角川文庫
石の血脈
[#地から2字上げ]半村良
目 次
第一章 アトランティスの壺
第二章 内腿の指跡
第三章 赤い酒場
第四章 メガリスの原郷
第五章 大和朝廷巨石信仰説
第六章 甘い吐息
第七章 不滅計画
第八章 地獄の番犬
第九章 地下のピラミッド
第十章 灰色の世界
第十一章 |狼 瘡《エリテマトーデス》
第十二章 蜜月の|狂宴《サバト》
第十三章 サン・ジェルマン伯爵
第十四章 血の提供者
第十五章 吸血鬼伝
第十六章 男漁りのライセンス
第十七章 |偶像破壊《イコノクラスム》
第一章 アトランティスの壺
1
何年もの間|喧《やか》ましく|咆《ほう》|哮《こう》し続け、鋼鉄の毒気を吐き散して来た巨大な怪物が、|或《あ》る日突然鳴りをひそめ、やがて幾日もかかって鋼鉄の臓物が運び出されると、そのあとは滅多に人の出入りもなく、鉄扉はとざされたまま|錆《さ》びついてしまった。
その工場がなぜ閉鎖されたか、泥棒は知らなかった。その頃彼は刑務所にいたからだ。ただ、出所してだいぶたってから、以前勤めていた品川の工場が廃工場になっていることを知り、気まぐれのようにそこへもぐり込んで見たまでの事だった。
出所したてで、そう派手なことをやらかす気は起らなかったが、廃工場へ入って見て、これはいけると思った。何ひとつ残っていない|筈《はず》の工場が、実は宝の山だったからだ。何もかも運び出されたあとの怪物の胎内に、その神経だけが手つかずで残されていた。つまり、窃盗常習者の眼が、工場内に張りめぐらされたのべ何キロメートルになるか見当もつかない程の大量の電線を見のがすはずがなかったというわけなのだ。彼はその被覆の中身が、いま品薄になっている銅であることを知っていた。
週に一度か二度、ゴム底の靴をはいてその男は廃工場へしのび込んだ。塀をのり越えるのはわけもないことで、明け方うす暗い内に工場へ入ると、その日一日男は出て来なかった。もし忍び込むところをつかまったとすれば、それはかなりユーモラスな場景を作り出しただろう。何しろ弁当持ちで、おまけにピクニック用の肩ひものついたポットに熱い茶まで用意していたのだ。
しかし表門の|脇《わき》の小さな建物に住み込んでいる管理人は、結局一度もその銅線泥棒に気づかなかった。誰かれの見境いなく|吠《ほ》えたてるスピッツも、|所《しょ》|詮《せん》犬としては役たたずで、飼主の管理人から百メートルと離れることはなく、泥棒はずっと遠くの巨大な空洞の中で、のんびりと自分の仕事をしていた。
その建物の左半分は間口三十メートル、奥行き百二十メートルもあり、設備をとり払われたあとでは、文字どおり空洞のように見えた。天井まで四階分の高さがあり、屋根にあけられた四角い明りとりの窓から、十本ほどの太い光りの柱が空洞の内部へ斜めにさし込んでいた。コンクリートの床は油がしみ込んでどこもかしこも平均して黒ずみ、ところどころに、かつて巨大な機械が据えられていたことを示す、頑丈なコンクリートの基礎が盛りあがっていた。
右半分は四層になったふつうの作業場で、各階の廊下がデッキのように空洞側へ張り出していた。至るところに鉄骨や鉄板が肌をむき出していて、うっかりさわるとペンキや|錆《さび》がポロポロと|剥《は》げ落ちた。
突き当りの壁の向う側はちょっとした空地で、どこの誰がどういう思惑でそんなことをしているのか知らないが、この工場が出来るずっと以前から、雑草が伸び放題になっていた。建物の両側は高いコンクリートの塀が続いており、空地と塀の間に幅二メートル程の溝があった。昔は泥水が流れていたのだろうが、今はどこかでその流れも切れたらしく、底は乾きあがって白くひび割れている。
銅線泥棒はかなり頭を使っていた。昼の間中、根気よく電線を外し、丹念に皮を|剥《む》いて裸にしてしまう。夕方その作業が終ると突き当りの壁にある窓を少しあけて細いひもを外の地面へたらし、その端に銅線をしっかり結ぶと、陽の落ちるのを待って塀の外へ帰って行く。夜中に空地へ舞い戻り、溝の中にしゃがみ込んでひもをたぐると、工場の中から銅線が出て来るという仕組みだ。
その男は作業場の一階から仕事をはじめた。根こそぎ電線を始末して二階へ昇り、この三階へ来るのに丁度ひと月かかった。毎日やれば一週間で済んだだろうが、そんな勤め同様のことをする気は毛頭なかった。
2
泥棒は週に一度か二度仕事をした。たいていは、金曜日で時々月曜日も働いた。理由は簡単で、土曜日と日曜日には競馬があるからだった。月曜日に廃工場へしのび込むのは、その週末彼が不運であった証拠だし、金曜日にやって来るのは週末の幸運をあてにしているからだった。
どっちにしても、その男の人生はごくささやかな事柄で組みたてられていた。四度パクられ、三度ムショ入りした。刑期は長くて二年、うまく行った盗みを含めて、一回の収穫が二十万円をこえたことは一度もない。競馬に入れあげると言ったところで、買うのは二百円券にきまっていて、特券売場へ近よる気など起したこともない。盗みをしないときは日やとい稼業で、金が入ればちびちびと食いつないでドヤにくすぶっている。
だから世の中の大きな動きには全く無縁だった。つい最近、この廃工場の管理人が|今《いま》|迄《まで》とは別なところから給料をもらうようになった事など知る|筈《はず》もなかったし、その管理人が新しい命令系統から、きのうの木曜日にどんな指示を受けたかも知らなかった。だから午後三時近くに、突然大きな音をたてて建物の扉が左右に押しあけられた時は、心臓が止るほど驚いた。
四つん|這《ば》いになってデッキのように張り出した廊下から下をのぞくと、夏のさかりの午後の陽ざしがいっぱいにさし込んだガラン洞の工場の中へ、自動車が二台エンジンをふかせながら入って来た。一台は中くらいの箱型トラックで、もう一台は外国製のステーションワゴンだった。泥棒は自分の心臓の音を聞きながら、目を皿のようにして|覗《のぞ》いていた。
車が停るとバラバラと男たちが出て来て、機敏に散って行った。学校の運動場などでよく見かける白い粉のつまった手押車が持ち出され、横に一本短かく線を引くと、別な男が白いひもを引っぱって真っすぐ突き当りの壁へ向って駆け出した。おそろしく長いひもが伸び切ると、その張られたひもについて白い粉の線が引かれた。
少くとも警官でないことはたしかだった。それは泥棒の直感で判った。しかし、男達がただ者でないことも直感した。彼が警官の次に苦手とする「組」の連中によく似ていたのだ。弱いけもののように、その男は臭いで敵を|嗅《か》ぎわけられるのだった。
と言って、「組」の連中とまるっきり同じではなかった。もっとずっと高級な男達だ。サラリーマンのようだ……泥棒は頭の中でそうつぶやいていた。
やがて男達は見たこともない奇妙な機械をかつぎ出した。黒いコードがトラックからその機械につながっていて、トラックは低いエンジンの音を|唸《うな》らせていた。すぐにステーションワゴンの中から白い髪の、身なりの良い老人が現われ、同時にトラックのうしろの扉からも白い頭の人物がとび出した。
白い頭……はじめはよく判らなかったが、その人物はスポーツ選手が着るような体にぴったりした青のトレーニングパンツに、同じ色のシャツを着て、しかも首から上は包帯をぐるぐる巻きにして、人相や年|恰《かっ》|好《こう》などまるで判らなくしているのに気づいた。
泥棒は|唾《つば》をのんだ。ひどく秘密めいた|雰《ふん》|囲《い》|気《き》がその場を支配していた。包帯の男は白髪の老人の前に直立して何か命令を受けると、ゆっくりと奥へ向って歩いて行った。そして向う側の横線で立ち止ると、くるりと、まるで兵隊のように行儀よく向き直り、横線のうしろに体を沈めた。
天井の明りとりの窓からさし込む光が、その異様な男の姿を浮びあがらせていた。包帯の男はまさしくスタート位置についたランナーの姿勢をとっていたのだ。そしてコードのついた機械の筒先きが、そのランナーをとらえていた。泥棒にはその機械が何で、これから何が始るか見当もつかなかった。
3
ブルーのトレーニングシャツに身を固め、首から上を包帯で隠したそのランナーは、きっちり百メートルの長さの白線の上を、向う側の老人の手が振りおろされるのを合図に疾走した。小型のVTRカメラが左から右に首を振り、その疾走ぶりを捉えた。中腰にかまえた白髪の老人が、ゴールインの瞬間小さく右手を振り、ストップウオッチを押した。老人の掌がひらかれると、時計の針は六・二秒をさしていた。包帯の男はゆっくりスタート位置へ戻り、すぐにまた六・二秒の世界記録を実演した。たてつづけに五回、その包帯の男は疾走し、どの回も六・二秒で百メートルを駆け抜けた。誰も言葉を発せず、老人だけが、もう一度、もう一度と包帯の男に向ってくり返すだけだった。
包帯の男はどことなく人間ばなれのしたぎごちない身のこなし方で、しかも連続五回の疾走に息も切らさなかった。
「今にもう少し早くなるかも知れん」
五回目の疾走のあと、老人はそういうと合図をしてVTRのカメラをトラックに積み込ませた。そして、デッキのように張り出した廊下の真下に置いてあった古い木箱を見つけると、そこへ包帯の男を連れて行き、自分はその木箱に腰掛け、突っ張ったように直立している相手の左手をとって、慣れた様子で脈をはかった。
三階で息をひそめていた泥棒は、たった今自分で見た包帯のランナーが、奇跡的な世界記録を樹立した事にまるで気づいていなかった。男達が自分を捕えに来たのではないこと、もうすぐ帰りそうなこと、そして結局自分は安全だったことに満足してやっと緊張を解いた。
泥棒は腹這いになったまま体の向きを変え、作業場の中の自分のやりかけの仕事に戻ろうとした。もっと安全になってから戻れば良かったのだろうが、危機から解放された|安《あん》|堵《ど》感が、その男にしては珍らしい勤労意欲になったらしかった。そして、そのささやかな勤労意欲が、すべてにささやかなその男の人生を終りにみちびいたのだった。廊下に置いた空の弁当箱を、ゴム底の安靴が男達のいるコンクリートの床に突き落したのだ。アルミニュームの弁当箱は三、四度くるくると回転した挙句、床に当って音をたてた。ただの音ではなかった。ガラン洞の、この上もなくよくこだまする建物の中で、地獄の鐘のようにけたたましく鳴った。
鳴ったあと、一瞬の静寂があった。男達はギョッとした表情で上をみつめ、老人は張り出した廊下の下の木箱に|坐《すわ》ったまま、表情をこわばらせた。
「誰かいる……」
老人が言うと包帯の男はかすかに|顎《あご》を引いて見せたようだった。
「殺せ」
低い声で言われた包帯の男は、うっそりと鉄の階段に向って歩きかけた。
「待て、これもテストだ。そのつもりで出来るだけ早く戻って来い」
すると包帯の男の腰がすっと沈み、次の瞬間驚くべき|敏捷《びんしょう》さで老人の前から消えた。彼は階段へ走ったのではなく、その位置から張り出した二階の手すりへ飛びついたのだった。老人の左手がその動きに少し遅れてストップウオッチを押した。
泥棒は夢中だった。一度に頭へ血がのぼり、うろたえ切って見境いもなく廊下を走った。階段の鉄板を鳴らして四階へ駆けあがった。だが泥棒が四階の廊下で、それ以上どこへも行き先きがないのに気づいた時、白い頭が手すりの外からニュッと浮き上り、青い全身が音もなくその前へ立ちふさがった。泥棒は悲鳴をあげた。その悲鳴の終らぬ内、包帯の男は青い影のようにさっと動き、鋭い手刀を泥棒の額のまん中へ振りおろした。|死《し》|骸《がい》が老人の前へかつぎおろされるまでに一分五秒かかった。
4
交差点の信号が変ると、人波がどっと横断歩道へ押し出した。七階の窓から見おろすと、それは運動会の騎馬戦の試合開始のように思えた。両軍の距離は見るまにつまり、車道の中央で激突するのだ。そのあとは機織りに似ている。収拾がつかなくなるように見えて、その実お互いにうまくすり抜けてしまう。
横断歩道の交差点の内側には左折車が人波の切れるのを待って鼻づらを並べており、外側にはたった今交差点を渡り終えた車の最後尾がまごまごしている。道路は次の交差点まで車でいっぱいなのだ。
トラックがいる、バスがいる。タクシーが何台もつながっている。ありとあらゆる種類の車が一寸きざみに動いていて、その中には外国製のステーションワゴンや箱型トラックもいた。
虎の門|界《かい》|隈《わい》はいつもこの混雑だ。首都圏住宅公社の竹中開発本部長は、七階にある自分のオフィスの窓からその混雑を見おろしながら、身動きならない運転手達以上にいらだっていた。
たった今、黒い背広の上着のポケットに右手を突っこんで、客が一人勝ち誇ったように帰って行ったところだった。
その客は竹中本部長の前で、そんなに勝ち誇った態度を示す必要はまるでなかった。その客が結局はただの走り使いであり、自分の意志を伝えに開発本部を訪れたのでないことは誰もが知っていた。
|陣《じん》|笠《がさ》め……窓の外を眺めながら竹中本部長は舌打ちした。その計画は六年前にスタートした、多摩ニュータウンと並行して進めなければどうにもならぬ開発計画だったのだ。いやしくも首都圏の住宅問題を論ずるような者なら、それは自明の理でもある筈だったが、今の客が開発計画の打切りを伝えに来たのだった。客は非公式の形でそれを伝えた。非公式……それが手順を踏んだ公式発表よりも権力者の意向をずっと強烈に伝達する形式であることを、竹中本部長は官僚の一員として充分すぎる程承知していた。
この二年間、開発本部長として彼は隠微な圧力と闘い続けて来た。計画が正論であるだけに、反対論者は素顔をあらわさず、政、官界の漆黒のホリゾントに融け込んで、その意志だけが彼と彼のスタッフを悩ませた。
逆に計画の支持者達は無策と言える程明るい場所で腕を組み合っていた。政治能力を持たない建設省の技術グループや計画予定地の地主集団、地元県会議員、それに有象無象の土建業者……。
勿論竹中開発本部長に私心がなかったわけではない。その地区は彼の生地であり、将来政界入りをする時には、そこより他に選挙区は考えられない土地だった。しかし、だからと言ってその目的だけで開発計画を推進したのではない。理想論と彼の将来がたまたま重なっただけであり、彼自身がその土地を知り抜いていればこそ、愛情をもって仕事に当ることができたのだと思っている。
「竹中さん、何もこれですべてが終りになったというわけでもないでしょうが」
部屋の隅でさっきから煙草をふかし続けていた男がそう言って気まずい沈黙を破った。あの男が来る事を知って駆けつけた、神奈川県の県会議員だった。
竹中本部長はくるりと向き直り、憤りを吐き出すように言った。
「駄目さ。あんた、これを一体なんだと思っているんだ。大臣程度ならどうにでもなる。大臣なら変るまで寝て待ってもいい。しかし反対している連中は死ぬ|迄《まで》オリない連中だ。この日本という国を根こそぎ握っている連中がこの部屋へあの陣笠を使いに寄越したんだ。理由は|俺《おれ》にも判らん。理由が判らんだけに根が深いんだ。そうだろう。とにかく守屋地区を連中の大事な資金源である東日グループが欲しがっているのはたしかなんだ」
5
その国会議員に、面と向って陣笠と呼ぶ者は一人もいなかった。だが、かげで彼の|噂《うわさ》をするとき、半分以上の人間が唇を|歪《ゆが》めてそれに近い表現をするのだった。そして残りの半分近くは先生と呼んだ。先生と呼んでくれる人間がそれだけいれば、赤い|絨緞《じゅうたん》を踏むには充分な票が集まるのだった。
才能のある男ではなかった。むしろ無教養で知性に欠けていたが、その分厚かましくて押しが強かった。権力に対する|憧《どう》|憬《けい》の念が強烈に渦巻いていて、それが彼のエネルギー源になっていた。胸につけた金のバッジを見て態度をあらためない人間を見るのは最も不愉快なことで、そういう連中を心の底から憎んでいた。
その点国鉄を利用するのは快適だった。彼らはバッジに慣れていて、充分な敬意をもって特別扱いしてくれるからだ。|癪《しゃく》にさわるのは東京の街を車で行くときで、渋滞した道路に出会うたび、つくづくパトカーを先導させて突っ走る総理の力を思い知らされた。
しかし今日はかなり渋滞していたにもかかわらず、虎の門の首都圏住宅公社から西丸ビルに着いた彼は上機嫌だった。西丸ビルの正面入口から、黒い上着のポケットに右手を突っこんで悠然とエレベーターホールに向った彼は、やがてその八階にあるQ海運の豪華な応接室に姿を見せていた。
相手は日本人ではなかった。
「つまり我々のほうとしてはかなり問題があったというわけですわ」
そう言って国会議員は意味もなく笑った。極東総支配人のヤズディギルド氏は、捉えどころのない|瞳《ひとみ》を相手に向けて、表情だけはいかにも同情的に|顎《あご》を引いて二度ばかりうなずいて見せた。なめしたような褐色の肌に品のいいつやがあり、骨格肉づきとも相手よりふたまわり以上も大きい体を微妙に動かした。そうすると全体の印象が友情に|溢《あふ》れたものになる。見事な演技力だった。
「お国の行政機構は実に素晴らしいと、かねがね敬服しています」
|流暢《りゅうちょう》な日本語で言った。「私も日本のような国で一度思い切り政治を動かして見たいと思っているのです。勤勉で愛国心に富んだ人民と忠実な官僚機構……軍部はおとなしいし、全く政治家の天国です。私はいろいろな国家と接触していますが、この国ほどやり良い国はありません」
ヤズディギルド総支配人にそう言われて、国会議員はまた|哄笑《こうしょう》した。その意味は自分でもよく判っていない。しかし笑えば相手が勝手に解釈してくれると思っている。このアラブ人は彼にとって危険な相手だった。日本という国の裏側にある、たしかめようもない程暗く深い|淵《ふち》のような部分で動いている強大な何かと、この異教徒は手をつないでいるらしいのだ。今度の件にしても、なぜQ海運のような外国資本があの開発計画を嫌うのか見当もつかなかった。
自分が大して知らされていないことを率直に知らせる必要もなく、また知っているふりをするのも危険なことだ。だから笑う。ヤズディギルド総支配人がかなり以前からのこの国の裏側で“高度な”動きをしているのは、まぎれもない事実だった。ヤズディギルドを通じてその“高度な”連中に名を売って置ければそれに越したことはない。
「ま、とにかくお役に立てて光栄でした。この件はこれでカタがついたわけですが、また何かありましたら遠慮なくおっしゃってください。わたしのような男はいつも駆け廻っていませんと、何かこう|爪《つま》|先《さ》きのほうから腐って行くような気分がしましてな……」
イスラム教徒はにこやかに笑った。
「その節はよろしくお願いします」
「考えて見ると、いつでも三十か四十の問題をかかえて走り廻っている計算になります。ひとつやふたつ増えたところで……」
6
国会議員は持ち前の厚かましさを発揮して、かなり露骨に自分の売り込みをした。ヤズディギルドに会うのはこれが三度目で、今迄の二回の会見は相手の事務的なペースに乗せられてしまっていた。今日は仕事が終った|挨《あい》|拶《さつ》のようなもので、今後この大物外人と会う機会があるかどうか判らなかった。
しばらくするとヤズディギルド総支配人は、ちょっと失礼すると言って部屋の隅の電話をとりあげ、乾いた響きの耳なれぬ外国語で誰かと|喋《しゃべ》り出した。国会議員は素知らぬ顔で窓の外の濁った空に目をやり、煙草をふかした。長年の経験で、もうすぐ金が出て来る時間なのを知ったのだった。
やがて思ったとおり応接室のドアにノックの音がして、|恰《かっ》|幅《ぷく》のいい中年の日本人がブルーの封筒を持ってやって来た。
その男が出て行くと、ヤズディギルドは封筒を二人の間にあるテーブルの、どっちつかずの中間点に置いたまま、ひどく事務的な口調で言った。
「ご尽力には充分感謝しています。それに我々はあなたの政治的な力を高く評価しました。これはお互いに大変喜ばしいことです。つい二日前、私はあなた方の総理におめにかかりいろいろお話しましたが、その時あなたのお名前も出ました」
そこでヤズディギルドは言葉を切った。二人の間に奇妙な沈黙が流れた。国会議員の胸には|或《あ》る甘い感動がひろがっていて、イスラム教徒はそれを観察しているようだった。
「では今日はこれでお別れしましょう」
二人は立ちあがり、握手をした。そして国会議員は東日銀行の名を刷り込んだ青い封筒を内ポケットへ落し込むと、入って来た時と同じように右手を上着のポケットへ軽く差しこんで、その豪華な応接室を出て行った。
数多い丸の内のビルの中でも、この西丸ビルは最も近代的な設計をされていた。丸の内再開発の一番しんがりをうけて|竣工《しゅんこう》しただけあって、床も天井もまだピカピカしていた。その廊下を歩きながら、国会議員は自分の将来がかなり有望になって来たと思った。
東日グループに食い込むことは、政界における座席指定券を手に入れることと同じだったからだ。日本最大の企業集団で、戦前から時の権力者達に|莫《ばく》|大《だい》な資金を提供し続けて来ている。いや、権力者を製造し続けて来たと言っても過言ではない。
それは何も政治家に限ったことではなく、言論界でも学界でも、東日と手を握った者は必ず勝ち残っていた。現に、つい先ごろ死んだ建築家の今井潤造にしたところで、東日グループの力を背景に戦後の建築界に君臨しつづけたのだ。この西丸ビルのような、どちらかと言えば前衛に傾きすぎるほど実験的な建築物も、それだからこそ許されたのだ。いくら今井潤造に設計の才があっても、|施工主《クライアント》のオーケーがとれなければ、永久に発表の舞台は得られない。
建設関係を主領域とするだけに、その国会議員は西丸ビルを歩きながら、しきりに今井潤造のケースを思い浮べていた。
今井天皇……長い間そういう呼び方をされていた男だった。日本の代表的建築家として海外にも名をはせ、その名声を微動だにさせなかった男だった。
7
日本橋室町の小さなビルの三階に、白日書房という出版社がある。建設関係の出版物を専門に扱っていて、近代建築という月刊誌を発行しその方面では名の通った出版社だ。
社長がJ大工学部の出身で、そのため社員の大半はJ大関係者で占められているが、その中に珍らしく早稲田の仏文を出た男がいた。名前を石川と言い、入社三年目で月刊誌近代建築の編集部員をしている。
フランス文学と建築ではひどく畑違いのようだが、石川は案外その仕事に|馴《な》|染《じ》んでうまくやっている。生まれつき好奇心の強い男で、畑違いの領域にばかり興味を燃やすたちだから、雑誌の編集でさえあれば、どんな領域だろうと大して気にしていないのだ。それに近代建築の編集長というのが、編集ではベテランだがやはり畑違いの医学関係から転じた男で、そんなことが石川にとって住みよい環境を作り出しているらしい。
三年前に編集方針が変って、それまでの堅い一点ばりから、かなり弾力に富んだ内容となり、その必要性から石川のような人物が採用されることになった。……と言っても、女性週刊誌の社外スタッフとして、二年ほど体のいい日やといのような生活をしていた彼を、建設省の役人で|叔《お》|父《じ》に当る人物が見かねて今の職場へ世話をしてくれたので、自発的に実力で入社したというわけではない。
白日書房は建築関係専門の出版社としては小さいながら名が通っていて、特に月刊誌近代建築は編集方針を変えてからめきめき部数をのばし、今ではその分野の主要雑誌のひとつに挙げられていた。
天皇と呼ばれた今井潤造がこの五月に急逝すると、今井がJ大名誉教授であった関係から、その遺稿の出版が当然のように白日書房の仕事になった。遺稿の整理はJ大工学部の門下生たちが引受け、白日書房はその作業が終るまで、最も手すきと思える石川を連絡係にした。
今井家は渋谷区|松濤町《しょうとうちょう》にあり、古めかしい土塀に囲まれた広い邸内は凝りに凝った各種の樹木で埋められ、その中に明治の臭いが強く漂う、いわゆる洋館風の|母《おも》|家《や》と、書庫を兼ねた土蔵風の仕事場から成っていた。
手が空いている、と思われた石川は、案外そうでもなく、近代建築を面白くするためにふつうなら見向きもしない方面にまで独特の|嗅覚《きゅうかく》のようなものを働かして首をつっこみ、結構忙がしくとび歩いていたのだが、白日書房はもともとデスクワーク本位の社風で、取材のための外出を白い眼で見るようなところがあった。つまりそういう空気の中で、石川はいつも手が空いていると思われていたのだ。
だが石川はその係りを命ぜられてから、|嬉《き》|々《き》として松濤町の今井邸へ通い出した。週に一度ほど顔を出せばそれで役目は果せるのだが、石川は暇さえあれば毎日のように松濤町へ行く。遺稿整理はJ大の学生達が中心になってやっているので、石川のような門外漢の手出しする余地はない|筈《はず》なのに、実際は学生達より熱心にたくわえられた資料の山を読み漁り、メモやノートのたぐいをひっくり返しては悦に入っていた。
性格があけっぴろげなので学生の間にも人気があり、今井潤造の遺稿のあれこれについて議論をたたかわしたりすることもあったが、それは最初の間だけで、今では誰も笑って相手にしなくなっている。
話が飛躍しすぎるのだ。石川の推理はまるで夢のようで、工学部建築科に籍を置く学生達にはまるでついて行けないらしい。
だが石川は本気だった。調べれば調べる程、今井潤造は死の直前まで、何か宗教に関する問題を探究していたことがはっきりして来るように思えて仕方なかった。しかもそれはイスラム異端の暗殺教団についてだった。
8
遺稿整理に当ったその道の専門家達は、今井邸の書庫に|厖《ぼう》|大《だい》な宗教関係の資料の山が積まれているのを見ても、さして意外とは思わない様子だった。特に晩年の設計のアイデアがどんな方面から得られたのか、彼等はその資料をひと目見て納得したのだ。今井の晩年の設計には中世紀の宗教建築を採り入れたと思われる個所が至るところに見受けられ、仲間内ではその問題が言い尽されていたのだ。
しかし石川は門外漢だった。彼にはその蔵書の内容が、建築家としては余りにも偏りすぎているとしか思えなかった。
戦後の建築界に君臨して天皇とさえ呼ばれた人物が、その晩年にもし神仏にすがるような心の動きを示していたとすると、それはかなり面白い読物にできると考えた。
それで調べはじめた。土蔵のような書庫に入りびたって資料をあさり、建築家今井潤造の人間像を浮びあがらせようと躍起になった。だが石川の考えたようなものは一向に現われず、そのかわり、無数の資料が一斉に或る方向を示しはじめ、石川をとんでもないところへ誘い込んでしまった。
今井潤造の蔵書には至る所にしおりがはさみ込んであった。それが故人のやり方だったのだろう。しおりはごく普通の大きさの|便《びん》|箋《せん》を縦にふたつ折りにしたもので、恐らく読書の際いつも便箋をメモがわりに座右に置いていたのだろう。細かい文字でびっしりと書き込みをしてあるのもあれば、大きな字でそのページに関連する別な書物の名を示すものもあった。
しおりは資料の山の道標だった。次から次へとその道標をたよりに進んで行くと、今井潤造が一体何を探し求めていたか、|朧《おぼ》|気《ろげ》ながら判って来るようだった。そして石川は並外れて想像力の豊かな男だった。彼はその想像力を駆使して、今井潤造が暗殺教団に関する何かを|掴《つか》んでいたと推理したのだ。
9
暗殺教団の始祖は、イランのホラサン地方に生まれたハサン・サバーで、その教義はイスラム異端派のシーア宗内部でも、特に過激な一派として知られるカルマート派の教義を母体とし、それに輪をかけた過激さで世界にその名を|轟《とどろ》かせた。
マホメットはイスラムがやがて七十三の派に分れるだろうと予言したと言われるが、このような超過激派が発生する原因は、マホメットの生存中に種が|播《ま》かれていた。
シーアット・アリーという人物の存在がそれで、アリーはマホメットの|従弟《いとこ》に当り、のちに|女婿《むすめむこ》となった男だ。マホメットがイスラムを開教して以来、辛酸を共にし献身を惜しまなかったと言われる。
六三二年、マホメットが没すると|宗主《カリフ》の地位はアブー・バクル、ウマル、ウスマンの三人が次々に継承し、アリーはその第四代の|宗主《カリフ》となった。しかし、アリーはメッカ派の反対を受け、マホメットの妻のアイーシャの|叛《はん》|乱《らん》にまで見舞われねばならなかった。この背景にはマホメットを生んだメッカのクライシュ部族内の氏族対立があった。
アリーはマホメットと同じハーシム家に属し、そのハーシム家はクライシュ部族内でウマイヤ家などと宿命的な対立関係を持っていたのだ。
第四代の|宗主《カリフ》となったアリーはその宿命的な対立を背負わされ、ウマイヤ家と抗争を続ける内、六六一年一月二十四日、礼拝の途中暗殺されてしまい、その結果アリーの長男も宗主権を継いで半年足らずの内に隠退を強要され、ウマイヤ朝の出現となった。おまけに、アリーの長男がウマイヤ家の圧力で隠退を余儀なくされたとき、ウマイヤ家はその弟のフセインに次の|宗主《カリフ》を約束して置きながらそれも裏切ったので、フセインは父と兄の|仇《かたき》を討つためハーシム家を率いてウマイヤ家と武力衝突し、六八〇年十月十日、フラート河右岸に宿営中ウマイヤ勢に包囲されて全滅させられてしまう。
これがカルバラーの悲劇で、以来シーアット・アリーの名をとったシーア宗は、正統派スンニー宗と決定的に対立し、異端と呼ばれながらイランに定着することになる。
アリーを初代とするシーア宗はこのようにして長男ハサン、次男フセインと三代にわたり悲惨な最後をとげたばかりでなく、第四代以降もスンニー宗の手に依る毒殺、獄死などが重なり、その存続のための暴力肯定を教義に採り入れる分派活動が盛んにならざるを得なかった。
そのひとつがカルマート派である。エルサレムの眼科医の子、アブドゥーラ・カダーフは、イランの農夫ハムダーン・カルマートを利用してウマイヤ朝の後を継いだアッバース朝転覆をたくらみ、一種の共産主義にもとづく秘密結社を組織した。
この秘密結社はアフリカからの黒人奴隷を|煽《せん》|動《どう》してザンジの叛乱と呼ばれる暴動を|勃《ぼっ》|発《ぱつ》させ、バグダードのアッバース朝を根底から動揺させることに成功し、やがてその教義はエジプトのファーティマ朝にうけ継がれることになる。そしていっそう過激なドルーズ派やアンサリエ派、ヤズィディス派などを生み出し、暗殺教団の母体ともなった。
他宗の圧迫を受け、数多くの殉教者を生んで地下に潜らざるを得なかった宗教が、やがて怪奇な儀式と流血の教義を持つ邪教を生むことは半ば当然の結果と言えよう。暗殺教団は開祖の名をとってハサン派と呼ばれたり、新イスマイリ派と呼ばれたりもするが、やはり敵対する者に容赦ない死の制裁を加えたことから、暗殺教団の名で呼ばれるのが最もふさわしい。
一〇九〇年、暗殺教団はカスピ海に近いアラムートの|山《さん》|塞《さい》にこもり、よく発達した地下組織を用いて各地の要人を暗殺し、その勢力を拡大した。教主は山の長老と呼ばれ、信徒はマホメットの教えにそむく麻薬の吸飲を許され、女たちを共有したとも言われている。吸飲された麻薬は主としてインド大麻であったらしく、それがハシッシュと呼ばれたところから、のちに|暗殺《アサシン》の語を生んだ。
八代百五十年にわたりイスラム世界に血を流し続けた暗殺教団は、やがて一二五六年サマルカンドを発したフラグ汗の|蒙《もう》|古《こ》軍によって徹底的に壊滅させられた。辛うじて生きのびた信徒はイエーメン、ザンジバル、インドなどに逃げ、のちに穏健な宗派として再興した。インドのアガ・カーンはアラムートで滅んだ山の長老の|末《まつ》|裔《えい》とされている。
ところが、今井潤造の収集した資料を|辿《たど》ると、この暗殺教団は当初の姿のままひそかに存続し、中世から近代にかけての世界史の裏面で活躍を続け、一時はスペインに本拠を置いていたが、二百年程前からギリシャに移っていると推定できるのだった。
10
渋谷区松濤町の今井邸で異端派の歴史を辿るうちに、いつの間にか石川自身が異端派になっていた。遺稿を整理し出版するための連絡員が、まるで見当違いの分野に首を突っこんで勝手な熱を吹いているのだ。整理に当っている若い学生達からは酔狂な道化者として扱われ、白日書房ではまた脱線が始ったと冷笑された。
しかし石川は本気だった。資料の山の中にこれ程はっきり記されているものを、今井の筆跡による具体的な文書がないというだけで否定されてしまうのが不満でならなかった。
その不満を石川は事あるごとに編集長の屋島にぶつけた。屋島は経験を積んだ編集者で、しかも石川同様畑違いの分野から白日書房へ入っただけに、ほかの連中よりはかなり好意的だった。
だが石川が発見したものの価値については、結局否定的だった。今井潤造が生前暗殺教団に興味を持っていたにしても、本業はやはり建築家であり、回教裏面史については|素《しろ》|人《うと》でしかない。従ってそれが建築家としての行き方に何らかの影響を与えたことが見出せない限り、発表はできないというのだ。
その日も編集長の屋島は近くの喫茶店へ連れ出され、石川の熱っぽい説明を聞かされていた。
「絶対に価値があると思うんです」
屋島は困ったように煙草をふかし、それでも根気よく相手になっていた。
「その価値が証明できれば発表するさ」
石川はそう言われると意気込んで唇を|舐《な》めた。
「暗殺教団の歴史的な追跡は、彼らが徹底的に地下に潜入してしまったんですから、普通の方法では絶対にできないんです。宗教や歴史の専門家では無理なんですよ。はじめは同じイスラムの仲間から迫害され、のちにはモンゴルという異教徒の為に大虐殺を受けている……アラムートとマイムンディズのふたつの|砦《とりで》で死んだ信徒は、男だけで十万という数にのぼるんです。蒙古軍はそれからバグダードへ行く道筋でもハサン派の信徒は老若男女を問わず皆殺しにしろという命令を受けていて、事実そのとおりのことをしたんです。これは僕の想像に過ぎませんが、恐らくやっとのことで生きのびた信徒達は、それ以来世の中の表面に出ないことを教義の一部にさえしてしまったんでしょう」
「それがどうして今井先生には追跡できたんだ」
「そこですよ問題は。いいですか、日本の隠れ切支丹を思い出してください。あれだけの弾圧を受けて絶対に表面へ出られなかったが、今調べて見るとシンボルの十字架などを実に巧妙に仏像などへ組み込んで隠している。暗殺教団も東ローマ系のキリスト教にもぐり込み、結局ギリシャ正教に自分達の信仰を組み入れて存続したんですが、その証拠は建築様式を微細に見わける眼がなければ発見できないんです。偶像否定ではキリスト教より徹底しているイスラムで、その宗派の物理的特徴をあらわすものと言ったら、建築様式しかないんです。今井先生のような超一流の建築家が興味を持たない限り、この秘密は永久に隠されたままだったでしょう」
「そう言われればそうかも知れないが……それで君は建築様式の中にひそむ暗殺教団存在の証拠を、具体的に雑誌の誌面に持ち出せるのかい」
「|勿《もち》|論《ろん》です。松濤町の書庫にその資料が山のように積んであります。僕はそれを早く整理して発表したいんです。何しろ先生がはさみ込んだしおりだけが頼りですからね。もしあのしおりがバラバラに外されでもしたら、僕の力じゃどうにもなりません」
屋島は苦笑した。
「君の熱心なのはよく判るよ。しかし仮りにそれで暗殺教団の存在が証明できたとして、一体どういうことになるんだ。近代建築という雑誌は、恐らく歴史や宗教などの専門家を相手に、その発表の日から畑違いのジャンルで防戦しなければならんのだぜ。君がいま世の中の無理解に泣かされているのを、|俺《おれ》|達《たち》全体で引きうけることになる。……白日書房という会社の建築界における権威の問題にまで発展するだろうしな」
屋島はなだめるように石川を見た。石川はそう言われると、じれったそうに茶色の封筒をテーブルに置き、封をひらいた。
「それでも僕らはやるべきだと思うんです」
石川がとり出したのはうす茶色に変色した古新聞だった。「これを書庫で見つけたんです」
屋島は微かに湿った臭いのするその古新聞を受取った。第一面に黒々とした文字の塊りがあった。……米大統領暗殺さる。
「何だこれは」
「ケネディ暗殺事件の第一報ですよ」
石川が答え、屋島が失笑した。
「まさかこれが暗殺教団の仕業だというんじゃなかろうな」
石川はむっつりと反対側からその第一面の下を指さした。
「それを|貼《は》りつけたのはきっと今井先生です」
石川の示したところに、ずっと紙色の新しい新聞の切り抜きが貼ってあった。屋島は古新聞を持ち直してその切り抜きに眼をやった。……ジャクリーヌ夫人再婚。
「どういうことだい、これは」
「僕がいま説明したことをつなぎ合わせてみてください。暗殺教団存続説とケネディ暗殺事件を報じた新聞。そのギリシャ本拠地説とジャクリーヌ夫人の新しい夫……」
屋島の石川を見る|瞳《ひとみ》が冷淡になった。
「オナシスか……」
屋島は面倒見切れないと言った様子で、何度も首を横に振っていた。
11
熱帯性低気圧が北上中だった。が、その湿った雲はまだ遥か南の海の上にあり、東京の街々は|澱《よど》んだスモッグの下で酷暑にあえいでいる。
白日書房がある室町の小さなビルから日本橋に向って七、八分歩くと、右側にMデパートがあり、その正面入口は買物に出入りする客と待ち合わせの男女が入り混って、いつもなら歩道いっぱいに人だかりがしているのだが、この暑さでは排気ガスの吹きつける道ばたに立つ者は|流石《さすが》に少なく、やって来た客は冷房の効いた店内へ駆け込むように消えて行く。
ジュラルミンのケースを片手に、汗をふきふきその前の交差点を渡った商業カメラマンの伊丹英一は、Mデパートの入口で立ちどまるとあたりを見まわした。すぐに店の中で手まねきをしている助手の柳田祥子に気づくと、陽焼けした顔に済まなそうな表情を浮べて、ひんやりとした店の中へ入った。
「例によって出がけに電話が掛って来やがるもんだから……待ったかい」
言い訳めいたことを言うと、助手の祥子は、
「ここなら待たされても退屈しないわ」
と答えて小さな革のショルダーバッグから、ちらっとMデパートの包装紙をのぞかせた。焦茶色のスラックスに同じ色の|袖《そで》のないブラウスを着て、少し栗色がかった髪をショートカットにした祥子はそれっきり何も言わず大きな瞳で伊丹の顔をみつめている。
「そうか、なんでここへ来たのか言わなかったな」
すると祥子は急に笑い出した。
「事務所へ連絡したら、いきなりここで待ってろと言われただけよ。ねえ、せめて私とぐらいもう少しコミュニケーションをよくしたらどうなの」
「済まん。ちょっと待っててくれ」
伊丹はくるりと背中を向け、入口の横にある案内係のデスクに近寄って、派手な制服を着た女店員にどこかへ電話を掛けさせて戻って来た。
「行こう」
「どこへ……ここで仕事なの」
「七階の催物場でイベリア半島展をやっているんだ。仕事じゃない、私用だ」
二人は並んでエスカレーターのほうへ歩き出した。
「イベリア半島展……」
「そうだ。例のクロノスの|壺《つぼ》が来てるんだよ。ここの宣伝部に頼んで撮影許可をとってもらったんだ」
「クロノスの壺って何なの」
「冗談言うな、何度も話したろう」
「そうだったかしら」
「亭主になる男の道楽ぐらいよく覚えといてもらいたいね。ハインリッヒ・シュリーマンがトロイから発掘したアトランティス王の壺のことだよ」
祥子は伊丹の腕に軽くつかまりながらエスカレーターを昇って行く。
「そう言えば聞いたわね」
「頼りねえな」
「あの青銅の壺が来てるのね」
「しっかりしろよ、あれはシュリーマンの孫のパウロが壊しちゃっただろう。いまここに来てるのはそれと同じ|梟《ふくろう》の浮彫りがある壺だが青銅じゃなくて土の壺だ。クロノスの壺は十ちかく発見されたが、トロイのだけが青銅であとはみんな土の壺だ」
「本当にアトランティス王の壺なのかしら」
「どうかね。アトラントローグの間でも意見は真っぷたつに割れてる」
「アトラントローグって、アトランティス研究家のことでしょ。あなたなんかもアトラントローグ……」
祥子はからかうように伊丹を見あげた。
「俺などはもともと物好きで首を突っ込んだマニアだが、だいたいアトランティス研究家ってのが物好きの気違いみたい連中だから学者と呼ばれるのは少し無理なところがある。従ってマニア程度でもアトラントローグとひっくるめて呼んじまってさしつかえない」
「すると、アトラントローグ伊丹英一氏としては、クロノスの壺の実物にお目にかかるのは……」
「そうさ、千載一遇いや初恋の女と再会する気分だよ。学生時代からの夢だものな」
12
七階のイベリア半島展は思ったよりずっと閑散としていた。つい先週までは夏休み恒例の昆虫セールをやっていて、新聞にもその盛況ぶりが報道されていたくらいだが、各国の産物紹介ものはもうだいぶ陳腐化して来ているのだろう。場内はガランとしていて人影もまばらだった。
伊丹が会場の主任らしい男を呼んで撮影に来たと告げると、男はしばらく待ってくれと言って会場の裏手へ引っ込んでしまった。
「何だ不親切だな、あいつ」
「どうしたの」
「頼んで置いた宣伝部の|奴《やつ》がここへ連絡してないんだ」
「下でも連絡して来たんでしょ。大丈夫よ」
「こんなざまだから客が来ないんだ。見ろよこのガランとしたこと」
「そうね、人が少ないわね」
伊丹は唇を|歪《ゆが》めて笑った。
「宣伝部のミスさ。あいつらクロノスの壺がなんだか知らなかったんだ。ここに出入りしている広告代理店の奴に教えてやったら、だいぶアワ食ってた。無理ないさ、アトランティスの|謎《なぞ》を秘めた古代の壺、かなんか一発かませれば押すな押すなだったろうからな」
「知られてないのね」
「いや、今世紀のはじめ頃、シュリーマンの孫のパウロがかなり派手な騒ぎを起してね。それで一度に有名になったんだ。しかしパウロはそれに輪をかけたスキャンダルを起して、結局おかげでクロノスの壺は|眉《まゆ》|唾《つば》|物《もの》だという定評がついてしまった。それ以来常識家はこれに触れるのがタブーみたいになって、年月がたつ内に忘れられてしまったのさ」
「スキャンダルって……」
「スパイ事件、それに遺産相続のトラブル」
「どんなスパイ事件なの」
「ややこしいんだが、ハインリッヒ・シュリーマンは相当な齢になってからギリシャ人の若い女と結婚したんだ。ソフィア・エガンストロメノスという名で子供を二人生んだ。アンドロマハとアガメムノンという子供だ」
「|凄《すご》い名前ね」
「シュリーマンの生まれたドイツで、成人してからペテルスブルグで商人として大成功した。商工会議所みたいな所の役づきにまでなったらしいからロシアとも縁がある。孫のパウロはアメリカに住んでいた……つまり国籍が複雑にからみ合っている。そこへ持って来てパウロ自身ギリシャ女性と結婚してる。そして第一次世界大戦の|勃《ぼっ》|発《ぱつ》だ。シュリーマンと言えば国際的な名士で、しかもパウロは当時のニューヨーク・アメリカンという新聞にアトランティスの件で署名入りの記事なんか出して派手にやってたし、多分何かの謀略にまき込まれたんだろうと思うが、とに角突然行方不明……挙句にドイツの|諜報《ちょうほう》活動に関係していたのがバレて逮捕され、銃殺されたという発表があった。処刑された場所はバルカン半島のどこかとも、ロシアのどこかともいうがはっきりしない。ドサクサまぎれに|闇《やみ》から闇みたいなもんさ。アトランティスの謎を解明するために祖父の遺言をひらいて立ち上ったヒーローが、それで一遍にペテン師扱いだ。おかげでクロノスの壺はそれ以来ケチのつきどおし。誰も本気で扱ってやらなくなって……」
「それであなた達のような物好きだけしかこのイベリア半島展へは集まらない……」
「からかうな。そういうがこの壺はどうしてどうして、とてつもない謎を秘めてるんだぜ。たとえばあの壺を割ったとしたら、ひょっとするとオリハルコンの板が転がり出るかも知れないんだ」
「オリハルコンて、アトランティス大陸にあったという金属ね」
伊丹は祥子を見て|嬉《うれ》しそうにうなずいた。
13
連絡がとれて会場主任が伊丹の撮影を承知するまでに二十分程かかった。会場の入口には協賛・スペイン大使館・ポルトガル大使館と記された大きなアーチがあり、左手の壁にはイベリア半島のイラスト入り地図が掛けられ、中央の壁にはモノクロの大きな風景写真が飾られていた。
展示物はかなり貧弱で、何点かの油絵のほかには祥子の興味をそそるものはないようだった。ひどく頑丈そうな革張りの|椅《い》|子《す》や家具類、コルク細工、コイン、それに粗野な革製品などが並べられ、問題の壺は壁の右側の隅に置いてあった。
壺の高さは五十センチ程で、底のすぼまった不安定な形をしていた。壺の前に置かれた説明書には、紀元前二五〇〇年頃、サン・ジロン近郊より出土、と簡単に記してあり、アトランティスにもシュリーマンにも触れていない。色はつややかな暗褐色を呈しており、いちばん膨らんだ部分から注ぎ口にかけて、驚く程|精《せい》|緻《ち》な梟の像が浮き彫りにされていた。
伊丹はシャッターを切るたびに大げさな音をたてるブロニカをかまえて、まるで|憑《つ》かれたような表情でその壺を撮りまくった。祥子はそのうしろで、スペアーのフィルムバッグを手に立っていたが、伊丹が高感度のカラーフィルムを入れた35ミリカメラに持ちかえると、手早くジュラルミンのケースへブロニカを納め、そのあとは所在なげに伊丹の動きを見守るだけだった。
「伊丹さん」
男の声で低くそう呼ばれ、柳田祥子が振り返ると、|半《はん》|袖《そで》のワイシャツに黒い蝶ネクタイをしめた会場主任らしい男が立っていて、そのうしろに緑色に塗った鉄の手押車と数人の男達がいた。祥子が大きな|瞳《ひとみ》で黙ったまま見返すと、「壺を会場からさげますので……」と威圧するように言った。伊丹が気づいて、ああもう来たんですか、と声をかけ、男達に片手拝みをしてみせる。
「もうすぐ終りますから」
伊丹はカメラマン特有の押しの強さで、そう言うとまたファインダーをのぞく。祥子と会場主任を中心に、気まずい沈黙が流れた。
「僕達は急ぐんだがねえ」
|堪《たま》りかねたように手押車につづいて来た若い男が言った。鋭い言い方で、視線に突きさすような|棘《とげ》があった。
「もうちょっとですから」
祥子は伊丹の助手として、こんな場面を何度も経験していた。ここで必要な時間を稼ぐのが助手の役目なのだ。
「我々のほうでは撮影の許可を出していませんよ」
別の男が言った。会場主任は慌てて、
「困ります。もうやめてください」
と祥子の横を通り抜け、伊丹の肩に手を置いた。閉店時間まではあと小一時間もあった。
「二、三分ですから」
祥子はそう言ったが、二人の青い|揃《そろ》いのシャツを着た男達はいさいかまわず、かなり手荒に祥子を壁際へ押しやり、強引に手押車を進めさせた。手押車を押しているのは店員らしく、祥子の方へ困ったような気弱な微笑を向けていた。
「しょうがない。どうぞ」
伊丹は|諦《あきら》めてそう言うと、祥子の傍へ戻って、あん畜生め、と小声でののしった。二人はジュラルミンのケースを持って壺から遠のいた。
青シャツの二人組は、宝物でも扱うように壺を黒いケースにしまうと、店員といっしょに手押車の向きを変え、その|両脇《りょうわき》を護衛するような|恰《かっ》|好《こう》で歩き出した。
|流石《さすが》に会場主任は、通りすがりに弁解がましい会釈をしたが、青シャツ二人組はどことなくぎごちない姿勢で伊丹達を黙殺した。二人ともスペイン大使館の腕章をしていた。
第二章 内腿の指跡
1
朝のテレビでは台風が西日本に上陸したと伝えていた。その余波なのか、異常に蒸し暑い日だった。相変らず空はどんよりとスモッグが|澱《よど》んでいて、そのうっとうしいとばりを通して、真夏の焼けつくような暑さが道行く人々にとりついている。
高速道路が立体交差している赤坂|溜《ため》|池《いけ》|界《かい》|隈《わい》は、その日六本木にちょっとした事故が発生したおかげで、ひどく渋滞していた。都心にありながら自動車以外の交通の便は余り良くないところへ持って来て、ぎっしり車がつまってしまい、その渋滞ぶりをラジオがひっきりなしに報じるものだからタクシーも虎の門から赤坂|見《み》|附《つけ》へかけての通りへは入りたがらない。
夏木建設の本社はその混乱の中心である溜池交差点の角にあって、業界第二位の業績にふさわしい五角形の窓をつらねた特異な外観で知られていたが、外の通りの渋滞が二時間以上も続くと、出入りする人影も目に見えて減って来ていた。
だが一歩そのビルの中へ足を入れれば、ひんやりと冷房が効いていて外の暑さが|嘘《うそ》のように思える。うんざりした表情で汗をふきふき自動ドアの中へ入って来る人々は、一様に生き返ったような顔になり、振り向いて排気ガスの渦巻く表通りを眺めたりする。
たった今も四十がらみの神経質そうな男が入って来て、さもいまいましいと言った表情で歩いて来た街をふり返った。何度も額から襟もとのあたりをハンカチでぬぐい、それでもまだ流れ出す汗を抑えるようにしながら受付の白いブラウスの女にふたことみこと言うと、軽く会釈してエレベーターホールを通り抜けて階段を地下へ降りて行った。
このビルは以前は四階建ての古めかしい建物だったが、二年程前に今の白亜の九階建てに変った。建設業という商売柄、一階の表側は銀行に貸し、地下にはちょっとしたアーケードもあって市街地再開発の名目に一応は合わせてある。が、結局はそれもビルにある各社の用を弁ずる商店ばかりで、喫茶店とレストランが|殆《ほと》んどだ。
夏のさかりだというのに日焼けもせず、青白い神経質な顔をした白日書房の屋島は、その地下に三軒ある喫茶店の中で、いちばん小さい店へ入ると、コカコーラを注文してネクタイをゆるめた。おしぼりを使い、うまそうに水を|呑《の》みほすと腕時計を眺め、腕にかかえて来た濃いブルーの上着を丁寧に空いた椅子の背にかけ、そのポケットからハイライトの箱とライターをとり出してテーブルの上に置く。
一服してしばらくすると汗もすっかり引いたらしく、もう一度腕時計を見てからネクタイをしめ直し、今度は入口のあたりへ一分置きくらいに視線を走らせる。そうやって十二、三分もした頃、入口に背の高い身なりのきちんとした男が姿を見せた。
「どうもお待たせしました」
屋島とは対照的に小気味よく日焼けした男が、白い歯を見せて微笑しながら屋島の前へ|坐《すわ》った。
「いや、暑いのと道が混むので参りました」
「そのようですな」
相手はそう答えてまたニコリとした。
「締切りにはまだ早いんですが、隅田さんはいつも原稿を早目早目にお渡しくださるので……。でもこんなことならもう少しあとにすれば良かったと後悔していたところです」
屋島はボヤくように言った。
「そんなに混んでいるんですか」
「タクシーは全然相手にしてくれません。仕方がないから地下鉄です。夏の地下鉄というのはどうも……」
「そうですな。しかし原稿はちゃんと出来ています」
2
屋島は律気に一度拝むようにして原稿を受取ってから、形式的にざっと目を通し、
「有難うございます」
と言って丁寧にそれをテーブルの隅に置いた。
「近代建築はこのところだいぶ調子がいいようですな」
「お陰さまで……やはり方針を変えたのがよかったんでしょう。テンポはそう早くないんですが、じっくり伸びて行くようです」
「結構じゃないですか。方針を切りかえたのは白日書房の社長だが、伸びるというのはやはり編集長の実力ですよ」
「そう言って頂くと|嬉《うれ》しいんですが」
屋島は少し照れたように笑い、「それにしてもウチの社長は商売人ですから。隅田さんに書かせて夏木建設から広告を頂こうという……僕などはとても真似られません」
隅田は軽く手を振った。
「私は書かせてもらっているだけで、会社が広告を出すのは私と関係ない」
「それはそうかも知れませんが、やはり隅田さんの力は大きいですよ。何しろあなたは夏木の設計陣ではエース格ですし、それに実力派の折賀専務のお身内ですからね」
「困るな、そういうことを言われると」
「いいじゃないですか、僕と隅田さんの間なんだから」
隅田は彫りの深い横顔に苦笑めいたものを浮べて話題を変えた。
「ところで、じきじきに編集長がご出馬とはどういう風の吹きまわしです。石川君は夏休みですか」
「いえいえ、とんでもない。石川は例の今井先生の件が追い込みに入ってるもんで、このところ松濤町へ入りびたりなんです」
そう聞いて隅田は意外そうな表情になった。
「ほう、石川君がねえ」
隅田は石川が畑違いのフランス文学専攻だった事を知っていた。今井潤造の遺稿整理がどれ程追い込みで忙がしかろうと、石川のような門外漢の助力が必要な|筈《はず》はないのだ。
「それなんですが、今井先生は生前何か宗教に関係されていらしたんでしょうかね」
「宗教……」
隅田は屋島をみつめ、しばらく考えてから、「さあ今井さんがどんな宗教にしろ、何かを信仰していたという話は知りませんね」
屋島は隅田の生真面目な返事に戸惑って、
「いや、信仰どうのこうのというんじゃないんです。つまりその、宗教に関する何か……たとえば建築とか」
と早口につけ加えた。
「それならあるでしょう。いや、なければかえって不自然なくらいです。今井さんの晩年の作品に中世の宗教建築から発想したと思われるものが幾つかあるのは定説化していますからね」
隅田は事もなげにそう答え、そのあと眼を細めて考え込む様子になった。
「石川はあれで仲々勘のいい男でしてね。松濤町の資料の山から何か|嗅《か》ぎ出したらしいんです。と言っても、今度ばかりはどうも見当外れもいいところらしいんですが」
「そうですか。宗教建築ね……」
「ええ。それにしても石川の|奴《やつ》、だいぶ功を焦っているようです。何も自分で無理して資料を嗅ぎまわらなくたって、隅田さんのところへ来ればすぐ目鼻がつくものを……自他共に許す今井先生の一番弟子がここにいらっしゃるんだから」
「おだてないでくださいよ。今井一門と言えばこの世界でも一番数の多いグループです。私などよりずっと力のある先輩が目白押しに控えているじゃありませんか」
隅田は真顔で言った。
3
隅田賢也が世間で今井潤造一門の筆頭に挙げられているのは事実だった。大手の夏木建設で課長の年少記録を破ったのも彼なら、名古屋市の愛川記念図書館の設計で|玄《くろ》|人《うと》筋をうならせ、海外でも日本の新鋭建築家として高い評価を与えられているのも彼だった。数多い今井門下生も、今は若手の活躍する時代に入って、その中で群を抜いて派手な動きをしているのが隅田賢也だ。業界の主要誌である近代建築にも毎号のように寄稿し、恩師ゆずりの鋭い発想が若い設計家の間でもてはやされている。
おまけに隅田は夏木建設専務取締役の折賀弘文の娘比沙子と、この二月に|華燭《かしょく》の典をあげたばかりだった。折賀専務と言えば夏木社長のパートナーとして、業界では社長以上にその実力を評価されている大物で、屋島ならずとも隅田の前途に一点のかげりもないと見るのは当然だった。
だから本来なら今井潤造の遺稿整理の指揮をとるのは当然隅田の役目だった。しかし今井は死の直前に夏木建設でかなり大きな仕事をやりかけていて、その後を継いで完成させなければならなかった為に、今井の葬儀以後彼は殆んど恩師の邸を訪れていなかった。
「私も行かなければならないんだが……」
隅田はそう言って眼を伏せた。
「仕方ありませんよ。それに石川の報告ですともう殆んど終りかけているそうですし」
「いろいろ言われてるでしょうな」
隅田は視線をあげ、少し|悪《いた》|戯《ずら》っぽい表情で言った。
「何をです。隅田さんが松濤町へ顔を出さないことですか……とんでもない。誰が悪く言いますか。J大の皆さんは隅田さんもああして頑張っておられるのだから、遺稿整理ぐらい自分達でやってしまおうと、逆にはげみになさっているそうですよ」
隅田は頭を|掻《か》いた。
「そんなことを言ってるんですか。かえって照れ臭いですよ。こうやってのほほんとアルバイトの原稿など書いているんですからね」
「やめてくださいよ。そんな考え方をされると僕の雑誌の方にアナがあいてしまう」
屋島は嬉しそうに笑った。年齢はだいぶ上だが、屋島は常に隅田から威圧感を味わっているらしく、そんな率直な態度を見せられると、ひどく親しみを感じるのだろう。
だが隅田は本気で世評を気にしていた。直接遺稿の整理に当っている若い連中の間では、たしかに今屋島が言ったとおり好意的な空気があるに違いない。問題は先輩や同輩である。彼等は隅田が今井夫妻に学資の面倒まで見てもらったことを知っている。その夫人が今は未亡人となって広い邸でひとりぐらしの日を送っている。踏み台にしてなりあがって、立場が固まったらそんな夫人を見舞いもしない……そう言われるのが辛いのだ。
「ところでどうでしょう」
屋島がそう言ったので、隅田は驚いたように眼を二、三度しばたたいた。
「…………」
「今夜あたりどうですか、久しぶりで」
屋島は殊更に秘密めかして|盃《さかずき》を口にする真似をした。
もともと隅田が近代建築に寄稿しはじめたのは自分の足場がためのつもりだった。サラリーマンはとかく権威に弱いところがあり、活字で発言されると陰でとやかく言っても、結局は一目置くことになる。近代建築に書くたび社内の空気は隅田に有利になった。だから原稿料が出るたび、石川や屋島と|呑《の》み歩いてひそかに利益還元をしているつもりだった。
「いいですね。しかし今夜は先約があるんです。明日どうでしょう」
屋島は嬉しそうに承知した。
4
屋島は十月号の原稿を持って、また熱風の街へ戻って行った。隅田は一階正面の自動ドアのところまで送り、それからエレベーターホールへ引っ返した。
軽いチャイムが鳴って四基並んだエレベーターのドアのひとつが開くと、降りてきたのは一人だけで、色の浅黒い、顔も体つきも四角張ったいかつい感じの男だった。
すれ違いざま、隅田は「よう」と言い、相手は「やあ」と言った。ドアがしまるには少し間があって、そのあいだ四角ばった男はエレベーターの前に立ちどまり、今にも微笑がこぼれそうな表情で、「じゃ今夜」と低い声で言った。やがてドアがしまり、隅田は七階にある自分のデスクへ戻った。
先約があると屋島に言ったのは、その男のことだった。隅田は建設業界独特の荒っぽい接待行為に対して批判的だった。いずれは|膿《うみ》を出せねばならぬ時が来ると考えている。|迂《う》|闊《かつ》に業界の風に染まって、いざというとき取り返しのつかぬ|瑕《きず》になってはと、注意深くそんなつき合いを避けていたが、その男とだけは別だった。
体つきも顔も、手の指までがごつく四角ばった感じのその男は、会沢という名だった。年齢は四十歳になったばかりで、会沢建設という土建会社の社長をしている。
会沢も隅田も今井潤造という強大な傘の下で、夏木建設を舞台に派手な伸び方をした、いわば共同戦線を張る仲間だった。一方は出入りの下請業者、一方は設計課長という立場の差こそあれ、今井潤造の積極的な引きたてで頭角をあらわしたことに変りはない。
一度つながった縁というものは仲々切れないもので、今井潤造が死ぬと同じ理由で二人の立場がぐらつきはじめ、それ|迄《まで》よりいっそう堅く手を握らねばならなくなっていた。
隅田に才能があるのは疑う余地のないことだったが、なんにしても三十歳になったばかりで内実は旧弊な夏木建設の設計第四課長に昇進できたのは、今井潤造のあと押しあればこそだった。しかも、それまで二人の課長しか存在しなかった設計部に、システム化の名目で六課長の椅子を作らせ、そのひとつに隅田を押し込んだのだから、いきさつを知る社内の人間の中には、相当根強い批判やら反感やらがひそんでいる。その上折賀専務の愛娘との結婚のお膳だてにまで今井が動いたのだから、中にはそのほうを重く見て隅田を過小評価する者も少なくない。今井潤造の急逝でその重石がとれたと感じ、露骨に牙をむいている社員が多いのだ。屋島など部外者が見るほど隅田の立場は順風満帆ではない。
それは会沢のほうも同じことで、隅田以上に苦戦しているらしい。一時は下請同士のライバルである|英《はなぶさ》建設を|蹴《け》|落《おと》し、着々と間口を広げて行った会沢建設も今井急逝のあと、真綿で首を絞めるようにじわじわと発注を減らされている。会沢としては今井潤造に替る支援勢力として、実力派の折賀専務に直接縁のつながった隅田賢也の成長を期待している。
ところが、隅田の私生活にはとんでもないことが起っていた。
新妻の比沙子が|失《しっ》|踪《そう》してしまったのだ。比沙子はS女学院出の|才《さい》|媛《えん》、として|噂《うわさ》が高かったが、実際には才媛という響きが全く似つかわしくない、現代ではまず珍しい部類に属する古風で優雅な美女だった。
それが突然失踪した。隅田はもちろん、実家の折賀家でもひた隠しに隠しているが、どう過去を探って見ても清純そのものの箱入り娘で、結婚前に男の問題を持っていたなど考えられず、満ち足りた新婚半年目で、夫にも実家にも行先きを告げず家出をしてしまうなどとは、予想もつかない出来事だった。
ということは、すべての責任が結局は隅田賢也にかかって来るということだった。
5
隅田賢也の自宅は世田谷区松原にあった。縁談が急にまとまったせいもあって、3DKの建売りを買った。資金の大半は折賀家から出ていた。
箱入り娘らしく、比沙子の嫁入り仕度は豪勢なもので、よく出来ているとは言え|所《しょ》|詮《せん》は建売りのそんな家へ入れるには惜しいような調度が|揃《そろ》い、居間にはどでんとグランドピアノなどが据えられていた。比沙子は|素《しろ》|人《うと》ばなれしたピアノの名手で、結婚後もよく隅田に弾いて聞かせたものだった。
隅田はかけ値なしに優等生亭主だった。新婚早々ということでもあり、また妻が上司の愛娘で出世の特急券ということでもあれば優等生亭主は当然の事かも知れないが、それ以上に比沙子自身が魅力のある妻だった。きめの細かな白く柔らかい肌と軽い栗色がかった長い髪を持った古典的な美女で、挙措動作、物の言い方のすべてが優雅をきわめ、折賀家の厳しいしつけの中でひどく古風な考え方を身につけていたが、それでいて適度のユーモアと明るさを失わない理想的な女だった。隅田は柔らかい|肢《し》|体《たい》が自分の為にひらき、美しい指が自分ひとりの為にピアノをかなでてくれるのを、この上もなく幸福に感じていた。もちろん、比沙子が|無《む》|垢《く》な体で嫁いで来たのは、初夜に感動をもって確認している。
だから、新婚四、五か月目から、時々隅田の帰宅に一歩遅れて外出から戻るようなことがあっても、それがまさか失踪の前ぶれだとは疑っても見ず、買物に出たらお友達の誰それに会ってしまって……などという言い訳をそのまま|鵜《う》|呑《の》みに信じ込んでいた。かえって外出着のまま台所に駆け込んでいそいそと|夕《ゆう》|餉《げ》の仕度をする比沙子に新鮮な欲望を感じ、寝室へ横だきにだき運んで|睦《むつ》み合うことすら珍しくなかったのだ。
それが七月の終りの|或《あ》る日、隅田が戻っても家に灯りがなく、また例によって「お買物」かと箱入り娘の|僅《わず》かな瑕を見つけたような軽い気分で|鍵《かぎ》をあけ待っていると、八時が九時になっても戻らない。十時を過ぎると流石に腹が立つやら心配やらで、十一時には|堪《たま》りかねて、実家へ立寄ってはいまいかと品川の折賀家へ電話をかけた。
折賀家でも一応は心配したものの、比沙子の行跡には充分な信頼があって大した騒ぎにもならず、そのまま隅田が|睡《ねむ》られぬ一夜を明かした翌朝七時半、ひと晩中あけて置いた玄関のドアがひっそりとあいて、足音をしのばせるように|蒼《あお》い顔で戻って来た。
朝帰りだった。実家へも行っていないのは昨夜電話をしたから明白で、当然隅田は鋭い|叱《しっ》|責《せき》を浴びせた。……が、万にひとつも浮気|沙《ざ》|汰《た》などは考えていなかった。
ところが、万事に優雅で素直な比沙子がその朝に限ってかたくなに面を伏せ、寝室のダブルベッドの端に今にも立って出て行きたそうな様子で腰をのせている。兄が妹にするような叱責は次第に調子を変え、男と女のわけの判らない|嫉《しっ》|妬《と》まじりの|厭《いや》|味《み》になってしまった。
弁解も反論もせず、済みません私が悪いんですの一点張りにとりつく島もなく、隅田は結局暴力で和解を試みるよりなかった。純白のツーピースを着た比沙子をひき寄せ、|俺《おれ》を愛してるんだろう……愛しているならどこへ行ったか聞かせてくれ、と強引に唇を吸ったが反応がない。そんな時、男はえてして自分を無理にも燃えたたすものらしい。隅田もやはり比沙子の前では幼稚な男でしかなかった。
あらがう比沙子の白い上着をむしり取り、スリップひとつにしてベッドに押し倒すと言葉では通わなかったお互いの意志が急に通じ合うような気分になり、それからさきはこの半年間夜ごと繰り返した手順を踏んで、比沙子の体が|昂《たかぶ》らずにはいられなくなる白い肌の急所急所に舌を|這《は》わせ、充分に責め|苛《さいな》んだつもりで遂には薄桃色の|肉《にく》|襞《ひだ》に指をすべり込ませると、比沙子は|愕《おどろ》くほど|濡《ぬ》れ切っていた。
が、その瞬間比沙子は今迄隅田に聞かせたこともないようなあられもない|嬌声《きょうせい》をあげ、それからあとは全く比沙子らしからぬ|淫《いん》|蕩《とう》さで逆に隅田の官能を|翻《ほん》|弄《ろう》しはじめたのだ。隅田をくわえ、|舐《な》めまわし、吸いあげよじり締めつけて、挙句のはては隅田の肩先きに両手を突っ張って流れるような栗色の長い髪の間から、汗で輝くばかりになった見事なふたつの半球を上下に弾ませていたかと思うと、まるで野性のけもののような叫びをあげてそれをガバと隅田の胸板に押しつけ、引き続く叫びを|喉《のど》へ押し込みでもするように、左手で必死に自分の唇をふさいで鋭く|下《か》|肢《し》を|痙《けい》|攣《れん》させた。
隅田はこれ程の快楽があったのかと自分の体内の未知なものを発見させられ、一方では男を知り尽したような比沙子の痴態のすさまじさに|茫《ぼう》|然《ぜん》となっていた。
やがて体が冷えはじめ、のろのろとした動作で比沙子を離した隅田は、しどけなくひろげられた白い女体を見て、思わず声にならない叫びをあげた。
隅田の悦楽と比沙子の欲情のあかしが入り混って、朝の光りに銀色の輝きを見せる|内《うち》|腿《もも》の両側に、明らかに隅田がつけたのではない、他の男の|指《ゆび》|痕《あと》が薄桃色に染まって残っていたのだ。
しかし、その時の隅田に指痕の理由を問いただす気力はなかった。比沙子に一方的にもてあそばれたという、男としては奇妙な敗北感にとらえられていたのだ。そして、比沙子をここ迄導いた未知の男に、同じ雄として言い知れない怖れを持ったのだった。
その朝遅く、言葉少なに出社した隅田は、帰宅して比沙子が姿を消しているのを知ったとき、なぜかひどく当然のような気がした。
6
七階の設計第四課に戻った隅田は、現在自分の置かれている立場を|反《はん》|芻《すう》していた。
同じサラリーマン同士の間での問題は、今後を手がたく処して行けばどうにでも乗り切れると思っている。しかしこと比沙子に関する限り、なんとも手の打ちようがないのだ。
比沙子の失踪がどこかの男に関係しているのは疑う余地がない。それはあの朝見せつけられたいまわしい指痕ではっきりしている。その位置に男の指の力が加わる体位を、隅田自身過去に比沙子以外の女で経験している。
つまり比沙子は夫以外の男と性交渉を持っていたということだ。しかしそれは断じて結婚以前からの関係ではない。隅田自身の体が半年前にそれを確認している。
となると、結婚以後……多分家を留守にしはじめた五月か六月頃からのことだ。だがそれを証明するものは何もない。まさかあの白い内腿に残っていた薄桃色の指痕のことを、実の親である折賀夫妻に言うわけには行くまい。
折賀夫人はもともとこの結婚には反対だったと聞いている。隅田がとうに両親をなくし、兄弟もたしかな親類もない貧しい育ちの男だからだった。今どきそんなことが反対の理由になろうとは思いもしなかったが、あとで隅田は折賀家の実態を知って、なる程と感じた。
専務の折賀弘文が見せる近代性は飽くまで処世上のことであって、裸の姿は|曾《そう》|祖《そ》|父《ふ》の代から名家意識の強いかなり封建的な性格なのだ。折賀夫人はそれに輪をかけたヒステリックな女性で、女中が長く居つかないのと、とかく夫人の意志が折賀専務の行動を左右しがちなのは有名なことらしかった。一男三女の子供達があるが、出入りの人々に愛されるのは末娘の比沙子だけだとも聞いている。それだけに、折賀夫人の今後の出方が気にかかるのだ。
比沙子が戻って以前の素直さで謝罪し、両親に家出の理由を説明してくれれば一番いいが、実家の力で発見されて理由を伏せたまま離婚ということにでもなれば立場はひどく悪化する。最悪なのはこのまま事が表面化するまで行方が判らずにいることだった。どう探っても結婚前の比沙子が潔白な以上、原因は当然隅田の行跡に求められる。ふたつばかり若気の至りの浮名をたてたこともあり、比沙子は憐れな被害者ということになってしまう。
暗い表情で|椅《い》|子《す》の向きを変え、背後の五角形の窓から空を眺めた隅田は、飯倉の高台あたりに視線を移しながら、この東京のどこかに比沙子が隠れているのだ、と思った。
将来のことや社内での立場は別にしても、あの優雅な比沙子を一日も早く取り戻したかった。出来ることなら血相変えて探しまわりたいのだ。しかし折賀家の意向でそれは止められている。いま折賀家は金に飽かせて探索している最中なのだ。下手に隅田に動かれて表面化するのを|惧《おそ》れているらしい。
大きな機構をあやつる勢力家の一角に、柄にもない名をつらねたばかりにひどくみじめな人間になりさがってしまったような気がしていた。そして、そんなところから脱け出したいと思った。
気をとり直して仕事に戻り、デスクに積まれた書類に手をのばした。屋島と会っている間に届いた郵便物が四、五通あり、その中に暑中見舞の端書が一枚混っていた。厚手の印画紙を切ったもので、黒のマジックインクで一行、暑中御見舞申上候とあった。差出人は旧友の伊丹英一で、裏を返すとモノクロの写真だった。
隅田の暗い気分が少し明るくなった。ひどく懐しいものが写っていたからだ。いかにもずしりと重そうな|壺《つぼ》で、注ぎ口のあたりに|精《せい》|緻《ち》な|梟《ふくろう》の浮彫りがあった。学生時代、隅田はアトランティスの|謎《なぞ》に熱をあげたものだった。
7
「くそ面白くもねえ」
会沢はそう言ってバーボンの水割りを一気にあおった。質のいい|硝子《ガラス》に角氷が当って、チリチリンと澄んだ音をたてる。
「英建設もやるもんだな」
隅田が沈んだ言い方をした。
「そりゃ、こっちがノシてるときは俺だってかなりきついことをした。が、さて逆にやられて見ると情ねえもんさ。社員の三百や四百どうにでも食わしていけると思ってたが、こうなるとそれも怪しいもんだ」
会沢が投げ出すように言う。
「何とかしてやりたい。いや、ここで何とかするのが俺の役目だ。しかし……」
「そうなのさ。問題はふたりいっぺんに具合が悪くなっちまったことさ」
夏木建設から歩いて七分ばかりの所にあるHホテルのバーは、イタリーの観光客らしいにぎやかな一団でざわついていた。
「どうする気だ」
隅田が|訊《たず》ねた。会沢は大きく指を鳴らせてボーイを呼び、「ブランデーにしよう」と言ってから、テーブルの上に|両肘《りょうひじ》をついて隅田の顔をのぞき込んだ。
「たたかうね。それ以外に俺には方法がない。仮りに人員整理をしなければならなくなっても俺はとことんやるよ。……あんた|喧《けん》|嘩《か》の好きなタチじゃないだろう」
「ああ、好かんね」
「だろう。でもよく考えて見ろよ。喧嘩の嫌いなあんたでさえ、時にはこの俺が感心するほどしつっこくたたかうじゃないか」
「俺がかい」
「そうさ。今井さんと一緒になって夏木にシステム化とやらを持ちこんだときなど、見てるこっちがはらはらした。結局は勝って課長にとびあがった」
隅田は苦い顔でグラスを口に運ぶ。
「あれは喧嘩とは言えんよ」
「言葉はどうあれ、たたかったことに変りはないさ。そこへ行くと俺は根っからの喧嘩屋だ。もともと会沢一家と言えば江東方面じゃこわもてのする……俺はそこの四男だ。小さい時から喧嘩の連続で、こうして社長でございますと|綺《き》|麗《れい》な口のひとつも聞くようになったって、やってることは相変らずさ。それ以外に生き方を知らねえんだ」
「そうかな」
「そうさ。敗けるのは嫌いだ」
運ばれたブランデーをボーイの手から奪うようにしてひと口飲むと、「一人になってもたたかうぜ」と言った。|瞳《ひとみ》に張りのある光が宿り、パンチをくらって逆にやる気を起したボクサーのような、どこか子供っぽい表情になっている。
「だからあんたも敗けないで欲しい」
隅田は水差しの肌についた露を人差指でなぞっていた。
「俺もやられっ放しは困る」
そう言ってかすかに笑った。
「それならやれよ。あんたと俺ではやり方が違うのは判ってる。俺のはゴリ押しだけだがあんたには頭がある。足して二で割れば理想的なんだ。だから二人で組めば敗けっこない……」
「そううまくいくとは限らんぜ」
「いく」
会沢は|叱《しか》りつけるように言った。「比沙子さんの方はきっと探し出してみせる。あんたが動けなくても俺には人一倍よく効く鼻と耳がついてる」
それは事実だった。かつてダークサイドで青春を過した会沢には、隅田の想像もつかないような特殊な情報網があった。だからこそ見込んで比沙子の|失《しっ》|踪《そう》を打ちあけ、探索を依頼してあるのだ。
「実家に先手をとられたくない」
「そうだろう」
会沢はギョロリと眼をむいて言った。
8
涼しすぎるほど冷房のきいたHホテルのバーで、ほんのり酒がまわりはじめた頃、会沢はあらたまった姿勢に|坐《すわ》りなおした。
「あんたは思ったより|迂《う》|闊《かつ》な男だな」
隅田はそう言われて笑った。
「迂闊さ。女房に逃げられるくらいだ」
「そうじゃない。仕事のことだ」
「仕事の……」
「今井先生をどう思ってる」
「恩師だ。今だって大切に思ってる」
会沢は|嘲《あざ》けるように鼻を鳴らした。
「当り前なことを……だが人間というのはひとつの顔だけじゃ暮せないぜ」
「どんな顔をすればいい」
隅田はケントをくわえてホテルのペーパーマッチを擦った。小さな赤い炎が一瞬顔を染めて消える。
「今井先生を別な見方で言おうか」
「権力亡者……」
隅田はつとめて表情を変えないように、平然と言って見せた。
「それさ。俺達は今井天皇の一族だ」
「皇族か」
「でもいいさ。だが今井先生はほかの連中からそう言われてたんだ」
隅田は上体を起して身構える姿勢になった。
「あれは問題が違う。今井さんがそうした非難を受けたのは信念があってのことだぜ」
「どんな」
会沢はうそぶくように言った。
「ピラミッドの昔から、建築は権力そのものだった。その鉄則は未来|永《えい》|劫《ごう》変らないんだ。建築家ほど自主制作のきかない商売はない。クライアントのオーケーなしには階段一段作れやしないんだ。理論ばかり言ったって、モノを作って見せなければどうにもならん。今井さんは自己主張の為に権力と接近した。発表の場を得る為にはそれしかないと結論していたんだ。今井さんの建築は、だからいつでもその時代の権力を象徴していた。中途半端な世の為人の為みたいなお為ごかしは決して言わなかった。たとえ共産党がビルを建てたって、それは共産党の権力を象徴してしまうんだ。仮りに庶民の総意でビルが建ったとすれば、それはその時代の庶民の権力を象徴するんだ。今井さんは権力者のモニュメントを建てつづけた人なんだ」
「理屈はどうでも、いつも権力にとり入ってうまく泳いでいたという見方は消えない」
「言うほうと言われるほうの考え方の相違だ」
「だから言うほうに一度まわってみろ。俺はどっちだって平気だ。喧嘩に勝てればいい」
隅田は急に何かに気づいたようだった。しばらく煙草をふかし続け、会沢はそれをじっと見守っている。
「判ったよ。実は今日白日書房の編集長が訪ねて来たんだが、その時ちょっと妙な気がしたんだ」
「妙というと、どんな」
「つまり俺は案外今井さんのことを知らなかったんじゃないかということさ」
「うん」
会沢は弟を見るような眼で言った。「今井先生は何かを握っていたんじゃないかな。かなりあくせくもしただろうが、天皇と呼ばれる程の立場になるについては、そのあくせくした道筋でいろんなものを拾い集めた|筈《はず》だと思うんだ。そのためにだんだん権力に食い込んだ。前の総理大臣から個人的に土地を贈られたりしているが、権力を持ってる連中の弱味を握ってそれを利用していたとしたらどうなる……」
「だが一体何を握っていたというんだ」
「そいつは判らねえ。でも、東日銀行と並々でない関係があったのはたしかだぜ。東日を|掴《つか》んだ者が政権を取るとまで言うじゃないか」
二人はそれっきり黙りこんで酒を飲んだ。
9
「で、どうしろと言うんだ」
隅田はだいぶたってからそう訊ねた。
「つまり……」
会沢はしばらく言葉を探すようにして「遺産相続なんだ」
と答えた。
「遺産……」
「うん。何かを掴んでいたとすれば、そいつは今井先生でなくても使えるものじゃないのかな」
「権力を握っている連中が知られたくないようなことならな」
「ひと財産だろう。……それを相続する」
「秘密を探れというのか。どうやって」
すると会沢はじれったそうに|右《みぎ》|膝《ひざ》で貧乏ゆすりをはじめた。
「あんたは白日書房にも顔がきく。松濤町も出入りご免の身だ」
「そうか、あの書庫だな」
隅田は椅子の背にもたれ、体を斜めにして髪を|掻《か》きあげた。時の権力を巧みに利用して常に発表の舞台を得、第一人者の地位を保ち続けた今井潤造が、もしそんなものを隠し持っていたとすれば、その証拠は今井自身の頭の中か、さもなくばあの土蔵のような書庫にあったに違いないのだ。今井が骨となった現在、探すとすれば書庫しかない。
「夏木の経営状態はここのところそう良くないらしい。東日系の発注が目に見えて落ちて来ていると言うじゃないか。俺のところが苦しいのも英建設の|横《よこ》|槍《やり》ばかりではないんだ。夏木の受注残が減っているのが問題なんだよ。東日と夏木のパイプをつないだのは今井先生の仕事で、その先生が死んだら縁が薄くなりはじめてる。……どうだ、折賀弘文があんたに娘をくれるつもりになったのも、今井先生の持っている東日への陰の発言力が欲しかったからとは考えられないか」
「どうかな。そんな考え方をしたことがなかったから」
「|尻《しり》に敷かれてるんで有名な品川の|旦《だん》|那《な》が、奥方の反対を押し切って比沙子さんをあんたと結婚させたのも、案外その辺の事情かも知れねえよ」
会沢は折賀専務を品川の旦那と呼ぶ。その品川の豪邸で、見事な白髪を揺らせながら今井潤造が東日グループの|厖《ぼう》|大《だい》な設備投資をえさに、自分の縁談を進めていたのかと思うと、隅田はいやに白けた気分になった。
「遺産相続でもするか」
その気分を打ち消すように言って見ると、思ってもいなかったファイトのようなものが|湧《わ》いて来た。世間も自分のことを今井の後継者だと言い始めているではないか。海外での評価もますます高くなって、それが逆輸入の形で国内にも影響して来ている。今井の|辿《たど》った栄光の道を自分も歩いて行ったらどうだ……野心が激しくふくれあがった。
会沢は隅田のそんな表情の変化をたのしむように見ていた。
「やろう」
その言い方はことし四十歳の社長の身にしてはひどく若々しく、大学の運動部員のように明快だった。
「よし来た」
何週間ぶりかで隅田は張りのあるものを感じていた。会沢の調子に合わせて勢よく答え、そのあとで照れたように笑った。
「話はきまったな。これで明日から俺も目標ができた。これがモノになれば絶対敗けねえぞ。……うん、敗けるもんか」
会沢はごつい手をテーブルごしに伸ばし、隅田がその四角ばった五本の指を握った。
「前祝いに乾杯といこう」
「駄目だ、こんな所じゃ。河岸を変えようじゃないか。今井先生ゆかりの銀座の|茜《あかね》へ行こう。やはり女気がないとどうも気分が出なくていけねえ」
10
Hホテルのバーを出た隅田と会沢は、正面玄関のタクシー乗場にできた短い列のうしろについた。
ムッとする夜風の中に立っていると、白く乾き切った舗道の上にポツリポツリと黒い点が|滲《にじ》みはじめた。
「降って来たようだな」
会沢は何も見えない夜空を見あげた。遠くで雷鳴がはじまっている。「車を帰しちまったんだ」
言いわけのようにつぶやいた。
だいぶ待たされてから二人はタクシーに乗った。
「銀座の八丁目……」
あとから乗りこんだ会沢がそう言うと、柄の悪そうな運転手は嫌な顔で何か言いかけたが、会沢を見ると何も言わずに走り出した。
こういった連中の|嗅覚《きゅうかく》のようなものに、会沢の経歴が敏感に反応するらしい。
ホテルの坂を下ってタクシーが車の流れの中に入ると、会沢は少し口ごもるように、
「比沙子さんのことなんだが……」
と言った。
「なんだい」
「手掛り……なんだがね。実はこの間から何度も考えて見たんだが、手掛りが全然ないというのは本当なんだろうな」
「本当だ。手紙もメモも何も残していない」
会沢はうなずいて、
「それはそうだろうが、何か見落してはいないか。俺のほうも早く見つけ出したいんだが、手掛りがまるでないとな……女というのは男なら|棄《す》ててしまうようなものまで、なんとなく残しているもんなんだがな」
稲妻が走って車の中が青白く光った。運転手はワイパーを動かしはじめた。
「俺だって家中ひっくり返して見たさ。だが電話番号ひとつ見つからなかった」
稲妻の間隔が短くなり、急に頭の上で烈しい雷鳴がした。雨が|叩《たた》きつけるように降り出し、急ピッチで動くワイパーの間から、よじれた水の流れで前の車のテールランプが|歪《ゆが》んで見えている。会沢は横の窓に顔をむけ、こもった声で言った。
「|紙《かみ》|屑《くず》の中に映画や芝居の切符の切れっぱしなどなかったか」
「ない」
隅田はそう答えて軽く下唇を|噛《か》んだ。
「料理屋や喫茶店のマッチは……」
言うほうも言われるほうも、余り気分のいい会話ではなかった。雨と雷鳴はますますひどくなり、とりわけ大きいのがひとつ、ビリビリッと車の窓をふるわせてすさまじい音をたてた。
隅田が答えずにいると会沢は諭すように言った。
「女の相手は男、男の相手は女……こんな時女の気持ばかり考えて見たところで俺達男には結局何も判りはしないもんだ。相手の男の身になって考えて見るんだ。男ならこっちとそう変りやしない」
「どういうことだ」
「浮気に酒はつきものさ。あれ程のひとの相手がまさかいつも公園のベンチじゃあるまい。どこか落ち合う場所がある。しかもそれはいつも同じ場所の筈だ。そうじゃないか」
隅田はなる程と思った。
「そう言えばそうだな」
「女は|惚《ほ》れた男の煙草の火なんかを喜んでつけたがる……気にするならしろ」
会沢はすてぜりふのように言った。その言い方がかえって隅田の気を軽くしたようだった。
「マッチか。喫茶店やレストランの……」
「マッチはこんな時一番の手掛りだぜ」
「そこまで細かく考えなかったが……」
「何かないか。弱音を吐くわけじゃないが、今のままではどうにも手掛りがなさすぎる」
会沢に言われて隅田は考え込んだ。比沙子に家出をされ、われながら浅間しい|恰《かっ》|好《こう》で家中を調べまわった記憶が苦々しくよみがえって来た。
「そうだな」
しばらくしてから隅田は口をひらいた。「ふたつだけ、あると言えばある。ひとつは仰せのとおりマッチだ。たしかまだどこかにある筈だが、俺の行ったことのない店なので少し気になっていた」
「場所は、名前は……」
会沢はせきこんで訊ねた。
「名前はたしかクラブ赤いバラとか言ったな。場所は判らん。多分電話番号だけは刷り込んであったようだが」
「明日にでもその番号を連絡してくれ。で、もうひとつは」
「三面鏡の|抽《ひき》|斗《だし》に細い銅線を|捲《ま》いたのと赤い豆電球がひとつ……」
「銅線と豆ランプ」
会沢は隅田をのぞき込むように言った。雷鳴の中を車は新橋に近づいていた。
第三章 赤い酒場
1
その部屋には薄茶色の|絨緞《じゅうたん》が敷いてあった。黒いレザーの応接セットが置いてあり、ドアに近い壁際にはダイアルのついたスチール製のロッカーがふたつ並び、三つ並んだ窓の中央に低いサイドボードがあって、その上に灰色の電話がのっていた。電話のコードは窓際の壁にそって、薄茶色の絨緞の上をだらしなく伸び、部屋の隅のコンセントにつながっている。
部屋の主の国会議員は黒いソファーに腰をおろし、|左肘《ひだりひじ》を|膝《ひざ》にのせて自分とほとんど同じ年輩の男の顔を見あげていた。|猪《い》|首《くび》の精力的な国会議員とくらべると、どことなく精気のないのっぺりした|風《ふう》|貌《ぼう》のその男は、紫色の四角い風呂敷包みをテーブルの上に置いたところだった。
「すぐ受取りに見えるそうです」
秘書は立ったまま言った。国会議員はいまいましそうな顔になった。
「|儂《わし》が渡さねばならんのか」
「そうしていただきます」
秘書の|瞳《ひとみ》にはあいまいな光があって、それも次のまばたきのあとで消えてしまう。
「お前のすることは判らん」
「お判りにならないほうがお得なこともあります」
国会議員は鼻を鳴らして煙草に火をつけた。
「しかしこれを持って来た|奴《やつ》は知っているぞ。新宿の真名瀬玄蔵だろう」
「はい」
秘書はかすかに冷たい微笑を浮べた。
「中身は何だ」
「|骨《こっ》|董《とう》|品《ひん》とか聞いております」
国会議員はまた不満そうに鼻を鳴らした。
「役にたつのか」
すると秘書はかなり高圧的な態度で、
「たちます」
と答え、相当な金額を口にした。「この受け渡しに関係していれば将来も似たようなことで腕をふるわれる機会があると思います」
「何か知らんが、儂はここにいればいいんだな」
「はい」
秘書は軽く頭をさげると、いやに慎重な足さばきで部屋を出て行った。国会議員は四角い風呂敷包みにちょっと手を伸しかけ、思い直すと立ちあがって窓のところへ行き暮れはじめた議事堂のとがった屋根を眺めた。
四、五分した頃客がやって来た。かなりの長身を白っぽいダブルの背広でつつみ、角張ったふちなしの眼鏡をかけた男だった。この部屋にはじめて姿を見せる男だが、国会議員は顔を知っていた。政治家でも官僚でもない。ただ漠然と大蔵大臣の関係者ということだが、この部屋のあるじなどが及びもつかない高いレベルで動いている男だった。
「頂いて帰るものはこれですな」
男は無造作にテーブルに近寄ると紫の風呂敷包みを指さした。国会議員は|気《け》|圧《お》されて動揺する心を、秘密めかした表情でつつみかくし、黙ってうなずいた。
「お手数をかけますな、いろいろと」
そう言うと男は左手で風呂敷包みを持ちあげようとしたが、意外な重さに顔をしかめた。「これは重い。まるで金を運ばされた時のようだ」
そう言って笑う。
「あ、お待ちください。誰か呼んで運ばせましょう」
「いや、それは迷惑。ここから先きは……」
と両手でかかえあげ、「私の領分です」と言った。「折りがあったらその内メシでも食いましょう」
「ぜひ……」
2
天井が低く、空気は熱く湿っていて、やけに足音の響く大きな部屋だった。隅に赤く|錆《さ》びた鉄の階段があり、その上に赤い裸電球がついていた。三人の男がいて、彼らは純白のデコラを張った長方形のテーブルに集っていた。頭の上からモーターの|唸《うな》りが聞え、消毒液の強い|匂《にお》いの中で三人とも額に玉のような汗を浮べていた。一人は白髪の|痩《や》せた老人で、もう一人は律気そうな小さな眼をした貧相な男、そして三人目は引き締った体つきの美男子だった。
白髪の老人は紫色の風呂敷を丁寧にたたんで白いテーブルの端に置くと、口許を緊張させて四角いケースの留め金を外した。
「灯りを全部つけてくれ」
老人に言われて|逞《たく》ましい美青年が壁にむき出しになっている開閉機をあげると、部屋の中はしらじらしい光で|溢《あふ》れ、青年は左腕をかざして|眩《まぶ》しそうに戻って来た。
「これがクロノスの|壺《つぼ》だよ。よく見て置くがいい」
老人はそう言って|惚《ほ》れぼれと暗褐色の壺を眺めた。不安定な姿をしたその土の壺の胴から口にかけて、|梟《ふくろう》が一羽今にもとび立ちそうな精巧さで浮彫りになっている。
「間違いない。これは本物のクロノスの壺だ」
そう言ってため息をついた老人は、小さな眼の男に向って、「やれるかな」と|訊《たず》ねた。
「ええ、これなら自信があります。しかし場所は間違いないんでしょうね」
男は貧相な顔つきにも似ず、案外はきはきした言い方で答えた。
「それは心配ない。この梟の背中の部分に隠されている|筈《はず》だ」
男は右の人差指に|唾《つば》をつけ、それを壺のへりに押しあてて乾き具合を見た。
「それにしても相当変っていますね。こんな材質はちょっと日本には見当りませんよ」
「それはそうだろう。|埴《はに》|輪《わ》や須恵器とは訳が違う」
「土器の補修をはじめて二十年になりますが、ベルビーカーを手がけるのははじめてですよ」
男は|嬉《うれ》しそうな表情で言った。
「|流石《さすが》だな。ルーブルに招かれただけのことはある。これがベルビーカーだとよく判ったものだ」
「書物で見ただけです。鐘形土器の変種とされていて、たしかシュリーマンがトロイの第二層で発見したのが最初でしたね」
「しかしあれは青銅の壺だ」
「ええ。全く面白い壺です。胴にフェニキア文字でアトランティス王クロノスより、という銘が入っていたのでしょう」
「ベルビーカーはヨーロッパの巨石記念物に普遍的に伴出する。つまり巨石記念物を造築した民族が鐘形土器文化のにない手でもあるというのが定説になっている」
「しかし本当にこの梟の中からアトランティスのタブレットが出て来るんですかねえ」
男は自分の道具箱の|蓋《ふた》をあけながらそう言った。「何だかいまだにかつがれているような気がして……」
老人は忍び笑いをはじめながら大きなハンカチを出して額の汗をぬぐった。
男は慣れた手つきで薄い鋼を操り、壺の丸味に添って梟を胴から切り離しはじめた。沈黙の作業が続き、二人がそれを見守った。
「あります。何か入っています」
男が手をとめて|嗄《しわが》れた声で言った。白髪の老人はとびつくように壺に近寄って、切り口から|覗《のぞ》くまぎれもない金属の輝きを見た。
「オリハルコンがあった。すぐに来てもらえ」
老人は潤んだ瞳でそう命じた。青年は靴音を響かせて鉄の階段を駆け登った。
鉄の揚げ蓋をきしませて青年が姿を消して間もなく、Q海運極東総支配人のヤズディギルドが赤い光を浴びて降りて来た。
3
夜の新宿|歌舞伎町《かぶきちょう》へ足を踏みいれるたびに、隅田賢也はいつも黒く光っているようだと感じた。どの通りも昼のように光が溢れているが、そのくせ東京の盛り場でいちばん夜の暗さを忘れさせないのだ。
今夜も|角《つの》|筈《はず》の広い通りを渡るとき、行手の一角が黒々とした光を放っているような感じにとらわれていた。
白日書房の屋島は先きに行って待っている筈だった。ふた晩続けて|呑《の》み歩くのは久しぶりのことだったが、こうしてネオンの中を歩いていると以前遊びまわった頃の勘のようなものが戻って来て、屈託のない独身時代を思い出すのだった。
前の晩会沢に言われた今井潤造のことが、あれ以来頭にこびりついて離れない。会沢の言う通り、今井のとび抜けた活躍ぶりの裏には、何か手品のタネのようなものがあったのかも知れないと疑い出していた。それに、晩年の今井からまるでひとりっ子のように可愛がられたにしては、今井に関する細部を知らなさすぎたと反省もしている。
屋島に原稿を渡したとき、宗教に関する|厖《ぼう》|大《だい》な資料を残していたと聞いて、かなり|辻《つじ》つまの合わないものを感じたのだ。たしかに今井は宗教建築にヒントを得たと思われる作品を残しているが、生前の言動からするとあく|迄《まで》ヒントを得た程度のことで、それ程厖大な資料を集めて念入りに構想を練ったものではなかったように思えたのだ。
それが|若《も》し継ぐに価する秘密なら、この際是非とも自分の手に握らねばならないと考えはじめ、ちらっと聞いた石川の推理とかいうのを、もっと詳しく屋島の口から知らせてもらおうと思っていた。
通りを渡って区役所通りの一本手前にある細い道を進んで行くと、突き当りに近い右側に、|柘《ざく》|榴《ろ》、という看板が光っていて、その下の部厚い木のドアを押すといかにも新宿らしいなれなれしい言い方で、いらっしゃいませ、というバーテンの声がした。
入口から奥へカウンターが伸びていて、十幾つかあるスツールのうしろを通り抜けると、そこから先きが少し広くなり、テーブルが六つばかりあった。
屋島はいちばん奥のテーブルで呑んでいた。
「そら、スポンサーがお見えだ」
屋島は余り強くない。そのくせこうした席が好きで、酒がまわると昼間の神経質な性格とは別人のように快活になる。
「すっかり待たせたようで」
そう言って席につくと、屋島はこの店のマネージャーのような態度で、やれおしぼりだ、飲み物はどうすると、大きな声で世話を焼く。
そこへママの伸代がやって来て隅田のとなりに浅く腰をおろした。
「そうだ、きのう会沢君と|茜《あかね》へ行って来たよ」
隅田はホステスにビールを注がせながらそう言った。柘榴は去年の暮れに開店した店で、ママの伸代は銀座のクラブ茜のホステスだった。クラブ茜は死んだ今井潤造がひいきにしていた店で、柘榴へ来るようになったのも開店祝いに今井潤造が大一座をひきつれて押しかけたのがきっかけだった。銀座の茜ほど高くなく、自前で飲むには手頃な店だった。
「茜と言いますと……」
屋島に訊ねられて隅田は説明した。
「ママはもと茜にいたんだよ。金をたっぷり残したんでここへ独立したわけさ」
「うそ借金ばっかりよ」
伸代は笑いながら言った。「早く返したいからどんどん飲んで|頂戴《ちょうだい》」
4
「するとこの店のデザインはママの好み……」
屋島ははじめて気づいたように店の中を眺めまわした。
「というより、前にいた店を懐かしんでのことだろうな。そうだろう、ママ」
隅田が言うと、
「だって、ここは茜の支店みたいなもんですものね」
と伸代は大きな|瞳《ひとみ》を色っぽく動かして答える。
「やはりその店もこんな赤い店ですか」
屋島の言うとおり、柘榴も茜も赤一色で店内をまとめた、ちょっと風変りな感じの店だった。床には真紅の|絨緞《じゅうたん》を敷きつめ、壁も|臙《えん》|脂《じ》の|布《ぬの》|貼《ば》りで、天井に|滲《にじ》んだような光を投げている間接照明も赤を使っていた。カウンターの下とスツールが赤のビニールレザーで、カウンターの上は赤いデコラ貼りだ。
「昔は赤一色というのはジンクスがあって避けていたんだが、当てにならんもんだね。茜も柘榴もこうして繁昌してるじゃないか」
「だといいんだけど」
そう言った時、どやどやと新しい客がやって来て伸代は立って行った。
「とに角ここはいい。美人ぞろいだ」
屋島は隣りのホステスの肩をだいて言った。それは満更お世辞ではなく、たしかに茜と言い柘榴といい、粒よりの美女ばかりを|揃《そろ》えていた。
「ところで屋島さん、きのうちょっとお話に出たお宅の石川君のことなんだけど」
「石川……あいつが何か」
「別に大したことじゃないんだが、松濤町で何か発見をしたとか言ってましたな」
すると屋島は大げさに笑って手を振り、
「弱ってるんですよ、あいつには」
と言った。「何しろ夢みたいなことばかり言い出すんで」
「どんなことです」
「馬鹿馬鹿しいですよ」
「いいじゃないですか。聞かせてくださいよ。面白そうだ」
屋島はビールで|喉《のど》をしめしてから大きな声で|喋《しゃべ》りはじめた。
「いえね、今井先生の遺稿整理に、役には立たんでしょうがウチにも義理みたいなものがありますんで、まあ言って見れば連絡係のようなことをさせてたんですが……ご承知でしょうが先生は宗教関係の資料を集めておられたそうで、そのほうはJ大の方々も余り重要視しておられなかったようなんです。ところが石川って|奴《やつ》は、みんなが手をつけないものに限って面白がるヘソ曲りなところがあるんですよ。自分でコツコツ調べはじめている内に、妙な方向へ突っ走ってしまった……」
屋島はそこで体をのり出した。「それがあなた、十三世紀ごろ|蒙《もう》|古《こ》軍に滅ぼされた暗殺教団のことなんです。あまり詳しいことは覚えていませんが、今のハシッシュ……いえ、マリファナですか、そんなものを回教の|掟《おきて》に|叛《そむ》いて吸飲させたり、同じ回教徒でも邪魔になると片っぱしから暗殺したりする大した異端派だったそうですね。それが本当は全滅せずに生きのびて一時はスペインあたりにかくれ、今はギリシャ正教に紛れこんでギリシャのどことかに本拠地を置いているっていうっていうんです」
「どうしてそんな結論に達したんだろう」
「今井先生は資料にしおりのようなメモを丹念にはさんで居られたようですが、それをつなぎ合わせたんだそうです。その方面はフランスの文献が多くて、|奴《やっこ》さんはフランス語なら得意なもんですから」
「なる程、それで……」
「いくら文献があっても、地下に身をひそめた秘密結社の記述がそうやたらあるもんじゃない。ところが宗教にはシンボルがつきもので、偶像否定の徹底した回教では、建築様式がそのシンボルに当るんだそうです。それに異端派ほど特殊なシンボルを大切にするそうで、建築の専門家の眼から見ると宗教研究家以上にその辺のことが判るらしいんです。そんなものですかね」
隅田は黙って屋島を見つめていた。
「とまあそんなわけで、今井先生は暗殺教団の本拠地が二百年ほど前からギリシャに移っているとお考えだったというんです。そこまでは満更でもないんですが、そのあとが大変なんですよ」
「どう大変なんです」
「例のケネディ暗殺事件ですが、あれと結びつけちまうんです。いえ、石川は今井先生がそう考えていらしたというんです」
「暗殺教団がやったと……」
「ええ。大統領の未亡人が大金持のギリシャ人と再婚したでしょう」
屋島はQ海運の首脳の名を口にした。
5
いつの間に戻って来たのか、気がつくとママの伸代が隣りに|坐《すわ》っていて、隅田にビールを注いでいた。だがグラスに注がれるビールの泡を見つめている隅田は、一瞬周囲の物音が遠のいて行く思いで、屋島が口にした名前を|反《はん》|芻《すう》していた。
Q海運はその人物が作りあげた強大な国際企業だった。政情の不安定な中近東を背景に、瞬く間に巨億の富を築きあげ、原油の輸送権を握って西側先進諸国の巨大企業と手を結び、今では多国籍資本の怪物的存在となっている。
おどろおどろしい中世の邪教が生きのびて、米大統領暗殺事件にからんでいるというのは、どう考えても突飛すぎる話だが、その筋道の突き当りにQ海運が現われたのが隅田には気になった。
Q海運が東日グループとつながりを持っていたからだ。そして東日グループと今井の関係をつきとめるために、その手はじめとしてこうして屋島と会っているのだった。
「何を考えているんですか」
屋島はニヤニヤしながら言った。「あんまり突拍子もないんで|呆《あき》れていらっしゃる」
ホステス達にそう言い声をあげて笑った。
Q海運と今井潤造の間の図式を頭に描いていた隅田は苦笑しながらグラスをテーブルに置いた。
「なる程面白い話だ。しかし石川君の飛躍にも幾らか筋の通ったところがありはしませんかな」
「ほほう、隅田さんがそうお考えとは意外ですね。いや、こいつは愉快だ」
屋島は調子に乗って弾んだ声をだした。
「今井さんが東日銀行の会長とごく親しい間柄だったのはご存知でしょう」
「東日銀行の……ああ三戸田会長ですね。ええ知っていますよ。たしか先生のお通夜にも駆けつけていらっしゃったとか」
隅田はうなずいて苦そうにビールを|呑《の》んだ。喪服姿の比沙子を思い出したからだ。黒い和服に髪をきりりと結いあげた比沙子は、見慣れた隅田でさえはっと息をのむほどの美しさだった。
「三戸田会長は東日グループの最高責任者で、今井さんとはごく親しくしていた……」
「ええ」
「東日グループで最も重要な会社は……」
「東日銀行、東日商事、それに東日重工」
「その東日重工はこの数年間連続して世界の造船トン数第一位にランクされている」
「それで」
屋島は|怪《け》|訝《げん》な顔をした。
「東日重工の海外での最大の発注者はどこだか知っていますか」
「さあ、そっちの方は全然暗いもんで」
そう言って頭を|掻《か》いた。
「Q海運ですよ」
すると屋島は急にケタケタと笑い出した。
「また……隅田さんまで石川の肩を持つんですか。しかし見事に今井先生までつながりましたな。全く今夜は愉快だ」
隅田はちょっと白けたように左手で|頬《ほお》を|撫《な》でた。Q海運の秘密を握って東日重工と結びつけ、その力を背景に建築界に君臨していたと考えたらどうだ……そう口に出かかったが、全くの座興として笑いこけている屋島を見ると、そんな仮説が自分でも馬鹿らしく思えた。
「いくらなんでも話が飛躍しすぎましたかな」
「いや、そんなことはない。そんなことはありませんよ」
屋島は笑いながら言い、ビール瓶を持つと隅田のほうへ傾けた。「石川がいないのが惜しいみたいなもんですな。あいつを連れて来ればよかった。まだ松濤町にいるらしいですよ、今夜は……」
ビールのかわりを取りに伸代が立った。
6
彫りの深い褐色の肌に、うっすらと汗が|滲《にじ》みはじめていた。
「ここは暑すぎるし、それに……」
ヤズディギルドは顔をあげてあたりを見まわした。
「|匂《にお》いますかな」
白髪の老人が言った。「何しろ冷房は地下二階までですから」
ヤズディギルドは五センチ角ほどの白く光る金属片を左の|拇《おや》|指《ゆび》と人差指の間にはさんで、もう一度眼を細めて眺めた。
「|無《む》|瑕《きず》でいてくれればいいが」
「全くですな」
そう答えてから若い男に向って「すぐに|梟《ふくろう》を元通りにしてもらうんだぞ。なるべく早いほうがいい」
と言った。
ヤズディギルドはポケットから白いハンカチを取り出すと丁寧に金属片をつつみ、内ポケットへ慎重に落し込んだ。そして老人の肩に手をまわして部屋の中央へ連れて行く。老人の眼はヤズディギルドの胸のあたりまでしかない。
「|狼《おおかみ》を走らせて見たそうだな」
低い声で|喋《しゃべ》る。
「ええ。六秒二でしたよ」
老人も低い声で答えた。
「邪魔が入ったのか」
「ただのこそ泥です」
「調べたのか」
「よく調べました。刑務所を出たばかりの男で、十年来孤独なくらしをしていたようです」
「始末は」
すると老人は黙って眼を伏せた。その視線のさきには畳一枚分ぐらいの鉄板が床にはめこまれていた。
「そうか、それなら完全だ」
ヤズディギルドは満足そうにうなずいた。
「|壺《つぼ》が直り次第、彼にもここへ入ってもらわねばならんでしょうな」
「すべて完全に、だ。どういう男なんだ」
「文部省の下級職員です」
「まあいいだろう。君らはうまくやっている。まかせて置くよ」
老人は少し声を高くして振り向いた。
「うまく行っているのは呂木野のせいです。彼は大したもんです。わたしなどもう齢ですから」
「暑いな、ここは」
ヤズディギルドは白いテーブルに戻ると、切りとったばかりの梟をつなぎ合わせる作業をはじめた男の肩ごしに壺を眺め、ちょっと肩をすくめるようにして階段に向った。
鉄板を踏んで揚げ|蓋《ぶた》の上へ出ると、きちんと上着を着た男が四、五人待っていた。
「席へ戻る。今夜はもういい」
ヤズディギルドが言うと、男達は軽くうなずき、その中の一人が素早く走って鉄のドアをノックした。配電板やモーターや曲りくねったパイプがひしめいているその狭い部屋のドアが外からあけられると、かすかに音楽が聞えて来る。
湿ったセメントの匂いがする外の廊下にも、きちんとした身なりの男が二人程いて、ヤズディギルドの先きに立って歩きだした。
男達が階段を昇って行くと、一階上の踊り場にも同じような男が一人立っていて、それがヤズディギルドに丁寧なお辞儀をした。また鉄の防火扉があけられ、今度はヤズディギルドだけがその外へ出た。
「警報が出たぞ」
踊り場にいた男は、ヤズディギルドがエレベーターに乗るのを見届けてから仲間にそう言った。
「二区の連中はもう仕事に向っているらしい」
「どんな相手だ」
「ただの若い男だそうだ」
7
柘榴を出た時、屋島はだいぶ酔って足許をふらつかせていた。
「一軒だけということはないでしょうよ」
屋島は隅田の左手をつかんで引っ張った。
「だいぶ酔ってますな」
「嫌だな。そのいつまでも|醒《さ》めてるところがあなたの欠点だ。唯一の欠点だ。いや、これはお世辞じゃない」
隅田は思わず苦笑した。
「もっと面白い所がありますかな」
「あるある。ありますよ……そりゃ柘榴ほど美人は|揃《そろ》えていないけど」
屋島は隅田を押すように歩き出した。「今日は隅田さんは僕の捕虜だ。こう見えたって知ってる店の五軒や六軒はあるんですから」
屋島は気負い込んでいた。
「じゃ今日はとことん|迄《まで》やりますか」
「よし来た」
屋島は大声で言い、パシンと手を打った。
「但しつぶれても知りませんよ」
「結構……大いに結構。僕はね、あなたを売り出したいと思ってる。どんどん書いてもらって建築界のエースになってもらいたいと思ってる。本物のエースに……夏木なんぞ、夏木なんぞあんたには小さすぎるんだ。もっと今井先生のような大物になる人だと思ってるんですよ。編集者ってのはタレントを送り出す欲しかない生き物なんです……」
屋島はくどくどと言いはじめた。そんな屋島と二人で、隅田は久しぶりの新宿を、あちこち四、五軒も呑み歩いた。
十一時半をまわった頃は、酒に自信のある隅田も自分が今いる所がよく見当がつかない程酔っていた。気がつくと屋島はソファーに靴を脱いで横になり、本式に|睡《ねむ》っていた。黄色いワンピースを着た日焼けした肌の若い女が隅田の肩にもたれかかり、ギアがどうのクラッチがどうのと、しきりに車の話をしていた。
「寝ちまったな」
そう言うと、低いスツールに|坐《すわ》っていた小柄な和服の女が、
「ウチへ来るといつもこれなんですよ」
と笑った。
「連れて戻るか……でも彼の家をよく知らないんだ」
「いいんですよ。この人はウチの車で届けますから」
張りをなくした肌にうっすらとそばかすのある中年の女は、そう言って行儀よく|膝《ひざ》に手を置いていた。何でも屋島は縁つづきだとか言っていたが、どうやら本当らしかった。
「じゃわたしは……」
と立ちかけると、
「でもまだ車が拾えないわよ」
若いホステスがそう言って隅田をおさえるようにした。
「いいさ。車なんかどうにでもなる」
カウンターへ行って勘定をと言うと、屋島の身寄りだというママは、済まなそうに伝票を出した。
そんなに酔ったのは久しぶりだった。女の声に送られて狭い階段を降りると、別の店から帰り仕度で出て来た和服の女がふたり、背の高い隅田を見あげるようにして傍をすり抜け、何度もふり返りながら遠のいて行く。
隅田は美男と言っていい。濃い|眉《まゆ》とやや茶色がかった大きな瞳が水商売の女達の心をそそるのか、どこへ行ってもよくモテた。比沙子の件で手ひどくいためつけられていた男としての自信が、久しぶりの馬鹿遊びでやっと回復したような気分だった。
見当をつけて歩きはじめ、最初の角を曲ると坂の上に立っているのが判った。歌舞伎町はその坂の下にひろがっていて、道にはタクシーがひしめいていた。ぶらぶらとタクシーを拾う気なく坂を降りはじめる。
隅田は何気なく一人の女に眼を留めた。その女は右手の通りから足早やに出て来て道路を横切ろうとしていた。あたりは勤めをおえた女達で|溢《あふ》れていたが、その女はひときわ目立って見えた。純白の中国服を着て滑るような歩き方をしていた。|太《ふと》|腿《もも》のあたりまでスリットの入った中国服は、歩くたびつやのある脚線をちらつかせたが、それがひどく清潔な感じで、同じように派手に粧った女達の中で、まるで人種が違うように思えた。
白い中国服の女は車のひしめく通りでちょっと立ちどまり、左右を見まわした。
「比沙子……」
隅田は一瞬息をのんだ。髪をアップにしたその顔はすぐに反対側へ向けられ、車の間を縫って向う側へ着くと、道ばたに停っていた黒い自家用車のドアをあけて中へすべり込んだ。ドアをあけたときもう一度顔が見えた。
「比沙子」
口の中で叫んだ隅田が追いはじめたとき、その車は坂の下へ向けて走り去ってしまった。よく似ていた……隅田はぼんやりとたたずんでいた。
8
翌日は土曜日だった。朝から会議があって席を外していた隅田賢也は、昼近くにかなり不快な気分で戻って来た。会議の内容はたいしたことではなかったが、集まった六人の設計課長と四人の営業課長の内の半数までが、隅田の発言にあからさまな批判の態度を示したからだった。
社内の空気が日を追って隅田の不利な方向に変化していた。|羨《せん》|望《ぼう》は冷笑に変りやすい。若手社員の積極派に支持されて、そのリーダー格で異例の昇進を重ねた隅田は、いま経験を積んだ常識派の巻き返しの矢おもてに立たされはじめたようだった。
|椅《い》|子《す》に|坐《すわ》るまで気づかなかったが、隅田を待っていたらしい会沢がひょっこり部下の机の間から立ちあがってやって来た。
「渋い顔をして……」
そう言って四角ばった浅黒い肌に笑みを浮べた。
「何だ、来ていたのか」
「小一時間ほど油を売らせてもらったよ」
隅田は近くの部下達に聞えるように、冗談めかした高い声で言った。
「設計課は秘密が多いんだぜ。部外者にひょこひょこ出入りされちゃ困るんだがなあ」
すると会沢はニタリと|凄《すご》|味《み》のある笑い方をした。
「そりゃわたしも建築屋のはしくれだ。ちらっと図面を見ればどれが秘密でどれが秘密でないかすぐ判りますぜ。でも|此《こ》|処《こ》にはそう大したものはなさそうだな。一課の吉沢課長のところなんぞは、産業スパイでももぐり込んだらまるで宝の山みたいなもんだ」
と、以前から隅田と対立している古手課長の名を言った。
「そんな所へも出入りしてるのか」
「こっちは月に一度か二度だが、あそこへは日参してますよ」
「まあいいだろう。相手があんたじゃ仕様がない」
隅田はそう言って会沢にケントをすすめた。火をつける間、会沢は上眼づかいで隅田の顔を見つめていた。
「ところで例の店のことだがね」
会沢は煙を吐き出すと雑談めかして言った。声はさっきよりだいぶ低くなっている。
「判ったか」
「新宿……」
会沢はそういうとデスクの上のボールペンをとりあげ、置いてあるレポート用紙を自分のほうへ引っ張って大ざっぱな地図を書いた。「これがコマ劇場、これが区役所……番地は西大久保だが、つまり歌舞伎町の奥というわけさ」
「柘榴からそう遠くないな」
隅田は会沢がいかにも彼らしい乱暴な字で、赤いバラ、と書きなぐるのを見ながらそうつぶやいた。会沢はレポート用紙の上にボールペンをほうり出し、灰皿のふちでケントの灰を落した。
「あの辺りには連れ込みホテルが多い」
無表情で言った。隅田は自分の唇が|歪《ゆが》むのを意識した。
「さかさくらげのどまん中と言ってもいいな」
少しやけ気味に答えたが、次の瞬間急に顔色を変えた。慌てて会沢の書いた地図を引き寄せ、|唸《うな》るように下唇を|噛《か》んだ。
「どうかしたのか」
会沢は小声で言った。
「いや……ここでは話せん」
腕時計に眼をやり、こわ張った表情で会沢を見た。「少し早いが昼飯にしよう」
そう言って立ちあがると、深呼吸をひとつしてから部下の一人に行先きを告げた。会沢はその後姿を眺めながら眉をひそめていた。
「何か心当りでもあるのか」
廊下へ出ると会沢が言った。土曜日の昼近くで、廊下には普段より人影が多かった。
「ゆうべ柘榴へ行った。そのあと人に連れられてその近くへ行ったんだ」
9
時間が早かったので地下の店はまだすいていた。隅田は天ぷら屋の格子戸をあけて中へ入った。ガランとした店内に威勢のいい板前の声が響き、会沢は「よう」と片手をあげて|挨《あい》|拶《さつ》した。
水を打って客が来るのを待つばかりになっている店の中を、二人はいちばん奥まで進み、そこだけ二人掛けになった小さなテーブルについた。熱い茶をいれて持って来た女中にひと通り注文すると、やがて白木のカウンターの中でジュージューと油の音がしはじめる。
「そうか、ゆうべ新宿へ行ったのか」
会沢は思い出したようにボソリと言った。だが彼がさっきから話の続きをさせたくてうずうずしているのが、その四角張った顔にはっきりとあらわれていた。
「雑誌社の男と約束したもんでね」
「白日書房か」
会沢はギョロリと眼を光らせた。
「味方になるものは堅めて置かんとな」
隅田はQ海運の件を口にしかけたが、思い直してそう言った。その話をはじめると例の暗殺教団にまでさかのぼらなければならない。その筋道を会沢のようなタイプの男に判らせるのはひと通りのことではないと思った。
「で、何が判った」
「何も判ったわけではない。何軒も呑みまわって、連れのほうはしまいにはベロベロになってしまった。俺も相当酔っていた」
隅田はポケットにねじ込んで来た会沢の書いた地図をガサガサとひろげた。
「それで……」
「うん。一人で最後の店を出た。その店は多分……そうだな、ここらあたりになる勘定だが」
そう言って万年筆のキャップを外すと、地図の端のほうに何本か道を書き足し、最後に行った店を四角く塗りつぶした。「出てからこう歩いて、丁度この通りの角近くまで来たとき、俺は比沙子そっくりの女を見かけた」
会沢はビクッとしたように顔をあげた。
「何だって……比沙子さんをか」
「そっくりだった。何しろ思わず追いかけようとしたぐらいだからな……しかしすぐ車に乗って行ってしまった」
「たしかに比沙子さんか」
「かなり酔っていたので自信はない。うす暗いし、それに距離も少しあったからな」
会沢はまじまじと隅田を見つめ、すぐに紙の上に眼を落した。次に視線をあげた時、会沢はごつい指をパチンと鳴らし、その人差指をそのまま伸ばして隅田の鼻先きへつきつけるようにした。
「そいつは間違いない。比沙子さんだ」
そう言うとその指で今度は地図を示した。
「俺にはそうはっきり断言できん」
「見ろよこれを。あんたが見たという場所は赤いバラのある通りの角じゃないか。あんた程俺は複雑に出来ていない。単純だからかえってよく判る。赤いバラのマッチがあったのはあんたの家の台所だ。あんたはそこへ一度も行ったことがない。……誰が持って来たんだ。客か……客なら誰と誰が来たか思い出してみろ。たかが半年の間じゃないか。それに客が置いて行ったという可能性が仮りにあったとしても、比沙子さんじゃないという証拠にするには不充分だ。つまり比沙子さんがそこへ置き忘れた可能性は最後まで残るぜ。それからあんたが比沙子さんに似た女とぶつかる可能性も充分にあるが、それはここ以外の場所でもかまわない|筈《はず》だ。いや、赤いバラの近くでそいつが起ったのは偶然にしては出来すぎてる。ふたつ合わせると比沙子さんだったことは間違いなくなる」
会沢は勢いよくそう言った。「で、どんな|恰《かっ》|好《こう》をしていた。水商売風の恰好じゃなかったか……例えば中国服とか」
10
隅田は会沢に中国服と指摘されてドキリとした。
「その通り中国服だ。よく判ったな」
「ここの割れてる|奴《やつ》か」
会沢はズボンの|脇《わき》を手でこするようにした。
「まっ白い中国服で、かなり高くまでスリットが入っていた」
「当った。俺の予想がズバリだ」
会沢は沈んだ声で言った。
「どんな推理をしてたんだ」
料理が来て、女中がテーブルの上に器を並べはじめたので、二人は椅子の背にもたれながら女中の去るのを待った。
「考えてもみろ。世間知らずの女ひとりが亭主にも実家にも行先きを告げずに消えたんだ。折賀家はあれで大した勢力家だ。社会的にも然るべくきちんとしてる家庭の人間だったら、折賀家のような相手を向うにまわすのは二の足もんだろう。ということは、比沙子さんの相手というのは大した奴じゃないということになる。かなり若い奴だろうな」
隅田は|箸《はし》を使うふりをしてうつむいて聞いていた。「金と力はなかりけりの口さ」会沢はズバズバ言ってのけた。
「ホステスでもやっているというのか」
「俺があんたにバーや喫茶店のことを|訊《たず》ねたのは、|勿《もち》|論《ろん》落ち合う場所を知りたかったからでもあるが、ひょっとしてそんな所へ働きに出てやしないかと思ったからだ。……しかしホステスじゃないな」
「じゃあ何をやってる。店を出す金など持ってない筈だぜ」
隅田は会沢をなじるように言った。
「ピアノ弾きさ」
「ピアニスト……酒場のか」
「中国服を着てたとすれば、まずそう考えて間違いない」
「なぜだ」
会沢は割箸をふたつに割ると|海《え》|老《び》をつまんでつゆの器へ移した。
「自慢にもならねえがそっちのほうはあんたより詳しい……比沙子さんを使うマスターの身になって考えてみたんだ」
そこで急に調子を変え、淡々とした声になって「いくら比沙子さんが世間知らずでも、少しは勤め先きを吟味するだろうさ。あの人のお眼鏡に|叶《かな》うと言うと、相当品のいい店……少なくとも見かけはそんな店だ。そしてそのくらいのレベルだと見当がつけば、あとはどこでも考えることは同じだ。ミニスカートをはかせるより、すその割れた中国服の方が品があってお色気があって、ずっと高級な感じが出るじゃないか。ましてあれだけの美人だものな」
「なぜスリットの入った中国服なんだ」
「判らねえ人だな。ピアノ弾きは小さな椅子に腰掛けるんだろう。酒場のピアノはキーが客席のほうに向かっているんだ。客にはうしろ姿しか見えない」
隅田はなる程と思い、すぐに嫌な気分に襲われた。|腿《もも》もあらわにピアノのペダルを踏んでいる妻の姿が眼に浮んだからだった。
「今夜行くよ」
「俺もついて行こうか」
「いや、一人でいい」
比沙子とぶつかった時、知人にいてもらいたくなかった。
「じゃ外で張りこんでいる。若いのを何人か用意しよう」
会沢は物騒なことを言った。
「どうして……」
「実はその赤いバラというのが、調べて見ると少しキナ臭いんだ。暴力団なんかが出入りしてやがる……新宿の真名瀬商会というのを知ってるか」
「いや……」
「真名瀬玄蔵という嫌な野郎がボスに納まってる新興暴力団のかくれみのさ」
11
隅田はじりじりとして落ちつかなかった。
二時近くなると社内はしいんと静まり返り、窓の外を見ると土曜の午後の高速道路は下り線に車がひしめき合っていた。
部下がみな帰ってしまって、設計四課に自分一人でいられるのだけが、救いといえば救いだった。四角く仕切られた部屋の中を誰はばかるところなく、いらいらと歩きまわり、椅子に坐ったかと思うといつの間にかまた立って歩いていたりする。煙草の吸いさしが長いまま何本も灰皿に並んでいる。
これでやっとけりがつく、という明るい望みと、急に比沙子の存在が身近になったのに比例して|湧《わ》きあがる|嫉《しっ》|妬《と》の雲が、隅田の心を右往左往させているようだった。
暴力団の出入りするような酒場のピアノ弾き……若い恋人……太腿のあたりまで割れた中国服……そしてあの別れた朝の沸きたつような欲情ぶり……。|失《しっ》|踪《そう》以来日を追って昇華され、あの朝以前の穏やかな情念で接して来た比沙子のイメージが、再びあの朝の生ぐさい男と女のぶつかり合いに下落して、何よりもおぞましいセックスの敗北感にさいなまれはじめたのだった。
水に流そう。比沙子さえ戻って来てくれるなら……そう思う一方で、相手の男の面の皮をひん|剥《む》いてやりたいような憤りにも駆られるのだ。
夕方になると心の矛盾はますます深刻になり、それによって生じる動揺をなんとかとりしずめてくれるのは、結局夏木建設における自分の立場、つまり折賀専務とその夫人に対して無実のあかしを立てるという、至極エゴイスティックな思惑だけだった。そして隅田はそんな自分に身の毛がよだつ程の嫌悪を感じた。
五時近くに隅田は一度外の通りへ出て、薬局でトランキライザーを買って|服《の》んだ。
会沢に余り早く行きすぎるなと念を押され、もしピアニストが演奏しているなら、確実に店にいると思われる時間……七時半に赤いバラへ入ると打合わせてあった。万一店の者と|揉《も》めても、外には会沢の配下の腕ききが控えていてくれる|手《て》|筈《はず》になっていた。
会沢は赤いバラに出入りしているという暴力団をひどく毛嫌いしていた。会沢自身が江東方面の古い博徒、会沢一家の四男坊でその筋にかけては人一倍通じているのだが、その真名瀬とかいうボスとは仕事の上で何かひと|悶着《もんちゃく》あったらしく、日頃に似ず用心深い態勢をとったのだった。
そうした手配の上で隅田は新宿へ向い、歌舞伎町を通り抜けて坂を登った。
赤いバラの看板がはっきりと見える辺りまで来ると、店と反対側の道ばたに六、七人の男が所在なげにたたずんでいるのが判った。上着やネクタイをしている者は一人もなく、中には地下|足《た》|袋《び》にランニングシャツといういでたちの男まで混っていた。
隅田は歩調をゆるめて会沢の姿を探したが、あの四角い顔は見当らなかった。
赤いバラはわざと道路から一段さげた所に入口のドアを作り、白いスペイン壁で正面を飾った|洒《しゃ》|落《れ》た店構えだった。隅田は鋳物のノッカーがついた松材の厚いドアを押して中へ入った。……ピアノの音は聞えなかった。
が、さっと見廻した隅田の眼に、突き当りに置かれた明るいブラウンのエレクトーンが、まるで比沙子の存在を暗示するかのように強烈な印象で迫って来た。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中の男が馬鹿丁寧な言い方をした。半円形に張り出した低いカウンターに四人程客がいて、むっつりと|呑《の》んでいた。ホステスは置いていないらしい。
隅田はいかにも勝手知ったという様子で、ドアの近くのスツールに腰をおろし、「バーボンの水割り」と短かく言ってから、不意に背筋がゾクッとする感じに襲われた。
12
足の下に濃い|煉《れん》|瓦《が》|色《いろ》の|絨緞《じゅうたん》が敷いてあり、スツールとカウンターの腰は|臙《えん》|脂《じ》のレザーばりだった。照明はオレンジ色で、カウンターの面も濃いオレンジ色だった。壁は真紅の|布《ぬの》|貼《ば》りで、カウンターの中の三人のバーテンダーまで、どことなくスペイン風に見える真紅のディナーコートのようなものを着ているのだ。
赤い……と思った。|茜《あかね》が赤い、|柘《ざく》|榴《ろ》も赤い、赤いバラも赤い……いま自分は今井潤造につながる三軒目の赤い酒場にいる……。
それは隅田にとって全く異様な発見だった。
無表情なバーテンから水割りを受取って、無意識にそれを口に運びかけた時、向う側のカウンターで陰になっている部分から、それこそ赤一色の女の姿が現われた。思い切り深く切れ込んだVネックの長い|袖《そで》のブラウスを着て、同じ色のパンタロンをはいた鋭角的で|凄《せい》|艶《えん》な感じの女だった。小さなブランデーグラスを左手で軽くゆすりながら、|嗄《しわが》れた低い声で隅田に向い、「いらっしゃいませ」と|挨《あい》|拶《さつ》した。|瞳《ひとみ》が異様な程潤んでいた。
「今夜は演奏しないのかね」
隅田は何気ない様子でバーテンに|訊《たず》ねた。
「ええ」
相変らずの無表情で答える。
「休みかい、彼女」
隅田はカマをかけた。
「ええ、ちょっと……」
バーテンの返事はあいまいだった。
「まだ来てないんですの。ごめんなさい」
真紅の女が|両肘《りょうひじ》をカウンターの上につき、組んだ両手の上に|頤《おとがい》をのせるようにして言った。ラテンリズムがどこか頭の上に隠されたスピーカーから、ほんのかすかに流れている。
隅田は失望した。これからどう出るか態度をきめかねて、黙ってバーボンを呑んでいると、急に外で人の騒ぐ気配を感じた。
はっと気づいて立ちあがり、ドアを半分あけて眺めると、眼の前の通りで十人ばかりの男が入り乱れていた。一見してやくざ者と判る背広の着方をした若い男三人が、圧倒的に優勢な会沢一味にこづきまわされているところだった。それの傍に通行人のような|恰《かっ》|好《こう》で会沢が立っていて、隅田が顔を出したのに気づくと、ひどく|愉《たの》しそうな眼でニコリと笑った。隅田が|僅《わず》かに首を振って比沙子がいないことを伝えると、会沢は急に男達の中へ割って入り、「やめろ、やめろ」と怒鳴った。怒鳴りながら相手の一人を猛烈な勢いで突きとばし、もう一人にうしろからだきつくと、左手で|顎《あご》、右手で頭を|掴《つか》んで妙な恰好にねじまげていた。その男は前から地下足袋で|蹴《け》りつけられ、砂袋のようにグザッと崩折れた。「おいお前ら、やめんか」と会沢はもう一度怒鳴ったが、その時には残った一人がころがるように逃げ出したあとだった。会沢一味もその反対側へ|汐《しお》の引くように退いて行って、すぐに角を曲って消えた。
「何かしら……」
隅田の|頬《ほお》に生暖かい女の息がかかり、背中へかすかに女のバストの辺りが触れて来た。
会沢に突きとばされた男はどこかで頭を打ったらしく、|膝《ひざ》をついてうつむいていた。地下足袋に蹴られた男は身動きもせず倒れている。
しばらく見ていると、白い背広をふわふわとひるがえした兄貴分らしいのを先頭に、十二、三人の男達が一団となって駆けつけて来た。「野郎……」と|喉《のど》にからんだ黄色い声をあげた柔弱な体つきの男が、大げさに上着をふりまわして会沢達が去った方角へ走りはじめたが、反対側からやって来たマイクロバスに道をさえぎられてたたらを踏んだ。「危ねえじゃねえか、馬鹿野郎」と男達は口々にマイクロバスをののしった。
隅田はカウンターに戻ると大声で笑い出した。マイクロバスの横っ腹に、会沢建設、と書いてあったのだ。
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隅田は会沢の顔を見るなりそう言った。
「まさかマイクロバスでおでましとはな」
そこは新宿西口にある小さな喫茶店で、派手な身なりの若い男女がわがもの顔で狭い通路を行ったり来たりしていた。
「どうも作戦どおりには行かねえもんだ」
会沢は済まなそうに頭を|掻《か》いた。
「なぜ|喧《けん》|嘩《か》などはじめてしまったんだ」
「俺にもよく判らない。あっと言う間にはじまっちまった。……もっとも俺もよくなかった。ウチの連中に相手が真名瀬だと聞かせちまったもんで、|奴《やっこ》さん達はカッカしてた」
「余程その真名瀬とかとは具合が悪いらしいな」
「まあな……」
会沢は苦笑しながら答え、「久しぶりにあんなことをした」と言った。
「たまにはいいさ」
隅田は明るい声で、「俺のほうもなんとかうまく|胡《ご》|麻《ま》|化《か》して来た」と言い、からかうような眼で会沢を見つめた。会沢はちょっと照れた様子で隣りの席にいるヒッピー風の男女を眺め、視線を隅田に戻すと馬鹿に生真面目な表情をした。
「居なかったんだな」
「うん。しかしまだ判らん」
「どうして」
「ピアノじゃなかった、エレクトーンだった。どっちにしても同じことだが、それを演奏する女は今夜は休んでいる」
「なぜ女だと判った」
「バーテンにカマをかけた」
会沢は満足そうにうなずいた。
「怪しまれなかったろうな。あすの晩また行く必要があるぜ」
「明日は日曜だ。あの店も休みにきまっている。月曜の晩また行って見る……しかしあの調子なら、もうそっちのバックアップはいらない」
「そいつは有難い。あんな馬鹿をしちまったから、ちょっとこの次はな……」
会沢はまた照れて顔を撫でた。
「マダムとバーテンだけでホステスのいない店なんだ」
「そうか……あの辺りで女も置かずによくやってるもんだ」
「ところで……」
隅田はウェイトレスに紅茶を注文してから続けた。「全く妙なはなしで俺も|狐《きつね》につままれたような思いなんだが、ひょっとすると比沙子の件と今井さんがどこかでつながってるんじゃないかという気がして来た」
「そりゃまたどうして」
会沢は小さなテーブルを広い肩で|掩《おお》いかくすように身をのり出した。
「銀座のクラブ茜だが、あれはもともと今井さんの行きつけの店だった。俺達は今井さんに紹介されて行きはじめた」
「だいぶ気に入っていらしたようだったな」
「うん。……あの店は床も壁も天井も赤一色でまとめてある。当然と言えばそれまでだが、茜のホステスだった例の伸代がこの新宿ではじめたバーも、同じ赤一色の店だ」
「柘榴か」
「ところが赤いバラもそうなんだ。トーンは微妙に変えてあるが、バーテンの着ているものまで赤で統一している」
会沢は|怪《け》|訝《げん》な面持ちで「ほう」と言っただけだった。
「俺は今井さんの何かにまわりをぐるりととりかこまれているような気がして仕方なくなって来た。丁度明日は日曜だし、この際松濤町へ行って徹底的に調べてやろうと思ってるんだ」
会沢はそれには答えず、何か考えこんでいるようだった。
隅田は運ばれて来た紅茶に手を伸しながら、赤いバラのマダムの面影を追っていた。彼女は会沢達が暴れたとき、うしろから隅田の肩に顎をのせるようにして一緒に見物していたが、隅田がカウンターに戻るとそのままついて来て隣りに腰かけた。会沢の稚気満々とした一面を見せられて気分がほぐれていた隅田は、ごく自然にこの店へ来たのはこれで二度目だと|嘘《うそ》をついた。この前連れられて来た時雰囲気が気に入ったので、というとマダムは今後ともごひいきに、と形どおりの挨拶を返し、自分の名はマキだと言った。隅田はそつなくマキさん、マキさんとその名を話の合い間に入れ、適当に胡麻化して約束の喫茶店に引きあげたが、そのマキの強烈な印象にまだ酔っているようだった。
マキの顔は細くて顎がとがっていた。|眼《め》|尻《じり》には乾いた感じの笑い|皺《じわ》があり、それが情事にきたえ抜かれた底知れぬ|艶《つや》っぽさを生み出していた。頬から顎にかけてのきつい線も、逆に男に|溺《おぼ》れる女の業のようなものを示していて、隅田はその暗さに|魅《ひ》かれたのだった。
第四章 メガリスの原郷
1
隅田は突然目ざめた。窓のカーテンのすき間から強い光線が射し込んでいて、ゆうべ腹のあたりまで引きあげて置いたタオルケットが、ベッドからずり落ちそうになっていた。
女の夢だった……隅田ははだけたパジャマの胸のあたりを|撫《な》でながらそう思った。胸から汗の粒がころがり落ちた。女は比沙子だったような気もするし、赤いバラのマキだったような気もした。
電話のベルが鳴り続けていた。隅田はパジャマの上着をベッドに脱ぎすてると、片手で髪を|掻《か》きあげながら居間へ移った。
――隅田か――
受話器を耳にあてるといきなりそう言った。
「隅田ですが」
――|俺《おれ》だ、伊丹だ――
相手はじれったそうに言った。
「何だお前か。どうした珍しく……」
――それどころじゃない。のん気そうな声を出しているところを見ると、お前まだ知らないな――
「何をだ」
――|報《し》らせてよかった。実は俺もたった今聞いたばかりなんだが、今井さんの家が今朝早く全焼したそうだぜ――
「何だって……」
隅田は|睡《ねむ》|気《け》も吹きとんで大声で問い返した。
――まる焼けだそうだ――
「まさか……」
――本当だ。知り合いのテレビタレントがあのすぐ裏の家を最近買ったんだ。そいつは俺がJ大の建築科だったことを思い出して、たった今報らせてくれたんだ――
隅田は|唸《うな》った。
「奥さんはどうしたろう」
――うまい具合にきのうの午後岡山へ発って留守だったそうだよ――
「で、原因は……」
――そこまでは知らんね。お前はすぐ出かけるんだろう――
「一応はそうしなきゃなるまい」
――折角思い出して報らせてくれたんだから、俺もそのタレントの家へ火事見舞いに行く。向うで会えるな――
「うん」
――元気がないな。どうかしたのか――
「いや……会って話そう」
隅田は不快なものが拡がりはじめるのを|圧《おさ》えつけるように言い、電話を切った。
まさか……と思った。まさか放火ではあるまい。しかし夫人が岡山へ向ったとすれば無人の邸になっていた|筈《はず》だ。それとも遺稿整理に当っていた連中が残っていて、何か不始末をしでかしたか……。どちらにしても土蔵づくりとは言え、それは外観だけのことで、全焼というからには肝心の書庫も焼けてしまったに違いない。これで手がかりは何もなくなってしまったことになる。夫人は仕事のことなど一切知らされず、自分でもその気の全くない穏やか一方の女性だから、どうころんでも時の権力者に関係するような大それた秘密など知る筈がなかった。
「頼りは石川だけか」
隅田は声に出して言い、ソファーに腰をおろすと雨戸を閉め切ったむし暑い居間で煙草に火をつけた。
どことなく甘ったるい感じで、そのくせに仙人じみた風格のある白日書房の石川の顔を思い浮べて、隅田はため息をついた。
あの青年はいったい何を探りあてているのだろう。必要なことを知っているだろうか。探りあてていなくても、少なくとも問題の宗教関係の資料やメモのたぐいを読み漁ったのだから、Q海運や東日グループに関するものがあれば気づいた筈だ。しかしそれを充分に記憶していてくれるだろうか。隅田は|憂《ゆう》|鬱《うつ》だった。
2
古めかしい土塀の一角が無残に突き崩され、広い庭はぬかるみになっていた。気どった高級住宅街のしらじらとした道路が、今井邸の附近で泥まみれになり、タイヤの跡が何事もなかったずっと遠くの家々の前にまで何本も伸びていた。|足《あし》|利《かが》市の古い武家屋敷のものを移したという堂々とした木造の門があけひろげられ、その古びた扉に何かをこすりつけた生々しい|痕《あと》が残っていた。
出火時間は四時五十分とかで、もうそれから四、五時間も経過しているから|弥《や》|次《じ》|馬《うま》の姿もなく、自転車を停めた子供達と、通りすがりらしい四、五人が庭の中を|覗《のぞ》きこんでいた。
「全く|綺《き》|麗《れい》に焼けるもんだな」
伊丹英一が感心したように言った。隅田は今井邸の裏の|垣《かき》|根《ね》ごしに、
「漏電だそうですね」
と|蒼《あお》|白《じろ》い肌の若い女優に声をかけた。
「最初にウチのヨシちゃんが気がついたの。そん時はもう書斎のほうがぼうぼう燃えてたそうよ」
女優は白っぽい|糊《のり》のきいた|浴衣《ゆかた》を着て、赤い木のサンダルを突っかけていた。隣家の庭もひどくぬかっているようだった。
伊丹は笑いながら、
「この人は隣りが火事だと判ったら、すぐに車にとび乗って逃げ出しちまったそうだ」
とからかった。
「だって連ドラが始ったばかりでしょ。やけどなんかしたらそれこそ大変だもの」
ねえ……という風に隅田を見た。
「延焼しないでよかったですよ」
そう言ってやると|嬉《うれ》しそうな顔をした。テレビでよく見かける、二十四、五の女だった。
「あんたろくに寝てないんだろ。もう寝たほうがいいんじゃないか」
「うちの中へ水が入っちゃったのよ。二時にならないとホテルの部屋があかないの」
女優はケロリとした顔で言った。
「もう少しあそこへ車を置いといてもいいかい」
「いいわよ。わたしうちへ入るわね」
女優はそう言うと雪の中を歩くような足どりで勝手口へ戻って行った。伊丹は垣根に片手を突っ張って、ひょいとひととびすると今井邸の中へ入った。
「無残やな、か」
そのまま黒く焼け落ちた柱の間を通り抜けて、「こうやって見るとそう広くもなかったんだな。ここへお前と通った頃はでかい家だと思っていたがなあ」
と言った。隅田はそのあとについて、散々眺めまわった焼跡をもう一度見て歩いた。よく夫妻と一緒に食事をした居間のところに、見覚えのある長火鉢の|残《ざん》|骸《がい》が転がっていて、それが妙に感傷をそそった。
「本当に失火かな」
つぶやくように言うと、伊丹はきつい眼になって振り返った。
「物騒なことを言いやがる。何かそんな心当りでもあるのか」
「別に……だが気になる」
「なぜだ」
「漏電というのは要するに原因不明……でなくても、いちばん|曖《あい》|昧《まい》な理由だ。そうじゃないか」
「|餠《もち》は餠屋にまかしとけよ。お前は家をたてるほうだ。何で焼けたか調べる役じゃない」
伊丹は気楽な言い方をした。同じJ大の工学部を出て、ほんの僅かな期間小さな建築事務所に勤めた伊丹は、すぐに方向転換をして商業写真の世界へとびこんで行った。今では中堅級で売れ出しているが、学生時代と物の言い方や体の動かし方までまるで変っていない。「それより暑中見舞いを見たか」
立ち止って言った。
「ああ、クロノスの|壺《つぼ》の写真か。どうやって手に入れたんだ」
隅田は書庫のほうへ歩きながら言った。
3
泥だらけの靴を乾いた道にこすりつけながら、隅田は大まわりをして裏手に当る女優の家の前へ出た。伊丹英一のボルボがエンジンを唸らせていた。
シートにすべり込んでドアをしめると、頭のうしろで両手を組んだ伊丹が屈託のない顔で、
「さて、これからどうする」
と言った。
「久しぶりだし、このまま別れるのも……」
「そうだな。でも折角の日曜日に奥方を放って置いていいのか」
そう言ってハンドルをつかんだ。黙っていると車をスタートさせた。
「あれは俺が撮影したんだぜ」
「何のことだ」
「クロノスの壺さ」
少し得意そうに言った。車は曲りくねった坂をくだり、渋谷の駅前へ出ると一気に青山通りへ駆けあがった。
やがて、「あいてるあいてる」と嬉しそうに言い、広い青山通りを乱暴にUターンすると、しゃれたスナックの前の三台分しかない狭い駐車スペースに乗り入れた。顔なじみらしく店へ入ると黄色い|揃《そろ》いのシャツを着た女たちに声をかけた。黄色いシャツの背中には鮮やかな色どりで、LOVEと描いてあった。
「何だか陰にこもってるぜ。といってあの火事が原因でもなさそうだし」
クリーム・パフェ、チョコレート・サンデー、ホット・ドッグ、などと白いポスターカラーで書きなぐった|硝子《ガラス》の前のテーブルに陣どった伊丹は、|悪《いた》|戯《ずら》っぽい顔で言った。隅田は白い文字の間から、通りすぎて行く車の列を眺めていた。
「クロノスの壺を撮影したって……」
隅田は話題をそらせた。
「そいつさ。参ったよ、あれには」
伊丹は顔をしかめ「警察に調べられた」
「お前がか」
「そうさ。日本橋のMデパートでイベリア半島展があったんだ。そのイベリア半島展にクロノスの壺が出品されたんだ。俺は夢中になって運動して、やっとその撮影許可をとりつけることに成功した。そして撮影した。あんまり正規のやり方じゃなかったが、Mデパートに出入りしている広告代理店のコネをつかったんだ。その撮影の最中にスペイン大使館の使いってのがやって来やがって、どういうわけかクロノスの壺だけさっさと引きあげて行っちまいやがった。……俺も妙だなとは思ったんだが、そうしたらその夕方になって警察のお呼びと来た。スペイン大使館へ届いてないんだな、これが」
「盗まれたのか」
「まあ聞けよ、変なはなしだから。……何しろ一時は盗難事件だというのでデパートは蒼くなりやがって、俺はまあ言って見ればナアナアで撮影させてもらった身だし、第一そのカタリどもが壺を取りに来た現場に居合わせたもんだから、二、三時間もしつっこく|訊《じん》|問《もん》されてな」
「あの壺は盗まれる程有名になっていたのか」
「とんでもない。昔のままの|眉《まゆ》|唾《つば》|物《もの》扱いさ。飾ったMデパートさえあいつの興行価値に気づかなかった位だよ。……で、どうなったと思う」
伊丹は|瞳《ひとみ》を輝かせて言った。「意外や意外だ。翌る日になったらスペイン大使館のほうから電話があって、手違いできのうの内に着いていたと言うんだ。何のことはない空騒ぎさ。ところがそのスペイン大使館で、例のアトラントローグの大杉実が空騒ぎのあと壺を拝ませてもらったところ、あの|梟《ふくろう》の浮彫りを一旦切り離した痕が残ってたというから事はややこしくなった。俺の撮った写真には絶対そんな痕は残っちゃいない。この眼で見たんだからそれは太鼓判を押すさ」
4
たしかにそれは奇妙ないきさつだった。一旦はそんな使いなど出した覚えはないといきまいたスペイン大使館が、一夜明けると前言をひるがえして手違いだったと言って寄越した。事実壺が戻っているのはその方面に顔のきく大杉実という人物が確認しているが、展示のときにはなかった梟の浮彫りを切り離した痕が生じていたという。
「大杉実というと、あの作家の……」
「そうか、お前は知らないんだな。大杉実はれっきとしたアトラントローグなんだよ」
「大使館にそう言ってやればいい」
「言ってやったさ、大杉実を通じて。だがのれんに腕押しさ。こういう時大使館相手というのは始末が悪い。そんな難くせをつけるなら今後二度と拝ませない……そう高飛車に出られればこっちはとりつく島もない」
「どこ|迄《まで》行っても妙なことばかり起す壺だな」
隅田はそう言った。
ハインリッヒ・シュリーマンの孫のパウロ・シュリーマンは、一九一二年に当時のアメリカの一流紙であるニューヨーク・アメリカンに突然センセーショナルな手記を発表した。
その手記は祖父ハインリッヒが最終的にはアトランティスの|謎《なぞ》解明をこころざしていたことを告白する形式を取っていた。トロイを発掘した時、その第二層目でシュリーマンは有名なプリアモスの宝を発見したが、その中にひとつの梟の浮彫りがついた青銅の壺があり、胴に古代フェニキア文字で、アトランティス王クロノスより、という銘が入っていたというのだ。
だがシュリーマンは結局アトランティスの謎を解明するには至らぬ内に死に、その遺業を継ぐことを正式に誓った家族に限って開封を許される、特別な遺書を残した。それを開封したのがパウロで、彼は誓約どおり祖父の遺業を継いでアトランティスの謎解明にのり出すことを世間に宣言した。
遺書にはトロイから出た青銅の壺が添附されていて、その壺と全く同じ土製の壺がルーブル博物館に陳列されている筈だから、それを入手した上でふたつの壺を破壊しろという指示があった。南米ティティカカ湖畔のティアワナコから出土したというルーブルの壺は、パウロの時代にはパリの一市民の所有になっていて、それを譲り受けてふたつの壺を打ち砕くと、中からアトランティスにあったと伝えられる未知の合金、オリハルコンのタブレットが現われた。そのタブレットこそ、アトランティスの所在を示すすべてが語られている最大のきめ手だった。
というのだ。トロイ以来、相次ぐ古代都市の発掘で考古学ブームにわいていた世界は、史上最大の謎であるアトランティスにシュリーマンの孫が挑戦するというので大騒ぎになった。世の興奮が高まれば高まるほど、シュリーマンの遺書の公表が強く要求されるようになった。
ところがパウロは自分の手記だけで、物的証拠の提出に頑として応じなかった。そのため疑惑がひろがり、結局ジャーナリストの創作であろうということになってしまった。パウロのほうにもシュリーマンの遺産にからんだトラブルがあったようで、それが一層社会の信用を損ねることになった。
やがて第一次大戦が勃発した。人々がアトランティスの夢物語どころではなくなった頃、パウロは再び新聞の大見出しとなって登場し、それが偉人の孫の最後の舞台となった。パウロはドイツ諜報部のスパイとして連合軍に逮捕され、銃殺されたというニュースだった。処刑の地はバルカン半島のどこかとも、ロシアのどこかとも|取《とり》|沙《ざ》|汰《た》されたが、結局戦争の混乱の中でうやむやに消えて行った。
クロノスの壺は、それ以来世界の到るところから発見のニュースが伝えられ、中にはその精密なスケッチまで提出されたりすることもあるが、不思議なことに実物は一度も人の眼に触れたことがない。ただピレネー山脈の南麓、サン・ジロンの|洞《どう》|窟《くつ》から発見されたスペインのものだけが実在するにすぎない。それとても果してシュリーマンの言ったクロノスの壺と同じであるのかどうか、確たる証拠はないのだ。
「クロノスの壺か……」
隅田は感慨深げに言った。伊丹と二人でアトランティスの魅力にとりつかれていた学生時代を回想したのだ。
「メガリスの原郷はアトランティスである」
伊丹はそう言ってニヤリとした。アトランティスに興味を持ったきっかけは、建築史のはじめのほうでちらっと出て来る、ヨーロッパの巨石記念物だった。その分布が北アフリカからイベリア半島、そしてフランスからスカンジナビアにかけて特に濃密なのに着目した隅田と伊丹は、巨石記念物の原郷が大西洋に沈んだアトランティス大陸ではないかと考え、あっという間にアトラントローグの仲間入りをしてしまった。……巨石記念物つまりメガリスティック・モニュメントを略してメガリスというのも、その頃覚えた知識だ。二人は|蒲《かま》|田《た》の安下宿で毎晩のように珍説、奇説をたたかわせた。乏しい財布をはたいてアトランティス関係の古本を漁り、クロノスの壺という奇妙な存在も知った。
おかしなことにアトラントローグとメガリスマニアはたいてい重なっていた。両方とも人を魅きつける要素は同じらしく、アトランティスに興味を持つような性分の者は、同時にメガリスにも興味を持っていた。
「そうだ、お前に聞いて見るかな」
隅田は急にそう言い出した。暗殺教団とQ海運の件も似たような所があると思ったからだ。
5
「実は……」
と言って隅田は伊丹の表情をうかがった。どうやら伊丹は学生時代の興味を社会人になってからも持ち続けているらしいが、隅田はアトランティスの夢などとうに無縁になってしまっている。昔に立ち戻って幼稚な議論をたたかわせる気はなかったし、ここで今更暗殺教団というような言葉を口にすることさえ面はゆい気がしたのだ。
「どうも何かありそうだと思った。お前の態度で判っていたよ」
伊丹は言い|澱《よど》む隅田を見ながら、さらりと言った。「何があったんだ。あの火事に関係があるのか」
「ある」
そう答えると隅田はぎごちない姿勢をやっと柔らかくした。「実は今井さんの書庫から俺は|或《あ》る事を見つけ出そうとしていたんだ。だが焼けてしまってはどうしようもない」
「おかしいじゃないか。お前なら今井さんのことは逐一なんでも知っている筈じゃなかったのか」
「買いかぶってくれるな。今井さんは俺などの及びもつかない高い所で生きていた。俺はあの人に可愛がられ、ハイハイと言われるとおり動いていたにすぎない。……今井さんには俺などのあずかり知らぬ部分が沢山あったんだ。もっともそれは今井さんが亡くなってから悟ったことで、生きている間は何でも判っていると錯覚していたがね」
「そんなもんかな」
伊丹はひどく縁遠い表情で聞いていた。
「その俺が知らない部分のひとつに宗教の問題があった」
「宗教……今井さんは新興宗教にでも凝っていたのか」
伊丹は|嬉《うれ》しそうな声で言う。
「まさか。やはり仕事に関係したことらしいが、|厖《ぼう》|大《だい》な宗教関係の資料を収集して何か研究していたらしいんだ」
「宗教建築だろう、中世の」
「俺もそう思った。しかしどうも違うらしいんだ。……お前、イスラム異端派の暗殺教団というのを知っているか」
伊丹は妙な表情になった。口をとがらせて何か言いかけ、次に疑うように隅田をしばらく見つめてから、意味あり気な苦笑を示した。
「お前の口からその言葉を聞こうとはな」
「どうなんだ」
「暗殺教団のことなら割りとよく知っているつもりだ。で、今井さんがそれをどうしてたというんだ」
「今井さんは暗殺教団がその後もギリシャのどこかで生きのびていると考えていたらしい。そう思われるふしがある」
「その後というと、一二五六年以後のことだな」
「一二五六年……」
「その年の十一月、フラグ汗の率いる|蒙《もう》|古《こ》軍がアラムート渓谷、別名暗殺者の谷へなだれ込んだんだよ」
「よく知っているな」
「最近のアトラントローグはみな暗殺教団に詳しいんだ。何しろクロノスの壺に関係して来るからな」
「壺に」
「そうだ。暗殺教団存続説も俺達の間では常識化しているぜ。で、今井さんは……」
「今井さんは建築家としての立場から暗殺教団の行方を追ったらしい。特殊な建築様式があったとかで、現存する建物の構造から追求して行ったんじゃないかと思うんだ」
伊丹は左手を後頭部へまわして大げさに|呻《うめ》いた。
「参ったな。そうかギリシャか。それなら俺にもやれたんだ。まるで気がつかなかったよ」
隅田はその様子を見ながら思い切って言って見た。
「Q海運を知っているな。……あれはもともとギリシャ系海運資本だ。その|総《そう》|帥《すい》が米大統領の未亡人と結婚した。もしも……」
「おいおい、ちょっと待てよ。とんでもねえことを言いだしやがる。すると何か、例の暗殺事件は」
「ギリシャに暗殺教団の本拠が置かれているとすると、ひと筋のつながりができる。そしてそのつながりは今井さん自身のところまで来ているんだ」
「なぜ……」
「Q海運は東日重工の最大の顧客だ。そして東日重工を含む東日グループの最高責任者三戸田謙介と今井さんはごく親しかった」
隅田はひと息に|喋《しゃべ》った。伊丹は|眉《まゆ》をひそめた。
「どういうつもりなんだ、お前」
「はっきり言おう。俺は今井さんの手品のタネを引きつぎたいんだ」
「手品のタネ……」
「時の権力に接近して常に|超弩級《ちょうどきゅう》のプロジェクトの指揮権を握る……」
「ひでえことを言いやがる。出世亡者になったのか」
「比沙子に家出をされた」
伊丹は|唖《あ》|然《ぜん》としたようだった。暗い表情になり、ながい間黙りこくっていた。
「立場か……そういう立場に立たされているのか」
憐れむように言い、「そういうたたかいの役にたつかどうか知らねえが、俺の知っていることでよかったら洗いざらい教えてやるよ」
と喋りだした。
「クロノスの壺を発見した者は死ぬ、という迷信のようなものが拡まっている。今迄に十近い発見報告があるが、結局スペインの壺しか陽の目を見ていない。暗殺教団があの壺を|狙《ねら》っているからだと言う説も出ている」
6
「それを言い出したのは南フランスの小さな大学で考古学の教授をしていたトランカヴェルという人物だ。トゥールーズの名家の出で、神殿騎士団やアルビジョア十字軍などの研究家としても知られている。トゥールーズの旧家に生まれただけあって、いわばその地方の郷土史の大家といったところだ。ただし正規の学界ではかすんだ存在で、トランカヴェル教授が重く見られていたのは俺達アトラントローグの間でだった」
「どうしてアトランティスと暗殺教団がつながるんだ」
隅田は少しいら立ったように言った。
「そいつをひとくちに説明するのはむずかしいな。俺もトランカヴェル教授の研究過程をくわしく知っているわけじゃないが、そもそもは例のパウロ・シュリーマンの手記の真実性を裏付けようとしたことからはじまったんじゃないかな。プラトン以来二千年におよぶアトランティス探究の歴史の中で、あれ程の手がかりはまたとなかったと言える……それが一ジャーナリストのねつ造として消し去られるんじゃ泣いても泣ききれない。……とまあ、これはほとんどのアトラントローグがあの事件に関して共通して持っている感慨なんだ。トランカヴェル教授はその代表選手としてシュリーマンがアトランティスに関する何かを手に入れていたことを立証するために立ちあがったわけだ」
伊丹は手を伸して隅田のケントの箱をとりあげると一本抜きとって口にくわえ、箱をかるく投げ返した。隅田もつられたように煙草をくわえた。
「その研究の結果が正しいかどうか俺は知らない。しかしそいつが世のアトラントローグにかなりの満足感をもってむかえられたことはたしかだ。新しい問題が提起され、俺とお前が以前熱をあげたメガリスのアトランティス原郷説まで、もう一度脚光を浴びることになったんだ」
と昔を懐しむような笑顔になった。「それに、お前が今知りたがっていることにも、トランカヴェル説は或る程度の回答を与えている。ギリシャという土地にも関係があるし、Q海運や東日グループのような巨大資本も背景にあらわれてくる。実はさっき今井さんのはなしをされた時、俺はびっくりしていたんだ。アトランティスは俺の道楽で、大人のおもちゃのようなつもりでいた。どこまで行っても夢で、まさか現実の問題と関係して来ようなどとは思ってもいなかったんだ」
「俺の今の気持を言えば、ひどく情ない気分だ。そう言いながらお前はどこかで楽しんでるが俺のほうはそうは行かない。暗殺教団だなどと……」
隅田は|自嘲《じちょう》するように唇を|歪《ゆが》め、横を向いてガラスの白い文字にケントの煙りをふきかけた。
「そういうことはお前らアトラントローグの夢にして置きたい。そんな夢のようなことにすがらなければならない俺の立場を察してくれよ」
伊丹はちょっと白けた様子で煙草をふかしていたが、気をとり直すように喋りはじめた。
「ハインリッヒ・シュリーマンをどう思う」
「どう……さあね。とに角運のいい男だな」
「まあそれが最大公約数だろうな」
「そうじゃないか。子供の時からトロイの物語りに興味を持ち続けた。商才があって大金持になったが、そのあり余る財力で後半生をトロイの夢にかけ、ズブの|素《しろ》|人《うと》がホメロスだけを盲目的に信じ込んでとうとう本物のトロイを掘りあててしまった。土の中からは黄金の財宝を、世間からは最高の名誉を与えられた。これが幸運でなくて何だというんだ」
すると伊丹はウフフ……と笑った。
「まさかシュリーマンの伝記を|鵜《う》|呑《の》みにして|羨《うらや》ましがっているわけじゃあるまいな」
「羨ましいね。そう思っているよ」
「それはお前が何らかの疑いを持たねばならぬ程考古学の世界に深入りしていないからだ。もし何かの必要が出て、シュリーマンのことをもう一度よく調べなければならなくなったとしたら、お前はシュリーマンの伝記の二面性に気づく筈だ」
「二面性……」
「裏と表だ。トランカヴェルという人物はその点を追求している」
伊丹は薄茶色の目の粗いポロシャツのボタンを外し、襟もとをひろげながら言った。「北ドイツ、メクレンブルグの片田舎に生まれ、クリスマスプレゼントにもらったイエッツラーの絵入り世界史を読んでトロイの存在を知った子供が、以来終生トロイの夢を追いつづけた……おはなしとしてはよく出来てる。だが本当にそうなのか……トランカヴェルは次々に事実をあばいている。シュリーマンはロスチャイルドと組んだ黄金発掘人なんだ」
7
「すると、黄金めあての……」
「トランカヴェル教授の言い分ではそうなっている。ドイツ平原から白ロシア、そしてウクライナやドイツ丘陵地帯にかけては、古代の高塚古墳や都市遺跡が濃密に分布している。シュリーマンが幼時を過したメクレンブルグ地方にもそれがあった。シュリーマン自身、伝記の中でブラーデンキルル……小僧殺しという意味だが、そういう名の高塚古墳や黄金の|揺《よう》|籃《らん》という丘を懐かしそうに回想している。丘は多分古代の村落か城の跡なのだろう。ところが、この高塚古墳や都市遺跡の発掘は十七世紀ごろから盛大におこなわれていたらしい。スラヴ人の間にクジャールという盗賊の伝説があり、人々はクジャールの財宝を探しまわったんだ。つまり盗掘なんだな。メクレンブルグはその地帯の西のはずれに当っているんだ。……西の地方では余り収穫はなく、盗掘ブームは大したことはなかったらしいが、東のほうの盗掘人たちはさかんに地下から古代の黄金製品を掘り出していた。盗掘は割りのいい職業で、盗掘人の組合さえ出来た程だった。熟練した盗掘人は高塚や丘の形を見ただけで、地下にどんな遺跡があるか判ったという。そういう黄金盗掘者のほかに硝石採集を職業とする連中もいて、同じように掘り返して歩いていたんだ。また山師の一群もそれに加わっていた。古代の鉱山の跡を見つけて再発掘すると、意外な大鉱脈につき当ることが多かったからだ。その収穫が余りにも大きいのに気づいたピョートル大帝は、領土内の遺跡はすべて国家の所有に帰し盗掘には厳罰をもって臨むという法律を作ったが、大して守られてはいなかったらしい。十八世紀の終りから十九世紀のはじめにかけて、高塚や都市跡の丘にかこまれた地方では黄金の|噂《うわさ》が絶えず人の口にのぼっていたんだ。シュリーマンはそうした中で育って行ったのさ」
「するとホメロスに夢中になったというのは……」
「たしかにそんなこともあったろうさ。アキレスとヘクトール、パリスとヘレナ、そしてあの木馬……子供は一度はそんな物語りに夢中になるものさ。だがシュリーマンはそのほかに地下から現われて貧乏人を一夜で大金持にする黄金の財宝のはなしも聞いて育ったんだ。しかしシュリーマンの伝記にそんなくだりはない。ただ大人になったらトロイの町を発見しプリアモスの宝を発見すると父親に誓ったことが書かれているだけだ。滅んだトロイにロマンチックな夢を抱いたことになっているが、後年の彼の行動を黄金中心に眺めてみると別な答えがでて来る」
隅田は古い記憶をたどりながら言った。
「そう言えば、まだこれからという働きざかりに商売から手を引いているな」
「少年時代の夢を追う……そんな|綺《き》|麗《れい》ごとでは割り切れない行動が多すぎるんだ。成功者の伝記の常で何もかも綺麗ごとになっているが、荒物屋の小僧をふり出しにたった二十五歳でペテルスブルグの商館の主人にまでなり上った商才は並大抵のものじゃない。どう考えたってどぎつく汚ならしいやり方がなかったとは思えないじゃないか。むしろ人並みはずれたどぎつさがめつさ……そんなものがなければ商人として成功する|筈《はず》がない」
「なるほどね。そう言えばそうかも知れん」
「面白いことに、南米行きの船のボーイに就職する前、シュリーマンは毎日エルベ河を眺めて暮してた筈なんだ。ハンブルグにいたからな。そしてその河口を出たちょいと先きに例のヘリゴランド島がある」
「ヘリゴランド島……」
「ユルゲン・シュパタートが海底の古代都市を発見したところさ」
「思い出した。アトランティス北海説だ」
「発見は一九五二年のことだからシュリーマンに関係はないが、因縁みたいなものがある」
8
「ロシアでのシュリーマンの肩書きを知っているか」
「いや」
そう答えた隅田は青山通りに眼を向けていた。ベンツがゆっくりと通りすぎて行った。今井潤造はよくその車をのりまわしていたものだ。車も運転手も今井のものではなかった。それは多分東日グループのどこかが提供していたのだろう。
「セント・ペテルスブルグ第一商業組合理事、セント・ペテルスブルグ商事裁判所判事、セント・ペテルスブルグ帝室国立銀行頭取、そして世襲ロシア名誉市民」
「大したもんだな」
「ところがアメリカの市民権ももっているんだ。彼がアメリカへ渡った理由は、ペテルスブルグに届いた一通の手紙だった。差出人は弟のルードヴィッヒで、内容はカルフォルニアのゴールドラッシュについてだった。ルードヴィッヒはいわゆるフォーティーナイナーだったんだ」
「黄金の四十九年組か」
「一八四九年のゴールドラッシュにわくカルフォルニアにシュリーマンの弟が居合わせたんだ。伝記では弟が大成功をおさめ、兄貴に自慢たらたらで渡米をすすめたことになっている。シュリーマンはその気がなかったが、次のアメリカからの便りが弟の急死を報じて来たので、やむなく出かけることになっている。これも綺麗ごとの一例だ。ルードヴィッヒがゴールドラッシュでかなりの財宝を作っていたのは自慢たらたらの手紙で判っている。遺産相続についての現地の銀行からの通知が彼を動かしたのに間違いない」
伊丹は意地の悪そうな笑い方をした。「ところが|莫《ばく》|大《だい》な遺産というのは当て外れだった。伝記ではルードヴィッヒのパートナーが持ち逃げしたことになっている。しかし銀行から通知を受取っているくらいなら、それはちょっとおかしいじゃないか。トランカヴェル教授はこのアメリカでの時期に疑問を投げかけている。ルードヴィッヒの遺産なんてもともとなかったんじゃないだろうかと言っているんだ。そして通知を寄越した銀行というのは、ロスチャイルド商会だと推理している。事実ロスチャイルド商会は当時サクラメントに支店を出していて、シュリーマンもロスチャイルド商会に弟の件で相談をもちかけたと伝記に書いている。……だが弟のあと始末をしに来たのならそのまま引っ返してもいい筈なのに、シュリーマンはゴールドラッシュの西部でロスチャイルドをバックに金の仲買いのようなことをはじめたんだ。伝記ではそれで銀行を開業したと言っているよ。……一八五一年の三月に着いて五二年の二月までの間にシュリーマンはなんと四〇万ドル稼いでいる。本当だろうか。彼は一度も金を掘っていない。金探しに出資すらしていない」
「そいつはおかしいな。いくら気狂いじみたゴールドラッシュでも、一度土から出て金になったものが、そう突拍子もなく相場を変えるもんかな。たしか生卵一個が二ドルという馬鹿値になったそうだが、それで|儲《もう》かるのは卵を売った人間だ。金をドルに変える仲買人はそんなに儲けられまい」
「その通りさ」
「伝記ではどうなっている」
「語学力のたまものさ。英語、フランス語、オランダ語、スペイン語、ドイツ語、そしてロシア語……シュリーマンは貿易商としていろんな国の言葉に通じていた。それが役に立ったというわけさ」
「たしかに当時のカルフォルニアは人種のるつぼみたいなもんだったろうな」
「しかし語学だけでか……トランカヴェル教授の結論は、この時点でシュリーマンがロスチャイルドの全面的な後援をとりつけたということだ。そしてこの時期に第一のクロノスの壺を手に入れていると断言している」
9
「クロノスの壺を……」
隅田は声を高くした。
「そうだ。シュリーマンが、数々の肩書きに輝くロシア名誉市民になったのは、この時代のずっとあと、トロイの盗掘以後だ。国際的名士になってからなんだ。アメリカ時代の彼は二十八か九で、アメリカ市民権を得たのはカルフォルニア併合で自動的にそうなったにすぎない。ペテルスブルグでいくらか芽を出し、ゴールドラッシュで少しは稼いだろうが、そんな大金持になっていたとは思えない。本当にロシアで大成功しているのならすぐとんで帰るべきだ。それなのに、砂金の仲介人で砂ぼこりのたつ西部をとびまわっているんだ。では一体何の目的があって来た……弟はなぜ死んだ。なぜそんな若者にロスチャイルドが相談にのってやった。それはクロノスの壺がからんでいたからだ。弟のルードヴィッヒはたしかにゴールドラッシュで一山当てたんだ。しかしシュリーマンがいくら探したって遺産などありはしない。当り前だ。ルードヴィッヒはクロノスの壺という、将来巨億の富を約束する泥まみれの壺を手に入れたにすぎないんだからな。死んだあと、たしかにいくらかの遺産はあったろう。しかしそんなものは取るに足りぬものさ。弟の遺産……とてつもない大金を手に入れたという手紙を鵜呑みにして駆けつけたシュリーマンは、きっと雀の|泪《なみだ》ほどの金でがっかりしたに違いない。だがロスチャイルド商会が壺のことを話した。弟がその壺で取引きしようとしたかどうかして話してあったに違いない。シュリーマンは弟の壺を求めて西部の町々を駆けまわった。そして数か月後にそれをとり戻すことに成功したんだ」
「ということは、ロスチャイルド商会がアトランティスの謎に金を払ったことになる。そいつはあり得ないだろう」
すると伊丹は意味あり気に沈黙した。ぬるくなった水をひと口すすると、あわててそのグラスをあげて黄色いシャツのウェイトレスを呼んだ。
「水ぐらい黙っててもサービスしろよ。マスターに言いつけてやるぞ」
編んだ髪を両肩にたらしたウェイトレスは、水差しを乱暴に傾けながら言った。
「平気よ。文句言ったらすぐ辞めちゃうもの」
伊丹は笑ってウェイトレスの|尻《しり》を軽く平手で|叩《たた》いた。
「エッチ……こっちこそ奥さんに言いつけてやる」
ウェイトレスは笑いながら戻って行く。
「奥さんて誰のことだ」
隅田が|訊《たず》ねた。
「うん……」
伊丹はあいまいな表情を浮べこの店の経営者は歌謡曲の作詞家なんだよと、週刊誌の見出しでよく見かける名を教えてごまかした。今井邸の裏のテレビ女優といい、この友人の生活の場が自分とはまるで縁の遠いところになっているのを、隅田は痛感させられた。
「クロノスの壺はアトランティスの秘密など隠してはいないんだ」
伊丹は話を戻した。たのしそうな顔でマッチ箱を指で弾いている。
「じゃあ何でロスチャイルドが金を出した」
「クロノスの壺は古代都市間に交わされた国際儀礼のひとつだ……というのがトランカヴェル論文の最大のヤマ場になっている。古代人を我々はどうも過小評価しがちだが、たとえばシュメールの粘土板にはインドとの取引記録があるし、エジプトやメソポタミアの古墳からはバルト海地方の|琥《こ》|珀《はく》が出て来る。炭素の放射能測定でサイパン島の最も古い住居|址《あと》は紀元前一三七五年と決定された。リオデジャネイロの入口にそびえる|断《だん》|崖《がい》に古代フェニキア文字がきざまれていた……古代人の行動半径は想像以上に広かったというわけだ。トランカヴェル論文によれば、|梟《ふくろう》の壺は都市間の友好のしるしで、その中に自分の都市の所在を示す地図を封入して敵意のないことを証明し合ったというのさ。どうだい、たかが個人の墓や村、または城程度の遺跡でもロシア皇帝に眼の色を変えて法律を作らせる程の黄金が眠っていた。有力な古代都市の所在を示す地図が手に入るとなれば、ロスチャイルドが乗り出したって不思議なかろう」
「お|伽《とぎ》ばなしだな、まるで」
「しかしお前だってクロノスの壺が発見の噂ばかりで満足に陽の目を見たことがないのは知っている筈だぜ」
「お前から教わったばかりだ」
「ルードヴィッヒ・シュリーマンがその第一号だとは思えないか」
「暗殺教団が介入して来るというわけか」
伊丹は冷笑した。
「暗殺教団は底の知れない黄金狂の集団だ。今では巨大な金融資本に化けているかも知れない」
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「トランカヴェル教授はルードヴィッヒの死については何も触れていない。だが考古学の世界では有力な人物が異常な死に方をする例が少なくない。ポンペイやヘルクラネウムで近代考古学の先駆者になったヴィンケルマンはホテルに泊り合わせた正体不明のイタリア人に首をしめられた上ナイフで六回も刺されて死んだ。王陵の谷で名をあげたカーター・グループのファラオの|祟《たた》りは少しでたらめがすぎるが、その中の何人かは実際に|頓《とん》|死《し》している。三週間も苦しみ抜いたカーナーヴォン卿の死に方など、ただの病死でかたづけるほうがおかしいくらいさ。ルードヴィッヒはとにかくとしても、シュリーマンだってナポリのサンタ・カリタ広場で行き倒れになった。世界的名士になっていたが顔を知る者もなく、かつぎ込まれた病院で収容を断られたりしている。……そしてパウロだ。クロノスの壺の秘密を知っていると言ったとたん、スパイ容疑で銃殺刑じゃないか。そうなると今井さんだって変な死に方じゃないか。神奈川県の守屋へ土地を見に行ってそこで倒れたが、地元の医者がおそろしく|藪《やぶ》で、五月だっていうのに日射病だなんて誤診されて手遅れになってしまった。……トランカヴェル教授だってそうだ。山の中で自動車の運転を誤って|崖《がけ》から転落死し、二か月もたってから発見されてる」
隅田は|憮《ぶ》|然《ぜん》としていた。冗談をいうなと|叱《しか》りつけてやりたかった。しかし伊丹に言われて見ると今井の急死にはどこか疑う余地がありそうな気がしたのだ。権力者の秘密を握ってそれを利用していたとしたら、いつかは死の危険にさらされるのではないだろうか。
「何でそんな妙な顔をする」
「今井さんのことを考えていた」
すると伊丹は生真面目な表情になった。普段の|嘲笑的《ちょうしょうてき》な仮面が消え、持って生まれた誠実さが|滲《にじ》み出ていた。
「トランカヴェル教授を持ち出したのはそのことなんだ。シュリーマンはロスチャイルドという大資本を背景にしていたと言うが、その図式はどことなく今井さんと東日の関係に似ている。そして暗殺教団というのは、ロスチャイルドが束になってもかなわないような巨大な資本らしいんだ」
「さっきもそんなことを言ったが、一体どういうことだ」
「何しろ地下深く潜ってしまった秘密組織だから、推理するより仕方がない。トランカヴェル教授は神殿騎士団やアルビジョア十字軍の研究家で、その方面から暗殺教団にアプローチしている。暗殺教団と神殿騎士団は一見敵同士に見えてその実双子の兄弟のような仲だったんだよ。その詳しいことはここで言っても仕方がないが、とにかく十字軍の歴史の中で神殿騎士団は二百年にわたって暗殺教団のやり方を踏襲し、信仰まで暗殺教団に影響されてしまった。ハシッシュの吸飲から男女両性の邪神バフォメットの崇拝まで導入していたのがバレて、最後は総長以下全員火あぶりという結果になってしまった。その背景にはフランスのフィリップ四世と宰相ノガレの金銭欲があったとも言われている。神殿騎士団は十字軍遠征にまつわる金融業者的存在で、一時はフランスの王室収入を信託されるなどして|莫《ばく》|大《だい》な財力をたくわえていたんだ」
「それと兄弟のような関係にあったというと、暗殺教団も金融業のようなことをやっていたのか」
「もっと根が深いんだ。古代の遠隔地交易には、相互の信用を保全するため、自然にひとつの検察組織が生まれていた。法治の確立していない社会で契約違反などの背信行為が出た場合、中立的な陰の検察組織が制裁を加えない限り、やりどく、|奪《と》りどくできちんとしたビジネスなど長つづきしなくなってしまう。香料の道と絹の道が交錯するアラビア半島やペルシャがその検察組織の中心だった。それが時代とともに変化して強大な金融力で世界を支配した」
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「暗殺教団は各国の法治が確立しはじめる頃登場したんだ」
伊丹は隅田を見つめながら続けた。「陰の検察組織は必要性をなくしかけていた。検察組織というとモダンに聞えるが、一種の秘密結社だ。加入の誓いなどは儀式化して、必然的に宗教の要素を濃くしていた。保守的で神秘的で、多分奇怪な儀式を持っていたんだろう。トランカヴェル教授は一種の巨石信仰ではないかと言っている」
「巨石信仰……」
「そうだ。それはメガリスにつながる更に原始的な宗教だ。メッカのカーバも一種のメガリスじゃないか。ご本尊は黒石だ。エルサレムにも岩石信仰の|痕《こん》|跡《せき》がある。古い古いものがそうした秘密結社に保存されていたんだ。陰の検察組織はその制裁手段である暗殺を新興の異端派に持ち込んだんだ。そのために暗殺教団はみるみる強大になって行った。欧亜交易路の独占をたくらみ、最後にはモンゴルと武力衝突する……」
「フラグ汗のバクダード攻めのことだな」
「そうだ。実際にカラコルムのモンゴル宮廷で生活し、フラグ汗の軍隊に従軍したスペイン人のジョワイニーが、その辺のいきさつを|匂《にお》わせている。イスラム側が背信行為をしたんだ。フラグ汗の派遣した通商使節団をイスラム側が虐殺して商品を奪ったり、粗悪な商品で暴利をむさぼったりしたんだ。モンゴル側はむしろ非常に紳士的だったと言える。蛮族ときめつけるのはヨーロッパ人の人種的な偏見にすぎない」
「でも結局全滅させられたんだろう」
「それはそうだ。しかし一部は逃げのびた。ひょっとすると神殿騎士団が力を貸したのかも知れん。トランカヴェル教授はスペイン方面だろうと言っている。神殿騎士団は当時アラゴン王に寄進されたカラトラバ城を根拠地にしてバレンシア地方に勢力をひろげていたからだ。イスラム的なイベリア半島は絶好の逃避先きだったろう」
「古代の巨石信仰を持っていたとすれば、メガリスの本場のような土地でもあるしな」
「そうなんだ。さっき今井さんが建築様式から調べたと聞いて俺はあっと思ったんだ。暗殺教団の寺院は地下に特色があるのさ。一種の|洞《どう》|窟《くつ》宗教とでもいうか、地上よりは地下に広大な住居区や礼拝所を持っていたんだ。初代長老のハサンなどは、一〇九〇年にアラムートの|山《さん》|塞《さい》にこもったきり、一度も太陽の下に現われなかったというぐらいだ」
伊丹はそう言ってうまそうにコップの水を呑みほした。「これで俺の知っていることは大体喋ったが、シュリーマンの妻についてひとことつけ加えておこう。シュリーマンはギリシャ人の若い女と結婚したが、彼女は夫の死後再婚した。相手はのちにギリシャ首相になったツアルダリスだ」
隅田はケネディ夫人を連想した。
そのことを言うと伊丹はうなずいて、
「だから、最初から俺のほうが驚いているんだ。トランカヴェル説で何もかもつじつまが合いそうなんだ。まさかと思う一方で、どうにも暗殺教団に引きずり込まれて行くようで仕方がない。考えてみれば神殿騎士団はフリーメイスンにつながっているじゃないか。ソロモンの神殿を再建するという石工の集まりがその原型だが、最後にはユダヤ的色彩の強い国際秘密結社になってしまって、歴代のアメリカ大統領もその会員だというしな。案外どこかでロスチャイルドやQ海運につながっていないとも限らない。南米のクロノスの壺を持っていたのも、シュリーマンの遺書を保管していたのもロスチャイルドだ。東日が暗殺教団にからみはじめたとしたら、そいつは日本という国が本格的に先進国の仲間入りをした証拠かも知れん」
伊丹は笑った。だがその笑いはどこか空々しく、不安なかげりをたたえていた。
第五章 大和朝廷巨石信仰説
1
五反田の|埃《ほこ》りっぽい入り組んだ街並みの一角に、会沢建設株式会社という看板がかかっている。社屋はモルタル二階建てで、それに隣接したかなり広い敷地が資材置場になっていた。資材置場は板塀でかこんであり、汚れたトラックや乗用車がセメントのこびりついた木の枠や鉄板の間に、どうやって道路から入って来たのか見当もつかないような角度で停めてあった。その突き当りには飯場然とした平屋がひとむねあり、テレビの野球中継のアナウンスが聞えてくる。
会沢が今井邸の焼失を知ったのは昼近くだった。日曜日の朝火事では新聞にものらず、テレビもニュースにのせなかったが、ラジオだけがドライバーむけ番組の火災速報で二、三度流したらしかった。
毎週日曜日に会沢は経理状態を調べることにしている。経理部長は土曜日の晩に帳簿類を二階の社長室へあげて帰る習慣になっていた。いつものように昼近く中目黒の自宅から出て来て事務所の|鍵《かぎ》をあけていると、裏に住み込んでいる若い社員がカーラジオで聞いたと言って今井邸の火事を告げた。二階へ行ってすぐ隅田に電話をしたが応答がなく、今井家といちばん近い関係で、阿佐ケ谷に住む書道家に電話で様子を|訊《たず》ねた。案外のんびりした返事がかえって来て、まる焼けだったがそれもこの際丁度いいようなものだと言い、今井夫人は郷里の岡山へきのう発ったばかりだとかえって目出たいような言い方をした。
岡山市郊外には地元出身の元首相から贈られたかなり広い土地があり、今井潤造は生前そこに隠居所だと言って超一流の職人を集め、凝り放題の純日本建築を残していた。目ぼしいものはすっかり岡山へ移しおわり、|松濤町《しょうとうちょう》には問題の資料や遺稿のたぐいと夫人の身のまわりのものしか置いてなかったのだ。
だが、夫人がきのう急に発ったのは元首相主催の茶会に招かれたからだと聞いたとたん、会沢は激情的な反応を示した。
思考が頭の中で言葉にまとまり切らぬ内に体が動きだしてしまうような性分だった。電話を切るやいなや、会沢は社長室の窓をあけて平屋の屋根めがけて空の|紙《かみ》|屑《くず》|籠《かご》を|抛《ほう》りつけた。スレート|葺《ぶ》きの屋根に金属製の紙屑籠が当ってけたたましい音をたてながら転がり落ちた。
それは下にいる部下に対する非常呼集の合図だった。朝でも夜中でも、会沢はそうやって部下を呼びつけるのだった。社長が爆発を起したことを知って、たくましい男達がドヤドヤと駆けつけて来た。
「お前らふたりでいい。あとのもんに用事はない」
会沢は中でも気のきく男をふたり選びだすとそう言ってほかの者を帰した。
「ご苦労だがこれから二人で神奈川の守屋という所へ行って来てくれ」
|凄《すご》|味《み》のある声で命じた。
「守屋……ですか」
「そうだ、守屋だ。そのちっぽけな町に医者がひとりいる|筈《はず》だ。多分ほかに医者はいないだろう」
「その野郎がなにか……」
「馬鹿。その先生は丁寧に扱うんだぞ。聞きだしたいことがあるんだ。そいつはひょっとすると大したネタかも知れない。だから|喋《しゃべ》りたがらないかも知れないんだ。思いっ切り下手に出て、焦らずにじっくりやれ。何か聞き出しても|俺《おれ》に話すまでは他人に喋るな。そして報告したらすぐ忘れちまえ」
二人は要領を得ない顔でうなずいた。
「何という医者ですか」
「俺がそんなことを知るか。知ってりゃ頼まねえ」
会沢は怒鳴った。「聞き出すことはこうだ。……お前らこの五月に亡くなった今井先生を知ってるな」
「ええ」
「今井先生はその守屋って所で倒れなすった……|診《み》たのがお前らの会う医者だ。その医者に会って今井先生がどんな具合だったか聞き出すんだ。守屋の医者はみたてを間違ったことになってる。だからひょっとすると言いたがらねえかも知れない。口を割らなきゃ金を使え。こいつを持って行け」
会沢は|鰐《わに》|皮《がわ》の紙入れを二人の前に抛り出した。三十万近く入っている筈だった。男たちは受取って顔を見合わせた。「でもみたて違いじゃないと自信を持っていたらかえって喋りたがるかも知れん。どっちにしても丁寧に気を使って聞き出すんだ」
追いたてるように二人を出発させた会沢は、「きまってるさ畜生」とつぶやいた。会沢は今井邸の火災を放火だときめたのだ。誰かが秘密が|洩《も》れるのを恐れたのだ。……としたら、今井潤造の死も調べる必要があると考えた。それが会沢の反応のしかただった。
2
古代ギリシャの元老院では、そんな顔がよく見かけられたかも知れない。彫りの深い横顔はがっしりと|逞《たくま》しく、眼や額のあたりは深い知性をたたえ、|顎《あご》の線は強い意志の力をあらわしていた。とうに老人と呼ばれる年齢に達している筈だが、|溢《あふ》れるような精気が|漲《みなぎ》っていて老人のイメージは|湧《わ》かない。たるみこそ隠せないが、肌は|艶《つや》|々《つや》と脂がのっていて、どこか征服民族の王といった迫力がある。
その人物は大きな|椅《い》|子《す》にゆったりと腰掛けていて、着ているものはひどく時代ばなれのしたものだった。
ドリス式|寛衣《キトン》だ。古代スパルタやアテネで用いられた貫頭衣の一種で、両肩の留め金を外すと一枚の大きな四角い布になる。あらかじめ円筒形に縫合したイオニア式|寛衣《キトン》と比較するとはるかにひだが少なく単純に見えるが、その分だけ重厚な感じがする。
どんな生地を使っているのかよく判らないが、両肩の留め金は明らかに黄金で造られている。|寛衣《キトン》の色は深紅だった。
部屋は|豪《ごう》|奢《しゃ》をきわめている。家具類はすべてフランス王朝風の逸品ぞろいで、赤い|絨緞《じゅうたん》はサボンネリー工場製の最高級品だった。セーブル産の磁器が飾られ、くすんだ赤褐色の天井の上張りはボーベの極上品だった。長方形の部屋の三辺に、合計五つのドアがあり、一方の壁に大きな窓がふたつあるが、部厚いカーテンが重々しく垂れていて外は見えない。巨大なマントルピースの上に、それにまけないほど巨大な|象《ぞう》|牙《げ》が二本対にして飾られ、その前の床に見事な|虎《とら》の敷物が大小ふたつ置かれていた。幅の広い階段があり、部屋の二辺に中二階のような形で回廊が張り出していた。
そして、壁ぎわに置かれたスペイン風の|甲冑《かっちゅう》の横に二十四|吋《インチ》のカラーテレビが車つきの台の上にのせられていて、赤いドリス式|寛衣《キトン》をまとった人物はその画面に見入っていた。
映像は少し鮮明度を欠いたモノクロで、音声は出ていない。画面の左下に時間をあらわす四|桁《けた》の数字が出ていて、白い包帯で頭部をつつんだ異様な走者が疾走するたびに、数字が|烈《はげ》しく入れかわっていた。〇六・二四、〇六・二〇、〇六・二六……四桁の数字はいつもそのあたりで止った。
「なる程よく走る……」
椅子に|坐《すわ》った人物が底力のある声で静かに言った。部屋にはそのほかに女が一人と男が二人いたが、みな立ったままだった。
「人間が場合によっては百メートルを六秒台で走れるものだと知ったら、世間はさぞ驚くことでしょう」
三十歳ぐらいの背の高い|精《せい》|悍《かん》な感じの男が言った。顔だちは整っているがどことなく酷薄な印象を漂わせている男だった。
「呂木野は何秒で走れる」
呂木野と呼ばれた男はさあ、と首を傾げ、「最近計ったことはありませんが、若い頃十一秒六で走ったことがあります」
「十一秒六……」
するとVTRのコードを丸めていた白髪の老人が、
「早いほうですな。そいつは早い」
と呂木野に向って言った。呂木野ももうひとりの若い女も赤い|寛衣《キトン》を着ているが、その老人だけは、着古した白い麻の背広をだぶつかせていた。
「|狼《おおかみ》の具合はどうだ」
腹に響くような声で訊ねられた白髪の老人は、呂木野のように威圧された様子は見せず、淡々と答える。
「狼ですか。相変らずですよ。今が丁度増悪期のピークでしてな。静かなもんです。しかしまた二週間もするとうるさくなるでしょう。可哀そうに……」
「それにしても妙なものだ。君の命令しか聞かんと言うのは」
老人は皮肉な笑い方をした。
「あの男の前に立つと、|儂《わし》は時々自分が悪魔になったような気がしますよ。儂が息を止めろと言ったら、命令を解除するまで息をせんのですからな」
「従命自動症というのだそうですね」
呂木野が口をはさんだ。
「自動的に命令に従ってしまう特殊な精神病だ。反対に拒絶症というのもある。すべての命令に逆らうのだ。しかし世間の医者が知っているのと、あの狼のとはまるで病気の深さが違う。それに特定の人間の命令にしか反応せんのは例が知られていないだろう」
「案外会長のご命令にも服従するかも知れませんね」
呂木野がへつらうように言うと、会長と呼ばれた男はゆっくりと立ちあがりながら、
「そういうことは好かん。……今何時頃だ」
と若い女に訊ねた。
「四時になります」
若い女は細い声で答えた。
「まだ日暮れには間があるな」
3
会長と若い女が階段を登って二階のドアへ消えると、呂木野と白髪の老人はやっとくつろげる、と言った様子で王朝風の椅子に体を沈めた。呂木野は太い葉巻を一本テーブルの上からとりあげると、ライオンの頭の形をした金色のカッターで吸い口を切った。
「呂木野はマリファナ専門か」
老人が言った。
「いや、ハシッシュ……」
呂木野はそう答え、眼を細めて火をつけた。
「何年目になる」
「そろそろ三年半」
「三年半か……」
老人はちょっと考え込み、「下級の者達の中にはケルビムに近づいている者も出はじめている。いいかげんに工事をはじめたらどうなんだ」と諭すように言った。
「ええ……そう言います。しかし香織様に何かお考えがあるらしくて」
「それは知っとる。だがもう時期が来ておる。都合が悪いなら何も隅田賢也でなくてもいいじゃないか」
呂木野は驚いたように太いマリファナの葉巻を口から離した。
「駄目です。隅田賢也でなければ余計に時間が掛る。そのことは会長も香織様もご承知……。比沙子さんもこちらへお見えになったことですし……」
「それなら早くさせてもらえ。血液銀行のスケジュールは順調に進んでいるんだ。工事が始り次第儂のほうも全血採取を始めねばならんのだ」
すると呂木野はニヤリと薄笑いした。
「この前あの壺直しの職人の時はじめて拝見しました。血液というのはあんなものですか。見たところ一升瓶に二本ぐらい……もっと多いのかと思った」
「あの男は五〇キロぐらいだったから、……二升二合ぐらいになるかな。男は体重一キロ当り八一CCが標準になっているんだよ。ただあの男は酒飲みだったらしいな。肝臓がかなり悪くなっていたし、腎臓も余りいい状態ではなかった」
「僕の時は極上の血液を……」
呂木野は唇を|歪《ゆが》めて言い、「どっちみち隅田賢也という男はもうすぐ呼ばれますよ」
と冷たく眼を光らせた。
「そうなるだろう。ところで二区の連中がきのう遅く動いたようだが、何かあったのか」
老人は椅子の背にもたれ、|睡《ねむ》そうに聞く。
「今井邸です」
「例の今井潤造の記録か」
「焼きました」
「それはまた手きびしい」
老人は薄く眼を閉じたままつぶやいた。
「記録だけ奪ったのではまた|嗅《か》ぎまわる者が出かねない。焼くのが最善の手段です」
「呂木野のやり方はいつもそのテだな」
「完全を期します。役目ですから」
呂木野の表情にけだるい満足感が見えた。「すると四区の|柘《ざく》|榴《ろ》から|報《し》らせのあった、石川という若い男も消されたわけか」
「嗅ぎつけましたからね」
「役目とは言え無慈悲なことだ」
呂木野は面倒臭そうに答える。
「命令です。誰かに呼ばせるとばかり思っていましたが、瀬戸さんのほうで落した。加入は認められませんでした」
「やれやれ。美男に生まれんと損をするな」
「もう一人の雑誌社の男はお構いなし。石川の報告をお|伽《とぎ》ばなしのようにしか考えていません」
老人は低く含み笑いをした。
「想像力に欠けた者よ幸いなれ……か」
豪奢をきわめた大きな赤い部屋で、老人と呂木野はうとうととしはじめている。呂木野の吐く息が|微《かす》かに|大《にん》|蒜《にく》臭かった。
4
その日の夕方、伊丹英一のボルボは|高《たか》|輪《なわ》台町にある作家の大杉実の家の前に停っていた。大杉は伊丹が着いた時原稿を書いていたが、余り気が乗っていなかったらしく、渡りに舟と書斎にビールを運ばせた。
「車で来たんだ……」
そう言って伊丹が断ると大杉は人なつっこい笑顔で、
「いいさ。ウチの前へ置いてタクシーで帰ればいい。でなかったら彼女を呼ぶんだな」
と言った。伊丹は以前大杉の家で飲んで、柳田祥子を迎えに来させたことがある。
「あいつの運転じゃ寿命がちぢまる」
そう言うと大杉はニヤリとして、
「愛してるね。だから祥子さんの運転がこわいんだ」
と言った。でっぷりと肥った大杉は、肉でふくらんだような手で伊丹のグラスにビールをつぎ、
「とにかく飲もう」とまるでそれが仕事のような言い方をした。伊丹は最初の一杯に口をつけた。
「実はとんでもないことを聞いちまった」
「何かね」
大杉は伊丹より四つ年上で、二人は気が合うらしく兄弟のような交際をしていた。
「俺のJ大時代からの友人に隅田賢也という男がいる」
「知ってる。夏木建設のエースだろう。先月久しぶりに名古屋へ行ったとき愛川記念図書館を見たが、驚いたね。あれだけのものが日本の建築家の手で出来るようになったんだな」
「うん。たしかに|奴《やつ》は才能がある。しかし今日はその話じゃない」
伊丹はそう言って隅田から聞いたことを逐一大杉に語った。大杉は次第に熱中して来た。
「Q海運か。そいつはたしか西丸ビルにあるぜ……日本支社。西丸ビルはもともと東日不動産の持物で、新しく建て替えた時の設計者はたしか今井潤造の筈じゃなかったか」
「そうかも知れない」
「驚いたね……しかもその遺稿の中に含まれていたらしい暗殺教団の記録が焼けてしまったと言うんじゃ、こいつは|只《ただ》|事《ごと》じゃない。隅田さんは見てないんだな」
「それが丁度今日なんだ。今日この日曜日に今井邸へ行って調べようと思っていた矢先き、火事で丸焼けだ……」
大杉は|嬉《うれ》しそうな顔で、柄に似合わぬ甲高い声を出した。
「放火という線は出ないのか、証拠|湮《いん》|滅《めつ》のために……」
「大杉さん」
伊丹はたしなめるように、「こいつは遊びじゃないよ。もし放火だったらどういうことになるか考えてみたら、そう嬉しそうにはしてられない筈だ」と言った。
すると大杉は皮肉な笑い方になった。
「英さんよ。そういう英さんだってしん底本気じゃあるまい」
「なぜ」
「しん底本気だったら俺に教えやしない。クロノスの壺と同じように、さわれば死ななきゃならん事柄だぜ。英さんは俺を死なせたがらないだろう。それとも心中したいと思ってくれているのか」
伊丹は笑い出した。
「こんな百貫デブと心中する気は毛頭ないよ」
大杉も笑い、ふと表情を戻して、
「でもトランカヴェル説が奇妙になまなましく思えて来るな」
と静かな声で言った。「Q海運が暗殺教団に関係して来るとなると、日本を黄金の国と報告したマルコ・ポーロも、何かそれに類したことを知っていたのかも知れない。あの頃暗殺教団はスペインにいたんだものな」
「それに原|杖《つえ》|人《と》の大和朝廷巨石信仰説も考え直す必要がある……」
5
「原杖人……」
大杉は懐かしそうに言った。「そう言えばあのじいさん、近頃とんと姿を見せないな」
原杖人は古いアトラントローグだった。アトラントローグ仲間では、|殆《ほと》んど草わけといっていい存在だ。大杉はそれを久しぶりに思い出して懐かしそうにしたが、伊丹の顔を見て急に口をつぐんだ。伊丹は真剣そのものといった表情をしていた。
「実は原杖人だけど……」
そう言い|澱《よど》んでビールを飲んだ。「ちょっと気になってね」
「どう……」
「すっかり忘れていたが、今朝今井邸が焼けたと聞いた時急に思い出したんだよ。今井邸が放火だとしたら、今井さんの急死も疑う必要が出て来るだろ」
「それはそうだ」
「暗殺教団は古代都市間の交易にまつわる陰の検察組織が母体になっていて、原始的な岩石信仰をその宗教の中に残している……それがトランカヴェル説だ。同時に暗殺教団……いやその影を引く近代の国際巨大資本が|狙《ねら》うクロノスの壺はベルビーカーの一種とされていてメガリスと考古学的に密接な関係を持っている……つまり問題はメガリスさ」
大杉は子供がじれている時のように前歯を|噛《か》み合わせてこまかく首を左右に振った。それが彼の癖だった。
「それで」
「原杖人の大和朝廷巨石信仰説は、大和朝廷北方騎馬民族説を母体にして作られている。|磐《いわ》|井《い》の|叛《はん》|乱《らん》は北九州に定着した連中と畿内に定着した連中の最後の主導権争いで、その背景には石人石馬を持つメンヒルタイプの北九州派と、ドルメン又は|羨《せん》|道《どう》|墳《ふん》派の畿内派の|祭《さい》|祀《し》の違いがあった」
「磐井の叛乱以後、北九州の石人石馬はふっつりと後を絶ち、畿内軍の大伴金村らの手でそれ以前のものは徹底的に破壊されてしまった。そして畿内派のドルメンはその上に土を盛った世界最大の前方後円墳に完成するんだ」
大杉は思い出し思い出しそう言った。
「で、そのあと新興の仏教が入って来た。|百済《くだら》聖明王の献仏に端を発して、進歩派の|蘇《そ》|我《が》一族と保守派の物部一族の間で父子二代にわたる抗争が始った。崇仏教派の蘇我氏が勝ってメガリス派の物部氏は失脚した。しかし昔からのメガリス造築の風はやまず、手を焼いた聖徳太子が薄葬令を出さなければならなかった程だ。敗けた時の物部氏の長は物部守屋。彼は関東へのがれて旧式な巨石文化を生きのびさせた……これが原杖人の大和朝廷巨石信仰説さ。原杖人は|相模《さがみ》、多摩、武蔵の丘陵地帯に物部守屋一族のメガリスがうずもれている筈だと言って、長い間東京近郊を掘り返して歩いた。……ところが今井さんは神奈川の守屋で死んでる」
「なんだって……」
大杉はまた黄色い声を張りあげた。
「死んだのは神奈川県の守屋町」
「本当か」
「本当さ。何かを建てる計画だったんだろう。守屋へ土地検分に行って急死したんだよ」
大杉は|唸《うな》った。
しばらくして大杉はぼやくように言った。
「俺の犬神説はとうとう駄目か」
伊丹はからかうように、
「例の日本のメガリス分布と狼信仰の関係かい」
と鼻を鳴らした。
「そうさ。狼は大口とも真神とも言った。犬神とも呼ばれ御犬とも尊称されたんだ。犬神|憑《つ》きは日本の憑き物伝説の一番大きな分野で、狐憑きはその変種なんだ。……それがメガリスの分布と実によく重なるのさ。しかも狼伝説はアーリア系の神話が源らしくて、アーリア諸族の拡散期がメガリス造築期と一致してるんだ。北欧神話の地獄の番犬フェンリルが日本の犬神になってる。犬神憑きの家系は犬神筋と呼ばれ、推古、|舒《じょ》|明《めい》の二帝に仕えて|遣《けん》|隋《ずい》|使《し》や遣唐使をつとめた|犬上《いぬかみの》|御《み》|田《た》|鍬《すき》は、この犬神筋の頂点に位する人物だった……その説にずっと入れあげていたのに、原杖人の物部守屋東奔説が正しいとなると、関東以西の犬神信仰はメガリスと無関係ということになりかねない」
「そう心配しなくてもいいさ。メガリスはメガリス、犬神は犬神……」
「そうは行かない。巨石信仰に組み込まれていないと分布が重なるのは偶然ということにされてしまうよ。分布が重なると言っても、かなり例外もあることだし……」
伊丹は苦笑した。大杉はどこまで行っても好事家でしかないのだ。現に今井潤造の死が暗殺教団に二重の意味でつながりそうだというのに、自分の珍説のほうばかりを心配しているのだ。
6
会沢は帳簿に眼を通し終って、それをデスクの隅に積みあげた。どうと言って問題はないようだった。ただ受注が眼に見えて減って来ているだけだった。……今月も来月もなんとかやって行けるだろう。しかし三か月後が苦しいのは確定的だった。ここで受注量を急に盛り返すことが出来たとしても、三か月後が苦しいのはどうしようもないのだ。今井潤造の死以来、情勢が変ってじりじりと降下線を|辿《たど》った営業状態が、もうすぐ彼をのっぴきならない苦境に追い込むのだ。
会沢は渋い顔で手紙の束に手をのばした。この数日間に来た封書や葉書の類は、一応整理できるものはしてある筈だが、それでも二十通近くたまっていた。
結婚式の案内状や落成式の招待状が何通もあって、どれも出費を要するものばかりだった。ごつい指先きで次々に封をあけて行くと、終りのほうに馬鹿に気取った白い角封筒が混っていて、会沢のせっかちな動きがそこでとまった。
|宛《あて》|名《な》書きの左下に請求書在中とゴム印が押してあった。封を切るとごく簡単なマネージャーの|挨《あい》|拶《さつ》を印刷した紙が一枚と、三万円ほどの金額を記した請求書が出て来た。
雨がひどく降った晩に隅田賢也と飲みに行った銀座のクラブ|茜《あかね》の請求書だった。
会沢はかなり長い間その請求書を|睨《にら》んでいた。ふと気づいたように封筒をとりあげてその裏をひっくり返して見る……やがて会沢の|頬《ほお》にひきつったような微笑が浮んで来た。苦手な帳簿を相手にして少し疲れたようだった会沢の姿勢が急にしゃっきりし、普段の精力的な態度に戻って騒々しくデスクの|抽《ひき》|斗《だし》を|掻《か》きまわしはじめた。
二分もすると会沢は抽斗から探し物を見つけ出し、茜の請求書と見くらべた。探し出したのは去年の暮に来た新宿の|柘《ざく》|榴《ろ》の開店案内状だった。会沢は柘榴と茜がどちらも西ビルという一連番号をかぶせた貸ビルの中に店を出していることを発見したのだった。柘榴は新宿歌舞伎町の第三十四西ビル、茜は銀座八丁目の第二十一西ビルだった。
「赤い酒場……」
会沢はゆうべその前でひと騒ぎやったクラブ赤いバラの店構えを思い出してつぶやいた。隅田は問題の赤いバラが茜や柘榴と同じ赤系統でまとめた店だったことに不審を抱いているようだった。その時はさして気にも留めなかったが、いま隅田と同じ不審を抱いたのだ。
会沢は西ビルについてよく知っている。それは東日グループに属する西域貿易という会社の不動産部が支配する都内有数の貸ビル群の名だった。今井潤造はその西域貿易不動産部にも関係し、英建設を使ってかなりのビルを設計していた。そして英建設こそ、会沢を現在の苦境に追い込んだライバルだった。
西域貿易はそう古い会社ではない。もともと東日商事の中近東対策から生まれたダミーだが、社長が不動産業界の出身とかで都内の貸ビル業に意欲を示し、この数年急速に伸びた会社だ。東日不動産の全面的なバックアップをとりつけ、自社所有のビルだけでも三十以上あり、そのほかに管理委託、経営委託のビルをほぼ同数持っている筈だった。傘下のビルはすべて西ビルの名をかぶせ、その下に一連番号をつけて、ビルの屋上には同じデザインの大きな標識をかかげている。第一西ビルだけは欠番で、それが本社のある西丸ビルだった。西丸ビルは東日不動産から管理を委託されているらしかった。
盛り場の貸ビルは店子優先の設計をされているので、ビル自体の名は塔上標識でも見ないと気づかないくらい軽く扱われている。会沢も銀座の茜が入っているビルが西ビルだったことを、その時はじめて気づいたくらいだった。
7
ゆうべ真夜中頃から強い風が吹き、明け方近くまで|嵐《あらし》を思わせる風鳴りがしていたが、雨も降らず朝になると|綺《き》|麗《れい》な青空がのぞいていた。
日ざしは強かったがカラリと乾いた風が、肌に秋の来たことを知らせているようだった。だが隅田はその澄み切った朝の空とはうらはらに、重くのしかかるような圧迫感を味わいながら出社した。
やはり今井邸の焼失が気になっていた。比沙子の|失《しっ》|踪《そう》以来、すべてが自分を現在の場所から引きずりおろそうとしているように思えて仕方なかった。そういう感じ方は何も今日はじまったことではないが、きのうの火事がまたひとつ、それに輪をかけたように思えるのだった。いつものスモッグもなく、|爽《さわ》やかな秋晴れに道ゆくサラリーマン達の顔もどことなく活気に|溢《あふ》れて見えるのだが、それが隅田には逆作用をしているようだった。東京にしては|嘘《うそ》のように澄んだ空のどこかに、とんでもない|罠《わな》が仕かけられているような予感めいたものがあった。
そしてその予感は出社二十分後に的中した。折賀弘文の冷たい声が受話器を通して聞えたのだ。
「専務室へ行って来る……」
社内電話が切れると、隅田はそう言い残して設計第四課を出た。
八階のエレベーターホールの隅の壁に有名な洋画家の作品が豪華な額縁で飾られていて、その前のテーブルに古手の女子社員がデパートの案内係のように控えていた。
そこから先きの廊下には灰色の|絨緞《じゅうたん》が敷いてあり、他の廊下とは違って|艶《つや》|々《つや》と木目模様の浮き出したドアが並んでいる。微笑する受付の女子社員に軽く手をあげて挨拶し、隅田は専務室へ向った。
専務室は社長室と並んでいて、どちらも同じ間取りになっている。ドアをあけると細長い小部屋で、そこには秘書がいる。その小部屋の一方にまたドアがあり、専務はそこにいた。専務室の中にまたドアがひとつあり、そのドアの向うは社長室になっていた。専務と社長はどこも通らずにお互いの部屋へ行き来することが出来るのだ。そしてそれは折賀弘文と夏木雄策が一心同体の関係にあることの象徴のようなものでもあった。
隅田が入って行ったとき、折賀弘文は大きなデンマーク製のデスクで書類に眼を通していた。|眉《まゆ》の間に険しいものが漂っていた。
「やあ……」
折賀は低い声でそういうと書類を抽斗にしまい、右手で|椅《い》|子《す》を示した。隅田は相手の顔を見つめたまま、黙って腰をおろした。
「その後どうだ」
無表情で折賀が言った。|両肘《りょうひじ》をデスクの上について指を組んでいる。
隅田はあいまいに「はあ」と答えて|暫《しばら》く返事をしなかった。すぐには答えかねた。意地の悪い|訊《たず》ね方と言える。仕事に関してなのだったら「何とかやっております」ぐらいの返事をするのだが、比沙子のことならその返事ではひどく具合が悪い。
「仕事のほうは順調に行っております。しかし私生活では|淋《さび》しい思いをしています」
隅田ははっきり区別して答えた。折賀の顔に一瞬冷笑のようなものが横切った。小賢しい|奴《やつ》、といった表情にも取れる。
「きのうの出来事を知っとるか」
隅田はますます折賀の底意を感じた。火事と言えばいいのだ。|若《も》しあの火事を知らないでいれば、隅田に対して忘恩の徒といった雰囲気が発生するにきまっている。
「夫人が岡山へ発たれてお留守だったのが何よりの幸いでした」
「そうだな。松濤町の邸は君にとって懐かしい場所だろうから残念だったろう」
「大変残念に思っています」
「比沙子も今井さんにはいろいろ世話になったし、本来ならイの一番に駆けつけただろうがなあ……」
折賀専務はそう言って隅田の眼をみつめた。隅田は自分が今井邸へ駆けつけるよりだいぶ早くに相手が行っていたらしいと感じた。
「実はそのことですが、もうこれ以上じっとしているのは辛いので、わたしの方でも彼女を探しだすよう行動したいのですが」
すると折賀はいかにも父親らしく|鷹《おう》|揚《よう》に手を振って、
「君が比沙子の行方に全く心当りがないことは、家内と三人で散々話し合ったことだ。今更動き出しても二重の手間じゃないか。我々にまかせて置きたまえ」
と意味不明の微笑で答えた。
そのあと結局何の話題もなく、二分ほどして隅田は専務室を出た。
今井邸の火災に関してテストされたようなものだった。軟硬どちらにも取れる会話だったが、隅田は硬く冷たいものだけを感じた。
8
隅田は|憂《ゆう》|鬱《うつ》だった。どこの誰とも知れない相手に新妻を寝とられ、その上に妻の父親から形にならない圧迫を受けている。異例の昇進をした反動で社内の反感が高まっているし、味方の会沢までが苦境に立たされている。
デスクへ戻ってから不安と焦燥がいっそうつのって来たようだった。|奇《き》|蹟《せき》のように突然強大な力を与えられ、比沙子を奪い去った男の仮面を引きむいて|叩《たた》きのめすことができたら、どんなにさっぱりすることだろうと夢想した。会沢の前に積み重なっている障害を右腕のひと振りでとり払い、苦境を救ってやれたらどんなに痛快だろうとも思った。
敗けてはいられない。まだ道はある……そう思い直し電話に手を伸した。
――白日書房でございます――
女の声だった。
「近代建築の石川君をお願いします」
そう言うと女の声にあった事務的な感じが消え、
――石川でございますか――
と念を押した。そうだと答えるとしばらく間を置いてから、
――石川は不在ですが、どちら様でしょう――
と問い返して来る。
「夏木の隅田です。では屋島さんを……」
――屋島も本日は出ておりませんが――
「では結構です」
女は何か急用なら伝言すると言ったが、隅田はその必要はないと答えて電話を切った。
何か落ちつかない朝だった。隅田自身の気分もだが、部下の質問や営業部からの連絡が次々に重なって、十時半頃まで息つく暇もなかった。そして最後に会沢が慌しくとび込んで来て、隅田は強引に地下の喫茶店へ連れて行かれた。
「冗談じゃねえぜ、畜生め」
会沢は地金をむき出しにして大声で言った。ミニスカートのウェイトレスがびっくりした顔で二人を眺めていた。
「きのうの火事のことか」
隅田は会沢の四角い顔に浮んだ複雑な表情を読みとりかねて眉をひそめた。怒りとも喜びともつかぬ|昂《こう》|奮《ふん》で浅黒い肌を紅潮させていた。
「やっぱり相手は東日ときまった」
「順序よく話せよ。何のことか判らん」
「いや……」
会沢は一度使ったおしぼりを拡げてもう一度顔を|拭《ぬぐ》い、「松濤町へは行ったな」
と言った。
「うん、行った。綺麗に焼けたもんだな」
「俺は行かなかった。行ったって仕方あるもんか。灰になったらそれっ切りさ」
「しかし驚いたぜ。今日こそ行って調べようと思った矢先きだものな」
「それさ……」
会沢はごつい両手を合わせて|揉《も》むようにした。「放火だ」
「放火……」
「そうさ。サツがどういおうと消防署がどういおうと、こいつだけは間違いねえ」
「何か証拠でもあるのか」
「笑わせるな。この際そんなものなんか必要じゃない」
「じゃあなぜ放火だと……」
「きまってるじゃねえか。あそこに何かあったのさ。だから灰にされちまったんだ。誰かが何かを知られたくない……その誰かってえのが東日だ」
「それは勘というもんだろう」
「そうさ。悪いか。その勘がピタリなんだ。俺は焼けたと聞いてすぐ放火だと思った。そうなりゃ今井先生の死因だって調べる必要がある。誤診で手遅れになったということだったからな。そこで俺は人をやって神奈川の守屋という所の医者に当ったんだ。その医者はいまだに腹をたててる。誤診じゃなかったんだ」
9
たしかに、この五月十五日に今井が急逝したとき、最初に|診《み》た医者が誤診した為に手当てが遅れたという話はあった。しかし巨星|墜《お》つ、と言った騒ぎの中でそんな問題はどこか片隅へけしとんでしまい、いつとはなしに忘れられていた。
「守屋には竹中という医者が一人しかいない。内科と小児科が専門で、あのあたりでは名士なんだそうだ。会った者の話ではとてもしっかりした人柄で、医者としての腕もたしかなものらしい。町長でもあるし、地元では信用絶大というところだ。その医者が今井先生のことを言うとひどく腹をたてて、あんな侮辱は生まれて初めてだったと、その時の様子を教えてくれたんだ。俺達が聞いても医者の言葉なんぞチンプンカンプンだが、要するに日射病だったというのさ。日射病の中の熱中症という奴だ。……ほら、俺達の現場でもよく夏になると二日酔いの奴などが日射病にやられるだろう。あれは本当は熱疲……熱疲なんとか」
「熱|疲《ひ》|憊《はい》。それに熱|痙《けい》|攣《れん》だ」
「そう、そういうんだそうだが、もうひとつ熱中症というのがあって、やられると四割ぐらいは死ぬんだそうだ」
「熱中症か。あれは老人とか子供とか、それに疲れていたりして長い間直射日光を浴びていると、急に汗が止って肌もからからに乾いて死んでしまう。なんでも脳のどこかにある体温調節中枢とかいうのが働かなくなるんだそうだ。死亡率もひどく高いし、よく精神異常を併発するらしい」
「その熱中症に間違いないのに、あとから来た今井先生の主治医とか言うのが強引に引きとって、死なせちまってから心筋|梗《こう》|塞《そく》ということで死亡証明を書きやがったんだ」
「守屋の竹中という医者がそう言ったのか」
「そうさ」
会沢はいきりたって言う。隅田は顔をしかめていた。
「今井さんの主治医ね……」
心当りがなかった。
「そんな医者、あんただって知らねえだろう。知る|筈《はず》がねえさ。そいつは主治医でもなんでもない。西域貿易で保健医っていうのか、例の会社の中にいる医者のことさ……それなんだ。名前は原杖人……竹中って医者に言わせりゃあ、その原杖人なんてのは医者仲間でも有名な変り者で、どっちかと言えば半気違いみたいな奴なんだそうだ。誤診したのは先方のほうで、大会社の力をかさに勝手なことをするって憤慨してるんだ」
「待てよ」
隅田はまくしたてる会沢を制して、「いくら今日のような上天気でも五月だぜ。日射病というのはおかしくないか」
と言った。
「守屋の竹中が間違ってるというのか。……たしかに竹中もその季節には珍しいと言ってたそうだ。しかし無いことじゃないそうだ。真冬に|硝子《ガラス》|戸《ど》の中で日なたぼっこをしていた婆さんが、知らない内にそれで死んでたなんてこともあるそうだ。珍しいと言うだけに俺は信用するね。竹中って医者はそれだけ自信があるのさ」
「でも、それではどちらにせよ自然死だ。放火と結びつかないだろう」
「違うんだ」
会沢は慌ててごつい手を横に振った。「竹中が憤っているのは別に理由がある。竹中の弟というのは首都圏住宅公社の開発本部長で、あの辺り一帯を多摩ニュータウンのような住宅地にする計画を進めていたんだ。それが同じ東日の圧力で|潰《つぶ》されちまってる。地元の発展が私企業の利益の為に犠牲にされたと言って憤っているんだ」
「なるほどね。しかし東日はなんで守屋のあたりなど欲しがるんだ」
「それが判らねえからキナ臭いのさ」
会沢はちょっと首をすくめ、|悪《いた》|戯《ずら》っぽい笑い方をした。
「|嬉《うれ》しがってるようだな」
「どう見えたっていい。張り切っていることはたしかさ。東日が相手なら敗けてもともと、まかりまちがって勝ちでもしてみろ。今井天皇そこのけだぜ」
隅田はひやりとさせられた。危険だと感じた。東日グループというのはそんな生易しい相手ではない筈だ。その気になれば人間の一人や二人、ごく当り前の形で簡単に抹殺してしまうだろう。……そう思った途端、会沢の言う通り今井の死に疑いを持たざるを得なくなって来た。日射病という五月にしては少し気の早い死に方の裏に、何かが隠されていたのではないだろうかと思った。
「慎重にやろう」
「もちろんさ。宝の山を目の前にしてるんだからな。それに守屋で附録がついて来た。新宿の赤いバラまでつながって来たんだ」
10
会沢が守屋へ派遣した男達は案外気がきいていて、竹中医師の話から自分達で勝手に枝葉をひろげ、なぜ東日グループがニュータウン計画を潰してまでその地域を欲しがるのか知ろうとしたらしい。素性をたどれば元博徒の、今でもどうかすると事件屋めいたものと縁のつながり勝ちな商売で飯を食っている連中だから、そういうことには敏感なのかも知れなかった。
「東日……いや西域貿易はあの辺に大した土地を持っているわけじゃない。だいたいが水の便も余りよくない所だし、工場にすると言ったって、まさか重工を引っぱって来れるわけでもない。住宅地が精々の所で、それは地元の連中が一番よく知っている。現に西域貿易でも今持っている土地のほかに手を出そうとしている様子はまるでないらしい。守屋町と言ってもちょっと前までは村で、大字|塚《つか》|石《いし》という隣り町との境いに当る辺りに二千坪ぐらいの土地を持っているだけだ」
「妙だな。たった二千坪でニュータウン計画を潰してしまったのか……|算《そろ》|盤《ばん》に合わんよ」
「だからキナ臭いのさ」
会沢は得意そうに言う。「それに西域貿易というのは|曲《くせ》|者《もの》なんだ。だいぶ以前だが錦糸町のビル工事で俺のすぐ上の兄貴が西域とやり合ったんだ。知ってのとおり兄貴はあの辺りで不動産屋をやってる。荒っぽいやり方をするから非は兄貴のほうにもあったんだが、西域の金に飽かせたやり方も汚なかった。|揉《も》めに揉めたとどのつまり、西域は切り札に新宿の真名瀬玄蔵を使いやがったのさ」
「真名瀬……」
「商事会社の皮をかぶった暴力団だ。兄貴は|闇《やみ》打ちをくらってそれ以来右腕がきかねえ……」
そういう過去のいきさつで、赤いバラに大げさな護衛をつけてくれたのかと、隅田はやっと納得がいった。
「なる程」
「ところで、その大字塚石の二千坪を西域に売り払った奴が真名瀬の所で準幹部待遇を受けているのさ。今井先生はたしかに自然死かも知れねえが、このほうはまるっきり臭い。血の|匂《にお》いがプンプンして来やがる」
「というと……」
隅田は会沢の報告に熱中しはじめていた。
「持主は風間という家だ。えらい旧家だそうで北条時代から続いていると自慢してたそうだ。風魔小太郎とかいう大将の子孫で、魔法の魔の字がいけねえってんで徳川時代に風の間という字に変えちまったそうだが……」
「風魔……」
忍者小説にでも出て来そうな人物が登場したので、いかにも会沢らしいと隅田は思わずほほえんだ。
「どんな旧家か知らねえが、とに角先代までは絶対に土地を手放すような一家じゃなかったそうだ。ところが|或《あ》る晩強盗に入られて、多分抵抗したんだろうな。あるじ夫婦は|撲《なぐ》り殺されちまった。するとそれまでグレて家をとび出してた一人息子ってのが帰って来て、あっさり西域に土地を売り渡して大字塚石を引き払っちまった」
「そのグレた息子というのが真名瀬という暴力団の準幹部なんだな」
「そのとおりさ。しかも驚くじゃねえか。西域貿易はその後今井先生に何かを設計させようとして土地検分までやらせているし、今井先生の行きつけの店はみんな西域貿易が持っている西ビルの中に入ってるんだぜ」
「何だって……」
隅田は大声を出した。「じゃあ銀座の茜も新宿の柘榴もか」
「気がつかなかったろう。あの真っかっかの赤一色の酒場はどれも西ビルにあるんだ。調べて見たら赤いバラまで西ビルだ」
テーブルの灰皿の傍にこの店のマッチが置いてあった。その赤い文字までが隅田にはまがまがしく思えた。
11
その夜九時近くなって、隅田は新宿の街に足を向けた。相変らず歌舞伎町は黒い光を放っているように見えた。
会沢が知らせてくれたので、柘榴のある一角をぐるりと歩いて見た。たしかに西ビルで、柘榴はその建物の裏側に当っていたので気づかなかったのだ。反対側の通りには、突き当りにエレベーターが見える小さな入口があり、第三十四西ビル、という切り抜き文字がコンクリートに埋めこまれていた。見あげると六階建ての屋上に三十四西ビル、という文字がスポットライトを浴びて浮き出していた。
それから隅田は赤いバラへ向った。先夜欠勤していたエレクトーン奏者の顔を確認しなければならないからだったが、心の奥にはマダムのマキに対する関心が強く動いていた。
あの朝以来隅田は女の肌を忘れ切っていた。それがマキを見て急に呼びさまされたのだ。マキの印象は情事の塊りのようだった。男から完全に独立している女で、男と同じように浮気を|愉《たの》しむ女。鋭利で|強靭《きょうじん》で女の業のようなかげりを漂わせる女……それがマキから感じ取ったものだった。初対面で隅田はマキと宿縁のようなものがあるのを感じたのだ。
隅田の体の奥でちょろちょろと火のようなものが動きはじめていた。坂を登る足がいつの間にか早くなっている。……が、その足が急に停った。普段より注意して見ていた前方の夜空の右と左に、西ビル、という文字がふたつ浮いているのに気づいたのだ。第十八西ビルと第四十西ビルだった。
第十八西ビルのほうは、赤いバラのある建物だとすぐに判った。隅田は上を見ながら小走りに第四十西ビルのほうへ向った。
真新しいビルだった。たいして大きくはないが、外観を|華《きゃ》|奢《しゃ》に見せるテクニックがよく効果を出していて、かなり|贅《ぜい》|沢《たく》な感じだった。隅田はひょっとすると今井潤造の設計かも知れないと思いはじめていた。今井の晩年の作品によく使われているテクニックと同じらしかった。
正面に廻ると向って右手に駐車スペースがあり、闇の中にまっ白い車が二台停めてあった。それは救急車のようだった。|棕《しゅ》|櫚《ろ》の鉢植えを置いた入口に近づいてよく見ると、金色のパネルに黒い文字で、東日ブラッド・バンク、と書いてあった。
隅田は割り切れない面持ちでそのビルを離れた。どういう事なのか見当がつきかねた。赤い酒場の環がひろがるのを内心期待していたのだが、まるで見当外れの職種がそのビルを占めていたのだ。
赤いバラの前であらためて見あげると、このほうはだいぶうす汚れた六階建てで、しかもごく平凡な小さなビルだった。一階の通りに面した例の赤いバラと、その隣りの寿司屋だけが外装を|小《こ》|綺《ぎ》|麗《れい》に手入れしていた。
鋳物のノッカーがついた厚い木の扉を押して入ると、軽いエレクトーンの音が店の中に充満していた。演奏している女は比沙子ではなかった。いやにひらひらするスペイン風のドレスを着て、かかとの太いサンダルをはいていた。大きいが|恰《かっ》|好《こう》のいい口もとをしていて、くるくるよく動く|瞳《ひとみ》で隅田を見た。愛想よく弾きながらお辞儀をしてよこした。
カウンターにすわろうとすると、今日は紺の和服を着たマキがするすると近寄って来て、
「そこ今日は駄目よ。こっちへ来て」
と奥のテーブルへ引っぱって行く。半円形のカウンターが切れて、そこから先きはテーブルのスペースになっている。床の敷物が変って、いやにふかふかする毛脚の長いピンクの敷物だった。
「なぜ今日はカウンターじゃ駄目なんだい」
「和服でスツールって疲れるわ」
マキはそう言って左手を伸し、隅田のこめかみの辺りを|撫《な》でた。瞳がひどく潤んでいた。
第六章 甘い吐息
1
柳田祥子はバスルームで体を|拭《ふ》いていた。湯気で曇った鏡に裸の上半身が映っていた。祥子の肌はかなり浅黒い。それに体つきもどちらかと言えば男っぽい。手足はすんなりとのびやかでウェストも鋭く引き|緊《しま》っているのだが、それ以上にヒップの|贅《ぜい》|肉《にく》がなく、横幅よりはむしろ厚味のほうが目立つ体つきなのだ。髪はごく細く柔らかで、ボーイッシュなショートカットにしてあるのが、水に|濡《ぬ》れるとまるでプールからあがったばかりの男の子のような顔になる。
それにあまり汗をかかない体質だった。こめかみから額にかけての生え際の線が鋭角的で、細い|眉《まゆ》|毛《げ》は脱色したように赤味を帯びていた。|眼《め》|尻《じり》に少女時代から笑い|皺《じわ》があり、それが幾分きつい感じの祥子の顔だちに柔らかさを与えている。
眼に特徴があった。伊丹英一はよく祥子に、お前は口のような眼をしている、と言う。長い|睫《まつ》|毛《げ》の下に大きな深い色の瞳があって、それが実によく表情を変える。祥子は人の話に滅多に合の手をいれない。ええ、とか、そう、とか言わなくても、|喋《しゃべ》り手は祥子の眼でそれが判るのだ。だから聞き上手だ。相手に余分なことまで喋らせる才能を持っていた。
写真家の伊丹は、或る繊維会社でファッションデザイナーの見習いのような仕事をしていた祥子に会って、すぐにその並々でない|肢《し》|体《たい》に|惚《ほ》れた。実のところそれまで祥子は若い女として男からそういう評価をされたことは一度もなかった。だから伊丹は祥子を最初に発見した男と言える。
伊丹は短兵急に、ヌードを撮らせてくれと申込んで来た。ただ撮りたいんだ、発表するアテはまだない……と言われたとき、祥子はファッションデザインの世界にはない、本物の芸術家魂のようなものに触れた気がした。
それ以来、なんとはなしに伊丹の助手のようなことになり、結局恋人という関係に落ちついた。祥子のヌード写真は一度も人眼に触れることがなく、伊丹はその作品を宝物のようにしまい込んでいる。ただ一点だけ、|爪《つま》|先《さ》きだちになって体を精一杯上にのばした作品が大きく引き伸され、パネルに|貼《は》られて伊丹の寝室に飾ってある。伊丹がその写真をみつめていると、祥子は体の奥深くに彼のぬくみが伝わって来るような気がするのだった。
祥子はタオルで体を拭きおえると、別の乾いた小さなタオルを頭に巻いた。そしてよく伊丹がそうするように、たった今体を拭いたバスタオルを腰から下に巻きつけ、鏡に向ってちょろりと舌を出すとバスルームのドアをあけた。
キッチンに寄ってバスを使う前に作って置いたブランデー・サワーのグラスを取り、レモンスライスをひとかじりして|酸《す》っぱそうに顔をしかめた。
「おお酸っぱい……」
肩をすくめながらテレビの音がするリビングルームへ入ると、青いパジャマに着換えた伊丹が振り向いて眼を丸くした。
「アロハ……」
祥子は片手をあげてそう言った。「ゴーギャンになった気分はどう……」
少年のような体つきだが、バストは鮮やかに突き出していた。腰に巻いた純白のバスタオルが浅黒い肌に映えて、盛装しているような感じさえあった。
「こいつ」
伊丹は誘われたようにソファーから立ちあがると部屋の中央にいる祥子に近づいた。クーラーがかすかに音をたて、低いテレビの音と重なっている。伊丹が抱こうとすると、祥子はグラスを唇にあてがったまま首を横に振った。
「東京タワーから見えるわよ」
グラスに|籠《こも》った声で言う。
「見える|筈《はず》ないさ」
ここはバルコニーの真正面に東京タワーが大きく見えるマンションの六階だった。
「望遠鏡で見てるわよ。そうだ、今度行ってこようかな、ウチが見えるかどうか」
祥子はまるで色気のない言い方をした。伊丹は苦笑しながらカーテンを引きに行き、戻って来ると祥子のうしろへまわって、首筋から|肩《けん》|胛《こう》|骨《こつ》のあたりに軽く唇を|這《は》わせた。祥子は動じないふりをしていた。前へまわった伊丹の掌がバストの下側をそっと|揉《も》みはじめても祥子は感じないふりをしていた。|乳嘴《にゅうし》を吸われそれが白い光の中で堅くとがりはじめるのを感じたあとも、祥子は耐えていた。バスタオルが床に崩れ落ち、伊丹の短かく刈った髪が下腹を|擽《くすぐ》っても耐えていた。舌が|太《ふと》|腿《もも》に触れ、|膝《ひざ》のあたりまでさがって行ったとき、祥子ははじめて手にしたグラスの置き場を考えた。もう一分かそこらで自分が立っていられなくなるのを知っていた。
2
「ワンサイドゲームね」
まだ少しあえぎながら祥子がベッドの上でそう言った。
「三対一……かな」
伊丹が答えると祥子はくるりと寝返りをうち、うつぶせになって左脚を伊丹の両脚の上にのせた。乾いた肌を伊丹の右掌が撫でる。
「どうしてかしら」
|枕《まくら》に|頤《あご》を埋めた祥子が言う。
「何が」
「いつもワンサイド……」
伊丹は|闇《やみ》の中で含み笑いをした。
「せめてタイに|漕《こ》ぎつけたいな」
祥子はそう言って自分で笑い出した。
「|惚《ほ》れた弱味さ」
伊丹が言う。
「馬鹿にしないで」
祥子は伊丹の上にのせた左脚を一度軽く跳ねあげた。
「痛いよ」
「ざまみろ、あやまれ……」
男のように言って、祥子は体の向きを変え伊丹の体の下にもぐり込もうとでもするようにすがりついて行った。
「愛してるんだなあ」
「誰を……」
祥子は伊丹の唇を探りあて、その中へ赤ん坊がするように人差指を突っ込んだ。「ねえ、たべちゃって。愛してるんなら」
伊丹が|噛《か》んだらしかった。祥子は低く、あ、と言い、忍び笑いをしながら指を外した。
「ねえ、あのご夫婦もこんなかしら」
「誰のことだ」
「隅田夫妻よ。私ってレズっぽいのかしら。あの奥さんを見てるとポーッとしちゃうの」
「美人だな、あれは」
「私とどっち」
「そりゃ向うさ」
「でも旦那様はこっちが上よ」
「お世辞を言うな」
伊丹は軽く笑った。
「そう、本当はふたりとも向うのほうが綺麗……でもおかしい」
「何が」
「あなた達よく似てるのよ」
「俺と隅田がか」
「そう。二人はお互いに分身みたいなものよ」
「よせよ。俺はあんなコチコチじゃない」
「違うの」
祥子は伊丹の体にしがみついたまま首を横に振った。「選んだ道が違ったからよ。同じ道を進んだらもっとよく似てたんじゃないかしら。あなただってサラリーマンになっていたら隅田さんみたいになったでしょうよ」
「そうかな。……あいつも昔はもっと芸術家肌の男だった。設計家なんてみんなそんな所があるんだ。第一写真を俺に教えたのはあいつなんだぜ」
すると祥子はびっくりしたように体を離し、今度は少し間隔をとって伊丹の右腕をかかえた。
「それ本当……」
「ああ。俺の家は料亭で、早くからおふくろが女手ひとつで切りまわして来た。おふくろは店を継がせたかったらしい。だが俺はあの商売が嫌いだった。サラリーマンになろうと思っていたし、ビルを建てるような男っぽい仕事をしたいとも考えていた。それで建築科を選んだのさ。おふくろのお陰で俺はそう金に不自由をしなかったが、隅田は昔風に言うと苦学生だ」
「貧乏だったの……」
「なんてもんじゃない。孤児なんだ。|叔《お》|父《じ》さんに当るのが小学校の校長をしていて、ずっとその人に面倒を見てもらっていた。それも|奴《やつ》が大学へ進む頃はとうに停年でね。入学費用だけはその老人の手から出たが、あとは全部自分の力で稼ぎ出した」
「努力家なのね」
「うん。俺はあいつから随分生き方を教わったもんだ。暗くないだろ」
「そうね。良家の坊ちゃんみたい所があるわね」
「同時に嫌味なところもそれさ。いつも上ばかり見て懸命に這いあがろうとする。それでいてそんなところを|剥《む》き出しにするのが嫌いで何かとポーズをつけたがる。カメラいじりをはじめたのもそのためだ」
「同じ下宿にいたのね」
「うん。まるまる四年間さ。俺は下宿生活がして見たかった。それで偶然相棒にしたのがあいつなんだ。結局四年間別れられず、蒲田のボロアパートで共同生活をした。その時あいつが写真の面白さを俺に教えたんだ」
「アトランティスも……」
「あれはどっちからともなくさ」
「でも今は隅田さんがサラリーマンであなたがフリーのカメラマン」
祥子はおかしそうに言った。
3
「しかしあいつもあそこまでよくやったよ」
伊丹は|沁《しみ》|々《じみ》とした口調で言った。
「日本人より外国人のほうが高く買ってるんですってね」
祥子は伊丹の掌を胸の丘に押しあてながら言った。
「だいたいそんなもんさ。身近にいる人間の評価ってのは低く感じがちだ。それに建築家の社会もちょっとギルドめいたところがあってな……今井さんという背景がなくなったからあいつも苦しいらしいよ」
「才能があるなら……」
祥子が言いかけた。
「そうは行かない。才能というのは周囲の圧迫に耐え抜いてそれを認めさせることまで含まれているのさ。幸いあいつにはそれもありそうだから、いずれは壁を突き破るだろうが今は苦しい」
「何かあるの、あの人に……」
「女房に逃げられたんだ」
祥子はマア、と言って起きあがり、スタンドのスイッチを入れた。淡い光の輪の中に祥子の引き緊った裸身が浮いていた。「煙草を取ってくれ」
祥子はベッドを降り、|椅《い》|子《す》の背に掛けてあった白いワイシャツに手を通した。祥子はパジャマもネグリジェも持っていない。たいていは伊丹のワイシャツをパジャマがわりにしているが、時には自分で買って来た男物のタートルネックの|長《なが》|袖《そで》セーターを着て寝たりする。それを着ると手は袖の中にもぐったままだし、すそはミニスカートぐらいになる。生まれつき男に対してそういう心得たところがあった。
ベッドのすそを廻り、伊丹の側の床にすわり込むと煙草に火をつけ、伊丹にくわえさせた。赤い火の玉が伊丹の顔の上で明滅する。ほどほどのところで煙草をとりあげ、灰を落すと右手の指にはさんだまま、
「なんで……」
と|訊《たず》ねた。
「知らない。そういうことは詳しく知りたくないからな」
大きな|瞳《ひとみ》がその先きを促していた。
「本当に知らないんだ。あいつも心当りがないと言っていたが、ひょっとすると男のことじゃないかと思う」
「まさか。あの奥さんが……」
「俺の勘さ。逃げられたと言った時の奴の顔でそう直感したまでのことさ。どっちにしても専務の娘だ。立場は苦しいにきまってる」
祥子の瞳がそれに同意していた。
「あいつも女運が悪い……」
伊丹は遠くを見る眼になってつぶやいた。
「なぜ。ねえ、なぜなの」
「蒲田に下宿していた頃のことさ。あいつに素晴らしい恋人ができたんだ。きっかけは写真だ。ちょっとしたグループがあって、そこで奴は椎葉香織という絶世の美女と恋をしたんだ」
祥子は首をそらせて笑った。
「なぜ笑う……」
「おかしいから。絶世の美女だなんて」
「古臭いかい」
「変よ、あなたの使う言葉じゃないわ」
「しかしたしかに絶世の美女なんだから仕方がない。だいたい日本人の女には菊やりんどうや藤の花のイメージはあっても、パアッと豪華に咲く花のイメージは少ない。精々ぼってりしても|牡《ぼ》|丹《たん》どまりだ。だが椎葉香織はバラのイメージだった。それもまっかな大輪のバラだ。派手で格調があって堂々としていて|贅《ぜい》|沢《たく》で……」
「並べるわね。あなたも好きだったみたいに聞えるわよ」
「好きだったさ」
当然だと言う顔で伊丹は答えた。「あれを好きになれない男はどうかしている。遠くに見えただけでドキドキするんだ。眼がひとりでに、見まいとしても彼女のほうへ行ってしまう。……そんな美人が隅田に惚れちまいやがった」
「いまごろ|口《く》|惜《や》しがってる」
祥子は笑って伊丹の鼻をつついた。「で、どうなったの、その人と」
「親に反対されてね。株屋とかだそうだったけれど、上流意識にこりかたまったような連中で、娘のずば抜けた美しさが自慢の種だったんだろう。隅田は身分をわきまえろまで言われたらしい」
「悲恋物語ね」
「そうなんだ。卒業間近になったら彼女は因果を含められて無理やり海外旅行へ出されてしまった」
「それで終り……」
祥子はつまらなそうな顔をした。伊丹は|懶気《ものうげ》にうなずき眼を閉じた。しかし祥子が灯りを消してベッドへ戻った時、暗闇の中でハッとしたように眼を見ひらいたようだった。
4
赤坂の料亭街にも続々と新しいビルが建ちはじめていた。そのひとつが落成したとき、附近の人々はその|瀟洒《しょうしゃ》なクリーム色の外観を見て、あの色では半年経たぬ内にうす汚れてしまうだろうと|噂《うわさ》し合った。
ところがそのビルは半年どころか三か月目に早くも最初の塗装工事をはじめ、以来三月目ごとに鮮やかな色に復元してその外観を保っていた。夜になれば屋上には四十八西ビルの名が照明に浮き出し、一階の店の名さえさだかには見えぬ渋い構えの入口には、いつも印度風の白服を着た背の高い男が二人いて、何やら物々しい雰囲気の客達を送り迎えしていた。
Q海運の極東総支配人ヤズディギルドが数人のアメリカ人をつれてそのビルへ入って行った。ビル全体がひとつのレストランということになっていたが、一階は丁度ホテルのようにロビーとフロントのカウンターだけだった。
天井の一部が吹き抜けになっていて、二階から人工の岩肌が続き、水が絶え間なく滝となって流れ落ちている。その傍にゆったりとした|螺《ら》|旋《せん》階段がついている。床も階段も深紅の高価な絨緞を敷きつめ、壁と天井はそれより幾分明るめの|緋《ひ》|色《いろ》の布で|掩《おお》われている。
二階はバーになっていて客が何人かいた。どれも風格の備わった男達で、中には芸者らしい和服の女達にとりかこまれている者もいた。
そのバーの一角が一階にはなかったエレベーターホールになっていて、閉じたドアに指を触れたアメリカ人の一人が、ヤズディギルドに向って肩をすくめて見せた。漆仕上げの木材に|螺《ら》|鈿《でん》細工が施されていたからだ。
やがて琴の音がしてエレベーターの扉があき、ヤズディギルド達は四階へ昇った。
四階はフランス料理専門のようだった。テーブルの間を縫って行くと一番奥にダンスフロアーがあり、その隅でグランドピアノが鳴っていた。テーブルについたヤズディギルドは一瞬|眉《まゆ》をひそめ、ウェイターに|訊《たず》ねた。
「ピアニストが替ったな」
「はい。ちょっと都合がありまして……」
ウェイターはそう言ってうっすらと笑った。銀色のイブニングを着た比沙子は、ピアノに向って|愉《たの》しそうに|微《ほほ》|笑《え》んでいた。白い指が躍るようにキーを|叩《たた》き、時々悪戯っぽい眼を客席に向けた。その笑顔はピアノの小|妖《よう》|精《せい》といった風に見えた。
その様子は地下一階のオフィスにあるモニターテレビに映っていた。
「またCIAの連中だ」
コントロールパネルの前に腰掛けている赤い|半《はん》|袖《そで》シャツの男が言った。
「知らない顔が一人いる」
蝶ネクタイを締めた男が答えた。
「ヤズディギルド氏なら誰と一緒でも問題ないさ」
赤いシャツの男はそう言いながら別なブラウン管に映っているバーの男を見た。その左側でテープレコーダーが何台か廻っていた。
「伯爵が日本へ来たらこの店へ寄るかな」
「さあな。寄るかも知れないな」
「俺は是非伯爵の顔が見たい」
赤いシャツの男が|憧《あこが》れるように言った。
「なぜだ」
「お前は見たくないか。フランス革命を裏で操った人物だぜ」
蝶ネクタイの男は鼻でわらった。
「そんなことか。それならフランス革命なんてスケールの小さいことを言わないほうがいい。ファラオ時代のエジプトの神官とも話をしただろうし、バビロンの宮廷で歌ったり喋ったりもした人じゃないか」
「だから見たいのさ」
「来れば見れるさ。見るのがあんたの役目じゃないか」
二人はそれきり黙りこんで、ブラウン管に映る男達を眺めていた。
5
赤いバラのマダム、マキの本名は松原牧子だった。マキは自分から隅田にそう教えた。隅田が落着きを失ったのはマキのせいだった。マキは最初から隅田に対して好意以上のものを示していた。月曜の晩に隅田が姿を見せるのを心待ちにしていた様子で、店へ入ってから帰るまで、隅田の傍につきっ切りだった。客は何組も出たり入ったりしたがマキは一度も行こうとはせず、潤んだ瞳で隅田の顔をみつめ続けていた。隅田が何かいうたびに、ひどく物わかりのいい笑顔を見せていた。
隅田もはじめからマキに|惹《ひ》かれていた。|凄《すご》|味《み》のある暗さに魅力を感じていたが、その晩マキが示したのは気取りのない甘えのようなものだった。男を知りつくした女がまだどこかに澄んだ女心を残していて、その澄明な部分が|凄《せい》|艶《えん》な|肢《し》|体《たい》のどこからか、自分に向けてちらちらと示されていると感じたとき、隅田は理屈抜きでマキにのめり込んで行った。
恋が始ったのだと思った。何もかも知りつくし、男に対して自分を制御するすべを心得た筈の女と恋をするのは、隅田の傷つけられどおしだった自尊心をこの上もなく満足させていた。……比沙子が|失《しっ》|踪《そう》した朝の記憶を消してくれるからだ。
翌朝隅田は|爽《さわ》やかに目覚めた。赤いバラが閉店してからの新宿街をマキと歩きまわり、行くさきざきの男達から|畏《い》|怖《ふ》とも|羨《せん》|望《ぼう》ともつかぬまなざしで眺められた記憶が|甦《よみがえ》った。マキは一晩中腕にすがりつくようにして歩き、時々|呆《ほう》けたような表情を見せていた。
その記憶が隅田を快活にしたのだが、一方では胃の辺りが期待に踊るようで落ち着かなかった。隅田はこれではまるで初恋のようだと内心苦笑し、そう|初《う》|心《ぶ》な俺でもないだろうにと自身に言い聞かせるが、そわそわと落ち着かぬ気分は去らなかった。こんなことではマキに一本してやられるぞと自戒もするが、その反面明るい気分を取り戻せたことが|嬉《うれ》しくもあった。
ファイトが出て来た。愛川記念図書館の設計に打ち込んでいた頃の張りが戻った。|這《は》い登ることだけを考えて一直線に突っ走っていた頃の気分を思い出した。|憑《つ》き物が落ちたように、ここ|暫《しばら》くの間防戦一方だった自分が馬鹿らしく思え、先手必勝などという言葉が頭に浮んだりしている。比沙子から受けた敗北感もいつの間にか消えていて、隅田はその次の日も新宿へ足を向けた。
と言って、今井につながる赤い酒場への警戒心を|棄《す》てたわけではない。ただマキの心を自分のものにすれば|謎《なぞ》は自然に解けると思っている。そしてマキ程の女を征服することに闘志を感じていたのだ。
火曜の夜、赤いバラは隅田とマキを残して店を閉めた。それは十二時に近かった。客もバーテンも帰り、二人はひっそりと向き合ってブランデーを飲んだ。白っぽい和服を着たマキは左手にグラスを持ち、右手で隅田の掌を|掴《つか》んでいた。やがて隅田は掌を掴ませたままマキの横に移った。何も言わずに片方の腕を肩へまわして|頤《あご》をあげさせると、マキは恐ろしい程潤んだ瞳で隅田を見据えていた。しばらくそのままの姿勢でいたが、潤んだ瞳に一瞬訴えるような動きを感じると、おもむろに唇を重ねた。
マキの火のような舌が滑り込んで来た。その舌は少しザラついた感じで、それがこの上もなく|刺《し》|戟《げき》的だった。
二人とも呼吸を乱さなかった。舌がからみ合い、逃げ、追い、そして押し戻し、少年と少女の牧歌的な恋の駆け引きと同じことが、その唇と唇の間でひめやかに演じられていた。隅田が薄い|衣裳《いしょう》の上からマキの豊かな乳房を掴むと、はじめてマキは唇を離して甘酸っぱい吐息を|洩《も》らした。頤に当てていた掌が身八ツ口を通ってぬめぬめとした素肌に触れ、もう一方の掌は白い和服の上から腰骨に触れていた。
6
恨むような眼で、
「あした……電話するわ」
と言った。隅田は了解のしるしにまた唇を重ねた。マキの手が|腿《もも》のあたりへさがった隅田の手首を掴んでいた。
マキを乱れさせたことで隅田は常になく加虐的な悦びを味わっていた。この一分の|隙《すき》もない女を理不尽なまでに|苛《さいな》みたいと思った。そして唇を離すと青白い耳たぶを|噛《か》んだ。マキはそれでいっそう乱れたようだった。
「今すぐにでも欲しいのよ」
マキは|嗄《しわが》れた声で言った。隅田は答えず、黙ってその顔を見つめた。|羞恥《しゅうち》の影は全く見えなかった。近々と顔を寄せ合った狭い視界の端で手首を掴んだマキの片腕が別な生物のようにうごめいた。隅田の右手がマキの太腿にじかに触れた。手首を掴まれたまま、隅田はその太腿の内側を上下に二度程往復させた。手首を掴んだマキがそうさせたのだった。
やがて隅田はマキの中心に触れた。マキは手首を掴んだまま眼を閉じて隅田にもたれかかっていた。大きな潤んだ瞳が閉じると、マキの表情は一変していた。凄味が消え、我の強い少女のように見えた。隅田の指が移るたびに、薄い唇がひくりとつぼまるのだった。
「わたし、あしたあなたを抱けるのね」
潤んだ瞳が再び見えたとき、マキはそう言った。隅田の指がマキの源深く|遡《さかのぼ》って行くと、マキは吸い込むような眼になる。遠く離れた場所の出来事におびえているように見えた。|唾《つば》をのみこんだらしく、|喉《のど》がかすかに動いた。
店のドアにはまだ|鍵《かぎ》をかけていない筈だった。だからその|愛《あい》|撫《ぶ》はひどく危っかしい状態でバランスを保っている。隅田はそのきわどさに背徳の悦びを味わっていた。マキの体がうるおい、誘っていた手首の力が、逆に引き放す方向に働きはじめたのを感じると、隅田はいっそう愛撫を強めた。マキの手は|諦《あきら》めたように手首から離れた。
その時カウンターの電話が鳴った。マキが椅子の背に上半身をあずけて反りかえったところだった。マキは細く|呻《うめ》いている。隅田はゆっくりマキから手を離し、四、五度もベルの音を聞いてから立ちあがって、そっと受話器をとりあげた。マキは|裾《すそ》を乱したまま眼を閉じている。
――マキさん――
親しげな男の声がした。隅田は黙ってマキに向けて受話器をさし出した。マキは花を活けていた女が裾を払って立ちあがるような、ごくさり気ない仕草で和服の乱れを直すと、受話器を取って、
「わたしよ……」
と言った。「ええ」と二度言い、「ちょっとね……」隅田に流し眼をくれた。
「行きましょ」
電話が終るとマキはあっさり言う。
「今夜でもよかったのに」
隅田が言うとマキはカウンターの中からおしぼりを取って渡しながら、
「あ、し、た……」
と答えた。「用事があるのよ。前からきまってたの」そう言って右手を髪にあて、小指と薬指で生え際を二、三度かきあげる。こめかみの血管が浮いているのが見えた。
灯りを消し、外へ出てマキはドアに鍵をかけた。着物と共ぎれのハンドバッグの端を無造作に掴んで、まっすぐ前の道を横切る。そこには白い制帽をかぶったハイヤーの運転手が立っていて、マキが近づくとシボレーのドアをあけた。
「世田谷のほうだったわね。わたしは途中で降りるから……」
マキはそう言ってせかせるように隅田を一緒にのせた。
車は最初隅田の家とは反対方向へ走った。マキは赤坂の料亭街で降り、クリーム色のビルの前で手をあげて隅田を見送っていた。
7
「これは一体どういうことなんだ」
夏木雄策が憤慨している。社長室は|艶《つや》|々《つや》した松の板で囲まれ、焦茶色の絨緞が敷きつめてあった。飾り棚にゴルフのトロフィーが並び、モダレート社の世界建築大全が、限定版だけにつける|黒《こく》|檀《たん》の低く長い書架にきっちりと並んでいた。また、その限定版のノベルティーのひとつで、好事家の間で珍重されている羊皮紙に印刷したフリーメイスンのシンボルが、書架の上の松材の壁に掛けてある。光り輝く星を頂点に、定角定規、コンパス、下げ墨、|鏝《こて》、|木《き》|槌《づち》、それにアカシアの枝が中世風の細密な線で描かれ、それがずらりと並んだ八十四冊の金文字入りの背表紙とともに、中世的な雰囲気をかもし出していた。
折賀弘文は五角形の窓を背にした椅子に浅く|尻《しり》をのせ、|膝《ひざ》に|両肘《りょうひじ》をついて|蒼《あお》ざめた顔でうつむいていた。
「まさか三戸田さんが君の娘さんを……」
夏木雄策はまたそう言って呻いた。|痩《や》せた初老の顔が憤りと|愕《おどろ》きで奇妙に|歪《ゆが》んでいた。
「どうします。受けますか」
折賀弘文が言った。顔は伏せたままだ。
「娘さんは結婚しているんだぞ。隅田という前途有望な夫がいる。このわたしが媒酌人じゃないか。いったい三戸田さんともあろう人が、あんな若い子をどうしようというんだ」
「受けるか受けないか、です」
折賀は蒼い顔をあげて言った。「どういうことかわたしにも判らない。まるで見当がつかない。しかし比沙子が三戸田氏の手許にかくまわれているのは事実でしょう。三戸田謙介氏がそう言うのならこれほどたしかなことはない。そして隅田も預けろという。……それなら比沙子は隅田と元通りになれるという事になりはしませんか」
「かも知れん。だが判らん。そうだとしたらなぜ|今《いま》|迄《まで》君の娘を隠していた。電話で彼女は君に何と言ったんだ」
「親不幸をして済まなかったと言っていました。心配するな……それだけです」
「判らん」
夏木雄策はまた言った。
「問題はすべて私事です。比沙子がわたしの娘なら隅田もわたしの|倅《せがれ》です。倅夫婦を一時三戸田氏の手許に預けるに過ぎないでしょう」
「そうは言うが……」
夏木雄策は社長室の中を歩きまわっている。「そうは言うが理不尽だ。突然この夏木建設を明け渡せと言われたような気がするぞ」
「重く考えるのはよしましょう」
「考えたくはないが嫌な話だ。なぜこんなことになったんだ」
「一向に……」
折賀は力なく首を振った。「三戸田さんに比沙子が|逢《あ》ったとすれば、それは多分五月の葬式の時が最初の筈です」
「今井のか……そうだな。三戸田氏は通夜に来てくれたな」
「比沙子と隅田を客の接待役に廻しました」
夏木雄策は何かを言いかけて口をつぐんだ。口に出せば三戸田謙介と隅田比沙子という、あり得ない情事の組合せが浮びあがって来てしまうのだ。社長と専務は努力してそれに触れないでいた。
「私事だと言ったな」
「私事です」
「そう思えるのか」
夏木雄策はしんみりと言った。憐れみが濃く|滲《にじ》み出ていた。
「この際東日グループは何としても確保したい……。もし東日が逃れば夏木は以前の四位どころか、もっとひどい下まで転落してしまうでしょう」
「隅田は承知するだろうか」
そう言われて折賀弘文はしゃんとなった。冷徹な経営者の顔に戻っていた。
8
折賀弘文が設計第四課長のデスクを呼び出していた時、隅田賢也は地下の喫茶店で伊丹英一と会っていた。
「|虎《こ》|穴《けつ》に入らずんば虎児を得ずだ」
隅田は力を|籠《こ》めて言った。
「やっと普段のお前らしくなってる」
伊丹はそう言い、二本目のピースに火をつけた。「妙なことが重なりすぎている。ひょっとするとお前はこの件の中心人物じゃないかと疑いたくなるよ」
「何だろうとかまわん。こうなったらとことんまでやってやるさ」
「それにしても驚いたよ。今井さんの死亡証明を書いたのが原杖人とはな」
「こっちもお前に言われてびっくりした。原杖人というのがそんな有名なアトラントローグだったとはな」
「たのみがあるんだがな」
伊丹は鋭い眼つきで言った。「その会沢という社長にもっと調査を進めさせられんか」
「西域貿易のほうをか。……彼は西域とは危険な関係を持ってるらしいんだ。間に新宿の、今言った真名瀬商会という暴力団が入っているんだ。変なことにさせたくない」
「いや、西域貿易を調べてくれとは言わんよ。西ビルと赤い酒場の関係を洗い出すには丁度都合のいいルートがひとつあるんだ。雑誌の編集をやっている男で、東京の夜にはやたらと詳しいんだ。その方面の案内記で飯を食ってるような男なのさ。そいつに頼んで見る。だから会沢社長のほうは原杖人の動静だけでいい」
「それなら余り大ごとにはならんだろうな」
「是非たのむ。それから白日書房のほうも早く当って置けよ」
伊丹は少しじれったそうに言った。
「休んでるんだから仕方がない。電話はしてるんだが……」
だが隅田はきのうも今日も石川に電話をしていない。なんとなく落ちつかず、忘れてしまっていたのだ。これもマキのせいかも知れなかった。
「西域貿易が守屋の風間家の土地を手に入れた経緯にも不審な点が残るし、こいつは大変なことにぶつかったもんだ。大字塚石という地名も、聞いて見れば物部守屋説を裏づけているような気がするし……」
「ちょっと待っていろ」
隅田は席を立ってレジの赤電話へ向った。帰って来ると笑いながら、
「会沢に原杖人の件を依頼したよ。うれしがってやがる」
と言った。伊丹は厳しい表情になっていた。
「ところで、俺はさっきお前がもっと深い所でこの件に噛んでいるのじゃないかと言ったな」
「うん」
隅田は|怪《け》|訝《げん》な面持ちで答える。
「随分昔のはなしだから、俺もまさかとは思うが、お前、椎葉香織のことを思い出してみろよ」
「香織……」
隅田の|眉《まゆ》がピクリと動いた。
「実はそれを言いたくてやって来たのさ。ところが風間という家に起きた事件を聞いて」
「おいおい……」
隅田はうろたえていた。押しかぶせるように言って伊丹の言葉を途切らせ、自分もそれきり黙り込んでしまう。
「椎葉香織という女はお前の恋人だった。両親に反対されて海外旅行に出た彼女は、ローマ以後消息不明になってしまっている」
「俺も子供だった。卒業してすぐ結婚しようと思ったんだからな」
「それはいい」
と伊丹は手を振った。「いやいやだったかも知れんが、とに角出発する時彼女ははっきりした目的をもっていた」
隅田は不意うちを食わされたように、まばたきもせず伊丹を見つめてつぶやいた。
「メガリスの写真集……」
椎葉香織は隅田と同じアマチュアの写真グループに参加していた。長い間月例会でも掛け違って顔を合わすことがなかったが、一度識り合うと同時に激しい恋に陥ったのだ。伊丹と隅田の下宿へもしょっ中姿を見せ、二人の貧乏ぶりを朗らかな冗談のタネにしていた。
その内香織は二人のJ大生から考古学の面白さを教えられた。香織は三人で第三史会という名の会を設立しようと本気で提案したりするようになった。第三史会の第三とは、第三者の第三だった。つまり外野席からは気楽に過去を想像して楽しむ者の集まり、とでも言ったような意味で、アトラントローグもメガリスマニアも、なんでもかんでも大ざっぱにのみ込んでしまう計画だった。
香織自身はやはり影響を与えた二人の男と同じように、メガリスとアトランティスの謎に魅せられたようだった。そして悲恋のはての海外旅行に出発する時、世界中のメガリスの写真を撮って、帰ったら写真集を出版するつもりだと強がりめいたことを言い残していた。
やがて香織がローマへ着いたあと行方が知れなくなったという|報《し》らせが二人の下宿に届いた。香織の弟で、当時まだ中学生だった椎葉次郎が両親に内緒で教えてくれたのだ。
就職もきまり、下宿を引きはらう寸前のことで、それを知ってもどうなるものではなかった。二人の人生は動きはじめ、椎葉家ともそれ切りになった。
「あの後だいぶたってから大森の椎葉家に強盗が入って、あの判らず屋の両親は|撲《なぐ》り殺されちまった……風間家に似てやしないか」
隅田はそう言われて凝然と伊丹の顔を眺めていた。
9
いくらなんでも話が飛躍しすぎている。……伊丹と別れて自分のデスクへ戻りながら隅田はそう思った。問題は今井潤造の処世術から発展したことだ。すべて今井潤造を中心に起ったことで、それ以前のことは関係ない。まして学生時代の恋人椎葉香織など、どう考えても関係づけるほうが無理だと思った。
伊丹は夢想家すぎる。……どこか自分にも似た部分があるのは昔から判っていた。J大時代に考古学にとり|憑《つ》かれ、メガリスだアトランティスだと熱中した度合いは、むしろ隅田自身のほうが強かったように思う。だがそれは飽く|迄《まで》も何の責任もない立場からのことで、一旦社会人となってしまえばそんなものはケロリと忘れ去ってしまうのが普通なのだ。だが伊丹はまだそれを続けている。想像力は結構だが、それと現在のような切迫した現実を当り前のような顔で結びつけるのはどうかと思う。だから伊丹は夢想家すぎる……と思った。
伊丹は恐らく金銭の苦労をしたことがないのだろうと隅田は学生時代からのことをふりかえっていた。一流料亭の一人息子で母親の手あつい庇護のもとで成長した伊丹と、自分のような孤児では、|所《しょ》|詮《せん》どこかに噛み合わぬ部分が生じるのはやむを得ないことだと感じた。伊丹も時々、俺は父なし児だ、と|自嘲《じちょう》していたが、あの夢想家ぶりと、それでいながら結構豊かに暮して行ける環境の違いが、自分と伊丹の間にある差なのだと思った。風間家と椎葉家のふたつの惨劇は偶然の一致にすぎないのだ。……俺はもっとたしかな世界で生きている筈だ。隅田賢也は自分にそう言い聞かせた。しかし、それでもどこかに椎葉香織とその弟の次郎の面影が浮んで来るのはとめられなかった。
設計第四課に戻るとすぐ電話が掛って来た。同時に部下の一人が近寄って来て何か言いかけた。隅田はその部下に片手をあげて見せ、電話をさきにした。
「はい隅田です」
すると受話器の奥で含み笑いするのが聞えた。
――松原よ。こんにちは――
マキだった。姓で名乗られたのでちょっとした違和感があった。
「ああ、どうも」
隅田は口許がほころびるのを感じながら答えた。
――あれから困ったわよ――
笑っているような声だった。
「どうしてです」
隅田は傍に立って待っている部下の顔をちらりと見ながら言った。
――ああいう風にされて困らないと思っているの――
「そうですね」
半ばあいまいに、半ばからかうように答える。
――そのことで今日結着をつけたいの――
「結構ですな」
隅田は充実感を味わいながら答えた。
――私がどんなになるか想像できて――
どうやらマキは男を刺戟して愉しんでいる様子だった。隅田はニヤリとした。
「ええ、だいたいは」
――ほんとかしら――
マキの笑い声が聞えた。
「じゃあどういうようになるんです」
部下はまだ傍にいた。
――教えてあげるから七時にいらっしゃいよ――
マキはそう言って落ち合う場所の名を告げた。案外平凡な場所だった。千駄ケ谷のホテルらしい。
電話が切れると部下が言った。
「専務室から何度も呼び出しがありました」
その時折賀弘文の姿が見えた。
10
「これは……」
と言って隅田は立ちあがった。部下の間にもさっと緊張が流れた。折賀専務は滅多に設計課の部屋へは足を踏みいれない。営業が折賀の主領域で、むしろ夏木社長のほうが小まめに設計課の空気を吸いに来る。社長はくだけているが専務はとっつきにくい、というのが定評になっている。その折賀弘文がやって来るからには|只《ただ》|事《ごと》ではあるまいと思った。
しかし折賀は常になくさばけた態度で製図台の間を歩きまわり、「ここは板張りにして物を|貼《は》れるようにしたほうが便利だな」などとコンクリートの壁の前で言ったりした。
何を言いに来たのか、と隅田は嫌な予感がしたが、思いがけず|昂《こう》|然《ぜん》とした態度になっていた。
「何かご用でしょうか」
少し離れた所から部下達にも聞えるような声で言った。
「うん」
あいまいに答え、折賀弘文は穏やかな微笑を見せた。
「打合わせがしたい。手がはなせるかな」
「はい」
隅田は書類を二、三枚デスクの|抽《ひき》|斗《だし》にほうり込むと折賀弘文のあとから部屋を出た。
専務室へ着くまで無言だった。部屋に入ると折賀のデンマーク製の大きなデスクの椅子で夏木雄策が煙草をふかしていた。強いトルコ葉の|匂《にお》いがたちこめていた。
「久し振りだな」
社長が言った。一礼した隅田に専務は椅子を示した。隅田は専務と向い合って坐り、社長は少し離れた専務のデスクから続けた。「逃げ出しおったんだそうだな」
比沙子のことを言った。
「申し訳けありません」
「君があやまることはない」
社長は快活に笑っていた。「よくあることだ。|儂《わし》の家内も若い頃二度ばかり実家へ逃げ出しおった。夫婦などそうしたものだ。それでいつの間にか一人前の夫婦になる。君らはまだ若い……」
「実は比沙子から連絡があってな」
専務が言った。隅田にはおかしく思える程、見事に父親の顔になっている。
「ありましたか」
隅田は少し気落ちしたように言った。
「良かったな、隅田君。儂も|仲《なこ》|人《うど》として心にかけておったんだ。品川のほうにも帰っとらんというし……しかしそれはいい事だった。|流石《さすが》は折賀の娘だけの事はあると、内心感心しておった。あの娘は実家に泣いて帰るほど弱虫ではない。気持の整理がつくまで一人でじっと耐えておったのだ。実家へ戻れば折賀の家でも放って置かなかったろう。無理に君の手許へ連れ戻しても問題は解決したことにならんじゃないか。君と別れる気などはじめからなかったのだろう。だからこそ時間をかけた。……まあ、こんど会ったらじっくり話し合ってお互いに一歩前進することだ」
社長はそう言ったが、隅田にはひどく空々しい言葉に感じられた。まるで遠いところから詳細を知ろうとしないまま円満ずくめで事を納めようとしている。……比沙子が謝罪して来たな、と隅田は思った。
「いつの事でしょう」
義父の顔を見つめて訊ねた。
「知って見れば他愛もないことだ」
と折賀専務は返事を濁した。「君達の結婚は亡くなった今井さんが熱心にすすめてくれたことだ。行先きについて調べ尽したつもりでいたが、我々は一番肝心な所を忘れていたんだよ」
そう言うと夏木社長のほうに顔を向け、「全く盲点でしたな」と笑った。
「今井君でもいれば問題なかったわけだ」
社長も笑った。ひどく親しげな雰囲気になり、夏木一族の集まりといった様子だった。隅田は自動的にその身内的な心理に組み込まれて行くのを感じた。不安定な立場に悩まされ続けていたせいか、これでまた万事順調に進みはじめるのだという|安《あん》|堵《ど》感があって、悪い気分ではなかった。
「どこにいたのでしょう」
「まるで心配する必要のない人物の所だ」
折賀弘文は面白がっているように言う。隅田はつり込まれて微笑した。
「見当がつきませんね」
いつの間にか社長が隅田の背後に来ていて、いとも気安げに肩をポンと|叩《たた》いた。振りあおぐと笑みこぼれんばかりの顔があった。
「三戸田さんのところだ」
そう言って|哄笑《こうしょう》した。
「三戸田さん。……東日銀行の会長の」
折賀弘文がうなずいた。
「そうなんだ。今井さんがいれば当然今井さんの所へ駆け込んだ訳だが、あいにく今井さんは亡くなってしまった。ちょっと飛躍と言えば飛躍だが、今井さんの親友の三戸田会長の所へ駆け込んだわけだ。あそこなら絶対に間違いはない」
隅田は胃がじわじわと収縮して行くような気分を味わっていた。次の言葉を吐くのに唇を湿さねばならなかった。
「三戸田会長と面識があったんですか」
折賀はちょっと鼻白んだ。
「……あれは今井さんのお気に入りだったし、親のわたしより今井さんに何でも相談をしているようだった。今井さんを通じて三戸田さんやそのほかいろいろな人を識っていたんだ。たとえば……」
元首相や財界の大物の名を幾つか挙げた。社長がそれへつけ加えるように言った。
「賢い娘だ。それに女の道をよくわきまえておる。妻となった以上一分一厘たりと夫の疑惑を招くような行動をしてはならんことを知っておるのだ。だからあの老人のところを選んだのだろう」
11
東日銀行会長三戸田謙介はたしかに老人だった。しかし比沙子が夏木社長の言うように女の道をわきまえ、妻として潔白だったというのは誤りだ。戦前派らしく、女の道うんぬんというのはさて置いても、あの朝白い|内《うち》|腿《もも》に印されていた指痕が比沙子の不倫を明白に物語っている。相手が三戸田なのではあるまいかという、怖れを混えた疑惑が頭をもちあげていた。
だが隅田はここで自分の態度を明らかにする必要があった。
「それでほっとしました。いろいろご心配をお掛けして申し訳けありませんでした」
隅田は二人に向って頭をさげる。何があっても一切合財|呑《の》み込んでしまおうと決意していた。それは比沙子に去られた時からきまっていたような気がした。
よかったな、と夏木雄策が言い、わたしも肩の荷が降りた、と折賀弘文が|相《あい》|槌《づち》を打った。
「それで、彼女はいつ帰って来るのでしょうか」
そう訊ねると折賀は二、三度独り合点にうなずき、
「もう|暫《しばら》く三戸田さんの所に置いてもらうそうだ」
と答える。
「はあ……」
隅田は要領を得ない顔で言った。
「さて……」
夏木社長は急に声をあらためて折賀の横に腰をおろした。
「非常に重大な役を君にやってもらいたい」
折賀弘文は骨張った細長い指をテーブルの上のシガレットケースに伸していた。
「今井君が我が社にとってどれ程貴重な存在だったか、君もよく知っとるだろう」
社長は東日グループのことを言っているらしかった。
「はい」
「その今井君のあとを引きついでもらいたいのだ。幸い比沙子君もあちらにお世話になっておることだし、今井君の後継者ということでは君以外に人物はいないのだ」
「…………」
折賀弘文が口をはさんだ。
「東日系とのパイプを、もう一度しっかりつなぎ直して欲しいのだ。君は我々の身内の一人だ。社員と言っても、いずれは夏木の経営にタッチせねばならん立場だ。この際全力を挙げて夏木を盛りたててもらいたい」
「一体どういうことをすればいいのでしょうか」
すると社長が言った。
「今井さんと同じ立場になってくれればいいんだ。君ならそれができる」
「同じ立場……ですか」
社長は左掌へ右の掌を叩きつけた。
「三戸田謙介の内ぶところへ食い込め。三戸田さんはあれで仲々建築にはうるさい人物だ。建築だけじゃない。国土開発にも一家言持っておられる。しかし所詮はアマチュアだ。そのビジョンに具体性を与え、あの人の望むようなプランニングをするブレーンになるのだ。今井さんはその役目を果し、むしろ三戸田謙介の進路を誘導さえした」
「それがどんなに強力な我々の武器になるか判るだろう」
折賀弘文があとを引きついで言った。
「そういうことですか」
隅田は皮肉なものが浮かばぬよう注意してほほえんだ。どこかで情勢が変ったのだ。それには比沙子がからんでいる……そう思った。
「やるか」
社長が勇ましく言った。
「やらせて頂きます」
「よし」
社長の|断《だん》|乎《こ》とした言い方を、隅田は心の中で|嗤《わら》っていた。会沢の部下統率技術と五十歩百歩だと思った。折賀弘文と夏木雄策という二人の最高幹部の体が急に縮んで見え、五角形の窓をつらねたこの夏木建設本社自体が、うす汚れた貧弱なものに思えた。二人が言い合わせたように自分をみつめ、しかも同じような表情でいるのがそれに輪をかけた。
「三戸田会長にどうやって接近します。女房の件ですか」
隅田は皮肉いっぱいに言ったつもりだったが二人とも気づかなかった。エースをつかんだのは俺だ、と思った。
「実は先方から申し出があった。君をしばらく西域貿易のほうへ貸してくれんかと言って来ている。第四課長の後任はすぐ考えよう」
「というと、どういう身分になるのですか」
「出向社員だ。但し課長の身分はそのまま保留する。給与なども同じだ。西域貿易のほうから別に手当が出るようなことになっても一向に差しつかえない……」
第七章 不滅計画
1
皮肉なもので、夏木社長と折賀専務から西域貿易出向を言い渡されたあと、設計第四課に戻った隅田を待っていたのは、営業部との間のかなり重要な打合わせだった。会議室が用意されていて、営業部員は隅田の帰りをじりじりした様子で待っていた。
手を引かんばかりにせきたてられ、渋い顔でついて行くと、その件を担当している部下が三人ほど、もう図面をひらいて額を寄せ合っていて、営業部員達のほかに施工主である大阪の製薬会社の社長の顔があった。
その製薬会社の社屋新築にあたって、隅田はごく保守的な案と、かなり進歩的な案、そしてもうひとつ思い切り|斬《ざん》|新《しん》な案の三つを提出して置いた。最後の案は施工主の従来の性格から言っても恐らく承認されまいと観測したので、隅田は習作のつもりで設計家の理想論に近い新傾向を打ち出して置いた。
そのいちばん承認の可能性が少ないと思われた案にオーケーが出たのだった。施工主もその斬新さをよく認識した上で、決断を下したとみえ、社長みずから夏木建設にのり込んで来たというわけだった。
製薬会社の社長は隅田が入って行くと立ちあがって握手を求めた。自分の会社もこれから新しい段階に入ることだから、思い切ってあなたの言うことを聞くことにしましたと、熱っぽい口調で言った。
|施工主《クライアント》を乗せる……という言葉が隅田達の間にあった。施工主が設計に|惚《ほ》れ、新しく出来る建物に夢を抱いた場合、建設業者は思いどおりの仕事が出来るのだ。そうなると施工主は建物を建てることに一種の信仰に似た意義を感じてしまい、口やかましく工事に介入してくるかわり、予算をまるで無視してかかってくる。……今の場合が丁度それだった。
承認の出た三番目の設計は、営業部から飾り物に過ぎないから提出を見合わせろという意見が出ていたほどで、それだけに隅田はホームランを打ったバッターのように仲間から喜ばれているのを感じ取った。
打合わせは小気味よく進行した。製薬会社の社長は設計スタッフの一員のような態度で、自分のほうから予算を食う注文を次々に連発していた。
隅田は|醒《さ》めた顔でその会議室に|坐《すわ》っていた。二度ほど行き過ぎをたしなめる意見を吐いただけで、じっと話の進行を見守っていた。
……これが隅田にとって第二の愛川記念図書館になるのが判っていた。|竣工《しゅんこう》すれば海外からもまた反響が出るだろう。建築家としての足場はその二作で完全に固まると考えてもいい。そして第三作、第四作……自分で積みあげて、やがては今井の境地に到達できるかも知れないと思った。
次第に隅田の心に|自嘲《じちょう》が拡がって行った。たった|今《いま》|迄《まで》自分は何を焦っていたのだろうと思った。頼るべきは自己の才能と努力……それを何が今井潤造の遺産だ。そう思った。
しかし、隅田は既に三戸田謙介に呼び寄せられてしまっている。このすがすがしい勝利の味を|棄《す》てて、これからは三戸田謙介のふところに食い込むため、スパイのような裏街道に足を踏みいれるのかと思うと、自分の浅はかさが|口《く》|惜《や》しかった。
比沙子のことにしても、折賀夫妻をあれ程怖れる必要はなかったと思った。自分に非がなければ、もっと堂々としていればよかったのだ。あの不倫の指跡が、いつかは折賀夫妻に頭をさげさせることになった|筈《はず》だと思った。三戸田謙介から指名を受け、社長と専務をうろたえさせた優越感と、いまこの圧倒的な|施工主《クライアント》の支持を受けた快感が、ふたつとも自分を責める責め道具に変っている。隅田はひどく孤独な気分になった。
熱気のこもった会議室の中で、隅田はふとマキの顔を思い出していた。
2
製薬会社の社長が一席設けるというのを振り切って、七時近くなると隅田はマキに教えられた千駄ケ谷のホテルに向った。
神宮通りで車を棄て、マキの言葉を思い出し思い出し歩くと、やがて前方にひっそりとした門構えの、白い土塀にかこまれたホテルが見えて来た。
門を潜ると|洒《しゃ》|落《れ》た植込みの間に石だたみが細長く続いていて、その突き当りにとてもホテルや旅館とは思えない小ぢんまりとした平屋が建っていた。玄関の格子戸が両側にあけひろげてあり、近寄ると黒い前掛けをした品のいい老婦人が正座していた。
「いらっしゃいませ」
板の上で客が来るまで、じっとそうして坐り続けていたのだろうか。そう言って淡々とお辞儀をした。
「隅田と言いますが……」
すると女はもう一度頭をさげた。
「先刻からお待ちでございます」
そう言って悠長なしぐさでかしわ手を二つ打った。廊下の奥から似たような|年《とし》|恰《かっ》|好《こう》の女が小走りに出て来て、踏み石の横に|揃《そろ》えてあった下駄をはくと、
「どうぞこちらへ……」
と腰をかがめて案内する。その建物の横手は、こんな都心にと|呆《あき》れるほど広い庭になっていて、うす暗い中に離れが四棟ばかりあるのが判った。どうせポンプで循環させているには違いないが、かなり勢いよく流れる小さな流れがこしらえてあり、その水音が絶え間なく聞えている。しかし近くの道路の音はどうにもならず、時折り|艶《つや》|消《け》しな警笛が響いて来たりした。
「どうぞ……」
女は|囁《ささや》くような低い声で言い、離れの格子戸をあけた。|三《た》|和《た》|土《き》に古びた踏み石が置いてあり、赤いハイヒールが脱いであった。
黙って座敷へあがると、二畳の踏み込みがあって次が六畳間になっていた。マキはゆったりとした|袖《そで》なしのワンピースを着て黒い漆ぬりの座卓に|左肘《ひだりひじ》をのせ、横ずわりになっていた。
「約束より五分程早く来たんだが……」
隅田は腕時計をたしかめるように見た。
「待って見たかったのよ」
マキはそう言ってかすかに下唇を反らすような笑い方をする。挑発的な笑い方だ。「こっちへ坐って……」
隅田が無意識に座卓の反対側へまわりかけると、マキは自分の左側へ来るように言う。
「こんな家があるんだな」
隅田は言われたとおりマキの横へ坐りながら家の中を見まわした。
「わたし坐るのが得意じゃないのよ」
マキは隅田が坐るとあおむけに倒れ込む。|膝《ひざ》に上半身の重味を感じながら、隅田はマキの|頬《ほお》を軽く|撫《な》でた。ゆったりした赤いワンピースの胸は深くえぐれていて、盛りあがった肌がのぞいていた。
マキはしんみりした言い方で、
「不思議ね。こんな落ちついた気分になるなんて思っていなかったわ」
と言う。
「そうかね」
隅田は子供をあやすように、頤のあたりを軽く指先きで|叩《たた》いていた。マキは顔をずらせてその掌にキスをした。
「覚悟して来たの……」
「する必要があるのかい」
「野心家ね、あなたは」
「そう見えるか」
「そう見えるわ。わたし、男の過去や才能を見抜くのは苦手よ。でも現在の状態はよく判る」
マキはクスクスと笑った。「あなたの今の状態は、何かを|掴《つか》みかけてるってとこね」
「半分は当った。半分は外れだ」
「そうかしら」
マキは両手を上へ伸して隅田のネクタイの結び目に手をかけた。隅田は自分でネクタイを外した。
「妙な才能があるんだな」
「過去には興味がないの。未来にもよ」
「ほう、未来にもかね」
「あなたは未来に興味があるタイプだわ。だから野心家になるわけ。でもつまらないわよ、未来なんて」
「今が一番いいというわけか。幸せだな君は……」
「幸せ」
マキは|喉《のど》をのけぞらせて隅田を見た。「久しぶりに聞くわ、そんな言葉」
隅田の手がマキの胸の上に置かれた。
「話は違うが、実は君にちょっと|訊《たず》ねたいことがあるんだ」
マキは軽く笑った。
「教えてあげるわよ。わたしの知ってることならなんでも教えてあげる。でもそれはあとで……わたしは早く|愉《たの》しみたいの」
3
マキは隅田の首に両手をまわし、あおむけになった姿勢のまま体を起して来た。隅田は組んだ脚をずらせ、マキの胴をかかえてやらなければならなかった。マキはまるで蛇のように、ずるずるとどこまでもずりあがり、最後に体を斜めにして隅田の喉に唇を寄せた。隅田は眼をとじてされるままになっていた。|頸動脈《けいどうみゃく》の上をマキは強く吸った。
「妙なところへキスマークをつけないでくれよ」
隅田は幾分おどけ気味に言った。マキはワイシャツのボタンを外しはじめる。
「あなたが好きよ」
マキは隅田の裸の胴に両手をまきつけて強く抱きしめながら言った。
「何でも教えてくれるというが、何を訊ねるのか知っているのか」
「何かしら。当ててみようかしら」
「言ってみな」
「そうね。恋人のこと……」
「恋人……そんな者はいない」
「|嘘《うそ》。恋人のことでしょう。逃げられたの……」
隅田はマキの|両脇《りょうわき》に手をあてがって体を離した。マキの顔は|悪《いた》|戯《ずら》っぽく微笑していた。
「どうして逃げられたと思うんだ」
「あら、当ったの」
マキはさり気なく言うと立ちあがってうしろ向きになった。「外すのよ」とジッパーをうしろ手で示す。隅田は上着とはだけたワイシャツを脱ぎすてるとジッパーを一気におろした。ウェストに細いベルトがあって、それがだらりと両脇にたれさがったと思うと、マキの両肩がひくりと動いた。ドレスは|呆《あっ》|気《け》なく床に崩れ落ちた。マキは幅の狭いビキニスタイルのブラジャーをしていた。豊かに突き出したバストが、その赤い布きれで|歪《ゆが》んで見えた。パンティもビキニスタイルだった。片側で結んでとめるようになっていた。
隅田はしばらくその挑みかかるような見事な|肢《し》|体《たい》を見つめていた。
マキは言った。
「とうとうあなたを抱けるのね」
|瞳《ひとみ》がしっとりと潤んでいた。ひざまずき、隅田の脚をマキは抱いた。やがて隅田はマキの手で裸にされた。マキは膝のあたりにキスをし、やがてその顔がよじのぼるようにゆっくりと上へあがって行った。立ちあがって唇が唇を|狙《ねら》ったとき、隅田は素早くマキをかかえあげて次の間の|襖《ふすま》をあけた。思ったとおりそこには夜具が用意してあった。ドサリとマキの体が横たわり、純白のシーツの上に二本の赤い線が置かれた。すぐにその赤い線は二本とも消え、その一方の位置に隅田が顔を伏せた。マキの思い切った|呻《うめ》き声がして、すらりとした二本の脚がはねあがった。隅田の両肩がその脚をうけとめ、マキの下半身が浮きあがった。
マキの呻きは際限もなかった。隅田はこれ程までに酔い|痴《し》れることの出来る女体ははじめてだった。掌と唇だけでマキはのたうつようにいつまでも身もだえを続けている。そして呻きの合い間に、「教えてあげる」と繰り返した。隅田もいつの間にかマキの陶酔ぶりにひき込まれていた。マキは長く尾を引くように呻いて隅田を迎えた。
隅田は眼の|眩《くら》むような感覚の中で、マキを恐ろしいと思った。マキの実体は隅田をおしつつんでうごめき続けていたのだ。下半身をゆり動かすことさえできず、マキの腕に首をまかれて|掩《おお》いかぶさっていた。
「連れて行ってあげるわ……」
|喘《あえ》ぎながらマキがそう言ったとき、隅田はやっと男の誇りをとり戻したようだった。連れて行くと言われて男の見栄のようなものが目覚めたのだった。隅田はそれを性感にかかわる言葉だと理解した。
隅田は攻勢に転じた。マキの体は激しく揺れ続け、腕は首から離れて肩のあたりをまさぐっている。隅田は左腕で自分の体をささえ、右手がふたつの半球をかわるがわるもみしだいていた。マキの体の感じが変って来た。隅田をとりこむ力が強まり、上半身がシーツから浮きがちになった。堅く眼を閉じた顔が近づき、一度唇が隅田の唇をとらえた。隅田が勝ち誇った動きを加えると近づいた顔がまたシーツの上に落ちた。マキはしきりに自分の唇をなめはじめた。やがて半ばひらかれた口の間から、ちょろちょろと舌をのぞかせながら硬直した上半身を近づけて来たとき、隅田はそれがマキの最後の力だと覚った。事実マキはそのとおりのことを口にしていた。隅田も底知れぬ悦楽の|淵《ふち》をのぞきこみながら、それでも二人の間に|僅《わず》かな時間のズレが起り得ることを計算していた。マキは唇を求めてゆっくりと近づいて来た。隅田は加虐的な衝動に駆られて右手でマキの乳房を掴み、ねじ伏せるように上半身をシーツに|圧《おさ》えつけた。
マキは鋭い叫び声をあげた。全身の動きが一時にとまり、硬直したようになった。隅田を包んだ内部だけが烈しく|痙《けい》|攣《れん》していて、それが隅田に衝撃を与えた。隅田は誘発を続ける感覚に耐えてマキの乳房を掴んでいた。マキは舌をのぞかせたまま体液をうけとめていた。
最初に息を吐いたのはマキだった。目をあけて、|淫《いん》|蕩《とう》な表情で隅田をみつめた。隅田も体をゆるめ何か言おうとした。それは多分愛の言葉に違いなかった。しかし、そのとき外で黄色い女の声が聞え、格子戸のあく音がした。あっという間もなく、隅田とマキはもつれ合った体を二人の男に|覗《のぞ》きこまれた。襖を情容赦もなくあけ放った光の中で、きちんと背広を着た男が二人、無表情で突っ立っていた。
隅田が体を離そうとすると、マキは母親のような落ちついたしぐさで、薄い夏ぶとんをふわりと自分達の体の上にかけた。
4
隅田は|掛《かけ》|蒲《ぶ》|団《とん》の下で体を堅くしていた。どうする術もなく、黙然と天井を向いて横になっていた。マキはふとんの下でその隅田の手をそっと握った。
「失礼ね。あなた達帰りなさいよ」
マキはゆっくりした言い方で、隅田の手を握ったまま片肘づきに体を起した。男達は黙って襖の間から消えた。しかし気配はまだ隣りの六畳にあった。
「その人に手を出してはいけなかったんだ」
見えない男の声がボソリと言った。
「知らないもの……」
マキは答えながら蒲団を脱け出した。豊かな膨みの先きの突起が隅田の眼の前を通りすぎた。マキは赤い布切れを二枚無造作にぶらさげると、削げたような下腹部を少し波うたせながら、恐れ気もなく全裸のまま次の間の光の中へ進んで行った。「出て行ったらどうなの。連れて行くなら外で待ってればいいわ」
|叱《しか》りつけるように言い、ふり向いてバツの悪そうな笑い方をした。その時の隅田には、その笑い方が今迄マキの見せた表情の中で、もっとも純情そうに見えた。
「心配しなくていいのよ。あなたに迷惑はかけないから」
そう言い残すと素っ裸で浴室へ消えた。すぐに湯の|溢《あふ》れる音がした。
隅田は動けなかった。快楽の余韻はとうにどこかへ消しとんで、屈辱感というよりも、息もつけぬような自己嫌悪に駆られていた。
相手が何者で、何の為に踏み込んで来たかなど考えたくもなかった。ただ、中古車の値踏みでもしているような、あの二人の男の眼が忘れられなかった。
ふと気づくと、何か鼻につく異臭があった。それはどこか|米《こめ》|糠《ぬか》油の臭いに似ていた。顔に手をやると右の眼のふちから頬にかけて、ほんの僅かだが粘るような液体がついていた。手の甲で|拭《ふ》きとるとそこがまた|匂《にお》った。その匂いと|濡《ぬ》れた下腹部が不快だったが、不思議にマキを憎む気は起らなかった。
起きあがってこの宿の|浴衣《ゆかた》を裸の上に引っかけ、帯を締めているとマキが浴室から出て来た。赤いブラジャーとパンティをつけて、タオルを持っていた。隅田はそのタオルをとりあげて顔と手を拭いた。
「何か匂う……」
マキが訊ねた。隅田は首を横にふり、
「参ったな」
と言った。
「気にすることはないわよ」
マキがそう言ったのは明らかに強がりだった。すがりつくような眼になっていた。
「ついて行くべきだな」
そう言うと、
「かまわないで。あとからゆっくり出てよ」
と答えた。マキに似ず可愛い表情だった。隅田は図太く振舞いたかった。あけ放した格子戸の外に男達がいるらしいのを承知でマキを引き寄せた。マキはぐったりと抱かれた。
「何よ、今頃になって」
隅田に唇を吸わせてから、ひとつ太い息をしてマキはそう言った。赤いワンピースを拾いあげながら、「また欲しくなるじゃないの……」
と笑った。図太さではマキが一枚も二枚も上のようだった。隅田は背中を押されて浴室へ入った。
湯につかって聞き耳をたてていると、マキが出て行く気配がした。格子戸の閉まる音を聞いて隅田は太いため息をついた。木の湯舟から出て体に|石《せっ》|鹸《けん》をつけはじめた。
いったい何が起ったのだろう。マキはどういう種類の女だったのだ。このまま何のトラブルもふりかからずに済ませられるのだろうか。そして連れて行かれたマキはどうなるのだ……。
隅田は次々に答えの出ない問を自分に発していた。どこかにまだあの異臭が残っているようだった。
5
三和土で靴をはいているとき、隅田はふと自分が頭の片隅で、ひどく低俗な流行歌のメロディーをなぞっていることに気づいた。軽く乾いた音をたてる格子戸をうしろ手で閉めながら、そのメロディーをなぞるのは、たった今起った出来事に触れまいとする心理なのだと思った。精神の一部が不随意筋のように、意志に関係なく流行歌を|唄《うた》っているようだった。
走り去りたい衝動をこらえながら、隅田は殊更落ちついた足どりで門に向った。帳場の役を果している入口の小さな平屋の前へ出ると、来たとき案内に出た女中が玄関にしゃがみこんで何かしていた。
「お騒がせしました。料金をお払いしたいんですが」
隅田は丁寧に言った。女中にひけ目があって、自然にそういう口の聞き方になった。
「お連れさまから頂きました」
立ちあがった女中は、ぎごちなくそっぽを向いて答えた。憤っているように見えた。場違いな客が来てこの店の風格を損ねた、とでも言いたそうな表情だ。
「そうですか。じゃ……」
隅田は門へ向ったが、女中の足もとに白いかたまりがあるのに気づいていた。女中はしゃがみこんで盛り塩をしていたに相違なかった。女中が浄めずにはいられなかった不浄なものが自分だと思うと、隅田の足は急に早くなった。
逃げ出すように高速道路ぞいに歩いて行く。ひっきりなしに車のヘッドライトが顔に当り、それを避けるために面を伏せて歩いた。その姿勢が忘れようと努める屈辱を|煽《あお》りたてるようだった。
神宮通りへ出たとき、隅田は一瞬右にしようか左にしようかと迷った。左へ行けば原宿から渋谷、右へ向えば新宿があった。そしてすぐ左へ曲った。マキのいる新宿へ足を踏み入れる気にはなれなかった。
隅田はただ歩いていたかった。暗い夜道を歩くことが救いのように思えている。
マキに手をだしたことを反省しはじめていた。考えてみればあれ程の美女だ。しかもはじめに会沢から真名瀬なにがしという暴力団と関係があるらしいことを知らされていたではないか。推測の当否は別にしても、マキがその方面の男と何らかの交渉を持っていると考えないほうが|迂《う》|闊《かつ》だ。……ひょっとすると真名瀬とかいうボスの女ではなかったか。そう隅田は考えた。
踏み込んで来た二人の男はマキと直接の関係がなかったらしい。それはあの時の態度で判る。誰かの命令で動いたのだ。マキが満更強がりだけではなく、彼ら二人を見下すような態度に出ていたのがその証拠だ。とすると、マキが新しい男との情事をたくらんで出掛けたのを知って、あの二人に踏み込ませたのは、あの二人のボスに当る人物の筈だ。……やはり真名瀬か。隅田はそうつぶやく。
となると、ひと|揉《も》めあるのは覚悟しなければならないだろう。下らない事件を起してしまったと思った。屈辱感が不安ないらだちに変って来たようだった。
製薬会社の社長や営業部員達の、熱気を帯びたやりとりを思い浮べた。……腕一本で獲得したあの勝利を、自分はもっとも陰湿なものと交換してしまったのだ。しかもその脇道のスタートで、今また厄介なものを背負い込んでしまっている。会沢の言ったように真名瀬と西域貿易の間につながりがあるとすると、いずれは顔を合わせねばならないのだ。いや、真名瀬はそれまで待たずに何か仕掛けて来るかも知れない。やくざのボスの女に手をだしたことがもし知れたら、三戸田謙介のような人物はどういう反応を示すだろう。
隅田は公衆電話のボックスに入った。誰でもいい、一緒に飲んでくれる相手が欲しいと思った。
6
会沢は会社にも自宅にもいなかった。隅田は伊丹の番号を途中まで廻し、思い直して受話器を掛けた。故障しているらしく、十円玉は戻って来なかった。
電話ボックスを出ると、隅田は手をあげてタクシーを停めた。「銀座へ」と行先きを告げたが、声が不愉快に|掠《かす》れていて二度程|咳《せき》ばらいをしなければならなかった。道路はすいていて、若い運転手は、この時とばかりとばしている。乱暴な運転ぶりが|鬱《うっ》|屈《くつ》した気分をいくらか和ませてくれた。
伊丹のオフィスは東銀座にあった。オフィスというよりは、ラボと言ったほうが正しいかも知れない。六坪程ある部屋で、半分以上が暗室や引伸機に占領されている。すまいは以前は人形町にあったが、最近マンションに移ったとかで、電話番号は判らなかった。
隅田は伊丹をたずねようとしている。なまじ電話をかけてオフィスに居なかったら、行く当てがなくなってしまう。とに角目的をもってどこかへ移動することが、その時の隅田の気分には最も必要なことだったのだ。
タクシーは昼間の半分ぐらいの時間で伊丹のオフィスがある古ビルの前に着いた。一階は輸入酒専門の酒屋で、まだ店をあけていた。その横の入口から入ると階段があって、三階までまっすぐに登るようになっていた。二階の踊り場まで安物のゴムの敷物が敷いてあって、貧乏くさい酒場のドアがあった。
伊丹のオフィスは三階に登りつめ、一度曲ってまた六階まで行く階段になる、その角のところに当っていた。ドアのガラスに黒い文字で、伊丹英一・工房、と二行に書いてある。
灯りがついていたので隅田はほっとした。軽くノックをすると、はあい……とのんびりした女の声が聞えた。ノブをまわして中に入ると、二度ばかり会ったことのある柳田祥子がふり向いて眼を丸くして見せた。
「伊丹いますか」
「…………」
祥子は何も答えなかった。しかし隅田には留守だという事が判った。祥子の大きな|瞳《ひとみ》がそう答えている。
「そこまで来たので寄って見たんですよ」
祥子はニコリとして、
「すぐ帰って来るんだろうと思いますわ。あんまり連絡のいい人じゃないですけど」
と笑いながらテーブルの上の寿司の器を流しのある隅へ運び、「お待ちになってください」
と言った。久しぶりにこのオフィスをたずねた隅田は、あたりを見まわした。見覚えのある写真パネルがずらりと壁に並んでいて、引伸機の傍に張ってある|紐《ひも》に三十五ミリのフィルムが何本もぶらさがっている。それに混って祥子のストッキングが干してあった。
「ストッキングぐらいでよかった……」
祥子はそう言って首をすくめて見せる。「着換えたところなんです」
祥子はパンタロンに絹のシンプルなブラウスを着ていた。どちらも純白で薄茶色の軽いスカーフを首にまいていた。ごく短くした栗色の髪と男っぽい顔だちに、そのスタイルがよく映えていた。
隅田は背のすり切れかけたソファーに腰をおろし、ケントをくわえた。祥子は鮮やかな手つきで素早くライターの火をすすめた。かすかに油の匂いがする。ライターは兵隊が持つような大きなフードのついたジッポのオイルライターだった。
「珍しいものを持っている」
「兄貴の形見なんです」
パチンと|蓋《ふた》をしめて祥子が答える。
「兄さんの……」
「サージャント。ベトナムで戦死した……あら嫌だ、姉さんの旦那さんなんです」
祥子は隅田の表情の変化を見て笑った。「まだアメリカにいるんです。広告代理店のアートディレクターをしています」
7
祥子はそれっきり、身の上ばなしはしなかった。隅田はこの姉ならさぞバタ臭い美人だろうと思い、なんとなく国際結婚のいきさつが判ったような気がした。
三十分程とりとめもない話をしていたが、伊丹は一向に帰って来る気配がない。
「中途半端で一人になってしまったもんだから、あいつでもいたら一緒に飲もうと思って来たんだがなあ……」
そう言うと祥子はいきなり椅子から立ちあがった。
「じゃあそろそろ行きましょうか」
と言い、実は自分も今夜は伊丹と遊びに出るつもりで着換えていたのだと、平たいパナマのハンドバッグをとりあげて笑った。「連れて行って頂くところを紙に書いてドアに|貼《は》っておけば、あとで追いかけて来るでしょう」
隅田は手帳を繰って電話番号を読みあげ、祥子がサインペンでそれをメモ用紙にかきつけ、ドアにセロテープで貼りつけて階段を降りた。
ビルの外へ出ると祥子は不意に隅田の腕をかかえ、洋酒屋の店先きから悪戯っぽい声で、「おじさん」と呼んだ。人の好さそうな中年の男が顔を出した。
「約束をすっぽかすから新しい彼と出かけちゃったって言っといて……」
と真顔で言う。
「おいおい」
洋酒屋の主人は慌てたように出て来る。
「冗談ですよ」
隅田は笑いながら腕をほどいて見せた。
「でしょうねえ」
主人は半信半疑の微笑を浮べている。「祥ちゃんのほうが|惚《ほ》れてるんだからな」
「あ……」
祥子は大げさな顔で|呆《あき》れて見せた。
「英さんのお友達で……」
「そうです。行先きはドアに貼ってありますから、顔を見せたらそう言ってやってください」
隅田が言うと、主人は祥子に向って、
「それみろ、強がりばかり言って」と笑い、笑顔をそのまま隅田に向け「見ちゃいらんねえんですよ、この人は。先だってもひと晩帰って来ねえと言ってギャアギャアわたしんとこで騒ぎたてましてね。やきもちなんですよ」
「やきもちなんか焼かないわ」
「だよ。それで英さんが帰って来たらさぞかし大変だろうと思ったら、ひとことも文句が言えないでやがる……」
主人は祥子のことを素っ破抜くのを愉しんでいるようだった。隅田は二人がこの主人に愛されているのを覚った。
そんなこと言うならもうおじさんところでウィスキー買わない……何言いやがる大したものも買わねえで……良い品がないからよ……|俺《おれ》ンちは銀座でも一番品物が揃ってるんだ……嘘、それならジョニ黒の赤を出しなさい……ジョニ黒の赤なんてあるけえ……。
ひとしきり、祥子達は口先きばかりの、その実親しみのこもった言い合いをしていた。隅田はそれに伊丹の地に足のついた暮しぶりを感じ、ひどく|羨《うらや》ましいと思った。
「あのおやじさんは……」
隅田は歩きはじめてから祥子に訊ねた。
「ビルの大家さんなんです。銀座の三代目で、この辺りの世話役をしてるんです」
「好い人らしい」
「…………」
祥子の瞳がそうだと答えている。
隅田は銀座の表通りを突っ切って六丁目にある静かなバーへ入った。ホステスのいるバーだが、余りしつっこい接待はしないようなシステムになっている。経営者の好みで京人形的な美人を揃え、それを飾り物のようにしている。席についても客同士の話が弾むとすぐ消えてしまい、ウェイターのように要所要所に立ってオーダーだけを聞きに来る。
「私達結婚することになるかも知れません」
祥子はブランデー・サワーをひと口飲んでから言った。
「おめでとう」
隅田は微笑してグラスを合わせた。
「来てくださいますわね」
しっとりとした眼で言う。
「是非……しかし、あいつ結婚式の日どりを俺に教えるかな。あいつは照れると面倒臭がって見せる癖があるからな」
祥子はうなずいて、
「私、あの人と隅田さんはお互いに分身同士なんだと思ってますの……」
「分身ね」
隅田は少し考え込んだ。たしかにそんな一面もあるような気がした。
過去のことはとに角、この祥子という女を結婚の相手に考えている伊丹は、たしかに隅田の分身であると言える。自分が独身で……いや独身でなくても、祥子のような女が眼の前へ現われたら確実に伊丹と同じような反応を起しただろうと思った。
ひとひねりした色気だ。顔や体の線、物言い物腰、頭の回転のしかた……それらはかなり男っぽく、見ようによっては色気など少しも感じられないかも知れない。しかし頤の肉づきや、ふとした瞬間に見せる放心したような表情に、表面男っぽいからこそ余計に強く訴える色気があるのだ。
マキに似ている、と隅田は思った。だがマキの凄味よりは遥かに穏やかでまっとうだった。祥子が相手ならどんなことをされても包み込める気がした。だがマキとなるとそうは行かない。もっとも、手に負えないものを感じさせたのは、あの古風で優雅な比沙子にしても同じことだ。女は判らない、と思った。
8
週がかわり、月もかわって九月になっていた。隅田の身辺もだいぶ変化している。
まず第一に、設計第四課の課長の|椅《い》|子《す》には別の男が|坐《すわ》っていた。隅田の席はその男に事務引つぎをしたあと、社長室の中に与えられた。それは大阪の製薬会社からかちとった成功のニュースに裏打ちされて、社内に隅田の相つぐ異例の昇進として受取られている。課長の肩書きのまま、目的不明の社長室づきになったのだから、大部分の者はいよいよ経営陣に参加するのだろうと観測している。常務の中にも隅田に接近を試みるものがいて、その観測は更に信頼性を増した。
しかし、社長室に席を与えられたのは、他に適当な場所がなかったからに過ぎない。折賀専務は顔を合わせるのを避けているようだったし、事情が事情だけに隅田左遷の|噂《うわさ》を立てさせるよりは、異例の昇進と受取らせたほうが何かにつけて都合が良かったのだろう。
事実社長室にいても何もすることがなかった。隣りの小部屋に秘書がいて処理するから、社長が不在になると電話一本掛って来ない。また夏木社長はこのところよく外出する。結局のところ、西域貿易からの呼び出しを待っているので、それ以外に何も仕事はない。退屈するとぶらりと近くのHホテルへ行き、気が向くとプールへとび込んで時間を|潰《つぶ》したりする有様だった。
伊丹英一からは何も言って来なかった。あの晩とうとう伊丹は姿を見せず、祥子と一旦オフィスへ戻ってから、新しく移ったマンションへ送って帰った。
会沢は時々やって来た。隅田が第四課の課長を辞めると聞いて一時は血相を変えたが、次のデスクは社長室の中だと知ると独り合点に喜んで|祝盃《しゅくはい》をあげようなどと言った。
依頼してあった西域貿易の医師、原杖人に関する聞き込みも着々と進んでいる様子で、会うたびに何がしかの情報を置いて行った。
それに依ると原杖人は何も西域貿易専属というのではなく、別に東日ブラッド・バンクという法人の役員をしている様子だった。赤いバラのある第十八西ビルと道をひとつへだてた第四十西ビルにあったのがその東日ブラッド・バンクだった。東日ブラッド・バンクは東日グループ直系ではないが、その|裾《すそ》|野《の》にひろがった群小企業のひとつで、原杖人は相当な額を出資しているらしかった。西域と縁がつながっているなら、西ビルに入っていても少しもおかしくはない。
マキからも何の|音《おと》|沙《さ》|汰《た》もなかった。隅田はそれが一番気になっていた。時々逆に電話をしてやろうかと思うが、その都度自制した。殊更相手を刺戟して、問題を複雑にするのは得策でない。日がたつにつれ、このまま済んでしまうのではないかという気がして来て、あの時のことを苦笑しながら思い出す程度のゆとりが出て来た。
腰の落ちつかない立場で幾日か過していると、週の半ばになってやっと西域貿易から連絡が入った。その連絡は夏木社長を経由していた。
「突然妙な具合になってしまったが、いよいよ君に動いてもらう時が来たらしい」
その朝夏木社長は隅田と二人きりのところでそう言った。折賀弘文がいない所では、社長の隅田に対する表情がかなり率直になる。そこにははっきりとした戸惑いと、部下に対する同情が|泛《うか》んでいた。隅田は社長室に足繁く出入りするようになってから、夏木雄策という人物を見直していた。さすがに将器だと思った。物事に対する反応が率直だし、判らないことについては素直に人の意見を聞く寛大さがあった。この数日間、隅田は折りに触れて設計に関する新しい考え方を説明して来た。若い設計家の間では常識になっているようなことでも、夏木には耳新しい知識らしく、隅田の言葉を熱心に聞いた。二人きりで話し合うとそう隔絶した人物でもないのだが、やはり組織の階段が社長と現場の間をとざしているのだろう。夏木社長自身も、隅田のような人間をブレーンとして本格的に身辺に置いておくべきだなどと言い始めていた矢先きだった。
「私はいつでも結構です」
隅田は親しみをこめて言った。この社長相手なら駆け引きなしに献身できると思った。
「正直のところ、よく判らん」
社長は言った。「三戸田さんはなぜ正式の仕事として夏木に発注して来んのだ」
「いいじゃありませんか。この際三戸田氏に食い込むにはいい機会です」
「それは判っている。|然《しか》し今度のようなことは好かんのだ。個人的に言っても、君のような前途有為な男をこんなものにとび込んで行かせるのが、なんとなく不安なのだ」
隅田は|嬉《うれ》しかった。義父に当る折賀弘文はつまらないことでも内に秘めてしまう。自分の将来を握っている相手が自分と同じような疑問を抱きそれをすぐ口にしているのが、かえってたのもしく思えた。
9
西域貿易は西丸の内ビルの七階にあり、隅田は午後一時きっかりに着いた。|溜《ため》|池《いけ》の夏木建設からはほんの短い距離しかなかったが、出掛ける時夏木社長は自分の車で送らせてくれた。隅田はそんな心づかいに温かいものを感じた反面、長年住み慣れた夏木建設と、これっ切りになるような気がして|淋《さみ》しかった。
西域貿易で隅田は重要人物なみに扱われた。もっとも社格は夏木のほうが上で、西域は社歴も浅く社会的にも知名度の低い会社だったが、実際に社内へ入って見ると、夏木とはまるで社風が違っていた。
万事がきちんとしていた。悪く言えば格式張って大げさなのだ。来客を意識した|整《せい》|頓《とん》ぶりが至る所に顔をのぞかせ、花瓶や絵の額などにも|贅《ぜい》|沢《たく》に金を掛けている。廊下を歩いている社員の姿も見るからに高級サラリーマンといった感じで、歩き方も静かだった。隅田は自分が荒っぽい建設業の空気に慣れ切っていて、こんな世界があるのを忘れていたのに気づかされた。……態度をあらためないといけない、そう思った。
七階の全部と八階の一部が西域貿易の占めるスペースで、隅田はすぐに七階の受付から八階の応接室に案内された。その応接室へ一歩足を踏み入れて、隅田はあっと思った。
馬鹿馬鹿しい程巨大な応接室なのだ。西ビルの東側の一辺のほぼ三分の二をその応接室が占めている。床は冷たい光沢を放つスペイン風の高価なタイルを敷きつめ、歩くと靴音が大きく大きく反響した。大きな長方形をしたその部屋の隅に、日本式に言うと二十畳敷きもある部厚いカーペットがひろげられ、そこに豪華な応接セットが置いてあった。シャンデリアが天井の中央に一直線に並び、壁にはペルシャ風の壁掛けがあった。窓と窓の間に中世の騎士が用いた物々しい|甲冑《かっちゅう》がひと|揃《そろ》いずつ飾ってあり、王侯の館へ伺候したような威圧感があった。
隅田はその巨大な応接室に一人とり残されて、はじめ|呆《あっ》|気《け》にとられていたが、やがてそれが思い切った商売上の演出であることに気づくと苦笑を浮べた。
不動産屋には不動産屋のハッタリがある。夏木本社の五角形の窓も、建設業者のハッタリと言えなくはない。折賀弘文のような人物が何でもかでも秘密にしてしまうのもハッタリの一種だし、明治以前の諸大名の城構えも、防御の必要ばかりではない演出があった。|巷《ちまた》の不動産屋のハッタリは見えすいているが、金に飽かせた演出は充分に人を威圧する。考えてみれば寺院や教会はハッタリのかたまりのようなもので、この応接室の思い切りのよさなどは、人間のそうした弱味を知り尽して逆に見事というべきだった。
だいぶ待った頃、遠くで重々しい響きがした。反対側のドアが開いたのだ。現代社会のドアというドアは開閉に音のないのが美とされているが、この中世風の世界では、ドアの開閉にどうしても|軋《きし》む音が必要なのだろう。
すらりとした男の姿がこちらに向って進んで来た。ゆっくりと、ひとあしごとに確実な靴音が反響している。隅田は立ちあがって相手を待った。ゆっくり、ゆっくりと時間をかけて近寄って来る。……それはせせこましい現代の時間とはまるで異質な時の流れだった。隅田はふと封建時代の作法を思い浮べた。
殿様の顔を直視しないならわしがあったではないか。恐らくこの待つ時間、その時代の人間は頭をさげ、ひざまずき、じっと高貴な相手が近寄るのを待っていたに違いない。その時間を稼ぎだす為に、謁見の間は広くなければならなかったのだ。
事実、靴音の響く間に隅田とその人物の間には身分のへだたりのようなものが生まれはじめていた。演出とはいえ、それは見事な効果を生んでいた。
10
「私が社長の瀬戸宏太郎です」
その男は、わたくし、と妙にはっきり区切った言い方をした。現代感覚からすると悠長で間のびした|喋《しゃべ》り方だったが、それがこの場の雰囲気にはかえって重々しい儀礼の響きになっていた。
「夏木建設の隅田と申します」
言い慣れた|挨《あい》|拶《さつ》を返したが、それがひどくせせこましい感じに聞えた。
「どうぞ……」
瀬戸宏太郎は軽く手をあげて椅子を示した。自分から先きに腰をおろす。
「お招きにあずかりまして光栄です」
隅田は|肚《はら》を据えてこの場の空気に合わせた言い方をした。
「いやいや……」
瀬戸はそう言い、ニコリともせずに、「お呼びしたのは東日銀行の三戸田会長です」
と答えた。
「どういう役を果したらよろしいのでしょうか」
すると瀬戸はゆったりした微笑を浮べた。
「この部屋をどうお思いですか」
「…………」
隅田は答えかねて沈黙した。
「この部屋は今井先生の強いおすすめで作ったものです」
そう言って女のような笑い方をした。
「今井先生がですか……」
「そうです。あの方は建築は権力の象徴だと申されていました。|或《あ》る一面を鋭く衝かれた名言のように思います」
「…………」
「資本は或る意味で権力です。そのいれもの……と申しましょうかな。ですから今井先生は常に権力を象徴するために建物を設計なされた。つまり、私はあの方がお作りになったものは時の権力のモニュメントだと考えます。そこにあの方の素晴しさがあったのではないでしょうか。社会性とか機能とかはあの方にとってその次の要素でしかなかった。|勿《もち》|論《ろん》その考え方を嫌う人々も多いでしょう。しかし、そういう人々は今井先生がなぜ個人の住宅や子供の遊園地のようなものに意欲を示さなかったのか、考えて見たこともないのでしょうね」
「すると、この部屋も権力を象徴するために設定したものなのですか」
「そうです。私のビジネスの上で、この部屋ほど私をよく助けてくれるものはありません。特に海外から見えるお客様は、この部屋にお入りになるととてもくつろがれるのですよ」
隅田はそうかも知れない、と思った。今の東京の時のきざみ方は、或る人々にとって烈しすぎるのかも知れない。長い|駱《らく》|駝《だ》の旅のビジネスと、三六〇CCのミニカーで一寸きざみに動きまわるビジネスとでは、同じビジネスでも意味がまるで違うのかも知れない。
「ピラミッドを作った権力はとうに消えてしまいましたね」
瀬戸はたしかめるように言葉を切り、隅田の顔をみつめた。「しかしそれを作った権力がかつて存在したことは、ピラミッドをひと目見るだけで理解できます。権力には意志と欲求があります。理想と行動力と言ってもいいでしょう。資本にも同じものがあります。ピラミッドは不滅の君臨という権力者の意志と欲求を見事に表現しました。今井先生の理想は、理想の建築物としてのピラミッドを作ることにあったようです。不滅を求めていたのでしょうね」
「不滅を……」
隅田はつぶやいていた。
「そうです。そして三戸田会長も同じ不滅を求める今井先生の同志の一人です。三戸田会長は今なお不滅を求めておられるのです。そして今井先生の後継者であるあなたに、それを完成して頂きたいと望んでおられるのです」
11
「雄大なご計画です」
隅田は瀬戸宏太郎に向って軽く頭をさげながら言った。不滅の建築、権力の象徴、ピラミッドなどと言われても、具体的に何を指すのか見当もつかないのだから、そう答えるより仕方がなかった。
すると瀬戸はたしなめるように言った。
「あなたは資本というものについてお考えになったことがありますか。まだお若いし、もしかするとそこまでまだお考えになる必要がないのかも知れませんが、もしそうであれば私の言うことをお心に留めて置いて下さい」
隅田は黙ってうなずいた。
「資本はいま一種の権力になっています。そして権力は人々の上に君臨します。しかし私たち資本を守って行く役目の人間は、それが何であるかよく自覚する必要があるのです。権力は、そして資本は、全人類を征服することは絶対に不可能なのです。征服して自分の仲間にしてしまうことは出来ません。それは権力や資本が人類社会に寄生するものだからです」
「寄生……」
隅田は驚いて瀬戸の表情をうかがった。
「権力や資本の根本的なメカニズムは、それ自体の増大本能です。そして増大するには宿主の血を要求するのです。やむを得ないことです。支配しない権力、市場を持たない資本。そんなものはあり得ません」
「と言いますと、支配される人々や市場がこの世界の本質ということになってしまうようですが……」
「いけませんか」
瀬戸宏太郎は一点のかげりもない笑顔で言った。「支配を受ける人々、物を買う人々……それらは権力や資本の宿主なのです。そして自分らに寄生するものから多くの恩恵を受けています。このことであなたとこれ以上論議を展開する気持はありませんが、私の申したことをひとつの意見としてお心に留めて下されば結構です」
「…………」
「あなたは今雄大な、とおっしゃった。たしかに三戸田会長や亡き今井先生のご計画は雄大です。しかし、それ以上に深い秘密を要するのです。宿主がそれによっていかに多くの恩恵を受けたとしても、寄生するものに気づくのは愉快なことではありません。むしろ|畏《おそ》れたり崇めたりするほうが気が安まるでしょう。……まあ、これはひとつのたとえにすぎませんが、古王朝時代のエジプトならいざ知らず、現代社会ではピラミッドと同じ物を建設することは出来ません。権力や資本の細部がいつも秘密にとざされているのは、それ自体の持つ防衛本能に根ざしています。自分達がいなくなれば権力や資本も死滅してしまうのだと宿主に気づかれては困るのです。雄大である前に秘密でなければいけないのは、この辺りの理由からです」
「そうおっしゃられると、何かひどく単純なことのように聞えますが……」
「そうです。単純なのです。不滅であるためには、それを獲得する迄秘密に存在しなければなりません。三戸田会長は不滅を求めておられる。権力、そして資本にとって不滅とはどういうことだとお考えになりますか」
隅田は再び沈黙せざるを得なかった。「答えは単純です。宿主を必要としなくなることです。宿主が死に絶えたあとも存在しつづけることです。不滅を獲得する間、宿主に気づかれてはならないのです。不滅を獲得すれば宿主は一切の恩恵を受けられなくなります。資本や権力は彼らにとって仲間ではなくなり、明らかな敵となるのです」
瀬戸宏太郎はまるで玩具を楽しんでいるように喋った。隅田には瀬戸が何を言っているのか、具体的にはまるで理解できなかった。
ただ、何か秘密の建築物に関係させられることだけは確実だった。
第八章 地獄の番犬
1
騒々しく雑然とした部屋だった。淡い空色のスチールデスクが四十ばかり詰めこまれていて、そのひとつひとつから同じ規格の電気スタンドが長い腕をもちあげていた。どの机の上にも新聞や雑誌や原稿用紙や……つまりは|紙《かみ》|屑《くず》が積みあげられていて、壁や柱にはところきらわず紙切れが|貼《は》りつけてあった。部門を示す標識などひとつもなく、誰がどこで何をしているのか見当もつかない。入口のところに短いカウンターがあるが、それも別に受付というわけではなく、その上には刷りあがったばかりの雑誌がうず高く積まれ、その横に車内|吊《つ》り広告用のポスターの山が、だらしなく崩れひろがっていた。ドアはひっきりなしに開閉し、その都度耳ざわりな金属音をたてた。ドアの外側には編集部という文字が書いてあり、内側には秋の慰安旅行のスケジュールが、半分はがれかかってヒラヒラしている。
伊丹英一はその部屋の一番隅のデスクの前で折りたたみ式の|椅《い》|子《す》に腰掛けていた。相手をしているのは|臙《えん》|脂《じ》の蝶タイをしたにやけた感じの男だった。その男の机の上だけは、灰色のゴムびきの面が広々と露出していて、電話とメモと筆立てと灰皿がきちんと並んでいる。
「貸しになりますよ」
蝶タイの男は気取った言い方をした。
「ああ。こんど何かあったら協力するよ」
伊丹はタイプ用紙にボールペンで書かれた癖のある文字に見入りながら答えた。
「その内女の子を二、三人撮ってもらえませんか」
「二、三人……」
伊丹は眼をあげて相手を見た。蝶タイの男はひどく軽薄な笑い方をした。
「伊丹先生に撮らせると言えば、女はいくらでもひっかかりますよ」
「それがこのメモの報酬ってわけか」
「駄目ですか」
伊丹は手にしたタイプ用紙と相手の顔を見くらべてから、あいまいに、
「いいだろう」
と答える。
「本当は二人でいいんです」
「承知したよ。しかしスケジュール次第だぜ」
「いいですとも」
蝶タイの男は真顔でうなずき、「しかし伊丹さんがこんなバーの名前など知りたがるというのは変だな」
と首を傾げる。
「そいつははじめから聞かない約束だ」
「まあいいでしょう。しかし僕も都内に赤一色で室内装飾をまとめた酒場がこんなにあるとは気がつきませんでしたね。しかも西ビルに……」
伊丹はタイプ用紙をたたんでズボンのポケットにねじ込むと、
「電話を借りるよ」
と受話器をとりあげた。
「設計四課の隅田課長をお願いします」
伊丹は上眼づかいに蝶タイの男を見つめながら言う。
「ええ、何度も連絡しているんですが、いつもそういうご返事なので困っているんです。連絡はとれませんか」
渋い顔で|頬《ほお》をこすりながら返事を聞いている。
「自宅の番号は知っていますよ。でも社長室づきというんなら社内にいるのでしょう。まさか辞めたんじゃないんでしょうね」
しばらく唇を|噛《か》んで宙を見据えていた。
「判りました。こっちで何とか探し出します。ご迷惑をおかけしました」
舌打ちをして電話を切った。
「どうかしたんですか」
蝶タイの男が儀礼的に質問した。
「大会社のすることは判らんよ。課長ひとり社内で行方不明にしちまうんだからな」
伊丹は吐きすてるように言って立ちあがった。
2
その雑誌社の横の駐車場から、伊丹のボルボが乱暴にとび出して行く。混雑した道路の信号から信号の間を、せっかちにダッシュと急停車を繰り返しながら急ぎ、やがて高輪台町の細い路へ入った。
大杉実の家の玄関のドアをあけると、大杉は出迎えるように板の間に突っ立っていた。
「ここは住宅街なんだからな。余り派手な音をたてて車を停めないでくれよ。子供が跳ねられたのかと思ったぜ」
大杉は半ば真顔で言った。大杉にはまだ子供はないが、彼の子供好きは有名だった。
「済まない」
伊丹はスリッパに履きかえながら言った。
「どうしたんだ、妙な顔をして」
「この間の件だ」
並んで書斎へ入った。
「この間の……今井潤造のことか」
「うん。こいつは|只《ただ》|事《ごと》じゃないよ」
「何かあったのか」
「これを見てくれよ」
伊丹は勝手に書斎の椅子に沈み込むと、蝶ネクタイの男からもらったタイプ用紙をひろげて大杉に渡す。
「何だい、これは」
大杉は|眉《まゆ》をひそめて眺めた。
「この間|俺《おれ》は今井さんの死んだ場所が、原杖人の大和朝廷巨石信仰説に関係のある神奈川県守屋町だと言ったろう」
「聞いたよ。あれは面白い一致だ」
「一致どころじゃなかった。今井さんが死んだ時立会った医者は原杖人その人さ」
大杉は口笛を吹いた。子供のような吹き方で、音がよく出なかった。
「事実は小説よりも奇なり」
「冗談じゃないんだ」
「これでも真面目だよ」
大杉はなだめるように言う。「今井潤造の死を中心に、暗殺教団や古代の巨石信仰がこの東京で現実に動きはじめている。……俺とあんたと、あんたの友人の隅田賢也の三人がそれに気づいた。相手方はQ海運と東日グループだ。そこへたった今原杖人が加わったところだ」
「|流石《さすが》に物書きだな。よく整理できてる」
「たしかに何かあるね。それにしてもこいつは何の意味だい」
大杉はタイプ用紙をひらひらさせた。
「実は隅田賢也がこの一件にまき込まれたとき、今井潤造の線から室内装飾を赤一色でまとめた一連の酒場があらわれたのさ」
「赤一色の酒場かい」
大杉はうさん臭そうな顔をした。「変だね。水商売のほうじゃ、長いこと赤一色のインテリアは避けることになっている。すぐに潰れるというんだな。案外赤字になるなどというつまらん連想かも知れないが、赤一色はいかんというジンクスがあるのはたしかだ」
「そのジンクスが破れたらしい。そいつに書いてあるのは全部赤い酒場の名だ」
「ほう……」
大杉は読み返した。「銀座、新宿、渋谷、赤坂、池袋、人形町……至る所にあるね。ブロック別に分けて書いてあるんだな」
「どう思う」
「紅、ローズハウス、クロムレック、ドルメン、フェンリル、岩屋、赤いバラ、|柘《ざく》|榴《ろ》、|茜《あかね》、ロック、スカーレット……なる程、こいつはおかしい」
「だろ……」
大杉はいつになく鋭い眼をしていた。
「言葉がたいそう偏っている。これはチェーン・ストアーのようなもんだ。しかしこれがチェーンになっているとすると、この経営者はかなり妙な趣味を持っているな。赤い色か岩、もしくはメガリスに関係する名前ばかりをつけているものな」
大杉は腕を組んで伊丹をみつめた。
「それだけかい」
伊丹は不服そうに言った。
「それだけ……」
「見落しているよ」
「何を」
「フェンリルさ」
大杉はさっと腕をほどいた。
「|狼《おおかみ》じゃないか、ゲルマン神話の……。いや北欧神話だったかな」
「この際ゲルマン神話と北欧神話の区別はどうでもいい。要するにアーリア系の神話には狼が出て来るんだ」
「地獄の女王ヘルの家来だったな、たしか」
「そうだよ。地獄の番犬だ。その酒場は全部西ビルの中に入っている。西ビルは西域貿易の不動産部が持っているビルだ。西域貿易には原杖人が関係している。その原杖人と関係のある守屋の大字塚石という所で今井さんが急死した。そこへ狼が一匹あらわれるとどういうことになる」
伊丹の|瞳《ひとみ》の奥で何かが燃えさかっていた。
3
「なぜここへ北欧神話が出て来なくてはならないんだ」
大杉実はなじるように言った。
「来る途中俺もずっとそのことを考え続けて来たんだ」
伊丹も突っかかるように答えた。大杉は使い古したパイプに葉煙草をつめ、殊更慎重な手つきでマッチを擦った。
「あんたはとんでもないことに俺をまき込んでしまいそうだ」
大杉は苦笑して見せた。「北欧神話はゲルマン民族の伝承を最も純粋なかたちで保存したと言われている。三十ぐらいの神々がいて、その中には例のオーディンや、雷神トール、軍神ティールなどがいる。トールはサクソン経由で現代英語に残り、今ではウェンズデーだし、そのかみさんのフリッグという女神はフライデーになっている。ところがその神々の中に妙な性格の神が一人いる。それはロキだ。ロキは悪神ということになっているが、満更悪いばかりではなく、時と場合によっては善神の味方にもなるんだ。神々と巨人族の闘いで、巨人族につくかと思えば神々の味方になったりもする不思議な性格をもっている。そのロキが巨人の女に産ませたのが地獄の女王ヘルだ。ヘルは|怪《かい》|狼《ろう》フェンリルや怪犬ガルムを従えて地獄を支配し、死者が二度と人間界へ戻らないように番をしている。ロキは善悪のはっきりしない神だが、ヘルやフェンリルとなると、これはもうはっきり悪一筋の性格だ。しかも最後にはオーディンを|呑《の》み込んでしまうような邪悪なフェンリルが、なぜこの東京の酒場の名に使われなければいけないんだ」
伊丹はうなずいた。
「そうだろう。……俺ははっきり言って|今《いま》|迄《まで》あんたの犬神説を余り重要視していなかった。だから何度聞かされても余りよく覚えていないが、今度の件では犬神説も考え直さねばならないらしい」
「考え直して欲しいもんだ」
大杉は|自嘲《じちょう》めいた笑い方をした。「ゲルマン神話に狼がいる。それは結局ヨーロッパの諸民族の伝承に狼がいるということになる。たとえばスラヴだ。同じ印欧語族でゲルマンとも近い関係にあるスラヴ族には、ボルコ・ドラークというのがある。狼|憑《つ》きとか狼人間とかいう意味で、ボルコは狼、ドラークは毛皮だが、このボルコ・ドラークは古代スラヴ、小ロシア、白ロシア、ポーランド、ブルガリアなどの各語にあまねく存在していてスラヴ系諸民族の間にかなり古くからある言葉だということが判る。ところが、このボルコ・ドラークって|奴《やつ》は概念がそう単純じゃない。今のロシア語で、ウピール、オプィール、ウプール、ウプィリヤーカなどと言われるものと概念が混りあっているんだ。ウピールは西欧語からの外来語でヴァンパイヤーなのさ」
「ヴァンパイヤー」
「そうだ」
「ハリウッド製の吸血鬼や狼人間が似たようなストーリーになる|筈《はず》だな」
「ヴァンパイヤーは例のヴァルキューレさ」
「なる程……」
「北欧神話へ戻ると、ヴァルキューレ、つまりヴァルキュリアは死後の世界ヴァルハラへ死者を導く半女神だ。不滅の生命樹イグドラシルを守護する三人の処女神であるノルニルとヴァルキュリアは同じものとされている」
「怪狼フェンリルと死の使い姫ヴァルキュリアがスラヴでは混同されてしまっているというわけか」
「そう思って間違いないだろう。とにかくスラヴに入ると夜中に墓をぬけ出して血や魂を吸いとる吸血鬼になってしまうんだ。……もっとも狼人間もキリスト教以前にはもっと土の|匂《にお》いの強い森の悪戯者だった形跡がある。化けるんだな、日本の|狐《きつね》のように。木の切り株の上でとんぼ返りをすると人間の姿になった、などという民話があるのさ。日本の狐も枯葉を頭にのせてとんぼ返りをする」
「なる程ね。それで犬神が巨石文化の|伝《でん》|播《ぱ》と重なると考えたんだな」
大杉は生真面目にうなずいた。
「そうだ。印欧語族……アーリア系の民族がヨーロッパに拡散した頃、巨石文化が興っているように思うんだ。例のイベリア族も印欧語族だしな。北欧神話には日本の|八咫鴉《やたのからす》に酷似した水先案内の|大鴉《おおがらす》がいるし、北九州の古墳には船の|舳《へ》や|艫《とも》に鴉を配した彩色壁画が残っているんだ」
「どうもおかしい」
伊丹はじれったそうに頭を|掻《か》いた。「なんでもかんでも今度の件は古代へつながっちまう。俺達がアトランティスやメガリスに熱をあげている特殊な人間だからかな」
大杉は笑い声をあげた。
「そういう気持は判るな」
伊丹もつられて笑った。
4
「笑ってばかりもいられない……」
しばらくして伊丹が言った。「原杖人が今井さんの死亡証明を書いたんだが、今の話を聞いている内に何だか薄気味悪くなって来たよ」
大杉はまだ微笑を残しながら、
「どうして……」
と|訊《たず》ねる。
「隅田の調べでは死因におかしい点があるというんだ。いや、|奴《やっこ》さん自身もそうはっきり疑問を感じてるわけじゃないが、守屋で今井さんが倒れたとき最初に駆けつけた医者と、あとでそれを引継いだ原杖人のみたてに食い違いがあったんだ。原杖人は心筋|梗《こう》|塞《そく》、そして地元の医者は熱中症……」
大杉が、ええっと奇声をあげる。
「おかしいだろう。熱中症と言えば日射病の一種だ。つまり太陽の光を浴びて死んだことになる。吸血鬼じゃないか、まるで……」
「嫌だな。俺は話としてはこんなことが大好きだ。しかし現実に身のまわりで起ってもらいたくない。いや、恐いんじゃない。恐いんじゃないが、このえらく不合理な所が気に入らない。非条理に対する恐怖かな。あんた、その日射病というのは変だよ。だったら日射病にかかる人間は皆吸血鬼にされてしまうぜ。魔女裁判じゃあるまいし……」
「それもそうだ。考え過ぎるときりのないもんだな」
大杉は消えかかったパイプをしつっこく何度も吸っていた。
「会おうよ、隅田氏に……」
やっと煙を吐いたパイプを見つめて大杉が言った。
「ところが連絡がとれないんだ。さっきこの酒場のリストを見たときも電話をしたんだが、どこにいるのか判らなくなってしまっているんだ」
「なぜ」
「夜自宅に掛けても全然出ない。会社へ掛けると設計課長が替ってしまっている。社長室づきになったということなんだが、交換手ではどう連絡していいのか判らないらしいんだ。きのうは人事課に電話をまわさせて聞いたんだが、そこでもはっきりしないのさ。社長室づきと言うのは異例なんだそうだ。社長直属になっていて、どんな活動をしているのか判らないと言うんだ」
「特命社員か。家電や自動車にはよくあるぜ。しかし、そういう時は一応表面上の体裁が整えてあるもんだ。モロに人事が判らんと言って来るのも珍しい」
「あいつは自分からとび込んで行ったんだろうな。今井さんの握っていた秘密をそっくり受け継いで、第二の今井天皇になる気なんだ」
「それなら心配ない。今に向うから連絡して来るさ」
大杉は気軽に言う。「白日書房のほうはその後どうなった。隅田氏から聞いていないのか」
「隅田がそんな具合でね」
すると大杉は、
「良ければ白日書房に直接聞いて見るか」
と言った。
「近代建築を知っているのか」
「一度原稿を頼まれたことがある。結局は何も書かずじまいだったが、編集長とはその時知り合ったんだ。たしか屋島と言ったな。もとは医学関係の出版社にいた男だ」
「それはいい。石川という若い編集部員が今井さんの遺稿整理の担当で、暗殺教団のメモを見ているんだ」
大杉は電話で白日書房の屋島を呼び出していた。石川の名が出るとすぐ、大杉の顔色が変った。電話が終ると|唾《つば》をのんで言った。
「石川は死んだよ。晴海のアパートの近くで夜中に車に跳ねられた。|轢《ひ》き逃げだということだ。しかもあの土曜の晩だ。今井邸が焼ける何時間か前のことらしい……」
5
隅田は自宅へ戻っていない。西ビルの近くのホテルに部屋をとり、そこと西域貿易の間を歩いて通っている。
そうしろとすすめたのは、西域貿易の林という社員だった。隅田は瀬戸社長と会ったあと、その林という三十五、六の社員に紹介された。
林は不動産部渉外課の課長ということだった。実直な|風《ふう》|貌《ぼう》をしているが、仲々ぬけ目のない男でかゆい所に手の届くような扱い方をしてくれる。
だが林は何度も隅田にショックを与えた。まず第一はあの巨大な応接室を出たあと案内された小部屋だった。それは隅田専用の部屋として用意されていたもので、見たところ何の変哲もないオフィスだったが、その部屋が今井潤造の個室だったと聞いて驚かされたのだった。今井の死後|綺《き》|麗《れい》にかたづけられたらしく、何も残ってはいなかったが、隅田にはひどく感慨深かった。
二番目は、林が比沙子の|失《しっ》|踪《そう》を知っていることだった。詳しくは触れて来ないが、無人の自宅から通っては何かと不便だろうとホテル住いをすすめた。隅田はそれに驚きを味わいながら、言うとおりホテル住いをすることにきめた。
三番目はその翌日林の切り出した待遇に関することだった。林のとってくれた部屋は相当|贅《ぜい》|沢《たく》な部屋で、隅田は内心支払いの心配をしていた。多分西域貿易から費用は出るのだろうと思ったが、万一そうでないときは、こんな部屋に長居はできないと思った。寝室のベッドはセミダブルで、隣りにリビングルームのついた部屋だったからだ。窓からは皇居前広場がひと目で見はらせた。
ところが林は宿泊費以外の飲食代はすべて隅田持ちだと言った。頭の中でひと月分の出費を計算していると、書類をひろげ、それにサインしろという。読むとそれは一種の契約書で、そこには月の給与額が記してあった。隅田の月給は税込みで五十万だった。その時隅田はドキリとした。
それは馬鹿馬鹿しい程の高給に思えた。異例の昇進といっても、夏木建設の課長の給与はたかが知れている。隅田は一瞬胸がときめき、次には自分の貧乏性を|慚《は》じた。フリーの設計家にはもっと高い月収のある者がいくらでもいる。設計料込みと思えば安すぎる位だった。
四番目は金色のクレジットカードだった。林はそれをいやに|勿《もっ》|体《たい》ぶって渡した。マル秘のゴム印を押した説明書がついていて、林はすぐひと通り眼を通してくれと言った。
それはクレジットカードの体裁をしているが、一種の身分証……いや貴族証明といった機能を持っていた。ごく限られた数の東日グループ高級幹部に与えられるものらしく、それを提示することは東日傘下の全組織に対して最優先待遇を要求することになるのだった。たとえば東京の一流ホテルの中には東日系が四つある。そのどれかのフロントでカードを示せば必ず空室が用意してあることになっていた。東日系の旅行社で然るべき人物に差し出せば、どんな乗物の席も確保できた。説明書には料亭やレストランの名も数多く挙げてあって、どんなに急にとび込んでも最高の扱いをされると約束してあった。東京以外の土地では東日銀行のクレジットカードとシンクロしていて、東日のクレジットを扱う商店の内の主だったところでは、皆金色のカードの意味が判る仕組になっていた。そして特に東京と大阪では、東日系のハイヤーが無料無制限に使えると明記されていた。東京の場合は東日本交通だった。
つまりこれは東日グループのブレーンが活動する際の通行手形というわけだ。金色のカードが庶民の混雑の中からそれを支配する人々をひろい出し、その要求を最優先で満足させるシステムなのだった。
林は他の財閥系にもこれと同じものがあると教えてくれた。それ以来、バス停で行列を作り、タクシーを待って道にたたずみ、駅の階段で押し合っている人々を見る隅田の眼が、被征服民族を見る眼に変って行った。そしてすべての支払いは、金色のカードが持つクレジットカードの機能で処理されることになっていた。最初にサインさせられた書類は東日銀行本店の預金口座設定につながっていて、その預金口座には二十倍のオーバーフローがついていた。しかもそれはキャッシングサービスをともなっていて、五十万円の残高に対して一千万円の現金引出権があった。現金引出しは東日銀行の全国七十九の支店で可能だった。つまり、現代の都市生活ではほとんどオールマイティのカードと言ってよかった。
隅田は日一日と自分の内面が変化して行くのを感じていた。優越感があり、特権意識が芽生えていた。権力とは快適なものだった。
6
祥子はキッチンで鶏肉を焼いている。いつか展望台に昇って望遠鏡でこの部屋を|覗《のぞ》いて見ると言ったその東京タワーが、バルコニーの中央の薄暗くなりはじめた夜空にそびえていた。
こんな時間に二人とも家へ帰っていることは珍しかった。祥子は|音《おと》|羽《わ》の近くに小さなアパートを借りているが、近頃はほとんど帰っていない。伊丹は音羽を引き払ってしまえと言うのだが、祥子は仲々その気配を見せない。そのことで二人は時々言い争いをする。引き払えという時は、結婚の日どりをはっきりさせるべきだというのが祥子の言い分だった。
二人の間にそれ以外の言い合いの種はなかった。伊丹は小まめに祥子の物をあれこれ買い集めて来る。母親が切りまわす料亭で育った伊丹は、女の道具に関してひどく詳しい。祥子は黙って買い与えられるままにしているが、充分に満足しているように見える。
キッチンにいても、祥子は時々居間にいる伊丹のうしろ姿に眼を走らせる。伊丹は少しもじっとしていない。いつも何か手を動かしていて、居間はあっという間に散らかってしまう。文句を言いながらそれをかたづけるのが、祥子には楽しいらしいのだ。
だが今日の伊丹はさっきからソファーに|坐《すわ》ったきり動かないでいた。何をしているのか行って見ようと祥子が考えたとき、伊丹は、
「あ、これだ……」
と言った。立ちあがるとテーブルの上に部厚い電話|帖《ちょう》が見えた。
伊丹はサイドボードの上にのせた電話のダイアルを廻しはじめた。
「会沢さんのお宅でしょうか」
伊丹は立ったまま言った。
「はい。夏木建設の隅田賢也の友人で伊丹と申します」
待てと言われたらしく、長い脚をのばして革のスツールを引き寄せて腰をおろした。
「隅田の友人で伊丹と申します」
会沢が電話口に出たらしい。
「ええそうです。……いや、こちらこそ。ところで隅田の|奴《やつ》は一体どうなっているんでしょうか。夏木に電話をしてもさっぱり要領を得ませんし、自宅に掛けても出ないんですが」
伊丹は祥子に煙草を取ってくれと手で合図した。
「ほう、西域貿易へねえ」
祥子は火をつけて一服吸い、伊丹に手渡した。
「そりゃおかしいですね。あなたとも連絡が絶えてしまったんですか。……ええ、一度近い内にお会い出来ませんか。会沢さんのことは隅田から色々とうかがっておりますし、今度の件では何かと協力し合って行ったほうがいいと思うんです、まあ隅田のほうはそう心配する必要もないと思うんですが」
祥子は灰皿をサイドボードの上にのせて、キッチンへ戻って行く。伊丹は銀座のオフィスの電話番号を告げて電話を切った。
「隅田さんどうかしたの……」
祥子は待ちかねたように言った。
「行方不明なんだ」
祥子は居間との間にあるハッチから首をつき出し、
「本当……」
と言った。
「それ程大げさなもんじゃないが、少なくとも俺にとっては行方不明だ。夏木建設が行先きを教えないのさ。それで今隅田をよく知っている男に聞いて見たんだ」
「やっぱり判らないの」
「いや、西域貿易という会社へ行ったところまでは判ったよ。とにかく明日かあさってその男に会うから、そうしたらもっとよく判るだろう。……なに、子供じゃないんだ。別にどうということはないさ」
伊丹は灰皿を手にソファーへ戻った。
7
皇居の松に秋の朝日が射していた。お|濠《ほり》の|澱《よど》んだ水が|眩《まぶ》しくその光をはね返している。その真向いのホテルの正面には大きな観光バスが二台停っていて、派手な色彩の外人観光団がぞろぞろと乗り込むところだった。
観光バスが去るとその陰に停っていた黒いシボレーが見えた。シボレーのドアには東日本交通の金色のマークがあった。
ロビーはつい今しがた大世帯の観光団が出て行ったあとなので閑散としていた。西側にあるコーヒーショップのレジで、青いスーツを着た隅田賢也が伝票にサインをしていた。傍に西域貿易の林が立って待っている。
「夕方六時ごろまたお迎えにあがります」
林はフロントキーを預けに行く隅田について歩きながら言った。
「承知しました。六時には必ず部屋におります」
「しかし|羨《うらや》ましいですな」
「なぜです」
隅田はふり返って林を見た。
「いや、いよいよ三戸田邸へいらっしゃることになったからですよ。私などは精々西域の部長どまりですが、隅田さんはそのお年で三戸田会長直属のような身分におなりですからね。どうもこれは生まれた時から勝負がついていたようで……」
林は満更お世辞でもなさそうに言う。
「冗談でしょう。私は一介の技術者で……」
「いやいや、とんでもない。私もくわしいことは知りませんが、あのカードをお持ちの方はみな相当のご年輩の方ばかりだそうです。隅田さんのようなお若い方があれを手になさるのは並大抵のことじゃありませんよ」
「そうですかね」
隅田はキーを返して正面の入口へ向う。
「五十万円はもう振込済みですから、あなたのポケットには今一千万円入っていることになる」
「実感が|湧《わ》きませんよ、そう言われても」
隅田は笑った。「私はひどく貧乏性でしてね。現にこのカードではじめて東日本交通を使うのも気がひけている状態です。本当に金を払わんでいいのでしょうか」
「|勿《もち》|論《ろん》ですよ。乗る時カードをお見せになり、降りるとき伝票にサインをなさればいいんです。東日本交通はそのためにベテランの運転手といちばん手入れのいい車を用意してるんですから」
自動ドアを抜けると、林は東日本交通のシボレーに手を振って見せた。白い制帽をかぶった五十歳ぐらいの運転手が素早く降りてドアをあけた。白い手袋が眼に|沁《し》みるようだった。
「神奈川の守屋へ。これが地図だ」
林はそう言って運転手にメモを渡し、ドアの外から乗り込んだ隅田に会釈をした。車はすぐに走り出した。
隅田は上着の内ポケットから紙入れを出し、金色のカードを抜いて運転手の肩先きへ突き出した。運転手はちらりとそれを見て、
「毎度有難う存じます」
と|慇《いん》|懃《ぎん》に頭をさげた。隅田はそれ切りシートにもたれ、しばらくの間金色のカードをもてあそんでいた。
車は国道二四六号に入った。
「失礼ですが……」
多摩川を渡った頃、運転手がおずおずと言った。
「何かね」
「いえ、大したことではございませんが、よろしかったらお聞かせ願いたいのですが」
「どうぞ……」
「どちらの東日様でございますか」
「勤め先きかね。……そうだな、無所属というところかな。なぜだい」
「いえ、カードのお客様にしては余りお若いもので……」
運転手はへつらうように言った。
8
運転手は一度も迷わずに目的地へ着いた。守屋の|埃《ほこ》りっぽい町並みを抜け、こんもり繁った丘陵の間をうねうねと曲る道を行くと、やがて小さな流れに突き当り、それにつれて右に折れる道は道幅が少し広くなって近くの丘の陰へ消える。曲らずに石の橋を渡って未舗装の道へのり入れると、四分足らずで塚石という場所に出るのだ。
周囲を五つ程の小高い丘にかこまれた土地で、その中央に低い丘があり、貧弱な松が一本生えていた。その土地の入口に当るところにかなり大きな荒れ屋敷が一軒あった。小川を渡った道は杉木立に囲まれたその屋敷の中庭を通り抜ける形になっていて、その中庭は余程長い年月にわたって踏みかためられたらしく、夏草の生い茂るあたりとは対照的に白く乾いた土が露出していた。
「ここでございましょうか……」
エンジンを切った運転手は、頭を低くしてあたりを眺めまわし、薄気味悪そうに言った。
「私も来るのははじめてなんだよ」
隅田も人気のない屋敷を眺めながら言う。
「こんな東京の間近にねえ……」
運転手はドアをあけて外へ出た。途端に|蝉《せみ》の声が激しく聞えて来た。隅田は上着を脱ぎネクタイを外すと、白いハンカチをワイシャツの胸ポケットに押し込んで車を降りた。熱い日ざしが肌に襲いかかった。
「ここで|暫《しばら》く待っていてくれ。外は暑いから中にいるといい」
運転手はハイと答えたが、物珍しそうに屋敷のほうを眺めている。隅田はまっすぐ松の木のほうへ向った。
あたりは畑の跡だった。雑草に混ってトマトや|胡瓜《きゅうり》や|茄《な》|子《す》が化け物じみた育ち方をして枯れかけている。時折り前方の丘の斜面にある|竹《たけ》|藪《やぶ》が風に揺れてザワザワと鳴った。
長い間人間を養って来た土が、荒れ果てて原野に帰ろうとしていた。隅田はこんもり高くなった松のある場所の手前で足を停めた。遠くから見ると判らなかったが、その小高くなった手前が低くへこんでいた。へこみはほぼ五角形で松の木の場所はその中央に当っていた。
「大字塚石」
隅田は低くつぶやいた。地下に遺構があるとき、表面が往々にしてこのように陥没することがある。守屋の塚石という地名は、本当に物部守屋が巨石信仰を守って落ちのびた土地ではないだろうかと思った。
その疑いは松の木の傍に立ったとき、いっそう強くなった。松の木の根方には、それをとりまくように板石が五角形に並べてあり、そのまん中にある松の木は、どうしてもそれ以上伸びられないのだ。隅田は松の幹に手をあててゆすりながら、多分土の下いくらもない所に、石が埋められているのだろうと思った。底を封じられた五角形の枠の中で、この松は生き抜いていたのだ。遠目では貧弱に見えたが、実際にはかなりの老木で、それなりの|逞《たく》ましさがあった。ひねこびて、規模の大きな盆栽といったおもむきだった。
しばらくそこにたたずんであたりの景色を見まわしていると、松の根方の五角形のそれぞれの頂点が、この土地をとりかこむ五つの丘に対応しているのに気づいた。そういう土地を選んだのか、そういう土地に合わせたのかは判らないが、いずれにせよどことなく宗教的な配置を感じさせた。
隅田は、ここに何かを建てるなら、それは五角形になるべきだと直感した。だとすると、まわりの五つの丘とそれに附随する土地は押えねばならない。丘がなくなればこの土地の意味の大半は失われてしまう……そう思った。
時折りどの|梢《こずえ》とも知れず、風鳴りがした。荒れた無人の屋敷は話に聞いた風間家のものだろう。|鴉《からす》が|啼《な》いていた。
9
靴が白っぽく汚れ、ズボンのすそも土埃りにまみれていた。隅田は時間をかけてゆっくりとその土地を見てまわった。畑の中には五本の道が放射状に伸びていた。五本の道は五つの丘に達していた。道の終る所には石の地蔵があった。欠けているのもあれば倒れて土に埋もれているのもあったが、ひとつだけ正しい姿勢で立っていた。隅田は近くに落ちていたトマトの枯れた茎を二、三本束ねて、その地蔵の顔についた土埃りを払い落して見た。
稚拙な細工だったが顔と|衣裳《いしょう》が深くきざみ込んであった。その線条がはっきりするにつれ、隅田の枯れ茎を動かす手が早くなった。二、三歩さがって|眉《まゆ》をひそめ、隅田は|唖《あ》|然《ぜん》とした表情になる。
「カーメンナヤ・バーバ……」
そうつぶやいた。その高さ一メートル程の平たい石人像は、カルパチア山脈から|蒙《もう》|古《こ》にかけてのステップ地帯に点在する古代の石人像に酷似していた。腹へ両手をまわし、その手は何かを持っている。よく見れば|壺《つぼ》を持っている形になっている。腰骨に引っかけたようにゆったりとしたベルトをまき、そのベルトの両側には三、四本のひもがたれさがっている。上半身が裸で、腰から下にスカート状のものをまとっているように見えるし、ワンピースにベルトをつけているようにも見える。髪は中央で分けうしろで束ねた具合に見え、とがった|顎《あご》に見えるのはあごひげかも知れない。余りにも稚拙で判断の下しようもないが、顔はどうしても日本人には見えなかった。
カーメンナヤ・バーバはメガリスの一種と考えられ、シベリアには四メートルもの高さを示す例があるという。だがアルタイ、蒙古、カザフスタンなどには七十センチぐらいの小形のものも見受けられるといい、この塚石の石人像がもしカーメンナヤ・バーバだとすれば、大きさからして蒙古系のものということになりそうだった。
その時パタパタと乾いた音が近づいて来た。小川の橋のほうからモーターバイクにのった白いシャツの男がやって来るのが判った。隅田は枯れた茎を|棄《す》てると両手の土を払って屋敷へ戻りはじめた。モーターバイクの男と運転手が何か|喋《しゃべ》っているようだった。
隅田が半分ほど畑の中を進んだ時、モーターバイクの男は来た方向へ引き返して行った。シボレーの傍に着いた時には、モーターバイクの音はかすかになっていた。
「誰だったのかね」
すると運転手は少し憤ったような顔で、
「失敬な奴ですよ。土地の人間らしいんですが、巡査のように人を|訊《じん》|問《もん》して行きました」
と答えた。
「何を聞いて行ったんだ」
「どこから来たとか、何しに来たとか……」
「それで……」
「私はお客様を乗せて来たから何も知らないというと……」
運転手はちょっと口ごもり、「どうせ東日の……東日の連中だろう……そう言っていました」
「どうということはない。ここは買い取った土地だからな」
「ほう、こんな所をお買いになったんですか」
運転手はあらためてあたりを見廻していた。隅田はハンカチでズボンや靴をはたき、
「そろそろ引き返そうか」
とドアをあけた。
車の中は冷えすぎるくらい冷房が効いていた。隅田はワイシャツの腕をまくりあげたままシートにもたれていた。
たった今見て来た土地が恩師の倒れた場所だった。いろいろなことがそこを原点にひろがっている。しかし自分はその入り組んだ道の中から一番有利な道を選んで歩きはじめているのだと感じた。そこに建てるものが、将来の栄光につながっているのだと思った。
10
隅田はホテルのだいぶ手前で東日本交通のシボレーを降り、ゆっくりとオフィス街の中央を歩いた。靴を一足買い、ワイシャツと下着類を買い|揃《そろ》えた。世田谷の家へ取りに帰るのも|億《おっ》|劫《くう》だったし、夏木建設時代の着古しを身につける気にもなれなかった。自分はいま、全く新しい局面に対しているという意識があって、何もかもが新鮮でありたかった。
隅田ははじめて金色のカードで買物をして見たが、気分は申し分なかった。その|界《かい》|隈《わい》は東日系の企業が軒を並べていて、歩道に面した一階に店を張っている商店は、どこでも金色のカードの意味を知り抜いている様子だった。靴も下着類もワイシャツも、買ったものはすべてホテルへ届けると言って聞かなかった。とび出して来た店主たちは眼の色を変えていたし、古株の店員達も明らかに緊張している様子だった。
ホテルの部屋へ戻った隅田は、ルームサービスを呼び出して遅い昼食を注文し、シャワーを浴びにバスルームに入った。冷たいシャワーを浴びていると、守屋の土埃りどころか、長かった夏木建設時代の|垢《あか》までが一挙に洗い流されて行くような|爽《そう》|快《かい》感が|湧《わ》いた。
バスローブを羽織って寝室の椅子に体を休めると、静かに流れる人工の冷気が素早く肌のしめり気をとり去って行く。金色に近いブラウンのランプシェードを眺めていると、やがて比沙子の面影が浮んで来た。
……自分にはもう比沙子という女は要らないのかも知れない、と思った。それは未練も|嫉《しっ》|妬《と》もなく、妙に淡々とした感想だった。
今自分がいる位置では、夏木建設の背景など一グラムの重味もなくなっているのではあるまいか。……隅田はそう自問する。
守屋の土地を下見に行くところまで来たが、まだ仕事の内容は全く判っていない。しかし、何かどえらい仕事であることはたしかだった。しかも西域貿易の瀬戸社長や林の口ぶりでは厳重な機密事項として取り扱われるたぐいの仕事らしい。とすれば、仕事を|了《お》えて夏木へ帰ろうがこのまま東日側に留まろうが、今後の自分には東日グループの最高機密に関与したという実績が生ずる。ひとつの新しい立場が生ずるのだ。折賀弘文に将来を握られて、比沙子の不貞に文句ひとつ言えなかった隅田賢也は、そこにはもう存在しない。気をつかい顔色を|窺《うかが》うのはむしろ折賀弘文のほうになる。
なる程比沙子は今度の件を除外する限り、美人でしとやかで素直な、申し分のない妻だ。現在の時点で比沙子が自分の人生に登場するのだったら、理想的な妻として迎えるだろう。しかし既に問題は起ってしまった。夏木に籍を置いた頃はすべてに目をつむって元のさやに納めるつもりだったが、今は事情が違っている。自分の自然な感情をぶつけ、事と次第に依っては|斬《き》って棄てるだけの正当な立場を回復したのだ。ごたごたとした過去を、義父の折賀専務や夏木建設という存在と一緒に引きずって歩く義理や弱味はなくなってしまうのだ。
……比沙子の顔に赤いバラのマキの顔がダブった。あれほど|強靭《きょうじん》な女でさえ自分に柔和な笑顔を示した。比沙子以外にも人生を共にする女はいるのだ。たとえば……隅田は無意識に柳田祥子を思い出していた。
軽いチャイムの音で隅田は立ち上った。リビングルームのドアをあけると、昼食のワゴンと買物の包みが一緒に届いていた。
昼間だったがドライマティーニを一杯注文して置いた。冷え切ったジンが乾いた肌の内側へ|爽《さわ》やかにしみ込んで行く。隅田は時間をかけてゆっくりとその冷たい炎のような飲物をたのしんだ。
少量のコールドミートとイングリッシュ・マフィンで腹ごしらえをすると、気力が体中に|溢《あふ》れるようになっていた。あと何時間かで三戸田謙介に会う。……チャンピオンに挑戦するボクサーのように、隅田は注意と期待で武者ぶるいしそうな自分を感じた。今夜を最も記念すべき夜にしなくてはならないと思った。
今井潤造は死ぬ前に、守屋の建築に関するサムネイルをひとつ残していたと林が言っていた。今夜多分それを見せられるのだろう。一体どんな目的の建築物なのだろうか。瀬戸社長は不滅という言葉を繰り返し使っていた。三戸田謙介が求める不滅とは一体何なのだ。数千年の未来まで東日グループの権力を伝える記念碑なのか。三戸田自身の墳墓を用意するのか……。
隅田はふとひとつの可能性に行き当って|瞳《ひとみ》を光らせた。戦争……核戦争が近づいているのではないだろうか。三戸田級の大物ならその危険を事前に察知できる|筈《はず》だった。|遮蔽壕《シェルター》ではあるまいか。すべての破壊からまぬがれ、放射能の危険を避けて生き残る為の帝王の避難所……隅田はそんな想像をめぐらせていた。
11
電話のベルは六時一分過ぎに鳴った。身なりを整えてその十五分前から待っていた隅田は、「すぐ降ります」と簡単に答えて部屋を出た。隣室のフランス人夫婦も外出するところだったらしく、隣り合ったドアの前で気軽に声をかけて来た。三人は一緒にエレベーターに乗り、同時にキーをフロントへ預けた。
正面の車寄せへ出ると目の前にロールスロイスが停っていて、制服を着たホテルのドアボーイがうやうやしくそのドアをあけた。ロールスロイスの運転席で林が微笑していた。
「あなたが運転を……」
そう言うと林はハンドルに両手を置いて、
「何しろあなたはVIPですからね」
と笑って見せた。走り出す窓の外でさっきのフランス人夫婦が意外そうな表情でロールスロイスを見送っていた。
「三戸田邸をご存知ですか」
林が前を向いたまま|訊《たず》ねる。
「いや」
隅田が言うと林はそのまま黙りこくって運転を続ける。車は霞ケ関から国会の周囲をまわって青山通りへ抜ける。西の空が真っ赤に染まっていた。
やがて車は左折して六本木へ向い、すぐにまた左へ折れて石の壁にはさまれた薄暗い路へ入る。少し下り坂になったところに黒い大きな鉄の門があって、ロールスロイスはその中へすべり込んだ。芝生と池と太い樹木が入り組んだ見事な前庭の中に白い道が一本走っていて、そのつき当りに重厚な石造りの館があった。
「あのドアをあけて勝手に入っていいそうです」
林は緊張した表情で正面の大きな扉を指さした。ドアをあけて車を降りると、林は前の席から体をのばしてそのドアを閉め、そのまま車寄せをひとまわりして帰ってしまった。隅田は夕暮れの西洋庭園にたたずんでそれを見送った。敷地は門から館に向ってやや傾斜していて、庭のそこ|此《こ》|処《こ》に大理石らしい彫像が立っている。
隅田は館の石段に足をかけてふと足をとめた。大理石の彫像のひとつが動いたような気がしたからだった。薄暗くなりはじめた庭園の一角に眼を凝らすと、一人の巨漢が歩いているのが判った。大男は純白の布を体にまいていた。ひどく簡単な衣服で、それが歩くたびにゆったりと揺れている。うっかりするとその白い布だけが動いているように見えるのだ。……大男は黒人だった。頭は僧侶のような丸坊主で、肌は漆黒だった。夕暮れがつくる樹下の暗がりの中で、その頭や手足はなお黒々と輪郭を示していた。
隅田は思い直したように石段を登った。眼の前のドアは背の高さの二倍はあった。鉄の金具がついた古めかしい木の扉で、眼の高さの所にノッカーがついていた。緊張した心に|戦《せん》|慄《りつ》に近いものが湧きあがり、隅田はそれを辛うじておさえつけた。……ノッカーは|梟《ふくろう》の姿をしていた。
押すと、そのドアは音もなくあいた。|煌《こう》|々《こう》と|夕《ゆう》|闇《やみ》の中に光が流れ出た。中に体を入れてドアをそっと閉めようとすると、その巨大なドアは思いがけない力で動き、隅田は|咄《とっ》|嗟《さ》に右腕でその閉まる力をくいとめなければならなかった。だがドアは重く、腹に響くような音をたてて閉った。音は館の奥まで鳴り響いたようだった。
横に細長い部屋だった。ドアの|両脇《りょうわき》にある窓にはカーテンが重々しくたれさがり、その下に王朝風の椅子がふたつずい置いてあった。見まわすとドアが四つあって、どれをあけて入ればいいのか判らなかった。人の気配は全くなく、隅田は一分あまりそこに立ちつくしていた。
カタリとノブの廻る音がして、次の瞬間一番近いドアがさっと両側に押しひらかれた。大きな奥深い部屋が眼の前にひらけた。入口の中央に黒いスーツを着た|痩《や》せた男が立っていた。冷たい射すような視線を隅田に浴びせ、口もとだけがかすかに笑いを示していた。
西域貿易の瀬戸社長だった。
「お入りなさい……」
瀬戸社長の声にひき込まれるように、隅田は挨拶も忘れてその大きな部屋へ入った。部屋の豪華さに圧倒され、瀬戸社長の態度に位まけしていたせいもあるが、それ以上に隅田の思考を混乱させたのは、その部屋が赤一色で統一されていたからだった。……今井に連れられて通った銀座のクラブ茜、屋島たちと飲んだ新宿の柘榴、そして比沙子の姿を求めてまぎれ込んだ赤いバラが、隅田の|脳《のう》|裡《り》に次々と|甦《よみがえ》っては消えた。
背後で瀬戸社長がドアを閉める音がした。隅田は落ちつこうと懸命になっていた。くすんだ朱のカーテンや、|臙《えん》|脂《じ》に近い|絨緞《じゅうたん》の色を無理やり意識から追い払おうとしていた。
瀬戸社長は先きに立って歩きはじめた。隅田はその前方にいる二人の男女を見て足がすくんだ。
第九章 地下のピラミッド
1
「どうしました……」
瀬戸社長が振り向いて言った。隅田は精いっぱい気力を奮い立たせて自分をとりもどそうとしている。ここが正念場なのだ。三戸田謙介にくらいついて離さない覚悟で来たのではなかったか……。
いくらそう自分に言い聞かせても、|呆《ほう》けたように突っ立っているぶざまな姿勢を立て直すことが出来なかった。
博物館のように現代ばなれのした調度で満ち|溢《あふ》れた赤い部屋の奥に、斜めに向き合ってこちらを眺めている二人が、隅田に強い衝撃を与えていた。具体的にはなにひとつ襲いかかって来るものもないのに、隅田は死の危険にさらされた時のような、本能的なおびえに支配されていた。
「どうかしましたか……」
瀬戸社長がもう一度言った。
ふたりとも異様な衣服をまとっていた。
絵画や演劇でしか見ることの出来ない、古代ギリシャの|寛衣《キトン》を着ていたのだ。
しかもそれは眼にしみるように鮮やかな|緋《ひ》の衣だった。
そして写真で見覚えのある三戸田謙介の横に立っているのは、昔の恋人の椎葉香織だった。
「……なぜ。なぜ彼女が……」
隅田はほとんど|喘《あえ》ぐように言った。伊丹英一の顔が浮んでは消えた。メガリス、アトランティス、クロノスの|壺《つぼ》……。今井潤造の顔が通りすぎて行った。暗殺教団、Q海運、三戸田謙介……。その三戸田謙介は眼の前にいる。……遠くのほうで笑い声がしていた。笑い声はふたつに重なり、すぐに耳もとでいくつもの笑い声が渦をまいた。
瀬戸社長がいつの間にか隅田の肩に手をかけて笑いのけぞっていた。部屋の奥で三戸田謙介と椎葉香織が|哄笑《こうしょう》していた。大きな部屋の石の壁にそれが反響して幾つにもダブった。
椎葉香織が笑いながら歩み寄って来る。ゆっくりと、しかも滑るように……。
「そう、あなたの知っている香織よ」
香織はそう言うと隅田の|両脇《りょうわき》に腕をすべり込ませ、柔らかく胴をだいた。強い|木《もく》|犀《せい》の香りが鼻をうち、一筋の乱れもなく束ねた黒髪が|艶《つや》|々《つや》と眼の前で光っていた。隅田はおずおずとその背中へ手をまわした。それを見て三戸田謙介がまた笑った。
「帰っていたのか……」
隅田はつぶやくように言った。
「そうよ」
香織は体を離すと隅田の左手をとり、軽く引っぱるように三戸田のほうへ戻りはじめる。「この人が隅田賢也。私を抱いた最初の男よ」
香織はあっさりと言った。隅田は三戸田謙介の前に立たされていた。
「はじめまして……」
そう言って丁寧に頭をさげたのは三戸田謙介のほうだった。隅田はうろたえて頭をさげ返した。どう|挨《あい》|拶《さつ》したのか自分でもはっきりしなかった。
隅田の前に三人は立っている。意味あり気な視線で隅田を観察しているように見えた。
「変ったものを……」
|掠《かす》れ声で隅田は言った。瀬戸社長はとにかく、三戸田謙介と椎葉香織の二人には、なんとも表現のし難い威圧感が備わっていて、それが隅田に理由の判らない|羞恥《しゅうち》を感じさせたのだ。怖れに似た羞恥心を追い払おうと言葉を吐いたが、その語尾は震えながら|喉《のど》に詰まってしまい、かえって|萎縮《いしゅく》した心をいっそうしぼませただけだった。
「ドリス式キトンよ」
香織は隅田に目を据えたまま言った。
「あらちへ……」
瀬戸社長がへりくだった様子で言った。四人は瀬戸社長を先頭に小さな円卓を中心にした三つの|椅《い》|子《す》に向った。
2
「本当に久しぶりね」
香織は席につくとすぐそう言った。「随分変ったわ。昔はもっとずっと甘ったるかったのよ」
三戸田に向って言い、|嬉《うれ》しそうに笑う。
隅田は今頃になって、これが昔の恋人と同じ人物だろうかと思いはじめていた。昔も若い男の心を吸い寄せるような、豪華ななまめかしさのある女だったが、今の香織はそれどころではなかった。その体は|蠱《こ》|惑《わく》の塊りだった。隅田は香織をみつめながら何度も目をしばたたいた。……香織をとりまく空間に何かねっとりとした膜のようなものがあって、いくら|瞳《ひとみ》を凝らしても、その実体がよく見透せないのだ。美しいという言葉は当てはまらないようだった。印象は圧倒的な美だったが、|艶《つや》やかに輝いている白い肌や、たとえようもなく整った輪郭、そして曲線と影……それらの集合した香織の体から発散するものは、人間ばなれのした|妖《よう》|精《せい》的雰囲気だった。
いったいこの女は呼吸をしているのだろうか……。隅田は香織から眼を離すこともできず、|茫《ぼう》|然《ぜん》とみつめたままそう思った。
「この人はどれくらい知らされているの」
香織が瀬戸社長に言った。瀬戸社長は少し離れたキャビネットの前に立っていて、そこからうやうやしく答えた。
「ほとんど何もお教えしてございません」
すると香織はいっそう|愉《たの》しげに、
「あなたを呼んだのは私よ。三戸田だと思っていたでしょう」
と言う。隅田は|唾《つば》をのんで答えようとしたが、そのまま言葉は出せず、黙ってうなずいた。
「あなたと私の間にやりかけたことがあったわね」
香織はそう言ってから三戸田の顔をちらりと見て笑った。
三戸田……香織はそう呼んだ。いったいどんな背景でこの権力者を呼びすてにするのか、隅田は疑問と同時に|畏《い》|怖《ふ》を感じていた。三戸田謙介は穏やかな微笑を続けているようだった。
「これからそれを終らせるのよ。わかって」
香織の瞳が深く深く隅田をとらえていた。隅田は金縛りにあったように身動きもできなかった。
瀬戸が|芥《から》|子《し》|色《いろ》の盆を捧げて三人の傍へやって来た。盆の上には大きなゴブレットが三つ載せてある。香織がそれに手を伸した。次に三戸田がゴブレットを持った。瀬戸は忠実な執事のように三戸田の背中をまわって隅田の横へ来た。
「さあ、乾杯よ」
香織がうながした。ゴブレットの中には真紅の液体が半分程入っていた。そして三戸田が言った。
「香織様と隅田君の恋のはじめを祝って……」
隅田は二人の動作に合わせ、操られたように深紅の酒を飲んだ。酒である以上多少の酸味があるのは不思議でなかった。しかし、その酒は酸味と同時に恐ろしい辛さがあった。しかもその辛味は電撃的な速度で五体に|沁《し》み渡って行った。後頭部から背骨にかけて、熱い塊りが何度も上下し、隅田は思わず深呼吸をしなければならなかった。
「どう……」
香織はゴブレットを唇のあたりに持ったままそう|訊《たず》ねた。飲み了えた最初の一呼吸で、隅田は全身が膨張したように感じた。さっきまでの萎縮した気分が|嘘《うそ》のように消えて、香織や三戸田の顔がはっきり見えはじめたようだった。
「素晴らしい酒ですね。何という酒ですか」
隅田は三戸田謙介に訊ねていた。体に精気が溢れ、三戸田と対等に口をきくゆとりが生じている。
「酒……。いや酒ではないのですよ」
「酒じゃない……」
隅田はゴブレットを見て首を傾げた。
「あなたを勇気づける為の飲物よ」
香織は三戸田と顔を見合わせて笑った。
「香織様の愉しそうなお顔は久しぶりです。私まで愉しくなります」
三戸田は実際愉しそうに言った。財界の巨星と言われるそのどっしりとした|風《ふう》|貌《ぼう》も、こうしていると遊び好きのお大尽といった屈託のなさだけが浮きあがっていて、ひどく身近な人物に感じられるのだった。
「僕を勇気づけるんですって……」
隅田はくつろいだ空気に融け込んでいた。
「これには不思議な効用がありましてな。人間の気持を大らかにしてくれるのです」
「あなた、自分が何分か前とまるで違った人間に変っていることに気がつかないの」
香織はクスクス笑いながら言う。隅田は少し考え込んだ。
「たしかに、こちらへはじめて足を踏み入れた時は度胆を抜かれましたよ。僕のようなサラリーマンにとって、三戸田会長と言えば近寄ることもできない存在ですからね。それにこの部屋の様子……赤ずくめで、おまけにお二人ともソクラテスのような着物を着ていらっしゃるし、それがまた赤いと来てるんですからね。口もきけないくらい驚いても当り前でしょう」
と答えた隅田は香織に向って、「それに君だ。君がこんな場所にいようとは思っても見なかったよ」
そう言って手をさしのべた。その手は香織のなめらかな掌に包まれた。
「今日守屋へ行って来たのね」
掌は微妙にうごめいていた。肌に伝わる香織のぬくもりと、その微妙な肉のうごめきが、隅田の五体へさっきの飲物のときのように、熱いショックとなって拡がって行った。隅田は椅子から滑り降り、香織の|膝《ひざ》をだいた。
3
香織の指が隅田の髪をまさぐっていた。
瀬戸はひっそりと三人のうしろの壁を背に立っている。三戸田はひざまずいて香織の膝をだきしめる隅田をみつめていた。
「私にもまだ少しは薬が効くようですな」
三戸田は香織に眼を移して言った。
「それはお愉しみなこと……」
香織が三戸田に流し目をくれて答える。
「ご覧になるのですか」
三戸田の瞳に|淫《いん》|蕩《とう》な光が射しはじめている。
「この人に見せなくてはね」
香織が笑顔で答えたようだった。
「私はこれで……」
瀬戸は一礼して言うと、静かに盆の上にゴブレットを戻して、相変らず|醒《さ》めた足どりで大きな部屋を横切って行った。
「手伝わせますか」
「そうして……」
三戸田は立ちあがると巨大な|煖《だん》|炉《ろ》の横にある大理石のテーブルの上の鈴をとりあげて振った。澄んだ細い音が尾を引いて消えた。
すると瀬戸が出て行ったばかりの扉から、二人のすらりとした体つきの女が現われた。二人とも赤い|寛衣《キトン》をつけていた。女達は素早く香織の前へ来ると立ち止って軽くお辞儀をした。
「部屋へ運びなさい」
命令された二人は白い歯を見せて嬉しそうな顔になり、すぐにひざまずいた隅田を両脇からだき起した。香織も立ちあがり、左手をさしのべて隅田の|頬《ほお》に触れた。
「私にはこの人が最後になるかも知れないわね」
隅田は潤んだ熱狂的な瞳で香織を見つめていた。
「か、お、り……」
切れぎれに名を呼び、膝をがくりと落した。女達は忍び笑いをしながら、隅田をひきずるように階段へ向った。
「香織様……」
三戸田がそれについて行きかけた香織を呼びとめた。香織は階段を登りはじめる隅田を見たまま立ち止っていた。
「|嫉《しっ》|妬《と》というものはあるものですな」
「三戸田にはまだそんなものが残っているの……」
香織は三戸田に背を向けたまま言う。
「私にも意外です」
三戸田はそっと香織の左へ身を寄せ、右手を腰にまわした。香織は階段を登って行く隅田を見ながら三戸田の肥った胸にもたれた。三戸田の右掌が香織の胸に|這《は》いはじめる。香織は静かに眼を閉じたようだった。隅田は二人の女にかかえられて二階の廊下に消えた。
「たしかに嫉妬というものはあるわね」
「まさか香織様が……」
三戸田は|寛衣《キトン》の上から香織の乳首を探りあて、それを柔らかくつまんだようだった。
「あの人が私のはじめての男だったのよ。その妻になった女のことを考えているの……」
「比沙子に嫉妬なさっているというわけですか」
「さあ、そこまで行っているのかしら。でも三戸田が嫉妬と言ったので、いまふとそう思ったわけ……」
三戸田は香織の胸から手を放し、低い含み笑いをした。
「香織様。それはこの私を|刺《し》|戟《げき》なさっておられるのではありませんか。比沙子の夫があの男だと思い出させて……」
今度は香織が淫蕩な忍び笑いをした。
「さあ、愉しい日が始まるわ」
すると三戸田は香織の大柄な体を軽々と抱きあげた。
「おかげで比沙子が|酷《ひど》い目にあいそうですな」
香織は三戸田の腕の中でのけぞって高笑いをすると、首をだいて唇を合わせた。
4
隅田は女達の手で全裸にされていた。羞恥心は全くなくなっていて、体が思うように動かなかった。胃の辺りに焦燥に似たものが渦巻いていて、そのすぐ下が焼けるようだった。服を脱がせるとき、女の一人がわざと隅田の跳ねあがった部分に触れた。
床も天井も壁も真紅に彩られていた。|天《てん》|蓋《がい》のついたベッドも同じ色で、光源を巧みに隠した間接照明までが赤い色を使っていた。全裸にされた隅田はその赤い光に肌を染め、ベッドの柱につかまって|喘《あえ》ぎながら立っていた。
ドアだけが黒い色だった。……その黒いドアがあいて香織が部屋に入ると、女達は身をかがめてその傍を小走りに通り抜けて出て行った。
「それでも立っていられるのね……」
香織は隅田の気力をたたえた。事実隅田は精一杯に力を奮い起して立っていたのだ。香織は隅田の全身を|舐《な》めるように眺めまわしている。
「今日からあなたと私は夫婦になるの」
香織はしっとりとした声で言った。「この香りを覚えているかしら」
隅田の頭は、底の底では|冴《さ》えていた。意識が二層になっていて、悪夢にうながされながらそれを夢だと自覚している時のようだった。上の意識は発情した獣のものだったが、底の意識はしいんと冴えていた。
燃えあがる官能の炎を|煽《あお》りたてるような強い芳香が部屋の中に満ちていて、それが底の意識にひとつの記憶を|甦《よみが》えらせている。……大森の、ひどく奥まった路地の突き当りにある旅館だった。香織は窓を半分あけ、顔を外に向けて泣いていた。なぜ泣くのか、隅田は何度も繰り返し訊ねた。だが香織はその理由を言おうとはせず、ただ声もなく|泪《なみだ》を流しつづけた。その旅館には狭い裏庭があって、香織があけた窓からその裏庭の植込みが見えていた。香織は泪を流しながら、これは|木《もく》|犀《せい》の|匂《にお》いだと言った。どこか|闇《やみ》の中に白い花が咲いていたようだった。やがて香織は窓をそっと閉め、儀式めいた手つきで服を脱いだ。灯りをつけたまま、隅田はその時はじめて香織を抱いた。香織の体は堅く、顔は苦痛に|歪《ゆが》んでいた。うわごとのように、奪って、奪ってとくり返し、熱い息を吐き続けていた。儀式が終ったとき香織の体の下に|赫《あか》いしみがひろがっていた。木犀の匂いは私の匂い……とつぶやいていた。その翌日香織が海外へ旅だったことを、隅田はずっとあとまで知らされないでいた……。
「覚えて……いる……」
隅田はまわらぬ舌で答えた。もっと言いたいことがあったが、それだけが精一杯だった。比沙子、赤い部屋、今井の死、火事……訊ねるべきことが底の意識を泡だたせたまま、その上に重く|掩《おお》いかかる獣のもだえに押しつぶされて消えた。
香織を抱きしめようとしたが、ベッドの柱から手を放せば倒れてしまうにきまっていた。その手さえ、力が抜けかかっている。
「立派よ。そうして立っていられる男は今まで一人もなかったわ」
香織は滑るように動いて隅田の背中へ廻った。背骨に沿って|爪《つめ》がそっと這いおりて行くのを感じた。二度目に爪は三つになっていて、そのひとつひとつが別な動き方をしている。隅田はその三筋の動きと焼けつくような下腹部以外には自分の存在を感じなくなっていた。
突然思いがけぬ力で香織が隅田をうしろから突きとばした。隅田は|呆《あっ》|気《け》なくベッドの横の床に右肩から転がった。見あげると赤い部屋の中に赤い|寛衣《キトン》の香織が巨像のようにそそり立っていた。香織は肩の黄金の留め具をゆっくりと外した。|寛衣《キトン》は腰のベルトで一度ひっかかり、すぐ床に崩れた。そそり立つ全裸の女神像はぬめぬめと輝いていた。
5
隅田には香織の動きのひとつひとつが救いに思えてくる。狂ったように燃えあがる欲情を、香織が手厚く癒してくれているのだ。しばらくの間、隅田の全存在は香織の唇の接する部分に凝集していた。唇が動けば隅田の意識もその方向へ動いた。そして隅田はゆっくりと自分の肌の上を動いて行った。耳から|頸《くび》、頸から胸、そして|脇《わき》|腹《ばら》から|腿《もも》を通って土ふまずまで、意識は長い旅をした。隅田はこの時まで、それ程雄大な自分自身を自覚したことは一度もなかった。膨れ、伸び、|漲《みなぎ》って隅田はメンヒルのように宙にそびえた。バベルの塔のように頂きが雲に隠れた。
やがて隅田は地軸となって叫んだ。重く熱い惑星が隅田を軸に回転していた。地軸は動かず惑星がまわり続けた。マグマが隅田を包み海がたぎった。惑星は白熱し、急速に密度を高めた。震動し、地軸をおさえつけ、収縮し、再び震動した。
突然隅田の存在がふたつに分裂した。隅田は地軸でありながら同時に惑星となった。そして惑星は地軸を感じていた。|下《か》|肢《し》に|鬱《うっ》|積《せき》したものが香織に向けてほとばしったとき、遠く離れた唇のあたりで、隅田はその逆を味わっていた。
香織ははじめ隅田の舌を吸いあげ、やがてそれを押し戻して硬直した舌を下肢の|復讐《ふくしゅう》のように突きさした。隅田の舌端に一瞬鋭い痛みが走り、その直後悪魔的な愉悦に|堕《お》ち込んで行った。自分の性別が混乱していた。どこかにひそんでいた隅田の女が目覚め、受容の悦楽にふるえた。その一方で荒々しい放射の快感が体をつらぬき、やがて二つの波がぶつかり合うと、相反する性感が入り混って、隅田を泥沼のような世界へのめり込ませて行った。
これが人間の快楽か……。底の意識がかすかにそう叫んでいた。
長い間、隅田は香織の体の下にいた。香織の束ねた髪がとけ、その一部が左肩と右の二の腕に触れていた。やがて香織は腰を浮かせ、隅田から肌を離すと立ちあがった。……隅田は|萎《な》えなかった。
香織はベッドへ行った。
「こっちへいらっしゃい。そろそろ動ける頃よ」
声が少し|掠《かす》れ気味で、呼吸も荒かった。隅田はもぞもぞと腕や脚を動かして見た。|痺《しび》れたような感覚は去らなかったが、無理をすればさっきよりたしかな力が出た。腕で上体を起し、いざるようにベッドの端を|掴《つか》んだ。
「私の傍へいらっしゃい」
香織は優しく言った。その言い方はまるで母親のようだった。ベッドへ這いあがると、香織は壁のほうを向いていた。白い背中に赤い光が当って桃色に輝いている。
「この家にはあなたの奥さんが来ているのよ。知っているわね」
隅田はうなずいたが、香織が背中を向けているのに気づくと、
「知っている」
と言った。幾分もつれ気味だが|喋《しゃべ》れた。五体の痺れが香織の与えた悦楽で中和したように思えた。
香織は振り向くと隅田を抱き寄せ、それから壁へ右手を伸してどこかに触れた。壁が一メートル程横に滑って|覗《のぞ》き窓になった。
「三戸田が|愉《たの》しんでいるわ」
香織は隅田をかかえて言った。
「あ……」
隅田は窓の外のからみ合った男女を見てそう叫んだ。「比沙子……」
「そう、あなたの奥さんだった女ね」
香織は隅田を|愛《あい》|撫《ぶ》しながら言った。三戸田は遠くに顔を伏せていて、あおむけにのけぞった比沙子の顔が真正面にあった。半びらきの唇の間から舌がのぞき、|眉《まゆ》をしかめ眼を堅く閉じていた。三戸田の伏せた顔が動くと比沙子はいよいよのけぞった。白い繊細な指が、自分の両方の乳房を掴んでいた。
6
比沙子が三戸田の愛を受けている。一方的に|揉《も》みしだかれ、曲げられ、吸われている。
音は聞えていない。しかし比沙子が断続的に声を発しているのはよく判った。唇の形で、ひときわ高い叫びをあげるのも判った。三戸田の両肩の辺りが脂汗で光り、自分も時折り顔をあげて深い息をしながら、|執《しつ》|拗《よう》に比沙子を責めている。その技術が的確に比沙子を狂わせているのがよく判る。
比沙子は自分の内側に閉じこもっているように見えた。三戸田の力に反応して燃えあがる炎はすべて比沙子自身の快楽に費やされて、決して外に|溢《あふ》れ出さないように思えた。
だが三戸田が比沙子のもだえ狂う有様に充分|堪《たん》|能《のう》しているのもよく判った。一メートル四方の覗き窓からその光景を見ている隅田は、被虐的な快感を覚えた。
三戸田の命ずるままに、さまざまな痴態を見せる比沙子へ、隅田の感情が移入して行くようだった。隅田は比沙子と共にもだえた。隅田は三戸田に犯されていた。隅田は比沙子と堅く抱き合って三戸田の加える愛技に燃えあがっていた。
「彼女はずっと三戸田にああされていたのよ。……少しも嫌がらずに」
香織が言った。「今では三戸田に見つめられただけでとろけそうになるのよ。そういう体になっているの」
香織は隅田の胸に|倚《よ》りかかって|囁《ささや》いた。隅田は覗き窓の光景をみつめたまま、無意識に香織の肌をまさぐっていた。その時比沙子は三戸田に肩を掴まれて体を起していた。三戸田は比沙子を軽々と抱えあげ、全身を覗き窓の正面に向けさせた。三戸田の唇が何度か|叱《しか》りつけるように激しく動き、やがて比沙子はおずおずと両腕をあげ、苦しそうに眉を寄せながら背後にある三戸田の太い首を体をそらせてうしろ手で抱いた。白いしなやかな体が伸び切り、唇の間から舌がのぞいていた。
隅田は耐え切れずに|呻《うめ》いた。三戸田の左右の指が、比沙子の|太《ふと》|腿《もも》をしっかりと支え、四本の指が内腿の肉に食い込んでいたのだ。……最後の朝隅田が見せられたのはその|指《ゆび》|痕《あと》に違いなかった。
香織が腿の上に来て、すぐに熱く包み込んだ。隅田はそのまま動かぬ香織の内部が、激しく|顫《せん》|動《どう》しているのを感じた。一メートルの額縁にはめこまれた比沙子のヌードが、伸び切ったポーズで|喘《あえ》いでいた。香織は首を曲げて隅田の唇を|噛《か》み、舌をからませた。隅田は自分が香織の体を貫いて、自分自身を吸いとっているような錯覚に襲われていた。
比沙子がうしろへ廻した両腕を放した。隅田は妻の体がふわりと前へ倒れるのを見ていた。香織の顫動はいっそう激しくなり、隅田は急速に吸いあげられている。
隅田は眼を見ひらいたまま、強烈な感覚に耐えていた。香織は獣のように|唸《うな》り声をあげながら隅田の胴を長い脚で締めつけていた。
頭の|芯《しん》が|朦《もう》|朧《ろう》としはじめていた。分裂していたふたつの意識がひとつにまとまりはじめ、その中で再び隅田は思った。……これが人間の快楽か。これが人間のものか。
肩から腰の間の距離がぐんぐん縮み、下腹部の神経だけが膨張して直接脳につながったようだった。香織の豊かな乳房が隅田の胸でつるつると滑った。
比沙子は三戸田の命令に辛うじて従っているようだった。いま比沙子は|膝《ひざ》と掌で体を支えていた。唇を卵形にあけ、おびえたような|瞳《ひとみ》を隅田の正面に向けていた。悦楽の深さを夫に訴えているように思えた。小ぶりだが形のいい乳房が、両腕の間に見事な紡錘形を作っていた。鎖骨のあたりがひくひくとうごめき、耐えかねたように崩折れた。
隅田は崩折れたとき、比沙子の唇の間から何か愉悦の塊りのようなものがほとばしった気がした。そして|殆《ほと》んど同時に隅田も香織に押し倒されていた。舌から脳の奥へまた刺すような悦楽が走った。
7
隅田は赤い部屋の赤いベッドの上で目覚めた。窓はなく、昨夜と同じ赤いライトがあたりを照らしていたが、もうとっくに陽が登っているのが判った。
頭の芯に鈍い痛みがあり体がひどく重かった。そしてうしろめたさでいっぱいだった。何もかもを後悔していた。
再会するやいなや、椎葉香織と恥しらずな交情を持ったことが|堪《たま》らなかった。香織に対する愛など忘れ果てていたのに、なぜああも|呆《あっ》|気《け》なく燃えあがったのか、自分でもよく判らなかった。
のろのろと体を起し、部屋の中を見まわした。香織の姿は見えず、ベッドの横の椅子に靴と衣類がきちんと|揃《そろ》えてあった。覗き窓は消えていて、見当をつけ壁をまさぐって見ても、どこが開くのか判らなかった。
裸のままベッドを降りると、小さなドアが半分開いているのに気づいた。近寄って見るとそこはバスルームだった。バスルームの中は明るいピンクのタイルと、同じ色のマットが敷いてあり、バスタオルや歯ブラシがきちんと並んでいた。
隅田はコックをひねって浴槽に湯を満し、その間に歯をみがいた。
ふと赤いバラのマキを連想した。……歯をみがきはじめた時、千駄ケ谷の旅館で|嗅《か》いだあの|米《こめ》|糖《ぬか》油のような|匂《にお》いがしたからだった。
それに木犀の匂いもしている。木犀は香織の匂いだった。
湯につかり、首筋を伸した。……いったいこれはどういうことなのだ、と思った。三戸田謙介に建築物の指示を受けに来た|筈《はず》だったのに、とてつもない肉の饗応を受けてしまったのだ。……受けてよかったのだろうか。
記憶の一部が薄れていた。深酒の翌朝に似ている。記憶の薄れた部分から、どんなおぞましいものが浮きあがって来るか、不安でならなかった。
たしかに踏み外した言動をした覚えがあった。……三戸田謙介に対して大きな失態を見せてしまった。そう感じていた。
隅田は|石《せっ》|鹸《けん》をつけて体中を洗った。不吉なものがそれで洗い落せるかのように、力をこめて洗った。だがその洗う手が驚いたようにとまると、慌ててシャワーのバルブをひねった。冷たい水がバスタブの湯をぬるめた。
体の一部がまだくすぶっているのだ。隅田は自分自身に裏切られたようにうろたえて、そのくすぶりを消し去ろうと努めている。
……|媚《び》|薬《やく》。体を|拭《ふ》きおさえたとき、隅田はやっとその言葉を思い浮べた。昨夜の赤い飲物は媚薬だったのではないだろうかと思った。あれ程圧倒的な効果を示す媚薬が実在するとも思えないが、それ以外に自分の失態を説明できるものがないのだ。
はじめ扉をあけて瀬戸社長が現われたときから、隅田は異様な雰囲気に|呑《の》まれてしまった。赤い部屋に赤い|寛衣《キトン》を着た三戸田と香織を見たとき、驚きは頂点に達していた。心を引きしめ、身構えていたのが何の役にも立たず、あの超大物の前ですくんだように|萎縮《いしゅく》してしまったのだ。
ところが赤い飲物を口にしたとたん、不思議な程気分がなごみ、急に口が軽くなったのを覚えている。同時に香織がひどくいとしい女に思え、三戸田の眼の前で彼女をかき抱いたのではなかったか……。
その辺りの記憶が薄れていた。しかしその後香織と全裸でもつれあったのは鮮やかに覚えていた。覗き窓の向うで、三戸田が比沙子を|苛《さいな》んでいたのも覚えている。
すべてがあさましい行為だった。三戸田のセックスを盗み見し、妻が犯されるのを|刺《し》|戟《げき》剤にしていた。
部屋に戻った隅田は服を着はじめたが、その途中で耐え切れなくなってベッドに顔を伏せ、呻き声をあげた。……どうなるのだ。いったいどうすればいいのだ……。
8
隅田は真紅の寝室を出た。廊下には赤い|絨緞《じゅうたん》が敷きつめてあり、それは階下の大きな赤い部屋まで続いていた。
香織はそこにいた。巨大な長方形の部屋のほぼ中央にあるソファーに|横《よこ》|坐《ずわ》りになっていて、腕木に|肘《ひじ》をついて降りて来る隅田を見あげていた。
「ひとりで起きたのね……」
と、まるで年下の男に言うような調子で微笑していた。
隅田は階段を降りると香織の前へ進んだ。
「どういうことになっているのか教えてもらいたい」
「どういうこと……」
「つまり、君がなぜここにいるのか。なぜ三戸田会長が君を香織様と、様づけにして呼ぶのか。|俺《おれ》は何の為に呼ばれたのか。守屋に何かを建てる打合わせじゃなかったのか。建てるのなら一体何を建てるのか。そして今井さんはなぜ死んだのか」
香織は隅田の居直ったような言い方をからかうように真似た。
「あなたの奥さんはどこにいるのか。誰と一緒のベッドにいるのか……」
「やめてくれ」
隅田は大声で言った。「たしかに俺は何かの|罠《わな》にはまっているんだ。一体何なのだ。何の為に……」
香織は面倒臭そうに眉をひそめた。
「それを私に説明しろというの」
「してもらいたい」
すると香織は上体を動かして部屋の隅を見た。
「説明できないことはないのよ。私ならとても判りやすく説明してあげられるわ」
そう言って隅田の顔へ視線を戻した。「私はいちばん判りやすい方法で、あなたに説明してあげるつもりよ」
隅田は部屋の隅から動き出した人間に気づいてドキリとした。
白い|寛衣《キトン》を着た二メートルほどの大男だった。肌は漆黒で、脂光りがしていた。頭はつやつやとした丸坊主で、その横顔は高貴としか言いようのないほど、美しく整っていた。黒いアポロンだった。
白衣をまとった黒いアポロンは、ゆっくり、ゆっくりと安定をたしかめるようにやって来た。その五体からは言いようのない、一種の気迫のようなものが|滲《にじ》み出していて、思わず隅田は二歩ばかりあとずさった。
「心配することはないのよ」
香織は|嘲笑《ちょうしょう》するように言うと、ふわりと立ちあがって隅田の腕をとらえた。「私の夫になった人よ」
香織は黒人に向ってそう言い、隅田を抱いて|頬《ほお》を寄せて見せた。黒人の頬がほんのかすかに動いた。隅田はその黒人の瞳にみつめられて、全身の気力が一度に崩折れてしまうのを感じた。恐ろしい程の威圧感だった。自分の全人生がその|一《いち》|瞥《べつ》ですべて見透されたような気がした。それはかつて夏木社長や折賀専務に感じた威圧感とはまるで異質なものだった。|桁《けた》違いの破壊力で生命そのものを|萎《な》えさせてしまうような力があった。
「この人がどんな人かその内教えてあげるわ。でも今は駄目。言ってもあなたは余計混乱するばかりよ」
香織は諭すように優しく言った。腕をかかえたまま隅田を正面の入口に通じる両びらきの扉のほうへ導いて行く。「今夜も必ず来るのよ。そして私と愛し合うの。きっと別れたあと私が恋しくて堪らなくなる筈よ。……でも私もあなたを欲しがっていることを忘れないでね」
香織はそう言うと隅田の|耳《みみ》|朶《たぶ》にキスし、「さあ、夜まで自由にお過しなさい」と腕を放した。赤い寛衣の背後に、白い寛衣がこちらを向いて立っていた。
9
館の外へ出ると隅田は一瞬目が|眩《くら》んだ。初秋の陽だまりへ出た途端、その明るすぎる光に視界がまっ白になってしまったのだ。まぶたを閉じて暫くそのまま立っていると、白く焼かれた網膜にうっすらと血の色が戻って来るのが判った。うさぎの耳の裏側のような柔らかい桃色の中に黒い部分がひろがりはじめ、隅田はそっと眼をひらいた。
緑の芝生に白い道が走っていて、遠くに鉄の門が見えた。|掩《おお》いかぶさるような樹木の枝が影を作っていて、その向うにビルの窓がつらなっていた。全体が妙に黄ばんでいて、隅田は何度も強く眼をしばたたいた。
ゆっくりと歩いて鉄の門の所まで来たとき、隅田はふと館をふり返って見た。正面に四本の円柱をたてたその石の建物は、濃い緑の中にめり込むように重々しくそびえていた。
何か胃の辺りでうごめいているものがあった。……比沙子がいた。香織がいた。……隅田はもう二度とあの館へは入れないような気がして不安になっていた。……比沙子がいた。香織がいた。……頭のどこかでその二つの女体がからみ合っているような気がした。
少年の日、病の重い母親を病院に置いて親類の家へ引取られて行った時の、あの物哀しい思い出が|甦《よみがえ》っていた。……あそこに母がいる。もう二度と|逢《あ》えないかも知れない。引っ返したい。駆け出して行って母のベッドに顔をうずめたい。離れたくない……おかあさん……香織……。
心の中で香織の姿が揺れ続けていた。もう一度この腕にだきしめたい。いつまでも語り合い、みつめ合っていたい。……隅田は力なく歩き出した。館は高い塀と緑にさえぎられてすぐ見えなくなった。重い体を引きずるようにして歩いた。けだるく、そして胃から胸、胸から|喉《のど》もとへ、ひどく熱い塊りが|湧《わ》きあがっていた。何もかも、どうなってもいい。|謎《なぞ》の答えなど要らない。香織と暮せさえすれば、もう何も要らない。……隅田はそう思いつめはじめていた。
通りへ出てタクシーをひろい、やっとの思いでホテルの部屋へ戻った隅田は、すぐにベッドへころげ込むと、|睡《ねむ》るでもなく眼を閉じた。香織への思慕が一分ごとに高まって来るようだった。そして三戸田に憎悪を感じはじめていた。香織の身辺にいる三戸田が死ぬ程|羨《うらや》ましかった。
……電話のベルが鳴っていた。
「…………」
黙って受話器をとりあげると林の声がした。
――隅田さんですね――
「ああ、あなたですか」
――三戸田邸からお戻りになったという連絡があったものですから――
「ちょっと前に戻った所です」
――いかがでしたか、打合わせは――
「打合わせ……ああ……」
――これからおうかがいしてもいいでしょうか――
隅田はちらりと腕時計を見た。驚いたことにもう十二時近かった。
「そうですね。じゃあ部屋へ来てください」
そう言うと林は張切った声ですぐ来ると言った。隅田はネクタイをゆるめ、ふてくされたようにまたベッドに横になって、林がドアのチャイムを鳴らすまでそのままの姿勢でいた。
「お疲れのようですね」
隅田がドアをあけると、林はその顔をひと眼見て驚いたように言った。
「ええ、ちょっとね」
「徹夜なさったんですか。お顔が|蒼《あお》いですよ」
「大したことはありませんよ」
「それならいいんですが……」
林は居間の椅子に腰をおろすと、大きな暗褐色の封筒をテーブルの上にのせた。
「瀬戸社長からこれをお渡しするように言われました」
そう言って好奇心に|溢《あふ》れた表情で隅田を見つめた。「やはり回教寺院ですか」
「回教寺院……」
「守屋に建てるものです」
林はあの館で設計の打合わせをして来たと信じ込んでいる様子だった。隅田はあいまいに、ええ、と答えて封筒の中身を引き出していた。
「今井さんのサムネイルだ……」
そうつぶやきながら八つにたたんだ紙をひろげた隅田は、一瞬けだるさが吹き飛んだ思いで眼をみはった。見なれたタッチの今井のサムネイルには、いくつもの五角形が記されていた。その中央に大きく描かれているのは、五角形のピラミッドだった。
しかもそのピラミッドは、周囲を斜線でかこまれていた。今井はあの五つの丘にかこまれた守屋の土地に、五角形のピラミッドを設計しようとしていたのだ。しかも地下に……。
10
いつの間にか林は窓際に立って煙草を吸っていた。
「失礼ですが、だいぶお驚きのようですね」
林は他意のない微笑を浮べていた。「今井先生のサムネイルだということはうかがっています。しかし私は見てはいけないと厳命されておりますので……」
そう言って自嘲めいた笑い声をたてた。
「回教寺院と言いましたね」
「ええ。今井先生が一度私にそうおもらしになったものですから」
「なる程ね」
隅田は地下のピラミッドの頂点を人差指で押えながら言った。その真上の地表に、ひどく大ざっぱな走り書きで|尖《せん》|塔《とう》のついた寺院のようなものがあった。「今井さんはあの土地へ何度ぐらい行ったのです」
「さあ……四、五度。ひょっとするともう少し多いかも知れませんが」
林は首を傾げて言った。「なぜです」
「いや……」
……理由は知らない。しかしこの尋常でないサムネイルの背後に、香織がいることは確実に思えた。香織への思慕がいつの間にか悲壮なまでの献身を決意させていたのだ。「これを今井さんがどの程度の段階で発想したのか知りたかったものですから……」
「それでしたら……」
林は納得したように何度もうなずいて見せ、「三戸田会長と相当突っ込んだ話し合いをなさっていらしたようです。ご自分でも、だいたいの方針はこれでいいと言っておられました」
隅田は考え込んだ。この林にも詳細を知らせてないとすると、今の段階でこの計画を知っているのは瀬戸と三戸田と香織ぐらいなものだろう。そうなれば今井が死んだあと、自分に引継がせるようはからったのは香織にきまっている。香織様……三戸田謙介にそう呼ばせている香織は、きっと自分に対して責任を持っているに相違ない。とにかく自分で役にたつなら、全力を挙げて香織の目的を|叶《かな》えてやることだ。
「守屋へ行って来ます」
林は|怪《け》|訝《げん》な表情で見返した。「守屋へ行ってこのサムネイルの意味をもっとよく把握するんです」
「しかし、少しお休みになったほうがよろしいんじゃないでしょうか」
心配そうな顔で言う。
「大丈夫です。行って来ます」
「でも……」
林は言いにくそうに口ごもり、「今井先生の例もありますし、縁起をかつぐわけじゃありませんが、ちょっと心配なんですよ」
と言った。
「今井さんの……」
「最後に守屋へいらっしゃった時、今井先生も丁度そんなお顔の色で……」
隅田は横面を張りとばされたような気がした。唇を|噛《か》んで林を見つめていた。
……おかしい。俺はゆうべからどうなっているんだ。まるで気が違ってしまったようじゃないか。香織は三戸田にかこつけて俺をおびき寄せたも同然だったじゃないか。いきなり媚薬のようなものを飲ませて体の自由を奪い、俺を泥沼のような悦楽の世界へ誘い込んだのではなかったか。比沙子が犯されるのを見せつけて薄笑いしていたではないか。献身的に駆けまわる必要がどこにあるというのだ……。
隅田はたしかにその時、狂気から|醒《さ》めたと感じた。くるりと身をひるがえして、ひととびでバスルームにとび込んだ。バスルームの鏡の中に幽鬼のように蒼ざめた顔を発見して思わず身震いした。黄色く濁った目をしていて、額の静脈が鉛色に浮きあがっていた。そしてまた徐々に香織への思慕が湧きはじめていた。
11
|饐《す》えたような現像液の|匂《にお》いがする伊丹のオフィスで、大杉実がモノクロの写真パネルを見あげている。窓際の回転椅子に柳田祥子が脚を組んでいる。伊丹英一はスチールデスクの端に腰をのせて煙草をふかしている。そして会沢は四角い顔を伏せてさっきからマッチ箱を丹念に分解している。
「あんたがたの言うことは夢のようで俺にはよく判らん」
会沢がボソリと言う。「古代、古代、古代……なんでもかんでも大昔のことにつながっちまう。いや、いけないと言うんじゃない。ひょっとするとあんたがたが言ってることは今度の一件をズバリ射抜いているのかも知れん。……多分そうなんだろうな。でも俺には判らん。そんな方角から突っ込んで行ったって、俺には皆目見当がつかないだろう。そういう力は俺にはないんだ。俺にはあんたがたと違うやり方しかない。俺はやっぱり新宿の赤いバラや真名瀬商会の線を押すよ」
「それがいいでしょう」
大杉が答えた。「だが白日書房の石川という青年が|轢《ひ》き逃げされたのはどう考えても異常だな。しかも今井邸の火事が起る何時間か前に……石川という青年が言っていたことはすべてが正しいと証明してるみたいじゃないか」
「証明されたんだよ」
伊丹が言った。「畜生、なんとかして原杖人をつかまえられんもんかな」
「そうだ。すべては原杖人が知っている」
大杉が言うと会沢は憤然と机を|叩《たた》いた。
「原なんて医者はどうでもいい。伊丹さんあんた隅田氏の古い友達なんだろ。……俺は彼を救い出してやりてえんだよ。彼が深入りしすぎたのは、半分は俺のせいだ。何だか知らねえが相手は東日にきまっている。アトランティスだの|狼《おおかみ》人間だのって言う先きに、彼の心配をしてやれねえもんかね」
「会沢さん。俺だってあいつを探し出すことを目的にしてるんだよ」
伊丹がなだめるように言う。「でもこいつは少しばかり変った事件なんだ。いや、恐ろしく変てこなことばかりだ。突拍子もなく聞えるだろうが、隅田を探すには古代のそうしたつながりを手繰る必要があるんだ」
気まずい沈黙が流れ、それを大杉ののんびりした声が破った。
「めいめい自分のやりやすい所からはじめるんだな」
「でも、隅田さんが危険な目にあっているときまったわけじゃないでしょう」
祥子がはじめて口をはさんだ。
「そりゃそうだ」
大杉はほっとしたように言う。「きまったわけじゃない。案外三戸田謙介に気に入られて、今頃大車輪の活躍をしてるかも知れんよ」
「いいや」
会沢は頑固に顔を伏せたまま、強くかぶりを振った。「だったら必ず俺に連絡して来る筈だ。俺と彼はそういう仲間だ」
四人はまた黙り込み、しばらくして大杉が言った。
「とにかく僕は週刊誌に書いて見る。丁度ふたつの週刊誌に自由になるスペースがあるから、一方ではクロノスの|壺《つぼ》と暗殺教団に関する例のトランカヴェル説を、一方には僕自身の犬神説を書きわけてやろう。どんな反応が出るか知らないが、僕に出来ることはそんなところだ」
「じゃあ俺は原杖人を洗ってみる」
伊丹がデスクから滑り降りて言った。会沢は顔をあげ、ギラギラする瞳で伊丹と大杉に言った。
「危いと思ったらすぐ俺の所へ連絡してくれよ。石川の二の舞になってもらいたくない……」
12
椎葉香織と三戸田謙介が、長方形の食卓に向き合っていた。三戸田の隣りには隅田比沙子の白い顔があった。
「もうすぐあなたは隅田といっしょに暮せるようになるわ」
香織は能面のような顔で言い、スプーンでスープをすくった。
「我々は必ず約束を守る……」
三戸田は自分の娘を見るように、慈愛のこもったまなざしで比沙子に言った。「しかしまだ当分手放したくはないな」
比沙子は|怨《うら》むような瞳で三戸田の横顔を見あげた。
「隅田が……私を許してくれるでしょうか」
三戸田はそう言われて香織と顔を見合わせた。香織は笑い出す。
「許す……きまってるじゃないの。隅田はもうあなたのことを知ってしまったのよ」
比沙子はギクリとしたように体の動きをとめた。香織の表情に|嗜虐《しぎゃく》的な喜びが走った。
「三戸田はゆうべ随分元気だったようね」
「香織様……」
三戸田は当惑げだった。
「久しぶりにお得意の|技《わざ》が出たようだったし……あれには私も随分泣かされたものよ」
カチン、と高い音をたてて、比沙子のスプーンが皿の上に落ちた。
「あのとき……」
「そうよ。隅田はあなたを見つめていたわ。息を弾ませてね……」
香織は|嗄《しわが》れた声で笑った。比沙子は立ちあがるとうしろを向き、両耳に掌をあてがってしまう。
「もう駄目です。私死んでしまう……」
比沙子が悲痛な叫びをあげると、香織は|呆《あき》れたような顔をして見せた。
「死んでしまう……呆れたわね。そんな考えはおよしなさい。もうすぐあなたは隅田と一緒に永遠の生命を手に入れるのよ。完全に私達の仲間になったあとで、まだそんな気持を持っているのはあなたぐらいのものだわ」
「香織様、この比沙子は特別なのです。隅田を愛し抜いているのです」
「厄介な人ね」
香織はそう言い|棄《す》て、今度は比沙子に見向きもせず食事をする。
「|泪《なみだ》を|拭《ふ》いて食事をしなさい。今夜はまたピアノを弾きに出かけてもいいから……」
三戸田に言われて比沙子は素直にテーブルへ戻り、
「あの人は今夜もまた来るのでしょうか」
と小さな声で言った。
「来る。比沙子が私に対してそうだったように、うしろめたい思いでいっぱいになりながら、やはり香織様にひき寄せられてやって来るのだ。これから毎日ここへ通って来るだろう。その内にうしろめたさはなくなり、そして最後は我々と同じように昼間外を歩けない体になるのだ。そうしたらもう彼は君のものだ。だからそれまでは私に尽しなさい」
比沙子は低い声で、ハイ、と答えていた。
第十章 灰色の世界
1
隅田は窓際に立って皇居前広場を見おろしていた。秋の午後の陽ざしがその窓から深々とさし込み、隅田の逆光を浴びた髪や肩の辺りが白っぽく光っていた。
もう一時間近くもそのままの姿勢でいる。林が帰ったあと、部屋の中を散々歩きまわり、とうとうそこで身動きもしなくなったのだ。
不安に|苛《さいな》まれている。昨夜の|媚《び》|薬《やく》の副作用で、狂いかけているのではないかと思った。心が右へ左へと激しく揺れ動き、その動揺を鎮めることがどうしても出来ないでいる。
香織に母性を感じる瞬間があった。……隅田の母親に対する情緒は特殊なものかも知れない。母親を想うとき必ず物哀しいような不安があった。それが隅田自身の貧しい少年時代に由来していることはたしかだ。母親は隅田にとって常に失う|惧《おそ》れのある存在だった。母親を待つとき、隅田は二度と会えない可能性におびえていた。隅田を慰め、安心させてくれる母親は、このままずっと会えないのではないかという不安な過程の彼方にあった。そしていつの間にか、不安と母親が結びついてしまっていた。……香織に対して母親を感じるのは、二度と会えないのではないかという不安が土台になっているらしい。
隅田は以前比沙子に対してもそういう感情を持ったことがある。それはごく時たまのことでしかなかったが、妻を心からいとしいと思った時、二度と会えないのではないかという不安が、その相手にのめり込むような心理にしのび込んでいて、いとしさを余計つのらせるのだった。
今度の場合、不安は|桁《けた》違いに強烈だった。香織に会えないかも知れないという不安が、そのまま自分の生死にかかわるようにさえ感じられるのだ。昨夜の香織の姿態のひとつひとつが命を|賭《か》けても惜しくないほど貴いものに思え、それを失うことは生きる望みを失うことだと感じている。
このまま香織に会えなくなる可能性はほとんどない。それなのに隅田は不安でたまらなかった。香織を愛していると思い、香織への思慕がつのりすぎた為だと考えているが、その不安は案外香織とは無関係なのかも知れなかった。
香織、香織、香織……あの人間ばなれのした底知れぬ快楽を与えてくれる香織を求めている時の隅田は、欲情して|身《み》|悶《もだ》えせんばかりになる。しかし、|或《あ》る瞬間|隙《すき》|間《ま》風が吹き込むように|醒《さ》めた感覚がしのび寄り、そうすると急に香織への愛の|昂《たかぶ》りが疑問に思えて来るのだった。……不安はその時もあった。
媚薬で半ば狂ってしまったのではあるまいかと自分を冷たく見つめるのだ。香織への愛の昂りが幻覚であるような気がしはじめ、昨夜の記憶にある香織が|淫《いん》|蕩《とう》で不潔な女だったように思えて来る。
守屋の打合わせもせずに三戸田の前で香織の|膝《ひざ》をかき抱いた醜態が、そのまま自分の前途に強く影響して来るように思えた。香織は三戸田と関係がある……三戸田の面前で香織を抱いた報復が、あの|覗《のぞ》き窓の光景ではなかったか。三戸田が比沙子に手を出し、それを謝罪する意味で呼び寄せられていたのだとしたら、香織を抱いてしまったのは過ち以外の何物でもない。
……正確なことは何ひとつ判らなかったし、頭は混乱し切っていた。ほかにまだ考え合わせなければならない要素が山程あるのに、どれひとつ満足に思い起すことが出来なかった。自分は狂っている……そう思うことの出来る時間はあっと言う間にすぎ去り、香織の肌と比沙子の痴態だけを思い浮べる色情の時間が長かった。そのふたつは間を置いて交互にやって来る。隅田は筋の通らない悪夢の中でおびえている男のように、揺れ動く自分の想念に悲鳴をあげていた。
2
隅田が空腹を感じたのは午後五時を少し過ぎた頃だ。昨夜から何も食べていないのに気がついた。
林に守屋へ行くと言ったが、そんな気力はまるでなく、ホテルの二間を転々と移り歩いて過していた。
昼過ぎまでよく晴れていた秋の空が、その頃になって急に曇りはじめ、気がついて外を見ると、ポツリポツリと降って来たようだった。
隅田はテーブルの上に置いてある小型の水差しを傾けてグラスに水を注ぎ、ゆっくりと|喉《のど》をしめした。……喉の渇きさえ忘れている。そう思うと、おろおろ思い惑っていた自分が急に馬鹿らしくなった。不安がることは何ひとつないではないかと思った。頭をすっきりさせようと思い、服を脱いでバスルームへ入った。ひげをそり、シャワーを浴びた。鏡に映る顔はまだ|蒼《あお》ざめているが、|瞳《ひとみ》は濁っていなかった。しばらく鏡の自分と向き合っていると、次第に自信が|湧《わ》きあがって来た。……この男が滅びる|筈《はず》がない。隅田は鏡の中の男を観察してそう結論を下した。
よしんば香織と三戸田の間に肉体関係があったとしても、そうなれば仲間のようなものではないか。三戸田程の人物が自分を制止できなかった筈はない。黙って好きなようにさせたのは、香織と自分を結びつける意志があったからにきまっている。
恐れることは何もない。比沙子が欲しければ|呉《く》れてやる。折賀弘文はもう自分にとって何の価値もなくなっているのだ。……隅田はそう思い、鏡の中の自分にニヤリと笑って見せた。散々悩まされて来た比沙子の存在に、こうも冷たく構えられる自分が気に入ったのだ。……|俺《おれ》が滅びる筈がない。そう思いながらバスルームを出た。
服を着ようとしたが、|皺《しわ》が気になった。プレスさせようと思ってポケットの小物をベッドに並べはじめると、金色のカードが出て来た。隅田はしばらくそれを見つめる。
やがて|昂《こう》|然《ぜん》とした態度で電話のダイアルをまわし、高飛車な言い方でプレスを命じた。ボーイが来ると大至急だと何度も念を押し、千円札を三枚握らせた。ボーイは服をかかえて廊下へとび出して行く。
次にルームサービスを呼び出して食事を命じた。好き放題のメニューを並べたて、先きに酒を運ぶように言って電話を切る。バスローブ姿でケントをくわえ、窓際に|倚《よ》りかかって外を眺めると、窓ガラスを大きな雨滴が横なぐりに|叩《たた》きつけていて、下を通る車はみなライトをつけていた。どうせ|俄雨《にわかあめ》だろうが、今日はこのまま夜になりそうだと思った。暗い空のはるか西の方に晴れ間がのぞいていて、それももう夕陽に染まりはじめている。
……私もあなたを欲しがっていることを忘れないでね。たしか香織は別れぎわにそう言っていた。すべてはうまく行っているのだ。昨夜は香織に先手をとられて思うように|翻《ほん》|弄《ろう》されたが、今夜はそうはさせない。思い切りいたぶってやる。……隅田は|北《ほく》|叟《そ》|笑《え》んだ。
酒が届き、隅田は酒を威勢よく|呷《あお》った。料理が並び、隅田は|逞《たくま》しく食った。服を着て髪をなでつけ、腕時計をはめていると電話のベルが鳴った。
「隅田です」
――元気が出たらしいわね――
香織の声だった。
「元気さ。会うのを|愉《たの》しみにしていたんだ。今夜も会えるんだろう」
――ええ……それで、今日はどうだった――
「どうって、一日中君のことばかり考えて暮したよ」
――それは判ってるわ。それだけなの――
香織の声は低く|掠《かす》れている。
「それだけとはどういう意味だい」
――おろおろしてたんじゃないかと思ったのよ――
「ああそうだよ。君に会いたくてね」
隅田は笑いながら言った。
――今夜は十時過ぎにして――
「遅いんだな」
――用事が出来たの。それからこれは三戸田の伝言よ。今日西域貿易から渡された書類を持って来るように、ですって――
「書類……ああ判った。持って行くよ」
――雨が降っているわね――
「ああ、ひどい降りだ」
――|綺《き》|麗《れい》な夜でしょう――
香織はそう言って電話口で笑っている。
「もうすぐ止む筈だ。気分のいい晩になりそうだな」
隅田は窓の外を見ながら言った。本格的な夜の|闇《やみ》が拡がっている。
――夜は好き……――
「特に君を抱ける夜はね」
すると香織はまた笑った。好色な笑い声でもあり、からかっているようでもあった。
3
雨雲のおかげでいつもより一時間早く夜がはじまっていた。向い側のビルのネオンが点滅しはじめて、それが部屋の中に青や赤の影を作り出している。隣りの部屋には降りこめられて帰りそびれた連中が無駄ばなしに興じていて、時々薄い間仕切りの壁をとおして笑い声が聞えて来る。
首都圏住宅公社の竹中開発本部長は灰色の受話器を耳に押しあてて、窓の外に拡がった夕闇に眼をやっていた。
「夏木建設の隅田賢也に間違いないね」
竹中はゆっくりとたしかめるように言った。相手がまた長い間|喋《しゃべ》り、その間じゅう竹中は唇をきつく結んで聞いていた。
「兄さんが見たのなら間違いないだろう。……いやかなり役に立つよ。出来たらしばらくあの土地の動きに注意していてもらえないかね。何かあったらまた|報《し》らせてもらえると有難い。……ああ、姉さんによろしく」
竹中は電話を切ると|椅《い》|子《す》を半回転させ、腕を組んだ。雨はだいぶ小降りになっている。
しばらくそうしていた竹中は不意に思い切りよく立ちあがり、ドアをあけて隣りの大部屋をのぞいて部下の一人を呼んだ。
「例の神奈川の守屋だが……」
部下が部屋に入ると竹中は椅子を示しながらいきなりそう言った。
「守屋……」
部下は一瞬戸惑いを見せ、すぐ緊張した表情になった。
「いま僕の兄貴から電話があった」
「ああ、お医者さんをなさっている……」
竹中はうなずき、
「もう僕はあのプロジェクトは|諦《あきら》めてしまった。完全に|潰《つぶ》されてこっちの敗けだ。もうどうしようもないが、なぜこんなことになったのかは是非知りたい。敵の手の内が読めればこの次は敗けないで済むわけだからな」
と|自嘲《じちょう》めいた言い方をした。
「何か判ったんですか」
「よく判らないが、それで君に|訊《たず》ねようと思ったんだ。君は夏木のことに詳しかったな」
「夏木建設ですか……ええ、まあ」
「隅田賢也はどういう男だ」
「隅田ですか……」
部下はかすかに笑った。「やり手です。腕もあるし毛並みもいい……もっとも毛並みのほうは彼の処世術の賜物ですがね」
「隅田が守屋へきのう姿を見せたらしい」
「ほう……」
「きのうの昼、守屋の塚石へ高級車が現われた。兄貴は往診の途中それに気がついて行って見ると男が一人来ていた。土地を見に来たらしく、歩きまわっていた。車が引っ返すとき兄貴は道で待っていてその男の顔を見たら、隅田賢也だったというんだ。兄貴は僕の影響で建築雑誌などを取っているのさ。近代建築に隅田の写真がよくのっているそうだ」
「なる程。近代建築はこの所かなり隅田をもちあげているようですからね。……しかし、隅田が守屋へ行ったとなると、少しややこしくありませんか」
「それさ。今井潤造が死んでから東日と夏木の縁は切れた筈だ。東日には東日不動産系の建設会社がいくつもある。東日は夏木がなぜ必要なんだろう。……それで、隅田の毛並みというのはどういうことだ」
「折賀専務の|女婿《むすめむこ》ですよ。ごく最近経営スタッフに参加したという|噂《うわさ》を聞いています。何ならもっとよく調べましょうか。昔の仲間が二人ばかり、あそこでいい線まで行っているのがいるんです」
「たのむ……」
竹中はそう言ってまた腕を組んだ。守屋で医師をしている兄が、今井潤造の死に関しても奇妙な報らせを伝えていた。自分の生地で何かが起りはじめていると思った。
4
そこ|此《こ》|処《こ》に出来た|水《みず》|溜《たま》りにネオンの灯が映っていた。雨があがったばかりの新宿の通りを腕を組んだ男女が何組も歩いている。
柳田祥子は伊丹英一の左腕をしっかりとかかえこみ、その|上膊部《じょうはくぶ》に|頤《おとがい》を埋めるようにして歩いて行く。
「女の着る物って安いでしょう」
そう言って笑う。洋装店の名が入った小さな紙袋を持っている。
「そのかわり数が要るからな」
伊丹も笑顔で答えながらゆっくり歩く。
「隅田さんの奥さんて、いいわね」
「なぜだい」
「だってピアノが上手なんでしょ。いざとなったらそれで生活して行けるもの……」
「祥子も習えばいい」
「こん畜生|棄《す》てる気だな」
祥子はそう言うと伊丹の腕を上着の上から|噛《か》んだ。すれ違ったアベックが笑っていた。
「ドルメンについては、印欧語族と関係が深いと言われているんだ」
伊丹は話の続きをはじめた。
「インド・ゲルマン……アーリア人」
祥子は小学生が九九をそらんじるように言った。|燥《はしゃ》いでいるらしい。
「さっきも言ったように今度の件で俺たちの前にずらずらとつながって現われた西ビルの赤い酒場の名前には、そのアーリア系の神話特有のものがあるんだ。そいつはフェンリルという狼だ。大杉がこの件に噛んだのは、その狼のせいなんだ。狼や吸血鬼はアーリア系の神話に源を発している。……もちろん古い土俗信仰とアーリアの神話が結びついたことも考えられるだろうが、狼人間や吸血鬼の原形がフェンリルやヴァルキュリアだと考えても一向に差しつかえない」
「吸血鬼ってエロチックね」
祥子はまるで別の受取り方をしているように言った。
「そうだな。血を吸われる時に快感があるんだという話もある。また、邪悪なものとされたのはキリスト教以後のことで、甘美な快楽だけの不死の別世界へ連れて行ってくれる、一種の幸福の女神たちだと考えられていた時代があるという説もある。俺はその説に賛成している。ケルト人には浦島伝説によく似た別世界ばなしがよくあるし、ヴァルキュリアの原形のノルニルは三人の処女で、すべての運命をつかさどっているんだからな。狼男は吸血鬼伝説の変化したものか、或いはそれにとてもよく似た別の土俗信仰で、ふたつが混り合ったとも考えられる。狼人間を指すロシア語のボルコ・ドラークはウピールという吸血鬼をさす言葉と意味が重なっているというし、トルコ語でウビョールというと魔女の意味になるんだ。ヨーロッパのメガリスに関係する印欧語族は、同時に吸血鬼や狼人間にも深い関係を持っている。大杉の犬神説というのはその関係が日本でも成立するということなんだ……」
「アーリア人って言うとヒットラーを思い出しちゃうわね」
「うん。アーリアという言葉がなんとなく嫌われるようになったのはナチのせいだ。しかしあれくらい|辻《つじ》つまの合わない人種論も珍しいんだぜ。だいたい白人種というのはつい最近力をつけた新興勢力で、ゲルマン人なんていうのはずっとヨーロッパの北の蛮族扱いをされていたんだ。ヒンズークシの山奥にアーリア人の化石民族と言われる連中が残っているんだが、長細い顔で背が高くて、赤毛で青い眼でピンクがかった肌をしているそのカフィール族なんていうのは、つい最近まで食人の風習があったと言われているんだ」
「化石民族……」
祥子は眼を丸くして聞き返した。無邪気な少年に女の色気をたっぷりつぎ込んだようなその表情をするときが、祥子のいちばん美しく見えるときだった。
5
「カフィールというのはアラビア語で不信人者とか人非人という悪口だ。中国に限らず、中華思想に凝り固まった連中は、あたり近所の人間をみな蛮族にしてしまう。古くから文明の発達していたアラビア人もその仲間だ。カフィールという悪口はアフリカの南バントゥー族にも与えられたが、ヒンズークシのアーリア人もとうとうその名前を押しつけられてしまったのさ。カフィール族はアーリア人の最も古い形をそのまま残した連中とされていて、だから化石民族などと呼ばれたりするわけだ」
伊丹は|角《つの》|筈《はず》の交差点を歌舞伎町の方へ渡りながら喋っていた。「とても好戦的な連中で、顔かたちはイギリス貴族そっくりに見えるが、人が死ぬと内臓を焼いて食うような野蛮な風習を持っているんだな。信心深いアラビア人がびっくりするわけさ」
「行って見たいわ、そういうところへ」
祥子はせがむように伊丹の腕をゆすって言った。
「無理だよ。俺とじゃグァムかハワイが精いっぱいさ」
伊丹は笑った。「赤い酒場……これからちょっとその近所を見物する|柘《ざく》|榴《ろ》や赤いバラという店が、問題の赤い酒場なんだが、その名前にメガリスやアーリアの神話に関するものが多いというのが、実はこのカフィール族につながっているようなのさ」
「どうして……アーリアの化石民族だからなの」
「もちろんそうだが、カフィール族を調べると赤い色にガッチリつながっているのが判るんだ」
「赤に……」
「カフィール族はふたつの支族に分れているんだ。それの区別は着ている物でひと眼で判る。黒一色の衣しか着ない黒カフィールと、赤一色の赤カフィールだ」
「あ……」
祥子が前方の夜空を指さした。そこに第三十四西ビルの標識が浮きあがっていた。
「そうだ、あれが柘榴のあるビルだ」
二人は少し足を早め、細い道を何度か曲って区役所通りの次の細い路へ出た。西ビルの手前の右側に小さなビルがあって、その前で二人は足をとめた。大型の外車が一台通りいっぱいにハンドルを切って、ビルの一階にあるガレージへ入ろうとしていたからだ。やくざ風の若い男がガレージの前でオーライ、オーライと声をかけていて、その横の狭い入口の灯りの下で、白服の男が二人立ちばなしをしていた。
白服の一人が吸いさしの煙草を指で弾きとばし、赤い火が糸をひいて伊丹の前に転がって来たとき、祥子がひどく切迫した様子で|囁《ささや》いた。
「あれ見てよ」
祥子は白服のやくざ者を盗み見ていた。
「どうしたんだ」
「イベリア半島展に来た男よ」
伊丹は二人の顔を見つめた。背のいくらか低い若いほうの男の顔に、そう言えばかすかに見覚えがあった。
「青いシャツを着て大使館の腕章をしていた男よ」
祥子はそう言って伊丹の腕を強く掴んだ。
「たしかか……」
「私が人の顔に強いの知ってるでしょ」
祥子は一度会った相手の顔と名前を滅多に忘れない。「間違いないわ」
声をひそめて言ったとき、車がさがって道があいた。伊丹は何気ない風を粧って歩き出しながら、そのビルにかかっている看板を読んだ。
「会沢氏の言っていた真名瀬商会だぜ」
「クロノスの|壺《つぼ》はやっぱり一度盗まれたんじゃないかしら。でなければ大杉さんの見たのがにせ物か……」
祥子は薄気味悪そうに言った。
柘榴の前を通りすぎ、コマ劇場の裏手の道に出た二人は、立ち止ってうしろを振り返った。柘榴は何の変哲もない酒場に見えた。
「どうするの」
「赤いバラへ行って見る。この坂の上にもうひとつ西ビルがある|筈《はず》だ」
伊丹は祥子を危険から遠ざけるように、急ぎ足で歌舞伎町を離れた。
その坂の中途まで登ったとき、伊丹と祥子は同時に足をとめた。
「やだ、ふたつあるわ……」
祥子が言った。その通りの前方に、右と左にひとつずつ西ビルの標識が見えていた。
「四十と十八……十八西ビルが赤いバラの筈だ。こっちへ行って見よう」
伊丹は右手の第四十西ビルへ廻った。|華《きゃ》|奢《しゃ》な感じの新しいビルで、見あげるとどの窓も暗く閉されていた。
「オフィスのようだな」
伊丹はそう言いながら角を曲った。右側に細長い駐車スペースがあり、白い救急車らしい車が二台停めてあった。二人はその前を通りすぎて|棕《しゅ》|櫚《ろ》の鉢植えを置いた入口の前に立ち止った。
伊丹は祥子が夢中で自分の腕にしがみついているのを感じた。……東日ブラッド・バンク。入口にはそう書いてあった。
「こわい……」
祥子がおびえ切った声で言った。伊丹も不気味なものを感じていた。足早やにそこを離れ、赤いバラのことも忘れてまっすぐに旅館街へ入りこんで行く。
「吸血鬼の巣よ……」
祥子はしばらく歩いてからそう言った。
「まさか」
「だってあなたがそう言ったじゃない。今度の事は狼人間や吸血鬼につながるって……」
伊丹は|憮《ぶ》|然《ぜん》として祥子を見おろしていた。
6
隅田は黙って林を見おろしていた。林は少したってから傍に隅田が立っていることに気づき、「あ……」と腰を浮かせた。
「お先に一杯やっていました」
バツの悪そうな顔で言う。ホテルのバーはアペレチーフを楽しみにやって来た外人客でかなり混んでいる。「今夜もあちらへ……」
林は黙って椅子に体を沈める隅田に笑顔で言った。どことなくへつらっているように見える。
「ええ……」
隅田は言葉すくなに答え、ケントをくわえた。……人間の関係というのはおかしなものだと考えていた。林に会ってからまだ幾日もたっていないのに、二人の間にはみるみる内に一種の階級の差が生じはじめている。恐らく林にしたところで、社内では仲々の切れ者で、世間的にもそれ相応の地位を占めている筈だ。しかし隅田が置かれた立場と較べると、主人と召使い程の差がある。
隅田が何らかの文書でその立場を明確に保護されているわけではない。林の上司に当るわけでもない。しかし隅田の優位が不明確であればある程、林の態度は|慇《いん》|懃《ぎん》になって行く。それは権力というもの自体が持っている不明確さにつながっているようだ。権利の境界は明確だが、権力の境界ははっきりしない。
むしろ権力の強さは権利の境界をこえた不明確な部分への支配力に比例している。意志が理屈を支配する力といってもいい。万人を照らす法と、社会の裏面に存在する悪の間には一種のトワイライト・ゾーンがあって、そのどっちつかずの操作し易い部分をより多く占有する者が真の権力者となる。
東日グループは産業界の大きな部分を独占し、金融、貿易の面でも強大な勢力を擁している。しかし、林のような消息通にとっては、それ以上に東日グループのトワイライト・ゾーンでの支配力が問題になるのだ。昼の部分で人々の眼に触れているのは、夜とその境界にある薄明な部分の結果にすぎない。たとえば、財界の政界に対する発言力というのは、そのトワイライト・ゾーンの最も昼側へ入り込んだ部分だろう。なぜ発言力があるのか、その理由は夜の部分に隠されていて見えない。人々はその隠されたものが存在することを知っており、だからこそ発言力の存在を否定しないのだ。
隅田は今トワイライト・ゾーンに身を置いている。サラリーマンとしてどの企業体の支配も明確には受けていない。西域貿易は、隅田の保護をするためにだけ働く。隅田の存在を明確にする唯一の|鍵《かぎ》は、東日銀行本店に設定された何の変哲もない普通預金口座だ。サラリーマン社会に存在する厳しい身分の壁が、隅田のいる位置ではとり払われている。隅田は東日グループの|総《そう》|帥《すい》と直結させられ、金色の貴族証で行動の自由を保証されている。もちろん五十万円の預金に対する二十倍の引出権は、その後始末を隅田の責任にしているが、隅田が個人的な欲望でその権利を行使するとは考えられない。緊急に東日グループの利益を守る必要のある場合に限ってその権利が行使され、その金額は結局隅田以外の手で決済されるのだ。……トワイライト・ゾーンに課税はない。隅田の給与はあの書類に記されたとおり、五十万円全額が口座に振込まれている。
わずかの間に隅田は林という人物の裏の裏まで見透かせるようになっていた。隅田から見ると林は何の秘密も持たぬ合法人間で、定年までの毎日の行動が完全にプログラムされてしまっているように思えた。
林は隅田と現在以上の交際を深めたがっているらしい。電話を掛けて来て、気楽に飲みたいと言った。隅田を通じて少しでも多くの秘密に関与したがっているのだ。それが隅田にはおかしかった。自分自身、ほうり込まれた秘密の渦中で何も判らずに戸惑っているのだから、林にわけ与えるものなど何もありはしない。林はその戸惑い自体さえ共有したいのではないかと、皮肉な考え方をした。
「実はですね……」
林は隅田の飲物が来ると待ちかねたように秘密めかして言った。「あなたに連絡が入っているのです」
「…………」
隅田は林をねめつけるように見た。そうする気はなかったが、自然にそんな態度になっていた。激しい優越感のあらわれだ。
「会沢という人物をご存知ですね」
「よく知っています。彼から何か言って来ましたか」
「人事からたらいまわしに電話がまわされて来たのです。結局私が応対に出ることになりまして……。あなたにことづてをしてくれということです」
「その内電話をするつもりでした」
今度の仕事の内容がはっきりし、進路が確定したら連絡を取ろうと思っていた。それ|迄《まで》は会沢にも連絡を取りたくなかった。
隅田が興味を示さないので林は失望したらしかった。
「石川さんという方のお葬式に、会沢さんが代理で参列なさったそうです」
「石川……」
隅田は|流石《さすが》に|眉《まゆ》をひそめた。軽いショックを感じた。それは忘れ物を思い出した程度のものだった。「そうですか」
隅田は簡単に言った。何かがトワイライト・ゾーンで動いているのだ。今井邸の焼失、石川の死……三戸田と香織の秘密は順調に守られている、と思った。
その夜、隅田の得体の知れない優越感と、理屈にならない秘密保持の本能のようなものは、異常なまでに高揚していた。だが、隅田自身はその異常さを全く意識していなかった。自信に|溢《あふ》れ、快活で、体力が充実していて、|爽《そう》|快《かい》な夜だと思っていた。
7
「用途……」
三戸田謙介はそう言って香織の顔を見た。赤い部屋に赤い|寛衣《キトン》の男女がふたり、王と王妃のように並んでいて、隅田はその前で今井の残したサムネイルを拡げていた。
「用途がはっきりしなければどうにも手がつけられません」
隅田ははっきりした声で言う。「お教え願えませんか」
「そうだな……」
三戸田は香織から何の反応も得られないまま、少し|膝《ひざ》を動かして|坐《すわ》り直した。「美術館とでも思ってもらいましょうかな」
「美術館」
すると突然香織が笑い出した。
「美術館……その通りだわね」
「私の個人的な美術館と思ってください。私は今かなりの数の彫像を|蒐集《しゅうしゅう》中なのです」
香織は笑い続ける。
「彫像を……」
隅田が|鸚《おう》|鵡《む》がえしに言うと、三戸田はまた香織を眺め、かすかに苦笑した。
「さあ、何体ぐらいになるかな」
三戸田はわざとそうするのか、かなり空とぼけた態度で言う。
「いいでしょう。美術館ということで考えて見ます」
まだ秘密は充分に明かせない段階らしい……隅田はそう思いあっさり譲歩した。「しかし、そうすると今井さんのこのプランは少しおかしい。……どうお思いですか」
「説明しましょう」
三戸田は柔和な笑顔で言った。「まず観覧者に対する配慮は一切無用です」
「というと……」
「保存するだけです。美術品……つまり相当数の彫像を搬入したら、その美術館は閉鎖します」
「倉庫じゃありませんか、それでは」
「いや」
三戸田はゆっくり手を振って、「倉庫というものは出し入れの作業を伴いますが、その美術館は出し入れの作業を必要としません。優れた美術品を保存するだけです。入口を密封したらそれで終りです」
「不可能です」
隅田は断言した。「それ程貴重なものなら、換気や湿度、温度の調節に万全を期さねばならないでしょう。密閉はできません」
「その必要がないとしたら……」
三戸田は子供をあやすように笑っている。
「空気が濁り、湿度や温度のコントロールが出来なくてもいいのですか」
「構いません。私の蒐集する彫像は等身大の石像ばかりですからね」
三戸田は恐ろしく意味の深い笑い方をした。隅田にはまるで見当もつかなかった。
「いずれははっきりしたことを伺えるのでしょうね」
|堪《たま》りかねて隅田は強く言う。
「そう遠くない内に……」
三戸田は真剣な眼つきで答える。
「判りました。で、どのくらいの期間保存するのですか」
そう|訊《たず》ねると三戸田は煙たいような眼になった。
「少なくとも三千年は見ていただきたい」
隅田は|愕《おどろ》いて香織を見た。香織はあらぬ方を見ていたが、その表情には|毅《き》|然《ぜん》としたものが浮んでいる。
「三千年ですか」
隅田は聞き違えかと念を押した。
「さよう。三千年から六千年の保存期間を要します」
「もうおよしなさい」
香織がきつい声で言った。「今日はそこまでにしましょう。あなたはその美術館の品物が最低三千年の間安全に保存出来るような材料をまず考えてくれればいいの。設計はそのあと……いいえ、はっきりさせましょう。まだ幾日かあなたはその秘密を知る権利がないのよ。いつ知る権利を持つかは私達にも判らないの。それはあなた自身が決めることだからよ。ただ、余計な心配をする必要はないのよ……今のところあなたは順調にやっているわ」
「そう、大変順調らしい。あなたについては我々もすっかり安心している所です」
三戸田もそう言い、事実満足そうに隅田を眺めまわした。隅田は自分がいったいどんな役を果し、どう順調なのかさっぱり判らなかったが、香織の言葉をそのまま受取って、すべては成り行きにまかせる気になっていた。
「今日は比沙子は……」
我ながら|呆《あき》れる程サラリと言ってのけた。
「外出しています」
三戸田もそれに劣らず淡々と答え、香織だけが|悪《いた》|戯《ずら》っぽく笑いを含んで隅田を見つめていた。
8
隅田はその異常さに気づいていない。昨夜眼の前で妻と痴態をくりひろげて見せた相手に、まるで世間ばなしのような態度で妻の行方を訊ねたのだ。そして三戸田も平然と答えている。隅田にとってそれはごく当り前のことに思えているのだ。
眼の前に香織がいることで満足し切っていた。限りない安心感があり、暖かく包んでくれる母親の愛に似たムードに酔っていた。香織がそれ以上知るなと言えば、隅田は素直に好奇心をひっこめた。香織の言動はすべて自然そのもののように正当で、一分の疑念もさしはさめなかった。昨夜比沙子と三戸田のからみ合いを見せたのがその香織である以上、比沙子と三戸田の関係は全く不自然なものではなく、むしろ比沙子がこの場にいない方がおかしく思えていた。
隅田はいま香織に抱かれたいと願っている。奇妙なことにそれは男の欲情とはまるで掛け離れたものだった。隅田は香織が与えてくれるのをじっと待っているのだ。|憧《あこが》れをこめ、視線はすぐに香織の顔に戻る。香織を見つめる隅田の表情は|恍《こう》|惚《こつ》としていて、全く無防備だった。心のどこを探っても不安はかけらもなく、やがて香織が与えてくれるであろう|愛《あい》|撫《ぶ》に応える精気だけが|漲《みなぎ》っていた。
「あなた今日の昼間、気分が悪くなった」
香織が言った。
「ええ、そう言えば少し……ゆうべのあの赤い飲物が体に合わなかったようです」
「誰かに会った……」
「西域貿易の林に会いました」
「それは何時頃のこと」
「ここから戻ってすぐです。十二時少し前」
三戸田が口をはさむ。
「瀬戸にこれを渡すよう言ったのです」
そう言って今井のサムネイルを指さした。
「よく人に会う気力があったわね」
「ええ、二日酔いのようで|億《おっ》|劫《くう》でした。しかし二度目の時はそうでもありませんでした」
「二度目……」
「ええ。夕方ホテルのバーで会いました」
「林というのはどういう男……」
すると隅田は顔をしかめた。
「下らん|奴《やつ》です」
香織は三戸田と顔を見合せた。
「この人、素質がいいわ。陽が暮れてから二、三時間はまだうるさいと思って十時に来るように言ったのだけれど、この分ならもっと早くでも良かった……」
「雨が降りましたからな」
「何の話ですか」
隅田が遠慮勝ちに言う。
「あなたのことよ」
香織はちらっと見てそう答え、また三戸田に向って、「テンポを早めてもよさそうね」
と言った。
「しかし香織様、彼はまだ何と言っても二日目ですし」
「判っているわ。でも安全と判ったら少しでも早いほうがいいでしょう」
「それはそうですが」
「じゃ急ぎましょうよ」
香織はふわりと立ちあがると、例の滑るような歩き方でさっさと階段に向った。隅田はぼんやりとそのうしろ姿にみとれている。
「香織様が行かれますよ」
三戸田にそう言われてやっと気がついた隅田はサムネイルを元のようにたたむと急いで封筒にしまい、それを手に小走りにあとを追った。
階段を登りながら隅田の頭のどこか奥のほうで、ひどく|醒《さ》めた意識が動いたようだった。……おかしい。これではまるで操り人形ではないか。女のように相手の愛撫を待っているなんて俺らしくない。第一香織に対する言葉づかいまで変ってしまっているではないか。香織は俺にとって何なのだ……。
だがその醒めた意識もすぐに消えてしまった。
9
幼児は親に絶対的な信頼感を抱いている。親の与えてくれる言葉が同時に幼児の見解になる。母親から肉体は分離しても、まだしばらくの間精神は親に依存している。
隅田の異常さはそれに似ていた。香織は母であり、時には神ですらあった。香織が三戸田邸にいること自体、大きな疑問の種になるのだが、幼児にとって母親がどこから来たのかは問題になり得ない。同じように、自分の家や部屋がなぜ或る色に彩られ、母親がなぜ或る色の服を着ているのかも、問題にならなくなってしまう。
数えあげればきりのない程疑問がある筈だったが、隅田はそれを忘れ果ててしまって、ただひたすら香織のあとを追うのだった。
夜、赤い部屋で隅田は香織の与える底知れぬ悦楽に時を忘れていた。それが男のものであるか女のものであるかさえ、隅田の念頭にはなかった。
しかし、はじめての晩|媚《び》|薬《やく》に|痺《しび》れながら感じたあの異常な愉悦は、その後も変らなかった。隅田はその下腹部でたしかに男性の役を果していた。そこには男の悦楽があった。だがその一方、頂きに達するたび香織が押しつける唇の内部で、隅田は女の喜びを受けていたのだ。香織の舌の刺すような感覚が、直接脳に悦楽を与えるのだった。肉体の歓喜はむしろそのほうが強かった。
香織の舌に舌を刺し貫かれたあと、隅田は|殆《ほと》んど失神せんばかりの深い陶酔の|淵《ふち》をさまよった。しかも、それ程の陶酔を味わったあとでも、隅田は一向に|萎《な》えなかった。際限もなく香織を求め、香織にひるまずに与え続けるのだ。
そしておぞましい朝の別れになる。
隅田は朝の|爽《さわ》やかさを忘れてしまった。香織とそうなってから、朝そのものを憎むほどにさえなった。不安で物哀しく、いわれのない悔いにとらわれるのだ。|烈《はげ》しい自己嫌悪が襲いかかり、人に会う気力さえ失くした。宿酔に似てやたらに|喉《のど》が渇き、皮膚がうずうずと不潔に感じられた。
あれからの隅田は、のべつホテルで体を洗っていた。熱めの湯に体をひたしているときだけ、身の置きどころのないような|憂《ゆう》|鬱《うつ》さが薄らぐのだ。そして無性にも香織が恋しかった。香織の命令ならどんなことでも平然と従える自信があった。何がどうなろうと、香織の愛さえ受けられればそれでよかった。
香織は隅田が毎晩訪ねて行っても、嫌な顔ひとつしないで迎えてくれた。愛技は千変万化で、そのたびに新鮮だった。隅田も少しずつ香織の喜びの部分を覚え、香織の|瞳《ひとみ》におびえの色さえ浮ばせるようになって行った。
だがそれでも主導権をとることは出来なかった。昼の激しい思慕がいつの間にか隅田の心に定着して、香織が絶対者になっていたのだ。香織を三戸田のように香織様と呼ぶようになったことさえ、隅田は自覚していないようだった。
それは一種の中毒症状に似ていた。舌端から与えられる快楽に夜ごと酔い|痴《し》れ、それなしではもう、とても生きては行けないと思っている。
昼の不安がようやくはっきりした形になって来ていた。それは舌の快楽だった。それは既に隅田の生き|甲《が》|斐《い》その物で、一日でもそれが与えられなかったら狂い死にしそうだった。生命そのものが香織に依存しているのだ。
たしかに異常な毎日だった。
しかしそれは香織とのセックスに関する部分だけで、その他の点では隅田の頭脳は正常に動いている。ホテルにとじこもって今井のサムネイルを基に守屋のプランを練っている。仕事はむしろ快調に進んでいて、二日に一度は守屋へ行って想を練った。
だが、日暮れになるとそれも手につかなくなる。昼の不安は去り、人がわりがしたように|燥《はしゃ》ぎはじめるのだ。
10
その朝、隅田は六時ごろホテルへ戻った。珍しく体の|芯《しん》に疲れを感じていた。朝まで続いた香織とのからみ合いで、腰骨の裏側にしこりが|澱《よど》んでいるようだった。
こんなことははじめてだった。
「大変でございますね、毎日……」
フロントでキーを受取るとき、顔|馴《な》|染《じ》みになったクラークが本気な顔でそう言った。
「いや……」
隅田は唇を|歪《ゆが》めて答えた。「今朝はいい天気だな」
キーを受取りながら何気なくそう|挨《あい》|拶《さつ》して、急に気がついた。雲ひとつない秋晴れの朝の光を浴びながらホテルまで来る間、一度もいつもの不快感を味わわなかったからだ。
あれからもう三週間近くたっているが、こんな朝ははじめてだった。エレベーターに入って十一階のボタンを押したとき、今度は自分がマキのことを考えはじめているのに気づいた。……なぜこんな時マキを思い出したのだろう。そう思いながら十一階の廊下へ出る。ホテルの制服を着た娘がすれ違うとき笑顔で会釈して行った。
そうだ、マキと香織は似ている……。|鍵《かぎ》|穴《あな》にキーを入れながらそう思った。ドアをあけ、部屋に入った隅田は閉めたドアにそのまま|倚《よ》りかかって宙を睨んだ。
「|匂《にお》い……」
とつぶやいている。千駄ケ谷の離れで二人の男に踏み込まれたとき、たしか|米《こめ》|糠《ぬか》油の匂いがしていたように思う。その匂いはもう自分の体にしみついてしまっている程だ。米糠油に似た異臭は、香織の唇の間からほとばしり出る液体の匂いだった。
……あの時エクスタシーに近づいたマキは、蛇のように|鎌《かま》|首《くび》をもちあげかけていた。ひょっとすると、マキは香織と同じようにその時隅田の唇を欲していたのではあるまいか。あの舌の快楽を授けようとしていたのでは……。あのとき隅田はそれを|圧《おさ》えつけた。マキの堅くとがった両の乳房を握り歪め、その鎌首をシーツに圧えつけたのだったではないか。
潤んだマキの瞳と、それ以上に潤んだ香織の瞳が重なってひとつになった。
「あ……」
もたれていた背中がドアから離れ、隅田は無意識に二歩ばかり歩いた。
潤んだ瞳……マキや香織と同じ潤みかたをした瞳を次々に思い出していたのだ。柘榴のママの伸代がそうだ。柘榴のホステス達は全部そうだ。それに、銀座の茜の女達も……。
赤い衣、赤い店、赤い部屋……。それにつながる女達はみな異様に潤んだ瞳をしていた。三戸田謙介もそうだ。
隅田はバスルームに駆け込んで鏡を見た。そこには異常に潤んだ瞳があった。
何が、なぜ、どうして……。疑問がいちどに|湧《わ》きあがり、隅田を混乱させた。震える手でケントを抜きとり、口にくわえた。香織は何かとんでもないことを隠している。こんな仲になりながら、いちばん重要なことを秘密にしている……。
隅田を支配していた異常なものが、ひび割れたペンキのように、パサリパサリと欠け落ちて行くようだった。しかし憎みはしなかった。恨んだのだ。隅田自身、疑問をそのままにして愛欲に明け暮れていたのだから、たった今気づいたマキやそのほかの女達とのつながりにしても、一概に香織を責めるわけには行かないと思った。いや、責める気はまるでないと言ってよかった。
今夜こそ、三戸田と香織にゆっくりと話を聞かせてもらわねばならない。比沙子のことも、もう少しはっきり結着をつけてもらわねば……そう思った。
だが、隅田はそれが自分自身の大きな転機であることに気づいてはいない。五体のうちにしのび込んだ変化が、どれ程自分を異常にしているか、少しも気づいてはいなかった。
11
昼近く予定どおり隅田は守屋へ行った。五つの丘のひとつひとつがその土地にどう食い込み、何時頃どんな影を落すかも覚えてしまっていた。東日本交通の運転手ともすっかり顔馴染みになり、時には昼食やお茶を一緒にするので、まるで隅田専属のような関係になっていた。
いつものように不快感を圧し殺す必要もなく、構想もだいぶまとまりかけていたので気が軽かった。
ところが、荒れた畑の跡を歩きまわっているとき、突然空の一角から鋭い光の矢が束になって降りそそいで来たような気がして、隅田は両手で頭をかかえた。矢は次々に頭のてっぺんに突きささり、首筋が折れそうな程重くなって行く。隅田はよろよろとよろめき、ガクリと|両膝《りょうひざ》を突いてしまった。|眩《まぶ》しくて満足に眼があいていられなかった。
「おおい……」
思わず大声で叫んだ。得体の知れぬ恐怖にとらわれていた。
「眼が、眼が……」
運転手が肩に触ったのを知って隅田はそう言った。
「どうしました」
運転手はおろおろと言った。
「眼が痛いんだ。まるで見えん」
「困りましたな。どういたしましょう」
「ここではどうにもならん。車へ連れて行ってくれ」
眼を閉じて運転手の肩につかまった隅田は、そろりそろりと畑の枯草を踏みしだいて行った。背後の丘の|竹《たけ》|藪《やぶ》がザワザワと風に鳴り、|鴉《からす》の声がしていた。
やっと車のシートにもたれ込むと、運転手は小川へ走って行ったらしく、しばらく気配を消した。しいんと静まり返った中に、鴉の|啼《なき》|声《ごえ》だけがしつっこく続いている。
「これで冷してみてください」
戻って来た運転手は|濡《ぬ》らしたハンカチを隅田の手に持たせた。眼の上にそれをあてがい、隅田はまぶたを押えて呼吸を整えた。
そろそろと手をゆるめ、ハンカチの下で眼をあけた。痛みは|嘘《うそ》のように去っていた。
「どうやら痛みは消えたよ」
そう言うと運転手の太いため息が聞えた。
「お戻りになったほうがよろしいのでは……こんな所ではろくな医者もおりませんでしょうし」
言われて隅田はドキリとした。今井潤造は|此《こ》|処《こ》で死んだのだった。
「すぐ戻ろう」
運転手はハイと答え、素早く車をスタートさせた。
隅田が恐る恐るハンカチをとり除いたのは、多摩川に近くなってからだった。
視界がぞっとする程変っていた。
汚い……瞬間そう思った。ひどく|埃《ほこ》りっぽい道を走っていると思った。何もかも埃りをかぶって白っぽく汚れていた。塀も、建物も、すれ違う車も通行人も、空も……。
自分の手を見た。手にも灰色の埃りがついているようだった。隅田はうろたえて窓の外を眺めまわした。
色がなくなっていた。
眼に映るものはすべてモノトーンになっていた。辛うじて残っている色は赤だけだった。……ポスト、コカコーラの看板、すれ違う女の服、空の一部……。
奇妙な世界だった。モノクロ写真に赤の部分だけ着色してあるのと同じだ。気を落ちつけてよく観察すると、少しでも赤の混った色は、赤だけがその分量だけ薄く残っているように思えた。ほんのりとした赤味がそこここにあって、それは正常な眼ならとうてい理解できぬ眺めだった。
暗部と明部の幾段階にもなった灰色の世界に、ぽつりぽつりと赤い色が残されている。隅田はその汚い世界に吐き気がした。
12
「世田谷へ入ってくれ」
隅田はそう命じた。
「どの辺りでしょう」
運転手の緊張した顔がバックミラーに映っていた。……このままでは危険だ。隅田はそう判断していた。今井潤造の死がその心に大きくのしかかっていた。とにかく陽の射さない所へ逃げ込みたかった。いつか会沢に聞いた熱中症という病名が、頭の中で渦をまいていた。
前へのり出して道筋を指示し、車は晴れた午後の陽ざしの中を隅田の自宅へ向っている。隅田は両手で顔を|掩《おお》い、シートの間にうずくまってしまいたいのを必死にこらえて曲り角を指示した。光への恐怖、光への嫌悪が一分ごとにつのって来るようだった。
車はやっと着いた。
灰色の家があった。灰色の|垣《かき》|根《ね》に灰色の屋根……玄関のポーチに|貼《は》られたタイルだけが、かすかに赤味を帯びている。赤褐色のタイルだった筈だ。
隅田はポケットをまさぐってキーをとり出した。長い間上着の内ポケットの底に入れっぱなしにしてあったキーだった。
「そこで待っていてくれ。長くなるかも知れんが……」
そう言い残して家の中へ入った。かび臭く、畳の蒸れた匂いがたちこめていた。
寝室は不適当だった。西と南に窓があいていて、雨戸がなくカーテンが光を遮っているだけだったからだ。リビングキッチンも具合が悪かった。庭側には雨戸があるが、キッチンのある北側にカーテンもない小窓があいていた。隅田は和室の六畳によろめき込んでひと息ついた。南に向った窓には雨戸がはまっていて、薄いがカーテンも引いてある。
うす暗い六畳間で隅田はしばらくじっとしていた。……救いを呼ばねば。
電話はリビングキッチンにある。どうしてももう一度光の中へ出なければならなかった。隅田は眼をきつく閉じ、手さぐりで|襖《ふすま》をあけて出た。
「私です、隅田です」
やっとの思いで三戸田邸の番号を廻した隅田がそう言うと、あ……という女の声がした。
「三戸田さんでしょう……」
――ハイ――
「私です、隅田賢也です。急に具合が悪くなったのです。香織様にすぐお伝えください」
――あなた、どうなさったの――
切迫した女の声が戻って来た。
「誰だ、君は……」
――どうなさったの、どこにいらっしゃるの――
それは紛れもなく比沙子の声だった。
「比沙子、お前か」
――ええ。具合がお悪いって――
「そうだ、急に眼が変になった」
――えっ――
比沙子の答えが|暫《しばら》く途絶えた。
――すぐ先生を呼びます。どこにいらっしゃるの――
「ウチだ。世田谷の家だ」
すると比沙子はなみだ声になった。
――松原の私たちの家ね。あなた私たちの家にいらっしゃるのね――
「そうだ、早く連絡してくれ」
光に対する恐怖感がつのっていた。
――すぐよ。あなた、それまで六畳の押入れにかくれていて。お願い、押入れに……スイッチがあるの――
「そんなことより、早く誰か寄越してくれ、判ったな」
隅田は電話を切り、転がるように六畳へ戻った。暗いと言っても完全ではない。雨戸の節穴から、合わせ目から、光が鋭くさし込んでいる。気がついて押入れをあけた。比沙子のいうとおり、その中なら完全に光からのがれることが出来そうだった。
押入れの上段は、来客用の|蒲《ふ》|団《とん》や予備の夜具類でつまっていた。だが下段には何ひとつ入れてなかった。いや、手さぐりで体を入れたとき、大きな|洋枕《ようまくら》がひとつだけ置いてあった。狭い押入れにかがんで襖を閉めようとしたが、引き手がないのでうまく閉まらない。隅田は苦労してやっと襖を閉めた。
……比沙子が電話に出た。
|闇《やみ》の中でようやくひとつの感動を持ってそのことを思い浮べた。……スイッチがある。隅田は比沙子の言葉を|反《はん》|芻《すう》しながら、上段と下段の仕切り板の辺りをまさぐった。
すると小さな突起に指が触れた。ちょっと力を入れると、パチリと音がして灯りがついた。弱々しい灯りではあったが、その赤い豆ランプがともると同時に、隅田は全身の力が抜けて行くのを感じた。赤い色に|溢《あふ》れたその小世界がこの上もなく隅田の心を慰めたのだった。
隅田は横になって枕に頭をのせた。枕には比沙子の匂いがしみついていた。
第十一章 |狼 瘡《エリテマトーデス》
1
閉め切った押入れの内部を赤い豆ランプが|僅《わず》かに照らし出していて、隅田はそこに横たわったまま身じろぎもしないでいる。
胎内……丁度それは何かの胎内のようだった。血の色の世界で胎児のように体をまるめた隅田は、あとからあとから|湧《わ》いて来る疑問の答えをむなしく求め続け、底知れぬ不安におびえていた。
潤んだ|瞳《ひとみ》と赤い部屋、そしてエクスタシーのたびに舌端からあの|米《こめ》|糠《ぬか》油のような異臭を持つ粘液を放射する女たち……あれは一体どういうことなのだ。隅田は得られぬ答えを求めて|悶《もだ》えた。
香織と三戸田と、そしてその召使いたちが着ている赤い|寛衣《キトン》……その現代ばなれのした超オールドファッションの意味は……。
女ばかりでなく、三戸田謙介も今の自分と同じように赤しか見えぬ身なのだろうか。これは病気なのだろうか。病気だとしたら一体どういう病気なのか……そして治療法は。
押入れの赤ぐらい隅のほうで、比沙子がほほえみかけているような気がした。笑って手招きをしているようだった。赤い|寛衣《キトン》を着た比沙子は次第に近づいて来て何か語りかけようとしていた。
……電話をしてからどのくらいたったか、隅田は時間の観念を全くなくしていたが比沙子の幻影を感じた丁度その時、やっと我にかえった。外に車の音がしたのだ。車は家の前で東日本交通のビックと入れかわった気配だった。
玄関のドアがあく音がして、足音が近づいて来る。比沙子が連絡した人間に間違いなかった。
「ここだ……」
押入れの襖の外で声がした。
「待て待て」
襖に手をかけたらしく、コトリと音がした時そういう声がした。「彼はたった今自覚症状が出たばかりだ。カーテンをかけ終ってからにしろ」
どうやら三人いるらしかった。こまかく動きまわっている気配だ。
「よし、出してやれ」
声と同時に襖がさっとあけられた。六畳の和室に赤い光が満ち|溢《あふ》れていた。窓には厚いカーテンがかけられて陽光を完全にさえぎっている。
「隅田さん、出てください」
電球を手にした若い男が押入れをのぞき込んで言う。隅田はおずおずと|這《は》い出した。
「あなたがたは……」
隅田は自分をとりまくように立っている三人を見あげた。
「香織様から連絡を受けましてな」
小柄な白髪の老人が目の前へ|坐《すわ》りながら言った。|微《かす》かに消毒液の|匂《にお》いがしたので、その老人が医者らしいと判った。
「私はどうなったのですか。あなたは知っているのでしょうね」
すると老人は|愉《たの》しそうに笑い、
「知っていますとも。僕はこの病気に命をかけておる。あなたは我々にとって重要な人物ですし、まあ今後ともよろしくお願いして置かねばならん……」
と右手をさしのべた。隅田は握手を求めたのだということが、|咄《とっ》|嗟《さ》には判らなかった。
「突然頭痛がして、それから赤以外の色が見えなくなってしまったのです」
二人の男は長い間はたきひとつ掛けずに放って置かれた|埃《ほこ》りだらけの座卓の前へすわり込んで、煙草を喫いはじめた。
「まだ頭痛がしますかな……」
老人はそう言った。
「いいえ、頭痛はとっくに納まっています」
そう答えるとうなずいて、
「この病気……こいつは病気なのですよ。この病気は患者の体質によってかなり自覚症状が出る期間に幅があるのです。あなたの場合には相当早かった……。しかし、たとえばあなたの奥さんなどは極端に遅くてハラハラさせられたものです」
「比沙子が……」
隅田は老人の顔を見つめて絶句した。|痩《や》せた細い顔にとらえどころのないような、くぼんだ眼があって、色感を失った隅田の眼にもそれと判る見事な白髪とは対照的に、黒く太い|眉《まゆ》の毛が、|眼《め》|尻《じり》のほうでひどく長くたれさがっていた。「あなたは比沙子も|診《み》たんですか」
「診ましたとも。この病気にかかった者は残らず|儂《わし》が手がけます。三戸田会長も、あなたの先生の今井潤造氏も……」
「何ですって。今井さんも……」
「そうですよ。今井氏は一種の自殺だった。そうそう、名乗るのを忘れておりましたな。儂は原|杖《つえ》|人《と》と申します」
隅田は|唖《あ》|然《ぜん》としてその顔を見つめていた。
2
「今井さんがこの病気に……」
すると原杖人は皮肉な微笑を浮べた。
「最初頭痛が起ったのはどういう状況ででしょうかな」
「守屋の畑の中です」
「ほほう、それはまた……今井氏と同じじゃありませんか」
「今井さんは自殺したと|仰《おっ》|言《しゃ》いましたね」
「一種の自殺です。今井氏はあらかじめこの病気の詳細をご承知だった。従って自分が発病していることに気づいた時、それがどういうことを意味するか一瞬の内に見抜かれたのです。今井氏は病気を拒否して死を選んだ……あなたも守屋でそのまま陽の光の下に立ち続けたら、今井氏と同じように熱中症に酷似した死に方をした|筈《はず》ですぞ」
「するとやはり心筋|梗《こう》|塞《そく》では……」
「あるものですか。土地の医者が熱中症だと指摘したのはほぼ正しいのです」
原杖人は事もなげに言い放った。
「なぜ心筋梗塞などと言ったのです」
「秘密だからですな。この病気は、存在すること自体秘密にせねばならんのです。ここであなたは日が暮れるのを待たねばならんのですから、時間はたっぷりあるわけです。ゆっくりご説明しましょう」
原杖人はあぐらをかいて笑った。
「夜まで出られないのですか」
「さよう。今日以後あなたは|或《あ》る時期が来るまで太陽のもとへは絶対に出られない体になったのです。夜だけがあなたの世界というわけですな。……いやご心配なく。そういうわけだからハイヤーは帰して置きました」
「夜だけが私の世界……」
隅田はつぶやくように言った。
「さて……我々は患者になる人物の過去は洗いざらい調べることにしておりますのでな。あなたが以前古代史に興味をお持ちじゃったこともよく知っております。こういう人に説明するのは楽ですわ」
原杖人は愉しそうに言う。「メガリスをご承知ですな。メンヒル、ドルメン、ストーン・サークル、カーメンナヤ・バーバ、日本の仁徳天皇陵などもドルメンの変化したものでしたな。東南アジアの石で出来たかめも、イースター島の巨人像もメガリスの一種でしょうが……すべてはこの病気に由来しております」
隅田は見当がつきかねて沈黙していた。
「おいおい理解できるようになりますが、つまりこの病気はそんな古代から、我々人類にまつわりつき、或る時は神として扱われ、或る時は悪魔として恐れられながら現代にその流れを伝えているわけです。あなた、宗教に赤い色が必ずと言っていい程関係しているのをどうお考えになります」
「さあ……」
「鳥居が赤い、僧侶の或る者は|緋《ひ》の衣を着る。神が赤い色をお好みになることを昔の連中はよく知っていたのです。紀元前一万年、アフリカのマカリア湿潤期に興ったウィルトン文化は赤一色しか用いない岩壁絵画を持っていますし、フランスからスペインにかけての中石器文化であるアジール文化は小石を赤く染めたり、骨を赤く染める特殊な埋葬法を持っておるではありませんか。日本の天皇を葬る秘儀の中にも、|棺《ひつぎ》に硫化第二水銀を詰めるならわしがあると聞いております。学者の馬鹿どもは赤色顔料がいちばん入手し易いからだなどと簡単にかたづけておるが、神に捧げる色は赤以外にないのですぞ。復活、再生の考え方、赤い色彩、そして岩……これらは別々のものではなく、神という存在のはじめから必然的に生まれて来たものです。復活し、赤を好み、岩であること。それが神の条件です。よろしいかな、あなたは今神への道を歩んでおられる。人々がそれを知ったらどうなる……復活は阻止され、あなたは破壊されるにきまっておる」
3
「どうもあなたのお話はよく判らない」
隅田は率直に言った。「それより手あてをしてはもらえませんか」
原杖人ははじけるように笑い出した。
「手あてを……」
うしろの二人の男をふりかえって笑いつづけ、「手あてなどありません」
と言った。
「それではなぜここへ来たのです」
隅田は少し腹をたてたようだった。
「こうして無駄ばなしをしているのが、手あてと言えば言えるでしょう。あなたを太陽光線から保護し、今井氏のような無謀なことをさせぬために駆けつけて来たのです」
原杖人の言い方はからかっているようだった。
「たしかにこれは病気だ。病気と判っていながら癒す手だてがないのか」
隅田は声を荒くした。
「いいですかな」
原杖人は子を訓すような眼で言う。「よく考えて見ることです。あなたの体は何も今日はじめて異常になったわけではない……これは伝染病、それも一種の性病と呼んでさしつかえない。あなたは香織様からこの病気を授かったのです。香織様と体の交わりを持った日から、あなたは神への道にみちびかれていたのですぞ。その日から今日まで、あなたの精神は異常な状態に置かれていた。あなたは多分その異常さを、時々ごく短い間意識したことでしょうが、結局は異常なままそれと気づかずに過しておられた。……朝から夕方にかけて太陽が空にある間、あなたの精神は不安定で恐怖のようなものにおびやかされつづけていた筈です。香織様の愛を受けられぬようになることを心配し、香織様を母のように慕っていた。……多分それをあなたは愛だとお思いになったことでしょう。そう、それは愛だ。愛とは相手に何らかの意味で依存することだ。|馴《な》れ親しんだ郷土への愛……それはその自然におのれの生命が依存しているからです。妻への愛……それはおのれのくらしの一部が妻に依存しておるからです。依存すなわち愛……そしてあなたと香織様の場合には、それが最も純粋な形をとったのです。あなたのその期間の生命は全く香織様に依存しておった。あの舌端の刺細胞から受ける快楽こそ、あなたの生命を今日まで支えて来たものなのですぞ」
原杖人は生真面目な表情で言った。
「刺細胞……」
「イソギンチャク|戟《げき》の仲間にアコンシアという|腔腸《こうちょう》動物がおる。刺胞類と言いますが、アコンシアはその典型的なものです。細胞が変化して毒液を持った武器となる。外胚葉の一部が中膠内に陥入しておって、刺戟に合うとそれが裏返しに外へとび出すのです。膠着性の液体や毒液がその時分泌されて相手の自由を奪う……もちろん香織様の舌にあるものはそんな単純なものではないが、あなたはその刺細胞から病液を授かったのですよ」
隅田は米糠油の匂いがする香織のエクスタシーを思い浮べていた。原杖人は勢いづいた様子でまくしたてる。
「刺細胞への刺戟は性感です。エクスタシーなのです。その時あなたは二重の快楽を味わったことでしょう。本来の射出するものと、この病気特有の受けいれるものと……」
「するとあれは病気を受けていたのか……」
「さよう。しかしあなたはその時錯乱状態に置かれている。香織様への愛……つまり依存度が極端に高まって、香織様のすべてを受けいれ、疑念をさしはさむ能力を失っていたのだ。思い当る節がおありでしょうが……」
隅田は認めざるを得なかった。
「奥さんも三戸田会長に対してそうだった」
原杖人は当り前のような顔で言った。
4
「するとやはり、比沙子は三戸田会長と」
「奥さんは会長の子患者なのですよ。この病気で誰を親患者に持つかは実に重要な意味を持っておる。香織様は第一位の患者……つまり最高神だ。会長はその下、第二位に当る。従って奥さんは第三位。もし彼女があなたの親患者になることを欲したら、あなたは第四位の患者になるわけです。彼女はたとえようもない献身をあなたにして見せたのですぞ。あなたを第二位の神にするため、香織様にお願いして親患者になっていただいた……」
隅田はこの部屋の隣りの寝室で、最後の朝比沙子が見せた痴態を思い出していた。比沙子はエクスタシーに身を震わせながら、指を口に入れて|呻《うめ》いていた。|嬉《き》|声《せい》の|洩《も》れるのを防いだのではなく、あの粘液の注入を自制したのではあるまいか……。
「すると比沙子の舌にも……」
「さよう」
原杖人は深くうなずいた。
「しかし、どうしてこの病気は感染経路がそんなに重要なのです」
「生命が親患者によって維持されると言ったでしょう。事実あなたが途中で香織様と交渉を断たれたとしたら、あなたは|悶《もだ》え苦しんだ挙句死んでしまうのです。強い麻薬中毒の禁断症状によく似ておるのですよ。狂い死に……いや焦がれ死にと言ったほうがいいかな。とにかくそうして子患者は親患者に依存するわけです。実際の親と子の関係が成立し、しかもその影響はいつまでも残る。親と子……それを現代風に考えてはいかん。かつてそれは主従を意味していた。親と子は主従なのだ。この病気が終ったとき、それはあなたがたの新しい世界へ持ちこされる。階位の高い患者は新しい世界でも高い身分を約束されるのですよ」
隅田にはまだ判らないことだらけだった。
「新しい世界……」
「そうです。この病気はあなた方を神にする。人間に不死を与えるのです」
「不死……」
「不老不死の生命を獲得して、不滅になるのです」
原杖人はいかにも楽しそうだった。隅田は三戸田の言った言葉の意味が|朧《おぼ》|気《ろげ》ながら判って来たように思った。
「不滅……」
三戸田謙介は不滅を求めていると言った。
「不滅の生命……素晴らしいことでしょう」
「私のこの体が不死身になるのですか」
「さよう。しかし今すぐではない。この病気の第一期は親患者から病液を授かっている一種の錯乱の時期です。第二期はいまのあなただ。色覚に変調を来し、赤以外の色彩が判別できなくなり、太陽光線に対して過敏症になる。もし直射日光にさらされれば、熱中症に酷似した症状を呈して死んでしまう。但し夜は|爽《そう》|快《かい》そのものだ。快活で機敏で……」
原杖人はそこで言葉を切り、また二人の男をふりかえってニヤリと笑った。「幾分色ごのみになる。この世の別れに思うさま快楽をむさぼろうとでもするのでしょうな」
隅田は原杖人の言葉を一語一語|噛《か》みしめて聞いていた。
「この世の別れ……ですって」
「おお、儂はそう言ったが、どうも儂は平常人なのでついあの世と思ってしまうらしい。しかし、あなた方患者は或る意味であの世へ行って生きることになる。来世ですよ」
「来世……」
「第三期に入ると体の変化が激しくなる。日一日と体が重くなり、やがて全身岩のように硬くなる。|膠《こう》|原《げん》病の或るものにそっくりだが、体の奥の奥まで岩のようになる。生きたまま石化するのです。そのためあなたは大量の人血を摂取しなければならない」
「それじゃまるで吸血鬼だ」
隅田は悲鳴をあげるように言った。
5
「さよう、それはまさしく吸血鬼ですよ」
原杖人はニヤニヤしながら言った。「ただし自分で血を吸うわけには行かん。まわりで我々が看取ってやらねばならん」
隅田は|唾《つば》をのみ込んで|訊《たず》ねた。
「で、第四期の症状は」
「あなたは岩の塊りとなって動かなくなる。それは死かも知れん。しかし実際には|睡《ねむ》っているに過ぎんのです。古代人はその状態の人間をケルビムと呼んだらしい。病気の経過を知らず、いきなりその化石人間を見たら誰でも精巧な石像だと思うだろう。そしてその石人像、つまりケルビムは睡り続ける。千年、二千年、四千年……個体差がどの程度かよく判らんが、我々はその睡りの期間を三千年から六千年と考えておる」
「六千年……」
|呆《あき》れて物も言えなかった。
「三千年ないし六千年未来に、あなたは不死の超人として|蘇《よみがえ》えるのです」
隅田ははじめて笑った。
「馬鹿な……」
「誰しもそう思う。責めはしませんよ。しかしこれは事実だ。あなたは三戸田邸で背の高い黒人に会わなかったかな。あれはイリュリア人の祖先なのだ。古代ギリシャでイリュリスと呼んだ地方……すなわちマケドニアの西から東アルプスにかけて住んだとされておる。ラウジッツ文化を残し、有畜農耕文化を持ったが前四世紀、新鉄器を持ったケルトに侵攻された。あなたはあの人物をよく観察したかな……」
「黒人だが北方人種の特徴を持っていたようですね」
原杖人は我意を得た、というように何度もうなずいた。
「印欧語族の中のケントゥム語群に属し、人種的には北方人種とされておる。しかし世間は本当のことを何も知らんのだ……人種は異根か同根かも知らんで勝手なことを言っておる」
「人種……人種は異根なんですか同根なんですか」
「異根ですよ。自然がこの地球に或る状態を作り出したとき、人類への進化は巨大な時の幅を持って地球各地で開始されたのだ。いろいろな人類がいろいろな地方で発生し、やがてそれは拡大して互いに触れ合うことになる。血は……人間の血はその混血の初期において非常に不安定な状態を作り出す。混血はおおむね人種間の血の安定をもたらすが、時に異常な種ともなる。この病気は異根の二人種の血が混り合う初期に発生するのです」
「するとあの黒人も……」
「あなたと同じ病気の結果だ。彼は三千年を睡って今不滅の生命に至っておる」
「しかしそれをどう証明するのです」
原杖人は落ちくぼんだ目玉をギョロリと光らせた。
「香織様はアルバニアのゲグ族の土地で一体の完全なケルビムを発見されたのです。そしてこの石人の|蘇《そ》|生《せい》に立会われた。石人は蘇生の最終段階で刺細胞を脱落させねばならんのです。香織様はあのイリュリア人から三千年前の病液の最後の一滴をお受けになったのだ。香織様は現代の病祖として、古代の巨石信仰を連綿と持つ秘密結社、イスラム異端のハサン派に護られてひそかに東京へお戻りになられたのです」
「暗殺教団ですか」
「さよう。古代の岩石信仰は、石と化して数千年後に甦える人間を崇め敬まったことに源を発しておる。ドルメンやメンヒルなどはすべてそれだ。特にドルメンは、その巨石の棚に一体のケルビム……つまり石人像を置いて見れば、その建設理由がすぐ判るだろう。エジプトのファラオ達もそれを知っておった。みずからも石と化して来世を得ようと、ミイラのようなはかない技術を用いたわけだ。暗殺教団のような秘密結社に共通するのは、その巨石宗教の名残りですよ。秘密結社の入社式を見たまえ。不安に満ちた|闇《やみ》の世界のさすらいが第一段階で、次に試練……恐怖の試練がやって来る。それは今のあなたを意味しておる。色覚に変調を来し|戦《せん》|慄《りつ》しているじゃろうが。そして次には急激に光の啓示を感じる。それは不滅への希望じゃよ。そして最後にすべてから解放された自由がやって来る。……秘密結社の入社式はこのプロセスを抽象化し、儀式化しているにすぎないのです」
「本当に私は数千年後に不滅の人として甦えることができるのだろうか……」
「それはみんなが案じていることだ。あなたはそのために呼ばれた人間です。ケルビムを保存して数千年の彼方へ旅することができる現代のドルメン……タイムカプセルですな。それを守屋の五つの丘の土地に作るのです」
隅田は両手を握りしめて聞いていた。
6
タイムカプセルを作る。……隅田は三戸田謙介のあいまいな指示の|謎《なぞ》がとけたような気がした。
「そのケルビムとかいう物を数千年の間安全に保存する建物を作るわけですか」
「会長はあなたにどう言っておられたのです」
「美術館のようなものだと……」
原杖人は噴きだした。
「なる程、美術館とはうまいことを言いなさる。つまりご自分も美術品というわけだな」
そう言ってニヤニヤと隅田の顔を見る。「あなたも美術品だ……」
「万一、何千年もの間にケルビムが損われたらどうなるのです」
「ただの石になる。蘇生は出来ん。睡りからさめ、不死の自由を獲得するためには、あのイリュリア人のように完全無欠で時を過さねばならんのです。……古代のケルビムがどれ程多く損われたことか。……保存が完全でなかったために、大部分はただの石の塊りと化しておる。時折り地中から発見される古代の石像の破片のうちには、かなりの数のケルビムが混っておるのです。いたましいことだ」
「……そうか、ケルビムというのを思い出しました。たしか旧約聖書に」
「これはたのもしいお人だ」
原杖人は|嬉《うれ》しそうに言った。「そのとおり、聖書にもケルビムがのっておる。後代の神学者はケルビムを翼あるスフィンクスだの、智天使だのときめたようだが、実際には一般民衆にとってキリスト生存時代、すでにそれが何であったか判らなくなってしまっておる。ただソロモンの神殿の至聖所に二体のケルビムが安置されていたという伝承が残っていたにすぎん。ソロモンの神殿は入口の間ウラム、聖所へカル、そして第三の間と続いておった。第三の間は至聖所、つまり神の居室とされて、窓は全くなく、ただケルビムが置かれていたのだ。観念論にたよらず、もっと素直に物事を眺めることが出来れば、至聖所に安置されたケルビムこそ、信仰の本体であることが判る筈なのだ。……それがどんなものか、誰にも言えない。ヨセフスはそう言ってケルビムを|胡《ご》|麻《ま》|化《か》してしまった。その時代、既にこの病気は伝染性を失って、その恵まれた不滅性は一部の人々の|嫉《しっ》|妬《と》、憎悪の対象になる危険性をはらんでおったのですよ。だがその反面、預言者達は救世主の降臨が近いことを説いておる。その時代の知識とは過去の|事《じ》|蹟《せき》に暁通することだった。キリストはケルビムを知っていたのです。少なくともケルビムから発した信仰を、近代的な神の形態にととのえた人物だろう。彼の周辺におった者たちも、ケルビムを知っておった。そのケルビムに対する態度はさまざまで、見解が統一されていなかったことがはっきりしておる。ケルビムを是とする者、非とする者、そしてそれら原始宗教を統括し統一しようとしたのがキリストなのです。たとえば預言者イザイアスはケルビムに対し、かなり否定的だ。イザイアスはキリストより遥か以前の預言者だが、メシアの降誕を預言しながらも、その病気が持つ一時期の背徳性に論及しておる。……汝らの手は血みどろなり、洗いて清めよ。これは堕落した民衆に対する警告と理解されておるが、もっと即物的に解釈すればケルビムの吸血性を指しておると解釈できるだろう。汝らの罪が|緋《ひ》の如く赤くとも……なぜ罪は赤で表現されねばならんのじゃ。……赤き衣服を着てボスラより来る者は誰ぞ、恐るべき力もて豪然と|闊《かっ》|歩《ぽ》す。たしかにフェニキアの商人のシンボルは深紅のマントだったが、それだけではこの句の解釈はつかぬでしょう。エレミアスの哀歌にはこんなのがある。……我が眼は傷つき我が胸は張り裂けんとす。我が娘は滅び我が命はすべて奪われた。……あなたの心境にぴったりでしょうが。ケルビムになる過程で何も知らされずにおれば、あなたはきっとこう思ったに違いない。……我が眼は傷つき我が妻は奪われ、我が命はすべて奪われたり……」
原杖人はそう言って、ひどく人なつっこい笑い顔を浮べた。「ヨブ記にはこうありますぞ。……悲しくも我が命の時は数えられたり。我を捨て置きたまえ。少しくは我はなお楽しまんかな。どうかね。これはケルビムとなる時が迫った患者の率直な心境の吐露でしょうが。あなたを誘惑しそこなった松原牧子の心境ですよ」
「マキの……」
隅田は凝然と原杖人をみつめた。
「ヨブ記はもっと率直に病気の進行に触れておる。……我が眼は|昏《くら》み五体はすべて影の如し。|陰《よ》|府《み》の国は我が住いたるなり、くらやみに我が床をのべ、朽ちたる者に向いて我は言う。汝、我が父よ……。のちの患者集団のように、看護する組織を持たなかった古代の患者たちは、時が来ると自力で|洞《どう》|窟《くつ》にかくれた。そして既に石化した親患者のとなりに横たわったのだ……。そのケルビム、つまり神に一般の民衆は供物をした。神は赤き血を欲したもうたのだ。古代宗教に共通する人身供犠、流血の儀式はこうして発生したのです。だが信仰は超自然の力を中心に置いた|呪術《じゅじゅつ》的なものから、民衆のためのものに移行して行く。人種間の接触による血の違和状態は滅多に起らなくなり、既に同化済みの異人種が割拠しているに過ぎなくなってしまったからだ。ケルビムの|奇《き》|蹟《せき》は忘れられ、その|妖《よう》|異《い》な面だけが人々の心に深く|爪《つめ》あとを残した。イスラエルの語義は旧約によると、神と争う者、だそうな。この神はケルビムじゃろう。偶像否定の根本原理は、この病気が最終的に石人像の形をとるところから来ておる。だが、たまたまそこへイエス・キリストという病者が出現した。パウロやヨハネはそのことを匂わせておる。イエスは真理であり生命である。永遠の生命がほとばしる源泉であり、不滅の生命を与える肉であり、永遠の陶酔の赤い酒である。永遠に処女達がわかち合う聖なる|花《はな》|婿《むこ》である。……生きることを望む者は、キリストと共に甦えるため、キリストと共に埋葬されよ。そう言っておるのですよ。洗礼をうけた人々とは、変質した者、変態したものを指しておる。イエスの聖なる血によって自らを神性で満たすのだ。神、つまりケルビムと争う者であったイスカリオテのユダが、或る|晩《ばん》|餐《さん》のとき仲間がケルビム化しようとしているのを知った。……子らよこの杯から飲め。これは契約の血である……そう言われたときユダは|椅《い》|子《す》を|蹴《け》った。その夜ローマ軍団の一大隊がケデロンの谷を|松《たい》|明《まつ》で染め、ゲッセマネの園に押し寄せた。イエスはとらわれ、仲間はちりぢりに逃げた。ヘロデ大王の息子のヘロデ=アンティパスはイエスを取り調べ、その結果深紅のマントを着せてユダヤ総督のポンティウス=ピラトゥスのもとへ送りつけた……」
7
「古代の神々であるケルビムが、その時代には迫害を受けるようになっていたのですね」
隅田は静かに言った。自分の体内に遠い遠い古代の血が流れはじめているのを意識しはじめていた。
「そうです。厳しい弾圧を受けたイエスがゴルゴタの丘の十字架にさらされていたとき、そのまわりには女たちしかいなかった。母マリヤ、マリヤの姉妹でクロパの妻マリヤ、マグダラのマリヤ……男はヨハネだけだった。イエスが病祖だとしたら、その女たちは第二位の患者だ。そのときのマリヤが果して母親だったかどうかは疑わしい。ただ数人の子患者がいたと解すべきだろう。そこにいたのが彼と血のつながった者ではあり得ないことを儂はこの病気の性質から説明することができる」
原杖人は眉をひそめ、おぞまし気に言う。
「なぜ血縁者ではあり得ないのですか」
「この病気は性交によって|伝《でん》|播《ぱ》する。近親|相《そう》|姦《かん》はタブーなのだ」
「近親相姦……すればどうなるのです」
原杖人はそっぽを向いて言った。
「別の病気になる。獣性を獲得してしまうのだ……しかも|狼《おおかみ》のな」
「狼……」
「さよう、古来吸血鬼伝説と人狼伝説が不即不離の関係にあるのはこの理由によっておる。近親相姦はケルビムを狼に変えてしまうのだ。大杉実という男が巨石信仰と犬神憑きの分布が重なることに着目しておる……それは全く正しい」
「犬神……狼人間がこの病気から発生するのですか」
隅田は恐ろしそうに言った。
「香織様の実弟の椎葉次郎は狼人間だ」
「次郎君が……」
蒲田の安下宿へよく遊びに来た、あの|艶《つや》やかな|頬《ほお》の中学生を思い出していた。
「この病気はそれでなくとも陽光を避けねばならん。厳重に秘密を保たねばならんのだ。古代にはそのためによく近親相姦の過ちが発生した。不死性は獲得できず、獣性を得てしまう。周期的に平癒と増悪を繰り返し、増悪期には狂った狼になるのじゃ。顔面にむごたらしい|異《い》|瘡《そう》が生じ、遠目には犬の|貌《かお》のように見えるのじゃ。人間の筋力の極限をきわめることが出来、想像もつかぬ跳躍力や脚力を発揮する……実際では百メートルを六秒台で走ることが判っておる」
隅田は物も言えなかった。それではまさに超人ではないかと思った。
「狼人間は遺伝する。遺伝の間隔は次第に間遠になって遂には何の形態も示さなくなるが、その一族は永久にケルビムにはなれんのだ。免疫性を獲得するわけですな。ケルビムに深く関与し、代々睡りについたケルビムを守護する役を果しておる。推古、|舒《じょ》|明《めい》の二代に仕えて遣隋、遣唐使をつとめた|犬上《いぬかみの》|御《み》|田《た》|鍬《すき》は、日本におけるその家系の頂点にあった人物です。その家系は犬神筋と呼ばれ、今も残っておる。西城貿易の瀬戸宏太郎は犬上御田鍬の|末《まつ》|裔《えい》なのです」
隅田は深い吐息をついた。原杖人の言葉に圧倒され、その真偽をたしかめる前に、人類の歴史の裏側に流れている巨大な秘密に押し|潰《つぶ》される思いだった。
「具体的に私はこれからどうなります」
「とに角当分は儂の傍で病気の詳細を学ぶことだ。それが判らねばタイムカプセルは作れんからな。あなたは重要人物だから最高の待遇を受けるだろう。もう香織様なしでも生きて行ける。多分奥さんはあなたの手もとに戻される筈だ。しかし、これからの夜は常人のものではない。あなたの舌端の|味《み》|蕾《らい》はすでに刺細胞化しはじめており、すぐそこに貯った病液の射出欲にとらえられるだろう。第二の性欲じゃな。少しく我はたのしまんかな。ヨブ記にそうあるじゃないですか……」
原杖人は悪魔的に|哄笑《こうしょう》した。
8
原杖人は腕時計を眺め、二人の男にちらっと眼くばせをした。一人がこっそりと立ちあがって、カーテンを細目にあけて外を|覗《のぞ》いた。一瞬そこに白い光が流れ、隅田の肌に射すような痛みが走った。
「露出している皮膚に痛みがあったでしょう」
原杖人はそれを観察していたらしい。
「ええ」
「色覚の異常を感じたあと、あなたの体は急速に病者の体質をととのえるのですよ。承知かも知らんが、人間の眼には|杆状体《かんじょうたい》と|錐状《すいじょう》|体《たい》のふたつがあって、杆体は網膜で光の強弱を判断する役目を持っておる。色を感ずるのは錐体で、中心|窩《か》には錐体のみが集まっておる。杆体は明暗だけに反応して色は感じない。……その錐体に異常が起ったのですよ。錐体がはじめから欠けておる動物は、哺乳類ではハリネズミ、モグラ、コウモリ、ハツカネズミ、フクロウ……ところがヘビは錐体しか持っておらん。奇妙なことだ」
「私は色盲になったわけですね」
「そういうことになる。しかしあなたをもし世の医者が診たら腰を抜かすことだろう」
「なぜです」
隅田は煙草を喫うゆとりをとり戻していた。ケントに火をつけると原杖人が謎めいた眼つきで灰皿を取ってくれた。
「色盲は全色盲と部分色盲に分れる。全色盲は別として、部分色盲は更に理論上ふたつに分れる。赤と緑の境界がはっきりしない赤緑色盲と、青黄色盲のふたつだ。赤緑色盲は男子の約四・五パーセント、女子はその十分の一程度とされ、伴性の劣性遺伝だ。しかし、青黄色盲は理論のみで実際の例は皆無なのだ。あなたは今赤以外の色を一切感じられなくなっておる。残る部分は明暗だけだ。しかし明暗を判ずる杆体の動きはその分だけ強まっておる。夜眼が利くようになっておるのだ。……狼人間のほうは全色盲になるが」
「たしか、ヘルムホルツの三素説というのがありましたね」
「ああ、赤、緑、紫、の三色を最も強く感じるというのですな。しかし現にこうして赤だけのあなたがおるところを見ると、やはり人間の色覚も赤、黄、青の三要素で成り立っておるのでしょうな。赤緑色盲の中の赤色盲は帯青緑色を、紫色盲は帯紫赤色を同時に欠いておる。理論では主観的四原則とか、いろいろの説があるようだが、それでは今のところ色覚の完全な説明にはなっておらん」
隅田は下唇の内側に舌端をこすりつけて、舌の異常を感じとろうとした。
「まだ判らんでしょう。それに味蕾が刺細胞化してもふだんは突起しておらんのだ。性的な|昂《こう》|奮《ふん》だけがそれを|勃《ぼっ》|起《き》させる。つまりキスは性技の一部などという軽いものではなく、患者同士にあっては性交そのものです」
原杖人はそう言って微笑した。
「どうも儂の考えでは、地球上に発生したいくつかの異根の人種の内、いちばん遅くに出て来たのがアーリアであるような気がするのですよ。それ以前にも人種間の血の問題はたびたび起ったが、アーリア系の場合にはそれが人類の最後の記憶となったらしい。ビルマ北部とインド北東部にまたがるナガ丘陵にはナガ族という今もドルメンを作る民族が残っておるし、ヒンズークシにはマーリアの化石民族といわれるカフィール族がいる。どうやらアーリアの原郷はあのあたりなのだろう」
「メガリスの成立年代はたしか新石器の末から鉄の初期にかけてでしたね」
「そうじゃ。中国や朝鮮では新石器の終りから金属初期、日本では北九州が弥生、東北が縄文の後期……しかしその頃の文化の伝播速度はゆっくりしたものだからな……」
原杖人はたのしんでいるように|喋《しゃべ》った。
9
「儂は日本の古代にメガリスと、それに関係する奇怪な謎がかくされているのに早くから気づいておった。それは物事をあるがままの意味で受取ろうとする態度がなければとうてい気づけないことだ」
原杖人はそう言ってちょっと照れたように額を|撫《な》で、「自慢めいたかな」と言う。
「たとえばホノスソリノミコトが弟に|詫《わ》びるとき、赤土を両頬や額や|顎《あご》に塗りたくったという記録がある。学者はこれを一体どう説明する気なのだろうと思ってな。|埴《はに》|輪《わ》にも同じように顔を赤く染めたものがある。儂はもともとが医者なので、それをすぐ狼につなげることができたのじゃよ」
「狼になぜつなげるのです」
「犬神はケルビムになる人々の身を|扶《たす》ける役を果すのじゃ。つまり相手を神と認め、みずからはその下僕とへりくだるのじゃ。こう考えるとホノスソリノミコトの行動がはっきりして来るでしょう。あなたは|敦《つる》|賀《が》の|気《け》|比《ひ》神宮へ行ったことがおありかな」
「いいえ」
「九月三日の神幸祭には|犬《いぬ》|神《じ》|人《にん》と称する数十人の武者が|神《み》|輿《こし》の前後を警護する。|伊《い》|奢《ざ》|沙《さ》|別命《わけのみこと》をはじめ仲哀天皇、神功皇后、|日本武尊《やまとたけるのみこと》、応神天皇、豊姫命、|武内宿弥命《たけうちのすくねのみこと》と、|祠《まつ》られる神々は多いが、そのどれか、ひょっとすると全部が何らかの意味でケルビムに関係しておるのだろう。|犬《いぬ》|神《じ》|人《にん》は京の|祇《ぎ》|園《おん》社に属して弓づるの販売権を独占し、十一番職人尽歌合には覆面をした僧侶として描かれておる。つるめそとかつるべそとか呼ばれもするが、これはまさしく犬神族の姿だ。儂が預っておる狼人間の椎葉次郎も、首から上を包帯で隠さねばならんようにひどい|変《へん》|貌《ぼう》をしてしまっておる」
隅田はまた中学生を思い出していた。姉に似て美しい男の子だったのに……。
「どういう症状なのですか」
「似た病気を挙げれば、つまりは|膠《こう》|原《げん》病じゃよ」
「膠原病……余り聞かん病名ですが」
「そうだろう。終戦後にはっきりして来た病気で、それまでは判らなかった。体質と免疫学的なものが関係しておる。病理解剖学が、病気とそれに侵される器官の関係を次々に明らかにして行ったが、膠原病はそのどれにも属さなかった。オーストリアのクレンペラーが、全身性エリテマトーデスと全身|鞏皮《きょうひ》症の共通点に気づき、どちらも結合織が侵されていることを発見した。膠原というのはコラーゲンの訳で、ギリシャ語のコラを語源にしている。にかわやのりなど、物を結合させる物質の意味です。人体は皮膚、関節をはじめ臓器に至るまで、すべて結合織という支持組織で組み合っており、その中に結合繊維が含まれている。つまり、結合繊維を含む結合織に異常が発生するわけですな。リウマチ熱、慢性関節リウマチ、皮膚節炎などはよく知られた病名だが、多発性結節性動脈炎や全身鞏皮症、全身性エリテマトーデスとなるとそうポピュラーではなくなる。エリテマトーデスは顔面に|紅《こう》|斑《はん》を生じ、|潰《かい》|瘍《よう》となって拡がって行く。この病気は古くからルパスの名で知られておった……ルパスはラテン語で狼を指し、|狼《ろう》|瘡《そう》と訳されておる」
「狼瘡……」
「そうです。長い間皮膚結核と思われていたのだが、丁度|鼻梁《びりょう》を中心に額と顎、そして両頬には逆三角形の|瘡《そう》|痕《こん》が対称形をかたちづくって行く。遠目では狼のように見える。もっとも、狼が|喰《く》い散したように拡がって行くからともいうが、椎葉次郎をひと目見れば狼瘡の名の由来は一目|瞭然《りょうぜん》です。……全身鞏皮症は皮膚が硬化して行く。だがあなたや椎葉次郎のは膠原病に初期症状が酷似しておるというだけで、根本的にはもっと別なものだ」
石と化した自分を隅田はどうしても想像できなかった。
10
「人間が石になるなんて考えられん」
隅田はつぶやくと原杖人はとがめるように、
「現にあなたはその病気にかかっておる。膠原病と眼は深い関係にあるのですよ。昔からリウマチに眼病が併発するのはよく知られておる。眼の中に|緻《ち》|密《みつ》に分布する血管系は、その大部分を中胚葉性組織で占められておる。つまりそれは結合組織だ。ベーチェット症候群も膠原病による眼病変なのです」
原杖人はそこで隅田の反応をうかがうように言葉を切り、ニヤリとした。「石胎を知っておるかね」
「いいえ、何です」
「石胎はこれまで世界で二百六十四例が知られておる。母親の胎内で死んだ胎児がそのまま留まり、脱水、カルシウム化して石になるのだ。石胎の外形は一般の胎児と全く同じだ。ごく最近も台湾で六十七歳の老婦人が石胎の摘出手術を受けた。十か月の胎児で、その石胎は四十年余りも母の胎内にいたのです」
隅田は仕方なく肩をすくめて見せた。
「人間が石と化す、というよりは、生物が石と化すいちばんいい例は化石だ。マンモスの歯の化石を酸で処理して無機成分のアパタイトを除く。残りの有機成分を薄片にして動物の血液と同じ成分の溶液にひたし、哺乳類の代表体温である三七度Cで十数時間放置すると、その有機成分は再び無機のアパタイトの結晶を沈着させるのです。……その有機成分とは、コラーゲン繊維なのですよ。つまり動物の化石化には、主としてコラーゲンが関与しておる。……とに角結合織についてはまだ|殆《ほと》んど判っておらんことが多い。コラーゲンと共に結合織を構成するムコ多糖類が、どんな役割りを果しているのか、母親と胎児をつなぐ|臍《さい》|帯《たい》がヒアルロン酸を大量に含んでいる秘密は……何ひとつ判っておらん。だがあなたは確実に石となるだろう。やがて手足や|耳《みみ》|朶《たぶ》などの末端から硬化し、次第に、際限もなく石に近づいて行く。脱水し、その分だけ別の成分で自分をみたさねばならない。……いつ誰が気づいたのか、それは恐らく遠い遠い古代の知恵者だろう。ケルビムに血を飲ませることを人間は覚えた。硬化して収縮した分だけ、血液で補うのだ。もちろん血液も大部分が水だが、血液中の物質があなたの体の収縮を防止し、あなたはキリストの言葉のように、聖なる血で体を満すことになるのだ。それに塩のこともある。ダビンチは最後の晩餐図を描いたときテーブルに塩を|撒《ま》くことを忘れなかった。塩がこぼれることは、その後の悲劇を|報《し》らせる凶兆とされておったのだ。塩は不吉なのだ。ところで、狼瘡や鞏皮症などに塩は毒になることが判っておる。悪魔に対する塩の迷信はここから始っておると言えましょうな」
「いまお聞きした範囲ではっきり私に判ったことは、吸血鬼と狼人間がその膠原病とひどく似ているということです。結局私も吸血鬼の仲間入りをせねばならんのですな」
隅田は|自嘲《じちょう》するように笑った。
「断って置くが、これは膠原病ではない。非常によく似ておるのは確かだが、そっくりそのままではない。どこか深い所で、まるでレベルが違っている高度な病変なのだ……妙な言い方だが」
隅田は自分の運命からのがれられないことを覚った。
「何でもいいでしょう。私はこの病気をうけ入れますよ。三戸田謙介氏と私は患者群の中では同格なのですね」
「あなたは野心家だと聞いておったが、まさにそうらしいな……さあ、カーテンをあけましょう。もう夜が始っておる筈だ。あなたの世界がな……」
そして本当に夜が始っていた。
第十二章 蜜月の|狂宴《サバト》
1
伊丹英一は隅田賢也の足跡を追った。そしてやっと、皇居前のホテルを突きとめた日、隅田賢也は既にそこを引き払ってどこかへ移ったばかりだった。フロントでは隅田をよく覚えていて、伊丹は丁重に扱われた。ひどく忙がしそうで、毎朝六時七時の朝帰りが続いていたという。相当根をつめた仕事らしく、帰って来るときはいつも|蒼《あお》い顔色でやつれ果てた様子だったが、すぐに体力を回復して|艶《つや》|々《つや》した顔を見せていたらしい。ホテルの者はタフな方でいらっしゃいますと、満更お世辞でもなさそうに感心していた。
伊丹は酒場遊びは余りしないほうだったが、雑誌社のコネを利用して赤い酒場を飲みまわった。そして赤い酒場は予想したよりずっと数が多いのに驚いていた。全部はとてもまわり切れない。頑張って十七、八軒のぞくのがやっとだった。
赤い酒場は美女ばかりだった。どの店もびっくりするような美女を|揃《そろ》え、繁昌している店もそうでない店も、ひどくおっとりした経営の仕方をしている。
はじめて行く酒場でも、伊丹が名の売れたカメラマンだと判ると、女達の口が自然に軽くなり、いろいろな|噂《うわさ》が耳に入る。しかしどれもこれも結局は当りさわりのない話で、もし赤い酒場群に共通した秘密があるとすると、その秘密保持は|完《かん》|璧《ぺき》に近かった。
ただ、人形町に一軒岩屋という和風の酒場があり、そこのマダムと映画俳優の月岡哲郎が熱い仲になっているという噂があって、伊丹はそこから機密保持の壁を破って見ようと考えた。月岡哲郎なら何度も男性化粧品の仕事でつき合ったことがあり、お互いに気心が判っていたし、人形町はもともと伊丹のホームグランドだった。
長い間人形町に住んでいた伊丹は、その附近の酒場に二、三軒知り合いがあった。久しぶりに訪ねると歓迎してくれて、バー岩屋のことを教えてくれた。二年ばかり前に西ビルが建ったとき出来た店で、はじめは客足もさっぱりだった。経営者は土地の者ではないし、これはすぐ|潰《つぶ》れるぞと噂していたが、一向にその気配もない。人形町|界《かい》|隈《わい》はいわゆる早出がたの客筋で、オフィスが閉まるとすぐ客足がピークに達する。だが、岩屋の開店時間は六時だった。夏場は特に客足が早いので附近の店はホステスの出勤時間をくりあげる程だが、岩屋は逆に夏の盛りには開店時間を七時半にさげるのだ。
当然同業者の間で話題になったが、結局地元の客を当てにしていないのだろうということで落ちついた。事実客はどうやら銀座から流れて来ているようだった。
その内いつの間にか岩屋が繁昌しはじめた。理由は簡単で、ホステスがとび切りの美女ぞろいだったからだ。小伝馬町から堀留一帯のオフィスの若いサラリーマンの間で、岩屋は一種の|憧《あこが》れの対象になった。銀座のBクラスといった値段で、自前ではちょっと近寄りにくいが、客の接待などでは必ず岩屋へまわる。おまけに人気俳優の月岡哲郎がマダムと出来ているなどという派手なゴシップがとんで、この所人気は上るいっぽうだ。近くの店のホステスまで、|隙《すき》があれば岩屋へ移りたがる気配を示し、同業者は恐慌を来している。
向う気の強い経営者がいて、客になりすまして岩屋のホステスを引き抜きにかかったが、どうにも陥落せず物笑いの種になったりしているらしい。岩屋のホステスは実にチームワークがよく、来るときも帰るときも、二、三人ずつ組になっているという。
伊丹はその岩屋へも行って見た。噂どおり美女ぞろいで、その中でもマダムは群を抜いていた。
伊丹は岩屋のカウンターで根気よくねばった。月岡哲郎を待ったのだ。そして月岡は閉店間際にやって来た。伊丹を見ると快活にやあ、と言って肩を|叩《たた》いたが、どういうわけかそれっ切りだった。マダムにべた|惚《ぼ》れしているのはひと眼で判った。マダムを見る眼が、熱っぽいというよりはもうすがると言ったほうがいいくらいで、伊丹がいることも忘れたように、客の間を蝶のように移り歩く姿をじっと眺めつづけていた。
恋狂いしてやがる。……伊丹は心の中でそうつぶやいた。もう恥や外聞はとうに|棄《す》てていて、いっそさっぱりした色ぼけの状態だった。
その時伊丹は突然|或《あ》る連想をした。新宿の第四十西ビルが血液銀行なのを知った時、祥子がおびえて言った言葉だ。
吸血鬼……。
月岡哲郎の様子は、恋狂い、色ぼけ、などというよりは、何かに|憑《つ》かれたと言ったほうがぴったりしていた。魂を吸いとられたぬけがらのようだった。
その夜、秋空には満月が輝いていた。
2
壁に大きな丸い穴が三つあいていて、その穴に厚いガラスがはまっていた。一階は派手な色彩の|氾《はん》|濫《らん》する洋装品売場で、そこから|華《きゃ》|奢《しゃ》な|手《て》|摺《すり》のついた|螺《ら》|旋《せん》階段が二階の喫茶店へ伸びている。藤色のいやにけばけばしい敷物を敷いたその喫茶店の丸い窓の傍の席で、伊丹英一と大杉実が向き合っている。
「原稿は二本とも雑誌社へ渡してあるよ。来週とさらい週、続けて出る予定だ」
大杉実は小さなカップをまるまるとした指でつまみあげながら言った。この店のコーヒーはひどく濃い。
「冗談じゃないんだ。本当に吸血鬼という感じなんだよ。岩屋のマダムが月岡にして見せる何もかも見透した態度と、それに月岡の|奴《やつ》の放心したような様子……こいつはもう並みの恋人同士なんてもんじゃなかった」
「そうりきみなさんな。|俺《おれ》は何も冗談にしちまってるわけじゃない。……損だな、俺は。真面目に聞いてても冗談にしてると言われる」
大杉はそれも冗談のように言う。
「血液銀行のことをどう思う……」
「さあ、そいつさ。吸血鬼と血液銀行ってとり合わせが、どうもピンと来ない。いや、ピタリ重なりすぎるんだよ。判るだろう、この妙な感じが。どう言ったらいいかな。中世の騎士が|槍《やり》試合に戦車にまたがって出て来たような具合なんだ。なんとなく漫画的じゃないか」
「漫画的かね……」
伊丹は|憮《ぶ》|然《ぜん》として外を眺めた。
「いや、たしかに漫画的だ。しかし騎士が戦車を使って本気で槍試合をしたとすると、こいつはブラック・ユーモアになる。俺がいうのはそいつさ。吸血鬼と血液銀行……参るな。こいつはこわいよ。たとえば今の総理大臣が、その実中世の王様とまるで同じで、国会議事堂がその宮廷だとしたらどうだい。同じだと思いたくないが、まるっきり、何ひとつ変っちゃいないのが真相だとしたらさ。やっぱり気味が悪いぜ。科学的な道具だての中にいる医者がまじない師で、税務署は精密な規則に準じているふりをして目分量の課税をする。サラリーマンは奴隷で九時の合図に間に合うように夢中で駆けつける……そういう考え方をした時の薄気味悪さとおんなじだ」
「ここはトランシルヴァニアの山奥か……」
「血液銀行の親玉はドラキュラかい」
「いや。しかし東日ブラッド・バンクの役員名簿に原杖人の名前がある」
大杉は目を丸くして伊丹を見る。
「本当か、それ」
「会沢氏が|報《し》らせてくれたよ。あの人は俺たちの十倍も行動力がある」
大杉は駄々っ子のように首を振る。
「嫌だ。嫌だよ俺。そういうの大嫌いなんだ。理屈に合わない理屈が現実にあるなんて。どうあっても、そういうのはぶちこわしちまいたいな」
「それから西域貿易の不動産部はマンションもやってる。会沢氏の連絡で俺はそのマンションも見て歩いた。あんたもっと嫌がるぜ」
「どうなんだ」
大杉は体をのり出して来た。
「別に何の変哲もないビルだ。のっぺりして飾り気もない」
「おどかすなよ」
大杉は微笑した。
「おや、あんたこれを変だと思わないのか。俺はあんたじゃないが、マンションを見てまわって気味が悪くなった」
「どうして……」
「マンションだぜ。今どきのマンションが、飾りも何もないのっぺりした設計でいいもんかね」
伊丹はポケットから無造作にキャビネ判に伸したモノクロ写真を四、五枚ほうり出した。
「これがそのマンションかい」
大杉はそう言いながら写真を手にとり、それっ切り黙り込んだ。
「嫌だ……」
しばらくして大杉がポツリと言った。
「こいつは今井先生が昔はやらせたタイプのビルで、今じゃ古すぎる。しかし、どれもこれも建ってから何年もしていない新しいビルなんだ」
「窓がない……」
大杉は気味悪そうにテーブルへ写真をそっと置いた。
「窓に当る部分に半透明のガラスブロックを積みあげてあるんだ。この様式は一時期オフィス向けにはやりはしたが、住宅用としては無茶苦茶だぜ。全戸南向きベランダつきが最大のメリットじゃないか。そいつを苦労してふさいじまってる」
「待てよ。そう言えばクロノスの|壺《つぼ》には|梟《ふくろう》がついているな。意味は|蝙《こう》|蝠《もり》と同じじゃないか。お前がいつか犯人を見たという真名瀬商会は問題の酒場や血液銀行のすぐ近くじゃないか」
3
その夜、新宿二丁目でちょっとしたいざこざがあった。午前二時ちょっと過ぎ、深夜営業のスナックから出て来た若い男が三光町の方に向って歩きかけた時、その近くの暗がりから急に三人の屈強な男達が現われて若い男をとりかこんだ。
「なんだ、てめえら……」
若い男はあとずさりしながら、それでも精一杯|凄《すご》|味《み》をきかせて言った。とりかこんだ男達は無言だった。
「どこの連中だ。俺にゃあ敵が多いんだ。言ってもらわなくちゃ|挨《あい》|拶《さつ》のしようがねえだろう……」
若い男の言葉はかなり仕込んだ|台《せり》|詞《ふ》になっているが、声は少し上ずっていた。すぐに襟を|掴《つか》まれ、やたらに両腕をふりまわした。
「野郎ッ……畜生……痛えよ……乱暴するな……おーい」
大声をあげたとき、心得のある身ごなしで一人が|鳩《みぞ》|尾《おち》へ一発正確なのを見舞うと、若い男はぐんにゃりと前へ倒れかかる。男達はすぐ傍にあった黒いトヨペットクラウンのドアをあけて失神した男を抱き入れると、素早く車を通りへ出した。左折するときタイヤが甲高く鳴った。
若い男はスランバー・マスクで目隠しをされ、うしろへまわした両手の親指をテープでしばられた。右隣りの男の|膝《ひざ》に突っ伏したまま、車は北に向う。
国電王子駅の近くに工事中のビルがあり、一階の高さまで木の囲いをめぐらし、組んだ鉄骨の最上階まできちんとシートが張られている。小さなビルだった。
黒いトヨペットクラウンはその前に停るとすぐにライトを消した。二人が外へ出てうしろのドアの両側に立った。
「出な」
ドスのきいた声がする。若い男は車の中でわざと手間どっている。
「言うとおりしねえと死ぬかもよ」
別な声が言った。若い男にはその言い方が通じるようだった。車の外へ出る。
「安心して歩く……」
一人が肩を押しながら言った。生乾きのコンクリートが、水っぽい|匂《にお》いを漂わせていた。黒い影のかたまりが、三つの懐中電灯の光と一緒にこもった靴音をたて、慎重に地下へ降りて行く。
「|坐《すわ》れ」
三人は自分の懐中電灯を消し、新しい声が命じた。光源が交替し、大きな工事用のスポットライトがついた。
「風間章一だな」
「…………」
若い男は正面から光を浴びて小さな木箱に腰かけている。
「風間」
「…………」
光の外から激しい平手打ちがとんだ。|頬《ほお》に当って素晴らしい音をたてる。
「風間だよ。でも何でこんな仕打ちをうけるのか教えてもれえてえな」
今度は反対の頬が鳴った。鳴り具合はそれ程でもなく、すぐに耳から血が滴った。
「ひでえよ」
風間は泣き声を出した。
「俺たちゃアな、訳があって妙な仕事をしてるんだ。サツがしのこした分を引受けるのさ。普通なら教えねえが、死ぬ前にァ教える」
「バ、|殺《バラ》す気かよ」
風間はおびえ、マスクを外そうと首を左右に振ってもがいた。
「そういうことに決まっちまったのさ」
「なんでだ。なんで|殺《や》るんだ。訳を言ってくれ」
「親殺し……」
「俺じゃねえ。俺は知らねえ」
「お前じゃねえのは知ってるよ。だがお前はてめえの親を|殺《ころ》した|奴《やつ》らを知ってる。|嘘《うそ》をひとつついたわけだ」
また思い切った平手打ちがとぶ。唇が切れた。
「お前が直接手を下さなきゃ、サツも死刑にゃ出来ねえ。ましてバレなきゃ手も出さねえ。でも俺達ァ違うぜ。裁きはちゃんとつけてやる。生きたまんまでコンクリートづめさ。うんと苦しんでから両親に会って|詫《わ》びるんだな」
「そんな……」
風間は坐っていられないようだった。箱が倒れ、風間も転がった。
「だがおまえ|雑《ざ》|魚《こ》だな」
「そうだよ。俺なんぞどうせチンピラだ。チンピラもいいところだ。下らねえ虫ケラだ」
風間は泣き|喚《わめ》いた。
「俺たちァお前を始末してえが、もっと根こそぎやりてえとも思ってる。お前をかたづけたら、お前を飼ってる真名瀬ンとこを調べはじめようと思ってる。口が堅え奴が揃ってるからひと苦労だろうぜ」
声が一瞬途切れた。
「じゃ、いいですね」
|囁《ささや》くように別な声が言った。
「やれ」
すると囁くような声が、
「この親殺しめ」
と早口でののしり、転がった風間をかかえ起すと向うずねを靴の|爪《つま》|先《さ》きで|蹴《け》りつけた。風間は女のような悲鳴をあげる。するとごつい|拳《こぶし》が右の上唇を襲った。唇に新しい血が流れる。
「俺みてえな小物ばかりいたぶりやがって。何でえ。何がサツの仕残したけりをつけるんだい。やるんなら真名瀬玄蔵みてえな大物をやれよ」
風間は泣いていた。泣きながら居直ったようだった。
4
トヨペットクラウンが軽い音をたてて去って行ったあと、何分かしてそのビルから二つの人影が出て来た。空には丸い月が出ていて、工事中のビルを浮き出させていた。張りめぐらせたシートには、会沢建設と書いてあった。
「痛い傷はでかく感じるんだ」
会沢が言った。
「驚いたなあ。本当に殺しちまうのかと思った」
「殺してもいい奴だ」
「それにしても思い切ったことをする」
「口を割らせるにはあれに限る。あの馬鹿、居直ったつもりで洗いざらいぶち|撒《ま》けやがった」
「うまく行ったよ、全く」
伊丹はかなり|昂《こう》|奮《ふん》していた。「でも何を見せられるのかと思ったら、いきなり血の出るほど|撲《なぐ》りはじめるんだからな」
「うまく行きゃしない。あいつは結局何も知らされちゃいなかった。無駄骨だ」
「でも守屋の風間家の事件に真名瀬がからんでいたのは確実じゃないか」
「それはハナから判ってた」
会沢は駅のほうへぶらぶら歩きながら言う。「あの馬鹿息子にしたって、両親が殺されたのは真名瀬のせいじゃないかって、薄々勘づいている。だがそれ以上は知らない。両親が死ぬと、待っていたように真名瀬の口ききで西域貿易に土地を売り渡させられたことしかはっきりしなかった」
「麻薬を扱ってるじゃないか」
「マリファナとかいう奴か。……汚ねえ商売をしてやがる」
「それにMデパートからスペインの壺を盗んだことも……」
伊丹が言うと会沢は肩をすくめ、
「たぐれる筋はそいつだけだな。その壺を真名瀬が国会議員のところへ持ち込んだって言いやがった。それが本当なら相手はきっと平戸崎だな」
「平戸崎って、例の建設汚職の……」
「|陣《じん》|笠《がさ》も三年たてば三つ……今じゃ中堅議員でとびまわってるようだ」
「なる程ね」
会沢はごつい体の背を丸めて歩いている。
「妙だな。平戸崎って議員には東日の|匂《にお》いがしねえんだがなァ……」
「判るもんか。必要があれば東日は誰でも味方にしちまうんだ」
「もうひとつ気になることを言いやがった」
会沢は立ち止って伊丹の顔を|睨《にら》んだ。「赤いバラのマダムのことだ」
「西域貿易の社長の奥さんだって……」
「そいつさ。こいつはおかしいよ。なぜバーなんぞやってやがるんだ」
「事情があるんだろうよ」
会沢は|嘲笑《ちょうしょう》気味に言った。
「あんたは素直な人だな。こういう時はなんでもかんでも疑ってかかるもんだぜ」
伊丹は頭を|掻《か》いた。
「そうだな」
「よし」
会沢はまた歩き出しながら言った。「平戸崎よりあのマダムのほうが先きだ」
「血液銀行のほうは……」
「ありゃ駄目だ。すんなりしすぎて掴みどころがない。おかしなところは何もないんだから」
「西域貿易のマンションはどうなる」
「一応あんたがそう言うなら当るけど、大したことはなさそうだぜ」
伊丹もかつての隅田と同じように、この会沢には吸血鬼のはなしなど出来なかった。
「それはそうと、風間はどうなるんだい」
「あのまんま新宿のどこかへ放り出して逃げて来るよ。ペラペラ|喋《しゃべ》っちまったんじゃ、まさか真名瀬に報告も出来ないさ」
会沢の車がすぐそこに見えている。
5
隅田と比沙子が銀座を歩いている。もう夜の九時で、表通りの歩行者はめっきり数が減っている。修学旅行らしい女学生の群れが、きっと自由行動を許されたのだろう、何組も行きつ戻りつしていた。
昼から少し涼しすぎるほどの気温で、比沙子は|長《なが》|袖《そで》のスーツにレースの手袋といったフォーマルな粧いをしているが、それがいかにも|爽《さわ》やかな感じを与える。もうそんな季節になっているのだ。
比沙子は隅田の右腕をしっかりかかえこんでいる。隅田は左手に大きなペーパー・バッグをぶらさげていた。女学生たちは二人とすれ違うと必ずふり返って見送る。テレビか週刊誌で見た気がするのだろう。実際それは美男美女の組合せだった。しかも体から|滲《にじ》み出る何とも言えず華やいだ雰囲気が、あたりをパッとさせているようだ。
その華やかな雰囲気を、実は大半が患者の特殊な精神状態から来ている。夜、体力が充実する。自信と気力に|溢《あふ》れ、頭の回転が早くなっている。つまり|冴《さ》えている。そして快活だ。快活というよりかなり|燥《はしゃ》いだ状態になっている。そと目にはまるで屈託のない|倖《しあわ》せな人間に見える。おまけに自分は選ばれて不滅の生命を与えられる身だという自負心がある。原杖人の研究では、この時期新陳代謝が異常に活発になっているのだそうで、その常人にはない体内の活気が体の外へ溢れ出すのだ。
だから隅田や比沙子に限ったことでなく、患者はみな華やかで、|淋《さび》しげなところや暗いところはまるでない。それに常人がそれと知らずに患者に接すると、必ず気おされる。位敗けすると言ってもいい。その内側がはかり知れない程|強靭《きょうじん》で、高い知性を持っているように感じてしまう。気が|臆《おく》し、|畏《い》|怖《ふ》さえ感じる。……隅田がはじめて三戸田や香織に会ったときもそうだった。階位の高い患者ほどその威圧感は強い。特に女は女同士、男は男に対してより強く威圧を感じるようだ。
それが異性の場合だと少し様子が変る。もともと性行為を媒介として|伝《でん》|播《ぱ》するものだけに、そこには強烈な色気がある。官能をくすぐられ、|憧《どう》|憬《けい》が生じる。だから振り返るのは修学旅行の女学生ばかりではない。銀座の道に慣れ切ったような男女が、みな振り返る。女は隅田に、男は比沙子に魂を奪われるのだ。
だがこの夜、隅田と比沙子は体の中に熱いものをたぎらせながら、お互いがお互いに満足し切って歩いていた。隅田は赤以外の色感を失ってからまる二日、新宿の第四十西ビルにある東日ブラッド・バンクで、原杖人の監督下に置かれた。男性患者の最高位である第二位の患者だけに、特に慎重に扱われ、完全な第二期症状を確認してから三戸田邸へ送り帰されたのだ。
比沙子は三戸田から解放され、自分の赤い部屋で隅田を待ち焦がれていた。香織と三戸田に祝福されてその部屋へ入る途端、比沙子が激しく首にすがりついて来た。……それからの二日間、二人は全く言葉を交さなかったと言っていい。求め、求め返し、昼も夜もいだき合っていた。
それは常人の時のセックスの数百倍もの悦楽を生み出した。しかも、精力をつかい果したあとの、あのうそ寒い虚脱感など薬にしたくも見当らない、充実し切った愉悦の時間の連続だった。
時々ノックの音がして、その時だけ二人は赤い|寛衣《キトン》をまとって食事のために部屋を出た。料理はどれもこれも香辛料をたっぷり使ってあり、特に|大《にん》|蒜《にく》が多用されていた。|味《み》|蕾《らい》が刺細胞に変って、味覚が鈍っているからだ。
そしてきのう、二人は三戸田邸を出た。飯倉片町に建つ西域貿易のマンションの、最高の部屋を新居に与えられたのだ。比沙子と隅田は今夜久しぶりにつれ立って、こまごまとした日常のものを買いに出たのだった。
6
マンションの出入りは厳重に監視されていた。入口の自動ドアの上にテレビカメラがあって、一日中監視されていた。外から見るとごく狭いロビーだが、実は奥への通路が巧妙に曲りくねっていて、直射日光が入らないようになっている。本物のロビーはその奥にあり、|贅《ぜい》|沢《たく》なソファーが並んでいる。一般の来客や出入りの商人はその奥へは行けない。物の受け渡しも面談も、すべてそこで行なわれた。
外の通りから見あげると、半透明のガラスブロックを積んだ壁が窓に相当するように思えるが、内部では完全に遮光されている。どこからも自然光は入って来ない。一日中赤い照明がついていて、侵入者があった場合だけそれが白色光に変る。それが警報の役も果すのだ。仮りに昼間誰かが紛れ込んだとしても、白色光に変っている限り、外からの光が入って来ていないことなど、まず気づかない。すべて巧妙な間接照明になっている。換気も完全で冷暖房の設備も行き届いている。
タクシーを拾って帰って来た隅田と比沙子は、はずむような足どりで新居のドアをあけた。隅田は比沙子を抱きあげ、比沙子はむさぼるように隅田の唇を吸いながら部屋に入った。ふかふかした赤い|絨緞《じゅうたん》の上へ比沙子は抱かれたままハイヒールをふり落した。微笑していたが|眼《め》|尻《じり》に涙が光っている。
「どうしたんだ」
隅田は比沙子を床におろしながら優しく|訊《たず》ねた。
「倖せなの……」
比沙子は隅田の胸に顔を埋めて答えた。隅田はちょっと抱きしめてから手を放し、
「やっぱり比沙子は俺の妻だったんだな」
たしかめるように言い、軽く額にキスした。
「着換えるわね」
比沙子は患者特有の潤んだ|瞳《ひとみ》で言い、となりの部屋へ行く。すぐに出て来て赤い|寛衣《キトン》を渡すと、「まだ何もお話していなかったわね」と思い出したように言った。隅田はリビングルームのソファーに上着を放り出し、ネクタイを外しはじめた。
「そう言えばそうだな。……何しろ忙がしかったから」
そう言うとドアの向うから、「ううん……」という甘ったれた鼻声が返って来る。以前の比沙子にはなかったことだ。
「三戸田氏と最初どういうことだったんだ」
比沙子はドアから顔をだす。裸の白い肩がのぞいている。
「いや……」
「別に憤りはしないよ。仕方ないものな。だが知りたいんだ。教えてくれ」
顔が引っこんで声だけが聞えて来る。
「今井先生のお通夜のときはじめてお会いしたの」
「それは俺も覚えている」
「だいぶたってから呼び出されたのよ。昼間……あなたのことで相談があるからって。だってとても偉い方でしょう。大切なことだろうと思ってとんで行ったのよ。そうしたら」
「そうしたら……」
隅田は全裸になって|寛衣《キトン》をまとった。大きな一枚の布で、体に巻くと|左脇《ひだりわき》が少しかさなる。ウエストを|紐《ひも》のようなベルトで締めると上半身にたるみが出来る。右の脇の下をまわって布の両端は左の肩で留められる。少したるんだ分を女の和服のように|揃《そろ》えて下げると、腰のベルトでとまってうまく上着のすそのようになる。これはあのイリュリア人が香織に教えたものだそうで、ドリス式によく似ているが、それとも少し違うらしい。
「あなたにとても大切な仕事をしてもらいたいのだけど、どうだろうか……そう言われたの。あなたの才能を思い切り生かせる仕事だそうなので、ぜひにとお願いしたの。そのあと……」
比沙子は赤い寛衣を着て現われると、隅田の脱ぎ散らしたものを手早くかたづけた。
「あの赤い飲物をご|馳《ち》|走《そう》になったのだな」
まるで|嫉《しっ》|妬《と》というものがなかった。それが病体を獲得する唯一の途である以上、この時点での嫉妬は|綺《き》|麗《れい》に消えてしまっている。
「でも一生懸命だったのよ」
比沙子は隅田のうしろへ廻って肩の留め金の位置を直した。「とてもよく似合う……」
「押入れの赤ランプには驚いたよ」
「本当はもっと早くこちら側へ隠れなければいけなかったの。でも私、少しでも長くあなたといたかったの。でもあの朝、とうとうこれ以上我慢していると死んでしまうと判ったの。それで最後に……」
隅田はソファーに腰をおろし、比沙子は床に横ずわりになってその|膝《ひざ》にもたれた。
「大変だったな」
隅田はしみじみと言った。たしかに体質の差はあっただろう。隅田の症状は一挙に進んだが、比沙子のは緩慢だったという。しかし、それにしてもあの不安感、恐怖感、そして親患者を恋い慕う悪魔的な欲情にさからって、常人の夫の傍で頑張るというのは並大抵のことではない。それは三戸田も感心していた。
「あなたを誰よりも愛してるの。もしケルビムの時期が終って新しい生活がはじまっても、やっぱり私を奥さんにしておいてね」
「しかしセックスはないんだぜ」
すると比沙子は|怨《うら》むように、
「そんなの関係ないでしょう」
と言った。第二期に進むと舌の欲望がたかまり、たいていは新しい患者を作りたがるが、比沙子はその欲望にも耐えていたらしい。気をまぎらす為に赤い酒場でピアノを弾いてまわった。隅田が見たのはやはり比沙子だったのだ。
比沙子は不貞な妻ではなかった。並はずれて古風な女の道に殉じていたのだった。
7
それはまさしく蜜月だった。隅田はこれほど心の奥底をさらけ出して悦びをわかち合ったことは一度もなかった。性交に|羞恥《しゅうち》がつきまとうのは教育とか道徳とかいうもっと以前の、一種の防衛本能ではあるまいかと思っている。けだものの時代、それは|防《ぼう》|禦《ぎょ》不能の状態を作り出してしまうからだ。しかし、この病気を手に入れてから、性交はまるで別な意味を持ちはじめた。やがて石と化す運命に、|刹《せつ》|那《な》の快楽を求めるのではない。性交こそ不死に至る|鍵《かぎ》であり、最も重要な儀式でさえあった。比沙子の料理した辛い食事をおえたあと、二人はいまその儀式をはじめようとしている。底知れぬ精力がたぎり、ブレーキをかけるもののまるでないあけっぴろげな欲情をみつめ合っている。
比沙子はスラリと立ちあがり、後頭部でゆるく束ねた髪をといた。柔かく長い髪が背中に流れ肩にかかった。赤い部屋の赤い光の中でなお、その頬に血の色がさすのがわかった。潤んだ瞳がいっそう潤み、唇はそれよりもなお濡れて光った。欲望に燃えたつ瞳を隅田にひたと据えたまま、ゆっくりとあとずさりして行く。うしろ手でステレオのセットをさぐり、テープのスイッチを入れた。隅田は立ちあがり、比沙子が近づいて来た。二人は互いの体に腕をまわし、ゆっくりと踊りはじめた。触れ合うすべての部分が性感を伝えた。比沙子はすぐに|喘《あえ》ぎはじめ、両手を|這《は》うように上下させて隅田の体を|愛《あい》|撫《ぶ》しはじめる。耐えることが欲望を更に深め、いずれは手に入る愉悦が、この上もなく貴重なものに感じられる。
二人は何曲も踊りつづけた。比沙子は隅田の胸に背中を合わせ、赤い|寛衣《キトン》の上から体の前面を|揉《も》みしだかれて下唇を|噛《か》みながら、それでもステップを続けている。|寛衣《キトン》がよじれ、左半身の柔かい胸から横脇腹、そして|腿《もも》からすんなりとした脚が、割れた布の間にのぞいていた。
「あなた、お願い……」
途中で比沙子は何度も懇願した。だが隅田はそれを拒否することに加虐的な悦びを味わっているようだ。やがて比沙子はうしろ手で隅田の寛衣のベルトの端を引いた。それはするりと抜け、いつの間にか床に落ちる。寛衣は隅田の左肩で留められたまま、マントのようにずるずると床を這う。そして隅田も比沙子の留め金を外した。はらりと赤い布がたれさがり、丘はじかに攻められる。突然隅田が比沙子のベルトを遠くへ放り投げた。寛衣は床に崩れ、わずかに左肩で留っていた隅田の|寛衣《キトン》が二人の裸身にさっとまきついた。二人は足をとめ、お互いの肌を、一分の|隙《すき》も作るまいとするかのように押しつけ合った。
比沙子が比沙子らしからぬ|呻《うめ》き声をあげた。あたりはばかることのない雌の呻きだった。それは雄に対する服従の意味を全く欠いていた。自分自身の快楽に立ち向い、その収穫をさらに増やそうと|爪《つめ》をとぐ戦いの叫びだった。体位に正常も異常もなかった。どんな体位であれ、比沙子は頂きをきわめるため隅田に立ち向って来た。病気が尽きぬ体力を約束していた。常に新鮮で常に充実しているのだ。
比沙子はまさしく|娼婦《しょうふ》の心を獲得していた。それは患者特有のものなのだろう。比沙子はいま|佇《ちょ》|立《りつ》したまま隅田の唇を求めて来た。隅田がそれを求めるなら、隅田自身に一望を触れず果てようというのだ。……指戯が比沙子を至らせ、比沙子の舌が隅田の胸に快美感をぶちこむのだ。
それは奇妙な交わりだった。隅田の本来のセックスは何もまだ得ていず、比沙子の歓びが舌をつたってはね返ってくる。隅田は自分自身を責め続けていたことになるのだ。
隅田はふと黒魔術的な狂宴を連想していた。魔女たちの乱交する夜にも、これに似たものがあったのではないだろうか……。
8
「くだらねえ……」
近頃伊丹英一は何かというとそうつぶやくようになっている。祥子はそれをひどく嫌がる。祥子の知っている男で、いつもひとりごとを言う初老の人物がいるのだ。
「みじめになっちゃうからやめてよ」
祥子は伊丹をそう|叱《しか》りつける。祥子の知っている初老の男のつぶやきは、よく聞くと愚痴ばかりなのだそうだ。思考がすべて言葉になって口から出てしまうのだという。
伊丹のも愚痴と言えば愚痴だ。今度の件で世の中を憎みはじめている。伊丹にとって、犬神や吸血鬼が実在していそうだということは、電車のストや水道の断水、借金の催促や|惚《ほ》れたはれたの騒ぎより、もっとずっと重要なことなのだ。人類全体の大問題だと信じている。もし狼人間が実在するとしたら、もし吸血鬼が夜の|巷《ちまた》をとびまわっているとしたら……それが事実だと判ったら、どんな国も戦争などしていられない。株の取引など中止して、全人類がこのことにかかりっきりにならねばならない|筈《はず》なのだ。
そして今、吸血鬼や狼人間が存在するのではないかという疑いが、真昼の道の自分の影よりも濃くなっているというのに、その追求の時間が思うにまかせない。食う為の仕事、将来のための仕事、祥子と抱き合って眠る夜……そんなことのために、いや応なく時間が削りとられて行く。
なぜ何もかも|抛《ほう》り出してそのことに駆けずりまわらないのかと、自分自身がじれったい。だがどうにもできず、きのうのつづき、明日の準備……だからくだらない。世間がではなく自分がだ。自分を含めた世間全部、地球上の人間という人間がくだらない。
ポスターの仕事を広告代理店の男が持ち込んで来る。説明を聞きながら吸血鬼のことを考えている。だが気づくと丁寧にメモをとって、その上自分から新しいアイデアまで出している。祥子とふたりでスケジュールの調整をしている。ギャラがきまり、少し早目に払ってもらえないかなどと交渉している。……それでいて、こんなのくだらない。どこかに狼人間がいるんだ吸血鬼がいるんだと……。
客が帰る。世界中の人間がこのことのカタがつくまで飯を食う暇さえない筈なんだ……。そう思い思い次の仕事の構想を練る。モデルは誰と誰、ロケ地はあそこ、|衣裳《いしょう》は小道具はヘアーはメイクは……。それにしても時間が欲しい。欲しい筈の時間を俺はまた売っちまった……。つい、鉛筆を抛り出してつぶやいてしまう。「くだらねえ……」
「また……」
祥子が灰色のドアのところに突っ立って|睨《にら》みつけていた。優しさのまるでない眼……。
「悪い悪い」
伊丹は|剽軽《ひょうきん》に頭を|掻《か》いて見せる。祥子にではなく、自分自身がこの銀座のオフィスで写真家になり切るためにだ。
「どうしてそうなっちゃったの……急に」
祥子は今日という今日こそ結着をつけてやると言わんばかりに近寄って来る。ぶらさげたロールフィルムから水が床にしたたる。
「原因は隅田さ。|奴《やつ》を探し出す時間が欲しい。……そう思わないか」
「そう思わないかって……」
「吸血鬼さ。狼人間もさ。お|伽《とぎ》ばなしや迷信じゃなくて本当にこの東京のどこかでうごめいてるようだろ。こんなのんきなことしてていいのかな」
祥子は急に笑顔になった。笑み崩れるといった顔だ。物判りのいいセクシーな女房……。
「貯金ならあるわよ。あなたのも私のも」
フィルムを紐につるしながら言う。ブラウスが窓の逆光を浴びて透けて見える。今日のブラジャーは肌色の奴だ。「時間が欲しいのね」
そう言うと伊丹のうしろへまわって肩につかまる。「狼をつかまえて|檻《おり》に入れたいの。吸血鬼の胸にくさびを打ちこみたいの……」
「そういうところだ。でも俺は検察官じゃない。どんな奴であれ裁くのは俺じゃない。告発もしたくない。そういう性分に生まれついてる。だが、狼人間や吸血鬼がいたら、それがどういう形で、どういう生き方をして、人間とどういうつながり方をして来たかは、イの一番に知りたい。古代の遺跡を発掘するのと同じさ。ただ知りたいんだ」
「それで生活はどうなるの……私たちの」
伊丹は|憮《ぶ》|然《ぜん》とさせられた。お前もかブルータス……。だが振り向いて見ると笑っていた。悪たれ小僧がうまく悪戯を仕組んだ時の笑顔だ。ニタニタと……こいつ男みたいだ。
「いいさ。暇みつけてボチボチやるよ」
妥協せざるを得ない。何もかも判ってくれていて、好きなようにしなさいと下駄を預けているのだ。常識的な線に戻らざるを得ない。……くだらねえ。今度は頭の中でつぶやいた。
9
秋の日が素早く暮れて、赤坂|界《かい》|隈《わい》にも灯がともる。ぞろぞろとサラリーマン達が地下鉄の駅へ流れ出して、その流れもいつか細くなり、人影が減る。すると今度は黒い車が料亭街に姿を見せはじめる。狭い道に注意深くのり入れ、どこかですっと人をおろして通り抜けて行く。ほとんどがシートに白いカバーをかけている。テレビのCMで気ちがいじみた|喚《わめ》き声をさせるブリキのおもちゃはこの辺りには入って来ない。みんなほんものの乗用車。|御《み》|簾《す》をたれ、しずしずと走る車だ。中のシートにもたれているのは発言力とコネと、そしてとても重要なカオ……。
クリーム色のビルの前にそうした車が何台も停って人をおろして行った。その中でどんな料理をいくらで食わせるのか、ふつうの人間には判らない。知らないし知ろうともしない。レベルが違うクラスが違う社会が違う。大都会の人間は、街の中に見えない多くの層があって、自分はどの階層で呼吸しているかちゃんと知っている。入れる店と入れない店があっても不思議に思わない。社会全体が一人一人をそういうように飼いならしているのだ。
部長の様子がああだこうだ……それを心配しいしい、実は|肴《さかな》にして飲んでいる連中がいる。気どって、紳士ぶって、有能ぶって。だがそんな連中はそれで結構紳士だし有能なのだ。飲んでいる店の造作、ホステスの衣裳、マネージャーの月収……そんな周囲とぴたり調和がとれている。その範囲で紳士、有能。
若い娘たちがラーメンを|啜《すす》っている。週刊誌にこう出ていた、ああ書いてあった。……それが|愉《たの》しい。器量のいいのとふつうのと、おしゃれな娘と地味な娘……いちばん器量よしでいちばんおしゃれでも、有能な紳士たちの行く店のホステスとはだいぶ違う。だが彼女らはそれで結構美人だしセンスがいい。親の家の部屋数、ボーイフレンドの月収、出勤時間と残業手当……そんな周囲とぴたり調和がとれている。
だが時にはその階層をいろいろな形でとびこえるものがある。今の場合、ラーメンを食う娘達の所から、ひとっとびに赤坂のクリーム色のビルの奥までとび越えたのは、彼女達が話題にしていた週刊誌の記事だ。
アメリカやヨーロッパの政・財界からじかに太いパイプを引きずって来たと言われるQ海運極東総支配人ヤズディギルド。CIA内部でも何をしているのかよく知られていないアメリカ人がふたり。そして東日銀行会長三戸田謙介。それにつきそって来た呂木野という冷たい感じのハンサムボーイ。まるで場違いな原杖人。そう言った人間が|楕《だ》|円《えん》|形《けい》のテーブルについている。テーブルに出ているのは灰皿だけ。何人かは緊張しているようだ。
「物好きもおるもんだ……」
三戸田は|微《かす》かに口もとをほころばせて言った。きちんとダブルのダークスーツを着て、渋い凝ったネクタイをしている。背も高くがっしりと肩幅も広い。首は太く顔の肌はつやつやとしている。世界のどこへ出しても第一級の代表的日本人として通用するが、かけている眼鏡だけはひどく異様だ。赤いサングラス。……患者のためには特に赤いインテリアが用意される。しかしどこへ行ってもそれで押し通すわけには行かない。患者は色がないことにひどく不安定なものを感じる。色はないよりあったほうが落ちつくのだ。
「メガリス研究家をはじめ、一部の考古学者、またはその愛好家は時々かなり真相に近いことを言い出す場合もあります。いままでも世界各地でそういうことが起りました。しかしいつもそれはごく部分的なもので、言い出した本人自身、本気で言っているのではないのです。……しかし今度はちょっと様子が違いますな」
ヤズディギルドは緊張の色を隠していない。何か不祥事が起れば責任は最終的にヤズディギルドが負わねばならないのだ。極東総支配人……Q海運の真の母体は暗殺教団なのだ。そのさきは更に古代へさかのぼる。人類史のいろいろな時点でケルビムが発生し、破壊されたものもあれば、うまく隠されて完全に保存できたものもある。未発見のケルビムを探し出してより完全に保存することから、患者群を保護し安全にケルビムに仕立てあげることまでが彼の責任なのだ。失敗には厳しい|掟《おきて》が待っている。
「とにかくこの二冊の週刊誌の記事は我々にとって死活問題です」
CIAの男が言った。「大杉実という小説家はどういう人物です」
呂木野がうっそりと立ちあがり、テーブルをまわって赤い表紙のファイルを全員に配った。大杉実の身上調書だ。驚くほど詳細をきわめている。原杖人だけがファイルに手もつけない。大杉を知っていたのだ。
10
「呂木野。お前の意見を聞こう」
三戸田謙介が言った。呂木野は赤いサングラスなどしていない。ひょろりとした体つきをしているが、タフで|敏捷《びんしょう》で頭が切れる。三戸田は以前呂木野を評して、東日油化の社長ぐらいにはなれる男だと言った。患者組織を五つの地区に分け、各地区に責任者を置いて全体の保安を掌握している。
席に戻った呂木野は立ったまま答えた。
「放置すれば事態は重大化。これは明白。大杉は処理。それが最善。しかも早期に。加入は認められない」
呂木野の|喋《しゃべ》り方には独特の癖があった。要点だけをぶつ切りに喋る。
「加入はさせられん……」
ヤズディギルドは失笑したようだった。「これを加入させたら伯爵は私が気が狂ったと思われるだろう」
伯爵とは全世界の組織の長だ、加入する、加入させない。……それは患者にするかしないかという意味だ。ケルビムの世界には古代からひとつの不文律があった。それは|容《よう》|貌《ぼう》に関しての掟だ。不死の生命を得て不滅の世界に生き残るのは美男美女でなくてはいけない。美しく生まれた者……その美しさが権利だった。醜い者を不滅にしてはならない。来世は美しくあらねばならない。大杉は美男ではなかった。
「しかし一般の連中のように消してしまうわけには行きません。それはうまくない」
CIAの男が口をだした。「有名人だから、妙な死に方をされては後の始末が増えてしまいます」
すると原杖人が素っ気なく言った。
「カーナーヴォン卿のときのようにですかな。ヴィンケルマンのときは一人ですんだが、シュリーマンのときには孫も殺さねばならなかった。だがカーナーヴォン卿のときはファラオの|呪《のろ》いと騒がれたのでしょうが」
CIAの男はとり合う気もないらしい。
「昔の話です。私らは知らん」
「先生は正しい」
呂木野は立ったまま言った。「気づかれたら沢山の物書きが今度の記事をほじくる。問題をそらせる」
「どうやってそらせる」
ヤズディギルドが言う。
「店をひとつ閉鎖。よろしいですか」
三戸田謙介にたずねた。「人形町の岩屋。あれを閉めます」
「なぜ岩屋を選ぶ」
ヤズディギルドが鋭い眼で言う。
「もうひとつトラブルが起きかけています。映画俳優を不法加入した女がいる……これと小説家をからませると、役者も小説家も女も消えます」
「情痴のもつれ……そうだな」
「はい」
「いいだろう」
「派手なことになる……」
CIAの男が言った。
「注意して置きますが、この件に関しては充分各方面に気を配っていただきたい。こちらの手にある情報では、首都圏住宅公社の開発本部長が守屋の動静に関心を持っているようです。一方の記事が守屋の件に少し触れていますからね。先生、あなたのミスですぞ」
ヤズディギルドはとがめるように原杖人を見た。全員の視線が老医師に集まる。
「昔の話じゃ。今は知らん」
原杖人はケロリと言った。「それより血も採らずに死なせるのが惜しい」
二、三人の顔に苦笑が浮んだ。呂木野もその一人だった。苦笑しながら言う。
「その人物についてはよく調査します。しかし公社の人間ならそちらで処理できるはず」
「それはそうだ」
ヤズディギルドはうなずいた。「こちらもよく調べて、穏便な手段を考えよう」
「もう一人……」
呂木野はまだ突っ立っている。「未調査ですが、隅田賢也の関係者」
「隅田の……夏木建設の専務か」
三戸田謙介が|眉《まゆ》をひそめて言う。
「それもいずれは問題に。だが今のところまだ……」
呂木野はぞっとするような冷酷な表情を作った。「隅田氏の友人。大杉実の友人。大杉の始末をどうごまかしてもその男は動く。きっと動きます」
一同は呂木野の言葉を待って沈黙していた。「名前は伊丹。名の売れたカメラマンです」
ヤズディギルドが大きく舌打ちをした。
「いけませんな、どうも」
三戸田謙介の顔を見てそう言う。
「伊丹……」
三戸田はちょっと考え、「その名は聞いたことがある。呂木野、お前今夜香織様にくわしくご報告しなさい」
静かな声で言った。
「香織様に……」
呂木野と原杖人が同時に言った。
「その男は多分新加入だろう。それなら早いほうがいい。いや、早くせんといかん」
「二位……」
原杖人がポツンと言った。|顎《あご》をなでている。呂木野は立ったままそれを見おろし、
「二位の人だって……」
と低い声で言った。
「隅田賢也とその男とは香織様を間にある関係があったらしい」
三戸田はそう言って|謎《なぞ》めいた笑い方をした。淫蕩で加虐的な笑い方だ。原杖人がそれを医師の眼で観察している。患者は第二期の中頃から加虐的な傾向を示しはじめる。超人化の初期兆候といってもよい。人間性の軽視が露骨になり、エリート意識にこりかたまって来る。そしてやがて実際に凡人の血を吸うようになるのだ。
第十三章 サン・ジェルマン伯爵
1
隅田は昼に慣れはじめていた。それは全く新しい昼だった。
はじめ、昼はおぞましいものだった。活力に|溢《あふ》れた夜にひきくらべ、昼は気力が|萎《な》え、いらだたしい不安感がつきまとっていた。比沙子はそれを病気に慣れないせいだと言い、隅田の気を紛らすために、殊更|淫《いん》|蕩《とう》にふるまっているようだった。患者にとって昼と夜は逆転しなければならない。比沙子は既にそれに慣れていて、窓のないマンションを信頼し切っている様子だった。
昼は一歩も外へ出るわけには行かない。異常な精力と|昂《こう》|進《しん》した性欲を持った男女が密室にとじこめられていれば、その時間が激しい求め合いに費やされるのは当然のなりゆきだ。しかしまだ慣れぬ隅田は、壁の外の陽光におびやかされて比沙子の挑発に乗りかねることが多かった。
だが、病状は患者同士が舌端の快楽を交すことで一層進行するようだった。隅田は昼が悦楽の時間であることを理解しはじめ、夜の充実感は何か別なことにふり向けたほうが健康的であることを知った。
夜の|燥《はしゃ》いだ気分の時間を、とざされた場所での快楽に費やしてしまうと、いや応なく閉鎖される昼の時間がいっそういら立たしく、不安になって行くのだ。昼を安定した精神状態で過したいならば、夜の間積極的に人々と接し、何か仕事をしていたほうがいいのだ。
比沙子が必要もないのに三戸田邸を出て、傘下の店々でピアノやエレクトーンを弾いてまわっていたのも、そういう理由からだった。第一傘下の店々があること自体、患者たちのそうした精神状態に応じたもので、いわば夜の間に|或《あ》る程度の社会的活動をするのは、この病気の症状のひとつでさえあった。
隅田も陽が落ちる頃から仕事にとりかかった。守屋の五角形の土地は、古代の地相学のようなものによって選ばれているらしいことも判って来た。陰陽五行説に似た原理だが、守屋の土地はその理論から行くと、凶地に属している。その土地は悪運にとざされ、住む者は衰微の一途を|辿《たど》るのだ。発展せず、時の流れに取り残されていつまでも人に知られることがない。
理論そのものは、現代人の眼から見て荒唐|無《む》|稽《けい》だ。論法は終始抽象的で難解を極めるが、結果的に見て守屋がそのとおり、歴史の死角にはまりこんでいることはたしかだった。首都圏の一部として、近傍が発展しても、守屋地区だけは常にとり残されていた。数々の道路計画も守屋を避けて通る、風魔一族の|末《まつ》|裔《えい》を自称した風間家も、あのさして広くない五角形の土地だけに頼って何百年もただ生きのびて来たというに過ぎない。
隅田はふと、こんな想像をして見た。……占星術や易学の一部には、こうした死点を求めるための技術があったのではなかろうか。ふつう方位や未来を占うとき、それはあくまでプラス面を求めるのだが、ケルビムの保存という要素を考えると、|瑞雲漲《ずいうんみなぎ》る土地は決して好ましくない|筈《はず》なのだ。エジプトのファラオ達は、決して人にひらかれることのない、徹底した凶地を求めた筈だ。ひょっとすると王陵の谷は、何らかの意味でその地形が守屋に似ているのではないだろうか……。
五角形と思い込んでいた守屋の地形が実はひとがたを意味しているのを知ったとき、隅田はふとユダヤのシンボルを思い出した。あの星形は守屋の五角形と同じ意味を持っているのではあるまいか。
日本の巨石信仰が北方騎馬民族によって持ちこまれたとすれば、それは|蒙《もう》|古《こ》や中国、そして西域を経由してカスピ海や黒海に達する。朝鮮半島の|碁《ご》|盤《ばん》式支石墓、中国のドルメンである|石《せき》|棚《ほう》、蒙古からシベリアへかけての石堆遺構オボ、そしてカーメンナヤ・バーバ、……そしてカフカズ地方に至れば、もうそこはメガリスの本場と言ってもよく、西カフカズには千五百基を越す大集落がある。またヒンズークシからヒマラヤ周辺にアーリアの原郷があったとすれば、化石民族カフィールのほかにナガ族、そしてインドにはコチン藩のガダル族、マドウラ地方のパリヤン族、ニルギリ丘陵のリルラ族、ハイダラバードのチェンチュ族など、プロト・アウトラリーデに属する諸族がいて、その中のあるものたちは巨石墳墓製作の技術を今に伝えている。ドラヴィダ系のモヘンジョ・ダロを滅亡させたのはインド・アーリア族だが、彼らの侵入経路は中央アジア、アフガニスタン、カブール渓谷経由であることが判っており、リヴ・ヴェーダはその時代のものだ。
一方、聖書考古学はアブラハムたちの原郷をチグリス、ユーフラテス上流のハランにまでさかのぼらせることに成功している。アッシリアの古文書とつき合わせると、彼らは更に北方からやって来た侵入者である可能性が濃い。また彼らはその初期に、隣人であるカナンびとの神の称号と権能を共有し、カナンのエル、バアルなどはヤーヴェの別称にされている。主、を意味するバアルは、エルの子で、エルの妻はアシラなのだ。リヴ・ヴェーダのアシュラと原郷をひとつにしてはいないだろうか。……エルとアシラの子バアルは、アナテという名の妻を持っている。アナテの性格は残虐をきわめ血を好み、かつ愛の女神でもある。そして更に、侵入者ヘブルびとはハピルの名と同定されている。……ハピル。それが隅田には、|狼《おおかみ》人間や吸血鬼、それに魔女などの意味を含むウピールを連想させていた。
現代と古代、西洋と東洋をつなぐもつれた糸をときほぐしながら、隅田はケルビムを収容するタイムカプセルに似た現代のメガリスを設計しはじめている。
夜の間に用意された指示が朝になると極秘扱いで東日系各社にとび、コンピューターがその解答を求めて|唸《うな》りをあげていた。
2
電話連絡の回数が増えて来た。夜も昼も頻繁にベルが鳴るようになり、隅田自身もよくダイアルを廻した。
東日グループに所属する者の間で、隅田はいつの間にか雲の上の存在になっている。どこから|洩《も》れるともなく、隅田が東日の上層部に入りこんだことが知れ渡り、しかもそれを知っている者は各階層でのごく限られた重要人物たちだけだった。隅田の名は最高機密を意味し、その指示は最優先で処理されなければならなかった。
隅田は夜になるとまめに出歩いた。林はもう隅田の居場所を知ることのない立場になっていたが、隅田の連絡員として忠実に働いている。昼電話で話し、夜会う。……林はそこにある秘密を一向に気づかない。当然だと思っている。昼はどこかで仕事をし、それが終ってから出て来る。その仕事場は林の知るべき範囲を超えている……そう思い込んでいて、むしろ昼の居場所に自分から触れまいとしている。
隅田は林以外の人間ともよく会う。人々は隅田がいつの間にか威圧するような貫禄を身につけたと、陰で感心している。実は病気のためなのだが、誰もそうは思わない。以前なら隅田が敬称をつけて呼ぶような相手でも、会えば立場が逆になる。……首都圏住宅公社の竹中開発本部長もその一人だった。
「実は今日お越し願いましたのは……」
竹中はそう言って|膝《ひざ》を|揃《そろ》えた姿勢で徳利をさしだした。場所は赤坂の二流の料亭で、皮肉なことに例のクリーム色のビルのすぐ傍だった。
「なんでしょう……」
隅田は悠然と|盃《さかずき》に酒を受けた。用件は判っている。竹中はしつっこく隅田の所在を追い求めていたらしく、隅田はうるさいから一度会ってやるようにと指示を受けていた。もちろん林が仲だちしている。
「私は長い間多摩ニュータウンと並行して、神奈川の開発計画を進めていたのですが……そのことで少々おうかがいしたいことがありまして」
竹中はたかが夏木建設の設計課長と、一気に真相を問いただすつもりでいたらしい。しかし今の隅田は竹中の手に負えない人間に一変してしまっている。
「と言いますと」
竹中は無意味に|咳《せき》ばらいをして、
「つまり、いろいろ、各方面の事情が介在しているのでしょうが……あなたはいわば……いえ、こう申しては失礼かも知れませんが」
「どうもおっしゃりにくい話のようですな。私が要約しましょうか」
隅田は皮肉たっぷりに言う。それが楽しいのだ。「あなたはあの守屋の塚石という土地を西域貿易の不動産部が買い取った理由を知りたがっておられる。西域……つまり東日。あなたの計画を壊したのは東日だと疑っておられるのでしょう。私がその問題の土地を手がけはじめた。夏木の出向社員であることもお調べになったのでしょうな。……そこでこうお考えになった。私は東日と余り深い関係を持っていない。一介の設計家にすぎない。どういう理由で計画が|潰《つぶ》れたか知るには私から聞き出すのがいちばん早い。……そういうことでしょう」
竹中は黙って頭をさげていた。
「仰せのとおり私は一介の設計家です。何も知らされてはおりません。しかしひとつだけ判っていることがあります。手をお引きになったほうがお為ですよ」
「私は守屋地区の発展のためにも……」
竹中は思いつめた表情で言いかけた。
「そこがまずいのです。守屋はあなたのご出身地でしょう。純粋論は通りにくい。……それに、こう申しては何だが、住宅公社の開発本部長としては、首都圏周辺のプロジェクトを無制限に拡大して行っていいものでしょうかね。これは私見ですが、この辺で単に数を増やすための住宅対策は考え直すべきではないでしょうか。私は政府のどこかで新しい考え方が動きはじめている頃だと思いますね。首都圏の膨張を抑える方向が出はじめているとしたら、問題はまるで違って来はしませんか。東日が土地を購入する。そこに何かの政治的要素がからんでいる。……そういうこともありましょうが、今度は違うのではないかと思いますよ」
「いったい守屋に何が建つのです」
「何も建ちはしません。生産的なものは」
竹中は意表をつかれたようだった。
「では……」
「三戸田謙介氏の個人的な建築物です。ご自分の墓所といってもいいし、礼拝堂といってもいい。あれ以上土地を買い集めるおつもりもないそうですし、ましてやそこで利潤を生む計画もありません」
竹中は|唖《あ》|然《ぜん》としていた。拍子抜けした|恰《かっ》|好《こう》だ。
「お判りになりませんか」
隅田は冷笑気味に言った。「今まで拡大していた首都圏は、もうそれをやめる時期に入ったらしいのです。少なくとも守屋ではね。あそこが今後とも閑静な環境を維持することがはっきりしたので、三戸田会長が入手された……こうお考えください」
竹中はハア、と言って考え込んでしまう。隅田は徳利をとって酒をすすめた。
「ところで、ひとつ私はあなたに関する重要なことを聞いていますよ」
竹中はギョッとしたように顔をあげた。不安が漲っている。
「…………」
「第六次国土総合開発計画が近く具体化するそうですが、あなたの今日までの実績が高く買われて、そちらの責任者の候補に挙げられているそうです」
隅田は竹中の表情の変化をたのしんでいた。
3
テレビ局の調整室のような部屋だった。壁にブラウン管が並んでいて、コントロールパネルの横でテープレコーダーが何台もゆっくり廻っていた。若い男がひとり、のんびり|椅《い》|子《す》にもたれてブラウン管に映る各階の客室の有様を眺めている。
ドアが急にあいて男が振り返る。呂木野の冷たい眼がその顔を見返すと、男はまたブラウン管に視線を戻した。
「異常は……」
呂木野が|挨《あい》|拶《さつ》のように言い、若い男も挨拶のように答える。「今のところありません」
呂木野は上着を脱いでドアの横の帽子かけにつるすと、棚から小型のテープレコーダーを出して電源にプラグをさし込んだ。軽い音がしてカセットがはめこまれ、やがて隅田の声が聞えはじめる。
「……どうもおっしゃりにくい話のようですな。私が要約しましょうか」
隅田は相手を小馬鹿にしたような言い方だった。呂木野はニヤリとする。
「あなたはあの守屋の塚石という土地を……」
呂木野は視線をずらりと並んだブラウン管に移し、椅子に腰をおろすとネクタイをゆるめた。二階のバーで平戸崎代議士が三人の女客に囲まれてやにさがっている。いちばん若い女の手をまさぐって、しきりに何か|喋《しゃべ》っている。時々平戸崎の|隙《すき》を見ていちばん|年《とし》|嵩《かさ》の女とその女が眼で合図をする。だが平戸崎はそれに気づかない。手を放して腕時計を見せている。次にタイピンをひっぱる。……海外視察旅行の獲物を自慢しているのだろう。
呂木野は低い声で笑った。テープで隅田の声が竹中の昇進をほのめかしていたからだ。
「隅田氏は使えるな」
「二位のかたですね、新しい……」
若い男は前を向いたまま言う。
「いずれここへも来るだろう。大変な美男だぞ」
「聞きましたよ」
「何をだ」
「新宿の松原さんがあの方と一緒の所を石津たちに踏み込まれたという話です」
呂木野は舌打ちをして立ちあがり、テープをとめた。
「困ったもんだ」
カセットを外しながら言う。「ああいうのがいるとやりにくくて困る……」
若い男は振り向いて背中を見せている呂木野に言った。
「何しろ二位ですからね」
呂木野は低いが強い声で、
「それを言うな。あれでも俺の親なんだぞ」
と|叱《しか》った。若い男は首をすくめる。呂木野は足ばやに上着をぶらさげて出て行った。一階のロビーへ現われたときはきちんとネクタイを締め直し、上着のボタンをかけている。軽い身ごなしで|螺《ら》|旋《せん》階段を駆け登り素早くエレベーターへ滑り込む。七階で降りて廊下を何度か曲り、焦茶色のドアをあけた。|楕《だ》|円《えん》|形《けい》のテーブルが中央に置いてあり、そのまわりに十人ばかりのダークスーツの男達が|坐《すわ》っていたが、呂木野を見るとさっと立ち上った。
呂木野はいちばん奥の、時々三戸田謙介がそこへ坐る大きな背もたれのついた椅子に腰をおろすと、軽く左手をあげた。ダークスーツの男達が静かに着席する。
「みんな書類は読んだろうな」
呂木野は全員を見まわし、きめつけるような言い方をした。めいめいの前に赤い表紙の薄いファイルが置いてあった。
「特に細川君はもう何が起るのか判っているだろうが、人形町の岩屋は閉鎖することに決定した」
呂木野の薄い唇がぬれて光っている。「月岡哲郎は処分される」
言い方がだんだん強く、短くなって来る。緊張しはじめた時の呂木野の癖だ。
4
「市村志津江も死ぬ」
岩屋のマダムの名を言った。楕円形のテーブルに動揺が起った。一人だけ、表情を堅くして動かない男がいた。「細川君」
呂木野がその男の名を呼んだ。細川は感情を|圧《お》し殺した|瞳《ひとみ》で呂木野に顔を向けた。やはり整った顔だちの美男だが、呂木野に劣らず酷薄な雰囲気を漂わせている。
「私に異議はない」
唇を動かしたとも見えぬ様子で細川が答えた。「だがまさか私に|殺《や》れと言うんじゃなかろうな。私の役目は各地区の店舗の管理だからな」
「先まわりしてもらっては困る」
呂木野はわざと穏やかに言う。「ただ了解してもらいたかっただけだ。何しろ君の親に当る人だからな。それでないと他の者がやりにくい」
|暫《しばら》く|睨《にら》み合う。ひえびえとした空気が二人の間に流れた。
「ところで……」
眼をそらし、口を切ったのは呂木野のほうだった。ボールペンを両手で軽く支え、その軽さをたのしんでいるように一座を見まわした。「もう一人処分したい人間がいる。一般人、大杉実。ファイルにある」
あらためてファイルを見返す紙音が聞えた。「写真で判るように加入させられない」
誰かが失笑したようだった。
「三人は一度に死ぬ」
また動揺が起った。今度は細川も顔色を変えている。
「なぜですか」
末席から質問があった。
「大杉を|殺《け》さねばならぬ理由は知ってるな」
呂木野はその方に向って言った。「ハイ」と返事がある。
「有名人だから、いつものように蒸発というわけには行かん。出来るだけあのふたつの記事との関連性を気どられずに済ませたい。そこで月岡哲郎と市村志津江の情死にからませる」
「どうする気だ」
細川が|蒼《あお》い顔で|訊《たず》ねた。
「市村志津江は大杉実に乗りかえようとした……」
細川はピシャリとファイルをとじ、椅子の背にもたれて腕組みをした。眼を強く閉じている。呂木野はそれを無視した。
「月岡哲郎がその現場にのり込んで二人を殺し、自分も自殺する」
「ほかのホステスたちはどうします。そういう派手な事件になれば、当然事情を聞かれますよ」
一人が|芯《しん》から心配そうな声で言った。
「細川君に手配してもらう。できるだけ自然に、今のホステスたちをよそへ移してしまって欲しい。近所の店から、一般人の女を入れる。市村志津江にも気づかせるな」
細川は黙然と腕を組んでいる。
「いいか……」
呂木野は念を押した。眼をひらいた細川の顔に苦渋が|溢《あふ》れている。
「承知したよ」
「大杉実を岩屋に連れ込む手順はどうするのです」
別な男が言った。険悪な空気をほぐそうとしているような調子だった。
「わけはない。その点はこちらでやる」
呂木野は言い、それから一人一人に分担する仕事を説明した。事件の舞台になるホテルを設定する者、月岡が何か他人に|洩《も》らしていないかチェックする者、志津江を監視する者、志津江の架空の住所を作って今までの生活を探知不能にする者……細川には何の役も割り当てられない。
「今後、店舗の増設は原則としてなくなる。そろそろケルビムが出はじめるのだ」
最後に呂木野はそう言った。
5
隅田のとなりに原杖人が坐っていた。車は外国製のステーションワゴンで、前のシートにも肩幅の広い二人の男がいた。
「風間はどうした。この頃姿を見せないようだが」
原杖人が言った。
「あの野郎近頃様子がおかしいんですよ」
前のシートの男が答える。ふり向いた顔は患者のものではない。竹中と別れてからこの車に乗り込んですぐ、隅田はそれに気づいていた。
「どうしたのかな」
「何か妙にオタオタしてやがるんで。ボスも気にしてなさるんだが、何も喋りゃがらねえ。誰かにやられたらしいんです。顔中傷だらけで、ちんば引いてやがる」
「それはいけないな。|儂《わし》の所へ来るように言いなさい」
原杖人はひどく親切そうな顔で言う。事実親切なのだ。やくざ連中の面倒を見るのが面白いらしい。特に風間という男には眼をかけている。
「……この人達は真名瀬玄蔵の身内でね」
隅田に説明した。隅田はそれで納得できた。真名瀬一味は患者群の外郭防衛組織に使われている。昼の仕事を引受けているのだ。そのかわり、Q海運ルートで麻薬などの供給を受けているし、少数だが問題にならぬ程高度な暴力組織の支配も受けている。いわゆる暗殺教団という|奴《やつ》だ。それに、夜になれば体力的にも一騎当千になっている男性患者群が彼らを監視する。真相を何ひとつ知らせずに利用するには、真名瀬一味は|恰《かっ》|好《こう》の連中だった。真名瀬玄蔵が群雄割拠の暴力地図の中で、新宿という要衝を支配していられるのは、患者群あればこそだった。
「たのもしい人達ですな……」
隅田はわざと前の二人に聞えるように言った。からかうのが癖になりはじめている。
「そうでもない。……なあ」
原杖人は二人に同意を求めるように言った。笑っている。
「あいつだけは苦手なんですよ。薄ッ気味悪くていけねえ」
ハンドルを握っているほうが言う。本気な顔だ。車は昭和通りを右折し、|蠣殻町《かきがらちょう》の方へ向う。
「この二人は|狼《おおかみ》が苦手でね」
原杖人はたのしそうに言った。「こわがって傍へも寄れない」
「気違いでしょう。あれは。……気違いはいけねえや。それに|糞《くそ》ぢからがありやがるし」
水天宮へまた右折……その先きの一画がひどく暗い。|闇《やみ》にとざされている。車のスピードが落ち、ゆっくりと小さな橋を渡る。
「この辺りをご存知かな」
「箱差町……でしたか」
「そう。倉庫ばかりの町でな。突き当りは運河になっておる。隅田川が汚れて使いものにならんが、昔はここから荷が積みおろされたものだ」
車は頑丈な倉庫と倉庫の間にはさまれた、小さな広場で停った。
「着きましたぞ」
老人はドアをあけて降りる。隅田も反対側から外へ出た。湿った嫌な|匂《にお》いが風にのって漂っていた。隅田川の匂いだ。原杖人の白髪が闇の中に浮きあがっていて、それが大きな鉄扉に近寄って行く。隅田には乗って来た車のテールランプ以外に何も色は感じられなかった。しかし、病気になる前より闇の中の風景がよく見えるようだ。少しの不自由も感じないで原杖人のあとに続く。
|錆《さ》びた|蝶番《ちょうつがい》が|軋《きし》んでギリギリと音をたて、原杖人が巨大な鉄扉にあいたくぐり戸へすべり込んで行く。隅田もあとに続いた。内部には|煌《こう》|々《こう》と裸電球が輝いていて、倉庫の中には東日電機のダンボールが山のように積みあげてある。折り畳んだ新しい箱で、そのほかには何もない。冷蔵庫、テレビ、クーラー、扇風機……その膨大な数の空き箱に製品をつめ込むには、工場がフルに操業しても数か月かかるに違いない。
二人はダンボールの谷間を抜け、地下へ降りる階段のドアをあけた。
「すべるから気をつけて……」
原杖人はそう言って慎重に降りはじめた。腐った川の匂いが強く鼻をうつ。
その地下室は上の倉庫の四分の一程の広さで、中央に奇妙な白い立方体があった。近寄って触れると、それは恐ろしく厚い鋼鉄の板で作った巨大な箱だった。船の|舷《げん》|側《そく》にあるような小さな丸窓が幾つかついていて、壁の一部に換気装置などの付属品がとりつけてあった。原杖人は白く塗った鋼鉄の壁についているインターフォンに向って、
「儂だ、あけてくれ」
と言った。旅客機のドアのように、入口がすぽんと横にひらき、鉄のタラップを踏んで中へ入ると、うしろですぐにドアが閉った。コンプレッサーの音がしたから、自動ドアなのだろう。
隅田は一瞬豪華なマンションを訪問した錯覚にとらわれた。川の匂いは消え、よく乾燥したタオルのような、清潔な匂いに溢れている。厚い|絨緞《じゅうたん》が敷きつめてあり、壁紙も飾りの鏡も電灯のシェードも、ふつうの住宅と同じようになっていた。
そこはさしずめ玄関から応接セットのあるリビングキッチンといった間取りで、見るからに実直そうな青年が二人を出迎えた。だが、更に進むとこの家のあるじがその男でないことが判った。そのリビングキッチンから先きの部屋へ行く廊下に太い金属性の格子がはまっていて、|贅《ぜい》|沢《たく》な部屋着を着た男がこちらを向いて立っていた。額、|両頬《りょうほお》、|顎《あご》が見るもおぞましい灰色のかさぶたで|掩《おお》われた異様な人物だった。
「あ、隅田さん……」
狼人間が叫んだ。
6
「おお、だいぶいいようだな」
原杖人は気安げにそう言うと、格子の前の椅子に腰をおろした。
「隅田さん……」
狼人間はまた言った。今度は物哀しい響きを含んでいた。隅田は原杖人とその狼人間を等分に見やりながら、
「椎葉、次郎……」
とつぶやいた。
「そう。僕、次郎です」
狼はうれしそうに叫んだ。格子に恐ろしい顔を押しつけ、|隙《すき》|間《ま》から右手をさしのべていた。
「どうかね。これが|狼《ろう》|瘡《そう》だよ」
原杖人は博物館の案内人のように、ひどく無感動に説明した。「|犬上《いぬかみの》|御《み》|田《た》|鍬《すき》以来、実に久しぶりにこの日本に新しい犬神筋が誕生したことになる」
「黙れ……」
椎葉次郎は絶叫した。「隅田さん、僕を始末して……死なせて……お願いです」
「今は回復期だ。いちばん正常な状態に戻っておる。だから儂らにはいちばん危険な時期だが、まあ三日と保たんのだ。すぐにまた増悪期に向う」
「隅田さん、助けて……」
次郎は泣き崩れていた。灰色の頬を|濡《ぬ》らし、格子につかまってひざまずいている。
隅田は同情を禁じ得なかったが、同時に激しい好奇心にも駆りたてられていた。
「楽にしてやったらどうです。従命自動症というんでしょう……」
「今は駄目だ。彼はあなたの知っておる頃の椎葉次郎に戻っておる。……しかし、あと二日もすれば身も心も狼人間になってしまう。そうなればこの格子も要らん。ずっと扱い易くなるのだよ。……但しこの儂がおればのはなしだ。どういうわけかこの狼殿は儂の命令にしか従わんのでな。もっとも香織様は別だが……」
「従命自動症といっても、誰の命令にでも従うわけじゃないんですね」
隅田はそう言いながら注意深く格子に近寄り、人差指でそっと頬のあたりに触れようとした。すると突然次郎は血走った眼で|喚《わめ》き出した。
「そうか。隅田さん。あんたもかよ。あんたもかよ」
ヒステリックな笑いをまじえ、「そうだろうさ。でなきゃここへ来やしないんだ。吸血鬼め……俺の|親《しん》|戚《せき》なんだな。あいつの家来なんだな。あの香織の人でなしの……」
隅田は驚いてあとずさった。
「誰にうつされた。親患者は誰なんだ。姉さんか……」
気違いじみて笑う。「そうか。姉さんか。すばらしいよ、あいつは。あの色気違いは。あんたは二位さんか。女王の次だっていばるなよ。二位が何人いるか知ってるか。十人や二十人じゃきかないんだぞ。姉さんは、香織は、あん畜生はみんな悪魔にしちまうんだ。僕をこんなにしたのもあいつだ。だまして、姉弟なのに……何させたと思う。父さんや母さんを|撲《なぐ》り殺させたんだよ。知らない間にやらされちゃった。……あいつを殺したい。あいつの|喉《のど》を食いちぎってやりたい」
次郎は泣き喚きながら、格子の奥の部屋へ駆け込んで行った。文字どおり、狼の|遠《とお》|吠《ぼ》えのような泣き声が聞えていた。
「自殺しやしませんか」
隅田は|憮《ぶ》|然《ぜん》として言った。
「何度かしようとした。しかし死に切れるものか。生命力が異常に高まっておる。それに心の底では香織様に縛りつけられておるのだ。香織様が与える歓びに心の底の底まで支配されておる」
「すると今でも香織様は……」
「時々な」
原杖人は皮肉な微笑で答えた。
7
隅田はなぜか欲望をかきたてられた。香織が実の弟と、しかもあのように怪異な|容《よう》|貌《ぼう》の狼人間と肉の歓びをかわす。……狼人間にからみつく女神の痴態を想像すると、体の奥から|痺《しび》れるような感覚が|湧《わ》きあがって来るのだ。それはまだ正常人だった頃、何者とも知れぬ男に自分の妻がねじ伏せられ、妻がその男の体で悦楽の|淵《ふち》に落ち込んで行くのを想像した時の感覚とよく似ていた。被虐と加虐の入り混った、痺れるような感覚だった。それでなくても性欲の|昂《こう》|進《しん》する夜……下腹部にボッと音をたてて火がともり、その炎が自分の喉もとにまで伸びて来て、次の瞬間には眼も|眩《くら》むような舌の欲望を味わった。
「この前も言ったように、これは|膠《こう》|原《げん》病に酷似しておるが、全く同じではない。次郎がどこかの女に子を産ませれば、その子は犬神筋の第一子だ。子、孫、ひまご……犬神筋は末広がりに増えて行くだろうが、ああいう形をとるのは何代かに一人。それも次第に間遠になって行く。犬神筋でも犬神の免疫性を持たぬ人間も現われる。結局この病気はごく限られた数の人間にしかとりつけぬのだよ。……それはあなたのほうも同じだ。病祖の香織様からはじまって、二位、三位、四位……患者はどんどん増えて行く。しかし下位になるに従って病気の質が悪くなり、ケルビムになれる者はせいぜい十位か十五位まで。おまけに下位のもの程進行が早い。選り抜かれた美男美女が来世へ旅立って行ったあとに残るのは、ほんのちょっぴり病液をいただいた本物の色気違いたちだ」
「…………」
ふ、ふ、ふ……と含み笑いの声がした。気がつくと部屋の隅のソファーに深紅の中国服を着た女が|倚《よ》りかかっていた。マキだった。
「まき……」
隅田は思わず歩み寄り、その横に|坐《すわ》った。
「ご、ぶ、さ、た……」
マキは|艶《つや》っぽい笑顔で隅田を迎えた。
「なぜこんなところにいる」
「私はちょいちょいここへ遊びに来るのよ。ねえ……」
マキは原杖人に向って|悪《いた》|戯《ずら》っぽく言う。原杖人がそうだとうなずいて見せる。「次郎ちゃんとは私も昔なじみ。可哀そうだから時々慰問に来るのよ」
「まさか……」
隅田が|愕《おどろ》いて言う。
「よしてよ。私は次郎ちゃんと遊べやしないわ。話をするだけよ。次郎ちゃんを自由にできるのはあの人と先生だけ」
「安心した」
「あら、安心してくれるのね」
マキは立ちあがりながら言った。
「君が患者だなんてちっとも知らなかったからな。あの時はびっくりしたぜ」
「|美人局《つつもたせ》とでも思ったんでしょう」
原杖人は隅田にすり寄るマキを|眩《まぶ》しそうに見ながら、
「待ちなさい。この人に見せるものがまだあるから」
と言ってソファーの背後の棚の前に立った。「これがケルビムだよ」
棚には十二、三個の石像の破片が飾ってあった。掌や腕や脚の部分だった。
「これがケルビム……」
「手にとってよく見てもらいたい。もしあなたの設計が失敗すれば、いずれあなたがたはこうなってしまう」
「するとこれは古代の……」
「三千年、四千年昔にケルビムになった患者のなれの果てだ」
隅田はそのひとつを手にとって、じっとみつめた。石像の破片としか見えなかった。
「今夜はおふたりでおたのしみかな」
原杖人がからかうように言った。「同じ二位同士、お似合いなことだ」
隅田は驚いてケルビムの破片を落しそうになった。マキが二位の患者……。
8
帰りはマキの乗って来た車だった。原杖人は真名瀬の|乾《こ》|分《ぶん》の車で去り、そのあとから別な所に停めてあったクライスラーで新宿へ向った。運転しているのは明らかに患者で、それもずっと下位の者らしかった。
「今夜は奥さんの所へ帰さないわよ」
マキは隅田の肩に頭をもたれて言った。
「マキは二位だって……」
隅田が言った。
「しつっこいのね。何度同じことを聞くの」
「勘定が合わんぜ。二位は男の|筈《はず》だ」
マキは鼻でわらった。
「随分単純な計算だこと……」
「どうなってるんだ」
「私は二位の女。あなたも二位の男。それでいいじゃないの。不思議……世間にはよくあることよ」
「それじゃ、マキと香織様は」
「病気は舌からよ。エクスタシーがあればそれでいいの」
「レスビアンか」
「私の夫は知ってるでしょ」
マキはますます体を密着させてくる。
「西域貿易の瀬戸さんだろう」
「そうよ。あの人、犬神族なの。でもそんな家柄だなんてちっとも知らなかった。あの人に夫を一度は|奪《と》られたの。でも夫は発病しなくて、それで犬神筋だと判ったらしいの。組織はまだ出来上っていないし、犬神がいるのはとても都合がいいのよ。そうなると私が邪魔になって来たわけ。夫の秘密を知るからよ。そういう時、組織は邪魔者を殺すか、患者にしてしまうかどちらか……。でも組織は完全じゃないし、私はあの次郎ちゃんに殺される運命だったの。だって、まだ次郎ちゃんとあの人しかちゃんとした病気を持っていなかったからよ。三戸田はもっとあとだしね」
「それでどうなったんだ」
隅田はマキの中国服のスリットに手をしのびこませていた。
「あの人が私を見て、ためしに女同士で患者にさせられるかどうかやって見たのよ。こう見えても、私だって患者になる資格ぐらいあるんですからね」
つまり美人というわけだ。
「それがうまく行った」
「そうよ。でもあの人はつまらなかったらしいわ。すぐ冷たくなったんですもの……やはりこうでなくちゃね」
マキは服の上から隅田をとらえていた。
「マキさん、勘弁してくださいよ」
運転している男が|掠《かす》れ声で言った。
「あら、聞えてるの」
「事故を起しそうです」
「馬鹿ねえ」
マキは|嬉《うれ》しそうにのけぞって笑った。
「……だから私は二位」
笑いが納まるとそう言った。「もしかすると従一位かしら」
隅田は吹き出した。
「なる程ね。案外朝廷の階位なんてそんなところから来てるのかも知れんな」
「あの人があなたを呼んでたなんて、ちっとも知らなかったのよ。だから……」
「それで踏み切れたのか」
「でもあの時は完全に出来てたのよ。あなたみたいな頑固な人はじめてだったわ。あそこまで行ってたのに」
マキは隅田の手を|太《ふと》|腿《もも》からつかみ出すと、自分の豊かな胸にあてがって|掴《つか》ませた。「こんな風に荒っぽいやり方で私を押えつけちゃうんですもの。私の舌のアレ、あんたの顔にかかっただけだったでしょ」
「マキさん……」
運転している男が悲鳴に近い声を出した。|刺《し》|戟《げき》が強すぎるのだ。患者同士で、舌端の病液を射出することは、射精と同じ意味を持っている。隅田もマキの露骨な話に参っていた。
9
隅田は久し振りに夜の新宿を飲みまわった。金はいくらでもあったし、マキはどこでも顔がきいた。ひょっとして伊丹や会沢など、知っている人間にぶつかりはしないかという|惧《おそ》れもあったが、同じ新宿でも入る店がまるで違うからそう心配はしていなかった。
隅田にははじめての店ばかりで、マキは恐ろしく派手に振舞った。隅田もマキに調子を合わせ、それがひどく|愉《たの》しい。客のたて混んだ店の中で平気でキスをしたりする。見られる愉しさというか、見せる愉しさというか、どちらにせよ隅田にははじめての体験だった。|妖《よう》|艶《えん》な美女と背の高い美男……よそ目にはその組合せが絵に描いたようで、屈託もなくいちゃつかれるとかえってさばさばするらしい。どこへ行ってもその店の雰囲気を勝手に二人のものに作りかえ、かきまわすだけかきまわして河岸を変えた。
酔わない。病気のせいだ。酒は軽く舌に感じるが、一般人のコカコーラ以上ではない。体内に入れば水と同じだ。男たちはマキにみとれ、女たちは隅田に吐息を|洩《も》らした。対抗意識などまるでない。
愉しかった。そして思い切り自由だった。夜があなたの世界になる……原杖人はいつかそう言ったが、その通りだった。比沙子の海のようにつつみ込む愛情とはひと味違った、どちらかと言えば山の冒険のような|爽《そう》|快《かい》なものがマキにはあった。
二人は疲れも見せず、酒場から酒場を|辿《たど》って四谷まで歩いた。|流石《さすが》に空が白むのを怖れ、マキのマンションへ逃げ込んだが、愉しさは続いていた。
窓のないビルの内側で、隅田は安心し切っていた。服を脱がせ合い、その合い間にひっきりなしお互いの肌を|愛《あい》|撫《ぶ》し合う。バスルームでも戯れ、一度などはマキはバスタブの湯の中へ頭を突っこんでしまった。その時隅田はマキの中心に|石《せっ》|鹸《けん》をぬりたくっていたのだ。
マキは果てもなく戯れを要求した。ありとあらゆる角度からその肌を探らせた。一度隅田の体を迎え入れてからも、|昂《たかぶ》りはじめるとするりとのがれ、一寸のばしに快楽をひきのばす。
それがなぜだか判ったのは、ほとんど一時間半ほどもしてからだった。マキは前戯によって隅田を果てさせ、その瞬間の悦楽の病液を、自分の|花《か》|芯《しん》で受けようとしていたのだ。隅田はそんなことを思いついたこともなかったし、それが女体にどれ程の愉悦を与えるかも想像していなかった。
隅田の舌がマキの|肉《にく》|襞《ひだ》を刺し貫いた。マキは長く長く尾をひいた悲鳴をあげた。体中が|痙《けい》|攣《れん》し、弓なりにそり返ってシーツを|掻《か》きむしった。隅田の名を途切れ途切れに呼び、隅田の悦楽のしるしに|濡《ぬ》れ光ったふたつの丘を鋭くそびえさせた。隅田に服従を誓う言葉を吐き、許しを|乞《こ》うのだった。
その狂態に度胆を抜かれた隅田は、いつまでものたうつ体を眺めていたが、やがて自分ひとりで悦びに|耽《ふけ》る相手の構造に憎しみに近いものを感じて来た。陶酔を|醒《さ》まそうと、痙攣する内腿を思い切り平手で打った。激しい音が部屋に響き渡った。
するとマキはいっそう|悶《もだ》え、隅田の暴力をせがんだ。隅田は手近にあった寛衣のベルトでその願いを|叶《かな》えてやった。マキのベルトは細い|革《かわ》|紐《ひも》を編んだものだった。打ち据える内に隅田は再び高揚し、マキの背中に|掩《おお》いかぶさって行った。マキのうわごとがはじまり、どこかの骨が融けてしまうと泣いた。二人の間で時間が問題になりはじめ、|殆《ほと》んど同時に動きをとめた。隅田は左掌の|拇《おや》|指《ゆび》のつけ根に刺すような痛みを感じた。マキは右肩を隅田の舌端で刺されていた。
成長した患者同士は、その初期のように唇を合わせなくてもいいのだということを、隅田はその時はじめて知らされた。比沙子が幼稚だったことを痛感した。
10
マキは脂と汗にまみれた体をシャワーで洗い流しに行った。一糸まとわぬ見事な裸体を見せつけるように出て来ると、置いてあった赤い|寛衣《キトン》をまとった。比沙子や香織のようにきちんと着ようとはせず、赤い衣もぐるりと簡単に体にまきつけるだけだ。入れ違いに隅田も汗を流しに行った。
バスルームから出て来るとマキは赤いふかふかした床に寝そべっていた。隅田は何もまとわずにその横に並んだ。比沙子の|寛衣《キトン》はウールだが、マキのは薄いジョーゼットのような生地だった。体が透けて見える。
「君たちはどうして知り合ったのだ……」
「知り合った……ああ、あの人とね」
マキは|懶気《ものうげ》に体の向きを変えた。「瀬戸は不動産業者だったの。あの人の父親、椎葉さんはお金もあったし目はしもきいていたわ。不動産に投資していたの。つまり瀬戸の大切な金主……」
「なる程」
隅田は葉巻に火をつけた。近頃ではケントを吸わない。フィルター煙草はもちろんだが、たいていの煙草が舌にも喉にも感じなくなってしまっている。患者の中にはマリファナやハシッシュを吸飲する者も多い。病気の体によく合うのだ。だが隅田はまだそこまで行っていない。
「そこへあの人が船で日本へ帰って来たのよ。妙な外国人をひきつれてね。あとで判ったんだけど、Q海運の連中よ」
「Q海運というのはどういう組織になっているんだ」
「よくは知らないの。知る必要もないわ」
「暗殺教団と関係があるんだろ」
隅田は葉巻の灰を落しながら|訊《たず》ねた。
「暗殺教団……そう、先生がそんなこと言ってたわ。ニザリ、とかいう名で」
「ニザリ派も暗殺教団も同じことさ」
「どの国の勢力にもつかないで、世界を陰で自由に動かしているそうよ。ただ、ユダヤ人だけは別。ユダヤ人をいじめる国は決して長続きしないんですって……。ねえ。ニザリ派ってユダヤなの」
マキが逆に質問した。
「知らんよ。でも暗殺教団はもともとはイスラムだ。それとも、そんな区別はどうでもいいのかな。ユダヤ教、キリスト教、イスラム……そういう宗教の母体なのかも知れん。古い巨石の宗教だ」
「近い内Q海運のボスが来るそうよ」
「Q海運の……」
「オナシスとかって人じゃないの。本物のボスよ。今から四千年も前にケルビムから生き返った神様よ。私たちの大先輩」
隅田は初耳だった。
「そんな人物がいるのか」
「ええ、その人が私たちの本当の支配者よ。たった一人で何千年も生き続けていたの。ケルビムを探し出しては、それを保護し、生き返って世界中に増えて行くのを待っているのよ。いろんな時代のいろんな所に顔を出し、いろんな名前で歴史に残っているのよ。でもどの名前がその人なのか、誰もよく知らないの。クロノスの|壺《つぼ》というと眼の色を変えるそうよ。クロノスの壺はケルビムを隠す時、昔は必ずその壺を作って隠し場所の地図を入れたらしいの。そういう儀式があった時代があるそうよ」
「どういう人なんだ、その人は」
マキは首を傾げた。
「誰も知らないんじゃない。でも最後に歴史の上にあらわれたのは、まだそう遠い昔のことじゃないそうよ。サン・ジェルマン伯爵と言ってね。……フランス革命のあたりかしら」
「サン・ジェルマン伯爵」
「聞いたことあるの。いまみんなは、ただ伯爵って呼んでるわよ」
不死の超人、サン・ジェルマン伯爵。岩から|蘇《よみがえ》った男……隅田は遠い時代に思いを|馳《は》せた。
11
「サン・ジェルマン伯爵というのは結局正体不明のままポツンと歴史に残っている名だ。フランスの秘密外交官ではなかったかと言われている。そう言えば、フリードリッヒ大王は伯爵を不死の男だと言ったそうだ。自分はシバの女王とも話したことがあるなどと|大《おお》|法《ぼ》|螺《ら》を吹いて、何千年も生き続けていると自称したそうだが、実際歴史には|凄《すご》く詳しかったという記録が残されている。世界中の言葉を自由自在にあやつり、どうやら日本語も|喋《しゃべ》れたらしい。たしかドイツのどこかで死んだ筈で、八十何歳とかだったというけれど、いつも四十歳くらいにしか見えなかったと言われていて、死んだ後も会ったという人物があとを絶たなかった。……いちばん信用の置ける目撃者はマリー・アントワネットの腹心だったアデマル夫人で、会話までかわしている。そのときサン・ジェルマン伯爵はいま日本から帰って来たところだと言っている」
マキは気のなさそうな様子で隅田の顔をみつめていた。
「そうよ。その人よ」
だるそうに体を動かして隅田の胸に顔を埋め、「でも、そんな話に興味ないの」
と言った。
「どうしたんだ、元気がない……」
「久しぶりに疲れたのよ」
患者の精力は底知れない。気の遠くなるようなからみ合いであってもすぐに回復し、また新鮮な欲望に|喘《あえ》ぎはじめるのが普通だ。
「あなたのせいよ。病気になってから、こんなにけだるい思いをしたのははじめて……」
マキは酔ったような|瞳《ひとみ》で隅田の顔をのぞき込んだ。
「そんなに素晴らしかったのか」
マキはこくりと|顎《あご》を引いてうなずいた。マキらしからぬ、うつけたような初々しさがあった。隅田はそれに刺戟されまた|漲《みなぎ》りはじめた。マキはそれを知ると、ああ、と|呻《うめ》いた。
「あなたはまだ私たちの世界を知らなさすぎるのよ」
「どういう意味だい」
隅田はマキの胸に触れながら|訊《たず》ねた。
「病気になる前のくらしをいまだに引きずっているのよ。奥さんがいけないのね」
「病気になる前のくらし……」
「そうよ。私たちはもうふつうの人間じゃないのよ。貞操もモラルも、そんなものは貧乏人同士のつまらない申し合わせじゃないの。私たちにそんなものは要らないのよ」
「どうすればいいんだ」
「血を吸うことが私たちには必要じゃないの。それはふつうの人間たちには許されていないことよ。それが許されるなら、何をしたってかまわないじゃないの。……みんなもっとたくさんたのしんでるわ。たとえばこのマンション。仲間は出入り自由なのよ。女は男を、男は女を……みんな入り乱れて求め合っているの。今夜の私は完全にあなたに融かされちゃったみたい。とても私ひとりじゃかないそうもないと思うの。……あなた、もっと大勢の女を味わいたいと思わない」
隅田は充実した部分を強く意識しながら、マキの言葉を聞いていた。心の中に根強くめぐらされていた筈の|垣《かき》|根《ね》が、視点を変えたとたん、まるで不要なものに思えた。その垣根は愚かで不合理で、そして根元のほうが腐りかけていた。
「マキはそれでもいいのか」
隅田はまだどこかに一般人の心をひきずりながら訊ねた。
「そのほうが面白いわ。これは愛じゃないのよ、セックスなのよ。あなたの体がほかの女でふさがっていたら、別な男を呼ぶわ」
……隅田はその夜、本物の狂宴を知った。
第十四章 血の提供者
1
「おかしい。どう考えてもおかしい」
会沢がまた言った。場所は大杉実の書斎で、伊丹がさっきからそう言い続ける会沢の顔を、いたましそうに眺めていた。
「隅田氏はちゃんと活動しているんだね」
大杉はガスストーブの炎を調節しながら言った。時間はもう夜の九時。窓の外で木がらしが鳴っている。
「英建設の連中とはよく会っているらしい」
「それはおかしいな。なんでこっちへ連絡しないんだろう」
大杉は腰を伸し、|椅《い》|子《す》に戻りながら言った。
「どう思うね、伊丹さんは」
会沢は堅い表情で言った。伊丹はその顔を黙って見返した。「……理由がないじゃないか。自由に動きまわっているんなら、いくらなんでも電話ぐらい掛けてもよさそうなもんだ。住んでる所も判らず、仕事をしてる場所も|掴《つか》めない。いったいどこにいるんだ」
「事情があるんだろうな」
大杉は会沢に対して、とりなすように言った。
「またそれだ。事情なんかあってもなくても同じだ。こう何か月もたってしまっては」
「真名瀬のほうは……」
伊丹が訊ねた。「あれから何か判ったんじゃないのか」
「何も出て来やがらねえ。真名瀬と彼の間には何もないようだ。隅田のスの字もない」
「比沙子さんの線もか」
「うん。赤いバラのエレクトーン奏者がそうじゃないかと、一時は随分疑って見たりしたんだが、やはり影も形もない」
伊丹は脚を組みかえ、大杉に向って言った。
「八方ふさがりだな」
「西域貿易のほうはどうなってるのかな。やはりあそこがいちばん臭いと思うよ。赤いバラのマダムは瀬戸宏太郎の細君だし」
大杉は会沢の顔をみつめて言った。
「松原牧子……自分じゃそう名乗っているそうだが、調べたところ松原は旧姓だ。生まれは京都。瀬戸宏太郎は桜井市に本籍がある」
会沢はそう言ってから、急に|烈《はげ》しい失望の色を示した。「判らねえ。|俺《おれ》たちにはこれ以上のことはなにも判らねえんだ。畜生、あいつ一体どうしたって言うんだ」
「会沢さん。隅田の身になってちょっと考えてやろうじゃないか」
伊丹は何かを決意したように、厳しい表情になっていた。「今井先生の遺産を手に入れよう……あんたがた二人はそう言って今度の件に乗り出したんだろう」
「そうだ」
「隅田があんたとまるで連絡を絶っちまったのは、ひょっとするとそいつを手に入れたからかも知れない……そう思うんだがな」
会沢は口をとがらせた。
「それなら連絡して来るさ。鬼の首とったような顔でな」
「いや、そこが違う」
「どう違う」
「東日という巨大な権力の裏側へ入りこんで、その一角に食い込んだとしたら、我々の社会の考え方ではなくなるんじゃないか」
「というと……」
「そりゃ、あんたとの友情を裏切るのは隅田としても辛かろう。でも、秘密を|洩《も》らしたら何もかもフイになってしまうことだってあり得るんだぜ。あんたを避けはじめているのかも知れん。俺やあんたを……」
会沢は子供のような泣き顔になった。
「そんな哀しいことってあるけえ……そうなるんだったら俺は力なんか要らねえ。土方やっても仲間のいるくらしがいい」
伊丹と大杉は顔を見合わせた。
「あんた、好い人だな」
大杉が|沁《しみ》|々《じみ》と言った。
「変ってるっていうのか」
「いや違う」
大杉はひどく厳粛な顔で言った。「資本、権力……そういうものは人間的じゃないんだ。公害を追求された企業の言い分から、総裁選挙の裏工作まで、そこには我々庶民の道義にもとづいた感覚なんかまるでないだろ。権力は非人間を養成するさ。エリート……嫌なことばだが、エリートに……なった人間にとって、そこはひとつの別天地だ。我々の住むこの世界のもうひとつ上にある世界さ。……たとえばあんただって事業主さ。その事業がもっと大きくなり、うまみが多くなって来たら、もっと資本の甘い汁が吸えるようになったら、あんただって今のあんたじゃなくなるかも知れん。今のあんたから見て、鼻持ちならない男に変らざるを得ないかも知れんのさ」
会沢は黙って聞き、長いこと考えていた。そしてひとこと「帰る」と言って立ちあがった。
2
ドアがあいて顔の青白い秘書が入って来た。折賀弘文は黙ってその男が近づいて来るのを見守っていた。
「取引はかんたんに終りました。お道具類は明日にでもお宅のほうへ運ばせるよう、手配してあります」
秘書はそう言うと小切手を一枚デスクの上に置き戻って行った。その姿が消えると折賀は弱々しい溜息をつき、小切手をつまみあげた。そこに娘の白い顔が浮んでいるような気がしているのだ。俺はこれでも人の親なのか……そう思っている。
行方不明になった娘から、時たま電話が掛って来る。そのたびに言うことはきまっていた。……元気か。……とても元気です。それにしあわせにやっています。だから心配しないでくださいね。……まるで探し出されるのを|惧《おそ》れているような念の押し方だ。折賀はその背後に三戸田謙介の強大な力を感じてしまう。娘からの電話ではなく、三戸田謙介のメッセージを聞いている気分になるのだ。
娘の|失《しっ》|踪《そう》が夫の隅田賢也と無関係だったらしいことが、日を追って判って来た。娘もその夫も、今井潤造や三戸田謙介という巨大な力にふりまわされているに過ぎない。折賀はそう確信するようになっているのだ。
東日グループとのパイプが、また活発に働きはじめている。隅田からは何の報告もないが、隅田を要求どおり西域貿易へ送り込んだ成果は十二分にあがっているのだ。娘を与え、その夫も与えた。……それが折賀の自己嫌悪を誘っているらしい。要求を容れれば充分に報われる。夏木建設は少しの|破《は》|綻《たん》も見せずに繁栄の道を快走している。今井を失って思い悩んだ時期が|嘘《うそ》のようだ。
折賀と夏木雄策がこの企業を支えている。支配している。だがそれを更に支配する力がある。一片の辞令で仲間を変え、デスクを移る平社員は、それがいつ、どこで、どういう意味でなされたことか、|殆《ほと》んど知ることはない。だが、それと同じことが専務や社長の上にも起るのだ。折賀には充分に持ち重りのするこの夏木建設という業界第二位の会社を、まるで|将棋《しょうぎ》の歩か香のように扱う力が存在するのだ。
比沙子の要求どおり、折賀弘文は世田谷区松原にある隅田夫婦の家を売り払ってしまったところだった。忠告はした、とめもした。だがそれだけだった。結局一枚の小切手が折賀の手もとに運ばれて来る。無分別を|叱《しか》りつけ、諭してやらねばならぬ筈の父親が、娘の背後にある力を怖れて言いなりになる。……人間として耐え難いと思う。しかし折賀弘文は企業を守らねばならなかった。発展をはかる責任があった。資本という得体の知れぬ生き物は、常にそれを折賀に押しつけて来る。売上曲線はいつも上を向いていなければならない。資本という生き物は飽くなき増大本能を持っているのだ。停滞は悪、後退は罪だ。
俺はこの会社に血を吸われている……折賀はふとそう思った。比沙子も隅田もその血の一滴だ。デスクには営業報告書が積みあげられている。どのページにも|逞《たく》ましい建設の|槌《つち》|音《おと》が響いている。新しい道が、新しいダムが、新しい工場が、新しいビルが……そのひとつひとつが数多くの夢をになっている。期待に燃えた視線を集めている。そしてその仕事を通じて会社は繁栄し、前進する。だが血も要求する。サラリーマンも奴隷なら、経営者も奴隷だ。この手で守り育てあげた資本が、いつの間にか支配者に変っている。
折賀はこの瞬間、生まれてはじめて夏木雄策を憎む気になった。夏木社長が敵であり得ないことはよく判っている。しかし、それ以外に憎む相手がいなかった。自分のすぐ上にいる者を憎む以外、上から降りかかって来る非人間的なものを処理する方法がなかった。……だが、二十分もしてまた秘書がやって来たとき、折賀は有能な経営者に戻っていた。
3
人が死ぬ。交通事故で死ぬ。だが車は走りつづけている。欠陥車が問題になる。だが不良部分が補修されると、車は再び走りはじめる。道路が建設され、延長される。車がそこを疾走し、また人が死ぬ。人々は車で走る権利を手に入れ、そのために何パーセントかの血を払う。人々は常に緊張を続けることを要求され、ぼんやりと歩く権利があったことを忘れてしまっている。
守屋の開業医竹中も、車で死んだ。箱根へドライブし、その帰途東名高速で事故死した。原因は追い越し中の接触で、責めはどちらにあるともはっきりしなかったが、命を失ったのは装甲の薄い軽四輪に乗っていた竹中のほうだった。七トン積みのトラックのほうは、ほとんど被害らしい被害がなかったが、竹中の軽四輪はトマトジュースの罐を踏み|潰《つぶ》したように、血にまみれていた。日曜の東名高速はしばらくの間その地点で渋滞を起し、通過する家族づれは、停ったトラックに書かれていた東日本急送という文字を読んだ。平凡な出来事で、誰もが都内へ入るころには忘れてしまっていたに違いない。
首都圏住宅公社の竹中開発本部長は、自宅で夜遅くなってから兄の事故死を知った。知った瞬間、来たか……と|或《あ》る身構えを感じた。妻でも父でも祖父でもよかった。兄でも同じことだ。自分も含め、いつかは交通事故の悲劇に見舞われることを、心の底で予期していたのだ。
それが現実となり、くじに当ったのが兄だった。当然誰かに起るべきことが、たまたま兄に起ったのだ。竹中は悲しみ、そして少し涙を流した。だが不思議なことではなかった。あとひと月もすれば、自分の晴れ姿を見せてやれたのに……そう言って残念がった。竹中は第六次国土総合開発計画の責任者として、既に辞令を受け、残務処理をしている最中だったからだ。
竹中は守屋へ駆けつけ、事故の模様を説明された。彼はそれを熱心に聞き、やがて深くうなだれてしまった。人々は仲のよかった兄の死を悲しむ竹中に遠慮して、声もかけずにそっとそのままにして置いた。
東日本急送……うなだれた竹中の頭の中にその名前が渦巻いていた。それは東日グループの一員だった。今度の栄転が、東日の何かに関係していることは、隅田賢也と会ったときからはっきりしていた。あの塚石の土地に何かの秘密がからんでいるに違いないと思った。
……まさか。竹中は兄の死に対する疑問を打ち消した。兄は最初から塚石の土地にからんでいた。今井潤造の死因にも疑問を語っていたし、しょっ中あの土地を監視しては、何かを|嗅《か》ぎつけようとしていた。だがそれとこれとは関係ない。あり得ない。
強く自分にそう言いきかせていた。そう信ずることで、自分の将来を安全なものにしているのだが、竹中はそれに気づいていない。すべてを常識で判断し、妄想を言いたてて兄の死を乱す非常識を犯すまいとしている。
葬儀が済み、補償問題もけりがついた。凍てついた土地に真新しい墓標が建ち、北風が供えた花を瞬く間に枯らせた。その墓のある寺の塀の外の道を、ミキサー車がひっ切りなしに通り抜けていった。塚石にある風間家の土地に工事がはじまり、土が深く深くえぐり取られて高価な特殊セメントが大量に流し込まれていた。土地の入口には高い木の塀がめぐらされ、小川の石橋も大きなものに架けかえられている。
いつの間にか五つの丘の持主がかわり、子供たちが丘へ登って工事現場を見物することも許されなくなっていた。町はずれではあるし、寒いさなかのことでもあるし、徹夜作業の騒音もたいして人々の生活に影響を与えなかった。
4
「もう愛してないの……」
比沙子は|怯《おび》えたように言った。赤い|寛衣《キトン》がこまかく震えていた。
「そんなことはない」
隅田は辛抱強く笑顔を浮べている。「|俺《おれ》は比沙子をいつだって忘れていない。愛しつづけているよ」
比沙子の|瞳《ひとみ》に涙が|溜《たま》っていた。
「でもあなたは平気な顔で私を裏切っているじゃないの」
そういうと|堪《たま》りかねたように両手で顔を|掩《おお》い、うつむいて肩を二、三度揺らせた。「こういう病気なんですもの、あなたの体がどういう風になるか私だってよく判るわ。だから一生懸命あなたを満足させようと努力してるのよ。それなのに、あなたは私に飽きるとすぐどこかへ行っちゃう……」
「比沙子が一生懸命尽していてくれているのはよく判っている」
「だったら……」
顔をあげ、うらめしそうにみつめる。「こんな病気になっても、私たち二人は私たち二人だけのままケルビムになりたいの。私はあの人、あなたは香織様……それだけでもうたくさん。私たちにほかの女や男はもう要らないの。もし必要になっても、二人だけでじっとケルビムの日を待ち続けるのが愛情だわ」
その言葉を比沙子は長い間言いたかったに違いない。マキのマンションで、そこに住む女たちと思い切った肉の狂宴を味わってから、隅田はひんぱんに比沙子を置き去りにするようになっている。奔放なパーティーを終えて戻って来ると、比沙子はがむしゃらにしがみつき、ねじ伏せるようにして隅田を求めるのが常だった。|見《み》|棄《す》てられた夜、比沙子の肉がどれ程うずいていたか……その激しさが隅田には|愉《たの》しみでもあった。
隅田はマリファナを巻いた細い煙草をくわえ、火をつけた。酔いはしない。ただ普通の煙草では感じなくなった|刺《し》|戟《げき》がとり戻せるだけだ。
「ここへおいで……」
隅田は女たちの所からたった今戻って来たばかりだ。もうマキのマンションへも時々しか行かない。マンションはほうぼうにあったし、女達も大勢いた。
その日、比沙子はいつものようにむしゃぶりついて来なかった。今日こそは言おうと覚悟をきめていたようだ。しかし成長した患者がそう長く欲望を抑えていることなど出来る|筈《はず》がない。隅田には比沙子の内部の|昂《こう》|奮《ふん》が手にとるように判った。ここへおいで、とベッドの端を手で|叩《たた》き、ゆっくり|寛衣《キトン》に着換えると、比沙子の胸が激しく上下しはじめる。
「言って聞かせることがあるんだ」
比沙子は夢遊病者のようにふらふらと近寄り、体を投げ出すように腰をおろすと隅田の|膝《ひざ》を抱きしめた。もう言葉もない。
「比沙子を放って置くのは俺が悪い。しかし比沙子は少しは考えを変えなくては……」
隅田は背中を優しく|愛《あい》|撫《ぶ》し、「俺達はもう普通の人間ではないんだ。人間以上の存在になっているのさ……判るだろう」
比沙子は膝に顔を伏せたままうなずく。
「それなのに、比沙子は人間時代のモラルをいつまでも持ちつづけている。そんなものは、よく考えてみればとるに足らないことじゃないのかい」
比沙子は顔をあげた。余りの渇望に|呆《ほう》けたような表情だ。
「私の考え方が気に入らないの……」
「俺達は普通の人間よりずっと自由でいられるんだ。そのためにもて余す程の精力を与えられているじゃないか。一対一、夫婦だけ……それは力のない人間がきめた、みじめな約束に過ぎない。だが俺達の力はもっともっと使いようがある。普通の連中には許されないことも許されるのさ。……比沙子。俺はその狭い考え方をとり除いてやりたいんだ」
5
比沙子は古風すぎた。それまで彼女としては夫の要求する体位を最大限に許していたつもりだろうが、それはどこまで行っても普通人の枠を超えぬものだった。たとえば、比沙子は舌端の刺細胞からの病液授受を、唇同士、舌同士でしか許されないものにきめ込んでいる。だが、成長した患者の間で、病液の注入は至る所に行なわれている。静脈に射出しても害はない。むしろ快楽は大きいのだ。それを比沙子は拒否する。隅田は比沙子の清潔さを尊重する余り、それを強要しなかったが、いつかは患者に許された広範囲な快楽のあり方を教えなければならないと考えていた。
隅田はそれを比沙子が自然にうけ入れるよう、思い切って二日間、比沙子を乾しあげてしまったのだ。同じマンションに住む細川敬之という四位の患者が、比沙子を以前から求めていることを知っていたので、留守中比沙子が細川の手で開眼させられるなら、それはそれでいいと思っていた。だが比沙子は二日間の渇きに耐え抜いていた。隅田は理想の妻だと思った。
しかしそれは飽く|迄《まで》も一般人の……人間の場合のことだ。不滅の生命を約束された身に、人間のモラルは偏狭すぎる。よき妻として、比沙子はマキのように夫と幅広い快楽を所有しなければならない。
隅田は患者としての先輩である他の女たちから、さまざまなテクニックを学んでいた。いまそれを、ひとつひとつ比沙子の体に植えつけるつもりなのだ。まず比沙子の|花《か》|芯《しん》に病液の悦楽を|叩《たた》き込まねばならない。隅田に|餓《う》え切った比沙子は夢中でなすがままになっている。ゆっくりと、時間をかけて丹念に責められる内、比沙子は何度か病液を射出した。しかし、隅田はわざと唇を与えず、もがく比沙子を押え込んだ。そのたび比沙子の舌から病液がむなしく宙に噴きあがった。
比沙子は他愛もなく体を震わせ、次第にその時の身内の状態を告白するようになって来た。快感をあらわす幾つかの|語《ご》|彙《い》が交互に|囁《ささや》かれ、いまどこが焼けついているか、どこが溶けはじめているかを|呻《しん》|吟《ぎん》の合い間に叫ぶのだった。比沙子は隅田の脚にしがみついていた。隅田は比沙子の膝に手を押しつけていた。そして舌が比沙子の中心を貫いた。同時に比沙子は、はじめて病液を夫の最も愛する部分に射出した。
比沙子はそのまま身動きもせず、|四《し》|肢《し》を硬直させていた。隅田はそっと体を離し、その劇的な姿態を眺めた。半ば失神しているに違いなかった。腹筋が小気味よく収縮し、体中のどの筋肉も堅く緊張して、|踵《かかと》と後頭部が|華《きゃ》|奢《しゃ》な体を支えているだけだった。
不意にその姿勢が崩れた。ゆるやかに腹と胸が波うち、時々|脇《わき》|腹《ばら》が|痙《けい》|攣《れん》した。|眼《め》|尻《じり》から涙が流れてシーツに落ちた。隅田はその体により添ってやった。
「判ったの……判ったのよ」
比沙子はしゃくりあげながら言った。「私たち、もう人間じゃないのね」
隅田はその言い方に感動を覚えた。
「そうだ、もう人間じゃないんだ」
感慨をこめてそう答えた。J大、夏木建設、会沢、伊丹……さようなら。もうお前たちとは同じ仲間ではないのだ。住む世界が違う。宇宙が違ってしまったのだ。「愛してるよ、比沙子」
隅田はそっと唇を合わせた。柔らかく、遠慮がちに……人間の頃のやり方だった。隅田の眼からも涙が|溢《あふ》れ出していた。そしてそのひとときが、隅田と比沙子の人間としての夫婦の最後だったようだ。
それから数日後、隅田は細川の部屋に市村志津江を呼んでからみ合っていた。その横の床にころがっている細川には、比沙子がしがみついていた。隅田はどんな男に抱かれても、どんな体位をとらされても優雅さを失わない比沙子を、より深く愛しはじめていた。
6
原杖人は忙がしくなりはじめていた。患者達の間にケルビム化が現われているのだ。まだ吸血させる必要はないが、患者の隠れ住んでいるマンションが、すべて病棟化する日もそう遠くない。階位の高い患者はケルビム化が遅いことが判っているので、それらの者に手当法の講習をしなければならない。マンションを回診して|鞏皮《きょうひ》症の症状を呈しはじめた患者に副腎皮質のステロイドを投与したり、血液銀行の組織を操作して人血を確保したりもしなければならない。
副腎皮質ステロイド剤は、元来膠原病の治療に効果があるのだが、Q海運のほうからの指示で、それがこの病気には逆に促進剤としての役を果すとされていた。従ってステロイド剤も大量に準備され、各種のホルモンを含んだ患部塗布用のクリームも患者のひとりひとりにたっぷりと配給された。
このところ、隅田賢也は東日ブラッド・バンクへ一日おきぐらいに顔をのぞかせる。悦楽の日々の|涯《は》てに何が起るのか知りたいからだ。自分達の症状の変化については誰もが同じように興味を持っていて、近頃の患者同士の話題はすぐそのことになって行く。しかし、隅田にはもっと別な興味があるようだった。
それは隅田が以前古代について特別な関心を持っていたことによる。たとえば、実際に自分自身の体が病気のため、性欲が異常に|昂《こう》|進《しん》し、日ごと女患者達と奔放な性の饗宴に|耽《ふけ》り、窓のない部屋で人間ばなれのした快楽を得て見ると、それまで原始的な邪教と信じ込んでいた古代宗教のひとつひとつが、意外な身近さで理解できるのだった。
たとえばコリュバントだ。古代フリギアの女神キュバレの司祭で、騒宴乱舞の秘儀を主催した。暗夜|松《たい》|明《まつ》を持って狂乱の限りをつくすコリュバントは、今の隅田の生活と似たものがある。カナンの神バールに仕える者も、ギリシャの軍神サリアンを|祀《まつ》るサリアン達も同じだ。古代イランに源を発するミトラ神への信仰も夜を主題とし、礼拝はすべて深い|洞《どう》|窟《くつ》内で行なわれた。南ニューギニアのマリンド・アニム族のデマ神は、そのものズバリ、乱舞乱交を中心にした信仰だ。
患者群の中で立ち働く唯一の普通人である原杖人は、隅田のそうした関心をたいそう歓迎するのだった。もともと、古代と現代を一直線に結びつけるものを探し求めて、アトランティスやメガリスの|謎《なぞ》にひきこまれた原杖人は、この病気を知って命を|棄《す》てる覚悟で患者組織にとび込んで来た人物だ。隅田がそうした話題を向けると仕事も忘れて|喋《しゃべ》りまくった。中央オーストラリアのピチンジャラ族は、老人と七人の姉妹がスバル星と化し、あとに大きな岩を残す神話を持っていることなど、隅田が聞いたこともないような例を次々に引用してケルビムに関する古代人の知識を説明するのだった。
「古代の神々が……世界中の神々が血の犠牲を要求したのを世間の学者どもは当り前のような顔で説明しおる。春の復活だの自然への|畏《い》|怖《ふ》だのと。いったい何を考えておるんだろうな」
原杖人はいまいましそうに言う。「神が実在した。だから神を崇める……物事をどうして素直に認めたがらんのだ。現代に神がいない。古代より現代のほうがずっと進歩しておるから、現代に神がいないのは古代にも実在しなかった証明になる。そう思いあがっておるのだろう。だが|儂《わし》はいまこうして人間の血を必死に|掻《か》き集めておる。ケルビムという神に捧げるためだ」
原杖人は地下の白い保存庫の扉を指さしてそう言うのだ。「南アメリカの古代文明がどれ程の血を要求し、どれ程の臓器を消費したか、学者どもはよく知っておる。そのくせ、それを愚かしい迷信だと簡単にかたづける……」
その言い方には、現代のケルビムに行き当る前の、世間に対する恨みつらみがこめられているようだった。
7
呂木野も時々やって来る。患者組織の秘密が一般人の社会へ向けてモロに口をあけている部分がこの東日ブラッド・バンクだから、保安部長としては当然のことだが、近頃ではそのたびに手当てを受けて行く。どうやら彼の場合、意外にケルビム化が早く進行しているらしかった。
隅田も何度か居合せて呂木野の手や足を見たが、一見しただけでは異常がないように思える。だが聞いて見ると|痺《しび》れがあるそうだ。手の指や耳たぶ、特に足指の先きが無感覚になり、冷えてこわばったような具合だという。ふつうなら自室にこもって最後の快楽に|耽《ふけ》るところだが、呂木野はそうは行かない。原杖人の診療を受け、大部分の患者がケルビムになるまで、何とかタイミングをずらせようと努力しているのだ。冷酷で人気のない男だが、有能で責任感が強く、経営者にでもなればさぞかし|辣《らつ》|腕《わん》をふるうことだろうと想像できた。
「結局どのくらいで納まるのかね」
隅田は原杖人の部屋で呂木野に|訊《たず》ねて見た。……ケルビムの総数のことだ。守屋のメガリス設計の段階では約千六百体というデータを与えられていたが、正確な端数までは判っていなかった。
「千六百七十二。今のところ……」
呂木野は注射をされた左腕のワイシャツの|袖《そで》をおろして、銀のカフスボタンを留めながら答えた。
「まだ増えるだろう」
原杖人は当然のような顔で言う。
「血は足りるのかな」
隅田はそれが気になっていた。いったいケルビムはどのくらいの人血を摂取するのだろう。
「足りんさ。でも足りさせる」
呂木野は少し|蒼《あお》い顔をしていたが、きっぱりと力強く言った。原杖人は左手の|拇《おや》|指《ゆび》をたて、|頸動脈《けいどうみゃく》を軽くはねて見せる。
「合法的に集めるだけでは雀の涙ほど……あとはこれだよ」
「人間を殺して……」
隅田は|眉《まゆ》をピクンとあげて言った。原杖人はおかしそうに、
「人間とはきつい言いようだな。すくなくとも儂の前では一般人とか普通人とか言ってもらわんとな。もっとも儂なら正常人という言葉を使うが……」
と言った。
「まあいいさ。あんた方がうまくやってくれるだろう。しかしその千六百七十二体が全部ケルビムになるにはどのくらいの期間が必要なんだ」
「そいつは先生に聞いてくれ」
呂木野はポケットから折り畳んだメモを出しながら言った。
「何せ日本では二千年ぶり……すくなくとも千五、六百年ぶりのことだから、はっきり断言は出来んが、伯爵から廻って来たテキストでは案外短期間に一斉にケルビム化してしまうらしい。この病気のメカニズムの不思議さがそこにある。早く|罹《かか》った者も遅く罹った者も、終りの時期はほとんど同じらしい。つまり病液はひとつなのだ。患者の数が何千あろうと、その全部が同じ寿命の枠内にある。病祖香織様も最下位の患者も、ケルビム化の時期はだいたい同じなのだよ。多少の個人差はあるようだがな」
「先生、そんな話はもっと暇な時にしてもらいましょうか。ちょっと話があるんでね……」
呂木野はそう言って隅田にメモをつきつけた。
「何だこれは」
隅田は赤のサインペンで書かれたメモを見て言った。神経質な細い字で知っている名前が並んでいた。
「こっちも楽な仕事じゃない。一人一人の身辺調査をしなければならないんだ」
呂木野は椅子にきちんと|膝《ひざ》を|揃《そろ》えて腰掛け、マリファナのけむる左の人差指と中指を突き出して言った。「どんな者にも身寄りがある。知り合いがいる。友達がいる。いまのところ俺たちはそういう連中の前から完全には消えていない。昼間電話で話をすることもできるし、夜はそいつらの前へ行って姿を見せてやることもできる。しかし、その内いなくなる。完全に消える。あんたの作った穴へ入るんだからな。消えたあと、本気で探す|奴《やつ》がいる筈じゃないか。下手をすれば何千人もの人間が俺達を探しはじめる。あっちでもこっちでも、やたら失踪者が増えれば穴へ入ったあとも安心できない。それだったら、探しそうな連中を今のうちに殺してしまったほうがいい。そいつらを探す奴がまた現われたとしても、少なくとも俺達の穴とのつながりは消えてしまう……それに血も要るし」
呂木野は事務的な態度で説明した。
8
「伊丹英一、柳田祥子、会沢剛太、大杉実……。俺の場合にはこの四人が|殺《ころ》される訳か。そして血を提供させられる……」
隅田は|流石《さすが》に不快な表情で言った。
「昔はこんな小細工は必要なかった。王の命令ひとつ、神官のお告げひとつで人民が祭壇に登らされたのだ」
原杖人は面白がっているように見えた。世を|拗《す》ね人を嫌い、遠い古代の|事《じ》|蹟《せき》を追うことだけで生きているこの老人に、人間の生き死には問題外のことらしい。
呂木野は黙って隅田の表情を観察している。
「この三角じるしは何だい」
隅田は伊丹の名の上に印されたマークを指さして言った。
「その男は加入だ」
「待て待て……」
原杖人が慌ててさえぎった。
「今から加入か。それは遅すぎる」
そう言って呂木野の靴を自分の左の|爪《つま》|先《さ》きでつついた。「これ、このとおりもうケルビム化がはじまっておる。……それは、たしかにまだ間がある。しかし不公平だろうが。何年も快楽に|耽《ふけ》るゆとりのあった者と、下手をすれば何週間も時間がないものとでは……」
呂木野は笑った。そして隅田に言った。
「あんたの時もそう言ったんだ、この先生は……このことになると馬鹿に人情家になるのさ」
「それで、親は……」
隅田は真剣に訊ねた。
「香織様だ。だからこれは特別……」
「…………」
隅田はじっとメモの名前をみつめた。大杉はあんな記事を発表して組織に一時的な危機をまき起したのだからやむを得ない。会沢は呂木野の予想以上に深く追求して来るだろう。そういう男だ。ケルビムの安全を守るためには過去のいきさつを忘れて処断しなければならない。伊丹は或る意味で会沢以上に危険な存在だ。しかし病祖が加入させるというなら、大歓迎だ。……問題は社会的地位の高い大杉実の殺し方だ。これは相当にむずかしい筈だ……。そう思って呂木野の表情を見る。自信満々だった。プロにまかせればいいことだ……そう思った。
「いいだろう」
隅田はメモを返した。「でも、その柳田祥子は惜しい。殺す必要もない女じゃないか」
呂木野は強くかぶりを振った。
「いいや。この女は伊丹を愛し抜いてる。伊丹が消えればひどく騒ぎたてるだろう」
隅田の心がチクリと痛んだ。それは|嫉《しっ》|妬《と》だった。……伊丹を愛し抜いてる。
「俺になんとかさせてくれないか」
「柳田祥子をか」
「俺が祥子の親になる」
呂木野は|淫《みだ》らな笑いに唇を|歪《ゆが》めた。
「なる程。人間の頃|惚《ほ》れてたな」
「やめんか……」
原杖人が急にきつい顔で叱った。「人間、人間……あんたらはすぐ人間という。儂の前で神ぶらんでくれ」
吐きすてるように言うと、いまいましそうに音をたてて立ちあがり、部屋を出て行った。
「本気で憤ったらしい」
呂木野はニヤニヤしながら見送っている。
「なんでもいいから祥子を加入させてくれ。俺は二位だがまだ一人の親にもなっていない。言いたくはないが、幾らか権利があるんじゃないのか」
呂木野は薄笑いを続けながら|顎《あご》を|撫《な》でた。
「そう言えばそうだな」
「親になっていいか」
「そう簡単には行かんよ。一応審査がある」
「審査……」
「そうだ。第一の資格は、この世界がケルビムから|蘇《よみがえ》った者だけになった時の為に、美しい者でなければならない。第二の資格は消えたあとの障害になる人間が多すぎないこと」
「柳田祥子は、よく知らないが第二の資格は充分に備えていると思う。調べればすぐ判る筈だ」
「だが美人と言えるかな」
隅田は意表をつかれて眼を|剥《む》いた。
「あれは美人だ」
「だろうな。だが誰の眼にも、と言えるかな。いや、こいつは俺が言うんじゃない。一般的に言ってだ」
「美人だ。あれが不美人だというのなら、マキも資格がないことになる」
呂木野は笑って手を横に振った。
「判った判った。なんとかするよ。あんたが親になりたいというのなら、上のほうでも考えてくれるだろう」
隅田はほっとした。ほんの|僅《わず》かの間に祥子のおもかげが心の中に大きくクローズアップされていた。
9
夜の八時頃になって、東銀座にある伊丹のオフィスに灯りがついた。その一時間ほど前から小雨がパラつきはじめ、更にその二時間ほど前から、ビルの前の通りにオペルが一台停っていた。
そこは一方通行の道で、駐車禁止の標識も立っていたから、オペルはそう長い時間停ってはいない。適当な時間が来ると走り去り、ぐるりとひとまわりしてまた戻って来る。そんなことを十何遍も繰り返しているが、誰も気に留める者はいなかった。
オフィスの中では、西伊豆のロケから帰って来た伊丹と祥子が愚痴を言いながら機材をかたづけている。
「全く子供の撮影ってのは嫌になるわ……私って子供嫌いじゃないんだけど」
「そういうな、これも商売さ」
「でも、あの親がついて来るっていうの、なんとかならないのかしら。代理店の人が面倒みるからいいようなもんだけど、カメラのまわりでチョロチョロされると、子供の目線がみんなお母さんのほうへ行っちゃうじゃないの。叱るわけにも行かないし……」
「祥子は撮影になると神経質すぎるのさ」
伊丹はジナーのレンズを点検しながら、そう言った。
「だって、今日のは特別よ。子供も親も慣れてないのばっかり……」
祥子はタオルを絞ってから伊丹のうしろにまわり、母親めいた仕草で顔を|拭《ふ》いてやる。
「いいよ、あとで自分で拭く」
「駄目。ほらまっ黒じゃないの」
タオルをひろげて見せ、ついでに軽く唇を合わせて、「おまけ……」という。伊丹は苦笑している。
「……感情移入しちゃうのね。あなたがピントグラスを|覗《のぞ》いてると、まるで自分がやってるような気がして……疲れちゃう」
伊丹はジュラルミンのケースを閉め、それを部屋の隅のダイアルのついたロッカーにしまう。
「先に帰れよ。疲れてるんだろ。風呂へでも入って待っててくれないか。飯は|足《あし》|柄《かが》のレストハウスで食っちゃったし……」
「まだ用があるの」
祥子は不服そうな顔をする。
「これ……」
伊丹が机の上の黒いフィルムパックを指さして言う。
「そうかァ……ラボを呼んどいたのね」
「八時半って約束しちゃったからな」
伊丹は車のキーを祥子に投げた。「疲れたよ。車持ってってくれ。俺はタクシーで帰る」
祥子はうなずく。
「じゃ、何か軽いもの作っとくわ。氷も出しとく。飲みたいんでしょ」
「ああ」
伊丹はそういうとスラックスをはいた祥子の|尻《しり》を追いたてるように軽く|叩《たた》き、ドアの所まで一緒に行った。
「何も作らなくていいぜ、疲れてるんだから……」
祥子は満足したように微笑し、人差指を伊丹の唇にあて、自分の唇をキスの形にする。身軽に階段を駆け降りて行く祥子を、伊丹はドアを押えて見送っていた。
祥子のほっそりとした影が近くの駐車場の方へ消えると、オペルのうしろのドアがあいて男が出て来た。半分カーテンを引いた洋酒屋の店先きにある赤電話へ行って簡単な電話を済ませ、またオペルへ戻る。少し離れたところでエンジンをふかす音がした。祥子の運転するボルボらしい。東銀座の裏通りにしばらく人影が絶え、舗道が小雨で黒くしっとりと光っていた。
やがてオフィスの窓に伊丹の影が映る。窓際にある電話をとったらしい。バタバタと単車の音が近づいて来る。単車は伊丹のオフィスの入口に停り、革ジャンパーの男が階段を威勢よく駆けあがって行った。
10
「冗談じゃねえよ。一体どこで何してやがったんだ」
伊丹は電話で怒鳴っていた。本気で憤っている証拠に、額の血管が浮き上っている。
「みんな心配してるんだぜ」
つけたばかりの煙草を灰皿の底で|揉《も》み消し、ああ……うん……それで……と顔をしかめて聞いている。
「とにかく会おう。……いいよ。何だ、そんな近くにいやがるのか。よし、待ってるからな」
そう言った時ドアがあいた。
「どうも……」
革ジャンパーの若い男が言った。
「それじゃ、待ってるからな」
電話を切り、ため息をひとつしてから、入って来た男にニコリとした。
「早かったね。こいつだよ」
フィルムパックを取って渡す。男は数を算える。
「テストなしでいいよ」
「そうスか。伊豆は晴れてたの」
「うん。ピーカンさ」
「よかったスね。こっちはお昼すぎから曇っちゃった。向うが降ってれば俺早く帰れたのに」
「こいつ……」
伊丹は若い男の額を指で押す。
「じゃ、毎度……」
男は入って来た時と同じように威勢よく駆け降りて行った。すぐに単車が|唸《うな》り、派手な音を残して帰って行く。
伊丹はしばらく落ちつかない様子で煙草に火をつけたり窓の下の通りを眺めたりしていたが、思い直して手と顔を洗う。襟を拭きながらふと電話を眺め、近寄って手をのばしかけ、またその手をひっこめた。祥子に連絡しようと思ったが、まだ着いていない筈だと気づいたからだ。
タオルを|抛《ほう》り投げ、吸いさしの煙草をくわえる。椅子に腰をおろすとデスクの一番下の|抽《ひき》|斗《だし》からビロードの布切れを出して靴についた西伊豆の土を落す。くわえ煙草のけむりに眼を細め、その横顔が|精《せい》|悍《かん》で渋い。焦茶のスラックスに薄茶のセーター。丈の長いコール天のラフな上着を着ている。
ビルの前で車のホーンが二度続けて鳴った。伊丹はピクンと立ちあがり、急いで灯りを消すとドアの錠をして階段を降りる。外へ出ると東日本交通のハイヤーが停っていて、その窓から隅田賢也が顔をのぞかせていた。伊丹が反対側へ廻って車のドアをあけたとき、オペルがその|脇《わき》を通り抜けて行った。
「何だお前……」
車に乗るや否や、伊丹は烈しい口調で文句を言った。車はすぐに走り出す。
「そういきり立つな」
隅田は落ちついた声で言う。伊丹はおや、という風にうす暗い車の中で隅田を眺めた。
「何か感じが変ったな、お前……」
「そうか。どう変った」
「……貫禄がついてる。一体何をやっているんだ。夏木建設はどうしたんだ」
「夏木……やめたよ」
「やめた……」
「ああ。一応向うにはまだ籍があることになっているがね」
「判らんな」
伊丹はついさっきまで詰問調だったのが、気おされたような弱い声になっている。車は表通りへ抜け、新橋の交差点にさしかかっている。
「いろいろ話したいことがある。もちろん前から連絡したいと思っていたんだが、事情があって出来なかったんだ」
伊丹は不服そうに、ふうん、と言い、
「ホテルまでは探し当てたが、そこから先きお前を見失った。……守屋の竹中って医者が死んだの知っているか」
と訊ねた。
「ああ。人づてに聞いたよ。東日本急送のトラックだってな」
隅田は窓の外をちらっと眺めて答えた。その唇のあたりにかすかな笑いが浮んでいた。
「俺達はやられたと思っている。お前どう思う……」
「今井さん。白日書房の石川、そして守屋の竹中か」
「どうしても知りたいことがある」
伊丹は|堪《たま》りかねたように言った。「守屋の塚石に何か得体の知れないものが出来ている。ビルでもなく工場でもなし、まして住宅でもないらしい。お前関係してるんだろ。工事は英建設がやっているし、お前はひんぱんに英建設の連中と会っているそうじゃないか」
伊丹の言い方はきめつけるようだった。隅田は心の中で舌打ちした。その情報は会沢が|掴《つか》んだに違いない。やはり会沢は生かして置けないと思った。
11
車の沈黙が流れていた。伊丹はそれを気まずい沈黙だと思っていた。だが、隅田はそうは感じていない。これから起ること、そして数週間か数か月後に起ることに楽しい期待を寄せているのだ。あれこれ想像して楽しんでいる。そのための沈黙だった。伊丹は自分に感謝するだろう。祥子の親になって共に不滅の未来へいざなってくれたことに友情を感じてくれるに違いないと思った。
赤坂のクリーム色のビルの前で車が停ると、隅田は胸のポケットから金色のカードを出して運転手に示した。
「今日はこれでいい……」
運転手は車を出るとうやうやしくドアをあけた。
「ここは何だ……」
伊丹はビルの前で上を見あげて言った。
「俺の巣さ。レストランだ」
「飯は食ったよ」
「いいからついて来いよ。バーもあるし落ちつける店だ」
隅田は笑顔で言い、先きに立って中へ入った。ラフな服装の伊丹は、少し気おくれしたようについて行く。
「これは大変な店じゃないか」
|螺《ら》|旋《せん》階段を登って二階のエレベーターの前へ出たとき伊丹は感心したように言った。
「そうかも知れん。多分そうだ」
二人はエレベーターに入る。ドアが閉って上へ着く短い間に、伊丹はひとことだけポツリと言った。
「守屋の設計はお前なんだろ」
何階ともはっきりしない廊下へ出る。二人は厚い|絨緞《じゅうたん》を踏んで進んだ。……ひとつのドアの前で隅田はノブに手をかけたまま悪戯っぽく言った。
「気がつかなかったようだな」
「何が……」
伊丹は|怪《け》|訝《げん》な顔をしていた。すっかり隅田のペースになっている。常人と患者の体力の差だ。精神力の差と言ってもいい。
「ロビーから二階のエレベーターに乗る間さ。……赤一色のインテリアだった|筈《はず》だぜ」
伊丹はギョッとしたように表情をこわばらせた。その瞬間隅田はさっとドアをあけた。廊下に赤い光がさし、真紅の絨緞に真紅のソファー、真紅のテーブルに真紅の壁と天井……。
「あ……」
「特別室だよ。さあ入った入った」
隅田は伊丹の肩を押して中に入れ、ドアを閉めた。ちらっと天井の隅に眼を走らせる。そこにモニター用のテレビカメラがついている筈だった。
伊丹は薄気味悪そうに部屋の中を眺めまわし、おずおずとソファーに腰をおろした。ソファーは伊丹の思っていたよりずっと深く沈み込んだようだった。
隅田は立ったままテーブルに用意された飲物を眺め、それからゆっくりと伊丹の正面に腰をおろす。
「設計は俺だよ」
「何を作った」
伊丹の語尾が震えていた。隅田は自分がはじめて三戸田邸へ行った晩のことを思い出していた。瀬戸宏太郎があけひろげたドアの向うに真紅の部屋があるのを知って、今の伊丹と同じように|戦《せん》|慄《りつ》したものだった。
細く背の高いゴブレットを伊丹と自分の前に置き、トクトク……と軽い音をたててそれに赤い飲物を注いだ。
「特製のワインだよ。うまいよ」
そう言ったきり手をつけようとせず、黙って伊丹の顔をみつめる。
「何を作った」
伊丹はもう一度訊ねた。ゴクリと|唾《つば》を|呑《の》み込んでいる。
「メガリス……」
「何だって……」
「現代のメガリスさ」
「馬鹿な」
「本当だ。もう八分どおり完成している。だが昔のように幼稚なんじゃない。地下に五角|錐《すい》を埋めた|完《かん》|璧《ぺき》なものだ。周囲の地盤と|褶曲線《しゅうきょくせん》を計算して、真下から噴火でもしない限り絶対安全にできてる」
「何のためにだ」
暖房のせいばかりではなく、伊丹は額に汗を浮べていた。
「そいつは今に判る」
「ま、まさか……」
伊丹は|臆《おく》したように言い|澱《よど》み、唇を|舐《な》めてからゴブレットに視線を落した。手を伸す。唇にあてる。飲む。
隅田は思わず低い含み笑いをした。あの晩誰かが同じような笑い方をしなかったか……ふとそう思った。伊丹は呑みほし、ふうっと太い吐息をした。
「煙草、あるか」
伊丹はポケットを探ってから言う。
「あいにくだな。持って来させようか」
隅田のポケットにはマリファナしかなかった。
「いや、いい……。それより、変なことを聞くようだが」
伊丹の言葉にやや力が戻って来ている。隅田は|媚《び》|薬《やく》の効き目の早いのに感心していた。
「何でも聞いてくれよ」
「その……何か吸血鬼伝説のようなものに関係しているんじゃあるまいな」
隅田はちょっと驚かされた。伊丹の想像がそこまで行っているとすると、大杉実も早く始末しなければならないと思った。
「どうしてそんなことを考えついたんだ」
「新宿の第四十西ビルに血液銀行が入っているだろう。それにそこの役員に原杖人の名がある。だが俺だってそのくらいじゃ吸血鬼なんて飛躍はしなかったさ。しかし人形町の岩屋という赤い酒場へ行ったんだ。月岡哲郎という俳優がそこのマダムに熱をあげているんだが、その眼つき態度がどうも|只《たた》|事《ごと》じゃない。何かにとり|憑《つ》かれちまってるんだな。それに、赤い酒場の名を片っぱしから調べあげたのさ。岩屋、ドルメン、茜に柘榴……赤い色かメガリス、又は岩に関する名ばかりだ。その中にフェンリルというアーリア系の神話に出て来る狼の名があった。大杉実の犬神と巨石信仰に関係があるという説が、とんでもねえ所でつながってやがるじゃないか。考えて見ればアーリアの化石民族のカフィールには赤一色の衣がつきまとっている。こいつは変だよ。おかしすぎる。符節が合いすぎる。もっと突っ込んで考えると、狼人間と吸血鬼は大もとでくっついている」
伊丹は次第に元気になり、勢いづいてまくし立てた。……俺の時とおんなじだ。隅田はそう思い、妙に白々しい気分になった。
その時、隅田さえ気づかない程静かに赤い壁が割れた。
12
伊丹の上体がソファーの背に引きつけられたようにギクリとそり返った。|瞳《ひとみ》をまるく開き、息をとめていた。
廊下と反対側の赤い壁に同じ色のドアがついていて、それが音もなく開いたのだ。隅田は伊丹の様子に気づいてうしろを振り返った。大きな襟を立てた深紅のコートをまとって、久しぶりに見る椎葉香織が謎そのものといった微笑で伊丹をみつめていた。
隅田は無意識の内に立ちあがり、深く一礼した。香織はコートを着たまま二人の間の椅子に浅く腰をのせた。
「久し振りね……」
これも同じだ……。隅田はそう思った。
「し、……椎葉、香織……」
伊丹は辛うじて声を出した。
「あなたはもういいわ」
香織は隅田の顔を見ずに、声の調子だけ変えて言った。隅田は弾かれたように立ちあがり、急いで廊下へ出た。
「何年ぶりかしらね」
ドアを閉めるときそう言う香織の声がしていた。隅田は当てもなく廊下を歩き出した。ふと立ち停り、一度ドアのほうを振り返ってから、急に足を早めてエレベーターで降りた。螺旋階段を駆け降り地下のモニター・ルームへ行く。
「あ、今晩は」
モニター・ルームには男が一人いて、機嫌よく|挨《あい》|拶《さつ》した。
「君、ちょっと外でひと休みしててくれ。俺がしばらく変るから」
そう言うと、男は端正な顔をちらりとブラウン管の列に向け、
「ハイハイ」
とふたつ返事で立ちあがった。男が出て行くと隅田はそのあとへ坐った。眼は香織と伊丹が映っているブラウン管に注がれている。イヤフォーンを耳にあてがい、ずらりと並んだスイッチを慌て気味に探る。……やっとその部屋の声が聞えて来る。
「あ、会いたかった……」
伊丹が言っている。隅田はおや、と思った。まるで恋人にめぐり会ったようだった。
「私もよ」
香織は伊丹のゴブレットにもう一杯注いでやり、自分も隅田の所にあったゴブレットを手にした。
「やっと結ばれるのね、私たち」
隅田は息を呑んで二人の乾杯を見守った。
「ああ……」
伊丹は女のように細い叫びをあげ、香織の顔をみつめたまま空のゴブレットをテーブルに戻した。見当が外れてゴブレットはテーブルの端に当り、砕けた。
「あの時、苦しかった。隅田の奴を憎みたかった。なぜ隅田より先きに君と会えなかったんだろう。君はその前に隅田と愛し合ってしまっていた……」
「私だってくやんだわ」
香織が手をさしのべていた。伊丹はふらふらと立ちあがり、香織を抱こうとしてよろけ、そのまま|膝《ひざ》に抱きついた。
……同じだ。隅田はまたそう思った。
香織は伊丹の短く刈った髪を愛撫している。「でも、羽田空港で、あなたが愛してるって言ってくれたとき、私、本当に|嬉《うれ》しかった……」
隅田には香織と空港へ行った記憶がなかった。香織の表情から|妖《あや》しいものが消え、ひどく人間臭い感動が読みとれた。
「だがそれ以上あいつを裏切れなかった。遅すぎたんだ」
香織は強く首を振った。
「私は両親に打明けたのよ。卒業したら結婚させてくれって……。あなたのおうちはちゃんとしていたし、卒業したばかりでも二人で何とかやって行けると思ったのよ」
「あいつに済まないと思ってる。今でもだ。あいつは自分と君が結婚するんだと思い込んで有頂天になっていた。苦しかった、とても……」
「でも結局あなたは逃げ出したわ。私、恨んだのよ」
「仕方なかった」
香織は伊丹を膝の上に引きあげ、その|頬《ほお》を両手ではさんでいた。
……違う。俺の時と違う。隅田は心の中でそう叫んだ。
「一方には一途に思いつめた隅田がいる。もう一方では君の両親が反対してた。それもひどく強硬に」
「二人でしばらく隠れて暮しましょうと言ったのに、あなたは約束しながら私を|棄《す》てたんだわ。私のあの時の気持、判ってくれるかしら。……両親が手配した渡航の日は明日だというのに、私はひとりぽっちにされちゃったのよ。私、やけになった。隅田にあげちゃったの……。あなただと思って抱かれたのよ」
二人は唇を重ねた。隅田の拳が膝の上で震えていた。
「でも、またこうして会えた」
唇が離れたとき、伊丹はそう言った。すでに|朦《もう》|朧《ろう》としているようだった。伊丹の掌が半ば無意識に香織の胸を這い、その片方を掴んだようだった。
「もう放さないわ。本当はあなたを連れて行かずに置きたかったの。あなたの人間としての|倖《しあわ》せをそっとして置いてあげたかったの。でも、こうしなければあなたは処分されてしまうところだったのよ」
伊丹は骨が抜けたように香織の膝から床へ崩れ落ちた。香織は床に膝をついてその顔をいとし気に撫でた。
「わたしの夫……永遠の夫……」
香織は静かにそうつぶやいたらしかった。
隅田は|唖《あ》|然《ぜん》としていた。親の香織を憎む気持は全く起らなかったが、深い哀しみを味わった。そして伊丹だけが猛烈に憎かった。
第十五章 吸血鬼伝
1
大杉実が週刊誌に書いたふたつの結論のうち、犬神説のほうはさっぱりだったが、トランカヴェル論文の紹介はかなり反響を呼んでいた。アトランティスの|謎《なぞ》を秘めた古代の|壺《つぼ》と暗殺教団というとり合わせが、乾いた世相に郷愁のような潤いを与えたのだろう。一冊の本にまとめないかという話も出て、大杉の周囲の話題はにわかに考古学がかって来た。
全く忘れ去られていたクロノスの壺に対する関心も高まり、別な雑誌で例のパウロ・シュリーマンの事件をとりあげたりしている。各種のアトランティスものが続々と読者に提供され、その執筆者の中には大杉にとっても意外な人物がいたりして、世間には隠れたアトラントローグが案外多いことを証明していた。
大杉実はそのアトランティスブームの火つけ役として、ほうぼうから引っぱり|凧《だこ》になっている。どの道短命なブームだろうが、新しい世代にその面白さを教え込むのも満更意味のないことではないと、どの仕事もふたつ返事で引きうける。実際、そのテの企画をたてて来るのは、若者向けの雑誌社が主になっている。児童向けにシュリーマンの伝記を企画した出版社もあって、そんな仕事まで大杉のところへ舞い込んで来る。急に仕事量が増えて仲間の誘いがかかっても、おいそれとは飲みにも出られない日が続いていた。忙しさにまぎれて伊丹との連絡も途絶え勝ちで、そのままなんとなく日がたって行く。
そんな|或《あ》る日、最初にトランカヴェル説を紹介した週刊誌から慌しい電話が掛って来た。クロノスの壺に関して、スペイン大使館の人間がぜひ会いたいと言って来ているから、時間の都合をつけてくれという。
大杉は例の壺の|梟《ふくろう》の部分の|瑕《きず》についてはまだ何も書いていない。Mデパートの事件すら問題が一国の公的機関に関することなので書き控えていた。だがその週刊誌の編集部員には一応話してあって、それだけに編集部のほうでも大使館の申し出に興奮気味だったというわけだ。
大杉はもともと仕事を断るのが苦手なほうだ。そこへ持って来て、今度の件の核心に触れられそうな気がしたので一も二もなく承知し、昼の間に原稿を書きとばして時間を作った。夕方近くなって伊丹のオフィスへそのことを電話しようとしたが、二度かけて二度とも留守だったのでそのままになってしまった。
会見は京橋に近い会員制のクラブで行なわれた。一階を外車のディーラーがショールームにしているビルの地下で、網タイツのバニーガールが酒や料理を運んで来る。サロン風の店だった。
編集部が寄越した車で着いて見ると、大使館の男たちはもう飲みはじめていた。一人は大杉のスケールを遥かにこえた肥り方をした中年の外人で、スペイン系というよりは、どちらかというとフランス人のように見えた。もう一人はきりりと引き|緊《しま》った体つきの、それこそ典型的な若いスペイン人で、紹介された大杉はその男がエスカミリオという名でないのが不思議に思えたほどだった。……ちょっと脂っこい二枚目で、身のこなしや|喋《しゃべ》り方に不思議な色気があった。ホセ・山田と名乗り、しっとりと潤んだ|瞳《ひとみ》をくるくる動かし、|流暢《りゅうちょう》な日本語で威勢よくまくしたてた。
「要するに壺はふたつあったわけです」
ホセは大げさな身ぶりでテーブルの上に両手で壺の形をふたつ並べて見せた。「ひとつは本物、ひとつはにせもの。本物は梟のところに瑕があり、にせものには瑕がありません。あなたの見たのは本物、にせものはデパートに貸し出しました」
ホセは人なつっこい笑顔で説明した。
2
「本物の瑕はどうして出来たのです」
大杉が|訊《たず》ねた。ホセは肥ったベルランガ氏を見ながら肩をすくめた。ベルランガ氏は盛りつけの飾りに使われている赤かぶを、ポイと口にほうりこんで|噛《か》みながら、
「誰も知りません」
と答えた。
「あの瑕は発掘したとき既についていたのです」
ホセは右の薬指で自分の心臓のところへ線を引いて見せる。「だから誰も知らない……」
ベルランガ氏はナフキン立てから三角に折った紙ナフキンを抜きとり、手袋を脱ぐような気どった仕草で右手の指を一本一本|拭《ふ》いた。丸めて空いた皿にほうり込む。バニーガールがやって来て皿をさげて行く。
「あの壺が貴重な品だということはよく知っています。我々の国はアトランティスのすぐおとなりですからね」
ベルランガ氏はおどけた態度で言った。みんなが笑う。「ハインリッヒ・シュリーマンのトロイの壺のこと、よく知っています。もちろんトランカヴェル説もね。みんな話ばかりで実物がない。わが国の壺だけです。私たちは世界中の人々にあの壺を鑑賞してもらいたいと思っています。たくさんの美術品といっしょにいろいろな国へ旅をします。正式の展示場へはもちろん本物を出しますが、壊れやすいものは、ああいう場合身がわりを出します。Mデパートは正式の展示場ではありませんからね。……このことを判って頂きたいのです。そして盗難にあいました」
ベルランガ氏は両手をひろげた。
「やはり盗まれたのですね」
大杉が言うとホセが口をはさんだ。
「にせ物をね」
そう言って笑う。「でも、おおやけにできませんでした。わが国の大使館が日本の人々ににせ物を見せていた。理由はベルランガさんがいま言ったとおりですが、にせ物はにせ物です。ところがあれからあなたがトランカヴェル説をお書きになって、急に日本でもアトランティス熱が高まって来ました。私たちは、あの盗難事件を伏せたままにしていただいたお礼と、今後もそのままにしていただくようお願いしたくて、あなたとこうしてお会いしたわけです」
「こちらのできることでしたら、何でも協力します。そのかわり、あの件はどうぞ今までどおりにして頂きたい」
ベルランガ氏は愛敬のある顔で大杉をみつめた。
「そういうわけでしたら何もとりたてて発表する気もありません。ご安心ください。しかし一体誰が|盗《と》って行ったのでしょうね」
「暗殺教団の連中です」
ホセは真顔で言った。潤んだ瞳がキラリと光っていた。ホセ・山田とベルランガ氏は、あのクロノスの壺がいかにたびたび奇怪な事件を起したか、かわるがわる言いたてた。それはひどく大杉たちの興味をそそりたてた。酒が急ピッチで運ばれ、話が弾んだ。
はじめはたしか編集部員が言い出した|筈《はず》だった。スペイン人を混えた一座は店を変え、そして一度弾みがつくと次々にはしごをしてまわった。ホセとベルランガ氏は大した遊び好きで、大杉が行ったこともない風変りな店々を連れ歩いた。すすめ上手のスペイン人に調子を合わせている内に、大杉の連れはひとり減り二人減り、しまいにはベルランガ氏もダウンして、ホセとふたり切りになってしまった。そのテンポのいかに早かったことか……酔った大杉がここは人形町だなと思ったのは、まだ十時半ごろだった。
ホセはしっかりした足どりで大杉を支えるようにしながらタクシーを降り、黒板塀風の店構えの酒場のドアを押した。赤い床、ピンクの壁……そこは岩屋だった。
3
「吸血鬼が派手に|跳梁《ちょうりょう》しはじめたのは十八世紀になってからなんだ……」
大杉実は岩屋のソファーに|坐《すわ》って、ホステス達に囲まれながらホセ・山田に言った。その話題をどっちがどういう筋道で持ち出したか、はっきりしない。いつの間にか吸血鬼のはなしになっていたのだ。大杉は酔うと多弁になる。「バルカン半島だ。トランシルヴァニア山脈一帯にかけては、今でも時々吸血鬼の仕業だという怪事件が起っているそうだ。第一次世界大戦が終ってすぐ、ボヘミア地方では吸血鬼さわぎが起っているんだ。しかし吸血鬼の本場がトランシルヴァニアだというわけじゃない。アイルランドやスコットランドにもいる。スカンジナビアにもいる」
ホセは|愉《たの》しそうだった。
「ポルトガルでは吸血鬼のことをブールカと呼んでいますよ。ずい分昔からのことです」
「そう。スペイン、ポルトガル……あんたのほうのイベリア半島にも吸血鬼がいたっけ」
大杉はそう言って店の中を見まわし、頭を横に軽く振った。「そうか。赤い酒場か、ここは……」とつぶやいている。
「ヴァンピールというのは合成語だそうですね」
ホセが水を向けると大杉はまた勢いづく。
「そういう説もある。中途半端な説だが、えてしてそういう中途半端な説のほうが一般に知られ易い。……そいつはトルコ語の魔術師とリトアニア語の飲むという動詞がくっついていたという|奴《やつ》だろ。とんでもない。あれはアーリア系民族が中央アジアから四方へ拡まって行った、その最初の最初からあるんだ。ロシア、ポーランド、シレジア、ギリシャ……吸血鬼の足跡を|辿《たど》るとアーリアの拡大していった経路が判るといわれているくらいなもんだ。ポーランドではウピル、ギリシャはブルコラカ。ドイツがドルドでアラビアはグールだ」
「古代ギリシャには吸血鬼の記録が大真面目で残されていますね」
「おっ。あんたよく知ってるね。そいつは古代ギリシャやローマで活躍したシュビラという魔女たちさ。最後のローマ王、タルクイニウス・スペルブスは、クエマのシュビラから有名なシュビラの本という預言書を買っている。クエマというのは今のナポリに近い地名だ。その魔女は千年以上も生き続けたといわれている。トロイ生まれのエリュトライのシュビラというのも有名だ。そうだ、エリュトライというのはギリシャ語で赤いという意味なんだ。お前らなんか、エリュトライのシュビラだ」
大杉はホステスたちを見まわして言った。
「赤い店の魔女だ」
ホステスたちは笑いさざめき、大杉に話の続きをせがむ。ごく普通の女たちで、よく見れば患者特有の潤んだ瞳は持っていない。大杉はせがまれるまま、ホセに向って喋り続けた。
「暗黒の女神へカテやテッサリアの|巫《み》|女《こ》、それにラミアという|妖《よう》|怪《かい》なんかは、バルカンの吸血鬼の原型になっている。インドのカーリなんかもその口だ。吸血鬼の中でちょっと面白いのはヴェネズェラの奴で、こいつはホモなのさ。美少年のザーメン専門に|狙《ねら》って来る……」
女たちがキャアキャア騒ぐ。
「それは知らなかったな……。でも、だいたい吸血鬼というのは血を吸うだけじゃないんでしょう」
「それはもちろんさ。血を吸うだけのイメージを作りあげたのは、ハリウッド映画さ。映画で露骨な性描写はできないだろ……今は相当やっているけど、以前はやかましかったからな。ハリウッド映画の吸血鬼はネッキング専門みたいにされちまってるが、本当は性行為が中心になってる。オド・ヴァンピリスムといって、つまり魂を吸いとるんだ。そのほか吸血鬼は人間のセックスに関連する、ありとあらゆる欲求を実行してのけるんだ。サド、マゾ、|死《し》|姦《かん》、食人、同性愛……ドラキュラ伯爵の女たちは情婦兼召使い、そして伯爵がお呼びでない時は同性愛に|耽《ふけ》ってるんだ。サディスティックなのはテッサリアの巫女たちで、蛇を|鞭《むち》のかわりにして犠牲になった美青年たちを打ち据えるんだ。アラビアの吸血鬼グールは人間を石にしてしまう魔法を心得ていたという記録が残っている」
「ほう……人間を石にねえ」
ホセは潤んだ瞳を薄気味悪く光らせながら問い返した。
「犠牲者は半分石で半分人間の身動きならない状態にされてしまうそうだよ」
「そいつは面白い」
ホセはヒステリックに笑った。
「ポルトガルのブールカは梟や|蝙《こう》|蝠《もり》になるんでしょう」
今度は大杉がホセに訊ねた。
4
「ブールカは子供ばかり狙うんです。子供の血が好きで、夜になると梟や蝙蝠に姿を変えて飛びまわるのだと言われていますよ。それにブールカの特徴は近親相姦的でしてね。実の親だろうが自分の子供だろうがおかまいなしなんです」
「いろんなのがいる。吸血鬼というとドラキュラと相場がきまっちまったが、本当はドラキュラ伯爵なんて小物かも知れないな」
「そうですかね」
「十八世紀の新聞には、ごく当り前のように吸血鬼のニュースがのせられている。ハンガリアのアンナ・プロゴヨウィッチは派手にやりすぎてニュース種になり、死んでから六週間目に|棺《ひつぎ》をあばかれて火葬にされちまった。ドラキュラ伯爵よりずっと格が上らしいのは、大吸血鬼の別名を持つアルノルト・パウルだ。トルコとセルビアの国境一帯の夜を支配した吸血鬼の王だ。同じ伯爵でも吸血鬼の敵にまわった伯爵もいる。それはカブレラス伯爵で、この人は吸血鬼退治をして歩いた。……生まれながらに吸血鬼に対抗できる力を持った人間がいるといわれ、このカブレラス伯爵なんかもその一人じゃなかったのかな。その能力を持った人間はダンピールという名で呼ばれ、吸血鬼と人間の混血児ということになっている」
ホセはそこで唐突に口をはさんだ。皮肉な口調だった。
「|狼《おおかみ》人間というのは吸血鬼とどういう関係にあるんですかね……」
大杉は得意そうに胸を張った。
「吸血鬼も狼人間も、結局は同じことじゃないのかな。それは|獣人現象《ゾアントコピー》で説明がつく。神話的にも、たとえばドイツの狼人間……ヴェアヴォルフはゲルマン神話のヴォーダンを崇拝する男だけの秘密結社から来ている。狼人間は吸血鬼などより余程医学的説明のつけ易いしろ物で、ロンドンのジャック・ザ・リッパーやデュッセルドルフのペーター・キュルテン、ドレスデンのH・A・シリング、アメリカ、イリノイのリチャード・スペックなどは現代の異常心理学を進歩させる上で重要な病例を提供しているんだ。キュルテンなどはその最高の部類で、絞殺、刺殺、撲殺、強姦、放火、窃盗、それに吸血までやってのけている。つまり、吸血鬼も狼人間も異常性欲でかたづけることができるのさ」
大杉は断定的な言い方をした。ホセはそれを不快げな表情で|睨《にら》み返した。
「何も知らない者が、ああだこうだときめつけるのを見ているのは、何事によらず不愉快なものですね」
酔った大杉はその言葉にいきり立った。
「何も知らないとは妙ないい方だな。あんたは吸血鬼のことを少しでも知っているのか」
ホセは|嘲笑《ちょうしょう》した。
「ハンガリーのエリザベス・バトリーはただ自分の性欲のために百人もの血を必要としたのでしょうかね」
「エリザベス・バトリー……」
大杉は意表を衝かれたようだった。
「十六世紀の終りから十七世紀のはじめ、ハンガリー王国の名門として栄えたバトリー家の女主人ですよ。首相も軍司令官もバトリー一族だった。ハンガリーを裏側から支配していたんです。彼女が住んでいたセハート城は警察も軍隊も手が出せなかった。その特権に守られて、伯爵夫人は推定で七百人近い人間を殺し、その血液を収集したのですよ。俗説では美容のため血の風呂に入ったと言われていますがね。……このスキャンダルが|洩《も》れて伯爵夫人はセハート城に監禁されたことになっています」
ホセは夢みるような眼つきになった。「部屋の入口も窓も、いっさい石で|塞《ふさ》がれたのです。その中で、エリザベス・バトリーがどうなったか、いつ死んだか、それともまだ死なないのか、誰も知りはしないんだ」
ホセはうっとりと言った。
5
いつの間にか閉店時間を過ぎたらしく、ホステスも客もいなくなっていた。音楽も消え、しいんと静まり返った酒場の中に、煙草のけむりと|侘《わび》しさのようなものが漂っていた。テーブルに向き合っているホセ・山田と大杉実のほかには、カウンターのスツールで肩を寄せ合っている一組の男女がいるだけだった。
「そうだ、紹介しましょう」
ホセは険悪になりかかった空気をいっぺんにときほぐすような明るい声で言った。
「ママ、ちょっとここへ来なさいよ」
大杉は高いスツールから降りて来る和服の女を見守った。口もとに微笑を浮べ、潤んだ瞳で大杉をみつめている。
「こちら作家の大杉実さんだ」
「志津江と申します。どうぞよろしく」
「お名前は聞いているね」
ホセは強い言い方で念を押した。志津江はちらりとカウンターに残して来た男に視線を送り、すぐに笑顔でうなずいた。
「よく存じあげていますわ」
そう言って大杉をとろけさせるような態度で横に坐った。だが大杉の視線がそれると、ホセに向って何かを訊ねるように|眉《まゆ》をひそめ、大杉に素早く視線を送って見せた。子患者になるにしては少し変だと、そう思っているようだった。
「どうだい。ママご自慢の例の飲物をさしあげたら」
志津江はギョッとしたようにカウンターを見た。月岡哲郎が情夫然と煙草をふかしていた。
「ここで……」
「何言ってるんだ。ここは酒場じゃないか」
ホセはそう言い、促すような眼で、「さあさあ。それをいっぱいやったらおひらきにしましょう」と言った。
志津江は割り切れぬ面持ちで立ち上った。
「美人ですなァ……」
大杉は溜息まじりに言った。
「何をするんだ……」
カウンターの中へ入った志津江に、月岡哲郎が低い声で抗議をしていた。だが志津江は知らん顔で、赤い液体の入った小さな瓶とシェリーグラスとをふたつ持って大杉のところへ戻って来た。
「あれはたしか俳優の……」
大杉は自分のほうを物哀しい眼でみつめているカウンターの男に気づいて、ホセに小声で言った。
「ええ。ただの常連ですよ」
ホセはこともなげに言った。志津江は黙ってグラスを置き、なみなみと注いだ。
「飲んでごらんなさい。とにかく……」
大杉は、ほほう、と言いながら危っかしい手つきでグラスを取り、唇をちょっとつけて味見をした。
「これは|凄《すご》い。|爽《そう》|快《かい》だな」
そう言ってゆっくり飲みほした。志津江は最初少し迷っているようだったが、決心したらしくひと息に|呷《あお》った。
「ああ……」
月岡が情けない声をあげた。
「どうしたんです」
大杉は志津江に低く訊ねた。
「失恋したんでしょ」
志津江は素っ気なく言い、自分のにもう一杯注ぐと、|自《や》|棄《け》|酒《ざけ》のようにしてまた一息にのみほした。飲んでから、月岡の顔をまともに見据えた。男と女の視線がからみ合い、|淫《みだ》らな火花を散らせているようだった。
「私、もういっぱい飲むわ……」
志津江は素早く注ぎ、素早く飲みほす。ホセは憐れむようにそれを見ていた。
「俺はどうなるんだ。ママ……俺は死んでしまう……」
月岡はカウンターの端につかまって|呻《うめ》くように言い、涙を流していた。ホセは立ち上って月岡の肩をだき、何やら言い聞かせながら外へ連れ出して行った。
6
「ママさん……」
大杉は|掠《かす》れた声で言った。「あんた|綺《き》|麗《れい》な人だな」
志津江は黙って吸い込むような|瞳《ひとみ》で見返していた。
「あんたみたいな女性ははじめてだ」
大杉は|唾《つば》をのみ込んでいた。おずおずと手を伸し、志津江の|膝《ひざ》の上に置いた。
「もっと好きになってもらいたいわ」
志津江は何もかも省略した言い方をして、大杉の肥った体にもたれかかった。多すぎる程の|媚《び》|薬《やく》を体の中に|叩《たた》き込んで、無理やりその気になった志津江の体が、急速に燃えあがりはじめたらしい。
「好きになってもいいんだね」
大杉は急にしっかりした声で言った。
「いいわ」
志津江は眼を閉じて顔をあげた。大杉の下ぶくれの顔がその上に|掩《おお》いかぶさって行く。
「駄目……」
長い口づけのあとで志津江は大杉の体を突きのけ、そう言って立ちあがった。大杉は|喘《あえ》ぎながら|袂《たもと》を押えた。
「ママさん。言うことを聞いてくれ」
大杉は雑な言い方で抱きすくめた。
「ここでは駄目……」
「どこへでも行く。連れて行ってくれ。何でもする」
大杉は懇願した。志津江は酒の酔いが肉の酔いにかわったらしい大杉ともつれ合いながら灯りを消し、店を出た。
暗い通りに北風が|唸《うな》っていて、岩屋の前に黒い車が停っていた。ドアがあく。志津江はもつれ合ったままその車の中に無言で乗り込んだ。近くの住人らしい若い男が二人、下駄の音をさむざむと響かせながら、その有様を横目に通りすぎて行く。白い上着を着て風呂の道具をかかえていた。
車が走り出す。行先きは志津江にも判らない。突然呂木野から大杉の親になるよう指名されたばかりだった。大杉は意識が志津江だけに偏って何も判断できない。暗殺教団に伝わるアラビアの秘薬を大量に摂取した志津江も、|殆《ほと》んど大杉の状態に近く、車のシートで大杉の太い指に体を|濡《ぬ》らせていた。
車はすぐに停った。浜町のあたりだ。冷えびえとした白い蛍光灯の看板が、旅館、の二字を浮きあがらせ、枯れた|篠《しの》|竹《だけ》の植込みが北風に揺れている。
「ここ……」
志津江が言った。運転手が前の席から手をのばしてドアをあけてやると、二人は北風に追われるように小走りに玄関へ向って行った。典型的な連れ込み旅館で、入口のあたりは和風だが、内部はすべて洋間になっている。パタパタとスリッパの音が奥へ消えて行くのを確認してから、その車は走り去った。その走り去った角に、ステーションワゴンが停っている。
「もうすぐ月岡が来る。ここの女中はみんな月岡のファンだから簡単にとなりの部屋を都合する筈だ」
ステーションワゴンの中で原杖人が言った。その横に狼人間の椎葉次郎が、ロボットのように堅い姿勢で|坐《すわ》っていた。
しばらくするとホセ・山田と月岡哲郎の姿が見えた。二人は旅館の入口で立ち停り、何か喋っている。ホセが手袋をした手をコートのポケットに突っ込んで何か取り出す。月岡は冷たそうに素手をこすり合わせてからそれを受取り、自分のポケットへ入れ、よろめくような足どりで玄関へ向って行った。
ホセは足ばやにステーションワゴンのほうにやって来る。車の傍にたたずんで旅館を見あげている。
かなり時間がたってから、その窓のひとつに灯りがともった。原杖人はドアを半分にあけ、ホセに言った。
「間違いない。奴は隣りの部屋へ入ったぞ」
7
ホセは原杖人からトランシーバーを受けとり、アンテナを引き伸した。
「狼の準備はいいのか」
「満月だよ」
原杖人は愉しそうに答えた。|微《かす》かにトランシーバーの雑音がはじまり、ホセがその細長い箱に口を寄せて|囁《ささや》いた。
「二分間で沢山だ。用意はいいか……」
――よし……――
機械の中から答えが戻って来る。
「3、2、1、よし……」
あたり一帯がさっと|闇《やみ》にとざされた。どの窓の灯りも、どの街灯も消えた。……その下町の闇の中を、流れるように動いて消えた影があった。苦もない二階の窓にとびついた狼は、次のひと動きで目的の三階の窓へとりついている。微かに、ピィーン、と鋭い音が聞えたように思った瞬間、狼は窓へすべり込んでいた。しばらくはそのままの闇。
車の外に立ったホセは腕時計の秒針を追っていた。一分……一分三十秒……。
ふと気づいて顔をあげる。消毒液の|匂《にお》いを|嗅《か》いだような気がしたからだ。反対側のドアが開いて閉って、身をかがめて車の中を|覗《のぞ》くと原杖人のとなりにさっきと同じ姿勢で狼人間が坐っていた。
ホセが音にならない口笛を吹いたとき、あたりに光がもどった。トランシーバーから低い声がした。
――二分間……――
ホセは答える。
「済んだよ。お前がここんとこ毎日可愛がってる隅田比沙子は、今晩四十八西ビルでピアノを弾いてるぜ。あれはよさそうな女だ。俺もその内遊びに行くよ」
――ああいうの、いいだろう。すぐ|音《ね》をあげるんだ――
「馬鹿、電柱の上でもたもたしてると風邪を引くぜ」
――俺はもう風邪なんか引かないぜ。……じゃあな――
音が切れる。ホセはアンテナを引っこめてステーションワゴンのドアをあけた。
「たいしたもんだよ、この狼さんは」
ステーションワゴンがスタートした。
それから朝まで、もう街灯は消えなかった。消えたのは窓が明るくなり、パトロールカーが何台も旅館の前へ停ってからだった。救急車も来たが何もすることがないらしく、ずっと同じ場所に停りっぱなしだった。二時間ほどすると、やたらに旗をたてた車が集りはじめ、旅館の入口にロープが張られて、その前に新聞記者やカメラマン達が大声で|喚《わめ》きたてていた。
旅館の中は警官でいっぱいだった。何組かのアベックが足どめをくらって|怯《おび》えていた。三階は私服と白い手袋をした鑑識の男たちが右往左往し、問題の部屋のドアがあけ放されていた。
部屋にはダブルベッドがある。暖房がきいてムンムンする空気の中で、大杉の裸の|尻《しり》が入口のほうにモロに向けられていた。ベッドの上に斜めにうつぶせになった大杉の腰の下には、志津江の上向きの腰があった。大杉の右の|太《ふと》|腿《もも》の下から、真っ白い志津江の両脚が突き出している。志津江は全裸で、左の乳房が真っ赤にはじけていた。大杉は上半身にランニングシャツをまとい、それが胸の辺までまくれあがっている。背中から噴き出した血がそのランニングシャツを赤く染め、下になった志津江の心臓から噴き出した血と入り混って、ベッド全体を赤くしていた。その横の床に、服を着た月岡哲郎がひざまずき、志津江の腹を右手でかきむしるような姿勢で死んでいた。|喉《のど》には刃わたり二十|糎《センチ》ほどある鋭いナイフが突きささっていて、その|尖《せん》|端《たん》が首筋のところに|僅《わず》かに突き出ていた。
「こいつ、テレビの役どおりのことをしやがった……」
一人の刑事が何度も同じ言葉を繰り返していた。
8
柳田祥子はアルミサッシの|硝子《ガラス》戸の外のベランダで、さっきから空を眺めている。弱々しい冬の陽は体を少しもあたためてくれない。真正面に東京タワーがそびえ、足の下のほうから車の流れる音が響いて来る。
はじめのうち、そうやって冷たい北風に耐えていることが、不安や|淋《さび》しさやいらだちを忘れさせてくれた。しかし、真冬の冷気が体の|芯《しん》にまでしみとおり、体の筋という筋を不快なまでにこわばらせて来ると、次第にみじめさがつのって来るのだった。……それにも耐えてみよう。こうやって努力していれば、いつかは酬われる。知らぬ間に伊丹がドアをあけて戻って来て、背後で、「おい、何してるんだそんなところで……風邪引くじゃないか」……そう声をかけてくれるような気がした。その時、きっと泣いてしまうだろう。伊丹の胸にもたれて、声をあげて泣く。……そうにきまっている。……体中をこわばらせ、強情に寒さに立ち向いながら祥子はそう考えていた。いや、祈っていた。声をかけられ、泣いてしまう自分を想像していると、いつの間にか涙が|溢《あふ》れて東京タワーがかすんだ。そして必死の思いでその涙をこらえた。伊丹が戻る前に涙をこぼせば、そのことが運命を悲しい方向に曲げさせてしまう。いま泣いては不吉だ。泣いたらあの人は帰って来ない。……唇を|噛《か》み、何度も強く|眉《まゆ》をあげて涙をおさえようとした。そんな縁起をかついでいる自分がいじらしかった。……そしてとうとう涙を溢れさせた。溢れてしずくになり、すうっと|頬《ほお》を|這《は》い降りた。喉もとに熱い塊りが詰まって、鼻をすすりあげた。口もとに|濡《ぬ》れたものが|辿《たど》りつき、ゆっくりと唇の内側に塩からい味が拡がって行った。
大声で、寒空に向って呼びかけたい衝動に駆られた。しかし、その時はじめて祥子は愛する男の呼び方をきめていなかったことに気づいた。伊丹……そう呼んだのではまるでそらぞらしい気がした。英さん、英一、英ちゃん……そんな呼び方もしないのだ。ただ何となく、あなた……。それだけだ。二人だけの、大切な呼び方をきめて置くべきだった。二人だけの……。そのことが強い悔いになった。呼ぶこともできない。……そう思うと、悲しみがひとまとめに押し寄せて来た。そして泣いた。涙がとめどなく流れ、手ばなしで声をたてて泣きはじめた。どこかのベランダで鎖を引きずるような音がした。祥子は声をたてるのをやめ、しゃくりあげながら暖房のきいた部屋へ戻って戸を閉めた。
もう二日も連絡がない。どこへ行ったの。どこで何をしてるの。このままだったら私はどうしたらいいの……。ガラス戸にもたれ、部屋の中を眺めながらそうつぶやいている。
部屋の中はきちんとかたづいている。綺麗に隅から隅まで掃除してある。……なぜ綺麗にしてしまったんだろう。そう自分を責めている。伊丹の|匂《にお》いが消えかけている。テーブルの上のガラスの灰皿。……せめて灰皿だけでもそのままにして置けばよかった。伊丹の|唾《だ》|液《えき》のついた吸いさしに火をつけて吸ってみたかったのに……。また涙が溢れる。
歩きまわる。立ちどまっていろいろなものに指を触れさせる。そのひとつひとつが、淋しくて哀しくて、そしてじかに伊丹につながって来る。もうすぐまた日が暮れる。こわくて寝室へ行けそうもない。伊丹の匂いでいっぱいなのだ。思い出……とんでもない。そんな哀しいものは要らない。帰って来てくれなければどうしようもないのだ。
祥子は顔を洗うことにした。涙を洗い落してお化粧をして、いちばんセクシーな服を着て、香水をつけて、日が暮れるまでに、いや夜の七時までには帰って来る筈の伊丹を待つのだ。……急がなければ。もうすぐ帰って来るかも知れないのに。
祥子はまるでそうきまっているかのように、急いでバスルームへ行った。
9
ポロロン……。チャイムが鳴る。絹のパンタロンに同じ生地のえりぐりの深いブラウスを着た祥子は、バネ仕掛けのようにソファーから立ちあがった。足がすくんでしばらくは動けない。無意識のうちに髪へ手が行く。
ポロロン……。また鳴る。違うわ。あの人じゃない。絶対にあの人じゃない。世の中なんて|今《いま》|迄《まで》一度もそんな具合にうまく行ったためしがなかったんだもの……。管理人だわ。いやな奴よ。こんな時に来るなんて。きっとこの管理人の次に来るんだわ。いま外にいるのは絶対にあの人じゃない……。祥子はがむしゃらにそう思い込もうとした。裏切られたくない。失望したくない。
それでも期待に足や手が震えていた。ノブに手をかけた時には、あなた……という言葉が口の中いっぱいに拡がっていた。
そしてあけた。……隅田賢也だった。
「今晩は……」
隅田はいとも快活に言った。祥子は息をつめ、大きな|瞳《ひとみ》をいっぱいにひらいて隅田をみつめていた。四、五秒してからふうっと息を抜き、体を壁に寄せた。隅田はニコニコと笑いながら入って来た。
「こんな近くに引っ越していたのか。ちっとも知らなかった……」
「どうぞ……」
祥子はやっとそう言った。隅田は靴を脱いで部屋へ入る。
「すっかりごぶさたしてしまって……」
そう言い、素早く祥子の姿を眺めまわす。パンタロンはヒップのあたりでピチッと体にくっついている。またがみが浅く、腰骨の下に黒い|繻《しゅ》|子《す》のベルトをゆるく締め、共ぎれのブラウスのすそがその下に突っ込んである。ひと目でブラジャーをしていないのが判る。
「伊丹、いま留守なんですよ……」
祥子はそう言って隅田をソファーに坐らせた。……留守なんです。そう言ってみると思いがけず気が楽になった。帰って来ないのではなく、ただ留守なだけ……。
「それは残念だな。……でも待とう」
「そうしてください」
祥子はいい客が来たと思った。隅田を伊丹はこの間から探し続けていた。折角向うからやって来たのに、このまま帰したらあとで|叱《しか》られる。……わくわくしながらそう思った。帰って来る。言い訳もせず隅田賢也と話しはじめる。私はコーヒーをいれたりウィスキーをすすめたり。食事の用意もする。男たちは酔って大声で|喋《しゃべ》る。そして隅田が帰る。あの人は抱いてごまかす。私は抱いてごまかされる。そして|倖《しあわ》せが戻る……。
気がつくと隅田がじっと見つめていた。潤んだ魅力的な瞳だった。祥子は急に恥かしくなった。
「あら、お茶もいれないで……」
そう言って立ちあがる。パンタロンにパンティーの線が見当らない。少年のような、きりっと引き緊ったヒップだ。
「お茶はいいです」
隅田はキッチンに向かう祥子を呼びとめた。
「あら……」
「それより……」
カラッとした笑顔で言う。
「スコッチはないんですよ。あの人、バーボンばっかりで」
「結構。僕もバーボンのほうがいい。水も氷もいらないから……。でも、ブランデー、あるのかな」
「ええ」
「あなたもつき合ってくださいよ。ブランデー・サワーでしょう」
祥子は眼を丸くして隅田をみつめた。得意の表情だ。それだけ気分が落ちついて来た証拠だ。
「いつかもあいつがいなくて……」
祥子はそうかと思った。一緒にバーへ行ったことがあったのだ。
10
隅田はびっくりするような早さでバーボンのグラスをあけていた。祥子もつられてブランデー・サワーを二度作った。
「遅いな、あいつ……」
酔った様子も見せず、隅田が言った。二人の間には低いテーブルがあって、祥子はソファーの上に両脚をあげて横坐りしていた。
「隅田さん……」
祥子は体を前に倒して低いテーブルの上にグラスを置きながら言った。ワイシャツ風のブラウスの襟が深く鋭く胸へ切れ込んでいて、隅田の眼にその谷間が奥のほうまで見えた。「実は、あの人この二日間行方不明なんです」
「ほう……」
隅田は祥子の視線を深く吸い込むように受けとめてやった。祥子は頼りなげに、すがるような眼の色をしていた。「ずっと二日間、ここで待っていたの」
「ええ」
祥子は弱々しく微笑した。
「しょうがない奴だ」
隅田は寛大な笑顔で言い、「安心しなさい。あいつは必ず帰って来る。こんな素敵な恋人をそういつまで放って置けるもんじゃない。僕にはよく判る。もし心配なら僕が保証してあげる。きっとあなたの所へ帰る」
優しく、力強く言った。祥子は感謝をこめた瞳で見返した。
「ふた晩……今日で三晩めなんだね」
問われて祥子がうなずき返す。隅田はいいタイミングだと思った。「今夜だな、きっと……。どうかね、ウチへ来ないかな。一人じゃ|淋《さび》しいだろうし、かと言っていくら親友の間柄でも、その恋人といつまで二人きりでこうしているわけにも行かない。実は僕は仕事の都合ですぐ近くの飯倉片町にマンションを借りているんだ。ここから見えるかも知れない」
隅田は立ちあがって外を見た。東京タワーの電飾が夜空につらなっていた。
「まあ……そんなに近くに。あの人一生懸命で隅田さんたちを探してましたのよ」
「僕たち……」
隅田が振り返った。祥子は首をすくめた。
「ごめんなさい。奥さんのこと、あの人から聞いてるんです」
隅田は、ああ、と笑い、
「比沙子も一緒なんだ。うまく行ってるから安心してもらいたいな。心配かけたけれど」
「じゃ、奥さんもいらっしゃるのね」
「だからウチへ来て、あいつを待ったほうがいい。書き置きすればとんで来るにきまってる……」
隅田はせきたてるように言った。祥子はしばらくためらい、やがて|便《びん》|箋《せん》を出すとサインペンをそえて隅田に渡した。隅田は自分が訪ねたこと、祥子を連れて行くこと、そして地図を書きそえ、テーブルの上に置いた。
「着換えますわ」
祥子がいうとびっくりしたように眼を丸くし、
「よしなさい。それ、とてもよく似合っている。比沙子に見せてやりたいな。あいつはセンスが古くさくていけない」
そう言った。祥子はすすめられるまま、黒絹のパンタロンとブラウスの上に毛皮のコートを羽織った。カーテンを引き、テーブルライトを書き置きの上に当るようにして、ほかの灯りを消した。祥子がスイッチの所へ行く間に、隅田は自分が書いた紙をポケットへねじ込んでしまう。小さなライトがむなしくテーブルの上を照らしていた。
二人は廊下へ出、エレベーターで降り、寒い通りを歩いた。タクシーに乗る距離でもなし、歩くには少し遠目だった。だが祥子はブランデーのせいで余り寒さを感じないらしい。何だかだと伊丹のことを喋り、それが結局は遠まわしな|惚《のろ》|気《け》になっている。途中から何気ない態度で隅田は軽く祥子の腕をとり、祥子も気軽に腕を隅田にあずけている。隅田はサディスティックな期待に胸を弾ませていた。それは祥子の惚気がはっきりして来るに従って、いっそう激しくなって行く。
祥子の親になる。……それははじめは友情のつもりだった。しかし今では|復讐《ふくしゅう》にかわっている。香織は伊丹と全くあずかり知らぬ愛を交していたのだ。あれ程身近にいて、あれ程香織と愛し合っていたつもりなのに、大森の旅館で自分は伊丹の身がわりに香織を抱かされていたのだ。長い間、それが秘密にとざされていた。そのとざされていた長さが隅田には屈辱なのだ。
この祥子を思うさまいたぶってやる。伊丹を忘れ切るほど自分にのめり込ませ、伊丹が第二期に入って香織の束縛を解かれたときには、他の男の患者たちの間をころげまわる|淫獣《いんじゅう》に仕立てて置いてやる。そう決心していた。俺も淫獣だ。比沙子も淫獣だ。香織もマキもみな淫獣だ。しかしこの祥子はその中でもとび切り好色な淫獣にさせてやる。伊丹などお呼びでない状態にさせ、精々男たちのお余りを恵まれる程度に追い込んでやる。
「伊丹を愛してるんだね」
暗い坂を下りながらそう言った。
「ええ……とても」
祥子はちょっと照れたように、しかしぬけぬけと言った。それが隅田にはゾクゾクするような快感になっている。……この女は一歩間違えば|娼婦《しょうふ》になる素質を持っていると思った。そういう素質を持ちながら、自分でも気づかずに貞淑な妻でいる……それが理想的な妻というものだ。伊丹はうまい女を手に入れたものだ。……軽い嫉妬があった。しかし、それがすぐそこに近づいた窓のないビルの中で、もうすぐ自分の思いどおりになるのだ。これっきり色覚を失うまで帰してやるものか。昼も夜もこの体を慕ってもだえ狂わせてやるのだ。……とうとう二人は自動ドアの中に入った。それは祥子の人間としての最後だった。
第十六章 男漁りのライセンス
1
椎葉香織が本当に愛情をもって患者に仕立てたのは、伊丹英一だけらしい。三戸田謙介でさえ、香織の丹精ぶりを見ていて息苦しくなるとみえ、いろいろな女たちを呼びつけては狂宴に|耽《ふけ》っている。
ひとつには、三戸田の手足が幾分|麻《ま》|痺《ひ》しはじめていることにもよるが、女王、女神といった尊厳を損ねるのも意に介さず、至れり尽せりにしてやっているのが|嫉《しっ》|妬《と》を呼ぶのだ。
三戸田は嫉妬しながらも、|流石《さすが》に香織の心理を理解している。病気は最先頭も最後尾も、同じタイミングで変化するのだ。ケルビム化がはじまる時期は病祖も最下位も同じなのだ。こんなことならばもっと早く伊丹を加入させて、たっぷり人間の域を超えた悦楽を味わわせてやるのだったと後悔しているのだ。それだけに人一倍いつくしみ、濃く多く与えてやっているのだ。とに角一刻も手ばなさない。不安な昼になると、きまって|媚《び》|薬《やく》を与えてそれを忘れさせ、流石の病祖もその源がひあがりかける程長々と伊丹に組みしかれている。それに本物の愛情だから香織自身の悦びも長く深いらしく、時々ドアをとおして鋭い敗北の悲鳴が聞えて来る。|睡《ねむ》りに落ちた伊丹を置いて寝室から脱け出して来る姿は、どこか酔い|痴《し》れたようで、どちらが親患者か判らない程だ。休んでは抱き合い、抱き合っては休む。そのため伊丹は|殆《ほと》んど赤い寝室にこもり切りで、滅多に三戸田の前へ姿を現わさない。一度三戸田が食事の時、何気なく香織の|腿《もも》に手を置いたら、香織は低く|呻《うめ》いて眼をとじてしまった。伊丹との快楽で香織の体は余韻を引きっぱなしらしい。その様子に|煽《あお》られて三戸田が体を求めて行くと、香織はまるで他愛のない人間の女に戻ってしまっていて、|烈《はげ》しく|喘《あえ》ぎながら、やめて、やめてと細い声で懇願した。三戸田はその時ほどこの病気の快楽の深さを知らされたことはなかった。生理的な欲情の上に、そうした愛情がうわのせされると、病祖でさえどうにもならない愉悦の|淵《ふち》に引きずり込まれてしまうのだ。……その時三戸田はやっとのことで自制し、大声で下級患者を呼び寄せ、手荒く|鞭《むち》打って自分を満たした。香織は食卓の横で行なわれたその狂態をあとに、|寛衣《キトン》からぬめぬめとした太腿もあらわに、二階へよろめき上って行ったものだ。そしてしばらくすると、あの三戸田の嫉妬を|掻《か》きたてずには置かない悲鳴が聞えて来るのだった。
いったい、香織をそんな状態に陥しこめた男がいただろうか。与える一方の香織が、まだ一人前の病質も獲得していない子患者にそれだけのものを逆に与えられている。愛とはそんなに根強いものだろうかと、三戸田はつくづく考えさせられた。
恐らく香織にしたところで、もう伊丹が最後の男だと観念しているに違いなかった。ケルビム化が進めば性欲はそれに反比例して消えて行くそうだ。そして来世には性がない。出産もない。多分もっと高度な悦びが待っているのだろうが、それはサン・ジェルマン伯爵にでも聞いて見るより仕方がないことだ。
だから香織は精魂こめているのだろう。考えて見ればアルバニアのゲグ族の地で、イリュリアのケルビムの|蘇《そ》|生《せい》に立ち会い、ただ一度の口づけと、ほんの|僅《わず》かの病液を注入されただけで病祖になってしまったのだ。親患者にも悦楽があるとは言え、子患者の受ける悦楽に較べたらそれは物の数でもない。子患者の悦楽は死と隣り合わせになっているほど深いのだ。香織はその味を知らないで過して来た。その代償を今受け取っているのかも知れない。伊丹という男で長い何年間かの輪がとじるのだ。……そっとして置いてやろう。三戸田はそう思っている。そう思いながらも、高貴な病祖の身をあれ程|痺《しび》れさせ、のたうちまわらせ、あられもない悲鳴さえあげさせる伊丹に対して嫉妬しないではいられなかった。
2
いっぽう伊丹英一は、陶酔と|戦《せん》|慄《りつ》の日々を送っていた。椎葉香織の虜になってしまったと思っている。
もちろん夜と昼の区別が、赤い寝室にこもり切りの伊丹に、はっきり認識できた|筈《はず》はない。いまが昼なのか夜なのか、知る手がかりすら与えられていない。しかし、悦楽に次ぐ悦楽の時間とそのあとにふと不安のきざす反省の時間が繰り返されている。不安に襲われ悔いに似た反省にとらわれる時間が、実際には昼なのだ。その頃、この館の壁の外には陽光が|溢《あふ》れている。そういう時、伊丹は柳田祥子を思い出した。もちろん香織に対する愛情は毛穴のひとつひとつから噴きあげてくるようで、傍にその当人がいれば身動きできぬ程うっとりとしてしまう。しかし、心の奥底で祥子に|詫《わ》びたい気持が動いているのだ。何ひとつ言い残さず、突然この肉欲の|罠《わな》にとび込んでしまったことが悔まれる。
だが伊丹のそうした後悔、それに今の状況の異常さに対する不安がつのりはじめる時間を、香織は的確に見抜いていた。そういう心理状態が強く伊丹を支配しはじめる頃、きまって香織は赤い|媚《び》|薬《やく》をすすめるのだった。はじめは香織の命令におずおずと、のちには不安定な精神を落ちつかせるため、むしろ積極的に、伊丹は媚薬を飲んだ。
飲めばたちどころに夜が戻った来た。体力が充実しているのを意識し、その充実が新鮮な欲望に変化する。香織を引き寄せ、その肌に触れる。……ひょっとすると、媚薬は単純な強精剤なのではなく、昼に対して抵抗力を与えるのではないだろうか。或いは本当に体の中で夜を作り出すのでは……。
不安や反省や後悔は、或る意味でより人間的だと言える。自分のいる位置の前方に何かの危険を予測するから不安が生まれる。自分の位置を他の位置と比較することから反省が生まれる。その位置に至った経過に誤りを発見するから後悔を味わう。……すべて知性から発しているようだ。
しかし、夜の心はその点で人間的とは言えそうもない。むしろ知性を踏み越え、それを突き抜けて、かえって動物的にさえなったところに夜の心は置かれているようだ。
反省よりは明日を信ずるほうが強い。もちろんその信じ方は知性で獲得したものとは言えない。体力の底知れぬ充実感が|刹《せつ》|那《な》の快楽を肯定していると言えそうだ。それに老いた人間が明日を説き、若者が刹那の|愉《たの》しみに耽ることと似てはいないだろうか。
不安が全くなくなる。それはこの患者の特質のひとつである、一種のエリート化に根ざしているのだろうか。三千年、四千年の未来に不滅の生命を得る能力は、人類社会の中で患者達が|寡《か》|占《せん》している。敵のないところに不安はあり得ない。患者がしばしばサディスティックな側面を露呈するのは、一種の支配者意識のためらしい。全く無視してもいい……無視することを許される人命があるのだ。成長した患者が人間[#「人間」に傍点]と自分達を区別して言うことがあるが、事実患者にとって非患者は一等級も二等級も劣る生命体で、人間[#「人間」に傍点]と自分達を共通のモラルで判断することは不可能だった。
超人への道を歩み、人間[#「人間」に傍点]をはるかに超えた快楽にひたるとき、後悔は消えてしまう。夜の状態で、患者たちは酔っているとさえ言えるのだ。伊丹も酔い痴れた。香織という対象は常に新鮮で、性器と脳が直結してしまったような……いや脳の中に性器が移植されたような、|凄《すさ》まじい快楽にそのたび驚かされ、のけぞっている。
もし伊丹と他の患者が違っているとすれば、それは伊丹がいっときも病祖香織、いや親患者から離れずに病状を進行させている点だろう。あの|見《み》|棄《す》てられるのではないかという|惧《おそ》れは一度も味わっていない。そしてそのことが親と子の主従関係を少しずつ狂わせていた。
3
柳田祥子の体に隅田の|復讐《ふくしゅう》が加えられていた。恐らく、それは患者群の中でも特異なケースに属するだろう。祥子は伊丹が消えてから三日目の夜、ものの見事に加入した。だが祥子は親を二人持つことになってしまった。
隅田と比沙子だ。隅田は香織の子患者だから第二位、比沙子は三戸田の子患者だから第三位だ。従って隅田を親とすれば祥子は第三位で比沙子と同格だし、比沙子を親とすればその下の第四位になる。
いったい祥子をどこにくらいづけるべきなのだろうか。
あの夜、祥子は隅田の赤い部屋に入った。そこには透けるような肌に赤い|寛衣《キトン》をまとって比沙子が持っていた。祥子と比沙子は二度ほど顔を合わせていたが、それほど親しく話し合ったこともなかった。
しかし、祥子は最初から比沙子に好感を持っていた。祥子自身が感じているように、どちらかと言えば男っぽい体質の祥子は、しっとりとしたたおやかな女性に一種の|憧《あこが》れを持っている。女学生時代を振り返って見ても、男の子より女の子に対して愛情を抱いていた記憶のほうが多い。自分に対するないものねだりの一種なのだろうし、極端に言えば男っぽい自分の体質から生まれた劣等感のようなものなのだろう。
だから祥子と比沙子はすぐに打ちとけた。毛皮のコートを脱いだ祥子のスタイルに、まず比沙子が嘆声をあげた。比沙子は比沙子で、ウェットな女っぽさから脱け出せない自分に、何か粘っこい束縛を感じていて、カラリとした中性的な祥子に興味を持ったのだ。
……ふつうの状態なら、それは気の合う女同士のつき合いで終ったろうが、比沙子はすでに人間[#「人間」に傍点]を意識しはじめた魔女だった。隅田がすぐに例の媚薬を飲ませようとしたところ、比沙子は|妖《あや》しい微笑でそれを押しとどめた。
「寒かったでしょう。お風呂へ入りませんこと……」
比沙子は古風な言い方で祥子に入浴をすすめた。このマンションのバスルームは、洋風のバスタブではなく、和風の大きな浴槽がついていた。入居してから隅田は地位を利用して、それに|贅《ぜい》|沢《たく》放題の手を加え、ちょっとした旅館の家庭風呂など問題にならぬほど豪華に出来ている。
祥子はためらったが、比沙子に強くすすめられるとその気になって行った。比沙子がバスルームに案内して、その贅沢さを見せつけたのが効いたのだ。
バスタオルだ化粧品だと、比沙子は女同士の大騒ぎを愉しんでいるようだった。快活で優雅なその比沙子に、祥子はすぐ気を許してしまい、昔からのクラスメートかなにかのような振舞っていた。そして、いよいよバスルームに入る段になると、ドアのところで振り返って、一緒に入りましょうよ、と比沙子を誘ったものだ。祥子には生まれつき、そういうざっくばらんなところがあるようだった。もちろん比沙子はすぐに承知した。隅田は背広を着たまま|嬉《き》|々《き》としてバスルームへ消える女同士を、底意のある微笑で見送っていた。
実はその時まで、祥子を子患者にするのに比沙子を手伝わせることなど考えていなかったのだ。しかし、二人が一緒に入浴することになったとき、ふとそのアイデアが浮んで来た。……比沙子と自分が同時に祥子に病液を授ける。すでに比沙子は隅田と一緒に乱交パーティーに出かけるまでに成長しているから、その気になれば簡単なことだった。
隅田はそっとバスルームのドアに近寄り、|洩《も》れて来る会話に聞き耳をたてた。
「わァ……|綺《き》|麗《れい》」
祥子のそういう嘆声が聞えた。
「駄目よ私なんて。ほらみて。ぐにゃぐにゃしてるんですもの。あなたの体こそとてもセクシーだわ」
湯をかける音が広い浴室にこもる。突然、
「|擽《くすぐ》ったいィ……」
という比沙子の声がした。
「私もそういう体つきに生まれたかったわ」
と祥子。
「まるで反対ね。お互いにお互いの体を|羨《うらや》ましがってるみたい」
比沙子だ。ざあっと湯が溢れる。二人で浴槽に入ったらしい。
「どうしてそうお肌が白いの……」
祥子が切口上で言い、弾けたように笑い出す。「テレビのコマーシャルみたい」
比沙子も愉快そうに笑っている。そして不意にバスルームの中の物音がやむ。
「私のもさわって見て……」
比沙子が低い声で言った。
「まるでマシュマロみたいなおっぱい……」
祥子の声は少し|掠《かす》れているようだった。
4
女同士は次第に大胆になり、お互いの体を批評し合った。隅田はドアの外でそれを残らず聞いていた。二人はことごとに正反対の体つきをしているようだったが、髪が細くて柔らかいこと、|腋《わき》|毛《げ》がほとんどないこと、それに中心の茂みかたがごくささやかな点が共通しているようだった。……二人はそんなことまで話し合っていた。
やがて湯からあがり、衣服をまといはじめる気配になったので、隅田はそっと居間へ戻った。舌なめずりをするような気分でグラスを三つ並べ、赤い媚薬を等分に注いだ。比沙子と自分のボルテージもあげて置きたかった。
さきに出て来たのを比沙子だとばかり思っていた。が、ふと眼をあげるとそれは祥子だった。祥子はちょっと照れ臭そうに、
「この部屋着借りちゃったんです」
と笑った。赤い|寛衣《キトン》を着せられている。
「まあ、祥子さんたら……」
比沙子がそう言いながら、祥子のパンタロン姿で戻って来た。祥子は、え、というようにふり返り、|悪《いた》|戯《ずら》っぽく|睨《にら》んでいる比沙子はちょろっと舌を出して見せた。
比沙子はブラウスのカフスボタンをとめながら、
「ねえ、あなた。似合う……」
と隅田に|訊《たず》ねた。「祥子さんと取りかえっこしてみたんだけど」
黒絹の服に白い肌がいっそう白く見えた。
「何だかお前が着ると喪服めいてしまう」
隅田はそう言った。
「|嘘《うそ》、素敵だわ」
祥子はムキになって|褒《ほ》める。その祥子を隅田はマキに似ていると思った。はるかに小柄だが、赤い寛衣をまとうとそっくりの印象になっている。
「こんな喪服の着方ないわよねえ……」
比沙子は祥子の姿勢を真似て腰をつき出し、胸をちょっと引き気味にして立っていた。
「いやよ、言っちゃ……」
祥子が半分真顔で言う。
「なんだい」
隅田は比沙子に向って訊ねながら、何気ない素振りで赤い飲物の入ったグラスを祥子に手渡した。比沙子がそれを見て|瞳《ひとみ》を輝かせた。
「言っちゃうわ」
「やめて、ねえ、お願い」
比沙子もグラスを受取り、立ったまま祥子のほうへ差し出した。祥子も乾杯のポーズをして、二人の女は同時に媚薬を飲んだ。比沙子はひと息に、祥子はみくちぐらいにわけて味わっていた。
「ああ、おいしい……」
そう言ってグラスをテーブルに置き、寛衣の合わせ目を気にしながらソファーに|坐《すわ》った。
「祥子さんて大胆な人よ。上下これ一枚きりなの」
すると祥子は大げさに額に右掌をあて、
「すっぱ抜かれちゃったァ……」
とのけぞって見せる。
「ブラジャーもパンティーもなしで銀座でもどこでも歩いちゃうんですって」
隅田はまだ媚薬のグラスを手に持ったまま、
「おしゃれなんだよ。お前も少しは見習ったらいい」
と落ちついた声で言った。「しかし、ということは、いま……」
隅田はわざとじろじろ祥子の|寛衣《キトン》を眺めまわした。それが媚薬のまわりはじめた祥子にとって、かなり直接的な|刺《し》|戟《げき》になることを知っている。祥子は「やだァ」と言って体をすくめるように身をよじった。
隅田は一気に媚薬を|呷《あお》ると、さっと立ち上った。祥子がピクッと体を動かした。警戒したつもりで、その実心の底に期待が渦巻いているのに気づかない。
5
隅田は立ち上って比沙子の手からグラスを取り、テーブルに置くと、比沙子の背中へまわった。
祥子の坐っているまん前に夫婦が立っている。
「ということは、比沙子もいま君と同じスタイルでいるということになる。……そうだね、祥子さん」
隅田は比沙子の肩から両腕を|撫《な》でおろしながら言った。「伊丹はこんなとき、どうやって君を可愛がるんだろう」
隅田は祥子に見せつけるように、比沙子のうなじにキスをする。比沙子は芝居気たっぷりに|眉《まゆ》を寄せ、薄く眼を閉じる。隅田の両手が比沙子の腹からゆっくり胸へ|這《は》いのぼりはじめる。
「なる程、こういう感じだな」
黒絹の上から双つ丘を掌で押しつつんだときそう言った。
「祥子さんの前じゃないの……」
比沙子は口さきだけで|羞《はじ》らい、そのままじっとしている。隅田は祥子がまるで自分に触れられているような気分で見ているのを計算していた。掌が這い降り、今度はまたがみの浅いパンタロンの部分を|愛《あい》|撫《ぶ》する。
「祥子さんのよ、これ。|皺《しわ》になっちゃうじゃないの」
比沙子が言うと、祥子は弾む息を無理に抑えて、
「かまわないわ」
と言った。隅田の両掌がパンタロンの中央部で重なった。ああ……と細く|呻《うめ》いたのはソファーにいる祥子のほうだった。
「馬鹿ね」
比沙子はそう言って、いかにも軽い悪ふざけをたしなめるように隅田の両掌を払いのけ、祥子のところへ歩み寄ると、その肩に腕をまわして並んだ。
「あなたも着換えたら……」
隅田に言い、祥子の|頬《ほお》すれすれに顔を寄せて、「優しいのよ、あの人。とても可愛がってくれるの。でも今のは少しやりすぎよね。祥子さんの前なのに、私変にさせられちゃったわ」
と息を吹きかけるように言った。隅田はそれを横目に寝室へ着換えに入った。
着換えの間中、居間はひっそりとしている。|寛衣《キトン》に着換え、そっと居間をのぞくと、女たちは唇を重ねていた。いかにも女らしい比沙子が男のように攻撃的な体の寄せ方をしていて、男の子のようなショートカットの祥子が、唇を吸われたまま拒むように両手を比沙子の胸に突っ張って体をのけぞらせている。
それはかなり倒錯した眺めだった。黒絹のパンタロンは男っぽく、それをまとっている比沙子の体つきはこの上もなく女性的だ。そして女性的な赤い|寛衣《キトン》をまとった祥子は少年のような体つきをしている。征服のポーズをする女性的な比沙子と、陥落寸前に見える男の子のような祥子。……隅田はその刺戟的な光景に|煽《あお》られまいと自制していた。
祥子の押しとどめる両手は、結局比沙子の双つの丘を|掴《つか》むことになっている。前傾した体を支える比沙子の右手は、祥子の|太《ふと》|腿《もも》の上にあり、結局それは祥子の|寛衣《キトン》の下にもぐり込むことになった。媚薬に全く抵抗力を持たぬ祥子は、その部屋にいる人の数さえ忘れて、ふたり切りの世界にとじこもっているようだ。隅田はそっとテーブルをまわって、祥子のとなりへ坐ると、うしろからその背中を支えてやった。体重がゆらりと隅田の胸にかかって来る。隅田の顔の下で、長い髪と短い髪がつながり、白い顔と浅黒い顔が接していた。比沙子の片眼が隅田をみあげた。潤んだ瞳が加勢を訴えているようだった。祥子の手が積極的に動きはじめている。別な生き物のように黒絹のブラウスを這いまわって、小さなボタンを外している。ひとつ外れるたびに白い肌がひろがり、祥子も男の手に胸を委ねていた。夫婦が女客の|寛衣《キトン》の留め金を外してしまったのはそれから間もなくのことだった。
6
はじめての時、祥子は何度も気を失った。祥子は反応しやすい体質で、|呆《あっ》|気《け》ない程素早く最初の歓びに達した。その時は隅田の体が祥子の中心部を支配していた。
媚薬のために、祥子は生まれてはじめての高みに押しあげられていたに違いないが、それは飽く|迄《まで》も人間のものだった。隅田は自制して祥子から体を離し、復讐の企みを完全なものにしようとしたのだ。
その次に祥子を襲った感覚が、本物の病液によるものだった。比沙子が人間のものではないと実感したあの時の状態を、祥子は早くも第一夜目で味わったのだ。……その時隅田は祥子の中心から遠く離れていた。隅田は祥子の唇を吸い、比沙子の中心をとらえていた。そして隅田は比沙子と接していた。
隅田と比沙子はお互いに知り尽した体を見事にコントロールしながら、同時に祥子を責めたてた。敏感な祥子の体が二人の性的超人の技術に抵抗できる筈はなく、その感覚はひとたまりもなく舞いあがって、上昇気流にのった羽毛のように、いつまでも宙に浮いて、連続的なエクスタシーに|悶《もだ》えた。その間に隅田と比沙子は絶好のタイミングを作り出していた。そして隅田は祥子の舌に病液を射出し、同じ瞬間下腹部へ比沙子がそれを|叩《たた》き込んだ。
祥子は|呆《あき》れるほどながながと硬直し、時々発作的に|痙《けい》|攣《れん》していた。隅田と比沙子は体を合わせたまま上下からその有様を眺めていたが、比沙子のほうがそれに刺戟され、体の位置を変えてあらためて隅田を求めたほどだった。
祥子はその間中痙攣をくり返し、挙句に気を失ってしまった。……はじめての人間に、それはひどく手荒なやり方だったと言える。そしてそのあとも、隅田と比沙子から交互に患者の歓びを教え込まれ、いつの間にか隅田をあなたと呼び、比沙子をお姉さまと呼ぶようになって行った。
三戸田邸の伊丹と同じように、祥子にとっても昼と夜がなくなってしまった。隅田はまだ守屋に仕事が残っており、夜は一日置きぐらいに現場へ行った。だから夜の間は主として比沙子に抱かれている。しかし比沙子はそれだけでは満足し切れない体だ。祥子はまだ病液を持っておらず、比沙子は真の悦楽を得られない。といって他の男性患者を祥子にあてがってよい段階ではなく、比沙子は患者としてひどく中途半端な状態に置かれてしまう。
だから隅田が戻るとそそくさと姿を消す。隅田を祥子にあてがい、自分はどこかで他の男たちと交歓して来るのだ。おかげで祥子のほうは体の休まる暇もない。しかし急速に病液を吸収して病状を進行させているから、体力的にはなんとかついて行けるらしい。そして昼間は比沙子と隅田の両方にもてあそばれ、例の陽光の不安に|怯《おび》えることも余りなく、赤い部屋の中をのたうちまわっている。
特に祥子は隅田の玩具のようだった。時々比沙子を引き寄せて見せつけると、祥子は狂ったように昂奮し、泣いて中止を申し入れる。その時点での祥子は二人とも愛しているのだ。ふたつの恋慕の対象が抱き合っていれば、祥子の立場は絶望的になってしまう。
しかし、やがて祥子はそれが遊びであることを理解するようになって行った。体の中に潜在していた|娼婦《しょうふ》性が湧然と姿をあらわして来たようだった。伊丹のことなど露ほども思い出す様子はなく、比沙子と隅田の与える悦楽に自分から積極的にのめり込み、急速に色覚喪失の日に近づいて行った。
それは多分あのイリュリア人の病液が、その|罹病《りびょう》者たちを一定の時間枠で支配しているからだろう。比沙子のときよりは隅田のとき、隅田のときよりは祥子のときと、第二期突入の時間が早まっていた。そして先輩たちは既にケルビム化の症状を見せはじめていた。
7
夜が去り、朝が来る。人々は起き出してその日の活動をはじめる。サラリーマンとその妻の短い会話……毎日使い慣れた符号のやりとり。駅までの距離……歩くか、バスか、晴れているか、降っているか。駅と新聞。短い煙草の時間。混んでいるか、|坐《すわ》れるか。一日の時間の部分になってしまった車窓の風景……地理ではなく時間を意味するもの。そして勤め先に並ぶ顔、顔、顔……。
カレンダーのひとこまごとに、同じことが起り、同じ結果を生んで行く。そしてどこかが少しずつ変って行く。ゆっくりと、しかしどうにもならぬ重味で……。そのずしりと重い緩慢な流れに、人間は乗せられている。すべてが理屈で割り切れてひと|桁《けた》の余りも残さない常識の世界。やたら明快で、無味で、背骨に深い疲れを残す世界。脱け出せぬ|檻《おり》。蛍光灯の下でかわす浅い会話、不実な笑顔、一方的なとりきめと、いくらかの紙幣……。
客の前で|佃煮《つくだに》を|秤《はか》るおやじも、心の底をかすめる不安を|圧《お》し殺しながら手形を切る社長も、まくしたてるセールスマンも、奇妙な首飾りをぶらさげた前衛画家も、結局はみんな蛍光灯の檻の中を歩きまわる奴隷だ。
恋の歓びが喫茶店の売上伝票に記入される。不満はビール会社の生産量を増やし、死は製薬会社にポスターを作らせる。蛍光灯の檻の中では、何もかもがいくらかの紙幣につながって行く。割り切れて、お釣もちゃんとくれて、公明正大に見える。誰も彼もが、手にした紙幣を自由だと解釈している。権利だと錯覚している。紙幣の存在に権力を感じ、与えられたささやかな自由が、結局は何の為に消費されるのか気づこうともしない。だが、一人一人が手に入れた自由は、やがて寄り集まって巨大な権力を支える柱となる。柱をとり去ることは自由をとり去ることになる……そう見えている。
奴隷たちは自由を食って生きている。いや毎日少しばかりの自由で養われている。その代金は、自分達が食った自由という|餌《えさ》で知らず知らずの内に支払われている。そして餌を与える者は、その支払いを受けて更に巨大化する。
自由が金で買えることに疑問を抱かせてはいけない。……権力はそう考えているらしい。新しい映画が評判になり、すばらしい住み心地の家が売り出される。五百円から数千万円までの自由。蛍光灯の檻の中で、奴隷が奴隷と闘い抜いている。勝者に約束されたより大きな自由をめあてに……。
妻は新しい家を夢みて平凡な一日をはじめる。体の中にしみついてもう意識にさえのぼらなくなった夢……。夫はその内勝利のかけらでも手に入れることが出来るかも知れないと、漠然とした期待で闘争区域に向って行く。とにかくそこにいさえすれば、闘いは自然にふりかかって来るからだ。
その時間が午前九時。|鞭《むち》の音もせず、労役開始の|銅《ど》|鑼《ら》も鳴らない。だが奴隷は一斉に今日の使役の場へ急ぐ。駅が奴隷で|溢《あふ》れ、電車に奴隷が詰まる。車が走りジェット機が飛び、法廷が開かれコンピューターが|唸《うな》る。
毎日毎日、権力を安泰にするためのひとさわぎがあって、そして日が暮れて行く。
奴隷は家路につき、恋人と会い、酒をのみ、料理を食い、会話をする。そこでは蛍光灯がうすれ、昔ながらの|橙色《だいだいいろ》の灯りがともっている。時におずおずととざされた心をひらき、他の心たちに触手を伸ばしもする。からみ合い、さすり合う心の触手。湿って、少し暖かい肌色の世界。決して割り切れない世界。
奴隷たちはそれを不合理だと思う。昼に慣らされて夜を不合理だと思っているのだ。だが、権力がしっかりと根を張るトワイライト・ゾーンの向う側で、少数のエリートたちは夜を理解し、割り切れぬ本物の世界を楽しんでいる。猿の集団から続いている支配者の系譜に名を書き留めた男たち。その女たち。
冬が去り、春が来て、人々はいつものように生きている。
8
三戸田謙介の赤い館に妙な|匂《にお》いがしみつきはじめていた。|寛衣《キトン》を着た女患者たちはもうろくに掃除もせず、所々にうっすらと白い|埃《ほこ》りがたまりはじめていた。あれ程|敏捷《びんしょう》だった患者たちの身ごなしが、次第に緩慢になり、好色な血に|頬《ほお》を染めていた女たちの中には、冷たい青銅色の肌をスカーフでかくしはじめた者もいる。その姿は|敬《けい》|虔《けん》な|深窓《パルダ》の教えに従うイスラムの女のように見える。
|謎《なぞ》が、古代からの謎が、ひとつひとつ解けはじめていた。赤い館にこもりはじめた匂いは、薬品……結局は人間の臓器から発する匂いなのだ。硬化しはじめた皮膚に塗布し、マッサージする特殊なクリームは、腎臓や肝臓のホルモンを多量に含んでいるのだ。昔、アステカの神官たちが鋭利な石のナイフで犠牲の胸を切り裂いてとり出したものが、そのクリームの中に洗練された形で入っているのだ。
グノーシス派のいう体内の神性の芽とは舌端の戟細胞を、或いは|味《み》|蕾《らい》そのものを指している具体的表現だったのだ。キリスト教の前駆となったエセニア派はこの病気を否定して、それに対抗するため常に白衣をまとい快楽を放棄することを誓ったのだ。マニ教徒の熱烈な偶像破壊主義はこの病気を悪と断定したことから始まっている。|瑜《ゆ》|伽《が》は病源を失った者達が、何とかしてその病質を手に入れようとした|苛《か》|酷《こく》な試みだった。|三昧《サンマージ》……つまりケルビム化をめざして虚しい努力を重ねたのだ。|涅槃《ニルヴァーナ》はその理想の終点なのだ。オシリスの死と復活はエジプト人のケルビムに対する知識を示している。病気が失われたとき、ファラオは自ら石になろうとミイラを考え出し、四角|錐《すい》の巨大なタイムカプセルを砂漠の中に残した。ヒンズーやジャイナに残された、|永《えい》|劫《ごう》の|輪《りん》|廻《ね》からの脱出という理想は、不滅の生命にいたる願望を素直に示したものにすぎない。暗殺教団の開祖ハサンがアラムートの|山《さん》|塞《さい》にこもったきり、遂に陽光のもとに姿を現わさなかった|事《じ》|蹟《せき》は、三戸田謙介がその|豪《ごう》|奢《しゃ》な自邸で|四《し》|肢《し》を硬化させている事実と全く重なり合っている。ギリシャ神話最古の詩人であるオルフェウスは来世を|謳《うた》い不滅を説いた。オルフェウス教のクロノスは時間だ。時の巨大な流れの中に大光明ファネスがあり、エロスが生じ、光天ゼウスから神人ディオニュソスが生まれる。|愛念《エロス》と|神の子《ディオニュソス》から与生命エリカパイオスまでのつながりは、この病気の本質を寸分の狂いもなく指摘しているのだ。また、|後宮《ハレム》は単に王者の官能を満すために設けられたのでないことは、各地区に散在する窓のないマンションが、比沙子やマキや隅田たちにどう使われているかではっきりする。
そして現代……パパンドール派を一掃したギリシャの軍人階級は、およそ現代ばなれのしたやり方で何かを必死に守ろうとしている。内務大臣のイオアニス・ラダスは世界中にそのサディストぶりを知られてしまったが、結局今のところ秘密は守り抜かれているようだ。人身逮捕の全権限を与えられているラダスは、東京の呂木野より更に大きなスケールの患者群を養い保護しているのだ。
そして日本では原杖人と東日ブラッド・バンクの暗躍が奇妙なハシカの大流行を作り出している。ガンマ・グロブリンを極度の品不足に陥しいれているのだ。ガンマ・グロブリンの原料である人血は、完全に正規のルートから消えてしまっていた。……わずかに献血がそれを細々と供給しているにすぎず、売血者はいなくなってしまった。……ふつうの採血所が二百CC千二百円しか払わないとき、原杖人の組織がひそかに三千円を支払っているからだ。
東日ブラッド・バンクが買いあげる大量の人血は、血液製剤にはまわらず、患者たちの間でコカコーラのようにガブ|呑《の》みされていた。石化し|萎縮《いしゅく》する体を、その血液中の何パーセントかの物質が満して、原型を維持させているのだった。
9
その時、三戸田謙介は原杖人の回診を受けていた。原杖人はめっきりやつれ、くぼんだ眼を赤く血走らせていた。
「……いずれ全部の患者を守屋に集めなければなりませんな」
三戸田謙介は|上膊部《じょうはくぶ》まで石化した腕を、原杖人にあずけて|嗄《しわが》れた声で答えた。
「複葬だな……」
「複葬……」
原杖人は|鸚《おう》|鵡《む》がえしに言い、しばらく考えてからニッコリとした。「そうですな。これはまさに複葬ですな……世界中の葬制が複葬の形式を持っておるのは、ケルビムの安置所を何度も移動させることから起ったのでしょうよ」
「時々幻覚が起るようだぞ……」
「そうです。ケルビム化が進むと幻覚が起ります。|幻覚《マーヤー》ですな」
「また|奥義書《ウパニシャッド》の講義か」
三戸田は低い声でゆっくりと笑った。
「それにしても伊丹氏の第一期は長いですな。香織様もそろそろ|痺《しび》れを訴えておられるのに、まだ色が見えている」
「もう間もなくだろう」
三戸田が言ったとき、遠くで何かの倒れる|烈《はげ》しい音がした。原杖人が聞き耳をたてた。
「何の音だ」
「さあ……」
「行って見て来い」
命令された原杖人は三戸田の腕をそっとベッドに戻し、うす暗い廊下を曲って音のしたほうへ近寄って行った。
巨大な赤い部屋を見おろす二階の手すりから|覗《のぞ》いた原杖人は、そこに荒れ狂う伊丹英一を見た。伊丹は手当り次第に物を投げつけ、|甲冑《かっちゅう》を倒し、壁かけを引きずりおろしてふりまわしていた。
「おい、どうしたというんだ」
原杖人が|愕《おどろ》いて怒鳴った。
「よしなさい。無駄です」
香織の声がした。振り向くと香織は自分の寝室のドアにもたれ、|蒼《あお》ざめ切って立っていた。声も震えていた。
「あ、香織様。彼はどうしたのです」
「色が見えなくなったと言って怒っているのです」
香織は今にも崩折れそうに見えた。
「色が……」
原杖人はそう聞くと|安《あん》|堵《ど》の息をついた。「とうとう来ましたか。……これでもう何もかも|出《で》|揃《そろ》いましたな。患者の勢ぞろいじゃ」
「何もかも……」
香織はそういうと唇を震わせて|嗚《お》|咽《えつ》した。
「香織様……」
原杖人はおずおずとその肩に触れ、「色の問題はめでたいことですぞ。何をお泣きになる」
と言った。
「あの人は色が見えなくなって怒っている……」
「当り前のことでしょうが」
「色が見えないと言っているのよ」
「…………」
原杖人の体に電流が通り抜けたようだった。
「ま、まさか」
「私も信じたくない」
「まさか、あの伊丹が」
「……さっきから色が何も見えないと言って|喚《わめ》き散らしているのよ」
原杖人は血相を変え、老人にしてはひどく身軽に階段を駆け降りた。
「おい、こら、よさんか。……|儂《わし》に診察させなさい」
だが伊丹は暴れまわり、手がつけられなかった。眼が異常に釣りあがり、完全に錯乱していた。原杖人は近寄りかねてそのまわりをぐるぐるとまわっていた。
「香織様……これは|狼《おおかみ》ですぞ……」
しばらくして原杖人は医者の眼でその症状を見抜き、悲鳴のようにそう叫んだ。香織はベッドに体を投げかけて号泣していた。
10
呂木野はもう使いものにならなかった。完全に石化して、守屋に運ばれる第一便のリストに名をつらねていた。患者組織自体がケルビム化をはじめたとも言えた。完全に動ける者は比較的上位で、しかも後期に加入して来た者たちに限られていたから、半身不随の状態と言って良い。従って、伊丹英一の身に起った決定的な異変の謎は、西域貿易の瀬戸宏太郎によって解明されなければならなかった。
その調査報告が三戸田邸へもたらされたのは、約一週間後、伊丹英一の顔面には明らかな|狼《ろう》|瘡《そう》が発生していた。
看護の都合から、香織のベッドは三戸田の寝室へ移されていて、ふたりは並んで横になっていた。香織はかなり疲労していたらしく、あれ以来寝てばかりいる。
「呂木野の重大なミスです」
瀬戸宏太郎は沈痛な表情で言った。
「いや、こちらにも非はある」
三戸田はますます硬化する声帯で、声を嗄らしていた。「あの時期、呂木野はもうケルビム化しかかっていた。タイミングが悪かったのだ。いくら香織様の直命とはいえ、普通ならそんな手落ちをする呂木野ではない。充分に調査した|筈《はず》だ」
香織は両手を胸の上で組み、|遺《い》|骸《がい》のようにひっそりと眼を閉じている。
「とにかく、香織様のご父君が伊丹英一の母親を愛人にしていたことは間違いありません。その昔、香織様とJ大生だった伊丹英一の結婚を反対なさったのも、それが理由だったのでございましょう」
「私の父はあの人が何者か知っていたというのね」
「はい、さようです」
瀬戸は香織を見ないように努力しながら言った。
「隅田はその時自分が反対されたと思ったのだな」
「隅田氏と伊丹氏を、椎葉家の方々がとり違えていたのかも知れません」
遠い昔の出来事だった。母ひとり子ひとりの伊丹……料亭の息子。証券業者の椎葉氏。兜町と人形町の距離……すべてが香織と伊丹を結びつけていた。
「次郎を狼にしたのは、自分の身を守るためだったわ。……将来どんどん増えて行く仲間のために、はじめから狼を作る気で次郎と交わったのよ。はじめのとても危険な時期、次郎は随分私の為に働いてくれたわ。私の秘密を知りかけた両親を殺すことまでしたのよ。瀬戸が犬神筋だって判るずっと前のことよ。……でも、私には狼は一頭でたくさんだった」
香織は冷たい声で言った。何もかも|諦《あきら》め、運命にまかせ切った者の声だった。
「伊丹をどう処分します」
「瀬戸にまかせます。ただし守屋のメガリスが閉じられるまでは、生かして置きなさい。少なくとも私が物を言えなくなる迄は……」
三戸田が努力して|喋《しゃべ》った。
「次郎も伊丹も香織様の命令にはいつでも従う。あの怪力が敵を倒してくれるだろうし、重いケルビムをきちんと並べてもくれるだろう」
「なるほど、ではそう致します」
瀬戸が答えた。
「瀬戸」
「は……」
「これから先きはあなたの番ですよ。私がこれほどの思いをして作り出したケルビムを、ただの一体もきずつけることのないように……」
「承知しております。Q海運も全力をあげて協力してくれますし、万が一にもそういう不祥事は起らないものと存じます」
香織は眼をあけて瀬戸を見た。
「あなたがたはそのために生まれたのです」
香織はそう言ってまた眼を閉じた。
11
伊丹英一が狼になったことは、すぐ患者の間に知れ渡った。だがそれに強い興味を示すものは|殆《ほと》んどいなかった。誰も彼もがケルビム化に熱中していて、それどころではなかったのだ。或る者は既に半身を石化させて仲間の世話になっていた。或る者は手足の痺れを訴えながら、先きにケルビム化した仲間の看護に当り、或る者は自分自身で硬化し続ける|四《し》|肢《し》に愛惜の念をこめてクリームを塗りたくっている。
いつの間にか性愛の時期を越えていた。マンションからマンションへ渡り歩いて、互いに異常な快楽を満喫していた患者の数が、一人減り、二人減りして、今はもう大部分の者が性の愉しみを放棄している。ケルビム化の症状が性欲を減退させ、今度はただひたすらに我が身をいとおしむ。……第三期症状は強い自己愛をともなっているのだ。それはあたかも人生のたそがれにある老人たちが、命の華やいだ頃よりいっそう強く命を守り、少しでも生きながらえようと欲するのに似ていた。
そういう中で、最も遅くに病液を得た隅田夫婦と祥子たちだけは、まだ粘っこいからみ合いの日々を送っていた。
祥子は色感を失った時、さして驚かなかった。自分の状態が正常なものでないことを薄々自覚していたらしく、比沙子に病気の内容を説明されると、平然として、
「じゃあ、これからは自分で愉しみを探しに出かけられるのね……」
と言った。
だが、祥子にとって残念なことには、もうどのマンションでも乱交は行なわれなくなっていた。わずかに同じマンションにいる酒場組織の責任者である細川敬之が、祥子の欲望を時たま満たせてくれるだけだった。
「つまらない……」
祥子はことある毎にそう言った。
「私がなんとかしてあげるわ」
比沙子はこうなることを予測できなかった自分に多少責任を感じるらしく、積極的に祥子の相手になってやるのだが、急速に患者としての成長を示す祥子には、同性の一人や二人ではとても我慢ができないらしい。不満が昂じると加虐的になり、比沙子を口説き落してサドの快楽に|耽《ふけ》ったりする。
もともと比沙子は被虐的な性質を持っていたらしく、この二人の関係はかなり成功した。隅田は女同士の|鞭《むち》の音に|刺《し》|戟《げき》され、祥子から|革《かわ》|紐《ひも》をとりあげると、たった今までそれを|女戦士《アマゾン》のように振りあげていた祥子を突き倒して、男の力を思い知らせたりする。そこへ細川が加わったりして、時には華麗な狂宴が再現することもあるが、やはり一時期のような盛大さは求められなかった。
それに、比沙子も隅田も、そして細川も、すでに欲望の衰えを意識しはじめていて、祥子の少々ヒステリックな挑発がないと、ついしんみりとした時間を過してしまう。
そういう夜、祥子はよく外出したがった。隅田を連れて街を歩くのだ。そして手あたり次第に買いまくる。|衣裳《いしょう》や宝石などが殆んどだが、何の意味もなく買い集めている。隅田はそれを欲求不満の結果だと思い、言うなりに金色のカードで支払っている。もう決済に気を使う必要もないのだから、いくら使っても平気なものだった。
困るのは、祥子がやたらに男たちの気をひきたがることだった。もう新規加入は禁じられている。だから祥子の外出には特に注意して、比沙子か隅田がつき添って行かねばならない。
そんな時、耳よりな話が伝わって来た。原杖人のところで血液が底をつき、もうすぐ非常調達しはじめるだろうという|噂《うわさ》だった。つまり人間狩りがはじまるのだ。組識の各ビルの地下には、その日に備えて死体処理用の深い穴が用意されていた。全血採取するための人間狩りの|餌《えさ》に、祥子は持って来いの存在に思えた。
12
その相談を持ちかけるため、原杖人の行方をあちこちたずねると、忙がしくとびまわっている原杖人は、その日の夜七時ごろ、箱差町の狼の檻へ行く予定になっていることが判った。隅田は奇妙な期待に胸を躍らせて、祥子と狼の檻へ向った。檻の中にいる伊丹と会うのが、懐かしくもあり、また痛快でもあった。伊丹に会うのだというと、祥子は平然と、「あら、そう……」と言っただけで素直について行った。
嫌な|匂《にお》いのする倉庫を抜けて地下の白い檻へ入ると、原杖人はまだ来ていないようだった。
「おい、伊丹……」
隅田は右足を重そうにひきずっている|牢《ろう》番役の患者を休憩室にさがらせると、鉄格子の前でそう呼んだ。
格子の中の短い廊下から、すぐに伊丹らしい狼が姿を見せた。案外しっかりした足どりだった。しかし顔面は全く|変《へん》|貌《ぼう》してしまっていた。|眉《まゆ》が脱け落ち、|鼻梁《びりょう》を中心に逆三角形のかさぶたが|頬《ほお》を厚く|掩《おお》い、それがところどころなまなましく持ちあがっていた。
ひと目見て、祥子は隅田の胸に顔を隠した。
「祥子……」
伊丹は|愕《おどろ》いていた。「会いたかった……」
そう言って格子を両手で握りしめた。
祥子は隅田の腕から恐る恐る顔を離し、
「あなたなの」
と|掠《かす》れた声で言った。
「祥子……」
伊丹の|瞳《ひとみ》がみる間に潤んで来た。「お前も仲間にされたんだってな」
「ええ。この人たちのおかげよ」
祥子はちらっと隅田の顔を見あげた。
「俺はこんな風になりたくなかった。祥子もさせたくなかった」
「でも……」
祥子は伊丹の表情を読みとろうとして、ちょっと口ごもった。だがその変化を読めるような顔ではなくなっている。「でも、私たち人間以上になれたのよ。ケルビムになって何千年も|睡《ねむ》ると言ったって、睡ってしまえばあっと言う間よ。何も考えずに眼を閉じて、その次眼をあけたら新しい朝が来てるのよ。たったそれだけのことで、死ななくてもいい体になれるのよ」
「祥子、お前本気でそう思っているのか」
「それ以外にどう思えて……」
祥子はつい最近身につけた、ひどく|蠱《こ》|惑《わく》的な微笑を浮べてそう反問した。
「俺は香織の誘惑に敗けたんだ」
伊丹は親患者に対する束縛と心の中で必死に闘っているように見えた。香織、と呼びすてにするのに、ひどく力をこめていた。
祥子は笑いとばした。
「いいのよ、あなた。私だってこの人やこの人の奥さんからこってり可愛がられちゃったんですもの。お互いに気にするのよしましょうよ」
|媚《こ》びるように体をくねらせて言う。
「違う。聞いてくれよ」
「ええ、聞いてるわよ」
そのやりとりはどこかすれ違って|噛《か》み合わないようだ。伊丹は焦れったそうに格子を|拳《こぶし》で|叩《たた》いた。
「俺は人間でいたかった。祥子にも人間でいてもらいたかったんだよ」
祥子は不思議そうに軽く首を傾げた。
「おかしいのね。どんな人間だって偉くなりたいでしょ。お金持ちになりたいでしょ。そしてチャンスがあればそうなるのにきまってるじゃないの。死ぬより死なないほうがいいにきまってるじゃないの。それは、私だって貧乏してもいいから好きな人と暮したいっていう気持はよく判るわ。でも、その好きな人が成功して、もっと立派に、もっと豊かになればそれに越したことないじゃないの」
「それが違うといってるんだ」
伊丹は自分自身を励ますように強い声で言った。
「……なんだか私、おこられてるみたい」
祥子はまた隅田を見あげ、ちょろりと赤い舌を出した。
「真面目になれんのか」
伊丹は本気で憤ったらしかった。
「無理よ。だって人間でいたかったなんて、そんな馬鹿なこと、とても出来る筈ないじゃないの。もし私とあなたがあのまま暮していて、隅田さんからこの病気のことを教わったらあなたどうしたかしら。今のように言える……言いやしないわ。私を隅田さんに、あなたは比沙子さんに……頼み込んででも不老不死の体にさせてもらった筈よ。誰だってそうにきまってるわ。知った以上、みんなと一緒はいやよ。少しでも上へ這いあがりたいのが人間じゃない」
祥子は冷たく言い切り、格子の前から離れた。
13
伊丹は大声で叫んだ。何度も繰り返し祥子の名を呼んだ。祥子は格子からは見えないソファーに体を沈めて、
「ここにいるわよ。聞えてるわよ」
と面倒臭そうに答えるだけだった。それは隅田の予想した以上に冷淡な態度だった。そして隅田は無理もないと思った。
いま、祥子の頭は原杖人への提案でいっぱいなのだ。比沙子と隅田が考えついた、人間狩りの|餌《えさ》になるという素晴しいアイデアに魂を奪われている。血の気の多い|逞《たく》ましい男たちを誘発して病液を注入し、のたうちまわらせて放り出す役目なのだ。男たちは血を抜かれて穴にほうり込まれる。祥子はまた街に出て男を選ぶ。……いちばん遅く加入したマイナスが、このアイデアで一挙にプラスに変るのだ。患者の誰にも許されなかった死の女神の役。無制限の男あさり。しかも組織全体にそれで大きな貢献ができるのだ。祥子は出がけにふざけて、それを男あさりのライセンスだと言った。……いま祥子は、その快楽の期待に胸を弾ませているのだ。いろいろな癖を持った指が体を|撫《な》でまわすだろう。いろいろな|呻《うめ》き方をするだろう。細い声、太い声、粗暴な指、繊細な指……ひょっとすると祥子の体はそうした妄想に、もう|濡《ぬ》れているのかも知れない。伊丹がいくら叫んでも、祥子の魂は別な男たち、未知の男たちに奪われているのだ。……恋する男が女を不可解に感ずるのは、こうした女の生理ではないだろうか。隅田はふとそう思った。種を割れば単純きわまる分泌物のせいなのだ。女の体がどの刺戟によってうずいているか、それを知らずに声を|嗄《か》らしても、|所《しょ》|詮《せん》女の耳に届きはしない。……たとえそれがどんなに理に|叶《かな》い、筋が通った言い分でも、別な刺戟に反応している女の思考は、全く別な次元で展開しているのだ。隅田はそう思い、おかしくなった。伊丹は十八、九の若者のように、今祥子に神秘を感じている筈だ。もどかしく、物哀しく、そして祥子を実体より遥かに大きくふくらませて考えている。自分より優れた存在、自分よりずっと複雑な存在として……。とんでもない。祥子はいまただの好色な女だ。下半身の生理に無抵抗な脳組織しか持ち合わせない、ひとかけらの肉のかたまりだ。男……男とはそういう肉のかたまりを、長い間宝石に仕立てて来た魔術師だ。そしてその魔術を、これからも男たちは飽きもせずくり返すのだ。
隅田は鉄格子の前で|哄笑《こうしょう》した。笑いながら椅子をひとつ運んで来て、その前にどっかりと置き、背もたれに両手をのせてまたがった。
「何で笑う。お前に俺を笑う権利があるのか」
伊丹は怒鳴った。
「久し振りだな。赤坂以来だ……」
「ふん」
今度は伊丹が鼻でわらった。「お前を俺は見直したぜ。こんな人でなしとは思わなかった」
「なんとでも言え。俺も赤坂以来お前に対する考え方を変えたんだ。あの時、香織様とお前の話を全部聞かせてもらったよ。長い間お前は俺を裏切って、それでよく親友づらをしていられたもんだ」
伊丹は沈黙した。多分哀しそうな顔をしている筈だったが、よくは判らない。
「裏切っていない。J大時代、たしかに俺は彼女を愛した。しかしその前にお前がいた。辛かったが俺は身を引いた」
「羽田空港で愛を打ちあけたくせに。おかげで俺はお前の身がわりにさせられた。一生の思い出にしていた大森の旅館で、香織様はお前に抱かれている夢を見ていたんだぜ」
「俺は裏切っていない」
「少しは感謝したらどうだ。こうしてお前をまた香織様と結びつける役をしたのは、|欺《だま》され続けた俺なんだからな」
伊丹は急に冷静な声に変った。
「感謝……いったい何に感謝しろというんだ」
「狼になったのが気に入らないのか。ケルビムになって不滅の生命を持つ超人になれないから|拗《す》ねているのか」
「同情は要らん。こうなったのは誰のせいでもない、俺自身の運命だ。俺は自分の母親を責める気にはなれない。しかし今のあの香織は悪の塊りだ。俺は絶対に否定する」
隅田は親の香織を呼びすてにする伊丹の精神力に舌をまいていた。隅田は知らず知らず香織様と呼んでしまう。そうしか呼べないのだ。そして、そのことが隅田の怒りを誘い出している。
「何が悪の塊りだ。その香織様の体で人間をはるかに超えた歓びを知らされたくせに」
伊丹はゆっくり答えた。
「それでも否定する。あいつは鬼だ。現代の悪鬼だ。吸血鬼だ」
14
隅田は焦立って声を高くした。
「いや、あれは神だ。女神だ」
「馬鹿。しっかりしろ。昔の隅田賢也をとり戻せ。神が人間に寄生するか」
「する……」
隅田は鉄格子の前へ歩み寄っていた。「するんだ。神は人間から生まれた。寄生していると言ってもいい。人間の信仰だけが神の存在を確実にしているんだ」
「お前は原始人か」
伊丹は|嘲笑《ちょうしょう》する。「たしかに神は人間が創ったかも知れん。しかし人間はそれを鍛えあげた。無知もあったろう、盲信もあったろう。しかし人間は神を常に昇華させつづけているんだ。……この理屈がなぜお前程の男に判らんのだ。こんな|呪《のろ》われた方法で超人が現われてはいかん。神を昇華させることで、そのあとに全人類がくっついて、やがてそれが超人と化すならいい。吸血鬼は人類の恥部だ。いま神は、原始宗教の頃とは較べものにならないほど進化している。それは人類全体の魂の問題なんだ。神は全人類を代表して、まず超人になる。その超人をすべての人間が完全に理解したとき、人間もまた超人になる。神になり得る。たしかに神の概念のはじまりは、この病気だったかも知れん。しかし、ケルビムは人類を進歩させはせん。むしろその未来を否定し、墜落させているじゃないか」
「それは行けぬ者の泣きごとだ。選ばれ損ねた愚痴だ。神の実体はお前の大好きな抽象論の中にあるんじゃないぞ。物理的に、具体的に存在してるんだ」
すると伊丹は深いため息をついた。
「じゃあ聞こう。お前はどういう資格でエリートになった。どういう努力をした。……ふん。そいつは親からもらった容貌のためだ。ファッションモデルの才能でしかない。人間は美しければそれでいいのか。美貌だけがエリートの資格なのか」
隅田はちょっとひるんだ。
「醜悪な者が不死の世界に満ち|溢《あふ》れていいという理屈は成り立たん。|僅《わず》かな人間しか行けぬとなれば、当然未来に対する配慮が要るじゃないか。ケルビムは根本的に血の問題なのだ。親からもらったもの……お前はそういうが、容貌だけがそうか。計算の才能は、絵筆の使い方は、センスは……みな親からもらった血の問題じゃないか」
「お前は知らないんだ。椎葉香織がたくさんの第二位を生んだことを。……俺、お前、三戸田謙介。この東京に第二位がそんなに少ししか存在しないことを、お前は疑って見ようともしなかったろう。だが香織は何十人、何百人という第二位の患者を生産しつづけていたんだぞ。それがあいつの役目だったんだ。その中には女もたくさんいた。そいつら第二位の患者がどうなったと思う」
「…………」
「知るまい。世界中にばら|撒《ま》かれて行ったことを」
「そうなのか……」
隅田はぼんやりとつぶやいた。
「そうだ。香織から俺はすべてを聞いたんだ。世界中に不死への需要がある。Q海運はそれを売る大組織だ。いや、Q海運自体、その大組織の一部なのだ。……いったい第二位の患者を買って不死を得る人間はどんな奴らなんだ。三戸田謙介のような資本家だ。億万長者だ。王侯貴族だ。奴隷に鞭うち、市場を支配し、需要を作り出し、その需要を技術で変化させる。正当な労働で手に入れた人々の宝物を、あっという間に中古品の価値につき落し、あたらしい夢を高く掲げてまた汗を流させる。貯蓄させ、その価値を左手の指一本で操作してゼロに近づける。そしてまた貯蓄させる。人間の命の上位に国家や企業という化け物を作りあげ、人間に寄生して宿主の血を吸い放題にする。そいつらが不死の世界を手に入れようとして、香織の生んだ第二位の患者を高い金で買って行ったんだ。吸血鬼が本物の吸血鬼になるんだ。それでもお前はケルビムを神だと言い切るのか。宗教だとすれば邪教だ。人間でないとすれば神でなくて鬼だ。悪魔だ。もっと神に近いのは人間のほうだ。働く人間だ。考え……神について考え、それをより高い存在に創りあげ、いつかはその高みに登ろうと努力する人間が神なのだ。お前のように安サラリーマンの身を恥じ、世の中の歯車の回転にうまくはさまって権力構造の奥深くに入りこみ、奴隷を顎で使う日を夢みるような奴は、人間の|屑《くず》だ。少なくとも俺の仲間じゃない。お前の恩師の今井潤造は自殺したんだぞ。ケルビムを否定し、守屋で五月晴れの太陽を浴びて自決したんだ。発表欲にとりつかれて権力と手を結びはしたが、最後は人間であろうとしたんだ。その弟子のお前のザマは何だ。資本家気どり、神気どり。その実権力の|肛《こう》|門《もん》にへばりついた|糞《くそ》のかすとおんなじじゃないか……」
伊丹の声にはぞっとするような|軽《けい》|蔑《べつ》の響きがあった。
第十七章 |偶像破壊《イコノクラスム》
1
柳田祥子の希望の半分は|叶《かな》えられ、半分はままならなかった。
血の不足に悩んでいた原杖人は、祥子のアイデアにとびついて、その件を上層部にはかった。……それまで隅田賢也は、組織の中心は自分たち患者群であると思い込んでいたが、原杖人が隅田のうかがい知ることのできない別の命令系統を持っていたことに気づいて、伊丹の与えた|罵《ば》|倒《とう》の内容を納得したようだった。自分たちは何かの部分でしかない……そういう認識は、欲情がもえさかった少し前の時期では得られなかったろう。しかし肉欲の火はおだやかに消えはじめ、隅田の精神を狂熱の世界から引きはなしはじめているようだ。
柳田祥子はまだその状態に達しておらず、手に入れた男漁りのライセンスをフルに活用しているらしかった。もう隅田達の部屋に姿を現わすことも少なくなり、夜ごと街を歩きまわった。その姿こそ古来言い伝えられた吸血鬼そのものだった。思いきり|放《ほう》|恣《し》な|媚《び》|態《たい》を示す祥子に、男たちは次々に釣り寄せられた。|贅《ぜい》|沢《たく》な身なり、洗練された会話、あり余る紙幣……男たちはそのどれかにひっかかった。しかし、祥子は男を選択する権利を与えられていなかった。あらかじめ蒸発しても大きな騒ぎにならない人間のリストが用意されていて、祥子は暴力行為よりは安全な手段として誘惑者に用いられている。だから、男たちが美男ばかりとは限らない。口さきひとつで根なし草の生活を送るいやらしい中年男の次が、前科数犯の|詐《さ》|欺《ぎ》師だったり、うす汚れた浮浪者だったり、その色っぽい敏感な肌に触れる指は実にさまざまだった。祥子はそうしたいかがわしい男達との触れ合いで、|荒《すさ》み放題になって行くようだった。だが、|爪《つめ》の汚れた野良犬でも雄は雄だった。むしろそういう雄のほうが、あくどい性技を心得ていて、祥子に|刹《せつ》|那《な》の|愉《たの》しみを与えてくれるようだった。汚れた男根が胸を|這《は》いずり、黄色い歯がのぞく唇を吸う時、祥子はかえって深い快楽を味わうようになっていた。
そして男たちは、窓のないマンションの赤い部屋で、例外なく祥子の舌の一撃を受けて我を忘れた。……隠れていた荒っぽい男たちがさっと現われ、自分から裸になって手間のはぶけた男を鈍器で素早く失神させた。すぐその場で採血がはじまり、男の血は一滴残らず吸いあげられるのだ。
その間、祥子はたいていバスルームにいる。汚れた肌を洗い流し、屈辱を味わった恥部を清めているのだ。
衣服をまとって出て来ると、たいてい作業は終っている。血の入った容器と血の入っていない死体が部屋から運び出されるのに踉いて、祥子も街へ出る。時間さえあれば一晩に何人でも男を漁った。死体はビルの地下にあけられた深い穴にほうり込まれ、そのたびに生コンクリートが少し流し込まれた。
快楽と死の舞台になる部屋はどこにでもあった。かつてそこに痴態をくりひろげていた患者たちの大部分は守屋のメガリスに移り、残っている者は、まだそれ程病状の進んでいない者達だけだった。
祥子の体に少しずつ死の匂いがしみついて行く。夜毎いくつかの死をもたらす行為が、祥子の雰囲気をいつの間にか死神めいた暗いものにしている。
だが、それは愚かな犠牲者たちにとって、いっそうの魅力になったようだ。死へ誘われているとも知らず、おこがましくも祥子を誘惑する気で女たらしの技術を披露し、敏感な祥子の体がピクリとでも反応しようものなら、喜び勇んで死の部屋へついて行く。守屋のメガリスに横たわる数多くの半ケルビムが、祥子のおかげで人血をたっぷり摂取することができた。香織や三戸田でさえ、その血で養われた。祥子はいまや孤軍奮闘する死の女王だった。子供を養う鬼子母神だった。
2
|狼《おおかみ》のやまいの増悪期、狼の本体は一切の記憶や意識を失ってしまう。伊丹は最初の増悪期にそれを知らされた。意識の|冴《さ》えた、常人なみの時期は数日の間で、増悪期が始まると次第に|睡《ねむ》って行くように意識が遠のいて、そのあと自分がどうなったか何も判らなくなった。それに倉庫の地下の|檻《おり》の中で、椎葉次郎と暮しているが、一度も会話を交したことがない。
間病期がずれているのだ。伊丹が意識をとり戻したとき、次郎は狼になっている。次郎が覚めたときは伊丹が狼になっている。これでは話の仕様もないわけだ。
しかし伊丹はなんとかして自分が狼になっている間のことを知りたいと思った。そして何度目かの間病期に、或る発見をした。それは時の流れさえさだかではない、|陰《いん》|鬱《うつ》な檻の中での出来事だった。
いつの間にかひとりごとをつぶやく癖がついていて、その時も鉄格子の内側の部屋のベッドに腰かけて、となりのベッドに横たわる椎葉次郎に語りかけていた。
「お前だって俺と同じようにあの女を恨んでいる|筈《はず》だろ。こんな檻の中でみじめな青春を送ろうとは夢にも思わなかった筈じゃないか。ええ、次郎君よ……」
すると、狼の次郎はピクリと体を動かし、起きあがって上体をまっすぐ立てて|坐《すわ》った。
「なんだお前。俺のいうことが判るのか」
次郎はじっとしている。
「判るなら返事をしろ……」
そう言うと、コクンとうなずいた。
「返事をしろ」
すると次郎は|嗄《しわが》れた声で答える。
「ハイ……」
「立て。立って部屋の中を歩け」
伊丹は|昂《こう》|奮《ふん》して言った。次郎はゆっくり立ちあがり、足音もなく部屋の中を行ったり来たりする。
伊丹は|茫《ぼう》|然《ぜん》とそれを眺めていた。……|俺《おれ》は狼を使える。心の中でそう繰り返していた。
従命自動症。それは時々やって来る原杖人の|呪術師《じゅじゅつし》めいた行動でよく判っていた。増悪期に異常な体力を持つ狼の特性を利用して、さまざまな悪が行なわれているに違いない。百メートルを六秒ちょっとで疾走するという狼人間は、盗み、殺人、破壊……あらゆる隠密行動にこの上もない威力を発揮する筈だ。どんな警戒厳重な施設も、|所《しょ》|詮《せん》人間の常識の枠の中で作られている。常人の数倍の跳躍力、腕力、そして百メートル六秒台の脚力があれば、そんなものはひとたまりもない。そして原杖人は、狼人間椎葉次郎を思いのまま操る狼つかいだ。
狼を従命させるのは、まず第一にその親患者だ。これは当然のことだ。しかし、狼になる前の人間関係や、その後の環境次第で、狼は親以外の命令者を持つことがあるらしい。次郎の場合がそれだ。
「もういい。ベッドへ戻って休め」
歩き続ける次郎にそう命じた伊丹は、ふと妙なことに気づいた。……香織はもうケルビム化しはじめていて動けない筈なのだ。この檻へ来られない筈だ。としたら、いったい誰が自分に命令を下しているのだ。それとも自分には命令者が一人もいないのか。それとも次郎のように原杖人なのか。それともあたりにいる誰の言うことでも聞いてしまうのか。
伊丹はぞっとして自分の両肩を手で|掴《つか》んだ。体を折り曲げ寒そうにうずくまる。……これ以上おぞましいことがあるだろうか。誰とも判らぬ者の命令で、次郎のように檻の外へ連れ出され、何か汚れた仕事をさせられている。|然《しか》もあとに一片の記憶も残らない。
知りたかった。伊丹は長いことかかって番人を|欺《だま》し、紙と鉛筆を手に入れた。そして次郎に長い手紙を書いた。その手紙は壁に留められ、次郎の覚める時期を待っている。伊丹は自分が狼になるのをはじめて待ちこがれた。
3
悪夢から覚めるように、鋭い不快感が体の中を貫いていて、それを中心にして徐々に意識が覚めはじめた。気がつくと次郎の丸まった背中がとなりのベッドに見えていた。伊丹はだるい体に力をこめて立ちあがった。この前睡ってからどの位たっているのか見当もつかない。だがすぐに手紙のことが頭に浮んだ。あたりを見廻すがどこにもそれらしいものがない。伊丹は夢中になって檻の中を探しまわった。
探しあぐねてベッドへ戻った伊丹は、疲れた顔で次郎の背中を眺めていた。読んでくれたのだろうか。……返事は書いたのだろうか。
「次郎、返事はどうしたんだ」
またつぶやいた。すると次郎はこの前のときのように、ピクンとベッドへ坐った。
「次郎。読んだのか」
返事はない。
「俺の手紙を読んだのならハイと言え」
「ハイ」
次郎ははっきりそう言った。伊丹は従命自動症を扱うやり方が少しわかったような気がした。質問に対する返事は苦手なのだ。行動を命令されるほうが易しいらしい。
「手紙を持って来い」
すると次郎は立ちあがり、自分のシャツのすそをズボンから引っぱり出した。ポトンと部厚い手紙が床に落ちた。伊丹は慌てて拾いあげた。
それは次郎の返事だった。伊丹は次郎を元の楽な姿勢にさせてやってから、胸を躍らせて手紙を読みはじめた。
意識が戻ったら壁に手紙が留めてありました。僕がどんな思いでそれを読んだか、判ってもらえるでしょう。伊丹さんの手紙は人間の言葉が書いてありました。二人とも狼にさせられてしまいましたが、意識が戻ればまだ人間の心を持ち続けているのです。|嬉《うれ》しくて何度も読み返しました。姉やほかの連中は悪魔です。人間の血を吸って生きているのです。言いにくいのですが、伊丹さんの恋人だったという祥子という人もそうです。あの人はこの僕たちの部屋へ入って来ます。時々やって来て僕を外へ追い出します。病気がおさまっている時の僕は番人の男にかないません。檻の外に縛られて待っているだけです。祥子という人は、多分伊丹さんの体を抱きに来ているのです。以前は姉も時々やって来て僕とそうしたらしいのです。でも姉と祥子という人は少し違います。姉は一人で僕のところへ来ても大丈夫なのです。僕は姉の命令を何でも聞いてしまう体なのですから。でも祥子という人は伊丹さんに命令できません。だからもう一人の男を連れて来ます。伊丹さんはその男の命令に従うのです。その男は隅田さんです。嫌なはなしですが、狼の時の僕らのセックスは|凄《すご》いのだそうです。祥子という人はいま何かの力を背景にしていて、それで隅田さんも言うことを聞いてあげているようです。伊丹さんに命令できるのは、ほかには姉だけのようです。隅田さんはとても頭の鋭い人で、もう少しで手紙のことを|嗅《か》ぎつけられそうでした。だから壁にピンでとめるのはやめてください。紙と鉛筆は伊丹さんのベッドの下に隠しました。伊丹さんは今のところ狼の時期になっても外へ連れ出されてはいません。僕は|今《いま》|迄《まで》何十人も人を殺させられたようです。それから、これはずっと前原杖人の|奴《やつ》に聞いたのですが、狼人間には後催眠とかいうのが効くらしいのです。僕にはどうしていいか見当もつきませんが、何か役にたちそうでしたら利用してください。伊丹さんは僕に命令できるそうなのですが、僕は伊丹さんには命令できません。いくら試しても駄目です。結局僕は狼のまま一生を終るようです。原杖人は治療法などないと言っています。仮りに脱け出しても、人間社会では生活できません。いちばんいい方法を考えてください。また手紙を書いてください。あなたは僕の兄に当る人なのだそうですね……。
4
椎葉次郎の手紙は次から次へと思いつくまま書きつらねてあった。読み終えた伊丹は次郎という青年が、長い間自分の生命を|呪《のろ》いつづけ、今はもう運命にすべてをゆだねるしかない心境に達しているらしいのを感じた。
だが伊丹自身はまだ狼の自分に鮮烈な嫌悪感を抱いていた。……祥子は|淫獣《いんじゅう》になっている。そう思った。この狼をわざわざ抱きに来るとは一体どういう神経なのだ。狼の精力を|愉《たの》しんでいるらしい。しかも、あの隅田を連れて……。
隅田ももう人間ではない。祥子の欲するような痴態を自分に命じ、二人の交合を傍に立って眺めているのだ。……烈しい屈辱感が胃や肺をしめつけて来る。
人間らしい思いやりのなくなってしまった世界。友情もない、愛もない。患者同士の狂ったような交わりと、底知れぬ自己愛。愛というよりは、自己保全のための精密なメカニズムしかない世界。……それがケルビムになる者の世界なのだ。
憎む。俺から祥子を奪った連中を憎んでやる。あの可憐な小|妖《よう》|精《せい》のような祥子を淫獣に仕立てあげ、努力家の隅田を権力の甘い汁の一滴でたらし込み、何から何まで変えてしまったものを憎んでやる。
伊丹は東京タワーの見える居間で祥子の肩を抱いて何時間もじっとしていた頃の、あの幸福な時間を思い起していた。ボルボを駆って伊豆や房総や信越の道を撮影してまわった日々を思い起していた。東銀座のオフィスにこもる、あの|饐《す》えた現像液の|匂《にお》いを懐かしく思い起した。
何もかもを奪った奴らが、このまま栄え続けて行くことが耐えられなかった。確実に、絶対確実にそいつらは法で退治することは出来ないのだ。法の刃は常に下向きなのだ。一人でやるしかない。個人で闘うしかない。それがどんなにはかない力だろうと、何もかも……眼で見る色や意識すら奪われている今、闘わないわけには行かないのだ。……もう奪われるものは血しか残っていない。ここまで追い込まれれば、闘って、少しでも敵を傷つけて死ぬよりほかに生き方はないのだ。
何か方法がある筈だ。彼らが顔色を変える破壊が……。伊丹は深い考えに沈んだ。過ぎて行く一刻一刻を惜しんで、闘う方法を考えた。その目的は|復讐《ふくしゅう》とは言えない。恨みつらみよりもっと根深いもの、現在を生きるというそのことに直接つながっているようだった。
次郎のいうように、狼にされた今、社会へ復帰する途はとざされていた。脱出して世間の連中に警告して歩いても、狼の言葉では誰も信用する筈がない。異様な形相の狼が街に姿をあらわせば、たちどころにパトロールカーがとんで来るだろう。この症状に憐れみは持たれるかも知れないが、感染の|惧《おそ》れとか何とか理由をつけて隔離されてしまうのだ。資本や権力にへつらう学者たちが寄ってたかって実験材料にするだろう。学者たちは狼人間の実在報告を新聞やテレビに流すだろう。
金、金、金……。すべてはそれにつながって行く。真相を訴えても精神錯乱でかたづけることだろう。いくらかの人間がその言葉に反応しても、非常識、売名行為として葬り去られるだろう。数多くの人間が行方不明になっている事実も、警察は何とか|糊《こ》|塗《と》してしまうだろう。統計はねじ曲げられ、蒸発現象は今にはじまったことでないと明快に言い切るだろう。窓のない西域貿易のマンションは片はしからあっという間に建て替えられてしまうだろう。たとえ真相に気づいたひとにぎりの人間が集まっても、協力し合うまでに|叩《たた》きつぶされてしまうだろう。
俺は檻の中にいなければならない……。伊丹はそう結論した。組織の内側で機会をうかがっていたほうがはるかに闘い易い。伊丹は次郎に手紙を書く。なんとかして自分に命令できるよう努力してくれ……血縁者ならなんとかなる筈だ。
5
夜霧が深くたちこめている。低い家並みのつづいた街に人影はなく、窓の灯りも消えはてて、ひどく間遠な街灯が頼りなげに|僅《わず》かな光を投げかけていた。夜霧は時々霧雨になり、また夜霧に戻って揺れ動いた。
その家並みを通り抜けると、しっかりしたまあたらしい舗装道路は変らないが、道の両側は畑や茂みに変る。濃い霧の中を一歩ずつたしかめながら進んで行くと、だいぶ行った頃小川のせせらぎが聞えはじめる。その音は次第に近づき、やがて小川にかかった幅の広いコンクリートの橋にさしかかる。道はそこでふた筋に|岐《わか》れ、小川ぞいに左へ伸びる道と、橋を渡るまっすぐな道とがある。そして、コンクリートの橋を渡ると、そこは塚石という土地になる。
人眼をさえぎっていた高い塀はもう取り払われている。旧い風間家の屋敷もなくなり、低い大谷石の上にヒバやドウダンやツゲを植えたいけ|垣《がき》がめぐらされている。そのいけ垣の内側は、以前畑があったとは信じられないような|変《へん》|貌《ぼう》を見せている。|鬱《うっ》|蒼《そう》とした森になっているのだ。一体、何千本の樹木を運び込んだのだろう。森の中を細い道がうねうねと曲っている。その道は以前ひねこびた一本杉が立っていたこの土地の中心部に達していて、そこにごく小さな回教寺院らしいものが建っている。
暗くて五つの丘は見えない。しかし、その地下深くに、巨大な五角|錐《すい》が埋められているのだ。天然の巨石と特殊な高密度コンクリートで固められたその五角錐は、これから数千年の旅に向うケルビムたちの時の船だった。
森のあちこちにQ海運の腕っこきたち……暗殺教団の男たちが辛抱強くうずくまっている。守屋や近くの町には、何を警戒するのかはっきりしないまま、真名瀬商会の社員たちがとり澄した顔で網を張っていた。そして地下のメガリスの内部では、足音も重々しく、石化しかかった吸血鬼たちが動きまわっている。
吸血鬼たちはもう赤い|寛衣《キトン》を脱ぎ|棄《す》てていた。千六百以上の裸体が赤いライトの中で息づいていた。扉や隔壁は何もなかった。金属も見当らない。ただ仮りに張りめぐらされた電灯線が床をのたくっているだけだ。巨石とコンクリートに塗りこめられた空洞に、時たま嗄れた声が響いていた。一日に何回か地上から合図があり、そのたびに遅れた患者が時の船に入って来た。冷えびえとした空洞の中に血の匂いが立ちこめている。一瞬ごとに石化面積をひろげ、そのたびごとに少しずつ|萎縮《いしゅく》する体をもとどおりに保つため、地上の殺人鬼たちが地下の吸血鬼に大量の生血を補給していた。
もう自分では身動きもできぬケルビムが、仲間のまだどうやら動ける半ケルビムに血を与えられ、のみ下していた。青白いケルビムの口から胸もとに、のみそこねた血のりがこびりつき、床は血潮と毛髪で埋まっていた。
患者の毛髪は、恥毛といわず頭髪といわず、すべて身動きのたびにずるずると脱け落ちるのだ。石化の進み具合は、だから頭の形でひと眼で判った。
マキは一段高いかこいの中に、つるつるの頭で横たわっていた。誇らし気につき出した乳房と削げたような下腹部、よく張った腰、そして恥毛を失ってあらわになった性器……それは見事な彫像だった。
空洞の中央部に、一個のメンヒルが立っていた。それは自然石を古代さながらに荒削りしたもので、そこに三体の完全なケルビムが据えてあった。それはこの塚石の土地に千数百年間睡り続けていた一人の男と二人の女だった。果してそれが物部守屋とその女たちなのかどうか、よくは判らない。しかし、いずれは覚めるだろう。三人は、睡りについたときと余りにも異なる周囲の有様に戸惑うかもしれない。どうなるか、まだ誰にも判っていない。
6
犠牲者リストに名をつらねているのに、祥子の誘惑に乗らなかった男がいた。その男は国電恵比寿駅の近くで小さなラーメン屋をやっていた。四方八方から巨大な力で|圧《お》し|潰《つぶ》され、倒産した建設会社の元社長だった。
倒産はあっという間だった。銀行という銀行が、街の高利貸しまでが、その四角ばった顔を見ると、なぜかおぞまし気にそっぽを向いた。どんな仕事も手に入らなかった。夏木建設はついこの間、長年の宿願だった業界第一位の実績を獲得したが、会沢建設には一顧だに与えようとしなかった。独自の建売り計画も、小意地の悪い役人の承認印を得られなかった。法規が最大限に活用され、いくら知恵を絞っても役人の難くせをまぬがれることが出来なかった。承認が下りたのは、倒産した二日後のことだった。
会沢は無一文には驚かなかった。血の出るような金を|掻《か》き集めて、小さな小さな店を借りた。そして妻とラーメン屋をはじめたのだった。……そこへ祥子がひょっこりと顔を見せた。祥子は|媚《び》|態《たい》の限りを尽したが、伊丹を友人と信じている会沢の古くさい仁義を崩すことはできなかった。
そして或る夜遅く、出前に出た元社長の自転車を狼が襲撃した。会沢はとらえられ、赤い部屋に連れ込まれた。死の女王の誇りを傷つけられた祥子は、会沢の死に立ち会っていた。
「しつっこい野郎らだ」
会沢は観念している様子だった。「どこまで人を追いつめたらてめえらの気は安まるんだい。俺を始末するよう言われてるんだろうが、|帰《けえ》ったら|偉《えれ》え奴らにそう言いな。てめえら|位《ぐれ》え胆っ玉の小さい野郎はいねえって……。多寡が会沢剛太の一匹や二匹、放り出しといたって東日様はビクともしねえ筈じゃねえか。それとも何か、ラーメン屋の|親《おや》|爺《じ》でも、でけえ声を出せば東日様をビクつかせることができるのかい。そいつはちっとも知らなかったよ。だったら貧乏人が声を|揃《そろ》えりゃあ、東日様はグラグラと屋台崩しにぶっつぶれるんだな。でもよ、貧乏人てえのはおめえらにとってうまく出来てるんだ。黙って聞き耳だけたててるのが習い性になってるんだ。貧乏人同士の|喧《けん》|嘩《か》はするが、でけえ声で偉えお方の悪口は言わねえように出来てるのさ。……いや、俺ァ何も命|乞《ご》いをしてるんじゃねえ。貧乏人に生まれて貧乏人と育って、つくづく貧乏人の根性に愛想を尽かしちまってるのさ。おめえらは総理大臣を飼ってる。国を動かす連中をかたっぱしから金で養ってる。毒を売っても人殺し道具を売っても、それで|儲《もう》かりゃァ誰も文句を言わねえ仕組みンなってるんだ。銀行の利息は五分五厘かそこらだ。その利息をほんのちょっとあげる。さあ貯めなさあ貯めな……銀行員はそう言って煽りたてる。だがその利息にかかる税金が、おんなじ頃いつの間にか五分もあがってる。そっちは何も教えちゃくれねえ。誰も彼もがサアってんで精出して貯めるが、手にしたときは以前より減ってるんだ。しかも金の値打ちはどんどん下る。年にどう見ても六分や七分はさがって行く。両方合わせりゃ元金以下になっちまう。……でも元本保証の太鼓判は押しっ放しだ。こんなうめえチョボイチがあるかってんだ。金を預るのは借金するってことだ。その借金をした野郎が、その金使って相場をさげる。期限が来たときゃあ目減り分差し引いて返すってあんばいだ。文句言ってんじゃねえ、つくづく感心してるんだ。だがよ、東日さんの人。そんなことをしたって、人間の働く値打ちは下りゃあしねえぜ。働く奴が正しいんだ。みんなは……俺たち貧乏人はなぜ汗水たらして働いてると思う。おめえさん方ケチ臭い細工師にゃあ金輪際判るめえ。働いてる者同士の間にゃあ、|銭《ぜに》|金《かね》でねえあったけえもんが生まれるんだ。テレビも車も学校も、そんなもなァささいなこった。おめえらのボスにゃァその味は一生判るめえ。何億って銭いクスねて総裁選挙の馬鹿騒ぎに使うようなことばかり頭を使ってる連中にゃァ、豆腐屋がなんでうめえ豆腐を作ろうとするのか判りゃしねえんだ。客にうめえのひとことを言わせてえばっかりに、くらしを切りつめて仕入れをおごるラーメン屋の気持なんか判りゃしねえんだ。人死にの出る車をこさえて毒|撒《ま》いて、豪勢な邸の奥で銭勘定してる奴に、そんな楽しみを教えてやってたまるもんけえ。……さあ、切るなと突くなと好きにしな。……血を採る気だね。面白えじゃねえか、やってもらおうよ。この体ン中にゃあ、精一杯生きた証拠がいっぱいつまってるンだ。誰も欺さねえ、誰も殺さねえ|綺《き》|麗《れい》な血だ。もう俺ァどうなったっていいんだ。だけど俺から働いた楽しみは盗めねえよ。何を盗めてもどう欺せても、本物の人間の生き方だきゃあてめえらの手に渡らねえんだ……」
会沢の血は二升以上あった。
7
会沢の誘惑に失敗したのがきっかけのように、祥子の性欲も急速に衰えて行った。|痺《しび》れを訴え、一日も早くメガリス入りが出来るよう男たちに懇願した。しかし血液は不足していた。殺人組織は祥子をできるだけ有効に利用しようと、男漁りを強要した。そして祥子はみじめな売春婦のうしろ姿をのぞかせるようになった。
いっぽうメガリスの内部では、動ける人間がますます減って来ていた。その反面、手のかからなくなった完全石化人も増えたが、手不足はどうにもならない。二頭の狼が呼び寄せられ、疲れ切った原杖人と隅田賢也がその二頭を操って、辛うじて作業を進めていた。
伊丹も次郎も、間病期がひどく短くなって来ていた。原杖人はそれを病状の進行のせいだと診断したが、実は誤りだった。次郎と伊丹はまだるっこしい手紙のやりとりで、うまく|辻《つじ》つまを合わせていたのだ。間病期でも意識のないふりをして、隅田や原杖人がどうやって自分たちを使いこなすのか研究していたのだ。
そんな或る日、ささやかな事故が起った。伊丹は間病期に入っていたが狼のふりをして隅田の命令にぎごちなく従っていた。何本もの重いケルビムをそっとかつぎあげ、それぞれの階位に応じた位置へ安置する作業が続いていた。
その事故は呂木野のケルビムで起った。壁面に作られた斜めのくぼみに、石化したケルビムを立てて置くのだが、ちょっとした手違いで呂木野の位置が狂っているのが判った。
隅田はそれに気づくと伊丹にとなりのくぼみに呂木野を移すよう命じた。伊丹は疲れ切った体を、いかにも狼らしく動かしながらうしろへ斜めに倒れているケルビムを抱え起した。
その時だ。半身、いやそれ以上石化した細川敬之が、のそり、のそりと近づいて来た。そしてやっとの思いで伊丹が直立させた呂木野のケルビムを、不意に全身の力をこめて押し倒した。隅田があっと叫んで止めようとした時、呂木野のケルビムは床の岩盤に大きな音をたてて転がってしまった。左腕のつけ根と耳が欠け、耳は粉々になってしまった。
音を聞きつけて原杖人がとんで来て、次郎に命じて犯人の細川の自由を奪った。細川は狼にはがいじめにされながら叫んだ。
「こいつは俺の親を殺させたんだ。志津江は何の責任もなかったんだぞ。月岡哲郎の加入を申請したとき、こいつはオーケーを出したんだ。だがあとで会議が月岡を否決した。こいつはそのオーケーの責任を隠して志津江に押しつけたんだ。親の|仇《かたき》なんだ。俺は仇をうったんだ……」
細川の絶叫はメガリスの内部に反響した。
「仇は仇。勝手にするがいい。しかし、お前はとんでもないことをしでかしたんだ」
隅田はうすら寒そうに肩をすくめて言った。
「ケルビムは指一本、耳片方でも破損すれば|永《えい》|劫《ごう》に石のままなのだぞ。知らんのか」
原杖人は声をふるわせて怒りを叩きつけた。「きさまのような奴は神になる資格などないわ。血をやらんからそのつもりでいろ」
そういう原杖人の傍で、伊丹は眉ひとつ動かさず直立していた。しかし、ケルビムが少しでも破損すれば、その再生能力が失われるというのは、はじめて知らされた知識だった。伊丹は腹の中でこれだと叫んでいた。
それ以来、さしたる事故もなく作業は進んで行った。祥子も地下に降されて、狼や隅田に混って半ケルビムたちに血を吸わせる作業を手伝った。
従順な狼たちに、いつしか隅田や原杖人の警戒もゆるんで来ていた。狼はメガリス内部の一部になり切り、のそのそと動きまわっている。その一隅……階段の下にある暗い一角で、時々すすり泣くような声がした。七十センチくらいに萎縮した細川がまだ生きているのだ。
8
やがて隅田も伊丹の運んで来る生血をうまそうにガブ飲みするようになった。地上との連絡は間遠になり、補給される血液の量もずっと少なくなった。どうやら原杖人はケルビムと一緒に、最後の瞬間この空洞にとじ込められる予定らしかった。
間病期と判ると、狼は太い鎖につながれた。隅田は思いやりのためか、最後まで苦しめるつもりか、伊丹を祥子のすぐ傍につないだ。全裸で|横《おう》|臥《が》した半ケルビムの祥子は、四肢を青銅色に変色させ、下腹部だけにまだ血の色を残していた。
伊丹も次郎も、間病期を二日ぐらいに粧っていたが、実はたっぷり四日は意識があった。その公認の二日間、伊丹はひっきりなしに祥子に話しかけていた。たのしかった人間時代。はじめて祥子を発見した時の感激、はじめて体を交えたときの歓び、ロケ先きの出来ごと、友人たちの思い出、食事、散歩、家具……。
祥子に昔の愛を思い出させるため、ありとあらゆる思い出を語った。なれそめから、伊豆ロケの晩までが、短い間に洗いざらい語られた。そして祥子も、時々伊丹の記憶を訂正したり、軽く笑ったりするようになった。伊丹は次に愛を語った。魂と魂の触れ合いが、どんなに愉しく暖かいものだったか、切々と語りつづけた。……そしてとうとう、祥子がケルビムとして意識を失う前、伊丹に別れの言葉を告げるよう約束させた。それは恋人同士の最後の愛の告白に思え、祥子も|流石《さすが》にしみじみとした様子でそのことを誓った。
「俺が狼のとき、祥子の言葉はまるで聞えないと同じなんだ。でも、この言葉だけは聞くことができる」
すると祥子は、昔ベッドで抱き合ったときのように、半ば放心したようなけだるい感じで伊丹の無残な|貌《かお》をふりあおいだ。
「何て言うの、教えて」
伊丹は情のこもった低い声で言った。
「変な言葉なんだ。覚えられるかい」
「やって見るわ」
「イコノクラスムというんだ」
「イコノクラスム……」
祥子は口の中で何度もそれをくり返し、やがてうとうとと睡ったようだった。遠くで原杖人が次郎を使役していた。隅田はいちばん高いかこいの隅に立っている比沙子のケルビムに、ゆっくりとクリームを塗り込んでいた。もうその必要もないのに、ゆっくりとクリームを塗ってやっている。それは|愛《あい》|撫《ぶ》なのだ。比沙子はもう口をきけない。だがまだ少しは意識があって、多分そうした隅田の愛情を心のどこかで受けとめているのだろう。
天井が五角形にすぼまった大空洞の中に、千七百近いケルビムが並んでいて、要所要所に赤い裸電球が光っていた。三戸田も香織もマキも、赤い酒場のホステスたちも、夜の街をとびまわっていた美男子たちも、みんな石になっていた。あとは隅田と祥子、そして原杖人だけになっていた。
隅田と原が相談する声が聞える。
「やっと終るようだな。具合はどうだ」
「私もときどき意識を失いかけるようになりましたよ」
「幻覚は……」
「よくあります。不思議ですね、幻覚には昔どおり全部の色が|揃《そろ》っている」
「|羨《うらや》ましいよ。今になって|儂《わし》も行きたくなって来た」
「やはりここへ残るんですか」
「まあな。木食上人といったところじゃよ」
「外へ出ればいいのに」
「馬鹿な、何の為にこれ以上生きる必要があるというのだ」
「東日が手厚くしてくれますよ。一生安楽に暮せるでしょう」
「儂はそんなもの、欲しくはない」
隅田は原の肩につかまりながら、のそりのそりと歩いていた。狼たちは本当に意識を失って、次の命令を待っていた。
9
森の中の男達の数が少し減った。周辺の町に散在していた真名瀬一味も、ぼつぼつ新宿へ引きあげはじめていた。
霧は晴れ、太陽が|眩《まぶ》しく輝き、また夜になる。日がたつにつれ吸血鬼たちの|痕《こん》|跡《せき》は、瀬戸やヤズディギルドの手でひとつひとつ丹念に消されて行った。
赤い酒場はどこにも見当らなくなり、やはりあのジンクスは本当だったのだと、水商売の経営者たちは赤一色のインテリアに挑戦した連中を|嘲笑《ちょうしょう》していた。大杉実の全集出版の企画が幾つかの出版社の会議で|潰《つぶ》れ、あの美男スターとの派手な騒ぎも、いつの間にか人々の興味から遠のいて行った。
折賀夫妻は娘夫婦が国外へ出たと知らされ、いつかは会えるかも知れないと語り合っていた。その代償に折賀は社長の地位を獲得し、夏木雄策は保守党から打って出る選挙準備に忙殺されていた。第六次国土総合開発計画は膨大な予算の承認を受けるため、各方面に根まわしをしている最中だった。計画立案の中心人物である竹中のもとには、利権を求めて大勢の人物が出入りし、平戸崎代議士は次の内閣に初入閣を予定されていた。中東では大立物が奇妙なタイミングで急逝し、アメリカの航空母艦がギリシャ近海をうろついていた。日本の財界の大物は兵器産業の拡大を叫び、防衛庁の長官が徴兵制を強く否定しながら、自衛力の拡大を進めていた。公害問題に政府が積極的になり、民間データを沈黙させようと組織をととのえていた。
そして守屋のメガリスの内部では、狼を処分する日が近づいていた。
だが、伊丹が考え抜いた作戦も、時々刻々発動に迫っていた。それは機械を一切使わない、人間の愛の叫びにセットされていた。
「イコノクラスム……」
突然|嗄《しわが》れた絶叫が大空洞の内部に響いた。
その声は大きく|谺《こだま》して割れ、いったいどこから聞えたのか見当もつかなかった。
突然弾かれたように片方の狼が走り出した。そしてもう一頭の狼に近寄ると、その前で叫んだ。
「イコノクラスム……」
叫んだのは伊丹だった。次郎は伊丹を従命させることに成功していた。そしてひそかに、そのキー・ワードで反応するような後催眠をかけていたのだ。伊丹は祥子に別れの言葉としてそのキー・ワードを教えていた。
祥子が伊丹に別れを告げたとき、伊丹は自動的に次郎に近寄り、無意識の内に次郎に同じキー・ワードを伝えた。
イコノクラスム……イスラムが厳禁した偶像崇拝、ビザンチン帝国で論争された聖像礼拝問題……そして或る時期熱狂的に民衆に支持された偶像破壊の合言葉、イコノクラスム。空洞内でケルビムの破壊を企む伊丹にとって、それは全くぴったりのキー・ワードだった。
次郎が走り、下層のケルビムを狼の怪力で引き倒しはじめた。伊丹が走り原杖人の細い背骨をへし折った。隅田が大声で伊丹を制止した。
従命自動症……。伊丹の動きがピタリと止った。
「イコノクラスム……」
次郎が一体破壊するごとにそう叫んだ。そのたびに、次郎に従命する伊丹もケルビムに手をのばした。隅田が制止する。伊丹はとまる。
「イコノクラスム……」
次郎が叫ぶ。伊丹が動く。隅田は二頭の狼が次々にケルビムの生命を絶ちながら近づいて来るのを怖れて、次第に空洞の上部へ追いあげられて行く。
赤い光に満ちた五角錐の空洞に、ケルビムの砕け散る音が続いた。隅田は鉛のように重い足をひきずりながら、最高位のかこいに追いこまれて行った。
「イコノクラスム……」
「イコノクラスム……」
伊丹と次郎が|咆《ほう》|哮《こう》し合っていた。二頭の狼人間が大破壊、大|殺《さつ》|戮《りく》を展開していた。隅田は地表へ救いを求めに出ようとしていた。ままならぬ身をひきずって、一寸きざみに階段を昇って行く。
突然次郎が隅田を認めた。狼の本能が、動く半ケルビムをとらえようとした。
最下層から、石の階段を一気に駆けあがり、百メートル六・二秒のスピードで追いすがった。隅田は悲鳴をあげた。五角錐の頂点はすぐそこなのに、二人の間の距離とスピードは絶望を示していた。
次郎は駆けあがって来る。隅田は地表への出口にあと少しだった。
……そのとき、最高位のかこいの一番端に立っていたケルビムが、ゆっくりと体を起した。それは|奇《き》|蹟《せき》としか言いようのない光景だった。卵形の顔、小さいが形のいい乳房、そしてすらりとした|肢《し》|体《たい》。
比沙子だった。比沙子のケルビムがふわりと起きあがり、駆けあがって来る狼の前へゆっくりと倒れた。狼はその重い石像に肩をぶちあて、バランスを崩して転った。比沙子のケルビムはバラバラに崩れながら階段をゆっくり転げ落ちて行った。腕が舞いあがり、頭の半分が階段からそれて深い底へ吸い込まれて行く。
隅田は出口を通り抜けた。狼が起きあがろうとしていた。隅田は動かぬ指をもどかしく感じながら、掌で閉鎖スイッチを押した。巨大な音を|轟《とどろ》かせて五枚の巨石が出口をさし違えるように|交《こう》|叉《さ》して閉じた。
東日高分子化学工業が世界最強と折り紙をつけた、超高性能接着剤が、大量に岩の間に流れこんだ。五枚の巨石は完全な一枚岩になった。轟音を聞きつけてとんで来た男たちは、訳の判らぬまま予定どおり密閉作業にとりかかった。男たちにとってケルビムは神であり、全裸の半ケルビムである隅田にうやうやしく頭をさげて通りすぎた。
隅田は寺院の外へ出た。外は暗かった。何もかも終ったという解放感があった。俺は本当に神なのだろうかと、一瞬深い疑問が頭をかすめた。
神ならば敗れる筈がない。だが、今この足の下では狼が|偶像破壊《イコノクラスム》を叫んで荒れ狂っているのだ。神は破壊され、来世は夢に終った。いったい神とは何なのだ。来世とはどこにあったのだ……。
隅田は幻覚に襲われはじめていた。赤い鉄骨の中に黄色や白のヘルメットが踊っていた。溶接の火花が散り、暑い陽が肌を焼いた。汗が流れ、仲間が大声で叫び合っていた。
隅田はあてどなく人工の森を歩いていた。道を外れ、ひたすら小川の方角へ向って……。
森を抜けたとき、鳥の|囀《さえず》りを聞いたような気がした。空が白んでいた。もうすぐ朝になるに違いない……。
10
ひどく長い車だった。運転席のうしろにシートが向き合って作られていた。四十歳ぐらいの外国人が端正な顔をひくりともさせず、じっと森を見つめていた。
「昔の狼はもっと単純だった。ケルビムの|輿《こし》をかついで信者の間をねり歩いたものだ」
向き合ったシートにヤズディギルドと瀬戸が|蒼《あお》い顔をして腰かけていた。
「万死に価します」
瀬戸が言ってうなずいた。
「お前が死ぬか」
外国人が言った。
「伯爵のおゆるしさえあれば……」
するとサン・ジェルマン伯爵はひどく柔和な顔になった。
「私には時間という味方がある。各地で心臓移植をやらせているし、生化学にも力をいれさせている。私には判っているのだ。私は血液の謎をもうすぐ手に入れるだろう。ケルビムを人工的に作り出す日もそう遠くない。何千年も待たなくとも、ケルビムをすぐに|蘇《よみがえ》らせることができる筈だ。しかしそれまでお前たちは生きてはいられない。今死んでも、お前らの短い寿命いっぱいに生きても同じことだ。結局お前たちは死ぬ。だが、やがて死ぬことのない人間が生まれるぞ。誰も彼もがそれを夢中になって欲しがる時がやって来る。しかし不死は高くつく。それを手に入れられる者が、不死の資格を持つ者になる。人間は激しく闘うだろう。いまよりももっと激しくな。お前らは早く死ねることを幸福だと思うべきだろう。不死が手に入ると判ったとき、人間の競争がどれ程激しくなるか想像して見るがいい。権力はより強固に結束し、ライバルの出現を拒むのだ。権力の内部はその外側よりもっと烈しい闘争が起るのだ。私は不死をそう安売りはせん。その人間同士の競争に勝ち抜いた者にしか与えんつもりだ。誰がそれを手に入れても私はかまわん。勝ち抜いた者が資格のある者なのだからな。……そこに倒れている見苦しいケルビムを始末させなさい。それだけでもどこかへ保存してやるのだ。それもまた、勝ち抜いた男なのだろうからな。千七百分の一の確率で生きのびたのだからな」
朝もやの中を、その豪華な車はゆっくり方向を転じた。……もうすぐ陽が昇る。最初の陽光の|一《ひと》|刷《は》|毛《け》が隅田賢也の体を|茜色《あかねいろ》に染める前に助けようと、暗殺教団の男たちが厚いシートを引きずって夢中で走り寄っていた。
伯爵は去り、五つの丘のどこかで|鴉《からす》が鳴いていた。陽が射し、白い朝に色がついた。樹々の緑が|爽《さわ》やかにひろがっていて、黒い土がほのかなぬくみを伝えていた。
新しく出来た小鳥たちが集まり、鮮やかな五色の羽根をはばたかせていた。西の空が紫色に変り、空が次第に濃い青になって行った。赤い色は小鳥たちの羽毛の一部と太陽の近くにしか見えなかった。
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本書は昭和五十年に小社文庫にて刊行されたものを復刊に伴って改版したものです。
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|石《いし》の|血脈《けつみゃく》
|半村良《はんむらりょう》
平成13年3月9日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Ryo HANMURA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『石の血脈』昭和50年 3月10日初版発行
平成 8年12月25日改訂初版発行