半村 良
亜空間要塞
目 次
SF仲間は麻雀仲間
日曜にはSFを語ろう
超常現象いい現象
円盤目撃の準備をしよう
亜空間要塞を爆破せよ
密林の美人剣士
ベルヴェラスの革命神
ザウロの略奪部隊
亜空間民族の盲点
高原の幽鬼たち
幽霊的大革命
宇宙人的物々交換
魔術的大森林
寡占《かせん》的大商人
連続的名場面
巨石の島で謎が提出される
月光を攪拌《かくはん》する者が現われる
全裸の美男美女が月の井戸の奥にいる
刑事の名前にRがついている
史上最大のどんでん返しに遭遇する
SF仲間は麻雀仲間
1
四角いテーブルの各辺に、あまり坐り心地のよくない、クッションの硬い椅子《いす》がひとつずつ。その椅子のひとつずつに、それぞれ約一名ずつの男が坐って合計約四名。
約、と言ったのは正確を期してのことである。人並み外れた大男あり、骨と皮ばかりの痩《や》せっぽちあり、小肥《こぶと》りの低身短頭族ありで、外見が不揃《ふぞろ》いこの上もない。
その四人が集まって会議を……しているわけではない。めいめいが異る意図のもとに作業を進めている。
テーブルの上は、転落防止用の低いガードレールをへりにつけた緑色の盤になっていて、一三六個の立方体が配置されている。
四人は互いに悪意を抱いて、その色とりどりの刻印を施した立方体を操っている。
背後をめぐってみると、彼らの思惑がよく判る。荘家《おや》は六・七・八|筒《ピン》の一盃口《イーペーコー》を含む門《メン》・断《タン》・平《ピン》。南家《ナンチヤ》は門風《メンフオン》をはやばやと明刻《ミンコウ》にして萬子《ワンズ》の混一色《ホンイチ》。国際安全牌の中《チユン》を握ってすでに一向聴《イーシヤンテン》である。西家《シヤーチヤ》は誰の目にも明らかな役づくりで、テンから七萬《チーワン》、六筒《ローピン》、四筒《スーピン》と切りだして、ドラの八索《パーソ》を七・八・九と吃《チー》している。但し途中で牌勢が変ったらしく、索子《ソーズ》の面子《メンツ》が不足して四苦八苦のていだ。北家《ペーチヤ》は七対子《チートイツ》の一向聴で、ろくに盲牌《モーパイ》もできないくせに、さっきから自摸《ツモ》るたび力いっぱい拇指を押しつけている。北《ペー》、一索《イーソ》、八索《パーソ》のどれかを自摸れば聴牌《テンパイ》だが、八索《パーソ》はドラで西家《シヤーチヤ》がアタマにしているし、北《ペー》は場に二枚出てしまっているから安全牌のつもりなのだろう。とすれば頼みの綱は一索《イーソ》だけで、まず和《アガ》る見込みは薄い。
「北《ペー》……」
荘家が軽く自摸切りをした。テーブルの上に出ている北家の右手がピクッと動き、彼の切ない気持がはからずも全員に知れわたる。
「冗談じゃないよ、鳴く気なのかい」
南家は気味悪そうに言い、
「それなら中《チユン》……」
と安全牌を振る。
「こにゃろめ」
西がそう言って自摸る。ニヤリと笑い、来た牌をしまい込んで、「やっと来やがった」
と白《シロ》を切る。白《シロ》を切って白《しら》を切ったが、やっているのは索子の混一で、入ったのは九筒《デカトン》だ。手が伸びないで、せめて三味線でも引こうというのだろう。
「よいしょ」
北家が東《トン》を引いた。東《トン》の対子《トイツ》があって暗刻《アンコ》になる。じっと考えてから、キッと眉をあげ、
「八索《パーソ》」
とドラを切る。
七対子《チートイツ》をあきらめて、対々《トイトイ》に切りかえたのである。
「ドラ、ポン」
西家が待ってましたとアタマを鳴いた。
「やな奴、ドラ四かよ」
さっと一同が緊張した。
「三萬ポン」
西家が切った三萬を、七対《チートイ》崩れの北家が鳴く。
「どうだ、もう一丁」
一索を切って出て絶対安全な北を残す。
「ちょっと待って……一索|槓《カン》だ」
西家は手の内から一索の暗刻《アンコ》をさらし、嶺上牌《リンシヤンパイ》をつまむ。八筒《パーピン》を自摸《ツモ》切り。
北家にツキがまわって五筒《ウーピン》が暗刻《アンコ》になり、一萬《イーワン》と九筒《チユーピン》のシャンポン。東は一盃口の八筒《パーピン》を振ってオンリ。南家はじっくり場を読んで三萬を切り、西家はどうやら聴牌したらしく夢中で自分の手ばかり見つめた挙句、余って切った牌が九筒。
「ドカーン」
2
ラス親で、その回結局最後の北家の対々《トイトイ》でトップから二位に転落した山本麟太郎が言いだした。
「もうよそうよ。くたびれちゃったな」
山本はひょろ高い体を椅子の上で思いきりのばした。彼のすまいは、この渋谷道玄坂のすぐ近くにある。坂の上で高速道路の通っている玉川通りを向う側へ渡った高級住宅街のどまん中に住んでいる。いま身につけているのは、黒のスラックスに白いTシャツで何の変哲もないようだが、それが彼のトレード・マークみたいなことになっている。雀卓《じやんたく》のうしろの壁には、スラックスと同じ黒の上着が掛けてあり、いついかなる時でも黒の上下に白いシャツなのだ。若者揃いなのでその昔のことは知る由もないが、戦前……世が世なら華族さまだという噂《うわさ》である。そのせいかどうか、大変な世間知らずで、時々仲間を赤面させたり閉口させたりすることがある。ところがその一方、妙な具合に物識《ものし》りで、実生活に役立たないことだと抜群の記憶力を発揮する。他人に恩義を感じさせずに奢《おご》るのが特技で、渋谷が地元だけに一緒にいると何かと心強い。
「俺はヘコンでるよ」
やめようと言い出されて拗《す》ねたのが、夢中になって生牌《シヨンパイ》の九箇《チユーピン》を振ってしまった西家の吉永佐一だ。色が白くて小肥りで背が低くてつぶらな瞳で甘ったるい童顔の持主。但し時々まっ黒な鼻毛をのぞかせていることがある。鼻毛というのはどうも本人には気づきにくいもので、仲間が、
「今日は凄味《すごみ》のある顔をしているね」
などと言っても、
「そうかな」
と顔をなでる程度の反応しか示さない。凄味というのは鼻毛のことなんだけれど。
この吉永佐一、大変な秀才なのだそうである。今は大学院へ行っていて、山本麟太郎とは高校時代からの友人。秀才でも麻雀は別と見え、やるたびに敗けている。どういうわけか、やるたびに敗ける雀士に限って、三度の飯や一夜の妻より麻雀が好きらしい。だからしょっ中敗けていて、はたで見ている限り麻雀が好きなんだか、敗けるのが好きなんだかよく判らない。一説によると軽度のマゾで、女の子に抓《つね》られると昂奮《こうふん》するのだと言うが、これは恐らく誰かの悪口で信用はできない。
南家の伊東五郎。この顔が問題である。年よりずっと老《ふ》けてみえ、その点で吉永佐一と好対照だが、異様に四角い。ついた仇名《あだな》が「チャン」で、なぜ「チャン」かと言うと或《あ》る流行歌に関係がある。例の……チャンの仕事はシカクぞえ……という奴である。刺客《しかく》だって四角だって、歌に唄えばおんなじことで、その点ゲタなどというよりずっと間接的で品がいい。
四角のチャンは偉大な常識人である。これはもう質《しち》の日の全会員が認めるところで、思考が常に大地を踏みしめるがごとく安定していて、絶対と言っていいほど飛躍しない。そういう常識人間がなぜ質《しち》の日会のようなSFファンの集団に入って来たかと言うと、伊東五郎は三波伸夫の乾分《こぶん》格だからである。
三波伸夫はトップをとって上機嫌でいま顔の汗を拭《ぬぐ》っている。肥大漢で大力の持主でスポーツ万能で世話好きな親分肌の男だ。そのため現在は質の日会の会長。
ここでひとこと質の日会の由来を述べねばなるまい。余談だが聞いていただく。
その昔、SFの好きな一群の学生がいた。今ほどあっちこっちにSFファンがいる時代ではなく、同じSFファンをみつけると、泪《なみだ》ぐむほど嬉《うれ》しかった時代だ。
当然同人誌を作ろうということになって、なんとかそれができた。だがSFファンになろうという程の人間に、生活力のあろうはずがない。みな貧乏で一ヶ月のうち金のことを考えない日は一日か二日という暮しだ。
何が金だ俺たちにはでっかい未来があるじゃないか、と思っても、実際金がないのはわびしいものだ。キセルだって趣味でやるわけじゃないし、バスを横目にバス通りを歩いて行くんだって、健康の為ばかりじゃない。
くたびれ果てて暗い下宿へ辿《たど》りつき、インスタント・ラーメンを啜《すす》ってシケモクを吸いながら窓の外をじっと眺めてれば、おのれの弱さくだらなさ、振られた女の面影にパンツの汚れが重なって、まあ本当に生きているのが重くなる。
そんな時、ふと思い出すのが友達だ。奴らと話したい顔見たい。だがしかし、ポケットを探らなくても銭のないのは判り切っていて、ふた晩や三《み》晩はそれでも我慢して寝てしまう。
でもある夜、遂に我慢がしきれずに……そうなれば妙に知恵が湧くもので、あれを持ってけばいくらになると、思い切りよく質屋ののれんをかきわける。
で、いくばくかの金を手にして連中がいそうなサテンへ行く。……いるんだなア、これが。みんな似たような時にわびしくなって、似たような期間我慢して、似たような頃に辛抱きかなくなって。
自然発生的に質の日会は誕生した。いつしかサテンともわたりがつき、その拠点が渋谷道玄坂中程横丁入る薄暗がり……店の名が「ノンブル」という。名は体をあらわすというが、本のページに並んだ活字の外側にあって、ひとり淋しくポツンと置かれたあわれな活字そのままに、いともわびしいたたずまいであった。
それからすでに幾星霜。代《だい》かわり仲間も増えたが相かわらず質の日会は存続し、いつしかSFファンの集まりという意味が軽くなって、どこやら雀友会の気配が濃くなっている。山本麟太郎のような旧華族や伊東五郎のような常識人間が参加しているのも時の流れという他はない。
3
「ねえ、みんなで一遍南米へ行ってみない」
近くの南風荘からノンブルへ帰って来て、みんながコーヒーを半分ほど飲んだところで、急に山本麟太郎が言いだした。
三波伸夫がプッと吹きだした。
「ごめんごめん……」
ハンカチをとりだして伊東五郎の膝《ひざ》を丸っこい指で拭いてやる。
「やだなあ、いつも俺ばっかり狙うんだもん」
伊東五郎の声は……吉永佐一の表現によると、割れ鐘《がね》をころがすように、喉のところでふたつかみっつに割れてゴロゴロした感じだ。
「だからごめんって言ってるじゃないか」
「たまにはよそ向いて吹けよ。俺のズボンのしみは、たいていあんたのコーヒーなんだもんな」
「若様がいけないんだよ」
山本麟太郎は通称若様。
若様は上品に顔を綻《ほころ》ばして言う。
「ねえ、行かない。みんなで……」
「そりゃ行ってもいいけど」
三波伸夫と吉永と伊東を交互にみつめて薄笑いをした。
「行って行けないことはないけど、随分先のことになるなあ」
と伊東五郎。
「どうして……」
若様が尋ねる。
「これから貯金をはじめたとして……船で行くの、飛行機で行くの」
伊東は旅費の計算をはじめたらしい。目を天井に向けて四角い顔をしかめている。
「南米のどこへ行くんだよ」
吉永佐一が若様をみつめた。真面目な表情である。親友だけに若様が本気で言いだしたのに気づいたらしい。
「ブラジル」
「何しに」
「叔父が一人いてね」
「ブラジルにかい」
「ううん。日本に」
「それでなぜブラジルへ行こうと言うんだい」
「その叔父がずっと向うにいたのさ」
吉永と山本のやりとりに三波が割り込む。
「いいよ、行こう。若様の為とあっちゃほうって置けないもの。で、いつ行く。旅費はどうする」
「本気かよ。だってブラジルと来ちゃ、旅費だっておだやかな金額じゃないぜ。誰が出すの。俺、ないぜ」
伊東が心配する。吉永が左手を振って二人を黙らせた。
「それ、いつか言っていた気ちがいになった人のことかい」
「うん。調べてみたいんだよ」
「じゃあ、あの話、本当だったんだな」
「そうだよ」
三波が焦《じ》れったそうな顔をした。それをみて吉永が説明する。
「山本のうちの一族に、浄閑寺公等《じようかんじきみひと》という人がいるんだそうだ。それが彼の今言っているブラジルの叔父さんなのさ」
「浄閑寺公等……厄介そうな名前だな」
「ただの老人だよ。気が狂ってる……」
伊東五郎がとびのいた。
「ほらほら……笑いそうな時はコーヒー飲まなきゃいいだろ。あとで飲めばいいじゃないか」
「冷めちゃうもの」
危うくまた吹きそうになったコーヒーをのみ下して三波が言う。
「で、今度は何がおかしかったの」
とびのいた場所へ戻りながら伊東が三波に尋ねる。
「気が狂ってればただの老人であるもんか」
「その老人がね」
吉永がまた説明をはじめた。
4
山本麟太郎の叔父に当る浄閑寺公等という人物は、よく聞いてみると叔父ではなく、大叔父に当るらしい。もう大層な年で、戦前にブラジルへ移民として渡ったという。
何しろ名家の出であるし、かの地でも別格扱いをされ、要人に知己が多かったからあっという間に成功して大農園の主《あるじ》となった。
が、すぐに戦争にぶつかり、大戦中は全く消息が途絶してしまった。
そして戦後交流が再開したとき、浄閑寺公等はすでに現地から姿を消して久しかったというのだ。以来二十数年、浄閑寺公等は一族からも忘れ去られ浄閑寺家ゆかりの京都東山に墓まであると言うことだが、それが去年の冬、山本家の所有する伊豆下田近くの別荘にひょっこり現われたのだそうだ。
その別荘はもとは浄閑寺公等の父に当る人物が持っていた土地だそうで、戦後の混乱期に山本家の所有に変ったものである。
浄閑寺家は戦後没落し、ほとんど絶えた形になって京都の屋敷も人手に渡って久しかったから、浄閑寺公等は父親がその風光を愛し、自身もたびたび訪れたことのある、下田の別荘へ現われたとしても、別に不思議はない。
ただ、山本家の別荘番夫婦に案内を乞うた時の彼は、異様な風体《ふうてい》をしていた。
「茶色の革でできた三角帽子に革のチョッキ。白いダブダブのシャツにぴっちりしたタイツをはいて、爪先がくるりとそり返った靴をはいていたんだよ」
「なんだ、その恰好《かつこう》は」
伊東が首をひねる。
「魔法つかいの家来かピエロみたいなスタイルさ。いずれにせよ中世のヨーロッパにあった服だろう」
吉永が真顔で首をひねる。
「で、気が狂っていたのか」
と三波伸夫。
「うん、乱暴はしないんだが、言うことがめちゃくちゃで、筋が全然通らない。行方不明になってからその日まで、どこでどうしてたか、どうやって日本へ帰って来たのか、なぜそんなみなりなのか、まるで判らないんだよ。ただ、別荘番夫婦はうちと古い関係で、昔のことなどよく知っていたし、浄閑寺だと名乗ったので東京へ電話で知らせて来てくれたのさ。おやじがかけつけたら、ひと目で判ったそうだ。もともとあの別荘は浄閑寺家のものだったんだし、それからはそのまんま下田に置いて、時々医者が通って来たりはしているんだが、記憶が戻る気配もない……」
「何か働いてたのは確実だな」
伊東が言った。
「だって仕事しなければ食えないし、その変な恰好からすると、チンドン屋か何か……」
「僕は調べた。妙な事件だからね。そんなおかしな恰好をしてれば、別荘へ着くまで人目に立っているだろうしね」
「歩いて来たの……それとも車で」
「歩いて来たんだろう。別荘番のじいさんが気づいた時は庭に立って海を眺めてたっていうし、車の気配もなかったって言うからね」
「その日、チンドン屋が歩かなかった。近所を」
伊東が言うのへ三波が押しかぶせるように言った。
「チンドン屋チンドン屋って、何でそんなにチンドン屋にこだわるんだよ」
「だってそんな変な恰好……」
「下田と言っても白浜に近くてね。景色はいいけど淋しいところなのさ」
若様が伊東に向って言った。
「で、調べたらどうだった」
三波がひと膝のりだした。
「そんな中世風の衣裳を着た通行人なんて、付近の誰も見ていない」
「目撃者なしか」
「うん、そう。どっちから来たか方角さえ判らないんだ。うちの者たちはそれでも納得して、いずれ正気に戻れば判るだろうと言ってるけど、僕はそうも思えなかった。と言うのは、別荘に妙なことが幾つか起ってたのさ」
「どんな……」
「時計も冷蔵庫も井戸のポンプも、みんな故障しちゃってたんだよ」
「なんだって……」
三波と吉永が口を揃えて言った。
「その人が来た日にかい」
伊東がぼんやりした表情で尋ねる。
「そう。午後四時二十八分」
「どうしてそんな時間まで……あ、そうか。時計が停ったんだっけな」
吉永は呑み込みが早い。
「それと、じいさんの病気が癒《なお》っちゃった」
「病気……」
「うん。長いこと胃潰瘍《いかいよう》でね」
「ケロリとか」
吉永が唾《つば》をのみこんだ。
「うん、ケロリとね。前の晩、ばあさんが魚を料理してて……|※[#「魚」へん+「陸」のつくり]《むつ》なんだけど、その歯を左手の小指で引っかけちゃって。|※《むつ》の歯って、鋭いんだそうだ。血が出て包帯してたのも、ケロリ……」
「待てよ」
三波は吉永と山本の顔を交互にみつめた。
「|※《むつ》の子はうまいぜ」
そう言う伊東に三波はあわれむような表情をした。
「莫迦《ばか》だなあ……若様の話はSFになっちまってるのに」
「どうして。ねえ、どうしてSF……」
「円盤現象につきものだろう。機械がとまる、人間の体の傷がケロリ。そこへ持ってきて、タイムトラベラー風の出現のしかた」
「おまけに、去年の十一月二十七日午後四時二十八分、伊豆地方に軽震……」
山本麟太郎は品のいい微笑を泛《うか》べていた。
「ねえ、一遍ブラジルへ行ってみない……」
日曜にはSFを語ろう
1
クライスラーの新車に四人が乗っている。ボデーは黒でシートには純白のカバー。運転しているのは若様こと山本麟太郎で、その横……右側に吉永佐一。うしろの二人は四角い顔の、チャンこと伊東五郎とデブの親分三波伸夫だ。
曜日は日曜で天候は快晴。東京から西へ出て酒匂川を渡って小田原。小田原から南へ折れてすぐ真鶴道路に入り、熱海ビーチラインを抜けて熱海、網代、宇佐美、伊東。伊東から小室山へあがって東伊豆道路を南下。八幡野からまた海ぞいになって、赤沢、大川、北川、熱川、片瀬、稲取。ついさっき稲取でひと休みして走りだしたばかりのところである。
三波と伊東がうしろの席で缶入りのコーラをのんでいる。
「それにしても何だね。流石《さすが》に元華族さまだけあって大した車だね」
伊東は上機嫌《じようきげん》である。前の山本へお世辞のように言った。
「うちの会社じゃ社長だけだよ、白いカバーのついてる車は。白いカバーっての、やっぱり気分が違うんだね」
伊東五郎は城西データ・バンクという会社のエレクトロニクス要員である。
「知らなかったなあ……若様はいつもこの車に乗って歩いてるの」
「ううん」
若様は首を振った。
「いつもじゃないよ。どこかへ行く時だけ」
三波が缶コーラを口からひっぺがすようにして吹いた。伊東が悲鳴をあげる。
「またア……車ん中でまで何だって言うんだよオ」
「ごめんごめん」
「逃げようたって逃げられないじゃないの。車だよ。走ってんだよ。たまにはまっすぐ前へ吹いたらいいじゃないか」
「このあいだ、一度まん前へ吹いたろ」
三波が伊東のズボンを拭いてやりながら言う。
「あん時はまん前に俺がいた」
伊東がボヤく。吉永が前の席で笑う。
「どういうわけか口ん中へ物を入れて吹きだしたくなると、こいつの膝のほうへ向いちゃうんだ。あい性《しよう》がいいのかね。俺とこいつの膝と……」
「そんな……」
「俺と場所かわろうか。前にいればいくら親分でも膝へ吹くわけには行かないだろ」
「そうしてもらおうかな。かなわないよ、こうしょっ中じゃ」
「よせ、伊東。もし前へ行ったらひどいぞ。お前の首筋へ吹いちゃう」
「いいよ、判ったよ。……今度からズボンを防水にしとかなくちゃ、それよりさ、何がおかしかったの」
「ドジ。もうおかしくもなんともなくなっちゃったよ」
「教えてくれたっていいだろ。ズボン汚したんだから」
「車の話だよ」
「うん、それで……」
「いつもは乗ってない、どこかへ行く時だけだ、って……若様がそう言ったろう。お前からかわれてるんだよ。天気もいいし、道も案外すいているし、若様ご機嫌うるわしくだ。なあ若様」
「別にそんなつもりで言ったんじゃない」
「ほらみろ、おかしくないじゃないか」
伊東は釈然としない様子である。
「今井浜だ。あの辺が鬼ヶ崎……もうすぐ白浜だね」
三波は話題を変える。
「俺、ちょっと気がついたことがあるんだけどな」
吉永がふり向いて言った。
「でも着いてからたしかめなくちゃ……」
2
白浜を過ぎて少し行き、道を右にそれ、急な登り坂をあがって、丁度寝姿山のふもとと言った場所へ出ると、あたりが平らになって別荘らしい建物が散見できる。問題のもと浄閑寺家のものだったという別荘は、かなりの敷地を持っていて、松林に囲まれた眺望のいい位置にあった。
車は静かに松林の中へすべりこみ、古めかしい建物の前でクラクションを一度鳴らしてエンジンを切った。
待ちかねたように老夫婦がとびだして来る。
「お久しゅうございます、若様」
じいさんが言った。両手を拡げて抱きかかえんばかりであった。
「あのじいさん、山本の仇名を知ってる」
伊東は感じ入っている。
「莫迦。あいつは家でそう呼ばれてるんだ」
三波が小声で叱った。
「若様ってか……じゃ、はじめっから仇名じゃないんじゃないか」
「俺たちの間では仇名になるんだよ、若様が」
「判んねえな。仇名ってのはどういうんだい、本当は」
「知るか」
三波は伊東を睨みつけ、別荘番夫婦のほうを向くと、コロリと柔和な笑顔に変えた。
「お邪魔します。いい眺めですね、こちらは」
「どうぞどうぞ……」
老人は若様のスーツケースを持ちあげながら言った。伊東は二階だての建物をみあげている。
「赤坂プリンスみてえだ」
三波がそれを肘で小突いた。
「痛えなァ」
「莫迦……」
両びらきの厚いガラスがはまったドアの前に三段ほど石段があり、並んだ窓もポーチも屋根のかたちも、ひどく古めかしい木造の欧風建築だ。おまけにドアがギイーッときしんで効果満点。これであたりが暗くなったら、松林に吹く風の音とあいまって、フランケンシュタインだろうがドラキュラだろうが、おどろおどろしい奴にはぴったりの舞台である。
そのギーッと重々しくきしむドアをあけて中へ入ると、横に細長い部屋で、床は土足が気の毒になる程|艶々《つやつや》と磨きこんだ寄木細工。黄色っぽいのと焦茶のと、四角い良質の板が細かに組合わさっている。凝った細工の帽子かけに、その昔従者が主《あるじ》を待って坐ったかも知れない堅苦しい感じの椅子が壁際に幾つか並び、中世風の古城を克明に織り描いた重厚な壁かけ。窓に濃緑の厚いカーテンが絞ってあり、留めた紐の房がゆたかにたれさがっている。
ドアが三つある。左横手には恐らく別荘番の部屋へ通じるのだろう、細めのドア。正面の壁の左に、同じく勝手方面へ行くと思われる同じような細いドア。そして中央やや右寄りに、両開きで片方が二段に折れる大ドアがあって、今そのドアが老爺の手でいっぱいに押しひらかれたところだ。
広間が見える。明るい茶色に輝く幾つものキャビネットに豪華なソファ、テーブル、カーペット、そして王侯貴族のすまいにふさわしい巨大なマントルピース。夏だから火は入れてなく、冷房もない様子なのに、空気は穴の底に沈んだようにひんやりと冷たい。
「これ、本当に若様んちの別荘かい」
伊東五郎が三波伸夫にささやいた。
「どうだい、驚いたろう」
三波は伊東に言った。自分も充分に驚いている顔つきであった。
「お疲れでございましたでしょう。冷たいものが用意してございますので」
爺やは若様をマントルピースの傍のソファに坐らせた。三人が若様を上座にした恰好でそれにつづく。
「ホテルより凄いね」
と伊東。
「こいつはホテルより高いとこ知らないんだから」
三波が自己弁護のように言った。
「部屋は二階に用意ができてるはずだよ」
伊東と三波が若様に言われて上をみあげた。厚いカーペットを敷いた大きな階段が、壁に突き当って左右に分れ、それぞれ太い手すりのついた廊下になって居間をみおろす形になっている。
「一人一部屋ずつかい」
伊東が心細そうに言う。
「二人部屋がよければ変えさせるよ」
三波と伊東が顔をみあわせた。
「そうしてもらおうか」
と三波。二階の廊下は居間側につきだしていてひどく暗い。伊東は明らかに気味悪がっていたし、三波はマナーの点で自信がなさそうであった。いずれにせよ、二人は同じ部屋のほうが心強いようである。
3
別荘をかこむ松林のはずれに崖がある。下は芋《いも》か何かの小さな畑で、そのさきを下って行くと民家が二軒あって、すぐ下田への道路。道路を突っ切ると、柿崎と原田の中間あたりの海岸へ出る。原田のすぐ北が白浜で、まだシーズンのはじめだから最盛期ほどではないが、派手な水着でにぎわっている。
「浄閑寺公等という老人、見えなかったね」
吉永佐一が海岸に立って、別荘のある松林をみあげながら言った。
「一階にいるよ。食堂のとなりに和室があるんだけど、そこに住んでもらっている。長い間外国ぐらしをしたんだろうと言って、父がそうさせたのさ」
「本当に外国にいたんだろうか」
「ブラジルへ行ったのはたしかだからね」
「爵位《しやくい》を持っていた人だそうだし、あれから古い記録を調べてみたんだけど、ブラジルへ移民することに決った当時はちょっとした騒ぎだったらしいね」
「だそうだね」
若様がうなずく。伊東は海へ石を投げながら尋ねた。
「どうして騒いだのかな」
「そりゃそうだろうさ。伯爵だか侯爵だか知らねえけど、それが日本を棄てて外国へ行っちまおうというんだ。俺たちが行くのと訳が違うよ」
三波は巨体をゆすって石を投げた。伊東のよりはるか遠くへ飛ぶ。それを見て伊東は石を投げるのをやめ、手についた砂を払った。
「親分は大食いだからな」
「コツだよ。スナップをきかせるんだ」
三波はゴルフボール大の小石を拾い、もう一度遠投してみせた。
「日本にいたと思うのかい」
若様は吉永佐一の言葉を気にしていた。
「そうでもないが、外国にいたとも決められないだろ。少くともここへやって来るまでの何年かについては」
「そうだねえ」
「たとえばさ、戦争中に何かの使命を与えられていたとしたら……」
「使命……」
「そうだよ。何しろ身分の高い人だ。ブラジル移民だって、戦争が始まるのを見越して、何かの目的があって行ったとは考えられないかい」
「なる程ね」
若様はそういう見方にはじめて気づいたようである。
「それで開戦と同時に、アメリカ側につかまったか何かして……」
三波は早口で言いだした。
「拷問《ごうもん》とか、何かそれに近いことをされて気が変になっちゃったんじゃねえのかい」
「よっ、面白そうな筋になって来やがった」
「莫迦」
三波が伊東をたしなめた。
「その可能性もある」
吉永はニコリともせずに言った。
「だがそれだけじゃ物足りない。間のびがしすぎてる。なぜ終戦後三十年近くなってからここへ現われたんだ。捕まっていたとしても、釈放されるならもっと早くていいはずだ。ナチの戦犯でさえもう出されているじゃないか」
「だから、気が狂ってて、あちこち転々としてた」
「説明はつくが、都合がよすぎるね。だいいち、あの別荘へ忽然と現われた説明がついていない。俺は山本麟太郎という男をよく知ってる。山本がこういうことについて調べたと言えば、根掘り葉掘り、蟻の穴から風向きまで完全にやっているに違いないんだ。二、三人に、これこれの人物をみかけなかったかと当って、知りませんねえと言われてそれっきりにするような男じゃない。目撃者はおろか、あそこへ来た道筋や足あとひとつすら判らなかったに違いない」
「湧いて出たのか」
三波は凝然《ぎようぜん》としかけた。
「人間が湧いて出ることは絶対にない。どこからか知らないけど、ここに来る前はどこかにいてそこからやって来たのさ」
伊東が言った。その考え方に間違いはないようである。
「若様の観察力を百パーセント信じることにしよう。それがどこから来たか発見できないとしたら、どこからも来なかったということになるぜ」
三波の主張だ。
「じゃ地面の上じゃない。ヘリコプターだってパラシュートだって、グライダーだって、凧《たこ》だってある。人間の足あと探してみつからなくたって、竹馬の跡ならあるかもしれないよ」
若様が笑った。
「そうだね。伊東君の言うことももっともだよ。でも、浄閑寺公等が現われた状況はほぼ密室に近いことになっているんだ」
若様はしゃがんで砂の上に矩形をひとつ描いた。
「これが別荘。別荘は二階のどの部屋からも海がみえるように、松林のさきの崖と平行に建っている。芝生の庭は松林の手前。池がその庭のほぼ中央で、あの人はその池の手前の芝生で、崖のほうを眺めているところだったんだ。表から庭への通路は、建物の両端にある。下田側に別棟の車庫。反対側の端は納屋。あの爺やはその時納屋で、婆やと一緒に何か仕事をしていた。車庫に用があって庭を通り、すぐ引っ返してくるとそこにあの人が立っていたというわけさ。地震があったのはその時なんだよ」
「びっくりしたろうなあ。通りすぎてふり向いたら、ヌウッと人が立っていて、とたんに足もとがグラグラッ……」
と三波。だが伊東には疑問があるらしい。
「玄関から来て、建物を抜けたんじゃないのかい」
「でも、誰も来る予定はないし、そういう時はいつも厳重に錠がおりてる」
「窓……」
「窓もダメ。ガラス戸に鎧戸。レースのカーテンに厚いカーテン」
「屋根へ登ってとびおりる」
「何の為にさ」
「なにしろ気が狂ってるんだからね。玄関の前に長い竿かなんか置いてなかったかい」
「なぜさ」
「棒高とびってテもある」
「あのね。お前いいかげんにしろよ」
三波は叱りつけ、相手になっている若様の顔を気の毒そうにみつめた。
吉永佐一が笑いこけている。
4
四人は夕方近い伊豆の道を、一列に並んで別荘へ引きあげて行く。
「一種の超常現象だったと考えてもいいわけだな」
吉永が先頭の若様へたしかめるように言った。そのうしろに親分の三波伸夫。しんがりに伊東五郎。伊東はゴロゴロの声をいかして歌を唄っている。怪しげなメロデーをつなぎ合わせると、どうやら浪曲調の演歌になっている。
「僕はそう思ってる」
と若様。
「時間旅行か次元移動かだな」
三波が言う。
「浄閑寺公等がタイムトラベラーだという可能性は薄いと思うよ」
「どうして」
三波と吉永が同時に言った。
「戦争がはじまる数年前にブラジルへ渡ってそれから今日まで……年のとり方が合っているようなんだ」
「なるほどね」
三波がうなずいた。
「とにかく会わなくちゃ」
吉永が気負いこんで言う。
「彼の言うこと聞いたら君たちだってもっと別な発想をするだろうな」
「うわごとかい」
「まあそんなところだ」
「どんなの」
「夕食のあとゆっくり聞こうよ。あの話は、僕の家の者たちには何の意味もない。でも、君らには別だ」
若様が言うと、三波がちょっと伊東をふり返って尋ねた。
「俺たちが質の日会だからかい」
「そう。こいつはSF的な事件さ」
いちばんうしろの伊東が、歌をやめて大声でどなった。
「だから俺たちがこうして調査にのりこんだんじゃないか」
「なあ吉永よ」
三波が言った。
「え……」
「チャンもSFファンだっけ」
「さあ……あんまり聞いたことないね」
伊東が三波の背中をどんと突いた。三波の巨体がよろけて吉永にのしかかる。吉永が重さに耐えかねて若様に。
「危いよ」
三波が文句を言う。
「莫迦にするからさ。ざまみろ。親豚こけたらみなこけた……」
「こん畜生」
三波がふりむくと、伊東が坂を逃げおりる。まず平穏な日曜日である。
超常現象いい現象
1
海のかなたに濃い灰色の雲が現われていた。だが頭上の空はまだ充分に青く、そして明るい。
四人の青年が、学生時代の昔にかえって、松林と別荘の中間にある芝生の庭で遊びたわむれていた。
いつだってその四人は、顔を揃えるとこうして学生時代の気分に戻ってしまうらしい。
彼らの為に弁護しておくと、一人ずつ別々の時は年齢相応には落着いているし、頭もいいほうで、殊に伊東と三波は職場でも嘱望《しよくぼう》されている人物なのである。
ゴルフのパターを持ちだして騒いでいるのだ。その芝生の庭は、山本麟太郎の父親が、パットの練習の為に手入れさせているので、ホールもちゃんと正規のサイズのものがこしらえてある。
海岸から帰って来た時、実は夕食には少し早すぎたのが判ったのだ。婆やはまだテーブルのセットをはじめたばかりで、料理もあと少し時間がかかりそうだった。
山本麟太郎という男は、そういうことには妙にさとく、老夫婦を急がせず、仲間たちにも退屈させぬよう、状況をひと目みるなりパターとボールを持ちだして、三人の前で見事なロングパットをきめて見せたのだ。
「俺、俺、俺……」
伊東はゴロゴロした声で若様のパターを貸せと迫り、
「いいか、見てろよ」
と十五ヤード程の所へボールを置いた。今にも打ちそうな姿勢になってから急にやめ、「ねえ、よく旗が立ててあるじゃないの。ここんち、旗ないの、旗」
「要らないんだよ、旗なんて」
「だって……」
「だってじゃない。お前なんかこれでたくさんだ」
三波はそう言い、建物の端の雨どいの所に置いてあった竹箒《たけぼうき》を持って来ると、さかさまにカップの中へ突っ込んで、満更でもない顔で伊東のパットを待っている。
「やったことあるの」
伊東がまさに打とうとした時、吉永佐一が尋ねた。伊東はずっこけて芝生の上へころんでみせる。
「やな時声かけないでもらいたいなア」
「でも、ちゃんとサマになってるからさ」
「そうかい」
伊東は嬉しそうに起きあがる。もう一度構えなおす。
「ほんとにやったことあるの」
今度は若様が言う。
「うん。ないよ、一度も」
「グリップが変だものね」
さもありなんと言う顔で若様が言う。
「どっちなの。俺、かっこいいの、悪いの」
竹箒を支えて待っている三波が呶鳴った。
「莫迦、早くやれ。お前なんかかっこいいわけないじゃないか。余計な心配するな」
「やればいいんだろ。見てろ、一発で入れてやるからな」
「ほら、ボールにさわった。もうダメ。アウト。交代……」
三波が竹箒を抜いて伊東のほうへ歩み寄ろうとする。
「待って待って」
伊東があわてて手を振る。
「いいじゃないか、ちょっとくらいさわったって……減るもんじゃなし」
三波が笑いだして元の位置に戻る。
「勘違いするなよ。それはボールだぞ。お前いつからホモになった」
同時に伊東が打った。ボールはころころと力なく、三、四ヤードほどころがってとまった。若様と吉永が大笑いをはじめる。三波が竹箒を手にやって来る。
「お前ね、ボーリングの玉を打ったってこのくらいはころがるんだよ。半分も行かねえじゃねえか」
「はじめてだからアガっちゃったんだよ」
「アガる柄かよ。まっ四角な黒い顔して」
「うるせえ、デブ。ほっぺたの肉をゆらさないで走ってみろってんだ」
「莫迦、どいてろ。パットってのはこうやってやるんだ」
三波は形どおり二、三度小さく振ってから足の位置をきめ、サマにならない気どり方でパターを振った。余程そっぽを向いていたとみえ、ボールはとんでもない方向へ強くころがって池の中へポシャン……。
「あんなでっかい穴なら俺だって入るぜ」
伊東にからかわれたが、三波は憮然として池の波紋をみつめている。
「どうしたの、今度は俺の番だぜ。ボール貸してよ」
「水ん中へ入っちゃったよ」
「見てたよ。狙ったんだろ。持っといでよ」
2
三波の巨体が池の前で這っている。水の中に左腕をつっこんでボールを探っている。その横でパターを手に伊東が池をのぞきこんで言う。
「はじめてやったけど、ゴルフってはやるわけだな。水遊びまでできるんだから」
ホラ、と言って三波が水の中からボールを拾いあげ、芝生の上に抛《ほう》った。伊東はころがった位置のまま、すぐにパターをかまえる。
コトンと音がした。見事に入ったらしい。
「どんなもんだ。吉永もやってみな」
吉永はかなりやるらしい。十ヤード程のパットをうまく寄せた。ツー・パット目でコトン……。
「うまいうまい。あれ、どうした、スポーツ万能の人は」
三波は池の傍にすわり込み、ふてくされたように背を丸めていた。
「池の前でボールが落ちないように番しててやるからもう一度やってみなよ」
伊東がそう言ってもふり返りもせず、右の人差指を突きだして、膝の上へ出したり引っこめたりしている。
「拗ねてやがんの」
伊東は口に手をあてて笑ってみせた。
「でかい奴が拗ねると変なもんだね」
三波がその妙な動作を続けたまま言った。
「吉永、ちょっとこれをみてくれ」
緊張した声であった。吉永は怪訝《けげん》な表情で三波の背中をみつめ、パターを伊東に渡すと近づいて行った。傍へかがみこむ。
「ほんとだ。若様……」
吉永がすぐ山本を呼んだ。伊東は一人でゴルフごっこに余念がない。
三波の指は、地上から五、六十センチの何もない空間をつついていた。
「変だな」
「変だろ」
「たしかに変だ。目のせいじゃない」
三人は緊張の余り声をひそめていた。
三波の指が芝生の上のある空間を通過するたび、ちらちらと屈折して見えるのだ。
「吉永……そこへ立って、これを君の影の中へ入れてみてくれない」
若様が言った。吉永が立ちあがって、その空間を自分の影の中へ入れる。
「光線の具合でもない」
若様は驚いたように吉永をみあげた。芝生の端にやや長く伸びていた葉を摘み、その空間へ差しだして見る。薄い葉は、二、三ミリ途中で段違いになり、その空間から出すと元どおりつながる。
「どう思う」
若様が葉っぱを指でつまんだまま言った。
「浄閑寺さんが最初に立っていたのは、ここじゃないのか」
三波が答えた。
「実はそうなんだ」
と若様がうなずく。
「歪《ゆが》んでるんだ」
吉永が言った。
「歪《ひず》みか。空間の……」
「間違いない。ほら、歪《ひず》みは上からも楕円、横からも楕円……そんな風に見えないか」
若様はまた葉っぱを動かして言った。
「フィルターつきの煙草の半分くらいの長さで、ラグビー・ボール状の空間がここにできている。我々のいるこの空間の一部で、物体は自由に出入りできる。だが、わずかに位相《いそう》が狂うようだ。この薄い芝生の葉の厚さよりは、その狂いの寸法は大きい。だから切れて見える。切れて、しかもつながっているんだ。この空間から出せばつながる」
いつの間にか伊東も三人のうしろからのぞき込んでいた。
「空間の中にもうひとつ独立した空間があって、しかもそれはラグビーのボールのような形で外の空間から閉鎖してある。外からの物体は自由に出入りできるが、それはこの閉鎖された空間が本来外の空間の一部だからだ。しかしこの中はどうなってる。中にとじこめられたものは外へでてこれるのか。閉鎖されていなければ、こんな具合に空間の形が俺たちにつかめるわけがない。俺たちの空間、つまり宇宙の形を正確につかめるのか。つかめないじゃないか」
吉永がそう言った。
「何なの、それ」
伊東が尋ねた。若様はいつもの落着きをとり戻し、ゆっくりと立ちあがりながら言った。
「亜空間の一種だろうね」
3
真上から乾いた砂を落してみると、砂は細い糸となって垂直に落下して行くように見えた。
しかし、そのラグビー・ボール形の空間を通るとき、垂直に落下する砂の流れは途中でふっつりと切れ、そのかわり、そこに存在する特殊な空間の厚味だけほんの僅かズレて短い砂の垂直線が現われ、またすぐに元の垂直線の延長上に戻って落下するのであった。
「何かあるね、ここんところに」
伊東は四つん這いになってのぞき込みながら言った。
「何があるか、それが問題だ」
三波が深刻な顔で言う。
「浄閑寺公等氏と関係ありだな」
吉永が立ちあがって言った。
その時、爺やが庭に姿を見せ、声をかけた。
「お食事の用意ができました……」
山本はふり返ってうなずきながら、
「すぐ行く」
と答えた。
「浄閑寺公等氏が、どこからか歩いて来たのでないことは、これでほぼ確実になったわけだな」
吉永がこまかくうなずきながら、くぐもった声で言った。
「これ、どうしよう」
三波は伊東がのぞきこむようにしているその奇妙な空間に、もう一度指を突っ込んで尋ねる。
「どうしようもない。そうして置くよりね」
若様が答える。
「それより夕食にしようよ」
「よっ、待ってました」
伊東ははね起きた。
若様を先頭にぞろぞろと食堂に入り、四人はテーブルについた。
「これはご馳走だ」
伊東がもみ手をしてうれしがる。
「どうでもいいけど、もう少し行儀よくしろよ。お前はここのお屋敷の若様のお友達でいらっしゃるんだぞ」
「そうかね。それは気がつかなかったな。俺はお友達でいらっしゃるのかい」
「そうだよ」
「俺のおやじは南千住で八百屋をやっていらっしゃるんだがなあ」
吉永がむせて咳《せき》こんだ。伊東はまむかいに坐っている吉永をみつめ、次にテーブルの下にある自分の膝をのぞきこみ、最後にわざとらしくとなりの三波伸夫の顔をみつめた。三波はオードブルのスモーク・サーモンを口に運びかけて手をとめた。
「何だよ」
「何でもない」
三波は伊東の膝をのぞく。
「もっといいズボンをはけよ」
「親分と一緒なのにかい」
「何でも俺のせいにするな」
若様が爺やにワインをつがせながら言った。
「やはりみんなに来てもらってよかった。あれをみつけるのは大変だろうからね」
吉永がうなずいた。
「気がつかないものなあ。三波はよく気づいたもんだ」
「偶然さ。最初は目の錯覚だと思った」
「そうだろうね。一日中あそこにいたって、ちょっと気がつくとは思えないよ」
「ああいうのはほうぼうにあるんだろうか」
「そうほうぼうにあってたまるかい」
吉永が笑った。
「どう解釈するね」
若様が尋ねた。すると伊東が珍しく真剣な表情で言った。
「認めたくないが、あるものはしようがない。どこかに四次元的な世界があるとしたら、あれはそのかけらみたいなもんだろうな」
「かけらか」
「よく判らないが、まあそんなものだ」
伊東が言ったあと、四人は黙って食事をすすめた。みんな、あの奇妙な空間のことを考えている。日頃なれ親しんでいるSF的な世界が、この別荘の芝生の上に現実のものとして存在したのだ。
「ひとつ提案がある」
「なんだい、若様」
三波がテーブルの上へ厚い胸をつきだすように言った。
「僕らは学者じゃないし、特にああいうものに対して知識を持ってはいない。これ以上どうやって調べていいかも判らない」
三人に同意を求めたようだった。
「それはそうだ」
と三波。
「しかし、然るべきところへ報告して、ただの発見者としてだけでとどまるのも何となく残念じゃないか」
それには三人とも同感で、だから揃ってうなずいてみせた。
「それに、学者が調べたって、すぐ真実がきわめられるとも思わない。多分仮説の連続になるだろうね。でも、そういう仮説だったら、SFのほうではずっと以前からやっている。僕らはSFファンの集まりじゃないか。或る意味では、あの件に関しては専門家と言ってもいい。そこで提案なんだが、正確か正確でないか、世間に通用するかしないかということはいっさい関係なく、SF的思考法だけであれにとり組むことにしたらどうだろうね」
「それはいい」
吉永がすぐ賛成した。
「つまり、俺たちがSFを読んで順につめこんでる事柄を、物理的にも歴史的にもすべて正しいものとして扱ってみようというんだな」
「そうだよ。それが僕らの唯一最大の武器だと思うんだ。タイム・マシンも実在の機械だし、銀河帝国の興亡史も学校で教えられたものと同じように考えるんだ」
「そりゃいいや。へたな学者より、それだったら俺たちのほうがよほど物識りだものな」
「キャプテン・フューチャーもレンズマンも、みんな実在すると思えばいいんだな」
伊東は嬉しそうに言った。
4
夕食後、四人は浄閑寺公等のいる和室を訪ねた。浄閑寺公等はその会見にそなえて、老夫婦の手で小ざっぱりと身なりを整えてもらったらしく、床の間を背に新しい浴衣《ゆかた》を着て坐っていた。
「今晩は。おかげんはいかがですか」
若様が座卓について挨拶《あいさつ》すると、その老人は嬉しそうに笑った。細面の、いわゆる殿様顔と言ったタイプである。だが、ひよわな感じは微塵《みじん》もなかった。骨格も太く、たくましい迫力のある老人だった。
「ドロシーは元気か」
「はい」
若様は平然と答える。
「……はまだか」
老人は突然|怯《おび》えたような早口で言った。人の名前のようでもあるし、物の名でもあるようだったが、誰にも聞きとれなかった。
それをきっかけに、老人の眸《ひとみ》が異様に光りはじめた。
「みな狂っているぞ。ニュートンもアインシュタインも……イエスを殺せだと。莫迦なことを言う。悪魔めが。円盤基地を破壊せねばならんのだ。おお、ドロシー。血をくれてやるわい。昔のことは昔のことだ。何とかしてあの障壁《バリヤー》を破らねばならぬ。ぶち壊せ。何もかもだ。なぜこのままのくらしを続ける。ここは地獄だ。蓋《ふた》をされ、重しをつけられ、未来|永劫《えいごう》出ることは叶《かな》わんのだ。薬を飲むな。嘘《うそ》こそ人が人として生きる道ではないか」
狂人特有のうわずった眸で、浄閑寺公等は荒々しく立ちあがった。
「そこの四角い悪魔め。どのようなことをしようと、儂《わし》はやってみせるぞ……」
老人は苦悶《くもん》の表情をみせた。
「体が溶ける。縮まって行く。早く、早く来い。円盤のことを知らせねばならん。ドロシー。ドロシー……」
老人はがくりと首をたれ、頽《くずお》れた。
山本麟太郎は三人に目配せした。襖《ふすま》が細くあいて、心配げな爺やの顔がのぞいている。
「帰ろう」
ささやくように言われ、三人は足音をしのばせて和室を出た。
「あの人はどこかにとじこめられていたみたいだな」
三波が言った。言うまでもない。あのうわごとは、浄閑寺公等がどこか異常な世界に幽閉《ゆうへい》されていたことを示しているのだ。少くとも、SF読みのベテランたちにとって、それは疑うことのできない事実であるようだった。
「いつもストーリーはこうやってはじまる」
吉永が言った。
「秘境ものか……メリットのオープニングに似ていると思うよ」
これは若様。
「だとしたら、長篇じゃないか。俺、困ったな」
伊東が眉をひそめた。
「どうしてだ。おもしれえじゃないか」
「だって、あしたの月曜日一日しか休めない。長篇だと会社に間に合わないもんね」
どうやら四人は夕食の時の申し合わせどおり、事件を小説どおりに展開して行くものときめてかかっているらしい。
「この辺りの地図はないかい」
吉永が居間へ入る時若様に言った。
「あるよ」
若様は艶々《つやつや》と光を反射させているキャビネットのひとつへ行き、折り畳《たた》んだ地図を持って来た。
それをテーブルに拡げて吉永がしきりに何かを調べはじめる。
「何を探してるの」
「いや、ちょっとね……寝姿山、恵比須島、田浦島……どうも特に変っていないようだな」
「教えてよ。何が変ってないんだい」
「いや、ちょっと思いついたまでさ。このテのはじまりかたをするストーリーの中には、例のネオ伝奇ロマンという奴も入るだろう」
「そう言えばそうだな。でも俺、ああいうの余り好きじゃない」
三波が顔をしかめた。
「この際好みはどうでもいい。ネオ伝奇ロマンだと、こうした事件の舞台になる土地の地名なんかに伏線があるわけだよな」
「そうか」
若様はうなずいて地図をのぞきこんだ。
「でも、神話とか、外国語とか、そういうのにつながりそうな地名はないようだ」
吉永は拍子抜けしたように言った。
「心配ないよ。はじまっちゃったんだから。テンポが早ければ今晩のうちにでも何かおっぱじまるさ」
「たとえばどんなこと……」
「円盤さ。あの人も言ってたろ。今夜は寝ないで円盤さがしだ。きっと出るぜ」
三波は自信ありげだった。
円盤目撃の準備をしよう
1
広くて豪華で重厚で、吉永は山本麟太郎との付き合いが長いからいくらか慣れているものの、三波や伊東など平均的庶民の代表にとっては何やら落着かないその別荘の居間で、四人は夜遅くまで話込んでいる。
「つまり、いろいろなSFのパターンをあてはめてみると、この場合浄閑寺公等は異次元へ漂流して命からがら戻って来た人物ということになるな」
吉永が言う。
「異次元ものかね、本当に。秘境からの脱出者ではあるだろうけど……。たとえば、007シリーズのようなケースだって、まだ否定はしきれないぜ」
三波はさっきから吉永の説に異議を唱えているのだ。
「ドクター・ノオの秘密基地のようなものがあったっていいじゃないか。浄閑寺さんはそこにつかまってて、強制労働かなんかさせられてたのさ。そこへ或る日ジェイムズ・ボンドがやってきて島中を引っ掻きまわす。……騒ぎに紛《まぎ》れて逃げ出した者がいる。それは私だ」
「タイトロープじゃないか。それは」
伊東が笑った。
「じゃあ、あの妙な空間は何だろう。……いや、妙な空間なんて言い方はよそう。あの小さな疑似空間は何だというんだ」
「疑似空間なんて呼び方は変だ。亜空間がいい」
若様がおごそかな表情で言い、呼称についてはそれで結論がでた。
「あの亜空間はドクター・ノオの秘密兵器さ。逃亡した浄閑寺公等を、あそこから監視してるんだよ。で、何か不利な動きをしたら、レイ・ガンでブチューッ……」
三波は銃を打つ真似をした。
「あんな小さな中にそんなのがどうやって仕掛けられるんだ」
伊東が言う。
「それは可能だよ。何しろ相手はドクター・ノオだ」
「盗聴マイクならいざ知らず、監視用のテレビ・カメラなんて、まだそんなに小さくならないよ」
「胃カメラの進歩した奴」
「どうやってドクター・ノオの秘密基地までつながってるの」
「無線中継さ」
「発信用のアンテナは」
「亜空間が内蔵してる」
「亜空間はどうしてあそこに浮んでいれるの。支えがないのに動かないわけは」
「ちょっと、やめろよ。お前はどうしてそう常識ン中から出て来ねえんだよ。夕方みんなで申合せたの忘れちまったのか。俺だって心の中じゃまさかと思いながら、無理にそいつをうち消して喋《しやべ》ってるんだ。お前が傍でゴチャゴチャ言うとさっぱり話が進まないし、だいいち言ってる俺だけが小学生みたいな気分になっちまうじゃないか」
吉永と若様が同情したように微笑を泛べた。
「じゃ言わないよ。さあ、それから……」
紋切りがたに先を促され、三波は鼻白む。
「たしかに三波の言うパターンもある。だがそれでは謎がひとつ増える。SFなら増えたほうが面白いが、この場合は現実に起った超常現象について話しているのだからな」
「ひとつ増える……」
若様が吉永に尋ねた。
「ああ、そうさ。何者かの開発した新技術があの亜空間だとすると、浄閑寺氏の出現のしかたとは無関係になる。透明な監視装置というのは、小道具としてたしかに魅力的だ。でも、そこまで可能なら、なぜ浄閑寺氏についてまわらない。なぜ固定しているんだ。しかも場所が浄閑寺出現の位置じゃないか」
すると伊東が投げやりな言い方をした。
「あのご老人はあそこから出て来たんだよ。ただいま、ってね。きっと見えない道がついてて、あのご老人が出て来たら戸がしまっちゃったんだ。だからあの亜空間とやらは覗き穴なんだ。ドアについてるだろ、団地のやなんかに。凸レンズになっててさ……そこへ親分は何度も指をつっこんじゃった。向うで覗いていた奴は憤ったろうなあ。あのデブ生かしちゃおかない、眼医者から帰ったら目に物を見せてやるって……」
吉永はパチンと指を鳴らした。
「そうさ。それが正確だ」
伊東はキョトンとした。
「冗談だよ」
「冗談じゃない。今のでいいのさ」
吉永は笑顔で言った。
「何らかの方法で、浄閑寺氏はとじこめられていた亜空間から、外側のこの空間へ脱出して来た。あれはその時に生じた亜空間の裂け目か何かだろう」
「それだとひとつの答になりそうだね」
若様が同意を示した。
2
「うまく閉じなかったのさ」
吉永がハンカチをひろげてカーテンにみたて、自説を説明している。
「すると、あれは亜空間への出入口になるわけかい」
「その可能性が強い。だからこそ浄閑寺氏はあんな出現のしかたをしたのだろう」
「中へ入ってみたいね」
と若様が言う。
「そりゃSFファンだもの、一度は亜空間なんて体験してみたいね」
三波が言い、伊東がうなずく。
「さて、問題は亜空間の内部だ」
吉永が議論を進める。
「浄閑寺氏のうわごとから察して、内部は相当に広いな」
「ドロシーという女がいる」
三波が言う。
「悪魔もいるみたい」
伊東がおぞましげに言った。
「悪魔は形容詞さ。とにかく、浄閑寺氏が敵視した相手がいることは確実だ」
吉永が言った時、若様は急に気づいたように高い声を出した。
「亜空間が自然発生的な空間の歪《ひず》みかどうかということだね、問題は」
吉永はギョッとしたように若様の顔をみつめた。
「自然に発生した亜空間に、ひとつの社会がとりこまれて独自の発展をしている……これが第一の考え方だよ。第二は、人為的に作られ、捕われた人々が暮しているという考え方」
「判った。若様は第二の考え方をしたいんだな」
三波がパチンと手を打って言った。吉永が今度は三波をみつめる。
「円盤って言ってたじゃないか。あの老人がさ」
「そうか。そうだったな」
吉永は自分の迂闊《うかつ》さを責めるように、うつむいて頭を掻いた。
「円盤と来れば宇宙人だ。宇宙人がこの地球上に亜空間を作ったんだよ」
三波は事もなげに言った。
「さあ……」
若様は微笑している。
「そこまで単純にしていいかな。僕がSFを書くんなら、もうひとひねりするだろうね」
「そうかねえ」
三波は首をすくめた。
「円盤即宇宙人というのは、今では常識になってしまってるしね。それに、浄閑寺公等の失踪を、君らの誰かは最初日米開戦とつなげたくらいだろう」
「そうそう。老人の失踪時期をすっかり忘れてた」
吉永が言った。
「伏線を見落しては読者の敗けだ」
すると伊東が本気で溜め息をついた。
「やだな、そんな読み方をしてるのかい。俺なんか欺されてよろこんでるんだけどなあ……駄目なんだなあ」
若様が慰めるように言う。
「駄目じゃないさ。伊東のような読み方がいちばんオーソドックスなのさ。でも、吉永はそれとは違ったたのしみ方をしている。どちらも悪くないけど、作者と知恵くらべしていると、案外いちばん面白い部分を読み落してしまうことが多いんだよ」
「俺が読むのはスペース・オペラが中心だけど、バラードだって結構面白いと思うんだ。ウルフガイもファンだし、日本沈没なんか読むと本気で心配になっちゃう」
「いちばんいいんだよ、それが」
若様が言い、吉永が同意する。
「それはたしかにそうだ。俺も最近気がついて自分でおかしくなったんだが、SFを余り偏《かたよ》って見てると妙なことになる。いわゆる純文学から時代小説、推理小説、風俗小説、戦記ものと、小説の世界にもいろいろなジャンルがある。SFもたしかにその中のひとつには違いないけど、SFの中にだって、外側の小説の世界と同じだけのジャンルの幅がある。その中で融通のきかない偏った見方をしてるってことは、実は外側の世界でSFを無視しようとしている人たちと同じ姿勢でいることになるんだな。そうさ。つまり、亜空間は亜空間なりに、外側の空間と主観的に同じ大きさを持ったひとつの宇宙なんだ」
「だとすると、あのちっぽけな亜空間の向う側に、何億、何十億という人間がひしめいているのかい」
三波はおぞましげに言った。
こもった低く重々しい時計が十二時を告げていた。
3
突然、居間の灯りがすうっと暗くなり、また明るさを増して元の明度に戻りかけて、再び暗くなった。
「やや……」
四人はお喋りをやめ、息をのんだ。深閑と静まり返った別荘の居間に聞えるものは、外の闇に鳴る松風の音と、居間の旧式な大時計が動く音だけであった。
松風は鳴りやまなかった。しかし時計の音がピタリとやんだ。電灯が消え、窓から洩れ入るうす明りの中で、若様と吉永が同時に腕時計を耳にあてた。
「来たっ……」
吉永と若様はソファーを立って窓際へ走った。
「そうか、円盤だな」
まさかの時の用心に、寝室へ持って入るつもりだった35ミリカメラのキャップを外し、三波も窓へ駆け寄った。
伊東は常識人間の長所を買われて、スケッチ・ブックを渡されている。
「鉛筆、鉛筆……あ、あった」
胸ポケットから4Bの鉛筆を引き抜いて伊東も窓へ。吉永はザラ紙をふたつ折りしたのへ、早くも筆を走らせている。
円盤出現の可能性を知ったからには、SFファンたるもの、それくらいの準備をしておかねば名がすたる。
写真、スケッチ、それにメモ。何しろ円盤をま近に目撃した事例の中で、その時間内だけ記憶を喪失するケースが少なくないのだ。
「あれかな……」
はるか東の海上に、星にしてはいやに明るい点があった。
「やった」
その点は、やや左へ移動したように思えた。やや左へ……そして急速に手前へ。
それは数々の円盤報告にあるとおりだった。鏡に反射して壁に映った光が、鏡の動きで一瞬の内に位置を変えるのに似ていた。
三波は自分の前の窓をおしひらき、夢中でシャッターを切っている。円盤撮影をするなら、ガラスの内側でしても何にもならないと知っているからである。ガラスごしの円盤写真はトリック写真と断定されてもやむをえない面があるのだ。
伊東はスリッパのまま窓の外へとび出した。空を仰いで円盤の実体を見きわめようとしている。
かなりの高度をとっていた円盤は、それこそ一足とびに松林のすぐ上まで降下して来た。音はなく、秋の月のように静かに光っていた。
「撮れた。撮れた」
三波はシャッターを押すたびにそう言った。
「たしかにあれは生物の乗り物だ」
吉永がつぶやいている。世界各地から報告され続けて来た空飛ぶ円盤は、まさにその報告どおりの形をしていた。
扁平《へんぺい》な側面には、はっきりと上部構造が突出していて、下部にも何やら皿の糸底《いとぞこ》のような構造が見える。
「松林が光りはじめたぞ」
吉永が注意した。
「あのちっぽけな亜空間も光っている」
若様が言った。
円盤のま下に当る松林の松が、一本一本円盤と同じ冷たい白光を帯びはじめ、池の前にあった不可視の小空間が、それよりもずっと濃い、ほとんど緑色に近い光で輝きはじめたのである。
と、食堂のとなりの和室の戸がガラガラとあき、狂った浄閑寺公等が芝生の上へよろめきだした。
ふらふらと、夢遊病者のような足どりで円盤の下へ行こうとしている。
「とめろ。操《あやつ》られているぞ」
若様が叫んだ。
水平位置にあった円盤が、ひくりと別荘のほうへ傾いた。
「連れて行く気だ」
一斉に窓からとびだして浄閑寺公等をつかまえようと走った。
ところがそれより一瞬早く、厚味の全くない、一枚の板のような緑色の光線が、傾いた円盤のへりから噴きだして、浄閑寺公等は、緑の光の板にはめこまれた形で、さしのべた両腕を前にして、すうっと円盤に吸い寄せられ、光線が噴き出した円盤の薄いへりへ呑み込まれてしまった。
「畜生、待てッ……」
四人は呶鳴った。円盤は傾斜したまま、その角度で海上の空へ遠ざかりかけたが、すぐ停止した。いかにも、四人の邪魔者に気づいたという様子であった。
停止し、しばらく考えるように思えた。
四人はゾッとした。攻撃されたらなすすべがなかった。
4
円盤がかすかに身じろぎした。うすいへりの一部にぽっと緑色がさし、四人のほうへまっすぐ向いている。
「狙われたぞ。だがあの光線は厚味がない。地面に伏せれば最初の一撃はかわせるだろう」
呪縛《じゆばく》されたような気分の中で、若様が言った。その瞬間、何か強烈な予感のようなものが四人の脳に走った。
反射的に四人はガバと地に伏せた。そのすぐ上を緑色の光の板が通りすぎた。板はすぐ引っこんだ。
「どうする。また来るぞ」
「逃げよう」
そう言って四人が動こうとした時、光の板はすでに二度目の噴出をはじめていた。
四人は、池を頭に二列に並んで伏せていた。時の動きをひきのばして描写すれば、緑の板はまっすぐ正確にその先頭の二人をすくいあげ、一動作で次の二人も呑みこもうとしていた。
しかし、光の板と先頭の二人の中間に、あの小さな亜空間があった。亜空間は円盤が放つ怪光に同調して、さっきから濃い緑色に輝いていたのだ。
その小さな亜空間に円盤の光の板が当った。同時に円盤に異変が起った。
想像を絶する力で円盤は吹きとばされた。粉砕され、微塵となり、最低単位の粒子に戻って宇宙の涯へ拡散した。
池の傍の亜空間も同時に裂けた。卵を割ったようにふたつに割れ、その間に虚《きよ》が生じた。その虚の裂け目は、全宇宙が要求する均衡への圧力によって、ねじ伏せられるように拡大をとめ、収縮し、消滅しようとした。
四人はその虚の裂け目のすぐ傍にいた。
裂け目が生じ、まだ宇宙の圧力にさからって拡大を続けていた短い時間のうちに、四人は影響を蒙った。まきこまれた。
四人は巨大な爆発の中心部からはねとばされたように感じた。虚空《こくう》をどこまでも遠ざかって行く。膨張する宇宙のそれのように、相互の距離は無限に遠ざかり、耐えがたい孤独の中でおのれの生をみつめていた。
が、その拡散の感覚は、同時に落下の感覚でもあった。粗雑に肥大した風船のような自己が、際限もなく収縮し、相互の距離を無限につめながら落下して行く。
前にうしろがあり、うしろに前があった。そこでは時間流が気ままに渦まいており、未来は同時に過去であり、過去ははてしもない行手であった。
星が生れる前に死んだ。時がバラバラに分散し、無秩序なかたまりとなって澱《よど》んでいる。山本麟太郎は母にいだかれる幼児となり、その時吉永佐一は年上の女と結婚して睦《むつ》み合っていた。三波伸夫は老いた妻の墓前にぬかずき、恐怖にとらわれた伊東五郎は目をとじて芝生の上に這っていた。
時がめまぐるしく入り混った。生まれ、生き、死に、悩み、うたい、恋をして、とほうもない転落をつづけている。
その中で、たまたま現在と現在が重なるとき、彼らはめいめいにそう考えた。
山本麟太郎。
「これが真実の次元移動か。今にこれでハード・SFの傑作をものしてやるぞ……」
吉永佐一。
「莫迦にしやがって、スペ・オペじゃねえか」
三波伸夫。
「ヒロイック・ファンタジーだ。俺たちがヒーローなのだ」
伊東五郎。
「超常現象にまきこまれた。あれは本当にあったのか……」
裂け目がとじ、虚の空間は埋められた。
四人はいったいどこへ堕《お》ちて行くのか。何が始まったのか……。
亜空間要塞を爆破せよ
1
南海特有の青く澄んだ海が、明るい太陽の下でおだやかなうねりをみせていた。
白い波がしらが岸によせ、ざぶんと砕けて美しい砂浜をかけのぼる。波は砂の上を泡だって走り、登り切ったあたりで一瞬戸惑い、白い砂に黒い跡を残して勢いよく退いて行く。
寄せてはかえし、かえしては寄せる波打際に四人の死体……。と見たのは早計で、まず最初に三波がくるりとあおむけになった。
「助かったな」
とつぶやく。
その時、砂浜を駆けて来るヒタヒタという足音。
「生きてるわよ」
若い女の声だ。
「みな若い男ばかりではないか」
と、これは錆《さ》びた老人の声だ。
「このはてのない海のどこから流れついたというのでしょう」
娘と老人は一人ずつ乾いた砂の上へ引きあげながら言っている。
「いずれにせよ、助けるからには早く隠さねばならぬ。役人どもにみつかれば只ではすまんのだからな」
三波は上体を起し、息をつめた。自分の体の負傷、特に打撲傷を知るにはそうするのがいちばん手っとり早い。
どこにも怪我《けが》はなさそうだった。
「おお、気がついたようだ」
老人が言った。三波がそのほうを見る。
「今日は……」
三波が言うと、老人と娘は笑いだした。
「陽気な人らしいな」
三波はどっこいしょと立ちあがり、砂の上にあおむけに寝かされている仲間を順に調べた。
吉永佐一はすでに醒《さ》めかけている。
「よし、吉永は無事だ」
山本麟太郎も太く息を吸った。とじた目蓋《まぶた》がヒクヒクと動いている。伊東だけはまだ意識が回復しないようだった。
「起きろ。おい、起きろよ」
三波は手荒く伊東の体をゆすった。
「ここはどこなんだ」
うしろで吉永の声がした。
「知るもんか。円盤にやられてふっとんじまったんだ」
山本が呻《うめ》いた。
「おい。大丈夫か」
山本はあおむけに寝たまま答える。
「どうやら助かったらしいな」
「チャンの奴、まだ寝てやがる」
「怪我してるんじゃないのか」
山本が心配して体を起した。
「三人が無事でこいつだけやられるわけがない。みろ、この丈夫そうな四角い顔を」
三波は口先で荒っぽく言いながらも、伊東の体をくまなく探って傷の有無をしらべている。
ウフフ……と伊東が笑った。
「よせよ、擽《くすぐ》ったいから」
寝返りをうつ。
「こういう奴だ。何が起ったって驚かないんだからな。寝言だよ、これは」
老人がせきたてた。
「さあ、早くあの森へ」
「早く隠れないと役人にみつかったら大変よ」
娘が言った。長いサリーのようなものを腰にまきつけ、共ぎれのブラジャーをしている。肌は小麦色に焼け、長い髪をたらした美しい顔だちの娘だ。
「おい、何だか知らないが言うとおりにしたほうがよさそうだぜ」
三波は言い、立ちあがって長い砂浜の左右を眺めると、膝をついて伊東をひきずりあげ、右の肩に軽々とかつぎあげた。
「よし」
吉永も山本を助け起し、熱く焼けた砂の上を、前方の森へ向う。
「ここは何という所です」
山本が尋ねた。
「ワイナンの国です」
「ワイナン……聞いたことがないな」
「ロスボのとなりですわ」
若い娘がはにかんで答える。
「ロスボもしらないな」
「ロスボはベリ砂漠のはずれで、ベリ砂漠のむこうは死の塔の国です」
吉永が山本にささやいた。
「つまりまるで知らない国へ来てしまったというわけだ」
「でも地球の上だろ、まだ」
山本は眩《まぶ》しく光る太陽をみあげて言った。見慣れた太陽には違いないようである。
「地球……」
娘は鸚鵡《おうむ》がえしに言う。
「知らないらしいね。地球を」
「どこでもいいさ」
三波が図太く言う。
「どうせここはSFの世界だ」
それ以外の答はないようであった。
2
「いてっ……」
伊東は地面におろされるときそう叫んだ。
「何だ、気がついたのか」
三波は嬉しそうに言った。
「気がついたのかじゃないよ。あんまり乱暴にするな……ここ、どこ」
伊東は生い繁った熱帯性の樹木をみあげて言った。
「ワイナンというところだそうだ」
吉永が教える。
「ワイナンのバゼです」
娘がそれにつけ加えた。
「わあ……きれいな女の子」
伊東があけっぴろげに娘の顔をのぞきこんだ。傍で老人が苦笑している。
「お名前は……ねえ」
伊東が性急《せつかち》に言う。
「ドロシー……」
驚愕が四人の間に走った。
「ドロシー……ひょっとして、それでは浄閑寺という名にお心当りはありませんか」
「ジョーカンジー」
娘は老人の顔を見た。
「ジョーカンジー……知らんな」
「でもあなたはドロシーさんでしょう」
すると娘は陽気な笑声をたてた。
「ドロシーなんてたくさんいるわ。ありふれた名前よ」
老人も笑った。
「ワイナンではドロシーというのはごくふつうの女名前でな。ワイナンの女王もドロシーだよ」
尋ねた山本はがっかりしたように吉永を見た。
「だが、少くともこれで浄閑寺公等のいた世界がここであることははっきりしたな」
吉永が言い、警戒するように老人の口もとをみながら尋ねた。
「ここにも昼と夜はあるんでしょうね」
「妙なことを……あたり前でしょうが」
「僕の名は吉永佐一」
「ヨシナガ・サイチ」
三波が吹きだした。飲みものこそ含んではいないが、ちゃんと伊東の膝がしらを狙っている。伊東がとがめるように三波の顔をみつめた。
「僕は山本麟太郎です。どうぞよろしく」
「ヤマモト・リンタ……ロウ」
娘がおぼつかない言い方をした。
「三波伸夫」
「同じく伊東五郎」
「莫迦、何が同じくだ」
三波がたしなめる。
「お嬢さんね、こいつはチャンでいいんですよ」
「チャン……」
「顔がまっ四角でしょ。だから……チャンのお顔は四角ぞえ……チャン。シトシトピッチャンのチャン」
「判るわけないよ。外国へ来ちゃったらしいもんね」
伊東が言った。
「とにかく、儂らは一応できることをしたまでだ。あなたがたの名前がどうだろうと、どこから来ようと、儂らにはかかわりはない。妙なことにまきこまれたくないからな」
老人は鋭い目付で念を押すように言った。
「さあ行こう」
娘をせきたてて去りかける。
「どうも有難うございました」
山本はその背中へ向って丁寧に一礼する。三人もそれに見ならった。
振り返った老人は目を細め、柔らかい声で言った。
「役人に気をつけなされよ……あとでこの先の岩まで、食い物を運んで置こう。水は少し先の小川のそばに湧いているからな」
老人は歩きだし、娘がふり返りふり返りそれについて行った。
3
「どう思う」
森のとばくち、海岸がのぞける草の上で四人が車座になった。
「どう思うって、まず吉永はどうなんだ。君は何かに気づいてるようじゃないか。この世界におかしい所でもあるかい」
山本が逆に尋ねた。
「別荘はどこ行っちゃったんだ。白浜は、下田は、伊豆は……東京はどっちだい。火曜の朝には会社へ行かなきゃ」
伊東が言った。のんびり聞えるが当人は真剣なのだ。
だが誰も答えない。答えられる道理がない。ただひとつ、確信めいた直感は、火曜の朝の出勤なんて、そんな呑気なこととはもうまるで無縁になっているらしいということだ。
「円盤に連れて来られたのかな」
三波が言う。
「いや、それはどうも違うようだ。俺はあの時、円盤のほうがやられたような気がするんだ。どこか宇宙の涯へ落ちて行くような、とても奇妙な気分だったのを憶えている」
吉永が言った。
「それそれ。俺もそいつを感じたな。死ぬ時に、一生のことを一度に思い出すってよく言うだろ」
伊東が目を丸くして言う。
「走馬灯のように、っていう奴だ」
三波が補足する。
「あれ、親分もかい」
「そうだよ。赤ん坊の頃のことや、俺の女房のこと……まだ結婚もしてないのにな」
「それさ」
吉永は指をパチンと鳴らした。
「たしかに未来の断片を見たようだ」
すると山本が首を振った。
「いや、正確に表現すると少し違ってるな。未来を回想したようだったよ。つまり、あそこでは、時間がバラバラになっていたらしい。秩序だった流れを待たずに……僕はあの時ふと、虚《きよ》の空間という意識を持ったんだ。僕らはもといた世界から、虚の空間を通ってここへやって来てしまったらしいな」
「あれが虚の世界なのかね。自分が莫迦莫迦しくでっかく膨《ふく》らんだかと思うと、いつのまにかちっちゃく、ちっちゃく縮んじまったり……やな気分だったよ」
伊東は首をすくめた。
「じゃ、ここは亜空間……あの池の傍にあった」
三波はあらためてあたりをみまわす。
「かどうか、たしかめなければ判らないけど、あれはやはり、浄閑寺氏が出てきたとき、うまく閉じなかった亜空間の歪《ひず》みなんじゃないかな。いま僕らがあの中にいるんだとはとても思えない」
「それはそうだよ」
伊東が吉永説を支持した。
「あんなちっぽけな中へ俺たちが入れるわけがない。親分の指一本がやっとこさの大きさじゃないか」
山本は夢みるように言う。
「あれが虚の空間だった……か。僕らはみな自分の時間の中にいて、それが流れる秩序を失ってバラバラにやって来た。未来も見たし過去も見た……本当にそうだったらすばらしいことになるな」
「どうしてすばらしいと思うんだ」
吉永が何やら気色ばんだようだった。
「そうだろ。だって、僕らはほんの少しだけど、未来を見たよ。それは、はめ絵の何枚かでしかないようだったけれど、それだけでも充分じゃないかな。僕は吉永がきちんとした服を着て、となりにすわっている所を見た。未来らしい未来で記憶しているのはそれだけさ。でもそれで充分だろう。君は白髪だった。僕もたしかに老人だったよ。もし見たのが本当に僕の未来の断片ならば、僕も吉永もまだまだ死ぬことはない」
「あ……」
吉永は思い当ったようだった。
「そうだ。この世界からは必ず脱出できるぞ。僕は東京の町を歩いているのを見た。もちろんもっと年がいってからのことだ」
「俺も結婚してたぞ。そうだ、かなりいかす女で、あの家は俺が住んでる家だ」
三波が言うと、伊東はひどく慌てた。
「ねえ、誰か俺のこと見かけなかった、思いだしとくれよ。俺、昔のことばっかり憶えてて、未来がどんなだったかよく憶えてないんだ」
うろたえて、泣き顔になる。
「安心しろ、俺が見てる」
三波が優しく肩に手をあてた。
「ねえ、どんな」
「遊びに来たよ。結婚祝いを持ってな」
「ああ助かった……」
伊東は大きく吐息《といき》をした。
「そんならいいや。どんな悪い奴らがいたって、矢でも鉄砲でも持って来いってんだ。このSFはハッピー・エンドにきまったんだ。こうなりゃこわいものなしだ。主人公が死ぬなんてないんだもんね」
山本が笑った。あおむけに草の上へ体を倒し、笑いこけた。
「どうした。何がおかしい」
吉永が尋ねる。
「今度ばかりは伊東君が正しいらしい。とほうもない楽観だが、それが正しいのさ」
吉永もつられて笑いだしたが、三波だけは心細そうな、どうやらうしろめたそうな顔で草をむしっていた。
潮騒《しおさい》と風に鳴る葉ずれの音に混って、甲高い鳥の囀《さえず》りが聞えていた。
4
「ところで、この世界に何かおかしな所があるって……」
ひとしきり笑い合ったあと、山本が真面目な顔で言った。
「うん」
吉永は表情を引きしめ、三人をみまわした。
「未来を見たと言っても油断は禁物だよ。ここが亜空間だとして、時間の流れが外と同じとは言えまい」
「うん。それもそうだが……」
山本が言いかけるのへ、おしかぶせるように吉永はつづける。
「どうしてあの老人と娘に言葉が通じたんだ」
「えっ」
三人は驚いて互いに顔を眺め合った。
「でも、ちゃんと喋ったよ」
「僕は気がついて、あの二人の口の動きをみていた。彼らは日本語をしゃべったんじゃないらしい」
「なんだって……それなら、なぜちゃんと聞えたんだ」
「そうさ。あの二人が日本語をしゃべれないんだったら、こっちの言うことも判らないのが本当だろ」
「そこがおかしい」
吉永は睨《にら》みつけるように三人を見た。
「どうやら問題は円盤だ。この世界は明らかに人為的な調整が行なわれている。だってそう思うしかないだろう。互いに異る言語を用いても、意志が通じ合うようになっているんだからな。それも大ざっぱなんじゃなくて、同言語同士のようにこまやかなニュアンスまで伝えてくる」
「円盤を使っている連中がコントロールしてるわけか」
「そうだ。コントロールどころか、この亜空間を地球に据えつけたのかもしれない」
「何の為に……」
「きまってんじゃないの、侵略さ。これは侵略テーマだよ」
伊東が断言した。
「単純すぎるようだが、今のところそれ以外に説明がつかんだろう」
吉永が同意を強要するように言った。
「かも知れないな」
「そうさ。万一そうでないにせよ、今われわれはそう疑ってかかるべきだ。われわれの地球に、未知の知的生命がとりついて、誰にも気づかれぬ亜空間を寄生させている。ここは侵略宇宙人の亜空間の基地かもしれない」
「亜空間要塞……」
三波がつぶやいた。
明るい太陽も青空も、澄んだ海もそよ風も、すべてが疑わしくなった。
「おい、みんな。やっつけちまおうぜ」
伊東が言った。
「宇宙人たちをか」
「そうさ。この亜空間要塞をだよ」
「どうやってだ。方法があるのか」
「知るもんか。でも俺たちは死にはしない。キャプテン・フューチャーだ。レンズマンだ。手あたりしだいにぶっこわしてやろうじゃないか。なるほど、俺たち地球人はまだ亜空間なんて自由に作れやしない。あの緑の光線だって使えない。だから外側からじゃ駄目にきまってるだろう。でも、俺たちは中へ入っちゃったじゃないか。中側にはあいつらの進歩した道具がしまってあるに違いない」
「そうだな」
吉永が山本と顔を見合せた。伊東の思考は飛躍しないかわり、手がたく事実を踏んでいる。
「亜空間を維持している装置がなければならない。円盤基地もあるだろうし……そういう技術がこっちの手に入れば、今後二度とこんな世界を地球にくくりつけられなくてもすむわけだな」
「そうさ。やろうじゃないか。おい親分、どうしたい。親分の腕のみせどころだぜ」
「うん……」
三波は伊東をちらりと横目で眺め、山本に言う。
「やってみっか……」
「やろうよ。人類の為だ」
「よし……」
三波はうなずいた。伊東は一人ではしゃぎだし、
「腹へったよ。この先の岩の上へ食い物置いといてくれると言ったっけな。ちょっと取ってくるよ」
と立ちあがって走り去った。
三波は素早く残った二人ににじり寄り、申訳けなさそうに低い声で言った。
「俺、嘘《うそ》ついちゃったんだ」
「嘘……」
「あいつが俺んとこへ結婚祝い持って遊びに来たっての、嘘なんだ。そんな未来見てねえんだよ。でもあの場合、ああ言って安心させるより仕方なかったんだ」
二人は黙って三波をみつめた。
「可哀そうに……俺たち三人は未来があったけど、あん畜生ひとり……」
「待てよ三波。伊東は見たけど忘れたのかもしれない。心配するな」
「ならいいけど……莫迦だよなあ、大切な未来だもの、見たらよく頭へ叩《たた》きこんどけばいいのに」
「とにかく注意しよう。特に伊東の行動は三人で厳重にチェックしてやらなけりゃな」
三人がうなずき合ったとき伊東がパタパタと駆け戻って来た。
「うまそうなのが入ってるぞ」
植物で編んだ籠をかかえて大声で叫んだ。伊東五郎に果して未来はあるのだろうか。そしてこの質の日会のメンバーが、懐かしい道玄坂のノンブルに戻る日はいつなのだろうか。
密林の美人剣士
1
南海特有の青く澄んだ海が、明るい太陽の下でおだやかにうねっている。
白い波がしらが横一列にすべり寄せ、ぱっと砕けて美しい砂浜へかけのぼる。登り切った波は泡だってひと休みすると、すぐまた勢いよくひいて行く。
寄せては返し、返しては寄せるなぎさが弧状に遠くまで続き、二、三十メートルほどの幅の白い砂の帯を間に置いて、熱帯性の森が弧状のなぎさと平行に、どこまでもどこまでも続いている。
ギ、ギ、ギ、ギ、ギ……。
どこかで、かなり大形の鳥らしい太い啼声《なきごえ》がした。
「やな鳥だね。おもちゃのぜんまいを捲《ま》くみたいな啼き方じゃないか」
伊東五郎が頭の上をとざしている樹木の葉をみあげて言った。
白い砂浜がのぞける森のはずれの草の上に、四人の青年が車座に坐って考えこんでいる。
その車座から山本麟太郎がすらりと立ちあがった。背がひょろ高い所へもって来て、いわゆる殿様顔という面長《おもなが》だから、三人とも顎を思いきり持ちあげてそれをみつめた。
山本麟太郎は草の上を歩いて森のいちばんはずれの木の所へ行って、その幹によりかかった。坐った三人はその動きをじっと見ている。
ギ、ギ、ギ……と、またあの鳥が啼いた。
「煙草……吸いたいな」
山本麟太郎がつぶやくように言うと、三人は言い合せたように両手を体の胸や腰にあてて探った。
探ったって煙草の袋なんかあるわけはない。伊豆の別荘の庭から亜空間の海へ抛りだされ、危うく溺れ死ぬところだったのである。
「セブンスターをここのポケットへ入れといたんだけど、どこかへ落しちゃったらしいや」
伊東五郎が言った。
「でも百円玉ならあるよ。どこかに自動販売機か何か……」
伊東はジャングルを見まわし、坐っている二人の顔を眺めた。
「そんなものがあるわけはないね」
と済まなそうな顔をした。残る二人は同時に似たような溜め息をつく。
「鳥がいないな」
山本麟太郎が木によりかかったまま言う。よりかかっている木はユーカリのようだ。
「鳥ならいま啼いたじゃないか」
デブの三波伸夫が言った。
「違うよ。海鳥《うみどり》だよ。かもめの姿ぐらいあってもいいんじゃないかな」
「そう言えばジョナサンたちがいないや」
と伊東五郎。
「かもめがいないか……」
吉永佐一は坐ったまま、うつむいて草をむしりはじめた。
「なぜかもめがいないか。若様、判るかい」
「うん」
若様こと山本麟太郎が吉永佐一のほうをちらりとふりかえって答えた。
「なぜ。なぜいないの。教《おせ》えて……」
「そんなものはお前……」
三波伸夫はたしなめるように言いかけ、ぐっとつまって言葉を呑んだ。伊東がその顔へニヤリと笑いかける。
「どうしてだか聞いてみるかい。吉永か若様に」
「きっと魚もいねえよ」
吉永が言った。
「あ、そうか。魚がいないからかもめもいないのか。聞いてみればかんたんなことだ」
伊東がうなずく。
「なぜ魚がいないんだ」
三波は半信半疑のてい。
「この海はね……」
若様が説明する。
「僕らの知っているような海じゃないと思うんだよ。その昔、我々の祖先は大洋のはてはこの世のはてで、世界は海の彼方でおわっていると考えていただろ。ここの海は、まさにそれらしい。この亜空間は案外小さくて、島だか大陸だか知らないけど、とにかく今僕らがいるこの土地の外側の海には、生物なんていやしない……どうもそんな気がするんだ。この海は亜空間のおわりをかくしているだけさ」
「どうしてそう思うの」
「僕らは海から来た。確証はまだ何もないが、あの海からここへ辿りついたということが、あの海が怪しいという理由だ」
吉永は同意するようにうなずいていた。
2
何もわけが判らないまま日が暮れた。亜空間でも日が暮れるのだ。
四人は夜になっても火をたかなかった。四人の名誉の為に言って置くが、決して火を起せなかったわけではない。どんな敵がいるか判らなかったし、暖かくて乾いてて、焚火の必要などさらさらなかったのである。伊東と三波が一時間ほど、夢中になって枯木をこすり合せていたのは、冗談でロビンソン・クルーソーごっこをやってみたまでのことだ。
とにかく森の草の上に横になって寝てしまった。不寝番《ふしんばん》は伊東、三波、吉永、山本の順番で、腕時計は四人とも壊れてしまっていたから、交代の時間はめいめい勘で測った。だから伊東の起きてる時間が一番長く、次が三波。吉永は空が白んでからで、山本は結局一度も起きないで朝を迎えた。
亜空間でも南海の夜明けは爽《さわ》やかであった。
「お早う。いい天気だね。朝飯にしようよ」
伊東は睡《ねむ》そうな顔で言った。それでも機嫌は悪くない。元来伊東は寝起きがいいたちである。一日の内で朝起きた時が一番機嫌がいい。一種の異常体質だろう。
その点若様の山本麟太郎は正反対だ。寝起きの悪いことおびただしい。ぶすっとした膨《は》れぼったい顔で我儘を言う。
「歯ブラシ持ってないかい」
「歯ブラシ……」
上機嫌の伊東がとびあがって嬉しがる。
「ねえ、歯ブラシだってさ。若様が歯ブラシ……」
「弱っちゃったな」
どういうわけか三波は若様のそんな態度にうろたえている。純粋な庶民の出であるから、サービスを強要されると、ついサービスしなくては悪いような気になるのである。
「いいんだよ。朝の内ひとっきり、いつもこんなんだから」
吉永はつき合いが古いから心得ていて、事もなげに言う。
「ねえ。歯ブラシ欲しい」
「作ってあげるよ。ちょっと待ってな」
伊東は枯れた木の皮をむしって、石ころでトントンと叩きつぶす。たちまち妙な恰好だがとにかくブラシらしいものができあがる。
「水……」
「ええと、お水、お水」
伊東が右手をコップを持つ形にしてうろうろする。
「この先の小川のそばに水が湧いてるって言ったろう。行ってみよう」
吉永が先頭、次に三波、伊東、山本の順で歩きはじめた。草を踏み枝をかきわけて進むとすぐ水音が聞えて来た。
「シッ……」
先頭の吉永が低くそう言って腰を低く構えた。みんなそれを見ならう。
すぐ近くに岩があり、その根方が黒く濡れ光っている。泉が湧いているらしい。岩のかげからジャングルの向うへ小川が流れていて、小川ぞいに道らしいものが続いていた。
何か赤いものがその道をこっちへやってくる。
四人が繁みの間からそれをみつめている。
「女の子だ」
伊東がささやいた。
赤いのは衣裳の色であった。半袖で太腿のあたりまである真紅の上着。ウエストを頑丈そうな鋲《びよう》つきの革ベルトでしめ、右肩から左の腰へはすっかいに茶色の細い革紐《かわひも》をかけている。革紐は腰のベルトの下をくぐってぴっちりと固定してあり、左の腰のところで剣を吊っている。
剣は直刀で、重そうな真鍮《しんちゆう》色をしていた。下は茶色い、ぴっちりとした革のホットパンツ。脚は膝のところまで来る同じ色の革ブーツ。両腕の手首から肘《ひじ》にかけて、銀色に輝く籠手《こて》をはめている。銀の籠手には渦状の模様が彫ってあり、それと揃いの首輪が細い喉《のど》のあたりを掩っている。上着の襟はなく、V型に切れこんでいて、剣を釣った革紐が、バチンと突きだしたバストの谷間を通っている。髪は肩をかすめる程度の長さで、見るからに柔らかそうな金髪。目は大きく切れ長で、二重まぶたのうす茶色の眸。鼻はやや上向きかげんにとんがってて、難を言えば下唇《したくちびる》がやや厚目だが、それだってチョースケみたいにそり返っているんではなく、ぷっくりと柔らかい感じだから肉感的。顎《あご》はとがり気味だが、頤《おとがい》から喉へかける辺りにえもいわれぬ肉づきがあって……。
要するに肉感的な美女が剣士みたいな勇ましいいでたちをしてるということである。
それが息せき切って走って来る。そのうしろから一団の男たち。赤茶色の革の肩あて、革の胴。堅そうな革の兜《かぶと》……ローマの足軽みたいのが五人。手に手に短剣をきらめかせて追って来る。
3
四人の見ている前で斬り合いが始った。
きっかけは美女が草に足をとられてころんだからだ。すぐ立ち直ったが、もう逃げるには遅すぎる。すらりと長剣を抜き放ち、五人の敵に身がまえた。
革の制服に身をかためた兵士たちは、かさにかかって突っ込んでくる。美女はひるむ様子もなく、先頭の兵士がつきだす幅の広い短剣をなぎ払う。
キーン……と刃の触れ合う音。ひっぱずされた男は短剣をつきだしたまま、たたらを踏んで四人の隠れている繁みへ……。思わず四人は目をつぶる。
その間にも二番手、三番手。美女はしだいに後退し、今は泉の岩を背に、肩で烈しく息をする。
「いけどりにしろとのご命令だ」
兵士の一人が叫んだ。
「できるならしてごらん」
岩を背に、美女が言い返す。
「小癪《こしやく》な」
と、からみのきまり文句で一人がまた突いてでる。危うくそれをかわすと、今度は反対側からもう一人。兵士の剣が岩に当ってガシッという音をたてる。
伊東は夢中でそれをみつめながら、手さぐりで足もとから太い枯枝をつかみあげた。長さが一メートルとちょっと。手頃な棒だ。
みつめたまんま伊東はそれを三波に渡す。三波も夢中で斬り合いをみつめたままそれを受取る。
三波が棒を受取るとすぐ、伊東は持ち前のゴロゴロした声で、
「そら行け……」
と呶鳴り、三波の背中を押した。前をみつめたままである。
背中を押されてつんのめりそうになった三波伸夫は、中腰だったのがはずみでひょいと腰を伸した。つまり、立ちあがったということだ。隠れていた繁みから、上半身があらわれる。
「ややッ……」
と兵士たちが新手に向って身構えた。三波は自分の手にある棒を意外そうに見た。
「何者だ、貴様」
繁みの中で伊東が今度は尻を押した。棒を手に、三波はふらふらっと前へ二、三歩。
美女はそれに力をえて逆襲に出る。その美女に三人、三波に二人。兵士は二手に分れて斬りかかろうとする。仕方がないから三波が無雑作に棒をふりまわした。
枯枝の棒が三波の大力で宙に唸り、兵士の横っ面へバシッ……。当った所から先が粉々に砕け散り、兵士はよろよろっと美女の方へよろけて行く。その剣を美女の剣がはねあげると、剣は兵士の手をはなれてキーンと宙にとぶ。
「ワーッ」
山本、吉永、伊東の三人が同時に叫んで繁みをとびだした。兵士たちは胆《きも》を潰して踵をかえし、今来た道を一目散に逃げて行く。
「やったやった……やったぜ親分。凄い力じゃねえか。ぶん撲《なぐ》ったら粉々になっちゃったね」
「危《やば》いなあ……てめえ、こんな苧殻《おがら》みてえなフワフワの棒を寄越しやがって」
「あ、ほんとだ。この木、腐ってやがる」
「だいたい、何だって斬り合いのどまん中へ俺をつきだしたりするんだよ」
「だって、この女《ひと》を助けたかったんだもん」
「だったら自分でやりゃあいいじゃねえか」
「あそう。親分は助けたくないの。そうだったの」
伊東に言われ、三波は肩で息をしている美女を見た。
すらりとした脚、突き出したバスト。
ボインなんてもんじゃない。まっすぐ立ってうつむいたって、ブーツの爪先きも見えなかろうというくらいだ。
「よかったですね。危いとこだった……」
山本麟太郎がにこやかに言った。寝起きの悪いのが今のショックで納まったのだろう。
「おかげさまで……でも、あなたがたは」
ハスキーな声であった。剣を腰のさやに納める。
「顔を洗いに来たところなんです」
「顔を……」
女は四人を眺めまわした。
4
とにかく、こうなったらのんびりはしていられない。いつさっきの兵士たちが仲間を連れて引っ返して来るか知れないのである。
四人と美女はくわしいことも話合わぬまま、大急ぎでその場を去らねばならなかった。
と言っても、四人はもといた森のとばくちへ戻る以外行き場がない。しかもそれは斬り合いのあったすぐそばだ。結局四人は美女のあとについて、見知らぬ森の中へ踏みこんで行った。
「私の名はヴァレリア。あなたがたは……」
「山本麟太郎です」
「僕は吉永佐一」
「三波伸夫」
「同じく伊東五郎」
「莫迦。何が同じくだ」
ジャングルの中を歩きながらの会話である。ヴァレリアは剣を抜いてからみ合った蔓《つる》を切りひらきながら進んで行く。伊東五郎もさっきの場所で兵士の一人がとり落した短剣を手にしていた。
「ヴァレリア……」
山本麟太郎がつぶやいて吉永をみた。吉永はかすかにうなずき、首をかしげてみせる。
「ここはどういう国なんです」
三波が尋ねた。
「ワイナンの国よ」
「さっきの兵隊たちは……」
「ロスボ王の兵士」
ヴァレリアは吐きすてるように言った。
「ロスボ王って、悪い奴でしょう」
と、伊東五郎。
「そう。少くともワイナンにとってはね」
「そうだと思った。あんたみたいな人をひどい目に会わせようというんだもの」
しばらく沈黙が続き、五人はジャングルを進んで行く。
「あの……どこへ向っているんですか」
「ベルヴェラスの山……。ベルヴェラスへ入ってしまえばこっちのものよ」
すると山本と吉永が同時に言った。
「ベルヴェラス……」
「そこへ着いたら、何か食う物はありますかね。腹減っちゃって」
三波は情ない声をだした。
「危いところを助けてくれた恩人ですものね。たっぷりご馳走するわ」
ヴァレリアは三波を見て笑いながら言った。
「どうして追われたんです。あの兵隊たちに」
「ロスボ王の輸送隊を襲ったのよ。ところがそれが罠《わな》だったというわけ。ひどい目にあったわ」
「ちょっと待ってくれませんか」
吉永佐一が言った。女は足をとめ、ふり返った。
「王の輸送隊を襲ったと言いましたね」
「ええ、そうよ」
「ヴァレリアさん。あなた、ひょっとしたらコナンという男を知りませんか」
「男はたくさんいるわ。どんな男……」
「ごつい男ですよ。でかくて、キンメリア生れの」
「キンメリアなんてところ、どこにあるの」
「そうですか。知らないんですか」
吉永ががっかりしたように言った。
「あなたがた、そのコナンとか言う男を探してるの」
「いいえ。じゃ、もうひとつ質問します。ヴァレリアさんは、その……」
吉永は言い澱み、ヴァレリアの長剣を指さした。ヴァレリアは笑いだした。
「そうよ。私は山賊の娘よ」
「山賊……」
「世間ではそう言ってるわ。質問はそれだけなの」
「ええ」
「ベルヴェラスの山はまだ遠いわ。急がなくてはね」
ヴァレリアはそう言うと、またジャングルをきりひらいて歩きはじめた。
「偶然の一致だよ。でも癪だな。ヴァレリアって名前を聞いたら、すぐコナンを思いださなきゃいけなかったんだ。駄目だなあ、俺は」
三波が頭を掻く。
「ここはワイナンという国でしょう」
山本麟太郎が尋ねた。
「ええ」
「ロスボというのは隣りの国のはずですね」
「そうよ」
「だのになぜワイナンにロスボ王の兵士が入りこんでいるんですか」
「あなたがた、どこから来た人なのよ」
ヴァレリアは呆《あき》れたように高い声で言う。「そんなことも知らないなんて」
「僕らは海の向うから来たんです」
「海……」
ヴァレリアは薄気味悪そうに眉《まゆ》をひそめた。
「海の向うから来た人間なんて、今まで一人しかいないわ。あなたがたは海の向うから来たっていうの」
「ええ。きのう浜辺でドロシーという女の子とそのお父さんらしい人に助けられたんです」
「どこのドロシー。ドロシーなんてありふれた名前よ」
ヴァレリアは腹だたしげに長剣を振った。ジャングルに、けものの姿は見えなかった。
ベルヴェラスの革命神
1
ベルヴェラスの山中。
ベルヴェラスは突兀《とつこつ》とした岩山で、至るところに巨岩がころがっており、山全体が迷路のようになっている。従って、守るに易く攻めるにかたい。
その奥まったあたりに洞窟があり、四人はいまそこにいる。
ヴァレリアは山賊の頭目の一人娘であった。
頭目は、ウル・クォルンと呼ばれる巨漢であった。
ヴァレリアの恩人ということで、四人はウル・クォルンの歓迎を受け、豪勢な食事をふるまわれた。肉、パン、ワイン、そして果物……。食物は以前いた世界とそう変らない。
「ロスボとワイナンの関係について教えてください」
一緒に食卓についたヴァレリアに、山本麟太郎が尋ねた。
「ワイナンの産物は穀類と畜産物です。ロスボの土地は痩《や》せていて、農業には向きません。それに、ロスボの国土はワイナンのほぼ十分の一です」
「すると、人口もこちらのほうがずっと多いわけですね」
「ええ。でも、そのロスボが今はワイナンを支配しているのです」
「ということは、ロスボの軍事力が強大なのですか」
「ロスボの男はすべて兵士です」
山本は三人に向って言った。
「ヴァレリアさんを追って来た兵士たちの服装といい、この山塞《さんさい》の様子といい、どうやらここは中世的な世界らしいね」
すると伊東五郎がしたり顔で言う。
「ねえ若様。すると、俺たちはジョン・カーターみたいなもんだね」
三波がワインを口に含んだまま、じっと考えるように伊東を見つめた。それに気がついた伊東は、椅子をずらせて逃げる用意をする。
三波は伊東をみつめたまま、ごくりとワインをのみこんだ。
「きのうの約束を思いだしたよ」
三波が言う。
「約束って……」
ヴァレリアが尋ねた。
「いえね。みんなでSF的な発想を認め合うことにしたんですよ」
「エスエフ……あなたがたの話は、ときどきまるで判らなくなるわ」
ヴァレリアはそう言って笑い、食事を続ける。
「そうだな。ここは火星《バルスーム》ではないが、俺たちがこの世界に送りこまれたことは間違いない。火星《バルスーム》におけるジョン・カーターだ」
若様が皮肉な微笑を浮べた。
「地球人のジョン・カーターは、火星《バルスーム》では超人的な怪力の持主になる。ジャンプすれば、ゆうに一〇メートルは浮きあがり、三〇メートル向うへとべるんだ。だが、ここの重力は我々のいた世界と変らない。従って、僕は優秀な戦士にはなれない」
「若様。折角来たんだから、そんなこと言わないでやろうよ。俺たちはみんな未来を見たんじゃないか。ここでは俺たちは不死身だよ。不死鳥コナン。火星の大元帥カーター……どっちだってかまわない。やればいくらだってやれるってのは、ヴァレリアさんを助けたとき、親分が説明してみせたろ。俺たちがここへ来る途中、虚の空間で見た未来が真実でなかったら、親分なんかあの時ズタズタに斬られて、今頃は肉のコマギレになっちゃってるもんね。やって大丈夫なんだよ。どしどしやりましょう……」
「あ、この野郎。それを俺でたしかめやがったのか」
「いいからいいから……」
伊東は左手を振って三波を制した。
2
そんなわけで、四人は結局かなり勇ましげないでたちとなった。
腰の下まである半袖の上着、革のパンツ、膝までのブーツ。鋲を打った幅広のベルトをきりりとしめ、右肩から左の腰へ革ひもをかけて釣った長剣。郷に入れば郷に従えで、ヴァレリアとおんなじ山賊剣士のスタイル。
「親分の腿《もも》の肉は凄いね。荒木マタズレ……」
「うるせえ、宮本むさくるしい」
伊東と三波はすっかり気に入って、チャンバラの真似なんかはじめている。その二人のは上下とも茶色だが、若様は黒のブーツに白の上着。喧嘩なんかにはまるで自信がないから、上着の下に鎖《くさり》帷子《かたびら》を着こんでいる。ベルトも剣も革紐も黒い奴。体つきがすんなりしていて脚がみごとに長いから、ノルマンの王子さまといった恰好だ。
吉永も喧嘩に自信がない点では似たりよったりだが、こっちは頭脳が頼りというあんばいで、ちょっとモンゴル風の、正面からみると五角形の兜を着用し、腰には剣でなく半月刀を帯びている。ずんぐりむっくりの頭でっかちが大きな兜をかぶったから、スマートな若様のあとに続くといかにも謀将《ぼうしよう》といった風格がでる。四人とも籠手《こて》は銀色でおそろい。
四人が衣裳を変えて洞窟の奥から広間へ入って行くと、ヴァレリアが目を丸くして迎えた。
「立派だわ」
「そりゃそうですよ」
伊東が調子にのって威張ってみせた。まっ四角な色黒の彼が一番強そうにみえる。
「こうみえたって僕らは道玄坂の……いや、ノンブルの三剣士ですからね」
「その白黒の人は、何をかくそう南平台の若君」
「ナンペイダイ。そうなの」
ヴァレリアはなんとなく納得して眩しそうに山本麟太郎をみつめた。
「タンタカタン……」
「まだ早いんだよ」
三波が伊東のウェディング・マーチを制止した。
その時、洞窟の広間へぞろぞろと山賊たちが入って来た。数は三十人ばかり。中央に囲まれるように、ヴァレリアの父のウル・クォルンの姿があった。
ウル・クォルンは正面つき当りの、一段高くなった場所に置かれた大きな椅子に坐った。
ヴァレリアに左手をあげて合図する。
「行きましょう」
ヴァレリアは四人をそのほうへ連れて行った。
王座についたウル・クォルン。その前に三十人の腹心たち。姫に案内されて登場する四人の正義の騎士……まあ、よく言えばそんなあんばいだが、王座は頑丈一点ばりの木の椅子だし、姫君は山賊スタイル。全体にかなり水準を落した構成である。
「ようこそ、旅のお方」
ウル・クォルンが太い声で言った。太って眼光が鋭くて、ヴァイキングに扮したオーソン・ウェルズみたいだ。
「はじめまして」
若様は左手で腰の剣をおさえ、右手を左胸の辺りにあてがって軽く腰を折ってお辞儀をした。いざとなると結構芝居気がある。
三人がそれを見て、一拍《いつぱく》置いて同時に真似た。結局、どうみても家来みたいな具合になってしまう。
「皆に紹介しよう。このかたがたは、けさヴァレリアを救ってくれたかたがただ」
おお、という顔で男たちがざわめいた。その中の一人が大声で言う。
「おとりの輸送隊を率いていたのはザウロの畜生だったのですぞ。そうでなかったら、あんなみじめな敗け方はしない。ザウロの部下は粒よりの猛者《もさ》ぞろいですからな」
「俺も聞いた」
ウル・クォルンはおごそかにうなずく。
「ヴァレリアを追っていたのは、ザウロの部下の中でも特に名の知れた五人だったという。たのもしいかたがたが我らの前へ現われてくれたものだ。これも我らが神、ジョーカンジーのおみちびきであろう」
四人はとびあがった。
「ジョーカンジーですって」
「さよう。このとらわれの世から我らを救いたまう革命の神だ」
「でたでた。とうとう出ましたよォ」
伊東五郎が燥《はしや》いでささやいた。
ヴァレリアがちょっと警戒するような表情で言う。
「わたしたちベルヴェラスの者の神の名を、なぜ旅のあなたがたが知っているのです」
「我々はジョーカンジーを探していたのです」
若様が言った。少し昂奮して声がふるえていた。
3
ウル・クォルンとヴァレリアは、大広間に続いたジョーカンジーの礼拝堂へ四人を案内した。
そこは、大広間から狭い通路を五十メートルほど行った突きあたりにある鍾乳洞であった。
もっとも、炭酸石灰の溶解現象はだいぶ以前に停止していて、高い天井から無数の鍾乳石がたれさがり、床面には石筍《せきじゆん》が立ちならんではいても、今はどれも乾き切っている。
驚いたことに、その鍾乳石や石筍のひとつひとつ、はては天井や壁面に至るまで、眩ゆいばかりの黄金で飾りたててある。金箔か金粉か、四人には見わけがつかなかったが、その黄金の鍾乳洞は、ヨーロッパのどんな荘厳な教会にもまさるゴシック空間であった。
「これはぶったまげた……」
伊東五郎は黄金の鍾乳洞の中央で賛嘆した。その声が鍾乳洞の中に大きく谺《こだま》している。
ウル・クォルンとヴァレリアは、黄金鍾乳洞の奥まったあたりに来ると、恭《うやうや》しくひざまずいた。
両手を胸の前に組み、頭《こうべ》をたれる。
四人はその背後に横一列に並び、正面に飾られた高さ三メートルほどの立像をみつめた。そこここにともされた灯火の光をうけて、その立像は眩ゆく反射していた。
三角帽子にチョッキに、ダブダブのシャツに、ぴっちりしたタイツ……爪先きがくるりとそり返った靴をはいたその像は、全身黄金でできていた。
「浄閑寺公等……」
山本麟太郎がその黄金立像の顔をみつめて唸《うな》った。
まさしくそれは若様の大叔父、浄閑寺公等その人であった。
「この、ジョーカンジーという神は、どうしてここに安置されているのです。なぜあなたがたの尊崇を受けることになったのです」
若様はそう尋ねた。
「ジョーカンジーは、すべての人の前に、あまねくみ姿をお示しになられたのです。この世はいつわりの世であり、我々がとらわれの生を送っていることをお教えになったのです」
ヴァレリアが静かな声で言った。
その時、ジャーンという大きな音がした。それは、ハリウッドの監督たちが東洋を表現する時、馬鹿のひとつ憶えみたいに使う、例の銅鑼《どら》の音であった。
長く白い寛衣を着けた神官が、真紅の楯《たて》と黄金の剣を持って現われた。神官がジョーカンジーの黄金像の前に立つと、その前の巨大な香炉《こうろ》から紫色の煙が立ち昇った。
「おお聖なるジョーカンジーよ。我々の生命はやがて来る革命の日の為に捧げられるでありましょう。我々は、我々の生命の、すべてをもって、来るべき、革命に捧げ、日常の、いかなる、行動をも、革命の為の、たたかいの一環として、認識し……」
神官の絶叫するような祈りのことばを聞きながら、伊東五郎が低い声で真似をした。
「来たるべきィ、革命に捧げェ、日常のォ、いかなるゥ、行動をもォ……どっかでよく聞いたみたいな節まわしだな」
「革命の為のォ、たたかいの一環としてェ、認識しィ……ほんとだ。ヘルメットかぶってタオルを首にまいて、マイクのとりっこしてる奴らの節まわしそっくりだ」
三波伸夫が懐かしそうな顔をした。
若様と吉永佐一は要領がいい。ウル・クォルン父娘の真似をして床にひざまずき、もっともらしく合掌して、見知らぬ土地で無用の反感を買わないようにしていた。
銅鑼がもう一度鳴って、神官の絶叫するような祈りが終ると、待ちかねたように若様の質問が始った。
「ジョーカンジーはこの世がいつわりのものであることを、みんなに教えて歩いたのですね」
「そうだ」
ウル・クォルンが重々しくうなずく。
「あなたがたはそれをうけいれたのですね」
「当然だ」
「この世がいつわりであることを、それ以前にうすうす感じていたのですか」
「とんでもない」
父娘《おやこ》は同時に言った。
「なんでそのようなことを我々に考えられよう。ジョーカンジーのおさとしがなければ、誰ひとり考えもしなかったろう」
「では、今はこの世が亜空間……いや、いつわりの世だとはっきり自覚なさっているのですね」
父娘は顔みあわせてため息をついた。
「そこまで買いかぶられては困る」
ウル・クォルンは何やら照れ臭そうに言った。
「大きないつわりを悟れるほどすぐれた人間ではない。残念ながらな……」
若様は首をかしげて沈黙した。
「で、ジョーカンジーはどんなやり方で教えてまわったんです」
「大勢の前へ現われたこともおありですし、たった一人でジョーカンジーを見た者もたくさんいます」
ヴァレリアが吉永に答えた。
「そこんところがよく判らないんです。ジョーカンジーはどこに住んでいたんです」
するとヴァレリアは笑った。
「どこに住んでいたですって……。ジョーカンジーはどこにも住んでいません。この世ではね。あのお方はまぼろしそのものです。突然|虹《にじ》のようにお姿をお示しになり、風のように私たちを通りぬけておしまいになるのです。神とはそういうものではありませんか」
吉永はじれったそうに顎をかいた。
4
どうやら、彼らの言葉はすべて信じてよさそうだった。その話によると、浄閑寺公等は幻影のような具合で至るところに現われたらしい。
「浄閑寺氏は、俺たちのように完全にこの亜空間へ入ったんじゃないかも知れないな」
吉永は頭でっかちの五角形の兜をふりふり言った。
「ヴァレリアさんの話を聞いてると、ジョーカンジーってのは幽霊みたいに、好き勝手に出たり消えたりしてるね」
伊東は両手を胸の前にだらりとさげてみせた。
「だからここの連中は浄閑寺さんを神様扱いしたんじゃないか。そうでなかったら、ただの革命家だよ。神様どころか、警察にとっつかまってひどい目に会ってる」
三波が真剣な顔で言った。
「へえ、ここにも警察なんてあるの。とすると、自民党だの経団連だのってのもあるわけだ」
「どうして」
「じゃなかったら警察がなんで革命家をつかまえたがるの」
「泥棒だって人殺しだってあるだろうに。お前、大常識家のくせに妙なところで飛躍しやがるんだな」
「親分はそういうけどね、泥棒や人殺しと革命家じゃ大違いだよ。警察が泥棒や人殺しと革命家を同じようにいつ扱ったい。だいたい泥棒や人殺しを追っかける警官というのは二流で、一流の警察官は革命家を追っかけるんだよ。泥棒や人殺しにどうして機動隊が要るのさ。自民党と経団連が要るっていうから……」
「いいじゃないか、そんなこと。ここは亜空間の世界だぜ。ワイナンの国だ。機動隊なんてあるかどうかもまだよく判らない。とにかく浄閑寺氏はここでは神にされている」
吉永が裁定をくだすように言った。
「今は僕らがここへ来てしまっている。浄閑寺公等がここの人々の前へ再び姿をあらわすかどうかはよく判らない。しかし僕は多分二度と現われないような気がする」
「なぜ……」
吉永が尋ねる。
「浄閑寺公等は一度円盤にさらわれた。あの緑色の光線でね。それはみんなも見たろう」
三人が同時にうなずく。
「円盤はその次僕らをつかまえようとしたね」
「うん」
「そしてやりそこなった。あの小さな空間の歪《ひず》みみたいなのに緑色の光線をブチあてて、木《こ》っ端微塵《ぱみじん》にとび散ってしまった。その爆発にまき込まれて、僕らもこんなところへ来てしまったんだ。恐らく、浄閑寺公等はもうこの世の人ではないだろう」
「つまり、もう神様のおたすけは期待できないってわけだな」
吉永は苦笑していた。
「利用することはできるよ。よく考えれば、浄閑寺公等がここの人たちに何を示そうとしていたか、何をさせようとしていたかということが、僕らには判るはずじゃないか。多分、この亜空間を破壊して、ここにいる人たちを解放しようとしていたんだろう。それは僕らの目的とおんなじさ」
「すると、まずここの山賊たちを手なずける……そうだね」
三波は気負った言い方をした。
「ロスボとかいうナチみたいなのをやっつけて、それからワイナン中の人間をバックに宇宙人とたたかうんだ」
「待てよ。果してロスボが悪い存在かどうかをたしかめなければ」
吉永の言葉に伊東は不満そうであった。
「ヴァレリアさんをつかまえようとしたんだぜ……悪い奴にきまってらあ」
「だが、ここは山賊のすみかだ」
吉永は、四人の居室にあてがわれた天井の低い部屋を見まわして言った。ベッドが四つにテーブルに椅子。洞窟の一部だから窓はなく、三方が岩の壁で一方が板で仕切られ、そこにドアがついている。
「それだよな、困っちゃうのは」
珍しく若様が眉をひそめた。
「山賊なら善良な市民とは言えない」
育ちが育ちだから、悪に加担するのは困るらしい。だが、三波と伊東は育ちが育ちだからそんなことは一向に気にしていない。
「山賊だから面白いんじゃないか。みてくれ、この勇ましいスタイル」
三波は立ちあがって剣を抜いた。
「山賊を率いて悪虐《あくぎやく》非道なロスボをやっつけ、ワイナンに平和をもたらしてやる」
「やるか……」
伊東と三波が張り切りだすのを、若様は苦笑して眺めている。
ザウロの略奪部隊
1
伊東五郎は、この世界では自分が絶対に死なないと決めてかかっている。だから、山賊たちと一緒に出かけてみたくて仕様がないらしい。
「どっちにしたって、こうなったらのりかかった舟じゃないか。いつこの世界から出られるか判んないし、ここでじっとしてたってどうしようもないぜ」
三波と吉永は顔を見合わせたが、意外にも若様が同意した。
「入口のほうがさっきからざわついているね。山賊部隊が出動するのかもしれない。一緒に行ってみたい」
「本気か、山本」吉永が言った。
「本気だとも。伊東の言うとおり、ここにいたって仕方がない。僕らが虚の空間で感じたとおり、やがて元の世界に戻れるとしても、それはここでじっと坐っていればいいということじゃないだろうしね。この世界でいろいろ動いた挙句《あげく》のことだろうと思うよ。だとしたら、外へ出てみることだ。ロスボというのが果して本当にナチみたいな奴らか、ここの山賊がどんなことをやっているのか……僕はまずそれを知りたいからね」
「そうか。檻《おり》から出るには盲滅法《めくらめつぽう》でもいいから、ジタバタしてみるってことだな」
吉永がうなずいた。三波は嬉しそうに笑った。
「そう来なくっちゃ。ひと暴れしてみるか。おい伊東、そろそろ俺たちの出番らしいぜ」
「あたり前さ。なんと言ったって死ぬ気づかいはないんだし、いずれ帰れることも判ってるんだ。本物のチャンバラができるなんて、願ってもないチャンスじゃないか」
三波はそれを聞いて首をすくめた。
「気をつけろよ。お前は俺たち三人とは違うんだから」
「どう違うの」
「どう違うってお前、未来は……」
「未来がどうかしたかい。俺は生きて帰れるんだろ」
「そりゃそうだけど」
「気になるなあ。三人とどう違うんだよ」
「俺たち三人とくらべれば、お前の顔はうんと四角い」
「顔なんて関係ないよ。やだな親分。こんなとこへ来てまで顔のこと言うのかい」
「まあいいじゃないか。行ってみよう」
吉永がそう言ってドアをあけた。
洞窟の中に活気がみなぎっていた。あわただしい足音や剣の金具が触れ合う音が響いている。
音のする入口のほうへ歩いて行くと、五十人ばかりの屈強な男たちが集っていた。
「やあ、旅のかたがた」
近寄って行く四人に気がついて、ひときわ背の高い剣士が声をかけた。その声で五十人ばかりがいっせいに四人のほうを注視する。
「出撃の準備をなさっているらしいので見に来ました」
吉永が言った。その横で若様が鷹揚《おうよう》に微笑している。
「ロスボの部将ザウロが、不敵にもベルヴェラスの山のすぐ近くまで来ているのです。今までロスボの徴税隊が、こんな山近くまで来たことはなかったのに」
「徴税隊……」
「自分たちでそう言っているのです。しかし実際は略奪部隊です。きのう我々が襲撃に失敗したので、図に乗ってこんな山近くまで入りこんで来たのでしょう」
「お邪魔でなかったら、一緒に連れて行っていただけませんか。その、ロスボとかいう連中のやり口を見て置きたいし、あなたがたのたたかい方にも馴れて置きませんとね」
「結構ですとも」
その男は両手をひろげて言い、ふり向くと武装した男たちに向って、
「お客人に敗けいくさなどごらんに入れるなよ」
と叫んだ。男たちが、おう、と声を揃える。
「私はテコトル。この襲撃の指揮をまかされています」
背の高い剣士はそう言って四人の二の腕を掴《つか》んでまわった。握手のようなことらしい。
「私も行くわ」
四人の背後でヴァレリアの声がした。
「なぜだ、ヴァレリア」
テコトルは不満そうに言う。
「今日のたたかいの指揮はこのテコトルがまかされている」
「そうじゃないの。この人たちはどうやらワイナンの事情には暗いらしいし、相手は何しろザウロよ。今日のところはたたかいに加わらず、うしろで見ていてもらいたいのよ。私もテコトルのたたかいには手をださないわ」
「それならいい」
テコトルは言い、部下の隊伍《たいご》を整えはじめた。
2
どうやらテコトルの部隊は、四人がヴァレリアと登って来た方角とは逆のほうへ下って行くようであった。
岩ばかりの山肌に、次第に黒い土が顔をのぞかせ、やがて木が現われはじめて林の道となった。
林が切れるとすぐ一面の葡萄《ぶどう》畑である。小さな丘が続き、ところどころに果樹園もある。ときどき二、三十戸ばかりの石づくりの家が並ぶ村を通りすぎる。
村人たちはテコトルの部隊に全く敵意がなく、それどころかロスボ軍にたち向って行く山賊たちをはげまして、ワインや焼肉をふるまっている。
「山賊とは言え、ちょっと様子が違うようだね」
若様がそれを見て言った。
「なあ山本」
吉永は奇妙そうにあたりをみまわしていたが、たまりかねたように若様の顔をみつめた。
「馬がいないね。牛ばっかりだ」
「そう言えばそうだな」
「それに、車もない。荷車、手押車……車らしいものがまるで見当らない」
三波が素《す》っ頓狂《とんきよう》な声をあげる。
「なんだか物足りないと思ってたら、それかァ。みんなエッチラオッチラ、背中にかついでるんだもんな」
若様がうなずく。
「なるほど。馬がいないか。でも、馬がいなくても牛がいる。牛に乗ってもよさそうなものだし、牛に物をのせて歩いてもおかしくないのに、誰もそんなことはしていないね。ひょっとすると、僕らはこの世界でずいぶんやる事があるのかもしれない」
「そうらしい」
吉永が同意した。
「何やることがあるの」
伊東が尋ねた。
「牛の力をもっと利用することや、車輪のことを教えてやろうと言うんだよ」
「そんなこと、ここの人たちは知らないのかい」
「だって見たとおり……だろう」
「それはいいや。車を売ってひと儲《もう》けしようよ。フォードとかシボレーとか名前つけちゃってさ」
「荷車にかい」
「そうさ、売れるぜ。俺、一度ライバルなしの商売って、やってみたかったんだ」
その時、ヴァレリアが先頭のほうから戻って来た。
「私たちは別の道を行きます」
そう言って左手の丘へつづく道を指さした。
「どうしたんです」
「さっき通った村に、この先の村から逃げて来た者たちがいたのです。ザウロがそこまで近づいているんです」
四人はヴァレリアに案内され、テコトルの部隊と別れて小麦畑の中の道を、前方の小黒い丘へ向った。
「ザウロとかいう奴はそんなに強いの……」
伊東がヴァレリアに尋ねる。
「それは、ザウロと言えばロスボ王の中でも随一の武将ですものね」
「敵の兵力はどのくらいです」
と吉永。
「多分、二百か三百……」
「多分」
珍しく若様が厳しい表情で聞きとがめた。
「事前に調べていないんですか」
ヴァレリアは困ったような顔で言う。
「きのう私が襲撃に失敗した時、ザウロは輸送隊をおとりに、そのくらいの数の兵士を隠していたのです」
「するとあなたは、きのうの襲撃の時も相手の状況をよく知らないでやったんですか」
ヴァレリアは憤然とした様子だった。
「どうすればいいというの。敵をみつけたら一気に襲いかかる……それ以外のたたかい方があるというの」
若様は済まなそうに首をすくめた。
「偵察行動はしないんですね。あなたの……いや、この国では」
「偵察って……敵の動きを探ることね」
「ええ」
「それができれば苦労しないわ。でもいったい誰が偵察するの」
その時、遠くで喚声が聞えた。五人はあわてて丘へ登った。
制服を着たザウロの部隊が、テコトルの部隊と、出あいがしらにぶつかった。
3
敵は畑の中の道を二列縦隊で進んでいた。中央に黒い寛衣をまとった百人ほどの輸送隊がいて、テコトルの部隊の喚声を聞くと、彼らは背に負っていた袋をほうりだし、両側の畑の中へ逃げ散って行く。
敵の数はおよそ二百。それが中央の黒い荷かつぎ部隊を間にして前後に半分ずつ分れていた。後衛の百が敵の出現を知って前へ出ようとしたが、中央の荷かつぎ部隊の混乱にはばまれて出渋っている。
テコトルたちは前衛の中へ錐《きり》をもむように強引に突っ込んで行く。
「無茶だよ、あれは」
吉永が呆れて言った。
誰が見たって、作戦も何もあったものではない。出会いがしらにぶつかり合って、力押しに押しているだけだ。
数は今のところ二対一。細い道に長く伸びた相手のうしろ半分が戦闘に加われば、すぐ四対一になってしまう。
ところが、テコトルたちの山賊剣法が凄まじい。剛力をふるって、斬るというよりは叩き割る勢いで相手を圧倒する。
「弓もないらしいな」
若様が言った。
「弓もないなんて、いったいどういう文明なんだ。どうもおかしいよ」
その間にも、テコトルたちは相手を押しまくり、たちまち敵の半分ほどを倒して前進する。敵の前衛部隊はみるまに後退して行く。
が、その後退が当然テコトルたちの不利になる。後衛が駆けつけるのと合流し、勢いをまして今度はテコトルたちが押されて行く。
後衛の先頭にとりわけ逞《たくま》しい男がいて、薙刀《なぎなた》のような長い得物《えもの》をふりまわし、一人、また一人と、その白刃に山賊が倒されて行く。
「あれがザウロよ」
ヴァレリアは口惜しそうに身を震わせながら言った。
「ザウロさえいなければ、テコトルたちは敗けはしないのに」
たしかにヴァレリアのいうとおり、たとえ二対一が四対一でも山賊たちのほうが強そうだった。しかし、たえずおめきをあげながら荒れ狂うザウロは、その山賊たちの誰よりもまさっているようだった。その勢いに力をえて、ザウロの兵士たちの実力が二倍にも三倍にもなる感じだ。
突然、テコトルの部隊は散りぢりに逃げはじめた。その逃げ方たるや、敵の集団を核《かく》として、八方へみごとに拡散して行く。つられて一人を二、三人で追えば、急に反転して叩き伏せ、ひるんだ所をまた逃げる。
敵将ザウロは山賊の逃げ方をよく知っているとみえ、大声で追うなと命令している。
「変な戦争……」
伊東が白けた顔で言った。
「テコトルはうまくたたかったわ」
「そうかなあ」
三波がヴァレリアに向って言いにくそうに言う。ヴァレリアは若様と吉永を交互にみつめた。戦評をうながしているらしい。その若様と吉永の顔には、三波同様気の毒そうな表情が泛《うか》んでいる。
「テコトルのたたかいぶりに異議がありそうな顔ね」
「敵を八十人ほどやったらしい。味方の損害は十人か十五人……まあ悪くない」
「大勝利だわ」
「いつもあんなやり方なんですか」
吉永はつとめて表情を抑えながら言う。しかし、ヴァレリアは女だ。男のつくろった表情をすぐに見抜いた。
「もっといいやり方があるというのね。今のたたかいに不満なのね」
若様がずけずけ言った。
「逃げましたからね。逃げたら敗けですよ」
「酷《ひど》いことを言う人……」
ヴァレリアは涙ぐんだ。
「だって、ザウロの部隊が村々を略奪して歩くのをとめるのが目的でしょう。だったらあそこで追い返さなくちゃね。たたかう以上は追い返さなくちゃいけないですよ。でなかったら、たたかわないことです」
「たたかうな、ですって」
「ええ。勝てる状態になるまで待つのです」
「どこで待つの。彼らがベルヴェラスへ押し寄せるのを待つの」
「それもいい考えです」
「何を勝手なことを言ってるの。たたかっているのは私たちよ。たたかわなければならないのよ」
ヴァレリアは柳眉《りゆうび》をさかだてて若様を睨んだ。
「おやおや、メロドラマになりそうだと思ったのに」
伊東ががっかりしたように言った。
4
四人はヴァレリアと一緒に、ザウロの部隊の移動を遠目に見ながら、さっき通りすぎた村のほうへ引っ返して行った。
みちみち吉永がヴァレリアに尋ねる。
「あのザウロという奴の弱点はなんです」
「弱点……」
「そう。酒に弱いとか、一度睡ったらなかなか起きないとか」
「ザウロはたたかいの為に生れて来たような男よ。そういう弱点などないわ」
「人間だもの何かあるはずです」
ヴァレリアはしばらく考えてからこう言った。
「弱点と言えるかどうか知らないけど、あることはあるわね」
「教えてください」
「私よ」
「え……」
「相手が私だと、夢中になって深追いするの。生けどりにしようとするのよ」
「あん畜生、ヴァレリアさんに惚《ほ》れてやがるな」
三波が口惜しそうに言った。
「誰があんな人殺しなんかと」
ヴァレリアはけがらわしそうに眉をひそめる。
「ザウロの兵隊たちが村へなだれこみましたよ」
若様が立ちどまって言った。
茶色い革の武具に身を堅めた兵士たちは、黒い服の荷かつぎたちを残して、二十戸ばかりの家々のドアを蹴破り、道路に品物を抛りだしはじめていた。
「村人たちはとうに逃げだしているでしょう」
ヴァレリアは痛ましそうにそれを眺めていた。
「酷い奴らだな。どこでもあんな風ですか」
と若様。
「ええ。ワイナンの村という村は、ああやって定期的に略奪されるのです。ロスボに近いところに住んでいる人たちは、諦《あきら》めて言うなりに税を払っていますけど、それがとほうもない重税で……」
「若様。これ以上たしかめることなんてないんじゃないのかな。俺たちは不死身なんだし、やっつけちゃおうよ」
伊東がじれったそうにゴロゴロ声で言う。
「そうだね。ヴァレリアさんたちのお役にたてそうだからね」
「よっ。待ってました。これからあの村へのり込んでって、ザウロの兵隊たちをやっつけちまおう」
すると吉永が憤《おこ》ったように言う。
「そうは行くか。テコトルたちが五十人かかって逃げだした相手だぞ」
「じゃどうするの」
「まあ待て」
吉永は近くの窪地《くぼち》へ四人を連れて行って、柔らかい草の上に腰をおろした。
「ヴァレリアさん。さっき逃げ散った味方は、いずれどこかきまった場所へ集ってくるんでしょう」
「ええ。敵をいためつけるだけいためつけたあと、形勢が悪くなるとああやってさっと八方へ逃げ散るのが私たちの戦法なのです。一方へかたまって逃げれば敵も一団となって追って来ますからね。逃げたあとでまた集結し、敵に向って行くのです」
「次に集まる場所を知ってますね」
「ええ」
「ザウロたちのこの次の進路は」
「あの村の次はガルバランという村のはずです。多分その村へ着く頃は夕暮れ近くで、奴らはそこで泊ると思いますわ」
「そのガルバランの手前で、奴らを追い散らしてやりましょう」
「できるのですか。あなたがたに」
「みんな力を合わせるんですよ。ただ、あなたは僕らを徹底的に信用する必要がある」
「なぜ。今までもずっと信用していたのに」
ヴァレリアは不審そうだった。
「僕らはヴァレリアさんをザウロに引き渡す」
ヴァレリアが悲鳴に近い声をあげた。
「ザウロの兵士の服装をして、あなたを縛りあげ、ザウロのところへ連れて行くのです」
「なぜ……どうしてそんなことがあなたがたにできるんです」
ヴァレリアは声を震わせて言った。
「それは神のなさり方です」
「神の……」
吉永は若様と顔を見合せた。
「どうも変だ。さっきの戦闘のし方といい、ここの世界には策略というものが欠けているようだ。ヴァレリアさん。あなたがたは、ひょっとしたら嘘《うそ》というものを知らないんじゃありませんか」
若様が言った。ヴァレリアは畏怖《いふ》のまなざしで、そういう若様をみつめていた。
亜空間民族の盲点
1
奇妙な発見だったが、四人にとってそれはまたとないこの世界の欠落部分であった。
ワイナンの民にもロスボにも、山賊たちの社会でも、嘘というものが存在していなかった。
いや、まったく存在しないと言ったら、それこそ嘘になる。嘘が存在することはするが、それはきわめて高貴な行為であり、それを実行するということは、ほとんど奇蹟に近いほどまれなことなのであった。
ヴァレリアたち、この亜空間の人々がおろかであるということではない。テコトルもウル・クォルンもヴァレリアも、みなそれぞれに賢く逞《たくま》しい人物なのである。
だが、嘘がなかった。身を守る嘘さえ与えられておらず、たまたま嘘をついた人物は、神の化身のように崇《あが》められているのだそうであった。
「やはり何者かがこの世界を管理しているのだな」
若様は天を仰いで言った。
「たとえば、全国民に番号をつけ、すべての記録を管理して必要な時には盗聴でも監視でもできたとする。これは治める側の天国じゃないか。こんなにやりやすいことはない。それと同じだ。何らかの方法ですべての人間から嘘を奪っておけば、必要な時はいつでも本人から必要なことを聞きだせる。盗聴も監視も必要ないのだ。恐らくこの亜空間を支配する何者かは、人々から嘘を奪っているのだ。その仕組はほとんど完全だが、それでもときたま仕組の影響を幾分まぬがれた人間が出て来る。ヴァレリアさんの説明では、それがロスボ王であり、ウル・クォルンでありするわけだ。かすかにでも嘘をつける人間が、この世界での勝者になる。スパイを放って敵の動きを監視するなんてことは、この国の人々にはできないのさ。知らんふりで敵に近づくなんてできないのだ。近づけばすぐ敵意をあらわにしてしまう。隠しておくことさえできないんだ」
「なるほど。それでヴァレリアさんはあんな驚きかたをしたのか」
吉永は五角形の兜を振ってうなずいた。
「だったら、吉永の作戦は完ぺきだぜ。ヴァレリアさんに夢中になってるザウロのところへ、ヴァレリアさんを縛って連れて行けば、ザウロは有頂天になるにきまってる。連れてった奴はまるで信用されちゃう。そこんところをザクリ……」
「ああ、なんというかたがたなのでしょう。そのような貴《とうと》いいつわりを、この私がじかに耳にできようとは」
ヴァレリアは感きわまったようである。
「そうか……この世はいつわりの世。ジョーカンジーの教えが人々の心をうつのは、このへんの価値感の問題なんだな。浄土はこの世にある。汝ら我を信ぜよ……そう言うのとおんなじことなんだ」
若様も幾分感動しているようだった。
「嘘なら俺だってつけるぜ」
伊東が言った。
「お前なんか嘘ばっかりじゃねえか」
三波がからかった。
「あっ、敵……」
突然伊東がヴァレリアの背後を指さした。ヴァレリアはさっとふり向いて剣を抜く。
「嘘だよ、ヴァレリアさん」
「嘘……」
ヴァレリアは茫然として伊東の四角い顔をみつめた。
「あなたまで嘘をおつきになるのですね。なんというすばらしいかたがたでしょう」
「嘘ついてほめられたの、はじめて」
伊東は照れている。
「よしきまった。嘘つき大作戦のはじまりだ。俺たちの嘘を武器に、ロスボを徹底的にやっつけてやろう」
吉永は立ちあがった。
「とにかく、早くその味方の結集地点とやらに行こう。ザウロを倒したら一挙にあの略奪部隊を殲滅《せんめつ》だ。連中があの村でもたついている内に先まわりだ」
四人はヴァレリアを先頭に走りだした。小川をとびこえ丘をかけ登り、ガルバランの村はずれへひた走りに走った。
2
「おおい。おおい……」
ガルバランの村へ進むザウロの部隊へ、道のわきの丘の上から二人のロスボ兵が声をかけた。
「ザウロ殿の部隊ではありませんか」
おう、と大声で大薙刀を持った巨漢が答えた。
「おとどまりください。差しあげたいものがあります」
二人の兵士は丘をおりはじめた。一人は縛りあげた山賊の縄尻《なわじり》を持ち、もう一人が抜き身の剣をつきつけてその山賊を歩かせている。
「やっ……それはヴァレリアではないのか」
だいぶ近づいたところでザウロが甲高《かんだか》い声をだした。昂奮のあまり声がかすれ、黄色い声になっている。
「いかにもヴァレリアめです。みごとに生けどりました」
部隊が停止した。ザウロはただ一人隊列を離れ、ころがるように丘をおりてくる兵士たちのほうへ近寄った。
「どこの手の者か知らんが、よくやった。褒美《ほうび》をとらせるぞ」
「我々はガスボン殿の兵士ですが、このさきでヴァレリアをみかけ、追いに追ってやっととらえました。しかし部隊にはぐれてしまい……」
「そうかそうか」
ザウロは駆け寄るとヴァレリアの前に立った。
「ヴァレリア」
ひげづらの粗野な大男だが、ヴァレリアをみつめる瞳は、明らかに恋する男のものだった。ヴァレリアは唇をかんでうつむいている。よく見るとご丁寧にさるぐつわまでされていた。
二人のロスボ兵は伊東と三波だった。ヴァレリアにさるぐつわをしないと、いざご対面の時、何を言いだすか判らなかった。何しろ嘘がつけないのだから……。
「ザウロ殿がこの女にご執心《しゆうしん》なのは、全兵士に隠れもないこと。我らの手柄さえ認めていただければ、喜んで献上いたします」
「何しろ、ジャジャ馬で、本隊まで引っぱって行く自信がないのです」
三波と伊東はお世辞たっぷりに言い、
「さあ、お好きなように」
とヴァレリアをつき放した。ヴァレリアはトントンとつんのめってザウロの胸に。
「ザウロ殿。しばし部隊に休止のご命令を」
三波にうながされても、ザウロはヴァレリアを胸にだきとめてぼんやりしている。
伊東が大声で言った。
「ザウロ殿のご命令だ。全員そこでひと休みッ」
妙な命令のしかただったが、ヴァレリアをかかえたザウロを見せられては疑う者もない。隊列が崩れ、みな一斉に腰をおとす。
「さ、ザウロ殿もおくつろぎください」
三波は甲斐甲斐しくザウロの革の鎧《よろい》を外しはじめる。伊東が大薙刀をとりあげる。
鎧を外すとき、ザウロがヴァレリアの体を離した。そのとたん、ヴァレリアの縄尻を伊東がさっと引っ張った。パラリと縛った縄がとけ、ヴァレリアはじれったそうにさるぐつわを自分で外した。三波がヴァレリアにつきつけて来た彼女の長剣を投げる。ヴァレリアがうけとめる。ザクリ……。
ザウロはヴァレリアに胸を深々とつきさされ、信じられないというように目を剥《む》いた。
三波と伊東が悲鳴をあげて、休止中の部隊へかけ寄って行く。
「ザウロ殿がやられた」
「ヴァレリアにザウロ殿が殺されたぞ……」
ヴァレリアは剣をザウロの体からひき抜き、これみよがしにもうひと突き。
ややッ、と色めき立ったザウロの兵士は、てんでに武器をとり直してヴァレリアのほうへとび出そうとする。その時反対側の森からわっと一度に喚声があがり、テコトルの一隊が襲いかかる。
「輸送隊は前へ逃げろ」
三波と伊東は黒衣の荷かつぎ部隊を抜身でおどしながら、荷物ごと前方のガルバラン村へ連れ込んで行く。
ロスボ兵は側面の敵に夢中で、ガルバランへの道がガラあきなのにも気づかない。
丘の中腹ではヴァレリアがザウロにとどめをさし、その背後からも吉永に率いられた一隊が湧きだして丘をかけおりて行く。
3
嘘をついてほめられたのははじめてと伊東が言ったが、ザウロの部隊を敗ってベルヴェラスの洞窟へ戻ると、四人は以前にもまして下へも置かぬ扱いをうけることになった。
何しろ、嘘をつけるのは高貴な身分のあかしというのだから、四人ともいちばんかんたんなことで大儲けをしてしまったようで、いっそ気持が悪いくらい。
ヴァレリアはじめウル・クォルンまで、四人の前ではまるでへりくだって神様扱いせんばかりである。
神官の奴が知ったかぶりに、
「ジョーカンジーの使者であらせられる」
なんて言うから余計大変な騒ぎだ。結局全山賊の指揮をゆだねられてロスボ攻略にのりだした。
歴史を調べてみると、ベルヴェラスの山賊というのは元来ワイナンの武士階級が、うち続く平和に失業して社会から脱落したり、重税にあえぐ農民が逃亡したりでできあがった一種のゲリラである。したがって革命勢力としてはまことに物判りが早い。
弓矢や車輪の製造は伊東五郎が指導し、訓練は三波伸夫がうけもつ。吉永佐一は全体の作戦を考え、山本麟太郎は戦後問題にとり組んでいる。
ヴァレリアやテコトルは、ワイナン各地にとんで、橋や道路を農民に整備させている。
車輪をしらない連中だから、何のための道路整備だか知る由もないから、いくら馬鹿正直でも目的のバレるおそれはなかった。
「ワイナンをどんな国にするつもりだろ」
いそがしい或る日、吉永佐一が若様のところへ来て言った。
「人民共和国」
若様はそう言って悪戯《いたずら》っぽく笑った。
「にしたいが、そんなことをやっても意味ないな」
「どうして」
「だって無理だよ。一足とびにデモクラシーを押しつけたってだめさ。ここはまだ中世的世界だし、だいいち、ジョーカンジーが言う革命というのは、この王制に対するものじゃないからね」
「そうか。そうだったな。この世界を不当に支配しているのは、亜空間を作り、維持している宇宙人だったっけ」
「だから、内輪もめをやめさせ、挙国一致体制ができればそれでいい。さしずめワイナンのドロシー女王を中心にするわけさ」
「でも、ドロシー女王というのは、まるでロスボの傀儡《かいらい》だって言うじゃないか。そんなのにまかせて大丈夫かな」
「まだ会ったこともないし、やってみなければ判らないさ」
「それにしてもおかしいね」
「何が」
「この世界さ。自然のありかたがどうもおかしい。鉄を利用できるまで行っているのに、なぜ車がなかったんだ。あらゆる刀剣類に粋《すい》をこらすのに、なぜ弓矢がない。そんな文明ってあるかな」
「それは僕も感じてる。弓矢がないのは、多分けものがいないせいだろう。ひょっとすると、狩猟生活をここの連中は知らないんじゃないかと思う」
「牛はいても馬がいない。鶏はいるがその他のけものはいない。なんかおかしいな」
「大まかに言うと、人間がいるだけさ。その他のものは必要最低限におさえてあるらしいな。騎乗をさせるにはそれほど広くない。むしろ馬なんか要らない。牛さえあてがっておけば、うさぎも鴨《かも》も要りはしない。当然犬も要らないし、ペットの猫も不必要……」
「つまり、ここで宇宙人は人間を飼育してるってことか」
「そうだな。だが、いくら考えてもそれ以上は判らない。何の為に亜空間を作り、何の為に人間を飼育しているか」
「まさか食用じゃあるまいな」
吉永は真顔《まがお》で言った。
「違うね。僕もそれは考えてみたが、それだったら手間ひまかけて生かしとくわけがない。亜空間の技術があるくらいなら、生かさなくても保存できるだろう」
「じゃあ何だ」
「もうひとつ考えられるのは、ここで全く異質な文明を育てあげ、やがて我々のいた世界へ連れだして……つまり彼らの都合のいいような人間を作りだして、地球を侵略するって考え方だ」
「円盤やあの緑の光線、それにこの亜空間世界……いますぐやったって、連中の科学力に不足はないだろう」
「だが、コストの問題もあるよ。ことに、円盤はさかんに目撃されても、宇宙人そのものは滅多に報告例がない。考えてみれば、円盤だってリモコンかもしれないしね。地球を支配する時は相当数の人員がいる」
「アンドロイドを使えばいい」
「そういうわけだな。しかし、それでは地球人が反感を持つのははっきりしている。人類というのは、蛇《へび》は嫌悪するだけだが、機械となると軽蔑が入って来る。それに支配されればもの凄い憎しみに変るだろうね」
「結局、人間を支配するのに最適任なのは人間ってわけか」
「そうだよ。人間は人間を支配するようにできてる。同時に人間は人間に支配されるようにできてる」
「天は人の上に人を作り、人の下にも人を作るだね」
「だいたい、以前から僕はデモクラシーというのを信じていないんだ。自由、博愛、平等……そんなもの、いつあったね。完全な自由を与えられてよろこべるかい。たまさかの自由はいいよ。でも、或る程度義務に縛られた日々のほうが生き甲斐を感じるのもたしかなことだ。博愛なんか本当にやろうとしたら、きりがなくってそのうち本人が死んじまうさ。人間というのは相対的生物なんだ。誰かがみんなを愛したら、自分はみんなよりもう少し余分に愛してもらわなければ納まりがつかない。したがって平等なんてことも夢みたいなもんだね。食糧が不足すれば食糧の生産に関係している人間が幾らかいい思いをする。衣類が不足すれば繊維業者が儲けてしまう。一事が万事だよ。だいたい、生れついた時から、みんな知能指数が違うじゃないか。もしそうした遺伝子を均質にしたら、えらいことになるよ。生存競争はもっとはげしくなる。天が人の上に人を作り、人の下に人を作るからこそ、世の中はギリギリのところで納まっている。そうじゃないかね」
若様はそう言ってまた悪戯っぽく笑った。吉永は何か反論しかけたが、その笑顔をみて口をつぐんだ。
案外冗談で言っているのかもしれない。山本麟太郎にはそういう一面があるのだ。
4
戦闘用の牛車が全ワイナンをかけめぐった。牛が牽引《けんいん》する、兵士をのせた荷車には、かけめぐるという表現は少しオーバーだったが、とにかく圧倒的な威力を発揮したことはたしかである。
牛車はやみくもに突進し、敵の中央へのりいれてから、革命軍兵士……つまりベルヴェラスの山賊がとびおりてかきまわす。万一、牛が殺されても、その戦闘のあとの食糧にされる。
だいいち、車というものを知らない連中にとって、ガラガラと音をたててやって来る荷車は、第一次世界大戦における戦車の出現以上の驚きであった。
待伏せ、おとり、後方|攪乱《かくらん》、そしてデマ。質の日会の四人は思いつくかぎりの嘘のテクニックを用いてロスボ軍を撃破して行った。
ベルヴェラスの嘘つき四剣士。
味方は彼らをそう言って崇《あが》め、敵はおそれた。
「なんだか悪くなっちゃうな」
伊東は嘘つき四剣士の称号に照れて言った。
「俺、こんど元の世界へ戻ったら、本気でSFコンテストに応募してみるよ」
三波が真剣な顔で言う。
「どうして」
「嘘ついて暮すのも悪くねえもん」
「おいみんな。聞いたかい。親分は作家になる気だぜ」
「やれやれ。また一人ライバルが増えたってわけか」
吉永はからかい気味である。
「そう言えば、SFマガジンのコンテストの結果が、そろそろ発表になる頃だな」
若様は故郷をしのんで遠くを眺めた。
「あれ。山本も応募してたのかい」
「うん」
「やな奴。今まで黙ってやがる」
「人に触れて歩く性質のものじゃないもの。僕は選考委員の顔ぶれをみて応募する気になったんだ。あの顔ぶれは凄いぜ。選考委員としてはいちばん厳しい最高のスタッフだ。あれに通れば、そんじょそこらの新人賞なんか問題じゃない。実力をためすには絶好の機会だものね」
すると伊東が頭を掻きはじめた。
「参った参った。そんな厳しいかね」
「そりゃそうさ……」
若様は釣り込まれて言ってしまってから、ふと気がついて伊東の顔をまじまじとみつめた。吉永も三波も、不思議そうな顔で伊東をみつめだす。
「やだな。そんなにみつめないでよ」
伊東は閉口して、顔をなでたり肩をゆすったり、身の置所もないという風情。
「やったな、お前」
三波が言った。
「やったって、何を」
「とぼけるなよ。コンテストに応募したろう」
「知らないよ。コンテストってなあに」
「ふざけやがって、こん畜生」
「よせよ三波。チャンが応募したってかまわないじゃないか」
吉永がなだめた。
「そりゃ、かまわないってばかまわないけど。……こん畜生、無駄なことしやがって、俺でさえどうせだめだからって遠慮したのに」
すると伊東はうそぶく。
「自信がなけりゃ出さないほうがいいね」
「何言ってやがる。お前のあの汚ねえ字でよく書きやがったもんだ。何枚書いたんだ」
「九十枚」
「莫迦。九十枚もやりやがって、読む人の苦労も考えてみろってんだ」
勝利に勝利を重ねる戦場で、そんなことを言い合いながら四人は東京をしのんでいる。
高原の幽鬼たち
1
ワイナンは丘陵地帯と密林のほかは、広々とした平原であったが、ロスボは急峻《きゆうしゆん》な山国であった。
耕地はまったくないと言ってよい。そのかわり、金、銀、銅、鉄などの鉱石が豊富で、そのために軍備が強化されたらしい。
同時に、その鉱物資源の採掘に多くの労働力を要し、奴隷を求めることとなる。鉱山奴隷と食糧の補給が彼らの最大の課題であり、ワイナンは恰好の餌食《えじき》であったようだ。
しかし、急峻であるから牛車隊の攻撃は困難である。ワイナンの敵兵は一掃したものの、ロスボ進攻は頓挫《とんざ》を来した。
「困ったもんだね」
さすがの若様も困惑のていである。ヴァレリアたちベルヴェラスの山賊たちも、ロスボの地形にはあまりくわしくない。まして、似たようなベルヴェラスの岩山に拠《よ》って今日まで生きのびて来た山賊たちにすれば、ロスボを攻めるむずかしさは人一倍よく理解できる。
「ここを封鎖すれば、山の上はやがて餓えなければなりません。持久戦で行きましょう」
テコトルもヴァレリアもそう主張した。
「それしかあるまいが、ロスボだって万一に備えて、相当な食糧を備蓄しているはずだ。もし包囲が一年、二年と長びいたら困るのは僕らのほうだ」
若様は仲間の気持を代弁した。いくらヴァレリアが美人でも、この先ずっとワイナンに留まる気は毛頭ないのだ。
「ロスボの背後をついたらどうだろう」
吉永が提案した。するとテコトルとヴァレリアは笑いだした。
「それは無理というものです。いかに嘘つき四剣士と言えど、ない土地へは行かれませんよ」
「土地がない……」
若様と吉永が同時に言った。
「それはどういうことなんだ」
「ワイナンはほぼ円形をした土地です。円周の半分は海にかこまれ、海ぞいにジャングルが帯状につらなっています。そして半分は砂漠にかこまれています。私たちはベリ砂漠と呼んでいますが、ベリ砂漠は半分までしか行けません。そのベリ砂漠の弧の中央のあたりに、ロスボ高地が突きだしているのです。ロスボ高地へ登ると、ベリ砂漠の向うに死の塔と呼ばれる巨大な建造物が見えますが、そこへ近寄ることは誰にもできないのです」
「どうしてだ。どうして砂漠の半分までしか行けないんだ」
「ベリ砂漠をまっすぐに歩いて行くことは、そうむずかしいことではありません。水と食糧と、砂漠の旅に関するちょっとした知識さえあれば、誰でも歩いて行けるのです。しかし、どんどん進んで行って、ふと気づくと、いつの間にか元のところへ戻っているのです。たしかに一直線に歩いているのに」
四人は声を揃えて言った。
「それだっ……」
説明していたテコトルは、呆気にとられて喜色満面の嘘つき四剣士をみつめた。
「出口はそこに違いない。そこに亜空間の壁があるのだろう。なんとかしてそこを抜けてみよう」
「君たちはロスボを厳重に封鎖していてくれ。僕らがきっと背後の通路をみつけだしてやるからな。ところで、ロスボ王というのはどういう人物だ。一応知って置かねばならないからね」
ヴァレリアが答えた。
「オルメックという名ですが、誰も本当の姿をみたことがありません。正体は恐ろしい魔王だと言いますけど」
「そいつが宇宙人かな」
三波が目玉をギョロリとさせた。
「とにかく砂漠へ出る仕度を急いでくれないか。何がなんでも、そのベリ砂漠へ行ってみる」
吉永はそう言い、目の前にそそりたつ、ロスボ高原の赤茶けた姿をふり仰いだ。
2
緑の牧草地が続き、その先にごつごつした岩原があった。右手にロスボ高原が赤茶けた塊《かたま》りとなって見え、岩原の彼方には生命の影さえない砂丘がうねっている。
牧草地が岩原に変るあたりに、ヴァレリアが天幕を張ってくれた。
「万一逆もどりした時の用意に、ここに水や食糧をたっぷり用意させました。今までの例ですと、あなたがたはからからに渇いてここへ逆もどりして来るはずですわ」
ヴァレリアは無駄なことはよせと言わんばかりだ。
「ヴァレリアさんに悪いけど、そうは行かないよ。僕らはジョーカンジーの同類なんだ」
吉永が一蹴した。
「それならいいんですけどね」
ヴァレリアは嫣然《えんぜん》と微笑した。
「でも、私は待っていますわ」
微笑は山本麟太郎にむけられていた。
「ここで待っていても無駄だな。今度ワイナンへ戻ってくる時は、あそこからおりてくるよ」
若様が微笑を返して言った。
「さあ出発するぞ」
伊東はもう水の入った革袋をかついで岩原へ向った。足は切りたった絶壁のつづくロスボ高原の彼方の、未知の世界へ向けられている。
若様を最後尾に、四人は一列になって歩きだした。
「あの断崖絶壁を登ればわけはないのに」
三波がボヤいた。
「無理だよ。三百メートルは優にあるもの、それにしても、ロスボ高原というのは、こっちから見るとますます怪しいな」
吉永が若様をふり返って言う。
「うん。あのオーバーハング気味のつるつるの絶壁は、なんとなく不自然だね。わざとロスボを隔離しているようじゃないか」
「裏へまわってみて、果して登り口があるのかね。海同様、この砂漠も亜空間の壁をごまかす為のものじゃないかな」
「僕らはその壁へ一度は挑戦しなければならないんだ。その点、海よりも陸のほうがやりやすい」
伊東が先頭で大声を出した。
「まっすぐ行ったら元の場所へ引っ返すなんて、本当かな」
「この世界の人間は嘘なんてつけない。本当だろうよ」
三波が言った。
足もとが、ごつごつした岩から、徐々に砂地に変って行く。
「待ってよ……。今になって妙なことに気がついたぞ」
若様が言った。
「なんだい」
吉永が歩きながらまたふり返った。
「ドロシーのことさ」
「あの能なし女王か」
「そうじゃない。僕らが浜べに打ちあげられた時、助けてくれたドロシーだよ」
「そう言えばあれっきりだったな。お礼も言ってない」
「あそこはたしか、バゼという所だと言っていたね」
「うん。バゼのドロシーがどうかしたのか」
「ワイナン中の人間がジョーカンジーのことを知っていた。そうだろう」
「だのに、バゼのドロシーとあの老人は、僕らが浄閑寺という人を知らないかと言ったら、知らないと答えたじゃないか」
「そう言えばそうだな」
「本当に知らなかったんだろうか」
「知らないから知らないと言ったのさ。ここの人間は嘘をつけない」
「でも、みんな知ってるんだよ。なぜあのふたりだけジョーカンジーをしらないんだ」
「元いた世界なら、海岸にも人は住んでいた。海に魚がいて、漁で暮せるからだ。でもこの世界には魚もいないし鳥やけものもいない。だからジャングルや海岸に住む人間なんて滅多にいない。人里離れたところに暮してるから、ジョーカンジーのことも知らないんだろう」
すると若様は、いやに自信ありげに断言した。
「いや、そうじゃない。あの二人は僕らにパンと肉をくれた。両方とも、ワイナンの平原に出なければ手に入らないものだ。それに、役人がどうのと言っていたじゃないか。だが、あれだけワイナンで暮していて判ったことは、役人が浜辺をパトロールすることもないし、もちろんロスボの徴税隊もジャングルへは滅多に入って行かない。用がないからだ」
「すると……」
「そうだ。あの二人は嘘をついている」
若様が言った。
それがワイナンではどんな重大な意味を持っているか、伊東や三波にもすぐ判った。
「ふつうの人間じゃないってことだね」
伊東が呶鳴った。
「そうだよ。嘘をつけるからだ。なぜワイナン人は嘘をつけない……」
三波が答えた。
「耳にタコができるほど聞かされたよ。宇宙人がコントロールしてるからだろ」
「そうだ。ところが僕らはよそ者で、そのコントロールをうけていない。とすれば、あの二人もよそ者ということになる」
「どこから来たんだ。なぜあんなところにかくれているんだ。嘘がつけるならワイナンで暮したほうがよっぽど楽なのに」
「帰ったら調べてみよう」
四人は砂の上を歩きつづける。
3
三日後。
「みろ、あそこで砂漠が終っているじゃないか」
先頭を歩いていた伊東が叫んだ。あと一日半行程と思われるくらいの距離で砂漠がサバンナに変り、その向うにくろぐろとした森がみえていた。
ロスボ高原はなだらかにその森へ吸いこまれ、裏側から登って行けることがはっきりしていた。
「あの森のことについては、ワイナンの連中は何も言っていなかったな」
吉永がそう言ったとき、異変が起った。
先頭の伊東の姿がひょいと消えたのだった。
「あれ。あいつどこへ行きやがった」
三波がたちどまって言った。全員が立ちどまって見まわすと、伊東はしんがりの若様のだいぶうしろを、背中をみせてテクテクと遠ざかって行くところだった。
「オーイ。伊東……」
三人は大声で呼びとめた。伊東はその声でふり返り、
「何やってんだよ、そんなとこで」
と呶鳴り返して来た。
「変なのはお前だ。帰っちゃうのかよ」
そう言うと伊東ははじめて気がついたらしく、
「あれれ……」
と言いながら、歩きにくい砂の上をかけ戻ってくる。背中で革袋の水がポチャン、ポチャンと音をたてている。
「畜生、狐に化かされたかな」
「砂漠の狐か、ロンメルのことだな」
三波がからかう。
「冗談言ってる場合じゃない」
吉永が怯えたような顔で言った。
「まったくだね。ワイナン人たちが言ってたとおり、どうやらここに壁があるらしい」
と若様が言う。
「元いたところへ引っ返しちゃうって奴か」
三波は前進をはじめた。
伊東の足あとが消えたあたりへ来ると、その三波の巨体がフッと消える。
三人は同時にふり返った。ずっとうしろを、伊東と同じように三波が背中をみせて遠ざかって行く。
「オーイ……」
声をかけると三波はすぐふり返り、
「いけねえ」
と駆け戻る。
「たしかに壁がある。ワイナン人はここで砂漠の出発点へ追い返されるんだな」
「どうする。前へ行けないじゃないか」
すると若様は砂の上へ坐りこみ、腕組みをした。
「考えれば判る、みんなでSF的解釈をしてみようじゃないか」
四人は砂の上にどっかと坐って考えはじめた。
「いったい、壁はなんでできてるんだい。そいつが判ればぶっこわせるんだがな」
伊東五郎がすぐに言った。
「無理だな。壁のメカニズムは亜空間そのものにかかわってるからな」
吉永は首を振った。
「向うに見えるのは幻影かね」
三波が言う。
「いや、あの様子じゃ本物だろう。向う側にあるんだよ、何か別の世界が」
若様は慎重な口ぶりで答えた。
「とすると、この見えない逆もどりの壁は、亜空間の外側の壁じゃなくて、亜空間のふたつの世界をわける仕切りの壁かい」
吉永は立ちあがり、小さな丸い石ころを拾って抛りなげた。
石は途中からすっと消えた。
「そうだ。いい線まで来たぞ」
若様は立ちあがると、うしろむきに歩きだした。ゆっくりと、壁とおぼしきあたりへ近寄って行く。
それがひょいと消えた。ふり向くと、伊東や三波が逆もどりしたと同じ位置に立ってこちらを向いていた。
「壁を欺《だま》そうったってそうは行かないよ」
伊東が大声で言った。若様は戻って来ると、立ったまま前を睨んだ。
「吉永。僕らはワイナン人の法則どおりには行っていないよ」
「え、どうして」
「ワイナン人だと、出発点へ戻っちゃうはずだろう。でも僕らは違うね。逆戻りしても、たったあそこまでだ。しばらくは気づかずに行ったとしても、すぐに気づくんじゃないかい」
「そうか。判ったぞ、俺たちは嘘の件と同じように、ここでもコントロールから外れているんだ」
「だから少ししか逆もどりしないのか」
三波は要領を得ないまま、なんとなくそうつぶやいた。
4
壁を突破できたのは、ひとえに四人がファンであったからだ。
現地人に対しては、壁は百パーセントの効力を発揮する。出発点へ逆もどりさせてしまうのだ。
ところが、よそ者の四人に対してはほとんど効果がない。四十メートルほど戻すだけだ。多分それは、亜空間を維持する外側の壁と違って、単なる内部の仕切りの壁であったからだろう。
四人はその点を考え、肩を組み、四人ひとかたまりとなって壁へ突進した。何かの力場があり、それに一人一人が四十メートル程度はねとばされるなら、四人一団となって自分たちの、この世界における異質な力を結集すれば、突き破ることができるかもしれないと思ったからだ。
案の定、四人はみごとに壁をこえた。
しかし、壁の向う側はまったく異る世界であったことが判った。
だいいちに、一挙に気温がさがってしまった。
南国の、半裸に近いような服装の四人は、みるみる寒さにふるえた。その寒さにくらべたら、ワイナン側の灼熱《しやくねつ》の砂漠のほうがよほど楽なようであった。
それに、空が灰色で重苦しい感じだった。前方に見える森の気配もただならず、陰気で妖《あや》しい雰囲気が漂いだしている。
砂さえかなり堅く締って歩きやすい。
「寒いよお……」
睡いだの腹が減ったのということにはまるでこらえ性のない伊東が泣声をたてた。
「誰だい、あんな壁を通り抜けるテを考えたのは」
「うるせえ、黙って歩け」
三波が本気で呶鳴った。憤ってるほうが寒さを感じなくてすむ。熱いときに腹をたてると余計暑くるしい。人間とはおかしな生物だ。
とにかくそうやって四人はやっとロスボ高原の裏側へたどりついたのであった。
壁の向う側の妖しい世界に大いに興味があったが、とにかくヴァレリアたちワイナン人との約束を守るため、四人は逆戻りのかたちで高原へ登りはじめた。
「いくら嘘つき四剣士でも、そんな大嘘はつけないからね」
岩だらけの坂道を登ってだいぶ高いところまで行った時、三波が突然悲鳴をあげた。
「いけね……」
「どうした」
三人が足をとめる。
「見ろよ。俺、幽霊になっちゃった」
三波の体は半分岩の中へ入っている。
「やや……」
三人とも自分の体をみまわした。
まさに幽霊であった。足を地につけているつもりが、岩の中へのめりこんだり浮きあがったり……。
「虚体化してるんだ」
「ジョーカンジー……」
「そうだ。ジョーカンジーはこうなっていたんだ」
三人はくちぐちに叫んだ。
幽霊的大革命
1
ロスボ高原は、ベルヴェラスの山よりはるかに荒涼としていた。ベルヴェラスは赤茶けた山肌で、岩も赤褐色をしていたが、ロスボは黒ずんだ鉄色の世界であった。
「いいかみんな。落ちつくんだ」
吉永佐一が大声で言った。
「そうだ。うろたえるな、チャン……」
三波伸夫も同じように大きな声を出したが、それはどうやら自分自身の狼狽《ろうばい》を鎮《しず》めるためのようであった。
「何言ってんだよ。いちばんうろたえてんのは自分じゃねえか」
伊東五郎は膨《ふく》れ面《つら》をした。
「莫迦、これがうろたえずにいられるかよ。生きてるのに幽霊になっちゃったんだぞ。うろたえるのが普通だ」
「だったらなぜ……」
「だから落ちつけって言ってるんだよ。判ったか」
「ちぇっ。変な理窟」
伊東はますます膨れ、足許《あしもと》の小さな岩を蹴った。だが思いどおりには蹴れず、伊東の足は岩をくぐりぬけてスポッと宙を蹴った。
「あ、そうか」
伊東は憮然《ぶぜん》とした。
「いいかい。あれを思いだすんだよ」
山本麟太郎が、その伊東の顔をみつめ諭《さと》すように言う。
「これはSFだ。僕らはいま、或るSFのストーリーの中にいる……訳の判らないことにぶつかっても、すべてSF的な解釈で乗り切って行こうって約束したろう」
「そうだった……忘れかけていた」
三波が気をとり直し、伊東の肩を叩いて言った。伊東も頷《うなず》く。
「そうだ、質の日会の名誉にかけて、俺たちはこんなことぐらいで驚いちゃいけない。第一、びくびくすることなんかありゃしない。これはSFで、しかもハッピー・エンドになるにきまってるんだからね。最後に意外などんでん返しぐらいはあるかも知れないけどさ」
「お前、いま俺の肩を叩いたな」
「うん。痛かったかい。ごめんよ……」
「お返しだ」
伊東は、詫びている三波の肩を、勢いよく叩き返した。叩いてから自分の手と三波の肩を見くらべ、それから山本麟太郎と吉永佐一の顔を順に眺めた。
「うん、そうだ」
吉永は頷いた。
「何なの」
伊東が吉永に尋ねる。
「俺たちはベリ砂漠に出て、ワイナンやロスボの人間には決して越えることのできない、次元の壁のようなものを越えてしまった。あれは多分、この亜空間内部を仕切る、たとえば密封した箱の中の隔壁のようなものだったのだろう。壁を越えてこっち側へ来て、もといた世界へ戻ったらこの通り幽霊じみたことになってしまった。……この事はSF的に考えれば、俺たちにはいろんな解釈が可能なはずだ。そうだろう」
「俺たちは、ロスボやワイナンの世界からみると、異次元の生物になってしまったんだよ、きっと」
三波は伊東の体をじろじろ眺めた。吉永はおかしそうに山本と顔を見合わす。
「石を蹴ると足が石の中を通りすぎてしまうが、仲間同士が肩を叩くと、ちゃんと叩ける。それは僕らが同じ世界にいるからだよ」
山本が伊東に微笑しながら言った。
「あ、そうか」
伊東は右手で左腕を叩いてたしかめた。
「じゃ、俺たちはいま四次元にいるの……」
そう言って、今更のようにあたりを眺めまわす。
「どうも、本物の次元差ではないようだね」
山本は吉永に同意を求めた。
「うん。この亜空間の中には、いくつかの世界があるようだ。俺たちが越えた、その逆戻りの壁で、一応異次元風に仕切られている。でも、あいつはたしかに疑似的なもんだ。俺たちが知ってる次元差の現象とはだいぶ違うよ。いったん壁を越え、ロスボ高原の裏側を登って来たろ。最初の内、小石を蹴ったりしたのを俺は憶えてるものな。それがいつの間にか幽霊みたいになった。壁は高原の登り口にも続いていて、俺たちはもう一度逆方向から越えたんだ。今度は壁を破れず、ロスボ側へ突出した俺たちをくるんだまま、どんどん伸びている……一応そう考えていいんじゃないかな」
四人ともうしろを振り返った。高原の下に、陰鬱な森がひろがっていた。
2
四人は寒さに震えながら、ロスボ高原の中央部へ向った。
「岩ばかりで木も草もなんにもありゃしない」
三波がうんざりしたように顔をしかめた。
「見ろ、あれを……」
吉永佐一が指さした方角に、人間が大勢動いていた。近づいてみると、それは何かの鉱山らしかった。
「露天掘りじゃないか」
伊東が言うように、坑道はなく、地表から直接鉱石を掘り起して、今では野球場ひとつ分くらいの大きな穴になっている。
二人ひと組になって畚《もつこ》をかついだ列が、延々とその穴の底から這いあがって行くのを眺めながら、山本が言った。
「僕は地学は駄目なんだ。何を採っているか判るかい」
「そうだな……」
三波はかがんで足許の岩屑を拾おうとし、堅い岩盤の中へ右手を突っ込んでしまう。
「親分。いま何か拾おうとしたのかい。拾えないんだけど……」
伊東に言われて、三波は憮然とした。
「足がかゆかったのさ」
「これは鉄鉱石だ。間違いない」
吉永が自信たっぷりに言い切った。
「奴隷だ。ほんの僅かのロスボ兵に、大勢の奴隷が使われている」
山本はそう言いながら、露天掘りの穴のへりを歩きはじめ、すぐ立ちどまって穴の底をのぞきこんだ。
「危いよ、若様」
伊東が注意した。山本は振り向いて微笑し、六、七十メートルの深さがある穴へ向って足を踏みだした。三波と伊東は、あっと叫んで両手で顔を掩う。
「奴隷を解放してやらなけりゃ……」
吉永の落着いた声に二人が顔にあてた手をはずして見ると、山本と吉永が空中に浮いて進んでいた。
「おい、どうなってるんだ。いつそんな術を憶えたんだ」
三波が喚《わめ》くと吉永が振り返り、
「壁のこっち側じゃ、俺たちは虚体化してる。幽霊じゃないか。ここへ入る迄だって、地面の上を歩いたわけじゃないんだぜ」
伊東と三波は顔を見合わせた。
「あいつら二人とも、俺たちよりずっと度胸がないくせに、こういうこととなると理窟で割り切って平気でいやがる」
三波はぼやきながら穴のふちへ近づき、恐る恐る右足を突きだした。それをうしろから伊東が勢いよく両手で突きだした。
「死にはしないんだ。未来を見たろ……」
三波の肥満した体は穴の上の空間へ突きとばされ、右足をあげ左足を踏んばった形でとびだして行った。
「莫迦、何しやがる」
スケート場へ押しだされた初心者のように、三波はうろたえながらかなりのスピードで山本と吉永を追い越す。
「こいつは面白いですよ……」
伊東はつぶやきながら、こっちのほうは地面を踏む手ごたえ……いや足ごたえがないものだから、必要以上に小きざみに足を動かして三波のあとを追う。
「とめろ、とめてくれ」
「そうだろう。抵抗がないからな。摩擦系数ゼロだもの」
三波は驚いて足をバタバタやっている。前へ向けてやったので、やっと滑走はとまったが、そのかわり体が水平になってしまう。
「おや、親分。お昼寝ですか」
伊東は足を先きにあおむけに浮いている三波の顔をのぞきこんだ。
「畜生、危《ヤバ》そうなことはなんでも俺にためさせやがる……どうでもいいけど、まっすぐ立つ時はどうすりゃいい」
「俺だって知らないよ。いろいろやってごらん」
「こん畜生。手をかせよ」
山本がやって来て三波の左手を握った。
「僕らはこれから、できるだけ威厳を保たなければいけないんだ」
山本に握ってもらった手を軸に、三波の体がゆっくり垂直に戻る。
「どうして」
伊東が尋ねた。
「今までは、革命神ジョーカンジーのお使いだったけど、こうなったらジョーカンジーと同格に扱われるだろう」
「それはそうだ。幽霊だもんね。そうか、おい親分。俺たち、臨時の神様になるんだよ。神様は神様らしくしなくちゃ」
「神様らしくか……まっ四角な顔の神様なんているか」
「いるよ。四角の金毘羅さま」
「なにを……」
三波が目を剥《む》く。
「洒落《しやれ》や冗談を言ってる場合じゃない。下を見てみろ」
吉永が注意した。
四人がうつむくと、穴の底は監視の兵士や採鉱奴隷たちが、一斉に上をみあげ、何か喚き合っていた。
3
すらりとした若様こと山本麟太郎が主神。頭でっかちの吉永佐一が副神。デブの三波伸夫と四角い伊東五郎が露払いといった恰好で、四人は静々と高度をさげた。
「鉄の山に働く者どもよ……」
三波が大声で言いかけると、吉永が慌ててとめた。
「言い方が違う」
「違うって……」
「ベルヴェラスの洞窟でウル・クォルンの神官がやってたろう」
「あ、そうか」
三波は思いだし、声の調子を変えた。
「我々はァ、ジョーカンジーのォ、同志でェ、この世界にィ、よりよい平和をォ、もたらしにィ、やってェ、来たのでェ、あるゥ……これでいいかな」
「まあまあだな。みんなひざまずきはじめてる」
「兵士たちはァ、ただちにィ、鉱山労働者たちをォ、解放ォ、しなければァ、ならないィ。ロスボ王のォ、奴隷としてェ、酷使されて来たァ、労働者諸君はァ、ただちにィ、帰郷してェ、よろしィ……」
「そいつは大ざっぱすぎるよ。演説しただけで解決するとは限らないだろう」
吉永が注文をつけたとき、下で大勢の奴隷たちが大歓声をあげた。兵士たちが立ちあがり、歓声をあげる奴隷たちを威嚇《いかく》した。
「なんだ畜生。言うことを聞かねえつもりか」
伊東が憤った。
「おお神よ」
兵士のリーダーらしいのが上を向いて呼びかけて来た。
「我々はァ、ロスボ王のォ……」
「向うのがずっとうまいや」
「兵士でェ、ありますゥ」
要するにその隊長は、ロスボ王に忠誠を誓っているから、神が現われて急に奴隷を解放しろと言われても困るというのである。
奴隷監督隊の隊長が言い終ると、山本が一番うしろから……いや、一番うしろの一番高い位置から静かに滑りおり、その隊長のすぐ前に立った。
隊長は目の前の神に接し、懼《おそ》れ畏《かしこ》んでひれ伏した。
「奴隷たちをどう思う」
山本が低い声で尋ねた。
「汚い奴らです。ずる賢い、油断のならん奴らです」
「呆れた野郎だ」
憤りかける伊東を、山本は手で制した。
「嘘のつけない人達だよ。心の底からそう思っているんだ。だったら、この隊長たちにそう思わせている何かに怒りをぶつけるしかないだろう」
「そう言えばそうだろうけど……」
「答えなさい。奴隷を憐《あわ》れだと思ったことはあるか」
「はい、綺麗な奴隷が苦しんでいるのを見ると、可哀そうだと思う時があります」
「助けてやろうと思わないか」
「でも、ロスボ王が恐ろしゅうございます。奴隷を逃せば私が殺されてしまうのです」
「もし、ロスボ王がいなくなったらどうする」
「ロスボ王が……」
隊長は上目づかいに山本を見た。
「考えたこともありませんでした。でも、ロスボ王がいなくなれば、誰かがすぐそのかわりになると思います。私はロスボ王の時と同じように、その方の命令に従うでしょう」
「君がロスボ王のかわりにはなろうとは考えないのか」
「私めが……とんでもありません。私にはそんな力はありません。しかし、王がかわる時、少しゴタゴタすればいいとは思います」
「どうしてかね」
「新しい王のためになるような働きをすれば、今より少しはいい役につけるからです。奴隷の監督はあまりいい役目ではありませんから」
「判った。では君に奴隷を解放させるのはやめさせよう。だが、神がこうして現われたのは、ロスボ王をしりぞけるためだ。新しい王は奴隷を解放するはずだ。だから君は、それまでしばらく奴隷の労働を中止させ、たっぷり食物をあてがってやれ。さもないと、奴隷が解放されたとき、君らの命が危い」
隊長は了解のしるしに、また深ぶかとひれ伏した。
4
露天掘りの鉱山に平和が訪れた。
「ロスボ兵をやっつけて、採鉱夫たちに武装蜂起をすすめたほうが、手っとり早いんじゃないの……」
伊東は不服そうだったが、吉永がそれを一笑に付した。
「俺たちがどうやってロスボ兵をやっつける。ぶん撲るのかい」
「そうか。剣で刺しても通り抜けるだけなんだな」
「何かの策を用いてロスボ兵を追い払ってみても、まわりはロスボの精鋭だらけのはずだ。採鉱夫たちは寄ってたかって皆殺しにされちゃうよ」
すると山本が笑いだした。
「でも、僕も随分思い切ったことを言ってしまったな。僕らしくもない」
「どうしてだい、若様……」
三波は納得が行かないらしい。
「ロスボの王権交代を約束してしまった。しかも、新王は奴隷を解放する人物でなければいけない」
「心配ない。麓《ふもと》にはウル・クォルンの大軍が、首を長くして待っているよ」
「それが登ってこれないから、僕らが裏からまわったんじゃないか。四人でロスボに新しい体制をもたらさなければならないんだよ。大変な仕事だ」
「革命神か。そう言えばいつの間にか、ジョーカンジーと同じ立場になってしまったな」
三波は首をすくめた。照れているらしい。
「なあ山本」
吉永が言った。
「人間の社会なんて、どこも似たようなもんだ。さっきの隊長の台詞《せりふ》を聞いたろ。兵隊なんて、上の命令次第なんだな。組織によりかかるより能のない連中なんだ。今の親玉が倒れても、すぐ誰かかわりが出て来る……たしかにその通りさ。でも、考えてみれば情ない。そうだろ。自分自身との関係は、天候が変る程度にしか考えていない。積極的に自分が変えようとは思わないんだ。たしかにそのほうが実生活では無難だ。自分は歯車の一個でしかない……そう規定して、大勢のおもむくままに自分も流れて行く。だが、そのくせ権力交代のどさくさに調子よく動いて、なんとか階層を這いあがることだけは忘れない。今彼に、独自でワイナン側と和睦せよと言ったら、そんなことはできないと目の色変えるにきまっている」
山本が頷いた。
「うん。でもそれは、彼の所属する組織全体が、みな彼と同じ生き方をしている人間の集団だと知っているからだよ。上の意向に結局は従う……それが判っていて、その上、上層部は決してワイナンと妥協しないだろうという確信のようなものがある。その確信が彼を支えていて、彼にひとつの政治的立場というか信条というかを与えているんだな。ロスボの愛国的兵士というわけだ。でもそれは軍人ばかりじゃないし、ロスボやワイナンだけのことでもない。たとえば、ファシズムの国に生まれた人間が、ファシストと同じ考え方を持ってしまうのは、何も偏《かたよ》った教育を受けるせいばかりじゃない。偏った教育方針が権力者によって行なわれているということのほうがむしろ問題なんだ。天皇は神であると国中で言っている時、弱い人間は、天皇は神であると信じたほうが都合がいい。そのほうが暮しやすいんだ。長い間そうやって暮している内に、それが自然になって、一種の精神的な故郷が作られる。故郷が破壊されそうになれば誰でも奮起するだろう。老愛国者だな、その時は。でも、老、だから自分じゃ故郷を破壊する敵に立ち向うことはできない。若者に頼らなければならない。そこで偏向教育をますます強化する。ふたこと目には、今時の若いもんはと来る。でも、老愛国者の精神的故郷とは、本当の故郷ではない。生れ育った国土を愛することとは完全に一致しない。しかも、その国土を含む世界全体は常に流動していて老愛国者の故郷では通用しにくくなっている。それでも老愛国者は叫ぶんだ。国を守れ、故郷を守れとね。でも、その上に、俺の、とひとこと本当のことをつけ加えてもらいたいね。俺の精神的故郷を守ってくれ、とね。ところが、その叫びに同調する若者も多い。老愛国者たちが権力を持っているからだ。あの隊長と同じさ。個人より先に全体を考えてしまう。自分は全体の中から生れた個人なのだ……そう考える連中がやたら多いってことさ。しかも、その全体ってのが、世界じゃなくて、老愛国者の足許だけなんだからね」
吉永は山本が喋りおわると指を鳴らした。
「それはたしかだ。とすると、革命の図式は決ったな。老愛国者たちをバラバラにして噛《か》み合いをさせるんだ」
山本が愉《たの》しそうに笑った。
宇宙人的物々交換
1
四人はロスボ中の鉱山を駆けめぐって、最初の鉱山と同じように王権交代を預言し、奴隷の労働を一時中止させた。
どの鉱山の監督者も、だいたい似たり寄ったりの人物で、結局ロスボの全鉱山は完全に操業を中止した。
「ゼネストだ、こりゃ……」
伊東はうれしがった。生れついての弥次馬で、台風で人通りが絶えるとずぶ濡れになって歩きまわり、停電すると懐中電灯を持って用もないのに外へ出て行くタチの男である。
だが、どこの世界でも上のほうの人間は体裁のいい所へ引っこんでいるから、全鉱山が円満に操業を一時停止したのでは、なかなか情報が掴《つか》めない。
その間に山本と吉永、手当り次第に下級ロスボ兵をつかまえて、ロスボ政界のあらましの情報を把握《はあく》してしまう。嘘をつけない連中が相手だから、この作業は至ってやり易い。
「うまい具合に、ロスボ王の下に実力者が四人いる。手わけして、まずこいつらを操っちまえ」
吉永がニヤニヤしながら言った。生れついての策謀家で、彼がリーチをかけたら安全牌が危険牌。リーチとは筋で引っかけるもんだと思い込んでいる。場に切り出した十一牌の内九牌までが萬子《ワンズ》で、聴牌《テンパイ》が三《サブ》・六《ロー》・九《チユー》の萬子《ワンズ》三門待ちという離れ技をやってのける。もっとも、その時は自摸和《ツモアガ》りで本人はひどくがっかりしていたが……。
閑話休題《それはさておき》。
実力者という連中が決してしないことがひとつある。それは実力者同士がかたまって暮すということだ。本物の実力者はみなバラバラに離れて生活している。集団を作る実力者というのは二流の実力者で、三流以下になるとかたまっていなければ力が出ない。
閑話再開《はなしはそれるが》。
麻雀だって同じことだ。いつも仲間同士でやる麻雀でずば抜けて強い奴は、実力者だとおそれられるし尊敬もされる。だが、その実力者といつも卓を囲む他のメンバーが、実は麻雀というより牌の絵柄コレクションと言ったほうがいいくらいの、役にこだわる初心者であることが見落されている場合が多い。本当の実力者はとうていそんな初心者を相手にはできない。あくびをして新聞読んで、ラーメン食ってまだゆとりがある。
本物の実力者は、千点で和《アガ》ると膨れるようなのを相手にしてはいられない。他流試合の初対面相手ばかりである。ところが、そういうのは、非実力者たちから、「あれは博奕《ばくち》打ちだ」と嫌がられる。筆者《わたし》なども随分と嫌がられる。日本中に相手がいなくなって、仕様がないから今、家内とお袋に教えている。子供はまだ数を算えられないから三人麻雀で、それでも千点で和《アガ》っている。余り実力があるのも考えものだ。
閑話終了。
四人の神様が四人の実力者の夢枕に立った。四人とも言う台詞は同じ。
「汝はァ、次のォ、王位にィ、つくべきでェあるゥ」
四人の実力者の第一反応も同じであった。
「ロスボ王はどうなります」
「あれはァ、我々にとってェ、不要のォ、人物であるゥ」
「私めが王位に就くことを、神はおたすけくださいますでしょうか」
「全面的にィ、支持するゥ」
そう言って置いて、四人がまた集る。
「さて、ロスボ王の権威をどうやって失墜《しつつい》させるかだな」
山本が言った。すると吉永はケタケタと笑った。
「何がおかしいんだ」
「人間なんてくだらないと思ってね」
「どうして」
「俺たちはロスボ王に何もする必要はない。これでおしまいさ」
伊東と三波が驚いた。
「ほんとかおい。これだけでいいの」
「いいとも。神々がロスボ王の失脚を宣言した。四人の実力者に次期政権担当の夢を吹き込んだ。兵士たちはひとり残らずそのドサクサに紛れていい地位に就こうと計算している。誰が今のロスボ王を支持すると思う。ロスボは四つに割れたんだ。あとはロスボ人がやってくれるよ」
「でも簡単すぎるよ」
「それじゃ、もうひとつ駄目押しをしとこうか」
「どうするの」
「四人でロスボ王の所へ行って、お前を支持すると言ってやるのさ」
「そんなことしてどうなるんだい」
「めいめい、神に支持されていると主張するだろ。いずれ対決の時が来る。その時、俺たちはみんなの前で、お前なんか支持しないとロスボ王に恥をかかせてやるんだ」
「で、奴隷解放の件は」
「四人は別の四柱の神にそれぞれ支持されている。勝ち抜いて王にならなければいけないだろう」
「うん」
「ところが、四柱の神の預言で一致している部分がある」
「あ、そうか。奴隷解放の公約だな」
「それをうけ入れた奴が生き残るだろうな」
「なるほど、詰将棋だな」
「公約をうけ入れそうもない実力者を支持している兵士たちには、俺たちがあれは王になれないと言ってやる。われがちに支持を変え、ロスボ王同様味方は誰もいなくなるって計算だ」
「うまく行くかな」
「人間なんてそんなものさ……」
2
ロスボ政界は荒れに荒れた。
四人の神に支持されたと信じて自信たっぷりだった現ロスボ王は、四実力者と公開の対決の場へ乗り込んで、全ロスボ人の前で神々から冷たく拒否されてしまった。
誰の目にも新王出現は明らかとなり、ロスボ人はそれぞれの思惑に従って支持者を選んだ。
だが、鉱山こそがロスボの生命であり、鉱山奴隷の解放はできない相談であった。労働力と食糧を確保して鉱山を維持するのがロスボの生きる道であり、その為にこそ、唯一の隣国であるワイナンと戦争をはじめたのであった。
しかし、ファシズムの形態をとるロスボ人の、実際の政治意識は極めて低いと言えた。打開の道を探るのは上層支配階級の使命であり、四実力者の誰かが、その解答を提示するはずであるとしか考えないようであった。奴隷解放という神々の公約を実行できる人物を求めて、ロスボ人は右往左往している。
頭脳の柔軟でない人物から、順に脱落をはじめた。
それを煽《あお》りたてながら、四人は文字どおり神出鬼没の活動を続けていた。ただし、神出鬼没と言っても、そう勇ましいものではない。ただ、神か幽霊かというような状態で、ロスボ側から見ればフワフワとあっちこっち漂いまわっているのだ。
壁だろうと塀《へい》だろうと、障害物をどんどん通りすぎてしまうのだから、神出鬼没と表現するよりないわけである。
「おかしいな」
「うん。たしかにおかしい」
例に依《よ》って、山本と吉永が何かに気付き、顔を見合せた。
例に依って三波は何のことやら判らず、伊東は判らないことさえ判らないでよそ見をしている。
「何がおかしいんだい」
三波が尋ねる。
「ワイナンには鉱物資源がなかった。鉄や銅などはすべてロスボから供給されていた。ワイナン人たちはロスボの収奪を憤ってたけど、元来ワイナンは食糧や労働力をロスボに供給し、その見返りとして金属を受取らねばならないんだ。ただ、ロスボ側が少々それをやりすぎたというわけさ」
山本が説明をはじめ、吉永が途中から引継いだ。
「俺たちは、ワイナンで車輛その他の道具の製造を指導して来た。たしかにベルヴェラスの山賊たちも一般のワイナン農夫たちも、金属の加工技術には習熟していたよ。でも、それはみんな二次製品の作りかえだ。鋤《すき》であったものを剣に、鍋であったものを冑《かぶと》にするだけさ。その前に鉱石を精錬し、鉄なら鉄の塊《かたま》りにしなければならないだろう」
「そう言えばそうだな」
三波は岩を通り抜けながら腕を組んだ。
「それはロスボがやってるのさ」
と伊東。
「見たかい」
「ん……」
「金、銀、鉄、銅などの精錬設備を見かけたかというんだよ。どこにもないじゃないか。ここの連中は、各種の鉱石を堀りだして、いったいどうしてるんだ」
「あれ、なかったかな。それじゃ輸出……」
「どこへ」
「あそこへ」
伊東はロスボ王の宮殿のうしろにそそり立つ、高い山を指さした。
「道がついてるよ。畚《もつこ》で運んで行くんだって奴隷が言ってたよ」
吉永は舌打ちして山本を見た。
「行ってみよう」
山本は山へ向って進みはじめた。
3
それは宮殿の背後にある、まっ黒な円錐形《えんすいけい》の山であった。円錐をぐるぐるとまわって道が頂上の平坦な広場へ到っている。
もちろん、四人はその道なりに登ったわけではない。静々と垂直に上昇し、途中から水平に広場へ出たわけである。
広場に巨大な倉庫らしき建物があり、その傍に鉱石の山があった。
建物の壁を通って中をのぞくと、内部はガランとして何もなかった。
「どうなってんだ、これは。何もないじゃないか」
吉永が首を傾《かし》げた。
「随分高いな。ロスボもワイナンもひと目で見渡せるぜ」
伊東は眺望をたのしんでいる。
「みてごらんよ。やな感じの森だな」
それは、砂漠の彼方に見えた、あの妖しい森の国であった。
「ここの始末を早くすませて、あっちへ行って見なければならない」
山本がつぶやいた。
「それはいいけどさ。ヴァレリアちゃんを連れて行かなくていいのかい、若様」
伊東に言われ、山本は苦笑する。
「ヴァレリアは壁を越えられないさ」
「哀しいね」
伊東はシュンとしたが、いつまでシュンとし続けていられる人物ではなかった。
「見て見て見て……」
とけたたましく別な方角を指さす。
「あの茶色いの、なんだろう」
砂漠の、森の国とは逆の方に、伊東が言うとおり焦茶色の直方体が見えていた。
「なる程。恐しく大きいものらしいな」
山本が表情を引きしめて言った。遥か彼方に見えるその焦茶色の直方体は、近寄れば多分新宿の超高層ビルより高いかも知れない。
「人工のものだな。どうやら完全な直方体をしているらしい」
「ビルかね」
伊東がそう言ったとき、あたりに尖光《せんこう》が輝いた。
「なんだ、今のは」
伊東と山本が振り返ると、三波と吉永がポカンとした顔で言った。
「なくなっちゃった」
「何が」
「鉱石の山だよ。まばたきひとつする間に、パッと消えてなくなっちゃった」
事実、各種の鉱石を盛りわけた山が、ひとつ残らず掻き消えて、跡は掃《は》いたように綺麗になっている。
「はて……」
山本はあたりを見まわし、するすると動いて倉庫の中へ。
「おい、来てみなよ」
呼ばれて三人がそれに続く。
「これはどうだ。なんてこったい」
三波が叫んだ。
たった今まで空っぽだった倉庫の中に、剣は剣、鋤は鋤、鍬《くわ》は鍬、鍋は鍋――各種|金物《かなもの》とり揃えて、種類別にきちんと積まれているではないか。
「誰がこんなことをしたんだ」
と伊東。
「莫迦。判り切ったことを言うな」
三波が叱りつける。
「じゃ誰が……」
「判んないよ。判んないにきまってるってことが判り切ってる」
伊東がゲンナリしてみせた。
「剣にも鍋などの器類にも、何も模様などついていない。飾りたければ勝手に飾れという塩梅《あんばい》だな」
「一度に鉱石から二次、三次の製品にする仕掛けがあるんだろうか」
山本は剣を手にとって調べている吉永に言うと、地の底へぐっと沈みこんでしまった。しばらくそうやって姿を消し、出て来ると首を横に振ってみせた。
「下はただの岩ばかりさ。何のメカニズムも隠されてはいないよ」
「錬金術《れんきんじゆつ》なんてもんじゃないな」
吉永はそう答えると外へ出て空を睨んだ。
「何か見えるの」
伊東が横に並んで空を見あげた。
「多分こういうことだ。亜空間を支配している宇宙人にとって、ロスボやワイナンの住人が富を得る為に労働することは必要だが、鉱石精錬技術などは必要としないんだろう。ロスボやワイナンが中世風の段階でとまっているのはその為さ。だから、鉱石をここへ運んで来ると、宇宙人は彼らが必要と認めた分量だけ、品物と交換してやるシステムをとっている」
それが吉永のSF的な思考による推論だったが、それ以上のことは判らなかった。
4
いったい、宇宙人はこの亜空間で何をたくらんでいるのだろう。……四人は長い間議論をたたかわせ、結論を得ぬまま、その物々交換の山をおりた。
その内にロスボの情勢はいっそう煮つまっていた。
新王候補者たちは、公約|履行《りこう》の方策を求めて必死の知恵をしぼっていた。
過去に溯《さかのぼ》って、前王の施策の欠陥が研究され尽し、一人がほぼ正確に近い答をだした。
「奴隷を解放すべし……」
実行不可能に見えた神々の公約を、彼は神々以上に断固として主張しはじめていた。残る一人の候補者も、やむを得ず対抗上同じことを言っているが、どうすれば奴隷を解放した上でロスボが維持できるか、はっきりした答は掴んでいないようだ。
民衆とは意外に敏感なものである。新ロスボ王の候補が一人にしぼり込まれて来たらしいと悟って、二分された勢力が一方にかたまりはじめる。
「奴隷を解放し、ワイナンと共存共栄できる平和の道を発見し得た賢者こそ、新しいロスボの王である」
四人はロスボ人の間に、そう言って最後の駄目押しをしてまわった。
相手が正解を掴んでいないのを見抜いて、一方が妥協の余地のあることをほのめかすと、事態は急転直下解決に向った。
勝ち残った二人の内、はじめから第二位のほうについていた連中は、頑張り続けて元も子もなくすことを惧《おそ》れ、正解を得たらしい相手の下風にみずから甘んじる姿勢になった。敗北をさけ、しかもいくらかでも優位を残そうというのである。
一種の連合政権が誕生し、麓のウル・クォルン軍に対し使者が送られる。
ヴァレリアをはじめ、ワイナン側の主だった連中が山を登って来た。
「今日の事態を招いたのは、前ロスボ王の悪政によるものであり、我々は前ロスボ王を排して、新しい友好的な国家を建設するつもりである」
臨時に設定された休戦ラインの上の会議場で、ロスボ側はそう言明した。
「ロスボは元来ワイナンの一部であり、それがワイナンの主権に逆らって不法に独立を宣したにすぎない。ロスボはよろしくワイナンに復帰するべきである」
ワイナン側の主張は強硬であった。
「否《いな》。過去は過去として、ロスボが国王として成立してすでに久しい。それに、ロスボとワイナンは風土的にも大きな差異があり、これをひとつにしても、いずれ分裂の危険が生じるのは容易に予測されるところである。また、かつての分裂は、それなりに理由のあったことである。肥沃《ひよく》な農業地帯ワイナンの住人は、苛酷な鉱業地帯ロスボに対し、同情を欠いた取扱いがあった。現在のロスボ軍人層は、すべてその頃の採鉱夫の末裔《まつえい》である。ワイナンにはワイナンの、ロスボに対する圧政の時代があったことを想起されたい」
両者は結局妥協を目ざしながらも、相互に硬い主張をくり返した。代表団は再三、再四自陣営へ戻り、協議しては改めて会議場へのり込んだ。
「政治ごっこって言うのは、はたで見ている限りいちばん面白い見ものだな」
伊東がそんな感想を洩らすと、山本は微笑しながら、
「案外、宇宙人たちも面白がっているかもしれないね」
と、そう言ってから急に表情を堅くして考え込んだようだった。
「前ロスボ王の施策を改めるについて、ワイナンにも王制の改革を求めたい」
最後にロスボ側はそういう意表を衝《つ》いた申出を行なった。これには流石《さすが》のウル・クォルンも戸惑ったようだった。
明確な態度を示さず、
「理由を説明されよ」
とだけ答えた。次のロスボ王を自任する実力者は、ここぞとばかり急調子で出た。
「ワイナンのドロシー女王を更迭《こうてつ》されたい」
「更迭とは退位のことか」
「退位ではない」
「意味が不明である。明白な説明を乞う」
「ドロシー女王は前ロスボ王の傀儡にすぎないからである」
「それは、前ロスボ王の圧政の為であり、新ロスボ王が出現すれば、その状態は自然に解消する」
「解消しない。ワイナン、ロスボの平和の為に、ワイナンもまた過失を訂正すべきである」
「我々はドロシー女王を戴いていることを過失だとは思わない」
「過失である」
「理由を述べよ」
「現ドロシー女王は、ワイナン国の正統な後継者ではないという証拠がある。現ドロシー女王は、前ロスボ王によって送り込まれた偽《にせ》の王位継承者であり……」
延々と遠まわしなやりとりが続いていたが、ドロシー女王偽者説を聞いたとたん、神々はワイナン側に現われてウル・クォルンたちに告げた。
「真のドロシー女王は、難を避けて密林地帯の海岸側にかくれ住んでいる。場所はワイナンのバゼというところだ」
ヴァレリアが一隊を率いてバゼに急行し、あの父娘を連れ戻った。亜空間の海から岸辺に漂着した四人に食物を恵んだ老人は、ロスボ王に殺されたと信じられていた前ワイナン国王であり、美少女ドロシーはその皇女であった。
前ロスボ王は、ロスボ、ワイナン両者の代表によって処刑され、両国対等の条約が結ばれて戦争は終った。
魔術的大森林
1
たそがれ迫るロスボ高原は、吹きわたる風さえも哭《な》いているようであった。
今はロスボ、ワイナンの敵味方が親しげに入り混って四人を見送る中で、ウル・クォルンの娘ヴァレリアが、美しい縁取りのあるドレスの裾を引いて、山本麟太郎にとりすがろうとした。
しかし無常にも、今の二人は幽明境いを異にして、ヴァレリアの手は思わずさしのべた山本の手を虚《むな》しく素通りし、バランスを失したヴァレリアは岩の道に崩折れる。
「行っておしまいになるのね……」
体を斜めに、両手をついて、ヴァレリアは怨《うら》めしげに山本を見あげた。
「残念だが……」
ヴァレリアは、つぶらな瞳に泪を泛べ……
艶話休題《ごそうぞうにまかせて》。
「若様、なんとかしてやれねえのかよ」
三波伸夫が憤ったように言った。
「仕方ないだろ。彼女は壁を越えられない。よしんば越えられたとしても、この先の妖しい森で何が俺達を待っているかだ。のん気に構えているようだが、これは危険この上もない旅なんだぜ」
吉永佐一は諭すように言い、伊東五郎のほうをちらっと見た。
「未来を見たから俺たちはまず安全だが、ヴァレリアはそうは行かない。連れだして危険な目に会わせるより、平和になったワイナンで、幸福に暮させたほうがいい。テコトルはヴァレリアを愛しているんだ。似合いの夫婦だと思わないか」
伊東が不服そうに口をはさんだ。
「あの二人、喧嘩ばかりしてるじゃないか」
「仲がいいんだよ、それだけ」
「でも勿体《もつたい》ねえよ。若様、ひとごととは思えないね。俺ならお別れに一度くらい……」
「どうする」
「…………」
「お前は顔に似合わず助平でいけないよ」
三波が言った。
「あれ、いい男じゃないと助平になれないのかい」
「いい男が助平だと、あまりいやらしくないからな」
「ちぇっ、俺は四角い助平か。天は二物を与えずとはよく言ったもんだよ」
「言葉の使い場所が違ってんだよ、だいたいお前は二物って柄か。荷物って顔だ」
「四角いから縛りいい」
「やだ。畜生、若様まであんなこと言いやがる」
四人の莫迦な会話は伊達《だて》じゃない。辛い別れを男なら、綺麗に笑って背を向けて……そういうつもりで妖しの森の見える砂漠へおりて行く。
なだらかに森へつらなるロスボ高原は、おりてみると、森と岩場の間が幅の狭いサバンナ地帯でつながっていて、両側は一木一草もない砂漠である。
ワイナン人が死の塔と呼んでいる、あの焦茶色の巨大な直方体は、地平線の彼方へ沈んで見えなくなっている。
「死の砂漠だな、これは」
三波が言った時、伊東が遥か砂漠の中央部のあたりの空に動く物体を発見して叫んだ。
「見ろ。鳥だ……」
その物体はゆるく翼を動かしている。
「おかしいな。鳥の動きでもなさそうだぜ」
吉永が注意深く観察して言った。
「じゃ、飛行機……」
伊東が言うと、三波が即座に、
「鳥型飛行機《オーニソプター》だ」
と言ってニヤリとした。
「鳥型飛行機《オーニソプター》……あれ、親分も|砂の惑星《デユーン》のファンかい」
「あたり前だ。あんな面白えSFは久しぶりだ。できれば一冊にまとめて、一遍に読ませてもらいたかったよ。巻末の、帝国における用語集って奴を、いちいち引かなくてもいいくらいに憶えると一冊終っちゃう。で、次のが出る頃は半分以上忘れててまた憶え直しさ。じれったいっちゃありゃしない」
「鳥型飛行機《オーニソプター》か……するとここはカノープスの第三惑星。砂丘《デユーン》で知られるアラキスなのか」
伊東がわざとらしく言い、
「それなら香料《スパイス》を探そう。メランジをとってこよう」
と、ふざけて砂漠の中へ駆けだした。
「サンドマスターにおこられるぞ」
「スティルスーツなしでいいのか」
「ムアドディブによろしく……」
三人はサバンナの端で、遠ざかる伊東に声をかけた。
伊東は調子にのって、だいぶ遠くまで走り去り、くるりとふり向くと、
「スー・スー・スーク……イクート・エイ……」
と大声で言いながら引っ返して来た。
「うまいぞ、水売り」
「水を一杯くれ」
「はいはいただいま……」
伊東がアラキスの水売りの真似をして戻りかけている時、彼の背後の砂が突然ムクムクと盛りあがった。
「危いッ」
サバンナの三人が同時に叫んだ。
「|砂 虫《サンドウオーム》……」
「シャイ・フルドだ」
「リトル・メイカーだぞ」
伊東はふり向き、動きだした砂を見ると蒼くなって走りだした。砂の渦が追いすがる。
「たすけてェ……」
「急げ、伊東……」
だが伊東は砂に足をとられて思うようには走れない。
「畜生、俺は未来を見たんだぞ。ここで死ぬわけはないんだぞ」
|砂 虫《サンドウオーム》らしきものは、すぐ背後に迫っている。
「未来を見たんだぞォ……」
伊東はそう叫んでみずからを励ましながら、精一杯のスピードで三人が手をさしのべるサバンナへ近寄ってくる。
「頑張れ……」
サバンナ近くは砂の深度が浅いのか、砂虫は急に追うのをやめ、砂の盛りあがり方が低くなった。伊東はそれでも夢中で走る。
やっと三波の腕の中へとびこんで言った。
「一着ゥ……」
「莫迦やろ」
三波は心配し切っていたのを見事にはぐらかされて渋い顔をした。
「ごめん。小さい時から口ぐせになっちゃってるんだ。……ああ驚いた」
「いい気なもんだ。未来を見たっていうけど、そう安心してもらっちゃ困るんだ。だいたい、虚の空間で俺のうちへお前が結婚祝い持って来る未来を見たっての、あれは嘘なんだ。たしかに俺は新婚だったけど、お前なんか来やしなかった。安心させてやろうと思って、来たって言っただけなんだ」
「あれ……」
伊東は三波の顔に鼻先をつきつけるようにして言った。
「嘘ついたのか」
「仕方なくだ」
「じゃ、俺は死ぬかも知れないと思ってたんだな、みんな」
山本が慌てて言った。
「悪気じゃないんだよ。でも、君だけ未来がないかも知れないなんて言えるかい」
すると伊東は笑いだし、
「いいの、いいの。心配してくれて有難いけどさ、あのあとで思い出したんだよ」
「何を」
「俺も虚の空間で自分の未来をちょっとだけ覗《のぞ》いたんだ。海岸ではすっかり忘れてたけど、ベルヴェラスへ行くジャングルの中で思いだしたのさ」
「なんだ、こん畜生。早く言えばいいのに」
三波が憤った。
「で、どんな未来……」
吉永が尋ねた。
「社長室に坐ってた」
「社長室に……」
「うん」
三波はうんざりした顔になる。
「やだねェ。お前が社長かよ」
「さあ……」
「だって社長室に坐ってんだろ」
「うん。だけど、俺の部屋なのかどうか判んないものな」
「判った。お前、俺に用があって来たんだ」
山本と吉永が笑いだした。
2
サバンナから森へ入るとすぐ、小さくて粗末な丸太小屋があった。煙突から煙が出ていて、形はクリスマスの飾りみたいな小屋だが、実際の雰囲気はどうしてどうして、妖怪|変化《へんげ》のすみかと言った気配である。
「寒くてしょうがない。火にあたらしてもらって、何か暖かい服でもあったら、この剣や何かととりかえてもらおう」
三波はそう言ってドアをノックした。
「おはいり……」
高くて細くて震えている声だった。
「やなかんじ」
三波と伊東は恐る恐るドアをあけて中を覗いた。
汚ない部屋に火が燃えていた。それに汚ない大鍋がかけてあり、饐《す》えた匂いが漂っている。鍋の中は濃く重い湯気が沸き立っていて見えない。
鍋から離れ、背を丸めて出迎えたのは、乾からびた老爺《ろうや》。とびきりのヨボヨボだ。
「山からおいでなすったかね」
「そうです」
「逆戻りの壁を越えて……」
「ええ。こちら側でも逆戻りの壁というんですか」
「そうだよ」
しわだらけの老爺は表情もさだかではなく、それが黄色い歯をむいて、イッヒッヒッヒ……と笑った。
「やだ。このじいさんの笑い方、俺は苦手なんだよ」
伊東は三波の背中へかくれてしまう。
「逆戻りの壁を越えてきた人はいますか。僕ら以前に」
「どうしてそんなことを聞く」
老人は表情不明の皺面《しわづら》を、質問した山本に向けて言った。
「だって、僕らが越えて来たと言っても、大して驚かない様子なので」
「驚いてる」
「へえ、全然判んねえや」
三波の背中で伊東が言った。
「じゃいないんですか」
「一人もおらん。こちらから越えて行ったのならおるが」
「どんな人物です」
「ジョーカンジー……」
「えっ」
四人が声を揃えた。
「ジョーカンジーですって」
「この世の涯《はて》はと尋ねるから、儂が教えてやったのだ。砂漠にも逆戻りの壁があると言い伝えられているが、あそこには|砂 虫《シヤイ・フルド》がいるでな」
「シャイ・フルド……やっぱりそうか」
「シャイ・フルドを知っているのか」
「ええ」
「なぜ知っている」
「別の世界の本で読んだから。デューンと言って、凄く面白い……」
三波が説明しかけてやめた。
「魔法の書物だな。すると、お前さんがたも魔法をお使いか」
吉永が山本に耳うちした。
「妙な世界だ。ひょっとすると魔女や魔王が大手を振ってのし歩いてるんじゃないかな」
伊東は老爺の妖しい雰囲気にようやく馴れて、三波の背中から顔だけだし、如才《じよさい》なく言った。
「これから習おうと思ってんですよ。魔法を……」
魔法を、と言ったときの顔は、かなり悪たれたものだったが、老爺は気付かぬ風だった。それどころか、伊東の返事に気をよくして、すらすらと喋りはじめた。
「ジョーカンジーに山へ登れと教えたのはこの儂だ。あれは生れながらの魔法つかいだったよ。儂があれの素質を見抜いて、ここの魔法を教えてやったところ、うまく壁を越えおった。壁をこえたのはあれ一人だろう」
「すると、ジョーカンジーはこっち側からワイナンやロスボへ出たのか。僕らと逆だな」
「そう、反対だ。お前さんがたは向うから来た。ジョーカンジーはこっちから向うへ行った。向うでジョーカンジーに会ったか」
「いいえ」
「ほう。やはりその先にまだ違う世界があったのか。ではあの言いつたえは本当だったのだな」
「言いつたえと言いますと……」
「山の壁の向うに石ころの山がある。その上に坐って呪文《じゆもん》を唱えると、いつかこの世ならぬものが、別の世界へ連れだしてくれるそうな。だがこれは他言無用だぞ。わが家に伝わる先祖代々の秘《ひ》めごとだからの」
「鉱品の山だ。物々交換のシステムにのればよかったのだ。しまったな」
山本が唇を噛んだ。
「戻ろうか。ヴァレリアたちのところへ」
吉永が気弱な顔で言った。
3
四人は戻らなかった。戻ってうまく空間を脱出できるという保証はなかった。それに、何だかだ言いながらも、四人は伝統ある質の日会のメンバーとして、このSF的な冒険旅行を続けたかったのである。
「ここは何という名の国ですか」
吉永が老人に尋ねると、
「トランシルヴァニア」
という答が返って来た。
「トランシルヴァニア……」
四人が口を揃えて言った。
「来たよ。来ましたよ。本物ですよ、これは」
伊東は両手を握り、胸の前でガタガタとふるえてみせた。
ふるえたのは満更|道化《どうけ》たわけではない。
ワイナンやロスボとはまるで気候が違う。寒冷で陰湿で、妖気が漂っていた。
「そのなりでは寒かろうな」
老爺はふるえる伊東を見て言った。
「着る物、わけてくれませんか。毛布でもなんでも……」
「何もない」
老爺はニベもなく言う。
「どこかで、この剣や冑と交換してくれそうな店はありませんか」
「館《シヨシヤ》へ行くのだな。ここは貧しい土地で、このハジは特別貧しい魔法つかいだ」
「ハジというお名前で……」
「そうだ。外の道をまっすぐに行って、三岐に分れたところを左へ進むと、館が見える。森のはずれで、館《シヨシヤ》の裏は|砂 虫《シヤイ・フルド》の棲《す》む砂漠だからすぐ判る。鳥の形をした森の乗り物をみても、驚いて腰など抜かすなよ」
伊東は三波と顔を見合せた。
「やっぱり鳥型飛行機《オーニソプター》だ」
「じゃあ、その館へ行ってみます。館《シヨシヤ》の名前を教えてください」
山本が言うと、ハジ老人は憎々しげに、その時だけははっきりと表情を歪《ゆが》めて言った。
「アル・ベニーだ」
「アル・ベニー」
「そう。あらゆる品物をみな奴らが押えてしまっている。食い物も着る物もだ」
「奴らと言いますと」
「アル・ベニーと、その女房のイーダのことだ」
「商店はないんですか。トランシルヴァニアには」
「あるさ。でもお前さんがたは金を持っていなかろう。トランシルヴァニアの金貨を」
「ええ」
「では駄目だ。商店はアル・ベニーとイーダの命令で、金貨以外には物を売らん。しかも法外な値段でな」
「ほう。悪い奴ですね、アル・ベニーとイーダは」
三波が言ったのを伊東が聞きとがめた。
「アル・ベニーとイーダ……聞いたような名だ」
「あ……館《やかた》のことをショシャと言ったぜ」
「大ショシャだ。こんな魔法の国まで進出して来てるのかな」
「まさか」
山本は丁寧にハジ老人にお辞儀をした。
「有難うございました。それではとにかく、アル・ベニーとイーダのいるショシャへ行って見ます」
「気をつけるがいい。はじめは何を呉れといっても、品切れだと言いおるからな」
ハジ老人は見かけに寄らず親切だった。
四人は小屋の外へ出た。
「何を煮てたか判るかい」
と伊東。
「何だった。俺ものぞこうとしたんだが判らずじまいさ」
三波が言った。
「とにかく、ひき蛙が一匹入ってた」
三人は首をすくめて森の道を急いだ。
寡占《かせん》的大商人
1
鳥型飛行機《オーニソプター》が舞いおりて、館《シヨシヤ》の横にとまった。鋭い顔つきの男が機内から出て来て、近寄って行く四人をジロジロと眺めた。
「こんちは……」
伊東が気やすく手をあげて挨拶した。男は答えず、可動式の翼を点検しはじめる。
「大変ですねえ。フレーメンは見つかりましたか」
伊東が当てずっぽうを言うと、男はギクリとして振り向いた。
「なぜ知ってる。どこから来たのだ」
「山の壁の向うから。だからお金を持ってないの」
伊東は握った手をパッと開いてみせた。
「剣や鎧と着る物を交換してもらおうと思って来たんですよ。あなたアル・ベニーさん」
男は首を横に振った。
「山の壁を越えて来たって……信じられん」
その時、館の中から、キンキンと癇《かん》にさわる女の声がした。
「帰って来たんだろ。誰と話してるんだい、ダヤン」
男はその声を聞くと、伊東に向って軽く肩をすくめて見せ、足早に館《シヨシヤ》の中へ入った。
「ダヤンだってさ」
「なる程、砂漠の専門家らしいや」
伊東と三波は忍び笑いをした。
ダヤンが入るとすぐ、痩せた女が出て来た。ダブダブのシャツにチョッキ。ぴったりしたタイツ。爪先がくるりとそり反った靴に三角帽子……。
「ジョーカンジー・スタイルだ」
吉永がつぶやくように言った。
「だれ、あんたたち」
山本が品のいいお辞儀をして見せた。
「イーダさんでいらっしゃいますね」
「そうだよ。壁の向うから来たっていうのは誰なの」
「四人とも壁をこえて来ました」
するとイーダは疑わしそうに四人を見まわした。
「壁の向うは暑い国でしたが、こちらへ来たらとても寒いので困っています。もちろん、こちらの金貨を持ってはいませんが、この剣や鎧と、暖い服を交換願えたらうれしいのですが」
イーダの目に物欲しそうな光が宿った。しかし、イーダは素気なく言う。
「暖い服……以前なら豊富にあったけど、今はそんなもの、とんでもないことさ。ありませんよ。よそをお探し……」
伊東が言う。
「ほら始った。嘘でしょう。買い占めてるくせに」
「何を言うの。うちには暖い服なんて一着もないよ」
「でも、アル・ベニーさんに相談してみてくれませんか」
吉永が下手に出た。
「アル……。ちょっと来ておくれ。暖い服だとさ」
イーダが館《シヨシヤ》の中へ声をかけた。
アル・ベニーは立派な風采の男だった。物柔らかで、落着いた態度の、いかにも金持らしい紳士だった。
とはいえ、みなりはやはりジョーカンジー・スタイル。
「お尋ねしたいことがある。館《シヨシヤ》へお入りください」
何も聞かず、玄関に立ってそう言った。四人はぞろぞろ館《シヨシヤ》の中へ入る。
その館《シヨシヤ》は、最近建てたばかりらしく、堂々として、隅から隅まで艶々と輝いていた。
「この人たち、山の壁の向うから来たそうなんだけど……」
イーダが言いかけると、アル・ベニーは手をあげてそれを制した。
「ダヤンに聞いたよ。……ところでみなさん。みなさんはどうしてこの館《シヨシヤ》へ来たのです」
応接用のふかふかした椅子に坐った山本が答えた。
「ハジという老人に教わりました」
アル・ベニーは頷いた。
「で、さっき、鳥型飛行機《オーニソプター》のダヤンに、フレーメンのことを何かおっしゃったそうですな」
山本が伊東の顔を見た。伊東が膝をのりだす。
「ええ。鳥型飛行機《オーニソプター》をみてすぐ判りました。砂漠の民、フレーメンを探しているんでしょう?」
アル・ベニーは肩をすくめた。
「よくご存知だ。しかし、そのことはハジも知らないはずですぞ。いったい誰に聞いたのです」
「最初から知ってるんですよ。僕らはこの国の外にある別の世界から来たんです。僕らがもといた世界には、そういうことを書いた本があるんです」
「なる程……すると、それは多分壁を越えて出て行った、あのジョーカンジーという魔法つかいが書いたのでしょうな」
「いいえ。フランク・ハーバートです。もっとも僕は原書じゃ読めませんから、矢野徹さんの訳で読んだんだけど」
「フランク・ハーバート……」
アル・ベニーが言うと、吉永が慌てて誤魔化《ごまか》した。
「フランク・ハーバートというのは、ジョーカンジーの別名です」
アル・ベニーは納得したらしい。
「もう一人の矢野徹という人は……やはり魔法つかいかね」
「ええ。古い有名な魔法つかいです」
「なるほど。それでは私ら夫婦がフレーメンからメランジを買っているのも判っているんだな」
「ええ」
吉永はさりげなく言った。
2
いつの間にか、ダヤンが応接間の隅にいた。手に拳銃をぶらさげていた。
「イーダ。とんでもない人がトランシルヴァニアへやって来たものだな」
アル・ベニーとイーダは顔を見合せた。
「メランジの密輸入を知られては、生かして置くわけにもゆくまい」
いやに冷たい声で言った。態度が物柔らかなだけに、かえって凄味がある。
山本麟太郎もまけずに冷たい声をだした。
「あれは拳銃でしょう。弾丸は六発のはずですから、四人を殺しても二発余りますね」
「君たちが拳銃を知っているのは当然かもしれない。ジョーカンジーが服や食べ物と交換して行ったのだからな」
「拳銃の威力は充分に承知しています。それでは僕らの命はもうないわけですね」
「そういうことになるな」
「では最後にひとつ、面白いはなしをお聞かせしましょう。僕らは四人とも、自分の未来を見てしまっているのです。それによると、僕らはまだ当分死にません。少くともこの世界を出て別の世界へ戻るまではね」
アル・ベニーとイーダの顔色がさっと変った。
「まさか。クイサッツ・ハデラッハ……」
「そう考えてもらっていいでしょう。僕らは道の短縮≠して未来を見たのですからね。男のベネ・ゲセリットです」
「嘘だ。あれはフレーメンの伝説にすぎない」
「そう思うのならおためしください。一人でも殺せるかどうか。しかし、もし失敗したら、あなたは最大の敵を作ることになりますよ。僕らは不死身ですからね」
「嘘よ。嘘にきまってるわ。あんた、こんな子供欺しのテにのせられちゃ駄目よ。ダヤン、撃ちなさい。四人とも殺しておしまい」
イーダがヒステリックに喚いた。
ダヤンは拳銃をゆっくりと持ちあげて近寄って来た。立ちどまり、狙いをつけた。伊東が最初だった。
「となりの肥ったほうが的がでかいよ」
伊東が手をかざしながらよけた。
「心配するな。社長室に坐ってたんだろ」
「そんな、親分……」
伊東が泣声になる。
ダヤンが拳銃を持つ手に力をこめた。
「早く、ダヤン」
イーダがせかせた。
ダーン、と音がした。ダヤンが悲鳴をあげて顔を両手で掩った。ガタンと拳銃が床に落ちた。ダヤンが呻《うめ》きながら部屋を走り出た。
伊東はピンピンしていた。
「ああよかった」
吉永が素早く立って拳銃を拾って来た。銃身が裂けていた。
「もうこれは使えませんね」
山本が微笑しながら、アル・ベニーとイーダに言った。
「どうです。服をもらえませんかね」
「わ、わかった」
アル・ベニーが辛うじて答えた。イーダは蒼い顔で夫にしがみついていた。
「ぜ、全面的にあなたがたをお助けしよう。そ、そのかわり、メランジの密輸入や、メランジ相場のからくりについては、世間に言いふらさないで欲しい。その条件でどうかね」
山本は強硬な態度に出た。
「そういうお約束はできません。しかし、僕らは、このトランシルヴァニアに永住するつもりはありませんし、好んで波風をたてる気もないのです。旅人として通過するだけです。その旅に必要なものさえ整えていただければ満足です」
アル・ベニーとイーダはほっとしたようだった。
3
ダヤンの傷は大したことはなさそうだった。銃身に何かが詰っていたらしく、引金を引いたとたん自爆し、裂けた銃身の一部が跳ねたかどうかして、片方の目蓋《まぶた》の上に当ったのだ。
アル・ベニーとイーダの夫婦は、四人が自分たちの未来を見たことを信じたらしい。敵にまわしては損と判ると、手のひらを反すようにもてなしはじめ、当分|館《シヨシヤ》に滞在するようにすすめた。
四人もそれを喜んで受けた。トランシルヴァニアがどんな土地か、まだよく判らなかったから、おおよその見当がつくまで、ひとまず館《シヨシヤ》に落着くことにした。
もっとも、アル・ベニーとイーダにしてみれば、下手につれなくして出て行かれ、あれこれ言い触らされてはかなわないという計算が働いているようだった。
ともあれ、アル・ベニーとイーダの館《シヨシヤ》は新築したての豪勢なもので、情味に欠けた事務的な感じを除けば、まずは申し分ない宿だった。
四人をフレーメンの伝説に出て来るクイサッツ・ハデラッハだと信じ込んだからと言って、アル・ベニーとイーダが格別迷信深い人間だとは言えなかった。
トランシルヴァニアは第一印象のとおり、そしてその地名の示すように、妖術、呪術、魔術、錬金術の入り混れるオカルトの国だった。
館《シヨシヤ》に泊っている四人は外の世界から来た人間である。リザン・アル‐ガイブである。楽園に導いてくれるマーディである……と言って、森の住人たちが引きも切らず面会を求めて来た。
ダヤンは片方の目を痛めたので当分の間、鳥型飛行機《オーニソプター》には乗れず、四人の執事役を喜んで果している。
「ダヤンはますますダヤンらしくなった」
吉永がそう言って笑ったとおり、片目に黒い眼帯をかけていた。
「どうしてこんな世界が出現したんだろう」
山本は、ありとあらゆる魔女や妖術師が押しかけるのに辟易《へきえき》しながら首を傾《かし》げた。
月の綺麗な夜だった。
「みんな、ルナの秘密を知りたがっている」
吉永はテーブルの上の、ビーカーの底にかたまっている拳《こぶし》ほどの金塊をとりあげながらつぶやいた。
それは、たった今帰った、カリオストロと名乗る錬金術師が実演してみせた、みごとな錬金術の成果だった。
「カリオストロは、トランシルヴァニア錬金術師連盟の会長だってさ」
三波がニヤニヤしながら言う。
「トラ錬連だね」
伊東が莫迦笑いをはじめた。
「でも、たしかに実力はある」
吉永は合成された金塊をもてあそびながら言った。
「錬金術師の夢を実現して、黄金販売業者になった。フォーカス産業という会社の社長だぜ」
「そこんとこが妙だね。みんな魔法つかいで、その上それを商売にしている。死んだ人間の遺骸を買い集めてミイラをこしらえ、魔術で疑似生命を吹き込んでよみがえらせ、労働力として売りに出したりしてる」
「トランシルヴァニア・リクルート・センターの所長だね」
伊東はクスクスと笑いつづけている。
「ジキル・アンド・ハイド社のトレーシー社長……」
三波は名刺をめくりながら言った。
「強力変身剤のメーカーだ」
「なんでこんな世界ができたのか。問題はそれだよ」
山本は深刻な顔でまた言い、立ちあがって砂漠の上に輝く白い月を眺めた。
「ルナの秘密をみんなが知りたがってる。メランジは人間が持つ月的《ルナテイツク》な力を増進させるという。……人間の月的《ルナテイツク》な力、か」
「山本……そろそろ旅に出ようよ。ここにこうしていても仕方がない」
吉永は黄金をビーカーに戻しながら言った。
「そうだな。しかし、あてもなく出かけるわけにも行かない。この世界へ、僕らの逆の方向からジョーカンジーがやって来た。とすれば、いったいどこから来たんだろう」
「そうだ」
吉永が指を鳴らした。
「ジョーカンジーはどこから来たか」
「ジョーカンジーの来たほうへ行こう」
伊東と三波が言った。
「ジョーカンジーの来たほうに、僕らの出口がかくされている。それはたしかだ。それを見つけなければならない。だが僕は、そのほかにもうひとつ、どうしても知りたい問題がある」
「なんだい」
「なぜこんな世界ができているかだ。この亜空間が宇宙人にコントロールされているとすれば、ワイナンとロスボのトランシルヴァニアだって、何かの目的で作られたに違いない。宇宙人は何を狙っているんだ。壁の向うと壁のこっちに共通しているものは何なのだ。その共通項を探せば、宇宙人の真意も掴めるはずなんだが」
四人ともみんなお揃いのジョーカンジー・スタイルであった。同じ服を着ても、それぞれ個性が滲《にじ》みでる。
伊東はピエロ風。三波はサーカスの力《ちから》芸師風。吉永はどことなく錬金術師風で、山本はピーターパンのお兄さんといったところだ。
「……ここでは魔法と商業が結合している。なぜだろう」
山本はまだ考え続けているようだった。
4
ちょっと都合があって、しばらくの間吉永佐一の日記風に記述する。
五月三日。今日はトランシルヴァニアの日付ではそうなるという。アル・ベニーとイーダに見送られ、いよいよジョーカンジーがやって来た方角へ出発する。ダヤンが道案内を買って出てくれた。館《シヨシヤ》のあたりはトランシルヴァニアでもはずれの地域で、ダヤンの操る馬車に揺られてしばらく行くと、かなり大きな川があり、古ぼけた橋がかかっていた。川を越えると、いよいよトランシルヴァニアの中心部に入るという。
夕方近くに町へ着いた。町の名はクラウゼンブルグで、そこのホテル・ローヤルにアル・ベニーから連絡がしてあった。チキンの料理がすこぶる美味。パプリカ・ヘンドルという料理だそうだ。ただしとても辛い。
夕食後ダヤンにいろいろ聞く。これから行く土地はトランシルヴァニアでもいちばんはずれになるそうだ。そのあたりはルナが強く、あらゆる神秘的なものが集中しているという。ただし、ダヤンにはルナの説明がうまくできないらしい。
五月四日。トランシルヴァニアは、前のワイナンにくらべるとだいぶ狭いらしい。一日ゴットン、ゴットンと馬車に揺られて進んだ。切り立った山のてっぺんに、ちっぽけな町や城がときどき見えた。
ビストリッツに着いたのは日が暮れてからで、今日通ったのはボルゴ街道と言い、ブコヴィナという所へ続いているらしい。泊りはゴルテン・クローネ・ホテル。アル・ベニーの名がここでも通用してサービスは悪くない。古風なホテルで、我々四人を待っていたらしい。玄関の前で見るからに貧相な老魔女と顔が合った。老魔女が、あの「アル・ベニーとイーダの館《シヨシヤ》のお客さまで」と聞くから、「そうですよ」と答えると、うしろにいた白い長袖シャツの爺さんに何か小声で言いつけていた。爺さんは姿を消し、すぐ一通の手紙を持って戻って来た。
前略、カルパチアへようこそ。お待ちしていました。あす三時、ブコヴィナ行きの馬車が出ます。席を予約して置きましたから、それにお乗りを。ダヤンはここで帰ります。当方はボルゴ峠までお迎えにでます。
バンカー拝
バンカーという名ははじめてなので、宿の主人に尋ねると、それはボルゴ峠のさきの、この辺りで|丸 の 内《ミツテル・ランド》と呼ぶ土地に居をかまえる、バンカー伯爵のことであるらしい。なぜか主人は多くを語りたがらず、宿の者もみなオドオドしている。
ここでも夕食にパプリカ・ヘンドルがでた。きのうの味を思いだし、喜んで食べはじめると、何か忘れ物でもしたような味だった。味にうるさい山本は、大蒜《にんにく》が足りないという。食事のあとでコックに文句を言うと、この辺りではひどい大蒜不足だそうだ。それも、アル・ベニーとイーダが買い占めたかららしい。いったい大蒜を買い占めてどうするつもりなのか。
宿の者や、泊りあわせた客は、我々のほうを盗み見てコソコソささやきかわしている。ときどき、その会話の中にバンカーという単語がいかにもおぞましげに入ってくる。
寝室へ退いてから、私は山本にそのことを言った。山本は見当がつかぬ様子で首を傾げていたが、大蒜をアル・ベニーとイーダが買い占めているそうだと言うと、急に顔色を変えてダヤンを呼びつけた。
山本に問いつめられ、ダヤンは渋々バンカーという言葉について説明をはじめた。それによると、商業の盛んな地方では、ふつうバンカーというのは高貴な家柄の名であるそうだが、この地方では狼つかいとか吸血鬼という意味を持っているそうだ。
バンカー伯爵。私と山本は思わず顔を見合せてしまった。そう言えば、これまでの道筋の様子といい、ブラム・ストーカーの名作、吸血鬼ドラキュラのオープニングそっくりではないか。
そうなると、明日ボルゴ峠へ着くのは暗くなってからに違いない。四頭だての馬車がうしろから追いつき、茶色のひげを生やした、鍔広《つばびろ》の帽子をまぶかにかぶった背の高い馭者《ぎよしや》が我々を迎えるだろう。我々は馬車をのりかえ、狼の遠吠えにかこまれながら暗い山道を走るはずだ。
我々はブラム・ストーカーの物語をできるだけよく思いだし、吸血鬼《バンカー》への対策をねった。果してあの物語どおりかどうかは判らないが、用心に越したことはない。
五月五日。我々は城についた。途中経過を報告すれば、いろんなことがあって、それがほとんどあの物語と一致していた……。
連続的名場面
1
馬車を降りた四人は、どっしりとした石の大門の前に立った。
門にはめられた扉には、大きな鉄の鋲がいちめんに打ちつけてあった。石には彫刻がほどこしてあるらしいが、とにかく古く、磨滅《まめつ》して図柄がよく判らなかった。
馭者は四人を降すと鞭《むち》を鳴らし、闇の中へわだちの音を響かせて消えて行った。
とざされた扉の前に突っ立っていると、厚い板の隙間からちらりと灯火が洩れた。
「よかった、誰かいるね。俺、あき家じゃないかと思った」
「莫迦。空き城と言え」
三波が伊東に言ったとおり、それは古い大きな城だった。
やがて鎖の鳴る音、閂《かんぬき》を引く音が聞え、ガチャガチャと鍵をまわす錆《さ》びた音が続き、厚い扉が、間違いなく何年も使わなかったはずの、ギ、ギ、ギーッという音を軋《きし》ませて開いた。
あけたのはせむしの老人だった。おまけにひどく跛《びつこ》をひいている。
跛でせむしの老人は、顔面神経痛でもあるらしく、歪んだ顔で、それを見られまいとするかのように、そっぽを向いたまま、黙って四人を招き入れると、ギ、ギ、ギーッ、バターンと扉をとじた。
四人はとじこめられた気分になった。
「ほら、ノートルダムの……」
伊東は弾《はず》むような跛を引いて先を歩いているせむし男を、顎でしゃくってささやきかけたが、その小さな声がびっくりするほど大きく城内の通路に谺《こだま》するので、あわてて口をつぐんだ。
せむし男は、四人を大きな暖炉《だんろ》のある部屋へ案内し、また退路を断つように扉をしめて去った。
壁のあちこちに灯火がともされ、部屋の中は充分に明るかったが、しんと静まり返って薄気味悪い雰囲気が漂っていた。
「いよいよドラキュラの出番かな」伊東は口先だけは強がっている。
遠くから、戞《かつ》、戞《かつ》と石の床に鳴る靴音が聞え、ゆっくりと近づいて来た。
靴音はやがて扉の外でとまり、四人は固唾《かたず》をのんで扉を見守った。
急に扉が左右に開いた。さっと風が吹きこみ、暖炉の炎と壁の灯火が一斉に揺れた。
扉の中央に、巨大な人影が仁王立ちになっていた。背丈は二メートルをこえ、肩幅が異様に広く、四角い額の下に一直線の眉。閉じたような目。ごつい鼻。うすい唇。黒い服を着て、両腕に大量の薪をかかえ、左、右……左、右、と突っ張ったような姿勢でぎごちなく暖炉に近寄りはじめる。肌の色は蝋《ろう》のように白く、顳《こめかみ》の辺りに金属の突起が見えている。
「冗談……冗談だろ」
伊東は恐怖に耐えかねて、とほうもない大声をだした。
「冗談にきまってるよね。ドラキュラの城にフランケンシュタインが出てくるなんて」
しかし、怪物は現にそこにいた。火影《ほかげ》に揺れながら、暖炉に薪をくべていた。
「誰がこんな冗談をする」
三波が怪物をみつめて言う。
「ポランスキーか誰か」
「莫迦……」
三波が自信のない声で言った。
フランケンシュタインそっくりの怪物に注意を奪われていると、急にバタバタッと烈しい羽音がした。
「ヒエッ」
伊東が叫んでとびあがった。蝙蝠《こうもり》がとび去った。
「ようこそ、みなさん」
黒い上着に黒いズボン。黒のチョッキに黒っぽいネクタイをした紳士が、扉のところに立って両手をひろげ、歓迎の意を表していた。
「ピーター・カッシング……」
伊東がつぶやいた。
伊東の言うように、そのバンカー伯爵に似た人物を一人だけ挙げよと言われれば、四人ともピーター・カッシングと答えただろう。
「わたしがバンカーです。みなさんのことは、アル・ベニーからの手紙でよく承知しております」
「はじめまして。山本麟太郎です」
「吉永佐一です」
「三波伸夫」
「同じく伊東五郎」
「莫迦。何が同じくだ」
毎度おなじみの自己紹介が終った。
「旅はいかがでした」
伯爵は四人に椅子をすすめながら言う。山本は部屋を出て行く怪物を見送りながら、
「おかげさまで快適でした」
と答えた。伊東は異議ありそうな顔だった。
2
すでに食事の用意が整っていた。ロースト・チキンにチーズとサラダ。そして上等のワイン。食事がすむと暖炉のそばの椅子に戻り、伯爵は葉巻を、
「メランジ入りです」
と得意そうにすすめた。
「少量のメランジは、月的《ルナテイツク》な力を増進させ、人間をくつろいだ気分にさせます」
「大量にとるとどうなるのです」
吉永が尋ねた。
「何にせよ、度を過すのはよいことではありません。酒然り、スポーツ然り、女性然り……メランジも同じことです。世間にはルナを得ようとメランジを大量に用いる者があとをたちませんが、悲しむべき無智といえるでしょう。狂的な妄想の世界におちこみ、かえって精神の正しい力を失ってしまいます」
山本はメランジ入りの葉巻に火をつけ、さりげなく言った。
「この地方では大蒜《にんにく》が不足しているそうですね」
伯爵は肩をすくめてみせた。
「大蒜はトランシルヴァニアの必需品と言ってもいいでしょう。我々はみな、あれの入った料理を好みます。寒いせいでしょうかな。しかし、それだけに流通機構には問題があります。大蒜相場は商品市場の中でも特に動きが激しく、不作が予想されるという噂が流れただけでも大きく値が上ります。アル・ベニーが買い占めているとよく言われますが、そんなことはないでしょう。たしかに、アル・ベニーは目先のきく商人ですから、思惑買《おもわくが》いくらいはするでしょうが、それは金があれば誰でもやることです。それよりも、流通機構を改善し……」
伯爵はそこで四人を見まわした。
「いや、外の世界からいらっしゃったみなさんには、こんな話題はご退屈でしょうな」
と笑った。
「失礼ですが、バンカーというお名前に僕は関心があるのです」
山本が話題を変えるような口ぶりで、その実同じ問題に更に踏みこんで行った。
だが伯爵は平然としていた。
「いろいろ嫌《いや》なことを言われているのは私も知っています。そもそもバンカーとは、金融業者の一族が昔から名乗っていた由緒ある姓なのです。バンカー一族はトランシルヴァニアの各地で、今も金融業を続けており、アル・ベニーなどの有力者たちとは、仕事の上で堅く結ばれています。社会に貢献する、意義ある存在です。しかし、この辺りには貧しい者が多く、彼らは借入れ金の返済に困ると、私どもバンカーを、あたかも吸血鬼の化身《けしん》ででもあるかのように悪く言い、うらむのです。いったいバンカーのどこが吸血鬼ですか。金を借りたのは彼ら自身なのですぞ。バンカーは金を貸すのが商売……貸したらとりたてますし、借りたら返さねばならんでしょう」
「なるほど、よく判りました」
「ルナという意味を説明していただけませんか」
吉永が言うと、伯爵は彼のほうに向きなおり、困ったような表情をした。
「ルナ……もちろんそれは月です。我々トランシルヴァニア人は、月を最高の存在として崇《あが》め、愛しています。太陽は肉を育て物を熱しますが、月は知恵を育て物を冷やします。知恵……その究極のものは、生命の神秘によって支えられた精神の中に湧きあがる。限界のない、さまざまな未知の力です。まだ証明はできませんが、月がその未知の力に関与していることを、みな信じています。大地の性質が場所によって異り、或る所では大蒜をよく育て、或る所では金や宝石を生みだすように、月の光を吸収して月的な力の場を作りだす作用も、土地によって異るのです。私がここに住んでいるのはその為です。ここ|丸 の 内《ミツテル・ランド》は、トランシルヴァニアでも最もルナの強い土地とされています」
「何をなさっていらっしゃるのですか」
「ありとあらゆることを。錬金術、死者蘇生術、未来予知、時間旅行……」
「できるのですか」
「完全とは言えません。特に私は、道具を用いることを極力排除しているのです。物の力には限界があり、精神の月的《ルナテイツク》な力には遠く及びませんからな。物に頼れば精神が堕落してしまいます。世の多くのインチキ魔術師どもは、みな物に頼りすぎるのです。強いルナを浴びてみずからの精神の中を旅し、奥深くわけ入ってこそ、月的《ルナテイツク》な力が得られるのです。薪を運んで来た巨人は、イーゴルと言い、私の死者蘇生術でよみがえった男です。彼は、ナン・マタル湖のメタラニム島で古代遺跡を発見したのですが、その時ふしぎな世界へ紛《まぎ》れこんで、あの通りの姿になってしまったのです」
「ナン・マタルとメタラニム……」
山本と吉永が顔色を変えた。
「なに、それ……」
伊東が二人に尋ねる。
「メリットの世界だ。ムーン・プールさ」
吉永がうめくように言った。
「ひょっとすると、ジョーカンジーは、そのメタラニム島から出現したのではありませんか」
「なるほどクイサッツ・ハデラッハだ。さすが判ってらっしゃる」
「ウイダバシャバ……」
「やめろよ、伊東」
珍しく山本が強い調子でたしなめた。伊東はがっくりしてちぢこまった。
「メタラニム島をよくごぞんじですか」
「ええ。よく知っています」
「そこに、ナン・タウアッチという場所がありませんか」
「それこそ、イーゴルの発見した古代の遺跡ですよ」
「では、ラクラという女性の名をごぞんじないですか」
バンカー伯爵はしばらく考えこんだ。
「ラクラ、ラクラ……そう。イーゴルが時々そんな名をうわごとのように呼ぶようですな」
「やっぱり……」
山本は吉永に微笑を向けた。
「ムーン・プールが出口らしいね」
3
その夜、伊東五郎は夢を見た。
彼は夢の中で追われていた。追手は一人だけではなく、強力な組織だった。
大男のロシア人がいた。鋭い東洋人がいた。妖しい美女が罠を張り、至るところでマシンガンが火を吐いた。
彼は逃げた。逃げた。逃げた。
凍てついた荒野をどこまでも走り、切りたった絶壁をよじのぼった。
絶壁の上は市街のはずれだった。ゴミ収集車のうしろにぶらさがり、彼は市街へ紛れこんだ。それは見知らぬ街だった。表通りではにぎやかにカーニバルのパレードが進み、裏通りには凶器を持った追手の男たちがうろついていた。
彼は次第に追いつめられて行った。暗いビルの横丁へしのびこみ、じりじりとあとずさった。小さなドアがあり、誘いこまれるようにそこへかくれた。
とたんに、ガタン、と音がして小さなドアがしまった。窓のない小部屋に白い霧が湧きだし、彼は喉をかきむしって苦悶した。
床に倒れると天井からさがった二本の鎖《くさり》が揺れていた。
誰かが両手首をその鎖で縛った。ギリギリと鎖が捲《ま》きあげられ、彼の体は高く吊された。
大男が現われて彼のシャツを引きさいた。四角い鉄の棒で、体中をところきらわず撲《なぐ》りはじめた。何時間も何時間も撲りつづけた。
「無駄よ。もうおよし……」
いやに谺《こだま》する女の声が耳もとで聞えた。その声に彼は聞き憶えがあった。
「そうか。CIAだったのか」
彼は自分の迂闊《うかつ》さを嗤《わら》った。
あのフランケンシュタインの怪物が現われて、彼の前に立った。
「殺しておしまい。引き裂いておやり」女の声がまたした。
「やれるならやってみろ」
彼は喚いた。思い切りフランケンシュタインの怪物を脚で蹴った。怪物はよろめき、すぐ体勢をたて直して、両手で彼の両肩をわしづかみにした。
ポキッと乾いた音がして肩の骨が砕けた。怪物は、肩から手をはなすと、彼の口にごつい鋼《はがね》のような指を突っ込み、上下に引き裂きはじめた。顎が外れ、唇の端が頬へ向って破れた。
もう物も言えなかった。
しかし月が昇りはじめていた。
月的《ルナテイツク》な力だった。
彼は吊輪の選手のように跳ねあがった。肩の骨は元に戻っていた。
彼は叫んだ。
「狼男だョ」
……そこで目がさめた。
「畜生め。これからだっていうのに」
伊東はがっかりして起きあがった。窓から白い月の光がさしこんでいた。城へ来る時に聞えた狼の薄気味悪い遠吠えと、吸血鬼《バンカー》とフランケンシュタインの怪物風のイーゴルがごっちゃになって、ウルフガイになった夢を見たのだ。
「いじめられるところだけで終ったんじゃ、金返せって言いたいね」
「うるせえなあ。何をブツブツ言ってんだよ。黙って寝ろ」
となりのベッドで三波が文句を言った。
「メランジ入りの葉巻のせいかもしれない」
伊東はそうつぶやいて月の光を見ていた。
4
山本も、吉永と同じ部屋で、まんじりともできなかった。
多分、メランジ入りの葉巻のせいなのだろうと思いながら、妙に頭が冴《さ》え、亜空間に来てからのことを、次々に思い返していた。
明け方になってやっとトロトロと睡り、目がさめると吉永が着換えをしているところだった。
山本も着換えをして、ゆうべ食事をした部屋へ行って見ると、テーブルの上の朝食は冷えきっていて、炉にはコーヒー沸かしがかけてあった。
テーブルの上にメモがあり、
「ちょっと留守にします。食事をどうぞ。B」
と書いてあった。
伊東と三波もやって来て、かわりばんこにそのメモを読み、
「やっぱり怪しいよ」
という結論になった。
「朝になったら誰もいないなんて、本物だよ」
寝不足らしい目で伊東が言った。
「ねえ、ゆうべ嫌な夢みたんだよ」
「どんな……」
「ウルフガイの前半だけ」
「やられる所ばかりか。そいつは嫌な夢だ」
三波が同情した。
「喉んとこが変な風に苦しかったんだ。みてくれないか」
伊東は天井を向いて三人の前に喉許《のどもと》をさらした。
「吸われた跡はないな」
三人とも本気で心配していた。
とたんに窓が、外側からいっぱいにあけられ、太陽の光がさっと射し込んだ。三人は眉をひそめ、額に手をかざして眩しがった。
「いやあ、お早う。ぐっすりお休みになれましたかな」
伯爵が明るい光の中で笑っていた。
「なんです。伝説に出てくる吸血鬼みたいですぞ。そんなに眩しいですか」
「いけね。逆襲をくらった」
吉永が小声で言った。
「ごらんなさい。これがナン・マタル湖です」
窓の外いっぱいに、山に囲まれた湖水が見えていた。
「なんだ、湖のすぐそばだったんじゃないか」
四人は窓に近寄った。
静かな、よく晴れた朝だった。
「あの真ん中にある小さな島が、メタラニム島です。所有権はこのバンカー城に属しています。どうやらみなさんはあそこに用がおありの様子ですので、舟の準備をしておきました。朝食がおすみになったら、すぐ出かけてみようではありませんか。イーゴルはすっかり記憶を失っていますし、私としても、そのムーン・プールとやらを是非発見したいのです」
山本はうろたえ気味だった。
「これはどうも失礼してしまって……そういうことでしたら、もっと早くに起きるのでした。すぐ食事をすませますから……」
四人は慌てて食卓についた。
「何が本物だよ。そそっかしい奴だ」
三波が伊東をなじる。
「だって、てっきりそうだと思ったんだもん。みんなだって、俺の喉を心配して見てくれたじゃないか」
つめたくなった卵を食べながら、伊東が言い返した。
巨石の島で謎が提出される
1
伊東、三波、吉永、山本の順で、バンカー城の裏手から湖の中へ突きだした細い桟橋を進んで行く。
緑濃い山々に囲まれたナン・マタル湖は、朝の陽光を眩しく反射させ、青く澄んだ空に浮く白い雲が、ゆっくりと風に流されている。
「やな感じだな」伊東五郎が言った。
「何がやな感じだ」
三波は伊東の背中に重なるように、危うげな桟橋の上を歩きながら尋ねる。
「見ろよ。青い空、白い雲……」
「それがどうした」
「この亜空間の中で空が晴れると、いつだってあんな白い雲が浮ぶぜ。場所や形までおんなじみたいだ」
三波は立ちどまって空を眺めた。あとの二人も自然に足をとめ、同じように空を見あげる。
「そう言えばそうだな」
吉永が言った。伊東はうしろ向きになって、複雑な笑い方をした。
「な……お風呂屋の絵みたいだろ」
「お風呂屋の絵」
山本は不思議そうな顔になる。
「銭湯の湯舟の突き当りの壁に描いてあるペンキ絵のことさ」
公衆浴場へ行ったことのない山本麟太郎に、吉永佐一が解説をしてやっている。
「亜空間内部の自然が、宇宙人によって作り出された人工的なものだとすると、宇宙人て奴も大した奴らじゃないね」
伊東五郎が三波伸夫の二重になった顎のあたりをみつめながら言う。
「まったくだ。抜けるように青い空、と来ると、に浮ぶ白い雲、と受けないと納まりがつかないらしい」
吉永も伊東の指摘には同感らしく、軽蔑したような笑い方をした。
「行けよ」
先頭に立ってうしろ向きになっている伊東の肩を、三波がちょっと邪慳《じやけん》な様子で小突いた。
「危ねえな。おっこちるじゃないか」
伊東はそう言い、また桟橋の上を進みはじめた。桟橋の先に舫《もや》った大型のボートの上で、バンカー伯爵と巨人のイーゴルが、出発準備をおえかけていた。伊東が足早に先へ行ったが、三波はわざと歩度をゆるめる。
「嫌な野郎だ」
「どうしたの。また喧嘩かい」
「そうじゃないけど、あん畜生、いま人の文章のことをからかいやがった……」
すると吉永が急に大声で笑いだした。
「そうか。青い空、白い雲だな」
「たしかに俺はそういう類型的なのばかり使っちまう。だから同人誌にだってそう発表したがらない。裏方で甘んじてるんだ。でも、あいつにあんな皮肉言われる筋はない。そうだろう。こないだの原稿だってそうだ。すわ雷同だなんて書いてやがる。直してやったのは俺だぜ」
「憤《いきどお》るな憤るな」
吉永は笑いながら三波の背中を押すように言った。
「自業自爆って書いて来たから、こんな間違いするなって言ったら、ハイジャックのやり損ないだなんて、しゃあしゃあとしてやがるし、紋切りがたなに、優柔普段、遠からずと言えども当らず……」
今度は山本麟太郎が笑いだす。
「危険牌を強引に通しちゃったみたいだ」
「頭蓋骨を頭の骸骨って書きやがるし、蜜月のミツが秘密の密」
「内緒で結婚したのさ」
「単刀直入が短い刀」
「菅原文太のことだろ」
「牽強付会《けんきようふかい》が肩強付会」
「名キャッチャーなんだ」
「雨後の大木に姓は源氏」
「まさか」
「言うんだよ、あいつは。姓は源氏。名は義経……丹下左膳と間違えてやがる」
「よせよ、もう」
吉永はいつの間にか不機嫌な表情になっていて、強い口調で言った。
「人のこと笑ってる内に、だんだん我身に近づいて来る」
三波もそれに気づいたらしく、首をすくめて自嘲気味につぶやいた。
「人を笑えば穴ふたつか」
「人を笑わないほうがいいね」
山本はそう言ってまた笑った。
「早く来いよ。舟が出るぞ……」
伊東がのん気な声で呼んでいた。
2
ナン・マタル湖の水は、青というより緑がかっていた。
湖の中央部にあるメタラニム島へ向って進むボートの中で、バンカー伯爵が言った。
「湖の底を注意して見ていてください。このあたりには、大規模な地盤沈下があったらしいのです。二十フィートくらいの所に、古代の巨石遺構が見えますよ」
四人は舷側に身をのりだすようにして水底をのぞきこんだ。本来なら二人で漕ぐべき大型のボートを、巨人のイーゴルが一人で軽々と操っていた。
緑色がかった水の底に、ときどき巨大な四角いものが見えている。
「メリットのムーン・プールでは、太平洋の底に沈んだ古大陸の生存者が、地下空間の割目に隠れて生きのびていて、その出口のひとつで物語が始っている。スロックマーチン探険隊が全滅してしまうんだ」
吉永が水の下をのぞきながら言う。
「チャマット族という巨人族の伝説があったね」
山本はそう言ってから、ふと気づいたように、ボートを漕ぐイーゴルの巨大な体をみつめた。
「巨人チャマット族がいつの日か地底から現われて全世界を支配するんだ」
吉永がそれに答えた。
「例の約束によって、このムーン・プールらしいナン・マタル湖のことを、SF的に先まわりして考えてみると、どうもメリットのストーリーのようには行かないんじゃないかという気がするな」
「山本、それはどういう意味だ」
吉永が顔をあげた。
「ほら、ムーン・プールの入口には、月の光の力を利用した扉があったろう。あの月光理論を思い出してみてくれ。月光は太陽光線の反射にすぎないが、月面にあたって反射し、地球へ届くまでに光線はひどく変質してしまっているという奴さ。ところが、ここの太陽を僕らは本物と認めていない。月もだ。亜空間内部は人工的にコントロールされ、自然もすべて作りものだ。青い空と来れば白い雲と来る。類型的だと笑ったが、亜空間を支配するものが、その程度の変化で充分だと思っていれば、類型的であることの裏には、恐るべき権力の意志があることになる。ありとあらゆる色彩の衣服を売りつけ、不要な種類の車まで作り出して民衆を操る政治が高度で、同じデザインの服を全国民に着せてしまう政治が幼稚だとは断言できないだろう。同じ服を着せてしまう政治のほうが恐しいとは思わないかい」
「つまり、亜空間の支配者は、内部の人間たちを、蔑視《べつし》しているというのだな」
「そうだよ。ところで、月の光の問題だが」
吉永は頷き、三波と伊東を見た。
「月や太陽が作りものなら、外の本物の世界でメリットが作りだしたムーン・プールと同じには行かないはずだろう」
伊東は頭を掻いた。
「メリットを読んでないんだよ」
「何だお前。それでよく質の日会へ入って来たな」
三波が怕《こわ》い顔をする。
「だって、親分が入れって言ったんじゃないか」
三波は返事につまってまた湖底をのぞきこんだ。
「何のお話かよく判らんが、メタラニム島が人工の島であることは、着けばすぐ判ります」
伯爵が言った。メタラニム島はすぐまぢかに迫っていた。
「メタラニム島とひと口に言いますが、実際には何本もの水路で仕切られていて、その仕切られたひとつが、ナン・タウアッチという名前なのです」
巨人イーゴルは、伯爵が何の指示もしないのに、黙々とオールを操って水路のひとつへ乗り入れて行った。湖底へ垂直に落ちこんでいる巨石の壁の間へボートが入りこむと、しばらくの間、誰も口をひらかなくなった。
その沈黙は重苦しいものだった。
メタラニム全域が、何か巨大な謎を秘めていることはたしかなようだった。その神秘的なものは、理窟抜きに、じかに四人の肌へつたわって来た。
謎の聖域……四人はメタラニムをそう感じていた。たしかにそのような宗教的雰囲気に溢れ、それが四人を威圧して重苦しい沈黙に追い込んでいる。メリット的表現を用いれば、無数の死霊が墓場への道を通りすぎたあとのような、生命の退潮そのもののような静けさだった。
冷たく、数学的な精緻《せいち》さで積みあげられた巨石の壁の間をボートが進むと、その見あげるような壁に石段がきざまれ、水路へ舟着場らしいテラス状の平たい岩が突きだしている所へ出た。
「ナン・タウアッチの入口です」
伯爵が言い、イーゴルが静かに最後のひとかきをすると、オールを舷側へ戻した。ボートは滑るように舟着場の巨岩へ吸い寄せられて行く。
伯爵は艫綱《ともづな》を持って乾いた岩へとび移った。平らな舟着場に、舟を舫《もや》うための突起があり、伯爵は慣れた手つきでロープをそこへとめた。
続いて舟着場の岩にあがった四人は、心細そうにあたりを見まわした。見あげると、青い空は水路の幅だけしか見えず、両側から巨石を積みあげた壁がのしかかって来るように感じられた。その壁の底では、テニスコートほどはある平らな舟着場の岩が、ほんの小さな出っぱりにしか思えず、伯爵とイーゴルを含めた六人の男たちが、芥子粒《けしつぶ》のように見えていた。
3
階段の幅は、人間がふたりすれ違う時は、一方が壁に背を貼りつけて道を譲ってやらねばならぬほどの狭さだった。
しかも、それは舟着場から巨石の壁に、水路と平行にきざまれていた。
「こんな階段をきざむには、途方もない労力が要っただろうな」
吉永が階段の登り口で呆れたように言った。舟着場へ上ってから、それがはじめての言葉だった。
まさに、それは吉永が言うように恐るべき労働の跡を示していた。巨人のイーゴルが、辛うじて腰をかがめずにすむほどの高さで、狭い階段が巨石の壁にきざみ込まれているのだ。つまり、約四十五度の角度で、舟着場から巨岩の壁をコの字型にへこませ、階段がきざみつけられている。
「危《ヤバ》いよ。俺はいくらか高所恐怖症気味なんだぜ」
伊東が尻込みした。
それも道理。水路の側には手すりも何もついていない。登るに従って体の左半分に寒気が生じて来て、ふと次の一歩を踏み誤まり、水路へ真逆様に転落してしまいそうな気になる。
おまけに、巨岩を積んだ継ぎ目が、まぢかで見ると意外に幅広く、時には軽くジャンプしなければならない。
「やだよ、俺。怕《こわ》いよ」
そういうことにはまるでこらえ性のない伊東は、ジャンプしなければならない割目にさしかかるたび、そう言って三波を手こずらせた。
あながち伊東の臆病を責めるわけにも行かないようだった。何度もここへ来て慣れているはずの伯爵でさえ、高度がますにつれて足の動きがためらいがちになっている。平気なのは最後尾のイーゴルだけだった。
「いったい、どんな連中がこんな仕事をしたのだろうな。この巨大な岩を四角にきざむだけだって信じられないくらいなのに、そいつをきちんと積みあげてあるんだから」
山本麟太郎が心の底から感嘆したように言った。
「物凄く強大な権力があったんだろう」
と吉永。
「いや、それだけじゃ出来ないよ。この巨大な岩をどこからどうやって運んで来たんだ。どうやって積みあげたんだ。どれもこれも、一辺が十メートルはあるじゃないか。それを煉瓦を積むように、いともかんたんに、しかも正確に積みあげてる。我々の知らない技術があったんだろう。そうとしか思えないよ」
謎だった。積まれた巨石のひとつひとつが謎だった。謎が積みあげられ、謎がきざみつけられ、その謎の塊りの中を山本たちは一歩一歩、怯《おび》えながら這いあがっているのだった。
しかも、なめらかに仕上げられた巨石の肌は、死者の肌のように不吉な灰白色を呈し、生あるものは苔《こけ》ひとつ見当らぬ石の階段は、片側を死への淵とし、片側を冷たい拒絶の壁として、時さえも流れ果てたような静寂の中にあった。
「ヤホー……」
たまりかねたように伊東が叫んだ。
そのとたん、辺りに潜んでいたもののけが、一度に目ざめて踊り狂いだしたように、水路の上を、
「ヤホ」
「ヤホ」
「ヤホ」
「ヤホ……」
と、伊東の声の谺が際限もなくとびかった。イーゴルさえ、その妖しい谺に思わず足をとめてしまった。
巨石の壁の至るところに、時に侵された空洞があり、やがてその狂ったような谺は、対岸の壁の中程にある崩れかけた部分を、ゆっくりと水路に転落させてしまった。
「こっち側でなくてよかった」
三波がささやくように言った。
「気をつけてください。強固なように見えますが、場所によっては崩壊寸前なのですからね」
伯爵は安堵《あんど》の溜息をつき、肩をすくめて言った。
4
やがて階段は行き止りになった。……いや、水路と平行に登って来たのが、頂上近くで巨石の壁の中へ直角に曲りこみ、トンネル状に登っていたのだ。
短いトンネルを抜けると、そこは石の国だった。
ローマの廃墟さながらに、神殿や広場や、そのほか得体の知れない石の建造物の残骸がひしめいていた。
トンネルを出てふり返ると、トンネルの出口は両脚を揃えて立った巨大な神像の足の部分に当っているのが判った。
神像には目がなかった。
「盲目の神様かい」
安定した場所に出て、伊東は急に元気をとり戻したようだった。
「ここの神々には、みな目がないようです」
伯爵が教えた。
「神様には目がないんだってさ」
伊東は悪戯っぽい笑い方をした。
「お前は女に目がない」
三波は神像をみあげながら、真面目な表情で言った。呆気にとられていても、伊東への反応はいつも通りに起るらしい。
「ナン・タウアッチ……」
吉永はその名を呪文のようにつぶやいている。
ナン・タウアッチは、水路で碁盤の目のように仕切られたメタラニムの中心に位置し、あたりの正方形の部分より、ひときわ高く作られているようだった。
「なんとなく、アトランティスを連想させる所だね」
山本が言った。イーゴルが、山本の横をすり抜けるように、トンネルの出口がある神像から中央部へ下る、ゆるい斜面の石の道を、思いがけぬ軽やかな足どりで進んで行った。四角いナン・タウアッチの内部は、中心に向って一律にへこんでいて、漏斗《じようご》の底に当る中心には、円筒状の高い壁が、巨大な煙突のように突きだしていた。
その中央の壁へ向いながら、イーゴルは巨大な両手を空にむけ、
「ラークラ……」と、軋《きし》むような声をあげた。
「ラクラと言ったぞ」
吉永がきっとなって山本をみつめた。山本は自信なげに首を横に振った。
「果してムーン・プールなのかどうか……」
「とにかく行ってみよう」
吉永はくるりと振り向くと、足早にイーゴルのあとを追った。
「トランシルヴァニアでも、最もルナの強い地帯と言われるミッテル・ランドの中心が、このナン・タウアッチらしいのです。自分の意志を持ったものがここへ入れば、意志の力は外での数十倍にもなるようです。長年研究の結果、私はそのことを発見したのです。だが昼間は駄目です。夜を待たなければ……」
伯爵は吉永と並んで歩きながら言った。
「太陽は肉を育て物を熱するが、月は知恵を育て物を冷やすとおっしゃいましたね」
「ええ、そのとおりです」
「とにかくこのトランシルヴァニアは妙なところですよ。まるで魔術の実験場みたいだ。ここではすべてが、科学に背をむけ、魔法や呪術のほうへ進んでしまっている……」
吉永は巨大な石柱や石像のころがる廃墟を進みながら、伯爵に言った。
「吉永……」
その時、すぐうしろを歩いていた山本が、いつもの柔和さに似ず、珍しく鋭い声で吉永を呼びとめた。
吉永も伊東も三波も、伯爵までがびっくりして立ちどまった。
「君は今、重大な発言をしたぞ」
「俺が……」
吉永は妙な顔で思い返しているようだった。
「俺が何を言った」
「実は、このトランシルヴァニアへ入ってすぐ、僕はひとつの解釈にとらわれていたんだ」
「解釈……」
「この亜空間に対する解釈さ」
「どんな」
「それを今、君が口にした。……実験場のようだと」
「なんだって」
「実験場さ。この亜空間には、まずヴァレリアたちが住む中世風の世界があった。野蛮な戦争をくり返していた。平凡な民衆は嘘をつけず、権謀術数は高貴さのあかしになっていた。権力者の嘘だけを許し、民衆の嘘を封じていた。そういう社会は、いったいどう育って行く。あれは嘘を封じられた社会ではなく、嘘を助けていたのだ。あそこではどんな嘘も信じられてしまう。権力者の嘘を許すとき、そこには民衆を支配する権力者同士の争いだけが演じられる。ひょっとすると、あそこは人間が権力に対してどう反応するかの実験場ではなかったろうか」
吉永は顔色を変えた。
「するとここは魔術の……いや、人間の精神力の実験場か。科学ではなく、月的《ルナテイツク》な力を活力源にする、オカルティズムの実験場だというのか」
「判らないが、そんな気がしていたところへ、君が同じような感想を洩らしたんだ」
太陽が空にあり、月の時間はまだ遠かった。
月光を攪拌《かくはん》する者が現われる
1
四人はナン・タウアッチの廃墟で、一瞬の遅滞もなく、山の端《は》に没して行く赤い太陽をみつめていた。
たとえそれが贋《にせ》の太陽であるとしても、赤く巨大に膨れあがり、揺れ動くように見えながら沈んで行く光景は、四人の心に夜への期待と不安を呼び起させるに充分な眺めであった。
やがて太陽は完全に没し去り、湖面をひんやりとした一陣の風が、夜のはじまりを告げるように吹きわたった。
「今夜、俺たちは嫌でも地底のムーン・プールに達する」
吉永は読みあげるように言った。
「ここにムーン・プールがあるのかね」
伊東はふり返ってナン・タウアッチを眺めた。
「ムーン・プールかどうか判らないだろ。変な船が迎えに来るかも知れないぜ」
三波が急に冷たくなった風に首をすくめながら言った。
「変な船って……」
「白と黒に塗りわけた奴さ」
吉永が軽く笑った。
「イシュタルの船か」
「メリットならね」
「いや、それはないだろう。このナン・タウアッチを見ろよ」
四人は正方形をした巨石の島の、いちばん高い所に立っていた。そこは例のトンネルの出口がある、目のない神像の下であった。
「外界に通じる唯一の出口がここだ。そして、ここがいちばん高い。中央へ行くほどへこんでいて、あの円筒形の壁に囲まれた中央の祭壇のような所が最も低くなっている。あべこべじゃないか」
「あべこべ……」
伊東と三波が異口同音に言った。
「そうだ、あべこべだ。いいか、普通神殿や祭壇はこうした場合、いちばん高い所に作られるはずだろ。ところがここでは、外界に通じる門がいちばん高くて、重要な建造物ほど、中央の低い場所に配置されている。最も重要らしいあの円筒形の壁は、漏斗《じようご》の底のような場所だ。断言してもいい。ここの神は天にいるのではない。地の底の神だ」
「地獄の神様かい」
伊東が怯えた声をだす。
「地獄かどうか知らないが、この廃墟が宗教的なものだとすれば、その宗教は地底の何物かに対する信仰に支えられている」
すると山本が口をはさんだ。
「そうだろうね。でも、だとすると月の件はどうなるのだろう。トランシルヴァニア中が月に対する信仰のようなものを持っているんだけど」
「判らないな、俺にも。だが、それも月が昇ればはっきりするんじゃないか……」
その時、漏斗の底のほうからバンカー伯爵が四人のいる所へ、靴音を響かせて登って来た。
「まもなく霧が出ますぞ。イーゴルに火の用意をさせましたから、火の傍へどうぞ。この辺りの霧はひどく体を濡らしますからな」
太陽が沈み、透きとおるような翳《かげ》りが、四人と伯爵の間を満していた。その翳りは、急速に夜の闇に変って行くはずのものである。
「逢魔《おうま》が時というのは、こんな時間を言うんだろうね」
山本はそう言いながら、ゆるい坂を下って中央へ向いはじめた。西の山の上には、まだ赤い残照があって、それが薄い雲を薔薇色に染めていたが、今は次第に銀色にさめはじめている。
「亜空間でも美しいものは美しい」
三波は哲学者めいた言い方をした。
「何ですか。あなたがたは、よく亜空間といわれるが」
伯爵が尋ねた。
「ここは亜空間なのですよ。本物の世界じゃない。ごく限定された規模で作り出された、贋の空間なのです。疑似世界なのですよ」
伊東が親切に教えてやると、伯爵は事もなげに頷く。
「ああ、ジョーカンジーの教えですな。あの魔術師は、その考えをトランシルヴァニア中にひろめたかったようです」
伊東は吉永と山本をふり返り、肩をすくめてみせた。
「月的《ルナテイツク》な力の根源を解き明したら、あなたはそれをどう利用するおつもりですか」
山本が尋ねた。
「すべての魔術師、すべての魔女、すべての錬金術師、すべての死者蘇生術師を支配するでしょうな」
伯爵は当然のように言う。
「トランシルヴァニアの王になるわけですか」
「そうです。あなたがただから、率直に言いましょう。私は闇にひそむ偉大なものに憧れているのです。私自身、それになりたいと思っています。月的《ルナテイツク》な力の根源をこの手に握ったとき、私は更に深い闇にひそむでしょう。何人《なんぴと》も探ることのできぬ、いかなる光をも通さぬ闇を作りだし、すべての人々の心に影を落して、畏怖されるものになるでしょう。あらゆる妖怪を用いて叛《そむ》く者を引き戻し、闇の中の闇に、黒の中の黒を着て、支配するのです」
四人はいつしか立ちどまり、迫り寄る闇の中で伯爵の言葉を聞いていた。
「夜こそ人が人たるべき世界です。闇こそ人の心です。生を支配することにより、死を支配することのほうが美しい。……そうお思いになりませんか」
「なるほど。私の死があなたに支配されたら、あなたから決してのがれられませんね」
山本はおぞましさを隠して掠《かす》れ声で言った。
2
廃墟の中での夕食は、シチューであった。味は例のパプリカ・ヘンドルに似ていて、大蒜がたっぷり効かせてあった。
イーゴルは石畳の上に、中華鍋に似た底の浅い大鍋を置き、そのまわりに鉄で出来た、折りたたみ式の三脚を立てていた。
中華鍋に似た底の浅い鍋に、イーゴルは蝋《ろう》の塊りに似た固型燃料を、太い指でちぎっては投げ入れている。固型燃料は煙もたてず、溶けもせず、静かに燃えている。
火の上に、三脚から吊したシチューの鍋がかかっていて、グツグツと小気味よい音をたてて煮えている。
伯爵とイーゴル、それに質の日会の四人は、燃える大鍋を囲んで、平たい金属の器に入ったシチューを食べていた。彼らの影は鍋の炎に揺れ、あたりの石柱や壁に、薄気味悪い踊りを続けている。伯爵が言ったとおり、霧が動きはじめ、それが闇そのものの動きのようにさえ感じられた。
そしていま、ナン・マタル湖の闇の上に、月が現われていた。
「ああうまかった。ご馳走さま」
伊東が石の上に器を置いて言った。
「月も昇ったし、そろそろ中へ入ってみようか」
伊東は立ちあがり、円筒型の壁に近づいた。壁には入口がなく、ボートで運んで来た木製の梯子《はしご》が立てかけてあった。
すると、イーゴルが突然食器を抛りだし、
「ラークラ……」
と唸《うな》るように言った。
淡い月光が円筒型の壁を照し、壁の肌には、その月光にこたえるかのように、いつの間にか蛍《ほたる》のように光る無数の点があらわれて、音もなくうごめいていた。
「や……」
全員がそれに気づいて立ち上った時は、すでにその蛍のような光る点は、ひとつひとつが壁面に拡散し、円筒の壁全体に蛍光が瀰漫《びまん》していた。
「はじまったぞ」
吉永が叫び、まっ先に梯子にとりついて壁に登ると、内側へ一気にとびおりた。
伊東、三波、山本、伯爵、そして最後にイーゴルの順で、一同は大鍋の火をそのままに、円筒の内側へ移動した。
円筒の内側には、横十メートル、縦五メートル程の方形の巨岩が、四十五度の角度で、その磨き抜かれたつるつるの面を東の空に向けて据えてあった。
全員が、碑文《ひぶん》のない碑のようなその巨石の前に立った時、東の空を向いたつるつるの面には、すでに幾つかの光点が浮びあがっていた。
平たく見えた石の肌は、部分ごとに微妙な角度を与えられ、月がその石の鏡に、幾つもの分身を映しだしているのだ。
「ひとつ、ふたつ……」
伊東がそれを数えた。石の鏡の中に、月が七つ光っていた。
やがて、石の鏡に映った七つの月が、ゆっくりと運動をはじめ、ひとつに集って星のかたちになった。
「開《あ》くぞ。これは石の扉だ」
四十五度で空を向いた巨石は、いまやその磨かれた面を水平に近づけ、床面とひとつになろうとしている。
「開《あ》くぞ。石がまわっている」
六人が立っている側のつけ根を軸に、巨石は地中へ回転していくようであった。
男たちは、夜のおわりのような、光とも言えぬしらじらとした靄《もや》のようなものに満たされた穴をのぞきこんでいた。
「ラークラ……」
イーゴルがその穴へとびこんだ。階段ではなく、水路のようななめらかな斜面が、下へ際限もなく続いているようだった。伯爵を先頭に、四人もその穴へとびこんで行く。
3
地底へ斜めにおりていく岩の通路は、妖しい微光に溢れていた。その微光は、入口の磨かれた石の扉に映った月のものとよく似ていたが、微光そのものの発生源は、周囲の岩の内部にあるように思えた。
通路は一直線に下へ伸びているようだ。
「どうするの。このまま行くの……」
伊東は下り坂で体がはずみすぎるのを抑えようと、そり身になりながら大声で言った。
「行ってみるより仕方ないさ、上にいたって俺達は帰れそうもないもの」
三波が呶鳴り返した。岩の通路、つまり岩をくりぬいたトンネルの中に、イーゴルと伯爵と、伊東たち四人の靴音が響き渡って、大声で呶鳴り合わなければ、とても会話などできるものではなかった。
どこまで下り続けなければならないのかと少々心細くなりはじめた頃、一行の背後でドーン、というこもった響きが聞えた。
四人と伯爵は思わず立ち止った。ただ一人、先頭のイーゴルだけは、どんどん先へ走って行く。
「出口がふさがったぞ」
伯爵が叫んだ。
「どうしよう。もう帰れないじゃないか」
伊東が泣声をだした。
「かまわん。一度あいたものなら、またあくにきまってる。それより、俺たちの出口はうしろじゃなくて、前にしかないんだぞ。元気をだせ」
吉永が叱りつけた。
「畜生。次から次へ変なことばかり起りやがって」
伊東はやけくそのように罵《ののし》り、それでもどうやら気をとり直してまた走りはじめた。歩いて下ってもいいのだが、何しろかなりの下り勾配《こうばい》で、足どりはどうしても走るようになる。みんな、トンネルをみたした微光のため、幽霊のような色に染って走っている。
「ラークラ……」
前方でイーゴルの物凄い叫び声がした。伊東は斜道を駆けおり、仁王立ちになって叫んでいるイーゴルに、もう少しで体当りする所だった。
辛うじてイーゴルの巨体をよけ、その先へ突っ走って、すべすべの岩肌にぶつかってとまった。
そこはあまり大きくない空洞であった。ずっと入口から続いて来た斜めの通路はそこでおわり、床が水平になっている。
空洞の内部は靄がかかっているように思えた。斜道を満たしていた微光がいっそう濃密になり、蛍光が靄のようにまつわりつくのだった。
「ガラン洞じゃないか」
三波があたりを見まわして言った。
「この光は粘《ねば》っこいね」
伊東はそう言い、右腕を振りまわしてみせる。腕の動きにつれ、蛍光が残像のように尾を引く。
「ラークラ……」
イーゴルが上をみあげてまた叫んだ。
「随分高いな」
山本が言ったとおり、空洞はそう大きくないが、やけに天井が高いらしかった。……らしいというのは、上が空洞に満ちた蛍光にかすんで、よく見とおせないからである。
「おかしいぜ。光が濃すぎてよく物が見えないなんて」
吉永が首をひねる。
「伯爵。どう思います……」
吉永は伯爵に意見を求めたが、伯爵はむなしく唇を動かすのみで、何も喋らなかった。
「どうしたんです」
吉永は慌てて伯爵に近づいた。伯爵の体はぐらりと前に傾き、本来ならそのまま倒れてしまうような角度のまま、倒れもせず喉をかきむしりはじめた。
「いけねえ。有毒ガスじゃないのか」
吉永は振り返って山本に言った。
「どうしたんだろう。僕は今のところなんでもないよ」
山本は苦悶《くもん》する伯爵を悲しそうにみつめて答えた。
「俺もなんともない」
「俺もだ。それにイーゴルもだ」
伊東と三波が言う。
「伯爵。バンカー伯爵。しっかりしてくれ」
吉永が伯爵の肩を掴んでゆさぶると、そのはずみで伯爵の足は岩の床を離れ、ふわりと浮きあがった。
「この人、どうして倒れないの。なぜ浮かんじゃうの。病気かい」
「莫迦。体の浮く病気なんてあるか」
伊東の質問を三波が弾き返すようにきめつけた。
伯爵の体は、ゆらりゆらりと回転しながら、次第に高度をまして行くのであった。
4
いま、空洞の底で、質の日会の四人は巨人イーゴルと共に、濃密な蛍光をすかして、バンカー伯爵の体をみあげていた。
伯爵は体の正面を空洞の底に向け、両手をゆるく曲げて頭の上に伸ばし、両足もごく自然に伸ばして、水平に浮んでいた。
「どうしたんだか知らないけど、随分|楽《らく》そうだな」
伊東が言うように、それはまったくゆったりとした姿勢に見えた。
「プカーッと水の中に浮かんでるのを、俺たちは池の底から眺めてるみたいじゃないか」
「それだ……」
吉永が叫んだ。
「それだって、何がそれだい」
伊東が尋ねた。
「ここがムーン・プールなんだ」
「ムーン・プール……」
「いま池の底に俺たちはいる」
「そうだ。そうに違いないね」
山本が吉永の意見に賛同した。
「説明してくれよ。何が何だか、俺にはさっぱり判らない」
三波が言う。
「俺も……」
と伊東。
「俺に判んない時はお前も判んないにきまってるんだ」
「どうして。そんなこと決っちゃいないよ」
伊東は不満そうだった。
「いいかい」
吉永は通り抜けて来た斜道の出口を指さして言った。
「外界にある月の光を液体だとしよう。そうすると、ナン・タウアッチの中心にあるあの岩の扉は、取水口の蓋みたいなもんだ。昼の光をさえぎり、純粋な月の光だけをとり入れる。だから、いつでも夜になると開くというわけじゃないんだろうな。それがどういう条件のとき開くのか知らないけど、とにかく俺たちは丁度それが開く時に来あわせたんだ。そして、どっとばかりに月の光……つまり月の水が取水口から流れ込んだのさ」
「なる程ね」
山本が頷く。
「円筒の壁でかこってあったのは、月光以外の光線が混らないためなのか」
「多分そうだろう。そして、月の水と一緒に俺たちも取水口へとびこんだ。取水口の扉は一定量の月の水をとり入れてまた閉じたのさ」
「だって、ここには水なんか一滴もないよ」
伊東が反論する。
「常識人間め」
三波が伊東の発言を抑えようとした。
「たしかに水はない」
吉永は苦笑したようである。
「しかし、この蛍光を見ろよ。水でもなければガスでもない、ただの光だが、どうもおかしい。そうだろ。粘るように感じられるし、少し距離を置くと、先がかすんだように見えにくくなる。こんな光があるもんか」
「そうすると、あれは……」
伊東はまた頭上に浮いた伯爵の体をみあげた。
「ロスボ高原へ出た時と同じさ。俺たちはこの次元の人間じゃない。だから光は光なんだ。しかし、あの伯爵にとっては、この濃密な蛍光は水になっていたんだ。溺れて浮きあがったんだ」
「それじゃ、なぜ斜道へ入ってすぐ溺れなかったんだい。それどころか、上のトランシルヴァニア人は、なぜ月の光を浴びても溺れないんだ」
三波が言い返す。
「判らない。でも、多分俺たちが抜けて来た斜道に、何か光を濃縮して液化させる働きがかくされていたのかもしれない」
「そう言えば、下へ来るにつれて光が濃くなったみたいだったよ」
伊東が上をみながら言った。
「ラークラ」
イーゴルがまた叫んだ。
「じゃ、なぜイーゴルは溺れないんだ」
三波が言う。
「そいつが判ればな」
吉永は考え込んだ。
「イーゴルも俺たちの仲間なんだろうか」
三波はイーゴルの前へまわって、しげしげとそのフランケンシュタインの怪物風の顔を眺めた。
その時、空洞内の蛍光が一斉にゆらゆらと揺れはじめた。
「あれっ」
伊東が奇声を発した。
「上で掻きまわしてる奴がいる」
たしかに、伯爵が浮いている辺りに、何か光を攪拌《かくはん》するようなものが見えていた。上に何者かが存在することは明らかであった。
全裸の美男美女が月の井戸の奥にいる
1
太いロープにすがって、まず最初に三波、続いて伊東、山本、吉永の順で月の光に満ちた空洞を登って行った。
上へいちばん登りたがったのはイーゴルであったが、上からたらされた救いの綱は、どういうわけかイーゴルに掴まれるのを拒否するように、たくみにイーゴルのごつい手をさけ、そういう順番で助けあげたのだった。
吉永が上へ着くと、伊東がわざとらしく両手で顔を掩っていた。吉永はすべっこい岩肌に手をかけ、やっとのことで這いあがり、三波に助けられて平らな岩の床に立った。
「やっぱりムーン・プールだったな」
吉永は、這い上ったばかりの空洞を眺めて言った。上から見ると、えも言われぬ真珠色の液体でその空洞は満たされており、表面にはさざ波さえ立っていた。
ロープは下にイーゴルを残したまま、するすると引きあげられてしまう。真珠色の池の水の底で、イーゴルの巨体が両腕を振りまわし、上をみあげて怒り狂っているのが、魚影のようにゆらゆらと揺れて見えた。
引きあげられ、するすると岩の床の上をすべって行くロープの端を目で追った吉永は、あっ、と低く叫んだ。
伊東がわざとらしく両手で顔を掩っていたわけである。ロープを引きあげたのは、すらりとした体つきの、全裸の美男であった。そのロープは、岩の床がテーブル状に隆起したつけ根にまきつけられ、四人が登って来る重量を支えていたのだ。
そして、そのテーブル状の岩の隆起の上には、ふわふわと柔らかそうな白い塊りが敷きつめてあり、その上に、もう一人全裸の美女が横坐りに坐って吉永のほうをみつめていた。
「なぜイーゴルをあげてやらないんです」
吉永は生唾《なまつば》をのみこみ、眩しそうな表情で言った。
すると、ロープを外した全裸の美青年が、丁寧にロープを巻きながら答えた。
「イーゴル……それは僕の名前ですよ」
「君がイーゴルだって言うのか」
「ええ、あなたがたは、あれがイーゴルという名前だと思っていたんですか」
「じゃ、この池の下にいるのは何者なんだ」
すると、全裸の美女がおかしそうに笑いだした。全裸の美青年も、その笑顔に目をむけて、優しく微笑した。
「あれはルグゥルですよ。いったい誰が僕とルグゥルをとり違えたんです」
イーゴルと名乗る美青年はそう言った。まったく大した優《や》さ男であった。男でさえ惚れぼれするような美貌で、逞しさこそないが、そのかわりいかにもしなやかで、バネのきいた体つきをしていた。小さく締った腰、長い脚、へこみかげんの腹部、そしてふっくらと盛りあがっていないのが不思議なくらいの胸……唇は朱《あか》く、鼻が高く、目は大きく、額は広く、髪は優雅にカールしていた。しかも股間には、無花果《いちじく》の葉さえなく……。
「やっぱり俺は短小なんだな」
と、三波は絶望の呻きを洩らした。
「俺もさ」
両手で顔を掩ったまま、伊東が慰めるようにささやいた。指の間から見えているのだ。
「バンカー伯爵がそう言っていた。だから俺たちはてっきりあの巨人をイーゴルだと思いこんでいたんだが……」
吉永は伯爵の姿を探した。ムーン・プールの上に浮いて、誰かに引きあげられたらしいのは、下から見あげて知っていたのだ。
山本が黙って指さした。
「あ……」
吉永は愕《おどろ》いて、岩の床に横たわった伯爵の傍へ駆け寄った。シャリシャリ……という小さな金属性の音が、吉永の動きにつれてどこからか聞えていた。
「バンカー伯爵……」
吉永は床に片膝をつき、あおむけに横たわった伯爵の体に手を触れて、暗然とした声をだした。伯爵の体は氷のような冷たさであった。
先に上へあがった山本が、喉にひっかかるような声で言った。
「結晶化しているよ。まるで、例のバラードの世界のように……」
山本が言うとおり、伯爵の全身はみごとに結晶化し、宝石のかたまりのようであった。
「いったいどう……」
吉永が膝を伸し、勢いよく全裸の美男美女のほうに向き直ろうとした時、シャリシャリという音と共に、パチンパチンとガラスの割れるような響きがして、ズボンといわずシャツといわず、着衣の至るところが体からはがれ、床に派手な音をたてて砕《くだ》け散った。
吉永は呆然として、両手をひろげ、自分の体をみまわした。
2
「俺も動きたくても動けないのさ。動けば着ている物が割れて裸になっちゃう」
伊東が言った。
「どうやら、ムーン・プールに一度つかると、向う側のものはみんな結晶化してしまうらしいのさ」
山本が動かないで言った。その間にも、パチン、カシャンと吉永の着衣は剥《む》け落ち、砕け散り、すでにほとんど全裸に近い。
吉永はあきらめて自分から、結晶化した残りの着衣を叩き落した。
今や吉永は、トロイのヘレン以来の美女と、もろに視線を合わせているのであった。
瞳は驟雨《しゆうう》のあとの四月の空の如く、しかもその色には興味と関心と、そして親愛の入り混った暖かさがあり、その上の眉は、いとも優雅に細かった。唇は、女の艶麗さの精髄を生涯の事業として追い求めた巨匠が、一夜霊感を得て夢幻のうちに描きあげたもののごとく、誇り高く、しかも優美をきわめる鼻筋。玲瓏《れいろう》たる美貌の下は、とろけるようにまろやかな頸《うなじ》と頤《おとがい》。それは直ちに掴めば砕けるような、華奢《きやしや》な肩先きへと続き、上に鋭く反り、下にたわわな豊かさを示す双《ふた》つの丘から、肉うすくしかもぬめぬめと柔らかな腹部に至る曲線は、いかなる巨匠にも表現し得ない繊細《せんさい》さに溢れている。横坐りに揃えた太腿《ふともも》は、豊かさよりは優しさを、膝から折れた長い脚は知性を感じさせるほどである。しかも、優しく豊かな太腿と、肉うすく繊細な下腹の合する部分には、肩から背に流れる美しい髪と同じ色が、春霞のごとく茫とたちこめ、いやはやどうも色っぽいのなんの。
そのように艶麗な女体と、中性的な妖《あや》しい美しささえ感じさせる美青年の、ふたつの全裸に向き合った時、吉永佐一の凡庸な肉体が、その頭脳に与えた影響は、なんとまあみじめったらしく、おずおずとぎごちなく、右手で前を隠すことであったとは、仕様のないことながら、無残ではある。
その美女が、いま静かに左手を美青年に預けようとしている。
「あ、あ……駄目。映倫……」
伊東が悲鳴をあげるように言った。しかし美女は委細かまわず、その岩の隆起を台にした豪華なベッドから、するりと滑りおり、床に立った。おり立った美女の肩に美青年が左手をまわした。
「宝石にならないあなたがたは、いったいどういう人なの」
美女が口をきいた。まるで、体の中に黄金のチャイムをかくしているような、音楽的な美しい響きであった。
「私たちはこの世界の人間ではありません。元いた世界へ戻るため、出口を探して旅を重ねている者です」
山本が言った。こういう場所は何と言っても山本の出番である。品がよくて落着いていて……。だがこの時ばかりはそれも怪しかった。つい身動きをして、シャリシャリ、パチン、カシャンと衣服が砕け散り、臍《へそ》から下、ズボンの膝の辺りまでが一気にむきだしになってしまったのだ。
「これは失礼」
流石の山本麟太郎も大いに慌て、横を向こうとしたから、残りの衣服も派手な音をたててはじけ飛ぶ。
「やだ。若様も素っぱだか」
伊東が体を堅くして言った。プールからあがってまだ柔らかい内に両手を顔へ当てたのが、たちまち結晶化して手をおろせば服が割れてしまうのである。したがって、いや応なく顔を掩いっぱなしだ。
「以前、ここから月の池へとび込んで、向う側へ出て行った人があります」
「ジョーカンジーという人でしょう」
「そうです。お知り合いですの」
「僕らは彼の来た方へ、逆にたどっているのです。そうすれば元の世界へ出られるかも知れませんので」
すると美女は、イーゴルと名乗る美青年をみあげるようにして言った。
「やっぱり、ロープをおろしてあげてよかったわね」
美青年は優しく頷き、
「お名前をうかがわせてください。僕はさきほども言ったとおり、イーゴルと言います」
「私の名はラクラ……」
全裸の山本が、全裸も忘れて吉永に言った。
「やっぱりメリットのムーン・プールだ」
「僕は吉永佐一です」
「僕、山本麟太郎」
「伊東五郎」
「同じく三波伸夫……」
三波は言ってしまってから、あっ、と驚いて伊東の顔を見た。
伊東は両手で顔を掩ったまま、台本を読むようにゆっくりと言った。
「莫迦、何が同じくだ」
3
太古の昔、月的《ルナテイツク》な力に満ちたトランシルヴァニアに、その力を利用して精神の神秘的な能力を開発した、一大文明が興ったのであった。
人々はその月的な力を単にルナと呼び、そのルナが最も集中している場所を求めた。
それがナン・マタル湖の中心であることが判ってから、人々は念力に依って巨石を刻み、そして運び、首都メタラニムを築いたのであった。
首都メタラニムの中心は、ナン・タウアッチの月の井戸で、歴代の王は純粋なルナを月の井戸にたくわえ、人民に分配することを主要な職務とした。
しかし、やがてルナは人民の間に過剰に行きわたり、全土に妖異な生物が溢れることとなった。蛙《あ》人、鳥人、獣人、虫人、魚人、そして遂にはすべての死者が蘇って、人口が急激に増大した。ルナの持つ危険な一面が顕在《けんざい》化し、生存競争の激化から正義よりは邪悪がはびこった。
邪悪な闘争に明け暮れる数千年が続き、全土は荒廃して、遂には文明そのものが滅んだのであった。
最後の王が蛙人と死者の連合軍に敗れて死んだ時、皇女ラクラはナン・タウアッチの月の井戸へ身を投じて、いまわしい蛙人や死者による辱凌《りようじよく》からのがれようとした。ラクラの美貌は全トランシルヴァニア渇望の的であり、父王の死も、原因は蛙王のラクラに対する横恋慕であったのだ。
だが、すべてのものを結晶化させずには置かない月の水にくぐったラクラは、いかなる身の定めか無事に井戸の底から浮きあがり、今いる岩の部屋へ這い上ったのであった。そこでラクラは、今日に至るまで、老いを知らずに美貌を保ち続けて来たのだ。
時移り、やがて現在の文明が興った。ナン・タウアッチの月の井戸の秘密は失われ、人々の月的な力も、往古にくらべればひどく劣ったものとなったが、ここに類《たぐ》いまれな美青年イーゴルが現われ、バンカー伯爵の助手として、失われた月の井戸を求めてナン・タウアッチの調査にのりだしたのであった。
バンカー伯爵は、美青年イーゴルに言い寄り続けていたらしい。
イーゴルは月の井戸に憑《つ》かれた男であった。いやらしい、バンカー伯爵の求愛を受け流しながら、遂に月の井戸の秘密を探りあて、あの岩の扉に七つの月が集ってひとつの光となった夜、開いた井戸の中へやみくもにとび込んでしまったのである。
イーゴルもまた、かつてのラクラ同様、月の水で結晶化しない奇蹟の人であった。井戸の底へ浮きあがり、ラクラと会った。
それは月の光が定めた、不可知の掟《おきて》のひとつであったのだろうか。ラクラとイーゴルは、たちまち愛し合うようになった。
しかし、その時ラクラが生みだしたひとつの障害があった。それは、孤独に耐えかねて、岩の部屋で得られるあり合せの素材で合成した、巨人ルグゥルの存在であった。
「ルグゥルは私の召使でした」
ラクラは失敗を慚《は》じるように、顔をあからめてそう説明した。
「僕とラクラが愛し合いはじめると、合成人間のルグゥルは、なんと僕に嫉妬《しつと》を燃やしはじめたではありませんか。合成人間は、人間の愛にかかわり得ないはずなのに……」
男二人に女一人……すさまじくも陰湿な闘争が、この狭い岩の部屋でくりひろげられたようである。
「私とイーゴルが、あの狂った合成人間を、この月の井戸へ、力を合わせて突き落したのです。大部分が金属でできたあの怪物は、沈んだきり上って来られず、やがて井戸の底にも見えなくなったのです。どうなったのかと思っていましたが、それではなんとか斜道を這い上り、扉があいた時外へ出てしまったのですね」
ラクラはおぞましげに言うと、つかつかと池のふちへ歩み寄り、両手両膝を突いて池の底をのぞきこんだ。……全裸で。
「うへッ」
足もとに、世にも艶冶《えんや》な女体が、すべっこくもまたつややかな尻を持ちあげたものだから、伊東五郎は遂にたまらずとびのいた。とびのいた拍子に、そのとなりに伊東同様突っぱらがっていた三波にぶつかってしまった。
パチン、ガシャンと派手に音をたて、池のはたの二人の服が粉々に砕け散り、一部は月の水の中へ、小さな飛沫をあげて沈んだ。真珠の色の月の水へ、アル・ベニーとイーダからせしめたジョーカンジー・スタイルの服が、ダイヤかルビーかサファイアかと言った美しい結晶体に化けて、ゆらりゆらりと沈んで行った。
遂に四人とも裸になったわけである。
4
「伯爵は、月の井戸から這いだしたルグゥルを、イーゴル君が無残な姿で戻って来たのだと思い込んでしまったわけか」
吉永は右手を前へ当てたまま、結晶化した伯爵に歩み寄ってみおろした。
「あいつ、案外恰好いいケツしてやがるな」
三波がつぶやいた。
「やだ。親分、そんな趣味ありかい」
「莫迦。何てこと言いやがる」
三波が我を忘れて伊東を呶鳴りつけた。
「するとお二人はそれ以来、ずっとここに」
山本がラクラとイーゴルに言った。その時ラクラはイーゴルにもたれかかり、しなやかな右腕を恋人の引き締った腰にまわし、左手で相手の二の腕の辺りをつかんでいた。
何とも美しい乳房の片方が、男の脇腹の辺りに押しつけられて少し歪んでいた。
「どうしよう、親分。色っぽいったって何たって、俺、困っちゃう」
伊東は両手で前を隠してオロオロしている。
「あの二人、ああやってずっとイチャイチャしてたんだろうか」
と三波。
「きまってるんじゃないの。ここにあるのは、この月の池と岩のベッドだけだもんね。しまいにゃくたびれるだろうにな」
伊東の声は震えている。
「私たち、もうここからどこへ行く気もありませんの」
ラクラはそれを誇るように言った。
「月の井戸を満たしたルナが、時の力をさえぎっているのです。ここでは歳をとらず、力も衰えません。睡ることさえ必要ないのですよ」
イーゴルが説明した。
「畜生、あんなこと言いやがる」
伊東は泣声だった。
「スタミナも衰えないし、睡くもなんないんだって……親分、それじゃあの二人、あの、ほら……」
三波も生唾を含んだ。
「つまり……ああ、畜生」
吉永がくるりと振り向いた。何か意を決したらしく、もう手で隠したりはしていなかった。
「ここは小さな場所ですから、お二人が暮すのでいっぱいです。愛し合っているお二人のためにも、早く我々はここから出なければなりません。池のほかに出口はないのですか」
すると裸で抱き合っている二人は、仲よく同時に右を向いた。よく見ると、その方角の岩の壁が、どうやら二重になっているらしいのが判った。
「そこにすき間があいているようですね」
「ええ。わけのわからないガラクタがつまっていますわ。ルグゥルもそのガラクタで作ったのですけれど……」
「先へ行けますか」
「変なんです」
イーゴルが言った。
「ときどきガラクタの量が増えるようなんです。ということは、どこかに出入口がありそうなものですが、いくら探してもみつからないんですよ。僕らはここで満足してますから、出入口があろうとなかろうと、どうでもいいんですが」
三波が舌打ちをする。
「僕らはここで満足していますから……そりゃ満足だろうよ。勝手にしやがれ」
とにかく二人とも美しすぎるのである。まったく欠点の見出しようがない若い二人を見ていると……ましてそれが来る日も来る日も裸で愛し合っているのかと思えば、三波や伊東ならずとも、つい我身とひきくらべて、悪たれのひとつも言いたくなろうというものである。
四人は岩の壁の隙間の所へ集った。
刑事の名前にRがついている
1
「僕はもう、この先に逆戻りの壁みたいなものはないと思うな」
薄暗い倉庫のような場所で山本が言った。
「どうして。亜空間には、もうこれ以上の世界はないというのか」
「いや、そうじゃないさ。ここはもうトランシルヴァニアじゃないんだよ。三番目の世界へ入ってるんだ」
「いつ次元の壁を……」
吉永は言いかけて指を鳴らした。
「そうか。ムーン・プールが壁に相当するわけか。無理に抜けようとすれば結晶化してしまう。ワイナンの時のように、次元と次元の境い目が壁のようなものだと思い込んでいたわけだが、こういう接し方もあったんだな。しかし、それじゃあの二人はどう考えればいいんだろう」
「特異体質とでも考えたらいい。次元を超えることは超えてしまったんだからね。しかし、二人は愛情であそこに縛りつけられてしまっている。逃げだしもならず、また逃げだそうとも思わない。実にうまくできてるじゃないか。あの二人は、あそこで永劫《えいごう》にお互いの愛をたしかめ合うんだよ」
「一種の極楽……いや、地獄でもあるな」
薄暗い中を歩きまわっていた伊東が、じれったそうに喚いた。
「高尚な話も結構だけどさ。すっ裸ってのをなんとかしてくれないと、外へ出たくったって出らんないじゃないの」
丁度その時、
「おおい、着る物があるぜ」と三波が呼んだ。
「ほんとか。どんな服だ」
吉永を先頭に、みんな声のほうへ駆けよって行く。
得体の知れないガラクタの山の中から、SFマンガの主人公みたいな、銀色に輝くぴったりとした服を着た三波が現われた。
「何だそれ。テレビ映画の衣裳みたいだな」
と伊東が文句をつけた。
「だったら裸でいろ。短小め」
三波がからかった。
「あるある。なんだか古くなった制服をまとめて棄てたみたいだ」
吉永はそう言い、手早くその中の一着をまといはじめた。
「伸縮性があるから、どれでもだいたいフィットするらしい」
山本も着た。それを見て伊東も慌てて着はじめる。
「こいつは具合がいい」
結構気に入ったらしく、着おわると屈伸体操をしてみている。ぴったりと体にフィットして、しかも程よく暖かい。
「いったいここはどういう所だ」
吉永はあらためてあたりを見まわした。
「ゴミ棄場だよ」
伊東は体操を続けながら、いとも簡単に言った。
「よく見てみろよ。壊れた集積回路だとか、光電管らしいものとか、そんなのがいっぱいころがってる」
すると山本が感心した。
「なる程、君はエレクトロニクスの専門家だったね。おい、吉永。たしかにここは廃棄物ばかりが置いてある」
「置いてあるんじゃない。棄ててあるんだよ」
伊東が訂正した。
「すると、三番目の世界は、相当科学的な世界だな」
吉永が言う。
「相当なんてもんじゃないね。ここに棄ててあるのは、どれ持ってったって、元いた所ではひと財産間違いなく稼がせてくれる代物だよ」
「本当か、伊東」
三波は疑わしげだったが、山本は強く頷いた。
「本当らしいね。だから三番目は科学の世界ということになる。もしそうだとすれば、亜空間を作った宇宙人は、案外我々人類に対して、害意を持っていないのかもしれない」
「どうして……」
吉永は聞き捨てならぬと言った様子で、キッとした表情になった。
「実験してるんじゃないかな」
「実験……」
「うん。亜空間は、宇宙人の人類に対する実験場みたいなもんらしい。僕にはどうもそのように思えるんだ。実験でなければ分析かな。宇宙人はこの亜空間で人類のことを調べているんだと思うな」
「どうもそうらしいな。この上は多分科学的な都市だよ」
吉永に言われて、山本はラクラたちのいる岩の部屋から流れだす蛍光に、ぼんやりと体を浮きあがらせながら笑った。
2
そこは、たしかにガラクタ置場か、さもなければ廃棄物集積所であった。着衣してほっと一息ついた四人が調べてまわると、あるわあるわ。電子機器の部品から食糧品のパッケージらしいものまで、ありとあらゆる古物が乱雑に棄てられている。
「間違いないね。ここは夢の島だ」
吉永が断言した。
「ムーン・プールの裏にゴミ棄て場か。幻滅だな」
伊東が言うと、三波がその肩を叩いた。
「現実なんて、こんなもんさ」
「あの二人、ちょっと可哀そうに思えて来ちゃった」
「ゴミ棄場のとなりにとじこめられてるからかい」
「そうだよ。いくら愛の巣だって、もうちょっとマシな所へ移してやりたいね」
すると山本が言う。
「でも、あれは男と女の絶対境だね。二人の愛以外に何もない世界だよ」
「へえ、若様でも他人を羨《うらや》むことがあるんだね」
「それはしょっ中だよ。僕はいつだって人を羨んでる」
「俺もかい」
伊東が自分の鼻の頭を指さした。
「うん。やり甲斐のある立派な職業についてるし、君みたいに地に足のついた人生を送りたいよ。それは三波君だって同じさ。僕にとっては、君たちは憧れの対象なのさ」
三波と伊東が顔を見合せた。
「贅沢《ぜいたく》言ってんじゃないかね、若様は」
「そうだよ。俺なんか、若様みたいになりたいけど、とても駄目だととうから諦め切っちゃってる」
吉永は山本をみつめ、低く沈んだ声で言った。
「でも、ラクラとイーゴルだって、夢のような愛ばかりで結ばれたんじゃないと思うぜ。二人とも相当な過去を持ってるはずさ」
「どうしてそう思う」
山本はラクラとイーゴルの二人に対する甘美な感情に水をさされ、幾分ムキになったようであった。
「俺はこういう人間さ。甘い所より嫌な所を先に見ちゃう。ラクラが永遠の美女だというのはたしかだろう。でも、落ち目の王とそれに叛乱した蛙王、死人王の噛み合せを考えると、ラクラはそう綺麗ごとで月の井戸へ逃げこんだとも思えない。父王をたすけようと、二人の邪悪な王を操ったんじゃないかな。二人の悪王が共同でラクラの父を滅したということは、最後に両方が操られたことを悟ったからじゃないのか」
山本は目を剥いた。
「それは考えすぎだ。いくらなんでも……」
吉永はおしかぶせるように言う。
「ルグゥルのことを考えてたら、自然そっちのほうにまで考えが向ってしまったのさ」
「ルグゥルのこと……」
「召使いか、あれは」
「そのために合成したんだろ」
「じゃ、なぜイーゴルが現われたら嫉妬したんだ。あの時のラクラの言いようで、俺はハッとしたんだ。イーゴルは、ラクラの孤独をいやす為に造り出されたんだ」
「セックスの相手だって言いたいのか」
「その可能性は否定できない。召使いロボットは決して嫉妬なんてできない。あの時ラクラは顔をあからめていたぜ」
山本は唸った。
「男女の愛の理想像だと思ったのに……」
「今はたしかにひとつの理想像に昇華している。それは否定しないさ。でも、彼らが内にこもって自分たちの愛を永劫《えいごう》にみつめつづけて行こうとしている姿勢には、それなりの理由があるはずじゃないか。若い二人の愛なら、もっと積極的に未来へ向うはずだろう」
「たしかに、言われてみればあの二人は、過去も未来も見てはいないようだ。見つめているのは現在だけだな」
「だろう。あれは刹那《せつな》主義じゃないか。ただ、次元の境い目の特殊な環境を利用して、刹那の愛を永劫に続けているにすぎない。イーゴルにだって、見たくない過去があるのさ」
「バンカー伯爵か」
「ああそうだ。ラクラと会う前、イーゴルと伯爵の間に愛情関係があったと考えてもおかしくない。それでなかったら、あのルグゥルを、イーゴルの変身したものと信じこんで、醜怪《しゆうかい》さをしのんで身辺に置いていた理由が判らないだろ。伯爵はイーゴルを愛し、イーゴルもまた伯爵にどれほどかの愛を与えていなかったら、ルグゥル、イコール、イーゴルという伯爵の勘違いの図式は成立しない」
「よそう」
山本は急に背筋をしゃっきりと伸し、その話を打ち切った。
「でも、僕はそういう見方のできる吉永も羨む」
「実は自分が一番人から羨ましがられているくせにな」
吉永は三波と伊東に同意を求めた。
「そうさ。若様って贅沢すぎるんだよ」
二人は異口同音に言った。
「服も着たし、お二人さんにお別れの挨拶をしておこう」
山本はそう言って蛍光の洩れだす隙間へ向った。
四人が不用意に岩の隙間から、美男美女の愛の巣へ入ったことを責めてはなるまい。ドアもなかったし、ノッカーもなかったのだ。
岩のベッドの白い綿のようなクッションの上で、ふたつの裸体がからみ合っていた。白い肌はピンクに染まり、互いの名を呻くように呼び合っていたのだ。
四人は声も出ず、そっと引きかえした。
3
出口を発見したのは、伊東の手柄であった。
「ここんとこのゴミ……いきなり盛りあがったぜ」
実を言えば、伊東は出口探しに飽きて、そこにしゃがみこんでサボっていたのである。
しゃがみこんでいると、目の前のゴミの山が、急に何メートルか盛りあがったのだという。
「どういうことだろうね」
山本が首を傾げた。
「これと似たようなことが、ロスボのてっぺんで起ったじゃないか」
吉永は目をキラキラさせていた。
「ロスボで……」
「ほら、鉱石の山が一度に消え、かわりに倉庫に製品が入っていたろう。あれとおんなじだよ」
「そうか」
山本は宙を睨んだ。
「やはりここは次元の境い目か。ムーン・プールの底からこのゴミ棄て場へかけてが、次元と次元の隙間なんだな」
「とすれば、出るのはかんたんさ。本物の次元じゃない。亜空間の仕切りなんだ」
吉永は気軽そうに言い、
「それにしても、うまいことを考えやがったな。美濃部さんに教えてやりたいよ」
と笑った。
「どうして」
三波が尋ねる。
「処理のむずかしいゴミを、誰だか知らないが、自分たちの空間の外へ棄ててるんだ。異次元へほうり出してる」
「やだ。ここは次元のはざまのゴミ棄て場かい」
伊東がボヤいた。
「お前、ずっとここに住んだらどうだ」
「ゴミ棄て場だからかい。いいよ、かまわないよ。そのかわり、ラクラみたいな女の子を一人探してよ」
「莫迦。それなら俺が残る」
三波の言い方は真剣そのものだった。
「とにかく出よう」
「どうやって」
「ゴミの山へ登ればいい」
吉永はそう言って、ガラクタの山へ登りはじめた。
「台所のゴミみたいのがないんで助かるね」
と伊東。
「選別収集してるんだろ」
「燃えないゴミは別にしてくださいって奴かい。俺なんかアパートぐらしだろ。収集日にうまくゴミを出すなんて、とてもできないよ。いつも近所の婆さんに厭味を言われちゃう」
「俺もさ」
吉永が笑った、その笑い声が、中途で急にとだえ、同時に姿も見えなくなった。
「しめた。出たらしいぞ」
三人が勢いづいてあとに続く。
出た所は大きなマンホールの中だった。完全な円筒の底で、周囲は鉄のような物質であった。
「ここへゴミを棄てると、次元の外へ出ちゃうという仕かけか。だから穴はあっても、一向に埋まらない。こういう穴がほうぼうにあれば、ゴミ戦争なんて起りっこないね」
伊東はそう言い、嬉々として円筒の壁についた梯子にとりついた。
「上へ上へ……よく穴ぼこを登るね」
伊東、三波、山本、吉永の順で上へ出た。
「ありゃ。また倉庫みたいだぜ」
ジャンボ・ジェットの格納庫ほどもあるだだっ広い建物の中であった。床に白線が引いてあり、それがゴミ収集車のコースを示しているらしかった。穴は全部で五つあった。
「この白線をたどって行けば、出口が判るだろう」
四人は白線の上を一列になって歩きだした。
ビョン、ビョン、ビョン……。ピアノ線をふるわすような音がはじまった。
「何だろう」
「警報じゃないかな」
そう言い合ったとき、カツカツと幾つもの堅い足音が、広い建物の中に交錯した。四方八方から、四人と似たような服を着た男たちが駆け寄って来る。みな細い警棒のようなものを握っていた。
「とまれ。とまらんと撃つぞ」
中の一人が真正面に立ちはだかって叫んだ。四人はとまり、まわりを二十人ほどの男がとりかこんだ。
「名を名乗れ」
厳しい声で命令された。
「山本麟太郎」
「吉永佐一」
「三波伸夫」
「同じく伊東五郎」
すると、警棒のようなものを構えた一人の男が言った。
「何が同じくだ」
伊東は首をすくめて三波を見た。
「親分、あいつのほうが早かったね」
三波は憮然としている。
「市民番号を名乗れ」
さっきの男がもう一度命令した。
「市民番号……僕らはここの市民ではない」
警報の鳴り続ける中で山本が言った。
「ひょっとすると、あれは神経衝撃棒かな」
吉永はひとりごとのように低い声で言う。
「なぜだ。なぜ市民番号がない」
男は問い返した。
「ここの市民ではないからだ」
「未登録の格納者か」
「変なことを言いやがる」
伊東は頭へ来た様子だった。
「格納者って、品物みたいな言い方はしないでもらおうか。立派な人間様だぜ」
「人間……」
二十人ばかりの男たちが、声を揃えて言った。
「人間がなぜこんな所にいる」
リーダーらしいのが、かすれ声で尋ねた。ジーッと妙な音をたてていた。
「よそから来たんだ。ゴミ棄て場の底から。……あんまり啖呵《たんか》にならない所から来たわけだけど」
伊東は照れて頭を掻いた。
「警察に照会する。少しそのままで待ってもらいたい」
リーダーは、ジーッという音をたてつづけながら言った。
「早く照会しろ。話の判る奴に来てもらいたいからな」
だが、誰もその場を動こうとはしなかった。
「早く照会しろよ」
「今している」
リーダーは答えた。
「該当登録者なし。ただし人間である」
リーダーは抑揚《よくよう》のない声で言い、首筋の辺りからキナ臭い煙をたてはじめた。
「該当登録者なし。ただし人間である」
「おい、どうした。煙がでてるぞ」
伊東が言うと、吉永はその肩に手をおいて静かな声で教えた。
「こいつら、アンドロイドだ」
「えっ。ロボットかい」
山本が一歩前へ出て悠然と言った。
「解散してよろしい。我々は上級者が来るまでここにとどまる」
命令していた。そして、集った男たちはそれを聞くと、ほっとしたようなそぶりで、一斉に踵を返して去りはじめた。
その時、小型四輪車にまたがって、一人の別な服装の男がやって来た。
「有難う。そうしてくれなければ、警備員が一人死んでしまう所でしたよ」
その男は車をとめると、軽い身のこなしでとびおり、山本に礼を言った。
「あとで見てやって下さい。回路が焼けはじめていましたからね」
山本は男のさしだした右手を握り返した。
「僕は山本麟太郎……」
「いや、お名前はすでに聞きました。近くをパトロール中だったものですから」
「あなたも警官ですか」
「ええ。C―5級刑事です」
「C―5……」
山本の瞳にけむるような表情があらわれた。
「C―5級だと、かなりいろいろな特権を与えられているのでしょうね。たとえば高速自動走路《エキスプレス・ウエイ》における座席とか」
「ええ。よくご存じですな」
「で、お名前は」
横から吉永が、たまりかねたように顔を紅潮させて尋ねた。
「R・ダニール……R・ダニール・オリヴォーです」
刑事はいともにこやかに言った。
史上最大のどんでん返しに遭遇する
1
警視総監は個室を持っていた。ドアの曇りガラスに、「ジュリアス・エンダービイ」の文字が浮きだしている。
エンダービイ総監は眼鏡をかけていた。
「どうぞお坐りください」
どことなく、クロード・レインズを思い起させる身ぶりで、総監は四人に椅子をすすめた。R・ダニールは総監のデスクの右端に立って、椅子に腰をおろした四人を、柔和な表情で眺めていた。
吉永は何やら落着かぬ風情で、しきりに部屋の中を見まわしている。
「我々はかなり複雑な事態に対処しなければならんようです」
総監は、いかにも弱ったというように肩をすくめて見せたが、どことなく楽しんでいるようでもあった。
「僕らの出現が、だいぶご迷惑なようですね」
山本は詫びるように言った。
「何しろ、シティは何から何までビッグ・ジョンによってコントロールされていますからな。あなたがたのように、全く未知で未登録のファクターに出現されると、とんでもない所に厄介な影響があらわれるのですよ」
「ビッグ・ジョンというのは……」
吉永が尋ねた。
「コンピューターです。百三十世代目のコンピューターです。ビッグ・ジョンは、シティをうまく運営していました」
「いました……」
吉永は眉をひそめる。総監は慌てて言い直した。
「いや、現在この瞬間も、完璧に作動しています」
「でも、僕ら四人のことはまだビッグ・ジョンのデータに入っていないんでしょう」
「いや、すでに入っているか、或いは入れつつあるかのどちらかでしょうな」
総監は左手の指先でデスクの上をゆっくり叩きながら答える。
「僕らの生れた世界には、先手必勝という言葉があります」
「先手必勝……ゲーム用語ですな。いや、意味はよく判りますよ」
「その先手必勝の鉄則を、僕はあなたに用いようと思います」
「ほう……私に先制攻撃をかけるということですか」
「ええ」
吉永は緊張しているようであった。
「あなたは懐古主義者だ」
総監は一瞬不快な表情を示し、すぐそれを世なれた微笑でおしつつんだ。
「そう思われたのなら、あえて否定はしません。私ら市民には、めいめい自分の趣味を持つことが許されていますからな。でも、どうして私が懐古主義者だと……」
「あのドアの曇りガラスと文字です。この部屋へ入る前に判りましたよ。あなたに言っても判らないでしょうが、百三十世代目ものコンピューターを有する、この科学都市の中で、曇りガラスをはめたドアとはいただけません。僕ら風の表現で言えば、ここはアシモフの鋼鉄都市です」
「アシモフの鋼鉄都市……」
総監が鸚鵡《おうむ》返しに言うのと同時に、三波が大きな声で叫んだ。
「そうか。こんどはアシモフか」
吉永は委細かまわず続けた。
「あなたの服……それは一九〇〇年代のものですし、そんな眼鏡もここではひどく時代遅れのはずです」
「驚きましたな。あなたは仲々歴史にお詳しいとみえる」
「二十世紀は僕らの故郷ですからね」
エンダービイ総監は、R・ダニールをみあげ、わざとらしく驚いてみせた。
「おやおや。するとあなたがたは時間旅行者でもあるわけですな」
「時間旅行は理論上不可能という結論が出されています」
R・ダニールは、いかにもRの名にふさわしく、忠実にデータを総監へ伝えた。
「いずれにせよ、あなたがたはシティにとって、未知の因子であることにかわりはありません」
軽く受け流そうとする総監に、吉永はしつっこく食いさがった。
「ごくつまらないことですが、とりあえずひとつだけ、この都市のことについて質問させてください」
「何ですかな。シティに秘密はありませんから……」
総監は寛大に言う。
「市民の階級は何段階に分れているのです。その最高位は……」
「便宜上、三十の階級を作っています。しかしそれは固定されたものではなく、状況に応じて適当に上下されます」
「三十ね。すると、C―5級は」
吉永はR・ダニールを見ながら言った。
「Rの最高は一応B―5となっています」
「なるほど。A、B、Cがそれぞれ十の区分をされていれば、C―5というのは比較的下層ですね」
「いや、そうとも言えんでしょう。Rではかなりの上級者です」
吉永は急に立ちあがり、総監のデスクに両手をついた。
「あなたの味方になりましょう。お望みどおり、この都市を混乱におとしいれてお目にかけます」
伊東も三波も、目を丸くして吉永の背中をみつめていた。
2
「懐古主義者はRを嫌うはずだ。足の骨が折れる心配がなければ、Rの尻を一度思い切り蹴とばしてやりたいと思っているに違いない。その懐古主義者で、しかも多分Aの上位にあるはずのあなたが、僕ら四人をC―5のロボット刑事に案内をまかせ、途中どんな窓口も通さず、いきなりこの総監室へ連れ込ませた。Rの刑事と同室するだけでも嫌なはずだ。やむを得ない場合でも、もっと上級の、恐らくずっと精巧にできたRを使うはずじゃないですか」
総監は目をそらせ、つぶやくように言った。
「とほうもない名探偵が現われたものだ。シティははじめてのはずなのに……」
「あなたは、このR・ダニール・オリヴォーなるロボット刑事を、うまくコントロールしているに違いない。ビッグ・ジョンのコントロールから、うまく外れさせているんだ」
「ちょっと待ってくれ」
総監は額の汗を拭いながら言った。
「どうしてそこまで推理できたんだ。まだ若いのに」
伊東が口をだした。
「SF読んでるおかげさ。ハウ・ツーものばかりしか読まない奴には、死んだって判りっこないね。ゴミ処理場は、多分最下級の管理システムで充分に運営して行けるはずだ。したがってあそこからビッグ・ジョンとやらへのイン・プットなどは、ごく粗雑に扱われているんだろう。僕らはたまたまそこへ出現した。いわばビッグ・ジョンの監視の盲点さ。たしかにRの警備員たちがいたが、彼らの回線は上級刑事のように直接ビッグ・ジョンにつながっていないはずだ。一旦処理場のセンターに集められる……あの時そこにあなたの腹心のR・ダニールが居合せたのは、あなたにとって千載一遇のチャンスだったに違いない。R・ダニールは僕らのデータを、ビッグ・ジョンに送らなかった。だから彼一人で僕ら四人をここまで連れて来れたのだろう。さもなければ、僕らはC―5からC―4へと、次々に上級者にリレーされ、もっと大げさな扱いで別の所へ移されただろう。なぜなら、未知の四人の人間の出現は、ビッグ・ジョンというコンピューターにとって、生死にかかわる重大事件だからだ」
総監は立ちあがり、窓際へ歩いて行った。
「見なさい。我々は完全にとじこめられている。千年このかた巨大なドームにおしこまれ、死亡も出産も、レジャーも教育も、コンピューターの言いなりにコントロールされて来たのです。今の我々は、ドームの外へ出ることなど、考えもしなくなっている。自然の空気を吸えば、細菌に侵されて死ぬと思い込んでいます。天然の土を踏んだ靴は、焼却してもまだ不安の種です。土には無数の微生物が住み、我々はそれをひどく不潔なものに感じているのです」
山本は頷いた。
「僕らの時代、すでにそういう傾向が始まりかけていましたよ」
「懐古主義者とは不本意な言われようです。私らは、人間は本来どのようなものであったかということを探究しているのです。懐古しているのではなく、未来を人類のあるべき姿に戻そうとしているのです。幸いこの部屋は、ビッグ・ジョンの監視回路をとり外してあります。従って、このような会話も自由にできるのです。しかし、普通の場所だったら、もうとうに拘束されてしまっているでしょう」
「けしからん。まるで警察国家だ。恐怖政治じゃないか」
三波が言った。
3
四人はビッグ・ジョンが支配するシティの中で、ビッグ・ジョンの支配体制をくつがえすために、思うさま暴れはじめた。
走路を破壊し、通信システムを混乱させた。エンダービイ総監をはじめとする懐古主義者の秘密組織は、四人の陽動のかげで、巧妙ににせのデータをビッグ・ジョンに送りこんだ。
社会を運営するために発生したコンピューター・システムが、シティの段階では、それがコントロールするための社会に逆転してしまっていた。
管理者は、常に管理を目的としたシステムを編成する。禁止された芝生への立入りを犯す者が現われれば、芝生の補修強化よりは、何人も芝生へ侵入することのできぬような制度を作りあげてしまう。芝生は踏むものから見るものにかわり、やがて芝生を踏むことは権力の威示儀式となってしまうのだ。
シティのコンピューターは、人々が外域を無制限に移動することを嫌い、より管理のしやすいクローズド・サーキット方式を採用しはじめた。
ドームが建設され、完全な空気調節と浄化システムが登場した。住民は清潔無比な環境にとじこめられ、やがて外域を忘れた。
「こんな莫迦なことってあるか」
三波が息まいている。
「どこでも自由に住めるようにするのが科学じゃねえか。ここにだけ住めってのはファシズムそのものじゃないか」
三波は完全に停止した、十二の帯《レーン》を持つ走路を眺めて言った。伊東は総監が用意してくれた磁気発生機を背中につけ、ガスマスクをぶらさげて笑った。
「ロボット野郎が人間を殺せないってのは愉快だね。さあ、これからいよいよビッグ・ジョンにご対面だ。あの野郎を動けなくしてやるぞ」
総監たちは独自の通信システムを作りあげ、市民の心に潜在している反R感情を煽りたてている。
到るところでRが破壊されはじめていた。
「靴を買いに来たのよ。なぜちゃんとした店員が相手をしてくれないの。わたしの身なりがみっともないとでもいうの」
店の中で女が叫んでいた。
「でも、それはこの店の者で、ちゃんとした資格があるんですからね。設計図も保証書も規則どおり揃っていますよ」
「あなたがた、聞いた」
女は店の前に集った群衆に言った。
「この店員は人間じゃないのよ。設計図も保証書もある、ロボットなのよ。こいつら、私らから職場を盗んだわ。仕事泥棒よ。私たちは好きこのんで遊び呆《ほう》けてると思う。ねえ。本当に遊んでばかりいたいの。私は違うわ。仕事をしたいのよ。働いて疲れたいのよ」
群衆は同感の叫びをあげ、靴屋にどっとなだれ込んだ。ロボットが分解され、プラスチックの四肢が外へ投げだされた。
同じような事件が随所に発生し、鎮圧に向ったロボット警官までが、次々に破壊された。
そして、強力な磁気発生機を背にした伊東を中心に、ロボット探知機と外域用熱線銃を装備した四人が、ドームの中央にあるシティ・ホールに接近していた。
「一度でいいから、この熱線銃というのを使って見たかったんだ」
三波は熱線銃をさすりながら、SF作家のようなことを言った。
「コンピューターと人間の対決っての、よくあるテだけど、自分でやるのははじめてだ」
と伊東。
「莫迦。しょっ中こんなことやってたまるかい」
叱りつけながら、それでも三波はご機嫌のようであった。
だが、巨大コンピューター、ビッグ・ジョンの側も、危機の迫ったことを知って、最終的な行動を起していた。
いつの間に組み込まれていたのか、超空間搬送波の発振機が作動したのである。その技術は、シティにはないものであった。発振機は、ただ一つの単純きわまる信号を、この亜空間の外部に送りつけた。
四人がビッグ・ジョンの心臓部にのりこんだのは、その信号が送られたあとである。
「ここだ。伊東、磁気発生機を始動させろ」
「よし来た」
伊東は一気に電圧をトップ・レベルへあげた。ビッグ・ジョンの随所に深い震動音が発生し、あらゆるデータが消滅して行った。シティ中の機能がその瞬間完全に麻痺《まひ》し、科学の粋を誇った鋼鉄都市は、ガラスとコンクリートとプラスチックと鉄の混合した、ただのかたまりにすぎなくなった。
「何だ、あの音は」
吉永がいち早く耳なれぬ音響に気づいて外をのぞいた。
「おい……」
そう叫び、絶句した。
「何だ。どうしたんだ」
三人が吉永の異常な態度に、駆け寄って外を見ると、ドームの中に、二十ばかりの小型円盤が出現し、青白い光線を吐き散らしていた。
「いけねえ。宇宙人のおでましだぞ」
三波が叫んだ。
「やりすぎたのかな」
伊東はうしろめたそうに言い、背中につけた磁気発生機を素早く外した。
「俺じゃないからね。俺はしらないよ」
「逃げよう。奴らは俺たちを探してるに違いない」
四人は円盤の光線を避けながら、ドームの外へ向った。
4
ドームの外は砂漠であった。ワイナンとトランシルヴァニアの間に横たわる砂漠と、同じような風景がひろがっていた。
「畜生。ここから見ると、ワイナンもロスボもトランシルヴァニアも、びっしりくっついてやがる」
三波が罵ったとおり、ドームは砂漠の中にポコンと盛りあがっていて、ワイナンもトランシルヴァニアも、すぐそこに見えていた。
「どっちへ逃げようか」
「ワイナンだ。どうせならヴァレリアたちのいる国へ……」
吉永が叫んだ。
しかし、すでに大型円盤がワイナンの方向に出現していた。トランシルヴァニア上空にも、数台の大型円盤が浮いている。
「仕方がない。海だ」
四人は方向を変えた。
「あれが死の塔か」
山本が恐怖の声を放った。
まさしくそれは異様な構築物であった。高さおよそ二百メートル。一辺が五十メートル、もう一辺が百メートルの直方体である。
山本を恐れさせたのは、その高層ビルなみの直方体の用途が、全く不明であるという点であった。
窓がない。出入口がない。風雨にさらされて赤く錆びついた全鋼鉄製の巨大な塔なのである。
「やなかんじだ」
遠望するものにさえ死の塔と名付けさせた、その異様にまがまがしい雰囲気は、円盤に追われて砂の上を逃げる四人の心に、絶望的な影を投げかけている。
「来た……」
四人はさっと散って地に伏せた。青白い光線が、たった今四人が進んでいた砂の上に当り、激しく砂を捲きあげて消えた。
「駄目だ、こりゃ」
身を隠すものひとつない砂漠の上で、伊東がそう叫んだとたん、円盤の放った光線が彼をとらえ、伊東の姿は一瞬の内に消えた。
「おしまいだ。海はすぐそこなのに」
言いおえぬ内、三波も消えた。
「山本……」
「吉永ッ」
呼びかわす二人も、たてつづけに光った青白い光線の中へ消え、あとには四人の足あとだけが、砂の上に残っていた。
風の音だけがしていた。
*
四人は茫然と突っ立っていた。
彼らは巨大な死の塔の内部にいた。五十メートルと百メートルの底部を持ち、二百メートルの高さがある。それは鋼鉄の檻であった。二百メートル上の天井に光源があり、四人の姿を強烈に照しだしている。
「監獄じゃねえか、まるで……」
伊東が言った。
「まるでじゃない。監獄さ」
三波が言い、足もとの白骨をみつめた。あっちにも、こっちにも、白骨が転がっている。壁によりかかったままのもの、穴を掘ろうと鉄の床をむなしく引っ掻いたままの姿勢のもの……。
「出口なしか」
吉永がため息をついてしゃがみこんだ。
「誰だい。未来を見たから平気だなんて言いだしたのは」
四人は絶望の淵に沈んだ。
長い時間、四人は黙って考えていた。ノンブルでのおしゃべり。南風荘でのチョンボ。ワイナンの活劇。トランシルヴァニアの怪異……。
幾日たっただろう。四人は餓《う》え、渇《かわ》き、そして睡《ねむ》くなっていた。
「テストだ。宇宙人のテストなんだ。権力欲を探るのがワイナンだ。精神的な力をためすのがトランシルヴァニアだ。科学的な能力を知るのはドームのシティだ。宇宙人は地球人を調べているんだ」
「なぜ俺たちをとじこめたんだ。これでも悪意はないというのかい」
吉永に三波が反問した。何度もくり返した会話であった。
幾度めか、幾十度めか……突然山本が立ちあがった。
「出口はあるぞ」
「えっ」
三人が驚いて山本をみつめた。
「出口はきっとある。あきらめちゃいけない。宇宙人は俺たちをもテストに使ったんだ」
「なんだって」
「想像力さ。SF的な解釈をしつづけて来たろう。宇宙人はそれを知りたかったんだよ」
「じゃ、泳がされたわけか」
「だからここも出られる。自由闊達な発想さえすればだがね」
山本は自信ありげだった。
「よし、やってみよう」
四人はよろよろと立ちあがり、必死に出口を探しはじめた。どこかに出口がかくされているはずなのだった。
*
死の塔が四人をのみこんでから幾日かしたあと、突然その死の塔に異変が起った。
海に向った五十メートルの壁の基部が、ゆらりゆらりと動きはじめたのである。
内部では、四人がその壁を押していた。
「動くぞ。もうひと押しだ」
ゆらり、ゆらりとわずかに揺れはじめた、幅五十メートル、高さ二百メートルの巨大な一枚の壁が、中央百メートルの辺りを軸に、ぐらりぐらりと動きはじめた。
「それっ……」
四人は一気に押した。壁は予《あらかじ》めその力を待っていたかのように、急激に回転した。
海が見えた。砂浜が見えた。砂浜にはボートが置いてあった。
「それ、逃げろ……」
四人はボートめがけて壁をくぐり、脱出した。巨大な壁は一気に回転し、恐しい風圧を生みだした。砂が舞い、四人が海へ向ってころがされた。
颶風《ぐふう》が起り、そして去った。壁は半回転し、上下が入れかわって元のようにとじた。
「逃げるんだ。力いっぱい漕げ……」
吉永が呶鳴り、伊東と三波が必死にボートを沖へ出した。
ゆらり、ゆらり……。平和な海であった。
「凄え……凄えどんでん返しだったなあ」
「まさか、あんなプリミティヴなしかけを宇宙人が用意してるなんてな……」
四人は死の塔を海上からふり返って言った。沖へ出るにつれ、死の塔も砂浜も急速に影がうすれ、やがて見えなくなった。
「あれ……」
山本がボートの進路を指さして叫んだ。
「伊豆じゃねえか」
「白浜が見えるぜ」
「別荘だ。山本んちの別荘が見える。俺たちは帰ったんだ……」
四人は雀躍《こおど》りして叫びあった。
やがて岸辺に近づいた時、山本麟太郎は、四人を代表するように、今はもう消えてしまった亜空間の浜へ向ってつぶやいた。
「きっとある。このままですむわけがない。亜空間要塞の逆襲があるはずだ……」
いったい今日は何月何日なんだろう。伊東五郎は一日の休暇しかなかったはずである。
ボートが岸につき、四人が元の世界へ戻った時、新しい物語が始まるはずであった。だが今は、四人が無事に脱出できたことを祝おうではないか。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。
(角川書店編集部)
角川文庫『亜空間要塞』昭和52年3月10日初版発行