半村 良
下町探偵局 PARTU
目 次
第一話 人違い
第二話 梔子《くちなし》とカーネーション
第三話 窓あかり
第一話 人違い
桜が散って暖かい日が続く。きのうは少し細かな雨が降り、そのせいかけさはまたいちだんと春らしく、しっとりとうららかな日和《ひより》であった。
岩瀬五郎《いわせごろう》は相かわらず新聞を読んでいる。毎朝必ず新聞を三紙、小脇にはさんでオフィスへ現われる。下町探偵局としても一紙とっているから、岩瀬がデスクについてから目を通すのは全部で四紙ということになる。それにしても、電車の中でも読むだろうから、よく読むところがあるものだと感心せざるを得ない。ひまがあればお昼まででも新聞をひろげている。だから情報通だ。若い風間健一《かざまけんいち》などは、必要があるとあすの天気まで岩瀬に訊《き》くことにきめている。
茂木正子《もぎまさこ》は黒い帳簿をひろげてきのうの伝票の整理だ。伝票といったって、たいていは交通費で、だから整理にも時間がかからない。
経理の腕《うで》は抜群だそうだから、こんな貧乏|探偵局《たんていきよく》には勿体《もつたい》ないくらいのものだが、堅肥《かたぶと》りに肥って鼻ぺしゃで、お世辞にも美人とは言えなくてどことなく貧乏|臭《くさ》いから、決して勿体《もつたい》ないようには見えない。
下町誠一《しもまちせいいち》は分厚いファイルをデスクの上に置いて、一ページごとに指を舐《な》めながらゆっくりとめくっている。生活に疲れた中年男というのを絵に描いたらそんな感じになるに違いないが、このうららかな春の朝、横顔には緊張感というものがまったく欠けていて、なんとなくでれでれして見える。
脚《あし》の長い風間は、あけ放した窓際によりかかり、これも至ってのんびりとした顔で下の通りを見ている。下からはとなりの婆《ばあ》さんの声が聞こえて来る。
となりは印刷屋で、このオフィスの大家。下町探偵局の支払う家賃は、全部となりの婆さんのへそくりになるそうだ。だから婆さんは下町探偵局を自分の遊び場のように心得ていて、日に一度は必ず顔を出す。
「ほら、ヨッちゃんもミコちゃんもちゃんとカメラのほうを見るのよ。……笑って。ハイ、チーズ」
風間が二階の窓からそれを見おろして、ケタケタと笑った。
「何やってるの……」
正子が笑う風間に訊いた。
「写真|撮《と》ってる」
「誰《だれ》と……」
「この近所の子供を集めて記念|撮影《さつえい》」
「何の記念撮影なの」
「もうじき死ぬからだろ」
「誰が」
「きまってるじゃないか。となりの婆さんだよ」
「まあ」
正子が半分笑いながら風間を睨《にら》んだ。
「北さんが撮ってやってるのか」
下町がファイルから目をあげて言う。
「ええ」
「写るのかな」
下町が冗談《じようだん》半分に言うと、風間は口をとがらせて答えた。
「うまいですよ、北さんは」
「あら、北さんに撮ってもらったことあるの」
正子がふしぎそうな顔をした。
「ないよ。まだ」
「だったらどうしてうまいと判る」
岩瀬が新聞を見ながら言った。
「判《わか》りますよ」
風間は心外そうな顔で自分の椅子《いす》に戻った。
「麻雀《マージヤン》だってそうじゃないですか。はじめてやる相手だって、卓の前へ坐《すわ》る恰好《かつこう》だけでうまい奴《やつ》はうまいってすぐ判るでしょう」
「それはそうだが、そういうのが判るってことは自分もかなりうまいってことだぞ。風間も写真をやるのか」
「え……ええ」
風間はあいまいな返事をした。
「今のカメラはシャッターさえ押せば誰にだって撮れるわね」
正子は風間の肩を持つつもりで言ったらしいが、それは言葉の調子で判るだけで、内容はいささかあべこべになってしまっていた。
「ちぇっ」
風間はそれ以上言い合う気がなく、舌打ちをして黙り込む。ガラガラッと階下の格子戸《こうしど》のしまる音がして、ガタガタと廊下から階段をあがって来る足音がはじまった。
「お、は、よ」
と、となりの婆さんがオフィスへ現われる。ニコンをぶらさげた北尾貞吉《きたおさだきち》がそのあとから来る。
「おはようございます」
正子がそう言ってお茶をいれに立つ。
「見てよ、北さんはいいカメラ持ってるわ」
婆さんは自分の指定席のようにしている下町のデスクの前の、折《お》り畳《たた》み式の椅子《いす》に腰をおろした。
「ほう、ニコンか」
下町が言うと、北尾は照れたような表情でカメラを自分のデスクの上にのせた。
「北さんの……」
風間が尋《たず》ねる。
「そう」
「使い込んでるな。北さん、相当やるんですね」
北尾は満更《まんざら》でもない顔になった。
「会社を潰《つぶ》したとき、みんな金に換《か》えてしまってね」
「いろいろ持っていたの……」
「好きでね。カメラだけが道楽だったんですよ。|4×5《シのゴ》からエイト・バイ・テンまで揃《そろ》えてた」
「凄え。4×5はなに……」
「ジナーとリンホフ」
「二台も……」
風間は目を丸くした。
「工場《こうば》の裏に暗室《ラボ》もあったんだけど、写真もなかなか金がかかるからね。それでもおかげさまで、やっとこいつだけ買い戻したんですよ。一度友だちに譲ったんだけれど、何しろ肌身はなさず持って歩いた奴ですからね」
すると岩瀬が新聞から目をはなし、北尾を見た。
「そうか、仕事に使う気か」
「ええ。ここのカメラじゃどうも、気が入らなくて」
北尾はそう言って頭を掻《か》いた。以前は小さいながらメリヤス会社を経営していて、それが写真道楽だったと来ては、下町探偵局のボロカメラではシャッターを押すたびに侘《わび》しい思いをしていたのだろう。
「探偵は写真も撮るの……」
婆さんが下町に尋ねた。
「ええ」
正子がお茶を婆さんの前に置いた。
「どうして……」
「どうしてって、必要があるからですよ」
「どんな必要よ」
「そりゃ、いろいろです」
下町は当惑したように言い、ファイルをとじた。
「証拠が必要なときもありますからね」
「証拠……」
婆さんは眉《まゆ》を寄せる。しつこいのだ。
「泥棒してるところ……」
「そういうこともあるかも知れませんよ」
婆さんはじっと下町をみつめた。疑わしそうな顔であった。
「嫌《や》だ。判ったわよ」
「何がです」
「とぼけないでよ。年とったってそれくらいのことはピンと来るわ。あんたたち、浮気の証拠写真を撮るんでしょう。ああいやらしい。不潔な商売ねえ」
軽蔑《けいべつ》したように言った。
「不潔だなんて。あたしたちが浮気をするわけじゃないんですよ」
正子がむきになって婆さんに食ってかかった。
すると婆さんはジロリと探偵局の一同を見まわし、突然のけぞって笑った。
「そりゃそうだわよ。どう見たって浮気なんかしそうな雁首《がんくび》じゃないもの」
「雁首だって」
正子は下町を見て訴《うつた》えるように言った。
「お婆ちゃんねえ」
岩瀬は新聞を畳みはじめた。
「たしかに浮気の証拠を掴《つか》むためにカメラを使うこともあるけど、何も裸《はだか》でだっこしてるのを撮るわけじゃないんですよ」
「あらそう」
婆さんは小憎《こにく》たらしい顔を岩瀬に向けた。
「それじゃ証拠にならないじゃないの」
「なりますよ」
岩瀬はそう言うと下町に目配せをした。
「いいよ」
下町が頷《うなず》く。
「北さん。作品を見せてあげてください」
岩瀬にそう言われて、北尾は抽斗《ひきだし》をあけ、サービス・サイズの白黒写真をとり出して婆さんのところへ持って行った。
「何これ」
「証拠写真」
「これが……」
婆さんはポルノ写真でも見せられるのかと思っていたらしい。怪訝《けげん》な表情でそれを手にとって眺めた。
「たしかに旅館が写ってるわ」
「タクシーが写ってるでしょう」
「ええ」
「門から出るところですよ」
「そうらしいわね」
「写真を撮ったあと、問題の二人がそれに乗ったんです」
「まあ、こいつらが犯人……」
「犯人ということはない」
「でも浮気したんでしょう、この旅館で……たった今。図々しい顔してるわ」
「そうかなあ」
風間がうしろから写真をのぞき込んだ。
「ねえ、これどこの人……」
「そんなこと教えられませんよ」
下町は苦笑した。
「女は亭主持ち……」
「ええ。男のほうにも妻子があります」
「どういう気かしら、二人とも家庭があるのに」
「恋は思案の帆《ほ》かけ舟」
「あら、健ちゃん、いい文句知ってんのね、まだ若いのに」
婆さんは振り向いて風間を褒《ほ》めた。のぞき込んでいた風間は、急に振り向かれて婆さんと顔をくっつけそうになり、あわてて体を引いた。
「何よ、逃げなくたっていいじゃない。こんなお婆ちゃんじゃ嫌……」
「ゾーッ」
風間はゾーッと言って首をすくめた。本当に背筋がゾクッとしたらしく、真に迫った感じだった。
「でもこれ、本当に証拠になるの……」
婆さんは下町のほうへ顔を戻した。
「なりますよ。表向きはその二人がそんな旅館から同じタクシーに乗って出て来る理由がないんですから」
「へたなことするものね、こいつら。別々な車で出て来ればいいのに。ケチなのかしら」
「少しでも一緒《いつしよ》にいたいんでしょう」
「いい年して」
婆さんはげんなりした顔になったが、すぐに疑わしそうな目になった。
「それで、出るところへ出て、これがたしかな証拠になるの……離婚|訴訟《そしよう》とか慰藉《いしや》料の請求とかで」
「なりますよ。決定的な証拠ですね」
「そうかしら。そこへご飯たべに入って、偶然《ぐうぜん》帰りに同じタクシーに乗り合わせただけだって言ったらどうするの」
下町は笑った。
「無理ですよ、判事がそれを信用するもんですか」
「そうね」
婆さんは首を傾《かし》げ、
「それじゃさ、この二人が本当は潔白だとしたらどうなるのよ」
と言った。
「潔白……」
「そうよ。二人は一度も会ったことなんかなくて、浮気をでっちあげられたとしたら」
「それがにせの証拠写真だとしたら、という意味ですか」
下町が言うと、北尾が自信たっぷりに口をはさんだ。
「鑑識の技術が発達しましたから、本物かにせ物かはすぐ判ってしまいますよ」
「鑑識って、殺人の現場などへ白いのを着て手袋して来る人のこと……」
どうやら婆さんはテレビの刑事もののファンらしかった。
「そう。指紋をとったり血液や髪の毛なんかを調べたりする分野のことです。写真も今ではいろいろなことに使われますから、合成写真かどうかを調べる技術もいや応なしに発達してしまったんですよ」
「じゃ、この人たちはもうだめね。のがれぬ証拠を突きつけられたってわけか……昔《むかし》なら、姦夫姦婦《かんぷかんぷ》は重ねておいて四つにされるとこだけど」
「カンプカンプってなんです」
風間がそう言うと、婆さんは呆気《あつけ》にとられたような顔で下町を見た。
「今じゃ姦婦なんていなくなったものねえ」
となりの婆さんは皮肉たっぷりに言った。
「姦通の姦に婦人の婦だよ」
岩瀬は面白がりはじめたらしく、新聞を全部畳んでデスクの上へ積みあげた。
「カンツウ……」
風間はまだ理解できない。
「そうよ、姦通なんかどこにもない時代になっちゃったんだわ」
婆さんはますます皮肉っぽくなった。
「夫のある女が他の男と不義密通をはたらくことだよ」
下町が見かねて口をだすと、今度は正子が口をとがらせた。
「女ばっかりみたいに言わないでください」
「そうだそうだ」
岩瀬が煽《あお》りたてる。
「浮気するのは女ばかりと限ったわけじゃない」
「そうですよ」
「男だってやってる」
「男性のほうが浮気っぽいんですよ」
「そのとおり」
岩瀬は太鼓判《たいこばん》を押すように胸をそらせて言い、
「しかし、なぜか男の浮気の相手はたいてい女だ。いっぽう女の相手はたいてい男。これはいったいどうなっとるのかね」
と笑った。
「そうそう」
北尾も笑いながら言った。
「女は男が好色でどうしようもないとよく言いますけど、男の助平の相手は常に女なのでしてね」
「女によります」
正子は憤然《ふんぜん》と言った。
「およしなさいよ、正子さん」
婆さんがなだめた。
「こういう問題はね、いつまでやってもきりがないものなのよ。男の相手は女、女の相手は男……見かけは五分五分なんだから」
「見かけは、と来た。やっぱりお婆ちゃんも女性の味方か」
風間ががっかりするように言うと、婆さんが叱《しか》りつけた。
「女性の味方じゃないのよ。あたしゃこれでも女性そのもの」
「まさか」
岩瀬がすかさずそう言ったので、みんな大笑いになる。
その時、またガラガラという戸のあく音。
「あら……」
婆さんが聞き耳をたてる。ガタガタと、明らかに革底の靴とは違った音が聞こえる。
「なんだ、悠さんじゃないの」
婆さんは拍子抜《ひようしぬ》けしたように言った。たしかにその音は紛《まぎ》れもなく下駄屋《げたや》の悠さんこと大多喜悠吉《おおたきゆうきち》の下駄の音に違いなかった。しかし足音は二人分で、もう一人は見当もつかない。
「町会の人かしらね」
そう言っているところへ、まず悠さんがぬっと姿を現わした。五分刈りの伸びた奴が白髪《しらが》まじりだから、なんとなく頭にカビが生えた感じで、丸顔と言ったらこれ以上丸い顔はなく、体もそれに見合って丸っこくできあがっている。もっとも、若い頃の写真を見せられた人があって、その人の話だと凄《すご》い二枚目だったそうだから、人間の行末なんて判らないものだ。
「こんちは」
そう言ってペコリと頭をさげ、
「じゃなくて、まだお早うかな」
エヘヘ……と笑って婆さんのそばへ寄る。
「よく売れますか……」
「何がよ」
「油」
「別に油を売ってるわけじゃないわよ。これはただの日課」
「へえ、日課ねえ」
悠さんは感心したように言い、下町を見て、
「ご苦労さまです」
と言う。
「何よ、その言い方は。あたしの相手をするんでご苦労さまだと言いたいの」
「いえ、これはわたしの口癖」
悠さんはしゃらっとかわした。
「お連れがいたような気がしたけど」
「あ、判りましたか」
「この家は足音がよく響くからね」
「実はいるんですよ、一人」
「あがって来ればいいのに」
「それが、階段の途中《とちゆう》でつっかえちゃってるの。来てもいいですか」
「どうぞどうぞ」
「じゃあ失礼して」
悠さんはドアのところへ引き返し、
「おいでよ」
と下へ声をかける。
悠さんはそのまま踵《きびす》を返して正子が出した折り畳みの椅子へ婆さんと並んで坐ったが、二人目の客はなぜかすぐには現われなかった。正子はもう一つ椅子を出し、階段のほうへ行った。呼ぼうとしたらしい。
が、正子はドアから下をのぞきかけて、
「キャッ」
と叫んだ。ばかでかい海坊主《うみぼうず》のような男が、ニューッと頭を出すのと鉢《はち》あわせしそうになったのだ。正子は怯《おび》えたように小走りでデスクをまわり、自分の席に戻った。
「お邪魔《じやま》します」
たしかにそう言ったはずだが、オースと言っただけのような感じがした。
身長はのっぽの風間よりもまだ少し高い。丸顔で二重|顎《あご》で短かいスポーツ刈りで、首がなくて顔のつけ根に筋肉の盛りあがった肩があった。青い半袖のシャツを着て、胸も袖口《そでぐち》もはち切れそうに突っ張っている。木綿のスラックスは、よくそんなサイズのを売っていたと思うほどウエストが太く、左手にジャンパーを握《にぎ》って、まるまっちい指で鼻の辺りを照れ臭そうにこすっていた。
「これ、結城元太郎《ゆうきげんたろう》君です」
悠さんが紹介《しようかい》した。
「お願いします」
そう言ったのだが、まん中がはっきりしないから、また、オース、と聞こえた。
「はてな」
下町は小首を傾《かし》げた。
「見たことあるわ、この人」
婆さんも思い当たるような顔で言った。
「そうだ、あんた高井田部屋《たかいだべや》の」
「ええ」
結城元太郎は頭を掻いた。
両国《りようごく》だから当然|相撲《すもう》部屋が多い。電車の線路ぞいに数えて、浅草橋のほうからまず伊勢ケ浜部屋、立浪《たつなみ》部屋。友綱部屋はとうに移転したが、大通りの向こうへ渡って春日野《かすがの》部屋、若松部屋、君ケ浜部屋、大山部屋、出羽《でわ》ノ海《うみ》部屋、時津風部屋、立田川部屋、朝日山部屋、伊勢ノ海部屋、旧の東両国四丁目のはずれが二所ノ関部屋と、国技館が蔵前に移って久しい今でも、やはり両国はお相撲さんの町なのである。高井田部屋はほんのちょっとの間、両国四丁目のとっつきにあって、下町探偵局から一番近いのは、立浪部屋とその高井田部屋であった。
「序二段でやめちゃったのね、あんた」
婆さんは思い出して叱るように言った。
「はい」
「だめじゃないの。どうしてやめたのさ」
「だって」
大男が子供のように返事につまっている。
「部屋がなくなったんだから仕方がないですよ」
悠さんがかわりに言った。
「よそへ移ればいいのに。立派な体しててさ」
どうやら婆さんは惜しがっているらしい。
「だから移りましたよ」
と、また悠さん。
「へえ、そうだったの。どこへ移ったの」
「プロレス」
「え……」
「プロレスですよ」
「力道山のとこ」
「古いなあ。プロレスは力道山ばかりじゃないんですからね」
「で、今はプロレスラーってわけ……」
「いえ、それが違うの。また移っちゃった」
「どこへ……」
「キック」
「キックって、あの蹴《け》っとばす奴のこと……」
「そう。キック・ボクシング」
「だんだん荒っぽくなるのね」
婆さんは笑った。
「ねえ所長」
悠さんは下町に甘えるように言う。
「何です」
すると悠さんは大きく息を吸い、いったんそれを胸へためてから、一気に早口で言った。
「あらためてお願いがあるんですけどこの人を使ってやってくれませんか。本人も一生懸命やると言ってますからお願いします」
悠さんはぺコリと頭をさげ、急に振り向くと、
「さあたのんじゃったぞ。もう大丈夫だ」
と、さも自分の責任は果たしてしまったような顔をした。
「この人を……」
下町探偵局職員一同ならびにとなりの婆さんが、その大男をじろじろと眺めて呆気《あつけ》にとられていた。
「お願いします」
大男は今度はばかにはっきりと言った。
「調査マンの経験はあるの……」
下町が悠さんに訊く。
「いえ、ないの。でも強いよ」
「そりゃ強いだろうなあ。相撲にプロレスにキックだもの」
「柔道もやりました」
結城元太郎は口頭試問を受けるように、姿勢正しく答えた。
「そのほかに、合気道と空手を少し」
岩瀬が笑いだした。
「強いや、それは」
婆さんが立ちあがって結城元太郎に近付く。
「どれどれ、ちょっとさわらせてみせて」
「はい」
元太郎はそれでなくても張り切っている胸をいっそう突き出した。
「堅《かた》い……コチコチよ」
婆さんがその胸に手を触れてみんなに報告した。
「俺《おれ》、心配してたんですよ」
悠さんの喋《しやべ》り方が微妙に変化した。結城元太郎の就職を依頼《いらい》するときは、わたし、と言っていたが、今度は仲間うちであることを強調するのか、自分のことを、俺、と言っている。
「だって、みんな弱そうなんだものね。よく知らないけど、探偵って仕事は、時にはあぶない目に遭《あ》うことだってあるんでしょう。元ちゃんは探偵の経験なんかないけど、一本気でいい奴だし、そういうときには頼りになるからね。お買いどくだと思うよ。ねえ、傭《やと》っちゃいなさいよ」
「傭っちゃえって簡単に言われたって……」
下町は途方に暮れたような顔で元太郎を見た。
「給料なんて、安くたっていいんです。俺、贅沢《ぜいたく》なんかしたことないから」
それを岩瀬がまぜっ返す。
「でも、食費がかかるだろう」
元太郎はそれをモロに受取った。
「はい。かなり普通の人よりは高くつきます」
「ここの給料は安いぜ。俺が言うんだから保証つきだ」
岩瀬の言葉に全員、下町まで大笑いした。
「安くてもいいんです」
元太郎は真剣だ。
「探偵になりたいんですよ」
「ほう」
下町がキラリと目を光らした。
「好きなのかね」
「ええ、推理小説なら読まない本はないんです。そのくらい好きなんです」
「困るなあ悠さん。こういう人を連れて来ては」
「好きこそものの上手なれ」
悠さんは動じる様子がない。
「はいそうですかと、すぐ入れてくれるわけはないと思ってた」
つぶやくように言ってニヤニヤしている。粘《ねば》り抜《ぬ》く覚悟をきめて来ているらしい。
「探偵だって、推理で難事件をズバズバ解決して行っちゃうのもいるけど、俺はそんな名探偵になんかなれっこないんです。頭が悪いからね。もともとあんまりよくないところへ持って来て、レスリングやキック・ボクシングでこてんこてんにぶん撲《なぐ》られちゃったから、よけい悪くなっちゃったんですよ。でも、頭のよくない探偵だっているでしょう。行動派って奴です。何でも体当たりで行っちゃう。俺、体当たりは得意だし、喧嘩《けんか》なら素人《しろうと》が十人くらい集まってたって平気で向かって行けます。腕《うで》っ節《ぷし》を買ってくださいよ、この腕っ節を」
結城元太郎は、逞《たく》ましいのを通り越して少し恐《おそ》ろしいくらいの太い右腕を曲げて、左の手でピタピタと叩《たた》いて見せた。
「探偵が好きだそうだけれど、アメリカやイギリスの推理小説に出て来るような私立探偵みたいなのは、この日本には一人もいやしないんだよ」
「知ってます」
元太郎は意外によく承知しているらしかった。
「日本には探偵のライセンスを出す役所もないし、法律も欧米のようには完備していないんでしょう」
みんな、おや、というような顔になった。元太郎の喋り方が急に変ったからである。悠さん一人が、どうだ、というような表情で腕組みをした。
「興信所と探偵社の性格が違うことも知っています」
「調べてきたのかい」
「それくらいの予備知識はあります。格闘技のほかに僕ができるのは、車の運転。これはA級ライセンスを持ってます。それにモーター・ボートの運転。ボイラーマンの免許。二級だけど車の整備士ですし……」
「おいおい、ちょっと待ってくれ」
下町はびっくりして元太郎を制止した。
「履歴書《りれきしよ》を見せたほうが早いのに」
「それが、まだ書いてないんです。何しろ大多喜さんに会ったとたん、ここへ連れて来られちゃったもんですから」
下町は悠さんを睨《にら》んだ。
「どういうことだい。悠さんが彼にたのまれて連れて来たんだとばかり思ってたよ」
「だから言ったでしょう。いざというとき腕のたつ人が一人もいないから心配だって」
「えらい」
婆さんが悠さんの肩をピシャリと叩いた。
「痛え」
悠さんは顔をしかめる。
「そうよね。探偵だもの危険なことだってあるわよね。悪い奴に反対にとっつかまっちゃうとかさ。そういうとき、この人みたいなのがいれば心丈夫じゃない。そう言えばここの人はみんな頭でっかちよ。体力と来たらまるでだめなのばかりなんだから。あたしもこんな用心棒が入ってくれれば安心だわ。家賃のとりっぱぐれがないもの。だってそうでしょう。所長が悪い奴にやられたら、家賃は誰が払ってくれるのよ」
「僕ら、そんな危険なことはしませんよ」
下町が閉口したように手を振って言った。
「用心棒は要りません」
「でも所長」
風間が強い声で言った。
「今彼が言った特技が全部本物だとすると、凄い戦力になりますよ。いつかは体力ずく、腕力ずくの仕事だってはじまるかも知れないじゃありませんか」
「風間まで何を言い出すんだ」
下町は舌打ちをした。
「それに、彼の最初の態度は見事な演技力だとは思いませんか」
風間はなおも言いつのった。
「ボケを見事に演《や》ったじゃないですか。僕ら、まんまとひっかかったでしょう」
岩瀬や北尾が頷く。
「どういう事情でここへ来たか知れませんが、悪くないチームメートですよ」
風間は言うだけ言ったという風に椅子の背にもたれた。
「俺はね」
悠さんが真面目《まじめ》に説明をはじめた。
「高井田部屋の頃から、元ちゃんに目をつけてたんですよ。ひょっとしたら十両、幕内と行ける人じゃないかと思ってね。でもことの成り行きでプロレスへ行っちゃった。それからキック……力があっても運がないとね。元ちゃんはお相撲が一番|性《しよう》に合ってたみたいなんです。芝居っ気のいることは不向きなんだもの。で、何年も会わずにいたのが、ついこの間手紙をもらってね。両国へ戻ってイチから出直して見たいって。両国へ戻るというのは元ちゃん一流の言葉の綾で、原点へ戻って人生を出直すって意味なんだけど、今日本当に自分の出発点であるこの町へ戻って来たんですよ。それで、うちへ来て言うには、今までは自分を売ろうとしてたからいけないんだって」
悠さんはそこでみんなの顔を見まわした。
「えらいんだ、この元ちゃんて人は。これからは人の役に立って自分も生きることを考えたい……そう言うんですよ。お相撲もプロレスもキックも、勝って自分を売り出すことばかり考えてるでしょうが。俺、すっかり気に入っちゃってね。自分が表へ出ない仕事があるがどうだ、って言うと、それは何だって元ちゃんが訊くから、探偵だって」
「自分が前へ出なさすぎるよ」
下町は失笑した。
「無理してかくれちゃう商売だもの」
「いいんですよ、それで。で、探偵だって言ったとたん、お願いします、ってことになっちゃって、気合いがよかったもんだから、それ行けってなもんで下駄をはいてカラコロやって来たわけ」
「参ったな。衝動《しようどう》買いみたいなもんだ」
「人生縁あれば犬猿もまた親し、ってね」
「なにそれ……」
婆さんが訊いた。
「モロコシの格言」
「聞いたことないわよ」
「そうかなあ」
悠さんは原典を思い出そうとするかのように目を宙に据えた。
「置いて見ますか……所長」
岩瀬は無責任な言い方をした。
「あたしからもお願いするわ」
と、婆さん。
「よろしく」
悠さんも何度目かのお辞儀。
「負けたね」
下町は首を振って言った。
「ただし、試験採用ということでどうだね」
「結構」
悠さんは椅子を立ち、元太郎と握手《あくしゆ》をした。
「テスト期間中は、日割りで給料を払わせてもらいますよ。調査マンなんて、そう面白い仕事じゃないし、気に入らなかったらいつやめても苦情は言わないから」
「はい」
元太郎はニコニコしている。
「すぐやめるなよ、元ちゃん。ずっと居ついちゃえ。居ついて所長の椅子を狙《ねら》え」
悠さんがけしかけている。勿論《もちろん》冗談だが、その冗談の裏には、元太郎というこの大男をなんとかしてやろうとする、悠さんの友情らしきものが動いているようであった。下町も、事情は判らぬながら、その辺のことに理解を示したらしかった。
結城元太郎というタフガイが調査マンの見習いになったとたん、下町探偵局に暴力事件が発生してしまった。
深夜、下町は一階の台所と隣り合わせの部屋で寝ていたが、妙な気配にふと目をさました。その木造二階だての家は、もとはしもた屋で、今は一階の通りに面した側の壁が外されて緑色のシャッターがとりつけられ、近所の酒屋の倉庫がわりに使われていた。玄関は昔のままだが、木の階段が二段つけられて、土足のまま板ばりの廊下へあがるようになっている。
突き当たりは台所で、その横、つまりしもた屋時代の一階の一番奥の六畳間が下町の寝起きする場所なのである。まめで器用な下町は、そこを自力で洋間に作りかえていたが、物音は玄関に近いほうで起ったようだった。
下町はしばらくじっとしていた。古い木造の家だから、気温や湿度の関係で、ときどきミシリと軋《きし》んだりすることがあるのだ。しかし、今度はカチリ、と金属音がした。温度や湿度で木材は鳴っても、ひとりでに金属が鳴るわけがない。反射的に下町がしたことは、時計を見ることだった。小説に出て来るような荒っぽい事件ばかりを扱う探偵ではないから、日頃の修練で咄嗟《とつさ》に時間を知ろうとしたのではなく、なんとなくいま何時だろうと思っただけだ。
午前三時五分だと判った。判ったのはよかったが、その時間を見る動作がひとつ余分だったようである。薄暗《うすぐら》い中で時計の針をたしかめようと寝返りをうって上体を持ちあげたら、安物のベッドがギイと鳴ってしまった。それから下町は音を忍ばせて起きあがり、ベッドを離れてドアに近付くと、そっとあけて台所へ首をだし、玄関のほうをすかして見た。
が、曲者は反対側にひそんでいた。いや、あとから考えると複数の人間がいて、一方は思ったとおり廊下の玄関側にいたのかも知れなかったが、とにかく力の強い奴が首を突き出した下町の左側、つまり家の裏のほうにいて、何か重い物で下町の後頭部へ力まかせに一発くらわしたのである。
ああ、も、うん、もない。一瞬《いつしゆん》目の中に青い色を感じて、そのあとは意識不明。気がつくとあけ放したドアの外へちょうど真半分体を出してぶっ倒れていた。
まず左の頬骨に痛みを感じたのは、倒れるとき顔の左半分を下にしてぶっ倒れたせいだろう。そして、肱《ひじ》を突いて起きあがろうとしたら、頭全体にキーンと痛みが来た。それで一旦《いつたん》また顔が木の床につき、しばらくそのままにしていた。床はやけに雑巾臭《ぞうきんくさ》かった。
畜生め。
怒りがこみあげて、それが気力の源になった。今度は膝《ひざ》も使ってゆっくりと起きあがる。頭の深い所から痛みが発しているが、別に目まいも起らないようだった。ベッドへ引き返す気は全然なく、壁を探って電灯のスイッチを押す。
もと和室の六畳間、台所、廊下の順で灯りがついた。誰もいない。廊下を歩いて行って玄関の戸をたしかめると、錠《じよう》が外れていてガラガラと聞きなれた音がした。パジャマ姿で後頭部に手をあてがいながら通りへ出て、二階をふり仰ぐ。上を向くとまた頭がズキンとした。
二階にも人の気配はない。この家の住人が外へ出たのだから、襲《おそ》った奴がまだ二階にいたとすれば、あわをくって飛び出して来るはずだが、誰も出て来ない。静かな春の夜。
下町は家の中へ戻り、玄関の戸をしめるとき、錠を調べた。もとしもた屋の玄関だから、ガラス格子の二枚引戸で、それが重なり合うまん中に穴をあけて真鍮《しんちゆう》の錠がついている。ごく旧式の奴で、中から固定式の鍵《かぎ》を穴へさし込んで何回もねじって行くと戸がしまり、外から別な鍵をさし込んでそれを逆にまわして行くと、固定式の鍵が内側へ外れて落ちるという仕掛けだ。瑕《きず》もなんにもついてはいない。茂木正子が毎朝あけるように、合鍵で素直にあけたのと同じ具合である。
当然かも知れないが、下町はもう鍵をかけ直す気もなくなって、戸をしめるとそのまま二階へあがって灯りをつけた。
落花狼籍《らつかろうぜき》。
抽斗《ひきだし》という抽斗があけられ、全部丹念に引っくり返されていた。ファイルというファイルはみんなバラバラにされ、散らばった紙きれで部屋の中がまっ白になった感じがした。
何を探したんだ。
下町はぼんやり部屋の中を眺めた。ただの物盗りではあり得ない。それはたしかなことだと思った。こんな貧乏オフィスへ忍び込むドジな泥棒などいるわけがない。泥棒なら下見くらいするだろうが、外から見ただけで金にならないことは判るはずである。酒屋の倉庫の二階を借りて細々とやっている貧乏探偵社なのだ。
下町は壁に掛けた状差しまで外して中身をぶち撒《ま》けてあるのを見て、探し物は薄べったい物だと確信した。一万円札だって薄べったいが、女房が亭主のへそくりを探すのでもあるまいし、状差しまで調べたってはじまらないだろう。と言うことは、紙幣以外の薄べったいものということ……つまり紙。書類だ。
しかし何の書類だ。痛む頭でいくら考えても、近頃人さまに狙われるような重要書類を手にした憶《おぼ》えはなかった。考えている内に、ブラック・ジャックのような鈍器《どんき》で頭を撲《なぐ》られた奴が、半日くらいしてから脳内出血で急に死んでしまったという話を聞いたか読んだかしたのを思い出した。
気味が悪くなって台所へおり、冷蔵庫から氷を出すと、タオルを水につけて濡《ぬ》らし、それで氷を包んで後頭部の撲《なぐ》られた所へあてがった。冷やせば内出血がとまるのかどうかもはっきりしなかったが、それ以外に適当な処置を思いつけなかった。
冷しながら二階へ戻ると、下町はなんとなくうれしくなった。どう考えてもここにある調査書類が欲しくてやった仕事に間違いない。気がつかなかったが、これほどの無理をおかしてまで手に入れようとするからには、大変なしろものに違いないのだ。
下町は壁に吊《つる》した細長い鏡のところへ行った。下のほうに酒屋の名が刷り込んである安物の鏡だ。それへ顔を映して、ニヤリと笑って見た。不敵な笑い、というつもりだったが、案外そんな感じが出ていた。マルタの鷹《たか》だったか何だったか、昔見た映画でハンフリー・ボガートがそんな笑い方をしていた記憶があるのだ。
ブーッと開演のブザーが鳴り、電灯がすっと暗くなる……映画館の椅子に坐り直すときの懐かしい興奮が、二十何年ぶりかで下町の体の奥に甦《よみがえ》って来た。
「警察には届けん」
下町は一人きりのオフィスで声に出して言った。探偵社をやって、はじめて巻き起った本物の謎《なぞ》であった。たたかいは向こうからやって来た。
「この喧嘩、買ってやるぞ」
われながら力強く言ったとたん、結城元太郎を思い出して急に照れ臭くなった。これでは探偵ごっこに憧《あこが》れたあのタフガイと同じではないかと思ったのだ。
「待てよ」
下町はその元太郎に疑いを向けた。しかし悠さんが仲に入っているのだし、元太郎の人柄から見て、元太郎と今夜のことはつながらないと確信した。
いつも通り茂木正子が一番乗りであった。
「どうしたんです、所長」
紙の散乱したオフィスを一目みて、正子は泣声になった。
「火事……」
「いや」
「どうしたんですか、これは」
「泥棒だよ」
「嫌だ、本当ですか」
「ごらんの通りさ」
「何を盗られたんです」
「まだ判らん」
「警察はもう帰ったんですか」
「連絡しなかったよ」
「どうして……」
「いいんだ。それより、君の仕事に関係のあるのだけを選んで片付けてくれないか。ほかのにはなるべく手をつけないように」
「あら、頭、どうなさったんですか」
「ガンと一発やられてね」
「それじゃ強盗じゃありませんか」
「そうなるね」
「警察に言ったほうがいいです」
「僕《ぼく》の言うとおりにしなさい」
下町は強い声で言って正子を電話から遠ざけた。
風間が来ても岩瀬が来ても、やりとりはだいたい似たようなものであったが、北尾は仕事で寄り道すると電話をいれて来たから、騒ぎのことは何も教えなかった。
そして結城元太郎。
「やられましたね」
話を聞くとうれしそうに言った。驚いた様子は微塵《みじん》もない。
「やっぱり探偵になってよかったなあ」
とよろこんでいた。
「北さんが来ないと何とも言えないが、紛《な》くなったものはないようだな」
岩瀬は気味悪そうに言った。
「それに、これはプロかプロに近い連中の仕事らしい。以前こんな風にオフィスを荒らされた奴のことを聞いたことがある。大物の政治家でね」
岩瀬はもと保守党の大物代議士の秘書だったから、感じ方が風間や正子などとは少し違うらしい。
「犯人は水道屋ですね」
風間はニヤニヤしながら言った。
「どうしてだ」
下町がとがめるように言う。
「所長を撲った兇器《きようき》はパイプですよ」
「パイプ……」
下町が問い返すと、岩瀬が怕《こわ》い顔で風間を叱《しか》った。
「よせ」
「どういうことだ」
下町が岩瀬に訊く。
「鉛管だと言いたいんだろう。鉛管工グループさ」
「ウォーターゲイトのか」
下町は苦笑した。
「それより、残りを早く始末してくれ。となりのお婆ちゃんが来たら大騒動になるからな」
「あら、本当だわ」
正子があわてた。
「お婆ちゃんには言うなよ。いくら気丈《きじよう》なことを言っていても、こういう物騒な事件が起ったと知ったら、気味悪がって俺たちは追い出されるかも知れないからな」
「反対に勇み立たれても困るし」
岩瀬もそう言って、始末し残した書類を急いで掻き集めはじめた。
さいわい難物の婆さんはなかなか現われず、それより一足先に、北尾が出勤して来た。
「何かあったんですか」
さすがに気配で異変を感じとったらしい。みんなが口々に事件のことを教えると、すっかりうろたえて正子たちが揃えてくれた残りの書類をチェックし、
「別に足りないものはないようです」
と怪訝《けげん》な顔になった。
だいぶ遅くなったが、いつも通り正子が全員にお茶を配り、やっとみんな平静さを取り戻した。
「じゃ、仕事の話に戻っていいですか」
北尾は下町のデスクにそう言いながら歩み寄り、上着の内ポケットから白い角封筒をとり出した。
「山の手の興信所から依頼のあった件は、どうも雲を掴むような話でしてね。浮気の尾行調査をということですが、女なんか一人も現われて来ないんです。それでも一応、車も使っていることですし、写真だけは撮って来ましたが」
下町はその封筒を受取り、中身を出した。二十枚ほどの白黒写真である。
「ほう、夕方かい」
「いいえ、その分はみんな夜です」
「へえ、これが夜か。ストロボか何かを……」
「使っていませんよ」
北尾は笑った。
「そんなことしたら隠し撮りになりません」
「それにしてはよく写ってるな。高感度フィルムを使うんですか」
「コダックのトライエックスです。それのASAは400ですが、増感がきくんです。四倍の増感処理をすると、ASAの1600を使ったのと同じことになります。ただ、カメラは1600なんてフィルムを使うようにできていませんから、オートでは無理で、マニュアルで適当にやるんですよ」
「いい技術を持ってるんですね、北さんは。夜中の野外でこれくらい写せれば……」
下町の写真をめくる手がピタリととまった。
「何ですか」
北尾が尋ねる。
「岩さん、見ろこいつを」
下町は叫んだ。
「狙われたのはこれに間違いないぞ」
岩瀬はその写真を引ったくるように取った。
「鬼島平作《きじまへいさく》だ」
岩瀬が唸《うな》った。
「篠川九馬《ささがわきゆうま》が鬼島平作と会っている」
「何ですって……」
北尾が声を震《ふる》わせた。
「わ、わたしが尾行したのは篠川十郎ですよ。東日海運の社長の」
「違う。北さんはどこかで人違いをしたんだ」
「それは大変だ」
「兄の篠川九馬は政治家、弟の篠川十郎は実業家だ。似ているが、かなり違う面もある。これは間違いなく九馬のほうだぜ」
篠川九馬は、或る事件で国会に証人として喚問《かんもん》され、鬼島平作なる人物とは一度も会ったことがないと証言したばかりであった。
「こ、これはいつ撮ったんだ」
「五日前です」
「それじゃ大ごとだ。篠川九馬は偽証《ぎしよう》罪になる」
全員総立ちだった。
「知らねえぞ、こんな危《ヤバ》い写真を撮っちまって」
岩瀬は怯《おび》えたようにつぶやいた。
下町誠一は深ぶかと腕を組んで考え込んでいた。問題の写真は下町のデスクの上に置かれ、その前の椅子に北尾貞吉が肩をすぼめるようにして坐っていた。
ガタ……と一階《した》の裏手で軽い音がしたとたん、
「ほら来た」
と風間が言った。ちっ、と舌打ちをしてつぶやくのは岩瀬だ。
「ええい、畜生め」
むずかしい顔で眉間《みけん》に縦皺《たてじわ》を寄せている。
「これよ」
茂木正子は新人の結城元太郎に向かって、唇《くちびる》のまん中へ人差指を立てて見せる。
ガタガタと下駄の音。
「はい、おはよ」
警戒態勢が整ったところでとなりの婆さんが姿を現わした。
「ん……」
オフィスの中をじろじろ見まわして胡散臭《うさんくさ》そうな目になる。
「何を隠してるのよ」
そう言うと、自分の指定席のつもりでいる下町のデスクの前の椅子を占領している北尾のところへ行って、腰をかがめ、北尾の顔をのぞき込む。
「叱られたの……」
「え……いいえ」
北尾は婆さんどころではないという表情だ。
「どうしたのよ、みんな不景気な顔しちゃって。もともとここの連中の顔は不景気だけどさ」
誰も答えない。婆さんはあとずさった。
「いいわよ、そういう気なら。たんと隠してなさい。何よ、年寄りだと思って」
それでも反応なし。
「変ねえ。よっぽどのことが起ったのね。判んないわ、この探偵局にそんな大事件が起るなんて」
反応なし。
「いいわよ」
婆さんはそう言って一瞬考えるように目を天井《てんじよう》にあげ、
「そうだ、悠さんに相談して来よう」
と言って出て行った。
「お節介《せつかい》だなあ」
風間がごく低い声で言い、体をのけぞらせるようにして窓から下の通りを見た。ガタガタという婆さんの下駄の音は、一階の廊下から表のほうへ行って、ガラガラピシャンという戸の音で静かになる。
「本当に行く気だよ。悠さんの家《うち》へ」
風間は呆《あき》れたように言ったが、どうやら婆さんが二階をふり仰いだらしく、あわてて窓から首を引っこめた。
「さて」
下町が腕組みを解く。
「尋問《じんもん》するようで悪いけど、答えてもらいますよ」
「はい」
北尾がかしこまる。
「五日前にこの写真を撮影したと言いましたね」
「そうです」
「その写真がなぜ今日になってあがって来たんです」
「それは、カメラを二台使っていたからです」
「二台使うとどうして五日もかかるんです」
「さっきも言いましたように、これはわたしのニコンで撮りました。わたしのニコンには、夜間撮影専門のつもりで、コダックのトライエックスというフィルムを入れてあったのです。昼間撮る分はここのズームレンズをつけたアサヒペンタックスを使ってました。フィルムはカラーでASAが100。コダックのほうには、現像用の薬品をセットした、増感パックがあるんです。わたしは最初から、四倍増感用のを使う気で、夜間撮影はずっとそのように撮っていたもんですから、フィルムを使い切るまでに時間がかかったんです」
「それがけさ出来上ったというわけか」
「ええ。以前カメラ道楽をしていた頃の仲間はたいてい自分の暗室を持ってますから、けさその一人のところへ寄って現像して来たんです。それで少し出勤が遅れたわけです」
「なるほどね。で、撮りはじめは……」
「七日前。もっとも最初の二枚は勘をとり戻すために、自分の家のまわりを撮っています」
北尾はそう言って内ポケットから二枚の写真を出した。下町がそれを受取って眺める。何の変哲もない裏通りの夜景だ。道と塀と電柱や街灯が写っているだけで、人の姿もない。
「で、この現場は……」
「新宿の西口です」
下町は黙って頷いた。それは最初から写真で見当がついていたのだろう。
「西新宿のどの辺です」
「熊野神社のあたり……新宿図書館分室というのがあるんですが、わたしはその分室を背にして二人を撮ったのです」
「気付かれた様子は……」
「絶対です。絶対に気付かれたりはしていません」
「しかしね、北さん」
下町はデスクに両方の肱《ひじ》をついて体を乗り出した。
「相手は鬼島平作と篠川九馬です。鬼島や篠川みたいな大物が、ああいう所を護衛もなしで歩きますかね」
「と、言いますと……」
「どちらかのボデーガードが、北さんの撮影を見ていたということはありませんかね。北さんはこの二人に注意を集中していたんでしょう。ところが、二人のボデーガードたちは、北さんの更にうしろの位置にいた……そういうことは考えられませんかね」
「さあ……」
北尾が首を傾げると、岩瀬が断固とした声で言った。
「それはない」
「どうして」
下町が岩瀬を見る。
「警察だろうが何だろうが、びくつくような連中じゃない。ましてひとけのない場所だろう。もし北さんが見られてれば、その場でカメラを取りあげられてフィルムを抜かれちまってるさ」
下町は頷いた。
「それもそうだな。じゃいったい、このフィルムの存在を知っていたのは、どこの誰なんだろう」
下町はまた腕を組んだ。
「とにかく、その写真が出て来て具合が悪いのは篠川九馬さ。鬼島平作とは一度も会ったことがございませんだなんて、いけしゃあしゃあと国会で証言しやがったんだからな」
風間が言った。
「あたしもテレビで見ましたわ。全国民の前で嘘《うそ》をついたことになるわけよね」
と正子。
岩瀬が発言を求めるように右手をあげた。
「その前に同じことを鬼島平作も国会で証言してる」
「岩さん、鬼島のほうは平気な筈だよ」
下町が言う。
「どうして」
「鬼島の喚問と篠川九馬の喚問の間には約一か月のずれがある。北さんがこれを撮ったのは五日前で、鬼島の証言のずっとあとだ。証言のあとに会ったのなら偽証罪には問われない」
岩瀬は言い負かされたように口をつぐんだが、
「そんなもの、どうにでもなる。問題はその二人が会ってる写真だ。誤魔化《ごまか》しようがないくらいバッチリ撮れてるじゃないか」
すると下町が考え深そうな微笑《びしよう》を泛《うか》べた。
「そう、誤魔化しようがないね。北さんはあとでその撮影現場へもう一度行って、同じアングルで写真を撮って来てください」
「はあ……」
北尾は怪訝《けげん》な表情で下町を見た。
「そのあとで、何か今日という日を証拠づけられるスナップを撮ってください。デモがあればそれでもいいし、銀行の中に置いてある書き物机の上の日付け標示でもいい。何でも思いつくままに、今日という日をはっきりさせるものを撮りまくって来てください」
「どうするんですか」
北尾がたまりかねたように訊いた。
「この写真の背景に、新しいビルの工事現場が写っているじゃないですか。その進行状況は誤魔化しようがないでしょう。いくら政治に深いつながりを持つ建設業者でも、篠川九馬の為にこのビル工事の進行状況の記録を誤魔化すことは容易じゃないですよ。西新宿の何番目かの超高層ビルですからね。何階まで仕事が進んでいるか、はっきりこの写真で判る。それで日にちが割り出せる。つまりこれは日めくりのカレンダーと一緒に写ったのと同じことじゃないですか。今日撮ってもらう分は、万が一に備えてのためです」
「なるほど」
岩瀬は大声で言って下町のデスクに行き、手をのばして問題の写真を取った。
「そうか。たしかにこれは日付け入りと同じことだぞ」
「凄えや」
結城元太郎がうれしそうに言った。
「探偵になってよかった」
下町はその元太郎へ視線を移した。
「これから君はずっと北さんについて歩くこと」
北尾が元太郎を見る。
「なぜです」
下町は夜半撲られた後頭部に手をあてながら答えた。
「ボデーガードが必要でしょう」
「わたしの……」
北尾は目を剥《む》いた。
「そう。まさかとは思いますが、この写真の存在が判ってしまっている以上、北さんをつかまえて写真のありかを吐《は》かせようとする可能性もあります」
「冗談じゃない。わたしは痛い目に遭うのはいやですよ」
「大丈夫」
元太郎が即座に言った。
「矢でも鉄砲でも持って来いってんだ。北尾さんは僕が命にかけても守って見せます」
「たのんだぞ。何が起っても北さんから決して離れるなよ」
「はい」
元太郎は椅子から立ちあがり、直立不動の姿勢をとった。新入りだから木の丸椅子をひとつ当てがわれただけで、まだ机もない。
「風間」
「はい」
「北さんたちが出る前に、裏口からそっと外へ出て行って、このあたりをひとまわりチェックして来い」
「あ……はい」
風間は下町に命じられて、緊張した面持ちで階下へおりて行った。
「茂木君、北さんたちに仮払いを少し。交通費だ。いつもと状況が違うから、なるべくタクシーを使うように。それと、車に乗ったら尾行車に注意すること」
「はい」
北尾はおぞましげな顔で渋々《しぶしぶ》返事をした。元太郎は指の関節を鳴らし、肩をぐるぐるまわしてウォーミング・アップをしている。
「しかし、俺たちだってたった今知ったばかりなのに、どうしてこの写真があることが判っちまったんだろうなあ」
岩瀬はさかんに首を傾げている。
「で、北さん」
下町が表情を柔らげて尋ねた。
「はい何でしょうか」
「兄の篠川九馬と弟の篠川十郎を北さんが間違えてしまったのは、どこだと思いますか。間違えたくらいだから、はっきりどこでと判るわけはないと思いますがね」
「ええ、さっきからそれを考えていたんです。最初はたしかに篠川十郎を尾行していたんですよ。東日海運の本社があるビルの地下駐車場で社長の車をマークしてましてね。それからその車のあとを追って日比谷の貿易会社、それから信託銀行をまわって九段会館へ行きました。何か小さな集まりがあったらしくて、そのあとが赤坂の料亭で、かなり長い間そこにいました」
「そのあとが新宿……」
「ええそうなんです」
岩瀬が指を鳴らした。
「ひょっとすると九段だな、入れ替ったのは」
「どうして……」
下町が訊く。
「弟の篠川十郎は滅多《めつた》に料亭なんかへは足を向けない。そういうタイプの奴じゃないんだ。むしろ料亭ぎらいで通ってる。ところが兄貴の九馬のほうは、根っからの料亭政治家さ。二人は兄弟だけどあまり仲がよくないというし、会うとしたらパーティーくらいなものだろう。そこで会って、何かの都合で車を借りたんだ」
岩瀬はわけ知り顔でそう言った。
10
「怪《あや》しい人物は二名だけです」
風間が戻って来て報告した。
「二名……」
下町が真顔で問い返したとたん、階下でガラガラと戸があいて下駄の音が二人前。
「なんだ」
下町は苦笑し、
「じゃあ北さんと結城君は新宿へ」
と、何やら退避《たいひ》させるように言った。
「あの……」
「何だ、結城君」
「その結城君と言うのをやめてもらえませんか」
「どうして」
「先輩《せんぱい》が所長から北さんとか風間とか呼んでもらっているのに、俺……僕が君づけなんて勿体ないです」
「名前なんかどうだっていい」
「よそではみんな、ゲン、って呼んでくれましたよ。ちゃんと呼びつけで」
「判った、それじゃゲン、行って来い」
岩瀬が言った。
「はいっ」
元太郎が大声で言ったとき、となりの婆さんが現われた。
「びっくりするじゃないのよ。いきなりそんな声で」
「すいません」
元太郎はペコリと頭をさげ、
「じゃ先輩、行きましょう」
と、続いて現われた大多喜悠吉には目もくれず、カメラをぶらさげた北尾の手を引かんばかりにして階段をおりて行った。
「あいつ、意気込んでやがるな」
悠さんは階段をのぞき込むようにして言い、下町に向かって、
「緊急出動と言ったとこですね」
と笑いかけた。
「とにかく頼もしいよ。腕力だけはね」
下町はハイライトに火をつけながら言った。
「さあて、と」
婆さんはいつもの椅子に腰をおろすと、下町を睨《にら》みつけるようにして言った。
「どこから訊こうか、悠さん」
振り向きもせず悠さんに尋ねる。
「まず何がおっぱじまったのかです」
悠さんが淡々と言う。もっとも悠さんが淡々と言って見せるときは、そのあとにいい冗談が控えているか、さりげなく悪口を言って見せるか、どっちにしても魂胆《こんたん》のある場合なのである。
「まず、何がおっぱじまったのよ」
婆さんは悠さんのを口うつしに言う。
「弱ったな」
下町は頭を掻いた。手が自然に夜半撲られた所へ移ってそこを揉《も》む。
「逃げをうたせちゃだめ」
悠さんがうしろから言う。
「あたしたちに言えないことはない筈よ」
婆さんが鋭く突っ込んだ。
「そうそう、その意気」
「悠さん」
下町は閉口して悠さんを見た。
「そこでけしかけちゃ困るな」
「だって、俺の言葉よりお婆ちゃんの言葉のほうが百倍もきついもの」
「何よ」
婆さんが振り返った。
「いえ、訊き方が鋭いってわけ」
悠さんはエヘヘ……と笑って誤魔化し、
「まさか元太郎がヘマをしでかしたんじゃないでしょうね」
と、急に心配顔になった。
「そうじゃない」
「じゃあ北さん……」
「いや」
「あ、健ちゃんだな」
悠さんは風間を指さして言う。
「違うよ。俺じゃないよ」
すると岩瀬が笑った。
「悠さん、うちへ入ればいい」
「え……」
「探偵になればよかったのに、って言ってるのさ」
すると悠さんはニヤニヤしはじめた。
「みんなだめだよ。悠さんの消去法にひっかかっちゃったじゃないか」
岩瀬は厳しい声で言ったが、目は笑っている。
「消去法ってなあに」
婆さんが振り向いて悠さんに訊く。
「ひとつずつ消して行くと、本当の答えが残るでしょう」
「あら、それで順番に元ちゃんだろうとか北さんだろうとかって訊いてたわけ」
「まあそういうこと」
「隅におけないのね、悠さんも」
「おける。商売が下駄屋だからね。下駄箱は隅っこにきまってるの」
「冗談の言いくらべをしてる場合じゃないんだ」
下町はうんざりしたように言って岩瀬を見た。岩瀬は頷いて見せ、
「いくら放送局だって、喋っちゃいけないことは喋らないさ」
と言った。
「よし。じゃ打ち明けますけどね、くれぐれも人に喋らないでくださいよ」
下町は婆さんと悠さんに念を押した。
「待って」
婆さんが手をあげてそれをおしとどめる。
「放送局って誰《だれ》のことよ、放送局って」
悠さんが首をすくめた。
「放送局だけにアンテナの感度がいい」
「やっぱりあたしのことなの」
「きまってるじゃないの。俺は口が堅《かた》いんで有名だもの。口と鼻緒《はなお》はかたいほうがいい」
「それもそうね。あたしのこと、両国放送局だなんて悪口を言う奴《やつ》がいるもの」
「誰がそんな悪いことを」
悠さんはいけしゃあしゃあと訊く。
「うちの孫」
「身内に言われるようじゃしょうがないや」
「で、どういう事件が起ったのさ」
岩瀬の発言を咎《とが》めることより、好奇心のほうがずっと強かったらしい。
「北さんが或る男の浮気を調べてたんです」
婆さんは黙って頷《うなず》く。
「それが、どこかで人|違《ちが》いをして別な男を尾行してしまったんですが、そのとき撮《と》った写真が大問題なんです」
岩瀬が朝刊をガサガサと折《お》り畳《たた》んで、必要な記事を婆さんの前へ出してやった。
「篠川九馬と鬼島平作が会ってるところをバッチリ撮影《さつえい》しちゃったんですよ」
ひえェ……と言ったのは悠さんで、婆さんはキョトンとしていた。
11
「篠川九馬って、保守党の大物でしょう」
婆さんが尋《たず》ねる。
「ええ」
下町は婆さんに新聞を読ませようと、岩瀬が折り畳んだのを前へ押しやるが、婆さんはこれに目を落そうともしない。多分老眼鏡がなければ読めないのだろう。
「いま外国から何十億円もせしめたらしいって疑われている奴ね」
「そうです。その金の橋渡しをしたと言われているのが鬼島平作で、篠川九馬は鬼島なんて男とは一度も会ったことがないと、つい先日国会で証言したばかりです」
「それが会ってたわけ……」
「ええ」
下町は深刻な表情で頷いて見せた。
「北さんもやるじゃないの、そんな大変な写真を撮って来るなんて」
「人違いをしたんですよ」
「怪我《けが》の功名ってわけね」
「怪我……」
下町はまた後頭部へ手をやった。
「だいたい判ったわ。それで張り切ってるわけなのね」
下町は憮然《ぶぜん》として言う。
「困ってるんです」
「どうしてさ。そんな大変な証拠《しようこ》の写真を手に入れたんですもの、ガッポリ儲《もう》けるつもりなんでしょう」
「どうして儲かるんです、うちが……」
「何十億って大金が動いてるんでしょう。写真を売ればいいじゃないの」
婆さんの言い方は突き放すようだった。
「金を儲ける前に命をとられちゃう」
「まさか」
大げさなことを言うな、と言いたげに婆さんは笑った。
「本当ですよ。何十億か本当のところは知らないけれど、金のほかに篠川九馬という大物の政治生命がかかっているし、まかり間違えばこの写真一枚がもとで内閣が倒れてしまいかねないんだから」
「本当……」
婆さんは驚いた様子で、やっと新聞に目を向けた。案の定目を細くしている。見出しと写真くらいは見える筈だ。
「あとでまたご迷惑をかけるようなことが起るといけませんから、この際全部喋ってしまいましょう」
下町は唇を舐《な》めて言った。ひょっとすると、証拠を消すために放火くらいしかねない相手だと思いはじめたのである。
「ゆうべ賊《ぞく》に入られました」
「え……」
さすがに婆さんも顔色を変える。
「泥棒がその写真をとりに来たのね」
「よく判りますね」
「そりゃそうよ。ほかに盗《と》るものなんてここにはないし、こんな貧乏探偵局へ入るドジな泥棒なんているもんですか」
「まさにその通り」
下町は苦笑する気にもなれず頷いた。
「強盗《ごうとう》だった」
岩瀬が言う。
「強盗……」
悠さんが目を丸くする。
「所長が撲《なぐ》り倒《たお》されちゃったんだ。気絶して、気が付いたら朝になっていた」
岩瀬の説明は少し大げさだった。
「それ本当なの……正子さん」
「ええ。けさ来て見たらひどい有様。ここの書類が全部|引《ひ》っ掻《か》きまわされて」
「なんでうちに助けを呼ばないのよ。水臭《みずくさ》いわねえ」
婆さんは恨《うら》むように下町を見た。
「表沙汰《おもてざた》にしたくなかったんですよ」
「事が事だから……」
「いいえ、そのときはまだ、鬼島と篠川の密会写真なんて見ていませんからね。ただ、相手がうちの手がけた調査の結果を知りたがっているということだけは判りました。これは挑戦《ちようせん》ですよ。そうでしょう。探偵|稼業《かぎよう》をやっていれば、いずれはこういうことも起ると思ってました。受けて立ってやろう……。撲られて気がついたあとでそう思いましたよ」
「えらい、その意気」
婆さんは大声で言った。
「そう来なくっちゃ男じゃないわよ。売られた喧嘩《けんか》は買うのがほんとよ。火の粉を自分で払わないで誰が払ってくれるって言うのさ」
しなびた腕をいまにもまくりあげんばかりの勢いだった。
「でも、鬼島や篠川九馬じゃなあ。この次は撲られたくらいじゃおさまらないかも知れないな」
悠さんは心配顔だ。
「そうなのさ。受けて立つと恰好《かつこう》のいいこと思ったけれど、朝になって鬼島と九馬の写真が原因だったって判ったとたん、怕《こわ》くなってしまった」
「何言ってんのよ、男じゃないの」
「まあそれはそれとしても、いったい誰が北さんの写真のことに気付いたのか、皆目見当がつかないで弱ってるんだ」
「北さんが写真を撮ったのを知ってる人は……」
婆さんが訊いた。自分も探偵ごっこに加わる気らしく、目がキラキラしていた。
「まず北さん自身」
下町は慎重な口ぶりで言った。
「篠川十郎の尾行をしていたことを知っているのは、僕《ぼく》と岩さんと茂木君と……それに堂角猛夫《どうかどたけお》探偵事務所だ」
「何、その堂角猛夫って……」
「山の手のわりと大きな探偵局ですよ。かなり手広くやってる」
「そこの下請け仕事だったの」
「ええ。あそこはこのところよく仕事をまわしてくれるんです。ピンはねもそうひどくないし、こっちにすればいいお得意さんというわけでしてね。仕事量が増えたからと言って、すぐ人員を増やすのはあまり利口なやり方じゃありませんからね。仕事が減ったとき人件費ばかりが膨《ふく》れあがっていることになる。軽い仕事は採算を度外視するくらいなつもりで、外注したほうがいいんです。手堅い所へ外注すれば信用だけは自社のものとして残るわけですからね」
「篠川十郎という人は……」
「九馬の弟ですよ。海運会社の社長です」
「軽い仕事って言うけど、そんな人の浮気調査が軽い仕事かしら」
婆さんに言われて下町と岩瀬が顔を見合せた。
「北さんは一週間追いまわしても女の顔は出て来ないと言ってた」
岩瀬はそう言って腰を浮せた。下町も、自分たちが何か大きな罠《わな》に陥《お》ちているような気がしはじめたらしかった。
12
「こいつは迂闊《うかつ》だったぞ」
岩瀬は立ちあがって意味もなく窓の外を眺めた。
「俺たちはやはりお人好しなんだな」
つぶやいている。
「この前の不動産がらみの事件のときもそうだった。うまい話はいつだって依頼人《いらいにん》のほうが俺たちに調査以上のことをやらせようとかかっている。今度もきっとその口だな」
「岩さん、そう飛躍して考えるな」
下町がたしなめるように言った。
「たしかに堂角猛夫探偵事務所は、俺たちに篠川十郎の調査をまわして来た。しかし、北さんが人違いをして兄の九馬を追いかけてしまったのは、偶然《ぐうぜん》の出来事じゃないか」
「いや」
岩瀬は強く首を横に振った。
「まだ訳は判《わか》らん。しかし何か裏がある。それに、今現在あの写真を欲しがっているのは九馬ではないような気がする」
「誰だ、それじゃ」
「判らん。しかし九馬がこの写真のことを知ったとすれば、それこそ恥《はじ》も外聞もなくもっとずっと強硬な手段に訴えて出るだろう。あいつはそういう奴だし、暴力団でも警察でも動かせる力を持っている。俺が九馬だったらまず暴力団に手荒なやり方で探させ、それで手に入れられなければ、警察がそいつらをここで現行犯のような形でつかまえて、所長をいや応なしに向こうの手で確保してしまうだろう。暴力団に狙《ねら》われるようでは、何かうしろ暗いところがあるんだろう、という具合さ」
「まさか、とは思うけど、昔の憲兵や特高なんて奴らもよくそういう手を使ったそうね」
婆さんは眉《まゆ》をひそめた。
「でも、堂角がこの俺にそんなことをするだろうか」
下町が首を傾げるのへ、岩瀬は突っかかる。
「甘いよ。この業界じゃ何が起ったってふしぎはないんだ。堂角猛夫と所長がどんな間柄だったか知らないが、現にあそこは商売|繁昌《はんじよう》だ。富裕な階層に深く食い込まなければこの商売は繁昌しない。それにひきかえこっちは金持なんかとは縁がない。堂角と所長はもうあっちとこっち……立っている岸がまるで違うんだ。堂角だってそんな非道な人間ではないと思うが、要は手蔓《てづる》金蔓さ。いろんなことで篠川とか鬼島とかと言う連中にがんじがらめにされてるに違いない」
下町が憤然《ふんぜん》とした感じで顔をあげた。
「だったらやはり受けて立つぜ。こっちもプロだ。この事件でやられっぱなし、敗《ま》けっぱなしと言うんじゃ、商売をやめちまったほうがいい。もう敗け犬にはなれない」
「そうだよ」
悠さんが口をはさんだ。
「敗け犬にも五分のチンポコさ」
婆さんが失笑した。
「言い方が悪いね。言ってることは判るけど」
「ね、判るでしょう。俺、所長の気持がビンビン判っちゃう。ここへ来たのは敗け犬だから……悪かったかな」
機嫌をとるように下町を見る。
「いいんだよ。悠さんの言う通りだ」
「敗け犬がもひとつ敗け犬になる。これは悲しいよ。勝ちたいんじゃない。なりたくないんだ……そうでしょう」
「そう。俺だって生きてるんだ。ぶん撲られて黙っちゃいられないよ。しかも、もし相手が同業者の筋だとしたら、余計黙っちゃいられないさ」
「どうやら敵は依頼主ということになったようだな」
下町は風間を見た。見られただけで風間は、
「はいっ」
と言って立ちあがっている。
「これは今まで風間に預《あず》けた仕事の中では一番むずかしいぞ」
「やりますよ。俺だって敗け犬だもの」
「本来なら俺か岩さんがやるべき仕事だが、相手が相手だから動けない。おまけに、どこから調べはじめていいか、俺にも教えてやれない。判らないんだ。北さんは当事者だし、君にやってもらうより仕方がないんだ」
下町は風間をみつめながら言った。
「堂角猛夫を当たってくれ。先入観なしだぞ。篠川九馬が出て来るとは限らない。鬼島平作でもないかも知れん」
岩瀬が風間のそばへ近寄って肩を叩いた。
「風間にまかせるのは、こっちとしてものるかそるかということなんだ。向こうには調査マンのほかに別な手足があるようだ。充分《じゆうぶん》に気をつけてな」
風間は黙って片手を出した。
「何だ……」
「仮払い。文なしじゃ戦争にならないもの」
岩瀬は渋《しぶ》い顔で下町のほうへ振り返った。下町が正子に頷いて見せる。
「もとがとり戻せるといいんだけど」
正子は愚痴《ぐち》っぽく言いながら一万円札を何枚か風間に渡した。
「要するに、俺流にやるしかないわけだ」
風間は悠さんと婆《ばあ》さんにそう言って笑いかけ、
「行って来まあす」
と、妙に子供っぽい声を残して階段をかけおりて行った。
「大丈夫なの……」
婆さんが心配した。
「さあ、どうですかね」
下町は気のない答えかたをした。
「とにかく斥候《せつこう》は出した。戦争ははじまったよ」
岩瀬は誰に言うともなく言って席に戻った。
「この五日間で、政界に何か新しい動きは……」
下町が椅子に坐った岩瀬に尋ねた。
「俺はそいつを調べる。篠川九馬は今のところ、情勢が情勢だから動きを派閥《はばつ》内のレベルにおとしている。新聞をいくら見たって判りはしないさ」
「頼むぜ」
下町が言うと、正子があわてて口をそえた。
「仮払いはなしでね」
「ちぇっ」
岩瀬は大げさに腐《くさ》って見せた。
「商売にはならないんでしょう。今月の家賃、待ってあげてもいいわよ」
「なんとかなりますよ」
下町はいとも情なさそうな表情で答えた。
「それならいいけどさ。痩《や》せ我慢しないでね」
「どうも有難うございます」
下町は渋々婆さんに礼を言った。
13
「ところで悠さん」
下町は言《い》い辛《づら》そうに切り出した。
「はいなんざんしょう」
悠さんは軽く返事をする。
「結城元太郎のことなんだけど」
「元ちゃんが何か……」
「まさかと思うし、悠さんを信用もしているけれど、今度の件にかかわりはないだろうね」
悠さんは首をすくめた。
「すいません、変なときに紹介《しようかい》しちゃって。ないとは思うけど、そう深く調べたわけじゃないしねえ」
自信がなさそうだった。
「悠さん、調べ直しなさい。時が時だわよ。腕力自慢《わんりよくじまん》の男を入れたとたん、所長が夜中にぶん撲られるような事件が起きたんだもの、ちゃんと調べる必要があるわよ。仮払いなしで」
「やっぱり、なしで……」
悠さんはおどけて見せた。正子がふきだした。
「早いとこたのむわよ。そこらにのたくってないで」
「のたくるはないですよ。のたくるのはもっと体が長い感じ。俺だところがるって感じだ」
悠さんはそう言いながら、それでも気になると見えて挨拶《あいさつ》も忘れて階段をおりて行った。
「ここは戸締りが甘いのよねえ」
婆さんはあたりを見まわして言った。
「ねえ所長、あんたをぶん撲った強盗はどこから入ったの」
「玄関からですよ。ちゃんとねじ錠《じよう》を鍵《かぎ》であけて」
「一番あけにくい鍵のかけかたを知ってる」
「さあ……いい錠前ってのは、なかなか高いですからね」
「あ、知らないのね、じゃ、あたしがとりつけてあげる」
「錠をかえるんですか」
「あのね」
婆さんは得意そうな顔になった。
「釘一本でいいのよ」
「釘一本……」
「そう。泥棒はこいつが一番苦手なんだってさ」
「釘一本でどうやるんです」
正子がふしぎそうに尋ねた。
「戸の一番下のところに錐《きり》で穴をあけるの」
「ええ」
「一番下の横になってる木に穴を貫通させちゃうわけ。そして敷居にも穴をあけて、長い釘《くぎ》がストンと全部沈み込んじゃうようにするのよ。これは外からはあけられないんだって。同じように、鴨居《かもい》のほうにもやっちゃえばもっと完全。それで錠もしめとくでしょう。折角あけても釘で打ちつけたのと同じことになってるわけだから、戸はビクともしないって奴よ。おまけに、釘を沈めてある穴がどこにあるんだか判んないでしょう。あけられっこないわよ。原始的だけどこいつが一番なの。そうそう、あたしがやっといてあげる。所長、今夜から寝るときはその釘をちゃんと穴へさし込んでからにしてね」
「朝どうするんです。いちいち茂木君が来たら起きてあけなければならない」
「いいじゃないの、そのくらい。ぶん撲られて気絶なんかするよりさ」
下町は恨めしそうに正子を見る。
「じゃ、あしたの朝から、裏へまわって所長のお部屋の窓を叩くことにしますわ」
「そうそう、そうしなさい」
婆さんは多分錐や釘を取りに行く気だろう。いそいそとオフィスを出て行った。
「参ったね」
下町が岩瀬に言う。
「仕方ないさ、多少の自衛手段はとらなきゃ」
岩瀬はこともなげに言い、レポート用紙の綴《つづ》りを取りあげると、
「さあ、作戦会議だ」
と席を立って衝立《ついたて》のうしろのソファーへ移った。
「やれやれ」
下町は大儀そうに言って自分も衝立のかげへ入る。
「想定」
岩瀬はレポート用紙にボールペンで荒っぽく書きつけながら言った。下町は腕を組んでソファーによりかかり、目をとじた。
「一。篠川九馬の場合」
岩瀬は、うん、と言って、一・篠川九馬、と書いた。
「二。鬼島平作の場合」
岩瀬が書く。
「三。それ以外の場合。三の一、堂角猛夫。三の二、岩瀬五郎」
岩瀬は当然のように書いて行く。
「三の三、北尾貞吉」
「え……」
「北さんは友だちに暗室《ラボ》を借りたと言った。うっかり聞き流したが、当人がけさ自分で現像したという申し立てには更に検討を要する部分がある。友人にまかせていたとしたらどうなる。そいつはプリントを一本持つ。北さんに渡した分はなくなって欲しいことになりはしないか」
「考えすぎとは思うがね」
岩瀬は北尾貞吉の名を書いた。
「北さんは今日遅刻の言いわけに現像の件を使ったかも知れない。ゆうべも尾行をおえてまっすぐ家へ帰っている。その友人から現像したフィルムをきのうの内に受取っているとすると、北さんの友人も怪しくなるわけだ。とにかく北さんに突っ込んで聞いて見る必要がある」
「判った。で、結城元太郎は……」
「ない」
「ない……」
「彼がやるとしたら今夜だよ。わざわざこっちへ入り込んで来たんじゃないか。彼の線はない」
「じゃどうして悠さんにあんなことを……」
「手伝いたくて仕方がない様子だった。何か役を当てがわないと、巻き込みかねない」
「なるほど。悠さんの武器は下駄だけだからな」
「俺の線もないだろう……」
「え……」
「俺はぶん撲られてるし、それにあの写真のことはけさはじめて知った」
「じゃ俺もねえよ」
岩瀬は憤然《ふんぜん》と自分の名を消した。
「北さんも自分で現像したとするとない」
「結局みんな消えて、残る名前は三つだ」
岩瀬はがっかりしたように自分の字をみつめた。
14
フィリップ・マーロウ。でかい男だ。
下町はベッドに横たわって目をとじ、昔読み漁った推理小説の探偵たちを片はしから思い泛《うか》べていた。
身長は六フィート以上あって、体重は百九十ポンドか。たしか髪は黒だった筈だ。とにかくよく女にもてる。いつもトレンチコートを着て、角縁のサングラスをかけていたっけ。そうそう、帽子《ぼうし》を忘れてはいけない。ひまな時は映画を見るか、チェスの問題を解いている。日本ならさしずめ詰将棋《つめしようぎ》というところだな。でも本当にあんな洒落《しやれ》た科白《せりふ》が言えるもんだろうか。タフガイで、いつもショルダー・ホルスターに拳銃《けんじゆう》をいれている。スミス・アンド・ウェッソンの38スペッシャルという奴《やつ》だ。どんな銃だろうか。小道具には万年筆型のライトと、ペンナイフ、それに名誉保安官補バッジを持っている。
リュウ・アーチャー。ルイス・A・アーチャーだ。こいつも六フィート二インチある。体重もたしかマーロウと同じくらいの筈。そうか、リュウ・アーチャーも髪は黒い。俺も黒いが、あちらでは探偵は髪の黒い奴というイメージがあるんだろうか。そう言えば、リュウ・アーチャーとフィリップ・マーロウはよく似ている。どちらもやけに煙草《たばこ》を吸う。ただ、マーロウは飲んだくれで、アーチャーは酒にはしまりがある。そうだ、リュウ・アーチャーもチェスが好きだったぞ。マーロウより話の判る感じだ。
サム・スペードの髪はブロンドだ。身長体重ともに、前の二人と同じくらいだろう。妙にグリーンの好きな男で、シャツにもネクタイにもグリーンが入っている。やはりヘビースモーカーだ。手巻きのシガレットを吸ってた筈だな。ポーカー・フェイスが売り物だが、撲り合いの時は夢みるような目になると書いてあった。喧嘩のときそんな目をする奴なんて、ちょっと薄気味悪いな。銃は持たない。だからマルタの鷹《たか》事件のあと、女に射ち殺されてしまったんだろう。
「相棒が殺《や》られたら、黙ってるわけには行かなくなる」
たしかマルタの鷹でそんなことを言ってたな。今の俺と似てる。あっちは外国の小説だし、こっちは日本の現実だから、相棒が殺られるほどの大事《おおごと》にはなっていないが、それでも一発強いのをくらって気絶した。まるでハードボイルドのタフガイなみじゃないか。
それにしても、俺はいい年をして撲られたくらいでファイトを掻きたてている。気が若いのかな。すんなり依頼主の堂角のところへネガごと持って行って、うちの調査マンが間違ってこんな写真を撮ってしまったからお返しすると、ババを向こうへ渡す手だってまだ残っているのに……。
ゆうべろくに睡《ねむ》っていないから、そんなことを考えながら下町はうつらうつらしはじめていた。
カッチ、カッチ……と遠くから拍子木《ひようしぎ》の音が近付いて来ていた。
カッチ、カッチ……。
「火の用ォ心」
カッチ、カッチ……。
「火の用ォ心」
下町はふと目をあけた。
カッチ、カッチ……。
「火の用ォ心」
悠さんの声だった。下町は反射的にベッドの上へ起きあがっていた。
カッチ、カッチ……。
「火の用ォ心」
今度はたしかにとなりの婆さんの声である。
「畜生」
下町は暗い部屋で目をしばたたいた。
「ここらには、ハードボイルドなんてないんでやがる」
拍子木と、二人の声はぐるぐるとそのあたりをまわっているようだった。ガタガタ、と玄関の戸じまりをその二人がたしかめるらしい音がした。
「あんなことされちゃ、寝ていられない」
下町は溜息《ためいき》をついた。
きっと二人は、結構いい気分で夜まわりをしているに違いなかった。下町探偵局を好いていてくれるのだ。お節介でもないし、善行をしているという気でもない。自分がしたいからやっているのだ。生まれ育ったこの町の一部分として、自分たちの人生の一部分として、下町探偵局を感じているに違いなかった。だから、あの二人にとっては当然の行為なのだろう。
それにしても、拍子木なんて古めかしいものを、いったいどこから掘り出して来たのか。町会の事務所にしまってあったのか。
「火の用ォ心……さっしゃり、やしょうゥ」
少し倦《あ》きたと見えて、悠さんがどうせ寄席《よせ》で憶えたのだろうが、そんな古い言い方をした。
とうとう俺はここへ根を生やしてしまった。
下町はしみじみとそう思った。もちろん、今のオフィスを借りて開業した当座は、一時しのぎの仮りの宿のつもりであったが、ふしぎに今となっては落伍《らくご》したという感じが湧《わ》かず、やっと地に足がついたかという一種の安らぎをともなった充実感があった。
この暮らしを奪《うば》われたくない。
「畜生め」
何十億という現ナマを、闇の中で不正にやりとりしている奴らが、心の底から憎《にく》らしくなった。その事実を隠そうと、下町の築いた小さな城へ土足で押し入って来たりするのだ。
「そうはさせるか。敗《ま》け犬にも五分の……」
下町は苦笑したが、もしその苦笑を誰かが見ていたとしたら、それこそ本物の、不敵な笑いと言う奴を見た筈であった。
下町は夜廻りの二人の労にこたえるためもあって、夜の家の戸じまりを見てまわる気になった。スリッパを履《は》き、自分の部屋を出ると、まずとなりの印刷屋の勝手口へ通じる、台所の戸をそっと押して見た。
意外にも戸はすっと外へあいたが、とたんに、ガンガラガン……という大音響が起ってしまった。
カタカタカタ……と下駄の音が入り乱れ、一条の光がブロック塀の木戸口からさっと下町の顔を照らした。
「どうしたの」
婆さんの鋭い声。
「いや……どうしたのか……すいません」
「あ……その戸をあけちゃったの」
婆さんが悠さんを従えてやって来た。
「そこには仕掛けしといたのよ。ここに印刷インクの空缶《あきかん》を積んどいてさ、戸を人が入れるほどあけると、つなげた紐《ひも》が引っぱられて崩れるようにしてあったの。所長が中からあけちゃったんじゃ、何にもならないわ」
婆さんはくやしそうだった。
「たしか錠をかけといた筈なのに」
「そんなのすぐ外されちゃうわよ。玄関はもう外からはあけらんないから、入るとすればここよ。罠のつもりだったのにねえ」
「もう一度仕掛けをやり直しときましょう」
悠さんは空缶を積み直しはじめた。
「やれやれ」
下町はまた溜息をついた。
サム・スペードも、フィリップ・マーロウも、リュウ・アーチャーも、やはり遠い遠い名探偵たちであった。
15
荒川《あらかわ》にかかる小松川《こまつがわ》橋を東へ渡って京葉道路と別れ、斜め右へ行くのが今井《いまい》通りである。今井通りは端江《みずえ》大橋で更に新中川を渡り、その先の今井橋で江戸川を越えて千葉県へ入る。
その今井通りから、ややこしい横道へ入り込んで行く北尾貞吉は、もうすっかりご機嫌になっていて、足もともちょっと危っかしいくらいだった。
「こう見えたって社長だぞ」
北尾は大声で言う。
「そう。でも社長、随分酔っ払っちゃいましたね」
結城元太郎が太い腕でその体を支えてやりながら言った。
「ゲンちゃんが飲ませるからだよ」
「俺、飲ませやしないじゃないですか。先輩《せんぱい》がなかなか切りあげないんだもの」
「先輩……違う。こう見えても、もとは社長だ」
「そう、社長ですよ」
「ちゃんとした株式会社だったんだぞ」
「そう。メリヤス会社ね」
「メリヤス会社じゃ悪いのか」
「立派《りつぱ》なもんですよ」
「そう立派なもんだ」
「でも、この辺はよく知らないな。何て言うところです……」
「一之江《いちのえ》」
「へえ……一之江ね」
「所長に内緒だぞ」
「判ってますよ。たまにはいいじゃないですか」
北尾は下町誠一の命令で新宿へ写真を撮りに行った。結城元太郎がその護衛役に同行したのは、北尾を襲《おそ》う者が現われるかも知れない情勢だったからだ。
ところが平穏無事に一日がおわった。撮影をおえた北尾は、門前仲町の小さな和菓子屋へ寄って、撮ったフィルムを現像した。その和菓子屋の主人は北尾が小さなメリヤス会社の社長として順調にやっていた頃のカメラ仲間で、店の裏に専用の暗室を持っていたのだ。
その暗室を借りてフィルムを現像した。和菓子屋の主人はちょっと偏屈《へんくつ》な独り者だったが、北尾とは気が合うらしくて、
「今日こそ一杯《いつぱい》やって行かなきゃ」
と言ってすぐには帰さず、口あけがビール、そのうち魚屋から刺身なんかが届いて日本酒になり、北尾はそこでだいぶ酔ってしまった。
それでもまだ気持はしっかりしていて、
「とにかく今日はもうこれで勘弁して。またゆっくり遊びに来るから」
とかなんとか、適当に切りあげることができた。しかし、外へ出るとボデーガードの元太郎が忠実に待っていた。根がごく人の好い北尾だから、元太郎の忠勤ぶりにはすっかり閉口するやら恐縮するやらで、自分だけ一杯やった申しわけに、亀戸《かめいど》の駅前へ連れて行って焼鳥屋ののれんをくぐった。
出がけに仮払いしてもらった交通費に手がついて、久しぶりに飲んだ北尾は元太郎相手にくどくどと昔ばなしをはじめた。
ところが元太郎の酒は底なしであった。はじめから自分は焼酎《しようちゆう》でいいと安い酒を選びながら、スイスイとその強いのを流し込んで平気な顔をしている。それにつられて北尾は時間を忘れ、気がついたらすっかり夜が更《ふ》けていたというわけである。
「狭いところだけど、今夜は泊って行くんだぞ」
北尾はよろけながら言う。
「いいんですか」
「ボデーガードじゃないか。しっかりしろ」
「そりゃ、泊めていただければ役目がつとまりますけど……病気の奥さんが」
「かまわん、かまわん」
北尾は社長の昔に戻ったように、ばかに鷹揚《おうよう》に手を振って見せた。
と、二人のうしろから一台の乗用車がゆっくり抜いて行き、少し前でとまった。両側のドアがあいて男が三人出て来る。三人は今井通りのほうへ逆戻りしはじめ、一人が足を早めて北尾たちの横をすり抜けた。
「ちょっと」
元太郎が低い声で北尾の腕を引いた。
「女房のことなら心配いらない。もともとにぎやかなのが好きな性分で……」
車をおりた男たちが、北尾と元太郎の前に立ち塞《ふさ》がっている。
「え……どなた……」
「どけ」
一人が一歩前に出て元太郎を北尾から引き離そうとした。
「出ましたよ、先輩」
元太郎は北尾にそう言った。
「先輩じゃない。社長だよ」
「おっかないのが出たんですよ。社長」
元太郎は片手で北尾の体を支え、もう片一方の二の腕を敵に把《つか》まれながら、静かな声で言った。
「何が出たって」
「ちょっと待ってください」
元太郎はそう言うと北尾の体をはなし、ほんのちょっと動いた。
鮮やかなものであった。元太郎の腕を把んでいた男の足が、宙に弧《こ》を描いた。ドスッと嫌《いや》な音を立ててその体が簡易|舗装《ほそう》をした黒い道に落ちる。受身も何もあったものではなく、背中をもろに打ってその男は息もできない。
「この野郎」
うしろからもう一人が抱きついた。抱きついたはずなのに、元太郎が腰をかがめると、そいつの体は水平に車のほうへすっ飛んで行く。
飛んだ体を追いかけるように、元太郎は見事なフットワークで前進し、三人目の男の上着の襟《えり》に手をかける。
パシッ、パシッ、と平手で二発、そいつを押しながらきめる。相手はのけぞって後退し、車のうしろにおさえつけられる。
完全に反りかえったので、元太郎が軽く右膝《みぎひざ》をあげると、グヘッ、という汚《きたな》らしい声を出して、そいつの体が急に前へ折れる。
元太郎はその体から素早く離れると、車のほうへ素っ飛んで行って運転席のドアをあけると、中に残ってた男を引きずり出した。
「な、何をしやがる」
元太郎は「バカ」と言って顎《あご》へ右のショート・アッパーをくり出す。まったく鮮やかというか簡単というか、すっきりしたものだった。
16
ガンガラガン、という印刷インクの空缶のひと騒ぎがすんだあと、悠さんたちが遠ざかる足音を聞きながらベッドへ戻ろうとした下町誠一は、電話のベルが鳴ったので急いで二階のオフィスへあがった。
「下町ですが」
「ゲンです」
「ああ、君か。どうした」
「ずっと北尾先輩についていたんですが、ついさっきご自宅のそばで襲われましてね」
「ご自宅……」
下町は一瞬|戸惑《とまど》い、それがすぐ北尾貞吉のアパートのことだと思い当たった。
「こんな時間までついていたのか」
「ええ、役目ですから」
「北さんは今日こっちへ寄らなかったけれど、今ごろまでどこで何をしていたんだ」
下町はきつい言い方になった。
「いえ、私用なんです。ほんとですよ」
元太郎の声は朗らかなものだ。
「まあいい。で、怪我《けが》は……」
「あるわけないでしょう。僕がついているのに」
「どんな相手だ」
「四人組です。車で跟《つ》けて来やがったんですよ。四人とも車の中へしまってあります」
「しまってある……」
「道にころがしとくのも何だから」
「のばしちゃったのか」
「ええ、どうしましょう。警察へ引き渡すなり何なり、おっしゃる通りにしますけど」
「ひどくやっつけたのか」
「まあまあです」
下町は舌打ちをした。
「いい。かまうな。放っておけ」
「はい。それではあのままにしときます」
「それより、今夜は北さんから離れるなよ」
「ええそのつもりです。今夜は泊って行けって先輩に言われてる最中に、奴らが襲って来たんです」
下町は苦笑した。
「また何か起るようだったら、今度は自分一人で片付けるな。近所の人を起すなりしてな」
「はい判りました」
元太郎は電話を切った。
「何が襲われただい」
下町は受話器を置きながらつぶやいた。元太郎相手では、襲ったほうが被害者のようなものだった。
下町は階段をおりながら、北尾と元太郎が仲よく一杯やったらしいと思った。
「それにしても、だんだん物騒《ぶつそう》なことになりやがる」
ぼやきながら部屋へ戻ってベッドへ横になる。用心のためオフィスの灯りも階下のその部屋の灯りも煌々《こうこう》とつけっ放しだ。
ゆうべの今夜である。問題のフィルムを狙った連中であることは間違いなかった。しかし、どこかピンと来ない。やるなら北尾が先のはずなのに、まずこのオフィスを襲って来ている。下町がまだフィルムを見もしないうちにだ。そして今度は北尾が襲われた。動きがチグハグである。
北尾が襲われたのは今日の撮影《さつえい》のせいではなかろうか……。
下町はそう考えて見る。それなら筋が通るのだ。最初のフィルムはもう誰かの手に渡ってしまったときめ、あきらめているのかも知れない。
だが、彼らにとっては問題の人物である北尾貞吉が、またカメラをぶらさげて新宿へ出かけた。見張っている者がいたとすれば当然尾行したくなるだろう。すると行先はこの間と同じ場所だ。何を撮ったかは判らなくても、そのフィルム、一応いただいておけということになりはすまいか……。
いずれにせよ、こちら側に怪我がなくてよかったと、下町はあらためて安堵《あんど》の溜息《ためいき》をついた。北尾の身の上もさることながら、万一病院にかつぎ込まれでもしたら、下町探偵局としてはそれこそとなりの婆さんに家賃の支払いを待ってもらうことになりかねない。
カッチ、カッチと、まだ悠さんたちの拍子木の音が聞こえている。さっきの空缶の大音響と言い、再度襲撃をもくろんでいたとしても、今夜は中止せざるを得ないだろう。
「判らん」
下町はそうつぶやくと眠る気になった。考えて見たって、まだデータ不足で何ひとつ判りはしない。どうせなら明日に備えてたっぷり休養をとることだ。
と、まあ、そうは考えたが、そこいらがやはりリュウ・アーチャーやフィリップ・マーロウなどとは違うところで、灯りはつけっぱなしだし襲撃される心配はあるしで、とうとうまんじりともせずに夜が明けてしまった。眠くなったのは九時すぎで、いつの間にかうとうととしてしまい、
「所長、所長」
という茂木正子の金切声と、窓ガラスを激しく叩く音で目がさめた。
「どうしたの、正子さん」
となりの婆さんの緊迫《きんぱく》した声も聞こえた。
「おう」
下町はびっくりしてベッドからはね起きると、部屋を出て勝手口のドアをあけた。
とたんに、ガンガラガン……という空缶のころがる音。おかげで完全に目がさめた。
「大丈夫ですか」
正子が泣声ですっとんで来る。
「やれやれ、またやっちまった」
下町はうんざりした顔で、真正面に突っ立っているとなりの婆さんを見た。
「それにしても君は体に似ず甲高い声を出すね」
下町が正子に言うと、正子はふざけている場合かというような表情で下町に言った。
「いくら呼んでも返事をしないんですもの。心配するじゃありませんか」
「どうしたのよ」
婆さんも下町を睨《にら》んでいる。
「いやあ、すっかり寝込んでしまって」
下町は頭を掻《か》いた。
「凄《すご》い」
婆さんはパチンとひとつ手をうった。
「やっぱり男だわよ。肚《はら》の据《すわ》りかたが違うわよね。命を狙《ねら》われてるってのに、平気で寝られるんだから」
「大げさなことを言わないでくださいよ」
下町は苦笑した。
「これ、何ですの」
正子は崩れ散ったインクの空缶を見て訊く。
「ちょいとした防犯ベルよ。凄い音だったでしょう」
「まあ、そうでしたの」
正子はでかい尻《しり》を突き出して空缶を片付けはじめた。
17
新聞を読んでいると、北尾と元太郎が出勤して来た。
「おう、来たか」
下町はデスクの上へ朝刊をひろげたまま置いて二人を迎えた。
「どうも申しわけありません」
「北さんがあやまることはないですよ。怪我《けが》がなくてよかった」
「ゲンちゃんが、いえ、結城君が凄く強いので助かりました」
北尾が言うと、お茶をいれて来た正子が、丸い盆を手にしたまま目を丸くした。
「あら、また何かあったんですか」
「北さんたちがゆうべ四人組に襲われたんだよ」
「まあ怕《こわ》い」
正子は本当に怕がっているらしく、顔が白っぽい感じになった。
「ゲンちゃんの強いのなんのって」
北尾が説明をはじめる。
「僕ははじめ何のことだかよく判らなかったんだけれど、何か人が寄って来たなと思ったら、もう三人が道に伸びちまっててね。車の中にいた四人目を引きずり出してるところなんだ」
よく判らなかったわけで、北尾はしたたかに酔っ払っていたのだ。
「やめてくださいよ、社長」
元太郎が言ったので、下町は思わず笑い出した。正子がそれを怪訝《けげん》な顔で見る。
「どうしたんですか」
「いや、何でもない」
下町は笑いをこらえたが、まだ少しクスクスとやっていた。北尾と元太郎は、たった一晩のうちに、お互いをゲンちゃん、社長、と気安く呼び合う仲になってしまっている。それに、北尾の顔はどう見ても二日酔である。かなり盛大に飲んだに違いなかった。
「元太郎君、そんなに強いの」
北尾がゲンちゃんと呼んだせいか、正子も元太郎君と呼びはじめている。どうやら結城元太郎も下町探偵局に居つくような感じであった。
「これがきのうのフィルムです」
正子が元太郎のほうへ行ったので、北尾は下町のデスクに近寄り、ポケットからネガと紙焼きを出して渡した。
「ほう、早いですね」
下町は待ちかねたようにそれを受取ると、二十枚ほどの紙焼きを素早く見た。
「大したものは写ってないようだね」
北尾はキョトンとした顔になって、
「ええ、日付けを確認できるものばかりですから」
と下町を見たが、すぐ目を落してデスクの上の新聞をさかさまの位置から読んでいる。
「すみません、ちょっと」
北尾は朝刊を取りあげた。
「あ、やっぱりそうだ」
下町からは新聞で北尾の顔が見えなくなっていたが、かなり緊張した声であった。
「どうしました……」
「大変です」
北尾は急いで新聞をデスクの上へ置いた。
「これ、僕の友人のことです」
社会面の左端のほうを指で示すと、振り向いて元太郎を呼んだ。
「ゲンちゃん、大変だよ」
「え……」
元太郎が飛んで来る。
「ほら、これ」
「あ、きのうのお菓子屋さんだ」
下町の目が険《けわ》しくなった。その記事は、門前仲町《もんぜんなかちよう》の和菓子店に強盗《ごうとう》が入って、その店の主人が傷《きず》を負わされたという事件だったからである。
「知ってる人か」
「知ってるも何も、そのフィルムを現像した家ですよ」
「何だって……」
「ええ、この前のフィルムも今度のも、その和菓子屋の裏にある暗室で現像させてもらったんです。昔のカメラ仲間でしてね」
下町は唸《うな》った。
「なるほど、そういうことか」
腕を組む。
「とにかく見舞いに行かなければ」
今にも出かけようとする北尾へ、下町は低いが厳しい声で言った。
「見舞いに行ってもすぐよくなるというもんじゃない。少し待っていなさい」
北尾はギョッとしたように下町を見たが、すぐ肩を落して静かに自分のデスクへ戻った。オフィスの中が急に陰気になる。
やがて下町は腕組みを解き、煙草に火をつけた。
「北さん」
「はい」
「どういう相手かよくは判らないが、北さんは最初のときから跟《つ》けられてましたね」
「最初のときと言いますと……」
「例の夜間撮影をした晩ですよ」
「はあ、そうでしょうか」
「多分そのはずです。少なくともあの写真を撮ったところは第三者に見られている。そうでなければこんな事件になりっこない。そうでしょう……」
「ええ」
北尾は曖昧に頷いた。
「でも、相手は北さんが何者であるか把めなかった。奴らは北さんの正体を突きとめにかかったんでしょうね。そして、それが判るのに四日ほどかかった」
「なんで四日と……」
「あの写真を撮ってからも、問題のフィルムは北さんのニコンに入れっぱなしで日がたってましたね」
「あ、そうか」
「五日目の朝には現像してこのオフィスへ持って来たわけだけれど、その前の晩、つまり四日目の夜、ここが襲われた。連中が行動を起したんです。だから次の朝もどこからか見張っていた。すると北さんがまたカメラを持って出かけたわけです。尾行すると新宿へ行き、この前と同じ場所で撮影してから、謎《なぞ》めいた動きをしつづけた」
「謎めいた……僕がですか……」
「今日という日付けを証明する為の撮影ですよ。でもそんなこと、誰が想像できますか。何をしているのか訳が判らなかったに違いない。その揚句《あげく》に和菓子屋へ入った。これもおかしなことですよね。で、よく調べたらその和菓子屋に暗室があった。北さんを尾行してフィルムを奪うのに失敗すると、今度は暗室に手を出してその店の主人に騒がれ、傷を負わせて逃走」
「なるほど」
北尾は深刻な表情で聞いていた。
18
「敵はだいぶあわててますな」
北尾が言った。
「どうも様子がおかしい」
下町は苦笑した。
「まず第一に、なぜ北さんのフィルムを撮影現場でおさえなかったかだ。多分、北さんを尾行した奴は、その場を動かなかったんだと思うな。北さんが証拠写真を撮ったことだけはたしかめたけれど、そのあとを追跡はしなかったんですよ。だから北さんがここの人間だと判るのに四日もかかってしまった」
「たった四日でよく判ったものですね」
北尾は逆に早すぎるというような顔をした。
「うん、そうですね。ほかのやり方はばかに素人《しろうと》じみてるのに、そこだけはプロなみの手ぎわと言えますね。それもおかしなことのひとつだ。ゲンちゃん……君がやっつけた連中の手ごたえはどうだったね」
下町もゲンちゃんと呼んだが、ほとんど意識していないようであった。
「強くはなかったです」
すると北尾が、
「それはゲンちゃんが強すぎるから……」
と持ちあげかけるのを、下町は首を横に振ってやめさせた。
「空手とか柔道とか、そういう体術の心得はありそうだったかい」
「いいえ」
まるっきり、という顔で元太郎は下町をみつめた。
「それもおかしいね。一人くらいプロが入ってたってよさそうなもんじゃないか」
「じゃあ、相手は素人だと言うんですか」
北尾が信じられないというように首を傾げた。
「まあ、それはいい。北さん、その友達を見舞いに行っていいですよ」
「はい」
北尾は待ちかねたように腰をあげた。
「ただし、こっちは無関係でいること」
「は……」
「不人情なようだが、北さんが暗室を借りたための事件だとは言わないでくださいよ。まだそうときまったわけじゃないんだし、喋《しやべ》ればきっと警察がここへやって来る。そして必ず篠川九馬や鬼島平作が手をまわして来る」
「判りました」
北尾にもそうなればどういうことになるかよく判ったのだろう。きっぱりと言って階段をおりて行った。
入れ違いにゆっくりとした靴音《くつおと》があがって来る。みんなそれを岩瀬だと思い込んでいた。が、違った。いい服を着た貫禄のある中年男がオフィスへ入って来た。
「あ……」
下町の顔に驚きの表情が走った。
「やあ」
その客がニヤリとした。下町も素早く態勢をたて直したようであった。
「これはこれは、堂角さんじきじきのお越しとは恐れ入りますな」
下町はわざとその男の名を言ったらしかった。正子に教えようとしたのだろう。
「なかなか盛大におやりですな」
堂角はそう言ったが、別に下町探偵局のみすぼらしさをからかっている様子もなかった。物の判った男なら、このオフィスへ来てへたなお世辞を言うはずがなかった。お世辞を言ったら逆に皮肉になるか、あからさまに下町をいたわることになってしまう。そして、堂角猛夫は物の判った男らしかった。
「どうぞ応接室へ、と言いたいところですけれど、ごらんの通りでしてね。それともどこか近くの喫茶店へでも……」
「いや、ここで」
下町は頷いて自分のデスクのうしろの衝立《ついたて》のかげへ入った。堂角もそのあとに続く。
二人の姿が衝立にかくれたとたん、風間が足音を忍ばせてあがって来た。正子に向かって唇に指を当てて見せる。
「大変よ。堂角……」
「知ってる」
二人が小声ではじめる。
「驚いたよ。尾行したらうちへ来ちゃったんだもの」
その風間のことが衝立の向こうでまず話題になる。
「あの若い調査マンはなかなか筋がいい」
「若い調査マンと言うと……」
「きのうからわたしのオフィスに食いついていて、今日はここまで跟けて来た」
「ほう」
下町は体を反らし、衝立のかげから顔を出して階段のほうを見たが、風間と視線が合って苦笑する。
「なるほど」
「詫《わ》びに来たのさ」
「それはまたどうして」
「君に迷惑をかけたらしい」
下町は無意識に後頭部に手を当てかけ、それに気づくと首筋を撫《な》でて誤魔化《ごまか》した。
「こちらもあやまらねばならない」
下町はさりげなく言う。
「ほう」
「そっちから依頼された篠川十郎の件だが、実はちょっとわけがあってきのうから中止してしまっているんだ」
堂角は、フフフ……と笑う。
「えらい写真を撮ったそうだな」
「うん。それで十郎の件はやめざるを得なかった」
「ざっくばらんに行こう」
堂角は鋭い目になって言う。
「篠川九馬はもうだめだよ。ま、今しばらくは生きのびても、早晩再起不能になる。そのことは篠川十郎もよく承知している。実はあの日、九段で篠川一族の結婚式があったんだ。わたしも出席していた」
「ほう」
「披露宴《ひろうえん》がはじまってから、篠川十郎がそっと耳打ちしてくれた。兄が車を貸せと言っている、とね」
「それだけ……」
「うん、それだけさ。多分彼は、そのあとを追えば九馬が鬼島と会うところを見ることができると知っていたんだろうな。わたしがその情報を把めば、あとはどうなるか判り切っているからな。ところが九馬はすぐに出て行ってしまった。めでたい席だし、こっちはただの付合いのつもりだったから、誰も連れて来ていなかった。飯岡という秘書だけだ。で、とりあえずその女に尾行させた」
「女……女性秘書か」
「そうだ」
下町は大きく頷いた。北尾の撮影現場を押えられなかったわけだ。いくら北尾が非力でも、まだ女には負けまい。
「ところがあの女、なぜかわたしに正直に報告しなかった。もっとも、わたしのそばにいれば、九馬と鬼島がその時点で密会することが、どれほど危険なことか自然に理解できるはずだ」
今度は下町がニヤニヤした。
「あまりあっちこっちへ手をつけるからだな」
その飯岡という秘書が堂角の愛人の一人であることを、下町は直感したのだ。
「そう責めるなよ」
案の定、堂角は肯定した。
「そうしたら二日後にあの国会の証言だろう。テレビを見ていた彼女がどう思ったか、ほぼ想像できる」
「待ってくれ。するとその女性秘書は、たった二日で北さんをみつけ出したわけか」
堂角は笑った。
「はじめから知っていたかも知れない。何しろうちがここへ依頼した上での人違いだからな」
19
堂角は北尾が九馬と十郎を間違えて尾行したことまで察しをつけているようだった。
「君はいろいろな部下を持っている」
おかしそうに言った。
「いいセンスをした若手もいれば、いやに腕っ節の強いのもいるらしい。しかし、九段で九馬と十郎が入れ違ったのに全然気が付かず、車だけを夢中になって追いかけるのは、あまり感心したことじゃないな」
「ま、それも怪我の功名を生んだんだから」
下町はつい北尾のためにそう弁護した。
「しかし、その男が尾行していた篠川十郎は仲人《なこうど》役だからタキシードを着ていたが、九馬は黒のダブルだった。たしかに兄弟だから顔は似ているが、服くらいよく見ていて欲しいものだな」
北さんらしい失敗だ……下町はそう思いながら堂角に頭を下げた。
「教育がよくなかった」
堂角はそれにとり合わず、
「それに、君が怪我の功名という風に考えているとしたら大間違いだな」
と冷たい表情で言った。
「たしかに俺は今、ババを把《つか》んでいる」
下町はあのフィルムが自分にとって持て余すほど危険なしろ物であることを率直に認めた。堂角は軽く頷き、急に表情を柔らげた。
「まあとにかく今日はこっちが詫びに来たんだから、先まわりしてどうこう言うのはよそう。実は飯岡という女は俺から離れるチャンスを狙っていたらしい。妙に野心のある女でね。こういう世界に長くいる内に、大きな材料を握れば一生食って行けるのだというように思い込んでしまったんだな」
下町はじっと堂角をみつめていた。
「つまり、今度のことで君に謀叛《むほん》を起したというわけか」
「そうなんだ。写真の件をわたしに知らせず、自分で処理しようとした」
堂角は鼻で軽く笑って見せる。
「と言っても、寄せ集めの素人同然の連中しか使えなかったわけだ。ここへも押し入ったそうだな」
「来たよ。あの写真を撮った部下も襲われたし、それに全然関係のない深川《ふかがわ》の和菓子屋の主人もやられた」
「和菓子屋……」
堂角は眉をひそめた。
「あのフィルムを現像した家の主人だ。アマチュア・カメラマンで、自分の暗室を持っていた。俺の部下はその暗室を借りたんだ」
「なるほど、そういうわけか」
堂角はそう言い、舌打ちをした。
「朝刊にも出ている。入院しているそうだ」
「すまん」
「そうあやまるところを見ると、何かしてくれる気がありそうだな」
「なあ、下町《しもまち》」
堂角はシモマチと呼んだ。もう誰もシタマチと呼んで怪しまないが、堂角と縁つづきだったころには、みんなからシモマチと呼ばれていた。
「あのフィルムに最初に目をつけたのがうちの飯岡でよかったと思わないか。これが別な筋だったらただでは納まらないところだ」
「そうかな」
「判っているくせに強がるな。たとえば篠川九馬だったら、証拠を消すためにこの家ごと焼いてしまうかも知れない。別な場所にしまったと判れば、委細かまわず君を殺しにかかるかも知れない。わたしはな、君がここで何とか自分の城を築いたことを、本当によろこんでいるんだよ。真佐子も今ではすっかり落着いて、折りにふれ君にすまないことをしたと言っている。こちら側から言うのは勝手すぎるかも知れないが、充分に時が流れて、昔の嫌なことは消えかけているんだ。判ってほしい……君のような男があの写真にかかわってはいけない。と言って、飯岡たちがあんなことをしてしまった以上、遅かれ早かれ写真のことは知れてしまう。君にとって一番いい解決策は、うちの命令で動いたにすぎないということにすることだ。勿論、わたしも譲ってもらえるならその写真が欲しい。篠川九馬が今の首相のふところがたなである以上、あの写真は内閣を潰《つぶ》す道具になる。飯岡たちの動きは完全にわたしがおさえた。次に動き出す連中が現われないうちに、そのババをわたしに抜かせてくれないか」
「つまり取引きか」
「そうだ、しかも、今、ここで」
「急ぐんだな」
堂角は首を横に振って見せた。
「こういう話は早くしなければいけない。時間をおくとろくなことにならない。……実はもう金を持って来ている。わたしをここまで尾行して来た男が、わたしの車がとまっている場所を知っているはずだ。そこへ行って運転手に鞄《かばん》を持って来いと言えば、金の入った鞄をここへ運んで来る。何しろ朝のことだから手持の現金は一千万しかない。それが内金ということでどうだ」
下町は顎に手をやった。キャッシュで一千万円と聞いたとたん、どんなに自分が金に餓《う》えているか思い知った。岩瀬も北尾も風間も正子も、みんなカツカツで暮らしていた。思いがけないボーナスが出せると考えたとたん、腹の底のほうから甘くて温かいものが湧《わ》きあがり、体いっぱいにひろがってしまった。
「風間」
下町は堂角の顔をみつめたまま呼んだ。
「はい」
「堂角さんの運転手さんをここへお呼びしてくれ。堂角さんが鞄を持って来るようにと……そう言っていると」
「はい」
風間の出て行く足音がした。
20
問題のネガとプリントは、下町があっけらかんと上着のポケットへしまっていた。それを取り出して見せたときの、堂角の呆《あき》れ返ったような顔を思い出すと、下町はまたおかしさがこみあげて来るのだった。堂角たちにして見れば、何重にも鍵のかかった秘密の箱の奥深くに隠して置かなければ気の安まらないしろものなのだが、権力抗争の場からの距離に反比例して、そのフィルムの重味は軽くなってしまうのだ。
「よく堂角が来ている間、今日に限って会長が来なかったもんだな」
堂角猛夫を送り出したあと、下町は上機嫌でそう言った。となりの婆さんを、みんな陰で会長と呼びはじめているのである。
「もうすぐ来るでしょう。悠さんとひそひそやってたから」
風間がすっきりしない表情で言った。堂角がなぜ下町探偵局へ出向いて来たのか、その説明を聞きたがっているに違いない。
「これ、何ですの……」
正子も堂角が置いて行った平べったい鞄をいぶかしんでいる。フィルムに関係があることは判っているのだ。
「まあ、いずれ判るさ」
下町は風間と正子の両方にそう言い、
「門前仲町の和菓子屋さんはどうだったのかな」
と北尾の連絡を待ち焦れるように電話をちらりと見た。
ガラガラピシャンと音がして、下駄の足音がふたつあがって来た。
「ほら来た」
正子はそう言い、裏の窓際へ行ってお茶をいれはじめた。
「堂角の奴、風間のことを褒《ほ》めていたぞ」
「まさか」
風間は眉間《みけん》に縦皺《たてじわ》を寄せた。からかわれたと思ったらしい。
「本当だ。筋がいいって」
「所長」
元太郎がたまりかねたように言う。
「何だ」
「おわったんですか」
「何がだ」
「その……」
元太郎はどう表現すべきかちょっと考えた。
「戦争ですよ」
「おはよ」
下町がかすかに頷いたのと、となりの婆さんが姿を現わしたのが同時であった。
「やあ、いらっしゃい」
「おはようございます」
悠さんがそれに続く。
「いらっしゃい」
下町はそう言って自分のデスクに戻った。
例によって悠さんと婆さんがその前に坐《すわ》る。
「けさ北さんに会ったんですよ」
悠さんが切り出した。
「深川へとんでったそうよ」
婆さんは振り返って元太郎を見る。
「こっちへおいで、あんた」
「はい会長」
元太郎は素直だ。
「会長……」
婆さんが下町に視線を移した。
「あ、違うんですか」
元太郎がちょっとあわてる。
「そんな綽名《あだな》をつけたの」
「別に綽名じゃありませんよ。おとなりの会長だから」
西尾やへは、本当にとなりの西尾印刷株式会社の会長なのだ。
「まあいいわ」
婆さんはまた元太郎を見た。
「北さんを守ったんだってね。えらいわ」
婆さんはそう言うと、そばに立った元太郎へ手を伸ばして、その太い腕をそっと撫でた。
「うへ……」
元太郎が気味悪そうに体をすくめる。
「ね、所長。役に立つでしょう」
「ええ。例の件、もういいですよ」
下町にそう言われて悠さんは、エヘヘ……と笑った。
「信用するわけ」
「うん」
悠さんは元太郎の身許をもっとたしかめるよう下町に言われていたのだ。
「よかった」
「で、何の話です」
「それそれ」
悠さんは真面目《まじめ》な顔になった。
「夜中のこと、よく考え直さなくては」
「なぜです」
「睡《ねむ》くて」
下町はのけぞって笑った。
「笑いごっちゃないのよ」
婆さんが口をとんがらせた。
「ゆうべ一晩であたしたちはもうぐったりよ。そりゃ、これから毎晩でも夜まわりをする気ではじめたことだけど、やって見ると容易なことじゃないわ」
「どうもすみません」
「お礼なんか言われたくもないけど、とにかくもうちょっと考えなきゃ。たとえばこの人をここへ泊り込ませるとかさ」
「下の部屋へベッドをもうひとつ持ち込むとか、ここを区切ってゲンちゃんの部屋をこさえるとかしてはどうでしょうね、ベッドは出物があるんですよ、今なら」
そのことを二人で相談していたらしい。
「どうもご心配をかけました」
下町は叮嚀《ていねい》に頭をさげた。
「でも、もう大丈夫です」
「あら、どうして……」
「物騒《ぶつそう》なことはもう起りません」
「起りませんって、所長……どうなったのよ」
「さっきここへ客が来ましてね」
「見たわ、えらそうな奴」
「今度の件はそもそも、あの男がうちへまわして寄越した調査が原因で発生したトラブルです」
「まあ、そうだったの」
「くわしいことはあとでゆっくり説明しますが、とにかくもうかたがついたんです」
「なんだ」
婆さんはがっかりしたようであった。
「僕らには危険すぎる話でしたからね。早くおわってほっとしましたよ」
婆さんは上目づかいにジロリと下町を見た。
「さっきの奴にフィルムを渡しちゃったの」
「ええ、まあ」
「いくじなし。えらそうな顔でインチキをする奴をぶっ潰しちまおうと思ってたのに」
「それはできます。ただ、こっちだけでは力が足りないから、手を組んだだけです」
すると悠さんが下町の味方にまわった。
「それがいいよ。いくら何だって、内閣が相手じゃ所長の手に余るさ。ねえ所長」
「そう。たとえば、北さんの病気の奥さんを狙われたりしたら、こっちは手も足も出ない」
「北さんの奥さんを……」
「人質ですよ」
「まさか」
婆さんは怕《こわ》そうに肩をすくめた。
「やりかねませんよ。茂木君が狙われたって同じことだし」
「この人を人質に……。質に入るかしら」
「ひどいこと言わないでください」
正子が半分本気で言ったので、オフィスにいつもの笑声が戻った。
21
半月後、下町探偵局に春が訪れていた。みんな突然のボーナスに体の芯《しん》からあたたまっていた。
「ほんとに、こんなにもらっていいんですか」
経理を預かっている正子でさえ、信じられないというような顔であった。
「堂角のところから、うちへ特別褒賞金《ほうしようきん》が出たのさ」
正子にもそう言ってあった。一千万の金が領収書なしで入ったのだが、正確にいうとそれも不正な金の一種であった。だが下町には適当な時期までその金をあたためて置くという芸当ができなかった。まだ一度もボーナスらしいボーナスを出したことがなかったし、一人一人の暮らしぶりについても知りすぎていた。みんなを欺してでも、ひと息つけるだけの金を渡してやりたかったのだ。
それは正子たちも同じようなものであった。金の出どころがこの間のフィルムからだと判っていても、下町がそれをよしとして渡してくれた以上、批判したりする気が起るわけがないのだ。
正子はその金を、大切にチビチビ使うことにきめた。今まで通り切りつめた生活を続け、寝たきりの祖父の病状が急に悪化したときに備えなければならないのだ。
岩瀬は子供の進学資金にするつもりで、妻にそっくり渡した。岩瀬の妻は下町探偵局のボーナスだということが信じられなくて、少し岩瀬と揉《も》めたりした。
北尾は病妻に刺しゅうの道具と材料をひと揃《そろ》い買った。残りは倒産した時の債務の一部にあてたが、病妻には内緒にしていた。その借金はとうに時効にかかっていて、相手ももうすっかりあきらめていたのだった。
風間の手もとには、ものの三日もその金は留まっていなかった。かつて風間の仲間が仕掛けた爆弾で生まれもつかない体になった被害者の家へ、黙ってそっくり置いて来てしまったのだ。
元太郎は新入りだからボーナスも少なく、だから一番豪勢に使っていた。
下町の手もとには五百万ほどまだ残っている。いずれ必要になるはずだし、それだけあれば収益ゼロでもいくらか頑張れる。結局下町だけはその金の配分にあずからなかったことになるのだ。
一応そうやって下町探偵局はうるおったが、そのことはいつまでも下町の心にしこりとなって残った。みんながああいう調査で金を稼《かせ》ぐ味を憶えたら、どうなるだろうという心配があったのだ。したくてやったことではあるが、その金を分けてしまったことにうしろめたさがついてまわった。
だから、内金だと言って一千万の現金を置いていった堂角が、それ以後ウンでもスンでもないのに、別に苦情を言おうともしていない。それ以上のあぶく銭を手にすることが、何やら恐《おそ》ろしいのであろう。
「所長、ちょっと」
或る日外出から戻った岩瀬が、物々しい表情でそう言い、下町を近くの喫茶店に連れ出した。
「所長も人が好いよ。呆れたね」
席につくとすぐ、岩瀬は嘆くように言った。
「そう、俺はお人好しさ。間抜けなんだ」
「ふざけてる場合じゃない。堂角のお芝居にまんまと引っかかっちまったんだよ」
「お芝居……」
「そうさ。飯岡って秘書は、相変らず堂角のケツについてまわってやがる」
「あれは堂角の女だ。詫《わ》びを入れてよりを戻したか、堂角が手ばなさなかったか、いずれにせよ」
「女と男のことだって言いたいんだろ」
「ああそうだ」
「じゃ言うけどね、あのことで飯岡って女は誰も傭《やと》っちゃいないよ」
「どうして判った」
「チンピラが一人、喋ってくれたんだ。一之江のほうで夜中にぶん投げられたって」
「ゲンちゃんにやられた奴か」
「そう。そいつらを傭ったのは堂角だよ」
「…………」
「判ったかね。あれはお芝居さ。たまたま怪力ゲンちゃんがついていたのは付録みたいなもんだけど、そのチンピラたちはまるで素人だ。堂角が飯岡って女の筋書きに見せる為にわざとそうしたのさ。所長の別れた奥さん、堂角の姪《めい》に当たる人じゃないか」
「うん」
下町は苦い表情になった。
「堂角は所長の人柄を知ってたわけだ。手のうちを読まれちゃってたのさ。飯岡って女は、たしかに例の晩、九段から篠川九馬を尾行したんだろう。で、北さんが証拠写真を撮るのを見た。それを帰ってすぐ堂角に報告したんだ。堂角は所長からフィルムを取りあげる手を考えた。楽なもんさ。多分奥さんのことなんか持ち出して、危険なことをしてもらいたくないかなんか言ったに違いない。所長はそういうのにコロリと引っかかるからね」
「その通りらしいな」
「あの写真のプリント一枚で、堂角は一億円以上の金を稼ぎ出すんだ。あれがあれば九馬を潰《つぶ》さなくても内閣を潰すことができる。九馬が反対派へ寝返ればそれでいいことだからね。堂角はうまくやってるよ。ここんところ、奴さんトントン拍子さ。もうすぐ探偵|稼業《かぎよう》からも足を洗うんじゃないかな」
「篠川十郎の女性関係を調べさせたのは誰なんだい」
「こっちへお鉢《はち》がまわったわけだ。依頼主はなしだそうだ」
「堂角自身か」
「そう。十郎だけじゃない。あいつは手当たりしだいに政財界の大物の行動をチェックしてるんだ。商売のあがりは全部それにつぎ込んでたって言うぜ」
「負けたね」
下町はニヤニヤした。
「一千万は内金だ。もっとふんだくってやろう」
「やめとこうよ、岩さん」
下町は喫茶店のソファーにもたれて、のんびりと背伸びをした。
「今の話を聞いて少しは気が楽になった。あれ以来、俺は苦にしてたんだ。金でみんなを堕落《だらく》させたような気がしてね」
「扱い易い人だな、まったく」
「気が付いたんだが、来月の十日はわが下町探偵局の創立記念日だ。ささやかな記念式典でも催すか」
岩瀬は拗《す》ねたように、フン、と言ったが、その実満更でもなさそうな目付きだった。
第二話 梔子《くちなし》とカーネーション
「来たな」
下町誠一は読んでいた夕刊を畳むと、それを岩瀬五郎のデスクの上に抛《ほう》った。岩瀬はまだ帰って来ていないが、帰ればすぐ夕刊をひろげるのは判《わか》り切っていた。
「誰《だれ》がです……」
茂木正子は怪訝《けげん》な表情で下町を見た。
「悠さんだよ」
そう言われて、正子と北尾は小首を傾《かし》げ、階下の物音に耳を澄ませた。
「なんにも……」
聞こえない、と正子が言いかけた途端《とたん》ガラガラッと戸のあく音がして、ガタゴトと下駄《げた》の音がはじまった。
「なあるほど」
北尾が感心したように言う。
「さすがは名|探偵《たんてい》。そう言わないのかい」
正子は苦笑しながら時計を見た。もう五時である。何日も降り続いた雨が、今日はようやくあがったが、まだ空はどんよりとした雲に掩《おお》われたままで、朝から一筋の陽も射さなかったから、まだ八月の終りなのにもうすっかり夕暮れの気配であった。
「お寒うござい」
声と姿が一緒に現われた。下駄屋の悠さんは甚平《じんべい》姿である。
「寒いってほどじゃない」
下町がそう言い、正子は椅子《いす》を出しながら、
「ほんとに秋も終りって言う涼しさですわね」
と言った。
「こういうのがカンショ異変」
「カンショ……」
北尾が尋《たず》ねる。
「そうカンショ。寒い暑《しよ》と書くの。暑中見舞いの暑《しよ》」
「なんだ。さつまいものことかと思った。でも、寒暑異変ってのは聞いたことがないな」
「だって、暖冬異変があるでしょうに」
「そりゃそうだけど」
北尾は声をあげて笑った。
「それにしても、大多喜さんはいいですね。いつものん気そうで」
「そう……」
悠さんはことさら不思議そうに、わざと妙な声を出して見せた。
「そうじゃないの。ただのん気なだけ。ただのん気だね、なんちゃって」
「古いんだよ」
下町がたしなめるように言って笑う。
「で、今日は何かご用……」
このところしばらく顔を見せなかったから、正子は真顔で悠さんにそう尋ねた。
「あ、いけねえ」
悠さんはおでこをピシャリと叩き、
「親分、大変だ」
と言った。正子が笑い出す。
「銭形平次みたい」
「そう、あたしはガラッ八の八五郎」
「読んでるんだなあ、二人とも」
下町が感心する。
「探偵ならそれくらいは読まなくちゃ」
「専門書だからな」
下町はニヤニヤした。
「何だか大多喜さんが見えると、みんな悪のりしちゃうみたいだわ」
「ごめんなさい」
悠さんは打手《うつて》がえしにあやまった。そのタイミングがおかしくて、みんなまた笑う。
「で、大変とは……」
北尾が真顔になって訊《き》く。
「警察が法律を破ったらどうなるんですか」
「警察が……」
北尾は返事に困って下町を見た。
「また何を言い出すんだか」
下町は、その手に乗るか、と言ったようにニヤニヤし続けている。見ようによっては冗談《じようだん》を期待しているようでもある。
「あっちの……」
と悠さんは横網町《よこあみちよう》のほうを顎《あご》でしゃくって見せた。
「小学校のそばの立看板《たてかんばん》ですよ」
「立看板……」
「そう、例の都々逸《どどいつ》を書いた奴」
別にとりたてて説明しなくても、みんなそれで判ったようだ。七五調の標語を書いた警察の立看板のことだ。
「何て書いてあったんですか」
北尾が訊く。
「登下校」
「うん、登下校……」
「交通事故に、気をつけやう」
「おかしくないじゃないですか」
「あ、やっぱり。北さんも年だからなあ」
北尾はキョトンとしている。
「交通事故に気をつけやう、ですよ」
「気をつけやう……あ、旧仮名づかいですね」
「そう。国できめたことを、警察が率先して破っちゃいけないでしょう」
「何も率先したわけじゃないでしょうけど」
「じゃ北さんに伺いますけどね」
「はあ」
「にせ札は使っちゃいけないんでしょう」
「ええ」
「使っちゃいけないものをあたしらが使ったら、警察がいきり立つわけですよ。許しちゃおけない。そんな奴は牢屋《ろうや》にブチ込んでやるって。正義の味方俺一人ってな具合でさ」
「話が別でしょう」
「そうですかね」
「その標語はたしかに間違いだけど、別に犯罪じゃない」
「へえ、国で禁じてても……」
「法律破ったわけじゃないですよ」
「でも、学校の試験でそう書いたら零点《れいてん》ですよ。学校へ入れてくれない。つまりその生徒は間違えた罰《ばつ》を受けるわけだ。そうじゃないですか。それを、小学校の通学路に堂々と、交通事故に気をつけやう……」
「悠さん、警察へ電話したらどうかね」
下町は真顔で言った。冗談めかしているが、悠さんが案外本気らしいのを見てとったのだ。勿論《もちろん》悠さんだって仮名づかいの誤りが犯罪になると思っているわけではなかろう。しかし、他人のことは鵜《う》の目鷹《たか》の目になる警察が、自分のことになるとまるで無神経で、ともすれば身内同士がかばい合うようなことが多いのはたしかなのだ。
「実はね、PTAの人がもう言ったんだって。警察はハイそうですかって言ったけど、一か月たってもまだそのまんまなんだそうですよ。きっと泥棒をみつけるのにいそがしいんでしょうね」
どうやら悠さんは、そういう皮肉をどこかで言いたくてやって来たらしかった。
「やあ」
岩瀬五郎が帰って来て、悠さんに声をかけた。悠さんは丸っこい体をひねって振り返り、
「お帰りなさい。今日はまた、ばかにいい服を着てますね」
と微笑《びしよう》した。
「去年と同じだよ」
「でも、ちゃんとネクタイなんかしちゃって」
「いつもしてますよ、岩さんは」
北尾が岩瀬をかばうように言う。
「あれ、そうだったかな」
「この前は暑かったからノーネクタイだったけど、今日はばかに涼しいからね」
「あ、それでですか。あたしはまた、急に金まわりがよくなったのかと思って疑っちゃった。警察みたいにね」
「どうしたんです、悠さん。今日はまたばかに警察を目の仇《かたき》にするじゃないですか」
下町が尋ねた。
「駐車違反《ちゆうしやいはん》でやられちゃったんですよ」
「おや、運転できるんですか」
「いや、あたしは自転車専門。駐車違反でやられたのは、うちへ来た会社のトラック」
「どこの会社……」
「きまってるでしょう。ゴム靴の会社のですよ。ちょっと仕入れをしたもんでね。随分久しぶりだった」
「仕入れが……」
「そう。そろそろ運動会のシーズンだしね。でも、どこの会社だなんて訊《き》くほうも少しおかしい。うちの店の前へ銀行の車なんかがとまってれば差押えにきまってる。あ……訂正します。信用金庫の車」
どうやら大多喜悠吉氏はどこの銀行とも取引はないらしい。
「売れるのは油ばっかり、ですか」
岩瀬がからかう。
「憤《おこ》るよ、本当のことを言うと」
悠さんは苦笑している。
「うさぎ屋の焼酎《しようちゆう》もよく売れそうだな。でも俺《おれ》は今日、ちょっと用事があって付合えないんだ」
岩瀬はわざとらしく腕《うで》時計を見ながら言った。悠さんは首をすくめ、左手で五分刈りの頭を掻《か》いている。
「なんだ」
北尾と正子が顔を見合わせて笑う。
「誘いに来たのね」
「さすがは名探偵。恐れ入りました」
悠さんは頭をさげて見せる。
「今日はあぶれそうだったんですよ」
「あぶれる……と言うと」
「誰も一緒に行ってくれる人がいないような悪い予感がしたんです。だもんだから、つい最後の手段でね。一人|呑《の》んだってつまらないでしょう。それに、長年のことだから、今日は連れがなさそうだってことが、午後の三時頃になるとピンと来ちゃう。そうなると焦っちゃいますからね。ずっと店に出て通りを見張ってたけど、五時になっても一緒に呑んでくれそうな顔はひとつも通らない」
「酒の道も厳しいね」
岩瀬が笑う。
「そう。うさぎ屋が休みならこっちも休み。よそじゃ呑まないの。だからこの間のお盆休みなんか辛かった。三日も休みやがる」
「よそへ行って呑めばいいのに」
「それは駄目《だめ》。酒道不覚悟ってんで切腹しなけりゃならない」
「いろんな本を読んでる」
下町が大笑いする。
トッ、トッ、トッと木の階段を二段ずつ軽い音で駆けあがって来る気配がした。
「只今《ただいま》戻りました」
軍隊調の大声で大男が現われる。新人の結城元太郎だ。
「あれ、健ちゃんはどうしたの」
正子が尋ねた。
「駅まで一緒でしたが、あとはよろしくって帰りました」
「要領いいわね、このごろ」
すると悠さんがしたり顔で左手の小指を突き立てる。
「ハンサムだもの、風間君は」
「そうでもないですよ」
と言ったのは元太郎だった。
「ゲンちゃん。お前が言うことはないんだよ」
「あ、そうですね」
元太郎はけろりとして自分のデスクにつく。買ってもらったばかりの古机だ。それでもみんなとお揃《そろ》いで、灰色のスチール製。
「で、大木事務所の仕事はどんなのだった」
下町が尋ねた。今日は京橋の大木探偵事務所から動員がかかって、風間と元太郎が手伝いに行っていたのだ。
「尾行ばっかりでした」
岩瀬が夕刊から顔をあげて訊く。
「どんな奴《やつ》」
元太郎はゆっくりと椅子から立ちあがり、不動の姿勢をとって答えた。
「他社の仕事の場合は、所長にも報告する必要はないと教わっています」
「ちぇっ、堅《かて》えこと言ってやがら」
岩瀬は苦笑して夕刊に目を落す。元太郎は坐《すわ》りながら、
「国税庁の偉《えら》い人みたいだったなあ」
とつぶやいた。岩瀬は驚いたように目をあげ、下町と顔を見かわす。
「そいつは金になりそうな仕事だ」
岩瀬が言うと、悠さんが咳《せき》ばらいした。
「五時半ですよ。みなさん、まだ帰らないんですか」
「あたし、失礼します」
正子は弁当箱の入った大きなハンド・バッグを持って立ちあがる。
「じゃ、わたしも」
北尾も席を立った。
「どうも有難うございました」
悠さんは椅子から離れ、階段をおりて行く二人にそう言った。
「何だか追い出されてるみたい」
正子と北尾の笑い声が、足音と一緒に下へおりて行った。
「海のほうに台風が一個うろついてるそうですよ」
悠さんは窓から空を仰いで言った。
「今夜はまた雨かも知れないな」
下町が頷《うなず》くと、
「そうだ、降られちゃかなわん」
と、岩瀬が夕刊を畳《たた》みはじめる。元太郎は業務日誌としてあてがわれた薄《うす》べったいノートに、何か一生懸命書きつけていた。
「こいつを追い出すのはちょいと骨だな」
悠さんがそのでかい背中を睨《にら》んでつぶやいたので、下町はまたのけぞって笑った。
「十五番の台がもしあいてたらやります」
元太郎は業務日誌を書きおえると、ノートを抽斗《ひきだし》にしまいながら言った。
「あいてなかったら飯食って風呂へ行って寝ちゃいます」
「そんなことまでいちいち断わるんじゃないよ」
悠さんがたしなめた。元太郎の身許保証人は悠さんなのだ。
「じゃあとにかくパチンコ屋へ」
元太郎もそう言い残して帰った。
「変なのばっかりだなあ」
「まったく」
下町が頷く。
「でもみんな善人ばかりだ。うちの連中のようなのといると、何だかぬるま湯につかってるようでね」
「この土地から出るに出られない……」
「別に出たいとも思わないけどね」
「大して儲《もう》かる仕事もないし……」
「うん」
「さっきゲンちゃんが言ってた、京橋のほうの仕事って、なぜ儲かりそうなんです」
「だって、尾行されてるのが国税庁の役人でしょう。そりゃ何かありますよ」
「と言うと……」
「そういう役人の弱味を把《つか》んだらどうなります」
「税金をまけてくれるかな」
「大木事務所ってのは、いい依頼人をたくさん持っています。でかい会社のね。そういう大きな法人は、何しろ年間に動かす金の額が大きいから、ほんのちょっとした手心だって、大変な金額になるでしょう」
「でも、そんな情実がきくんですか」
「交通事故に気をつけやう、と言うのは法律に違反しちゃいませんよ」
下町は戸締りをチェックし、うさぎ屋へ行く為に階段をおりた。
「税金に手心を加えるのも同じことだって言うんですか」
「いや、たとえば条文の解釈のしかたをほんの少し変えるとかでも、税金はうんと安くなるはずです」
「なある……。バレても操作ミスってわけですか」
「まあね」
「そりゃ、探偵社には儲かる仕事でしょうね」
「おかしなもんですよ」
「何が……」
下町は戸の外へ出ると、錠《じよう》をかけながら言った。八月のおわりにしてはひどく涼しい風が通りを吹き抜けて行く。気温は恐らく二十度そこそこ。
「その役人も自分の金は一銭も出さない。会社は税金が安くなってホクホク顔。探偵社もたんまり調査費をせしめて大よろこび。どこにも損をする奴がいないじゃないですか」
「そう言えばそうですね」
二人は肩をならべてうさぎ屋のほうへ歩きはじめた。
「いったい誰が損をするんだろう」
悠さんは首をひねる。
「結局国民でしょうな」
「でも、税金取られてうれしがってる国民なんて、会ったことないな。あいつは税務署から表彰された、なんてうしろ指さされちゃったりして」
それが悠さんの実感らしい。
「税金が本当に平等なら、そんな風に思う者もいないんでしょうがね」
「税金がなかったら、俺は銀座で呑めるな」
悠さんはちょっと威張って言い、
「でも、そうなったらみんな銀座へ行っちゃうか」
としょげて見せた。
うさぎ屋。
それは下町探偵局を出て、悠さんの家である下駄屋の前を通りすぎ、まっすぐ隅田川へ向かった通りを出たところの右角にある。大衆酒場だ。角が焼鳥のコーナーになっていて、外からでも焼鳥だけ買える。もっとも、焼鳥と言ったって、モツ焼きのことだ。
よく裏表かけ違えて、文字が逆になっていることの多い薄汚《うすよご》れた暖簾《のれん》をわけて入ると、入って右側が、焼鳥コーナーの前から突き当たりまで畳敷きの小間で、あとはカウンターだけ。そのカウンターも、まん中に店員のいる通路みたいのがあって、それを長い楕円形にとり囲んでいる。パチンコ屋で機械を取り払うと、そんな形ができあがる筈である。
顔馴染《かおなじみ》の常連たちに、やあ、やあ、と挨拶《あいさつ》しながら、二人はいつもの位置に腰をおろした。
黙っていても店員は焼酎を持って来る。常連になり甲斐《がい》があったというような顔で、悠さんは満足そうにコップの中の焼酎をみつめた。
「ビールだとグラスだけど、焼酎だとなぜかコップとなる。どうしてですかね」
「グラスで焼酎を呑んじゃサマにならない」
下町が笑った。
「ま、とにかく」
悠さんが言い、二人はお辞儀をするように頭をさげ、コップに唇《くち》を近づけた。
「どうでもいいけど、相変らずだなあ、俺たちは」
最初のひと口を呑んだあと、下町はしみじみとそう言った。
「うだつがあがらないということもあるけど、変りがないのは無事で生きてる証拠《しようこ》」
悠さんは調子よく言う。
「今日も命があったか、なんて状態で呑むよりはマシでしょう」
「毎日空襲があった頃は、焼酎もろくに呑めなかっただろうな」
「そう言えば、終戦記念日は一週間前だったっけ。ついうっかり過しちゃった。申しわけないな」
悠さんは本当にすまなそうな顔をした。
「あの頃は下駄屋もモテた。下駄だって貴重品だったから」
「悠さんの家は代々下駄屋……」
「そう。ずっとこの町に住んでる。これで案外不肖の倅《せがれ》じゃないんです。先祖代々こんな調子だから、ご先祖さまたちとチョボチョボ」
「結局、こういう暮らしが一番いいのかな」
「そうそう。儲からない仕事でも、何とか食って行ければそれが一番いいの。稼ぎすぎると国税庁の奴の尾行なんかたのまなきゃならないしね」
「そう言えば、この春ごろ、仕事で青山通りをタクシーに乗ってたら、デモ隊にぶつかって動けなくなっちゃったんだ。それで、車をとめてるデモ隊の旗を見たら、これがなんと国税庁の組合さ。あれは割り切れなかったね、なんとなく。昼間だから仕事を休んでデモしてるわけだし、春闘だから賃上げにきまってる。何だか車をとめて税金を上げられてるような気分だったな」
「そりゃいいや。へえ、国税庁の人もデモやるのか」
悠さんは意外そうだった。
「でもね、あんまり儲からない仕事なら、税金も少しでいいから、やり甲斐があるでしょう」
「妙な言い方だな」
下町は肉豆腐《にくどうふ》に箸《はし》をつけながら悠さんに言った。
「何かあるの……」
「それが大あり」
「早く言えばいいのに」
「言いにくくってね」
悠さんはそう言って、店員に焼酎のおかわりを頼んだ。
「笑わないでよ」
「笑いやしない」
「中学の後輩《こうはい》に当たるひとでね」
下町は目を剥《む》いた。
「ひとって、女性……」
「そう」
悠さんは照れかくしに顔をつるりと撫でた。中学の後輩で男なら、奴、という筈である。下町はさすがによく聞いていた。
「美人だね」
「三十四だから」
「まだまだ、って年じゃないの」
「それはそうだけど」
「で、その人がどうしたの」
「やだな、あたしの彼女じゃないよ」
「悠さんの彼女だなんて言ってないじゃないか」
「でもそう思われそうな気がして。厄介《やつかい》だな、女は」
「悠さんが一人で照れてるんだよ」
「まあいいや、どう思われたって」
「思っていないったら」
「少しは思ってよ。この大多喜悠吉にもまだいくらか青春が残ってるらしい、かなんか、友達甲斐に感じてくれたっていいじゃないの」
「じゃ感じるよ」
「言われてからじゃ遅いんだよ」
悠さんは不貞腐《ふてくさ》れたふりで注がれた二杯目をぐいとやる。気の合った呑み友達と、ごちゃごちゃ言いながら呑むのがうれしくって仕方ないのだ。
「で、その女性がどうしたの」
「旦那がいてね」
「人妻か」
「そう。がっかりした……」
「がっかりもしないさ。会ったこともないんだから」
「美人だよ」
「ほう」
「ほう、って、気のない言い方だなあ」
「どんなタイプの美人なの」
「そうね、たとえて言うなら梔子《くちなし》の花」
下町は置いたコップをまさぐりながら、うろ憶えの歌をくちずさんだ。
「梔子の花のぉ、花の香りがぁ……」
「よっ、待ってました」
「申しわけない、有名な歌手の前で」
悠さんの歌をよくこの店で聞かされるとなりの客が、それを小耳にはさんでケタケタと笑った。
「もっと歌ってよ。所長の歌は滅多《めつた》に聞けないもの」
下町は素直に続けた。
「旅路のはてまでついてくるぅ、梔子のぉ、白い花ぁ……」
悠さんがそっくり返って大声で歌った。
「お前のぉよおぉなあぁ、花ぁだあぁったぁ」
となりの客が拍手《はくしゆ》した。
「いつもの絶壁の母よりずっといいや」
悠さんは声をひそめて下町に言う。
「あの人、歌を知らないね。絶壁の母だってさ。絶壁の母ってえと、息子《むすこ》の頭のうしろがぺったんこだ」
下町はまた焼酎をひと口やり、
「梔子の花の君って言うと、どんな女性かな」
「綺麗《きれい》だよ。色が白くって、ちょっとぼってりしてて」
となりの客が悠さんごしに下町をのぞき込むようにして口をはさむ。
「便所の裏なんかによく咲いてる」
「うるさいよ、この人は」
「だって、梔子ってのは便所のそばに植えるもんだぜ。昔っからそうきまってる」
「へえ、どうして」
「悪い物を食べて当たったとき、梔子の葉っぱは薬になるんだ。解毒剤《げどくざい》だね」
「あ、そうなの。ちっとも知らなかった」
「そういうことだったら俺に訊いとくれ」
「そりゃそうだ。漢方薬屋のおやじさんだもの」
下町がふき出した。ハンカチを出して目の辺りを拭いている。
「で、その解毒剤の君がどうしたの」
「梔子」
悠さんはこわい顔で下町を睨んだ。
「いえね、そいでさ」
悠さんは下町に体を寄せて声をひそめる。漢方薬屋のおやじをしめ出す為だが、いくら酔っていてもこういう場合それ以上しつっこく話に割り込んで来ないところが、こうした店の客のいいところだ。ちゃんと分をわきまえている。
「そりゃいい人なんだ。ご亭主は絵描きさんでね。昔は絵の学校へ通ってた。でも、絵なんておいそれと売れないもんだし、ペンキ屋の手伝いみたいなことをして稼《かせ》いで、彼女も浅草の有名な料理屋で働いてたの」
「浅草の有名な料理屋って言うと」
「芳月亭《ほうげつてい》」
「へえ、あんなところに」
「そう。ところが、そのご亭主というか亭主《ていしゆ》野郎が、妙なことで総会屋みたいなのに首を突っ込んで、急に羽ぶりがよくなっちゃったらしいんですよ。そりゃ彼女はよく尽したんだけど、男は金を持っちゃうと浮気するね、俺はしないけど」
「金ないもの」
「あってもしない」
悠さんは断固として言った。
「もし女房が清子さんだったら俺は絶対にしない」
「清子さんて言うの……その梔子は」
「そう。そのくだらない亭主野郎はまるで清子さんのところへ帰って来なくなっちゃった」
悠さんは悲しそうな目で言った。
根が剽軽《ひようきん》な性格なのか、いつでもまず自分を笑う姿勢を崩したことのない悠さんだが、今夜ばかりはその清子という女性の夫を悪く言ってはばからなかった。
同時に、滅多に芯《しん》から酔うことのないのが、珍しく根もとからぐらぐらしていた。
「貧乏絵描きのペンキ屋が、急に成りあがっちまったんだ」
悠さんはカウンターに片肱ついて目を据えている。
「さっき、漢方薬屋のおやじはいいことを言いやがった。そう、梔子は便所のそばに植えてあるんだ。それだって、綺麗なものは綺麗なんだ。解毒剤だって言ってたろ。そうよ、暮らしの役に立つ花なんだ。ところがペンキ屋め、総会屋か何か知らねえが、あぶく銭を稼ぎやがって、急に紳士づらして銀座通いだ。そりゃ面白かろうよ、ねえ所長。所長だってさ、急に金ができてごらん。十年以上も乾きっぱなしのところへ水が入ったんだ、いきいきすらあ。遊びだって面白いだろうさ。あたしはね、遊んで悪いと言ってやしないよ。いかがわしかろうと何だろうと、男が自分で稼いだ金だ。ドブへ捨てるようなことをしたって文句を言う筋はないさ。でもさ、乾いた十何年を助け合ってしのいだ夫婦草《めおとぐさ》じゃないか。水が入ったら二人一緒にうるおえばいい。そうだろ。そうでしょう、ねえ」
下町はなだめるように悠さんの顔をのぞき込んだ。
「その通りさ。それが夫婦と言うもんだよ。で、その旦那はそうしなかったのか」
「しねえの。しやがらねえのよ。外で呑んだくれて、バンバン金つかって、女をこしらえて、肝心《かんじん》の清子さんは放ったらかしだ。これが見ていられるかい。清子さんはいまだに芳月亭《ほうげつてい》で、お盆もって廊下を行ったり来たりさ。帰るねぐらはあの男と所帯を持ったときのまんまの安アパートでね」
「ちょっとひどい話だな」
「ひどいよ。ひどすぎらあ。あんな奴だとは思わなかった。おまけに、自分は銀座の女と一緒にマンション暮らしをしてるくせに、清子さんの身もちに難癖つけて、離婚届にハンコを押せと来やがった」
「ちょっと待ってくれ」
下町は眉《まゆ》を寄せて悠さんの肩に手を置いた。
「俺も探偵稼業をしてるから、そういう話にはよくぶつかる。悠さんを疑うわけじゃないが、ちょっとはっきりさせて置きたいな」
「何だよ」
「そうこわい目で見ないでくれ。ただ、ちょっと気になるんだ」
悠さんは小さな丸椅子に坐り直した。
「何でも訊いて。嘘《うそ》はつかないから」
「今の悠さんの話、ちょっと旦那のほうが悪すぎる」
「悪いだろ。悪い奴なんだよ」
「いや、そうじゃないんだ。悪さが一方的すぎるんだよ。人間というのはね、そう徹底的に悪くなれるもんじゃない。まして夫婦、いや男女の仲ならば、どっちにもふんぎりの甘いところがあって、善悪五分五分か、ひどくても四分六ってところが相場だ。だが、その話だと清子さんが十良くて、旦那が十悪い、こんなのは滅多にないことだよ」
「じゃ、所長は清子さんにもいけないところがあったというの……」
「判らない。ただ、俺が不思議に感じたところを説明したんだ。と言うのも、こういう話は先にどっちから聞いた話かで、だいぶ違って来るものなんだよ。今の話は、ひょっとすると清子さんから出たんじゃないのかな」
「とんでもない」
悠さんは大きく右手を横に振った。
「清子さんは亭主が帰って来ないことをはずかしがって、朋輩《ほうばい》の人たちにも喋《しやべ》っちゃいないよ」
「じゃ、悠さんは誰に聞いたの」
「その朋輩さんの一人さ。松江ちゃんと言って、芳月亭で働いてる女の人だよ。見かねて俺に知らせてくれたんだ。俺、あの二人の仲人《なこうど》だもんね」
「え……悠さんが」
「そう。清子さんとその男は同い年。二人とも二十一で結婚したんだ。惚れ合ってアツアツだったけど、両方とも文《もん》なしだし、親たちも賛成しなかった。俺は昔、絵を描いてたの」
「そいつは初耳だな」
「初耳でも何でも、絵描きになりたかったんだよ」
悠さんは照れていた。
「清子さんも絵がうまくてね。区役所で絵の勉強会みたいのがあって、夜になると好きなのがみんな集まって来た。その中で、一番うまかったのがその亭主野郎」
「何て名前……」
「野崎、野崎正人《のざきまさと》。で、一番へただったけど、一番年上で、だから世話役なんかをやらされたのがあたし。清子さんと野崎が一緒になるについては、絵の仲間がみんなで応援したんだ。似合いのカップルって奴だったもんね。でも、二人の味方は俺たちだけ。だからあたしが仲人。ちゃんとした式場も借りられなかったし、衣裳《いしよう》も普段着《ふだんぎ》のちょっと小ざっぱりした奴だったけど、いい結婚式だった。まわりにいる奴が、みんな本当に心からおめでとうを言った結婚式なんて、あの結婚式くらいなもんさ。そう、そのあとで、俺はこのうさぎ屋へ来て呑んだんだよ。ほら、あそこら辺の椅子でね」
悠さんは古びて薄汚れた店内の一隅《いちぐう》を指さした。下町はその指さされたあたりに、意中の人を他の男にとられた悠さんが、しょんぼりコップ酒を呑んでいる姿を感じた。
「そうだったのか」
悠さんは、今下町が感じたとおりの姿勢で、チビリとひと口焼酎を呑んだ。
「何とかしてよ、頼むから」
悠さんは下町の顔を見ずに、カウンターのしみをみつめてつぶやいた。
「そうだなあ」
下町は途方に暮れたように天井《てんじよう》を見た。
「いろいろな考え方があるぜ」
悠さんはうつむいたまま、コクリと頷く。
「二人を元の鞘《さや》へおさめられればそれに越したことはないね」
「うん」
「でも、それが一番むずかしそうだ」
「どうして」
「男は別な世界を知ったんだ。総会屋だか何だか、そいつは調べるのは簡単だけど、とにかくアブク銭の味を知っちまってるから、よほどの手痛い目にあわなければ、とても元の場所へ引っ返してイチからやり直せるもんじゃない」
「そうだろうね」
「また、清子さんだけのことを考えるなら、案外スッパリ別れちゃったほうがしあわせになれるかも知れない」
悠さんは頷《うなず》かない。
「三十四とか言ったね。再婚のチャンスもある」
悠さんは突然カウンターにおでこを打ちつけるようにして、両手で頭をかかえた。
「どうすりゃいいんだろう。判らないよ、俺には」
下町は憐れむような目でそれをじっとみつめていた。
人の世の、愛と憎しみ、男と女の、いたわり合いと欺《だま》し合い。それが第三者の手でどうにかなるなら、苦労なんかありはしない。悠さんは、清いものを清いままとっておきたかったに違いないが、一度それにとりつかれたら、人生の苦悩そのものを直視することになるのだ。
うさぎ屋を出た下町は、酔った悠さんを連れて、国電のガードぞいに広い通りを突っ切った。いつもなら、涼を求めるアベックが、防潮堤《ぼうちようてい》ぞいに何組も歩いているのだが、涼しすぎて今夜は誰もいなかった。
「かなしいね、所長」
「うん」
「俺たちって、いくじなしなのかな」
「どうして……」
「他人のことには、何の役にも立たないじゃないか。いくらしてやりたくたって、ひびの入ったものは結局割れちまうんだものね」
「悠さんはいい人だよ」
「俺なんか駄目さ。そこへ行くと、所長はやっぱりえらいよ」
「冗談じゃない」
「えらいさ。いろんな連中の役に立ってる。人を助けたりするもの。下駄屋は人をはだしで歩かせないようにするだけ」
「そんな風に自分を見るもんじゃないよ。俺のところへ来る話は、どれもこれもみんな薄汚れたものばっかりだ。世の中の汚れで飯を食ってるのさ」
「男って、変な生き物だなあ」
「なんでそう思うの」
「男は女より強くなきゃいけない。たくましくて、女をかばってやるのが男だ。……みんなそう思い、そういう男になりたがるけれど、なかなかなれないであきらめちまう。ところが、たまたま強くなると、女をふしあわせにしちゃう。野崎だって弱いまんまなら、生涯《しようがい》清子さんと仲良く暮らしただろう。お互い当てにし合い、頼り合ってさ。野崎の奴、いったい何を見たんだろうか。清子さんがいらなくなるような景色が、この東京のどこかにあったんだろうか。判らないなあ」
「悠さん」
「え……」
「その夫婦のこと、俺にやらせてくれ」
「いいんだよ。だって、探偵の仕事じゃないし、俺も喋るだけ喋ったら気がすんだみたいだ。所詮《しよせん》他人のことだもんね。ただ、決心した」
「どう決心したの」
「どんなことがあっても清子さんの味方でいるって。さっき所長が言ったように、もしかすると清子さんのほうにも悪いところがあったのかも知れない。仮りにそうだったとしても、俺は清子さんの味方さ」
「それはいいことだ。そうしてやりなよ」
「うん。これからちょくちょく芳月亭をのぞくようにしよう」
「彼女のアパートって、どこなんだい」
「浅草六丁目」
「馬道《うまみち》だね」
「そう」
「番地は」
「忘れちゃった。行けば判るけど」
「あとで教えてくれないか」
「やるの……」
「うん。どうしたらいいのか皆目見当がつかないけれど、まあ探偵なりにやって見るさ。清子さんの身もちにご亭主が難癖をつけてると言ったね」
「うん」
「それからやって見よう。ご亭主のほうも洗って見る。離婚なんて、そう一方的にできるものじゃないさ」
「ありがとう」
「なに、俺はただ、悠さんの青春のかけらを見せてもらったような気がしてるんだ。悠さんは、梔子の花が好きだったんだろ」
「うん。はずかしながら、実は初恋」
「え……まさか」
「ほんとなの。失恋して、仲人やらされて、それであれ以来絵もやめちゃった」
「梔子は知らず、か」
下町は月のない空を見あげた。厚い雲が動いていた。
「あれ……」
悠さんは立ちどまった。
「どうした」
「清子さん、指輪をはめてたかな」
下町は、のん気なことを言っている、と、少しはぐらかされたように思った。
「青春か」
悠さんはまた歩きだした。
「青春なんて、ないと思ってたな」
「そうかね」
「これが青春の尻《し》っ尾《ぽ》か」
下町はウフフ……と笑った。
「そうだね。男はとんでもない年になっても、まだ尻っ尾をぶらさげて歩いてるのかも知れないな」
「俺、見合い結婚。言っちゃ悪いけど、当座は女手がないから、女中がわりみたいに思ってたよ」
「まさか」
「ほんと。でも、かみさんは別なんだね。かみさんイコール家庭さ。家庭イコール自分。でも、梔子の花は違うの。愛して恋して憧《あこが》れて、ごみがついたら息で吹いて払って、大事に大事にしときたい。貧乏世帯にブチ込んで、便所のそばに置きたくなんかない」
悠さんは大きく深呼吸し、低い声で歌いはじめた。
「いぃまでは指輪もぉ、まぁわるほどぉ……」
それでさっき、悠さんは清子が指輪をはめていたかどうか、思い出そうとしたらしい。下町は少し悠さんの歌を聞いていたが、すぐに自分も口ずさみはじめた。
「くちなしの花のぉ、花の香りがぁ……」
下町は去った妻のことを思い泛《うか》べた。去った妻には、梔子の花を連想させるイメージはなかった。季節外れの涼しさのせいもあったのだろうが、下町は無性に女の肌《はだ》が恋しくなった。
「おはよ」
となりの印刷屋の婆さんである。
「お早うございます」
北尾と正子が言った。
「きのうはどこかへいらしてたんですか」
正子が例によってお茶をいれながら訊いた。
「そう。成田へ行ってたの」
「お不動さん……」
「ばかね。ほかに何があるっていうのよ」
下町が前に坐った婆さんの顔をみつめて言う。
「淋《さび》しかったですよ。一日でも顔を見ないと」
「だから中年男はいやよ。口ばっかりうまくて」
「本当ですよ」
「どうでもいいけどね、所長。あんたちょっと気をつけてよ」
「え……何ですか」
「ゆうべよ。夜おそくに大きな声で歌なんか歌っちゃって」
「あ……」
下町は頭に手をやった。
「あらいやだ」
正子が下町をみつめる。
「それが、少しは聞ける歌ならいいんだけど、へたくそでさ。よくあんなでたらめな声が出るわね」
「すみません」
「悠さんとうさぎ屋へ行ったんでしょう」
婆さんが言うと、正子が即座に答えた。
「ええそうなんです。悠さんたら、あたしたちをはやばやと追い出しちゃって」
「これだからねえ。あたしがいないとすぐ羽根をのばして」
婆さんはまるで寄宿舎の舎監《しやかん》か何かのような顔で下町を睨んだ。
「で、どんな歌でした」
北尾が面白がっている。
「くちなしの花って歌、ある……」
「ああ、知ってます」
「それと、指輪がどうこうしたっていう奴」
「指輪……」
「そう。二曲まとめて歌うのよ」
下町が笑い出した。
「参ったな、これは。俺の歌はそんなにひどいかね」
「ひどいわよ」
「そうだろうな。あれはおんなじ歌の前のほうとうしろのほうの文句なんですよ。今では指輪もまわるほど、ってのが出だしで」
風間と元太郎が笑い出し、笑いすぎてヒイヒイ言っている。
「フレンチ・ドレッシングだな。上と下がわかれちゃってる。一遍よく掻きまわさなくっちゃ」
「あら、そうだったの。あたしはまた、二つの歌をくっつけてるのかと思った。道理でそれにしちゃうまくくっつくと思ってた」
「お婆ちゃんたら」
正子は下町を見て苦笑している。
「よし、悠さんのとこへ行って叱言《こごと》を言って来よう」
婆さんは勇んで立ちあがる。
「やめたほうがいいですよ」
「あら、どうして」
「きっと二日酔《ふつかよい》だから」
「そりゃ大変だわ。あの人が二日酔するようじゃ、相当呑んだのね」
「悠さん、珍しく酔っ払っちゃったんです」
「ますます行かなくてはね」
「およしなさいよ」
下町の制止も聞かばこそ、婆さんはガタガタと階段をおりて行った。
「かわいそうに」
岩瀬が新聞から顔をのぞかせて言う。
「二日酔のところへあの声でビシビシやられたら、たまったもんじゃない」
「彼女は二日酔を知らないんですよ」
風間が笑いながら言った。
「彼女……お前この頃少しおかしいぞ」
岩瀬が聞きとがめる。
「あの婆さんを彼女だなんて言うのはよせ」
「どうしてですか」
風間が口をとがらせた。
「まるで若いみたいだ」
「そうかなあ」
「あれはわが下町探偵局のシンボル。聖婆《せいばば》あだ」
「聖婆あなんて聞いたことがない」
「聖処女ってのがあるんだから、聖婆あがあってもいいだろう」
どうやらまたにぎやかに一日がはじまったようである。
下町は、そういうようにはじまることが多い最近のオフィスに、かなり満足していた。どことなく下町探偵局にも活気が出て来たように思えるのだ。
「風間。馬鹿を言ってないで出動しろ」
「馬鹿を言ってるのは岩さんですよ」
風間は口ごたえをしながらも席を立ち、
「ゲンちゃん、行こう」
と元太郎に声をかけると、さっと階段をおりて行く。
「行ってまいります」
元太郎はドアのところで一度気をつけの姿勢をとって言い、これまたよく軋《きし》む階段を、ほとんど音を立てずにおりて行った。
「どうだったの……」
岩瀬が新聞に目を通しながら言った。
「何が」
「悠さん。何か仕事がらみだったんじゃないかと思って」
下町は舌をまいた。しかし空とぼけていた。
「別に……」
「へえ、そうかな」
それっきりだ。岩瀬はきのうの悠さんの態度から、敏感に何かを感じ取っているらしいが、下町は梔子の花の件については、自分が動くことにきめていた。
どうせ商売になりはしない。しかし、悠さんは今や下町にとって、単なる呑《のみ》友達以上の親友となっているのだった。何とかして悠さんをよろこばせてやりたい。下町は祈るようにそう思った。
「ここんとこ、所長はよく出かけるじゃないの」
印刷屋の婆さんが茂木正子に言った。
「そんなみたいですね」
正子は役目柄その質問に正確に答えまいとしているのだが、嘘《うそ》がへたというか要領《ようりよう》が悪いというか、最初から逃げをうっているのがはっきり判ってしまう言い方をしている。
「何よ。はぐらかそうったって、そうは行かないんだからね」
婆さんはきつい声で言い、急に優しい笑い顔になった。
「大仕事みたいね」
「え……ええ」
「言いなさいよ、正子さん」
「でも」
「世間には内緒にしとくからさ」
するとノートに何かを書き写していた風間健一が、顔をあげて笑った。
「触れて歩かれちゃかなわないものな」
婆さんが睨みつける。
「だから内緒にしとくって言ってるじゃないの」
時間は午前の十時四十分。下町探偵局にいるのはその三人だけである。
「本当はあたしもよく知らないんですよ」
正子は閉口したように言った。婆さんの声が高くなる。
「あんたが知らないわけないでしょう」
「だって本当なんですもの」
「本当に知らないの……」
「ええ」
すると風間が婆さんの口調を真似た。
「本当に本当……」
「やな子だよ、まったく」
婆さんは風間のほうへ右手を振って見せ、苦笑した。
「でも知らないんじゃ仕様がないわね」
「すみません」
「あんたが詫びることはないじゃない。それにしても、ことしの夏は雨ばっかりだったわねえ」
「ええ」
正子はほっとしたように外を見た。
「もう九月」
風間がボールペンで書きながら歌った。
「いまわぁ、もう秋……」
「そう、秋だわ」
婆さんの声がほんのちょっぴり、しんみりする。
「まだ松茸《まつたけ》は出ていないでしょうね」
正子が言うと、折角しんみりした婆さんの声がまたきつくなった。
「何よ。あんなもの。ただのキノコじゃない」
「そう。一本何千円というだけ」
と風間。
「ばかげてるわ、あんなの食べる奴は。今どき松茸なんて食べるのは悪人にきまってるのよ」
風間もそれには同感らしく、黙っておとなしくペンを動かしていた。
「でもさ、桃からはじまって、葡萄《ぶどう》に栗に林檎《りんご》に蜜柑《みかん》……」
「まだたくさんありますわね、秋の味覚は。でも、みんな高くて」
「ほんと。自然にできる物がなぜこう不自然な値段になっちゃったんだろう。まったく嫌な世の中だよ。こんなことなら、昭和二十二年の五月に本物の海苔《のり》巻を、おなかいっぱい食べた時に死んじゃっとけばよかった」
風間がはじけたように笑う。
「何、それは」
「本当に、これでもう死んでも本望だと思っちゃったのよ、あの時は」
「へえ……海苔巻を食べてですか」
「そうよ。なんにもない時代だったものね。今考えれば、海苔巻なんて珍しくもないけど、その当時はまるで宝物よ」
「なるほどね」
風間はクスクスと笑い残しながら頷いて見せた。
そのとき、階下で戸のあく音がして、下駄の音と一緒に悠さんの鼻歌が聞こえはじめた。
「また梔子《くちなし》の花だぜ。ここらじゃ変な具合に歌がはやるんだな」
風間が言う。
「ここらのこと悪く言うことはないでしょ。自分だってここにいるんだから。はやり方がズレてるのは悠さんだけよ」
「え、あたしがズレてるの」
悠さんの五分刈り頭がニューッと現われ、丸っこい顔と体がそれについてオフィスへ入って来た。
「あんたが変な歌をうたうから」
「ああ、梔子の花のこと。そう言えば所長がまたいないね」
「やだ、悠さんちょっと待ちなさいよ。どうして所長と梔子の花がつながっちゃうの」
「だって所長がいない……」
言いかけて悠さんは口をつぐんだ。
「いけね」
「さあ聞いちゃったわよ。どうもおかしいと思ってたのよ、こないだっからね。所長も何かってえと今の歌をうたってるでしょ。ひと頃下火だったのがまたはやりはじめたのかなと思ってたんだけど。そう、所長の外歩きに関係あるのね」
悠さんはとぼけた。
「そう言えば、所長が歌ってるのを聞いて、お婆ちゃんは二曲ごちゃまぜだと思ったんだってね。指輪の歌と梔子の歌……」
「誤魔化《ごまか》そうたってそうは問屋が卸さないわよ」
婆さんは腕《うで》まくりせんばかりの勢いである。
「参ったな、こりゃ。出直して来ようか」
「だめ、帰っちゃ。ここへお坐んなさい」
風間がケタケタと笑う。
「悠さん遂に逮捕さるってとこだな」
「まったくの話が、あたしゃ情ないよ」
悠さんは弱々、しく言ったが、案外うれしそうでもあった。
「で、何なの」
風間が呆《あき》れたように言う。
「ひまだなあ、まったく」
席を立った。封書を一通手にしている。
「俺、ポストまで」
正子にそう言ってオフィスを出て行った。
「さあうるさいのはいなくなったわ。とっくり聞かせてもらおうじゃないの」
婆さんは悠さんのほうに向き直った。
「むかしむかし……」
悠さんが喋りはじめる。
「ある所にお爺さんとお婆さんがいました」
婆さんは半信半疑の顔で聞いている。
「それで……」
「お爺さんは川へ洗濯に行かされましたけれど、お婆さんは二階で他人の噂《うわさ》ばなし……」
「こら。ひどいよ」
「今言うって。そうせかしちゃうまく喋れないもの。準備運動をしてからでなくちゃ」
「そんなふざけてる場合じゃないでしょ」
「それが割合とふざけてる」
「もう悠さんたら。気をもたせるんじゃありません」
「判りましたよ。言えばいいんでしょ、言えば」
「そうよ」
「茂木さん、ちゃんと聞いといてね。あとで所長に自白を強要されたんだって証明してくれなきゃ困っちゃう」
「あたしもうかがいたいわ」
「やれやれ、二対一か」
悠さんは頭を掻いた。
「あたしが頼んだことがあって、それで所長はこまごまと働いてくれてるんです」
「何だ、依頼人は悠さんなの」
「そう。でも、あたしは貧乏だからろくにお金が払えないでしょ、だから所長が自分でやってくれてるわけ」
「くだらない」
婆さんは鼻に皺《しわ》を寄せた。
「がっかりだわ」
「どうしてさ」
「悠さんの持ち込んだ事件じゃ面白いわけがないもの。あたしは所長がこのごろいやに張り切ってるみたいなんで、何か余程の大事件でも舞い込んだのかと思ったのよ」
婆さんがそう言うと、正子も同意した。
「そうなんです。何だか近頃の所長って活気が出たみたいだし、顔の艶《つや》までいいみたいなんですもの」
「あ……」
悠さんは大袈裟《おおげさ》に驚いて見せた。
「こいつは梔子の花かな」
「梔子……」
婆さんが鋭い目で悠さんを睨んだ。
「そう言えば、梔子の花の歌ばっかりだわね、二人とも」
「睨まないでよ。その目で睨まれると、どうしても喋っちゃいたくなる」
「それなら喋りなさいよ」
「でも女がからむ話だからな。それもちょいとした美人が」
「悠さんね、そこまで言ったらもう途中《とちゆう》でやめられないのよ、判ってるの……。ちらりとでも女をのぞかせてごらん。あたしゃもう黙っちゃいられないね」
婆さんはお神輿《みこし》でもかつぎそうな勢いであった。
「判ったよ。言うから喋らせてよ」
「ほらごらん、自分だって喋りたくて仕方ないくせに」
悠さんは急に真面目腐《まじめくさ》った顔になり、声をひそめた。
「ほんとなら喋ったりしないんだけど、こいつはめでたいことなんでね」
「めでたいって、まさか」
「そうなの、所長がおめでたいの」
「これができたって言うの……」
婆さんは右手の小指を突き出した。
「ひょんなことでね。最初はそんなんじゃなかった。知り合いに可哀《かわい》そうな女が一人いてね。亭主がよくないんだよ。それで別れるなら別れるで、ちゃんとしてやろうと思って所長に相談を持ちかけたわけさ。で、所長がいろいろと調べたりしてくれてるうちに……」
と、そこで悠さんの声が一段と高くなる。
「惚《ほ》れちゃったみたいなんだな」
「だってご亭主がいる人なんでしょう」
婆さんは心配顔だ。
「そう。でも悪い亭主。別れたほうがいいの」
悠さんはニコニコしている。
「どこをどう突ついても悪い亭主なんだ。もとはと言えば好き合って一緒になったんだけど、散々女房に貧乏さしといて、羽振りがよくなったら急にお見限りの、女とデキの、マンションで同棲の、家には一文も入れないわ……」
「よくある話よ」
婆さんは動じない。
「その亭主が羽振りがよくなったのは、あまりいいことでよくなったんじゃないの。調べて行くと、タチの悪い総会屋とグルになって何かゴソゴソやってる感じなんだ」
「可哀そうね、その奥さん」
正子が言う。
「いい女なんだよ。気だてはいいし、しっかり者の働き者の、その上|綺麗好《きれいず》きで美人と来てる」
「悠さん、それで梔子の花なの……」
「そう。梔子の花みたいな人」
婆さんはじっと考え込んだ。正子も悠さんも、その姿を見守って黙っていた。
「いい人みたいね」
「そりゃ太鼓判《たいこばん》を押す」
「年は幾つ……」
「三十四」
「所長とならいい年恰好《としかつこう》じゃないの」
「ピッタリさ」
「で、その二人、別れそうなのね」
「まず間違いない。彼女のほうはそんな人柄だから、亭主がついて来いと言えばどこまでだってついて行くだろうけど、肝心の亭主野郎がね」
「駄目なわけ……」
「急に札束をポケットに入れられて、もうどうにもしようがないという有様らしいの。トチ狂っちゃって、今の女と別れる気なんかさらさらないみたいだって。派手《はで》な女でね、今の奴は。パーッとしてて、何かこう、カーネーションの花束みたい。いずれ金がなくなれば捨てられるのがオチだのにさ」
「ふうん」
婆さんは鼻を鳴らした。
「ねえあんた、どう思う……」
正子に訊く。
「所長だって、いつまでも独身を続けるよりは……ねえ」
正子は自信なさそうに悠さんに相槌《あいづち》を求めた。
「こっちは大賛成」
婆さんは乗って来ない。
「いくらいい人だって言われたって、この目でたしかめるまではね」
どうやら婆さんは梔子の花に会いに行く気になったらしい。
10
台東《たいとう》公会堂の裏。その辺りは浅草一丁目で、その昔はたしか浅草《あさくさ》雷《かみなり》門《もん》の二丁目。今は浅草と雷門が吾妻《あずま》橋の通りで二つに分かれてしまったらしい。北仲町、新畑町、田原町など、昔なつかしい町名はとうに無慈悲《むじひ》なお役人の手で抹殺《まつさつ》されてしまっている。
その裏通りの小さな甘味喫茶……早い話がおしるこ屋で、問題の梔子の花が下町誠一とテーブルに向き合っている。
「お飲みになるんでしょう」
梔子の清子、じゃない、野崎清子がにっこりほほえんで下町に言った。二人の前にはもう漆塗《うるしぬ》りの小さなお椀《わん》が出ている。蓋《ふた》をあけると黒っぽいおつゆの中に赤っぽい小豆の頭がチョロッとのぞいていて、焦《こ》げ目《め》のついた小さな四角い餅が、まるで世間知らずの若旦那みたいな感じで、妙につっぱらがって沈んでいるのだ。
「え……ええ、ちょっとはね」
「ごめんなさい、おしるこなんかで」
下町はうろたえ気味に腕時計を見た。
「いえ、まだこんな時間ですし」
「どうぞ」
清子に言われて下町は割箸を取る。無骨な野郎どもなんかハナっから来るわけはないときめ込んでいるような、いとも可愛らしい短い割箸である。
清子が先にお椀を持ちあげ、口もとへ運んでからふと目をあげ、下町と目が合うとニコッと目尻で笑う。これが媚《こび》ならいやらしいが、さあ食べましょうよ、と言うような何とも気さくで清潔な笑い方なんだから、下町好みと言うか悠さん好みと言うか、とにかく惚れたって仕様がなかろう。
髪はひっつめて、うしろにやや大きめの髱《たぼ》にしている。抜けるようにとは行かないが色白で、鼻も小ぶりなら口もと尋常でどこからどこまで華奢《きやしや》な造りだ。それでいて、キリキリシャンとした気丈な気配があり、衆に混って決して目立つというタイプではないが、畳と障子の部屋へ坐らせたら、ピカッと光ること請合いというお買得美人だ。
しるこを食べおわり、お茶を飲みおわると、清子はおもむろに坐り直して下町に頭をさげた。
「いろいろとご面倒をおかけして、本当に申しわけございません」
「いやなに」
下町は少し赫《あか》くなったようだ。
「とんだお節介で、恐縮なのはこっちのほうです」
「ほんとに大多喜さんはよくしてくださるんですけど」
悠さんが余計なことを言ったばっかりに、あなたにご迷惑をおかけしてという意味なのだ。下町は心の中で、悠さんが今の科白《せりふ》を聞いたら喧嘩になりかねないぞ、と思った。
「彼とは親友でして」
下町はそばにいもしない悠さんを意識して、少しでも悠さんをいい役につけようとしていた。
「お二人の仲人をしたんだそうですね」
「ええ……随分昔のことになってしまいましたわ」
清子はそう言って遠くを見る目になった。それがまた、下町の同情心を燃えたたせる。
「判らないもんですねえ」
下町はついそうつぶやいた。
「え……」
そこだけは大きな黒い瞳が下町に向けられる。
「いえ、その……」
下町はまたうろたえる。自分でもなぜそんなにドギマギしなくてはいけないかと、癪《しやく》にさわるのだがどうしようもない。
「男と女、ということですよ」
「ああ」
清子は頷《うなず》いたが、目に哀《かな》しげな色を泛《うか》ばせている。下町は、しまった、と思ったが、口が勝手に余分なことを喋《しやべ》ってしまう。
「悠さん……いや、大多喜さんは、あなたがたの結婚式のことを話してくれました。あんないい結婚式はなかった、って」
「まあ、そうですの」
「ええ、集まった人が、みんな心の底からおめでとうと言っていたのは、あの結婚式だけだって」
清子は目をしばたたいてうつむく。
「皆さんにそれほど祝っていただいたのに、あたしっていくじなしだもんだから」
声がくぐもっている。
「人生……人生なんですよ」
下町は我ながら、判ったようなことを言うな、と思った。
「で、今までご報告した通りのことなので、調査マンとしてはこれで仕事を打切らせていただくことになるのですが」
「本当にもう、見苦しいことばかりをお見せしました」
清子はうつむいたまま、また叮嚀《ていねい》に頭をさげた。
「でも、あたしにとっては大変に参考になりました。できれば何も見ずに行きたいと思わないでもありませんでしたが、それほどのことになっているのではもう致しかたございませんわね。やはり知ってよかったと思います」
「本当にそう思っていただけますか。実は調べながらも、こんなことをして、かえってあなたの為によくないのではないかと不安だったのです」
「いえ、そんなことはございませんわ。本当によかったと思っているんです」
「それをうかがって安心しました」
「それにしても、探偵局の所長さんご自身がわざわざお調べくださるなんて……大多喜さんにもいずれお礼にうかがうつもりだとお伝えくださいませんか」
「はい、それはもう」
「で、料金のことなどもそのときに」
「ちょ、ちょっと待ってください」
下町はのけぞらんばかりに驚いて大きく手を横に振った。
「たしかにわたしは下町探偵局というのをやっておりますが、今度のことは仕事でやったわけではないんです。悠さんの……大多喜さんの頼みで、あまり彼が心配してるものですから、ついその……手を出してしまったというようなわけでしてね。料金など、とんでもないことです」
「それは本当に感謝しておりますけれど、とにかく、一度大多喜さんにお目にかかった上で……」
清子は下町がうろたえている内に伝票を取り、その手を膝《ひざ》の上へ置いてニッコリした。
「あたし、そんなに不幸じゃありません。だって、芳月亭のおかあさんをはじめ、松江さんや、それに大多喜さん、下町さんなど、本当によくしてくださる方ばかりに囲まれて……言えば愚痴になってしまいますけれど、これであの人さえ正気でいてくれたら、いつまで貧乏していてもかまいはしないんですのに」
芳月亭へ行く時間が迫っているのだ。清子は下町との話をその辺で切りあげなければならないようであった。
「調べたわたしが言うんだからたしかです。あなたに落度はありませんよ。あなたのような方は今にきっと、もっともっとしあわせになるでしょう。元気で頑張ってください」
「はい。有難うございます。ご親切に調べていただいたこともですが、そうおっしゃってくださるのが、今のあたしには一番うれしいんです。世の中が汚《きたな》く見えたら、人間はおしまいですものね」
とたんに下町の頭に、あの梔子の花のメロデーが湧《わ》きあがったようであった。
11
伝法院《でんぽういん》の前へ出て芳月亭へ行く清子を見送ったあと、下町はぼんやりと右へ歩き出した。うれしいのだか淋《さび》しいのだか、よく判らない心境であった。
状況はたしかに悠さんの言う通りで、清子の夫の野崎正人は、日本橋にオフィスを持つ志村重五郎という大物の総会屋にとり入って、高嶺《たかね》という四十男と二人で、高嶺経済研究所とか言うちっぽけな会社をやっていたのだ。
高嶺経済研究所は典型的な総会屋で、志村重五郎は乾分《こぶん》にそのテの小さな会社をどしどし作らせているようだった。要するに志村は企業から自分一人でせしめるのではなく、乾分に当たる連中を蠅《はえ》のようにワッとたからせて、そのほうからも上納金めいた金を吸いあげているのだった。
よくよく調べると、どうも高嶺と野崎は、その志村重五郎を裏切っている節があるのだ。上へ納めるべきものを納めないで、猫《ねこ》ババをきめ込んでいるらしい。いや、ひょっとするとそれは志村の線から外れた、高嶺や野崎独自の吸いあげ先なのかも知れないが、いずれにせよ志村重五郎がいつまでも黙認している筈はなかろう。
下町の目からは、野崎がもうまるでやけくそになっているとしか思えない。志村のような恐《おそ》ろしいボスに楯《たて》つくばかりか、その命がけの金を、実になんともばかばかしく浪費しているのだ。
金の行先は女。
悠さんがカーネーションと言ったのは、多分に悠さんがカーネーションに対して偏見を抱いているからなのだろうが、とにかくパッと華麗《かれい》で、衆に混って一番先に目立つと言ったタイプの女なのである。
たしかに美人は美人だ。今も銀座のクラブで働いている。すまいは飯倉《いいぐら》で、すてきに豪華なマンションである。車は真っ赤なフェラーリと来ては、下町などには最も縁遠い種族だが、元ペンキ屋の、なりそこないの絵描きなら、一遍に目がくらんでしまうのも無理はないようだ。その女と同棲している。
本当に妻の清子には一円だって送ってやったことはないらしい。
「ああいう女に汚れた金をやれるか」
野崎が仲間の一人にそう言ったということも下町は聞き出している。たしかにその通りで、清子のような女には、汚れた金など渡してもらいたくないが、さりとて長年の貧乏ぐらしの末につかんだあぶく銭なら、それこそ半衿《はんえり》の一本も買ってやったって罰《ばち》は当たらなかろうにと腹も立つ。
悠さんが先まわりして下町に清子を引き合わせ、一度言いにくい中間報告をしてからというもの、何度文書にして送ればそれでいいのだと自分に言い聞かせても、つい報告にかこつけて会いに行ってしまう。報告するたび清子を悲しませているわけだが、清子もしまいには、それで自分の気持がはっきりできるのだからと、次に会う日を尋《たず》ねたりするようになったのだ。
が、それも今日でおわった。
「まったく、何ていい女が生きてるんだ」
下町は口の中でそうぼやきながら仲見世《なかみせ》を横切り、松屋のほうへ歩いて行く。
地味で控《ひか》え目《め》で、おとなしくて優しくて、しっかりしていて利口すぎず、清潔でわけ知りで、おまけによく見れば大美人と来ている。これはもう、二日酔よりも辛いことだ。そういう女が目の前にいて、自分が独身で、相手も独身になりかけていて、それでいてご縁がないとは……。
「あれ」
下町は急に立ちどまって目を剥いた。自分はどこへ行こうとしていたのか、一瞬《いつしゆん》判らなくなったからだ。
「あ……そうか」
舌打ちをする。吾妻橋《あづまばし》を渡って坂をおりると吾妻橋一丁目。そこから24番の電車に乗れば東両国緑町でオフィスへ帰れると、頭の中の奥のほうのページに印刷された古い古い地図を頼りに歩いてしまっていたのだ。
が、今ははや、都電のレールもなければ、安全地帯もありはしない。したがって、吾妻橋を渡ったところでくたびれ儲《もう》けということになる。
「畜生」
下町は肩を落した。梔子の花の香りに眩惑《げんわく》されて、昔と今の交通図さえこんがらがってしまったらしい。
気をとり直してバスの停留所へ行こうとしたが、何かしら浅草から離れがたく、つい予定通り隅田川のほうへ歩いて行き、車の騒音を背にじっと汚れた川面《かわも》を眺めた。
まるで初恋だな、これじゃ。
煙草《たばこ》を咥《くわ》えて火をつけながら下町はそう思った。
そうか、これは浅草という町のせいなんだな……。下町は最初の煙を吐き出しながらそう思った。
野崎清子はまさに浅草の……いや東京の下町のなのであった。
「同じ下町なのに」
下町はそうぼやいた。下町誠一は本来シモマチ・セイイチと読むのだが、両国にオフィスを持ってから、誰もシモマチとは言わず、シタマチで通ってしまっている。したがって、下町探偵局はシモマチ探偵局ではなく、シタマチ探偵局が正しい。
清子は古きよき時代の下町女性の典型みたいな存在だが、それでいて下町とは全然関係ない。下町女なら下町の女になったってよさそうなのに……というのが、今の下町のボヤキの理由なのである。
「ややこしいっちゃありゃしねえ」
下町はそう言って煙草を道に落し、爪先で踏み消した。下町の空は秋晴れであった。
12
「ただいま」
下町は木の階段をあがり、オフィスのドアをあけながら言った。言ってからひょいと顔をあげると、職員全員に印刷屋の婆さんと下駄屋の悠さんがずらりと顔を揃《そろ》えている。
「おや、お揃いで」
別にそう珍しいことでもないので、下町はそのまま婆さんのうしろを通って自分のデスクについた。煙草を切らしたので、ポケットから空の袋を出して右手で握りつぶすと足もとの屑籠《くずかご》へポイ。買い置きがあるので上から二番目の抽斗《ひきだし》をあけ、ハイライトをとり出して抽斗をしめ、封を切りながら無意識に鼻歌をうたった。勿論、くちなしの、花のぉ……である。
気が付くと、みんな黙りこくって下町をみつめている。下町は一人また一人と左から順にその顔を眺めて行きながら、ハイライトを抜きとり、ゆっくり口に咥え、一番最後に右どなりの茂木正子の顔を見てから、咥えたばかりのハイライトを左手の指にはさんで取った。鼻うたは尻すぼまりに消えている。
「何だよ、悠さん」
ちょっと憤《おこ》ったように言う。直感したのだ。悠さんは、エヘヘ……と笑う。
「あ、やっぱり」
下町はあらためて素早く全員を見た。
「そうじゃないんですよ」
正子が下町の憤ったような様子に、少しあわてて言った。
「何がそうじゃないんだ」
「みんなよろこんでいるんですよ」
下町は舌打ちをする。
「何がよろこんでるだ」
つぶやくように言い、急に声を高くする。
「悠さん、そりゃないぜ」
「まあまあ」
悠さんは両手でおさえるようにして言う。
「今の歌のことから、お婆ちゃんにきつい取調べを受けちゃってね。つい白状に及んじゃったってわけなの。ね、こういうことはいずれバレるんだからさ、あとで水臭いだなんて言われるよりいいじゃないの」
「ひどいよ」
「別にひどくない」
婆さんはきつい顔で言った。
「何よ、コソコソと。所長らしくないじゃないの」
「コソコソしてるわけじゃない」
「してる。いい女ができたらいい女ができたって、万歳してればいいじゃないの」
「いい女ったって……そんなんじゃないんだってば」
たちまち下町は防戦一方になる。
「なくない」
婆さんは宣告するように言った。
「でも早まっちゃだめよ」
「何が早まるの……冗談《じようだん》じゃないよ」
下町は岩瀬を見た。
「岩さん、なんとかしてくれよ」
「さあね」
岩瀬はニヤニヤしている。
「仕事なら命令一下飛び出して行くけど、そういう話じゃなあ」
「薄情なこと言うなよ。居もしない彼女のことで冷やかされるのはご免だよ」
「居るか居ないか、俺は聞いてない」
岩瀬はうろたえる下町を突き放してたのしんでいるようだ。
「ちぇっ、孤立無援《こりつむえん》か」
下町は、よくうろたえる日だとくやしがりながら言った。
「だいたい悠さんがそんなことをみんなにバラしていい立場かよ」
悠さんは相変らずとぼけて、エヘヘ……と笑っている。
「梔子の花は所長にピッタリですよ」
「裏切者」
下町は半分正気で言い、すぐに大人げないと気付いた。
「野崎清子、三十四歳、住所は西浅草二丁目」
「昔の田島町《たじまちよう》あたりだわね」
「そう。現在芳月亭勤務。夫、野崎正人、同じく三十四歳。現在高嶺経済研究所勤務。不和につき夫正人の素行調査。本日調査完了。以上だ、何か文句あるかい」
「それでさ」
婆さんが体を乗り出して来た。
「結局ご亭主と別れることになったの……」
「そこまでは調査マンの関知するところじゃありませんね。お仲人の大多喜悠吉さんに訊いてください」
下町はふてくされたように言い、煙草に火をつけた。
「たしかに野崎清子という人はいい人だよ。でも、わたしには今日で会うこともない人ですよ。調査の報告は略式ですがすべて口頭でしましたからね。そうそう悠さん、あとでお礼に行くって言ってたよ」
「これでおわらせやしないですよ」
悠さんは、常になくちょっと凄味《すごみ》のある笑い方をした。
「こう見えても仲人ですからね。彼女をしあわせにしてやらなくちゃ」
「悠さん、いいかげんにしてよ。梔子の花は悠さんの初恋の人じゃないか」
「あら」
婆さんが驚いて悠さんを見た。
「本当……」
「そうですよ」
下町はここぞとばかりにまくしたてる。
「初恋の人がその野崎正人という男と結婚しちゃったんです。今から十二年前にね。ところがその夫婦がうまく行かなくなっちゃったんで、悠さんが気を揉《も》んで俺になんとかしろと頼んで来たんですよ。だから俺は調査をして、旦那の行状を洗いざらい清子さんに報告して……たしかに旦那のほうのやり方は理不尽《りふじん》の一語でね。だから俺もあれは別れたほうがいいとは思うけど、あとは悠さんが相談に乗ってやるべきで、こっちはただの探偵なんですからね。そうだろう、悠さん」
ところが悠さんはびくともしない。
「問題はもうそこを通りすぎちゃってるの。たしかに所長に頼んだのはわたしですけどね。清子ちゃんはもう別れるより仕方がないとあきらめちゃってるらしいし、その上所長と会うのを楽しみにしてるってんだから」
下町はギョッとしたように悠さんを見た。
「ほんとですよ。所長は片想いみたいに考えてるかも知れないけどさ。だからここで二人がもう会わないなんてことにはさせらんないの。仲人のやり直しをしなきゃ」
「会うのを楽しみにしてる……」
下町は疑わしそうに言った。
「そう。芳月亭の松江ちゃんが証言してるよ」
悠さんは自信たっぷりであった。
13
婆さんが、エヘン、と咳払《せきばら》いをした。
「所長がその梔子を好いてるのは判ってるわ。態度に出てるものね。あたしはもうちょっとしっかりしてる男かと思ったけど、全然ね。まったく頼りないくらい純情なんだから。ソワソワしちゃってさ。だから何かあるなって感じてたのよ。でも悠さんもよくない」
「あれ……俺におはちがまわるの……」
「そうよ、きまってるじゃないの。男のくせに所長の大事なことをペラペラ喋っちゃって」
「冗、冗談でしょう」
「冗談じゃない」
ないっ、と睨《にら》みつける。悠さんのあるかないかの短かい首が肩の間へのめり込んだようだ。
「男はもっと口が堅《かた》くなければ」
「自分で白状させたくせに」
「二人とも、もっとしっかりしなさい」
「すみません」
悠さんは簡単にあやまる。
「とにかくあたしがその清子さんという人を見て来ます。話はそれから」
「お願いします」
悠さんにあっさりそう言われて下町がまたうろたえる。
「待ってくれよ。お願いしますって言ったって……」
言葉を失って目をしばたたいた。
「所長ももうジタバタしないの」
悠さんが逆に下町をたしなめている。
「所長は独身でしょ」
「そりゃまあ」
「いつまでも独りでいる気じゃないわけでしょ」
「まあね」
「でも今まで適当な人がいなかったんでしょ」
「うん」
「で、今は清子ちゃんに会うとソワソワしちゃうんでしょ」
「…………」
答えようがないわけだ。悠さんはしてやったりという顔で婆さんを見た。鮮やかなタッグ・マッチ。
「あたしは何も先走ったお節介《せつかい》をしようというんじゃないのよ。先方さんだってまだご夫婦なんだし、そりゃ事情が事情だから別れることにはなりそうだけど、そうならないことだってあるわよ。だから所長がもう仕事の縁が切れたからこれでおしまいだって言うのは正しいのよ。それでいいの。でも折角所長が気に入った女の人なんだから、第三者のあたしなんかが、はっきりするまでそれとなくつないでたっていいじゃないの。それまで文句を言う必要はないでしょう。それに、嘘か本当か知らないけど、その清子さんも所長のことを憎《にく》からず思ってるって……。それならなおあたしなんかの出番だわよ。男の所長が会わないつもりでいたって、女の清子さんのほうが会いたがるかも知れない。そうでしょう。そうすれば所長だってよろこんで会いに行っちゃうじゃないの。……まあそれもいいわ。いいけど、そのあとであちらが元の鞘《さや》におさまるなんてことになったらどうなるの。あたし見ちゃいらんないわよ。ねえみんな、そうでしょう。失恋した所長の顔なんて見たくないわよね」
「そうですとも」
北尾が頷《うなず》いた。
「奥さんになってくれるといいんだがなあ。大多喜さんの話を聞いただけでも、とてもよさそうな人だし」
「そりゃもう絶対」
悠さんは太鼓判《たいこばん》をおした。
「清子ちゃんが所長の奥さんになれば、下町探偵局は万々歳」
「何が万々歳だ」
下町はげんなりしている。
「話をすぐそっちのほうへ持ってくからだめなのよ」
婆さんがたしなめた。
「あたしはね、所長が傷《きず》つかないように考えてるの。だめよ、すぐお祭りさわぎにしちゃうんだから」
下町は椅子《いす》を鳴らして立ちあがった。
「判りましたよ」
みんな呆気《あつけ》にとられて下町を見ている。
「そう、たしかに俺は野崎清子って人が好きになってる。でもね、こういう感情は当人一人のものにしといてもらいたいですね。いいですか、お婆ちゃん。失恋しようが傷つこうが、そういうのも人生のたのしみのひとつでしょう。過保護児童じゃあるまいし、先手先手とやられたんじゃ、やっぱりさんまは目黒に限るてなことになっちゃうんですよ。そりゃ、みんなが俺のことを心配してくれることはよく判る。よく判りますよ。でも、一人にしといて欲しいときもある。仕事の縁はこれで切れたけど、人間の縁が切れてなければまたどこかで会うかも知れない。そこからまた新しく物語がはじまるんならそれで結構。おわりっぱなしでも仕方がない……それが人生というもんでしょう。俺、床屋《とこや》へ行って来る」
下町はそういうと、コトンコトンと階段をおりて行った。
外はたしかに秋の風。
下町は言いすぎたかな、と反省している。しかし、自分と他人の見境いもつかないくらい、ひっからまってひとかたまりに生きて行く、この町の重さにはじめて気が付いたようなのだ。
「人間って、重てえなあ」
歩きながらそうつぶやく。他人とどうしてもひとつにはなり切れない。さりとて一人きりでもいられない。
下町の心には、子供のことで別れた妻の存在がまだ重くわだかまっていた。子供の命を奪《うば》った奴に対する憎しみも消えてはいない。だがそれを忘れよう忘れ去ろうと生きて来た。生きていれば忘れられるはずはないのに、生きてそいつを忘れようとしている。
「よう」
下町は行きつけの床屋の前へ来た。古いホテルのコンクリートの壁に四角い穴があいていて、その中から白い上っ張りを着た男が下町に笑いかけていた。
「いらっしやい」
道から三、四段、コンクリートの段をおり、ピカピカ光るスチールと黒いレザーばりの椅子に体をのせる。前に鏡とシャンプー台、鋏《はさみ》に剃刀《かみそり》にバリカンに櫛《くし》に、ローションやポマードの容器。
「景気、どう……」
うしろへまわった床屋が言う。
「うん」
下町は気のない返事をして目をとじた。
14
小ざっぱりとした気分で床屋を出ると、さて行く当てもなく、結局下町はオフィスへ戻りはじめた。立浪部屋の前を通って高砂部屋のほうへ曲ろうとすると、うしろから肩を叩かれた。
「なんだ」
振り返ると岩瀬だった。
「退社時間だからね。それにしてもぼんやり歩いているもんだな。俺とすれ違っても気が付かないんだから」
「そうか」
下町は苦笑した。
「ちょっと話がある」
岩瀬はすぐ斜め前にある食堂へ歩きはじめた。白い暖簾《のれん》を片手であげてガラス戸をあける。
店には一人も客がいなかった。青いビニールばりの丸椅子をガタガタいわせ、安っぽいテーブルに向き合って坐る。
「ご飯……」
おばさんが出て来て訊《き》く。
「いや、ビール」
「はいよ」
多分キッチンの中も休憩中か何かで人がいないのだろう。おばさんは奥へ入って自分でビールを運んで来た。
「おまけよ」
グリンピースの揚げた奴を一皿置いて行く。あとは奥へ引っ込んで音沙汰《おとさた》なしだ。
「何だい」
岩瀬にビールをついでもらいながら下町が言う。
「さっきの件だ」
「やめてくれよ、岩さんまで」
「なに、真面目《まじめ》な話さ」
岩瀬はビールをうまそうに一気に飲《の》み乾《ほ》し、すぐ自分でついだ。
「真面目な話だから安心してくれ」
ニヤニヤしている。
「参ったよ、さっきは」
「みんなシュンとしてたぜ。反省さ、あのあと」
岩瀬は笑った。
「当り前さ」
下町ももう気持は晴れかけている。うまそうにビールを飲んだ。
「問題は下塚京子という女だ」
下町は上目づかいに岩瀬を見た。
「それがどうかしたのか」
「変だよ、さっきの話は。悠さんの話だけじゃはっきりしないから、所長からよく聞こうと思ってね。野崎正人という男が入れあげてる女が本当に下塚京子なのかね」
「そうだよ」
「同棲してるって……」
「うん」
「飯倉《いいぐら》の郷田マンション……」
下町は眉をあげた。そこまでは悠さんにも清子にも喋《しやべ》っていないのだ。
「なぜ知ってる」
「この話、俺には訳が判らないね」
「どうしてだ」
「下塚京子って言えば、もとファッション・モデルで、今は銀座のクラブのやとわれママだ。ピッコロという、大してでかいクラブじゃないけど」
「そうだよ」
「俺の知る範囲じゃ、その女は登戸泉太郎《のぼりとせんたろう》の二号か三号の筈だ」
「登戸……本当か、おい」
「ああ。司法、検察方面には睨みのきいた代議士だ」
「そんなこと知ってるよ」
「入れあげてるって言うけど、登戸は女には気前がいいんで有名だ。それに超一流好みでね」
「変だな」
「だろう……だから、調査をやめる必要はないんじゃありませんかね」
岩瀬はからかうように言った。
「高嶺経済研究所は志村重五郎の作ったダミーみたいなもんだ。たとえ高嶺とその野崎という二人のチンピラが志村を裏切ったとしても、それがもし下塚京子を経由して登戸につながっているとしたら、志村は手も足も出せないわけだ。そうでなくて、本当に下塚京子と野崎がデキているとすれば、情報はすぐ登戸の耳に入って、京子はチョンさ。でも、そういう女が野崎程度の男に目をくれるだろうか。俺はまさかと言いたいね。となると、野崎が京子と同棲しているという所長の調査は怪しくなる。野崎にはそのほかに女の匂いはしないのかね」
「しない」
「じゃあおかしい。京子が野崎と地の涯《は》てまでもなんて思い込んでるなら話は別だけどね。そうでなくて、少しでも自分を大切にする気があったら、あの郷田マンションへ出入りさせることすら許すまいよ。郷田という名は郷田一郎の郷田なんだからな。金融業者で登戸とは腐《くさ》れ縁《えん》の仲だし、志村ともつながりがある」
「なるほどね。そうすると、野崎は何かのことで将棋《しようぎ》の駒《こま》……」
「それも歩《ふ》さ」
岩瀬はじっと下町をみつめた。
「そうだとしたら、梔子の一件、違うことになりはしないかな」
下町はビールを飲み、
「いずれにせよ、張り切れないね」
と言った。
「あの男が家に金を持って帰っていないことはたしかなんだ。あんないい女を放り出せる奴って、どんな気持なんだか判らないよ」
「どっちにせよ、その人の為になることなんじゃないのかね。さっき所長はいいことを言ったよ。泣くも別れるも人生のたのしみのひとつ、みたいなことをね。でも、みんなの気持も判ってやらないと自分にすぐはね返って来るぜ」
「え……」
「所長、そこの鏡で顔を写してみな」
大村酒店と赤い字を入れた鏡が壁にあった。
「所長は一人で人生をたのしみたがっているみたいだが、そのあんたがムキになって野崎のことをほじくり返しては、梔子の花のところへ運んでる」
「いけねえ」
下町は頭に手をやった。たしかにその通りだった。ビール瓶も空だった。
「行くか。おばさん……」
岩瀬は金を払いに立った。
「大勢の中で一人ぼっちで生きていかなければならない。一人ぼっちで生きようとしてもまわりに大勢いる」
下町は力のない声でそうつぶやいていた。
15
その夜、下町誠一は久しぶりに人生について考える羽目になった。泣くも別れるも人生のたのしみのひとつなんだから、梔子の花とどういうことになろうとかまわないで欲しい……そんな綺麗《きれい》な口をきいたばっかりに、岩瀬の言う通りたちまち自分にはね返って来たというわけである。
どう誤魔化《ごまか》して見ても、梔子の花すなわち野崎清子のことが下町の心にずっしりとした手ごたえで引っかかっている。考えれば考えるほど清子と結婚したくなって来るのだ。だからつい、結論に辿りつく前に、あの梔子の花みたいな美人と愛の巣をかまえている自分を想像してニタニタしてしまう。
あ、いけねえ、と反省し、またこれからの自分の人生について、そのあるべき形に思いをめぐらそうとするのだが、いつの間にかそれがまた、
「行ってらっしゃい」
と送り出されるところとか、
「ねえ、遅れますわよ」
とゆり起されている朝の情景を空想して、擽《くすぐ》ったい思いにひたり込んでしまうのである。
で、結論は午前二時すぎに突然やって来た。
「探偵|稼業《かぎよう》なんて、どうせ他人とかかわり合うことなんだなあ」
下町はそうつぶやき、それを天啓《てんけい》のように感じた。惚《ほ》れてしまったのだから、手ばなしで行ってやれ。悠さんやとなりの婆さんたちが介入するならそれもよかろう。
「所詮《しよせん》一人で生きられるわけじゃなし」
そう考えると気がすんで、すぐ眠ってしまった。目がさめると朝で、ひどく爽快な気分になっていた。
「おはよう」
顔を洗っている最中に茂木正子が出勤して来て、正子のかわりに薬缶《やかん》を火にかけて二階へあがって行くと、正子はすまなそうな顔をして見せた。
「おはようございます。きのうはすみませんでした」
下町はニヤリとして、通りに面した窓をガラガラとあける正子を睨んだ。
「お節介なんだからなあ」
「すみません」
正子は下町の機嫌がいいのを見て安心したらしく、自分もちょっと悪戯《いたずら》っぽい笑顔になった。
「正子さん」
下からとなりの婆さんが声をかけている。
「あ、おはようございます」
正子は窓の下に向けて言う。
「所長、いる……」
「ええ」
下町が窓へ近寄って下をのぞいた。
「何ですか」
「ごめんね、きのうは」
下町は苦笑して右手を横に振ってみせた。
「でもあたしはやるわよ」
婆さんは断固とした様子でそう言い、下駄を鳴らして右のほうへ歩いて行った。
「しょうがないお婆ちゃんですわねえ」
正子は同情するように言って下町を見た。
「いいさ。やりたいようにやってくれってんだ」
「まあ」
正子は笑った。
「秋晴れや、だな」
「ほんと。いいお天気が続きますわ」
「なるようにしかならないんだよな」
下町はそう言うと、イチ、ニ、サン、シと声を出して体操をはじめた。
「おはようス」
「イチ、ニ、サン、シ」
下町はやって来た岩瀬に頷いて見せ、体操を続けた。
「おうス」
風間も来て自分のデスクについた。
「風間なんかこいつを見ても判らないだろうな」
岩瀬は体操を続ける下町を顎でしゃくって見せ、風間に言った。
「体操してるんでしょう」
「何の体操だ」
「さあ」
風間が首をひねる。
「ラジオ体操だよ」
すると正子が素《す》っ頓狂《とんきよう》な声で言った。
「あら、そうだわ。ラジオ体操なのよ」
岩瀬は下町の動作に合わせてピアノの口まねをする。
「タカタカ、タンタン、タァンタン……」
下町が急に体操をやめる。
「そうか。こいつはラジオ体操だったな」
「なつかしいことをしてくれるね」
「よく憶えてたなあ。無意識にやってたんだが、順番を忘れてはいない。大したもんだよ、初等教育って奴は」
「何なの、ラジオ体操って」
風間はキョトンとしている。
「さあ今日も一日元気で頑張りましょう、って、毎朝ラジオで放送してたんだ」
「どこの放送局……」
「どこのって」
岩瀬は一瞬絶句した。
「よせよせ。俺たちが古すぎるんだよ」
下町は苦笑して自分のデスクへ行く。
「NHKしかなかった時代さ」
風間は感心したように頷いている。
「お早うございます」
北尾がゆっくりと階段を登って来て言い、
「おや、今朝はわたしがビリかな」
とつぶやきながら椅子に腰をおろした。
「ねえ所長」
「何です」
下町は北尾を見た。
「これの厚さをご存知ですか」
自分の名刺を一枚とり出し、つまんで見せた。
「厚さ……」
「ええ。何ミリだと思いますか」
「さあ、一ミリかな」
「そんなにあるもんか」
岩瀬が口をはさむ。
「せいぜいその半分だな」
北尾が笑った。
「〇・二ミリですよ」
「そんなに薄いもんですかね」
下町が感心して見せる。
「ええ。でも、こいつを物さしがわりに使うんですよ。欠陥住宅のね」
そう言えば、いま北尾がやっている仕事は或る建築業者の調査であった。
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「コンクリートの壁やなんかにひび割れがあるでしょう」
「ええ」
「そこへこいつをさし込んで見て、スカスカに入ると〇・二ミリ以上の割れ目ということになるんですよ」
「〇・二ミリというのはどういうことなんですか」
「そこまでは一応許されるんだそうでしてね。住宅公団の人に聞いたんですよ。窓の四隅なんかにひび割れが入るのは仕方のないことなんだそうで……でも、こいつがスルリと入ってまだゆとりがあったりすると駄目なんだそうです」
「〇・二ミリねえ」
正子がしきりに頷いた。
「でも、あたし一度でいいからコンクリートの壁にかこまれた家に住んでみたいわ。生まれてこのかた木造の家ばっかりなんですもの」
「木造の家のほうがいいよ。コンクリートの住宅なんて、味気ないもいいところさ」
すると下町が笑い出した。
「ここも木造だぜ。住み心地がいいだろう」
「でも、マンションに住んでみたいわ」
正子は夢を見るような顔で言う。
「そう言えば、所長もそろそろ……」
北尾はうっかり言いかけ、急に口をつぐんだ。
「そうだな。所長だっていつまでもこんなボロ家に巣食っているわけには行かないぞ」
岩瀬はからかい気味だ。
「知りませんよ。そんなこと言ってお婆ちゃんに聞かれたって」
岩瀬はウフフ……と笑った。
「来るとき道ですれ違ったよ。あれはどうやら悠さんと梔子のことで陰謀をめぐらしに行ったな」
「おどかすなよ」
下町は苦笑する。
「あの二人に動かれたんじゃ、たまったもんじゃない」
「ぶちこわしか」
岩瀬は声をあげて笑いながら席を立った。
「さて、仕事仕事」
「行ってらっしゃい」
正子がそう送り出したが、下町はちょっときつい声で呼びとめた。
「岩さん」
「何だい」
岩瀬は階段をおりかけてニヤニヤしている。
「飯倉の件に手を出す気じゃなかろうな」
「当たらずと言えど遠からずさ」
「ちぇっ」
下町は腐って見せるが、それにしては舌打ちするそばからうれしそうな表情がのぞく。
「とにかく、行って来る」
岩瀬は階段をおりて行った。
「本当ですよ、所長」
3 北尾は真面目な顔で言った。
「結婚のことはとにかく、家をお持ちにならなければ」
「そんな金、ないですよ」
下町は笑いとばしたが、心の中ではその通りだなと思っていた。
いつまでも今のように身軽でいられればそれにこしたことはない。しかし、四十すぎても生きていれば恋がある。今が身軽だけに恋をすれば家庭を持つ方向に走り出すにきまっている。そうなれば家が要る。無理をして恋をみのらせ家を持って悦《えつ》に入っているうちに、身軽でなくなった自分に気がつくという寸法だ。その点では、二十代の若者も四十すぎの中年もそうかわるところはない。
そいつを避ければ偏屈な男になる。偏屈とは性質がかたよりねじけ、頑固で融通《ゆうずう》がきかないことだ。下町はできれば水のように融通|無碍《むげ》に生きて行きたいと思っている。粋人と呼ばれようなどとは思ってもいないが、この人の世の流れを自分なりにゆったりと流れて行くことができたらいいなと思っているのだ。
となると、恋も愛も、それこそ泣くも別れるも人生のたのしみのひとつということになる。しかも今度の清子への恋は、ひょっとするとむくわれるかも知れない情勢にあるではないか。
「苦労か」
下町はつぶやいた。
「え……」
北尾にそれが聞こえてしまったらしい。
「そうですよ。もうひと苦労して見なくてはね」
風間がのけぞってケタケタと笑った。
「健ちゃん、何がおかしいの」
北尾は戸惑《とまど》ったように尋ねた。
「苦労だなんて言うんだもの」
風間はまだ笑っている。
「いい言葉じゃないの、苦労なんてのは。昔の人はよく使ったものだよ。俺とひと苦労して見ないか、なんてね。そう言う以上、何も女の人に苦労させようなんて気はないにきまっているんだけどね。そうでしょう、しあわせにしてやりたいんだよ。でも、世の中がそう甘くないことが判ってるから、苦労して見ないか、なんて言い方になっちゃう。そこへ行くと今の人は臆面《おくめん》もないね。君をしあわせにする、なんて空手形を平気で言うんだから」
「だってその気だもの」
風間が口をとがらせる。
「好きな女なら、しあわせにしてやろうと思ってかかるのが本当でしょうよ。変に先まわりして、ひと苦労しようなんて、ちょっとずるい言い方だな。それで口説《くど》き落して女房にして、結局自分が浮気なんかはじめて本当に苦労させるんだからね」
「違うんだなあ」
北尾は嘆くように言う。
「愛してる、君をしあわせにする、って言うより、余程情がこもった言葉だと思うけどなあ」
「しあわせにできないかも知れないということを、あらかじめ言い渡しているんですよ。インチキ臭いや」
「あらそんなこと……」
正子が言いかけるのを下町がとめた。
「うちは探偵社だからね。朝っぱらから恋愛論をやられたんじゃ潰《つぶ》れちゃうよ」
北尾と風間は顔を見合わせてニヤニヤした。
「ごもっとも、ごもっとも」
北尾が立ちあがる。
「さあ健ちゃん、わたしらも仕事に行こう」
「そうですね。ひと苦労して来ますか」
「ばか、何が苦労だよ」
下町が苦笑する。
「くちなしの、花のぉ……」
風間はわざとらしく歌って北尾と一緒に階段をおりて行った。
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「心配ですわねえ。もしかするとお婆ちゃんは本当に浅草へ行きかねませんよ」
正子は眉《まゆ》を寄せてそう言った。或る意味では主体性が全然ない女なのだ。誰の立場にでもなって、心配したりよろこんだりする。その分だけ人が好いと言えるが、それでいて自分のことになると、とかく殻をとじてかたくなになる。
下町はそんな正子のことを考えて見た。考えて見ると、案外この辺には多いタイプなのだ。小さな自分と大きな世間……まず基本的な考え方はそういうところだ。自分を小さな殻にいれてコチコチにかため守り、そのくせ世間というものにはひどく寛大、というか融通がきくというか、たとえばとなりの婆さんの身になって心配するとか、下町の立場に立って事態を眺めるとかいうことをやすやすと行なう。
つまりそれは世間付合いということか。
下町はそう思った。その日の暮らしに追われているのが常の状態だから、本当を言えば他人さまのことなど気にとめていられはしないところだが、そういう人間ばっかりが集まって生きている中では、自分本位で人さまに冷たくてはお互い生活にうるおいがなくなり、ギスギスしようというものだ。
で、人さまのことはいちいち自分で批判めいた考え方をせず、そのご当人が思っている通りの考え方で間に合わせてしまうのだ。それならその人の意に反することもないし、自分の負担にもなりはしない。だからコロコロとよく立場を変えて考えられる。と言って口先だけのものではなく、しんから心配したりよろこんだりするのである。そうするには、相手がごく身近にいて、しかも親しいことが条件になる。いくら何でも嫌《きら》いな相手の立場になって物事を考えられるほどの聖人君子じゃない。
「こいつはひとつの文化だな」
下町はそうつぶやいてニヤリとした。何か大きな発見をしたように感じたのである。
ゴチャゴチャと小さな家が寄り集まった所で暮らしているうちに、周囲とつの突き合わせないで生きて行くルールのようなものが出来上ったに違いない。
その点、変に教養を身につけ過ぎると、何から何まで自分の考え方でやってしまうから、付合いにくいことになる。正子は浅草へ行くかも知れない婆さんの気持も幾らか判っているし、それを迷惑なことだとする下町の立場も少しは理解している。両方の言い分を、批判なしに納得しているからだ。
だから、心配ですわね、くらいですませているが、これがもし女子大なんか出たインテリ女性だと、そういう婆さんの行動に対して、自分自身の批判が先だってしまうだろう。
お節介だわ、くらいならまだいいが、他人の人生に介入するのはよくないとか言い出すと、よかれと思ってしている婆さんと衝突するのは目に見えている。
「いいんだよ、ああいう人なんだから」
下町は正子にそう答え、我ながら正解だと思った。
ああいう人なんだから……それでいいのだ。多少面倒なことはあっても隣人は隣人なのだ。すぐとなりにいる人間の個性をのみこまないで、一般論をぶつけたって仕方あるまい。三年五年ととなり合わせに住んで廊下で会っても頭ひとつさげないですむ山の手のおマンション族とは違うのだから。
「それに、俺はもうこうだものな」
下町は両手をあげてバンザイをして見せた。
「まあ、所長ったら」
正子はうれしそうに声をあげて笑った。
「本当さ。好きなようにやってくれってんだよ、もう。ゆうべ考えたのさ。たしかに俺は俺だけど、その俺はここに住んで悠さんやみんなと生活してる。そうだろう。だったらとなりにいるお節介な婆さんも俺の一部じゃないか。浅草へでもどこへでも行ってくれってんだ。それでこの恋まとまれば、手間がはぶけて言うことなしさ」
「やだわ、恋なんて言っちゃって」
とたんに正子は不潔な言葉を聞いたような顔になった。
「おかしいか」
「ええ」
「どうして。男が女に惚《ほ》れたんだもの」
「それはそうですけど、何だか不潔みたい」
「腐らせるなよ。思い切って恋だって言ったのに」
「でも……恋って、もっと若い人の」
そこまで言って正子は左手で口を塞いだ。
「中年じゃ不潔だって言うのか」
下町はわざと脹《ふく》れて見せた。
「ごめんなさい。そんなつもりで言ったんじゃないんですけど。やだわ、あたし何を考えてたのかしら」
「気にするな」
下町は笑った。
「気持は判る。恋なんてナマな言い方をしたからいけないのさ。俺たちの年齢になったら、もう少し遠まわしな言い方をすべきなんだよな」
「気にしないでくださいね」
正子は軽く合掌《がつしよう》して見せる。
「そっちこそ気にしなさんな。浮れてるのは俺なんだから」
「でも、まとまるといいですわねえ、このおはなし」
「さいでござんすねえ」
下町はふざけていた。正子にそんな風に言われると、まるで自分のことのような気がしないのだ。どこかの若旦那が見合いした噂《うわさ》を聞いているようだった。
「君もそろそろ結婚したらどうだい」
「ひどいわ」
とたんに正子は仏頂づらになる。やっぱり殻は小さくて固かった。
18
三、四日、何事もなく過ぎた。下町はあれ以来清子のことで調査に出ようとはせず、以前通りにオフィスに腰を据《す》えている。
それというのも、となりの婆さんと下駄屋の悠さんが、何かコソコソやってうれしがっている気配が濃かったからである。おまけに岩瀬までが下塚京子の線を洗いたてているようだ。
そんな情勢の中で自分から動きまわったら、まるでぶざまなことになるに違いないし、こうなったら神輿《みこし》に乗っかっていたほうがいいと横着をきめ込んでいる面もある。だから、同じオフィスでのらくらしていても、至極上機嫌なのだ。もっとも、どうせまとまらぬ話ときめこんでいて、ぶちこわれるまでのつかの間の日々をたのしんでいるという趣きもないではない。
「所長。いる……」
みんなが帰ってオフィスの灯りも消した六時半、台所の戸をあけてとなりの婆さんが言った。
「いますよ」
ベッドに引っくりかえって、フレイザーの金枝篇《きんしへん》を読んでいた下町は、そう答えて起きあがった。
「どうぞ」
許可がなくたって勝手にあがって来る相手だ。戸をしめてガタガタと下駄の音を何回かさせ、ドアをあけた。
「何してたの」
「別に……本読んでたんですよ」
「やだわねえ」
婆さんは顔をしかめた。
「下宿してる学生みたいじゃないのさ。こんな時間にベッドで寝ころがって文庫本読んでるなんて」
「別にすることもないですしね」
「どっこいしょと」
婆さんは古ぼけた籐《とう》の安楽|椅子《いす》を軋ませて腰をおろした。
「あら、具合いいわね、この椅子」
「そうですか」
「でもギシギシ鳴るわね」
婆さんは安楽椅子を子供がするように揺《ゆ》らせて言った。
「お茶でもいれますか」
「結構よ」
婆さんは椅子をギシギシ鳴らし続け、下町はベッドの端に腰かけてそれを見ていた。
「判ってるでしょう」
しばらく沈黙が続いてから、婆さんが根負けしたように口を切った。
「ええ」
また何十秒か沈黙とギシギシ。
「いい人だわ、あれは」
「そうですか」
「何よ、人が褒《ほ》めてるのに」
「だって、まだ他人ですよ」
「案外うぬ惚れが強いのね」
「どうしてですか」
「まだ他人ですよ、だなんて」
下町は肩をすくめた。
「いずれは他人じゃなくなる気なのね」
「向こうさまのあることですからね。どうなることやら」
「会って来たのよ」
「ほう……」
「憎たらしい。もうちっと気の入った返事はできないの」
「どうもご苦労さまでした」
婆さんは椅子を揺らすのをやめてふき出した。
「勝てないわ、所長には」
婆さんは笑いおえると気分が変ったらしく、椅子の右の肱《ひじ》かけにもたれて下町の顔をのぞき込むように言った。
「いい人よ。さすがは所長って褒めておくわ」
下町は黙ってニヤニヤしていた。
「あの人ならあたしたちも骨折り甲斐があるみたい。あたしは張り切ったわよ」
「よろしく」
下町は軽く頭をさげた。
「悠さんと行ったの。ひと芝居打ってね」
「芝居を……」
「ええ。悠さんはいつものように様子を見に行ったという思い入れで、すぐ帰って来ちゃったの。そのあとすぐあたしが行って、悠さんとここで待合わせをしたんだけれどと、ちょっと困って見せたわけよ。疲れてるし、悠さんが引き返して来やしないかって、ひと休みしたがったの」
「そうしたら」
「そうしたら、それはもう満点の心づかいでね。芳月亭のお勝手で休ませてくれて、お茶とお菓子でしょう。あそこのおかみさんにも紹介してくれて、遠慮気兼ねなく休めるようにはからってくれてさ。それでいながらお店の仕事はちゃんとやってのけて。そりゃもうテキパキと気持がいいっちゃないのよ」
「それはよかった」
「で、手が空《す》いたところで小当たりにあんたの話を持ち出したわけ」
「早すぎますよ、そんな」
「いえさ、違うのよ。となりに住んでるけどそう親しい往き来もないって顔をしたのよ。で、どうだったと思う……」
「さあ、どうでした」
「大ありよ、脈が。女同士だからそこんとこはよく判るのよ。ことにああいう人ならね。ありゃ下町っ子だわ。ちゃんと角《つの》が折れててそのくせとんがってない。まだいるのねえ、ああいう人が」
「で、どうでした」
「よしなさいよ、だらしがない。どうでした、どうでしたって」
婆さんは口をとがらせて下町の言い方を真似た。下町は承知の上でもう一度言う。
「で、どうでした」
果たして婆さんは満足そうに微笑《びしよう》した。
「あんだけの人なら所長がよしんばよだれをたらしたって、あたしゃ文句を言わないわね。むしろ気付かないで放っておいたら叱《しか》りつけたくなっちゃう」
「で、どうでした」
言ってから今度は下町が笑ってしまう。かなりわざとらしかったのだ。
「所長のことをいろいろ訊くじゃないの。向こうからよ」
「へえ」
つい下町はニヤニヤする。
「いい人だってさ。奢《おご》んなさいな」
「うさぎ屋でも……」
「ばか言って。あんな油臭いとこへ行くもんですか。そうね、高橋《たかばし》の泥鰌《どじよう》なら勘弁したげる」
「いつでもいいですよ」
「まあ、今日のとこはそれまでで帰って来たんだけどさ。ほんとにあんないい人は近頃見たことがないわよ。それだけに、今度は心配になってさ」
「どうしてです」
「肩入れしすぎちゃうのよ。あんないい人をもし逃がしちゃったらどうしようと思ってね。ご亭主《ていしゆ》と絶対別れるかしらねえ」
「そいつは判りませんよ」
「所長は最後の報告をしたっきり、清子さんとこへ行ってないんですってね」
「用がないもの」
「だめよ、そんなじゃ。こういうことはね、一押し二押し三に押しって言ってね、気まり悪がってたらだめなのよ」
「判ってますけどねえ」
「まあいいわ。何とか考えてまとめてあげる。まかしといて」
婆さんはたしかに張り切っていた。
19
次の日曜日、婆さんは約束だからと言って、三時ごろ高橋の泥鰌屋へ下町を引っぱって行った。
時間が外れているから入って右側の座敷の隅《すみ》に陣取ることができて、まだガスコンロに火もつかないうちに悠さんの声がした。
「やあ、来てる来てる」
入口に背を向けていた下町が振り返ると、野崎清子の顔がいきなり目に飛び込んで来た。
「や……あれ……」
驚いて婆さんを睨む。
「はかったな」
「悠さんおいでよ」
婆さんは手まねきし、
「これくらいのことを見抜けないでよく探偵がつとまってるわね」
と悪たれた。
「どうもその節は」
清子が下町に挨拶する。どうやら清子のほうは下町が来ていることを承知していたような具合だ。
「や、どうも」
下町は右に体をひらいて片手突きに頭をさげる。悠さんはその隙《すき》にさっさと向こう側へまわって婆さんと並んで坐ってしまう。したがって清子は下町のとなり。
婆さんが坐《すわ》り直して言う。
「人間の縁なんておかしなものでしてね。放っといていい場合もあるけど、ちょいとこの、他人がつないどいたほうがいいこともあるもんなんですよ。清子さん、あたしたちのことをお節介だと思うかも知れないけど、この年に免じて勘弁してやってくださいね」
「そんな……」
清子はにこやかに笑っていた。
「みなさん、親切なかたばかりで」
「そう思ってくださると本当にあたしもうれしいの。何かこう、口で言うのはとってもややこしくて、あたしなんかにはとうてい喋れないんだけどさ」
と、同意を求めるように悠さんを見る。悠さんはやって来た女中さんに注文をしていてそっぽを向いていた。
「要するに間《ま》つなぎよ」
「そうそう、間《ま》つなぎね」
注文をしおえた悠さんが言う。
「それであの……」
清子は下町のほうへ少し向き直った。
「は……」
「あの……よろしいんですか。あたし……」
「いえ、もう、そりゃ……」
「ご迷惑だったりしたらあたし……」
「そんなことないわよ」
婆さんがひと声高くする。
「そんな心配することないじゃないの」
悠さんも力をいれて、
「あべこべですよ」
と、何やらはっきりしない太鼓判をおす。
「あ、ビール来た。あの、コップをもうふたっつ」
先に来た二人が注文していたビールが来ると、悠さんはコップを下町と清子の前へ置いて素早く注いだ。
「コップだけでも早くね」
「はいはい」
まだ立て込んでいないから、すぐにコップがふたつ届く。
「ほら、注《つ》いで注いで」
婆さんと悠さんはこのタイミングを外しては大変と、大あわてに自分たちにも注ぎ、
「では、間つなぎの乾杯《かんぱい》」
と、変な名目でコップをさしあげた。下町も清子も巻き込まれてカチンと乾杯。
「ああおいしい」
婆さんが浮々したように言う。
「あのね、今のうち言っとくけどね、うまく行かなくたってかまわないんですよ。こんな顔いくら潰《つぶ》れたって平ちゃらなんだから。ねえお婆ちゃん」
悠さんが早口で言う。
「そう。無理する気はないんだから」
二人とも、いや、清子も含めて、みんな肝心のところはぼかして喋っている。肚芸《ハラゲイ》という奴だ。
もっとも、理屈を通そうとしたら、とてもややこしくて誰にも言えまい。清子はまだ夫と別れるとも別れないとも決断していない。恐らく夫が戻って来ればそのままになって、以前にもまして尽す覚悟でいるのだろう。しかし、情勢はどうやら夫が戻っては来ないほうへ傾いている。下町にしても、そんな清子を無理に別れさせてでも自分の妻にしようなどとは思っていない。
間《ま》つなぎ。
まさにそれしか言いようがない。清子はそんなあいまいさの中で、この店へやって来ている。それでは夫にあいすまぬというほどかたくなかというとそうでもないのだ。そこには、なすべき苦労をし尽し、どこへ出てもはずかしくない立場であるということを自覚した、おとなの女の心があらわれている。だから、もののはずみで出来合うなどというおそれはまったくない。なみの女ならとうに破局ときめるその何歩も先まで踏み込んで辛抱しての上なのだ。
惚れた欲目もあるのだろうが、下町はそんな清子にも、悠さんや婆さんにも、したたかなおとなを感じて少しばかり感動した。
ごちゃごちゃと、くだらないお手玉をやっているようでいて、生きる性根《しようね》がどっしりとこの町の土に腰を据えている。理屈を言ったら綺麗汚《きれいきたな》いの観念論になるところを、間つなぎという肚芸で見事に収めてしまっているのだ。東洋的と言ったらこれほど東洋的な眺めもないが、土壇場《どたんば》へ来ると自分の生きる道を確保して他人に迷惑をかけまいという、貧乏人同士の鮮やかなモラルがあるではないか。
そしてあとは世間ばなし。
「映画館も減っちゃったわねえ」
「ほんとほんと」
「緑町《みどりちよう》の角に両国日活があったけど、今は銀行だし」
「ほらお婆ちゃん、憶えてる……森下から入ったとこにあった菊川シネマさ」
「ああ、あったわねえ。ちっちゃな映画館でさ」
「うちの近所のも取りこわしちゃったし」
「変るんだよなあ。だいいち電車がなくなっちゃったから、本所深川《ほんじよふかがわ》の道も表と裏の区別がつかなくなっちゃったものね」
「そう、電車|道《みち》が表で、線路のないのが裏だってはっきりしてたんだけどねえ」
泥鯖の鍋がグツグツと煮えて、清子も悠さんも同じくらいのスピードで箸を動かしている。
言って見れば泥鰌鍋の玄人《くろうと》ぞろいだった。こればっかりはのんびり食べているとすぐ煮つまってしまうのである。
20
それからまた五日ほど。
間つなぎの乾杯で一応安心はしたものの、電話をかけ合ったりデートをしたりという歳でもなくなっているから、下町と清子の間はいっこうに動きがない。
「しっかりしなさいよ」
と婆さんが焦《じれ》ったがったりするが、そこがおとな同士の辛《つら》いところで、下町もそろそろ清子に声をかけたほうがいいのではないかと思うのだが、実行はできないでいた。
で、できることと言ったら、岩瀬をうさぎ屋へ誘って一杯やりながらざっくばらんに切り出すことくらいなのだ。
さいわい悠さんは現われず、二杯目の焼酎に口をつけてから、下町は言った。
「岩さん、飯倉のほうはどうなったね」
岩瀬はどんぐりまなこをギョロリと剥《む》いて下町を見た。
「聞きたいのかい」
「うん、まあな」
岩瀬はグビ……と喉を鳴らして酎を呷《あお》った。
「飯倉の前に浅草のことを聞きたいね」
「この前の日曜日に会ったよ」
「ほう」
岩瀬にもまだ言ってはいなかった。
「どういうかたちで会ったんだい」
「別に……とりとめもないけど、悠さんたちが仲へ入って、間つなぎってとこだ」
「来たのか、梔子は」
「ああ」
「ふうん」
岩瀬は眉を寄せた。
「何か判ったのか」
岩瀬は答えず、逆に尋ねた。
「よろこんで来たの……梔子は」
「別に嫌がってもいなかったよ」
「間つなぎ、ってことを承知の上で……」
「そうだ。婆さんが、これは間つなぎだって宣言して、ビールで乾杯した」
「そいつは」
岩瀬はしばらく考え込んでいたが、急に微笑を泛べた。
「うまく行ったじゃないか。いい人らしいし、あんたもこの辺で身を堅《かた》めることだ」
「でも、彼女にも立場がある。ご亭主がどうしても別れると言い出せば別だが、そうでない限り待ち続ける覚悟でいるらしいしな。また、下塚京子や総会屋たちとうまく行かなくなって舞い戻って来れば、きっと今まで以上に尽してやる気でもいる。そういう女なのさ」
岩瀬はグラスを右手の人差指でチンとはじいた。
「梔子には戻らないね。あれはカーネーションを胸につけて死ぬ気さ」
「どうしてそれが判るんだ。自分のことだから訊《き》きづらくて黙っていたが、下塚京子は登戸泉太郎の女なんだろう。住んでいる所が郷田マンションなら、郷田一郎もそのことを承知しているわけじゃないか。彼女のご亭主がどんなに要領よくても、バレないわけがないだろうに」
「それは俺も気になったから調べたさ。下塚京子と野崎正人はたしかにデキてるよ。しかも、野崎は京子の部屋へ大っぴらに出入りしてかまわない立場なのさ」
「それはまた、どうして」
「総会屋の大ボスである志村重五郎は、たしかに高嶺という男に裏切られているんだ。しかも志村はそれを知っていてどうにもできない。検察や司法関係をバックにしている実力者の登戸泉太郎がついているからだ。登戸は代議士だが、わりとご清潔なほうでね。多分財界からの要請でもあったんだろう。志村がそう思い通りには動けない釘《くぎ》を一本打ち込んだというわけさ。その釘が高嶺経済研究所なんだ。調べたらどうやら高嶺という奴は最初からその意図を持って志村の下へもぐり込んでいたようだ。しかし、最初のうちそれを見抜かれたら何にもならなくなるので、ごく平凡な男である野崎正人を仲間に誘い込んだというわけさ。と言って、志村をひと思いに潰してしまうわけにも行かない。総会屋は大企業にとって必要悪なんだからな」
「すると野崎正人は登戸と高嶺の連絡係か」
「うん。よくは判らないが、はじめのうちはそのことに余程用心してかかっていた形跡がある。財界の要請で登戸が動いたとあっては、志村がムクれてどんな手を打つかも知れないだろうしな。だから下塚京子と野崎がデキているという形をとったらしい。それなら誤魔化《ごまか》せるわけさ。登戸と野崎は仇《かたき》同士ということになるもの」
「ややこしいことをするもんだ」
「たしかにややこしい。そうこうするうちに、本当に野崎と京子がデキちまった。野崎はもともと貧乏絵描きで優しい男なんだ。恐らく京子の周囲には、そんな優しい男なんかいなかったんだろう。いっぽう野崎にしても、カーネーションははじめてだ。何百万というスポーツカーを乗りまわし、ミンクにくるまれたもとファッション・モデルの銀座のクラブのママを抱いてみろ。人生観だって変っちまうよ。それに、あぶく銭だ。梔子の花が咲く里へは戻りたくないとよ」
岩瀬の言い方のおわりのほうは、抛り出すような感じであった。
「でも、危険なんじゃないのか。そんなことをして」
「梔子の旦那のことを心配するのか」
岩瀬は呆れたように言う。
「物騒な連中の集まりの中へ、俺なんかよりもっと素人が入り込んで、ろくなことにはならないぞ」
「男と女だよ。野崎正人と下塚京子が、どんなに愛し合ってるか判れば、あんただって納得《なつとく》できるはずさ」
「そんなかね」
「浅草のほうへ一銭も入れないんだって、案外自分たちの行末を考えてのことかも知れない。危《ヤバ》いのは判っているけれど、さりとて京子のようなカーネーション相手では金がなければどうにもならないんじゃないか。いずれ二人で危いところから逃げ出すつもりで、がっちり貯め込んでるのかもよ」
「そういうことか……」
「ま、とにかく俺が調べたのはそこまでさ。本当はどうだか知らないけどね」
下町は、ふうんと言って岩瀬の横顔をみつめた。
「あ、いたいた。いましたよ」
悠さんがやって来た。
「薄情な人たちだなあ。家《うち》にいたのに」
「やあ、悪い悪い」
岩瀬は急に朗らかになって悠さんに詫《わ》びた。
21
いつかの伝法院のそばのおしるこ屋で、下町は清子とデートをした。清子のほうから電話をかけて来たのである。
「ご相談したくて」
梔子の花は思いなしかやつれていた。
「実は、おとといあの人から言って来たんです」
下町にとっては甘すぎるおしるこのあと、お茶を飲みながらの話であった。
「じかに……」
清子は力なく首を横に振った。
「お使いの人が来ました。はじめて見る男の人でした。どこかのバーかクラブの人みたいで」
下町にはピンと来た。下塚京子がママをしている、ピッコロというクラブのマネージャーか何かだろう。
「せめて電話ででもいいから、じかに言ってくれればいいんですのに」
「手紙ですか」
「いいえ、口上で」
清子は古臭い言いかたをした。
「そいつはひどいな。で、何と……」
「別れる、と」
下町の胸は年甲斐もなく躍った。
「ご主人のほうから言って来たんですね」
押さずもがなの念を押す。
「そうなんです。ちゃんと区役所の書類が揃《そろ》えてあって、あたしが名前を書く場所と、ハンコをおす所に鉛筆でしるしがしてあるんですよ」
何とひどい仕打ち、と言いたげに清子は下町をみつめた。
「で、あなたは……」
「預かりましたわ。いくら何でも、そんなお使いの人に……ねえ」
下町は大きく頷いて見せた。
「一週間くらいしたら取りに来るって、そのお使いの人が言うんです。あの人、あたしがすぐにはハンコをおさないことも考えにいれていて、お使いの人にそう言っていたみたいです」
「嫌な場面です。しかし、それも通りすぎなければならない場面だったんでしょう。僕はそう思うな」
「わかれ道です」
清子ははっきりと言った。
「ハンコをおして返せば、道は下町さんのほうへ向かっているような気がします。でも、苦労しただけに、それでいいものかどうか。あたしには判りかねています」
清子はそう言うと黙り込んだ。下町はその沈黙に意味を感じると、伝票を持って立ちあがった。
「甘い話じゃありませんよね。おしるこ屋で喋るような……」
清子は苦笑らしいものを泛べて下町のあとに続いた。
おしるこ屋を出てから、二人の足は何ということもなく右へ道をとり、ゆっくりと歩き続けて隅田川のそばへ来てしまった。
「疲れた……」
下町が訊く。
「いいえ」
「僕は橋を渡りたいな」
「どうしてですの」
「両国はその川の向こう岸になるから」
清子は立ちどまって下町をみつめた。いつのまにか秋が深まり、川のほうから少し肌《はだ》にしみるような固い風が吹いて来るのだった。
「渡っても、すぐに両国ではありませんわよ」
つまり、すぐには一緒になれないということである。
「道は長いほうがいい」
あなたと一緒なら、と下町は言いたかったがやめた。
「風が冷たくなりましたわね」
つぶやくように言って清子は歩きはじめた。
橋のゆるい坂を登りながら、下町の頭の中はすまいのことでいっぱいになってしまった。家をどうする。まさかあの六畳には住めまい。さりとて金はなし……。
「そうそう」
清子は笑顔を下町に向けた。
「このあいだ、都電が走っていた頃のお話をしましたわね」
「ええ」
「両国へ行くにはあそこから……」
と清子はうしろを振り返って吾妻橋の浅草側のたもとを示した。
「須田町と柳島《やなぎしま》のあいだを通っていた電車に乗って、向こう岸の吾妻橋一丁目でおりて、今度は柳島と月島《つきしま》の間を走る電車に乗るんでしたわね」
下町には清子が言いたがっていることが判った。
「そう。乗り換えるんです」
「吾妻橋の次はどこでしたっけ」
「駒形《こまがた》でしょう」
「あ、そうそう。駒形橋、石原一丁目……」
「ええ。その次は、墨田区役所かな」
「あらやだ。石原町と駒形のあいだに、もうひとつ停留所があったでしょう」
「ええと……そうか。厩橋《うまやばし》だ。厩橋一丁目ですよ」
「区役所の次が緑町」
「東両国緑町、亀沢町一丁目」
下町はその昔都電の車掌が言ったように、節をつけて言った。
「また都電に乗って見たい」
清子は甘えるようにつぶやいた。昔の自分に戻りたいと言っているようであった。
「でも、今はあっちにあるのは地下鉄一号線の駅だな」
橋のまん中を過ぎ、二人は川風に吹かれながらゆるい坂をくだって行く。
「本所吾妻橋駅。変な感じの名前だわ」
まだ冬は来ていない。下町は春までの長さを思いながら、清子と肩を並べて歩いて行った。
こいつはひと苦労しなくては。
下町は満ち足りたような感じの中で、なぜかそう思うのであった。昔の男が恋人に向かって、ひと苦労して見ないかと口説いたのは、案外|恰好《かつこう》をつけるばかりではなく、本当に前途《ぜんと》のけわしさを思ってのことかも知れなかった。
第三話 窓あかり
上野へ向かう国電の一番うしろの車輛《しやりよう》のそのまた一番うしろの座席に、北尾貞吉が体を斜めにして坐《すわ》っていた。
時間は夜の九時すぎ。上りの電車はガラガラになる時刻であった。我孫子《あびこ》のほうでの調査が意外に長びいて、そんな時間になってしまったのだが、それにしても北尾の顔色は冴《さ》えない。進行方向にむかって右の端の席に斜めに坐り、窓の外をじっと眺めている。
仕事がうまく行かなかった為ではない。久し振りに乗ったその線の、しかもガラガラにすいた電車に揺られているうちに、ついわが身の来し方行く末を考えてしまったようである。
不渡り、倒産、そして妻の病気。中年もすぎ、これからいよいよゴールへ向かってという折返し点のようなところで、強いパンチをたて続けにくらい、とうとうダウンしてしまった揚句《あげく》が下町探偵局の調査マンなのである。
息子《むすこ》たちにも恵まれてはいる。三人いる男の子はどれも真面目《まじめ》で働き者ぞろい。だからこそ自分の将来について我を張らず、三人のうち上の二人は父親のそばで家業のメリヤス屋の仕事に精を出していた。
かえってそれがいけなかった。
今になって北尾が臍《ほぞ》を噛《か》むのはそのことであった。三人が三人とも親孝行でとよろこんでいたおかげで、会社がバタンと行けば一蓮托生《いちれんたくしよう》。親子|揃《そろ》って何もかも吐《は》き出し、夜逃げ同然でバラバラに暮らさねばならなくなった。
長男は小学校に通う二人の子の親になっていて、一家離散のそのとき、
「お父さんたちは僕が面倒見ます」
とたのもしいことを言ってくれたが、落ち行く先が六畳と四畳半ふた間のアパートときまっては、父親としてその情にすがることは、嫁《よめ》の手前もできはしなかった。
次男は新婚ほやほやで、どうやらその嫁は自分たちだけの生活に入れることを内心よろこんでいる気配があった。経理をまかせていたのだが、兄弟では一番内気で新しい仕事を探すにもまごまごし通し、結局大田区の自動車修理工場で、帳簿を見ながら修理工としての技術も習おうということに落着いた。
末の子は大学を出たばかりだったが、これがいじらしい程の親想い。さる商事会社から声がかかり、英語に堪能なところから、海外の支社へというところまで一時は話が進んだのだが、母親が患《わずら》いつくとそれをあっさりあきらめて、両親の落着き先である東陽《とうよう》五丁目のアパートの近くで、鉄工場の住込み工員になってしまった。住込み工員と言っても今は独身寮があって、昔とは較べものにならぬくらい明るく健康的なくらしだが、それでも父親にして見れば不憫《ふびん》でならない。おまけにその末っ子が体のあくたび小まめに母親のところへ通って来て、何くれとなく面倒を見てくれるから、有難いのは有難いが北尾の心はいっそういたんでしまうのだ。
もう少しワルでもよかった。
自分のことばかりではない。三人の息子たちを含めてそう思うのだ。多少の節税はあったにせよ、帳簿はガラス張りで脱税なんて思いも寄らず、大手や仲買いに買い叩かれても、真面目にやっていれば今に陽が当たると、正直一途で懸命に働いて来たのだが、今こうなって考えて見れば、もう少しずる賢くなかったらこんな世の中を生き抜いて行けるわけはないような気がしている。
正直の頭《こうべ》に神|宿《やど》るなんて、どこの誰がそんな綺麗《きれい》なことを言い出したのだか、初老の今になってふっと思い当たった感じなのだ。
それはずる賢くて力の強い奴《やつ》に違《ちが》いない。なるべく自分より力がつかないように、世間の連中にしたり顔してそんなことを信じ込ませ、信じてその通りにしている連中を食い物にしてかげで舌を出して笑っていたのだ。
と、年甲斐《としがい》もなくそんなことを考えてわが身を責めたりもするが、それにしても窓の外にはどこまでもえんえんと家の窓あかりがつらなっている。
こんなに人間が増えたのでは、競争も激しくなるわけだ。
北尾はぼんやりそう考えはじめた。自分ひとりが落ちこぼれて、ほかのみんなはそれなりにうまくやっている……。
と思ったら、えんえんと続く家の窓あかりが、急に暖かいものに見えだした。どの窓にも、一家揃った笑顔があるに違いない。いや、たとえその窓の中に親子|喧嘩《げんか》や兄弟喧嘩があったとしても、一家揃って暮らせるのだからしあわせなのだ。
「正男。弘次《ひろつぐ》と健三は何で喧嘩をしてるんだ。行ってとめて来なさい」
ドタン、バタンと下の二人が二階で取っ組み合いの兄弟喧嘩をしたのは、あれは何年前のことだったろうか。
北尾貞吉は心の中で指折り数えてみる。
「そう、もう五年になるなあ」
いつの間にかつぶやいている帰り路だ。ガタコン、ガタコンと電車が揺れている。
末の健三は小さい頃から喧嘩が強かったが、次男の弘次は泣き虫で、いつも外で泣かされて帰って来たものだ。
健三が近所の子を集めて餓鬼《がき》大将をしていた頃は、北尾も景気がよかった。扇橋《おうぎばし》の清洲橋《きよすばし》通りに面したところに土地と家と工場と事務所と倉庫がいっしょくたになって建っていて、町会長をつとめたこともある。
あの頃もっと積極的にやっていれば。
北尾は心の中でついそんな愚痴《ぐち》になった。
「まあ、みんな大学は出してやれた」
自分をなぐさめるようにまたつぶやく。が、それにしても他人の家の窓あかりが羨《うらや》ましい。東陽五丁目の六畳ひと間のアパートで、今頃は病妻がひとりきりでテレビに虚《むな》しい目を向けている頃なのだ。
「正男……弘次……健三。立ち直ってくれよ」
三たびつぶやいた北尾は、やっと自分が声を出していることに気付いて我に返ると、思わずあたりを見まわした。
さいわいその声が耳に入る範囲には誰《だれ》もいなかった。俺もとうとうひとりごとを言うような齢《とし》になったか。そう思うといっそう情なく、北尾は体の向きを変えると腕《うで》を組み、背を丸めてうつむいた。
電車は松戸《まつど》をすぎ、鉄橋を渡った。もうすぐ金町《かなまち》である。
上野に着いた北尾は地下鉄の日比谷《ひびや》線に乗りかえ、茅場町《かやばちよう》でもう一度|東西線《とうざいせん》に移ると、東陽町で地上へ出た。永代《えいたい》通りには大型車が重い響きを立ててひっきりなしに突っ走っていたが、四ツ目通りへ入ると急にひっそりとして、赤い空車灯をつけたタクシーが、何やら侘《わび》しげに行き来をしていた。
木造のアパートが建ち並ぶ横道へ入り込んだ北尾は、しらじらとした街灯の光の中を背を丸めて歩きながら、ひとつの空想にとらえられた。
どこだか判《わか》らないが、自分たち一家が庭のある家に住んでいるという空想であった。
正男夫婦の二人の孫が庭で遊んでいて、北尾の妻が縁側に坐って笑っている。
「お婆《ばあ》ちゃんもすっかり元気になって」
正男の嫁がそう言ったような気がした。
「毎日孫の相手をしていると若返るのだよ」
頭の中で言ったのか、また歩きながらつぶやいたのか判然としないが、北尾は正男の嫁にそう答えた。夕方になれば正男も勤めから戻るし、弘次も帰って来る。弘次の嫁は台所にいる。
「お父さん、晩ご飯は何にしましょうか」
台所から若々しい声が聞こえて来ると、正男の嫁がそのほうへ行く。
「ただいま、お父さん」
健三が帰って来た。
「おう、おかえり」
「腹が減ったなあ」
「そう言えば俺もだ」
と、そこで北尾は我に返る。本当に腹が減っていたのだ。
現実は相変らず街灯のしらじらとした光が点々と続き、その先の左側に自分の戻るべき安アパートが見えはじめている。
それにしても、今の空想はなんと心静まるものだったか。北尾は居心地のいいそのまぼろしの中に、もう一度戻りたい気持であった。
カンカンカン……と鉄の階段を登り、二階へあがって靴を脱ぎ、下駄箱《げたばこ》の蓋《ふた》を持ちあげてスリッパを出すと、靴を手に持って廊下を進んだ。
ポケットから鍵を出して三尺の木の引戸の錠をあけようとすると、中から病妻の声がした。
「あいてますよ」
北尾はキーをポケットへ戻してガラガラと戸をあけて中へ入った。
「いつも閉めておくように言ったろう」
靴を小さな下駄箱の上へのせて言う。
「おかえりなさい。遅かったんですねえ」
「うん。我孫子のほうまで行って来た」
「おやまあ、ご苦労さま」
病妻は蒲団の上に坐ってテレビのスイッチに手をのばそうとした。そのスイッチのそばから長いイヤホーンの線が枕もとへ延びている。安アパートだから、夜ともなればお互いにテレビの音も控えなければならないのだ。
「消さんでいいよ」
少しでも侘しさが紛《まぎ》れると思い、北尾はいったんテレビのボリュームを最小にしてからイヤホーンを抜き、注意深くツマミをまわして、かすかに音声が聞きとれるようにした。
「本当にいつも錠《じよう》をかけておかないとな」
たしなめるように言う。
「こんな病気の年寄りのところへ、何が来るというんです」
病妻は北尾の取り越し苦労を笑う。
「病気の年寄りが一人きりだから言うんだよ。近頃は悪いことをする奴も質が落ちてな、弱そうな相手を選んでかかるんだ。銀行で老人年金かなんかを受取った人が、よく引ったくりにあうって新聞に書いてあっただろう」
「うちには何もありませんよ。ご飯は……」
「まだだ」
「それはちょうどよかった。夕方、健三が来ましてね」
「うん」
また来たか、と北尾は心をうずかせながら頷く。そのとたん、テレビの音が急に大きくなる。
――不景気、不景気、飛んで行け――
北尾はあわててツマミを左へまわし、音を小さくした。
「コマーシャルになるとこれだ。テレビ局は安アパートに住んでいる者のことももう少し考えてくれなければ」
北尾は腹立たしげに言う。
「だからこれなんですよ」
病妻はイヤホーンを指で示した。
「健三がどうした」
北尾は上着を脱いでハンガーにかけながら言う。
「そうそう。あたしはあなたにお詫びしなければねえ」
「何でだね」
「じっと横になっているだけなのに、すっかり忘れてしまっていたんですからね。本当はあたしが一番先に思い出さなければいけなかったんですよ」
「だから何のことだと聞いているんだよ」
「おめでとうございます」
「え……」
北尾は振り返った。
「おめでとう……」
「お誕生日ですよ、あなたの」
北尾は一瞬宙を睨んだ。
「あ、そうかあ」
「満で五十六におなりで」
「ふうん……誕生日ねえ」
北尾は気落ちしたような声で言うと、病妻のそばへ坐り込んだ。そんなものがあったのかという感じだ。
「三十六年一緒にいるわけか」
「ええ。あなたが検査であたしが十八」
兵隊検査の年に北尾は見合い結婚をしていた。死んだ両親がお膳《ぜん》だてをした結婚だった。結婚、たちまち戦争。陸軍の高射砲部隊にとられて、ぶん撲《なぐ》られているうちに敗戦。家は空襲で丸焼け。
「お前も苦労ばかりする奴だな」
「いい時もありましたよ」
二人はほんの僅《わず》かのあいだ、じっとみつめ合った。
「で、健三が何だって」
「おこわを買って来てくれたんですよ。どっさりとね」
「赤飯を……あいつめ」
北尾は目をしばたたいた。
「普通の子は父親の誕生日なんて憶えているものかな。俺はおやじの命日しか憶えていない。おふくろの誕生日なら今でも忘れていないが……六月三日だよ。地久節《ちきゆうせつ》の反対だから憶え易いんだ」
地久節などと言っても若い人には判るまい。皇后誕生日で三月六日だ。
「そこの鼠入《ねずみい》らずをあけてごらんなさい」
鼠入らずも判らないかも知れない。今風に言うなら食器棚、か。
北尾は立って戸棚をあけた。透明なプラスチックの箱に入った赤飯が二つ置いてあった。
「あたしは健三とすましましたよ。健三もここで食べて帰ったんです」
北尾は憮然《ぶぜん》としたような顔でその箱入りの赤飯を取り出した。
「胡麻塩《ごましお》の瓶《びん》もあるでしょう。それにあなたの好きな目ざしと」
小さなよく乾いた目ざしが皿の上にある。北尾はクスンと鼻を鳴らした。
「健三め、出世しないぞ」
もっと現代的に生きてくれと北尾は言いたかったようである。
下町、正子、岩瀬、北尾、風間と結城元太郎、全員の顔が揃った翌朝である。
ゲンちゃんはそのあとすぐ、プロレスの世界へ戻って行った。なんとかという大物が以前からゲンちゃんの才能を高く評価していて、フリーの身になったのを知ると礼を尽して迎えに来たのだ。
「岩さんが広告読んでるわ」
正子がお茶を配ったあと、自分の席へ戻りながらおかしそうに言った。
「何のだ」
下町が上体を伸ばして岩瀬のほうを見た。
「これさ」
岩瀬は新聞にはさみ込んであった大型のチラシを持ちあげて見せた。
「マンション……」
「そう。子供が大きくなったから、今のところが狭くなってね」
「ちぇっ、贅沢《ぜいたく》言ってる」
風間が言った。
「マンションなんて」
それを北尾がさえぎる。
「そうらしいですね。マンションというのも、お子さんがいると案外住みにくいもんだそうで」
「狭くてねえ。便利は便利だが、すぐに手ぜまになってしまうのが欠点ですよ」
下町は眉《まゆ》を寄せて言う。
「で、買いかえるのか」
「冗談《じようだん》じゃない」
岩瀬は笑った。
「右から左へマンションが買えれば」
そう言ったとき、階下にガタガタと下駄の音。
「あの音を毎朝聞かずにすむさ」
全員が笑った。
「おや、おにぎやか」
となりの婆さんが現われる。
「何のおはなし……」
とみんなの顔を見まわし、
「あ、ボーナスが出るってわけなの……そうでしょう。ねえ、そうなんでしょう」
と、北尾や風間にしつっこく訊《き》く。
「あ、そう言えばもう十二月だ」
風間は真顔で言い、下町をしげしげとみつめた。
「所長も大変だなあ」
下町は左手で顔を撫《な》でた。
「お婆ちゃん、余計な火をつけないでくださいよ」
「あら、ボーナスの話じゃなかったの。それにしては景気のよさそうな笑い声だったけれど」
「岩さんがマンションを買いかえるんだそうですよ」
下町は苦しまぎれのように教えた。
「あら、やっぱりボーナス……」
「冗談、冗談」
岩瀬は閉口したように手を振った。
「マンションなんて買えるわけないでしょうが」
「子供が大きくなったのでもっと広いマンションを買おうというんですよ。その証拠《しようこ》に広告を見てる」
下町は岩瀬と婆さんの両方をからかいはじめた。
「あらほんと。で、今度はどこへ越すの。この近くに来ればいいのに」
「マンションを買うんじゃないんですよ。実は土地を探してるんです」
さすがに岩瀬は切りかえが素早い。下町のからかいを察して、自分もそれに乗ってしまう。
「土地……凄いじゃないの。さすがはもと国会議員の秘書さんだわ。やっぱり親分の下で甘い汁のおこぼれにあずかってたのね」
「そりゃそうですよ。何しろ先生がたのそばにいるだけで、いくらだって儲《もう》け話は、ころがり込んで来ますからね。それも税金なしの奴で。医者が税金で優遇されてるって言うけど、政治家はまるで税金ゼロですからね」
「そうなんですってね。うちの孫も一人くらい政治家にしちゃおうかしら。全部で五人もいるんだから、一人くらい悪人になったってどうということはないでしょう」
「悪人だって」
北尾と風間が声を揃えて笑った。
「で、どこら辺の土地を狙《ねら》ってるの。うちの親戚で一人、いま家を建てるってのがいるのよ。土地を買ったばかりだから、松戸の先のほうのことなら少しは詳しいのよ」
「そんな遠くじゃないんですよ」
岩瀬は真面目腐《まじめくさ》って答える。
「へえ、もっと近くなの」
「交通の便がよくないとね」
「そりゃそうよ。駅から一つも二つも山越えて行かなきゃならないんじゃ、いくら安くてもねえ」
「東京駅の近くなんです」
「おや、山の手線の内側……」
婆さんは目を丸くした。
「そりゃ大変だわ」
「いい所があるんだけど、今住んでいる人がなかなか立ちのかないんでね」
「そりゃ困ったわね。でも何か方法があるでしょう。岩さんなら」
「それがむずかしいんですよ。場所は最高なんだけど」
「どの辺よ」
「東京駅の」
「ええ、東京駅の……」
「丸の内中央口から自転車に乗って」
「自転車で……」
「まっすぐに一度も曲らないで行くと橋がありましてね」
下町が大声で言った。
「脱帽っ」
婆さんの目がきつくなる。
「あ、岩さんめ」
「あそこは広くていいんだけど、今いる人がねえ」
「いいの……そんなこと言って」
「木が多いし庭も広いし、第一便利だ。自転車でどこへでも行ける。東京駅も神田も九段も四谷《よつや》も」
「当たり前だわよ」
婆さんは苦笑した。
「でも、いい場所はいい場所ね」
「でしょう」
「すると、つまり全然土地なんか買うつもりはないというわけね」
「そう。つもりもなければ金もない」
「そうだと思った」
婆さんは声をあげて笑う。
「でも広い家に移りたいのは本当なんだ」
「誰だってそうよ」
婆さんは北尾を見た。
「ねえ北さん」
「ええ、まあ」
北尾は沈んだ声で答える。
「俺は木賃アパートが性に合ってる」
風間が淡々と言った。
「家が欲しいなあ」
婆さんが帰ったあと、岩瀬はしみじみと言った。
「でも、今いるところは3LDKなんだろう」
と下町。
「3LDKと言ってもいろいろござんしてね」
岩瀬は自嘲《じちよう》気味だ。
「八十|平米《へいべい》以上もあるのから、六十平米が切れちゃうのまであるさ。俺《おれ》んとこは五十九平米の3LDK。あれは売るときのうたい文句にすぎないんだよな。実質は3DKさ。排水は悪いし、風呂は二年に一回金を食いやがるし、中古とは言えひでえものをつかんじまったよ」
「欠陥マンションかい」
「そう。のべつ排水管がつまってやがる。原因は完成したてからはっきりしてるのさ。排水の縦管が二本しかないところへ持って来て、横管が小さすぎるんだ」
「縦管、横管というのは何なの」
正子が訊いた。
「上から下へ水を落す管さ。標準はトイレのが一本と風呂、洗面の一本、台所のが一本にベランダの洗濯機のが一本の合計四本。こいつが各戸上から下まで通ってなければならないんだが、うちのは二本だけ。しかもその縦管へ水を持って行く横の管の直径が四センチだか五センチしかないと来ちゃ、つまらないほうがおかしいじゃないか」
「最初から判ってるのなら、はじめに入居した連中がすぐ文句を言えばよかったんだ」
と下町が口をとがらす。
「そうは行かないよ。管はコンクリートの中だ。建物ができちまったあとでは、金がかかりすぎてとてもとても」
「つまらない話だ」
「洒落《しやれ》になる話じゃないんだぜ」
「すまん」
下町は首をすくめた。
「もしマンションをお買いになるんでしたら、なるべく大きなほうが安全ですよ」
北尾が言った。
「おや……」
岩瀬は意外そうな顔になる。
「北さんたちは不動産関係の調査をやっているんだ」
「あ、そうだったな」
岩瀬はあらためて北尾を見た。
「大きいというと、4LDKとか……」
「いや、そうじゃないんです。建物そのものの大きさですよ。法律がありましてね」
風間が待っていましたとばかり早口で言う。
「国土利用計画法」
「ほう」
岩瀬は褒《ほ》めるように微笑《びしよう》する。
「そうなんです。その法律では二千|平米《へいべい》以上の敷地に建てる場合は、分譲価格をそこの自治体に届けて認可を受けなければならないことにきめられているんです」
「それ以下のマンションだとどうなるの」
「事前に分譲価格を届け出なくてもいいんですよ。だから好き勝手な価格がつけられる仕組みでしてね。これは何もマンションに限ったことじゃないんですが」
風間がまた口を出す。
「これは或る仲介《ちゆうかい》業者に聞いたんだけど、間取りの全体の形が正方形に近いほど住み易いって言いますよ」
「そう言えばうなぎの寝床みたいな間取りが、よく新聞の折込みなんかに出てるなあ」
岩瀬は感心したように頷く。
「特に意図があってそうした場合は別らしいけど、三角の部屋が多いのも敷地そのものに無理があるって言ってました」
「そうだろう。三角の部屋じゃタンスなんか置けないものな」
正子がケタケタと笑う。
「三角のお部屋なんて」
「あるんだよ、たくさん」
風間も笑いながら言った。
「建物自体が三角に近い形をしているのだってあるんだ」
「へえ、そうなの。あたしなんか一生マンションにご縁がないから、そんな広告を見る気も起きないわ」
だから何も知らないのだと言いたげであった。
「しかしマンションじゃ核家族ですね。大家族主義には向いていない」
北尾の思いは息子たちの上へとんでいるようだ。
「ツー・ドアのファミリー・カーって奴。あれは二・五人乗りのつもりだって聞いたことがあるな」
岩瀬が言う。
「何だい、その二・五人って言うのは」
下町が首を傾《かし》げた。
「核家族向きってことさ。若い夫婦にちっちゃな子が一人」
「あ、そうか。でも、どっちにしろ俺には縁のないことだな」
下町がつぶやくと、正子が突然小学生のように右手をあげて言った。
「あたしも」
すかさず風間も手をあげる。
「俺も」
北尾がおずおずと右手を胸の辺りまで。
「わたしもだな」
そこで爆笑が起る。その笑いが納まったところで風間が言った。
「でも、所長もそろそろ引っ越しじゃないんですか」
「俺……」
下町が目を丸くする。
「またとぼけて」
風間はそう言い、立ちあがった。
「煙草《たばこ》を買ってくる」
階段へ向かい、鼻唄まじりにおりて行く。
「くちなしの、花のぉ……」
下町はげんなりした顔で、
「またあれだ」
とぼやいた。
「しかし、本気で家のことを考えなくてはいかんな」
岩瀬が煙草を咥《くわ》えて言った。
「梔子《くちなし》はとにかくとして、いずれはまた世帯を持たねばならないんだから」
「そう気易く言うなよ」
下町はニヤニヤしながら答える。
「いったい俺がどんな家に住めるって言うんだい」
「判らないよ。人生何が起るか一寸先は闇……いや、こいつは言い方が悪いな。とにかくみんな結局はそれなりの家に落着くことになるんだ」
「そうでしょうか」
北尾が心配そうな顔になった。
「なぜです。一生安アパートの間借り人だときめてしまってもつまらんでしょうに。望みは大きく……たいして大きくもないが、まあ建売りくらいには入れると思っていたほうが精神的にもいいじゃないですか」
「そうだといいんですがねえ。わたしはもうこのまんまじゃないかと思って」
下町が励ますように北尾に言った。
「そんなことないですよ」
「そうそう」
岩瀬も励ます。すると正子が大きな溜息《ためいき》をついた。
「いいわねえ、男の人は。幾つになっても希望が持てるんですもの」
「おいおい、ぶちこわさないでくれないか」
下町がおどけて言った。
「だって、あたしは今よりよくなりっこないもの。あとはおじいちゃんが死んで、少しは楽になるだけ。でも、一人きりになったら淋《さび》しいしねえ」
「正子さん。人生ってそう捨てたもんでもありませんよ」
北尾が真剣になぐさめはじめた。下町と岩瀬は顔を見合わせている。
「そうでしょうか」
「わたしをごらんなさい。この年で会社を潰《つぶ》して一家バラバラになってしまっても、この通り毎日元気でやっているじゃないですか。今にね、わたしの息子たちがみんな立ち直って……そういう時は何もかも一遍に来るんです。親の口から言うのも変ですが、三人ともみんないい子ですからね」
「まあ、三人も」
「ええ。あれたちが相談し合って、また昔のように同じ屋根の下で暮らせるように考えるでしょう。もう子供たちの番だ。そのうちいつか、急にわたしのアパートへやって来て、お父さん家ができましたよ、なんて言わないとも限らない。ね、お互いに人生を信じて生きようじゃありませんか。わたしはきのう五十六になったんです」
「へえ、誕生日だったんですか」
下町が言った。
「ええ。すっかり忘れていたんですが、家へ帰ったら末の子供が赤飯を持って来てくれていました。ささやかながらそれで祝いましてね。おかげでまた元気が出ました。みんなが力を合わせれば何とかなるもんですよ。そうじゃありませんか」
正子は立ちあがり、裏の窓際からポットを取りあげて、
「お湯をいれて来ます」
と階下へ向かった。
「北尾さんのところは、いいお子さん揃いなんですねえ」
北尾は照れて頭に手をやり、
「まあまあです。ちょっと頼りないですが、悪いことをする奴はいませんから」
と笑った。
「うちのは気が強くてね。喧嘩《けんか》ばかりして来るんです」
岩瀬が言った。
「それでいいんですよ。わたしとこのも、一番下がそうでした。喧嘩しても負けて来るならいいんですが、それがあなたやっつけてばかり。いやあ、昔はよくご近所へあやまりに行かされたもんです。しかし、今では一番しっかりしてますね」
「そうですか、いや、家内が心配性でしてね。お父さん放任主義がいけないなんて……」
下町は二人のお喋《しやべ》りのあいだに、トイレへ行くふりでそっと階段をおりた。
台所に正子が背を向けて立っている。下町は階段をおりると、そのうしろにたたずんだ。正子がクシュン、クシュンとはなみずをすすっていた。
「どうした、え……」
正子のうしろ姿がこわばる。
「元気を出せよ」
「何でもありません」
泣声であった。
「どうしたんだよ」
下町がそっと肩に手を置くと、正子はいっそう体を堅《かた》くして半歩前へ逃げた。
「みんな、しあわせなんだなあ、って」
「そう思ったのか」
正子は背を向けたまま、こくりと頷く。
「たとえ今はバラバラでも、いつかは一緒に暮らそうと一生懸命にやってるんです。うちなんか、まるで駄目。心が冷え切っちゃって、誰かが寄っかかりに来やしないかと、お互いにそればっかり」
「雪も氷も、冷たいものはみんないつかは融《と》けるよ」
正子は激しく体ごと首を左右に振った。
「北さんも岩さんも、子供がいます。だから辛くても先に望みを持って生きられるんですわ。あたしなんか、あたしなんか」
正子は嗚咽《おえつ》した。
「寝た切りのおじいちゃんの面倒みるだけ。そのおじいちゃんはあたしより先に死ぬにきまってるし。先に望みなんか何もないじゃない。もともとは、おじいちゃんがもうひと旗あげようとしたのをあたしが手伝っただけなのに。それだって、みんながおじいちゃんを邪魔者扱いにするから、可哀そうでやったんじゃないの。あたしが信用金庫なんかに勤めてたから悪いのよ。上の人に言って家《うち》を担保にお金を借りて……うまく行ってればみんなおじいちゃんに寄っかかってた筈だわ。でも駄目になって、家を取られて、バラバラになって、おじいちゃんは行方をくらましちゃうし、弟は……グレて刑務所へ行っちゃって。あたし一人が責任をなすりつけられて、それから一人ぼっちで暮らしてたら、ヨレヨレになって帰って来たおじいちゃんをみんなであたしに押しつけちゃったんじゃないの。同じ親でも北さんはいいお父さんだわ。うちのふた親は鬼みたい。そばへも来るなって調子なんだから」
正子の泣きかたがだんだん穏かになっていた。下町は根気よくその激発した感情がおさまるのを待ってやっていたが、ふと気配に気付いて振り返ると、二階から岩瀬と北尾が困ったような顔でのぞいていた。
下町は手を振ってそれを引っ込ませる。
「みんなそれぞれあるんだよ」
そう言うと正子は素直に、
「判ってます。ごめんなさい」
と答えた。
「でもね、どこかの隅に君の言葉が判る男がきっといる。きっといるんだ。だからしっかりしな」
下町は虚しい気持でそう言った。
「誠に申しわけありません」
正子を下町が適当に使いに出したあとである。
「いい年をして何とも迂闊《うかつ》なことでした」
北尾が肩をすぼめて下町の前に立ち、ペコペコと頭をさげた。
「そんな、気にすることはありませんよ」
下町は困ったような顔で言った。
「正子さんにもあとであやまらなければ」
「かまいません。気が付かなかったふりをしていてやってください。そのほうがいいんですよ」
「しかし悪いことをしたなあ」
岩瀬が少し大きめの声で言う。
「彼女にして見れば、悲しかったろうなあ。子供もいないし、親兄弟には見放されたようだし……そこへ俺たちが、慰め顔で子供の話か。まずいっちゃありゃしない」
「まったくです。実を言うと、わたしも常日頃こういうことになればいいのだがと思っていたものですから、ついオーバーに息子の自慢やら何やら並べたててしまいまして」
北尾がまた頭をさげたとき、ガラガラと戸のあく音。
「もう帰ったのかな」
下町は正子の帰りにしては早すぎると耳を傾けた。
ガタガタと下駄の音がはじまるが、どうやら悠さん一人ではないようだった。
「お客さまですかな」
北尾が急いで席へ戻った。
「ここなんですよ。ね、汚いでしょう」
悠さんの声が聞こえた。
「どうぞこっちです。履物《はきもの》のまんまでいいんだから楽でしょう」
誰かを案内して来たらしい。
すぐ悠さんの五分刈り頭が現われた。
「こんちは」
「お客さまですよ。ちょうどうまい具合にうちで道をお尋ねになったものだから、ついでにお連れしちゃった」
あとから現われたのは、いとも貧相な老夫婦である。二人とも痩《や》せこけて、おどおどしている。
「どうぞこちらへ」
下町が立って自分のうしろの来客用のソファーへ案内しようとした。
「あのう……」
夫のほうが口ごもる。
「はい」
と、下町。
「あのう……わたしら、茂木正子の親なんでございますが」
「ああ、これはこれは」
下町はドギマギしながら答えた。
「そうですか、茂木君のお父さんとお母さんでいらっしゃる……」
下町は急いでデスクの抽斗《ひきだし》から名刺を取り出し、父親のほうに渡した。
「わたしが下町誠一です。どうぞよろしく」
下町は自分の名を無意識にシタマチと言っていた。
「正子の母でございます。いつもあの子がお世話になっておりまして」
母親のほうは案外スラスラと喋った。
「こちらこそ、茂木君には力になってもらっております」
父親が北尾と岩瀬を見て言う。
「あの、こちらのお方で……」
「あ、はい。岩瀬と申します。どうぞよろしく」
「正子がお世話になっております」
父親は深々と頭をさげた。
「わたし、北尾貞吉と申します。年はとっておりますがここでは一番|後輩《こうはい》でして、いつも茂木さんにはいろいろとお教え願っているのです」
「行き届きませんで、今後ともよろしくお願いいたします。はい」
はい、と言って父親はまた最敬礼だ。
「まあそこでは何ですから、どうぞこちらへおかけになって」
「で……あの、正子は……」
「ああ、いまちょっと使いに行ってもらっている所です」
「では失礼をいたしまして」
夫婦は衝立《ついたて》のかげへ入ってソファーに坐った。
「北さん、お茶、お茶」
悠さんが北尾に小声で言う。
「あ、はい」
北尾はびっくりしたように小走りに裏の窓際へ行ってお茶の仕度をはじめた。悠さんはひそひそ声で岩瀬に言う。
「知らなかったなあ。正子さんのご両親だなんて」
「うん」
岩瀬は腕組みをした。
「正子さんて幾つだっけ」
「四十二、いや三か」
「ご両親もいい年だね、もう」
「そりゃそうさ。彼女の親だもの」
「両方とも還暦《かんれき》すぎ」
「だろうな」
「するとおじいさんという人は……」
「八十すぎてることはたしかだ」
「そのおじいさんを正子さんが面倒見てるわけか。大変だな、そりゃ」
「いったい何が起ったんだろう」
腕組みをした岩瀬は心配そうに言った。
「まさかおじいさんが……」
「だったら二人揃っては来ないよ」
「いい話かね」
「さあ、どうだか判らんぞ」
「いい話だといいね」
「うん」
二人がひそひそやっている内に、北尾がお茶をいれて運んで行った。
下町が形通りに正子の働きぶりを喋って聞かせたあと、話は本題に入った。
「一度あの子のお勤め先も見ておこうと思っていたのですが、何せ貧乏|暇《ひま》なしでございまして」
話すのはもっぱら母親のほうで、父親は一見仏頂面で黙り込んでいた。
「こういう三流探偵社ですが、茂木君はじめみんなのおかげで何とか細々とやっております」
「あの子も余り運がいいと言えたほうではございませんでしてね。あちらこちらと尻の落ちつかない時期もありましたんですが、こちらにお世話になってからは、すっかり落ちついたようで安心しているんでございます」
「なかなかこういう仕事に合っている性格のようで」
「まあそうですか。わたしら何もしてやれませんので、何とか落着いて暮らしてもらえればひと安心なのでございますよ。何せ貧乏はかたき、でございますからねえ。正子からひょっとしてお聞き及びかも知れませんが、以前悪いことが重なりましてからは、もうその日暮らしでございましてねえ。寒ければ風邪《かぜ》を引かないだろうか、暑ければおなかをこわさないだろうかと、折りにつけ心配はしてるんでございますが、食べる口が先で手足があとからついて来るといったあんばいでは、ついとりまぎれてこちらへうかがう折りもございませんでしたのです。はい」
母親も、はい、と言ってから頭をさげる癖があるらしかった。
「ところが、まあこのたびは正子の弟が遠洋航海とか言うものに出ておりましたんですが、それが帰って参りましてねえ」
刑務所へ入れられているという下の弟のことを、正子は遠洋漁業の船に乗っているというように人に言っていた。それが刑期をおえて帰って来たのだ。
「それで、帰って来た下の息子が言うには、船に乗っているうちによく考えたが、この先は一家が力を揃えて将来また一緒に住めるよう努力して行こうじゃないかと……。負うた子に教えられるとはこういうことで。それで、貧乏してたからしょうがないけれど、お姉ちゃんを放っておくのは可哀《かわい》そうだ、なんて申しますんですよ、はい」
またそこで頭をさげる。
「ほう、そうでしたか。立派《りつぱ》になられたんですねえ」
下町がそう言ってやると、黙りこくっていた父親のほうが右の人差指で目をこすり、グスンとはなをすすりあげた。で、それっ切りまたなんにも言わない。
「おかげさまで。それですっかりわたしたちも気が付きまして。あの子にはすまないことをしたと」
「茂木君はもうすぐ帰って来るでしょう」
「いえ……それで、電話か手紙にでも書いて、一度近いうちに堀切《ほりきり》へ訪ねて来るように言おうと思いましたんでございますが、あの子とは少し行き違いもありましたし、帰って来た息子が、お母ちゃんお父ちゃん、それじゃいけない、二人揃って行かなければお姉ちゃんだってすぐに訪ねて来てはくれないよと、まあそう申しますもんでございますから」
「なる程。それでここへわざわざ」
「はい。夜になりますと出にくうございますし、日曜日は日曜日で朝から仕事がございましてねえ。それでお邪魔とは存じましたんですけれど、こうしてこちらへあがったようなわけなのです」
「判りました。とにかく茂木君がすぐ戻って来ますから、どうかもう少しごゆっくりと」
すると父親が母親の袖を引いて目顔で何か合図した。
「いえ、あの今日のところは会わずに参ります。長い間のことだものでございますから、一度にそんなにしてもあの子の気持がどうなりますか判りませんし」
「ははあ……いや、そうですね。ごもっともかも知れません」
「で、これは帰って来ました息子の土産でございますが、日頃お世話になっている皆さまに差しあげてくれるよう、お預かり願いたいのですが」
母親はデパートの古ぼけた紙袋にいれた品をテーブルの上へそっと置いた。
「承知しました。たしかにお預かりします」
「帰って来た息子が、くれぐれも正子に来てくれるよう申していたとお伝えください」
すると父親が、勢い込んで言った。
「い、いま上の息子夫婦のところへ行ってるんです。つまりその、手わけして」
今度は母親が父親の袖を引っぱってやめさせた。
「では正子の戻りませんうちに失礼させていただきますので」
「そうですか。では茂木君には今お聞きしたことをちゃんと伝えておきます」
二人は立ちあがって深々と頭をさげる。
「どうかよろしく」
「はい」
下町は先に衝立《ついたて》の向こう側へ出て階段へ向かった。
「お世話になりました」
夫婦は悠さんにも礼を言い、北尾と岩瀬にも挨拶《あいさつ》して階段をおりようとした。
が、あとずさる。
トントントンと急いであがって来る足音。
「ただいま……」
正子だった。
親子が棒立ちで睨み合う。その睨み合いが長すぎるので、下町は何か喋ってとり持とうとした。
とたんにはじけたような正子の声。
「お母ちゃあん……」
肥《ふと》った丸い体が、痩《や》せこけた二人に飛びついて行き、両親は二、三歩うしろへよろめいたが、正子は二人一遍に両腕をひろげて抱いてしまっていた。
「お父ちゃあん……」
泣きじゃくるのだ。三人ひとかたまりになって泣いている。
「来てくれたのね。来てくれたのね」
と正子。
「すまなかった。すまなかったなあ」
「正ちゃん、許しておくれね」
と両親。
下町には、息子の土産だという紙袋の中身が匂いで判っていた。干鱈《ひだら》なのである。いつも正子は弁当のおかずに干鱈を持って来て、遠洋漁業の船に乗っている弟が送ってくれたものだと言っていた。でも刑務所で鱈が漁《と》れるわけがない。両親はここへ来る前、自分の家の近くでそれを買って紙袋に入れたのだろう。
下町はふと、ついさっき自分が台所で正子に言った言葉を思い出していた。
――どこかの隅に君の言葉が判る男がきっといる――
言ったそばからその男が現われたのだ。しかしその男は下町が考えたような正子の恋人とか夫とかいうものではなく、実の弟だったのである。
人生とは何と予測しがたいものであることか。下町はつくづくそう思いながら、オイオイと泣く親子の声を聞いていた。
雨が降っていた。
「この分だと、雪になるかも知れないわよ」
朝のうち、例によってとなりの婆さんが来てそう言っていた。十二月半ばの冷たい雨だったが、岩瀬も北尾も風間もそれぞれ傘を手に、出勤するとすぐ仕事に散って行った。
「こんな日は嫌だなあ」
下町は窓際に立って下の道を眺めながら言った。尾行だの張り込み、聞き込みといった仕事が主な探偵社の調査マンにとっては、雨が一番の苦手なのだ。自分が野良犬にでもなってしまったような気がして、疎外《そがい》感にさいなまれるのである。それをよく知っているだけに、雨の日は岩瀬たちが出て行ったあと、いつも下町はオフィスで落着かない様子になる。
「でも、ここのところ順調ですわねえ」
茂木正子が帳簿をつけながら言った。半分は励ますつもりらしいが、半分は本当なのだ。世の中の景気がいいと不正も背信もうまく隠蔽《いんぺい》されているが、不景気になるとそういうものがあっちでもこっちでもバレはじめる。早い話が亭主の浮気だって、小遣《こづか》いが心細くなったとたんにバレはじめるものだ。
「少しは景気のいい時もなければな」
下町は窓を離れ、石油ストーブのそばにしゃがみ込んで芯《しん》を上下させ、調子を調べた。
「景気がいいってほどじゃありませんけど」
正子は帳簿から顔をあげて苦笑を泛べた。
「でも少しはボーナスを出せそうじゃないか」
「〇・八か月」
「それだってこんな貧乏探偵社じゃ上出来さ」
下町は急に正子をみつめ、
「まだ誰にも言ってないだろうね」
と念を押す。
「言いませんわよ」
正子は心外そうに口を尖らせた。
「何とかしてクリスマス前にはボーナスを渡せるようにしたいな」
「びっくりしますわよ、みんな」
正子はたのしそうな表情になる。
「油断してるからな。ボーナスなんて出っこないと」
「嫌ですわ。そういうの、油断って言うのかしら」
「そうか。じゃあ訂正しよう。あきらめ切ってるからな。……これでいいかい」
正子はクスクスと笑った。
「とにかく塵《ちり》もつもればさ。まわしの仕事でも数をこなせば馬鹿にならない。まったくみんなよく働いてくれるなあ」
「本当に」
正子は真顔になって深く頷《うなず》いた。不況のせいか同業者から廻されて来る下請け仕事が常になく多く、ようやく調査の仕事に慣れて来た北尾や風間が、数こなしに精を出してこのところ意外に業績がよくなっているのだった。
「残念ですわ」
正子は下町が自分のデスクに戻ると、帳簿に綺麗《きれい》な字を書き込みながらつぶやくように言った。
「何がだい」
「結局うちを支えているのはまわしの仕事なんですものね。じかに入って来た仕事はみんな採算がよくありませんわ」
「そりゃそうだ」
下町は苦い表情になった。
「俺がだらしないからな」
正子は驚いたように顔をあげる。
「そんな……」
「いいんだよ」
下町は笑顔になった。
「自責の念てやつさ。別にひがんで言ったわけじゃない」
「まわしの仕事だって、所長が頑張《がんば》っていらっしゃるからこうしてだんだん増えているんです」
「でも、同業者からもらったのではないここ独自の調査でやって行けるようになりたいもんだ」
正子はまた帳簿の仕事に戻る。
「やはり場所のせいなんでしょうかしら」
「山の手や都心のオフィス街でないと、こういう商売はうまく行かないのさ。これはここではじめる時からみんなに言われてたよ」
「下町の会社にだってトラブルは多いでしょうに」
「しかし、トラブルには相手がいる。相手が都心から山の手方面にかけて多いんじゃ、やはり下町の探偵社は損さ」
「何かいい知恵はないかしら」
「いい知恵……」
「探偵社って、とても入り辛いでしょう。もっとみんなが気軽に調査を頼めるようになればいいんですよ。娘さんが友達のところへ行くと言って出掛けたけど、本当かどうかどうしてもたしかめたい時だってあるでしょうし、お仕事のことだって、最初にちょっと調べておけば欺《だま》されずにすんだのにということだって、たくさんあると思いますわ」
「むずかしいね、そいつは」
下町はため息をついた。
「そばの出前を頼むように、気軽に探偵をやとうようになれば言うことはないけれど」
正子は急に明るい声になった。
「でも今はわが下町探偵局は快調です。こんなにすんなり新年を迎えられる十二月なんてありませんでしたわ」
「おいおい」
下町はおどけ気味に言った。
「それは励ましてくれているつもりなのかい」
「だって本当に快調なんですもの」
「やれやれ……」
下町は大げさにがっくりして見せる。
「借金に駆けまわらないだけいいってことか」
正子は声をあげて笑った。
「借金をしなくていいということは、あたしなんかには最高に豊かだってことですよ」
「ちぇっ」
下町は舌打ちする。
「スケールが小さいんだよ、スケールが。借金、借金と言うが、俺たちにはまともな借金なんかできないんだぜ。銀行なんか相手にしてくれやしないさ」
「借金なんかしないほうがいいんです」
正子は下町にとり合わず、そう言うと算盤《そろばん》を帳簿の上へのせて弾《はじ》きはじめた。
下町は煙草に火をつけ、窓の上のほうのすりガラスごしに、降り続く冷たい雨をみつめていた。
階下に格子戸のあく音がしたが、それっきりしばらく足音が立たない。
「誰かな」
正子と下町が顔を見合せ、耳をすました。
「ごめんください」
細い女の声が聞こえる。
「いけねえ」
下町は首をすくめ、あわててつけたばかりの煙草を揉《も》み消《け》した。正子は素早く立って階段へ向かったが、おりるときちらっと振り返って、うろたえている下町へ不審《ふしん》そうな目を向けた。
階段をおりて行く正子の足音が階下の廊下へ移り、
「いらっしゃいませ」
という声が聞こえた。
「参ったな」
下町は二階でしきりに頭をかいている。
部屋の中を見まわし、自分のデスクの上の湯呑《ゆの》みの位置をなおしたりする。
「どうぞこちらへ。いえ、お履物はそのままで結構ですから」
カタリ、カタリと客の足音。
「狭くて急ですからお気をつけて」
正子はそう言うと足早にあがって来る。下町の予想通り、正子の顔は上気していた。
「浅草の野崎さん、ですって」
目をキラキラさせて言う。下町は頷き返した。
「大変」
正子は低く言うと裏の窓際へお茶をいれに行く。
カタリ、カタリとあがって来たのは女客で、下町探偵局と書いたガラスの向こうで緑色がかった雨コートを脱いでいる。うしろで束ねた黒髪に白い小さな顔。梔子《くちなし》の君《きみ》、野崎清子であった。
「失礼します」
中へ入って叮嚀《ていねい》に頭をさげた。
「やあ、これはこれは」
下町はたった今気付いたという素振りでデスクを離れた。
「あ、傘《かさ》はそのポリバケツに」
清子は蛇《じや》の目《め》傘を手にしていて、下町に言われた通り、窓際に置いた青いポリバケツにそれを突っ込み、壁の腰板にたてかけた。
履物《はきもの》は爪皮《つまかわ》つきの足駄《あしだ》だ。黒塗りである。
「この雨の中を」
あいまいにそう言った下町は、困ったような目でちらりと正子のほうを見た。
「あ、おコートはあたしが」
濡れた雨コートの置場を探している清子へ、正子がそう言って飛んで来た。
「すみません」
清子はコートを正子に渡した。
「こんなものを履いて来てしまったものですから」
カタリ、カタリと足駄の音を遠慮がちに立てながら、清子は下町が示した椅子《いす》の前まで来た。
「突然お邪魔いたしまして」
「いえ、何。ひまですからね」
下町は両手のやり場に困ったように、脇の辺りや腿を無意味に手でこすった。
「所長」
正子が呼んだ。
「ん……」
「こちらでは……」
正子は衝立のかげのソファーを示す。
「いや、いいんだよ」
下町は憤《おこ》ったように言い、デスクをまわって自分の椅子に坐った。
「どうぞ」
清子に坐れと合図し、
「嫌な天気ですね」
と、何やらぎごちなく微笑《びしよう》する。
「ご無沙汰してました」
清子はにこやかに笑った。
「汚い所でしょう。東京一の貧乏探偵社ですからね」
清子は、まあ、と言うような表情で下町を優しく睨《にら》んでから、遠慮なくオフィスを見まわした。
「以前は仕舞屋《しもたや》さん……でしょう」
当たりさわりのないことを言う。
「ええ」
正子がひどく堅くなってお茶を運んで来た。
「粗茶ですが、どうぞ」
「はあ、有難うございます」
正子は清子の前へお茶を置くと、古ぼけた丸い盆を両手で持って、とって置きの笑顔を作った。
「あいにくと、みんな出払っていまして」
下町が窓のほうへ目をそむけて言う。
「そのほうがいい。助かるよ」
清子が悪戯《いたずら》っぽく尋ねた。
「あら、どうしてですの」
「からかわれる」
清子が口に手を当てて笑った。
「紹介しとこう。この人が梔子《くちなし》の花だよ」
「まあ」
正子だってとうにそのくらいのことは気付いていたらしいが、下町のやけになったような言い方に気おされて、返事のしようがないらしく、
「どうぞごゆっくり」
と言って裏の窓際へ去った。そっちへ行ったって、居場所もなければすることもないのだが。
「あなたははじめてここへ来たが、実はもう有名なんですよ」
清子は黙ってほほえみ返している。
「何しろ悠さんやとなりのお婆ちゃんが相手では、かないっこない」
「思い切ってうかがってよかった」
清子はひとりごとのように言った。
「何だかはじめてのところじゃないみたい」
「貧乏|臭《くさ》いから……」
「そう。あたしって余りいいところを知らないでしょう」
「参ったね、こりゃ」
清子はちょっとあわて、
「あら、悪いこと言っちゃって」
と首をすくめた。
「いや、水を向けたのはこっちですから」
下町も二人の会話が少し変だったのに気付いて笑った。
「で、今日は何です」
下町はまたちらりと窓のほうを見た。ただふらりと遊びに寄ったにしては、冷たすぎる雨が降っている。
「あの、それなんですけれど」
清子は態度を改めた。
「何か僕で役に立つことがありますか」
調査依頼だ……下町はそう察していた。
「ちょっと折り入ってご相談が」
清子が喋りはじめた。
10
「千住のほうのお風呂屋さんのことなんですけど」
「ほう、お風呂屋さんね」
「ええ。あたしの子供の頃からのお友達なんですけれど」
「と言うと、悠さんとも……」
「いいえ。女の人なんです」
清子と悠さんは油絵教室を通しての昔馴染《むかしなじ》みだが、それとも少し違う付合いらしかった。
「橋本早苗《はしもとさなえ》さんて言うんですけど、ずっと松の湯ってお風呂屋さんをやっているんです」
下町は黙って頷いた。銭湯と言えばいかにも庶民《しよみん》的な感じで、それも下町風の匂いがする業種だが、かなりの土地がなければ成り立たない商売だし、経営者はみんなその土地に古くからいる人たちだから、土地も自分のもので当然実質的にはかなりの資産家ということになる。
「つい先だって、その松の湯のおかあさんが亡くなったんです。もっとも、もう七十すぎで、おとしはおとしだったんですけど」
「すると、相続の揉めごとか何か……」
「ええ。松の湯は女の子ばかりで、早苗さんのほかに三人いるんです」
「風呂屋をやっているのがその早苗さんという人で、ほかの三人はみな家を出ているんですね」
「ええ」
下町は舌打ちをした。
「よくある話だ」
裏手の窓際でうろうろしていた正子は、話が仕事のことになったので安心したように自分のデスクに戻った。
「最近は町の公衆浴場の経営も相当苦しいと聞いています。娘四人が遺産の取りっこをしたら、風呂屋をやめて土地を手ばなすよりないでしょうな。で、早苗さんのご主人は……」
「独身なんです」
「いくつ」
「四十五」
「そいつは……」
厄介《やつかい》らしい、と下町は感じたようだ。
「松の湯のお父さんという人は、終戦のちょっと前に兵隊に行ってそれっきりなんです」
「戦死……」
「ええ。松の湯は空襲のときもうまく焼け残って、それを直し直し今日までやって来たんですけど、とうとうおかあさんも亡くなっちゃって」
「マンションにでもしちゃったほうが楽だってことは、僕ら素人《しろうと》にも判りますね」
「早苗さんは、ほかの人たちとはお母さんが違うんです」
「違う……」
「本当は橋本じゃなくて、渡辺早苗って言うんです。おめかけさんの子だったんです。松の湯の橋本さんは、戦争前手広く植木屋さんなんかもやっていて、お金持だったんだそうです。今ではすっかり家が建てこんでしまいましたけど、松の湯の近くに大きな植木園……植木溜めって言うんでしょう、あれは。そんなのがあって、戦後の苦しい時期に、それを少しずつ売りながらやって来たんですよ。ところが、お父さんが兵隊にとられたあと、空襲で早苗さんのおうちもやられてしまって、早苗さんは集団疎開へ行っていて助かったけれど、お母さんは死んでしまったんです。それで、終戦のときから松の湯へ引きとられて大きくなったんです。でも松の湯には三人も本当の娘さんがいるし、お嬢さん扱いで育った人ばかりだったから、早苗さんはまるで女中がわり。中学へは行かせてもらったけど、とうとう高校へは行かずじまい」
「あなたとは少し年が違うようだけど……」
「あたし、松の湯へ通って大きくなったんです。松の湯へ行くといつも早苗さんが働いていて、可愛がってもらったんです」
「それ以来の付合いか」
「ええ。あたしも片親だったし、年は十も違うけど、気が合っていたんです」
「その人が松の湯を守り抜いて、ほかの娘たちはみんな外へ出て行ったんだね」
「ええ。一番上の梅代さんは早苗さんより二つ年下で、ほんのしばらく早苗さんと一緒に松の湯を手伝ったけど、お婿さんをとる話がこじれて家出をしちゃったんです。お風呂屋さんが嫌いだったんですよ。その少し前に、二番目の杉恵さんが恋愛結婚したし、そんなこともあって自分の好きなように生きたくなったんでしょうね。一番下の美貴さんは」
清子はそこで声をひそめた。
「実は映画会社のニューフェイスに応募して合格しちゃいましてね」
「ほう、ニューフェイスか」
下町はなつかしい言葉を聞いて顔をほころばせたが、清子は声を低くしたまま言った。
「新島晶代《にいじまあきよ》なんです」
「え……」
「そうなんですよ。もう押しも押されもしない大女優ってとこですけど、実は新島晶代が松の湯の末娘なんです」
「へえ、あの新島晶代が千住の銭湯の娘か」
「最初っから、隠し抜いているんです。今じゃどうか知らないけど、若手の頃はそういうことって、具合が悪いんでしょうね」
「イメージ・ダウンになるのかなあ。全然関係ないような気がするがねえ」
「とにかくそうなんです。で、おかあさんが亡くなっちゃったら、早苗さんの立場ってむずかしいんでしょう……」
「そりゃむずかしい。第一に橋本姓じゃないもの」
「早苗さんは、お客さまにすまないからと言って、お葬式の日に一日休んだだけで、ずっとお風呂を続けているんですけど、このあいだ会ったら、もう荷物なんかを整理しはじめていて、出て行く覚悟をきめているんです」
「それで僕にどうしろと言うんですか。調査ならお手のものだけれど、弁護士じゃないですからねえ」
「その三人の娘さんたちが、今何を考えているのか、調べてもらえませんか」
「考えていることを……そいつは厄介だな」
「三人でこそこそ集まっては何か相談しているらしいんです。これ、実は早苗さんに頼まれたんじゃないんですよ。あたしたちのような人間には、卒業した小学校と同じように、お風呂屋も大切なんです。町がどんなに変っても、お風呂屋さんだけは昔とおんなじように頑張っててくれるし。自分のうちにお風呂を持っちゃった人も多いけど、みんな松の湯のことを心配してるんです。でも、早苗さんは全然欲がなくて、追い出されるときめてしまっています。長年松の湯に通った人たちが三十人ほど集まって、何とか松の湯を残して欲しいと相談し合ったんだけど、何しろお役所が相手じゃなく、これは一軒の家庭の中の問題でしょう。早苗さんが橋本のおかあさんの財産を引きついでくれれば間違いなく松の湯は残るけれど、こういう世の中では娘さんたちだってそう無欲じゃいられないだろうし、と言って娘さんたちが取れば松の湯をやれるわけがないし……それには娘さんたちが何を考えているか知る必要があるんです。土地を売り払いたいのなら、住民代表の松の湯ファンが駆けまわって、お風呂屋をやってくれる買手を探します。そうすれば早苗さんだってずっと松の湯で働けるでしょう……」
下町は溜息をついた。
「調べることは調べますがね。早苗さんにだって相続する権利はある筈ですよ」
「でも仮りに、四等分したって松の湯は残りっこないでしょう」
たしかにその通りだった。
11
親の代からなれ親しんだ松の湯をなくしたくない気持は下町にもよく判った。それにどうやら、早苗という女性がみんなに好かれ、今度のことで同情を集めているらしかった。
「要するに橋本家の内輪のことに介入はしたくないが、松の湯ファンとしては気が揉《も》めて放っておけないから、そっと様子を調べて欲しいということですね」
下町はそう言って一応区切りをつけると、清子から松の湯の所在地やら、三人娘たちの住所を聞いてメモをしたあと、正子にとなりの婆さんと大多喜悠吉を呼びにやらせた。
「ここに住んでいらっしゃるんだそうですね」
清子は好奇心を示して言った。
「ええ。見ますか、僕の巣を」
下町は気軽に腰をあげた。
「折角来たんだから、拝見して行こうかしら」
清子も望むところらしかった。
「下なんですよ」
下町は下駄ばきの清子の足もとを気づかってスリッパを探しかけたが、下の部屋に自分のが一足あるきりなのに気付くと、あきらめて、
「足もとに気をつけてくださいよ」
と注意をし、階段をゆっくりとおりて行った。
「ここです」
台所のそばの戸をあけて言う。
「まあ、可愛《かわい》いお部屋」
清子は若やいだ声で笑った。
「本当にここが所長さんのお部屋なんですの」
壁も天井も白ペンキで塗ってあり、ブルーのカーテンをかけて、きちんと片付いた感じだから、意外だったようだ。
「みんな自分でやったんですよ」
「ペンキ塗りや何かも……」
「ええ」
「マメなんですねえ」
「おはずかしい」
下町はおどけて見せた。
「ふつうのアパートじゃこんなことさせてくれませんわ。それに、あたしなんか不器用ですから」
清子の言いかたはどことなくしんみりした感じになった。
「その後野崎さんからは……」
下町は一番気になることを、さりげなく尋ねた。
「何も」
清子はその話を避けるように短かく言い、
「これ、何か由緒《ゆいしよ》ありそう」
と、また笑いを含んだ声で古ぼけた安楽椅子に坐った。
「由緒なんかありませんよ。この商売をはじめたとき、古道具屋で見つけて何となく買ってしまったんです。あの頃は僕も探偵という仕事に、まだ幾らか夢を持っていたようだな」
「あら、どうして……」
「探偵と安楽椅子《ロツキング・チエアー》にはほんの少しつながりがあるんですよ。安楽椅子探偵と言ってね。坐ったままで難事件を解決する名探偵が、推理小説のほうにはあるんです」
「あら、そうなんですの」
「ええ。昔、僕も散々推理小説を読んだものですからね。でも、実際にやってみると、日本の探偵には推理なんて要らないようですよ。ただコツコツと事実を調べあげて依頼者《いらいしや》に報告するだけです」
「そんなこともないでしょうけれど、そりゃまあ、小説の中の名探偵のようには行かないでしょうね」
「あなたはミステリーなどを読むんですか」
「さあ」
清子は安楽椅子をギシギシ言わせながら、小首を傾げて微笑した。
そのとたん、下町は清子に対する激しい感情に襲われた。それは見なれた自分の部屋の中に彼女がごく自然な態度で納まっていることにもよったし、安楽椅子をギシギシと揺らせている子供っぽい姿のせいでもあった。
とにかく抱きしめたくなってしまったのである。
下町はこらえ切れず、右手を伸ばして斜めうしろから清子の肩に手をかけた。
「気に入った……」
さすが中年男だけに、声はさりげなく、肩に置いた手にもあいまいさがあって、受取りようによってはどうということもない。
が、ギシギシという音がピタリとやんだ。清子はまるで素肌に触れられたように体をこわばらせ、じっと前をみつめていた。
「何だか、以前からよく知っていた場所みたい」
かすれ声で、辛うじて返事ができたという感じであった。
「これからちょいちょい来てくれるといいがな」
「ええ」
その、ええという返事は、下町が考えているよりずっと素早かった。しかも、肩に置いた下町の右手に、清子の左手がそっと触れてきたではないか。
「今度、いつ来てくれますか」
下町はささやくように言った。
「いつでも」
清子の声は低く、下町の指に重ねた手は、まるで相手が何か仕掛けるのを待つように、じっと動かなかった。
下町は何かするべきだと感じた。しかし、思いがけない自制心が働いてそれをとめた。自制心というよりは、億劫《おつくう》さと言ったほうがいいかも知れない。長いあいだ女から遠のいていた中年男の、それが限界であったのかも知れない。
12
下町はそれでも、ずっと清子の肩に手を置いたままでいた。その時間が不自然な長さになる寸前、清子が安楽椅子からそっと立ちあがった。
下町はそれをじっと見ていた。すると清子は照れたように安楽椅子を一回軽く左手で揺らせ、それをきっかけにするように、下町の真正面に立って同じようにみつめ返した。
「早く解決するといい」
下町はその意味のありすぎる沈黙に耐えかねるように言った。
「どちらが……」
清子がすぐに問い返した。
「君のほうだ」
君の、と言い、ほうだ、とぞんざいに言ったことが下町の勇気をふるいたたせた。
両手を伸ばして清子の体に手をかけた。清子はこわばった表情で目をとじた。
「一緒になりたいんだ」
清子の体が重さを失ったようにすっと前へ傾いた。
ガラガラ……。
「悠さん、早くおいでよ」
とたんに清子は重さを取り戻した。目をあけて怯えたように下町を見る。下町は右手を清子の頬に当て、そっとずらして最後に人差指で唇《くちびる》に触れた。
清子が微笑し、下町が離れる。
「来たな」
部屋から顔をのぞかしてとなりの婆さんに言った。
「何が来たな、よ。そうは行かないんだから」
何がそうは行かないのかはっきりしないが、意味はまさにドンピシャリだった。
清子が朗らかに声をあげて笑い、廊下へ出た。
「先だってはどうも」
「あらいらっしゃい。よく来てくれましたねえ」
そこへ悠さんもやって来る。
「遅くなりまして」
町会の寄り合いに来たような挨拶《あいさつ》だ。
「さあさあさあ、上へ行きましょう。あら、爪皮つきの足駄なんて何年ぶりで見るかしら」
「うちにだってちゃんと売ってますよ」
悠さんが抗議するように言う。清子は婆さんに追いあげられるように二階へあがり、正子も婆さんのあとに続く。
下町が部屋の戸を閉めていると、悠さんが小声で言った。
「どうだった……」
「何が」
「またあ」
悠さんが下町の脇腹を小突いた。
「お婆ちゃんがゆっくり来いって言うの。すぐに行っちゃ邪魔になるからってね」
下町は苦笑した。
「それにしては早かったよ」
「そうだよね」
悠さんはすまなそうに言い、下町が階段を登りはじめるとあとに続いた。
「くちなしの、花のぉ……」
唄う。
「よせよ」
「あ、ごめん」
下町は笑った。
「さあさあ、ここに坐って」
婆さんは張り切って清子に言っている。
「ここはあたしの席なのよ」
「あら、そうでしたの」
清子は下町のデスクの前の椅子《いす》に坐って、困ったような顔をしていた。
「でもいいのよ、あたしはこの椅子を借りるから」
婆さんは北尾の椅子を引っぱって来て清子と並ぶ。
「正子さん、お茶、お茶」
「はいはい」
「所長、手焼きのおいしいおせんべいを持って来たからね。今すぐお茶が入るわ」
「いつもこれなんですよ」
下町は苦笑しながら清子に言った。
「そう、あたしがいつも引《ひ》っ掻《か》きまわしてるのよ」
婆さんは得意そうだ。
「あんた、ここへ来たら遠慮なんか要らないのよ。ここには遠慮とお金はないんだから」
「どうせ貧乏ですよ」
と下町。
「ひがむことないじゃないの。ここまで貧乏すれば立派《りつぱ》なもんよ。あたし孫にもそう言ってるの。どうせ勉強ができないんならビリにおなりって。中途半端な奴よりビリのほうが余程しっかりしてるって」
「あら、そうかしら」
「そうよ。小学校のときビリっかすの生徒で、大人になってもビリっかすの奴なんて一人もいないんだから。ねえ、そうでしょう。中途半端な奴が駄目なのよ。ビリにもならなきゃ一番にもなれない。そんなのこそつまんない人間になっちゃうのよ」
清子は助けを求めるように下町を見て笑った。
「たしかにそうかも知れないな。僕はビリじゃなかったが級長もやったことはない」
「でも今はビリっかす」
「そうはっきり言っちゃ気の毒ですよ」
悠さんが口をはさむ。
「あ、ここにもビリがいるわ」
「冗談じゃない。うさぎ屋じゃ優等生」
「何ですの、うさぎ屋って」
「この先にある一杯飲み屋よ。その店もどっちかって言えばビリっかすの店」
「まあ」
正子がお茶と煎餅《せんべい》を運んで来る。
「さあさあ、大宴会のはじまり」
「お茶とおせんべで……」
「悠さん贅沢《ぜいたく》言うんじゃないの。会費も払わないくせに」
「たのしいのねえ」
清子は笑いながら言った。
「何か事件の依頼ですって」
と婆さん。
「事件ってほどのことじゃないんですよ」
バリバリ、ポリポリと大宴会がはじまった。その合い間に下町は松の湯の件を婆さんに説明した。
「えらいっ」
婆さんははしゃいで立ちあがった。
「そう来なくちゃ人間はいけないのよ。そうよ、銭湯ってのは町の宝よ。銭湯を潰《つぶ》すような町はろくな町じゃありゃしない。東京の人間も、ここんところみんな自分のうちにお風呂を持っちゃって、堕落しちゃったからねえ。あたし、ますますこの人が気に入っちゃった」
もうしんみりするどころではなかった。
13
「所長、送って行きなさい」
清子が帰りそうな気配を示すと、となりの婆さんが断固として命令した。
「浅草までちゃんと送らなかったら承知しないから」
清子は何度もそれを辞退したが、下町はその気になっていた。
「いいですよ。送って行きますよ」
「あとのことは引き受けたから、ゆっくり行ってらっしゃい」
婆さんは下町が立ちあがると、彼のデスクへ入れかわりに坐って言った。
「本当に結構ですから」
「いいじゃないですか」
下町はコートを着て自分の傘を手にした。
「何ならあたしが付添いに」
悠さんがふざける。
「いいよ。願いさげだね」
「お婆ちゃん、あんなことを言う」
悠さんが訴えて見せると、婆さんが突き放した。
「あんたはお店へ帰って鼻緒《はなお》でもすげてなさい」
「ではお邪魔いたしました」
清子が仕度をおえて頭をさげる。
「また来てくださいね。それも早いうちに」
「はい」
下町が先に階段をおりる。カタリ、カタリと足駄の音がそのあとに続く。
下へおりて廊下を進み、ガラガラと戸をあけて外へ出かかると、ちょうど岩瀬が戻って来た。
「お……」
軽く言ってすれ違おうとしたが、あとから出て来た清子を見てギクリと足をとめた。
「あ、この人は芳月亭《ほうげつてい》の……」
岩瀬は判ってるというように頷いた。
「うちの岩瀬です」
「はじめまして。野崎と申します」
「あ、あの、……いいえ、どうぞ」
岩瀬はうろたえて二度ほど頭をさげ、
「じゃあ、お大事に」
と言い残してそそくさと家の中へ入ってしまった。
「何だ、あいつ」
下町がつぶやくのを聞いて、清子がクスクスと笑った。
「何がお大事にだ」
下町が憮然《ぶぜん》として歩きはじめると、二階の窓があいて婆さんの声。
「いってらっしゃあい」
「冗談じゃないなあ」
下町は小声でぼやきながら、清子と傘を並べて歩きはじめたが、すぐメリヤス屋のライトバンのクラクションにおどされて縦に並んでしまう。どうしたって二人きりになれる町ではないらしい。
で、両国駅までは無言。駅の切符売場でやっと口をきいた。
「神田から地下鉄が一番いいかな」
「ええ」
ほかに行きようはいくらもあるが、二人はそのコースをとることにした。都電のなくなった今、そのコースが一番古くからある浅草への道だったのだ。
爪皮つきの足駄に蛇の目傘を持った和服姿の清子は、もう両国駅でも珍しいスタイルになっていて、ホームへあがると男たちが無遠慮な視線を送って来た。
「みんないい人ばっかり」
清子がしみじみと言った。
「ちょっとお節介《せつかい》すぎるけど、まあいいほうですよ」
電車はすぐに来た。下町は清子の足もとを気づかって、うしろから支えるようにして乗った。
「あたし、もうあきらめました」
鉄橋を渡って浅草橋へ着くと、清子は急に言った。乗りおりのお客が入れかわる最中であった。
「ご主人のこと……」
「ええ」
清子は軽い調子で答える。
「何と言ったらいいのかな」
下町も率直に自分の気持を言った。
「君のためには別な言い方もあるだろうけれど、俺《おれ》自身のためにはうれしいとしか言いようがない」
あなた、僕、がいつの間にかすんなりと、君、俺にかわっている。
「もう子供じゃないんですしね」
「それ、誰のことを言ってるの」
清子は吊《つ》り皮につかまった下町の右の二の腕《うで》あたりを軽く把《つか》んだ。走り出した電車が揺れたのだ。
「みんな……あたしたちと、あの人と」
「俺たち」
「ええ」
下町は窓の外を見ながら言った。
「頑張らなくては」
清子が少し笑う。
「それで……どうなるのかしら」
「どうって、この先のこと……」
「そう」
「そりゃまあ」
下町は言葉につまった。しかし、さりげなくだが思い切って言った。
「今日見た通りで、どうにもならないと言えばどうにもならない状態だけれど、一応正式にプロポーズをするってことになるかなあ」
清子は厳しい表情になった。
「それはもうすみました」
「あ……いいの、あれでもう」
「はい」
はい、といやにきっぱり清子は言った。
「とすると、急いだほうがいいかなあ」
「お好きなように。おまかせします」
下町は唸《うな》った。迂闊《うかつ》な返事はできない雰囲気になっていた。
「有難う。俺はまだだと思っていたんだ」
清子が把んだ二の腕に力が入ったようだった。
「それなら近い内に、もっと具体的な話をしなくてはね。いつがいいかな」
「次の日曜日はお休みの番です」
「じゃあその日に会おうか」
清子は頷いた。
「あたしって、案外せっかちなんです」
「せっかち大歓迎」
下町はやっと笑えた。清子も首をまげて下町に微笑《びしよう》を向けた。
「書類を預かっているんです」
離婚届のことだった。
「日曜日までに判をおして返してしまいます」
「え……ああ」
下町は追いまくられるような気分の中で、思わず「うん」と言っていた。
14
浅草から帰ると、下町探偵局の職員全員に悠さんと婆《ばあ》さんが顔を揃《そろ》え、階段から姿をあらわした下町を、じっとみつめていた。
「何だよ、ジロジロと」
下町は閉口して憤《おこ》ったように言った。
「くちなしの、花のぉ、花のかおりがぁ……」
申し合わせでもしてあったように合唱し、みんな笑い崩れた。
「そんなことより、調査依頼が来てるんだぞ」
下町が照れかくしにきつく言うと、岩瀬が椅子から腰をあげ、代表するように答えた。
「みんなで相談した結果、当下町探偵局の総力をあげて、松の湯橋本家の件に当たることに決定いたしました」
「おいおい」
下町はあわてた。
「総力をあげてって、それじゃあほかの件はどうなっちゃうんだよ」
「スケジュールを検討いたしますと、たまたま全員手が空いた状態になっております。さいわい、経理担当の茂木女史の説明によりますと、当探偵局は空前の好況状態にありまして」
「ばかを言うなよ」
「ばかではありません。空前は少し大げさでありますが、全員で手早く片付ける分には支障のない経営状態でありますからして、この件に関しましては我々の方針通りにやらせていただくよう、すでに決定いたしております」
「やれやれ、どうなっちまうんだ」
岩瀬がニヤニヤしながら坐ると、風間が言った。
「放っとけばまた所長一人でやるにきまっていますからね。ちょうどみんな手が空いたのは本当のことですし、今度ばかりは僕らの希望通りにさせてくださいよ」
「希望通りって、どうする気なんだ」
「ええと、岩さんは新島晶代を担当します」
「あ、そのメモは」
「ええ、所長のデスクの上にあった奴です。僕は次女の杉恵……今は大田杉恵ですが、そして北さんは長女の塚本梅代を担当します。まかしといてください」
「やるぞぉ」
岩瀬が大声で言い、肩をぐるぐるとまわした。
「岩さんは張り切ってるのよ」
婆さんが告げ口のように言う。
「昔から新島晶代のファンなんですって。まだセーラー服で売ってた頃から」
「へえ、岩さんがねえ」
下町は呆れたように岩瀬を見た。
「そうさ、こう見えたって新島晶代がデビューした当時からの生え抜きのファンなんだ。待った甲斐《かい》があったよ」
「何を待ったんだ」
「探偵稼業をしていれば、いつかは彼女とご縁ができるかも知れないとね」
「そんなことを期待してたのか」
「誰にだって夢はあるさ」
岩瀬はあっけらかんと言う。
「随分年増になっちゃったけど、それでもまだまだ。俺は一生あの女優のファンでいる覚悟なんだ」
婆さんが笑った。
「変な覚悟だわね」
三人は下町のメモをそれぞれ自分の手帳に写してしまったらしく、鹿爪らしい顔で手帳を見ながら言った。
「とにかく俺たち三人が全力投球でやるから、所長は連絡係になってくれればいい」
「俺が連絡係……」
「そう。毎日芳月亭へ報告に行くこと」
「冗談言うなよ」
「冗談じゃない」
岩瀬はたのしそうに言った。
「それとも芳月亭をとび越して、千住の松の湯ファンの代表のところへ行くかい」
「待ってくれよ、そんな……」
「問答無用」
風間がそう言って笑った。
「そうそう、問答無用よ。あんないい人をいつまでも放っといちゃいけないわよ。変な虫でもついたらとり返しがつかないからね。早く結婚しちゃいなさい」
「お婆ちゃん」
下町は厳しい表情でたしなめるように言った。
「それとこれとは問題が違うでしょう」
だが効果はなかった。
「違うくない」
違うくない、と婆さんは子供のような言い方をした。下町は何だか自分が子供扱いされているようで、抵抗する気を失ってしまった。
「どうだい、岩さんははじめて会ったんだろう」
「ああ。たしかにあれは大美人だな」
「そうかい」
「うん。ちょっと見にはそうと気づかないようなところがまたいいね。絶品だ。実用美人。便所の花」
「うん、そうなんだよ」
下町が頷くと、婆さんが甲高い声を出した。
「何よ、手ばなしでのろけられてるじゃないの。岩さん、油断しちゃ駄目じゃないよ」
「まあいいじゃないですか。そう堅《かた》いことを言わなくたって」
「堅いこと言うつもりじゃないけど、好き放題にのろけさせていいと思う……」
「まあまあ」
悠さんが立ちあがり、両手を下に向けてなだめるように振った。
「まあまあ、いいからおやんなさい」
いつの間にか悠さんの手は上を向いている。
「煽《あお》る気、悠さん」
「だってめでたいんだもの。問題はその、あと幾日|保《も》つかという点ですね」
婆さんの声がとがる。
「保《も》たないっていうの、縁起《えんぎ》でもない」
「違いますよ」
悠さんはニヤニヤしている。
「その保つと保つが違うの。今日拝見したら、あちらさんもかなり熟《う》れ切ってしまってるようですよ。だからさ、今度二人きりでデートなんかしたら、保たないんじゃないかって……」
「あ、悠さん」
下町は年甲斐もなく顔を赤くした。たしかに次の日曜あたり、そんな予感があるのであった。
「所長が赤くなった」
北尾が驚いたように言うと、みんな一度にシーンとしてしまった。
15
もう年の瀬で、どこもあわただしい感じであった。下町探偵局のある横丁も、ひっきりなしに車が出入りしている。
そんな暮れのおしつまった町の中で、大多喜悠吉の下駄屋だけは、いたってのんびりとしていた。悠さんは鼻唄まじりで店の掃除をはじめたところである。曲は例によって、梔子《くちなし》の花のぉ……だ。
「あ、しょうがないなあ」
サンダルやズックの運動靴を並べた台の下から、まだ新しい下駄が一足|箒《ほうき》の先に引っかかって現われると、悠さんは大げさに溜息をついた。
「おい、だめだよ。いくら下駄屋だからって、子供に次から次、新しい下駄をおろさしちゃ」
奥から女の声が返る。
「知りませんよ、そんなこと」
「だってこんなところに二、三度しかはいてない奴がころがり込んでるんだぜ」
「売り物にならないの……」
悠さんはそれを聞いて諦《あきら》めたような顔になる。
「あれだもんねえ。こんなの売ったら客がおこるよ」
下駄をとりあげて裏返しにすると、歯をしげしげと見た。
「こいつはだいぶたってるぞ。半年くらいかな。そうか、お祭りのときにおろしやがって、そのまんまなんだな」
推理を働かせている。
「下駄屋の子でもあんまり下駄なんかはかなくなっちゃったからな。もっとも、道がどこもかしこもコンクリートばかりになっちまいやがったから、下駄なんてヤスリですってるようなもんだ。すぐ歯がすりへっちまう。子供の代にはこの店も靴屋になっちゃってるかも知れないね」
「何か言った……」
奥から声。
「なんにも」
「ひとりごとはおよしなさいよ、みっともないから」
悠さんは舌打ちする。
「大きなお世話だ」
低い声で言う。
「ほらまた」
悠さんは大声で言い返した。
「耳がいいよ、お前は」
とたんに店先へ人の影がさす。
「何もめてるの」
風間であった。
「あ、健ちゃん。何か用かい」
「残念でした」
風間はニヤニヤしている。
「早く呼出しがかからないかとソワソワしてるみたいだな」
悠さんは箒と下駄を両手にぶらさげて笑った。
「見抜かれたか。そうなんだよ。所長はどうしてる」
「芳月亭へ行った」
悠さんはそう聞いて、ウフフ……とうれしそうな顔になる。
「いよいよだね」
「そう、いよいよみたい」
「所長も所帯持ちになるか」
「となりのお婆ちゃんなんか、結婚式場の心配をはじめてる」
風間は引きあけたガラス戸に右手をついて、じっと悠さんをみつめた。
「あ、そうだ。そういうことをはじめなきゃいけないんだな。いけねえ、お婆ちゃんに先を越されちゃう」
どうやら風間は悠さんのそういう反応を期待していたらしく、
「はじまったぞ」
とたのしそうに言った。
「あ、健ちゃん、火をつけに来たのか」
悠さんは風間の意図にやっと気付いたようだった。冷たい風が下駄屋の前の通りを吹き抜けて行った。
「寒いから中へ入んなよ」
悠さんは掃除を続ける気を失ったらしく、そう言うと箒《ほうき》と下駄をしまい、風間を中へ引き入れてガラガラと表のガラス戸をしめた。
「ここの床も板ばりだな」
風間は下駄屋の床を踏みながら言う。
「古い家はみんなそうさ」
悠さんはそう答え、自分は短かい縁台のような木の椅子に腰をおろし、同じく木の丸椅子を引きずって風間のそばへ置いた。
「千住の松の湯のこと、あれからどうなったの」
「やってるよ」
風間は丸椅子に腰かけて、ギシギシと体をゆすって強度をたしかめた。
「岩さんは張り切ってるね。朝ちょっとすれ違ったけど、お早うも言わないで駅へとんでった」
「そりゃ、憧《あこが》れの大女優が相手だもの」
風間は悠さんと顔を見合せて笑った。
「健ちゃんの担当は誰《だれ》だっけ」
「俺は次女の大田杉恵。北さんが長女の塚本梅代さ。二人とも家庭の主婦だから、会うのは簡単なんだ。それに、ご主人がどっちも勤め人だしね」
「へえ、じかに会っちゃうのかい」
「そうだよ。今度はこそこそやらない方針なんだ。興信所スタイルさ」
「でも、それじゃ話がこじれやしないかな。だって、要するに遺産をその人たちがどうするかってことだろう。早苗さんて人の側に立って調べたりしたら、カチンと来そうな気がするけどなあ」
すると風間は手をあげて悠さんを押し戻すようにした。
「まあ待ってよ。それはこっちも充分に読んだ上なんだ。だけど、いつものように尾行したり周辺の聞き込みをやったりしたら、もしそれがバレたときもっと悪い結果が出ちゃう」
「それもそうだなあ」
悠さんは腕組みをした。ガラス戸が風でガタガタと鳴っていた。
「だから松の湯を守る会の代理として動いてるんだ」
「あ、そのテがあったか」
悠さんは素早く腕組みをといて手を叩いた。
「千住の松の湯ファンたちにも話をつけたのさ。あっちは俺たちが動いてくれれば助かるってよろこんでた」
風間と悠さんは顔を見合せてなんとなく微笑した。
16
岩瀬五郎は地下鉄の階段を登って通りへ出ると、テレビ局へ向かった。北風の最初の一吹きで、待っていたようにコートの襟《えり》を立てる。そうやると、なんとなく探偵風に見えて来るのだ。
岩瀬の鼻の頭が北風にさらされて冷え切った頃、テレビ局の玄関についた。足早にロビーへ入り、守衛や受付の女の子のほうへは目も向けず、一直線にエレベーターの前へ行って立ちどまる。
実を言うとその建物へ入るのはこれがはじめてなのである。しかし、探偵という職業柄、岩瀬はどんな場所でも馴《な》れ切った態度で入って行くことにしている。入口で誰何《すいか》されたりするのは恥だと思っているのだ。
エレベーターが来ると、四、五人のテレビ局員たちと一緒に乗り込み、コートの襟をおろしながら三階のボタンを押した。一度も来たことはなくても、内部の様子はあらかじめ調べて見当がついているらしい。
三階でエレベーターを出ると、そこでちょっと立ちどまってコートを脱ぐ。礼儀正しいのでも暖房がききすぎていたのでもない。自分の行くべき場所の見当をつける為に、そうやって時間を稼《かせ》いだのだ。
すぐに右のほうへ歩きはじめる。するとその先に人の出入りが激しい、ロビーのような場所が見えて来た。
中央ラウンジ、と記した札が入口の天井からぶらさげてあった。岩瀬はその入口に着くと、一段低くなったラウンジの中を見渡し、それから腕時計を見た。
相手はまだ来ていないのだ。岩瀬は突き当たりの、タイルに世界地図をはめ込んだ壁ぎわへ行ってソファーに腰をおろした。背の高い青年がちょうどそのあたりの灰皿を交換しに来ていて、岩瀬の席の灰皿もとりかえてくれた。
「コーヒーをもらおうか」
青年は黙って頷き、入口のほうへ戻って行った。途中で銀盆に水の入ったグラスをのせたウエイトレスに何か言い、今度はそのウエイトレスがやって来る。
「コーヒーをおひとつですか」
「うん」
岩瀬は、ハイライトに火をつけた。ウエイトレスは水の入ったグラスをひとつ置いて去る。岩瀬の目は真正面に見えるラウンジの入口のあたりにはりついて動かない。坐った彼の頭のところに、オーストラリアがあった。タスマニアが後頭部にかくれている。
じっと入口を睨《にら》んでいる岩瀬の表情は、焦《じ》れているようでもあるし、浮々しているようでもある。十分、十五分と時間が過ぎて行った。岩瀬はコーヒーを飲み、ハイライトを吸い、そして入口を見張っていた。
突然岩瀬が立ちあがった。テーブルの上にハイライトの袋と水色の百円ライターを置きっぱなしにして、足早に入口へ向かう。そのずっと向こうに、ひとかたまりの男女がやって来ていた。ビニールの袋に入った華《はな》やかな衣裳を大事そうにぶらさげた男が先頭で、サムソナイトの化粧鞄《けしようかばん》を持った女や、派手《はで》なブレザーを着た男などがそのあとに続いている。
六人ほどの一行はまっすぐにラウンジへ向かっていた。すれ違った局員らしい男が、
「おつかれさま」
と言って頭をさげる。
岩瀬は入口のレジの前で待ちかまえ、一行がラウンジへ入るのを阻止《そし》するような勢いで、
「新島さん」
と言った。衣裳《いしよう》をぶらさげた男が驚いたように足をとめた。
「はい、新島ですが」
名乗ることはないのだ。日本人なら誰でも知っている顔なのだ。五人の男女にとりかこまれたVIPは、女優の新島晶代だった。
「僕、岩瀬五郎です。お待ちしていました」
新島晶代はちらりと腕時計に目をやり、
「あら、ごめんなさい。お待たせしちゃいまして」
とにこやかに言った。
「録画が延びちゃったものですから」
「僕はいっこうにかまいません。それよりお忙しい時間をさいていただいて感謝しています」
岩瀬は道をあけてまず衣裳をぶらさげた男をラウンジの中へ通した。
「じゃあちょっとあちらで」
自分のいた席を新島晶代に指さして見せる。女優はかたわらの派手なブレザーを着た男に目配せした。
「そっちで待っててちょうだい」
岩瀬は、
「どうぞ」
と言って先に立った。女優がそのあとについて行く。
「こちらへ」
岩瀬は今まで自分が坐っていたソファーへ新島晶代を坐らせてしまった。彼は華奢《きやしや》な椅子へ坐り、テーブルをはさんで女優と向き合った。
「本当に、会っていただいて有難うございます」
岩瀬はまたそう言い、ペコリと頭をさげた。ウエイトレスがさっととんで来た。
「わたしはコーヒー」
「あ、僕にもちょうだい」
なんだか知らないが、岩瀬はひどく若々しい感じになっていた。うぶな青年と言った感じである。
女優はそんな相手に優しい微笑を向けている。
「松の湯のこともあるんですが、実を言うと僕、新島さんに会えるんでこの役を買って出たんですよ。校舎の青春、の頃からのファンなんです」
新島晶代は品よく笑った。
「嫌ですわ。年がバレちゃう」
「来るとき仲間に言って来たんです。僕は一生新島さんのファンでいるつもりだ、って」
「どうも有難う」
女優は表情を改めて、軽く頭をさげる。
「じゃああなたもやっぱり千住《せんじゆ》のかた……」
「はい。ずっと国会議員の秘書をやっておりましたが、今は別な仕事で体があいているもんですから」
道理で常にない態度をとっていると思った。探偵社の人間であることを巧みにボカし、千住の松の湯を守る会の代表のような立場にすりかえていた。
「国会議員とおっしゃると……」
岩瀬はそう訊《き》かれて元の主人の名を言った。
17
「まあ、あの先生でしたら何度かお目にかかったことがあるわ」
「変なおやじでしょう。オットセイみたいな感じで」
新島晶代は顔をあげて笑った。小柄だからタスマニアが見えている。
「それで、今はどんなお仕事を……」
「なに、つまらない商売です。地元の便利屋みたいなもんでしてね」
晶代は納得したように頷いた。区会議員か何かだと思ったらしい。岩瀬がその方向に誘導しているのだ。
コーヒーが来た。さっき岩瀬が注文した時よりずっと早い。やはり特別扱いなのだろう。岩瀬はシュガーポットの蓋《ふた》をあけてやっている。何と言っても長年|憧《あこが》れていた女優とさしむかいになれたのだ。うれしさは芝居ではないようだった。
「銭湯の娘だって判ったとき、がっかりしたでしょう」
晶代が岩瀬を大きな瞳でみつめた。
「いえ、とんでもない」
「今なら別に隠しはしないけれど、デビュー当時は私も会社も随分気にしてひた隠しにしてたの」
「イメージ・ダウンてわけですか」
「そう」
「そんな心配は必要なかったんですよ」
「そうかしらねえ。でも、あの辺も随分変っちゃって」
「ええ。僕ら子供の頃は原っぱがたくさんありましたしね」
「田んぼだってまだ残ってたわ」
「ええ、そうそう」
晶代はコーヒーを飲んだ。岩瀬もいっしょにカップを口に運び、一瞬目を見合せると、二人とも何となくニッコリした。
「子供の頃によく会ってたみたいね。私、あなたによくいじめられていたんじゃないかしら」
「そんなことありませんよ。僕は女の子をいじめたりはしませんでした」
岩瀬がムキになって言うと、晶代はまた声をあげて笑った。
俺は今、新島晶代とコーヒーを飲んでいる……。
岩瀬はうっとりとそのよろこびを反芻《はんすう》しはじめていた。
「正直言って、早苗さんを私たち姉妹《きようだい》は差別してたんです」
晶代が喋《しやべ》りはじめた。松の湯を女手ひとつで切りまわして来た早苗という女は千住の松の湯橋本家にとっては妾腹《しようふく》の子なのだ。
岩瀬は晶代をみつめて頷いた。
「まるで女中か何かのように思って……今になって考えると、とてもはずかしいことでした」
晶代はしんみりとした顔で言った。そんな彼女の顔を、岩瀬は機会あるごとに自宅の茶の間のテレビで、食いつくように眺めているのだった。
それが今、目の前の本物が自分一人の為にやってくれている。岩瀬の胸に甘ったるい感動が湧《わ》きあがっていた。
「姉たちとも今度のことではたびたび会ったり電話をしたりして話し合いました」
晶代はそこで言葉を切り、しばらくうなだれていた。
「それで……」
岩瀬が先をうながした。
「お風呂屋って、大変な仕事なんです。それに、まるで縁の下の力持ちって感じでしょう。若い私たちがあの仕事を継ぐのを嫌がったのも仕方のないことのようだけれど、それも早苗さんがいてくれたからなんです。たしかに、その町からお風呂屋がなくなるということは、住む人たちにとって大変な出来事ですわよね」
「そうなんです。橋本家のうちうちのことに立ち入る気はないんですが、何とかお湯屋を残してもらいたいと思って、みんなでお願いすることにきめたんです」
「お湯屋……」
おゆうや、と少しのばして言うその言い方をして、晶代は淋《さび》しそうな微笑《びしよう》を泛《うか》べた。
「もう忘れてしまってたわ。そう、以前はそう言ってたのね」
「今でもお湯屋と言う人たちがいます」
「なつかしいわ」
晶代は目をしばたたいた。
「松の湯は残します。我儘《わがまま》を言って早苗さんに苦労を押しつけたお詫《わ》びをするつもりなんです。早苗さんじゃなければもう松の湯はとてもやって行けないんですし。ついきのうのことですけど、私たち姉妹の間で話がつきましてね、こちらは権利放棄をすることにきめたんです。松の湯は早苗さんに継いでもらいます。父が築き、母が守り通したお湯屋ですもの、マンションなんかにしたくありません」
岩瀬はゴクリと唾《つば》をのみ込んだ。
「あなたはやっぱりすてきな人だ」
くぐもった声で言った。
「綺麗《きれい》な人は心も綺麗なんですねえ」
「およしになって」
晶代は微笑を泛《うか》べた。
「そんな風に言われると余計にはずかしくなっちゃう。私たち、ずっと早苗さんを無視したり、いじめたりして来たんです」
「でもいい話ですよ。これは美談ですよ。潰《つぶ》れてなくなってもいい筈の銭湯が、おかげで生きのびられるんです。有難うございました。本当に有難うございました」
「でも、そうなると税金のことや何かあるでしょう」
「相続税のことですね」
「ええ、早苗さんは一人ぼっちになったわけだし、どうか皆さんで力をかしてあげてくださいね」
「承知しましたとも」
「これで私も肩の荷がおりたわ。ほっとしたって心境ね」
晶代はグラスの水にちょっと唇をつけ、それをテーブルの上へ戻すと立ちあがった。
「有難うございます」
岩瀬は素早く内ポケットから、晶代のポートレートとサインペンを取り出した。
「すみませんがサインをいただけませんか。岩瀬五郎って僕の名も入れてもらえるとうれしいんですが」
「はい」
晶代はなれた手つきでサインをした。
「五郎は数字の五です」
「岩瀬五郎さん」
晶代はつぶやきながら書いた。
「有難うございました。またいずれどこかでお目にかかれると思ってます」
岩瀬は握手を求め、晶代が応じた。
「次の選挙にもがんばってください」
「は、がんばります」
晶代は去った。とうとう岩瀬を区会議員と思い込んだようであった。
18
両国へ戻る岩瀬は、久しぶりで屈託のない気分になっていた。千住の松の湯が三姉妹の譲歩によって妾腹《しようふく》の子である早苗のものになることも爽やかであったし、何よりも女優新島晶代のイメージ通り、優しい人柄であることを示してくれたのがうれしかった。
人生にはこういう日もある。
町は年の瀬であわただしく、落着きのない感じではあったが、それだけに何となく来年はいい年になりそうな予感があった。
それが錯覚のようなものであることは岩瀬もよく判っていた。何から何まで結構ずくめの一年なんてあるわけがないのだ。でも、そんなはかない錯覚でも、いい気分ならそれでよいと思っている。
新島晶代の素顔に接して、彼女が老けてしまったと感じなかったこともうれしかった。何しろあの女優がデビューした直後からのファンなのだ。岩瀬は当時まだ高校生だった。同い年の筈だから、場合によっては無残に老け込んだ素顔を見ることになるかも知れないと、なかば覚悟していたのだが、新島晶代はまだ充分に美しく、改めて岩瀬の憧れをかきたててくれた程であった。
欲を言えば自分もありのままの岩瀬五郎として会いたかったが、探偵社の者として会うことは折角の話をぶちこわすことになっただろう。いつわりの身分を口にしたり、にせの名刺を出してだましたりせずにすんだだけでもよしとしなければならない。
それに、岩瀬は今後二度と自分から新島晶代に会いに行く気は毛頭ないのだ。ファンはファンとして遠くから見ていればそれでいい。今日の面会で彼女が自分にどんなイメージを抱こうと、今後には何の影響もないのである。
恐らく、橋本家のほかの二人の娘に会う風間や北尾も、松の湯に関して気持のいい報告を持ち帰ることだろう。それらをまとめて千住の松の湯を守る会の連中に知らせれば、そこでもまた気持のいい場面が見られるに違いなかった。
世の中なんてこんなものだ。
岩瀬は快活な気持でそう思った。ひとつがよければそれにつながるすべてがうまく行く。嫌なことばかりではないのだ。
地下鉄で神田へ行き、そこから国電に乗りかえる。仕事はあらかた片付いていて、今年は例年になく早目にケリがつくようであった。クリスマスは目前に迫っている。
梔子《くちなし》の花のぉ……。
岩瀬は心の中でいつの間にかそのうたをくり返していた。
と、肩を叩《たた》かれた。電車が浅草橋を出たところだった。
「景気はどうだい」
その男はなれなれしく岩瀬に言った。
「おう、久しぶりだな」
同業者であった。渋谷にある探偵社の幹部で、加藤という男だ。
「いいわけがないだろう」
岩瀬が言うと、加藤は苦笑した。
「岩さんも頑固な男だ」
その科白《せりふ》にはちょっとしたわけがある。二年程前に、岩瀬は加藤から自分の社へ来いと引抜きの話を持ちかけられたことがあるのだ。しかし岩瀬はあっさりそれを断わっていた。
「なんとかなりそうなのか」
加藤が訊く。東京でもビリから何番目、いや、多分ビリッかすに違いない下町探偵局をなんとか隆盛にみちびこうと、岩瀬はなかば意地になって頑張っていると思い込んでいるのだ。
「どこへ行くところなんだ」
岩瀬は相手の質問を無視して言った。
「仕事だろ」
誰かを尾行している様子はなかった。加藤は岩瀬と並んで吊革にぶらさがり、窓の外に目をやって妙な表情を泛べた。
「次で降りるよ」
「ほう、縄張り荒しと来たか」
岩瀬は冗談《じようだん》を言った。鉄橋を渡りおえれば両国駅である。
「時間、あるか」
加藤が訊く。岩瀬はちらりと相手の顔に視線を走らせた。
「ほう……」
あいまいに言う。表情には、意外に思っているという意味をこめていた。
「あの話じゃない」
安心しろ、というように加藤は言った。二年前の引抜きの話をむし返しに来たのではない、と言っているのだ。
電車がとまった。降りるとき岩瀬は少し眉を寄せていた。加藤は明らかに岩瀬に用があるらしい。だが岩瀬にはその用件の見当がつかなかった。
ホームで一度二人は立ちどまった。顔を見合せている。
「下町さんに会う気か」
岩瀬が言うと、加藤は妙に擽《くすぐ》ったそうな表情になって首を横に振って見せた。
「じゃあこっちだ」
岩瀬はホームの隅田川寄りへ歩きはじめた。両国駅の正面の改札口へおりる。そっちのほうが閑散としていた。
「あそこでいいだろう」
広い通りを渡って、向こう側のビジネス・ホテルの一階にあるコーヒー・ショップへ入った。ホテルの中は暖房がきいて、むっとするほどであった。
「具合よく岩さんに会えたので方針を変えたのさ」
窓際の席に向き合って坐るとすぐ、加藤はそう言った。
「調査か……」
「うん。それも、妙な相手のだ」
「妙な……」
「君んとこの所長なのさ」
岩瀬は黙って相手をみつめた。ウエイターが来ると、加藤は勝手にコーヒーをふたつ注文した。
「下町誠一氏の身上調査だよ」
「何でまた」
「俺も驚いた。こいつはほかの者にやらせるわけには行かないだろう」
「それで幹部じきじきのおでましか」
「まあな。運よくあんたとぶつかった。嗅《か》ぎまわるのは気が進まないよ」
「判った。何でも喋ろう」
岩瀬は下町誠一という男を信頼していた。たしかに少し人が好いが、正直で、他人に突つかれる所は何もない筈である。そういう下町が好きだから、引抜きにも心を動かさず、こうやって貧乏探偵社で頑張っているのだ。
「プロ同士だものな。こっちも手札をさらすよ」
加藤は軽く笑って見せた。
「うちの所長じゃ、さらす手札もありはしないぜ」
「女がいるだろう」
「女……」
岩瀬の目が光った。
「いる筈だ。浅草の料亭の女だ」
「ほう、あの件か」
「野崎清子という名だ」
「たしかにいる。しかし二人はまだプラトニックな関係の筈だぜ。突つかれるようなことはない」
「そうらしいな」
加藤は微笑した。
19
「でも、野崎清子には亭主がいる」
「離婚寸前だ。亭主のほうが悪い。そいつは俺が調べた」
「判ってるよ。はっきり言って、亭主も自分が悪いことは自覚しているよ。はじめから離婚する気でいるようだ」
「だったらなぜ下町さんを突つくんだ」
「亭主は心配している」
「…………」
「野崎清子の新しい夫がどんな人物か知りたがっているのさ」
「なぜ」
「そりゃ、女房を愛してるからだろう。しあわせになってもらいたいのさ」
岩瀬は考え込んだ。コーヒーが来ても手をつけず、じっと腕組みをしていた。その間に加藤はコーヒーに砂糖を入れ、スプーンでかきまわし、半分ほど飲んでから、煙草に火をつけた。
「判って来たぞ」
岩瀬がくぐもった声で言った。
「美談らしいな」
すると加藤が驚いたように岩瀬をみつめた。
「おかしいと思った。野崎正人程度の男があんなことをして、無事ですむと思っているのなら余程の阿呆《あほう》だ」
「何だ、知っていたのか」
「俺のボスのことだ。一応調べたさ。総会屋の大物である志村重五郎に、何か大きな弱味があった。財界の一部がそれに気付いて、まず検察司法関係をバックにしている代議士の登戸泉太郎に働きかけた。そこで登戸は、高嶺という男を志村一派へ送り込み、スパイとして使った。高嶺はやり手で、すぐに志村にとり入り、高嶺経済研究所という志村のダミー会社を作った。カムフラージュのためにずぶの素人を一人必要としたが、その役に選ばれたのが貧乏絵描きの野崎正人だった。野崎はいい収入になるので総会屋の世界へのめり込んで行ったが、やがて自分がただの人形に過ぎないことに気が付いた。しかしその時は恐らくもうあと戻りできなくなっていたんだ。登戸と高嶺の連絡係として、元ファッション・モデルで、今は銀座のピッコロというクラブのやとわれママをしている下塚京子のすまいへ出入りしているうちに、その女とデキてしまっていたのだ。最初は登戸と高嶺の関係を悟らせない為に、手のこんだ仕掛けをしたに違いない。あぶく銭を手にした野崎をピッコロに通わせ、情夫づらで飯倉《いいぐら》にある京子のマンションへ出入りさせたのだろう。京子は登戸の二号なんだ。ところがそれが本物の関係になった。野崎は根が善人で、そんなところに京子が魅《ひ》かれたのかも知れない。登戸は芝居をさせているつもりだったから、いくら野崎がしげしげと京子の部屋へ通っても、別に怪しまないでいた。そのマンションの持主は金融ブローカーの郷田一郎で、野崎のことはすぐ登戸の耳に入る仕組みだった。だから俺には野崎がいつまでも平気で出入りできているのが、ふしぎで仕方なかったのさ」
「そこまで知ってたのか」
加藤は呆れたように言った。
「でも、ひとつだけ思い違いをしていた。野崎が京子に溺《おぼ》れ切《き》って、前後の見境いもなく破滅への道を走っていると思い込んでいたんだ」
「野崎は今、かなり危《ヤバ》くなっている。高嶺、登戸、志村……この三人を向こうにまわして相当な大金を握ったんだ」
「その金で下塚京子と一緒になる……そう思ったら大違いらしいな。野崎の狙《ねら》いは自分をすてて、女房の清子をしあわせにしてやることなんだ」
「多分、あんたの言う通りだろうな。だが、俺にもたった今まで野崎の気持が判らなかった。まさかあんたのボスがからんでいるとは思えないが、万一ということもあるからな」
「下町って人は、そんな金に縁のある人じゃない」
岩瀬は笑った。
「梔子の花みたいな野崎清子と、初恋みたいなことをしてうれしがってるんだ」
「もし清子があんたのボスと一緒になったら、しあわせになるだろうか」
「君のいうしあわせと金銭が無関係ならな。それなら俺が太鼓判《たいこばん》を押すぜ」
加藤は深く頷いた。
「でも野崎はどうしてその梔子の花みたいな女房と別れる気になったんだろう」
「さあな。俺にはよく判らないが、多分絵描きだからじゃないのか」
「どうして」
「芸術家って奴は厄介な人間さ。画家として認められ、出世するんなら別れる気なんかないだろう。でも野崎は自分の才能を見限らなければならなくなった。梔子の花はその才能でこそしあわせに咲かせてやるべき花だった。あぶく銭なら花屋で売ってるカーネーションを買う」
「カーネーションが下塚京子というわけか」
「女房に愛想《あいそ》づかしをさせたんだ。そんな時、下町って人が現われたのさ」
「判った。こいつは忘れてしまおう」
「うん、そうしてくれよ。恩に着る」
「いいさ、こっちには取り分がある」
「取り分……」
「ああ。志村重五郎の弱味が何か判れば、いろいろなことができる。その弱味は多分登戸にもつながっているだろうしな」
「野崎って、本当に素人《しろうと》だな。おたくあたりにそんな餌《えさ》をまいちゃうんだから」
「でも、奴は死ぬ気かも知れない」
「俺はこの通りだ」
岩瀬は目をつむって見せた。その目の内側に、下町と清子の顔が並んでいるようだった。
20
印刷屋の婆さんが下町の机の前のいつもの場所に坐っていた。
「もうクリスマスだねえ」
すると正子がその前へお茶を運んで来て言う。
「お孫さんの声が聞こえてましたわよ」
「ああ、うたの稽古《けいこ》をしてるんだわ」
下町が大きな湯呑《ゆのみ》をとりあげて、
「クリスマスの……」
と訊く。
「そう。生意気に、今晩近所の子を集めてパーテーをやるんだって」
「クリスマス・パーテーか」
下町はお茶をすすった。
「この両国でクリスマス・パーテーだって。変っちまったもんだよ」
婆さんは口をとがらせた。
「いいじゃありませんか。あたしものぞいて見たいわ」
「およしよ、つまらない」
婆さんはげんなりした顔で言った。
「でも、子供ばっかりのパーテーって、どんな風かしらねえ」
「それがあんた、一人一人うたをうたうんだって」
「ほう……うたをねえ」
下町が面白そうに言った。
「隠し芸大会よ、まるで」
「悠さんも参加させてやればいい。うたうのが好きだから」
「カラオケ・ブームって言いますわねえ」
正子もおかしそうに言った。
「そう、そのカラオケごっこらしいのよ。どこかのうちの子が、マイクのおもちゃみたいのを持ってるらしいの」
「マイクのおもちゃ……」
「そうなのよ。蓄音機《チコンキ》にくっついてるんだって」
「蓄音機は古いや」
「ほんと、久しぶりに聞いたわ」
下町と正子が顔を見合せて笑う。
「いいわよ、そうやってばかにしてなさい」
婆さんがちょっと拗《す》ねる。
「つまり、子供用のプレーヤーにマイクがくっついているんだな。デパートで見たよ。ちゃんとスピーカーもあって、子供が伴奏つきで唄《うた》えるんだ」
「あら、それじゃやっぱりカラオケでしょう」
「うん、そう言えばそうだな」
婆さんもお茶を飲みはじめる。
「みんな遅いわねえ」
下町は正子に目配せした。
「あれを焼いて来てくれよ」
正子は頷いて階段をおりて行った。
「おかげさまで彼女も来年は少しはよくなりそうです」
「そりゃそうよ。よくさせなかったらあたしが承知しないから」
「茂木君のことですよ」
「あら、正子さんのことだったの。あたしはまた、梔子の花のことかと思った」
婆さんはからかい気味に笑った。
「両親や兄弟たちとも折り合いがついて、例の寝た切りのおじいさんをみんなで面倒見ることになったそうです」
「あ、そりゃよかったわねえ。あとはいいおむこさんを見つけるだけね」
「まあそう言ったとこですね」
婆さんはウフフ……と笑い出した。
「何ですか」
「いえね、みんなここの人は少しずつしあわせになって行くみたいだから」
「それがおかしいんですか」
「おかしくはないけど、ちょっとね……だってさ、このうちへ入った人はみんなダメになって出てったのよ。会社は潰《つぶ》れるし夫婦は別れるし……」
「縁起の悪い家なのかな」
「そんなことないわよ。あんたがたみたいによくなる人もいるんだもの。でも、下町探偵局って、よっぽどここの水に合ってるのね」
「みんな貧乏性だから」
「それじゃまるでここが貧乏神の本籍地みたいじゃないの」
「本籍地はよかった」
婆さんと下町が笑いこけた。
ガラガラピシャンで下駄の音。
「いらっしゃい」
正子の声が聞こえる。
「おや、お料理ですか、珍しい」
悠さんの声を聞いて下町が苦笑した。下駄の音はそのまま階段をあがって来る。
「メリー・クリスマス……なんちゃって」
「悠さん、お料理はないだろう」
「え……ああ」
悠さんも椅子を引っぱって来ていつもの場所へ。
「ちょいとお世辞を」
「何のことよ」
婆さんが訊く。
「正子さんがね、下で何か焼いてるの。あれはたしか干鱈《ひだら》みたいですよ」
婆さんは鼻をヒクヒクさせる。
「そう言えばお魚のにおいだわ」
下町は弁解するように言った。
「お茶うけにしようと思ってね。茂木君のご両親からいただいたもので」
「変なクリスマスになりそうだわよ」
婆さんが悠さんに言った。
「お茶と干鱈できよしこの夜だって」
悠さんはテレビで見憶えたらしく、右手で十字を切って見せた。
「ラーメン」
下町も婆さんもそれには笑わない。
「ちぇっ、うけないね。まあいいや、それでみなさんはまだ……」
「うん、間もなく帰って来るだろう」
「松の湯はどうなったんですか」
「悪くないんだ。いい結論が出てる」
悠さんと婆さんがじっと下町の次の言葉を待っている。
「家を出た三人の娘たちが、反省してくれたらしいんです。岩さんが女優の新島晶代に聞いたところによると」
「一番下の娘さんですね」
「そう。自分たちは松の湯に対して何も要求しないというんだ」
「そりゃよかった」
「風間と北さんがあとの二人にそれをたしかめに行ったんだけど、恐らく答えはおんなじでしょう」
「早苗さんて人の苦労を判ってあげたのね」
「そうです」
婆さんは大きく頷いた。
「そう来なくちゃいけないのよ」
「岩さんは千住の人たちにそれを報告に行ってます」
「いいクリスマス・プレゼントね」
婆さんはしんみりと言った。
21
全員揃って干鱈でお茶を飲んでいる。ただとなりの婆さんが中座していなかった。
「いつもこんな気分のいい結末だと、この仕事もやり甲斐があるんだけどなあ」
北尾が風間にそう言った。
「でもこれは、橋本家の人たちがそれぞれ水準以上の生活をしてたおかげでしょう。貧乏してたら松の湯は文句なく消えてしまってた筈だな」
岩瀬が口をはさむ。
「そりゃそうさ。やっぱり世の中は金だよ」
「岩さん、嫌なこと言わないでよ」
悠さんが口をとがらせた。
「折角いい気分なんだからさあ」
衝立《ついたて》のかげで何かやっていた下町と正子が出て来た。下町は自分の机へ戻って干鱈をつまみはじめる。パリパリに焼いてトンカチで叩いた塩っからい奴である。
正子はいつもは使わない、丸いお盆の上に茶封筒をのせて悠さんのうしろを通り抜け、風間たちの所へ行った。
「はい、健ちゃん」
風間はキョトンとした顔で渡された封筒を見た。
「はい、北さん」
「何ですか、これ」
北尾が訊くと下町がそっぽを向いて答えた。
「〇・八か月だ。それで勘弁してもらう」
風間が大声で言った。
「これ、もしかするとボーナス……」
ボーナスぅ、と尻あがりの発音だった。
「まさか、所長」
岩瀬が腰を浮せる。
「少しだけど出せたんだものしょうがないじゃないか」
「驚いたなあ」
岩瀬は不服でもあるかのように言い、
「はい、岩さん」
と言う正子から封筒を受取った。
「ことしの暮れは信じられないことばかり起りますねえ」
悠さんが笑った。
「ボーナスを出したからって、そういちいちびっくりするなよ。安心してくれ、今度だけかも知れないんだから」
「そればっかりじゃない。松の湯の件みたいにハッピーエンドはあるし、所長だって婚約するし」
「ナニオぉ……」
岩瀬は今度こそ突っ立った。
「やったのか」
「いけね」
悠さんが頭に手を当てて短かい首をすくめた。下町は溜息をつく。
「したよ。プロポーズしちゃったよ。オーケーって言われたんだよ。それでいいじゃないか」
北尾がすっと立ちあがり、きちんと下町にお辞儀をした。
「おめでとうございます」
風間も釣られて立ちあがった。
「おめでとうございます」
「早いとこやるもんだねえ。時間の問題だとは思ってたけど。で、どこへ住む気なんだ。まさか下のあの変な部屋へ二人で住みつくつもりじゃないだろうな」
「全部お婆ちゃんにまかせたよ。まかせなきゃうるさくて」
「そりゃそうだ」
岩瀬は納得して坐り直した。
そこへまたガラガラと戸のあく音。下駄の音がふたつ重なる。
まずとなりの婆さんが現われる。むき出しの一升瓶をかかえていた。
「お祝いだよ」
「お、すげぇ」
風間が言った。
「こんにちは。お邪魔します」
野崎清子……いや、来年は下町清子になる筈の梔子の花が、細長い箱をかかえて入って来た。
「そこでバッタリ会っちゃったの。さあさあ、こちらへ」
婆さんは正子に一升瓶を渡して清子を下町の前の、自分がいつも坐る場所へ連れて行った。
「さあ、ボーナスが出たんでしょう。お茶なんかすてちゃって、その湯呑で乾杯《かんぱい》と行きましょう」
正子が瓶をかかえて下町を見ると、下町が頷く。正子は栓《せん》を抜いてみんなの湯呑についでまわる。清子はその間に、持って来た細長い箱から、これも清酒の一升瓶を取り出していた。
「二級酒だけど、冷やでやるのは二級のほうがいいのよ」
すると清子はあわてて自分の瓶の首の辺りを手でおさえた。婆さんがそれに気付き、手を外させる。
「あらやだ、こっちは一級よ」
「ごめんなさい、気がきかないもんですから」
清子はすまなさそうに言った。
「あ、俺はそっちのほうがいい」
悠さんが湯呑を突き出した。
「いいんですか」
清子は姑《しゆうとめ》の許可を得る嫁のような態度で婆さんに訊いた。
「結局この連中相手じゃ、二本ともすぐになくなっちゃうんだから」
では、と言って清子が悠さんに注いだ。
「所長にはあんたが注いであげるのよ」
婆さんはますます姑じみて来る。
「はい」
清子は従順な嫁と言った具合だ。
「あ、俺はいい」
岩瀬が正子につぐのをやめさせた。みんな驚いて岩瀬を注視する。
「今日は車なんだ」
「本当か、おい」
下町が言うと、悠さんがゲラゲラ笑い出した。
「一度言って見たかったんでしょう。その気持判るなあ」
岩瀬はニヤリとした。
「バレたか」
全員が笑った。
にぎやかなクリスマス・イブになった。乾杯して、二升飲んで、悠さんが三曲うたって、北尾がどじょうすくいを披露して、正子が小学唱歌をうたって、風間はポリバケツの底を叩きながら玄人《くろうと》っぽくボサノバをやった。
梔子の花が最後に低い声で小唄を聞かせたあと、全員で例のうた……くちなしの、花のぉ、花のかおりがぁ……をうたってお開きになった。
悠さんと岩瀬と北尾と風間の四人が先発隊でうさぎ屋へ向かい、
「場所をとっとくからおいでよ」
と、正子と婆さんに言い残した。その二人は手早くオフィスを片付け、下町と清子を残してうさぎ屋へ……。
外はとっくに暗くなっていた。
「あと半年か」
下町はそうつぶやいて、悠さんのいた椅子《いす》へ腰をおろした。清子がそっともたれかかる。離婚届を出したばかりだから、二人が正式な夫婦になるにはまだ半年かかるのだ。
「待てるかしら」
甘えた声でそう言う。
「待つ必要はないさ」
「そうね」
おとな同士がキスをした。となりで子供たちが、聖夜を合唱していた
角川文庫『下町探偵局PARTU』昭和59年6月10日初版発行
昭和59年6月30日再版発行