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楽園伝説
半村 良
目 次
1 序 章
2 シダの女
3 銀世界の客
4 現代|奴隷《どれい》の地下組織
5 大銀行の売春婦
6 雪の襲撃者
7 とどめをさす男
8 肥《ふと》った評論家
9 水曜日の朝
10 ポルノ天国
11 避暑地の情景
12 坂道のレストラン
13 社員情報
14 鷹《たか》と鳩《はと》
15 奪われた書類
16 化石植物
17 地底世界アガルタ
18 陸軍大尉の影
19 想像と空想
20 蛇神と海神
21 奥の院の会話
22 朽木《くつぎ》機関
23 奥座敷
24 逆 転
25 尾行者
26 盲《めくら》の鷹《たか》
27 疑 惑
28 愛玩《あいがん》植物
29 地底からの侵略
30 攻 勢
31 情報動物
32 北への道
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1 序 章
植物相《フロラ》は明らかに熱帯のものであった。中でもことに目につくのは羊歯《しだ》の類で、優しく柔らかなその隠花植物群の中から、高さ二十メートルをこす樹木が点々と突きだしていた。
その樹木は今ではこの土地特有のものと言ってよく、高いものは三十メートルにもおよび、太さも二メートル近いものが珍しくない。
枝の先端に近づくほど葉が密生していて、幹に近い太い部分には、ほとんど葉がついていない。しかし、葉がない部分にも、以前先端の部分と同じように、スペード形のしなやかな葉を無数につけていた証拠があって、その菱形の葉枕《ようちん》の跡は、樹木全体を螺旋《らせん》状に覆《おお》っている。したがって、その様相はさながら鱗《うろこ》に覆われた蛇のようであり、見なれぬ目には幾分怪奇な姿に見えるかもしれない。
また、足もとの柔らかい土の上にも、見なれぬ植物が幾つかある。たとえば、三十センチほどの草とも木ともいいようのない植物は、全体が妖《あや》しいまでになまめいた淡紅色で、どことなく蘭《らん》に似た感じがするが、よく見ればこれも茎の表面にこまかい鱗状のものをつけている。
蘭といえば、今がその時期なのか、あたりには蘭の花が多い。それも、肉感的なシプリペディウムで、つやつやとしたその赤い花が咲き競っているあたりからは、何やら淫蕩《いんとう》な雰囲気さえ漂いだしている。
その中を、奇妙な蔓《つる》が複雑にからみ合って伸びている。蔓の一本は巨大な若芽のような植物につながっている。一人の男がその巨大な若芽の中にとじこめられているように見えた。
いや、とじこめられているのではなさそうである。二枚の肉厚の葉が豆のさやのように向き合っていて、男はそれをベッドがわりに、ゆったりと体を伸ばしている。顔には平和で満ち足りた表情が泛《う》かんでいる。恍惚《こうこつ》としているようだ。さやのようになったふたつの巨大な葉の内側には、うす茶色の繊毛《せんもう》がびっしりとからみ合っていて、男の体はそのうす茶色の繊毛の中に柔らかく浮いているような感じであった。
静かで平和な世界である。生きるための闘争など、どこを探してもないらしい。ホット・パンツをはいた女が、その前を通りすぎて行く。着ているものはそれだけだ。見事なプロポーションをした半裸の美女は、その先にある巨大な若芽のべッドへとびつき、男と同じように横になった。
「これ以上、何を求めることがある」
男は若芽のべッドに寝たまま言った。
「極楽《ごくらく》だ。これこそ真のパラダイスだ」
女が答える。
「そんなことを考えるだけ、あなたはまだここになれていないのよ」
「そうかな」
「あたしなんか、ここがパラダイスであることすら、もう忘れかけているわ。本当に、人間て、なんてひどい生活をしていたんでしょう。ひどい世界だったわ。生まれてこのかた、一秒だってこんな平和な気持ちになったことはなかったんですもの」
「来てよかった」
男はしみじみと言い、繊毛の感触をたのしむように、ゆっくりと寝返りを打った。その巨大な若芽はあちこちにあり、ひとつひとつに、半裸の人間がその男のようにまどろんでいた。
伊沢邦明《いざわくにあき》がその男の死に立ち会ったのは、十二月も押しつまったある寒い夜更《よふ》けのことであった。
場所は、東京の西武新宿線|上井草《かみいぐさ》駅近くで、広大な都《と》の運動場の外側をめぐる道であった。
駅へ向かって行く伊沢の靴音が、夜更けの道にひえびえと響いていた。まだ終電にはいくらか間があるといった時間で、そのひっそりとした道には、さっき乗用車が一台通りすぎたあと、静かな夜気を乱すものの気配は絶えていた。
その静かだった夜気をふるわせて、どこか遠くからエンジンの音が聞こえてきた。それも、ひとつやふたつではないようであった。どうやらその音は、運動場の反対側あたりを走っている単車のものらしく、駅へ向かっている伊沢の後方へ、いったんは遠ざかるように思えた。
ところが、ある程度まで遠ざかったエンジンの音は、伊沢の背後で停滞した感じになり、徐々に接近しはじめたようであった。
だが、それを特に気に留める必要は伊沢にない。彼はこの辺りの住人ではなく、運動場の近くに最近家を新築した、勤務先の上司のすまいを訪問した帰りなのであった。
もう会社は暮れの休暇に入っている。急ぐ必要は特にないが、このあたりで終電を逃がすと車を拾うのが厄介であった。伊沢は歩調をゆるめずに駅へ向かっていた。
と、単車の音が急に大きくなった。どうやら運動場の向こうのはずれから、伊沢が歩いている道へ出て来たらしい。傍若無人《ぼうじやくぶじん》な轟音《ごうおん》をまき散らし、急にハンドルを切ってタイヤに危険な叫びをあげさせながら、次々に角を回っている。多分|消音器《マフラー》を外しているに違いない。
伊沢はその騒音に思わずふり返った。鋭い光芒《こうぼう》が闇を切り裂いて入り乱れていた。その光源はやがて道路いっぱいにひろがり、ときどき重なり合うようにして揺れ動いた。
「カーキチめ」
伊沢は低い声で罵《ののし》った。そういえば、訪ねた家の客間にいた時も、近く遠く、何度かその騒音を聞いたようであった。狂ったように単車を駆《か》る向こうみずな若者の一群が、この深夜の運動場のまわりを駆けめぐっていたのだろう。
単車のへッドライトは、伊沢に向かって一直線に近づいてくる。伊沢には眩《まぶ》しい光が左右に不安定に揺れて見えるだけで、接近するスピードはよく掴めなかった。
光の幅が急にひろがった。何台かがひとけのないのをいいことに、歩道へ乗りあげて来たのだろう。伊沢は本能的に歩道の端へ身を寄せた。スピードに狂った若者がどんなに危険か、伊沢自身経験があってよく承知していた。
その狂気の一群は、すぐ通り抜けてしまうはずであった。
ところが、突然その轟音の中に金属が烈しく軋《きし》む音が混った。まぢかに迫っていた揺れる光が混乱し、
「やったァ」
という悲鳴のような声がいくつか聞こえた。甲高《かんだか》いブレーキの音をたてて次々に単車が停まった。先頭を走っていてうしろの異変に気づかなかったらしい車が一台、伊沢の目の前を猛烈なスピードで走り抜けて行った。|七五〇CC《ナナハン》であった。
「大丈夫か」
そういう声が低いエンジンの音に混って何度か聞こえた。光芒の半数ほどは横を向いていて、
「平気平気」
「ほっとけ」
という別な声がそれにこたえている。
横を向いたライトの中で、一人が重い車体をたて直すのが見えた。そのヘルメット姿は、前輪のあたりをしばらくいじっていたが、やがて少しびっこをひきながらサドルにまたがった。
停まっていたエンジンは一発で息をふきかえした。
「いいのかよォ」
そう叫ぶ者がいた。
「危《やば》いよ」
「行こう」
短い怒ったような声のやりとりがあり、すぐ単車は次々にスタートした。加速はすばやく、伊沢の前を通りすぎるころにはもう疾風《はやて》のような勢いになっていた。
最後までもたついていた一台も、ゆるく向きをかえ、その連中を追いかけた。
だが、伊沢は最後の車が向きをかえるとき、そのヘッドライトの光の中に、黒い人影が倒れているのに気づいた。
「待て……」
伊沢が走りすぎる単車へ歩道から身をのりだすようにして右手をあげた。それを見ると単車はいっそうスピードをあげ、運動場の先を曲がって見えなくなった。
伊沢は走りだした。運動場のコンクリートの壁に靴音が反響した。
男は歩道と車道の段差を枕にした恰好で、車道側へ体をのばして倒れていた。もしここへ車が来れば、男の体を踏んでしまうのはまず確実であろう。
伊沢はまず道の前後を眺め、近づく車がないのをたしかめてから、上を向いた男の顎《あご》の辺りにそっと触れた。
「縮尻《しくじ》ったよ」
男は力のない声で言った。
「黙っていなさい」
伊沢は言い、男の体をそっと歩道の上へあげようとした。どこか痛むらしく、男が呻《うめ》いた。
重い体であった。何度にもわけて、伊沢は少しずつ男の体を動かした。
「迷ってはいかんな」
男は自嘲《じちよう》気味に言った。
「黙っていなさい」
こうした場合、余り喋らせてはいけないということを、どこかで聞いたはずだった。伊沢は電話をかけるために立ちあがろうとした。
「待て、伊沢……」
倒れた男が言った。
伊沢はしゃがみ直し、急いでライターをつけた。
「誰《だれ》だ」
細い火が男の顔を照らしだした。
「あ……」
眉の濃い、やや面長の男性的な顔であった。伊沢は相手の名を呼ぶことさえ忘れてその顔を眺めた。
「お前に声をかけようかどうか迷っていた。うしろの車には気がついていたが、注意しなかった。お前に見つからぬよう、かくれるように歩いていた。そしてやられた。迷ってはいかんな」
その男を最後に見たのは五年も前であった。毎日顔をつき合わせていた。
「課長、大丈夫ですか」
思わず昔の呼び方がでた。
「かなりひどくやられた。内出血をしているかもしれん。骨も折れているらしい」
「ひでえ奴らだ」
伊沢は怒りの唸《うな》りを歯の間から洩《も》らした。
「たのむ。騒ぎになると困るんだ」
「どうすればいいんです」
「とりあえず、どこか人目につかない暗がりへ連れて行ってくれ」
「それはいいですが」
「早くしろ」
島田《しまだ》は伊沢をせきたてるというより、自分の苦痛をおさえつけるように、低く烈《はげ》しく言った。
「下手に動かすとよくないんですよ」
伊沢はつぶやくように言いながら、その男を左側からかかえ起こした。男は呻きながら腕を伊沢の首にまきつけて力を合わせる。
「この先に運動場の入口があります。どうにか塀の中へ入れるでしょう」
伊沢は傷ついた男を引きずるように歩いた。
「でも、今までどこにかくれていたんです」
伊沢は尋ねた。男の名は島田|義男《よしお》という。義男と書いたか義雄と書いたか、すぐには思い出せなかったが、とにかくそれは伊沢のかつての上司であった。
島田は有能な商社マンであった。学歴も一流で、社内でも有望視される人物の筆頭にいた。伊沢は島田の鋭敏な感覚と正確な判断、そして磊落《らいらく》な人柄に敬服しきっていた。とかく無気力なマイホーム主義に陥《おちい》りやすいサラリーマン社会で、頑固に独身を守り通している点も好ましかった。島田も伊沢に目をかけていて、二人はぴったりと呼吸が合っていた。
それが突然|失踪《しつそう》した。誰も原因を掴めなかったし、理由も思い当たらなかった。五年前のことである。
「お前、前原《まえはら》のところへ何の用で行った」
島田は別なことを問い返してきた。運動場の入口の扉はぐらぐらとゆるんでいて、無理をすればその合わせ目から忍び込めそうであった。
「仕事のことです」
「よく行くのか」
「いいえ」
伊沢が体を横にして先に中へ入り、島田を引っぱり込んだ。
「どんな用件だ」
島田は苦しそうにまた尋ねた。
「言いたくありません」
「なぜ」
「汚い話です。僕は苦情を言いに行ったまでです」
「どんな」
伊沢は管理事務所らしいところへあがる階段の下へ島田を連れ込んだ。そこなら人目につくはずはなかった。
「島田さんはもう部外者ですよ」
そっと寝かせながら言う。
「つめたいんだな」
島田はかすかに笑った。左手で上着の胸ポケットをさわってみせる。
「メモがある。出してくれ」
伊沢が言われたとおり紙片をとりだすと、
「電話番号が三つ並んでいる。いちばん下の番号へかけて、俺が事故にあったと言うんだ。この場所を教えれば迎えに来てくれる」
伊沢はそのメモを握り、すぐ出て行こうとした。
「待て。ほかには誰にも言うな」
「ええ」
伊沢は入ったばかりの扉のすき間を用心深く抜けて通りへ出た。
いったいどんな立場になっているのか見当もつかなかったが、島田が内密を要する立場にいることだけはよく判った。
失踪。蒸発。
さまざまの噂《うわさ》の種にされながら、島田は人々から忘れられていった男である。それが今、ひょっこり闇の中から姿をあらわした。どうせかなりの秘密をしょいこんで生きているに違いなかった。
怪我《けが》をした島田には悪かったが、伊沢はどこか心の底に浮き浮きしたものがあるのを感じながら、駅前へ公衆電話を求めて急いだ。
島田は伊沢が今までの人生で行き合った、最も男らしい男であった。突然消えた時にはうらめしく思ったし、そのあともずっと再会できることを願いつづけていた。ことに島田のあと伊沢の上司に納まった前原の陰湿さを思うたび、反射的に島田を懐かしく思い出すのだった。だが、今ではその島田のいた課長の椅子に、伊沢自身が坐っている。
伊沢は駅前の赤電話の前でメモをひろげた。受話器をとり、硬貨を落としてダイヤルをまわした。すぐ若い女の声が聞こえた。
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2 シダの女
赤電話の受話器から聞こえてくる声は、待ちかねていたような弾《はず》みが感じられた。
「はい。シダです」
伊沢はちょっと気勢をそがれたようであった。籠《こも》った男の声ででもあれば、島田が何か秘密の組織にでも加わっているようで、なんとなく納得できたのだが、若い女の弾むような声では、どう言っていいか戸惑《とまど》ってしまうのだった。
それに、シダというのもひっかかった。シマダなら問題ないが、シダというのは、世間に多い志田という姓なのか……、それとも植物の羊歯《しだ》なのか……。植物の羊歯だとすれば当然人の姓ではなかろう。暗号のようなものか、さもなければ店の名か。
「もしもし、どなたですか」
女の声の調子が少しかわった。伊沢はあわてて言った。
「島田さんに頼まれた者ですが」
「はい」
「島田さんをご存じですね」
「よく存じあげています」
あまり深い関係の女ではないなと思った。
「島田さんが事故に遭《あ》われましてね」
「まあ……」
女は絶句する。
「ちょっと動けない状態なんです」
「どこでです。傷はひどいんですか」
「命にかかわることもなさそうですが、まだくわしいことは判りません。とにかく迎えに来てやってください」
電話番号から推《お》すと、3があたまの局番で、それならあまり遠くないような気がした。
伊沢は丁寧に場所を教えてやった。交番の若い警官が退屈そうに伊沢のほうを見ており、伊沢はできるだけ何気ない風をよそおっていた。
女は道順を鸚鵡《おうむ》がえしにとなえ、話しおわるとあわてて名を尋ねた。伊沢はただ島田に頼まれた者だとだけ言って電話を切った。
そのあと、伊沢は当然のように急いで負傷した島田がかくれている運動場のほうへ戻りかけたが、ふと手にしているメモに気づくと街灯の下で立ちどまり、手帖をだしてそこに書かれている三つの電話番号を写し取った。一番下の番号に、シダ、と片かなで書き足すと、急に島田をとりまく世界に対する好奇心がつのった。
将来を約束された優秀なビジネスマンの失踪。それだけでも謎であったのに、今夜不意に現われて、理不尽《りふじん》な若者たちによって負傷させられ、救急車も警察も呼ばず、かえって自分から身を隠そうとしている。
いったい、蒸発してからの五年間、どんな生活をしていたのだろうか。負傷で弱ってはいるが、うらぶれた様子もなく、昔以上に鋭い感じを漂わせている。
ひとけの絶えた道を戻りながら、伊沢は島田の秘密に立ち入りたいと思った。
何かがある。それは直感であった。島田はいま、何か活発に活動している。たとえそれが警察を避けねばならぬような事柄であっても、島田のような人物がしている以上、それなりに理由があり、立場を変えて見れば、そのほうが正しくさえあるのかもしれない。
伊沢はそう考えながら運動場の横を通る一直線の道へ出たが、一、二歩行ってさっと戻った。懐中電灯の灯《あか》りがふたつ、島田が負傷させられた事故現場あたりに動いていたからだった。
パトロールの警官かと思った。しかし、曲がり角からよく覗《のぞ》くと、警官ではなかった。一人は白っぽいトレンチ・コートを着たかなりの大男で、もう一人は黒か茶か、どちらにせよ濃い色のオーバーを着ていた。
その道はあまりにも見通しがよく、点々と街灯がともっていたので、気づかれずに接近することは困難だった。
伊沢は体を翻《ひるが》えすと、もう一本駅寄りに戻った道から、運動場の塀と平行に突っ走った。門の真正面へは出られないが、斜め前あたりの駐車場を横切れば、見とがめられずに接近できるはずであった。
伊沢が砂利《じやり》をしいたその駐車場へとびこんで、まばらにとめてある車のかげからかげをつたって運動場の門のほうへ近寄ると、すでに二人の男は木の門のすき間から中へ入りこむ余地があるのを発見したところであった。
「調べてみろ。遠くへは行けないはずだ」
濃い色のオーバーを着たほうがそう言っている。トレンチ・コートの大男は、さっき伊沢がやったように、両びらきの門の一方を足で内側へ押しつけ、背中でもう一方を外へ押してすき間をひろげると、するりと中へ忍びこんだ。
しばらくそのままの状態が続く。あたりはしんと静まり返り、オーバーの男が灯りを消し、かわりに煙草を出して火をつけた。
一瞬男の首から上が見えたが、冷たいこがらしの吹く晩で、男は最初から下を向いて火に顔を近づけていたらしく、頭髪しか見えなかった。
ヒュッ、という鋭い音がした。口笛ではなく、歯笛を鳴らしたようだ。オーバーの男は煙草を手に持って門の間をのぞいた。
伊沢はギクリとした。バリバリッという薄い板を踏む音がしたからだ。島田をかくしたとき、階段の下にそんな板きれが乱雑に積んであったのを思いだしたのである。
その音はすぐ何度かあわただしく続いた。
「やれっ……」
外の男が門の中へ言った。
板の音がもう一度して、あたりはまた静かになった。伊沢は息をのんで次の状況を待った。門から白っぽいトレンチ・コートがあらわれて、少しがたついた門を丁寧《ていねい》に元どおりに合わせた。
「やったか」
「はい」
二人は短く言いかわし、足早に駅と反対の方向へ歩きだした。どんどん遠ざかって行く。車が一台その前方からやって来て二人とすれ違い、伊沢の目の前を呆気《あつけ》なく通りすぎた。男たちはさっき単車が出て来た道とは反対に左へ曲がって姿を消した。
待ちかねていた伊沢がとび出す。道を横切って門へ体当たりをくらわせ、一気にすき間をあけて中へ入った。
「島田さん……」
階段の下の暗がりへ声をかけた。バリッと、さっき聞こえたのと同じ音がした。階段の下へ入りこんだ伊沢が手をのばすと、つるりとした感触があった。靴らしい。だとすると、島田は脚を長く伸ばしているのだ。伊沢はその靴をゆすった。足首から靴は無抵抗に動いた。
伊沢は急いでポケットからライターをさぐりだして火をつけた。何かの催しに使ったプラカードの残骸の中に、島田の体があおむけに伸びていた。
ライターが熱くなって、伊沢は火を消した。傷は刀創ではなかった。左胸部に二ヵ所、腹に一ヵ所……たしかなことは判らないが、服のしみの様子からして三ヵ所の傷があるのが判った。
銃声は聞こえなかった。伊沢はすぐ近くにいたのだから、普通の銃なら音は当然聞こえるはずである。現に板を踏み割る音まで聞いているのだ。
とすれば、特殊な消音機構がある銃に違いなかった。
なぜ、誰が……。
当然そういう疑問が湧いてきたが、伊沢はそれをおさえつけた。まず、自分はいま安全かどうかだった。板を踏まぬように用心しながら門のところへ行き、道の左右をうかがった。何の気配もなかった。
次は自分がこの事件に巻き込まれてもいいかどうかだ。つまり、警察へ報《し》らせるべきかどうか……。
否という答えがあった。すでに単車の事故をかくしている。赤電話へ行ったとき、あの若い警官が伊沢を見憶えているはずであった。本来なら単車による事故を彼に報《し》らせるべきなのに、さりげない態度でごまかしてしまっている。おまけに、島田を門の中へかくしたのも伊沢だ。それを依頼した島田の口がとじてしまっている以上、事態は紛糾するにきまっている。
第三に、救急車さえ避けた島田が救《たす》けを求めたあの女がまだ着いていない。
伊沢は危険をおかすことにした。島田が生きていたらそうしたと思われるとおり、じっと救出の車が来るのを待った。ただし、用心のため島田には近寄らず、テニスコートの下の物かげへ入って、じっと門のあたりを監視していた。
たっぷり十五分かかった。その間に何台か車が塀の外を通過し、最後にのろのろと進んで来た車が門の前で静かに停まった。
すぐ、細い華奢《きやしや》な影が門からすべりこんで来た。続いて大きいのが二人。最初のが女であることはすぐ判った。黒いスラックスに黒いセーターを着て、まるで忍者のようなスタイルであった。
三人はすぐ島田が倒れているのをみつけた。さっと緊張してあたりに気を配る。伊沢は身をかがめて小石を二つ拾い、最初のを三人のすぐ近くへ抛《ほう》り、続いて自分と三人の中間あたりへ落とした。そうしておいて、ゆっくり姿をあらわした。
二人の男の手に光るものが見えた。
「俺が電話したんだ」
伊沢はささやいた。
「誰が島田氏を殺《や》った」
「知らん。電話をして戻ると、男が二人いた。一人は中年すぎ、一人はトレンチを着た大男だ」
「黙って殺られるのを見ていたのか」
「やっぱり死んでいるのか。まさか殺すとは思わなかった。それに、兇器は多分サイレンサーつきの銃だ」
「銃声はなかったのか」
三人は何か思い当たるらしく、顔を見合わせた。
「まるで……」
伊沢が首を振って見せる。
「連れて行こう」
男たちはそう言い、女に命じた。
「そいつを押えておけ」
黒ずくめの女はさっと伊沢のうしろへまわった。服地を通して硬いものが背中に突きつけられた。
二人の男は思い切りよく閂《かんぬき》を外して門をあけ放った。島田の頭と脚を持って車へ運んで行き、一人が戻って来て手まねきをした。
「静かに車へ乗って頂戴《ちようだい》」
背中を押され、伊沢は外の道へ出た。車はライトバンだった。
「乗れ」
男が言った。伊沢はシートへすべり込む。その両脇へ男たちがはさみつけるようにすわった。運転は女。
女は黒い毛糸で編んだ帽子をかぶっていた。車がスタートするとすぐ、伊沢はふり返った。あけ放った門が見えていた。うしろのスペースにシートをかぶせたものがあった。島田の死体である。
前を向くと、女が黒い帽子を右手でもぎとるように外した。柔らかそうな髪が、狭い肩いっぱいにひろがった。
「電話に出たのは彼女か」
伊沢が尋ねると、男たちは二人同時に深く息を吸い込んだ。車が急にスピードをあげた。このあたりは杉並《すぎなみ》区のはずれで、今の線路をこえるとすぐ練馬《ねりま》区だなと思ったとたん、伊沢は意識を失った。
気がつくと目の前がまっ白だった。両手の自由を奪われていた。うしろへまわした両手首が痛み、肩胛骨《けんこうこつ》のあたりも何か堅いものに当たって痛かった。
眉を寄せ、目を細めると、白いのではなく強い光に正面から照らされていることが判った。
「痛《いて》えなあ」
伊沢は呻《うめ》くように言った。
「ギャング映画の見すぎだよ。何も頭を撲《なぐ》らなくたって」
「ごめんなさい」
若い女の声が光のうしろでした。
「気が立っていたのよ」
伊沢は頭を振って言う。
「島田さんが殺られた直後だ。同情はするけれど、心得のない奴が映画みたいにポカンとやると、死んじまうっていうぜ」
「島田氏をどの程度知ってる」
男の声がした。
「俺は島田さんの部下だった。島田さんが蒸発するまではな」
「超栄《ちようえい》商事の人間か」
「そうだ。今じゃ課長だよ。五年前島田さんが使っていたデスクにすわっている」
「なぜあそこにいた」
「偶然さ。前原という上司の家があの近くにあるんでね」
「何の用で前原をたずねた」
「島田さんにも同じことを聞かれたよ。でも答えなかった」
「なぜだ」
「超栄商事の企業秘密だからさ。島田さんはもう社の人じゃない。だから言わなかったんだ。もっとも、あれからゆっくり話し合っていれば喋《しやべ》ったかもしれん。その企業秘密が気に入らなくて、前原氏の家へ文句を言いに押しかけたんだからな。今のうち言っておかないと、新年になるとまた言いそびれる」
「島田さんから何か聞いたか」
「いや、何も……」
「このメモはどうした」
ポケットを探ったらしい。
「島田さんに渡されたのさ。連絡してくれと言われたんだ。そしたら彼女が出た。そうだろう」
伊沢はまるで見えているかのように、顎《あご》をしゃくって女を示して見せた。
「よしましょうよ、こんなこと」
「でも……」
「もういいじゃないの」
すっと光が消えた。伊沢は自分があまり大きくない撮影用のスタジオにいたのに気づいた。これならライトを使うのは簡単だろう。
「ほどいてくれよ。痛くてしようがない」
「悪い人じゃないわ」
女が保証するように言う。
「とにかく俺は今のところ島田さん側だ」
伊沢はそう言い、男が一人うしろへまわってロープをほどいた。
「ところで、そっちはどうなんだい」
「何がよ」
女はほっそりした体を椅子から浮かせた。美人だった。それに垢抜《あかぬ》けている。
「俺は警察も呼ばなかったし、逃げ出しもしなかった。偶然巻き込まれたにしては、少し君らの力になりすぎたくらいさ。でも、君たちは島田さんとどうなんだい。敵かい。味方かい」
「あなたにたのんで救けを求めたくらいじゃないの。きまってるでしょう」
「じゃ、相手の心当たりもあるんだな」
女たちは黙りこくってしまった。うしろへまわった男がロープを丸めている。
「名前は……俺の名刺を見たはずだから、こっちの名前は知ってるだろう」
女は顔をしかめた。
「この件については沈黙を守ってくれるわね」
「守らざるを得んさ」
「じゃあ黙って帰って。せっかく協力してくれたんだから、もう少し頑張ってよ。あとで連絡するから」
「たしかだな」
伊沢は鋭く突きだしたバストの辺りを見つめて言った。どこかでその女に見憶えがあった。
伊沢は白い壁にかこまれたその部屋を見まわし、急に思いだした。たしか雑誌のグラビアでよく見る顔だった。女はモデルなのだ。
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3 銀世界の客
伊沢はポケットを探った。上着にもズボンにも、持物は何ひとつ入っていなかった。
「煙草を吸いたいんだがね」
すると、伊沢の体から外したロープを手にした男が立ちどまって、反射的に自分のポケットへ手をいれた。
女が首を横に振ってみせ、
「あなたの持物は全部あそこにあるわ」
と、スタジオの隅にある木の丸いテーブルを指さした。伊沢は立ちあがり、そのほうへ歩きかける。
「痛《いて》えなあ」
ぼやくように言い、後頭部へ手をやった。車の中で撲《なぐ》られた部分がはれあがっている。
女はことさらそれを無視していた。その時電話のベルが鳴り、もう一人の男が受話器をとりあげた。伊沢は煙草を咥《くわ》え、財布や手帖をポケットにしまいながらまた女を見た。
「はい。ここにいます」
電話を受けていた男が、受話器を女のほうへ差しだして見せた。どうやら、ここではその女がリーダーであるようだった。
伊沢は最後にライターをとりあげ、咥《くわ》えた煙草に火をつけた。細めた目でまだ女をみつめている。
美人であった。まったく化粧をしていない肌は、少し血の気がなさすぎるほど白かったが、どことなくなげやりな態度と、それでいてひどく敏捷《びんしよう》そうな瞳が、伊沢の好みにぴったりであった。
「はい」
女は受話器を男から受け取るとすぐ、伊沢のほうへ視線を移した。値踏みでもするような、醒《さ》めた目であった。
「そうですね」
女は伊沢をみつめたまま言う。伊沢はその視線を、わざとからみつくような目で受けとめていた。だが、女はそうした伊沢の挑発にはまるで乗ってこなかった。視線はからみ合っても、男と女の色合いにはなりそうもない。伊沢はあきらめてかすかに肩をすくめ、灰皿を探した。
「はい、そうします」
女はそう答えて電話を切った。何かの手がかりになるような言葉は、とうとうひとつも聞かせなかった。
灰皿は汚れたソファーのそばにあった。伊沢はそこへ行って灰を落とすと、弾力の抜けた古いソファーへ体を沈めた。
「君に見憶えがあるな」
探りを入れるように言った。女はロープを持った男と低い声で何か話しはじめていた。
もう一人の男が伊沢の前へ来て言う。
「そうだろうさ」
煙草を咥え、右手を伊沢の顔へ突き出してパチンと指を鳴らした。伊沢はライターを渡す。
「ポスターで見た顔だ」
伊沢はその男に言った。
「テレビのコマーシャルでもな」
男は伊沢のライターで火をつけ、軽く投げ返した。
「美人だな」
「あんた案外|呑気《のんき》な性分らしいな」
「なぜ」
「それが最後の煙草になるとは考えないのか」
冷たい声音《こわね》である。
「俺は君らの敵ではない。少なくとも今のところは味方のはずだ。君らのボスが帰ってもいいと言ったぜ」
男は首を振る。
「いまあんた、彼女の顔に見憶えがあると言ったろう」
伊沢はしまったと思った。
「誰だって知ってるさ。売れっ子のモデルさんだ。いろんなコマーシャルに出てるしな」
「秘密が守りにくいだろう。殺人事件だしな。警察に聞かれて黙っていられるかい」
「君らが殺《や》ったんじゃない。それは俺が一番よく知ってる」
「殺った奴は俺たちが知ってる。それは問題外だ。あんたは俺たちが島田氏を救出しにあそこへ行ったことを知っているし、死体を運んだことも知っている。そのうえ運んだ人間の顔や名までな」
「知らないね、そこまでは」
「知らなくても、ポスターを指させばおわりだ」
「俺は喋《しやべ》らん。少なくとも今のところはそのつもりだ。でも、心配なんだな。どうやって俺の口を封じる気だ」
男は冷笑した。
「俺たちは今、島田氏の死体をかかえている。始末しなければならない。死体の処理は厄介《やつかい》だが、手間は同じだよ。ひとつでもふたつでもな」
伊沢はとびあがるようにソファーから立つと、男がさっと腕をのばしてその肩を押えた。伊沢の左肱《ひだりひじ》が男の喉もとへ行き、右の拳がボデーを狙った。
「やめて……」
女が鋭い声でとめた。
伊沢は左手で男のごつい手をつかみ、ゆっくりとスタジオを出た。スランバー・マスクをされていて、何も見えなかった。何度も曲がる階段を降りて行く。階段は木造で、だいぶ幅が狭いようであった。
「また撲る気なら、さっきのところはよけてやってくれよな」
からかうように言った。
「冗談を言ってる場合か、あんた命びろいをしたんだぜ」
伊沢の手を引いている男が言った。
「黙って歩け」
さっきの冷たい声が伊沢のうしろで聞こえた。やがて階段はおわり、廊下のようなところへ出た。床はどうやらコンクリートらしかった。
急に空気がひんやりとした。伊沢は広い場所に出たらしいと思った。新築のビルへ入ったような匂いがしている。
すぐ近くで車のドアをしめる音がした。エンジンをかける音がそれに続く。でも、ガレージにしては油の匂いがせず、少し様子が違っていた。
「車に乗るんだ。マスクを外すなよ」
手を引いてくれている男が言った。伊沢は手さぐりで車の中へ入った。シートの幅や広さで、二〇〇〇CCクラスの車らしいと感じた。
パタンと車のドアが閉まった。誰かが伊沢の体へかすかに触れて行った。ドアのロックをしたらしい。エンジンの音に混って、何か重い物が軋《きし》む音が聞こえた。車がゆっくり動きだし、一度何かを乗りこえるショックがあってまた停まった。ガクンと体が沈んだ。昇降機《リフト》の重い唸りとともに車が浮いていく。
「大したスタジオだな」
伊沢が言った。
「余計なことは喋らないほうがいいぜ」
となりで男が言った。優しいほうの声であった。
昇降機《リフト》がとまる。車はエンジンをふかして少し乱暴に動いた。
「大丈夫かい」
さっきの冷たい声が聞こえた。前の窓から声をかけたらしい。
「ええ」
女の声が答える。またあの女が運転しているのだ。
「たのむぞ」
「うん」
今度はとなりの男が答える。車は走りだした。
「いいと言うまでマスクを外さないでね」
女が言った。
「東京の街なんか今さら見たってしょうがないさ」
伊沢は軽く笑った。
「あなた、会社はいつからなの」
「仕事はじめかい」
「ええ」
「六日からだ」
「まだ十日はあるわね」
「うん」
「その間、どこへも連絡しなくていいの」
「かまわんさ。上司の家へ年始まわりすることもないしな」
「ご家族は」
「独身さ。おやじと兄貴がいるが、田舎だ」
「ちょうどよかったわね」
女は感情のない声で言った。
伊沢がスランバー・マスクを外されたのは、調布《ちようふ》の飛行場に着いてからであった。
「ここから飛んでもらうわ」
マスクを外したとき、前のシートからふりかえった女がそう言った。
伊沢はあたりを見まわし、飛行場だと判ると、ちょっと驚いて女になじるような言い方をした。
「どこへ連れて行こうというんだ」
「私たちはここでお別れよ」
「やれやれ」
とりつく島もない表情に、伊沢はため息をついた。
「とんだことに巻き込まれたもんだな」
女は腰をすえて何かを待つらしく、シートに深ぶかと体を沈め直して言った。
「あなたはラッキーだったのよ。今日はじめてこれに巻き込まれたのなら、ひょっとすると今頃は島田さんと一緒に寝てたかもしれないのよ」
「あのごつい奴もそう言ってたな」
「でも、あなたは以前から島田さんを知っていた。命びろいをしたのは島田さんのおかげよ」
伊沢は窓の外の暗い飛行場を眺めた。
「いったい誰が島田さんを殺《や》ったんだ。君らは知っているんだろう」
「今のところ、ノーコメントね」
女の声は低く沈んでいた。
「悲しんでいるのかい」
「あたりまえじゃないの。島田さんはいい人だったわ」
女は憤《おこ》ったように言う。
「たしかにいい人だった。俺はあの人が好きだった。なぜ失踪したんだろう。そのわけも、どうやら君たちは知っているらしい。だが、聞いても教えてはくれまい」
「ええ。今のところはね」
「いいさ。急がんよ。でも、こうなった以上、俺は島田さんがなぜ殺られたか、どうしても知ってみせる」
「知ってどうするの」
「かたきをとる。場合によってはな」
女は体を起こし、ふりむいてしげしげと伊沢をみつめた。
「ひとつだけ教えておいてあげるわ」
女の目にはじめて好意らしいものが見えたような気がしたが、ほの暗い車のルームランプの下では、それもさだかではなかった。
「島田さんは、あなたを味方に加える気だったのよ。ある人たちへ、仲間に加えるよう言ってあったそうなの。あなたはそれで助かったんだわ」
伊沢は思わず唇を歪《ゆが》めた。
「まるで俺をどうにでも思いどおりにできるような口ぶりだな。生かすも殺すもそっちの胸三寸か。冗談じゃない」
女は前を向いてしまう。
「縛《しば》っていたロープをほどいたのは、あなたの体に縄のあとがつかないようにするためよ。どのくらい危険なところにいたのか、まるで気がついていないのね。あなたの肌からロープのあとが完全に消えたら、あなたは死ぬ運命だったのよ」
女の言い方にはからかうような響きがあった。
「物騒《ぶつそう》なことを平気で言うんだな。化粧品会社がよく君みたいなモデルを使っているね」
女は鼻の先で笑ったらしい。肩がひくりと動いたようだった。
「たしかに危いところだったようだが、君らはいつもそんなようにして、罪もない人間を消しているのかね。ただ通りすがった、ただそばにいた……それだけのことで」
「人殺しみたいに言うなよ」
となりの男が伊沢の脇腹を小突《こづ》いた。体格は立派だが、よく見るとなかなかのやさ男であった。彼もモデルらしい。
「とにかく行って頂戴。そうすれば何もかもはっきりするわ」
女はそう言って会話を打ち切った。
空が白むとすぐ、伊沢はセスナに乗せられて東京を離れた。乗客は伊沢一人だけで、パイロットのほかにもう一人、丸顔の男が前の座席にいて、飛行中ずっと伊沢の態度に気を配っているようであった。
伊沢はそのセスナが北上していることを感じていた。しかし、東京を離れてしまうと、朝靄《あさもや》のわずかな切れ目からだけでは、位置の見当がまるでつかなくなってしまった。尋《たず》ねるにも爆音の中では気軽に声もだせない。
伊沢は肚《はら》を据えて睡《ねむ》ることにきめた。ゆうべからろくに睡っていないのだ。
エンジンの回転音がかわったので、浅い眠りからさめると、そこは小さな飛行場であった。呆気《あつけ》なく着陸し、セスナから降りると、あたりはすっかり明るくなっていたが、空はどんよりと曇っていた。
伊沢は飛行場に待っていた整備員らしい男にせきたてられて、すぐそばのヘリコプターへ移された。ヘリに乗りこむと外からドアが閉められ、そのまま二十分近くを待たされた。やがて、まっ赤なジャンパーを着た男が、悪気《わるぎ》のない表情でその小さなヘリの操縦席へ入りこみ、伊沢に軽く手をあげて見せてからエンジンを始動させた。
あたりにはちょぼちょぼと雪が見えていた。何日か前に少し降り積もったらしいが、とけてしまったのだろう。
ヘリの高度が増すと、どうやら宇都宮《うつのみや》近辺らしいと判った。ヘリは必要な高度まで昇ると急に機体を傾けて、白い雪をかぶってつらなる西側の山なみへ吸い込まれるように向かって行った。
眼下の景色がみるまに白くなっていく。ヘリは猪苗代湖《いなわしろこ》の北へ向かっているらしい。磐梯山《ばんだいさん》が大きく見えてきた。
ことしは雪が例年より早かったせいもあって、どこのスキー場も活況を呈しているということであった。伊沢の同僚や後輩も、この年末年始の休みを利用して、何人もスキー場へ出かけているはずであった。このあたりへも来ている者がいるかもしれない。
伊沢がぼんやりとそんなことを考えていると、ヘリはいったん西へ向けた針路をまた北に変えた。秋元湖《あきもとこ》、檜原湖《ひばらこ》あたりの複雑な水系が、銀世界の中に鈍く光って見える。
いったい、どこへ……。
伊沢の頭に新しい疑問が湧きあがってきた。このあたりの道路はとうに雪でとざされてしまっているはずであった。その疑問には強烈な好奇心がともなっている。昨夜から、あっという間に謎の渦中に投げ込まれ、しかもその謎はますます深くなっていくようなのだ。
「こいつは面白いぞ。寝正月よりはよほど贅沢《ぜいたく》なことになりそうだ」
伊沢は声に出して言った。パイロットが声を感じてちらりと顔を向けたが、すぐ前を向き、機体を大きく傾かせた。
白一色の世界が迫って来た。よく見るとスキーの痕《あと》や雪上車の痕らしいものが見えた。それが集中しているあたりに、四角い突起があるのが判った。建物だった。長方形をしたコンクリートの建物らしかった。
ヘリは一気に舞い降りている。派手な色彩のアノラック姿が、五つ、六つとその建物から出て来ていた。ヘリは傾斜した姿勢を直し、水平になると雪の上へゆっくりと降りて行った。
雪が風に煽《あお》られて一斉に舞いあがった。
それが収《おさ》まり、ローターがとまると、深い雪を踏んで二人の若い男が駆け寄って来てドアをあけた。
「いらっしゃいませ」
鄭重《ていちよう》にそう言い、もう一人がヘリの中をのぞき込んだ。
「あの、お荷物は……」
「ないよ」
雪の中へ脛《すね》の辺りまで足をめり込ませて伊沢が答えた。男たちはホテルのボーイらしかった。着いたヘリを見物している男女はどうやらスキー客らしく、一階のラウンジらしいところにもかなりの客がたむろしているのが見えた。
伊沢は二人の男のあとについて建物へ向かいながら首をひねった。何がどうなっているのか、まるで見当がつかなかったのだ。
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4 現代|奴隷《どれい》の地下組織
そこは豪雪地帯の中心部であった。観光道路は降雪が始まるとすぐ閉鎖されてしまい、雪を待ちかねていたスキーヤーたちも、その地帯のほんのとば口に当たる幾つかのスキー場へむらがり寄って来るにすぎない。
倉山《くらやま》ホテルはそんな場所にあった。交通はとうに杜絶《とぜつ》して、白雪|皚々《がいがい》とした冬景色の中の効果を予想したと思われる白亜《はくあ》の建物が、すでに雪に埋まって雪の一部と化していた。
近傍《きんぼう》に民家はまったく存在しない。昔から、雪の季節には無人地帯となる地域である。たっぷりと備蓄した燃料と食料、それに発電、暖房、給水給湯などの近代的な設備だけが、ここでの越冬を可能にしているのだ。
「雪の豪華船……。いいキャッチ・フレーズでしょう。気に入っていたのですよ。しかし、こういうホテルでは一般向けの宣伝活動など必要ありませんからな」
横井《よこい》と名乗るその支配人は、きちんと着こなしたディナー・コートの肩をひくりとさせて言った。
伊沢はやっと体が芯《しん》まで暖まってきたところであった。寒さで堅くなっていた胃の辺りの筋肉もだいぶほぐれ、帰りようのない場所へ送り込まれて、かえって度胸が据わった感じであった。
「なるほど、ここは船の上と同じですね。スキーをはいたくらいでは、麓《ふもと》まで辿《たど》りつけっこないでしょう。陸も見えない沖へ来て、海へとび込んで泳いで帰ろうというのと同じだ」
横井というその支配人は、感じのいい男であった。スポーツマンのような屈託《くつたく》のない笑顔を見せている。
部屋の中はカラフルであった。床はグリーン、壁はべージュ、カーテンはオレンジといった具合だ。雪にとざされたホテルでは、そういう色彩への配慮が必要なのだろう。
「まず聞いておきたいことがあります」
伊沢はポケットをまさぐって煙草をとりだしながら、さりげない調子で切り出した。
「はい、何でしょう」
支配人はテーブルの上のライターをとりあげて言う。
「僕はどういう立場なんですかね」
伊沢は横井支配人の差し出す炎で煙草をつけた。
「立場……」
「このとおり、煙草も」
伊沢は煙草の袋をゆすって、切り口から残りの本数をかぞえた。
「あと三本しかない。日にふた袋は吸うんですよ。それに、金も大して持ってはいない。ここがどんなホテルか、一歩中へ入ったとたん、よく判りましたよ。コーラ一本仕入れるんでもヘリコプターを使わねばならんのでしょう」
「秋のおわりに、たいていのものはひと冬分ここへ運んでしまいます」
「それにしてもです。山の中の一軒家という以上に、ここは世間から隔絶してしまっている。あらゆるものがべら棒に高くなってしまうはずです」
支配人はすまなさそうに目で頷《うなず》いた。
「こういう所があると知ったら、僕もきっと来たがったでしょう。でも、今の僕はいきなりここへ連れて来られたんです。したがって、金の用意もなにもない。そりゃ、東京へ戻ってでもいいと言うのなら払わないことはありませんがね。だが、皿洗いやボーイの真似はごめんですよ」
すると支配人はソファーにもたれかかり、のけぞって笑った。
「何も聞かずに連れて来られたんですか。そいつは失礼だ」
伊沢は憮然《ぶぜん》として相手の顎《あご》の辺りをみつめていた。
「俺にとってはとても厄介な状況なんだ。判っているのかね」
伊沢は急に言葉つきをかえて早口で言った。支配人はびっくりしたように笑いをとめた。
「あんたは多分、俺がここへ連れて来られた事情を知っているはずだ。だが、そうでないかもしれない。こんな目にあっていながら馬鹿馬鹿しい話だが」
伊沢は後頭部へ手をやった。撲られたあとがこぶになっていて、いくらか熱を持っているようだった。
「万一あんたが事情を知らない人間だったらいかんと、俺は探りを入れながら話を進めていかねばならない。まさか、客もボーイもコックたちもひっくるめて、このホテルの全員が俺の立場を知っているというわけではないだろう」
「申しわけない。こちらの手落ちだった」
支配人もざっくばらんな言い方になった。
「現場の連中は少しうろたえていたようだ」
「まあ無理もないだろう。殺人事件だからな。死体の処分は女の手に余る大仕事だ」
「残念なことをした。島田氏はいい人だった。みんな頼りにしていたんだ」
「五年前まで、俺も彼をそう思っていた。蒸発したあとも、ずっと会いたいと思っていたんだ」
二人の間に、急にしんみりとした沈黙が流れた。だが、島田義男の死以外に、二人の間の共通項はまだ生まれていなかった。沈黙はすぐに去った。
「俺はなぜここへ連れて来られたんだ」
「わたしが来るように手配したんだ」
「組織があるらしいが、いったいそれはどういう組織なんだい。また、島田さんはそこで何をしていたんだ。なぜ蒸発し、誰に殺《や》られたんだ」
支配人は苦笑した。
「そう一度に尋ねられても困るな。しかし、たしかにある組織が存在している。島田氏は五年前からその組織に加わっていた。そして、いずれは君の参加も求めるはずだった。島田氏から組織へその申請が出ていて、組織は申請を認めた。島田氏の死に立会ったのが君でよかったと思っている。我々の幸運だった」
「判らんな」
「何がだね」
「いずれにせよ、君らの組織は秘密のものなのだろう。でなければ、島田さんがあんな姿の消し方をするわけがないからな。しかし、島田さんに限らず、人ひとりが死んだとなると話は違うんじゃないかな。しかも殺人だぜ。なぜ警察に知らせずに、遺体まで内密に処理しようというんだ。敵がいたから殺られたんだろう。でも、暗闘もそこまでじゃないのかね。君らの敵は明らかにやりすぎたんだ。違うかい。暗闘というのは、明るいところへ行ったほうが敗《ま》けだろう」
「たしかにそうだ」
支配人は頷いた。
「これを理解してもらうには時間がかかるな」
そう言って立ちあがると、窓ぎわへ行って外を眺めた。そこは一階で、二重になったガラスの外側に、積もった雪を掻《か》きのけた跡がついていた。
外の雪の上を、真っ赤なスキー・ウエアを着た女がスキーをかついで通りかかり、支配人に気づくと手をあげて笑った。支配人はにこやかに会釈《えしやく》を返す。
「組織のことだが……」
支配人は外《そと》の女に笑顔を向けながら言った。女は通りすぎて行く。
「大まかに言うと、レジャー組織なのさ」
「レジャー……」
伊沢は唖然《あぜん》とした。
「まあ、とにかく食事をしようじゃないか」
支配人はそう言って伊沢の体を眺めまわすような目付きをした。
「わたしと似たような体格だな」
たしかに背丈も骨格も似たようなものであった。
「そういえば腹ペコだよ」
伊沢は急に自分の空腹に気付いた。ゆうべ前原部長の家でバーボンの水割りを飲んだとき、チーズを二、三きれ口にいれたきりであった。
支配人は自分のデスクのうしろのドアをあけて言う。
「わたしのプライベート・ルームだ。まず体でも洗ってさっぱりしてくれ。バスは熱めがいいのかね」
支配人は奥の部屋へ入って行った。伊沢はそのあとについて行きながら言った。
「いいよ、自分でする。支配人に風呂の仕度《したく》までさせては申しわけないからな」
支配人はバスルームのドアをあけた。
「かみそりは鏡の裏の棚にある」
「有難う」
伊沢はバスルームへ入っていったんドアをしめかけ、すぐ顔だけ出して言う。
「組織の説明は」
「ダイニング・ルームでしよう」
伊沢はドアをしめた。たっぷりしたスペースで、このホテルが贅沢《ぜいたく》な設備を売りものにしていることが判った。
湯の出方も今どきのホテルでは滅多にお目にかかれないほど勢いがよく、バスタブは深く長かった。
ゆっくり湯につかって出ると、湯気に曇る鏡に向かってひげをそり、服を着ようとするとドアを叩く音がした。
「何だい」
顔をつきだして言うと、支配人は自分のべッドのほうを指さし、
「俺のを着てくれ。あそこへ出して置いたよ」
と言って部屋から出て行った。
黒と臙脂《えんじ》のチェックのセーターに黒いスラックス。ラフなツイードの上着。それに靴下まで揃《そろ》えて置いてあった。
伊沢は短く口笛を吹き、遠慮なくそれを身につけた。サイズはどれもピッタリであった。
バスルームのドアの横の鏡にそれを映して見た伊沢は、
「お洒落《しやれ》な奴だな」
とひとりごとを言い、自分にウインクをした。たしかに、着てきたものは皺《しわ》くちゃになってしまっていた。ライトバンからセスナ、セスナからヘリと次々に押しこめられて油じみも出来ていたし、撲り倒されたり縛りあげられたり散々な目に遭《あ》った服である。
伊沢は着てきた服をかかえて、デスクのある部屋へ戻った。
「似合うな。わたしが着るよりずっといい」
支配人はニヤニヤしながら言った。
「こいつを何とかしてもらえんかね」
伊沢は自分の服を持て余したように突き出して見せた。
「そこらへ置いてくれ。クリーニングさせよう」
「すまんな」
「なに、君は当ホテルのお客さんだ」
「なんだか知らんが、とにかく飯を食わせてもらえるなら早くしたいね。いくら高くてもかまわない心境さ。払えなければ皿洗いでもなんでもするよ」
「さっきはごめんだと言ったろう」
「取消すよ。皿洗いは慣れているんだ。独身だからな」
二人は笑いながら支配人室を出た。どこかでギターの音がしていた。
ダイニング・ルームは二階にあった。
「贅沢なものだ……」
伊沢が感心したように言った。どっしりした椅子やテーブルが、くすんだ赤のカーペットをしきつめた中に、居心地のよさそうな感じで並んでいた。
半端な時間なので、客の姿は一組もない。
ウェイターがいきなりシャンペンのバケットを運んで来た。
「これは豪勢なおもてなしだな」
伊沢はひんやりとしたグラスをもちあげて言う。
「我々の組織のために」
支配人は悪戯《いたずら》っぽい微笑で自分のグラスをあげ、乾杯した。
「こんな時間だから料理は勝手にきめさせてもらったよ」
「結構。好き嫌いはないほうだ」
「君は今岡という男を知っているね」
「今岡喜太郎《いまおかきたろう》のことか」
「そうだ」
「大して深い付合いじゃない。同じ会社の人間で、入社が同期なだけだ」
「一年半か二年前、その今岡から何か相談を受けたはずだが」
「そうだったかな」
伊沢は少し考え、
「なんだ、あのことか」
と、がっかりしたように言った。
「みんなで金を出し合ってヨットを買わないかという話だった。そういう話はよく出るんで、いちいち付き合っていたらきりがない。あの時もその場でことわったはずだ」
「でも、一人では買えない別荘も、そうやれば楽に手に入るだろう」
「たしかにそうだ。ポケット・マネーでなんとかなる。伊豆《いず》に一ヵ所、南紀《なんき》に一ヵ所、それに軽井沢《かるいざわ》……たしか、そうやって別荘を三ヵ所に持っている奴もいたはずだ」
「ヨット、スキー場のロッジ、都心のマンション、軽飛行機……もちろんゴルフの会員権なども、大勢が持ち寄ればうんと利用価値がたかくなる」
「みんなやっている」
料理が来て、伊沢はさっそくナイフとフォークをとりあげた。支配人はオードブルを付き合うだけらしかった。
「我々の組織は、そういうものから自然発生的に生まれたものだ。四、五人ひと組から、大きなグループでもせいぜい二十人どまり。それが共同でセスナを持ったりヨットを持ったりしていた。だが飛行機ばかりでは満足できない。ヨットのグループはセスナも欲しい」
「それで相互乗入れか」
「まあそういったところだ。グループ同士の交流がはじまるわけだな。だが、企業単位や卒業した大学のつながりだけでは限度がある。もっと幅広く、自由に自分たちのレジャーをたのしめないだろうか……。そこで、そういうグループを片っぱしから誘いこんで、大きな組織にしようという動きがはじまった。企業の境界や学閥を超越した組織だ」
「超党派連合だな」
支配人は頭を振って否定した。
「いや、違う。これは現代のサラリーマンが集まった秘密結社だよ」
「そうか。サラリーマンに限るわけか」
「サラリーマンは現代の奴隷《どれい》だ。幹部社員といえどもその例外ではない。笞《むち》は昇給と人事異動だ。昔の奴隷は笞で追わなければ石切場《いしきりば》へ行かなかった。鎖がなければすぐに逃げた。しかし今の奴隷はなさけない。笞のかわりに自分で目覚時計をかける。満員電車にとび乗って、朝飯もろくに食わずに社へ駆けつける。いつでも休めるのに、皆勤《かいきん》賞など大したものではないのに、少しぐらいの風邪は薬でおさえつけて出勤する。それを家庭のためだ家族のためだと思い込みたいが、妻や子がサラリーマンの味方だとは限らない。だらしがないだの無理解だのと言って、自分たちは奴隷と無縁の人間であるような顔をしている。事実、女や学生は自由人だ。奴隷じゃない」
「ペシミスティックだな」
伊沢は嘲笑《ちようしよう》するように皿から顔をあげて言った。支配人はさからわず、寛大な微笑で伊沢をみつめている。
「と、まあ、そういう風に考えてもらえばよく判るはずだ。我々はサラリーマンの秘密結社を作ったのさ。奴隷の中の有志が集まって、自分たちだけの社会を作ったわけだ。会社から休暇をとり、家族には出張旅行と称して、組織の傘下にある別荘を泊まり歩き、セスナをとばし、ヨットで沖に出る」
伊沢は食事の手をとめて支配人をみつめた。
「おかしいな」
「何がだ」
「平和な組織じゃないか。聞いているといささかいじましいほど、弱いサラリーマンのささやかな抵抗じゃないか」
「そうかな」
「少なくとも人が殺されるほどのものじゃない」
支配人は自分のグラスにシャンペンをついだ。
「無毒とは言えんよ。資本という神に、社長や役員という神官がむらがり仕《つか》えている。その下にサラリーマンという奴隷群がいる。だが奴隷のある者は、神のお告げがどうして出されるか、その大きな神の像のガラン洞の内部の仕掛けをよく知っているんだぞ。君が前原という上司の家へ行ったのは抗議のためだろう。超栄商事がやっている、ある価格操作について文句をつけに行ったんだろう」
「知っているのか」
伊沢は唖然とした。
「たとえば君が乗って来たセスナもヘリも、みな組織のものだ。サラリーマンたちが出すのは金だけではない。そういう情報だ。我々は今や、あらゆる大企業を自分たちのためにあやつりはじめている」
伊沢は思わず建物の中を見まわした。これは大変な地下組織だと思った。
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5 大銀行の売春婦
伊沢邦明は、食事をおえるとダイニング・ルームを出た。うまい料理を上等のシャンペンと一緒に鱈腹《たらふく》つめこんで、ゆったりとした気分になっていた。
支配人の横井は中途でボーイに呼ばれて去っていた。
「また骨折した客が出たらしいな。下手《へた》なスキーヤーが多くて困るんだ」
と苦笑し、
「どの客が組織の人間でどの客が部外者かいちいち教えておきたいが、それはあとにしよう。今のところは一応全員部外者というつもりでいてもらいたい」
そう言い残していった。
伊沢はぶらぶらと歩きはじめた。ホテルの内部を見てまわるつもりであった。
一階のロビーから吹き抜けになった階段の向こう側に、小さなバーがあった。のぞいてみるとまだ誰もいなかった。その先はあまり大きくない宴会場になっていて、そこも無人であった。
階段のところへ戻って反対側の窓から外を見ると、大型の雪上車がゆっくりと斜面を登っているところであった。リフトのかわりに、そうやってスキーヤーを運びあげているらしい。
あたりはまったくの無人で、限られたホテルの客だけが、自由|気儘《きまま》にその銀世界を独占している。贅沢きわまる風景であった。
伊沢はいったん階段を登って三階の廊下へ出てみた。ホテルは四階建てだから、ドアの数からすると、多くてせいぜい四、五十人しか泊められない計算であった。支配人にも言ったことだが、どう考えても一泊がひどく高くつくホテルである。
「雪の豪華船か」
伊沢はそうつぶやいて階段をおりた。六月からせいぜい秋のおわりまで……。本来はそういうシーズンに合わせて造られたホテルなのだろう。あとになって、それに組織が目をつけた。ヘリを使って空から客を送り込むシステムをつくり、冬の遊休期間を自分たちの施設として使っているに違いない。
とすれば、本来の持主は、かなりの大企業につながっているはずだ。ひょっとすると、その大企業の保養荘のようなものなのかもしれない。この組織のカモになるのは、そういう一流企業でしかないはずであった。
「やるもんだな」
伊沢は雪上車が見える窓際へ戻ってまたつぶやいた。従順なサラリーマンの一部が、ひそかな反逆を企てているのである。企業は大きくなればなるほど、世間に知られたくない秘密をかかえ込むものなのだ。
この組織は、その秘密を外に向けて告発するのではなく、社会と企業の中間に立って、抜きさしならない悪徳の証拠を、企業側に買い戻させているらしい。
単純な仕掛けだが、それだけに強力なのであろう。伊沢は今日までのわが身にひきくらべて、思わず肩をすくめた。
そういう秘密なら、企業側の人間として伊沢もたくさん関与していた。いや、させられていた。それによって会社は業績をあげ、伊沢の給与もあがっていった。ボーナスも世間並み以上にはもらっていた。しかし、それはあくまでも正規の給与やボーナスであり、反社会的な秘密の行為に対する口どめ料のようなものはいっさい含まれていないのであった。
一蓮托生《いちれんたくしよう》……。会社側の伊沢たちに対する態度はそれである。だから口どめ料を要求すれば悪人としてそしられることになるのだ。
しかし本当に会社とサラリーマンは一蓮托生なのだろうか。サラリーマンが自分の社の反社会的な秘密に口をとざすのは当然のモラルなのだろうか。
いったん経営が不振になれば、会社を生きのびさせるために人員整理を行なうはずである。工場が公害や事故を出した場合、法廷に引きだされて罪に問われるのはせいぜい工場長どまりの現場サラリーマンではないか。
それでも一蓮托生なのか。秘密に関与させられたサラリーマンに、口どめ料を払う必要はないというのだろうか。
現に超栄商事が行なったことの影響で、幾つもの中小企業が倒産し、自殺した経営者も出ている。それはいわば殺人であろう。伊沢たちは、自分たちの会社が行なったその殺人に、会社側の人間であるということでみずから口をとざしつづけていた。
「図々しいものだ」
伊沢は腹立たしげにつぶやき、ポケットをさぐった。口どめ料などおくびにも出さず、平均的ベースアップで平然としている会社の図太さに、その時やっと気が付いたのであった。
「煙草でしたらありますわよ」
伊沢のうしろで声がした。振り向くと吹き抜けになった階段の手すりにもたれて、鋭角的な顔だちの女が左手の指に煙草をはさんで伊沢のほうへ差しだしていた。
「あ、すみません。それじゃ一本いただきましょうか」
女は退屈していたようである。濃いグリーンのパンタロンに同じ色のセーターを着て、白いカーディガンを袖を通さずに羽織っていた。薄手のセーターのバストが小気味よく突きだしているが、位置が少し低いところを見ると、ブラジャーをしていないようだった。
「さっきへリで着いた方ね」
「ええ」
女が右手で渡してくれたラークの赤い袋から一本抜きとって、伊沢はそれを咥《くわ》えた。ライターを持っていないらしく、女は左手の火のついた煙草を押しつけるように差しだす。伊沢は顔を寄せて火を移した。
「パラダイサー……」
女は問いかける目で言った。
「え……」
「あなたもそうなんでしょう」
「何がです」
すると女は手すりから体を離し、笑いながら伊沢の立っていた窓際へ行った。伊沢もごく自然にその横へ並ぶ。
「見れば判るわよ。それに、着いた時のあなたのスタイル……。荷物もなしで……。どう見たって組織の専従者ってとこね」
伊沢はやっと呑み込めた。
「君もパラダイサーか」
女は肩をすくめて笑った。肯定したようであった。
「パラダイサーねえ……」
「日本人というのはどうしてこう勝手な英語を作ってしまうのかしらね」
「いいさ。いい名前じゃないか」
女は空を見ていた。
「お天気が変わるそうよ。当分ヘリも欠航ね」
伊沢も空を見た。薄日《うすび》がさしていて、そう急に変わる天候にも見えなかった。
「いつまでいらっしゃるの」
「さあね」
伊沢はあの長い髪のモデルが言った言葉を思い出していた。……あなた、会社はいつからなの。
「年《とし》がかわるまでかな。いや、多分ここで年を越すことになりそうだ」
「私もよ。ここは静かでいいわ」
伊沢は女の横顔を見た。事務的で冷たい感じだったが、どこかそれと正反対なものを秘めているようにも感じられた。
「僕は伊沢」
自己紹介をすると女はまた笑顔に戻って伊沢をみつめた。
「私は沢田ユリ。はじめまして」
ふざけたようにそう言って、首を斜めに軽く曲げてみせた。
その慣れた仕草に、伊沢は女の職業を直感した。秘書に違いなかった。それもかなり高いクラスの……。
伊沢はふり返って灰皿を探した。すぐ近くの壁際に、ソファーを置いたコーナーがあった。伊沢がそのほうへ歩きはじめると、女もなんということなしについて来た。
ソファーへ腰をおろすと、女は意味ありげな笑い方をしながらとなりへすわる。パンタロンの太腿《ふともも》が意外に豊かな肉付きであった。
「超栄商事は六日までお休みのはずね」
伊沢はまじまじとその女をみつめた。かすかな記憶がよみがえった。
「君はたしか極東銀行の……」
「がっかりしたわ。憶《おぼ》えていてくれないんですもの」
女は笑った。沢田ユリはたしか専務秘書であった。二度ほど伊沢は極東銀行の専務室をたずねたことがあるのだった。
夜になると沢田ユリが言ったとおり天候が急変した。雪と風がホテルの外で荒れ狂っている。
伊沢は一度横井支配人に呼ばれ、四階の部屋をあてがわれた。案《あん》の定《じよう》たっぷりとしたスペースで、設備は申し分なかった。
「沢田ユリという女がいるが、知っているか」
伊沢が尋ねると支配人はニヤニヤしながら頷いた。
「君なら知っているかもしれないと思った」
「ああ、極東銀行の本店で二度ほど会ったことがあるんだ。向こうも憶えていたよ」
「彼女なら大丈夫だ。組織の有力メンバーの一人だ」
「パラダイサーか」
すると支配人はちょっと嫌な表情になった。
「わたしはその名は好きじゃないんでね」
「別に正式名称があるのか」
「そんなものはない。世間に知らせる必要もないからな」
「じゃあ、仇名《あだな》のようなものか」
支配人は鋭い目付きになった。
「はじめはこっちの一部がそんな名を付けてよろこんでいた。でも、今ではそれは主に敵方が我々を呼ぶときに使っている」
「敵か」
伊沢は微笑がこみあげてくるのをあわてておさえつけた。真の意味で一蓮托生になれる世界がここにあると思ったからだった。
支配人はその気配を察したように、べッドのそばの椅子を引き寄せて腰をおろした。
「明日にでもゆっくり説明するが、これはもうとっくに遊びではなくなっている。我々の存在は社会のごく一部が知っているだけだが、そのごく一部というのが、社会全体を握っている連中だ。その気になれば奴らは本物の殺し屋をいくらでもさし向けて来るし、事件を闇から闇へ葬ってしまうこともできるんだ。我々が相手にしているのはゴルフ狂の専務や、二号を囲っている社長ではないんだ。誰をこの国の首相にするか、教育や学問はどうあるべきか、どの国と親しくし、どの国から遠ざかるか、どの法律をどう変えるか、裁判にどんな判決を下すか……。そういうことを決定する力を持った連中なんだ。彼ら支配階級にとって、我々はある意味でコミュニストよりずっと危険なのだよ。奴らは俺たちを殺せる機会があれば、いつでもためらわずに殺すだろう。俺たち一人一人が握っている彼らの弱味は、彼らの一人一人にとって致命的なものなのだ。そういうものを握っている者以外、組織は仲間に加えないのだからな。そして、その秘密を守り通すためには、連中はいつまでも我々の言いなり放題になっているか、さもなくば全員を殺してしまうしかないんだ。我々は彼らにとって、知りすぎた人間なのだ」
「判ったよ」
伊沢は肩をすくめた。
「君がここへ連れて来られたのは、まず第一に君を保護するのが目的だ」
「保護……」
「そうだ。あのままなら、多分君は島田氏殺害事件の参考人として、事件に巻き込まれただろう。連中は君を犯人に仕立てたはずだ」
「なぜ」
伊沢は目を丸くした。
「君は超栄商事の前原をたずねた帰りだった。島田氏が彼らのいうパラダイサーの一人であることはとうに知られている。しかも君が前原をたずねた用件が用件だ。島田氏と君が以前親密な関係にあったことは前原が一番よく知っているしな。島田氏の死体があのままあそこにあれば、君はきっと巻き込まれ、これ幸いとばかり犯人に仕立てあげられていたろう」
「どうやってだ。奴らは銃で殺したんだ。俺がそんなものにまるで無縁なのは、ちょっと調べればすぐ判るだろう」
すると支配人は嘲笑するように唇を歪めた。
「表側に向けたルールで考えては困る。世の中なんてそんな綺麗なものじゃない。連中にとって問題なのは、誰を罪人にするかであって、罪人が誰かではないのだ」
伊沢は前原の卑屈な顔を思い泛《う》かべた。
沢田ユリも同じ四階の部屋に泊まっていた。外の吹雪を知らぬげに、一階のラウンジではにぎやかにスキー客たちが騒いでいた。
その声が聞こえる二階のバーで少し飲んだあと、ユリのほうから伊沢を部屋へ誘った。
「静かなところで飲み直しましょうよ」
そう言って四階へあがり、部屋へ入るとルーム・サービスにブランデーを持って来るように命じた。
伊沢が低い椅子にすわると、ユリは彼の真正面になっている窓のカーテンを引きあけた。二重窓は外の音をほぼ完全に遮断していた。そして、猛吹雪がその窓に打ちつけてきている。
「いい眺めだわ」
まさにそのとおりであった。ぬくぬくとした部屋でゆったりとくつろぎながら、狂ったような吹雪をみつめていると、贅沢とはこのようなことを言うのだという実感があった。
ボーイがブランデーを瓶ごと持って来た。ユリは大ぶりのグラスにそれをつぎ、ひとつを伊沢に渡すと、壁のスイッチを押して灯りを暗くした。
外の吹雪がはっきりと見えた。
「この中へ歩いて行ったら死ぬでしょうね」
ユリはべッドに浅く腰をおろして窓をみつめながら言った。
「死にたくなるような理由でもあるのかい」
伊沢はじろじろとユリを眺めまわした。大柄で、鋭角的で、冷たい美しさを持った女だが、その底に何か頽廃《たいはい》したものを澱《よど》ませているようであった。
「私なら、いつ死んでもいいわ」
ユリは淡々と言った。
「なぜ。……君は美しい。まだ人生を棄てるほどのことはないはずじゃないか」
ユリは軽く笑った。
「人生……。あなたもそんなことを言う人なの。人生なんてゼロよ。綺麗そうに言ったって、ただ死ぬまで生きているだけじゃないの」
「それはそうさ。でも、だから楽しいという考え方だってあるだろう。永久に生きつづけるとしたら、それこそ死んでしまいたくなるだろう」
「議論をしてもつまらないわね」
ユリはブランデーをひと息に飲みほし、立ちあがってもう一杯ついだ。
「私はあの銀行を潰《つぶ》してしまいたいのよ」
「極東銀行をかい」
「ええ。潰せるのなら命なんて要《い》らないわ」
「無理な話だ」
伊沢は呆《あき》れて言った。
「そうでもないかもしれないわよ」
「大きく出たな」
「私はもう帰れない身なの」
「銀行をやめたのか」
「持てるだけの秘密文書をかかえてね。……蒸発しちゃったのよ。今では組織の中を転々とかくれ歩いているだけ。彼らは必死になって私を探しているわ。見つかればきっと殺されるでしょうね」
「なぜそんな……」
「生きている証拠が欲しかったのよ。彼らをふるえあがらせてやりたかったの。私という女が、彼らと同じ一人の人間であることを、心の底から思い知らせてやりたかったのよ」
「恨《うら》みでもあるのかい」
「恨み……」
ユリはまた一気に飲みほして、わざとらしく胸をそらせて笑った。
「私ははじめから専務秘書として採用されたの。一流銀行の専務秘書よ。それがどんな役目か、あなたなんて知るはずもないわね」
伊沢は凝然《ぎようぜん》としていた。
「売春婦よ。厚いコンクリートの壁の奥深くで飼われてる売春婦よ。私はいいように利用されたわ。そして気がついた時には、がんじがらめにされていたのよ。若さを失いはじめた売春婦の気持ちなんて、あなたには判らないでしょうね」
「自分をそんな風に言うもんじゃない」
伊沢は涙を見せている大きな瞳から目をそらせ、立ちあがってユリの肩に手を置いた。
雪が窓の外で烈しく渦を巻いていた。伊沢はそれを眺め、自分のこれからの運命を予告されているように感じていた。
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6 雪の襲撃者
伊沢はべッドに腹這いになって、カーテンをあけ放した窓の外の雪を見ていた。
昨夜の狂ったような風は収《おさ》まっていたが、雪はやむ気配もなかった。際限もなく舞いおりる雪を見ていると、部屋全体が上昇していくような錯覚にとらわれそうになる。
そして静かだった。
枕もとの時計は六時二十何分かを示している。雪が降りつづいてはいても、窓には白い朝の明るさがあって、足音も話し声も、鳥の囀《さえず》りも物が触れ合う音も、何ひとつなかった。
伊沢はその静けさの中で眉をひそめていた。
人が一人死んだ。殺された。その事件に巻き込まれ、こうして静かな雪の中に隔離《かくり》されている。脱け出して来た東京の騒音の中では、きっと何かが渦を巻いているに違いなかった。
このホテルの秘密について、伊沢はまだよく知らされてはいない。組織の説明を、支配人の横井はまだごく大ざっぱにしかしてくれていないのだ。
いったいこれから何が起こるのだろう。……そう考えると、静けさの中にひたりこんではいられない気分であった。
とはいえ、不安ではなかった。
不思議なことであった。伊沢は今、慣れ親しんだ社会から突然見知らぬ世界へ連れ出されている。そこは彼が生活の基盤にしていた職場を敵とすることで成立している世界であった。
ところが、伊沢にはそれが何やら愉《たの》しいのである。まだ漠然としか知らされてはいないが、今まで自分がいた世界を敵として意識することが、一種の爽快《そうかい》感と充実感をもたらしはじめている。勿論、そこには解放感もたっぷりとまじっている。
いったいこれは何だろう……。
伊沢はべッドの上から降りしきる雪をみつめて自問した。
危険があるからだろうか、とまず思った。敵味方に分かれてしのぎを削るとはいえ、今まで彼がやってきたことは、しょせん平和な世界での商戦にすぎない。だが、ここには本物の危険がありそうだった。現に一人の男が目の前で殺されている。
解放されたからだろうか。次に伊沢はそう思った。支配人の横井が言うように、サラリーマンは現代社会の奴隷であったようだ。法人に支配された個人……。法人はいわば巨人であった。社長、専務といえども、その巨人に仕える一種の神官でしかないようだ。ここには、その法人の支配に楯《たて》つく逃亡奴隷たちがいるらしかった。あの妖艶《ようえん》な沢田ユリもその一人らしい。
最後に伊沢が思ったのは、あの巨大企業が持つ非人間的な貪欲《どんよく》さであった。まったくそれは人間の欲望をはるかに超えた、時には空恐ろしくなるほどの欲望をかくし持った存在であった。
生存のために支配し、支配するためにさらに支配する。一瞬の遅滞も許さず、絶えず拡大膨脹を続けなければ承知しないその貪欲さを、伊沢は心の底で憎みはじめていたようである。だからこそ、上司に抗議したのだ。その貪欲な組織の一部として生きつづけることに嫌気がさし、何かしなければいられない気分に陥っていた時、今度の事件にぶつかったのであった。
渡りに舟だ……。
伊沢は北叟笑《ほくそえ》むようにそう思った。
丁度その時、ドアを忍びやかにノックする音が聞こえた。伊沢はさっとべッドから降り、素早くドアをあけた。
「ほう……」
伊沢はそう言って横井支配人を部屋へ入れた。
「あてが外れたようだな」
支配人はニヤリとしながら椅子に浅く腰をおろした。伊沢がそのテーブルから煙草を取って火をつける。
「外れたね。てっきり沢田ユリかと思った」
支配人は苦笑して見せた。
「君ならお似合いだ。ひょっとすると同じベッドにいるところへ邪魔をすることになるかと思っていたよ」
「会ったばかりだ。そう手が早いわけじゃないさ」
「でも、ずっと彼女の部屋で一緒だったんだろう」
「うん。ブランデーを飲んで……泣かれたよ」
支配人は黙って頷く。
「ところで何の用だ。どうも只事《ただごと》ではなさそうな様子だが」
支配人はちょっとうしろを振り返って窓の雪を見た。
「すまんが出て行ってくれ」
伊沢は肩をすくめた。
「傘ぐらい貸してくれるんだろうな」
「冗談を言っている場合じゃない。早く服を着るんだ」
「どうしたというんだ」
それでも伊沢は煙草をもみ消すと、急いで服を着はじめた。
「彼女を連れてここへ行ってくれ」
支配人は内ポケットから小さく畳んだ地図をとりだした。この辺りの五万分の一であった。
「彼女を……。沢田ユリか」
「ラブシーンの続きをやるなら、この山小屋へ着いてからにしろよ。彼女を殺しに来る連中がいる」
「そいつは容易じゃないな。でも、ここには一般の泊まり客がいるだろう。その目の前ではやれもすまい」
「君はまだよく知らんのさ。これは妙な戦争だ。普段は計算機と伝票の操作で勝ち敗けをきめているが、そのバランスが崩れるといきなり短刀でグサリとくる。そのあと始末はまた計算機と伝票だ」
伊沢が服を着おわって、テーブルの上の煙草の袋をポケットに突っこんだ時、いきなりドアをあけて沢田ユリが舞い込んで来た。
「仕度はいいわ」
フードのついた赤いマントを着ていた。その広い裾がひるがえると、まさに舞うという感じであった。
「赤は困る。パーティに行くんじゃないからな」
支配人が言うのを、ユリは意に介さぬ様子で、
「裏は白よ」
と短く答え、伊沢をみつめた。
「この雪で道が判るのか」
「知らんね」
支配人は立ちあがり、先に立って廊下へ出た。
「装備は下に用意してある。雪がすぐ君たちの足跡を消してくれるだろう」
「薄情なもんだ」
三人はエレベーター・ホールを素通りし、一番北の階段を使って下へおりた。
一階へおりるとひとけのない調理場を抜け、裏口へ行った。長身の若い男が待っていて、伊沢の背中へ毛皮のついた厚いコートをかけてくれた。伊沢はコートのボタンをかけ、ブーツをはき、手袋をした。
「エスキモーみたいだな」
ユリに笑いかけると、支配人が憤《おこ》ったように言う。
「うまく小屋へ辿《たど》りつくんだぞ。できるだけ早くな。万一途中で爆音を聞いたら、雪の下へかくれてしまうんだ」
「やれやれ、とんだ逃避行になりそうだな。でも、まかしてくれ。山歩きには少し経験がある」
「早く行け」
支配人はドアをあけた。粉雪がさっと舞い込み、すぐ左手に雪上車が雪をかぶっていた。
「小屋に味方がいる。着いたら彼の言うとおりにしろ」
その声を聞きながら伊沢はユリの手を取って歩き出した。
「君を殺しに来るそうだ」
「知ってるわ」
二人は雪の中を歩きはじめた。はじめのうち、雪上車やスキーヤーたちの足で底が踏みかためられていたが、二本の木の間を通りすぎると、いきなり膝のあたりまでめり込んでしまった。
「畜生。足あとが残っちまうぜ」
伊沢は舌打ちをした。
雪は次第に小降りになるようであった。支配人に渡された地図には、目的の山小屋が赤鉛筆の丸でかこってあり、そこへのルートが線で示してあった。
しかし、何せ積もりに積もった雪の中である。果たして自分がその地図のどの地点にいるのかさえ、伊沢には心もとなかった。
ただ、そう遠くはないのが救いである。ホテルと小屋を結ぶ線の延長にある山に目標を定め、ユリの手を引いてしゃにむに雪の斜面を這いあがって行った。
「私はみんなに迷惑を掛けるのよ」
ユリは自嘲気味に言った。喘《あえ》いでいる。
「どうやら雪はやむらしいな」
二人はそれっきり、またしばらくはお互いの息づかいを聞きながら進んだ。
「雪がやめばヘリがやって来るわ」
ユリが言ったのは、もうだいぶ山腹を這いあがってからであった。
「ゆうべ、あなたに抱かれておけばよかった」
ユリは冗談でもなさそうな声音《こわね》で言う。
「俺もいまそう思っていたところさ」
伊沢が笑って答えた。
「でも、あのホテルにいたほうが無難だったんじゃないのかな。泊まり客が大勢いる前で、いきなりズドンとやるわけはなかろう」
「判らないわ」
ユリは立ちどまってホテルをみおろした。
「でも、あの人たちが危険だという時は、必ず危険なのよ。今まで一度も外れたことはなかったわ」
伊沢はユリの手を引っぱってまた進みはじめる。
「すると、今まで君は何度も命を狙われたのか」
「ええ」
「よほどの大物だな」
「今のところはね。そのうちどうでもよくなるかもしれないけれど」
「どういう意味だ」
「私が極東銀行から持って出た書類のこと。向こうでは、まだどれとどれが紛《な》くなっているか、調べきれてはいないはずよ。私はかなり複雑なやり方をしたから」
「知能犯だな」
伊沢はユリを元気づけるために、適当な相槌《あいづち》を打っていた。
「でもいずれ、その全部に対策をたててしまうでしょう。あいつら、そういうことにかけてはとても慣れているのよ。いつかはきっと、私の書類なんか全然こわがらなくなるでしょうね」
「でも、今のところ切札を握っているのは君だ」
「いいえ、もう書類は私の手から離れてるわ」
「じゃ、誰が持っているんだ」
「組織よ。パラダイサーよ」
「なるほど……」
そう言って、伊沢はふと立ちどまった。何か音を聞いたような気がしたからである。
「どうしたの」
ユリは不安そうに空を見あげた。まだ雪は降り続いている。
ピィーッ、と細く鋭い音がした。
「あれだ」
伊沢が低い声で言い、あたりを見まわした。だが、何もかも白く丸味を帯《お》びていて、その鋭い笛のような音が発した場所は見当たらなかった。
「あ、あれ」
ユリが指さした。よく見ると、丸く盛りあがった雪の下に、何かうすぐろいものが動いているようであった。
二人はそのほうに足を早めた。
近づくと、どうやらそれが地図に出ている山小屋のようであった。一人の男が、雪に埋もれた屋根の下から上半身をだして、棒のようなものを振って見せていた。
二人が山小屋に着くや否や、空でヘリの爆音が聞こえた。
小屋の中へ雪の上からころがり落ちた感じの二人が、ハッとして顔を見合わせる。
「煙が出るので火の気はない」
銃を持った男がそう言った。まだ若く、見るからにタフそうな男だった。
「ヘリは一機じゃなさそうだ」
伊沢は耳を澄ませて数をかぞえた。
「それも、普通のヘリじゃない」
男は無表情で言う。
「君はなんでここにいるんだ。パラダイサーか」
男は答えず、鼻の先で笑っただけだった。のそりとドアの外へ出て行く。
「知ってる男か」
ユリは首を横に振った。
「でも、あのホテルの人たちは、誰かをかくまっているらしかったわ。なんとなくそんな気配があったのよ。ホテルにも置いておけない人なんて、よほど危い立場の人なのね」
男がドアから首をだして呼んだ。
「来て見ろ。面白いことがはじまりそうだ」
二人は小屋の庇《ひさし》と雪の間から首をだして下をのぞいた。
ヘリは全部で五機いた。それが次々にホテルの前へ舞いおりて行く。
「軍用機だぜ」
「どうするんだろう」
バラバラと人影がとびだしてホテルの中へ消えて行く。
「あのヘリはどうやら、から身で来たらしい」
「から身で……」
「そうだ。多分、何かの口実を作って、泊まり客をみな連れ戻してしまうんだろうな」
「ホテルを空《から》にするわけか」
「多分……」
「なぜそんなことをする」
「君ら二人のせいじゃないのか」
男は皮肉な笑い方をして見せた。
「そうかもしれない」
「ほかの客と君らを別なヘリに乗せてしまえば、それでおわりだな」
「俺たちの命がか」
「ほかに連中の欲しがっているものがあそこにあるかな」
雪はほとんどやみかけていた。下のホテルのあたりには、薄日《うすび》さえさしはじめている。
「君はどうなんだ」
「俺か。俺は知られていない。はじめから下のホテルに足を踏み入れてはいないんだ」
一人、二人と、ホテルの前へ人影が現われ、それがすぐひとかたまりになると、ヘリのほうへ向かいはじめる。
「可哀そうに、睡《ねむ》いところを叩き起こされて、ヘリにつめ込まれて強制送還だ」
男の声はどこまでも無感動であった。
ぞろぞろと、ヘリへの列が続いた。やがてその列が跡絶《とだ》えると、一機を残して四機が一斉に舞いあがった。
「支配人は横井と言ったな」
「そうだ」
「吐かなければいいが」
「吐く……」
「そうさ。連中は口を割らせる方法を知っている。君は銃を扱えるのか」
男が尋ねた。
「いや。まるで駄目さ」
「教えてやろう」
男は雪から体をすべり落とし、小屋のドアへまわった。
「どうするの」
銃を渡された伊沢を見て、ユリが顔色を変えた。男はかまわずそのユリへも短い銃を渡した。
「ウジだ。イスラエル製だよ」
伊沢は茶色い木の銃床をつけた、そのずんぐりとした短機銃をみつめていた。
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7 とどめをさす男
雪に埋もれた山小屋の辺りにも薄日がさしてきた。
「自分が思っているより少し下を狙って撃つといい」
髭だらけの精悍《せいかん》なその男は、ごわごわした厚手の綿の白い大きなコートを着ながら言った。
たった今、扱い方を教わったばかりの伊沢とユリは、そのずんぐりした短機銃を手に顔を見合わせた。
「私まで撃たなければいけないの」
ユリは肩をすくめた。
「自由にすればいい。しかし、あの連中が君を見つければ必ず殺したがる。相手でも自分でも、好きなほうを撃てばいい」
「いざとなったら、自分を撃ったほうが早そうね」
コートを着おわった男は煙草をだして咥《くわ》えた。手袋のまま器用に火をつける。
「煙草を吸うなら今のうちだ」
奨《すす》めるともなく言う。
「俺が出たらドアの閂《かんぬき》をかけてしまってくれ」
「どこへ行くんだ」
伊沢が尋ねたが答えなかった。
「君はドア側の窓。彼女は向こうの窓から撃て」
「私なんか撃ったって当たりっこないわよ」
「かまわん。ただ撃ってくれればいい、窓際の壁には鉄板が入っている。滅多なことでは弾が抜けないから安心しろ」
伊沢は厚い板を打ちつけたその壁を見た。ヘリの音が遠のいていく。
「しかし、ここが見つかるだろうか」
すると男がはじめて薄笑いを見せた。
「来る。雪がやんでしまったので、君らの来た跡がいやでも目に入る」
「逃げましょうよ」
ユリが言った。
「そうしたいが、この雪に跡を残さないで行く方法があるかな」
「そうか。ここで戦うしかないのだな」
「心配するな。君らが引きつけてくれれば外で俺がなんとかする」
「横井支配人たちはどうなったかしら」
男は煙草を揉《も》み消して銃を取りあげた。
「閂を……」
そう言うと、白いコートのフードをかぶり、落着いた様子で出て行った。
「とにかく言われたとおりにしよう」
伊沢はドアに大きな鉄の閂をかけ、言われたとおりその横の窓際へ行った。
窓は高く、その上半分から自分たちが登って来た方角が見えた。
「どこにも安全な所はないというわけね」
ユリが哀《かな》しそうな声で言った。
「こんな雪の中へまで追って来るのよ。しかもあんなに大がかりなことをして」
「元気を出せ」
「判る、この気持ち。平凡なOLの頃は、世の中から特別扱いをされたいと思ったわ。でも私、特別になりすぎちゃった……。馬鹿ね。専務を愛してた時もあるのよ。会社のため、あの人のためと夢中になって……。仕事って、人間をそんな風に巻き込んでしまう熱気みたいなものがあるのね。そして気が付いたら、私は着物を着る必要のない女にされてたのよ。私の体は銀行からの贈り物というわけよ。汚れながら、いろんなことを知ったわ。あいつらが知られて困ることをね」
伊沢は外を覗《のぞ》いた。
「とにかく生きのびることさ」
その時、遠い銃声がした。二人は顔を見合わせ、耳を澄ませた。どうやらそれは下のホテルのあたりで起こった音のようであった。
伊沢とユリは、それぞれの窓際に立って外を見張っていた。
降り積もった白一色の景色を眺めていると、逃げるのは不可能だと言ったあの男の言葉が、実感として理解できた。
この雪をわけて歩くのは並大抵のことではないし、跡をつけられずに済ますことは絶対に不可能であろう。
伊沢は窓から突き出した短い銃身をみつめて、ふと笑いだしたいような衝動に駆《か》られた。
いったい、ただのサラリーマンがこんなところで何をしているのか……。伊沢は自分がひどく滑稽《こつけい》な存在に思えたのである。
ただ偶然昔の上司の死に立ち会っただけである。しかもそれは五年も会っていない相手だった。
たしかに伊沢は、自分の会社の卑劣なやり口に腹を立てていた。否応《いやおう》なしに仕事としてその片棒をかつがされることが耐えられなくはなっていた。
しかし、直接の上司の一人に、それも極めて非公式な機会を選んで抗議したに過ぎない。
「このままでは、とても仕事に打ち込む気にはなれません」
伊沢はその時の自分の言葉を思い返していた。それはなんと穏やかな、遠まわしな抗議であったことか。
「こういう時代なのだ。これはひとつの過渡期《かとき》なんだよ。いつまでも続くわけではない」
部長の前原は、おもねるような微笑を泛《う》かべてそう言っていた。
「なんとか考慮して頂きたいのです……」
それが伊沢の申し入れであった。計算された滞貨と、故意に不確実な筋へ流したコスト・アップの情報……。それはかつて、オペレーション・リサーチとか、マーケティング・リサーチとか言われた技術がさらに進歩した市場操作法であった。
新しい商品に関心を持たせ、好感をとりつけ、購買に踏み切らせる。一方では電波|媒体《ばいたい》を主にした、そういうオーソドックスな戦術が相変わらず行なわれていたが、その一方では、流通機構の各パートを巧妙に刺激して、人為的な品薄状態を作り出す技術が開発されていたのである。
だが、それに積極的に抵抗したことはまだ一度もなかった。部長の前原への抗議にしても、休暇期間に入ってから夜ひそかに私邸を訪ねるのが精々のところであった。
それが、あっという間に危険な争いの渦中に巻き込まれて、こうして本物の銃をかまえて敵を待っている。
いつ自分はそれほど尖鋭化したのだ。……そう思うと、運命の糸に操られたとはいいながら、つくづくおっちょこちょいだと感じずにはいられない。
自分の心の底に、破壊への激しい欲求がひそんでいたことに気付いたのは、背後でユリがカチャリと銃の音をさせた時だった。
「どうした」
伊沢は振り向いて言った。
ユリは首をすくめ、舌を出して見せた。
「退屈しちゃったの。変ね、こんな時に退屈するなんて」
その顔はいきいきとしているようであった。
「本当に、撃ち返さねば殺《や》られるんだな」
伊沢はつぶやいてまた窓に向き直った。
これまでの生活が、ひどく愚《おろ》かしく思えた。交渉、契約、コネ、マージン……。そういうものが、すべてまやかしであったように思えた。
「選挙のたびに欠かさず投票に行ったよ」
伊沢はゆっくりと喋りはじめた。
「保守党には一度も票を入れたことがなかった」
雪の中で黒いものが動いた。
「それが世の中を変える力になると思っていた。一枚の紙きれでだ……。選挙がすんだあとはいつもの仕事に戻った。こんなことではいけない。世の中間違ってる……。そう思い思い、毎日そういう世の中を動かす力の一部になっていた」
黒いものは、斜面を登って来た男の頭であった。伊沢は片目をつぶって一度それに狙いをつけた。
「だが、本当は何もかもブチこわしてしまいたかったんだ。まず椅子を抛《ほう》り投げてオフィスの大きな窓ガラスをブチ割ってしまいたかったのさ」
頭が続いてふたつ。全部で三人。
「そういう気持ちをおさえつけて来たんだ」
伊沢は引金に指をかけた。
「だが、今ならやれそうだよ。あの気どった窓を椅子でブチ割ってやれる」
男たちは案外警戒していなかった。三人とも大型の自動拳銃を持って、伊沢とユリがつけた雪の上の跡を追っていた。
「来たの」
ユリが震《ふる》え声で言った。彼女の窓からは見えないはずであった。
「ああ」
伊沢は反射的に低い声で答えてから、ふとユリを可愛いと思った。
女とは不思議なものだ。本人に関係なく、肌を合わせる男たちの雰囲気がいつの間にか身についてしまうようだ。
沢田ユリという女に、伊沢ははじめから一種の威圧感をおぼえていた。それは彼女が経済界の上層部にいる男たちを相手に暮らしてきたことによるのだろう。
だが、今の震え声は、そういうものをすべてとりはらった、ナマの声であったようだ。
ユリはもう一人ぼっちなのだ……。伊沢はそう思い、同時に自分がひどく楽天的であることを怪しんだ。
命がかかっているはずなのに、意外なほど心にゆとりがあるのだ。
なぜだ……。そう自問したとき、一人が急に右手にまわって行った。伊沢たちが雪の上に残した跡が、雪に埋もれたこの小屋に達していたと知って、包囲するつもりになったらしい。
伊沢の正面にいる二人も、しばらく雪の中に立ちどまって、仲間がまわりこむのを待っているようである。
今なら二人とも殺《や》れる。
伊沢は銃を握りしめてそう思った。しかし、相手の男たちは、雪の上に体をさらして平気でいた。多分こちらに火器があるとは考えていないのだろう。令状を手に寝込みを襲った警官のように、冷たく傲然《ごうぜん》としていた。
右へまわった一人が、ユリの窓からもうすぐ見えるはずであった。
伊沢は男たちの表情を眺め、突然怒りに駆られた。腹の底からいらだちに似た熱いものが燃えあがった。それは、自分をしいたげてきた者たちへの怒りであるようだった。サラリーマンの社会から伊沢を連れ戻しに来た、奴隷|頭《がしら》の顔であった。
いきなりユリの銃が火を吐いた。
ユリは男の姿を見た瞬間、悲鳴をあげ、がむしゃらに引金を引いたらしい。
伊沢の窓から見えている二人の男は、さっと腰を落とし、一人が撃たれている仲間のほうへ急いで移動して行く。
ユリの銃が急に沈黙した。と、その沈黙につけ入るように、バーン、とユリの窓へ撃ち返してきた。
伊沢はユリの窓が二人の敵を相手にすることをおそれた。そのほうへまわって行く男へ銃口を向け、引金を引いた。
短い掃射《そうしや》であった。
生まれてはじめて引く、実弾の入った銃の引金であった。思ったよりずっと手前の雪に手ごたえがあり、それが自分勝手に前へ伸びて行ったようだった。
引金から指をはなしたとき、男が勢いよく雪の中へ倒れるのが見えた。
外の銃声と同時に、目の前のガラスが鋭く響いた。伊沢が視線を移すと、正面にいた男が消えていた。
伊沢は不安になり、男の姿があったあたりへ思い切り撃ちこんだ。が、今度はうろたえていたとみえ、ずっとうしろの雪のかたまりから、バサリと雪が落ち、埋もれていた木の枝がどす黒い感じでのぞいた。
伊沢は指をゆるめ、息をのんで相手の動きを待った。
まだ二人いる。
はじめて湧《わ》き出した恐怖の中でそう思った。二対二、という考え方はまるでできなかった。
とほうもなく厚く、抗すべきもない重さで、二人の敵は窓の外の雪に身をひそめている。長い沈黙であった。そして、その沈黙は伊沢の喉《のど》もとに痛いようなかたまりを作りだしている。
ドーン、という鈍い爆発音が遠くでした。それをきっかけに、ユリがまた悲鳴をあげ、ながながと撃った。
その音の中で、伊沢の正面の敵が、ちらりと雪の中を動いたようであった。
伊沢は引金を短く何度かにわけて引いた。銃身がそのたびに先のほうからはねあがるようであった。
相手が三回撃ち返してきた。
ガシャン、とガラスの割れる音がユリの窓でした。
思わずふり返ると、ユリは銃を窓から突きだして撃っていた。明らかに引金を引いているのが判ったが、もう弾は尽きているようだった。
「来るわ。来るわ……」
ユリは泣声をだした。
伊沢は彼女のところへ横っ飛びに飛んだ。
小屋の隅へその柔らかい体を突きとばし、咄嗟《とつさ》に外の黒いものめがけて撃ち込んだ。相手は雪の上へ尻もちをつくように体を落とした。
同時に、ガラあきになった窓の外で、短い銃声が起こった。伊沢は怯《おび》えてまた自分の窓へ戻った。
風の音がしていた。小屋の中に鉄《かな》臭い匂いが充満している。伊沢は目を血走らせて敵の姿を求めた。
うしろでユリがすすり泣きをはじめた。
「人殺しまで……」
細い声でそう言った。
キシッ、キシッと雪を踏む音が近づき、やがて伊沢の目の前へ、茶色い銃床がニュッと突き出した。伊沢が握っている銃と同じものだった。
「あけろよ」
あの男が言った。
「殺《や》ったか」
答えはなかった。伊沢は窓を離れ、床に銃を置いて扉の閂を外した。
重い木の扉をあけたが、男はもうそこにいなかった。雪の上へあがり、あたりを見まわしていた。伊沢はその時やっと味方がもう一人外にいたことを思い出していた。
「下でヘリが燃えている」
風の中で男が言った。伊沢は急いで銃を取ると外へ出て見た。
ホテルの前から黒い煙が立ち昇っていた。
「どうしたんだろう」
「ホテルの連中がうまくやったのさ」
男はゆっくりと雪をかきわけて歩きはじめ、うつぶせに倒れている男の首筋へ、右手でぶらさげた銃を向けると、タン、と一発乾いた音をさせた。
銃を片手に小屋の右側へまわって行く。
とどめをさしに行くと悟って、伊沢はぞっとした。見る気がせず、小屋へ戻った。
ユリは壁に背をあて、両膝を立てて丸くなっていた。
「安心しろ。おわったよ」
ユリは烈しく頭を横に振った。かたくなな感じであった。外でまた銃声が二度聞こえた。
「殺らなければ殺られたんだ。元気をだせ」
自分に言い聞かせるように言った。
「ひとつだけ言っておく」
うしろで男が言った。伊沢はふり返り、その顔をみつめた。
「東京へ戻って自分のやれることをやれ」
男の言う意味が判らなかった。
「遊んでもらっては困る。君はいま二人殺ったのだぞ。まるでサラリーマンが休暇で鴨猟《かもりよう》に来たようにな」
「ひどいことを言うな」
伊沢は呶鳴《どな》り返した。すると男は冷たい一瞥《いちべつ》を残して背中を向けた。
「あとで考えれば判ることだ」
「どこへ行くんだ」
「ここにずっといる気か」
男はからかうように言った。
「行こう」
伊沢はユリの体をかかえあげた。
「ホテルへ帰るの……」
「そうらしいよ」
歩きだしたとき、伊沢の体の中を冷たいものが吹き抜けたようであった。
もうあと戻りはできない。そう感じた。そして、たった今まで自分がぬくぬくとしたサラリーマンの世界から、この雪の中の殺し合いを見ていたことを悟った。
伊沢は前を行く男の逞《たくま》しい背中を、怯《おび》えたような目でみつめていた。
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8 肥《ふと》った評論家
ヘリコプターは、雪の中へ右肩をめりこませるようにして黒煙をあげていた。もう炎はなく、ただそのあたりの雪が、無残な感じで黒く汚れてしまっている。
ホテルの正面には四人の男が空を見あげて立っていた。そのうち二人は銃を持っていた。
伊沢とユリが、髭《ひげ》だらけの逞しい男のあとについて近づくと、
「やあ、無事でしたね」
と、一人が笑顔を向けた。たしか、フロントにいた男のようであった。
「支配人は」
伊沢とユリの前に立ちどまって山小屋の男が言った。
「ちょっとやられました」
フロントの男は、イスラエル製の銃をかかえた男に敬意をこめて答えた。
男は大股でロビーへ入って行った。伊沢とユリもそのあとに続く。
「どうした、横井」
支配人はロビーのソファーに腰をおろし、若い男に額のあたりの傷を手当てしてもらっているところだった。
「彼女の居場所を言えと、いきなり一発くらいましたよ」
横井は苦笑してみせる。大した傷ではないらしかった。
「どんな名目で連れ出したんだ」
男は泊まり客たちのことを言っているらしい。
「正規の営業許可を得ていないことがひとつ。もうひとつは病気……」
「伝染病か」
「ええ。ここから帰った客の一人にその疑いが出たというんです」
「なるほど。それなら客はいやも応もないな。みんなすんなり出て行ったのか」
「ええ。今ごろはどこかでいいかげんな手当てをうけてるでしょう」
「ヘリの始末は」
すると支配人は上着のポケットから、ねじり出すようにして灰色のかたまりをとり出し、ソファーの上へ無造作に置いた。米軍の手榴弾であった。
「外の連中がやってくれました」
支配人は雪の中で外を見あげている男たちを顎でしゃくって見せた。
「どうやら雪の豪華船もおわりらしいな」
伊沢が同情するように言うと、支配人は朗らかな声で笑った。
「そんなことはないさ」
「こんな事件を起こして、まだ続けられるのか」
伊沢は意外そうに言い、黒煙をくすぶらせているヘリコプターをふり返って見た。
「連中は彼女が欲しくて来たんだ」
「私の命がね」
ユリは無表情で言った。
「彼らは失敗した。勿論彼女もここから消える。だから今までどおりさ」
伊沢は銃を手にホテルの裏側へ去って行く男を見守りながら、
「しかし人が死んだぜ。上の小屋で三人」
と言った。
「こっちでも連中は二人死んでる」
支配人は平然としている。
「営業許可がないそうじゃないか。それに、死んだ連中はどんな奴らなんだ」
「警察。と言っても、表だてる身分の連中ではないがね」
「いずれにせよ、騒ぎが騒ぎだ。伏せて置くわけにもいくまい」
「いくさ」
「君らの組織が工作するのか」
「いや。連中をここへ寄越《よこ》した奴がやってくれるよ。俺たちは焼けたヘリの後始末や、死体の処理をするだけだ」
「そんな手品みたいなことができるのか」
するとユリが口をはさんだ。
「ゲームなのよ、これは。こっちが、もっと強い札を一枚出せばいいの。連中がいやがる新しい札をね。そのために、みんなで情報を持ち寄っているのよ」
ホテルの裏でエンジンの始動音がした。伊沢はしばらくその音を聞いてから、ゆっくりと首を左右に振った。
「なるほどね。力のゲームか。向こうにはしたい放題にやっている強い奴がいて、こっちはそいつの弱味をちくちくやるわけか。秘密を公《おおや》けにされたくなければ、こっち側の言うことを聞くしかないわけだ」
「連中はすべてを握っているよ。どんなことでも闇から闇に葬れるし、逆にありもしないことを作りだすこともできる」
支配人は自信たっぷりに言った。
単車のようなエンジン音が、ホテルの裏から遠のいていった。スノー・モービルらしい。
「彼か」
伊沢は支配人に言った。
「また山へ入るのさ」
支配人が頷いてそう答えたとき、遠のいて行くスノー・モービルの音に、別の音がかぶさってきた。
「田川《たがわ》さんです」
フロントへ若い男が顔を出して呶鳴《どな》った。またヘリがやって来たらしい。しかし、落着いた支配人の様子では、どうやら味方らしかった。
「ひどいもんだ」
伊沢は思わずそうつぶやいてロビーを出た。眩《まぶ》しい銀世界の上に、ポツンと小型のヘリが浮かんでいた。
「何がひどいんだ」
いつの間にか支配人も外へ出て来ていて、伊沢と同じように空を見あげながら言った。
「この綺麗な雪の世界が、実は世の中の裏側にあって何もかもさらけ出す、醜悪な世界だということさ。ここには法律がない。まさに無法地帯じゃないか」
「たしかに……」
支配人はせせら笑ったようである。
「でも、外側にいたいかね。力の強い者は自分たちの恥部《ちぶ》を力でおしかくしてしまう。それを下から仰ぎ見て、弱者だけを縛る法に従って安心している。そういうところへ君は戻りたいのかね」
伊沢は答えなかった。
「君はもう仲間だ」
支配人は伊沢の肩に手を置いた。
「現代の奴隷であるサラリーマンが、力を合わせて権力の裏側に自分たちの楽園を建設するんだよ」
「俺は何をしたらいい」
伊沢は自問するように言った。
「田川さんが教えてくれるよ」
支配人はホテルの上へ来たヘリをみつめて言う。
「田川とは……」
「組織のリーダーの一人さ。多分、君も顔ぐらいは知っているはずだ」
ヘリが降下して来た。支配人は伊沢のそばを離れ、ヘリが着地するほうへ歩き出す。
「山小屋にいた、あの男はなんという名前か知っているかい」
伊沢はヘリがたてる音の中でユリに尋ねた。
「知らないわ」
ユリは肩をすくめた。雪が舞いあがり、二人は顔をそむけた。
やがて、ヘリから一人の肥った男が現われた。回転翼の下をかいくぐって、支配人がそばへ駆け寄り、手をかしてやっている。かなりの年輩らしかった。
支配人がその男を連れて来たとき、伊沢はユリとロビーの入口にいた。肥った男は新品のゴム長靴をはいていて、仕立てのいい背広のズボンの裾が、そこだけ妙に若々しい感じでたくしあげられていた。
「伊沢君です」
支配人が言った。
「こちらが田川さんだよ」
「はじめまして」
伊沢は頭をさげた。しかし、伊沢にとってそれははじめて見る顔ではなかった。経済評論家の田川|信平《しんぺい》で、テレビや雑誌で見なれた顔なのである。
「建物の被害は」
田川が伊沢から支配人に目を移していく。
「ゼロです」
「それは結構」
田川はまた伊沢を見た。
「ちょっと失礼して、支配人とあとのことを打合わせてきます。なに、わたしも今夜はここに泊めてもらうつもりですから、詳しいお話をする時間はたっぷりあります」
田川信平はそう言うと、ゴム長靴の音をさせながら、支配人室のほうへ向かった。
「熱い紅茶でも欲しいな。とにかくヘリコプターは寒くてかなわん」
若い男が一人、そう言われてどこかへ走って行った。飲物の仕度をするのだろう。
「彼がパラダイサーのリーダーか」
「田川さん一人じゃないわ」
ユリは寒そうな顔で言った。
「部屋へ戻ろう。ブランデーが残っていたはずだ」
二人は階段を登りはじめた。
約一時間後、伊沢は自分の部屋で田川信平と向き合っていた。
廊下では、ドアを開閉する音や、車を押して歩く気配がしている。ホテルの男たちが、急にガラあきになった客室を掃除しているらしい。
「タフなものですね」
伊沢はドアの外の物音に耳を傾けながら言った。
「なぜかね」
「次の客が来る用意をしてるじゃありませんか。あの人たちもタフですが、あなたがたの組織とかいうのはもっとタフですよ。自衛隊のヘリを使うような相手を向こうにまわして、一歩もひけをとらない」
田川はテーブルの上の灰皿に目を落として笑った。ユリの口紅がついた吸いさしが二本ほどあった。
「彼らは強大な力を持っている。政界、財界、それに官僚組織の一部を加え、この日本全体を握っている。それにひきかえ、我々は力らしい力は何ひとつ持ってはいない、組織のメンバーはほとんどが平凡なサラリーマンだ。連絡をとり合うには電話、移動するには精々二〇〇〇CCどまりのマイカーさ。銃もない、ヘリコプターもない。安月給で、上役の考えしだいでは、いつ辺鄙《へんぴ》な田舎町へとばされるかもしれない軽い身分の者だ」
「でも、こんなホテルを自由にしています」
「そうだ。何もないが、我々は権力の内側にいる。たとえば沢田ユリという女性だ」
田川は灰皿をみつめて言った。
「彼女は大銀行の専務秘書として、実質的には社内のサラリーマンたちを睥睨《へいげい》する地位にあった。給料も悪くない。銀行の機密に関与し、自尊心も満足させられていた。普通なら、けっして手ばなしたくはない地位だった」
田川は顔をあげ、哀《かな》しげな表情を泛かべた。
「彼女は熱心に仕事をした。与えられた地位が、現代の女性としては殆《ほと》んど最高級のものだということを正確に理解していた。サラリーマンなら、当然それにしがみつく。何か起こっても銀行を守り抜こう……、自分の銀行、自分の職場……。それは君たちが、ウチの会社、という心理とまったく同じだ。企業を守り抜くことで、自分を守られる。だが、彼女は熱心なあまり、みずから企業の求める人身御供《ひとみごくう》になってしまった」
「自分からなったのですか」
「そうだよ。極東銀行のある危機を救うために服を脱いだのだ」
「…………」
「あそこの専務は、そのとき泣いたそうだ。しかし、非情な社会だ。手っとり早く危機を回避する手段として、沢田ユリは企業そのものに記憶されてしまった。彼女は、二度、三度と同じことをさせられた。するとそのうちに、危機ということの解釈が変化してしまった。こちらから積極的にうって出ることも、危機ということになったのだ。侵略のための戦争でも、国民にとっては国難という感じ方になるのと同じだ。同時に、かつては自分をいけにえにと望んだ聖女が、うす汚い売春婦のようになった」
伊沢は黙って田川をみつめた。しばらく睨《にら》み合いのような沈黙が続いた。
「沢田ユリは女性だからな」
田川はため息をついた。
「しかし、操《みさお》を売らされたことについては、一般のサラリーマンと同じだ。そして、サラリーマンはどうかすると、それを当然のように思ってしまう。権力の悪に加担し、その加担した部分を過小評価することで自分を正当化する。それもいい。どんな時代でも、弱者はそうやって生きのびたのだ。しかし、時代はかわる。弱者といえども、もういいかげんに長いものに巻かれっぱなしなどという能のないことはやめるべきだ。……君は超栄商事の社員だったな」
「ええ」
「部長に抗議したそうじゃないか」
田川は親愛の情を泛かべて言った。
「私的に、それもごく弱々しくです」
伊沢は自嘲した。
「それは、君が超栄商事のある悪に加担させられたからだろう」
「ええ。まあそうです」
「島田義男氏はこの組織を作った人間の一人だった。その島田氏が、君を我々の仲間に加えるよう要求していた。君は上司に抗議するほどの材料をすでに持っているわけだ」
「たしかに、僕はそれを握っています」
「一緒に楽園を作ろうじゃないか。権力と被支配者の中間で、我々の楽園を作るのさ」
「ひとつおたずねしたいのですが」
「いいでしょう。どうぞ」
「なぜそれを、世の中全体を変えるためにしないんです」
田川は首をすくめて見せた。
「やれるならそうしたいね」
「駄目なんですか」
「我々が握っていることを一度に公表すれば、たしかに今の体制は崩壊する。しかし、同時にこの日本という国もこわれてしまいかねない。上下の間に深い不信の溝がひろがり、その間に第三、第四の勢力が擡頭《たいとう》する。日本の社会は根底からくつがえり、多分、新しい形の社会が生まれることになろう」
「いいじゃないですか、それで」
「そうかな。その新しい社会は、本当にバラ色の世界かね。常に正義が通り、悪を除去しつづける理想郷かね」
「それを作るために現体制を……」
「できんのだ。わたしらは、それをやったあとに出来る社会も充分予測している。そのための研究も重ねた。しかし、万民が幸福になれる社会など夢さ。きっと、その新しい社会を批判する者が現われれば、その口を封じなくてはなるまい。口を封じたことをそしる者が現われれば、どこかへ放逐《ほうちく》せねばなるまい」
伊沢は暗い表情でうつむいた。口紅のついた吸殻が目の前にあった。
「ひとつには、まだその時期が来ていないということ。ひとつには、新しく起こる社会がけっして好ましいものではないらしいということ……」
「たしかにそのとおりかもしれませんね」
「しかし、これだけは言える」
田川は確信のこもった声で言った。
「いま、我々は自分たちの掴んでいるもので、自分たちのパラダイスを作ることができる。現に、半分以上はできあがっている。だが、それをいつまでもパラダイスにしておくつもりはない。時が来れば、我々が集積しつづけている情報は、権力を倒すために用いられるのだ。少なくとも、革命の引金の役は充分に果たすはずだ。だから、君にも加わってもらいたい。超栄商事にとどまって、現体制の一部品としての機能を果たしながら、我々が必要とする情報の集積に役立ってほしい。そうすることで、同時に君はサラリーマンのパラダイスを手に入れることになる」
「はじめからおことわりする気はまるでありませんでしたよ」
伊沢は笑った。どことなく、なりゆきまかせのような気分であった。
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9 水曜日の朝
伊沢邦明は東京へ戻った。調布の飛行場まで、沢田ユリも同行したが、飛行場へ着くとすぐ、ユリは迎えの車でどこかへ行ってしまった。
雪の中にいるうちに年がかわり、正月の四日になっていた。町はまだ正月気分で、タクシーで甲州《こうしゆう》街道を新宿へ向かう間、伊沢は華やかに着飾った娘たちを目で追っていた。
伊沢の心には気負いのようなものが溢《あふ》れていた。それは、少数の者しか知らない事実を知らされたよろこびのようであった。
しかしその反面、気が重くなる部分もある。
それは、これから自分が所属する企業の秘密を嗅《か》ぎまわらねばならなくなったことへの、うしろめたさであり、相手がまだ気づいていないにせよ、きのうまで一応は仲間のつもりでやってきた人々の敵になることへの悔《く》いでもあったようだ。
いずれにせよ、今まであまり味わったことのない緊張感の中で、代々木《よよぎ》の近くにある自分のすまいへ戻った。
それは小ぢんまりとしたマンションの五階にある3DKの部屋で、外見はかなり瀟洒《しようしや》な建物であった。
伊沢はその512号室を借りているのだ。入ってもう四年になる。512号室の持主はある中小企業の社長で、伊沢が勤める超栄商事の直接の系列会社ではないが、製品の販売の五割近くを超栄商事にゆだねている関係から、かなり密接な間柄であった。
家賃は四年前の時点で、世間並みより二割がた安い感じであった。しかも、その時の金額は今もって変わっていない。
その社長は、マンションが建ってから二年ほど、その部屋を誰かに使わせていた。伊沢は借りたあとになって、社長がどこかのホステスをそこに囲っていたらしいと気が付いた。多分その女と手が切れたとき、ちょうど伊沢が転居を考えていたことになる。偶然タイミングが合って、伊沢にとってもその社長にとっても好都合《こうつごう》だったのだ。
四年前の二割安は、ちょっと便宜《べんぎ》をはかってもらったという程度であったが、今となっては、大げさに言えば収賄《しゆうわい》である。だから伊沢は何度か相手に家賃の値上げを申し入れたが、今もって聞き入れてはもらえない。また、伊沢のほうにもそう堅いことを言うべきではない、と思う部分があって、結構快適に暮らしているのである。
十日ぶりだろうか。
伊沢はその512号室の鍵をあけて入った。あの晩すぐ帰るつもりだったので、キッチンもベッドも乱れたままだった。
綺麗《きれい》好きな伊沢は、さっそく部屋をかたづけはじめた。汚れた食器類を洗い、ベッドのシーツをかえ、掃除機を使って、部屋はすぐ何やら正月らしい感じになった。
風呂に入ってようやく落着く気になった伊沢は、居間のテーブルにブランデーの瓶を置いて、テレビのスイッチを入れた。しかし、どの局もうわついた正月番組ばかりで、すぐスイッチを切ってしまった。
ブランデーを飲みはじめると、しばらくして幾つかの顔を思い泛《う》かべた。大柄で向こう気の強そうな沢田ユリの顔。黒ずくめの男っぽいみなりをしても、どこかひよわなところがのぞくあのモデルの顔。穏《おだ》やかで腰が低いくせに、なんとなく居直ったようなホテルの横井支配人。そして、あの雪に埋もれた山小屋にいた髭だらけの逞しい男の顔。……伊沢は、その最後に泛かんだ顔をいつまでも思い返していた。
伊沢自身も含め、あの肥った評論家や横井たちには、姿かたちこそ違え、どこか共通した部分があったが、山小屋の男だけはまるでかけはなれた感じであった。伊沢は、あの男にもう一度会いたいと思った。
一月六日の月曜日、伊沢は超栄商事へ出社してすぐ、自分のデスクのすぐうしろにある大きな窓を見て苦笑した。
たしかに、今まで何度もその大きな窓ガラスを、自分にあてがわれている肱《ひじ》かけつきの重い椅子で叩き割ってやれたらと思ったものだった。山小屋の窓から、斜面を登って来る男たちに銃を向けながら、口に出して言ったりもした。
しかし、こうなった今でも、その窓ガラスを自分が割ってしまう可能性は、まずあり得ないことであった。
「おめでとうございます」
部長の前原の顔を見たとたん、伊沢は反射的にそう言って頭をさげていた。
「やあ、暮れに君の家へ電話をしたんだが、何度かけてもいなかったようだ。どこかへ行ったのかね」
前原は機嫌をとるように言った。
伊沢が前原を好かないのは、そう言う喋り方や態度に第一の原因があった。前原が他人に物を言うとき、阿《おもね》るか威嚇《いかく》するか、どちらかの表情が出る。世の中とは、そうやって生きていくものだと信じきっているらしい。
それは、人を使うという立場から、幾分は仕方のないことであるかもしれないが、伊沢のように前原のそういうやり方になれてしまった者には、やりきれないような感情を誘いだしてしまう。
しかも、その前原がつい油断したようにのぞかせる、彼本来の自然な喋り方というのが、どことなく幼稚で品のない感じなのだ。
だから伊沢は、五分五分でつき合えば自分より下のクラスの人間だと思っている。それが企業というものの中では、かえって前原のようなタイプの人間のほうがうまく適応してしまうらしい。現に社内では、前原は人づかいがうまいという定評を得ている。複雑な心理の綾《あや》を持たない人間のほうが、ずっとうまく生きられる世界なのであろう。
「あれからすぐスキーに行きましたので」
伊沢は用心しながらそう答えた。
「そうらしいな。だいぶ肌を焼いてきたじゃないか」
前原は、どこのスキー場へ行っていたかという質問をしなかったが、もし問われれば、伊沢には経済評論家の田川信平から教えられた場所を答える用意があった。
そういう打合わせをしてきたのである。伊沢はまだパラダイサーとは接触しておらず、したがって島田義男の死や雪の中の銃撃戦とは無関係であるということになっているのだ。
ことに、前原の家を辞去した直後に島田が殺されたこととは、絶対につなげてはいけないらしかった。組織はそのために伊沢を雪のホテルに隔離し、その間に何かの手をうつと同時に、伊沢に必要な知識を授《さず》けたのであった。
「何か特別なご用でも……」
伊沢は前原が電話をしてきた理由を知りたかった。
「なに、三日にこれがあるんで、急に君をさそおうとしたのさ」
前原はゴルフのクラブを振る真似をした。
「あんなことがあったあとだし、気まずいまま新年を迎えるのは嫌だからな」
「あんなこと……」
すると前原は声をたてて笑って見せた。
「血相変えてうちへやって来たじゃないか」
「ああ、その節は失礼いたしまして」
伊沢はあらためて頭をさげながらほっとしていた。どうやら前原は自分の家のすぐそばで起こった殺人に、まるで気がついていないようであった。
サラリーマンの平凡な日々がはじまった。伊沢は今までと少しのかわりもなく、超栄商事の営業課長として、仕事に励んでいる。
そうやって元の暮らしに戻ると、自分が所属する企業の秘事を持ち寄って、強力な地下組織を作っているサラリーマンたちなど、どこにいるか見当もつかない感じであった。
また、組織のほうでも、いっこうに連絡などして寄越《よこ》さない。この年末年始を過ごした雪の中のホテルの出来事など、まるで嘘のように思えるほどであった。
田川信平は、評論家として相かわらず雑誌やテレビで活躍している。伊沢は以前よりずっと注意深く田川の言ったり書いたりしていることを観察しているのだが、特に体制に反抗するような節《ふし》は見当たらなかった。むしろ、いかにも御用学者といった感じで、現在の政治や経済の枠組みから、けっして足を踏み外さないようなのである。
だが、それもとりたてて非難することではなさそうだった。なぜなら伊沢自身パラダイサーに心を寄せながら、それならばなおのこと、企業に忠実な番犬の仮面をかぶらなければならないからである。
とはいうものの、折角接触した地下組織とあれ以来まったく関係を断ったようなのも、何か心もとないようであった。
それで、二月のおわりごろのある夜、取引相手と銀座で軽く飲んだあと、田川に教えられていた六本木のクラブへ足を向けてみた。
時間は十時をちょっと過ぎたところで、渋谷方面へむかうタクシーを拾うために、若い男女が何組も車道へ出て手をあげていた。
伊沢は次の客が駆け寄って来るのを見ながら料金を払い、タクシーをおりた。まだ盛り場としてはまとまっていない感じだが、やはりそれなりの町の雰囲気は生まれはじめている。
伊沢は交差点を渡り、ゆっくりと防衛庁の塀のほうへ歩いて行った。
防衛庁の塀のはずれが小さな交差点になっていて、その角を曲がる道は赤坂の氷川《ひかわ》神社のほうへ通じている。
伊沢は田川信平の説明を思い出しながら、その角を曲がった。塀の角の内側に監視所のようなものがあり、いかにも兵士といった顔つきの若い男が、制服を着て睨《にら》みつけるようにこちら側を見ていた。
角を曲がってすぐ、右側に濃い色のドアがあった。その上に、「水曜日の朝」と一風変わった店の名が記されている。
その店はビルの地階にあった。階段をおりると通路はすぐ右に折れ、ピアノの音が聞こえてきた。
「いらっしゃいませ」
通路の途中で早くもそういう男の声が聞こえた。
「お一人でいらっしゃいますか」
入口に立つと、ディナー・コートの男がそう言って席へ案内してくれる。十時ではまだ時間が早いのか、隅のほうに若い男女がひと組、ひっそりと肩を寄せ合っているだけである。
「紹介されて来たんだがね」
伊沢は田川に言われたとおり言った。
「どなた様でしょう」
この店は会員制なのだ。
「倉山ホテルの支配人だよ」
すると男の表情が微妙に変化した。
「少々お待ちください」
男が去ると、伊沢はあらためて店内を眺めまわした。このての商売にありがちな、手を抜いた感じがなかった。金をかけるべきところには、充分に金をかけた隙《すき》のなさが伊沢を満足させた。
と同時に、伊沢はどこかで監視されているのを感じた。多分、新顔の身もとをたしかめているのではなかろうかと思った。
やがて、さりげない表情で別な男が奥からやって来た。あの山小屋の男を連想させる、髭を生やした男であった。
「いらっしゃいませ。ようこそおいでくださいました」
「会員にしてもらいたいのだがね」
そう言うと、男は名刺をさしだして笑顔になった。
「君がここのマスターかね」
伊沢は名刺を見て言う。
「ええ」
男はスツールを引き寄せて伊沢の前に坐った。
「もっと早くおいでになると思っていました。ウイスキーは国産でよろしいですか」
「いいとも」
男は店の奥に手をあげて合図してから、プラスチックのカードをテーブルの上へ置いた。
「あなたの会員証です」
見ると、伊沢の名が手まわしよく書き込まれていた。
「これの使いみちはご存じですね」
「うん、だいたい聞いて来た」
その店は、パラダイサーだけのクラブではなさそうであった。凝った店だが、ごく普通の営業をしている。ただし、その背後には組織が持つ多彩な施設がひそんでいて、いわば水面に顔をのぞかせた地下組織の一部である。
ボトルと氷やグラス類が来て、男は瓶《びん》の封を切りはじめた。
「だいぶ派手なことがあったそうですね」
男は世間ばなしのように言った。
「まあね」
「林《はやし》さんにお会いになったそうですね」
「林……」
伊沢は男が水割りを作ってくれる手もとを見ながら言った。
「ご存じない……」
「どんな人だね」
「これの名人ですよ」
男は伊沢の前にグラスを置いてから、銃を撃つ真似をして見せた。
「ああ、彼か。あの男は林という名前だったのか」
伊沢は山小屋の男とよく似た髭をみつめて頷《うなず》いた。
「ところで、何かお持ちになりましたか」
男はあらたまった様子で尋ねる。
「何かというと……」
伊沢は問い返したが、相手は答えない。
「ああ、そうか。別に今のところ何もないんだ。まずかったかな」
「いいえ」
とんでもない、という風に男は首を振った。ここは、組織に加わったサラリーマンのための、情報を運び入れる窓口の役を果たしているのであった。
「超栄商事は大手ですからね。今にとほうもない材料が、どさっと出てくるでしょう。期待していますよ」
男は屈託《くつたく》のない笑顔で言った。
「雪の中で僕と一緒だった女性はいまどうしているかね」
伊沢は物慣れぬため、用心して遠まわしな言い方をした。
「さあ、彼女のことは聞いていませんね。何しろ彼女は今やトップ・シークレットですから」
「そうか」
伊沢は軽い失望を味わいながら水割りを飲んだ。
「君は組織のことには詳しいんだね」
「そうでもありませんが」
「シダという言葉は何か組織に関係しているかね」
「シダ……」
「たとえば合言葉とか」
「いいえ、知りませんね」
「じゃあ僕の思いすごしか」
「何かあったんですか」
「いや、大したことじゃないんだ」
伊沢は相手を安心させるために、笑顔になって答えた。
……はい、シダです。
島田が殺された晩、赤電話からそう言う女の声が聞こえた。それがあのモデルであることに間違いはなかった。彼女はいったいどんな人生を送っている女なのだろう。……伊沢の好奇心が突然はげしく燃えあがったようであった。
伊沢はそれから午前三時すぎまで、その店にいた。料理も旨《うま》く、雰囲気も楽しかった。そして店の名前のとおり、彼が家へ戻ったのは水曜日の朝であった。
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10 ポルノ天国
久しぶりの朝帰りとなった水曜日以来、伊沢は俄然《がぜん》地下組織の価値を高く評価するようになった。
それまでは、いわばいやいや巻き込まれたかたちであり、サラリーマンがそれぞれの所属企業と関係なく、横の連絡をとり合って、権力の内側に力のバランスによる一種の真空地帯を作りだすという趣旨には同意できても、それはあくまで頭で理解することであり、市民運動の署名簿に署名することとさしてかわりはなかった。
ただ、伊沢を一種の興奮状態にかりたてたのは、長い間消息を絶っていた先輩島田の死や、あの雪の中の銃撃戦などという、およそ日常的ではない事件が重なったためであった。
それは伊沢が平和な国のサラリーマンとして本質的に抱いている、倦怠感《けんたいかん》のようなものを解放してくれたわけである。伊沢自身はそれまで一度も自分が人生に倦《う》んでいるとは思わなかったが、考えてみれば、倦んでいるからこそ、会社の仕事に、みずからのめりこんでいったのであるまいか。
あの夜ずっと伊沢の相手をしてくれた「水曜日の朝」のマスターは、その無自覚の倦怠を非難するように言った。
「あなたは典型的な商社マンですね。いや、典型的なサラリーマンなんですよ」
「なぜだ。サラリーマンじゃいけないのか」
その時伊沢はいささかむっとして答えた。
「自由業や自家営業なら立派で、サラリーマンはだめだというのか」
「いや、誤解しないでください。僕はあなたが無意識にせよ、根強く持っていらっしゃる倦怠感を言っているんです」
「俺の倦怠感だって……」
伊沢はそれまでこころよく身をまかせていた軽い酔いを追《お》いやるように言って、マスターの顔をみつめた。
「倦怠という言葉を使うのは、もしかすると適当じゃないかもしれません。しかし、僕はそう思う」
マスターは客と店の者という垣《かき》を越えて喋りだした。
「職場とはなんですか。日々の生活の糧《かて》を得るための場じゃありませんか。サラリーをもらってくる所ですよ。本当は、そのサラリーで、会社のものでも何でもない、あなた自身の人生が生みだされるべきだ。そうじゃありませんか」
「それはそうだ。たしかにそのとおりだよ」
伊沢はマスターの論理がどこへ行くか見当がついて、苦笑しながら答えた。その手で出られたのでは、後手にまわった伊沢はすぐ手づまりになり、爺《じじ》むさい精神主義を振りまわさねばならなくなる。
マスターは伊沢の察しのよさに好感を持ったらしかった。
「でも、これは卵が先か鶏《にわとり》が先かという問題と似ていますね。食うために働くのか、働くために食うのかという……」
譲歩するように言った。
「いや、その点については、俺は至って原始的に考えている。原始人は、腹が減ったから棍棒《こんぼう》を片手に穴を出て行ったのさ。仕事とは、まず食を得るためさ。ひょっとすると、人類の最初の言葉は、飯《めし》、さ」
マスターがうれしそうに笑った。
「だが、飯はそこらにころがってるもんじゃない。手に入れるためには穴の外へ出て行かねばならないし、体力や知力を使ったりもしなければならない。それは仕事さ」
「同感ですね」
マスターは、伊沢のグラスを引き寄せて氷とウイスキーと水で満たした。
「たとえば、誰も持っていないような高価なスポーツカーを買うために夢中で働く。それならいいんです。でもあなたがたサラリーマンは、いったい何が欲しいんです。権力ですか。社長の地位ですか」
そう仕掛けられても、伊沢には受けて立つ気がなかった。
「君の言うことはよく判るよ。俺たちが自分自身の人生を犠牲にして、会社だ仕事だと駆けずりまわるのは、結局ちょっとした世間体とか、この先の収入の見通しとか、そういうささやかなもののためだ。いや、そうじゃないかもしれないぞ。世間体や収入の見通しのためということすら、意識などしていないな。言ってみれば大勢の中に混っている安心感だ。そうだな、ひょっとすると、サラリーマンくらい、自分の力がとるに足らないものであることを知り抜いている人間は、他にいないんじゃないかな」
「そうペシミスティックになられては話になりませんよ」
マスターは伊沢の逃げ脚《あし》の早さをなじるように言った。
「でも、事実じゃないか。今まで考えたこともなかったが、サラリーマンというのは魚に似ているね。それも小魚だ。体を寄せ合い、群れをなして一生を終わる……」
「仕方がない」
マスターは、ため息をついた。
「それならそうしましょう。でもここで、ひとつ別の状況を考えてみましょうよ。この前の戦争のすぐあとのような状況です。食べ物の絶対的な量が不足していたでしょう」
「そうか。小魚同士で群れていても生きられない場合だな」
「あるいはこの東京に市街戦がはじまった場合でもいいんです」
「極限状況か」
「僕はそう思うんですが、もしそういうことになったら、伊沢さんのような人は、もっともっと元気がよくなるんじゃありませんか」
「買いかぶってくれるな」
「いや、本当です。少なくとも、今よりずっと困難は多いはずですし、危険でもある。こんな世の中は早くおわれ、早く平和になってほしい……。あなたはそう思うはずだが、その反面、今とくらべればずっと生甲斐《いきがい》のある毎日を送るでしょう。毎日の時間の中で、あなた自身のために使われる時間がずっと多くなるからですよ」
「今だって、こうして自分の時間を持っているさ」
「こんな店で潰《つぶ》す時間は、言ってみれば排便時間に等しい……」
マスターはずばりと言い放った。
「ひどいことを言いやがる」
「少なくともお客様の前で言う言葉じゃありませんな」
マスターは居直ったように言った。
「でもそうなんです。日本中のバーやクラブやスナックなどを満たしているのは、全部サラリーマンだと言っても言いすぎじゃありませんからね」
「意に染まぬ仕事をしたおのれを慰撫《いぶ》するためだと言いたいのだな」
伊沢は凝《こ》った店内を見まわして言った。
「果たして、意に染まぬかどうか、それは知りません。しかし、昼間の仕事にどこか虚《むな》しさを感じているんです。ああ今日は充実した一日であった……。そう思ったとしても、こういう店へ来て、その充実を再確信しなければならないんです。それが自分自身の人生としての充実であれば、まず家へ帰って家族とわかち合うほうが、よほどたのしいはずです」
「そうかもしれないな。穴を出た原始人が、大鹿をしとめたら、まっすぐ穴へ引っぱって帰るはずだ」
「ね、そうでしょう。じゃ、なぜそんなどこか虚《むな》しいもののある生活をみんな続けているのか」
伊沢はソファーにもたれて軽く目をとじた。マスターの論理には飛躍があったが、その結論にはサラリーマンとしてどうしようもない共感があるのだ。いくら仕事に熱中し、充実感を味わっても、会社を離れたとき、その熱中や充実と自己の本体との間に、どうしようもなく隙間風《すきまかぜ》が吹き込むのである。
「なぜ俺たちは、きめられた仕事以上の仕事をしてしまうんだろう。きめられた時間に会社へ行って、きめられた時間にさっさと帰り、会社を自分の生活の糧《かて》を得る場所としてだけに割り切れたら、たしかに人生はもっと楽しくなるような気がするんだが」
「平和だからですよ。あなたは退屈してしまっているんだ」
「つまり、その日の糧を得るところで、報酬以上に遊んでしまっているのか」
「商売に凝ってるんです」
マスターは笑った。
「水曜日の朝」のマスターに指摘されたからだけではなく、伊沢はこの新年六日の仕事はじめ以来、以前と同じように仕事に励んではいても、ふと放心したように自分自身をみつめてしまうことが多くなっていた。
それは醒《さ》めかけた恋に似ていた。つい去年の暮れまで、この女のほかに女はいるものかといった調子でかき抱いていた仕事という恋人は、今もだき寄せればすぐ息を荒くして抱きついて来る。しかし伊沢の心は、それを以前と同じようにかき抱きながら、相手を無数の女の中の一人として、醒めた目でみつめるようになっているのだ。
つい「水曜日の朝」へ足を向けたのもそのためだし、そこでもっと自分の人生をたのしむようにと教えられた幾つかの場所へ、積極的に出向いたのも、満たされぬ想《おも》いを満たすためであった。
はじめ伊沢が行ったのは、都心から少し西にある、鬱蒼《うつそう》と木の茂る広い庭を持った古めかしい建物であった。
なぜそこを第一番に探訪《たんぼう》したかというと、その建物はたしか司法関係の役所の一部であるはずだったからだ。
伊沢はタクシーでそのいかめしい門の前まで行き、果たしてこんな役所の執務時間を過ぎた時間に、そこへ入れるのかどうか怪しみながら、重い鉄のくぐり戸をあけて中へ入った。
裏口へまわって、宿直の小むずかしい顔の老人を予想しながらドアをあけると、いきなり真紅のチャイナ服を着た豊満な美女と顔をつき合わせて度胆《どぎも》を抜かれた。
「会員証をお持ち……。ごめんなさい、はじめての人にはそういうきまりになっているんで」
女は媚《こ》びのある目で笑った。
会員証をとりだすと、女はちらりとそれを見ただけで、ろくにたしかめもせず、
「どうぞ」
と、深く切れ込んだスリットから白い腿《もも》をちらちらさせながら二階へあがった。
「さあ、ここがポルノ天国よ」
いやにくだけた言い方をする女であった。多分、水商売……それも普通のバーとかクラブとかいった程度のものではなく、売春といったような匂いのする、したたかなキャリアを持っているようであった。
その女が大きな両びらきのドアをあけた内側には、豪華なカーペットがしきつめられ、べッドほどもある大きさのソファーが幾つか置いてあった。
まさにそれはポルノ天国であった。写真、雑誌、小説、そしてムービー。現代の日本ではけっして陽《ひ》の目を見ることのない、ありとあらゆるポルノグラフィーが、その部屋に充満していた。
客はほんの二、三人である。伊沢ははじめ、なんとなく気恥ずかしかったが、ほかの男たちは常連とみえ、平気で自分だけの世界に没入しているようであった。
「映画を見るならあっちの小部屋よ。個室なんだから」
慣れぬ伊沢がおそろしく高級な外国のポルノ雑誌をめくっていると、チャイナ服の女がそばへ寄って含み笑いをした。
「面白そうだな。こんな凄《すご》い美人がポルノのモデルになっているのははじめて見たよ」
伊沢は、白い肌の美女が逞しい男にさしつらぬかれ、眉を寄せている写真を示して言った。
「映画もこのクラスのだといいが」
「いくらでもあるわ、こんなの」
女はソファーに坐っている伊沢の手を引いて立ちあがらせた。
「あたしが写ってるのもあるわよ」
「君が……」
「そう。出演してるの。発禁になっちゃったけどね」
女は愉快そうに笑った。
映画はとにかく凄《すご》かった。演技などではなく、いわゆる本番を撮ったものであることに疑いはなかった。
しかも、それを小さな部屋で、チャイナ服の美女と二人だけで鑑賞するのである。チャイナ服の美女は、映写係兼解説者、兼売春婦であった。そのうえ、驚いたことに、本当に出演者でもあったのである。
暗い室内でフィルムがまわりはじめると、彼女は伊沢にぴったりと寄り添い、ズボンの上に柔らかい手を置いた。
「こういうのが好きなのは、男ばかりだと思っていたでしょう」
そう耳もとでささやく。
「君も昂奮《こうふん》するのかい」
「するわよ。あたし、少し色気違いなんですって」
女は低く喉で笑った。
「写されるのも好き。それに、これも」
女は硬度を増した伊沢のものを、ゆっくりと撫育《ぶいく》した。
画面では、その女が全裸になって、中学三年か高校一年といったくらいの、ごく若い中性的な体つきの男を迎え入れようとしていた。少年は明らかに、昂奮して震えていた。
「あの子、これの時が本当にはじめてだったのよ」
女は伊沢のズボンを外そうとしていた。
「ここは役所じゃないか。それも、なみの警官じゃ寄りつけもしない場所だ」
「そうなのよ。だから余計面白いでしょ」
「ここならば、どんなポルノだって揃《そろ》ってるはずだ」
伊沢は闇の中でニヤリとした。女の柔らかい掌の感触もさることながら、何か世の中を楽しんでいるという実感のようなものがあった。
その映画は、あくどいと言えばひどくあくどい場面の連続であった。自分から色情狂だろうと言うその女は、伊沢をはじめから気に入っていたらしく、唇やあらわにした豊かな胸で、ゆっくりと男を楽しんでいるようであった。
伊沢がその時に感じた、世の中を楽しんでいるという感覚は、ひどく子供っぽいところがあるようであった。
言ってみれば、それは囲いの塀をのりこえて、ポンコツ自動車が置いてある空地へ入りこんだようなものである。そこには、日頃許されていない、ありとあらゆる無法が楽しめるのである。しかも、置いてある車をどういじりまわしたところで、他人に迷惑などかけはしないのだ。
選ばれた少数の者だけに与えられる、優越感をまじえた楽しみ……。
伊沢は子供の頃に絵本で見てあこがれた、お菓子の国を連想した。
いま突然、この世はお菓子の国にかわったのである。飲む、打つ、買うの三道楽はおろか、あの雪に埋もれた山小屋で経験した、銃で人を撃《う》つスリルさえ、伊沢には許されてしまっていたのだ。
伊沢は視覚と触覚の両方から、じわじわと快楽の頂きに押しあげられていた。しかもその快楽の館《やかた》は、この世の法をつかさどる、いかめしい建物なのである。
「畜生……」
伊沢は女の唇の中で裂けそうになるおのれを自制しつつ、目をブルー・フィルムの画面に向けて呻いた。
これが王者の楽しみだったのか。人には許さぬ愉悦、禁じた快楽……。いま彼が味わっているのは、禁じられた快楽ではないのだ。
果てるとき、伊沢はもっともっと、組織の持つ楽しみを探し歩こうと思っていた。
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11 避暑地の情景
伊沢は週休二日になった世の中を感謝したい気持ちであった。それが社会全体としていいことか悪いことかは別にして、少なくとも現在のところ、自分の時代にそういう現象が起こったことを、有難いと思わざるを得ない。
昔の商家であったら、休日は盆暮れの二回で、住込みの丁稚《でつち》小僧はまず肉親の顔を見ることが最大の慰安《いあん》であったし、そういう組織の中で多少|融通《ゆうずう》をつけられる層にあがっても、七日に二日をまるまる仕事から離れられるものではなかったであろう。
また、もしこれが日本という国に生まれていなかったら、七日に二日の休みがそれほど楽しいものであるかどうか判らない。
たとえばいま、都心のホテルへ部屋をとったとする。べッドのそばのテーブルの上には、つるりとしたデザインのポットが置いてあり、そこには冷えた水が入っている。世界地図を眺めながらその冷えた水を飲んだとすると、水のサービスはとにかく、そのようにつめたくした水がかなり贅沢《ぜいたく》なものであることはすぐ自覚できよう。
灰皿の横にはマッチがある。広告を刷り込んだマッチが無料でどこにでもあるということ自体、この社会の贅沢さが容易ではないと言えよう。
さらに、バスルームに入れば、透明なビニールの袋に包まれたコップが、湯と水の出る蛇口のそばに置いてある。コップを使うにはそのビニールを破り棄てねばならぬし、透明なビニールの袋は、客にとって破り棄てる以外何の用途もないものなのである。
また、ロールになったトイレット・ペーパーは、白く柔らかで、しかも一定の間隔でみごとにミシンが入れてある。二、三種の大きさのタオルは宿泊者へのサービスとして当然必要なものとしても、歯ブラシに石鹸、安全かみそりや、無制限に使える湯水などは国の自然条件が違えばまさに王侯貴族のものではないか。
たしかに、それらのものは欧米諸国からやって来たものだ。だから、そういうサービスは世界中どこにでもあって珍しいものではないと言えるかもしれないが、それなら一歩そのホテルの外へ出たとたん、遊びや自由がこれほどに溢《あふ》れている街が、そうどこにでもあり得るであろうか。
伊沢が感謝したい気持ちになったのは、そういう社会で、さらに彼が特権を行使できる身になったからである。
六本木のクラブ「水曜日の朝」のマスターに教えられて、伊沢は超栄商事の自分のデスクから、ある電話番号をまわした。応対に出た男の声は、そこが法律事務所であることを告げていた。
「この週末を伊豆《いず》で過ごしたいんだがね」
「どちらさまでしょう」
「超栄商事の伊沢という者だが」
もう季節は夏になっていて、伊沢は組織が提供してくれる多彩な遊び場を利用することになれていた。
「少々お待ちください」
どうやら身もとをチェックしているらしかった。
「どこのホテルか知りませんがね」
部下の一人が伊沢の電話を小耳にはさみ、からかうように言った。
「今からじゃとても無理でしょうよ」
伊沢は思わずニヤリとした。たしかに普通なら、ちょっとしたところはどこも予約でいっぱいのはずである。しかし、サラリーマンが協力して自分たちの楽園を作りだす地下組織には、そのような常識は通用しないのだ。
たとえばその部下も、どこかの銀行の頭取が急に週末の静養を思い立ったとすれば、どこの避暑地へ行くと言っても、そうした施設への手配が出来ないとは思うまいし、自分たちが知らない、贅沢な場所がどこかにあるに違いないと、ごく自然にそう考えるであろう。
伊沢がいましているのは、そういう場所への手配なのである。
伊沢は次の金曜日に休暇をとり、朝早く電車で葉山に向かった。駅からタクシーを拾ってヨット・ハーバーへ着くと、ひときわ大型のヨットへまっすぐ歩いて行った。
「伊沢です」
ヨットの上の男に、そう声をかけるだけでよかった。
「どうぞ。すぐ出しますから」
どうやら客は伊沢が最後であるようだった。キャビンへ入ると、伊沢と似たような年齢の男が三人いて、軽く会釈《えしやく》した。
船はすぐ動きだし、沖へ出る。
「どうです。ポーカーでも」
一人が言いだし、四人はそのキャビンにあるカード・テーブルへ集まった。他愛のない冗談を言いながら、軽い賭金で遊んでいると、よく陽焼けした肌のビキニの女が飲物を配りに来た。
ゲームが一段落して、デッキに出たり、べッドで寝そベったりしているうちに、船は伊豆に近づいていた。
食事になり、潮風に吹かれながらデッキで冷たいシャンペンを飲み、キャプテンはサービス満点のコースで何度か岸に近寄り、豪華な船に乗った客たちの優越感を満足させてくれる。
そして、夕凪《ゆうなぎ》の小さな入江へすべりこんで投錨《とうびよう》した。入江の両側に突きだした岬《みさき》はどちらも私有地で、U字型の突き当たりは小さな砂浜になっていた。白いランチが南側の岸につないであり、すぐそれがエンジンの音を響かせて迎えに来た。
ランチで岸へ着くと、純白に塗ったおもちゃのようなサンド・バギーが二台並んでいて、それに二人ずつ分乗して小さな砂浜の奥へ向かった。
海からは、砂浜の先は松林で、その奥がよく見えなかったが、南欧風の白い壁で囲まれた中に、よく手入れされた芝生の庭と、これも白壁の瀟洒《しようしや》な二階建ての館があった。
サンド・バギーをその正面に横づけにすると、お揃いの白いパンタロン・スーツを着た、すらりとした美女が四人、先を競《きそ》うように現われて四人の客を出迎えた。
誰をどう選ぶなどというひまはまったくなかったし、少なくとも男たちのほうでは、選ぶ必要もなかった。四人の女のどれを選んでも、それぞれ充分に満足できるようだ。
四人の男は、いずれも身のまわりの品などまるで持って来ていない。そんな準備が必要な世界ではないのだ。
まして、東京から自分の女を引っぱってくるような必要はまるでなかったし、そんなことをすれば、折角のパラダイスがなんにもならなくなる。
出迎えた白服の女たちは、よく訓練されたプロなのである。男を徹底的にたのしませる代償として、貴婦人なみの贅沢を手に入れている女たちだった。
あっさりパートナーがきまって、四組がそれぞれの部屋へ入る。女はそこでいかにも夏の浜辺らしい派手な服装にかわった。
すぐ一階のダイニング・ルームへおりていき、いきのいい魚や貝を主にした夕食がはじまる。もちろん、四人の女たちは、この週末をヨットで着いた男たちの妻として過ごすのであるから、並んでテーブルにつき、客と同じようにその豪華な夕食をたのしむ。
食事がおわると、テラスで酒をたのしむ者あり、芝生の庭で踊る者あり、思い思いに女と遊びたわむれる。
伊沢は自分の女を砂浜へ連れ出し、服を脱いで夜の海へ入った。女は伊沢に劣らず泳ぎが達者で、どこまでもついて来た。
そして、泳ぎ疲れると無人の砂浜へ戻り、潮騒《しおさい》を聞き月の光を浴びながら、肉の悦《よろこ》びにふけった。
伊沢が女を乗せてモーターボートをとばしている。艇身が浮き、水しぶきをあげてうねりにぶちあたる。どこへ行くあてもない、午後のたわむれであった。
スピードをゆるめ、波間に漂うようにして陸を見ると一台の小型車が細い道を辿《たど》って磯の岩場の近くに停めてあった。
エリと名乗る伊沢の週末のパートナーが、上体を反《そ》らせてそのほうを見た。
「家族づれだわ。あそこでゆうベキャンプしたのね」
なるほど、小さなテントが車のそばに見えた。赤い水着を着た女と、小さな子供が二人、そのあたりの岩場で遊んでいる。
「旦那が見えないな」
伊沢が言うと、エリが指で示した。
「潜《もぐ》ってるのよ」
エリはいい目をしていた。よく見ると、岩場のはずれでときどき黒い頭が水しぶきをあげる。
「まだ若い夫婦だと思うわ」
たしかに、それは中年になってからではできない芸当に思えた。潜水ではなく、海辺の家族づれのキャンプがである。
「一家四人があの小さな車にキャンプ道具や食料をつめこんで……大変だな、安あがりにするのも」
伊沢は軽く笑った。
「でも、結構たのしいはずよ」
エリは素《そ》っ気《け》ない声ですぐにそう言った。
「そうかね」
伊沢はエリの横顔を盗み見た。つんととがった鼻が、さっきまでより冷たいように思えた。
「どうした。ああいう暮らしがうらやましいのかね。愛し合った夫婦と可愛い子供たち……」
「月なみね」
エリは自分の立場を思い出したらしく、ふり返っていたずらっぽく言った。とにかくこの二日間、伊沢をたのしませるのが彼女の仕事であった。
「近寄って見よう」
伊沢は艇首を岸に向けて、ゆっくりと近づいた。子供たちがそれに気づき、両手を振って合図している。エリは首にまいたうすいネッカチーフを外してさしあげ、それにこたえてやった。
「案外優しいんだな」
伊沢はエリを褒《ほ》めた。岸では赤い水着の母親も、水の中の父親も、じっと伊沢たちのボートを眺めていた。
不意に、伊沢の胸に感動のようなものがつきあげてきた。それは本来なら、いつも彼の胸に溜《た》まっている澄んだ水のようなものであったが、いつの間にか涸《か》れていて、いま急に湧き戻ったのであった。
伊沢は岩場のはずれの水の中で、自分が運転しているボートをみつめている、その父親の気持ちが判るような気分になっていた。
彼はいま、このボートが欲しいに違いない。妻と子供たちをのせてやり、歓声をあげさせたいのだ。おそらく、彼は向こうに停めた小さなマイカーを手に入れるのが、精いっぱいだったのだろう。まだ充分に若く、夏雲を見ると、居ても立ってもいられずに、そのキャンプを計画したに違いない。
十キロほど北に、リゾートランドホテルが幾つか並ぶ、家族づれに絶好の場所があった。しかし、どれも今日あたりは予約客で満員のはずだし、それに、安サラリーマンにはふところを考えざるを得ない高い料金であった。
彼は、誰も見向きもしない、そんな何の変哲もない海岸へ苦労して車をおろし、静かな親子四人のキャンプをたのしんだのだ。妻も子供たちも、その貧しさにはいささかも気づかず、嬉々《きき》として遊びたわむれ、自然の豊かさを満喫したようである。
しかし夫は、その男は、もっと多くの喜びを家族に与えてやりたいと思っているに違いない。モーターボートを借りて子供たちに生まれてはじめての水のスリルをあじわわさせ、しつけのいいボーイにサービスされながら、広い芝生の庭でバーベキューを……。
伊沢は沈んだ表情であたりを見まわした。すると、どうやらすぐ近くに、接岸できそうな岩が出ているのが判った。伊沢はエンジンを切り、静かに水の中の男に近寄った。
「今日は」
伊沢は男に声をかけた。
「やあ」
男は岩角につかまって答えた。
「いいなあ、こんな所で家族づれで楽しむなんて。すばらしいアイデアじゃないですか」
男は照れ臭そうに笑った。
「君はこのボートを運転できますか」
「ええ、できるけれど」
男は怪訝《けげん》な顔で伊沢とエリを見た。
「どうです。お子さんたちを乗せてあげたら。しばらくお貸ししますよ」
「えッ……」
男は信じられない、というような顔になった。
「本当ですか」
「レジャーはこうでなくてはね。君のやり方に共感したんです。遠慮なく乗ってください」
「それは凄《すご》いや」
まだ若いその男は、勢いよく水から上半身をあらわし、岩をよじのぼった。伊沢はロープを抛《ほう》った。
「あそこならつけられるでしょう」
男はロープを拾い、岩の上をとぶようにして、伊沢が示した場所へ行くと、ゆっくりロープを引いた。子供たちが駆け寄って来る。
「ようし、いまボートに乗せてやるぞ。このおじさんたちが貸してくれるんだ」
子供たちは一遍にはしゃぎだした。若い細君も、うれしそうにお辞儀をする。
エリを先におろし、つづいて伊沢も岩にとび乗って素早く男と交代した。
「そうれ、気をつけて……」
伊沢は小さな子供たちを抱いて、ボートの上の男に渡した。最後に細君が乗ると、男は意外にたくみにボートをあやつって岩を離れた。
エリは伊沢の背中に胸を押しつけるようにして言った。
「すてきね、あなたって」
「あいつのほうがずっとすてきだよ」
伊沢はしんみりと言った。ボートはエンジンをふかせて走り出した。
「俺はこのところ、ちょっと忘れ物をしていたようだ」
伊沢はうしろへ手をまわし、女の手を握って言った。
「忘れもの……。そうね、私もだわ」
エリはそう答えたが、どうやら二人の言う意味は少し違っていたようである。
……そうだ、俺はたたかわねばならなかったのだ。
伊沢はそう考えながら、一家をのせたボートが走りまわるのを見ていた。
遊んでばかりいたという反省があった。パラダイサーは、本来遊び仲間ではないはずであった。
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12 坂道のレストラン
伊沢は経済評論家の田川信平《たがわしんぺい》を、麹町《こうじまち》のテレビ局でつかまえた。田川は録画をおえて、二人の男と一緒に車へ乗り込もうとしているところであった。
「田川さん」
伊沢が車のシートにすべり込もうとしている田川に声をかけると、田川はちらりと彼の顔を見たとたん、
「そうかそうか」
と、聞こえよがしに大声で言った。
「すっかり忘れていた。どうも失礼しました」
自分の失敗を詫《わ》びるように頭に手をやり、入りかけた車から体を外へ戻した。二人の男は怪訝《けげん》な顔で伊沢をみつめている。
「申しわけないが、この人とここで会う約束をしていたんだ。忙しいもので、ついうっかりしてしまった」
田川は二人の男にそう言い、さも困ったように伊沢をみつめた。
「さて、どうしたものかなあ」
「お手間はとらせません。ちょっとだけ時間をいただければ」
伊沢は慇懃《いんぎん》に言った。
「と言っても、話をしてみんことには、長くなるか短くてすむか判らんしな」
田川は巧みに演技の中へ真実の会話をおりこんでいる。
「あと五分、待っていただけませんかな」
田川は腕時計をちらりと見てから二人の男に言った。
「ええ、結構ですよ。では車の中でお待ちします」
男たちが車に乗り込むと、その車は近くのあいた場所へ行ってとまった。田川は車の排気管から出るかすかな青い煙を見ながら上着のポケットを探り、煙草を出して咥《くわ》える。
「すみません、突然現われて」
伊沢がライターを差しだして火をつけてやる。
「さあ、この煙草一本分の時間しかないぞ」
田川は煙を吐きだしながら言った。
「あなたに連絡する方法が判らなかったものですから……事務所は知っていたのですが、差しさわりがあるといけないと思いましてね」
田川は頷いた。
「多分監視されているはずだよ。で、話というのは……」
「ずばりお伺いします。うちの社にどれくらいの人数がいるんですか」
「超栄商事にか」
「ええ」
「なぜ知りたいのかね」
「行動を起こしたいのです」
田川はニヤリとした。
「やっと動く気になってくれたらしいな」
「遅くなってすみません」
「いや、組織のことを知っていきなりバタバタされるより、そのほうがいいくらいだ。それで何をやろうというのかね」
「根こそぎですよ」
「根こそぎ……」
「ええ。流通機構を操作する技術はよく判っています。僕の専門分野ですからね。しかし、それは大商社の手口のほんのちょっとした部分にすぎません。もし僕のほかにも超栄商事に何人かのメンバーがいるなら、彼らと団結してもっと徹底的なことがやりたいのです」
「なるほど。君の意図はだいたい判るよ」
「独立したチームを作りたいのです。何しろマンモス商社ですからね。上野の動物園の掃除を一人でやれと言ったって無理でしょう。そりゃ、一人でもライオンの糞《ふん》くらいは持って来ますがね」
田川は笑った。
「すぐ結論の出る話ではないな。よし、あとで連絡しよう。よかったよ、彼らを待たせないですむ」
田川は煙草を棄て、爪先で踏んだ。
そのあと、伊沢はテレビ局の近くの喫茶店に入ってコーヒーを注文し、沢田ユリの大柄な美貌を思いだしながらピンクの電話機へ硬貨を落とした。まわしたナンバーは自分の会社であった。
「秘書課の北村裕子《きたむらゆうこ》をお願いします」
交換台はこちらの名前を尋ねた。
「兄です」
伊沢は片頬にかすかな笑いを泛かべながら嘘をついた。
「もしもし」
女の声がした。
「君の兄さんだがね」
伊沢は笑い声で言った。
「はあ……」
北村裕子は戸惑っているらしい。
「僕だよ……」
「あのう……」
判らないらしい。
「この声が判らないなら電話を切るよ」
すると北村裕子の声が突然高くなった。
「あらっ、伊沢さんね」
「いいのかい、そんな大きな声をたてて」
そう言われて、受話器の向こうの声はひどく素直にささやきはじめた。
「ごめんなさい。だって、あんまり意外だったから」
「僕はまた忘れられたのかと思った。調子のいいことを言われて、図に乗ってデートを申し込んだら、あっさり振られたなどというのは、そう珍しい話でもないがね」
「意地悪言わないで」
北村裕子の声は甘ったるかった。
「それでは申しあげます。お言葉に甘えてデートを申し込ませていただきました」
「本気。本気なの」
「本気さ。どうです、数あるライバルを押しのけて、僕に栄冠を授けていただけますか」
「あたしがそれを断わると思っていらっしゃるの」
「自信満々だと言ったら君はおこるだろうなあ」
「あなたは別……」
裕子は言外の意をたっぷり含ませた答えかたをした。
「そう、有難う」
「で、何時にどこで」
「人目につきたくない。だから、六時に会社の地下駐車場の配車係のところに立っていてくれないか。そうすれば、君の名を言ってハイヤーが行く」
「すてき、面白そうね」
裕子はよろこんでいた。
伊沢はその電話を切ると席へ戻ってコーヒーに砂糖をいれた。
いよいよはじめるぞという意気込みがあった。自分の手で超栄商事にパラダイサーと同じものを作りだしてやろうと思っているのだった。
今度のことのはじまりに、伊沢は部長の前原の家へ抗議をしに行った。その後前原は伊沢が青くさい正義感をすてて商社マンの一員として成長した、くらいに思っているに違いなかった。
しかし、それにしても抗議したことで一応マークはされていると考えねばならなかった。外部へ情報が洩《も》れていると判ったとき、前原たちは何人かの容疑者の中へ伊沢を加えるに違いない。
したがって、自分の担当分野だけを追うのは危険だと判断したのだ。そのとたん、彼の頭に泛かんだのは、あの地下組織の縮小版を作るというアイデアであった。
北村裕子が、丸の内にある超栄商事本社の地下駐車場へ入ったのは、午後六時五分すぎであった。裕子は一階から階段を駆けおりて、伊沢に言われたとおり駐車場管理人室の裏側にある配車係のところへ行った。するとすでにそのドアの前に、黒い背広を着た中年の男が待っていて、
「北村さんですか」
と尋ねた。
「ええ」
裕子が息を切らせて答えると、その男はそばに停めてあった外車のドアをあけ、
「どうぞ」
と言った。
裕子は恰好《かつこう》のいい長い脚を腿のあたりまで見せてその中へすべり込んだ。男はゆっくり前へまわり、運転席へ入る。
そのハイヤーが駐車場を出るとき、裕子はシートに深く体を沈めて外から顔を見られないようにしていた。
車は丸の内を離れ、お濠《ほり》ばたの道を田村町のほうへ向かっている。
「どこへ行くんですの」
裕子は好奇心をおさえかねて運転手に尋ねた。
「着くまで言うなと言われてるんですよ」
運転手は笑った。
「なんだか面白そうですね」
「そうかしら」
裕子は精いっぱい気取って、関心なさそうに言ったが、心の中は期待でいっぱいのようである。
北村裕子は超栄商事本社の女子社員の中でも屈指の美人であった。二人いる専務室づきの秘書の一人で、専務室づきになってもう四年になる。
入社した当時は清楚《せいそ》な美人だと思われていた。しかし、二年目に社内の誰かと恋愛中だという噂が立ち、それ以来急速に艶っぽい女になった。成熟して、幼稚な恋愛沙汰などとうに卒業したという感じになった。
それが、だいぶ前から伊沢に好意を示していたのである。伊沢は北村裕子が専務か誰かのお手付きであるというひそかな噂を、そのとおりだと睨んでいたのだ。だから、以前はいくら美人でも裕子などまるで計算外にあったが、社内に情報網を作ろうと思い立ったとたん、その裕子のことが頭に泛かんだ。
沢田ユリは同じような価値を持った女だったのだろう。……伊沢はそのときふとユリの顔が目に泛かんで哀れに思った。
しかし、裕子はこの際どうしても欲しい駒の一枚であった。裕子の心を溶かし、心を自分に傾けさせれば、一挙に上層部の情報を掴んでしまうことが可能だと思った。かりに裕子が専務と本当に関係があれば、なおさら有利なのである。
そのために、伊沢は組織の一部を彼女のために使う決心をした。例の法律事務所だと名乗る連絡先へその件を相談すると、思ったよりかんたんに承諾してくれた。そのあっさりとした承諾のしかたで、伊沢はパラダイサーたちがそういう施設を自分のたのしみのためだけに使っているのではなさそうだと感じた。
これは新しい発見であった。考えてみれば、パラダイサーの中には営業マンその他、取引相手を接待しなければならない立場の者も少なくないはずである。もしそういう必要があって、あのポルノ天国や伊豆の秘密ホテルを使うことができたら、接待ずれのした連中も驚くに違いないし、充分満足もするだろう。もちろん、自分に必要な情報をとるために使われても不思議はないのだし、伊沢にとってもそれはこれから大いに活用すべきことであった。
伊沢が裕子を待っていたのは、横浜港を見おろす高台の小さなレストランであった。それは石だたみの短い坂道の途中にあって、古びた趣《おもむ》きのある二階だての木造建築であった。
ハイヤーはその坂道の下で停まった。
「あそこへ行くようにことづかっています」
夕暮れであった。その短い石だたみの坂道は車が入れぬ狭い道で、小さな洋裁店がハイヤーの停まった登り口にあり、右側は古い石垣になっていた。
そのレストランが、自分の店のために特別にたてたのだろう、石垣の側に、昔のガス燈を思わせるデザインの街燈が二本あり、それが港の坂道をいっそう風情のあるものにしていた。
裕子はハイヤーを見送ってから、深く息を吸いこんだ。
なんてロマンチックな場所なんだろう。
そう思っているような顔であった。コツ、コツ、とハイヒールの踵《かかと》を鳴らして、楽しむようにゆっくりと坂を登って行った。坂の上から、ジーンズをはいた十二か三の青い目の女の子が、自転車に乗っておりて行った。
それにしても静かな一画であった。裕子がレストランの前に立ち、ドアを押すと、チリチリンという澄んだ音がして、そのかぼそい響きが遠くまで伝わって行ったようであった。
あらたまった感じはどこにもなかった。港の飯屋という気さくな雰囲気で、外人の二人づれが二組、ひっそりとテーブルについていた。
白い上《うわ》っぱりに白い帽子をかぶった肥った男が、にこやかに裕子を迎えた。
「どうぞあちらへ」
一番奥のテーブルを示した。そこに伊沢がすわって微笑していた。テーブルの横の窓やカーテンの具合から、店の照明の感じまで、裕子にはそこが日本ではないような感じであった。
「なんてすてきなお店なの」
裕子は目を丸くして、椅子に腰をおろしながら言った。
「少し遠いことが欠点だがね」
伊沢は余裕たっぷりであった。彼は今夜ここで裕子を抱いてしまう計算をしていた。そして、それは少しもむずかしいことではないようであった。
「さあ、食事にしよう。もう君の料理もたのんであるよ」
肥ったコックがウェイターがわりで、すぐ裕子のグラスに酒をついだ。
「シェリーだよ。極上品だ」
裕子はグラスを持ちあげた。
「乾杯」
伊沢は冗談のようにグラスをあげた。裕子はすでにハイヤーや坂道のあたりですっかりムードに酔っていて、しっとりとうるんだ瞳で伊沢をみつめかえした。
二人はみつめ合ったままシェリーを含んだ。
「おいしい……」
裕子はグラスを置いて言った。
「ここ、気に入ってくれた……」
「ええ、とっても」
「ずっと以前、よくここへ来たんだ」
伊沢はしんみりした口調で言った。
「あら、そうなの」
「ここへ来るのは久しぶりだ」
裕子は伊沢が何か重大なことを言い出す気配を感じ取って、黙ってみつめていた。
「早すぎるかもしれないが、僕はこういうことで、なし崩しに何かを進めてしまうのが嫌なんでね」
伊沢はまたシェリーをひと口飲んだ。
「僕がずっと独身で通してきたのは……」
伊沢はオーバーな言い方をして、店の中を眺めまわした。
「この店のせいなんだ」
「あら、どうして」
「結婚するつもりだった」
伊沢は遠くを見るような目で言った。
「よくここで会った。楽しかった。自分のために生まれてきた相手がこの世にいるということを、僕は信じはじめていたんだ」
「すてきな人なのね」
「そう。すばらしい女だった。他人にはとにかく、僕にとっては……」
「それで……」
「死んだよ」
「え」
「飛行機事故でね」
伊沢は裕子も知っているはずの、何年か前の大事故のことを喋った。その飛行機に伊沢が言うような女が乗ってはいなかったことなど、裕子は調べるはずがなかった。
「それじゃ、ここは思い出のお店なのね」
裕子は同情するように言った。
「同情してくれる必要はないよ」
伊沢はいたずらっぽく笑った。
「もう昔のことだし、傷も治ったらしい。その証拠に、いま君がそこにすわっている」
裕子は一度伊沢から瞳をそらし、すぐまたみつめ返した。頬がほんのりと染まっているようであった。
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13 社員情報
北村裕子は、デザートのときちょっと席を立って、店の入口のところにある古風な電話機をとりあげ、どこかへ連絡したようであった。
伊沢はそれに対して別に神経をとがらす必要はなかった。自宅へ連絡したにきまっているのである。裕子が電話をかけている間、伊沢は店の男と目が合ったとき、ニヤリとウインクをして見せた。
「なんだか空気まですてきになっちゃったみたい……」
席へ戻った裕子は甘えるように言った。
「うん」
伊沢は軽く頷いて見せた。
「しかし、夜はすぐ明けてしまう。今夜は特に短い夜になりそうだ」
つぶやくように言い、ちらりと目をあげると、裕子は羞《はじ》らいを含んだ瞳で伊沢をみつめ返した。
「それに、朝になれば君は幻滅するかもしれない」
「しないわ」
裕子は間《ま》を置かずに言い返した。
「僕はするかもしれない」
伊沢はからかうように顔をつきだした。裕子の表情が怯《おび》えたようになる。
「だって、君と満員の通勤電車に揺られて会社へ行くんだからね」
裕子は安心したように笑い出した。
「そうね。でも、それも楽しいわ」
いつの間にか、今夜二人が抱き合って眠ることがきまってしまっていた。伊沢は裕子が自分の家に、どんな口実を使ったのか知りたくなったが、自制して尋ねるのをやめた。
やがて伊沢はナプキンをテーブルに置き、立ちあがると裕子のうしろへまわって椅子を引いてやった。
「さあ、行こう」
店の男はそれを見て、キッチンへ通じるドアをあけた。伊沢は裕子を案内するように、先にそのドアへ向かう。
キッチンと店の中間ぐらいにドアがひとつあって、伊沢はそのドアから外へ出た。外は暗く、いま二人がいた窓から、黄色っぽい光が外の古びた石だたみの上へ落ちていた。
「中庭ね」
裕子が言った。港側は崖で、すぐに下の家の屋根になっている。崖の端は花壇で仕切られ、背の低い草花が植えてあった。
石だたみの小さな中庭はほぼ五角形をしており、中央に池のそばに石のベンチが据えてあり、伊沢はそこに腰をおろして煙草に火をつけた。
「吸うかい」
「いいえ」
裕子は港を背に、伊沢の前に立って中庭をかこんだ三階建ての家を見あげていた。
「どういう人が住んでいるのかしら。すてきな家ね」
「ホテルさ」
「え……」
「小さな、名もないホテルさ」
「じゃあ、あのお店は」
灯りのもれる窓を見て裕子が言った。
「ホテルの一部……」
伊沢は闇の中で陰気に答えた。裕子は二歩ほど動いてとなりにすわった。
「また思い出してるのね」
なじる様子ではなく、いたわるような声であった。
「死んだ女のことではない」
「それじゃ、なにを思い出していらっしゃるの」
「僕の傷は治った。今考えていたのは、治った日までの年月のことさ。長かった……」
裕子は体をあずけてきた。
「ごめんなさいね。あたしにはとってもすてきな夜なの」
二人は軽く唇を合わせた。
「行こう。天井が斜めで、窓から港が見える。屋根裏みたいだが、いい部屋だよ」
暗い中を、二人は靴音を響かせて建物のほうへ行った。
二日後、伊沢は新橋《しんばし》駅を見おろす小さなオフィスで、田川信平と会っていた。
「成算はあるのかね」
田川は愉《たの》しそうな目で伊沢を眺めた。
「あります」
「メンバーの中には、分派行動は困るという考えもあるようだ」
「分派行動をしようというのではありません。僕にはよその会社の秘密は探れませんからね。自分の会社でやるより仕方ありません。そして、僕がいる超栄商事はマンモス商社です。この間も言ったとおり、一人ではやりきれないのです」
「たしかに、それはそうだ」
田川は同情するように言う。
「しかし、それだけに、うまくいったとき君らが握る獲物は少し大きすぎることになるんだよ」
「大きくてはいけませんか」
「もちろん、いけないことはない。だが君のいる会社がどれほどのものか、よく考えてみてくれ。君が提案してきた超栄商事の根こそぎ作戦にオーケーをだしたとたん、本部のほうとしても、抜本的な改革をしていかねばならなくなる」
「なぜです」
「君は、権力を握っている連中を、つまりこの国の体制側の連中を、内部でチクチクいびる材料を集めるのだという程度にしか理解していないんじゃないかね。会社の内部に慣れて、外側から見たときの大きさを過小評価しているんじゃないのかな」
「超栄商事を過小評価するですって」
伊沢は笑いだした。
「僕はそんな大物じゃありませんよ」
田川は真面目な顔で首を左右に振る。
「大物なら超栄商事という化け物を、もっと正確に把握《はあく》するだろうな」
「いったい組織は何を心配しているんです。はっきり言ってくれませんか」
「たとえば、君が以前行ったことのある倉山ホテルは、大手鉄鋼メーカーの高級幹部用保養荘だ。それを冬の間だけ、ああいうように組織が使えるようにした。その会社の弱点を握って叩きつけ、秘密保持のかわりにあれを我々のものにした。そこまではよくある話だ。なになに会社どこそこ寮という看板をかけた豪邸が、その実、正式にはその会社に縁もゆかりもない人物によって使われているケースは、それこそ掃《は》いて棄てるほどある。秘密と出費のバランスがそれで保たれている。しかし、別のもっと高度な件で、そこへこの間のように我々の側のある人物が逃げ込んだとしよう。バランスは崩れる。相手はそこへ踏み込んで必要な人物をとらえようとする。こっちはそれをやめさせるのに、別な秘密を支払わねばならない。やりそこなえば君が巻き込まれたとおりの殺し合いだ。そこでさらにこちらが秘密を支払わなければ、事件は表沙汰になってしまう。
本部の仕事はそのバランスをとるための秘密を、適当に向こう側へ支払うことなんだ。さて、君らが動きだしたとしよう。ことは超栄商事だけではなくなる。別系統の銀行がからんでくるし、関係官庁も当然超栄商事のやり口にひと肩いれている。政党、政治家……いつだって同じことで、それは超栄商事に限らないが、何しろ事は桁外《けたはず》れに大きい。連中は言いだすかもしれない。ここまで追いこまれるのなら、いっそのことパラダイサーそのものを潰《つぶ》してしまえとね」
伊沢は肩をすくめた。
「すると、パラダイサーという組織は、せいぜい相手をいびる程度の仕事で満足するわけですか」
「問題はそこだ」
田川は諭《さと》すように言う。
「企業が庶民を苦しめている。サラリーマンは庶民の側にありながら、それの片棒をかつがされ、企業に対する忠誠心を口実に、経営者に都合のいい昇給率の中でしか分け前にありつけない。せめて会社を離れたときぐらい、自分たちもそういう秘密に関与したことの特権にありつきたい。……それがそもそものはじまりだ。だから、メンバーの大部分は、社会の根本的な改革を望んでいない。課長が重役なみの余暇《よか》を味わえればそれでいいと思っている。たいていがその程度なのだよ。しかし、超栄商事を根こそぎにやるとなると、これは日本の社会そのもののありようにかかわってくる。今までにも何度か、時の内閣の首根っこを押さえるような情報を我々は手に入れてきた。だが、そういう情報はひどく厄介《やつかい》なのだよ。我々は、通常日本にはあり得ないと思われているような闇《やみ》の力と、それで何度もぶつかってきたんだ」
「闇の力……」
「一般の警察のさらに上位にある力の集団だよ。戦前の特高《とつこう》とか言ったものよりはるかに機動性に富み、しかも巧妙にかくされているが、それは厳然として存在し、権力を保護している。我々がレジャーの特権を求めている程度なら、その力と共存できる。現にパラダイサーは、ある筋からそのライバルを蹴落とすための情報提供を求められて協力することだってあるのだ」
「つまり、その闇の力が出てきたら、こっちはひとたまりもないということですか」
「早く言えばそうだ。ただし、報復はできる。強力な報復がね。しかし、それは全国民を憤激させることになりかねん。マイホームから遠のかせるために使われているデータ、強制的に天引きされる年金が絶対に老後の支えにはなり得ないカラクリ、公共料金の中に含まれた次の値上げ準備のための政治献金分、そして、けっして長者番付に載《の》ることのない、とほうもない高額所得者の一群……。どれひとつをとっても、我々が握っているのは連中が絶対に言いのがれのできない証拠なのだよ。我々が報復したら、この国はまっぷたつに割れるだろう。奪っていた者と奪われていた者……」
伊沢はしばらく黙って考えていた。田川の語る言葉の裏を考えていたのだ。
「つまり、まだ対決する時期ではないということですか」
「判りが早くて有難い。そうだよ」
「将来あなたがたはそれをやる気がある。しかし、パラダイサーは全体としてまだそこまでの意識は持っていない」
「そのとおりだ。だが、我々はごく一部だが、エスカレートさせてはいる。現に君は司法関係の建物の中で、自由に発禁文書を楽しんだはずだ」
伊沢はまた笑いだした。
「なるほどね。そっちの立場は判りましたよ」
田川は釣《つ》り込まれて笑いかけたようであった。伊沢はそれへおしかぶせるように言った。
「でも、こっちはもう動きだしてしまいましたよ」
田川は目を剥《む》いた。
「あなたに甘えるようで申しわけありませんが、あなただってこのままでは嫌なはずです」
それは今までの田川の言葉のはしばしにはっきりとあらわれていた。
「握った情報でいますぐどうこうということはしなくていいんです。握りっぱなしでもいいんですよ。そのほうは組織におまかせします。でも僕は動きだしました。もうとまりませんよ」
田川はため息をついた。
伊沢は田川から、超栄商事のどこかにひそんでいる仲間の名前を、全部聞きだすことはできなかった。しかし、活動状況を常に連絡してくれれば、その状況に応じて必要な協力者を提供しようと約束させた。
その日から、超栄商事における伊沢のひそかな活躍がはじまったのであった。
伊沢の第一の協力者は北村裕子であった。
彼女は伊沢が上司の前原とあまりうまくいっていないことをよく知っていて、伊沢が前原の弱点を握りたがっていると判ると、夢中になって情報を送り込んできてくれた。
前原はゴルフ狂であり、小心なくせにあちこちでよく女を口説《くど》いているらしい。そこまでは伊沢にも判っていたが、裕子はもっと確実な情報を寄越してくれた。
「これは前原部長のここ半年間のゴルフ遊びのデータよ」
裕子はある日伊沢と外で落ち合ったとき、そう言って予定表のようなもののコピーを渡した。
伊沢はそれをひと目見て呆《あき》れた。
「いったい、これはどういうことなんだ」
裕子は罪のない顔でクスクスと笑った。
「みんなある程度は調べられているのよ」
「調べられている……誰にだ」
「会社によ」
「え……」
「少なくとも、管理職はやられるのよ。知らなかったでしょう」
「会社が社員の行動を調査しているのか」
「だいぶ以前からやっているわ。あなたのも見たけど……」
「俺のも」
伊沢はギョッとしたが、考えてみればありうることであった。
「あなたの、大した記録がなかったわ。品行方正なのかしら」
「下《した》っ端《ぱ》だから……」
伊沢はもらったリストを熱心に眺めた。
「ほとんど社用で出掛けたのばかりだけれど、三つほどマルがついているでしょう。その日はどうも社用じゃないらしいの」
「だって、ウィークデーじゃないか」
「そうなのよ。何か口実を作ってプライベートのゴルフをウィークデーに楽しんだのね」
「どうしてこんなことが判ったんだ。いちいち尾行させてるのか」
「まさか。それはゴルフ場からの情報よ。どこのゴルフクラブでも、うちの会社の人が行ったときのデータが集められるようになっているらしいの」
「なるほど、そういう仕掛けか」
伊沢は唸《うな》った。これは人事の情報化だと思った。
「料亭や銀座のクラブなんかもそうなのよ」
「え……すると、何月何日に誰が何人接待したかなどということも、バーやクラブから正確な情報が送られるわけか」
「ええ。ただし、この情報はいまのところ経理なんかでは利用しないことになっているの。だから、ハンコさえそろっていればちゃんと支払いはされるわけ」
「一人で飲みに行ってたらすぐバレるわけだな」
「たまなら問題ないわ。でも、トラブルが起きると過去にさかのぼって一斉に調べられちゃうのよ」
伊沢は首をすくめた。ゴルフ場もそういう店も、結局は会社が怕《こわ》いはずだ。上客扱いされていても、サラリーマンは結局会社で飲んでいるのと大差なくなってしまう。
伊沢は笑いだした。笑いだすととまらなくなった。
「実力者ぶって、高級クラブでふんぞり返ってる奴の顔が見たいや」
裕子も伊沢の機嫌がいいのがうれしいらしく、
「前原さんの夜のデータも、そのうち持って来るわ」
と笑った。
「ぜひたのむよ。それも早いうちにな」
伊沢は緒戦の勝利を祝いたい気分だった。どうやらこの社員情報の中枢《ちゆうすう》は、専務室にあるらしいのである。
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14 鷹《たか》と鳩《はと》
伊沢は週に二度ぐらいずつ、北村裕子と忍び会っている。裕子は毎日でも一緒にいたい様子で、時にはそのことで甘えたり拗《す》ねたりするが、結局強いことは言えず、二人の関係の主導権は完全に伊沢が握ってしまっていた。
裕子のほうにも弱味があるのだ。やはり裕子は、専務の梶岡俊一郎《かじおかしゆんいちろう》と特別な関係にあったのである。
梶岡はまだ五十三か四である。超栄商事の幹部の中でもとび抜けた敏腕家《びんわんか》で、風貌はいかにも知的な紳士といったタイプだ。しかし、その外見とは裏腹に、彼の仕事ぶりはひどく野性的なのである。
伊沢は以前から、梶岡がかなり大がかりな私的情報網を作りあげていると推測していた。サラリーマンの社会でも、時代によって組織の中で活躍する人材のタイプに変遷がある。梶岡は情報化時代の申し子的人物であった。情報の収集と分析の能力にたけ、しかもその基本的な性格は至って野性的で、果敢な決断と素早い行動という、攻撃的な長所を持っていた。
ただし、その野性や攻撃性も、ひと昔前なら豪放磊落《ごうほうらいらく》というあらわれかたで、多くの部下を慕い寄らせたかもしれないが、情報化時代の申し子ともなると、それとは正反対の結果になっている。
彼の行動の大部分は秘匿《ひとく》されて、ごく親しい者にもその一部分しかうかがい知ることができないらしい。また、広汎《こうはん》な情報網から得たものを微細に分析して行動をとるから、相手はすぐには梶岡の真意が掴みがたい。結局いつも梶岡にバックをとられてしまってからそれに気づくという有様で、必然的に陰湿な策士の印象が強い。
事実、陰湿であることはたしかで、社員情報を独占しているのも、そのあらわれであるようだ。
どうやら、北村裕子は梶岡のそういう陰性な動きの中で必要となった手駒のようである。すべての管理職の私的な情報が集まる専務室の中では、裕子のような女を配置しなければ不安で仕方がないだろう。
裕子はその点で適材だった。美人だがそれほど頭の切れる女ではない。体の関係さえつけてしまえば、理屈抜きについてくるというタイプなのだ。裕子が急速に大人びた変化を示したのは、梶岡という男のものになった日からであるに違いなかった。
愚かな女は自分の男の喋り方まで知らず識らずに真似てしまうものらしい。裕子もよく、会話のはしばしに、
「それはいかんのですよ」
とか、
「感心せんなあ」
とか、冗談のように挿入《そうにゆう》することがある。伊沢はそのたびに、水をかけられたように醒《さ》めてしまう。梶岡の口真似であることははっきりしていて、それだけに裕子という女の愚かしさが鼻につくのである。
しかし、一面ではそれだからこそ利用価値があるのだった。伊沢は巧みに梶岡のことで内心思い悩んでいるという演技を続けていた。けっして表面に出すようなことはしなかったが、それとなく裕子に推測させるよう仕向けたのである。案《あん》の定《じよう》、裕子は、二人の関係が悲恋だというような思い込み方をしはじめている。梶岡との関係を清算しない自分を時には悪女だと思い、時には梶岡にがんじがらめになっているあわれな女だと思い、そして常に伊沢に負い目を感じているのだ。
そのために、梶岡の行動や専務室に集まる情報が、つつぬけになりはじめていた。裕子はまるで、それが女の生甲斐《いきがい》だとでもいうように、夢中で伊沢に情報を洩《も》らしはじめたのであった。
伊沢へ田川信平から連絡があったのは、彼が超栄商事の内部に独自の組織を作りだすと宣言してから三ヵ月ほどたった日のことであった。
伊沢はその夜、指定されたとおり荻窪《おぎくぼ》駅の近くの、ごくありふれた小料理屋をたずねた。田川はすでに来ていて、二階の小部屋でその店の女将《おかみ》を相手に飲んでいた。
「お久しぶりです」
そう言って狭い部屋へ入ると、女将は田川と向き合った席へ座蒲団《ざぶとん》をすすめ、すぐに下へ降りて行った。
「まさか、ここもそうじゃないでしょうね」
伊沢は何の変哲もない部屋の中を眺めまわしながら言い、田川がさす酒を受けた。
「もちろんさ。ここはわたしのプライベートなアジトだよ」
田川は笑って否定する。
「どうかね。進んでいるかね」
「なんのことでしょう」
伊沢はわざと空とぼけ、ニヤリとして見せた。
「勇ましいことをはじめると言ったが、その後とんと音沙汰がないのでな」
田川はからかい気味であった。
「孤立無援ですからね。手づくりは時間がかかります」
今度は伊沢が田川に酒をさした。肚《はら》のさぐり合いのようであった。
「どこの世界にも鷹《たか》と鳩《はと》がいるものさ」
「パラダイサーにもですか」
「そうだ。失礼な言い方かもしれんが、君はタカ派的性格だと思う。君がハトでいるのは、ノンポリ的なときだけさ」
「そう見えますかね。これでも自分では平和主義者のつもりなんですがね」
伊沢は軽く受け流すように答えた。
「パラダイサーは案外ハトが多い」
「ほう、そうですか」
「金も地位もない連中が、情報で一時の優越感と快楽を買おうというのだ。タカならもっと違う発想をするよ。だから、君のように超栄商事の秘密を根こそぎ奪おうなどという考え方をすると警戒される。バランスのゲームだからな。組織はあくまでもバランスを重んじるのさ」
「それで協力が得られなかったのですね」
すると田川は徳利《とくり》を取って伊沢の盃を待った。
「いや、そうではない」
伊沢は酒を受けながら田川の顔をみつめた。
「あれはわたしが握りつぶした」
「なぜです」
伊沢はみつめたまま盃を乾《ほ》した。
「君なら一人ででもやると思ったからさ」
「買いかぶられたものですね」
「危険なのだよ、超栄商事は」
田川は真面目な顔になっていた。
「危険……」
「日本最大のコンツェルンだ。明治以来、日本の進路を思うようにきめてきた集団じゃないか。それは君らが一番よく知っているはずだ。超栄マンだということに、大きな自負を感じているのじゃないかね」
「僕はとにかくとして、たしかにそういう傾向はあります」
「超栄をやるのは賛成だ。わたしはね」
「でも組織は協力してくれない」
「こっちの幹部の中にも、超栄の息がかかっている人間がいるかもしれない」
「いるんですか」
「おそらくな。君のところには恐ろしい専務がいる」
伊沢はドキリとした。
「専務というと、梶岡俊一郎……」
伊沢は警戒しながら言った。
「そうだよ。あれは怪物だぞ」
田川の言い方は、伊沢の現状を知らない様子であった。
「たしかに切れ者です」
田川は首を振った。
「なまやさしい男じゃない。たとえば、メンバーから我々が入手する情報とまったく同じものを、超栄商事が利用している形跡があるんだ」
「どういうことです」
「パラダイサーは各企業の弱点を握って、それと引きかえに彼らのレジャー施設を利用させてもらっている。メンバーはそれでサラリーマンとしての鬱憤《うつぷん》をはらし、ささやかながらレジャーにおける特権を手に入れている。しかし、超栄はその情報を横どりして、自分たちの商戦に活用しているのさ。パラダイサーという組織が拡大すればするほど、超栄のそういう情報収集能力は強大になる」
「おかしいですね。パラダイサーが企業に利用されるんですか」
「これはわたしの個人的な疑いだ。どこにも証拠がない。現に超栄内部にもメンバーはかなりの数がいて、本部へ情報を送ってくる。だが、パラダイサーの情報を利用しているのは、どうやら超栄に限るようだ」
「内部を粛正したらどうなんです」
「当然それも考えたよ。しかし、万一パラダイサーの発生そのものが、超栄の意志によるものだとしたらどうなる。粛正は不可能だろう。へたをすればこっちが消される」
伊沢は唸った。
「しかし、なんでまた、パラダイサーなどという危険な組織を超栄が作らねばならないんですか。日本の産業界にとっては有害でしょうに」
「そこさ、問題は。毒を使うなら、それなりの準備があるはずだ。そうだろう。毒を使うときめたら、きめたときすでにその対策が立てられているはずだ。多分、パラダイサーが本質的にはハトである理由が、そのあたりにかくされていると思う」
「すべては超栄商事のためですか」
「商事に限らん。超栄グループ全体のためだ。日本の経済が成長し、昔の財閥系のほかにも、有力な企業が輩出してきた。それはそれで結構なことだが、超栄のような古くからの企業には、新興企業などが思いもつかない、高度な発想があるのだろう。最終的には明治以来やってきたとおり、自分たちが日本の舵《かじ》をとりたいのだよ」
「そのために、後発各社の弱点を常に把握しておく……」
「そうだ。怪物的発想だ。そのためにパラダイサーが生み出された可能性がある。この巧妙で大がかりな仕掛けの演出者が、多分、君のところの梶岡俊一郎なのだ」
「それで、あなたは僕の件を握りつぶしたんですか」
「そうだ。実を言うと、多分、君はまだ梶岡の情報網にひっかかっていないはずだ。わたしがあいまいに処理しておいたからな。しかもそのうえに、かなりの期間そっと放置しておいた。君の自由にさせてみたのさ。さいわい君はすぐには動かなかった。ここまでくればもう大丈夫と見切りをつけて、こうして呼んだのだよ」
伊沢は腕を組んだ。どうやら田川は真実を語っているようであった。
田川は熱っぽく言った。
「超栄商事のすべての秘密など、独力で探り出せるはずがない。いつか君は自分で言ったろう。上野の動物園を一人で掃除するわけにはいかないと。まさにそのとおりだ。しかも、本格的に組織づくりなどはじめれば、すぐ敵の情報網にとらえられてしまう。それより、的を梶岡一人にしぼってやってくれ。梶岡はとほうもない秘密を握っているはずだ。たしかに君はいいところをついたようだが、女の一人や二人から洩れる情報ではたかがしれている」
「知っているんですか」
「ばかな」
田川は一笑した。
「横浜のホテルを使ったろう」
「なんだ」
伊沢は頭を掻《か》いて見せたが、その実ほっとしていた。ごく単純なバレかたで、それなら気にすることもなかった。
「あれは北村裕子という女です」
田川は頷いた。
「北村裕子の父親は、静岡県でちょっとした工場を経営している。君の課ではないが、その工場の製品は超栄商事が全面的に扱っているはずだよ」
「ええ。それで彼女は梶岡から離れにくいのです」
「ところで、その父親はさる有力な国会議員の後援会のメンバーになっている。その議員はさらに今の政権の奥深くにつながっている。梶岡の動きを超栄商事のレベルでとらえたら失敗するぞ」
「これは僕と田川さんだけの問題になるのですか」
田川は伊沢が鋭く尋ねたので、ちょっと鼻白《はなじろ》んだようであった。
「まあ、今のところはそう思ってくれ」
田川はあいまいに言った。
「いいでしょう。ところで、梶岡を追ってどうなります。最終的な目標は。まさか、彼を追い落とすだけということではないでしょう」
「いずれ話す……」
田川は上目づかいに伊沢を見た。
「……ではいけないらしいな」
田川は苦笑した。
「いま、わたしの口から喋るわけにはいかん。一両日中に、君のところへ連絡がいくようにしよう」
「誰です、それは」
「言えない。ただし、この件に関しては今後シダという暗号が使われると憶《おぼ》えておいてくれ。パラダイサーの裏側にあるもうひとつの組織だ」
伊沢は体に痺《しび》れのようなものが走るのを感じた。
シダ。
それは島田が殺された晩、電話口の向こうで若い女の声が発した言葉であった。
志田という名か、羊歯《しだ》という植物のことか、よく判らなかったが、伊沢はそれをなんとなく店の名のように感じていた。
それがパラダイサーの裏にある秘密組織の合い言葉であったのだ。
荻窪から戻る途中、伊沢はあのモデルの顔を思い泛かべていた。やはりあの女にもう一度会える運命だったのだと、ひそかな満足があった。
だが、結局いや応なしにそのシダという組織に引き入れられてしまったわけであった。それは生命の危険をともなっているはずである。島田はシダの一員として殺されたのだろう。
考えてみれば、あの写真スタジオにいた男たちにしろ、そのモデルにしろ、パラダイサーとはまるで異質な雰囲気を持っていた。言ってみれば、生命をかけた者と、遊び半分の人間との差であろう。たしかに、パラダイサーは梶岡たちに操られているのかもしれないと思った。それは伊沢自身が、この数ヵ月パラダイサーの一員として味わってきた、ぬるま湯的な居心地《いごこち》のよさから実感したものであった。
これは本物ではない。はっきりそう自覚していたわけではないが、何かそんなように思わせるゆるみのようなものがあった。真剣にたたかっているという感じがないのだ。伊沢はそれを、パラダイサーの目的がレジャーの特権を獲得することにあるせいだと思い込んでいた。
しかし、どうやら違っていたようだ。超栄商事は傘下《さんか》に各種の小企業を持ち、その中にダミーと呼ばれるのが当然なようなものも少なくなかった。ひょっとすると、パラダイサーもまたそういうダミーのひとつなのかもしれない。そして、そういう組織が巨大な超栄グループにつながってしまっている。
たしかに、そういう巨大な力が暗黙のうちに存在を認めてくれなければ、あの程度のたたかいぶりで、パラダイサーが存続していけるはずはないように思った。
と、すると……。
伊沢は沢田ユリと、雪の山小屋で会った髭だらけの男を思い出した。
少なくともあの二人には、ふつうのパラダイサーにはない緊張感があった。……あの時の騒ぎはパラダイサーに対してではなく、シダに対して行なわれた攻撃だったのではなかろうか。伊沢は急にそう気がついた。
いったい梶岡俊一郎が握っているとほうもない秘密とはなんだろうか。伊沢は胃が収縮するような緊張感の中でそう思った。
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15 奪われた書類
デスクの上の電話が鳴った。伊沢は左手で受話器を取り上げ、咥《くわ》えた煙草を右手の指先に移した。薄青色のスチールデスクの右端に、窓からの光が射しかけていた。
「伊沢です」
そう言うと、受話器の奥からなれなれしい女の声が聞こえてきた。
「こんにちは」
「はあ」
伊沢はその声を思い出そうと眉を寄せた。ただし、声は若々しく、不愉快ではなかった。
「お仕事中じゃ悪いと思ってお昼休みを狙ったんだけど、お邪魔じゃなかったかしら、お邪魔ならまたあとで掛けるわ」
「ちょうど飯を食いに出るところだったから……」
「ああよかった」
「ええと、誰だっけな」
行きつけのバーやクラブの女たちの顔を思い泛かべながら、伊沢は半分笑い声で言った。
「いやねえ、あたし忘れられちゃったのかしら」
相手の声にからかうような調子が加わる。
「仕事に夢中だったんでね。ちょっといま、頭がうまく切りかわらないんだ」
「お会いしたいのよ」
相手はかまわずに続けた。すぐ伊沢のほうで気がつくときめてかかっているようであった。しかし、いくら考えても伊沢はその声が思い出せなかった。
「すまないが、ほんとに誰だったかな」
ひょっとすると、あの伊豆の別荘で幾夜かを共にした、エリという女ではないかと思ったりした。
「あら、ほんとに忘れてるの。嘘でしょう」
電話の声はあくまで遊び半分のようである。
「ここまで出かかってるんだけど」
エリという女からの連想で、伊沢は沢田ユリかもしれないと疑ってみた。沢田ユリなら盗聴をおそれてこんな態度に出る可能性があった。
「何かヒントをくれないか」
「クイズじゃないわよ、ばかにしないで」
沢田ユリではなかった。大柄なあの女ならもっと低い声のはずであった。本当に相手のイメージがかたまりかけてきた。しかし、もやもやとかたまりかけたままだった。
「いいわ、いつか調布まで送ってくださったじゃないの」
女の言葉がおわらぬうち、伊沢は胸がキューンとしめつけられるような感覚に襲われた。
「なんだ、君か」
つとめて冷静に言った。
「あら、もうすぐ電話が切れちゃいそう。これ赤電話なのよ。そっちからかけなおしてくださる……」
「いいとも」
伊沢は勢い込んで答え、女が口早に言う電話番号をメモした。相手は島田が殺された晩に現われたあの黒ずくめのモデルであった。ひょっとすると本名ではないのかもしれないが、石川京子というはずである。婦人雑誌のカラーページに、その名前で彼女の写真が載っていたのだ。
ついに接触してきた……。伊沢は胸を高鳴らせて、電話番号を書いたメモをみつめていた。
シダだ。相当に警戒している。シダという暗号名さえ口にしようとはしなかった。万が一の盗聴をおそれているのだろう。伊沢はそう思いながら、足早にオフィスを出た。
伊沢は超栄商事《ちようえいしようじ》の本社ビルを出ると、二分ほど歩いて別なビルの地下へおりた。そこは超栄の系列外の企業が持っているビルで、その地下の喫茶店の電話なら、まず盗聴されるおそれはなかった。
メモを片手にダイヤルをまわす。
「はい、ローズでございます」
別な女の声がした。音楽がそのうしろで流れていた。
伊沢は喋《しやべ》りかけて、うっ、と詰まった。相手の名を確認していなかったのだ。
「あの、お客さんで、シダさんという女の人を……」
口ごもりながら言った。なんとなく石川京子ではいけないような気がした。だが、すぐにさっきの女の声にかわった。
「早かったわね」
うってかわって冷たい声だった。
「シダ、でよかったのかな」
「今日お会いします」
事務的に言った。
「どこで、なん時に」
「仕事がおわるのは、なん時ですか」
「そう、今日は六時なら社を出られると思うな」
「ではまっすぐ電車で原宿《はらじゆく》へ行ってください。駅を出たら表参道《おもてさんどう》の左側の歩道を青山通りへ」
「君がいるのかい」
「誰も迎えに出なければ、そのままお帰りになって結構です。また連絡しますから」
電話は不愛想《ぶあいそう》に切れてしまった。伊沢は肩をすくめ、あいた席へ行ってコーヒーを注文した。その店は有名な洋菓子店の支店で、来ている客はほとんどが、この辺りのオフィスにつとめる若い娘たちであった。伊沢はケーキを食べる娘たちを眺めながら、沢田ユリや、北村裕子や、今の石川京子のことを考えていた。
沢田ユリが働いていた銀行も、この同じ丸の内にあった。ユリや裕子にも、このように無邪気にケーキをぱくつく昼休みがあったのかもしれない。しかし、ユリは今や大企業経営者たち共通の敵として、情容赦《なさけようしや》ない追跡を受けてどこかへ消えてしまっている。その点裕子はまだましだが、梶岡俊一郎の秘密を伊沢に流しつづけていけば、遠からず沢田ユリの二の舞になってしまうだろう。
こういう平和な娘たちの中にも、今にそうした泥深い秘密をのぞく者が現われるのかもしれない。……伊沢はコーヒーを飲みながらそう思い、ふと裕子をあわれに思った。
今のうちに裕子を渦の中心から遠ざけてやるべきだと思った。梶岡俊一郎と関係があるというだけでも、充分すぎるほど危険な立場なのである。もし裕子がその梶岡から、もっと大きな秘密を預けられたとしたら、彼女は一生そのことで縛りつけられねばならないだろう。もしユリのようにその束縛《そくばく》を脱しようとしてあがけば、社会の影の部分にひそむ非情な男たちが現われて、彼女の行手に立ちふさがるのだ。
だが……。
伊沢はコーヒーを半分ほど飲み残したまま、伝票を掴《つか》んで立ちあがった。
裕子はいまのところ梶岡の秘密を掴む唯一の手がかりである。そのために裕子を手なずけたのだ。情に溺れて裕子を手ばなしてみたところで、はたして裕子が、それであの昼休みのケーキを食べる娘たちのように、身がるになり得るだろうか……。
考え込みながら一階へ階段を登りはじめた伊沢がふと目をあげたとき、そのビルの通路を足早に行く北村裕子の姿を見た。
反射的に足を早めた伊沢は、一階へあがるとそれとなく裕子のあとを追った。裕子はうす茶色の紙袋を持っていた。裕子と伊沢の間隔は二十メートルほどであったろうか。
裕子はビルの裏口に当たるその通路から、正面のエレベーター・ホールへ向かっている。伊沢は彼女がエレベーターに乗ることを確信していた。気づかれずに彼女と同じ箱に乗ることは不可能だったが、一階の階数標示灯で、おりた階数の見当がつけば儲けものだと思った。
その時の伊沢に大した魂胆《こんたん》があったわけではないが、裕子の紙袋のかかえ具合が、なんとなく秘密の匂いを漂わせていたのである。
エレベーター・ホールは、そのビルの正面玄関の右側にあり、同じ側の表通りに面した部分は銀行になっていた。
裕子がエレベーターの前へ立つか立たぬうちであった。突然二人の若い男が足早に近寄って行き、いきなり一人が裕子を突きとばした。裕子の悲鳴が聞こえた。もう一人が倒れた裕子の手から紙袋をもぎとると、二人は表通りへさっと走り出して行った。何人か人がいたが、みな呆然《ぼうぜん》としていて男たちのあとを追おうとはせず、伊沢一人が途中まで追い、ビルの玄関のところで足をとめて、遠ざかり、地下道へ姿をかくす二人を見送っていた。
顔に見憶えがあった。二人とも、石川京子と一緒にいた顔であった。労務者風の身なりをしていたが、背の高いほうは調布の飛行場まで、となりのシートで伊沢を監視して行った男に違いなかった。
警察沙汰になった。伊沢は目撃者として何度も同じことを尋ねられた。
事件の直前、若い娘たちしか行かないケーキが売り物の喫茶店にいたというのが、幾分係官の不審を呼び起こしたらしかったが、とくにそのことでの追及はなかった。
警察の取調べから解放されてデスクへ戻ると、すぐに今度は専務室からお呼びがかかった。
「君は甘党かね」
専務室へ入るとすぐ、梶岡俊一郎が叱りつけるように言った。
「いいえ」
伊沢はむっとした表情で梶岡を睨《にら》み返した。へたな反応をすれば、それでなくても面倒な立場が、いっそう悪くとられると思ったのだ。
「でも君は昼休みにあの喫茶店へ行った」
どうやら恫喝《どうかつ》しているらしい。伊沢は内心ほっとした。本当に梶岡が疑っているなら、もう少しましな尋問法をするはずだと思った。
「コーヒーを飲むためです」
「それでわざわざケーキの店へ行ったのか」
「昼休みはどこも混むのです。専務のような方はご存じないでしょうが」
梶岡はニヤリとした。
「知ってるさ。しかしどうも腑《ふ》に落ちんなあ」
急に言葉つきを変え、ひとりごとのように言った。
「あの喫茶店へ行ったのはコーヒーを飲むためです。僕が一階へあがったときあの事件が起こったのは偶然です。専務は疑っていらっしゃるようですね」
梶岡は答えなかった。左頬がかすかに歪んでいる。伊沢は社内では有名なその左頬の歪みを見て、自分が軽視されていることを悟った。ますます好都合であった。
「君を疑って何になる」
梶岡は煙草を咥《くわ》えて火をつけた。恫喝気味の探りはそれでおわったようだった。
「だが、地下から階段をあがったときは、もう君はコーヒーを飲みおえていた」
立ちあがり、窓際へ行って背を向けて言った。
「そういう取調べは警察ですませて来ました」
伊沢はわざと反抗的に言った。
「たとえ梶岡専務だろうと、そういう風に僕を追及する権利はないはずです」
「権利はなくても理由はある。わが社の機密書類を奪われたのだ。しかもなぜか君はその現場に居合わせた。コーヒーを飲みに行ったのなら、飲んだあと、なぜ君は社のほうへ戻らず、逆の方向へ行ったのだ。わたしはそれを知りたい」
梶岡は振り返って伊沢をみつめた。どんな微細な表情も見のがすまいというような、冴えて冷たい瞳であった。
背の高さは伊沢より七、八センチも高かった。鬢《びん》のあたりに刷《は》いたような白髪があり、やや長めの鼻梁《びりよう》と薄い唇、そして切れ長の目。伊沢は威圧された。
「その……」
思わず口ごもり、途中からそれを演技に利用していた。
「北村君の姿が見えたからです」
「…………」
梶岡の目が細くなった。不審そうな表情の下に、伊沢をなぶるような気配があった。
「声をかけようとしたのですよ」
伊沢は自分の秘密を放棄するような態度を示して言った。なげやりな感じであった。
梶岡が鼻を鳴らした。
「君は独身だったな」
「いけませんか」
「まあそういきり立つな」
「こういうプライベートな部分に立ち入られるのは不愉快です」
梶岡は笑いながら椅子に戻り、インターフォンで裕子を呼んだ。
「1プラス1は2か。なるほどね」
「さぞ滑稽《こつけい》に見えるでしょう。少年じみた行動です。自分でもそう思いますよ。しかし、なんとなく足が彼女のあとを追ってしまったのです」
「そう腐《くさ》るな」
梶岡は上機嫌で笑い出していた。
伊沢は改札口を出ると、ゆっくりとした足どりで、街路樹のある道を歩きはじめた。若い男女が行き交《か》う中を、青山通りへ向かって進んで行く。
はじめ愚かなことに巻き込まれたと思ったが、それはかえって梶岡俊一郎に接近するチャンスを与えてくれることになった。
どうやら梶岡は、北村裕子と伊沢が結びつくことを歓迎するような気配である。専務室に裕子が呼ばれて、伊沢は彼女のあとを追ったために事件に巻き込まれたのだと知らされたとき、裕子はパッと頬を染めてうつむいた。なんともそれはういういしい風情で、どんな巧みな言葉よりも、梶岡をうまく納得させてしまったのであった。梶岡は二人が魅《ひ》かれ合っていることを確認したらしい。
半分は嘘で半分は事実であった。二人はすでに恋人同士であり、梶岡に対しては、まだそれほどの間柄になっていないように装ったまでである。
伊沢には、その時の梶岡の心理が手にとるように判った。梶岡のような男は、他人の秘密を掴みさえすれば安心してしまうのだ。裕子と伊沢が事実の半分を掴ませたことで、彼は疑いを解いたのであろう。
それに、裕子が梶岡にとって安全無害な男へ心を移すことも、歓迎すべき現象だったのかもしれない。梶岡は裕子を利用するために抱いたのであって、独占せずにはいられないほど愛しているわけではないはずであった。
「近いうちに君をもう一度呼ぶかもしれんぞ」
別れぎわ、梶岡はそう言った。その言い方には親しみがこめられていて、尋問し直すというような意味にはとれなかった。多分梶岡は、裕子という存在をとおして、伊沢を自分の手駒のひとつに加える気になったのだろう。
伊沢は手に唾《つば》して待ちかまえるような気分であった。梶岡俊一郎の内ふところにとび込むチャンスがめぐってきたのである。しかも梶岡は、伊沢が積極的に接近していっても、それを裕子への恋心と出世欲のためだと思い込んでしまうはずだった。
「伊沢さん」
歩道の端《はし》で彼を呼ぶ声がした。見ると、あの女が青いフォルクス・ワーゲンの中で伊沢をみつめていた。伊沢が近寄るとさっとドアをあけた。
「久しぶりだな」
伊沢がシートへ体をすべりこませると、
「ドアをしめて」
と言って、駐車した列から、車は素早くぬけ出した。伊沢が原宿駅のほうを振り返ると、
「尾行はなかったわ」
と冷たい表情のまま言った。
「あの書類はなんだったのだい」
伊沢はすぐ丸の内の事件を持ち出した。
「書類……」
「北村裕子から君らが奪った奴だよ」
「なんのことかしら」
「かくす必要はない。いつか俺を撲《なぐ》った奴らが北村裕子を襲ったじゃないか。君が知らないはずはない」
女の顔色が白っぽく変わっていた。
「どうして判ったの」
「現場に居合わせたのさ」
伊沢は軽く言い、シートにもたれこんだ。車は青山通りを右折して渋谷へ向かっていた。
「ほかに誰かそのことを知っている……」
「安心しろ、俺だけさ」
「それ、偶然なの」
「ああ」
伊沢は面倒臭そうに答えたが、その実、女の態度を注意深く観察していた。運転が気がかりなほど、女は緊張しているようであった。
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16 化石植物
「警察では、銀行がえりの経理課員と間違えて襲ったのだろうという見方をしている」
伊沢はまっ白い壁にかこまれた部屋の中央に立って、乱雑な感じで並んだ照明器具を眺めながら言った。
「梶岡俊一郎のほうも、その見方を修正させるような態度をとらなかったようだ」
あの寒い夜のことを思い出していた。撲《なぐ》られて気絶し、意識が戻るとまっさきに見えたのは、その白い壁であった。伊沢は自分が無意識に後頭部を左手で撫《な》でているのに気付き、苦笑してその手をおろした。
「あの時、俺を撲ったのはどっちの男だい」
入口のほうの壁にそって、病院の待合室に置いてあるような、茶色いビニール・レザーをはったベンチがあり、女がそこに腰かけて煙草を吸っている。
「角田《つのだ》君よ」
女は無表情で言い、四角いスタンド式の大きな灰皿のふちで煙草をたたいた。
「俺さ。悪かったな」
入口の壁によりかかった背の高い男が、愛敬《あいきよう》のある微笑を見せて言った。
「その角田君が、エレベーターの前で北村裕子を突きとばした。そして……」
伊沢は首をまわして、左の隅の変圧器のそばの椅子に腰かけているもう一人の男をみつめた。
「それは村井《むらい》君」
女が察しよく男の名を教える。
「君が彼女の持っていた紙袋をひっさらって逃げた。二人は正面玄関から表へとび出して、あのビルの前にある地下道の入口からおりて行った」
「それで、あなたは……」
女が尋ねた。
「二人が地下道へ消えたのを、ビルの入口のところで見送っていたのさ」
「それ、偶然なの……」
「偶然さ。偶然すぎて説明がつかないくらいだ。梶岡俊一郎にも厳しく追及されたよ」
「どう切り抜けたの」
「切り抜ける……。とんでもない。偶然だということを判ってもらっただけさ。ところで、君の名前をまだ聞かせてもらっていないのだが」
「石川京子《いしかわきようこ》」
「それなら知っている。有名なモデルだからな。でも、本名かい」
「本名よ。でも、おかしいわね。選《よ》りに選《よ》ってあなたがあの現場に居合わせるなんて」
「そうかな」
伊沢は煙草を出して咥《くわ》えた。
「俺は別におかしいとは思わない。俺はパラダイサーの一人として、梶岡俊一郎を調べようとしていた。超栄商事の秘密は彼の所に集中している。いや商事ばかりではなく、超栄グループ全体の秘密がだ」
途中から三人は笑いはじめていた。互いに顔を見合わせ、伊沢の愚かさに失笑しているようであった。
伊沢は咥《くわ》えた煙草に火をつけ、三人の笑いが収まるのを待った。
「判っているよ。パラダイサーという地下組織そのものが、梶岡俊一郎の頭脳から生まれたものなのだろう。うまいやり方だが、そう珍しいテでもない。独裁者がよく使うテさ。しかし、俺はそのことをつい最近まで知らないでいた。だから本家本もとの梶岡にアタックしようとした。そのために北村裕子を抱《だ》き込んだんだ」
「いい表現だな。抱き込んだ、か」
村井が笑った。別に悪意はなさそうであった。
「そう、抱き込んだ。抱いた、と言うべきかな」
伊沢は居直ったように無表情で言った。
「その北村裕子のそばに俺がいたのだから、偶然とは言えまい」
「梶岡はそれで納得したの」
京子は真剣な表情で尋ねた。
「北村裕子のあとをつけていたと言ってやった。梶岡は今の君たちのように、俺を馬鹿にしたような笑い方をしたが、とにかくそれで得心したよ。おそらく彼は、北村裕子を俺に押しつけてくるだろう。そして彼女と俺をひとまとめに利用する気さ。望むところだがね」
京子はじっと伊沢をみつめた。二人の男は驚きの表情を示して歩み寄って来た。
「こいつは凄い。伊沢氏にやってもらおうじゃないか」
村井が京子に言った。
「シダというのは何だい」
伊沢はさりげなく言った。
「パラダイスを求める人たちの暗号名よ」
「パラダイスだって……」
伊沢は呆れて声を高くした。
「あなたの知っているパラダイサーというのは、一部のサラリーマンが自分の所属する企業の秘密を売って、レジャーの特権を手に入れる組織よ。それを考えだしたのは梶岡俊一郎なの。彼はそれで他の企業の秘密を手にいれているの。超栄グループの支配力を強めるためよ。いざというとき、彼に競《せ》り合ってくるどんなライバル会社でも、それで叩き伏せることができるんだわ。自分では一銭も出さずに、彼は貴重な情報をばかなサラリーマンたちから掻《か》き集めているわけね。まったく頭の切れる男だわね」
「でも、そのパラダイサー組織の下に、もうひとつシダというグループがかくれている」
「ええ、利用しているの」
「どんなパラダイスを作ろうというんだ」
「作りはしないわ」
「作らない……」
伊沢が眉をひそめると、角田が京子をみつめながら言った。
「あるのさ。ずっと昔から」
「パラダイスがか」
「ああそうだよ」
「どこに」
角田は許可を求めるように京子をみつめている。だが、京子の表情はかわらなかった。
「いずれ判るでしょう。でも、今は言えないわ」
「知りたい。本当にパラダイスがあるのか」
「本当よ。島田さんはそれで死んだんですものね」
「彼はパラダイスがあることを知っていたんだな」
「ええ。でも、知っているのは私たちばかりじゃないの。敵も知っているわ」
「敵……」
「梶岡たちよ。彼らもそこを手に入れようとしているの」
「おかしいな。この地球上に、そんなパラダイスが実在するのかね」
「ええ」
「どこに。もう未知の土地なんて存在しないぜ。人工衛星がとびまわる時代だ。どこだって完全に判っている。必要ならどんなところだって、写真で精密に知ることができるんだぞ」
「写真では絶対|撮《と》れない場所よ」
「そんなところがあるもんか。屋根でもついていれば別だが……」
伊沢はそこまで言って京子と二人の男の表情に気付いた。
「まさか……」
三人は微笑していた。
「冗談じゃない。そんなばかなことがあってたまるか」
角田は伊沢から目をそらし、村井も空とぼけてポケットから煙草をとりだした。
「ここに何かがあるというのか」
伊沢は右足を二度ほど、から踏みして言った。靴音がその白い壁のスタジオに響いた。
「地球の中ががらん洞だというのは嘘よ。地球空洞説なんて、おとぎばなしよ」
京子は静かな声で言った。その冷静さが伊沢の違和感をつのらせ、いらだたせた。
「じゃあどこにあるというんだ。パラダイスはどこにある」
「地面の下よ」
伊沢は挑《いど》むような笑い方をした。
「なんのつもりだ。俺をどんなことにひっぱり込もうというんだ」
「あなたはシダが必要とするタイプなのよ。自分自身や今のこの世界を、何の迷いもなく肯定してしまうタイプの人間は必要ないの。パラダイスの夢を見ることのできる人が要《い》るのよ。パラダイスを求めるということは、逆に言えば、自己否定ができるということでしょう。ねえ、行って。行ってパラダイスを作るのよ。そこを本当のパラダイスにするのよ」
「地底へか」
伊沢は腹を立てていた。
「パラダイスへの入口がどこにあるか、それは言えないの。本当のことを言えば、その入口の場所は私も知らないのよ」
「じゃあ誰が知っている。教えてもらいたいね。そんなこと、この目で見なければ信じられるものか」
「私たちは信じているわ。梶岡もよ」
「梶岡俊一郎が地底の世界を信じているだって……」
伊沢は目を剥《む》いて言う。
「そうよ。彼もそこへ行く準備をはじめてるのよ。でも、そこを彼らに渡すことはできないわ。彼らに渡したらどういうことになるか判っているでしょう」
「判らないね。だいいち、そのパラダイスがどういう所にあるかさえ知らないんだからね」
「地底よ」
京子は根気よく伊沢のいらだちをしずめようとしているようであった。
「無理もないさ」
角田が同情するように口をはさんだ。
「地底に別の世界があると言ったら、誰だってまず笑うさ。でも、時には信ずる者もいる。ネロもその一人だ」
「ローマ皇帝のか」
「そうだよ」
「ばかな。愚行で後世に名を残した暴君じゃないか」
「ネロは古代から伝わる地底国のことを知っていた。ネロの命令をうけたローマ軍団は、本当に地底への入口を探してアフリカをさまよったのだぞ」
「行ったろうよ」
伊沢は嘲笑した。
「気違いの命令でな」
「ちょっと待てよ」
角田はいきり立った伊沢に手をあげておしとどめた。
「勘違いしないでくれ。何も地球内部がすべて空洞だと言っているんじゃない。世間に流布《るふ》されている地球空洞説は、そんな風になっているが、あれはアトランティスやムー大陸と同じように、人々の夢が投影され誇大に伝わっているだけだ。俺たちが信じているのはもっと違う形なんだよ」
「どう違うんだ」
伊沢は短くなった煙草を、京子の前にあるスタンド式の灰皿に投げこんで言った。
「地殻《ちかく》のすき間……そう考えてもらいたいな。地球という星全体から見れば、ごく小さな空間だ。しかし、それでも俺たちが行って住むには充分な広さだ」
「俺は閉所恐怖症かもしれないぜ」
伊沢はからかうように言った。
「空がなければ太陽もないはずだ。そんなところでどうやって暮らせる。生きていけるのか」
「大丈夫らしい」
村井が頷《うなず》いた。伊沢はその静かな頷きかたに恐怖に近いものを感じた。
「本気なんだな、君たちは」
「梶岡俊一郎がおとぎ話で動く人間かどうか考えてみろよ」
村井は生真面目《きまじめ》な顔で言う。
「それに島田さんが殺されている。あの人は実際に地底へ降りてみた数少ない人間の一人だった」
「信じたくないな」
伊沢は見えない網からのがれるように、体を振って言った。
「そんなことに巻き込まれたくない。レジャーの特権でも奪い取るほうがまだましだ」
「抵抗感はあるさ。誰でもはじめはそうだからな。でも、それはあるんだ。しかも、おそらく一万年以上も前から存在しつづけているんだぜ」
「一万年……」
「そうだ。それはこの日本列島と大陸を結ぶ地下の通路だったはずなんだ」
「古代人はそこを通って日本へやって来たのか」
「多分な」
「多分、多分……。多分、俺は気違いを相手にしているんだろう」
京子が口をはさんだ。
「信じる信じないで言い合っても時間の無駄だわね。でも、現実にあなたはシダに招かれてしまったのだし、梶岡たちとのたたかいは、パラダイサーとしてすでに参加してしまっているのよ。逃げだせないし、逃げださせもしないわ」
「驚いたな。秘密を知ったからには、生かしちゃおかないというわけか」
「必要ならね」
京子は本気だった。
「パラダイスのことはとにかく、仲間として梶岡のふところへ食いこんでほしいの。奪った書類はアガルタに関するものだったのよ」
「アガルタ……」
伊沢は京子がつい洩らした聞きなれぬ言葉に好奇心をそそられた。
「アガルタというのは、仏典にある言葉だけれど……」
「思い出したぞ」
伊沢は詰問《きつもん》するように言った。
「たしかダライ・ラマと関係があったな」
「そういうようにも伝えられているわね」
「チベットには地底世界に通じる穴があるといわれているんだったな。そのトンネルの入口は、ダライ・ラマの最高機密になっていて、エジプトの大ピラミッドのどれかも、その入口をかくすために作られたとか……」
「アガルタの中心はシャンバラと呼ばれている。……ということになっているけれど、それは地底に大きな空間があいているということの記憶が伝わっているからなの。そういう言い伝えは世界中にあるのよ」
「いいだろう。こじつければどうにだってなるからな」
伊沢は自分自身にさからいはじめているようであった。
「ひとつだけ、証拠をお見せするわ」
京子が角田に目くばせをすると、角田はどこかへ去り、すぐ小さな鉢植えを持って戻って来た。
「シダの一種よ」
「シダ……」
「そう。もしこれを植物学者が見たら気絶するかもしれないわ。もうとっくに絶滅して、化石でしか見れない植物ですものね」
「こいつがそこに生えているというのか」
「ええ」
京子はごく自然に頷いた。
「アガルタにはこれが生えているの。そして、今日の書類は、ある学者が、このシダはすでに地球上にあり得ないはずのものだということを証明した書類だったのよ」
伊沢はその生きている化石をみつめた。
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17 地底世界アガルタ
「地球が厚い殻に掩《おお》われた中空の球で、球の中心には太陽に相当するものが輝いている……と、そんな突拍子《とつぴようし》もないことを言う人間もいるが、あんたは信じはすまい」
スタジオの床に置かれたシダの鉢植えをみつめながら、伊沢はつぶやくように角田に答えた。
「信じるもんか。そんなこと」
「俺たちも信じちゃいないさ」
角田は笑った。
「夢物語りだものな。でも伊沢さん、空洞のやけにでかいものがあるということなら、少しは信じられるんじゃないかね」
伊沢は顔をあげ、苦笑した。
「判らんね。しかし、本当に……」
伊沢は一度首を左右に振ってから、石川京子をみつめた。
「本当にそんなことが、あの梶岡俊一郎の秘密なのかい」
「本当よ」
京子は頷いた。
「梶岡の、そして私たちの秘密……」
「ばかな」
伊沢は弱々しく言った。
「市場操作と価格協定、金融支配や政治取引……ことはすべてそういう生臭いもののはずだったぜ。こんな……」
伊沢はまた首を振り、
「綺麗すぎるよ」
と笑った。
「梶岡の動きを監視する人間がどうしても必要なの、彼の内ぶところへ入ってね」
京子はじっと伊沢をみつめ返して言う。
「適任よ、あなたなら」
「なぜだ」
「言っても怒らなければ言うわ」
「怒るものか」
京子は相談するように、二人の男を見た。
「じゃ言うわね。梶岡という男にとって、あなたは無害な人物に見えそうだからなの」
「俺がか」
伊沢は目を丸くした。
「そうよ。あなたは、内心はともかくとして、立派な超栄マンよ。超栄商事の社員として、忠実で、勤勉で……」
「冗談じゃない。俺はあいつらのやり方に腹を立てているんだ。だからこそ、パラダイサーなどという地下組織へも入った」
「パラダイサーなんて、ちょっとしたハイジャックごっこみたいなものよ」
「ハイジャックごっこ……」
「そうよ。公表されては困る企業秘密が人質に当たるわけね。そして、正体不明の本部が要求を出す。その要求というのが、なんと温泉地の寮を自分たちに開放しろとか、鉄道や飛行機の利用に優先権を寄越せとか……つまり、各会社の重役連中がやっていることとおなじことをやらせろというわけよ。呑みいい要求ばかりだわ。それはつまり、昼間優等社員だった者が、夜お酒を飲みながら、なんとなく会社のやり方をボヤいているようなものじゃないの。会社のやり方はよくないけれど、それを正面切ってつついて失業したり左遷《させん》させられたりしたくない。それに、よくないやり方にもせよ、それで会社が儲けて大きくなることには、満更でもない気分でいる。つまり、泥棒でいえば見張り役専門の下《した》っ端《ぱ》が、もっと分け前をよこせと言っているようなもんだわ」
「手きびしいな」
伊沢は苦笑した。
「俺はその程度の勇気しかない男だから、梶岡から見れば安全無害な人物に見えるはずだというのかい」
「まあ、早く言えばそうよ」
「怒るなとはじめに釘をさされてしまっている……」
伊沢は同情を求めるように角田と村井を交互に見た。村井は無表情だったが、角田は悪戯《いたずら》っぽく笑ってみせた。
「ここへ来る前に教えられているはずよ」
京子はすらりとした脚を組み直して言った。
「パラダイサーは裏で梶岡俊一郎に握られているのよ」
「それは聞いた。いかにもあの男らしいやり方だ」
「梶岡のことをよく知っているなら、なぜあなたは自分がパラダイサーの一員だということも、彼に知られているとは思わないの。あれだけの組織を作って、しかもそれが自分の敵であるように見せかけている男よ」
「俺のことを知っているのだろうか」
「もちろんよ。確証はなくても確信はあるわ。だからあなたが選ばれたんじゃないの」
「逆スパイか」
「そうよ。あなたはごく自然にパラダイサーという組織の一員になったけれどパラダイサーになってから、いったい何をしたかしら」
京子は皮肉な微笑を泛かべて言った。
「何をと言われても……」
「なんにもしなかったでしょう」
伊沢は顎《あご》を撫でた。
「もちろんやる気はあったはずよ。でもまだ行動には移さなかった。まずパラダイサーの実態を知るのが先決だと言って、特権のほうをさきに行使してみた。……ずいぶんあちこちお楽しみだったんじゃないの」
「皮肉たっぷりだな」
伊沢は顎から手をはなし、むっとして言い返した。
「どの程度のスピードでやれとは言われていなかった。それに、俺には俺のやり方があるさ」
「怒らないでよ。いま私は、あなたが梶岡からどう見えているかを説明しようとしているのよ」
京子は冷静であった。
「いいこと。あなたはまるで何もしなかった。パラダイサーの特権をたっぷりと味わってから、それでも、やや、やる気を起こしたらしかった。……でもそれは、先どりした楽しみの支払いをするようなものじゃなかったかしら。少なくとも梶岡の目にはそう映るわね。要領のいい社員が一人いる。反体制組織の中へまぎれ込んで、それなりに愉快な思いをしたけれど、いざ本格的な仕事という段になると、あれこれ理屈をつけてなかなか動かない……」
「やる気だった」
伊沢は呶鳴《どな》った。
「だが相手は超栄グループだぞ。俺のいる商事はその中心だ。一人じゃどうにもならんさ。そこらのインチキ不動産会社をあばくのとはわけが違う」
「でも、私たちはあなたの手もとにも、然《しか》るべき書類があったはずだと睨《にら》んでるわ」
「俺はここで査問《さもん》されているのか。とんでもないことだ。俺の手もとにある秘密など多寡《たか》が知れている。それに、そんなちっぽけなことで正体がバレたら元も子もないだろう」
「梶岡俊一郎がどう考えるかよ」
京子はまけずに大声をだした。
「つまり、あなたという人は、彼から見て、かなり無害な人物なんだわ。だって、今あなたが言ったことはみな本心なんでしょうけど、逆に取れば、うまいこと言ってなんとなく危いことから遠ざかるインテリの典型的なもんだわ」
伊沢は返事につまった。
「大臣の答弁に似てるのよ。善処しようとしていたところなんでしょう。しかも、パラダイサーとしての身分が気に入っているくせに、いざ直接行動という段になったら、超栄グループ内部で独自の組織を作りたいだなんて……。それも梶岡には聞こえているはずよ」
伊沢は唇を噛んだ。京子の指摘は痛いところをついていた。
「組織づくりのあいだ、会社にとって犯罪行為である社内の機密情報の収集はストップするわけよ。そして組織ができたときには、多分あなたは本部とかいうものの中に納まって、直接手を汚すことはなくなっている仕掛けなんだわ。梶岡が好きなのはそういう人間よ。頭の中は反体制的でも、体は体制の行進に歩調を合わせてしまうタイプが好きなのよ。きっと骨の髄《ずい》まで体制派の人間は、ばかにしてるんじゃないかしら。扱いやすすぎて相手にできないって……」
「俺は日和見《ひよりみ》か」
「梶岡はきっとそう思ってるわね」
京子は容赦《ようしや》なく言いきった。
「俺たちはここへ行きたいんだ」
村井は床の鉢植えを示して低い声で言った。
「こんな世の中じゃ、どこへ行ったっておんなじさ。でも、人間がまだ一人も住んでいない世界なら別だ。そこへ行って、本物のパラダイスを作りたい」
角田も頷いて言う。
「伊沢さん、一緒にやろうよ。手伝ってもらいたいんだ」
京子はじっと伊沢をみつめていた。
「君はどうなんだい」
伊沢はその京子に尋ねた。
「梶岡のふところへ食いこむには、あなたがいちばん適任よ。その理由はいま言ったとおりだわ」
「梶岡が見ているとおりの人間だとしたら、いちばん不適格なんじゃないのかな。能書きばかりで何もやろうとはせず、反体制はポーズだけで、そのくせ実は権力の鼻息ばかりをうかがっている……」
「そういう人が多いのは事実ね。でも梶岡はひとつ見落としているわ」
「なんだい、そいつは」
「地下にある大空洞よ。アガルタよ。それをあなたが信じたとしたら、話は全然違ってくるわ。あなたは本物の闘士になるでしょうね。ポーズだけの反体制派が多いのは、今の体制をひっくり返すことのむずかしさや、ひっくり返したあとのことまで、比較的よく考えているからだと思うの。革命なんて、死ぬ気でやらなきゃできはしないのよ。だからポーズだけになっちゃうの。でも、本当に可能性が出てきたら、ポーズだけではいられなくなるはず……。あなたはそういう部類の人だと思うの」
「鋭い人間観察だな」
伊沢はからかうように笑った。
「まあ、それはそれでいい。俺がいま知りたいのは、島田さんがそれで死んだのかという点だ。どうなんだ。島田さんはそのことで殺《や》られたのかい」
「ええ」
京子は深く頷いた。
「梶岡と私たちの間で、ああいう暗闘が続いているの。アガルタのことは、梶岡もまだそう多くには知られたくないはずよ」
「なぜだ。もし地下にそういう処女地があるなら、一気に開発を進めてそのプロジェクトの主導権を握ればいいのに」
「それが、そうかんたんにはいかないの。国際問題になるのよ。なぜかと言えば、そのアガルタは幾つもの国の利害に関係してくるから……」
「いくつもの国」
「仕方がないわね。どうせある程度のことは打ちあけなければ信じてくれないんでしょうし」
「ぜひ聞きたいね」
「日本へどうやって人間が集まったと思う……」
「え……冗談かい」
「本気よ。この日本列島へ、みんな舟や筏《いかだ》で来たと思うの」
「大昔はどこか北のほうで陸がつながっていたはずだろう」
「南方系の文化や言葉などがあることはどう考えるの」
「その頃になれば舟で海を……」
伊沢は京子をみつめ、次に村井を、そして角田をみつめた。
「アガルタは南にあるのか」
「島田さんたちの情報によれば、朝鮮半島や中国大陸にまでつながっているのよ」
「まさか」
「地底の道さ」
村井がおごそかな表情で言った。
四人はスタジオのベンチに並んですわっていた。
あらましを聞きおえた伊沢の頭にあるのは、九州西部から黄海《こうかい》、東シナ海にまたがる一枚の地図であった。
太古、そこに地底の回廊があった。一部の人々がその回廊を利用して、地底の長旅のすえ、ふたたび地上に現われたのだ。海上の道ではなく、地底の道を通って……。
その回廊は地変によって間もなくとざされたが、長く古代人の記憶に残ってアガルタをはじめとする、さまざまの地底国伝説を生んだ。琵琶《びわ》湖、諏訪《すわ》湖をはじめとする日本各地の湖水にまつわる伝説は、みなこの地底の大回廊の記憶に源を発しているらしい。
その地底の大回廊の記憶がよみがえったのは、日露戦争あたりからのことらしい。一部の夢想家が地底への入口を求めて活動をはじめ、埋宝発掘に似た熱狂性と秘匿《ひとく》性の中で、何者かがついにその所在をつきとめたというのであった。
地底は神秘的な光に満たされ、太古の植物相がそのまま保存されている世界だという。果たしてそれが真実であるかどうかは別にして、石川京子と二人の男はたしかにそれを信じているようであった。
「半分疑っていてもかまわないわ」
京子は結論を出した。
「とにかく、これであなたはアガルタのあらましを知ったのよ。限られた人数なら、そこへ行って別世界を作ることができそうなの。私たちは、そこを秘密の世界のままにして置きたいのよ。もし、朝鮮半島や中国本土と地続きで行ける道があると判ったら、大変な騒ぎになるわね。それは判るでしょう」
「うん、まず第一に上のほうの連中が考えることは軍事的な意味だろうな。平和利用をするにしたって、地底に弾丸列車を走らせ、高速自動車道を作り、もちろん地下資源が見つかればその開発も……。観光なんていうことをあとまわしにしても、いま地上で起こっていることがそっくり持ち込まれるにきまっているさ」
「ほかの人には悪いけれど、同志をつのってこっそりそこへ移住して、出入口をふさいでしまいたいのよ。その意味では、私たちだってけっして善人じゃないわ。でも、はじめからないと思われていたものなんですものね」
「気持ちはよく判るよ」
「もしこれが嘘だったとしても、あなたには得るところが多いはずよ。梶岡派というのは、あなたの会社では絶対的な力を揮《ふる》っているんでしょう。そのまん中へ居すわれば、サラリーマンとして願ったり叶ったりでしょう」
「皮肉はもう勘弁してくれよ」
伊沢は笑って誤魔化《ごまか》したが、ひと勝負やってみる気になっていた。
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18 陸軍大尉の影
伊沢は梶岡俊一郎に対する逆スパイになることを引きうけて、石川京子たちと別れた。石川京子という女はふしぎな女であった。
美人だが、一見したところごく平凡なモデルのように思える。とりたてて才能があるようには感じられないし、喋り方や身ぶりも底の浅い感じで、その底のあたりに相手が触れていきかけると、貝のようにピタッと殻の中に閉じこもってしまうようなところがあった。
しかし、伊沢にはどうもそれが一種の擬態《ぎたい》ではないかと思えて仕方がなかった。京子はそういう平凡な女をみごとに演じているのであって、その白けるような底の浅さの奥に、とほうもない奔放な正体をかくしている疑いがあった。
なぜならば、アガルタなどというものに、そんな平凡な女が関係しているはずがない。……伊沢は彼女がアジトにしているスタジオから帰る途中、何度もそう思った。
かりに、はじめは平凡な女であったとしても、アガルタに関係して暮らしている間に、どこか世の常の女にはないものを身につけてしまうはずである。
現に村井と角田という二人の男は、見かけはいかにも都会人らしい繊細さを漂わせているが、その実、ひと筋縄ではいかない何かを感じさせるのだ。それは多分、アガルタという妖《あや》しい夢にとりつかれたせいなのであろう。
それなのに、石川京子はあまりにも平凡であった。伊沢はそういう京子に執着を持った。京子の素顔を見るまでは離れられない気分であった。
伊沢はいったん自分のマンションに戻ると、住所録を引っぱりだし継田《つぎた》という男のアドレスをメモし、また町へ出た。
継田は伊沢のクラスメートで、父親が陶芸家だったところから、今は麻布《あざぶ》のほうで民芸品の店をやっているということであった。
その店はすぐに判った。フランス大使館のすぐ近くにあるビルの一階をショールームにして、思ったよりずっと手びろい商売をしているようであった。
電話もせずにいきなり訪ねて行ったのだが、継田は二階のオフィスにいて、
「よう。どういう風の吹きまわしだい」
と、うれしそうに伊沢を迎えてくれた。
「民芸品の店というから、ちっぽけな店を想像して来たんだが、大きいんで驚いたよ」
伊沢はどっしりとした民芸調の家具が並んだ応接間を見まわして言った。
「はじめは小さな店だったのさ。しかし、世の中がだんだん贅沢になってきて、こういう家具類がよろこばれるようになると、一気に伸びたんだ」
「こういうものは高価なはずだ」
「うん。この椅子ひとつが二十万以上もする」
「大したもんだな」
「ところで、今日は何の用だ。どうせお前のことだから、用がなければ顔を出さないはずだ」
継田は若い男が運んできた益子焼《ましこやき》のコーヒーカップを伊沢の前に置いて笑い、
「君はもう帰っていい」
と若い男に言った。すぐ一部分が吹き抜けになった一階のショールームの灯りが消え、シャッターをおろす音が聞こえた。
「知恵を借りに来た」
「知恵ならお前のほうがあるはずだぜ」
継田は笑った。
「例のゲテモノ趣味はどうした」
「ゲテモノ……ああ、やってるよ」
継田は苦笑し、コーヒーを飲んだ。
「アガルタ……」
継田は呆《あき》れたように伊沢をみつめた。
「本気か」
「仕方がないさ、仕事で急にそういう知識が必要になったんだ」
「仕事で……まさか」
「本当だ。そういうゲテモノ趣味が近ごろは、はやっているらしい。取引先の人間で、そいつに夢中なのがいるのさ。ゲテモノでもいいからそいつと話が合えば具合がいいんだ」
「そうゲテモノ、ゲテモノと言うな」
継田は閉口したように言い、
「でも面白いな」
と笑った。
「ざまを見ろと言いたいね。そりゃ、ムー大陸だのアトランティスだのということは、実生活から見れば他愛のない夢物語りかもしれんさ。でも、そういう夢を語る人間をイコール馬鹿とされたんじゃたまらんからな。お前はその点で俺たちの敵だった。学生時代、お前の前でアトランティスとかムーとか言うのはタブーだったよ。常識のかたまりで、夢などというのは、夜寝てからしか見ないものだときめてかかっていやがった」
「今でもその傾向は消えていない」
伊沢は自嘲気味に言う。
「いい年をして、本気でそんなことを喋っている奴の気楽さが我慢できなかったのさ」
「まあいい」
継田は手を大きく振った。伊沢にはそれが黒板を拭くときの手つきのように感じられた。学生気分が戻りかけているらしかった。
「とにかく、俺にとってはめでたいことさ、アガルタなんてことをお前が聞きに来てくれたんだからな、恨《うら》みが晴れたよ」
「そんなに気にさわっていたのか」
「ああ。お前だけじゃないがね。夢想家は現実家に水をかけられるのが大きらいなんだ」
「こっちは、からかうにしても冗談のつもりだった。悪意はなかったんだ」
「アガルタというのは仏典に出てくる言葉だそうだが、そっちのほうは俺もよく知らない。ゲテモノ派だからな」
継田は寛大な微笑を泛《う》かべて語りはじめた。
「地球空洞説というのを知っているか」
「実はごく最近そういう話を聞いたばかりなんだ」
伊沢は照れくさそうに笑って見せた。
「とほうもない話だろう。何しろ地球は中空だというんだからな。我々が乗っているこの大地は、実は厚さ千三百キロメートルほどの殻なのだそうだ。そして、南北両極に穴があいている。中空になった内部には、その中心に太陽のようなものが輝やいていて、裏側の世界にも、こちら側と同じような山や川があり、高度な文明を持った社会が存在しているというんだ」
「それがアガルタか」
「いや、アガルタはまた別さ。この南北両極に穴のある空洞説を言いだしたのは、ウィリアム・リードとかいうアメリカの男だ」
「いつ頃のことだい。アメリカ人となれば、そう古いことではないんだな」
「うん。今世紀のはじめさ。何人かの夢想家がそれを引きついで、今では空飛ぶ円盤はその地底世界からやって来るというような話に変化している。もちろん突拍子《とつぴようし》もないことで、俺たちだって信じちゃいないよ。でも面白いだろう」
「面白くあるものか」
伊沢は閉口したように言った。
「しかし、地底の別な世界という伝説になると、世界中どこにでもあって、大して珍しい話じゃなくなる」
継田は真顔で言った。
「日本の黄泉《よみ》の国だって、一種の地底世界のことだろう。根《ね》の国とも言うが、要するにまったく異質な世界が地面の下深くにあって、それがどこかで地上と連結しているというようなことだろう。竜宮《りゆうぐう》伝説はそれが海の下になっているだけで、結局地底国伝説の一部と考えていい。そういう地底国とか竜宮のような話はケルト族の伝説の中にもたくさんある。黄泉の国と竜宮が代表するように、地底世界の伝説は、死者とか悪鬼とかいうものにつながる一方で、逆に竜宮のような美化された世界として、楽園伝説をかたちづくっている。ここで思い出してほしいのは、人類がかつて穴居《けつきよ》生活をしていたという点だ。その時代には、黄泉とか竜宮などという種類の地底国伝説は、想像もできないくらい広く根強く信じられていたのだろう。人間が穴から出るにつれ、だんだん忘れられてしまったわけだが、それでもまだ一部は存続している。穴居時代のものがだぜ……どんなに根強い言い伝えか、わかるだろう」
「そう言われれば、たしかに凄い生命力だ。伝説に生命力とは少しおかしいが、穴居時代に源があるとすれば、とうに消えてもふしぎはないはずだよ」
「そうだろう」
継田は満足したように頷いた。
「そう考えてくると、多少そういう地底世界の事実があったと考えてもいいような気にならないか」
「強引《ごういん》だな」
伊沢はからかうように笑った。
「これでも、相手がお前だからずいぶん遠慮して言っているんだ」
継田も笑った。
「俺たち流に言わせてもらえば、穴居時代の人間はそういう洞窟《どうくつ》に対して、今の人間よりずっと敏感だった。俺たちがいい家を欲しがるのと同じわけだからな。天然の洞窟はかなり徹底した調査をされたと考えていいはずだよ。そういう洞窟の中は、ひどく奥深く、そして広いものがあったとしてもふしぎはあるまい」
「それが穴居時代のパラダイスだな」
「そうだ。地球空洞説は勇ましすぎるが、楽園願望と穴居が結びついている時代の、大洞窟伝説なら、かなり信頼できるというものだ。そして、部族なり民族なりが、まるまるひとつその中で暮らせるような穴が存在したことだって考えられるはずだ」
「そういう事実に尾ひれがついて、地下の楽園伝説になったというのかい」
「ああ。だがのちに人間は穴から出るようになった。穴から出た者が優位に立ち、出おくれた者は劣者になってしまった。そこで地底をすみかとする者が悪者にされ、鬼のように言われることになってしまった」
「わかったよ。多分、地底国伝説はそういうようにして成立したんだろう。ところで、俺が知りたいのは少し現実的な奴だ。ちらっと聞いたんだが、ローマ皇帝のネロが地底国の富を求めて軍隊に探させたとか……」
「ああ」
継田はうれしそうな顔になる。
「有名な話さ。そのために、ローマの軍団が本当に北アフリカをさまよい歩いたということだ。そういう話だったらいくらでもあるよ。たとえば、ジプシーはアガルタという地底国からやって来たという伝説がある」
「ジプシーがか」
「うん。もっとも、これはインド系の伝説のひとつをジプシーがヨーロッパへ持ち込んだらしい。アガルタ伝説はラマ教あたりに源があるようだな。ダライ・ラマはアガルタへの入口を知っていると思われているんだよ」
「アガルタというのはどういうところなんだ」
「判らないね。ただ、地上に住んでいた一群の人々が、あるとき一人の聖者につれられて地底へ行き、そこで作ったのがアガルタという国だというのがごく一般的な説明になっている。いずれにせよ、楽園伝説であることにかわりがないがね。アガルタの話は、はじめラーマーヤナに出てくるんだ」
「古代インドの叙事詩だな」
「そうだ。アガルタからの使者であるラーマが飛行船に乗ってやってくるんだ。そういう原典があるものだから、空飛ぶ円盤などと結びつけて考えられるわけさ。そうそう、インカ帝国の始祖といわれるマンコ・カパックなども地底からやって来たことになっているな」
伊沢は眉をひそめた。京子たちの説明を鵜呑《うの》みにする気にはとうていなれないので、その方面の知識がある継田をたずねたのだが、どれも雲を掴むようでいっこうに現実と結びつかないのだ。
「気に入らないようだな」
継田は伊沢の表情を敏感に察して言った。
「困ったよ」
伊沢は率直《そつちよく》に答えた。
「俺が探しているのはそういうものじゃないんだ。もっと現実の匂いがする奴さ」
「探している。……おかしいじゃないか。お前はさっき、そういう話題の好きな取引相手がいるから話を仕込みに来たのだと言ったぞ」
「そうなんだ。しかし、ポイントがずれているんだ」
「どういう風に」
「日本にはないのかね」
そう言うと、継田はじっと伊沢をみつめた。あまり継田の沈黙が長いので、伊沢はその凝視からのがれるように立ちあがった。
「やはり無駄だったかな」
すると継田は怯《おび》えたような声で言った。
「お前は超栄商事の社員だったな」
「そうだよ」
「その超栄マンの伊沢が日本の地底国伝説を……俺に言わせれば、たどたどしい手つきで探している」
「たどたどしいか」
伊沢は軽く笑い、ブラインドをおろした窓際へ行った。
「超栄商事は夢など扱わない。お前、どういう立場なんだ」
「立場……」
伊沢はふり返って継田を見た。継田が本気でいることはひと目で判った。緊張していた。
「何を狙《ねら》っているんだ。まさかあのことじゃないだろうな」
「何だ、あのことって」
伊沢は急いでソファーに戻り、テーブルの上へ体をのりだした。
「少しは知っているんだろう。ことのはじまりは日露戦争さ」
「九州から大陸へ通じている地下道のことか」
「ほら見ろ。知っているじゃないか」
「小耳にはさんだだけだよ。かくしていたわけじゃない」
「アガルタ伝説系のものとしては、日本ではそいつが一番あたらしい。九州のどこかに、大むかし大陸と通じていたという地下道の入口があって、今はその場所が判らなくなってしまっているというんだ。日露戦争のとき、本気でその穴を探した連中がいたのさ」
「どんな奴だ」
伊沢は生唾《なまつば》をのんだ。
「島田源吉《しまだげんきち》という陸軍大尉だ」
「島田……」
伊沢の鼓動が急に早くなった。
「九州のどこかの神社の神官の家に生まれた人物で、優秀な軍人だったらしいが、その穴のことをしつっこく献策《けんさく》したので、しまいには気違い扱いされてしまったらしい」
「島田源吉か。その人物に関する資料はどこかにあるんだろうな」
「あるらしい。もっとも、俺が島田源吉のことを知ったのは、四年ほど前のことだ。室井伝一郎《むろいでんいちろう》という奇現象研究家が、オメガ書院というところから本を出してね。それに載っていたのさ」
伊沢は反射的にポケットから手帖をとりだし、メモをした。
「その本、まだどこかに売っているかな」
「俺が持っている。欲しければやるよ」
「たのむ」
「しかし、おそれ入ったな。お前、本気でその穴を探す気なんだな」
「知りたいんだ。実は、そいつに関して何かが動いているんだ。殺人まで起きている」
「殺人……」
継田は目を剥《む》いた。
「島田という人物が殺されている。ひょっとするとその島田源吉の子孫か何かじゃないかと思うんだ」
伊沢は一気にこれまでの事情を継田に喋った。その陸軍大尉の影を追って現代の丸の内へたどりつくには、継田のような考え方をする人間が必要だと感じたのだ。
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19 想像と空想
地底の世界に対する継田の態度は、かなり及び腰であった。
「お前、本気か」
と何度も繰り返し、
「驚いたなあ」
と蒼《あお》い顔をした。
「俺は想像することを楽しんでいるだけだ。空想だよ。俺に言わせれば、想像とは現実にそうである可能性が充分に高いことを言う。だから、想像は日常生活の中で、毎日ひんぱんに行なわれている。しかし、空想となると少し違ってくる。空想とは想像という行為の中に、楽しみの要素が入ってくる。あり得ないことでも、その想像が自分を楽しませてくれればいいのだ。想像は現実から離れたら醒《さ》めて打ち切らなければいけないが、空想ではその必要がない。現実からいくら離れてしまっても、それで本人が楽しめるなら、いくらでもつづけていられる。ムー大陸やアトランティス、そしてこのアガルタなどのことを考えるのは、だから空想に属している。俺はそれが現実にあるなどとは一度も思っていない。俺は正気なんだ。空想という奴は健全な心を持っているからこそ可能なんだ。これは架空のことなのだが、という前提でたのしむ空想と、現実の未知の部分を推測する想像という生活技術を混同して、ひょっとするとあの男は夜になると羽根を生やして空を飛ぶのかもしれない、などと本気で考えはじめたら、それは妄想《もうそう》ということになる。いいかい。俺に言わせれば、お前のは妄想なんだぞ。たしかに俺は空想家だ。だが、空想家だからこそ、妄想とのけじめは、はっきりとつけている。いやだね、そんなことに巻き込まれるのは」
継田はしんそこおぞましげに言った。
「判る」
伊沢も継田の言っていることはよく理解できた。地底に別な世界があると信じるのは、いざとなると容易なことではないのだ。
「しかし、島田義男という人物が殺されて、その現場に居合わせたことから、俺はこの件に巻き込まれた。そして、島田源吉という明治の陸軍大尉の名がいまお前の口から出たじゃないか」
「島田という名はどこにもある」
継田は呶鳴《どな》るように言った。伊沢は反論しかけ、急に考えをかえてじっと継田をみつめた。
継田は睨《にら》み返していたが、その瞳からはすぐたかぶった感情が消えて、弱々しさがあらわれてきた。
「参ったな、まったく」
つぶやくように言い、苦笑を泛かべた。
「とんだ話を持ち込んできてくれたもんだ」
「すまん」
伊沢は素直に頭をさげた。
「これがお前でなかったら、俺はその島田義男と島田源吉を結びつけるのに夢中になっていたろう。醒めるどころか、どっぷり空想の世界にひたり込んで楽しんだろうよ。しかしお前じゃそうはいかん」
「なぜだ」
「お前って男は空想家じゃない。学生のころ、みんながお前を何と言っていたか知っているか」
伊沢は首を横に振った。
「推理小説も読まない男……。この意味が判るか」
「いや」
「うんざりするようなリアリストだっていうことだよ、俺たち空想家から言わせればな。お前にとっては、推理小説でさえ絵空事《えそらごと》だった。だが、推理小説というのは想像の分野に属している。少なくとも俺たちはそう思っていた。現実に起こり得ることを対象にしているのさ。だが俺たちは、その延長線上にいた。同じような手法を用いるが、想像の世界ではなく、空想の世界へ入っていたんだ。推理は行なうが、現実にあり得ないことでもよかったのだ。だから、俺たちはお前を、推理小説も読まない男として敬遠し、たしかに仲間同士でも嘲笑もしたが、内心恐れてもいたのだ。そういうお前が超栄商事のような、きわめて現実的な世界へとび込んだのは当然だろう。しかし、だからこそ俺は恐ろしいのさ。今になって突然アガルタ問題などを持ち込んでくる。俺にとっては、その一事でアガルタが空想の世界のものではなくなってしまったんだ。空想の世界にあったものを、現実の世界へ持ち込まねばならない。狂気だ。妄想だ。少なくとも俺にはそうとしか感じられない」
「だがこれは現実だ」
「そうさ。あらかじめ言っておこう。島田義男という人物がアガルタに関係して死んだことなど、俺はまったく関知しないことにしてくれよ。そうでなかったら、俺はこの件から手を引かせてもらう」
伊沢は眉をひそめて継田をみつめた。
「俺は自分の小さな店を、やっとこれだけの会社にした。超栄商事から見ればケシ粒みたいな会社でも、俺にとっては城だ。アガルタが現実だとしたら、とほうもなく危険なしろものなんだぞ。アガルタからどんな富が生じようと、俺はいらない。この会社で充分だ。知識は提供しよう。アドバイスもしよう。しかし俺は空想家としてそれをするだけだ。どこまで行っても現実のものだとは思わないから」
伊沢は笑いだした。
「判ったよ。約束しよう。けっしてお前を巻き込んだりしない」
そう言ってから、ふと気づいた。
「そうか。お前はもう自分のパラダイスを手に入れてしまっているんだな」
継田のことで、伊沢はその後何日か考え込んでしまった。
継田は空想家としての立場を守るために、地底の世界が現実に存在することを認めなかったのではないのだ。彼が守るべきものはほかにあるのだ。
それは彼の小さな会社と、それをとりまくひとつの世界である。陶器を中心としたささやかな民芸品の店を、彼はひとつのビルに納まるだけの会社に仕立てあげたのだ。そして今はそれに満足し、そこに自分なりの楽園を見ている。
「いったい俺は……」
伊沢はふと苦《にが》いものがこみあげるのを感じた。
パラダイサーなどという組織に加わってたのしんだのも、梶岡俊一郎に敵対することで生甲斐を感じようとするのも、つまるところは現在の生活に満足していないからである。
言ってみれば、楽園に住んではいないのだ。だから楽園を求めている。そういう意味では、ほとんどの人間が楽園を求めていた。ことにサラリーマンは、若い日の楽園の夢を食いつぶしながら生きている。少しずつ楽園の規模を小さくし、それでも到達しえず、定年という失意の日へ歩きつづけるのだ。
その点では、小さくとも自分で何かを経営する中小企業主のほうが、はるかに多くの楽園を手に入れている。継田がそのいい例であった。
伊沢は自分が超栄マンとして、世の中を動かす仕組の中心近くにいることをどこかで誇りにしてきたが、それがまったく見せかけのものにすぎなかったのに気付いたようであった。
パラダイサーという組織が、むなしい存在ながら、なぜサラリーマン社会に根強くはびこっているか、よく判る気がした。
アガルタとはいったいなんなのだ。
伊沢は自分自身の内部をのぞき込む思いでそう考えた。
原始への憧れがそこにちらりと見えたようであった。とも食いをしなければ生きていけぬ状態からの脱出願望があった。そのほかいろいろの願望をひっくるめて、自己のパラダイスを、個人を傷つけることなしに建設したいというのが、その結論のようであった。
「畜生、みじめなもんだ」
伊沢はそうつぶやいた。あのちっぽけな民芸品の会社をやっている継田との間に、大きな富の格差が生じてしまっている。
パラダイサーは奴隷の盗み酒組織だし、シダは脱走組織のようなものだと思った。どちらにせよ、サラリーマンが現代社会のもっともきわ立った奴隷的存在であることはたしかなのだ。
収入に対する税を百パーセント近く納めるサラリーマンは、都会に集中して住んでいる。ところが、その人口密集地である大都会の住民の参政権は、地方の四分の一程度にさえなってしまうのだ。
都市の四人分の投票が、地方では一人分の投票にしか当たらない場合があり、しかも為政者の意を汲んだ裁判官は、それを不平等とするには当たらないと断定する。サラリーマンは税においで百パーセント、投票において二十五パーセントが適当であると判定されているのだ。つまり、奴隷だ。そしてその奴隷は、いまや一人一人に通し番号をつけられようとし、不満を口にすることを封じられようとし、娯楽さえ制限されようとしている。
「アガルタ……」
伊沢はそのパラダイスに対する欲望を急速につのらせていた。奴隷でいたくはなかった。そこに出口があるのだ。
継田は島田源吉という陸軍大尉のことを調査して、できるだけ早く伊沢に連絡してくれると約束したが、実際には調査に時間がかかるらしく、すぐには連絡してこなかった。
そのかわり、梶岡俊一郎のほうから連絡があって、伊沢は皇居前のホテルへ呼び出された。
梶岡は最上階の贅沢な部屋で待っていた。伊沢が行くとすぐ、梶岡は大きなソファーに深ぶかと沈み込んで切りだした。
「ざっくばらんにいこう。北村君と結婚しないか」
伊沢はしばらく相手の顔をみつめていた。ふつうなら、何をぬけぬけと、と思うところであったが、梶岡が相手ではそうはいかなかった。
「どういう意味ですか」
あいまいな表情で問い返すと、梶岡はさっきとまったく同じ調子で、
「結婚しないか」
と繰り返した。
「引きとれとおっしゃるのですか」
伊沢は咄嗟《とつさ》に、場合によってはこれで超栄商事をやめてもいいと肚《はら》を据えていた。
「君は人間の善意というものを信じるかね」
「善意……信じたいですね」
「わたしの善意だ」
「専務の、ですか」
「北村君は美人だし、性格もいい。男として、わたしは北村君を愛した。しかし、わたしの立場は知ってのとおりだ。妻子があるし、社会的に言っても、北村君を妻にしてやることは不可能だ」
「そうでしょうね」
伊沢は頷いた。皮肉なものが泛かばないように、つとめて無表情でいた。
「わたしはだいぶ以前から、北村君が自分の意志でわたしから去ってくれることを望んでいた。わたしも、北村君がしあわせになってくれることを望んでいたのだ」
ふしぎなことに、梶岡の言い方には、虫のよさを感じさせる隙がなかった。ビジネスライクで、どうかすると法律家か経営コンサルタントに何かを解説されているような感じがした。
「君なら北村君をしあわせにしてやれるはずだ」
伊沢は梶岡の超然とした言い方に反感をおぼえ、なんとかその態度をきり崩そうとした。
「彼女と専務の間に関係があったことは知っていました」
あえて関係という言葉を持ち出し、
「それにもかかわらず、僕は彼女を抱きました。ですから、彼女と専務との問題については、ないと同じことです」
と言い切った。さすがに梶岡は一瞬眉を寄せたようだったが、
「なるほど」
と頷いて見せる。
「ある意味では、わたしと関係があると知って、北村君に好意を示すのは危険なことだからな」
「超栄商事の社員としてはそうです」
「それをあえてやった。つまり、君にとって北村君はそれだけの価値があったわけだろう」
「ええ」
価値という意味が問題であった。愛する価値という意味ならば、男女が結びつく必然性の問題を言っていることになるが、もし梶岡が利用価値という意味で用いているなら、伊沢の魂胆《こんたん》はすべて見抜かれてしまっていることになる。
「男ですからね。あえて危険をおかすこともあります」
伊沢は探りを入れた。
「だから君を見込んだのだよ。そういう君なら、わたしも安心して北村君を手ばなせる」
梶岡は男女間の意味で用いているようであった。伊沢はほっとした。
「仲人《なこうど》になろうと申しでるほど、わたしは鉄面皮《てつめんぴ》ではない。しかし、君たちが一緒になるのだったら、北村君のためにも、全面的に力になろう。それに、わたし自身にとっても、北村君のこと抜きで、君のような男が味方になってくれることは、望ましいことだ」
「僕が専務の味方に……」
「そうだ。どうかね」
「考える余地もありません。北村君のことで、僕は端的に言えば、社内的な問題もあきらめてかかっていたのです」
「つまりそれは出世ということかね」
梶岡の顔にはじめて微笑が泛かんだ。
「ええ。場合によってはやめる気でした」
「北村君に聞かせてやりたいな。女は男のそういう言葉を夢みているものだからな」
伊沢はうまくいったと思った。梶岡はまんまと思う壷にはまってきたらしい。裕子のことは、あとでどうにでもなる……。
「善意を信じます」
伊沢は殊勝な顔で言った。
「善意……」
「はい、専務の善意です。ふつうならクビになりかねない……」
すると梶岡ははじけたように笑い出した。
「若いね、君は」
伊沢は梶岡がなぜ笑ったのかよく判っていた。梶岡クラスの人間なら、誰だってその程度のことで部下をクビにするような態度をとるわけがないのだ。しかし、それと同じように、部下は怯《おび》えるに違いないという思いあがりがあるのだ。
「若気《わかげ》の至りです」
わざととり違え、恥じるように言うと、梶岡はいっそうたのしそうに笑った。
「君はパラダイサーという組織に加わっているね」
笑いおわるとそう言った。
「はい。なかなか楽しいグループです」
「楽しい」
梶岡はまた笑った。
「しかし、あれは何かを君たちに要求するだろう」
「します」
「君はその要求にこたえたかね。つまり、われわれの秘密を少しは知らせてやったかね」
「それが楽しみに対する代償ですからね。しかし、まだ支払っていません」
「どうする気だった」
「さあ、きめていません。しつこく言ってきて、そのとき気が向かなければ、やめてしまう気でした」
「組織から抜けるということか。案外図々しいな」
「あれは遊びのグループです。そう恐《こわ》いものでもなし……」
「なるほど。そう感じる者もいるわけか」
梶岡はちょっと鼻白んだようであった。伊沢にはその心理も判った。たしかにパラダイサーは梶岡のアイデアで生まれたものなのだろう。だから、熱っぽく乗っていかぬ人間がいたことが意外だったに違いない。
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20 蛇神と海神
久しぶりに会ってから半月ほどして、継田から伊沢へ妙な手紙が届いた。
文面は要するに会う日時と場所の指定であったが、差出人の名はなく、本文末尾にTとだけ書いてあった。おまけに追伸として、読後ただちに焼却してくれと記してある。
「大げさな奴だ」
帰宅してそれを読んだ伊沢は、苦笑しながらキッチンで灰にした。途中で夕食をすませてきた伊沢は、飾り棚からアルマニャックの瓶を取ってたっぷりとグラスにつぎ、それを持ってソファーに沈んだ。
ブランデーの香りが気分をしずめてくれる。
じっと酒の色を見ながら考えると、なんとなく継田の気持ちが判るような気がした。
巻き込まれたくないのだ。それは再会した夜、彼自身言っていたことである。しかし、その時は伊沢もなかば自分に対する皮肉のように受け取っていた。
ところが、アガルタに関する詳《くわ》しい継田の報告を待つ間に、情勢がじわじわと変化していた。
まず、梶岡俊一郎に私的なかたちで呼び出され、北村裕子との結婚問題を打診された。それを適当に切り抜け、一応梶岡の信頼をとりつけたと思ったとたん社内の人事異動の噂が流れはじめた。
多分、他社でもそうなのだろうが、人事に関する情報は必ずどこからか水の洩れるように洩れてくるものだ。勘ぐれば、上層部が異動の際の社員たちの抵抗感をあらかじめ弱めておこうと故意に情報の一部を洩らす可能性もあるのだが、いずれにせよ人事異動はサラリーマンの最大の関心事である。
体制側にあろうとなかろうと、すべてがサラリーマンであるこの社会で、そういう動きが洩れるのはやむを得ない面もあった。
だが、今度の噂は伊沢にとってちょっと異例に思えた。
まず第一に、例年の異動時期を大きく外れていること。第二に、噂にのぼった異動予定の顔ぶれに、必然性が欠けていることであった。
噂どおりだとすると、次の異動は営業部の課長級を中心に行なわれるようであった。いわば現場第一線の男たちが対象にされているのだが、伊沢の知る限りでは、とりたてて問題のない連中ばかりである。緊急、臨時の人事異動を必要とする理由はまったく見当たらないと言っていい。
そして、その噂の中でなぜか伊沢だけははじめのうち問題にされていなかった。
ほかの顔ぶれから見て、伊沢が異動の対象にされてもおかしくない状態なのに奇妙なことであったが、やがて伊沢もどこかへ移されるのではないかという、きわめて漠然とした情報が流れてきた。
伊沢にはピンとくるものがあった。
今度の異動が本当だとすると、それは自分が中心なのではないだろうか、そう思ってあらためて噂を検討してみると、どうやらすべては伊沢が去った穴を埋める布石になっていた。課長補佐が一人上へあがるだけで、あとは全部水平移動である。
それに気づいたとき、伊沢はアガルタが実在することを心から信じた。
梶岡俊一郎が伊沢を呼び寄せているのだ。皇居前のホテルで言ったことを、梶岡はすぐ実行に移しているらしい。
ということは、アガルタ問題が実在するということであり、それが実在するとなれば、なみたいていの事態ではないということになる。
大陸へ通じる地底の大回廊《だいかいろう》。それは政治、経済、文化、そして軍事的な大問題になるにきまっている。おそらく、梶岡の背後にはもっと強力な顔ぶれがひそんでいるに違いない。いったいそのアガルタをどうしようというのか……。
だから、継田からの連絡が封書で、しかも盗み読まれても安全なかたちになっていたことは、当然と思えた。大げさな奴だと苦笑はしたが、伊沢にとってもその警戒心はありがたかった。
「陸軍大尉島田源吉は、やはり君が言った島田義男という人物の祖父だったよ」
ゆっくりと回転する高層ビルの最上階で継田はいきなりそう切りだした。
そこはレストランになっていて、二人が向き合ったテーブルの両どなりは、彼らが行く前から客でふさがっていた。したがって尾行者がいたとしても、話が聞きとれるほど近くには来れないはずだった。
「やっぱりそうか」
「ただし俺にはそれ以上は判らない。たしかに島田源吉の孫の一人に島田義男という名前があるが、それが殺された男と同一人かどうかはな」
「そこまで疑う必要もないさ。両方とも、アガルタに関係しているんだ。間違いないさ」
「島田源吉も失踪して行方不明になっている」
継田はいかにも旧友の再会といった陽気な表情をつくろっていたが、よく見ると緊張で頬のあたりがヒクヒクと震《ふる》えていた。
「行方不明」
「そうだ。もちろん昔のことだし、墓は九州にあるが」
「地底へもぐったのかな」
「いや、違うね」
継田は自信ありげだった。
「じゃあどこへ行ったんだろう」
「行方不明になって十年以上してから、島田のことで一部に噂が流れた。東京で見かけた者がいるというんだ。それで、地元で陸軍のスパイ活動に加わったという噂が生まれたらしい」
「スパイ活動ね」
「人望のあった人物らしいから、地元ではせいぜい好意的に解釈して、そういう臆測をしたんだろうが、行方不明という点では孫の島田義男とおなじだ」
「島田さんは殺されたんだ」
「それを誰が知っている」
継田は憤《おこ》ったような顔をした。
「知っているのはお前ぐらいなもんだ。しかも、殺されたことを証明できんだろう」
「そうか、すると故郷では……」
「そうだ、行方不明なんだよ」
「父親という人はどうだ」
「太平洋戦争のとき、南方戦線で早くに戦死」
「ちぇっ、おもしろくないな。それもどうだか判らないじゃないか」
「そうなんだ。疑えばきりがない。果たして本当に南方へ行ったのかどうかもはっきりしない。同じ陸軍だしな」
「つまり、島田家は三代にわたって行方不明か」
「いいや」
継田は首を横に振った。
「以前言ったとおり、島田家は神官職だ。先祖代々地元の神奈備《かむなび》神社の神官をつとめているんだ。そして、たびたび行方不明者や、長期間姿を消していて不意に戻って来るような者を出している。もっとも昔のことだから、そういうのはみんな神かくしに会ったとかなんとか説明されておさまってしまっているがね」
「アガルタか」
伊沢は唸った。
「それ以上のことはいくら調べても出て来なかった。しかし、この間言った物好きな空想家仲間のあいだでは、島田源吉が陸軍に提出した文書はよく知られていて、彼の行方不明については別の話が流れているよ」
「どんな話だ」
伊沢はその最上階のレストランから見える東京の夜景に目をやった。遠くから何かが近づいて来るような気がしていた。
「島田源吉はひそかに殺されてしまったという話がひとつ。もうひとつは厳重な監視のもとに、死ぬまでアガルタを探しつづけさせられたという話……」
「陸軍にか」
「いや、そうじゃない。国粋主義者として戦前の右翼に隠然たる力を持っていた、井佐々善道《いささぜんどう》という人物が、島田源吉を陸軍からもらい受けて自分の監視下に置いたというんだ」
「井佐々善道……」
「そうだよ。元を辿《たど》れば皇族につながっていく人物だが、神道家《しんとうか》としてもちょっとしたものらしい。とにかく表舞台にはけっして姿を現わさない人物で、今も写真一枚残していない謎の人物だ」
「殺されたという話のほうは……」
「アガルタが実在していたので、秘密を知りすぎたからだというんだ。島田源吉は、陸軍が自分の考えをうけいれないので、はじめのうちあらゆる機会をとらえてアガルタ問題をぶちあげていたからな。だが、本気でとりあげる人間は一人もいなかったらしい」
継田は警戒して、さりげなくあたりを見まわし、また続ける。
「今度のことで考え直してみると、そのふたつは両方とも正しいんじゃないだろうか」
「というと、その井佐々善道という奴にこき使われて、あげくに殺された……」
「そうだ。それで気がついたんだが、そもそも井佐々という男はアガルタに関してはじめから何か知っていたんじゃないかと思う。というのは……」
継田はポケットから手帖をとりだし、ボールペンで井佐々という字のほかにいくつか書き並べた。
「記紀《きき》の昔、南東風のことをイナサと呼んでいた。東風はアユチだ。今でもイナサというと、地方によって南東風、南風、北東風などの意味に使われている。ところで、例の伊勢の五十鈴川《いすずがわ》のイスズは、イササと呼ぶ例もあるそうだ。イナサ、イササ、イスズはどれも貴《とうと》い場所を意味する。神が天下りする場所だよ」
「すると、井佐々というのは、ひどく古い名だな」
「そういうことになる。ところで今度は神奈備《かむなび》神社のほうだが、このとおり、いろいろな書きあらわし方がある」
継田は手帖を示した。神奈備、神名備、神名火、甘南備、神辺、神並と六種の表記があった。
「カムナビのカムは当然神のことだ。ナはの[#「の」に傍点]という意味、ビは森、あるいは集合体さ。カムナビという神社は本来は社殿がないはずだ。祭祠場という程度のことで、一般に神奈備というと、今では飛鳥《あすか》の神奈備のことになる。だが、ナビは朝鮮語の木を意味する言葉と同系語で、モリとくると沖縄の方言では山を意味している」
「つまり神がいる木の生えた山ということになるな」
「神のモリ。モリは森でも山でもこういう地形の国では大差なかろう。だが、モリというともうひとつ、隠れるという意味が重なってくる。コモリのモリだ。天下った神が隠れるところとなる。つまり、どこからともなくひょっこりやって来たすぐれた人間が、またどこかへ帰って行く場所だ。アガルタというものを考えると、少し一般に言われているのと違うイメージが湧いてくるはずだ」
「そうだな」
南のどこかにある神隠れの場所……。伊沢はふと天磐戸《あまのいわと》伝説を思い出していた。
「おもしろいことに、カムナビのナビは、古代世界で蛇という意味にも通じている。蛇はナビ、ナギ、ナデ、ナミ、ナガ、ナジ……ナがヌに転じて、ヌデ、ヌギ、ヌビ、ヌガ、ヌジ。池のヌシとか湖のヌシとかいうヌシは、案外蛇のことかもしれない」
「それで」
伊沢は継田が脱線しそうになるのをとどめた。
「神奈備は飛鳥《あすか》のほかに、三輪《みわ》や竜田《たつた》にもつけられている言葉だ。両方とも蛇神だ。イナサの風は二百十日あたりに吹く台風を指《さ》しているらしいし、蛇神はみな水神で雨乞いなどに祈りの対象とされる」
「九州とつながってくるな」
「だが、この際、学問的なことはどうでもいい。一挙に結論を出せば、神の天下りや神蛇など、一連の古代信仰が島田家の神奈備神社にあったとも考えられるだろう」
「きつい飛躍だが」
伊沢はそう言って、あえて反論しなかった。
「つまり、ある時期この列島へ渡って来た人々が、尊崇《そんすう》の中心にしていたのが島田家の神社、つまりアガルタと呼ばれる地下の大回廊さ」
「穴は蛇のイメージに通じるな」
「それがのちに封鎖され、意味を失って航海技術を持った人々の奉じる海神の蛇と結びついた」
「うん、一応つながるな」
「穴……地底の世界。こうなると黄泉《よみ》の国という考え方も棄ててはおけない」
「そうか。古事記でもそいつはごくはじめのほうで語られていたはずだものな」
「案外古事記あたりの記述は、アガルタの、少なくとも、とばくちあたりの状態を描写したものかもしれないぜ。黄泉の国の、ヨモツヒラサカのヒラは坂という意味だ。出入口があるとすると、そこは、はじめ急に落ちこんでいるはずじゃないか。そこへイザナミに会いに行ってヨモツシコメに追われたイザナギが、大きな岩でそこを塞《ふさ》いでしまったとされている。これなどは、考えようによっては失アガルタの伝承がもとになっているのかもしれない」
「古事記の冥界神話は失楽園の物語りだったわけか」
「そういうことになる」
継田は会心の笑いを泛かべていた。
「ということは……」
伊沢は神話の世界から現実にたちかえった。
「アガルタの謎をときあかすには、日本の神話をよく知ることが近道だというわけだな」
「うん」
「そこで井佐々善道などという、謎の神道家が登場してくるわけか」
「島田家には、そういうことに関する独特の記録か口碑《こうひ》があったのではないだろうかね。アガルタが実在したとなると、こいつは日本の古代史に深くかかわってくる。まず地続きの時代にいちばん古くからこの島にいた人間があって、次に地底の道を通ってやって来た連中がいる。そのあと、地底の道を関知しない人々が舟でやって来て歴史時代に入るわけだ。地底信仰を持った連中を無視することはできなかったが、しだいにその力がおとろえてくると、邪悪なもの、悪鬼、けがれ、といった地位へ転落させられた。蛇神は海神と結びつき、やがて体制の一部に組み込まれてしまう。それでも、強いアガルタの記憶がアマテラスやスサノオ、イザナギ、イザナミあたりに残っていて、天磐戸だの根の国だのという神話を作りだしていった……」
「少し勉強しないといかんな」
「合理主義のかたまりみたいな軍隊では、そんなことはとうてい信じられなかっただろう。しかし、戦前の貴族社会に隠然とした勢力を持っていた井佐々善道などが、そいつを信じたとすると、陸軍大尉島田源吉の行方不明もわけがわかるし、国粋的な傾向が復活しはじめているいま、島田義男が殺された理由も説明がつく。いずれにせよ、地底の大回廊を一般に知らせたくない者と、そこに未知の楽園を感じる者がはげしく対立することは想像できるじゃないか」
そしてお前はそれに巻き込まれまいと必死になっている……。
伊沢はそう言いかけてやめた。
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21 奥の院の会話
予想していたより、人事異動はずっと露骨な形で行なわれた。伊沢の課長という肩書はなくなり、専務室付きというあいまいなポストにかわった。
従来それは秘書課に属するポストで、おおむね北村裕子《きたむらゆうこ》のような女子社員で占められていたが、営業部の課長であった伊沢がそこへ移されたとなると、事情はガラリとかわった。誰もが栄転であることを認めるのだ。
たしかに、誰が見ても梶岡俊一郎が伊沢の手腕を評価して、自分の腹心として使うことは、はっきりとしていた。
事実そのとおりなのだから、伊沢が文句をつける筋合いはなかったが、もう少し穏便《おんびん》な方法がありそうに思えてならなかった。
梶岡はいまや超栄商事のエース的存在である。反対派も少なくないが、急速に勢力をのばす梶岡の前では、その影もうすれがちである。少しでも将来に野心を持つ者は、梶岡に呼び寄せられるのを心待ちにしているのが現状であった。
それがいきなり伊沢を指名したのである。伊沢の周辺で、大半が今度の異動について、予想外だと評しているのは、すでに梶岡に密着しかけている者が数名あり、伊沢と梶岡を結びつけて考える者がほとんどいなかったせいであった。
それだけに、伊沢に再認識の目を向ける者が多かった。さすがに梶岡の目のつけどころは違う……といったような言葉があちこちでささやかれている。多分それは、梶岡の実力を踏まえてのうえのことであろうが、それにしても伊沢の株はぐんとあがった感じであった。
しかし、それがアガルタなどという問題に関連していることは、誰も気付いていない。知っているのは梶岡と伊沢の二人だけで、北村裕子でさえ、自分との関係がおもな原因で、今度の人事になったと信じ込んでいるようであった。
だが、伊沢自身はきわめて緊張した状態になっていた。第一に、その異動が仲間のいうほど安全なものではなく、いわば梶岡の私兵になるからであった。アガルタ問題などがからんでいなかったとしても、それは危険なことなのだ。なんといっても超栄商事という大組織は抜きさしならぬ重味を持っている。その大樹のかげにいるからこそ、超栄マンはサラリーマン社会のエリートであることができる。しかし、いくら実力者とはいえ、梶岡はしょせんその大樹の枝の一本にすぎぬのだ。大きな樹木から、一本の枝に乗りかえたことが果たしてプラスになるのかどうか……。結局梶岡俊一郎という人物と一蓮托生《いちれんたくしよう》の運命に置かれるだけなのである。
第二に、伊沢はその異動と同時に、超栄マンであることを放棄せざるを得なかった。少なくとも心の奥底で、いずれ超栄商事を去る日が来ることを覚悟せざるを得ないのだ。梶岡の懐《ふとこ》ろにまんまととび込みはしたが、それは同時に梶岡とのたたかいのはじまりでもあった。勝てば梶岡はおそらく失脚に近いことになるだろう。
敗《ま》ければ放り出されるか、あるいは梶岡にがんじがらめになって、せいぜい忠実な家老の役に甘んじて一生を終わるだろう。
考えてみれば、どちらにしてもあまり得な役まわりではなかった。大変なことに巻き込まれたものだと、いまさらながら自分の軽率さをくやむ瞬間もある。
その不安や失望感を埋めてくれるものがあるとすれば、それはシダの連中であった。アガルタの実在を信じ、その未知の世界で自分の楽園が建設できると思ったからこそ、この社会での将来を放棄したのだ。
ところが、石川京子たちはあれ以来、いっこうにアガルタを語ろうとはしない。もちろん、梶岡に招き寄せられて専務室付きという立場になったことについては、大いによろこんでくれはしたが、やはりそれだけでは頼りなく、アガルタについてもっとくわしい情報を送ってもらいたかった。
その面では、伊沢は腹をたててさえいた。アガルタや島田源吉について知ったのは、伊沢自身が継田《つぎた》から聞き出した話が大部分で、シダの連中はまだそこまで教えてくれていない。不安と不満の中で、伊沢はシダからさえ独立した動きをとってもいいような気分に陥《おちい》っていた。
ところが、そんな伊沢の心を見すかしたように、田川信平が梶岡の部屋へ姿を現わした。
専務室には北村裕子と伊沢、そして梶岡の三人がいた。伊沢はきのうまで梶岡が使っていたデスクについていた。そのデスクは以前、梶岡が社内に運び込ませた私物のひとつで、北欧製の木のデスクであった。
「わたしはもうデスクは要らん。こっちで楽にしていればいいのだ」
梶岡はソファーに沈み込んでニヤニヤしていた。本気でそう言っているらしい。
「うまくつとまるといいんですが」
伊沢もなかば以上本気でそう言った。
「だいいち、僕の目に触れてはいけない書類などもまわってくるんじゃありませんか」
「困るな、そういうことを言っては。君はもう営業課長じゃない。一介《いつかい》の課長では知らなくてもいいことがあるが、君は専務室の一部になったわけだ。わたしが見るものは全部君も見る。書類ばかりじゃない。この部屋からは日本という国が見えるんだ」
梶岡は諭《さと》すように言った。
「北村君。例の四号はまだこっちにあるかね」
「はい、ございます」
裕子は自分のデスクからそう答えた。梶岡のデスクに伊沢がそのまますわったから、まるで伊沢のための秘書に見える。伊沢は擽《くすぐ》ったい思いで彼女をみつめた。その白い肌を、彼はゆうべも楽しんだのである。
「手はじめに、あれを伊沢君に見せてやりなさい」
「はい」
裕子は立ちあがり、部屋を出て行った。
「四号と言いますと」
「帳簿さ。ただし、そんな帳簿はこの超栄商事には存在していないことになっている。近いうち、実際に存在しなくなるがね」
梶岡の言葉は謎めいていた。
裕子は茶の革鞄《かわかばん》を持って戻って来た。
「伊沢君に……」
「はい」
裕子は微笑しながらそれを伊沢の前に置いた。
「二番目の抽斗《ひきだし》に鍵束《かぎたば》があります」
そう言われて、伊沢は抽斗をあけた。十幾つかの鍵が束になっている。裕子がデスクのうしろへまわって来て、伊沢の肩ごしにその鍵束から革鞄の鍵をえらんだ。慣れた香水の匂いが伊沢をとりまいている。
「お似合《にあ》いだな」
梶岡はからかうように言った。裕子は赤くなって自分のデスクへ戻った。
鍵で鞄の錠をあけると、古めかしい一冊の黒い帳簿が出てきた。現金出納帳《げんきんすいとうちよう》だが、備考欄がやけに幅広くとってある。装幀《そうてい》や罫《けい》の印刷の様子はかなり古く、多分戦前のものに間違いないと思えた。
伊沢は梶岡の目を意識しながら、そのページを静かに繰《く》っていった。
「どうだ」
梶岡が声をかけた。
「こういうものがあるはずだと思っていました。しかし、自分の目で見ようとは思いませんでした」
それは超栄商事が支出しつづけてきた、政界への金を記録したものであった。
「おそらく世間では、そういう記録はないものと思われているだろう。あっても個人のメモ程度だろうと……。冗談じゃない。超栄商事はそんないいかげんな会社ではないのさ。会社の金は一厘一毛《いちりんいちもう》に至るまで、すべて正規の記録に残される。つかみ金ができるような三流企業ではないのだ。それをいい悪いというのは勝手だが、我々は必要があって政治に金を出している。商売の一部だよ。……ところで、それはもうひとつの記録とつけ合わせることができる。どの金が何に役立ったかだ。社史|編纂《へんさん》室にその相手の記録がある。どの政治家がいくら受取り、わが社の何に役立ったかが、そのふたつの記録ではっきりする。いわば政治家の考課表だな」
「危険じゃありませんか」
伊沢はその帳簿が持つ意味の重大さに舌をまきながら言った。
「万一世間に洩《も》れたら……」
「洩れんさ。それだけの注意はしている。そのうえ、近々その帳簿もなくなるしな」
「記録をやめるんですか」
「いや。コンピューターにいれる。特別な方法でなければ、誰もそのデータを読むことはできなくなるのだ。かりに誰かが偶然それをアウト・プットさせたとしても、何のことやら判らんだろう」
「暗号ですか」
「そうだ。しかも、そのテのひと桁《けた》ナンバーの記録は、緊急の場合磁気装置が自動的に働いて痕《あと》もとどめない」
多分それは梶岡の発案だったのだろう。いくぶん得意そうな表情が泛かんでいた。
「失礼します」
ノックの音がして、裕子がドアをあけると、白い作業服を着た男が二人、小さな金属製のケースを持って入って来た。
「ご苦労」
梶岡は窓際へ立ってそう言った。
「失礼します」
二人の男はまたそう言い、ガイガー・カウンターのようなその装置を持って、部屋の中を歩きまわった。
「なんだい」
伊沢は小声で裕子に尋ねた。
「盗聴装置を調べているのよ」
裕子はさりげなく答えた。
「いつもか」
「週一回……」
伊沢は自分がこの大企業のほんの一部しか知らされていなかったことを、しみじみと悟った。表の顔とまったく異質なものが、ここには存在していた。
その男たちがひきあげてすぐ、インターフォンが田川信平の来訪を告げたのであった。
田川信平は黒い書類鞄を持ってやって来た。
「やあ、ごぶさたしています」
ドアのところでまず梶岡に狎《な》れ狎れしくそう言い、次に伊沢に目を移した。
「これはこれは」
苦笑して見せた。
「どうも……」
伊沢は椅子を立って頭をさげた。
「君もこっちへ来たまえ」
梶岡が言う。伊沢は田川のあとについてソファーへ行った。
「嫌な人だ、あなたという人は」
田川はそう言って腰をおろす。
「なぜだね」
「そうでしょう。わたしに何のことわりもなしに、伊沢君をこんなところへ移してしまうんだから。敵が多くても文句は言えませんな」
「敵というのは、味方になりそこねた連中のことをいう」
梶岡はそう言って笑った。
「それはあなたが強いからだ。弱い者には違う言葉だ」
「どういう……」
「自分を相手にしてくれない者をそう言いますよ。まず女がそうだ。かまってくれない男は悪い男」
梶岡はたのしそうに声をあげて笑った。
「西部劇の台詞《せりふ》で、わたしの好きな言葉がひとつある」
「ほう、梶岡さんでも映画を観《み》るんですか」
「昔はよく観たよ」
「で、その好きな言葉というのは……」
「おとなしいインデアンは死んだインデアン」
「なるほど。邪魔者は殺せ、ですか」
「君にはおとなしいインデアンにならんでほしいものだ」
田川は伊沢を見て首をすくめた。
「おどかされた。あんたも気をつけたほうがいい。この人の抽斗には消しゴムが入っているんだ。ときどきそれで名前を消す」
「もうわたしのデスクはない」
「ほう。すると、あのデスクは伊沢君のものになったわけですか」
「彼ならまかせられる」
「そいつは大ごとだ。君は消しゴムごと引きついだわけだぞ」
伊沢は苦笑した。ひょっとすると、名前を消す仕事もやらされるかもしれないと思った。
「しかし、さすがは梶岡さんだな。緻密《ちみつ》すぎるほど緻密にやるくせに、彼を一度にそこまで信用してしまう。これでは伊沢君もどうしようもなかろう。……どうかね、専務を裏切れるかい」
きわどい会話であった。半分以上真実がこめられている。
「いきなり奥の院へ引っぱりこまれて、度胆《どぎも》を抜かれているところです。それに、田川先生のおっしゃるとおり、ここまで一気に信頼を受けたら、裏切れるものでもないでしょう。ことに僕は、こういうのに弱いもので」
田川はニヤリとして梶岡をみつめた。
「嘘をついている。梶岡さんが伊沢君を見込んだのは、大胆不敵、わが道を往《い》くというところがあるからでしょう。現にパラダイサーに加わってわたしをだました」
梶岡は煙草に火をつけた。彼はゲルベゾルテ以外は吸わない。
「ところで、何か新しい動きがあるということだったが」
「ええ」
田川はちらりと伊沢を見た。
「お邪魔なら……」
伊沢が腰を浮かしかけると、梶岡がそれを手で制した。
「わたしが見ることは君も見る。そう言ったばかりじゃないか」
「はい」
伊沢はすわり直した。
「K銀の滝沢《たきざわ》さんの動きです」
田川は鞄をあけ、ファイルをとりだして梶岡に渡した。
「どうもわたしには理解ができんのですよ。いったい何をめあてにそんな動きをしているのでしょうか」
梶岡はそれにこたえず、熱心に書類に目を通し、黙って伊沢に渡した。
「判りますか」
「そうだな……」
梶岡はあいまいに言って目をとじた。
それはK銀行の頭取である滝沢|元介《げんすけ》の最近の行動の詳細な記録であった。多分K銀行内部にいる、かなり有力なパラダイサーの一人が提供してきたものに違いなかった。
「井佐々善道の墓は多磨墓地《たまぼち》にあったのか」
梶岡が目をとじたままつぶやくように言った。
「そうです」
「京都あたりかと思っていたな。意外な気がする」
その記録によれば滝沢元介は一ヵ月ほど前に、多磨墓地へ行って井佐々善道の墓に献花してきている。そのほか、このところ数回井佐々善道の遺族や、その門下の人々に接触しているのだ。
伊沢はその情報が、梶岡にとって相当重大なものであることを悟っていた。彼以外にも、アガルタに接近しつつあるライバルが現われた可能性を示しているのだ。
だが、表情には出せなかった。井佐々善道の名を知っていること自体、絶対に悟られてはいけない段階なのである。
「君はなんだと思うね」
梶岡は逆に田川に尋ねた。
「判らんからこうしてあなたのところへ持ち込んだんじゃありませんか。……まあ、その他の動きから察すると、何か軍事的なものの匂いは感じますがね」
田川は見事に演技していた。井佐々がどのような秘密にからんでいた人物か、彼が知らないはずはなかった。
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22 朽木《くつぎ》機関
田川信平が帰るとき、梶岡もいっしょに部屋を出た。
「車は」
梶岡が田川に尋ねた。
「タクシーですよ」
すると梶岡はドアのところでふり返り、
「伊沢君、お送りしてくれ」
と言った。下で車の手配をしてやれという意味であった。
「はい」
伊沢は二人のあとに続いて部屋を出た。
梶岡と田川は廊下で左右に別れ、伊沢は田川についてエレベーター・ホールに向かった。
「大胆なものだ」
田川が感じ入ったように言う。
「僕のことですね」
「そうだよ。君に対して、彼は完全に警戒心を棄《す》ててしまっている。あれほどの男だから、ふつうなら君に対してもう少し用心深くするはずなのに」
たしかに、梶岡の信頼ぶりには、伊沢もいささか閉口していた。はじめ思っていたより、はるかに男性的な人物のように感じはじめている。
「演技ではないですか」
エレベーター・ホールで、二人は低い声で喋《しやべ》っていた。
「要するに、君を見込んだということだろうな。演技だとすれば、少々|太閤秀吉《たいこうひでよし》的だが、それにしても、なかなかできる芸当ではない」
「帳簿を見せられましたよ」
「ひとけたの帳簿か」
「ご存じだったんですか」
「うすうすはな。しかしこの目で見たことはない。社外の人間だから」
「そうですか」
「君は知らなかったろうが、見たのなら判るだろう。もしわたしなら、あれを見たというだけで死の宣告さ」
「まさか」
「しかし、内容を見たろう」
「ええ」
「日本の裏面の何割かが、その帳簿に載っているはずだ」
伊沢はコンピューターの件を告げようとして、口をつぐんだ。この田川にしたところで、たしかなことは判っていないのだ。何が味方で何が敵か、性急にきめてしまうのは危険な気がした。
「君はあの男の信任を受けた」
田川がそう言ったときエレベーターが来て、ドアがあいた。
「よく考えることだね」
「はあ」
エレベーターの中には誰もいなかったが、二人はどうにでもとれる喋り方に変えた。盗聴の可能性があった。
「これでわたしと君は、完全に同じ陣営に属したわけだ」
田川が言った。二重の意味を持つ言葉であった。梶岡を中心にしたグループの一員、という意味もあったし、梶岡のふところへ忍び込んだスパイ、という意味もあった。
「これはこれで、ただの課長時代とは違って、かなりむずかしい立場です」
田川は伊沢の顔を見た。
「そうだな。しっかりやりたまえ」
どちらの意味か、お互いによく判らなくなってしまったようであった。
「はい。がんばってみます」
エレベーターは一階につき、すぐ地下へおりた。
とうとう田川を車に乗せるまで、お互いに腹を割った話が出来なかった。
田川を帰して専務室へ戻る間、伊沢はひどく心細い気分になっていた。
パラダイサーのときがいちばん安心していられた。ひとつの秘密組織であり、目的もはっきりしていた。だが、その裏にシダという別なグループが存在することを知った瞬間から、事態は伊沢を孤独へと追いやりはじめたのである。
シダの石川京子たちも、それ以上接触を深めて来ようとはしない。田川に会ってもそれは同じことであった。アガルタの基礎知識を教えてくれた継田も、問題の根深さにおそれをなして、それ以上近寄ろうとはしない。
この危険な綱渡りを、伊沢は結局独力でやらされているのだ。いったいどこが報いてくれるのかさえ、はっきりとはしなかった。
専務室へ戻ると、北村裕子が待ちかねたように言った。
「田川先生のお話に出たK銀行の滝沢頭取のこと、きっとすぐに調べることになるわよ」
「そうか」
伊沢が気のない返事をすると、裕子は優しく睨《にら》んだ。
「だめねえ。それじゃ梶岡さんの秘書はつとまらないわ。なれてきたら、命令がなくてもあなたが動き出すようにならなくてはいけないのよ」
そう言って、伊沢のデスクの抽斗《ひきだし》の一番下から、黄色い住所録をとりだして置いた。
「専務の手足になって動く人たちのリストよ。多分K銀の頭取だったら、その最初のページあたりじゃないかしら」
伊沢はパラパラとその住所録をめくったが、どれもこれも知らない名前ばかりで、何がなんだか見当もつかなかった。
「これみんな調査員か何かかい」
「こっち側から言えばそうだけど、先方は専門家じゃないの」
「すると、つまりこれは情報源」
「そういうことね」
伊沢はあらためて見なおした。すると、政治家の名前らしいものがあちこちにあることに気づいた。それも中堅以下のものばかりである。
「なるほど。大物の名はここに書く必要はないというわけか」
少しずつのみ込めてきた。梶岡はやはり情報人間なのだ。パラダイサーなど、そのほんの一部にすぎないらしい。
伊沢はふと、石川京子たちが自分から遠のいている理由が判ったような気がした。知っているのだ。梶岡の恐るべき情報収集力を。
「そうか。そういうことかい」
伊沢はニヤリとした。
「判った」
「うん判ったよ。ありがとう」
ふざけ半分に言うと、裕子はうれしそうに微笑して自分の席に戻った。
伊沢はその住所録を前に置き、デスクに片肱《かたひじ》ついて考えこんだ。
K銀行といえば市中銀行でも上位の銀行である。その頭取が急に井佐々善道の遺族と接触しはじめている。一流銀行の頭取ともなれば、かんたんなことでそれまで無関係だった者に直接会うようなことは考えられない。それが自分のほうから出向いているのだから、よほど事前の交渉が進んでいて、しかも重要なことであるに違いなかった。
「K銀の資料を」
「はい」
裕子は急いで部屋を出て行った。
その留守の間に梶岡が戻って来た。
「田川君は帰ったか」
「はい」
「気をつけろよ。食えない男だ」
梶岡は冗談のように言って、ソファーにすわった。
裕子がファイルをかかえて戻って来た。
「どうぞ」
伊沢のデスクの上へ置く。
「そう他人行儀でなくてもいい」
梶岡は煙草をつけながら苦笑したようであった。
「何をやっている。調査部のファイルだろう」
「ええ」
伊沢が答えた。裕子はそっと自分のデスクに戻った。
「K銀行のです」
「そうか」
梶岡は含み笑いをした。
「君は好奇心の強い男だ」
「どうせ滝沢さんのことをお調べになるんでしょう」
すると梶岡はソファーに沈みこみ、
「読んだら君の考えを聞かせてくれ」
と言った。
「まず、K銀は戦前からの大銀行です。井佐々善道という人物とつながりがあった可能性大です」
「ほう。君は井佐々善道を知っていたのか」
「いいえ。これから調べます」
「そうだろうな」
梶岡はなぜか少したのしそうに見えた。
「おかしなことだ」
「なんですか」
「井佐々善道が死んだら多磨墓地に葬られたとはな。気がつかなかったよ」
「どうしておかしいんです」
「井佐々は神道家《しんとうか》だ。多磨墓地でもおかしくないと言えば言えるが、彼なられっきとした神社に葬られるのが当然なのさ」
「神道家だったんですか」
「それもパリパリの国粋主義者でな。井佐々神道と言えば、一時はかなり盛んだったそうだ」
「だいたい判る気がします」
「どう判った」
「K銀は重工業界に深く関係しています。その中には有力な防衛産業が何社かありますし」
「早いな。予備知識なしでそれくらい早く呑み込めれば申し分ない」
「井佐々善道という人物の一族か門下生、そういった立場の後継者を探せばいいのではありませんか」
「なぜだ」
「防衛予算が大きく動くとか、国際情勢に緊張のきざしがあるとか」
伊沢はわざと焦点を外《はず》して見せた。
「常識的だな」
「え……」
「いま、井佐々善道の支配力は何ひとつ残っていないよ。神道を基礎にした、ああいう考え方は、戦後の数年間で完全に消滅してしまった。かりに、かつての門下生が生き残っていたとしても、かえって井佐々との関係を忘れたがっているはずだ」
梶岡はせせら笑った。
「で、K銀行のほうはどうします。滝沢頭取のことは」
「初仕事だな。よし、全部君に預けよう。北村君、例の住所録を」
「これですか」
伊沢は黄色い住所録をとりあげて見せた。
「なるほど、君らはいいコンビだ」
梶岡は笑った。
「その第一ページ目に、津川《つがわ》という名があるはずだ。津川高雄《つがわたかお》」
「はい。あります」
「その男と接触して、井佐々と滝沢の関係を徹底的に聞きだせ。それから、ずっとうしろのほうに朽木敏郎《くつぎとしろう》という名が出ている。それは一種の調査機関だ。津川には金を払う必要はないが、朽木は商売でやっている。料金をきめてかかれ。ただし言っておくが、書類の交換や念書《ねんしよ》、メモのたぐいはいっさい不要だ。判るな」
「はい」
「どっちが先でもいい。すぐにかかれ」
「承知しました」
伊沢はそう答えると、目で合図して裕子を呼び寄せた。
「これは厄介な相手か」
ささやくように朽木の名を指さして尋ねた。
「さあ」
裕子は肩をすくめた。くわしいことは知らないらしい。今までは梶岡が一人でやっていたのだろう。
伊沢はダイヤルをまわしはじめた。
「朽木事務所です」
やけに明るい声であった。
「こちら、伊沢と申しますが」
そう言うと、ソファーから梶岡が声をかけた。
「わたしの名を言っていい」
「伊沢様でいらっしゃいますか」
「ええ。超栄商事の専務室の者です」
「は、少々お待ちください」
相手の声は明らかに緊張していた。
「はい、朽木でございます」
「至急お目にかかりたいのですが」
「承知しました。時間をおっしゃってください。いつものところでお待ちいたします」
「そうですか。しばらくお待ちください」
伊沢はあわてて席を離れた。
「いつものところで待つと言っていますが」
「君が会うんだ。場所はあとで教える」
「はい」
伊沢はデスクへとんで戻り、
「ではこれからすぐ参ります」
と言った。相手は意外そうな声になる。
「梶岡さんがいらっしゃるのですか」
「いいえ。わたしがうかがいます」
「失礼ですが、お名前をもう一度」
「伊沢です。伊沢邦明と言います」
「専務室の方で」
「ええ」
「失礼いたしました。それではお待ちしております」
電話は向こうから切られた。
「どうだった」
梶岡がニヤニヤしながら尋ねた。
「何か少しあわてていたようです」
「そうだろう。朽木はまだ君の異動を知らんはずだ。今ごろこっちへ電話を入れているところだ」
「と言うと」
「朽木の情報網はこの社内にもある」
伊沢は相手が自分を確認する作業を進めているところを想像した。あまりたのしいものではなかった。
「いったい誰が……」
「他人を信用するな。たとえわたしでもだ」
梶岡は教師のような目でそう言った。
「では行って来ます。場所を教えてください」
「メモを」
梶岡が言うと、すかさず裕子がボールペンとメモを持ってとんで行く。
「神楽坂《かぐらざか》だ。タクシーか電車を使え」
梶岡はそう言って、行く先の略図を書いて伊沢に渡した。
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23 奥座敷
伊沢は薄暗い六畳の部屋に通された。木口《きぐち》や建具《たてぐ》類はいかにも料亭らしく見事なものだが、なんとしても薄暗かった。
実際には幅の広い檜《ひのき》の廊下の外に中庭があり、そこから白い光が入ってきている。しかし廊下はその部屋のところで突き当たりになっており、床の間を背負った伊沢の正面にある襖《ふすま》の向こうも、ひっそりと静まり返って物音ひとつしない。
昼間の料亭の奥座敷とは、えてしてそういう陰気さがある。いったいこの部屋で、どんな人間が酒を飲むのだろうか。伊沢はそう思いながら部屋の中を眺めまわしていた。
たしかに、長年、人が出入りして、摺《す》り磨かれたような気配があった。柱は渋い飴色《あめいろ》に光り、襖や畳の色も茶色がかっている。どっしりとした黒漆《くろうるし》の座卓も、古びてあちこち瑕《きず》だらけのような感じでいながら、仔細《しさい》に見ると瑕ひとつない。
伊沢は目の前に置かれた九谷焼《くたにやき》らしい灰皿に視線を移して息をはいた。その息の音が、いやに強く聞こえている。
どんどん深みにはまり込んでいく……。伊沢はそう思った。その家の静けさが、彼にふと自分のいる位置を確認させたようであった。
廊下の遠くで人の動く気配がした。伊沢は狭い中庭の石を見ながら近づいて来る人物を待った。
五十近い男であった。濃い茶色の服を着た、地味な感じの男だった。その男は廊下に立って軽く頭をさげると、座敷へ入って障子を引き、ぴったりとしめてから、
「はじめまして」
と言った。
「伊沢です。梶岡の代理で参りました」
男は伊沢の正面に置かれた座蒲団にすわり、
「いや、名刺は結構です」
と言った。
相手が名乗らないので、伊沢は黙って顔をみつめていた。ひどく長い間をとって、その男は、
「朽木《くつぎ》です。お見知り置きを」
と陰気な声で言う。
「意外でした」
「何がです」
「あなたですよ」
朽木は生真面目な表情を崩さない。
「いずれどなたか専務室にお入りになるとは思っていましたが、正直言って予想が外れました」
伊沢は答えず、朽木の言葉を待った。
「本題に入りましょう。滝沢元介の件ですね」
朽木は当然のことのように言った。
「K銀行の」
伊沢が念を押すように言うと、朽木は軽く目をとじた。頷くかわりらしい。
すぐ目をあけて言う。
「この問題には古代の植物が関係しています」
「古代の植物……」
「ええ」
伊沢の頭の中で、烈《はげ》しい渦がまき起こった。容易ならぬ人物であった。
「いきなり飛躍しましたね」
伊沢は自分が表情をかえずにいるのに満足しながら微笑した。しかし、内心ではこういう場合、梶岡ならどういう態度を示すだろうかと、必死に考えていた。梶岡の物真似をするのがいちばん安全なようであった。
「そうでしょうか」
朽木はあいかわらず生真面目な顔で言う。
「梶岡さんはその植物のことをすでによくご存じです」
「ほう……」
「まだ聞かされていないのですか」
「ええ。何しろまだいくらも日がたっていませんしね」
「わたしは梶岡さんの敵でもなければ味方でもない。したがって駆けひきはしません。率直に言って、あなたの言うことはおかしいですな」
「どうしてです」
「あなたが梶岡さんに引っぱられたのは、あの事件の直後です」
「あの事件と言いますと」
「北村裕子さんが書類を引ったくられた事件ですよ。そのときあなたは現場にいたでしょう」
「ええ、いました」
「あのとき奪われた書類は、その古代の植物に関するものです」
「聞いていません」
たしかに朽木という男は率直であった。
「シダの一種です」
「その植物がですか」
「ええ。わたしはそれであなたが専務室入りをしたとばかり思っていました」
探りをいれているという感じはまったくなかった。
この男にとって、この程度の話は秘密でもなんでもないのではなかろうか……。伊沢はそう思った。
「滝沢氏の件だとなぜ判りました」
伊沢はついそう尋ね、すぐ失敗したと思った。案の定、朽木はその質問を無視するように何か考え込んでいたが、急に伊沢の顔を見て笑った。
「なるほど。梶岡さんがあなたを買ったわけですな」
ひどく人の好さそうな笑顔であった。伊沢は一瞬のうちに朽木が別の人間になったような気がして、呆気《あつけ》にとられていた。
「するとあなたは、梶岡さんとは反対側の立場になるわけですか……」
「どうしてそういうことになってしまうのです。わたしは専務の忠実な部下ですよ」
「でも、あなたはシダという組織を知っている……」
朽木はニコニコしながら言った。
「シダ……」
「ええ。島田義男が作った組織です」
初耳であった。伊沢は懸命に表情が変わるのをおさえていた。
「島田義男と言いますと、以前僕の上司だった……」
「島田源吉の孫ですな」
朽木はいともかんたんに言った。
「何がなんだかさっぱり判りませんね」
とうとう押し切られる形になって、伊沢ははっきりと、とぼける態度を示した。
「滝沢の件だということはすぐに判りましたよ。田川信平が梶岡さんを訪ねた直後ですからな」
「そうです。田川先生がその件を知らせてくれたのです」
「伊沢さん」
朽木はちょっとあらたまった様子を示した。
「は……」
「あなたはまだこの社会のことをよくご存じないから仕方ないが、そう隠しても無駄なことですよ。ここは世の中の裏の裏だと思って、覚悟をきめることです。あなたには何の秘密もないのですよ」
「と言いますと……」
「あなたははじめからアガルタ問題に巻き込まれているんです。島田義男が殺《や》られた現場に居合わせてたでしょう。わたしも梶岡さんも、そのことはよく知っているんです」
朽木は子どもをさとすように言ったが、伊沢はいきなり平手うちをくらったような気がしていた。……本当なのか。すべてはじめから判っていたのか。彼は無意識に肩をすくめていた。
「あなたはいま、シダという組織に加わって梶岡さんの手元へ忍び込んでいる気になっている……。そうでしょう」
そのとおりであった。
「だが、あなたがそう思っているだけだ。そのことで梶岡さんをおそれる必要はありませんよ。梶岡さんは、あなたを本当に自分の手駒として使うつもりなのです」
「スパイをですか」
「ばかな……」
朽木は失笑したようであった。はじめて本音らしいものを示した。
「島田義男は梶岡さんの部下ですよ。わたしたちの間では周知の事実です」
「まさか」
「あなたは島田義男の二代目になるわけです。何もわたしはあなたのために秘密を教えているのでもなければ、梶岡さんに悪意があってあの人の秘密をバラしているのでもない。いいですか。あなたはもう今までとはまるで次元の違った世界にいるのです。現に梶岡さんがこうしてあなたをわたしのところへよこしているじゃありませんか。わたしに会ったら、今のようなことを前提として話し合わねば、まったく意味がないのです」
「わけが判らなくなりました」
「いいでしょう。帰ったら多分梶岡さんがくわしく話してくれるはずです」
「そうでしょうか」
「とにかく、滝沢と井佐々善道との関係、それに今後、その件に関する滝沢の動きは完全に調べて報告します」
朽木はそう言うとまたもとの生真面目《きまじめ》な顔に戻った。
「滝沢元介が、今のところあなたと同じ水準にいることをまずおしらせしておきます。梶岡さんにそうおっしゃってください」
「つまり、何も知らないということですか」
「ええ。アガルタの件に関し、どこからか情報が入ったのでしょう。だが、パラダイサー、シダ、井佐々善道、島田源吉、同じく義男。そこらあたりまでです」
「その先にまだ何かあるんですか」
伊沢は目を丸くした。それだけでも、途方もない秘密だと思い込んできたのである。
「ここまでは、裏側にいる者なら誰でも言えます。秘密はここから先ですよ。あなたと同じように、滝沢もそこまではたどりついたわけです。裏側の入口へ足を踏み入れたというわけですな」
伊沢はため息をついた。ひとり相撲をとらされていたようで、ひどくばかばかしい気がした。
「がっかりしましたか」
それを見すかしたように朽木が言った。
「ええ」
伊沢は正直に言った。たしかに朽木は自分で言ったとおり、何のかけひきもしていないようであった。しかしそれは朽木が率直な人間だからではなく、この裏側の世界では、とるに足りないことだからであるらしい。
「しかし、大変なことなのですよ」
「何がです」
「ここまでいらっしゃるのがですよ。パラダイサーの段階で、多分あなたは世の中の奥深くをのぞいたと思ったでしょう」
「ええ」
「それ以来、ずんずん深みへはまり込んでいく気がしていた……」
「ええ」
「たしかにそれも裏側ですがね。しかし、ここまでくる人はそう多くない。ここから先が本当の裏なのです。これがどんなに奥深いところか、それは滝沢元介のことで判るでしょう。大銀行の頭取でさえ、ことと次第によってはうかがい知れないところなのです。それでは余談はこのくらいにして、お支払いのことについて……」
伊沢はからかわれているような気がした。
「いったいどうなっているんですか」
伊沢は梶岡に言った。
「まるで僕は子ども扱いですね」
「仕方なかろう」
梶岡はせせら笑った。
「幼稚園から小学校、小学校から中学……。すべて人間は順を踏んで生きてきている。君が必要だからここへ入れたが、まだ君は使い走り程度にしか使えん。徐々に見聞きして成長してもらわねばならん」
「朽木氏に会えとおっしゃったとき、なぜ予備知識をくださらなかったんです」
「恥をかいたというのかね」
「そうじゃありませんが」
「よく考えてみるんだな。君はわたしに対して、スパイのつもりでいたんじゃないのかね」
伊沢は返事につまった。
「それに、彼女のこともある」
北村裕子がそばにいるのに、梶岡は平気で喋りだした。
「彼女を利用しようとしていた。しかしわたしは、そんなことはいっこうに気にしなかっただけだ。君と北村君は似合いのカップルだ。今までわたしが君に言った言葉には、ひとつの嘘もない。嘘があるのは君のほうだった。しかし、その嘘もわたしは気にしなかった。なぜだか判るかね。嘘が必要だったからだよ。中学で一定以上の成績を取っていないと、希望する高校へ行けぬように、君はパラダイサーだのシダだのの中で、一生懸命自分なりの成績をあげてきた。だからこの部屋へ入れたわけだ。しかし、これからは、わたしに嘘をつく必要はない」
「島田さんは専務の部下だと聞きましたが」
「そうだよ。彼はよくやってくれていた。しかし死んでしまった。惜《お》しい男をなくしたものさ」
「誰に殺《や》られたんです」
「われわれの敵さ」
「島田さんは何をしていたんですか」
「アガルタさ。彼の祖父はそのほうの専門家でね」
「知っています。神奈備《かむなび》神社でしょう」
「ほう」
「自分で調べました」
「意外だな」
梶岡は伊沢をみつめた。
「それは気がつかなかったぞ。いつの間に調べたんだ」
ほめそやすような言い方であった。
「島田源吉と島田義男がつながれば、自然に判ります」
「かくすな。ブレーンがいるな」
梶岡は笑った。
「まあいい。わたしはそうやって自分の手で掴んでいく人間が好きだ。朽木に会うまで君に多くを教えなかったのも、言ってみればわたしの君に対する好奇心かな」
「テストだった、とおっしゃるのですか」
「まあそうだ」
「では、ひとつだけ教えてください。あの倉山ホテルでの銃撃戦のことです。あれは今まで僕が思っていたような単純なことではないのですね」
「倉山ホテル……。ああ、あのとき君も巻き込まれたんだったな」
梶岡は笑った。
「気の毒なことをした。そうか、君は林の顔を見たことのある人間の一人なんだな」
「林……」
伊沢は雪の山小屋で会った、髭《ひげ》の男を思い出した。それにあの大輪の花のような沢田ユリとを……。
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24 逆 転
伊沢は継田《つぎた》に会いたいと思った。しかし、継田が自分に会うことを恐れていることは判っていたし、たしかに二人が会うことで継田の身に何かよくないことが起こる可能性もないとはいえないようであった。
石川京子にも会ってみたかったが、今のところ強《し》いて会わねばならぬ用件もない。会えば梶岡の動きや、銀行の滝沢頭取の件を知らせなければならず、それが伊沢をためらわせている理由である。
京子たちがシダという組織の中で、本気になってアガルタ行きの計画を進めていることははっきりしていた。しかし、伊沢の立場から見ると、どうもその本気になっているところが、もうひとつピンとこないのだ。
たしかに楽園はあってほしいと思う。いや、楽園を夢みない者のほうが不自然であるとすら思う。しかし、どこかに誰も知らない世界があって、そこで自分たちの好きなように最初からやりはじめるというのが、近ごろの伊沢にはどうもひっかかるのである。
それは伊沢が梶岡のそばにいるようになったからかもしれない。いま彼には、どこか世の中の一隅で、未知の洞窟めざして歩きはじめている、ひとにぎりの若者たちの姿が見えているようだ。
しかも、それは日がたつにしたがって、だんだん小さくなっていく。はじめのうち、その洞窟をめざす若者たちの背中が、自分の体と同じ大きさに見えていた。だが、急速にそれは小さく感じられていく。
伊沢はそれを多少淋しがりもしているが、その淋しがり方は、希望を抱いて故郷を離れる者の感情に似ていた。京子たちの姿が小さく感じられることは、伊沢の視点がそれだけ高い位置へ移動したかららしい。高い視点を得ることはけっして悪いことではなく、元の群れから離れる淋しさは、その有益さにくらべたら、ほんのちょっとした感傷にすぎない。……伊沢はそう思いはじめている。
梶岡の部屋にすわっているだけで、京子たちの組織の全貌《ぜんぼう》が、なんとなく理解できるようであった。彼らはひどく慎重に事を運んでいるようだった。
地底への通路を長い期間開放しておくことは、彼らにとって危険なことらしかった。通路の秘密が洩れれば、楽園は楽園でなくなってしまう。そのため、アガルタへの入口については、ごく少数の人間しか知らず、京子たちは必要な資材と人員を、一定の短い時間に一挙に地底へ送り込んで、その入口を永久に秘匿《ひとく》してしまおうとしているらしい。
伊沢の手もとに集まってくる無数の情報の中から、それだけのことが読みとれた。しかし、梶岡がシダをどこまで知っているのかという点になると、皆目《かいもく》見当がつかなかった。
ところが、ある日梶岡はいとも無造作に、シダの件を持ちだしてきた。
「そろそろ石川京子に会ってもいいころだな」
梶岡の言い方があまりなにげなかったので、伊沢はつい、
「はい」
と答えてしまった。
「どうした。妙な顔をしているな」
梶岡はからかい気味であった。伊沢は心の中で舌打ちをひとつしてから肚《はら》をきめた。
「石川京子のことをご存じだったんですか」
「もちろん知っていたさ」
梶岡は微笑していた。
「シダもですね」
「当然さ」
「専務には降参しました」
伊沢は率直に言った。
「したかね」
梶岡はたのしそうな顔で伊沢を見た。
「はい」
「べつに悲観することもないさ」
「そうでしょうか」
「わたしだって、ごく普通の人間だ。平凡なサラリーマンだよ。しかし、君らよりはいくらか多くのことを知っている。ただそれだけのことさ」
「いったい、シダとはどういうものなんです」
すると梶岡は呆《あき》れたように言う。
「なんだ、知らんのか」
「ええ」
「だって君はシダの一員だぞ」
「それはそうですが。……実を言いますと、専務に接触するので、向こうが警戒してあまりよく教えてくれなかったのです」
「なるほど。それでは質問するが、君はシダの一員として、いずれアガルタへ行くつもりだったんだろう」
「さあ……」
伊沢は真剣に考え込んだ。
「行ったでしょうか」
それは梶岡に言うよりは、むしろ自分自身に対する問いかけのようなものであった。
梶岡はじっと伊沢を観察している。
「アガルタというパラダイスがある。……たしかに夢をそそられました。行ってみたいと思いました。しかし、本当に行くとなると勇気が要《い》るでしょう。うぬぼれて言うんじゃありませんが、いざとなればその勇気も僕にはあると思います。だが、どうもすっきりしないんです」
「アガルタが実在するかどうかということかね」
梶岡は助言するように言う。
「いや、違いますね」
伊沢は考えながらゆっくりと答える。
「そうです。パラダイスが実在するかどうかです。そこのところがはっきりしなかったのです」
「でも、君はアガルタへ行くのが最終的な目的ではなく、アガルタへ行って自分の楽園を築くことが目的だったのではないのか」
「ええ。たしかに、観念的にはそうです。しかし、それもまず、アガルタという好奇心をそそるものがあったからです」
伊沢は何かが割り切れたような顔で、早口になった。
「楽園、パラダイス……。それが目的なら何もアガルタなど必要ないのです。たとえば、未知の世界でというなら、ブラジルへ行ってジャングルをきりひらいてもいい。また、今の職場が自分に合っていないという程度なら、さっさとやめて別な仕事をはじめてもいい。人生の冒険をへて何かを掴もうというなら、中古の自転車に乗って無銭旅行に出かけてもかまわない。事実、人間はみなそうやっています。できるだけ平穏な生活の中で自分なりのパラダイスをと夢みるなら、理想の妻と理想の家庭を築けばいい。そうですよ。アガルタの必要はないのです」
梶岡は頷いた。その表情は千軍万馬《せんぐんばんば》のビジネスマンのものではなく、ひどく若々しく、いつもの梶岡の顔にくらべると、幼稚な感じさえした。
「逃避も時には必要だ。物事に正面から立ち向かっていくことはたしかに堂々としているし、いい結果を得るためには一番正しいやり方だ。しかし、ときには失敗も敗北もある。そういうとき、逃避もひとつの方法ではある。いやなことを直視せず、崩れた態勢をたてなおしてから、また正攻法に戻る……。動物にも、そういう緊急避難的な逃避が本能のひとつとして組み込まれているようだ。だから、アガルタに憧れるのも悪くはない。それが夢であり、自分をたのしませてくれる幻影であるうちはだ」
伊沢は珍しく自分が長いあいだ、梶岡を直視していることを感じた。
「だが、本気でアガルタへ行こうとしている連中がいる。そこをパラダイスに見たてて、ひそかにもぐり込んだらドアをしめて誰も来れぬようにしようと考えている。正気じゃないぞ。正常な人間ならそんなことは考えないはずだ。そうだろう。まず第一に、アガルタはけっしてパラダイスではない。ブラジルのジャングルをきりひらくほうがまだましなくらいだと思う。第二に、かりにそこがパラダイスになるものとしても、自分たちが入ったらドアをしめてしまおうという考えがおかしい。わたしならそうは考えない。まず自分たちの手でパラダイスを作るとしても、それができあがったら、できるだけ多くの人間をそこへ招きたいと思うね。それがパラダイスだ。連中のパラダイスに対する考え方は、根本的に間違っている。彼らは逃避どころか、脱落することを望んでいるのだよ。ドロップ・アウトなどといって、自分勝手にそのイメージを美化しているが、つまりは落伍《らくご》することじゃないか。落伍者の楽園なら、アガルタなどへ行かなくても、ここにある。いまわれわれがいるこの社会だ。乞食をやってみたまえ、ルンペンになってみたまえ。こんな住みいい社会はまたとないぞ。レストランというレストランからは、ひと皿ごとに贅沢な食い残しが出されている。住宅街へ行って少し粘れば、穴もあいていない衣類がもらえるはずだ。雨露をしのぐ長い地下道はあるし、病気になれば救急車が来て拾ってくれるだろう。落伍者の天国じゃないか」
「そうですね」
「ということは、ルンペンにもなる気のない連中が、もっともらしい理屈をこねながら、身勝手を言っているということでしかない。そんな連中にパラダイスが作れると思うか。例のパラダイサーのほうがずっとましだよ」
梶岡はせせら笑った。
「しかし」
梶岡が珍しくまくしたてているうちに、伊沢は冷静になっていた。
「現実にシダという組織があって、それがアガルタ閉鎖へ向かって動いています。その点はどうなさるおつもりですか」
「どうするもこうするもない」
梶岡は厳しい表情になった。
「問題にならんよ。島田がくだらん考えを起こしたのであんなものができあがったのだが、いったいあの連中がアガルタへ行って何になるというんだ」
伊沢は思わぬキッカケで、謎の糸がほぐれ出したのを感じていた。
「まあ、せいぜいよくいっても、ロマンチストの一群というところかな。たしかに地底でも植物は育っている。しかしそれはああいう環境に適応できた特別な種類の植物であって、人間が行って同じように生存できるとは限らない。おそらく、太陽がないのだから長期間の生活は無理だろう。かりに何世代か生きのびられたとしても、急激な変化を示して人間ばなれしてしまうに違いない」
「そういうことまで、もう判っているんですか」
「ああ、そうだ。どんどん研究を進めている。その研究結果の一部は、シダの手にも渡っているはずなんだ」
伊沢は裕子が二人の男に襲われた日のことを思い出していた。
「あのとき奪われた書類は、よく読めばそのことが判るようになっていたはずだ」
「人間の生存には不適当だと……」
「そうだ。わたしはそれで連中があきらめるかと思った」
「すると、あれは専務がわざと奪われるようになさったのですか」
梶岡は頷いた。
「連中はいったい何を考えているんだろう。なんでもかんでもあの穴へもぐり込みたがっているようだ。思いどおりになれば死ぬのだぞ。もし生きのびても、子孫が人類から遠ざかってしまうことははっきりしているのに」
「やはりそうですか」
伊沢は気落ちをしたように言った。
「住めないと判ってがっかりしたかね」
「いいえ、違います。シダのことです。やはり彼らは間違っているのですね」
「当たりまえだ」
今さら何を言うかという顔で梶岡は笑った。
「パラダイサーも同じでした」
「ほう……」
「たしかにサラリーマンというのは、ときどきやり切れないものを感じてしまいます。ですから、ああいう組織があるのを知ると、ひどく痛快な気持ちになります。僕もそうでした。それで、充分にたのしませてもらいもしました。しかし、どこかおかしいという気がしてならなかったのです。本気になれないんですね」
「それでシダのほうへ移ったわけか」
「成りゆきでそういうことになりました。でも、今よく考えてみると、それは専務という存在に対する意欲のほうが強かったようですね」
「わたしに……」
梶岡は微笑した。
「うん、多分そうだろう。君は健康な人間だよ。健康な人間ならそう反応するはずだ。アガルタの秘密のためにわたしに近づこうというのではなく、アガルタを道具にしてわたしに近づこうとする……。断わっておくが、わたしは思いあがって言っているのではない。君の立場なら、自分の会社の専務に対して、何か特別な感情を抱くのがふつうだ。それがわたしを敵とするか味方とするかは別にして……」
「敵として感じました」
「そうだろうな。わたしに味方を感じるようなら、わたしも君をこの部屋へは呼ばなかったはずだ。いわゆるサラリーマンの出世欲など、陰湿でたまらんからな」
梶岡は伊沢をみつめた。そのとき伊沢ははじめて梶岡という人物に対して、仲間の感情を持てたようであった。
何かが逆転してしまったようであったが、その逆転は伊沢にとって納得のいく、こころよいものであった。
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25 尾行者
その日伊沢は帰りの地下鉄の中で角田《つのだ》に会った。秘密組織シダのメンバーで、いつも石川京子と行動を共にしている男の一人である。
迂闊《うかつ》なことに、伊沢は声をかけられるまで角田がいるのに気がつかなかった。角田はとなりの吊革にぶらさがっていたのだ。
「案外早いご帰館ですね」
赤坂見附《あかさかみつけ》で車内の人波が大きく揺れたとき、角田はさりげなくそう言った。あたりの乗客には、一緒に退社した同僚というようにしか見えなかっただろう。
伊沢はそれが角田だと判ったとき、一瞬ドキリとした。そしてすぐ、自分がなぜそのような反応をしたのかふしぎに思った。敬遠すべき相手ではないし、近日中に自分のほうから接触していかねばならぬ立場であった。
「やあ」
伊沢はできるだけさりげなく答えた。もうシダとつながりのあることは誰に知られてもかまわないようなものであったが、角田や石川京子たちには、まだ世間の目をはばかっているように見せる必要があった。
「随分長いあいだ放っておくものだ……」
吊革につかまって走りだした電車の揺れに身をまかせながら、伊沢はつぶやくように言う。
「そうでもないですよ」
「こっちの身にもなってくれ」
伊沢はぼやき気味に苦笑して見せた。
そう反応すべきだった。伊沢はシダにとって最大の敵である梶岡俊一郎のふところへとび込まされ、かなりのあいだ味方からの連絡を絶たれているわけである。相当気の強い男でも、そろそろ心細くなっていなければおかしい。
「いったいどうなっているんだ」
重ねてそれを強調すると、角田は詫《わ》びるように言った。
「あなただからですよ」
「俺など放っておけというわけか」
今度は角田が苦笑した。
「とにかく今夜は付き合ってください」
「いいとも。どこへでも行くよ」
一杯やる相談のようであった。
「新宿三丁目で降りましょう」
角田はそう言ったきり黙り込んだ。連絡員として来たので、多くを語りたくない様子であった。
「彼女に会えるのかい」
降りる駅に近づいたとき、伊沢はそうささやいた。二人は人をかきわけてドアのほうへ近づいた。
「ええ」
角田はかすかに頷いてプラットホームに出ると、人波にさからって四谷《よつや》寄りの階段のほうへ歩いて行った。
伊沢は角田から十歩ほどおくれてついて行く。あくまでも警戒しているそぶりを見せなければならなかった。
改札口を通るとき、伊沢は定期券を出した。近ごろ伊沢は定期券に対して、多少|嫌悪《けんお》を感じるようになっている。それは明らかに専務室付きになったせいであった。定期券は下層市民の証明書のようなもので、できれば早くそんなものと縁を切りたい気分なのだ。部長級の男が、何かの拍子にふとポケットから定期券をのぞかせることがあると、ハッとして目をそむけてしまうのである。
さきに出た角田は、当然切符のはずだった。伊沢はなんとなく恥じるような気分で、定期券をポケットへしまった。
角田は地下道の突き当たりを左へ曲がった。西口から続く長い地下道がおわる場所であった。すぐその左へ曲がる道もおわり、二人がやっとすれ違えるほどの狭い階段になる。
あいだに七、八人いたので、伊沢が遅れて地上へ出ると、角田は出口のそばの新聞スタンドを物色《ぶつしよく》するような恰好《かつこう》で待っていた。
夜の新宿は久しぶりのような気がした。課長時分には三日に一度は歩いた町なのだ。
新宿二丁目の薄暗い通りを角田が歩いており、相変わらず伊沢は少し遅れてついて行った。人通りも少なく、店も小さな店ばかりである。
伊沢は振り返りたいのを我慢していた。角田と接触したことを人に知られぬよう警戒するそぶりを見せているうちに、伊沢は本物の尾行者がいることに気づいていた。
朽木《くつぎ》機関、という直感があった。さもなければ角田の味方であろう。
角田は細い横丁へ曲がった。その横丁には左側にさらに細い路地があって、角田はその路地へ入って立ちどまっていた。
伊沢が行くと、角田は小さなバーのドアをあけた。全体はモルタル二階だての家で、その一階が棟割《むねわ》り式に小さな呑み屋にされている。
広さは二坪もあろうか。L字型のニスを塗った安物のカウンターがあり、客はそのカウンターに向かって壁を背にすわることになる。
十人も入れまい。カウンターの中には小肥りで愛敬のある顔をした女がすわっていて、酒棚には客の名を書いた瓶ばかりが並んでいる。
石川京子と村井がいた。そういう小さなバーで議論しながら水割りを飲んでいるのが、彼女にはいちばんぴったりした生活のような気がした。
「やあ」
そう言ったとたん、カウンターの中で電話のベルが鳴った。中の女が受話器をとりあげ、すぐに京子のほうへ差しだした。
「あんたよ」
京子はそれを受取って前かがみに耳にあて、きつい顔で角田を睨んだ。顎をしゃくって外を示す。
「わかったわ」
そう言ってすぐ受話器を女に返した。角田はすわったばかりのスツールを立つと、ドアの中央についた小さな覗き窓を右手でかこうようにして外を見た。
ふりむいて首を横に振る。
「悪いけど……」
京子と村井も立ちあがり、別のドアを指さした。
「またなの」
女は屈託のない態度で言い、手早く京子たちが使っていたグラスや灰皿をしまいはじめた。
京子はそのドアをあけた。床から一段あがる形になっていて、白い便器が見えた。
「どうしたんだい」
伊沢がすわったまま言うと、角田は憤《おこ》ったように肩を押し、
「跟《つ》けられた」
と言った。京子の姿はすでに消え、村井もそのトイレの中へ体を入れていた。
「便所から逃げだすのか」
伊沢はぼやきながら、角田に押されてそのあとへ続いた。
便所の中にはもうひとつ、低い潜《くぐ》り戸がついていて、それを出ると裏のせまい路へ出た。路というよりは、家と家の隙間という感じであった。そしてさらにそれは、体を横にしなければ歩けぬような隙間へ続いており、便所から脱け出した四人は、足早にその隙間を通ってバーから遠のいた。
伊沢は京子たちの真剣さをおかしく思った。多分あれは朽木《くつぎ》機関の者で、そう心配することはないのだと教えてやりたかった。それは結局できないことであったが、子どもの遊びに加わっているようで、京子たちの緊張に反比例して、自分がリラックスしていくのが判った。
その家と家の隙間は表通りへ通じていて、目の前を空車のタクシーが四谷のほうへつながるようにして走っていた。
村井がその二軒ほど先にある、シャッターのおりた店の前にいた。
「早く」
京子が鋭い声で言った。その店のシャッターがガタガタと大きな音をたてていて、村井が腰をかがめて中へもぐり込んだ。三人が急いでそのあとに続く。
伊沢は暗い店の中で、単車のハンドルに触れながら、シャッターをしめる音を聞いていた。
「灯《あか》りはつけないで」
京子が誰かに命じた。店の奥にうすぼんやりとした光があり、伊沢は単車やショー・ケースをよけてそのほうへ行った。
「靴はいいです。僕が持って行きますから」
若い声であった。内側からシャッターをあけてくれたのはその男らしかった。
旗やカップ類が置いてある、なかば倉庫のようなオフィスの隅に、板敷きの部分があって、そこに木の階段がついていた。
「すまいは別なんだな」
伊沢は階段を登りながらつぶやいた。
「ええ、そうなんです」
下のほうで若い声が言った。
二階へあがると、いきなり白いカバーをかけたソファーが目に入った。商談用の応接間なのだろう。近ごろはこうした店舗が多くなっている。以前は経営者の家族が住んでいたのだろうが、どこかに家をたてて都心を去ったのだ。したがって夜は住込みの店員が留守番をすることになる。
「そこらに適当にすわって」
京子は硬い表情で言った。四人がなんとなく畳の上へすわった。
「どっちが跟《つ》けられていたの」
京子が激しい口調で言う。
「すまない」
角田が頭をさげた。
「全然気がつかなかったんだ」
「いつもあれほど言ってるのに」
京子は緊張で蒼《あお》い顔になっていた。
「角田君とは限らんよ」
伊沢はとりなすように言った。
「気がついていたの」
「冗談言うな。角田君が近くへ寄って来たことさえ気づかなかったくらいだ」
それがなんとなく伊沢のアリバイのようになった。
「どのあたりから跟《つ》けられていたのかな」
角田は首を傾《かし》げる。
ひとしきり尾行者の詮索《せんさく》があって、結局正体は判らぬまま伊沢の件に移った。
「梶岡俊一郎の動きはどうです」
村井は穏やかな男らしかった。伊沢はこの際できるだけ情報を与えるべきだと判断した。
「梶岡は君らのことを知っているよ」
村井と角田が驚いた様子を示したが、京子だけは平然としていた。どうやら京子は二人の男より地位が上らしかった。
「それで……」
京子は先をうながした。
「かなりのところまで知っているようだ」
京子の反応が鈍いので、伊沢はついよぶんにひと足踏み込んだ。
「どのあたりまで」
京子の表情は読みにくかった。
「俺にも判らん。だいいち俺自身まだシダのことがよく判っていないんだからな。しかし、とにかく彼はアガルタには人間が住めないと断言しているよ」
「知ってるわ」
どうも京子は表情をおしかくしているようであった。
「住めないと知ったとき、俺はショックだった」
伊沢は村井と角田に言った。
「住めないところへ苦労して行ってどうなるんだと思ってね」
伊沢は喋りながら自分の心理に気がついていた。やはり石川京子たちに対する共感があるのだ。どこか未知の世界へ行って自分たちの楽園を建設する……。それはすばらしいことに違いない。
しかし、夢だ。夢なのだ。
もしそういう秘境があったとしても、少数の人間が独占すべきではない。地球上の土地は、かりにそれが地底であろうと、人類全体のためのものなのである。
まして地底では生きられまい。当然のことだ。太陽も月もない世界で生きのびたとしても、生物学的な機能が発動されて、地上の人類とは異なる生物にならなければなるまい。
楽園に対する共感があるだけに、地底行きを思い切らせたかった。地上にいるあいだから、それは危険をともなっている。京子も村井も角田も、よく付き合えば好ましい若者たちなのだ。
だから伊沢は遠まわしに彼らの夢をこわそうとしている。
「太陽がないんだぜ」
村井と角田は京子の言葉を待つようであった。
「梶岡たちは当然そう思うはずよ」
京子は村井が畳の上へ置いたハイライトの袋をとりあげて言った。そのとき二十二、三の男が、下から灰皿を持ってあがって来た。
「僕は吸わないものですから」
男は灰皿を畳の上に置いた。
「ごめんなさいね。すぐ引きあげるから」
「いいんです。もう誰も来ませんし」
男はそう言って下へおりて行く。
「シダのメンバーか」
村井が頷いた。
「とにかく……」
京子はハイライトに火をつけて言った。
「アガルタは棲息可能よ」
「何も梶岡に感化されたわけじゃないが、太陽がないということは問題だよ」
「もう仲間が住んでいるわ」
「そうかもしれん。でも、長期にわたる場合、やはり問題があるだろう」
「そういう問題を検討する時期はもうとっくにおわったのよ。今は行くことだけ……」
京子はいらだっているようだった。
「まあそれならそれでいい。しかしあとひとつだけ聞いておきたい。君らは住めることを確信しているのかね」
伊沢は村井と角田に訊《き》いた。
「ああ」
角田が顎をしゃくって答えた。当然だというような態度であった。
「よし判った」
伊沢はそれ以上深入りするのをやめた。
「ところで、用件はなんだい」
あらためて京子に尋ねる。
「情報よ。もっと梶岡のことを教えて」
「梶岡はあらゆる方面に情報網を持っている。驚異的なもんさ。ひょっとすると、シダの内部にもいるのかもしれない」
「そういう兆候があるの」
「いや。シダのことがよく判らないのだから、察しようがないさ」
「アガルタの位置などについて何か言った……」
「九州西部から南シナ海にかけて」
「そう言ったの」
「ああ、たしかにそう聞いたよ」
「入口のことは」
「島田義男……。あの人がその入口の秘密にかかわっていたらしいね」
「ええ」
「井佐々善道という名も聞いた」
「そうでしょうね」
どこまでいっても、京子が知らない話にはぶつからないようであった。
「アガルタに関して、K銀行の滝沢頭取が何か動いたらしい」
業《ごう》をにやした感じで伊沢が言うと、京子ははじめて反応を示した。
「滝沢……」
怯《おび》えたような顔色であった。
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26 盲《めくら》の鷹《たか》
「滝沢元介《たきざわげんすけ》は国粋主義者なの」
京子が説明した。
「右翼か」
「右翼だっていろいろあるけれど、滝沢元介はいわばタカ派よ。梶岡俊一郎のほうがまだましだわ」
「タカ派の滝沢がアガルタ問題に介入するのは、君らには都合が悪いんだな」
京子は角田たちを眺め、うわの空のように言った。
「早く連絡しなくては……」
「教えてくれ」
伊沢は強い声で言った。
「滝沢の介入がどうして困るんだ」
京子は伊沢のほうへ体の向きをかえた。
「梶岡と私たちは、たしかに今まで競争していたわ。アガルタの入口を探す競争よ」
「島田義男は知っていたのだろう」
「ええ。島田さんははじめ、梶岡の命令でアガルタ探索に動いたの。命令というより、すすめられたようなものね。だって、島田さんの家はアガルタに関係した家柄ですものね。それが、アガルタなどまるでおとぎばなしのように思い込んで……誰だってそうでしょうけど、島田さんもあなたやほかの人たちと同じように、一人の現代人として大学から超栄商事へ入社したわけよ。ところが、そこには梶岡俊一郎という人物がいて……私たちに言わせれば情報狂みたいなところがある人間だから、島田さんの家のことに関心を持ったわけね。それで、自分でいろいろ調べているうちに、井佐々善道のことから島田源吉という人が本当にアガルタへ行っていたことを突きとめ、島田さんにアガルタの出入口を探しだすようすすめたの。でも、それは発見できる可能性が高いだけに、なるべく内緒にしておかねばならなかったわけなの。パッとアガルタのことがひろまったら、梶岡のメリットは何もなくなってしまうでしょう」
「それで島田氏は蒸発してしまったのか」
「いいえ。ああいうかたちになったのは、偶然というか成りゆきというか……とにかく島田さんは出入口をみつけてアガルタへ入ったのだけれど、行ってみて考えを変えたのよ。パラダイス……島田さんはアガルタにそれを感じたのね。島田さんは実際にそこで何年も暮らしたの。失踪ということになったのは、だからやむを得ないことだったのね」
「待ってくれ。島田氏は本当にアガルタで何年も暮らしてきたのか」
「そうよ。あなた、島田さんを見たでしょう。陽焼けしていたはずよ」
「ああ、こんがりと焼けてたくましい感じだった。暗くてもよく判ったよ」
「そうでしょう。あなたは太陽がないから駄目だなんて言うけど、ちゃんと太陽の役目を果たすものがあるのよ」
「放射性物質だな。岩石に含まれている……」
「そうよ。だから植物もちゃんと生育するし、人間も快適に生活できるわけよ。アガルタには夜がないのよ」
「夜が」
「ええそう。いつも白い光に満たされているの」
「島田氏はなにしに出て来たんだ」
「仲間を呼ぶためよ」
「でも、梶岡にも連絡をとったのだろう」
「ええ。梶岡もアガルタをパラダイスにしておく案に賛成すると思ったらしいのね。でも、すぐ梶岡の真意が判ったの。梶岡はアガルタを最終的に世界中に公開するつもりだったのよ。ただ、そうするまでに自分で完全にアガルタを把握して、そこから生じる権益を、自分のものにするつもりだったのよ。梶岡は大変な野心家よ。知っているでしょう」
伊沢は頷いた。だが、実のところ梶岡の野望がどの程度のものなのか、いまだに見当がつけられないでいた。
「アガルタは、この日本という国家に、未知の新しい領土をもたらす」
角田が言った。
「しかもその新しい領土は、今まで日本が悩みつづけてきた資源問題を、かなりの程度まで解決してしまうだろう。地下資源とひと口にいうが、アガルタは地下そのものなのだ。専門家を送り込めば、多分とほうもない宝の山だということが判るはずだ」
「そうだろうな」
伊沢はため息をついた。たしかにアガルタはさまざまの有益な鉱物で満たされているはずである。
「そのうえ、パナマやスエズと同じように、国際的な通路としての価値を持っている。未調査の部分が多すぎてなんとも言えないが、大陸につながっていることは確実だそうだ」
それも巨大な権益を生む。アガルタの広がり方によっては、どの国へでも直通の鉄道網ができる。しかも地下の鉄道網である。公害問題抜きで、超高速鉄道ができるのだ。
「それを梶岡は一手に握ろうというのか」
「一人では不可能よ。国家的規模の問題になるし、地底の領有権に関して外交的にも面倒なことになるでしょうね」
京子が角田にかわって言った。
伊沢は梶岡の野心の上限を感じた。
「アガルタに関するすべての問題に関与することは、この国の最高権力者に等しくなるというわけか。一超栄商事の問題ではないのだな」
「そうよ。だから彼はアガルタに夢中なの。ある意味で言えば、彼は愛国者よ。誰もがおとぎばなしだとしてかえりみなかったことに手をつけ、それをこの国の発展のために、最高の効率で使えるようにしたいと思っているのね。でも、それは結局彼が権力を手に入れる手段なの」
「どっちにしろ、むつかしい綱渡りだな」
伊沢は梶岡の立場になって考えていた。
まずアガルタを独占しておかねばならなかった。秘密が洩れれば独占体制は作れない。そして、ひそかに綿密な調査を終えたうえで、おもむろにそれを上層部に報告する。一般に公表されるまでに、おそらくかなりの時間が費やされるだろう。その間には、権力者同士の抗争も起きるであろう。アガルタが生みだすものは巨大であり、必然的にそれを奪い合う争いがはじまるのだ。
梶岡はそれに勝ち抜かねばならない。なんというけわしい道だろう。だが彼はそれに向かって歩きはじめているのだ。
「島田氏のことをもっと知りたい」
伊沢は京子に尋ねた。
「島田さんは、結局全部は梶岡に知らせないで死んだの。シダというアガルタ行きの組織を作ったのは島田さんよ」
「知っている。梶岡に聞いた。それで、こっちは判っているのか」
「何が」
「アガルタの入口だよ」
「ええ」
京子は警戒心を見せずに答えた。
「島田さんは梶岡に教える気をなくしたの。そして、アガルタへ行ってパラダイスを作る仲間を集めはじめたわけ。島田さんはあなたも誘おうとして死んだのよ」
「殺したのはやはり梶岡か」
伊沢はがっかりしたように言った。
「いいえ」
京子は伊沢の顔をみつめた。
「梶岡じゃないわ」
「誰だい」
伊沢は緊張した。
「滝沢たちよ」
「滝沢だって……。しかし、滝沢がアガルタを知ったのはごく最近らしいのに」
「いいえ」
京子は首を横に振る。
「その辺のことは梶岡も知らないはずよ。でも、シダの人間はみんな知ってる……」
「なぜ滝沢が」
「タカよ。それも盲のタカね」
京子はあざけるように言った。
「そう。あいつらは盲のタカさ」
角田が乾いた声で笑う。
「アガルタを消滅させたいのさ」
「なぜ」
「きまってるだろう。日本の神々は天から降《くだ》った……」
「まさか。おい、滝沢は本気でそう考えているのか」
「そうさ。今の考古学ブームも気に入らないんだ。北方騎馬民族説だの、朝鮮半島との関係だの、そういうことは研究さえ封じてしまいたいんだ」
「今どきそんなことを本気で……」
「甘いよ、甘いんだよ。またはじまっているのさ。天孫降臨《てんそんこうりん》だの万世一系《ばんせいいつけい》だの八紘一宇《はつこういちう》だのということが、またぶり返すのさ。滝沢はそういう勢力の表面に出た一人にすぎない」
「待ってくれ」
伊沢はあわてて角田のお喋りをさえぎった。
「そういう連中ならなおのこと、アガルタは欲しいんじゃないかい」
「欲しいさ。しかし、連中には先にまずやりたいことがある。判るだろう……」
「そうか」
伊沢は頷いた。
「梶岡式のやりかただと、日本はますます富むが、その分だけ自由への欲求も強くなる」
「さすがだね」
角田はほめそやすように伊沢を見た。
「そのとおりさ。それに、滝沢たちの頭は梶岡にくらべると硬い。はじめはアガルタのことも信じていなかった。その点では地位に執着する学者たちに似ている。アガルタなど、実在するわけはないし、学問的にいっても実在してはいけない……そういうわけさ。でも今は信じたらしい。島田さんを殺《や》ったのは、奴らが信じた証拠なんだ」
京子が口をはさむ。
「違うわ。あの時点ではまだ半信半疑でいたのよ。彼らはああいう考え方をしているから、アガルタ問題を積極的に調査したり研究したりできないでいたわけよ。そんなことをすれば、仲間から非難されてしまうんですものね」
「馬鹿なはなしだ」
伊沢は吐きすてるように言った。この件はぜひ梶岡に告げねばならないと思った。
「滝沢はやっとアガルタの存在を認めたのよ」
「それではなぜ、アガルタを信じていない時点で島田氏を殺したんだい」
「よこしまなことを言う人間はそうされるの。彼らは島田さんがアガルタなどということを、梶岡にまで信じさせてしまったと思い、世の中に害毒を流す悪人だと考えたのよ」
「とんでもないことじゃないか。信じているから殺したのなら筋《すじ》は通るが……」
「これからは、その筋が通った殺人になるわね。狙《ねら》われるのは私たち全部……」
「アガルタ以外にも似たことはあるぜ。たとえば、北のほうから馬に乗ってやって来た人々が日本を征服し、支配者になったという考え方なども、大っぴらには言えないことになる」
「だから甘いというのさ」
角田は失笑した。
「世の中が確実にその方向へ行くとは定《き》まっていない。今話しているのは滝沢たちのグループの考え方さ」
「そうだろうな」
伊沢はほっとしたように言った。
「卑弥呼《ひみこ》が天《あま》 照《てらす》 大《おおみ》 神《かみ》だ、などということを言っただけでバッサリ殺《や》られる世の中がきてはたまらないよ」
「でも、天皇家の系譜は朝鮮半島につながっているとか、聖徳太子《しようとくたいし》は……とかいう議論が大っぴらに行なわれているのを、歯がみして見ている人々もいるんだ。そういう方向へ行くとは限らないと言ったが、行かないとも断言できない。とにかく、そういう連中がアガルタを扱えば、まず神話の問題から都合《つごう》のいいように練り直してかからねばならない。そのうえで公表するわけさ。そのときアガルタは多分、侵略路として使われてしまうはずさ」
角田はそう言いきった。
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27 疑 惑
伊沢は不愉快な感情を抑えながら、石川京子たちに梶岡の動きを教えた。しかし、その情報はほとんど価値のないものばかりで、京子たちは明らかに失望したようであった。
伊沢は自分が京子たちに与えた失望をはっきりと意識していた。しかし、それにもかかわらず、だらだらと価値のない情報を伝えつづけた。そして、そうすることによって、京子たちに対してだけでなく、自分自身に対しても怒りを湧きあがらせていたようであった。
尾行者があきらめてその界隈《かいわい》を立ち去ったという電話が、どこからかその店へかかってきたらしい。シダの組織があの小さなバーの周囲に警戒網をしいていたのだろう。
伊沢は心の底に怒りが冷たいしこりを作っていくのを感じながら、京子たちと別れたが、別れたあともそのまま家へ戻る気になれず、ふらふらと焼鳥屋へ紛《まぎ》れこんで安酒をたてつづけに呷《あお》った。
いったいどこへ身を置けばいいのだ。
伊沢は絶望に近い感情を味わっている……。そこに楽園があるのだ。楽園がアガルタだろうと南海の孤島だろうと、それはこの際どうでもいい。誰もが楽園の夢を醜《みにく》く変形させてしまっていることが問題であった。
梶岡はその楽園を商業的な見方で眺めている。開発し、富をもたらし、その富によって生じる権力の上に、自分の楽園を築こうとしている。
滝沢元介たちは、はじめアガルタなどあるはずはないと思っていた。それがあるべきではないという考え方に変わり、やがてあっても知らせるべきではないという結論に達した。しかもその結論の根底には、神話を保護するという目的があるのだ。
石川京子たちは、梶岡や滝沢の考え方を知っていた。彼女らがそのどちらにも同調しえないのは当然であった。だが、アガルタを人々の目からかくし、私物化しようとしている点では、梶岡や滝沢とまったく同じであった。
目的はどうであれ、梶岡や滝沢がいずれアガルタを何らかの形で世の中に持ち出そうとしている点をとりあげれば、京子たちの考え方ははるかに独善的であった。
彼女たちはアガルタに熱中している。楽園に対して狂信的にさえなっている。楽園に対するロマンチックな情熱は判るが、彼女たちは忍び逢う恋人たちのように排他的であった。現世に対する失望が楽園を求めさせるのであろうから、排他的になるのはむしろ当然かもしれない。彼女たちは、競争相手である梶岡や滝沢を叩きつぶせても、すぐにそのかわりが出てきてしまうことを挙げて、アガルタを閉鎖する理由にしている。たしかに、今アガルタの存在を公表したら、欲に駆《か》られた連中がどっと押し寄せ、醜い紛争の場にしてしまうことは想像に難《かた》くない。
しかし、永遠に閉鎖してしまうというのはどういうことなのだ。彼女たちにそれを独占する権利があるのだろうか。欲の皮の突っ張った連中が、せっかくの楽園を滅茶滅茶《めちやめちや》にしてしまう。だから秘密にして他の人間を寄せつけない。……結局梶岡や滝沢たちと同じことなのだ。
しかも、京子たちはアガルタにおける未来像については、自分たちの楽園を建設するという以外に、明確なものを提示し得ないではないか。住めないというデータには目をつぶり、一方的に楽園の夢を描いているだけだ。
楽園はあり得ない……。
伊沢はその夜安酒を呷《あお》りながら何度もそうつぶやいていた。
「二日酔《ふつかよい》か」
翌朝、梶岡は伊沢をひと目見るなり、軽蔑しきった態度でそう言った。
伊沢はひどい気分であった。何もかも、もうどうでもいいように思い、何か極端な言動で自分を破滅の淵《ふち》へ追いやりたい衝動に駆られていた。
「ひどいもんですよ」
ふてくされたように答える伊沢を、裕子《ゆうこ》が心配そうに見つめていた。
「何で来た。電車か」
「いいえ、タクシーです」
「そうだろうな。酒の匂いがする」
梶岡は少し表情をゆるめた。
「北村君、どうにかしてやりなさい。専務室にふさわしい匂いじゃないからな」
裕子は急いで部屋を出ていった。何か飲物でも持ってくる気なのだろう。
「きのう盗聴のチェックがあったばかりです。安心して喋れます」
伊沢は梶岡の横のソファーに腰をおろしながら言った。
「ほう。よほどの情報を掴《つか》んだな」
「そのための二日酔ですよ」
伊沢は無意識にそう言ってしまってから、自分がまだ保身のために神経を使っていることに気づいた。サラリーマンの悲しい習性だと思った。
「誰と飲んだのだね」
梶岡は物わかりのいい顔になっていた。それが実力のある兄貴といった感じで、その朝の伊沢に自己嫌悪のようなものを湧きあがらせる。
「シダの連中です」
「ほう」
「帰りの電車の中で連絡員に声をかけられました。退社を待っていたようです」
梶岡は真顔で頷く。
「新宿へ連れていかれました。しかし、どうやら尾行者があったようです」
「尾行……朽木《くつぎ》機関か」
「僕もそう直感しました」
「どうして尾行に気づいたのだ」
「僕は途中から気づきました。しかし連絡員は気づかずに、メンバーが待っている小さな店へ連れていきました。朽木機関なら尾行させてもいいと思って、僕はそのままにしておいたのです。しかし、その店の周辺にシダが警戒網をしいていたようで、すぐ外部から警告が入り、シダの連中は別の出口から逃走しました」
「大げさだな」
梶岡は苦笑した。
「大げさなことではないようでした」
「朽木機関ではないのか」
梶岡はギョロリと目を剥《む》く。
「彼らは相手を知っていたようです」
「誰なのだ」
「滝沢元介氏の関係だろうと……」
「滝沢……」
「シダは滝沢元介氏のグループを非常に恐れています。島田義男を殺したのはそのグループだと言っています」
「やはりそうか」
梶岡は軽く目を閉じた。
「間違いはないはずだ。島田を殺したのは滝沢たちだろう」
何か別に思い当たる理由があるようであった。
「しかし、島田が殺されたというのは、君が知っているだけなのだ。死体も出ないし、警察も動かない。実をいうと、わたしは島田が死んだということを、まだ半信半疑でいたのだよ」
「疑っていた……」
伊沢はドキリとして問い直した。
「島田が自分を死んだことにしておきたかったのではないかとね」
「なぜです」
「アガルタの出入口を知っている唯一の男だった。それが途中からわたしにも出入口を教えたがらんようになったのだ。そしてシダなどという勝手な組織を作ってしまった。わたしに知らせないためには、死んでしまうのが一番手っとりばやいからな」
伊沢の頭に、大きな疑惑が湧きあがってきた。
「専務は僕を疑っていたのですね」
「ああ。君ではなく、君をあやつる者、と言ったほうが正確だがね。だってそうだろう、よく考えてみたまえ。島田が死を擬装したとすると、すべての辻褄《つじつま》が合う。かつての部下で、それまでこの問題と無関係でいた君に、死の確認をさせる。偶然の死にしては証人が少しできすぎている。暴走族のオートバイにはねられたと聞いたとたん、わたしはその若者たちをシダと結びつけて考えた。年齢層からいっても、辻褄が合うからな」
「僕はあやつられていた……」
「その疑いもあったというまでだ。弁解するわけではないが、君は島田の死の現場に居合わせ、しかもそれを秘密にしたろう。秘密にするよう仕向けられたと考えても筋が通るわけだよ。それからの君は、パラダイサー、シダと、本当ならかなり厳重なチェックをうけねば入《はい》れない組織へ、いともやすやすと入り込んでしまった。島田の推薦があったというだけでな……」
「すると専務は、島田さんの所在をつきとめるために僕を……」
梶岡はニヤリとした。
「子どもっぽい考えはよしたまえ。かりにそういう要素があったとしても、君は君だ。君はすでにわたしの片腕の役を果たしはじめている。しかも、昨夜の件で島田が生きているという疑いは消えたよ。連中がそこまで手のこんだ芝居をするとは思えん。たしかに滝沢たちは島田を殺したのだろう」
梶岡は笑いはじめた。
「アガルタの実在を主張する不逞《ふてい》のやから……そう思ってあっさり殺してしまった。ばかな連中だ。今になって島田の重要性に気づいただろうが、手遅れさ。見ていろ、今にきっとわたしと手を組みに来る」
「専務と滝沢さんがですか」
「そうだよ。われわれのあいだにはかなりの共通部分がある。橋わたしの役はその部分が買ってでるはずだ」
「防衛庁関係ですか」
梶岡は答えなかった。
「とにかく、こうした問題は徐々《じよじよ》にひろがっていく。一瞬も手は抜けんが、これは播《ま》いた種が芽を出し、葉をつけて生《お》い茂っていくのを見るようなものだ。先が楽しみだ」
「専務は政界に乗りだすおつもりがあるのですか」
「ばかな」
梶岡は笑った。
「わたしがそんな愚かなことをする人間に見えるかね」
伊沢は冷たいものが飲みたくなった。裕子はまだ戻って来なかった。
伊沢にとって、梶岡にずっと疑われていたことも問題だったが、それ以上に梶岡の疑惑の内容が気になってしかたなかった。
たしかに梶岡の疑惑は筋が通っているようであった。伊沢はそもそものはじめから考えなおしてみた。
まず、あの上井草《かみいぐさ》駅の近くへ行った寒い晩のことである。
伊沢の上司である前原の自宅がそのあたりにあることは、少なくとも超栄商事本社の人間なら誰でもすぐに知ることができる。だが、その夜、伊沢が前原を訪問することは、誰も知らないはずであった。……と思うのだが、もうかなり以前のことになるし、それを匂わせるようなことを誰かに言ったかどうか、確信を持って、ない、とは言いきれない。
ただ、いずれにせよ、それは一種の抗議行動であり、他の社員に迂闊《うかつ》に言いふらすたぐいのことではなかった。それに、かりに前原の家を訪ねることを誰かが察したとしても、いつ、何時ごろ行くかはけっして判らないはずであった。
そこで島田と会ったのが偶然だったと信じて疑わなかったのは、そういう自然な経過があったからである。
しかし、島田があそこで伊沢に死を演じて見せたとなると、疑いはまず前原にかけなければならない。なぜなら、その時間に伊沢が訪れたことは、前原を通じなければ知りようがないのだ。いつ来るかもしれない伊沢に、あれだけの単車群を用意して待っていたとは考えにくいのである。
ところが、島田が梶岡の命令で動いていたとすると、前原とは何の苦もなくつながってしまう。伊沢が梶岡の疑惑を自分の疑惑としたのも、その点であった。
島田は特命を帯びた社員として、前原などにもひそかに接触していたのではあるまいか。だとすると、伊沢の訪問を前原が島田に通報することは大いに考えられる。いや、ひょっとすると、伊沢が訪問したとき、島田は前原の家にいたのではないだろうか。かりにそれが偶然だったとしても、島田が咄嗟《とつさ》にその偶然を利用する気になったとすれば、話の筋はすっきりとしてくる。
島田があの暴走族にかこまれてはねられたとき、最後尾の一人がうしろを振り向いてうろたえていたのを思い出した。轢《ひ》き逃げしたと単純に考えていたが、はねられたのが演技であるとすれば、暴走族の全員がそのことに関知しなくてもいいはずである。あのときうしろを振り向いて、いったん戻ろうとした若者は、本当に島田がはねられたのだと思い込んだのだろう。だが、何人かはそれが演技だと知っており、いかにも暴走族らしく、かまうな、かまうな、と言って走り去ってしまったのだ。そういう芝居の舞台としては、あの人通りの少ない運動場の外の道は、絶好の場所であった。
そもそものスタートが、そのように仕組まれていたとすれば、あとのことはすべて筋が通ってみえる。シダの京子たちに連絡をとらされ、あの写真スタジオへ連れ込まれ……。
後頭部に一撃をくらって失神しているあいだに、島田の死体と称する中身がすりかわってしまったのかもしれない。現に伊沢はそのあと、死体らしい包みは見ているが、それが島田だとは確認していない。
二人の男が来て、消音銃のようなもので島田を射ったのも、石川京子がモデルであり、角田や村井たちに、どことなく演技者らしい匂いが漂っていたのを思い合わせると、かんたんに説明がついてしまう。役者が芝居の小道具を使って、伊沢に何かを信じ込ませようとしたのだ。
そのあと、ヘリコプターで雪に埋《うず》もれたホテルへ送り込まれた。それがパラダイサーの支配するホテルだった。要するに伊沢は、島田の死を梶岡に証言するため、シダからパラダイサーへ送り込まれただけなのではないだろうか。
とすると、二人の奇妙な存在が浮かびあがる。一人は前原、一人は田川だ。
前原が島田の死と無関係な顔をしていたのかどうか、伊沢にはまだ判らない。しかし、あの晩島田が自分の家へ来たことを梶岡に知らせていないことはたしかである。なぜなら、島田と伊沢の前原家訪問を結びつければ、梶岡は島田の死が芝居であることに、もっと確信を持っていていいはずだからだ。
田川信平のほうはもう少しはっきりしている。彼は明らかにシダの立場から伊沢をパラダイサーへ送り込んだのであって、梶岡と対立する立場であることはかくしようがない。
その二人の裏に島田がいる……。田川は判るとして、あの小心な前原が、なぜ梶岡に敵対するような立場をとっているのだろうか。
時間がたつにつれ、伊沢は島田がどこかに生きていることを確信するようになった。
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28 愛玩《あいがん》植物
「専務。僕にはどうしても納得《なつとく》がいかないのです」
次の朝、伊沢は梶岡と顔を合わせるなりそう言った。
「納得……何がだね」
「島田義男についてです」
梶岡はニヤリとした。
「今ごろになって、彼の死を疑いだしたな」
「ええ、そうなのです」
「島田は死んだよ」
「その確認をしてみたいのです」
「自分でたしかめたいというのか」
「そうです」
「それもいいだろう。で、どうする気だ」
「今日一日、いや、半日でも結構です。僕に少し歩きまわらせてもらいたいのです。島田義男の死を目撃したのは僕だということになっていますからね。もう一度ゆっくりあの現場を見たいのです。あれ以来、一度も行っていませんからね。それに、前原氏の自宅なども、そのつもりで観察してみようと思います」
とたんに梶岡は厳しい表情になった。
「なぜ前原を疑う」
「きのう言いそびれましたが、僕があの日、上井草《かみいぐさ》の運動場近くを通ったのは、前原氏の家を訪ねたあとでした」
「なんだと……」
梶岡は唇《くちびる》を噛《か》んだ。
「あとか」
「はい。ご存じなかったのですか」
「家へ行ったことは知っている。しかし、前原は島田の死を見たあとだとも前だとも言わなかったぞ。だが、私はなんとなく君が彼に報告したものと思い込んでいた」
「迂闊《うかつ》ですね、それは」
伊沢はそう言って梶岡をみつめた。梶岡の顔が紅潮してきた。
「情報網を過信したか……」
くやしそうであった。
「そう言えば、君の口からその晩のことは何ひとつ聞いていないな」
「申しあげませんでした。しかし専務はほとんどのことを正確にご存じでした。だが考えてみてください。僕が島田義男と偶然会ったとすれば、オートバイに跳ねられた現場より、前原氏の家の中であった可能性のほうが高くありませんか」
梶岡は激しく首を左右に振る。
「前原はそういう奴じゃない。このわたしにたてつくほどの人間ではないんだ。かりにそうだとして、彼にいったいどんな利得がある。何もないぞ。無能ではないが、あれはあれだけの男だ。そうだろう。彼はどんな勢力にも密着していない。社内をほどほどに泳いでいる、ごく平凡な男にすぎん」
「今では僕の目にもそう見えます。しかし、それがたしかなら、よけい、怪しいのではありませんか。何かが前原氏の背後にあって、それが専務の強力な情報網にすらとらえられないとしたら……」
「この日本にそんな強い相手はおらんはずだ。強ければ強いほど地面に深く足跡を残す。その足跡をとらえられないわたしではない」
「では僕は空想家でしょうか。こうして毎日専務の近くにいるのです。専務の目で見てどうです。空想家ですか」
「いや。君は空想家のタイプではない。想像力の点ではわたしのほうがずっと強い。この部屋に空想家がいるとしたら、それはわたしのほうだ。君じゃない」
「空想家でない僕が、専務の見落としたものに気づいたのです。勿論情報がひとつ、専務に届いていませんでした。しかし、今僕ははっきり前原家からの帰りだと申しあげました。その材料を加えて、もう一度考えてみてください。前原氏には何かがあります。同じように、田川信平も専務に何かをかくしているようです」
「田川か」
梶岡は唸《うな》った。
「あの男には手古摺《てこず》っているんだ。どうも正体がよく掴めん。あれはどこかおかしい。狂っているような感じだ。たいていの人間なら、何を考えているのかおおよその見当はつくのだが……」
梶岡は首をかしげる。
「僕は田川信平と前原部長の共通項は、島田義男だと思うのです」
「うん。田川が島田とつながっていることは以前から考えてみていた、よし……」
梶岡は立ちあがった。
「君は僕の車を使え。納得のいくだけ動いてみてくれ。こっちでももう一度徹底的に洗ってみる」
梶岡はデスクの電話をとりあげ、どこかへ連絡をはじめた。一個所だけではなく、次から次へと命令を発している。梶岡の巨大な情報網が、フル回転をはじめたようであった。
伊沢はその運動場のまわりをざっと二周してから、車を前原の家へ向かわせた。
運動場をめぐる道は、いかにも暴走族好みの感じで、オートバイが集合するのに都合のいい場所もいくつかあるようであった。
前原の家は小ぢんまりとしていたが、いかにも大企業の部長宅といった趣《おもむ》きがあり、ポーチにカーポート、それに芝生《しばふ》の庭といった配置が、モダンで明るい感じであった。伊沢は車をその家の前に停《と》め、小さな包みを持って玄関のチャイムのボタンを押した。
ドアがあいて、前原の妻が顔を出す。
「あら、伊沢さんじゃありませんか」
前原の妻は意外そうに言った。
「社用で近くを通りかかったものですから」
伊沢は持って来た包みを渡し、いつも前原に世話になっている礼だと言った。
「まあまあご丁寧に。ちょっとおあがりになりませんか」
前原の妻は上機嫌で伊沢を庭に面した応接間に招き入れた。
「すっかりご出世なさったそうですわね」
「いやあ、そんなことはありませんよ」
「いいえ、主人がいつもそう言ってうらやましがっていますわ」
紅茶をいれながら前原の妻は愛想よく言った。その態度には何かをかくしている様子は見えない。前原のようなタイプなら、仕事のうえでのかなりの部分まで、妻に知らせているはずであった。平凡な世間話をしながら、伊沢はそれとなく部屋の中を観察した。家具調度で新しいものや、特に目をひく増えたものはなかった。
「とにかく、お宅は陽当たりがよくていいですね」
「ええ、その点このあたりは背の高い建物がありませんしね」
丹念に手入れされた芝生の庭がひろがっていて、となりの家との境に背の高い草がひとむれ風に揺れている。
「伊沢さんはマンションでしたわね」
「ええ。東南に向いているんですが、となりのマンションのおかげで、朝のうちいっぱいと午後の一、二時間、陽が入るだけなんです。もっとも、こっちの建物のかげになる家がたくさんあるんですから、文句も言えませんが」
「あらあら、大変」
前原の妻はそう言うとあわててソファーから立ちあがり、アルミサッシの戸の前に置いてあった鉢植えを日かげへ移した。
「日に当たるといけないのですか」
「ええ。太陽にあまり長く当てておくと死んじゃうんですよ、この子は……」
前原の妻はその鉢植えをいとしそうに振り返りながら戻ってきた。
「なんですか、その草は」
アスパラガスのように繊細《せんさい》な感じの植物であった。
「シダですの」
伊沢の頭に衝撃が走った。
「シダ……」
「あら、ご存じないの。そう……たしかこの前見えたときもあったはずだけど。この子はとても元気なのよ」
「かわった植物なんでしょうね。僕は草花のことはまるでうといんですが……」
「いいえ、そう珍しくないはずですわ。だって、近ごろはどこの花屋さんでも見かけますもの」
「なんという名です」
「アガルタ」
前原の妻は平然とその名を口にした。
「アガルタですって」
「そう。なんだか、とっても可愛いでしょう。別に花なんか咲かないのよ。でも、育てるのがとってもたのしみなの。かよわいからかしらね」
伊沢は唖然としてそのうす緑色の植物をみつめていた。
独身のせいだろうか。伊沢はそういう植物……アガルタというシダの一種を育てることが、女たちのあいだではやっていることを少しも気づかずにいた。
アガルタ……。偶然の一致だろうか。しかも、シダにアガルタという名がついている。
前原家を辞去してから、伊沢は車でそのあたりの商店街へ行き、花屋へ入った。前原の妻が言っていたように、同じシダがたくさん飾ってあった。
アガルタ……シダ……。
伊沢は小さな鉢植えを買って車に戻り、都心に向かいながらそのふたつの言葉を繰り返し繰り返しつぶやいていた。
何かがある。何かが起こっている。
伊沢はそう確信しはじめていた。何かとほうもないことが、この人で溢れ返る都会ではじまっているのだ。それは梶岡や滝沢元介などが考えていることとは、根本的に違ったことなのだ。……伊沢は得体《えたい》の知れぬ戦慄《せんりつ》の中でそう思った。
通りすぎる街々には花屋があり、走る車の中からちらりと見ただけでも、どの花屋にもシダが置いてあるのが判った。
それは伊沢の頭の中で、うす緑色のシミのように感じられた。うす緑色のシミが、東京中にひろがり、日本中に、世界中にひろがっていく……。伊沢はなぜか、切迫した危機感のようなものを味わっていた。
新橋《しんばし》の、田川信平のオフィスがあるビルに着いたとき、伊沢は結局その中へ入らずに、蒼《あお》い顔で車に戻った。ビルの一階には、田川園芸という会社が入っており、通りに面した一部が、ショールームにされていたのだ。田川園芸というからには、田川信平の経営する会社に違いなかった。そしてショールームの中には、無数のシダが、アガルタを含めた各種のシダ植物が緑色の葉を生《お》い茂らせていたのである。
「畜生」
伊沢は車のシートにすわったが、自分の膝が今にも震えだしそうなのを感じて呻《うめ》いた。
「どこへ行きますか」
運転手が尋ねた。
「君はあの草を知っているかね」
伊沢はショールームを指さした。
「ええ。家内が可愛がっています。アガルタという名ですよ。花の咲かない草でも、結構可愛いものですね」
「君の知合いに、あの草を育てている人は多いのかね」
「ええ、多いですね。はやりでして……」
運転手はこともなげに言う。伊沢は気をとり直し、石川京子たちの写真スタジオへ行くように命じた。
そこにも当然シダがあるに違いない。伊沢はそう思った。道順を運転手に教えながらそのスタジオへ着いた伊沢は、夢中で白い壁にかこまれた部屋へとび込んでいた。
「今日はお休みらしいですよ。みんな出て来てないんです」
照明係らしいブルージン・スタイルの青年が、睡《ねむ》そうな声で言った。
「いや、仕事じゃないんだ。石川京子さんに会いたいんだよ」
「京子さんならもうすぐ帰って来ます。美容院へ行きましたからね」
「待たせてもらっていいかい」
「ええどうぞ」
青年は面倒くさそうに言って引っ込んだ。伊沢はその青年が出ていったドアのかげに、うす緑色のものを見て、あわててついていった。
そこは北に面した廊下であった。細長い窓があり、国電の線路が見えていた。そして、床の上にシダの鉢植えがずらりと並んでいた。
種類は前原家で見たアガルタだけではなかった。ざっと数えても五種類以上のシダがあるようであった。
「シダのアジトにシダ……当たりまえのことじゃないか」
スタジオへ戻り、うしろ手でドアをしめながら、伊沢は自分を勇気づけるようにつぶやいていた。
「あらッ……」
京子が戻って来て低く叫んだ。
「だめよ、勝手にここへ来ちゃ。また跟《つ》けられたりしたらどうするの」
きつい口調で京子は言った。
「大丈夫だ。それよりどうしても訊《き》きたいことがあって来たんだ」
「なんのことなの」
京子は迷惑そうに眉をひそめる。
「島田さんはどこにいる」
「死んだわ。あなた見たでしょう」
「そうかな。俺は君らの芝居にひっかかったと思っているんだぜ」
すると京子はのけぞって笑いだした。
「芝居。芝居だというの」
「そうだ」
「冗談じゃないわ。私はちゃんとあの人の死体を埋めたわ」
「どこへ」
「聞いてどうするの」
「確認したいんだ」
京子は肩をすくめた。
「信用しないのね」
言いそうもない感じであった。
「教えてくれ」
「いやよ」
はたして、きっぱりとそう言った。
「なぜだ」
「必要ないからよ。それより早く帰って」
「よし。それならこっちで調べ出すまでだ。だが帰る前にもうひとつ訊《き》きたい。いつか君らが北村裕子から奪った書類には、アガルタに繁茂《はんも》している植物のデータが書いてあったはずだ。あの内容はどうだったんだ」
「ナンセンスよ」
京子はまた笑った。
「あれを調べた学者は少しおかしいんじゃないの。あれは何の役にも立たないわ。だって、アガルタに生えている植物のデータだなんて言うけど、その学者が調べたのは、どこにでもある、ごくありふれたシダの一種よ。私たちは本気であの書類に取り組んでみたけど、結局はお笑い草よ。梶岡俊一郎ともあろう人が、あんな子どもだましに引っかかるなんて……いえ、子どもだましで私たちを引っかけようとしたのかもしれないけど、とにかくくだらないわね」
「あの廊下にある奴と同じものだったというのか」
「そう。アガルタちゃんよ。みんな持ってるわ。それを地底の植物だなんて、いったいその学者は本気なのかしらねえ」
「じゃ君は、なぜあのシダを育てている」
「草を育てちゃいけないみたいね。冗談じゃないわ。バラや菊を育てている人はいくらでもいるでしょう。それは、今はやりのアガルタを育てているという点では、少し月並みで恥ずかしいけれど……」
「それだけか」
「それだけよ」
伊沢は靴音を荒々しくスタジオに響かせて外へ出ていった。
アガルタという名のシダを、どういうわけか女たちが愛しはじめているようであった。
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29 地底からの侵略
「田川と滝沢元介が結びついている……」
梶岡は呻くように言った。すでに日が暮れて、専務室の窓ガラスに伊沢の姿が映っている。
「朽木《くつぎ》機関の調査で判ったのですか」
「いや」
梶岡は腹立たしげに首を左右に振った。
「まったく別な筋からの情報だった。田川と滝沢……信じられん」
「なぜです。滝沢氏はK銀行の頭取ですし、田川信平は経済評論家ではないですか。つながってもふしぎはないでしょう」
「そうではない」
梶岡は気をとり直したようにきっぱりと言う。
「ずっと以前から、あの二人は対立していたのさ。それはもう私怨《しえん》と言ってもいいくらいのものだ。少し事情に明るい者なら、滝沢と田川が立ち話をしていてさえおかしいと思うはずだった。……それがあんなことで」
いかにもくやしそうである。
「あんなことで、と言いますと」
「なんと、あの二人は緑化運動で手を握ったらしい。緑化運動でだ」
伊沢は口をつぐんだ。なぜか梶岡に同情したい気分であった。
「なんだ……」
梶岡は自分をみつめる伊沢の表情に気づいたらしかった。
「そうですか、緑化運動ですか」
梶岡は苦笑した。
「そうあっさり言うな。あの二人のこれまでの関係を考えれば、とうてい信じられんことだぞ」
「また僕のほうが物事を見やすい立場に立ったようですね」
「なぜ」
「滝沢氏と田川氏の対立のいきさつなど、僕はまったく知りません。だからかえって二人の結びつきにおどろかないですむのです」
「それはそうだが……」
「新橋の、田川信平のオフィスがあるビルの一階に、田川園芸という会社がありました」
「田川園芸……」
梶岡はテーブルの上にあった部厚いファイルをとりあげてページを繰った。
「会社とは言えんよ。彼の細君が社長をしている有限会社だ。花屋だろう」
「まだよく調べていないので判らないのですが、そこがアガルタの流行源のような気がします」
「アガルタの流行源」
伊沢はいぶかしがる梶岡の前へすわった。
「いいですか。専務の情報網はたしかに立派です。少なくともこの東京で、それ以上|緻密《ちみつ》な情報網はないでしょう。しかし、いってみればそれは専務が今の立場で必要とする情報を吸いあげるためのもので、ちょっと大人《おとな》すぎるようです」
「大人すぎる」
「ええ、金と人の動き、企業の動向……大人の情報ばかりです。ですが、今度の件にはもっと他愛のない部分があるらしいのです。専務の情報網から落ちこぼれてしまうような、一見とるに足らない情報が、実はおそろしく大きなウェイトを占めているようなのです」
「アガルタの流行と言ったな」
「はい。たとえば、専務の情報源からは、今どんなスカートが流行しているかといったようなことは流れてこないでしょう。重要な二人の男がどこかでひそかに会えば、それをたちどころにキャッチしてこの部屋へ報告するその組織でも、一方がどんな色柄のネクタイをしめていたかは、けっして言って寄越《よこ》さないのです」
「要求すれば報告する」
「ええ。でも専務はそんなばかげたことを、一度でも要求なさいましたか。しなかったはずです」
「その欠陥は認めざるを得んな。で、いったい何が起こっているのだ」
「これです」
伊沢は自分のデスクへ行き、包み紙をかぶせたシダの鉢植えを持って来た。
「なんだこれは……」
「アガルタというシダの一種です」
「知っている。地底に適応して生きのびた、白亜《はくあ》紀の植物だ」
「北村君が奪われたのは、この植物に関する調査報告だったのですね」
「そうだ」
「それで専務は、地底に永住することは不可能という結論を得られた」
「永住する必要もないじゃないか。地底にパラダイスを作ろうなどというのは、子どもの夢のようなものだ」
「しかし、この植物はいま、東京中に爆発的な勢いでひろがっています。ひょっとすると日本中、いや、世界中にかも……」
「なぜだ。なぜだ……」
梶岡は珍しく興奮して大声で言った。ちょうどそのとき、帰り仕度《じたく》をして裕子が戻ってきた。
「北村君。ちょっとここへ」
伊沢が呼ぶ。
「はい」
「これを知っているかね」
「アガルタでしょう」
裕子は事もなげに言った。梶岡は伊沢と裕子の顔を見くらべる。
「これがはやっているとはどういうことだ」
「花屋さんに売っているんです。植木屋さんにも……」
「田川園芸」
梶岡は呻いた。
「滝沢元介は緑化運動の提唱者の一人だ」
伊沢はテーブルの上から鉢植えをとり、裕子に渡した。
「帰っていい。それからこれは社内の適当なところへ置いてくれ」
「はい。女の子がよろこびますわ」
裕子は鉢植えを持って帰りかけた。
「待て。なんで女の子がよろこぶのだ」
梶岡が叱るように尋ねた。
「はやっているからです。みんなこれが好きなんです」
伊沢は手を振って部屋を出るように合図した。
「なぜだ。あれはひどく珍しい植物なんだぞ。中生代の終わり、恐竜《きようりゆう》などが活躍した時代のものなのだ。絶滅種なのだ。それが、ふしぎとも珍しいとも思われずに街で売られ、みんなが買って育てている。誰も何も言わない。おかしいじゃないか」
「ええ、おかしいです。前原部長の自宅にもあれがありました。奥さんが可愛がって育てているのです。例のシダという組織のアジトにも鉢がたくさん並んでいました」
「そして田川園芸か」
「ええそうです。これは直感ですが、アガルタというシダの出どころをたどれば、田川園芸へ行きつくと思います」
「連中は何をしようというのだ。たしかに、列島改造などという発想は古くなった。次は自然回復の時代かもしれん。しかし、はっきり言えばそれは単なるスローガンだよ。企業活動の本質はかわりはせん。滝沢が緑化運動を推進したところで、それは企業の活動を納得のいくものにさせるためだけのものだ。そうじゃないか」
梶岡は救いを求めるように、伊沢の顔をみつめた。
「島田義男のことを考えてください」
伊沢は梶岡に助言するように言う。
「はじめ、あの人は専務の考えに同調したのですね。地下資源の乏しいこの国が、それで一躍安定した資源保有国になれる。鬼に金棒です。ところが、途中から態度が変わった……地底への出入口を秘匿《ひとく》したまま、専務の前から姿を消そうとした。同時に彼は滝沢氏らの追及を受け、殺《け》された……」
「生きている可能性もあると言ったのは君だぞ」
「そうです。僕は確信しています。今日一日で、とほうもない秘密が浮かびあがってきたようなのです」
「判らんな」
梶岡はまた首を横に振った。
「専務は僕より想像力がおありです。この部屋に空想家がいるとしたら、それは僕ではなくて専務ご自身だとおっしゃったではないですか」
「切りかえがつかんのだよ」
梶岡は自嘲気味に笑い、
「頼む。君の考えを聞かせてくれ」
と言った。
「僕にだって判りはしません。しかし空想はできます。突拍子《とつぴようし》もないことなので、あえて想像とは言いません」
「よし、その空想を聞こう」
「アガルタ……地底のアガルタで何かがじわじわと起こっていたのです。地上から隔離された白亜紀の植物群が、何かの理由で次の時代に適応できるような変化を起こしていたのです。白亜紀というと……」
「一億三千五百万年から七千万年前の間のことだ」
「変化には充分な時間です」
「信じられん」
「聞いてください。それが自然の摂取によるものか単なる偶然かはよく判りませんが、とにかく、変化した植物の一部が人間の手で地上へ運びだされたわけです。ある意味で、人間は植物を意の儘《まま》にしてきました。だが、この新しい地底からの植物は……」
伊沢はためらった。
「言えよ」
梶岡が催促する。
「人間を操《あやつ》る」
梶岡は黙って腕組みをし、天井《てんじよう》をみつめていた。
「人間が他の動物や植物たちにしたのとは、だいぶやり方が違っています。その植物は自分を運び、育てる者の精神に影響を及ぼして、自分たちの繁栄を獲得するのです」
「しかしあの植物は地上に適応できんはずだぞ。植物学者がそう結論している」
「彼らは他の者の精神に影響を及ぼします」
「学者があの植物に……」
「意識していないかもしれません」
「地下の植物群が地上へ侵略をはじめたというのか」
「動物のやり方とは違うようです。まず第一に、彼らは復活できるのですよ。植物が一度死んで復活することは、われわれより古代人のほうがずっとよく理解していたとは思いませんか」
「これが彼らの復活の序幕なのか」
「序幕かどうか知りません。でも、僕らの歴史がひとつの袋小路にあることはたしかなようではありませんか。鉱物資源も無限ではありません。豊かさも人口問題と背中合わせです。もし人類がここで終わるなら、もう次の種《しゆ》が用意されているとは思いませんか」
「滝沢や田川は植物に操られているのか」
梶岡がそう言うのを聞いて、伊沢は深い失望を味わった。何も判っていないのだと思った。
「ひとつ実験しますか」
「実験……」
「ええ」
「どうするのだ」
「あの鉢植えをこの部屋に飾って置くのですよ。それで専務や僕がどう変化するか……」
「やめてくれ」
梶岡はソファーから立った。
「冗談じゃない。俺はやるぞ。君のその妄想をぶち破ってやる。植物にそんなことができるわけがない。たとえ人間の心に何かを働きかけられるとしても、植物に負けてたまるか。人間がこの地球を植物にあけ渡す……そんなばかなことがあってたまるか」
「どうするのです」
「まず君の言うその力が本当にあるものかどうか、科学的に測定させる。それがもし危険なものなら、栽培育成を禁ずる法律を作る。アガルタへ乗り込んでいって、火焔《かえん》放射器で焼き尽くしてやる」
「サボテンに電気的な装置を使って、人間の言葉に反応させるという、あの実験をどう思います」
「少なくともたった今までは信じていなかった」
「それを他人に信じさせることになるのですよ」
「変だな。君は今日一日、あの鉢植えをかかえていたんじゃないのか。もう影響を受けたのか」
梶岡は伊沢の冷笑的な態度をそう言ってとがめた。それはほんのちょっとした言葉の綾《あや》であったようだが、伊沢はギョッとした。本当に影響を受けてしまっているような気がしたのである。
伊沢はその疑念を振り払うように言った。
「とにかく、その植物はアガルタという名を付けられて、東京中の家庭へ入り込んでしまっているのです。はじめは女がそれに敏感に反応してしまうようです」
「調べよう」
「注意してください。相手は動物ではないのです」
「どう注意すれば――いいのだ」
「判りませんが、一応市場調査の形をとるのはどうでしょう。普及の程度を調べ、新しい商品植物の参考にするというわけです」
「草を欺《だま》すのか」
梶岡は笑いだした。
「草にまで嘘をつかねばならんのかよ」
伊沢はその笑いを眺めながら、心のどこかがチクリと痛むのを感じた。
もう人類は終わってもいいではないか。人間ばかりか、動物も植物も住めない星に作りかえようとしているのだ。ひょっとすると、これは植物の巻き返しではなく、地球そのものの意志なのかもしれない……。
そう思い、梶岡に対してシダを警戒するように告げてしまった自分を、悪人だと感じたのであった。
だが、それはさらに次の怯《おび》えを引きだしてしまった。……シダへの対策を考える自分を悪だと感じるのは、シダに操られた証拠なのではないかという怯えであった。
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30 攻 勢
朽木《くつぎ》機関をはじめ、梶岡俊一郎の情報源はピタリと沈黙してしまった。いや、他の情報は従来どおり正確に送ってくるのだが、ことが例の植物に及ぶと、まったく無力化していた。
いくら梶岡の命令でも、そんなばかげた調査はできない。もし必要ならどこかほかでやらせてくれ……。朽木機関の返事がそれである。
伊沢がオーダーを出したリサーチ会社は、平あやまりにあやまるのであった。
「申しわけありません。どうもこのところリサーチマンの手があきませんで……いずれ近日中にきちんとしたチームを組んで本格的にいたしますが、なんと申しましても今のところ重要な調査が続いておりまして……」
シダなどのマーケティングはあとまわしにして当然という態度なのだ。どこも反応は似たり寄ったりで、ことわるのが当然といった様子であった。
「どういうことだ……」
梶岡は機嫌が悪かった。
「シダの……あの地底の植物のせいです」
伊沢が言うと、
「そんなばかな」
とますます機嫌が悪くなるが、梶岡が本気で不気味がりはじめたのがよく判った。
「B化学の東京工場が移転を決定したそうだ」
梶岡は部屋へ戻って来るとそう言ってソファーへどさりと沈み込んだ。
「B化学……足立区《あだちく》にあるあの大工場がですか」
「そうだ」
「B化学の動きはよく掴《つか》んでいるはずじゃありませんか。いったいそんな急に……」
「それだ。おかしいとは思わんか」
「思います」
「何の前触《まえぶ》れもなく、いきなりそんな重大なことが決まってしまったのだ。何かあるぞ、これは」
二人がそう話し合っているそばから電話が入って、都《と》がその跡地を公園にすることを決定したというニュースが伝わる。
「これでは情報を掴むどころではないな」
さすがの梶岡も苦笑した。しかし、その苦笑も跡地が公園にされるという件と、地底の植物群を思い合わせると、すぐ消えてしまうのであった。
それまでにもあったのだが、B化学の移転とその跡地が公園に決まったニュースが呼び水となり、各地区の住民のあいだから、緑を求める動きが急速にたかまっていった。しかも、問題の面妖《めんよう》さは、それらの要求が、どこでもほとんど通ってしまうことであった。
「糞《くそ》、シダの奴は本当にこの地上を侵略しはじめたのだろうか」
梶岡が憎々しげにそう言うようになった。
「アガルタを育てる気分はどうかね」
気をとり直したように梶岡が北村裕子に訊《き》く。裕子は日ましに温和な性格になっていくようであった。
「とても可愛いですわ。もう七鉢に増えています」
「七鉢に……」
梶岡はギョッとしたように体を起こしかけた。
「安心してください。あの最初の一鉢が増えたわけではありません。買い足《た》したのですよ」
「なんだ、驚かすな」
梶岡は安心してまたソファーの背にもたれかかった。
滝沢元介の緑化運動はめざましい発展をみせていた。新聞広告やテレビのCMなどで呼びかけられた人々が、休日ごとにどっと郊外へ繰り出して、草や木を植えた。
それは多分、あの地底の植物が人間にさせていることなのだろう。伊沢はそれをけっして疑わないようになってしまった。
緑化運動ばかりではなく、各地住民の要求は、車や各種の工場にも向けられた。まず排気ガスの規制があっという間に強化され、工場群の大気汚染も、企業側の異常なほどの協力で解決されていった。
梶岡と伊沢は、ある日曜日、連れだって都内の歩行者天国を見てまわった。それは恐るべき緑の氾濫《はんらん》であった。道という道が、両側の商店から持ち出された大小の鉢植えで埋め尽くされ、人はそのあいだの細い隙間《すきま》を縫って歩く有様であった。
「人間と植物の共存ですね」
伊沢が何気なく言うと、梶岡はそれを叱《しか》りとばした。
「何を言うか。君はもう少し身辺からシダを遠ざける必要があるぞ。見ろ、この鉢植えを。みんなあのアガルタとその仲間ばかりではないか」
伊沢は口をとがらせた。
「そうおっしゃいますが、いったいどうしたらいいんです。近ごろは電車やバスやタクシーの中にまで花を飾っているのですよ」
「バスの中にまで……」
「ええ」
「シダか」
「いいえ。アガルタの仲間とは限りません。バラやカーネーションなどが多いようです。しかし、植物は交配がかんたんです」
梶岡は笑った。
「冗談言うな。バラとシダ類が交配できるものか」
「そうでしょうか」
伊沢は本気であった。
「相手は地底で白亜紀から生き抜いてきた連中です。環境に適応する力はすばらしく強いはずです。しかも、人間などの動物に影響を与えるテレパシーのようなものを持っているとしたら、知力がある可能性もあるのです。でなければ、僕らの植物に対する行動を察知することも不可能なはずではないですか」
「知能のある植物か」
梶岡はおぞましそうな顔をした。
「アガルタとその仲間は、人間が動物の世界に君臨《くんりん》したように、植物の世界の霊長《れいちよう》類なのかもしれないでしょう」
「植物の霊長類……」
「ええ。われわれがバラやカーネーションを飾るというのは、彼らがそれを必要としているからでしょう」
「彼ら……植物を人間のように言うのはよせ」
梶岡はまた叱《しか》りつけた。しかし伊沢はかまわずに続けた。
「バラやカーネーションが、すでに彼らの支配下にあるとしたらどうなります。いや、バラやカーネーションならまだいいですが、芋《いも》や麦や米が支配されたらどうなります」
「え……」
梶岡は立ちどまった。その両肩に、両側からアガルタの鉢植えが掩《おお》いかぶさるように茂《しげ》っていた。
「そうか。食物が連中の思いどおりにされるわけか」
梶岡は自分までが植物を人間のように言いはじめていることに、少しも気づいていないようであった。
「動物性の食料も、もとは植物に発している。牛肉の牛は草を食うわけだからな」
「そういうことです」
「じっとしてはおれん。みんなはこの危機に気づかんのだろうか」
梶岡はいらだちはじめている。
全国的なノーカー・デーが実施されたとき、梶岡の忍耐はついに限界へきたようであった。
「あらゆるマイカーが停《と》まっただと」
梶岡は新聞を床に叩きつけた。
「停《と》められたんだ。いくらなんでもこううまく気が揃《そろ》うものじゃない」
ノーカー・デーは大成功であった。公共の輸送機関以外、私用の車はすべて運動に積極的に協力したらしい。
「わたしは動くぞ。もう黙ってはおれん」
梶岡が決然として言うのへ、伊沢が警告を発した。
「よく考えてください。まだ植物はわれわれに直接的な損害を与えてはいません。われわれの敵であるという証拠はどこにもないのです」
「あれは敵だ。地底から這いあがった侵略者だ」
「そうかもしれませんが、われわれは共存共栄のかたちをとっています。緑を求めたのはわれわれのほうなのです」
「求めさせられたのだ。テレパシーでな」
「どうやって説明なさるおつもりですか。へたをすると気違い扱いされますよ。いや、ひょっとすると彼らは今、自分たちに対してよくまつろわぬ者に攻撃を開始しているのかもしれません」
「わたしを攻撃するというのか」
梶岡は目を剥《む》いた。
「しているのかもしれません」
「どこからだ」
「見えません。専務がそうしていきり立っているのが、実は彼らの思う壷だとしたらどうなります。専務はそれで社会的に葬《ほうむ》られるのです」
梶岡は絶句した。蒼《あお》い顔になっている。
「狂人扱いされます。だいいち、滝沢一派が黙ってはいないでしょう。そして世論はいま植物を友と考えています。金やダイヤよりずっと貴重なものだというように考え方を変えてしまっているのです」
「どうすればいいんだ。黙って見ていろというのか」
「もう少し様子を見ていてください。とにかく今、性急な動きを示すのは危険です」
「いいか」
梶岡は右の人差指を突きだした。
「たとえば果物《くだもの》だ。たいていの果物に青酸が含まれているという話をこのあいだ聞いたのだ。ごく僅《わず》かだから毒はない。いや、果物のあのうまさは、その毒があるせいだというのだ。もしかりに、アガルタどもが果物にちょっとでも手を加えてみろ。人間はそれを食って死なねばならん。いつかは果物が毒だということになるだろうが、それまでに大変な数の人間が死ぬのだ。死んだあげくに、われわれは食料の一部を失うのだ。そういうことが際限もなく起こるとしたら、いったいどうなる。ええ……」
「滅びます。犬も猫も馬も牛も、みな死んでしまいます。残るのは、彼らに都合のいい動物と、そして彼ら植物群」
「そうだ」
梶岡は陰気な顔で腕を組んだ。
「なんとか食いとめねばならない」
だが伊沢はまったく別なことを考えていた。それは、あの楽園のことであった。
石川京子たちは地底へおりてアガルタを自分たちの楽園にすることを夢みていた。
楽園……。
果たして梶岡の言うように、また伊沢自身が梶岡に言ったように、人間は滅び去ってしまうのであろうか。次の支配者が知性ある植物であったとして、人間は滅ぼされてしまうのであろうか。
伊沢の頭にノーという答えが湧いていた。
多くの人間は死ぬとしても、人類はやはり生き残るのではなかろうか。亀《かめ》や蛇《へび》やとかげたちが今も生き残っているように、人類もまた第二位以下の生命として、植物の支配のもとに生き残るだろう。
それは植物と共存し、植物を育てたり移動させたりするためだ。
伊沢はふと、南国の暖かい光のもと、半裸の若い男女が、大きなシダのかげで睦《むつ》み合っている姿を想像した。人間は地球上第二位以下の生物として、幸福に暮らすことができるのである。犬や猫が悩まぬように、植物の世界に残った人間もまた、悩むことのない生活を送るのだ。
楽園……。
それは石川京子たちが求めたものであった。そしてそれが植物によって求めさせられたのだとしたら、京子たちが求めたとおりのものを、植物は与えてくれるかもしれぬのであった。
おのれの果肉で人間を養ってくれるだろう。人間の排泄物が彼らに恵みをもたらすであろう。緑の世界。植物の茂る公園。パラダイス……。
それは現代人が心の底から求めているものであった。排気ガスをなくして、綺麗な青い空を見たがり、澄んだ空気を吸いたがっているのだ。
植物は敵だろうか……。
伊沢はもう一度根本に戻って考え直してみた。どう考えても、植物が自分の敵とは思えなかった。木を伐《き》り、草を苅《か》ることが人間には可能だ。植物が抵抗できるだろうか。生きのびて、その楽園で暮らしたい。伊沢はふとそう思い、思いつくとその願いは急速にふくらんでくるようであった。
もう梶岡には何の力もない。
伊沢は今度こそ本当に楽園への願いを感じるとともに、梶岡俊一郎を一人の男として、冷たく突き放して考えはじめていた。
俺は楽園へ行く。……伊沢は妙にサバサバした気分でそう思った。
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31 情報動物
伊沢は新橋の田川信平のオフィスを訪ねていた。
「このあたりもすっかり様子が変わりましたね」
田川は陽の当たる窓を背に、薄笑いを泛《う》かべながら伊沢と向き合っていた。たしかに、その薄笑いは常人のものでないような感じであった。ひどく鋭いようでもあり、逆に白痴《はくち》めいてもいる。いずれにせよ、言うことは隙《すき》がない。
「何をしに来たのかね」
「別に……」
伊沢は肩をすくめた。
「新橋駅のまわりといえば、殺風景な場所でしたよ。それが今では緑《みどり》したたるパラダイスのようです」
「へたなカマをかけてもはじまらんよ」
「カマ……冗談でしょう。そんな気はありませんよ」
「そうかな」
田川はまだ薄笑いを泛かべている。
「梶岡俊一郎氏の様子はどうだ。元気かね」
「さあ」
伊沢は気のない返事をした。
「どうなることですか……」
「冷たいな。君の上司じゃないか。それも人生の次の局面をひらく鍵《かぎ》になる人間だろう。そんな無関心な態度ではいられないはずだが」
「何を言っているんです」
伊沢は他人《ひと》ごとのような笑い方をした。
「人をあそこへ送り込んでおいて、今さらそんなことを言うなんて、田川さんのほうがよほど、人が悪い……」
すると田川の表情が一瞬警戒の色を強めた。
「僕が何をしたというんだね」
「島田義男の死を証明するために僕を使ったわけでしょう」
「…………」
「もうその段階は終わりましたよ。少なくとも僕にとってはね」
「ほう、そうかね」
「超栄商事など、今の僕にとっては過去の遺物です。人類が繁栄していたころの記念物として、博物館にでも飾っておくといいんです」
「伊沢君」
田川は体をのりだし、その分《ぶん》、声を低くした。
「君は何をどこまで知っているのかね」
「島田さんに会わせてください。死んだはずの島田さんに」
死んだはずの、と言われ、田川は返事につまったようであった。
「心配しなくて結構です。僕は歓迎しているのです」
「歓迎……何をだ」
「地底からの植物をですよ」
田川はソファーから立ちあがり、落ちつかぬ様子で窓際に行った。表情をかくすためか、窓の外を眺めながら言う。
「それを梶岡は知っているのか」
「ええ」
伊沢は淡々と答える。
「知っています。とうに気がついています」
「梶岡が知ったということを、君はこの僕に報《し》らせに来たわけか」
「別に……」
「僕らがそれを知ったら、梶岡はどうなると思う」
伊沢はのけぞって笑った。
「僕を密告者のように思わんでくださいよ」
田川は振り向いた。解《げ》しかねているような表情であった。
「それに、梶岡俊一郎を気にする必要もないじゃありませんか」
「そうはいかん」
「暗殺しますか。ばかばかしい……」
「なぜばかばかしいと思う」
「そうじゃありませんか。あなたがたはもう完全にこの世界の主導権を握ってしまったでしょう」
今度は田川が笑った。
「そう高く評価してくれるな。まだこれからだ。梶岡のような障害をひとつひとつとり除いていかねばならん」
「へえ……」
伊沢は意外そうに田川をみつめた。少し軽蔑したような瞳《ひとみ》であった。
「本気でそう思っていらっしゃるんですか」
「梶岡があの植物の秘密を知った以上、排除しなければならんだろう」
「これは驚いた。もっと早くに話し合うべきだったようですね。土俵の外に置かれた僕のほうが、あなたがたより進んでしまっているなんて」
「今日の君はいちいち気になることを言う」
田川は舌打ちをした。
「いったい君は何を考えているんだ」
「梶岡氏はもう障害でも何でもありませんよ。たしかに彼は今ごろ、各方面へ働きかけ、真実を伝えているでしょう。地底の植物が地上を侵略しはじめている、とね。でも、誰がとり合います。彼が人類を守ろうとしてやれることは、自分の背中に火焔放射器をくくりつけ、シダを焼いてまわることくらいなものです。彼一人ですよ。彼の細君だって力をかしますまい。みなシダにコントロールされはじめているのです。そうですよ、人類の地球支配は急に終わるのです。あなたが梶岡俊一郎を排除しようとなさるなら、それは多分あなた一人の思いあがりというべきでしょう。シダはそんな弱い勢力ではありません。梶岡氏など放っておいてももうたいしたことはないんです」
田川はいくらか腹を立てたようであった。
「遠まわしに梶岡の命乞いをしているように聞こえるぞ」
窓際《まどぎわ》から離れ、ソファーへどさりとすわった。
「そうですか。それならおやりください。どちらにしても同じことです。梶岡氏はもう無力な人間ですからね」
「すると君は彼を見棄てたのか」
「さあ、どうでしょう。別に見棄てる気もありません。それより、僕はパラダイスへ行きたいのです」
「パラダイス……」
「つまり生きのびたいのです。植物は増えすぎた人間を整理するでしょう。しかし次の世界に人間がいないということにはなりません。自然はそれほど非情ではありませんからね。現に恐竜の子孫がこの世界には生き残っていますし、マンモスの親戚もちゃんと生きています」
「それで島田に会わせろというのか」
田川はため息をついた。
それは巨大な温室であった。温室の中にはシダ類が生い繁り、半裸の男女がそのあいだを歩きまわっていた。
「島田さん。島田さあん……」
伊沢は大声で叫びながら上着を脱いだ。ガラスの向こう側で、そこまで彼を連れて来てくれた田川が笑っていた。
伊沢はたちまち汗ばみ、上着を入口のところに投げ棄てて、シダ類の密生した大温室の中央部へ進んでいった。
「島田さん……」
呼びかけながら歩いていると、不意に葉のかげから背の高い女が現われた。
「あ、君は……」
「とうとうあなたも来たのね」
沢田ユリであった。ユリが身につけているのはホット・パンツだけであった。
「ずっとここにいたのか」
「これが建設されてからはね。その前はあちこち逃げまわっていたの」
伊沢はユリの豊かなバストを眩《まぶ》しそうに見た。
「島田さんに会いたいんだ。どこにいるか知っているだろう」
するとユリはさらに奥を指さし、
「会わないほうがいいかもしれないわよ。それより私のところへ来て。こっちよ」
と誘った。体中で媚《こび》をあらわしていた。
「とにかく島田さんに会わなければ」
「そう。じゃあ帰りに寄ってちょうだい」
ユリは笑顔で言い、大きな葉をかきわけるようにして姿を消した。
伊沢は教えられた方角へ進んでいった。
「おう、とうとう来たか」
しばらく行くと、籠《こも》ったような声が聞こえた。伊沢はあたりを見まわし、相手の姿が見えないのにいら立った。
「島田さんですか。どこにかくれているんです」
「かくれていはしない。ここにいるよ」
バサリとシダの葉が動いた。
伊沢はアッと言って立ちすくんだ。
島田は植物の中にいた。それは巨大な若芽のようであった。二枚の肉厚の葉が豆のさやのように向き合っていて、島田はそのさやとさやのあいだから顔を出したのであった。植物にとじ込められているように見えた。
「すまなかったな。時間を稼ぎだしたかったのだよ」
島田は肉の厚い葉の中に、ゆったりと体を伸ばしていた。さやのようになったふたつの葉の内側には、うす茶色の繊毛《せんもう》がびっしりとからみ合っていて、島田の体はそのうす茶の繊毛の中に浮いているような感じだった。
「そうか」
島田は誰にともなく頷《うなず》いた。
「よし、君のいちばん知りたいことを先に言おう。俺はこの植物と共生しているんだ」
「共生……」
「ああ。植物が俺を養ってくれている。俺が退屈すれば、いろいろたのしい幻覚を与えてくれる。幻覚といっても、ふつうの人間が見るあの狂気の世界ではない。もっとずっと現実的なものさ。おまけに、いつのまにか養分までくれる」
「そこから出られないんですか」
「出たければいつでも出るさ。でも、これほど快適なところはほかにないよ」
「それで島田さんはその植物に何を与えるのです」
「俺か。俺はこいつらのデータ・バンクのひとつだ」
「データ・バンク」
「ここさ」
島田は頭を指さした。
「俺はいろいろな情報をここへつめ込んでいるからな」
「それを植物が利用するんですか」
「そうだよ。データ・バンクの一部だよ。一部にすぎん。沢田ユリもその一部だ。いま君に会いたがっている」
伊沢は上を見あげた。奇妙な蔓《つる》がからみ合っている。とすると、この温室の植物たちは、一個の巨大なコンピューターのような機能を持っているのかもしれないと思った。
「そうだよ」
島田が伊沢の思考に音声で答えた。
「なんてこった」
伊沢は叫んだ。
「もっと別なかたちを考えていた。人間は植物にとり込まれてしまうのか」
すると島田は首を左右に振った。
「いや、違う」
「だって現にあなたは……」
「これはアガルタ植物群の頭脳に当たる特殊な連中だ。よくできてるよ。これは仲間の動向を判断し、仲間にそれを伝える役を果たしている。たとえば俺はこの数日間、砂漠の知識をこいつらに与えてきた。こいつらは、あの不毛の土地で生きのびる品種を、今からせっせと生みだしていくつもりなんだ。それができると、人間の船に乗せられて海を渡り、砂漠を埋めつくしてしまうんだ。そうやって世界中にひろがっていく。だから、俺のようになる人間はごく一部でいい。こいつらを運ぶ役目の人間が大勢いるし、繁茂《はんも》しやすいように土地の面倒をみる人間も必要なんだ。たとえば、田川信平は最も強く植物に支配されてしまっている人間の一人だ。アガルタ植物群のメッセンジャーだよ。そういう人間も必要なのさ。また、男より女のほうがさきにこの植物の影響を受けるのは、本質的に女のほうが植物的なところがあるからだろう。女は家を守り、子を育てる。放浪よりは定着を求める。それは社会のあり方がそうさせたのではなく、女の本質なのだ。その点、男はずっと動物的だな。本質的に移動する生物なのだ。女が男を理解せず、男が女を判じかねるのは当然だよ」
島田は悟りきった様子で言った。伊沢はそれとは正反対に、せせこましい言い方をする。
「僕はパラダイスへ行きたいんです」
「判ってるよ。ここもそのパラダイスの一部さ。保証しよう。君は生き残れる。そして植物が天下をとった世界で、一生|安穏《あんのん》に過ごせるというわけだ」
「人類は滅びますか」
「もう滅んださ。しかし、正確に言うと滅んだことにはならんだろうな。だって、その知識が植物たちにうけつがれるんだ。人間は歩く動物だった。見る動物だった。そして考える動物だった。それらを総合するといったい何になる」
「さあ」
「情報動物さ。哲学者じゃない。情報を集め、より合わせ、それによって生きてきたんだ。それは生命の進化の長い物語りの一部だ。人間を生みだすために、一生歩いているだけの動物が作られたし、見るための動物も作り出された。そしてそれらの結果、人類というものができあがった。しかしそれも最終的なものではないということだよ。人間はたやすく死ぬし、情報を集める結果、よぶんなものを作るという悪い習性を持ってしまった。だがとにかく、そうして頭脳部分ができあがったわけだ。これからその頭脳は、不死に近い生命を持つ植物と共生するわけだ。その数は植物自身がコントロールする。人間は重荷から解放されたのだ。本来あるべき役に就《つ》かされ、地球を支配するという過大な役を解かれたのさ。たのしいぞ。余分な欲を持たずにすむ。自分の生理をフル回転させて、一瞬一瞬をたのしむんだ」
「恋や愛は……」
「あるさ。人間が支配しているあいだも、他の動物は恋をし、愛する者を持った。それと同じだ」
「富や名誉は」
「それだ。そいつが余分だった。それに対する欲求はまったくなくなる。持たなくてすむのだ」
「しかし死はあるでしょう」
「ああ、とても植物の寿命にかないっこないさ。しかし、地球は緑の楽園に戻るんだ。そこでのうのうと生き、自然に死ぬ。車もない、ジェット機もない、爆発事故もない……」
伊沢は汗まみれのシャツを脱ぎ棄てた。
「まあとにかくここまで来たのです。あとは植物にまかせますよ」
「どこへ行く」
島田がからかうように言った。
「沢田ユリに会いに……」
伊沢は少年のようにシダのあいだを走って行った。
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32 北への道
夜の上野駅。
旅に出る者、帰る者、それを見送る、さまざまな表情……。その雑踏の中に、一人の長身の男がいた。
梶岡俊一郎である。
黒っぽいコートを着て、荷物は何もない。
以前の梶岡だったら、この庶民的な雑踏の外で超然としていただろう。しかし今は、ひしめき合う庶民たちをただひとつの頼りとして、その中にまぎれ込むことで辛《かろ》うじて身を守っている。
追われているのだった。
追手がどのような姿をしているか、勿論、梶岡は知らない。だが、自分を追わせているものの正体は知り抜いていた。
梶岡を追わせているのは、植物であった。それは今、人間同士の権力争いのかたちをとらせているが、事実は地球を支配するものの交代なのであった。
植物が人間を追っている。支配しはじめている。人間はそれと気づかずに、植物にその地位をあけ渡そうとしているのであった。それは一見、人間自身の知恵の向上に見えている。物質文明の極限に達した人類は、それを得るために支払った巨大なものに気づき、文明の次の局面へ足を踏み入れようとしているのだと思っている。
梶岡は北へ向かう列車がホームへ入るまでのざわついた時間を、陸橋の階段の下でひっそりと過しながら、人類について考えていた。
要するに人類は、ここへくるのが精一杯の生き物だったのではなかろうか……。人類はおのれの魂《たましい》について語りつづけてきた。無数の人々が、黄金や宝石や、そして肉やパンではなく、魂のあり方にこそ問題があるのだと説いてきた。それはたしかに、すべての人間にとって、このうえもなく魅力的な考え方であった。どんな人間も一度は、パンのみにて生くるにあらず、という考え方をしたはずであった。しかし、次の瞬間、人間はパンに手をさしのべるのである。つまり、その考え方で、人間は誰一人すくわれなかったのだ。
やがて物質文明の坂を駆け登り、夢中になって人間はその頂上に近づいた。夢中になってより多くのパンを求めたのである。科学はパンを作りだす手段であった。そして、それを手に入れたとき、人間はやっと魂の問題に専念できるだろうと考えていたのだ。
梶岡が考えているのはそのことであった。
果たして人類は魂の問題にとりかかりうる生物だったのだろうか……。恐ろしい疑惑に、梶岡は直面していた。もし今梶岡が考えているように、そうでないとしたら、人類はここで終わらねばならない。
人類はもともと道具を作るだけの生物であったのだろう。ただ、次の生物への橋わたしとして、人類は僅かに魂の問題について考える能力を持っていたにすぎない。僅かに……ほんの少し……。ただそれだけのことだ。
たとえば猿と人間とをくらべた場合、猿は人間の幼児の段階を踏み超えることがない。それと同じように、魂の問題については、人間は次の生物の幼児の段階を超えることはないのだ。そして次の生物こそ、真に魂の問題に触れうる生物なのである。
その次の段階の生物とは……。
梶岡はコートの襟を立て、肩をすくめた。彼の脳裏には今、緑したたる深い森が描かれていた。
植物。知性ある植物。それこそ人類にかわって地球を支配する者だったのである。梶岡はさまざまなことに思い当たった。植物は死をよく知っている。植物の冬ごとの死は、動物の眠りよりはるかに深い死であろう。年ごとに死に、年ごとに生まれる命……。それが彼らの基本であれば、魂についてよく考えるのは当然のことである。しかも彼らの真の生命自体は、ほとんど不死に近い。自然にさからわず、宇宙の掟《おきて》に忠実にしたがいながら不死の生命をかるがると維持できる者が、なんで魂について考えずにいようか。
梶岡は再び人類について考える。
人類は死滅しはすまい。自然は何の理由もなく生命を生みだしたりしないはずだからである。人類という存在を煮つめていえば、移動し、道具を用いる生物ということになる。その移動する能力や、道具を作る習性はいったい何のためだったのか。
人類はそれをおのれ自身のためと思ってきた。その考え方は、あたかも天動説のようであった。宇宙の真の姿を知らぬ者は、こここそ天地の中心であり、すべてはおのれ自身のためにあると思い込んでしまう。それ以外に考えようもないのだ。
しかし地球は宇宙の片隅の点にすぎなかった。それと同じように、生命全体を考えると、人類はその全体のために何らかの理由で生みだされた未熟な生物らしいではないか。
何のために生まれてきたのだ……。
梶岡は何十年ぶりかでそう自問した。その問いは、自己の生命に気づいた者が常に発しつづけてきた、永遠の問いであった。そして今、次代の知性であるらしい植物に追われた梶岡は、はじめてその答えらしいものに突き当たっていた。
植物のために……。
否定したい答えではあったが、今の梶岡にそれをきっぱりと否定する力はなかった。
植物はほとんど移動できない。迅速《じんそく》に移動することは不可能な生物である。だが、人類と真の意味での共生を開始すれば、移動は可能になる。荒れ地に水をひいて生存圏を拡大することもできる。そして今までの植物も、さまざまなかたちでそれをやってきたではないか。種子を動物に運ばせる植物はけっして珍しいものではない。
その共生がはじまったのだ。彼らは人間の心を支配して、自分たちのために役立てるのだ。そのかわり、人間は今までけっして得られなかった何かを得るだろう。
それは多分、精神の安定と欲望の充足……。それに違いあるまい。梶岡はそう思った。
列車は北へ向かっていた。大勢の人間が、何気なく同じ列車に乗り合わせている。
梶岡は東京から遠ざかりながら、植物のことを考えつづけた。
北へ。寒冷地へ。
あの植物からのがれるには、それしかなかった。やがて何らかのかたちで彼らはそこへもやってくるだろう。しかし、今のところはまだ安全なはずであった。シダは南からやってきている。雪のつもる地帯に自己を適応させるには、まだ何世代かが必要なはずであった。
そこへのがれてどうしようというつもりは、もう梶岡にはまったくなかった。次代の支配者である植物の知性は、とうてい人間ごとき者の及ぶところではなかった。抵抗不能なのである。彼らはまったく不可解なやり方で人間同士の争いを作りだし、たくみに邪魔者を追い払ってしまう。その邪魔者を単に追い払うか、あるいは殺してしまうかは、まったく人間の恣意《しい》にまかされている。東京で、梶岡は徹底的にうちのめされてしまった。そのかたちは、一見滝沢元介一派との権力抗争になっているが、よくよく梶岡の敗因をさぐると、時代の転換という巨大なものにいきつくのであった。
たえまなく物を作り、費《つい》やし、自然を人工のものに置きかえていく時代は終わってしまったのだ。人々は自然を求めはじめ、至るところに緑の植物を育てはじめている。新しい道具より、古い道具をよく保存することに心を使いはじめた。
資源の問題……。梶岡の頭をそういう言葉がよぎり、次の瞬間彼は強く首を左右に振っていた。
違う。これまでやってきたことを考えれば、資源の問題も人類は克服したに違いない。たとえばエネルギー源にしても、高価な核燃料ではなく、そこらにころがっている小石からエネルギーをとりだすこともできるはずであった。食料にしても、大気や海水から必要なものを得る技術を開発し得たはずである。梶岡はその日がくることを信じ、物質文明の坂を登りつづけるつもりであった。
ところが、まだずっと先までつづいているはずの坂が、急に消えてしまったのだ。しかもそれを消したのは、なんと人間自身であった。それは恐ろしい勢いでやってきた。人々は列島改造の夢を嗤《わら》うようになり、澄んだ自然の水を富だと感じるようになった。作る者はうとまれ、費やす者はそしられた。
その中で、梶岡は敗れ去ったのであった。
滝沢元介に敗れたのではない……。いまや梶岡にとって、それだけが唯一のなぐさめであった。伊沢邦明が去ったのも、その巨大な動きの一部にすぎないのだ。
梶岡はふと、自分が雪のとけた土地をたがやし、麦や芋《いも》を育てているところを想像した。北で、多分そういう生活に入るしかあるまいと思った。つまり、植物は梶岡をものの見事に自分の思いどおりにしているのだった。
マンモス企業の最高幹部が、東京に憧《あこが》れて故郷をとびだした若者と同じように、いま失意の車窓にいる。まったく夢のようなことであった。しかし、梶岡はそれも理解した。
超栄商事の専務も、中華そば屋の出前持ちも、植物からすればしょせん同じものなのであろう。都市への集中は、こうやってなしくずしに解消され、人間はすべての土地に平均して住むことになるのであろう。そして植物のために奉仕するのだ。果たしてそのとき、人間はそれを植物のためと感じるだろうか。
ひょっとすると、人類の歴史でたえまなく進行してきた人口の都市集中は、植物との交代期に、植物側の働きかけを容易にするためではなかったろうか……。
梶岡はまた首を振った。
そんなことが判るわけがない。あの植物の知性を自分ごときがはかれるはずもないのだ。しかもそれは植物どころか、この地球上の生命すべてに関することなのである。判るわけがない。判るわけがない……。
ざわついていた車内が静かになり、列車は揺れながら北へ向かって夜を走っていた。梶岡はふと席を立ち、睡《ねむ》りはじめた人々のあいだを通って、洗面所へ行った。停車駅に近づいたらしく、その急行列車は減速しはじめたようであった。
「失礼……」
梶岡はその駅で降りるらしい若者の横を、そう言ってすり抜け、便所へ入った。列車の揺れがひどくなり、駅の構内へ入ったことが判った。
もう深夜で、そのデッキから降りる乗客はジーパンをはいたみすぼらしい若者一人だけらしかった。
梶岡がトイレのドアをあけて出ようとしたとき、彼はいきなり真正面から脳天を撲《なぐ》られた。梶岡はその一撃で、何が起こったのかも判らぬまま、意識を失って便所の中に倒れた。ビニールの風呂敷に細長い鈍器を包んだ若者は、さっと梶岡の体を踏みつけて便所の中へ入り、ドアをしめると急いで彼の所持金を奪った。
深夜の駅から、物哀《ものがな》しい駅名の呼称が聞こえていた。若者は梶岡の紙入れをポケットへねじ込み、デッキに置いてあるボストン・バッグと、もうひとつの包みを持って、素早くドアの前へ立った。列車が停《と》まり、ドアがあいた。若者はホームへ出ると陸橋のほうへ足早に歩いていく。
多分その若者も、都会から追い返された一人だったのだろう。富を掴みそこね、最後に梶岡のぼってりとふくらんだ紙入れを奪う機会に恵まれたのだ。
若者は階段を駆け登っていく。汚れた靴とすりきれはじめたジーパン、古びたボストン・バッグ……そして左手にかかえこむようにして、小さなアガルタの鉢植えを持っていた。若者の足が動くたび、そのシダの細い葉先が、おいでおいでをするように揺れていた。
ドアがしまり、列車が動きだした。ゴトン、ゴトンと陸橋の下を通りすぎていく。その何輛目かの便所で、梶岡は息たえていた。
北へ行く乗客の中には、あの若者と同じように、今都会ではやっているシダの鉢植えを土産《みやげ》に持ち帰る者が、何人もいるようであった。
雪の斜面を、三十人ばかりの男たちが登っていく。そろり、そろりと……。
ダーン。
上で銃声がすると、その中の一人が雪の中に倒れた。倒れた男もほかの男たちも、みな銃を手にしていた。
その中の一人が手を振って仲間に合図した。迂回《うかい》して上へまわれと言っているらしい。十人ほどが素早くその合図に従う。
斜面の中ほどに、雪に埋もれた小屋があって、その中に髭《ひげ》づらの男がいた。
「馬鹿者……」
髭だらけの男は小さな窓から外へ向かって喚《わめ》いた。
「貴様ら、何をしているのか判っているのか……」
その声がどこかで一度|谺《こだま》していた。
「貴様ら植物に操られているんだぞ」
登っていく男たちは、その声を黙殺した。とにかく彼らは、その男を殺すように命令されていた。何度も失敗し、やっといま追いつめたのだ。もう逃げられる気づかいはなかった。その小屋は完全に包囲されていた。
「俺と一緒にたたかえ。俺たちは味方同士なのだぞ」
虚《むな》しい声に聞こえた。風が強まり、また粉雪が舞いはじめた。
今度は包囲した男たちが撃った。
「植物が侵略して来ているんだ……」
応射しながら小屋の中の男が叫んだ。
「人間同士の争いはもう終わりなのだ……」
小屋の窓に短い火が見えた。
「世界中が争いをやめて……」
下から撃つ。
「共通の敵に……」
小屋のすぐそばで撃つ。
「共通の……」
一斉に撃つ。
男たちが小屋へ走った。
「敵を……」
小屋の中の声が細くなった。
「植物を……」
男たちが小屋の戸を蹴《け》やぶり、三人ほどがいっせいに小屋の中へ銃口を向けて連射した。
「馬鹿」
髭だらけの男は、そうつぶやいて死んだ。男たちは背後の森へその死体を引きずって行き、小屋にあったスコップで雪をどけ、土に深い穴を掘ってその中へ死体を投げ込んだ。土をかけ、雪をのせ、森を出ると小屋に火を放って斜面をおりはじめた。
植物の支配に抵抗する人間が、また一人死んだのだ。男の死体は土の中で腐り、森の木を養うはずであった。
角川文庫『楽園伝説』昭和54年7月10日初版発行
昭和59年3月20日8版発行