半村 良
回転扉
目 次
第一話 回転扉
第二話 扉の蔭
第一話 回転扉
第一章
大野守夫《おおのもりお》は大きな窓ごしに、となりのビルとの間に降りおちる雨を眺めていた。その窓から、空はまったく見えない。
去年はとうとう墓まいりにも行かずじまいだった。大野はそう思いながら、視線をデスクの上へ落とした。左側にプッシュ・フォンがあり、中央に厚い帳簿がひろげてあった。
墓まいりのことを思い出したのは、たったいま弟の充夫《みつお》から電話が入ったからである。充夫はいま大阪《おおさか》に住んでいる。中くらいの規模の商事会社の大阪支社長なのだ。それが上京して来て、今晩一緒に食事をしないかと誘って来た。久しぶりのことであった。
「俺《おれ》は夜も仕事だ」
大野は苦笑しながら答えた。会社の格から言えば、充夫の商事会社のほうがはるかに上だ。そういう会社の大阪支社長に納まって、久しく会わないでいるうちに、こっちの事情をつい忘れてしまったのではないかと思ったのである。
株式会社大野|総業《そうぎよう》。大野が社長である。しかしその会社は、レストランがふたつと、バーやクラブが五つほど、それにリース部門を合わせたなんでも屋の小さな会社なのである。
スタートは赤坂《あかさか》のレストランであった。それで少し力をたくわえて、何気なく手をだした銀座《ぎんざ》のクラブが当り、その道の人材が集まるようになって、新宿《しんじゆく》と銀座に五軒の店ができた。住いが渋谷《しぶや》に近かったので、それらの店の経理をまとめるオフィスを渋谷の小さなビルに置くと、しばらくしてそのビルのオーナーがトラブルを起し、大野も捲《ま》き込まれてしまった。
どうやら、そのあたりから運がひらけたようで、紛争の処理に積極的に介入して行くと、事は大野に有利に運んで、そのビルの所有権が彼の手にころがりこんだ。
ひとつのビルの所有者になったのがきっかけで、大野の関心はにわかにレストランやクラブなど、いわゆる水商売から堅い方向へ移って、事務機を中心にするリース業をはじめることになった。複写機、計算機から机、椅子《いす》、応接セット、各種収納具などを扱うその事業は、興亡のはげしい中小企業家に歓迎されて、大野自身が驚くほどのスピードで成長して行った。
だが、やはり夜の部門もおろそかにしてはおけないのである。ほとんどが人件費で成り立っていると言ってもいいその部門は、経営者が少しでも手を抜くと、たちまち内容が悪化する。長い間の経験でそれが身にしみて判っている大野は、夜の時間もおろそかにすることがなかった。
弟の充夫がのん気な電話をかけてきたのは、そういう夜の仕事を忘れてしまったせいだろうと思ったのだ。忘れないまでも、リース業がうまく行っているので、いずれ夜の仕事は人まかせにしていると思っているに違いない。
大野は張りつめた気持でいた。ゆっくり兄弟で話し合いたいとは思っているが、特にむずかしい問題があるわけでもなく、そんな甘ったるい時間は、もっとあとのことにしてもよいと思ったのだ。
だから断わった。
「そっちの仕事はうまく行っているんだろう」
弟は順調だと答えた。
「だったら今度にしよう。そのうちこっちがお前のほうへ行くよ。家庭サービスもかねてな」
それはいい、是非来てくれと言って、弟は電話を切った。しかし、その電話が切れたとたん、大野は不人情なことをしたと、少し悔い、侘《わ》びしい気分に襲われたのであった。
母親の手ひとつで育てられた兄弟が、お互いになんとかなった今、急に疎遠になりはじめている。そんな気がしたのだ。五年前、その母親が死んで、葬式だ法事だと家族ぐるみ会う機会が多かったのが、去年はとうとういそがしさにかまけて命日の墓参も妻にまかせ、行かずじまいだったのである。
あいつ、何か俺に言いたいことがあったのではなかろうか。
大野はふとそう思った。何か自分が人生の危険を見落としていて、それを言い辛そうに遠まわしに指摘する充夫の顔が目に泛《うか》ぶようであった。
それはちょうど、誰《だれ》かがうしろへ近付いて来た気配を感じて、はっと振り向いたときの感覚に似ていた。振り向いたが誰もいず、かえってそういう錯覚をした自分自身を不安に思ってしまう。
疲れているのかな。大野はそう思いながら、勢いよく椅子を立った。
「どうです。悲観材料はありますか」
横田《よこた》という経理部長のデスクへ近寄ってそう言った。横田は一流会社の経理マンだったが、定年になって大野総業へ再就職している。歳は大野よりずっと上で、ことごとに大野が先輩扱いをするから、居心地がいいらしく、仕事ぶりも積極的であった。
横田はデスクから顔をあげ、微笑を泛べてゆっくり首を横に振った。
「帳簿という奴はお喋《しやべ》りな奴でしてね。何でも喋ってくれます。こちらはただ黙ってそのお喋りを聞いていればいいのです。ここの帳簿たちは、いまとても機嫌がいい」
「有難いですな」
大野は立ったまま煙草をとりだして火をつけた。
「それにしても、定年とはくだらん制度だ。あなたを手ばなした会社が気の毒になる」
「きまりはきまりですからね」
横田は淡々と言った。
「退職金も入ったし、新しい仕事もできました。大企業の経理も面白いことは面白いですが、ここのようなのはとても楽しみが多くて」
横田はそこで急に頭へ手をやった。
「楽しんでいてはいけませんな」
「いや、いいですよ」
大野は笑った。
「楽しんでいただければ、こっちもしあわせです」
大野は満足だった。経営に危険な兆候は何ひとつないということである。弟の電話でふと不安を感じたのは、心の底に睡っていた昔の習性がひくりと身動きをした程度のことだったらしいと気づいた。
大野にとって、長い間母と弟はそういう身構えで接しなければならない存在であった。家族の仲は至ってよかったが、何せ生活が不安定であった。父親は戦前に死んで、それ以来生活の基盤らしい基盤がなかった。したがって、家族が互いに呼び合うときは、いつでもその声が危機を意味していたのだ。
便りがないのは無事の報らせ。大野の母の松江《まつえ》はよくそう言った。仕事に夢中なとき、息子たちは長い間連絡をして来なかった。そのかわり、顔を見せるとろくな話ではないのだ。仕事をかえる、女ができた、金が要る……。
息子の側にとっても、松江の声は愚痴か嘆きか叱言《こごと》でしかないように思っていた。それが或《あ》る時は一緒に暮し、或る時はバラバラになりしてやって来たのだ。
だから、久しぶりに弟の声を聞いたとき、いわれのない不安を感じてしまったらしい。大野は原因をつきとめると、今度は擽《くすぐ》ったいような幸福感にとらわれた。そして不安の中に生きていた昔を懐かしく思った。
大野はオフィスのあるビルを出ると、渋谷の坂をぶらぶらと下りはじめた。街を歩くのが好きで、毎日見なれた道筋の店々を、のぞき込むように眺めながら歩く。それは田園の風物を愛する老人のような趣きがあった。散歩の道筋にある木々の若芽の伸び具合や花の蕾《つぼみ》のふくらみ加減を眺めてたのしんでいるのと、飾窓の商品の移りかわりや並べかたの変化を眺めてたのしんでいるのとの違いだけである。
根っからの都会児なのだ。東京《とうきよう》に生まれて東京で育ち、社会へ出てからは繁華街を離れたことがない。そのことを、大野はよく人にこう言う。
「ドブ鼠《ねずみ》はドブにかくれていると思いがちだが、それは人間の勝手な考え方かも知れない。ドブ鼠にしてみれば、ドブが好きなのかも知れないじゃないか。案外美しい場所だと思っているかも知れないぜ」
大野にとって、商品の並んだ飾窓は、自然の一部のようなものであった。デパートは美しい花の咲く樹木が生い繁った、小高い丘のようなもので、だからよくその丘を散歩する。本物の樹木や草花が見れない嘆きなど、大野は一度も感じたことがない。逆に、はじめからそれは金を出して見に行くものときめてしまっているようだ。
バー、クラブ、レストラン。そういう場所で暮して来た人間は、街そのものを好きにならざるを得ない。繁華街に順応するわけだ。まして大野は一応成功者と言える。街を愛さずに適者として生き残れるわけがないのだ。
地下鉄で銀座に向かう。大野は車の運転ができなかった。猫も杓子《しやくし》も車、車と言って騒いでいた頃から、自分は車と無縁であるときめていた。自家用車を持ったばかりに、車に振りまわされて暮している人間を何人も知っていた。そういう連中の車に便乗させてもらって、目的地でひょいと降りてしまい、だいぶ時間がたってから、やっとの思いで駐車して来たオーナー・ドライバーの顔を見ると、ついからかってやりたくなる。
それに、商売柄よく酒を飲む。車を持たない最大の理由はそれであった。用事は都心にしかないから、タクシーで充分用が足りる。必要があればハイヤーを使うが、それは大事な客の送迎のときだけであった。
銀座へ着くとすぐ地上へ出る。そこも毎日微妙な変化をたのしませてくれる美しい散歩道のひとつだ。最初に行く店は六丁目にあり、ふつうならすぐ裏通りへ入りこむところなのだが、大野は表通りをゆっくり進んで右へ曲った。道筋のとりかたひとつでも、そんなように本気で街を愛しているところがあり、いつでも新鮮に感じていられるからこそ、むずかしい夜の世界で生きのびて来られたのだろう。
ぼつぼつ灯《あか》りがつきはじめていた。ビルの五階にあるクラブへ入ると、掃除をおえた男たちが、入口の横のトイレの前にひとかたまりになって、ネクタイを結んだり髪をとかしたりしていた。
「お早うございます」
男たちは手を休めずに挨拶《あいさつ》した。大野は黙ってその中の一人の背中を軽く叩《たた》き、店の中へ入った。突き当りまで行って振り返り、眺めまわす。手をうしろに組んで、一分ほど立っていた。美しく装った女たちが並び、その間で客が笑っている様子が目に泛んで来る。別に商売|繁昌《はんじよう》を願っているのではなく、そういうイメージがすぐ湧《わ》きだすよう、訓練してあるのだ。客が入って女たちが動く。ボーイが飲物を運んで来る。うす暗い洞窟《どうくつ》のような中で商売の現場を思い描くと、不都合な個所や準備の手落ちがすぐ発見できるのである。
「よし」
大野は低くつぶやき、入口のほうへ戻った。
「お早うございます」
マネージャーがやって来て言う。
「ゆうべはどうだった」
「遅くなってからいそがしくなりました」
「そうか」
マネージャーの返事は要領を得ていた。それでだいたいの売上の見当までつく。口あけから看板までぶっ通しで客がたて混むこともないことはないが、まずまれなことである。たいてい一度か二度のピークがあって一日がおわる。そのピークのタイプで、売上が増えたり減ったりする。
かりにマネージャーが、
「早くにいそがしかったんですが」
と言えば、大した成績ではないことになる。いちばんいい型を他店に奪われたのだ。銀座の客は回遊している。それは偶然でどうしようもないことなのだが、適当に酔った客でたて混むのがいちばん効率がいい。だから、この店のゆうべの売上は、まあまあと言ったところなのだ。当然のことだが、成績のいい店は閉店が遅くなる。ところが、遅くなりすぎると、それはそれで効率がよくない。潰《つぶ》れる寸前の店の閉店時間がひどく遅くなるのは、他店が取りこぼした客しかまわって来ないせいではなかろうか。
大野は銀座にある三軒の店をまわりそれぞれの店で、一分ほど隅《すみ》に立って眺めていた。それ以外、格別口やかましい経営者ではなかった。古くからいる者はマスターと呼んだ、新しいホステスたちは大野のことを社長と呼んでいる。
七時ごろ大野は「バレンタイン」という店の奥で、食事をした。九時ごろまで銀座にいて、それから新宿へまわるつもりであった。レストランのほうは二軒とも手がかからず、このところあまり顔を出さなくなっていた。
軽い食事のあと、ふらりと店へ出た。すでに客が四組ほど入っていて、すべりだしは順調のようであった。「バレンタイン」には少し長めのカウンターがあって、そこにも常連が一人いた。
大野は客のような顔でそこに坐り、
「何か一杯入れるか」
とバーテンに言った。
「うちは高いですよ」
バーテンは冗談を言う。
「ツケにしてくれるか」
「身もとのはっきりした方でないと」
そんなことを言い合っていると、カウンターの客がジロジロと眺めた。他の客より親しげに扱われたいのが、こういう場合の客の心理である。だから、いやに特別扱いされる客が近くにいると、気になるものなのだ。大野は濃い目のブランデーの水割りを作らせながら、そのバーテンが客のことをどの程度判っているか、ためして見る気になっていた。
「濃いけれど、値段はいつもと同じか」
「ええ」
バーテンは笑っている。そのあと、ふたことみこと、必要以上に親しい会話をくりだすと、
「とにかく、何言われてもこの人にはさからえないしかけになっているんですよ」
グラスを拭きながらカウンターの独りの客に話しかけた。
「何しろウチの社長ですから」
客は、
「なあんだ」
とうれしそうに笑った。このバーテンは使える。大野はそう思った。
そのとき、
「いらっしゃいませ」
と言う声が聞えた。カウンターの客は入口を見て、スツールからおりた。どうやら連れが来るのを待っていたらしい。
「さて、俺も」
大野も別な店へ行こうと立ちあがった。その背後で来た客と迎えるホステスが団子になっていた。カウンターをはなれようと振り向いた大野は、ドキリとして一瞬立ちすくんだ。
似ているのだ。弟の充夫かと思った。しかし充夫よりはずっと小柄だった。髪型も違う。きちんと七・三に分けている。ちょっと古臭い感じだった。
客は今までカウンターにいた男を含めて、四人であった。そしてその充夫そっくりの男は、大野に気づかずに奥のテーブルへ案内されて行った。
大野は気をかえて、またスツールに戻った。まだカウンターの上に出ている飲み残しのグラスを無意識に左手に持って、四人組の客のほうを見ていた。
他人の空似というが、その程度の似かたではないようだった。衝撃がいきなり大野の血肉にとび込んで来るような、強烈な似かたであった。
「どうかしたんですか」
バーテンが心配そうに言った。それほど大野は呆気《あつけ》にとられていたのだ。いや、度胆《どぎも》を抜かれたと言ったほうが正確だろう。
「あの客、知っているか」
大野はカウンターに背を向け、上体をうしろへ倒しかけてささやいた。
「どの人です」
バーテンは大野の視線を追ったようだ。
「あれ……」
笑った。
「社長そっくりじゃありませんか」
迂闊《うかつ》なことに、大野はその男の顔に弟の充夫を見ていた。しかし、言われて見れば自分そっくりなのだ。
「よく似てやがる」
「瓜《うり》ふたつ」
バーテンはまだ笑っていた。
「あちらのほうがだいぶお若いようだけど」
「気味が悪いものだな。あんな似ている人間がいていいものだろうか」
「お知り合いじゃないんですか。ご親戚《しんせき》か何か……」
「いや」
大野はかたくなな感じで首を強く左右に振った。絶対に知らない相手であった。会ったこともないが、何から何までよく知っているような気がしてならなかった。
何かじめついた感情が湧きあがろうとしているようだった。甘くも美しくもなく、吐瀉物《としやぶつ》のように饐《す》えた感じのものであった。
一度席についたホステスの一人が、立ちあがってカウンターのほうへ近寄って来ていた。そのホステスは途中から通路を小走りになり、まっすぐ大野の前へ来た。
「やだわ、マスター」
古いホステスで、名を菊代《きくよ》と言う。
「マスターそっくりの人。ご親戚のかたでしょう、あれは」
大野が気づいていないと思って、報らせに来たのだろう。
「恵美《えみ》ちゃんたらばかだから、お客さんの顔を見てふきだしちゃってるの」
大野はまだ凝然としていた。
「なんという名だ」
「知らない。N重工の前川《まえかわ》さんがご一緒よ。あとのお一人は二、三度見えたことがあるけど、たしか防衛庁のかただったはずよ。先に来ていらしたのは山中《やまなか》さん。出版社のかたで……」
「参ったな」
大野は睡気をさますときのように、二、三度こまかく頭を振った。
「俺はあんな人、知らないんだ」
知らないということが、どうしても納得できない感じであった。当然知っていなければならないように思える。
「まさか」
菊代は呆《あき》れたように大野を見た。
「本当だ。他人の空似だよ」
「それにしては似すぎてるわ」
菊代は大野の気持どおりのことを言ってくれた。
「まったくだなあ」
「マスター、まだここにいるでしょう」
菊代は念を押し、
「あたし、聞いてくる」
そう言ってせかせかと席へ戻った。
気持が落着けば、そう長い間客のほうをみつめているわけにも行かない。大野は菊代を待ってカウンターに向きなおった。しかし妙な気分は去りそうもない。逆に自分そっくりの男がもたらした違和感は、ますます増大して行くようだった。
腹立たしかった。被害者意識が出はじめているらしかった。似かたがただごとではない。似ているというより、同じなのだ。理不尽で、許せない気分であった。
「畜生」
口の中でそう言ったとき、菊代が戻って来た。
「変よ、やっぱり。マスター、本当にあの人を知らないの。知っているんでしょう」
「知らないって言ったじゃないか。冗談じゃないよ」
大野はいら立っていた。
「だって、あのかたも大野さんよ」
「何だって……」
大野は目を剥《む》いた。こらえきれずにまたあの席へ振り返った。
「まさか」
「ほんと。大野さんよ」
「からかっているんだ」
菊代はそう言われて口をとがらした。
「N重工の前川さんも、あの席のかたはみんなマスターを知らないはずよ」
たしかにそのとおりである。からかって大野と言う名を持ち出した可能性はない。
「名前は」
「きっかけがなければお名刺なんていただけないわよ」
それもそうだ。
「ご挨拶にいらしたら」
「いい」
反射的に拒否した。その男の前へ出たくなかった。いつの間にか、大野は肉親に対して拗《す》ねているような気分に陥っている。反抗しながら立ち去りかねるという、あの心理である。
「水割りをもう一杯くれ」
菊代はあきらめて戻ったようだ。多分通路でそれとすれ違ったことだろう。そんなタイミングで、別の若いホステスがやって来た。
「あの、社長さん」
「なんだ」
「お客さまがお目にかかりたいのだそうです」
「俺に」
大野はカウンターの上へ背を丸めるようにしていたが、びっくりしてまた振り返る。
「社長さんとあんまりよく似ていらっしゃるから、一度お引き合わせしたいんですって」
「似てるって、君らが言ったのか」
「あたしたちは別に」
ホステスは叱《しか》られたようにおどおどしていた。
「さっきここにいらっしゃった山中さんが……」
「それで俺をジロジロ見ていたんだな」
「いらっしゃいますか」
避けたい気持と好奇心が一瞬激しく入り乱れ、好奇心が勝った。
「行く。お客さまのお呼びじゃな」
大野は立ちあがった。一段低くなった通路へ出て、柔らかいカーペットを踏みながら、ゆっくりその席へ近づいた。
その男が、真正面からモロに大野をみつめていた。無表情だが、大野は自分が感情をおしかくしているとき、そんな顔をすることを知っていた。まるで鏡を見ているようだが、髪型も肌の色つやも、肉のつきかたも、違うと言えばいちいち違っている。大野より小柄で、カチッと引き緊った体つきをしていた。年齢も四つか五つ下らしい。だが言うに言えない威圧感が備わっていて、気おくれした大野は、その席へ行くまでに視線を他の客に移してしまっていた。
「あの……わたしがこの店の経営者なんですけれど」
意味もなく、左手で眉《まゆ》のあたりをいじりながら言った。
「まったく似てるなあ。そっくりじゃないですか、大野さんと」
それがN重工の前川だろう。グラスを手に、呆れたように見あげていた。
「マスター、どうぞ」
菊代が席をあけてくれた。大野はその菊代をはさんで、自分そっくりの男のとなりへ腰をおろした。
「大野さんとおっしゃるんですか」
似た男に尋ねた。男は微笑を泛べている。
「そうなんだ。大野さんと言うかただよ」
さっきカウンターにいた山中という男が、心安げに言った。
「実は、わたしも大野なんです」
そう言って名刺をとりだし、客に一枚ずつ渡した。似た男には最後に渡す。
「そちらの大野さんはなんというお名前で……いえ、わたしによく似ていらっしゃる上に、苗字まで同じだものですから、すっかり驚いてしまいまして」
大野という男は、相かわらず微笑を消さず、みつめていた。その瞳《ひとみ》は、どこかひどく遠いところから見ているような感じであった。
「タダオです。忠義の忠に夫《おつと》の夫《お》」
「忠夫」
痺《しび》れが体のまん中を突き抜けて走り、脳天に突きささってとまった。
「大野忠夫……さんですか」
大野はあわててさんをつけ足していた。それは他人の名ではなかったからである。敬称をつけるほうが違和感があった。
「ますます驚きました。こんな偶然があるものなのですね。実は大野忠夫というのは、わたしの父親の名です。まったく同じ字を書きます」
「そのかた、ご健在ですか」
前川が訊《き》いた。
「いいえ、死にました。死んだのは昭和十五年です」
「それじゃ随分……マスターはまだ子供だったわけだ」
「ええ」
寡黙《かもく》な男らしく、大野忠夫は黙ったままである。大野はその沈黙がひどく気になって、なんとか喋《しやべ》らせようと話しかけた。
「死んだとき、ちょうどこちらの大野さんくらいの歳でした。失礼ですが、おいくつでしょう」
大野忠夫はその返事をしなかった。
「憶えていますか」
ポツリ、とそう言った。
「え、何をです」
「お父さんの命日です」
似ていた。声も大野そっくりの、少し鼻にかかり気味の声であった。
「昭和十五年、四月三十日……」
大野は小学生のように答えた。事実、気分は小学生のようであった。父親が死んだとき、大野は一年生だったのだ。まるで、その時分の父親から尋ねられたようだった。
そうだ、おやじにそっくりじゃないか。
大野は心の中でそうつぶやいていた。自分にも充夫にも似ているはずだと思った。兄弟二人とも父親似なのだ。
「いろいろやっているんですね」
大野忠夫は名刺を見ながら言った。
「ええ、まあ、こまごまと……」
大野忠夫は頷《うなず》いてその名刺を上着の胸ポケットへしまった。
「まあ一杯どうぞ」
そのテーブルの上に出ていたのはビールであった。大野忠夫がそう言って瓶をとりあげると、二人の間に坐っていた菊代が、素早くグラスを渡してくれた。
「いただきます」
大野はかしこまってビールを受けた。なぜかそれが厳粛な儀式であるような気になった。
「しかし似てるなあ」
前川たちはしきりに感心している。
「こんなことを言ってはお二人に失礼だが、本当に血がつながっているんじゃないのかなあ」
「そうだよ。君たちはおやじさんのことをよく調べたほうがいいぞ。同じ胤《たね》かも知れない」
「まさか」
大野は大野忠夫という客の機嫌をとるように笑って見せた。大野忠夫はやはり微笑したままである。
「四十年も前の話ですよ」
「だからさ。似すぎてるもの。マスターはいくつだね」
「四十一です。すぐ二ですが」
「それじゃあ大野さんと六ツか七ツ違うな。大野さんはたしか三十五でしたね」
大野は頷いた。山中という男を除けば、客たちは大野忠夫よりみな年上である。それがかなり敬意を示しているのだから、力のある男に違いなかった。
「昭和のはじめに浮気をしてまわった人物がいたんだ」
前川がそう言い、みんなが笑った。大野も調子を合わせて笑いながら、ひょっとするとそうなのかも知れないと思った。
どこかに腹違いの弟がいた。それが突然こうして自分の前へ現われた。そう思うと愉快になって来た。似た男に対する嫌悪感が消え、倚《よ》りかかりたいような親しみを感じた。
その夜、大野はとうとう新宿へまわりそびれてしまった。四人連れの客はあれから小一時間ほどして帰ったが、大野はどうにも気分が落着かず、十一時ごろタクシーで家へ帰ってしまったのだ。
渋谷の繁華街からほんの少しはずれたところにあるマンションの六階のわが家へ戻ると、いろいろなものが入り混じった複雑な感情をもて余しながら、風呂へ入って床についた。
まず疑問があった。あんなに似ている人間が存在していいものだろうか。本当に父親の浮気の結果なのではなかろうか。それがぐるぐると渦《うず》を巻いているようだった。
久しぶりの人にめぐり会えたあとのような、懐かしさとうれしさがあった。それはまったく奇妙な感情だと言わねばなるまい。なぜなら、まず第一に自分と似た人物がいたところで、特にうれしがる必要はないのだ。珍しがるならふしぎではないが、胸が鳴るほどうれしがるというのは理屈に合わない。それ以上に、なぜ自分が懐かしがってしまうのか、よく判らなかった。自分そっくりの人物を見て懐かしがるなら、鏡を見るたび懐かしがらなければなるまい。
もっと理性的に判断してみようと気をしずめて考えると、心の奥のほうに、最初感じたあの自己嫌悪に似たものが消え残っていて、そのほうがよほど理屈に合っているように思えた。自分とそっくりの男など、気色が悪いにきまっている。
だが、その奇妙な懐かしさは、自己嫌悪めいたものなどすぐ片隅へ押しやってしまうほど強かった。そして次から次へと、大野を回想に追いやるのだ。
「疲れたから先にやすむ」
そう言ってさっさと大野がべッドへもぐり込んだあとも、妻の園子《そのこ》はテレビをつけて居間で何かしていたようだ。
横になったものの、大野は寝つかれず、ぼんやりとテレビの低い音を聞いていた。「バレンタイン」で、あれからすぐ大野は席をたった。N重工の前川が内輪の話をはじめたからだ。席をたつとき、大野忠夫は、
「それじゃ……」
と大野にだけ聞えるような声で言い、軽く会釈をしてくれた。それがいかにも情の籠《こも》った様子なので、大野はうしろ髪を引かれる思いであった。好きな女のそばを離れる時の感じによく似ていたようだ。
忘れかけていた父親の記憶が、まざまざとよみがえって来た。父親は、死ぬだいぶ前から自家用車を持っていた。青いダットサンで、タイヤには細いスポークがたくさんついていた。当時は自家用車のある家など、ひどく珍しかったのである。毎朝父親がそれを運転して出勤して行くと、近所の子供たちがひとかたまりになってあとを追ったものである。
「ああいい匂《にお》い」
追うのをやめると、子供たちは排気ガスを吸いこんでそう言ったりして、それが大野の優越感をくすぐるのであった。
青い四角ばったダットサンは、大野にとって父親のシンボルであった。友達と喧嘩《けんか》になって勇気が必要になると、大野はいつもそのダットサンを思い出すことにきめていた。停めたままエンジンをふかすと、バンパーがこまかくふるえた。そのふるえかたがいかにもたのもしく思え、僕にはダットサンがついているんだぞ、と念じると、いつでもふしぎに勇気が湧いて出るのだった。
或る時、母の松江に駄々をこねて、
「お母ちゃんの炊いたご飯なんか食べないやい」
と縁側で喚《わめ》いていると、いつの間にか父が庭から入って来て、運転する時いつもしている白手袋の片方を外し、いきなり無言で横面を張られた。びっくりして泣きもせずにいると、松江が狂ったように甲高い声で抗議をはじめた。それでやっと泣きはじめたのだが、子供心に、泣きながら母の抗議が間違っていて、頬《ほお》を叩いた父のほうが正しいと感じていた。悪いのを承知の上で駄々をこねていたのであった。
また、もっと幼いころ、遊び呆けてうんちをもらしてしまったことがある。幼いと言っても、もうそんなことをすれば恥ずかしい年で、家へ帰ると当然松江にこっぴどく叱られた。
「恥をかかせなければ身にしみないんだから」
と裸にむいた尻《しり》を、玄関の戸をあけて外へ突きだされた。するとちょうど父が戻って来て松江を一喝《いつかつ》した。
「ばか。子供には子供のつきあいがあるんだ」
有難い言葉だった。その時も大野は泣いたが、半分以上は父の一喝に対する感動の涙であった。
よく客が来る家であった。来ては酒を飲んで行く。あとでその頃のことを思い出し、今は息子がそれを商売にしていると、おかしがったりもした。
子供だったせいかどうか、とにかくその当時は清酒の匂いが今よりずっときつかったような気がしてならない。家にあったのは松竹梅という銘柄の酒で、何だか知らないが酒とはベトベトしたものだと思っていた。濃厚だったのだろう。
酒とガソリンの匂いのほかに、煙草と脂の混じった匂いが、父の匂いとして記憶に残っている。学校の先生もそんな匂いを持っていて、教室でふと死んだ父を思い出したりもした。
父の死は「バレンタイン」で客に言ったとおり、昭和十五年の四月三十日であった。病名は敗血症であったから、抗生物質のある今なら死なずにすんだかも知れない。
大野はその四月、小学校へ通いはじめていた。松江に連れられて病院へ行ったとき、父に見せようと図画を一枚持っていたそうだ。これは松江の記憶で、大野自身は少しも憶えていないが、富士山か何かの絵で、二重丸がついていたという。昔はたいてい、よくて二重丸だった。
「うまいね。二重丸をやるよ」
仲間同士でもそんな褒め言葉があり、三重丸や四重丸になってからは、その褒め言葉もいつとはなしに消えてしまった。二重丸以上は、エスカレートするのが早かったのだろう。
昭和十五年の一年生だから、教科書はサイタサイタの組である。最初の父兄参観のとき、その教科書で書取りをやっていた。
「サイタサイタ、サクラガサイタ」
先生の言うとおり、大きな桝目《ますめ》の帳面に鉛筆で書いて行った。
「もうひとつサイタと書きなさい」
そう言われて、正直に、モウヒトツサイタと書いて笑われた。父がそれで笑ったのを憶えているところを見ると、そんな長患いではなかったらしい。
「お母さんの言うことをよく聞いて、えらい人になるんだよ」
それが病院で聞いた最後の言葉であった。つまり遺言というわけである。松江の言うことも余りよく聞かなかったし、えらい人にもなれなかった。父が今の自分を見たら何と言うだろうか。大野はその父そっくりの、父と同姓同名の男を思い出しながらそう思った。
「まあまあだな」
そう言ってくれれば有難いと思った。死んだのは満三十五歳だから、今では大野のほうが上になっている。今生きていれば七十歳ということになるが、三十五の頃の記憶が固定していて、七十の老人になった様子は想像することもできなかった。
その意味でも、あの大野忠夫という人物は、父そっくりなのである。やはり年齢は三十五らしい。強い懐かしさを感じるのは、そのせいなのであろう。
まるでおやじが生き返ったようだったな。そう思いながら、大野はいつの間にか睡ってしまったらしい。
そして夢を見た。
母の松江がプリプリしているのだ。なんでも、こんにゃくの上へ豆腐をのせてはいけないと腹をたてているらしい。豆腐をのせたこんにゃくなど、その場面では見当らなかったが、とにかくそれはまるで常識外れのことなのだそうで、
「こんなばかなことをする人間がいるなんて、思っても見なかったわ」
と言っている。怒っているのは松江ひとりで、妻の園子と弟の充夫は、松江が怒るたびケタケタと笑いころげていた。
「こんにゃくだって」
何がおかしいのかよく判らないが、こんにゃくの上へ豆腐をのせるのがひどくおかしかった。ただ、夢にありがちなことだけれど、充夫は三つくらいの子供であった。
「ばか、何がおかしいのよ」
松江はむきになっていた。
「親を小ばかにすると承知しないからね」
それでも二人は笑いつづけ、しまいに松江は、
「いいよいいよ。いつまでもそうして笑ってなさいよ。でも、お父さんが何というか……」
それは松江の得意の言いまわしであった。それをやられると、大野はついシュンとなり、松江の言いなりになってしまうのだった。
その時、松江は夢の中で、仏壇の前へ坐ったようだった。
チーン、というりんの音を聞いたような気がして目がさめた。もうカーテンのすきまから陽がさしていた。
「あなた、会社は」
朝食のあと、大野が和室の押入れをあけてごそごそやっていると、園子が部屋の外からそう尋ねた。息子の克夫《かつお》は三年生で学校、娘の久美子《くみこ》も幼稚園へ行って家の中はしんとしていた。
「今日はゆっくりでいい」
大野はデパートの包装紙を裏返しにして包んである、平たいものをみつけて引っぱりだしていた。その包みは十文字に紙ひもがかけてあり、大野は畳の上に坐りこんで、そのひもを丹念にほどきはじめる。
ガサガサという紙音を聞いて、園子がまた言った。
「何をしていらっしゃるの」
大野はちょうど三十歳の時結婚した。園子は五つ年下で、ちょっとした美人であった。恋愛結婚と言うよりほかに表現のしようがないが、大野は園子とそれほどの恋愛をしたようにも思っていない。事前に手を出さなかったからだ。自分の店へホステスとして入って来た園子をひと目見て、これが自分の妻だと一人ぎめしてしまった。しかし、美人でクラブのホステスになろうという女に、男出入りのないはずがない。だから、意思表示をする前にそれとなく調べて見た。たしかに一度|惚《ほ》れた男がいて、同棲《どうせい》の経験があったが、わりとかんたんに別れていて、以来男の影がないようだった。
たしかめておいてから接近した。それ以後のケースはたしかに恋愛と言えよう。だがそれは、果物屋が仕入れたリンゴの中から、一番よさそうなのをひとつとりあげて、食べてしまったのと似ている。リンゴを扱うのを商売にして、そのよしあしを知り抜いている者が、いいのをひとつだけ選りとって自分のものにしたのだから、偶然会って互いに惹《ひ》かれ合う恋愛とは大違いだったと思っている。
いずれにせよ、大野は自分の眼に狂いはなかったと満足している。ことに手まめで綺麗好きな点と、言葉づかいがいつまでも丁寧である点が気に入っていた。十年も連れ添って、まだ「……していらっしゃるの」などと言う水商売あがりの女など、そうざらにいるものかと思うのだ。
包みから出て来たのは、古びた黒い木の額縁に納まった写真であった。その写真は、子供の頃から見なれていた。いつも小さな仏壇の上の鴨居《かもい》のところに掛けてあり、三つ揃《ぞろ》いを着て髪をきちんと七・三に分けた男が、額縁の中から下を見おろしていた。
わりとよく撮れた写真のようである。自然な、ごく静かな表情をしていて、今にも微笑を泛べそうに思える時もあるし、眉を寄せて叱りつけそうに見える時もあった。
大野忠夫。大野の父の遺影である。父の葬式はわりと盛大だったようである。長い行列の先頭に立たされ、紋付、羽織、袴《はかま》といういでたちで素木の位牌《いはい》を両手に持って歩いた記憶がある。それは、よく晴れた日で、位牌に文字は書いてなく、その上に貼《は》りつけた文字を書いてある紙が、強い向かい風に煽《あお》られて、今にもちぎれそうであった。
大野は古い写真を見て、三十数年前のその日を、鮮やかに思い出していた。行列の先頭を歩いたので、はじめて長男としての責任を感じたものであった。これは大変なことになったと。
弟の充夫はまだ三つかそこらで、その行列が出発する前、姿を消してみんなを心配させた。近くの映画館の看板を見に行っていたのだ。映画館の看板と言っても今では意味が不明確になってしまったが、要するに上映中の作品のスチール写真をガラス窓の中に並べたものである。子供はそれを見ただけでワクワクした。
弟が柔らかい髪を風に煽らせ、おでこをまるだしにして映画館から駆け戻って来る姿が目に泛んだ。昨夜の夢の中に現われて笑っていた弟は、たしかにその頃の姿であった。
似ていた。そっくりであった。「バレンタイン」で会った客の大野忠夫と、父の大野忠夫は、見れば見るほど瓜ふたつなのである。
父の死のしばらくあとから、松江は亡父を呪《のろ》うようなことを言いはじめた。
「勝手に逝《い》っちゃって……」
そんな言い方であった。
「勝手な人だわ。あたし一人が苦労しなきゃならない」
子供に深い意味はよく判るまいと思っていたのかも知れないが、大野は案外理解して聞いていた。ただし、その裏にある男女の機微などは判るわけもなく、ただ一家にとって非協力的であったというように感じていた。
だから、ずっとそう必要でない人物だというようにしか、父親について感じないで来た。ただ、長男であることが嫌だった。兄が欲しく、兄のいる友達をいつも羨《うらや》んでいた。ところが、十九、はたちごろから少しずつその感じかたが変化し、三十に近づくと無性に父親が欲しくなった。と言うより、父を懐かしむようになった。父親と酒を飲んだ、と言うような話を聞くと、以前兄のいる友達を羨《うらや》んだと同じような羨みかたをした。
松江を女として理解するようになったのはその頃からである。甘ったれだの見栄っぱりだのと思い出したのがはじまりで、すぐ松江という女の全体像を小さく感じるようになった。こんな頼りない女だったのか、と驚いたり憐《あわ》れんだりできるようになると、ごく自然にそういう女が二人の息子を夫の力なしで育てあげた歳月を理解できた。
ご苦労さま。妙に片意地なことを言い張って困らされても、心の底でそう言って、適当に相手になってやれるゆとりが生まれていた。だがそれは、母の松江にとって気の毒なことでもあった。
主役の交代を意味していたからだ。産み育て叛《そむ》かれ皺《しわ》になって死に……いつか何かで見たそんな川柳が、にわかに重味を持って感じられたのもその頃であった。
ちょうどそんなとき克夫が生まれ、大野は松江に対してほっとした。松江は孫の克夫に夢中だった。園子はおばあちゃん子になると気にしていたが、大野はそれを叱った。
「克夫はおふくろのボーナスなんだ」
その意味が園子に通じたかどうかよくは判らないが、とにかく園子はそれっきり子供を松江に預けたような顔でいた。ボーナスと言うかわりに、退職金と言っていたら、もっとよく意味がつたわったかも知れない。
祖母と孫の、蜜月に似た時が流れて行ったあと、久美子が生まれた。生まれたとき、大野は死産したのかと思った。産科の病院へ駆けつけると、松江が手ばなしでオイオイ泣いていたからだ。
「どうかしたのか」
当然大野は色めきたった。
「女がね……女の子が欲しかったの、あたし」
松江はしゃくりあげながら訴えた。
「生まれたんだろ」
大野は念を押した。松江はこくりと頷き、
「うれしいんだよ、あたしは」
と涙を拭《ふ》きはじめた。
「なんだ、おどかすなよ」
ほっとしてそう笑ったが、その時の松江の泣きかたの若々しさに驚いていた。若々しいというより、生々《なまなま》しかったのだ。
その晩それを思い出し、今度は大野が少し泣いた。娘が欲しかったに違いない。夫の忠夫に死なれてから、ずっと話相手を欲しがっていたのだ。だがあいにく子供は二人とも男で、松江は夜更けを黙然とむなしく過していたのだ。せめてどちらか一方が女の子だったら、そういう時間はもう少しにぎやかなものになっていただろう。
だから大野は娘の命名を松江にまかせた。すると松江は言下に、久美子、という名を答えた。ひょっとすると、松江は長年そういう名の娘を思い描いていたのではないだろうか。息子たちが寝てしまったあと、その久美子と会話をしていたのかも知れない。
久美子という二度目のボーナスを受取って間もなく、松江は風邪をこじらせて死んで行った。幼いときから松江のよき理解者だった弟の充夫が案外冷静で、何かと言うとすぐ対立した大野のほうが恥ずかしげもなく大声で泣きつづけた。
「お父さん、こわいよ」
大人がそんなように泣くのが意外だったのだろう。克夫が怯《おび》えて園子にすがったりした。だが、大野はかまわずに泣いた。母を失った悲嘆もあることはあったが、それ以上に一人の女の人生の虚しさを感じて泣いたようだった。
「また飾るんですの」
いつの間にか園子が来て横に坐っていた。大野はぼんやりと父の遺影を眺めていたのだ。
「飾るか」
大野はその部屋の鴨居を見あげた。古びた小さな仏壇の真上に、松江の写真があった。
「もうおやじの写真は要らないと思った。長い間飾りつづけて来たからな。俺たちにはもうおふくろの写真だけで充分だと思ったんだよ。でも、少し勝手だったかも知れないな。おふくろは並んでいたいんだろう」
「飾りましょう」
園子はすぐ立って、釘《くぎ》と金槌《かなづち》を持って来た。大野はミシンの椅子を踏み台にして釘を打ち、その間に妻が埃《ほこり》を払っておいた父の写真を掲げた。
「おかしなもんだな」
掲げおわると、反対側の壁までさがってふたつの写真を眺め、
「これじゃ親と子だ」
と笑った。老いた母と、まだ若く引き緊った父であった。
「しあわせな仏さまね」
園子は父の写真のほうを見て言った。
「戦争前から大事にされつづけているんですもの」
「そうだな」
「でもあなた、少し体に気をつけてくださいね」
「どうしてだ」
「このお父さまがなくなったのは三十幾つかのときでしょう」
「そうだよ」
「あなたはもうその年を過ぎてるわ」
「うん」
「あたしをお母さまみたいにしないでね」
「ほう、そろそろ心配になって来たな」
大野はからかうように言った。
「違いますわ。でも、今みたいにしていると、どこかお悪いんじゃないかと思って」
「そんなにしょぼくれて見えたかい」
「だって、一度しまった古い写真を探しだして、長い間みつめていらっしゃるんですもの。ドキリとしたわ」
「悪かったな」
大野は苦笑する。
「ねえ、本当にどこかお悪いんじゃないの」
……ふるさとへ、まわる六部の気の弱り。落語だか講談だかの枕《まくら》でそんな文句を聞いた憶えがあった。大野は園子が心配する原因が判って、少しうろたえた。
「違う違う。違うんだ」
あわてて強く言ったので、園子は失笑した。
「それならいいんですけど」
「実はきのう、銀座の店で死んだおやじそっくりの男を見たんだよ。似てるのなんのって、まるっきりこの写真と同じなんだ」
「それで……」
園子は納得したようであった。
「でも、さっきはお母さまのことを思い出していらしたんでしょう」
「ん……ああ、そうだよ。昔のことを、いろいろとな」
「お出かけになるんでしょう」
大野は時計を見た。
「そうだ、そろそろ行かなくては」
「お仕事も大切でしょうけど、たまには早く帰っていらしてね」
「うん」
夫婦はその部屋を出た。園子がうしろへまわって夫の着がえを手つだう。
「今晩は早くお帰りになれません……」
なれません、と尻上りに甘い声で言った。
「そうするか。店をまわるのをやめれば早く帰れる」
「たまにはいいじゃありませんの」
近ごろの園子は熟れ切った感じであった。
「よし。張り切って帰って来るぞ」
そんな冗談を言うと、上着を着せかけてくれた園子に軽く背中を叩かれた。
「行って来る」
少し照れた大野は、振り返らずにそのまま靴をはいて出て行った。
第二章
いつものようにゆっくりと街の風景をたのしみながら歩いて自分のビルへ着いた大野が、エレベーターでオフィスへ入るとすぐ、秘書の役をやらせている加藤敏子《かとうとしこ》という若い女が、
「弟さんからお電話がありました」
と告げた。
「またか」
大野はそう答えて頷き、自分のデスクについた。
「加藤君、今夜はどこへもまわらないぞ」
「はい、判りました」
加藤敏子は素早くメモをした。
「夜の約束はなかったろうな」
「はい。ありません」
「弟はまだ東京にいる様子だったか」
「はい。そのようでした」
その敏子は秘書の教育を受けていた。良家の娘で、比較的上品だし、可愛らしくもあったので、秘書にしてからそういう学校へ通わせたのだ。
本来なら、そんな無駄をする必要もないのだろうが、半分水商売のような大野総業へ、一流商社の部長級の娘が就職して来たことがなんとなく面映ゆく、敏子の両親に詫《わ》びというか胡麻《ごま》を擂《す》るというか、とにかく少しうしろめたい気持を打ち消すためにした処置なのである。
素直な娘で、教えられて来たことを忠実に行なっているようだ。言葉つきもめっきりビジネスライクになり、物腰もテキパキして来たが、大野にはそれがいいことかどうか自信がなかった。良家の子女風が職業婦人然としはじめたのだ。それでも、基本どおりなのが門外漢の大野にさえはっきりと感じられる程度であるのが、一応救いのようである。
弟のことはそれっきり忘れて一時間ほどたった。昼食にしようかと椅子から腰を浮かしかけたとたんに電話が鳴り、敏子が受けて大野にまわしてよこした。
「兄貴かい、俺だよ」
弟の充夫であった。
「まだ東京にいるのか」
「いま羽田《はねだ》だ」
「帰るのか」
「一時半さ。本社の奴《やつ》に送らせたら、道が混むからと心配しすぎてこんなに早く着いちゃったんだ」
「さっきも電話をくれたそうだな」
「あれは本社からだ。あのな、兄貴」
充夫は大野と二人きりで話す時、いつも子供の頃と同じ喋り方になる。
「なんだい」
「変な人に会っちゃったんだよ」
「変な人……誰だ」
「それがさ、死んだおやじそっくりなんだ」
大野はなぜかドキリとして沈黙した。
「見なきゃ判らないけど、ほんとによく似てるんだぜ」
「いつ会った」
「今朝さ。本社へたずねて来たんだ」
「挨拶したのか」
「俺をたずねて来たわけじゃないからな。偶然こっちが居合わせただけなんだけど、妙に俺のことを気にしているようなので、本社の営業部長が俺に紹介したんだ。これでも支社長だからな、紹介されてもおかしくはない」
「なんでお前のことを気にしたんだろう」
「知らない。とにかく、おやじそっくりということは、俺にもいくらか似ているということだろう。本社の連中もびっくりしてやがった」
「似てたのは体つきや顔だちばかりじゃなかろう」
「あれ、知ってるのか、そうなんだよ、名前がおんなじなんだ。大野忠夫さ。仏壇の上に飾ってあったあの写真とそっくりそのままなんだ。気味が悪かったよ。兄貴はいつどこで会ったんだい」
「ゆうべだ。銀座のうちの店で会ったんだ」
「どういうんだろう、あれは。あんなによく似た人間がいてもいいんだろうか」
「別に法律に触れるわけじゃない」
そう言うと充夫は電話で笑いだした。
「そりゃそうだけどさ」
「大野忠夫というのはどういう人物だ」
「挨拶した程度だからよく判らない」
「名刺くらいもらったろう」
「こっちは渡したが、向こうはくれなかった」
大野は昨夜の「バレンタイン」でのことをまざまざと思い出していた。その時も大野忠夫は名刺を出そうとはしなかった。
「裏に大物がついている人物じゃないかと思うよ。本社の連中はひどく丁寧に扱っていたから」
「お前くらいの年恰好《としかつこう》だな」
「うん、まだ若い」
「何の用件でお前の会社へ行ったんだろう」
「こっちは羽田へ行く時間が来ていたから、くわしいことを訊く時間はなかった。でも、折りがあったら調べて見よう。面白いよ、とにかくおやじの幽霊みたいな奴だから」
「そっちはみんな元気なんだろう」
「ああ、みんな元気だ」
「誘ってくれたのに、一緒に飯を食えなくて悪かったな」
「いいさ。それより、本当に克夫や久美子を連れて大阪へ遊びに来てくれ」
「ああ、そのうち行く」
「じゃあ」
「うん。さよなら」
電話は切れた。
おかしなめぐり合わせだ。大野はそう思いながら受話器を置いた。
「弟さんですか」
経理部長の横田が言った。昼休みであった。
「ええ」
「大阪支社長におなりだそうですね」
「そうらしいです」
大野は控え目に微笑する。
「お若いのに、早いご出世ですな」
「余り大きな会社ではありませんからね」
「いや瀬田《せた》物産と言えば名が通っています。わたしのいた会社でも、瀬田物産の動きはマークされていたようですよ」
「中規模、と言ったところでしょう。身軽ですからね。何をやりだすか判らない面もあるようですが」
「瀬田物産へも出入りなさったらよろしいのに」
「うちが、ですか」
「ええ。弟さんという絶好のコネクションもあるじゃありませんか。あれで一応、子会社の数は相当なものなのですよ」
「うちなど、とても喧嘩《けんか》になりますまい」
謙遜《けんそん》ではなく、本心から大野はそう思っていた。街の広告会社や不動産関係の会社を相手にするのが精一杯だし、そのほうが気楽でいいと感じている。夜の商売のほうなら、たとえ資本金何百億の会社と取引きしても、まず気おくれするわけはないが、リース業という昼の部門では、資本金一億でも気が臆《おく》してしまう。片一方でクラブやレストランを経営しているような会社がと、面映ゆくて仕方がなくなるのだ。
「おやりなさい。実はわたしも先だってからいろいろ考えましてな。そろそろお役に立たんと申しわけないですからね」
「そんなことはありませんよ」
「実は、わたしの部下だった男で、仲人までしてやったことのある人間が、資材関係へまわっているのです。資材と言ってもいろいろですが、その男がいるのは管理部資材課と言いまして、事務機器から机、椅子なども扱っているのです。そのほかに……まあ、はっきり言いますと、ダミーが必要になったとき、貸しビルの手当てから車輛《しやりよう》の世話までするのです。まだ新任だったので様子を見ていたんですが、そろそろ落着いた頃だし、なんとかなると思いますよ」
「それは有難い。でも、何か夢を見ているような気分ですね。この大野総業が、あなたのいらっしゃったような一流商社と取引きするなんて」
横田は照れ臭そうな大野の顔を、好もしげにみつめていた。
「食事に出ますか」
横田に誘われて大野は立ちあがった。
大野はよく人から野心家だと言われたり、度胸がいいと言われたりする。赤坂のレストランで力をつけたあと、銀座、新宿に次々に店をひらいて行ったあたりを見て、度胸がいいと感じる者もいただろうし、店子《たなこ》の一人としてビルの所有者のトラブルに介入し、とうとうそのビルを自分のものにしてしまったあたりは、野心家と見られてもおかしくはないところである。
しかし、根は小心な男であろう。少くとも本人はそう思っている。だから一流企業との取引きなど、はじめから望んではいなかった。二流の商社である弟の会社とさえ、取引きをしようなどという発想はついぞしなかった。
それでも巷《ちまた》では充分成功者であった。すでに大学教授になった同級生などもいたが、そういう社会的地位を得た連中でも、クラブを五軒、レストランを二軒、それにビルをひとつ持っていると聞くと、凄《すご》いじゃないか、とか、儲《もう》けているんだろうなあ、とか、本気で感心されることが多い。
だから、吉川《よしかわ》という男がリース業の話を持ち込んだときは、ちょっと付合ってやろうか、という程度の気持であった。吉川は若いが案外しっかりしていて、それに外見に似ず律義な男であった。今はやりの長髪で、理解に苦しむような色合いのシャツなどを着て歩くが、要するに自分の力を精一杯ふるえる仕事が欲しくて仕様がないと言ったタイプなのである。次から次へと夢を追い、追っていられればそれで満足なのだ。
それはいくらか大野自身の若い頃の姿に似ていなくもなかった。大野はだから吉川に目をかけ、大野総業にリース部門を設けて、その実権を吉川に与えたのであった。
吉川のほうも、自分が理解されたことを悟って夢中で駆けまわっている。若いだけに金をかける話も多いが、実績もそれなりにあがって来ている。
大野はその吉川をよろこばせようと、横田の話をすぐに伝えてやった。吉川は心得た態度で、やはり年長者にはかなわないとかなんとか言いながら、すぐ行動を起した。大物が相手だけに、リース部門はたちまち活気を帯び、毎日熱っぽい動きが続いていた。
それを見て、大野の気持も動いた。吉川たちの熱気は、水商売では決して見られないものであった。水商売では、そういう場合逆にストンと冷静になり、鮮やかに捌《さば》いて見せるものなのだ。
男の仕事はこれだな、大野はしみじみそう思った。いつまでも夜の店まわりをしていては腐ってしまう。ここらでひとつ男の仕事に本気で当って見るか。……それは明らかに吉川たちに触発された気持の変化であったが、そうなると大野も案外決断が早かった。
傘下の店に店長制を採用した。従来のマネージャー制はあくまで経営者である大野の業務代行であったが、店長はいわば支店長に相当する。責任は重くなるが、権限も拡大する。ホステスの採否や給料についても、独断で決定できるのだった。催しものの企画や一部改装もほとんど店長の企画次第ということになる。
そして、その上に大野の代理人として総支配人を置いた。今までマネージャーと呼ばれていた男の一人が、実力を買われて総支配人に昇格し、大野がやって来たように各店を巡回して歩く。新しい人員の配慮はうまく行って、どの店も意気込みが違って来た。煽りもしないのに、ライバル店の売上を気にしてオフィスへ問い合わせて来たりする。大野は幸先きがいいとよろこんだ。
実は、大野が自分もリース部門に本腰を入れる気になったのは、横田に対する申しわけの意味も少しはあった。年長の横田が自分に好感を抱いてくれていることは、よく判っていた。
以前いた会社へ、大野総業をなんとか食い込ませようと考えたのも、その好意にほかならない。それなのに、折角作ってくれたパイプは、吉川の手に渡ってしまって肝心の大野は人まかせでのほほんとしている。それではあい済まぬ、と大野は心苦しく思っていたのである。
いずれにせよ、夜の店めぐりをやめることは、大野にとってかなり勇気の要ることであった。会社の基盤がいずれ完全に入れかわることを意味しているのだ。
とにかくそうやって、大野があまりくわしくないリース業の世界へ本式に足を踏み入れて行って間もなく、突然あの大野忠夫という人物から連絡があった。
「社長、お電話です」
加藤敏子がちょっと複雑な表情で言った。ふだんなら、誰それからとはっきり告げるはずであった。
大野は受話器を取った。
「はい、大野です」
「大野|守夫《もりお》君ですね」
ドキリとした。相手があの大野だと直感したからである。電話をとおした声が、弟そっくりであった。
「そうです」
「憶えているかね。わたしは大野忠夫と言います」
「いつぞや、銀座の店でお目にかかりました」
「名刺をもらっていたので電話したのだが、今度|大手町《おおてまち》に新しいオフィスがひとつできるのでね、そちらにおまかせしようと思っている。どうかね」
「は、有難うございます」
「わたしは今のところちょっと手をはなせんので、代理の者と会って、仕事を進めてもらいたい。今日中にでも、杉山《すぎやま》という人物がそこへ電話をすると思うが」
「はい。杉山さんですね」
「支払いその他については、まったく心配ない相手だ。まあ、せいぜい儲けてください」
声は笑いを含んでいるようだった。
「で、わたくしのほうはそちらへどうご連絡すれば……」
「いずれゆっくりお会いします。すべては杉山という男に聞いてください。よろしく」
電話は一方的に切れてしまった。
本来なら、狐《きつね》につままれたような気がしたところかも知れない。銀座のクラブで一度会っただけの人物が、いきなり割りのよさそうな仕事をくれると言って来たのである。眉に唾《つば》して警戒する気になってもふしぎのないところだ。
しかし大野はなぜか感動に似たものを味わっていた。……あの人が電話をかけて来てくれた、と。
でも、よく考えて見るとやはりいぶかしかった。……あの人が電話を。なぜそんな風に感じてしまうのか。大野忠夫はずっと年下の男である。それをなぜ目上の人間のように……しかも先方から電話をして来てくれたことを無上の光栄のように感じてしまっている。立場も身分もよく判ってはいないのに。
いぶかしくはあったが、さりとて申し出を拒絶する気はまったくなかった。大野は杉山という男の電話を心待ちに待った。
杉山というのは四十五、六の、余り風采《ふうさい》のあがらない男であった。着ているものも態度もしっかりはしているのだが、なんとなくうだつがあがらないと言ったような、影のうすさがあった。真面目一方で要領が悪いタイプである。背が高く、いかにも不器用そうに歩いた。
それでも仕事はかんたんに進行した。先方が要求を明確に打ち出して来たからである。それまで吉川が扱って来た仕事の多くは、デスクの配置から応接セットの型まで、いちいち相談に乗ってやらねばならず、手間がかかるのだった。
「日月会って、どういう団体なのでしょう」
吉川が契約をとりまとめた帰りの地下鉄の中でそう言った。相手はふつうの企業ではなく、日月会という団体の事務局であった。
「知らんね。でも、団体の事務局にデスクを三十も置くというと、かなり大きな組織なんだろうな」
「会議室や応接室がやたらに多い。いつもああいう仕事だと楽なんですがね」
「とにかく今度は俺の初仕事のようなものだ。アフター・サービスをしっかりやってくれ」
「判っています」
吉川は吊革《つりかわ》につかまっている大野の横顔をみつめた。
「社長が本気になってくれたので心強いですよ」
「お世辞を言うな」
大野は苦笑して見せたが、悪くない気分であった。
「それにしても、その頭や着る物をもう少しどうにかしたほうがいいんじゃないか。これからは大きな会社にもぶつかって行くつもりだ。一緒について来てもらえなくなる」
「そうですね」
吉川は長い髪をちょっと振るようにして、電車の窓ガラスに写して見ているようであった。
大野忠夫は日月会の事務局の仕事が一段落するとすぐに連絡して来た。
「思ったよりテキパキと仕事をすませたようだね」
「折角お世話していただいた仕事ですから張り切ったのですよ」
そう言うと、大野忠夫は軽く笑った。
「どうかね。今夜、君の店でご馳走《ちそう》になろうか。レストランを見せてもらいたい」
「ええ、どうぞどうぞ」
大野は一も二もなかった。まず、この間会った「バレンタイン」で落ち合うことにして電話を切ると、すぐ赤坂の店へ連絡して、今夜大事な客を連れて行くからと告げた。
夜になると、ひと足先に「バレンタイン」へ行って、四人ほど美人を選び、待機させておいた。
大野忠夫は約束の時間きっかりにやって来た。
やはり顔を見た瞬間ドキリとした。しかし、二度目だし、商売がからんでいたので、大野はなんとかその違和感のようなものをねじ伏せてしまったようだ。
一番奥の席へ落着いて飲みはじめると、大野忠夫は左どなりに坐《すわ》った菊代の肩に手をかけ、
「この子はこの前のときもわたしの席にいたな」
と言った。菊代があらためて名乗る。
「美人だ、うん」
そう言って頷き、
「それはそうと、君は子供は」
と大野に訊いた。
「二人です。上が男の子」
「ほう、下は女かね」
「ええ」
「かわいいだろう」
「はあ」
曖昧《あいまい》に答えて微笑した。大野は相手の正体をもっとよく知りたいと思っているのに、自分のことばかり訊かれている。家のある場所やオフィスのことなど、次から次へわりと立ち入った質問が続いた。
「悪く思わんでくれ。この先もずっと君に仕事をたのみたいと思っているのでね」
完全に年長者の喋りかたであった。
「よろしくお願いします」
大野はそれに反撥《はんぱつ》する気はまったくなかった。相手が自分よりずっと上の人間であることは、疑う余地もないように感じている。
「近頃は数字だ何だと面倒なことを言うが、やはり取引きは人間が相手だ。わたしは君という人間をよく知りたいのだよ。どうかね、これからひとつ、君のおたくへお邪魔しようか」
「うちへですか」
大野が驚いて問い返すと、大野忠夫はちらりと腕時計を見た。
「まだ八時前だ。それとも、もう坊やたちは寝ているかな」
「いえまだ起きていますが」
「行ってはいかんかね」
大野忠夫は大野の目をのぞき込むように笑った。
「では、ちょっと失礼して……」
大野はあわてて立ちあがった。無躾《ぶしつけ》と言えばこんな無躾なことはない。しかし大野は大野忠夫が持っている圧倒的な気力のようなものに敗けて、自宅へ電話をした。
「これからお客さまですの」
思ったとおり園子は不服そうだったが、それでもなんとか承知して、家の中を大急ぎでとりかたづけると言った。
「行ってもすぐ帰るよ。あ、それから言って置くが、この間話した俺によく似た人だからな」
自分が大野忠夫にさんざん心をかき乱されていたので、園子にも注意したつもりであった。
席へ戻ると大野忠夫は酒をそうそうに切りあげ、近くに待たせてあったハイヤーを呼んで「バレンタイン」を出た。
「君の弟さんに会った」
ハイヤーが渋谷へ向かうと、大野忠夫は愉快そうに言った。
「弟から聞きました」
「ほう」
「お目にかかったすぐあとです。羽田から電話をかけて来まして」
「兄弟仲がいいようだな」
「悪いほうではありません」
「弟さんはいくつかな」
「五つ下ですから」
大野は白いカバーのかかったシートにもたれ、目をとじたようであった。
「三十七か」
「ええ」
「家族は」
「子供は二人です」
「お母さんは」
「死にました」
「いつのことかね」
「五年ほど前です」
「ずっと君と一緒に暮していたのかね」
「ええそうです」
大野忠夫は沈黙した。その沈黙がいやに重苦しい感じだったので、大野は話のつぎ穂を失い、窓の外を見た。
しばらくすると、
「これから少し君の店を使うことにしよう」
と言いだした。
「ぜひお願いします」
「あれでどの程度かね」
「どの程度と言いますと」
「一流とか二流とかいうランクだよ」
「口はばったいようですが、銀座にあります三軒の店は、どれも二流ではありません」
「うるさい連中を連れて行っても大丈夫かな」
「たいていのことなら、ご満足いただけると思います」
「あんな店へ連れ込んだと、あとで笑われてはかなわんからな」
「そのご心配は必要ありません」
大野はきっぱりと言い切った。大野忠夫はそれを聞いて大野のほうを見た。
「そうかね」
思い出し笑いに似た笑い方をした。
「あ、おじいちゃまだ」
大野忠夫が家の中へ入るやいなや、久美子が甲高い声でとびだして来た。園子があわてておしとどめようとした。
「やあ、お邪魔しますよ」
大野はニコニコと笑ってスリッパに履きかえ、
「こんばんは」
と久美子の顔をのぞいた。
「こんばんは、おじいちゃま」
「久美子、違うのよ」
園子は困りはてた顔になる。
「おじいちゃんじゃないの」
園子のうしろにかくれるようにしていた克夫まで、ふしぎそうに言った。久美子は物怖《ものお》じしない娘だが、克夫は人見知りをするほうである。
「久美子ちゃんか。おいで……」
大野忠夫はしゃがみこんで両手をさしだした。
「おじいちゃまよ、ねえ」
久美子はうれしそうに近寄り、大野忠夫に言う。
「そうだよ、おじいちゃんだよ」
大野忠夫は柔和に笑っていた。
「おじいちゃんは死んじゃったんだよ」
克夫はなんとも中途半端な顔で、久美子と園子の両方へ言った。
「坊やの名前は」
「克夫です」
大野が答える。
「いい名だ。元気そうだな」
「お兄ちゃんはサッカーの選手になるのよ」
「サッカーか。うん、なれそうだな。いい体格をしている。久美子ちゃんは大きくなったら何になるんだ」
「お嫁さん」
「そうかそうか」
大野は笑いながら久美子の体から手をはなし、
「突然お邪魔して申しわけありません」
と、園子に頭をさげた。
「どうぞこちらへ。狭苦しいところですけれど」
仏壇が置いてある和室に用意が整えてあった。それでも床の間つきで、大野忠夫は床の間を背に座蒲団《ざぶとん》へ坐った。
「君、お茶で結構」
そう言い、鴨居の上に掲げてある二枚の写真を見あげた。ニヤリとする。
「あの父と大野さんがそっくりなので、驚いているのですよ」
「うん」
大野忠夫は曖昧に頷き、
「しかし君も中々親孝行じゃないか、ええ」
と、からかうように言った。
「いえ、母のしたことをそのまま引きついだようなものでして」
「親孝行はすべきだ。いずれ君の子供がみならうだろう」
「そうだといいのですが」
「坊やの成績はどうかね」
「まあまあのようです。しかし、小さい時の成績はあまり当てにならないようです」
「そうかな」
園子が茶を運んで来た。
「いらっしゃいませ」
とあらためて挨拶する。
「すぐおいとましますから、どうぞおかまいなく。今度、日をあらためてゆっくりうかがいます」
「どうぞお気軽に」
「お二人とも、いいお子さんですね」
園子に対する大野忠夫の態度を見ていて、大野は、おや、と思った。自分に対しては有無を言わせぬような高圧的なところがあるのに、園子には世間なみの挨拶をしている。園子のほうがやや年上で、その年齢差がきちんと出ているようなのだ。
「久美子が失礼なことを申しまして、お気になさらないでくださいませ」
「ああ、おじいちゃん、ですか」
大野忠夫は笑ってまた写真を見あげた。
「かまいませんよ。今後もおじいちゃんと呼んでやってください」
「まあ……」
園子はそれを冗談として受取ったようで、口へ手をあてた。
「それにしても、よく似てらっしゃいますわねえ」
大野は語りかける。
「まったくだ。どうやら久美子の奴、本物のおじいちゃんだと思っているらしい」
大野忠夫は微笑し、湯呑《ゆの》みをとりあげてひと口飲んだ。
「さて、おいとましますか」
「ゆっくりしていらっしゃってください」
「お子さんたちの就寝時間ですからな」
そう言ってあっさり立ちあがる。
「また外へ連れ出しては奥さんに悪い。レストランのほうは、また後日拝見しよう」
「いいじゃないですか。ご案内します」
「いや、今夜はこれまでにしておこう。奥さん、どうもお邪魔いたしました」
大野忠夫はその部屋を出ると、
「坊や、久美子ちゃん、さようなら」
と愛想よく言って靴をはきはじめる。
「どうも、何もおかまいしませんで」
「いやいや、また寄せてもらいますから」
大野がドアをあけた。
「それじゃ君、今後しっかりたのむよ」
大野忠夫は大野をみつめて低い声で言い、外へ出た。
「お送りします」
「いや、いいから」
大野を家の中へ押し戻すようにしてエレベーターのほうへ去って行った。見送っていると、すぐエレベーターの音がして、おりて行ってしまった。
「びっくりしたわ」
園子がおかしそうに言った。
「似すぎていらっしゃるんですもの」
「言ったとおりだろう」
「でも、とても感じのいい方ですわ」
「そうかな」
「ええ。それに、なんだかあなたが二人になってしまったみたい」
「顔かたちが似ると、そうなるんだろう。声まで俺に似ている」
二人はドアをしめた。
「おじいちゃま、帰っちゃったの」
「ええ、お帰りになったわ」
「今度いつ来るの」
「さあ、いつでしょうね」
「つまんないわ」
久美子が口をとがらせた。
「また来ると言っていたよ」
大野が服を脱ぎながらなだめる。
「久美子はあの人が気に入ったらしいな」
「大好き。だって、おじいちゃまですもの」
「もし本当のおじいちゃんだったら、お父さんより年上じゃなければおかしいじゃないか」
「だって、お写真とおんなじよ」
大野は苦笑した。
「克夫はどう思う」
「おじいちゃんて、僕見たことない」
「そうだよな」
「でも、やっぱりおじいちゃんみたいだな」
「好きか」
「うん」
「どこが好きだ」
「判んない。お父さんみたいだし、叔父さんみたいだし、……うちの人みたいだね」
「あれはおじいちゃまだってば」
久美子はじれったそうにそう言った。
それから一か月ほどたった。
横田のもと勤めていた一流商社、R商事との取引きは一進一退の状態であったが、それが急転直下、先方からいきなり契約したいと申し出て来た。
「やった、やりましたよ」
駆け込んで来た吉川は、まさに手の舞い足の踏むところを知らずと言った様子ではしゃいでいた。
「横田さん、有難う。本当に有難うございました」
横田の手をとって両手で握りしめ、何度も頭をさげた。
「どうやらお役に立てたようですな」
穏やかな横田は、照れたように大野を見てそう言った。さすがに大野もうれしく、用もないのに取引銀行へ寄って支店長にそのことを告げたりした。
ところが、夕方近くなって園子から電話があって、いま大野忠夫が来ているという。
「ついさっき見えたんです」
「なぜすぐに連絡しない」
大野は叱った。
「だって、できなかったんです。お茶の用意をしたり、すっかりあわててしまって」
「すぐ行く。いまうちにいるんだろう」
「それが、久美子と克夫を連れて公園へ遊びにおいでになってしまって……」
「変な人だな」
ふと不安が胸をかすめた。いまだに正体のはっきりしない相手なのだ。まさかとは思うが、子供をどうにかされるような気がしたのである。
「うちのそばの公園か」
「ええそうらしいです」
「とにかく行く」
大野はあわてて電話を切り、オフィスを出た。
家へ急ぎながら、今度こそはっきり素性を訊いて置こうと思った。得体の知れぬまま付合っていては、折角親しくなっても心の底にいつも不安を抱いていなければならない。それに、なぜああ自分たちの一家に接近したがるのだ。どうも単なる子供好きとは言えないようだ。やはり最初感じていたように、死んだ父の隠し子か何かではなかろうか。
マンションの前を通りすぎて、その先の小さな公園へ行こうとすると、
「お父さん」
と克夫に呼びとめられた。マンションの入口のところに、久美子と一緒に立っていた。
「どこへ行くの」
「なんだ、お前たち、あのおじさんと一緒じゃなかったのか」
「帰ったよ、もう」
「おじいちゃまがくれたの」
二人とも手に箱を持っていた。克夫のは戦車のプラモデル、久美子のは高価な着せかえ人形だ。
「おみやげだよ」
克夫はコンクリートの床の上にその箱を置いて、蓋《ふた》をあけようとした。大野はなかば無意識に、
「お母さんに見せてからにしなさい」
と叱り、子供たちと一緒にエレベーターで家へ戻った。
「突然お見えになって、さっさと子供たちを連れ出しておしまいになるんですもの」
園子は呆れ顔であった。
「何も言ってなかったか」
「ええ、別に何も」
「どういうわけかなあ」
大野は首をかしげた。そのとたん、R商事の件がひらめいた。
「そうか。そうに違いない」
「なんですの」
「いや、仕事の話だ。俺はすぐまた会社へ戻る」
「今晩も遅くおなりですの」
「判らん」
大野は急いでマンションを出た。
R商事の件が急転したのは、大野忠夫のせいに違いないと思った。あの男が、また何か力をかしてくれたのだ。克夫や久美子と同じように、自分もおみやげをもらったのだという気がした。
オフィスへ戻ると、吉川はいなかった。そのかわり「バレンタイン」の店長が顔を見せていた。
「何だ、きょうは」
「いえ、ちょっと」
経理に用があったらしい。横田が何か書類を作っていた。
「かわったことはないか」
大野はデスクについて、事務的に訊いた。
「別に……順調に行っています。そうそう、菊代の奴が」
「菊代がどうかしたか」
「あいつ、とうとうやめますよ」
「ほう。どうしてだ」
「例のそっくりさん」
「そっくりさん……」
「社長にですよ」
「大野さんか」
「ええ。あの人の世話になるそうです」
「菊代がか」
「内緒ですよ」
「大野さんはバレンタインへ、あれからちょいちょい来るのか」
「ちょいちょいどころか、しょっ中でした。菊代がお気に召したんですね」
「あの大野さんがか」
「ええ」
店長が大野に顔を寄せ、
「顔が似ていると、好きなタイプまで似るもんですかね」
と笑った。
「好きなタイプって、どういうことだ」
「だって、菊代は社長の奥さんに似ていましたからね」
大野は顔をあげて椅子の背にもたれた。たしかに、そう言えば園子と菊代が似ているということを、以前誰かに言われたことがあった。
「大野さんの口座はどうなってるんだ」
住所がそれで判ると思った。
「R商事ですよ」
店長はこともなげに言う。大野は唸《うな》った。
「やっぱり、R商事あたりがうしろについていたんだな」
「菊代もいい汐時《しおどき》だったでしょう。まだ三十ちょっと過ぎですが、何しろ勤めたのが早かったから。でも、ああいういい選手はちょっと補充がきかないですからね」
「そうだな」
何もかも心得た、気っぷのいいホステスであった。
「できたよ」
横田が言い、店長はそのほうへ去った。
大野は「バレンタイン」の店長に、今度大野忠夫が来たらすぐ連絡しろと命令して置いた。すると、三日ほどした日の七時ごろ、「バレンタイン」から連絡が入った。いま店へ入ったところだと言う。人数を訊くと一人だそうであった。
絶好のチャンスだと思い、大野は銀座へ駆けつけた。大野忠夫は、早い宴会のあとだと言って、機嫌よく迎えた。となりに菊代が少しベタベタした感じではべっている。
「おかげさまで、またひとつ仕事が増えました」
大野は丁寧に頭をさげた。
「礼を言われるほどのことはしておらんよ」
大野忠夫は鷹揚《おうよう》に答えた。
「しかし、今度のは最高の取引先です」
「そうか、判ったか」
珍しく酔った様子を見せ、豪快に笑ってみせた。
大野はその時になって、相手の言葉づかいが年齢にそぐわないのが気になりはじめていた。自分より若いくせに、いやに老人ぶった喋りかたをするのだ。いや老人ぶったというより、古臭いのだ。現代的なスマートさがなく、力み返っているように思える。
「どうだ、わたしにちょっと付合わんか」
どこかへ梯子《はしご》をはじめる気らしい。
「結構ですね」
大野は今夜こそ突っ込んだ話にしようと思っていたから、即座に承知した。
「わたしのほうの勘定だぞ。間違えるな」
大野忠夫は店を出るとき、店長にそう念を押した。
「子供たちがおみやげをいただいたそうで」
ビルの外へ出て歩きはじめると、大野はそう礼を言った。
「ああ、いつも突然で悪いな。気に入ってくれたかな」
「二人とも大よろこびです」
「それはよかった」
大野忠夫は勝手知った様子で並木通《なみきどお》りにある大きなビルの地下へおりて行く。どんな店に行くのかと思っていると、豪奢《ごうしや》な木のドアを押して中へ入った。看板らしいものは何もなかった。
「部屋を借りるぞ」
大野忠夫は入口のデスクに坐っていた若い男に言った。
「どうぞ」
男は立ちあがって奥へ案内する。小ぢんまりとしたラウンジがあり、その先にいくつかドアが並んでいた。
「こちらでよろしいでしょうか」
男がそのドアのひとつをあけた。ウィスキーやブランデーの並んだ小さな棚がついており、ソファーが四つ並んでいた。
「うん、ここで充分だ」
大野忠夫は例のちょっと力んだような言い方で頷き、大野に坐るよう手でソファーを示した。
「君は本職だろう。ウィスキー・ソーダを作ってくれ」
ボトルもグラスも氷も、手を伸ばせば届く位置に揃っていた。大野は手早くウィスキー・ソーダをふたつ作った。大野忠夫はその間にオリーブをひとつ口にほうり込んでいた。
「菊代のことだが」
大野忠夫は渡されたグラスを見て言った。
「あの女はわたしが当分世話をすることにした。店をやめるかも知れんが……」
「はい」
返事のしようがなくて、大野は相手の顔をみつめていた。
「迷惑かな」
「いいえ」
「そうか。他愛もない……話はそれだけだ」
「実はわたしのほうで少し伺いたいことがあります」
「なんだね」
「あなたはわたくしとどういう関係がおありなのですか。何か血縁があるのではないかと、先だってから疑問に思っているのです」
「血縁……」
大野忠夫は笑いだした。
「あったらどうなるのかね」
「いえ、いろいろお引立て願っておりますのに、あなたのことを少しも存じあげないようなので」
「かまわんじゃないか、そんなことは。まあ、いずれ時が来れば自然に判ることだし。それより、たしかにわたしは君を引立てようとしている。なぜだか判るかね」
「顔が似ています。似すぎるくらいです。だから、何か血縁関係のようなものがあるのではないかと……それでお引立てをいただいているのではないかと思っています」
「そんなことはどうでもいい。わたしは君に期待している。人間としてもっと大きくなってもらいたいと思っている。はっきり言うと、まず今やっている水商売をやめてもらいたい」
大野忠夫はソファーの背にもたれて、意外なことを言いはじめた。
「なぜでしょう」
「なぜ……。くだらん質問だな、それは」
大野忠夫は眉を寄せ、体を前に起した。
「男一匹のやる仕事か、あれが」
「しかし、その道で年期をいれました」
「そうかも知れんが、早く足を抜きなさい。わたしはただ勝手な熱を吹いているのではない。早く足を抜かせたいから、リース業とかのほうのあと押しをするのだ」
「しかし、長い間の苦労が実って、それなりに収益をあげていますし」
そうおいそれとやめられるものか。そう言いたかった。
「収益……バーやクラブの収益など、どれほどのことがあるのだ。君はもっとしっかりした仕事をしなければいかん。だいたい今の男は柔弱に流れている。バーやクラブをいくら数多く持っていても、それは芸者屋のおやじと同じことだ。それなのに、いっぱし実業家のように扱われる。いや、君のことばかりを言っているのではない。世間一般にそういう軟派の風《ふう》が強いというのだ。泰平が続きすぎたのかも知れんな」
「どうなれとおっしゃるのです」
「もっと男性的に生きなさい。男はああいう場所へ、あくまでも客として行くべきだ。客を迎える側になってはいかん。女郎屋の亭主など、落伍者《らくごしや》のすることだ」
「売春などしていませんよ」
大野はムッとした。
「物のたとえだ。しかし、バーもキャバレーもクラブも、大きな線で囲えば女郎屋と似たようなもんだ」
「少し乱暴なお話ではないかと思いますが」
「男は乱暴なものだ。本来乱暴なものなのだ。いま、日本という国は、どこからどこまで都会風になってしまった。繊細が尊ばれ、上品をよしとする。だがな、世の中というものは、こんな時ばかりではない。戦国乱世ということもある。そんな時に備えて、まず生きのびるだけの力をたくわえるのが男のつとめだ。それがなくて何が妻子だ。そんな無責任なことで妻子を持つのはおこがましい」
「たしかにそういうことは言えるでしょう。しかし、いまこの東京で、粗暴な振舞いばかりしたら生きて行けません」
「何も粗暴になれと言ってはおらん。力を持てと言っているのだ。力とは決して静かなものではない」
「おっしゃることはよく判りますが……」
「君は何か格闘技を学んだかね」
「格闘技ですか」
「柔道、剣道、なんでもよろしい」
「いえ、別に」
「いかんな。わたしが言いたいのはそこのところだ。いいかね、身を守るすべ、敵を倒す方法を何ひとつ知らずに生きていることになるのだぞ。おそろしいとは思わんかね」
「現代社会では、そういう危険は滅多にありませんからね」
「本当にないか」
「少いです」
「困ったものだ。そういう危険は昔だってそうたびたびあったものではない。しかし、男というものは、妻や子を守る義務がある。ひいては国に対する責任がある。それは、男として生まれたら、必ず生じる責任だ。まれにしかなくても、備えねばならん。君らは敵を自分で倒せずに、いったい誰に倒させようというのかね」
「警察があります。必要なら自衛隊も……」
「すると、君も、君の子供も、孫も、代々にわたって他人に自分の生命を守らせようというのか」
「警官になったり、自衛官になったりする者も出るでしょう」
大野忠夫はため息をついた。
「なんとかせねばいかんのだなあ」
「すると、日本人の男一人一人が、素手で敵を倒せる技術を身につけるべきだと、こうおっしゃるのですか」
「必要なら素手でも殺せるだけの男でなければいかん。世界中で日本の若者くらい、銃器の取扱いを知らん国民はおらんだろう」
「平和だからです」
「平和結構。しかし、一旦緩急の際にはどうなる。その平和が守れんじゃないか。鉄砲の使い方を教えているうちに国が滅んでしまう」
「そんな敵がいるでしょうか」
「君個人のことを訊こう。君には敵が絶対にいないか。小なりとはいえ会社をひとつ君は持っている。それは経済的な戦争をしているということだぞ」
「そういう意味でなら、敵はいくらでもいます」
「同じことじゃないか。一国の経済活動は、すなわち経済的な戦いをしているということだ。そして、経済的な戦いということは、必然的に武力の衝突の危険へ結びついている。仮りに君が或る男をまる裸の無一文にしたとしたらどうなる。その男は君を恨まないか」
「恨むでしょうな」
「一国が富を集めれば、どこかが富を失っている。貧乏人が金持に追いつこうと努力しても、金持は更に金持になって行く。世の中とはそういうものだ。君らはそれを綺麗ごとにして見ているのだ」
「すると、あなたが言いたいのは、結局国民皆兵ということになりますね。徴兵制度を復活して、二年間なら二年間、若者にみっちり軍人としての教育を叩《たた》き込む。そうすれば安心なのですか」
「少くとも、それで今よりはいくらかよくなる。国を守る意志のない国民など、まったく価値がない。自分を守る意志がないということだからだ。だが、現在はそういう人間ばかりだ。正論を吐くとすぐ右翼だの反動だのという。いいかね、右翼がアカを亡国の徒だとそしるのは、そういうことなのだよ。みんなでかつがねばならぬ荷物がここにある。それをごく僅かの人間が必死に動かしている。それなのに、手を出そうとすると、右翼だ反動だ……それではアカの連中に問いたいが、国という荷物は誰が運ぶのだ。何もわたしは反共でこりかたまっているのではない。しかし、君や、君の奥さんや、坊やや久美子ちゃんや、そういう人間がいるこの国を、もっとしっかり守らなければいけないと言っているんだ。日本は、台湾《たいわん》も南洋諸島も、朝鮮《ちようせん》半島も満州《まんしゆう》、北方領土さえ失ってしまったではないか。もし日本の側にそれを得たとき不正があったとするなら、それを取り戻した側に絶対不正はなかったのかな。現に北方領土は失ったままだし、沖縄《おきなわ》もつい近ごろ返還されたのだろう。国内各地にある米軍基地はどうだ。日米安保条約というが、そういうものがなかったら、横領に等しいだろう。そのことを、日本人はもう少し深く考えるべきなのだ。そういう基地に核兵器があるのは当然だ。領土の一部を貸してやって、もしそれがなかったら騙《だま》されているようなものじゃないか。それをいかんと言うとは、まったくおかしな心理だな」
「そういう問題については、どうも苦手なものでして」
大野は話をそらせようと、少しおどけた頭の掻《か》き方をした。
「別に君を責めているのではない。しかし、しっかりやってもらいたい。こういう世の中はひとつのチャンスなのだからね。みんな女のように腐ってウジウジしてしまっているとき、世の中の根を掴《つか》んで力強く生きれば、すぐ人の上に出られる。……どうかね、坊やを学習院へ移しては」
言い方が唐突だったので、大野は一瞬何のことかと思った。
「学習院……」
「すぐ移してあげるが」
「さあ、少し考えさせてください。家内とも相談しませんと」
「ばかな」
大野忠夫は憤然とした。
「そんなことまで君は女房に相談しなければきめられんのか」
「しかし……」
「しかしも糞《くそ》もあるか。それだからいかんというのだ。わたしは坊やの将来を思って言うのだ」
「克夫は家内の子でもあります」
急に大野忠夫が動いたのを、大野はぼんやりと意識していた。何かが顔に向かって飛んで来て、よけようとしたが遅かった。
パシン……と音がした、視界が一瞬白くなり、そのあとで左の頬に強い痛みを感じた。
朧《おぼろ》な視界に男の顔が浮かんで来た。それは思い出の中の顔であった。そしてその背後に、現実の顔があった。ふたつは重なり、とほうもなく懐かしい痛みがいつまでも頬に残っていた。
大野の目は痛みのためではなく、涙を湧きださせていた。こんなことが……、こんなことが……、こんなことが……。
「お父さん……」
大野が言ったのではなく、大野の体が相手をそう呼んでしまった。幼い日の昼さがり、縁側で駄々をこねていて、庭から入って来た父に平手うちを食った。その平手うちと、まったく同じであった。
大野忠夫は無表情でそれを見かえしていた。
「あの時、あなたは白い手袋をしていた。右手の手袋を外して、ぼくをぶったんだ」
大野忠夫は立ちあがった。
「また会おう」
そう言ってドアをあけた。
「待ってください、お父さん」
だが、大野忠夫は振り向きもせず行ってしまった。
大野はそのうしろ姿が見えなくなるまで見送り、しばらく茫然《ぼうぜん》とソファーに沈みこんでいた。
第三章
はじめはそうでもなかった。しかし、経過して行く一分ごとに、大野は恐怖を強く感じはじめた。
父が生きていた。大野忠夫イコール父……。死んだはずであった。三十五年も前に死んでしまった人間なのだ。たしかに病院で遺言を聞いた憶えがある。
「お母さんの言うことをよく聞いて、えらい人になるんだよ」
そして父は死んだのだ。一家はそのために辛い道を歩まねばならなかったではないか。
三十五年間……。母の松江が死の床についていたとき、その父に救けてくれとしん底から祈ったではないか。松江はほとんど毎日祈っていたかも知れない。
生きていれば、どこかの時点で一家を救いに現われていなければならない。なま身の人間ならば……血と肉のある人間ならば。
なぜ今になって現われたのだ。しかも、死んだ時と同じ年恰好で。
理屈に合わなかった。科学的でなかった。だが、あれはたしかに父の大野忠夫なのだ。酷似した顔かたちで、その上同姓同名……当たり前だ。本人なのだ。
大野の理性は、それをうけ入れまいと必死に抵抗した。しかし、肉体が、本能が、それを確認していた。絶対に間違いなく、あれは父親だったのである。
大野は、理性ではどうにもならぬ、ひどく根深いものが人間に備わっていることを悟らされた。理屈ではないのだ。さりとて日常言う直感とも少し違う。とにかく、生理的に事実を確認してしまうのだ。
いったい、なぜ……。大野は心の中でまたその言葉をくり返していた。気がつくと、夜の銀座を堂々めぐりしている。
その謎《なぞ》はおぞましいものであった。吐瀉物《としやぶつ》に似た、饐《す》えた匂いを放っていた。
大野は最初の晩のことを思い出していた。
「バレンタイン」で、はじめて大野忠夫を見かけた時のことである。その時もたしか、饐えたような嫌悪感を味わったのではなかっただろうか。
そうだ。……大野は立ちどまった。そこは数寄屋橋《すきやばし》の交差点であった。あの時、自分の肉体は、血管の中のものは、それが父であることに気づいていたのだ。それを悟り得なかったのは、浅はかな理性というもののためだったのだろう。理屈に合わない、非科学的だ……それだけのことで、おのれの体を動かし生かしつづけている神秘なものの告げる言葉を、聞き流してしまったのだ。
父は蘇《よみがえ》ったのだ。三十五年前の姿でいまこの銀座にいる。
交差点の歩行者用の信号が青にかわった。しかし、動きだした人波の中で、大野だけはじっと立ちつくしていた。茫然として交差点を渡るために動く人々をみつめている。そこはスクランブル方式の交差点であった。大野は交差点の中央あたりを眺めていた。人々は激しく押し寄せ、交錯し、消えて行った。中央で入れかわり、こちらへ向かっていた人々が、逆に背を見せて遠ざかって行く。遠ざかって行った人々が、急に近くへ押し寄せて来る。
わからない。そうつぶやいて足を踏みだしかけた時、信号が赤になった。大野はぼんやりと歩道の端にたたずんでいた。
いま自分のとなりでスタートして、向こう側へ渡って行った人間は、向こう側へ着いたとき、同じ人物でいたのだろうか。途中で誰か別な人間になってしまったのではないだろうか。大野は、そんな日常的なことにすら、恐しい疑問を抱かずにはいられなかった。
交差点は、閉じたりひらいたりする、この世の淵《ふち》なのではなかろうか。いや、交差点のように閉じたりひらいたりするこの世の淵が、どこかにあるのではなかろうか。そして、一度死んだ父は、そこから逆流して来たのかも知れない。
あり得ない。あり得ないということがある。それが父大野忠夫なのだ。理解不能……ただ事実を認めるしかない。
事実、その時の大野は狂いかけていたようだ。人が来れば道をよけ、信号が赤なら足をとめた。しかし、何も見てはいなかった。ただ、慣れた街を無意識に歩きまわっていたのだ。意識はすべて内側に向かっていた。ほんのちょっと……たとえば乱暴な若者がすれ違いざま強く肩を当てるとか、いつもどおりではないことが起ったら、大野は車に撥《は》ねられていたかも知れない。それくらい無防備に歩いていた。もしそのとき、年下の父親が存在することについて、それ以上考え続けたら、一度死んだ者が三十五年目に生き返って来ているということについて、少しでももっともらしい解釈を得ようとしたら、多分大野は正常でいることができなくなったに違いない。
だが、大野の肉体は健全であった。滅びる危険のある思考を、とめさせてしまった。それは知恵以上の知恵と言えよう。ひと目見て死んだ父だと悟った知恵と同じように……。
今度ははっきり自分をとり戻した。タクシーをとめ、渋谷と告げた。車のシートにもたれ、これ以上考えても無駄なことだ、と自分に言い聞かせていた。このことは神の領域の問題である。自分のような平凡な人間に、とうてい解ける謎ではないのだ。そう思った。
はっきり判ったこともあった。大野忠夫が持っているあのどうしようもない威圧感は父のものであった。克夫や久美子に異常な関心を示したのは、祖父であったからだ。そして、園子に対して世間なみの年齢差を感じさせたのは、血のつながりがないためであろう。自分に対して何かと手をさしのべたのは、無論実の子であったからだ。
ひょっとすると、瀬田物産の本社で弟に会ったのは偶然ではなく、それとなく会いに行ったのではなかろうか。
物の言いかたが古臭かったはずである。父は明治生まれなのだ。さっきの議論も憤慨も、みなその一事で謎が解ける。だが、俺は生き返らないぞ。あんな風に生き返るのは嫌だ。……なぜか大野はそう思い、無性に子供たちの顔が見たくなって来た。
弟の充夫が上京して来るまでの一週間、大野は呆けたように過していた。それは、体のどこかに大きなはれものが出来て、身動きできない状態によく似ていた。
園子は心配して医者に診てもらえと毎日のようにすすめた。まるで元気がなく、一日中ぼんやりとしていたのだ。三、四日は風邪を引いたと称して、会社も休んでいた。
たしかに、大きなはれもののようなものがあった。勿論《もちろん》それは大野忠夫の存在である。その巨大な矛盾をかかえ込んで、円滑な日常生活が送れるほど、大野は図太くなかった。それに、打明ける相手もいなかった。仮りに妻の園子に告げたとすれば、園子は夫の健康状態を一層案じるだけであろう。いったい誰がそんなことを信じるというのだ。三十五年前に死んだ人間が、死んだ時そのままの状態で蘇っているなどと……。
誰もいなかった。大野の負担を軽減してくれる人間がもしいるとしたら、それは大野忠夫でしかなかろう。
「君をからかったんだよ。実は君の遠い親戚でね」
大野忠夫がそんなように納得させてくれたら、大野はたちまちその窮地から脱出できただろう。しかしそれはあり得ないことだった。幼年時代のあの縁側での平手うちを知っているのは、あの大野一人だけなのである。恐らく母の松江が生きていても、そんな遠い日の一齣《ひとこま》を憶えている可能性は薄かった。その思い出は大野が長い間胸に秘めて来た父への思慕のシンボルのようなもので、松江にさえ一度も語ったことはなかった。たとえどんな周到にたくらんだ嘘《うそ》でも、あの平手うちの演出だけは絶対不可能なのだ。また、それにもまして、あの平手うちが示したことを今になって否定することはできなかった。
あの左頬に与えられた一撃は、父の存在を証明してしまっていた。相手が実の父であることを、人間の血のつながりが、その父から与えられた大野の肉体が、天と地があることよりもなお抜きさしならぬたしかさで、はっきりと悟ってしまったのである。
だが、もう一方では死者の復活という不条理がある。大野の呆けたような一週間は、その異物を嚥みこむための時間であったようだ。
弟の充夫は何の前ぶれもなく、いきなり大野の家のドアをあけた。
「兄貴いますか」
居間のソファーで漫然と時を過していた大野は、弟の声を聞いてハッとし、みるみる生気をとり戻した。
「具合が悪いんですって……」
園子にそう言っている。オフィスで聞いたのだろう。
「なんだかおかしいんですのよ」
「稼《かせ》ぎすぎですよ」
充夫は冗談を言いながら居間へ入って来て、小さな旅行鞄《りよこうかばん》をソファーの上へ置くと、そのとなりへ腰をおろした。
「どうしたんだい」
「いや、別に」
「会社へ電話をしたら休んでるって言うじゃないか。珍しいことがあるもんだと思った」
「病気じゃない」
充夫は軽く笑った。
「ただの休養か。嫂《ねえ》さん、ご亭主は更年期ですよ」
充夫はまた冗談を言い、急に真面目な顔になった。
「どういう話なんだろうね」
大野は何のことか判らなかった。
「何がだ」
「あれ、こっちにはまだ連絡して来ていないのかい。大野氏のことだけど」
「大野…」
「そう。どうしても出て来いというんだ。東京で会いたいって……兄貴と二人でだよ」
「そうか」
大野は沈んだ声で答える。
「何の話だい。知っているんだろう」
「いや、知らない。連絡も来ていないくらいだからな」
「一緒に赤坂の料亭へ来いとさ。本社の秘書課を通して言って来たので、やって来ざるを得なかった。……そうか、俺に連絡さえしておけば、自然兄貴のほうへも通じると思ったのかな。とにかく、二人一緒に来いと言うんだ」
「いつだ」
「今夜七時」
「会う気か」
「それで来たんだ」
「それじゃ行こう」
「変だな。何かあったのか、あのおやじと」
おやじ、と充夫は冗談で言った。しかし大野の心にはそれがズシンと響いた。
「用件の一部は見当がついている。しかし直接会って聞いたほうがいい。ゆっくりしていられるのか」
「うん、私用だからな。だが、私用のくせに秘書から半分命令のように言われた。妙な具合さ。いったい何者だい、あのおやじは」
「今夜それも判るだろう。ところでお前、おやじのことをどのくらい憶えている」
「大して憶えちゃいない。三つだったからな。それも、満じゃなくて、数えで」
「来いよ」
大野はソファーを立って和室へ入った。
「なんだい」
充夫がついて来る。
「見ろ」
大野は鴨居に掲げた父の写真を示した。
「ほう、また飾ったのか。懐かしい写真だ」
充夫が懐かしいと言うのは、それを掲げてあった期間のことであろう。父を懐かしむには、当時の充夫は幼なすぎた。
「お前がいつか本社で見かけたというのは、この人物だな」
「うん、そっくりだったよ。あまりよく似ていたので兄貴に電話したんじゃないか。しかし、この人物というのはおかしいよ。これは俺たちのおやじだ」
「うん。大野忠夫だ」
「いけねえ、あっちも大野忠夫だったな。なんだかこんがらがって来た」
充夫はそう言って大声で笑う。
「それにまあ、おふくろの奴、若い男と並んじゃって。うれしそうな顔してるぜ」
充夫はそれでも、小さな仏壇に灯りをあげ、合掌《がつしよう》した。線香の匂いが流れる。
「紅茶をいれました」
園子が声をかけた。
「久美子はまだ帰りませんか」
「さあ、近くで遊んでいるんでしょう」
「公園にいるかな」
兄弟は居間に戻って紅茶を飲みはじめる。
「夕方まで置いてください。時間が余ってるんです」
「まあ珍しい」
園子はうれしそうに言う。
「みやげを持って来なかった。克夫と久美子を連れて、デパートを散歩して来るかな」
「高くつくぞ」
「そう勝手にはさせないさ。ちゃんと納得させてやる。こっちにも予算があるからな」
充夫は笑った。
「充夫さんは子供好きなんですのね」
「まあ好きなほうでしょうね」
「こいつは小さい時からそうだった。いつも年下の子を集めて餓鬼大将になっていた」
「兄貴は反対だ。ずっと年上の子供とばかり遊んでいた。ませてたのかな」
「あら、そんなこと、はじめて聞きますわ」
園子が意外そうに言う。
「お前、自分が歳をとって、孫ができたらどうする」
「おふくろ以上に、孫に夢中になるだろうな。どうもそいつは間違いなさそうだ。おふくろも克夫に夢中だったからな」
「たとえば、躾《しつけ》なんかはどうする」
「うまくやれるかな。だいたい、おじいちゃんと言うのは、孫にそういうことをすべきなのかい。間に親がいるのに」
「祖父に厳しく躾けられたという人もいるぞ」
「そうだな。躾けなければいけないのなら、ひょっとするとかなり厳しくなるかも知れないぞ」
「どういう人間に育ててやりたいと思う。もし孫が男の子なら」
「それはきまっているさ。たくましい男だ。公明正大でしかも強い男。理想だからな」
「お前の理想か」
「誰でもそうだろう。違うのか」
「いや、訊いたまでさ」
「女はしとやかで美しく、男は強くたくましく……いつの時代だってそれはおんなじだろう。しとやかな男なんてぞっとしないよ」
「でも、女の子でしたら、少しは強かったりたくましかったりしないと、これからはなかなか大変なんじゃありませんかしら」
「おい兄貴、気をつけろ。ウーマン・リブだぞ」
充夫はふざけた。
「少し堅い話になるが、いいか」
「なんだい」
「一般論でいいんだが……」
園子はキッチンへ戻った。
「今の社会をどう思う」
充夫は煙草をとりだして火をつけた。
「結構な世の中さ。少くとも俺はそう思うね。中国《ちゆうごく》だってたしかにいい社会を作っただろうよ。でも、例の赤い表紙の本を町中の人間がカメラに向かってかざして見せている写真なんか見せられると、兄貴たちが学校の出入りに勅語や天皇の写真をしまった小さな倉みたいなところで最敬礼してたのをつい思い出しちゃうな。それ以外ないって言うのは困るんじゃないかな。かと言って、アメリカにもかなり強烈な人種差別がある。結局今のところ、日本がいちばんいいんじゃないかい。天皇を冗談の種にしても逮捕されるわけじゃないし、共産党と自民党の候補者が道でマイク合戦をやっていられる。もっとどっちかへかたよれば、どっちかが地下へ潜らなければならない関係のはずだよ。食い物はあるし、着る物だって贅沢《ぜいたく》だ。デパートの時計売場なんかへ行くと、これでいいのかなあという気になるくらいだ。呆れるほどいろんな種類がある。われながら、こんなに作っていいんだろうかと、少しは節約したい気分になるよ」
「つまり、満足しているわけか」
「それは、よくない面もあるさ。でも、世界を見まわしたらいいほうじゃないかな」
「戦争についてはどうだ」
「あると思う」
「ほう」
「あいつは決してなくならないよ。ばかばかしいことだが、この前の戦争の記憶を持っている人間が一人もいなくなったら、また同じことになると思う。俺たちの子供が一人前になる頃には、いや、その頃までには、かな。とにかくまたはじまりそうだ」
「どことだと思う」
「これは俺の意見だが、案外またアメリカあたりと」
「どうして」
「物を売ってれば……世界に向けてという意味だけど、なんだかそんな気がして来るのさ。日本は売らなきゃ食えない国だ。そうだろう。戦後ずっと、日本人はアメリカ製品というものを、その土地に昔から生えている太い木のように思って来た。その間を、トランジスタみたいなものを持って走りまわっていたのが日本人だ。でも本当はそうじゃない。もとから生えてた太い木じゃないんだ。追い払えば追い払えるものさ、俺は最近そう感じて来た。そうしたら、またアメリカあたりと……と、そう考えるようになったのさ」
「すると、やはり軍隊は」
「要るね。今すぐじゃないかも知れないが、結局必要になると思う。アメリカがしん底善人サムならそうはならないだろうが、そんな国はありはしない。横車も押せばおどしもかける。日本だって、まただんだんとアメリカなみになるさ。喧嘩の可能性はなくなりはしないよ」
「ソ連《れん》や中国は」
「俺がよく知っているのはアメリカだ。だから今言ったように思うのだけど、ほかの国にくわしくなれば、またそれはそれで別なことを感じるだろう」
「やはり軍備は必要か」
「ふしぎだよ。俺も昔は戦争なんて、どこのばかがやるのかと思っていた。でも考えがかわって来た。戦争はいやだが、やむを得ない時もあるんじゃないか……平和主義の信念がぐらついているんだ」
「まわりの連中はどうだ」
その時、久美子と克夫が一緒に戻って来た。
「あ、おじちゃん」
克夫が先にとびついて行った。
「おう、二人ともデパートへ連れてってやるぞ」
「やったあ……」
克夫が指を鳴らす真似《まね》をする。
「生意気なことを知ってやがる」
充夫はうれしそうに言った。
「連れて行って来るよ。その話はまたあとでしよう」
充夫は立ちあがった。克夫と久美子は園子に手を洗えと叱られていた。
二人は指定された料亭の門をくぐった。
水を打った玄関に初老の女が膝《ひざ》をついて出迎え、それより少しは若い女が先に立って廊下を案内して行った。
「こちらでございます」
襖《ふすま》があくと、黒い座卓があって、床の間を背に大野忠夫が坐っていた。
「すぐにお酒をお持ちいたします」
女はそう言って襖を閉め、兄弟は大野忠夫の前に並んで坐った。
「おまねきにあずかりまして」
充夫はそう挨拶したが、大野は黙っていた。
「話していないのだな」
父は大野に言う。大野は黙って頷いた。弟の手術に立会うような、悲しげな表情であった。
本当に、二分もたたぬうち足音がして、女が酒や料理を運んで来た。
「さて」
父は弟から先に酒をついでやった。弟は何も気付かず、その父に向けて銚子《ちようし》を持った。
「わたしはお前たちの父親だ」
いきなり言いだした。弟は笑い、
「まさか」
と言った。
「そうだな、守夫」
父は大野に確認させた。
「充夫、本当らしいのだ」
大野が弟に言う。
「そんな……だって失礼ですが、あなたは僕と同じくらいの歳でしょう」
「説明するために呼んだのではない。わたしはお前たちの父だ。これ以上は言わんぞ」
「どういうことなんだい」
充夫は大野に救いを求めるように言った。
「俺もお前にうまく説明できない。だが、この人はたしかに俺たちのおやじだ」
「おやじはずっと昔に死んだんじゃないか」
大野は力なく首を横に振った。
「戻って来たらしい」
「戻って……どこから。あの世からか」
「ちょっとそっちへ寄りなさい」
父は立ちあがりながら充夫に言った。充夫は言われたとおり座卓を離れて坐った。父はそのそばへ行き、左手を充夫の頭に置いたかと思うと、さっと右手をのばして上着のうしろのすそへさし入れ、ベルトを掴《つか》んでエイッと持ちあげた。一瞬充夫の体が宙に浮き、充夫は前のめりにおよいだ。
父はあっさり手を離し、元の座蒲団へ戻る。盃《さかずき》をとり、酒を含んでじっと充夫をみつめた。
充夫は茫然としていた。軽く口をあけ、父を眺めていた。その目に、いつの間にか涙が溢《あふ》れている。
「お父さん……」
うわごとのように言った。
大野は理解した。あの平手うちと同じことを、充夫はいま体験したのだろう。父の記憶が鮮やかに甦っているのだ。まだ幼かった充夫は、父に腰のところを持って、小犬のように吊《つ》りさげられたことがあったのだろう。一度ではなく、いつもそうされていたのかも知れない。そうだとしたら、それは多分遊びで、充夫は父を見るたびそうしてくれとたのんだのかも知れない。たしかに、幼い子にとって、それは父の力のシンボルとなり得ただろう。充夫の持っている父の記憶は、それだけなのかも知れない。
母も兄も憶えているはずのないそれを、いまされたのである。匂いや温かさをも含め、抜きさしならぬ証拠をつきつけられたはずであった。
「大野総業は、不動産を扱えるようになっているだろうな」
大野に父が尋ねた。
「はい」
「では、このあたりの土地を買収しなさい」
父は四ツ折りの地図をとりあげて座卓の上へひろげた。位置は房総《ぼうそう》半島の一部であった。
「最終的にはいくらか無駄も出るだろうが、とにかく全力をあげてこの土地を買収してしまうように」
そう言って別に厚い茶封筒をくれた。
「こまかい指示は全部そこに記してある。だが、あくまでもお前の会社の事業計画として話を進める。そのために、架空の計画を作ってもいい。とにかくつじつまを合わせ、背後関係を気づかれるなよ」
「いったい、何のためにこの土地を買うんです。だいいち、こんな大きな土地を手に入れる資金などありませんよ」
「金は銀行が貸す。その手配もすませてある」
「買ったあと、どうするのです」
「充夫、そこへ来てちゃんと坐りなさい」
父はまださっきのところでぼんやりとしている充夫に命令した。充夫は素直に応じて座卓のそばへ戻った。
「瀬田物産が買いあげる」
「瀬田物産が……」
大野は充夫を見た。充夫はまだショックから覚めないでいる。
「充夫が昔の縁で瀬田物産へ入社していたのは何よりだった。だいぶやりやすい」
父は充夫を褒めそやすように優しく言った。
「きっとお母さんがすすめたのだろう。そうだろう」
充夫はハイと答えた。
「今の瀬田社長とは、一緒に仕事をした仲だ。瀬田物産は、あそこへ瀬田産業という会社を持って行く」
「瀬田産業……」
「知っているな」
「ええ。ですがあれは要するに兵器産業です。軍需会社ですよ」
大野はそう言った。朝鮮、ベトナムと、ふたつの戦争の特需をまかなった会社で、平和運動家の間では死の商人の烙印《らくいん》を押されている。それを判りやすく軍需会社と呼んだのは、古い者に対するいたわりがあったようだ。
父も大野のいたわりを読みとったらしい。
「これからの日本には、絶対必要な会社だ」
寛大な表情でみつめ、大きく頷いた。しかし、大野はかすかな嫌悪感を味わっていた。それは主義主張と言ったものからは程遠いものであったが、父を批判的な目で見ることにかわりはなかった。
その寛大な表情と、大きく頷いて見せる仕草に憶えがあるのだ。渋谷のビルの紛争のとき顔を出して、強引に割り込もうとした区会議員の一人が、何かと言うとその顔をして見せたのである。
俺はお前を判っている。悪いようにはしない……。そのくせ腹の中は実にいいかげんで、出るところへ出れば筋道も何も立たなくなる人物なのである。
最初に思い出したのがその区会議員であったが、よく考えると、そういう顔や仕草をする人間はたくさんいたように思った。そしてどれもが、多かれ少かれ利権屋的存在であった。身を粉にして働いている者は、そういう曖昧な表現で相手と理解を深めようとはしないのではないか。何か大切なものを省略して、お互いが都合のいい結論を持ち寄る場合にだけ、そのやりかたが成立する。
いわゆる肚芸《はらげい》に近いものだ。思い返せば、父は今までいろいろな場面でその肚芸のようなものをちらつかせていたようである。明治のやりかたではないか。要するに明治が蘇って来ているのだ。
とは言え、父は明治三十年代の生まれであると言うだけで、実際には大正と昭和初期の人間である。大野はそのかすかな嫌悪感の正体をはっきりつかめぬまま、父の言葉に耳を傾けていた。
「充夫は大阪支社長から、近い内にその瀬田産業へ転出する。わかったな」
充夫はやや落着いて来たらしい。
「瀬田産業へですか」
「瀬田物産に対する愛着はあるだろう。長年盛りたてて来た会社だから、そうあって当然だ。しかし、これから瀬田産業の重要性が増す。増さねばならない。そういうとき、お前のような人間が必要なのだ。社長の瀬田もお前のことは高く買っているぞ。わたしもいい息子を持って鼻が高い。瀬田がお前を産業のほうへ移したいと言っているのだ。やり甲斐《がい》のある仕事だ。そうなったら頑張ってもらいたい。産業のほうへ移れば、お前は多分常務の一人になる。瀬田の会社はどれも少し老化しているようだ。いきのいいところで、バリバリやってくれ。もっとも、瀬田の奴自身、大変な爺《じい》さんになってしまった。俺を羨ましがっているよ」
三十五歳の父は大声で笑った。
やがて芸者が来て、父は小唄《こうた》を聞かせた。かなり年期の入った渋い喉《のど》であった。冗談で、安来節《やすきぶし》を踊ろうかと言ったりもした。芸者たちの様子では、本当に踊ったことがあるらしい。お若いのに芸達者だと言われてやにさがり、卑猥《ひわい》な冗談を連発して芸者たちに嬌声《きようせい》をあげさせていた。
大野はその騒ぎぶりにどうしても馴染《なじ》めなかった。ただ上役とやむを得ず同席しているといったていどで、時間が来るとほっとしたように父と別れた。
兄弟は料亭を出ると、無言で歩きはじめた。言い合わせたように暗い通りを選び、あてもなくぶらぶらと歩いた。
「な、おやじだったろう」
しばらくして大野がポツリと言った。
「うん」
充夫は力なく答える。それは乃木《のぎ》神社の近くであった。気がついて大野が言う。
「俺は七五三でここへ来た憶えがある」
「おやじとか」
「うん。おふくろも一緒だった」
「よく憶えてるな」
「そういろいろ憶えてはいないよ。みんな断片的なものだ」
「俺はおやじに関してほとんど憶えていない」
「そうだろうな。まだ小さかったから」
「なあ兄貴」
「なんだ」
「俺、さっきからこわくて仕様がない」
「そうだろうな。俺もこわかった」
「どうやって判らされたんだ」
「パチンと一発、頬をやられたよ」
「それで判ったのか」
「ああ。どうしようもなかった。そんなわけはないと思いながら、あれがおやじであることは疑えないんだ」
「疑えない。それは絶対にたしかだ。しかしどうやって……」
「よせ。そいつをはじめると、本当に頭がおかしくなるぞ。それに、女房にだって説明するのは不可能だ。心配させるだけ無駄というものだ」
「そうだな」
充夫は少し考え、気をとり直したように言う。
「そうかも知れないけれど、こいつは一応けりをつけなければならない問題だ」
二人は六本木のほうへ歩いていた。
「けりをつけるというと……」
「たしかにあれはおやじだ。しかし、そんなことはおかしい。なぜだか調べて見ようじゃないか。どこがどうなっているんだか」
大野は感心した。
「お前はタフだな。もうそれだけ立ち直ったのか」
すると弟は軽く笑った。
「それは多分、俺がおやじをよく知らないからさ。兄貴ほど長く付合っていれば、俺も手も足も出なかったかも知れない。でも俺は、ほんの少ししか憶えていないんだ。呪縛《じゆばく》されかただって違うさ」
「呪縛か。なるほどな、俺は呪縛されているわけだ」
「でも、幽霊なんかじゃない。ちゃんと生きている。芸者にいやらしいことを言ったり、あの分じゃ浮気もしかねない。とんだふんどし爺《じじい》だな」
大野は菊代のことを思い出した。あれきり聞いていないが、もう店を辞めたのだろうか。
「さっきの話はどうする」
「瀬田産業の件か」
弟は困ったような顔をした。
「実は以前一度持ちあがりかけた話なんだ。俺も多少食指が動いた。やって見たい気がしたんだよ」
「兵器産業だぜ」
「精密工業だと思えばいい。知ってるだろ、子供の頃から俺は飛行機や戦車が大好きだった。中学になるとそういう模型作りに夢中だった。ガンも好きだ。別に戦争が好きだというわけではないが、とにかくああいう物が好きだったんだ。それは今もかわってはいない」
「そうだったな。戦争映画が好きだったし、戦車の型などにはうるさい奴《やつ》だった」
「だから、瀬田産業には以前から関心があるのさ。あそこで開発したベトナム戦用のサブ・マシンガンなんか、あれはあれで大したものだと思っている。消音機構が作りつけになっていて……」
二人は防衛庁の塀にそって歩いていた。
「戦争犯罪人、などという言葉はもう遠くへ行ってしまったんだな」
大野がしみじみと言う。
「俺だって、このまま平和な社会に一本道だと思っていたさ」
弟の声も沈んでいた。
「時代が少し逆戻りしはじめてるのは判る。でもなぜ、おやじみたいな明治生まれが出て来たのかな。威張り腐ってやがる」
「俺はお前みたいに単純には行かない。どうにも懐かしくて困るんだ。そりゃ、あの力みかえった男尊女卑や、何か金権政治家みたいな臭みは俺だって嫌らしいと思う。だが正直言って、何かほっとしたところもあるんだ。芯棒《しんぼう》のがっちりした人間というかな。無神経なところもあるが、とにかく頼もしいんだ。働け、しっかりしろ、国のためになれ……そう呶鳴《どな》られると、なんとなくその気になりそうだ。目当てがはっきりするからな。それに、お前が言ったとおり、なんと言っても俺はお前よりおやじをよく憶えている。だから自分の血の匂いというか、そんなものを感じてしまう」
「俺は日本人だ、ってか」
弟は皮肉まじりに言った。しかし大野はその皮肉を悟りながら、それを打ち消すほど大真面目に答えるのだった。
「そうだ。俺はおやじの子だという意識は、日本人だという意識に通じるだろうな。俺は日本人だ。日本をもっとなんとかしなくてはいけない。自分でそう思ってみる。物事はすっきりしてしまう。敵と味方がはっきりするし、いいことと悪いことの区別も迷わずにつけられる」
「この門の中には正義がつまっている」
ちょうど通りに面した門のまん前であった。充夫はちょっと立ちどまり、中をのぞき込むようにして言った。
「とにかく、おやじが生き返って来たんだ。どうなることやら」
充夫はそう言って歩きだした。六本木《ろつぽんぎ》の灯りはすぐそこに見えている。
「今夜はうちに泊れ」
大野はタクシーに手をあげた。
第四章
「こういう話が持ちあがったのだが」
大野は自分のオフィスの応接室で、経理部長の横田と二人きりになっていた。例の土地買収の件である。事が事だけに、秘書の加藤敏子に聞かせるわけにもいかなかった。敏子の父親は一流商社の部長なのである。
横田は即座に答えた。
「結構な話じゃありませんか」
何を深刻ぶった顔で相談することがある、そんな態度であった。
「仮りにからまわりであろうと、今は大きい金をころがしている人間が大きくなるのです。しかし」
横田は首をかしげる。
「どんな筋で出た話なんですか」
うますぎる、といった顔であった。
「瀬田物産の瀬田社長の線ですよ」
「あの瀬田宏一郎さん」
「ええ」
「瀬田|宏《こう》さんならもう」
間違いはない、というように頷いた。
「でも直接ではないのです」
横田は大野がうまい話に乗ってひっかかることを案じているのだ。大野はできるだけくわしく話した。
「間に人が一人います。瀬田社長の古くからの友人です」
「すると、満鉄関係ですか」
「さあ、そこまでは知りません。とにかくその人物は、わたしたち大野家にとって大切な人間ですし、先方もいいかげんなことは絶対にしない立場にあります」
「それなら安心ですな」
横田は人の好い笑い方をした。
「運が向いて来たのですよ。波にお乗りなさい、波に」
「やって見ますか」
「やるもやらないもあなた、資金の心配さえないんじゃありませんか」
「実は、うちが買い取ったあとのことなんですが」
「伺いましょう。わたしもそれを知りたかったのです」
「瀬田産業の新工場にするのです」
横田はかすかに眉をひそめた。
「なるほど、そうでしたか」
「中に入ってくれている人物は、わたしの弟を今の物産の大阪支社長から、そっちへ引き抜くつもりでいます。わたしは大企業の内情にうといので教えてもらいたいのですが、こうした場合、弟のような立場だとどうなりますかね」
「瀬田産業へ移ってからですか」
大野は頷いてみせる。横田はしばらく考えていた。
「気になさることはありますまい」
横田は医師が診断を下すように言う。
「多分、大阪支社長からだと、重役入りかも知れませんな」
「常務くらいにはするらしいのです」
「移ってやりいいかやりにくいか、これは現場にどういう人間がいるかできまることで、一概にどうこう言うわけには行きません。しかし、瀬田の場合ですと、おおむね問題はありますまい。わたしもいくらかはあそこの知識がありますが、物産と産業は一心同体、なかなかうまく行っているようです。ことに、産業ははじめ物産のダミーとして出発しましたし、物産の支社長が行くなら、まったく問題ないと思いますよ」
「それを聞いて安心しました」
「ですが」
横田はまた僅《わず》かに眉をひそめる。
「弟さんは承知なさいますかな」
「なぜです」
「大阪支社長としては異例にお若いと聞いております」
「ええ」
「何しろ兵器を作る会社ですし、社会的にも問題にされやすいところです。例の水銀中毒事件を起した会社へ移って行くような趣きもないではないですからな」
「実は、弟のほうはすでに了解したようです」
横田は耳を掻いた。
「そうでしたか。いや、これは要らぬ心配で……」
「それで相談なのですが」
大野は秘密保持と見せかけの計画について意見を求めた。横田は、せいぜい吉川くらいまでしか知らせられないだろうと言った。それに、横田はこの種の買収作業にかなり経験を積んでいるらしく、頼りになる不動産関係の人間の名を、次々に教えてくれた。
「これが実現したら、大野総業もそう小粒の会社ではなくなりますな」
横田は真面目な顔で最後にそう言った。大野はさすがにうれしかった。水商売から抜けだせるばかりか、一気に会社を大きくするチャンスに恵まれたのだ。
率直に感想を言うと、横田は自分は逆に小さなレストランか小料理屋でもやってみたかったのだと笑った。
「のんきでいいでしょうなあ」
横田は憧《あこが》れるような目つきをした。
「でも、わたしはいい時に退きましたよ」
「なぜです」
「別に弟さんや瀬田産業のことを言う気はありませんが、世の中はこうしてだんだんと物騒になって行くのですからね」
「戦争にですか」
「ええ、軍国主義の亡霊などと言っているうちに、亡霊でなくなってしまって……」
大野はゾクリとした。父のことを言われたような気がしたのだ。横田はそれきり話をそらせたが、どうやら根っからの反戦主義者であるようだった。
オールド・リベラリスト。大野はふとそんな言葉を横田にあてはめてみた。横田はそんな古い人間ではなかった。戦中派ではあるが、大野とそう離れた世代ではない。なのにもうすっかり古びて見える。そして逆に、昭和十五年当時働きざかりだった父が、時代を先どりしたような意気込みでとびまわっている。これはいったいどういうことなのだ。大野は父の生命の謎と同じように、そのことも解き難い謎のひとつだと思った。
正式に瀬田産業の首脳部と会い、瀬田物産からも指導のかたちでよく呼び出しがかかるようになった。プロジェクト・チームができあがり、横田が教えてくれた人材を中心に、房総半島の土地買収が始動した。横田の手もとを、毎日のように大金が通り抜けて行き、大野もまめに現地へ通った。
海辺であった。汐風が吹きつけ、磯臭《いそくさ》い中で大野は充夫に会った。
「やあ、兄さん」
大声で仲間の男たちから離れ、草の生い茂った土の上を走って来た。幼い日、どこかでそんなように弟が近付いて来たことがあったような気がした。
「なんだ、お前も来ていたのか」
「兄貴が来てると聞いたんで、さっきから探していたんだ」
二人きりの話があるようだった。
「少し時間はあるかい」
「ああ、歩こう」
二人はなだらかな斜面を降りて、岩だらけの海岸へ出た。大野は手ごろな岩に腰をおろし、煙草を咥《くわ》えた。充夫がライターをつけて差しだした。一度風で炎が消え、二度目に手で囲って煙を吐いた。
「調べたぜ」
充夫がニヤリとして見せる。
「そうか」
「うちの社長たちが、何かごそごそはじめている」
「瀬田宏一郎氏か」
「そう。瀬田宏は大きなグループのメンバーになっているらしい。日月会というんだ」
「あ……」
「知っているのか」
「取引きがある」
「なあんだ」
充夫はがっかりしたようであった。
「リース業のほうだ。日月会の事務局というのが大手町にできて、そこと契約している。だが、日月会が何であるか、全然知らないんだ」
「日月だよ。明治の明さ」
「なるほどな」
それで充夫が言う大きなグループの性格の見当がついた。
「瀬田|宏《こう》はことし七十。おやじと同じ歳さ。日月会というのは、だいたいそういった連中が、中心になっている。もっと上の爺さまもたくさんいるらしい」
「つまり、力のある男たちばかりだということになるな」
「まあそうだが、若いのも少しはいて、実際にはその連中が動きまわっている」
「若いというと」
大野は嫌な予感をうち消して尋ねた。
「うちのおやじみたいなのさ」
充夫はズバリ予感どおりのことを言った。大野が生唾《なまつば》を呑んで黙っていると、充夫は追いうちをかけた。
「おやじはその若手のリーダーだ。派手に金を使っているらしい」
「その金は」
「出どころかい。そいつはよく判らないね。何しろそこら中だから、財界というのは、日月会みたいなところへは金を惜しまない。だって、おやじがこの間赤坂で言ったことは、まるっきり日月会の主張どおりなんだからな。日本を軍国主義時代へ逆戻りさせようというんだ。アカはぶっ潰《つぶ》せさ。古いっちゃないがね」
充夫は自嘲《じちよう》しているように見えた。
「俺が知りたいのは、そのほかの若手だよ。それがみんな……」
大野は肩をすくめる。
「まさか。そうぞろぞろ幽霊に出歩かれたんではかなわない」
「おやじの秘密は掴《つか》めたかい」
あまり期待してはいなかった。あんな奇蹟《きせき》がどうして行なわれたか、少しくらいの調査では判るわけもないと思った。
「少しは匂っている」
「ほう、どんな匂いだ」
「新興宗教のような、妙なのが日月会にからんでいる」
「新興宗教」
「とも違うようだが、とにかく教祖風のふしぎな人物がいるんだ。そいつは素形玄英《すがたげんえい》と言ってね、神道だか仏教だかよく判らないんだが、とにかく神様だの死んだ人間だのと、何かやって見せるらしい」
「素形玄英……」
はじめて聞く名であった。
「酒と女の番をして暮して来たからな。財界だの宗教界だの、そういうことにはまるでうといんだ」
「そう知られている人物でもないよ。もっとも、うんと高級なところになると、われわれ庶民には聞えて来なくなってしまうものだからな。クラブなんかでもそうだろう。マスコミで穴場だの面白いだのと言われるのは、だいたい超三流と言ったところだよ。一流会社の社長や重役連がおでましになる店なんか、どこにあるってなもんさ。ママの名が週刊誌に出る程度じゃ、二流だそうじゃないか」
「まあそうだな」
大野は自分が短時日の間に、そうしたとほうもなく高度の世界のすぐ下までやって来てしまっていたことに気づき、今さらながら世の中の仕組に驚いていた。
そこまで近づけてくれたのは、父ひとりの力である。それもまだ何度も会っていないのだ。それなのに、ひょいとつまみあげられ、次に置かれた場所では、新聞でしか見かけない名前や顔の男たちがむらがる世界の匂いが、いや応なく流れて来ているのだった。
「なあ充夫。そういうことを調べて、危険はないんだろうな」
充夫はケラケラと笑った。
「好奇心から調べているだけだ。いや、転校生が今度の学校の先生に関心を持っているといったところかな」
充夫は屈託のない笑い方をした。
「意外だな。ずいぶん割り切ったようじゃないか」
「現代に生きているんだ。時代は変化するし、それに合わせなきゃ生きて行けない。だったら人よりひと足お先に合わせて行くほうがいいにきまっているさ。流れにさからってもいいだろうが、俺なんかがやったって押し流されるのがおちだ。女房子がいるしね。この前は多少乗り遅れたって感じがあったが、今度は乗り遅れないぞ。俺の番だッ、て奴だよ。それに、大したおやじもついていることだしな」
ふざけているような態度であった。しかし大野は、弟は弟なりに真剣なのだろうと思った。気に入らないこと、妥協したくない線。それをなんとか自分の胸に押しこんで、妻や子のために繁栄をかち取ろうとしている。
「お前も日本人になるか」
大野もふざけたように言った。投獄の危険がある道を選ぶより、やがてみんなが行くはずの道を歩んでくれたほうが、よほど兄として気が楽であった。
「そう、日本人になる。ニッポンジンにな」
充夫は明るく笑って見せた。
「銃後のことは女房にまかせてさ」
「古いことを知ってやがる」
充夫は波打際の岩へ、ひょいひょいととんで行った。
「さっぱりしたぜ、兄貴」
大声で言った。
「なんでもかんでも、おやじたちの公式で割り切っちまえばそれでいい。悩むことなんかありはしないんだ」
「でもなあ」
大野も大声で言い返した。
「子供たちが戦争に行くぞ」
「いい銃を作ってやるさ」
「死ぬぞ」
「運しだいだよ」
「未亡人ができるぞ」
すると充夫は振り返り、両手を胸の前へだらりとさげてみせた。
「おやじみたいに化けて出るさ。でも俺なら、もっと早くに化けて出るけどな」
悲しそうな顔をしている。大野はそう思いながら弟をみつめていた。弟のうしろから、波が打ち寄せて来ていた。
大野は素形玄英について調べてみた。その気になれば、調べるルートは身辺にあった。
吉川の部下の一人が、宗教団体に加わっていた。戦後急速に拡大した団体で、その青年は地区の青年部の役員をしているということであった。
ためしに、その青年に素形玄英のことを尋ねて見ると、さすがに名前を知っていた。
「あれは宗教家とは言えませんよ」
「ほう。ではどういう人物なんだ」
「学者……いや、学者でもないかな」
青年は首をかしげた。オフィスの近くの喫茶店であった。
「オカルト・ブームなんて言うのがありましたからね。僕も実は少しは念力なんて言うのに興味がありまして……スプーンを曲げようとしたり、くだらないことですが」
青年は問われもしないことを言って照れていた。
「念力……素形玄英というのは、そういうことに関しているのか」
「七尾天舟《ななおてんしゆう》という人をご存知ですか」
「七尾天舟……さあ、知らんな」
「明治の神秘家です」
「神秘家か。そんなのがあるのか」
青年は困ったように頭を掻いた。
「僕らはいつもそういう言葉を使っています。要するに、超自然的なことの専門家、とでも言いますか、神秘主義なんですよ」
「なるほど」
大野は先をうながすために、判ったような顔で頷いた。
「どっと近代思想が入って来た時期、そういう正統的でないものも流れ込んで来たんでしょうね。言って見れば黒魔術とか錬金術とかと同じ系統のものなんですが、日本という国の凄いところは、そういうものまでちゃんと呑みこんでしまう人材がいたんですよ。それが七尾天舟です。北陸《ほくりく》の人だとか言うことで、もとはちゃんとしたお坊さんなんです」
「ほう、仏教のほうか」
「ええ。でも、例の排仏毀釈《はいぶつきしやく》でしょう。すぐ神道にも結びついちゃったらしいんです。そして、それに西洋から入って来た神秘主義みたいなものをくっつけているうちに、霊界交信だの降霊だのということをはじめたそうなんです」
「そういうのなら、昔から日本にもあったろう」
「ええ。でも、とても地位の低いものにされていました。おまじないと同一視されてたんですね。そこへ七尾天舟が現われて、こいつを学問的に体系づけて行った……とまあ、こういう具合なんですけど、どこか体質的にもそういうところがあったんでしょうかね。千里眼だの、透視だの、予知だのと、いろんなことを実験して見せたそうです」
「つまり、念力少年の大先輩だな」
「ええ、そういうことになりますね」
「実験は成功したのかい」
「そこがどうもはっきりしないんです。そのテのものはいつだってそうなんですが、信じた人はばかみたいに信じ込んじゃうし、信じない人は実験を見もしないで、あれはインチキだとか何とか言う……どっちにしろ、初期のそういう実験は、反論する側、つまり信じない人々への配慮があまりよくありませんから、たとえ成功しても、あとで怪しいとかなんとか言われる余地を作ってしまうんです」
「今も昔も同じだな」
「でも、今はその点で少しは進歩しているようですよ。もっとも、テレビで見せちゃったらどうにもなりませんがね。怪獣が毎日のように東京タワーを踏んづけてるんですから、いくらフェアーに映したつもりでも、見るほうの半分くらいはトリックだと思ってしまうんです」
どうやらその青年は念力の存在をいくらか信じている側の人間らしかった。
「そんなものかね。で、その七尾天舟という人のことだが」
「ええ。七尾天舟はそうやっていろいろ話題になっているうちに、官憲に逮捕されてしまったんです。その辺も、今ではどうもはっきりしないんですが、とにかく投獄され、そのうち世間から忘れられてしまって、出所したことはしたんですが、それからあとのことは全然判っていないんです」
「神秘家らしいな」
大野は苦笑した。
「何で投獄されたんだ」
ひょっとしたら、信者を欺して甘い汁でも吸ったのかと思った。青年にそう言うと、彼は憤ったように答えた。
「違いますよ。タナトロギーをやったんです」
「タナトロギー……」
「タナトロギーと言うのは、死者|蘇生術《そせいじゆつ》のことです」
「死者蘇生術……」
「ええ」
「しかし、それは医学の領域だろうに」
「医学的にそれをやって行くと、人造人間とか合成人間とかということになります。サイボーグですね、つまり」
息子の克夫が夢中になっているテレビ番組の主人公が、突然ブラウン管からとび出して昼間の喫茶店へ現われたような気分に陥った。
「フランケンシュタインなんかもその中へ入りますよ」
青年が得意そうに言ったので、大野は少し白けてしまった。
「面白い映画だった」
「でも、七尾天舟のは少し違うんです。死者蘇生術というと、少くとも死んだ人間の体が要るでしょう」
「ああ、要るな。でなければ蘇生させようがない」
「ところがそうじゃないんです」
「じゃ、どうやって……」
言いかけて、大野はギョッとした。もしかすると、この青年が喋りかけていることは、父の謎に肉迫しているのではあるまいか。
「死体なんか要らないんですよ」
青年はまた得意そうに言った。
「生前よく知っていた人間を念力で霊界から呼び戻してしまうんです」
「まさか」
それは青年に向けた言葉ではなかった。父の存在に向けて叫んだ声であったようだ。
「そうなんですよ。七尾天舟はそれが可能だと強く主張していました。そして、実際にやって見せたらしいんです」
「成功したのか」
大野は自分が蒼《あお》ざめて来たのを意識していた。
「知りません。判らないんです。とにかくその何回かの実験のあと、逮捕され、投獄されてしまったのです。下っ端の警官でさえ、オイコラッとやっていた時代ですからね。裁判の記録もろくに残っていないのだそうで」
「なんでつかまったんだろう。死体をいじったりしたのなら別だが」
「罪名は判っています」
「何だい」
「不敬罪」
「え……」
「不敬罪ですよ」
大野は唸った。
「不敬罪か。そいつはどうも、ちょっと」
父の謎が少しずつ解けて行くような気がした。不敬罪……それは、ひょっとすると、その実験の成功を意味してはいまいか。
「七尾天舟について、僕が知っているのはこれだけです。素形玄英は、その七尾天舟の弟子だと称えています」
「するともう、だいぶ年寄りだな」
「ええ。でも、見かけは年齢よりひどく若々しいということです」
大野はハンケチをとりだして、顔を拭った。冷や汗が滲《にじ》んでいるような気がしたのだが、実際には汗など出ていなかった。
土地の買収は着々と進行していた。大野総業が新しいレジャー・ランドを作るという見せかけの計画は、土地柄と言い社名と言い、会社の実態と言い、いかにもありそうな話で、誰一人疑おうとはしないようであった。
充夫は新工場の準備に早くも各方面をとびまわっているようであった。ただの新設準備ではない。新工場は兵器産業そのものであった。当然世論が沸騰《ふつとう》するだろう。なし崩しに誤魔化せるという段階ではなかった。充夫がやっているのは、そのための根まわしである。したがって一般のビジネスより、はるかに政治的な動きであるらしい。
充夫は張り切っていた。大野はその張り切りぶりがよく判った。世の中の階層を一気に跳ねあがったつもりでいるのだ。大野自身でさえ、社会の動きの震源地にいるようで心が躍る瞬間があるのだ。瀬田宏一郎たちの動きは、一介のサービス業者にすぎなかった頃は決して見えも聞えもして来なかった。それが今では、ごく身近に感じられている。大物たちの女関係さえ、軽い冗談の種として語られるのだ。
充夫は世の中を自分の手で直接動かしているように思っているに違いない。大野はそう感じた。
充夫は東京にいることが多くなっている。二人だけの時は、おやじ、おやじと、父のことを何のふしぎもなく言うようになった。よく相談などもしているらしく、ゆうべはおやじと呑んだ、などと得意そうに言ったりした。
「驚いたね、おやじの奴、女を囲ってるよ」
或る時、充夫は目を丸くして告げた。うれしがっているようだった。
「うちの店にいた女だろう」
「あれ、知ってるのか」
「菊代という名の女だ」
「おやじの奴、やるじゃないか」
「お前、ふしぎだと思わないのか」
大野はたまりかねて言った。
「何が、おやじのことか」
「そうだよ。あの世から舞い戻った人間だぜ。それも三十五年ぶりにな。骨も肉も滅んでしまったはずじゃないか。それが女を……いったいどうなっているんだ」
「そんなこと、俺に判るわけがないだろう。しかし現実に起っていることだ。認めてしまうより仕方ないし、だいいち俺は宇宙船の中の時計が地球の上のよりゆっくり進むという、例の浦島現象だって正確に理解できやしないんだ。ネクロマンシーがどうの、タナトスがどうのという素形玄英の理論を聞いたって、判るわけがないだろう」
「ネクロマンシー……」
「いけねえ、兄貴は知らないんだっけ」
「ああ知らないよ。素形玄英はいまどこにいて、何をやっているんだ」
「知るもんか」
明らかに充夫はとぼけていた。大野は口どめされているのだなと思った。
「喋れなければ喋らなくてもいい。いずれ判ることだ。それより、おやじは女を囲ったり高級クラブへ出入りをしたり、料亭で一流の芸者を呼び集めたり、ずいぶんいい暮しをしているものだな」
「それはそうさ。金に不自由なんかする立場かよ」
「でも、その金はどこから出ている金だ」
「政界、財界……」
「政界の金は財界から出たものだろう」
「もとを辿《たど》ればそう言うことかな」
「結局庶民から吸いあげた金じゃないか。少し親方日の丸がすぎやしないかな」
「堅いことを言うなよ」
充夫は明らかに嫌な顔をした。いい歳をして青臭い……そう言う態度であった。
「土地の引渡しがおわれば、兄貴だって大変なボロ儲けをすることになるんだぜ。くだらない考えはよしたほうがいい」
そう言われれば一言もなかった。実はそれを当てこんで、新しい事業計画が二つ三つ進行しているところなのだった。
事件が起きた。そして青年が一人死んだ。殺されたのだ。しかもその青年は、大野に会いに来た直後、惨殺されたのであった。
夜の十一時ごろであった。ドアのチャイムが鳴って園子が応対に出た。大野は居間でブランデーを飲んでいた。
「あの……大野守夫さんにお目にかかりたいのですが」
「はい」
園子の戸惑ったような声が聞えたので、大野は何気なく顔を出した。
「大野守夫はわたしです」
若い男であった。
「あの……」
と口ごもりながら、大学の名を言い、
「実は折入っておたずねしたいことがあるんです」
と、すがるような目をした。
「何でしょう」
大野はくつろいだ気分でいたし、その青年が今どき珍しいくらい純情そうに見えたので、つい家へあげる気になった。
居間へ通すと、園子をしきりに気にする様子なので、適当に言って園子を次の部屋へ行かせた。
「あの、実はとても変な話なので……でも僕、絶対に気なんか狂っていません」
ピンと来た。これは容易ならぬことだぞと、大野は気をひきしめた。
「率直に伺いますが、大野さんは最近お父上にお会いになりませんでしたか」
「父……」
大野は空とぼけた。
「あなたの銀座のお店へ、お父上らしいかたがよく出入りされているという情報を入手したものですから」
情報を入手、と言うあたりは、いかにも今の青年らしいと思った。
「似た人はいくらもいるでしょう。しかし、わたしの父はずいぶん前に死んでしまっています。わたしが小学校へあがったばかりの年でしたかなあ」
「どうかかくさずに教えてください。僕がお尋ねしているのは、大野忠夫という人です。日月会という組織に所属しているのです。あなたの会社はその事務局と取引きがあるはずでしょう」
そこまで知っているとは思わなかった。かなり深いところへ足を踏み入れてしまったのだなと、大野は同情しはじめていた。
「その大野さんなら存じあげていますよ。でも、人違いじゃありませんかね。だって、大野忠夫さんはわたしよりずっと年下ですからね」
全身がむずがゆい思いで言う。青年は世にもうらめしそうな顔で大野をみつめた。
「それがお父上なんでしょう。年下の、そっくりの人が。僕知っているんです」
「何を知っているんですか」
青年は今にも泣きだしそうになった。
「実は……祖父があらわれているんです」
「ほう、どこに」
「この世にです。僕の父はそれが祖父だと知っているんですよ。二人が話をしているのを聞いてしまったんです。その祖父は父より年下なんです。同じでしょう」
大野は困惑した。そしてその困惑をそのまま表情に示した。
「困るなあ、そういう話は、まるでめちゃくちゃだ」
「嘘です。ご存知なんでしょう。戦争前に死んだ人を、誰かがどんどん生き返らせているんです。生き返った人は、みんな死んだ時の年齢で出て来るんです。だから父より年下で、それでいて祖父なんです」
「いい加減なことを言うもんじゃない。何だ優しく聞いていてあげれば、この夜ふけにらちもないことを。わたしだからいいが、ほかの人だったら一一〇番を呼ぶところだぞ」
声をあらげた。青年は怯《おび》えて立ちあがり、入口のほうへあとずさって行った。
「知っているんだ。あなたはお父上に会っているんだ。年下の……。誰にも言いません。そういうことが実際にあるんだと、はっきり言ってください。でないと僕……僕は狂ってしまいます。知っているのに証明できないんです。誰に言ったって信じてはくれないんです」
「帰りなさい」
大野は叱った。本当に早く帰ってもらいたかった。そして青年は帰って行った。
翌朝テレビをつけると、その青年の顔が映った。五反田《ごたんだ》のほうの路上で死体がみつかったのだと言うことだった。どこかで撲《なぐ》り殺されて、車でそこへ抛《ほう》り出されたらしい。
「嫌だ……ゆうべの人じゃありませんの」
園子は悲鳴をあげた。アナウンサーは、例によって内ゲバの人違いだろうとコメントを読んでいた。
ちょうどそのニュースがおわった時、電話のベルが鳴った。
「守夫か、わたしだ」
父の声であった。
「ゆうべ訪ねて来た青年に関しては、何も喋らんように。こちらで処置をとるから、決してお前には迷惑をかけん。いいな、家の者にも口どめをするのだぞ」
父は高圧的に言って電話を切った。釘を一本さして置けば、決して秘密を洩《も》らすまいという自信に溢れているようだった。そして大野もそのとおりにした。巻きぞえを食ってはつまらないからと、園子に堅く言い含めた。子供たちの安全を思って、園子は金輪際喋らないはずであった。
だが、大野は充夫をつかまえて詰問せずにはいられなかった。
「仕方ないよ。世の中にこれ以上の秘密はないのだからね」
充夫は渋々喋りはじめた。
「秘密を知ったのは運が悪かったんだ。それ以上に、あちこち探りまわったのは思慮が足りなかったのさ。でも、ああいう問題も早くなんとかしないと、困ったことになるな」
「俺たちやあの青年の父親以外にも、死んだおやじと付合っている連中がいるんだな」
「いるよ」
充夫はあきらめたように告げる。
「死んだおやじそっくりが続出している。みんな俺たちと同じさ。死んだおやじそっくりの男は、みんな働きざかりだ。その若い奴が、戦争前に死んだ人間を誰かが生き返らせていると言ったのは、まさにご名答だな」
「なぜ戦争前に死んだ人間ばかりを生き返らせる」
充夫は肩をすくめた。
「生きのいい明治生まれが要るんだよ。いまの日本に必要なのは、明治の筋金が入った男だ。
しかし、実際に生きている連中は、もうみんなヨボヨボだ。放って置いたらもっと線の細い大正とか、それよりもっと頼りない昭和生まれの天下になってしまう。この大切な時期に、それでは国が滅んでしまうじゃないか……とまあ、明治生まれの大物老人たちが焦っていたのさ、そこへ現われたのが素形玄英という怪人だ。玄英は七尾天舟という人物の弟子だそうだ。知ってるかい」
「ああ、ちょっと調べて見た」
「危いぜ、そんなことをしては」
充夫は本気で警告した。
「タナトロギーの実験をやって、不敬罪で投獄された男だろう」
「タナトロギー……」
充夫は鼻に皺を寄せて嫌な微笑を泛べた。
「タナトロギーは死に関する学問だよ。こいつは生き返らせるんだからな」
「死者蘇生術だろう」
「それとも少し違うよ。死体はとうに消滅しちまってるんだからな。ネクロマンシーのほうが近いくらいだ」
「ネクロマンシーって何だ」
「降霊術かな。しかし、降霊術だと霊媒《れいばい》に霊が憑《つ》くわけだから、元どおりの肉体を持って現われるのとはわけが違う。要するに、世界中探したって、あれを正確に言いあらわす言葉はまだないんだよ。タナトロギーという言葉を持ち出すのなら、エロスとタナトスとクロノスが渾然《こんぜん》一体となったものと解釈したほうが判りいいくらいだ」
「生と死と時間か」
「兄貴はいつか、素形玄英はどこにいるのだと訊いたね」
「うん」
「秩父《ちちぶ》の山奥にいるよ。教堂と称するでかい神社のようなものをおったててね」
「教堂……」
「俺も行ったことはない。でも、大変なものらしいぜ。恐しくでかい円型の基壇の上に、まあ言って見れば神殿のようなものがあって、その中で素形玄英が何かをやるんだそうだ。凡人には何だか判りっこない。玄英は、その中でむかし付合いのあった人物……つまりよく知っている人間だね。それを隅々に至るまでしっかりと思い出すんだそうだ。記憶と回想……要するにイメージを心の中に固定させて……」
充夫はそこで照れ笑いをした。
「生意気言っちゃったな。それからどうするんだか、俺には判りはしないよ。ただ、はっきりしているのは、それがただの呪術《じゆじゆつ》なんかじゃないと言うことさ。だって、その巨大な円型の基壇と言うのは、実はサイクロトロンなんだ」
「サイクロトロン……」
「分子加速機さ。そいつを動かすために、電力会社が内緒でとほうもない大電力を供給しているんだ」
「磁場のようなものを作りだすのか」
「ああ、何かのフィールドを作るわけだな」
「そうすると死者が蘇るのか」
「信じられないかい」
充夫はまた薄笑いを見せた。
「信じられなければいいんだが」
「そうだろう。現におやじがいるんだからなあ」
大野はため息をついた。何かがずしりと重かった。
瀬田産業への土地引渡しが済み、都心のホテルで新工場建設計画の発表と、それにともなう祝賀パーティーが行なわれることになった。
しかし、それはほんの氷山の一角にすぎなかった。日本再建連盟という右翼の連合組織がとっくに発足していたし、ポルノ取締りに端を発した動きは、一見清潔風な精神浄化運動として、教育会を捲き込んでいた。
また、保守タカ派が推進して来た憲法改正論は、いつの間にか社会にその座を定着させ、マスコミをその方向へ傾斜させはじめている。勿論刑法改正もその動きに同調して、強力に動きはじめていた。
だが、一方ではそれに反対する勢力も、活溌《かつぱつ》に動いていた。毎日のようにデモがあり、そのたびにデモ隊側の暴走と、警備側の強い規制が激突し、流血の惨事が頻発《ひんぱつ》した。
焦った革新側は次々に新しい過激派を生みだし、そのたびに民衆は日月会の思惑どおり、彼らを見はなして行くのであった。みるみる革新は衰弱し、非合法活動の側面だけが強く表面へ浮かびあがって来ている。
大野はその祝賀パーティーの日、ホテルのロビーで充夫を待っていた。焦茶色のゆったりとしたソファーに沈み、ぼんやりとホテルの正面玄関のあたりを眺めていた。中央に大きな回転|扉《ドア》があり、その両脇《りようわき》にも厚いガラスのドアがあった。
人々が、ひっきりなしに出入りしている。着飾った女たちや新婚らしい若い二人づれ、そしていそがしげな男たち……。
「やあ、ここにいましたか」
大野はそう声をかけられてわれに返った。横田がいつもの穏やかな顔で、となりのソファーに浅く腰をおろした。
「とうとうここまで来ましたな」
大野はいたわるように言った。
「横田さんのおかげです」
「いや、あなたの努力のたまものですよ。いつかはこういうことをなさる人だと、実ははじめから期待して見ていたのです。わたしの予想が当って、よろこんでいるところです」
「どうです、体の具合は」
「やはりあまりよくありません」
「大事にしてくださいよ。これからもっと頼りにしますからね」
「よくしていただいて、本当に感謝しています」
「だいぶ早すぎたようですね。弟と会う約束があってここで待っているんですが。会場のほうはどうです」
「準備はおわったようです。控室のほうはもう大変なにぎやかさで……」
「顔見知りの方も多いでしょう」
「ええ。何かこう、わたしまで晴れがましい気分になりましたよ」
「縁の下の力持ちをさせて申しわけありませんが、今日はひとつ、のんびりたのしんでください」
「いやあ……」
横田は照れたように笑い、首を横に振った。
「実はこんなところで何ですが、ここらで本当に隠居しようと思いましてね」
「隠居……なんです、今さら。もう手ばなしませんよ」
「いや、本当にそう思っているんです。体の具合も思わしくありませんし……それに、いい仕事を見つけたのです」
「いい仕事……」
大野は眉をひそめた。
「釣堀の管理人ですよ。今のわたしにはそのほうが合っています」
意外だった。しかし、釣堀の管理人と言われては、逆に引きとめる言葉がなかった。
「そのかわり、ひとつお願いがあるのです」
「何でしょう」
「わたしの下の息子を、弟さんの会社へ世話していただけませんか」
「瀬田産業へですか。それはお安いご用ですけれど……」
「もう歳です。それに、少々この世の中にがっかりしているのですよ」
「なぜです」
「いつの間にか逆まわりしてしまいましたからね。大正生まれで、兵隊の経験も少しだがあります。あんなことになったのだから、二度と同じことはくり返すまい。また、くり返してはならない……そう思ってやって来ました。四十年代の中ごろまでは、こんな世の中になるなんて夢にも思いませんでしたよ」
横田は肩を落として言った。
「くたびれました。でも、平和だデモクラシーだと言って、それが当然に思われた時代に生きられて、本当によかったと思っています」
兵器工場の土地を買収してひと儲けした大野には、答える言葉もなかった。
「時勢ですねえ。息子を瀬田産業に入れたほうが、将来がひらけると考えるようになったんですから」
横田は両膝に手をあてて、どっこいしょと立ちあがった。
「いずれこの話は正式にもう一度いたしますが、わたしのことはとにかく、息子のこと、よろしくお願いします」
横田は大野に頭をさげ、ゆっくりと正面玄関の回転扉へ向かって行った。その体が大きな羽根の間に吸い込まれ、ゆっくりと向こう側へ移って行ったとき、同じその回転扉の羽根の間から、充夫と父が何かたのしそうに喋りながらロビーへ入って来た。
大野は二人に声をかけなかった。二人はソファーに坐っている大野に気づかず、すぐ近くを喋りながら通りすぎて行った。
若者たちが入って来る。娘が出て行く。老人が去る、和服の女がやって来る……。入れかわり、たちかわり、出る者、入る者。回転扉はゆっくりとまわりつづけ、ロビーに適度な人混みを作りだしていた。
俺はこういう街を愛してしまっているんだなあ。……大野は心の中でそうつぶやき、回転扉を眺めつづけていた。
第二話 扉の蔭
第一章
高山淳二《たかやまじゆんじ》は細い道の端にしゃがみ込んで庖丁《ほうちよう》を研いでいた。低くうつむいた彼の頭のすぐ前にあけ放したドアがあり、水をいれたバケツがそのドアのおさえがわりに右側に置いてあった。
ドアの内側には、幅の狭いカウンターにそって、白いカバーをかけたスツールが幾つか並んでいるのが見える。ごく小さな酒場である。ドアの上のほうに、黒地に白抜きで「マーサ」と横書きにした四角い看板が突きだしている。
カウンターの中が狭いので、庖丁を研ぐときにはいつもそうやって店の外へ出て研ぐのだ。庖丁は三挺あり、二挺は肉切りと皮剥《かわむ》き用の洋庖丁で、淳二がいま研いでいるのが、和風の柳刃《やなぎば》であった。
カウンターがあってその内側の酒棚に洋酒の瓶が並び、腰の高いスツールと、そのうしろに客が向き合ってなんとか四人は坐れるテーブルがあるが、要するに赤提灯《あかぢようちん》に近い飲み屋で、バーと呼ぶにはなんとなく気がひけるような感じであった。
柳刃庖丁があるのがその証拠になるだろう。淳二はその庖丁で、客の注文があれば烏賊《いか》の刺身なども作って出すのである。そういうなま物の仕入れは比較的面倒な仕事なのだが、実を言えば夕方になると、このあたりに軒を並べている小さなバーや飲み屋を専門にしている業者がやって来て、適当な品物を置いて行ってくれるのであった。ピーナッツや品川巻、柿の種と言ったつまみ類から、チーズ、ハム、ソーセージ、そして肉、魚……。淳二のような素人《しろうと》に毛が生えたようなバーテンでも、そういう業者が毎日まわって来てくれるのでなんとかやって行けるのであった。
もっとも、淳二の手に負えるのは烏賊刺しあたりまでで、鯵《あじ》のたたきとなるともう客の前では作れなかった。そういう注文が出ると、ママの昌代《まさよ》が狭いカウンターの中で淳二と場所を入れかわり、化粧品の匂《にお》いがする手をよく洗ってから、おもむろに庖丁をとりあげるのである。
「淳ちゃんは洋食しかやったことがないんだものねえ」
などと、自分はいかにも和食の腕がありそうに誤魔化して言っているが、昌代だって家庭料理以上のものが作れるわけではないのであった。それでも、酔った客は旨《うま》いと言って食べてくれる。安い店だから若い独身の客が多く、そういう男たちは家庭の手料理の味に飢えているせいかもしれない。
ママの昌代は色白のすらりとした体つきで、酒が強く、酔うとよく歌を唄《うた》う。ほんの少しだが小唄の気《け》があるらしく、演歌調の曲はわりにさまになっていたが、若い客が好きなフォーク・ソング調の歌だと、小節がききすぎてなんとなく世帯じみた感じである。
淳二が腰をのばし、研いだ庖丁を左手に持って、もうよかろうと右の拇指《おやゆび》の腹でその刃味をためしていると、彼が背にしている向かい側の店の上を私鉄の電車がゴトンゴトンとゆっくり通りすぎて行った。向かい側の店は電車の線路の下にあるのだ。
高架、という程の高さでもない。電車の窓は二階の窓よりやや高いくらいの位置になっている。そのすぐ先にある国電の駅とつながったデパートの二階が終点である。だから、線路ぞいのその細い道を行けば、一、二分で駅前の広場へ出てしまう。
電車の音にまじって、店の中で電話のベルが鳴っていた。淳二は水のしたたる庖丁を左手に持って、急ぎ足で店の中へ入って行った。
篠田《しのだ》昌代は国電の改札口のそばで淳二を待っていた。淳二が階段を駆け登って来るのを見ると、笑顔になって右手を肩のあたりへあげて振った。まだ退社時間にはだいぶ間があって、そのあたりは閑散としていた。
それにしても、少し大仰な身ぶりのようであった。まるで地方から出て来た女が、駅へ迎えに出た弟に合図を送っているように見える。会えたうれしさが体から溢《あふ》れ出ていると言った感じで、とてもその駅の前のバーのママが、自分の店のバーテンをちょっと電話で呼びつけたなどという様子には見えない。
昌代はギャバジンのパンタロンに長袖のシャツを着ている。男っぽいワイシャツ風の白いシャツで、生地はニットらしい。だからゆったりして見えるのは膝《ひざ》から下だけで、あとは体の線がくっきり浮きだしている。綿の白い帽子をかぶり、シャツの襟もとのボタンを二つ三つ外して、ちょっとラフだが清潔な色気を匂わせている。白い生地にブラジャーの輪郭が浮きだしていて、バストがつんととがった感じで突き出ている。シャツはロペのMサイズである。
真夏のことなので小ざっぱりと簡素ないでたちだが、なんとなく腰のあたりに腕をのばして引き寄せたくなるような色気があった。ウエストがあまりくびれておらず、腰も大して張ってはいないが、その分見るからにしなやかそうな体つきで、それにやや面長な顔の頤《おとがい》のあたりに、たっぷりと男の味を知ったような柔らかさが漂っているせいだろうか。
実際にうれしがっているのは淳二のほうであった。彼はそういう恰好《かつこう》をしたときの昌代を一番好もしく思っていた。昌代は二十八、淳二は二十四で四つ昌代のほうが年上だが、昼間そんな姿でいる昌代は、彼の恋人としておかしくないように見えるからである。
だが、夜になって店でカウンターの中に並ぶと、昌代は淳二にとってまるで手に負えない女になってしまう。客のどんなえげつない話にも平気で乗って行ったし、中年初老の連中でもあっさり彼女に捌《さば》かれてしまうのであった。それに昌代は和服が好きで、夜は殆んど和服であった。淳二は和服の女が苦手で、袖口から見える下着の重なり具合や、脇《わき》の下あたりの帯の複雑な様子を見ると、サリーを着たインド人のおばさんを見るときと同じような戸惑いを味わうのであった。だが、ロペのシャツとパンタロンなら、彼の勝手知った世界なのである。
とは言え、うれしがっているのは淳二のひそかな感情で、昌代はいつもどおり、性分どおりに振舞っているにすぎない。人と会ったときなどに、ややオーバーによろこびをあらわすのは、昌代の持って生まれた性分の一部なのである。
はじめのうち、淳二はそれを演技だと思っていた。
「あら、いらっしゃい。来てくれたのね」
そう言うのが店で客を迎えるときの口癖《くちぐせ》であった。淳二はそんな風に言うのがこの商売なのだろうと思い込んでいたが、実は昌代がそう言うときは本当に商売気抜きで、本心から言っているのだということが判って来た。どんな相手にせよ、自分に会いにやって来てくれるのがうれしいのだった。大勢にとりまかれているのが好きで、その点ではかなり派手好みの、いつもチヤホヤされていなければ気が済まない女のようでもあった。が、その分性格はからりとしていて、余程のことがない限りじめついたりはしないようである。
「暑いのに悪かったわね」
昌代はそう言って吸いつくような瞳《ひとみ》で淳二をみつめた。それも彼女の癖のひとつで、どうやら少し近視らしかった。
「これを持って帰って」
デパートの紙袋をひとつ淳二に渡す。もうひとつを自分の手に残していた。淳二は頷《うなず》いて紙袋を受取った。
「悪くなるようなものは入っていないから、そのまま二階へあげといて頂戴」
淳二はまた頷く。
「あたしはこれから鵜《う》ノ木《き》へ行って来るわ」
淳二は微笑して階段を下りかけた。
「今からじゃちょっと遅くなるかも知れないけど、淳ちゃん一人でお店をあけていられる……。自信がなかったらあたしが行くまで閉めといてもいいわよ」
「大丈夫だよ、もう」
「そう……じゃ、たのむわね」
淳二は昌代の視線を意識しながら階段をおりた。駅ビルを出るときちらっと振り返ると、もう昌代の姿はなかった。
暑い夕陽がさす駅前のタクシー乗場のあたりから、左手の私鉄のターミナル・ビルの前にかけて、自転車がずらりと並んでいた。淳二は紙袋をぶらさげて、その西口の広場を通り抜けて行った。
胸に甘酸っぱいものが湧《わ》いていた。鵜ノ木へ行くと言うからには、劇画家の宮本一弘《みやもとかずひろ》のマンションへ行くに違いなかった。そう言えばゆうべ遅く、仕事があがったと言って宮本が飲みに来ていた。一緒に帰ったようにも見えなかったが、やはり昌代は宮本のところで泊ったのだろう。そして今日、何かの買物をたのまれたかどうかして都心のデパートへ行ったらしい。ついでに自分の買物もして、それを駅で淳二に渡したのだ。
淳二はことさらに足を早めた。自分も恋人の一人くらい早く作らなくてはと思っていた。
淳二は「マーサ」の二階に住込んでいた。駅で昌代に渡された紙袋を持って、店の裏の狭く急な階段を登り、畳の匂いがこもる二階の四畳半へ入ると、襖《ふすま》を細目にあけてとなりの三畳へその紙袋を置いた。あけた襖の間から昌代の着物が見えていた。その三畳は昌代の更衣室がわりに使われている。もとはこの二階に昌代が住んでいたのである。蒲田《かまた》駅西口の、この小さな店をはじめた当座のことである。
それまで、昌代は銀座《ぎんざ》のクラブでホステスをしていた。それが宮本一弘に惚《ほ》れられて、今はこんな場末じみた所に落着いている。宮本には病気の妻がいて、どこかの療養所に長いこと入ったきりだというが、要するに宮本の二号という形であった。
なぜ銀座のホステスをやめたのか、「マーサ」をやるようになったいきさつはどうなのか、淳二はまるで知らない。ただ、西口でもいちばん安っぽくて小さな店が並んでいるこの横丁では、昌代が掃《は》き溜《だ》めに鶴《つる》と言った感じの存在になっていることはたしかであった。スツールが八つに四人掛けのテーブルがひとつ……客がちょっきり一ダースで満員になる小さな店だが、ほとんど毎晩満席になり、結構利益をあげていた。客の中には、ときどき昌代の銀座時代のごひいきがまじる。そういう客は来る前に必ず電話して狭い「マーサ」の席を確保するようであった。常連たちは昌代が以前銀座にいたことを知っていて、そういう上客が来ると席をゆずったりするのだ。
淳二は襖を閉め、白いワイシャツに着換えはじめた。彼が「マーサ」のバーテンとして住込んだのは去年の寒くなりはじめの頃だったから、もう十か月以上たっている。会社が潰れて失業したとき、兄の敬一《けいいち》がいきなり蒲田へ引っぱって来て昌代を紹介し、
「当分この人の厄介になっていろ」
と、有無を言わさず住込ませたのである。淳二はそれまでバーテンの経験などなく、それどころかバーそのものさえ余りよく知らなかったのだが、近頃はやっとその暮しにも慣れて、一応バーテンらしく見えるようになったところであった。
どうやら、劇画家の宮本一弘は、兄の敬一の友人らしかった。年齢は宮本のほうがだいぶ上だし、どういう知り合いかはっきりしなかったが、とにかく宮本の口ききで昌代が淳二を使ってくれたことはたしかである。
淳二は裏側に金具がついたクリップ式の蝶《ちよう》タイを襟にとめながら、自分はこのまま水商売の人間になり切るのだろうかと考えて見た。好きで入った道ではないから、将来自分の店を持とうというような欲もなかった。だが、そう嫌でもなかった。毎日昌代のそばにいられることがたのしかった。昌代が望むのだったら、「マーサ」をもっと大きな店に育てるために、精一杯働いてもいい気分になっている。だが、それも夢のようなことではあった。昌代と結ばれて、年上の昌代を蔭《かげ》から盛りたてて行く……そんなあてもない空想をして自分をなぐさめているようである。
「ごめん……」
下で男の声がした。淳二は眉《まゆ》を寄せ、首をかしげた。
「ごめん……」
もう一度声が聞え、彼は急いで階段をおりた。準備の整った店の中に、わりと小柄な男が立っていた。
「あの……」
どちらさまで、と尋ねようとすると、その男が蝶タイ姿の淳二を見て、
「もう開店したんだね」
と念を押すように言った。
「ええ」
「じゃあ飲ませてもらおう」
客はカウンターの中央あたりのスツールに尻《しり》をのせた。
「何にします」
淳二が尋ねると、男はじろじろと洋酒の瓶を眺めまわした。
「何でもいい。ストレートと冷たい水をくれ」
ちょっと妙な肌合いの客だった。だが、店をあけたと言ってもまだ陽が高く、夜になるのには間があってちょっとちぐはぐな感じだったし、何よりも昌代抜きで営業をはじめるのは、淳二にとってはじめての経験であった。それで淳二はすっかり緊張していたから、その客のどこが妙なのか、深く考えるゆとりもなかった。
「どうぞ」
オールドファッション・グラスに国産のウィスキーをダブルにして出すと、男は左手でそのグラスを持ちあげ、
「そうか、ダブルか」
とつぶやくように言った。「マーサ」では、特に断わらない限り、ストレートはダブルで出すことになっていた。
淳二はおしぼりを出すのを忘れたことに気付き、ちょっとあわてた。
「すみません、あと先になってしまって」
淳二はそう言っておしぼりを差し出した。
「うん」
男はウィスキーをひと口飲んでからグラスを置き、冷えたタオルで顔を拭《ぬぐ》った。
「まだ当分客は来んのじゃないか」
「ええ」
「そうだろうな。外はまだ陽が照っている」
淳二はドアのほうに目をやり、ぎごちない微笑を泛《うか》べて見せた。見憶えのない客だったし、やはりどうもやりにくかった。
「ちょっと君に訊《き》きたいんだが……」
「はあ」
「この店は篠田昌代……という女性がやっている店じゃないのかね」
「ええそうです」
「やはりそうだったか」
男はほっとしたように言った。小柄で顔が蒼白《あおじろ》く、知的だがちょっと陰気な顔をしていた。細い目の奥にときどき鋭い光がのぞくようだ。
「ママのお知り合いですか」
「うん、まあそうだ。それで君は、その、ママの……」
男はあいまいに言葉を切って淳二をみつめた。その沈黙がばかに長く、淳二は閉口して自分から口をひらいた。
「僕はここのバーテンです」
「そうか」
男は淳二がおりて来た奥の階段あたりへ目をやった。
「この二階に住込んでいるんです」
「すると、篠田昌代という女性は……」
「いまは中央《ちゆうおう》のほうに住んでいます」
「中央……」
「あの、中央八丁目という、堤方《つつみかた》のほうの」
「ああ、町の名か。遠いのかね」
「そんなでもありませんが、まあ、ここからですとちょっとあります」
「中央八丁目か」
男は頷いてまたウィスキーを飲んだ。かなりいけそうな飲みっぷりであった。
「バーテンというが、篠田という女性と縁つづきか何かじゃないのか」
「いいえ」
淳二は首を横に振ったが、それではまた話が跡切れてしまいそうだったので、
「でも、まったくの他人というわけでもありません」
と答えた。兄の敬一と宮本一弘の関係を言うつもりだったのだ。しかし、それでは宮本と昌代の関係を言わなくてはならない。淳二は困って、なんとなく血のつながりがあるような顔をした。
「そうかやはり。なんとなくそんな気がしたよ」
男はまたほっとしたように言い、今度は一気にウィスキーを飲みほして、グラスを淳二のほうへ差し出した。淳二は黙ってそれを受取り、メジャー・カップを使ってウィスキーをついだ。本当は客の前でメジャー・カップなど使いたくないのだが、目分量でダブルをつぐ自信がまだなかった。
それからその男は、もう二回ダブルをおかわりした。
「お強いですね」
四杯目をつぐとき淳二がそう言うと、やっとウィスキーが効いて来たらしく、その男は急にすらすらと喋《しやべ》りだした。
「ママというのは何時に出て来るんだね」
「いつもならもうとうに来ているんですが、今日はちょっと用事があって遅くなるそうです」
「やれやれ。折角探して来たというのに……」
男はそう言い、棚の洋酒瓶の間に見えている小さな置時計を眺めた。終電、終バスをあてにして時間ぎりぎりまで飲む客が多いので置いてあるのだ。
「じゃあ遅くならいるな」
「ええ、必ずいます」
「何時までやっているんだ」
「一時か一時半ごろまで……二時すぎになることもあります」
「そうか」
男はそう言うと両肱《りようひじ》をカウンターの上へのせ、体をのり出すようにして淳二をみつめた。
「君は信用できそうに思う。ここのママとは縁つづきらしいし、ひとつ頼まれてくれないか」
「はい」
淳二は真剣な表情になって頷いて見せた。
「君のほかにこの店の人間は……」
「ママと僕だけです」
「この二階に住込んでいると言ったね」
「ええ」
「それじゃ済まないが、遅くにもう一度来るから、それまで荷物を預かってもらえんだろうか」
「お荷物ですか」
淳二は首を傾げた。すると男はスツールをおり、足もとから黒い、かなり大型のボストン・バッグをふたつ両手で持ちあげて見せた。淳二が二階からおりて来たとき、もうそこに置いてあったらしく、カウンターの蔭になって気がつかなかったのだ。
「はい、承知しました」
「両方とも錠をかけてあるが、とにかく必ず来るからそれまで二階のどこかへしまって置いてくれ」
「はい」
淳二はカウンターの外へ出ると、ふたつのボストン・バッグを受取った。かなり重かった。男は淳二のあとから階段の登り口までついて来て、
「済まんがたのむ」
と重ねて声をかけた。
その様子がひどく念入りに思えたので、淳二は二階へあがると押入れをあけ、夜具の上へ並べてしまった。
一階へ戻ると、男は黒革の紙入れを出していた。
「いくらだね」
淳二が伝票を見て金額を言うと、
「安いんだな」
と笑いながら一万円札を一枚出した。
「あの、ママがまだ来ていないのでお釣りがないんです。近くでこまかくして来ます……」
淳二が言うと男は手を振り、
「どうせまた来るんだ。その時一緒にまとめてくれればいい」
と微笑した。
「あの、お名前は」
「清水《しみず》と言うんだ」
「どちらの清水さんで……」
「そうか、ありふれた姓だからな。それじゃ名前も伝票に書いて置いてもらおうか。清水|祐吉《ゆうきち》……天祐神助《てんゆうしんじよ》の祐だ」
「ママに何かおことづけは」
「そうだな……」
ドアをあけかけていた清水はちょっと考え、
「ことづけくらいで判る話でもないから、ママに会ったときゆっくり話そう。じゃあたのんだよ、君」
と言ってドアをあけると、何やら急に気ぜわしそうに急ぎ足で出て行ってしまった。
淳二がグラスを流しに入れ、カウンターを拭いていると、顔馴染《かおなじみ》の若い客が三人、
「おはよう」
とふざけて言いながらドヤドヤと入って来た。
「おい、ビール、ビール。うんとつめたい奴《やつ》だぞ」
若い三人連れはそう言ってカウンターの端に坐ると、冗談を言い合いながら勝手に手をのばして灰皿を引き寄せたりしている。
今夜もたて混みそうだった。
昌代はなかなか現われなかった。「マーサ」はママの昌代が垢抜《あかぬ》けていて人気があったし、それに安いだけに若い客が多く、特に宵《よい》の口は退社したその足でやって来る常連たちで、ひとしきりひどくたて混むのである。
そういう若い連中はよく駅から線路ぞいの細い道を、三、四人が一団となって、威勢よく競走して来ることがある。「マーサ」が狭いから、早く行って席を取らないと、
「ごめんなさい。ちょっとひとまわりして来てよ……」
と昌代に閉めだしを食ってしまうからだ。勿論《もちろん》電車を降りてから駆け足で来るなどというのは、若い者同士の冗談のようなことだが、それほど昌代は彼らの憧憬《どうけい》の的であったし、「マーサ」が赤提灯なみの安さにもかかわらず、なんとなくセンスのいいクラブのような雰囲気《ふんいき》を漂わせていたのである。
淳二が慣れない酒場の生活に満足しかけているのも、ひとつには「マーサ」のそうした活気のおかげであろう。それに、男たちが素直に憧《あこが》れの視線を浴びせてかくさない当の昌代の、一番身近の男でいられることも、もうひとつの理由にあげてよい。現に客たちの中には、岡焼半分に淳二と昌代の間を疑ったりする者もいる。
「絶対怪しい。こんな若くていい男をそばに置いといて、ママが手を出さないわけはないもの」
そういう客はたいてい昌代が独身であることを信じており、その熟れた色気を見てどこかに捌《は》け口があるはずだと思うのであろう。
「淳ちゃんは大事な預かり物ですからね。悪いことを教えたら叱《しか》られちゃうわよ」
昌代はそんな風に受け流すが、淳二はそのたび擽《くすぐ》ったい思いになるのだった。
いずれにせよ、淳二に対する昌代の態度は、あくまでも客分扱いで、その上いかにも良家のぼんぼんのような印象を客に与えるので、淳二は実際以上に清潔で世間知らずで生真面目で、ひょっとするとまだ童貞かも知れないというように思われていた。
「淳ちゃん、一曲弾いてくれないか」
カウンターが満員になったところで、若い客の一人がそう言った。「マーサ」の客の大半に共通していることは、歌好きであるということであった。飲んで酔えば、かわるがわるに歌を唄い出すのである。昌代がよく唄うほうだから自然にそういう客が集まったのだろうが、結果としては健全ムードで、無難な商売が成り立っている。
淳二は乞《こ》われるままに壁にかけてあったギターをおろし、狭いカウンターの中で体をはすかいにして弾きはじめた。子供の頃から本式に習っていて、ギターにかけては流しの連中も淳二には敬意を表しているのである。
一曲勝手に弾いたあとは、客が唄う流行歌の伴奏になる。兄の敬一が彼を「マーサ」へ連れて来たのも、そういうことができるからであったらしい。
「淳ちゃんが来てくれてから、お店もすっかり軌道に乗った感じよ」
と昌代がときどき励ますように言うのも、満更口先だけのことではないようである。
有難いことに、淳二がギターを弾いているうちに入って来た新しい客たちは、それがおわるまでうしろのテーブルについて黙って待っていてくれた。
曲がおわると、唄った客へとも淳二のギターへともつかない拍手が起り、その中で彼はギターを急いで壁へ戻して新しい客の注文を訊くのであった。
「珍しいな。ママは留守かい」
その客も、前の何組かと同じ質問をした。
「もうそろそろ来ると思いますが」
淳二も同じような答え方をしている。
「税務署か……」
客は冗談のように言って笑った。
「ごめんなさい……」
弾みをつけるように言って昌代が入って来たのは、七時をちょっと過ぎた頃であった。普通ならその頃には口あけの客が一回転しているのだが、今日は昌代がいないのでみんな帰りそびれていた。
「ごめんね。忙しかったでしょう」
いつものように和服姿になっている昌代は、カウンターの中へ入るとすぐ小さな声で甘えるように淳二に言った。
「大したことないよ。俺たちがみんな追い返しちゃったから」
客が言った。
「あらやだ。みんな夕方から居すわりなの」
「そうだよ」
「まあ……営業妨害じゃないの。早くお勘定払って次のお客とかわってよ」
「何言ってんだい、遅刻しといて」
そんなざっくばらんなやりとりも、小さな店なればこそのことであろう。
「ねえママ。銀座のクラブなんかだと、遅刻三回で一日分の給料を引かれちゃうってのは本当かい」
みんな都心の高いクラブなどには無縁の客なのである。
「そうよ」
「ママが銀座にいた頃はどんなだったんだろうなあ」
「見たかった……」
「うん」
「やって見せてあげようか」
「たのむ」
「こうやってね……」
昌代は裾《すそ》をからげて持ちあげ、ぬかるみを歩くような恰好をした。
「嘘《うそ》をつけ」
一人が言い、見ていた客がみな笑った。
「安サラリーマンだと思ってばかにしてるな」
「ばかになんかしてないわよ」
昌代は真面目腐った顔で言う。
「そういう安サラリーマンから、雀《すずめ》の涙ほどのお勘定をいただいて生活しているんですもの」
「畜生。俺帰る」
カウンターの内と外の差はあっても、もう常連たちとは身内同様の親しさなのである。たしかにそんな雰囲気のときの小さな酒場は、疲れた男たちにとって一種の理想郷であるのかも知れない。少々ささやかすぎる理想郷ではあるが……。
冗談のように、俺帰る、と言ったグループが本当に勘定を払い、昌代は詫《わ》びながら送って出る。入れかわりに今度は少し年嵩《としかさ》のグループが三人ほどやって来て、淳二の洗い物の手が俄然《がぜん》忙しくなった。
時間帯によって、少しずつ客の年齢が上って行くのは毎度のことであった。九時ごろになると客はみな三十代から上になって、淳二のギターも軍歌の伴奏に使われることが多くなる。淳二はギターを弾きながら、国産のウィスキーの空瓶を目で数えていた。昌代が遅刻したわりには、いつもより売上が多いようであった。
「適当に切りあげてもらうようにしてね。もうすぐ一弘《いつこう》ちゃんたちが来るのよ」
昌代はさりげなく淳二に寄って来て、そんなことをささやいた。淳二は慌《あわ》ててギターをまた壁に掛けると、何か仕事を言いつかったふりをして、流しに向かってうつむいていた。
ギターが店の空気を煽《あお》るのである。調子に乗って弾きまくると、客たちの酒のピッチがあがり、いつまでも帰ろうとしない。だが弾かずにいると客は適当に自分で醒《さ》めて帰って行くのであった。淳二も近頃やっとその辺のコツが呑《の》み込めて来たようである。
案の定、軍歌を唄っていた初老の男が帰ろうと言いだした。近くの信用金庫の職員たちである。
「何言ってるか馬鹿者。まだこんな時間じゃないか。いいからついて来い」
初老の男はそう言って三人ほどを従え、上機嫌で外へ出て行った。
「上役の言うことは聞かなくちゃね」
最後から出て行く男が淳二にそう言って笑った。
「どうも有難うございました。お気をつけて。……バイバイ」
送りに出た昌代の声が聞え、その声に電車の音が重なっていた。淳二は手早くその跡を片付けながら、ふと自分をおかしな男だと思った。
昌代の恋人である劇画家の宮本一弘が来ると聞いて、自分までそわそわしているのに気付いたのである。たしかに昌代がよろこぶことならなんでもしてやりたいが、宮本のことに関しては問題が別なはずであった。
宮本一弘はアシスタントらしい男たちを五人も引きつれてやって来た。席は四人分しかあいておらず、その中の二人は四人のうしろに立って飲んでいた。
「飲め飲め。なんだお前、ちっとも飲んでないじゃないか。これでもささやかながら祝賀パーティーなんだぞ。こんな店の一軒や二軒、飲み潰《つぶ》したってかまわん。どんどん飲《や》れ」
宮本は早くから飲みまわっているらしく、大声でそんなことを言って早いピッチでウィスキーの水割りをあけていた。
烏賊の刺身がいいの鯵のたたきがいいのと好きなことを言うので、淳二は注文に追われて下を向きっぱなしであった。
どういうわけか昌代はそんな宮本の前にべったりとへばりついて動かず、ほかの客に対する態度もかなりいいかげんになっていた。
「何かお祝いがあったんですか」
暇をみつけて連れの男たちにちょっと尋ねて見たが、
「仕事が一段落ついただけさ」
という返事だった。
淳二は連れの男たちの答を信用しなかった。それにしては昌代の様子がいつもと違いすぎたのだ。いつもは宮本と特別な関係にあるのを悟られまいとして、殊更に他人らしく扱うのだが、今夜はどう見ても宮本を特別扱いしている。
ひょっとすると、連れのアシスタントたちもよく知らない、内緒の祝い事かも知れないと思ったとき、淳二はギョッとしたように昌代の横顔を盗み見た。その二人が正式に結婚することになったのではあるまいか。そう思ったのである。
だが、療養所にいる宮本の妻の身に異変がなければそんなことになるわけがなかった。それに、仮りに異変があったとすれば不幸な出来事で、昌代や宮本がそれでこんなにあからさまに浮かれるはずもないようである。
いったい何が起ったのか。淳二はいぶかしみながらも酒をつぎ次の肴《さかな》を用意していた。
昌代の恋人ということとは別に、淳二は宮本にいい感情を抱いていなかった。いつ来ても淳二をまるで無視するのだ。淳二のほうにも、バーテンダーなどという思わぬ職業に落ちつきそうなことに対する、拗《す》ねともひがみともつかない劣等感のようなものがくすぶっていて、宮本のそういう態度が気に障るのであった。
当代随一の売れっ児劇画家と言われ、週刊誌などでもときどきその稼《かせ》ぎぶりが書きたてられている。
だから淳二には余計|傲慢《ごうまん》な態度に思えるのかも知れないが、とても歯が立たぬ相手だけに、ひそかな敵意が近頃どんどん育って行くようであった。
その宮本は昌代を相手に、何やら昔ばなしのようなことを喋りつづけていた。多分銀座時代の話なのだろう。知らない女名前が次々に聞え、その合い間にマーサ、マーサと昌代を呼んでいた。
マーサというのは昌代の銀座時代の名前らしい。二人の昔ばなしはひどく贅沢《ぜいたく》な雰囲気が漂っていて、淳二はそのムードをぶちこわしてしまうような客が来てくれないかと願っていた。
宮本以上に大事な客が来てくれれば、変にベタベタした昌代の態度も消えるだろうし、それでなんとなく自分の気持も晴れそうであった。
しかし、そういう時に限って淳二の思惑通りには運ばず、逆にほかの客がみな帰ってしまい、「マーサ」は宮本たちが買い切ったようになった。
時間はもう十二時半を過ぎていた。
「淳ちゃん。今夜は早じまいよ」
昌代が言いだした。
「これからこの人たちとよそへまわるの。たまにはいいでしょう」
甘えるように言われ、淳二は頷いて見せるしかなかった。
宮本の連れの男たちがてんでんばらばらに歌を唄いはじめ、「マーサ」はひどく混乱してしまった。他人の唄うメロディーに捲《ま》き込まれまいとして、みんなが声を競い合ったからである。
その呶鳴《どな》り合いの中で宮本の哄笑《こうしよう》が続き、昌代は大車輪で淳二の跡片付を手伝っていた。
「ママ、僕がやるからいいよ」
淳二は宮本と一緒に出ようと急に働きはじめた昌代に、少し憤《おこ》ったように言った。
「あらそう、悪いわね。じゃあたのむわ」
昌代は淳二の感情を推しはかれるわけもなく、素直すぎるくらい素直にそう言うと、
「じゃあ行きましょうよ」
と伝票をひとまとめにしてからカウンターを出た。
「あとはお願いね。火に気をつけて……」
台風一過とはそのことであろう。唄ったまま出て行く者もあれば、じゃれついてもつれ合いながら出る者もいる。それでも宮本はひょいと手をあげて淳二に珍しく挨拶《あいさつ》を送り、昌代に背中を押されるようにして出て行ってしまった。
ふうっ、と淳二は溜め息をついた。
店の中が急に静まり返り、となりの店のラジオが流す有線放送の演歌が、妙に物哀しく聞えていた。
淳二はのっそりとした感じでカウンターの外へ出ると、灰皿やグラス類をカウンターの流しの前へ集め、乱れたスツールの列をゴトゴトとまっすぐに並べた。
まだいつもの閉店時間よりだいぶ早かった。だがもう仕事を続ける意欲を失った淳二は、遅い客がやって来ぬうちにと、急いで看板のスイッチを切った。
カウンターの中へ戻ってグラス類を洗い、いつもどおりガスの元栓《もとせん》をしめると、ふと思いついてギターをとり、カウンターの外へ出て一番端のスツールに腰をのせると、ゆるい曲を静かに弾きはじめた。
淋《さび》しかった。侘びしかった。昌代は遠い女だったし、ほかに会って心の安まりそうな相手は誰一人いなかった。淳二は久しぶりに自分の為にギターを弾いていたようである。そして自分のギターの音色に自分で溺《おぼ》れ込んで行った。
ツ、と左の頬《ほお》に涙が走ったようであった。淳二は弾く手をとめ、その感触をもっと深く味わおうとした。
そのとき、急にドアがあいて黒い影がとび込んで来た。淳二は慌てて手の甲で涙を消し、
「もう閉めたんですが……」
と言いかけた。
影はまだ陽のある内に来たあの小柄な客であった。走って来たと見えて、ちょっと息を切らしているようだった。
「看板が消えていたんで心配した」
清水祐吉という名だったはずである。淳二はその男を見ながら、自分の失敗に気付いていた。
店の状態が畳みかけるように変化したので、遅刻して来た昌代に、清水のことを告げるのをすっかり忘れてしまっていたのである。
「ママはどうした」
「済みません。いつもはこんなことないのですが、今夜に限って珍しくママはお客様と一緒に出て行ってしまったのです」
清水は大きく舌打ちをした。
「だから念を押しておいたのにな。一時半までは間違いなくやっていると言ったろう。それでママの行先は……」
淳二は頭を掻いた。
「それが判らないのです」
「しようがない奴だな」
清水は腹立たしそうに淳二が持っているギターを見た。のんびりギターなど弾いていたのをとがめられたような気がして、淳二はギターを今まで坐っていたスツールの上にのせた。
「仕方がない。それじゃ早くあの鞄《かばん》を寄越してくれ」
清水はせかせかと言い、なぜかドアを細目にあけて外の様子を見た。
淳二は外に連れを持たせているらしいと思い、
「はい」
と短く答えて靴を脱ぐと、狭い急な階段を駆け登った。
押入れの戸をあけると、入れたときのまま鞄がふたつ並んでいた。それを持っておりようとしたとき、階下でドアのあく音がした。
また客かな……。眉をひそめてそう思ったとき、
「あ……糞《くそ》っ」
という鋭い声が聞えた。淳二はその声の鋭さに思わず足をとめた。
ガタッと、椅子を強く動かす音が続いた。そして、パツッという空気のはじけるような乾いた短い音が二度聞えた。
無意識のうちに淳二は足音をしのばせて階段をおりた。急な階段は、腰をかがめてのぞき込むようにすると、かなり高い位置からでも店の中が見えた。
きちんと上着を着た男と、カーキのサハリ・ジャケットのようなものを着た男が二人、鉛色の短い棒を手にして立っていた。
いや、棒ではなかった。それはたしかに拳銃《けんじゆう》であった。階段の上にまで、もう花火のあとのような匂いが漂って来ていた。
清水祐吉の小柄な体が、店の一番奥の壁にもたれて床にずりさがって行くところだった。それをよく見ようと体を伸ばすと、爪先《つまさき》に力が入って、階段の踏み板がミシッと音をたてた。
すると銃を構えていた二人は、はっとしたように顔をあげ、すぐくるりと体をまわすと、あっという間にドアの外へ出て行ってしまった。
淳二はボストン・バッグをふたつとも階段の途中に置いて、出て行った二人のあとを追うように靴を突っかけ清水のそばへ行った。
グレイの上着を着た清水の胸に、穴がふたつあいていた。潜水は階段のほうを頭に、背中を突き当りの壁に押しつけるようにして倒れてしまっていた。
血は流れていなかったが、倒れた清水が大きな目をあけたままにしているのが無気味だった。
「清水さん」
揺り動かそうとした手を途中でとめ、淳二は及び腰で名を呼んだ。銃を持った二人を恐れていたのだろう。声がかすれ、その上ささやくような低声《こごえ》であった。
返事はおろか、睫毛《まつげ》一本動かないようである。淳二はどうしたらいいか見当もつかぬまま、靴をしっかりとはき直し、ドアへ歩み寄るとそっとあけて外をのぞいた。
「じゃあな……」
前の山菜料理の店の客が、送って出た店の者にそう言っていた。
「またどうぞ」
去って行く客の背中へ店の者がそう言っている。いつも通りだ。何事もなかったような様子である。
人影があるのに安心して、淳二は更に一歩外へ踏み出し、左右を眺めた。あの二人らしい影はもう見当らなかった。
一歩外へ踏み出しただけで、ドアはしめてなかった。無意識に片手で押えていたのである。銃を持った二人がいないと判ると、今度は倒れている清水が気になって、急いで店へ戻り、ドアをしめた。
振り返ってドアを背に、うしろ手で錠をかけながら店の中を眺めた淳二は、思わず目をしばたたいた。
清水の体に背を向けていたのは、ほんの二十秒か二十五秒くらいの間であった。それなのに、突き当りの壁のところから、清水の体が消えてしまっていた。
「清水さん」
淳二は小さい声で呼んだ。カウンターの蔭へかくれたのかと思い、もう一度、今度は少し大きめの声で呼んだ。
「清水さん」
返事はない。淳二はカウンターの中へしゃがみ込むように体を半分いれて、また呼んだ。
「清水さん」
カウンターの中に清水はいなかった。狭い店である。どこも一目で見渡せる。かくれる所はほかになかった。
「清水さん……」
呼び方が尻上りになった。階段の上に向けて言ったのだ。かくれる場所と言ったら、あとは階段か二階しかなく、そのあたりへ行けるなら、大した手疵ではないと思ったのだ。
階段を見上げたが、幅の狭い踏み板の上に大型のボストン・バッグがふたつ並んでいるだけであった。
たしか射たれて胸に穴があいていたはずなのに、そのボストン・バッグを踏みこえて上へ行ったのだろうか……。
淳二はまた靴を脱ぎ、急いで階段を登った。が、急な階段なので彼にはボストン・バッグをまたいで上ることはできず、ふたつとも手に持って二階へ戻った。
「もういませんよ。大丈夫ですか」
四畳半のほうは無人だった。淳二はそこに身をかくしたに違いないと思い、断わるように言いながら昌代が更衣室がわりにしている三畳の襖をあけた。とたんに昼間押しこんだデパートの紙袋が、パサリと彼の足もとへ倒れかかって来た。
外の街灯の光が四畳半の窓からさし込んでいて、ほの暗くても人間がいないことはよく判った。
清水はどこにもいない。
淳二は気味が悪くなり、慌てて電灯のスイッチをいれた。二度明滅して蛍光灯がついた。そのしらじらとした光の中にも、清水の姿は見えなかった。
「清水さん」
淳二は得体の知れぬ恐怖を追い払うように、かなり大きな声でまた呼んだ。今度は荒々しく歩いて押入れの戸を引きあける。
上段にも下段にも、清水の姿はなかった。念の為淳二は小柄な清水が身をかくせそうな所は残らず調べた。やはりどこにも見当らなかった。窓は通りに面した側にだけあって、その戸にはきちんと錠がかかっていた。
淳二は二階を完全に調べおえると、もう一度下へ降りて調べ直した。二階より一階のほうが身をかくせそうな場所はずっと少なかった。おまけに、ドアも錠がおりたままである。
「消えちまった……」
淳二は背筋の寒くなるような気分をなんとか元へ戻そうと、声に出して呆《あき》れたように言った。
ドアのほかに外へ出る場所はなかった。
本来なら、こうした店は非常口として、ドアのほかにもうひとつ出入口がなければならないのだが、何せびっしりと軒を並べた飲食店街で、たびたび消防署から注意はされているのだが、裏口のようなものはたとえつけたとしても、通りへ抜ける道がなかった。
ということは、密閉した建物の中で、人間が一人消えてしまったことになる。
「そんな……」
淳二は半分泣き顔でつぶやいていた。
異常な事態であった。
階段の上から覗《のぞ》いたとき、ドアを背にした二人の男は、たしかに鉛色の銃を構えているのが見えた。その前に、パツッという音が続けて二度したのもたしかに聞いている。
あの銃はギャング映画などによく出て来る消音銃に違いない。……淳二は確信を持ってそう思った。
そうに違いないことは、清水祐吉が壁にもたれて床にくずおれかけていたことでも判る。消音銃で胸を射たれたのだ。そのあとすぐに近寄って見たら、清水の上着の胸のあたりに穴が二つあいているのを淳二ははっきりと見ている。
しかし血が……血が一滴も清水の体から流れ出さなかったのはいったいどういうわけなのだろうか。
ひょっとすると、清水はシャツの下に防弾チョッキのようなものを着けていたのではあるまいか。なぜか知らないが、襲撃されることを予測してそういう防御をかためていたのかも知れない。そして襲われるとたくみに死んだふりをして倒れた。そこへ淳二が二階から降りて行ったので、襲撃者は慌てて逃走した……。
だが。
いったいどうやってこの店から脱け出したのだろう。倒れた清水の体から目を離したのは二十秒かそこらのはずである。ドアを細くあけて外を眺め、一呼吸して更に大きく開き、一歩外へ踏み出して左右を見た。……それだけの時間でしかない。そのあとドアをしめて振り返ったら、もう清水の姿は消え失せていたのだ。
不安に駆られて何度も階段を登ったりおりたりしたあと、淳二はまたカウンターの一番端の椅子に坐って考え込んでしまった。棚の小さな置時計が、人影の絶える時間に向かって思いがけない速度で進んでいるようだった。
その時間の流れの中で、淳二は異常な世界からいつも通りの世界へ、徐々に引き返していた。あり得ないことはあり得ない。起り得ないことは起り得ない。そういう強固な常識の防壁を、彼はせっせと積みあげていた。
清水が店の外へ脱出するチャンスが一度だけあったのに気付いたのだ。それは淳二が外の様子を見る為にドアをあけた時である。大きくあけて一歩踏み出したとき、道に向かった彼の左手は、ドアのノブのかなり上を押えていたはずだった。体は右側に寄っていたから、そのドアを押えた手の下をくぐって外へ出ることはできたはずである。淳二がドアへ向かって清水の体に背を見せるとすぐ、清水が起きあがってうしろについて来たとしたら、それは充分に可能であろう。
「そうだ。それに違いない」
淳二はつぶやいた。しかし、それは彼が自分に強制した納得のしかたであった。本当を言えば、淳二の感覚はそんなことはなかったと主張している。脇の下を大人がかいくぐって行って、それに気付かぬはずはないのだ。
しかし、気付かぬはずがないからそんなことは起らなかったと言うなら、もっと解釈のしにくい問いに行き当らねばならなかった。密室からの消失である。そうなれば清水は出口のない建物から蒸発してしまったことになる。
たしかに、ドアをしめて振り返るとき、うしろ手で錠はかけた。そしてすぐ清水を探して二階へあがった。もしそのとき一階のどこかにいた清水を見落としていれば、淳二が二階へ行っている間に清水が錠を外して出て行くことは簡単であろう。しかし、降りて来て見たらドアの錠がおりていた。その錠は外から鍵《かぎ》をかけてまわすのではなく、内側からしかかけられない錠なのだ。外から鍵をかけるようになっている錠は別についている。あの状態では当然急がねばならぬはずの清水が、そんな手品めいたことをやるとは思えないし、やり方も見当がつかない。ドアの錠をおろしたのは決して錯覚などではなく、現にあれから一度も手を触れぬドアに、今もちゃんと錠がかけられているのだ。
結局、淳二の感覚には反するが、清水に脇の下をすり抜けられそれに気づかぬままドアをしめてしまったことになる。それ以外に考えようがなかった。
清水の妖怪《ようかい》じみた消え方にうろたえていた淳二が、やっと落着きをとり戻したのは二時近くなってからであった。
かと言って、すぐには睡れそうもない。淳二はカウンターの中へ入ってウィスキーの瓶を取ると、グラスについでそれをひと息に呷《あお》った。いつもならもう夜食のラーメンか何かを食べている頃で、空っ腹に快い熱さがひろがって行った。
とたんに好奇心がむくむくと頭をもちあげはじめた。
ああいうことが起ったので、取りに戻るかどうか判らなかったし、ひょっとして清水さんの住所を書いたものでもないかと思ったものだから……。そんな言いわけがすらすらと頭の中でできあがった。
淳二はアイスピックを手に二階へあがると、黒いボストン・バッグの錠をあけようとしはじめた。
大型バッグなので留め金も頑丈なら錠もしっかりしていた。淳二は細い鍵穴にアイスピックが太すぎると知ると、昌代のへアピンを探して来て、じっくりとその錠にとり組んだ。
慣れぬことなのでだいぶ手間取ったが、結局はどこにでも売っているただのボストン・バッグで、ひょいとへアピンをねじったとたんにカチリと錠が外れた。
淳二はヘアピンを鍵穴から引き抜いて深呼吸をすると、留め金を外し、ゆっくりとバッグの口をひらいた。
一番上に、古新聞が蓋《ふた》をするようにかぶせてあった。記事に見憶えがあり、一週間ほど前の新聞であった。
それを取り除くと、白い布が見えた。ちょっと油じみた部分もあるが、それは男物の着古した半袖のアンダーシャツであった。同じようなものが下にあるものを包み込むように、四枚重ねてあった。
淳二はゴクリと喉《のど》を鳴らした。
白いアンダーシャツの下から、一万円札が顔をのぞかせたのだ。まん中に堅く帯封がかけてある束が、いくつも積み重なっていた。
さすがに淳二はそれに手を触れかねていた。上からのぞいて見当をつけたところでは、札束は三列になっていて、中央に三つ、両脇が二つであった。それが積み重なっているのだから、ひと重ねが四束だとして、一束百万円だろうから、四・七の二千八百万。五束なら三千五百万である。
淳二は人差指を伸ばして札束の隙《す》き間《ま》にいれ、束の重なりを数えた。
一番下まで五束あった。三千五百万円である。しかも札は新しい札ではなく、みな幾分手ずれがしているようだった。
五束まで数えた淳二の指は、しばらくそのまま底を探っていた。一万円札の束の下にまだ何か入っているようだった。
淳二は急に手をバッグから抜くと、思い切ったように一万円札の束を畳の上へ積みあげはじめた。束はやはり三十五あった。
そして、札束のなくなったバッグの底には、あの二人が持っていたと同じような、鉛色の銃が三|挺《ちよう》入っていた。二挺はたしかに大型の拳銃だが、もう一挺はずっと銃身も長く、グリップの部分も大きく、それに四角く長細い弾倉らしいものがついていた。三挺とも映画や写真で見なれた銃よりは銃身がばかにふくらんだ感じであった。
消音銃……。
淳二はそう直感した。同時に、パツッというあの乾いた音をまざまざと思い出していた。
もうひとつのボストン・バッグも同じことであった。古新聞とアンダーシャツのパッキングの下に一万円札の束が三十五個、そして三挺の銃。両方ともボール箱に入った弾丸が六箱ずつ入っているところまで同じだった。
両方のバッグをあけて中身を確認してしまってから、淳二はえらいことに捲《ま》き込まれたと、今さらながらぞっとした。
七千万円の現ナマと六挺の、しかもかなり高性能らしい兇器《きようき》である。それを清水が何の為に「マーサ」へ持ち込んで来たかは見当もつかないが、七千万の現ナマだけでも、人一人の命が簡単に消えてしまいそうなことはよく判った。
おまけに人殺しの道具がついている。それをどう処分したものか、淳二には考える糸口さえつかめぬ思いであった。
淳二は万一ナンバーが控えでもしてあってはと、二つの札束の山を混ぜ合わせぬように注意していた。しかし落着いてよく束を調べると、続きナンバーなどではないことが判った。
この金は安心して使える金らしい。淳二はそう思った。どの束もみな古い札ばかりで、ナンバーを控えられている危険はないようであった。
札にそんな注意を払うのも当然だろう。何しろ消音銃らしいものと一緒にあったのだ。犯罪の匂《にお》いが部屋中にたちこめるようであった。だから、銃に触れるときは用心に用心を重ね、二枚のハンカチーフを使って指紋などがつかぬようにした。
物騒な銃はとにかく、そのずしりとした札束の山を眺めていると、淳二の頭にはいろいろな考えが泛んでは消えて行った。とにかく、それだけの金があれば好きなことがして暮せるのである。
淳二は自分のものになるときまったわけでもないのに、札束の山を見ていると胸がワクワクして来るのを抑え切れなかった。何よりもまず頭に泛んだのは、その金で兄の敬一の立場が救えるということであった。
敬一は四年ほど前から、小さいながら空調機器関係の会社を作って頑張っていた。淳二が大学を卒業すると、敬一は待っていたように彼をその会社へ引っぱり込み、去年の暮れ近くまでなんとか経営を続けていたのだが、どこかに無理があったらしく、あっと言う間に倒産してしまったのである。
淳二は工科の出身で機械いじりが専門だったからくわしいことはよく判らなかったが、倒産して見ると会社は大手数社に目を剥《む》くような額の負債があり、そのほかにもたくさんの手形を濫発《らんぱつ》していたことが判った。
債権者の中には、これは計画倒産だと言って激怒する者もかなりいて、兄の所在が掴《つか》めぬことや、まったく支払いのめどが立たないことなどを、淳二もたびたび怒り狂った男たちの前で詫びさせられたりした。
敬一はその騒ぎのさなかに、淳二を蒲田駅西口の「マーサ」へ連れ出して、強引にそこへ住込ませたあと、本当に行方不明になってしまった。蒸発である。しかし、これだけの現ナマがあれば、その敬一も人前へ姿を現わし、生活をたて直すことができるだろう。母も父も死んで、兄弟二人きりになってしまっているだけに、淳二はその大金を見てしきりに兄のことを想った。
その物騒なボストン・バッグの処分について、一番たしかで、しかも一番馬鹿げていると思われる考えは、明日一番で警察へ届けることであった。何も警察まで運んで行くこともなく、電話を一回するだけで、何人もの警官が飛んで来ることは目に見えていた。
だが、拾得物とは言えないようである。道で拾ったのならともかく、預かった物なのだから、その筋へ届けても一割の謝礼と言うわけには行かないかも知れないと思った。それに、清水があんな奇妙な消え方をしたにせよ、彼は篠田昌代を訪ねて来てそれを預けたのだし、昌代をさしおいて警察へ届けてしまうのもどうかと思われた。それに、万が一にもそんなことはあるまいと思うが、もしその鞄の中身が昌代と深くかかわっていて、昌代が何かの犯罪に捲き込まれているとしたら大変なことになってしまう。
淳二は警察に届けるという考えをまっ先に捨ててしまった。
昌代を捲き込んではいけない。
それは淳二の心から本能的に湧いた結論ではあったが、もう少し形勢がはっきりするまでその大金を自分の手に握って置きたいという欲も、かなりの割合でからんでいるようであった。
第二章
ふたつの黒いボストン・バッグは淳二が使っている二階の四畳半の押入れにあった。暑い日が続いて、ボストン・バッグに関しては膠着《こうちやく》状態であった。
「ねえ……」
あの翌日、昌代と会うと淳二は折りを見てそれとなく切りだした。彼は客の前でないときに昌代をママと呼ぶのが嫌いで、さりとて昌代さんと呼ぶのも気が引けるから、いつもあいまいに呼びかけている。
「なあに、淳ちゃん」
次の日昌代は少し二日酔い気味らしかった。少し頬《ほお》のあたりにやつれが見えていて、それが果して前の晩の酒のせいなのかどうか、淳二には妬《ねた》ましい疑いであった。
昌代はクーラーの効く階下のテーブルに小型の電気スタンドを持ち出して帳簿をつけていた。
「清水さんて知ってる」
「清水さん……」
昌代は帳簿から顔をあげ、眉を寄せて言った。ボールペンの尻を無意識に頬のあたりに当てていた。
「関東プラスチックの……」
よく店に来る若くて歌のうまい男だった。
「違う」
「じゃ、どこの清水さんよ」
「ゆうべ遅く来たよ。みんな帰ってから」
「あらそう。やっぱりあれからお客さんがあったの」
「うん。でもその清水さんだけだ」
「中年のひと……」
昌代が言った。今日は裾の長い、青い綿のスカートをはいて、同じブルーの袖なしのシャツを着ていた。髪はまとめずにたらしている。
「そう。小柄な人」
やはり心当りがあったのかと、淳二は緊張しながら言った。
「誰かしら、判らないわ。よく来る人……」
「違う。はじめてみたいだった」
昌代は諦《あきら》めたように首を振った。つやつやした長髪が揺れる。
「それじゃ判んないわね」
昌代はそう言ってまた帳簿を眺めたが、すぐ思いついたように顔を淳二に向けた。
「ごめんなさい」
「何が」
カウンターの中で枝豆をむしっていた淳二が手をとめて言った。例の吸いつくような目が淳二をみつめていた。
「ちょっとこのところあたし変だわ」
「どうして」
「何だかお店をうわの空だったみたい」
「そんなことない」
すると昌代は淳二の大好きな笑い方をした。下唇を反らし気味にして、頤を引き気味に微笑するのである。そうすると昌代は穏やかで、ふっくらと豊かで、そのくせひどく艶めいて見えるのである。
「淳ちゃんて、いい人ね」
「短い時間なら、ゆうべみたいにときどき僕《ぼく》にまかしてくれてももう大丈夫だよ」
「あらそう、自信が出た……」
「自信なんてないけど、なんとかやれるよ。バーテンを一人使ってるんだもの、ママはもっと楽をしたほうがいい」
さっきの笑い方がもう少し深くなって、ウフフ……と声をたてて昌代は笑った。それが淳二にはとてもうれしそうに見え、甘ったるいものが胸にひろがった。
「バーテンとしてはまだ頼りないだろうけど、本当はもうちょっと役に立てるんだ」
すると昌代は丸い目になって、
「ほんと……」
と悪戯っぽい表情で淳二をのぞき込むようにした。
「本当さ」
淳二の頭の中には二階の押入れにある七千万円のキャッシュが泛んでいた。昌代がざっくばらんに言ってくれれば、いまこの場へ札束を積みあげて見せてもいいと思った。
昌代は大きく見ひらいた目を、急に軽くとじ、いかにも参ったと言うように、ゆっくり首を左右に振ってから帳簿に目を落とした。
「困っちゃうわ、あたし」
「なぜ」
「淳ちゃんが可愛いことを言ってくれるから」
「僕、四つしか年下じゃない」
淳二は抗議するように言った。
「そうね。四つしか違わないのね」
女の二十八と男の二十四は、精神年齢的にはひとまわりも違う感じであった。それは淳二も悟っていたが、そんなに差があるとは認めたくなかった。
「淳ちゃん、何か冷いものを頂戴よ」
「うん」
淳二はよろこんで冷蔵庫の戸をあけた。どうやら昌代は何かをうまくそれではぐらかし、淳二のほうははぐらかされたことにまるで気が付かないようであった。
二日目の晩、最後の客が帰って看板を消したあと、昌代は少し酔っていて、けだるそうにスツールに坐ってカウンターに肱をついていた。
淳二はもう一度清水のことを持ち出して見た。
「そうそう、おととい遅くに来たお客のことだけどね」
「おととい……」
睡りかけているのを起されたように、昌代は目をしばたたいて背中を伸ばした。
「言ったろ、きのう」
「何だっけ」
「清水って人さ」
「清水さん……あら、聞いたわねえ」
昌代の様子は明らかにあの男に心当りがないことを示していた。
「名前を思い出したんだよ。清水祐吉って人だよ。天祐神助の祐って字を書くんだって」
「天祐神助……へえ、そう」
要領を得ない返事であった。
「そう言えば、名前まで知ってる人って、あんまり多くないのね、あたしたちの商売は」
「そうだね」
「松本《まつもと》さん、栗橋《くりはし》さん、木下《きのした》さん……」
昌代は最後に帰ったグループの名を数えるように言った。
「みんなよく知ってるみたいだけど、その実くわしいことはなんにも知らないのよ。このお店をやめたらすぐ忘れちゃうわね」
ちょっと淋しそうであった。
「そうかな。ねえ、銀座のクラブにいた頃のお客さん、憶えてるの。もう忘れちゃった……」
すると昌代は拗ねたように下唇をつき出し、首をかしげて指でカウンターに字を書きはじめた。
「そうね。少しは憶えてるわ。中央重工の杉村《すぎむら》さん、旭東《きよくとう》汽船の津田《つだ》さんと村崎《むらさき》さん。西田《にしだ》……金岡《かなおか》、津野山《つのやま》、今岡《いまおか》、横山《よこやま》、菅原《すがわら》、初見《はつみ》に酒井《さかい》。酒井ってお客さんはとても肥ってるの……」
グラスを拭いていた淳二は、手をとめて昌代の顔をみつめた。昌代が遠くなった過去の世界へ戻って行くのが判った。彼女はいま、にぎやかだった昔の夜を思い出しているに違いなかった。
その昌代の回想が何だかたまらなくて、淳二は口にしたくない男の名を口にした。
「宮本さんともその頃知り合ったんだろう」
案の定、昌代はそのひとことで現実の世界へ戻って来た。
「淳ちゃんたら……やだわ」
昌代は意外なほどうろたえていた。左手を頬にあて、子供を睨《にら》むような目で淳二を睨んだ。ひょっとすると、淳二はずばりと言い当てたのかも知れない。多分昌代は宮本と知り合った頃の甘い想い出にひたっていたのだろう。
「どうしたの」
淳二がからかうように昌代の目を見返した。
「油断できないのねえ、淳ちゃんて」
昌代は敗けたと言うように苦笑した。
「ああ、酔っ払っちゃったわ」
そう言ってスツールをおり、少しよろけるようにして階段を登って行った。カウンターの中の跡始末をおえた淳二は、ドアの錠をかけてから、伝票をひとまとめにして二階へあがって行った。いつもなら昌代がそうするのだが、今日は少し酔って、忘れていたようだ。
「伝票をほったらかすようじゃ駄目だな」
冗談のように言いながら二階へあがると、昌代は三畳の襖をあけ放って立っていた。
「ごめん……」
唄うように軽く言い、
「そこへ置いといて。それより悪いけど帯を解いてよ。何だかかったるくて」
と淳二に背を向けた。
「やり方、知らないよ」
淳二はそう言いながら、昌代の帯を解くというより外してしまうようなやり方をした。それでも帯がゆるみ、昌代は自分で解きはじめた。
「淳ちゃん」
「え……」
二歩ほどさがって帯を解く昌代のうしろ姿を見ていた淳二が答えると、昌代はちらりと肩ごしに振り返ってまた前を向いた。
「一弘ちゃんの奥さんが退院するんだって」
「へえ……そう」
「そうなの。もうすぐ鵜ノ木へ帰って来るんですってよ」
なげやりな言い方であった。
「随分長く病院にいたんだろ」
「うん。あの人が鵜ノ木のマンションへ移るずっと前からよ」
そのマンションへは、一度昌代の使いで行ったことがある。多摩川《たまがわ》の堤防に面した、高級なマンションであった。
「じゃあ、奥さんは自分のうちへはじめて帰るのか。変だな」
淳二はそう言って軽く笑った。
「着換えるから向こうを向いてて」
「下へ行くよ」
「いや。そこにいて。そこにいて向こうを向いてて」
淳二は言われたとおり三畳に背を向けた。
「でも、そんな長い病気が治ったんなら、おめでたいことだね」
「そうよ。おめでたいのよ。おめでたいからお祝いをしたのよ」
沈んだ声が聞えた。
淳二はハッと胸を衝かれた。おととい宮本たちと大騒ぎをしていたのは、そのお祝いだったのだと思い当った。だが、宮本の妻が戻って来ることは、昌代にとってそうめでたいことではないはずであった。いったいあの晩どんな想いで宮本と飲み歩いていたのかと思うと、急に年上の昌代がいじらしく思えて来た。
「ひどい奴だな」
そんな立場の昌代を、妻の快気祝いだと連れ歩く宮本の無神経さに腹が立った。
ひどい奴、と言った意味が昌代に通じたらしかった。
「ばかね、あたしって」
「ねえ」
「なあに」
「だめだよ、もっとしあわせにならなきゃ」
口に出して言うと、急に切ない気分になり、淳二は声をつまらせた。
「しっかりしなきゃ……」
物音が絶えて、急に静まり返ったようであった。静けさの中で、昌代の気配さえ消えたようだった。
不意に淳二はうしろから肩を抱かれた。反射的に体をまわそうとすると、昌代がささやくように言った。
「だめよ。そのままにしてて」
淳二は体を堅くしてぎごちなく突っ立っていた。昌代の頤が淳二の左肩に柔らかくのせられ、肩に当てていた手が脇の下へまわって、白い手が胸の前で交差した。
「あたし、強い女……」
淳二は黙っていた。
「ねえ、強い……」
胸の前で交差した手に力がこめられ、淳二をうしろへ引くようにした。
「判らない。……でも」
「でもなあに」
「僕は好きだ」
「あたしも淳ちゃんが好き。……でも、弱いの、あたしって」
好き、と言う意味の深さがまるで違っているようだった。しかし淳二はそれよりも、自分の背中に当っている昌代の柔らかい胸の感触にうろたえていた。
昌代はどうやら、その姿勢で窓の外を見ているようであった。窓ガラスは三段に仕切られ、一番上だけが素通しになっていた。
そんな風に体を寄せ合ったのははじめてであった。昌代とばかりではなく、死んだ母親以外のどんな女ともそうしたことはなかった。大半を兄の敬一に頼って大学を出た淳二には、ガールフレンドと遊びたわむれることに罪悪感のようなものがあって、平凡だが人に誇れるほど生真面目な青春時代が続いていた。
「淳ちゃんみたいな人と静かに暮して行けたら、しあわせでしょうね」
宮本一弘に関して、昌代には思い余ることがあったようである。ひょっとすると宮本の妻のこと以外に、もっと別な女の問題がからんでいるのかも知れなかった。静かに暮せたら、と言う言い方がそれを示しているようだったし、淳二のようなというのも、女出入りがないというように取れば頷けた。
だが淳二にはまだそこまで感じ取ることは無理なようであった。
「しあわせにしてあげられるかも知れない」
淳二は思いをこめて言い、胸の前の白い手に自分の手を重ねた。甘い感動にひたっていた。
「さっき言った清水祐吉と言う人が、あの晩僕にボストン・バッグを預けて行ったんだ」
優しく息づいていた昌代の胸の動きがとたんに堅くとまった。
「ばかねえ、そんなこと言い出して……」
昌代は笑いだし、淳二の体にまわしていた手をほどいた。
昌代に笑われて、淳二はむきになった。憤《おこ》ったように勢いよく振り向いた。昌代はブルージンに、Tシャツを着ていた。
「君には僕の言う意味が判らないんだ」
昌代は目を丸くして淳二をみつめた。彼の勢いに気を呑まれたようであった。
「どうしたの。何で憤るの」
怯《おび》えたように言う。
「年は君より下だろうけど、僕だって男だよ」
淳二は自分が昌代をはじめて君《きみ》と呼んでいることに気づいていた。
「僕は君をしあわせにしてあげることができるかも知れない。そういう意味でボストン・バッグのことを言ったんだ。あまり子供扱いはしてもらいたくない」
「え……」
意味が判らないと言うように、昌代は眉を寄せた。
「ボストン・バッグって何のことよ」
「見せてやる」
淳二は勢いよく押入れをあけ、黒いバッグをひとつ引きずりだすと、手早く留め金を外してあけた。
「ほら、ほら、ほら……」
ほら、と言うたび畳の上へ一万円札の束が投げ出された。昌代はそのたびに上体をそらすようにして、二歩ほど三畳のほうへ退った。
「淳ちゃん、どうしたのこれ……」
昌代は驚いて低く叫んだ。畳の上に百万円の束が積み重なっていた。
淳二は逆上したように見えたが、その実かなり冷静であった。バッグの底にある三挺の銃を見せまいと、札束を畳へひとつずつ放り出しただけである。三十五個目の束を投げおわると、バッグの留め金をかけて押入れにしまった。
昌代は札束に度胆を抜かれて淳二のそんな動きに気付かないでいる。
「百万円の束が三十五ある」
「三十五も……」
昌代は畳へ膝をつき、淳二を見あげた。怯えたような目だが、キラキラと光っていた。
「だからこの間から言ってるだろ。清水祐吉って人を知らないかって」
昌代は淳二を見あげたまま、こくりと頷いた。それがひどく稚い感じだった。
「でも君は知らないと言った」
「知らないのよ、本当に」
「その清水という人が僕にこれを預かってくれと言って渡したんだ」
「まあ……。いつ」
淳二は顔をしかめた。すると昌代は叱られたように肩をすぼめる。
「君が鵜ノ木へ行って遅刻したときだ。ちゃんと出て来ていれば君は清水という人に会えたんだよ」
「ごめんなさい」
立場が一挙に逆転していた。淳二は昌代を支配したような気分になっていた。
「清水は君の名前を知っていた。でも、そうよくは知らない様子だった」
「清水祐吉なんて人、あたしも知らないわ。全然心当りがないの」
「君の名前は言ったけれど、本当に君を訪ねて来たのかどうかは判らない。とにかく君がいないと判ると、少し飲んだあとで、遅くにもう一度来るからと言って僕にこれを預けたんだ」
「思い出したわ。お釣りがないので一万円預けたんでしょう。伝票にあったわね」
「あんなの、もらっちゃっていいよ」
そう言ってから淳二は急に笑い出した。この大金を前に、まだそんなこまかいことに気をつかう自分が滑稽《こつけい》に思えたのだ。
淳二は昌代のそばへまわり、並んで膝をついた。
「ねえ、凄《すご》いだろ」
「だけど淳ちゃん、どうして中身がお金だって判ったの」
「あけて見たのさ」
大丈夫か、と言うように昌代は淳二の顔をのぞき込んだ。
「あの晩、君が宮本さんたちと出て行ってしまってから、清水さんが来たんだ。言っただろ」
「ええ」
昌代の記憶はふたしかなようだった。
「そうしたら変なことが起ったんだ」
「変なこと……」
「清水がボストン・バッグを返してくれというから、二階へとりに来たら、そのすきに下へ男が二人やって来たんだ」
「どんな男」
「見たこともない奴らさ。二人とも拳銃を持っていた」
「まあ……」
「そして清水を射ったんだ」
「お店で……」
「うん」
「で、どうなったの」
「清水は射たれた。二発」
「音を聞いたの。それとも射つところを……」
「それが、空気銃みたいな小さな音なんだ。消音装置がついてる奴らしい。ちょうど階段をおりかけていて、上のほうから覗いたら二人が銃を手に持っているのが見えたよ」
「まあこわい。それであなた大丈夫だったの」
「うん。僕がおりて行くのに気づいて、二人は逃げて行った」
「よかったわ」
昌代は今更のように溜め息をついた。
「清水は突き当りの壁にもたれて、ずるずるっと床に倒れてしまったんだ。行って見ると胸のところに穴がふたつあいていた」
「やだ」
「それからが変なんだ。二人を追いかけてドアをあけて外を見たんだけど、もう見えなかったんで、すぐドアをしめて振り返ると、射たれた清水がいないんだよ」
「どうして」
「判らない」
淳二は首を横に振って昌代をみつめた。ブルージンにTシャツを着た昌代の髪だけが古めかしい日本調で、何かひどくちぐはぐであった。
沈黙が続いた。淳二はそんなように感じなかったが、昌代は怪談を聞かされたように怯えていた。
「その人、消えちゃったのね」
「うん。外を見てすぐドアの錠をかけたしね。消えるはずはないと思って上も下も探したんだけど、どこにもいなかった」
「こわい……」
昌代は膝を動かして淳二のほうへ体を向け、しがみついて来た。淳二はそのしなやかな体を思い切り抱きしめてやった。
昌代を安心させてやるために、淳二は清水が自分の脇の下をすり抜けて外へ出て行ったのだろうと説明した。
しかし、昌代は意外なことにその説明では納得しなかった。いくら淳二が慌てていたにせよ、店のドアは普通のものより寸法がつまっているのだから、その狭いところをすり抜けられて、気付かないはずはないというのである。
「そんなことってあり得ないわ。おかしいわよ」
「だったらどうなっているんだい。本当に消えちゃったのかい」
「判らない。でも何だかこわい。そう言えばこの二、三日、お店へ入るたび何だか変な感じがしてるのよ」
「気のせいだよ」
「射たれて胸にふたつも穴があいてるのに、血が流れていなかったんでしょう」
「だから、それは防弾チョッキか何か……」
「本当にそんな用意までして来たのかしら」
「それ以外に考えられないだろう」
「でもその人、あとで消えちゃったじゃないの」
「じゃ、あれは幽霊かい」
「変なこと言わないでよ。お願いだから」
「変なこと言ってるのは君のほうじゃないか」
「そうかしら」
昌代は困ったような微笑を泛べた。それがいかにも頼りなげで、淳二の保護欲をそそった。ちかぢかと向き合っている白い顔にゆっくり顔を寄せて行くと、昌代のほうからしゃぶりつくように唇《くちびる》を合わせて来た。
淳二はそれが生まれてはじめてのキスであった。
「ああ……」
唇を離したあと、昌代は淳二の頬に頬をすりつけるようにして言った。
「こうしていると安心なのよ。こわくなくなるの」
淳二はもう一度唇を求めた。昌代もそれに応えてくれたが、彼女のキスはたしかに自分のための鎮静剤のようなものだったらしい。なんとなくそんなちぐはぐなものを感じ取ったにせよ、淳二は満足であった。
「とうとう君とキスをしちゃったね」
その言い方が稚なすぎたらしく、とたんに昌代は年上の微笑を泛べて体を離し、畳に両手をついて札束の山を眺めた。
「その清水って言う人、射たれて死んじゃったんだといいわね」
「どうして」
「だって、これを見なさいよ。そうだとしたらこのお金はあたしたちのものじゃないの。うちへ預けて行ったことは誰も知らないんでしょう」
「多分ね」
「射たれても、とにかくうちでは死んでいないわよね」
「死体がないもの」
「でしょう」
ついさっきまで清水を幽霊か何かのように言ってこわがっていた昌代が、急に現実的になったようであった。
「うちは被害なし。お金だけ残ったわけよ」
「でも、清水を射った二人連れがいるよ」
「お金のことまでは知らないんでしょう。だいいち、いくらくわしく聞いても、そんな人に憶えはないもの。人に聞いてうちへふらりと飲みに入っただけじゃないかしら」
「こんな大金を持ってかい」
それこそ考えられないことだった。だが、昌代はうっとりとした顔でその札束の山を眺めていた。
それを見ているうちに、淳二の心に微妙な変化が生じた。もうひとつのボストン・バッグのことを、この際伏せておこうと思いはじめたのである。昌代の顔に強い欲望が泛んだせいであった。淳二はそれを決して醜いとは感じなかったが、今まで気付かなかったしたたかさを感じたし、そういう昌代を支配するには、持っているカードを少しずつあけて見せるほうがいいと思ったのだ。
「今まで黙っていたのは、君を巻きぞえにしてはいけないと思ったからなんだ。しばらく様子を見ようと思ったんだ。でも、早く君にこれを見せてやりたくて……」
昌代は札束の山に見入りながら、ごく自然に右の腕を淳二の肩にまわした。
「有難う。うれしいわ」
上の空のような声であった。
「これでもっと大きな店を持つこともできる。レストランもやれるだろうし、店がこのままでいいなら、立派なマンションに住むこともできる」
「でも、三千五百万よ。使いようによっては大したお金じゃないわ。それより淳ちゃんはこれをどうしたいの」
「僕は金なんか要らない。ただ、兄貴を助けてやることはできるな。会社がパンクして苦労してるんだよ。でも、蒸発しちゃって居所が判らない」
すると昌代は、あ……、と言い、坐り直した。
「そうだわ。これはきっとあの人たちに関係があるんだわ」
昌代は淳二の顔をじろじろと眺めた。
「淳ちゃん。これからあたしが喋《しやべ》ることを、最後まで冷静に聞いてくれる……」
昌代は思い切ったようにそう言った。
「なんだい」
「実は、ずっとあなたに隠していたことがあるのよ」
「隠していた……」
「そう。あなたに言ってはいけないことになっていたの。でも、こんなお金が出て来たからには喋っちゃうわ。あなたのお兄さんのことなのよ」
「兄貴の。居場所を知っているのかい」
「あの人なら多分知ってるかも知れない」
宮本一弘のことだった。淳二は黙って昌代をみつめた。
「こうなったら、あたしたちの間に秘密はなしにしましょうね。何もかもざっくばらんに話すわ。あたしは宮本を愛したの。……あら、やっぱり過去形を使っちゃうのね。そうよ、昔は本当に愛してたの。あの人となら、どこまでもついて行くつもりでいたわ。この店をやる時も、随分とめてくれた人がいるのよ。もっと大きなお店をやらせてくれる……銀座でよ。それでなければ、もうお勤めなんかやめて、好きなことをして暮していればいいって……。でもあたし、宮本を愛していたから、こんな汚なくて小さなお店でもよろこんではじめたわけなの。一弘《いつこう》ちゃんはあたしに優しくしてくれたし……」
昌代は宮本と一弘ちゃんというふたつの呼び方を微妙に使いわけて喋っていた。
「でも、いくら売れっ児と言っても、劇画家ってそう大きなお金にはならないのよ。事業をやっているような人たちとは、やはりスケールが違うのよ。おかしいでしょう。有名な宮本一弘の二号が、蒲田のこんなところで、毎晩つまらない歌を唄って稼いでいるんですものね。でも、それが現実なの。あたしは結構満足してたわ。そうしたら、宮本の昔のお友達だっていう人が……あなたのお兄さんよね。そのお兄さんが、弟を預かって欲しいって、宮本のところへ言って来たの。このお店へも何度か飲みに来たことがあるのよ。もちろん宮本と一緒だったけど、一弘ちゃんは何かお兄さんのたのみを聞いてあげなければならない義理があったみたい。でも、あれは義理だけじゃないわね。一弘ちゃんはあなたのお兄さんが好きだったのよ。歳は一弘ちゃんのほうがだいぶ上だけど、お兄さんに一目も二目も置いてるみたい。なぜだか判る……」
なぜだか判るかと、昌代は年上の女の目で淳二をのぞき込んだ。淳二は黙って昌代の唇をみつめ、首を横に振った。
「一弘ちゃんはね、大学のころ学生運動のリーダーみたいなことをやってたんですって。お兄さんはそういう一弘ちゃんの後輩に当るわけよ。でも、一弘ちゃんは途中でその運動から逃げだして、いろんなことをやった揚句、今の劇画の仕事で落着いたのよ。つまり、ドロップ・アウトしたわけよね。その点、あなたのお兄さんは、最初のうち一弘ちゃんたちの言うとおりに動いていたんだけど、転向なんかしないで、ますます激しい活動をやって行ったの。あいつらにはとてもかなわないって、一弘ちゃんはお兄さんたちのことをよくそう言ってたわ。感心しているのよ、今でも」
「今でも……」
「そう」
「だって兄貴はそんなこと、もうしていないじゃないか」
「しているのよ。あなたは知らないの。お兄さんは、あなたには知らせないようにしていたのよ」
「どんなことをやってたんだろう」
淳二は首をひねった。
「爆弾事件を知ってるでしょう」
「企業爆破グループのことかい」
「そう。それにハイジャックや外国の大使館なんかへ乗り込んで人質を取ったりするのも……」
「兄貴がそんなことに関係してるの」
「だから、冷静に聞いてって言ったでしょう。お兄さんはね、そっちのほうの大物なのよ。リーダーなの。ああいったことを計画したり、命令を出したりしてるのは、あなたのお兄さんなのよ」
「まさか」
「間違いないはずよ。あなたは会社が経営に失敗して倒産したと思ってるでしょうけど、本当はそうじゃないの。コツコツと資金稼ぎをした末に、どかっとお金を集めておいて、一度にそれを倒産させてしまったのよ」
「やっぱり計画倒産……」
「そう。お兄さんはそのお金を資金に、新しい作戦を練っているんですって」
淳二は唸った。少し神経質だが、温厚で誠実だと思い込んでいた兄が秘めていた、もうひとつの激しい顔が信じられなかった。
昌代はバッグの底にあった三挺の銃のことをまだ知らない。だが、もしもあの時清水がすんなり昌代に会っていたとすれば、昌代は銃を見てすぐにその金の受取人に思い当ったはずであろう。とにかく、高山敬一の組織はひどくさし迫った状態にあって、そんな形で宮本一弘を経由させ、蒸発中の敬一に資金と武器を届けようとしたのであろう。
それにしても、清水の異常な消え方の解釈は依然としてすっきりしなかった。昌代に説明してみてはっきりしたのだが、淳二もやはり脇の下をかいくぐって外へのがれたということには、根本的に納得が行かないのだ。常識に合わせた解釈を作り出しているにすぎないようだ。
「さっき淳ちゃんもそう言ってくれたけど、奥さんの快気祝いだと言って、あたしを連れて引っぱりまわすなんて残酷よねえ。はっきり言っちゃうけど、あの晩宮本はあたしにとても優しかった。そんな宮本に抱かれて、あたしは昔のように燃えたわ。でもどういう気持なのか判らない」
そんなことを喋る昌代は、淳二から見ると急に肌の硬い、垢《あか》じみた女であるような気がするのであった。
「それに、別な噂《うわさ》もとっくに聞えて来てるのよ。銀座の子で、宮本が面倒を見ている子がいるんですって。その子、赤坂《あかさか》の新しいマンションに入ってるのよ。あたしの時と今とじゃ、宮本の収入もずっとよくなってる。今ならそれくらいのことはできるわよ。でも、あたしはどうなるのかしら。こんなところに四年も放り込まれていたんですもの、銀座の現役の子にはもうとてもかないはしないわよねえ。錆《さ》びついちゃったわ」
「そんなことないよ」
「有難う。でも淳ちゃんには判らない世界なのよ。もうすっかり錆びて、古臭《ふるくさ》くなっちゃって……」
「別れてやり直せばいい」
淳二がそう言うと、例の吸いつくような目が、ひたと淳二をとらえた。
「そう思ってくれる……本当に」
「うん」
「それなら言うけど、あたし、このお金が欲しいの」
淳二は黙って昌代をみつめ返した。それは、なぜかという問いでもあった。
「一度銀座から離れた女が、もう一度銀座へ返り咲くっていうことが、どんなにむずかしく辛いことか、淳ちゃんは判らないでしょうね。それは、返り咲く人はいくらでもいるわ。でも、たいてい以前のようには行かないの。留守にした分だけ歳を取るし、古くなっちゃってるの。判る……歳を取るって言うことと、古くなるって言うことは、似てるけど違うの。そういう人はベテランには違いないけど、どことなくうらぶれちゃうのよ。返り咲くこと自体、失敗なんですものね。苦労した揚句に返り咲くんですもの。体にうらぶれた影がしみついちゃってるのよ。返り咲いた人がみんなそういう自分に耐えて行けるのは、苦労したせいなの。我慢しなければやって行けないってことを知ったからなのよ。でもいやなのよ。そして、体にしみついたそう言う影を洗い落とす方法がひとつだけあるの。それがこのお金」
昌代は右手を札束の上に突き出し、強い声で言った。
「これだけあれば、普通の返り咲きじゃないようにしてやり直せるわ。このお金でにぎやかに乗り込むの。三千万や四千万くらいあったって、お店をやろうなんて考えはしない。あたしはよく知ってる。その程度のお金で将来の設計をするんなら、ちっちゃなアパートでも買って、宝くじのおばさんにでもなるわ。いま都心のマンションがいくらすると思うの。ちょっとしたのでも三千万よ。家具に凝って内装に手を入れたら、こんなお金はすぐ消えてしまう。ねえ、あたしにやり直させて頂戴。あたしはまだ二十八よ。今なら間に合う。それとは別にして、前から淳ちゃんが好きなの。女なら……あたしのような女なら、誰だって淳ちゃんみたいな綺麗な男性には憧れるものよ。ねえ、あたしを買っちゃって。このお金であたしを……」
昌代は泣きはじめ、淳二はそれをぼんやりと見ていた。昌代の言葉を分析すれば、相当勝手な言い分であることはすぐに判ったかも知れない。だが淳二には余分なゆとりがあった。それはもうひとつのボストン・バッグであった。淳二も昌代の言うとおりにした場合、自分の居場所がどこにもなくなることは気が付いていた。しかし、いま昌代が望んでいるものと同じ額の金が残っているのだ。それに、とにかく淳二は昌代の希望を叶《かな》えてやりたかった。
「階段の登りのところの棚の上に、ぺーパー・バッグの大きいのがあったね」
淳二は昌代の態度が少し落着いてきたのをみてそう言った。
「あるわよ」
昌代は照れ臭そうに、人差指の先を目尻のあたりに軽く触れさせながら答えた。自分を買え、などと言ったものの、激した感情が冷えると、少し演技が過剰だったと思い始めているのかもしれなかった。
「取って来てくれないか」
淳二が言うと、昌代はすぐに立ちあがり、
「どうするの……」
と言いながら階段を降り、すぐ戻って来た。そのペーパー・バッグは、町で普通売っているもののなかでは一番サイズの大きなものだった。昌代がそれに何か入れて持ち歩くには、紐《ひも》の部分を腰の上あたりまで持ちあげていなければなるまい。
淳二はペーパー・バッグを受取ると、畳の上の札束を無造作にその中へ放り込み始めた。
「そんなことしてどうする気……」
すると淳二は札束を放り込む手を止めて、いとも満足気に、そしてちょっと悪戯っぽく笑った。
「君にあげるよ」
昌代は目を丸くした。その目のあたりから顔一杯に、素直なよろこびの表情が拡がって行く。
「だって、僕なんかがこんな大金を一度に銀行に預けるわけにはいかないじゃないか」
昌代は淳二をみつめてかすかに頷いている。
「君の好きなようにしてあげたいんだ。ここへ置いておくより君に渡してしまったほうが気が楽だしね」
昌代の唇が、まあ、と言う形に開いた。淳二の気前のよさに驚いているらしい。淳二は残りの札束を全部ペーパー・バッグの中へ放り込むと、立ちあがってそれを持ちあげてみた。
「三千五百万……いやそうじゃない。君と僕の、明日からの生活がこの中に入ってしまった。変な気分だな。これが夢と希望の重さなんだね」
昌代はちょっと瞳をうるませ、
「どれ……あたしにも持たせて」
と、手をのばした。淳二が渡してやる。
「重いわ」
「駅前まで送って行ってやるよ。アパートまでついて行ってやってもいい」
すると昌代は札束の入ったペーパー・バッグを三畳の隅へ運んで行き、そこにそっと置いて境の襖を閉めながら言った。
「いやよ、送ってなんて」
「どうして……」
淳二は眉を寄せて襖を背に立っている昌代を見た。昌代は下唇を反らし気味にして頤を引くように微笑した。
「だって、あたしは帰らないもの。当然でしょ、あなたが買ってくれたんですものね」
事態は淳二の予想をこえたスピードで展開し始めていた。
「宮本さんのほうはどうする」
淳二は一番気になることを尋ねた。
「別れるわよ」
当然でしょう、と言うように昌代は微笑を消して答えた。なぜ今更そんな質問をするのかと咎《とが》めているようでもあった。
「うまく別れられるかい」
諄《くど》いのを承知で淳二は重ねて尋ねた。昌代はその諄さに気付くと、宥《なだ》めるような表情で静かに歩み寄って来た。
「やり直したいのよ。あたし、本当にやり直したいの」
そう言うと、淳二の両肩に腕をのせた。肱の関節あたりまで深々とのせると、爪先《つまさき》だちながら体を押しつけて来た。頸《くび》はうしろに反らし、例の吸いつくような目でみつめていた。そういう姿勢では、いや応なしに下腹部が密着してしまう。
「もうあたしはあなたのもの」
淳二は冷静になろうと努めていた。だが、自分の両手が押えているのが昌代のヒップだと言うことに気づいたのは、最初のつつくような軽いキスがおわったあとであった。
女だ。俺《おれ》の女だ。
淳二は心の中でそう叫んでいた。デニムの生地をとおして昌代のヒップの感触が両方の掌に伝わって来た。淳二はそれを思い切り引きつけた。
「もう遅いわ」
昌代が低く言った。
「顔を洗って来るんだろ」
淳二が腰を引きながら言った。さっきから自分の昂《たかま》りが昌代の体に伝わっていることを知っていた。昌代は多分、それを淳二が恥ずかしがっているのだと感じたのであろう。押入れのほうへ目をそらし、
「お蒲団を敷いてあげる」
と言って近付こうとした。
「いいよ。僕が敷いて置くから化粧を落として来いよ」
淳二は昌代の手首を掴んで言い、階段のほうへ押しやるようにした。
「そう……」
昌代はちょっと解《げ》せないような表情だったが、
「素顔になってもらいたいんだ」
と淳二に言われると、納得して階段を降りて行った。
淳二は大急ぎで押入れの戸をあけ、ふたつの黒いボストン・バッグを上段の冬物の掛蒲団と壁の間へ押し込んだ。札束がつまっているほうも、銃だけのほうも、どちらも中を見られてはまずいのである。
下の水音を聞きながら、淳二は夜具をのべた。昌代はなかなかあがって来ず、よく聞けばガスで湯を沸《わ》かす音もしているようであった。
淳二は浴衣《ゆかた》の寝巻きを着て先に横になった。仰臥してしみだらけの天井を眺めていたが、まるで落着かなかった。
兄の敬一に渡るべき金を、横奪りしてしまったのだろうか。まず心に泛んだのはそのことであった。しかし、敬一たちのしていることには共感できなかった。本当に兄貴はああいった過激派のリーダーなのだろうか……。淳二は今になっても信じかねる思いであった。しかし、聞いてみれば思い当る節がないでもない。倒産騒ぎが起る前日まで、敬一はいつもと少しも変らない態度であった。少くとも経営者である敬一には、そういう事態になることがあらかじめ判っているのが普通ではないのか。判っていれば取り乱さないまでも、焦《あせ》りとか狼狽《ろうばい》とか、多少なりと態度に変化が生じ、唯一の肉親である淳二にもそういう気配が察しられたはずであろう。また、債権者が押し寄せるようになってからも、そういう相手の前では体を小さくして頭をさげ続けていたが、淳二と二人きりになると、ほっとしたように微笑を泛べたりして、いつもの冷静な態度に戻るのであった。それを淳二は敬一の精神の強靭《きようじん》さだと思っていたが、計画倒産だったとすると、ごく当り前のことになる。
やはり過激派のリーダーなのだろう。淳二は過去のあれこれを思いかえしながらそう思った。
「マーサ」へ連れて来られたのも以前から敬一が考えていたことなのだろう。何がなんだか判らずに、ただもう大変なことになったとうろたえて敬一の言うままにしていたが、結局自分は何かのカムフラージュに使われていたのだろうと、淳二は結論を下した。
すると急に気が楽になった。企業に対する爆弾騒ぎや、ハイジャックや人質事件などを、淳二は以前から唾棄《だき》すべき卑劣な行為だと考えていた。革命など、そんなことで実現するはずはないと思っている。現に、テレビも週刊誌も新聞も、その種の行為に対しては歩調を合わせて非難しているではないか。淳二はむしろ敬一たちに金が渡らず、そういった非道な行ないを未然に防止できることを、善いことだと思った。
昌代が階段を登って来る足音を聞くと、淳二は目をとじてつぶやくように言った。
「兄貴のやっていることはよくないよ」
昌代の答は聞えなかった。彼女は一度|枕《まくら》もとのほうへまわって何かを置き、三畳のほうへ去って行った。
「あたしもああいうことは嫌いよ」
昌代が三畳のほうで答えた。
「お兄さんのことを考えてたのね」
「うん」
「嫌よ、ああいう仲間に引っぱり込まれちゃ」
「判ってる」
昌代はすぐに三畳から出て来た。
「電気、どうする……」
「どっちでもいい」
淳二はそう言って目をあけた。
全裸の昌代が天井からぶらさがった蛍光灯《けいこうとう》の笠の下にいた。昌代はしばらくそのままの姿勢で淳二を見おろしていたが、やがてゆっくりと両手をバストにあててかくした。
「綺麗だな」
「そうでもないわ……って言うところだけど、綺麗でしょう」
昌代は静かに蒲団の横へ坐った。
「人によっていくらか違うでしょうけど、女の体はあたしくらいの頃が一番綺麗になるらしいのよ」
たしかに、細いなりに脂が乗って、まさに熟れているといった感じであった。
「でも、プロポーションは別よ。これは生まれつきだから、あたしは、ずん胴で駄目」
そんなことはなかった。和服が似合う柳腰で、裸で横坐りになると、胴のねじれ具合がひどくエロチックだった。
「とうとうこうなるのね」
昌代はそう言い、左手を畳について、枕もとのほうへ右手を伸ばした。先の尖《とが》ったバストが少し揺れた。淳二は手を伸ばしてそれに触れようとした。すると昌代は素早く体を引き、
「まだ駄目」
と片頬で笑った。母親が子供を軽くたしなめる時の顔に似ていた。
階下で昌代は淳二が想像もしなかった準備をしていたらしい。枕もとへ手を伸ばして取ったのは、温かいおしぼりであった。
「汗を掻《か》いたでしょう。拭いてあげる」
そう言って夏掛けをめくり取ると、片手で素早く淳二の浴衣の紐を解いてしまった。淳二は前をはだけさせられるのを悟ってまた目をとじた。
汗を拭くと言ったが、昌代は腹から腿《もも》にかけての肌しか拭かなかった。柔らかく丹念に拭き、拭きおわると有無を言わさぬ手つきで淳二のブリーフを脱がせてしまった。
「あたしはどうせ裸にさせられるんですもの、先に自分で脱いじゃったのよ」
昌代は弁解とも励ましともつかぬように言った。淳二はすでに見事に屹立《きつりつ》していた。
昌代は無言だった。淳二も息を殺していた。その静けさの中で、淳二は剥かれ、拭われていた。
「う……」
淳二が短く呻《うめ》いて、大臀筋《だいでんきん》に力をいれたとき、昌代は部屋の隅へタオルのおしぼりを投げつけるように抛り、一気に淳二の体へのしかかって来て唇を求めた。
長いキスだった。昌代の舌がうごめいて、淳二の頭を痺《しび》れたようにさせた。
淳二はその顔を手で押しあげるようにして離すと、唾《つば》を呑み込んでから言った。
「知らないんだよ」
昌代は瞳を潤《うる》ませてその顔を見おろしていた。
「そうだと思ったわ」
「がっかりしたかい」
「とんでもない。反対よ」
「二十四にもなって、だらしがないだろ」
昌代は首を横に振った。長い髪が揺れ、一緒にバストも震えた。
「あたし、しあわせだわ。淳ちゃんの最初の女になるんですものね」
「ちょっと恥ずかしいんだよ。さっきから我慢してるんだ」
淳二は正直に言った。
「ねえ、ちょっとどいて」
昌代が言ったので淳二は体をずらせた。昌代は淳二がしていた枕に頭をのせ、蒲団の中央で仰臥した。
「そこに乾いたタオルがあるの。取って」
淳二は枕もとを見た。小さなポットやグラスやウィスキーの瓶など、意外に多くの物がそこに並んでいた。
「これかい」
「そう」
昌代は仰向けになったままそのタオルを縦に細長く折り畳んだ。そして、鉢巻《はちま》きをするように両手の拇指と人差指の間へその端をはさむと、何かの儀式のように、そっとタオルを顔にのせた。鼻と額の間にそのタオルがよこたわった。
「どうするんだい」
「目隠しよ。もう何も見えない」
昌代はそう言うと、一度深く息を吸い込み、静かに吐いた。両手を体の脇に伸ばし、全身の力を抜いたようだった。
「ねえ。好きなようにして、あなたの好きなように。触って……見て……何でもしていいのよ」
淳二はそう言われて、はじめて横になった昌代の体をまともに眺めた。美しかった。ただ、双つの丘だけはゆるく崩れていて、さっき畳に手をついていたときのほうが綺麗だったと思った。
淳二はおずおずと触れて行った。双つの丘から腹、そして腿へ、そっと伏せた掌をずらせて行った。
「胸を見て。尖っちゃったでしょ」
昌代が言った。淳二がそれを指ではさむと、目隠しをした昌代は口を小さく丸くあけ、白い歯をのぞかせたが、すぐにそれをとじて下唇を噛《か》んだ。
その夜の昌代は淳二にとって、何よりもまず教師であった。そして妻であり、母であり、娼婦《しようふ》であり、悪友でもあった。
「淳ちゃん、いい……」
昌代は何度も淳二にそう尋ねた。そのたしかめの言葉は、あらゆる場面で発せられた。昌代が繰り返しそんな風に言ったのは淳二の反応が昌代にとってふたしかだったからであろう。はじめて女の体に接して、未知の感覚に対する淳二の臆病《おくびよう》さが、予想外の持久力となってあらわれたのであった。
「どうしたの。駄目なの、あなた」
いつの間にか、昌代の呼び方が淳ちゃんからあなたに変って行った。淳二は昌代が焦りはじめているのを感じ、喘《あえ》ぎながらそのわけを告げた。
「それじゃ、まだ一人でもしたことがないの」
昌代は驚いたようであった。しかしその言葉を、淳二は羞《は》ずかしいものに聞いた。幼稚さを嗤《わら》われたと思った。それで体の芯《しん》がまた少し冷え、いっそう持久力が増した。
「知らないから。あたし、勝手にするわよ」
逆だった。昌代のほうが先に淳二に屈服する形になった。彼女は或る時点から一方的に狂いはじめ、家の外に聞えてしまうのではないかと思うほど高い声をあげて硬直した。
淳二はそうやって昌代が懊悩《おうのう》する顔を、美しいと思った。
「どうしたの……」
だから、自分の体の上で急に昌代が動きをとめた時は、つい心配になってそうささやいてしまった。昌代はひくりと体を震わせ、
「知らない」
と拗ねたように言った。そのままかなりの時間じっとしているうちに、昌代はまた、ああ……と言って腰を揺らしはじめた。そしてそのあと、今度は淳二が登りはじめた。男の登りは急で短く、淳二は夢中で昌代の名を呼んだ。
「今日は危いの。危い日なのよ」
昌代はそれにこたえ、自分もまた登りながらはっきりと言った。
「でもいい。赤ちゃんができてもいい。そうしたらあなたと結婚する。いいでしょ、あなたの赤ちゃんを生んじゃうから……」
淳二は昌代の言葉をまるで聞いていないようだった。生まれてはじめての感覚に、何がなんだか判らないようだった。ただ、昌代の声を、甘い愛の音楽のように聞いているだけだった。
二人はぐったりと重なった。いつの間にか淳二の体が上になっていた。
「判った……」
昌代は左に首を曲げ、淳二に押し潰されたようになりながら訊いた。淳二はかすかに頷いて見せた。
「はじめてね」
昌代の手がまさぐるように淳二の背中を這《は》った。
「あたしから離れちゃ駄目よ」
淳二はまた頷いた。
「あたしはまたホステス……時と場合によっては、弟みたいな顔をしててね」
淳二は頷く。
「でも憎らしい」
昌代は体を動かし、淳二の頬を両手ではさんで持ちあげるようにすると、軽くキスをした。
「なんにも知らないくせにあたしを先にあんな風にしちゃうなんて」
「仕方なかったんだよ」
淳二は甘ったれた言い方をした。
「いいのよ。すてきだったわ」
「そうかい」
「浮気しないでね」
「するもんか」
「するわよ」
「しない」
「じゃ、あたしのこと、焼餅《やきもち》を焼く……」
「判らない」
「妬《や》くわね、きっと」
「なんにもなければ妬かないよ」
「ホステスって、男の人にサービスするのよ」
「知ってるよ。でもそれは仕事じゃないか」
「判ってくれる」
「うん」
「好きよ、あなた」
またキスをした。二人はまだ繋《つな》がっていた。
「昌代……」
「あなたはいい人。あたしの大事な大事な旦那《だんな》さま。あなたを信じるわ」
淳二が頷く。まだ完全には萎《な》えていず、勢いを盛り返しはじめていた。
「凄いわ」
昌代は下腹部のことを言った。
「もうなんでもしてあげたい。だから、あたしのことも信じてね」
「信じる」
昌代はどうやら淳二からその答を引きだしたかったらしい。あとは黙ってまた淳二の蓄積された精気に立ち向かって行った。今度は淳二の果てるのが早く、昌代は甘えた声でずるいずるいと言った。淳二は素早く立ち直り、次には昌代を一方的に降した。昌代はそのあと努力して淳二を解放し、もう許して、と言って睡りにおちて行った。
第三章
どうやら淳二は、昌代を自分の人生に展開するひとつの地形のように思いはじめたようであった。往く道がそういう地形の中を通るのだから、そこでどんなことが起ろうと、それは地形のせいではなく、自分の運とか宿命とか言ったもののためだと思おうとしているらしかった。
その昌代は、三十五個の札束をそっくり手に入れて、活溌《かつぱつ》に動きはじめていた。淳二は昌代がどんな生活設計をしようと、その中へ自分も納まればいいのだという風に、すべてまかせ切っているようだ。
それは淳二にとって危険な兆候であった。一種の自己放棄なのである。大金を猫ばばした罪悪感が、彼を建設には向かわせず、そんな方角へ流れさせはじめているようであった。
だが淳二はそんなようには感じず、ただ居直った気分でいた。六挺の銃があるのだ。いざとなったらその中の一挺をとりだして弾をこめ、こめかみに当てて引金を引けばそれでよいと思っていた。責任を取るとか贖罪《しよくざい》するとか言うのではなく、ただ面倒なことになったら自分が消えてしまえばいいのだというのであった。
とにかく富とはいいものであった。金を使うたびに、新しい世界がひらけて行くようだった。淳二は昌代を信じ切っているわけではなかった。心の底のどこかでは、彼女をたっぷりと疑っていた。昌代の愛の言葉のはしはしに、自分を牽制《けんせい》する意味の言葉がまじることに気付いてもいた。しかし、淳二はそれでもまだ自分の安全を信じていた。なぜなら、もうひとつのボストン・バッグがあるからであった。昌代が精一杯自分の機嫌を損じないように振舞っているのを見ると、優越感にひたることができた。彼女を有頂天にさせたと同じ額の金が、まだ手中にあるのであった。仮りに裏切られたとしても、自分は平然としてやり直すことができると思っていた。
しかし、だからと言って昌代を憎んだりうとましく思ったりしているわけではない。むしろ彼は昌代に溺《おぼ》れ切っているようである。昌代はセックスに関して、自分の知っている限りの知識や技巧を、一日でも早く彼に授けたがっているようなのだ。昌代は自分の体をその教材にし、手とり足とり教えては悶絶《もんぜつ》した。まるでそれは、淳二の体を道具にして、自分自身を責めているようであった。
とは言え、昌代もセックスに関して、そう特別な女ではなかった。夜の教程は素早く進み、淳二の成長が逆に昌代の嬉声《きせい》を誘い出すこともまれではなかった。それで淳二は女を痴れ狂わすよろこびを知り、ますます熱心になって行った。
「以前世話になったことがある青山《あおやま》の不動産屋さんに頼んで、マンションを探させはじめたわ」
昌代はうれしそうにそんな報告をした。
「それに、このお店も売りに出したの。でも買い手がつくまでは内緒にしてあるの。逃げだすときはさっと逃げだしましょうよ」
どうやら昌代はかなり長い間、この赤提灯《あかぢようちん》が並んだ一画から脱出する夢を見ていたようであった。
「お店を売ったお金でマンションの敷金なんかを払ったことになるから、丁度いいでしょう」
素知らぬ顔で今までどおり営業を続け、夜になると二階で粘っこい愛撫《あいぶ》をかわしながら、二人は新しい人生へ出発する日を待っていた。
あのボストン・バッグを、淳二はとうとう昌代に見せずじまいで処分してしまった。ふたつともこまかく切り刻んで、店のゴミと一緒に棄ててしまったのである。昌代が一度バッグのことを尋ねたが、淳二は見憶えている者がいたりすると厄介だから、はやばやと棄ててしまったとだけ答えた。
残り半分の現金のほうは、昌代が新居探しに出るごとに、自分も口実を作っては出かけ、あちこちの銀行にこまかく分散して預け、その通帳類はまとめて或る銀行の貸金庫にしまいこんで、昌代に怪しまれるといけないので余分な金はいっさい持たぬよう注意した。
それでも金に不自由はしなかった。昌代は事がうまく運びすぎたように思っているに違いなかった。自分があの金を一人占めしたように思わせないよう、事あるごとにかなりの金額を小遣いだと言って渡してくれる。
「こんなに要らないよ」
淳二が困ったような顔で言っても、昌代は無理やり押しつけるのだ。
「いいじゃないの、持ってるだけだって」
「じゃあ全部飲んじゃうぞ」
淳二は煙草を吸わないかわり、酒はかなり強いほうであった。
「女の子のいない店ならいいわ」
昌代はいつもそう言って笑った。
処置に困ったのは六|挺《ちよう》の銃であった。二挺はサブ・マシンガンで、四挺がフル・オートの拳銃《けんじゆう》だった。淳二は仕方なく、ジュラルミンのカメラ・ケースを買って来て、サブ・マシンと三挺の拳銃をそれにしまい、一挺は厚い洋書をくり抜いてその中へ隠した。なぜ一挺だけ別にするのか自分でもよく判らなかったが、なんとなく必要な時が来るような予感がして、すぐに取り出せるようにしたのである。
引越しの日がやって来た。と言っても、店は居抜きで売れたし、二階の家具類もそのまま置いて行っていいことになっていたから、大仰な引越し騒ぎはせずにすんだ。
昌代は目ぼしい和服を何点かとりのけただけで、あとは全部二束三文で叩《たた》き売ってしまったし、淳二に至っては下着から背広やコートまで、チリ紙交換の車に渡してしまった。
二人はほとんど身ひとつで「マーサ」から南青山へ移って行った。その賃貸マンションには、昌代が好き放題に買い揃《そろ》えた贅沢《ぜいたく》な家具がすでに入っていて、二人は一気に社会の階層を幾つも飛びあがった気分になっていた。
蒲田《かまた》では、昌代たちがどこへ去ったのか、誰も知らないはずであった。
ただ、宮本一弘だけは、昌代がいずれ銀座のホステスとしてカムバックすることを知らされていた。「マーサ」は宮本が金を出していたので、いくら自分名義になっているとは言え、昌代はひとこと断わらねばならなかったのだ。
店を売って出直す。そう言えば、それが別れの挨拶《あいさつ》になったらしい。
「うまくやれよ」
宮本一弘はたったひとことそう言い、すぐ締切りの迫った仕事に戻ったそうであった。
楽しい日が続いた。
昌代はウォーミング・アップが必要だと言って、なかなか勤め先をきめようとはしなかったし、淳二のほうはまるっきり就職する気がなかった。
昌代のウォーミング・アップというのは、毎日美容院へ通ったり、着飾って買物に出かけたりすることであった。
「あたしたち、あんまり遊んでばかりいると、変に思われるんじゃないかしら」
昌代がそんな心配をするほど、二人のくらしはとめどもなく派手であった。そして昌代は、出費の報告をするかわり、このままでまだ何年暮せるわ、というような言い方で、ときどき自分たちの経済状態を淳二に告げるのだった。
ただひとつ、二人の関係で著しい変化と言えば、昌代がはっきりと、妊娠を警戒しはじめたことであった。
「これからは、危い日はこれを使わなくちゃいやよ」
新居に落着いてすぐ、昌代はそう言って四角い紙包みを淳二に投げて寄越した。あけて見るとコンドームであった。淳二は当然のように納得してそれをベッドのそばへ置いた。
結婚、赤ちゃん……それはあの時だけの言葉だったに違いなかった。しかしそのコンドームも、日ならずして使う必要がなくなった。昔の仲間に連絡がついて、昌代はどこからかピルを手に入れられるようになり、毎日服みはじめたのであった。
要するに、昌代のウォーミング・アップというのは、そういうことも含めてなのであろう。
やがて昌代の友達がマンションへ遊びに来るようになった。みんな昔の仲間で、美人ぞろいであったが、彼女たちのお喋《しやべ》りはかなりえげつなく、そしてきわどかった。昌代はみるみる銀座時代の姿に戻っていくようであった。そして或る日、とうとう勤めに出て行った。
夕方から夜中まで、淳二は所在なく過すことが多くなった。自分でも恥ずかしいほど、テレビを見ている時間が長くなった。そして夜中になると、昌代を待ってジリジリと時計ばかり見るのである。昌代は殆んど毎晩のようにまっすぐ帰宅はせず、二時、三時、四時という時間まで外で道草を食っていた。
だが、あからさまに文句を言うわけにも行かなかった。勤めに出る前に、散々それに関しては予防線を張られていたのだ。淳二は年上の女の、人生に対するそうした先まわりの仕方に舌を巻かざるを得なかったが、それにしても辛い夜ごとであった。
嫉妬《しつと》なのである。昌代はいつも酔って上機嫌で帰って来た。帰ると執拗《しつよう》に淳二の体を求めることもあれば、あっさり先に睡ってしまうこともあったが、いずれにせよその体に男の痕跡《こんせき》はなく、態度から言っても浮気の様子は認められなかった。しかしそれでも淳二は嫉妬した。自分よりずっと年長で、しかも力のある優れた男たちと付合って、たとえ体のことはないにせよ充分によろこびを与えられているかと思うと、嫉妬せざるを得なかった。
もし淳二が世間なみの、年相応の立場でそういう昌代に接しているのであったら、最初から諦《あきら》めて気楽に帰りを待つこともできたはずであるが、今の昌代の生活の基盤があの金で出来ているだけに、そうは行かなかった。昌代に対する権利のようなものを意識してしまっているのである。ほかの男たちに奪われかけているとしか思えなかった。
しかも、例の金に関する主導権が、素早く昌代の側へ移行してしまった。もともとは淳二のほうから昌代にあっさり預けてしまったわけだが、はじめのうちは昌代もそのことを充分恩に着る風で、淳二ががっちり握って小出しに渡すより余程効果的だったはずなのに、勤めはじめると昌代は急に自信たっぷりになり、自分一人の金のような態度をとりはじめていた。
それでも、充分すぎる小遣いを渡してくれてはいた。
一度淳二は昌代の帰りそうな時間にわざと町へ出て、明け方までやっているというスナック・バーで時間を潰《つぶ》して見た。もう帰っているはずだとその店を出てマンションの前に着くと、案の定窓に灯《あか》りが見えていた。
「どこへ行ってたの……」
部屋へ入ると昌代は鏡の前に坐《すわ》って、しょんぼりとしていた。
「遊んでたんだよ」
そう答えると、昌代は鏡の中で淳二をみつめた。その目に涙が溜《たま》っていた。
「ばかだな。ちょっと出ただけなのに」
そう言うと昌代は首を横に振り、化粧を落としはじめた。
「あたしたち、いつかは別れるわね」
「そうかな」
「あなたはまだ判らないかも知れないな。でも、そうなのよ」
昌代は小学校の女教師のような言い方をした。
その夜、昌代ははじめて淳二を本気で対等の男として扱ったようであった。淳二の気持では、そんな夜こそ精一杯年下の男として甘えていたかったのだが、昌代の態度の変化に気付いて、むきになって昌代を屈服させようとした。昌代は淳二の望みどおり屈服し、最後にとろりとした目で、
「男ね、やっぱり」
と言うと、いつもよりだいぶずりさがり、彼の胸に顔を埋めるようにして寝息をたてはじめた。
淳二はそれで満足したが、その夜から昌代は年下の男に対する配慮を捨ててしまったようであった。男ね、やっぱり……それは賞讃《しようさん》の言葉ではなかったようだ。
淳二は遊びはじめた。昌代の帰りを待って悶々《もんもん》とした時間をマンションで過すより、深夜の町へ出て酒を飲んでいるほうがずっと気持が救われるのだ。金に不自由はなかった。
遊びはじめると行きつけの店ができ、そこのボーイやマネージャーたちと冗談を言い合うようになると、彼らが次々に違う遊び場を教えてくれた。
淳二は職業を問われると、或るパテントを持っているのだというように答えることにしていた。嘘《うそ》の職業を言うより、そのほうがずっと都合がよかった。それなら定職もなくブラブラ遊んでいてもおかしくないし、金の出所も説明がつく。それに淳二は親の金を使っているのだというようには見られたくなかった。歳はまだ若くても、自分が稼《かせ》ぎ出した金で生活しているのだと思われたかったのである。
たしかに、特許を持っているというのはうまい口実だった。よく売れる商品にそれが使われているなら、一個いくらの特許使用料がころがり込んで来るのだから、かなりの収入があってもおかしくないし、どんな特許かということについては口をとざしてもそう変に思われないですんだ。だいいち、そういうことならば淳二の若さでも運ひとつで大金を掴《つか》む可能性が充分に考えられるのだ。
淳二は本当に昌代と五分五分の男になりはじめていた。今までよく呑《の》み込めないでいた昌代の感覚が、同じ夜の世界を知って見るとよく理解できるようになった。時には昌代と原宿《はらじゆく》あたりへ行って、彼女の服を選んでやれるほどになった。もっとも、和服については依然として見当がつかないでいたが。
淳二は夜の町でいろいろな人間を知って驚いていた。何の拘束もない大金を持って自由に泳ぎまわる自分に多少の優越感を味わっていたのだが、夜の町にはそんな人間がウヨウヨしているようだった。蒲田を出るまで淳二の身近にはそんな贅沢をする人間など一人もいなかったが、青山や六本木《ろつぽんぎ》には贅沢に慣れ、ばか高い外国製の服や小物を無造作に身につけている正体不明の人物が溢《あふ》れているようだった。昌代が返り咲きに金が要ると言った意味がよく判った。
新しい世界を発見して、昌代に対するどうしようもない嫉妬も少しは自制がきくようになった或る夜、淳二は忘れかけていた兄のことを唐突に昌代の口から聞かされた。
「今日、宮本がお店へ来たのよ」
昌代はベッドのそばの椅子《いす》で煙草をふかしながら、さりげなく言った。
「へえ……」
先にべッドへ入っていた淳二は、酔いが納まって行くのを感じながら、白い天井をみつめて言った。
昌代は淳二の顔に泛《うか》んだ皮肉な表情に気づくと慌《あわ》てて、
「違うのよ、いやねえ」
と笑って見せた。
「偶然なのよ。……でも、偶然て言うのもおかしいかしら。所詮《しよせん》銀座ですもの、いつかはぶつかるにきまってたんだし」
「君が呼んだとは言ってないよ」
「でもそんな顔してたじゃないの。あなたこのごろ変よ。何かって言うとあたしを疑っているみたい」
「そんなことないさ」
「まあそれはいいとして」
昌代は煙草を灰皿の底で揉み消すと、シルクのガウンを脱いでベッドにあがり、右肱《みぎひじ》をついて淳二の顔を上からみつめた。
「あたし、まだ浮気なんかしてないわよ」
「判ってる」
「そう。本当……」
「本当だよ」
「でも、あなたのほうは判らないわね」
「なぜ」
「急に変ったわ。以前よりずっとハンサムになったみたい」
「からかうなよ」
「だって本当だもの」
昌代はよく遊びに来るホステス仲間の名をあげて、彼女らも口を揃えてそう言っていると言った。
「あたしから逃げだしたいんじゃないでしょうね」
「なぜそんな風に思う」
二人はいつものからみ合いをはじめようと、お互いの体をまさぐりはじめていた。
「だって、あなたみたいな若い人から見たら、あたしはもうおばあちゃん……」
「これがかい」
「ばか」
昌代は体をくねらせて淳二の手を避けた。
「まだ早いわよ」
ベッドの上の甘い追いかけっこがはじまりかけていた。二人は無言で手をからみ合わせた。
いたずらな淳二の手を両手に握って昌代は言った。
「お兄さんが宮本に連絡して来たんですって」
淳二の体をさっと冷たいものが流れた。
「ばか、早く言えばいいのに」
淳二は体を起した。昌代はそれを見あげていた。
「なぜ。気になるの」
「なるさ」
「だって、もうあんなことをしている兄さんなんて縁切りだって、いつかそう言ったじゃない」
「そうは言ったさ。今でもそう思ってる。でも、兄貴が現われたとなると」
「なあに」
「金のことさ」
「お金……」
「僕《ぼく》らのあの金だよ。あれは多分兄貴のところへ行くものだったんだ」
「そうときまったわけじゃないわ。だいいち、清水という男はあたしの名前を言って訪ねて来たんでしょう」
今となっては、昌代は何が何でも自分の権利を主張する気らしかった。
「金のことを兄貴は知らないといいんだがな」
「関係ないわよ、きっと」
昌代はふてくされたように体の向きを直し、天井を向いた。
「それで、宮本は何て言ってた」
「別に。ただお兄さんはあなたのことを心配してるって。あの人、あなたがあたしと一緒にいることを、薄々気付いてるのよ」
「兄貴が彼に連絡して来たのはいつだい」
「もう二週間かそこら前らしいわ」
淳二は舌打ちをした。
「お店だし、宮本もはっきりは喋《しやべ》れないらしかったけど、お兄さんはだいぶ困っているらしいわ」
「困ってるって、金か」
「いいえ、別なこと。……取締りよ」
昌代は取締りなどという的外れな表現をしたが、そういうことならきっと警察の追及が厳しくなっているのだろう。淳二は必死で逃げまわる兄の姿を想像した。すると急に胸がしめつけられたようになり、目の底が熱くなった。
「追われてるんだな」
「自業自得じゃないの」
昌代はつぶやくように言って目をとじた。淳二は灯りを暗くし、その暗い中で、兄の無事を祈っていた。
兄の話があった日から、昌代の態度は目に見えて冷淡になって行った。
なぜだかその理由はよく判らなかったが、昌代は部屋に一緒にいても自分の殻《から》にとじこもって、淳二からできるだけ遠くなろうとしているようだった。
だが淳二はそのことについて、あからさまな不満を言えずにいた。彼はやっと気づきはじめたのだ。今まで昌代と緊密にやって来れたのは、主として昌代の側の意志によるもので、彼女のそういう働きかけがなければ、とうていあの甘い日々は成立しなかっただろう。だから、その働きかけが消極的になれば、二人の間は当然冷たい感じになってしまう。
「どこか具合でも悪いんじゃないのかい」
淳二は一度そんな風に言って見た。本当はもっとはっきり詰《なじ》るように言いたかったのだが、それでは脆《もろ》いものが一気に毀《こわ》れてしまうような気がしていた。
「そうなのよ、ちょっと調子が悪いの」
昌代はその時、以前のような甘い笑顔になってそう答えた。
「医者に診てもらえよ」
「うん」
淳二はできるだけ屈託なげに振舞っていた。昌代の態度の変化に気がつかないようにしていた。というより、そんな状態は発生していないということを強調しているようであった。
だがその数日間、昌代は店での出来事も友達の噂《うわさ》もしなくなっていた。それでいながら、今まで以上に外での生活に力をいれはじめているらしく、まめに電話をしたり、午後早くに美しく装ってどこかへ出掛けて行ったりした。
昌代は外で何かをはじめている。淳二はそう確信していた。多分それは最終的に新しい恋人の出現ということになるはずだとは判っていたが、対策のたてようがなかったし、覚悟をするにもまだ少し時間がかかるようであった。
が、昌代の態度が急変した理由はすぐ判った。
その日も昌代は午後四時頃に出て行った。客と外で会うらしかったが、昌代はそのことで何も説明せず、ただ女の友達が一緒だとだけ言っていた。
昌代が出て行ったあと、暮れはじめる街路を眺めていると淳二はなんとなく物哀しい気分になった。まだ昌代には未練たっぷり、と言うよりまるで別れる気などなかったし、それだけに、昌代に冷たくされるのが耐え難かった。また一方では腹立たしくもある。昌代が例の金を独占する気になっているのは明らかであった。マンションを借りたり家具を揃えたりで、あの金ももうだいぶ減ってしまっていた。だからこそ昌代はいっそう確実に残りの金を握っていたいのだろうが、そのギスギスした態度がやり切れなかった。もっとうちとけて、はじめの頃と同じように一心同体の生活が続いていれば、まだもうひとつのボストン・バッグの分が残っていることを教えてもやろうものを……。
淳二は灯りもつけず、部屋の中にじっとしていた。
そのとき、柔らかいチャイムの音がして訪問者があることを知らせた。淳二は慌《あわ》てて立ちあがり、部屋の灯りをつけるとドアへ向かった。客の心当りはまったくなかった。
昌代の友達かも知れないと思いながらドアをあけた淳二は、
「あ……」
と言ってノブを放すと二歩ほどあとずさりした。
兄の敬一が硬い表情で立っていたのだ。髪を短く刈り、すっかり様子が変ってしまっていた。
「一人か」
敬一が言った。
「うん」
淳二は頷いた。敬一は明るいブルーのジャンパーを着て、そのポケットに両手を突っ込んだまま、のっそりと入って来て床のあたりを見まわした。
入口にはウェルカム、と書いたマットが置いてあり、その右に昌代と淳二の靴が何足も並んだ小さな棚があった。敬一はスリップ・オンの靴を履いていて、立ったままそれを脱ぐと、昌代が脱いだままになっていたスリッパに足を突っ込んだ。淳二は敬一の体の横をすり抜けて、ドアをしめた。
敬一は先に立つ恰好《かつこう》でジロジロと見まわしながら部屋の中へ入り、道路が見おろせる窓へ行くと、体をちょっと斜かいにして下を眺めた。
「よくここが判ったね」
淳二は機嫌をとるように言った。
「彼女は……」
「うん、もう店へ行ったよ」
淳二は寝室のドアがしまっているのにほっとしながら言った。そのドアはダブルベッドが楽に入れられるだけの幅があるフレンチ・ドアで、ベッドはここ何日か、寝乱れたままにしてあるのだ。
敬一は窓から目をそらすと、まじまじと淳二をみつめた。淳二は無意識に両手を腿《もも》の脇にこすりつけ、急にそれに気付くと恥ずかしそうに微笑を泛《うか》べた。
「変な……」
そう言って部屋を今更らしく見まわし、
「変なことになっちゃってるだろ」
と言った。敬一は相変らずポケットに手を突っ込み、ちょっと背を丸めるような恰好で立っている。
「まあ坐ってよ」
淳二はソファーを指さして言った。敬一は黙って言われた場所へ腰をおろした。
「何か飲む……」
「要らん」
敬一は入って来たときからずっと無表情であった。
「いい暮しをしているな」
淳二は肩をすくめた。
「そうでもないよ」
「おやじやおふくろが生きている頃だって、こんな暮しはできなかった」
「それより、どうしてここが判ったの」
「宮本一弘が教えてくれた。お前あれからずっと彼女の世話になっているそうだな」
あれから、と言うのは蒲田の店を畳んでからと言う意味らしかった。
「うん、そうなんだよ」
淳二はできるだけ子供っぽい言い方をした。昌代の世話になっているという敬一の言い方で、咄嗟《とつさ》にそんな態度をとったのだ。ひょっとすると、例のボストン・バッグの件を敬一は知らないのかも知れないと思ったのだ。
「いいかげんにここを出ろ」
敬一は諭《さと》すように言った。
「彼女に悪い。そうは思わないか」
「うん」
淳二は目を伏せた。だが頭の中では素早くこれからの出方を計算していた。
「出来てしまったことは仕方がないが、彼女はお前より四つも年上じゃないか。うまく行くはずがないだろう」
「うん」
淳二は目をあげて敬一をみつめた。
「言う通りにするよ」
「お前には悪いことをしたと思っている」
淳二は問い直すように眉《まゆ》を寄せた。
「俺《おれ》のことをもう知っているんだろう」
「危いことをやっているという事なら……」
昌代から聞いた、と言うのを省略して淳二は兄の言葉を待った。
「なるべくお前を捲《ま》き込ませずにすませたかった。弁解するようだが、倒産のこともはじめから考えていたわけではないんだ。だから、事態がこんな風に進展するのでなければ、いずれはあの会社をお前に譲ってやれるのではないかと思っていたんだ」
「いいんだよ、僕のことは。まだ若いからね」
「しかしマーサへ預けたのは失敗だった」
敬一は苦笑した。
「だが、あの場合お前も一時行方不明になってもらわねば借金取りに追いまわされるはずだったんだ。書類上はお前もあの会社の役員だったんだ」
「へえ」
淳二は初耳だった。だが、そんなことより例の金の話が出ないのでほっとしていた。
「今日俺がここへ来たことは誰にも言わんで欲しい」
「言いやしないさ」
とんでもない、という風に淳二は目を丸くして言った。
「彼女にもだ」
敬一は厳しい目で念を押した。
「うん。それに、もうあんまりうまくも行ってない」
敬一の目が細くなった。何かを透視しようとしているような目付きであった。
「実は、今日来たのは、彼女のことについてちょっと知りたかったからなんだ」
「どんなこと……」
「お前、彼女から大野《おおの》と言う男の名を聞いていないか、大野|忠夫《ただお》だ」
「いや」
淳二は首を横に振った。
「そうか」
敬一はちょっと失望したように淳二から目をそらし、すぐまた尋ねた。
「藤田謙三《ふじたけんぞう》、宇島宏介《うじまこうすけ》……」
「聞いたことないな」
「宝田重明《たからだしげあき》、清水祐吉《しみずゆうきち》」
不意を衝かれてつい淳二は顔色を変えた。
敬一は淳二をみつめていた。淳二はしばらく何も答えられないでいた。
「どうした。知っているんだな」
「え……うん」
「清水祐吉をか」
「ん……うん」
仕方なく淳二は頷くと、ゆっくりと立ちあがり、納戸になっている小さな暗い部屋のドアをあけて中に消えた。
「何をしている」
敬一が居間から声をかけた。
「ちょっと待ってて」
淳二は納戸からジュラルミンのカメラ・ケースをぶらさげて出て来た。丸いテーブルをはさんだ椅子に敬一と向き合って坐り、ジュラルミンのケースを足もとに置いて言った。
「髪型を変えたり、そんなジャンパーなんか着たりしちゃって、すっかり見違えちゃったよ。ちょっとした遊び人に見えるな。それならなかなか兄さんだって気づかれないだろうね」
敬一は黙っていた。
「追われてるんだね」
「ああ、そうだ」
「頑張ってよ。兄さんたちのやってること、僕はあまり好きじゃない。でも、つかまらないで欲しいんだ」
敬一はやっと微笑を見せた。淳二より七つ年上だった。昔通りの優しい笑顔になっていた。
「お前も仲間になってくれるとうれしいと思っていたんだ」
「何も教えちゃくれなかったじゃないか。兄さんたちの理論を叩《たた》き込まれていれば、僕だって今頃は革命に夢中になっていたかも知れない」
「危険な仕事さ。俺は結局お前をそっとして置くことにしたんだ」
「これ、あげるよ」
淳二はジュラルミンのケースをテーブルの上にあげた。
「何だ、これは」
「兄さんたちに必要なものだろう。もうだいぶ前になるけれど、清水祐吉という人がマーサへ置いて行ったんだ」
「マーサへ。いつ……」
敬一の顔が嶮《けわ》しくなった。
「彼女がマーサを売ってしまう少し前だよ」
敬一はケースに手を伸ばし、向きを変えて留め金を自分の方へ向けた。
「これ」
淳二はキーを渡した。敬一は頷いてそれを受取り、錠を外して蓋《ふた》をあけた。
「こいつは凄《すご》い」
敬一の顔によろこびの色が泛《うか》んだ。
「物騒な品だから隠して置いたんだ。でも、あとで彼女から兄さんのことを聞いて、すぐに兄さんの所へ届くはずの品物だって判ったんだ。でも、連絡の取りようがなかったし、こんなことになってしまって……」
敬一は鉛色の銃に夢中になっていた。
「俺の所へ届けると言う連絡は入っていたのさ。でも、いつどんな風に届くのかは判っていなかった。畜生、こんな所にあったのか」
敬一は慣れた手つきで銃を操作した。そのたびに乾いた金属音がしていた。
「こいつは瀬田産業が開発した最新式の銃だ。以前あの会社がベトナム戦用に作った銃から更に改良されたものなんだ。いま世界中のゲリラがこいつを欲しがっている」
「消音銃だからかい」
「そうだ。今にアメリカあたりの制式銃はみなこの消音機構をとりつけたものにかわるだろうと言われている。……だがお前、なんでこれが消音銃だと言うことを知っている」
淳二は唾《つば》を呑み込んでから思い切って答えた。
「射つ音を聞いたよ。空気銃みたいに小さな音だった」
「いつ」
「これを受取った夜さ」
「誰が射った」
「知らない男だ。二人ともこの銃を持っていた。たしかにこれと同じ銃だったよ」
「どこで見た」
「マーサで。その時僕一人だったんだ」
「その二人はなぜ銃を射った」
「知らないよ。清水祐吉という人が射たれたんだ」
「清水祐吉をその二人が射ったって。本当か、お前」
「うん。たしかにこの目で見たんだ。清水って言う人はマーサへ二度来たんだ。篠田昌代という人はいるかと訊いてた」
「彼女の名じゃないか」
「うん。何かを渡してすぐ帰ったけど、夜遅く、彼女が外へ出て行ってしまってからまたやって来て、今度は大きな紙袋を預かってくれと言ったんだ。外側をビニールで包んだ丈夫な袋だった。ずっしりと重くてね。それを二階へ運びあげてる隙《すき》に二人づれが入って来て清水という人を射ったんだ。パツッと言うような音を二度聞いたよ」
敬一は呆気《あつけ》にとられたような顔でその話を聞いていたが、急にいきり立ったように言い出した。
「たしかに清水祐吉と名乗ったんだな」
「うん。天祐神助の祐の字を書くと言ったよ」
「間違いない」
敬一は唸《うな》った。
「それで、射たれてどうした」
敬一はソファーから立ちあがり、テーブルに両手をついて噛《か》みつかんばかりの勢いで言った。
「もっとよく教えてくれ。これ以上重大な問題はないんだ」
淳二はできるだけ正確に話してやった。
ただ、あの金は手放したくなかった。敬一の様子では、マーサに銃が届いたことも知らなかったようだから、金のことも知らないと見ていいようだった。
しかし、清水祐吉が銃と一緒に金を運んで来たことは、いずれ敬一の耳にも入るかも知れない。淳二はその時のことを計算にいれて、なるべく金のことは自分と関係がないように伏線を張って置いた。
しかし、淳二のそういう慎重な伏線も、敬一の関心からはまったく外れているらしかった。
「二人を追ってドアをあけたんだな」
敬一は夢中であった。
「倒れた清水を見てから、ドアのノブに手をかけて、その手を放さずに……」
「いや、違うよ。あの店の戸は中からだと向かって右側にノブがついている。僕は右手であけてから、一歩外へ踏み出して、ドアのノブのだいぶ上のほうを左手で押えて様子をうかがっていたんだ。清水と言う人はそのとききっと僕の左手の下をくぐって出て行ってしまったんだろう」
「外を見てからドアをしめ、振り向いたら清水はもう消えていたんだな」
「うん」
「その間二十秒くらいしかなかった……」
「そうだよ。小柄な人だったし、随分素早いことは素早かった」
「馬鹿。よく考えてみろ」
「何をだい」
「胸にふたつも穴があいていたんだろう」
「そうだよ」
「胸に二発やられて、そんなに機敏に動けると思うか」
「服の下に防弾チョッキみたいなのを着込んでいたんだろ」
「普通の人間ならそういう可能性もないとは言えん。しかし彼の場合は断言できる。あの清水祐吉は絶対にそんなことをしていなかったはずだ」
「でも、とにかくマーサからうまく逃げ出して行ったよ」
「なぜはっきりそう言えるんだ」
「だって、そのあとドアの錠をおろしてからよく調べたけど、どこにも居なかったんだ」
敬一はじれったそうであった。
「お前はこうやって……」
素早く窓際の壁のところへ行って左手を肩くらいの高さの所に当てがうと、右手で脇の下を示して言った。
「ここを大の男に通り抜けられて気付かないほどぼんやりしているのか」
「だって気付かなかったもの」
「違う」
敬一は興奮して左の掌を右の拳で打った。
「お前が気付かなかったのじゃない。そんなとこをすり抜けたりしなかっただけなんだ」
「じゃあ、清水って人はどうしたの。どこへ行っちゃったんだい。幽霊みたいに消えちゃったことになるよ」
そう言ってしまってから、淳二は急に冷えびえとした感覚に襲われた。敬一が凍りついたような表情で自分を見おろしていたからである。兄と弟の間に異様な雰囲気《ふんいき》の沈黙が続いた。
やがて敬一はゆっくりソファーに戻り、銃をとりあげた。
「こいつはただの銃だ。高度な消音機構を作りつけにした未公表の銃……それだけのことだ。だが、今のお前の証言で判った」
銃口を淳二に向けた敬一は、それを急に入口のドアのほうへ向けて引金を引いた。カチッと音がした。
「奴らはこれで殺せる。奴らは消せるんだ。おい、本当に消せるんだぞ」
敬一は急に笑いはじめた。
「何のことだい」
淳二は訊《き》いた。
「まさか、あの清水という人が本当に消えてしまったんだと言うわけじゃないんだろうね」
淳二は激しい好奇心にとらえられていた。しかし、それよりも昌代と、そしてあの金のことのほうが彼にとってはずっと重大なことであった。
「まあいいさ。何だか判らないけど、どうせ兄さんたちのことは秘密だらけなんだろうからな」
敬一は笑いを納めながら言った。
「ああ。しかし、こいつはその面でも一番大きな秘密だ。俺はお前に礼を言わなければならんよ。清水祐吉が消えてしまったことを教えてくれたばかりか、それを可能にしてくれるこの消音銃まで呉れたわけだからな」
「これ以上は訊かないことにする」
淳二は拗《す》ねたように言った。
「でも、ひとつだけ訊いて置きたい」
「何だ」
敬一は慣れた手つきで拳銃のひとつに実弾をこめはじめながら言った。
「彼女とのことは僕も考えはじめている。ここに一緒にいるのはよくないと思っているんだ。だが、僕が僕なりに決断を下したとしたら、そのあとの生活は好きなようにやっていいのかい」
敬一は左手で銃把を握り、細長い弾倉をはめ込むと、右の掌でそれを一気に叩き込んだ。
「そうしろ。やり直せ。宮本一弘が言っていた。彼女は見かけほどいい女じゃないそうだ。宮本一弘はあれでなかなか遊び人だ。女にかけてはお前の十倍もよく判っている人間だぞ。それが言うんだから間違いない」
「でも、兄さんと連絡が取れなくなるね」
「お前さえよければ俺はかまわん。だがもし連絡したくなったら宮本一弘にたのめ。すぐには連絡できなくても、そっちの居場所さえ知らせてくれれば今日のように俺のほうから探しに行くさ」
敬一はジュラルミンのケースをしめた。
「しかしいい部屋だな。こんな所で二、三か月のんびりと寝て暮したいよ」
「宮本さんに連絡するのは気が進まないな」
「なぜだ」
「だって、こんなことになったあとだし」
「馬鹿、女を寝取った気でいやがる。宮本一弘はもう彼女と別れたがっていたんだ。気にすることはない」
敬一は立ちあがった。
「第一、宮本一弘以外の連絡先をお前に言えるわけがない」
ジュラルミンのケースをぶらさげて、敬一はドアへ向かった。スリッパを脱ぎ、靴に足をいれる。
「いいのかい。先に出て様子を見ようか」
「平気だよ。尾行がないことを確認しなければやって来んさ。それに、尾行されるようじゃもうおしまいだよ。俺はそんなドジじゃない」
「兄さん」
淳二は兄をみつめた。その真剣な目は本心からのものであった。
「元気でね」
「お前もしっかりやれよ」
「つかまらないで」
「判ってる」
敬一は弟の肩を叩いた。
「女と別れるのはあまりいい気分のものじゃない。だがそんな程度のことで荒れたりするなよ。いずれ彼女がもっと歳を取ったりして、生活に困るようなことがあったら、その時はお前ががっちり面倒を見てやる……そういうことができるような人間になれ。少くともそういう気構えでやって行くんだぞ」
敬一はそう言い残すとさっと出て行った。
淳二は危険を感じた。
まず最初に頭に来たのがあの金のことであった。はっきりとは判らないが、昌代に渡した分もまだ半分以上は残っているはずである。しかしそれはもう遣ってしまったと同じことで、仮りに昌代にわけを言って返させようとしても無駄な試みであることははっきりしていた。
もう半分はまだ手つかずであったが、淳二としても昌代と別れてから無一文でうろつきまわる気にはとてもなれなかった。昌代を見返してやろうという気が強く動いていたし、みじめな暮しになれば早晩自分が尾をたれて昌代のもとへ現われるのは知れたことであるような気がした。
それに、万一敬一が逮捕されでもしたら、その時この金が必要になる。だからどうしても手放したくはないが、銃と清水のことを喋ってしまった以上、金のことが露顕するのもそう遠くないような気がしてならないのだ。一応何通りか言いのがれの道は残してあるが、あのあとの暮しぶりを調べられれば、マーサの権利を売った金程度ではとても説明がつかないはずであった。
第二に、敬一との関係である。それとても詳しくは知らないが、新聞に書かれていることがすべて敬一たちの計画によるものだとすれば、一連のハイジャックや国外での人質事件、それに爆弾騒ぎなどは、生やさしい犯罪ではない。今までそのことで自分が追われているというようには思っても見なかったが、ひょっとすると兄に向けられた捜査の網は、弟にも向けられているのかも知れないのだ。マーサなどという、それまでの暮しとは全く無縁の場所へ連れ込まれたので発見されなかったのだろうが、昌代が古巣の銀座へ通いはじめている現在、捜査の方向次第ではすぐに淳二の所在が掴めるはずであった。その場合、すべてを知らぬ存ぜぬで通せるものかどうか……。
第三の、そして最も無気味な問題はあの清水祐吉のことであった。いったい敬一は彼のことでなぜあれほど異常な興奮を示したのだろうか。まるで清水が密室から蒸発したことを事実であるように言っていた。あのリアリストの兄が、なぜそういったおかしな考え方をしたがるのか、不思議でならなかった。
そこには何か異常なものがからんでいる。淳二はそう直感していた。そして、前の二つの理由にもまして淳二をそのマンションから逃げ出させるように考えさせたのは、消えた清水のことなのであった。
清水祐吉が敬一の敵か味方か、どうも淳二にははっきりしなかった。金や銃を運んで来たのはたしかに清水だが、敬一はその銃を手にして、しまいにはこれで奴らが消せるのだと、気違いじみた笑い方をしていた。奴らとは清水をも含めたことなのだろうか……。
よく考えて見ると、たしかに常識では説明しかねる部分があるようであった。防弾チョッキの着用を考えれば一応の説明はつくが、あの時淳二が見た清水の胸の穴は、服の表面だけではなく、もっと底深い穴だったような気がしてならないのだ。もしその記憶通りに深い穴だったとすれば、血が噴き出さなかった理由が判らなくなる。
左脇をすり抜けたかも知れないと言うことや、防弾チョッキを着ていたのだろうという解釈は、どちらも事件を常識の線でとりまとめて納得しようという淳二自身の思い込みにすぎないのかも知れない。もしそうであるとすれば、清水祐吉は密室化したマーサの内部で蒸発したことになり、胸を弾丸で射抜かれても血を流さなかったことになる。
清水祐吉とはいったい何者なのか。淳二は逃げ仕度をはじめながらそう思った。
淳二はどれもまだ新しい衣類を三つの鞄《かばん》につめ込むと、その日のうちに代々木《よよぎ》にできた新しいホテルへ部屋をとって移ってしまった。ホテルのフロントでは、淳二の身なりがいいのを見て、鄭重《ていちよう》に七階の部屋へ案内した。
食事をして酒を飲んだあと、淳二は新宿《しんじゆく》を少し歩きまわり、十二時すぎにまたホテルの最上階のバーで、夜景を眺めながらブランデーを飲んだ。
昌代との生活のこまごまとした部分が、次から次へと頭に泛んだ。あの頤《おとがい》を引くような笑い方や、額に両手をあてがって下半身の愉悦を訴える時の様子が、繰り返し繰り返し現われた。
だがやがて、記憶はその当時さして気に留めなかった部分へ移って行き、札束を前に泣きだした最初の晩の様子が、まざまざと甦《よみがえ》って来たりした。
「なぜ泣いた」
淳二は少し酔いはじめた体をカウンターに掩《おお》いかぶせるようにして街の夜景を見ながらつぶやいた。
泣くことで何かを誤魔化されたと思った。あの時昌代は何が何でもあの札束を自分から取りあげてしまいたかったに違いない。その欲望を淳二に納得させるには、咄嗟《とつさ》に泣いて見せるより方法がなかったのではなかったか……。淳二はそう気が付き、それに違いないと思った。
奇妙なことに、その時淳二は少しも金が惜しいとは思わなかった。それに、昌代に対しても憎しみのようなものは不思議に湧《わ》かなかった。ただ、昌代が自分よりあの金に執着していることが悲しかった。
「もっと悪い奴なら……」
淳二はまたつぶやいた。下の道の左側には赤いテールランプの列が、右側には白いヘッドライトの列が続いて、それが鮮やかな対比をなしていた。
最上階なので、ホテルの前の部分の道路は見えなかった。新宿へ向かう車の列はホテルがある方が左になっていて、赤いランプがその側につらなっていたが、体をねじって渋谷《しぶや》方向を見ると、ホテルと逆の側がテールランプの列になっている。
昌代のことを考えると同時に、淳二はそれを奇妙なことだと思った。去る車は赤い列、来る車は白い列だ。そして右から左へほんのちょっと首をめぐらせば、右と左がたちまち入れかわり、来る車は去る車となって赤い灯をともし、去る車は来る車となって白い光を放っているのである。
「昌代が変ったんじゃない」
淳二はそうつぶやくと残りのブランデーを一気に呷《あお》った。道にいる車にとって、ホテルは通りすぎる風景のひとつにすぎない。昌代はその車に乗って自分の目的地へ向かっているのだ。それを来ると感じ、去ると感じるのは、自分の勝手な主観なのであろう。
「同じ車に乗ってはいなかったんだ」
淳二はそれを今度は声を出さずに、胸の中でつぶやいていた。もし声に出したとすれば、多分かなりやけっぱちなものに聞えたであろう。
たしかに淳二と昌代ははじめから別々な車に乗っていたようである。二十八の女と二十四の男がもし同じ車に乗れば、遠からず年上の女が涙を流すことであろうし、さもなければすぐにも年下の男の心が傷むはずであった。
淳二はカウンターの端へ行って自分の伝票にサインをした。キーをぶらさげてエレベーター・ホールへ行き、壁のボタンを押した。
部屋へ戻って昌代に別れの言葉を言うつもりであった。今の気分なら、そうベタベタしたことにならずに、うまくそれが言えそうな気がした。
きわどいところであった。淳二は結局その晩昌代に別れを告げそこなってしまった。何度電話をしても、昌代は電話に出なかったのである。
それまで、昌代はまだ外泊は一度もしていなかった。最初のうち、三十分おきにダイアルをまわしていた淳二は、三時半になるとあきらめて寝てしまった。酔いももう醒《さ》めていたし、嫉妬でなかなか睡れなかったが、やがていつとはなしに睡ってしまった。
朝は六時ごろ一度目がさめた。さめるとすぐ反射的に枕《まくら》もとの電話に手が伸び、またダイアルをまわしたが、やはり昌代は出なかった。もう外泊したに間違いはなかった。だが淳二ももうマンションを出てしまっている。一晩中まんじりともしないで彼女の帰りを待たされるより、このほうが余程気が楽だったと思いながら、淳二はまた睡ってしまった。
次に覚めたのは十時すぎであった。その日淳二は常になく勇ましかった。昌代に電話しようなどとはせず、街へ出ると不動産屋をとびまわり、その合い間に貸金庫から通帳を幾つか取り出して生活資金を引き出したりした。
新しいすまいはすぐには見つからないようであった。淳二は新宿《しんじゆく》か渋谷《しぶや》の繁華街の中にある部屋に住みたかったが、特に新宿では繁華街を少し離れないと、そういうマンションはないようであった。
夕方近くに淳二は新宿から渋谷に移り、出たとこ勝負で一軒の不動産屋にとび込んだ。そこの主人は見るからにいかがわしそうな男だったが、明日になれば案内できると言ってから何か所かに電話をしたあと、
「でもお客さん、そのテのマンションはすぐ借り手がつくから、案内したらその場で手金くらい打たなければなりませんよ」
と念を押した。
「いいよ」
淳二は軽くそう答えた。いくら高くても場所さえ繁華街の中なら、即座に決めてしまうつもりであった。
どうやらその不動産屋は淳二のことを郊外の土地成金のドラ息子と踏んだらしかった。もう閉店するらしく、のんびりと前の通りを眺めながら、しきりに世間ばなしをはじめた。それがすべて渋谷の遊び場の噂なのである。どこにいいクラブがあるとか、どこのキャバレーは悪いとか、はては来週の競馬の予想までするのである。要するに、ドラ息子の遊び友達になっていい思いをしようということらしい。普通なら体よく逃げをうつところであったが、渋谷は余り馴染《なじみ》のない土地であったし、淳二は当分その四十男をガイドがわりに使う気になっていた。
ふと気付くと、昌代が出勤の仕度をする時間になっていた。
「ちょっと電話をかりていいですか」
不動産屋にそう断わってから、淳二はダイアルをまわした。すぐに昌代が出た。
「淳ちゃん」
昌代は弱々しい声で言った。それに、あなた、と言うのがまた淳ちゃんに戻っていた。
「ああ、そうだよ」
「どこにいるのよ」
「どこでもいいだろう」
「憤《おこ》ってるのね。服もみんな持ってっちゃったりして」
「ゆうべ何度か電話したけど居なかったね」
「嘘《うそ》……今朝になって出て行ったんでしょう。ごめんなさい。でも仕方なかったのよ。帰って来て。お願いだから。ちゃんと説明するわ。そうしろって言うなら、ちゃんとあやまるし」
「もういいんだ」
「嫌よ、こんな別れ方なんて」
「気にしないでいい。本当さ」
「だってあなた、これからどうやって生活して行く気なの」
「出直すよ。一からね」
「あたしを悪者にしたいの。ちゃんと話さえ判れば、お金だって要るだけあげるわよ」
「金なんか要らない」
すると昌代は電話口で泣きだしたようであった。
「判る……あたし泣いちゃってるのよ。お化粧したばかりなのに。ねえ、あなたを傷つけるつもりはなかったのよ。だから最初にちゃんと言ったでしょう。銀座へ戻るんだから判って頂戴って」
「判ってるよ、今でも」
「冷たい……冷たすぎるわ。淳ちゃんて、そんな冷たい人だったの」
「僕は冷たくなんかないつもりさ」
「そう。あたし、そんなにあなたを傷つけちゃったのね。でも、いつでも帰って来て。あなたのお金、取っておくわ」
淳二は電話を切った。不動産屋が笑って見ていた。
それから一週間、淳二はホテルで過した。カーペットの敷き込みがおわって、家具やカーテンが揃い、新しい住まいに移った日は雨が降っていた。
「こりゃ、何もかも新品ばかりで、まるでデパートの飾りつけみてえだな」
場所は不動産屋の店から近く、それまでにもう三度程一緒に飲み歩いて親しくなっていた小谷《こたに》という男は、いくらか手伝うつもりでやって来たらしいが、何もかもきちんと整ってしまっているのを見て呆《あき》れたように言った。
「いくらぐらい掛けたの」
小谷は急に疑うような目になってそう尋ねたが、淳二は笑って答えなかった。実を言えば、考えている三分の一くらいの予算でかたづけてしまったのだ。部屋も狭いし、揃えた家具類も昌代の部屋のものにくらべれば、ぐっと若向きでちゃちなものであった。
それでも小谷から見ると呆れるほどの無駄遣いに見えるようだ。
「まさか全部月賦じゃないんだろうね」
「そうかも知れないよ」
淳二はまた笑ったが、小谷は半分くらいその可能性があると思ったようだった。
「いけないよ、あんまりでたらめをしちゃ」
小谷は年長者らしく忠告めいたことを言ったが、すぐ気をかえたように、
「とにかく金持にはかなわねえよ」
と笑った。淳二は小谷には通じないと見て、例のパテントうんぬんという話を彼にはしていなかった。
「若い内は二度ないんだ。精々派手に楽しむといいさ。俺なんかはやり損ねたけれど」
小谷は煽《あお》るともぼやくともつかない言い方をしながら、べッドのそばへ行き、手で押してクッションの具合を見た。
「ねえ高山ちゃんよ。シングルってのはちっとばかり遠慮しすぎたんじゃないのかい、あんたいい男だし、きっとすぐに綺麗な子が何人もここへ出入りするようになるぜ」
「小谷さん、それで揉めたら捌《さば》いてくれるかい」
淳二もいっぱしの口を利けるようになっていた。
「いいとも。でも、あんまり迂闊《うかつ》にやらねえほうがいいぜ。ヤーさまがからんだりしたら、いくら俺だって手が廻らない連中もいるからな」
「そんなこともないだろう。それほど馬鹿なことはしないよ」
そう言いながら、淳二はふと女の体を思い起していた。もう十日近くも女体に触れていなかった。昌代を知って以来、ほとんど毎夜のように交わっていたが、別な女のことを考えたことなど一度もなかったのだ。
違う女にも、昌代から学んだことが通じるだろうか。淳二はケントの封を切りながらそんなことを考えていた。四日ほど前から、煙草をふかすようになっているのだ。
「渋谷はこれであらかた教えたね」
小谷がそばへ来て新しいソファーに沈みこみながら言った。淳二はケントを差し出してやり、デュポンのライターを鳴らした。
「そうかい」
「うん。これで、渋谷って町はそう広くはないんだ。いい店もそう多くないしね。どうかね、そろそろ新宿や銀座あたりにも手をひろげて見ては」
「嫌だな、小谷さんが言うのを聞いていると、僕は遊ぶのが商売みたいだよ」
淳二は笑った。
「似たようなもんじゃねえか。ほかに仕事もねえくせに」
小谷もずけずけと言って笑った。
「で、ほかは詳しいのかい」
「青山や六本木《ろつぽんぎ》なら少しは」
小谷はパチンと指を鳴らした。
「うちの店からここへ来る間に、ちっちゃなビルがあったのに気が付かなかったかい」
「どんなビル……」
「黒く光る壁で、ちょっと洒落《しやれ》た感じの」
「ああ、あるね」
「あれは大野総業と言って、そのほうじゃちょっとしたもんなんだぜ。商売もまっとうだしな」
「そのほうって……」
「バーやクラブをいい場所にたくさん持ってるんだ。この渋谷にはどういうわけか店を一軒も持たずに、事務所だけ置いているんだが、俺はそこの連中とは親しいんだ。でも、どこも高い店だから自分であのチェーンの店へ行ったことはないけど……美人を揃えてるって言うぜ」
「へえ。面白そうだな。それに一軒顔を出せば芋《いも》づる式に何軒も顔が通るようになるわけか。行って見ようか」
「よし、案内してやる」
小谷はうれしそうに言った。
第四章
小谷は本当にその大野総業に気易く出入りしているらしく、淳二に古びた洋傘《ようがさ》をさしかけてそのビルへ連れて行った。
一階の通りに面した側は、各種の事務機が並んだショールームのようになっていて、どうやらリース業のオフィスのようであった。入口の壁に打ちつけてある金色のパネルには、二階が不動産部、三階が総務部、四階が企画部というような文字が並んでいた。
「やあ、吉川《よしかわ》さん」
小谷は一階の奥のオフィスへ入って大声でそう言った。ちょっと派手だが清潔な身なりをしたわりと若い男が出て来て小谷とドアのところで立ち話をはじめた。吉川と呼ばれた男は、ガラス越しに入口の所に立っている淳二をちらりと眺めると、すぐ奥へ入ってパンフレットのような紙きれを持って来ると、それを小谷に渡して笑いながら何か言っていた。小谷は頭を掻《か》いて見せている。
「一階で用が足りちゃったよ。奴《やつこ》さんは一階のほうの部長でね、リース業なんだけど、ここは近頃いろいろと盛大にやっているんだよ。夜の商売のほうは総務部ってとこが扱ってるんだけど、多分水商売なんてことを正面切って世間に言いにくいからなんだろうな。社長ってのは四十すぎで、あんまりパッとしないような人物なんだけど、やっぱり商売がうまいんだろうね」
「これからどこへ行くの」
淳二は雨の道を見て言った。
「夜になるのを待てばいい。店へ戻ろうか」
小谷はそう独りぎめしてまた傘をひろげ、歩きだした。
間口一間ほどのガラス戸に、細長い紙をベタベタと貼《は》った小谷不動産は、今になってよく見ると、なぜこんな店へ飛び込んでしまったかとわれながらおかしくなるくらいであったが、勝手不案内の渋谷へ来たあの日は、妙に気易げで入り易かったのである。
小谷は鍵《かぎ》を出してガラス戸をあけ、傘のしずくを客用の白いカバーをかけたソファーにたらさぬよう、用心深く隅《すみ》の傘立てへ置いた。
「吉川って部長の名刺をもらって来たよ。ほら、高山氏をよろしく、って書いてあるだろう」
たしかに、リース部部長の肩書きがついた名刺に、そんな走り書きがしてあった。
「見てみな、あそこはこれだけのチェーン店を持っている。レストランを二軒にクラブが五軒さ。でもこのパンフ、少し古いんだ。今はもう二軒増えてるし、千葉《ちば》のほうでホテルもはじめてるんだ。最初はこの赤坂《あかさか》のレストランだけだったんだけどな」
小谷は羨《うらや》ましそうに言った。
淳二はソファーに腰をおろし、小谷から手渡されたパンフレットを見ていた。
が、ゆったりと背もたれにもたれていた淳二の姿勢が、急に起き直った。前かがみになり、ばかに熱心にみつめている。
「よさそうな店だろう」
小谷はその変化に気付かないようであった。
パンフレットに並んでいる店の名は、淳二にとってどれもはじめてのものばかりであったが、ただひとつ、「ニュー・クレッセント」という店の名だけは、よく知っていた。
いや、名だけではない。その店のマッチの模様から、一度も行ったことこそないが、店の内部のあらかたの配置まで、淳二はよく知っていた。銀座にあるその店へ電話をして昌代を呼び出せば、忘れようもないあの声が聞えて来るのである。
「この、ニュー・クレッセントという店へは行ったことないの」
淳二は気を鎮めて訊いた。
「ニュー・クレッセント。ありゃ一番高級な店さ。俺なんかとても……。そこへ行くかい」
小谷は何かメモをつけながら、うつむいたまま言った。
「いや」
淳二はあいまいに答えた。
「ニュー・クレッセントとこのバレンタインという店は近いんだね」
そう言うと小谷は顔をあげて微笑し、
「本当に俺は行ったことないんだよ。でもパンフに書いてある地図通りのはずさ。それはそうと、勘定はどうするんだい。吉川って部長に言っといたからツケでもいいんだけど、最初はキャッシュにしたほうがいいと思うんだ」
「そうするよ。僕みたいな若僧がそんなとこでツケにしちゃおかしいものね」
「それなら話が早い。つまりそういうことなのさ。あんたはその店をこれから毎晩のようにグルグルまわることになるんだろ」
「そうかも知れない」
「だったらやはりしまいにはツケにしたほうが面倒でなくていいだろう」
「そりゃそうだろうね」
「そこでひとつたのみがあるんだけど、聞いてくれるかい」
「いいよ」
「俺があんたを招待してることにしてもらえねえかな。つまり、この小谷不動産があんたを仕事で接待してるってことに……」
「そりゃかまわないけど、なぜだい」
「はっきり言うと、いい歳をしてさ、あんたみたいな若い人に奢《おご》ってもらってる図なんて、いいもんじゃないからな」
「なんだ、そんなことか」
淳二は失笑したが、小谷は真面目だった。
「だからさ、今夜キャッシュで払う分は、俺に預けてくれないか。どうせ払うんだしさ、インチキなんかしやしねえよ」
「小谷さんを疑ったりしないさ」
「そのかわり、あとのツケの分はこの小谷不動産の名前を使ってくれ。みすぼらしい店だけど、なに、誰も見に来やしねえさ。それに、伝票があそこの事務所へまわれば僕んとこだってことはすぐに判るしな。あんたなら待たせずにキチンキチンと払うだろうから、大野総業での俺の受けも少しはよくなろうってことさ。実は俺はあそこの不動産部へ渡りがつけたいんだ。この前あそこは凄いことを千葉のほうでやりやがってさ、俺は信用がないもんだからひと口乗り損っちまったんだよ。今度何かあったら絶対逃がしたくないのさ」
淳二は鷹揚《おうよう》に笑って頷いた。彼にして見ればそんなことはどうでもよかった。毎晩小谷を連れて大野総業のチェーン店を飲み歩いてもかまわなかった。パンフレットの地図によれば、バレンタインという銀座の八丁目の店と、七丁目のニュー・クレッセントはそれこそ目と鼻の先にあるようだった。
バレンタインへ出入りしていれば、自然に昌代の噂も聞えて来るにちがいない。それでどうなるものではないかも知れないが、昌代が銀座でどんなことをしているか、はっきり見定めたい気持であった。それに、もし銀座ですれ違ったりして、昌代が案じているほどみすぼらしくもなっていず、盛大に飲みまわっていることが知れでもしたら、その時はまた少し事情が変化して来そうな予感があった。
とにかく淳二は、ただ無目的に飲みまわるのではなく、ニュー・クレッセントという一応の目的ができて、なんとなく張りが出たように感じていた。
淳二はその夜から銀座へ現われはじめた。
バレンタインは店の造りとしてはそう凝った趣きのない、どちらかと言えばごくありきたりの感じがする店であった。しかし、壁や床、ソファーにテーブル、そして照明器具とかグラス類を見ると、充分に金がかけてあって、一分の隙もないことが判って来た。
女たちは半分ほどが和服で、ドレスを着ているのは若いホステスだけらしかった。
淳二の席には、そのドレスのホステスたちばかり集まって来た。はじめのうち、みんな年上に見えたが、それとない会話でたいてい淳二とおっつかっつの年頃であることが判った。
最初の晩小谷は銀座へ行くというのでわざわざ服を着換えて来た。そしてバレンタインへ着くと、まるで自分がホステスたちをもてなしに来たような様子で、それこそかゆい所へ手が届くようなサービスぶりであった。多分それが日ならずして渋谷の大野総業へ好もしい情報として届くのをあてにしていたのであろう。それに、淳二に対しても徹底的にへりくだって見せていた。それも淳二を持ちあげるというのではなく、むしろ自分の仕事熱心さと商売上手ぶりを見せつけようとしているようであった。
淳二はおかげで、初日から女たちに憶えられ、どうやら好い印象を抱かせたようであった。
翌日も一緒に小谷と行き、やはりキャッシュで小谷が払った。初日にもう一軒六丁目のマーガレットというクラブをまわったので、その日は逆にマーガレットからはじめ、わざと遅くなってから、マーガレットのホステスを二人程引っぱってバレンタインへ行った。
淳二は酔わないよう注意していた。若いが好もしい客であるという印象を与えることが大切だったからである。ホステスたちはいつまでも酔わずにニコニコと笑っている淳二をおっとりとしたお坊ちゃんだと思い込み、その上かなり酒が強いと信じたようであった。
「どこかへ行こうか」
あらかじめ打ち合わせてあったとおり、小谷は淳二を接待する必要があると言った様子で、若いホステスたちにそうささやきはじめた。こういう誘いに慣れているホステスたちは、二、三人がすぐに気を揃え、逆にあそこへ連れて行って……などとねだりはじめた。
閉店時間が来て、彼女たちが帰れるようになると、淳二は帰り仕度をしたホステスにとりかこまれて、ハイヤーに乗った。ホステスたちは一人一人が行きたい場所を持っていて、淳二は根気よく一軒一軒それをまわった。
銀座のホステスが、閉店後それほど長い時間客と遊びまわってくれるものだということを、淳二ははじめて知った。はじめて知って重い壁の内側へ入りこめたようなうれしさも感じたが、同時に昌代が毎晩のように遅くなったわけも呑み込めたようであった。
そのホステスたちと、淳二はまだ特別な関係になろうなどとは思っていないし、もし口説いたとしたら、とたんに嫌われそうな雰囲気でもあった。
自分でさえこんな状態なのだ。特定の相手がいて遅くなったのではなかろう……。淳二は昌代のことを同情するというか、理解するというか、とにかく少しはその立場が判ってやれた気分であった。
銀座のホステスに戻るのだから、よく判って欲しい……。昌代はたしかにそう言っていた。そして自分も充分に理解しているつもりであったが、やはりまだ何も判ってはいなかったのだ。淳二は悔むような気持でそう思いはじめていた。
翌日は一人で行った。若いホステスたちはいい遊び相手ができたとばかりに、彼のテーブルを動こうとせず、またよそで遊ぼうと誘った。
バレンタインやマーガレットのホステスと親しくなって一週間ほどしたとき、ふとしたことから昌代の噂が耳に入った。
昌代は以前銀座でマーサと呼ばれていたらしいが、今は昌代という本名で通しているようであった。
「どうしてニュー・クレッセントへは行かないの」
バレンタインのホステスがそう言ったのがきっかけだった。
「知らないんだ。どんな店だい」
淳二が訊ねると、ホステスたちは口を揃えていい店だと褒めた。大野総業のチェーンでは三番目に新しい店だそうで、豪華さの点ではナンバー・ワンだそうであった。
「君らはよく行くの」
淳二はさりげなく訊いた。
「ええ、ちょいちょい行くわ」
「そんな素晴しい店なら美人ぞろいだろうな」
そう言うと、ひとしきり美人はここにだっているという冗談が続いたあと、
「でも、うちなんかとても……ねえ」
と一番|年嵩《としかさ》のホステスが結論を出すように言った。
「行って見ようかな。でも、行く前に美人の名を訊いて行かなければ損をするな」
と水を向けると、ホステスたちは声をひそめてニュー・クレッセントのホステス評をはじめた。声をひそめたところは、彼女らの姉さん分に当る連中が多いかららしかった。
「でも、あたしは昌代さんだと思うわ」
一人が言った。予期してはいたが、淳二はやはりドキリとした。
するとホステスたちはいっせいにクスクスと笑いはじめ、
「いやねえ……」
とその子を肱で小突いたりした。その子は急に気付いたようにうしろを振り返り、
「あらやだ」
と口をおさえた。
「どうしたんだい」
淳二は女たちを見まわした。彼女たちはバツが悪そうに互いに顔を見交わして言い渋っていたが、一人がやむを得ないと言ったように、ごく低い声で淳二に教えた。
「昌代さんのパトロンになった人が来てるの」
淳二は胸の騒ぎを押えて訊いた。
「どの人」
「あそこにいる、髪をきちんと分けた人」
ちょっと色の浅黒い、小柄だが引き緊った体つきの男が坐っていた。
「あの人か」
「ええ。大野さんと言うの。それが、わりとおさかんな人でね」
淳二の席は若いホステスばかりで、その大野と言う客の席は、和服を着たホステスが揃っていた。彼女たちが客のそんな内輪まで喋るのは、淳二がそれだけ気を許されていたせいもあろうし、大野が若いホステスでは扱いにくいタイプの客で、彼女たちに余り好く思われていなかったからでもあろう。
「以前このお店にいたベテランの人を彼女にしちゃったの。それで今度はニュー・クレッセントの昌代さんでしょう」
「昌代って人とは以前からかい」
「ううん、できたてのホヤホヤ。おとといも見せびらかすみたいに連れて来てベタベタしてたわ。ニュー・クレッセントとうちはよくお客様が交流してるでしょう。だからお店のほうじゃそんなの困るのよねえ」
「なるほどね」
淳二は頷《うなず》きながらその大野という男をしげしげと眺めていた。昌代とは僅かな差で行き違ったのだろう。するとふと彼の名を聞いたことがあることに気付いた。兄の敬一が知らないかと言って並べたてた名の中に、たしか大野という名があったはずであった。
「大野……大野忠夫」
うろ憶えだったのをつとめて記憶から呼びさましながら、淳二はふと身震いしたようであった。
その時、女たちがさっと席を動いた。目をあげると背の高い三十七、八の男が、慇懃《いんぎん》な態度で腰をかがめて見せた。黒服に蝶《ちよう》タイをしているので、すぐ店の人間だと判った。
「江口《えぐち》と申します。いつもお引立てにあずかりまして」
ホステスの一人が口をそえた。
「うちの総支配人なの」
「あ、よろしく。こんな若僧がお邪魔するのでお目障りでしょう」
「とんでもございません。みんなもう高山さんのファンになってしまいましたようで」
江口はそつがなかった。
「江口さんも一杯ご馳走《ちそう》になったら」
ホステスがすすめ、
「どうぞ」
と淳二もそれに合わせた。
「では」
江口は物慣れた様子でホステスがあけた席に坐り、にこやかに微笑した。
「実はいま、ここの店長の矢崎《やざき》に言われましたんですが、もしや高山さんのお父さまは、日本画の先生でいらっしゃるのではありませんか」
「いや」
淳二は怪訝《けげん》な表情で即座に言った。今まで一度もそんなことを言われたことがなかった。淳二たちの父はごく平凡なサラリーマンで、絵など描くはずもなかった。
「そうですか」
江口は残念そうに言ってグラスを持った。
「ちょうど今いらっしゃっておいでなのですが、或るお客さまがその日本画のかたに高山さんが生き写しのようだと申されているのです。随分以前に音信が絶えてしまわれたそうで、しきりに懐かしがっておられるのですが」
「他人の空似でしょう」
淳二は笑った。
「なんだか残念ですが、あちら様にそうお伝えして置きます。どうも妙なことを申してしまいまして」
「いや、かまいませんよ」
江口はそれからすぐ、自分が口をつけたグラスを手にして席を立って行った。
「嘘でしょう。本当はその絵の先生の息子さんなんじゃない……」
ホステスの一人がそう言って冗談半分に睨《にら》んで見せた。比較的線が細い感じの淳二は、ひょっとすると画家の息子というようなタイプに見えたのかも知れなかった。
淳二はそれからも、ちらりちらりと大野のほうを盗み見ていた。どうやら彼が一番苦手とするタイプのようであった。単純すぎるくらい自分というものをいつもはっきりと打ち出しており、無神経すぎるくらいそれで押し通そうとするタイプだ。頑固で強引で、そのくせちゃんと筋は通っていて賢い。ムードで誤魔化そうとしてもまるで通じないが、そのくせ変に義理堅かったり友情に厚かったりする。
ああいう男に昌代は惚《ほ》れたのか。……なんとなく納得が行くような感じでもあった。とりたてて粗野だったり、野性味を誇示したりはしていないが、それでいて充分にタフな雰囲気が漂っていたし、とにかく淳二のような若者から見ると、深味も厚味も備わった中年男である。
自分にはやはりこういう娘たちが向いているのだろうか……。淳二は敗北感の中でそう思った。昌代はやはりああいう強い男にふさわしい女だったのだろう。しかし、この若いホステスたちも、やがてああいう男にふさわしいように育って行ってしまうかも知れない。だとすると、自分はあの男の歳になって、あれだけの迫力を身につけることができるだろうか。……なに糞《くそ》という気がある反面、とてもああはなれまいという諦《あきら》めも強かった。
バレンタインを出ようとすると、さっきの江口という総支配人が追って来て言った。
「先ほどは失礼いたしました」
「やあ」
次に行く店をまだ決めていなかったので、江口と一緒ならニュー・クレッセントへ現われるのも面白かろうと思いながら立ちどまると、江口は意外なことを言った。
「実はもしよろしかったら、うちの社長の大野に会っていただきたいのですが」
「社長に……なぜです」
すると江口は体を寄せて来てささやいた。
「篠田昌代さんのことでちょっとお話ししたいことがあるそうなのです」
淳二は眉を寄せて江口をみつめた。
「昌代の……どうして僕が彼女と関係があるということが判ったんです」
「さあ、わたくしには判りかねます。ただ、悪いお話ではないそうなので、高山さんのご機嫌がよく、お時間がおありでしたらちょっとお呼びするようにと申しておりまして」
淳二は肩をすくめた。
「いいですよ。別にこれと言った用もないんですから」
すると江口はうれしそうな笑顔を見せ、
「でしたら、車の用意もしてございますし」
「どこへ行くの」
「渋谷の本社です。たしか高山さんも渋谷におすまいで」
「おたくの本社なら僕のマンションのすぐ近くです。帰るのに世話がなくていいですよ」
そう言いながら二人は歩きはじめた。
「車は向こうの地下に駐めてありまして、少し歩きますがよろしいですか」
「ええ、かまいません。でも何の話だろうなあ」
「さあ……」
江口は首を傾げて見せた。
一度ビルの中へ入ってうす暗い階段をおり、地下の駐車場へ出た淳二は、靴音を響かせながら江口のうしろから歩いて行った。すると前方の車の列の中にちらりと人影が動き、すぐ一台がライトをつけた。
「あそこです」
江口の足が早くなった。
淳二は江口もその車で一緒について来るものとばかり思ったがそうではないらしく、車と車の間でドアをあけ、淳二を乗り込ませると、窓ごしに一礼してさっさと去って行った。なぜか車はすぐには動かず、モタモタとしていた。
淳二はその運転手の広いがっしりとした背中を見ながら、諦めてシートによりかかった。
そのとたん、いきなり両側のドアがあいて二人の男が乗り込んで来た。
「君らは……」
そう尋ねようとしたとき、有無を言わせぬ勢いで素早く何か強い匂《にお》いが顔に押しつけられた。
淳二はそれからあとのことを何も憶えていなかった。
自分が何時間くらい意識を失っていたのか、まるで見当がつかなかった。ただ、目が覚めたとき、淳二は堅いがちゃんとしたべッドに寝かされているのに気付いたし、縛られたり乱暴されたりした様子もないのが判ってほっとした。
だが、酷いことになったと思った。場末の暴力バーの話は聞いたことがあるが、まさか銀座でこんな目に遭おうとは思ってもいなかった。気がついてしばらくすると、むらむらと反抗心が湧いて来て、銀座でこんなことをする大野総業に屈するくらいなら、死んだほうがましだとさえ思った。
淳二が直感したのはあのいかがわしそうな小谷と大野総業の結びつきであった。小谷は一種のポン引きで、大野総業はそれを使って自分の金を狙《ねら》ったに違いないと思ったのである。
しかし、ベッドから足をおろすと、すぐ下には靴があって、近くの椅子《いす》には上着が掛けてあった。椅子に近寄ってその上着をとりあげると、意外にも財布が元のとおりこんもりとふくらんでいるのが手に触れた。
淳二は内ポケットから財布をとりだして中身をあらためはじめた。うす暗いがとにかく灯りがついていて、そのくらいのことは自由にできた。
中身をかぞえはじめるとすぐ、灯りがパッと強くなった。ガタンと音がして人が入って来た。そこは中くらいの広さの倉庫らしく、壁ぎわにいろいろなタイプの事務機やスチール・デスクなどが置いてあった。
「金などは盗《と》りませんよ」
べッドからかなり距離のある倉庫の潜り戸のところで、あざわらうような男の声がした。天井の高い内部にその声が反響する。
淳二は戸惑ったが、男たちが近づくまでに、とにかく靴を履き、上着を着てベッドの端に腰をおろした。
「どうだ、小僧。目が覚めたか」
そう言う声と一緒に、ガラガラとスチール・デスクを動かす音がした。男が二人、デスクと回転椅子を近くへ押して来て、一番うしろから来た男がそれに腰かけた。
バレンタインで見た大野忠夫であった。
その時になって、淳二はやっと大野総業と大野忠夫というふたつの名が重なっているのに気付いた。
「あんたが大野総業の社長か」
淳二はふてくされて言った。
「わたしは社長ではない」
大野忠夫はからかうように言い、回転椅子の背もたれにもたれて上体を反らした。ギイッと椅子が軋《きし》んだ。
「あれの父親さ。判るか……」
小谷に訊いただけだが、その男は淳二から見ると、中年でもずっと年下に見えた。どう見てもまだ三十代である。
「そんなことはどっちでもいい。汚ない真似をするんだな。銀座に暴力バーがあるなんて知らなかったよ」
「おやおや、暴力バーと間違えられたぞ」
大野忠夫はおかしそうに笑った。
「昌代の恋人だったそうだな。昌代はお前のほうから逃げ出したのだと言っておるが」
それが質問なのかどうかはっきりしなかったので淳二はしばらく黙って相手を睨んでいたが、どうにも歯が立つ相手ではなさそうなので、大声で喚《わめ》いた。もうやぶれかぶれであった。
「僕をどうしようと平気だ。どうせ僕なんかろくに生きる目あてもない男だ。でも、昌代を不幸にしやがったら承知しないぞ。お前は昌代のパトロンになったそうだな。それならそれで僕は文句を言わない。でも、彼女をしあわせにしてやってくれ。僕じゃできないから逃げだしたんだ。たのむよ、あんたなら昌代をしっかりつかまえててやれるはずだ。前の彼氏は彼女のことを、見かけほどいい女じゃないと言ったそうだけど、それはそいつが男として大した奴じゃなかったからだ。あんたなら大丈夫。僕にだってそのくらいの見わけはつく」
声が反響して消え残ったあと、しばらく静寂が続いた。
「判ったよ小僧。お前はいい奴らしい」
大野忠夫はしんみりした口調で言い、すぐに声を変えた。
「その話はあとだ。どうしてもお前に訊きたい事があってここへ呼んだのだ」
大野忠夫が言うと、うしろに立っていた男が茶色い表紙の厚い本をデスクの上に置いた。
「これに見憶えがあるな」
大野忠夫は厳しい声でそう言った。
淳二はギョッとした。たしかにその本は彼のものであった。昌代の部屋を出るとき持って出て、渋谷のマンションに隠しておいたものだ。
「返事をしろ、小僧。これに見憶えがあるか」
鋭い声であった。それと同時に、両側にいた男たちが寄って来て淳二の腕をとり、椅子を大野忠夫の正面に据《す》えて坐らせた。大野と三人の男にとり囲まれて、淳二は身の危険をあらためて感じた。
「あるよ」
「どこで見た」
「僕のマンションを家探ししたから見つけたんだろ」
「誰のだ」
「僕の本さ」
「じゃ、この本の中身は何だか知っているな」
淳二はうつむいた。
「知っているな」
「うん」
力のない声で答えた。
「中身は何だ」
容赦のない厳しさだった。
淳二はその気迫に完全に圧倒されてしまった。
「銃」
「銃か」
僅かに、大野忠夫の声に勝ち誇ったような響きが加わった。
「どんな銃だ」
「その……よく知らないけど、消音銃らしい」
「色は」
「グレーだよ」
「顔をあげてよく見ろ。この銃か」
大野忠夫は淳二に顔をあげさせてから、おもむろに本の表紙をあけ、頁をくり抜いたへこみから銃を取り出した。
「僕のだ」
「この本をくり抜いてここへ銃を隠したのは誰だ」
「僕さ」
「さっきお前はこれを消音銃だと言ったな」
「うん」
「なぜ消音銃だと判った」
淳二は半分睡ったようになっていたが、その質問でハッと我に返った。大野忠夫の畳みかけるような訊問法にはまって、催眠術をかけられたようになっていたらしい。
「答えろ。なぜ消音銃だと判った」
兄が……と心の中で言いかけ、淳二は唇を舐《な》めた。
「そのくらい知ってるさ。そいつは瀬田産業がベトナム戦用に開発した奴によく似ている」
「なぜそれを……」
言いかけるのへ押しかぶせるように、逆に相手より大声で言った。
「そんなこと、週刊誌なんかにいくらでも書いてあるよ。それに僕はそいつを射つとこを見たんだ」
「いつ」
「蒲田にいる時さ」
「蒲田のどこで」
「マーサってバーだよ」
「何時頃」
「夜中だい」
「誰が射った」
「知らない。二人づれだ」
「男か」
「そう」
「誰を射った」
「清水祐吉」
ピタリと質問がやんだ。倉庫の中はしんと静まり返った。
大野忠夫が軽い身ぶりをすると、男の一人が靴音を響かせて入口のほうへ去った。大野忠夫は椅子から立ちあがると、ショート・ピースを咥《くわ》えてデスクをまわり、淳二の前でとまった。
「わたしにはお前の命を助けてやることができる。お前は正直に告白したようだし、そのほかにも助けてやるわけがないでもない。だが、もう二度と我々からは離れられんぞ。よく覚悟をきめておけ。そしてこれからここではじまることをよく見ておくのだ。いいな。よく目を据えて見れば、自分がどんな重大なものを見、また、それによってどんな立場に置かれるかはっきりと判るはずだ。生きる目的もろくにない人生など何になる。人の為に、国の為に働いて生きて見ろ」
ガタンと戸があき、新しく数人の男たちが入って来た。大野忠夫はそれだけ言うと回転椅子のほうへ戻った。男たちが近づいて来る。そのうしろで誰かが外からガタンとまた戸をしめたようであった。
両手をうしろにまわした初老の男が一人、やって来る男たちの中央にいた。大野はデスクの上の銃を取りあげ、右手にぶらさげた。
「諸君、今の証言を聞いたな」
みんなが頷いた。あとから来た男たちはみな、身分のありそうな男ばかりであった。
「後藤詠明《ごとうえいめい》。残念ながら君は疑いどおり我々を裏切っていた」
すると、うしろ手に縛られていた男が意外に静かな声で言った。
「これを裏切りと言うなら言うがいい。しかし、人間の感情は時として利害や信条をさえ超えることがあるのを忘れてくれるな。わたしは君に命乞《いのちご》いをしているのではない。そんな女々しい感情はわたしも持ってはおらん。わたしは一度死んで、再びこの世に呼び戻された男だ。戦争が終ってこの身を隠さねばならなかった時、わたしの子を妊《みごも》った女が、子を生んですぐ死んだ。わたしはその子を人に預けなければならなかった。わたしは地下に潜り、発見され、復讐《ふくしゆう》の為に殺された。そして蘇って見たら、なんと皮肉なことに、その子はアカの、それも過激派と呼ばれるものの指導者になっていたのだ。わたしは失望し、落胆したが、自分なりに息子の考えていることを知ろうと調べて見た。たしかに理屈は間違っていたようだ。しかし、あの男の、いや、息子の生きざまはそれなりに見事だった。われわれが言う武士《もののふ》の道と同じ道を歩いているじゃないか。わたしは彼らのすることを憎みながらも、反面父親としてひそかに誇らしく思っていた。この昭和の若者たちがどんなみすぼらしい生き方をしているか、君らも見て知っているはずだ」
後藤詠明という男はじっと淳二をみつめた。
「誰の為に生きるでもなく、何の為に生きるでもない。大義を忘れ、王道を見失い、刹那《せつな》の享楽を追うしか知らぬけだもの同然の姿になっているではないか。わたしは一度生命を失い、素形玄英《すがたげんえい》によって再び肉体を与えられた人間だ。それだけに、人生がいかにやり直しのきかぬものか、ようく判っている。それは大野、君も同じことだ。時の流れを超えてみて、あの息子がやっていることがいかに儚《はかな》いことかも、わたしは判っている。世の中は彼らの望むようには決して動くまい。しかし、おのれの主義に殉じ、命を賭《と》して任務を遂行しようという若者を、わたしは美しいと思った」
「それでひそかに援助をしようと考えたのだな」
「援助……そうなるだろう。否定はせん。しかし、あれは生み捨てたわが子への、父親としてのたった一度のささやかな贈り物だったのだ」
「それがどんなに我々を危険に陥れるか、予測できぬ君ではあるまい」
「知っていた。だが、あの息子をよろこばせる為に、いったいほかに何を贈ればよかったと言うのだ。風ぐるまか。千歳飴《ちとせあめ》か」
「七千万円と火器六|挺《ちよう》」
大野忠夫が言った。
「君は我々の敵である清水祐吉に接触し、それを高山敬一に与えるよう指示した。幸い一部は偶然のことから君の息子には渡らなかったが、銃五挺は過激派に渡り、消音銃の利点を生かして彼らは我々を狙いはじめた。藤田謙三、宇島宏介、吉村明雄、宝田重明の四人がすでに消されてしまった。いずれも素形先生が苦心の末この世に導き出した稀有《けう》の生命だ。しかも君は、敵の中になぜ清水祐吉のような、わたしや君と同じように一度死んだ者が存在しているのか、その説明をしようともしない」
「知らん。誓って言う。わたしは知らん」
後藤詠明は首を横に強く振った。
「判った。君が知らんというのは信じよう。だが、それだけに君の存在価値はすでにない。潔く死んでもらうだけだ」
後藤詠明はニヤリと笑った。
「二度の死をな」
「退れ」
大野忠夫は右手をあげた。その手にあの銃があった。男たちがいっせいにあとずさった。
パツッ、パツッと二度音がした。あの晩とそっくりの音だった。そして淳二は大きく目をひらいて、後藤詠明の胸に深い穴があいたのをみつめていた。処刑者はうしろ向きにはねとばされたように倒れたが、血潮は流れ出さなかった。
そして十秒。死体はぼんやりと輪郭を崩しはじめていた。
更に五秒。死体はみる間にその形を薄れさせ、消えてしまった。
男たちは太い吐息を洩《も》らし、やがてゆっくりと入口へ戻りはじめた。
思いがけぬことに淳二に対する大野忠夫の処置は寛大で、倉庫から渋谷へ車で連れ戻され、今までどおりに生活することを許された。
「これはごく特別な処置だと思えよ」
大野忠夫はそう言った。
「わたしとお前の、男同士のな」
そう言って彼はニヤリと笑って見せ、
「あの時お前が昌代について喚きおった言葉にほだされたのだ。わたしだって人間だ。人間の、男と女の愛情がどんなものか、よく知っているし、よく判ってもいる。だがお前はあれを見てしまった。あれがどんな異常で、かつ宇宙の神秘につながるこの上もなく重大なことか、よく判ったはずだ。世間一般の者に言ってもとても信じてはもらえまい。だから人に喋っても仕方がないし、また、喋ればわたしたちはお前を殺さねばならない。たしかに昌代はいまわたしの手の中にあり、わたしはお前に言われたことを肝《きも》に銘じて、昌代をしあわせにしてやろうと思っている。多分昌代も今のお前の立場を知れば、助けてやって欲しい、いい仕事を与えて、立派な男にしてやってくれと言うに違いない。そこが人間の情の美しいところだ。思えば思い返される。信じれば信じ返される。判ったな。わたしもお前を信じよう。だからお前もわたしが信じたとおり人に言うな。そして、高山敬一と会って納得の行くまで話し合って来い。彼はわたしたちの敵だが、お前に関しては一時休戦だ。お前はあの男を自分の血をわけた兄だと思い込んで来たのだろう。お前が奴のことについて何も知らないのは、バレンタインでひとことためして見たからよく判っている。消えた後藤詠明は日本画家でもあったのだ。多分奴はそのことを知っているはずだ。そして奴の口から、自分たちが兄弟ではないことを聞いたら、お前もそれでさっぱりとわれわれの仕事に加われるだろう」
……なぜ死ぬと姿が消えてしまう人間が存在するのか、大野忠夫は説明してくれなかった。そのことも多分敬一が知っているだろうから、知りたければ会って聞けと言った。
それっきり渋谷へ戻されたわけだが、もう飲みに出る気も起らなかった。
見張られているのではないかという疑いははじめから持っていたが、何日注意していてもいっこうそれらしい気配は見えず、淳二はとうとう敬一と連絡を取る気になった。
電話帳で調べて宮本一弘のマンションへ電話をすると、はじめ若い男の声がして、すぐ睡そうな宮本の声にかわった。
「君か。いまどうしているんだ」
「なんとかやっています」
「そうか。しっかりやれよ」
「一度、兄貴に会いました」
「うん」
宮本はあいまいな返事をした。ひょっとすると盗聴を恐れているかも知れないと思い、淳二も遠まわしに言った。
「兄弟ですからね。たまには会わないと」
「うん、そうか」
「あなたにも、よろしくと言ってました。もう随分連絡していないそうで」
「そうだなあ」
その言い方だけ、ばかにはっきりしていた。淳二は意味が通じたと思い、
「それじゃ、近い内に来てください」
と自分の住所を言って電話を切った。
高山敬一がやって来たのは、それから二十日もたってからであった。その間に一度だけ、大野忠夫から連絡があって、もうそろそろ自分のもとへやって来てもいい頃だがと、催促らしいことを言った。しかし淳二が、もう少し待って欲しいとたのみ、必ず行くからと約束すると相手は寛大に、そうか、と言って電話を切った。
淳二は大野忠夫という人物が、少しは理解できるような気がして来た。寸毫《すんごう》も敵を許さぬ厳しさがある反面、一度自分の懐へとび込んで来た相手には、ひどく度量のあるところを示す人物らしいのだ。
「つまり、浪花節的って言うことか」
昌代という存在が、また別の意味で大きくなりはじめていた。昌代がついていてくれる限り、大野忠夫は自分に特別な扱いを示すはずだと思った。……昌代とひどい別れ方をしなくてよかった。淳二はしみじみとそう思った。
それに、あれ以来淳二は極端に出費を制限していた。七千万円の件の結着がまだついていないのだ。半分は昌代に呉れてやったも同然なので裁き手が大野忠夫であればその分については問題なかろう。さいわい残りの三千五百万についても、そう滅茶苦茶な遣い方をしたわけではないので、なんとかとりなしてもらえる程度だと思っていた。だから、近くの安い食堂で食事をする以外、ろくに本や雑誌も買わず、毎日テレビを見ながら敬一の連絡を待っていたのである。
すると、或る夜の十二時近く、突然ドアのブザーが鳴って敬一が現われたのだった。
「お前何をしてるんだ」
敬一は部屋に入るや否や、不機嫌な顔で言った。またも思いがけずいい部屋にいるのが気に入らなかったようだ。
「こんな結構な生活はもうおわりさ」
淳二は笑って見せた。
「そうか、それならいいが」
敬一はこの前よりずっと落着きがなく、ドアのところへ行って外の様子に耳を澄ませたり、しきりに窓の外をのぞいたりした。
「いそがしそうだから、手早く話すよ」
淳二は冷蔵庫から罐入《かんい》りのジュースを出して栓《せん》をあけ、コップに移した。敬一は喉《のど》を鳴らしてそれを飲んだ。身なりもこの前よりはずっと汚ならしかった。
「後藤詠明という日本画家のことなんだ」
「え……」
敬一はギョッとしたようにジュースの罐をおいた。
「ずっと昔のことを知っている人に会ってね。僕らは本当の兄弟じゃないんだって……」
淳二の言い方は淡々としていた。しかし、敬一のほうが喉をつまらせた。
「よ……よく判ったな」
「そりゃ、こういうことはいずれ判るものさ」
「でも、戸籍もちゃんとしているはずだ」
「僕がどうして知ったかはこの際問題じゃない。それより、兄さんもそういう立場だし、会えなくなるかも知れないだろう。だから早く話し合っておきたかったんだ。どうも性格が違いすぎると思ったよ」
「俺にもどうしようもないことだった。そいつは判ってくれるな。おやじが死ぬとき、俺に教えてくれたんだ。実は本当の子じゃないってな。ひょっとすると、俺がこんな風になったのも、そいつを聞いたせいかも知れない。まあ、とにかくお前には一応|詫《わ》びさせてもらうよ」
敬一は頭をさげた。
「詫びるって何をさ」
「俺はお前に兄として冷たかった」
「とんでもない。兄さん、僕はそんな風に一度も思わなかったぜ」
「いや、実の兄だったらもっとよく面倒を見たろう。あの会社へ入れたりもしなかったかも知れんし、逆にもっと徹底的に俺の仲間へ入れてしまっていたかも知れん」
「僕はもう一人でやって行ける」
「そうか。そう聞くと俺もさっぱりする。親が違うと判ったのがさいわいだった。お前さえよければ、これから別々に生きよう」
「そんな……淋《さび》しいな」
二人はしばらく沈黙した。
「これっ切りになるんだから、少し大事なことを教えよう」
敬一のほうが喋りだした。ちょっと感傷的になっているようだった。
「この世の中にはいろいろなことがある。俺たちの目に触れぬこともあれば、よく見えている事柄もある。そしてな、淳二、一般の人間には、世の中というのは、たとえて言えばこの部屋の中のようなものなんだ。ベッドも椅子もテーブルも、必要なものは何でも揃っていて、一応充分のように見えている。だからつい、ここだけが世の中だと思ってしまうのさ。しかし、壁の向こうにも部屋があり、そこにはもっといいい家具が置いてあるかも知れんだろう。あの扉の蔭《かげ》には、何か得体の知れぬ化け物がうごめいていて、扉をあけようとするとそいつらが姿をかくしてしまうのかも知れない。常識でははかり知れないものがあるんだぞ。そして、俺たちは最初のうち、壁の向こう側にある贅沢なものを知って、なんとかその壁をぶちこわしてしまおうと思ったんだ。だが、どんどんその方向で運動を展開して行くうちに、扉の外をとびまわる怪物がいることを知ったんだ」
淳二は敬一が喋ろうとしていることを悟って唾を呑み込んだ。
「いま、この国はやっと明治がおわりかけている」
「え……」
「明治さ。戦後のこの社会を最終的に支配していたのは明治生まれの人間なんだ。それ以前ももちろん明治生まれはこの国を支配していた。そして戦争をはじめ、敗けた。戦争で大正や昭和のはじめに生まれた男たちが滅茶滅茶に数を減らされた。兵士として動員され、消耗されたんだ。明治生まれも死ななかったとは言わん。しかし、戦争で死んだ比率はうんと少なかった。日清・日露はその明治生まれがやられたわけだが、太平洋戦争の比ではない。だが、戦後だんだんその数が減って来た。当然のことさ。人間はいずれ老いて死ぬんだからな。古い者が老いて死に、新しい者が新しい時代を作って行く。これが自然だ。歴史はそうやって作られて来た。ところが明治生まれの中の一部の連中は、新しいことつまり若い者が作る次の時代を徹底的に嫌悪している。彼らにとっては、お前らの世代が何気なく見過してしまう女の裸もひたすら劣情を刺激してやまない、いかがわしいものなのだ。彼らはそういうポルノにも慣れ、何の商売にもならぬほど自然なものとしてうけ入れてしまう世界がひらけることを決して認めたくないのだ。自分たちが育った、そして長すぎるほど世の中を支配した明治というものを、いつまでも不変のものとして新しい世代に押しつけようとしているのだ。明治生まれにも新しい時代を望んで時の権力に反抗した人物はたくさんいる。しかし、そういう人物ですら、自分たちの明治がなくなってしまうことには、最後の情熱を燃やして反対するのだ。たしかに、明治という時代はこの国にとって、それだけの価値がある偉大な時代だったかも知れん。しかし、丁髷《ちよんまげ》を切ったのもその明治だった。それとビキニの水着と、どれだけの差があるかと言えば、むしろ武士が帯刀することをやめ、散切《ざんぎ》り頭になったことのほうが、過去を振り捨てたと言う点で、はるかに大きな変革ではなかっただろうか。水着とファッションひとつとりあげて見ても、現在の露出度に至るまでに、段階的に、それなりの手順を踏んで必然的に大きくなって来ているではないか。今の露出度が不適当であるというなら、いったいどの時点へ遡《さかのぼ》ればいいというのだ。問題は小さいが、たとえばポルノに関してでも、徐々に進行して来たものをいきなりここまでと打ち切る権限は、どこから生まれて来るのか考えて見たことがあるか。公序良俗に反するというなら、スカートそのものはどうだ。昔の腰巻きじゃないか。腿《もも》はいかんが脛《はぎ》はいい、肩はいかんが腕はいいと言うのは理屈に合わない。それを理屈に合っているとするのは、どこかにポルノのようなことを突破口として、すべてを思う方向へねじ曲げようとする意図を持った連中がいるからだ。ポルノの弾圧に成功したら、その連中が次にやることは知れ切っている。政府の批判を封じるのさ。そしてそれは、明治の温存につながって行くだろう。だが、言ったとおり肝心のその明治生まれが、間もなく絶えようとしている。富と権力を握り、社会を支配することに慣れて来た老人たちの間で、今くらい危機感が盛りあがっている時代はないのだ。彼らは大正や昭和初期生まれの世代を、生ぬるい中間世代と見ている。そして戦後生まれを敵視している。自分たちの声が、まるでその世代には届かないもどかしさを感じているんだよ。彼らは官僚機構や、それに似た大企業の組織内で、地位や富を餌《えさ》に、自分たちの言うとおりになる人間を数多く育てて来たが、それでも不安なのだ。明治はそういう連中の間ですら、日ましに遠くなって行くのだからな。そんなところへ、突拍子もない怪物が現われたんだ。明治期に生きた七尾天舟《ななおてんしゆう》という神秘主義者の弟子と称する男で、名前を素形玄英というんだが、この人物がいつの頃からか、明治生まれの権力者たちの間で重きをなすようになり、日月会などという組織を作って何かやりはじめたのさ。はじめのうちは何を企んでいるのかよく判らなかったが、そのうちに妙なことが起りはじめた。昭和の初期や大正あたりで一度死んだはずの、明治生まれの連中が続々と蘇って活躍しはじめたんだ。みな死んだ当時三十代の働きざかりのイキのいい連中だ。しかも、その大半は憲兵とか特高とかに関係のあった連中で、いわばそういう政治的弾圧のプロフェッショナルたちなんだ」
淳二は黙って頷いた。
「おい、お前、驚かないのか」
喋り続けていた敬一は、急に愕然《がくぜん》としたように言った。
「後藤詠明という人もその一人だったんだろう」
「なぜ知ってる」
「いいじゃないか」
「いや、よくない」
「僕はマーサで清水祐吉という人が殺されて消えたのを見たんだ。常識じゃ判らないと言ったのは兄さんだろ」
「自分で調べまわったな」
「いや、そうじゃない。捲き込まれちゃってたんだ」
「どうやって……」
「この近くに大野総業という会社があってね、昌代が……彼女がそこのチェーンの一軒に勤めているんだ」
「あ……」
敬一はドアへ飛んで行った。
「畜生、お前」
「どうしたの」
「お前、誰かに欺されたな」
「なぜ」
「俺は罠《わな》にかかったらしい。廊下に人がいるんだ」
敬一は今度は窓へとびついて外を見た。
「いけねえや」
「罠……」
「お前、誰に俺のことを喋った」
「向こうが知ってたんだ」
淳二はおろおろと答えた。
「誰だ」
「大野忠夫」
「畜生、最悪の野郎が出て来やがったか」
敬一はソファーにどさりと沈み込んだ。
「もうおしまいだ」
「そんなことないはずだよ」
「甘いよ、お前は。お前を使って根気よく俺が出て来るのを待っていたんだ。そうにきまっている」
「どうしよう」
「どうにもならんさ。もう諦めたよ」
「ごめん」
すると敬一は声高に笑った。
「ごめん、か。気にするな。いつでも死ぬ覚悟はできているさ」
「まさか殺しやしないだろう」
「殺すよ。俺はあの幽霊どもを片っぱしから消音銃で消させたんだ。役に立ったぜ。あれは」
「あれは後藤詠明って人が、兄さんに届けさせたものなんだよ。清水祐吉を使ってね」
「後藤詠明がか」
「うん。七千万の現金と銃を」
「なぜ……。それに、後藤詠明も生き返っていたのか」
「兄さんにあれを渡したせいで、大野忠夫に処刑されちゃったんだ。僕はすぐそばでそれを見せられたよ」
「お前……」
敬一は立ちあがり、淳二の肩をだいた。
「そうだったのか」
「清水祐吉は誰に殺《や》られたの。だってあれを届けようとしたんだから、兄さんの味方じゃないのかい」
敬一はうわの空で答えた。
「お前に聞いて判ったのさ。清水は俺たちの側の人間だったんだ」
「だって、消えたじゃないか」
「素形玄英は自分を神そのものだと思い込みはじめていたんだ。だから、両方の側の人間を蘇らせていたのさ。大野たちもそれには気付いていないらしい。だが、清水は多分後藤詠明などと接触したので、俺たちと別のグループに誤解されて、マーサで射たれたんだろう。あの銃は使い道が広いだけに、あちこちへ流れ出しているんだ。それよりお前、その現金というのはどうした」
「ごめん」
また淳二は言った。兄に肩を抱かれたままであった。
「ちえっ、しようがない奴だな、お前が猫ばばしたのか」
「昌代と半分ずつ」
「それじゃ、少しはいい思いをしたかい」
兄は優しく弟に訊いた。弟はこくりと頷いた。
「僕ら、兄弟だよね」
「そうさ。多分もうすぐ一緒に死ねるからな」
弟は兄の胴に腕をまわし、胸に顔を押しあてた。
「でも、やっぱり昭和生まれってのは駄目なのかなあ」
兄がしみじみとそう言ったとき、錠のかかったはずの扉が音もなくあいて、その蔭から鉛色の銃がのぞいた。
パツッ、パツッ、パツッと、例の音が六、七回も続けて聞えた。
兄弟は、扉の蔭にいる者の正体を知ることもなく息絶えてしまった。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。
(角川書店編集部)
角川文庫『回転扉』昭和57年1月30日初版発行