半村 良
産霊山秘録 下の巻
◆日ノ民
古へ山山ヘメクリテニ仕フル人アリ。
タタ日トノミ稱フ。高皇靈ノ裔ニア
リ。妣ナクシテ畸人多ク生レ、靈ノ地
ヲ究ムト言フ。
(統拾遺)
目 次
江戸地底城
幕末怪刀陣
時空四百歳
月面|髑髏《どくろ》人
江戸地底城
一
天保《てんぽう》十年。
蕩《とろ》けるような春風の中を、一人の男が南から内藤新宿《ないとうしんじゆく》へ近づいている。勝手知った様子で仙寿院《せんじゆいん》の境内《けいだい》を抜けると、青山|上水《じようすい》ぞいに畑の中を歩いて行く。
風体《ふうてい》は職人のようだが、目の利《き》く者が見れば並の男でないことはすぐ知れよう。眼の配り足さばき……肩を落して気楽そうには見えても、切った張ったの場数《ばかず》を踏んだ貫禄《かんろく》が、どうしようもなく五体から滲《にじ》み出している。
畑の中を貫いている青山上水は、男の行手《ゆくて》でふたすじに分れている。まっすぐに行く太いほうの流れは四谷大木戸《よつやおおきど》で玉川上水につき当り、細いほうは広大な内藤|駿河守下屋敷《するがのかみしもやしき》の南の境界となりながら、天龍寺の池へ達している。男はためらわずその細いほうにそって進んで行く。畑はその先きで途切れ、松だの柘植《つげ》だのを植え溜《た》めた中に、小さなわら屋根の家がのぞいていた。どうやらこの辺りに多い植木屋らしい。
植木に肩をこすりながら、流れにそった細い道を行くと、やっと正規の道へ出る。すぐ右に橋がかかっていて、子供がひとりそのたもとにすわりこんで日なたぼっこをしていた。男はその小さな橋を渡ろうとして、一瞬迷ったように足をとめた。手拭《てぬぐ》いをとり出し、右手でまん中をつまんで足もとについた土埃《つちぼこ》りをはたく。
「日なたぼっこかい」
男は子供に笑顔を見せて言った。子供はこくりとうなずく。苦味走《にがみばし》った男の目尻《めじり》に笑い皺《じわ》が寄ると、意外に人馴《ひとなつ》っこい表情になっている。手拭いを畳み直しながら子供の傍へしゃがみ込み、きらきらと光りながら流れる橋の下の水を眺《なが》めた。
「坊やどこの子だい。植木屋の子かい」
「うん」
「ほう、そいつは妙だな。そこの植木屋の親方はたしか千吉親爺《せんきちとつ》つぁんという年寄りのはずだがな」
「じいちゃんは新木坂《あらきざか》にいるよ」
すると男はふりかえって植木屋を眺めた。
「なる程、もう歳《とし》だからな。今は倅《せがれ》夫婦か。道理で赤いものが干してあると思った……」
その植木屋の代が替ったのは三年ほど前のことである。してみると男はこの界隈《かいわい》へ久し振りに訪れたらしい。
「この先きに番小屋があったな」
「あるよ」
「辻番《つじばん》は金蔵《きんぞう》さんかい」
「知らない。松つぁんなら知ってるけど。呼んで来てやろうか」
「いいよ、いいよ」
男は苦笑しながら言った。「そうかい。辻番も替ったかい」
橋を渡るとすぐ道は急に大きく左へ曲っている。曲り切った角に辻番小屋があるのだ。
「おじさんどこの人」
「すぐ向うの……」
男は顎《あご》で南の方をしゃくりあげ、「隠田《おんでん》からさ」
と言った。
「ふうん」
子供は男をじろじろと眺めまわす。
「そうだ、犬は好きかい」
男はひょいと手を伸して草の葉をむしり取りながら言った。
「好きだよ。でも知らないのはこわい……」
「だろうな。アカを呼んでやろうか。内藤さまのアカを」
「アカなら知ってるよ」
男は草の葉を器用にまるめ、歯の間へはさんだ。歯のすき間から鋭い息が洩《も》れる。
「鳴らないじゃないか」
子供は莫迦《ばか》にしたように言った。
「鳴ってるのさ、これでも」
「嘘《うそ》だい。きこえねえや」
「お前に聞えないだけさ。見ててみな、もうすぐアカがとんでくるぜ」
男はそう言ったきり、しばらく草笛を吹くことに熱中している様子だった。
しばらくすると、男の言ったとおり大きな赤犬が橋の向うから跳《は》ねるように駆け寄って来た。
「わあ、アカだ、アカだ」
子供は起きあがると大声でそう叫んだ。が、犬は子供を無視して男にとびつき鼻づらをこすりつけて甘えた。
「な、来たろう……」
男は大きな犬をころりところがすと、喉のあたりを心得た仕草で撫《な》でまわす。犬は腹を上にして嬉しがっている。麻縄《あさなわ》を二本、布でくるんでより合わせた首輪をつまみ、くるんだ布がまだ新しいのをたしかめると、
「吉兵衛親爺《きちべえとつ》つぁんは相変らずらしいな」
とひとりごとを言い、にやりとした。
「なんだ、アカとおじさんは知り合いかい」
子供は犬に無視されて少し機嫌《きげん》を損《そこ》ねたようだった。
「そうさ。昔なじみだ」男はそう答え、犬から手を離すと、長く伸びた草を引き抜いて首輪にしばりつけた。「そら行け、親爺つぁんのとこへ……」
犬の尻をひとつ、平手《ひらて》でぴしゃりと叩く。犬は来たほうへ一直線に駆け戻って行った。
二
四谷大木戸の外に長い塀《へい》をつらねる内藤駿河守の下屋敷の一隅《いちぐう》に、小屋というにはいささか大きい百姓家風の建物があった。広大な邸内の手入れと見廻り役を兼ねる庭番小屋である。内藤家の人々が住む建物からはひどく離れており、日常もほとんど交流がない。森と言ってさしつかえのない程|鬱蒼《うつそう》と繁った樹々の間にあるその庭番小屋のあるじは、吉兵衛という五十がらみの頑健《がんけん》そうな男だった。
その吉兵衛の居間の外で、アカが烈《はげ》しく吠《ほ》えたてている。
「どうした、アカ」
障子《しようじ》をあけてのそりと縁《えん》に立った吉兵衛は、アカの首輪にまきついた一筋の草を見て急に眉《まゆ》を寄せた。
「来たか……」
そうつぶやくと家の中へ向って鋭い声を発した。
「平吉。平吉はいるか」
すると見るからに遊び人と言った様子の若い男が、
「へい……」
と答えてとび出して来る。
「すぐ池尻《いけじり》のあたりへ行って見ろ」
「へい。どういうご用でしょう」
「橋のあたりに男が一人いるはずだ。帰《けえ》って来たのさ。稲荷《いなり》の新吉《しんきち》が」
「えっ……稲荷のがですかい」
「島|帰《げ》えりだ。わざわざ番小屋に面《つら》ァ見せるにゃ及ぶめえ」
「そいつァ偉《えれ》えこった」
平吉はさっと尻をからげると、草履《ぞうり》をつっかけて斜めになってとんで行く。吉兵衛も縁を降り、アカの首輪についた草を解《と》いてやりながら、愉《たの》しげな微笑を泛《うか》べていた。
庭番の吉兵衛、又の名を境の吉兵衛と呼ぶ。
大木戸からは江戸の外。この時代、罪科あって江戸|払《ばら》いという処分を受ければ、大木戸から内へは一歩も入ることを許されなかった。従って四谷、品川、千住《せんじゆ》など、各大木戸のすぐ外には、江戸に入るもならず離れるもならずといった、入墨《いれずみ》一歩手前の無頼《ぶらい》の徒がむらがっていた。
いつの頃からか、四谷大木戸の境界に接した内藤駿河守下屋敷の庭番小屋は、そうした無頼《ぶらい》の徒の宿になっている。江戸払いの処分を受けた者ばかりではなく、市中で罪を犯し捕吏《ほり》に追われている者や、職業的犯罪者がかくまわれたりもする。行政境界線上にあって治外法権を有する大名屋敷は、その点最も安全な避難場所と言えよう。境の吉兵衛とはそのような、いわゆる泥棒宿の主にたてまつられた仇名《あだな》である。
「……それにしてもこの真っ昼間からとは、いかにもあの男らしいぜ」
吉兵衛はそうつぶやいて再びニヤリとした。縁先きに腰をおろし、犬の頭をゆっくりと撫でながら待っている。鮮《あざ》やかな緑の中から、男の影がふたつ湧《わ》き出して来た。稲荷の新吉は遠くから吉兵衛の姿を認めると、軽く手を振って見せた。吉兵衛の手もとからアカが矢のようにその方ヘ走り去る。二人の間には溢《あふ》れんばかりの陽光に輝く天地があり、島抜けの重罪人が現れるにしては、ひどくあっけらかんとした舞台であった。
相手が二間ほどの距離に近づいた時、吉兵衛は照れたような表情で縁から腰をあげた。
「アカの奴、はしゃぎやがって……」
一瞬合った目と目をすぐそらせ、跳ねまわる犬を見ながらそう言った。
「妙なものさ。世間がどう変っていようと、アカだけは達者でいるに違えねえと思い込んでいた……」
「世間だってそう変っちゃいねえさ」
吉兵衛はそう言ってから、あらためて稲荷の新吉をまともにみつめた。
この前別れた時から七年たっている。もともと色は浅黒いほうなのが、七年間の島暮しで漁師そこのけの赤銅色《しやくどういろ》に焼け、肉の落ちた頬《ほお》の辺りに凄味《すごみ》が漂《ただよ》っている。
そう変ってはいない……口ではそう言ったものの、帰って来た新吉がこれから渡って行かねばならぬ世間は、七年前とはくらべ物にならぬくらい厳しいものになっている。そう思うと吉兵衛の表情にどうしようもなく同情の色がさすのだった。
「島も住んでみりゃあ、あれでなかなか乙《おつ》なもんさ」
新吉は吉兵衛の顔に泛んだそれを見てさり気なく言った。
傍に突っ立って、憧《あこが》れるようなまなざしで新吉の顔をみつめていた平吉が口をひきしめた。
「こうして無事に舞い戻ってみりゃあ残った連中に済まねえような気もするが、抜ける時は運賦天賦《うんぷてんぷ》だ。人さまの命まで張る気にゃあなれねえもんさ」
新吉は自嘲《じちよう》めいた微笑をみせて言った。平吉は黙って何度もうなずいている。
「とにかくあがってくれ。……平吉、とりあえず俺《おれ》の部屋へ通して万事新さんのいいようにはからって置いてくれ」
「親爺《とつ》つぁんはどこへ……」
「寺尾の旦那《だんな》に会って来る」
「そんなの、あとでいいじゃねえですか。折角稲荷の兄いが来てるんだし」
平吉は不服顔だ。しかし吉兵衛はかまわず部屋へとって返し、すぐにふところへ何かをねじこみながら出て来た。
「妙なつらをしてねえで、さっさと酒の仕度《したく》でもしろ。こうなったからには、今夜にでも動き出そうてえのが新さんの気性だ。忘れたのか」
吉兵衛は平吉を叱《しか》りつけ、「とに角この土地の話だけはつけて来る」
と新吉に言った。
「済まねえな。旦那によろしく言ってくれ」
新吉は軽く頭をさげ、しばらく吉兵衛を見送ってから家の中へ入った。
三
内藤新宿《ないとうしんじゆく》の寺尾|左内《さない》と言えば、江戸中のわけ知りの間に聞えた名である。
名からして、勿論《もちろん》さむらいであるが、武家社会からはとうにはみ出して町人同様の暮しをしている。が、さりとて浪人ではなく、れっきとした直参《じきさん》である。
正規には何の役職もなく、内藤新宿の支配権があるわけでもないが、いつの間にか寺尾左内がいなければこの土地が治まらないようなことになっている。町人ならばさしずめ親分と奉られる所なのだろうが、武士だけに乾分《こぶん》らしい者も特になく、ただ寺尾の旦那と呼ばれている。武家屋敷に顔がきき、役人に話が通り、町方にも睨《にら》みがきくという。いわば内藤新宿の主《ぬし》であった。
境の吉兵衛は、大宗寺門前町の丁度|閻魔堂《えんまどう》の裏手に当るその寺尾左内の家を訪れていた。
「そうか。新吉が帰って来たか」
神棚《かみだな》を背に長火鉢《ながひばち》の前へあぐらをかいた寺尾左内が、煙管《きせる》に煙草をつめかえながら唸《うな》った。
「お恥かしい次第ですが、手許にはいまこれっきりなんで……」
吉兵衛はふところからふくらんだ印伝《いんでん》の皮財布をとり出して膝許《ひざもと》へ置くと、長火鉢の横へ押し出した。「足りねえところは明日にでもお届けいたします」
「うむ……」
寺尾左内はまた唸った。「俺《おれ》もあの男は好きだ。いい男なのは判っている。しかしなあ……」
「むずかしゅうございましょうか」
「いや、この土地のことならまかせて置け。どうにでもしよう。しかしな」
左内は鋭い眼になって声を落した。「俺は知ってるんだぜ」
「何をでしょう」
「俺にまでとぼけることはない。奴ぁ鼠《ねずみ》の本家だ。七年前に品川《しながわ》で獄門《ごくもん》にされた次郎吉ってなあ、ありゃあ只《ただ》の遊び人だったって言うじゃねえか」
「その噂《うわさ》なら手前も聞いたことがございます」
吉兵衛は出された茶をうまそうに啜《すす》ってから笑顔で答えた。左内は苦笑しながら大げさに手を振る。
「いいんだよ。俺ぁこの一件についちゃ根っからお前《めえ》たちの味方なんだ」
「有難うございます」
「大奥《おおおく》のことも知ってるんだ……その上で味方するんだぜ」
吉兵衛の肩がひくりと動いた。
「滅多なことをおっしゃるものじゃござんせん」
「俺はこの通りの男だ。言う時には何だって言っちまうさ。中村座の次郎吉は、お美代の方《かた》の昔のこれさ」
左内は親指を立ててみせた。「ねやの手管《てくだ》ひとつで天下の将軍を思いのままに動かしている女が、つい図に乗って昔の男を呼寄せた……か逢《あ》いに出たのか、そこ迄《まで》は知らねえが、とにかくそんなことがあったらしいじゃねえか。お美代の方をかついでいる連中は慌《あわ》てる道理さ。水野|美濃《みの》、中野|播磨《はりま》、美濃部|筑前《ちくぜん》、林|肥後《ひご》と、いま飛ぶ鳥を落す勢いのお歴々が蒼《あお》くなって額を集めた挙句《あげく》が、次郎吉は鼠小僧でございという茶番の一幕さ。うまい具合いに次郎吉は遊び人だ。浜松の松平宮内|少輔《しようすけ》の屋敷の仲間部屋で小博奕《こばくち》を打ってるところを押えられて突き出され、待ちかまえた北町奉行の手で門前捕りさ。何も知らねえ世間はそう言われればそのようだと、なんとなく納得しちまうだろうが、こんなお粗末も珍らしいぜ。おかげで本物の鼠をつかまえて首ひとつ落すことができやしねえ。裁きもそこそこに大慌ての新島《にいじま》送り……そいつが島を抜けて舞い戻ったとあっちゃあ、話はどうしたって高え所まで届かあな。お前《めえ》も余程《よほど》覚悟しねえといけねえな」
吉兵衛は苦笑しながら黙って頭をさげた。
「どうだ、通行手形ぐらいならどうともなるぜ。話を聞いてすぐそう思ったんだが、やはりここん所は上方《かみがた》へでも行かせちゃあ……」
「恐れ入ります。流石《さすが》は旦那だ、聞きしにまさる地獄耳でいらっしゃる。しかし、あの男がこれからどう出ますか」
「やめさせろよ。江戸にいちゃあ命がいくつあっても足りるものか」
「あっしもそうは思うんでございますが、どうやらあの男にはあの男のわけがありますようで……」
「ふうん」
左内はぎょろりと目をむいた。「するとあの一件にはまだ裏があるな」
「この吉兵衛も旦那とは長い付合いでございます。喋《しやべ》っていいことはいくらでも喋りましょう。しかしこいつばかりは、遠くからごらんになっていただくより仕様がありません」
「水臭《みずくせ》えぜ、吉兵衛」
「知っただけでお命にかかわることもございます」
左内はしばらく気おされたように沈黙した。吉兵衛の両肩先きの辺りから、通り一遍ではない自信に似たものが湧きあがっているようにみえた。
「よかろう、知るまい」
左内は諦《あきら》めたように言った。「こいつはたのしみになった。稲荷《いなり》の新吉が一度おろした幕をあげ直して、いったいどんな大芝居をみせてくれるというのか。とっくりと拝見しようじゃねえか。戻ったら新吉に伝えてくれ」
「はい……」
「庭番小屋のいつもの客と同じように、暮六ツ以後の町歩きは勝手にしてよいとな。それから、もう十日かそこいらで玉川の鮎《あゆ》が獲れる。体を張るのもいいが、勝負の前に今年の鮎だけは食っておけ……俺がそう言っていたと伝えてくれ」
「有難うございます」
吉兵衛は両手を畳について頭をさげた。
四
「めっきり酒に弱くなっちまって……」
その夜稲荷の新吉は、猪口《ちよこ》を手に吉兵衛の差し出す徳利から酒を受けながらそう言った。
「なあに、新さんのこった。じき元のように強くなるさ」
「そうでもねえよ。腹ん中へ火がついたようだ」
「島じゃ酒は……」
「とんでもねえことさ」
「よかったらあとで平吉を連れて出てみねえか。例の入船屋が近頃《ちかごろ》若いのを揃《そろ》えてるぜ」
「女か」
「酒がねえくれえじゃ、女にも不自由したろう」
吉兵衛に言われて、新吉はふと遠い日を思い泛《うか》べたらしかった。
「あの白子《しらこ》はどうしたろう」
「オシラサマとかいうばけもののことか」
「ばけものじやない。あれも人間さ。陽の光にじかに当れば肌《はだ》が焼けただれ、布や毛皮を着ればかぶれちまう、可哀そうな生れついての病人だ」
「なんだってそんな人間が生れたんだろう」
「知らねえ」
「目も鼻もないのっぺらぼうだったって言うじやねえか」
「たしかに片輪だ。だが人間には違えねえ」
「まあその話はまたにして、今夜は白子《しらこ》でねえ本物の女を抱くがいいぜ」
吉兵衛が言うと、新吉はさり気なく猪口を差し出しながら、
「女と言やあ、お松も婆あになったろうな」
と笑った。
「いけねえな、やはり……」
吉兵衛は渋い顔で酒を注いでやり、「最初の晩ぐれえはのんびりしてもらいたかったが、新さんがその気なら仕方がねえ。本題に入るか」
と言った。すると新吉は猪口を膳《ぜん》に置き、居ずまいを正して軽く頭をさげた。
「済まねえ……」
「よしてくれ、俺と新さんの仲じゃねえか」
「あの二千両は白子《しらこ》に預けっぱなしなんだ」
「そんなことじゃねえかと、だいたいの見当はつけていたんだ」
「何しろつかまったらあっという間の島送りだ。吟味《ぎんみ》も調べもあったもんじゃねえ……親爺《とつ》つぁんに知らせることもできなかった」
新吉は心底済まなそうに言った。吉兵衛はそれをわざと無視し、同情のこもった眸《め》で言う。
「言いにくい事だが、信濃屋《しなのや》の後家は淀屋《よどや》とぐるだったぜ」
「判ってる。いや、つかまった当座は判らなかった。だがあの水もろくにない島でも、あり余っているものもあったんだ」
「なんだ、島にあり余っているものとは」
「考える時の長ささ。来る日も来る日も過ぎたことを思い返してばかりいた。それ以外にすることなんぞあるもんか」
「そりゃそうだ」
「最初は懐かしむだけさ。ともだち、親兄弟、女……ことに女がいけねえ。ひとつ思い出すと次から次へとめどもなく泛んで来やがって、種が尽《つ》きりゃあはじめに戻って堂々めぐりさ。賽《さい》の河原で石を積むたああのことだな。島で生れ育つ人間もいるんだから、あそこが地獄とは決して言えねえが、あの思い出の堂々めぐりだけは、どう考えたって地獄だな」
「なる程……」
吉兵衛は地獄を覗《のぞ》いて来た男の顔を沁々《しみじみ》と眺めた。
「その内に、諦《あきら》めも手伝うんだろうが、だんだんと、こう気持が澄んで来はじめるのさ。まあ言ってみりゃあ坊主のような気分だ。それでも思い出すことに変りはないが、いつの間にか邪念が減って、てめえという命が生れ育って生きのびたという、その筋道が道中の景色なんぞのように、妙に落着いて眺められるようになるんだ。なる程俺は人様の恩を受けて来たんだと、時にはそんなように思うこともあった。なんというか、相手と自分の勝負の手の内が見えて来るんだな。そうしたらだんだんに淀屋のことも判って来た。俺は淀屋に踊らされていたのさ」
「…………」
吉兵衛は黙ってうなずいた。
「信濃屋のお松は、俺と淀屋を天秤《てんびん》にかけていやがった。いやそうじゃねえ。それは俺の方からの言い草で、淀屋にしてみりゃあお松は数多い手駒の一枚でしかねえんだ。淀屋辰五郎……淀屋と言えば京大坂から関東を股《また》にかけたその道の大親分だ。あんまり大物すぎて顔を知ってる奴もたんとはいねえくらいのもんだ。お松は女……それも後家だ。俺をうまく操って手柄にし、淀屋みてえな大物の世話になって生涯《しようがい》を安穏《あんのん》に暮したいと願うのは当り前のはなしさ。惚《ほ》れたはれた、誠だ操だと、男と女の熱に浮かれた目で見ていちゃあ本当の事は何も見えやしねえ」
吉兵衛は酒を飲み、空《から》の猪口を胸の辺りに持ったまま眼を細くした。
「変ったな、新さんも」
「七年もじっと考えてばかりいたんだ。少しくらいは変りもしようぜ」
「俺は新さんのこったから、遮二無二《しやにむに》島を抜けて淀辰に仕返しをするとばかり思ってたよ。そうじゃねえのかい」
「たしかに今の俺には仇《あだ》を返すという気持はだいぶ薄くなっている。あのままだったら島を出る気もなくなって、毒気のない気持で骨をあそこに埋めたかもしれねえな。けど、おととしの夏、妙な男が一人島へ送られて来たんだ」
「誰《だれ》だい、それは」
「美吉屋《みよしや》四郎兵衛という素《す》っ堅気《かたぎ》のあきんどさ。手拭地《てぬぐいじ》の仕入れというから、信濃屋と似たような商売だ」
「美吉屋四郎兵衛……待てよ、聞いたような名だぜ」
「神田|三河町《みかわちよう》に店があったというが、いくら吉兵衛|親爺《とつ》つぁんでも四郎兵衛まで知りはすめえ」
「いや、たしかに聞き覚えのある名だ」
「だとしたら、四郎兵衛の弟のことじゃねえかな。おととし、天保《てんぽう》八年には大坂で大騒動があったそうじゃねえのかい」
新吉に言われ、吉兵衛は膝《ひざ》を叩《たた》いた。
「それだ。美吉屋五郎兵衛。大塩《おおしお》平八郎をかくまって一族みな殺しに合った大坂のあきんどだ。……その年上の兄弟がこの江戸にいたのか」
「そうよ。お上《かみ》じゃ大坂の騒動が江戸へ飛火するのを用心したんだろう。四郎兵衛は罪もねえのにこっそり島送りさ」
「それで……」
「四郎兵衛に俺はいろいろ教わった。どうやら俺の相手は淀屋辰五郎なんて小物じゃなさそうなのさ」
「淀辰が小物……莫迦《ばか》言っちゃいけねえ。盗っ人仲間じゃ右に出る者のない大親分だ」
「いや小物だ。どうやら世の中全部を動かしてる奴らが相手らしいんだよ。それで俺の気はころりと変ったんだ。あんなことで島へ送られちゃあ死んだも同然。生涯帰れっこねえ体だものな。一度死んだんなら、何度死んだって同じこった。そういうどえれえ奴らが相手なら、死んでもともとの大勝負を張ってやろうと思ってな」
急に新吉の眸に火が点ったようだった。「さいわい二千両という金がかくしてある。親爺《とつ》つぁんの分をのけても俺には千両あるわけだ。そいつを使って奴らにひとあわふかせてやりてえのよ」
五
新吉を盗っ人稼業《かぎよう》に引入れたのは境の吉兵衛である。歳《とし》は十程違うが、新吉には天稟《てんぴん》ともいうべきものが備わっていて、瞬《またた》く内に師の吉兵衛をしのぐようになった。吉兵衛はそんな新吉に先輩風を吹かさず、万事は腕次第だと言って、いつの間にか新さん、新さんとさんづけで呼び扱うようになっていた。
気性が合うというのか、新吉も何かにつけて吉兵衛をたて、互いに何度か危うい所を助けたり助けられたりして、深い友情で結ばれていた。
七年前、新吉は一人の女に惚《ほ》れていた。女は芝田町一丁目の呉服仕入商信濃屋藤助の妻で名をお松といい、評判の美人であった。藤助はとうに死んでお松は後家の身だったから、泥棒稼業に見切りをつけはじめていた新吉にしてみれば、足を洗ういい汐時《しおどき》であった。
吉兵衛も足を洗いたがっていることは同様で、内藤|駿河守《するがのかみ》の屋敷の庭番の身分を利用して泥棒宿のようなことをしていたが、いずれは最後のひと仕事をうまく果して、本物の旅籠《はたご》の主《あるじ》になりたいと思っていた。
そこへ大親分|淀屋《よどや》辰五郎から降って湧《わ》いたようなうまい仕事が舞い込んで来た。
さる筋から江戸にある諸大名の屋敷の見取図がひとまとめに手に入ったというのである。淀辰は泥棒ながらすでに雲の上の存在で、自分から手を下すようなことはしなくなっている。数多い配下を使って獲物の何割という歩《ぶ》を取って肥《こ》えふとっていたが、大名屋敷専門の大仕事となると流石《さすが》に人選に困ったらしく、一匹狼の新吉にその仕事をまかせたいと言って来たのである。吉兵衛はこの頃すでに隠居という形になっており、新吉と組んで時折りはたらくのも、二人だけの秘密になっていた。
新吉にしても自分の鮮やかな仕事ぶりには自信があり、沢山《たくさん》の配下には目もくれず、一途《いちず》に頼み込んで来た淀辰の話が誇らしくもあった。彼は仕事を引受け、七分三分という願ってもない好条件で大名屋敷荒しを請負《うけお》ったのである。勿論|密《ひそ》かに新吉を扶《たす》けるのは境の吉兵衛の役であった。
新吉は稼《かせ》いだ金を信濃屋のお松に預けた。信濃屋には使用人も多く、諸方の大名家などにも出入りを許されている程だったから、いずれ堅気になる身の金の隠し場所としては、最も安全に思えたのだった。
淀辰からは次に襲うべき屋敷の絵図と予定日が、適当な間を置いて届けられた。新吉はその指示に従って次々に荒しまわり、やがてその噂《うわさ》が世間にひろまって鼠小僧《ねずみこぞう》という義賊が誕生することになった。時あたかも将軍|家斉《いえなり》を中心とする側近政治が腐敗の域に達して汚職、賄賂《わいろ》が公然と横行する一方、家斉をはじめとする上つ方の奢侈《しやし》がつのりながら、庶民にはその埋め合せのような圧政があり、大火、飢饉《ききん》が頻発《ひんぱつ》していたから、次々に武家屋敷を襲う怪盗に人々の喝采《かつさい》が集るのは当然のなりゆきであった。
だがそれにしても、大名から盗んだ金を貧民に施すという義賊鼠小僧の噂は新吉にとって奇妙な現象であった。
どこかおかしい……そう気がついたのは、実際に鼠小憎らしき人物から小判を投げ込まれた貧しい人々が現れはじめてからであった。勿論新吉も吉兵衛もそんなことをするわけがない。しかし小判を投げ込まれた噂が立つのは、きまって新吉が仕事をした直後のことなのである。世間に鼠小僧の評判が高くなるにつれ、新吉は自分の仕事をどこかで監視されているような不気味さを味わった。
そうこうする内に、突然鼠小僧が捕縛《ほばく》された。捕まった鼠小僧は日本橋堺町にある中村勘三郎一座の木戸番頭定七の長男で次郎吉といい、少しは名を知られた遊び人であった。それが人違いであることは、当の新吉ならずとも次郎吉を知る人々にとっては明らかなようだったが、調べが進む内に次郎吉は大名荒しの件を次々に白状に及び、庶民に多くの盗金をわけ与えていたことなども陳述した。
天保三年八月の十九日。次郎吉は鼠小僧として鈴《すず》ケ森《もり》で獄門にかけられたが、その件で淀屋辰五郎は大名荒しを諦《あきら》めたらしく、以来仕事の指図はふっつりと絶えた。
新吉は自分の身替りにされた次郎吉を憐《あわ》れに思った。次郎吉処刑のあとに同じ手口でもうひと働きはじめれば、彼の汚名も幾分かは救ってやれるだろうし、あわよくば最後のひとはたらきで足を洗い、堅気《かたぎ》のくらしに入れると思ったのである。
吉兵衛にわけを話して助勢を乞《こ》い、淀屋からの指図で一番先きに襲った神田和泉橋の藤堂家ヘ二度目の忍び込みをかけた。
だが、まんまと二千両かっさらって逃げのびるところを、突然現れた捕方《とりかた》にかこまれた。吉兵衛はいち早く逃げ了《おお》せたものの、新吉は必死の逃亡もむなしく遂に浅草広小路にある智光院の境内《けいだい》へ逃げ込んだ所でつかまってしまった。
雷門《かみなりもん》のすぐ東側にあって鹿島明神もまつる智光院は、新吉が以前から絶好の逃亡場所にしていた所だった。しかしその夜はなぜか智光院に捕吏が先まわりをしていた。
「実はさっき寺尾の旦那《だんな》とも少し例のことで話しこんで来たんだが、新さんがつかまってから、あんまり不思議なんで俺なりに方々を当ってみたのさ。するとだんだんに判って来た。中村座の次郎吉はお美代の方の昔の情夫《いろ》だったんだ」
吉兵衛は新吉の眸の色を観察しながら言った。
「なる程な」
新吉は愕《おどろ》いた様子もなく答えた。
「それなら次郎吉が鼠小僧の罪をきせられて獄門になったわけもよく判る。こういうことになりはしないか……俺たちの暴れようが世間で評判になりはじめると、どこか上つ方でそいつを利用して次郎吉を始末する算段がつけられた。評判をいっそう煽《あお》りたてるために貧乏長屋に小判を撒《ま》くような小細工をする」
「……と思う」
「だがそれだけじゃ腑《ふ》に落ちねえよ。淀屋はなぜ急に手を引いたんだ」
「そこだよ。はじめっから次郎吉の処分が狙《ねら》いで新さんに仕事をあてがったのさ。だから奴が死ねば新さんはお払い箱だ。幾日にどこへ忍び込むか淀屋はよく知っているんだから、新さんが智光院を使っていることだって調べてあったんだろうぜ」
新吉は不敵な薄笑いを泛《うか》べて言った。
「そこまでは俺も自分で考えた。だがどうやら違うらしい。美吉屋四郎兵衛が俺に聞かせた泣言で、堀|大和守《やまとのかみ》、間部下総守《まなべしもうさのかみ》、水野|越前守《えちぜんのかみ》なんて連中が一味を組んでいるということが判ったんだ。大塩平八郎っていう人は、御政道に弓を引いたそうだが、じかにぶつかり合ったのは大坂東町奉行の跡部|山城守《やましろのかみ》さ。跡部は水野の実の弟だ。そんなことで、四郎兵衛も大坂の一件についちゃあかなりよく裏を承知していたのさ。四郎兵衛が、水野越前守を芯にした一味こそ、大塩をあんなところへまで追い込んだ張本人だといっているのは、どうやらたしかなことらしい。よく考えてみると、ぴたりと節《ふし》が合うのさ」
「というと……」
吉兵衛は膝《ひざ》をのり出した。
「水野越前は和泉守時代、文政《ぶんせい》八年まで寺社奉行をしていた。あの殿様が実高二十万石の唐津《からつ》からわざわざ国替えを願って、わずか五万石の遠州|浜松《はままつ》へ移ったのは有名なはなしだが、そんな間尺に合わないことをしてまでなりたがったのが寺社奉行というお役だ。寺社奉行にはよっぽどいいことがあるらしい」
「待てよ……文政八年に水野様がのかれたあと、九年から替ったのが堀大和守様、天保《てんぽう》のはじめからは間部下総守様か」
「文政のおわりから水野は京都|所司代《しよしだい》になって和泉守から越前守、そしてすぐ西丸老中《にしのまるろうじゆう》。俺が島へ送られたあとは本丸老中だそうじゃねえか。二十万石を五万石にしても寺社《じしや》奉行になりたがったのは、そこに本丸老中になれる何かの見込みがあったからじゃねえのかい」
「そう言ゃあ、間部様はあのあと大坂|城代《じようだい》から京都所司代、堀様は寺社からいきなり若年寄だ」
「どいつもこいつもみんなとんとん拍子じゃねえか。つかまった当座は何も気がつかず、あの晩の仕事を知っているのは淀屋とお松だけだったから、二人のどっちかが密告《さし》たに違えねえと、そればっかり考えていた。だがよ、親爺《とつ》つぁん。その三人が老中、若年寄、寺社と、ずらりお江戸に並んでやがったんだぜ。淀屋を動かしてたのは、お美代の方一派だけとは限るまい」
「あぶねえ。あぶねえ橋だぜこいつは。何たって相手が悪い」
「あの晩も親爺《とつ》つぁんは同じ事を言った。そいつを無理に引っぱりこんだんだ。今度は手を引いてもいいぜ」
新吉は本気でそう言ったようだった。内藤新宿に春風が吹いて、薄い雲がよく月を横切る宵だった。
六
江戸に何かどす黒いものがひそんでいる……新吉の肌《はだ》にはそれが痛いようにぴりぴりとつたわって来る。しかしその真実の姿がどんなもので、それを暴《あば》いたらどうなるのか、新吉自身にもまるで判らない。だが闇《やみ》にひそんで金の臭いを嗅《か》ぎまわる盗賊の自分と、天下を上から見おろして政治だまつりごとだと偉そうな顔をしている連中が、結局は同じ闇にうごめく同類らしいと覚ると、どうにもじっとしていることのできぬ狩猟本能のようなものに駆《か》りたてられるのである。
「口ではうまく言えねえが、こいつは仇《あだ》うちだ仕返しだと言うようなもんじゃねえ。……判ってくれよ、親爺《とつ》つぁん」
新吉は吉兵衛の小屋に舞い戻った晩、久しぶりの酒をくみかわしながらそんな台詞《せりふ》で長談義をしめくくった。
だが流石《さすが》に用心深さを身上とする盗賊だけあって、十二、三日は泥棒宿である吉兵衛の小屋にこもり、宵《よい》になってから町をぶらつく程度で情勢をうかがっていた。
やがて寺尾左内の言った若鮎《わかあゆ》が大木戸の魚市場に姿をあらわし、形のいい塩焼が吉兵衛の心づくしで膳《ぜん》にのった。
「さて、これで寺尾の旦那《だんな》の言いつけも守れたわけだな」
新吉はそう言って笑い、翌《あく》る日ふっと庭番小屋から姿を消した。
昔から、新吉の鮮やかな仕事ぶりの裏には、徹底した下調べがそれを支えていた。吉兵衛には新吉が今度の件で下調べをはじめたのがよく判っていた。
「親爺《とつ》つぁん。稲荷《いなり》の兄いはどこへ消えなすったんで……」
若い頃の新吉に似て野心満々の平吉が、吉兵衛に訊《たず》ねた。
「まず今ごろは芝の信濃屋《しなのや》あたりを調べ抜いているこったろうな」
「扶《す》けちゃあやらねえんですかい」
「俺《おれ》も歳だ。それに手を貸そうと言ったってあの男はいい顔はしねえさ。そういう奴だよ、新さんてのは」
吉兵衛はそう言い、実直《じつちよく》な庭番よろしく籠《かご》を背に庭木立の奥深くへ入って行った。なぜか陰気なそのうしろ姿を見送って、平吉は不審そうに首をかしげていた。
その頃新吉は信濃屋の天井裏でまる二日目を迎えていた。勝手知った女の家をそうやって観察していると、妙に擽《くすぐ》ったく、また懐かしくもあった。島で過した最初の数年間、何百|遍《ぺん》となく想い慕《した》った女が、部屋が、新吉の目の下にあった。天井裏からぬけ降りて、お松のいぬ間に昔のように長火鉢《ながひばち》の前に納まっていてやったらどんな顔をするかと、新吉は何度もそれを実行したい誘惑に駆られた。
が、その夕方から、お松の挙動が明らかな変化を見せた。……男が来る。新吉はそう直感した。肌の隅々《すみずみ》まで知り抜いている女のことである。
新吉の直感に誤りはなかった。
六《む》ツ半《はん》すぎ、案《あん》の定《じよう》男が訪ねて来た。艶々《つやつや》と血色のいい肌をした肥《ふと》り気味の男だった。
俵屋《たわらや》の弥助……新吉は目を剥《む》いて心の中でそう叫んだ。その男は淀屋《よどや》の名代と名乗り、新吉に大名屋敷荒しの一件を待ち込んだ男だった。巨盗淀屋辰五郎の四天王の一人ということで、新吉もそれ以前から一、二度の面識はある相手だった。
「お松。新吉が島を抜けてこのお江戸へもぐり込んだらしいぜ」
座敷へ入るなり、俵屋の弥助はそう言った。
「ほんとかい。ほんとに新さんは島を抜けなすったのかい」
お松は昂《たかぶ》った声でそう問い返し、ぺたりと弥助の前へ坐《すわ》った。
「うれしいか」
「うれしいはずがないじゃないか。それが本当ならあたしたちはどうなるんだろう」
「今ごろになって島を抜けたからには、どうにも俺たちのやり方に我慢がならなくなったんだろうぜ」
弥助はお松をおどすような口ぶりで言う。
「やだ、こわいよ、あたしゃ」
お松はにじり寄り、弥助の胸にもたれた。
「おっとっとっと……」
弥助はそり身になってお松の体をだきとめ、「近頃のお前《めえ》は脂《あぶら》がつきすぎて重たくてかなわねえ」
と笑った。
「冗談じゃないよ、本気だよ」
「今更心配するな。今ごろ出て来やがったって何ができるものか。西の丸|下《した》のお方は、お覚えめでたくこの三月に一万石のご加増があり、おまけにうまく行けばことし中には首座におつきになる手順だ。そうなりゃあお前《めえ》、向《むこう》 柳《やなぎ》 原《わら》の殿様だっていつまでも若年寄じゃいなさるめえ。大きな声じゃ言えねえが、どうやら御側御用をおつとめになるはずだって言うぜ。世の中は変ったんだ。あのお歴々だってもうひといきで天下を手の中へ入れるってところで、新吉あたりにうろちょろされたんじゃ、うるせえじゃねえか。可哀そうだが新吉は、とんで火に入る夏の虫。島でのんびりしてりゃあ寿命まで生きられるものを……」
弥助はそう言いながらお松の襟許《えりもと》へ手を差し入れて揉《も》みまわす。天井裏でその光景をうかがいながら、新吉は弥助の言葉を反芻《はんすう》していた。
向柳原の殿様と言えば信州飯田一万五千石、堀大和守にきまっている。しかしその前に出て来た西の丸下のお方というのは、江戸を留守にして久しい新吉には判らなかった。この三月に一万石の加増を受けたというから、吉兵衛にでも聞けばすぐ判るだろうが、それにしても空白の七年間が沁々《しみじみ》長い年月だったと感ぜずにはいられなかった。
お松は帯を解き、灯りをつけたまま寝間へ入った。俵屋の弥助がいやに悠然《ゆうぜん》とそのあとに続き、やがてお松の嬌声《きようせい》がしはじめる。
「やだよ、今更あたしをほうり出しちゃ……あたしだって新さんを初手《しよて》から欺《だま》すつもりじゃなかったんだからね」
「ほう、そうかい」
弥助は軽くいなすような答え方をした。
「惚《ほ》れてたんだよ。何だい、それを横手からちょっかい出して、手ごめ同然に」
「手ごめはねえだろう。最初のことを俺はまだよく覚えてるぜ」
「おや、そんなに実《じつ》のある人だったかねえ」
「何言ってやがる。俺が覚えてるのは、お前の体があんまり濡《ぬ》れそぼってやがるんで驚いたってことよ」
「…………」
「手ごめじゃ女の体はあんな風にならねえぜ。ええ、どうなんだい」
「あ……やめて。そんなにされちゃもう。……わかったよ。いいからさ、お前の体が。新さんなんて、お前にくらべたらねんねみたいなもんさ。あたしゃ知らなかったんだよ」
天井裏の闇《やみ》の中で、新吉の額に太い青筋が浮いている。下では二人がからみ合い、ねちねちと勘どころを責め合っている。
「どうしたお松。今夜は莫迦《ばか》に気が入《へえ》るじゃねえか」
「新さんの話なんかするから……」
お松は喘《あえ》ぎながら答える。「見られているような気がして、余計にほてっちまうのさ」
「そうさな。あいつは本物の鼠《ねずみ》だ。案外この場をみおろしているかもよ」
「いいさもう。もっとしておくれ。覗《のぞ》いてるんなら大きに覗いてもらおうよ」
お松は思い切り大胆な姿勢になって男を迎え入れた。
七
腹が立って情けなくて、その上ひどく侘《わび》しかった。新吉は信濃屋《しなのや》の天井からぬけ出すと、黒い影となってさっと通りを横切り、海辺へ出てうずくまった。すぐ傍に薩州《さつしゆう》の蔵屋敷がくろぐろとかたまっている。
一途《いちず》に淀屋《よどや》辰五郎がお松の情夫と思い込んで来た。しかし考えてみれば、いったい淀屋が何歳でどんな姿なのかさえ知らなかったのだ。もういい歳さ……そういう仲間の漠然《ばくぜん》とした話を鵜呑《うの》みにして、老人に抱かれる算盤《そろばん》ずくのお松を想像し、嫉妬《しつと》して来たのだが、実際にお松を奪ったのは自分と同年輩の俵屋の弥助だった。
あの交渉でも淀辰は一度も姿を見せていない。それどころか、誰《だれ》も姿をみた者がないというのが淀辰に関する神秘的な定説なのだ。
島暮しの間に思案し抜き、いささか年寄り臭くはあるが、それなりに澄んだ気持で結論を出したつもりでいたのに、時が七年逆もどりして生臭《なまぐさ》い嫉妬と自己|嫌悪《けんお》がぐわっとぶり返してわが身をさいなんでいる。
「盗っ人が女を盗まれやがった……」
巨盗と言われる老人ならば、嫉妬の振子《ふりこ》もまだゆれが小さい。しかし俵屋となるとそうは行かないのだ。新吉は唇をかみ、心の中でそうつぶやいている。……あいつと俺とじゃお松の悦《よろこ》び方が違うらしい。そう考えると絶望的な嫉妬が燃えさかってくる。新吉ほどの歳になっても、そのことは耐え難い屈辱なのであろう。唇を噛み、蒼《あお》い顔で寄せては返す波を見ていた。
「……そうか」
新吉は低く声にしていった。あれこれ考えている内に、ふと西の丸下のお方という人物に思い当ったのである。それはやはり水野忠邦であるらしかった。「こいつはとんだ因縁ばなしだぜ」
水野の中屋敷は信濃屋のすぐ裏手に当っている。主人の藤助の存命中にでも、或いは信濃屋と水野家は関係を持っていたのかも知れない。
「堀大和守は信州飯田一万五千石か……」
その堀家と信濃屋も、どこかで当然縁はつながっているだろう。とすれば、自分が信濃屋の後家お松に惚れたのは、こうした運命に陥る宿命であったのではなかろうかと、新吉は半《なか》ばおのれを慰めるように思った。
「だとするともう一人、越前|鯖江《さばえ》四万石の間部下総守はどうなるんだい」
そうつぶやく新吉の姿を、朧《おぼろ》な月あかりが照らしている。でっちあげの鼠小僧として中村座の次郎吉を捕え、すぐあとで本物の鼠である新吉をも捕えた前の北町奉行榊原|主計頭《かずえのかみ》忠之も、もとを辿《たど》れば越後高田の十五万石につながり、どうもこの一件は信濃、越後、越中、越前と、そのあたりの土地としつっこくからんでいるような具合だ。
とにかくオシラサマに会ってみよう。そう決心した新吉は腰をあげ、「先だつものはなんとやら、か」と言った。
オシラサマとは、新吉だけが知る奇怪な地底の女怪だった。境の吉兵衛も、オシラサマの話だけは半信半疑でいるらしい。しかし、新吉が信じかねる程の神出鬼没ぶりを示せたのは、すべてオシラサマが味方してくれるからなのであった。
新吉が池尻《いけじり》と呼ばれる土地の橋の辺りで、植木屋の子供に隠田から来たと言ったのは半ば本当であった。彼はもともと捨子にされた人間だが、それを拾って育ててくれたのが、渋谷|宮益坂《みやますざか》に住む井戸掘職人の重吉だったからである。もちろん今はこの世にはなく、他人の家になっているが、その辺りは新吉のふるさとなのであった。
新吉は異常とも言える速さで夜の道を突っ走る。行先きはどうやら渋谷らしい。巧みに木戸や辻番《つじばん》を避けながら、宮益坂へ近づいて行く。
青山から宮益坂を中程まで下ってちょっと右に入った辺りに御岳《おんたけ》神社があり、その裏手に千代田|稲荷《いなり》と呼ばれる一画がある。そこがかつて井戸掘職人重吉の住んでいた土地で、稲荷の新吉という通り名もその地名にちなんでいる。
新吉はその御嶽神社の前を横目で睨《にら》みながら、まむかいの妙祐寺の裏手へしのびこむ。朽《く》ちかけた卒塔婆《そとば》の入り乱れる寺の裏手の草をかきわけた新吉は、あたりに気を配りながら古井戸の蓋《ふた》になっている重い石を動かした。とたんにひんやりと冷たい風が吹きあげて、薄気味悪く顔に当った。
が、新吉はかまわず井戸へもぐりこむ。ふちに手をかけてぶらさがると、爪先《つまさ》きで横穴をさぐり、するりとその中へすべりこむ。ぽちゃん、ぽちゃんと土くれが欠けて、古井戸の底にたまった水に落ちた。
横穴はすぐ新吉が楽に立って歩ける大きさにひろがっている。まっ暗かというとそうでもない。得体のしれぬ白いうす明りが洞穴《ほらあな》に満ちていて、一直線に幾分下り気味で続いているその穴の先きは、白い靄《もや》のようなものがたちこめている。新吉は白い靄の中へ進む。
「オシラサマ。新吉が参りました……」
冥界《めいかい》のような穴の中で、新吉はそう叫んだ。声は谺《こだま》もせず、靄に吸い込まれて行く。
「新吉……」
声ならぬ声で返事があり、やがてうすぼんやりと穴の奥に白いひとがたが浮き出してくる。
読者は覚えているだろうか。
それはかつて元和《げんな》の頃、ヒ一族の末裔《まつえい》である猿飛佐助が、信濃|四阿山《あずまやさん》の地底で見た、生れながらに因果を背負うヒの女、オシラサマと同じ姿であった。
――捕われていたのか。久しゅう姿を見せなんだのう。
オシラサマには毛髪と目と鼻がない。衣服もつけず、足もとの辺りにはいつも白い靄が発して、まるで宙に浮いているようだ。
「はい七年も島で暮して参りました」
新吉は声に出して答えるが、オシラサマの言葉は無音で脳に直接響いて来る。
――黄金を取りに戻ったのか。
「さようで」
――あのままじゃ。持ち帰るがよい。
「今夜は少しだけ持って行きます。残りはあとで……」
――好きなように。
オシラサマはそう言うとわずかに動いた。それにつれて白い靄も動き、頑丈《がんじよう》な鉄帯をかけた二千両入りの木箱が見えた。新吉は手早く蓋をあけて二百両ほど懐へねじこむと、
「こちらの出口を使わしてもらいます」
と言った。
――気をつけるがよい。あれから二度ほど怪しい男がしのび込んで参ったから……。
穴の上をみあげていた新吉が、ぎょっとしたようにオシラサマをみつめた。
「怪しい男」
――黒装束の武士たちであった。
「で、どうなされました」
するとオシラサマはぶきみな笑い方をした。
――狂わせてやった。この穴は新吉、そなたしか入れぬ。
新吉は礼のつもりでにやりと笑い返し、洞穴の天井にあいた竪穴《たてあな》に手をかけて登りはじめた。やがて固く平らな石に手が触れると、せまい竪穴の壁に両足をふんばって、その石を押しあげるように横へずらす。
外は闇。だが渋谷ではない。
かつて北町奉行榊原主計頭の手で捕えられた場所である浅草雷門わきの智光院の中であった。
新吉は穴の中をものの半丁も歩いてはいない。なのに体は渋谷宮益坂から一遍《いつぺん》に浅草雷門のあたりへまでとんでいる。この奇蹟《きせき》を存分に使えばこそ、新吉は神出鬼没《しんしゆつきぼつ》の盗み働きが行なえたのであろう。
八
雷門《かみなりもん》からまっすぐ南へ向い、駒形《こまがた》のあたりで右へ折れると、俗に拝領《はいりよう》屋敷と呼ばれる小うるさい連中が集り住む一画がある。主として吹上御苑《ふきあげぎよえん》の関係者が住んでいるが、町方に対して妙にひねくれた出方をする人間が多かった。
その中でも、もと御霊屋《みたまや》坊主の龍円は、拝領屋敷の龍円と呼ばれて江戸中に鳴り響いた悪坊主だった。
新吉は時刻も構わずいきなり龍円の家の戸を叩いた。もっとも龍円は夕方近く起きて朝方に寝るという暮しを続けているから、訪問するならそのほうが正しいやり方かも知れなかった。
案の定龍円は酒を呑《の》んでいた。
「誰《だれ》だか知らねえが心張りなんぞかってあるもんか。勝手にあけて入りねえな」
がらりとあけて三和土《たたき》に立つと、「あ、お前《めえ》……」と絶句した。
「久しぶりだな、龍円」
「い、いつご赦免になった」
「なりやしねえよ。勝手に出て来たのさ」
「し、島を破ったのか」
「そうなるか」
新吉はうしろ手に戸をしめてあがり込み、置いてあった湯呑みをさかさに振ってから勝手に酒をついだ。
「し、島破りがこの俺《おれ》に何の用だ」
「智光院のことの前の晩、お前《めえ》に二十両用立てたっけ」
「それをとり返《けえ》しに来やがったのか。ぜ、銭なんて百もあるけえ」
「何も返《けえ》せとは言っちゃいねえよ。そんなものは要らねえ」
「じゃ何の用だ。お前みてえな物騒な男を家に入れた日にゃ、こっちの首まで危くならあ」
「帰《けえ》れっていうのかい。水臭えな」
龍円は新吉の薄笑いに何かを察したらしく、
「それもそうだ。ま、あるだけ呑んでいけ」
と態度を変えた。
「言われる前にこの通りさ」
新吉は湯呑みをあげてみせ、「話をするだけで二十両という口があるが乗るかい」
と言った。
「二十両……」
龍円の眸《め》がきらりと光る。「値打ちだけのことは喋《しやべ》るぜ」
「この近くの俵屋町に弥助という男が住んでいるのを知ってるか」
「知ってるどころか……」
龍円は目を剥《む》いた。「近頃大そうな羽振りだが、何となくきなくせえ奴だ。しばらく前から奴《やつこ》に目星をつけて探《さぐ》ってる所さ」
「淀辰の一の乾分《こぶん》だよ」
「淀辰……あの淀屋辰五郎のか」
龍円は悲鳴をあげるように言った。
「手を引くか」
「お前が引けというんならな。いくらだ」
「別に恩に着せるこたあない。俺はどうだっていいんだ。ただ奴のことについて知りたいのさ」
「おっそろしく用心深え野郎で、まるっきり尻《し》っぽをつかませねえ。しかし淀屋一味と来りゃあ話は別だ」
「何か知ってるのか」
「こう見えたってお城の坊主仲間じゃちょっとした顔だぜ。淀辰はお前《めえ》、いま天下を盗む片棒かついでいるって噂《うわさ》だ」
「そいつも話せ。三十両にしよう」
龍円は下唇をなめた。
「天下泥棒の張本人は水野越前守だ。お前は今のご城内の様子を知らねえだろうが、以前から四|佞人《ねいじん》と陰口されていた中野石翁、林肥後、美濃部筑前、水野美濃なんて奴らは、そろそろ寿命が来てるのさ。お美代の方を押したてて、やりたい放題だったからな。お前《めえ》が送られたあとに出来た雑司《ぞうし》ケ谷《や》鼠山の感応《かんのう》寺なんてえのは、あの女のねやのおねだりで出来たんだぜ」
「感応寺……」
「もとは安藤|対馬守《つしまのかみ》の下屋敷だった。あの地ならしの千本突きなんざ、お前《めえ》に見せたかったよ。大層もねえ景気で、大奥の連中までが大勢押しかけやがった。ところがどうでえ。あとんなってねたが割れてみりゃあ何のこたあない、感応寺は中山智泉院の出店じゃねえか」
「下総《しもうさ》中山の智泉院と言えば、お美代の方の実の父親……」
「そうよ日啓さ。感応寺は将軍家の祈祷《きとう》を一手に引きうけてべら棒な繁昌《はんじよう》……その上大奥女中が何かにつけて、やれ代参だ文使いだと入りびたるわけさ。はやる寺なら役者も来る。信徒に色男は事欠かねえから、自然行く道はひとつさ。中にはそうたびたびじゃ目立つってんで、長持ん中へ入って寄進物に化け、寺へ行ってとんだ生臭い寄進をして帰《けえ》る女までが出るわけだ。どうにもこうにも手がつけられねえ。……もっとも大御所だってよかあない。おととしの四月に西の丸へ隠居なすったって、あとの家慶《いえよし》様には実の所何もさせちゃくれねえ。全部自分で今までどおりさ。天明《てんめい》七年からだから、算《かぞ》えてみれば五十年の将軍だぜ。五十年も立ってりゃ大黒柱だって腐りかける道理さ。そいつを何とかしようてえのが水野越前守だ。いろんなことはあったが、だんだん力をつけて、今じゃ老中筆頭もすぐ目の前……その間には、汚ねえ小細工の限りを尽したって言えば言えるが、相手方が汚ねえんだからそいつも仕方あるめえ」
「たとえば……」
「たとえも糞もあるけえ。鼠の一件だってそれさ。いいか、水野が西丸老中から本丸老中に移ったのが天保《てんぽう》の五年だが、そん時はお美代の方が、林肥後守はじめ中野石翁なんて連中に愛想づかしをしてた最中で、それにつけ込んだ水野が将軍に売り込んでもらったからなんだ。それというのも、あの四人が泡《あわ》をくってお美代の昔の情夫《いろ》の次郎吉を、鼠小僧に仕立ててふん縛り、獄門にさせちまったからだ。ところがだ。実は次郎吉をそうしたのは、そこまで終りを見抜いていた水野越前守の深知恵だっていうじゃねえか。おかげで本物の鼠はとんだ命びろい……今夜あたりどこかで酒くらってのうのうとしてるんじゃあるめえかな」
龍円はそう言って新吉をからかうように見た。
新吉は龍円の情報に舌をまき、この分ならまだ相当なねたを握っていると思った。
「流石《さすが》は名うての悪坊主だ。蛇《じや》の道はへびというか、ひとつ穴のむじなというか、恐ろしいことを知ってやがる。……気に入った。三十両が五十両でも惜しくねえ気分だ」
「そこまで値が上がりゃあもっと喋るぜ」
すると新吉は無造作に懐中から金包みを引っぱり出して龍円の膝《ひざ》もとへ滑らせた。
「五十両だ」
「こいつは話が早えや。いい客が来る晩だぜ、今夜は」
龍円は相好《そうごう》を崩した。
九
水野忠邦は幕政改革を夢みていた。唐津《からつ》から浜松《はままつ》へ国替えを願ったのもそれだし、要路へも執拗《しつよう》に贈賄《ぞうわい》をくり返してまず寺社奉行の地位を手に入れた。受取る側は将来彼が追い落すつもりでいる将軍|家斉《いえなり》の側近政治家たちである。
一旦《いつたん》京都所司代へ転出したあと、数年で江戸に戻り、西丸老中になった。
龍円が喋《しやべ》った鼠小僧《ねずみこぞう》の件は、本丸老中入りを狙《ねら》う水野忠邦の立場を考えると、当事者だけに新吉にはいちいちうなずけるものがあった。巨盗|淀屋《よどや》辰五郎と忠邦はどこかで結ばれていて、その大きな暗黒勢力を手足に使っているに違いない。小判を市中の貧民にばら撒《ま》いて、義賊鼠小僧の虚名を作り出したことなどは、恐らく淀辰の知恵なのだろう。だからこそ彼の組織に属さない稲荷《いなり》の新吉などという、腕の立つ一匹狼《いつぴきおおかみ》が必要だったのだ。
ところが、江戸城の奥深くに情報源を持つ龍円の話は、更に政治の裏側に立ち入って来た。大坂の大塩平八郎の騒動は、既存勢力のやり方をとがめるために水野一派が画策したことではないかというのだ。それかあらぬか、大塩挙兵が天保八年二月の十九日。翌三月の二十七日には、幕閣でも大きな力を占める勝手掛老中の役を水野忠邦が受けている。おまけに翌る天保九年三月十日|払暁《ふつぎよう》には、家斉の住む江戸城西の丸の台所から火が発し、書院番所のひとつを残して全焼してしまった。
その時の水野忠邦の働きぶり、素早さは目をみはるものだったという。小姓三人をひきつれ出火直後に登城し、本丸類焼を見事にくいとめた。家斉はその果敢な働きを賞し、すぐに西の丸|普請《ふしん》総奉行に任じた。
「まるで火の出るのを知ってたみてえなもんだった……」
龍円は意味ありげに含み笑いをしてそう言った。
「普請の手配なんざ、太閤《たいこう》の一夜城もかくやといったあんばいでよ。ことしの三月にはその手柄で一万石の加増だ」
龍円の裏ばなしだと、そこにも次郎吉に似た蔭の犠牲者がいる。失火責任を問われた西の丸台所人久助が、新吉の時と同じように、ろくな調べもないまま八丈島《はちじようじま》へ流されている。
「世直しを考えてるったって、そりゃ上つ方のことだけさ。つまりは長い間甘い汁《しる》を吸いつづけている奴らが憎いだけさ。そいつらを追い出しててめえがその甘い汁にありつこうっていう、ただそれだけのことでしかねえ」
龍円はそう言い、更《さら》に物騒な予言をした。
「みててみろ、その内|誰《だれ》かえれえ奴が殺《や》られるだろうぜ。たとえば、今いちばん水野が死んでもらいたがってるのは老中筆頭の松平|和泉守《いずみのかみ》さ。そうすりゃあ水野の望みは全部|叶《かな》えられる。天保五年に起きた仙石騒動じゃ、神谷|転《うたた》という仙石家の家来を見事な善玉に仕立てあげ、その裁きにひっかけて老中松平康任、勘定奉行曾我|豊後守《ぶんごのかみ》、町奉行筒井|伊賀守《いがのかみ》なんていう邪魔者を、片っぱしから始末しちまった凄腕《すごうで》の殿様だ。それが近頃急に可愛がりだした連中てえのが、表火之番組頭の石川疇之丞……こいつは西の丸の火つけ役らしいから話は判るとして、典薬頭の今大路|右近《うこん》てのはどうも解《げ》せねえじゃねえか。ええ……。老中が病気ともなるとお城の医者が看るわけだが、その御医師連中をたばねてるのは、小普請組頭の川路|聖謨《としあきら》だ。その川路も近頃水野に急に目をかけられた筆頭じゃねえか。こいつは何か起るにちげえねえ……そういうのが専《もつぱ》らの噂《うわさ》だ」
現老中首座の松平和泉守乗寛を毒殺する計画が進んでいる……龍円はそう言った。
五十両では安い買物であった。
「ところでお前はもと紅葉山の御霊屋《みたまや》坊主だ。寺社奉行のことには明るいだろう。今のお寺社は誰と誰だい」
寺社奉行は幕制内で町奉行より上位の席次を有する。奉行職は普通五人で、輪番《りんばん》で御用をつとめる。慶長《けいちよう》の頃、金地院崇伝《こんちいんすうでん》が寺社を管理するよう提議したのがはじまりで、寺社の問題を取扱う他、江戸城紅葉山の管理そのほかを支配していた。
「今は四人だ。稲葉|丹後守《たんごのかみ》に松平|伊賀守《いがのかみ》は去年なったばかり。青山|因幡守《いなばのかみ》はその前の年。いちばん古いのが牧野|備前守《びぜんのかみ》で天保七年にお役目についている。……しかしお前《めえ》、島で七年も暮してたにしちゃあ、いいところへ目をつけるじゃねえか。これは古筆見《こひつみ》の垂井了軒《たるいりようけん》から聞いた話だが、寺社奉行にはもともととてつもねえ宝物の番人みてえな役があったんじゃねえかということだぜ」
「宝物の番人……」
「そいつを握ったら将軍家なぞ糞くらえといった具合のもんさ。水野忠邦はだから遮二無二《しやにむに》寺社奉行になりたがったんじゃねえかって……」
「古筆見がそう言ったのか」
「うん」
寺社奉行の支配下には、碁、将棋、連歌、雅楽があり、神祇《じんぎ》の故実をつかさどり神学を修める神道方《しんとうかた》や、古文書《こもんじよ》を鑑定する古筆見の役があった。
「それは河だろう」
「俺も知らねえ。垂井了軒にちらっと聞いただけだし、言った本人も大して知っているという様子じゃなかった」
「知りてえな、そいつを」
「了軒に引き合わせようか」
「やってくれるか」
「ただ、奴は少しばかり学者臭えだけで、根は気の小さい男だ。お前が島破りの破落漢《ならずもの》だと知ったら、さぞかし栄螺《さざえ》みてえになっちまうことだろうぜ」
「堅気《かたぎ》に化けて行くか」
「無理だよ。その面《つら》ぁどう見たって尋常な人間の面じゃあねえ。どう変装したってそいつは無駄ってもんさ」
「俺の方に誰かうまい聞き出し役がいるかも知れねえ。そいつが見つかったら早速頼むぜ」
「五十両の手前もある。やらざぁなるめえな」
龍円は小判を膝《ひざ》の上に置いてにんまりと言った。
一〇
御霊屋坊主の龍円には、誰《だれ》か代理を立てるようなことを言ったが、新吉の本心はじかに自分で当ってみることに決っていた。
その夜の内に新吉は寝しずまった江戸の町を影のように駆け抜けて半蔵門から麹町《こうじまち》通りを突っ走り、赤坂門に程近い達磨門|前《まえ》に住む幕府古筆見垂井了軒の家へ忍び込んだ。
了軒は余程の学問好きと見え、そんな夜更けに寝もやらず、奥まった書院風の一室で古文書をひろげていた。
物かげから観察すると、了軒は表面ひどく尊大ぶって、その実龍円の言うとおりきわめて小心な人物のように見てとれた。新吉はそれをみてとったとたん、懐《ふところ》の九寸五分のさやを払ってぬっと相手の前に立った。
了軒は気配ではっと目をあげ、凄味《すごみ》のきいた相手の顔と、きらりと光る白刃に気づくと、声を呑《の》んでみるみる蒼白《そうはく》になって行った。
「そうだ。こんなとき、下手《へた》に声を立てねえほうが長生きできるってことを、ようく覚えて置くんだな」
了軒は新吉に二、三度目の前で白刃を振られてのけぞり、右手をうしろについて左手の掌をつきだし、新吉の鋭い視線を避けた。
「こ、こえは出さぬ」
「話は手早く行こう。お前《めえ》のところに買物があってやって来たのさ」
「金などない」
「金を出せといつ俺が言った。欲しいのはお前の命……いや、ひょっとして売り惜しみをしやがればのことだ。素直に喋《しやべ》ってくれれば銭はこっちから出す」
左手に凶器、空いた右手を懐に突っこんで、ずしりと重い金包みをとりだしてみせる。
「この私から何を聞き出そうと言うのだ」
「断って置くが俺は一人じゃねえ。合図ひとつで内儀《かみ》さんも子供も皆殺しだ」
そう脅すと了軒はじっと母屋《おもや》の気配をうかがった。静まり返って物音ひとつせず、それがいっそうぶきみだった。
「言う。何でも喋る」
「有難うよ。おかげで今夜は血を見ずにすむぜ」
「何を聞きたい」
了軒は新吉が持つ金包みを眺《なが》めながら言った。新吉は片手で器用に封を切り、ずらずらっと了軒の机の上に並べた。灯りを反射して山吹色《やまぶきいろ》がきらりと光る。
「水野忠邦は何を欲しがっていたんだ」
あ……という声にならない声をあげ、驚愕《きようがく》の表情が了軒の顔に走った。「金を取るか命を棄《す》てるかだ。俺はどっちでもかまわねえ。だが今年の盆に、女房子に新しい着物の一枚も買ってやってほんのりとした思いをするか、三人|揃《そろ》っての新盆《にいぼん》にするか……俺なら答はきまってるがなあ」
自分はやとわれただけ。この裏には誰か依頼人がある……そんな様子をつくろいながら、新吉はじんわりとしめつけて行く。
「私もよくは知らぬ。だがどうやら江戸城には大きな秘密があるらしい。しかしそのことを余りにも秘密にしすぎて、伝える者が絶えてしまったらしい。私のお役は古筆見だ。いろいろな文書に目を通す内、なんとなくそうしたことに気がついたのだ」
「どんな秘密だ」
「江戸城は藤堂侯とご神君が縄張りをされた」
「うん、知ってる」
「その時江戸城の地の底に、奇怪な横穴が四通八達していることが判ったらしいのだ」
「横穴……」
新吉はあのオシラサマが棲《す》む朧《おぼろ》な白光に満たされた穴を思い泛《うか》べていた。
「神君ご他界後の元和《げんな》八年、日吉山王《ひえさんのう》の裏手に当る今の永田の馬場あたりで、不思議な事件が起った。五臓六腑《ごぞうろつぷ》が裏返しに体の外へとび出した、何もかも裏返しの死骸《しがい》が棄てられてあったのだ。余りにも異様な事件なので、永井兼之進、青山義兵衛、坪内|帯刀《たてわき》などというお目付が出張って究明に乗り出したところ、なぜか急に中途でお調べがとりやめになり、その一件にかかわった人々は、みな死を賜ったそうなのだ」
「口封じか」
「そうらしい。私は古い写経や歌文の写本を目ききするのが役目だが、このように役目柄多少なりと古いものならなんでも目を通して心得て置かねばならんのだ」
垂井了軒はそう言って、読みさしの書物の表紙を返して見せた。神祇鑑、巻之二。伊勢大社……表紙には黒々とそんな文字が見えている。「元和《げんな》八年と言えば今からおよそ二百年前のことだ。私は二百年前の永田馬場の出来事を奥祐筆《おくゆうひつ》お手許の古い仕置帖から知って、それがなぜ切腹に価するほどのことだったか知ろうとした。そしてとうとう紅葉山のお文庫にあった表書のない一冊の書物に行き当ったわけだ。それはお城にかかわる言いつたえを記した風聞集とも言えるもので、その中に江戸城は愈々《いよいよ》天下の定ったあとの城であるから、大坂城のように特に万一の抜け穴というものを用意する必要がなかったが、ご入府以前からこの辺りの地の底には横穴が多くあり、それが後世お城の抜け穴であるかのように誤伝されている、と書かれてあったのだ。しかも千代田、宝田辺りの古い住人の間では、その穴に迷い込めば二度と生きてはこの世に戻れず、五臓六腑が裏返ったむごい死にざまになるという言い伝えが残っていたと記してあるのだ。私はそれが元和八年の三人の切腹にかかわっているに違いないと思った。所がふしぎなことに、水野さまが寺社|奉行《ぶぎよう》におなりになると、一時しきりにこのテの故実にかかわるお問い合せがあるようになった。そこでお役目半分物好き半分、私も地の底の穴を調べることに精を出したわけだ」
了軒は幾分落着きをとり戻し、古筆見らしい勿体《もつたい》ぶった言い方になっている。
「その先きを」
九寸五分の先きを振って新吉が言った。
「ヒを知るまい」
「ヒ……何だそれは」
「昔いた妖《あや》しの民の名だ。永田馬場で五体裏返しになって死んでいたのは、どうやらそのヒの者らしい。ヒは芯《しん》の山という霊山を求めてさすらう面妖《めんよう》な民で、ヒの者のほかはその横穴へは入れなかったというのだ。大方そのヒの者の一人が霊山を荒したかしてたたりを受けたのだろう。それが裏返しの死人だ」
「すると霊山というのは……」
「さよう。多分紅葉山か……とにかく地の底が霊地であったことになるな」
「寺社奉行……いや水野忠邦がなんでそんなものを探《さが》しまわったのだ」
「その霊山はすべての祈りをたちどころに叶えてくれるそうな。神君《しんくん》家康公が天下をおとり遊ばしたのも、天海大僧正がその霊山に祈願なされたからだ」
「なる程。将軍は代々その願いを叶《かな》える穴ぐらの上に居すわっているというわけか。それならば何もかも思い通りになるわけだ」
「その秘密が、寺社奉行お支配の諸役にかくされている……長い間忘れられていた芯の山のはたらきを、どういうわけか水野さまがお知りになり、寺社のお役にお乗り込みになったということだ」
「まるでお伽《とぎ》ばなしの打出の小づちだな。小づちを手に入れれば立身出世は思いのままか」
新吉は冷笑した。本当にそのようなことがあるのだろうかと思った。「お前《めえ》さんはそれだけの大事をどこから聞き込んだのだい」
「元正の頃におとがめを受けて死んだ三人の目付の内、青山義兵衛という者の子孫が町方へ入り、信濃屋藤助という呉服仕入商になって残っている」
「信濃屋……芝のか」
「そうだ。藤助はもう死んで青山の家は絶えてしまったが……」
「違えねえ。残ったのは後家のお松ひとりだ」
「青山一族はいわれない切腹を仰せつけられたのが余程口惜しかったのだろう。藤助までは代々そのことを言い伝えていた」
藤助も殺《け》されたのかも知れない……新吉はふとそう思った。
一一
願えば立ちどころに叶えてくれる霊山……そんなものがこの世にあろうとは信じられぬ新吉だったが、反面水野忠邦が躍起《やつき》になってその所在を探索《たんさく》して来たらしいことや、現にその忠邦が出世街道を登りつめようとしていることなどを考え合せると、もしやという気もするのであった。
おまけに、その霊山のことは家康以来世人から隠され続け、古来各地の神社仏閣に奉置されていた祭祀《さいし》の道具類も、幕府が徹底的に没収してしまったらしいという事実の断片が、制度のあちこちにさりげなく顔をのぞかせていると聞いて、新吉のもしやという気持はいっそう強くなるのであった。
垂井了軒の説明によると、幕府の寺社奉行の組織の中に、紅葉山の管理者たちが組み込まれているのは、何か特殊な事情で無理な形が要求された結果だと考えられるそうだ。古筆見が寺社の支配を受けるのも制度としては少しおかしいし、神道方の平素の役目が、日本の神道に関する研究を義務づけられているのも、仏事方というものが欠けている以上、おかしいと言わねばならない。これはヒ一族が神道の根本ともいうべき秘事にかかわりを持ち、将軍家がその秘事の解明につとめたことがあった形跡を示しているらしい。
また、諸国代官を支配し、税の収納と天領内の民に関する訴訟を取扱うのを主たる業務とする勘定奉行の組織下に、神宝方というセクションがさりげなく置かれている。
神宝方は幕府関係の神社仏閣の建築、補修および寺社領のことを扱うとされ、一見勘定奉行の下にあるのが正当なようだが、垂井了軒の研究によれば、神宝とはヒの聖地を崇《あが》めるための三種の神器を言い、幕府がその神宝を一般の神職が用いることを厳禁してことごとく没収した時、その収納と保管に当った役名であるという。
このように、幕府には芯の山の実在を示す数々の制度が残され、しかもそれらはたくみに隠蔽《いんぺい》されている。新吉は自分が天下を動かす巨大な蔭《かげ》の力の動きにまき込まれていたことを、次第に信ずるようになって行くのだった。
「どうだい新さん。いいかげんに手を引いちゃ」
庭番小屋へ戻って一部始終を吉兵衛に報告すると、彼はそう言って自重を求めた。
「いや、とめてくれるな。俺《おれ》は知れば知る程腹が立って来てるんだ。そんな重宝な霊山とやらがあるんなら、なぜ天下万民の為に使っちゃくれねえんだ。隠して隠して隠し抜いて、隠した奴らが肝心《かんじん》のことを物忘れするほど隠しときやがって……それじゃあ本当に宝の持ち腐れじゃねえか。ちょっと数えたって天明以来何度|飢饉《ききん》があったと思う。お上の安泰を願うそのほんのちょっとの手間をさいて、娘を売り子を間引く水呑百姓や、餓《う》えて死ぬ町人の為に五穀の豊穣《ほうじよう》を祈らねえ法はあるめえ。祈ったからってお上がつぶれるわけのものでもあるめえ。それじゃあんまり身勝手ってもんだぜ」
「そりゃまあそうだろうが」
吉兵衛は当惑した表情で相づちを打った。
「こいつはひとつ、その芯の山とやらへ俺がしのび込んで祈ってやらなければなるまい」
「お前が……」
唖然《あぜん》とした様子で吉兵衛がいう。
「そうよ。日でり、地震、嵐《あらし》にはやり病い。せめてそれだけでもなくなりゃあ、世の中どれ程住みよくなることか」
「そんなこと言ったって、本当に願いが叶うもんとも限るめえ。神や仏のご利益は、あるような、ないような……いつだって頼りねえもんだぜ。お上がそれ程大切にしているとありゃあ、尋常なことで忍び込める筈《はず》もなし、見つかれば問答無用でばっさり殺《や》られるだけじゃねえか」
「物は考えようさ。一度助かって娑婆《しやば》の風に当れたんだ。二度と危い目を見たくないという気もするが、その一方じゃ俺がやらにゃ誰《だれ》がやるという気にもなる。一度死んだも同然の俺だ。しかも親を知らねえ盗っ人さ。こんな軽い命はそうざらにねえぜ。よしんば犬死になったって世間のごみがひとつかたづくってくれえのもんさ。万一日でりだけでも、今年の秋の嵐ひとつでも減らすことができりゃ、生れて来た甲斐《かい》があるってもんだ。人様の恩になり通して生きて来たのさ。恩返しするにはいい汐時《しおどき》だ」
吉兵衛はもう何も言わず、黙って新吉の顔をみつめていた。
その夜から、新吉はさかんに江戸市中のあちこちに出没しはじめた。芯の山の手がかりを求め、大胆にも江戸城深く潜入したりしている。そして結局目ぼしをつけたのは、二百年前奇怪な死体が発見されたという永田馬場の辺りであった。
相当な広さを有していたらしい永田馬場も、今は武家屋敷が立ち並んで、日吉山王社の北側に地名を留めるだけになっている。それだけに探索は容易ではなく、ふた月余りが瞬く間に過ぎて行った。
やがて新吉は、紺看板に梵天帯《ぼんてんおび》、短い木刀を一本差したお定りの中間《ちゆうげん》姿で真田信濃守《さなだしなののかみ》の中屋敷に住みつくようになった。昔の永田馬場の北のはずれに当ると思われるその屋敷に、古くから妖怪《ようかい》の出る噂《うわさ》があったのを聞き込んだからである。
真田信濃守は信州|松代《まつしろ》十万石。この件が信濃あたりの土地となぜかいつもかかわり合っているのを思い合せると、目ざす屋敷はそれ以外に考えられなかった。
そして、中間に化けた稲荷《いなり》の新吉が、その邸内に小さな社《やしろ》が祀《まつ》ってあるのをみつけたのは、住み込んでから半月ほどした日の夕方であった。
真田家は当節珍らしい程しつけの厳格な家で、奥、中、表と中屋敷でもきちんと区別をつけ、役が違えば受持外へは一歩も近づくことを許されなかった。その社は屋敷のいちばん奥の一角にあり、いかめしい竹矢来《たけやらい》を組んで出入りをさえぎった中に、古びてほとんど朽《く》ちたような色で建っていた。
「おい、そこの小者」
見とれているとうしろで低い声がした。ふり返ると青白い癇《かん》の強そうな武士が、陰気な顔で突っ立っていた。「何をしている」
「へ……」
新吉は首をすくめた。「新参者でございます。お庭の草など手入れしようと思いましたら、こんな所へ迷い込んでしまいました。どうぞおゆるしを」
「名は」
「新助と申します」
「本名か」
武士はずけりと言う。
「生れてからずっとこの名でございます」
「嘘《うそ》をつけ。見れば判る……まあよい。それよりその社のどこが面白い」
「大層古びておりますので感心しておりました。何さまをおまつり申上げてございますのでしょう」
「信濃のオシラサマだ」
とたんに新吉の顔色が変った。「どうした。オシラサマと聞いてなぜそのように驚く」
「いえ、その……」
「不審。斬《き》る」
言うが早いか抜く手も見せずさっと斬りつけて来た。鋭いきっさきが新吉の肩の肉をさいた。が、斬られながら新吉は一間ほども跳《は》ね、竹矢来の向う側へふわりと降りた。
「やるな」
武士は蒼白《あおじろ》い顔をひきつらせて言い、二、三度刀を振うと竹矢来の一角をあっさり切り破った
「水野のまわし者か」
武士は鋭く言うと無造作に踏み込んで片手で斬りおろし途中からそれを逆にはねあげた。おりた刀は辛《かろ》うじてかわしたが、はねたひとふりをかわし切れず、左肩の傷をかばった右の二の腕からさきが赤い尾を引いて土の上へとんだ。
新吉は必死で社前の縁にとび上り、扉《とびら》に体あたりを食わせる。朽ちかけた木材はかんたんに砕け、狭い堂の中へころがり込んだ。あとからのっそりと白刃をぶらさげた武士が入って来る。尋常のつかい手ではなかった。
「本当の名を聞こう」
新吉はかび臭い床にすわりこんで観念した。
「稲荷の新吉」
「観念せい」
「斬る前にお教え下さいませ」
「何だ」
「手前は貧しい者のための願いをかけるため、芯の山とやらを探《さが》し求めております」
「やはり知っておったか。芯の山はこの下にある。だが芯の山は真田家の守り神だ。大坂のいくさで豊家に殉《じゆん》じた真田本家の罪がありながら、そのように松代十万石が栄え続けておるのも、この芯の山あればこそだ」
「この下が芯の山……それなら死んで本望でございます」
そう言うと新吉は瞑目《めいもく》した。飢饉がなく、はやり病いのない貧しい者のための日を祈りはじめた。
「不敵な奴」
武士は斬るのを惜しむように言った。「何を念じておる」
「お家を守る神ではございましょうが、そのようにあらたかな神ならば、手前の願いもお聞き届け下さいましょう」
「なる程。そこで死ぬと観念されては、祈りまでは斬れぬ道理だな。だがほんのわずかの間の祈りだ。祈りながら死ね」
ゆっくりと刀をふりかぶって行く。新吉はまだ見ぬ芯の山の神を念じた。刀が上りつめ、貧血しはじめた新吉の目に、いやにゆっくりと自分の頭上へ降りてくる鈍《にぶ》い光が見えた。死ぬ……そう思った。その瞬間、なぜか新吉はまざまざと渋谷妙祐寺の古井戸の奥にいるオシラサマを思い泛《うか》べた。
「やっ……」
武士のふりおろした刀は朽ちかけた床板をつらぬいていた。新吉の姿はなく、社《やしろ》の中に置かれていた神宝らしい白い珠が、ぶきみに明滅をくり返していた。
一二
白い靄《もや》の中に新吉の影があった。
目も鼻もない全裸の女がその前に立っていた。
右腕を失った傷口から、大量の血を流しつづけながら、新吉が呼びかけた。
「オ、オシラサマ……ここはどこでしょう」
――江戸の地の底に昔からある産霊山《むすびのやま》の芯《しん》の山です。
「芯の山」
よろめきながら新吉が言う。
――そうです。お前がヒの者であることは最初から判っていました。
「この俺《おれ》がヒ……」
――そうです。お前は気づかずに芯の山ヘワタったのです。
ワタリとはヒの特異体質をうけつぐ者にだけ許されたテレポートのことであった。
「し、芯の山へ願えば何事もたちどころに叶《かな》えられるとか」
――そのように伝えられて来ましたそうな。しかし嘘《うそ》でしょう。
「嘘……」
――生きとし生けるものの願いを受けて神につたえ、明日を定めるのが産霊山《むすびのやま》の役目です。だがそれなら、なぜこのような私の体が人並みになりませぬ。地の底に捨てられて幾とし月、私は祈りつづけて来たのですよ。
「夢か。芯の山はあわれな人間の夢だったのか」
――いいえ、夢とは限りません。芯の山はやはり明日を造っているのです。だが生あるものの数は余りにも多く、その明日への願いもまた限りなく多いのです。どんな強い願いも、他の願いの数の多さには勝てませぬ。数多くの願いのひとつとして、ほんの少しだけ叶えられるだけなのです。
「だが、水野忠邦たち強い者の願いは叶えられている」
――いいえ。あの者たちはたしかに芯の山の秘密を手に入れはしました。芯の山が永田馬場の真下にあり、真田家が守るあの社《やしろ》でなくても、祈れば通じることを知ったのです。けれどもあの者たちの願いも、私やお前の願い同様、ほんの少ししか叶えられぬのです。だが人間とは愚かなもの……あの者たちが芯の山のことを手に入れたと知ったとたん、恐れて従ってしまうのです。神が叶えたのではなく、人同士が叶えてしまうのです。真田家の安泰も同じことで続いています。本当はみな芯の山など要らぬのです。
「しかし、一身の出世や一家の安泰と、貧しい人々の祈りは違う。餓《う》えず、ひでりがなく、はやり病いで死なぬことは……多くの人々、ほとんどの人々の願いではありませんか。なぜ貧しい者に芯の山を渡さぬのです。たちどころに願いが叶うという夢だけでさえ、見させようとはしないのだ」
――それが人の本性です。誰も貧しさの苦しみからのがれたがる。うまくのがれた者はそのしあわせを手離したがらぬでしょう。だから貧しい者が近づくのをきらうのです。もっと貧しい者が大勢いることで幸福に思うのです。人の世のしくみです。
「人とは貧しいものだ。盗み、殺し、犯し、おのれだけはしあわせになろうとする。俺はもう死にます。汚い肉から離れられることを、今は喜んでいます」
――たしかに、もうすぐお前は死ぬようです。私はお前がうらやましい。私たちは幼いころから仲よしでした。姉弟なのですよ。
「えっ……」
――淀屋《よどや》辰五郎というのが私たちの父の名です。辰五郎はヒの者です。だがヒはちりぢりになって、もう自分をヒだと知る者も少くなりました。辰五郎も私を母に産《う》ませてはじめて自分がヒの血をうけついだ人間だと知ったのです。だがこんな私の体をみて恐れおののきました。不具者を産ませたことを恥じ、古井戸へ捨てたのです。私はこの江戸の地底にいた大人のオシラサマに救われて、それ以来ずっとここに住んでいます。その次生れたのがお前です。辰五郎は私でこりて、男女の別なく生れたら捨てることにきめていたのです。お前は井戸掘の重吉に拾われて育ちました。私が幼いお前を念力で呼び、二人は井戸の中で遊ぶようになったのです。
「俺の姉か……だがもうそんなことはどうだっていい」
新吉は靄の中で上体をゆらゆらとさせながら言った。「ここに集められた明日への願いはどこへ行くのだ」
――月です。そして月からもっと遠い星へ届きます。
「ああ……」
新吉は絶望的に呻《うめ》いた。「やはり夢だ。ひでり洪水《こうずい》、地震にはやり病い。貧しい者たちのそうした責苦をとり除けるかと思ったのに」
――でも長い間には、そのような願いもすべて叶えられましょう。
白い姉はそう言ってうしろを向くと指さした。オシラサマの念力のためか、地底の穴にこもった白い靄の明るさが増し、あたりの様子がはっきりしはじめた。
――ここには場所と場所の遠さというものがありません。上の世界とはまるで違うのです。私たちがよく遊んだ妙祐寺の古井戸から誰かが掘り進んだとしても、この場所へは行きつきません。ここは浮世の外にくくりつけられた別の世なのです。みなさい……。
亜空間《あくうかん》に設けられた乳白色に輝くドームの中に、見たこともない奇妙な飾りつけが見えた。いや、それは天保《てんぽう》十年の江戸の市民の一人がそう見ただけで、実は完全にシールドされた亜空間を保つ進歩した科学装置なのである。
――このようなものを作れる、知恵の進んだ人間……神のような人間が昔いたのです。これを作った人々は遠い昔この世を去ってどこか別の世へ移り、やがて私たちの祖先がかわりに生れはじめたのです。だから私たちも去った人々のように賢くなれるかも知れません。その日が来れば、日でりも洪水も地震もない、住みよい世になりましょう。
オシラサマがそう言った時、新吉はすでに絶命していた。姉の念力が体を支えていなかったら、とうに乳白色の床に倒れ、靄にうもれていたことだろう。
一三
境の吉兵衛こと内藤駿河守下屋敷庭番の吉兵衛と、内藤新宿《ないとうしんじゆく》のボス寺尾|左内《さない》が大木戸《おおきど》から中に足を踏み入れたところを捕え、伝馬町《てんまちよう》へ送ったのは、水野忠邦の三羽|烏《がらす》の一人にあげられる鳥居|耀蔵《ようぞう》であった。
時の北町奉行大草|安房守《あわのかみ》高好は、なぜか二人に対しろくな吟味も加えず、天保《てんぽう》十年九月七日に、はやばやと八丈島《はちじようじま》へ送ってしまった。一説によるとその二人を送った船は、途中大しけにあい、遂に八丈へはつかなかったともいう。
古筆見の垂井了軒はその前月の八月二十一日、紅葉山|御霊屋《みたまや》坊主の龍円を殺害した廉《かど》で切腹仰せつけられ、渋谷妙祐寺は堀|大和守《やまとのかみ》の寄進により、翌十一年二月、見事に建てかえられた。但《ただ》し古井戸がどうなったか、記録はそこまで詳《つまび》らかではない。
そして天保十年十二月三日、時の老中首座松平|和泉守《いずみのかみ》乗寛病死。かわって水野忠邦がそのあとをつぎ、幕閣の全権を手中に納めた。
天保十一年暮れには大御所|家斉《いえなり》病臥。翌十二年正月の終りに死ぬ。
同年四月十六日。家斉在世中の寵臣《ちようしん》、若年寄林|肥後守《ひごのかみ》、御側御用取次水野|美濃守《みののかみ》、御小納戸頭美濃部|筑前守《ちくぜんのかみ》らに御役御免の沙汰《さた》があり、中野石翁、五島|伊賀守《いがのかみ》、田中|加賀守《かがのかみ》ら家斉派の人々も一斉に幕閣から追われた。
かわって老中に真田幸貫が登用され、堀大和守は御側御用人、遠山金四郎北町奉行、矢部定謙南町奉行と、あいついで水野人事が実行され、川路|聖謨《としあきら》は勘定吟味役として、以後幕末へその存在の影を落すことになる。
忠邦が行なおうとした、いわゆる天保改革は、時代の動きについて行けなくなった幕府体制の立直しを目的としており、中央におけるそのような新時代の動きは、長州《ちようしゆう》、薩州《さつしゆう》などにも影響を与えて、各地に同傾向の改革を生むことになった。
幕末、その改革の成功者である薩長二藩が経済力をつけ、軍備を増強して江戸に迫るのであるが、忠邦のそれは目的とうらはらに、一種の暗黒政治と幕政の腐敗を呼んで失敗してしまった。
ともあれ幕末の起点は、この辺りにあったと見るのが正しいのではなかろうか。
終りにつけ加えれば、東京に最《もつと》も早く生れた地下鉄路線は、渋谷《しぶや》、浅草《あさくさ》間のいま銀座《ぎんざ》線と呼ばれるものである。
地下鉄銀座線の浅草側終点は、雷門東側にあり、渋谷側の地下入口は、現東急文化会館うらの宮益坂《みやますざか》中程に口をあけている。稲荷の新吉が姉であるオシラサマの助けをかりて瞬時に移動していたその区間と、地下鉄銀座線の区間が一致するについては、その間の地底に掘削をたやすくする何らかの導坑があったと考えてもよいのではなかろうか。ただその仮説の可否は、読者の好みにまかすよりない。
幕末怪刀陣
一
時は嘉永《かえい》六年三月十四日。
その日南国|土佐《とさ》の空はうららかに晴れ渡っていた。
「どこへ行く……」
坂本権平は母家《おもや》の濡《ぬ》れ縁《えん》に立って、裏木戸からふらりと出て行きかける弟の龍馬《りようま》を呼びとめた。ついさっき朝飯がすんだばかりで、南に向いた裏木戸のそばに立つ龍馬の右肩のあたりが、眩《まぶ》しい光をうけて白くぼやけて見えている。
「才谷へ」
弟にそう言われて権平は、う、とつまった。「挨拶《あいさつ》が残っているのは才谷だけだ」
龍馬はつぶやくように言い、ふらりと外へ出て行った。
才谷は坂本家代々の墓所だ。江戸留学を明日に控え、行って悪いととめる口実は何もなかった。
権平はその場所が苦手《にがて》だった。
ひとけがなく、淋《さび》しい場所だし、第一彼にはなんとなく妖異《ようい》な雰囲気《ふんいき》の感じられる場所だった。
が、さてそれがなぜだが、どういうわけだかとなると、まるでとらえどころがなく、理由をかぞえあげようとしても、川ぞいに登って行くゆるやかな山の斜面で、この辺りには珍らしくもないただの墓地なのだ。
ただひとつだけ、具体的に言えることがあった。
その谷の唯一の住人で、代々坂本一族の墓守りをしている、サイと呼ばれる一家のことだ。
サイ。と人はただそう呼ぶ。高知城下にもほとんど来たことはなく、代々住んでいても知る者も少い。ひょっとするとサイとつきあうのは坂本一族のものだけではなかろうか。
才谷は才谷川の流れる山あいの地名だが、そこに土佐坂本家の祖である坂本太郎五郎の墓をはじめ、大浜姓の縁者など、数多くの墓がたてられている。
才谷はむかしは佐比谷と書いたらしい。寺があり、佐比谷寺と言った。してみると墓守りのサイは、サヒが訛ったのだろう。
うららかな春の光を浴びて、そのサヒ谷へ、龍馬がゆく。
龍馬には生れつき持病があった。いや、奇癖というべきかもしれない。不意に呆《ほう》けに襲われるのだ。幼時にはその呆けが一日に何度となく龍馬を襲った。龍馬はそのたびに茫然《ぼうぜん》と虚空《こくう》をみつめ、身のまわりの事象のいっさいに気づかなくなった。
寝小便《よばあ》たれ、はなたれ、泣き虫……龍馬の幼時にはそのような悪罵《あくば》がついてまわり、権平も随分肩身の狭い思いをしたものだった。
事実夜半呆けが見舞うと龍馬はしばしば寝小便をした。そして呆けから醒《さ》めるときは火のついたように泣きだすのが常だった。明朗で素直な健康児だった権平にしてみれば、そんな龍馬が江戸くんだりまで留学に行くようなことになったのが不思議でならないし、気がもめている。
幸《こう》という母親が龍馬を産むとき、彼女は強烈な幻覚に襲われ、狂乱しながら分娩《ぶんべん》したという。父の八平はそのあと幸に幻覚の内容を訊ね、怪竜が口から炎を発して襲いかかり、その炎が胎内の子にまで透るようだったとして、龍馬と命名した。……果して幸のみた幻覚がそのようなものだったかどうか、事実は誰《だれ》にも判っていない。
だが、龍馬を出産する母体に何らかの異常が起ったことだけはたしかだろう。
しかしなぜ龍馬という名がつけられたか、たしかに詮索《せんさく》してみる値打ちはありそうだ。
なぜなら、龍馬は成人すると背中に黒々とした毛を生じさせている。胸毛ではない。背筋に生えたのだ。
鬣《たてがみ》。
もしそれを馬のたてがみと見るなら、生れたばかりの赤ん坊になぜ父親が龍馬という二語の組合せの名をえらぶことができたのだろう。
父は八平、兄は権平、祖父は八蔵、曾祖父《そうそふ》も八平……代々を辿《たど》ってみても、八郎兵衛、七兵衛、次兵衛、市兵衛、太郎左衛門、太郎五郎と、坂本本家には竜や馬など生き物の名を与える習慣は見当らない。わずかに兄権平の娘が春猪《はるい》とされているが、その子の鶴井、兎美、亀代などが生じるのはずっと後年のことだ。
八平は恐らく八郎兵衛、七兵衛の流れにある家伝の名だろうから、龍馬は本来七平か次平……竜の夢のことがあったにしても龍平くらいが妥当なのではなかろうか。
おまけに龍馬は顔面に数点の特異な黒子《ほくろ》を有していた。
[#ここから2字下げ]
龍馬生れて面上に數點の子あり、其の長ずるや、背に〓々たる毛を生ぜり。龍馬深く之を祕して、暑中未だ曾て襯衣をせず……
坂崎紫瀾著『汗血千里駒』
(明治十六年発行)
[#ここで字下げ終わり]
権平は龍馬の呆《ほう》けを持病と心得ていたらしく、事ごとにいたわったという。しかしその呆けはどうやら病いというほどのことではなかったらしく、少年期に向うと間遠になりはじめ、日根野弁治について小栗流の武芸を修めはじめた頃から、殆《ほと》んどそれを忘れる程にさえなった。
龍馬の成長期、土佐藩は改革を行なって時流に叶《かな》った財政の確立につとめ、彼が日根野弁治を師とした頃、藩主は十五代豊信にかわった。豊信はのちに容堂となる。
そして、今、山内容堂襲封から五年。龍馬は藩許を得て一年三か月の江戸留学におもむこうとしている。
龍馬が才谷のこみちを登って行く。
「おおい、リョウ……」
上の方で呼声がした。
権平が見たら死ぬ程腹をたてただろう。その坂の上には墓守りのサイが立って手をあげていた。
サイが名なのか姓なのか、坂本家の人々にもよく判らない。ただ、サイと言われれば墓守りと、そう感じるだけだ。サイはすべてサイなのだ。どのサイか知る必要もない。いわば人間扱いの外に置かれている存在だった。
考えれば人間とは迂闊《うかつ》にできている。
代々の墓守りである以上、サイの生活に何がしかの糧《かて》を与えねば関係は維持できぬはずだった。だがサイは余りにも坂本家の墓所と深く近く結びついてしまっていて、今では誰もそのようなことに頭を使う者はいない。世間もまた、才谷が坂本家の地所であることを忘れ果てている。サイはその土地にわずかな田畑を営《いとな》み、それで暮しているのだから、いわば小作人に当り、小作料を免じられるかわりに墓守りをつとめるという方式が続いているのに、それすら記憶にないのだ。
もっとも坂本太郎五郎の土佐移住から三百年の歳月が流れ、太郎五郎の子孫も細かく分岐して才谷の土地の所有権も、どうなっているのか明確ではない。
ただ土佐の古い検地帳には、才谷における太郎五郎の土地が、一町余と記されている。
いずれにせよ、そのように由来《ゆらい》を忘れられ、墓所に住みついた非人の如く思われているサイの一人が、郷士とはいえ上士の住む高知城の郭中に隣接した本丁筋一丁目に広大な居をかまえる坂本家の息子に対し、「おおい、リョウ……」と気安げに呼びたてるのは、あり得べからざることではあった。
「いよいよ明日は江戸へ旅立つぞ」
龍馬は嬉《うれ》しそうに答えた。
「同行者は誰だ」
「やはり溝淵広之丞だった」
龍馬はサイに近づくと道脇にある陽ざしでぬくもった丸っこい岩の上に腰をおろした。
「見送りが騒がしかろうな」
「うん」
「俺《おれ》は今日のうちに発《た》つ。先まわりをして途中からリョウのあとをつけるつもりだ」
「心配は要らぬ」
「いや。リョウはおもて、俺は影……それが役割りだ」
「影か。つまらん役まわりだ」
「いや、影のほうが余程面白い。ヒはもともと影だ。兄者に見張られ親爺《おやじ》殿に縛られ……リョウの身の上の方がどれだけ不自由か」
「俺はそのように育てられている。影になって忍び歩くのは苦手だ」
龍馬はそう言って楽しそうに笑った。
二人ともこの春十九歳。土佐のような辺地から、京、大坂、そして江戸と、日本の中心地に向えることを、雄飛すると感じているのだ。よく晴れた今日の空のように、不安の影は一片もなく、ただ希望と野心が若い血汐をかきたてている。
「やるぞ、俺は」
龍馬が立って両手を腰にあてた。
「おう、俺もだ」
サイも同じような姿で南のほうへ向って仁王立ちになった。
「おおい……」
二人は胸いっぱいに息を吸い込んで叫んだ。南の空の下は太平洋だ。
いつの間にかそのうしろに、見事な白髪《はくはつ》、白髯《はくぜん》の老人が立って微笑していた。
「元気がいいな」
二人はふり返り、照れたように笑った。並んだ顔は余り似ていない。しかし額の左から右耳の下にかけて、顔を斜めにつらなった七つの黒子《ほくろ》は、二人ともそっくりそのままの位置だった。
「ヒの心得を教えよう」
老人はそう言って歩きだした。
二
実を明せば龍馬《りようま》の家は坂本の本家ではない。坂本の本流は太郎五郎移住以来、連綿とこの才谷の地に続いていた。
従ってサイは坂本家の墓守りなどではなく、サイこそ本家なのだった。
考えてもみよう。
太郎五郎は明智光秀の長男であり、皇統《こうとう》を根だやしにして新国家建設をもくろんだ織田信長が光秀の兵を京に向かわせたとき、太郎五郎は近江《おうみ》坂本城に在ったのだ。
光秀は織田信長のクーデターを身を挺して防ぎ、本能寺にこれを屠《ほふ》って天下に逆臣の汚名をきて、遂に小栗栖《おぐるす》の藪《やぶ》で殺されたあと、太郎五郎は辛うじて坂本城を脱出して琵琶湖《びわこ》を渡り、高浜にいた山内一豊の妻千代を頼った。千代はこれをかくまいとおし、後年一豊が土佐《とさ》入国を果すとこれに随伴《ずいはん》して才谷の地へ至った。
ヒの血筋から言えば、一豊は傍流のヒであり、太郎五郎はヒの宗家につらなっている。恐らく領主山内家とは隠微なかかわり合いを持ちつづけたことだろう。
そのヒの宗家につらなる太郎五郎が、町方に住むという発想をするはずがない。ヒの血が薄まって、真実を覚れぬ傍流も生じたに違いない。町方に入った子孫はいつの間にか本家を忘れ、サイという奇妙な一族が、墓所を守って代々才谷の地に住みついているとしか思わなくなっていたのだ。
そうした中でも龍馬の家は比較的本家サイに近く、時折りは龍馬のようなヒの血の濃い体質を得ていたようだ。そのような隔世遺伝はすべての坂本系にあり、彼らはひそかな伝承によってそれらヒの体質を才谷のサイに生れ落ちるとすぐ託して来たのだ。
畸形《きけい》をもらい育てる墓守り……サイがのちに非人のたぐいと見られてしまったのも、こうした事情によっている。
ただ、龍馬の父八平は、何らかの理由でその秘密を承知しており、出生時からそれと知りつつ龍馬を養育したらしい。
龍・馬……
坂本家の伝統にあってケタ外《はず》れのこの命名も、そうしてみれば当然のことだろう。
注意したいのは、土佐に渡ったヒの血が、坂本、大浜の二家に限ったことではないということだ。さきに引用した検地帳には、太郎五郎のほか、才谷の住人として、与七、係左衛門、与三左衛門、太郎九郎、又八、珍光、新二郎、大夫衛門などの名が載っている。
どれが太郎五郎の子であり、どれが石川小四郎……光秀の部下で山内千代の兄である人物の係累《けいるい》であるか、今ではもう判然としない。しかしそれらもやがて谷を出、土佐の各所に散って行ったのだ。幕末、龍馬と共に活躍した土佐の志士たちの中に、谷から出た家系の者が何人いたか、ひとつの興味ある問題である。
「サヒは……」
と老人は言った。質素だが恐ろしくがっしりした本造の建物の中だった。老人はいかにもヒの直系らしく、サイをサヒと正確に発音している。「サヒはその昔御所の忍者であった。勅忍の宣下を賜《たまわ》り、幾たびも御所の危難をお救いし奉った。この土佐のヒは、そのひとつのわかれである。宗家は江戸にあった天海大僧正であったが、そのあとのことはこの地が余りにも僻遠《へきえん》であって、我らには不明となってしまった。しかし判らぬながらも、土佐のヒにひとつの言いつたえがある。それは高皇産霊神《たかみむすひのかみ》の末裔《まつえい》として、太古より山々をへめぐって探《さが》し求めて来た産霊《むすび》の山のみなもと、芯《しん》の山が、宗家の手によって所在をつきとめられたらしいことだ。その芯の山の場所は、江戸か、しからずんば日光山である」
老人は神主めいた言い方でおごそかに龍馬の顔をみつめた。
「それを見きわめて来るのが俺たちの仕事だ」
若いサイが龍馬の肩を叩《たた》いて言った。だが龍馬は熱のない表情で、うん、とうなずいただけだった。
「例の宝刀をいただけませんか」
龍馬は駄々っ児のように口をとがらせて言った。「約束です。芯の山を探しに土佐を出る時は必ずくれると……」
「やる」
老人は鼻白んだ様子で短く答えた。「だがここにはない」
「でも約束でしょう。出立はあすです」
「龍河洞にある」
すると若いサイがくすくす笑った。
「リョウはあそこが苦手だ」
龍馬は蒼《あお》い顔になり、
「宝刀をくれるんなら地獄へでも行く」
と言って唇を噛んだ。
「あの刀はこの土佐へ来て生れた最初のオシラサマが、最後の伊吹《いぶき》のひとつをきたえ直して太刀に仕上げたものだ。決して粗略に扱うでないぞ」
龍馬は素直にハイと答えた。「ではこれから龍河洞へ行く。二人とも別れのしるしに儂《わし》に劣らぬヒの早駆けを見せてくれ」
龍馬と若いサイは顔を見合せ、
「よい、俺に敗けるなよ」
「なんの」
と立ちあがった。
春の山道を黒い影が北東へ流れて行く。ひとつにかたまりふたつに割れ、または三つに並びながらかろやかに走る。
行く手には、決して俗人の目にふれることのないヒの畸形《きけい》の女、オシラサマが棲《す》む龍河洞があった。
龍馬はその目も鼻もなく、毛髪もない全裸の怪女が大嫌《だいきら》いだった。それを見るとおのれの血の背後にある陰惨なものに目がくらむ思いだった。しかし、一人の武芸者として、ヒの宝であるその怪刀はぜひ手に入れたかった。
三
龍馬《りようま》が江戸に入ったとき、江戸の町々はその二月に起った大地震の被害からまだ完全に立直っていず、何やら取乱した風情だった。
江戸の土佐《とさ》藩邸はいまの東京都庁の場所にあった。龍馬が着くと藩邸の若者たちは、
「なんだ、地震があったのは龍が近づいていたせいか」
とからかった。龍馬はすでに高知《こうち》城下において、日根野道場の俊英《しゆんえい》として一目《いちもく》置かれていたので、江戸の青年藩士たちの中にも知り合いが多かった。
しかし江戸とは妙な土地だ。ふしぎに人間を気取らせてしまう。
土着の江戸人なら、他国者に対し江戸の風に馴染《なじ》まぬのを、田舎者として軽視しても当然といえる。それは江戸に限らずどの土地にもあることで、よそ者を小莫迦《こばか》にするのは珍らしくない。
しかし江戸に入った他国者が、土着の江戸人以上に江戸の風を鼻にかけるのはどういうことだろう。土佐藩邸でもそれは例外ではなく、新参の龍馬のお国ぶりがことごとに笑いの種にされた。
「なんだ龍馬、その長い刀は」
到着そうそう若侍の一人が龍馬をなじるように言った。
いったいその頃の土佐では長大な剛刀がよしとされていた。一種の地方的なファッションと思ってさしつかえない。若い龍馬はその流行に敏感で、いち早く長大な刀をさし歩いていた。その若侍とて、長い刀をよしとした頃があったくせに、今は江戸にかぶれ、飾りもののような華奢《きやしや》な差料を、御家人《ごけにん》風にだらしなく落し差しにしていた。
「江戸では長い刀を差しては悪いのか」
龍馬は本気で訊《たず》ねた。しかし余り表情の豊かでない彼が低い声で言うと、皮肉な逆問に聞えた。
「みっともない」
「みっともない……」
「そうだ。土佐の者がみなそのような泥臭《どろくさ》い人間かと思われるではないか」
「迷惑かな」
「迷惑だ」
「斬《き》れればよいではないか」
「斬るばかりが能ではないわ」
「ほう。武士の刀は斬る為にあるのではないのか。そのように着飾って、女に好かれようとでもいうのか。そのようななまくら刀でご奉公がなるのか」
「なにっ」
若侍が立ちあがった。蒼白《そうはく》になり、かためた拳《こぶし》がふるえている。
「刀は長いほうが得だ。ほれこのように」
龍馬も立ちあがり、左手で長い刀を鞘《さや》ごとつき出した。長身の龍馬がそうやると、リーチがまるで違い、抜刀《ばつとう》して斬りつけてもとうてい届きそうもない。
「よせよせ。そいつは腕だけが自慢の男だ」
先輩格の一人が若侍をなだめた。
「そうだ。ピラピラ侍は茶屋女とでも遊んでいるのが似合いだ」
「許さん」
若侍は縁を躍《おど》りこえて庭の土を踏んで、「勝負せい。大口は叩《たた》かさん」
すると龍馬は部屋へ集って来た誰かれに万遍《まんべん》なく笑顔を向け、
「これは腕くらべではありません。ほんのちょっとした刀くらべです。万一相手に怪我《けが》をさせたらこの場で直《ただ》ちに腹を切ります。そのような事はまかり間違っても起しませんから、ゆっくりとごらんください」
と、見世物の口上のようなことを言い、ふらりと庭へおりた。
長い刀のことから、こんなことになったのだが、龍馬がぶらさげている刀は、土佐にいた頃はやりに従って持っていたなみの刀ではない。オシラサマがヒの神器である伊吹を鍛えなおした怪刀だった。
伊吹というヒの神器が、いつの頃からこの世にあるのか、知るすべもない。しかし、それが神武の更に昔へさかのぼることはたしかだ。
かつて同じように伊吹を鍛えなおした刀を、猿飛の佐助が用いていた。それは先きが両刃の剣になっており、途中から四角い棒となった。刺突と打撃の具だった。しかしいま、龍馬がすらりと抜き放ったのは、腰反《こしぞ》りの、大切先をもった見事な日本刀だった。
「おお……」
と縁に集った男たちの間に驚きの声があがった。龍馬の持つ刀は青白く光っている。一人が縁先きで中腰になって目を凝《こ》らし、鋩子《ぼうし》のあたりを観察した。
「珍らしい。火焔《かえん》ではないのか……」
刃文が切先きで不動明王が背負う火焔のように揺れ動いてみえた。
「こちらは進んで行くだけだ。刺されるのがいやなら打ち払えばよい」
龍馬は無造作な青眼でゆっくりと押して行く。若侍はそう言われ、恐怖と屈辱にかっとなって、黄色い大声をあげて龍馬に打ちかかった。
斜め上段から打ちおろす若侍の刀を、龍馬が軽く小手をひねってはねあげた。二筋の白い光の帯が交差し、一方が更にふたつに分れてとんだ。キーンという鋭い音が男たちの耳に残った。
「おう……」
一斉にどよめきが起った。若侍の刀は脆《もろ》くも真ふたつに折れ、先端がはるかかなたへとんで庭の土につきささっている。
「刀は長く剛いほうがよい」
龍馬はそういうと刀を納め、鞘に入れた。若侍は息を呑んだまま手もとに残った折れ刀をみつめている。
「凄《すご》い刀を持っている」
男たちは羨《うらやま》しそうに言って散って行く。
「土佐は土佐。なまじ江戸の風をまねると土佐のよさまで失ってしまう。僻地には違いないが土佐は強兵の国だ」
龍馬は若侍に諭《さと》すように言った。
千葉定吉は有名な神田《かんだ》お玉ガ池の千葉周作の弟で、土佐藩邸に近い鍛冶橋《かじばし》門外の京橋《きようばし》桶町に道場をもっていた。
龍馬は小千葉と呼ばれるその定吉の道場で北辰《ほくしん》一刀流を学ぶことになった。小千葉には重太郎、佐那、里幾、幾久の四人の子供がいて重太郎と佐那はすぐ龍馬と深く交際するようになった。
きっかけは、田舎者の龍馬が見せた思いもかけぬ海外知識だった。
その年の六月三日の夕暮れ、アメリカ東|印度《インド》艦隊司令官ペリーが、四隻の軍艦を率いて浦賀《うらが》沖に姿をみせていた。
「日本を奪《と》りに来たのです」
江戸中がひっくり返るような騒ぎの中で、龍馬は最初から判っていたとでも言いたげな表情で言った。
「龍馬……」
重太郎が呆《あき》れて絶句し、佐那が笑いながらたずねた。
「龍馬殿ははじめからご存知だったのですか」
「いつ来るか、知りはしませんでした。しかしアメリカばかりではありません。世界中のあらゆる国がやってくるはずです」
「なぜです」
「それは……」
龍馬ははじめて自分の言っていることに気づいた様子であたりをみまわした。佐那も重太郎も龍馬の言葉を待ってじっと顔をみつめていた。「慶長《けいちよう》の頃、奥州|伊達《だて》家に支倉常長《はせくらつねなが》という男がいました」
「聞いている」
重太郎がうなずいた。「政宗公が遠く海の向うの切支丹《キリシタン》の王に使いをつかわしたのだろう。支倉常長はその折りの使節だ」
「そうです。頃は元亀《げんき》、天正《てんしよう》のあとの戦国の余熱さめやらぬ時代です。関ケ原の合戦がすんでも、天下の次第はあながち徳川家にかたまったとは言い切れない情勢でした。奥州伊達家も、徳川の背後から次の天下をうかがっていました。或る時期には、徳川家より一歩先んじて次の時代に備えていたと言ってもいいほどです。それが支倉一行の海外派遣なのです。彼らはローマに入り、スペインにおもむき、日本の王の使いとして政宗公の信書をかの地の主たちに手渡したのです」
「それと今の黒船さわぎとどういう関係があるのだ」
重太郎はいぶかしげに言う。
「この日の本には、生きとし生けるものの明日への願いを容《い》れ、明日を定める不思議な霊地があります」
「まあ……」
佐那は目を丸くした。
「あるのです。現に徳川家康はそれを手中に納めたからこそ、このように江戸に幕府をひらけたのです」
重太郎はあわててあたりを見まわした。この時代、龍馬のようにいけぞんざいに、神君を徳川家康と呼びつけにすれば、直参《じきさん》のこちこちならずとも、こやつ謀叛《むほん》人かと、すぐそう思われる時代だった。
「まるでおとぎばなしのような……」
佐那はそう言って笑う。
「本当のことです。天海大僧正がその場所をつきとめたのです」
「どこだ、それは」
「ここか……」
龍馬は地を指さし、「日光か……。どちらかでしょう」
「まさか」
重太郎は苦笑した。
「いや、日本という国は、その霊地を求めて次第に西から東へひらけて行ったのです。それは時々の世の上つ方だけが知る大秘事であり、下々には知るすべがなかっただけです」
「俺《おれ》たちは下々だ」
重太郎は佐那と顔を見合せて笑った。
「まあ、信じられなければそれでいいでしょう。だが支倉がその大秘事を異国の王たちに明かしたことだけはたしかです。伊達家はその秘事を明かし、自分たちが霊地をおさえて天下を動かすから、海外から天下統一を救ける兵をさしむけてくれるよう持ちかけたのです」
「断わられたわけか。伊達家は今も天下を取れないでいるからな」
「いや、支倉たちは海外で時を費《ついや》しすぎたのです。戻って来た時はすでに徳川の世がかたまり、どうすることもできませんでした」
「霊地のおかげか」
「そうでしょう。徳川方は伊達のそうした行いを察知し、海外勢力の侵入をおそれて切支丹を根だやしにし、あわてて国をとざしてしまったのです。以来三百年。鎖国が続き泰平の世がもたらされたのです」
「そこへ浦賀の黒船さわぎか。武陵桃源《ぶりようとうげん》の夢破れ、徳川三百年の眠りが覚めたというわけだな」
「霊山のことは、この三百年の内に海外諸国にひろまってしまったに違いありません。ペリーもそれを知って来た一人でしょう」
龍馬は本気だった。
四
龍馬《りようま》が言うように、ペリーが平和使節でなかったことだけはたしかだ。日本に対し友好的だったのはオランダで、この嘉永《かえい》六年の前年夏、オランダ商館長クルチウスがジャワ東印度総督からの情報をうけ、いち早くアメリカ艦隊の日本来航計画を警告してくれている。
ペリーの艦隊はこの年の五月に小笠原《おがさわら》諸島に至り、植民地政府の設立を企画し、更に進路を沖縄《おきなわ》にとって那覇《なは》に着き、基地建設の可能性を打診した。
浦賀《うらが》に来航したのはそのあとのことで、浦賀のあとまたすぐ那覇に戻っている。那覇では貯炭、給水の基地設定を強要し、それを得た。
その間の動きのあわただしさ、強引さは、明らかに植民地獲得の侵略艦隊であって、龍馬がいうことも当然彼らの行動の一端を射抜いていた。
若いサイも江戸にいる。
土佐にいれば漠然《ばくぜん》とサイで通るが、江戸の町ではそうは行かない。
名を付けた。
新しい名は、才谷梅太郎という。大小をたばさみ、侍のなりで江戸の町々を歩きまわっている。が、どう見ても土佐の田舎侍だ。
「そろそろ日光へ行こうではないか」
或る日サイは龍馬と肩を並べて歩きながらそう言った。二人はひまさえあれば出歩いている。何よりもまず、江戸の町を知るためだった。
ヒの体質だろうか。二人とも地理を覚えるのは天才的だった。短い間に下町方面はあらかた頭に入れている。今日はまだ行ったことのない小石川《こいしかわ》、牛込《うしごめ》方面へ足をのばしていた。
雲行きが怪しく、なんとなくひと雨来そうな空模様だった。
「橋と坂が多い」
龍馬は額の汗が目尻《めじり》に落ちて来たのをぬぐいもせず、片目をしっかりつぶって汗の通り筋を目からそらせた。
「ここを行ってみよう」
あてもない二人は、なんとなく目の前の坂を登った。ポツリ、ポツリと雨滴が落ちてくる。
「降って来た」
サイが言った。言い終るとすぐ、雨はひとかたまりにどっと天から落ちて来た。
「これはひどい」
龍馬はそう叫んで坂を走りあがった。坂の上に大きな町家が一軒、道に恰好《かつこう》な雨宿りのひさしをつき出して建っている。
二人はそのひさしの下に駆《か》け込んだ。雨というよりは白いしぶぎがひさしから道にたちこめて、しばらくはむっとする熱気が地面からたちのぼっていたが、いよいよ雨が烈しくなり、さっとあたりが暗くなって稲光りがすると、ひんやりとした風が水膜をとおして吹きつけて来た。
「爽快《そうかい》だな」
龍馬は空をみあげて言った。轟《ごう》、と雷鳴がし、つづいて猛烈にまた稲妻が走った。
「そこのおふたり。こちらへ入りなさい」
すぐ頭のうしろの窓に声があり、ふり向くと老人が戸口ヘ顎《あご》をしゃくってみせていた。
「かたじけない」
しぶきが跳《は》ねて足もとを泥まみれにされていた龍馬は、遠慮なくひょいと軒下の水溜《みずたま》りをとんで戸口から中へ入った。
中にはだだっぴろい土間があった。
「そこにいなさい。この雨はすぐ通りぬける雨だ」
「そうさせてもらいます」
龍馬は鉋《かんな》くずのちらばった土間を物珍らしそうに眺《なが》めながら礼を言った。雨音がやかましい。
「見たか、今の老人を」
「ん……」
龍馬はサイに脇腹《わきばら》を小突かれて目を剥《む》いた。
「俺のおやじにそっくりだった」
「どれ」
龍馬は無遠慮にうす暗い座敷のほうへ身をのり出した。
出あいがしら、といった具合で、老人が奥から小さな盆を片手にぬっと姿をあらわした。
「どうなされた」
老人はじろりと龍馬にとがめるような視線を送った。
「いや、これは無礼をいたしました」
龍馬は頭を掻《か》いた。「この者が国に残した父親とそっくりだと申すものですから」
「儂《わし》がですか」
老人は白髪《はくはつ》、白髯《はくぜん》。サイの父親とみまがうばかりだった。「冷えた麦茶だ。とにかくひとつ……」
「これはご親切に」
龍馬は町人とも武士とも判じがたいその老人に頭をさげ、あがりがまちに腰をおろした。
「どこの……といっても世間なみの愛想でしかないな」
老人は言いかけて苦笑し、「土州侯のご家来衆じゃろう。失礼だが丸に三葉柏のご紋が浮いてでているような……」
「田舎者だなあ、俺たちは」
龍馬はあけすけな態度でサイに言った。「これでもすっかり江戸の水に馴染《なじ》んだつもりでいたんだがな」
「江戸はいつから」
「もう半年近くになります」
老人は苦笑したようだった。「毎年夏はこのような夕立が通りますか」
「馬の背を降りわけると言ってな」
龍馬は首をすくめ、サイに言った。
「同じ馬だが俺はふりこめられた」
「これは失礼。そのようなお名前でしたか」
「坂本龍馬と言います」
サイはむっつりと龍馬を見つめていた。
「龍馬……」
老人の眸《め》がキラリと光ったようだった。
「ここはどんなご商売の家です」
「大工の棟梁《とうりよう》の家です」
「なんだ……」
「しかし並の大工ではありませんぞ。お城奥深くまでお出入りを許される御作事方大棟梁のすまいじや」
「それでですか」
龍馬は感心したように立ちあがると、ずかずかと土間の奥へ入って見まわした。武家とも町人ともつかぬ感じは作事方大棟梁の家だったからだ。
「そちらの方のお名前は」
老人がサイに言った。
「いや、雨も小降りになったようで」
サイはなぜか怯《おび》えたように目をそらし、「リョウ。出かけようか」
と言った。
「やんだか」
龍馬は戸口ヘ行って空をみあげた。雷鳴がもうだいぶ遠のき、小ぶりになっている。
「急がねば遅れるぞ」
サイがわざとらしく言う。
「おう。ではご老人、世話をかけました」
龍馬は一礼すると、小ぶりとはいえまだ降りつづく雨の中へ一気にかけだした。サイも待っていたようにあとにつづく。
二人の去ったあと、白髪の老人は鋭い眼光でその戸口のあたりを睨《にら》んでいた。
五
「いや、全《まつた》くびっくりした」
サイがだいぶ遠のいてから言った。二人ともまだ走っていた。雨雲はもう通りすぎたらしく、風に流された雨粒が、ポツリ、ポツリと来る程度だった。あたりの家々から人影が道に出はじめている。
「ヒだ」
龍馬は行きあたりばったりに角を折れ、走るのをやめゆっくりとした足どりになって言った。
「恐ろしいものだ。ヒは諸国に散って人々の間に入りこんでしまったそうだが、あの老人は見るからにヒの長《おさ》といった貫禄《かんろく》だったではないか」
ヒはヒを知る。どうして見わけがつくのか龍馬にもサイにも説明はできない。しかしあの老人をひとめみた瞬間、彼らは相手が紛《まぎ》れもなくヒの者であることを見抜いた。本能としか言いようのない直感だった。
「名まで告げてしまったぞ」
「そうするよりなかった。うろたえて隠しても、あのヒならば必ず探《さが》し出すだろう。こちらが気づいたと知らせるより、迂闊《うかつ》を粧っているほうが余程いい」
「御作事方大棟梁とか言ったな」
「ヒは藤堂家、山内家、それに京都大工頭の中井大和守の血筋にひそんでいるということだ。たしか今は中井|主水正《もんどのしよう》か……」
龍馬は道が下り坂になっているのに気づくと、「もとの道へ戻るらしい」とつぶやき、しばらく黙って歩いていた。
「なあサイ」
「ん」
「徳川家に味方したな、ヒは」
「宗家がそうしたというではないか」
「朝廷に天下を治める器量《きりよう》がなければ、天下万民の為にも誰《だれ》かそれだけの器量をもつ者をたて、世を治めねばなるまい」
「そうだ」
「今のは坂本八平のせりふだ」
龍馬は悪戯《いたずら》っ児のような悪たれた顔でサイをみた。父親がいつも今のように教えていたらしい。サイはきょとんとしている。
「藤堂か中井か、はたまた天海大僧正の子孫かはしらぬ。とにかく江戸には幕府を守っているヒがいる」
サイはうなずいた。
「俺も今そう思っていたところだ。あの老人は幕府のヒらしい」
「ヒははじめ天皇家の上に位し、俗世のことは天皇家にまかせて西から東へこの日本をひらいて行った」
「そうだ」
「時がたつにつれ俗界の力が大きくなり、いつのまにかヒは朝廷を守る御所忍になりさがった。わが先祖明智の時代がそれの終りころだ」
龍馬は雄弁になって来た。道ばたに唾《つば》をとばし、胸を張ってつづける。「天海大僧正からは、ヒは寄ってたかって徳川家をもりたて、徳川幕府をひらいた。朝廷にそれだけの力がないと見限ったのだろう」
「そうだろうか」
「ま、その議論はどうでもいい。要はヒがまた天皇家のときの二の舞を演じ、徳川の走狗《そうく》になりさがっているらしいことだ」
サイは黙ってうなずいた。あの老人をみて慌《あわ》てて逃げ出したのは、なんとなくそれを感じたからだった。ヒのことは別として、サイも龍馬も、土佐に育つ内、王政復古の思想に多少なりとも洗われていた。
文化《ぶんか》、文政《ぶんせい》から天保《てんぽう》期にかけて、土佐のインテリ階級の間に復古主義思想が広まっていった。ことに読書階級である各地の庄屋や郷士たちは、地方にも浸透して来た商品経済の影響の中で、自己の力と価値を再認識しはじめ、幕府封建体制に対する突破口として、しきりに尊皇を口にするようになった。
南学、国学の研究がさかんになり、ことに高岡郡新居村の庄屋、細木庵常は一種の秘密結社を結成した。後年の土佐勤皇党はこうした土壌から生じている。
幕府のヒ。そう直感して逃げ出したサイや龍馬は、やはりこの時代の尖端《せんたん》をゆく青年たちだったのだ。
「俺ならば……」
龍馬は得意になって言った。
俺ならば自分で天下を取ろうと考えるだろう。龍馬はそう言い切る。ヒほどの力をもちながら、なぜ他人をかつぎあげることに汲々《きゆうきゆう》とするのか。愚かな大名と賢い家臣は、その行動を等価の場でくらべれば、結局愚かな大名が幾分利口だろうと言う。天才的な大名も暗愚な将軍と同じことしか出来ないかもしれない。それは立場の差だ……。龍馬はそう言っている。
「これは女の利口が男の莫迦《ばか》にかなわぬのと同じ理屈だ。より大きな機密を知り、より高い所から眺《なが》めていれば、下の人間が歯がみしてもまわりかねるような知恵が、なんという苦もなくすらりと湧《わ》いて出るものだ」
だから俺は自分で天下を狙《ねら》うだろう。利口な小者で終りたくはない……龍馬はそう結論した。
「勤皇、勤皇とはやりことばになってはいるが、天皇家ももとはヒの下請《したう》けで世を治めたのではないか」
「もとのヒに戻るわけだな」
サイは嬉《うれ》しそうに言った。
「もとのヒではない。新しいヒだ。俺は天下を握っても天皇のように公家公達《くげきんだち》にかこまれて、何もせず御所の奥に坐《すわ》っているような真似はしない。みずから百姓町人のためにいつも何かをしているつもりだ。権威があれば下じもを足繁《あししげ》く見舞い、搾取《さくしゆ》する小役人を抛《ほう》り出してやる。奢《おご》る大名はこらしめてやる。権威とはそのためのものだ。権威を守るためにことさら身を高きに置き、奥深くかくれすむのは本当の権威ではない。真に朝廷が日本万民の父であり宗家であるなら、徳川三百年の間、一度ぐらい幕政に注文をつけてもよさそうなものではないか。身を永らえるだけが能なら、泥亀《どろがめ》もまた偉大であると言わねばなるまい。二千年の皇統を誇っても、万民の為に何もせぬのではただの無駄飯《むだめし》ぐらいだ。あれはひょっとすると二千年の無駄飯ぐらいかも知れんぞ」
龍馬の怪気焔はとどまるところをしらないようだった。
六
俺《おれ》が土佐《とさ》から出たら世の中が動きはじめたようだ。……龍馬《りようま》がそんなことを言いはじめたのは安政《あんせい》元年に入ってからだった。ペリーが来た。プゥチャーチンが来た。日本全土が海外の勢力に目を向け、揺れはじめていたからだ。
が、そればかりではなく、この頃実際によく大地が揺れた。六月には近畿《きんき》に大地震が起り、龍馬にしてみれば前の年の関東大地震といい、自分が江戸へ出るとすぐ世の中が揺れ出したような実感があったに違いない。
事実世相も揺れている。
日米和親条約が調印され、下田《しもだ》と箱館《はこだて》が開港した。それに関連して渡米を企てた吉田|松陰《しよういん》が捕われ、佐久間|象山《しようざん》も投獄された。
そのさなか、龍馬の江戸留学期限が来た。
その間一度龍馬は日光山をおとずれ、やはり産霊山《むすびのやま》芯の山は江戸らしいと見きわめをつけていた。
「見えるか。どうだ……」
サイは愛宕山《あたごやま》の頂上であぐらをかいて坐った龍馬のうしろで、じれったそうに言った。
六月の夜のことである。
「どうも呆《ほう》けが来そうな気分がしたのでここへ登ったのだが……まあそうせかすな」
「藪蚊《やぶか》でたまらぬ。早く呆けてくれ」
「そう言われてもなあ」
龍馬はため息をついた。
幼時からしばしば龍馬を襲う呆けとは、一種の異常感覚に陥ちこむことだった。呆けが来ると龍馬は上古のヒが常に見ていたように外界を見られるのである。
生きとし生けるものの明日への願いが凝って白銀の矢となる。
東《ひむかし》の 靈山《むすひのやま》へ 雲傳《くもつた》ふ
白銀《しろかね》の矢を 祭《いは》へ主《かむぬし》
かつて、山科言継《やましなときつぐ》卿は、正倉院《しようそういん》御物中から、そのような歌を記した宝物を、ヒのために賜《たまわ》ったということだった。
その白銀の矢とは、常人に見ることのできぬ生きとし生けるものの明日への願いであり、その願いは各地の産霊山にとんで集り、そこから更に芯の山に届けられているという。
龍馬は呆けるとそれが見えるのだ。この愛宕の山に坐って彼が呆ければ、江戸のどこに白銀の矢が集っているか、ひと目で知れるはずだった。
「リョウ、まだか」
サイが言った。しかし龍馬は沈黙していた。「リョウ。リョウ……」
サイは龍馬の顔をのぞきこんだ。龍馬は口を半びらきに、まさしく痴呆《ちほう》のような顔で呆けていた。
「しめた、呆けたか」
サイは躍《おど》りあがって言った。
星もなく、ただひとすじの細い月が、行き脚早い薄雲にみえかくれしていた。
が、その時、彼らの背後にしのび寄る幾つかの黒い影があった。
サイが気づいた時、影のひとつはまぢかに近寄っていた。
「何者だ」
サイは低く身構えて言った。
「坂本龍馬とはお前か」
「…………」
サイは龍馬をかばってあとずさった。
「答えずともよい。昼からあとをつけていた。ここで死んでもらう」
男はそう言い、一度に殺気を湧《わ》き立たせて居合の腰になった。サイは一瞬早く抜刀していた。
サイの持つ刀もまた、ヒの怪刀のひとつだった。ただ龍馬のより小ぶりで、脇差しと見えるほどだ。
相手はすっと身を引いた。サイが居合を警戒している隙《すき》に、左から別の影が無言で斬《き》りつけて来た。みな覆面をしている。
サイは辛《かろ》うじてその刃を避けた。颯《さつ》と顔を危険な風が撫《な》でた。
「外《はず》したな」
首領らしい中央の男が仕損じた男に言った。落着いた声だった。
「なんの」
相手は素早く二の太刀を浴せかけて来た。サイは右目の端で第三の男が自分が二の太刀を避けるのを待ち構えているのを見た。
逃げず、振りおろされる刀に向って思い切り自分の刀をはねあげて行った。キーンと音がすると、敵は慌《あわ》てて退いて行く。柄元《つかもと》から折れた刀を口借しそうに投げ棄《す》てていた。
サイは必死だ。右の影が息もつかず襲って来ていた。サイは全く同じやり方でその刀もはねあげた。……キーンと同じ音がして、今度も白刃が折れてとんだ。それを見て首領が静かに進み出た。
「その刀、もらった……」
そう言ってゆっくり抜いた。と、龍馬がふらりと立ちあがった。サイと並んだところで抜刀し、切先を鶺鴒《せきれい》の尾のように震わせながら進み出る。
「北辰一刀流……」
首領は言い、だっと踏み込んで来た。白刃が触れ合いそして別れた。龍馬は再び間合をつめ、急に斬りかかった。
敵はついさっきサイがしたようにそれを下からはねあげた。
サイは息をのんだ。どちらの刀も折れなかった。……伊吹を鍛え直した刀に違いない。相手もヒだ。そう思った瞬間、サイは龍馬の相手のうしろ側へまわり込もうとその横を走り抜けた。首領はあわてて左うしろへとんだ。
「引け」
低くこもった声で言い、三つの影はあっと言う間に地の上から消えた。サイはそれを追って崖《がけ》ぎわへ行き、すぐに引きかえしてきた。
龍馬は元の位置に坐っていた。
「あれはヒだぞ」
昂奮《こうふん》して叫んだ。しかし龍馬は身動きもしなかった。肩を揺っても答えず、顔をのぞき込むと呆けたままだった。
七
龍馬《りようま》は土佐《とさ》へ戻った。
俺《おれ》が世の中へ出たら世間が揺れ動いたという意味のことを龍馬は言ったが、その言葉は薄気味悪い程次々に現実となった。
帰国した冬、土佐を大地震が見舞った。安政《あんせい》の大震災だ。土佐の大地震は、白鳳《はくほう》、宝永《ほうえい》とふたつ特に烈しいものが記録されているが、今度のはそれと同じ程の烈しさだった。日本全体としてもこの年は海外から大きなゆさぶりをかけられ、日米の下田条約に引きつづき、日英和親条約、日露和親条約と、たてつづけに条約が結ばれた。
これらの外交処理に当ったのは大目付格西丸留守居役筒井政憲と勘定奉行川路|聖謨《としあきら》だった。
幕閣の中に産霊山の秘密を識《し》っていた者がいるのは明らかだ。川路聖謨も恐らくはその一人で諸外国の要求が最終的に何を狙《ねら》っているか、知り抜いていた様子だ。
川路らの打出した方針は、極力引延できるだけ交渉を引延しながら、最終的には先方の要求を許せる範囲まで認めてしまい、強硬策に出て戦火のことになるのだけは防ごうということらしかった。
火器など軍事力において問題にならぬ彼我の状況からみて、このような妥協策はやむを得ぬことだったろう。しかし、幕府は諸外国を恐れるのと同じくらい、国内の勢力も恐れていた。それは徳川幕府はじまって以来の体質とも言ってよく、ことに産霊山の秘密を公開することは、川路ら幕閣内の開明派にとっても許すべからざることだった。
従ってどんな底意が条約承認を求める諸外国にあるのか知るべくもない諸大名の中には、幕府の弱腰をなじり、徹底した攘夷《じようい》論を唱える者も少くない。中でも老中阿部正弘が幕政参与を乞《こ》うた水戸《みと》の徳川|斉昭《なりあき》は攘夷論の中心で、尾張《おわり》、越前《えちぜん》、薩摩《さつま》、宇和島《うわじま》などの藩主たちが斉昭に接近していた。……世は攘夷一色に塗りつぶされ、その基盤となる尊皇論は、すでに幕府の人間の間にさえ、常識として通用するほどだった。
このような時期、諸藩はそれまで幕府によって厳重な制限を受けていた軍備を、公然と拡張しはじめた。軍事面ばかりではなく、財政から民政に至るまでのあらゆる分野で改革が先を競って行なわれ、土佐においてもしきりに人事の異動が起っていた。
江戸留学で一挙に時代を覚った龍馬は、河田小龍の門を叩いてその教えを乞い、ようやく土佐の青年たちの中で頭角をあらわしはじめていた。
が、このような時代、ヒの秘事を持出してももはや誰《だれ》も信じようとはしなかった。龍馬はヒについては堅く口をとざすようになり、その分足繁くサイを訪ねるようになった。
「あの曲者《くせもの》はどんな奴らだったのか」
会うと話題はいつもそのことになった。
龍馬は愛宕山《あたごやま》のときの事件を全く覚えていない。覚えがないのに敵の首領に立ち向ったのだ。ヒの体質から来る呆《ほう》けの不思議だった。しかしその時の状況はもうサイから何遍もくり返し聞かされて、目撃した以上に記憶に刻みつけられている。
「とにかく俺たちには伊吹《いぶき》の剣を持っている敵がいる」
「しかもひどく喧嘩《けんか》ずれのした相手だ」
サイと龍馬はいつも顔を見合せてそう言った。
「察するに、そやつらは中井正清の裔《すえ》のヒであろう」
サイの父親が口をはさむ。その貌《かお》は、あの小石川の坂の上で見た老人とそっくりだった。サイも龍馬も、今ではその同じヒであるらしい相手に、一種の懐しみを感じはじめていた。生涯《しようがい》をかけて争う好敵手であり、その闘争の結果が天下の動向を左右するのだと自負している。……何としてももう一度土佐を出て彼らとあいまみえねばならない。二人ともそう心に誓っていた。
八平が死んだ。
安政二年十二月四日。龍馬の父坂本八平は五十九歳で世を去った。
その死の間ぎわ、龍馬は人払いした枕頭《ちんとう》に呼ばれた。
「龍馬か」
「はい」
「言って置く事がある。儂《わし》は間もなく死ぬだろうから」
「何を言われますか。お気を強く……」
「よい。それより儂には世の中がこのようになる予感があった。お前が生れたとき、すでにそう思っていた。天下が乱れる。また関ケ原のような大きないくさが起るのだ。ヒも三百年土佐にかくれ住めば土佐の人間だ。この土佐のため、お前はヒの血を生かして英雄になれ。ヒなら必ずなれる。儂はそう思い、才谷のサイに預けずお前を今日までこの家で育てて来た。坂本一族は山内家には恩がある。山内家がなかったら、我らは野盗となっていたやも知れぬ。いや、坂本城の灰となってこの世に生を享《う》けはしなかったはずだ。土佐に危難が生じた時は、必ず一番駆けに駆けて手柄をたててくれ。次の合戦は異人との合戦になるやも知れぬ。異人の首を斬れ。斬って斬って根だやしにしろ」
龍馬は眉《まゆ》をひそめて聞いていた。八平の心は判りすぎるくらいだが、余りにもズレていた。
「ただひとつ、くれぐれも江戸のヒとは争うてくれるなよ」
「なぜです」
八平は唇を舌で湿して言った。
「土佐のヒは傍流だ。宗家は江戸にある。関東へ行ったのだ。お前もたしかにヒだから、なみの人間はとうていかなうまい。しかし宗家はもっとヒの血が濃かろう。なみの人間とお前の差と同じくらい、向うが強いヒであるかも知れぬのだ。この世でお前やサイの男たちより強いのは、江戸のヒだ。構えて争うなよ。江戸のヒとは手を結べ。闘ってはならぬ」
八平は江戸で龍馬が向うのヒと何やらあったことを察していたようだった。
「判りました。ご安心ください」
「サイにもそう言っておけ」
八平は疲れたらしく眼をとじて沈黙した。八平が息をひきとったのはそれから半日ほどあとのことだった。
八
だが龍馬は、安政《あんせい》三年夏、ふたたび江戸へ旅立った。勿論《もちろん》サイも一緒だったし、ひと足先きに武市《たけち》半平太も江戸へ向っていた。
「行ってみよう」
江戸へ着くそうそうサイが言った。
「行くとも」
龍馬も眸《め》をキラキラさせて答えた。
土佐へ帰って二年余、二人の思いは恋人にこがれるように、あの坂の上の老人とその一味を想っていた。
季節は偶然この前と同じ夕立が降る頃だった。サイと龍馬は天才的な方向感覚で、二年前の道を歩いた。
ただ今度は目的地がはっきりしていた。足どりも早く、奔《はし》るように行く。
橋を渡り、坂道を登った。
そこは小石川|小日向《こひなた》柳町。
坂の上に道へ大きく張り出した軒が見えた。空に入道雲が浮んでいて、夕立は来そうにない。
おや……と二人の足がとまった。場所は間違いなくその坂の上で、そこには御作事方大棟梁の家があったはずだ。しかしいま、たしかにそこから竹刀《しない》の音が聞えて来た。
「しまった。住みかえたか」
サイが言い、二人は足早に坂を登り切った。ヤッ、トゥ、という気合が聞え、あの日老人が声をかけた窓の中に男のむさい頭が向うを向いて並んでいた。
「剣術の道場になってしまっている」
龍馬が情けない声で言った。入口をうかがうと、間口三間、奥行四間ほどの稽古《けいこ》場が見えた。床は黒々と光っていて、造りなおしてからかなりの日が経っていると見えた。
「試衛館か」
龍馬が感心したように言った。別に感心しているわけではないが、他流の道場の前に立ちどまったら、感服した体をつくろうのが利口というものだろう。見られても相手は悪い気がしない。龍馬にはそういう細心な面があった。
龍馬はそういう態度を演じながら、あの窓に近づいた。サイも並んで見物する。
「あ……」
サイは丁度道場のまん中へ出て来た男を見てそう低く叫んだ。
男は少し反り身で腹をせり出すような構えをした。器用な太刀筋ではないように見えた。しかしひどく手堅い。どうやらこの道場のあるじではなかろうか。みな正座してその立会いを見ている。
「ホッ」
男の竹刀が動いた。頭も揺れず脇《わき》も充分に堅い動きだ。パシッと相手の小手に入り、竹刀が床に落ちた。
「やるな」
龍馬はちょっと首をすくめてつぶやいた。
「ひと手願ってみるか」
そう言った時、サイが龍馬の袖《そで》を引いた。
「なんだ」
「行こう」
「どうしてだ」
「とにかく……」
サイは蒼《あお》い顔で言った。龍馬は渋々歩きかけ、窓から少し離れてからはっとしてふり返った。
「そうか。あの構え」
「愛宕山のときの首領」
「いかん。行こう」
二人はこの前の時と同じように、逃げるように坂を下った。
小千葉へ戻って重太郎に訊ねると、
「それは天然理心流だよ」
とすぐに教えてくれた。「江戸ではあまりはやらないが、武州《ぶしゆう》三多摩へ行けば五つ六つの子供までやっている。あれと立会うには頭を切り換えねばだめだぞ。すさまじい喧嘩剣法だ。何せ足払いが得意だから」
重太郎はそう言って笑った。
「こういう構えだ」
龍馬は太刀を鞘《さや》ごと抜いて、見て来た形をやってみせた。
「反《そ》り身だな」
「うん」
「それなら知っている。試衛館の道場主の近藤|勇《いさみ》という男だ」
「近藤勇……」
「強いそうだ。あそこは他流と平気でやる。気軽にどんどん立会うそうだよ。だから近藤の太刀筋はよく知られているんだ」
「ほかにどんなのがいる。師範代とかで」
重太郎はしばらく考えてから、
「そうだな。余りよくは知らんが、土方《ひじかた》歳三、井上源三郎かな」
と、さすがにその道には詳しかった。
「武州三多摩と言えば天領だな」
「そうだ。気の荒い所だ。百姓が平気で刀をふりまわして大喧嘩をする。八王子《はちおうじ》、府中《ふちゆう》、上石原《かみいしはら》、日野《ひの》宿と、そのあたりは天然理心流の道場だらけだ」
「日野宿……」
龍馬の顔色が変った。
「日野宿がどうかしたのか」
「いや。……古いことだ」
龍馬は言った。
たしかに古い。その辺りはヒによって古くから知られた関東西端の産霊山《むすびのやま》だ。東進するヒが基地として用い、ヒの宿が訛《なま》って日野宿となっている。いわば関東におけるヒの本拠地で、そのため家康はここを天領とした。
そこに育った天然理心流の指導者が、あの伊吹《いぶき》の怪剣を持つ近藤勇という人物なのだ。とすれば、徳川を守るヒはまだいくらもいるらしい。
「天然理心流を使う人間で、あの試衛館とかかわりのない人物はいないだろうか」
「どうする」
「立会ってみたい」
「一人適当なのがいるよ」
「それは有難い」
「お玉ガ池に来ている男で、もうすぐ目録だそうだが、それが何でもたまに試衛館へ行っているらしい。やれと言えば天然理心流で立会ってくれるだろう」
「そうか、玄武館の人か。で、名は」
「藤堂平助」
「藤堂……」
龍馬は大声で言った。重太郎は平素表情を変えない龍馬が、今日はいったいどうしたことだろうと、本気で龍馬の顔を観察しはじめた。
「藤堂平助では不足か」
「いや。しかし名前がいけない」
龍馬は言ってから唇をすぼめ肩をそびやかした。藤堂姓ならそれもヒにきまったようなものだった。
九
安政《あんせい》五年正月、龍馬《りようま》は千葉定吉から北辰一刀流の免許皆伝を得た。それは龍馬の人生にとって、現代の大学を卒業したに等しい意味を持っていた。桃井春蔵について鏡心明智流を学んだ武市《たけち》半平太とは、土佐藩邸に同宿して、いわば同寮生であったし、豊後《ぶんご》の村上圭蔵、長州《ちようしゆう》の桂小五郎などもこの時期江戸にいて、次代をになう錚々《そうそう》たる人材と共に、日本有数の剣士として故郷の土を踏むことになるのだ。
安政五年四月、井伊|直弼《なおすけ》大老就任。その六月|勅許《ちよつきよ》を得ぬまま日米修好通商条約に調印。七月ロシア使節江戸入り。将軍|家定《いえさだ》没。日蘭修好通商条約、日英修好通商条約、日仏修好通商条約など続々調印。孝明《こうめい》帝これに反対して譲位の希望を表明。尊皇の世論|沸騰《ふつとう》。梅田|雲浜《うんぴん》捕縛。老中|間部詮勝《まなべあきかつ》入京。安政の大獄はじまる……。
この時代の歴史はまことにめまぐるしい。だが筆者にその間の龍馬の動きをことこまかく追うゆとりはない。産霊山秘録の原典は吉田松陰処刑の裏にひそむ芯の山の秘事を挙げて読者への説明を迫っている。しかし松陰処刑の資料をいちいち挙げる必要もなかろう。読者はすでに幕府が何を惧《おそ》れていたかを知っており、吉田松陰の行動が幕府の硬直した頭脳には、海外に秘事を売る売国行為としか理解し得なかったことを察しているからだ。
龍馬は土佐勤皇党の一員として活動をはじめ、やがてその党主ともいうべき武市|瑞山《ずいざん》とも袖《そで》をわかって脱藩し、以後独自の道を行くことになる。
龍馬脱藩は文久《ぶんきゆう》二年三月二十四日夜。その一か月後には伏見《ふしみ》寺田屋の騒動が起っている。……やはり龍馬が出ると世が揺れ出すようだった。
翌る文久三年二月四日。
脱藩して本格的活動に入った龍馬を追うようにして、江戸小石川小日向《こひなた》柳町の試衛館から、錚々たるヒの一群が動き出した。清河《きよかわ》八郎による新徴組隊員募集が小石川|伝通院《でんずういん》で行われ、同六日編成終了。あっという間に京へ向って旅立った。
このあと新選組成立までの事情については語る要もない。
ただ近藤勇ら関東のヒの一群が京を練歩くについては、幕府体制護持の他に、御所の守りを堅めるかつての勅忍としての誇りがあったに違いない。
「阿呆《あほう》が……」
龍馬は新選組の噂《うわさ》を耳にするたびそう言った。言わずにはいられなかった。龍馬はあの強力な集団と手を組みたかった。能書きばかりで頼りない仲間の志士たちとは違い、彼らは選りすぐったヒだった。この時代に生き残った最後の神の末裔《まつえい》だった。
しかし、その神の末裔が、どうみても保ちそうもない徳川幕府に仕えて、その護持に汲々《きゆうきゆう》としている。何という浪費、何という勘違いだ。
だが新選組は日に日に強大になって行く。志士の多くが斬《き》られ、京の土を血に染めて行く。
当然だろう。普通の人間にヒが斬れるわけがない。恐らく隊士のうちヒは十人くらいのものだろうが、それが指揮をとれば並の人間も並の人間でなくなる。それ以上の働きができるに違いない。
仲間の新選組に斬られる数が増すにしたがい、龍馬の心には血族同士のどうしようもない憎しみが根をひろげるのだった。
そして龍馬も有名人になっている。
「坂本龍馬こそ不逞《ふてい》浪士の元凶だ」
新選組にもそうした抜きさしならぬ敵意が拡がって行く。だが龍馬は決して他の志士たちと同じようにこの時局を考えていなかった。
「徳川が倒れるのは時間の問題だ」
そう見ている。時代とは時にゆるく、時に烈しく、結局は左へ左へとまわって行くものだという原理を見抜いている。倒幕運動といったところで、いずれは倒れるに決っているから、他の志士たちと同じ行動をとるはずもない。龍馬は独自の道を歩いているのだ。
それなのに新選組は……少くともその幹部であるヒの者たちは、龍馬ひとりを最大の敵としてつけ狙《ねら》っていた。
「どうも危いな」
サイが言った。神戸《こうべ》の幕府海軍操練所の一室だった。
「どう危いのだ」
「味方の動きがだ」
文久四年三月一日に改元があり、年号は元治《げんじ》となっている。「長州は京を追われ、残った連中が恥をそそぐのだと言って死にものぐるいになっている。下手《へた》をするとリョウはまきこまれるぞ」
「連中に呼ばれたら行かずばなるまい。こんなことをしているのだからな」
龍馬は幕府海軍操練所で、修業生を募っている最中だった。いかに先きどりとはいえ、敵方兵力の増強に一役買っているのだから、その釈明の為にも長州一派の呼出しには応じなければ立場がなかった。
「そうだろう。連中が何を企《たくら》んでいるか判るか」
「いや……」
「御所に放火して天皇を長州へ動座させようというのだ」
みなまで聞かず龍馬は失笑した。
「天皇を奪《と》れば賊名は消えるか。単純だなあ。しかしたしかに賊名は消えるさ。長州兵にとりかこまれれば、あの人は何十本でも長州のために勅状を書くだろう。幕府よ降参なさい。長州はいい子です。諸国は長州人の言うとおりにしなさい。……いやはや」
サイはむっとしたように龍馬を睨《にら》みつけた。
「リョウのそこが気に入らない」
「はて……」
「天皇を何かというとないがしろに言う」
「ほう、サイも勤皇か」
「やはり俺もヒだ」
「莫迦《ばか》な」
龍馬は舌打ちした。「お守り札みたいなもんだぞ」
サイは龍馬の子供っぽい言い方に思わず、苦笑してしまう。
「まあいい。それより何か口実を作ってしばらく江戸へでも行っていろ」
「そうだな。御所が焼けるのは見たいが、それに引っぱり出されてのちのちごたつくのはごめんだ」
「すぐ発《た》ったほうがいい」
「よし。行きがけに京へ寄って連中に顔だけみせておこう。よんどころない用で江戸へ入ると知らせたほうがよさそうだな」
「口実はあるのか」
「あるさ。何とでもなる。それより、江戸へ入ったら勝さんに本当に献策してくる」
「何をだ」
「そういう奴らをひとまとめに蝦夷《えぞ》地へ送ってしまうことをだ。余りめちゃくちゃをされるとこっちがやりにくいからな」
龍馬はそう言って笑った。
一〇
池田屋《いけだや》事変。
元治《げんじ》元年六月五日。祇園祭《ぎおんまつり》の宵宮に起ったこの事件は、サイが壬生《みぶ》の新選組|屯所《とんしよ》へ現れることで始まった。
なぜサイは壬生へ行ったのか。その答はひとつしかない。
龍馬《りようま》と共に幕末動乱の世を駆けまわっている内、サイはサイなりの個性を発揮しはじめたのだ。
サイは龍馬ほどアナーキーではなかった。ヒの正統的な一員として、サイにとっては志士たちが膝《ひざ》を正して言う勤皇論が耳にこころよかった。日を追ってその勤皇論は一方でますます純粋になり、一方では単なる建前と化して行った。
勤皇が建前でしかなく、天皇や公家《くげ》を道具のように扱いはじめたのは、回天の事業を実際に動かしている中心指導勢力だった。
サイは幸か不幸か、その勢力との接触が殆《ほと》んどなかった。すべて龍馬にまかせてしまっている。
が、下級の、というより時代の核心のやや外にいる志士たちは、勤皇を純粋に信じ、御所にいる人物を想う時は殆んど体中の毛穴を閉じさせるくらいに緊張した。そしてサイはそういう志士の仲間だったのだ。
無名の志士才谷梅太郎は、そこに大きな喜びを感じまた正義も感じた。彼はそこから出て行くことをやめ、龍馬ら指導層が天皇を回天の道具として考えることを批判しはじめたのだ。
土佐の二人のヒの行手に大きなズレが生じはじめている。
禁裏《きんり》焼打を計画する長州過激派に対し、サイは勅忍としての使命感を湧き立たせた。ということは、すでにサイと新選組のヒが同質のものになってしまったということだろう。
龍馬と別れる決心をする、という所まで踏み切らなくとも、サイはサイでこの時代を自分なりに歩みはじめた。
「近藤|勇《いさみ》に会いたい」
壬生の屯所でサイは単刀直入に言った。
「名は」
応接に出た隊員は気を呑《の》まれた表情で言った。
「言っても判らぬ。ヒだと言えばよい」
「ヒダ……」
「いや、ただ一字ヒ……」
廊下を通りがかったのか、顔色の悪い、痩《や》せて肩の張り上った若い男が顔を出した。
「いまなんと言った」
「ただひと文字、ヒ、という名だそうです」
隊員は堅くなってそう答えた。相手は沖田総司だった。
総司はじっとサイの目をみつめた。みつめられて、サイはぞっとした。目の光が尋常でない。まるで狂人のそれだった。
「ふ、ふ、ふ……」
総司は狂的な薄笑いをしながらゆっくり左手をあげ、拇指《おやゆび》、人差指、中指の三本を前へ揃《そろ》えて突き出した。あと二本は折って掌に返している。
じいんと体が痺れた。その指先から異様な念力が放射している。
はっと気がついてサイは胃を堅くした。こちらも気力を臍下《せいか》にこめ、総司の念力をはね返そうとする。
二人は屯所の入口で睨《にら》み合ったまま凍りついたように動かない。
ダダっと足音がして新選組幹部が玄関に顔を揃えた。
近藤勇、土方《ひじかた》歳三、山南《やまなみ》敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、そして井上源三郎。
総司は挙げた時と同じようにゆっくりと左手をさげ、
「ヒだ」
と言った。
サイはほっと溜息《ためいき》をつき、近藤勇に向って、
「覚えているかな、芝の愛宕山《あたごやま》の夜を」
と言う。
「おお、あの時の」
近藤勇が言った。
井上源三郎と原田左之助が同時に、
「そうか。坂本龍馬の家来か」
と叫んだ。
「家来ではない」
サイは胸を張って言った。筋から言えば龍馬のほうが家来だ。
「何の用か」
近藤が尋ねる。
「勅忍の裔《すえ》と見込んで助勢を乞《こ》いに来た。御所の大事だ」
近藤はちょっと一同の顔を見まわし、
「よかろう。入れ」
と言った。
「肥後の宮部|鼎蔵《ていぞう》、松田重助、土佐では野老《ところ》山五吉郎、石川潤次郎、北添|佶摩《きつま》、長州は吉田|稔麿《としまろ》、杉山松助、広岡浪秀……」
サイが言い、井上源三郎が書き留めている。池田屋へ集合が予想される入物のチェックリストを作っているのだ。
「御所に火を放つとは暴逆きわまる。何が新国家建設だ。何が勤皇だ」
近藤は憤慨している。サイはさりげなく嘘《うそ》の名を入れた。
「それから多分、桂小五郎、坂本龍馬……」
なにっ、と男たちがけしきばんだ。
「坂本が来るか」
「多分だ……」
サイはあいまいに言った。龍馬の名を出せば新選組の気合は一層|凄《すさ》まじくなるに違いない。御所放火の過激派を憎むサイの心は新選組以上だったかもしれない。
「御用改めである」
近藤はいつも用いる口上で池田屋《いけだや》のくぐり戸を押し、悠然《ゆうぜん》と中へ入った。宿の者が一人顔を出し新選組と見るとわなわな震えながら、
「お二階の客さま……」
と叫んだ。しかし言葉は明瞭《めいりよう》でなく、
「どうした」
と夏羽織《なつばおり》を着た侍が二階の階段の上へあらわれた。
近藤に続いて人って来た沖田総司は、二階へ向ってさっと刀を構えた。柄《つか》を握った左手の指が、きのうサイにしてみせたような形になっている。
階段の上の侍は金縛りにされたようにじっとしている。そこへ近藤がさっと駆け登り、頭から肩へかけて一気に斬りおろした。用いるは伊吹の怪刀、顔半分がぐざっと割れ、夏羽織の男はそのまま崩折れた。土佐藩北添佶摩。三十歳。即死。
「坂本を探せ」
近藤勇と沖田総司はただ二人、奥へ踏み込んで行く。
表座敷は永倉新八と藤堂平助、入口の外は原田左之助。なめ切っている。過激派浪士など物の数ではないのだ。結局実際に踏み込んで行くのは近藤、沖田の二人だけだ。近藤の怪刀は触れてくる相手の刀をことごとくへし折り、沖田の妖異《ようい》な剣法は、念力で相手を金縛りにしてから好きなように叩き斬ってしまう。
「坂本はいるか」
「出てこい坂本」
二人はそう叫びながら邪魔をする敵をうるさそうに斬る。浪士たちは散々に斬りまくられ、追い出され、今は原田や藤堂らと渡り合う。そこへ遅れて来た土方《ひじかた》歳三が加わり、池田屋はまたたく内に血の海となる。
「坂本がいない」
近藤と沖田は顔を見合せて言った。めあては坂本龍馬ひとりだったと言ってよい。桂《かつら》小五郎は偶然行き違ってこの難をのがれた。
即死七。捕虜二十三。
ヒの側の負傷者は、藤堂平助、頭部重傷。永倉新八、胸部軽傷。以上二名のみ。
ただし乱闘末期、沖田総司吐血。
沖田の吐血は念力放射の代償だった。沖田は常日頃から、
「軽くいたずらしても二、三百匁は痩《や》せるようだ」
と言っていた。若い体力はまたたく内に回復するだろうが、試衛館時代から剣で立会うごとに念力をきめ業《わざ》として使って来ている。日頃から顔色が悪く、知らぬ者はみな結核と思い込んでいる程だった。
京へ来てからは真剣で人を斬りまくっている。狂笑癖のある沖田は、殺人者としていっそう暗い影を身につけて来たが、悪戯《いたずら》でしても二、三百匁は体重が減る念力放射をのべつまくなしに用い、その上この乱闘で三十人からを相手にしたのだから、吐血、失神するのも当然だった。
一一
「龍馬は用心深い男だ。何せヒだからな」
サイは近藤にそう言った。焼打計画を粉砕して満足だったが、龍馬についての嘘《うそ》はとりつくろわねばならない。
ところが事は意外な方へ発展して行った。
「そうか。それ程用心深いか」
池田屋の戦果に満足し、サイを信じ切ってしまった近藤は、そう言うと土方歳三を見た。「近づけねば斬れぬ。どうするかな」
「女陰の罠《わな》をかければよい」
「ん……そうか。龍子を使うか」
「龍と龍。よい勝負になるだろう」
「龍子……女か」
サイは眉《まゆ》をひそめた。
「ヒの女だ」
「ヒの。オシラサマか」
「それが違う。龍子は我ら武州とヒ一族の長|夢玄斎《むげんさい》どのの娘だ。試衛館の場所で昔|逢《あ》った覚えはないか」
「あ……あの白髪の」
「そうだ。龍子はその娘だ。この世にただ一人、オシラサマにならずに生れたヒの女だ。いくら龍馬が用心深かろうと、ヒの女がいるとは気づくまい」
「龍馬は女はどうだ」
土方が訊ねた。
龍馬にはたびたび女出入りがあった。小千葉の佐那、三条家の侍女で高知出身の平井かほ女……
「まず……」
「そうか、好きな方か」
近藤はニヤリとした。
嘘が嘘を呼んでいる。
サイは自嘲《じちよう》気味にそう思った。過激派浪士を新選組の手で屠《ほふ》ったのはよかったが、ヒの女を龍馬に近づける役を引うけさせられてしまった。
知ってみれば近藤たちもあながち不愉快な相手ではなかった。京にいて時流の渦《うず》に洗われている内、彼らは彼らなりに無闇《むやみ》な佐幕家ではなくなっている。ヒの性質として、保守派であるには違いなかったが、秩序を破壊し不安をもたらすだけの急進派にくらべれば余程ましだと思えた。その点サイは根っからのヒであったようだ。
「王政復古もよい。幕府解体もまたやむをえまい。しかしそれらは秩序に従って徐々に行なわれねば悲惨が多すぎる。彼らは口に正義を唱え、ふたことめには天下万民のというくせに、やることはまるであべこべだ。暴を以て日常のこととし、礼に至ってはまるで頭にもない野蛮人だ」
土方と近藤はそう言い、やや健康をとり戻した殺人機械沖田総司も、
「俺《おれ》は朝敵を斬っているだけだ」
と確信ありげに言い放つ。
龍馬はあれで正しいのだろうか。
サイの心にそうした疑問が湧《わ》きだしていた。
「聞く所によると諸外国にも産霊山《むすびのやま》があまねく分布しているというではないか。ロンドン、パリ、ワシントン……世界各国の首都はみな産霊山芯の山のあり場所だ。サイよ、俺は望みを世界に変えたぞ。この国の王として世界をこの手につかんでみせる。だから当分はこの国のことを、桂、大久保、西郷らにまかせようと思う。彼らはそれを喜んでやってくれるだろう」
そう言う龍馬の言葉を、近頃《ちかごろ》のサイは平気では聞き流せなくなっていた。不遜《ふそん》……そう感じてしまう。
そのことは、サイもまた時代の流れに身をまかす若者の一人であるということらしかった。彼はとうとう新選組に自分の居場所を感じ、龍子を龍馬にそれとなく引き合せてしまった。
元治《げんじ》は元年だけで終り、時代は慶応《けいおう》に入った。
武州一円のヒの首領、というよりは、今は十余人に減ってしまったヒを辛《かろ》うじて団結させている日野の夢玄斎老人の娘龍子は、どうやら龍馬の懐《ふところ》にとびこんだらしく、今は伏見|寺田屋《てらだや》にいる。
が、皮肉なもので、龍馬は急に多忙となり、ほとんど京坂の地へ寄りつかない。
四月に京都にあらわれて、それっと手配するといつの間にか姿を消し、五月には鹿児島にいる。熊本、長崎を歴訪し、しきりに海事のことを画策しているらしいという情報が龍子を通じて入り、油断していると六月下旬不意に京へ現れ、またすぐ姿を消す。
慶応元年は遂に空《むな》しくすぎ、新選組はサイを疑いはじめた。
裏をかかれているらしいというのだ。サイの立場はなかった。龍馬や志士たちを裏切り、そのうしろめたさを勤皇一本におのれをしぼりこむことで辛うじて打消しているのに、今度はそのより所である新選組から裏切り者の疑いをかけられる。
サイは身のあかしをたてるために調べはじめた。
折しも龍馬は薩長連合の立役者として働いており、近藤たちには龍馬殺害が急務と課せられている。
サイは、もし自分にかけられた疑いが幾分か当っていて、龍馬にこちら側の情報が洩《も》れているなら、その洩れ口はただひとつ、龍子でしかないと思った。
サイは伏見寺田屋を見張りはじめた。
と、慶応二年一月十九日の夜、伏見|蓬莱《ほうらい》橋ぎわの寺田屋へ、果して龍馬が姿をあらわした。サイはなおも見張りつづけ、龍子がそれを新選組情報網に告げるかどうかたしかめようとした。
龍馬はすぐ翌日出て行った。しかし同行者を残しているので、いずれ戻って来ることは明らかだった。
サイは龍子を呼出した。
「お龍さん、なぜヒの者たちに知らせない。俺はおかげで迷惑している」
すると龍子は肩を落して答えた。
「あなたは龍馬の昔からの友達だから思い切って打ちあけます。私は龍馬に惚《ほ》れてしまったのです」
「なぜ。お龍さんは近藤たちが頭領と仰ぐ夢玄斎の娘ではないか」
「上古からヒの女はオシラサマだけです。はじめてオシラサマでないヒの女として生れた私を、並の娘のように扱えるヒではありません」
龍子は悲しそうな眼でサイを見あげた。眸《め》が濡《ぬ》れていた。「はじめから忍びの用に使われて来ました。ヒと言っても、もう昔のような神の裔《すえ》ではありません。徳川の世に飼いならされ、伊賀、甲賀の忍びと同じになっていたのです。私はくの一の道具にすぎません」
「くの一……」
「この体を餌《えさ》に、何度みじめな役をさせられたことか。私はそれがヒの女の当然のつとめだと思っていました。ヒの女はヒの共有物なのです。つとめのない時は、ヒの男の誰かれなしに抱かれていたのですよ」
口の大きい眉《まゆ》の迫った近藤勇の顔がサイの脳裏に去来した。美男の土方、色白のぽっちゃりした山南、狂人めいた沖田、気短かの原田……彼らに万遍なく抱かれていた龍子を想像して、サイは暗然とした。
「そうか……」
かすれ声でやっとそれだけを言った。
「龍馬は女をいとおしむことを知っています。ヒの女としてではなく、心から私に尽してくれています。あんなこまやかな男の心にふれたのははじめてなのです。何でその龍馬を私が殺させられましょう」
「知っているか、リョウは」
「私のことはすべて打ちあけました。何ひとつかくしませんでした。本当に惚れたら、言われなくてもすべてを打ちあけたくなるものだと知りました。私は人間の女に戻ったのです。神の裔と思いあがり、人々の明日への願いなどと口にしながら、その実血肉をわけた同族の女たちの悲惨から目をそらし、使えるものは棒きれでも扱うように無慈悲に利用する夢玄斎や近藤たちは、ただの鬼にすぎません。私はもうきっぱりと縁を切ったつもりでいるのです」
サイはそれを自分に対する責め言葉のように聞いていた。
彼自身、自分で自分に名を付けるまで、ただサイでしかなかった。僻地《へきち》に置きざりにされたとはいえ、土佐のヒもまた無慈悲な存在だった。姉妹であるオシラサマを龍河洞の奥に棄《す》て殺しにし、祈りの行方をたずねて万人の役に立とうという者にしては、畸形《きけい》女の幸福を一瞬でも願ったことのない冷血な人間だったではないか。
「リョウに言ってくれ。もう政治からは手を引けとな。ヒも倒幕も忘れて、お龍さんとしあわせに暮してもらいたい」
「有難う……」
龍子はそう言って柳の幹に顔を寄せた。肩をふるわせ、必死に泣声を殺しているらしかった。
何がヒだ。ヒに何ができるというのだ。神武の昔はいざしらず、光秀以来のヒが、いつ天下に幸福をもたらしたことがある。血をわけた一人の娘すら救えない無力な存在ではないか。ヒの先祖は信長の手から朝廷を救ったと誇っている。しかし信長のほうが正しかったのかも知れぬではないか。徳川三百年の泰平を招来したとはいえ、実は進歩をとめ、もっと広い世の動きから離脱して怠惰に過しただけではないか。それとても、果してヒの仕事の結果であったかどうか……家康の天下は、生きとし生けるものの明日への願いの、その時の最大公約数だったのではないか。
「聞いてましたよ、才谷さん」
龍子が涙をぬぐって寺田屋へ入ったあと、サイは物かげからそう呼びとめられた。新選組|密偵《みつてい》の山崎蒸だった。
「貴様……」
「いや、これも役目です。悪く思わないでください。才谷さんの疑いはこれで晴れました」
山崎はそう言い、「報《し》らせます」
と素早く駆け去った。
どうしよう……サイは迷った。追いついて山崎を斬るか。龍子に報らせるか。
だが、結局サイは龍子に報らせる方を選んだ。
一二
寺田屋《てらだや》襲撃はヒの仕業だった。しかし事前に情報を得ていた龍馬《りようま》は拳銃《けんじゆう》を用意して抗戦し、怪我《けが》だけで済んだ。
官憲が襲撃したと思った西郷隆盛は、もう少しで伏見|奉行所《ぶぎようしよ》へ抗議に行くところだったという。だが伏見|薩摩《さつま》屋敷へ逃げ込んだ龍馬がそれをとどめ、傷が回復するとすぐ、船で海路|鹿児島《かごしま》へ向った。勿論《もちろん》龍子も同船している。
龍馬と龍子は九州で幸福な日を送った。
二人は錦江湾《きんこうわん》ぞいのアイラという異国じみた地名の場所にある神社で、生れてはじめて、今日の幸福が長く続くことを祈った。その神社は諏訪《すわ》神社だった。二人はそれから霧島山《きりしまやま》に向った。そして霧島山の近くの白鳥山《しらとりやま》の温泉につかり、更に新川《しんかわ》の渓流を歩いて塩浸《しおびたし》温泉にも泊った。
読者は記憶してくれているはずだ。
そこはかつて猿飛の佐助が歩いた道筋だった。黒旗天兵衛に尾行され、大坂城から落ちのびて隠れすんでいた豊臣秀頼と淀君《よどぎみ》を発見させてしまうことになった、その同じ土地なのだ。
だがあれからすでに三百年。ヒの東への出発点として、多くのオシラサマを秘めていた地底もいまはどうなっているのか全くわからない。
ヒは滅びようとしている。
そして恐らく最後のヒであるかも知れない龍馬と龍子は、いま彼らの故国ともいえるこの南端の産霊山《むすびのやま》に来て、それと知らず嬉々として遊びたわむれ、睦《むつ》み合っている。
霧島山山頂に至った時、二人はそこで天《あま》の逆鉾《さかほこ》を見た。
「あれはなに……」
龍子が言った。
「行ってみよう」
二人は手をつなぎ合って走った。南国の四月はすでに充分暖かかったが、流石《さすが》に標高が高く、幾分|肌寒《はだざむ》い程だった。見はるかす山々は一面緑と躑躅《つつじ》に埋まり、幸せな二人への贈り物のようだった。
「お龍」
龍馬はふと立ちどまり、あたりを眺《なが》めまわした。
「なに」
「祈ろう。明日もこのようであるように」
「またなの」
「何度でもかまわない」
「そうね」
二人は声を合せて叫んだ。
「おおい……むすびのやま……」
「わたしたちをしあわせにして……」
「もっともっとしあわせに」
龍子は笑った。
「お龍、何がおかしい」
「私たちって欲が深いのね」
「どうしてだ」
「だって、これ以上のしあわせって、この世にあるのかしら」
龍馬は風の中で龍子をだきしめた。
「お龍は知らないのだ。人間はもっともっとしあわせになれる」
「ほんと……」
「本当だ。世の中すべてをこの景色のように美しくすることだってできるのだ。今に世の中はきっとよくなる。西洋ではそれがもうはじまっているのだ。機械が人の苦を救ってくれる。労をかわってくれる。遠い道を歩かずにすむ時代が来るかもしれない」
「蒸気船のように……」
「そうだ。空をとぶかもしれない。江戸から鹿児島まで、多くの旅人をのせてひととびにとぶかもしれない。大名も幕府もなく、働いただけ平等に富を得られる世の中がきっとくる。病いはなくなり、たのしい遊びが増えるのだ。春は花、夏は水浴び、秋は山、そして降る雪さえも人間はただたのしむだろう。学問の好きな者は学問、絵の好きな者は絵。みなそれぞれに教養を高め、利口になって争いの愚かさを知るようになるのだ」
「いくさがなくなるのね」
「そうだ。いまが最後かも知れない。このあと殺し合いやいくさはなくなるだろう。みないつも笑ってくらすのだ」
ケタケタと乾《かわ》いた笑声が風にのって消えた。
「誰《だれ》だ」
龍馬は龍子をかばって身構えた。
「あ……」
龍子は怯《おび》えてあとずさった。
「愚か者め」
白髪《はくはつ》、白髯《はくぜん》をなびかせて、天の逆鉾の前に老人が立っていた。
「や、おぬし、もしや夢玄斎では」
「そうよ。ヒの宗家を甘く見るでないぞ」
「お龍の父御か」
「ヒに親も子もない。まして女はな」
「しかし父御には違いないでしょう」
龍子は叫んだ。
「その人に親の心などあるものですか」
「それそれそれ……何がしあわせじゃ。聞いて呆《あき》れるわい。人ははてもない欲に生きるものと知らんのか。満ち足ることなどあるものか。恐れと憎しみ、不満といらだち……それが人の心のすべてよ」
「なんと言われる。それでは明日への願いをいれる産霊山はなんのためにある」
「生きとし生けるものの明日への願いをいれるためよ。よいか。人はこの世のけがれじゃぞ。産霊山は天地間の汚穢《おわい》じゃ。神は汚穢を祓《はら》うためにある。人の心の欲を祓うのじゃ」
「わからぬ」
「そうじゃろう。うぬごときヒの名を汚す裏切り者に何が判ろう」
「俺が何を裏切った」
「ヒを……。ヒの先祖がやっと築いた徳川の世を、うぬは不逞《ふてい》のやからの先きに立って切り崩そうとしているではないか。これほどの裏切りがどこにある」
「考え方の違いだ。徳川も天皇も、もうこの世には何ももたらす力がない」
「黙れ小僧」
「よし、それなら俺は裏切者でよい。しかし欲を祓う神があるのに、なぜ人間は永劫《えいごう》に幸せになれぬのだ」
「ひとつ叶《かな》えばまたひとつ……龍《リヨウ》に訊ねてみるがよい。さあ龍子、答えてみろ。人なみに扱われたいと、それだけが望みじゃったろうが」
「…………」
「次は龍馬に抱かれたいじゃ。その次は龍馬の心を掴《つか》みたいじゃ。そして次は龍馬といつも一緒にいたい。その次は未来永劫龍馬と離れたくない。……もっとしあわせに、もっとしあわせに。そう叫んでおったのではないのか」
「そう。その通りよ」
龍子はヒステリックに言った。
「みろ。欲ははてもない。それがすべて叶えられてみい。最後はどうなる。死にたくないじゃろう。だが人は必ず死ぬる。その時次は何を叶えてもらったらよい」
「…………」
「龍馬。どうじゃ」
「知らぬ」
「死なぬ命が欲しい……そうじゃろう。だがそのような命があろうか」
「ないな」
「とすれば、おのれの肉を離れて魂だけになることじゃ。女もない、男もない、親子もなければ兄弟もない。物も持たず場所もとらず、ただ天地の間に無形《むぎよう》で在るだけの、一切空のおのれを望まねばならぬ」
「産霊山はそのためにあるのか」
「そうよ。生きとし生けるものをして、おのずから生を棄てさせるため、ひとつずつ願いを叶えて行くのじゃ、さすれば天地間の生《あれ》の穢《けが》れは祓い潔まる。人のしあわせなど祈るが愚かじゃ」
「恐ろしいことをいう老人だ」
「うぬが弱いのだ。判ったかこの裏切者めっ」
老人の手に両刃の剣が握られていた。明らかにそれはかつて猿飛の佐助が用いた伊吹の剣だった。
「お龍、逃げろっ」
龍馬はそう言うと自分も逃げ出した。だが龍子は女。とうてい長クラスのヒの相手ではない。追いつかれ、地に転げまわって父親の怪剣を辛うじてかわしている。
「自分の子を殺すのか」
龍馬は立ち戻り、龍子と夢玄斎の間に割って入ると刀を抜き放った。
怪刀対怪剣。
片や北辰一刀流、片や天然理心流。
「龍馬、勝って……」
「いいのか」
「父でもなければ子でもない。私はヒの女」
ブウンと音をたてて老人の剣がふりおろされる。ガキッと龍馬の刀がそれを受け、二人は一丈も互いにとびすさる。
「行くぞ」
龍馬が地を蹴《け》って奔《はし》った。北辰一刀流が流麗な弧をえがいて老人の胴へ向う。今度は老人の剣がそれを払う。二人はまたとびすさって睨《にら》み合《あ》う。
「オシラ……オシラ」
龍子が奇妙な抑揚をつけて叫んだ。
「莫迦《ばか》め。昼日中からオシラサマが出て来るものか」
夢玄斎が言ったとき、さんさんたる四月の陽光を浴びた霧島山頂に、不思議な靄《もや》が押しよせて来た。
靄はみるみる濃くなり、その中に、ひとつ、ふたつ、みっつ……目も鼻もなく髪もなく身に一糸もまとわぬオシラサマの姿が湧《わ》きあがって来た。
「オシラ……オシラよ。その老人を殺しておくれ」
「何をする、これ龍子。やめさせい」
老人は滅茶苦茶に剣をふるってオシラサマを近付けまいとする。
「ああ……リ、リウッ……」
老人は喉《のど》をかきむしってもだえはじめた。剣がむなしく岩の上をころがり落ちて行った。老人は倒れ、動かなくなった。
靄が風に運ばれて去り、あたりは元の四月の色に戻りはじめた。
オシラサマが三人、老人をとりまいて地に崩折《くずお》れた。
「オシラ、早く地の底へ戻って」
――何を言います。私たちは日の光を浴びたのです。
言葉ではなく、脳に直接語りかけていた。
――ヒの女。光を浴びても死なぬヒの女。衣を着てもかぶれぬヒの女……うらやましい。しあわせに、生きてほしい。
言葉は消え、靄《もや》は完全に去った。全身赤く火ぶくれになった無惨なオシラサマの死骸《しがい》が並んでいた。
「私は生れたままでもう幸せだったのだわ」
龍子は暗然とつぶやいた。「……人に羨《うらや》まれるほどに」
龍馬がその肩をだいた。
「いや……」
龍子はその手を払った。「汚い、汚い。汚い私……自分ばかりをあわれんで、仲間のオシラサマを一度だって気の毒に思いはしなかった」
龍馬は言葉もなく、自分を責めて泣く龍子をみつめていた。
時空四百歳
一
昭和十七年四月十八日、東京はアメリカ空軍機によって初の空襲を受けた。飛来した機種はノース・アメリカンB25十六機。指揮官はドゥーリットル中佐だった。
やがて戦局が移り、マリアナ諸島に米空軍基地が設営されると、東京空襲は本格化し、昭和十九年十一月一日に、都民はB29重爆撃機の姿にはじめて接することになった。
マリアナの基地を発進したB29は、十一月一日、五日、七日と東京上空に侵入し、一万メートルをこえる上空から、精密な航空写真を撮影して行った。首都の空を防衛する高射砲群は、この写真|偵察機《ていさつき》をさかんに射《う》ちまくったが、実際には、五、六千メートルの高度までしかカバーする能力がなく、迎撃する戦闘機の上昇限界も九千メートルを下廻っていた。
存分にデータを収集したマリアナ基地の米空軍は、十一月二十四日B29七十機を一斉に発進させ、東京に襲いかかった。目標は武蔵野《むさしの》の中島飛行機工場。二百発以上の爆弾と百五十発近い焼夷弾《しよういだん》を浴びて同工場は破壊され、民間にも多数の罹災者《りさいしや》を出した。
ガダルカナル、アッツ、サイパン、グアム、テニアン、そして硫黄島《いおうとう》……米軍は前進を続け、B29はサイパンから二千二百キロの距離を定期便のように往復しはじめた。
中島飛行機工場爆撃を手はじめに、B29は次第に来襲回数を増やし、その年末から二十年のはじめにかけて、執拗《しつよう》に爆撃をくり返した。
しかし、それでもまだ当時の都民は幸福だったと言える。B29は一万メートル以上の高度を保ち、主として軍事施設に的をしぼっていたからだ。
米軍情報部はヨーロッパで成功した高空からの精密爆撃より、日本の都市に対しては低空からの焼夷攻撃のほうがはるかに効果的であると主張していた。
昭和二十年の一月から二月にかけ、この主張は名古屋と神戸でテストされ、その効果が実証された。
サイパンに在った米空軍第二一爆撃隊司令官ハンセル少将が罷免《ひめん》され、カーチス・E・ルメイ少将が交替した。カーチス・E・ルメイ……ハンブルグに対する無差別|絨緞爆撃《じゆうたんばくげき》で全欧州に悪名をはせた将軍である。
着任したルメイ将軍は、サイパン、グアム、テニアンの三地区にある指揮下のB29が六百機以上と知って舌なめずりをした。史上に名高いこの屠殺《とさつ》将軍は、全機の弾倉を焼夷弾で満たせと喚《わめ》いた。戦術が転換され、「地域群」という新しい攻撃目標が提出された。
B29の弾倉には通常五トンの爆弾が納められる。しかしルメイ将軍は六トンの搭載《とうさい》を要求した。小型焼夷弾六千発分である。目標地区は長さ六・四キロ、幅四・八キロの矩形《くけい》に仕切られ、その中に焼夷弾をぶち撒《ま》けて行く方式だった。
用いられる焼夷弾は、エレクトロン、油脂、黄燐《おうりん》など多種多彩。ことに日本側で油脂焼夷弾と称していたのはナパーム弾のことだった。朝鮮、ベトナムで多用されたナパーム弾の最初の洗礼を受けたのは、実は東京都民だったのだ。親爆弾一個に対し七十二個の子爆弾を持つ親子爆弾、二千度の高熱で鉄をも溶かすエレクトロン弾、有害燐剤を撒きちらす黄燐弾……どれひとつとっても木と竹と紙の日本建築には悪魔的な破壊力を持っていた。そしてそれらが、細分化された地域群内の都民の頭上へ、情容赦なくぶち撒けられることになるのだ。
このルメイ将軍の新しい爆撃方式は、飽和《ほうわ》爆撃システムと呼ばれ、攻撃中心地点では一平方メートル当り三発の焼夷弾が火の手を挙げる計算だった。そして事実、被爆した地域では焼夷弾の飽和状態が出現し、そこは焦熱《しようねつ》地獄と化したのだった。
そしてルメイは三月九日夜、遂にその地獄の使者を東京に向けて発進させた。グアム、サイパン、テニアンの各基地から三百数十機のB29が合計二千トンにのぼる爆弾をかかえて一斉に舞い上った。その為、滑走路から機影が消えるのに二時間四十五分かかったという。
東京都戦災史は、三月九日の夜十時半に警戒警報が発令され、翌十日午前零時十五分に空襲警報が出たと記録している。
しかし、東京の下町でその十時半の警戒警報を聞いた者は、恐らく一人もあるまい。日本軍の電波探知機を混乱させるため大量のアルミ片を撒きながら、暗夜の海上を超低空で東京に向うB29の大群を、東部軍管区司令部は全《まつた》く探知できないでいたのだ。
ただこの日、三月十日は陸軍記念日に当っており、下町一帯には数日前から、その記念日を狙《ねら》って米軍の大空襲があるらしいという噂《うわさ》が流布《るふ》されていた。その上九日の夕方から強い風が吹きはじめ、人々はその風が不吉な噂を証明しているかのように感じて警戒心をつのらせていた。
記録によればこの大規模なB29爆撃機編隊の一番機が深川《ふかがわ》地区に侵入したのは、三月十日午前零時八分とされている。庶民の町、木場《きば》、白河町《しらかわちよう》の一帯にまず火の手が挙《あが》る。
おのれの生れながらの分《ぶん》を知るということを、最も重要な処世上のモラルとし、また美意識にもして、ささやかな幸福を追って暮していた名もない人々の家に挙った最初の火柱は、後続機の目標とされた。二機、三機と火柱の上空を悪魔の翼がかすめ、飽和爆撃が開始された。
「来た……」
本所《ほんじよ》深川一帯の家々では、灯火管制下の暗い部屋の中で低くおしつぶしたような叫びがあがっていた。この夜、寝巻き姿で床に人っていた者は恐らく皆無だったろう。そのような日常ではなく、皆すぐ飛び出せる服装で浅い眠りにつく時代だった。
火の手の挙った深川に接する本所菊川町《ほんじよきくかわちよう》辺では、すぐに送電が絶えた。……陸軍記念日、警報のない空襲。誰《だれ》もがそのふたつを思い合せ、覚悟をした。いずれは大空襲があり、家を焼かれるだろうという予感を持たない人間は、この辺りには一人もいなかったと言ってよい。
来た……来るべきものが来た。人々はそう思い、用意の荷物を手に家族の名を呼び合っていた。その間もB29の爆音は、まるで頭上に停止しているかのように聞えつづけ、突然豪雨の音に似た怪音がしたかと思うと、大地が一度に跳《は》ねあがるように揺れ動いた。
そのとたん、あたりは灯火管制もくそもあったものではなく、ぱっと真昼のように輝き、家々から猛然と火焔が舌をのぞかせるのだった。
菊川町二丁目……電車通りをはさんで深川と向き合う小さな映画館の裏手に住む福島武郎は、燃えあがる火に照し出された道にとびだし、じっと空をみあげて高射砲の音を聞こうとした。恐ろしいのは降りかかる高射砲弾の破片だった。だがどうやら高射砲はすでに沈黙させられてしまったらしく爆撃機の音しか空にはなかった。
「来い……」
武郎はそう叫ぶと腕を振って戸口にひとかたまりになっている家族に合図した。すでに道は逃げはじめた人影に溢《あふ》れている。肺結核のため兵役をまぬがれ、近くの小さな軍需工場に徴用工として通っていた二十四歳の彼は、家族たちの生命を左右するのは自分が選ぶ退路ひとつにかかっていることを強く意識しながら、家族の先頭に立って小走りに駆けはじめた。
しかし火は最初避難路に考えていた隅田川《すみだがわ》方面に挙っていた。……一旦《いつたん》東へのがれてから海へ。福島武郎はそう思い、都電通りを東へ向おうとしていた。
二
グアムの第三一四飛行連隊に所属するパイロット、ロバート・オブライエンは、福島武郎が家族を連れて逃げはじめた丁度その時間、彼の頭上を東から西にかなりの低空で飛び抜けるところだった。
が、その瞬間、オブライエンは突然目の前に猛烈な白光の爆発を見て思わず目をつぶってしまった。生れてはじめて見る猛烈きわまる白い輝きだった。数秒間意識をかすませていたのかも知れない。ふと我に戻ると真下に黒々と川が流れており、コ・パイロットのフリードが大声で何か叫んでいた。オブライエンはその必死の叫びをひどく遠い出来事のようにしか感ぜず、ぼんやりと眼下の家なみを眺《なが》めているだけだった。
その夜白光を視《み》たのは、オブライエンだけだったらしい。オブライエンにとって失神する程強度な白い輝きを、他の誰もが意識し得なかったことは奇怪なことだ。しかしオブライエンにとって白光は事実であり、幻覚でも何でもなかった。
賢明な読者なら記憶しているはずだ。その白光の源は、元亀《げんき》二年の九月、織田信長に包囲された比叡山|山麓《さんろく》の近江飛地蔵《おうみとびじぞう》の社《やしろ》にあった。
ヒ一族の長《おさ》、随風の末子|飛稚《とびわか》が行先不詳のテレポートである禁断の空《から》ワタリを試みた結果の白光だった。
御鏡《みかがみ》、依玉《よりたま》、伊吹《いぶき》……ヒに伝わる三種の神器で神籬《ひもろぎ》を組み、知悉《ちしつ》した行先を念ずればヒはたちまちにして千里を超えて目的地にワタリを行ないうる体質を持っている。しかし未知の場所を念じればこの世の外へ堕《お》ちるとされ、空《から》ワタリは堅く禁じられていたのだ。
ヒ一族の子弟養育地であるヒエは、俗人に比叡と呼ばれていたが、信長はその聖地比叡山を焼打にかけ、僧俗数千を虐殺しようとした。飛稚はその悲惨にたえかね、あらゆる願いを容《い》れるとされる産霊山芯《むすびのやましん》の山を念じてしまったのだ。燃えあがる飛地蔵の社の中で飛稚は芯の山を念じ、一旦時空連続体の外にはじきとばされたのち、昭和二十年三月十日の東京へ出現したのだった。
西暦一五七一年から一九四五年へ。実に百年の時空を超えて、いま飛稚は再び火につつまれようとしている。
石の広い道の両脇で、びっしりとたてこんだ家々が燃えていた。煙の中を二輪の不思議な乗物にまたがった者が、背をまるめて走り去った。さきのとがった頭巾《ずきん》をかぶり、荷を背負った人々が、悲鳴をあげながら逃げ惑っていた。時々空から何かが降って来て、それが地に当るとまた新しい火の手が挙った。轟々《ごうごう》と空を往くものがあり、時折り強い光が鳥のような銀色の翼を照しだした。
「お母《かあ》ちゃァん……」
はぐれた子供が泣きながら炎の下をくぐって近づいて来た。飛稚はその子の手をひき、人々の去った方角へ駆けだした。
ここにも戦《いくさ》がある。飛稚は自分が異る時代に紛《まぎ》れこんだのを本能的に覚っていた。
いつから続いている戦《いくさ》なのだろう。まさか比叡のときから続いているわけでもないだろうが。飛稚はそう思った。自分は神を求めてここへわたった。しかし見知らぬ場所へのワタリは鬼の世へ落ちるという。してみるとここは鬼の世なのか。神はいないのか。
どうも神はいそうもなかった。飛稚はいま、考えるよりまず逃げねばならない。小さな女の子の手を引き、息づくように道へ噴き出して来る焔のあい間を縫《ぬ》って、彼は石の道を東へ向っている。
東へ……。見知らぬ世界の見知らぬ土地で、しかも暗夜、東西の方角を察することができたのはヒの本能あったればこそだろう。
実は飛稚はその時深川白河町のあたりへ転移していたのだ。さきに逃げだしたその辺りの人々の大部分は、逆に西へ道をとり、清澄《きよすみ》公園の方角へ去っていったのだが、彼が現れた時火はその方面をとざしてしまっていた。
幼女がなぜ親にはぐれ、どこから来たのか、遂に不明だった。ただ彼は夢中でその幼女を連れて逃げだした。その部分の火からさえのがれれば、やがて暗く安全な場所へ出られると、幾分|多寡《たか》をくくっていたことも事実だった。
しかし、驚いたことに行けども行けども家々が続き、それがみな火に舐《な》められている。飛稚はうろたえた。これは余程大きな町なのではないかと、はじめて自分の居場所に対する不安が生じた。
飛稚の常識ですれば、たしかにそこは異様に巨大な町だった。実際には彼は都電の停留所をひとつ分だけ走ったにすぎなかったのだ。しかし彼にはそれでも充分すぎた。家屋の密度がぶきみな程濃いのに恐れを味わった。通りの両側に見えている家々の背後に、底知れぬ奥深さで更に家々がたち並んでいるらしいのだ。
消防自動車が二台、直撃弾を浴びて火につつまれていた。飛稚にそれが消防車だと判ろう筈《はず》もなかったが、透きとおるような鮮やかな炎につつまれた運転台にある人影を見て、一瞬足をとめた。人影はふたつ、人形のように静止して、全身から火を発していた。
この世界のありとあらゆるものが燃えあがっている……そう感じ、泣き喚《さけ》ぶ幼女をかかえあげると二台の消防自動車の傍を突っ走って抜けた。
が、その先きの火勢は更に凄《すさま》じかった。飛稚はたたらを踏んでとまり、咄嵯《とつさ》に足を北へ向けた。直進するよりはその方が幾分安全に思えたからだった。
彼は今までより細い道へ入った。ところどころにまだ火を発していない家々が残っていたが、周囲からは刻一刻と炎が押し寄せていて長居は無用に思えた。
長い一直線に伸びた道を彼は走る。
しかしそのまっすぐな道も、すぐに折れ曲って火を避けねばならなくなった。
はるか前方に逃げて行く一団の人影を見た飛稚は、ヒの異常な脚力を用いてそれに追いすがった。
……この子の親はいないか。そう尋ねるつもりだった。が、炎が先きを走る人々と飛稚の間にゴーッと噴き出し、人々の姿が見えなくなった。飛稚はたちどまって炎の吹きやむのを待った。
炎が退くとすぐ飛稚はまた走りだした。だが前方の人影はひとかたまりになったまま動かなかった。追いついて少し手前で立ちどまった飛稚は息をのんだ。
たった今まで走っていた人々が、シュルシュルと音をたてて全身から火を発していたのだ。一団の人影が炎の中に黒い影絵となって見えた。炎はその黒い人影自体から発して道を塞《ふさ》いでいた。幼女はいつの間にか泣きやみ、飛稚にしがみついていた。飛稚はまた脇道《わきみち》にそれた。するとすぐ堀割りがあるのに気づいた。橋がかかっており、橋の上にうずくまる人々がいた。
飛稚は橋の下の暗さにほっとした。
「親たちはあそこにいよう」
幼女にその気安めが通じたかどうか。
三
それは中州《なかす》から隅田川《すみだがわ》へ江東地帯を東西一直線に分断する小名木川《おなぎがわ》だった。枡目《ますめ》状に整然と区画されたこの辺りには、その更に北に小名木川と平行して竪川《たてかわ》があり、いま飛稚がいるすぐ東には、それらと直角に交差する大横川《おおよこがわ》、横十間川《よこじつけんがわ》などがある。川というより堀割りと呼ぶ方が実態が掴《つか》みやすい。そして火は、その堀割りが作る大きな枡目のひとつごとに燃えさかり、東西南北どの方角に退路をとっても、人々は圧倒的な火の壁に突き当らなければならなかった。
そして飛稚は見た。火の烈《はげ》しさと人の脆《もろ》さを……。
堀割りの暗さを頼って小さな橋の上に寄り集った二十人程の人影は、めいめい僅《わず》かばかりの荷物を持ってしゃがみこんでいた。
恐らくすぐこの辺りに住む人々だったのだろう。勝手口の気安い交際をし、時には塩噌《えんそ》の貸し借りをして仲むつまじく暮していた何の罪もない庶民のはずだ。彼らなりに営々と家を築き子を育て、富貴なものには何一つ触れることはなくとも、義理と情を重んじて朝晩は戸口を掃《は》き清め、祭りには子らに揃《そろ》いの衣裳《いしよう》を着せて律義《りちぎ》に生きて来た人々なのだ。
火が迫っても生れ育った家なみを遠く離れる気にはならなかったのだろう。横丁のひと筋ひと筋に思い出がつまっており、みずからの歴史そのものでもある町に、どうあってもしがみついていたかったに違いない。
恋人とひそかに落ち合ったかも知れない橋、親子が手をつなぎ唄《うた》いながら渡ったかも知れない橋……彼らはひとかたまりになって、その橋の上で燃えさかるわが町をじっとみつめていた。だが彼らは強くしぶとく生きるすべにたけている。生きてさえいれば、火の細った翌る朝には焼跡に仮小屋をたてることだろう。こつこつと働いて、やがては家なみを復旧するに違いなかった。
飛稚は本能的に橋に向う足をとめ、さっと辺りを見まわしてから、幼女をかかえたまま一気に飛んで水の中へ入った。泥臭く澱《よど》んだ水だった。
衣服が乾《かわ》き切っていた。異様なまでに乾燥し、発火寸前に思えたからだった。川の周辺は一面の火で、時折り燃える物とてない道の上を、白熱した炎のかたまりがひとりでに突っ走って行くのだった。
飛稚は水の中から叫んだ。
「危い。水へ入れ」
だが橋上の人影は動かなかった。そのとたん、炎のかたまりが橋を押し渡った。人々の体からぱっと火が発するのが見えた。それをきっかけに、一直線の川の上を、炎塊が至るところで横断しはじめた。炎は水上の冷えた空気に啖《くら》いつくように、いったん川の中へ入りこんで向う岸へ渡った。
飛稚は水中で帯をとき、衣服を脱いで幼女の頭にかぶせた。水中に出た部分はすぐに乾き、彼はひっきりなしに水をかけ、自分も時々水に潜った。そうしなければ髪が燃えあがりそうだった。
火勢はますます烈しさを加え、板きれなどが燃えながら舞い落ちて来た。気がつくと水の上も燃えていた。人々が落した荷物が水に浮いていた。飛稚は眉《まゆ》が焦《こ》げてしまったのに気づくと、これはいけないと思った。
ヒの修練のおかげで自分一人なら水中に潜って火勢の弱まるのを待つこともできる。しかしかかえている幼女の命は、ここにいる限り保証できない。それに、飛稚にとってこの火は家々が燃えているだけとはとうてい思えなかった。大地が燃える、風も燃える……そうとしか思えない。しかも夜空には得体の知れぬ敵が轟々と舞っていて火柱をまき散らしているのだ。
逃げよう……飛稚はその時はじめてしんからそう思った。ヒにあるまじき恐怖に襲われたのだった。
飛稚は水を蹴《け》りはじめた。少し行くと木材がたくさん浮んでいて、飛稚はそれにつかまってほっと一息ついた。幼女を背中にまわすと、幼女はしっかりと爪《つめ》をたてて飛稚の裸の肩につかまっていた。
「死ぬな……死ぬなよ」
飛稚は声をかけてやった。背中で幼女のうなずいた気配があった。チュッ、チュッと鋭い音が水面で鳴っている。火の粉が水に落ちる音だ。
「おおい、そこの人」
飛稚は浮んだ材木の上に伏せている人影を見て叫んだ。人影は少し身動きしたようだった。また水を蹴り、その方へ近づいて行った。が、水を掻《か》く手が何かに触れ、飛稚はピタリと動きをとめた。材木に両手をついて半身を浮きあがらせた。
水の上の墓場だった。そこには水にとびこんだ大勢の人が、今はひとかたまりに材木の隙間を埋める死体となっていた。両岸から冷気を求めて噴き込む焔に襲われ、窒息死したのだ。
「助けてくれ」
弱々しい男の声に我にかえった飛稚は、水に浮いた死骸《しがい》をかきわけて材木の上の人影に近づいた。
「しっかりしろ」
そう声をかけてやると、男は嗄《しわが》れた声で言う。
「みんなは、みんなは……」
飛稚は水の中で首をめぐらし、
「みんな死んでしまっている」
と答えた。
「京子、勝男、次郎、みゆき、おかあさん……」
男は絶叫した。材木がゆらりと揺れ、男は水の中へ静かに落ちこんだ。飛稚は手を伸して男の手をつかみ引き寄せた。だが男は一度力なく水から顔をあげただけで、そのままうつぶせに水の中の死者の群れに加わってしまったようだ。
「火をかけているのは何者だ。どこと戦っているのだ」
飛稚は片手で男の体をゆすりながら言った。いまはそれが知りたかった。
と、幼女の頭にかけた衣服から煙がたちのぼりはじめているのに気づいた。慌《あわ》ててまた水をかけていると、今度は自分の頭に焼けてくるような痛みを惑じた。飛稚は幼女の頭をおさえ、一緒に水中へもぐった。浮きあがると幼女は烈しく咳《せ》きこんでいた。
「権爺《ごんじ》ィ……六ゥ……」
たまりかねて飛稚は叫んだ。時空四百歳の彼方へ置いて来た、懐かしい人の名だ。「助けてくれ……ここは地獄だ」
目の前の堀割りの壁の上に、地獄の業火を背に一人の男が突っ立っていた。
四
「待て、助けてやろう」
男の影は言った。その言葉が終ると、同じように逆光を浴びた大小の影が三つあらわれて堀割りの中を覗《のぞ》きこんだ。
みな無言だった。火に追われ、炎をくぐり抜け、声をだすゆとりも失っているらしい。
水の中で見あげている飛稚《とびわか》の顔の前へ、すぐに細い紐《ひも》が投げおろされた。
「あがれるか、これで」
男が言った。
「子供を」
飛稚は自分の行動の自由を半《なか》ばまで奪っている幼女の胴に素早くその紐をまきつけ、ほっとして言った。幼女は軽々と引きあげられた。
飛稚は紐が再びおろされるのを待たず、つるつるとすべる堀割りの壁を、あるかなきかの足がかりを探《さぐ》って素早く這《は》いあがった。
「まあ凄《すご》い人」
若い女が驚いて声をあげた。
「君の妹か」
男が尋ねた。
「いや違う。親にはぐれたらしい」
飛稚はそう答え、四人の男女を見た。若い男が長男、二人の娘、それに母親というように見えた。
「畜生め、敵は火の壁でとりかこんでむし焼きにするつもりだぜ」
若い男は言う。「扇橋から猿江町《さるえちよう》にかけても火の海だった。木場《きば》も平井町《ひらいちよう》もやられているらしい。東西南北どっちへ逃げても火の壁ができてる。荒川《あらかわ》か埋立地へでも出られればいいんだが、とても無理だ。浅草《あさくさ》や蔵前《くらまえ》も燃えてるっていうし……君はこれからどうする」
男は一気に喋《しやべ》ってから飛稚をみつめ、眉《まゆ》を寄せた。白い整った顔だちだった。飛稚はその顔を見返し首を左右に振った。「この近所の子か」
「いいや違う」
飛稚は短く答えた。
「妙な顔をしてるな」
そう言われて相手の顔を見た。丸っこい兜《かぶと》のような物をかぶっていた。どうやら鉄でできているらしい。女たちは先のとがった頭巾《ずきん》をしている。
たった今這いあがったばかりの堀割りの向うで、炎につつまれた家々がドサリ、ドサリ倒れはじめた。倒れるたびに火の粉が舞いあがり、あたりに降りそそぐ。飛稚は裸の体にその火の粉がへばりつくのに閉口して、身をひるがえすと水の中へまたとびこんだ。上では男女が互いの体についた火の粉を払い落とし合っている。
「ここにいた方がいいぞ。俺《おれ》たちはそうする気だ」
男は水の中の飛稚に大声で言った。「この辺は最初に燃えはじめたんだ。もうじき下火になるだろう。へたに逃げるとどこへ行っても燃えてる最中のところへとびこむことになる。だから……」
男はそう言い、途中でやめて家族の衣服についた火の粉を払うのに忙殺されていた。飛稚は手つだってやりたいと思った。しかし裸ではどうしようもない。水の中にひそんでいるしかないのだ。飛稚はひとかたまりに死体が浮んでいる所へ行くと、その中の一人の着物を水の中ではぎとりにかかった。
「おい、何をするんだ」
男の怒声がとんだ。
「裸では火の粉に焼かれて上へあがれない」
「服をやる。死人のものをはぐのはよせ」
「なぜだ」
飛稚は不満げに言った。
「火が納まればその人たちの家族が探しに来るだろう。着ているものが目じるしになる」
男は腹立たしげに怒鳴るとあたりをみまわし、「水の中で着ろ」
と自分の荷物を解いて服を投げてよこした。飛稚は散々手こずった挙句《あげく》、やっと工員風の作業ズボンをはき、シャツの袖《そで》に手を通した。
再び這い上って見まわすと、たしかに火勢はおとろえていた。燃えるものは燃えつくし、家々はみんな倒れてしまっていた。
「ほんと、お兄ちゃんの言ったとおりだわ。この辺には人も余り死んでないし」
「あっちは凄かった」
男は東の方をふり返った。「死骸がごろごろしてる」
「ここはなんという場所か教えてくれ」
飛稚が尋ねた。一度では判ってもらえず、二度、三度同じことを言った。
「深川の高橋だ。すぐそこが菊川町、向うが森下だ」
そう説明されても飛稚に呑《の》み込めるはずもない。
「ここは何という国だ」
「えっ……」
家族四人が一斉に言って飛稚をみつめた。
「かわいそうに、あんたおかしくなっちゃったのね。……そりゃそうよねえ。私だって気が狂っちゃいそうだもの。火だるまになって死んで行く人をこう沢山見せられちゃ」
気丈そうな母親が言った。
「何という国なのか」
「にっぽん……」
下の娘が区切りをつけて言った。
「にっぽん」
「そうよ。大日本帝国よ」
「京は……京はあるのか」
「京……京都のことかい」
「そうだ。京はあるのか。比叡、琵琶湖《びわこ》は」
「あるよ。安心しろ」
男は苦笑を見せて言った。「妙な子だな母さん。気がふれているんでもなさそうだぜ」
「俺は狂ってなどいない」
「東京の子じゃないわね。田舎《いなか》の子よ」
下の娘が言った。
「どうでもいいわよ、そんなこと。それより私たちどうなるの。なんとか命だけは助かったらしいけど、まわりの町はまだ燃えてる最中よ。火にかこまれたまん中のもえかすのところにいるわけじゃないの」
「どうなるか、誰にも判りゃしないさ。とにかく朝を待つんだ」
「こんなひどい空襲をしたんだもの、敵は何か考えてるのよ。もしかすると上陸してくるんじゃないかしら」
姉はそう言って身ふるいした。
「敵……敵はどこの国だ。大将の名は」
「やだ、この子」
姉は薄気味悪そうに言った。
「全く変な奴だ」
男はそう言い、戸感ったような表情で飛稚をみつめた。
五
飛稚はその夜大挙して来襲したB29の一番機が燃やした土地に転移したのだった。転移した時まだ周辺の町は燃え上っていず、人々はその無瑕《むきず》の町々へ逃げ出してしまっていた。従って死者の姿も余り多くなく、周辺の町々が燃えさかっている最中には、すでに焼け尽して下火になっていた。
本所菊川町二丁目に住む福島一家は、一旦《いつたん》東側の大横川方面へ逃げたあと、長男武郎の的確な情勢判断で、敢《あえ》て燃えさかる火の中心部へ引きかえしたのだった。
木造家屋ばかりの下町は、火のまわりも早いかわり燃え尽きるのも早かった。だがやみくもに火を背にして逃げ惑った大部分の人々は行くさきざきで新しい焔に迎えられ、多くの死者を出してしまった。
深川、本所、向島《むこうじま》と、江東デルタ地帯が燃えつきたのはその朝六時近くになってからだった。夜を通して吹き荒れた風も納まり、朝凪《あさな》ぎの空を赤く染めて太陽が昇ったとき、江東デルタ地帯は虚《むな》しく平らな焦土《しようど》と化し、至る所から焦煙がまっすぐに空へ向ってたちのぼっていた。
記録によれば、空襲は二時間半程で終ったという。それからすべてが燃え尽きる六時まで、人々は火に追われ、煙に巻かれて地獄の苦しみを味わっていたのだ。
火は人々の住む家を焼いたばかりではない。舗装《ほそう》した石の道をも焼いた。人々が逃げ感った下町の道は熱く焼けただれ、裸足《はだし》になってしまった人々は足の裏にやけどを負った。至る所に死者が累々《るいるい》と横たわり、後日死体がとりのけられ、散乱した焼跡が整理されたとき、路上には焼けた道を走った人々の足がたが点々とつらなって人脂を浮べ、水滴をはじいていつまでも消えなかった。
福島一家は幸運だった。父親を戦場に送った一家四人が空襲の中心地本所菊川町で生きのびたのだ。彼らは翌朝自宅の焼跡に戻り、すぐ焼けトタンなどを拾い集めてバラックを作りはじめた。
飛稚とあの迷子の幼女もそこにいる。
過度の緊張から解放された女たちが虚脱状態に陥ると、飛稚は無類のすばしっこさを発揮して小屋をたてるのに必要な材料を、とんでもない遠方の町々からまで拾い集めて来た。
「母さん、あいつは凄《すご》い奴だよ」
長男の武郎は第一日目で早くも飛稚の有能ぶりに舌をまいた。
「でも、これじゃまるでウチが泥棒してるみたいじゃないか。焼けたって持主がいるんだよ。まだどこもみんなおろおろしてるだけだけど、その内もとの所へ戻って来て小屋を作らなきゃならないんだろ」
「多少のことは仕方ないさ、こんな際だもの」
「でも驚いたねえ、そこのバケツをのぞいてごらん。水あめだよ、それは」
「ええっ……」
武郎はしっかりしたバケツをのぞきこみ、指をつっこんでそれをなめた。「こいつは凄え、本物の水あめだ。少し焦げっぽいけど」
「だろ。錦糸町《きんしちよう》の飴屋《あめや》も焼けたんだよ。令子がその噂《うわさ》を聞いて来て喋《しやべ》ったら、あっという間にすっとんでって持って来たのさ」
「変な奴だな、あれは」
武郎はそう言い、嬉《うれ》しそうにまた水あめをなめた。
トントントンと釘《くぎ》を打つ音がする。飛稚は長い髪をうしろで束ね、作業ズボンにシャツを着て柱に板を打ちつけていた。
「おい、その釘どこで拾って来た」
武部が白く光っている釘に気づいて叫んだ。飛稚は微笑して足もとを指さした。火にかかった様子もない新品の釘が、ボール箱にいっぱいつまっている。「トンカチも鋸《のこぎり》も……錐《きり》まで揃《そろ》ってるじやないか」
飛稚はそれには答えず、黙って小屋づくりに精をだした。
戦《いくさ》は終った……そう思っている。敗けてしまったのだと、この辺りの住民に同情を感じはじめていた。
もといた時代がどれ程遠く、京や近江《おうみ》がどれ程ここから離れているか、飛稚には知る由もない。考えはじめれば際限もなく疑問が湧《わ》きあがる。だがとにかくここが敗戦の国であることだけははっきりしていた。そして飛稚は、戦火に焼かれ、家を失った人間がその翌日からどうすればいいかということを、充分すぎる程知り尽していた。彼は無益な思考をやめ、むしろそれをおのれにやめさせるために、体を動かしつづけていた。
盗んででも生きのびねばならぬのだ。いや盗まねば生きられないのだ。この呆《あき》れる程巨大な町の焼跡の彼方には、火をまぬがれた家々がつらなっているらしい。そこには食い物もあろう。金銀もあろう。当分の間は、この一家の力になって、そうした焼け残った場所から食い物をかすめて来てやらねばならない。それが縁というものだ。……飛稚はそう思っている。
戦火で親を失った子供たちを京に集め、助け合って暮した日々が思い出された。
この一日で随分人が死んだ。まず親友の犬走りの六、次に権爺《ごんじい》……二人は織田信長の手勢《てぜい》に意味もなく殺されてしまった。空《から》ワタリのあとは何百何千という死体を見た。いまもそのあたりには黒こげの死体がごろごろしている。戦は人を狂わせる。殺す必要もない相手を殺してしまうのが戦だ。しかし、生き残ったら生きのびねばならない。なんとか生きのびて、どうにかして産霊《むすび》の芯の山を探し出してやろう。神籬《ひもろぎ》を組む御鏡《みかがみ》や依玉《よりたま》や伊吹《いぶき》を探し出すことだ。そうすれば帰れるだろう。帰って戦をなくしてやる。六も権爺も生き返らせてやる。六の母親も生き返らせてやる。全部済んだらここへ戻って来て、ここの世からも戦をなくしてやる。あの幼女を親たちに会わせてやる。焼けた家々を元どおりにしてやる。みんなにうまいものをたらふく食わせてやる。俺はヒだ。ヒの長《おさ》になる人間だ。ヒにならそれができる。ヒの長はそうしなければいけない。
板を切り、釘を打ち、トタンで屋根を葺《ふ》いて、小屋はどんどん完成に近づいて行った。昭和二十年三月十日いっぱいで、焼跡の本所に建った小屋は、飛稚のそれが第一号だった。
六
「驚いたな。君の話を聞いているとだんだん本当に思えてくる……」
福島武郎は焼跡に残った土台石に腰をおろしてそう言った。青白い月の光が見渡すかぎりの焼野原を照し出していた。家族は飛稚が作った粗末な小屋、というよりはブリキと板きれの囲いの中で睡《ねむ》っていた。
「嘘《うそ》はつかぬ」
武郎は飛稚のむきになりかけた表情を、右手を振っておさえた。
「嘘だと思っているわけでもないよ。ただ俺《おれ》の身にもなってくれないか。君が君の言う時代の……そう、正月に他人の家へ挨拶《あいさつ》に行く時のようなきちんとした身なりで俺をたずねて来てさ。髪もちゃんと結って刀なんかも立派なのを差してだ。こっちはよく手入された庭に面した六畳か八畳の部屋の上等なたたみの上に坐《すわ》って、床の間には掛軸、そして花が活けてある……そんな場面でじっくりと話し合っても、さあ本当かどうか……そう思わざるを得ないような話なんだぜ。ところがどうだい、このざまは」
武郎はあたりを見まわした。大空襲の日から何日かたって、転がっている死骸《しがい》こそ取りかたづけられたとはいうものの、月の光に照しだされた景色は、荒廃をとおりこして虚《むな》しさが濃く湧きあがっている。「俺はね、この本所で生れ、そして育ったんだ。本所と深川はすぐそこの通りをへだてて向い合っている。本所といい深川と言ったってよその土地の人には同じ場所にしか思えないはずだよ。だが俺なんかにはまるで違うところがあるのさ。本所の子供が一人で深川へ使いかなんかにやらされてごらん。あのやろう本所の奴だって、すぐ判られちゃう。深川の子がこっちへ来ても同じことさ。なんとなく顔つきで判っちゃう……なぜだが判るかい、家があるからだ。人間がいるからだ。少しずつ気風が変り、物の言いようも違ってくる。家のたてこんだ、人が押し合いへし合いして暮している土地なればこそだ。そこの通り一本が、田舎《いなか》の道の二里三里にも相当してるんだ。俺はそれを自然だと思ってた。山に木があって草が生えてて小川が流れてるのと同じように、俺たち町場《まちば》の人間は人ごみが自然なんだ。軒のつづく細い横丁が自然なんだよ。それが一晩でなくなっちまった。山が平らになり、川が消えちゃったのとおんなじことさ。俺はね、いままるで面くらってんのさ。B29が焼いてったからこうなったんだってことはよく知ってる。だがひと晩で原っぱになっちゃった変てこさってものは、やはりどうしようもなく俺の心にどすんとしたかたまりで居すわっている。不思議だ、なんて奇妙なことなんだと……子供みたいだけど、どうにもそう思っちゃうんだよ。そんな今の俺の目の前へ、織田信長の時代にいましたって言う人間がとび出して来たわけだ。それを嘘と考えるか本当と信ずるか、そいつは俺がこの焼野ガ原をどうするか自分の頭で始末がついてからのことにしたいって気持だよ。判ってくれるかい」
飛稚は考え込み、重苦しそうな顔で答えた。
「少しは判る」
「そいつは有難い」
「心のゆとりがないということだな」
「そうだ」
「もしゆとりのある時に聞いたらどう思う」
「きびしいな、君は……そうだな、ひょっとしたら笑いこけたかもしれないよ」
「嘘と思ってか」
「うん。……おいおい、そう悲しそうな顔をしてくれるなよ。最初に言ったろう、だんだん本当に思えて来るって。あれは本音さ。君の喋《しやべ》りよう、立居振舞い……信ずればみんなつじつまが合う。このさなかに嘘の話のつじつまをあわせるためにどこの閑人《ひまじん》がそんな苦労をしてまで演技をするかって言うんだ。きっと何か起ったんだ。ただ俺にはその何かを、はっきり自分できめられるだけのゆとりがないのさ」
「それはそれでいい。俺の権爺はよく昔がたりをしてくれた。源氏と平家のことや奈良《なら》や滋賀《しが》の都のことだ。ここにも昔がたりはあるな」
「あるさ、そりゃ」
「では昔がたりをして欲しい。織田信長の名を知っていたではないか」
武郎は軽く膝《ひざ》を打った。
「歴史か……そうか、君は歴史をひととびに昭和へ来てしまったんだっけ」
そう言ってしばらく時代を算《かぞ》えていた。飛稚は固唾《かたず》をのんで武郎の顔を見守っている。「ざっと四百年だな」
武郎は判決を言い渡す裁判官のような表情で言った。
「四……百年」
「家が焼けなきゃいくらか歴史の本も持っていた。もっと正確な年数を割り出してあげられるんだが」
「ヒは織田に天下をとらせようとしていた」
飛稚はつぶやくように言った。
「信長は結局天下をとらなかったよ」
「まことか」
「ああ、本当だ。明智光秀という男が京都の本能寺で殺してしまったんだ」
「嘘だ」
飛稚は怒鳴った。
焼野原のまん中で、その声は遠くまで響き渡ったようだった。
「どうしたんだ。何か気にさわったのか」
「嘘だ嘘だ。余人は知らず明智の殿に限ってそのようなことをするはずがない」
「弱ったな、歴史ではそうなっているんだがな」
武郎は柔和な微笑を見せて頭を掻《か》いた。色白の、すがすがしい顔だった。飛稚はふと石川小四郎を思い出していた。こちらの方がずっと美男で、顔つきそのものは余り似ていない。しかし物判りのいい兄のような雰囲気《ふんいき》が、飛稚にとってはどこか共通しているように思えた。
「そうか……だがなぜだろう」
飛稚は疑うのをやめて考え込んだ。
「明智光秀を……」
「知っているとも。里者風に言うならわが父は随風《ずいふう》さまだ。そして随風さまの八歳上の兄者《あにじや》が明智の殿なのだ」
「では、その明智光秀もか」
「そうだ。ヒは帝《みかど》の命を受けて織田に天下の権を与えようと働いていた。そのヒがみずからの手で織田を滅すはずがない」
「変だな。歴史はたしかに本能寺で明智が織田を殺したことになっているよ」
「わからん。なぜだ……」
飛稚は呻《うめ》くように言った。
「その内調べよう。どこかに焼け残った図書館ぐらいはあるだろう。それより、君がワタリとかいうのをするのに作った三つの……」
「御鏡、依玉、伊吹の神器か」
「そう。そいつのこともちゃんと歴史の本に出てるぜ」
飛稚はあっと言って眸《め》を輝かせた。
「どこにある。もしあれがあれば帰れるかもしれない」
武郎は同情の色を泛《うか》べた。
「どこにあるかなあ……探すのはむずかしいだろう。俺の言うのは君の使ってたのと違うやつかもしれない。ただ、君の話に出て来る三つの神器とは、皇室に伝わる三種の神器とよく似ているらしい。鏡、玉、剣……ヒとかいうのと朝廷とのつながりと言い、ひょっとすると同じものなのだろう。しかし、歴史の言う通りだとすると、今皇室の所有になっているその三種の神器は、三つの内一つか二つは本物じゃないだろう。もしかすると三つともにせ物かもしれないぜ。よく覚えてはいないが、その中のひとつは平家が滅んだとき海の中へ沈んでしまったはずだし」
「神器は一組や二組ではない。きっと探し出せよう」
「帰れるといいな」
武郎はそう言い、立ちあがってあたりを見まわした。「よりによってこんな時代へ紛《まぎ》れ込むなんて、かわいそうすぎらぁ」
「信じてくれたのだな」
飛稚は武郎をみあげて言った。
「結局話しているうちそういうことになった。俺はおかしいのかな」
武郎は笑顔で言った。
「おかしくはない。本当だからだ」
すると武郎は急に厳しい表清になった。
「よし、信じた。だがそれなら言って置くことがある」
「なんだ」
「今の話、余り人に喋るな」
「なぜ」
「たいていは信じないだろう。しつこく言えば気狂《きちが》い扱いされる。こんな状態だから気が狂った人間も多いだろう。その一人にされちまうよ。それに、ヒということがいちばんいけない。天皇との関係など、迂闊《うかつ》に口にするんじゃないよ。とんでもないことになるからな。この時代では、天皇の悪口を言うと縛られる。そういう時代なんだ。昔は天皇の上に位した一族などと、口が腐ってもいわないことだ」
七
焼野原になった東京の本所、深川一帯に奇妙な平和が戻った。敵機は三月十日以後この地区に全く興味を示さなくなったのだ。もう燃やすものもない。新しく焼跡にたてられた小屋も、上空から目標になる程軒を高くする力は人々になく、はじめは警報のたびにかくれた人々も、次第にふてくされて空を見あげ、敵機の通過を眺《なが》めるようになった。
乞食《こじき》の平和だった。これ以上奪われるものはなく、死ぬ価値さえもなかった。
しかも、餓《う》えていることについては乞食以上だった。
母親つね、長女芳子、次女令子、それに武郎という菊川町二丁目の福島一家は、助け合う隣人もなく焦土に餓えた体を所在なく横たえるだけだった。金もなく、交換すべき物もない。役所も彼らに保護の手をさしのべるゆとりはなく、めいめい生きのびる知恵をはたらかすよりなかった。だが、どんな知恵があろうか。
飛稚《とびわか》が火の中で拾った幼女は、辛うじて自分をイッちゃんだと名乗った。指を三本たててたから満二歳と何か月かなのだろうが、それもはっきりしたことは判らない。第一イッちゃんという名も、ミッちゃんかも知れず、イーちゃんかも知らなかった。
とにかく、飛稚とイッちゃんと福島一家の四人、計六人が、まだ人影まばらな本所菊川町二丁目で終戦の夏に一日一日と近づいている。
が、日がたつにつれこの一家から餓えが遠のいて行った。
飛稚が活躍しはじめたのだ。
彼は慣れぬ土地に食物を求め、日一日と行動半径をひろげて行った。或日は荒川《あらかわ》、江戸川《えどがわ》をこえ、或日は隅田川《すみだがわ》をこえた。
盗んでいる。食物を盗んではそれを菊川町へ運んで来る。食物は勿論《もちろん》だが、煮たきの用具から夜具まで、福島一家が要るものは何でも盗み集めて来た。
そういう物資調達の法に、彼は経験をつんでいた。かつての戦国の京でみなし児たちを集め養っていたからだ。やりはじめてみれば、戦国時代の京周辺と、昭和二十年の東京では、物資の密度がまるで違っており、この時代のほうがはるかに豊かだった。
彼は長髪を怪しまれないよう、時代の風俗に従って丸坊主になってしまった。言葉づかいも昭和風にかえ、地理を覚え、人々の暮し方を学んだ。
何にせよまだ十四歳という精神の柔軟な時期だし、各地方の人間たちの間に紛《まぎ》れ込む技術を半《なか》ば専門的に訓練されてもいた。
飛稚と名乗ったが福島家の次女令子にトミちゃんと呼ばれ、それが菊川町での通称になってからは、自分でもそれらしく富田という姓を考えだした。武郎は面白がって富田若男という仮名を与えた。
その武郎はしょっ中熱を発して何日も床についた。彼の結核はかなり進行しているらしく、飛稚の活躍で一家の餓えがある程度しのげるときまってからは、緊張がゆるんだのか寝込む日が一層多くなったようだった。
卵が欲しい肉が要る。もっと清潔な夜具、手拭《てぬぐ》いタオル……母親のつねは無理と承知しながら、武郎を案じてそんなことを愚痴のように言った。飛稚はそのたびに遠征し、奇蹟《きせき》のように母親の欲しがったものを持ち帰った。
トミちゃんは一家の大黒柱になった。
「トミちゃんのおかげだよ」
母親のつねが誰《だれ》かにそう言うのを聞いて、浅い昼の眠りから目を覚した武郎が小屋の中で声をかけた。
「母さん……」
小屋の中は薄暗く、実際には少し脂臭《あぶらくさ》かった。垢臭《あかくさ》いと言ってもよい。汚《よご》れた人間が発する臭いがしみついたものだ。しかし誰もその臭気《しゆうき》に気づきはしない。どこへ行っても多かれ少かれその臭《にお》いはしたし、武郎たちの小屋はその点まだいい方だった。
「呼んだかい」
入口で腰をかがめた母親のつねが人ってきた。
「トミちゃんは出掛けてるのかい」
「ああ出掛けたよ。今日は葛西橋《かさいばし》の向うへ行ってみると言ってたよ」
「大丈夫かなァ」
「安心おしよ。あれであの子は凄《すご》くしっかりしてるから。夕方にはきっといきのいい魚をみつけて帰ってくるよ」
つねは武郎の枕《まくら》もとへ坐《すわ》って、汗ばんだ額の辺りを拭《ふ》いてやりながら言った。武郎は枕の横のもんぺをはいた母親の膝《ひざ》をみてまた目をとじた。右の膝に丸く穴があいて、白い肌《はだ》がのぞいていた。
「あんまりいろんな注文を出さないで欲しいな」
「どうしてさ。お前に早く元気になってもらわなきゃ困っちゃうじゃないか」
「あいつはまだ子供だよ。十四じゃないか。たしかに素ばしっこいし、頭もとてもいい。何より生きていくための勘みたいなものが凄く発達してる。でも子供は子供だ」
「莫迦《ばか》だねえ、余計な心配しないで寝てるもんだよ」
「ねえ母さん」
「ん……」
「あいつ、どうやってここへ食べ物を運んで来ると思う。金なんか一銭も持ってやしないんだぜ」
「きょう日《び》いくらお金があったって何が買えるものかね」
「物々交換するものもないんだぜ。親戚《しんせき》だっているわけじゃない」
つねは少し不安な眸《め》になって目をとじた武郎の顔をみた。
「とにかく、今は大変な世の中だよ。こんな時代に生れたのを……いえ、こんな時代にお前たちを生んじゃったのを、私はすまないと思ってるんだよ」
しんみりとした言い方だった。
「そんなことはないよ」
武郎は目をあけ、母親の眸を見返して少し早口で言った。
「お前は優《やさ》しい子だったよ、昔からね。お前と令子はお父さん似。芳子は私に似ちゃったらしいけど」
「イッちゃんて女の子、どうしてる」
「令子が白河町の方へつれてったよ、また。もういいかげんに親たちがみつかればいいのに。あんなちっちゃな子が万一ひとりぼっちということになったんじゃ、かわいそうすぎるからねえ」
「美人になるぜ、イッちゃんは。でも親たちは生きているんだろうか。家族が全滅して一人ぼっちになっちゃった人は多いんだ」
「祈るしかないね。こんな世の中じゃ、何だってかんだってみんな行き当りばったり……明日のことは祈るしかないのさ」
「この戦争は敗けにきまってる。でもはっきり敗けときまったあと、日本人同士が昔のようにお互の間の約束ごとを守りながら暮して行ける世の中に戻るだろうか」
「ほんとだねえ、今は仕方ないけどさ」
遠まわりな会話だった。飛稚は自分たちのところへ食べ物を盗んで来ている……それを武郎は言いたかったのだ。こんな時代ではそれも仕方なかろう……つねはそう答えたかったのだ。しかし、生きねばならなかった。いま飛稚の盗みを指摘することは、自らが生きることを拒否することだった。
どんな形ででか、いずれ近い内に時代の色が変るはずだ。生きて行くだけの食物が正当な方法で手に入る世の中が来るか、警察力が強化されて盗みがどうしても出来なくなるか……盗泉の水を飲まねば生きて行けぬ善人たちの願いはそういうことだった。みな焼跡から他人の板きれを持って来て小屋をたてていた。利用できる物は、われがちに手当りしだいかき集め、早い者がちだった。そうしなければ生きられず、そうしなければ生きられないということで良心の痛みが消えた。そして時たま、良心の痛みが消えていることが悲しく、心細く、うらめしくなるのだった。だが焼跡に人影はまだそう多くない。すぐにも昔どおりになろうとは誰一人思っていないが、良心のうずかぬ時代がもっともっと奥深く、人影が増えるに従っていっそう深刻になって行くことを見通した者も多くはなかった。
懸命にこの時代に慣れようとしている飛稚にとって、このような巨大な町の所有権のあり方は、最も理解しにくいもののひとつだった。飛稚の時代には到る所に誰のものでもない共同の草木や石や水があった。だが昭和の東京では、本来一木一草に明確な所有者がいたのだ。しかし荒廃した焼跡では、誰もそのような堅いことは言わなくなっている。つまり一時的に飛稚のいた時代と似たようなことに戻っている。従って飛稚がいかに賢かろうと、その差異に気づくのはむずかしかった。あいた土地はどこに小屋をたててもよさそうに思えた。なぜならそこは焼かれた人々が見すてた土地だったからだ。少くとも飛稚にはそう理解するより仕方がなかった。
彼は大横川ぞいの総武線のガードの下に屈強な場所をみつけて小屋を作った。菊川町の小屋は手ぜまだったし、いずれイッちゃんと自分は福島一家と別れて独立しなければならないと思い込んでいた。
だがその新しい小屋に一人、二人と住人が増えはじめ、事情は変って行った。肉親を失って餓死《がし》寸前でさまよう子供たちと出会ったからだ。飛稚はそのような子供たちをみつけるとガード下の小屋に連れて行った。食物を与え、寝る場所を与えてやったのだ。それは京で孤児を集めた時と同じ事だった。
八
飴《あめ》問屋街の焼跡からバケツ一杯の水飴を待って菊川町へ帰る時に見つけたガード下の場所は、錦糸町駅の敷地と大横川の間にあって一種の無人地帯だった。
飛稚《とびわか》はガードの壁に太い何本かの柱をたてかけて、かなりの大きさの小屋を作った。すぐ近くの江東橋のたもとに交番があったが、今は焼けた祠《ほこら》のようにうつろで、やかましく言う者とてない。すぐ近くには以前信号の装置か何かを入れてあったコンクリートの四角い穴があり、それが今はガラン洞で、部厚いコンクリートの蓋《ふた》がのせてある。草の生い茂った中にその蓋もかくれて、秘密に物をしまって置くには絶好だった。
一郎、ケンちゃん、ヒロユキという三人が、まずその小屋で暮しはじめた。典型的な戦災孤児だ。三人はみな学齢前で、ひどく手がかかった。この辺りの子供たちは、学童|疎開《そかい》で小学生の姿は全く見当らなかった。
だがその内、清田登という中学一年生と、その妹の広子の二人が加わった。子供たちの面倒を見られる助手が必要だったので、飛稚がその兄弟を探《さが》し出したのだった。
しかし肝心《かんじん》のイッちゃんはまだ菊川町にいた。福島一家に手離す気配がなかったからだ。武郎の下の妹に当る十七歳の令子は、小まめにイッちゃんをつれてガード下の小屋へたずねて来た。彼女は飛稚のしていることに非常に好意的だった。町にはもっとたくさんの戦災孤児がうろついている。みんなここへつれて来ればいい……令子はそう言い、イッちゃんの親さがしがてら、そうした孤児をみつけて歩いているようだった。洗濯《せんたく》を買って出、薬や飛稚の知識にない品物のことを教えてくれた。石鹸《せつけん》、歯みがき粉、衣類……おかげで飛稚は調達すべき物資を的確に知ることができた。
少しずつ噂《うわさ》が広まっていた。みなし児ばかりが集って何とか暮している場所がある……人々はそう言い、行くあてもなくさ迷っているみなし児をみつけて、わざわざ遠くからつれて来たりした。
錦糸堀の子供村……そう言えば通じるようになった。
「令ちゃん、これみてくれ」
或日飛稚は訪ねて来た令子に大声で言い、線路の土手のかげから一台の自転車を引っぱりだした。山はすり減って丸くなっているが、タイヤもちゃんとしていた。
「凄《すご》いじゃない。どこで掻《か》っ払って来たの」
「堀切のほうだ。前から狙《ねら》っていたんだけど、仲々|隙《すき》がなくてさ」
飛稚のトミちゃんはすでに一ぱし下町っ子の言葉づかいだった。
「当り前よ。宝物だわ」
「そうだよな」
令子は自転車のあちこちを品定めした。
「トミちゃん、あんた乗れるの」
「まだだよ」
令子は飛稚が戦国時代から来たことを知っており、飛稚も令子にはこの時代に対する無知をかくそうとはしなかった。
「練習しなきゃね」
もんぺをはいた令子は、そう言うと飛稚の手から自転車をとり、ペダルに左足をかけると四回ほど右足で地を蹴《け》ってからひらりとサドルにまたがった。
「ほう……」
飛稚は目を丸くしてそれをみつめた。そのスポーティーな身のこなしが、飛稚にはすばらしい女性美と映ったらしい。
令子はあたりをぐるぐると走りまわってみせ、飛稚の前へ来て停《とま》った。降りる時ちょっとよろけた。自転車のりとしてはそううまい方ではなかった。
よろけた令子を飛稚がだきとめた。飛稚はヒの体練でたくましく体を造りあげており、少年らしい中性的な線はあるものの、背丈は三歳年長の令子とほとんど同じだった。どこに触れたのか、飛稚はビクッと両手をひっこめ、令子もポッと頬《ほお》を染めて彼から離れた。
「乗ってごらんなさいよ」
令子はうろたえたのか、ひどく女らしい言い方をした。そんな二人を、中学生の清田登がにやにやしながら見ていた。一年生の三学期の終りに戦災に会い、本当ならすぐそこの三中の二年生になっているところだ。
飛稚はぎごちなくサドルにまたがった。
「令子さん、押してあげなよ」
清田登が言った。
「いい……走るわよ」
令子は荷台に手をかけて押しはじめた。十メートル程走り、手をはなす。飛稚はヨロヨロと道をそれ、すぐ草の中に転がった。
「やさしい、これならすぐ乗れる」
「負け惜しみ言ってるわ」
「本当さ、すぐ乗ってみせるよ」
「そうね。あんたヒですものね」
令子は倒れた自転車を起しながら言い、「でもこの字を消さなきゃ。持主の住所と名前が書いてあるわ」
と後輪の泥よけに記した白ペンキの文字を指さした。
「うん」
「それに空気いれが要《い》るわ」
「それは何だ」
「タイヤに空気を入れてふくらます道具よ。できればパンク直しの道具も欲しいしね。タイヤが破れた時の用意よ」
「パンク修理なら俺《おれ》うまいぜ」
清田登が言った。「ゴムのりと、軽石と、ハサミと、それに空気もれをしらべるバケツがあればいいんだ」
「じゃ清田君にまかせるわ」
「うん、まかしといて」
清田登は嬉《うれ》しそうに言った。少しでも働きたいのだ。孤児たちとの生活に張りを感じはじめているらしい。虚脱したような大人たちや、おろおろと怯《おび》えている家のある子にくらべると、この子供村の住人たちははるかに活気があった。自分たちの世界を所有しはじめているのだ。混乱よりはむしろ自由が、貧窮よりは助け合いのほうを強く感じている。
令子が子供村にひかれているらしいのも、結局はそれだ。菊川町の家族といるより、こっちにいるほうが余程張り合いがある。維持し、再建するよりも、すべてがゼロで、ただ新しく築いて行くだけのほうが、すべてがみなすっきりと割り切れる。
「トミちゃん。みんなで力を合せて、この子供村をうんと大きくしましょうよ」
令子は眸を輝かせて言った。
「そうしたいな」
「掻《か》っぱらいみたいなこと、いつまでやってたってきりがないわよ。お金をもうけなきゃね。闇《やみ》をやって」
「闇……」
「そう。ある所には何でもあるそうよ。薬でも煙草でもお酒でもお砂糖でも……それを闇をやって、もっとちゃんとした子供村にするのよ。お金さえあればお医者さんだって、幼稚園や小学校みたいな先生だって来てもらえるわ」
「医者まで……」
飛稚は目を丸くした。医者や学問の教師まで揃《そろ》えた子供村……まるで夢のようだった。叡山の宿坊のように、みんなで順番に飯をたき、時間どおりに学問をしたり体練をしたり……すばらしいと思った。子供同士でそれをやるのだ。
「ねえ、素敵でしょ」
「うん。そうだ。ここをヒエにする」
飛稚は胸を張って言った。
ヒエとは、ヒの養育地の意味だった。そのヒエが里人に知られて比叡の字をあてられ、仏教をはじめ日本文化の中心地になった。
その時一郎とヒロユキの二人が息せき切って駆《か》け寄って来た。
「おにいちゃァん……」
「どうした。何かあったのか」
「あのね、あのね……日本がね、アメリカにね、まけちゃったんだってさ」
「敗けた」
飛稚が眉《まゆ》をひそめ、令子は「あ」と言った。
「お昼に重大発表があるってラジオで言ってたけど……」
それは八月十五日の昼だった。
原爆投下、ソ連参戦、御前会議、そして玉音放送と、時局は飛稚たち孤児を見すてたまま急速に進展していたのだ。
令子はぺたりと道ばたのコンクリートに腰をおろし、気の抜けた声をだした。
「やっぱり敗けちゃったのね」
「勝っても敗けてもどっちでもいいさ。戦争なんてない方がいいんだ。終ってよかったよ」
「でもみんな一所懸命やったのよ」
令子はうらめしそうに飛稚を仰ぎ見た。
「元いた所でも戦争があった。勝って得をするのは大将や上のさむらいたちだ。百姓たちが得をした戦争など一度もあったためしがない」
「それはそうだろうけど、あなたはヒでしょ。ヒは天皇を守る人なんでしょ。戦争に敗ければアメリカがやってくるでしょう。そうしたら天皇陛下はどうなっちゃうのかしら」
飛稚は天皇を持ち出されて言葉に窮した。考えてみれば、ヒとして受けた教育には、御所を守れとあったはずだ。しかし飛地蔵《とびじぞう》を権爺《ごんじい》と出て美濃《みの》へ向った時以来、天皇のことを考えたことなど一度もなかったし、その必要もなかった。
「令ちゃん、俺はね、家もない、親兄弟や生れた時からの知り合いもない……戦争で、ここの戦争じゃなくて、元いた場所の戦争で、そういうものはみんななくしちゃったんだよ。令ちゃんや武郎さんは、いまいるこの国が元いた場所とつながっていて、同じ国だというけど、本当にそうなのかどうか、俺には判んない。本当に両方がひとつの国だとしても、俺にとっちゃここは見知らぬよその国さ。国もないんだ、俺には。ヒに生れたからって、なぜ天皇を大事にしなけりゃならない。ヒが昔からそうして来たからかい。そんなのおかしいよ。見な。みんな一人ぼっちで生きてかなきゃならない子供ばっかりだ。戦争は天皇がしろって言ったんだろ。みんな天皇のためだと思って死んでったんだろ。天皇は偉い。神様みたいなもんだ。そう思って天皇の戦争で死んでった人たちは、俺と同じヒみたいなもんさ。いや違うな。ヒっていうのはみんなと同じただの日本人さ。日本人はみんなヒなんだよ。そうさ、そうなんだ。だから天皇は、御所を守れ、皇統を守れとみんなに言いつけておいて、何人死のうと召使いが死んだように、ちょっと気の毒がってみせるだけで終りなのさ。天皇がこの子たちに飯をくれたかい。一度だって戦争で親をなくした子のことをかわいそうだと言ったかい。本当はね、切腹するべきだよ。命令したのは自分なんだからね。大将は敗けた時にそうするもんだ。それで家来の命を救うもんだ。立派な大将はみんなそうする。令ちゃんが心配することはないんだよ。日本は今度はじめてよその国と戦って敗けたんだろ。勝った国の兵隊が敗けた国の領民に何をするか、俺は何度もみてよく知ってるんだ。アメリカとかが来たら、令ちゃんはかくれなきゃだめだよ。ひどいんだから……」
飛稚は言い澱《よど》み、眩《まぶ》しそうに令子の白い顔を盗み見た。
「でも天皇がきっと何とかしてくれる。ヒが守る番じゃないんだ。天皇がヒを、みんなを守る番なんだ。神様みたいに偉い人なら、きっとそうしてくれる。切腹してでも家来をたすけてくれるさ」
[#ここから2字下げ]
朕ハ昭和二十年七月二十六日米英支各國政府ノ首班カポツダムニ於テ發シ後ニ蘇聯邦カ參加シタル宣言ノクル諸條項ヲ受諾シ帝國政府及大本營ニ對シ聯合國最高司令官カ提示シタル降伏文書ニニ代リ署名シ且聯合國最高司令官ノ指示ニ基キ陸軍ニ對スル一般命令ヲ發スヘキコトヲ命シタリハカ臣民ニ對シ敵對行爲ヲ直ニ止メ武器ヲ措キ且降伏文書ノ一切ノ條項竝ニ帝國政府及大本營ノ發スル一般命令ヲ誠實ニ履行セムコトヲ命ス
(降伏文書署名の詔勅)
[#ここで字下げ終わり]
九
翌る昭和二十一年一月元旦。またひとつの詔勅が発せられた。それは明治天皇の五箇条の御誓文を引用することにはじまり、戦争被害者や産業の停頓、食糧難に言及したのち全国民の新たな結束をうながすものだった。
[#ここから2字下げ]
(前略)朕ト爾等國民トノ間ノ靭ハ終始相互ノ信ト敬愛トニ依リテ結ハレ單ナル話ト傳トニ依リテ生ルモノニ非ス天皇ヲ以テ現御トシ且日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ延テ世界ヲ支配スヘキ命ヲ有ストノ架空ナル顴念ニ基クモノニモ非ス(後略)
[#ここで字下げ終わり]
「武郎さん、これをどう思う……」
隙間《すきま》風の吹きこむ菊川町の小屋で、正月の三日、飛稚はちょっと凄《すご》んだ表情で言った。
「参ったよ」
武郎は唸《うな》った。「敗けた、って、しみじみそういう気がするよ」
「そんなのんきなことじゃないよ。俺はヒだからね」
「天皇制のインチキなところには、俺だって以前から気がついてたさ。でも所詮《しよせん》日本人なんだなァ、俺たちは」
「俺は憤ってるんだ。そうじゃないか。四百年をとびこえてこの昭和へ来て、武郎さんに俺がいなくなってからあとの歴史をいろいろ教えてもらった。豊臣だって徳川だって、天皇のことを一応は大事にして来たぜ。明治維新は天皇を大切に思う人たちがうんと死んだから出来上ったものじゃないか。明治からこっちはもう何不自由なく神様扱いされて来たんじゃないか。日本で一番偉いのは天皇だ。生れながらの神様だ……以前令ちゃんに言ったよ、俺は。今度は天皇がみんなを守ってくれる番だってね」
「そう思った人は多かったようだ」
「立派な大将は切腹しても家来を救うよ。ところがさ、アメリカが来るとすぐ、アール・エー・エーというのができちやった」
「R・A・A……」
「それが何だか知ってるぜ。特殊|慰安《いあん》施設協会っていうんだ。日本人の女の体をアメリカ兵にくれてやる仕かけじやないか。そんななさけないこと、昔のさむらいはしなかったぜ。家来がやるって言ったって、とめなきゃいけない。女が欲しけりゃアメリカからつれて来るがいいさ。恥しらずだ、男じゃない。もし令ちゃんがアメリカ兵に狙《ねら》われたら、俺は死んでも令ちゃんを守るよ」
傍で令子は赤い顔をしてうつむいていた。
「そりゃそうだ。俺だって黙っちゃいないさ」
「だが天皇は何もしてくんなかった。やめろとも悲しいとも言わない。それどころかこれはなんだい。俺は神様じゃないだと……沢山の日本人が神様だと思い込んで死んじまったあとに、俺は神様なんかじゃないと……」
飛稚ははなみずをすすりあげた。泣いていた。「みんなとおなじただの敗戦国民の一人だ。死んでった奴や、かわいそうに餓《う》え死しかけている奴や、アメリカ兵のおもちゃにされている女の責任まではとれないというんだぜ。神様じゃないからな。インチキだ。汚い。裏切りだ」
「そう昂奮《こうふん》してもはじまらないよ」
「俺はヒだよ。権爺も犬走りの六も、明智の殿も随風さまも、猿飛も飛鹿毛《とびかげ》も、ひょっとしたら俺の仲間のヒはみんな天皇を守るために死んだのかもしれないんだ。神様でいて、とれない責任でもとればいいじゃないか。話に聞けば、菊のご紋章を汚しただけでブン撲られて牢屋《ろうや》へ叩《たた》き込まれた奴だっているそうじゃないか。汚した奴が、つかまってから、私気違いでした。低能でしたと言ってそれですんだか」
「たしかにこの人間宣言ってのはどこかがおかしい。今まで神様でいるのがいやでいやで仕方なかった人みたいだよ。でもな、誰だって命は惜しい。もしまた日本が勢をもり返して強い軍隊でも持てば、また元の神様に戻るだろうよ。世の中ってそんなものさ。君は国をなくしたって令子に言ったそうだが、俺だって似たようなものさ。何もかもこうして目の前でひっくり返って行けば、この国は俺の国なんかであるもんか。去年の三月十日以来ぶっ切れちまってつながってなんぞいないんだよ。日本って国は一度終ったんだ」
武郎はそう言い、珍らしくきつい目付きで粗末な小屋を見まわした。肌《はだ》の色はますます白く、唇が朱かった。熱のせいか、瞳《ひとみ》がひどくうるんでいた。
一〇
兵隊たちが復員して来た。女子供たちが疎開《そかい》から帰って来た。物資がなかった。家が足りなかった。人々の心が荒れ、秩序が失われていた。
闇市《やみいち》がたち、正規の配給では生きて行けない人々が闇市を頼りに生活していた。しかし時折りその闇市に官憲の手入れがあった。何の為の手入れか、人々は納得できぬまま、また闇市に集った。
法をつかさどる者の立場を守り、正規の配給食糧による生活を続けた山口忠良という判事が餓死《がし》してしまったのは、昭和二十二年十月のことだった。
法を守る者は死なねばならぬ時代だった。
そうした生きるに困難な時代を、飛稚は活々《いきいき》と過していた。子供村という夢を追って無法の時代を駆けまわっていた。錦糸町、枝川町、東吾嬬町《あづまちよう》と、混乱の町々に飛稚はひそかに子供村を増やして行った。各地の闇市に露天の店をだし、収益をあげては子供村につぎこんでいた。子供村に集った戦災孤児は四百人にものばった。
だが、それはそれなりの必要悪がついてまわる。大人たちと接触を持たねばやって行けないのだ。
飛稚は復員兵士の間から信用できそうな男を選んでやとい入れた。仕事は、早いはなしが窃盗《せつとう》である。
飛稚にはヒの体質という武器があった。かつて伊賀《いが》、甲賀《こうが》などの忍者たちが宗家と仰いだヒは、どんな警戒厳重な場所へもやすやすと忍び込めた。闇物資の流通経路を逆に辿《たど》って物資の集積所を発見すると、屈強な男たちを動員して根こそぎ奪って来た。いいことに、そういう物資をかくしているのは、善人ではあり得なかった。ほとんどが旧軍隊の物資を隠退蔵したものだった。やとわれた復員兵士たちは、旧軍隊に仕返しをしているつもりになって、喜んで飛稚の窃盗団ではたらいていた。
だが、子供たちを養うべき物資の量はうなぎのぼりに上昇して行く。大人たちにも充分の報酬をはずまなければならない。トラックやガソリンなど、飛稚が思ってもいなかったものまで必要になって来た。
おまけに、盗難が頻発《ひんぱつ》すると、相手も大勢やとって警戒体制を強化した。当然実力行使が必要になり、窃盗団は強盗団に変貌《へんぼう》した。販売ルートの確保にも、各闇市の直営露天の権益保護の為にも、暴力団との接触が必要になってくる。福島武郎は病身で一家の生計を保たねばならず、いつの間にかそうした飛稚のブレーンになっている。
寿産院事件、帝銀事件、昭和電工事件、東宝争議と、多彩な事件が世相をいろどっている中で、日本脳炎が大流行し、子供村の子供たちがバタバタと倒れた。媒介するのが蚊《か》だと知って、飛稚は子供村の立地条件の悪さを嘆いた。
ホテルのような鉄筋の大建築をたて、子供たちを一個所に集められないかと言い出した飛稚に、福島武郎は渋い顔で答えた。
「無駄《むだ》だよ」
そう言ってラッキー・ストライクをくわえ、白く細いピアニストのような指でマッチを擦った。
「なぜだい」
二人とも黒い革ジャンパーに白く長いスカーフをまいていた。
「戦災孤児はもう増えやしない。それにだんだん子供じゃなくなって行く」
「当りめえのはなしだ」
「つまりこのさき人数は減って行くってことだぜ」
「まださきのはなしじゃねえか」
「それに、子供村は人目につかない所にあるからこそやって行ける。ビルをおったてて大っぴらにやっちゃ、法律ってものが黙っていられなくなる」
「法律があの子たちをいつ救ったい、守ってやったかい」
「そりゃそうだ。だがね、法律ってのはそんなもんさ。ビルをおったてれば税金だって取らなきゃなるまい。どっかから稼《かせ》いでくるってことになるよ。帳簿を見せて一銭のこらず子供たちにつぎ込んでるのを証明できたところで、親のない子を民間人が無届けで集めて養っているのを放ってはおけまい」
「法律はどうする気なんだい」
「トミーは牢屋《ろうや》だな。闇屋の親玉で新興暴力団のボスだからな」
飛稚はいつの間にかトミーという仇名《あだな》で呼ばれていた。
「子供たちは……」
リーゼントスタイルに革ジャンパー、ブーツに飛行ズボンといったいでたちのトミーは憮然《ぶぜん》として尋ねた。
「施設へ保護だな」
「施設なんてあるのか。一度に四百人もいれられる……」
「ないだろう。でも入れるさ」
「また腹をへらす。逃げ出して闇市をうろつく浮浪児に逆もどりだ。俺んところはちゃんと先生だってつけて勉強させてやる。みんな喜んでたのしくやってる。この前は埋立地で運動会だってやった。令子だって夢中だぜ、子供たちのために」
「あきらめろ。だんだんに世の中は納まってくる。こんなことはそう長くやってられやしないんだよ。めっちゃくちゃな時代だからこそやって行けたんだ。いずれは子供たちを手ばなす時が来るんだ。だからそれまでは、いまのまんまで、やれるだけやるしかないんだな。トミーだってまだ十七じゃないか。これが終ったらもっと自分のことを考えるんだな。トミーだったら、まっとうな仕事でちゃんとやって行けるはずだよ。土地を買って家をたてて、令子をかわいがってやってくれ。子供をうんと作って、自分の本当の子たちを幸福にしてよ。もうトミーはこの世界に戸籍もできたんだ。役所が灰になったおかげでかんたんにこの時代の人間になれたんだ。ヒの三種の神器を探《さが》すのもよかろう。子供たちに代をゆずったら、のんびりヒの研究でもして本を書いて出版したらどうだい。そういう世の中も、いずれは来るさ。本当を言えば、俺だってもう泥棒だ暴力だって騒ぎはいやなんだ。精々物価統制令違反ぐらいにしときたいもんだ」
武郎はそう言い、バラックの事務所の中のうす汚れた木の机に腰をのせ、弱い咳《せき》を二つ三つしながら、シーグラムV・Oの瓶《びん》を傾けてグラスに注ぐと、ひと息に呷《あお》った。
「あんまり飲んじゃ体に毒だぜ」
飛稚は窓ぎわでそれに背をむけたまま新橋の闇市をみおろしながら言った。
一一
窃盗団の古参の復員兵が二人殺されたのは、昭和二十四年の四月のことだった。そのだいぶ以前から、飛稚《とびわか》の組織は東京の各地でトラブルにまき込まれていた。
武郎の言ったとおり、混乱した世間はそれなりに徐々に秩序を求めはじめていた。相かわらず物資は不足し、物を動かすだけで大金が転がり込んでは来たが、混乱の中から闇は闇なりのルールが姿をみせはじめ、暴力団の地図もはっきりとして来ていたのだ。
そんな中で飛稚たちは一匹狼《いつぴきおおかみ》を守っていたが、時代がそれを許してはくれなかった。系列化しない者は、どこの組織からもはじき出されるのだった。
殺された二人は、その日|池袋《いけぶくろ》西口の闇市へ仕事で行っていた。前々からのイザコザがあって、その土地に根を張る連中にとりかこまれ、袋だたきにあった上二人ともナイフで数か所刺されて死んだ。縄張りを明確にして行く上で、土地の暴力団も必死だったのだ。
「どう始末するかね、トミー」
本社がわりに使っている新橋《しんばし》の事務所で、福島武郎がそう言った。
「要するに相手は権田敬造だろう」
飛稚は低い声で言い、集った男たちの顔を見まわした。「権田を殺《け》せばいい。かんたんなことさ」
飛稚はうそぶいた
「そいつは若いよ」
武郎が言う。
「ああ、俺は若いよ。小僧ッ子の青二才だ。だが喧嘩《けんか》は歳じゃねえさ」
「トミーさん、そりゃ無茶だ」
やはり古手の仲間の一人が言った。りゅうとした背広を着ていた。
「弱気だな。あんたの親友だぜ、死んだ二人は」
「そりゃ口惜しい。残念だ。泪《なみだ》が出た。だがこれは権田をやってかたづく問題じゃない。権田組は権田が死んだってもうちゃんとやってけるんだ。それに、銀座《ぎんざ》にも新宿《しんじゆく》にも、関西にも、ちゃんと盃《さかずき》を交したボスがいて、権田をやればこっちは寄ってたかって袋叩きさ。俺たちはたしかに暴力団とは違う。子供たちを養うための組織だ。そいつを誇りにしてもいるけれど、やってることは連中と、まあ似たり寄ったりだ。連中が俺たちをうるさく思うのも当り前だし、子供たちを養ってるんだと言ったって、おいそれとそんな美談めいたことが信じられる世の中でもない。現にチンピラを組織化したと思って、本庁が俺たちをマークしてるじゃないか」
「引っこむのか。そりゃ、池袋はなくなってもいい。だがそうなれば新宿も新橋も、錦糸町《きんしちよう》も小岩《こいわ》も、どこもかしこも同じ目にあうぜ」
飛稚は立ちあがり、事務所の隅《すみ》に置いてある電蓄の蓋《ふた》をあけ、ターンテーブルの部分を両手で引き抜くようにかかえあげた。トミーガンとSアンドSが半ダース、ぞろりと一緒に姿をあらわした。
「敗けちゃいらんねえよ。日本が敗けてどうなったか、ようく知り抜いてるはずじゃねえか」
「俺はやる」
うしろの方で一人が大声をだした。「その機関銃を貸してくれ。軍隊時代はこう見えても機銃の腕で有名だったもんだ」
「どうせ拾った命だ。四百人の子供のためなら、天皇陛下の為というより余っぽど割り切って死ねるぜ」
「俺もやる」
「俺も……」
大勢は強硬論に傾いてしまった。
「どうだ、武郎さん」
「どうしてもトミーがやるっていうんなら仕方ない。とめはしないが、やるんだったら俺も行くよ」
武郎はそういうと、古ぼけた革ジャンパーの下からするりと何かをとりだした。ルガーのようだった。
「ちょっと待ってくれ。何も武郎さんにまでやってくれって言ってやしねえよ」
飛稚は慌《あわ》てて言った。
「いや、僕はトミーの相談役だ。ごらんのとおりの病人で、今まで何の役にも立たなかったが、こういう時もあろうかと、このハジキだっていつも持ち歩いてたんだ。何と言おうと俺も行く」
「強情張るなよ」
「強情じゃない。みんなに言っちゃ悪いかもしれないが、いくら戦災孤児の為とはいえ、泥棒をするのはいやだった。だが、たしかにトミーのやり方にも一理あった。物資はみんな不正な横流し品ばかりだ。それで儲《もう》ける奴を許せない気持だった。子供たちは餓《う》えていた。死にそうだった。国にはそれを救う力はなかった。この四年間、たしかに俺たちは正義の味方だったような気がする。だが、泥棒は泥棒だ。世の中が落ちつけば、追われなければならない。いずれ正義の味方が犯罪人に変らねばならない時が来るんだ。いまこんなことになって、もしこっちがやられれば、時代が変ったんだと思って喜んで死ぬよ。生きのびれば、まだ俺たちが正義の時代だと思って続けていく。俺は時代が動いたのか、そのままなのか、自分の体でたしかめたいんだ。ただそれだけのことさ」
武郎はそう言い、左手にルガーをぶらさげたまま、ウィスキーを呷《あお》った。
「みんなで行こうぜ。今までもそうやって来たんだ。よしんばくたばったって、こんな時代に未練なんぞあるものか」
「よしきまった」
男たちはグラスを持ちだし、武郎をまん中にウィスキーをつぎはじめた。
グラスがまわされ、飛稚の手にもひとつ渡された。飛稚は悲しそうな眸《め》で武郎の横顔をみつめていた。
一二
権田敬造の邸《やしき》は巣鴨《すがも》にあった。戦災をまぬがれて、古びた家々がたち並ぶその界隈《かいわい》に、銅《アカ》の樋《とい》を軒先にめぐらせ、まあたらしいわら縄を松の植込みに張った、いかにも新興成金といった構えだった。
権田組の組員が、その夜十名ほど泊りこんでいた。新橋トミーははたち前の若さだ……そういう噂《うわさ》が知れ渡り、それだけにどんな無鉄砲をやってのけるか底知れないと恐れられていた。権田は充分に警戒していた。
「どうする」
作戦をたずねられ、飛稚の新橋トミーはあっさり答えた。
「いつものやり方でいい」
盗みに入るとき、いつも彼が一人でさきに忍びこんだ。暴力|沙汰《ざた》が多くなってからは、彼らのフォーメーションは定型化していた。
「よし……」
裏口組と正面組に分れ飛稚の手引きで一挙に両方から侵入するのだ。みな白いスカーフをまいた。味方を識別するためだった。
飛稚は権田邸に近づくと、大谷石を積んだ二メートル程の塀《へい》を、助走もなしにふわりととびこえた。
しばらくすると中で犬の啼声《なきごえ》が二、三度した。
「あんたははじめてだろう」
裏口組の一人が武郎にそうささやいた。
「うん」
「犬がもうすぐうんとほえはじめるぜ」
しいんと静まりかえった住宅街の闇《やみ》の中で、男たちはじっとひそんでいる。
やがて外の道に面した庭で犬が烈しく吠《ほ》えはじめた。邸内に気配が動き、
「どうしたんだ」
という男の声が聞えた。
「ロビー、ロビー」
と犬の名を呼ぶ声がする。その時玄関の方でウワーッという叫び声がした。足音がいっせいに玄関の方へ去る。
「それ……」
男たちは勝手口の木戸を押して邸内へとびこんだ。錠《じよう》は中から外されていた。足音をしのばせてたった今まで犬が騒いでいた庭へかくれた。大きな犬が死んでいた。まだ痙攣《けいれん》をくり返しており、男たちが玄関へ去ってから殺されたらしかった。頸《くび》に十字形の刃物がつきささっている。
「裏口ヘ来たぞォ」奇妙な声だった。甲高《かんだか》いくせに大きくはない。ひどく切迫した、人の心をいらだたせるような叫びだ。
玄関の男たちは庭をまわって一斉に裏へ向おうとした。雨戸をしめ切った家の中でも走る音がしている。
武郎たちは一斉に狙《ねら》いうちをはじめた。四人ほど一度に倒れた。
その銃声を合図に、今度は玄関の戸を引きあける音がしたかと思うと、トミーガンが吠えた。
雨戸が中から蹴《け》り倒され、庭がさっと明るくなった。トミーガンに射《う》ち煽《あお》られて権田組の男たちがころげ出してくる。
そこをまた庭にひそんだ裏口組が狙い射った。応射は全くなかったが、最後に二人、逃げ場を失ってやけくそ気味に、
「野郎ッ」
と日本刀をふりかざしてとび出して来た。武郎はその一人の顔を狙って、ゆっくりと引金をひいた。生れてはじめての一発だった。逆光を浴びた影がガクンと顎《あご》をあげ、よりかかった柱を外されたように勢いよくあおむけにひっくり返って動かなくなった。
ガラガラッと、附近のどの家かで慌《あわ》てて雨戸をひきはじめたようだった。
家の中へ土足で踏みこんだ男たちの姿がみえた。
「二階だ」飛稚の声がどこからかした。ダダッと男たちが二階へ駆けあがって行く。
武郎は咳《せ》きこんで動かなかった。二階をみあげ、銃を持ち直した。ガラス戸に人影が映り、あわてて鍵《かぎ》を外しているのが判った。
武郎はゆっくりと右手をあげ、左手をそえてその人影を狙った。ガラスが割れそうな勢いで戸が押しひらかれた。武郎は引金にかけた指に力をこめた。肥《ふと》った大男の影だった。権田に間違いなかった。権田は屋根へ出ようとしていた。武郎は引金をしぼった。
銃声が重なってひとつに聞えた。権田が瓦《かわら》の上に倒れ、音をたてて滑りはじめた。武郎はルガーを二階へ向けた姿勢のまま顎をひいて自分の胸をみた。右胸から血がふきだしていた。首を曲げて裏木戸の方をみた。いかにもこすっからそうな若い男が、みにくい顔を歪《ゆが》めてこちらを見ていた。
あいつ、左ギッチョだ。……武郎は相手の構えた銃をみながらそう思った。ライフルの長い銃身がこちらへつき出していた。
血が流れて土に落ちたのが判った。武郎は腕をさげ、途中でルガーを左手にもちかえた。
男は武郎のルガーの動きを凍てついたように眺《なが》めていたが、やがてはっと我に返ったように、キエーッと叫ぶと、ライフルを抛《ほう》り出して裏木戸から消えた。道を走り去る靴音《くつおと》を、武郎はゆっくり前のめりになりながら聞いていた。
その靴音が遠のいたのか、自分の耳がおかしくなったのか、急に聞えなくなり、鼓動の音だけが、ドキッ、ドキッ、と聞えはじめた。息を吸う音がやかましかった。
「あ、やられてる」
誰かが二階で叫んだようだった。すぐ頭の近くで地面を揺らす音がした。飛稚が二階から一気にとび降りたのだった。
「武郎さん、武郎さん」飛稚が叫んだ。
「かわったよ、トミー……」
武郎は飛稚の腕の中でそう言った。
「しっかりして……死ぬな。死ぬでない」
飛稚は生れついた時代の言葉になりはじめていた。「言うとおりにしよう。令子とおだやかに暮そう。時の流れにさかろうても無駄なことじゃ」
「そうしてくれ」
「だから死ぬな。死なないでくれ。願いじゃ」
「お前は俺の身内だ。令子の夫だ。母もできた、姉もできた。この昭和でしあわせになれ。母をたのむ……芳子をたのむ」
武郎の目蓋《まぶた》がおりた。喉仏《のどぼとけ》がこくりと一度音をたてて動き、飛稚の腕の中で急に重くなった。
「逃げろ、警察が来るぞ」
飛稚は武郎の体をかついで立ち上った。
一三
武郎の葬式は枝川町の奥の子供村でしめやかに行なわれた。
子供たちが全部集った。復員兵たちや、闇《やみ》商人たちも焼香に来た。
「あの大空襲を生きのびたっていうのに」
母親は遺影の前でそればかりくり返していた。
「トミー、あんたのせいよ」
姉の芳子は物かげへ飛稚を引っぱって行って泣きながらなじった。「兄さんはとても利口な人だった。悪いことなんかする人じゃなかった。それなのに、それなのに……」
芳子はしまいに大声をあげて泣き、両の拳《こぶし》で飛稚の胸を打った。
「トミーばっかり責めないでよ」
令子がとんで来て姉に食ってかかった。「おなかをすかせた日がなかったのは誰《だれ》のせい……トミーが掻《か》っ払いで稼《かせ》いで来てるのを知ってるくせに、母さんも姉さんも知らんふりして食べてたじゃないの。バラックの釘《くぎ》だって、のこぎりだって、みんなトミーが盗んで来たのよ。そうよトミーは泥捧だわ。でもみて、あの子供たちを。四百人よ。みんなトミーのおかげで生きのびたのよ。誰が悪いの。誰が悪かったの。トミーを責めるなら、最初のひと口をたべる前にしたらよかったんだわ。黙ってたべて、トミーや兄さんをこんなところへまで引きこんでしまったのは誰よ。誰なのよ。あの四百人の子供たちは、決してトミーや兄さんを責めたりはしないわ。私だって……卑怯《ひきよう》よ。兄さんは納得してやってたのよ」
芳子は更に声をはりあげた。
「あの……」男が二人の傍へ来て声をかけた。
「なんだい」
「いえ、トミーさんじゃないんで」
「私……」
「ええ。いま外にお客さんがたずねて見えてるんです。おんぼろのおやじさんで」
「入ってお焼香してもらったらいいじゃないの」
「それが福島充男とか言う人で……」
「えっ」芳子と令子が同時に叫んだ。
「お父さんだわ」
芳子はさっと走り去った。
「福島充男……」
「ええ。お父さんの名前よ。きっと復員して来たんだわ。菊川町の家の留守番をたのんだ人に、ここの場所を来る人みんなに教えてあげてって言っといたから」
「そりゃよかった。早く会って来いよ」
入口から芳子の黄色い声が響いた。
「お母さん。お父さんよ。お父さんが復員してきたのよ」
しいんと一瞬場内が静まり返った。四百人の戦災孤児たちが、小学校の講堂ほどもあるその粗末な建物の中に正坐して、じっと福島一家の幸福の瞬間を見守っていた。
「あ、あなた……」
つねが立ちあがり、へなへなとまた坐った。芳子に手をひかれ、雑のうを肩にしたヨレヨレの軍服姿の男が、よろめくように子供たちの前を通った。
「お父さんだわ、やっぱり」
「ほら、行けよ」
飛稚は令子の背を押した。しかし令子はその力にさからって動かなかった。「なぜ行かない」
「だって、子供たちが」令子は泣声で言った。みな親のない子たちだった。「恥かしくって」
飛稚は令子の肩を両手でうしろからだいた。彼女の恥ずかしさが判る気がした。親のない子を守るつもりで養い育てて来たのに、その全員の前で父子の対面を演ずるのは、きっとひどく恥かしいことだろうと思った。
「お前はやさしい奴だ」飛稚は褒《ほ》めるように言った。
その時四百人の子供たちのどこかで、パチ、パチという幼い拍手の音がした。するとその拍手はゆっくりとその辺りを中心にひろがって行き、やがて四百の拍手となって鳴りひびいた。
子供たちはみんな立ちあがり、武郎の遺影の前で抱き合う家族に向って、いつまでもいつまでも拍手を送っていた。
「先生も行って……ねえ。先生のお父さんだろ」
「ほら先生。お父さんが帰って来たんだよ」
近くの子供たちが拍手をやめてさわいだ。
清田登がそれに気づいて、イッちゃんととんで来た。両手をその二人に引かれ、令子は渋々のように三人に近づいて行った。
「ワーッ」
という歓声があがり、子供たちの拍手は一層強くなった。
「お父さんが帰ってきた」
「お父さんが帰ってきた」
子供たちは節をつけ、はやしたてるように合唱した。泣いている女の子もいた。とびあがって笑っている男の子もいた。
飛稚は呆《あき》れ顔でそれを眺め、やがて淋《さび》しそうな表情になった。
母や芳子をたのむ……そう武郎に言われ、約束を守ろうと心に誓った。しかし、父親が帰って来ては出る幕ではなかった。
そうか、やはり時代が変るんだな。飛稚はそう思い、子供たちの一人一人をみようと、ゆっくり外側を歩きはじめた。みな心から福島一家の喜びに拍手を送っているようだった。ひがみもなく、うらみも見えなかった。
この子たちも、もうすぐ立派にやって行けるようになる。子供村はもう要らないんだ。……そう心の中でつぶやいていた。
たしかに時代は動いていた。
昭和二十五年六月二十五日。朝鮮《ちようせん》半島の38度線全域に亘って、南北朝鮮軍は全面的な戦闘に入った。同年八月十日警察予備隊令が公布され、日本は軍備復活への第一歩を踏みだしたのだ。
この警察予備隊令公布に関連してどうしても附記せねばならぬ記録がある。
昭和三十九年の暮れ、香港《ホンコン》をとびたった一機の米軍機が横田《よこた》基地へ着陸し、米軍参謀総長がタラップを踏んで日本の客となった。政府はその参謀総長に対し、航空自衛隊の育成に協力した功で、勲一等旭日大綬章を与え、労をねぎらった。
その人物の名は、なんと、カーチス・E・ルメイであった。
彼が行なった昭和二十年三月十日の東京大空襲では、八万三千六百名の死者と、十万二千五十七名の負傷者をだしている。
月面|髑髏《どくろ》人
一
東京|渋谷《しぶや》。
東横線、井《い》の頭《かしら》線、地下鉄銀座線そして国電山の手線に加え、無数のバス路線が集中するこの町は、その名の示すとおり、ひとつの谷に発生した町である。従って銀座《ぎんざ》、新宿《しんじゆく》、池袋《いけぶくろ》と並ぶ東京の繁華街の中では、坂が多いという点できわだった特徴を持っている。
坂を下ると渋谷の駅につき当る。……渋谷を知る人はそんな印象をこの町に持っている。事実国道二四六号……玉川通りから道玄坂《どうげんざか》を下れば渋谷駅だし、南平台《なんぺいだい》、桜ケ丘方面からも急な坂を下って行くと渋谷駅が視界にいやでもとび込んでくる。また、青山通り方面から来れば宮益坂《みやますざか》だし、高樹町、金王方面から高速道路ぞいに進んでも坂を下って渋谷駅につき当ることになる。
僅《わず》かに恵比寿《えびす》、五反田方面からの道が渋谷川ぞいに入って来ていて、それが原宿、千駄ケ谷方面に抜ける通りにだけは、坂が見当らない。
その谷底の渋谷駅を出て青山通りに至る宮益坂に向えば、右手にバスターミナル、左へ神宮通りという大きな交差点に出る。正面は宮益坂で、その右を渋谷駅の三階から出る地下鉄銀座線の線路が、高架となって走っている。地下鉄はその坂の中途あたりで、青山通りの地下へもぐり込む。
宮益坂左手の奥は美竹といい、各界の名士などのすまいも多いちょっとした住宅街だが、坂寄りの一画は近ごろ急に活気を帯びはじめた飲食店街だ。
ボルドー、という店がその辺りの細い坂道の途中にある。渋く地味に構えているが、相当に凝《こ》ったつくりだ。よく注意してみると、ボルドーは小ぢんまりとした四階だてのビルの一階の三分の二を占めていることが判る。ボルドーのとなりは小綺麗《こぎれい》な花屋で、その角をまわるとインテリアデザイナーのオフィスになっている。
ボルドーは、フリの客にはちょっとドアを押しにくかろう。とりすました、という感じではないが、古めかしい鉄枠《てつわく》を打ちつけた木のドアや小窓の飾り金具の辺りから、何やら閉鎖的なクラブといった感じが漂《ただよ》い出しており、見方によっては謎《なぞ》めいた雰囲気《ふんいき》をも感じられる。
ボルドーというからには当然フランス料理の筈《はず》で、キッチンのドアとおぼしき所には、年代もののワインの空瓶《あきびん》を容れた鉄の籠《かご》がさりげなく置いてあったりする。ジン、ウィスキー、ブランデーからウオッカ、中国酒、リキュールのたぐいまで、世界の酒という酒が集って、一応はあれがどうの、これがどうのと理屈を言う東京人士の間でも、ワインだけは酒として恐ろしく奥行きが深く、銘柄、年代の組合せが複雑なのに加え、高級品を望めば天井知らずの値段になることもあって、つい二の足を踏み、知識が行き届かない傾向がある。
が、ボルドーの外の鉄の籠にさりげなくつつまれている空瓶を見て、一驚するワイン通も稀《まれ》にはいるだろう。そのような人物が好奇心を抑えかね、ボルドーのドアを押したとすれば、内部の様子をざっと見まわしたあと、果してドアをうしろにそれ以上中へ進むかどうか。
左手にクロークがあり、その横から奥へ縦にカウンターの幅広い板が続いている。板の端は一直線でなく、自然の木のままに不規則な曲線を持っている。カウンターの下に足をかける真鍮《しんちゆう》のパイプが通っていて、そのパイプはどちらの側にもついている。つまり内側にはバーテンダーというおきまりの形ではなく、客はそのカウンターの両側へ思い思いに倚《よ》りかかってアペリチーフをたのしむわけである。カウンターの背後の棚《たな》はまるで酒の博物館のような感じで、世界中の酒がギッシリとコレクションしてある。勿論《もちろん》望めばどれでも即座に供進してくれるだろう。
外のワインの空瓶を見て興味を持った程の通人ならば、そのカウンターの辺りを一見しただけで、今日の財布の中身を案じる筈である。板は珍品ともいうべき巨大な欅《けやき》の一枚板なのだ。
突き当りはスペイン壁で、中世スペインのものとおぼしき甲冑《かつちゆう》が、槍《やり》を斜に構えて立っている。音楽通ならば、その甲冑の横の革張りの古い椅子《いす》に浅く腰をおろしてギターをつまびいている、南フランスあたりでよくみかける風貌《ふうぼう》の中年男の芸に、ついふらふらと踏み込んで行ってしまうかもしれない。
うまいのだ。巧みすぎるくらいのギターで、枯れた唄声《うたごえ》を聞かせている。声は大きくなく、音楽の音色もしっとりと物静かだ。連れとの会話にちょっと身を入れればすぐ聞えなくなってしまう程度の調子である。
カウンターの客の酒はすべて調理場で調合しているらしく、銀盆にグラスをのせて白い服のボーイがそよ風のように往復する中で、大きな革の胸当て前掛をつけた酒倉番《ソムリエ》が、コック長と一緒にカウソターの客と何やら相談していたりする。こうなればもう本格的で、酒と料理の組合せを客と打合せてかかるのだから、スペイン壁にあいた小さな通路を通って中へ入ったテーブルには、どんな凝った料理が並ぶか想像がつこうというものだ。
だが、中のテーブル数は意外に少い。どこからどこまでフランスの田舎《いなか》のレストランといった風情《ふぜい》で、ひょいと窓をあければ乾草の匂《にお》いや鶏の啼声《なきごえ》が聞えてくるのではないかと錯覚する程だ。マルセーユからパリの間で、こことそっくりの店を見たという常連が何組もいる。
恐らくそれぞれ違う店に入ったのだろうが、そう思えて当然なほど、ボルドーの中へ一歩入れば日本ばなれがしている。
二
これ程|凝《こ》りに凝って、本場でも昔がたりになりつつあるという古き良き時代の店と職人と酒と、そして恐らくは味をも、見事に東京の一角に現出させている経営者は一体どんな人物なのだろうか。当然そうした疑問が湧《わ》いて来るはずだ。
で、店の裏側を覗《のぞ》いてみることにする。
ゆったりとテーブルを並べた奥に、僅《わず》かに高くなったステージがあり、ピアノが一台置いてある。そのすぐ左横にドアがあり、内側は地階へのらせん階段になっている。その階段へは、カウンターの方からも似たようなドアを通って行ける。らせん階段を降り切ると、そこにはもう一人の年老いた、いかにも頑固《がんこ》者らしい酒倉番《ソムリエ》が頑張っている。ボルドーの宝物庫ともいうべき酒倉がそこにある。
酒倉の一角が、特別な客にワインを供するテーブルのスペースにさかれている。といっても、丸いテーブルがふたつに椅子が六、七脚だ。老人は若い酒倉番《ソムリエ》の父親で相当な読書好きらしく、いつもゴロワアズをくわえてフランスの大衆小説を読み耽《ふけ》っている。噂《うわさ》では大変な歴史通とかで、ルイ朝期の人物の出入りに関しては学者はだしだということだ。ただし日本語はまるでダメ。というより覚えようという気がまるでない。薄い、あるかないかのような唇としぶとそうな鼻……横顔がジャン・ギャバンにそっくりだ。
酒倉の外はガレージで、地上へは長細い鉄板をしいたエレベーターがあげさげする。その自動車用エレベーターはボルドーがある四階だての坂の上の方に面した突き当りの横手にせりあがり、時にはそのまま二階へ昇らせることもできる。
調理場が二階にある。仕入れの品物を届ける車が、エレベーターで車ごと二階の調理場へ着く仕掛けになっている。調理場のスペースは、下のテーブルスペースのほぼ三分の二ほどもある広さだ。
レストランのお手本みたいな、隅《すみ》から隅までみがきたてたその調理場を通りすぎると、会計室、支配人室、更衣室兼休憩室があり、倉庫がそれに続いている。
三階は住居だ。ボルドーの切札ともいうべき酒倉番《ソムリエ》親子と、体があいてフランスヘ帰れば三顧の礼で引く手あまたというコック長のために、それだけのスペースが潰《つぶ》されている。
経営者は最上階の四階にいる。
居間兼オフィスといった様子の広い部屋は、不思議な雰囲気に溢《あふ》れていた。神道系の装飾品がやたらに多い。埴輪《はにわ》、剣、鏡、そして賽銭《さいせん》箱の前にたれた紐《ひも》の上にぶらさがる例の大きな鈴、さらに破魔矢《はまや》とか各地の神社に関係する縁起物、民芸品のたぐいが、見事なレイアウトで部屋を飾っている。
さてその男。歳は三十の終りか四十そこそこ。いかにも趣味人といった繊細な細面で、色白、痩《や》せがたの清潔な感じが漂う人物だ。
名を清田登という。
清田は今しも一人の客に対している。
「すると君はやはり、明智光秀はヒ一族だったと信ずる……」
そう言った男は清田と同じくらいの年輩で、いかにも自由人といった角のない清田の風貌《ふうぼう》に較《くら》べると、やや物堅く、はるかに貧相で背の低い丸顔の男だった。低いテーブルに清田と向き合って深々と身を沈めているソファーの横に、模造革の茶色い鞄《かばん》が置いてあった。
「いつものとおりですよ。直接的な物証はまるでありません。しかし山科《やましな》家で先年発見された神統拾遺《しんとうしゆうい》にはさみこまれていたこの一枚の紙きれをどう解釈すべきかですね。少くともこれは、神統拾遺にはさみこまれていたという点で、明智=ヒ一族説の裏付けになるんじゃありませんか」
清田は厚い奉書紙をふたつ折りにした中に、大事そうにしまいこんであった一枚の和紙をテーブルの上に拡げてみせた。
東《ひむかし》の 靈山《むすひのやま》へ 雲傳《くもつた》ふ
白銀《しろかね》の矢を 祭《いは》へ主《かむぬし》
古い紙片にはそう記されていた。
「この花押《かおう》は光秀のものです。どうしてこの一首を書いた紙が神統拾遺にはさみこまれたかは、今では解けることのない謎《なぞ》です。しかし私はこれが、何かの理由があって山科|言継《ときつぐ》本人の手で神統拾遺という本にはさみこまれたような気がしてならないのです」
客は微《かす》かに苦笑を泛《うか》べて言った。
「水掛諭は抜きにして、百歩譲ってあなたの言うとおりだとしましょう。そうだとするとことは重大ですよ。言継《ときつぐ》卿みずからがこの紙をはさんだということは、神統拾遺は山科家本が本物だということになる」
今からおよそ二百年前、大和《やまと》に竹口英斎という人物がいた。大和という土地柄がそうさせたのか、或いは竹口英斎の出自が何か神代のことに関わっていたのか、彼は一生を古代の神々の研究に費した。英斎は郷土に点在する数々の古墳を調査し、畝傍山《うねびやま》東北部の丸山を神武《じんむ》天皇陵に擬し、著作『陵墓誌』でその正当性を主張した。
神武陵丸山説は考古学的陵墓研究の先駆をなし、今日『陵墓誌』はその分野の古典として知られている。しかし陵墓誌に先だつこと五年、寛政《かんせい》四年に著された『神統拾遺』のほうは、幕末期すでに多くの学者から批判され、奇書、珍書としてのみ扱われている。
しかし『神統拾遺』の内容は、昔から或る種の人間の興味を触発しつづけて来た。研究者が絶えず、清田登やその客も、現代における『神統拾遺』ファンであるらしい。
「竹口英斎の手によって書かれた神統拾遺が、なぜ山科言継の手に触れられたか……そうおっしゃりたいんでしょう」
清田はにこやかに言った。
「言わなければ私は気違いだと思われる」
客はそう言って笑った。
「言継は室町《むろまち》末期、戦国期を生きた人物。英斎は江戸《えど》期寛政に活躍した人物。もし神統拾遺が本当に英斎の手によって書かれたのならそれをとがめないあなたではなくて、私こそ気違い扱いされて当然です」
「待ってください。もし本当に英斎の手によって書かれたのなら、と言いましたか」
「ええ」
清田は会心の笑みを泛べて答えた。
神統拾遺について少し触れれば、それは日本の神々に関する資料集である。内容に奇想が多く、保存状態も『陵墓誌』ほど尊重されなかったせいもあって余りよくない。おまけに古代の神々の物語は野放図もなく大らかで、或るタイプの人間の想像力を烈しく刺戟《しげき》するから自然幾つもの異本を生じていた。したがって今だに原著がどれであったか定まらずにいる。
「英斎は神統拾遺の著者にあらず……こう言いたいのですね」
「著者は英斎ではありません」
「では誰です」
客は気負い込んで尋ねる。
「山科言継」
「えっ」
「盲点でしたね。たしかに竹口英斎は寛政四年に神統拾遺を書いたようです。しかし原著者ではなかったのです」
「そんなあなた……」
「ずっと、二百年間も人々はその点を誤解していたのです。山科附近には天智《てんじ》陵をはじめ幾つかの天皇陵があります。恐らくその調査か何かで英斎は山科家と接触したのでしょう。そして神統拾遺という稀代《きたい》の珍書を発見した。……あなただって神統拾遺という本がどれ程の魅力を持っているかおわかりでしょう。あれを読んで人に語りたくならない筈がありません。英斎も同じ反応を示したのです。何しろ山科家は五|摂家《せつけ》、七|清華《せいが》に次ぐ羽林《うりん》の名家です。英斎ごときが本を借りるだけでも恐れ多いのですから、それをねだるというわけには行かなかったのでしょう。だから丸ごと写したのです。写せば人に見せたくなるのが神統拾遺の持つ魔力です。英斎は遂にそれを世間に発表してしまったのです。それまで誰の目にもふれなかった神統拾遺は、以来英斎の著作として誰一人怪しむものもいなくなったのです。現に山科家本は一番最後に、つい先年発見されたばかりでしょう」
「筋は通りますな。すると神統拾遺は少くとも更に二百年発生が溯《さかのぼ》り、今から四百年以上前のものとなるわけですよ」
「そうです。私はそのことに気づいて、山科家本と山科言継の筆跡を照合しました。神統拾遺が板になったのは英斎没後七十年ほどしてで、初期のものはみな手書きですからね。するとどうです。神統拾遺山科家本は、まさしく言継卿によって書かれていたのです」
「本当ですか」
客は驚声を発していた。
「東大の村岡先生に鑑定してもらったのです。村岡先生はもうすっかりびっくりなさって、真夜中に日本神道大学の神餘《かなまり》教授のお宅へ、山科家本を持ってかけつけたということです。近々公式に発表なさるでしょう」
「なる程ねえ。そうだったんですか。いや、そう言われればたしかに盲点だった。英斎の著作と思い込んでいるから、誰も言継卿の筆跡と照合してみようなどとは思いつかなかったのですね」
三
[#ここから2字下げ]
◆日ノ民
古へ山山ヘメクリテニ仕フル人アリ。タタ日トノミ稱フ。高皇靈ノ裔ニアリ。妣ナクシテ畸人多ク生レ、靈ノ地ヲ究ムト言フ。
[#ここで字下げ終わり]
『神統拾遺』がどのようにして人々の想像をかきたて、また奇書、珍書として信を置くにあたいしないと扱われて来たかは、右に引用した一例で判然とするだろう。
日本史の中で、日《ヒ》という一族が神の末裔《まつえい》として存在し、しかも「妣ナクシテ畸人多ク生レ」る異様な性質を持っていたというのだ。
たとえばこれを現代のSFファンが読めば、さてはミュータント一族、といきなり常識の枠《わく》をとびこえた解釈に結びつけるに相違ない。
産霊とはムスヒと訓じ、ムスは生を、ヒは日又は火を意味する。ムスヒ信仰は日本民族固有の『生《あれ》』に対する原始信仰に発しているとされ、新撰姓氏録の神別氏族の祖神中、約三分の一がムスヒの出自であるという。
「山科家本の発見者は奈良《なら》の古美街商の、例の岩下宗兵衛氏です。岩下さんはその道の大家ですから迂闊《うかつ》なことはしていません。この紙がはさまっていた個所もちゃんと記録してありました。これがその写しです」
清田はゼロックスのコピーを差し出した。
「参ったな、これは」客はそれを一読して頭を掻《か》いた。「日の民の項のところにはさまっていたんですか」
「ええ。花押が光秀のものだということも、九分どおり証明できそうです。もちろん光秀の書体であることの確認作業も進行中です」
「とすると、光秀と山科|言継《ときつぐ》との関連はどうなるんです。たしか私の記憶では、あの筆まめな言継卿が明智光秀に言及しているのは、天正《てんしよう》十年六月二日の日記の中で……」
「そうです。本能寺の変の記憶です。光秀は親京都派の大物で、当然言継卿の日記にも数多く出て来るはずなのに、意外に記述が少いのです。その理由の説明にはならないでしょうか。ちょっと珍らしいものがあるのです」
清田はそう言って立ちあがり、部屋の隅の金庫の扉《とびら》をあけた。
「これを見てください」
清田は戻って来ると紫の袱紗《ふくさ》包みをといて細長いしゃもじのようなものをとりだした。
「笏《しやく》ですな」
客は即座に言った。笏は元来備忘用に文字を書いた紙を貼《は》って手に持つための道具である。幅二寸、長さ一尺二寸の木の板で、衣冠束帯《いかんそくたい》に身を正す時、右手に持って容儀をととのえる。
「あ……」
客は目を丸くして清田をみつめた。その古びた笏には直接文字が記してあった。古びて墨跡も枯れている。
上部に忍の一字。下部に御名《ぎよめい》、御璽《ぎよじ》。
「正親町《おおぎまち》天皇の真跡ですよ」
「どうしてあなたがこんなものを」
「まあそれはあとにしましょう。どうお思いになりますか」
客はためつすがめつして唸《うな》った。
「忍ねえ……まさか……」
「あなたは小説家じゃないですか。素直にお読みになったらどうです」
清田は笑顔で言う。「忍者の忍ですよ。ヒは当時の宮中では、いやしいという卑《ヒ》とも、あらずの非《ヒ》とも字をあてられていたようです。異《こと》の者という呼名もあったそうです」
「するとこれは忍者のしるし」
「しかも天皇のね」
「勅忍ですな」
「ええ。まさにおおせのとおり勅忍です。勅忍|宣下《せんげ》の時にその笏が下賜されたのです」
「正親町帝といえば……」
「それもまさしく山科言継が権大納言をつとめた時期」
「光秀とどうつながってくるのでしょうか」
客はすでに疑いをすて、本気でたずねていた。
「その前にもう少しヒと山科家のことを考えてみましょう。山科家の名字領は今の京都の山科です。電車で京都から山科へ向うと、その手前に……」
「あ、日の岡だ」
「そうですよ。そして山科に隣接した南側の醍醐《だいご》の辺りは……」
「日野郷ですな」
「ところで光秀が天王山《てんのうざん》で敗れて逃走中、土民の槍《やり》に刺されて死んだのは小栗栖《おぐるす》の竹藪《たけやぶ》ですが、小栗栖の辺りはおくわしいですか」
清田の言葉が終るのを客は途中からもどかしげに首をふって待っていた。
「まっすぐ行けば日の岡。右手に醍醐の三宝院……日野郷です」
「物証は全くありませんが、光秀はヒで、ヒはすなわち天皇の忍者だったのです」
「すると信長は天皇の忍者に殺されたことになる……」
「信長の時代、ヨーロッパの先進文明がこの日本へ押し寄せていました。信長の若い時の傾《かぶき》ぶりには、いわば時代の先どりをした舶来趣味があったと言えないことはありません。しかも彼は天才的な合理主義者でした。光秀が殺さなかったら信長は日本をどうしていたでしょうかね。天皇家を元首にたてまつり、自分は関白か征夷《せいい》大将軍か……その程度で満足していたでしょうか。私はもっと別の可能性を考えますね」
「というと……」
「ヨーロッパの王をよしとしたでしょう。天皇制否定ですよ。首都を湖東の安土《あずち》に移し、京を根こそぎ否定してしまう。……彼が比叡山《ひえいざん》でやったことの再現です。皇統を根だやしにして京を地上から抹殺《まつさつ》してしまう。信長にとってその意味ではあそこは我慢のならぬ非合理性のかたまりでしょうからね」
「驚いたな。それが本能寺前後の理由だというのですか」
「光秀がもしヒならば、そしてヒが勅忍ならば、本能寺はそれ以外に考えられなくなります」
「それを証明するてだてがあったらなあ」
客は心底残念そうに言った。
清田登はなぜか唇を強く噛《か》んで客の視線をうけとめていた。てだてはあるのだ。元亀《げんき》二年九月に行なった信長の比叡山焼打の現場にいた人物を、彼はよく知っているのだ。その人物はいまこの昭和の世界のどこかにいる、となりの部屋にはその妻もいる。しかし時空四百年の彼方からとび来った信長時代の人物がいると、人にどう説明するのだ。納得させるのだ。しかもその人物、富井若男、またの名を新橋トミー、旧名ヒの飛稚《とびわか》は、いまどこにいるのか、清田登にも手がかりが掴《つか》めていないのだった。
四
「誰《だれ》だったの、お客さんは」
清田登の部屋に灯がともり、窓の外に十月初旬の夜が青白い靄《もや》のように拡がりはじめている。
「知合いの小説家でね……」
清田は窓の外を眺《なが》めながら、けだるそうに答えた。ノックもせずに入ってきた女は、右の掌《て》に左肘《ひじ》をのせ、指にフィルターつきの長い煙草をはさんで、清田の眺めている窓際へ近寄って行く。
「秋ね。秋は……秋のおわりは特にいやだわ。ついいろんなことを考えてしまう」
女は黒い絹の部屋着のすそを床に滑らせて窓際に立つと、ガラスに額をつけるようにして低い声で言った。
「僕も秋は苦手《にがて》だ。ソルボンヌにいた頃は、毎年秋になると日本が恋しくなるので困ったものだった」
女は煙草をくわえ、軽く吸ってから壁に倚《よ》りかかった体を起こし、清田のデスクヘ二歩程歩いて、灰皿《はいざら》に灰を落す。
「外国でこんな気分の秋をむかえたとしても、私たちはまだかんたんよ。そうじゃないかしら」
「どういうこと……ああ、トミーのことを言ってるんだね」
「うん。私たちはこの日本、そしてこの東京を懐しがればそれで済むわね。でも彼にはそのほかにもうひとつ懐しく想い出さなきゃならない世界があるのじゃないの。その世界は四百年も昔の世界よ……帰れやしない」
女はさっきまで客が坐《すわ》っていたソファーに腰をおろすと、黒い絹の布の中で脚《あし》を組んだ。なにかなげやりな表情と、どこからどこまで丹念に金をかけ尽した身ごしらえが入り混って、ひどく退廃的な感じである。
歳《とし》は四十を少し越えているらしい。清田の相槌《あいづち》を求めて、「ね」と瞳をあげた時、それが地なのだろうか、身なりとはうらはらに、庶民的なものがちらっとうかがえた。
そのはずである。彼女の生れは東京の下町、本所《ほんじよ》菊川町だった。名は福島令子という。
「たしかに新橋トミーは四百年前のヒ一族だ。しかし故郷をふたつずつ持っている点では俺《おれ》たちと同じことさ」
「どうして」
「この東京で田舎《いなか》を偲《しの》んでいる人はしあわせさ。くにへ帰れば幼馴染《おさななじみ》の山川がある。だがこの東京をみなさい。俺たちのふるさとの東京はこんな町じゃない。四百年ほどではないにしても、帰るとなれば似たり寄ったり。時間旅行をしなけりゃならない」
令子は言いまかされたように肩をすくめ、組んだ脚をといてテーブルの上の灰皿に煙草を押しつけた。もみ消しながら言う。
「それにしても彼はどこにいるのかしらねえ」
清田はそう言われて急に詫《わ》びるような表情になる。
「もう少し待ってくれ。いい線まで行ってるんだが、ちょっと厄介な問題にぶち当ってね」
「この前からそう言ってるけど、一体何なのよ。あんたのことだから何かわけがあって私には言えないんだろうと思うけど」
「済まないね。でもこれだけは言おう。世の中には、或ることを迂闊《うかつ》に人に喋《しやべ》ったため、聞いた者が危険にさらされるというケースもあるんだ。今の場合、特に令子さんは知っちゃいけない」
「そんなことだろうと思ってたわ。言いたくなければ言わなくったっていいのよ。清田君をあたしは信じてる。清田君でなくっても、錦糸町《きんしちよう》の子供村の仲間はみんな信用できるのばかりだわ」
「あの頃が懐しいな。僕はね、時々戦争に感謝したくなるんだ。たしかにこの前の戦争は僕の肉親をみなごろしにしてしまった。父も母も叔父《おじ》も叔母《おば》も……残ったのは妹の広子だけだった。だが、だからこそあの子供村の生活を経験できた。子供だけが力を寄せ合って生きて来たなんて、今なら信じられるかな。今の過保護の子供たちには、あの理屈ぬきの充実感はとうてい判らないだろう。三つ四つの子から中学生までが、ひとかたまりになって世の中を押し渡り、みごとに渡り切ったんだぜ。僕はその中でも特に幸運だった。トミーのおかげで学校へも行けた。海外へ留学もできた……」
「あの頃の彼の気持わかるかしら」
「近頃少し判ったような気がしてる。しかし全部はとてもとても……同じ歳のはずなのに、トミーは僕よりずっと年上の気がする。兄貴、いや父親みたいな気がしてるんだ」
「彼はあたしより三つ下。でもあたしだっていつの間にかあんたみたいな気分にさせられてしまっているわ。いったい彼のどこがそんなに偉いのかしら。あのとほうもない生活力かしら」
「いや」
清田は毅然《きぜん》とした表情になって断言した。「神の末裔《まつえい》だからだ。高皇産霊神《たかみむすひのかみ》の子孫だからだよ」
「ま、彼が神の末裔かどうかは別にして、あんたの面倒をみたのは、彼があんたみたいになりたかったからなのよ」
「そうかな」
「そうよ。あんたは勉強ができた。学校の成績はいつも一番だった。羨《うらやま》しかったのよ。彼は昭和の子供として、年相応の暮しができたらって、そればかり夢みていたのよ。知らないでしょうけど、いつもそう言ってたわ」
「へえ……」
清田は意外そうに令子をみつめ、やがて照れたようにまた窓に目をやった。「しかしトミーが年相応なんて、どだい無理だったさ。だいいち十六か七で、三つ年上の女房を持ってたんだからな。それも相当美人の」
「そうよ。あたしは美人だったわ。落下傘《らつかさん》スタイルで銀座《ぎんざ》や新橋《しんばし》を歩くと、進駐軍の兵隊がゾロゾロついて来たもの」
「懐しいなあ」
「飛行ズボンに黒の革ジャン、白くて長いスカーフが新橋トミーの看板だったわね」
「令子さんの兄さんも同じスタイルだったっけ」
「そう。お揃《そろ》いよ」
「だが、考えてみるとむずかしい時期だった。子供部落をあのまま維持して行けたらまさにユートピアだったんだが、世の中が妙な風にかたまりはじめてた。朝鮮《ちようせん》戦争が日本をこんな風にかためてしまったのかもしれない。あのあとトミーは一種の失業状態だったからな」
「四百人からの生活を支えていたのが、いっぺんに五、六人に減っちゃったんですものね。馬力が余っちゃったのよ」
「神の末裔でもやはり博奕《ばくち》はいけないか……」
「どういうことよ、それは」
令子は急に鋭い目になって言った。
「…………」
「ねえ、どういう意味なの」
清田は微かに唇を歪《ゆが》ませた。
「悪いことを口走ったな」
「あの頃彼は馬力をもて余して、毎日のようにいろんな場所へ博奕に行ってたわ。それはあたしが一番よく知ってる。でも彼はそれで身を誤ったりはしなかった筈よ」
「実はね……弱ったな」
清田は口ごもったが、すぐあきらめたように続けた。「実はその博奕がいけなかったらしいのさ」
「どうして」
令子はなじるように言った。
「トミーが博奕をやりはじめたのは、自分のESPをためしていたんだ」
「ESP……」
「そうだよ。トミーはヒだ。ヒには超能力がある。それは知ってるだろ」
令子はうなずく。「透視力やちょっとした予知能力のケがあれば、博奕なんて思いのままさ。競馬競輪はちっとやそっとの予知能力じゃむずかしかろうが、カードや麻雀《マージヤン》なんかなら敗けっこない。僕はそう思ってるんだが、恐らくトミーはダイスやルーレットなんかも、念力を使って思いのままにやっていたんだと思う。だからいくらやったって勝ってばかりいたのさ」
「そんな。敗けたかも判らないわよ。そうよ、たしか今日はやられたよ、なんて言ってたことがあるわ。あたし覚えてるもの」
「言ったとしたら多分それは照れか何かが言わせたんだよ。超能力を使うことに幾分うしろめたさがあったんじゃないかな」
「そうかしら。でも……」
令子の言葉に押しかぶさるように、清田はつき放した言い方をした。
「調べたんだよ、徹底的に。トミーのことなら金にあかせて調べに調べている。僕の役目だからね。トミーは一度も敗けていない。どの博奕場でも勝ち抜いている。あの頃そういう所へ出入してた連中は、もうみんな相当の歳のわけだが、まだ生き残っているのもだいぶいる。そいつらは一人残らずトミーのことをよく覚えていたよ。生涯《しようがい》忘れられないってね。……小銭を投げて裏か表か、百円|賭《か》けて当ったら倍という博奕をしたとしよう。十回つづけて勝ったらいくらになる」
令子はソファーからデスクのうしろにいる清田に向って、ぶつまねをした。
「計算に弱いの知ってるでしょ」
「十万二千四百円だよ」
「百円よ、最初は」
「三回で八百円だ。あとはあんたの好きな麻雀の計算でいい。一・六、三・二、六・四、一・二・八、二・五・六、五・一・二、……十回目は一・〇・二・四じゃないか」
「そうね」
「あのマンダリン・クラブなんかでやってたルーレットは、百円が一度に三千六百円になることだってあるんだぜ」
「十回続けるといくら」
令子に言われ、清田は肩をすくめた。
「三回までで四百六十六万五千六百円なりさ」
「胴元は破産ね」
「それさ。いくらなんでも勝ちすぎる。新橋トミーという男は、その世界じゃもう伝説的な人物になってしまっている」
「でも博奕をやっていたのはほんの二年か三年の間のことよ」
「それだけでも充分すぎるよ。不敗のギャンブラー新橋トミーは、暗黒街の歴史に名をとどめてしまった」
「それが彼の失踪《しつそう》とつながりがあるの」
「ある。だがこのさきは言えない」
「ああ、また壁か」
令子は頭のうしろに両手を組み、ソファーの背にのけぞりながら言った。まだ充分に若さを残した黒絹の胸のあたりが、艶《つや》めいた曲線を作った。「教えてもらえる時が早く来るように祈ってるわ」
「そう努力する」
清田が真剣に答えると、令子は頭のうしろにまわした両手を外し、急に体を起こした。
「まさか清田君に危険はないんでしょうね」
清田は苦笑する。
「トミーと違って腕っ節にはまるで自信がない。僕なりのやり方でやってるよ」
五
その月の下旬。
清田登は紀尾井町《きおいちよう》のホテル、ニュー・オータニで催された、小さなパーティーに出席していた。前夜の風がスモッグを洗い流し、驚くほど青い秋空がのぞいていた。
パーティーの主賓はがっしりとした体つきのアメリカ人で、柔かい褐色《かつしよく》の髪の鬢《びん》の辺りには、刷いたような銀髪が混っている。
名は、ロバート・オブライエンという。
「我々が欧米諸国にも、ヒ一族に似た伝承があったことを知ったのは、ひとえにオブライエン氏のおかげであります。この日本国内においてさえ、ともすれば、揶揄《やゆ》嘲笑の的にされかねないヒの研究に、国際的な展望を与えてくださったオブライエン氏の存在は、我々にとって非常に大きな力となったのであります。日本におけるヒの民《たみ》研究の一員として、私はオブライエン氏帰国に当り心から感謝の念を表する次第であります。オブライエンさん。長い間有難うございました。サンキュー、ミスター・オブライエン」
日本神道大学の神餘《かなまり》教授は、そう言いおえると、そのアメリカ人に握手を求めた。十四、五人の出席者が一斉に拍手をした。
「ご丁寧なおことばをいただいて、大変感謝しています」
オブライエンは流暢《りゆうちよう》な日本語で言った。「正直に申しあげますが、私は以前日本と日本人を大変誤解していました。ご承知のとおり、一九四五年には私はアメリカの空軍の兵士として、日本にはじめてやって来ました。そこで私が最初に見たのは、自分勝手でいやしい目をした日本の人たちだったのです。そのために、私は日本人を誤解してしまったのです。日本人に会うのはそれがはじめてだったからです。パイロットは敵の兵士の顔を見る機会が非常に少いのです」
テーブルのあちこちに軽い笑いが起った。「私の乗った飛行機で、敵である日本人を見たのは、爆弾だけでした」
「いい冗談じゃないな」
誰《だれ》かが笑いながら言った。
「すみません。……その後日本にヒという存在があるらしいのを知って、私は再びやって来ました。ヨーロッパにおけるヒ、つまりエに私は以前から関心があり、ヒとエが同じものかどうか、ぜひたしかめてみたかったのです。そしてみなさんと知り合えたのです。私が一九四五年に見た日本人は、おなかをすかせた日本人でした。それは戦争のせいです。いまはみなさんは満腹していらっしゃる。餓《う》えていれば、世界中どの国の人間もみんなあの時の日本人のような感じになるでしょう。もしアメリカ人が餓えたら、あの時の日本人ぐらいでいられるかどうか、私は大変疑問に思います。体の大きな人間がいやしい目をすると、いっそういやしく見えるものです」
オブライエンはそう言って妙な目付きをしてみせ、日本人たちは爆笑した。
だが清田は笑わなかった。オブライエンを醒《さ》めた目でみつめている。
たしかにオブライエンは親日家になっていた。しかしこのスピーチのあちこちに嘘《うそ》がかくされている。たとえばオブライエンは、ヨーロッパのヒであるエの研究など、戦前、戦中を通じて一度も手を染めたことがないのだ。オブライエンはただの空軍兵士だった。B29のパイロットにすぎなかったのだ。その彼が日本のヒを研究に来た裏には、大きな秘密がかくされているのだ。
パーティーが終り、ホテルの日本庭園へ出て一同が記念写真を撮影したあと、清田はさりげなくオブライエンに近づいて、彼にだけ聞えるように言った。
「これでやっと退役というわけですね」
「退役」
オブライエンは柔和な微笑を見せて尋ね返した。
「停年でやめるのを退役とは言わないんですか、CIAでは」
オブライエンは下げた両手を腿《もも》の辺りでひらき、肩をすくめた。
「あなたに好感をもっていました」
「僕もですよ、ミスター・オブライエン」
オブライエンは清田の肩に両手をのせ、のぞきこむようにして、
「CIAは誤解です。今ではNASAの人間です」
と言った。
「少し歩きませんか」
「そうですね」
二人は和風庭園の小径《こみち》をゆっくり歩きはじめた。前方の茂みが風に揺れ、赤く塗った小さな橋が見えている。
「NASAのことも知っています」
「あなたがいろいろ手を尽して調査活動をしているのを知っていました」
「或る男を探《さが》していたのです」
「それも判りました」
「彼がいまどこにいるか、あなたなら教えてくれるはずです。そうでしょう……」
するとオブライエンはたちどまり、清田の眸《め》をじっとみつめた。敵意のない、おだやかな表情だった。
「日本のヒはH・Eと書くべきです。ヨーロッパのエはEです。私は日本へ来て、Eが本当はH・Eなのだということに気がつきました。Hが脱落していたのです。フランス語ではHを発音しません」
二人はまた歩きはじめる。
「なるほど、そうでしょうね。ヒもエも、文字が書かれるようになる前からこの地球上にいたわけですからね」
「世界がひとつであることを、まだ信じられない人間がたくさんいます。しかし、Eが本当はH・Eと書くべきなら、それは世界がひとつであることの証拠になります。私は清田さんも、H・Eだということを理解しました。世界はひとつです」
清田は軽く笑った。
「何がおかしいのですか」
「いや、ふと気づいたのですが、H・Eは英語で彼ということになるんじゃないですか。世界はひとつ……それなら彼の居所を教えてください」
オブライエンは何度もうなずいた。
「偶然の一致にしてはよくできていますね。勿論《もちろん》私はあなたに教えてあげるつもりでいます。彼があなたにとってどんなに大切な人か、私はよく知っています。彼はあなたの恩人でしょう」
「少し違いますね。彼は兄です。父親です。父親も恩人には違いありませんがね」
「四百人の子供を餓えから救った……とても大切な行為です。私はエであることを誇りに思います」
「あなたが……」
清田は呆気《あつけ》にとられて立ちすくんだ。
六
一九四五年三月十日午前零時十分ごろ、ロバート・オブライエン軍曹はB29を操縦して東京深川の上空にいた。六トン余りの焼夷弾《しよういだん》を搭載《とうさい》した彼の機は弾倉をひらき、一番機によって燃え上った木場、白川町のあたりへ突入して行った。
焼夷弾を投下し、上昇にかかったとき、彼は強烈な白光の爆発に意識を失いかけてしまった。コ・パイロットの咄嵯《とつさ》の助けがなかったら、彼の機は上昇に失敗して東京のどこかへ叩《たた》きつけられていたところだった。
グアムに帰投後、オブライエンはそのことで報告書を書かねばならぬはめに陥った。彼を失神寸前にまで追いこんだその強烈きわまりない白光の爆発を見た者は、搭乗員にも僚機にも全くいなかったのだ。
だが、そのあとオブライエンの目に異常が生じた。その症状はあたかも太陽を直視した者に酷似していたという。彼はパイロットの職を解かれ、やがて終戦となった。わずかの期間日本の基地で生活したのち除隊となり、帰国して徐々に視力も元どおりに戻った。
が、国家は彼にそのまま市民生活を続けさせてはくれなかった。彼をペンシルヴェニア近郊の住宅地から引っ張り出したのはCIAだった。CIAで彼は特別扱いされ、やがて自分がエという奇妙な体質をうけついでいることを知らされた。あの白光はエにだけ見ることができるものだった。報告書と病院の記録からそのことが知れ、オブライエンは日本へ送り込まれた。日本国内に飛び交う白光を観測し、その集中地点を決定せよというのが、彼に与えられた極秘の指令だった。
しかしオブライエンのエの血は、かなり薄められているらしく、常時白光を観測するなど不可能だった。それでも他にかけがえのないオブライエンは、CIAによって日本に留められ、日本のエであるヒ一族の調査に当らせられた。オブライエンは忠実に任務を遂行し、神餘教授、村岡教授ら著名なヒの研究家たちと接触を保って、遂に清田らアマチュアの研究家たちまで知るようになった。
「そうだったのですか」
パーティーの出席者たちを帰したあと、二人はホテルのラウンジで話を続けている。
「結局私は、二十年も日本で過してしまいました。日本が好きになり、日本人と日本の文化を尊敬するようになりました。しかし私が今のようになるまでには、いろいろなことがありました。私自身も、一度に変ったわけではありません。今の私なら、新橋トミーという人物をみつけても、CIAに教えてやりはしなかったでしょう。私がアメリカ国民である以上に、新橋トミーは同じ血を持った私の仲間だったのですからね」
オブライエンは透明なガラスの外にひろがる東京の町をみながら、過ぎた若い日を悔むように言った。
時が、一秒一秒訪れては去って行く時が、ヒの飛稚《とびわか》もエのオブライエンも、自分や令子や、あの戦争の記憶や傷跡をも、おしつつみ、おし流し、宇宙そのものをのせてどこかへ進んでいる。……清田はふとそう思い、晩秋の日にふさわしい感傷を味わった。
「清田さん……あなたの、一九四五年からの人生は、さぞ大変だったのでしょうね。そして、あの四百人の子供たちの人生も」
オブライエンの青い眸《め》が、熱いもので潤《うる》んでいるようだった。
「戦後を生きることについては、みな同じように大変だったのです。無能で保守的で、いつも子供たちに莫迦《ばか》にされているような親でも、今の子供たちよりはずっと数奇な人生を歩まされて来ているのです。トミーが作った子供村の四百人も、もうすぐそんな親になるのです」
オブライエンはため息をついた。日本を叩きのめしたかつての征服者が、がっくりと肩を落し、侘《わび》しそうに日本人と向き合っていた。
「私はコミュニストでもアナーキストでもありません。ヒピーやイピーや、そういった連中をとても理解しきれません。しかし戦争は無駄《むだ》です。勝利は一時的なものでしかありません。敗北もまたそう長くは続きません。あれから三十年近くたった今、私の心に残っているのは、あなたやあの四百人の子供たちの人生に対する責任です。もう私は日本へ来る機会がないかもしれません。あさって、二十年ぶりでアメリカへ帰ります。その前に、どうしても私はあなたに言っておきたいのです。ごめんなさい。どうか私を許してください」
オブライエンは声をつまらせてそう言い、小さな黒いテーブルに両手の指を浅くかけて、たくましい体を折った。
「あなたが詫《わ》びることはありませんよ」
「いや。私はあのまっくらな東京を今でもよく覚えています。一番機がその暗い町へ火をつけました。私は二番機にのっていました。一番機がつけた火をめがけて、六トンの爆弾をまきちらしたのです。大きな未来をもつ子供たちがいることも、子供がたよる親たちがいることも、私は少しも考えませんでした。私はとうとう妻も子も持ちませんでした。むなしい人生だと思います。この歳になって家庭を欲しがりはじめているのです。そしてだんだんに自分が犯した罪がわかって来たのです。神は悔いあらためよと言います。しかし悔いあらためてそれですむ問題ではありませんね」
オブライエンは自嘲《じちよう》するように言った。沈黙が続く。清田は日本に二十年も住んだオブライエンが、やはり決定的に外国人でしかあり得なかったのだと感じた。ヒとエはもとがひとつでも、ヒの神の道とエの神の道は、長い間に全く異る景色を持ってしまっているようだ。
七
やがてオブライエンは気をとり直し、元CIA局員らしい顔に戻って言った。
「そういうわけで、悔いあらためたからではないかもしれませんが、清田さんにはさしつかえのないかぎり、できるだけ情報を置いて帰りましょう。……そうですね、いちばん大きな情報からさきにしましょう」
「おねがいします」
「知られているポツダム宣言は、表側だけのことです。連合国側は、日本のサンレイザンを要求の中にいれていたのです。世界各国の首都は、たいていサンレイザンの所在地です。サンレイザンの研究は、一六四〇年代のイギリス革命ごろから、だんだんさかんになりました。イギリス革命は、サンレイザンの支配競争だと言われています。一六〇〇年代のおわりに、ロシアの皇帝がヨーロッパ旅行にでかけましたが、それはヨーロッパの国々のサンレイザンを実際に見るためだったようです。勿論《もちろん》その前から、サンレイザンはローマとイスタンブールのように、権力者たちに利用され、時には対立しあうこともあったらしいのです。エルサレムは世界でいちばんよく知られ、いちばんトラブルの多いサンレイザンです。カイロ、バグダード、デリー、カルカッタ、バンコック……モスコー、キエフ、ブカレスト、レニングラード、ブダペスト、ベルリン、ロンドン、パリ」
そしてちょっと肩をすくめ「ベルファスト」
「ベルファスト……」
「そうです。北アイルランドのです。それから、エチオピアのアジス・アベバ、マリのティンブクトゥー、ナイジェリアのイバダン、チャドのウムシャルーバ、スーダンのハルツーム、ケニアのナイロビ、ローデシアのブラワヨ、南アフリカ連邦のヨハネスバーグ……首都でないところもあるし、まだ発見されていない所もたくさんあるようです。ことに南アメリカではサンレイザンは極端な秘密主義に守られて、発見が非常に困難になっています。たとえば、マウチュ・ピチュのように完全にみすてられた土地がそうだったり、クイアバのようにマット・グロッソのまん中で偶然発見されたりする状態です。サンレイザンだと判って急に首都が移された例としては、ブラジリアがあります」
「そうだそうですね。人類はまだまだ未発達の生物です。権力者は欲にかられてその重大なことを自分たちだけの秘密にしてしまう。そういう点では大英帝国もアフリカの開発途上国も同じことです」
オブライエンは軽くうなずいてみせた。
「そのようなサンレイザンが、実はこの地球の未来をコントロールする巧妙な、巨大なひとつのシステムではないかということに気づいたのは、アメリカが最初でした。日本はエチオピアと並んで、サンレイザンの伝承を最もよく保存している国です。アメリカはもちろん、ヨーロッパの国々は、血が入り混りすぎて、そうした古い伝統の保存には適していなかったのです。エチオピアのランナーたちが、オリンピックのマラソンレースで示す強さを、アメリカの研究者は、エの体質のせいではないかと考えています。実際にエチオピアでは、エのことを、ヒと発音しているようです。日本と同じです」
「古《いにしえ》 山山へめぐりて神に仕うる人あり。ただ日《ヒ》とのみ称《とな》う……なるほど、エチオピアもヒですか」
「エチオピアにも、小さな数多くのサンレイザンと、大きくて力強いサンレイザンがあります。あなたがシンの山と呼んでいるものです。アジス・アベバはエチオピアのシンの山です。小さなサンレイザンは局地的なサブシステム。シンの山はメイン・システムです。そのシステム群が世界中にあるということは、この世界のどこかに、地球全体のシンの山、つまりトータル・システムがあるということになります。アメリカの国防省は、いま極秘で各地のサンレイザンが、どのシンの山に所属しているか、その地図を作成しています。これは純粋に平和のためです。現在の各国の国境線は、本来サンレイザン・システムの分布に従って仕切り直されるべきなのです。たとえば南ベトナムはシンの山を持っていません。シンの山はハノイにあります。また、ラオスにはシンの山がありません。どこかのメイン・システムに所属しているはずなのに……カンボジアも同じような状態です。歴史の上でくり返しくり返し紛争にまきこまれる不安定な地方には、それなりの物理的な、というより超物理的な原因があるのです。それを、四次元的サンレイザン・システムのとおりに再編成すれば、少くとも九十パーセントの戦争がなくなる可能性があります。私はそれを信じます」
「そうかもしれませんね。産霊山とは一種の精神力的な場のことですからね。それで、終戦の裏ばなしというのは……」
「当時連合軍側、特にアメリカは、勝利国として日本の産霊山を完全に掌握することを欲したのです。ところが日本は、それだけはどうしても手放せなかったのです。強硬に最後の一線を守り抜いて、シンの山の引渡しだけは回避したのです。だから正確にはあれは無条件降伏ではなかったのです。アメリカ側も約束は守りました。だからあの国会議事堂は米軍に接収されなかったのでしょう……」
オブライエンはそう言ってたしかめるように清田をみつめた。清田はラウンジのガラスの壁のひらいた方角とは真反対の側にある国会議事堂の形を思い泛べ、まるでそれが視界にあるかのように外を眺《なが》めた。
「国会議事堂……」
「そうです。他のヨーロッパのシンの山の多くは、その中心部に寺院や教会がたてられました。だが日本人はその本当の中心部があの丘の上だと知った時、そこに国会議事堂を移したのです。ワシントンに似ていますよ。ホワイト・ハウスはシンの山の中心部にのっているのです」
八
アメリカ軍は、結局日本の産霊山システムの中心、国会議事堂を、接収しなかった。その交換条件として出されたものが何であったか、詳《くわ》しいことはオブライエンにも判っていないようだった。しかし、徳川家から明治政府にうけつがれたものや、天皇家が死蔵していた貴重な産霊山およびヒの資料が、アメリカ側に渡ったであろうことは、容易に想像できる。
それに、米軍はたしかに国会議事堂の接収をあきらめたものの、その丘の根元に当る部分に、強力な調査、観測施設を置いてしまった。
それが山王ホテルであり、現在もなお米|諜報《ちようほう》機関の中枢であろうと囁《ささや》かれている。ロバート・オブライエンは、その山王ホテルの一室に、実に二十年の長きに亘《わた》って起居しつづけ、現代科学では探知しえない千代田区|永田町《ながたちよう》、すなわち江戸時代の永田馬場地底の四次元的亜空間を、彼の体内に僅《わず》かに残されたエの特性をもって、窺《うかが》いつづけたのだった。
清田登はその夜八時近くまで、オブライエンと語り合った。ホテルで食事を共にし、珈琲《コーヒー》を何杯も飲んだ。火を放った男と、その火に追われた男の間に、次第に共通の感情が生れ、最後のブランデーグラスを合わせて別離の乾杯をする頃には、清田自身、かつてその男と敵味方であったということが信じられないような気分になっていた。
すべては時だ。時間がこの宇宙をどこかへ運んでいる。……オブライエンと別れてタクシーに乗り、夜の青山取りを渋谷へ向う間、清田は何度もそう思った。
しかし、一方では新しい局面を迎えて緊張していた。普段は蒼白い程の広い額にうっすらと血管が浮き、眸に昂《たかぶ》った光があった。
坂の途中でタクシーを降り、一見キッチンの入口のように見えるボルドーの裏口からクロークのうしろの通路へ入ると、インター・フォンで四階の福島令子の部屋を呼び出した。
応答がないので店に入り、ウエイターに尋ねた。
「奥さんを見かけなかったか」
「ああ、マダムなら海津様のテーブルにおつき合いなさっていたようです」
「海津さんが来てるのか」
「はい。四十分程度前です。夕方ご予約をなさいまして」
ウエイターはそう言ってバーの方へ去って行った。
令子は従業貝たちにマダムと呼ばれている。富田若男……つまり飛稚。新橋トミーの妻なのでそう呼ぶのだが、この店の者は誰《だれ》もトミーを見てはいない。ボルドーは彼が失踪《しつそう》してから、ひそかに残したくわえられた財産の一部で作った店だった。土地はトミーが令子名義で買取ってあったものだ。
令子は富田姓ではなく、相かわらず福島姓である。どういうつもりで正式に結婚していないのか、それは清田にも判らない。トミーは死んだ令子の兄の福島武郎のはからいで、戦災のドサクサに紛《まぎ》れ、墨田区に富田若男という名で本籍を持っている。清田が令子に時々入籍のことを尋ねると、令子はそのたびに、あいまいな笑いを泛《うか》べてはぐらかしてしまうのだった。いずれどこかへ帰るかも知れない人ですものね。……令子は一度|淋《さび》しそうな顔でそう言ったこともある。
「やあ元気そうだな。繁昌《はんじよう》しているようじゃないか。結構結構」
ウエイターに言われた席に行くと、濃い髪を古めかしく刈り込んできちんと七・三に分けた、ごつい体の男がくだけた調子で言った。「そうだ紹介しよう。これはこの店のマスターだ」
「やあ、大した店ですな。海津さんにいつも散々自慢を聞かされていたんですが、まさかこれ程のレストランが渋谷にあろうとは思いませんでしたよ」
海津の連れは上機嫌《じようきげん》でそう言い、握手を求めた。
「これは飯島さんと言って、公安関係のこわい所にいるんだぞ」
「不粋《ぶすい》なことを言わんでくれよ」
連れの飯島はそう言って笑う。
「このマスターは、実は戦災孤児なんだ。いつもよく話す、例の子供村の出身だ。昔の仇名《あだな》は村長。子供村のひとつをとりしきっていたんだ。中学二年か三年の頃のことだぜ。あんたそれが百人以上の予供たちをまとめて、あの終戦後の東京を切り抜けて来たんだ。今の餓鬼《がき》どもに聞かせたいよ」
「この人が……ほう……」
「いや、私たちだけではとてもやって行けませんでした。大人の全面的なバックアップがあったんですよ。特攻がえりの海津さんなんかが……」
「そうだそうですな。聞いてますよ。どちらも立派です」
「立派じゃないさ。ずいふん荒っぽいことをやったもんだ。やぶれかぶれって奴だな。今なら君たちに追いまわされねばならん」
海津は近頃《ちかごろ》右翼団体の指導者として、かなり有力な人物になっているのだ。清田がその海津に低声で令子のことを尋ねると、ついさっきまでいたが、もう席を外したという。
「君の妹の広子ちゃんがどうとか言ってたな」
「そうですか。ちょっと急用があるもので、失礼いたします。……ごゆっくり」
清田は飯島という連れに挨拶《あいさつ》し、クロークの裏から通路へ出た。花屋はもう店を閉めていて、その裏に当るオフィスから灯《あか》りが洩《も》れていた。
ドアをノックして入ると、製図台の椅子に妹の広子が芥子《けし》色のパンタロンをはいた長い脚を組んで煙草を吸っていた。応接セットのソファーの上に洋服生地が積んであり、令子がそのひとつを肩から垂らして立っていた。
「あら兄さん」
「遅かったのね」
「そうか、令子さんのスーツをみてあげる約束だったな」
清田は思い出して言った。
「花井さんに悪いことしたわ。随分待っててくれたのよ」
令子が生地を肩からおろしながら言う。花井とはファッション・デザイナーだった。
「それどころじゃなくなった。大事なはなしがある」
「何よ。兄さんのそんな顔久しぶりだわ」
「ほんと。何があったの、清田君」
「トミーの居所が判った」
「えっ」
二人の女はさっと顔色を変えた。
「正確なことはこれから調べるが、何とこの渋谷のすぐ近くにいるらしいんだ」
「どこ。どこにいるのよ」
令子は今にも走り出しそうな様子で言う。
「まあ待ちなさい。近くは近くでもかなり厄介なところだ。おいそれと連れ帰るわけには行かないんだ」
「焦《じ》らさないでよ、兄さん」
「総理大臣の家にかくまわれているらしい」
「何ですって……」
二人の女が一緒に叫んだ。
「情報の出どころはたしかなところだ。まず間違いないだろう」
「どうしてそんな……」
「僕はいつか令子さんに言ったろう。トミーの博奕《ばくち》がいけなかったって」
「ええ覚えてるわ」
「やはりそれが原因だった」
清田はそう答えて唇を噛《か》んだ。
九
その頃、東京は米軍人及びその関係者や、フィリピン、韓国《かんこく》、台湾《たいわん》など、いわゆる第三国人たちの天下だった。アル・カポネの流れを汲《く》む元シカゴ・ギャングの誰それが東京を縄張《なわば》りの内に加えたとか、今ではフィクションとしか思えないような事態が、実際に起っていた。銀座通りや今の晴海《はるみ》通りなどが、兵隊たちによってポーカー・ストリートとか、ハニー・アヴェニューとかいうアメリカ式の仇名で呼ばれ、それが結局は定着してしまうのではないかと思える程だった。
新橋トミーは、そうした中で生活していた。天才的ギャンブラーとして顔を売り、連戦連勝して年期の入った博奕うちたちを驚かせていたのだ。
昭和三十年近くなって、米兵や三国人たちの間で伝説的に語りつがれていた、その奇蹟《きせき》的な日本人|賭博師《とばくし》の存在が、CIAのある部門の関心をひいた。
それは強力なESPを持つ超能力者ではないだろうか。伏せられたカードを読み、ダイスやルーレットの玉を、手もふれずに自在に操ることのできる念力を持っていれば、どんなゲームも思いのままに勝ち抜くことができる。オブライエンも、その頃本国で透視やテレキネシスの実態を、飽きる程やらされたという。
やがてそのような強力なエスパーは、現在のところ常人には存在しえず、ただエの血を受けた者の中になら、僅《わず》かにその可能性があるということが証明された。しかも、日本のヒは、欧米のエよりはるかに濃い血をうけついでおり、理論上は、適当な念力増幅装置のたすけをかりれば、或る物理的な場から場へ、念力移動することも可能だと考えられはじめた。
オブライエンの見た強烈な白光の爆発現象が再び問題になり、それは何者かが次元移動をした際の衝撃波によるのではないかと推定されるに至った。
米国防省は急遽《きゆうきよ》虎の子のエ体質者の中からオブライエンを選んで日本に派遣した。オブライエンはCIA局員として東京の山王ホテルに入り、日本に存在する可能性が強い強力な体質の人物を探《さが》し求めることになった。
自己の特異性をよく理解し自覚すれば、エは同じ体質の者を簡単に見わけることができるのだという。多分それは一種の精神感応がともなうからだろう。
オブライエンは、群衆の中を、同じ血の呼声を求めて歩きまわった。バスで、都電で、地下鉄で、国電で……オブライエンは歩きつづけた。二年、三年と年月が過ぎ、彼は日本のヒ一族に関する研究にもひき込まれて行った。
発見が遅れたはずだ。オブライエンは重大な見落しをしていたのだ。
賽《さい》の目を自在に操り、時には次元移動さえ可能な能力を待った人物が、この大都会をいつまでも電車やバスを乗りつぐ暮しに甘んじているはずがなかったのだ。
オブライエンが新橋トミーを発見したのは偶然ある大企業の株主総会の会場附近を通りがかった時だった。運転手がうやうやしくドアを引いた黒いベンツから降り立った青年紳士をひと目みて、オブライエンはやっと任務を達成できたことを覚った。総会が終了すると同時に、その若い大株主は丁重に舞台裏の貴賓室に案内され、待ち構えた大勢のCIA局員に捕えられてしまった。
「トミーがつかまった頃、ヒ……つまり外国ではエに当るんだが、そのエに関する事情がすっかり変っていたらしい」
広子と令子は目を丸くして聞き入っている。「産霊山は地球の明日をコントロールする巨大なシステムだ。生きとし生けるものの明日への願いが、その土地土地の産霊山にプット・インされ、それらは芯の山……日本ならば東京の、あの国会議事堂のある丘のあたりへ集ってくる。だがそれだけで日本の明日がきめられるものではない。世界中には、その土地土地に日本と同じような産霊山があり、要所要所に芯の山が置かれている。人間は知らず知らずの内に、その産霊山に集り、村を作り町に育て、芯の山のあたりはその国の首都に発展して行ったのだ。産霊山というのはひとつの精神的な力の場だ。何かしら人の心を昂揚させるような力が働いているのだろう。引力も場所によって幾分か強弱の差があるというじゃないか。特に引力の弱い場所があれば、そこはそこでいろいろな使われ方を人間にさせるに違いない。病院とか競技場とかいった風にね」
「サブシステムとメインシステムというわけなのね」
インテリア・デザイナーになっている広子が言った。
「だが東京……つまり日本のメインシステムは、世界の産霊山システムのひとつのサブシステムにすぎない。ではこの地球のメインシステムはどうなっているんだろう。大和《やまと》朝廷や、信長や、家康たちが日本を掌握するため追い求めたように、アメリカやソ連が、今度は地球全体の芯の山を追い求めて狂奔しはじめた。それが宇宙開発競争だった。芯の山があるとすれば、それは月に違いない。月は地球上どこからでも見ることができる。しかし地球から月の裏側を見ることはできない。つまり月は同じ側をいつも地球に向けてまわっている。……なぜだ。偶然そうなっただけなのか。しかし仮りに月が地球上の生きとし生けるものの明日への願いをうける芯の山の所在地だとしたら、何者かが常に月面上のアンテナを地球に向うようにセットしたと考えることもできる。もしそうだとすれば、こんなうまい仕掛けはない。アメリカの科学者たちは、月が裏側を見せない理由は多分そのためだろうと考えた。そして一刻も早く有人宇宙船を打ちあげ、月面の産霊山を所有しようと焦った。ソ連が同じことを狙《ねら》っているのははっきりしていたからだ。ウォスホート2号でレオノフ中佐が宇宙遊泳に成功するあたりまで、ソ連のほうが断然優位に立っていた」
「でも結局一番のりはアメリカだったわね」
「あれ、アポロ十一号だったかしら、私もテレビでみたわ」
清田はそう言い合う二人の頗をみつめながら、煙草をくわえ、ライターを鳴らした。
「あとで外へでてみてごらん、二人とも。今夜は丸い綺麗《きれい》な月が出ている。……トミーはアポロ十一号であの月へ行って来たんだ」
「ええっ……」
「ほんとなの、それは」
「そこが産霊山だと確認し、地球の芯の山との違いがどうだか調べるのに、トミーのように純粋に近いヒをたよる以外、今の科学は方法を持っていないのさ。アポロ十一号は、本当は四人乗りの宇宙船だったんだよ」
女たちは声もなく息をのんでいた。「米ソとも目的は産霊山だ。もしソ連がさきに行っていたとすれば、多分なんとかスキーというような名の、トミーと同じような体質の男をのせていただろう。ただ、アメリカの方が、産霊山研究に関しては一歩も二歩も進んでいた。その原因は日本に進駐したことだった。終戦の時、日本は日本の芯の山を奪われない代償として、アメリカにありったけの三種の神器を渡してしまったからなのさ。ほら、トミーがよく言ってたろう。ヒがワタリに使った依玉《よりたま》、伊吹《いぶき》、御鏡《みかがみ》の三つ一組の道具だ。あれは念力の増幅装置らしい」
「兄さんの部屋に昔の珠《たま》と鏡が飾ってあるわね。あれのことなの」
「そうだ。あのふたつはトミーが日本中探しまわってやっと見つけた三種の神器のかたわれさ。ヒにつたわる産霊山の秘密を知って江戸に本拠地を移し、日光に東照宮をたてさせた徳川家康は、各地の産霊山にあったヒの三種の神器を恐れて、それを全部回収してしまった。そんなものがあっては、いつ徳川幕府が潰《つぶ》されるか知れたものではないと思ったのだろう。幕府は勘定|奉行《ぶぎよう》の下に神宝方というセクションを置いてその回収した神器の保管に当らせた。同時に寺社奉行の下に神道方《しんとうかた》と古筆見《こひつみ》という研究機関を設けたが、それはすぐ有名無実なものになってしまったらしい。明治維新の時、その幕府の最高機密が新政府にわたされ、現代まで連綿と引きつがれて来たのだ。ただ惜しいのは、産霊山のことが科学としてではなく、政治権力の道具として残されてしまったことだ。日本を支配する権力者は必ずその秘密を握らねばならないというのが、日本の政治の習慣のようにさえなっていたのだから、無理もないだろうが……」
「そうすると、徳川の将軍たちは芯の山より少しズレたところにいたわけじゃないの」
令子が言った。
「うん。家康は日光だと信じていた形跡がある。勿論《もちろん》日光は産霊山のひとつだし、戦後のアメリカ側の研究では、世界にも例のない特別なタイプの産霊山らしいということだ」
「特別なタイプの……」
「まあちょっと待て。順に話して行こう。とにかく、そうして徳川家は江戸に腰をすえた。探し求めた答えの、正解のほんとうのすぐ近くにね」
「今の皇居だわね」
令子が言う。
「うん。徳川が三百年もつづいたのは、ひょっとするとそのおかげだろう。しかし、もっと正解に近い場所を掴《つか》んでいたらしい大名がいる」
「誰……」
「真田《さなだ》家だ。明治新政府の一部は勿論産霊山のことを知っていた。国会議事堂を作ったときも当然それを顔に置いている。といっても、最初のは今の場所じゃない。ただあの内濠《うちぼり》の中でないことははっきりしていて、何度か場所を変えてだんだんに今の永田町へ寄って行ったんだ。ところがそれは常に旧真田家の屋敷のすぐ傍か、その跡だった場所なのさ」
「真田がなぜ知っていたのかしら」
「猿飛佐助……」
清田が言うと広子はぷっと吹き出した。しかし令子は凝然《ぎようぜん》としていた。
「令子さんはトミーから聞いて知っているね。猿飛は飛稚、つまりトミーの兄に当る。年代的には、少し合わないが、トミーの兄さんの子供か何かが関ケ原以降の真田家にかかわっていた可能性は強い。また、明治の元勲の一部が産霊山の秘密を予《あらかじ》め知って動いていた形跡があるのは、多分坂本|龍馬《りようま》の知識をうけついだためだろうと思う。なぜなら、トミーの昔ばなしをもとに推理すると、明智光秀の家来の石川小四郎が光秀の子供をつれてのちに土佐《とさ》へ渡ったと思われるからだ。ひょっとすると土佐の山内一豊はヒではなかったかと思われる。それにトミーが言う百済寺《くだらでら》の小鹿という人物は、藤堂高虎の前身なのかもしれない」
一〇
清田たちは一度外へ出て晩秋の空にかかる満月を眺《なが》めた。白く輝くその月をぶりあおいだ三人は、言い合せたように、終戦の年の秋の下町のガード下に寄り添って仰いだ月を思い出していた。しらみがたかって痒《かゆ》かった。
父母が恋しくて悲しかった。焼けただれた町には灯《あか》りも見えず、一生のうちで最も淋《さび》しい秋だったようだ。
「あの月へトミーは行って来たのね」
広子のオフィスヘ戻ると、令子が泪《なみだ》を泛《うか》べてそう言った。
清田は沈んだ彼女を励ますように、
「広子、お前あの時のテレビ中継を憶《おぼ》えているかい」
と明るい声で尋ねた。
「ええ。でも途中でカメラが故障しちゃったとかなんとか、割合いお粗末だったじゃない」
「カメラは故障していなかったんだよ」
「じゃどうしてあんな風になったの」
「緊急事態が発生して、わざと故障にみせかけて現場を写さなかったんだ」
「緊急事態って……」
すると清田は弾《はじ》けたように笑い出した。
「月の一番のりは日本人だったんだ。アポロ十一号が着いた静かの海は、まさに産霊山そのものだったんだ。ズバリ正解だ。しかし、先客がいた。しかも何百年も前にね」
「何百年も前に日本人が行ってたの」
「そうさ。勿論宇宙服や生命維持装置がないから、着いたとたんに死んじまったけどな」
「どうやって行ったのかしら」
「恐らく日光から……三種の神器を使ってね。日光が特殊な産霊山だと言ったのは、そこが月の産霊山への出入口らしいからだ。産霊山から産霊山へ、ヒやエは自由にテレポートして歩いていたんだ。トミーはワシントンのホワイト・ハウス辺りをよく知ってるはずだ。だとしたら、三種の神器で国会の辺りから瞬間的に向うへとんで行ける。しかし星から星となるといけない。どうやらひとつの天体には他の天体ヘワタるため、ひとつだけ特別な産霊山があるらしい。それが日光だ。アポロ十一号のアームストロング船長たちは、日本のきものを着た死体をみつけてぶったまげたろうよ。テレビ中継は中止だ。トミーが予定より早く船を出て行って、その死体をみたトミーは地球へ帰って来てから、その死体が兄の猿飛かも知れないと証言したそうだ。勿論死体も持帰って来たさ。十一号の時持って来た月の鉱物標本の量が意外に少なかったのはそのせいだそうだ。予定外の荷物があったんだよ」
「そのトミーがどうして総理大臣の家にいるの。わからないわ」
「アポロ十一号は一九六九年だ。日本に一人、どんなことをしてもその翌年の難局を切り抜けたいと願う人物がいた。それがあの総理大臣さ。七〇年は日米安全保障条約の更新の年だ。それを自動延長に持って行きたかった。当然アメリカ側も彼のその願いには全面的な協力を惜しまなかった。ところが彼の保守党内部でも、その前後にそろそろ帽子を変えるべきだと考えはじめていたんだ。彼にとって敵は内と外の両方になった。そこで彼は、古くさいことに産霊山をたよることにしたんだ。アポロ十一号の成功がトミーや三種の神器のおかげだということもはっきりしたし、案外彼は古くさいのではなくて、まだ誰も信じようとはしない超科学の最尖端《さいせんたん》を利用したのかもしれない。……そういうことならというんで、アメリカはトミーを日本に帰してくれた。さあ、それからどうなったか、僕に情報をくれた男にもよく判らない。しかし総理の思うとおり、安保はぶじ自動延長したし、沖縄返還協定も調印がすんだ。そしてまだ彼は総理大臣の椅子《いす》に坐《すわ》っている。僕はトミーがまだ彼の手中にあるのは間違いないと思うんだ」
「そうかしら」
令子がひどく沈んだ言い方をした。
「トミーはもう首相の家にはいないと思うのかい」
清田は怪訝《けげん》な表情で言う。
「判んない。でもそんな近くにいるのに、なぜここへやって来ないのかしら」
「トミーはあんたが田園調布《でんえんちようふ》からここへ移ったことを知らないんだ」
令子は激しく首を左右に振った。
「変よ。田園調布と言ったって、そう遠い距離じゃないわ。そうでしょ。まず第一に彼は田園調布へとんで行く筈《はず》よ。そしていないと判ったら……彼がどういう人間だか知ってるじゃないの、みんな」
令子は不満そうに広子の顔をみつめて言った。その眸の奥に、令子という女の青春の残り火が燃えあがり、炎となって輝きはじめていたようだ。
清田と広子は黙って令子をみていた。たしかにそう指摘されれば、トミーが帰国そうそうこのボルドーをたずね当てて来ないというのはおかしいことかもしれない。
「そう言えばそうかもしれない」
清田は沈んだ調子でつぶやいた。トミーは尋ね人があったり、保護しなければならない大勢の相手がいたりすると、水を得た魚のように活発に動き出す男だった。それがない時は能力をもて余して、例の博奕三昧《ばくちざんまい》の生活に耽《ふけ》ったりする。そんなトミーの性分を令子はいま肌《はだ》で思い返しているに違いない。清田はそうした令子の不審を当然だと思うにつけ、不吉なものを感じはじめていた。
「さあ、やるのよ」
令子が思いがけなく弾んだ声を出した。「とにかくこれで彼の居所は判ったんですものね。何がなんでもそこから引きずり出してこのボルドーへつれて来ればいいの、かんたんなことよ。清田君だってこの見事な店をみてもらいたいでしょ。広ちゃんだって一人前のインテリア・デザイナーになったのを威張りたいでしょう」
そうか……と清田は思った。その態度はトミーそっくりだった。こういう場面にもしトミーがいたとしたら、きっと今の令子のように言う筈だった。
令子はそのかわりをつとめている。
清田の心に甘酸っぱい感動が湧《わ》いて来る。トミーを想う令子への同情と共感。そしてかすかに、そんな令子を嫉妬《しつと》したい気分が混っていた。
一一
翌日、はやばやと清田登は虎《とら》の門《もん》にある新日本連盟本部を訪れた。それはアメリカ大使館にほど近い、金融振興会ビルという古い建物の三階にあり、ドアの中へ入ると、受付という札を立てた机のうしろに、髪を短く刈って、学習院の制服に似た黒い詰襟を着た若い男がさっと立ちあがり、
「いらっしゃいませ」
と板を倒すように上体をまっすぐ腰から折って、大声で挨拶《あいさつ》した。
「理事長はおいでですか」
「はいっ。どなた様でいらっしゃいますか」
「渋谷の清田という者です。急ぎの用件でぜひお目にかかりたいとおつたえ下さい」
「はいっ。少々お待ち下さいっ」
若者は、インター・フォンをとりあげ、ボタンを押した。「渋谷の清田さまが理事長にご面会です。……はいっ。承知しました」
軍隊調だった。受付の男ばかりでなく、オフィスの者全員が同じように、キビキビと緊張した動きを示している。部屋のつき当りの壁に日章旗が飾ってあった。
「よう、どうした」
いきなり右奥のドアがあいて大声がした。昨日ボルドーへ来ていた海津だった。遠いので、清田は無言で軽く会釈してみせた。
「来いよ。こんな早くにどうしたというんだ」
海津は豪放な態度で手まねぎした。
「じゃ失礼しますよ」
受付にそう挨拶して奥へ入った。
「まあ入れ入れ」
海津は部屋へ清田を迎え入れ、うしろ手にドアをしめた。
「非常、緊急な用件です。挨拶は抜きにしますよ」
「よし判った。何だ」
海津は革ソファーに深々と体を沈めて言った。
「トミーの居所が判ったんです」
「よし。見つけたか、とうとう」
「居所は世田谷《せたがや》の首相私邸」
「む……」
「トミーはそれまでにつかまってアメリカにいたらしい。宇宙開発計画に協力させられていたんですよ」
「…………」
海津は目をとじて考え込んでいる。
「首相の七〇年対策用に日本へ送還されて現在に至ってます。我々に連絡して来ないのはトミーの性格として疑問がある。ひょっとすると監禁状態かもしれません」
「ありそうな事だ」
海津もトミーの素性についてはあらかた予備知識を持っている。右翼の一方の指導者ともなれば、ヒや産霊山についても造詣《ぞうけい》がある。政界の消息にも通じている。話は早かった。「あの男のやりそうなことだ。他力本願さ。だが場所が場所だ。力ずくというわけにも行かん」
「とにかく手をかしてください」
「莫迦《ばか》。余分なことを言うな。俺《おれ》があいつを助けないでどうする」
そう言って海津はまた目を閉じた。そりたてのひげが青々としている。
「失礼しますッ」
詰襟の青年がお茶を運んで来た。
「要談中だ。誰《だれ》も取次ぐな。電話も断われ」
「はいッ」
青年は出て行く。
「テはある。荒療治だが、丁度いいだろう」
「どうするんです」
「あの男を辞《や》めさせる」
「首相をですか」
「そうだ」
大きな話になって、清田も息をのんだ。
「もう長すぎる。代っていいころだ。そうだ、時期を早めるだけだ。どちらにせよ、そうなればあの男にとってトミーは無用の長物となる」
「うまく行きますか。ゆうべ一晩考え抜いたんですが、トミーはどういう首相になろうと、みんな欲しがるんじゃないでしょうかね」
「あとの心配はあとでする。今はまずトミーを令子さんに返してやることだ。面白くなって来たぞ。俺の人生にもひとつのヤマ場ができる。縮尻《しくじ》れば叩《たた》きつぶされる。だが勝てばいい。まあみてろ、やってやるからな」
「どんな手があるんです」
「おどしだ。ゆすりと言われても俺は平気だぞ。連中には汚《よご》れた面がいくらもある。そのひとつを使うんだ。たとえば日本の近くに、或るむずかしい立場の政府がある」
「どこのことです。台湾ですか」
「なんとでも思え。国際的には小康《しようこう》状態を保っているが、歴史的に見ればなんとも不安定な政府だ。アメリカがここに厖大《ぼうだい》な援助を与えていた。東西勢力の均衡《きんこう》を保つ上で是非そうしなければならなかった。だがその国の高官たちの中にも、自分たちの足場が非常に脆弱《ぜいじやく》で、いつ破局に会うか判ったものではないという認識があった。特にアメリカからの援助の一部をポケットに入れているような連中には、そうした惧《おそ》れが強かった。彼らは政府全体としては日本に接近せざるを得ない立場だったが、その点では大いに気の毒な状態だ。世が世であれば日本のほうが膝《ひざ》を屈してご機嫌《きげん》をとり結ばねばならない立場なのだからな。ところが日本にも悪い奴は多い。その国の高官が、私財の保全に腐心しているのを、見かねたか、又は見かねたふりをして、日本にそれを逃避させるようはからってやったのだ。もちろん民間ではむずかしいが、政治レベルでなら至って簡単な操作だ。そして大量の逃避資本が日本へ流入することになった。その逃避資本の受入口は何人かの第三国人だ。日本に根を生やして事業をやっている。俺はその連中とかなり親しい。手口はこうだ。……たとえば何年か前、温泉で有名なある市の市有林が、その第三国人の経営する不動産会社に払いさげられた。水源地に当り、自由に伐採もできない土地だ。広さは約五十万坪。この払いさげには保守党の大物が動いている。それが今の首相でもちっともふしぎはない。ところが実はその買取りに動いた金は、円に姿を変えた逃避資本だったのさ。窓口になった三国人は、その一部に別荘マンションを建てて分譲しはじめた。建物の資金とそれによる利益だけが、その三国人のものだった。逃避資本はこうして静かな山林に化け、その政府が将来直面するかもしれない最悪の事態に備えている。高官は身ひとつで逃げ出せば、あとはどうにでもなる。そして、そういった逃避資本の権益を保護するために、厖大な量の政治献金が行われているんだ。政治献金というと企業からと思いがちだが、政党なりその派閥なり、または個人なりへ、国の外から行われることだってある。美名を用いれば反共防衛資金だ。しかし今の例でも判るとおり、たとえ親日国高官の保護にせよ、日本の土を一時的にでもひそかに他国人に売り渡すのだから、文字どおりの売国行為だ。毒は流すほうにも流されるほうにも毒だ。その仕組がたとえほんの一部でも暴露され、証明されたら、毒は流した方の命をとる。俺はそれを証明できるし、政治家の何人かは、俺がそれを完全に証明できることを知っている。自慢じゃないが、俺が起てばいつだって内閣の二つや三つはかんたんに潰《つぶ》せるんだ。テとはそういうテだ。そのテでトミーをとり返してやる」
海津はニヤリと笑った。
一二
「お兄ちゃんの居所が判ったんだって」
四階の清田の部屋へ伊津子がかけ込んで来て言った。昭和へ転移した直後、飛稚《とびわか》が火の海から救い出した、イッちゃんだった。もう三十歳になった筈だが、妖艶《ようえん》な美女になっている。飛稚の戸籍を作る時、みずからイッちゃんと名乗るだけだった彼女は、富田伊津子として、飛稚の妹にされている。
「そうよ。もうすぐ帰ってくるわ」
伊津子を追うように入って来た令子が嬉《うれ》しそうに言った。
「あ、お姉さん……」
「彼は帰ってくるわ」
令子が言い、伊津子はその胸に身をなげかけるようにして泣きはじめた。
清田は、いったい自分たちは何という人間なのだろうと思った。考えてみれば、血のつながりもなく、ただ何年間かを共にしたというにすぎない。しかし、そのかりそめの縁によって結ばれた心と心が、実際の血族以上に深く触れ合い、離れようもなく倚《よ》りそって暮しているのだ。
その中心にトミーがいる。ヒとは、ひょっとすると本来そのために存在したのではないだろうか。原始の暮しをする人々を呼び集め、常人をこえた能力で人々をたすけ、心のふれ合いに力をかす……清田はいだき合う二人の女を眺《なが》め、自分の身内にもこみあげてくる熱さを感じる中でふとそう思った。
「彼はおしゃれよ。とってある服はどれもこれも流行おくれ……困っちゃうのよ。手伝って、イッちゃん。彼のものを用意しとかなくては……」
令子は伊津子の肩をだいて愉《たの》しそうに言った。その腕の中で、伊津子はうなずいている。
だが、思ったほど事は早く運ばなかった。
ゆさぶりは、さいしょの内相手に大した動揺も与えないものらしい。だが海津は根気よくあのテこのテでゆさぶりつづけているらしい。退陣、政権交代という声が次第に大きくなりはじめてはいる。大新聞はまるでもう首相の退陣が既定の事実ででもあるかのように、次の政権担当者が誰《だれ》になるかということだけに目標を絞《しぼ》りこんだ記事の扱い方をしている。
何かが早期退陣を裏付けているのだ。清田はそう思い、その日の来るのを待ち望んだ。
だが永びいている。後継者争いがこじれているらしい。乱立気味の候補者が、保守党内で次第に淘汰《とうた》されている。情勢は、浮田、棚下の二人に傾いて行くようだ。
浮田大蔵大臣は、首相直系の派閥構成で、最初から威力を誇示していた。棚下幹事長はその陰から次第に輪郭をはっきり現しはじめ、次々に有権者の支持を獲得して、遂に浮田蔵相と並ぶに至った。
「もう大丈夫だ」
清田の部屋へそう怒鳴りながら海津がやって来たのは、翌る年の夏が近い頃だった。
「痺《しび》れを切らしているんです。今度は本当でしょうね」
「今度こそ、まず間違いない。中出防衛庁長官を棚下陣営にまわした。今朝までかかったよ」
海津は流石《さすが》に疲れた表情をみせていた。そう言えば脂《あぶら》が浮いて睡眠不足の顔だ。「浮田が絶対に首相の座につけんことを証明してやったのだ。中出は例の件を知らないんで苦労した。知ってる連中はみな手を引いて棚下についたんだが、中出は若いし、まだ当分両方の中間でキャスティングボードを握っているつもりだったらしい。仕方がないから李剛従というあの窓口屋をつれてった。向うからもらった勲章やら、首相の献金に対する毛筆署名入りの礼状やら、帳簿や登記書類、そのほかありったけの証拠を揃《そろ》えて抛《ほう》り出してやったんだ。浮田は長い間蔵相で、いろんなテを使って首相の力になっていた。一蓮託生《いちれんたくしよう》の間柄さ。浮田を首相の座に据《す》えるんなら、これを公表するぞと脅《おど》したんだ。勿論首相も浮田も沈没だが、長い間その国外からの政治資金のために冷飯をくわされていた反主流が、そうなれば一遍に前へ出てくる。下手《へた》すれば党が割れるのさ。次の次を狙《ねら》う中出にしてみれば、それがいちばん困る。朝になってやっと棚下側へ入ることを承知した。今ごろは浮田もそれを耳にしてるだろう。だが彼は深入りしすぎてしまった。もう引っ込みはつかない。党大会は目の前だ。敗けると知ってて決戦の芝居をせにゃならん。……とにかく中出の件で全部おしまいだ。金もかかったがね」
「いくら……」
「四億だ」
海津は無造作に答えた。
七月五日夕方。
トミーがボルドーヘ入った。テレビは棚下幹事長の総裁就任を伝えていた。小差で決選投票に持込まれ、二度目には大差で棚下が勝ったのだ。保守党総裁は自動的に内閣総理大臣の座を得ることになる。
海津は首相の私邸で投票結果を待ち、浮田敗ると判ると、すぐ約束どおりトミーを引きとって来た。万一浮田が勝てばトミーはそのまま留め置かれ、浮田新首相にたらいまわしされるところだったという。
だが、トミーを迎えたボルドーは、沈み切っていた。
「ひどい。これじゃもう廃人じゃないか」
清田は海津に食ってかかった。
「俺《おれ》だって腹をたててる。こんなことになっているとは知らなかったんだ。アメリカで散々実験台にされたらしい」
トミーは車椅子《くるまいす》に坐り、清田の部屋でうつろな眸《め》を動かそうともしなかった。痩《や》せて、骨と皮ばかりと言った表現がぴったりとあてはまった。
令子と伊津子が身動きもしないトミーの膝《ひざ》にすがって泣きじゃくっている。
「これが今の政治だよ。アメリカとソ連、中国と台湾、ベトナムの南と北……間にはさまった人間は、みんなこんな風にされてしまうんだ。たとえ神の末裔《まつえい》だろうとな。嫌《いや》な世の中だ。何とかしようと思えば、右でも左でも、手荒すぎるくらい思い切ったやり方をしなければ事はすまない。俺はいま右にいる。しかし左の連中のやることだって、気持はよく判ってるつもりだ。駄目《だめ》なんだ、このまんまじゃ」
「トミーが庶民代表か。ヒがまた民衆の身がわりになったのか」
「大きにそうかもしれない。ヒははじめっからそう生れついているのかもな」
海津は憮然《ぶぜん》として言い、くるりと背を向けて出て行った。泣きたかったのかもしれない。
トミーの健康を回復するため、清田は全力を尽した。ただ安易に入院などさせ、万一身柄を奪われるようなことがあってはいけないと、ボルドーの四階にある自分の部屋にトミーを置いて、四階への侵入者を防ぐ装置を、二重、三重にとりつけた。令子がつきっきりで看病し、伊津子が一日おきに見舞いに来た。
トミー戻るの噂《うわさ》を聞いて、かつての子供村出身の誰かれが、会いたいと言って来たが、令子はおしゃれだったトミーの無残な姿を見せたくないと、それを断った。
「月だ。産霊山《むすびのやま》だ。ああ、猿飛……」
「またうわごとか」
清田が眉《まゆ》をひそめて令子に言った。
「産霊山《むすびのやま》は神の道。どこまでもつづいている。月のさきへ、どこまでも、どこまでも」
「うわごとを言う時は幾分意識がはっきりしているのよ。私の顔をみて名を呼んでくれることもあるの」
「キ、ヨ、タ……」
「ほらね」
「トミー。僕だ、清田だよ」
「芯の山の中は白い靄《もや》だ。腕を斬られた男が死んでいる。機械がたくさんある。……幸魂《さきみたま》、奇魂《くしみたま》、雲|伝《つた》う白銀《しろがね》の矢|奉《まつ》れ。東《ひむがし》の産霊山《むすびのやま》の上《え》に奉《まつ》れ。百《ももの》 穀《たなつもの》 なる。家給《いえつ》ぐ、日嗣《ひつ》ぐ、天下《あめのした》たいらぎなむ……」
「歌かい、それは」
「…………」
「妙な節だし、意味もよく判らないわ」
「いや、沖縄弁に似ていた。大昔の大和《やまと》言葉なんじゃないかな」
「権爺《ごんじい》、なぜ死んだ。犬走りの六、なぜ死ぬのじゃ。死ぬ前に神に会おう。芯の山ヘワタろう。行っていくさをすぐとめてもらうのじゃ。権爺、いますぐ生かしてやるぞ。六も……六と京へ戻ってゆずに子を生まそう。権爺と六とゆずと、みんなで暮すのじゃ。そうだ六のお母《かあ》も生かしてもらおう。令子や伊津子もいっしょに行こう。神籬《ひもろぎ》を組んで芯の山をワタリとおすのじゃ。どこかにきっとある。虚空《そら》のはてに。時のはてに。どこじゃ、どこじゃ……権爺。たすけてくれ」
「現代と戦国時代の記憶が入りまじってしまっているんだ」
清田は暗然と言った。
その時、電話のベルが鳴った。令子が立ちあがってそれをとった。
「えっ、そう。すぐ行かせるわ」
ガシャンと電話を置いた令子は、「大変よ、下に海津さんが……ひどい怪我《けが》をしてるんですって」
「なにっ」
清田は部屋をとび出した。階段をかけおり、準備中の店を抜けて正面のドアからとびだした。黒いプリムスがボルドーの正面の壁に鼻先きをこすりつけて停《とま》っていた。ウエイターの一人がおろおろと半びらきのドアの傍に立っていた。海津はハンドルに上体をもたれて、肩で大きな息をしていた。
「中へ入って手を集めてこい。上へあげるんだ」
「はいっ」
ウエイターはとんで行った。
「やられたよ。用心はしてたが、車で追いぬきざまだ。まるでシカゴギャングだ」
ガラスに穴がふたつあいていた。血が、プリムスの白いシートカバーをまっ赤に染めている。
「すぐなんとかする。本部へ連絡していいな」
「ああ」
「浮田か、相手は」
「判らん。判りっこない。政治のどんづまりがこれだ。俺もケネディばりになった」
海津はそう言って激しくむせた。
「何も喋《しやべ》らないで。じっとしていてくれ」
人手が集り、そっと海津は車から出された。もう人だかりがしている。
四階へかつぎあげると、一時失神していたらしい海津が目をあけ、
「ようトミー。元気かい」
と気丈に声をかけた。
「カ、イ、ヅ……」
「何だ、判るのか。どうも俺もこれまでらしいよ」
明らかに海津の顔には死相が泛《うか》んでいた。
「カイヅも死ぬ……」
トミーはつぶやいて目をとじた。珍らしくその顔に表情らしきものがあった。哀しげで、やがて目尻《めじり》から泪《なみだ》がこぼれた。
と、その時、
急に部屋の中に何とも言えぬ風のようなものが立った。雰囲気《ふんいき》、といったらよかろうか。
「あ……ああっ」
清田が叫んだ。トミーのうしろの壁の右側に、彼が苦心して手に入れた御鏡《みかがみ》が飾ってあった。その凹面鏡のような御鏡の中心部に、何かの波動が起っていた。
「あらっ」
令子が指さす左手の棚《たな》の上の依玉《よりたま》が、いつの間にか白光を明滅させ、その内部に沸きたつようなガスの渦動《かどう》がはじまっている。
ぶうん、という唸《うな》りがかすかに、どこからか聞えている。令子も清田も、海津を運んで来た男たちも、すくんだように動かない。
神籬《ひもろぎ》が作動している。だが伊吹《いぶき》はどこだ。いったい誰《だれ》が念じているのだ……。清田はそう考えていた。
清田は知らなかった。真下の部屋はフランス人の酒倉番《ソムリエ》親子のものだった。父親は相かわらず地下の酒倉で歴史の本を読んでいた。息子は傍で開店の準備に余念がなかった。そして誰もいない三階の部屋では、父親がフランスの田舎《いなか》で手に入れた、音叉《おんさ》のような鉄棒が唸《うな》りをあげている。三階の伊吹と四階の二つの神器が、傾いた正三角形を作りトミーはその中央近くにいたのだ。老酒倉番《ソムリエ》は、それを古代の武器だと信じて愛蔵していたのだった。
トミーの姿が一瞬の内に車椅子から消えた。かすかな鉄臭《かなくさ》さを残して……。
人々が夢からさめたように吐息をついたとき、海津は息たえていた。サイレンの音が近づいていた。
トミーは行ってしまった。
富田若男は行ってしまった。
飛稚はまた念力移動《テレポート》した。
いったいどこへ。
月へか。
産霊山の道を通って宇宙の涯へか。
彼方な理想社会を求めて未来のどこかへか。
そこに争いはないのか。
みな幸せに過せるのか。
……誰にも判らない。
*
清田は欅《けやき》の一枚板のカウンターで、無意識のようにトランプカードをもてあそんでいた。
「あなたは小説家だ。どうにでも結末はつけられる。その点しあわせなご商売ですよ」
その前でブランデーを舐《な》めていた丸顔の男が、照れくさそうに笑った。歯が少し黄色い。
「飛稚というのは、私にとって全く魅力的な人物です」
「よく書いてやってくださいよ」
「ええ、勿論ですとも」
「ヒとは……」
清田はカードを一枚つまんでその男に示した。「このジョーカーのようなもんでしょうね。ジョーカーはカードの中では孤独です。そのかわり、時にはオールマイティーを与えられます」
清田はそう言うと、つまんだジョーカーを白く長い指で二つに引きさいて床にすてた。
「だが、なくてもカードは使える。ゲームはできるのです。我々は彼に去られた。しかし我々は今までの生をつづけなければならない。そしてつづけられるのです」
壁の向うから、渋い女の唄声が聞えていた。小さなステージで、令子が客に聞かせているのだった。
「このカードもやがて使えなくなります。棄てられて、新しいカードとかわるのです。トミーはきっと未来へ行ったのでしょう。そう思いたいのです。それなら、我々はいつかは追いつけるわけですからね。彼が生きた時代に」
男は手帳をとりだして何かメモをとった。
「ジョーカーのおはなし、きっと作品の中に入れます。じゃ、今日はこのくらいで……あ、それから、タイトルをきめました。産霊山秘録というんです」
清田はかすかに笑い、男を送ってドアヘ向った。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。
(角川書店編集部)
角川文庫『産霊山秘録』昭和56年1月30日改版初版発行