半村 良
幻視街
目 次
獣人街
巨根街
夢中犯
無縁の人
失われた水曜日
他人の掟《おきて》
幻視人
衝動買い
黙って坐れば
蒸 発
黒の収集車
ボール箱
赤い斜線
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獣人街
第一章
海が荒れている。
海岸ぞいにうねうねと曲りくねった道路が続き、その道路を支える石垣《いしがき》の下は岩だらけの磯《いそ》だ。磯は或る場所では百メートル程も海のほうへふくれあがるかと思えば、道路のまぢかまで後退している所もある。凪《な》いだ日には鮑《あわび》や栄螺《さざえ》がたくさん採れそうな地形だが、今はその岩たちは押し寄せる大波を砕くのに必死になっているように見える。
砕かれた大波は、白い飛沫《ひまつ》を風に乗せ思いがけぬ所まで汐水《しおみず》で濡《ぬ》らす。その砕ける時の恐ろしげな音と、波が引く時に慌《あわた》だしく岩場から連れ戻《もど》る海水の音に負けまいと、山の樹々《きぎ》が精一杯風に吠《ほ》えている。磯の反対側はどこも切り立った崖《がけ》で、ここにも到る所に岩塊が見え、ほんのひとゆすりで今にも崩れ落ちて来そうな気にさせる。
空の色は冷たい。
黒くはないが底知れぬ厚味を持った灰色である。低い雲でびっしりと掩《おお》ってあるのだろう。強風にもかかわらず、その厚い雲は動いている様子もない。山の樹々も道ばたの草の色も、緑というには暗すぎる。昼嵐《ひるあらし》の色と言おうか。
不吉と言うのはまだ不幸が来てはいないことだが、この景色は不幸そのものだ。不吉さはきのうかおとといあたりに、すでにこのあたりから去ったに違いない。気象台もこの悪天候を予測しかねたらしい。何の先触《さきぶ》れもなくきのうの午後から突然《とつぜん》荒れはじめ、人々を小さな家にとじこめてしまった。道路は到る所で荒波をかぶり、車の通行はおろか、すべての交通を拒否してしまっている。海に落ち込む山の下にへばりつき、磯づたいにうねうねと行くひよわな道は、もう息もたえだえで、人々は山の上の旧《ふる》い土の細道を通って、辛うじて用を足しているらしい。
それにしても、波というものほど執拗《しつよう》なものはあるまい。どの一回でも力を弱めるということなく、かと言って特に気張る回もなく、寄せては退《ひ》き、退いては寄せ、その幾億兆の繰り返しの中で岩を削ろうとしているのだ。
凪《な》ぎ晴れた日の午後、その岩磯の窪《くぼ》みに溜《たま》った水の中で、生ぬるい時間をたのしんでいたあの小魚どもは、この荒れた海のどこに身を寄せているのだろうか。蟹《かに》は、やどかりは……。
とどろく海と空の音の中に人影はまったくない。どこかの村の漁師が海に出たまままだ帰らないという噂《うわさ》が、風に乗ったように沿岸の村々に拡《ひろ》まっているが、それも狭い部屋の中のひそひそばなしに過ぎず、海と空が喚《わめ》き散らす中では、まるで取るに足りないことのようである。
多分その漁師はとうに溺《おぼ》れ死んでしまったに違いない。いや、今のことだから、漁船が沖へ出るとなれば、その乗組員は一人ではあるまい。この荒れた海の中では、どんなに逞《たくま》しかろうと、溺れ死ぬにきまっている。今ごろはどこかの磯に打ち寄せられ、柔かい肉がとがった岩に噛《か》まれてズタズタに切り裂かれていることだろう。
いずれにしても、これ程荒れた海には死の匂《にお》いが強い。母なる海が、送り出した命をひとつでも多く回収しようとしているようだ。
そしてその死の匂いがたちこめる海の中で、彼が揺れていた。彼は波に押しあげられ、また波と共に沈んで、しだいに岸に近寄って来ていた。彼は波のうねりの中で半ば眠っており、ほとんど体を動かさなかった。
半睡の状態で、彼は厚い灰色の空を見ていた。おのれが揺れているとは思わず、酔いすぎた時のように、天井が動いているように感じていた。彼はうねりに体をまかせ、あおむけに浮いていた。身動きもせずに浮いていられるのは不思議なことだったが、彼はそれには気付かずにいた。
彼の意識の中で、徐々に醒《さ》めはじめた部分があった。その部分は、知恵の部分よりずっと奥深く、彼の命の根源に近いようであった。何かがその部分に触れ、醒めよ、と命じているのだ。
――岸が近い――
突然彼はそう感じた。すると体が急に水の中に沈み、息苦しくなった。彼は両手両足を激しく動かして水を掻《か》き、浮き上がった。
肺が湿った息を吐き出し、汐風を吸い込んだ。彼は岸に正しく顔を向け、ゆっくりとうねりに乗って泳ぎはじめた。波の頂きに乗るたび陸が見えた。いや、大きな岩の塊《かたま》りを見たと言ったほうが正しかろう。水も空も同じ色で、その陸だけが黒ずんでいた。
――岩に気を付けねば――
彼はそう思った。岸の様子をまったく知らないのに、そんな警戒心を持つとは奇妙だが、それさえもまだ彼に感じるゆとりはなかった。
――岩が近い――
そう思ったとたん、彼は白い波頭を見た。そして彼を寄せた波が、今見た波のように白くなりはじめた。
彼は水の中で腰を落し、両手を斜め下方に突き出して、岩を探る構えを取った。海が彼を押し、陸に乗せようとしていた。いつ手が岩に触れ、どうやってそれにとりついたか、夢中の彼にはよく判らなかったが、乗っていた波をやりすごした時、彼はかすり傷ひとつ負わず、岩の上に這《は》いつくばっていた。その体を、退く波が逆に洗って行った。
次の波が彼の背後から襲った。一瞬彼の姿はその波に隠れ、すぐにしっかりと岩にへばりついて波にさらわれまいとしている姿が現われた。彼はその波が退きかけると、立ちあがってよろよろと道路を支える石垣のほうへのがれはじめた。次の波が打ち寄せるまでにそう時間のゆとりはなく、石垣へたどりつくまでにあと二回ほど彼は烈しく砕ける波に打たれた。
だが彼は結局石垣へたどりつき、そこでひと息入れた。道路へあがるには石垣が垂直であった。彼は石垣に手を当て、横這いに右へ移動して行った。その先に岩の盛りあがった場所があり、彼は波をかぶりながらその岩に這いあがると、やっと道路の上に出た。しかしその道路とて波をかぶっており、うっかりするともう一度海へさらい込まれかねなかった。
海の息づかいのような規則的な波のリズムの合い間を利用して、彼は比較的安全な山側へ移り、しばらくそこにじっとうずくまっていた。
彼はその荒海からたった今生まれ出たように見えた。たくましい体つきだったが、その体をかくすものは何ひとつ身につけていなかった。それに彼は疲れ切っているように見えた。波に叩《たた》かれずとも足もとはおぼつかなげで、やがて立ちあがって歩きはじめても、ヨロヨロとしていた。
彼は山側の崖にへばりつくようにして、蹌踉《そうろう》とその場を去った。とは言え、自分がどの方向へ行くべきか知っていたとも思えない。ただ、最初に体の重心が傾いた方へ、はずみで歩きはじめたに過ぎないらしい。
日は暮れはじめていた。
いつもなら、まだ陽の光が残っている時刻の筈《はず》だが、この荒天では暮れるのも早い。彼は人けのない道をよろめきながら進んで行った。
しばらく行くとごく小さな川が海へそそぎ込んでいる場所があった。その川は道路の下に埋め込まれた土管を通って磯へ流れ込んでいるらしく、橋らしいものは見当たらなかったが、道路からその小川ぞいに山側へ入り込む小径《こみち》がついていた。
彼は道をそれ、その小径へ入って行った。その部分では崖が道路から少し離れ、左側は小さな池のようになっていた。小径はすぐ急な登り坂になり、少し登ると石段になっていた。石段のはじまる所の木の繁みの中に、小型のライトバンが一台、汐風《しおかぜ》を避けるように停《と》めてあった。
全裸の彼はその石段を這うように登って行った。石段は途中で大きく右へ曲っていて、その先は崖の内側にうまく隠れていた。
石段がおわると小さな家が見えた。農家のようである。家の中から灯《あか》りが洩《も》れていた。庭先に放し飼いにされている数羽の鶏が、突然|闖入《ちんにゆう》して来た男に驚いてけたたましい啼声《なきごえ》をあげて四方に逃げ散った。
彼の足がその家の戸口へ向かって早くなった。早くなったと言うより、マラソンのランナーがゴールへ向って姿勢を崩し、倒れ込んで行くのに似ていた。
彼は左肩からその家の戸口へぶつかって行った。それがノックのかわりのようであった。板戸は大きな音をたて、すぐ家人が気付いたようであった。
「誰《だれ》や……」
内側から男の声がした。彼は答えず、肩で息をして戸に倚《よ》りかかっていた。その戸が内側から引きあけられると、はずみで彼は家の中へ倒れ込んで行った。戸をあけた男がその体を抱きとめる形になった。
「お……」
異常な事態に男は驚きの声をあげた。そこは入口の土間で、茶の間らしいとっつきの部屋から、中年の小柄な女と、中学生くらいの男の子が顔を突き出して見ていた。
「真っ裸やが」
中学生が叫んだ。彼を抱きとめた男は土間の中へ彼を引きずり入れた。
「冷え切っとる」
引きずりながら男が言った。この家のあるじだろう。
「誰やろ」
小柄な中年女が言った。女房らしい。
「風呂《ふろ》は昨夜《ゆんべ》のままやろ」
亭主《ていしゆ》はテキパキと言った。
「ハイ《おいね》」
「すぐに沸かせ。早《はよ》う暖《ぬく》めてやらにゃ」
女房はあわてて土間へおりると、風呂のある裏手へ走った。
「そこらに乾いたタオルがあるやろ」
亭主は息子に言った。息子は奥へ駆け込み、古びたタオルを何本か持って来た。その間に亭主は男を土間に坐《すわ》らせ、息子からタオルを受取ると体中を拭《ふ》いてやりはじめた。水を拭《ぬぐ》うと言うより、乾布摩擦《かんぷまさつ》をしてやっているようだ。
「服も着とらんと……」
息子が呆《あき》れたように言うと、亭主は叱《しか》りつけるように言った。
「浜へ降りて見い。一人だけやないかも知れん」
「うん」
息子は長靴《ながぐつ》をはき、ビニールのレインコートを着た。
「よう見るのやぞ。荒天《しけ》をくらった船が流れついとるのかも知れんさかい」
息子は返事もせずに飛び出して行った。
「おい……」
亭主は大声で女房を呼んだ。
「何《なん》やね」
裏から女房が顔をのぞかせて言う。男が全裸なので遠慮しているらしい。
「浴衣《ゆかた》の古いがでも持って来いま」
「あ、そうやね」
女房は家の中へあがり、すぐ亭主の古い浴衣を持って来た。
「沈んだ船の衆《し》やろか」
「そうやろ」
「運の強い人やねえ」
「まったく。こんな荒天《しけ》になあ」
亭主は落着きをとり戻したようだ。
「怪我《けが》もしとらんようやね」
「うん」
亭主は男に浴衣を着せおわると、小さくかけ声をかけて抱きあげ、茶の間へ運んで行った。
「しばらくここに寝せておこう」
女房は心得て奥から毛布を持って来て男に掛《か》けてやった。
「運がいいと言うか丈夫な男と言うか……」
亭主は苦笑しながら女房に言った。
「何《なつ》ともないのがけ……」
「疲れとるだけや。気が付いたら熱いかゆでも食わせて風呂に入れれば元気になるやろ」
女房は感心したように首を振った。
「知らせてやらにゃねえ」
亭主に同意を求めるように言う。
「どこへ……」
亭主はとがめるように言った。女房は返事につまり、
「そうやね。気がついてからでも遅うないわね」
と微笑した。
息子が息を切らせて戻って来る。
「何《なん》も見えんわ」
「船もか」
「ハイ《おいね》。船も人も、何《なん》も見えん」
「俺《おれ》が見て来よう」
亭主はそう言うと自分のゴム長をはき、ゴムの長合羽《なががつぱ》を着て外へ出て行った。
この辺りは半農半漁の土地だ。多分亭主は漁業関係者で、山の上に少しばかりの耕地を持っているのだろう。
夜になった。
彼はちょっと前に気付き、自分からむっくりと起きあがった。熱いかゆをうまそうに食い、風呂場へ案内されてしばらく湯の音をさせていた。
「どこの衆《し》やろ」
その間にまた女房が言った。気が付いてから、彼はまだひとことも口をきいてはいないのだった。
「そのうち落着けば言うやろ」
亭主は同情するように言い、一家三人はこのあたりに昔から言い伝えられている、海での遭難事件を思い出すままに語り合っていた。
彼が風呂から戻って来た。のっそりと茶の間の隅《すみ》に突っ立って、無表情で三人を眺《なが》めていた。
「まあそこへ坐らし」
亭主がすすめた。
「酒でもどうやね。一杯やったら元気もつくやろう」
彼は首を横に振りながら坐った。
「ほう、飲まんがかね」
彼は頷《うなず》く。
「どこの衆《し》やね。だいぶ流されたのやろうが」
彼は首を傾げる。
亭主はその様子を見て、ふと眉《まゆ》をひそめ、女房を見た。
「あんた、喋《しやべ》れんがと違うやろな」
彼は黙っている。女房が茶をいれてテーブルの上へ置くと、無造作にとりあげて飲みはじめた。
「あんたの名は何と言うのやね」
彼は茶碗《ちやわん》を置いて大きく息をついた。
「判《わか》らない」
低いが底力のある声だった。はじめて声を出したわけである。
「自分の名が判らん……」
「判らないのだ」
家族たちは互いに顔を見合せた。今彼が発した言葉に、この辺《あた》りの訛《なま》りはなかった。
「あのな……」
亭主があらたまった様子で言った。
「俺たちは、あんたが海にはまって運よくこの岸へ泳ぎついたんやと思うとった。そうやろ……それとも違うのかね」
「たしかに僕は海から来ました。気が付いたら泳いでいたのです。海はひどく荒れていました」
一家三人は言い合せたように頷《うなず》いた。
「陸《おか》へあがって少し歩くと……」
彼は少し思い出す時間を要し、その沈黙のあとまた続けた。
「そうだ、石段があった」
「おら家《うち》の石段やが」
男の子が言った。
「気が付くと、そこで寝ていたんです」
彼は亭主の横を顎《あご》でしゃくって示した。
「あんた、東京弁《とうきようべん》のようやが……」
亭主が訊《き》いた。
「東京……」
彼はよく判らないようだった。
「おいね。あんたの喋《しやべ》っているのは東京弁や」
「ここは何と言う所なんです」
「能登《のと》やがいね。前の海は富山湾《とやまわん》や。能登言うたかて、ここらはもう七尾《ななお》のずっと先や。奥能登やな」
「能登……」
亭主は女房に言った。
「ショックで記憶喪失になっとるのやないやろか」
「ほんにねえ」
女房は頷いて、しげしげと彼をみつめた。
「でも、なんしてあんな荒天《しけ》の海に居《お》ってたのやろうか」
「そらお前、船に乗っとったのやろ」
「あんな海へ誰が船を出すもんかいね」
「荒天《しけ》る前かも知れん」
「そやったら、二日も前のことになるがいね」
「そうやなあ」
亭主は首を振り、腕組みをした。
「着とる物は波に剥《は》ぎ取られてもうたさかい、こういうことやと、どこの誰やら判らんがになってもうたなあ」
「気の毒なねえ」
「明日、警察に報《し》らせたらどうやろう」
男の子がしたり顔で言った。
「当たり前や」
亭主が言った。
「なあ父上《とうと》。そしたら新聞に載《の》るやろか」
「そうやな」
「尋《たず》ね人やさかい、テレビにも映るかも知れんなあ」
男の子はうれしそうだった。きっと、発見者である自分たち一家の名も出ると思っているのだろう。
「東京……」
彼は一家の少しはしゃいだような雰囲気《ふんいき》とはかけ離れた、ひどく陰気な声でつぶやいた。
「ひょっとしたら漁師の船や無《の》うて、もう少《ちよつこ》し大きな船があの荒天《しけ》で沈んだのかも知れんな」
それに乗っていた生存者ではないかと言うのだ。
「それやったら、テレビで言うとる筈や。でも、七時のニュースは何も言うとらなんだ」
男の子が反論する。
「ここはどの辺なのかなあ」
彼がまた言った。能登と言われても見当がつかないらしい。
「そや、地図を持って来て教えてやれ」
亭主が息子に命じる。息子はいそいそと地図帳を取りに行った。
「ここが俺家《おらうち》のある場所やがいね」
息子は地図帳をひろげながら戻ると、彼のそばに坐って指さした。
「随分端《ずいぶんはし》のほうだな」
「ここが金沢《かなざわ》。東京はずっとこっちのほうや」
「僕は東京へ行きたい」
「そやったら、金沢へ出て、それから国鉄で行くのやね。金沢からこっちまわりで米原《まいばら》へ出て、新幹線に乗りかえるのと、反対まわりで直江津《なおえつ》から信越《しんえつ》線経由で行くのと、二通り行き方があるわいね。それやと乗りかえなしですむ。小松《こまつ》から飛行機で羽田《はねだ》へ行く行きかたもあるし……」
亭主はニヤニヤしていた。
「そんなこと言うても、この人は裸やぞ。海から素っ裸であがって来たんや。まず知っとる人をみつけんことには、東京へ行くにも切符も買えん」
「あ、そうやなあ」
息子は頭に手をやって笑った。
「心配ないわいね」
女房がなぐさめるように言う。
「警察にまかせていれば、新聞もテレビもあるし、すぐに知った人はみつかるわいね。おら夫《とうと》が明日一番で報らせるさかい、知った人が見つかるまで何日でも家《うち》におらし」
「それは困ります」
彼は妙にはっきりと言った。
「警察に報らせてもらっては困るんです」
「なんして……」
一家三人が同時に言った。
「その理由はあんたがたに関係ない」
彼は冷たい声で言った。
「そやかて、報らせんことにはどもならんやないかいね」
亭主が少し憤《おこ》ったように言った。
「君たちはどうしても報らせてしまうだろうな」
「当たり前やないか。おかしな人やな。それに、助けられたのやないか。別に恩に着せるつもりもないけど、もう少《ちよつこ》し穏やかな口をきいたらどうやね」
彼は無表情で立ちあがり、のっそりと暗い土間へおりて行った。
「少《ちよつこ》しおかしくなっとるのやろ」
亭主は自分の頭を指さして言った。
そのとたん、白っぽい浴衣が暗い土間から大きな鳥が翼をひろげたような感じで茶の間へとび込んで来た。
ギャッ、と言う汚れた叫び声がした。
まず亭主が太い棒で頭を撲《なぐ》られ、次に中学生の息子が頭を割られて倒れた。女房が黄色い悲鳴をあげて逃れようとするのへ、彼は脳天めがけて力まかせにその棒を振りおろした。
「何……何すんのや」
亭主は這って逃れようとした。彼は仁王立ちになって三度四度とその頭部へ棒を叩きつけた。
茶の間に三つの死体がころがっている。
彼はその家の亭主の服を探して着おわったところだった。彼のほうが亭主より少し上背があり、ズボンも上着も短めだった。
彼は手際よく現金のある場所を探しあて、一万円札を何枚かと、小銭をポケットにしまった。そして今度は車のキーを探しはじめた。キーは亭主が坐っていたうしろの茶箪笥《ちやだんす》の上に置いてあった。
彼は土間へおり、そこの灯りをつけると、亭主の革靴を引っぱり出して足をいれて見た。亭主は足の大きなほうだったらしく、どうやら彼の足にも合ったようであった。
彼は板戸をあけ、外へ出た。昼間より波の音も風の音もずっと穏《おだ》やかになっていた。彼は石段をおり、車のドアにキーをさし込んであけた。
すぐにエンジンの音が聞え、ライトがついた。彼はルーム・ランプをつけて息子の地図帳を調べると、車をバックさせて海岸ぞいの道路へ乗り出し、車を南へ向けると走り出した。
曲りくねった道の曲り角ごとに、まだ波しぶきをかぶっていたが、もうそれ程危険なことはなく、彼はワイパーを使って前方の視界を確保しながら、かなりのスピードを出している。
――あの一家は親切だった――
彼はへッド・ライトの光の中を凝視《ぎようし》しながらそう思った。
――あの息子は利口そうだった。きっと学校の成績もよかったに違いない――
彼は目をしばたたいた。涙が滲《にじ》み出ていたからだ。つつましく暮らしている一家を殺したことが悲しいのだ。
――俺は誰だ――
そう自問しはじめている。
――なぜ警察に知られてはいけないのだ――
明日になればあの一家が通報することが判っているからこそ、三人を殺してしまったのだが、その理由がよく判らなかった。
――ここは能登。そして行先は東京――
なぜ能登の海から這いあがったのか、見当もつかないのだ。
――その前はどこにいたのだ。なぜ素っ裸で海にいたのだ――
まるで見当がつかない。
――俺の言葉は東京弁だと言う。俺は東京にいたのか――
それも判らない。
――この道を往《ゆ》けば金沢という町へ着く。そこで列車に乗るのだ――
なぜかそれだけははっきりしていた。自分のこれからの行動はよく判っているのだ。しかし、なぜそうするのかが判らない。
――俺は誰だ。なぜここにいる。なぜ東京へ急ぐ。なぜ人を殺した――
まるで判らない。
ただ、彼はハンドルを握り、アクセルを踏み続けている。
――車の運転のしかたをなぜ知っているのだ。どこでそれを憶《おぼ》えた――
しかし彼は車の運転を熟知しているのだ。はじめて乗る車なのに、まるで自分の体の一部のような気がしている。
――俺はなぜこの道にいる。なぜこの土地にいる。なぜ生きている――
彼にとってすべては謎《なぞ》だ。ただ、車はひた走りに走る。荒天《しけ》が納まりかけた夜中の海ぞいの道だ。対向車はまったくない。曲り角のたびにタイヤが甲高く軋《きし》む。それだけ高速を出しているのだ。
――俺はどこへ行く――
東京という所へ行くことは漠然《ばくぜん》と判っているが、東京のどこへ行こうとしているのか判らなかった。
――何をしに行くのだ――
彼にはまるで判っていなかった。
まだ朝は早い。
その車は金沢の駅前に乗りすててあった。ごく平凡な車種で、その少し濡《ぬ》れたボデーが朝の陽光を浴びて光っていた。
彼は出札口から離れて、改札口のほうへ歩いて行く所だった。
あと二十分ほどで列車が入線する。思い思いの荷物を手にした乗客たちが、改札口のあたりにたむろしていた。
平和な朝の駅の風景である。
彼は時刻表をみあげた。金沢発五時四十一分。始発である。六時四十六分には富山へ着く鈍行だ。とにかくそれに乗ってしまう気でいる。あとのことはまだ考えていなかった。
七時七分発|長野《ながの》経由|上野《うえの》行、という文字がふと目についたが、果してそれが東京へ行く列車かどうか、よく判らなかった。手にした切符には、東京都内ゆき、と印刷してある。
やがて改札がはじまった。彼は荷物を持った人々にまじってホームへ出ると、足早に行く人々についてその列車に乗った。
――俺はこういう乗物をよく知っている――
堅い座席に坐って、彼はふとそう思った。まるで過去の記憶がないくせに、周囲のことはたいてい知っているのだ。
荒れた海や人を殺した夜が嘘《うそ》のような感じだった。空は爽《さわ》やかに晴れあがり、朝の光が鮮やかだった。
一番列車は空いていたが、少し魚臭かった。彼はその車輛《しやりよう》の中間あたりの席に坐っていたが、ふと気付いて立ちあがると、一番端の、ドアのすぐそばの席へ移った。
そこに古ぼけた鉄道路線図が貼《は》り出してあった。あの地図帳はライトバンの中へ置いて来てしまっていた。
上野。
彼はなんだ、と思った。それは東京の駅名なのだ。
――富山で上野行に乗り継げばいい――
彼はそう思い、また奇妙な感じに襲われた。切符の買い方も、金の単位も何もかもよく判っているし、車内の様子もよく判っているらしいのに、なぜ上野行というのが東京行というのと同じことなのか判らなかったのだろう。
――いったい俺は何者なのだ――
またしてもその疑問が湧《わ》き出して来る。
ベルが鳴り、列車が動き出した。あと一時間ちょっとで富山へ着く。
――そう言えば、富山という文字も俺は理解している――
トヤマ、と発音すべきことをちゃんと知っているのだ。
――俺の名は……――
自問し、思い出そうとしたが判らなかった。列車は速度を増し、すぐに東金沢という駅へ着いた。そうやって、ひと駅ごとに富山へ近付いて行くのだ。
富山駅へ着いた。
定刻通りだった。金沢発上野行の特急白山一号の切符を買うために一度ホームを出た彼は、自由席の切符を手に入れると、立食いのうどんを二杯|啜《すす》りこみ、腹ごしらえをした。
またホームへ入って少したつと、金沢を七時ちょっと過ぎに出た特急が着いた。座席は半分ほど空いていて、彼は海側の席の窓際《まどぎわ》に坐った。列車は二分ほどで走り出した。次の停車駅は魚津《うおづ》で、その間に案内のアナウンスがあり、上野着は午後一時五十三分の予定だと判った。列車はずっと海ぞいに走り、彼のいる窓からは、キラキラと輝く海が見え続けていた。
――なぜ海にいた――
彼はまた自問しはじめる。なぜか知らぬが、ひどく淋《さび》しかった。自分が誰で何をしに東京へ向かっているのかも判らず、心細い限りだった。車内には二人連れ、三人連れの旅客がいて、のんびりと喋《しやべ》り合っている。
――俺にもああいう仲間がいるのだろうか――
そう思い、記憶の奥深くまでまさぐって見るのだが、どこにもそれらしい手応《てごた》えはなく、その虚《むな》しさに気が滅入《めい》った。
彼は席を立ち、便所へ行って用を足したあと、洗面所の鏡で自分の顔を眺《なが》めた。手を水で濡《ぬ》らして乱れた髪を掻《か》きあげて見ると、思ったより小ざっぱりと刈《か》りあげていることを発見した。
――散髪をしたばかりらしい――
そう思ったとたん、首から下に純白の布をかけ、回転したりうしろに倒したりさせることのできる大型の椅子《いす》に坐った自分が記憶のどこからか蘇《よみが》えって来た。
同時に、その記憶のどこかに外国人がいるような気がした。それも一人や二人ではなく、かなりたくさんの数であるようだった。
――いつ、どこで散髪をしたのだろうか――
海から這いあがる以前にも、自分の生活があったことはたしかなようだった。だが、鏡に写る自分の顔にさえ、まったく見憶えがなかった。眉や口もとのあたりに、気の強そうな精悍《せいかん》な感じが漂ってはいるが、全体としては物堅い感じで、ただ目だけが自分でも薄気味悪く思う程鋭い光をたたえていた。
――これが俺か――
彼はそんな歴然《れきぜん》としたことにまで疑いを持った。
――本当にこれが俺の生まれた時からの顔なのだろうか――
列車が揺れ、彼は洗面所の壁に手をついて体を支えた。どうやら直江津駅構内へ入ったらしかった。
元の席に戻るとき、彼はそれまで感じなかった羞恥心《しゆうちしん》のようなものを味わった。それは大して根深いものではなく、他の乗客に対して多少気恥ずかしいと言った程度のことであった。
――なぜこんな気分になるのだ――
彼はそれを不思議に思った。原因がまったく思い当たらなかったのだ。
「なおえつ……なおえつ……」
駅のアナウンスが聞えていた。ホームの時計は九時半を指していた。
――時計の見方も知っている――
彼は自分自身をからかうようにそう思った。
――何も判らないくせに何でも知っている――
実際それは奇妙なことだった。極端な言い方をすれば、生きる目的が何も判らないのに、生きて行く技術だけはよく知り抜いているのだ。答の一方は濃い闇《やみ》にとざされていて、もう一方だけがしらじらとした光の中にさらけ出されている。
――東京とはどういう所なのだ。そして俺はなぜこんなに急いでそこへ向かっている――
彼のそういう疑問を、彼が乗っている特急列車がうまく表現しているようだった。海からそれ、山側へ入りこんだ列車は、小さな駅を片はしから通過していた。
春日山《かすがやま》、高田《たかだ》、南高田、脇野田《わきのだ》、北新井《きたあらい》、新井……。中にはあっと言う間に通り過ぎて、名さえよくたしかめられない駅もあった。
妙高《みようこう》高原、長野、上田《うえだ》……。三、四十分おきにそれらの大きな駅に停車したが、上田を過ぎて小諸《こもろ》に近づく頃から、彼の胃の腑《ふ》のあたりに急に固いしこりのようなものが出来て、それが全身に拡がって行った。
それと同時に、自分が何者で、どこへ何をしに行くのかと言うような疑問は消えて行った。残ったのは強い緊迫感と、何か得体《えたい》の知れない使命感のようなものであった。
仕事がはじまる。
その感覚を、彼はふとそんな風に思った。よく判らないが、以前よく味わった感覚のようであった。自分のことばかり考えて、ぼんやりと眺めていた車内の様子が、急に興味あるものになった。どれもこれも平凡な旅客に見えていたが、彼はその一人一人に冷静な観察を加えた。
終着駅まで行きそうな客と、途中で下車しそうな客の間には微妙な態度の差があり、注意深く見れば商店主かサラリーマンかということも識別できるようだった。
自分になぜそんなことを見分ける知識があるのかと言うことも、ついさっきまでなら強い疑問になるはずであったが、小諸駅を過ぎてからの彼には、そんなことよりもっと重大なことが自分に課せられているような気になっていた。
平原《ひらはら》、御代田《みよた》の二駅を過ぎると、その使命感のようなものはますます強くなって、焦燥感に近くなって行った。
彼は何かに追い立てられるように席を立ち、通路を歩いて行った。
次の車輛《しやりよう》へ入ると、彼はさりげなく空いた席に浅く腰をおろし、あたりの乗客を観察し、また立ちあがって便所へでも行くような態度で通路の左右に気を配りながら進んだ。
次の車輛はグリーン車であった。彼はそのドアをみつめて眉を寄せた。何か警報のようなものが頭の中に谺《こだま》していた。
理由も何もなかった。だがそれは、たとえて言うなら麻雀で大きな和了《ホーラ》を目前にしている時のような気分だった。そしてそう思うことで彼は自分が麻雀というゲームに詳しいことを悟っていた。同時にそれは大きな取引に成功しかけている時の気分にも似ていた。競争相手の知らない情報を掴《つか》んだ時の高揚した気分とも共通しているし、間もなく美しい女とベッドを共にする時のようでもあった。
失敗はできない。
折角《せつかく》ここまで来て、愚かなミスでチャンスを失ってはいけないと思っていた。ただ、なぜそうなのか、それが判らないだけだった。
第二章
グリーン車で一人の女を見た時、彼の緊張は頂点に達した。その女こそ、彼が探していた人物であった。だがそれがいままでに一度も見たことのない女であることは、海から這《は》いあがって以来の経験と同じであった。
彼はグリーン車の外へ出て、デッキのあたりからその女を監視していた。女はまだ若いようだ。二十五か六くらいに思える。ベージュのセーターを着て、薄茶色の上着に同色のパンタロンをはいていた。網棚《あみだな》の上の小さなスーツケースをおろす時、顔が一瞬まともに彼のほうへ向いた。グリーン車のドアがあけ放しになっていて、彼はあわてて顔をそむけた。
相手に顔を見られてはいけない、と思った。彼は揺れるデッキの壁に倚《よ》りかかり、走り去る外の景色に目をやった。緑の中に色づいた樹々が或るものは華麗に、或るものは侘《わび》しげにまじっていた。
――顔を隠せということは、あの女に顔を知られているということだぞ――
彼はそう思い、体に痺《しび》れのようなものが走り抜けるのを感じた。
自分を知っている人間があそこにいる。
それは間違いのないことのようだった。走る車内ではその女に逃げられる心配もなかったし、網棚から荷物をおろした様子では、次の停車駅で降りる気なのは間違いなさそうであった。
彼はもう一度その女の様子をうかがった。かなりの美人であった。それに、いい暮しをしている女のようにも思った。女はスーツケースを持って、彼がいるほうとは反対側のドアへ歩いて行った。
その時、自由席の車輛のほうから、二十歳《はたち》くらいの生意気そうな若い男が、咥《くわ》え煙草でデッキへ出て来て、彼のすぐそばに立ちどまり、外を眺めはじめた。長い髪を綺麗《きれい》にウエーブさせ、派手な背広を着て濃いサングラスをしていた。
「この次の駅は……」
彼はその若い男を睨《にら》みつけるようにして訊《き》いた。
「ん……」
目の表情は濃いサングラスで窺《うかが》えなかったが、若い男は少し怯《おび》えたように彼に顔を向け、
「軽井沢《かるいざわ》」
と早口に答えた。
言ったすぐあと、列車は減速し、ガタンガタンとレールの継ぎ目の音を短くさせながら駅の構内へ入って行った。
彼は無造作に若い男の顔に手をのばし、相手がよけるひまもなくサングラスを奪い取った。そして、黙って自分がかけた。若い男は呆気《あつけ》に取られたようにそれをみつめていた。
譲れとも呉《く》れとも、彼は言わなかった。それが今急に必要になった理由も説明しなかった。若い男は気を呑まれたようにその場に突っ立っていた。きっと逃げ出すゆとりもなかったに違いない。咥えた煙草の灰が長くなり、ポロリと崩れて派手な背広の胸のあたりを白く汚した。
列車が停り、ドアがあいた。
「かるい、ざわ……」
アナウンスがそう言っていた。彼はホームへ出ると素早く反対側の端へ行ってたたずみ、今降りた乗客とは別なようなふりをした。
ひとつ先のドアからあの女がホームへ降り立った。彼はゆっくりとそのあとを追った。軽井沢での停車時間は思っていたより長く、その女が改札口を出てもまだ列車は動こうとはしなかった。
晩秋、と言うより、すでにこの高原では初冬の風情であった。海岸地方ではまだコートが要るほどではないのだが、駅のあたりにいる人々は、コートを着た者が多かった。その女も少し肌寒《はだざむ》そうに肩をすぼめていた。
駅の建物を出た女は、立ち止ってあたりを見まわしている。駅前は閑散とした感じで、女のそばへ一台の黒塗りの国産車が近寄って来た。運転していた男が、車の中でうしろへ体をのばし、ドアのロックを外した。女は自分でそのドアをあけ、スーツケースを先に入れると続いてすべり込み、ドアをしめた。ドアがしまると同時に車はすぐ走り出した。
彼は眉を寄せて走り去る車を見送っていた。車は駅前から北へほぼ直線にのびる道路を、そうスピードをあげるでもなく走り去って行った。
だが彼は、彼自身意外なほど失望しなかった。女がどこへ去ったのか見当もつかなかったし、どの辺りを探したらまためぐり会えるか判らなかったが、そんなことはいっこうに気にならなかった。
駅の時計はもうすぐに正午であることを示していた。彼はゆっくりと歩きはじめ、駅の近くに安っぽい中華そば屋を見つけると、そこへ入ってチャーハンを注文した。
正午を三十分ほど過ぎた頃、彼は駅前から北に向かう道を急ぐでもなく歩きはじめていた。
それは彼にとってまったく記憶のない道であった。快晴の澄んだ空の下を、彼は秋の陽《ひ》を浴びながらのんびりと散歩しているように見えた。まっすぐにのびた道を、どこまでもどこまでも歩いて行くのであった。
途中に数え切れぬ程の道が分れていたが、彼はそんな道には目もくれなかった。彼の知性よりも深い所にある何かが、彼の行くべき場所を教えているようであった。
やがて道はゆるく左に曲り、その奥のほうにはゴルフ場があるようであった。
彼はなおも進み、急に思いついたように道路を横切って右側へ渡った。そのあたりは旧軽井沢と呼ばれる一帯である。彼は勝手を知り抜いた者のように、一本の細い道へ入り込んで行った。その細い道は、大きな別荘の並ぶ間を縫《ぬ》って奥深く続いていた。
枯れ落葉が道を敷きつめたように飾っていた。風は乾き、空気は水晶を気体にしたかと思うほど硬質でしかも透明であった。次の風のひと吹きでこの年の命の最後の舞いを舞うのではないかとさえ思える樹々の葉は黄金《こがね》色に輝き、或いは深く落着いた赤に染めあげられ、耳を澄ませば乾いた葉のささやきのほかに、どこからか弦楽器群の音がかすかに流れて来るようだった。
――あれはヴィヴァルディだ――
彼はそう思った。そして、その知識こそ、自分が今のようになる前の生活のあかしであると思った。
――音楽を愛する男。それが俺だったのだ――
だが今は、目的も判らずに一人の女のあとを追っている。
――あの女をみつけて何をするつもりなのだ――
胃の腑《ふ》の辺りにあった原因不明の緊張感が少し薄らいでいて、また彼は自問をはじめていた。
――この先もこんなわけのわからない生き方をするくらいなら、あの黄金《こがね》色の木の葉たちのように、この美しく透明な風に舞い散り、この静かな木立の間で、ヴィヴァルディを聴きながら朽ちてしまったほうがどれほどしあわせなことだろうか――
彼は前方に見える林を眺めながら、そう思った。
と、その時、今まで聞えていた曲が不意に消えた。そのかわりに車をスタートさせる音が意外な近さで聞え、タイヤが落葉を踏む音がした。そしてすぐに、黒塗りの国産車が左手から姿を現わし、彼のほうへ進んで来た。運転しているのは三十くらいの男で、駅前で女を乗せた男に間違いなかった。あの女は乗っておらず、車は彼の横を通り過ぎ去ってしまった。
車の音が消えて、あたりはまた静かになった。すると、それを待っていたように、ごく穏やかな弦の音が聞えはじめた。
彼は立ちどまって耳を傾けた。音楽は車が現われたのと同じ場所から聞えて来るようであった。
静かな弦の音に、すぐ強い低音の響きがまじり、一気に荒々しい感じの音があたりに溢《あふ》れた。
――ベルリオーズだ――
彼は秋の木立の中で幻想交響曲を聴いていた。荒々しい感じの音はすぐにまた静かな弦のメロディに変わった。そしてそれもまたすぐに激しい旋律に移って行く。
何かが、彼の記憶に触れて来た。言って見れば、それは前世の記憶でもあるかのように、確固として、しかも信じ難く、正体不明であった。
――俺は歩き出す――
彼はそう思い、思ったとたん歩き出していた。
――この角を左に曲ると山荘風の建物がある――
彼の遠い記憶が告げ、彼はその通りに角を曲って山荘風の建物を見た。遠い記憶の通りの風景がそこにあった。
――これは既視感覚《デジヤ・ヴイウ》か――
彼は自分が正気でいようとしてそう思った。しかしその感覚は去らず、純白のブラウスに黒いタイトスカートをはいた女が、その山荘の入口に姿を現わす筈であることを悟っていた。
純白のブラウスに黒いタイトスカートをはいた女は、グリーン車の中にいた女であった。彼女は家の中のステレオのヴォリュームを一杯にあげ、建物の前に広がった芝生の庭の中央あたりにある白い椅子に坐って、音楽を聴こうとしていたようであった。入口から現われて木の短い階段を降りかけた。
彼は庭の入口に立ち止って彼女をみつめていた。
女が彼のほうを見た。曲はなめらかな旋律に変わっていたが、それが小刻みな感じに変わり、テンポが早くなった。
女の顔に驚愕《きようがく》の表情が走った。
――アレグロ・ノン・トロッポ――
彼は女の表情をみつめながら、頭の片隅でそう思った。
――あの女は死ぬ――
結論だけが頭に泛《うか》んでいた。
――第四楽章、断頭台への行進――
彼は女のほうへ歩き、女はあとずさった。
「助けて……」
女が乾いた声で言った。ティンパニーと弱音器つきのホルンと、そして弦のリズム。
彼は短い木の階段をゆっくりと登った。女はドアをあけ、なおもあとずさって建物の中へ入った。彼はドアをあけ、そのあとに続いた。かなりの大きさの建物であったが、無人のようであった。
「教えてもらいたい」
彼は言った。女は蒼白《あおじろ》い顔であとずさっていた。
「君は僕を知っているんですか」
女はかぶりを振った。
「知……知らないわ」
「僕は君を殺してしまう。でも、なぜなんだろう。君はそれを知らないのか」
「知らないの。知らないのよ」
女は涙を溢《あふ》れさせていた。
「たった今まで、何も知らなかったの。あなたに殺されるなんて」
彼は頷《うなず》いた。
多分その女の言っていることは本当だろうと思った。なぜかそれも遠い記憶にあるようだった。
「どうして僕は君を殺してしまうのだろう」
「どうしてかしら」
女はすっかりあきらめたようであった。あとずさるのをやめ、弦楽器の旋律が満ち溢れる中で、恐怖の表情から脱け出しはじめているようだった。
「この軽井沢で死ぬのね」
「そうだ。ここの秋は美しい。僕は君にふさわしいと思っている」
「人を愛したわ」
女が言った。
「今までに恋人が二人いたの。二人とも、好きだったのよ」
彼は恋しい思いで女をみつめた。純白のブラウスに黒のタイトスカートは、清純さと艶《つや》やかさを併《あわ》せ示していた。
「なぜなのだろう」
彼はそう言いながら女に近寄り、恋人がキスを与える時のように体を寄せると、女のか細い頸《くび》に両手をあてて、一気に力をこめた。
いつの間にか第五楽章も終りに近くなっていて、コル・レーニョの中で木管がまがまがしく叫んでいた。
四時五十三分発の上野行に彼は間に合った。しかしその特急は混んでいて、座席は空いていなかった。彼は走り出す列車のデッキに立って、ドアのガラス越しに外を眺めた。その方角に、あの女の死体が残っているのだった。
――…………――
あの交響曲のはじめにあらわれる、第一ヴァイオリンとフルートがかなでる息の長い第一主題が彼の頭の中に聞えていた。それはたしか、恋人を表現したものであった筈だ。
――さようなら――
彼は車窓を流れ去る軽井沢の秋景色に向かって、心の中で呼びかけていた。
――名さえ聞かなかった――
彼は悲しんでいた。ふと左手をひろげて眺める。その五本の指は、あの女の頸を絞めるとき鉤《かぎ》のように曲っていたのだった。
――彼女は俺に殺されることを知っていた。なぜ知っていたのだ――
胃の腑の辺りのしこりは消えていて、何かに憑《つ》かれたようなあのどうしようもない緊迫感は去っていた。そして、それが去った分だけ彼は自己を取り戻しているのだ。
――俺は何かに導かれて、迷わずあの女のところへ行った。あの別荘で彼女を見た瞬間、これは異常なことだと悟るべきではないか。彼女を殺してしまうことさえ予見できたのではあるまいか――
彼はおのれの無力さを嗤《わら》いたいように思った。自分が次にする行動について、何ひとつ知ってはいないのだ。
――理性はどこへ行ったのだ。自制心はどこへ行ったのだ――
そう自問した時、例の根源的な深層から、答がはね返って来た。
――理性など、あるものか。自制心など、あるものか――
彼は自己の奥深くに向かって問いかけた。それは小さな管《くだ》に口をつけて地の底へ叫ぶのに似ていた。
――お前は誰だ。俺に何をさせようと言うのだ――
当然のことながら答はなかった。彼は自分が荒野の只中《ただなか》に立たされているように思った。語るべき相手も、答えてくれる者もなく、見渡す限りの荒野は罌粟粒《けしつぶ》ほどもない彼を無視し、巨大すぎる意味をあたりに無造作にぶち撒《ま》けて存在し続けているのだ。
――なぜだ――
彼は巨大すぎて理解不能なその意味に対し、絶望するよりなかった。なぜ、という問いは荒野に対しては向かわず、ただおのれの卑小さを責めるだけでしかなかった。
――死ねばいいのか――
彼は自己|嫌悪《けんお》の中でそう思った。彼に好意を示した三人を撲殺《ぼくさつ》していた。行きずりの美しい女を絞殺《こうさつ》した。そして今、列車は彼を東京へ運んでいる。
彼は走る列車を時そのもののように感じた。その時が、次の凶行へ自分を運んで行くように感じた。時を停めることが不可能であるなら、自分が死ぬしかない。
そのとたん、彼は自分でも意外な程、強い確信を伴ったひとつの考えにとらわれた。
――お前は死なない。お前は決して滅びない――
その時彼は、ドアのガラスに映る自分の顔をみつめていた。その顔はたった今|泛《うか》んだ考えを裏付けているように、生気に溢れ、逞《たくま》しく、そして鋭かった。
感じていた自己嫌悪と絶望が遠のいて行った。彼はおのれを励ますように、ガラスに映る自分の顔に向かって心の中で繰り返した。
――お前は死なない。お前は滅びない――
この男が滅びるわけがない。滅びるとしてもそれはまだ遠い先のことだ。彼はそう確信した。ガラスに映った彼の顔は、それ程力に溢れていた。
――俺は生きている。生きて、使命を授っているのだ。使命を果すことが生きるということだ。弱い者はいずれ敗れて滅びる。俺は彼らの滅びに手をかすのではない。使命を果しているだけなのだ。死んだ四人はたまたま自分の行手に居合せただけなのだ――
考えて見れば、能登の一家は彼のことを警察に告げようとしたではないか。そうすれば必然的にテレビや新聞で報道されてしまう。そしてそのことは、彼に与えられた使命に障害となったに違いない。だから抹殺《まつさつ》せねばならなかったのだろう。
――こうして生きている以上、与えられた使命を信じよう――
彼はそう思った。理解不能なことに思い悩んで自己を責めても仕方がないと思った。それよりも何かを信じて生きるほうが気が楽だ。いや、気が楽と言うのは安易な言葉だろう。生きている以上、そうするのが正しいのだ。生の意味に思い悩みつつ送るのもひとつの生き方なら、生きていることを前提に、使命を信じてそれに従う生き方もある。
彼の内部に、闘志のようなものが沸き立って来た。
車窓に夕闇がへばりつきはじめていた。はじめそれはごく薄い膜のように見えたが、夕闇の中を疾走する列車は、その膜を幾重にも重ねさせ、やがてうっすらと彼の顔を映していた透明なガラスは、外側を闇に塗りこめられて、鏡のようにくっきりと彼を映すようになった。
彼はデッキに立ちつくし、外界を失って揺られていた。揺れているのは時の箱であった。その箱の中で東京へ入った。
上野駅の時計は七時を指していた。
彼は改札口を出ると、ろくに考えもせずまっすぐに歩いて行った。どこへ行くべきか全く判っていないのだから考えても仕方ないことだったが、とにかく足がそのほうへ向かったのである。
外は暗く、頭上のガードから電車の通る音が彼をおし包んだ。
目の前に横断歩道があり、ちょうど信号が青になっていた。彼はためらわずに道路を横断し、左へ行ってすぐ高架線ぞいの通りへ入り込んだ。大きなパチンコ屋やキャバレーのネオンが道を明るく彩《いろど》っていた。
上野駅の改札口を出た時から、また胃のあたりが緊張しはじめていた。
――ここに何かある筈だ――
彼はそう思った。もう自分を吸い寄せるものに逆らう気はなくなっていた。本能に似たものに導かれるまま、自分の体を運んで行く気になっているのだ。
彼はその道をまっすぐに歩いて行った。
――どんな相手に会えと言うのだろう――
まるで彼は何者かの命令を受領しているような気分で、自分が次に起す行動を待っていた。しかし、その道をいくら行っても、それらしい衝動が現われなかった。
道は広い通りと直角に交わる所で終っていたが、その広い通りを横断すれば、その先にまだ高架線に沿った道が続いているのが判った。
彼は横断し、その道を更に進んだ。しだいに薄暗くなって行く。灯りを消し、扉《とびら》をとざした商店が増え、街路灯だけが白々と光っていた。人影もまばらになり、彼の靴音がコツコツと響くようになった。
少し先に大型の乗用車が停まっていた。左側のシャッターをおろした商店の前に寄せてあり、その前方から一人の男が歩いて来た。
とたんに彼の内部にけだものじみた闘志が湧きあがった。
――これだな――
彼はかすかにそう意識したが、それはすぐ狂ったような闘争心に押し流され、消え去ってしまった。
その車は白っぽい外車だった。幅が広く、いかにも贅沢《ぜいたく》な感じだったが、同時に少し軽薄な感じでもあった。
男は車の左側へ入りこんで、ドアにキーをさし込もうとしていた。コツコツと響いていた彼の靴音が消えた。彼は商店のシャッターと車の間へすべり込むと、いきなり男に掴《つか》みかかった。左手で相手の背広の襟《えり》もとをとらえ、驚いて首を彼のほうへねじったその顎《あご》へ、右の拳《こぶし》を力まかせに突きあげた。
男は妙に籠《こも》った声を立ててよろめいたが、彼の左手がそれを支えていた。続いて鳩尾《みぞおち》へ二発。男は体を折り、彼が左手をはなすと道にへたり込んでしまった。
彼は男が左手に掴んでいる小さな黒い鞄《かばん》を奪った。
「て……てめえ」
男は苦しそうに言った。彼は右の爪先《つまさき》でその顔を蹴《け》りあげた。男はあおむけに倒れた。
いい服を着ていた。彼はその襟についた小さなバッジをむしり取った。キーはドアに差し込んだままになっており、彼は難なくドアをあけると、運転席に入ってドアをしめ、キーをさし込んでエンジンをスタートさせた。
男が車のボデーにすがって立ちあがり、何か喚《わめ》いた。彼はアクセルを踏み、一気に走らせた。ボデーにとりすがっていた男は、そのはずみに体を二回転ほどさせ、たった今まで自分の車があった道路の上へころがった。
すぐ先に直進と左折を示す標識があり、彼はハンドルを左に切った。車は国電のガードをくぐり、反対側へ出た。
その車の乗心地は上乗《じようじよう》であった。
彼はその乗心地を楽しむ為に、あてもなく走りまわり、やがて交通量の少い通りで車を停めた。
奪った鞄をあけて見る。
札束がつまっていた。それに茶色の長い封筒がひとつ。口をあけて中のものを引き出すと、それは柔かい何枚かの紙を綴《と》じた書類だった。不動産の権利書らしい。それに約束手形が一通。額面はきっちり一億であった。
彼は車の中で首を傾《かし》げた。
――これが必要だったのか――
そう思いながら、上着の右ポケットにいれたバッジをとり出して眺めた。金色をしている。
それを眺めて考えているうちに、急に空腹を感じた。彼は車をスタートさせ、食い物屋を探しはじめた。あれからまだ一時間もたってはおらず、街の飲食店はどこもまだ営業していた。
――ステーキでも食おうか――
そう思ったとたん、彼は自分の服装に気付いた。列車の中で何か気恥ずかしく感じたのは、つんつるてんの服のせいらしかった。
――この服装に見合う店でなければ――
彼はそう思い、うらぶれた感じの食堂をみつけると、少し先に車を停めてその店へ入った。
焼魚の定食のほかに、豚肉ともやしのいためたのを注文して、彼は素早く食事をおえた。能登で奪った金で勘定をすませ、車に戻りながら、今夜はその車の中で睡《ねむ》ろうと思った。
――明日になったら服を買わねば――
また車を走らせはじめた彼はそう思い、同時にあの遠い記憶を感じていた。
――俺はかなりいい生活をしていた人間ではないだろうか――
服のことを考えた時、無意識に生地や柄について考えたからだった。
――おしゃれな奴《やつ》だったのかな――
彼はニヤリとした。
だが、その夜はまだ終らなかった。無難に車の中で一夜を過すべき場所を探して走りまわっている内に、彼はもう一度上野駅に戻ってみたくなりはじめていたのだ。しかし、奪った車で元の上野へ戻るわけにも行かない気がした。何せ派手で目立つ車なのだ。
彼は有料駐車場へ乗り入れ、車を置くと通りへ戻ってタクシーを拾った。
「上野駅」
運転手にそう告げ、シートにもたれた。黒い鞄はあの車の中に置き、札束をひとつ内ポケットにねじ込んである。
運転手は地方へ戻る客だと思ったらしく、生まれはどこだと尋《たず》ねて来た。
「東北だよ」
彼はそう答えた。
「東京は長いのかね」
「いや」
「それにしちゃ訛《なま》りがないね。俺は秋田《あきた》なんだ。もう十年も東京にいるが、訛りが抜けないのさ。判るだろう」
運転手は気のいい男らしく、自分の郷里のことを喋《しやべ》り続けた。
――この運転手が俺を東北のどこかの生まれだと思うことを知って答えている――
彼はそう思い、ちょっとおかしくなった。
何も判らなくても気にすることはないのだ。必要なことはその場になれば何でも知っているのだ。
「どんな仕事をしている人間に見えるかね」
彼は尋ねて見た。
「出稼《でかせ》ぎ……じゃないかな。うん、違うようだな。役所の人かい。当たったろう。でも、だいぶ山ン中の役所かな」
運転手はそう言って笑った。
「どうしてそう思う」
「言っちゃ悪いけれど、着てるものが流行遅れすぎるよ」
「そうか」
彼も笑って見せた。とにかく、その運転手にも肉体労働者には見えなかったわけである。
「随分《ずいぶん》遅いのに乗るんだね」
「うん」
「この時間だと……当てて見ようか」
「うん」
「急行|出羽《でわ》かな」
「当たったよ」
彼はいいかげんに答えた。
「そうだろう。あれは酒田《さかた》までだ。朝の八時頃に着くんだ」
「うん」
彼はあいまいに答え続けた。
――俺はその列車のことをよく知らない――
答えながら彼はそう思った。酒田という土地が日本海側であることくらいしか判らないのだ。
――多分俺は余り東北には縁のない生活をしていたんだろう――
すると彼は、なぜか飛行機のことを頭に思い泛《うか》べた。ジェット旅客機である。空港のカウンターのあたりや搭乗《とうじよう》手続きなどが次々に泛んで来る。
――海外旅行をしたことがあるらしい――
彼はそう思った。なぜなら、パスポートのことがその知識の中にまじっていたからだ。
――どこへ行ったのだろう――
自分の過去に対する欲求が強まって来た。
――知りたい。知らねばならない――
それは海から這いあがって以来、はじめての感覚であった。自分の中のとほうもなく深い所から湧きあがる衝動のようなものに身をゆだねる時と、それが遠のいてもっと浅い所から発する自問に苦しむ場合が、今までははっきり分れていた。しかし今はそれが重なっているのだ。失った過去を探せと、根源的なものが命令しているのだ。
――探そう。だがそれは明日のことだ――
上野駅が近付いていた。
タクシーを降りた彼は、左のほうへ歩きはじめた。地下へ降りる階段がその先にあった。
階段を降りて行くと、饐《す》えたような匂いが漂って来た。
――ここが目的地だ――
胃のあたりの緊張がたかまったのですぐそれと判った。
彼は上野駅の地下道を歩きまわりはじめた。一、二度地上へ出てしまいそうになり、また地下へ引き返して、複雑な道をなるべく奥へ向かうよう心がけた。
あちこちの隅《すみ》に、薄汚れた男たちがたむろしていた。そして彼らのそばを通るたび、緊張がたかまるのだった。
――俺はこの男たちに用があるのだろうか――
どうもそうらしいと気付くと、彼は時々立ちどまってその男たちを眺めた。
別に観察するわけではなかった。そうやっていれば、自分に反応を示す相手が現われる筈だと信じていたのだ。
だが、なかなかその反応は現われず、時間が過ぎて行った。
歩きまわる内に、彼は私鉄の駅の改札口へ来ていた。
――何か間違ったのだろうか――
そう思いながらぼんやりと電車を見ていると、うしろから肩を叩かれた。
「面白いところがあるんだけどな」
チンピラ風の若い男だった。
「金はあるよ」
彼は気さくに答えた。
「だと思った」
チンピラはニヤリとした。
「行くかい」
「ああ」
「少し値が張るけど……」
彼は一万円札を一枚出して相手に渡した。
「どこへでも行くよ」
「へえ……」
若い男は意外そうに言い、急いで札をポケットへしまった。
「だいぶ持ってるな」
「まあね」
「じゃあこっちもサービスしなきゃ。いろいろとあるんだ。あんた博奕《ばくち》のほうは……」
彼はちょっと考えた。
「あんまり好きじゃないけど」
「女かい」
「何でもいい」
「そう言われても困っちゃうよ」
「じゃあ博奕にするか」
すると若い男は狡《ずる》そうな笑い方をした。
「もうちょっと遅くなってからでないとな」
彼は肩をすくめて見せた。
「その前に景気づけってのはどうかな」
「どこで……」
「凄《すげ》え店があるんだぜ。キャバレーだけどよ」
「何でもいい。連れて行ってくれよ」
そう言うと若い男はゆっくりと歩きはじめた。
「あんた、いい気《き》っ風《ぷ》だね」
「そうかな」
「珍しいよ。前金をくれるなんて」
「案内料さ」
「でも変だな」
「どうして」
「東京の人だろ。言葉で判るよ。見たとこ田舎《いなか》の奴だと思ったんだけど。……まさか刑事《デカ》じゃあるまいな」
「そんな風に見えるかい」
「見えねえこともねえな」
「だったらなぜ連れて行く」
すると若い男は笑った。
「刑事じゃねえさ。判るよ、そのくらい」
二人は地上へ出ると、少し歩いて通りの向う側へ渡った。
彼が最初に入りこんだ道へ向かっている。
――やはりここか――
彼はそう思った。
「こっちだ」
若い男は彼を連れて、二股《ふたまた》に別れた道の右のほうへ連れ込んだ。
「この店さ。でも、本当に金は大丈夫かい」
そう言われ、彼は内ポケットへ手をいれると、あの黒い鞄から抜いて来た札束をのぞかせた。
若い男は口をとがらせてヒュウと鳴らした。
「凄えや。でもあんまり見せびらかすなよ」
親切そうに言う。
「判ってるよ」
若い男は左手を突き出した。
「一枚|寄越《よこ》しな」
「どうするんだ」
「千円札にするのさ。こういう店はチップ次第だもの」
渡すと入口のボーイにそれをこまかくさせ、その一枚を縦に二つ折りにしてボーイに渡した。
「さあはじまりだ」
若い男はうれしそうに言った。
うす暗い店の中へ入ると、正面のステージでショーが始まっていた。ヌード・ダンサーが二人、からみ合うように踊っている。
若い男はその店に詳しいらしく、別なボーイに気安《きやす》く声をかけられると、今度は縦二つ折りの千円札を二枚渡して席へ案内させた。安っぽい衣裳《いしよう》をまとったホステスたちが、五、六人一度に集って来る。
「見た目はそうでもないけど、大した人なんだぜ」
若い男がそんな風に彼を紹介し、急に低い声になって、
「あんたの名前を聞き忘れちゃった」
と言った。
「自分でもよく判らないのさ」
彼は正直に答えた。すると若い男ははじけたように笑い出し、
「こいつはしっかりしてやがら」
と言った。
ビールが七、八本も一度にテーブルの上に載り、女たちが勝手にめいめいのグラスに注いだ。
「乾杯」
若い男が言い、彼の両どなりに侍《はべ》ったホステスが、
「はじめまして」
と、気のない言い方でグラスをあげて見せた。
「ほら、見てみな」
若い男はグラスを置くと、いきなり一人のホステスのドレスをまくりあげた。
「エッチ……」
その女は嬌声《きようせい》をあげたが、さしていやがる風でもなかった。
とがった膝《ひざ》の上から腿《もも》のつけ根までがのぞき、下着をつけていないことが判った。
――俺は酒が飲める――
そんなことより、ビールを飲み下す感じで彼はそう思った。
――どのくらい飲めるのだろう。強いのだろうか――
酒量の程度が判らず、彼は用心することにした。
ステージではヌード・ダンサーが引っ込んで、三人組のコメディアンがドタバタと暴れはじめていた。
――この店で何かが起る筈だ――
彼は自分の緊張感をたしかめながらそう思った。
ホステスたちは驚くべきスピードでビールを飲み、
「ねえ、追加しちゃっていい……」
と訊いた。
「こういう雰囲気は好きだけれど、余り酒は強くないんでね。勝手にやってくれよ」
彼が言うとホステスたちはすぐボーイを呼んで注文した。
「この人は金持なんだぞ。ケチなことしてないで好きな物をたのんだらいい。……ねえ」
若い男は彼に同意を求め、彼は頷いてやった。
ホステスたちは急に元気づき、ボーイを呼び直して口々に勝手な注文を並べたてた。
そしてショーがおわり、店内が少し明るくなった。
「博奕はまだかね」
彼が若い男にそう尋ねた時、ステージのほうから自分のほうを見ている男がいるのに気付いた。
車と金とバッジを奪ったあの男だった。
第三章
――なぜ俺はこんなに急ぐのだろう――
彼はそう思いながら席を立ち、ステージのそばにいる男のほうへ近寄って行った。
胃の辺りの緊張感はかつてない程たかまり、全身にひろがりはじめていた。はじめのうちその男は彼を睨《にら》みつけていたが、しだいに弱気な表情になり、彼が声をかけた時には目をあらぬ方にそむけていた。
それ程彼の気迫が鋭かったらしい。
「返すものがあるのだが」
彼は穏かな声で言った。その男はどうやらこの安キャバレーの客ではなく、裏手のオフィスのほうから客席へまわって来ていたらしい。
「ふてえ野郎だ。只《ただ》ですむと思っているのか」
その男はそっぽを向いたまま言った。
「ここでは話がしにくい。どこかもうちょっと静かな場所はありませんか」
男は黙って奥へ歩きはじめた。
ボーイたちが出入りするドアがカーテンの裏にあり、そこへ入るとビール瓶《びん》を積んだ廊下を右に折れ、すぐ左へ曲るとまたドアがあった。
「入れ」
男はそのドアをあけると顎《あご》をしゃくり、彼が先に入るように言った。彼は言われた通りドアを押えた男の前をすり抜けるように中へ入ったが、足を踏み入れたとたん素早く足を早めて二、三歩先へ行った。
「野郎……」
背後で男の罵声《ばせい》が聞えたので振り向くと、男はビールの空瓶をむなしく空振りしたところであった。思いがけず自分の一撃を予測されていたことに気付き、男は呆《あき》れたように彼をみつめていた。
彼はポケットに手を入れ、挑《いど》むようにあのバッジを掌にのせて示した。
「返して欲しいのはこれかね」
男は空瓶を掴《つか》んだまま空振りした姿勢をたて直した。ほかに女が一人と男が三人、その小さな部屋にいた。女は明らかに経理係らしく、四十すぎの痩《や》せて片意地な感じで、同じような年輩の気弱そうな男が一人、あとは明らかに暴力団員らしい派手な身なりの若い男たちであった。
「君がここの経営者かね」
彼が言うと男が喚《わめ》いた。
「そんなことはてめえに関係ねえ。おい、こいつをふん縛《じば》っちまえ」
すると二人の若い男が椅子から立ち、左右から彼に迫った。
「君に用があって来たんだ」
彼はそれを無視して言ったが、まず左側の男が彼の腕を掴もうとして来たので、逆にその二の腕を掴んでうしろへふり払った。その男は呆気《あつけ》なく彼の背後にあるスチール製のキャビネットへ前傾してよろけて行き、それへ頭をぶつけて大きな音をたてさせた。
「畜生この野郎」
右側の男が黄色い声で言い、左手を突き出して彼の下腹部を狙《ねら》うふりをしながら、右の拳で顔を襲って来た。彼はその手首を素早く掴んで思い切り手前へ引き、はずみで右肩から先に自分の前へ来たのを見すまして、掴んだ右手首をその背中へ逆手にねじりあげた。
「いて……」
若い男は悲鳴をあげた。同時に彼は体をまわし、その男をうしろへ向かせた。キャビネットへ頭から突っ込んだほうは、顔をしかめながら短いナイフをとり出しかけていた。彼はうしろ手にねじあげていた手首を放すと、右足をあげてその腰を蹴った。男は仲間めがけてふっ飛び、グエッと汚ならしい声を出した。もう一人が構えたナイフに腹を突きさされたようだ。
「もっと中へ入ったらどうだね。僕は君に用があるんだ」
中年男がこそこそ逃げ出した。
「やりやがったな……」
若い男が腹を刺したのを見て男がつぶやくように言った。痩せた女が目を丸くしてもつれ合ったままの若い男たちを見ていた。
「君はここの経営者かね」
彼はまた尋ねた。
「タッちゃん、大丈夫……」
痩せた女はおずおずと立ちあがり、彼の様子を窺《うかが》いながら、隅《すみ》の二人のほうへ行った。
「話がしたいんだ」
彼が言うと、男は渋々一番手前の椅子に浅く腰をおろした。いつでも逃げ出せる態勢である。
彼が坐ったのは、いま出て行った中年男の席だった。目の前に青い手提金庫が置いてある。彼は蓋《ふた》があけ放しになっているその金庫を引き寄せ、桐の浅い仕切箱をとりあげた。
底に現金がつめ込んである。多分店の売上金だ。
「おい、よせ……」
男はうろたえて近寄って来た。彼は素早く立ちあがると男の体に手をかけて部屋の奥へ突きとばし、ドアの前の椅子へ移った。
「てめえ、いったい何者だ」
彼は静かに言った。
「要《い》る物は返してやる」
――いったい何を質問すればいいのか――
彼は見当がつかず、その答が自然に湧いて来るまで時間を稼ぐことにした。
「現金は三百万円程だった。手形と権利書を返せば文句はないだろう。僕はキャッシュが要るんだよ」
「困る」
男は顔をしかめて言った。
「それに車もあったな。まあいい、みんな返してやるよ」
彼はポケットから車のキーをとり出して男のほうに抛《ほう》り投げた。
「下町の有料駐車場に置いてある。明日取りに行けばいい」
「か……金は」
「黒い鞄《かばん》ごと車の中だ」
男は信じられない、というような表情になった。
「もっとも現金は少し減っている」
「強盗だ。訴えてやる」
「構わないよ」
彼はニヤリとした。
「だが、あの権利書や手形のことを調べられたら困るんじゃないかな」
当てずっぽうに言ったつもりだったが、そのとたん例の確固とした感覚が生じた。彼はまるで他人が喋《しやべ》るのを聞くような感じで自分の声を聞いていた。
「手形の額面は一億だし、あの権利書の物件もかなりなものらしい。どうも君一人の仕事ではないような気がするな」
そう言いながら何気なく内ポケットへ手を入れると、札束のほかに何か手に触れるものがあった。とり出してみるとそれはサングラスだった。列車の中で若い男から取りあげたものだ。
彼はそれに目を移した。
女を絞め殺した時、そのサングラスをかけていた。ベルリオーズのあの旋律が聞えて来るような気がした。
彼は目をあげて男に言った。
「また人を殺すことになりかねない」
彼は相手にとって得体《えたい》が知れぬ無気味な存在であるようだった。男はサングラスがまるで凶器《きようき》ででもあるかのように、怯《おび》えたような目でみつめていた。
「君はこの店の経営者らしいが違うか」
彼は鋭い声で尋《たず》ねた。
「そうだよ」
男は弱々しい声で答える。
「お医者さんを……」
中年女が隅のほうでこわごわと言った。
「大したことはない」
彼は突き放すように女を見て言った。女はあきらめたようにハンカチで若い男の腹の傷を拭《ふ》いてやりはじめた。事実大した怪我《けが》ではないようだった。
「しかし君は何かの組織に所属している筈だ。その組織の名を聞きたい」
「東洋連盟東京支部」
男は案外スラスラと答えた。それを聞けば少しは彼の気勢を削《そ》ぐことができるかも知れないと思ったようだ。
「東洋連盟か。知らないな」
男は鼻を鳴らした。
「田舎者め」
「東京支部の何だ。まさか支部長というわけじゃあるまい」
逆襲されて男はうつむいた。下《した》っ端《ぱ》に違いなかった。
「連盟の本部は新宿《しんじゆく》にある」
男は車と黒い鞄欲しさに教えた。
「新宿のどこだ」
すると男はデスクへ近寄ってメモに場所を書いた。
「電話番号も書いてくれ」
彼は注文をつけ、そのメモを受取ると電話機に手をのばした。
「この時間でも誰かいるか」
男は頷《うなず》く。
「多分……」
彼はダイヤルをまわした。
「ハイ、東洋連盟」
先方の声が聞えると、彼はすぐ受話器を置いた。
「車は両国駅《りようごくえき》のそばの駐車場だ」
「本当か」
男は疑わしげに言った。
「嘘でも仕方ないところだと思うよ」
「あれがないと困るんだ」
彼はそれには答えず、メモをポケットへねじ込んでドアをあけた。
「店に俺を連れて来たポン引きがいる」
ニヤリとしてそう言うと、バタンとドアを閉じ、廊下へ出ると入って来た時とは逆の方向へ走り去った。追って来る気配はまったくなかった。
廊下の突当りの小さなドアの外へ出ると、細い路地になっていた。彼は建物と建物のすき間のようなその路地から通りへ出た。
今から新宿へ行っても仕方あるまいと思ったが、ちょうどタクシーが通りかかったので手をあげた。
「新宿」
彼はそう命じた。
――明日になれば連盟の本部とかいう所の連中は、顔を揃《そろ》えて待ち構えることだろう。だが今夜は目ぼしい相手がいない筈だ――
走り出したタクシーの中でそう思いながら、彼はサングラスを外した。
――美しい女だった――
外したサングラスをみつめてそう思った。
――彼女はなぜ死なねばならなかったのか――
他人事のようにあの女の死の意味を考えはじめた。自分の手で絞め殺したのに、なぜかそれは運命のしわざであったような気がするのだ。
――俺は道具なのだ――
その時になって、彼は突然神を信じたい気分になった。それは決して自己弁護などではなかった。
――俺は気が狂っているのか――
能登の荒れた海を思い泛べた。
――あの海から出発している。そんなことがあり得ようか。俺はあの荒れた海から生まれた人間のようではないか――
それ以前の記憶がまったくないのだ。
――人を殺す為にあの海から這いあがって来たらしい――
自分が狂気に陥っているとはとうてい思えなかった。
――何かが俺を操《あやつ》っている――
それには確信があった。
――何かとは――
神。
彼の頭にはその答しかなかった。だが、神が人殺しを望んでいるのだろうか。
――多分俺はまだ人を殺すに違いない――
それにも確信のようなものを感じた。
――この殺人の意味を知りたい――
彼はそう思ったが、殺人という言葉には、仕事というような別の意味がこめられていた。
――そうだ。俺は仕事をしているのだ――
彼はそう思った。
――サラリーマンが所属する企業のために働くように、俺は仕事として殺人を課せられているらしい。社長は神だ。神が俺に義務を与えている。たとえば、銀行マンや商社マンだって、仕事としてライバルを蹴落そうとし、それに成功した場合、相手の社会的生命を絶つこともあり得るだろう――
何人も殺しておいて随分《ずいぶん》勝手な考え方をするように彼自身思ったが、自分の意思でなく何かに向かって驀進《ばくしん》しているらしい現在の立場を考えると、自分にとって何の動機もない殺人が、ただ義務を果しているようにしか感じられないのであった。
――俺は決して狂ってなどいない――
彼は自分に言い聞かせるようにそう心の中で繰り返した。
――東洋連盟という組織が俺の目標なのかも知れない――
彼は明日が待ち遠しくなった。早く結着をつけてしまいたいと思った。
新宿へ着いた彼は、散々あちこち歩きまわった揚句《あげく》、自分の服装に見合った安宿をみつけて泊った。
その夜、あの胃の辺りをしめつけるような緊迫感はなかった。彼は少し脂臭《あぶらくさ》い夜具の中に横になり、いつまでも寝つかれないでいた。
――東洋連盟と軽井沢の美女の間に、何か関係があるのだろうか――
それがまず気になった。
東洋連盟というのは、上野のキャバレーの男が所属しているような組織だから、いずれ暴力団のようなものに違いないと思った。しかもキャバレーの男がその名を口にした時、幾分|恫喝《どうかつ》気味だったことを考え合わせると、かなりこわもてのする、人に知られた存在であるようだった。
――その組織の幹部の娘か何かだろうか――
彼はそう思った。
――だが、その娘がなぜ殺されねばならなかったのだろう――
暴力組織とあの清潔な美貌《びぼう》がどうしても結びつかなかった。
――能登の一家も殺している――
彼は親切だったあの親子を思い出した。どうやら彼にとり憑《つ》き、殺人に駆りたてる何かは、上野を離れて以来遠のいてしまっているようだった。彼は暗い部屋で自分自身の考えにひたることができた。
――俺の行動に邪魔だから殺されたのだ――
放置しておけば、警察からマスコミにニュースが流れ、身動きできなくなったかも知れないのだ。
だが、それだけでは納得できないものがあった。
――本当にそれだけの理由で俺はあの親切な夫婦と中学生を殺してしまったのだろうか――
今度は軽井沢の女とあの一家をつなげて考えようとした。だがそれも徒労だった。
――関係ない。どう考えても結びつかない――
だが、神のような超越的な存在が自分を動かしているとすれば、あの程度の理由で一家を殺す必要があったのだろうか。あの一家には何か別の理由があって、その死の執行人として自分がころがり込んだのではあるまいか……。彼はそうも考えて見た。
――ではあの一家と東洋連盟のつながりはどうなる――
行き当たりばったり人殺しをさせられているとは思えなかった。
彼は夜具の中で身震いした。
――得体が知れなさ過ぎる。俺には問題が大きすぎるようだ――
何者かが、激しい勢いで目的を遂げようとしているのだ。彼はその道具に過ぎないらしい。警察に通報し、それがマスコミに流れるというくらいで一家三人が惨殺されるなら、列車の中で彼がサングラスを欲した時に会ったあの若い男も、殺されて然るべきなのだ。地下道のポン引き男も、キャバレーのマスターも、二人の用心棒も、経理の中年の男女も、みな彼の手にかかって死んで行ってもかまわない筈であった。
――なぜ能登の海にいた――
彼の自問は原点に立ち戻《もど》った。
――それ以前はどこにいたのだ――
荒海に揉《も》まれている一艘《いつそう》の舟を彼は考えた。だがそれは何の連想も呼びさまさなかった。
――船に乗っていたのではないのか――
するとかすかにあの奇妙な感覚が湧いた。彼と船とは無関係のようであった。ただ、船のかわりにジェット旅客機が遠い思い出のように泛んだ。
――飛行機が墜落したのだろうか――
それも彼の内側にあってしかも彼のものではないあの感覚を刺激しなかった。ただ、遠い思い出のようなものの中で、彼はどこかの街路を歩いているのだった。
――俺はどこにいたのだ。東京か――
あの感覚は何も答えてくれなかった。
――俺の生まれた場所はどこだ。どこに住んでいた。父は、母は、兄弟はいるのか――
遠い記憶の底のほうで、何人もの人物が動いているように感じた。彼はそれを記憶の表層に浮上させようと精神を集中させた。人物たちは少し輪郭《りんかく》を大きくしたようだったが、結局影のようなものをみつめただけで、何もはっきりとはしなかった。
――俺はただのサラリーマンだ――
彼は目をとじてそう考えた。
――神の経営する企業の忠実なしもべだ――
彼は気楽になろうと努めた。するとひとつのイメージが泛んだ。彼は学生だった。必要なもろもろのことをそこで学び、学校を追い出された。卒業した彼は海の中に浮いていた。岸は企業だった。彼はそこへ這いあがり、任務を与えられてそれを果した。あの賢そうな中学生をまじえた死体が三つ、そのあとにころがっていた。彼はセールスマンのように車を駆り、列車に乗って次の任務に出発した。軽井沢で最初の仕事をすませ、上野で次の仕事の手配をつけてこうして明日を待っている……。
――それ以外に、どう考えろと言うのだ――
彼は目をとじたまま、何者かに向かって心の中で叫んだ。すると急に眠くなり、彼はすぐ寝息を立てはじめた。
夢を見た。
夢の中で、彼は解放されていたようだった。
小綺麗《こぎれい》にかたづいた部屋の中で、女が大きな鞄に何かをつめ込んでいた。
「下着などそんなに要らないよ」
彼は女に向かって言った。
「向うでお買いになるの……」
その女は彼の妻だった。小柄で優しい顔をしていた。
「勿体《もつたい》ないわ」
彼は笑った。
「まあいいさ。気のすむようにしてくれ」
急に大きな音が聞え、彼は空港のロビーで大勢にとり囲まれていた。年輩の男が彼に握手をして一歩退いた。
「奥さんも一緒に行っていただけるといいのですがね」
その男はすまなそうに、彼のそばにいる妻に言った。
「…………」
妻がそれに答えたが、外国語のようであった。彼は言われるままに座席に坐った。小さな窓の外に空があった。
――俺はやはり外国へ行ったことがあるのだ――
彼は夢の中でそう思った。すると低い石垣のそばにバス停があり、彼はそのバス停をあとに歩きはじめた。少し行くと看板に日曜大工と書いた店があり、その角を曲って小ぢんまりとした家が並んだ道へ入った。左側に大谷《おおや》石を門柱にした二階だての家があり、彼はその門を通って玄関のドアをあけた。突き当たりの玉のれんをわけてまた妻が現われた。今度はひどく肥《ふと》っており、髪も白かった。
「…………」
何か言われた。彼は靴のまま家の中へあがり、その女に笑いかけながら階段を登った。彼は二階まで登り、廊下を少し歩いて立ちどまると鍵《かぎ》をとり出した。
ドアをあけるとシングルのベッドがあり、縦長の窓がふたつ並んでいた。壁際に小さな机があって、その机の上に小柄で優しい顔をした妻がいた。
「おかえりなさい」
妻はひどく小さくて、机の上にちょこんと坐っていた。
「ただいま」
彼は妻に言った。妻は納得したように頷くと、小さな木の枠《わく》の中へ戻って行った。それは写真になった。
彼はビル街にいた。
靴も服も新しく、見違えるような男ぶりであった。安宿を出るとすぐ、新宿で買い揃《そろ》えたのだ。東洋連盟のオフィスは西口のビルの中にあり、あのつんつるてんの古い服では、何かと不都合な場所柄だと思ったからである。
時間は昼近い。晴れていて秋の陽光が眩《まぶ》しい。彼はあのサングラスをかけ、ゆっくりと目的地に向かっている。
朝のうち東洋連盟に電話して見ると、相手は明らかに上野の男から連絡を受けている様子で、用があるなら正午に来いと言った。彼は言われた通り正午きっかりに相手のオフィスへ着くつもりであった。
まだ落成して間もないビルへ入ると、エレベーターで二十階へあがった。廊下へ出て腕時計を見ると約束の時間に二分ほど間があった。
廊下にごつい感じの男が三人ほど、さりげない様子で立話をしていたが、彼が近付くと鋭い目でジロジロと見た。ひょっとすると、服装が連絡とは違っているので戸惑ったのかも知れない。
「東洋連盟の本部はここですね」
彼はドアの文字が見えているのに、わざとその男たちに尋ねた。男たちはさっと彼をとり囲むようにした。
彼はノックを省略していきなりドアをあけた。思ったより広い部屋に、二十人くらいの男と、二、三人の若い女がいた。
「ゆうべの者ですが……」
彼が入口に立って言うと、
「名なしの権兵衛《ごんべえ》さんかい」
とデスクに坐っている男たちの中から声があった。
「ちょうど正午ですからね」
「まあこっちへ入りな」
一人がデスクから立ちあがり、男たちをかきわけるようにして近寄って来た。
「ご用件をうけたまわりましょうか」
彼はわざとらしく眉を寄せて見せ、サングラスを外して上着のポケットにいれた。
「困ったことに、僕にもよく判らないんですよ」
「そいつは困ったね」
その男は薄い唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。
「車も鞄も返してくれたそうだが、金が百万ほど足りなかった。誰かに盗まれたらしいのだ」
彼は内ポケットから昨夜の金の残りを全部つまみ出して相手に渡した。
「少し足りなくなっていると思う」
男はバラバラとその札を調べ、
「ふざけやがって」
と低い声で言った。
「最初に言ったように、僕にも用件は判らない。でも、ここのリーダーに会いたいんだ。会長と言うのか親分と言うのか知らないが」
「自分でもよく判らない事で人に会うのかい」
「そうです」
「おかしな奴だ」
男は仲間のほうを振り返ってそう言い、わざとらしく笑った。
ふしぎなことに、例の憑《つ》かれたような緊迫感は生じていなかった。
「会わせてもらいたいんです」
男は頷いた。
「会ってやるとおっしゃってる。あんたの言い分が変わってるからな」
男は言い、素早く近寄って彼の体に両手を当てた。
「一応調べさせてもらうぜ」
彼は両手をあげ、ボデー・チェックをさせた。
「こいつは驚いたね。財布も煙草も持っていやがらねえ」
男は意外そうに言った。
「要らないものは持ち歩かないんです。それにこの服は買ったばかりだし。金が減っているのはそのせいですよ」
「こん畜生!」
男は呆れ顔で言い、
「理事長は奥だ」
と、左側の隅にあるドアを顎で示した。
「でも、その前に名前を聞いて置こう」
「知りません」
「ふざけるなよ」
「本当に知らないんですよ。だからここにやって来たんです」
「嘘をつけ。手のこんだ細工をしやがったくせに」
「とにかく僕は今のところ名なしの権兵衛なんです」
男は彼に興味をそそられたようだった。
「生まれはどこだい」
「それも判らない」
「でも、日本人だろ」
部屋にいた男たちが笑った。
「多分そうでしょう」
「ひどいとぼけようだな」
男は舌打ちをした。
「ひとつ言って置くが、ここにこれだけの人間がつめている。へたな真似《まね》はしようと思わないでくれ」
「ちょっと質問をするだけですよ」
男は肩をすくめ、先に立って男たちの間を歩き、ドアの前へ立った。
「行きはよいよいだな」
おどすように言ってノブに手をかけた。
「理事長、来ました」
ドアをあけて言い、自分が先に中へ入った。部屋の中には巨大なデスクがあって、その向うに、窓を背にして老人が腰掛けていた。ほかに四人ほど。どれも前の部屋にいた男たちより、格段と凄味《すごみ》の漂う男たちだった。
「わたしに用があるそうだな」
老人が彼に言った。彼は胃のあたりに神経を集中したが、何の反応も起らなかったようだ。
その大きすぎるような木のデスクの前に、椅子がひとつ置いてあった。彼はそこに坐らされ、部屋の中には次の部屋で彼の応対に出た男を含め五人の男たちが、ローズウッド調の色をした壁にもたれて立っていた。
「わたしに何を訊きたい」
暴力団のボスというように思い込んでいたが、案外穏かそうな老人であった。
「今もその人に申しあげた通り、よく判らないのです」
――俺のめあてはこの男ではなかった――
彼は失望を感じながら言った。
「妙な話だな」
「これが僕《ぼく》のうかがいたいことにつながるかどうか知りませんが、まずひとつ質問させてください」
「聞こう」
「お嬢さんがおいでですか」
老人は意表をつかれたように彼をまじまじとみつめた。
「いる。娘が何かしたのか」
彼は首を傾《かし》げて見せた。
「今どこにいらっしゃいますか」
「一人は立川《たちかわ》のほうだ。もう一人は麻布《あざぶ》にいるよ。あんた、探偵《たんてい》さんかい」
「いいえ」
彼は首を横に振った。
「軽井沢に別荘はおありですか」
「軽井沢にはない。箱根《はこね》にならあるが」
「お嬢さんが今軽井沢へ行っていらっしゃると言うことはありませんか」
「もう秋もおわりだ。それに娘たちはそれぞれいそがしい筈だよ」
彼は自分が殺した女の年|恰好《かつこう》と姿かたちを告げた。すると老人は失笑し、
「わたしの年を考えたほうがよさそうだな」
と言った。
「下の娘でも、もう三十過ぎだ。孫は一番上でもまだそんな年にはなっていない」
――でも俺は殺した――
彼は老人とその女のつながりをまだ疑わなかった。しかし、それ以上追求する手だてもない。
「では別の質問をします。あなたは能登半島のご出身ではありませんか」
老人はギョロリと目を光らせた。さすがに鋭い眼光であった。
「能登……なぜだ」
「判りません」
「関係ないな。あんた、何をほじくり出そうと言うんだ」
「それを知りたいのは僕のほうなんです」
「わたしは能登などは関係ない」
老人は強く言った。
「では、この東洋連盟というのはどういう組織なんです」
「それと能登とどう関係あるんだ」
「軽井沢の女と、能登の或る一家とあなた……。その三者には必ず何かのつながりがあると思うんですけれど」
「気違いか、お前は」
老人は罵《ののし》った。
「おい、こいつを連れて行け」
その命令で男たちがさっと動いた。彼は坐ったまま両肩を二人の男に押えつけられた。
「どこかへとじこめて置け」
老人はそう言いすてると、くるりと椅子をまわしてうしろ向きになった。彼は両腕を掴まれて引き立てられた。
「来やがれ」
一人が罵りながらドアをあけた。
「軽井沢の女も能登の一家も死んだ。僕が殺《や》ったんですよ」
彼は大声で老人にそう言った。男たちはそれを強引に部屋の外へ押し出し、ドアをバタンとしめてしまった。
第四章
彼に例の感覚が湧いて来た。
その小さな部屋は床も壁もコンクリートで、出入口は一ヵ所しかなかった。そのドアはスチール製で、マンションの廊下に並んでいるようなものよりはずっと薄っぺらなようだったが、その分よく音を立てそうで、へたに鍵をこじあけようとすれば、外にいる筈の見張り役にすぐ気付かれてしまうに違いなかった。
それでも、高い所に換気孔がひとつ見えている。テレビのスパイ物などだったら、そこから脱出するのだろうが、実際には口が小さすぎてそんな芸当ができる筈もない。そのほかには窓ひとつなかった。
隅のほうにダンボールの箱が三十ばかり積んであった。箱は封をしたままで、中身が罐詰《かんづめ》であることが箱に印刷されたローマ字で判る。そこは一階が大きなパチンコ屋になっている新しいビルの地下なのであった。
新宿西口のま新しい、取り澄ました感じのビルから、歌舞伎町《かぶきちよう》のこのビルへ連行される間に、逃げるチャンスは二度ほどあったようだ。しかし彼にはその気がなかった。最終的な相手だと思っていた東洋連盟の理事長に会っても、あの神がかりのような状態にならなかった。だが自分が理事長に会いに行った以上、課せられた任務と何らかの関係があることは間違いなかった。
神がそのような無意味なことをさせるわけがない。
彼はそう信じていた。理由も判らぬまま、彼は自分を動かしているものが、神であると信じることにきめたのである。それ以外に筋の通った解釈をすることは不可能であった。
それにしても、神を信ずることで筋が通ろうなどとは、彼にとって一度も考えたことのない、ひどく滑稽《こつけい》なことであった。この世の中の現象に、神を持ち出して筋を通そうとするくらい、筋の通らぬ考え方はないと思っていたからだ。
だが今は違う。どう考えても神から直接命令を受け、その代理人として行動しているらしい。彼はそう思っていた。だから逃げる気もなくここまで連行され、とじこめられたのである。
――あの理事長には何かがある――
彼はそう見当をつけていた。それでなかったら、素《す》っ頓狂《とんきよう》な訪問者である自分を追い返してしまうだけでよかった筈だ。ここにとじこめられていれば、いずれ理事長のほうからやって来るに違いない。そう思っていた。
そして今、あの緊迫感がたかまって来たのであった。何者かに心の中へ闖入《ちんにゆう》されたようで、はじめのうち彼はその感覚を嫌《きら》っていたが、今では懐しいもののように歓迎した。
――あのドアを蹴破って見るか――
彼はふと暴力を振って見たくなった。能登でも軽井沢でも、相手は無抵抗だった。だが今度は暴力団が相手である。彼の出かたによっては相当|派手《はで》なことになるだろう。だが、何しろ彼には神がついている。列車の中で、自分は死なない、決して滅びないと強く感じたこともあって、彼はひと暴れして見たくてうずうずしていた。
ドアに近づいて外の気配を窺《うかが》う。何もまだ変化はないようだ。
――やって来る。近づいている――
彼の中でそう告げるものがあった。彼はドアから離れると胸を張った。両手首がうしろで細いが丈夫な紐《ひも》で縛られていた。彼は胸を反《そ》らし肱《ひじ》を張って腕に力をこめた。何度かそうやって手首を動かしていると、急に紐がゆるんだ。彼はまず左手首を抜いた。
両手が自由になった。右手首に紐をからませたまま、彼は腕時計を見た。西口のビルから連れ出されたのが正午少し過ぎ。今はもう七時になっている。
彼は罐詰の入った箱をひとつおろして、その上に腰をおろした。冷えたコンクリートの床に長い時間坐っていたので尻《しり》の筋肉が固くしこっているようだった。彼は手首を交互に揉《も》む。
――来た――
そう感じた。
――俺は死なない――
自分に言い聞かせるようにそう考え、ドアがあくのを待った。外に靴音と人声が聞えた。すぐドアに触れる音がして、錠が外されたようであった。
ドアが開くまでに少し間があった。当然のことだが、外には複数の人間の気配がしていて、若い声が、
「こちらです」
と、ていねいな言葉づかいで言った。
ドアが開いた。
部屋の中の灯りは、ドアの外からの光より弱く、案の定理事長が、逆光ぎみに姿を現わした。
「遅かったですね。お待ちしていたんです」
彼がそう言うと、理事長は目を二、三度しばたたいて、口ごもった。
「なぜ……わたしが来ると判ったのだ」
「当然じゃありませんか。あなたは、僕が言った能登と軽井沢の件に、関係があるんです」
例の、神がかり的な気分は、かつてないほど高揚していた。従って彼の言い方は、断定的だった。
多分、彼の眼光は異様なほど鋭く、声は自信に溢《あふ》れていて、理事長はそれに威圧されたに違いなかった。
「わたしは何も知らんよ」
理事長は、弁解するように言った。
「ただ、確かに思い当たることが、あったのは事実だ」
理事長はそう言うと、振り返って部屋の外を見た。彼のいる位置からは見えなかったが、護衛役の男たちが、外に何人もいるようだった。
理事長は、その男たちに何か合図をしたらしかった。すぐ彼の方へ向き直ると、
「穏やかに話し合いたい。ドアを閉めてサシになりたいが、かまわないかな」
「けっこうですとも」
彼はそう言うと、罐詰の入った箱をもうひとつ降ろして、コンクリートの床に置いた。理事長は、ゆっくりと中へ入って来た。誰かが外からドアを閉めた。カチャンとドアの爪《つめ》が鳴ったが、錠をかける音は聞えなかった。ふたりは、ダンボールの箱に腰を降ろし、向かい合った。
「昼間あんたに、あんなことを言われた時、実を言うとどうしていいか判らなかったのだ。縛らせたりしてすまなかった」
理事長は、そう言ってから床に落ちている紐に目をとめて怪訝《けげん》な表情になった。
自分には、神が憑《つ》いている。
紐のことを彼はそう理事長に説明した。普通なら、信じ難いことだったろうが、なぜか理事長は、深く頷き、彼の言葉を信じたようであった。そして理事長は率直になった。東洋連盟というのは、古い組織を改め、統合した新しい組織で、要するに彼が考えていたような暴力団の連合体であると告白した。
「だが、それとこの問題とは別だ」
理事長は、しきりに老人特有の耳ざわりなせき払いをしながらそう力説した。理事長にとっては、それが重要なポイントであるらしかった。なぜなら、それは理事長の個人的な信仰の問題にかかわっていて、暴力組織とは何の関係もなく、むしろ理事長がその問題について触れるときは、東洋連盟という暴力組織を、幾分うしろめたく感じているからであるらしい。
「ようするにあなたは、東洋連盟の理事長としてではなく、一個人として僕と話しているわけですね」
理事長は、大きく頷いた。どこへ行くにも引きつれているらしい護衛たちを中に入れず、ドアを閉めさせたのは、そういうわけだった。
「あんたが、人殺しをしたというのは本当かね」
能登の海以来すでに何度も経験したように、彼は他人の声を聞くように自分が喋るのを聞いていた。
「手を下したのは確かに僕ですが、本当に殺したのは僕ではありません。何かの強い力が僕に働きかけ、僕には理解できない理由で彼らを殺させたのです。そういう状態になったとき、多分僕は不死身の体になっている筈です」
「あなたは、その力を神の力だと思っている」
老人は、目を細くして彼を見つめた。
「それに関しては、どうやら、僕よりあなたの方がよく知っているんじゃありませんか……」
「わたしは、できることならあんたの行動を阻止したい」
理事長は、弱々しくそう言った。彼は軽く笑ってみせた。
「実をいえば、僕も自分が本当に不死身なのかどうかためしてみたいんですよ。仮にそうなったとしたら、東洋連盟は新しい理事長を選ばなければならないことになるでしょうね」
理事長は、首を左右に振った。
「する気はない。わたしにはなんとなく判るのだ。あんたは普通じゃない。わたしだってこういう世界で長く生きてきた男だ。狂犬のような男や、すね者、ひねくれ者、どこで死のうかと死に場所ばかりを探しているようなやっかいな連中をいやというほど見てきている。だがあんたは、わたしの見てきたどんな男にも似ていない。たしかにあんたは特別な人間だ。能登と……軽井沢だったかな。そこであんたが、殺《や》った者たちがどんな人間であるか、わたしには見当もつかない。だが、教祖さまのおっしゃっていることと、どこかしら符節が合っているのだよ」
彼の体の中を、しびれに似たものが走り抜けた。
――これだ――
彼はそう確信した。
「教祖さま……」
「そう。常々教祖さまは、そうおっしゃっておられる」
彼は理事長を見つめた。相手の目をそらさせまいと精神を集中し、吸い込むような瞳《ひとみ》で見つめ続けた。すると、理事長の瞳から、生気が失せ、焦点のぼけた虚《うつろ》な目になっていった。
「わたしが教祖さまに会ったのは、今から十年ほど前のことだ。わたしは、教祖さまを一目見た時、これは尋常《じんじよう》なお方ではないと思った。教祖さまは、今の世の中がそう長くは続かないことを予言された。今の世の中は、果実で言うなら、熟れすぎていて、何もかも腐り始めているのだそうだ。わたしは、ここであんたに、受け売りの説教をしようとは思わない。だが、教祖さまは説いておられる。神代の神話から、孔子《こうし》の教え、仏陀《ぶつだ》の教え、古代ギリシアの哲学者たちや、聖書に書かれていること、そして近くはマルクスやケインズの理論……。教祖さまは、そこらのインチキ宗教家とは違うのだ。古今東西の偉大な人物たちについて考えたこと、なぜその時代にそういう人物が生まれ、どんな理由で彼らの考えが世の中に受け入れられ、世の中がなぜそれを必要としたのか明快に説明してくださる。そういうご説明から生まれる結論は、今の世の中を正しい方向に導く指導的な理論が、どこにもなくなってしまったということなのだ。この十年俗な言い方をすれば、わたしは教祖さまに入れあげてきた。わたしには難しすぎて、教祖さまのおっしゃることを人によく説明はできないが、あのお方こそこの行き止まりのような世の中を甦《よみがえ》らせ、まったく別な新しい文明に向かって進んでゆく、その先頭に立つお方に違いないと信じてきた」
理事長は、そこでやっと彼から目をそらした。
「少しは世間に恐れられ、多勢の男たちを顎で使ってきたこのわたしが、あんたのおかげでどうしていいか、わけがわからなくなってしまっているのだ。教祖さまは、今ではわたしの唯一の拠《よ》りどころになっている。それなのにあんたのような男が現われた……」
彼は理事長をはげますように言った。
「僕はただ動かされるだけで、何も判ってはいません。だが、今のお話を聞いた限りでは、何も僕がその教祖さまをどうこうする必要もないようじゃありませんか」
理事長はまた首を横に振った。
「いまの教祖さまは、東洋神秘教団というひとつの宗教団体をつくっておいでになる。わたしはその教団に加わる一人で、及ばずながらできるだけのお力ぞえをして来た。東洋連盟という名称も、そこから考えついたのだし、教団員たちはあのお方を教祖さまと呼んで、わたし同様心のささえにさせていただいている。だが、正確に言うとあのお方は、予言者なのだ。人々を次の新しい文明に導き、来たるべき社会の基本となる、まったく新しい指導理論を、生み出すのはあのお方ではないのだ」
「教祖さまがそう言うのですか」
「そうだ。やがて救世主が生まれると予言した人々がいた筈だ。教祖さまも、それだ」
――着いた――
彼は自分の目がキラキラと輝くのを自覚した。彼を操る者が見ているのと同じ景色が、彼にも見えたのである。
小雨が降っていた。
彼は、純白のカバーを掛けたバック・シートに理事長と並んで坐っていた。その大型乗用車は、理事長の車で、運転手は実直そうな初老の男だった。
「教団員の数は多いんですか」
「まだ全国で二十万足らずだ」
その答を聞いて彼はちょっと眉をひそめた。二十万という数が宗教団体としてどの程度のものなのか、見当がつかなかったからだ。
「僕は、何も知らない。何も判ってはいないんだ」
彼は低い声で、つぶやくように言った。
「わたしだって同じことだ」
理事長も同じような調子で言った。言い方は似ていたが、それぞれ別な考えにひたっているようだった。
「神……仏《ほとけ》。本音を言えばどっちだって構わないのだ。ただわたしは修羅場《しゆらば》の連続する中で、年寄りといわれる年齢になってきた。こんなわたしでも何かにすがりたくなっていたのだよ。神でも仏でもいい。仮に神ということにしようか。わたしはそういうものを信じたくなった。信じようと思いはじめた。ちょうどその時教祖さまにめぐり会ったのだ。たしかにあのお方は、底の知れぬ神秘的な存在だった。おっしゃることよりも、わたしはそのお人柄に魅《ひ》かれた。わたしのような俗物にはどこにいるか判らぬような神など信じようもなかった。だが、あのお方は生きておられる。こう言ってはなんだが、あの教団の今日あるは、幾分かわたしの経済的な力の結果だと思っている。いやたしかにわたしは、金銭面で教団を支えて来た。自分がなぜそうしたかあんたに会ったおかげで判ったような気がする。わたしは神を欲しているのだ。そして自分の神に接するために金をおしまなかったのだろう。考えてみれば単純なことだ。賽銭《さいせん》をあげて手を合わせるのと少しも変わりはしない」
理事長は自嘲《じちよう》するように言った。
「僕のせいで教祖さまに対する熱が冷めたと言いたいのですか」
「いやそうではない。言ったろう、わたしは神を欲しているのだと。荒っぽい世界で生き抜いてきた男だ。この際だから白状するが、わたしのせいで死んだ人間は、四人や五人ではない。それが行きつけるところまで行きついて直接手を汚さずにすむようになったら、急に何かにすがりたくなったというわけだ」
彼は頷いてみせた。
「自分の神を手に入れて何となく安心していた。と言ってもあのお方をいい加減なまやかしものだとは思っていない。わたしが神そのものとして敬うだけの値打はあるお方だ。ところが突然別な神が現われた。わたしは俗物だから目に見えぬ神は信じないが、あんたのようなのが相手では信じざるを得ない」
「僕を神だと思っているのですか」
「あんただって自分に神が憑いていると信じているではないか。わたしにはあんたに憑いている神を信ずる理由があるのだ。あのお方は予言者だ。ある事を予言なさっている」
「救世主の誕生ですね」
「そうだ。あのお方の予言は、奇妙にキリスト教のものに似ている。そっくりではないがいろいろな点で共通したところがあるのだ」
「どんなところです」
「その救世主は、漁師の子だということだ」
彼は軽く目を閉じた。その目の裏に親子三人の姿が泛んでいた。
「しかもそれは北陸の漁師だというではないか。あんたが能登で人を殺したと言ったとき、わたしは神を感じた。あの部屋へあんたが入って来た時からわたしは不思議な気分になっていたのだ。あんたと教祖さまは少しも似ていないのに、まったく同じ雰囲気をただよわせていたからだ。わたしはあんたの質問を受けている間中、教祖さまに尋ねられているような気がしてならなかった。だがあんたは教祖さまではない。わたしはあんたが憎らしかった。というより、あんたから遠ざかりたかった。わたしにとっての神は教祖さまひとりでたくさんだ。だから追い返した。が、どこかに未練があって、あんたを手の届くところに止どめておきたかった。だからああいう命令を出した。するとどうだ、あんたは出がけに人殺しのことを喋《しやべ》った。あのあとわたしはしばらくの間身動きも出来なかったんだぞ。教祖さまの予言をぶち壊しに来た奴がいる、とな。そう思ったのさ。あんたは能登、とだけ言ったが、わたしにはそれで充分だった」
「僕が能登で殺したのは、中年の夫婦とその子供です。中学生くらいの男の子でした。あの父親が漁師だったかどうか、僕には判りません。僕はただ、獣のようにあの家族に襲いかかったのです。自分でもわけが判りませんでした。だが、父親は漁師のようでした。家は海のすぐそばにありました」
「その父親ではない。予言によれば、救世主が誕生するのはもっと後のことだ。中学生ぐらいだったとすると、救世主の父親になるのは多分その子だろう。その子はきっと父親と同じように漁師になる運命だったんだろうな。だが、救世主の父親となる筈の漁師は、自分の子が救世主となることに気付くことなく死ぬとされている。一方、救世主の母の方は救世主の祖母にあたる人物の頃から、なぜかそれを予感していると言うのだ。母方《ははかた》は代々音楽家で救世主も音楽の才に恵まれているという」
黄金《こがね》色に輝く林の中で聴いたあの旋律が彼の耳に甦《よみがえ》って来た。そしてその旋律が、急にベルリオーズのあの曲に変わり、両手にまざまざと細い首を絞めた時の感触が甦った。
彼はまた目を閉じた。あの時女は、目に涙を泛べて言った。……たった今まで、何も知らなかったの。あなたに殺されるなんて……弦楽器の旋律が満ちあふれる中で、彼女はさらに言った。……この軽井沢で死ぬのね……。
なぜか彼女は彼をひと目見た瞬間、自分が殺されると悟っていた。彼は迷わずに彼女の家を捜し当て、名さえ聞くことなく彼女を絞め殺した。
常識ではすべてがまったく説明できない。
「なぜ僕が選ばれたのだろうか」
彼はつぶやいた。
「ん……」
よく聞えなかったらしく理事長が問い返した。
「なぜ僕が死の使者に選ばれたのか、それが判らないのですよ」
「教祖さまに会えば判るさ」
車は小雨の中を走っていた。
いつの間にか雨が止んでいた。
局地的な小雨だったらしく、車が東名高速道路で東京から遠のくにつれて夜の雨雲からも遠のいていくようだった。そのかわり霧が出た。濃い霧が神に憑かれた彼の行く手を阻むようであった。時折その霧の向うから、対向車のへッドライトが人魂《ひとだま》のように尾をひいて現われゆっくりと後方へ去っていった。どの車もこの霧の中では慎重に減速せざるを得ないのだ。霧につつまれた箱根は、魔性のものの棲《す》み家のようであった。トンネルの中のオレンジ色の照明だけが生き生きとしていた。
彼は窓の外に蠢《うご》めく妖《あや》しい霧の動きに見とれていた。
あの荒天《しけ》の海に浮いていた時、彼はあたりをその霧のように感じていたのだった。世の中は大きく変わる筈だった。彼は生きながら第二の生を享《う》け、荒れた海をかりそめの母胎としたのであった。
彼を操った者はその母なる海から、一直線に目標へ向かって彼を送り出したらしい。
今頃能登では、一家三人が撲殺《ぼくさつ》されるという凶悪な事件に沸き立っているだろう。だが、どんな人間が真犯人を割り出せるというのであろうか。その事件は一種の超常現象である。通常の意味での真犯人である彼にとって、動機は何もない。彼自身どうやってその海へ行ったのかまったく判らないのである。それどころか、今もって彼は第二の生の中におり、本来の人生から切り離されている。自分が誰でどこに住んでいるのか、それすら判らないのだ。地元の警察がどんなにやっきになっても、そんな犯人を割り出すことは不可能であろう。
軽井沢での犯行もそうだ。あの別荘の近くの道で、彼は黒い乗用車とすれ違ったが、超越的な存在である何者かの命を受けていた彼を、その運転者がよく記憶出来たとは思えない。
能登から軽井沢へ、殺人の使命を帯びた彼の行動は、まったく直線的であった。そして軽井沢から上野、上野から新宿。そしていま彼は御殿場《ごてんば》に向かっている。彼が考えているように、彼を動かしているのが神だとすれば、その神のやり方は単純明快、彼を用いて、最短距離を最少時間内に走らせている。
彼は窓から目を車内に向け、隣りにいる理事長の横顔をながめた。暴力に疲れ、神仏にすがりたがっている老人であった。
――これも腐敗のひとつであろうか――
彼はふとそう思いおかしくなった。腐敗した暴力団……そんなものがあり得るのだろうか。しかしそう言えば言えなくもなさそうだった。政治的配慮という言葉は、いまや党利党略という言葉と同義語であったし、しかるべき地位の人間に問題の善処を約束されれば、された側は失望して引きさがるのが常識になっている。国防とは国内の敵に対処するためのことであるし、人々に節度を求めるということは、弾圧や取り締りの強化をうながすという意味であった。まだ見込にすぎぬ収入に対する税の滞納に懲罰的な利子が加算され、出費の節約は税額の増大を意味する。そのように、正常とされているものにすら腐敗が始まっているのだ。腐敗とは悪しき変質である。本来悪しきものであるべき暴力組織が、正常な経済活動を始めたならば、それもまた腐敗というべきなのであろう。
誇り高い芸術家は逼塞《ひつそく》し、俗悪な娯楽提供業をもって任ずると、持てはやされる。暴力を否定し、神仏に親しもうとする暴力団員が敬まわれるのも当然の成り行きであろう。
つまりその教祖の予言の通り確かに世界は行きつくところまで行きついており、根本的な変革なしには、滅びるよりないのではあるまいか。
だとしたら、自分はこの世界の滅亡をもたらすことにひと役買ったのではないか。彼はそう思い、自分に取り憑いたものを考え直し始めた。
――俺を動かしているものは、神ではなくて実は悪魔だったのではなかろうか――
すると、あの自分でない自分の思考が語りかけた。
――神は神だ。神は同時に悪魔でもある。一面で悪でない善などあるものか。考えつけるならすべてに対して善なる行為を考えついてみろ、そんなものあるわけがない。良い薬は良い毒でもある。一人の幸福は何人かの不幸だ。根本的な改革でそれらを解決できるとするのは幻想にすぎない――
車は霧の中をもぞもぞとはっていた。彼は自分が目的地へ到達できないのではないかと思いはじめていた。今まで以上に、自分の立場が判らなくなっていた。教祖とかいう人物と対決するのが、億劫《おつくう》になっていた。
――俺は決めたくない。俺が決めたくはない――
それは、彼に取り憑いたものの思考ではなく、彼自身の考えだった。
――帰してくれ。元の俺に戻してくれ――
彼は己れの中にひそんだ何者かに向かってそう叫んだ。
――俺は現在しか考えぬ獣でいい。人間も獣の仲間だ。ほんのちょっと明日を夢見るだけの、人間という獣でたくさんだ。明日に手を触れ、未来を造り変える手伝いなどごめんだ。そういうような俺にとって、未来に手を触れるような者こそ邪悪な獣だ。教祖さまの予言通り、救世主が生まれるなら生まれるで、それでいいではないか。救世主もまた人間の命の流れの中から出現するのだろう。おまえは、いったい何者だ。時間をとびこえようとするおまえは、この老人が欲するような存在ではあるまい。もうごめんだ。おまえの意のままに操られたくはない。だいいち、出現する筈だった救世主の命の源を俺に断たせてしまったからには、予言者はただの予言者にすぎぬではないか。街角の手相見とどう違うというのだ。俺はもう殺さない――
彼は憑依《ひようい》された感覚で、懸命に反抗していた。
「何を考えているのかね」
理事長が尋ねた。
「とんでもないことをしてしまったような気がしてならないのです」
彼がそう言うと老人はなぐさめるような微笑を泛べた。
「わたしやあんたには、どうしようもないことさ。だがわたしにとって、これはそう不快な出来事ではない」
「なぜです」
「この世に神々がいることが判ったではないか」
理事長はそう言って上を向いた。まるで空を仰ぎ見るような仕草だった。
霧の中に豪壮な邸宅がうずくまっていた。そこは森に囲まれ霧がいっそう濃いようであった。
夜中なのに邸内のあちこちから光がもれていた。車は大きな門を通り、敷きつめた砂利を鳴らしながら玄関に着いた。白袴《しらばかま》を着けた男たちが現われて彼と理事長を迎え入れた。内部はすべて和風で、贅《ぜい》を尽くしたという感じであった。
理事長は教団内でも高い地位にあるらしく、白ずくめの装束を着けた男女が二人をうやうやしく扱ってくれた。彼は理事長のあとについて長い廊下を進み、玄関のある方角の見当がつかなくなるほど何度も角を曲ったあげく、八畳ほどの部屋へ通された。座敷の中央に大きな欅《けやき》の座卓が置いてあり、二人はその前の床の間へ向かって坐った。それがしきたりなのかどうか、茶を運んでくる気配もなく、しばらくすると彼らが入ってきた廊下側の障子《しようじ》と向き合った白無地の襖《ふすま》が開き、同時に理事長が深々と頭を下げた。
教祖さまのご入来であった。
「遅くにご苦労さま」
声音といい調子といい、妙に穏やかで、それでいながらどこか人間離れのした感じで教祖さまが言った。
彼は理事長を見習って頭を下げていたが、急に顔を上げて教祖さまをまともに見つめた。色白で面長だった。鼻の幅が狭く唇は薄くひとえまぶたで切れ長の目をしていた。額はかなりはげ上がっていて、細く軟かそうな薄い髪が、ややちぢれているようであった。
彼に見つめられると教祖さまは、ほほほ……と笑った。
「この人がそうですか」
教祖さまが言った。
「はい」
理事長はどこまでも教祖さまに礼を尽くす気らしかった。
「人を殺して来たのですね」
教祖さまは微笑を泛《うか》べて言った。彼は自分がほんのちょっとしたいたずらをしてきたような錯覚にとらわれそうになった。
「それが実は……」
理事長はいいしぶった。彼をともなってここへ来ることを、あらかじめ連絡していたのだろうが、今の言葉の様子では具体的なことをまだ告げてはいないらしかった。教祖さまは微笑を消すと顔を正面に向けて動かさず、自分の鼻の頭を見つめるような感じで黙り込んでいた。
「この男は大変なことをしたようです」
「そうですか」
教祖さまの目がかすかに動いて理事長の方へ向いた。
「この男は二日足らずのうちに、二ヵ所で四人の人間を殺して来たのだそうです」
「それはそれは」
教祖さまは抑揚《よくよう》のない声になってそう言った。
「人殺しをした場所は、能登と軽井沢だそうです」
教祖さまは、今度は自分の眉毛を見るような目になった。理事長は、続けた。
「能登では中学生とその両親を、軽井沢では若い女を殺したのだそうです」
「中学生は男ですか女ですか」
教祖さまの目が彼の方へ向けられた。
「男の子です」
彼はぶっきらぼうに答えた。どことなくその教祖さまが気に入らなかった。
「その子の父親は漁師だそうです」
「ほほう……」
教祖さまは彼を見つめたままそう言った。
「軽井沢の若い女はこの男に殺されるとき音楽を聞いていたそうです。そしてこの男をひと目見たとたん、自分が殺されることを悟ったようだと言います」
教祖さまは目を閉じた。
「若い女を締め殺したその日のうちに、東京へ着いて、すぐわたしのことを探り当てました。このことをどうお思いでしょうか」
「能登には海で生活する人たちがたくさんいます。その人たちの家には中学へ通う男の子もたくさんいることでしょう。また軽井沢にも音楽好きの若い娘さんはたくさんいるはずですね」
「しかし……」
理事長は少しむきになったようであった。
「その足でわたしを探り当て、こうして教祖さまの前へまかり出ております。それにこの男は自分の過去について何も知らないのです。この男がいま記憶しているのは、荒れた能登の海で泳いでいたことです。それも全裸で」
理事長の言葉をひきついで彼が言った。
「それ以後二日間の記憶ははっきりしています」
教祖さまは目を閉じたままだった。
「僕は何者かに命令されて人を殺したのです。なぜか突然能登に居り、自分の意志でなく操られて人を殺しました。僕は多分……もしかすると、あなたのおっしゃる救世主の誕生をくい止めてしまったのかもしれません」
教祖さまは目を開いた。
「なぜここへ来ました……」
「僕を操っている何かが来させたのです」
教祖さまはまた、ほほほ……と笑った。
「するとわたしも殺すのですね」
「そんなことは……」
ない、と答えようとした彼は強い力に支配されて自分の意志でなく言い放った。
「ええそうです」
無表情だった教祖さまの顔に表情らしいものが泛んだ。その表情は急速に露骨な嘲《あざけ》りを示した。
「あなたに取り憑《つ》いた神さまは、ひどく権力欲がお強いようですね。まずあなたの神さまにとっての禍根を断ち、次にそれを予言した者の命を奪う」
教祖さまはそこで理事長の方へ顔を向け、
「きっとあなたも殺されてしまいますよ」
と言った。
――俺は殺さない。もうおまえの言うことなど聞くものか――
彼の内部は完全に分裂していて、彼自身はそう叫び、別な者は狂暴な衝動を駆りたてていた。
「どうしたのです。殺さないのですか」
教祖さまは挑《いど》むように言った。理事長は彼の凶悪な表情に驚いて、逃げ出そうとしていた。
「神がいることは予測していました。信じはしませんでしたが存在する可能性はあり得ると思っていました。ですが、神がそのように権力を欲するものだとは思ってもみませんでした。人間とは何と夢多い生き物なのでしょうね。神を徹底的に清らかなものと考えていたのですからね。きっとあなたに取り憑いている神は、今の体制の中での神なのでしょう。すべての時代を支配する唯一無二の神であるなら、どんな変革をもいとわぬ筈です。だがその神は変革を嫌って、自分にとって不都合な者をとり除いてしまったではありませんか。でも予言を取り消しはしませんよ。ただ一部を修正するだけです。時代は移り、社会は変わり、新しい文明が育つでしょう。それは確かなことです。絶対に予言通りになります。でもこの予言がいくら正しくても誇りにはできません。あなたの神はいずれ滅びるとしても、次の時代には同じような神が現われるからです」
彼は立ち上がり廊下へ逃げだそうとしている理事長の背中へ襲いかかり、座敷の中へ引き戻すと軽井沢のあの女にしたように、両手で力まかせにその首を絞めつけた。
教祖さまは坐ったままそれを見つめていた。
「ただの予言者にすぎないわたくしを、教団員たちは神であるかのように扱ってくれていました。でも神ではありません。神の存在を説いたこともありません。わたくしのしたことはただ未来を予測しただけです。ですが神を否定もしませんでした。みんなが夢見ているような神が、ほんとうに居てくれたらどんなにかしあわせだろうと、実在することを願ってはいたのです。でも失望しました。あなたの裁きは公正ではなかったのですね。結局はご自分の都合のいいようにしか裁けない方だったのですね。公正であり得たのは、裁かれる者があなたにとって取るに足らない相手である場合に限られていたのですね」
彼は息絶えた理事長の首から手を離し、次の獲物である教祖さまに近づいて行った。
「わたくしの最後のお願いです。あなたが選び、あなたが操ったその人を殺さないでやってください。あなたにとって不都合な人びとを取り除いたその人を、元の穏やかな暮しに戻してあげてください。まもなくあなたも滅びるでしょうが、それでもその人にとっては充分すぎる時間があります。あなたの役に立ったその人まで裏切らないでください。ともあれあなたは神なのですからね。人びとを裁ける方なのですからね。たとえ幻のようなものであろうと、人びとはあなたの公正な裁きを頼りに生きていかねばならないのですからね。どうぞわたくしを殺してください。あなたの正体を知った人間を生かしておいてはくださいますな。わたくしが生き残ればあなたを疑う者がおおぜい出来てしまいます」
教祖さまは正座し膝に手を当てて、唱えるように喋り続けていた。
「もし聞えているなら神に取り憑かれたあなたにも言いたいことがあります。ここへ来るまでに、なぜもっとご自分の本当の姿を探り出そうとはしなかったのですか。取り憑いた者の力がいかに強かろうとその体はあなたご自身のものではありませんか。殺すべき人びとを探しあてたように、ご自分の記憶を探って本来あるがままの暮しに戻るべきではなかったのですか。でも今となっては、もう遅いようですね。あなたの神が、あなたを元の穏やかな生活に戻してくれることを祈ります」
彼は正座した教祖さまの後ろへ廻《まわ》り込み、まるで孝行息子が父親の肩を叩《たた》くような恰好《かつこう》で両手をそっと教祖さまの首に当て、そして一気に絞めた。
彼は爽《さわ》やかに目覚めた。
昨夜の送別パーティーでだいぶ飲んだように思ったが、アルコールの気《け》はきれいに抜けていた。彼はべッドを降りると両手を天井に突き上げて大きく伸びをし、それから窓際に行ってカーテンを引き開けた。窓の外にはニューヨークの街並みがあった。注文してあった博多《はかた》人形も無事に着き、昨夜のうちにこの下宿のおばさんにプレゼントしてある。仕事の引き継ぎもすべてすんだし、あと残っていることと言えば荷造りだけであった。荷造りが終ったらカバンを幾つかタクシーに積み込んで時間迄に空港へ行けばそれで終りなのだ。
三ヵ月は長いようで短かった。今日になってみればあっという間に過ぎてしまった気がする。
彼はパジャマのボタンを外しながらバスルームへ行った。なぜか熱いシャワーを浴びたかった。酒のせいで熟睡したが、夜中に少し冷えこんだらしく、冷たい海で泳いだような夢を見た気がしてならなかった。
シャワーを浴びると気分がいっそう爽快《そうかい》になった。彼は戸棚《とだな》から大きなカバンを取り出しベッドの上に拡げて置いた。そのカバンに荷物を詰め込むところを何度想像したことだろう。人には言えないが、この三ヵ月の間に何度かホームシックにかかっていたのだ。鏡のついた小さな箪笥の引き出しを開けて下着を取り出し次々にべッドへ放り投げた。ニューヨークへ来てから買ったのもあるし、こちらへ来るときに持って来たものもあった。引き出しを空にしてべッドへ戻りかけた彼は、ふと気づいて引き返し、壁際の小さな机の上にある写真を取り上げた。
――もうすぐ帰るからな――
彼はその写真に心の中で言い、微笑してみせた。彼の妻の優しい微笑がそれを受け止めていた。それから数時間後、彼は同僚の一人につきそわれて空港に着いた。
「奥さんによろしくな」
同僚は彼をそう言って出国のカウンターへ送り出した。
快晴だった。
彼は太平洋の上を飛んで空から東京の夜景を見た。空港に着くと妻が迎えに来ていた。出発するときは、おおぜいで見送ってくれたが、今度は妻ひとりきりだった。でも彼はそれで満足だった。
「時間ぴったりね」
妻の第一声がそれであった。だがタクシーに乗ってしばらくしてから妻は急に体を寄せて来て、
「おかえりなさい……」
とささやくように言った。
彼はその妻を愛していた。恋愛結婚だったし、将来も仲好くやってゆけると確信していた。三ヵ月間の海外生活は彼にとって有益だったし、夫婦の仲もそれでまた新婚時代に逆戻りするような気配であった。
やがてタクシーは見慣れた彼の通勤コースへ入った。住宅街の、低い石垣が続く道へ来ると妻は前へ体を乗り出して運転手に道順を教えはじめた。
「その日曜大工という看板のところで止めてちょうだい」
妻はそう言い、
「あなたのいないうちに家《うち》の前の道が一方通行にされちゃったのよ」
と言った。
タクシーが止まり、妻が料金を払った。大きなカバンを両手にぶら下げた彼に妻が、
「先に行って鍵を開けるわ」
と言い残して小走りにその道へ駆け込んで行った。こぢんまりとした家が並んだ左側に、大谷《おおや》石を門柱にした二階建ての家があり、彼はその門を通って妻の開けてくれた玄関へ入って行った。その夜更《ふ》けベッドで彼が妻の体を求めはじめたとき、妻はそれに積極的に応えながら告げた。
「あたし妊娠しているのよ。三ヵ月ですって」
妻はそう言ってくすくすと笑った。ひょっとするとニューヨークへ立つ前の晩に出来た子供かもしれなかった。
「やっぱり男の子がいいな。偉い奴になって欲しい」
彼はそう言った。
[#改ページ]
巨根街
その朝、若い画家は行きつけの酒場のことを考えていた。学生の頃からそこで安い酒を飲むようになり、もう八年ほど通っている。マダムはそろそろ六十近いはずで、肥《ふと》ってはいるものの、どこか病的なところが感じられる女だった。長く付合って見ると、たしかに腎臓《じんぞう》が悪いらしく、それに気管支も弱くて、なかば慢性的に病院へ通っているようだった。肌《はだ》の色が白すぎるのも不健康な感じで、若い頃ならとにかく、その年齢に達したら今少し浅黒いほうが、かえって清潔に見えるだろう。
老い焼け。
酒場へ通って来る客の一人で、大手の出版社の編集局にいるという初老の男が、いつかマダムに向かってそんな言葉を使っていた。色白なのも年齢によっては考えものだ、世の中には老い焼けということもあるのだから――。たしかその初老の客はそんなように言ったはずである。若い画家にははじめて耳にする言葉だったが、なるほどそういう言い方もあるのかと、耳学問をしたつもりで記憶の底へしっかりと埋め込んでいた。
マダムには娘がいた。年は画家より少し上で、画家が学生の頃はどこかの劇団に入っていたらしく、時々余り聞いたことがないような劇団の公演を報らせるポスターが、その古めかしい酒場のドアの辺りに貼《は》られたりしたものである。それがいつの間にか芝居と縁が切れたらしく、やがては引退するであろうマダムの後継者として、すっかりカウンターの向こう側に納まっている。
勝気な女で、客の前であろうと気に入らなければ激しくマダムをやりこめる。客の選り好みも激しくて、気に入らない客は、「ママのお客さんよ」と言って見向きもしない。ちょっとした美人で、どこか男に対してあけっぴろげな所があるから、酔った時の相手としては結構面白く、中には本気で惚《ほ》れている客も何人かいるようだが、その画家には余りしっくり来ない女だった。
それでも酔って来ると、何となくその女が欲しくなってしまうようなこともないではない。その点では本気で惚れている客と五十歩百歩で、酔ってうわずった目をギラギラさせてかき口説いたことも二度や三度ではないはずであった。それどころか、ひと頃は彼女の母親であるマダムに惚れられているという自覚を持ってさえいた。たしかにマダムは他の客よりも画家に対して優しく、「どうせおしまいになるんだから、あんたとなら今の内にひと花咲かせてもいいよ」などと、冗談とも本気ともつかぬ様子で言われたことがある。ツケの催促もはじめからほとんどされた記憶がない。もっとも、画家が飲むのはその酒場で一番安いウイスキーだし、いつもオン・ザ・ロックでチビチビ飲《や》るのだから、いくらためたって高《たか》が知れている。それに運がよくて、学校を出るとすぐ画家として少しは認められ、年に一、二度は新聞の美術欄に、名前が出たりするから、他の同年輩の連中よりはいくらか信用されていたのかも知れない。一時はマダムも娘が舞台に立つことを自慢にしていたくらいだから、そういう分野の仕事をする人間には多少寛大なのかも知れない。その店には、詩人や小説家や俳優や画家などがよく出入りしている。もっとも世間に知られた連中はごく僅《わず》かで、たいていは卵か、なり損《そこな》いと言った連中である。
ゆうべもそこでしたたかに酔って来た。深酒をした翌日はなぜか朝早くに目が覚めるのだ。画家が起きた時はまだ八時頃で、窓をあけると前のマンションの壁に当たった陽光が照り返して、頭がくらくらするほどの上天気であった。
「もう起きたの……」
画家の妻はその明るさからのがれるように体を折り曲げ、夜具に顔を突っ込んで籠《こも》った声で言った。結婚してまだ七ヵ月しかたっていない。それに彼女は二十歳《はたち》になったばかりなのである。彼女のほうから画家にまつわりつくような期間があって、画家も「まあそれならいいや」というような、安直でしかも多少思いあがった態度で結婚してしまったのだが、最近になってやっと妻を持つことの重味を感じはじめているのである。
今どき珍しいことかも知れないが、彼女はその画家がはじめての男であった。最初に抱かれるとき、彼女はそれをはずかしそうに言った。画家は興奮していたから、まかせておけ、まかせておけ、と言いながら夢中で彼女の体を開いたものである。画家は単にその夜の性交のことについて言ったような気でいたが、彼女はそれ以来画家に頼り切り、身も心もあなたに捧《ささ》げ尽しました、という感じで夫を信じ切って、どんな行動にも疑いをさしはさむ様子がなかった。
少し世間に認められたと言っても、まだそう絵が売れる画家でもない。だから生活は楽ではなく、住んでいる場所も、東と南の日照を隣接地に建った八階だてのマンションに奪われ、そのため安い家賃しか取れなくなってしまった木造アパートの二階の、六畳ふた間の部屋なのである。もっとも、六畳ふた間ならいわゆる木賃アパートとしては上等の部類だろうが、何しろ仕事が油絵を描くことだから、どうしても少し広めの部屋が要るのである。
画家は来年三十歳になろうとしている。まだ二十歳の、それも処女を与えた相手を夫とした妻は、近頃ようやく性の悦《よろこ》びに目ざめたようで、交わったあと必ず湯にひたしたタオルを絞って、たった今自分に深い悦びを与えた夫の性器を、優しく拭《ぬぐ》ってやるようになっていた。その時の彼女の表情はいとも厳《おごそ》かで、おのれの人生に平和と豊穣《ほうじよう》をもたらす聖なるものへの儀式を掌《つかさど》っているように見えた。将来はとにかく、今の彼女にとっては、夫という存在と、その部分とが、等しい重味を持っているような感じである。
画家はそういう妻に対して、やはりいとしさを感じずにはいられなかった。昨夜わけもなく飲んだくれて帰ったことが、常より強い自己|嫌悪《けんお》を誘発させているのも、まず第一に妻と、それに付随した形での自己の将来に対する責任感のせいであった。
「こんなことをしていては駄目になってしまう」
それはもう酔い醒《ざ》めの朝に何百回となく繰り返して慣れている感慨であるはずなのに、画家はその朝ことさら新鮮に受けとめていた。水をコップに一杯飲んで、朝刊にざっと目を通したあとまた夜具の中に戻《もど》ってしまえば、正午か一時頃まで目がさめずに眠れるのは判っていたが、それでは余りにも怠惰であり、遅い帰宅も芸術家としての悩みを発散させて来たのだと言うように解釈してこころよく迎えてくれた妻にも、申しわけがないと思った。
画家はなるべく物音を立てぬように、そっと襖《ふすま》をあけてとなりの六畳の部屋へ移った。畳を汚さぬようにビニールの敷物が敷きつめてあり、そこが画家のアトリエであった。描きかけの絵に白い木綿の布がかけてあった。きのう画家が外出したあと、妻がそっと注意深くかけたに違いなかった。画家はその白い布をめくった。そしてうんざりしたように顔をしかめた。
気に入らない。まるでなっていない。惰性で描いているだけだ。もっとこう、身内からはじけ出すような何かがなければいけない。以前はそれがあった。それに追われて夢中で描いていた。いったい俺《おれ》は何を失ってしまったのだ。とり戻せないのか。
画家は考え込んだ。妻が起き出したらしく、となりの六畳で聞き慣れた重さの跫音《あしおと》が動きまわっている。仕事の興をそいではと、つとめて物静かに振舞っているのだろう。洗いざらしのジーパンにTシャツ、髪はポニーテール。このアパートや前のマンションの子供たちの人気者で、自分でも幼稚園の保母さんになりたかったと言っている。健康で運動神経が発達していて、睦《むつ》み合いはじめると未知の性感を探し当てるため、自分からとんでもない姿勢を執《と》ったりするのだ。
「これはあたしの神様よ」
ときどきそう言って、勃起《ぼつき》した画家の体へうっとりと口づけをする。
――そうだ、ペニスを描こう――
画家の心の中で、久しく忘れていたあのはじける感覚が起った。
「おい、飯はまだか」
画家は奮い立って大声で言った。
「はあい」
妻はかげりのない声で答えた。
――朝飯がすんだら、外へ出てペニスを写生しよう――
画家はあたりに散らばった道具を集めはじめ、となりの部屋では妻がテーブルに皿《さら》や茶碗《ちやわん》を並べはじめていた。
すぐその先でバス通りと直角に交わる六メートル道路があった。歩道はなく、片側に申しわけのように歩行者用の白線がひかれていた。
若い画家が画架《イーゼル》を立てているのは、六メートル道路同士の小さな交差点のすぐそばであった。そこは左側に建っているマンションの敷地の一部で、道路とマンションの壁との間に道路と並行して四メートルくらいの空間を作り出していた。多分それは建蔽率《けんぺいりつ》か何かの建築規制によって生じたもので、一応芝生が植えられているが、子供の遊び場に開放されていた。
画家は熱心に絵筆を揮《ふる》い続け、彼の描こうとするものはすでにほぼその全貌《ぜんぼう》をあらわしていた。子供たちの中には、本物の画家が絵を描くところを見た者はほとんどいないようであった。
「うまいなあ」
「わあ、凄《すご》いや」
口ぐちにそう言って画家のうしろに立ちはじめたのがきっかけで、近所の子供たちがぞろぞろと集まって来た。そのうち通りがかる大人たちも立ちどまるようになり、マンションのベランダからその人だかりを見た住人たちも、好奇心に駆られて外へ出て来た。
道ばたにはそば屋の出前持ちのスクーターや酒屋の軽四輪、クリーニング屋のライトバンなどがとめられ、見物人は道路へはみ出すほどになっていた。だが画家は夢中で描いていた。背後の見物人を気にするゆとりはなかった。
彼は目の前にある画布の中のおのれの世界に浸り切り、その世界の前方に新しい視野がかすかに姿をのぞかせているように思っていた。
――そうだ、これだったのだ。描くよろこびにとり憑《つ》かれ、処世の計算も人に見せる当てもなく、ただひたすら描くことに没入していたあの気分こそ、いま自分がここで味わっているものなのだ――
画家は没入し、孤立し、ひたすらおのれのための絵筆を揮っている。見物人は勝手にそのうしろに立っているのだ。或る者は画家の時にかろやかで時に激しいその筆さばきに見惚れ、或る者は自分の目に映るものと画家の絵の差異について話し合っていた。いずれにせよ、彼らをそこに集め、足をとめさせているのは、専門の画家が見せる真摯《しんし》な創作の姿なのである。
一台の中型乗用車がその道へ入って来た。左に駐《と》めてあるライトバンの幅以上に見物人が道路へはみ出していて、そこを通り抜けるため運転者は減速し、警笛を鳴らした。だがうしろのほうの見物人が四、五人道端へ寄っただけで、人だかりは動かなかった。運転者は車を停め、二、三度続けて警笛を鳴らした。
その時、バス通りからゆっくりとパトロール・カーがやって来た。前の中型乗用車が群衆にはばまれて立往生しているように見えたに違いない。パトロール・カーはその車のうしろにバンパーをつけんばかりにして停車すると、ドアをあけて制服の警官が降り立った。まだ若いが、体つきのがっしりした、たのもしそうな警官であった。
若い警官は、苛立《いらだ》ってまた警笛を鳴らしはじめた乗用車の窓を叩《たた》いて静かにさせると、見物人を掻《か》き分けて前のほうへ行った。
画家は今の喧《かしま》しい警笛にも、警官が近付いたことにも気付かぬ様子で一心に絵筆を揮っていた。
「君」
警官が言った。画家は気付かない。
「君」
今度は少し強く言った。画家はその途端、絵筆を持った右手を前へ突き出したまま、強く目を閉じた。画布の中の世界から急に引き戻されたのを、苦痛に感じたようであった。
「君、そこで何をしているのかね」
警官が言った。それは質問の形ではあったが質問ではなかった。その画家がそこで絵を描いていることをひと目見た瞬間判らぬようでは、警官になることはおろか、小学校を卒業することさえできないだろう。
「絵を描いている」
画家は目をあけると右手をおろし、煩わしそうに言った。それは回答の形ではあったが、その警官にとっては回答になっていなかった。なぜなら警官は質問の形を採って咎《とが》めたのである。何をしているのか、という言葉は、獲物に襲いかかる寸前の肉食獣が見せる、例の跳躍の準備の姿勢なのである。
「絵を描いている……」
警官はさも理解しにくそうに言った。
「そう、絵を描いている」
画家は頷《うなず》いた。画布の世界から完全に立ち戻ったようだった。
「絵を描いているくらい見れば判る」
画家は当惑して、言葉を探したようであった。そして結局、相手をなだめないほうの言葉を選んだ。
「だったら訊《き》かなければいい」
すると警官は振り返ってわざとらしく見物の人たちを眺《なが》め回した。
「通行の邪魔になっている」
「ここはマンションの敷地内だ。道路じゃない」
「でもみんな道路にはみ出して見物している」
「だったらみんなに注意してやってくださいよ」
画家もその時になって見物人の数に気が付き、言葉を少し丁寧にして言った。警官は画家の頼みには関係ない態度で二、三度手を振り、
「さあどいてどいて……車が通れない」
と大声で言った。人々はマンションの側へ寄り、乗用車がゆっくりと走り出した。画家はまた画布に向かった。
「こんな所でそんな物を描いては困るな」
警官は画家のほうへ向き直って強く言った。画家はまた振り向かねばならなかった。
「ここで絵を描いてはいけないのか」
「そんなものを描いていいと思うのか」
「いけないのかね。道路のまん中でやってるわけじゃないし」
「場所のことじゃない」
「じゃあ何のことだ」
「その絵だ」
「これがどうかしたか」
「どうかしたかだと……見ろ、子供たちがたくさん集まってる。大人もだ。大勢の人を集めてそんな物を描いて見せて……」
「見物人は俺が集めたんじゃない。勝手に集まって来たんだ。だいいち、俺はどういう悪いことをしてると言うんだ」
画家はわけが判らないというように首を横に振った。見物人は成り行きを見守って一人も動かなかった。
「ほら、子供は向こうへ行って。こんな物見るんじゃない」
「何がこんな物だ」
画家が怒った。すると警官は絶対優位に立った者が示す、あの落着きと冷笑を見せた。
「人前で性器を描いて何を言ってる」
「え……」
画家は意表を衝《つ》かれたように相手をみつめた。
「君が描いているのは、それは性器だぜ。人間の性器だよ。誰が見たってそうだ」
するとクリーニング屋がしゃしゃり出て言った。
「そうですよ。これはペニスですよ。ペニスを描いちゃいけないって法律でもあるんですか」
画家も釣《つ》られたように言った。
「そうさ、ペニスだ。俺はペニスを描いていたんだ」
「それも真っ昼間、道ばたで大勢の人を集めてな」
警官は鋭い目付で、声だけは穏やかな調子で言った。
「あんた何が言いたいんだ、いったい……」
画家は焦《じ》れたように言う。
「すぐ絵をしまえと言うんだ。こんな所でそんな絵を描いちゃいかん。きまってるじゃないか」
「冗談言うなよ。俺は絵描きだ。絵を描くのが商売だ。それにここは私有地だ。往来じゃない。どこで何を描こうと俺の自由じゃないか」
「ぐずぐず言わずに早くしまえ」
警官は画布を突き破らんばかりの勢いでその絵をさし示した。
勃起したペニスが描かれていた。背景は青く晴れた空で、ずっと後方に白い雲が浮かんでいた。
「写生してどこが悪い」
画家も呶鳴り返し、左手を高々とあげて空をさした。
空に勃起したペニスがあった。空は画家の絵のように青く晴れ渡り、ペニスのずっと上のほうに白い巻雲が浮かんでいた。
「おまわりさんよ、あいつが見えねえわけじゃないんだろう」
そば屋の出前持が言った。
「この人はあれを写生してるだけじゃないか」
クリーニング屋も言った。
「さすがプロだよな。そっくりだ」
警官は居丈高に喚《わめ》いた。
「ここでこんなことをされちゃ困るんだ」
今度は画家のほうが冷笑を泛《うか》べた。
「誰が困る」
「とにかくこれはペニスだ。君は大勢の前でペニスを描いていた」
「判らない人だな。あそこに見えている物を俺は写生しているだけだ。有る物を描いて何が悪い」
クリーニング屋と酒屋が口を揃《そろ》えて言った。
「これは風景だよ。空の風景だよ。これがいけないんだったら、俺のチンボコはどうすりゃいいんだ」
二人はいやらしく笑いこけた。
「これはペニスだ。男性性器だ」
警官は断固として言った。
「じゃ、あれは」
そば屋が空を指さした。巨大なペニスが見えているのだ。
「あれは自然現象だ」
「何言ってやがんだ。あれもペニスじゃねえか」
「そう見えるだけだ」
「それならこれは自然現象を写生した絵画だよ。そうじゃないとでも言うのか」
画家は本気で警官に尋ねた。
「子供たちや付近の住民を集めて……」
「俺が集めたんじゃない。描いてたらみんなが集まって来ただけだ」
「君がこんな所でペニスなんか描いているからだ」
「何か勘違いしてるよ。そりゃ、あんな物が東京の空に出現する前は別さ。でも、出て来ちゃったものしようがないじゃないか。あそこにあいつが浮かんでもうどのくらいたつと思ってるんだ。あれがあそこにある以上、もう月や星を描くのと同じじゃないか」
画家は真剣に言ったが、警官にとってそれは犯罪者の自己弁護としか聞こえないようだった。
「どんな物に見えようと、あれは自然現象のひとつだ。だが君は明らかに性器を描いている。しかも群衆の前にそれを展示しているじゃないか」
見物人たちがひそひそと喋《しやべ》り合っていた。その中から、女の甲高い声がした。
「横暴よ」
見物人たちの中に同調する者が増えたようだった。半分くらいが頷き合っている。
「とにかく、その人は上手《じようず》よ。空にあるのとそっくりじゃないの」
「でも嫌《いや》ねえ、猥褻《わいせつ》な感じで」
中年の主婦が照れたように言った。
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刑法
第二編・罪
第二十二章。猥褻、姦淫《かんいん》及ヒ重婚ノ罪
第一七四条【公然わいせつ】
公然猥褻ノ行為ヲ為《な》シタル者ハ六月以下ノ懲役若クハ五百円以下ノ罰金又ハ拘留若クハ科料ニ処ス
第一七五条【わいせつ文書頒布等】
猥褻ノ文書、図画其他ノ物ヲ頒布若クハ販売シ又ハ公然之ヲ陳列シタル者ハ二年以下ノ懲役又ハ五千円以下ノ罰金若クハ科料ニ処ス販売ノ目的ヲ以テ之ヲ所得シタル者亦同シ
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「これは犯罪だ」
警官が言った。画家は憤怒《ふんぬ》の表情を隠さずに相手をみつめた。
黒い帽子《ぼうし》の下に狭い額と剛《こわ》そうな黒い髪が見えていた。黒く太い眉《まゆ》は今にもくっつきそうだった。少し細いが鋭く確信に溢《あふ》れた目、がっしりとした鼻。食欲そのもののような感じのちょっとけだものめいた唇《くちびる》。頬骨《ほおぼね》が出ているが痩せているのではない。陽焼《ひや》けした肌とかなり小さめの耳。
「何が犯罪だ」
画家は負けじと言い返した。
「ある物をあるように描いた。それが犯罪か」
「猥褻な図画を公衆の面前に陳列している」
「ぷふい」
画家は無意識に、いつも酒場でそういう場面になると出る冗談を口にした。だが警官は咳《せき》ばらいか何かだろうと思っていたようだ。
「いったい、あれをどうするつもりでそんなことを言ってるんだ」
画家は空を見あげて言った。怒張したペニスそっくりの、巨大な茶黒い塊りがそこにある。
「とにかく来てもらおうか」
警官は右手をあげて、パトロール・カーの中に残っている同僚を呼んだ。もう一人の警官は待ちかねていたように、急いで車から出て来た。
「猥褻物陳列罪か何かで逮捕しようと言うのか」
画家の目の色が変わった。のがれる道を探している目だ。
「とにかく来てもらう」
警官は極めて事務的に言った。もう彼は個人としてではなく、法の代弁をしているのであった。
「それじゃあれも取締れ」
クリーニング屋が空を指さして叫んだ。
「そりゃひどいよ、写生してただけなのに」
酒屋が言った。
「でもねえ、何もここで描かなくたって」
マンションの住人らしい中年の女が言った。
「俺の住んでる部屋からは空が見えないんだよ。このマンションのおかげで……」
画家が訴えるようにその女に言った。中年女はこそこそと人々のうしろへかくれた。
「何に見えようとあれは自然現象。だがこの絵は性器だ。公衆の面前で性器をそのものずばり描いて見せたんだ」
もう一人の警官が来た。
「こんな所でこいつを描いていたのか」
「連行する」
「そうさ、当たり前だ。ほら、来い……」
あとから来た警官が画家の手首を掴《つか》んだ。
「逮捕するって言うんだな」
画家は蒼白な顔で唇を噛《か》んだ。
「当然だろ。こんな物を描いといて……」
画家はパトロール・カーのほうへ引っ張られて行きながら、空に向かって叫んだ。
「あの空にペニスがある。俺はそれを描いた。現実にあそこにあって、誰《だれ》の目にも見える、あのペニスを描いたんだ。何の権利があって俺が絵を描く自由を奪うんだ。俺は徹底的にたたかってやるぞ」
最初の警官は画家の道具をひとまとめにすると、証拠物件である描きかけのペニスの絵を大事そうに取りあげ、濡《ぬ》れた絵具で制服を汚さないように用心しながらパトロール・カーへ引きあげた。
見物していた人々は、道ばたに並んでそれを眺めていた。
二人の警官と画家がパトロール・カーの中へ入ると、屋根の赤いランプがついて回転をはじめ、サイレンがゆっくりと唸《うな》りはじめた。
その時、マンションの裏手から、画家の若い妻が走り出して来た。彼女は走り出すパトロール・カーの窓ガラスを手で叩きながら、一緒に並んで走った。
「あなた……あなた」
中で画家が何か言ったようだが、窓がしまっていて聞こえなかった。
「何をしたの。どうしてつかまったの……」
パトロール・カーは無情にスピードをあげ、角を曲った。見物人がどっと交差点のほうへ移動し、去って行くパトロール・カーと、どこまでもそれを追って叫びながら走る若い女を見ていた。
その私立の女子高校は設備がいいかわりに入学金が高いことで有名だった。授業料もトップ・クラスで、生徒の中にはほとんど学校へ姿を見せない売れっ子の歌手や俳優がたくさんいる。
教育ママを十人ほど集めて鍋《なべ》の中へいれ、長時間トロ火で煮つめたらこんなのが一人分出来上るのではないかと思うようなおばさんが黒板を背に立っている。
「とにかく、あまりキョロキョロと空を見上げたりしないように。ことに人前で空を見てはいけません。さいわいと言っては何ですが、東京《とうきよう》は高い建物が多くて、よほど顎《あご》をあげないと空は見えません」
女教師は自分で思い切り顎を天井に向けて見せた。生徒たちが笑う。
「こんな恰好《かつこう》はあまり見よいものではないでしょう。はしたない姿です。与謝野晶子《よさのあきこ》も言っております。……東京には空がない」
キャー、と言う笑い声がする。
「何ですか」
女教師の目は三角。
「智恵子《ちえこ》です。智恵子が言ったんです」
「あ、そうでした」
「違います」
「何が違うんです。あれは智恵子が言ったんですよ」
「いいえ。ご主人の高村光太郎《たかむらこうたろう》です」
「詩にしたのは光太郎です。でも、東京には空がないと言ったのは智恵子ですよ」
「本当に智恵子がそう言ったんでしょうか。それは詩人のイメージだと思うんですけど」
「そのように疑ってはきりがありません。仮に詩人のイメージだとしても、智恵子がそう言ったと考えたほうが綺麗じゃありませんか」
「上を向かなければ空があるかないか判らないわ」
女教師はキッとなって発言者を探したが見つけられなかった。
「うちは郊外にあるものですから、駅を降りたとたんにあれが目に入っちゃうんです」
真面目《まじめ》そうな生徒が言った。本気で困っているようだ。
「あたしだって見たくないけど、あんな大きなもの……」
もう一人真面目なのが相槌《あいづち》を打ったが、それほど真面目でない連中の爆笑を誘ってしまった。
「そうよ、大きすぎんのよ。困っちゃう」
誰かが言い、誰かが口真似《くちまね》をする。
「……あんな大きなもの」
女教師がヒステリックに叫んだ。
「静かに」
騒ぎがおさまる。
「とにかく、たしかにこれは異常な事態です。だがあれは、一部の人が言うような卑猥《ひわい》なものではありません。単なる自然現象です。異常ではあるけれど、気象上の特別な現象にすぎません」
「そうよ。あんなでっかいのあるわけないわ」
そう言った生徒は女教師に睨《にら》みつけられて首をすくめた。
「それを卑猥な物に見たてる人々が悪いのです」
「じゃあ見たってかまわないのじゃありませんか。単なる自然現象を故意に見ないように努力するなんて、かえって不自然です」
論客らしいのが手をあげて言った。
「モラルの問題です」
女教師は即座に答えたが、どうも内心動揺しているようだった。
「自然から目をそらすのがモラルなんですか」
「あなた」
女教師が喰《く》ってかかる。
「それじゃあ、あなたはあれを見たいんですか」
「特別に見たいとも思いませんけれど、存在するものは仕方ないと思います。実際にあるものを、わざと見ないようにするほうがいやらしいみたい……」
「何がいやらしいです。若い女性の慎しみをわたしは教えてあげようとしているんです」
「空を見ないことが慎しみなのですか」
「こんな……」
女教師はまた真上に顔を向けて見せた。
「……こんな姿を見っともいいと思いますか」
「そういうポーズはとても見っともないです」
「そうでしょう」
「でも、空をなるべく見るななんて……。先生だっていまおっしゃったでしょう。あれはただの自然現象で、男性のシンボルなんかじゃないって。だったら今までどおりにしてればいいんじゃありませんか。いやらしいものじゃないとおっしゃりながら、見てはいけないなんて、それでは結局いやらしいものであることを認めてしまうことになります」
「判らないんですか。世間がそう思うんです。あの娘さんはあんな物を見ていると……」
「やだ。世間ですか。じゃあ世間の人が見てなければかまわないんですね」
「そうじゃありません。それは各自ご自分の心のありかたの問題です。とにかく今はこういう事態で、空にあんなものが浮かんでいるのですから、不用意に見あげて人に笑われないようにすべきなのです」
「うつむいて歩けばいいんですね。ペニスなんて世の中には存在しないんだという顔で」
「ペニ……何を言うんです、はしたない」
「あるものをないようにするなんて、少し変です」
女教師は唇を震わせて生徒たちから顔をそむけた。鉄筋四階だてのその校舎の窓から、空に浮かぶ怒張したペニスそっくりのものが見えていた。
五階でエレベーターを出ると、すぐに守衛の顔が見えた。男は守衛に頷いて見せた。久しぶりだったのだ。守衛は丁寧に頭をさげた。
廊下があってドアが五つ並んでいる。政務次官室、事務次官室、いちばん大きいのは円卓テーブルがある省議室だ。ほかに秘書官室。
いちばん右奥は大臣室だ。数分後、男はその大臣室の窓から国会議事堂を見ていた。手前に尾崎記念館の細い塔が見え、右のほうには皇居のお濠《ほり》がある。
運輸大臣が言った。
「どんな具合だ」
その男は次長だった。長官のすぐ下にいて事務関係の実権を握っている。
長官は技術屋だから、こういうことになると次長が大臣のところへ来たほうが話が早い。
「気象庁としては全力をあげています」
気象庁の次長は運輸大臣に答えた。
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(運輸省設置法・第60条・第1項)気象庁は気象業務を行なうことを主たる任務とし――以下略。
(同法60条・第1項、4条・1項)気象、地象、地動、地球磁気、地球電気および水象ならびにこれらに関連する太陽、天空、地面および水面の輻射に関する観測、調査および研究あるいは気象、地象(地震および火山現象を除く)および水象の予報および警報等の権限を行使する――以下略。
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「何だね、あの変なものは」
運輸大臣はニヤニヤしながら訊いた。報告を求めるために気象庁の次長を呼びつけたのだが、ことがことだけについ雑談めいてしまう。
「ペニスの実体調査はかなり……」
運輸大臣が声をあげて笑ったので、ことし五十歳になる気象庁の次長も釣り込まれて笑った。
指定職の乙。その上の甲になるともう長官である。二十六年間に八等給から攀《よ》じ登って官吏の頂上へ手がかかっている。
「ほかに言いようがありません」
「それはそうだ」
大臣はまだ笑いこけている。
「世間ではすでにペニスで通っています。それに、ペニスと言うのは本来そうけがらわしい言葉でもないのではありませんか」
大臣はふと笑いを納めた。
「ペニスとは、陰茎、男根のことだろう。要するにチンボコだ。違うのか……」
次長は事務的な態度で言った。
「辞書でちょっと当たったのですが、半島のことはペニンシュラと言いますし、半島人のことはペニンシュラーとなっています。だから突き出したとか、ぶらさがったとか言う意味があるのと違いますか」
次長は関西出身だった。
「未決を意味するペンディングのペンドは、ぶらさがった、突き出た、ですし、ペンダントはご存知のとおりの形です」
「そうか、ペンダントは首からぶらさげるな」
大臣が感心した。
「それは違います」
秘書官が気色ばんで口をはさんだ。
「お言葉ですが、半島を意味するペニンシュラは、ラテン語のパエニンスラから来ています。ラテン語のパエネは英語のオールモストで、ほとんど、と言う意味。インスラは島のことです。ほとんど島、つまり半島なのです。ペニスだの突き出しただのぶらさがるということは関係ありません」
次長は言い負かされてそっぽを向いた。
「だからいかんのだ」
大臣は秘書官に向かって吐き出すように言う。
「そんなことでは出世はおぼつかんな。綺麗《きれい》ごとになるものは綺麗ごとにしておけ」
次長は気をとり直して秘書官に言った。
「そう言えば君は能登《のと》半島の出身でしたな」
秘書官の顔が蒼白《そうはく》になる。
「能登半島か」
大臣がまた笑いこける。
「チンボコの先が曲っておる」
秘書官は部屋を出て行った。
残った二人は白けた顔になり、大臣が煙草に火をつけた。
「器《うつわ》の小さい人間は何かと煩《うるさ》いもんだ」
「一部で、ハレー彗星《すいせい》の影響ではないかなどと言っています」
「ハレー彗星か」
「この前は明治四十三年に現われました」
「そうだそうだ。弟の奴《やつ》が戌歳《いぬどし》でな。あれが生まれた年だったよ。わたしはまだ五つか六つだったが、よく憶えている」
「あの彗星の周期は七十六年だそうです」
「まだ十年もある」
大臣は顔をしかめた。
〈舒明紀《じよめいき》〉
六年秋八月長星見南方、時人|曰《いわく》彗星。
「宇宙規模の現象では、その十年でも影響圏に入る可能性があると言うのです」
「ふうん」
大臣はあまり感心しないようであった。
「要するにわけが判らないので、いろいろな説が唱《とな》えられるのです」
「人心を惑わしてうれしがるやからはいるものだ」
「いずれにせよ、あのガス塊に観測機を入れたところ、いわゆるスモッグの成分と同じものが検出されました」
「あのペニスの中へ飛行機が入れるのか」
「要するに、おかしな形をした汚れた雲らしいのです」
「見かけ倒しのフニャフニャだと言うわけか」
「ガスがかなり強い度合で氷結しているのです」
「雲の固い奴だな」
「はい。大気中の汚染物質が何かの理由で一ヵ所に固まってしまったものと考えられます」
「固いと言っても飛行機が中へ入れるのだから……ややこしいことだ。が、飛行に支障がないのは何よりだ」
「はい」
「位置が動かんのはどういうわけだ」
「残念ながら……」
「判らんのか」
「はい。今後の研究結果を待ちませんと……。しかし、どうやら電磁気現象に関係あるものと思われます」
「どういうことかね」
「都市の汚染した大気中にはかなりの金属性浮遊物があります。どうもペニスはそれが核となってああした塊りになり、しかも地表の磁場と何らかのバランスを保って動かないでいるものと思われるのです」
大臣は椅子《いす》を立つと窓際へ行って空を眺めた。今日もペニスがある。
「あれはスモッグの塊りか」
「そう言えるようです」
「似た色をしとるなあ」
「スモッグを濃縮するとあのような茶黒い色になるそうです」
「地表の磁場と言うが……」
大臣はまた椅子に戻り、大儀そうに言った。
「動かんであそこに居ついておるわけは……」
「はい、東京のような大都会になりますと、小さな電磁場が非常にたくさん存在します。人工的なもの、という意味です。電磁気学という学問がありますように、電気と磁気ははじめ別々に考えられていたのですが、実は密接な関係があることが判りまして、以来物理学上の一分野になっております。大臣、東京はひとつの巨大なコイルと言っても過言ではないのです」
「そう言えば電線だらけだな」
「はい。一応みな絶縁し被覆してありますが、我々は微弱な磁気がその外に洩《も》れていることを知っています。電流の磁気作用と申しまして、電気が流れている針金は磁石と同じなのです。また、電磁誘導という現象も確認され、すでにいろいろ応用されています」
大臣は目をとじて聞いていた。
「ボール紙の筒……つまり非伝導体の筒ですが、その筒に針金を巻きつけて両端に検流計をつなぎます。そして筒の中へ棒磁石を差し入れますと、入れた瞬間と出す瞬間に検流計が振れます。つまり磁気が電気を生み出しているわけです。ところで大臣、この針金を巻きつけたボール紙の筒と、出入りする棒磁石について、何かお気付きになりませんか」
「トンネルのことか」
「そうです。そこの北の丸トンネルのような自動車用のトンネルや、地下鉄です。また、各種の電波も四六時中放射されておりますし、まったく東京は巨大なコイルのようなものなのです。大人げないことで恐縮ですが、UFOは……」
大臣が目をひらいた。
「空飛ぶ円盤かね」
「はい。俗説ではありますが、一部空想家の間では、あの動力源は我々がまだ知らない電磁気現象の応用であろうとされています。つまり電磁気現象については、まだよく判らぬことが多いということを申しあげたいのでして、今回のペニスを科学的に解明できたなら、円盤なみのエネルギー源を手にすることができるかも知れないのです」
「それはいい」
大臣は素っ気なかった。
「君は気象庁長官の一年後輩だな」
「はい」
「長官はむずかしい立場にいる」
「…………」
「わけは簡単だ。首都の上にあんな物があっては国家の名誉にかかわる。そうだろう。モーニングに威儀を正した男が、おでこにペニスをくっつけて出て行ったら世間は何と思う」
「びっくりするでしょうな」
「国家の威信にかけて、あんなものは一日も早くなんとかせにゃならん」
「当然です」
「磁気で地表に引きつけられて動かんのなら、何かでかい磁石か何かで引っ張ったらどうだ。東京湾にマンモス・タンカーか何か浮かべてだ」
大臣は焦《じ》れているらしかった。
「そうなりますと、気象庁の力では……」
「判っている。君らは観測し、予報し、警報を発するのが主たる任務だ。だが何とかせねば、こんな馬鹿臭《ばかくさ》いことはどこも引き受けんぞ。ペニスの引き取り手などあるものか。糞《くそ》、あの汚れスモッグのマンモス・チンボコめ」
[#ここから1字下げ]
〔東京大学法学部宇宙問題研究同好会会誌〕わが国の行政機構においては、UFOが実際に出現した場合、その問題の取扱いは少くとも初期において運輸省がこれに当ることが予想される。その理由の第一には、領空内の航空管制を運輸省が担当していることである。同時点において防衛庁もこれにからむことは否定できないが、UFOが住民に攻撃をしかけぬかぎり、これを防衛しまた撃退する必要は生ぜず、結局自然現象のひとつとして取扱われることが予想されるからである。当然文部省及び科学技術庁もこれに介入しうる機能を一部与えられているが科学技術庁は本来科学技術行政の一元化が主たる役割であり、宇宙企画、宇宙国際、宇宙開発の研究調整局三課も、異星生物の飛来などに関しては正当な取扱窓口とはならない。同様に文部省も学術調査団の編成は予想されるが、主たる窓口とはなり得ないであろう。結局当初は宇宙的自然現象のひとつとして取扱われることになるであろうから、直接にこれと接触する者は運輸省の外局である気象庁ということになろう。
(運輸省設置法の項参照)
[#ここで字下げ終わり]
「つまりだ」
大臣はうんざりした顔で言った。
「UFOだのペニスだのと、冗談の種にしかならんようなことがこの省に押しつけられようとしている。ことにあんなペニスを押しつけられてみろ。気象庁はピエロにされてしまう。……そしてわたしもだ」
次長は下唇をなめた。
「あの……」
「何だ」
「あれがスモッグの塊りであると学術的に判定されたら問題はなくなるのではないでしょうか」
大臣は煙草にむせて咳き込み、手さぐりをするように灰皿へ手をのばして煙草をもみ消した。
「そうなれば……」
激しく咳き込みながら言った。
「ペニスは都の問題になる」
「そうです」
「都の公害問題になるわけだな」
「はい、多分そうなると思いますが」
「早くしろ」
大臣は手を振った。
「あんな物、早くくれてやるんだ。スモッグの塊りが東京という巨大な電磁場にとらえられて動けんのだと、早くそう発表するんだ」
「はい」
次長一礼して去る。
「知恵を小出しにするからいかん。空で何が起ろうと、この部屋の状態がどうなるかが問題なのだ」
大臣はニヤニヤする。
「あいつがつかまったって……」
酒場で初老の男が大声を出した。
「そうなのよ、可哀そうに」
肥った色の白いマダムがけだるそうに言った。
「ばかよね、朝っぱらから道ばたでペニスを描いてたんですって」
娘が笑った。
「笑いごとじゃないね」
初老の男は憮然《ぶぜん》として、少し浮かしかけた腰をまた椅子に落した。
「どうして」
「ペニスを描いてどこが悪いんだよ」
「だって人前でさあ……」
「でっかいペニスが空に浮かんでいるご時世だぞ。お前のを描いたんじゃあるまいし」
「あら、女のなら悪くて男のならいいの」
「空にペニスがあるものしようがないじゃないか。ある物をあるがままに描いて逮捕されるんなら、鏡はみんなぶっこわさなきゃならん」
「そう思うわ、あたしも」
マダムが娘を見て言った。
そこへ、先客よりは少し年下の、それでも四十七、八という歳の男が入って来た。
「よう、来てるね」
初老の男が振り返った。
「これはこれは、汚い所へようこそ」
マダムが叱《しか》る。
「汚い所はないでしょう」
「大新聞のデスクともなれば、もっといい店で飲めるだろうに」
デスクは初老の男のとなりに坐《すわ》った。
「いつものだ」
「ええと……」
娘が戸惑う。
「ちぇっ、忘れられたか」
デスクが舌打ちする。
「ウイスキー・ソーダよ」
マダムが教えた。
「ハイボールと言ってくれ。近ごろはどこでもウイスキー・ソーダと来やがる。昔はハイボールで通ったのに」
「時代さ。ハイボールなんてのも、きっと差別用語なんだろうな」
「まったく嫌《いや》になったなあ」
娘がそうつぶやくデスクの前にグラスを置く。
「おつまみは南京豆《なんきんまめ》ね」
「変な奴だな。ピーナッツって言えばいいだろ」
「それじゃお勘定取れなくなるもの」
「どうして……」
「食べちゃってから知らぬ存ぜぬ」
「こいつはいい」
デスクは初老の男の肩を叩いて笑った。
「ほんとに浮かない顔してるな」
初老の男が言った。
「ペニスさ」
「そっちもか」
「何かあったのかい」
「と言うと……」
「若い画家が一人やられた。外でペニスの写生をして引っ張られたよ」
「ふうん」
「これは無茶だよ」
「うん」
「東京中の人間が毎日見てるんだからねえ」
「そりゃそうだ。しかし、向こうの連中の考え方は少し違うようだ」
「どう違う」
「空のは単なる自然現象さ。ペニスに見ようがうさぎちゃんに見ようが勝手だと言うんだ」
「あれがペニス以外の何に見えるって言うんだ」
「大事な書類にサインしといて、都合で忘れる人間もいる。ましてペニスに見えるくらいのことは朝飯前だ。何にも見えませんと言ったってかまわんのだぜ」
「つまり、ペニスが空に出現する以前と状況は変わらないというわけだな」
「そうだ。それ以前でも毎日東京中の人間がペニスを見てた」
マダムが笑った。
「あたしはここんとこ随分ごぶさたよ」
「心がけがよすぎるからさ」
デスクがからかった。
「すると、取締りの方針は変えんというわけか」
「うん」
「くだらんな、まったく。現にペニスが見えてるって言うのに」
「そいつを認めると、一挙にポルノ解禁ということになりかねない」
「そうか、それで君のとこの新聞はあの写真を一度も載せないんだな」
「悩みの種はペニスさ」
デスクがため息をつく。
「あら、こちら、短小で悩んでいらっしゃるみたい」
娘が笑った。
デスクは苦笑する。
「まったく、あれはどう扱っても笑いの種にしかならん。もっとおおらかになれんものかねえ。見えてるものは認めればいいじゃないかよ。庶民にとっては笑いの種でも、連中にとっては取締りを一層強化しなければならない深刻な問題らしい。うちの新聞も、はじめすぐ写真を載せるはずだった。しかし上のほうで自主規制がはたらいた。記事だけにしろと言うのさ。下はギャーギャー言いやがるし、うっかり飲んでもいられない」
「それでむかしむかしの当店へおいでくださったというわけ……」
「そう」
「だったらあの空のペニスをまず取締ればいいんだ」
「でも、なくなって欲しくないような気もするな」
「外人の観光団が見に来るんだって……」
「そうだ。世界中から押し寄せて来るぞ。現に今、もう都内のホテルは予約で一杯だし、世界中の記者やカメラマンがウザウザ集まって来てる」
「結構なことだ」
「でも、雑誌や新聞で、あの写真を見ることができるのは、外国でだけだ。日本では、ダメ」
「出したら墨でも塗るか」
「発売禁止だよ」
「どこかやられたのか」
「ああ、週刊誌が三つばかり」
「妙な話だ、まったく。言論統制のきっかけにならなきゃいいが」
娘がデスクに訊いた。
「それで、あれは何なの……正体は」
「スモッグの塊りだってさ」
「スモッグの……」
「電気を帯びた金属性の塵《ちり》を芯《しん》に、大気を汚してたものがあそこに雲を作ったんだそうだ」
「雲なの、あれ」
「濃い奴さ。東京は大電力を消費していて、それ自体が、でかい磁石みたいになっているらしい。そいつに、つかまっちまってるんだ」
「それで風が吹いても動かないのね」
「それにしても妙な形にかたまりやがったもんさ。ペニスとはね」
「政府の対策は……」
「運輸省がやってたが……」
「どうしてなの。ねえ、どうして運輸省なの」
「こいつ、厚生省だと思ってたな」
「ええ、そうよ」
娘は本気で頷いた。
「運輸省の中に気象庁がある。
その気象庁が調べてスモッグの塊りだと判った。とたんにペニスは東京都へおさげ渡しさ」
「わあ、都の物になったの。あたしちゃんと都民税払ってる」
デスクと初老の男は顔を見合せた。
「あんな大きいのって、勇ましくってすてき……」
「何言ってんだろうね、この子は」
「あたし本当はね」
娘は照れ笑いしながら言った。
「男性の、ちっちゃくなってる時のをチンボコって言うのかと思ってたの」
「なぜ」
「ちっちゃいからチンボコ」
「じゃ、あれは、でっかいから、デコボコだ」
「状態によって呼称が変わると思ってたのか。やっぱり女の子なんだなあ……」
デスクは感心していた。
警察の前に百人ほどの若者が集まっている。
「ペニスをォ、書いたァ、画家をォ、返せェ」
リーダーがマイクで言うと、一斉にみんな声を揃えた。
「ペニスをォ、書いたァ、画家をォ、返せェ」
「写生のォ、自由をォ、弾圧ゥ、するなァ」
「写生のォ、自由をォ、弾圧ゥ、するなァ」
「ペニスをォ、写生ェ、させろォ」
「ペニスをォ、写生ェ、させろォ」
建物の中で署長が苦り切っている。
「ペニスだの射精だの……」
「ペニスをォ、写生ェ、させろォ」
「ペニスをォ、写生ェ、させろォ」
一階の奥にいる刑事も腹を立てている。
「ペニスで射精しなくてどこで射精するってんだ、あの馬鹿野郎ども」
「写生ェ、させろォ」
「写生ェ、させろォ」
「勝手にすりゃいいんだ、ばかめ」
「写生ェ、させろォ」
「写生ェ、させろォ」
「俺が行って追い返してやる」
その刑事が椅子を鳴らして立ちあがると、若い連中が口ぐちにとめた。
「チョウさん、よしなさい。煽《あお》りたてるだけですよ」
だが刑事は憤然と出て行った。
「ばかもん。ここは女郎屋じゃない……」
「写生ェ、させろォ」
「写生ェ、させろォ」
「うちへ帰ってやれ……」
多勢に無勢だ。美術学校の学生百人対定年接近組一名。
試合にならない。
「写生ェ、させろォ」
「写生ェ、させろォ」
「勝手にやれ……」
刑事は中へ戻って来る。
若い刑事たちが笑っている。
「チョウさんは本気で射精だと思ってるんだ」
「あの人は俺たちが感じないようなことにもピンピン感じちゃうんだから」
「性感豊かな刑事……」
「ばか」
みんな笑う。
「でも、本庁へ行ったらもっと豊かな人ばかりだぞ。何しろ好きなんだから、自分が……。でなきゃ、エロ雑誌やエロ写真を毎日見せられて、やってられるわけがない」
「一番感じたのを取締《や》るのかい」
「それがコツなんじゃないかな」
「そうか。俺ももう少し勉強しなきゃな」
「表現の自由をォ、守れェ」
「表現の自由をォ、守れェ」
刑事が戻ってきた。
「写生はすんだようですね」
刑事は振り返り、首を振る。
「うん。射精はすんだようだ」
「不当逮捕者のォ、奪回にィ、成功しようォ」
「不当逮捕者のォ、奪回にィ、成功しようォ」
「あれ」
椅子に腰をおろしたばかりの刑事が、また尻《しり》を浮かす。
「今度は性交しようだと……」
「不当逮捕者のォ、奪回にィ、成功しようォ」
「不当逮捕者のォ、奪回にィ、成功しようォ」
「射精の次は性交しようだなんて言ってやがる」
「逮捕のォ、不当をォ、認識ィ、させようォ」
「逮捕のォ、不当をォ、認識ィ、させようォ」
「性交の次が妊娠か」
刑事はあきらめたように椅子にもたれ込んだ。
「オウ……ハラキーリ」
ホテルのラウンジで外人の大声がする。広いそのラウンジの半分くらいを、外人観光団が占領していた。
「あいつらも騒いでるな」
商社マンが二人、ラウンジの隅《すみ》でコーヒーを飲みながら外人たちのほうを見た。
「理解できんのだろうな」
「児玉邸《こだまてい》へ飛行機で突っ込んだ騒ぎのときはちょうどロンドンにいてね」
一人はそう言って大げさに眉をひそめた。
「まったく不愉快な出来事だって、俺が悪いことをしたように言われたよ」
「でもあれはまだましだ。今度のはどうしようもない」
「なんで腹なんか切るんだろう」
「僕は、多少心情的には理解できないこともない」
「おいおい、君がそんなことを言うのか。いまどうしようもないと言ったばかりじゃないか」
「いや、判るような気がするのさ。自分の心の中に、何かそういったいやらしい物がうごめいているのはたしかなようなんだ」
「どういうことだ」
「お詫《わ》びに自殺するということさ」
「だって、自分のせいじゃないんだぜ」
「だからさ。自分の不始末を詫びるのに自殺するんなら、まずそれより不始末の収拾のために努力するのが本当だろう。だがそうじゃなくて、自分にはどうしようもないことであるが、とにかくみんなになりかわってお詫びしたい。それには自殺させていただくより方法がない……」
「本気かね」
「そういう気持は、君だってどこかにないじゃないと思うね」
「そうかな」
「東京上空に巨大なペニス雲が現われた。なんとかしたいがどうにもならん。しかし、畏きあたりの尊厳を損い奉ったことは、臣としていかにも申しわけがない。何とぞ私|一人《いちにん》の命にかえて、臣下万民をお許し願い奉る」
「それで二重橋《にじゆうばし》広場で割腹自殺かい」
一人は肩をすくめて見せた。
「そうとしか思えないだろう」
「でも、まだ二十二の男だぜ。そりゃ理屈はどうにでもつけられるさ。しかし、二十二の男が皇居上空にペニスが現われて始末できないからって、お詫びに切腹できるものだろうか」
「昔はもっと若い連中が特攻機に乗って死んで行ったじゃないか」
「時代が違うよ。そいつはあまり生きてる価値を見つけられなかったんだ。で、どうせ死ぬんならみんなのかわりに、それもとび切り昔風の……まあ言ってみればいさぎよいとか、忠義であるとか、そういうかっこ良さを求めて死んでしまっただけさ」
「かっこいいだけで死ぬのか。そのほうが僕《ぼく》には考えられんな」
二人はテーブルの上に畳んで置いた新聞の、一番上に出ている一面の大見出しを見ながらそんな風に語り合っている。
「どっちにせよ右翼青年だな」
「そういうのが増えている。僕らも少し反省せんといかんな」
「うん。内ゲバに狂いすぎてたかも知れんよ」
「だから右翼青年が増えた……ちょっと理屈が通らんみたいだが、実際そうなんだから仕方がない」
「とにかくいろんなことが起るよ。……それにしてもあの外人たち、ちょっと嫌な気分だろうな」
「うん」
「ペニス見物に来たんだ。理屈も何もありはしない。弥次馬《やじうま》そのものってところで、浮かれてやって来たんだ。それなのに、ペニスのお詫びに、忠臣が切腹と来た。白けてるだろうなあ」
二人は同情するようにまた外人たちのほうを見た。
待合だか料亭《りようてい》だかよく判らないが、何しろ檜造《ひのきづく》りの豪勢な和風の建物の奥の立派な風呂場《ふろば》である。
ま新しい木の湯舟に、四角ばった顔が見えている。
湯気が立ちこめている中に、白い女の肌が見える。
「いやん……」
湯の中で男の手が伸びたらしい。女が嬌声《きようせい》をあげた。
「何がイヤン、だ。今ごろになって」
「だって、嫌なんですもの」
「こうされるのが嫌か」
「ん……ばか」
ザブーッと湯の音をさせて男が突然立ちあがった。
「見ろ、お前の責任だぞ」
女は見惚れている。
「立派……空のとおんなじ。よく似てるわ」
「お世辞言うな」
「これがあたしだけのならいいんだけど」
女は手を伸ばし、それを洗ってやる。
「ご本宅のほかに二人もいらして、あたしは四番目なんだから……」
「四番バッターだ。たよりにしてるぞ」
「あんなこと言って」
女は少し笑った。
「でも、今の若い人は可哀そうね」
「なぜだ」
「ペニスなんかが空に現われるし、若い女の子たちはびっくりするくらい肌をたくさん出しちゃってる。でも、適当にする場所がないし……」
「俺たちの時にはちゃんと赤線があった」
男は頷き、女に洗われるまま目をとじて腰に両手を当て、古きよき時代を回想するようであった。
「よかったなあ、あの時代は」
「それなのに今はお役人で、取締まる側。罪な人ねえ」
「努力しなければ何も手に入らん。俺だって今の地位にいなければ、お前とこうしてはいないはずだ。だいいちお前が相手にしてくれんさ」
ワッハッハ……で抱き寄せて、お湯がジャブジャブはだかでだっこ。
テント張りのアングラ劇場、激しい電車の音でテントの天井がへこむような感じだ。
半裸の男優が空を指さしている。
「見ろ、天井よりの陽物だ」
音楽。ペニース・フロム・ヘブン。その音楽の中で……。
「ことここに到っては、いかなる議論もすでにむなしい。怪人二十面相も阿部定《あべさだ》も、物も言わずにやりまくるがいい……」
二十面相と阿部定役の男女登場。全裸になる。客席から声あり。
「本気でやれんのかよ……」
全裸の二人からみ合う。どうやら本番の気配に場内シーンとなる。
観客二人の私語。
「あんなものが空に浮かんだんじゃ、あの連中だってエスカレートしないわけには行かないよ」
「でも大丈夫かな……」
舞台に明智探偵《あけちたんてい》と小林《こばやし》少年が出て来る。
「見なさい、小林君」
「はい」
「怪人二十面相も、犯罪ばかりしているわけではないのだよ」
「はい」
「ああやって人間らしく自然に振舞う時間もあるのだよ」
「僕もやりたいなあ」
二人引っ込む。全裸の男女が舞台に残ってからみ合うが、あくまでも舞踊として行なおうとするのでうまく行かない。男優だんだんに萎《な》える。
「どうした、頑張《がんば》れ」
女優が必死に奮い起たせようとするがダメらしい。
「ポリだ……」
入口のほうで喚《わめ》き声がした。その時はすでに楽屋から警官が舞台へ姿を見せていた。
茶の間で父親が息子を叱っている。息子は中学三年くらいらしい。
「少しお前は度が過ぎるんだよ」
息子はふてくされている。
「そりゃ、たしかに今の社会はよくない。テレビではオッパイ丸だしの女を平気で出すし昼間は昼間でメロドラマがどれもこれもべッド・シーンだ。本屋へ行ったって裸の女の写真がない雑誌を探すのに骨が折れるよ。だから父さんはお前を叱るんじゃない。男同士としてこうして話合っているんだ」
息子は仕方なさそうに頷く。
「そりゃ、お父さんだってやったよ。隠しやしない。若い頃は精力があり余ってる。その上適当なはけ口がない。だから、自分で自分のそういうみだらな欲望のもとを吐き出させて、すっきりと清らかな気分になりたいと思う気持はよく判る。でもな、お前のはやりすぎだよ。お母さんはずっと気付かぬふりをしてたんだ。でも、心配して、男同士、そういうことの先輩として父さんから言ってやってくれと、そうたのまれたんだよ。のべつ幕なしだって言うじゃないか。学校から帰るとすぐにやり、晩飯のあとでまたはじめる。そんなことじゃ勉強なんかできるわけがない。だいいち体に悪い。あれはね、大切な血液とおんなじものなんだよ」
「判ってる」
「判ってたら少し自制しなさい。な……そんなことが高《こう》じて、ひょっとして変態にでもなったらそれこそ大変だ」
息子は父親の顔を見て笑おうとし、すぐにやめた。父親は冗談を言っているのではなかったからだ。
「だってさ、しようがないんだもん」
「なぜ」
「学校からうちへ帰ってくる間に、いろんなポスターやなんかが目に入っちゃうんだもの。みんなセクシーな女を使ってる。家へ帰るまで我慢するのが精一杯だもんね。で、晩ご飯たべてテレビ見るだろ。そうするとまたセクシーな女が出て来るんだもん。アニメ番組だってそうだよ。マンガの女の子だって、みんなセクシーに描いてあるもん。でも、茶の間じゃやれないもん……」
「当たり前だ」
父親はきつくそう言ってから、がっくりと肩を落した。
「お前、学校で女の同級生たちが何と言ってる……」
「何をさ」
「空のペニスについてだ」
「あんなでっかいの見たことないって」
「ばかな」
「だってそう言ってるもん。じっと空を見てると感じちゃうんだって」
「同級の女の子がか」
「うん」
息子はケロリとしたものである。
「お前、そうやって一日中セックスのことばかり考えてたら、ちゃんとした人間になんかなれないんだぞ」
「でも、俺、考えちゃうもの。だからさ、セックスの専門家になろうかな」
「え……」
父親は目を剥《む》いた。
「お父さんなんか、よく言うだろ。仕事のことで毎日頭が一杯だって。仕事のことばかり考えてるのが立派な人だったら、セックスを仕事にすれば立派な人になれると思うよ。毎日セックスのことばっかり考えてるの。セックスは仕事だもんね。セックス・カウンセラーとか、セックス・コンサルタントとか、そういう仕事って、あるじゃない」
「とにかく、自分でするのはもう少し控えなさい」
父親はそれで叱言《こごと》をおわりにしてしまった。
日本劇画家協会、第二十一回総会。
会場は東京クラブ。時間は三時から五時まで。そのあと五時半から懇親会がある。
会場では活溌《かつぱつ》な討論が行なわれている。
「では、堀部弥平さん」
議長の指名で挙手をしていた男が起立する。
「理事長の発言は納得できません。このような天然現象はたしかに異常なものではありますが、それにともなう当局側の予防措置めいたものに、いやしくも憲法に保証された表現の自由を守る当協会の長たるべき人物が、同調するようなことを言うとはもってのほかであります。発言を撤回してください」
理事長がそれに答える。
「しかし、空にペニスそっくりの雲が浮かんだからと言って、それをあるがままに写し取って人々に見せていいことになるのでしょうか。私は絶対にいかんと思います。だいたい、ペニスそっくりの雲ばかりどうして描きたがるのです。そんなものを描かなくても、今私たちが表現しなければならないことはいくらでもあるではないですか。いいですか、雲だから自然現象であり、自然現象であるから写生するのは自由だ……たしかにそうでしょう。しかし、その雲はただの雲ではない。ペニスの形をしているのです。これを描いて自由に印刷して町に氾濫《はんらん》させたら、いったいどうなりますか。そこではとまりませんよ。セックスに関する描写が無制限に許されてしまいます。そんな自由はまだ我々にはないのです。いや、なくていいのです。あなたがたは百パーセントの自由があるようにおっしゃるが、それでは往来を素っ裸で歩いていい自由をお持ちですか。お持ちならやってごらんなさい。仮にあるとしても、裸で歩くのはご自分が嫌でしょう。若く引き緊まり、均整のとれた昔の体ならとにかく……」
会場が笑い崩れた。
「自由はあるが、或る程度自己規制してしまうということは、その分自由がないと思うことではありませんか。我々は百パーセントの自由など持っておらぬし、必要ともしていないのです。ペニスを写生することは自由ですが、個人的におやりください。公共の刊行物にそれをのせることは自制したいし、それが当局の方針と一致したならば、自制しなかった者に対して、何らかの法的処置が取られてもやむを得ないと思うのです」
堀部弥平氏がまた起った。
「そこがおかしいんですよ。理事長は何かとり違えておられる。当協会の権威を用いて、協会員、非協会員たるとを問わず、まず節度を求めることに努力するべきではありませんか。
仮にそれが徒労でもよろしい。言論、表現の自由を守ることを第一の目的として、この組織がある以上、百パーセントがコンマ一欠けても私は許せません。この会の規約の上に、我々はもうひとつ憲法を持っています。日本国憲法がその自由を認めているのですぞ。我々はそれを守るために、憲法の下に更にひとつの規約を作って集まった同志ではないのですか。憲法に保証されたことを失うまいと、同志が集まってこの組織を作ったのです。ですからまず、我々が過度の表現を取った場合、それがひとつの社会的風潮として好ましくないようになり、官憲の弾圧を誘発しては我々にとっては不利益となるから、まず相互の自制を求めるのが本筋ではありませんか。節度を求めることと弾圧を許すこととは違います。まるで正反対です。あなたは言論、表現の自由を求める組織のリーダーとして、同志を信ぜず、この協会の権威を認めず、また権威を高からしむる努力をしようともせず、官憲の弾圧を容認することによって結果を得ようとしておいでになる。理事長の猛省をうながします」
「では伺いますが、当協会として節度を求める決議をすればそれでご満足なのですか」
「まず第一の満足は得られます」
「それはまたとても簡単なことですね。ではここで直ちに決議いたしましょうか」
「待ってください。私は一片の決議文を公表して足れりとするのではありません。その前に、充分議論を尽し、現段階における節度とはどこまでのことであるか、その具体的な基準を発見するべきだと思うのです。取締り当局は、明確な基準もなしに取締りを行ないます。
仮に当局側にその基準があるなら、一般に示すべきでしょう。我々はそれが妥当だと認めれば、そのガイド・ラインに従う用意はあるのです。ですが、当局はそれを明示しません。主観的ではありますが、過去の取締りの実例から察するに、その多くは見せしめ効果を期待しているように見受けられます。
社会的影響力の大きな作家、画家などの作品や、同じく影響力の大きな有力メディアに特に取締りの目が向けられます。しかし、一方ではマイナーのメディアについて、たとえばポルノ度のエスカレートを許しつづけています。我々はここに問題を感じ、当局の意図を見るのです。たとえば政府与党の内幕暴露を行なった者について、虚報であれば名誉|毀損《きそん》で訴えることができます。しかしそれが真実で、そのため政府高官の進退が問題にされたような時、当局が報復的に動き、たとえばポルノなど風俗面から取締ることによって弾圧の一手段とした場合、これは単にペニスを描いていいか悪いかというような問題ではなくなるのです。
我々が心配している点は、実はここにあるのです。理事長は譲れる自由があると申されたが、それを譲れば次にはもっと大切な自由が失われるのです。そんなことを当局がするはずがないとおっしゃるなら、あなたは少し体制側の人々と親しくなさりすぎていらっしゃると言うほかはありません。我々にはその危険が見えます。憲法や刑法を書きあらためる動きがあるのです。
それはもっと戦争から遠のき、もっと自由に近づくための動きかどうか、よくお考えになっていただきたい」
新聞社のカメラマンが写真を撮りまくっていた。理事たちが動きまわり、会場は騒然としている。
銀行の頭取同士がお茶をのんでいる。
「そう言えば、例の女闘士のことがあまり新聞には出なくなったな」
「女闘士……」
「それ、浮気した亭主や、妊娠させて逃げ出した男なんかをとっちめてる女さ」
「ああ、あれか。子供でもできたかな」
「そうかも知れんが、少し納得が行かんかったな」
「どういう風にだね」
「彼女の主義から言って、そういう男どもをとっちめるのはまあいいさ。それで可哀そうな女が一人しあわせになれれば結構なことだ。何と言っても、まだまだ女の地位は低い」
「ほう……」
一人が相手をみつめる。面白そうな顔である。
「まあ、三十までは女も器量次第では男より楽に過せる。
しかし、三十過ぎたら女は気の毒だ。職場でも、オールド・ミスとか、そうでなくても中年の同性の先輩に対する若い子たちの態度は、きびしいからなあ」
「逆だろう。上が下をいびりゃせんか」
「いや、違う。若さを誇るんだよ。それをやられると、年上の女はたまらんようだ。人生の秋という感じで、とてもわびしいそうだ」
「そんなものか」
「だから、若い内が花ということだが、それにしても、テレビでも雑誌でも、ツルリ、ツルリと若い娘がよく裸になる。あの女闘士はそういう子たちにも何かせんといかんのじゃないかな」
「と、言うと……」
「男に媚《こび》を売っているのだろう、あれは。素っ裸にされて、写真を撮られて、世間の人目にさらされてさ」
「本人は美しいからそれができると自慢しているのではないかな」
「まさか。
股《また》をひろげ、尻を突きあげ、あんな姿勢を執らされてもか……」
「女闘士がそういう連中に何と言えば気がすむのだ」
「だから、男のために裸になるなとさ」
「仕事を奪うなと食ってかかられるぞ」
「慰藉料《いしやりよう》を取ってやるくらいだ。仕事の世話もしてやったらどうかな」
「好きでやっているとしたらどうだ」
「裸で人前に立つのが好きなのか」
片一方の頭取はいたましそうな顔になった。きっと年頃の娘がいるに違いない。
日本最大の光学望遠鏡は、岡山《おかやま》の天体物理観測所にある。ここは国立の施設だ。
通常一八八センチ反射鏡と呼ばれているものがそれで、口径一メートル八八センチの大反射望遠鏡である。
観測はおおむねカメラを用い、スペクトル測定などが主で、肉視による観測はあまり行なわれない。
この一八八センチ反射鏡によれば、二〇から二一等星までが観測できるが、世界ではこれも第十五番目の大きさに過ぎず、国際的には中口径のものだそうである。
国内における第二番目の大きさの望遠鏡は木曾の観測所にある一〇五センチのシュミット望遠鏡、第三番目は一〇〇センチ、第四位が九一センチのものである。
電波望遠鏡は名古屋の空電研究所がその方面の権威とされ、地震計のごとく電波の強弱の波動が記録紙上にペン・レコーダーであらわれたのを原資料とし、コンピューターによる処理で読み取ることになる。したがって、電波望遠鏡では、宇宙の状態を肉眼で見ることはない。
だが、たまたまその夜は当直員が新人であったため、肉視していた。
「何だ……あれは」
素っ頓狂《とんきよう》な声を先輩がからかった。
「宇宙船でもやって来たかね」
「木《もく》……木星のそばに変なものが」
「何を見てるのかねえ」
先輩は新人をどかせて肉視の位置についた。
「うへ……」
顔をあげて新人をみつめる。
「ガスだ。ガス塊だ」
またのぞいた。
錯覚ではなかった。
木星の方向から、この地球に向かって、白く光る巨大なガス塊が急速に接近しているのだ。
「あいつ、東京へ行く気だ」
先輩が夢中で叫んだ。
なぜならそれは、紛れもなくヴァギナの形をしていたのである。
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夢中犯
「すいませんが」
私はその声で振り返った。
「火を貸していただけませんか」
貧相な爺《じい》さんだった。
「いいですよ」
私はポケットからライターをとり出し、右手の拇指《おやゆび》を動かして火をつけた。ライターは大して高い品じゃない。どこにでも売っている安物だ。
「あ、消えちゃった」
煙草を咥《くわ》えた爺さんは、聞きとりにくい言い方でそう言う。私はもう一度火をつけ直したが、風に煽《あお》られてまたすぐに消えた。
「すいません、もう一度」
爺さんは煙草を口から離して言い、急いでまた咥えた。私は右手にライターを持ち、左手でそれを囲うようにして爺さんが咥えた煙草に近づけた。爺さんは顔をちかぢかと寄せ、私の手の外へ更《さら》に自分の両手で囲った。私がライターをつけると頼りない色で昼の炎がともり、爺さんはうまく火を吸いつけ、ペコリと頭をさげながら体を引いた。
「どうも有難う。煙草を買ってここまで来たら、マッチを切らしちゃってるじゃないですか」
爺さんは煙を吐き出しながら言う。
「よくあるんですよ、こういうことは」
そして、私のそばに腰をおろした。
「ここはあったかでいいや」
つぶやくように言い、
「どうです、一本。お喫《す》いになるんでしょう」
と煙草の袋を私のほうへ差し出し、軽く振った。一本ぴょこんと袋から頭を突き出した。
「どうぞ」
私は軽く頭をさげ、それをつまんだ。フィルターつきだった。私はそれをしげしげと眺《なが》めた。
「お喫いになるわけですよねえ。だってライターを持ってるもの」
爺さんは笑った。私はまだ右手に持ったままだったライターを口のあたりに近づけ、もらった煙草を咥えて火をつけた。
「何しろいいお天気で」
私と並んで坐《すわ》った爺さんは、対岸を眺めてのんびりと言った。目の前に大きな川があった。
私たちは、しばらく黙って煙草を喫っていた。
「今日はお休み……なんでしょう」
やがて爺さんが、気をかえるように言った。
「ええ」
「だと思った。何のお仕事だなんて、くだらないことは訊《き》きませんよ、安心してください。誰《だれ》だって、こんなお天気の日に体があいたら、ついぶらぶらとそこらを歩きまわって見たくなりますからね。あたしもそうなんです。もっともあたしの場合は毎日ぶらぶらしてるんで……年ですからね」
私は別に答える必要も感じなかったので、黙って微笑して見せた。
「ひと目見ればあなたはそうじゃないって判《わか》るけれど、この辺はよく休みじゃなくってぶらついてる若い人が多いんですよ。失業者って言うんだかルンペンと言うんだか……とにかく行くあてもなく、この土手へ来て一日中坐ってるんです。何しろあなた、タダですからね」
爺さんはおかしそうに笑った。
「それに、草が生えてるし。今どき町なかでタダで草の上へ坐れる場所は、ここぐらいなもんでしょうよ」
「そうですね」
私もそれは同感だった。
「いけないのは、犬を連れて来る奴《やつ》がいるんです」
「犬の散歩にはもって来いでしょう」
「そりゃ、そうには違いないけど、犬は無邪気でね。草のある所へ連れて来てもらったと言うんで大喜びですよ」
「そうでしょうね」
「それで小便はする糞《くそ》はする。連れて来た奴が始末すればいいんだけど、だいたいがそのために連れて来てるようなもんで」
「はた迷惑ですね、それは」
「犬、お飼いですか」
「いや」
「お嫌《きら》い」
「とんでもない。大好きですよ」
「じゃ、どうして飼わないんです」
「好きだから」
「ほう……それはまた、どういう理屈になるんです」
「好きすぎるんですよ。犬なんて、だいたい鎖につないどくだけでも可哀そうですよ。走りまわり、嗅《か》ぎまわるのが犬じゃないですか。それを狭いところへ押しこめたり、それでも足りなくて鎖につなぎっぱなしにしたり。犬が本当に好きだったら、あんなこと出来やしないはずなんだけどなあ」
「そう。そうですよ」
爺さんは感心したように何度も頷《うなず》いた。
「子供のころは飼ってたんです」
「どんな犬」
「柴《しば》です」
「ああ柴犬ね。柴犬はいい。手はかからないし利口だし」
「そう。一日二回、味噌汁《みそしる》をぶっかけた飯をやるだけでいいんです。やたらな人には吠《ほ》えつかないし、芸はよく憶えるし」
「柴犬はいいなあ。それに大してでかくならないでしょう」
「ええ」
「犬ってのは、よく見ると眉毛《まゆげ》が生えてますね。ほかのとこより長くて剛《こわ》いのが、チョロチョロっと……」
「そうだったかな。うんと子供の頃飼ったきりだから」
「生えてますよ。とにかく可愛いもんだ、あれは。犬ってのは表情が豊かですよ。小首を傾《かし》げてじっとみつめたりしやがる」
「そうね。あれは可愛い」
私はなんとなく楽しくなって笑った。
「あなたの犬も、柴じゃさぞ可愛かったでしょうな」
「ええ、そりゃもう。それに、今と違って、ほとんど放し飼いだったしね」
「昔は犬もしあわせだった。好き勝手に歩きまわってた。餌《えさ》をやるのに、よく大声で自分の犬の名を外へ出て呼んでる人がいましたっけ。今じゃそんなのは見たくても見られない」
「ひとり歩きしている犬を見なくなったなあ、そう言えば」
「こんな時代に犬を飼うのは楽じゃありませんな。まず自分が金持にならなければ」
私はその爺さんの貧相な顔をみつめた。要するに老人だというだけで、とりたてて特徴のない顔だった。
「そうなんだよね」
それでも私は爺さんに親しみを感じた。
「好きだから飼わないというのはそのことなんだ。犬を飼うんなら、犬が自由にとびまわれる広さの庭がなければね。そして犬が外へ出ないように厳重な塀《へい》をめぐらして、そして鎖なしで飼ってやらなければ」
「その通り。あなたは本物の犬好きだ。好きだから飼わない、ですか。判りますよ、その気持は」
「そのかわり、ひところ猫を飼ってた」
「生き物がお好きなんですな」
「いや、犬と猫だけですよ。小鳥なんて嫌《いや》だ」
「どうして」
「餌をやり忘れるとすぐ死んでしまう」
「なるほどね。生きものに死なれるのはいい気分のものじゃないからなあ」
「責任を感じてしまうし、それに何かよくないことが起りそうな気がして来る」
「ははあ、縁起をかつぐほうですな」
「自分じゃそれほどでもない気なんだけれど、週刊誌の運勢判断なんか見てしまうと、なんとなく気になってね」
「誰でもそうでしょう。あたしなどもその口ですよ。つまらないことを気にして、変な夢を見たりする」
「夢……」
「ええ夢。夢は五臓の疲れというが、よく考えると自分が本当に気にしていることを夢で見てますね」
「そうだろうか。とりとめもないようだけど」
「学がないからうまく言えないけど、そうなんですよ。たとえば夢の中でこういう犬の話を誰かとしたとするでしょう」
「ええ」
「それは昼間、今どき珍しいひとり歩きしている犬を見かけたとか、何かの拍子《ひようし》に犬のことを考えたとかしているんですよ。それが心に残っていて、寝てから夢に見るんです」
「そうかなあ」
「ただね、それを自分では気が付かないんです。ちらっと見かけた犬の姿なんて、どうでもいいことですからね。でも、心のどこかにそいつが引っかかって、夢に出て来るんです。それに、自分が犬のことを考えてるのに、犬のことなど考えなかったと思い込んでる場合もある」
「どんな」
「あなたが今、お金に困ってるとしましょう」
「うん」
「金が欲しい、金持になりたい……それからどんどん夢がふくらんで、金持になったところを想像してしまう。そうするとあなたは何がしたいか。常日頃から、子供のときのように柴犬を飼いたいと思ってるじゃないですか」
爺さんは得意そうに私を見た。
「なるほどね」
「それで夢に犬が出て来るんです。ただ、たしかに夢はとりとめもないことが多いから、あなたが金持になって、広い庭のある家に住んでるところは出て来ないかも知れない。だがとにかく犬がうろちょろする夢を見ちゃうんです。それに、お金がないからお金を欲しいと思い、それで金持になったところを想像したわけだから、逆に言えばお金に困っている状態なんです」
「そうだな」
「とすると、犬は出て来てもあなたはお金持じゃないかも知れない」
「うん」
たしかに爺さんの言うことには一理あるようだった。
「お金がなくて苦しがっているかもしれないし、お金とは関係なしに、ただ苦しがってるだけかも知れない。何しろ夢の中ですからね。そして一方に犬がうろちょろしてる。夢の中でこのふたつが結びついたらどうなると思います」
私は黙って爺さんの次の言葉を待った。
「苦しさと犬。あなたは夢の中で、その苦しさは犬が与えたものだという風にしてしまうかも知れんでしょう。つまり大きな犬に食いつかれ、噛《か》み殺されそうになった夢を見る」
私は笑い出した。
「面白い人だな。たしかにそういうこともあるかも知れないな」
「夢って言うのはおかしいですねえ。金持になって犬を可愛がっているところから出発したのに、犬に噛み殺されそうなところを見てしまう。そしてびっくりして目がさめるってわけです」
「たいてい、あわやというところでさめるね。どうしてだろう」
「そりゃ簡単なことですよ。子供がキャッチボールをしていて、その玉がそれて通りがかったあなたの頭めがけて飛んで来たらどうします。はっとして無意識によけちゃうでしょう」
「受けとめてやるひまもなければね」
「それとおんなじなんです。安全なほうへ無意識に逃げるわけですよ。夢の中で殺されそうになったら、さめるほうへ逃げるわけです」
そこで爺さんはクスクスと笑った。
「何がおかしいの」
「あなたが判り切ったことを聞くからですよ」
「判り切ってる……」
「そう。夢で大きな犬に襲われてどうしようもなくなったとき、さめなかったら食い殺されちゃう」
「そうか」
私も笑った。
「死んだらその先の夢をどうやって見るんだろう」
私は短くなった煙草を地面に押しつけて消した。ほとんど同時に爺さんの煙草もおしまいになった。
「自分が死んだあとの夢を見る人もいるそうですよ」
「へえ、そうかね」
「ええ。自分の葬式だのお通夜だのの夢を見るんだそうです。でもおかしなことに、本当は死んじゃいないんですね。なぜかと言うと、自分の葬式やお通夜に、自分もいるんです」
「自分が二人になってしまう」
「そうです。そういう夢は、死んだ自分のほうから見てるんじゃなくて、生きてる自分のほうから見てる。おかしいですね。それでいて、とても悲しがってるんだそうです」
「そう言えば、自分で自分を見てる夢はよく見るな」
「そうでない場合もあるんです」
「そうでないというと、死んだ自分から見てるわけだね」
「ええ。天国へ行ったり、極楽浄土へ行ったりする夢ですよ。でも、こいつははっきりしてますね。西部劇ばかり見ている人が、行ったこともないアメリカの西部で何かしてる夢を見るのと同じことです。二人の自分にならないだけ、ずっと単純な夢ですよ」
「なるほどねえ。なかなか夢にくわしいんだなあ」
「まあね。これで、もう随分《ずいぶん》長いこと夢を見てますから」
爺さんは真面目な顔で言った。
「いろんな夢を見ますよ。最後に見た夢なんかはおかしな夢だった」
「最後に見た夢って、最近はもう夢を見ないのかね」
「この年になりますとね」
「へえ、年を取ると夢を見なくなるのか」
「そりゃ、見る人もいますさ。でも私はもう見ない。と言うより、毎日もう夢の中にいるようなもんだし」
「そんなことはないだろう。なかなかどうして、まだしっかりしてるじゃないか。でも、その最後の夢って言うのは面白そうだな」
「ええ、とても変った夢でした」
「聞かせてくれないか」
「いいですとも。もう何十人という人に喋《しやべ》った話ですからね」
私は体を爺さんのほうへ向けて坐り直《なお》した。
「みじめったらしい話なんですがね」
爺さんは話しはじめた。
「まあ、若い頃からの話は抜きにして、私は最後に学校の用務員をやっていたんです。用務員というのは、つまり昔の小使いさんですよ。それが人生の行きどまりで、やがてその仕事も勤まらなくなってしまった。でも、倅《せがれ》がいましてね。それが引取ってくれたんです。孫と遊んでいればそれですむわけで、楽な暮しでしたが、どうにも嫁と折合いが悪いんです。若い頃ちょっとよくない暮しをしたもんでね。実を言うと女房子をほったらかして、外で気ままに暮したりしたから、倅は中学から先、ほとんど自力で学校へ行き、一人前になったんです。倅の結婚式にだって行きはしません。音信不通だったんですよ。それがどうしようもなくなってころがり込んだ。豊かなら別ですが、貧乏世帯のやりくりに、もうひとつこんな荷物をしょい込んだんじゃ、嫁だっていい顔はできませんや」
爺さんは対岸を眺めて自嘲《じちよう》するように笑った。
「私もできそこないだったなあ。それでもあきらめていいおじいちゃんになるよう努力すればよかったのに、そういう嫁といちいち張り合っちゃったんです。何しろ相手は財布を握ってますしね。こりゃどうしたって私に勝目はない。私はいびられてると思った。くやしくて、情なくて、嫁が憎くて憎くて仕方なかった。はじめのうち孫をだいて寝てたのに、教育がどうのと言ってそれもやめさせられてしまった」
私の気分は、そういうじめついた話ですっかり沈んでしまった。
「ほんとに嫁が憎らしかった。することなすことが気に入らなくなって、世の中にはこんな鬼みたいな女がいたのかと思うほどだったんです」
爺さんはそう言って悲しげに頬《ほお》を歪《ゆが》めた。
「そうしたらあの夢を見たんです」
「どんな」
「嫁を殺す夢ですよ」
私は返す言葉が見当らぬまま、爺さんをみつめていた。
「倅が仕事に出た留守、また嫁とやり合ったんです。いや、そういう夢を見たわけですよ。夢の中で、糞この阿魔、今日こそはぶっ殺してやる……そう決心しましてね。嫁が台所で何かしているのにそっと近づいて、うしろから醤油《しようゆ》のつまった一升瓶《いつしようびん》でぶん撲《なぐ》ってしまったんです。でも一発じゃ死ななかった。倒れたけど起きあがろうとするんです。それで、今度は出刃包丁を掴《つか》んでめっためたに突いたり切ったり……」
「凄《すご》い夢だな」
「すると孫が外から帰って来て、お母ちゃんに何するんだ、お爺ちゃんの馬鹿《ばか》、大嫌《だいきら》いだ、死んじまえ……って。私に向かって来るんですよ。夢中でそれを払いのけたら、まだひ弱な年だから、思いがけない勢いでふっ飛んで、柱の角へ頭をぶつけて」
「死んだのか」
「ええ」
「ひどい夢だ」
「そうなんです。私は大変なことをしてしまったと思い、何とか気を落着かせようと無意識に煙草を咥えて火をつけたんですね。気がつくと咥え煙草で嫁と孫の死骸《しがい》を眺めてたんです。一本まるまる喫い続けてたんです」
私はため息をついてまた言った。
「ひどい夢だ」
「でしょう。ひどい夢なんです」
「それでどうしたの」
「近所の人が警察を呼んだんですね。煙草を吸いおわって、その吸殻《すいがら》を流しの濡《ぬ》れたところへ放り込んだとたん、どやどやっと警官が踏み込んで来たんです」
「長い夢だな」
「ええ、とても長い夢で……」
「つかまったわけか」
「つかまりましたとも。ところが、その警官に連れて行かれたところが、何と夢中署って言うんです」
「夢中署……」
「ええ。ほら、水の上の警察で水上署って言うのがあるでしょう」
「ああ、水上署ね」
「それとおんなじで、夢の中の警察なんですよ。みんなの見る夢の中がその警察の受持なんですね。夢の中の警察だけあって、制服の色が鉛色なんです。私はブタ箱へぶち込まれ、何日も調べられました。そして起訴。検事の所でも調べられ、拘置所へ送られて、それから裁判。有罪の判決があって懲役です。夢の中の監獄で私は何年も過しましたよ」
「大変な夢を見たもんだねえ」
「そうなんです。夢の中の裁判では、その夢の内容をことこまかに分析するんです。さっきの犬の話みたいに、自分の起きてる時の願望と全然違った夢になっちゃって、それで人を殺したり物を盗んだりする夢を見てしまった場合は無罪なんです。ところが、起きている時本当に殺したいと思っている相手を夢の中で殺してしまったような場合は罪になるんです。そして私の場合はまさしくそれでした。おまけに私は夢の中にせよ、孫まで殺してしまいましたからね。裁判官はよく見ていました。起きてる時の私は、孫なんか実は少しも可愛がっていなかったんだって……。倅におべっかを使ってただけだって」
爺さんはしみじみと言った。
「夢の中で、私は私自身に、裸にひん剥《む》かれていたんですね。本性まる出しになっちゃってたんだ。監獄にいる間、私はそのことを考え続け、自分は何と非道な人間だろうと思いました。生まれてはじめて反省したんです。そうしたら係りの人がやって来て、お前は反省したようだから出してやる。そのかわり、夢中署の仕事を手伝えって」
「どう手伝うの」
「いろんな人の夢の中へさりげなく入り込んで、夢中犯をみつけるんですよ」
「スパイか」
「まあ、そんなとこです」
「面白い夢だね。前のほうの話は陰気《いんき》だったけど、あとのほうは何だか面白いよ」
「煙草、もう一本どうです」
「ああ、もらおうか」
爺さんが煙草をくれ、私はライターでそれに火をつけて喫った。
「でも、面白いだなんて気楽に構えちゃ困るな」
「どうしてだい」
「私はずっとあんたの夢を見ていたんだ。あんた、さっき奥さんを殺したじゃないか。殺してここへ逃げて来たんだ。ちゃんと見てたよ。そして、ここへ来てそいつを忘れてしまおうとしていた。ポカポカと陽《ひ》の当る土手の草の上へ坐って、別なのん気な夢にしてしまおうとしてなさった。そういうのを探すのが私の役目さ。夢中署の手伝いをしてるんだ」
「でも、それは夢の中の話だろ」
「そうだよ。私は夢の中で人を殺し、夢中署につかまって裁判にかけられたんだ。いま全部話してやったじゃないか」
「聞いたさ。夢の話じゃないか」
私はいら立って、しきりに煙草をふかした。
「私の役目はね、夢の中で罪を犯した人間を、二度とさめさせないようにすることなのさ。人殺しをしていて、都合が悪くなると勝手にさめて向こう側へ行かれちゃかなわないだろう」
「二度とさめさせないなんてことができるのかい」
「それもさっき、ちらっとだが話したはずだよ。私が嫁と孫を殺したあとで煙草を喫ったってね。あたしはこれでもベテランだよ。相手にちゃんとヒントを与えてやってるんだ。私は男の夢中犯が専門だから、女のことはよく知らないが、男は煙草を喫ったらもう向こうへは帰れないのさ。あんた、今までに夢の中で煙草を喫ったことあるかい。ないだろう。喫ったら帰れない。そして、うまくあんたみたいのに喫わせるのが仕事なのさ」
私は茫然《ぼうぜん》としていた。
「あんたが有罪になるか無罪になるか、それは私とは関係ない。でも、夢の中で人を殺したことは事実だ。ほら、夢中署の連中が駆けつけて来たでしょう」
私は土手の上を見た。鉛色の制服を着た警官たちが見えていた。
「ひとつ聞かせてくれ。もし有罪で死刑になったらどうなる。向こうで夢を見ている俺《おれ》は……」
「死ぬよ。蒲団《ふとん》の中でそのまんまね。ポックリ病、とか何とか言われて、それでおしまいさ。そんな死に方をする人がよくいるじゃないか。その中には、夢中犯もまじっているんだよ」
鉛色の警官が来て、私に手錠をかけた。
[#改ページ]
はじめまして。
私は渋谷のデパートに勤めている者でして……どうぞ名刺を。
はい、七階の貴金属売場でして、名刺にもありますとおり、一応売場の主任ということになっております。
いいえ、別にそんな……初対面のお方に、それもこんな喫茶店の中などで宝石を売りつけようなんて思ってはおりません。でも、お見かけしたところお一人のようでしたし、お急ぎでなかったら、ちょっとここへ坐らせていただいてよろしいでしょうか。
席……ああ、席はたくさんあいていますし、実は私もあそこに坐っていたんです。とにかくここへ坐らせていただきたいのですが。
そうですか、有難うございます。ちょっとあの席へ戻って伝票を持って参りますから……。
どうも失礼しました。別に怪しい者ではございません。このとおり身分証も持っておりますし、それからこれが運転免許証で……。そうですか、信用していただけて、本当にたすかりました。
わざわざここへ移らせていただいたのは、少しあなたとお話をしたいと思ったからですよ……いやだなあ、ホモなんかじゃありませんたら。だいいちこの顔を見てください。この顔でホモだなんて、あなた。女にだって縁のない顔ですよ。……家内ですか、ええおります。子供も二人。上はもう小学校の六年生になります。下は二年生で……。
ではざっくばらんにうかがいますが、話がちょっと変っておりますから、どうぞお気にさわりましたらご勘弁願います。まあ、失礼なことは重々承知しているんですが、これは私にとってかなり重大なことなんで、お話をせずにはいられないのです。
すみません、つい前置きが長くなって。
あの……先だって、この渋谷《しぶや》の近くでちょっとした事件があったのをご存知ありませんか。ええ、そりゃいろんな事件が起ってるでしょうけれど、その、新聞にのるような事件ですよ。……ご存知ないですか。へえ、ご存知ない……。
それじゃ申しあげますが、タクシーの運転手が、変な死に方をした事件のことなんです。場所はこの先の住宅街へ入りこんだほうの……そうそう、そのあたりです。あそこに教会があるでしょう。ええ、そうです、その教会です。その教会の前にとめてあったタクシーの中で、運転手が死んでいたんですよ。もちろん、そのタクシーの運転手さんです。運転席に坐ったまま死んだらしく、助手席のほうへ……つまりこう左の側へ倒れていたんです。
近所の人の話ですと、そのタクシーは教会の前へ、明け方の五時半かそこらから、ずっととめてあったそうです。今時分ですと四時すぎに空が白みますから、五時半というともうすっかり明るくなっていますよね。でも、あそこはよくタクシーが時間待ちをしたりするんだそうでして、その時間に見かけた人も、大して気にとめなかったんだそうです。
近くで道路工事をやってましてね。そのタクシーがお昼近くなっても動かないもんだから、工事の人がのぞきに行ったんだそうです。工事の車を動かすのに邪魔だったんじゃないでしょうか。
そうしたらあなた、死んでたんですよ。それから大騒ぎになって、警察が駆けつけたんですけれど、タクシーはエンジンがかけっぱなしだったそうです。運転手さんは鼻血を出していて、売上金がなくなっていますし、料金メーターは千百何十円かをさしていて、それが未払いになっているんです。……それは、例の空車だとかなんとか、倒しかたでいろいろになる丸いのがついたレバーの位置で判ったんでしょう。それに、うしろの席の左側のドアが半びらきになってるんです。自動ドアのほうです。
そうでしょう。あなたもそうお思いになるでしょう。どう考えたって、こいつはタクシーの売上金めあての犯行です。でも、私は念を入れて、ほかの場合も考えてみました。
まず第一は、いまあなたがおっしゃったように、売上金めあての強盗です。二番目に考えられるのは、タクシーをとめておりるときかどうかしたとき、メーターのことで揉《も》めたんじゃないかということです。料金のことです。私も道を遠まわりされて腹をたてたことがありますからね。お客がもし酔ってたりしていた上に、気の荒い人かなんかだったら、きっと喧嘩《けんか》になりますよ。それでブン撲ったら、その運転手さんがはずみでコロリと死んじゃった。……びっくりしたことはしたでしょうけど、人通りもなし、ことのついでに売上金をかっさらって一目散ということも考えられないことはありませんでしょう。
三番目は、その運転手さんが急に具合が悪くなって教会の前へ車をとめちゃったケースです。お客があれあれっと思ってるうちに、鼻血をだして助手席のほうへ倒れちゃったわけです。介抱したけど意識がなくなってる……。
ええ、私だってそうするでしょうね。そんなとき、一一〇番なり一一九番なりを呼び出して、助けてやろうとしますよ。でもこれが、若いチンピラ風の客だったりしたら、売上金をいただいて逃げてしまうかも知れません。……エンジンかけっぱなし、ドア半びらき、売上金なし、メーター未払い。鼻血だってそれで辻《つじ》つまが合いますしね。
現にその運転手さんは、ごく最近お医者にかかっていたんだそうです。脳神経外科とかのお医者さんにです。だから、警察のほうとしても、他殺と変死の両方の見方で調べはじめたんだそうです。
よく知ってるって……ええ、でもこれは新聞に出てたんです。その日の夕刊にね。発見がお昼でしょう、それに月曜日のことですから、私は売場にいてテレビなんか見る暇はなかったんです。だから、家へ帰ってから夕刊を見て知ったんですよ。
ええ、今月の四日です。四日の夕刊の社会面に出てたんです。
私が見たのはY新聞の夕刊です。家ではY新聞しか取っていませんのでね。
一面からずっと読んで行って、最後の社会面へ来たんです。その裏はテレビやラジオの番組表と広告だけですからね。
私ははじめその面にのった別な記事を読んでたんですが、まん中のちょっと左寄りに、なんかこう、顔写真入りのかなり大きめの写真が出ているなと思ったんです。よくあるでしょう。事件の現場なんかがあって、その隅《すみ》に関係者の顔が丸く組み込んであるやつですよ。そういう写真だと思っていたんです。
で……ひょいと、目をその写真のほうへ向けたんです。そうしたら、なんだかおかしいんですよ。その顔は、ふつうの場合のように丸い枠《わく》になんか納まっていなくて、変に傾いた角度で、タクシーがとまっている現場写真の中へ、いっしょくたに焼き込まれてるじゃありませんか。
おかしな写真だな……。そう思いましてね。それでもう一度よく見たんです。するとあなたどうでしょう、そいつはタクシーのまわりの風景なんです。
たしかに、タクシーが一台、カメラのほうに前を向けて写っているんです。そのまわりに警察の人らしいのが十人ほど写っていました。タクシーのうしろは石の塀《へい》らしくて、カーブ・ミラーや街路灯の白いポールも写っています。右側には木が生えていまして、タクシーの右うしろあたりに一本と、画面の右上のすみに手前の木の枝がひと茂み突き出しているんです。そしてその枝の下あたりに、白いシャツを着た捜査係らしい人が三人立っているんですけれど、問題の顔は、その三人の真上の、突き出した枝の茂みと、三人の頭の間の空間にうかんでいたんです。
背広を着てましてね。肩の曲ったところから二の腕の中ごろ辺まで、ちゃんと写っているんです。肩幅の長さは、ちょうど写真の中のタクシーの幅とおんなじくらいなんです。
ええ、ですからその顔は、写真全体の八分の一くらいはあるんです。写真の中の大きさで言ったら、その顔の腮《あご》から頭のてっぺんまでが、いちばん手前に立っている捜査係の人の身長と同じくらいなんです。
私は、ははあ、二重焼きかなんかしたな、と思いました。Y新聞のミスだと思ったんです。でも、もっとよく見ると、どうもそうじゃないらしいんですね。
それは、ちゃんとした一枚の写真だったんです。右の上に突き出した木の枝とか、いろんなものが重なり合って、偶然一人の男の顔になっていたんです。
私はすぐ家内にそれを見せて、どうだこの写真の中に大きな顔があるだろう、と言いました。家内はどれどれと言って見ていましたけど、ほんとだ気味が悪いわ、って、私に新聞を返しました。ほんとにこわがってるようでした。
ご存知でしょう。よく、記念撮影をして現像したら、死んだはずの人が写っていたとか、背景の草むらの中にいくつもの顔が現われていて、それは写された人にとりついている霊魂なのだとか……。
だからはじめから変な話ですけれどと申しあげているんです。嘘《うそ》じゃありませんよ。何しろY新聞ですからね。私も家にちゃんと保存してありますし、新聞社だって何十部もとってあるはずです。
ええ、八月四日の夕刊で、第四版の九面です。
もちろん私はY新聞に電話をしましたよ。そんなことで新聞社に電話したことなんか一度もなかったんですけれど、何しろはっきりと人の顔が、それも写真のほかの部分から見るとばかばかしく大きな顔が、ドアをあけた問題のタクシーの中を、心配そうな表情でのぞき込んでいるんですからね。
記事の見出しにはこうありました。
タクシー運転手変死。客とトラブル? 病気? ってね。
一面の題字のそばに印刷してあった電話番号へかけたんです。そうしたら若い女の子の声で返事があったんで、いきなり写真のことを言ったんです。交換手の声よりはずいぶんリラックスした声で、どれですか、見えないわ……って。
向こうで新聞をひろげて見てるらしいんです。そばの人に、あんた見える、なんて言ってるのが聞こえました。そして、こちらの紙面ではよく判りませんが、写真部の者にまわしましょうと言って、男の声にかわりました。
写真部の人は、はじめ面倒臭そうだったんですが、私がよく説明すると、ああなるほど、と感心しはじめました。向こうでも見えたらしいんですね。で、そうなると面白がって、ネガまで出して見てくれました。ネガはそんな顔が出ているようには見えなかったそうです。
私だって面白半分ですよ。他人が見てもそう見えると判ったんで満足しました。でも、訊《き》いてみるとその晩その写真のことで本社へ問合わせたのは、私だけだったようです。
まあ、それだけの話と言えばそうなんですが……。
でも、まだ続きがあるんです。
翌朝電車に乗って出勤するとき、私はたしかにその顔を見たんです。いつものように混んでましてね。私は吊革《つりかわ》にぶらさがっていたんですけど、目の前のガラスに、ちらっ、ちらっとその顔がうかぶじゃありませんか。私は思わず左右を見まわしました。でも何しろ混んでましたからね。ガラスに写った顔だけで、本物のほうはとうとう見そこなってしまったようなわけです。
気になりました。そりゃ気になりますよ。偶然写真に写った風景の一部が顔に見えただけだと思い、それですんだつもりでいたら、そっくりの顔を朝の電車の中で見かけたんですからね。
おかしなことがあるもんだと、一日中首をひねっていました。
それで、考えてみたんです。
もしかしたら……本当にもしかしたらということなんですが、霊魂みたいなものが仮に実在しているとしてですよ、不慮の死をとげたその運転手さんが……運転手さんの霊が、写真のとおり車のそばにいたんじゃなかろうかと……。
お笑いになってもかまいません。それくらいもう覚悟してるんです。……で、その運転手さんとそっくりの人か、または弟さんとか身内の方とか、そういうよく似た人が私の乗った電車に乗り合わせていたんじゃないかと。
気にしすぎて、少し変になっていたのかも知れないと思うでしょう。でも、そうじゃないんです。そうじゃなかったんです。
その次の日、私は売場でショーケースの一番下の段にある品物を並べかえていました。そしてひょいと目をあげたら、ショーケースのガラスの向こうに、あの顔がまたあったんです。上から、写真とそっくりの角度で、私をのぞき込んでいたんです。
はっとして私は立ちあがろうと思ったんですが、何しろ高価な商品で、しかもごく小さなものばかりですから、はずみでひっくり返しでもしたら大変なことになります。
で、ちゃんとひっくり返さないように用心して手を引いてからもう一度見ると、もう誰《だれ》もいませんでした。
錯覚なんかであるもんですか。絶対そんなことはありません。
そして、それからというもの、私の行くさきざきへ、ひょい、ひょいとその顔が姿を見せるんです。どういうわけなんだか知らないけれど、とにかく私は不安になって、あの事件を扱った警察の人にたのんで運転手さんの写真を見せてもらったりしたんです。
全然違う顔でした。
じゃあ、それなら犯人か何かの顔かと言うと、これも違うんです。やっぱりあの事件は他殺で、犯人はもうつかまってしまったんですが、その犯人の顔とも違うんです。
見当もつきません。いったいその顔は私とどんな関係があるんでしょう。このまんまじゃ、私は本当にノイローゼになってしまいますよ。
そして、とうとう勤めもこうして休んじゃったようなわけでしてね。なんとか相手をつかまえてわけを聞こうと思っていたんです。
そしてこの喫茶店へ入ってひと休みしていたら、あの席の……私がさっきまでいた場所の横の、あのガラスにまた顔が写ったんです。反射的にさっと振り向いたら、ここにあなたが坐っていたというわけなんです。
偶然なのかも知れません。ひょっとして、あなたもこの渋谷|界隈《かいわい》でお仕事か何かなさっていらっしゃる方かも知れませんしね。もしそうだとすれば、私とあなたがたびたびすれ違うこともあり得るわけです。
そうでしょう。写真の中で偶然出来上ったあの顔と、あなたのそのお顔がたまたまそっくりだったというだけのことです。それならそれでいいんです。でも、もうこんな幽霊みたいな騒ぎはたくさんなんです。はっきりさせたかったんですよ。こうやってあなたにお目にかかれたんで、本当に私はほっとしているんです。
……え、なに、注文。さっきあっちでコーヒーを飲んでしまったんだよ。このとおり伝票もあるし……。
あれ、どこへ行った。おかしいな、どこへ行っちゃったんだろう。あれ……あれ……。ねえボーイさん、いまここにいた人はどこへ行った。
え……知らない。そんなわけないだろう。だってたった今まで私とここで話をして……なんだって、私一人だったって。
そんなばかな。君、そんなばかな……。
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無縁の人
彼はバスに乗るのが好きだった。今は交通事故で右の足が不自由な体になっているから、あまりバスにも乗らなくなったが、以前は通勤もバスと電車が半々だった。
バスと電車が半々、と言うのは、彼の場合ちょっと説明がややこしくなる。自宅から電車の駅までがバスで、あとは電車で都心までと言うのが普通なのだが、時間が余分にかかることさえ気にしなければ、バスだけでも勤め先のすぐそばまで行けた。彼はバスが好きだったから、時間に余裕がない朝の出勤時は別にしても、できるだけバスに乗ろうとし、定時に退社できてまっすぐに帰宅する時などは、主としてバスを使っていたのである。
「そんなにバスが好きなら、いっそのこと車を買ったらいいのに」
同僚にそう言われたりすると、彼は即座に首を横に振り、
「マイカーは駄目だ。自分で運転したらわき見ができなくなる」
と答えた。つまり、彼はわき見をしたくてバスに乗っていたのだ。
「君は東京《とうきよう》生れだろう」
一度、私もそのことについて彼と話合ったことがある。
「そうだよ」
「昔から見なれた町なのに、なぜお上《のぼ》りさんみたいにバスの窓からキョロキョロ眺《なが》めていなければ気がすまないんだ」
「知るもんか」
彼はその時、そう言って笑って見せた。しかし私も東京生れで、だから彼の気持はなんとなく判っていた。
要するに町を見ていたいのだろう。昔から見なれているだけに、ちょっとした変化があってもすぐ判る。彼はそのちょっとした変化に興味があるのだ。しかもそれを見落したくない気もしていたに違いなかった。
ちょうど、毎朝庭へ出て草花の様子や植木の枝ぶりを眺めるのに似ている。人には気付けぬ僅《わず》かな変化でも、それをわが物として眺める目には大きな楽しみがあるのだ。彼はまだ若くて自分の庭を持つような身ではなかったし、植木の枝ぶりを眺めてうれしがるような年ではなかったが、そのかわり東京の町全体を自分の庭のように心得ていた筈《はず》だし、その町の変化を継続的にとらえて行くことは、時代の動向をよく見定めることに通じていたのだ。
「電車は駄目だ。都電が残っていれば話は別だが……」
彼はよくそう言った。私はその言葉もよく判った。東京の国電は町を高みから見おろすことになるし、それ以外の電車はみな地下へもぐってしまっていた。その点バスは町なかを縫って走り、こまかく停車しながら行くから、町に親しむ上では電車よりずっとすぐれた乗り物であった。
「俺はバスの中から建物を見ているだけではないんだよ。町の人たちを見ているんだ。特に若い女の子たちをね」
彼は真剣な表情でそんな風に言ったものである。たしかに彼は仲間のうちでは女性の服装の流行について一番詳しかった。バス好きなことが直接それと結びついていはしなかったにせよ、いつも町を観察していなくてはすまない、そうした姿勢の結果であったのだろう。
実を言うと、その頃私は彼と同じ会社に勤めていたのだ。広告代理店である。彼はグラフィック・デザイナーで、私はコピー・ライターであった。今は松葉杖《まつばづえ》に頼る体になって広告の仕事もやめ、自宅でコツコツと油絵を描いて、なんとかその方面で名をあげて来たが、当時は私と一緒にスポンサーの会社へ日参したり、地方へロケハンに出かけたり、安月給だが結構いそがしい生活を送っていたのである。
「縁というものを無視してはいけない」
一緒に酒を飲んだりすると、彼はよくそんなことを言った。
「今の科学では説明のつけられないことがたくさんあるが、縁などというのはその中の最大のものだな」
どうやら、彼は縁を人生の基本的な要素のひとつとして考えていたようだ。
「俺と君がこうして同じ職場で働くのも縁なら、女がどの男と結ばれるかも縁だ」
彼がそんなように言い出すと、
「何だか爺《じじ》むさい感じがするから、そんな話はしないほうがいい」
と、私はいつも冗談半分にたしなめるのが常だった。
しかし、彼は本気でそう考えていたようだ。
「バスに乗っていたって、窓の外を注意深く見ていると、縁というものがどうしようもない根深さで我々を支配しているのが判るんだ」
或る時彼はそんな言い方をした。
「へえ、バスに乗っていてねえ……」
私はいつものように本気でとり合わなかった。
「たとえば今、バスが、バス停にとまりかけているとしよう。君はそのバスの左側の窓に顔を向けて吊革につかまっているんだ。その時、君は少し先のバス停のあたりを歩いている、とてもスタイルのいい女に目をとめたとする。プロポーションも歩き方も、着ている物やハンドバッグなども、君の好みにピッタリだったとする。でも、うしろ姿だけで顔が見えない。そういう時、どんな顔をしているか見たいと思うだろう」
「ああ見たいね。しかし、いわゆるバック・シャンという奴《やつ》で、前へまわったらがっかりさせられるかも知れないな」
「そうかも知れないが、やはり顔は見たいだろう」
「うん」
「バスはバス停にとまり、客をおろしてまた走りはじめた。その女は歩いているのだから、当然バスのほうが追い越すことになる。追い越す時にその女の顔は拝める筈だろう」
「そうなるな」
「ところが、ここから先が問題なんだよ。会って一緒にお茶を飲むとか、またはその女が君の恋人になってしまうというような所までは行かぬにせよ、いくらかでも縁があれば、君は彼女の顔を見ることができる。バスが追い越す時、君は当然のように窓から歩道の女の顔を見るんだ。しかし、縁がないとそうは行かなくなる」
「どうなるんだ」
「バスとその女の間へ電柱が入って来るんだ。車道にいるバスの窓と、歩道を行くその女との距離を考えれば、電柱なんてそんなに太いもんじゃない。ところが、バスの走る速度と女の歩く速度が実にうまく組み合って、どこまでも君とその女の間へ一本の電柱が入り続けるんだ。おかげで君は結局女の顔を見そこなうことになる。縁がないということは、そういうことなんだ」
「でも、うしろ姿だけでも見たじゃないか。全然無縁だったとは言えないだろう」
「それはそうだ。しかし、それ以上縁のない相手をどうやって確認する気だ」
そう言われて私は返事につまった。彼はそんな私を見て得意そうに言った。
「袖すり合うも他生の縁と言うだろう。縁がなければ袖《そで》もすり合わすことがない。日本の人口一億のうち、君がちらりとでも見かける縁を持っている相手は、実はそんなに多くないんじゃないのかな」
……私は妙にその言葉が気になった。その時はそうでもなかったが、たしかにそう言われると、バスの窓と歩行者との間へ、電柱とか駐車中の車とか、或いは他の歩行者などが入って来て、彼の言う無縁の状態を作り出すことがよくあるのだ。それはバスばかりではなく、電車でもよく起るのだ。プラットホームを電車の進行方向へ歩く人物が、柱のかげにうまく入り込んでしまったりするのである。
だから、いつの間にか私も彼が指摘した有縁無縁ということを信ずるようになり、遂《つい》にうしろ姿だけで顔を見れなかったような時は、ああ無縁の人だったのだな、と思ったりした。
その彼が恋をした。
相手は或る会社のタイピストであった。その会社というのが私たちの広告主《クライアント》に当っており、彼は出入りしている内に廊下かエレベーターの中かで見かけ、一目惚《ひとめぼ》れしてしまったらしい。
もともと物事に熱中し易い性質で、そうなると彼は明けても暮れてもその女のことばかりを考えていたようだ。あれこれ手をまわして相手のことを探り、なんとか近づくチャンスを作り出そうとしていたが、なかなかうまく行かなかった。
「無縁の人じゃないのかい」
そう言うと、彼はムキになって否定した。
「そんなことはない。顔だってもう何十遍も見ているし、それに俺は彼女の勤めている会社へ仕事で出入りしているじゃないか。少くとも個人的に話をする機会くらいはある筈《はず》だよ」
その点については自信たっぷりで、たしかに何ヵ月か粘った末に、とうとうごく自然に口をきくチャンスを掴《つか》んだ。
彼はなかなかハンサムな男だったから、相手もいい反応を示したらしい。
「やっぱり縁があった。俺は絶対彼女をものにして見せる」
彼はその時意気揚々と私に言った。
「ものにして見せるとは穏やかじゃないな。広告主《クライアント》の社員だぞ」
「心配するな。俺は彼女と結婚したいんだから」
どうやら本気のようだった。そして、相手も徐々に彼を恋人として扱うようになって行ったらしい。
ところがうまく行かなかった。二人の仲はそれ以上なかなか発展しないのだ。彼は私に対してもだんだん口数が少くなり、憂鬱《ゆううつ》そうな顔をしていることが多くなった。
そうこうする内に、私の身に変化が起って会社をやめることになった。私は新しい生活を迎える準備に忙殺されて、よく話合う機会もないまま彼と別れてしまった。
でも、その会社を去る日、ひとことだけ言った。
「お互いに無縁の仲じゃないんだから、いずれまた一緒に飲むこともあるさ」
すると彼は頷いて見せ、
「でも、縁というのはそう単純なものじゃなさそうだぜ」
と言いながら握手を求めて来た。
それから二年ほど、私は彼と会わなかった。そして、次に会った時は病院の中だった。
私は果物の包みを持って彼の病室のドアをあけた。彼が交通事故で入院したという噂《うわさ》を聞いて、驚いて駆けつけたのだった。
「やあ、来てくれたか」
彼は意外なほど元気そうに私を迎えた。私は少し拍子抜けしながらべッドのそばの椅子《いす》に腰をおろした。彼の右足はギプスでかためられ、まっ白な包帯でグルグル巻きにされた上に、紐《ひも》でつりあげられていた。
「ひどいめにあったらしいな」
そう言うと、
「おかげで失恋のほうが癒《なお》ってしまった」
と笑った。
「失恋……」
「ああ、ひどいめにあったのはむしろそのほうさ」
「相手は……」
「彼女だよ、タイピストの」
「あ、あの女か」
「そうなんだ。彼女、俺の前にもう恋人を持っていたんだ。と言っても、そう深い仲じゃなかったらしいがね。ところが俺が現われたために、そいつが急にハッスルしやがった」
「ライバル登場というわけか」
「うん。事態は一進一退さ。彼女も板ばさみになって相当悩んでいたよ。堅い子でね。両方適当にというようなことができなかったらしい。あれから一年半ほど、そんな具合ですったもんだしたんだが、結局彼女も決断しなければならなくなって、俺を振りやがった」
私は多分気の毒そうな目で彼をみつめたと思う。だが彼は快活だった。
「苦しいもんだね、失恋という奴は。俺はしなびてしまった。ガックリしてしまったよ。何だか生きているのさえ嫌になって、会社もやめてしまおうかと思ったりした。でも、今はもうその傷も癒《い》えた。そのかわりに右足がこんな風になってしまったけれどな」
彼はおかしそうに声をあげて笑った。
「そのかわり、とはどう言うことだ」
「バスに乗っていたんだ。そうしたら、歩道を歩いている彼女を見かけたのさ。彼女は結婚するんで会社をやめてしまったから、もう連絡の取りようもなくなっていた。だから、見かけた瞬間俺はもうドアのほうへ歩いていた。もう一度だけ話がしたかったんだ。さいわいバス停はすぐそこだった」
彼はそう言い、急に黙り込んで私をみつめた。
「どうしたんだ」
「君には例の話をしてあったな」
「何のことだ」
「無縁の相手がいるということだ」
「バスの窓からうしろ姿しか見えない相手のことか」
「そうだ。実を言うと、俺はその時彼女の顔を確認したわけではない。うしろ姿だけだったんだ。ハッとしてドアのほうへ行きながらも、顔を見定めようとしたんだが……間に電柱が入ってしまっていた。で、バス停へとまったので急いで降りると、もう姿が見えなくなっていた。横の道へ入ってしまったらしいんだよ。俺は夢中でそのほうへ走り、横道を見た。たしかに見憶《みおぼ》えのある姿が次の角へ曲るところだった。俺はまた走った。このチャンスをのがしたら、もう二度と会えないと思ったからだ。そして、全力疾走で彼女が曲った道へとび込んだとたん……」
彼は吊りあげられた自分の右足へ目を移した。
「そこでやられたのか」
「うん。バス通りと平行に走っている広い道へいきなり横丁から飛び出してしまった。相手の車には非がない。まるで俺は小学生みたいだった。いや、小学生より悪いかもな。今時の子供はもっと車に注意深いだろう」
「で、彼女は」
「それどころじゃないさ。俺は脳震盪《のうしんとう》を起して失神していた」
「でも、あとで連絡くらい……」
彼は手を振って微笑した。
「彼女ではなかったらしい。よく似たうしろ姿だったので、勘違いしたようだ」
「なんだ……」
私はがっかりした。
「でも、俺は悟ったよ。彼女と俺はやはり縁がなかったんだ。だからそれはもういいんだ。しかし、今度のことで俺はもうひとつ悟ったんだ。縁と言うのは恐ろしいものだぞ。恐るべき力なんだよ。だってそうだろう。俺はバスに乗っている時、すでにそのことを悟るべきだったんだ。彼女か彼女でないかは別にして、相手のうしろ姿しか見ることができなかったのだからな。無縁の人だったんだよ。でも俺はそれをコロッと忘れていた。そして、無縁の人を……決してこの世では顔を見れる筈のない相手を、夢中になって追いかけてしまっていたんだ。多分、俺はその無縁の人にもう少しで追いついてしまうところだったんだろう。だから事故が起った。何か、縁を作り出すとほうもない力が働いて、俺をひきとめたに違いない。俺は失神し、病院へ運ばれて気がついた。……要するに、縁なのさ」
彼は微笑していた。その微笑は、持って生れた枠《わく》を決して越えられぬと悟った人間の、かえって爽《さわ》やかな色に溢《あふ》れていた。
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失われた水曜日
「はじめまして。私はこういうもので……ええ、山本林産といいますのは、主に木材を扱っておりますが、長良川《ながらがわ》の上《かみ》のほうの小さな会社でございまして、まあ私は一応常務取締役というような肩書なんですが、要するに営業……ええ、セールスマンなんでして。
「はい、別に先生にうちの木材を買っていただこうなんて、そんなわけではありません。ええ、建築用材が専門なんですが、先生はもうこんな立派なお宅にお住まいになっておられますし、先ほどから感心して拝見しておりましたんですが、木口なども結構なもので……あ、どうぞおかまいなく。
「いやあ、実は先生のところへおうかがいするについては、これで少しばかり苦労いたしました。何せ、売った買ったと金儲《かねもう》けの話ばかりしておりますような人間でございますから、親類にはもちろん、友人、知人のあいだにも、学者さんなどはもう一人もおりませんで……それがあなた、急に物理学とか天文学とか、そういった方面のえらい先生にお目にかかりたくなったのですから、もうほとほと困り果てましてね。あっちこっちへたのんではみたんでございますが、これといったコネなどありはしません。ところが、東京の東港物産という会社の社長さんが、先生と何かご親戚《しんせき》関係だとか言うことをはたからうけたまわりまして、まあ、今のところ直接東港さんとはお付合いがないんでございますが、さる銀行の支店長さんを通じまして、是非ご紹介いただきたいと申しあげたところ、こうしてお手配いただきまして先生にお目にかかることができたようなわけなのでございます。
「それが……せっかくこうして先生の前へまかり出て見ますと、何かこう……はい、なんともいい歳《とし》をしてだらしのない話ですが、とても申しあげにくい気分になって困っているのでございますよ。何せ、話が少しこんがらかっておりましてね。
「とんでもない、先ほども申しあげましたとおり、商売の話ではございませんので、はい。それはもうご安心くださいませ……。もう、この通り汗を掻《か》いておりまして、まあ、こういう話は若い人ならばとにかく、私のような年輩になりまして、真面目《まじめ》な顔で人さまに申しあげるというのは、まったくいやはやどうも、困ったことでございますよ。
「でも、やはりひとつお伺いしないわけには行きませんので、是非お教え願いたいのですが、いったい全体、時間というものは、切れ目なしにずっと連っているものなのでございましょうか。ええ、時間でございます。一秒が六十で一分、一分が六十で一時間という、あの時間のことでございます。
「はあ……はい……なるほど……。
「いや、どうも困りました。折角お教えいただいているのに勿体《もつたい》ない話でございますが、やはり私、こちらへうかがう前に思ったとおり、むずかしくてとても判《わか》りかねます。しかし、その、物の変化の量というのは、何となく判るような気がいたします。つまり、物が何ひとつない場所では、時間などないわけでございますな。私なども、長良川の上《かみ》のほうの山奥にひとり切りで入って行ったりいたしますが、とても一日が長うございます。ところが東京へ出て来て人ごみに紛れておりますと、あっというまに一日が過ぎてしまいまして、もう気ぜわしいの何の……。しかし、どちらかと申しますと私などは若いころからにぎやかなほうが好きな性分でして、そのために会社でもずっと営業のほうを担当いたして参りまして、東京だ大阪《おおさか》だと、一年中あちこちをとび歩いておるようなわけでございます。で、時間が切れ目なく続いているというのはたしかなことなんでございますね。
「はい、ええ、なるほど。そうでございますね。そうおっしゃられればその通りで、赤ん坊からだんだんに大人になる……そのあいだに切れ目があって、六つの次にいきなり八歳になってしまったのでは、小学校の一年坊主をやらないことになってしまいますな。いやどうもおかしな話で。
「で、そうするともうひとつ、その先がうかがいたいのですが。切れ目なく、こう時間が続いておりますね。月、火、水、木、金、土、日と……。たとえば、火曜日の次は水曜日なんですが、何かの都合でその水曜日というのがお休みになってしまったらどうなりますか。いえ、祭日とか、そういうんじゃないんです。まるまる一日が、あるのにないことになってしまったらというんです。
「ええ、もう、ばかばかしいということについては、この私がいちばんよく承知いたしております。それで私、申しあげにくいんで困ったんですが、とにかく何がなんでもこれをおうかがいしないと、私も帰れない気持なので、どうぞそのところをお判りいただいて、まげてご返事願いたいのですが。
「はい。ではもう一度申しあげます。よろしいですか……火曜日の夜中の十二時、つまり午前零時で日付が変りますな。そして水曜日になる。ふつうですとここで水曜日がはじまりまして、明けがたになりますと牛乳配達だの新聞配達だのの人たちが起き出しまして、一軒一軒配って歩いたりする。新聞はちゃんと水曜日と印刷してあるのが届くわけで、夜が明けますと子供たちは水曜日の時間割りを見て教科書などを揃《そろ》え、それを学校へ持って行って水曜日の授業を受けて帰って来るわけです。ところが……ところがですよ。その日に限って誰一人起きない。朝になって太陽が昇って、昼になって夕方になって夜になって、一日がおわってしまう。結局その日一日は誰も目をさまさないでおわってしまい、また午前零時になって今度は木曜日になる。ところが誰も木曜日になったということを知らない。睡《ねむ》っていたから判らない。で、目がさめて今日は水曜日だと思ってしまう。本当は木曜日なのに、世界中で水曜日の生活がはじまってしまう。つまり、本当の水曜日が一日なくなってしまって、まる一日分時間がズレて世界中が生活を続けて行く。さあ、こうなった場合です。天文学とか物理学で、一日なくなっている、一日足りなくなってしまったということが発見できましょうか。この点を是非先生に言っていただきたいのです。
「はあ、もしそういうことがあれば……必ず発見できるのですね。ええ、地球は太陽のまわりをまわっておりますからね。そうですか、天文学のほうでちゃんと判るわけですね。ねえ先生、でしたらそれを今すぐ調べていただけませんか。先生のようなおかたならすぐ判るはずです。たしかに一日なくなっているんです。足りなくなっているはずなんです。先週の水曜日がですよ。みなさんが、世界中の人間が水曜日だと思っていたのは、実は木曜日だったんです。大変なことです、これは。私はよく判らないがそう思います。そうでしょう、大変なことでしょう。
「いや、私も少し興奮いたしました。失礼はお詫《わ》びするといたしまして、それではあの時のことをお話しいたします。私、先週の月曜の朝、会社へ行きまして、すぐ東京へ向かったんです。月曜の夕方、人に会う約束ができておりまして、火曜は朝から仕事であちこち都内をとびまわらなければならないものでしたから。で、いつものように東京へ着きますと赤坂《あかさか》のホテルへ入りまして。部屋は六階の六一六号。シングルの部屋ですが、窓からはあの大きな通りや高速道路が見える部屋なんです。……その前の週に予約してありましてね。ええ、いつも東京ではあのホテルへ泊ることにしているのです。
「はい、月曜は何事もなく、火曜日も順調に仕事がかたづきまして、七時ごろ最後に会ったお客さまと夕食をいたしまして、そのあと一軒だけ銀座《ぎんざ》のバーへ行って接待の真似事《まねごと》などいたしましてから、そうですわ、あれで多分十時少し前にホテルへ戻ったでしょうか。まっすぐ六一六号室へ入って、シャワーを浴びまして、浴衣に着がえて三十分ほどテレビを見てから寝てしまったのです。次の日、朝早い飛行機で札幌へ行かねばなりませんでしたから。もうこの歳になっては体をいたわるのが第一で、人さまの前では若そうなことを申しますが、いくら一人旅で気楽だといいましても、もう本当は飲み歩くよりは早くべッドへもぐり込んでしまおうといったあんばいなのですよ。
「で、三時ごろ一度目をさましたんです。小便に起きたんですが、カーテンを半分あけたままにしておいたので、べッドへ戻るとき何気なく残りを閉めに窓のところへ参りまして、その時外を見たんですが、灯りはいつものようについておりましたが、車も人通りも絶えておりまして、ああ東京もやはり不景気なんだなあ、などと思ったのを憶えております。
「そのままベッドへ戻って、今度は六時に目がさめました。ちょうどいい時間でした。着がえて、朝食をして、ホテルの勘定を払ってタクシーに乗って羽田《はねだ》へ行けば、ちょうどいい具合だったんです。私は冬でも朝は冷い水で顔を洗わないと気がすまない性分で、顔を洗って服を着てネクタイをしめながら、ひょいと窓のカーテンをあけたんです。
「あんな気味の悪いことはありませんでした。六時といえばもうすっかり太陽も昇って、日がさしていました。でも、車一台人っ子ひとり通っていない。高速道路も道の向こう側に見える細い横丁も、シーンと静まり返っているじゃないですか。……何かあったな。そう思いました。
「ええ、例の爆弾騒ぎか何かで、この辺一帯から人をどけてしまったんだろうと思いましてね。で、あわててテレビをつけた。そうするとこれがやってないんですね。ジーッという音ばかりで、ブラウン管が白く光っているだけ。ベッドのそばの作りつけのラジオのスイッチも押してみたけれど、これも音なし……。十分、いや十五分ほども部屋の中をうろうろしていましたけど、どんどん不安になって行くばかりだから、フロントへ電話をして何が起っているのか尋ねようとしたんです。でも返事がない。ルームサービスも、フロアーステーションも、ベルボーイのところも、交換台も、全部応答なしなんです。
「ええ、電話を放り出して廊下へとび出しましたよ。さすがに部屋のキーだけは手に持っていましたがね。……エレベーターは自動でちゃんと動いていて、ロビーへおりて行ったんですけれど、人なんかいやしない。……私、自分が知らないまに、みんな避難してしまったんだと思った。恐ろしかったですよ。でも、それにしては警官とか機動隊員の姿までどこにも見えない。……エスカレーターだけが、ひとりでゴトゴト動いていたんです。
「外へ出たのはずいぶんたってからです。出ればかえって危いかと思ったんですよ。で、今度はいちばん上の階へあがって見たんです。最上階のラウンジからだと、遠くまでよく見えますからね。で、あがって見たらどうです……見渡す限り、人っ子ひとり動いていない。この東京で、太陽はもう高いところへ昇ってしまっているというのに、そんなことがあり得ますか、あなた。車もオートバイも自転車も、それこそ猫《ねこ》一匹だって動いているものの姿は見えないんです。
「狂った……ええ、私は自分が気違いになったのかと思いましたよ。でなかったら夢を見ているか。それで何度も顔を洗ってみましたし、煙草も吸ってみました。私はたしかに起きているんです。気も狂っちゃいないんです。おかしいのはほかの人たちだったんです。フロントの奥へ入り込むと、ホテルの連中がみんな机に突っ伏して寝てるじゃないですか。そのうちに、マスター・キーというのを見つけましてね。それを持って恐る恐る人の部屋をあけてまわったんですが、みんな睡ってました。どうやっても起きてくれないんです。
「それで外へ出たんです。わたしはホテルをあきらめて、誰か起きてる人はいないかと思って歩きまわりました。ええ、もう一日中……ヘトヘトでした。実は私は車の運転がダメなんです。あんなに車の運転ができないことをくやしく思ったことはありませんでした。しまいにはやけっぱちで、手当りしだいに他人さまの家をのぞいてまわりましたけれど、みんなぐっすりとよくおやすみで……。
「腹は減る、喉《のど》は渇く。旅先ですから、結局ホテルへ戻《もど》るよりいたしかたありませんでした。で、グリルへ入ってキッチンをのぞきますと、いろいろ食べる物がおいてありましたから、適当なお金を置いてそれを自分の部屋へ持ち帰って食べたんですが、どうにも淋《さび》しくってしようがない。あちこち外線へもかけてみたんですが、日本中……いや世界中が睡ってしまっていると見えて、どこからも返事はないのです。
「夜になりました。もう私はすっかり参ってしまいまして、いっそのこと、みんなと一緒に自分も睡ってしまったほうが気が楽だろうと、バーへ行ってブランデーを一本もらって来て……白状しますと、その分はお金など置きませんでした。それでグイグイやりはじめまして、とうとう疲れと酔いで睡ってしまったんでございますよ。
「憎らしいじゃありませんか。ふと目がさめたら車の音ですよ。思わずとび起きて窓へしがみついたんですが、外はいつものにぎやかな赤坂の朝景色。……何があったんだというような顔でみんな動きまわってる。タクシーもバスも、地下鉄から出て来る人たちも、みんな元気そうでいつもどおりなんです。廊下へ出ると人が歩いている。エレベーターはボーイが乗って動かしてる。フロントへ行ったら若いクラークが、お早うございます……って。
「笑いごとじゃありませんよ、先生。いったいあれはどうなっていたんです。たしかにまる一日どうかしちゃったんです。その証拠に、この腕時計には木曜日と出ていました。もう直してしまいましたけどね。先生のもカレンダーつきでしょう。先週一日ズレてやしませんでしたか。よく考えてくださいよ。
「ね……そうでしょう。私はカレンダーつきの時計を持っている人を見るとかたはしから尋ねたんです。これはもう間違いなく、みなさん一日狂った時計をお持ちだったんです。先生ばかりではないのですよ。
「どうです、信じていただけたでしょうね。……ねえ、お信じになれないんですか。本当に先週の水曜日に……あ、あなたがたはどなたです。私はいま先生と……やめてください。先生、この人たちに何とかいってください。どこへ連れて行こうというんです。……時間局……そんなとこ、あるもんか。痛い、やめろ。貴様らだな、一日盗んだのは。時間|泥棒《どろぼう》……糞、まけるものか……あっ……危い、やめろ……助けてくれえ……」
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他人の掟《おきて》
いつものような夕暮れだった。
彼はいつもの時間に退社し、いつものように駅で夕刊を買い、いつものように電車に乗って郊外のわが家へ向かった。電車は混んでいて、彼は立ち通しだったが、いつものことなのでさして苦にもならず、降りる駅のふた駅ほど手前で夕刊も読みおえてしまったので、目の前の網棚《あみだな》の上へそれをひょいとのせた。
降りる駅が迫って来ると、彼はいくらか空きはじめた乗客たちの間をすり抜けてドアに近づいた。彼が降りる用意をしはじめたので、そのあと何人かがドアへ向かって続いて来た。
駅へ着き、ドアがあいた。これで一日が終ったのだという、ごく軽い解放感を味わいながら彼はホームへ出た。駅の外にひろがる新興住宅地の街路灯がすでにしらじらと光りつらなっているのが見えた。そのうしろでドアがしまり、彼が他の人にまじって跨線橋《こせんきよう》の登り口へ向かうと、それに逆行する形で電車がゆっくりと走りだした。長い電車は彼がホームのはずれにある階段を登りはじめるまで、その左側を逆の方向へ流れて行った。
彼はゆっくりと階段を登り、登りつめると右へ曲って下りの線路の上を通り抜け、駅の南の改札口へ降りて行った。
そこまではいつもどおりだった。
ところが、改札口の寸前でうしろから呼びとめられた。振り返って見ると二人づれの男がじっと彼をみつめていた。
「僕でしょうか」
もしもし、と呼びとめられたので、彼はそう尋ね返した。見憶《みおぼ》えのない顔だし、呼びとめられる理由を考えつかなかった。
「ええ」
どなたでしたでしょう……そう訊くつもりで相手の顔をいぶかしげにみつめたとたん、二人はさっと近寄って来て、一人が不自然なくらいちかぢかと体をくっつけて来た。
「そこの事務室までご一緒ください」
ひどく冷たい声で言われ、二人は彼を左右から押しつつむようにして改札口の前を通りすぎ、駅のオフィスのドアへ向かった。
「何です。どうしたんですか」
彼の質問に二人とも答えてはくれず、一人が先にドアの中へ入ると、近くにいた駅員を呼び寄せ、上着の内ポケットから何かをちらりと出して見せた。
ガラスの向うなので何を言っているか判らなかった。が、彼にはすぐピンと来た。
「あの、警察の方ですか」
ガラスのはまったドアの内側で、先に入った男が顎《あご》をしゃくって見せた。
「中へ」
彼は背中を押され、自分でそのドアをあけて入った。駅員がジロジロと彼を見ていた。二人は隅《すみ》のほうへ彼を連れて行き、駅員には聞こえないくらいの声で言った。
「これは君の新聞だね」
「は……」
彼は一人がつきつけるように差し出した新聞を見た。電車の中で読んでいた夕刊であった。
「君のだね」
「さあ」
「君は電車の中でこれを読んでいたじゃないか」
「ええ、読みましたが、これがそうかどうかは……はっきりしませんね」
新聞はどれも同じだ。別な新聞社のものならとにかく、その夕刊が果して車内で自分が読んでいたものかどうか、彼には自信がなかった。
男たちはちらりと顔を見合せ、唇《くちびる》のあたりに似たような薄笑いを泛《うか》べた。
「これを君は網棚へのせたね」
「ああ、それなら僕のかも知れません」
「よく見たまえ」
男は新聞を彼の顔の前へ持ちあげた。隅のほうの手ずれの感じと言い折り方と言い、そう言えば憶えがあるようだった。
「そうですね。多分これは僕のでしょう」
「そうか」
二人は頷くと、一人が駅員の所へ行って何か言い、すぐ戻って来ると今度は駅の外へ出るドアをあけて彼を連れ出した。
「いったい何なんです」
男たちは答えない。タクシー乗場の前を通りすぎ、そのうしろのほうへ彼を連れて行く。
「僕をどうしようと言うんですか。警察の方なんでしょう」
彼が不安を感じて立ちどまったとたん、その先にとまっていた黒い大型乗用車がゆるく走り出して彼の横へとまった。
うしろの席に鋭い顔つきの中年男がいて、その男がシートに坐《すわ》ったまま窓をあけ、黒い警察手帖を出して見せた。
「少しお尋ねしたいことがあります。ちょっとご協力願えませんか」
言葉だけは穏かだった。
「何なのです」
「まあ乗ってください」
外の男がそう言い、車のうしろをまわって向う側のドアをあけ、彼を中へ押し込んだ。
「捜査のお役に立つんなら協力しますけれど、どうも少し変な具合だなあ」
それがその時の彼の精一杯の抗議だった。
彼の右に一人と前の席にもう一人が乗り込んで車は走り出した。
「どこへ行くんです」
相手はみなそんなことに答える義務はないといわんばかりの顔で黙っていた。車はどんどんスピードをあげ、たった今彼が戻って来た方角へ進んで行った。
彼は返事のない相手にかまうのをやめ、考えはじめた。何かの事件に巻き込まれたという気はまったくしなかった。最悪の場合で人違いだろうと思った。法に触れることは何ひとつしていないし、身近で誰か警察がからむようなトラブルを起した人間も思いつかなかった。そこで彼は、自分の身もとを証明する方法ばかりを考えていた。上着のポケットには社員証とクレジット・カードが一枚、名刺などがあるし、自宅には電話もある。それに会社にはまだ残業している連中もいるはずだった。
車は次の町の警察でとまった。そこが彼の住んでいる町の所轄署だった。鋭い顔の中年男が先に立ち、二人の刑事にはさまれて、彼は取調室へ直行させられた。
「ご苦労さんです」
取調室へ入る時、わりと偉そうな制服を着た警官が彼らに挨拶《あいさつ》をした。そのとたん、彼はドキリとした。その刑事たちは待っていたようなのだ。そう言えば駅の前に車を待たせていたし、網棚へ置いた夕刊を二人の刑事が持って来たのも、ずっと尾行していなければできない芸当である。その上彼は会社からまっすぐ駅へ行ってその電車に乗ったのだから、会社からずっと尾行されていたということもあり得る。もしそうだったら人違いではないのかも知れない。
「いったい僕が何をしたんですか。こんな所へ連れ込むわけを教えてください」
彼は取調室の椅子に坐らされながら言った。その小さな部屋は、テレビ映画でよく見るのとそっくりだった。
中年男が小さな机の向う側に坐り、刑事の一人がその机の上へ夕刊を置いた。
「君のだね」
「だと思いますが、自信はありませんね」
中年男はニヤリとした。
「そうだろう。同じ新聞社のものなら区別はつきにくいからな。だがこれはたしかに君が網棚の上へ置いて降りた夕刊だよ。証拠がある」
「証拠……」
すると部屋の中に立っている刑事の一人が呶鳴った。
「俺たちは何週間もずっとお前を尾行していたんだ。お前はいつも降りる前に夕刊を網棚へのせるじゃないか」
その刑事は小さなカメラを彼の前に突きつけた。
「言いのがれられんようにちゃんと撮影してあるんだ」
「いったい何のために……」
すると中年男がカメラを持った刑事に目くばせし、自分が体をのり出して言った。
「我々が君の行動をこの数週間チェックしつづけていたことは、こちらの正規の記録にきちんと載っている。我々が撮影のあとその夕刊を持って降りたことはたしかだし、法廷でもそれに疑いをさしはさむことはできんだろう。撮影されたような行動はたしかに取ったが、それとこの夕刊は別物だと言う言いのがれは通用しないんだぞ。この夕刊が君の乗った駅の売店で売られていたものと同じだということを証明できるんだしな」
「それが証明できたとして、いったいどうだというんです」
「気持は判るが君もそろそろ観念したほうがいい」
「だからいったい何を観念するんですか」
するとその中年男は、机の上の夕刊を用心深くとりあげ、ゆっくりと開いて行った。
「この夕刊を受取るはずだった男も捕えてある」
「受取るはずだった……そんな男がいるもんですか」
「まあ、そう言っていろよ」
中年男はひろげた夕刊を自分の胸の前へひろげて見せた。
「うまい連絡方法だな。近ごろは誰でも読みおえた新聞を座席や網棚へ置いて降りて行ってしまう。格別ふしぎな行動ではない。君らはそれを利用したわけだ」
「君ら……君らって、まるで僕に仲間がいるような言い方をしますが、そんな仲間がどこにいるんです」
「無駄《むだ》なとぼけ方はするな」
中年男が大声を出した。
「よくこの新聞を見ろ」
彼は目の前にひろげられた新聞を見た。
「あ……これは僕のじゃない」
「そらはじまった」
三人の男たちは声をあげて短く笑った。
「こっちはそう言われないために努力したんだ。これはたしかに君が網棚へ置いた新聞さ。ちゃんと写真まで撮ってあるし、彼がそれを取って降りたという証明のために、彼のスナップを撮ってあるんだ。同じ新聞を取って降りたと証明できるんだよ」
「違う。僕はそんな穴なんかあけない」
ひろげられた新聞は、随所にマッチの軸でつついたような小穴があいていた。
「無駄だね。我々は完全に手を打ってある」
「僕のじゃない」
彼は叫んだ。中年男はわざとらしい同情をのぞかせた顔でそれを聞いていた。
「いったい何をでっちあげようと言うんだ」
すると中年男は二人の刑事に合図し、その二人は無言で取調室を出て行った。
中年男はひろげた新聞を畳みながら言う。
「でっちあげ……。そう、ひょっとするとこれはでっちあげかも知れない。でも、我々は正規の捜査員で、しかもかなりの日数を君に費し、この夕刊が君の夕刊であるという証明を得る準備を整えていたのだ。警察部内に我々のそうした努力の記録が正式に保存され、何のために車内へカメラを持ち込んだかまで証明できる以上、君がこの夕刊に関してそうでないといくら主張しても通ると思うかね……法廷で」
「法廷、法廷と、さっきからそう言っているが、僕はいったい何の罪で裁かれるんだ」
「それはこの夕刊が教えてくれるよ」
「何だって……」
「このボツボツあいた小さな穴さ。君が自分はあけた憶えがないと主張する、この小さな穴たちだよ」
「たしかに僕はそんな穴など知らない」
「だがこれには君の指紋がベタベタだ」
「じゃあ、あんたがたがその穴をあけたんだ。それしかない」
「この穴は平仮名にしかあけられていない。穴をあけられて判読できなくなっても、もう一部同じのがあればすぐ判るしかけだ。もちろん、穴のあいた字をつなげても何のことか判らんさ。しかし、我々はそれを解読する鍵《かぎ》をすでに入手している」
「暗号だって言うのか、それが」
「その通りさ。君は平凡なサラリーマンをよそおって、毎日退社のとき夕刊を手に電車に乗り、降りる時それを網棚に置いてしまう。そういう習慣を故意に作りあげている。だが、その夕刊は必要な時君らの組織の重要な通信に使われる」
「いい加減なこと言わないでくれ。それは本当に習慣なんだ。誰だってそういうたぐいの習慣は持ってるはずだ」
「この穴の文字をつなげて解読すると、いったいどういうことになるかね」
「どうなるんだ」
「我々の入手した鍵を使うと、この穴は重大な犯罪に関した言葉になるはずだよ。君らは無関係な市民を大量に巻き込む惧《おそ》れのある爆破計画を持っているんだ。ひょっとするとこれはその実行の指令かも知れん」
「そんなばかな」
彼はちぢみあがった。夕刊に穴をあけた憶えがない以上、これは緻密《ちみつ》に仕組まれた罠《わな》であった。穴を言葉に直せば、彼らが欲している文章があらわれるに違いないのだ。
「いったい何で僕のような人間を選んだんだ。なぜ僕を罪におとし入れる」
すると中年男は急に柔和な笑顔になり、立ちあがった。
「罪におとし入れたりはしませんよ。それよりあなたを選んだ方にお会わせしましょう」
男はニコニコしながら立ちあがり、ドアをあけて廊下へ出た。それと入れかわりに一人の男が入って来た。
「やあ」
身なりのきちんとした男だった。髪を短く刈りあげた、ひどく物堅い風体だった。
「久し振りだな」
彼はその男をみつめた。
「忘れたのか。俺だよ」
「え……」
彼は更に相手をみつめ、急に甲高い声で言った。
「何だお前……」
それは彼の高校時代の同級生だった。もう別れてから二十年近くなる。
「驚いたろう」
「驚く……すると今のはお前が……」
「うん」
「ひどいじゃないか。なぜこんなことをするんだ。しかも警察を舞台に」
「こっちには充分理由があるさ」
「理由……」
相手は中年男が坐っていた椅子に腰をおろした。
「どの大学へ進むかきめる時、お前は俺に言ったな」
「俺が何を言った」
「忘れたのか。俺は裁判官になるつもりだとお前に言ったんだ」
「そうだ、思い出した。たしかにお前はそう言った」
「するとお前は、裁判官になりたがる奴なんて人間の屑《くず》だと言った」
「俺が……」
「言った。俺はその言葉が忘れられなかった。人を裁きたがる人間なんて、人間の屑だ。お前は裁判官になって他人に死刑を言い渡したがっているんだと。お前のその言葉で、俺がいったい何年間思い迷ったと思う。俺のおやじは判事だった。そして俺も法を守るために働こうと思っていた。世の中に、お前みたいな考え方をする奴がいようとは思わなかったんだ。だからあれを言われた時、ショックだった。そして、法科を出てからもずっとお前の言葉にとらわれていた。俺は本当に他人に権限を行使することだけが望みなのではないか、とな。裁判官として実地にそういう仕事をしはじめても、まだお前のあの時の声が耳に残っていた」
「そして今、俺に仕返しをしたというわけか。無実の罪におとし入れて……」
「そんなことをするものか。この俺が犯人をでっちあげるわけがない。俺はやっとお前の言葉から解放されたんだ。長い間思い悩んだが、結局俺は正義に仕えるということに自信を持てるようになったのさ。だからお前に会って見たくなったんだ」
「その会い方がこれか」
「俺が不正義に立てば、このままお前を獄舎へ送り込むこともできる。これは完全無欠な罠だ。俺が注意深く組立てたんだからな。しかし、俺はお前を獄舎へなど送りはしない。旧友に挨拶しただけだ。俺は今までもこれからも、正義の味方だ。裁判官として、断じて不正とたたかう。法を守り抜く。どうだ、これだけの仕掛けをしても、お前をどうこうしないことで判ってもらえるだろうな」
彼はにこやかに頷いた。
「判ったよ。君は立派な裁判官だ。それに出世もした。しがないサラリーマンとしては羨《うらや》ましい気もするが、昔の仲間から君のような人が出たのが誇らしくもある」
「そうか、そう思ってくれるか」
同級生はうれしそうに笑った。
そしてその夜、高校時代の友人が二人、長いことその町のバーで楽しげに飲みかつ語っていた。
だが、一人になった時、彼は何やらうそ寒そうにつぶやいていた。
「ああでも言わなきゃ、あのまんまブチ込まれかねないからな。裁判なんて、結局俺たちのための法律でやられるんじゃないんだから……」
彼のつぶやきも無理はなかろう。帰りに夕刊をひろげてごらんなさい。そんな匂《にお》いのする記事が毎日のように載っているじゃないですか。
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幻視人
「玉恵のことがとうとうバレたんですか……。もう随分になりますから、いずれはこうなると思っていました。いえ、何も社長に隠そうなんて気はないんです。それは本当です。でも、あの女と、ちゃんとした結婚はできないでしょう。できないんです。ちゃんと結婚できる相手だったら、とっくに社長に仲人《なこうど》をお願いしていますよ。
「年ですか……。一応今年で二十八か九、ってところでしょうか。あいまいだ……そう言われても仕方ないですが、僕《ぼく》にもはっきりしないんです。一緒に暮らすようになったのは九年前からです。それははっきりしています。僕が三十二の時からですからね。それが去年四十を過ぎて、今四十一。もう九年も一緒にいるわけです。
「申しわけありません。その間に、社長にも二度結婚をすすめられましたね。一度は断わり切れなくて見合までしてしまいました。でも、社長だけじゃないんです。親類の者からも、友人たちからも、いつまで独りでいるんだ、早く結婚したまえと、やいのやいの言われ通しでした。編集長になってからはなおさらで、それこそ毎日のように言われていますよ。でも、玉恵がいますから……。
「なぜ正式に結婚しないか、って言われても本当に困るんです。とにかく僕は今のままでいいんです。今さら玉恵を抛《ほう》り出して、別の女と結婚するなんて、そんなこと出来はしませんしね。ええ、おふくろともうまく行っています。と言うより、おふくろが理解してくれているんです。母一人、子一人の家ですから、どんないい嫁さんをもらっても、おふくろとうまく行かなければ何にもなりません。その点玉恵なら大丈夫なんです。あれでうちのおふくろも仲々むずかしい人ですから、普通の女じゃつとまらないんですよ。
「いや、普通の女ですよ。ただ、よく出来た女だと言う意味で言ったまでですよ、ええ、それは幾らかは……器量も悪くはないし、スタイルだってまあまあです。自分で言うのは気が引けますが、僕のような男には、ちょっとあれ以上の女を持つことはむずかしいでしょうね。理想の女、って言ったら、まあ理想の女みたいなもんです。……でも、社長も相変らずピッチが早いですね。僕が水割りで飲むのと、社長がオン・ザ・ロックで飲むのと同じスピードなんだから……。
「九年間も隠し通しただなんて、人聞きの悪いこと言わないでくださいよ。隠す気はなかったけれど、人に触れてまわるようなことでもなかったですからね。なれそめ、ですか……困ったな。それを訊《き》かれると困るんですよ。とにかく、玉恵のほうからわが家へ入り込んでしまったんです。……冗談じゃない、僕が惚《ほ》れられただなんて。今言ったでしょう、自然にそうなっただけだって。
「社長、ちょっとくどいですよ。正式に結婚する気はないって言ったでしょう。そりゃ、社長が仲人をしてくれて、世間なみに披露《ひろう》パーティーでもできれば、みんなも納得してくれるでしょうけど、事情が事情だからそうも行かないんですよ。……だったら別れちゃえって、そんな乱暴な。酔っちゃったんだなあ、社長は。
「そう言われたって、事情が事情なんだからダメなんですよ。玉恵だってそれはちゃんと納得してるんですから。……ええ、年はひとまわり以上違いますよ。でも、僕が玉恵を欺《だま》してるなんて、そんなことはあり得ないことです。ほかに女もいません。そりゃ、仕事だからうちの雑誌に書いてくれる作家と銀座《ぎんざ》なんかもよく飲み歩きますからね。噂《うわさ》の一つや二つ立ったっておかしくないでしょう。世間じゃ四十過ぎても独身でいると思われてるんですから。でも噂だけです。僕にはちゃんと玉恵がいますよ。仮りにそういうことがあったとしても、ただの浮気ですよ。その程度のことなら、みんなやってるでしょう。社長だって……知ってますよ、ちゃんと。
「どうしても言わなきゃいけませんか。……それなら思い切って言ってしまいましょう。なぜ正式の結婚ができないかと言うとですね、玉恵には籍がないんです。戸籍が……。
「それでいいじゃないですか。戸籍がない女と正式に結婚できますか。理由はそれで充分でしょう。とにかく、玉恵は戸籍がないんです。この世の中に存在しないことになっているんです。……なぜ、って、それも言わなきゃ承知できないんですか。嫌《いや》ですね。僕は言いたくありませんよ。
「ええ、社長にはお世話になっています。社長が本気で僕のことを案じてくれているのはよく判っているんです。でも、玉恵のことに関しては言い辛《づら》いんですよ。……僕もオン・ザ・ロックにします。
「言ってしまったほうが気が楽かも知れませんね。でも、それならもう一、二杯引っかけないと……。
「玉恵はね、或る日突然わが家へやって来たんじゃないんです。かなり長い時間をかけて、徐々に現われた女なんですよ。勿論《もちろん》、おふくろだって、最初のうちはそんな女のいることなんか気付きはしなかったんです。考えて見れば長い付合いですよ。いつが最初かははっきりしませんが、とにかく二十二か三頃からの付合いなんです。その頃から、玉恵は僕の女だったんです。
「年が合わない……。あ、そうか。今僕が四十一、で玉恵が二十八か九。十三違うとして、僕が二十二の時にはまだ九歳。そういうことになってしまいますね。でも違うんです。当時玉恵は十九かはたちくらいでした。勘定が合わない……当然ですよ。だって、玉恵は僕がこしらえたんだから。
「僕ももう四十過ぎたし、今夜はおかげで酔わされちゃったから、ひと思いに喋《しやべ》っちゃいましょう。社長、若い頃のことを思い出してくださいよ。独身の頃のことをね。金はない、力はない、あり余ってるのは若さだけ。僕なんかは赤線がなくなったとたんの世代ですからね。二十二、三の頃には自由に金で女を買う場所もなくなってました。今は若い女の子も随分物判りがよくなって……ピルなんてのもありますしね。でも当時はセックスに関してはまだまだ世間がさばけてなくて、だから僕みたいな男は、精力があり余れば自分で処理するよりほかに方法はなかったんです。今だって若い奴《やつ》らはみんなやってるでしょうし、社長だって憶えがないとは言わせませんよ。
「そうなんですよ。でも、最初の頃のあれは、自分で慰めるなんてもんじゃなかった。慰めるなんて生易しいもんじゃないんです。仕様がないから排泄《はいせつ》するんですよ。それだけのことです。むしろそうするのが自然でいいことだったんじゃないかなあ。だって、あんな爆弾みたいなものを溜《た》め込んで無理やりおさえつけてたら、変質者みたいになるか、それとも妙に片意地なガリガリ亡者になるかのどっちかでしょう。弁解するわけじゃないけど、僕はそれが自然だったと思っています。でも、夢中でやっている時期を過ぎると、それなりに心得て来て、何かそれらしいことを頭に描きながら行為をたのしむゆとりが出て来るんです。僕もはじめはいろんなことを想像しながらやりましたよ。雑誌に載ってるヌード写真を見ながらとかね。……それが今じゃ自分で作って世の中へ送り出してるんだから、人生って面白いですよ。
「とにかく、そんなことをしている内に、いつも同じ女を思い描くようになったんです。理想像って奴ですかね。その女は僕の頭の中で、思い通りのポーズをとってくれましたし、して欲しいと思う通りのことをしてくれていました。顔もだんだんはっきりきまって来ますし、体つきや、しまいには声なんかもきちんときまりました。そうなるとおかしなもので、あの行為以外の時にも思い描くようになるんです。一人で自分の部屋にいる時、いつの間にかそばにいて何かと話しかけたりしますし、道を歩いているような時でも、僕が思い付きさえすれば肩を並べて歩いてくれるんです。
「僕は生まれつき幾分空想癖があったんでしょうね。それに、案外これで集中力があるというか……とにかく僕は自分が理想の女として頭の中で描きはじめた女の像を、ひたすら完成させようとしていたんです。利口で優しくて、どこか稚《おさ》なくて。詩人で夜は好色で、おふくろには従順で、僕に惚れ切っていて……勝手なもんですが、空想の世界のことですからどんなことだって勝手なはずです。
「二十二、三からそれがはじまって、以来ずっと僕は一人だけを思い描き続けました。いつの間にか、夜なんかはその女と声を出して喋るようになっていたようです。……お前、まだ若いのに大きな声でひとりごとを言うんだね、っておふくろに注意されたことが何度もあります。でも、それはひょっとすると、ひとりごとじゃなかったのかも知れません。おふくろの目には触れなくても、ちゃんと僕のそばに、本当に寄り添っていたらしいんです。
「玉恵。その名前も、最初の頃に僕が付けた名なんです。そして僕が三十二の時です。あれは春の生暖かい晩でした。いつものように僕は玉恵を抱いて寝ていたんです。僕は浴衣《ゆかた》を着せて寝かせるのが好きで、玉恵は蒲団《ふとん》の中で浴衣をしどけなく乱れさせていましたっけ。すると突然おふくろが何かの用事で僕の部屋へやって来て、さっと襖《ふすま》をあけたんです。僕はとぼけて、何だい母さん……と首をもちあげました。その時のおふくろの顔……忘れられませんね。呆気《あつけ》に取られたように口をあけて、顔がみるみる赤くなって行くんです。そして急に襖を音を立ててしめると、そのまま廊下から言うんですよ。……その人、誰《だれ》なの、って。
「いつの間にか玉恵は実在してしまっていたんです。それは多分、僕が念入りに、克明に一人の女の像ばかりを思い描き続けたからなんでしょう。それに、あの時ちょっとでも僕がおふくろの近付く気配に気が付いていれば、僕の空想はそこで弱まるか中断するかして、玉恵がおふくろの目に触れることはなかったのかも知れません。でも僕は不意討をくらったんです。玉恵は消えそこなってしまったんです。
「何千回、いや何万回も、一人の女の像を空想の世界に出現させていましたからね。玉恵はだんだん実像に近付き、その晩とうとう実体を持ってしまったんです。襖の外におふくろが立っている時、玉恵は蒲団の中へもぐり込んで、僕の手をしっかりと握りしめていました。
「ええ、仕方がないからおふくろを茶の間へ行かせ、身づくろいをしてから二人でおふくろの前へ坐《すわ》ったんです。
「そりゃ、はじめは信用しませんでしたよ。誰だって信用するもんですか。でも、だんだん判《わか》ってくれました。翌日僕は家へ玉恵を置いて出勤し、社から何度も家へ電話をしてみました。……消えないんです。いるんですよ、これが。帰ると迎えに出て、おかえりなさい、って。
「おふくろだって仕方ありませんよ。渋々家へ置いてましたが、何しろ僕はおふくろともうまくやって行ける女、というように考えてましたからね。そのうちおふくろも気に入りはじめて……それ以来ずっと玉恵はわが家に居ついているんです。
「あれはいい女です。僕には過ぎた女房と言えるかも知れません。その晩以来、なま身の女としてちゃんと年も取りますしね。だから今は二十八か九……。
「そういうわけで、正式な結婚はできないんです。判ってくれるでしょう、社長。……子供|欺《だま》し。そう思うのならどうぞご勝手に。とにかく僕には玉恵という女がいますからね。どんなお話を持って来られても、こと結婚に関する限り、ウンとは言えないんです。あいつを棄《す》てたりできるもんですか。そんなことは不可能です。あいつは僕なしじゃ存在できないんですからね。多分、僕が死んだらあいつも消えてなくなるでしょう。
「社長が今のことを信ずる信じないはとにかく、僕は必要なことは全部喋りましたよ。そろそろ帰らなくちゃ。籍が入っていないにしろ、女房は女房です。……じゃあお先に。女房が待ってますから」
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衝動買い
世間でよく衝動買いなんてことを言う。発作的に大した理由もなく何かを買ってしまうことをさす言葉なんだけど、なぜか衝動買いと言い、決して発作買いとは言わない。
おおむね悪い意味に使われるんだが、悪いと言ったって大して根の深い悪さではないようだ。あとでしまったと思い、なぜあのときこんな物を買う気になったんだろうと首をひねるのが関の山で、実害としてはそのあとで少しばかり節約を余儀なくされる程度のことだろう。
私の知っている女性で、ついこのあいだ昼間のテレビを見て、実にくだらない衝動買いをしてしまったのがいる。
自分の部屋より大きな敷物を買ってしまったのだ。
「もうすぐまた夏がやって来ますが、夏はお部屋にこういうのを敷いて、見た目にも涼しげに過したいものですね」
テレビ・ショッピング・コーナーというそのプログラムの司会者が言うのに釣《つ》られ、六畳間用一万何千円とか二万何千円とか言うのを、すぐ電話で申込んでしまったそうなのだ。
「この商品は二十しかありませんので、お申込み先着順二十名様に限ります。本日のお申込み優先権は、電話番号末尾6のかた……」
たまたま彼女の番号が末尾6だったものだから、それっとばかりにすぐ電話をしたというのだ。
「ところがさあ、届いた品物を喜び勇んでひろげて見たら、お部屋へ入り切らないのよ。あたしって、ダメねえ……」
と彼女はため息をつくのだ。
たしかに敷物は六畳用で、彼女のいる部屋も六畳なのだが、くやしいことに安アパートの六畳だからひどく寸づまりで、一方テレビで買わされたのは本式の六畳用。
「大は小を兼ねるって言うだろう。多少大きくたっていいじゃないか」
私がそう言うと、彼女はますますしょげ返る。
「それがねえ、細い竹を並べて編んだ奴なのよ。ひろげると板みたいに突っぱらがっちゃってどうしようもないの。端っこを少し切り落せばいいんだけど、そんなの面倒臭いし、第一バラバラになりかねないでしょう」
そういうわけで、配達して来たときのように丸く巻いてしまおうとしたのだが、そうやるとひとかかえもある太さになるばかりか、天井につかえたり壁を傷つけたりで大騒ぎ。
「で、どうした」
「勿体《もつたい》ないけど大家さんにあげちゃった」
「衝動買いするからだ」
私はそう言って笑ったが、その実私だってちょいちょい衝動買いをやっている。
以前は靴《くつ》だのシャツだのネクタイだのが多かった。それがパイプやライターにかわり、ひと頃は辞典や古本にもなったが、今は主として玩具《がんぐ》である。
おとなのおもちゃではない。こどものおもちゃだ。どっちにしても、こどものおもちゃと特に断わるとなんとなくいやらしい感じがするから妙だ。小学生用電動こけし、なんて感じだ。
で、玩具と書くことにする。
子供が生れてもう四歳と何ヵ月かになる。夕方の茶の間は大騒ぎだ。
「あれ買って。ねえ、あれ買って……」
と、テレビ漫画の合い間のコマーシャルが出るたびに、倅《せがれ》は目の色を変えて喚《わめ》く。
「あ、こっちのがいい。ねえ、これ買って」
ブラウン管を指さして黄色い声のあげっぱなし。その手に乗るもんかと、次のコマーシャルのとき、先手を打って年甲斐《としがい》もなくおやじのほうが大声を張りあげ、倅に向かってブラウン管を指さし、
「ねえ、これ買ってえ……」
と言うと、倅めまんまと引っかかって、
「だめ。この次ね」
と、いつもおやじが言う通りのことを、もっともらしい顔で言ったりするから可愛くて困る。
それで、所用で外出した折りなど、ふとデパートへ立ち寄るとつい足は玩具売場へ向かっていて、
「このヘリコプターは、ローターが強くまわりすぎやしないかね」
と電池で動く奴をとりあげて店員に聞いたりしている。
「決して危くはございません。子供の指でもすぐに回転がとまるようにできていますから」
「じゃ、それをくれ」
と、三千いくらか四千いくらを弾《はず》んでしまう。家へ持って帰って倅を呼び、
「あけてごらん」
とニヤニヤしていると、
「また高い物を買って来たんでしょう」
と女房どのの嫌な顔。
「わあ、ヘリコプターだ」
それでもわが子のうれしがるさまを見て満足していると、三十分もしないうちにとなりの部屋でバッタン、バッタンと変な音がする。不安になってのぞいて見ると、大枚をかけたヘリコプターがローターを一本へし折られ、
「お父ちゃん、ほら、独楽《こま》みたいだろ」
と逆立ちさせられている。これならおとなのおもちゃを買ったほうが余程よかったと思ってみてももう遅い。翌る朝にはもうヘリコプターは見すてられ、一台二百円かそこらの、半分こわれたミニカーで倅めは至極ご機嫌《きげん》に遊んでいる。
「親子二代の貧乏性か」
とつぶやきながらトボトボと家を出て仕事場へ行き、また下らない買物のためにせっせと原稿を書く毎日なのだ。
外出していて一番禁物なのが、空腹のときデパートの地下へ入ること。何でもかんでも食ってみたくなって、薩摩揚《さつまあ》げを買いの、鱈子《たらこ》を買いの、すっぽんのスープの罐詰《かんづめ》に昔懐かしい大学芋《だいがくいも》まで買って、そうだ家へ帰ったら冷たいマーティニを一杯引っかけてやろうかと、オリーブの瓶詰《びんづめ》を買ったところで急に飲みたくなり、家までの我慢ができなくて居酒屋みたいなところへ飛び込んで、鯵《あじ》のたたきで何本か空けるうちに腹の減ったのはどこかへけしとんでしまい、出るとあたりは暗くなっていて、そのまま馴染《なじみ》の店を梯子《はしご》してまわる。午前さまでご帰宅あそばしたときには、デパートの地下の食品売場から持って出た紙袋など、どこへ置いたか記憶もさだかでない有様となる。
ひょっとすると、衝動買いの最たるものは酒ではないだろうか。会社勤めをしていた頃は、退社間際に近くのそば屋で無理にもカツ丼《どん》を一丁詰め込んで、満腹のため今夕飲酒お断わりの状態にしてようやく家へ直行したりもしたものだ。
一日がいそがしかった日ほど、まっすぐ家には帰れなかった。ことに春先の宵《よい》など、一歩会社の外へ出れば生暖い風は吹くし、町のネオンは濡《ぬ》れたように見えるし、
「寄るか……」
てなもんで、一軒が二軒、二軒が四軒。蝦蟇《がま》の油売りじゃないけれど、揚句の果ては落花の舞い。翌日は二日酔で尻《しり》の穴から小便が出るほど前夜の酒と水を溜め、おまけに勘定も溜めて月末は我身の愚かさをうらむばかりだった。
今でも同じことをしている。一軒が二軒、二軒が四軒……。ビルの一階のバーから出て同じビルの階段を登って二階のバーへこんばんは。これがほんとの梯子酒《はしござけ》って言う奴。新宿《しんじゆく》のゴールデン街なんてところへ行ったら、元旦《がんたん》の朝の郵便配達みたいになっちまう。ドアからドアへ軒なみで、そうなればもう一軒だって手が抜けない職人かたぎ。畜生、煙草屋の通りからはじめて一番奥の通りから出て、オトリ様の境内を突っ切って要通《かなめどお》りのほうまで行ってやる……まるで大陸横断でもするような決意を堅めちまう。
でも、そんなときは酒ばっかりで、あまり衝動買いなんてしないものだ。ゴールデン街の入口の八百屋《やおや》の、十二指腸を患《わずら》って、痩《や》せちゃったのが昔馴染で、彼の店に栗とかサクランボが並んでる季節なら、ひょいと買って〈まえだ〉のお土産《みやげ》にもしちまうんだけど、そうでもなければ何も買いはしない。
ところがゆうべのことだ。ゴールデン街軒なみをやって、恒例によりオトリ様の境内を突っ切ろうとすると、うす暗いとこにパーッと灯《あか》りがついていて、何やら屋台が出ている様子。
へえ、珍しいな、と声に出してつぶやいて、ひょろひょろとそのほうへ行って見ると、痩せこけて貧相な爺《じい》さんが、
「インク、買わないかい」
と言う。
「何だ、インクか」
「いいインクだよ」
「パイロット……セーラー……」
「いや」
「パーカー……」
「いや」
「ペリカン……」
「いや」
「モンブラン……」
「そんな普通のじゃない」
「へえ、特別なのかい」
「そう、特別なの」
「いくら」
「ひと瓶《びん》千円ポッキリ」
「面白え。高くて面白え。買った」
ポケットからさっきの店のお釣りの千円札を一枚出してひと瓶買い、ポケットへ突っ込んで最終目的地の要通りへ。
〈ドム〉で飲んで〈壺《つぼ》〉で飲んで〈欅《けやき》〉で飲んで〈馬酔木《あしび》〉でゲロ吐いてママに叱《しか》られて、タクシーで仕事場へ辿《たど》りついたのが午前三時。なぜ仕事場へ帰ったかと言えば、答はかんたん家へ帰りにくかったから。
で、今朝の八時に目がさめた。どうして深酒した翌日はこう早くに目がさめるんだろう。起きるとすぐ、かねて買い置きの二日酔用のドリンク剤を飲み、オレンジ・ジュースを飲み、牛乳を飲み、それでもしゃっきりしないので罐入《かんい》りのそばつゆをお湯で薄めて飲み、顔を洗って歯を磨いて、なんとか酔いを醒《さ》まして原稿にとりかかろうと努力した。
で、ひょいと机の上を見ると、見憶えのないインク瓶がひとつ置いてある。
「そうか、ゆうべ買ったんだな」
ひと瓶千円は高すぎると、今頃になってくやしがり、それでもなんとか気を取り直して椅子《いす》に坐ったが、とても原稿など書けたもんじゃない。
書けぬまま机の上をあれこれいじりまわし、ふと気が付いてゆうべのインク瓶の蓋《ふた》をあけ、どんなしろ物を掴《つか》まされたかと思いながら、もう使わなくなった古ペンをひたして、原稿用紙に一字いたずら書きをして見て驚いた。酔いが一瞬の間に晴れて、すらすらっと書けるのだ。あの暗がりにいた爺さんが特別なインクだと言ったのは、もしやこのことではなかったかと拾い物をしたように思ったのもつかの間、書いたものを読み返すと、なんとこれが一分の隙《すき》もない立派な文章で、おまけに遺書。
何でこんなものを書いたんだろうと破り棄て、また書くとまた遺書。縁起でもない、と少し気味悪くなり、また破いて気を落ちつけまた書くとまた遺書になる。何度書き直してもそのインクでは遺書しか書けないのだ。
ならば書かなければよさそうなのだが、前のを破り棄てるとどうしてもまた書いてみたくなる。とうとう根まけして最後の遺書は破らずに置き、インクとペンをいつものに変えて、締切りの迫ったこの原稿を書いたというわけなのだ。で、こうして書きおえてみると、なぜか生きているのがばかばかしくて仕様がない。この先いつまで小説書いて暮すのか。いったい小説なんて何になろう。家の者にしたって、俺が小説書いて稼《かせ》いだ金を待ってるだけのことで、ほかに何のつながりもありはしない。書くことも飲むことも、もうすっかりくたびれた。折角いい遺書も書いたことだし、この辺で世の中におさらばしたっていいじゃないか。
それにしても、酔っ払ったときおかしな物を衝動買いするもんじゃありませんよ。
さよなら
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黙って坐れば
「そこへお坐りください。なるべく私の真正面に……はい、そこで結構です。ずいぶんお悩みのようですね。いえ、今のは世間なみのことです。ずいぶんお窶《やつ》れになっていらっしゃるようにお見受けしたものですから。
「ひと目見て大きな悩みごとがあると当てたなんて、あなた、それはご自分でもう暗示にかかっていらっしゃるのですよ。だってそうでしょう。私は易相《えきそう》学の看板をあげて、ここにこうしているのです。易相のご説明はあとにするとしまして、そういう私の所へありありと顔に窶れをお表わしになった方が入っていらっしゃれば、これはもう大きな悩みごとをかかえ、迷っていらっしゃる方だと言うことはすぐ判りますよ。ええ、他愛もないことです。商売本位の易者でしたら、あなたがそんな風におっしゃれば、待っていましたとばかりに、あなたのそういう感じ方につけ入って、いろいろなことを喋りはじめるはずです。迷って、ご自分ではもう判断がつけにくい。そういうのが、一番のカモと言うわけです。
「ひょっとしたら、あなたは今までにもあちこちの易者に運勢を見てもらったりなさったのではありませんか……。そうでしょうね、やはり。で、いかがでした。どの人もたいてい似たようなことを言ったはずですよ。ひんぱんに見てもらえばもらうほど、易者が言うことはだいたいみな同じだということが判るはずです。
「それは当然ですよ。大道の易者だって、それ程いい加減にやってるわけではないのです。易とか占いとか言いましても、これでなかなか種類が多いのです。そうですね、ざっと五十くらいでしょうか……おなじみの手相、人相、家相、それに姓名判断、九星術、天文術、四柱推命学、そのほかに墨色判断とか、いろいろあります。でも、そういうものの根源を辿《たど》って行くと、みな似たような原理に基《もとづ》いていることが判るのです。大ざっぱな言いかたをすれば、みんな同じ学校で勉強して来たようなものですからね。ところが、面白いのは手相や人相にしろ、易にしろ、見る側の人がいる位置によって少しずつ表現法が変化するのです。人通りの多い、いかにも立地条件のいい場所にいる人に見てもらったことがおありでしょう。そういう人はだいたい言うことがテキパキしていて、短い間に結論を言ってくれます。それに余り悪いことは言いませんね。それはつまり、営業的に考えているからなのです。必要なことを素早く並べたて、なるべく早く相手を納得させると、さっと結論を出して相手の質問の余地をなくそうとするわけです。嫌なことを言えばつい時間が長引きますからね。その間に次のお客が通りすぎて行ってしまうかも知れないでしょう。でも、でたらめを言っているわけではありません。ちゃんと勉強した通りにやっているのですが、やはり通りいっぺんと言う感じはありますね。
「そうでしょう……。で、それよりもうちょっと暗くて、余り人通りの多くない場所にいる易者さんは、明るい所の人のように立板に水ではありません。ちょっとブスッとした感じで、少し勿体《もつたい》をつけるように見えます。でも、相手を自分のペースにまき込むと、少しずつ能弁になり、やはり立板に水式の状態になりますけれど、少しはお客さんにとって良くないことも言います。人間、いいことずくめであるわけがないんですからね。ちゃんと悪いことも出ているわけで、それを言ってくれるのです。人通りも大して多くないし、うす暗いし、そういう所の人は机か椅子を持って来ていますから、少しは質問があって見る時間が長くなってもかまわないわけです。
「で、その次は建物の中にいて看板だけを出してお客を待っている人たちです。こういう人はすでに一部の人々に名を知られ、かなり実力があるとされています。そういう所へ行きますと、手相や人相のほかに、姓名判断の技術やら、筮竹《ぜいちく》を用いたいわゆる易占い、場合によっては文字を書かせてその筆勢などから性格や運勢を考えたり、いろいろ複合したかたちでやってくれるのです。こういう所では悪いこと、嫌なことをズバズバ言われます。お客は履物を脱いであがって来ていますからね。先に嫌な部分を並べても、逃げられるおそれはないわけです。そうしておいて、おもむろにあなたの性格上の長所とか、悪いことが起らぬようにする方法とかを教えてくれるのです。将来に危険が待っていて、それを指摘されるのですから、お客はついその先生を頼る心理になります。そして後日それがズバリ当たったとすると、嫌なことを避けられた人も、避けられなかった人も、同じようにその先生を信頼し、また見てもらいに行くようになるのです。
「結局、商売と言ってしまえばそうなります。でも、みんなインチキをやっているわけではないのです。だから、今言ったことをよく頭に入れていただければ、どんな状態の時は、どういう場所にいる人に見てもらえばいいか、自然に判るはずです。たとえば、ほんの遊びのつもりなら、なるべく明るく人通りの多い場所にいる人に見てもらうほうがいいでしょう。悪いことは言わないのですからね。でも、この頃どうもツイていない……麻雀は敗《ま》けてばかりだし、上役にも睨《にら》まれるようなことをしてしまう……などと言うときは、うす暗く人通りの少い場所にいる人の前の椅子に坐って、少しじっくり聞いて見るのです。何月ごろまでは万事自重したほうがいいとか、こういう年輩の人には注意しろとか、いろいろ教えてくれるはずです。
「でも、遊びだったり、そう大したことでもないのに、建物の中へ引っ込んでいる、いわゆる名人|上手《じようず》と言ったような人に見てもらうのは余りおすすめできませんね。万事大げさになってしまいます。誰しも持っている将来のかげりを、強く指摘されるわけですからね。気になってしまいます。自重しすぎて、かえってかげりを大きくしてしまうことだってあるのです。
「実はこの易相学と言うのは、そういうことを取扱うのですよ。私も当然観相や易断をいたしますけれど、それよりも各種の占いについて助言をさせていただくのが本筋の仕事なのです。だから、遊びの時は明るい場所の人に見てもらいなさい、などということも言うわけです。でも、それはほんの初歩的なことでして、あなたのようにあちこちで見てもらった揚句、かえって判らなくなってしまったとか、運勢を見てもらった結果の対策をどうするかと言う場合にお役に立つのです。
「ではちょっと拝見……
「お名前と生年月日をこの紙に……
「ご主人のお名前も……
「はいそれで結構……
「ご主人に浮気をされましたね。今までずいぶんあちこちでお聞きになったでしょうから、相性とか卦《け》のこととかのご説明は省きます。問題はこの場合、あなたの性格です。あなたは比較的素直な性格ですから、今まで易者たちに注意されたことを信じて、当分の間なるべくご主人に強く出ないようにとか、相手の女性に表立った抗議をするとかえってご主人が離れて行ってしまうとか、そういうように言われたことをよく守っていらっしゃったわけです。……そうでしょう。そうして耐え忍んでいるうちに、急に悩みの種が自分のほうから遠ざかり、あなたはご主人の浮気について苦しまなくてもいいことになる……どの人もそう結論を出してくれたのでしょう。その通りなのですよ。
「あなたは専門家たちの言うことを信じ、その通りにやって来た……。でも耐え忍ぶのは苦しいから、もうそろそろ運勢が好転しはじめはしないか、とか、人が違えば全然別なことを言うのではないか、とか、いろいろ思い悩んで、それこそしょっ中運勢をあちこちで見てもらっていたのですね。
「ここでひとつよく考えて見てください。あなたの将来に対する予言はみな当たっていました。十人が十人とも同じことを言うのですからね。あなたの運勢は非常にはっきりと出ていたわけですよ。そこで私の易相学が必要になるわけですが、あなたに関するすべての予言が正しく、あなたがその対応策をきちんと採っていらっしゃったということは、新しい人に見てもらうたび、あなたの未来はあなたに向かって、その分だけ近づいていたということです。なぜと言って、あなたはご自分の未来を正確に知って……つまり悩みの種が自分のほうから解消してしまうということを予知して、必ずそうなるような態度を採り続けていたわけなのです。それがどういうことを意味するとお思いですか……。介入ですよ。ご自分の未来に対する介入なのです。ご自分の未来へご自分が手をかけ、手もとへ引き寄せ続けていたことになるのです。いろいろな人が同じことを言ったというのは、あなたが正しい態度で未来を引き寄せ続けていらっしゃったからなのです。そして、全くの他人があなたの未来を見たと言うことは、遠い未来ならばあいまいで主観的でしかないものが、より確実な、客観的な事柄に変化して来たということです。易相学とはこういうことです。易は多少未来に介入する性質を持っています。第一と第二の二人の人に見てもらって、どちらが正しいかと言うことになれば、これは第二の人のほうにきまっています。第一の人が見た未来は、第二の人がまた未来を見るという要素が抜けているのですからね。私たち易相学を学んだ者は、その未来に介入する度合や、介入の重なり具合などを考え、万一未来が思わしくない方向へ変化していたら、次にはどの方角にいる、どんなタイプの人に、どういう未来を予測してもらったらいいかということを教えてさしあげるのですよ。
「ええ、そうです。ですから、運が良いほうへ向かっているときなどは、あまりしばしば見てもらわないほうがいいですね。へたをすると今のあなたの逆で、折角の好運が悪いほうへ変化してしまうことになりかねません。未来と言うのは大変に変わりやすいもので、ちらっと見ただけでも変化してしまうのですから。たとえば競馬で、あなたが明日のこれこれのレースで、この数字の組合せの馬券に十万円の配当がつくということを知ったとしましょう。あなたが黙って誰《だれ》にも言わず、ご自分もお買いにならなければその通りの結果が得られますが、百円が十万円になると知ったらそうはしていられませんね。あり金|叩《はた》いてその馬券を買った上に、これはと思う人にも教えてしまうでしょう。そうすれば当然配当は減ってしまいます。減るだけならいいのですが、ひょっとしたら別の馬が勝つような未来に変わってしまうかも知れません。つまりそれと同じことで、易者に同じことばかり見てもらっていると、未来がとんでもない形に変化してしまうのです。
「さて、それではあなたがこの先、未来を見てもらっていい人はどこにいるか、調べてさしあげましょう。
「ええと……。おや……あらいやだわ。これは私ですわ。偶然ですわねえ。あなたの悩みをもっと早く解消してさしあげられるのは、この私だそうですよ。
「では、易相学による答どおりに私が今一度、あなたの運勢を占ってさしあげましょう……。まずこの筮竹を……。
「何でしょう今の音。きっと事故だわ。車の事故よ。ちょっと失礼……近頃はよく事故が起きますからねえ。私、多少|弥次馬《やじうま》なんですの。そう、この窓から外の通りが見えるんです。そうそう、その掛け金を外してください。
「あら、やっぱり事故だわ。まあ、道が血だらけ……。あの車があの人を轢《ひ》いたんですわね。気の毒に、あれじゃもう死んでしまっていますわ……。
「あら、どうなさったの……。え……あの血まみれで倒れているのがあなたのご主人……。まあ……。
「でも、やっぱり当たったじゃありませんか。あなたの悩みの種は、自分のほうから遠のいたのですよ。ご主人が死ねば、もうあなたはご主人の浮気で悩むことなんか……。
「ちょっと待って。あなた、どこへ……。あなた、待ちなさい。見料がまだですよ。あなた、料金を……」
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蒸 発
だいぶ以前のことになるが、彼は〈団地〉という言葉を聞くと、何か少しモダンなイメージを湧《わ》かせたものであった。その当時彼はまだ大学を出たばかりで、下町にある小さな木造のアパートに住んでおり、一日おきに銭湯へ通う生活をしていた。
そうした生活の中で聞く〈団地〉という言葉は、ほぼ四十五度の仰角の一点に位置を占めており、ごくわずかではあるが、心躍らせるものを彼に伝えて来るのであった。
だが、その心躍らせるものの大部分は、実際には〈団地〉から来るのではなく、〈結婚〉というイメージから来たものらしかった。当時の彼にはまだ恋人もいず、恋愛とか縁談とか言ったことも、なかなか起りそうもない状況であった。
サラリーマンの単調な生活に慣れるに従って、彼は自分の立場をかなり正確に把握《はあく》できるようになった。それは理性で掴《つか》むと言うよりは、なかば生理的に感得するような把握のしかたであったが、とにかく自分が会社から給料をもらっていることを、それほど当然のこととは思えなくなったのである。もちろん給料の額そのものは、暮して行くのにかつかつのもので、決して多すぎるとも適当であるとも思えなかったが、ふりかえってわが身をよく眺《なが》めると、それでも会社という組織に入ったからこそ受取れるのであって、毎日の仕事で給料分ほど会社に貢献しているという自信は、正直言ってほとんどなかった。
週のうち半分以上は、午前中ほとんど仕事らしい仕事をしていないと言ってよかった。一応デスクについていることはいるが、お茶を飲み煙草を吸い雑談をし、たまに仕事に精を出したとしても、その内容は高校生にでも楽にこなせるような単純な書類の処理にすぎなかった。昼休みは四十五分間だが、実際にはたっぷり一時間、前後の、弛緩《しかん》した時間を入れると一時間半はある計算であった。午後になって仕事はやっと本格化するが、それも厳密に言えば神経を仕事に集中させているのは実質二時間程度のことで、上司に言葉をかけられたり、部屋に人の出入りがあったりすると、つい散漫になってその二時間すら怪しくなってしまうのである。
しかも、そういう時間の浪費を、オフィス全体が黙認し合っているようなのだ。特にはめを外して大っぴらにやらぬ限り、時間の浪費をとがめる者は一人もいないようであった。だから、彼もしまいには、オフィスにいる時間に対して給料が支払われているというような堅苦しい考え方はしなくなり、給料とは宮仕えにともなうもろもろの不本意なことに対する慰藉《いしや》として支払われるものだ、というような、半分冗談のような考え方を本気でしてみたりするようになって行った。
彼自身は少しも自覚しなかったけれど、そういう生活が生み出す最もいちじるしい現象は、向上心の消失であった。
学生時代、いや、サラリーマンになった直後まで、彼は石の塀《へい》に囲まれた家に住んで朝晩高級車で送り迎えされる者と、満員の通勤電車に揉《も》まれて暮す者との差を、自分自身の将来のこととしてはっきり認識していたはずであった。正直に答えてもよい相手に問われれば、一生電車で通勤するような人間になどなりたくはないと、はっきり答えられたはずであった。
それがいつの間にかそうでなくなっているのだ。学生時代の明確な答を、今では認識の甘さとして嗤《わら》ってしまうのである。
「世の中、そう甘くはないよ」
多分彼が過去の自分自身に会ったとしたら、かなりの優越感を持ってそう答えるに違いない。だが、その優越感が敗北に直結し、彼の社会認識が自己否定につながってしまっていることには気付こうともしないのだ。
そして、まったく当然のことのように、毎日満員電車にみずからを押し込んで通勤している。そこには不快感もなく、別な次元へ脱出しようという発想もない。
もちろん、生活を少しでもよくしようという気持が全く消え去ったわけではない。ベース・アップやボーナスの数字に関しては、仲間と熱っぽい議論をかわすし、組合の集会にも欠かさず顔を出す。だが、組合活動で目立った存在になることは極力回避している。要するに大衆の一人であることが最も安全な生き方であって、たとえ小さな労組にせよ、衆から浮き上った存在になれば個の力をためされることになり、それについては自信もないし、またそんな立場に身を置くほど自分は愚かでもないと思っているのである。
とは言え、平々凡々の人生を望んでいるわけでもない。大勢の仲間と肩を組んで歩いている内に、その仲間全体の力でリーダーに推《お》され、大勢の仲間の堅い支持の中で自分が高くはばたくことを望むようになっているのだ。一人で暮すことの危険を悟り、一人でいる人間がいかに無力かを知り尽したような気分になっているのだ。
無論、それは安全この上ない生き方だろう。だが彼は、その代償として、満員の通勤電車に対して不感症になってしまっていたのである。
そういう安全な毎日の中で、彼は恋をした。相手からも愛し返され、さほど将来のあるとも思えぬ上司の一人に媒酌人《ばいしやくにん》となってもらい、何人かの身内の者と、学生時代からの友人と、会社の仲間たちを集めたパーティーをやって、めでたく夫婦になった。すまいも山の手寄りのアパートへ移って二年ほど過すと、長男の誕生に運よく間に合ったかたちで郊外の公団住宅に入居することができた。
それは〈団地〉であった。四角いコンクリートの箱を置き並べたような、ごくありふれた〈団地〉であった。
以前、四十五度の仰角の一点にあって、心躍らせるイメージを与えてくれた〈団地〉が、今や彼のすみかであった。通勤に二時間近くも要し、長男が生まれるとすぐ手狭になってしまったが、一戸建てのマイホームや、都心の広いマンションは、それこそ七十度以上の角度で仰ぎ見るしかなく、〈甘くない〉彼の現実認識では、そんなものをここ当分は本気で望むほうが愚かなことであった。
妻も子も、彼自身も、無数のコンクリートの箱を置き並べたようなその団地にしみついたような存在になって行った。彼らはその団地にまったくふさわしく似つかわしく、それ以下でも以上でもない存在であった。そしてそれなりに楽しみ、怒り、笑い、年をとって行った。彼の会社もごく無難に経営が続き、景気の波を世間なみに一喜一憂しつづけながら日がたって行った。
徐々にだが彼の地位もあがり、今では課長補佐という肩書がついた名刺を持ち歩いている。年ももう、四十に近かった。昔自分がそうされたように、今では月に何度か部下たちを誘って飲み歩いているし、得意先の連中とも飲むし、課長や部長たちとも飲むことが多い。妻や子はそうした彼にすっかり慣れていて、特に断わらなくても深夜の帰宅を怪しみもしない。
そんな日常の中で、或る夜彼はしたたかに酔ってしまった。多分それは彼の肉体年齢の、ひとつの曲がり角だったのであろう。三十代の精気が去り、四十代の体に移る前兆のようなことだったのかも知れない。
珍しく前後不覚に酔い、部下の一人に途中までタクシーで送られて、その団地でどうにかタクシーを降りることができたのは、ほとんど奇蹟のようなものであった。
だが、やはりいつもとは違い、同じ団地の中とは言え、とんでもない場所で降ろされてしまったようであった。ひと気のない暗い通りを、彼はよろめきながらわが家へ向かった。どれもこれも同じようなコンクリートの箱の間を、長い時間歩きまわって、やっとの思いでめあての階段口へ辿りつき、四階へ登ってスチール・ドアの横についたチャイムのボタンを押した。
いつものように耳なれた鎖の音が内側から聞こえ、睡《ねむ》そうな女の声が、
「おかえんなさい」
と言った。彼は酔いながらも習慣でなるべく大きな音をたてぬようにドアをしめ、手さぐりで錠をかけ、靴《くつ》を脱いだ。
「水……。水だ」
彼が言うと、妻はすでに夜具へもぐり込んでしまったらしく、
「自分でお飲みなさい」
と突慳貪《つつけんどん》に言った。
「ちぇっ」
妻は灯《あか》りもつけずにドアをあけ、そのまますぐ夜具に戻ってしまったので、彼は手さぐりでキッチンへ行き、手をのばすといつも通りの場所でコップに触れた。
それを取って蛇口《じやぐち》をひねり、水をついでひと息に飲んだ。
「随分酔ってるのね」
暗い中でそんな声がした。
「酔った。酔ったよ……」
自分に言い聞かせるようにつぶやき、彼はコップを置くと、よろよろと居間へ戻ってソファーへ倒れ込んだ。
それっきり睡ってしまったらしい。
「起きて。起きてよ、あなた」
そう体を揺すられたので目をあけると、居間はもう明るかった。
「駄目じゃないの、着たまんまで……」
妻がそう言った。
「ん……判った。脱ぐよ」
彼はまだ酔っていた。しらじらとした光が目に痛いようで、ろくに目をあけず夫婦の寝室になっている六畳の和室の暗がりへ逃げ込んだ。
彼は乱暴に服を脱ぎ、下着だけになると妻の体温で生あたたかい夜具の中へころげ込んでまた睡った。
「今日は遅くてもいいんですか」
ですか……と尻上《しりあが》りにとげのある声が耳に響いて、彼は目をあけ、横になったまま腕時計を見た。
「いけねえ、今日は会議があるんだ」
「ほら見なさい。さっきから起してあげてるのに」
「畜生……」
彼はつぶやき、はね起きた。脱ぎ散らしたはずの服が、ちゃんとハンガーにかけてあった。
「畜生、二日酔だ」
「じゃ、お味噌汁《みそしる》だけね」
「うん」
彼はズボンをはき、ベルトをしめようとしてワイシャツがないのに気付いた。
「おい、シャツを出せ」
「そこに出してあるでしょう」
「あ……」
足もとにクリーニングから戻って来た、四角ばった畳み方のワイシャツが置いてあった。
「熱いのは駄目だぞ」
ワイシャツを着ながら言うと、
「判ってます。もう冷めかけてるわ」
と、妻のからかうような声が返って来た。彼はネクタイを手早くしめ、上着を手に寝室を出た。
「靴下とハンカチ」
「そこに置いてあるわよ」
ふたつとも椅子の上に置いてあった。彼は床に片膝《かたひざ》をついて靴下をはき、新しいハンカチを上着のポケットへ入れると、椅子に坐って味噌汁の椀《わん》をとりあげた。味噌汁はたしかにもうぬるくなりかけていた。
ずるずると音をたててそれを啜《すす》り、そばの新聞にざっと目を走らせた。
「何かたのみがあるって言ってたわよ」
妻は彼に背を向け、流しで洗い物をしながら言った。
「誰が」
「恵子よ。きまってるじゃない」
その言い方があまりにも自然だったので、彼はつい、
「ふうん」
と答えた。答えてしまってから、眉《まゆ》を寄せて妻の背中をみつめた。どうやら恵子というのは娘の名らしかった。
愕然《がくぜん》とした。
その女は彼の妻ではないのだ。そう言えば味噌汁の椀もいつものではないし、置いてある箸《はし》も、灰皿《はいざら》も、湯呑《ゆの》みの柄も大きさも、いや、カーテンの色も柄も、テーブルも、椅子も……。そして彼の家に娘はいなかった。
彼の家ではなかった。
彼はそれに気付くと反射的に味噌汁の椀を置き、さっとドアのほうへ歩いた。
「あら、もういいの……」
女が彼の背中を見ているようであった。たしかに彼はその女の夫と間違えられているのだった。
彼は無言で靴をはき、錠を外してドアをあけると、
「行って来る」
と無意識にいつものように口の中でもごもごと言った。
「行ってらっしゃい」
まったく、彼の妻とそっくりの声であり、言い方であった。彼はドアをしめ、小走りに階段をおりた。
その棟《とう》から逃げるように遠ざかってから、彼の膝《ひざ》は急にガクガクとふるえはじめた。
「なんてことだ……」
彼は泣くようにつぶやいていた。
「なんてことなんだ」
彼は団地の中をあてもなく歩き続けた。行けども行けども、同じ形の建物の連続だった。
「なんてことなんだ」
彼は涙を流していた。
その朝限りで、彼の姿は会社からも、その団地からも消えた。職場へも妻子のもとへも、二度と戻らなかったのだ。
団地におすまいのあなた。家だけは間違えずにお戻りなさいよ……。
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黒の収集車
私は東京都に住んでいる。
だから毎年、所得税のほかに、特別区民税と都民税というのを納めている。税金は高いが、日本中どこにいても、国税と地方税を取られるのだから、特に苦情はない。
以前、友達で不動産業をやっているのがいて、その男がわりと安い土地の話を持ち込んで来た。まだ小学校へあがる前の子供はいるし、交通事故のことや空気の汚れていることを考えると、いっそのことそこを買って引っ越そうかと、真剣に考えたものだった。
だが思いとどまった。その土地が東京都の中ではなかったし、閑静でいいことはいいが、あまり便利な場所ではなかったからだ。
なんと言っても、人家の密集した、人口密度の高い場所のほうが、役所をはじめとする公共機関のサービスがいいと思ったからであった。
たとえば何かで停電したとしよう。都内の、うるさがたの住民がたくさんいる場所なら、どんなに長くても二、三時間もすればなおってしまうことだろう。
だが、人家が点々と散在する程度の場所で停電したらどうか。夜の九時ごろ消えて、遅くも十一時までには復旧してくれるだろうか。故障の程度によるだろうし場所にもよるだろう。何千戸という規模のものと何百戸という規模のものでも違いがあるだろう。
でも、都内のほうが復旧に要する時間は短いに違いない。他力本願で言うのではないが、公共機関の側からすれば、東京とそういう場所では、住民のうるささがけた違いのはずだ。
こんな例がある。
ガス会社の男が来てわが家のガス風呂《ぶろ》を点検し、もう寿命が来ているから器具を買いかえたほうがいいと忠告した。家内はガス中毒が発生しては大変だから、さっそくその係の男に教えてもらって、近くにあるガス会社の出張所から新しい器具を買ってつけかえた。ところが点火のしかたがよく判らない。そこで出張所に電話をかけて教えてもらおうとした。
すると応対に出た男の声が、呶鳴《どな》りつけるように答えたと言う。
「ここは風呂がま屋じゃねえや」
間違い電話ではないのだ。家内はくやしがってベソをかいた。そこでわたしはガス会社のもっと上のほうへ電話をして事情を話し、ひどいじゃないかと抗議した。するとすぐにさっきの出張所の所長と名乗る人から電話がかかって来て、鄭重《ていちよう》な詫《わ》びを言われた。臨時やといか何か、正式の所員ではない人で、たびたびそういうことがあるので困っているのだと言った。
東京以外の土地をばかにするわけではないが、これがよその土地だったら、果してそんなに早くわが一家の胸が晴れたかどうか、大いに疑問である。権利意識の高い人たちが多いから、そういうことになるとなかばうれしがって相手をとっちめてくれる人も少くないらしい。したがってサービス態勢も整うということだ。
ゴミの収集なども、役所の側にトラブルさえなければ、至ってキチンとしていて感心するほどである。何曜日と何曜日の何時ごろというように、ほぼスケジュールどおりに青く塗った収集車が来てくれるし、燃えないゴミ、粗大ゴミの収集についてもちゃんとルールがきまっており、収集してもらう側の手順も判り易いように知らせてくれてある。
いったんその機能が麻痺《まひ》したとなれば、それこそ収拾のつかないことになるが、そうなればなったでわが家だけではないし、町中にゴミが溢《あふ》れるが全戸同一条件下にあるのだから、気が楽である。
ところが、ひとつだけ首をかしげていることがある。区によって下水道の普及率が違うことだ。わが家は以前|江東《こうとう》区に住んでいたことがあって、それはもう十年以上も前だが、もうちゃんと水洗便所になっていた。うろ憶えだが、あのあたりの普及率は九十パーセントをこえたのではなかっただろうか。
それが世田谷《せたがや》のほうへ引越してみると、下水道の普及率はなんと零コンマの九とかいう数字になっていた。
いいですか。特別区民税はおんなじなのですぞ。いったいこれはどういうことなんですか。ホテルへ泊って、バス・トイレつきの部屋と、そうでない部屋と、同じ料金をとるところがあるでしょうか。サービスが全然違うじゃないか。それなのになぜ税金が同じなんだ。いや、住む料金が同じなんだ。こっちのほうがサービスが悪い。俺は損をしている。なんとかしてもらいたい。
と、まあそういうことになる。みんなが平等に扱われなければ、人間がひしめき合っている場所ではイライラしてとても住めたものではない。大邸宅のゴミも、わが家のような貧乏世帯のゴミも、同じ曜日の同じ時間に、同じ街角で同じ収集車に持って行ってもらわねば、腹が立っていまいましくって、やり切れなくなる。
道路にしたって、都民としてはちょっと腹立たしいことがある。俺たちの税金で整備されている道だ。なぜ千葉《ちば》や神奈川《かながわ》に住民税をあげている人の車が、朝になるとどっとその都内の道へ乗り込んで来るんだ。しかもタダで。都内の道は混むし、損耗も甚だしい。それでも、物資を運んで来てくれたりする車は話が別だ。そのために道路が必要で、そのために税金を払っている。
だが、空気のいい土地に女房子を置いて、おおマイホームだなんて言っときながら、マイカーで図々しく俺たちの道へ乗り込んで来て、仕事も都内でして、ほとんど一日近く都内にいて、それで給料もらうと都外へ持ってってよそへ住民税をあげちゃって、自分のうちのまわりの道路に使わせて、翌日またマイカーで金も払わず俺達の道を混ませてすり減らして。責任者、出て来い……。こっちは東京から出るとき、出たとこの県にちゃんと入県税を払ってもいい。だから東京へ入るときは入都税を払ってもらおうじゃないか。ことに自家用車は、だ。何言ってやがんだ。
もうひとつ判んねえことがある。
近ごろ町でときどき見かけるんだけど、あの黒く塗ったゴミ収集車はいったい何なのだ。普通のは青いところに白抜きで公孫樹《いちよう》のマークがついてるが、あのまっ黒ピカピカのゴミ収集車はいったいどうなってるんだ。まるでハイヤーに使われてる外国製の高級車みたいに、上等な、深味のある黒の塗装をして、憎たらしいことにいつもそれをピカピカに磨きあげて瑕《きず》ひとつついていない。公孫樹のマークだって金色じゃないか。それにどうも、日曜でも祭日でも土曜の午後でも動きまわっているらしい。数は少いみたいだけど、あいつが気になって仕方がない。どっちにしたって東京都の車には違いない。わたしの家のあたりへあいつがゴミを集めに来てくれたことは一度もないのだ。俺たちの税金を、何か特別な連中のためにこそこそ使ってやがるんじゃねえかと思っただけでカッと頭に来てしまう。
実はこのあいだ、あの黒い収集車がゴミを集めているところを目撃した。そいつは芝《しば》の高級住宅地の道でとまっていやがった。白い石の塀の勝手口の戸のそばに、まっ黒なビニールの袋がひとつ置いてあって、黒い上着に黒ズボンに黒靴を履いて黒いネクタイをしめ、警官がかぶるような黒い制帽をかぶった男が、まっ白な手袋をした手でその黒い袋をうしろの口へ押し込んでいた。ゴーッと機械が動いてその黒い袋を呑《の》み込んじゃったけど、そう大してゴミがつまってるようには思えなかった。
わたしは自分の軽四輪に乗っていたから、小まわりがきくわけだし、ちょっと時間も余っていたからあとをつけた。
驚いたね。あの黒い収集車は金色の公孫樹のマークを光らせながら、なかなかとまりやがらない。普通の収集車は角ごとにひょいひょいととまっては、ゴミを胴へつめこんでるのに、優雅なもんだ。
だけどひとつ判ったのは、黒いビニールの袋が置いてあると必ずとまって収集して行くってことなのだ。その黒いビニールの袋というのは、大きさはかなり大きくて大人の腰くらいの高さがあったかな。複写機の紙をいれてある袋そっくりの、つやつやしたまっ黒の袋なんだ。
あったまへ来たね。なんかコソコソした感じなんだ。特別な連中だけにサービスしてやがるに違いない。だいいち、俺たちはあの黒いビニールのゴミ袋を売ってるところすら知らされていないんだ。それで、機会を見て区役所へ行った。
「ゴミのことでちょっと知りたいことがあるんだけど」
と受付の奴に訊《き》いたら、
「ゴミですかア」
って嫌な顔された。こいつはいよいよ何か隠してやがると思ったから、
「ここは区役所でしょう。区のことならなんでも判るんじゃないんですか」
としつっこく訊いてやった。下向いて何かパンフレットみたいなのをペラペラとめくってたが、
「あちらの区政相談窓口へどうぞ」
って指をさす。俺はすぐそこへ行ったね。
「ゴミについて教えてもらいたい」
係りは肥《ふと》った女だった。
「どういうことでしょうか」
「黒い収集車が走ってるね。よく見かけるぜ」
「黒……ですか」
女は目を白黒させてた。
「そう。黒の収集車だ。金色のマークがついてる奴」
「そんなのありましたかねえ」
女はうしろの男に訊いている。うしろの中年男はジロリとこっちを見て、何かコソコソ女に言ってる。
「ないわけはないよ。近ごろちょいちょい走ってるのを見るからね。ふしぎだから一度あとをつけたことがあるんだ。黒いビニールの袋にいれたゴミだけを集めてるようだったよ。あの袋はどこで手に入れたらいいんだか教えてもらいたいな」
「それはあの……住民のみなさまによろこんでいただこうと、いろいろなサービスをしていますし、次から次へ新しいものができてくるものですから」
「よく判らないって言うのかい」
「いえ、こちらでは区や都のやっておりますことはだいたいほとんど把握できておりまして」
「そんな七面倒臭い問題じゃないだろうに。俺だって税金払ってるんだからね。受けられるサービスはみんな受けたいよ。だから教えてくれって言ってるんだ。きのうきょうの都民じゃないんだよ。生まれたときからずっと都民なんだ。税金だっていくら納めたか判りやしない。生命保険ならそろそろ払う分が安くなりはじめてる」
「特別区民税や都民税は生命保険を含んでおりませんので。銀行の住宅ローンなんかですと」
「そんなことはどうだっていい。黒い収集車について教えてくれればいいのさ」
すると女は急にふてくされたようなふくれっつらになって、変な紙きれを一枚ペロッとわたしの前へ置いた。
「そこに必要なことを記入してください」
特殊収集車利用届。住所、氏名、生年月日、年齢、性別。
「ほら見ろ、俺だって使えるんじゃないか」
わたしは胸がスーッとした。こういうことはやかましく言うに限るんだ。おとなしくしてれば税金の取りっぱなしで、できるだけ何もするまいというのが役所の本性なんだから。
わたしはいい気分で、そばの机へ行って紐《ひも》のついたボールペンでそれに記入した。
「はい」
その届け用紙を女のところへ戻って渡そうとしたが、ちらっと見て名前のところへ鉛筆でマルを書くと、
「そこへ印鑑を捺《お》してください」
と素っ気なく言った。
「印鑑。印鑑なんか持って来てないよ」
「実印でお願いします。印鑑証明が一通と」
「インカンショウメイだあ」
ついでかい声になった。
「いったいどういう気だよ。たかがゴミ収集車じゃないか」
「でも、規則は規則ですから」
「そんな大げさなゴミはうちにねえよ」
「ではご利用になる必要はないわけです」
「そんなこときめられてたまるか。低額納税者だと思ってばかにする気か。もし俺が区会議員の親戚《しんせき》だったり、都知事の知り合いだったり、そっちの労組の幹部に友だちがいたりしたら、もっと丁寧に扱うはずだろう」
「そんなことありません」
「あるよ。差別してやがんだ」
「差別ですって」
女は蒼《あお》くなりやがった。
「そうさ、俺はこの区役所の中で差別されたぞ」
「そんな人聞きの悪いこと言わないでください」
「いや、差別された」
「どうしてそんなことおっしゃるんです」
「差別だから差別だって言うんだ。差別されて悪いか」
「悪くはありませんけど」
うまく行った。
「へえ、差別は悪くないって言うの」
「とんでもない、あなた」
「そう言ったじゃないか」
「そういう意味じゃ」
「いいか。たかがゴミくらいで、どこの区役所が印鑑証明まで寄越せって言ってるんだ。うちのゴミにパスポートをくれって言ってるんじゃないぞ。ゴミと結婚しようって言うんじゃねえんだ。たしかにゴミを捨ててもらいたいけれど、何も火葬場へ持ってって焼いてくれって言うんじゃねえんだ。どこに印鑑証明の必要がある」
呶鳴ってやった。そうしたらずっとうしろのほうから偉いのが出て来た。
「まあまあ、あなたそう興奮なさらずに」
「これが腹を立てずにいられるか。俺はこの女に差別されたんだ。抗議したら差別は悪くないって」
「君、ほんとにそんなこと言ったのか」
「言ったぞ、悪くはありませんって」
女はベソをかいていた。
「つい……」
「困るなあ、そういうことを言っちゃ」
えらい奴は届け用紙を見た。
「この印鑑のことですね」
「そうさ。黒の収集車を使わせてくれ」
「いいでしょう。お急ぎのようだし、今度おついでのときに印鑑をお持ちください。一応規則でそうなっておりますし、ほかのみなさんにも印鑑をいただいているものですから」
やっぱりえらい奴は話が判る。わたしは納得することにした。
「じゃたのんだよ」
「はい。どうもご苦労さまでした」
いい気分で区役所を出ると、うしろから若い奴が追いかけて来た。
「もしもし、これを」
あの黒いビニールの袋だ。
「あ、そうか。どうも有難う」
「七百五十円です」
「え、あ、そうか。金が要るんだな」
「ええ」
「いま持って来てないんだよ。すぐそこだから一緒に来てくれるかい」
「しようがないなあ」
そいつはついて来た。
「あなた、あんまりよくないですよ。僕はアルバイトで区役所の雑用をしているんだけど、あんたみたいな人ははじめてだ」
「へえ、そうかい」
「あれじゃゆすりたかりと同じことだ。悪い人だ」
「生意気なこと言うな」
「もっとも、そういう人だから大っぴらに黒の収集車の利用届なんか出しに来るんだろうけれど」
「何が悪い。ゴミを捨てるだけだ」
「もう少し遠慮したらどうです。何を捨てるんだか知ってるんですか」
「ゴミだろ」
「ゴミ、ゴミって、本気で人間をゴミと一緒にしてるんですか」
「人間」
「そうですよ。放っとけば押入れや縁の下へ埋めて、結局腐らせて役所の手をわずらわすんでしょう。まったくだらしないんだから。だから都はこういうサービスもしなきゃならないんです。人殺しの手伝いでしょう、これは」
「人殺しの……」
「あなたのことですよ」
「なんだと、こん畜生」
「あんたみたいな人殺しがいるから余分なとこへ税金を使わなきゃならない。僕なんか自分が死んだって人殺しだけはしないな。それなのに、他人の人殺しに税金を使われてさ。不公平だ」
カ、カーッと来た。
「俺は人殺しなんかしねえ」
「だってその袋を買ったじゃないの」
「知らなかったんだ」
「嘘《うそ》つき。人殺し。オニ」
「なんだと、区役所のアルバイトのくせしやがって」
わたしたちはとっ組みあいの喧嘩《けんか》になった。そして気がついたらそいつは死んでいた。
わが家の前に置いたまっ黒のビニールの袋を、黒の収集車が持って行ってくれたのはその日のうちであった。
やはり同じ税金をとられるんなら、大都会のほうがサービスがよくてとくなのだ。
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ボール箱
突然、私は自分を意識した。
それが誕生というものだとしたら、ひどく呆気《あつけ》ないものであった。平べったく折り畳まれていた体が手早くおしひろげられ、次の瞬間くるりとうつぶせにされた私は、重ね合わされ、閉じられる尻《しり》の感覚にうっとりとしていた。
正直言って、何が何だか判らない間に、私はこの世に生まれ出ていたのである。
ただ、幅の広い、ピッチリと肌《はだ》に吸いつくテープが尻に交差したとき、自分をとても強くたのもしいものに感じたことはよく憶えている。
だが、それもごく短い時間のことであった。私はまたクルリと一回転させられ、尻を下にした。いま思うと、そのときはもうベルト・コンベアに乗せられていたのだ。
だが、そのときの私は、あたりを満たした白い蛍光灯《けいこうとう》の光を感じるのに夢中で、自分が揺れながら移動していることにさえ気づかずにいた。
仲間……いや、兄弟と言ったほうが正しいのだろうか。とにかく、自分と彼らが別々な存在なのだと気づいたのは、そのベルト・コンベアに乗っているときであった。私の前後で彼らは揺れており、それで私は自分も同じように揺れているのだなと思った。彼らの体には私のと同じ模様がついていて、大きさもまったく同じであった。そんな模様が自分の体につけられていることも、そのときはじめて自覚した。
少し心細かった。生まれたばかりでたしかなことは判らないが、私は彼らと密着していないことが気になって仕方なかった。
私は生まれ、兄弟たちとバラバラに分れて存在しはじめたのだ。心細いのは、単独で存在することに慣れないためであったようだ。
私はその心細さを追いはらうために、すぐそばにいる仲間に話しかけた。
「なぜ揺れているんだろうな」
仲間は行儀よく一列に並んで揺れていた。私が話しかけたのは、その列の私のすぐ前にいる仲間だった。
「知るもんか」
彼はそう答えた。
「俺たちは動いているんだ。どこかへ運ばれているんだよ」
私のうしろの仲間が言った。
「どこへ行くんだろう」
「知るもんか」
その言いかたは、前の仲間とまったく同じ調子だった。
「いずれにせよ、俺たちは満たされるのさ。結構なことじゃないか」
うしろの仲間は急にうれしそうな様子になった。
「満たされるんだ。おいみんな、これから満たされるんだぞ」
彼がそう叫ぶと、一列に並んだ仲間たち全部に、よろこびの感情が伝わりひろまって行った。
「満たされる。満たされる。みんな満たされる」
仲間たちの間に合唱が起った。私もいつの間にかその合唱に加わっていた。
生まれてよかったと思った。もうすぐ満たされるのだ。この体いっぱいに満たされるのだ。それこそ生きるあかしなのだ。生きる目的なのだ。
ベルト・コンベアの震動のせいばかりではなく、私は歓喜に体を震わせていた。間もなく満たされるという期待が、私を有頂天にさせていた。
しかし、ヒューという細い音がしたかと思うと、ガタッと私たちは一度大きく体を揺すられた。前へつんのめる感覚が生じ、私は危うくそのベルト・コンベアからころげ落ちるところだった。
「どうしたんだ。進まないぞ」
うしろのほうで心配そうな声が聞えた。
「まさか俺たちにこのままでいろというんじゃあるまいな」
「冗談じゃない。早く満たしてくれ」
ベルト・コンベアが停止したとたん、不安がいっせいにひろがって行った。もちろん私もジリジリと移動の再開を待っていた。もしこのまま一生うつろな体でいたら……そう思うと矢も楯《たて》もたまらなくなって、私も喚《わめ》いた。
「進めてくれ。このままにしないでくれ」
その停止は、私たちに苦痛をもたらした。まだ一度も満たされたことがないどころか、何ひとつ体の中へいれていないのだ。
その不安な時間はどのくらいつづいたのだろうか。随分長かったような気がする。そして再びガタンという衝撃とともに、ベルト・コンベアが動きだしたときは、もう何でもいいし、完全に満たしてくれなくてもいいから、とにかく体の中へ何かをいれてもらいたいという、切羽詰まった状態に陥っていた。
何でもいい、早くこのうつろな体にいれて欲しい。あさましい欲望に身もだえているうちに、いつの間にか私はベルト・コンベアの終点へ運ばれていた。
よろこびは突然やって来た。
四角い私の体の隅《すみ》に、丸くしなやかなものがひとつ、サッと入って来た。
あ……。私は生まれてはじめて体に迎えいれた快感に痺《しび》れた。丸くしなやかなものは、素早く、しかも正確に私の体を満たしはじめた。満たしたものの重みが増すにつれ、私の快感も登りつめて行った。
そのときの、息つくひまもなく次々にこみあげて来る歓びを、私は忘れられない。底がすき間なく埋められ、ジワジワと上へ登って来るのだった。そして遂に私は一杯にされた。完全に満たされたのだ。
そのあいだも、私の体は移動させられていた。そして完全に満たされ、歓喜に震えていると、またしても唐突に、バタバタと体の上端が折り畳まれ、あの体にピッタリと吸いついて来るテープが、私の体を密封したのである。
私は最初に感じたたのもしさの何十倍もの強さで、自分を逞《たくま》しいと思った。充分に満たされた私は、斜面をすべりおり、引きずられ、抛《ほう》られ、積みあげられたが、そうした乱暴さも、どこかに優しい思いやりがあるようで、苦にはならなかった。
私は静止した。静止するとすぐ、私の体の上に仲間の重味が加わって来た。私自身、仲間の上に乗せられていたのだ。やがて前後左右が満たされて歓喜に震える仲間の体と密着した。
「すばらしい。俺はもういっぱいだ」
積みあげられた仲間のどこからか、そういう叫びが聞えて来た。私もその叫びの主と同じように幸福だった。この歓びのためにこそ生まれ出たのだと思った。
積みあげられたまま、私はまた移動しているようであった。だが今度は暗いままだった。切れ目のないこまかな震動と、ときどきやって来るゆっくりした揺れの中で、私は満足し切っていた。
ところが、どこか遠くのほう……積みあげられた私たちの仲間のはずれのあたりで、皮肉たっぷりな声がしはじめた。
「みんなご機嫌《きげん》な様子じゃないか」
その声は疲れたように嗄《しやが》れていた。
「さぞかし満足なことだろうさ。でも、そう長く続きはしないんだぞ」
「誰だい、そんな嫌なことを言う奴は」
仲間の誰かが陽気な声で尋ねた。
「ふん……」
皮肉な嗄れ声が言い返した。
「俺たちはいま、トラックで町へ運ばれているんだ。町へ着いたら、お前らはみんな封を切られ、体の中のものを吐きださなけりゃならないんだぜ」
「嘘つけ。せっかくいっぱいにされたのに、すぐからっぽにするなんて……」
「子供だよ、お前らは」
嗄れ声はあざわらった。
「だいいち、お前らは自分の体の中につめこんだのが何だか知らないのだろう」
「知らないんだ」
奥のほうから別な声がした。
「このまあるいものは何なのだ、教えてくれ」
「ああ教えてやるとも」
嗄れ声が言った。
「蜜柑《みかん》さ。お前らが体につめこんでるのは、蜜柑なんだよ。蜜柑は町に着くと店先へバラバラにして積んで売られるんだ。だからお前たちは、封を切られ、からっぽにされちまうんだ」
トラックの積荷である私たちは、シーンと静まり返った。
「いいさ、それも仕方のないことかも知れない」
嗄れ声のすぐそばにいるらしい仲間が、あきらめたように言った。
「僕らは蜜柑をつめこんでいる。たしかにその通りだろうな。そして、蜜柑は町へ運ばれて店で売られる。それもたしかなことだろうよ。そのために僕らは蜜柑をつめこまれ、町へ運ばれているんだ。そして多分、町へ着けば封を切られ、中の蜜柑を吐きだすことになるんだ……」
悲鳴とも嘆息ともつかない声が、走るトラックの中に溢《あふ》れた。
「だが、それでおしまいじゃなかろうね。僕らは体を満たすために生まれて来た種族だ」
「空気以外のものをな」
嗄れ声はあいかわらず意地の悪い言い方をしていた。
「そうさ」
その声は嗄れ声の挑発《ちようはつ》にも乗らず、我慢強く続けた。
「僕らは箱だ。ボール箱だ。蜜柑を入れるだけが能じゃない。体につめた蜜柑を出してしまったあとだって、まだいろんな物を入れることができる」
「そりゃそうだ」
嗄れ声が笑った。
「俺の体にはいま、綿のジャンパーと汚れたタオルと弁当箱と古靴が入っている。このトラックの運転手の持ちものだ。だが、以前はそうじゃなかった。俺は文房具をつめる箱だった。子供が学校で使う文房具だ。ひとつひとつきちんと包装した奴が、ギッシリつめこんであった。俺は満たされていたんだ。俺だってはじめからこんなじゃなかったんだ」
嗄れ声はなぜか怒りはじめていた。
「箱はなんだって入れられる。だがなお前たち……世の中なんてそんなもんだぜ。お前らは蜜柑をいれるために作られた。蜜柑をお前らの体につめ、それをひとつ残らずとり出したら、そのあとお前らがどうなるかなんて、誰も考えていちゃくれないんだ」
「まさか」
「ほんとさ。こいつは間違いのないことだ。蜜柑を吐きだしたあとのお前らは、ただのあき箱さ。邪魔っけなからっぽのボール箱なんだ。作った奴でさえ、そこから先のことは考えちゃいないんだ」
「そんなひどいことって……」
誰かが泣声をだした。
「この蜜柑が目的地へ着いたら、俺たちはそれでおしまいなのかい」
すると嗄れ声は狂ったように笑いだした。
「ああそうだ。お前たちはお払い箱さ」
「それでどうなるんだい」
「運が悪けりゃ、すぐに燃やされて灰になる。ごく普通に行ったとして、尻のテープをひっぺがされ、平たく畳まれてどこかに積んでおかれるんだ。そのうちに、まとめてどこかへ運ばれておわりだな」
「この蜜柑を出してしまったら、もう二度とこの体は満たされないのかい」
「そのあとは運さ。運次第よ。運がよければ何か別な物をいれてくれるかも知れない。俺みたいに、油じみた綿のジャンパーとか、汚れたタオルや古靴とか……」
「なんだっていい。満たされたいよ。生きていたいよ」
「でも、あきらめたほうがいい。蜜柑を入れる箱は蜜柑箱だ。蜜柑を出した蜜柑箱は、ただのゴミなのさ。そしてお前らは、体に蜜柑箱だと書かれちまってる。お前らがたとえその体に札束をギュウギュウ詰めにしたところで、やっぱり蜜柑箱は蜜柑箱なんだ」
「そういうあんたの体には……」
嗄れ声のすぐそばにいる仲間が、相手の体を眺めなおしたようだった。
「筆箱と書いてあるね。あんたは筆を入れる箱だったのかい」
嗄れ声はまた気違いじみた笑いかたをした。
「俺は筆箱を入れる箱だよ。運と不運があると言ったろう。ツイてねえのさ、俺は。何と俺は、箱をいれる箱に生まれついちまったんだ。俺というボール箱の中には、小学生が使う筆箱が……いいか、筆箱だって箱なんだぞ」
嗄れ声は泣きはじめているようだった。
「箱を入れる箱。俺は箱を入れる箱だったんだ。人に売られる前の筆箱は、なんにも入っちゃいないんだ。から箱なんだ。そいつを俺はギッシリつめこんで……どんな気持だか判るかよ。形ばかりギッシリだって、決して満たされやしないんだ。ギッシリなのはから箱でなんだからな。お前ら、町に着いて蜜柑を吐き出したあとのことなんか心配しやがって、贅沢《ぜいたく》なもんだ。何はともあれ、いまこの瞬間はしあわせだろうが。満たされて、身震いするくらいしあわせなんだろう」
「筆箱さんよ。そう泣くなよ」
「筆箱じゃない。筆箱の箱だ、俺は」
「中身を出したあとも、そうやって長生きしてるじゃないか。元気をだせよ」
仲間はみんなそう言って嗄れ声の古いボール箱をなぐさめてやった。しかし、その間にも私たちは終点である町へ近づいていた。
トラックからおろされた私たちは、陽《ひ》の光の下でちりぢりに別れさせられた。その青果市場は大そうにぎやかだったが、私はそこでぞっとする光景を見せつけられねばならなかった。
私がほかの二、三の仲間とひとかたまりに置かれた場所のすぐそばに、大きな焚火《たきび》が燃えていたのだ。人間たちは寒そうに手をこすり合わせてその焚火のそばへ集まり、ときどき板きれや……そして私の仲間であるからのボール箱を火にくべていたのだ。
私は自分たちの行く末がどうなるかを、じっとそこでみつめていなければならなかった。絶望感がこみあげて来たが、唯一の救いはまだ体の中にギッシリと蜜柑をつめ込んでいることであった。
しかし、私は仲間が次々に燃え尽きて行くさまを眺めているうちに、自分が決して完全には満たされていないことを悟った。
丸い蜜柑と蜜柑との間には、かなりの隙間《すきま》があったのだ。暗い前途を思うたび、完全には満たされていない現在を不足に思う心がつのった。
もっと満たされたい。まったく隙間なくこの体を埋め尽してもらいたい。……そういう欲望に我を忘れた。
「もっといれて。もっといっぱいに……」
テープできっちりと封をされているくせに、私はそう喚《わめ》いていた。
「おい、取り乱すなよ」
見かねて仲間がそうたしなめたが、私は喚きつづけた。
「もっといれて、もっといっぱいに……」
蜜柑を入れたボール箱としては、私は最高に幸運だった。青果市場から町の果物屋へ運ばれてすぐ、他の二箱はあけられ、中の蜜柑は店員の手で店先へ積みあげられてしまった。だが、私はそのまま店の奥に置かれていた。
二日、三日とたったが、私はコンクリートの床にじっとしていた。二日目まで、私のそばに仲間のふたつのから箱がいたが、三日目に店員が荒っぽく折り畳んでどこかへ持って行ってしまった。
畳まれる直前、仲間が私に向かって叫んだ。
「さよなら。つまらない一生だったよ」
私も何か言い返そうとしたが、そのときはもう彼らは箱としての存在ではなくなってしまっていた。
箱は物をいれるためのものだ。物をいれられてこそ生きるよろこびがある。ギッシリと詰め込まれれば、この上もない快感に体が震えさえするのだ。
だが、人間は蜜柑を入れるためだけに箱を作りだし、その役目がおわると、まだ充分使えるのに、あっさり見捨ててしまうのだ。
そうやって見捨てられた仲間がどうなったか、私にはまるで判らない。だが多分みな箱としての一生を閉じさせられたことだろう。
幸運にも、私はひと箱まるごと蜜柑を買う客にめぐり合い、果物屋の店員にその家まで運ばれた。そして台所の湿った暗い棚《たな》に押し込まれ、少しずつ中の蜜柑を減らされて行った。
そのときばかりは、うつろだなどとか、満たされないなどとか言ってはいられなかった。最後の一個がとり出されるまで、少しでも時間が稼《かせ》げればそれでよいと、必死に念じていた。
しかし、それも長い間のことではなかった。からにされた私は、明るい場所へ引きだされ、放っておかれた。その間に、人間は少しずつまた私を満たしはじめた。
ビールの王冠や厚いビニールの袋、つめ物にした発泡《はつぽう》スチロールなど、さまざまの燃えにくいゴミが私の体の中へ投げ与えられたのだ。
それでも私は満足だった。何でもいいからこの身を満たしてくれさえすれば、箱は満足なのだった。
そして遂にいっぱいにされた。私の人生の第二の頂点であった。その頂点はかなり持続した。燃えないゴミで満たされたまま、半年あまりも放って置かれたのだ。
私の幸運は二度続いた。或る日、燃えないゴミたちが私の体から急に去った。本来なら私の生命もそこでおわるはずだったのだろうが、どういうわけか中身だけが捨てられ、私は家の外の道にとり残された。そこへ子供たちがやって来て、一人が私の体の中へ入りこみ、二人がそれを押したり引いたりした。私はコンクリートの道で、すり切れ、へこみ、破れかけたが、人間の子供で満たされたことに、うっとりとしていた。
子供たちはその遊びが気に入ったと見え、近くの池のある公園へ私を運んで行って、それから毎日同じ遊びをくり返した。
私は日ならずしてヨレヨレになったが、まだ生きていた。下がコンクリートではなく、公園の土だったから生きながらえたのだろう。しかし、何か物を詰めてもらうという点では、もう絶望するしかなかった。私の四隅は裂けて口があき、二度と箱としての役目を果すことはできなくなってしまったのだ。
そして、子供たちも私との遊びに倦《あ》きた。風の吹く夜、私はその強い風にころがされ、池へ近寄って行った。
水はボール箱にとって恐怖の対象であった。風は底意地悪く私をその水辺へ押して行った。
もうこれまでか……。
私は観念した。風が吹きつのり、私は遂に吹きころがされて水の上へ落ちた。落ちたがまだ浮いていた。私は帆船のように風に吹かれて池の中央へ動いて行った。
ボール箱は水を恐れる。その水が私の体にどんどん浸《し》み込んで来た。私は沈みはじめ、風に吹かれてもそれ以上は動かなくなった。水が浸みこみ、私はばかばかしいほど重い体になった。
沈む。沈んで行く……。
子供たちと遊んで過した公園が見えなくなった。空も、風も、私の意識から消えた。
これで私の一生はおわったのだ。そう思い、あきらめた。池の底へ、私はゆっくり、ゆっくりと沈んで行く。
ああ……なんという快感……。
私はうっとりとしていた。なんと、私は満たされていたのだ。生まれてはじめて、完全に満たされていたのだ。私の体の中に、完璧《かんぺき》な密度で水がつめこまれていた。
融けそうな快楽であった。いや、体はいずれ水に融けてしまうことだろう。しかし、それは体を満たされたことによる快楽によって融け崩れたのと同じことではないか。
静かに沈下しながら、私は自分の体を水で埋めつくされ、愉悦《ゆえつ》に痺《しび》れていた。
「もう死んだっていい」
私はつぶやいた。これほど完璧に満たされたボール箱がほかにあっただろうか。これほどの快感の中で一生をおわった者がほかにいるだろうか……。
もう時の観念も必要なかった。満ち足りた私は、ジワジワと融《と》けながら、今も愉悦の中にいるのだ。
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赤い斜線
煙草《たばこ》……。結構です、いえ本当に。もう煙草なんて、とっくにやめちまってるんです。遠慮なんかしやしませんよ。そんなもの、したってはじまりませんものね。何しろ乞食《こじき》なんですから。
ルンペン。宿なし。おもらい。……どう言ったっておんなじこってすよ。乞食には違いないんだ。あたしはね、まぎれもない乞食ですよ。もう街を歩いてたって、恥ずかしくもなんともありませんね。ええ、そりゃほんとです。こんな身になって、強がりを言ったって仕方ありませんからね。
それに、こいつは乞食になってみなけりゃ判《わか》らないんですけど、みんな乞食の顔ってのは、よく見ないもんなんです。いえ、あんたみたいな人は別だけどさ。
でも、なんだってまた、乞食の写真ばっかり撮《と》って歩くんです。写真なんてのは、綺麗《きれい》なものを撮って楽しむんじゃないんですか。こんな汚ない姿をパチパチ撮りまくって、いったいどこが面白いんですかねえ。あたしには判らないな。
ええ、撮ったことはありますよ。……冗談じゃないですよ。生れたときから乞食だったわけじゃあるまいし。まだこう見えたって五十ですぜ。そう、五十。誕生日なんかどうだっていいじゃないですか。そんなものにはもう縁がないんです。ただ、齢《とし》を憶《おぼ》えてるだけ。自分の齢だからね。
そう、カメラに凝《こ》ったことだってあるんだ。ありますともさ。もっとも、あんたのみたい、そんないいのじゃなかったかも知れないけど、とにかく次から次、いろんなカメラで撮りましたよ。たいていは人間だけど、旅先なんかでは、海とか山とか、それに自分が乗った乗り物とかね。こう見えたって、飛行場で飛行機撮ったこともある……自分が乗る奴をね。北海道《ほつかいどう》へ行ったんですよ。なんという飛行場だったかな。
乞食の顔を見ない……ええ、ほんとですよ。なぜだかは知らないけど、みんな見てるようでその実《じつ》見てませんよ。遠くからね、あそこにいるなって気がつくでしょう。そうすると、目玉がこっちへ来ないんだ。遠くからよけて来やがる。あれはきっと、当人も意識しちゃいないね。
意識がどうしたの……乞食がそんな言葉を使っちゃおかしいって言うのかね。笑いなさんなよ。意識ぐらい、そうしちめんど臭い言葉じゃないだろうに。行くよ、俺《おれ》。別に写真撮られてうれしいわけじゃないんだからね。そんなカメラマンなんて、珍しいから撮らせてやってるんだ。冗談じゃねえや。
まあいいさ。おこったってはじまらないからね。あんたいくつ。……そう、まだ若いんだね。元気があっていいや。でもね、さっきも言ったように、はじめっから乞食やってる奴なんていないぜ。そりゃそうさ。みんなはじめはふつうなんだ。曲りなりにもね。それがだんだん乞食になるんだよ。だんだんに、だんだんに、だ。
おかしいね。あんただってそのうちだんだんに乞食になって来るかも知れない。笑うけどさ、こいつばっかりは判らないぜ。まあ、乞食になっちまう奴なんて、滅多《めつた》にいないけど、ならないときまったもんでもないよ。その証拠にさ、みんな乞食のことを見ないじゃないか。気の毒がってるんじゃないね。あれはこわいんだよ。今に自分もこうなるんじゃないかってね。いくら自信があったって、みんな誰でも心のどこかでこわがっているんじゃないかな。
いいこと言うね。そうさ、乞食だって人間だ。ただおちぶれちまった、どうにもならないって、それだけのことさ。落ちるとこまで落ちはしたけど、猿になっちまったわけでもない。ふつうの人とおんなじだよ。でもね、乞食になってみれば判るけど、ほんとはふつうの人とちょっと違うんだ。どこがって……それはいろいろさ。
教えてやろうか。でも、あんたきっと笑うな。いや、笑っちゃいけないと言ってんじゃないよ。笑ったってかまわねえさ。たしかにおかしいんだもんね。いいかい、乞食はね、走らないの。そう、走らないんだよ。
笑ったね、やっぱり。あやまることはないさ。でも、乞食は決して走らないんだ。乞食が走ってるとこ、見たことあるかい。ないだろう。乞食がもし走ってたとしたら、そいつはにせものだよ。でなければ、あんたが乞食と見間違えたんだな。あんまりひどい恰好《かつこう》してるんでね。
なぜ乞食は走らないかって言ったって、そうすっきりとは答えられないね。まあ、言ってみれば走る必要がないってことか……。そうじゃないか。雨に降られたって濡《ぬ》れて困るようなものを着てるわけがないし、だいいちちょっとでも降りそうな天気に、のこのこ歩いてる奴もいないさ。いったいどこへ行こうというのかね。行くとこがないから乞食になったんじゃないか。用事があるくらいなら乞食になんぞなりはしないよ。ばかだねえ。
乞食になるとね、お天気には凄《すご》く敏感になるのさ。なぜかって……外にばかりいるからよ。うちのある乞食なんているもんか。だから、空が相手さ。毎日毎日、空を相手にしてるんだ。降るかな、晴れるかな。暑いかな、寒いかな、って。天気っていうのはあんた、面白いぜ。コロコロしょっちゅうかわるからな。当てようとするだけでも結構時間つぶしになるし、たのしめるもんだ。ああ、やっぱり降りだしたな、なんてね。雨のあたらないとこで、予想が当るかどうか、じっと待ってるんだ。のッて来るとね、雨の予想をして待ってて、だんだん思ったように雲行きが怪しくなると、なんだかワクワクして来るのさ。人間、どんなところにもたのしみってものはあるんだね。
うん。乞食になる前は天気当てなんか、そうやらなかったし、たのしみもしなかった。何しろ、オゼゼがなくなると時間が余るからね。
おかしいかい、そんなに。でも、あたり前のことなんだぜ。俺だってはじめから乞食だったわけじゃないし、そう言っちゃなんだけど、金だってあり余るくらいの時分もあったんだ。
こういうこと言うの、いやなんだよ。乞食はみんな言うだろうからな。昔はよかったこともあるってさ。でも、本当なんだ。時計屋やっててさ。ちっぽけな店だし、そりゃ大したことはなかったが、とにかく自分の店で土地も建物も自分のもんだった。
親の代からさ。ちゃんとしたおやじでね、戦災で一度焼けちまったが、世の中が元どおりになりかけると、すぐに建て直したよ。俺は兵隊に行ってたんだけど、大した戦争もしないで無事に帰って来ちゃったんだ。ちゃんと昔の中学を出てるんだぜ、こう見えても。
嫌《いや》だな、若いくせにあんた人に喋《しやべ》らせるのがうまいね。ついはじめちゃったよ。……まあいいや、久しぶりに喋りはじめたら、なんだかいい気分だ。でも、そのパッパカ、パッパカ光らせるの、やめてくれないか。光るたびになんだかいじめられてるみたいな気分になっちまう。これでも劣等感くらいあるんだからね。
時計屋さ。終戦後、いくらか世間が落ちついて来たころ、おやじが時計屋の店を建て直してくれてね。ずっと一緒にやってたんだ。はじめのうちは売る品もなかったけれど、時代があんなだったろう。だから修理だけでも結構やって行けたんだ。みんな、おんぼろ時計を後生大事にしててさ。俺なんか、軍隊からして帰った革《かわ》のバンドを切って、時計バンドに仕立て直して売ったんだぜ。金具の細工ぐらいお手のもんだった。
で、おやじがそのうち死んで、俺の代になった。はじめはおやじみたいにうまくやって行けるかどうか心配で、そろそろところばないようにしてたんだけど、やってみれば商売なんてどうにかなるもんでね。結構おやじの頃より派手なくらいになったんだ。写真に凝《こ》ってみたりしたのはその頃さ。商売仲間や町内会、商店街なんていうとこの連中と旅行したりして……。
世話してくれる人があって、女房ももらったよ。大した器量じゃなかったけど、結構うまく行ってた。友達にすばしっこいのが一人いて、それが卸《おろし》をやらないかって言いだしたんだ。協同でね。そりゃ、小売りより卸のほうが面白いや、出すものが出せればやったほうがとくだよ。金の工面《くめん》をつけて、めでたくやりはじめたというわけだ。
身の上ばなしになりそうだな。……面白い。嘘《うそ》つけ、こんなの面白くなんかあるもんか。ほんとに面白がってるんなら、それはあんたが、いつ乞食になるだろうかって、期待して聞いてるからだよ。
教えてやろう。別に喋っちゃいけない法律があるわけでもないからな。それに、このことはもう知ってる人だって多いはずだし。
人間が乞食になるわけさ。なぜ乞食になっちまうかってことだよ。知りたいだろう。さっき言ったと思うけど、乞食になる奴はだんだんに、だんだんに、乞食に落ちて行くんだ。でもさ、そいつをとめようと思ってもだめだぜ。どうしようもないんだ。或《あ》るときピタッときめられちまう。きめられちまったら最後、だんだんに、だんだんに乞食になって行くのを、ひとごとみたいに見てるより仕方ないんだ。働いたってだめ。一生懸命やったってだめ。きめられたらさからえない。
時計の卸をはじめて少したった頃だよ。かなり儲《もう》かって来てね、この分じゃ俺もなんとかなりそうだって思ってる時だった。集金した金の中に、赤インクで右の肩から左の端へこう、斜《なな》めに線が引いてある一万円|札《さつ》がまじってたんだ。おもてがわさ。左側を向いたあの聖徳太子《しようとくたいし》の帽子《ぼうし》の……あれはてっぺんが前のほうへ袋みたいに突きだしてるだろ。その帽子の前へ向いたあのまん中を突きぬけて、札のまん中にある夢殿《ゆめどの》のすかしが入った丸のまん中あたりを通って、左の角のところへ斜めにまっすぐ赤い線が引いてあったんだよ。
おもてがわだしな、ちょっと気になったもんだ。でも別に、赤い線を引いたら使えなくなるわけじゃないし、そのまんまほかの札と一緒に金庫へしまったんだ。で、その金庫から出したりいれたり出したりいれたり……金なんて奴は出入りのいそがしい奴だからね、計算が合いさえすれば、どの札が出てってどの札が入って来たかなんてことは、まるで関係がない。あたりまえだな。
ところがさ、月末になって自分の取り分を受取ったら、その赤い線が入った札の奴が、ちゃんと俺の分の中へ入ってるんだよ。まあ、大して珍しいことでもないし、ちょっとした偶然くらいには思ったけれど、女房に渡してそれっきり忘れちゃってた。
問題は実はその札なんだよ。赤い斜めの線が入った……。金なんて使うもんだろ。女房がどこでどう使ったか知らないけど、半月ほどすると、そいつがひょいと俺のとこへ戻って来やがった。別な友達に貸してやってたのが返して寄越したんだが、そのとき、あれっ、と思ったね。ポッキリ一万円だったから、赤い線が入ってるのがすぐ判ったし、見たとたん、このあいだの奴だって、そう思ったのさ。
おかしなことになったのはそれからだよ。その一万円は俺の小遣だから、すぐ使っちまったんだけど、手ばなすとまた、とんでもないほうから戻って来やがる、使うと戻る、使うと戻るってあんばいだ。あんまり度重なるんで気味が悪くなっちゃった。毎度おなじみになったから、その札の番号もいつとはなしに暗記しちまって、たしかにおんなじ札が戻って来るのがはっきり判るんだ。
銀行へ預けてもだめ、旅先で使ってもだめ。すぐ戻って来るんだ。……それはいい。それはいいさ。使えるわけだから別にこれと言って不自由はない。
でもよ……。
だんだんに、だんだんに、景気が悪くなりはじめたんだ。商売がうまく行かなくなって来た。入る金が減って来たのさ。
考えてみると、なぜだかよく判る。今となったら、ようく判るんだ。
その一万円札が出てって、戻って来るたびに、俺のとこへ入るはずのほかの一万円が減ってたんだよ。十回出入りすれば十万円だ。
減ったら決して増えない。減りっぱなしさ。いいかげんたってから、俺もなんとなくそれに気がついたんだ。でも、そのときはもう商売はガタガタ、火の車なんだ。
こいつは大変なものにとりつかれた。この赤い線の入った一万円札をこれ以上使ったら大変なことになるぞ、って思ってな。それでなるべく使わないようにしてたんだ。
でも、火の車だ。月末になれば一万円だって置いとけるもんじゃない。責められてつい出して払っちまう。そうすると、次の月やっとかすかすで入金して来た分に、ちゃんとそいつが入ってるじゃないか。
この札だけは勘弁してくれ。そう言って拝んでたのんだって、相手は何のことか判らないし、おこる奴だっている。たまに、ああそうかい、ってとりかえてくれても、別なとこから必ず入って来ちまう。
その一万円札にとりつかれちゃったわけだ。俺はもうやけになっちゃってね。どうせ放っといても、まるっきり金が入って来なくなっちゃうに違いない。だったら今のうち、どんどん使っちまえというわけで、相棒の金も支払いの金も見境《みさかい》なく、パッパと使って遊んじゃった。
揉《も》めたさ。揉めに揉めたよ。何度かはとりなしてもらったけど、そのうち女房も愛想をつかして出て行っちまう。あたり前のはなしでね。家へまるで金を入れなかったんだから。
そんなことをしてるあいだも、赤い斜めの線が入った一万円札は、俺のふところを出たり入ったり出たり入ったり……。もちろん出入りはどんどん間遠にはなったけど、それはもう、俺の金の運がおしまいになりかけてたんだな。
とうとうおやじの建てた店つきの家も売っ払っちまって、それも大半は遊びに使ったわけだけど、そうなればもうかまってくれる人間だって誰一人いなくなっちまう。ひとりぼっちさ。
そうやって、だんだんに、だんだんに落ちて行ったんだ。
でもよ、おかしなことに、無一文にはならなかったんだ。……その一万円札だけは、どうしても俺から離れないのさ。もうとうにほかの一万円札は俺のとこへ入って来なくなっちまってたのに、そいつだけがいつまでも、俺のふところを、出たり入ったり、出たり入ったり。
一万円を一度に使う身分じゃなくなってたから、ちょびっと買物をして九千なにがしおつりをもらい、ちびちびそれで食いつないで、それがなくなる頃になると、どこからともなくまたあの一万円札が戻って来やがるのさ。道を歩いてて拾ったり、通行人がひょいと恵んでくれたりだよ。
そんなわけで、なんとか食って生きては行けるんだ。一文なしになりかけると、あいつが帰って来やがる。もう慣れっこになっちまったから、要領は判ってるんだ。必ず帰って来るからと言って、ポカッと一度に使うと長いことすきっ腹をかかえてなきゃならない。あいつは俺に、分相応にくらすように仕向けてやがるのさ。ちびちび、ちびちび使ってなきゃいけないんだ。
まあ、そんなわけでさ、俺はこうやってなんとか生きのびてるんだ。考えてみれば、これはこれで気楽なもんだよ。生きて行けるだけは、乞食をしてても最低生きて行けるだけは、あいつが保証してくれているわけだからね。でも、心配なのは、あいつがだんだんすり切れて来ることだな。今に本当になくなっちまうんじゃないだろうか……。
それは俺だけの特別なことだろうと言うのかい。とんでもないよ。そいつはあんた、世の中の本当のことを知らなすぎるぜ。世の中には、ふつうに考えていてはとても判らないことがたくさんあるのさ。だっていいかい。世間には乞食はたくさんいるんだぜ。みんな人さまのお恵みで食っていると思ってるのかよ。それこそ冗談じゃない、だ。そんなに世間さまはお恵みくださるかね。見てみなよ、乞食がいると見ないようにする人ばかりじゃないか。乞食がみんななんとか食って行けるだけ、世間が恵んでいると思うんなら、それは大きな思い違いだぜ。いや、うぬぼれなさんなと言いたいね。あんたにしてからが、一度でも乞食に恵んでやったことがあるかい。たまにカンカラに金をいれてくれたとしても、それで乞食が生きて行けるとでも思ってるのかよ。笑わせるない。
乞食はね、本当のところ、みんな俺とおんなじなんだ。めいめい一枚ずつ、赤い斜めの線が入った一万円札にとりつかれてるんだ。だからこそ乞食になったんだし、乞食になっても生きて行けるんだ。
気をつけなよ。赤い線の入った一万円札が来たら、あんたもおしまいだぜ。
だんだんに、だんだんに乞食になって行くんだ。……気になるなら財布《さいふ》の中を見てみるんだね。
あ、そいつだよ。その赤い斜めの線の入った札さ。なんだ、あんたのとこへも、もう行ってるんじゃないか。気の毒にな。
なるよ、そのうち乞食に。そう、だんだんに、だんだんに……。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『幻視街』昭和55年12月30日初版発行