです。ところが、のちに物部《もののべ》氏が大和の尖兵《せんぺい》として出雲の国譲りの背景圧力となり、彼らがこのシンボルを奪っていったのです。判りませんか。この形を鉄で剣にこしらえあげたものを」
「まさか……石上《いそのかみ》神社の七支刀《しちしとう》の原型がこのユリだって言うのか」
左に三本、右に三本、さすまたに似た形で六本の支刀が枝わかれしていて、中央の茎にあたる部分と合わせると、七支刀。たしかに花をとり去ったムラサキイトユリにそっくりだった。
「フツノミタマです。強力なモノノフ集団を操った物部氏の秘密は、この佐草にあったのですよ。この球根が含むアルカロイドの中には、人間を勇敢にさせるものがあるのです。精神を鼓舞し、献身的にさせ、勇猛で忠誠無比な戦士を作りだしていたのですよ」
須佐はポケットから何かをとりだし、佐伯に渡した。榊原紹子と笠原隆志の写真だった。いつもショルダーバッグのファスナーがついたポケットに入れて持ち歩いていたのだ。
「特急の中で、あなたが顔を洗っているすきに……」
須佐は弁解するように言い、
「あなたがわたしに害のある人物でないことはすぐ判りました。笠原君のお友だちなのですね」
と、また歩きはじめた。
「笠原を知っているのか」
「彼はわたしにとっても友だちですよ」
「いまどこにいる」
須佐は首を左右に振った。
「寒川正信は製薬業者として、他社をだしぬいて、正規のルートで製品化しようとしたのです。もちろん、佐草の交配法や栽培法の秘密を彼に売ったのは檜前《ひのくま》氏で、それらを実際に研究したのは笠原君でした。麻薬なみの密売で莫大な利益をあげていた梅川組は、当然その動きを闇の中でもみ消そうとしました。檜前氏のほかにも、ずいぶん殺された人がいるようです。でも、梅川組が笠原君に手をだしたという話は聞いていません。佐草に関する限り、笠原君は最重要人物なのですからね。佐草の増産には彼の技術が不可欠なのです。わたしたちは、表面上は敵味方にわかれていましたが、佐草を愛する点では仲間でした。古代の佐草を現代の品種から復元した人がいると聞いて、わたしのほうから会いに行ったのです。こっそり二人で会って、佐草のことばかり話し合いました。笠原君は立派な植物学者でしたよ。わたしは梅川組が彼を迎え入れてくれればいいと思いました。梅川組にもそのつもりはあったようです。井田一郎が以前から彼を知っていて、仲間にひき入れる工作をはじめていたようでした。でも、行方《ゆくえ》がわからなくなりました。梅川組では、警察につかまったらしいと言っています。わたしはくわしいことは知りませんが……」
神の里と呼ばれる古代遺跡がみえていた。
「ここなら誰かが尾行していてもすぐわかるでしょう」
須佐が言うとおり、そのあたりは人影も少なく、八重垣神社へ来た観光客の一団が、何のおもしろみもない古代の穴居跡に飽きて、そうそうにひきあげて行くところだった。
「君は名古屋でまんまと尾行を撒《ま》いたはずじゃないか」
佐伯が言う。須佐はかたわらの乾いた草の上に腰をおろし、佐伯をみあげた。
「わたしのことではない。あなたのことですよ」
「僕が尾行されてる……」
佐伯は思わず来た道をふり返った。
「今は尾行者はいません。でも、特急の中にはいましたよ。気がつきませんでしたか」
「いや」
佐伯は自分が蒼ざめて行くのが判った。
「笠原君から、写真の女性のことを、ずいぶん聞かされました。あなたのお名前も聞いたはずなのですが、度忘れしてしまいましてね」
「佐伯という……」
「そうそう。佐伯さんでしたね。あなたは誰かに欺《だま》されていますよ」
「誰に」
「自分で考えてください。たとえばその佐草……多分、あなたは笠原さん式にムラサキイトユリと呼んでいるのでしょうが、その佐草というユリに関してだって、ずいぶん間違ったことを教えられているんじゃありませんか」
「麻薬源だろう」
「ほら、それがもう違っている」
須佐は憐れむように言った。佐伯もすぐそばの土手に腰をおろし、煙草をとりだした。
「麻薬じゃないのか」
「たしかに、鱗茎のアルカロイドの中からは、モルフィンもごくわずかですが検出できます。しかし、そんなごくわずかな量を言うんだったら、風邪薬にはコカインが入っているし、ほとんどの果物から青酸が抽出されますよ」
「じゃあ、なぜ警察が、対策本部まで特設して」
「そういう時代になったんですね。流れが変わったんですよ。以前はどんどん佐草からとれる薬を使わせていた。もちろん公表できる性質のものではありませんが、一流商社も大銀行も、造船会社も製鉄会社も……いや、ひょっとすると、ちっぽけな町のレストランだって、みんな使っていたらしいんです。日本が経済大国になれたのだって、この佐草のおかげだと言って言えなくはないんですよ」
「どういうことなんだ。少しも判らない」
「だからあなたは欺されているというんですよ」
須佐は冷酷な笑い方をし、一本ください、と言って佐伯のさしだした袋から煙草を抜きとった。
「わたしが、この国をGNP世界第二位にしたてあげたようなものだ。それなのにどうです。今じゃ煙草を買う金もない」
二人の煙が入りまじって、八雲たつ空へ消えていった。
「私は十何年か前、はたち代のはじめに、この出雲のある場所に咲き残っていた佐草をもって、都会へ出て行ったのです。若かったのですね。でも失敗しました。四十近くになって、こうして生まれ故郷へ逃げ帰ったのですから……」
須佐は自嘲しているようだった。草をちぎって投げた。草は風に流されて手もとへ戻りぎみに落ちた。
「あの粉は一種の調味料みたいなもんです。それに、さっきも言ったとおり、人間を勇敢に、忠実にさせるんです。わたしはそれを持ち、兵庫県の西宮の知合いをたよって出雲を出たのです。そのあたりには梅川組が勢力を張っていました。わたしは最初、西宮で中華そば屋をやったんですよ。佐草の粉を使えば、とびきり上等の味になるのを知っていたんです。ところが、まだ若かったわたしは、その秘密をペロリと喋ってしまったんですよ。梅川組にね。それからです。急にことが大きくなったのは……。わたしはあいつらに粉をとりあげられ、梅川組は若い連中にそれを用いて、どんどん勢力を伸ばしていきました。わたしの粉の効果がはっきりすると、連中はそれを商品化することに気づきました。まったく悪知恵のはたらく奴らです。いったいどこで使わせたと思います……」
「さあ」
佐伯は別の考えにとらわれていて、うわの空で首を傾けた。
「誰にでも売るというわけには行きません。暴力団が梅川組と同じ使い方をしたら、そんな薬はなかったと同じことになりますからね。梅川組は、そういう心配のない、まったく性質の違う人種の集まりである、企業に売りはじめたのです。それも大企業にね。勤勉になり、精神が集中でき、積極的で忠実な人間にする薬ですからね。粉を手に入れた経営者は、社員食堂や工員食堂などでそれを使いだしたのです。効果は歴然です。商社も、自動車会社も、銀行も、造船所も、製鉄所も、いっせいにそれを欲しがり、結局手に入れました。社員たちは猛然とはたらきはじめ、モーレツ社員の時代がはじまったのです」
「でも、どうやってその薬を社員たちに服《の》ませたんだい」
佐伯はおそるおそる尋ねた。
「さっきも言ったでしょう。ほんのわずかで充分なのです。料理するとき、調味料と同じように、パラパラとまぜてやるだけでいいんです。水の中へでもいいし、お茶にまぜてもかまいません。アルカロイドは水にすぐとけこんでしまいますからね。わたしにもまだ判らないのですが、きっとモルフィンか何かが他の成分とまざり合って、人間の味覚に快美感をもたらすのではないでしょうか。だから二重のプラスがあるわけですよ。どんなまずい料理を作っても、社員たちは何の不平も言わないのですからね」
「嘘だ……」
佐伯は立ちあがって叫んだ。
「嘘だ……」
空に向かって叫んだ。
その空に、紹子の横顔に似た雲がうかんでいた。
「嘘ではない」
須佐はたしなめるように言った。
「麻薬問題対策本部などというのを、今ごろになってから作ったじゃないですか。たしかに、佐草の供給源は梅川組ですよ。わたしが、古代からつたわる、その秘花を、鱗茎ごと渡してしまったのです。いや、一時は積極的に梅川組を指導して、佐草の適地を探しだし、大量に栽培させたのです。だが、梅川組の独占をゆるし、国民の眼から秘匿《ひとく》させてしまったのは、モーレツ社員を欲した連中だったのです。彼らは有効に活用し、現在の繁栄を築きました。だが、そういうものはいずれ拡散し、世間に知れてしまうものです。利用者の誰かが、それを自社製品に使いはじめました。インスタント食品に混入して、ひどい味をごまかしました。それがてはじめで、今では日本中が多かれ少なかれ、佐草の粉の味を知ってしまっているのです。ただ、大部分の人は、自分がその味を知っていることにまだ気づいていないのですよ。これはいずれ問題になります。大きな問題にね。企業が社員たちに、その薬を使っていたのですからね。味をよくするためだと言い張り、それ以上の薬効は知らなかったと言っても、誰が信用するものですか。猛烈に働いてきたのは事実です。交通ストでもむりして出勤したし、大した見返りも保証もないのに、会社に忠誠をつくしてきたのですからね。それが、させられたと判ったら……。政治家はあわてているのですよ。コキ使われた国民が腹をたてたとき、企業の側にいたくないのです。大あわてに対策本部を作り、自分たちの無実を証明しようとしているのです」
「本当に麻薬ではないのか……習慣性とか」
「習慣性はほとんどありません。ただ、味覚の点では、あれがなければ淋しいでしょう。何しろ、どんな下手な料理でも天下一品の珍味に思えますからね」
「判った」
佐伯は耳をふさぎたかった。
「で、副作用は」
すると須佐はひどくうしろめたそうな顔で、佐伯から視線をそらせた。
「大量にとれば、あなたのようになります」
「え……」
佐伯は自分の体をみまわした。
「肥《ふと》るのですよ」
須佐は早口で言った。
「俺は……」
佐伯は空を仰いだ。紹子に似た雲が、ぼんやりとかすみはじめた。
「俺をあやつったのか……」
佐伯はその雲に問いかけた。
「なぜ……なぜなんだ……」
泣きながら喚《わめ》いていた。涙が、とめどもなく、ぶざまに肥《こ》えふくらんだ頬の肉をつたわり、喚くたび、その肉がもりあがって動いた。
「榊原紹子というのは、わたしも知っています。そう悪い女じゃありませんよ。ちょっとした料理きちがいで……ああいう家庭に育たなければ、きっとしとやかな娘さんになっていたことでしょう。笠原君は彼女のところへ精製した佐草の粉を置いてきてしまったそうです」
「紹子は薬の効果をどの程度知らされているんだ。なぜ笠原は紹子のところへ戻らなくなったんだ」
「笠原君は、わたしたちとは別個に、あの古代のユリを復元することに成功したのです。檜前《ひのくま》善五郎氏が佐草の粉を手に入れて、それが古代のユリであることを見抜いたのです。だが、佐草の鱗茎はそうかんたんに手に入るしろものではなかった。檜前さんは笠原君を専門家にしたてあげ、研究させたのです」
「相模製薬にそれを売り渡そうとしたのか」
「いいや」
須佐は首をふった。
「製薬業界の上層部は粉のことを知っていました。ただ、梅川組の独占に手がだせなかったのです。だが、独自に開発すれば話は別です。寒川正信はユリの研究家でしたし、最初から檜前氏とはつながっていたようです」
佐伯はハンカチをとりだし、こわばった顔をぬぐった。
「笠原君は、檜前さんを撃った男をみて、すぐに榊原紹子が相手側に内通していたと知りました。彼にはショックだったのですね。井田……つまり、姜萬殖と榊原紹子がまだつながっていたことが」
「それで行かなくなったのか」
「それもあるでしょう。ただ、そこからさきは女と男の話になりますから、わたしには判りかねます。どちらにせよ、榊原紹子は粉の使いみちを知っていたようですね。女は多かれ少なかれ、みんなそうです。誠実に仕《つか》えていてもらいたいのです。守ってやる、保護してやるというのは男の側の言い分で、女からすれば、男に仕えさせるわけです。美をたたえさせ、崇拝させ……そうやって男を支配していたいのです」
須佐は顎をしゃくって八重垣神社のほうを示した。
「むかしむかし、あそこにもそういう女がいました。このあたりは、まだ松江市内で佐草町といいます。このあたりに生えていた佐草は、遠い昔にすっかり根だやしにされてしまったわけですが、名前だけが残ったのです。きっと、たたかいや祭りのたびに引き抜かれ、掘り返されてしまったのでしょう。わたしは以前、このあたりに佐草の花をとり戻させてやろうと、ちょっとした悪戯《いたずら》心を起こして、あの林の中に植えておいたのですよ。佐草が咲くのは初夏から今ごろにかけてです。かなりの数が咲いていましたよ」
須佐は淋しそうに笑った。
「奈良の率川《いさがわ》神社の三枝祭《さえくさのまつり》は、六月の十七日です。わたしが故郷を出たのは、ちょうどその季節で、紫色の花が咲き乱れていたものです……」
20 終 章
道路にそって、長いブロック塀が続いている。埃《ほこり》っぽい道路の端に、新聞社の旗をたてた車が一台とまっている。
ブロック塀の中は、メゾネット型式の住宅がずらりと並び、ちょっとした団地のようだった。色とりどりの洗濯物が家々の庭にゆれ、垣根の間の道を三輪車にのった子供たちが、歓声をあげて走りすぎて行った。
「おかしいじゃないですか。二百十何世帯かのこの社宅で、三十人ものご主人たちが、会社を長期欠勤しているんですよ」
新聞記者が社宅の入口の管理人の家の前で、声高《こわだか》に言っている。
「別に病気というわけじゃありません。お帰りください」
管理人はかたくなな表情で答えた。
「あなたの立場は判ります。でも、万一、伝染病だったらどうするんです」
「冗談じゃない。伝染病だなんて」
「いいですか。あなたの会社の社宅だけじゃないんですよ。あっちこっちの会社で、似たようなことが発生しているんです」
「そんなこと、会社から聞いていません」
「判らん人だな。あなたはなんでも会社から聞かなきゃいけないんですか。天気予報やニュースを聞くでしょう。それも会社のおしきせでなければ信用しないんですか」
「とにかく会社にことわって来てください。会社がいいと言ったら、休んでるご主人たちにも会わせますよ」
「会社は隠してる。会わせようとしないんだ。いいですか。睡《ねむ》ってばかりいる人や、肥りすぎで死んじまった人さえ出てるんですよ。けさの新聞をみたでしょう。全国的に発生してるんですよ。われわれがここのことを報道すれば、この社宅の人たちはまっさきに救われるかもしれないんですよ。公害病の疑いがあるんです。あなたの通せんぼで、ご主人たちばかりじゃない、奥さんたちや子供さんたちが苦しむことになるんですよ」
管理人の家のまわりに、二、三十人の主婦たちが集まりはじめていた。
「隠しておくことないわ。新聞社の人たちを入れてあげてよ」
一人が黄色い声で叫んだ。
「あんな働き者だった主人が、もうふた月も寝てばかりいるんです」
「どういう症状ですか」
新聞記者とカメラマンは、管理人の前を離れ、遠まきにしている主婦たちに近寄って行った。
「知りませんよ。あとで会社から叱られても」
管理人は蒼《あお》い顔で言った。
「ただ寝てるんです。怠け者になっちゃったんです。会社へも行く気がなくて、ぶくぶく肥って……」
「むくみよ、きっと。うちもそうなんだわ。会社はそのわけ知ってるらしいの。だって、お休みしても、ずっとお給料はいつもどおりくれてるんですものね」
「あのことだって言わなくては……言っちゃうわよ」
一人の主婦が仲間をみまわし、厳粛な表情で言った。
「どこのお宅のご主人も、みんなインポか、それに近い状態になっちゃってるのよ」
一瞬同意の沈黙がひろがり、そのあと口々に叫んだ。
「来てよ。いいわ、写真とっても。主人さえもとどおりになれば、会社なんかどうなったってかまわないわ……」
主婦の集団は記者たちを押しつつむように、社宅の道を奥へ進みはじめた。管理人は家の中へ駆けこんだ。電話で本社へ急を知らせるつもりだろう。
塩谷の家の応接間の換気用の高窓が、秋のおわりの風をうけて、カタカタと音をたてた。
「それにしても、なぜ佐伯まで消えちまったんだ。梅川組が佐伯を狙うわけはない。そんな必要はないはずなんだ。あの男だって、ムラサキイトユリの件で身を隠す必要はまったくないのに」
キノさんは囲炉裏《いろり》の炭火をみながら、いらいらしたように膝をゆすっていた。
「佐伯が名古屋駅の件を知らせてきてくれたんで、尾行に使ってた男を県警に連絡に行かせた隙に、消えられてしまった。あれが失敗だった」
「よく考えると、あいつの気持も判るような気がする。俺は責任を感じるよ」
「どうしてあんたが」
「あいつを出雲へやったのは俺だ。俺は出雲がムラサキイトユリの発生地だと思っていたんだ。笠原の顔とムラサキイトユリの秘密の両方を知っているあいつが、出雲をあちこちうろついていれば、きっと何かを嗅ぎつけてくれるだろうと思ったのさ。だが、そのアイデアが大げさになって、あんたがたの尾行がついてしまった。名古屋駅の件はお粗末だよ。佐伯についた尾行者が須佐のことを知っていれば、かんたんに事は納まったんだ。お役所仕事の典型だな」
「でも、別にあんたが責任を感ずることはないさ」
「あいつは尾行に気づいたのだろう。なぜだか考えたろうな。俺に操られたと思ったに違いないよ。そう言われればたしかにそうだから、弁解のしようがない。あの当時のあいつの立場からすれば、厭世《えんせい》的になっても無理はないだろう」
「しかし、奴だって中毒患者だし……何か俺たちにかくしていたのさ。肥るってことがもう少し早く判っていたらなあ。奴から何か聞きだせるんだったのに。そうでしょうが」
「あの肥りようは少しおかしいと思ったな。元気でいてくれればいいが」
「政府もあれが冬眠薬だと判ってからは必死ですよ。患者が出たらどうにもなりませんからね。あれを使ってない企業はなかったんですから……」
「モルフィンに気をとられて、レセルピンのほうを軽視しすぎたからだ。まったく自然という奴は妙なことをするもんだ。麻酔剤、鎮静剤、昂奮剤をごっちゃにまぜてひとつの植物に与えるんだからな。緊張、勤勉、誠実……それがすぎると、無感動、弛緩《しかん》、倦怠《けんたい》。日本中のほとんどの人間が、その前半の効果を体験したんだ。もし薬効が潜在していて、後半の症状が現われてきたらどうなると思うね。みんな植物的な人間になりかねないぜ」
「大した量を与えられたわけじゃありません。いくらかおとなしくなるだけですよ。むしろ公安関係はそれを期待してるようです」
キノさんは笑った。
やがて客が帰り、塩谷はひとりになった。彼は書斎に戻り、原稿用紙に向かった。それは佐伯が取材にかけまわっていた、あの作品だった。
相模製薬のエリート社員である橋詰が社長室のソファーにすわっていた。
ただし、その社長室は相模製薬のではなく、別の一流製薬会社の社長室だった。
「精力増強剤の売上が、各社とも爆発的に伸びている。これも、あの梅川組のユリの粉のおかげだな」
「例の新薬は、業界の共同開発の形になるそうですね」
「梅川組のような暴力団から供給されたものを製品化したのでは、国際的にも具合が悪いからな」
社長はそう言って笑った。
「みなさんのご協力でわが社もぶじに危機をのりこえることができまして、社長からくれぐれもお礼を申しあげるよう、申しつかっております」
「いや、相模さんのおかげで、こっちこそカセが外れて助かったよ。今後は天下晴れてあの薬を売らせていただける。寒川氏には悪いが、あのユリの交配法は、業界にとって大いにプラスになった。冬眠療法には決定的な役割りを果たしてくれるからな。もちろん、精神の緊張効果も大いに有益だ。軍事面でも教育面でも、今後どれほど業界に利益をもたらしてくれるか、見当もつかんほどだ。まあ、こういう新薬を一社が独占するというのが、どだいむりな話なので、寒川氏はその点で少し焦《あせ》りすぎたようだな」
二人は顔を見合わせた。
日本の製薬業界が、類のない新薬をもって世界に君臨する日は、もうまぢかに迫っているようだった。
梅川組の最高幹部が三人、ある人物の前に並んですわっている。
「それじゃ、わたしらの薬にはもう用はないと言うのですか」
一人がこわばった表情で言った。
「さんざん利用するだけしておきながら、今になって取締りなんていうのは、少し虫がよすぎやしませんか」
男は黙って自分の手の甲をみつめている。
「あの薬で、日本中のサラリーマンを働かせたのは誰なんです。それが国のためになると言って、わたしらに百姓のまねをさせたのは誰なんです」
男は顔をあげ、ゆっくりと言った。
「それだけの報酬はうけとったはずだろう」
「ええ、たしかに。しかし、その金でわたしら、関東の神社の土地まで買いひろげていた最中です。それを今さら、非合法だ、やめろ、などと言われても」
「仕方なかろう。誰にもあの薬の副作用は判らなかったのだ。肥って睡ってしまうとはな」
「その責任がこちらにあるのですか」
「あるな。商品の毒は売手の責任だ」
「そんな……わたしら薬屋じゃない。医者でもない。もっと作れ、もっと売れと言ったあなたがたの責任はどうなるのです」
「愚か者め」
男は吐きすてるように言った。
「薬屋でなく、医者でない者が薬を作って売れば、それだけでも罪だ」
「じゃあなぜ……」
「判らんか」
男は急に柔和な笑顔になり、自分の坊主頭を撫《な》ぜた。
「君らはそのための人間だ。世の中、合法ばかりでは成りたって行かん。毒だか薬だか判らんが、それを服《の》めば戦争に勝てると判っていたら、誰かがみんなにそれを服ませねばならん。医者や学者の研究で、それが毒かどうか判るまで待ってはおれんのだ。だが、服ませることを国がやったらどうなる。万一、毒だと判ったとき、国そのものが責任をとらねばならん。責任をとったために、国はほろびるかもしれんのだぞ。……そういうときのために、社会は君らの存在を必要なものとして認めているのだ。暴力団と呼ばれようと、やくざとそしられようと、わしには判っている。君たちはこの日本という国にとって必要なのだ。そして、その必要なことを、君らはこの十年間、ちゃんとやって来てくれたのだ。あのユリは、その十年間、麻薬なみの値をつけられていた。わしらを通じて企業がそれを買い、国はそれをみてみぬふりをした。企業は国民に与え、そのために日本という国は、この十年間、戦争に勝ちつづけて来ただろうが。経済戦争を勝ち抜いて、世界の大国の仲間入りを果たしたのだ。本当に罰せられるべきなのは、あれをカレーやラーメンやジュースに入れて、本来の目的から外れた使い方をした連中だ。あれは、日本のために働く男たちだけに与えておればよかったのだ。……だが、とにかくもうすべては終わった。あのユリは、これから正規のルートで生産され、販売されねばならない。君らの仕事は終わったのだよ。君たちのほうを打ちきるについては、それ相当なことを考えている。今の取締りだって、そう深入りはさせんさ。形ばかりのことだ。とにかくもうユリには手をださず、今までどおりやって行くことだな。そのうち、また君らが必要な時が来る」
三人は顔を見合わせて黙りこんだ。
その男が住む宏大な屋敷の一隅に、痩《や》せこけた笠原隆志《かさはらたかし》が監禁されていた。暗い、窓に鉄格子がはまった部屋で、笠原隆志はうつろな瞳で壁をみつめていた。
御徒町《おかちまち》の事件の直後、参考人として警察の取調べをうけ、そのまま暗い部屋に連れこまれたのだった。
「紹子……」
笠原はかすかにつぶやいている。肥る薬を作りだした男が、知りすぎたという一事で、皮肉にも痩せおとろえているのだ。
塩谷の応接間の高窓が、またカタカタと鳴り、別な客がそれを聞いていた。
「君らの奇病情報と、このムラサキイトユリの件がくっついた時には、本当にびっくりしたぜ」
塩谷は二人のジャーナリストを相手に、愉快そうに言った。
「梅川組が基地の米兵に流した。あれは米兵の間でアッと言う間にひろまり、勇敢にたたかえるようになった。しかし、それがやがて厭戦《えんせん》気分をかもしだしてくれたとはな……」
塩谷は笑いこけた。
「日本はベトナム和平に貢献したわけですよ」
「で、政府側の今後の動きはどうなるんですか」
「日本中を薬でモーレツ社員にした……もちろん国民もそのことで利益を受けはした。しかし、微量に摂取《せつしゆ》しただけでも、体質によってはひどく肥ってしまう。ことに育ちざかりの子供はね。……肥満児がふえ、若いのに中年ぶとりした連中がやたらに目立つようになったじゃないか。肥っただけならいい。単なる美醜の問題だからな。でも、君らの方で調べてる、例の睡り病がある。公害だよ、これは。いずれ近いうちに問題になる。俺の情報源になっている例の木下とか須藤とかいう警官たちは、企業が梅川組の薬を使っていたことを、いずれつきとめるだろう。だが、現に木下という警部などはくわしく知らされていない。須藤級が、もっと上層部の意を体して、木下たちの調査結果を無難なものに変えて行くにちがいない。……そうはさせないのが俺たちの仕事だ。俺は木下をつかんでいる。これからは、君らと俺が接触していることを、木下たちに勘づかれないようにしてくれ。適当な時期が来たら、俺も雑誌で徹底的に素っぱぬいてやる……やってやるぞ」
塩谷は鋭い目で二人の客を交互にみた。佐伯のことはすっかり忘れ去っているようだった。
白い家具にかこまれた部屋の中で、紹子が窓の外を見ていた。レースのカーテンを細目にあけ、じっと下の道をみつめている。
青いスーツを着た男がマンションから出ていき、道ばたに停めてあったスポーツカーのドアにキーをさしこんでいた。ドアをあけ、のりこむ前に、紹子がのぞいている窓のあたりを、ふりかえって眺めた。
男は車の中に消え、やがて走り去った。紹子は見えなくなるまで、去って行く車を目で追っていた。
やがてため息をつき、小さく鋭い舌うちをした。大儀そうにテーブルへ行き、灰皿と紅茶のカップを銀の盆にのせると、キッチンへ持っていった。灰皿とカップを洗い、丁寧に拭いて棚に戻した。
その棚の隅に、小さな茶色の瓶があった。紹子は茶色の小瓶をとりあげ、灯《あか》りにすかしてみた。白い粉末が、三分の一ほどに減っていた。その薬の効果は笠原に教えられていた。それをうまく使えば、もうとっくに結婚できているはずだった。
「関係者じゃダメか……」
紹子は棚に茶色の小瓶を戻しながら言った。佐伯に使ってしまった分が惜しかった。笠原と同じように、佐伯ももう帰ってはこないだろうと思った。
今度の男には、もっとうまくやらなければいけなかった。急ぎすぎて、佐伯のようにブクブク肥られてはかなわなかった。佐伯の凄い肥りようを思いだし、紹子はクスリと独り笑いした。ハンサムで生活力のある男……佐伯は紹子のそんな望みに、一応あてはまっていた。申し分なく仕えてくれて、あと少しで結婚を申し込ませることができたはずだった。しかし、あの肥りようは気に入らなかった。
「あの薬を服めば肥れるんだけど、ブクブクになっちゃ困るし……」
紹子はつぶやき、大きな三面鏡の前へ立って、部屋着の前をはだけはじめた。ゴムのラッパのような道具をとりだし、胸をはだけて右の乳房にあてた。骨ばった胸の、貧弱な、しなびたような乳房だった。
池袋のトルコで絶妙のテクニックをうたわれるようになったのは、そのみすぼらしいバストのせいだった。仲間への競争心が、魅力のない肉体をおぎなう手段として、口技、舌技、手技、そのほかありとあらゆる技巧を学ばせたのだった。
紹子はいま器具を使って、乳房を少しでもゆたかにしようと熱中している。そのいたましいほど貧弱な裸の胸をさらしている紹子の姿は、白い家具にかこまれた中で、さむざむとしていた。窓の外にも、秋の終わりのひんやりとした風が吹いていた。
出雲の空を、また雲が掩《おお》っている。
冷たい秋風に、山の樹々が鳴った。遠くで鴉《からす》が啼《な》き、ほかに物音はない。
小さな朽ちかけた社《やしろ》があり、白い着物に水色の袴《はかま》をはいた二人の兄弟が、白木の三方《さんぼう》に何かをのせて、おごそかに裏山へ運んで行くところだった。
兄が言った。
「お前もだいぶ板についてきたぞ」
「もう外の社会はこりごりですよ」
弟はびっこをひいていた。
スサノオの裔《すえ》と自称するこの須佐一家には、ときどきその弟のような、右足のびっこが生まれるのだった。オオクニヌシの大黒に対するコトシロヌシの恵比寿《えびす》……美保神社の恵比寿、すなわちコトシロヌシには、跛《ちんば》であったという俗説が残されている。
兄弟は神社の真裏にあたる石室の重い石の扉をあけ、置いてあった手燭《てしよく》に火をいれて、暗い階段を昇りはじめた。階段の石は中央がみごとに深く踏みへこまされており、どこからか水のしたたり落ちる音が響いてきていた。
昇りきった所が四角い石室になっていて、そこに石棺が置いてあった。
兄弟は慣れた仕草で手早く礼拝《らいはい》をすませ、兄が三方にのせた御饌《みけ》を石棺に運び、白くねばつくものを木のへらのような道具ですくいとると、そっと石棺の中へさしいれた。
棺の中に、人がいた。
その人は睡《ねむ》っていた。兄が唇をあけて白くねばつく食物を流しこんでやった。睡ったまま、その人は飲みくだし、また二千年の睡りに戻った。
いつの間にか、もう一人の男が棺をのぞきこみ、その人が食物を飲みくだすのを眺めていた。
「コトシロヌシ……」
つぶやくようにその人の名を呼んだ男は、まるまると肥えふとり、睡そうな目をした佐伯惇一だった。
「さあ、君も一緒に出よう。もう何日もここに籠《こも》りっぱなしじゃないか」
兄は叱るように言い、弟をうながして戻りはじめた。佐伯は重い体を須佐に支えられて、ゆっくり、ゆっくりと石の階段をおりて行った。
佐草の根は、けものの冬眠の薬だった。冬眠を前にして、けものたちは佐草の根を噛み、冬ごもりの仕度にはげんだのだった。
佐草の根は、その間に体力をたくわえさせ、けものたちを肥らせた。冬がくると、根のはたらきでけものたちの動きはにぶくなり、自律神経を遮断されて、冬眠状態に入るのだった。
その秘花を、須佐氏が用い、物部氏が用いた。そしてついに、秘花は掘りつくされて絶滅した。いま、冬の山に冬眠しないけものたちがいる。そのむかし、適度に佐草を噛んで冬眠していたある種のけものたちは、佐草を失って冬眠の習性を失ったのだ。
あるとき、一人の英雄が立って民衆のためにたたかった。しかし、英雄は民衆に裏切られ、失意のあまり佐草の根を大量に噛んで世をすてた。コトシロヌシがその人だった。
コトシロヌシは睡りつづけた。自分を裏切った者どもが、のちの世でどのように生きているか、長い睡りの末によみがえって、正邪の真実を知ろうとしたのだ。
コトシロヌシは神となり、一族の者が代々神官としてその睡りをたすけつづけた。出雲大社の火が永遠に燃やしつがれていくように、コトシロヌシのいのちは、永遠に睡りつづけさせられたのだ。
佐伯の姿に昔日《せきじつ》のおもかげを求めても、もうどこにも広告《アド》マンの頃のものはなかった。大量に投薬されて、冬眠寸前だった。
「まだ少しは運動したほうがいいだろう」
須佐は外へ出ると石室の扉を閉めながら言った。
「佐草畑へでも行ってこいよ」
佐伯はけだるげに歩きだした。須佐にたのんでこの宮の下男に似た仕事をもらい、あれ以来肥りつづける自分を、ひとごとのように見守っていたのだ。
やがて睡れる。
それだけが希望だった。佐伯はのろのろと納屋《なや》へ入り佐草畑の越冬のために使う、肥料の入った大きな袋をかついで出てきた。
夏に買った白い服のままだった。畑仕事にパンタロンのすそが邪魔で、すそを細紐でしばってあった。
秋風の中を、佐伯はさらに山奥へ向かっている。
すそを紐でしばり、ゆったりとした白い服を着て、大きな袋を背負って歩く佐伯の姿は、八雲たつ出雲の道で、むかしむかし、人々がよく見かけた人物に似ていた。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。
(角川書店編集部)
角川文庫『英雄伝説』昭和54年5月30日初版発行
昭和54年7月10日再版発行