半村 良
ラヴェンダーの丘
1
外は雪。雪が吹いている。このあたりの雪は吹くと言ったほうがいい。ひらひらと舞い落ちる雪ではなく、風の中の水分がこまかく凍った奴《やつ》だ。風と同じ重さで、だから吹いてくる。雪のくせに乾いている。地に落ちてもまた風で舞いあがる。吹《ふ》き溜《だ》まりにはうずたかく積もり、吹《ふ》き曝《さら》しの場所では吹き溜まりをさがしてうろうろと走りまわる。それがわずかにしめりけをとり戻すくらい気温があがると、すぐコチコチに凍りつく。水分はすべて白か透明の固体になるから湿度は二〇パーセントそこそこだ。その上にまた雪が吹く。乾いた雪は凍《い》てついた大地を走りまわる。道路を車と同じスピードで走りぬける。家々の屋根は風下にむかって白い煙をたなびかせる。生き物はみなどこかに隠れている。だが自然に対して不遜《ふそん》な人間という生き物は、こんな晩でも町の酒場でコートを脱《ぬ》ぐ。
見事な角を持った雄鹿《おじか》が壁から首を突き出している。彼がいつ剥製《はくせい》にされたのかは店のおやじも知らないだろう。彼の家族だってもう忘れているに違いない。だが雄鹿は仲間たちと一緒にかけまわっていたころとおなじように、目をぱっちりとあけ悠然《ゆうぜん》と正面を見ている。雄鹿の剥製の下には真鍮《しんちゆう》のフックが十個ほど打ちつけてあり、そのひとつに黒のレザーコートがかけてある。革はカーフでデザインはトレンチコートと同じだが、襟《えり》にビーバーの毛皮がついている。ジリーのレザーコート。東京で買っても二百万はしないだろう。最後に帰るときパリで買ったものだ。そのポケットからペッカリーの手袋がのぞいている。それも同じとき買ったもので、たぶんいまでも五万はしないだろう。そんなものを買って帰った理由は数字だ。一八七センチで九八キロ。東京へ帰っても結局|舶来品《はくらいひん》を買うはめになる。
店はすいている。客は彼ひとり。アイヌ葱《ねぎ》のにおいが、すこしあたたかすぎる店内にこもっているが、鹿肉《しかにく》が炭火の上で音をたてているのだから、かえってそのほうが食欲をそそる。外の道を車が通るが、やかましくはない。アイスバーンになっていて、スパイクタイヤをはいていても、土地のものなら夏場の半分くらいのスピードしか出さない。
店のおやじは苫小牧民報《とまこまいみんぽう》をひろげている。地元紙だ。彼の位置からはラ・テ欄が読める。だからさっきから壁に飾ってあるアイヌ民族の古い工芸品を眺めていたのだ。彼はちかごろテレビなど見なくなっているし、新聞を読んでもその欄には目を通さない。嫌《きら》いなのだ。テレビの番組表に家庭のにおいを感じるからだ。いまこの町は白く冷たい風に覆われており、どの家も暖房をめいっぱい強くして、テレビを見たり食事をしたりしている時刻なのだが、彼にとってはこの時刻も苦手なのである。家庭とか家族とかいうものから目をそらして生きれば、他人の家の窓あかりからも目をそらしたくなるわけだ。だからその時刻になると、こうして酒場へ姿をあらわし、酒を飲んで時間をやりすごす。
彼がここへやってきたのは三年前の六月だった。すぐに土地を物色しているという噂《うわさ》がたった。西の樽前山《たるまえさん》の麓《ふもと》や、北東の牧場地帯の道路わきなどで、彼の車が何時間も停《と》まっているのを見かけたからだ。なにしろ、欧亜《おうあ》商事が出張所を開設したというだけで、土地の者はいろめきたっていた。そこへもってきて所長の彼の車が、フィリップスの疑似《ぎじ》クラシックカー、ベルリーナ・クーペでことさらめだつと来ているから、ひまつぶしに気に入った場所で景色を眺めていても、なにか意味のある行動だと思われたのだろう。もっともその車は冬になる前に返してしまった。欧亜商事が試験的に輸入した見本のようなものだったし、本社の役員の一人が五万ドルの車で彼の機嫌《きげん》をとっているなどと口ばしったのを知って、うんざりしたからだ。
それ以来ランクルだ。パリ支店に籍をおいてヨーロッパ中を勝手気儘《かつてきまま》に走りまわっていたころ、社内で彼の車道楽をとやかく言う者が多かったのを知っているから、ほとんど標準装備のままで使っている。ランクルを選んだのはやわな車でアイスバーンを走りたくないからだが、さりとてもうオフロードの走りを楽しむ年でもなく、車に手をかける必要はない。地元の連中はいろいろとりざたしたが、次の春から彼がランクルをとめたそばにイーゼルをたてて絵を描きはじめると、拍子ぬけしたようになにも言わなくなった。それでも天下の欧亜商事に敬意を表して、ゴルフのコンペに招いてくれたりする。ハンデは8でマナーは本場仕込みだから、ゴルフ友達はすぐできて、シーズン中は誘ったり誘われたり、結構ラウンド数は多い。しかしここのシーズンはゴールデンウィークから文化の日あたりまでで、オフになればこうして一人で酒を飲むしかない。
電話のベルが鳴った。おやじは炭火の上の鹿肉をちらりと見てから受話器をとった。
「ええそう。いますよ」
おやじはそういって彼のほうへ視線を向けた。そしてしばらく受話器を耳に当てていたが、首を傾《かし》げてそれをおろした。
「切れたよ。誰《だれ》だろう」
こんな時間にこんなところへ電話をしてくる相手など、今の彼にはいるわけもない。
「男だったよ」
彼はかすかに苦笑する。女ならおおごとだ。「焼けたよ」おやじは電話に出たついでのように、鹿肉を皿《さら》に移して彼の前へ置く。「訛《なま》りがあったな」彼の眉《まゆ》がひくりと動いた。
「どんな」「外人みたいだったな」
彼は熱い肉を口にいれた。
なぜかテヘランの飯屋を思いだしている。あのころは毎日羊ばかり食っていたが、彼はいっこうに飽きなかった。たしかに日本人はモンゴロイドだ、とよくジャンがからかった。ジャン・ピエール・オッセン。十六の年まで東京にいた。母親が日本人で、高木明という日本名を持つ混血児だが、髪が黒いところを除けば母親に似たところは全然ない。もっとも彼はその母親を見たことがない。ジャンの顔にもからだつきにも、日本的なところはまったく見当たらないという意味だ。いまの電話が外人のような喋《しやべ》りかただったと聞いて、彼は一瞬ジャンではないかと思ったのだ。いや、思ったというより期待した。しかしよく考えれば、ジャンは完全な日本語を喋る。ジャンであるはずはなかった。
「きのう駅のほうへ歩いて行くのを見たよ」
おやじがぼそっと言った。彼は目をあげて思いだそうとしたが、おやじとどこですれちがったか判《わか》らなかった。
「買い物だ」「絵具かい」彼は頷《うなず》く。
「白だ」おやじはそれを聞いて笑った。「冬だからな」彼もにやっとした。
「そうだ、あのときの外人。アラビアのロレンスみたいだったな」
それでおやじに見られた場所の見当がついた。駅前通りをダイエーのほうへ歩いて行ったら、雪の道をそんな恰好《かつこう》の男とすれちがったのだ。この町の者はあまり外人を珍しがらないが、さすがに白ずくめのそのアラブ人には、みな振り返っていた。
彼も苫小牧へ来てから気付いたのだが、ここは国際都市の一面を持っている。港には税関があり、外国船がよく出入りするのだ。ニュージーランドあたりからは石炭船が定期的にやってくるし、ホテルには外国船のクルーがよく泊まっている。植林の研修に来ている中国人もいる。それに八戸《はちのへ》、仙台、大洗《おおあらい》、東京、名古屋などとはフェリーの定期便がある。千歳《ちとせ》空港まではタクシーで二十分そこそこだから、東京で大手町《おおてまち》あたりから羽田へ行くよりずっと楽だ。だいいち道路の渋滞がないし、札幌《さつぽろ》の中心部へも一時間半みればたっぷりだ。
「ここらの雪はサラサラしてるから、砂漠を歩くのとたいして違わないのかな」
おやじが言い「滑ってころばなければな」と彼が答えた。
そのとき彼は突然気がついた。
「おやじ、その新聞を見せろよ」おやじは「おいよ」とカウンターごしに地元紙をよこした。
ひろげて記事を探す。あった。来日したアメリカの経済視察団の一行が、市長や商工会議所の幹部と会見し、そのあと晩餐会《ばんさんかい》があるそうだ。市内のホテルに一泊して明日は東部工業地区の視察をする予定だ。
「この雪の中をか?」
彼が新聞をおやじに返しながら呟《つぶや》くと、おやじは「どこよ」と訊《き》き、彼の指が示した個所に目を走らせて、
「ほんとだな。いまあそこを見に行っても、なにも判《わか》るまいに」と首を傾《かし》げた。
彼は天目茶碗《てんもくぢやわん》ふうの黒い陶器に注《つ》いだ酒をひとくち飲み、それを下において白濁した酒をみつめる。どぶろく。口あたりがよくてこくがある。ここのおやじ自慢の酒だ。
それなら話は判る。ジャンでなくても電話をしてくる外人がいないでもない。だがそいつはワシントンあたりにいるはずだった。DCという文字が彼の頭に泛《うか》ぶ。商社マンとして世界中を駆け回ったが、そこへは一度も行く機会がなかった。そこは彼のレベルからすればあまりにも高みにあったからだ。要するに彼は所詮《しよせん》現場の下《した》っ端《ぱ》、それも臨時雇いの助っ人で、ワシントンへ電話をして指示を仰ぐというようなことは、彼がいま考えているような男がする仕事であった。しかもそいつだって彼とほとんどおなじような時期に放り出されてしまった。
そいつはあれから政治家にひろわれてなにかはじめたと言う噂《うわさ》を聞いた。東京で行き場もなくうろうろしているころだ。経済視察団。本気でそのなかに加わっているにせよ、隠れ蓑《みの》にしているにせよ、多分電話をしてきたのはそいつだろう。泊まっているのがホテル・ニュー・王子なら、そこのフロントには彼がこのイヨマン亭でよく飲むのを知っている男がいる。欧亜商事札幌支店苫小牧出張所長。長くて無意味な肩書だが、そいつなら成田に着く前から知っていてもふしぎはない。苫小牧へやってきてホテルの人間から……そこで彼は腕時計を見た。五時三十五分だった。そう、ホテルの人間から欧亜商事札幌支店苫小牧出張所の所長が、五時三十分|頃《ごろ》市内のどこで飲んでいるか聞き出すのは造作もないことだろう。
無意識の内にどぶろくの残りを飲みほしており、彼はおやじの「注《つ》ぐかい」という声でわれにかえった。
「やめとく」「ほう」おやじは意外だったらしい。丸縁の眼鏡の奥からじっとみつめている。「どうして飲まんの」彼は思った通りを答えた。「勘だよ」「どんな?」「車を運転しそうな気がする」「よしな、もう飲んでる。いつものようにあと二杯も飲めば、そんな気にはならないさ」
たしかにそういう手もある。飲まないのは呼びかけに応じる気があるからだ。飲んでしまえ。もうあいつとは二度と会うな。もう若くはないのだ。家庭を失っただろう。会社もお前を持て余しているじゃないか。
彼は自分にそういいきかせ、からになった黒いうつわに手を伸ばそうとした。だがその手が動かない。両方のてのひらと右腕のつけねあたりに、ウジーSMGの感触が戻ってきている。一時は死ぬまで手放すことはあるまいと思っていたMKVのグリップのザラつきまでが。……コルト・トルーパー・MKV。
その男は彼にとって監督ではないにしても、ヘッドコーチではあった。そいつに接近したのは彼のほうからだった。彼をよく使ってくれたし、相応な評価もしてくれていた。当時はそれもどこまで本気だか信用しきれなかったが、こうして時がたってしまえば懐かしいチームメイトだという感じかたもできる。いや、そう感じているからこそ、二杯目のどぶろくに手がでないのだ。
強い酒だ。それをおやじは天目茶碗《てんもくぢやわん》のようなのに一合ずつ注ぐ。彼でさえ二杯目でホロッとする。並の男が三杯飲んで車を運転したがったら、そいつはもう正気じゃない。会うのなら素面《しらふ》でいたい。もう仕事はないのだ。仕事がないからこそ、こうやって苫小牧で飼い殺しにされている。行くところまで行きついて、もう一度メフィストの顔を見るのも面白いではないか。
彼がそいつをメフィストだと思ったとたん、また電話が鳴った。まるでメフィストだ。
「はい。はい、いますよ」
おやじが彼に受話器を突きつけた。受け取り、答える。
「大倉です」相手は日本人だった。
「市田さんや杉下さんと親しくさせて頂いている者です」
「どなた?」「欧亜商事の杉下専務や市田常務ですよ」
「お名前をどうぞ」「森です」
「森に見えても実際は林の場合もありますな」
彼は自分に影響力のある名前を持ち出して、名乗ろうとしない態度が気にくわなかった。どうせたいした奴《やつ》じゃあるまい。
「もう酔っていらっしゃる?」「まだのようですな」
「地元の夕刊を読まないんですか。ええと、苫小牧民報ですよ」「勧誘でしたらもうとっていますから」
「からかってるんですね」「別に」
「あなたに連絡して頂きたいかたがいるんです。メモしてくれませんか。いいですか、ホテル・ニュー・王子の735。735号室です」「ややこしいことをするなと伝えてください。ミスター・クロフォードに」
彼はおやじに受話器を返した。それをおやじが下へ置くまで、中で細い声がしていたようだ。そしてすぐまた電話がかかってきた。おやじは耳にあてもせず受話器を彼に渡す。
「もしもし」「またあんたか」
「困ります。735号室へ電話をしてください。お願いします」「俺《おれ》は正体を隠すような奴《やつ》の話は信用しないことにしている」
「クロフォードなんて人、私は知りません。なにか勘違いなさっているんです。私は外務省の者で、エリック・オールドリッチさんにあなたと連絡をつけるよう頼まれたのです」
「いまここへきているアメリカの軍事視察団の?」
彼はそう言っておやじにニヤリとして見せた。おやじは眉《まゆ》をつりあげて反応した。
「違います」森と名乗る男は白状していた。その男は早口になりすぎ、声も滑っている。
「経済視察団ですよ」「じゃあそうしとこう。誰《だれ》にも喋《しやべ》らん」
「連絡、してくれますね」「そのオールドリッチさんに伝えてくれ。おっしゃる通りミスター・クロフォードに電話をするとね」
彼はまたおやじに受話器を返した。
「誰よ、相手は」「知らない奴だ」「軍事視察団とは穏やかでないね」「俺《おれ》のいい間違いかな」
おやじはうさんくさそうな目で彼を見た。
「仕事もせんでぶらぶらしとるようなのに」
今の電話機はカウンターのなかのおやじ専用でコードが目一杯だから、客が外へかけるには、カウンターの端にあるピンクの電話機を使わねばならない。彼はポケットの小銭を探りながら立ちあがった。
コインを落としてダイアルをまわす。
「735にお泊まりのオールドリッチさんへつないでください」
彼はおやじに背を向けてじっと待っている。彼に罰を受けるべきものがあるとすれば、その大半はこれから聞こえる声に原因があった。しかもその声に原因はあっても責任はない。責任はすべて彼にある。彼は罰を受けるべき罪をすでにしこたま背負っており、その罰を割賦《かつぷ》で支払い中なのだ。
2
雪が凍りついた歩道から、彼はタクシーの中にもぐりこんだ。地方都市ならたいがいそうであるように、タクシーは小型車だ。一八七センチ九八キロの男が歩道から小型車に乗り込むところは、穴へもぐりこむ熊《くま》を連想させる。まして黒いレザーコートを着ているのだ。しかし、しばれる町の歩行者はみな足もとをみつめ、他人のことに気を配ってなどいない。そのタクシーは彼の重みでフワリと揺れたがすぐに走りだす。国鉄の駅前へ出て左へ曲がり、製紙会社の貨物線を越え、工場の塀《へい》ぞいの道を走って突然とまる。国鉄の踏切を渡るのだ。線路は右も左も一直線。タクシーは申し訳のように一時停止してすぐに線路を越える。右側は製紙会社の貯木場だ。シートをかぶっているのは再生される古紙の山だそうだが、今は木材を砕いたチップの山も雪をかぶっていてどれがどれとも見分けにくい。その先は土地の者が単にバイパスと呼ぶ道道《どうどう》だ。前の道は北海道の道であとのは道路の道。県道がないかわり道道がある。どうどうめぐりがしたければ北海道へ来ることだと、いつか彼にくだらない冗談を言った奴がいた。しかし北海道で地名や道路名にいちいちめくじらをたてていたらきりがない。現にそのタクシーがこれから通るのはヒューム管通りという道のはずだ。市内地図にもちゃんとそう書いてある。製紙工場への水路を暗渠《あんきよ》にし、ヒューム管を埋設したので、それに沿った道路がヒューム管通りと呼ばれるようになったらしい。
除雪して両側にうずたかく雪が盛り上げられた道は、まるで塹壕《ざんごう》の中を進むようだ。狭くて凍結した道で対向車に近づくと、どちらかが自主的に停止してしまう。凍りついた轍《わだち》から車輪を外すのは最も危険な運転なのである。相手がそろそろと通りすぎるのを待って、おもむろに発進する。彼を乗せたタクシーは迷路のような雪の塹壕を抜け、東西にだだっぴろい苫小牧でも山沿いの奥まった位置にある新興住宅地へ入った。シーアイ団地という名が付けられている。なんでシーアイなのか、彼はいまだにその理由を知らないが、沢のある南向き斜面に建設されたその団地の一番奥の高い一角に彼のすまいがある。
運転手にチケットをわたして車を降りると、マイナス十六度の白い風が彼をおしつつむ。玄関灯はついているが、除雪した道からその玄関との間には三〇センチほど雪が積もっている。彼はすでに消えかかっている夕刊配達の男の足跡をたどってポーチの屋根の下へ入り、二、三度足踏みをして靴の雪を落とすと、鍵《かぎ》を出してドアをあけた。建て売り住宅だが近頃《ちかごろ》のはなかなかよく出来ている。それに札幌支店の総務部に社宅担当の男がいて、本社から特別の指示を受けたということであった。だから帰宅して玄関の中に入ると必要な照明が一斉にともるような仕掛けになっていた。ただし、風除室と本物の玄関と、二度鍵を使わなければならない。
内部は程よくあたたまっている。家政婦は一日おきにくるが、ボイラーは年間を通じて作動しており、給油や点検は業者が適当にやってくれる。水道などは工事のとき凍結防止の処置を手厚くしてくれたから、ボイラーさえ作動していれば問題はおこらない。彼はコートを脱ぎ、居間へ入って山側のカーテンを引きあけた。雪と夜空以外なにも見えない。その家の裏側には広い谷が隠れていて、谷間の中央部には市の塵芥《じんかい》焼却場がある。それは最新式の施設で、雪の夜などに見下ろすと煌々《こうこう》とした照明に浮かびあがって、ちょっとした秘密の軍事基地のような感じがする。そして今の彼の気分には、そのイメージがうまく適合するようだった。ドレクセルのハイバックチェアーに腰をおろし、じっと外を見ている。
行くべきか行かざるべきかという迷いはもうふっ切れていた。数多くの危険な行動を共にした間柄だ。戦友というセンチメンタルな言い方もできないではない。ただ彼にはセンチメンタルな気分が湧《わ》かないだけだ。しかし会ってみたいという気分は強い。そしてその気分を抑制しなければならない理由もない。ただ問題はクロフォードがなぜ北海道へやって来たかだ。CIAから放り出されたという話は聞いている。フランスの武器輸出、ことにミラージュ・ジェットの件に関して立ち回り損ねたのがその理由だということだ。放り出されたあとワシントンの政界へもぐりこんで、うまく上院議員のマクノートンに拾われたそうだが、一度クロフォードのような男を指令者《コントロール》として活動してしまったからには、そんな話を鵜呑《うの》みにしろといっても無理なことだ。生理的にできるものではない。かと言って彼自身が〈|お 役 御 免《ゴーイング・プライベート》〉になったのは、クロフォードがまだヨーロッパで働いていたころのことだから、それ以後の接触はなく、ついさっき……今夜の五時半までクロフォードがどうなろうと彼の知ったことではなかったのである。
本当にマクノートンの尻《しり》について来日したのだろうか。マクノートンは上院きっての経済通で農業問題の専門家でもあるという。どうもクロフォードの親分にはふさわしくない。しかしクロフォードだって食って行かねばならないし、給料の出どころに文句をつけるような立場にはなかったはずだとも思える。だとしたら、今回来日した経済視察団の一部が札幌入りをし、更にその一部が苫小牧へもやって来て、その中にクロフォードがいたとしてもそう勘繰《かんぐ》る必要もないだろう。だが彼にはなんとしてもそんな穏やかなことには思えない理由がある。地元の新聞はかなり張り切った感じで晩餐《ばんさん》会などという言葉を使っていたが、要するにその夕食会は午後六時からはじまる予定で、クロフォードは七時に中座して札幌へ戻ると言っていた。ホテルを出て札幌へ向かう途中、どこかで彼に落ち合いたいそうだ。「どこで」と訊《き》いたら「パハラビを覚えているか」とクロフォードが逆に尋ねた。「勿論《もちろん》だ」彼が答え、「では七時十五分に」と言ってクロフォードは電話を切った。パハラビはテヘランの北西にあるカスピ海に面した港町だ。そういえば苫小牧に少し地形が似ており、彼とクロフォードはその町はずれのタークオクと言う墓地でひそかに落ち合ったことがあった。タークオク。苫小牧にも似た名前の墓地がある。クロフォードは落ち合う場所に墓地を指定して来たのだ。久闊《きゆうかつ》を叙するにしてはおかしな場所だし、イヨマン亭への連絡のしかたも経済視察団のメンバーがする芸ではなかろう。二人の接触を秘密にしておきたいらしいのだ。つまりクロフォードは以前と少しも変わっていないことになる。が、いずれにせよ彼はクロフォードとそこで会うことにきめていた。雪の積もった高丘墓地で。
グリスをたっぷりやってあるのだが、それでも車庫のシャッターはあがりはじめにガリガリと音をたてた。凍りついているのだ。車の中も冷えきっているが、彼は疑う様子もなくキーをまわした。キーはいれっぱなしになっていて、エンジンは一発で目をさます。車庫の前に積もった雪の中へランクルのスパイクタイヤがのそっと踏み出していった。ドアをロックしないのは、キーホールが凍結して出掛けるとき面倒だからだ。車は除雪した道へゆっくりと左に入り、彼は黒くて細長い筒の先を車庫へ二秒ほど向けた。シャッターが静かに降りてゆく。すぐ右折。ランクルは4駆2速でつるつるの緩い下りをおとなしく進んで行く。その車を選んだのは、当時の彼にはアイスバーンの運転経験がまだ少なかったからだ。ごついラダーフレームの4駆。寒冷地仕様でダイナモもバッテリーもでかい。オートマチックにしたのもアイスバーンを警戒したからで、2ペダルならハンドリングに集中できる。地元のドライバーにもスポーツタイプの車を夏用に使い、道が凍ったとたんごつい4駆に乗り換える者が多い。それと、彼にとってL・2・3・D・N・R・Pという4速7ポジションが珍しかったせいもある。そいつが電動ウインチをつけているのは別に面構《つらがま》えを買ったわけではなく、ディーラーのところにいたとき既についていたからだ。ロングシャーシでハイルーフなのは季節のいいとき景色のいいところで野宿する気だったからである。したがってリアシートはない。そのかわり一メートル八七がゆっくり足をのばせるスペースができていて、右側にジュラルミンのツールケースが固定してある。2座ならゴルフ仲間を拾ったり送ったりする面倒も減るし、ここ数年の彼の生活にはぴったりの車になっている。ヘビーデューティータイプのフォグランプはドレスアップしたわけではなく、苫小牧は霧のよくでる土地柄で、若い女の子の車でもでかい補助ランプをつけているくらいだ。
そのランクルは少し前彼がタクシーで通った道を逆に辿《たど》って道道《どうどう》にでる。通称バイパス。それを東に向かうと鉄骨だけの帽子をかぶった白い建物が見えてくる。その前の交差点を左折して直進すると、あたりは急に暗くなる。市街地をでたのだ。それは支笏湖《しこつこ》へ向かう道で、夏なら湖をへて札幌へぬける景色のいい道路だが、夜間の除雪はしないから今は閉鎖中だろう。したがって車はその時間全く通らない。ごついランクルのうしろ姿がトボトボと頼りなげに進んで行く感じだ。
誰《だれ》だってその車を見たら首を傾《かし》げるに違いない。町はずれのラブホテルの前も通り過ぎ、白い道を山へ分け入って行くのだ。そしてその道路からも外《はず》れて左側にひろがる墓地へはいった。いまこの瞬間も男女の営みに精を出す者がいるはずだし、この瞬間に息を引き取る者もいるだろう。したがって今日が命日の仏もいるわけだ。だから墓地は毎日きちんと除雪されている。でないと冬の仏は差別されることになってしまう。
ランクルは静かに無人の墓地を進む。ひとつ轍《わだち》を踏みはずせば、金属製の脱出板《スノーヘルパー》を取り出してタイヤの下に滑り込ませ、思い切りエンジンを吠《ほ》えさせることになる。墓石の列が見えるところまで来ると彼はいったん車をとめた。車が行ける道はそこから先で墓地をめぐる楕円形《だえんけい》の周回路になっていて、その左半分が高い。彼は時計をちらっと見てからライトを二回点滅させた。すぐ周回路の一番高いところでおなじようにライトが二回点滅した。彼は車を真っ直ぐに進め、左|廻《まわ》りにそこへ行った。
でかい車だった。彼はランクルをすぐうしろにつけ、コートをつかんで車から出ると、ドアをしめてまずコートを着た。この寒気では防寒着の着脱にマメでないとすぐ風邪をひくことになる。ことに暖房がしてあるところで厚着をするのがいちばんいけない。汗ばんで外へ出れば一気に体温を奪われるからだ。彼はコートのボタンをはめながら前の車に近づき、笑い出しながら手袋をした。キャディラックのフリートウッド・フォーマル・リムジン。ばかげた車だ。ワシントンあたりで政府高官や国賓の送迎などに使う奴《やつ》だ。ルームランプがついた。リアシートでにやついているのはやはりクロフォードだった。入れ、と左手をうごかしている。なんにしても彼にとっては懐かしい顔だった。
彼は右のドアをあけてクロフォードの隣に坐《すわ》ってもまだ笑い続けていた。
「これがお望みでしたか、閣下」彼はそう言ってまた笑う。「彼の配慮に感謝すべきかな?」クロフォードはそう答え、顎《あご》をしゃくって前にいる小男を示した。運転席にいるのは日本人としてまあ標準の体格をした男で、クロフォードが示した隣の男はそれよりも五センチほど頭の位置が低かった。多分そいつが森だか林だかだろう。
「この車がそんなにおかしいですか」
小男は英語で彼に言った。
「林君だね」彼は日本語で訊《き》く。「森です」小男はむっとしたようだが日本語で答えた。
「彼の今の質問に答えてもいいのか?」彼はクロフォードに訊く。「多分差し障《さわ》りがあるだろうな。君の車の暖房はどうなってる?」
クロフォードがそう言うと小男は運転手の腕をつつき、「お邪魔らしい。うしろの車へ行こう」と言ってさっさと外へ出て行った。運転手もそれに倣《なら》う。
「君の国がこれほど寒いところだとは思わなかったよ」
クロフォードは二人が降りたために舞い込んだ寒気に顔をしかめながら言った。
「いつ来た?」「俺《おれ》は二十日ほど前だ。東京に二週間いた」「元気そうでなによりだ。うまくやってるらしいな」
彼はクロフォードの顔を見たとたん、当たり障りなくこの元CIAをやりすごしてしまう気になっていた。おおげさな車のせいもあるが、自分はもう二度とあの張りつめた状態には戻れそうもないと直感したのである。クロフォードはそれほど以前のままだった。
「君も元気でいてくれて嬉《うれ》しいよ。だが少し肥《ふと》ったな」「ああ、のんびりさせてもらっている」
クロフォードは彼に向けていた視線を墓地の入口のほうへ移し、黙っていた。よくない徴候だ。それはクロフォードが何か難しい注文をだすときの癖だった。
「先回りしてすまないが、もう俺はどこへも行かんよ」
するとクロフォードは窓の外へ顔を向けたまま言った。
「ジャンが君に会えると言って喜んでいた」
「そうか。でも俺はもう動かない」
「君はよくそういう不可能なことを言って俺を困らせたな」
「これは不可能なことじゃない。俺の意志だ」
「君の希望はできるだけ受け入れたい。しかし俺は君の義務について話そうとしているんだ」
クロフォードはそう言って彼のほうに顔を向けた。彼はクロフォードの睨《にら》みつけるような視線を、暗い表情で受け止めていた。
「君たちの北方領土の付近で問題が起きている」「あり得るな」
彼は答え、「いつまで日本にいる?」と尋ねた。
「君はこの作戦に参加すべきだ」
「マクノートンというのはどんな男だ。俺はその上院議員の年齢も知らない」
クロフォードは沈黙した。
「すまんな」彼はそう言い、ドアを開けようとした。
「待て」クロフォードは彼の左腕をつかんで引き止めた。
彼はシートにもたれて左手を少し浮かせ、そのてのひらを上に向けた。クロフォードは彼の手をみつめて一瞬考え、すぐ微笑して上着の内側へ手を入れた。葉巻が一本彼の手に移る。
「俺の身分はマクノートン氏のプライベートなエージェントだ」クロフォードはそう言いながら葉巻の端を噛《か》み切る彼の横顔を見ていた。
「もちろん君の想像は自由だがね」「顔が見たかったから来た。だが用件は察した通りだった」
彼の葉巻に火がついて、車の中にそのにおいがひろがる。
「俺も君が来てくれることと、断られることは予測していたよ。そして俺の今の立場では君が絶対必要だ」「ジャンもか?」「そうだ」「可哀《かわい》そうに」「いや、ジャンは喜んでこっちへ向かっているよ」
彼は葉巻を右手で口からはなし、クロフォードに顔を向けた。怒りがはっきりと見えた。がっしりとした鼻、やや窪《くぼ》んだでかい目玉とそれをガードする頑丈そうな頬骨《ほおぼね》。
彼は気にいらなかった。彼はクロフォードが嫌《きら》いではなかったが、クロフォードは彼が知っている男の中で最低の汚い手を考え出せる男だった。
「放っておいてくれ」彼の声は鋭くはなかった。しかし気の弱い者なら逃げ出したくなるような気迫がこめられていた。クロフォードでさえ一瞬|眉《まゆ》をひそめたが、すぐ構えなおしたように薄笑いを泛《うか》べる。
「君たちの藁《わら》のカーペットはなかなかいいもんだ。タタミ……そうだったな。そして踊りを見せてくれた芸者におもしろい言い方を教わったよ。|自然《ナチユラル・》死《デス》に関することだ。タタミの上で死ぬ、か。そうだろう?」
彼は答えないで葉巻を口へ戻し、顔を前へ向ける。
「君には友情を感じている。以前と同じようにだ。だが俺自身も以前と同じだ。まだ自分の卑劣さを慙《は》じたりはしない。その慙ずべき特性を捨てれば、俺は無意味な存在になってしまうからだ。同情して欲しい。君が自分の|自然《ナチユラル・》死《デス》を嫌っている、などという指摘をしなければならないのだからな」
「なんでも好きにすればいい」
「そうした指摘の上で提案がある。君がどんな死にかたをしても、交通事故で死んだことにしようじゃないか。受け取り人は君の長男だ。事故は君の職務遂行中に起こったことで、欧亜商事は既に約束ずみの退職金の上に弔慰金《ちよういきん》を加えたものを奥さんに支払うだろう」
それは彼の予想を遥《はる》かに越えた提案であった。一人の男が置かれた環境を調べ抜き、将来をも見通した上で現在の心境を探り当て、その解答を基にした提案なのである。もう自分はタタミの上では死ねまいと思い定めるほどのことを、彼がしてきているのをクロフォードは熟知しているのだ。彼が日本人によくある、無神論者でかつ仏教徒というタイプであることも知っているはずだ。彼があの世へ送ったと思っている人数は、実際よりいくらか少な目であることも。
3
翌日も雪。きのうより風が強く、視界が悪いから国道36号を行く車はみなひどく慎重な運転ぶりだ。
表町二丁目、北洋ビル。駅へ向かう二本の道路の中間にあり、一階はレストランと喫茶店である。
その四階のエレベーターの扉《とびら》が開いて、大倉が出てきた。相変わらず黒のレザーコートを着ているが、帽子は滅多にかぶらない。靴の爪先《つまさき》に雪がついている。狭いエレベーターホールの床のPタイルが、濃いグリーンに塗ったスチールドアに向かって、点々と濡《ぬ》れていた。雪のついた靴で歩いた跡だ。その緑色のドアに真鍮《しんちゆう》のプレートが貼《は》りつけてあり、それに勿体《もつたい》ぶった書体で、欧亜商事と黒く刻んである。
大倉はそのドアをあけた。
「お早うございます」
田崎好子《たざきよしこ》という職員が一人だけ中にいて、邪気のない顔で挨拶《あいさつ》した。大倉はコーヒーをいれてくれとその子に頼み、コートを脱《ぬ》いで手近の椅子《いす》へ無造作に置いた。フィッシャーマン・セーターを着て首に紺のスカーフを巻き、それをセーターの下へおし込んでいる。
たいして大きなビルではないが、それでもワンフロアー借りているから、職員二人に大倉の三人所帯ではガランとしているのも無理はない。デスクはありきたりのスチールデスクが四つ。電話は二本入っていて、新型の真っ赤なプッシュホンが目立つ。田崎好子はそれをホットラインと呼んでいるが、そのわけは社用の通話にしか使わないことにきめてあるからだ。もう一台のクリーム色のほうは私用専門で、白ナンバーという綽名《あだな》がついていた。
赤いホットラインはほとんど鳴ることがない。苫小牧出張所の番号として、正式に登録されているからだ。つまりマンモス商社欧亜商事の一員として、苫小牧出張所はどこからもお呼びがかからない特異な地位にあるのだ。
三十秒かそこら、コーヒー・ミルのけたたましい音が響く間に、大倉は応接用のソファーに腰をおろし、いつものようにそばの椅子《いす》に両足をのせた。田崎好子が湯沸室から出てきて、大倉のレザーコートをハンガーにかけようとした。「よいしょ、っと。これ、重たいんですよ。小島《こじま》さんは札幌へ行きました」
大倉は自分のコートがドアの脇《わき》の壁に吊《つ》るされるのを見ている。
「新しいテレビゲームを買って来るって言ってました」「そうだな、あしたからしばらく外出しないでくれ」
田崎好子が振り返る。「どうしたんですか」「勘だ。俺《おれ》が出かけるかも知れない」「どこへ?」「判《わか》らん」
田崎好子は湯沸室へ戻った。色白、適齢期。暇さえあれば髪をいじっている。暇さえあればというが、このオフィスは開設以来|暇潰《ひまつぶ》しが仕事だ。大倉治郎を東京からできるだけ離れた無難な場所へ置くために、人口十五万たらずの苫小牧市が選ばれたのだ。定年までそこでおとなしくしていてくれれば、欧亜商事としては言うことがない。職員二人はオフィスの体裁を整えるための飾りものだ。彼らの給与を含めたオフィスの経費一切が、札幌支店で自動的に処理されている。そして大倉の分は東京本社が直接処理していた。給与は全額港区にある彼の家庭へ送られ、そのほかに調査費の名目でかなりの金額が彼の手もとへ来る。つまり外見的には、欧亜商事が苫小牧あたりでなにかひと仕事しようと動きはじめている形だ。だが実際には、大倉はなにもしていない。そこにいるだけでよかったのだ。ゆうべまでは。
「はいコーヒー」「サンキュー」
大倉は足を椅子の上からおろした。ほかのことは放ったらかしだが、コーヒーの味だけは大倉が口やかましく言っているから、田崎好子がいれるコーヒーは近ごろだいぶ旨《うま》くなっている。が、それにしても時代が変わったと大倉はしみじみ感じていた。
欧亜商事の社員になれたことを、田崎好子も小島達男もたしかによろこんでいるし、自慢してもいるようだ。しかしその実仕事らしいことは何ひとつなく、毎日ボケッと時間を潰《つぶ》しているだけなのだが、それで二人はいっこうに不平を感じる様子もない。何もしないで給料がもらえ、その上一流商社の社員という肩書きが誇れれば言うことはないと思っているらしい。社員同士で仕事の奪い合いに鎬《しのぎ》を削った大倉たちの時代とは、まるで違ってしまっている。だが彼は見なれぬ風物の中で暮らすことに慣れている。黙ってそれをうけ入れるだけだ。
彼はクロフォードがくれた葉巻を思い出しながら、キャビンをポケットからとり出し、一本抜くと袋をテーブルの上へ放り出して透明な百円ライターで火をつけた。深く吸って吐き、またコーヒーを飲む。
結局引きうけた。「単純なことだ。君たちの北方領土に接したどこかに問題が起きている。たいして大きな問題ではない。君たちの政府が適当に処理するだろう。我々はその実態と結末を見届けたいだけだ。自分の目と同じように見る、信頼できる人間の目でだ。こんな落ち合いかたをしたのは、秘密を保つ必要があったからではない。ただちょっと、旧友と昔通りのやり方で会いたかっただけだ。もうこれで二度と君に会うこともないだろう。保険のことは俺《おれ》の贈り物だと思ってくれ。この件での報酬は、出したとしてもたいした額にはならないからな……」
彼はクロフォードの言葉を思い出しながら足を組みなおした。
「スペッシャル・プロジェクトか」
「はい」
その声で田崎好子が椅子《いす》から立とうとした。
「いいんだ」
彼はキャビンを持った左手をあげた。「ひとりごとだ」田崎好子はくすくすと笑った。
暗殺から準軍事的作戦を含むレベルの活動がスペッシャル・プロジェクトだ。クロフォードは今度のことを大げさに扱って見せ、彼に対する特別な措置をどこからか引き出したらしい。
クロフォードは細部について何も言わずに去った。ジャンにすべてを伝えてあるそうだ。間もなくジャンに会えるだろう。大倉は残りのコーヒーを飲みほすと、立ちあがって所長室へ向かった。四つのスチールデスクのそばを通り抜け、右へ曲がると、トイレと湯沸室が並んだ短い廊下の突き当たりに所長室のドアがある。ビルは小さくてもワンフロアーを借り切っているから、スペースは時間と同じにあり余っている。ここにもでかいソファーが置いてあり、焦茶《こげちや》色のデスクの上には本の山ができていた。全部小説のたぐいだ。所長の彼がそこへとじ籠《こも》ってしまえば、田崎好子は安心してテレビゲームに集中できるというものだ。
彼はデスクの回転|椅子《いす》に坐《すわ》って読みかけの推理小説を手にとろうかどうしようかと眺めていた。相変わらずすることは何もないが、考えるべきことはクロフォードが置いて行ってくれた。そのまま椅子の背にもたれてデスクの上をぼんやり見ているうち、電池で動くおもちゃのような掃除機に目が行った。ゴルフコンペの賞品だった。咥《くわ》え煙草で本を読み、よく灰を落とすのでデスクに置いたが、結局あまり使ったことはなく、長い間手も触れずにいる。田崎好子には毎日灰皿を洗わせるだけで、デスクの上の物には手を触れさせていない。また彼女は自主的に所長室の掃除をはじめるような性分《しようぶん》でもない。だがその卓上掃除機の商標の位置がいつもと違っていた。独《ひと》りぐらしの掃除ぎらいで、椅子さえろくに動かさないから、毎日同じ角度でデスクの上を見ている。
以前は全身にくまなく張りめぐらされていた鋭敏な彼の警報装置も、必要がなくなってスイッチを切られてからもうだいぶたつ。クロフォードが現われなかったら死ぬまでそのままだったかも知れない。だが大倉はその黒いミニ・クリーナーをみつめながら、自己防衛機構のスイッチを次々にオンにしていた。
その中に盗聴器《バグ》が仕込んであるとすれば、クロフォードは嘘《うそ》をついていたことになる。(何が簡単なことだ、だ)彼の顔に苦笑が泛《うか》んで来る。ただ見物していればいいようなことを言っていたが、とんでもない話だ。
ノックの音がした。「おう」彼が答えドアが開く。田崎好子だ。「所長、ホットラインです」
所長室には電話がない。大倉の静かな書斎というわけだ。
「どこからだ」「高木さんという男性」
大倉は微笑した。ジャンからの電話だ。立ちあがって所長室を出た。
「ジャンか」「近くまで来ている」
ジャンは陽気な声で答える。
「会えるな、また」「よろこんでるんだぜ、俺《おれ》は」
「クロフォードは楽な仕事のように言ったがそうでもないらしい」そう聞いてジャンは笑った。
「さっそくこのオフィスへ虫《バグ》を置いてった奴《やつ》がいる。この電話は盗聴されているんだ」「本当かい。おい、盗聴屋《バニー》さんよ、しっかり聞いててくれよな」
ジャンは笑いのまじった声でどこかの誰《だれ》かにそう言った。
「俺が今|喋《しやべ》っているのは船舶電話だ。もうすぐ苫小牧《とまこまい》港へ着く。仙台をゆうべの九時に出たフェリーだ。入港は一時半だそうだぜ。車は普通のクラウンだよ。色は黒」「それほどサービスすることはない」
大倉は笑い出した。彼が声をあげて笑ったので、田崎好子が目を丸くしている。
「海はどうだ」「かなりガブってるよ。でも定刻《オンスケ》で着くそうだ。なかなかいい船じゃないか」「タイヤは何を履いている」「心配ない。スパイクにしてある」「俺の好きなタバコを持って来てくれたか」
大倉がそう訊《き》くとジャンはまた笑った。
「忘れるもんか」「迎えに行く」「車が二台になるぜ」「タクシーで行くさ。フェリー・ターミナルの正面入口で待ってる」
ジャンは「了解」と言い、声の調子を変えた。
「盗聴器《バグ》だって安くないんだ。潰《つぶ》されるより取り戻したほうがいいんじゃないのか」
電話は切れた。
「下で食事して来る」
大倉はそのままオフィスを出ようとした。
「あの、所長」「なんだ」「盗聴されてるって?」
「冗談だ」
大倉はエレベーターで一階のレストランへ行った。十一時を少しまわったところで、朝昼兼用の食事に三十分ほどかけ、四階へ戻ると田崎好子がまたコーヒーをいれてくれて、入れ違いに外へ出て行った。近くのラーメン屋だろう。
大倉が一人になると、作業服姿の二人連れがやって来た。一人は五十がらみでもう一人はまだ二十《はたち》代といったところだ。大倉にドアをあけてもらっても、すぐには中へ入らずに、
「このたびは大変失礼なことをいたしまして」と、いやに神妙な態度だ。
「どちらさんでしたかね」
大倉はその顔に心当たりがなかった。
「あの、お言葉に甘えて回収にあがったのですが」「なんだ、あんたらか」
大倉はそう言ってソファーへ戻った。二人は中へ入り、ドアを背にして立っている。
「奥のミニ・クリーナーからはじめなさい」
すると年配の男が若いのを奥に行かせ、自分は二、三歩大倉へ近づいた。
「人に言われてしたんですが、こんなに簡単に判《わか》るものなんですかねえ。みつかればいじってる音でたいがいこっちも判るもんですが。こんなのははじめてです」
大倉はその男が気に入った。小さなマイクが惜《お》しくて来たのではあるまい。職人|気質《かたぎ》という奴《やつ》だろう。
「もう長いのかね」「いいえ、それほどでもありません。ハーモニカが専門でして」電話盗聴のことだ。
「危険なことはしないほうがいい」「はい、ありがとうございます」
若いほうがミニ・クリーナーをすませてレッドラインにとりかかっている。かなり手早い。
「上の人に言ってくれないか。あまり乱暴なことはせずにすませたいとな」「承知しました」
若いのが白ナンバーの盗聴器《バグ》を外し、ドアのほうへ戻って来た。
「じゃあこれで失礼します」「忘れ物はないか」年配の男が苦笑した。「三つだけですよ。信じてください」
大倉はその二人を微笑で送り出した。
仙台からのフェリーが車を吐き出している。ターミナル・ビルは接岸した船体と平行に建っていて、フェリー・ボートの背後には対岸の石油基地のタンク群が、吹きつける雪の中でぼんやりとした形を見せている。ビルの一階にあるフェリー各社のカウンターのあたりは人影もまばらで、埠頭《ふとう》から離れて行く車のほとんどはトラックだ。
大倉はターミナル・ビルの二階にあるレストランでコーヒーをのみながら、その車の流れを見ていた。レストランには子供連れの女二人と若いカップルが一組だけだった。大倉はコーヒーを半分残して席を立ち、レストランを出て一階へ降りて行く。黒のレザーコートに珍しく黒革のハンチングをかぶっており、階段を降りながら手袋をした。
ビルの外へ出ると鋭い風が吹きつけてくる。マイナス八度くらいのはずだが、乾いた雪と風に身を曝《さら》すととてもその程度には思えない。大倉は足もとをたしかめながらその風の中を歩きだした。ブーツはゴム底で深いトレッドがスリップを防いでくれるが、それでも用心しないとちょっとした凹凸が転倒の罠《わな》をしかけている。
黒いクラウンが大倉のほうへ寄って来る。大倉が足をとめ、クラウンがとまった。大倉はドアをあけ、コートの雪を申しわけ程度にはたいてから中へ体をいれた。クラウンは少し前へ進んでビルの駐車スペースへ半分乗り入れた形でとまった。
ワイパーが激しく動いている。
「こいつじゃだめだ」
大倉はシートの調節をしながら言った。
「何が?」「ワイパーだ」
足をのばしてシートをおしさげ、固定させてから動いているワイパーを指さす。
「畜生、ワイパーがあったか。バッテリーなども寒冷地向きに替えて来たのに」「スコップは?」「ない」「雪に埋もれたら排気ガスを逃がすための除雪をしないと確実に死ぬ」「そんなに雪は積もらないと聞いたぜ」「吹き溜《だ》まりで立往生するんだ。視界ゼロで動けないうちに道がなくなる」
ジャンはシートのうしろへ手をのばし、ボストンバッグを取って大倉に渡した。
「道がなくなるってどういうことだい」「粉雪の吹き溜《だ》まりだ。十分かそこらで一キロくらい道が消える。アスピリンスノーにエンジンルームへ入られたら、ガソリン車はたいていやられるぞ。ことしももう、退社時間の吹雪で通勤者が四人死んだ。はずれとは言え、そこは札幌市内だった」
ジャンは首をすくめる。
「あんたの好きなタバコだよ」大倉はバッグのジッパーを引いた。拳銃《けんじゆう》二|挺《ちよう》に弾丸《タマ》のケースがごっそりつめこんである。「Lフレームか」大倉はまずでかいほうを把《つか》み出して言った。
「トルーパーがなくてすまなかったな」「たいしてかわらんよ。使わずにすむだろう」
そう言いながら、大倉は357マグナムの箱の蓋《ふた》を取って挿弾《そうだん》しはじめている。小さいほうはコルトのローマンだ。それもマグナムを飛ばす。
「トランクにいろいろ入ってる。長いのはファイアマン。オートはP220にVP70」
「あれは好かんな。熱帯向きだぞ」大倉はS&Wのでかいほうをバッグに戻して、ローマンにも挿弾するとそれをコートの内ポケットへ無造作に突っこんだ。
「出していいかい?」
ジャンが訊《き》いた。髪はややちぢれ気味だが黒く、瞳《ひとみ》も黒い。だが顔だちはどう見ても西洋人だ。顔は細くて鼻がとがっており、唇がやけに薄い。印象はかなりきつく、酷薄《こくはく》にさえ見えるが、それなりに美男は美男だ。
「ゆっくり行こう。お前はアイスバーンに慣れてないから」
ジャンは言われた通り静かにクラウンをスタートさせた。「ウジーは手に入れそこねたよ。かわりにイングラムだ。それにAK47をもらった」「どういうわけだ」大倉は軽く笑う。「あとはパイナップルが少し。通信機《ピアノ》なんかはこっちで受け取ることになってる」
フェリーで着いたトラックは、もうほとんど港から出て行ったようで、貨物線の線路ぞいに国道へ向かう道路を行くクラウンの前後には、一台の車も見えなかった。
「そう言えば盗聴屋《バニー》はどうした」「いい奴《やつ》だった。あれからすぐ盗聴器《バグ》を回収に来た」
ジャンは笑った。
「まさか」「素直に詫《わ》びて行ったよ。盗聴器《バグ》を仕込んで最初の電話があれだからな。かぶとを脱《ぬ》いだわけだ」「平和な国だよ、まったく」
大倉は膝《ひざ》の上に置いたバッグの中のM586をとりだして握り具合をたしかめていた。
「ここじゃ死ぬのに銃はいらない」「へえ、どうすれば楽になれるんだ」「テレビを見ながら酒を飲んでればいい。冷え込みに注意というテロップが出たら、そのまま飲み続けてから外へ出て寝ちまえばおしまいだ」「そうか、凍死って案外楽なもんらしいな」「こいつで射たれて動けない奴も同じことになる」「357マグナムじゃどの道助からない。酔って寝るほうがいいや」
大倉は頭を少し低くして前を見た。
「早いとここのワイパーをとりかえろよ。出迎えに来た奴を見落すところだ」
左側に車が二台とまっていた。二台ともだいぶ雪をかぶっている。
「両方ともパジェロだ」
ジャンの言う通りだが、雪がついてナンバーは見えない。排気が右へ白く吹きとばされている。
「どうもそうらしいぜ。どうする」「かまうな」大倉はS&Wのでかい奴を右手に持つと、バッグを両足の間へおろした。
「クロフォードはすべてお前から聞けと言ったが、俺はまだ何も聞いてない。あいつらは警告するだけだろうな」「銃を扱いなれないことについては日本人は世界一だ。そんなことじゃ困るんだよな」
ジャンがそう言ったとき、案の定パジェロが二台同時に動き、道を塞《ふさ》いだ。ジャンはすぐクラウンをとめ、大倉はふり返って後続の車がないことをたしかめた。
「試射して見なければならない」
大倉とジャンはドアをあけて外へ出た。二台のパジェロから四人ずつ飛び出して、ほぼ横一列にひろがった。
「どうしたんだ。故障か?」
風の中で大倉が先に言った。
「なんだ、二人じゃねえか」
男たちの中からそんな声が聞こえる。
「寒いよ、コートを着なけりゃ」
ジャンはうしろのドアをあけ、ブッシュジャケットを出して粉雪の吹きつける中で着た。
「帰れとよ」
みんな思い思いの防寒着をしっかりと着こんでいるが、一人だけいやに薄手のスプリング・コート風のを着ている奴《やつ》がそう言った。
「どこの組のみなさんか知らないが、これは商売違いだ。こんな仕事を引きうけるもんじゃないぜ」
大倉は右手をコートの中へ入れ、ローマンを出すと左手に持ちかえた。
「ちょっと試射をさせてもらう」
ゆっくりと狙《ねら》い、左の車のうしろの窓へ射ち込んだ。ばかでかい音がした。相手は何か叫んだが、357マグナムを射ったあとでは聞こえるわけがない。大倉は右のポケットに突っ込んであったS&WのM586を出して、今度は窓のすぐ下を狙った。八人は車のかげへ消えてしまった。
大倉は両手に銃を持ったままパジェロに近づき、隠れている連中をのぞき込んだ。
「そんなところにいたら当たるぞ。だいいちほかの車の邪魔になる。二台ともあそこへ入れろよ」
拳銃を人差指がわりに使って二人の男にそう命じると、パジェロは二台とも素直に道路の右側の貯炭場へ入ってとまった。
「降りて少し離れてろ。そう、その辺でいい」
八人は貨物線の線路へ追いあげられた。ジャンが大倉のそばへやって来て、ブッシュジャケットの内側からイングラムM11をとり出し、三十発入りのマガジンを叩《たた》き込むと、銃床を引き出して右腕のつけ根に当てがい、大倉をちらっと見てからフルオートであっという間に全弾射ち尽した。同時に大倉も射ちはじめたが、イングラムの音がやんでから彼はまだ七発射っていた。二人とも引火するようなところは外して射ったが、二台のパジェロはとにかく穴だらけになっていた。ジャンは射ちおえると、さっさと車の中へ戻る。
「二台とも動くはずだ」
大倉は茫然《ぼうぜん》とパジェロを眺めている男たちに言った。
「君らとは商売違いなんだ。いろいろつながりがあるんだろうが、それだったらみんなに言っといてくれ」
さっきの薄いコートの男が言った。
「どう言えばいい?」「車の穴の数を教えてやるだけでいい」
前方からトラックが一台やって来て、あっさりと通りすぎて行った。
「行こう」
大倉はクラウンに乗り、ドアをしめた。ジャンはまたゆっくり走らせはじめた。
「あいつらが銃を持ってないことがどうして判《わか》った?」「自分のことを考えろ。銃で射ち合う気なら車のかげへ入るさ。揃《そろ》って前へ出て来たのは、袋叩《ふくろだた》きにでもする気だったんだろう。それにこの辺じゃ改造銃でさえ品不足だ」「どう見てもやくざの顔だったな」「あの信号を左だ」
大倉はまたバッグを膝《ひざ》にのせ、弾をつめはじめた。
4
二人は所長室へ入った。大倉のデスクと背後の壁の間に、ジャンが運んで来た物騒《ぶつそう》な荷物が、二つのダンボールに入れて置いてある。そのほかにスーツケースが一個。
勝手に用事を作って札幌へ行った小島達男も帰って来ていて、大倉は田崎好子と彼に、ジャンを友人の高木明として紹介してある。二人とも一応ジャンに対して好奇心を示しているが、「いよいよ忙しくなりそうですね」などと、無難な解釈をしていた。
「そこで寝ることになりそうだな」
大倉はジャンが坐《すわ》っているソファーを顎《あご》で示して言った。彼がよく昼寝に使うくらいだから、毛布と枕《まくら》を持って来れば寸法的には充分なのだ。
「ウランバートルのディスコがはやってるそうだ」ジャンはのんびりした口調で言った。焦茶《こげちや》のスラックスに同じ色のタートルネックのセーター。ブレザーは茶のコーデュロイ。田崎好子はひと目でジャンに関心を持ったようだ。「モンゴルか。俺《おれ》たちには遠い国だ」「今の書記長はバトムンフという男で、前の書記長は更迭されたそうだ」「指導者の交代で人気とりをしたな。国民生活の引き締めを大幅に緩和したって奴《やつ》か。それが今度の件に関係あるのか?」
「直接はない。ここはラーメンの出前なんかとれるのかな。北海道へ来たんだから食ってみたい。フェリーのも旨《うま》かったぜ」
大倉はドアをあけて田崎好子にラーメンの出前をとるように言いに行き、所長室へ戻ってジャンの前へ椅子《いす》を動かして来て腰をおろした。
「やけにガランとしたオフィスだが、家具だけはばかに上等だな」「俺ははれものに触るように扱われてる。欧亜商事のはれものさ」
ジャンは少し陰気な目で大倉を見た。
「東京で部長とか本部長とか言われてる歳《とし》だものな」「酒は?」「あとにする」
大倉はキャビンを咥《くわ》えて火をつけた。灰皿《はいざら》がないのに気づいてデスクの上からとって来る。
「独《ひと》りぐらしも楽じゃなさそうだ」「この部屋へ客を入れることは滅多にないからな」
灰皿が来るとジャンもタバコをとり出した。ジタンだった。
「モンゴルあたりも工業化をはじめてるってことさ。でもそれは関係ない。関係があるのは牧畜のことだ。モンゴルの肉屋に羊の肉さえないなんて信じられるかい」「あれがまだ尾をひいているんだろうな。例の金の大量放出事件さ。モスクワはそれで穀物を買った。異常気象による食糧危機だと言われたが、農業不振はそのあとも続いている。輸入した穀物では足りなくて、家畜の飼料まで食糧にまわしたから、あとで肉不足に陥った。そいつが尾をひいているんだろうが、急な工業化について行けず、牧畜も農業もガタガタになってしまうところも多いらしいな。民族的な性格もあると言われている。モンゴルなどはそれかも知れない」
ジタンのにおいが部屋の中にひろがっていた。ジャンはそのタバコを半分ほど喫《す》って、灰皿の底に押しつけている。あまり多くは喫わないほうだ。
「クロフォードのボスはマクノートンだ。知ってるだろ?」「ああ」「マクノートンは農業問題の専門家だ。今度のことはその線から出て来たらしいぜ」
大倉は壁に飾ってある世界地図をタバコをはさんだ指で示した。欧亜商事の特製地図だ。
「モンゴルは遠い。大興安嶺《だいこうあんれい》の彼方だ」「だが肉不足ならソ連中にひろがっている。陸からはみ出して海の上まで来ているらしい」
大倉はサハリンの辺りを見た。オホーツク海、タタール海峡……。
「なぜ海だ?」「蛋白《たんぱく》源さ。肉屋が休みなら魚屋へ行くだろうよ。マクノートンのアンテナに、新設の学校のことが入って来たのはもうだいぶ前のことだったそうだ」「どんな学校だ」「漁業学校さ。はじめは誰《だれ》も気にとめなかったが、だんだん判《わか》って来た。昔から沿岸で魚をとって暮らしていた連中に、近代的な漁法を教えはじめていたんだ」
大倉もタバコを消した。
「なるほど。肉と魚、牧畜と漁業か」「マクノートンあたりはそれも工業化の一種だと見てる。北洋タイプの漁船が増産されて、漁船には厳しいノルマが課せられた。だが操業状態は思わしくない。獲《と》れた魚を根こそぎ運んで行っても肉不足解消のたしにはならない。だが漁業学校まで新設した計画は完璧《かんぺき》だった」
大倉は失笑した。
「例の奴だな。完璧な計画が目標を達成しない時は、現場が責任を問われる。いつもそうだ」「現場の管理者は日本人が魚を乱獲するせいだと報告する。中央は日本漁船の乱獲と自分たちの計画を見くらべるようなことなど絶対にしない。完璧な計画が計画通りの結果を生まないのは、日本漁船の乱獲のせいにきまっている。自分たちの漁撈《ぎよろう》技術が劣っていることはあり得ない。そのために漁業学校まで作ったんだからな」「漁業交渉という奴が厳しいのはそのせいだったのか」
ジャンは頷《うなず》いた。「ラーメンが来たみたいだぞ」
その通りで、田崎好子が小島達男にドアをあけてもらって、ラーメンを運んで来た。
「やあありがとう。早く北海道のラーメンを食ってみたくてね」「たいしたことありませんよ」
田崎好子はうれしそうに答え、水をいれたポットにグラスを二つそえ、気がきくところを見せていた。
二人はラーメンを食べはじめた。「東京のより麺《めん》がごつい感じだな」
ジャンはそう言い、派手な音をたててラーメンを食べた。
「背景説明はおわりだ。シホテ・アリニ山脈ってどこにあるか知ってるか」「知ってる。タタール海峡からウラジオストクまで。昔は沿海州《えんかいしゆう》と言った土地だ」「現在の住民は八五パーセントがロシア人だとさ。ロシア革命のあと、極東共和国なんて呼ばれたこともあるそうだね。船の中でちょっと勉強したんだ」「お前が本を読んでる姿を見たかったな」「ほんの五、六分さ」
ジャンは笑い、ラーメンを食いおわってグラスに水をついだ。
「シホテ・アリニ山脈の海側に住む四つの少数民族が漁業教育を受けさせられた。オロチョン、ニブフ、ウリチ、ナナイの四民族だ。ナナイはナナエツと発音するのが正しいらしいな。イとエがはっきりしないせいだろうが、そういう訛《なま》りかたなら日本にもあるな。上野をウイノと言う奴《やつ》がいるぜ」「どこかでつながってるんだろう」「そのナナイ族は戦前ゴルド族と呼ばれていたそうだし、ニブフというのはギリヤーク族のことだ。いずれにせよ少数民族で、ウリチ族の人口は二千、オロチョン族はたったの五百だとさ。彼らに共通しているのは、北方民族の中でもアイヌ民族と同じようにトナカイなどを家畜としない、非養鹿系《ひようろくけい》民族だと言うことだ」
大倉は苦笑した。
「お前にそういう講義をされようとはな」「そう言うだろうと思ってた」
ジャンは陽気に笑う。
「牧畜をしなければ狩猟と漁撈《ぎよろう》しか残らんな。農業のできる土地じゃないはずだ」「そうだよ。今じゃみんな漁師だそうだ。きっとエンジンだのレーダーだので苦労してると思う。しかし、もっと気の毒なのは、先祖からの土地を追われたことだ」「どこへやられた?」「オホーツクの海へ放り込まれたんだ。サハリンのオホーツク側に新しい小さな町が作られてる。家族はそこに住み、男たちは千島列島ぞいに国後《クナシリ》あたりまで、魚を追いまわしているそうだ。国後《クナシリ》や択捉《エトロフ》には彼らの補給基地がある」
近代化させにくい少数民族を幾つかひとまとめにして、漁民にしたてあげてしまったらしい。大倉は寒風に吹き曝《さら》された野付《のつけ》半島に点在する、番小屋のたたずまいを思い泛《うか》べていた。そこから国後《クナシリ》までは、海上一〇キロか一二キロの距離。
「こっち側からソ連の水域へもぐりこんで行く漁船がいる。つまり密漁だ。ことのはじまりは、その密漁船が海上で彼らと接触した。一方が沈みかけているのを一方が助けたんだそうだ。助けたのが日本側か向こうかはよく判《わか》らないというが、操船の腕からすると、助けたのは日本人のほうじゃないかな。両方はすぐ仲良くなった。向こうに日本語の判る奴がいたらしい。少数民族側はひどく食糧を欲しがったそうだ。彼らはサハリンの居住地で狩猟もできず、食糧は配給に頼るしかないそうだ。男たちが獲《と》った魚はすべて中央の指示通りにどこかへ送られて、家族は魚さえろくに食えない有様だった。それで日本の密漁船は、土産《みやげ》に肉や米を持って行くようになり、その話を知った者の中から、本格的に援助しようという奴《やつ》が現われた。戦前、沿海州あたりにも日本人が行っていたようだな。過去にオロチョンやニブフとつながりのあった人間がいたわけだ。そのうちこっちへ何人か連れて来るケースも出はじめた。そうなると港をきめなければならない。そこで知床《しれとこ》半島の根室海峡側にある小さな漁港が基地にされた。羅臼《らうす》のずっと手前にある真琴内《まことない》という漁港だ。戸数四十、人口二百の小さな港だ」
大倉は眉《まゆ》をひそめた。
「放っといてやれんものかな」
ジャンはソファーにもたれて脚を組んだ。
「ささやかな民間交流だったらな」「違うのか?」「そういう秘密が保たれたためしはない。ちっぽけな真琴内港は北方領土のナマ情報を収集できる重要な窓口になってしまった」「マクノートンはこの件でどういう立場にいるんだ。日本側がその漁港の活動を黙認しているのは判《わか》るが」「場所が場所だからアメリカ側はごく最近までその事実を知らなかった。マクノートンが肉の問題から近づいて行って気がついたらしい。もっとよく調べろと言うのが俺たちへの要求さ」「日本側はどの程度知っているんだ」「みんな知っている。外務省も防衛庁も、公安も内調も。あそこを選挙区にしているのは自民党の市川信行だ。彼は真琴内港のスポンサーとごく近い関係にあると思うな。漁業交渉にも毎度出て来るし、真琴内港の改修や整備にも甘い補助のつけ方をしている」「スポンサーは?」「そこまではまだ判らない。でもそれはすぐ判ると思うぜ。東京の噂《うわさ》だと、真琴内港に関係して自衛隊員が動いているって言うからな。だったらすぐみつけられるさ」
ジャンはこともなげに言い、ポケットからメモをとりだして読んだ。
「オーバージャケット、オーバーパンツ、帽子、手袋、オーバーミトン、ロングスパッツ、ダウンジャケット。それから登山靴、ザック、水筒、ヘッドランプ、ゴーグル、地図にコンパス、テント、固型燃料、コッフェル、食器、ナイフ、ピッケル、アイゼン、かんじき、ザイル、ハーネス、カラビナ、ついでに鋸《のこぎり》とタワシ」「どこへ行く気だ」「ナバロンの要塞《ようさい》」ジャンは悪戯《いたずら》っぽく笑った。「北方作戦は経験ないもんでね」「たしかにあの黒いコートはまずいだろうな」「あれは上物だ。ジリーのコートじゃないか」
着る物の工夫が要《い》る、と大倉は思った。雪の中で射ち合いになったら、黒のコートは致命的だ。
「いつからどう動く?」「あすから海ぞいのルートで。あんたはランクルを持ってると聞いたぜ?」「ハイルーフだ」「HJ60V?」「そうだ。PMZ」「ディーゼルだな。3980〓か。メカニカルウインチ?」「それが電動なんだ」大倉はちょっとばつの悪そうな顔をした。「オートマチックでな。こんなことに使おうとは思っていなかったし」「楽でいい。どうせ運転は俺だよ」「2座にしてある」「どうして?」「俺しか乗せないつもりだった」「あんたらしいや」
ジャンはにやにやしていた。
「そうか、俺のランクルを使うか」「こうなる運命だったのさ。ランクルを買ったのもそのせいだ」
大倉は立ちあがって所長室を出た。
「小島君」「はい」「俺の家へ行って車をとって来てくれ。キーはつけてある。車庫のドアのあけ方は知っているな?」「はい」「タクシーで行ってくれ」
大倉は自宅の鍵《かぎ》を小島に渡し、ジャンのそばへ戻った。
「すぐ車が来る。お前のことだ。東京からこっちの業者に電話で手配させたんだろう」「通信機《ピアノ》もそこへ着くようにしてある。装備はまかせてくれ。服だけ自分でやってくれればいい」
大倉は以前よく感じた、あの流されて行く感覚をまた味わった。元の岸……家庭に泳ぎ帰ろうとするのではなく、潮の流れに乗ってどんどん元の岸から遠のいて行く感覚だ。産油諸国の情報を求めて飛びまわるうち、小さな事件に出会った。ベイルートのホテルでのことだ。一人の男が彼の部屋へ来て、ほんの二、三分ここに置いてくれと頼んだ。そう切羽詰った様子にも見えなかったが、二分ほどしてドアをあけ、廊下へ出たところで射たれた。その男は厚い封筒を手にしていて、射たれた衝撃でそれを手ばなした。封筒は彼の部屋へとび込み、ドアがしまった。彼がドアをあけて廊下をのぞいたとき、名も知らぬ男は次の部屋のドアの前に倒れていた。射ったのは麻薬中毒でまだ十七歳のシリア人だったそうだが、ホテルを出る間もなく、ロビーで逮捕されていた。
大倉は封筒をあけることをためらわなかった。中の文書はフランス語と英語で書かれていた。そしてフランス語で書かれたほうの文書が、欧亜商事にとってすぐに役立った。彼の会社はボロ儲《もう》けをした。そして英語の文書が彼の次の活動地をきめた。カイロだった。彼はカイロでクロフォードと出会った。その文書を読んだことが、クロフォードの歩く一歩ずつ先を行かせることになった。クロフォードは怪しみ、彼をマークした。しかしクロフォードはその文書とベイルートの事件にまったく関係していなかったので、彼の機敏さに敬意を持っただけだった。平和な国の商社マンが、戦火を背負う国の情報部員と互角に渡り合ったのだ。クロフォードは背の高い日本人を味方に抱き込む工作をはじめ、それに成功した。欧亜商事にとって有益な情報を提供するかわり、大倉のコネクションと知識を利用したのだ。大倉は国際政治の裏側へ深く引きずりこまれ、クロフォードからそこで生きる技術を授かった。そしてこと石油に関する限り、欧亜商事は今日まで一度も損失を出さずにやって来ている。だがそのために、欧亜商事は大倉が単なる商社マンとしてではなく、KGBやCIAに名を知られる程の存在になることを黙認しなければならなかった。クロフォードとの諜報《ちようほう》活動の報酬は、欧亜商事に対する情報の形で支払われたのである。
ともあれ、大倉の欧亜商事に対する貢献度は非常に大きい。しかしその貢献度に見合った処遇をして、本社の上層部に名をつらねれば、ジロー・オークラの名を聞いただけで、今ではどれほどの商談が流れるか見当もつかない。札幌支店苫小牧出張所というあかずの間が発生したのはそういう事情だ。
ベイルートの封筒については、いまだにクロフォードも知らないでいる。災厄がまず幸運のかたちで訪れる典型的なケースだ。
5
小島が大倉の車に乗って戻ると、ジャンは入れ違いに外へ出て行った。準備はジャンにまかせておけばいいのだ。少々余分なものを買いこむ癖はあるが、マメで気がつく点では大倉の比ではない。
ジャンが出て行って二十分ほどすると、またホットラインが音をたてた。ちょうどスチールデスクの上に地図をひろげて見ていたところだったから、今度はじかに大倉が受話器をとった。
「苫小牧出張所ですか?」女の声だった。そういうかけかたなら札幌支店か本社にきまっている。
「そうです」「少々お待ちください」
女の声が消えて二十秒ほど間があった。
「もしもし……」男の声にかわる。「大倉です」「よう、久しぶりだな。谷岡だよ」
谷岡は大倉とは同期入社組だった。
「東京か?」「そうだよ」「何をやってる」「第三営業だ」「本部長か?」「三年前からだぜ。そんなことも知らずにすむなんて、結構な身分だな」「第三営業本部長ほどじゃない」「元気か」「相変わらずだ」「寒いだろう、そっちは」「寒いな」「相変わらずぶっきら棒な奴《やつ》だ。実はあさってかしあさって、札幌にちょっと用事があって行くんだが、会いたいと思ってな」
大倉の唇が歪《ゆが》む。
「久しぶりだな。歓迎するよ」「そいつはいい。あさってになるかしあさってになるか、まだはっきりしないんだが、いるだろうな」「ほかに行くところがあるかよ。五月までは予定なしだ」「五月まで?」「五月になればゴルフ場が開く」「そういうことか。それじゃ会うのを楽しみにしてるからな」「了解。こっちから札幌へ行ってもいいぜ」「あ、それもそうだな。とにかく盛大にやろう。また連絡するよ」「待ってる」
電話を切ると田崎好子が待ちかねたように言った。
「本当に忙しくなりましたね」「うん。明日から留守にする。適当に頼むぞ」
小島達男が驚いたように訊《き》いた。
「どちらへ?」「高木に冬の北海道を見物させようと思ってな。休暇だ」
小島は納得したらしい。
「それでランドクルーザーを?」「そうだ」「危ないですよ、この時期は」「危ないらしいなどうも」
大倉はニヤリとした。谷岡の電話には意味がある。タイミングが合いすぎている。あさってかしあさって、と二回言った。大倉の行動予定をたしかめようとしたに違いない。なぜそんな探りを入れて来たか知らないが、余計な電話をしたものだ。真琴内港の件に欧亜商事がからんでいるにおいがして来たではないか。もしそうだとすれば、ここらで会社とケリをつける汐時《しおどき》かも知れない。またクロフォードを通じて大倉を働かせることになるのだ。もうお前は要らないから陰へ隠れてくれと頼んだくせに。
しかし、専務の杉下や常務の市田が、今になって谷岡などを使ってそんな探りを入れてくるはずはなかった。海外で活動した全期間を通して、石油関係の情報は大倉が常に握っていたが、後半は彼の活動の見返りに穀物や金など他の市場の特ダネが、クロフォードの線から欧亜商事へ流されていた。
だが谷岡が営業本部長になった三年前には、もう大倉はこの苫小牧へ引っ込んでいて、彼がそうした情報にからむ余地はなかったはずである。
まあいずれにせよ、俺《おれ》が真琴内見物に出かけるのを嫌《いや》がる奴《やつ》がいることはたしかだ、と大倉は思った。谷岡がどんなつもりで探りを入れて来たにせよ、自分がなんで嫌がられるのか、それさえ判《わか》ればいい。そしてそれを知るためには、車で走りだせばいいのだ。凍《い》てついた道を進み、冷たい時間を進むのだ。酔って雪の中で眠ることも、冷たい時間を進むのと同じだ。一足とびに終点まで行ける。それにくらべたら、所長室のソファーで終点へ向かうのなどは、それこそ死ぬ苦しみというものだ。
人間どうせ死ぬものなら、生きることを嫌がっているうちに死にたいものだ。望みが叶《かな》ってめでたく死ねる。生にしがみつくほど老いてから死ぬのは悲惨なことだ。危険があるならその道を選ぼう。大倉はそう思った。
クロフォードの保険の話に関して、大倉はなんの疑いも抱いていない。今までも大倉はクロフォードから情報以外の報酬を受けたことはないし、今度彼が約束した報酬も金銭以外のものだった。大倉への報酬は〈死因〉である。どんな死にかたをしても交通事故が大倉の死の原因にされるのだ。彼はそれをいい報酬だと思っている。その点やはりクロフォードは大倉のよき友である。クロフォードは大倉に対して、その贈り物に好きなように生きろという意味をこめたのだろう。日本人はよく、骨は拾ってやる、などというが、クロフォードの保険の件はまさに骨は拾ってやるということではないか。男と男のその言葉まで疑うのは大倉のプライドが許さない。好きなように生きれば好きなように死ぬわけだ。死ねば家族に保険金が行く。交通事故なら率がいい。これから行く道が危険なら危険なほど、死んだとき警察《ドクター》の世話になる可能性が強くなる。そうすればクロフォードの仕掛けが生きてくる。
そのころジャンは、苫小牧市の西のはずれにある、カー・アクセサリーの店の駐車場へランクルを乗り入れていた。車の専門誌に各県別でそういう店の広告めいた特集記事があり、それを見て電話をしたのだ。応対に出た男が案外シャキシャキしていて、欧亜商事の名を出すとばかに小廻《こまわ》りのきくようなことを言ったので、集めて欲しい品物をこまごまと伝えておいたのだ。代金は総額をたっぷり上まわるだけの金額をすぐ電信扱いで振り込んであるから、その男は張り切って駆けまわったはずだった。そして来てみるとその店は修理工場につながっており、スポーツ用品の店も隣にくっついていた。都合のいい店にぶつかったものである。
しかしその駐車場へランクルをとめたジャンが、一人きりの車内で突然笑い出した原因は、修理工場のほうにあった。ガレージにパジェロが二台突っこんであり、薄手のコートを着た男が、革のブルゾンのポケットに両手を突っ込んだ奴《やつ》に、何か熱心に喋《しやべ》っているのだ。ダウンジャケットを着た男が三人、ボデーにあいた穴ぼこに指を突っ込んだりしている。
ジャンは笑いが一応おさまると、トラックの陰にまわってそこへ近づいて行った。
「まったくえらい目に遭ったもんだねえ」「なに仕事さ。このくれえのことは俺たちの商売じゃ、いつ起きるかも知れねえもんな。肚《はら》はできてるよ。そうじゃなきゃやってられるかい」「でもこりゃたいした射ち合いだ。怪我人は?」「こっちには一人も出なかった。あっちも派手に射って来たからなあ」
こっちも派手に射ち返したと言いたいんだろう。マルセイユでそいつによく似たボードビリアンのショーを見たことがある。ジャンはニヤニヤしながら近づいて行った。
「よう、さっきはどうも。おかげで助かったよ」
男はジャンの顔を見て口をあけた。そのまましまらなくなったようだ。
「まったく派手な射ち合いだったなあ」
こんなきっかけをのがす手はない、とジャンは悦に入っている。ダウンジャケットの三人はどうしていいか判《わか》らないという様子で、ひとかたまりになっていた。
「でけえ穴があいちゃってる。マグナムだぜ、こいつは」
左手を高くあげてその穴に触れると、左|脇《わき》のホルスターに突っこんだローマンがまるみえになった。
「友達かね?」
ガレージの男が訊《き》いた。「うん、まあ」あけっぱなしの口がようやく閉じた。「せ……世話になったんだ」
ジャンは手を振ってへりくだった。「とんでもねえ。助けてもらったのは俺のほうさ」
薄手のコートの男は悲しそうな顔になる。
「もういいじゃねえか、そのことはよ」「いや、ちょっと礼を言いたくて」「すんだことにしてくれねえか。車は修理すればすむんだし」「おっさん、こりゃ上着をそっくり取り替えなきゃならねえな」
ガレージの男は頷《うなず》いて見せた。
「穴は両方で幾つだい」「四十二。突き抜けたのは別にしてだよ」「四十二か。数はピッタリだ」「え?」
ガレージの男が怪訝《けげん》な顔になるのを無視して、ジャンは薄手のコートを着た奴と強引に握手をした。
「今度何かあったら手をかすぜ。戦車くらいならまかせてくれ」「よろしく」「じゃあな」
ジャンはとなりのカー・アクセサリーの店へ向かった。そういう悪戯《いたずら》が大好きで、そのため一度死にはぐったことがある。
ジャンは田崎好子と小島達男が退社したあとで戻って来た。外はもう暗い。「ここまで来たら蟹《かに》が食いてえな」とジャンが言う。
「なんとかしよう」大倉はそう答え、イヨマン亭のおやじに電話をして手配を頼み、自分はタクシーでいったんすまいへ戻った。
寝室で防寒用の下着や靴下を揃《そろ》える。数は少し多めにした。濡《ぬ》れたらすぐ取り替えねばならない。シャツはシープスキン。セーターはゴルフ用でリバーシブルになっており、片面は防水布だ。ズボンに上着、そしてアルスター・コートとミリタリー・ベレー。両方とも白だ。米第七機甲師団のマークが入ったジッポにオイルをいれ、ドイル社のペンライトをチェックする。サバイバル・ツール一枚、アンチグレードのアタック・ナイフ二|挺《ちよう》。ランドール・ナイフの海賊版だ。
それらを無造作に床へ置いたあと、今度はカバーのかかったベッドの上へ残りの衣類を叮嚀《ていねい》に並べた。そのあとハリーバートンのスーツケースを引っぱり出し、剃刀《かみそり》や文具類を片っぱしからその中へ放りこんで行く。その家は社宅で、食器類を会社の備品と考えれば、彼自身の持物はそう多くない。スーツケースをとじ、ベッドのそばへ置くと、彼は居間のサイドボードの上に飾った写真の前に立った。
少年と少女がちょっと気どった様子で並んでいる。去年の春、渋谷《しぶや》のゴールデン・ホールのスタジオで撮ったと裏にペンで書いてある。彼の子供たちだ。
大倉治郎。東京都杉並区出身。昭和十二年六月十四日生れ。丑歳《うしどし》、双子座《ふたござ》、血液型B。身長一八七センチ、体重九八キロ、胸囲一二四センチ。妻・香織、四十歳。長男・雅樹、高校一年、長女・緑、中学二年。
彼はその写真を大事そうに寝室へ持って行き、積みあげた自分の衣類の上へそっと置いた。そして着がえはじめたが、着がえている間も、ちらちらとその写真を見ていた。
着がえがおわり、持ち出す衣類をナップザックにつめ込んだあとも、またその写真をじっと見る。
「お父さんは僕らを捨てた。僕なりにがんばる」
「お父さん、あたしの誕生日を忘れないでね。プレゼント、待っています」
最後に受け取った手紙は二人の寄せ書きで同封の写真の裏の文字は妻の筆跡だった。北海道苫小牧市糸井六四五―一〇〇〇。大倉治郎様。宛名《あてな》は緑が書いていた。
オフィスに私服の女が二人来ていた。なんとか観光というところのコンパニオンだ。この町に花柳界《かりゆうかい》などあるわけはなく、気のきいた仲居《なかい》を置くような料理屋もないから、そんな女性たちがホテルのパーティーや祝いごとの席に電話一本で現われるしかけになっている。もちろんそう若くはない。イヨマン亭のおやじが、彼女たちと肴《さかな》を手配してくれたのだ。ゆでた毛蟹《けがに》、かれいと烏賊《いか》の刺身、鮭《さけ》のルイベ、ホッキ貝。
「所長、そんなごつい靴はいてどこへ行く気よ」女の一人が大倉のコンバット・シューズを見てそう言った。「このポットが番茶よ」もう一人がスチールデスクの上にポットを置き、湯沸室へ戻って行く。
「番茶割りだって?」ジャンが大倉を見た。
「ここらじゃみんな焼酎《しようちゆう》を番茶で割って飲んでいる。嫌《きら》いなら清酒にしてもいい」「いや、そのほうが面白いな。おい、番茶割りを作ってくれ」
奥の所長室はすでに兵器庫のようなものである。もう出発までオフィスをからにすることはできないのだ。
「ねえ所長。この人ほんとに外人さんじゃないの?」「ハーフだ」「やっぱりそうじゃないのさ。嘘《うそ》ついて」
ジャンは番茶割りを飲みはじめた。「俺は日本人さ。ハーフだって日本人だろ?」「そうだけどさ、顔が全然違うじゃない」
大倉はヘネシーのV・S・O・Pをその女の前へ置いた。「君らも勝手にやれよ」「わあ、高いブランデー。ねえ、ちょっとあんた。あんたこれ大好きなんでしょ?」
湯沸室からもう一人が出て来る。「早いけど飲んじゃおうかな、今日は。ひまだものね」「こんな宴会《えんかい》ですまないな」「いいのよ、所長。あたしたち、事務所の宴会は慣れてるから。でもどうして外でやらないの?」
それにはジャンが答える。「ここを留守にできないのさ」「どうして?」「あっちの部屋に拳銃《けんじゆう》だの手榴弾《しゆりゆうだん》だのがたくさん置いてあるからさ。それに俺たちは狙《ねら》われているんだ」「どんな奴《やつ》らに?」「スパイだよ」「冗談ばっかり。この人」「津田島って親分に聞いてみろよ。フェリー埠頭《ふとう》の近くで、めちゃめちゃに射たれたんだから」「津田島って、暴力団の?」「そうさ。あの親分に助けられたんだが、おかげで車が穴だらけになった」「嘘《うそ》……」
大倉がそれに関係ないような態度で尋ねる。「あのあとでまた会ったのか」ジャンは陽気に笑った。「二台とも修理屋のガレージに突っこんであったよ。そばでガレージの奴に法螺《ほら》吹いてたから、からかってやった。となりのカー・アクセサリーの店で名前を教わったんだ」「悪い癖だ。ほどほどにしとけよ」
大倉も飲みはじめる。「どう、苫小牧は。はじめてなんでしょう?」ジャンがそう訊《き》かれた。デスクは四つ、人間は四人。酒と肴《さかな》と寿司。器《うつわ》にも箸《はし》の袋にも銀寿司という文字がある。「緑が豊かで花いっぱいの町だな」訊《き》いた女が笑い出す。「だめだよ、そのお客さんは」もう一人が言った。「お前らがお客じゃないのか? ここは大倉の旦那《だんな》の事務所だぜ」「そうなのよ、事務所の宴会はややこしくて」「このかれい、旨《うま》い」「お前の留守のあいだに本社からおかしな電話があった」「お客さんピッチ早いね」「どんな電話だった?」「第三営業本部長からだ」「はい蟹《かに》をどうぞ」「札幌へ来るついでがあるから、二、三日あとに久しぶりで会わないかとさ」「蟹、まだおいしくないでしょう?」「旨《うま》いよ」「あんた、番茶割り」「あち……」「そいつは探りだな」「熱いから気をつけて」「第三営業本部は電子機器も扱っている。ココムの線だろうな」「ココムってなにさ」「ココアみたいな奴だ」
共産圏への輸出統制に抵触《ていしよく》するものが、真琴内港から流れ出していることは確実だと大倉は思っていた。
鴉《からす》が群れを作って鉛色の空を飛ぶ。でかい鴉だ。森が近くで町にはゴミが出る。生ゴミが彼らのカロリー源で、鴉を獲《と》る者はいない。だから際限もなく増えている。
七時。大倉とジャンは所長室から武器を運び出してランクルに乗せた。二人とも酒は強いし、押えるべきところは心得ているから、さっぱりした顔で車のチェックをしている。別にわるさをされた形跡はない。だいいちゆうべも少し降ったから、車に近づいた者があれば足跡ですぐ判《わか》る。
「行くか」
大倉は白いミリタリー・ベレーをかぶって白いアルスター・コートを着たから将校に見える。ジャンはブッシュジャケットに大倉と同じコンバット・ブーツで、どう見ても大倉の家来だ。
二人は車に乗った。中は冷えている。だから二人とも着こんでいるのだ。ジャンはフォグランプをつけた。走っている車がみなつけているのを、四階の窓から見たからだ。
「なぜつけるんだい」
ジャンは車をスタートさせながら大倉に訊《き》いた。「走れば判る」大倉はシートベルトを引っぱってカチャッと留め金の音をさせた。「用心深いじゃないか」「交通事故で死ぬとクロフォードが笑うからな」
その意味はジャンには通じないはずだ。
「ラジオをとりかえた」「そのようだな」
車は国道へ入った。
「なるほどね」
粉雪が路面から舞いあがって視界をさえぎるから、乗用車などは白い霧に包まれて走ることになる。フォグランプが対向車に自分の所在を告げる。
「当分まっすぐだ」「了解。グローブ・ポケットに警察無線のリストが入ってる。所轄《しよかつ》が変わったら周波数を変えてくれよ」「そんな必要もないだろうがな」
大倉はそう言いながら手をのばしてスイッチをいれ、148・41という緑色の数字が浮き出たのを見てすぐにスイッチを切った。
「デジタルか」「いいラジオだろう」「うしろのは?」「支給品だよ。宅急便で送っといたんだ」
ソフトケースのストラップをうまく使って、大倉のシートの背中に無線機がくくりつけてあった。
「69式の1号だよ」「陸自の?」「うん。小隊長用だってさ。下に子供がぶらさげてある」「ウォーキー・トーキーか」「ああ。一四キロは飛ばせるそうだ」「なんで陸自の無線機《ピアノ》を寄越したのかな?」「今ごろになると、小編成の行動特訓がよくあるそうなんだ。へたにぶつかるなということさ」「俺たちのは?」「目の前に置いてある」
キャビン・マイルドの袋があった。封が切ってあり、二本減っていた。のぞいているタバコは本物だが、見えない側に無線機が仕込んである。二人が同じタバコを喫《す》うかぎり、五百メートル離れても内緒ばなしができる。
「普通のラジオを買っといた。安物だぜ。天気予報でも聞くかい」
結局ラジオだらけの車内で、二人はどの音も聞かずにいる。
「久しぶりで会ったというのに、ゆうべは焼酎《しようちゆう》を飲んだだけだったな」
ジャンが言った。粉雪が筋のようにかたまって、前の車と同じようなスピードで路面を走って行く。
「治郎さん、変わったな」
それがジャンの癖だ。俺、僕、私。あんた、兄貴、治郎さん、先輩。気分で人称がすぐ変わる。
「そうかな」「変わったよ」「老《ふ》けたのさ」「それもある。でも、兄貴に老け込まれちゃ悲しい」「間もなく右折だ。浦河《うらかわ》方面。あとは一本道」「やけに車が多いな」「出勤時間だ。すぐ淋《さび》しくなる」「あれか」「そうだ」
彼らの車は右折し、雪の吹く中を浦河国道へ入った。左に湿原がひろがり、火力発電所の煙突が見えてくる。右に走っていた日高《ひだか》本線の線路を跨《また》ぐとすぐ海岸に出て、道路は荒涼とした海岸に沿ってのびている。高い木もなく人家もない。凍結した路面に雪煙が走り、人はみな知った顔に出会うところまでアクセルを慎重に踏みつづける。
「よくこんな景色の中にいつまでもいるもんだな」
ジャンがしみじみと言った。
「俺は気に入ってる」「たしかに鋭さは抜群だよ。なまはんかじゃない」「そうか、判《わか》るか。この道路と直角に、左へ百メートル、右へ百メートル。どっちへ歩いても死神の顔が拝める」
ジャンは笑った。
「まっすぐ行ってもさ。俺たちにとっては」
「真琴内と接触している連中の家というのは、どんなのかな。サハリンのこんな海岸で生活させられているとしたら……」
ジャンはその寒さや厳しさを想像したらしく、しばらく黙り込んでいた。
「だが、お前が聞いて来た通りの話ではなさそうだ。もっと何かあるな」「俺もそんな気がしてる」「あのやくざもおかしい。銃もなしでどうする気だ。どこかチグハグだ」「俺たちがプロだってことを知らなかったんだ。ということは、奴《やつ》らを動かした連中もよく判ってないんだろうな。アマチュアなんだ」「盗聴屋《バニー》は一応プロだった。ああいう職人|気質《かたぎ》の盗聴屋《バニー》がいるということは、分業化が進んでいるということだ。そしてそれはプロフェッショナルな連中が存在するということじゃないか。そういう連中とあのやくざは絶対につながらない」「俺たちに対する流れが二つあるのか?」「まあそういうことだな、今のところは。とにかく甘く見ないことだ」
山間部を抜けて来たらしい雪だらけのトラックと続けざまにすれ違う。遥《はる》か左前方には日高山脈が聳《そび》えつらなり、十勝《とかち》平野へ抜ける日《につ》勝《しよう》峠《とうげ》の難路があるのだ。
6
奔馬《ほんば》の鬣《たてがみ》。まさにその形容通りの波濤《はとう》である。数万の奔馬が陸に向かって疾走《しつそう》している。うねりなど感じさせはしない。遠くから鋭く突っ立って走るのだ。しかも海岸線がながながと見渡せる。右側はもう日高の海である。出発したころから較《くら》べると、235号線・浦河国道を行き交う車の数は激減していた。アイスバーンに慣れないジャンは、制限内のスピードで慎重にやっている。時刻は九時少し前。
突然陽がさした。雪はその少し前からやんでいた。大倉がサングラスをすると、ジャンもすぐそれをみならった。北陸あたりの雪より反射がきついような気がする。
「よくこういうことがある。高いところで途方もなく強い風が吹くから、雲が引きちぎれてしまうらしいな。だがえてしてこういう時は気温がひどくさがる」
前はとにかく、両サイドの窓が凍りついてよく見えない。二人ともとうにコートは脱《ぬ》いでいた。だが車内は充分暖かい。
「気に入らねえ」
ジャンはそう言いながら減速した。左へ寄り、停《と》めてしまう。「あのトラックだ」反対車線で停まっているトラックを見ている。車線のまん中に居すわった感じだ。
「うしろも停まる気だな」
ずっと後方にいるトラックも減速したようだ。「こっちが進めば前の奴《やつ》は横になる気かも知れねえ」「そのようだな」
大倉はジャンの直感を認めた。進んでもUターンしても、トラックが道を塞《ふさ》ぐだろう。右は海へ落ち込む崖《がけ》。左はどうやら牧場のようだが、雪があるから道路からは出られない。「後続車がたまるまで動かずにいればいい」大倉はそう判断した。ジャンの勘がよくてこっちがはやばやと停《と》まってしまったので、相手の計算は狂ったはずだ。
だがジャンの意見は違った。
「前のをやっちまおう。ここからならファイアマンでいけるぜ」
実を言えば、大倉はジャンが東京で掻《か》き集めて来た銃器が気に入らなかった。数はたしかに多いが、弾《たま》がバラバラなのだ。だがファイアマンだけは、よく手に入れたと感心していた。ファイアマンというのはアメリカ人が勝手につけた呼び名で、西独HK社が開発した長射程|狙撃銃《そげきじゆう》だ。
「前もうしろもまん中で停まってる。罠《わな》にきまってるじゃないか。前の奴のドライバーを叩《たた》いて通り抜けるのが一番簡単だろ」
ジャンはそう言うと、サングラスをとり、するりとシートをぬけ出してうしろへ移るとファイアマンのセットにとりかかった。そのあいだに大倉が右のシートに移ってステアリングに手をのせる。
「行くぜ」ジャンはドアをあけて左へ、外へ出ると、前輪のところまで出て膝《ひざ》をつき、ファイアマンを構えた。
そのときひび割れた声が聞こえた。ハンドマイクを使っているらしい。
「やめろ。射つな」
その声は左の牧場の奥から聞こえ、すぐエンジンの音が響きはじめた。それとほとんど同時くらいに、前方に幌《ほろ》をつけたジープが姿を現わし、車線の中央にいるトラックの横へ出て停まった。
牧場に積もった雪の中を、赤いスノーモビルが三台、横に並んで道路ぎわまで出てきた。思い思いのスキーウェアにヘルメット。人相は判《わか》らないがみな若いようだ。
「あのトラックは追い返す」中の一人が太い声ではっきりと言った。大倉は冷たい風に乗って車内に流れ込むその声を聞き、うしろを振り返った。うしろのトラックのそばへもスノーモビルが何台か近寄っているのが見えた。
大倉はでかい体を器用に動かしてまた元のシートに移り、窓をあけてジャンに言った。
「おい、車へ戻れ。風邪《かぜ》をひくぞ」ジャンは立ちあがり、ファイアマンをこれ見よがしにかついで車へ入ってドアをしめた。「なんだい、あいつら」「よく見ろ。みんなベルトに拳銃《けんじゆう》をつけている」「へえ、牧場にスノーモビルか。北のカウボーイはおつなことしやがるな」
ジープが動き、前のトラックはUターンしはじめた。ターンに二回切りかえし、戻って行く。ジープもそのあとからUターンして左へ停《と》めた。背後のトラックがゆっくり進んで来る。それをやや見おろすかたちで、スノーモビル三台が牧場の中を並行してやって来た。トラックが途中からスピードをあげると、ランクルのそばの四人がさっと拳銃を抜いてトラックに銃口を向ける。トラックはふてくされたようにランクルの横を通りすぎた。
「ジープが先導する」
さっきの男が言い、四人は拳銃を腰のホルスターにおさめると、順番に向きを変え、道路ぞいに走り出した。
「行ってみるか」「それしかあるまいな」
ジャンは車をスタートさせ、ジープのあとを追った。スノーモビル隊は器用に牧場のはずれの斜面を使って道路へ出ると、大倉たちのあとから二列になってついて来た。
「訓練した動きだな。いいチームワークだ」
大倉が言った。牧場のはずれが山のはじまりで、ジープはその先を左に曲がると、割合急な坂道を登って行く。
「このまま、まっすぐ突っ走ったらどうなるんだい」
ジャンはそう言いながらハンドルを左へ切ってジープについて行く。「その必要はなさそうだ。喧嘩《けんか》をとめてくれたんだからな」
坂を登って行くと道は右に折れた。短くて幅の広い橋があり、その先はゆるい起伏のある台地になっていた。
「あそこに何か書いてあるな」「雪がついててよく読めないよ」「軽種馬育成……サラブレッドの牧場だな」「この辺は牧場だらけだ。なんていうところだろう」「新冠《にいかつぷ》だ」「いいもんだな、冬の牧場っていうのも」
なだらかな起伏を柵《さく》の線が区切り、真っ赤に塗ったサイロがあった。海も見えて来た。しみひとつない広大な純白の世界だ。おまけに紺碧《こんぺき》の空。
「兄貴、なんだか遊園地へ来たみたいな気分だぜ」
ジャンがそう言った。ゆるい起伏のひとつを登り切ったとき、更に十台ほどのスノーモビルが前方から、雪を駆《け》たてて疾走して来るのが見えたからだ。
「誘いを断わってあのまま国道を行っていれば、あの連中に出会うはずだったんだろう」大倉はそう言いながら右側にある建物を見た。木造の平屋で、ジープはゆっくりとそのほうへ曲がって行く。
その辺りは海に向かって一段低くなっており、陽当たりがよくて山からの風が避けられる地形なのだろう。もともとそういう地形のところを選んで山の一部を削り、更にひろげて牧場の施設を集中させたように見てとれた。
ジープが停《と》まった。黒のスキーウェアを着た男がとびおりて、ランクルに合図を送る。停車位置を指示しているのだ。その木造の建物は牧場の事務所だろう。入口は山側を向いており、その前に一応除雪した形跡のある駐車スペースがあった。「どうやらここの連中のユニフォームはスキーウェアらしいな」ジャンはそう言ってランクルを木造の建物の入口へ向け、ジープの右側へバックして停めた。ついてきた七台のスノーモビルは次々に鮮かなターンを見せてジープの左側へ整然と並んだ。
「こいつら兵隊だぜ、きっと」「うん」
大倉はジャンに頷《うなず》いてみせる。集団行動に隙《すき》がない。
ランクルの前で黒いスキーウェアの男が手招きをした。大倉とジャンはそれぞれコートとジャケットを持って車を出ると、それを着ながら車を離れた。「エンジンを切ってください」ジャンはそう言われ、「そりゃどうも」と言って車に戻り、キーを持って大倉のそばへ来た。
鷲尾《わしお》牧場。建物の入口に張り出した風除室の上に、筆太の文字でそう記した扁額《へんがく》があった。
「こちらへ」
黒いスキーウェアの男はなるべく喋《しやべ》るまいとしているようだ。その男は事務所風建物へ入るのではなく、今きたほうへ駐車場から出て行こうとしていた。
二人はそのあとについて歩き出す。左側に並んだスノーモビルの連中に向かって、ジャンがごく自然に軍隊式の敬礼をして見せたが、特に反応はなかった。
季節が違っていれば、それは見事に手入れされた生け垣や花壇なのだろう。二人は西側が帯状にこんもりと高くなったところを歩かされている。除雪はされていず、踏みかためただけの道だ。ゆるく右へ曲がりながら下っており、その先に高くて太い一位《いちい》の木が十本ほど雪をかぶっている。地元でオンコと呼ぶ常緑樹だ。そしてその奥に急勾配《こうばい》の屋根を持ったかなり大きな建物がある。白い壁に黒い柱や梁《はり》を交叉《こうさ》させ、縦長の窓が並んでいる。背後を山に守られ、前面にオンコの巨木を並べた見事な建物だ。恐らくそれがこの鷲尾牧場のオーナーのすまいなのだろう。館《やかた》と呼ぶにふさわしい。
館《やかた》の前方には木の柵《さく》が大きな環を作っている。柵は濃い緑色に塗られており、さっきの事務所はその円形の柵をみおろす崖の上にあった。
「優雅なもんだぜ。あそこで若い馬を鞍《くら》に慣れさせたりするんだろう?」ジャンは羨《うらや》ましそうに言った。
ゆるい坂をくだってその柵のそばまで来たとき、先を歩いている男が急に足をとめた。左手に厩舎《きゆうしや》らしい建物がつらなる一直線の道の彼方から、馬が一頭駆けて来るのだ。
サングラスをしていなければ眩《まぶ》しくて見えなかったかも知れない。幅広く除雪された道に薄く積もった粉雪を駆《け》たて、その馬は余裕たっぷりな走り方を見せている。
「女か?」とジャンが低く言った。たしかに長い髪が揺れているのが見える。青い空と黒光りするような海、純白の大地。その中に艶《つや》やかな褐色《かつしよく》のかたまりが躍《おど》っている。馬の吐く息が白く横に流れ、馬上の女は髪とマントのようなものを揺らせていた。
馬が近づくと、馬体からも白い湯気が立ちのぼっているのが見えた。馬はだいぶ手前から並み脚になり、鼻先をあげてとまった。
騎乗していた女が、ひらりと飛びおりる。大倉はちらりと茶のチェルシー・ブーツを見た。背の高い女だった。大倉の眉《まゆ》の高さと同じくらいの身長だ。サングラスをかけ――型からすると恐らくレイバンだろう――そばの馬と全く同じ色のジャンプ・スーツを着て、その上になんとミンクのコートを着ているのだ。袖口《そでぐち》が広く前にボタンがない。そのミンクのコートを除けば、着ている物は女っぽくもないし、特に乗馬向きの服装でもない。
女は黒いスキーウェアの男に手綱《たづな》を渡した。男は黙ってその馬の向きを厩舎のほうへ変えた。女の目はサングラスのかげで大倉をみつめているようだった。彼女の背後で馬がブルッと口を震わせる音をたてた。
女は左手でサングラスを外し、頭を振って髪をはねあげた。化粧はしていない。目尻《めじり》の小皺《こじわ》。面長《おもなが》できつそうな眼。さっぱりして乾いた感じの色気。
ジャンは最初女をみつめていたが、女が大倉をみつめ続けているので、仕方なく大倉へ視線を移した。風が吹いて粉雪が舞いあがり、馬が去って行く。
「よう」
大倉が声を発した。女は微笑を泛《うか》べる。
「とにかく入りましょう」
女は館《やかた》に向かって歩きはじめ、大倉と並んだ。ジャンは二人について行く。
「苫小牧にいることは知ってたわ」「そうか」ジャンは二人のうしろで首をすくめ、薄い下唇を突き出したりしている。「何かへまをして左遷されたんだと思ってたのよ。でもあなたらしくない感じだった」
三人はオンコの大木の間を抜け、館の玄関についた。その玄関に風除室はなく、そのかわり内部が二重になっていて、かなり広いスペースの左右に、ウインザー・チェアがずらりと並んでいた。どれひとつとして同じ形のものはない。
女はミンクのコートの裾《すそ》を男がするようにはねあげてその一つに腰をおろし、足もとにひとつずつ置いてある柄《え》つきのブラシを取り、靴についた雪を落としはじめた。
「悪いけど、床が濡《ぬ》れるとあとが厄介でしょ」
ジャンと大倉もウインザー・チェアに坐《すわ》って靴の雪を落とした。「この椅子《いす》、みんな本物らしいですね」ジャンが言う。「そうらしいわ」女が立ちあがった。「ボウ・バック、コーム・バック、ホイール・バック。みんな揃《そろ》ってる。ちょっとしたもんだな」
女がどっしりとした両開きのドアの片方をあけた。でかいノブ。金具の浮彫りも尋常ではない。ジャンが口笛を吹いた。ちょっとわざとらしい。女の関心をひこうとしているからだろう。
「こいつはすげえ!」
焦茶《こげちや》色の太い梁《はり》と柱、白い壁。天井はそう高くないが、家具、絨毯《じゆうたん》、タピストリー、時計、壺《つぼ》、ガラス器……まるでアンティック・ショップのようだった。それも超一流の。
右側の壁面にわりと小ぶりな煖炉《だんろ》があり、太い薪《まき》が燃えている。女はミンクのコートを脱《ぬ》ぎながらそのほうへ近寄り、ごついスペイン風の革張りの椅子《いす》へコートを投げかけると、煖炉のそばのヘップルホワイト・スタイルのアーム・チェアに坐った。
「坐《すわ》って」
大倉は彼女と向き合う位置にある丸テーブルの横の、装飾|過剰《かじよう》ででっぷりとしたグランドファーザー・チェアに腰をおろしかけ、気がついて白いアルスター・コートを脱いだ。
「たいした財産家だな、ここのあるじは」
精緻《せいち》な象眼《ぞうがん》細工を施した丸テーブルにコートを置き、大倉は立ったままそう言った。
「その帽子、似合うわよ。いかにも荒っぽいことをやりそう」大倉はベレーを脱いでコートの上にのせた。ジャンは煖炉の横の窓ぎわにあったウインドー・スツールに坐る。女の顔を正面から見る位置だ。
「こんなところにいようとは思ってもみなかったな」大倉は言い、椅子に腰をおろした。
「紹介する。あれは高木明。趣味は骨董《こつとう》」
「それに破壊工作?」女がはじめてジャンへ視線を向けた。「こんないい家をこわしたりはしないさ」ジャンは笑顔で言った。「美人に怪我《けが》をさせるのも嫌《きら》いだしね」
女は大倉へ視線を戻し、脚を組んだ。男物のチェルシー・ブーツのゴアが見えた。
「あたしにはただのガラクタ。お店にでも使うっていうんなら別だけど」「先輩、どういう人なんだか教えろよ」
大倉は苦笑を泛《うか》べて女をみつめた。女が微《かす》かに頷《うなず》いたようだ。
「銀座《ぎんざ》の人だ」またジャンが短く口笛を鳴らした。「だいぶ昔に知り合ったが、あいだが長く抜けている。そして東京へ帰ったら、まだこの人は銀座にいた」「赤坂《あかさか》よ」「そうだ。銀座と赤坂だ。二軒の店を持つママだった。店をしめ、いなくなった」
女が笑った。
「まるで墓碑銘《エピタフ》ね。あなたの話はいつもそう。泣いたり喚《わめ》いたりは消えてなくなっちゃう。仕事で行く。帰って来た。たとえそのあいだが十年あってもそれだけ」「ここで何をしている?」「鷲尾《わしお》歌子、三十八歳」女は大倉の言い方を真似《まね》ていた。「鷲尾英二郎は二年前に死んだ。あたしは未亡人」「そういうことか」「鷲尾英二郎は引揚者。サハリンからの。実家はここ。あととりは戦地から帰って来なかった。陸軍の兵隊で、満州にいたらしいわ」
ガタン、と音がして奥の扉《とびら》があいた。女は振り向かないで「ノブさん?」「いいえ、儂《わし》です」
作業服を着た老人だった。
「ノブさんに言ってコーヒーを持ってこさせて」「はい」
ガタン、と扉がしまる。
「凄《すご》い音でしょ。もうここもガタガタよ」「自衛隊員とのつながりを説明してくれ」「さすがね。あなたのような人を資産《アセツト》って言うんですって? 秘密の任務に使う部外者のことでしょう。でも、CIAって失礼よね。あなたをもの扱いするなんて」
ジャンが茶々をいれた。
「僕らの今度のお仕事は浸《ペネトレ》 透《ーシヨン》です」「なに、それは?」大倉が教える。「機密入手と監視だ」「降りたら? それ」女の表情がきつくなった。「要求かい?」「そうでもないけど、うちのカウボーイたちは緊張してるわよ」「彼らはなぜここにいる?」「当然のことよ。鷲尾牧場は真琴内のスポンサーですもの、はじめから」
ガタン、とまた音がして扉があき、ワゴンを押した中年女が入って来た。カチャカチャと器《うつわ》が鳴っている。
「鷲尾英二郎……次男か。復員しなかったのは長男だな」「ソ連軍が来る前に、仲間と逃げたので捕虜《ほりよ》にはならなかったそうよ。そのかわり帰れなくなったの。生きのびてギリヤークの女性と結婚したってことが判《わか》ったのは、漁船同士のつながりができてから。でももう亡くなったそうよ」
ぼってりした花柄のセーターにオーバーオール・ジーンズを着て、毛の飾りがついたスリッパをはいた中年女が、まず大倉のコートとベレーを入口の脇《わき》にある真鍮《しんちゆう》の帽子掛けへ移し、あいた丸テーブルの上へコーヒー・カップを置いた。
「サハリンへ移され、漁民になった少数民族の中には、それと同じような境遇の人がほかにもいたのだな?」「らしいわね」
ジャンが大倉の背後で嘆声を発した。
「冗談じゃない、これを普段に使うのかい。本物のセーブルだぜ。十八世紀のしろものだ」
ノブさん、というのがその女だろう。彼女は歌子のそばへワゴンを押して行った。歌子はセーブル窯《がま》特有の青紫の地に、水辺で語らう男女の貴族の絵が入ったポットをとりあげて、同じ図柄のカップにコーヒーをついだ。ノブさんがそのポットを持って大倉たちのところへ注《つ》ぎにまわると、歌子が「ミルクとシュガーは?」と訊《き》いた。
「結構」「俺《おれ》もブラックでいい」
大倉とジャンが答える。
「最初の接触があったのは七年前ですって。鷲尾英二郎は……主人だなんて言う気がしないのよ」歌子はそう言ってコーヒーをひとくち飲み、「鷲尾英二郎はその漁船の船長とすぐ会ったそうよ。なぜなら向こうの船に日本語を喋《しやべ》る人がいて、新冠《にいかつぷ》の鷲尾という名を言ったからよ。船長のほうが知らせて来たわけね」と言った。
大倉は高価なカップに注がれたコーヒーを飲んだ。旨《うま》いコーヒーではあったが、そのカップにふさわしい味かどうかは別だった。
「鷲尾英二郎がもと沿海州《えんかいしゆう》あたりにいた少数民族の援助に乗り出した理由はそれで判った。だがなぜ自衛隊員がここにいる。スノーモビルの連中は隊員だろう?」「はじめはささやかなものだったそうよ。肉やお米、小麦粉などを買うお金を出してやるくらいなもので。ほかにはその船長と仲間の船二、三隻のエンジンをとりかえる費用くらい」
歌子はコーヒー・カップを大きな車輪《キヤスター》のついたワゴン・テーブルの上に戻すと、立ちあがって煖炉《だんろ》の前へ行き、ブーツの爪先《つまさき》で燃えている薪《まき》を炎の中へ押しこんだ。
「あなたたちがここから先へ行ってもなんにもならないわ。外国でならとにかく、日本にいるのにアメリカのために働くことはないじゃないの。機密入手と監視……そう言ったわね」歌子はジャンを見た。パチッと薪のはぜる音がした。「浸《ペネトレ》 透《ーシヨン》」ジャンが答える。
「それならここにいたほうが確実よ。真琴内のことが知りたければ、ここですべてが判るわ」「ここがセンターというわけか?」大倉が重い声で訊《き》く。「そうなってるわ。そうなってしまったのよ」大倉は上着のポケットへ手を突っこんでキャビンをとりだし、喫《す》いはじめた。「頂戴《ちようだい》」歌子は彼のそばへ行ってタバコをとり、大倉がジッポで火をつけてやる。
「オホーツクの海では、今でも秘密を守ることに命が賭《か》けられていると思うけれど、こっち側ではそうは行かないのよ。真琴内をレポ船の基地だと信じてる連中はたくさんいるわ。的《まと》はずれであっても、秘密が保たれていない証拠よ。市川信行を知っているでしょう?」「日本の政治にはうとくてな。自民党の大物だろ。選挙区は……そうか」「北海道五区。鷲尾家とは縁続きよ。この地区から市川系の代議士が出てるわ。鷲尾は市川信行が最初に当選したころから、資金面でずっと後援していたの」「市川信行は防衛庁長官を短い期間だがやったことがあったな」大倉が言う。「もともとは漁業が専門でタカ派の一人と見られてるわ。鷲尾は市川信行に真琴内を守らせたと自慢していたの。日本の警備艇は真琴内の船の行動には目をつぶっているし、公安関係も真琴内の港の性格を理解して手を出さないどころか、マスコミなどに対して厳重にガードしてやってるの。そしてここがその支援センターというわけ。千島列島からオホーツク、カラフトにかけてナマ情報が得られるんですもの、自衛隊が用心棒を置きたくなるのも当然でしょう?」
センターをこんな見当外れのところに置いているのは、事が明るみに出てしまった場合の用心のためだ、と大倉は思った。
「用心棒はここから交替で出て行くんだな?」
「そうよ」「さっきのトラックは何者だ?」「漁民よ。もともとは密漁船からはじまったことなのよ。国同士が地図の上に引いた線なんて、現場の漁民には目に入らないし、目に入れたくもないというのが正直なところでしょうね。根室《ねむろ》あたりの店へ行ってごらんなさい。大きな花咲蟹《はなさきがに》がいくらでもあるわよ。お客は知らなくても漁民はちゃんと判《わか》ってる。引かれた線の内側ではそんな大きなのが獲《と》れるはずはないって。そういうのは市場《いちば》を通らないで町へ出て来ちゃうの。だって組合が扱っていいものじゃないでしょう。でも陸《おか》へあがってしまった魚にパスポートの提示を求めるわけにも行かないし、店はさっさと客に食べさせてしまうから、結局現場をおさえるよりほかに咎《とが》めようがないわけね。でもその現場は線の向う側じゃないの。密漁はソ連側に拿捕《だほ》されない限りいい商売よ。知床《しれとこ》の飲み屋などで話を聞いてごらんなさい。まだ二十《はたち》代の若さで国後《クナシリ》をよく知っている男がごろごろしているから。彼らのお父さんやおじいさんならとにかく、二十《はたち》代の日本人がなぜ国後《クナシリ》の地理に明るいの?」「それはそうだろうな。だって向こうまで一五、六キロしか離れていないんだろ。車なら六〇キロの制限時速で行ったって十五、六分しかかからない距離だ」ジャンがそう言った。「昔は氷の上を歩いて渡ったそうよ。長い棒を横に持ってね」「氷の割れ目に落ちたときのためだね」「そう」
大倉は立っている歌子をみあげた。
「君は豊橋《とよはし》の出身のはずだな」歌子は喫《す》っていたタバコを煖炉《だんろ》の火の中へ投げこんだ。
「母は知床《しれとこ》の生まれ。結婚して豊橋へ行ったの。貧乏な漁師の娘よ。競走馬の関係で鷲尾はよく東京へ出て来て、派手に遊んでいたわ。うちの店へ来るようになったのが五年前。口説《くど》かれたわ。母が知床の人間だって知ると、何もかもあたしに打ちあけたの。母の実家が関係しているってことが判《わか》ったときは女でも血が騒いだわ。あの人たちを助けてあげたいって。もちろん牧場の奥さんになることにも魅力はあったしね。厚化粧で酔っぱらいの相手をする暮らしから早く足を洗いたいと思っていたから。……それに」歌子は煖炉を背にして大倉のほうへ向きなおり、ジャンプ・スーツのポケットへ両手を突っこんで背筋をぴんとのばした。
「石みたいな男のまわりをうろついている自分が嫌《いや》になったのよ」ジャンがわざとらしく三回拍手してやめた。
「君は厚化粧じゃなかった」
大倉が言うと歌子は声をあげて笑った。「やっとあたしのことを言ったわ」
大倉の顔に苦笑が泛《うか》ぶ。
「ご亭主はなんで死んだ?」「そんな言いかた、やめて」歌子の顔からは笑いが消える。
「鷲尾英二郎は糖尿病性昏睡《デイアベテイツク・コーマ》で死んだのよ」ジャンが「うへ……」と言い、「糖尿病かぁ」と控え目につけ足した。
「そう。判るでしょ。鷲尾はあたしを女としてでなく、後継者として選んだのよ。真琴内への援助を続けるためにね。お酒をやめる気もなかったし、美食家だったから、長生きはしないと思っていたんでしょう。あたしがここへ来るとすぐ、弁護士たちに命令して、名義が変えられるものは片っ端からあたしの名義に変えはじめたの。その作業は鷲尾が死ぬまで続いたわ。おかげであたしは鷲尾の一族からは鬼みたいに言われてる。でも鷲尾英二郎はあたしにはこう言いのこしてるのよ。すべてを叩《たた》き売ってでもチュプカを守れ、って。親類たちに遺産が行っていれば、そんなことはとうていできないでしょうからね」
大倉はタバコを消した。高価なコーヒー・カップが灰皿《はいざら》がわりにされている。
「チュプカ、と言ったな。それはなんのことだ?」「アイヌ語よ。北という意味だけど、アイヌ民族にとって陸の北は海でしょう。だから千島列島からカムチャッカがある方角をチュプカと言っていたの。日本列島が東北に曲がっているせいで、関東地方の人間の北に対する感覚が、少し東に偏《かたよ》っているのと同じことよ。自分たちの土地よりもっと寒いところを、アイヌ民族は北だと感じていたらしいの。だから彼らがチュプカと言って指させば、それは東の方角になってしまうわけ。北海道に住むアイヌ民族がチュプカ・グルと言えば千島の人たちのことだし、千島の人間がチュプカと言えばカムチャッカのことだったの。あたしたちが支援しているのは、オロチョン、ギリヤーク、ウリチ、ゴルドの四つの少数民族の集団だけど、それをひとまとめにして呼ぶ隠語《スラング》として、アイヌ語が使われたのよ。それがチュプカ。でもこの言葉も秘密と一緒に外へ流れだしてしまって、密漁船の連中も自分たちの隠語《スラング》として使いはじめちゃったわ。密漁の蟹《かに》や魚をチュプカと言ってるの」「判《わか》って来た。君らの活動に便乗《びんじよう》している不良漁民がいるということだな」「彼らにはお金がからんでるわ。密漁船の儲《もう》けはとても大きいのよ。だって税抜きですものね。漁協や市場《いちば》を通らないから申告したくてもできないでしょう。ときどき税務署にやられるのがいるけど、それは派手に土地を買ったり豪勢な家を建てたりしちゃうからよ。うまくやれば拿捕《だほ》以外のリスクはないの。でも、どうしても暴力団なんかとはつながってしまうのね。あぶく銭《ぜに》だからバクチもやるでしょうし」「それだ、あいつらは」ジャンが笑う。「苫小牧港へ出迎えがあった」大倉が説明した。「それはあたしたちとは無関係よ。知らなかったわ」
歌子は元の椅子《いす》に戻って腰をおろし、脚を組んだ。
「盗聴屋《バニー》のことは?」大倉が訊《き》く。「バニーってなんのこと?」「俺《おれ》のオフィスに盗聴器を仕掛けた奴《やつ》がいる」「本当? それも知らないわ」「じゃあもうひとつ答えてくれ。チュプカに対する援助物資はなんだ。食糧だけか?」「医薬品もよ。時計、ラジオ、カメラなどという品物も、おみやげ程度にあげるらしいけど、それは問題になる量じゃないわ。そういう物をあまりたくさんチュプカに渡したら危険でしょ?」
大倉は微《かす》かに首を傾《かし》げた。
「炊飯器とか電子ジャーとかはチュプカ自身にとって意味がないのよ。ペンケ・コタンには電気さえ来ていないんですって。ひどい話でしょ」「ペンケ・コタン?」「あ、ごめんなさい。ペンケは上、コタンは村。チュプカのサハリンの居住地よ」「それもアイヌ語だな?」「そう。アイヌ語で上はペンケ、下はパンケというの。川の名や地名によく使われてるけど、川も上流のほうが寒いでしょ。だからペンケ・コタンというあたしたちの隠語《スラング》は、上の村というより北の村と言ったほうが正しいわけ」「じゃあ、向こうからこっちのことを言うときはどう言うの?」とジャンが尋ねた。「北海道はヤワニよ。ヤワニに住んでる人間はヤワングル。あの港はヤワニ・トマリ。あたしたちの間ではただ港《トマリ》と言えば通じるの。トマリは港。岩内《いわない》のほうにも宿泊の泊と書くトマリがあるけど、あれは関係なし」
大倉は立ちあがり、腰に手をあてて背筋を反《そ》らしながら、ジャンがいる窓ぎわへ行って外を見た。
「はたしてそれだけだろうか?」歌子はそう聞いてむきになったようだ。「電池のことなら別問題よ。寒冷地では電池の寿命がうんと短くなってしまうの。だから本物のレポ船だってしこたま積んで行くし、漁船だってつかまったときプレゼントのあるなしは、あと始末に大いに影響するわけよ。向こうの連中はカメラやラジオや時計などと同じくらい、いつも電池を欲しがってるわ」「そうじゃない。俺はその港《トマリ》から、君の知らない品物が出て行っているような気がしているんだ」「そんなことあり得ないわ。出て行く物資はあたしが買い、あたしの手配で動くのよ。今ではそれを輸送するトラックにまで彼らが同乗しているわ。港《トマリ》も物資の動きも、それに見たとおりあたし自身でさえ防衛庁の監視下にあるようなものだわ」「君がそう信じているとすれば、俺たちはここから引き返すわけには行かん。もし君が欺《だま》されているとしたら、その実態を知りたくはないか? 俺は君のために調べたくなった。君はよくこの部屋で人と会うか?」
「いいえ、まるっきりよ」「港《トマリ》のことで電話をするときは?」「あの事務所よ。時には上の自分の部屋の電話も使うけれど」「俺と賭《か》けをしないか?」「何を賭けるのよ?」「俺が負ければここから引き返してもいい」
大倉はそう言うと、ジャンが窓際へ置いたコーヒー・カップを受け皿ごとちょっと持ちあげて、すぐ下へ置いた。そして静かな歩きかたで歌子のほうへ近寄り、床に膝《ひざ》をつくとジャンのほうへ右手で喋《しやべ》れという合図を送って、まずワゴンの底板を探《さぐ》り次に上の板の底を見てから、シュガー・ポットやミルク・ピッチャーの中を調べた。
「俺はギャンブルは嫌《きら》いだよ。勝ったことがないんだ」ジャンは喋りはじめている。「マダムは牧場主なんだから競馬はやるんだろう?」「少しはね。でもここへ来てからは全然ごぶさたよ」「じゃ、銀座や赤坂にいたときはやったわけだ」「ええ」
歌子は察しのいい女だった。大倉が何を探しはじめたのか気づいたらしく、ジャンに調子を合わせている。
大倉はちょっと困ったような顔でワゴンのそばに立ち、あたりを見まわした。そしてすぐ自分たちが入って来た大きな扉《とびら》のそばにある、真鍮《しんちゆう》の帽子掛けのほうへ行った。歌子の大きな瞳《ひとみ》がそれを追っている。そこには大倉のアルスター・コートとミリタリー・ベレーが掛けてあった。大倉は帽子掛けの柱に手をのばし、振り向いた。黒く細い紐《ひも》をつまんでおり、紐の先にマッチほどの大きさの薄い板がぶらさがっている。
大倉はそれをつまんだまま、窓の外を見ながら歌子のそばへ戻って来ると、自分の耳を指さしてからその指で黒い板状のものを示した。歌子は哀《かな》しそうな目で頷《うなず》く。
大倉は煖炉《だんろ》の火の中にその盗聴器をすててから言った。「二分か三分くらいしかない。ココムのリストに抵触《ていしよく》する物がそこから流れ出しているはずだ。だとすればソ連側はチュプカも港《トマリ》もとうに知っている。政府がそれに気づいたら君の港《トマリ》はおしまいだ。日本側は証拠を消さねばならん。港《トマリ》には君の身内がいるんだろう?」大倉は早口で言い、歌子は強く頷いた。「逃がす手配ができるか。カウボーイに知られずにだ」歌子は首を傾《かし》げた。「俺たちをここから出してくれ。できるだけ早く。カウボーイたちがどこかへ相談する前にだ」
ジャンはウインドー・スツールから立ちあがった。
「どうやって出る?」ジャンはもう扉へ歩きはじめていた。「日本側は知らなくてもクロフォードはもう知っていたんだ。日本政府の消毒《サニタイズ》を確認するため俺たちを出したのさ」大倉もコートとベレーをとってジャンのあとに続き、歌子がそのあとからミンクのコートをひっつかんで小走りに外へ向かう。「だとすれば手はある」
三人は館《やかた》を出て上の事務所へ向かった。
「東京へ帰るんだな。遺産を金にかえれば一生食うには困るまい」大倉がミリタリー・ベレーをかぶりながら言い、歌子は答えずに滑り易《やす》い道を登って行く。
「おおい」
大倉は大声で言ってから歌子に訊《き》いた。「リーダーの名は?」「キャプテンでいいの」
大倉はまた大声を張りあげた。
「おおい、キャプテン」
黒いスキーウェアが木造の建物から飛び出して来た。「なんだ」胡散《うさん》臭そうな顔だった。潰《つぶ》すのと違って、盗聴器を火にくべると故障と紛《まぎ》らわしくなる。一気に機能を失うのではないからだ。ラジオの前でどうすべきか首をひねっていたところだろう。
「CIAの情報と違うぞ。あっちは君らの港《トマリ》をKGBがコントロールしていると言っている」「まさか……」「俺たちはそれをたしかめに出て来たんだ。君らが気づいていないことがたった今|判《わか》った。抜けてるぞ。どうする気か知らんが、もうすぐ流氷が来る。その前に出る船があるはずだ。隠さずに教えたほうがいいな」キャプテンは歌子の顔を見た。「よければ教えてあげて。あたしの口からは言えないわ」たいした女優だ。キャプテンは頷《うなず》く。「ある。最後の船だ」「そいつが出る前に俺たちは奴《やつ》らのルートを叩《たた》かなければならない」大倉とジャンはランクルへ急ぎ、キャプテンと歌子がそのあとを追う形になった。「いったいなんのことだ」
「俺にだって次の船が何を積んで行くか判らん」スキーウェアを着たカウボーイたちが、建物の中からぞろぞろと出て来た。ジャンはランクルのドアをあけて運転席についてしまった。
「いいか」
大倉はそのカウボーイたちに向かって喚《わめ》いて見せた。「してやられたんだよ、君らは。塗料、セラミック、ビデオ、コンピュータ。向こうは図面などより製品その物を欲しがっている。北の情報を持って帰るはずの船が、そういう現物を持ち出してるんだ。甘いんだよ。平和にどっぷりつかって敵を見る目もなくなってしまったんだ」そして彼はキャプテンに告げた。「上に報告しといたほうがいいな。もう連絡は行っているかも知れんが」彼は車のドアをあけた。「頼むから普段とあまり変わったことはしないでくれよな。俺たちの狙《ねら》いは港《トマリ》じゃない。そのルートなんだ。気づかれたらとたんに消えてしまう。奴《やつ》らもプロなんだ。無線なんか使うなよ。傍受《ぼうじゆ》されているにきまっているんだ。電話に盗聴防止装置《スクランブラー》はついているのか?」キャプテンは首を横に振った。「チッパーは?」「暗号のことか?」「そうだ」ジャンはエンジンを始動させた。「使える。あまりやらないが……」「じゃ使え。ジャン、俺たちのコードネームを教えてやれ」ジャンは眉《まゆ》をつりあげて言った。「胆振《いぶり》観光」大倉は車に乗り、キャプテンに言った。
「聞いたか?」「胆振《いぶり》観光、だな」「そうだ、行くぞ」大倉がドアをしめようとすると、キャプテンがドアをおさえた。
「待ってくれ」「なんだ」キャプテンは大倉が坐《すわ》ったシートのうしろをのぞき込むようにした。「無断で悪いがそのファイアマンを射たせてもらった。話でしか知らなかったが、凄《すご》い銃だ」大倉は内心ほっとしたが、厳しい声で言った。「何発だ?」「一発だけだ」「残りは十九発か。間違いないだろうな」「一発だ。すまん」「こっちの命がかかってる。ほかはいじってないだろうな」「大丈夫だ」「機会があればみんなにためさせてもいい。あんなもの、使いたくはないからな」「行ってくれ。気をつけろよ」
大倉はドアをしめ、ジャンがアクセルを踏んだとき、ガラスごしに歌子を見た。歌子はどういうつもりかウインクをしてよこした。
ジャンは忍び笑いしている。
「笑うな。まだ見られている」大倉が叱《しか》ったが、彼の顔もほころびかけていた。スノーモビルが一台、橋を渡って来た。すれ違うときジャンは敬礼した。
胆振《いぶり》観光とは、ゆうべの女たちが所属している会社の社名なのだ。社長は日舞の名取りでしっかり者のおばさんだ。
「言うに事欠いてなんというでたらめを思いついたんだ、こん畜生」大倉はそう言って笑った。車は橋を渡り、坂をくだりはじめる。
「いきなり訊《き》くからさ。どうせでたらめのコードネームなら、自分で考えりゃいいのに」「嘘《うそ》は苦手だ」「そんなスパイがいるかい。でもあいつらの中に、苫小牧で宴会をやった奴がいなければいいが」「なぜこの時期にクロフォードが現われたか判《わか》った。流氷だ。流氷が来る前に今年の最終便が出るはずなんだ」「彼もクリスマスには家にいられるだろうしな」「気の毒だな、あの人は」車は坂を下り切って国道へ戻った。
「民間ではじめたことに国が手を出せば、たいていああいうことになる。利用されてしまうんだな」「消毒《サニタイズ》はどんなレベルになるだろうか」ジャンは心配そうに言う。「CIAなら最悪の場合トマリの人間を完全に入れかえるという手を使うだろう。KGBが同じレベルでやれば、トマリそのものが抹殺《まつさつ》されるだろう」「港がひとつ消えるわけか」「小さければ可能さ」「これからどうする気だい?」「任務が運命だ」「久しぶりだな、その言葉。あんたよほど気に入ってるんだね」「クロフォードが俺たちをこの道にセットした。奴のセット通りに動くつもりだ。おい、うしろへ行くぞ」「どうする気だ?」大倉はジャンがスピードを落とすと、シートの間をまたいでうしろへ移った。「銃をチェックする。細工をされていたらことだからな」
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鷲尾《わしお》牧場の名は大倉も以前ちょっと聞いたことがある。しかし彼にとって記憶に留める程の意味はなかった。新冠《にいかつぷ》にはときどき来ていたが、それは絵を描くためだった。海に突き出た判官館《はんがんだて》という名の山があり、森林公園やキャンプ場になっているのだ。大倉は夏の夕方たまたまそこに車をとめていて、見事な落日を見た。海岸線が北西へ後退する形になっているから、夕陽に向かえば視界はすべて海である。そこから真西に線を引けば、その線は恐らく室蘭《むろらん》の地球岬あたりを通るのではないかと、大倉は思ったことがある。おりしも快晴で雲はなかった。落日がはじまったのを知って大倉はその日の太陽の最後を看取《みと》るような気分になり、風に吹かれて立ちつくしていた。日の出も落日も、大倉はいろいろな場所で見ていた。砂漠の丘に身をひそめ夜を待っている時の落日も美しかったし、命からがら脱出したゴムボートの中で見た朝日も美しかった。だがその落日には平和な世界に穏やかな夜をもたらす慈悲深さを感じた。そして赤い光球が水平線のまぢかまで降りて来たとき、大倉はまだ一度も見たことのない細長い黄金の皿《さら》がその真下に出現するのを見た。それはまるで落日の受け皿であった。遥《はる》かな海面に映《は》える赤い光球の光が、黄金の皿となって輝いたのだろう。その黄金の皿は落日が水平線に近づくにつれ、一層形をはっきりとさせ、黄色みを帯びた光彩を濃くし、光球が水平線に触れて没しはじめると、急速に消えて行った。
それを見たあと、落日の赤と受け皿の黄を求めて、パレットの上で何度絵の具を合わせただろうか。カメラを持って撮影に来たこともある。だがあれ以来一度も同じ美には出会えていない。
その判官館がある新冠《にいかつぷ》に歌子が住んでいたのは、人間同士のからみあいのふしぎさと言ってよい。
「ここが静内《しずない》か。まったく牧場だらけだな、門別《もんべつ》からこっちは」ジャンが次々に現われる牧場の標識に感嘆している。「日本じゃないようだ。ヨーロッパだよ、ここは」
「おかしなもんだな」黙りこんでいた大倉がやっと口を開いた。「なんのことだい?」「人間のことだ。あの女が新冠にいた。それがおかしいのさ」「どうして?」「彼女は銀座にいた。新冠にも銀座がある」「へえ?」「国道をそれて山側へ入るとすぐ、牧場銀座と呼ばれている道がある」「なんだ、そういうことか。でも銀座に縁があることはたしかだな」「いい道だぞ。道路の両側はえんえんと牧場の柵だ。車をとめるとサラブレッドたちが柵のそばへ集まってくる。馬というのは物見高いんだ。こっちが見物されている。トレセンにいる馬などより、のびのびとしていて顔つきも優しいし、茶目っ気たっぷりの可愛《かわい》い奴《やつ》もいる。それが道ばたにいるんだ。草をちぎってやると食べる。東京あたりだったらあの道は確実に有料だろう」「好きなんだね、ここらの風景が」
ジャンはそう言いながらも、前後の車の動きに油断なく気を配っているようだ。
「苫小牧《とまこまい》の盗聴屋《バニー》も出迎えのパジェロも彼女の組織と無関係だとすると、俺《おれ》たちが来たのをどうやって知ったのだろうな」「俺はパジェロの線だと思っている。密漁船の連中がやくざとくっつくのは自然のなりゆきだ。彼らも北方民《チユプカ》と港《トマリ》の関係があるから楽をしている。その関係を暴《あば》かれたら困ると思っているんだろう。スノーモビルの連中の説得で簡単に引きさがったのは、密漁者側が鷲尾牧場に協力する気でいたからじゃないかな。少なくとも協力を押し売りする姿勢はあるはずだ」「総会屋のパターンか」「そういうわけだ」「だが、奴らは北海道でも道東とか言われる地方の一部の漁民だろう。なぜ俺があのフェリーで着くことまで知っていた?」「盗聴屋《バニー》を動かしたのと同じ連中にきまっている。俺たちの根は東京にある。欧亜商事の谷岡がへたな電話をして来たが、あいつの立場になればよく判《わか》る」「禁輸品をバラして援助物資に紛《まぎ》れ込ませる連中の背後にいるんだな」「彼らも今、証拠を消すのに必死だろう。谷岡がじかにそんな危険なことに手を出すはずはないが、ブツの出どこには欧亜商事の第三営業本部がからんでいると見て間違いはない。漁民ややくざをたきつけて妨害工作をしたんだ。しかし、純粋に北方民《チユプカ》の援助を目的としている北海道人《ヤワングル》の組織や、それを保護して情報活動をする防衛庁関係に知らせるわけには行かないだろう」
車は海を右に見て走り続ける。路面は薄く凍結しているものの、ジャンはアイスバーンに慣れたらしく危なげのない運転ぶりだ。ただ、海岸が高くなって、切り通しのようになっている部分では、路面の氷も厚く、その上の雪の量も多く、轍《わだち》が深い。轍《わだち》通りに走っていれば無難だが、追い越しなどで轍の中央の盛りあがりに車輪を乗せるのは、充分に減速して慎重にやらないと激しいスピンをおこす。極力ブレーキの使用を抑え、スリップした場合は振れた方向へハンドルを切らなければならない。その技術が身にしみついていないとつい逆にハンドルを切ることを忘れて派手な急回転を演じることになる。
「東京あたりの若い連中は、なぜ冬の北海道へ遊びに来ないんだ? 無難な道をエクゾーストの音ばかり派手に立てさせてよろこんでるが、こういう道のドライブにはめいっぱいスリルがあるのにな。本物のスリルには臆病《おくびよう》なのかな。マニアならこたえられないはずだぜ。出発前の準備だって、あれこれ考えるだけでも楽しいのに」「観客がいないせいかな」「こりゃ面白いよ。病みつきになりそうだ」ジャンはしんそこ厳冬の道を楽しんでいるようだった。
三石《みついし》、浦河《うらかわ》。苫小牧港からそうたいした距離ではない。さっきの鷲尾《わしお》牧場がある新冠《にいかつぷ》までだって、おとなしく走って一時間半くらいのものだ。北海道のドライバーはそのくらいの場所を近所だという。広大な面積の中に住む人口は、東京の半分でしかない。
幌別《ほろべつ》川を渡ると、海岸の雰囲気が急に変わった。様似《さまに》の海岸はなかなかしゃれた景観を持っている。日高耶馬渓《ひだかやばけい》というらしいが、海中の奇岩がつらなる八キロあまりの男性的な眺めだ。
「襟裳《えりも》だ」大倉が教えた。「なんだか淋《さび》しいところだな。冬のせいか?」「襟裳灯台へ向かうと三角形の二辺を走ることになる。町へ入ったら左へ行け。登り坂があるからすぐ判《わか》る。そっちが国道で、岬をまわる道は観光用の道道《どうどう》だ」
三角形に鋭く海へ突き出した部分を避け、そのつけ根で左へ折れて山へ入りこむほうが、東の海岸線へはずっと早い。車はこのあたりには珍しい、左右に家が並ぶかなり急な坂を登って行った。
「これを抜けると黄金道路だ」「豪勢な名前をつけたもんだ」
襟裳岬をめぐる道道は、庶野《しよや》という海岸で合流していた。新冠《にいかつぷ》で時間をとられ、北海道の冬の、素早く暮れる空がもう明るさを失いはじめている。
「言うのを忘れていたが、今の時期だと三時には太陽が傾き、三時半で夕暮れがはじまる。また雪がちらついているから、四時には暗くなるぞ」「関取が輩出するだけのことはある。それじゃ早寝早起き健康優良児ばかりになるぜ」
大倉は海ぎりぎりに走る道を示して言った。
「黄金道路だ」ジャンは笑う。「金ピカかと思ったぜ」「次の町は広尾《ひろお》だ」「六本木《ろつぽんぎ》のそばか?」とジャンは笑う。「三〇キロ先だ。黄金を敷きつめるように金を食った工事だったから黄金道路という名がついたらしい。もし俺が作戦をたてるなら、ここで待ち伏せる」「ヤバイな、そいつは」
ジャンは軽口を叩《たた》きながら、ランクルのスピードを少しおとした。右はすぐに海。時化《しけ》れば波がかぶる道だ。左は岩肌《いわはだ》の露出した断崖《だんがい》。
「多分山側へ逃げる道などなかったはずだ。隧道《ずいどう》や覆道が多いぞ」「覆道か。そいつは厄介だな。うしろへ行って仕度をしてくれないか」ジャンは後続車がないのをたしかめてから車をとめた。大倉はいったん車をおり、後部へ乗り込む。ジャンはその間にブッシュジャケットを着こみ、大倉もコートを着た。「行くぜ」ジャンはランクルを進める。大倉は左の窓を開閉して、スムースに動くのをたしかめ、「AKをためしてみるぞ」とカラシニコフをかかえた。窓をあけ、斜め前方の海へちょっと射ってすぐ銃をひっこめた。「どこから来たものやら」大倉はそうつぶやき、今度は立ちあがってルーフをあけ、上体を突き出して銃をひきずりあげた。射つ。「このほうがいい」暖まっていた車内が一気に冷え込んでいる。そのために二人ともコートを着たのだ。
隧道《ずいどう》と覆道がひっきりなしに現われる。大倉の言うように、覆道の海側の柱のかげに何人か銃を持って待ち伏せさせれば、通過する車はひとたまりもないだろう。大倉はジャンのうしろで窓をあけ放ち、いつでも射てる構えだ。
「おかげさまで日本は平和だ」ジャンの笑いを含んだ声がする。「銃など持っている奴《やつ》は滅多にいないのさ」
警戒したが車は隧道や覆道を難なく通過し続けている。
「暗くなってきた。襟裳という町は孤立しているんだな。次の町まで、ばかに距離があるじゃないか。それにこの海岸は人間が住みつけるような場所じゃないぜ」「日高山脈が海へ落ちこんでる地点なんだろう」「なんだか辛い感じがして来たよ。こんな俺でさえ哀しくなるような景色だ。寒くて暗いせいかな」「すぐ何も見えなくなるさ」「まったくだな。まだ四時だというのに」「広尾泊りになりそうだな。漁港だぞ。新冠《にいかつぷ》のトラックの仲間が来ているかも知れん」「車の中で寝るのはご免だ」「目立たない旅館を探すか」「そうしてくれよな」「例の静電気アラームはつけたのか」「ああ、自分でやったから心配ない。だが武器は宿へ持って入らねば」「ハンターだと思わせるさ」
彼らは黄金道路を通過した。フンベ隧道という名のトンネルを抜けると広尾の町へ入ったらしい。広尾橋の手前に車をとめるスペースをみつけ、二人はAK47とファイアマンをジャンが東京から持って来たケースに入れた。どっちも専用ケースではないが、なんとかむき出しで持ち歩かずにすむ。AK47のマガジンは外してボストンバッグに入れた。ファイアマンのマガジンが三つ、AKのは七本もあり、それだけでずしりと来る。手榴弾《しゆりゆうだん》は大倉のナップザックに入れたが、69式の無線機までは持ち歩けないだろう。助手席のシートのうしろにくくりつけたままにしておいた。
「車が全然通らない。まるでもう夜中の感じだ」ジャンは腕時計をみながら言い、運転席に戻った。
北海道を拓《ひら》いた人々が、今の黄金道路などを必死に通した苦労は、地図を見ただけでもよく判《わか》る。一センチごとに費用を土中深く叩《たた》き込み、泣く思いで造りあげた道なのだろう。黄金道路という命名には、実際に通過してみると自嘲《じちよう》の響きさえあることを感じてしまう。
広尾はその黄金道路のおわりにあり、さしもの開拓者魂でも、それから先の海ぞいに道を続けさせることは不可能だったようだ。道は広尾から山側へ退いてしまう。国道336が広尾から少し山へ入ったのち、海と平行に走るが、その道を行けば十勝川川口で通行不能となり、上流へ遡《さかのぼ》って橋のあるところまで行かねばならない。別名ナウマン国道。たしか除雪第三種の道路で、最後の十勝川近くは未除雪冬期通行止めのはずである。北海道にはれっきとした国道であっても、そういう除雪不能の赤マーク路が十か所か十一か所ある。ついでに言えば宿泊時などの駐車位置には充分注意が必要だ。できるだけ風の当たらない所を選ばないと、翌朝のトラブルは一通りではない。ギヤもローかバックに入れて、パーキングブレーキは引かないでおく。解氷スプレーを車内に置き忘れるのも禁物だし、脱出板《スノーヘルパー》が必要になるのも朝の出発時が多い。
町は暗く静かで、ジャンが言うように夜中の雰囲気だった。町と町との距離が遠く、車での往復はみな慣れているにしても、陽が落ちれば気温は急激に低下して、道路の凍結がひどく、夜間の通行は危険この上ない。天候も急変し易《やす》い地方だから、やむを得ず夜間通行するのは長距離トラックくらいだ。町の中でも夜間買い物に出るような者はあまりいない。したがってほとんどの業種が早仕舞いしてしまう。だから車も通らないし人も歩いていない。時間はまだ六時になっていないのだから、ジャンのような男には異様に思えるのだろう。
二人を乗せたランクルは、その町に入るとすぐできるだけ人目に立たないよう、町を抜ける国道を避けて一本裏の道へ入った。ゆっくりと雪の中をころがして行くと、左のほうに青く光る看板が目に入った。
「旅館らしいな」「人家からちょっと離れている。よさそうだ」ランクルはそのほうへ向かった。
旅館東栄荘。木造二階建て。山側に駐車スペースがある。ただし除雪してあるのは二、三台分だ。玄関のガラス戸はまだカーテンなど引いていない。一応は客を待つ構えに見える。
「ケツから入れておけ」大倉はそう言うと、その旅館の前で車をおり、無造作にガラス戸を開閉して玄関に立った。テレビの音が聞こえている。
「おおい、客だぞ」
大倉は陽気な声で怒鳴った。「はいよぉ」男が奥から答え、パタパタとスリッパの音が聞こえる。「よう」大倉が笑顔で言った。宿の男は大倉を見てキョトンとした顔になる。一見《いちげん》の泊り客だとは思わなかったに違いない。近所の者だと思ったのだろう。
「おい、ちょっと来いよ」
大倉は笑顔で手まねきをする。男がその笑顔に調子を合わせてよいものかどうか、戸惑ったような中途半端な顔で寄って来た。大倉はなれなれしく男の手を把《つか》み、右手で相手の掌《て》の中へひょいと一万円札を二枚握らせた。
「予約なしの飛び込みだ。帯広《おびひろ》まで明るい内に走るつもりだったが、知り合いの漁師のところで長居をして予定が狂ったんだ。そいつは予約料だから宿代とは別だ。今予約はすんだぞ。客は二人。刺身と飯と魚と酒。風呂はいい。できるだけでかい部屋にしてくれ。二人一緒でいい。蒲団《ふとん》と飯が並んでもいいぞ。旦那《だんな》の顔なら今から魚を持ってとんで来る奴《やつ》くらい知ってるだろう。そんな顔してるよ」
宿の男は笑い出した。「えらく旅なれてるね。こんなのははじめてだ。お連れさんは?」
「横へ車をとめに行った」そう言っているうちにジャンが銃を二|挺《ちよう》肩にかけ、ナップザックとボストンバッグをぶらさげてやって来た。大倉は戸をあけてやる。
「ハンターかね。まああがんなさいよ。俺も猟友会のメンバーでね」男は二挺の銃を品定めするように見ながら言った。ケースはボロだし中身は猟銃ではない。おまけにジャンが入口の簀《す》の子の上に置いたのは火薬の塊りみたいなもんだ。
「飛び込みですまんな」「でかい部屋と言ったって、二十畳敷きだよ。すぐにはぬくもらんな」「かまうもんか。それより魚の手配を早くしろよな。刺身ばかりでいいんだ」「ほんとに風呂はいいのかね」「石鹸《せつけん》のにおいがついちゃかなわん。猟友会なんだろう、あんたも」「そりゃそうだが、どこへ撃ちに行くのかね」「鹿《しか》さ。阿寒《あかん》へ行く。ほかにもひと冬あっちこっちさ」
大倉は宿の男に有無を言わせなかった。
床の間つきの二十畳。床の間を頭にして蒲団を二つ敷き、裾《すそ》のほうに座卓を置いて食事の用意がはじまっている。
「こんなんでいいのかね」盆に料理をのせてその座敷へ出入りするたび、宿の女がおかしがる。「食って寝るだけだ。これが便利でいい」大倉はそう言ってチップをはずむ。酒は飲まないつもりだが、見せかけに一人二本ずつ清酒を銚子《ちようし》で四本言いつけたら、サービスのつもりか六本一度に運んで来て、ついでにさっきの男が顔をだした。ハンターだと言ったので興味を持ったのだろう。
「あんたがた運がよかったよ。この季節は客があまり来んところでね。この時間に急に魚だと言われてもろくなもんは集まらなかったかも知れない」「飛び込みだから覚悟していたさ」ジャンはそのおやじに酒をついでやっていた。「この先の昭和荘という旅館にも、十人ほど急な泊りがあってね。向こうのほうが少し早かったからうちが頼んだときは丁度《ちようど》うまい具合だった」「この季節にここらへ来る客というのはどんな連中だい」「昆布《こんぶ》とか、海産物問屋のお馴染《なじみ》さんだね。買付けに来るんだよ。人数は多くないが、関西の人たちだ」「でも十人まとまればいいじゃないか」ジャンはにやにやしていた。
その男が去って、二人はあっという間に飯を平らげた。男に付き合って二人とも銚子を一本ずつあけたが、残りはそのまま放っておいた。
「今の話に出た十人ほどの連中というのは、俺たちの相手じゃないかね」ジャンがそう言った。「靴をとって来いよ。中を濡《ぬ》らしたとかなんとか言えばいい」「そうだな」
ジャンは座敷を出て玄関へ行き、自分たちの靴と古新聞を持って戻って来た。その間に大倉は窓をあけて横の駐車場の方角をたしかめている。
「異常なしだ。相客もいないようだ」ジャンは大倉がしめた窓の下へ古新聞を敷き、靴をそこへ置いた。「大変だな、日本の子供は」「どうしてだ」「ここにも受験勉強をしてるのがいるらしい。おかみさんが倅《せがれ》の夜食の話をしていたよ」
大倉は蒲団《ふとん》の上にあぐらをかき、地図をひろげた。
「この町から先は山道へ入る。俺もこれから先はそう詳しくない。帯広へ向かう国道236はどうということはないだろうが、そっちは車の量も多いし遠まわりだ。十勝川へ抜ける道道があるが、雪の状態が判《わか》らん」「少し内陸へ入っているが、この海ぞいの336号線というのはだめなのか?」「十勝川の川口で切れてしまうんだ。夏場なら自転車やバイクくらいは乗せる渡し舟があるがな。それに未舗装部分があるらしい」「じゃあ北へ向かうしかないじゃないか。それできまりだ」「出発は六時。それでいいな」「いいよ」「玄関はもうしめてあったか?」「カーテンを引いてしまっていた」「俺は今のうち帳場へ行って来る」「何しに?」「勘定をすませておこうと思ってな。夜中に抜け出さんとも限らない」ジャンは軽く笑い、上着をぬいだだけで蒲団の中へもぐりこんだ。
九時ごろ、大倉は蒲団の中で玄関のほうで何か物音がするのに気づいた。ガラス戸を叩《たた》く音のようだった。すぐその音がやんだので寝返りをうって睡《ねむ》ろうとしたが、ジャンが起きあがった。天井の蛍光灯《けいこうとう》を消してあるので座敷の中は薄暗い。
「治郎さんよ、まだ寝てないんだろ?」「ああ」「外に人の気配がするぜ」大倉はむっくり起きあがり、薄暗い中で手早く靴をはくと、身ごしらえをしてボストンバッグからイングラムM11を出し、|減 音 器《サウンド・サプレツサー》をねじ込んでマガジンを叩き込むと、コートのポケットへもマガジンを二本突っ込んでから、そっと窓をあけた。
「中へ入らせたらこの家の連中に気の毒だ」
大倉はそう言い残して固い雪の中へとびおりる。バリッと氷を割るような音がした。そのときにはもうジャンも身じたくをおえ、靴をはいていた。拳銃《けんじゆう》はもうホルスターの中だ。裏毛つきのブッシュジャケットを着て手袋をすると、彼もするりと窓から出て、外からそっと戸をしめる。
庭などというしゃれたものではない。大きな灯油タンクが立っていて、まばらに木が生えている。コンクリートの四角い小屋のようなのは物置兼用のボイラー室かも知れない。
大倉は宿の軒下をまわって、ランクルをとめた駐車場のうしろ側へ出た。乗用車が二台とランクル。人影はない。除雪してあるのはその駐車場の本来のスペースの四分の一くらいだ。大倉はランクルの陰へ大きくまわりこんだ。ジャンが静電気警報装置をセットしてあるから、車体に触れたら今いた部屋で警報が鳴ってしまう。
大倉はまっすぐに歩いた。旅館の前の道路へ出るのだ。旅館の前にダウンジャケットなどで着ぶくれた男たちがちょっきり十人。カーテンを引き、灯りを消した玄関の前にたむろしている。
道の中央へ出た大倉を見て、玄関の前の十人は無言で全員彼のほうへ向きなおった。半分くらいは手鉤《てかぎ》を持っている。あとは鉄パイプらしいのとか野球のバットだ。
大倉は相手に自分を確認させてから、くるりと彼らに背を向けると、ゆっくり山側へ歩き出した。次の家の灯りまではだいぶ距離がある。その間に人家はない。男たちはどうすべきか少し迷ったようだが、一人が足早にあとを追いはじめると、結局全員そのあとに続いて行った。
ジャンは駐車場の車のかげでそれをやりすごした。男たちはジャンの存在には全然気をつかっていないようだった。
大倉は立ちどまる。
「時間が遅い。でかい声は立てないようにしよう」
白のコンバット・ベレーに白のアルスター・コートを着た一八七センチの男が、太く低い声でそう言うと、十人の足がぴたりととまった。
「撲《なぐ》り込みでもする気だったのか。あそこは堅気の旅館だぞ」「なんで邪魔をする」リーダーらしい白のダウンジャケットが言った。そいつもかなりでかい。「お前ら、漁師か?」「禁漁区の線引きなど俺たちには関係ねえ」「それはそうだ」「俺たちは誰《だれ》にも迷惑はかけていねえ。怪我《けが》と弁当は自分持ちって奴《やつ》だ。拿捕《だほ》されたら自分が損をするだけだ」「俺もそう思う」「ならばなぜ邪魔をする?」「いつ邪魔をした。けさ苫小牧を出たばかりだ」「東京のスパイだろうが。調べてパクろうというんだろうが」「そんなたわごとを誰から吹き込まれた。お前らは魚を獲《と》っていればいい。だがやくざとつるむのはやめたほうがいいだろうな」「大きなお世話だ。とにかくここから先は行かせねえ」「俺は行く。喋《しやべ》るのは嫌《きら》いでな」気の早いのが手鉤《てかぎ》をふりあげて前進して来た。
「いい医者へ行けよ」
大倉はその男の足もとへ射ち込んだ。その男たちにしてみれば、銃器は改造拳銃か猟銃くらいしか見たことはないのだろう。プスッという音にも射撃された実感はなく無造作に黒い円管の先を動かしただけで、先頭の男の靴の爪先《つまさき》を9ミリ弾が射ち抜いたのもよく判らなかったらしい。おし殺した気合いで一気に大倉へ殺到した。
大倉は後退しながら的確に射っている。正確な照準射撃は無理な銃だが、彼はそのての銃の扱いには慣れている。あっという間に立っているのは四人だけになって、あとは雪の上にころがっていた。やられたのはみんな足だ。残った四人はバットや手鉤を振りあげたまま、金縛りにあったように突っ立っている。
「一一九でも一一〇番でも、好きなところへ電話をしろ。そのかわり密漁組織のことは残らず吐かされるぞ」
ジャンが彼らのうしろへ出て来た。「てめえら、棒っきれを捨てて手をあげるんだ」
残った四人は言われた通りにした。
「酒くせえな。旅館で大酒くらったあげくに、酔った勢いで撲《なぐ》り込もうなんてことになったんだろうが、余分なことをしたもんだな」
倒れた、と言ってもみな雪の上へ尻《しり》をついて片足をおさえて唸《うな》っている程度だ。ただし治っても足をひきずることになるかも知れない。
「お前、こっちへ来い」
ジャンは一番うしろにいた男の背中を小突き、駐車場のほうへ連れて行った。
「怪我《けが》はできるだけ軽くすませたつもりだ、騒ぎ立てずに宿へ連れて行ってやれ。揃《そろ》って釘《くぎ》を踏み抜いたとでも言うんだな」大倉は無傷の三人にそう言い、ランクルのほうへ戻った。ジャンは警報装置をオフにしたらしく、ランクルの中へ今の男をおし込んでいる。大倉も車へ入ってドアをしめた。道では男たちが一人、また一人と起きあがり、無傷の仲間の肩をかりて引きあげはじめている。
「おい、見えるか」ジャンは男を道のほうへ向かせて仲間の有様を見せていた。「このボスがその気になれば、足をひきずって帰るどころの騒ぎじゃなかったんだぞ。お前も含めてあそこに死体が十人前ころがっていてもふしぎはないんだ。判《わか》るな」男は何度も頷《うなず》いている。「密漁船の組合みたいのができてるのか?」ジャンが訊《き》く。「幾つかそういうのがある」「みんなやくざがらみか?」「仕方ねえよ。あいつら、町の飲食店を握ってるもんな。それに、水揚げの少ない奴《やつ》らが嫉《ねた》んで密告《チツクリ》しやがるから」「どこの港の者《もん》だ、お前ら?」「いろいろさ。根室のほうだけど」「どう言われて俺たちを狙《ねら》った?」「指令。指令って奴だよ。獲《と》るほうは思い思いでも、売るときは組織が要《い》るしな」「みんな漁師ばかりか?」「いや、金岡組が四人いる」「暴力団か?」「そうだ」「その指令ってのはどこから出てるんだい」「ずっと上だ。俺には判んねえ。札幌のほうだと思う」「お前らのほかにまだ俺たちを待ってる奴がいるって話を聞いてるだろ」そこで大倉が口をはさんだ。「お前らも含めて全部で五班くらい出たというがな」「そんなに?」男は驚いている。「あんたがた、忠類《ちゆうるい》から幕別《まくべつ》へ抜けるんだろう。俺たちが逃がしても、どこかあの辺で仕掛けるってのは聞いてるが」「それは知ってる。ほかにないか」「知らねえ。本当だよ。勘弁してくれ。普通の漁協とわけが違うんだ。嫌《いや》でも来ないわけには行かねえんだよ」
大倉はジャンに目くばせをした。
「これから札幌へ電話をする。お前らがまだ何か別な指令を受けてると判ったら、こっちからお前らの宿へ撲《なぐ》り込みをかけるぞ。宿の家族に迷惑をかけるのが嫌だったら、今夜だけでもよそへ行ってもらって、お前らだけであそこにたてこもるんだな。一度引金をひいたら、餓鬼《がき》も女も銃って奴は見境いがないからな。動くものはみんな射つ。しかも音なしだ。それは今判ったろう」「判った。みんなに何もするなと言う」「俺たちはプロだ。半端《はんぱ》じゃねえぞ。電話も盗聴する。かけても筒抜けだからな」「どこへも電話しねえ。約束する」「よし行け」
ジャンはドアをあけ、その男を外へ蹴《け》り出した。男はころがり、なかば這《は》うようにして逃げ去った。
「さあ寝よう。あすは待ち伏せだ」大倉はランクルをおり、ジャンは警報装置をセットしなおして大倉のあとから、二十畳敷きの部屋へ戻った。
「俺はあんたの言う通りにして来た。今度もそうする」ジャンは畳の上で靴を脱《ぬ》ぎながら言った。「クロフォードのチームに入れてくれたし、あんたは慎重で先に射てるときしか射たないですんだ。ほかの奴がへまをしない限りな」二人は上に着ているものを脱ぎ、銃と一緒に蒲団《ふとん》の中へもぐりこんだ。今の外の騒ぎを、宿の者は全然気づいていない。「でもちょっとだけ教えてもらいたいな」大倉は答えない。「奴らが一人も銃を持っていないとどうして判ったんだい?」大倉は答えない。「苫小牧のお出迎えでこっちがガンマンだってことは知ってたかも知れないんだぜ。猟銃くらい持ってたっておかしくないはずだ。もちろんあんたなら向こうに銃があっても先に射たせやしなかっただろう、俺だってうしろから狙《ねら》ってたしな。でもあれは以前のあんたのやり方じゃない」大倉は答えた。「寝ろ」ジャンは口をつぐんだ。
近くの牧場の自家製だというソーセージを二本分けてもらい、ポットにコーヒーを入れさせて二人はその宿を離れた。朝食の仕度が遅かったので、六時四十分ごろになっていた。ランクルが横の駐車場を出て宿の玄関の前を通りすぎると、その家の男の子が寒そうに背を丸めて登校するのを追い越した。
「この辺の子は大変だな。学校はどこらにあるんだろうか」ジャンは気の毒そうに言う。大倉は振り返ってその子を見ていた。国道へ出て左折。両側に商店が並んで一応市街地の雰囲気はある。「駅があるぜ」ジャンは意外そうに言った。日高本線は様似《さまに》までで、それから襟裳《えりも》岬と広尾までの三角地帯に鉄道はなかった。「広尾線だ」大倉はそう教えたが、彼もその先の地理にはそう詳しくはない。商店街は直線路で突き当たりが駅。国道はその手前で海岸寄りに曲がっている。「給油だ」ジャンがガソリン・スタンドを見つけて言い、大倉が頷《うなず》いた。陽がさして来て、二人ともサングラスをかけた。「帯広へ八三キロ、襟裳《えりも》へ四七キロか」「町の名は広尾だがここの港は十勝港という名だ」大倉がそう言い、ジャンは曲り角にある出光のスタンドへ車をいれた。
きのうと同じように道は海ぞいに進むかと見えたが、橋を渡るとすぐ内陸部へ向かいはじめた。国道だがあまりトラックの姿が見えない。漁港から鮮魚を運ぶ以外に、あまり荷がないのかも知れない。すぐ前をジュラルミンのボデーを光らせた箱型トラックが行くのでジャンが笑った。「冷凍車だぜ、あれは。無蓋《むがい》車に積んでもコチコチに凍るだろうにな。それにこの辺じゃラッコが獲《と》れるのかい」「どうして?」「さっきの橋に楽古《らつこ》橋と書いてあった」「左に日高山脈の楽古岳《らつこだけ》が見えている。あの山から流れる楽古《らつこ》川に架かっているんだ。昔はラッコが来たのかも知れん。広尾の手前にあったフンベという地名も鯨の意味だと聞いたことがある。広尾もアイヌ語で、もとはビロオとかピロロとか言ったのを、あとになって和人が広尾という字を当てたらしい」
国鉄広尾線の線路が近寄って来て国道と交差した。そこから先は道の左をぴったり寄りそうようにして走る。「ダイジュ町か?」「いや、大樹《タイキ》町と読むんだ」車は小さな町を抜ける。「なんだあれは? 妙な町名だぞ」ジャンはうれしそうに言う。「なんて読むんだい、先生」「忠類《ちゆうるい》」「虫ばっかりいるみてえだ」「でかい営林署があるな。ばかに恰好《かつこう》のいい町じゃないか。文教都市って感じだぜ。白樺《しらかば》がずらっと並んでその向こうは牧場だし。日本ばなれしてる」ジャンはそのあたりの地形が気に入ったようだ。耕地はみななだらかな丘陵で、子供がスキーで遊ぶには手ごろな場所がどこにでもある。「忠類四キロ」ジャンは楽しそうに標識を読んだ。あまり高くない丘の稜線《りようせん》に白樺が一列に並び、なかなかの風情《ふぜい》だ。ジャンはヨーロッパを思い出しているのだろう。思い思いの色を塗ったサイロが点在して、そのサイロの色彩が純白の世界にはっとするようなモダンな雰囲気をかもし出している。
「冬に来いよな、冬に。こんな景色は観光シーズンじゃ見られないぜ。運転もスリルがあるし」「初心者お断わりだな」大倉が言う。「腕自慢はいくらでもいるさ。どうせ走るんなら重装備で冬の北海道へ来るべきだよ。スピード自慢なんてマイナーだぜ」ジャンはすっかり冬の北海道が気に入ってしまったらしい。
「畑や牧場のまん中に土塁みたいのが作ってあるのはなんのためだい?」「防風のためさ。冬の風向きはみんな知ってるからな。あそこで粉雪の吹《ふ》き溜《だ》まりを作るんだろう。畑や牧場のまん中じゃ防風林とか防風壁とかを作るわけにも行かんからな」
忠類《ちゆうるい》村中学校という小ぢんまりとした学校の前を通り過ぎたとき、若い女が運転するオレンジ色のフォルクスワーゲンとすれ違った。「ワーゲンの似合う土地だ。なつかしくなるよ」ジャンは昔のガールフレンドでも思い出したらしく、しんみりと言った。「こんな山の中に造園会社の看板がいやに多いな。どういうわけなんだ」「俺にも判《わか》らん」
ジャンはすっかり楽しんでいるようだ。後続車も見えず、前から来る車も小型車がほとんどだ。附近の住民たちの車だろう。
「スピードを落とせ。間もなく道が別れるはずだ」大倉は地図を見て言う。国道は左へ曲がって行き、山の中へ入り込む雪の積もった細い道が見える。丸山展望台という看板が、左側の雪の中からのぞいていた。
「直進だ」「大丈夫なのかい。路面がすっかり雪に埋もれているみたいだ」「通行量が少ないせいだ。行けるはずだ」「国道を行ったらどうだい?」「帯広に近づけば車も増えるし、市街地を抜けるのにうんと手間どるぞ」
ジャンは口ではなんのかんの言いながら、スピードをあげてためらわず白い道へ乗り入れた。「こいつは道道《どうどう》36号線だ。地図で見る限りでは北へ一本道でそうややこしい道ではないが、道道はすべての道路標識の間隔が国道よりずっと間があいている」「なかなか標識にお目にかかれないというわけか」「そうだ」「通ったことがあるのかい?」「いや、この道ははじめてだ」「でも阿寒湖や知床《しれとこ》なんかにはよく行くんだろ?」「そうしょっ中じゃない。たまにさ」「いつもはどんなルートで行くんだ?」「日《につ》勝《しよう》峠《とうげ》をこえて大雪山《だいせつざん》の南から阿寒湖へ抜けるルートだ」「そのほうが知床へは早いんじゃないのか?」「まあそうだな。しかし今回は海ぞいに行けという指令だ。違うか?」大倉の声がきつくなる。「そりゃそうだが、鷲尾《わしお》牧場で事情が変わったとは思わないかい?」「だんだん判《わか》って来たんだ。クロフォードは俺とお前に対して、明らかにフェイント・オペレーションをやらせている。|陽 動 作 戦《デイヴアーシヨナリー・アクテイヴイテイ》だよ」「クロフォードが港《トマリ》に関係のある連中に招待伏を出したっていうのか?」「いろいろルートはあるのに、海岸線を行けというオーダーだ。彼は俺に|単純な任務《レギユラー・フライト》だと言った。鷲尾牧場以後も事情は変わらん。真琴内《まことない》まで指定されたルートで行くだけだ」
右に山が迫り左に小さな川があって、その向こうはどうやら畑作地帯らしい。交通量が少ないから舗装《ほそう》面は雪の下になって全然見えない。その道に入ってすぐ、右の山側に忠類放送局入口という看板が出ていた。晴れているからいいものの、いったん吹雪《ふぶ》いたら危険そうな道だ。道ばたにぽつりぽつりと農家も見えるが、ほとんど開拓小屋といった感じだ。「クレーンが動いているぜ」ジャンは山側の林の奥に動くクレーン車を目ざとく見つけて言った。「この寒いのに何かの工事か?」「いやそうじゃない。林業だ。雪が積もると木を運び出すのに都合がよくなる」「あそこにもブルやクレーン車がある。雪をかぶってるぜ。何日も置いてあるんだな」たしかにジャンの言う通り、そのあたりは営林署の機械置場のようだが、雪をかぶってしまえば戦車がひそんでいてもちょっと発見はむずかしいだろう。駒畠《こまはた》という地名標示があった。林業関係者はこの山間部でさかんに活動している。道路からかなりはずれた林の奥で、クレーン車やトラックが動いていた。人里離れた山中の道だ。
ジャンは急に車をとめた。ランクルはスリップして左を頭に道の中央で斜めにとまった。左側にとまっていたトラックが、突然積んでいた材木を道路側へ一気にころげ落としたのだ。大倉は二人のシートの間からうしろへ手をのばしてAK47を引きずり出した。うしろを見ると、やはり材木を積んだトラックが林の中から道路へ出て来て、こっちに尻《しり》を向けてとまった。左は除雪した雪が腰の高さくらい盛りあがっていて右は林だ。車はどちらへも行けない。ジャンは素早くシートを乗りこえてうしろへころがり込むと、大倉にマガジンを二本渡し、自分は小さな黒いバッグを持ってドアをあけた。大倉も車の外へ飛び出して雪の積もった林の中へ入った。うしろのトラックはバックしはじめる。
「俺は前をやる」大倉は材木を撒《ま》いて道を塞《ふさ》いだトラックのほうへ向かう。雪は膝《ひざ》くらいの深さだ。二人ともいったん林の奥へ少し後退した。ランクルから離れれば、その分車をやられる可能性は少なくなる。
林の中に銃声が響いた、前とうしろからだ。その音で猟銃だと判る。自分たちの車を狙《ねら》わせないために、大倉はまず当てずっぽうな応射をして注意を引きつけた。乾いた小さな発射音がまじる。拳銃《けんじゆう》を持っているらしい。その林にたいして太い木はない。大倉は更に林の奥へ迂回《うかい》しながら、トラックの側面へ向かっている。材木を落として空《から》になった荷台に頭が二つのぞいている。側面へまわり切ったところで、大倉は木の太さを選びながら前進をはじめた。猟銃がやけに派手な音をたて続ける。大倉は更に前進しながら左へ寄って行く。そしてまず運転席へ十発ほど叩《たた》き込んだ。ジャンのいる方角からも銃声が続いているが、ジャンの銃は沈黙しているようだ。
トラックの荷台でひょいと黒いものが動いた。大倉は反射的にそれを射った。悲鳴が聞こえたが、それは射たれた奴《やつ》のではないはずだった。そいつの頭は確実に吹っとんでいるはずだ。するとトラックの前のほうから拳銃を乱射して来た。と言っても四連射だ。大倉は右から左へ掃射し、すぐマガジンを交換した。新しいマガジンにして銃を持ちなおしたとたん、ボン、と音がしてトラックが火を噴いた。荷台から一人飛びおり、二発射って来た。まぐれで大倉の周囲の木に散弾が当たった。相手は雪の中へ身を投げたから見えない。大倉は雪中を掃射した。左から右へひと振りして前へ出る。そのときうしろのトラックも爆発した。ジャンは手榴弾を使ったらしい。こっちのトラックも火に包まれている。男が二人逃げて行く。大倉はそいつらの足もとへ連射を送った。当てるつもりはなかったが、一人が倒れ、残る一人はその場に突っ立って両手をたかだかとあげた。
「そっちはどうだ」大倉は左手でキャビンの袋をポケットから出して言った。「四人いた。もういない」ジャンの声には以前の鋭さが戻っていた。「あそこにブルが置いてある。材木をどかさなきゃ進めないだろう」「そうだな」「動くかな」タバコの袋の中からの声が消えた。ジャンが林の奥へ急ぐのが見えた。大倉は道路に戻った。まだ敵がいるかも知れない。トラックが前後で燃えている。うしろのトラックから材木が落ちて、前後とも通行不能だ。大倉はとにかくランクルの運転席へ入った。林の奥からエンジンの響きがはじまった。ブルドーザーが屋根に雪をのせて進んで来る。前のトラックは林への出入口にいたようだ。ジャンはブルドーザーを燃えているトラックすれすれに寄せてなんとか道路へ入り、強引にそのトラックを林の中へ斜めに押し込むと、今度は道路と直角にブルドーザーの向きを変えて材木を道の右側へ追いやり、道をあけた。通れ、と大倉に合図している。大倉はランクルを前進させ、燃えるトラックとブルドーザーの間をすり抜けた。ジャンはすぐランクルへ走って来て、うしろのドアから乗った。
カーブが多くなる。道道《どうどう》のせいで案内標識がまばらだから、今どの辺を通過しているのか判りにくい。学校や郵便局の標示が頼りだ。中里中学校、などという文字で現在地を知るわけだ。糠内《ぬかない》という町を通るとき大倉が時計を見ると九時二分前だった。突然巨大な木造船が道ばたに現われ、それが〈ノアの箱船〉などというドライブ・インだったりするが、ジャンはそれを見ても冗談を言わなかった。大倉が空《から》にしたカラシニコフのマガジンに弾をつめている。
「ここからは帯広署管内か」大倉は運転しながらそう言う。「奴らもプロじゃなかったぜ」大倉は答えない。大きな飼料《しりよう》配送センターの建物があった。彼はそれを見てふと東京の住宅街にあるデパートの配送センターを思い出した。この辺りではデパートの商品などより、家畜の飼料の円滑な供給のほうが切実な問題なのだ。人間の生きざまとして、どっちが地に足のついたことかはっきりしすぎている。左右の見通しがよくなった。広大な牧場地帯へ出たのだ。牧場の規模がばかでかい。畜舎も巨大だしサイロも大型だ。
「今来た道の西側に国道と広尾線がある。幸福《こうふく》だの愛国《あいこく》だのという駅があるんだ」「愛国はどうでも、きょう幸福じゃなくなった奴《やつ》が七、八人いる」ジャンは憤《おこ》ったように言った。
「営林署の連中だと思うが、林の中で五人ほど縛られて雪の上にころがされていたよ。俺たちを襲った連中のしわざだ。顔を見られるとまずいんで放っておいた」「二台燃えてるんだ。すぐ誰《だれ》かがみつけてくれるさ」「日本人だぜ、俺たちが殺《や》ったのは」大倉は答えない。「外地のほうがやりいい」ジャンは弱い声で言った。「任務が運命だって言いたいんだろ。でもあんた変わったよ、たしかに」大倉は答えない。「囮《おとり》に使われてるのを知ってて、なぜ強引にこの道へ入ったんだ。襲って来るのを知ってたみたいだぜ。以前ならこんなことはしなかった人だ」
「ひとことだけ弁解させてもらう。俺はもう避けて歩くのが嫌《いや》になったんだ。何も避ける気はない」「気がついたよ。だがゆうべはなんだい。あんた撲《なぐ》り込みがはじまる前に自分で外へ飛び出した。あの宿に受験生がいたからだろう」
二人ともそれっきり黙り込んだ。ジャンは後悔しているような顔で、前のシートへ移ってからもちらちらと大倉の横顔を見ていた。
8
一人現場へ置いて来た。だが二人とも全然気にしていない。営林署の作業員を襲って縛りあげトラックを奪って妨害工作をしたのはそいつらの仲間だ。自分たちが乗って来た車はどこかに隠してあったのだろう。彼らは営林署の連中にしっかり顔を見られているだろうが、大倉たちのランクルを、縛られて雪の上にころがされていた男たちは見ているはずがない。手をあげて降参した奴は夢中で逃げたに違いないし、二台のトラックが射ち合った形は残っていても、大倉たちのランクルをその二台が挟撃《きようげき》した事実は、判《わか》るとしたらだいぶあとのことだろう。ただし、薬莢《やつきよう》のスラブ文字や弾丸を調べればちょっとした騒ぎになるかも知れない。
「幌別《ほろべつ》か。あの地名なら俺《おれ》でも読める」ジャンが軽い調子で言った。大倉が機嫌《きげん》が悪そうだったのでかなり長いあいだ口をきかないでいたのだ。鉄道の線路を越え、道道が国道と合流した。右折。国道は立体交差でまた線路をこえた。「根室本線だろう」大倉が静かな声で言い、ジャンは地図を見て訊《き》いた。
「この先に分岐点がある。左は242、右は38だ」「38号線を行く」「それじゃ直進してすぐ右折してくれ。川ぞいの道だよ」「十勝川だ」ジャンの軽口が戻って来た。「北が背中だぜ」コンパスを見ながらそう言う。「北海道で北を背中に走るってのは妙な気分だな」「稚内《わつかない》に住んでる人間はすべての町が南にあるわけだぞ」「そりゃそうだろうけどさ」「さっきの分岐点を左に行くと十勝川を渡る橋があって、その先が池田《いけだ》町だ」「池田町って、ワインのかい」「そうだ」「こんな平らな土地にあったのか。俺は山の中だと思ってたよ。それにしても、この道もえらくまっすぐだな。川ぞいには電柱一本ないじゃないか。クロサワ映画のロケなんかには持ってこいだ」車は南に向かって走り、はじめのうち逆光で眩《まぶ》しかったが、それもすぐ曇って来る。「また雲ゆきが怪しいぜ」「海岸部は雪だろう。吹雪《ふぶ》いているほうへ向かっているんだ」
国道38号・十勝国道。川ぞいにほぼ二〇キロの直線道路だ。交通量も多く、ことに大型トラックが多い。大倉とジャンにとっては安全な区間である。
「豊頃《とよころ》。釧路《くしろ》九九キロ。ウツナイ川」ジャンは案内標識をかたはしから声に出して読んでいる。「これを右へ行くと帯広空港か。あ、川の名が書いてあるけど読めねえや。ウシクビベツ?」「牛首別《うししゆべつ》だ」「浦幌《うらほろ》一七キロ、十勝川ってのはでかいな。豊頃《とよころ》大橋? カッコいい橋じゃないか。新しい橋だな。右にも橋があるけど、あっちは古そうだ」その橋を渡ったとき大倉が言った。「左を見ろ。自衛隊の車輛《しやりよう》だ」
道路から少し離れたところに有蓋《ゆうがい》トラックと幌《ほろ》つきのジープが一台ずつ停《と》まっていた。「通信隊の車だろう。アンテナを見ろよ」「よく通信訓練をしているのにぶつかるが、橋のたもとというのが気に入らんな。通過車のチェックをしてるんじゃないか?」「どうってことはないさ」ジャンは意に介さない様子で前のライトバンのあとについてあっさり通過したが、大倉は一応記憶にとどめたようだ。
「礼文内《れぶんない》川か。ここへ来て川がいっせいに集まってる感じだな。また線路だ」「さっきの根室本線だ」「浦幌《うらほろ》町ってとこへ入ったぞ」「ひと休みするか?」「いいね。だが駐《と》めた車が見通せる店がいいぜ」「でかい店を探そう」
都合のよさそうな店を物色しているうちに車はその町を通りすぎ、町はずれへ出てしまった。広い駐車場を持ったドライブ・イン食堂がある。駐車場に車はほとんど駐《と》まっていない。ジャンは〈一品村〉とでかい看板を出したその駐車場へ車を入れた。
大盛りのラーメンに餃子《ギヨーザ》を三人前ずつ。二人がそれをあっさり平らげ、大倉がタバコに火をつけたとき、駐車場へ箱型の大型トラックが入って来た。ジュラルミンの箱の胴に最北運輸と黒い文字で書いてあり、やけにピカピカ光っていた。別に怪しむべき気配もなく、駐車場に面した窓際に坐《すわ》っている二人は、何気なくそれを見ていた。
「ジローさん」
小さな声がして大倉とジャンは一瞬顔を見合せた。その声はジャンと大倉のコートの内側から同時に聞こえたのだ。二人の胸ポケットには、キャビンの袋に仕込んだ小型無線機が入っている。
「あたしよ」
大倉がコートの下からそのキャビンの袋をとりだしながら言った。「瀬川歌子だ」「瀬川……」「鷲尾未亡人」ジャンは頷《うなず》いて最北運輸のトラックを見た。
「なんで来た?」「港《トマリ》はあたしの仕事場よ。そこへ行くわ」
最北運輸のトラックのドアがあいて、トラックから降り立つにはおよそふさわしくない毛皮のコートを着た女が現われた。背が高く、ブーツをはいている。歌子に間違いなかった。ほかに男が四人。二人はリヤゲートをあけて出て来る。
「いらっしゃいませ」
歌子と四人の男は店へ入って来ると、奥の大きいテーブルのほうへ行った。店の女が素早くそのそばへ行き、注文をきいている。ジャンはその女がテーブルのそばを離れると、大倉に笑いかけながらキャビンの袋を出して言った。「マダム。凄《すご》いのを着てるね。そいつはブルーシルバーフォックスとお見うけしたがね」「そうよ」
大倉が喋《しやべ》る。
「その四人は兵隊さんか?」「あのキャプテンの部下じゃないの。うちの子飼いの人たちよ。でも牧場で彼らと一緒に訓練を受けたわ」「レンジャーのか?」「そう」「ラジオはどうしたんだ」「あれからすぐ牧場を出て日高国道から日勝峠越えで帯広へ行ったのよ。札幌からあのトラックを出させてね」「帯広で合流したのか?」「そう。トラックが札幌を出る前に、タバコが一箱届いたんですって。便利なタバコね、これは」「どこから届いたんだ」「知らない。使い方は教えて行ったそうだけど」「外人か?」「いいえ、日本人だそうよ。小柄なきちんとした身なりの男だったって」クロフォードに違いない。使いはあの森という奴《やつ》だろう。「よく牧場を出られたな」「キャプテンがよろしくって」「彼らが許可したわけか」「そう。あんたの話、半分は逃げ出すための口実だったけど、半分は本当だったのね。彼らはあなたの行動を支援するって言ってるわ。予定通り海ぞいへ来てくれたので助かったの。山へ向かいはしないかと思って随分気をもんだのよ」「俺たちはどこで彼らに捕捉《ほそく》されたんだ?」「38号線へ入ってかららしいわね。この先、海ぞいはひどく吹雪《ふぶ》いているんですって。あのトラックのうしろについて来てよ。釧路にうちの倉庫があるの。とにかくそこへ来て」歌子たちのテーブルへはコーヒーが五つ運ばれて行った。すぐ出る気だろう。大倉は席を立ち、レジで勘定をすませた。ジャンはさっさと外へ出て車に戻る。
「見ろよ、あのライトを」ジャンは運転席におり、大倉が乗り込むと、顎《あご》をしゃくって最北運輸のトラックの、高い位置にとりつけたライトを示した。「そんなに吹雪いてるならあのケツについて行ったほうが楽だぜ」大倉は頷《うなず》く。「彼女の言う通りにしてみよう。何かありそうだ」店からもう歌子たちが出て来た。「自衛隊がこっちを支援するということは、彼らにはできない仕事があるというわけだ。そうじゃないか?」「ごもっとも」大倉はシートの背にくくりつけた軍用無線機の電源を入れた。「チャンネルは?」「赤マークがついてるはずだよ」「奴《やつ》らも同じのを受取ったんだろう」「コードネームは胆振《いぶり》観光だぞ」ジャンがふざけた。最北運輸のトラックが出て行く。ランクルはそのあとを追った。タバコの袋の中に仕込んだ小型無線機は、車同士では使えないのだ。
「ジョーカーよりコイノールへ。ジョーカーよりコイノールへ」
大倉が送信をはじめた。応答がない。しかし、ガリッという反応はあった。「ジョーカーよりコイノールへ」ジャンが尋ねる。「コイノールってなんだい」「小ぢんまりとしたいいクラブだった」大倉が言ったとたん、女の声が飛びこんでくる。「こちらコ・イ・ノール。ジョーカーどうぞ」「やはり持ってたか、なつかしい名前だ。アウト」「コ・イ・ノール。つけが残ってたわよ。どうぞ」「急に閉めるからだ。テストおわる。アウト」
大倉は前のトラックをみつめて微笑を泛《うか》べている。「コイノールって、彼女のやってた店かい」「赤坂だ。正しくはコ・イ・ノール。なんのことだか判《わか》るか?」「知るもんか」「宝石だ。ダイヤだよ。百八十何カラットかあった。インドで掘り出されたときはな」「百八十……そんなでかいのを彼女が持っているのか。いや、そんなわけはないな」「今は百カラットかそこらの大きさで、ある女性の物だ」「どんな女だい、そんなでかいのを持ってる金持は?」「イギリス女王の王冠のまん中に飾られている」「なんだ、そういうことか」「ジョーカーは銀座の店の名だ」「飲みに行くんならそこへ行くよ。コ・イ・ノールなんて高そうな店だ。ツケがまだ残ってるって?」「ああ。急に閉めてどこかへ行ってしまったからだ」「それが鷲尾《わしお》牧場のマダムにおさまってたというわけか。いい女だぜあれは。兄貴となら背恰好《せかつこう》もぴったりだ」「いい女だったよ」「過去の話じゃないぜ。すぐ前にいるんだ。あんたのことを、石みたいな男だと言ってたぜ。石じゃなければなんとかなりたかったみたいだがな」
道は登りになっている。登り切るとトンネル。大型トラックがひっきりなしにすれ違う。木材を積んだのとタンクローリーが多い。帯広方面へ向かう車だろうが、海岸方向へ向かう車はずっと少ない。対向車はほとんどがライトをつけ、雪まみれだ。旭川《あさひかわ》ナンバーが目立ち、通過する町はみな小さい。根室本線がまた道路に近寄って来て、線路ではさかんに保線作業をしている。風が強まり、まだ降る量は少ないが、雪は横なぐりに保線区員たちに吹きつけている。大地の凍《い》てつく冬期には地盤が隆起したり、いろいろな問題が起きるのだろう。寒風に吹きさらされて保線作業にうちこむ男たちを見ていると、彼らがしているようなことこそ本物の仕事なのだと痛感する。衣服の色や型の目先を変えることが、その作業と同列に仕事として扱えるのかどうかを考えると滑稽《こつけい》な気になってしまう。
「釧路六一キロ」ジャンが標識を読みあげた。「オコッペ・キャンプ村」ジャンは大倉が地図を見ないので注意を促しているようだ。道はまだ登っている。トンネルを過ぎると下りになった。十条製紙社有林の看板があった。間もなく海が見えはじめ、線路は左側へ移った。道は山をおりて坦々《たんたん》とした海ぞいの土地に入る。「音別《おとべつ》町」とジャンが言った。その町も小さく、すぐ通過した。吹雪《ふぶき》が強さを増している。右側は疎林と熊笹《くまざさ》。殺風景だが吹雪の中では凄味《すごみ》がある。道路に少し起伏が出て来る。対向車のライトが吹雪を実際以上に激しく見せるようだ。乗用車の帯広ナンバーが辛《かろ》うじて読みとれた。山の高い位置から見た海の色と、海ぞいの低い位置から見たのとでは海の色が違う。低いと濃緑色に見える。
道路の幅員《ふくいん》が突然倍になった。町が近いのだろう。白糠《しらぬか》という町らしいが、とにかくひどい吹雪で前のトラックもスピードをぐんと落としている。二人の乗るランクルとの車間距離は五〇メートルそこそこだが、それでもどうかするとテールランプが見えなくなる。大地から白煙が噴きあげる感じになるのだ。
「マダムのコート、牧場で着てたのとは違ってたな。高いぜ、あれは」「もう着て行く場所もないんだ。防寒には最高だろう」「もったいない」「あんなのをたくさん持ってるのさ。銀座じゃ成功者の一人だった」「よく会ってたのかい」「まあな」「あったんだろ?」「男女の関係か?」「きまってるじゃないか。俺がほかのことを訊《き》くかよ」「それがあったのはずっと昔さ。帰国してからまた出会ったが、それからはママと客の関係だ」「あんたどうかしてるぜ」ジャンはいまいましそうに言った。
町を抜け、海ギリギリの道になった。漁船が吹雪の中で激しく上下している。二、三十隻はもやっている。集魚灯をぶらさげているところを見ると、イカ漁の船かも知れない。一〇メートル左には線路がある。「釧路二七キロ」とジャンが言った。線路の向こうにセメントのプラントがやたら並んでいる。アスファルト・プラントもある。工業地帯のようだ。「釧路一五キロ」ジャンがまた言う。標識の密度が濃くなったのだ。雪の中で釧路空港・阿寒湖方面という案内板が辛うじて読みとれた。
「コ・イ・ノールよりジョーカー。ジョーカーどうぞ」大倉がマイクを取った。「ジョーカー」「あと少しで製紙工場の前の道を左へ入るわよ。最初のウインカーで用意をして。二度目のが本物。どうぞ」「ジョーカー了解。アウト」
右に十条製紙の赤白だんだらに塗った煙突が、白い煙を海へ向かって真横に流している。トラックの左のウインカーが短く点滅し、ジャンはスピードを落として車間距離を増やした。トラックは再びウインカーをつけ、直角に左折した。
ブロック塀《べい》で囲った広大な敷地の山側に、かまぼこ型の屋根を持ったでかい建物があった。「まるで格納庫だぜ、こいつは」ジャンがそう言う。トラックはいったん停車し、一人が車をおりて左隅のオフィスらしい小さな窓のついたドアへ入ると、間もなくでかい扉《とびら》が開いた。トラックは中へ入り、ランクルもそれに続く。
すぐ扉は閉じられたが、内部には風が吹きこんでいて、床には粉雪の吹きだまりさえある。何かの袋や箱がところどころに山積みされているが、建物のでかさにくらべると大した量ではない。
先にトラックを降りた歌子が大倉たちのほうへ歩み寄って来た。
「この様子じゃちょっと動けそうもないわね」すると歌子のうしろに立った男が、「瞬間的に視界ゼロになることがあるんです」とつけ加えた。
「知床《しれとこ》の天候は?」大倉が訊《き》く。「晴れているそうよ。でも山はどの方角もみんな荒れてるわ。阿寒まわりも中標津《なかしべつ》まわりもここと同じですって」「東は晴れているようです。もう一度電話で聞いてみますよ」歌子のそばにいた男はそう言ってでかい倉庫の端のほうへ歩いて行った。
「あんた、ランクルを見てあげて」
歌子はトラックのリヤゲートから出て来た黒い革ジャンパーの男にそう言った。「うちのメカニックなの。腕は一流よ」大倉はジャンに頷《うなず》いてみせた。「いじらせるのが心配ならそばにいたほうがいいけど、信用するなら向こうへ行きましょうよ。ここは寒いわ」「俺は信用したいね」ジャンが笑顔で言った。
三人は倉庫の隅を仕切った事務所へ歩きはじめる。ガラス窓がひとつあって、中にストーブが見えていた。「お店の名をコードに使うなんて思わなかったわ」「久しぶりにああいう名前を口にしたよ。ちょっとなつかしかった」歌子が事務所のドアをあけた。噴射式の灯油ストーブが、ゴーッと音をたてている。むっとする暖かさだ。歌子はすぐコートを脱《ぬ》ぐ。コートの裏に物騒なものをぶらさげていた。
「なつかしいものを持ってるじゃないの」
ジャンは目を丸くした。「牧場でためしに射ったことがあるのよ」歌子はコートを裏返しにしてそばの木の椅子《いす》の背もたれにかけた。「ハイスタンダードだぜ」ジャンがその銃にさわる。長いサイレンサーのついたセミオートだが、暗殺専用のように言われている。
「護身用よ。使いたくはないけど」
大倉もコートを脱いだ。「牧場の連中がなぜ君らを出してくれたんだ」歌子はストーブのそばに置いてある木のベンチに腰をおろした。「東京でも港《トマリ》が逆に利用されていることに気がついたらしいの。牧場にいた連中も今ごろはこっちへ向かっているでしょう。結局あなたがキャプテンに言ったことはほとんど本当だったのね」
バーバリーの地に毛糸の襟《えり》のついたドンキー・コートを着た若い男が、窓ぎわでタバコを喫《す》いはじめた。外を見張っているのだろう。「最北運輸というのは?」「鷲尾《わしお》が作った会社よ、実質的にはね。ちゃんと営業してるわ。この倉庫も正規の貨物を出し入れしてるの」「港《トマリ》と接触するのは?」「最北運輸よ。ほかに楡《にれ》商会というのが札幌にあって、チュプカへの援助物資はそこが調達するの。伝言があるわ。根室で西村という人に接触するようにって」「どこからの伝言だ?」「彼なら判《わか》るって」歌子はジャンを見た。
「何者だ」大倉はジャンに訊《き》いた。「マクノートンの関係だ。BIRとつながってる」「防衛庁の人間だな」「今度の件で、マクノートンは点数を稼《かせ》いだらしい。食糧問題からまぐれみたいに少数民族のことを探《さぐ》り当てたんだ。でもマクノートンはCIAとは折り合いが悪いそうだ。俺に対してもBIRから接触があって動かされた。だがCIAはマクノートンにクロフォードをはりつけている。あのクロフォードがCIAと縁が切れるわけがない」
歌子が尋ねた。「BIRってなんなの?」「国防省の諜報《ちようほう》・調査局だ。政治や経済が専門で、派手なことはやらない。そうか、BIRとクロフォードが並行して動いているわけか」「西村というのに俺は東京で会ってる。えらそうな顔した役人だよ」
大倉はジャンの顔を見ていたが、歌子に視線を移した。「プロらしいのが出てこないのはどういうわけなんだろう?」「知らないわ、そんなこと」「俺たちのことで何か聞いていないか」
「聞いてるわよ。プロのスパイでしょ? 外地でやりすぎて日本へ戻されたって」「そうじゃない。今日のことだ」「今日の?」「聞いていないか。するとあいつらもただの密漁グループか」「何かあったの?」
ジャンが喋《しやべ》った。「忠類《ちゆうるい》という妙な名前のところから道道《どうどう》へ入ったら待ち伏せを食った」「まあ……」「二人でかたづけたよ。でもこの旦那《だんな》、ちょいとおかしかった」「どうおかしいの?」歌子は大倉をみつめる。「以前なら治郎さんのやりかたはもう少し穏やかだった。こっちがやられそうなんだから、相手を叩《たた》くのは当たり前だが、いやに荒っぽいのさ。いきなり飛び出して射ち合いに持ちこんじゃった」ジャンは冷たい声で大倉に言った。「先輩、はっきり教えてくれよ。久しぶりで腕がムズムズしてるのか? あんたらしくないぜ。広尾のことだって俺はまだ納得してないんだ。俺たちはガンマンじゃないんだ。以前なら逃げてたはずだぜ。できるだけ騒ぎを起こさずに、自分の存在をゼロに近くして行くのが俺たちのやり方じゃないか。ずっとそれでやって来た。だが今度はやたら敵の前に立ちたがる。どういうわけなんだ」
大倉は冷笑した。
「ほかにどういうやり方があった?」「あったろうさ。以前のあんたならな。俺はずっとあんたの静かなやり方について来たんだ。なあマダム、この人はちょっとおかしいぜ。日本へ帰ってから何があったんだい」
誰《だれ》も口をきかなくなった。ストーブの音と風の音だけになった。
9
大倉は事務所からランクルの運転席へ戻っている。二人だけの話があると、歌子が強引に車へ移らせたのだ。
「たしかにあの人の言った通りよ。あなた少し変だわ」
歌子は大倉のとなりにコートを着て坐《すわ》っている。鷲尾《わしお》牧場の男が点検してくれたが、車に異常はないということだった。
「外地でどんなやり方をあなたがしていたか、あたしは知らないし、ここへ来るまでのことも知らない。でも以前のあなたはそんな顔はしていなかったわ」「昔の話さ。人間は誰でも変わる」「海外へ行く前のことは別よ。帰って来て久しぶりで会ったとき、随分変わったなと思ったけど、今はもっと違ってる。なんだか知らないけど、久しぶりで会ったときのあなたは男の顔をしてたわ」大倉は苦笑した。「今は女々しいか?」「男でも女でもない感じ」「どう見ようと君の勝手だ」「あたしだって変わったわよ。今のあたしは女じゃないの。チュプカのことを知ってから、男になっちゃったのよ。彼らを助けたいの。できることならみんな密入国させてあの牧場で働いてもらってもいいと思ってる」「無理な夢だ。国家というものがある」「向こうにあるのも国家よ。国の権力がチュプカを海へ追いやったのよ」
大倉はタバコに火をつけた。
「国など要《い》らんもんだ。愛国心などというのは国を牛耳《ぎゆうじ》る権力者にとって必要なだけだ。国境などというのは、個人レベルでは不必要なんだ。国境があるための悲劇を、俺《おれ》は嫌《いや》というほど見て来たよ」「チュプカもそう。彼らには国境なんて関係なかったのよ」「俺には彼らがなぜ土地を追われたか判《わか》る」「なぜなの?」「基本的に彼らは狩猟民だ。獲物は食う、皮は着る。彼らにはそれでいい。しかし権力は支配し管理しなければ権力ではあり得ない。自然を相手に気ままに生きている者を見すごすことは、権力の自己否定だ。王は人民を数え、人民は王の齢《よわい》を数えるという言葉がある」「チュプカは優しい人たちよ。あたしはアイヌ民族の優しさを知っているわ。同じタイプの人たちなのよ、チュプカと」「狩猟民族は俊敏で剽悍《ひようかん》だと思われがちだが、それは誤解なんだ」「話が少しそれたわ。あなたがそうしたのよ」「君の話の見当はついているよ。いまだに中途半端なままだと言いたいんだろう?」「いったい何年おうちへ帰らないの?」「ヨーロッパへ行ったきりになって五年」「うそ。十年にはなるはずよ」「はじめの五年はマメに帰っていた。一年のうち二十日か一か月くらいは東京にいたんだ」「知らなかったわ」「あとは承知の通りだ。東京のホテルぐらしが二年半ばかり。そのあとは北海道さ。三年目になる」「おうちとの連絡はどうしてるの?」「もういいだろう。喋《しやべ》りたくない」「じゃいいわ。でもあなた、自分を嫌《きら》ってるみたいよ。変わったというのはそこ。投げやりになってる。あたしにはそう見えるのよ」「朝目をさますとほっとした時期があった。自分が生きていることを発見してな。新鮮な気分だぞ、そういうのは」「毎晩銃を抱いて寝たんでしょう、そういう時期は」「いろいろさ」「もう一度あなたと東京を歩いてみたい。これがおわったら、どんな形にせよあたしの生活は変わりそうな気がしてるの。飲みたいわ、一緒に」大倉は答えずに歌子の顔を見た。歌子は大倉の目から何を感じ取ったのか知らないが、あわてて目をそらせた。
風が弱まった。鷲尾《わしお》牧場の連中が一本しかない事務所の電話をかけまくった結果、雪雲は東から西へかなりの速度で移動しているらしいことが判った。
「西村という男は根室のグランドホテルにいるそうです」黒い革ジャンの男が札幌の最北運輸本社へ電話をして大倉にそう伝えたとき、窓際にいた男が緊張した声でみんなに報《し》らせた。「車です。乗用車が四台」
ジャンは反射的に事務所を飛び出し、ランクルへ走った。大倉はのっそりと窓へ歩み寄り、外を見ながらそばにいる男に訊《き》いた。「君ら、武器は?」「奥さんと松本さんが……でも僕らは」「ランクルへ行ってもらって来い。余分がある」その男はさっと大倉のそばを離れた。
四台の乗用車は構内に入るとスピードを落とし、向かって左からまわりこんで倉庫の前へ横向きに停《と》まった。
「あわてるな。攻撃する気はないようだ」
大倉はこちら側のドアをあけて出て来る男の姿を見ながらそう言った。やる気なら横向きにとめはすまいし、倉庫側のドアから出て来もしないはずだ。
四台から十二人。男ばかりでゴム長をはいたのもいる。風体はどう見ても漁民だ。大倉はAK47を持ったジャンがそばへ来ると、自分は事務所から倉庫へまわり、でかい扉《とびら》を引きあけて相手に姿をさらしたらしい。事務所の窓で援護の構えをとりながら、ジャンが背後の歌子に言った。「またあれだ。どんな気か知らないが、あれじゃ挑発してるのと同じだよ」歌子は弁護するように答える。「敵じゃないみたいよ」「それはそうだが、昔は決してあんな態度には出なかった人だ。敵かも知れない連中の前へ体をさらすなんて」
外の男たちは何か大倉とやりとりをしているが、風の音が強く、事務所のドアがしまっているのでまったく内容は聞きとれない。そのうち男たちは大倉のほうへ歩き出した。中へ入れるらしい。ジャンは事務所のドアをあけて外へ出て行き、男たちに真横から銃口を向けた。牧場の男たちはザウエルP220とVP70を持たされたのが倉庫側のドアから飛び出して行った。
「話し合いに来たそうだ。心配ない」
大倉が大声で言う。「俺たちは武器など持っていない。本当だ。射たんでくれ」ジャンは男たちのうしろから倉庫へ入って来て、牧場の連中に命令する。「ボデーチェックをしろ」牧場の男たちは一列に並んだ十二人のボデーチェックをはじめ、ジャンが倉庫のドアをしめた。「すんだら外を見張れ」ジャンの態度は冷厳だった。
「あ、奥さん」
男たちの何人かが、倉庫の隅に立っている歌子を見て頭をさげた。「一、二度お会いしたことがあるようね」歌子は素っ気ない答え方をした。
「こんなに大勢は事務所に入れんな。かと言ってここは隙間《すきま》風が吹き込む。奥ならいくらか風もしのげるだろう。こっちへ来なさい」
大倉はそう言って段ボールの箱が山積みになっているほうへ行く。男たちはそのあとに従った。
「さあ、話を聞きましょうか」大倉は箱の山のうしろで立ちどまり、奥の壁を背にそう言った。ジャンと牧場の男たちが退路を塞《ふさ》ぐ形でその十二人から少し離れて横に並んだ。
「俺、橘田《きた》と言います。隆進丸という……」大倉は「そんなことより要点はどういうことです。皆さんは要するに密漁船の方なんでしょう」と言った。「いつもいつも密漁しとるわけじゃありませんよ。でもまあ、そう言われても仕方ないですがね」「役所の人間じゃないから、俺は別に密漁を悪いとは思ってない。国同士がきめた漁場の外へ出て行くだけのことだ」「そういうことです。俺たちは根っからの漁師で、それも親や爺《じい》さんの代からでしてね。そりゃ、獲《と》れた魚を金にかえて女房子《にようぼこ》を養っとるが、いったん沖へ出たら銭金《ぜにかね》の問題じゃねえんです。こりゃ漁師ならみんな同じ気持ですよ。獲物を見て血がたぎらねえ奴《やつ》は漁師なんかじゃねえ。そんな野郎こそ金《かね》ずくで船を出す商売人だ。……俺たちに言わせりゃあそういうことですよ。でも獲れたもんを売るには人の力をかりねばならねえんでしてね。密漁をやるとヤーさまの息のかかった連中がやって来て、そいつらにしか捌《さば》いてもれえねえことになっちまった。北洋漁業研究会なんてのができちまって、毎月会費納めさせられる羽目になって」「北洋漁業研究会か」大倉は苦笑した。「でも今度は急にきつい達しが来て、俺たちのことを調べにスパイがやって来るから叩《たた》きのめして帰らせろだなんて……船一パイにつき二人ずつ若いもんを出さねえと裏切り者扱いにするだなんて言われてね。正直言って、知床《しれとこ》の真琴内《まことない》が密漁船の中心で、あそこの連中が向こうとうまく話をつけてから、ソビエトの取締りもめっきり緩くなってくれたもんで、真琴内のことを暴かれたらどうにもならんし」「それで君たちはどうすることにきめたんだ?」「海の上ならちょっとくれえの乱暴はしねえでもねえですが、陸《おか》は俺たちの喧嘩《けんか》場じゃねえ。だから俺たちはなんにもしねえことにしたんです」
歌子が言った。
「密漁船の組織から抜けるわけね?」「そう言われても仕方ねえけど……あとでゴタゴタするだろうけど、十勝《とかち》港のほうじゃ人殺しが起ってるというし、俺たちそこまでしたくねえ」「なぜここへそれを言いにきたの?」「目こぼししてもれえてえんです」「ばかね、あんたがた」「え?」「いいとしをして、あたしがこの人たちと一緒にいるのはどういうわけだか考えたの? ここは真琴内《まことない》の味方をしてる最北運輸の倉庫よ」「凄《すげ》え銃を持ったごつい人たちがここへ入ったって聞いたもんで」
大倉が歌子にかわる。
「仲間を抜けるだけなら黙って家に隠れていればいい。ほかに何かあるんだな?」「目こぼししてもらえるんなら……」「教えろ。お前らをかまっている暇なんかない」大倉が厳しい声を出すと、男たちは一様にびくっとして顔色を変えた。「ここから根室《ねむろ》のあいだで待ち伏せするから出て来いと言われてるんだ。俺たちはそれを抜けたんだ。行かんと船を壊される。以前にも奴らの言う通りにしねえでエンジンや魚探をやられた船がある。だがそのランドクルーザーがこの倉庫へ入ったことは誰《だれ》もまだ知らない。知ってるのはここにいる者だけだ」「待ち伏せの場所は?」「知らん。本当だよ。だが連中も今度は銃をごっそり集めたそうだ。厚岸《あつけし》の港の連中も駆り出されてる」
大倉は歌子とジャンに目で知らせ、男たちをそこに置いて事務所へ入った。
「奴らは本当のことを言っているようだ」「あたしたちのトラックが先へ行くわ。怪しい動きを見たら無線で知らせるってのはどう?」「無理だな。漁船の連中だ。奴らだって無線でこっちの動きを連絡し合うさ。君らには見つけられんだろう」「山へ入ろう。根室へ寄らずに行ける道があるんだろう?」ジャンがそう歌子に訊《き》く。「標津《しべつ》へ抜ける国道があるわ」「俺は根室へ行く」大倉はにべもなくそう言い切った。「射ち合いをしたいわけ?」歌子は皮肉な調子で言う。「彼はルートを指定されて来た。海ぞいの道を通るのが俺たちの任務だ」「アメリカ人の命令でしょ。でもここは日本で、あなたが射つ相手も日本人よ」「漁民の背後にいる連中を俺はいぶり出したいんだ」「やくざだって日本人だわ」「そんな奴《やつ》らは関係ない。俺が言ってるのは俺やジャンが以前戦った奴らの同類のことだ。密漁組織を操ってる連中がいるんだ。間違いない。俺はそのために根室へ行く」「根室にKGBの息がかかった連中がいるとなぜ判《わか》る」ジャンが訊《き》いた。「勘だ。しかしジャン。お前は経験してるはずだ。根室には西村という男が行っている。防衛庁か何か知らんが、政府レベルの人間であることには違いない。そういう人間の動きをマークしそこなう相手だと思うか。俺やお前がいくら隠密《おんみつ》行動をとっても、行くさきざきに奴らが網を張っていなかったことがあるか」ジャンは肩をすくめた。
「何か手があるはずだ。射ち合いなしに根室へ直行できる手が」すると窓の外を見張っていた男が、外を見たまま遠慮がちな声で言った。「奥さん。別保《べつぽ》に普通科連隊がいますよ」ジャンがそれを聞いて明るい表情になる。「本当か、それは」「第二十七普通科連隊です。陸自の釧路駐屯地《くしろちゆうとんち》で、釧網《くんもう》本線の東側にあるんです」ジャンは電話に近づいて行く。「治郎さん。西村に言ってその部隊を動かしてもらおう。なんとかしてくれるはずだ」歌子もそれに賛成する。「冬になるとよく自衛隊は移動演習をやるのよ。ことに吹雪《ふぶ》いたりするとね」ジャンは番号案内で根室グランドホテルの番号を尋ねはじめた。「でもあたしたちは先へ行くわ。まだあなたたちと手を組んでいることを相手に知らせる必要はないでしょう?」
約一時間後、大倉とジャンを乗せたランクルは、自衛隊の車輛《しやりよう》の隊列の前から四輛目に加わって、国道44号を走りはじめていた。駐屯地から発進した七輛のジープやトラックと、旧釧路川ぞいの場外馬券売場前で合流したのだ。「広尾からジャスト二百キロ」ジャンが距離計を見て言った。昆布森《こんぶもり》という案内標識がちらっと見えた。国道から分岐した支道へ入ると、そういう地名の村があるのだろう。その方角は海岸だ。
平坦《へいたん》な地形の中で道路がこんもり高く造られている。雪の吹《ふ》き溜《だ》まりになることをそれで防いでいるのだろう。陽はさしていないが降雪は少なくなって、ジャンはワイパーをとめている。
「コ・イ・ノールよりジョーカー。ジョーカーどうぞ」先行する歌子からの連絡だ。「こちらジョーカー」「V・S・O・P。アウト」「了解」
ジャンが尋ねる。「今のはどういう意味だい」「ヘネシーのことさ。あのころ俺はいつもヘネシーのV・S・O・Pを飲んでた」「いつも通り、異常なしってわけか」ジャンは幌《ほろ》つき軍用トラックのテールランプをみつめて言った。「なんだかんだ言いながら、結構イキが合ってるじゃないか。いい女だぜ、あのマダム。一緒になればいいのに」
左右に林道がよく現われる。すべて何号線という標示がしてあった。かなり山奥を走っている感じだったが、峠を越えたらしく視界がひらける。さっき吹いた軽い雪が路面に積もっていて、対向車とすれ違うとそれが濃い雪煙りとなって舞いあがり、一瞬すぐ目の前を走るトラックが見えなくなりそうになる。根室八八キロ、厚岸《あつけし》一一キロの標示があった。
「変だぜ」とジャンが言った。「国道からそれやがるな」前後を自衛隊の車輛にはさまれて視界がよくない。あなたまかせでついて行くしかない感じなのだ。隊列は町の中を走っていた。安心していた大倉はあわてて地図を見た。「厚岸大橋を渡る気か」その道を直進すれば厚岸湖に突き当たる。
「橋を渡れば海ぞいの道で……道道1020号。霧多布《きりたつぷ》岬へ行ってしまう」
そう言っている間に、車の列は橋を渡って対岸ですぐ左折して、ちょっと北陸あたりの冬景色に似た海岸ぞいの道をひた走る。大倉はその隊の周波数に合わせた。
「民間車よりリーダーへ」「こちらリーダー。移動演習は予定通りです。このルートで浜中から国道へ入ります」大倉は仕方なく「了解、アウト」と答えた。「だいぶ遠まわりになるな」「でも国道へ戻るのならかまわないじゃないか」ジャンはそう言い、「途中で抜ける道はまずないだろうな」と大倉を見た。路面はまっ白だ。夏は観光客でにぎわうのかもしれないが、今は通る車もろくにないようだ。たしかに移動訓練にはもって来いだろう。道の位置はかなり高い。藻散布《もちりつぷ》、火散布《ひちりつぷ》などという沼のほかに、養老散布《ようろうちりつぷ》、渡散布《わたりちりつぷ》などという変わった地名がかたまっている。チリップというのはアイヌ語でアサリ貝のことだそうだ。厚岸道立公園の中のせいか、樹木の繁りようが濃密だ。
「コ・イ・ノール。コ・イ・ノール」
突然歌子から連絡が入る。かなりあわてた様子だ。大倉は微調整のつまみに手をやった。「コ・イ・ノール。ジョーカーだ。どうした?」「漁協のトラックが二十台以上もいるわ」「コ・イ・ノール。現在地を知らせろ」「茶内《ちやない》。茶内の近くよ」大倉は地図の上で国道を指で辿《たど》った。根室本線にそういう名の駅がある。鉄道は国道と並行して走っている。「こっちは訓練の都合で道道を霧多布《きりたつぷ》へ向かわされている」「ジョーカー、ジョーカー……」「コ・イ・ノール。こちらジョーカー。どうした」「あたしたちを追いはじめたみたい。トラックが次々に動きだしてるの。追われてるわ、たしかに」「コ・イ・ノール。こっちへ来れないか」「ダメ。茶内へ入る道を過ぎちゃったわ」「コ・イ・ノール。注意しろ。奴《やつ》らは前にもいるはずだ。挟《はさ》みうちする構えのはずだ」「やってみる。道道《どうどう》へ入るわ」「つかまるな。若いのに銃を渡してある。近寄られたら射っていいと言え。あと始末はこっちがやる。判《わか》ったか」「コ・イ・ノールよりジョーカーへ。了解よ」どういうわけか、歌子の最後の声はばかに落着いていた。
大倉は隊のチャンネルに変えた。「民間車よりリーダーへ」「こちらリーダー」「国道で味方が密漁グループのトラックに追われている。この道へ逃げ込んで来るから急いでくれ。相手のトラックは二十|輛《りよう》以上。小火器で武装している」大倉がそう言いおわって十秒もしないうちに、前のトラックとの間隔がぐんとのびた。「リーダーより民間車へ」「リーダーどうぞ」「事情がよく判らん。説明しろ」「AGIと常時接触を保つ漁船グループがある。俺たちはCIAの要請でそれを潰《つぶ》しに来た。日本側の指揮官はもう根室へ入っている」「民間車。AGIの説明をしろ」「知らんのか。ソ連の情報収集艦のことだ。以上《アウト》」「こちらリーダー。そのトラックに追われているのは何者だ」「我々の協力者。先行させた偵察車だ」「漁民なら民間人だし、その協力者も民間人だろう」「そうだ」「我々は手を出せん。たとえ相手が火器を使用してもだ」「このまま急行して姿を見せてくれるだけでいい。それでも引きさがらないようなら俺たちがやる。追われてるのと通話する。アウト」
大倉は周波数を変える。「コ・イ・ノール。こちらジョーカー、どうだ」「コ・イ・ノール。とても振り切れないわ。いま右折したところ。路面がこんなだから派手なカーチェイスなんかできないのが救いよ」「こっちはいま琵琶瀬《びわせ》展望台というところを過ぎた。がんばれ」「先頭の奴が射って来てるわ。当たらないものね」「こっちもスピードをあげてくれている。すぐ出会うだろう」
左は大湿原だ。すれ違う対向車はまったくない。この時期にこの道へ入って来るような物好きはいないということだ。
「リーダーより民間車」「こちら民間車」「トラックの列が見えた」「先頭にいる箱型トラックが味方だ。最北運輸と書いてある」「いかん、岬へ入った。カーブを曲り切れなかったようだ。トラックも行く。二十輛以上いるぞ」
ひと足遅かったようだ。雪はやんだが霧が出はじめている。霧の名所なのだ。岬の道へ入ったトラックも、自衛隊の車輛もみなライトをつけていた。「リーダーへ。先へ出る」大倉が言うとジャンは車の列から左へ鋭くとび出し、先頭のジープを追い抜いて細くくだけた岬への入口を突っ走った。
「こっちの姿を気づかせなければ」
大倉はルーフウインドーを開いてAK47を構えた。そのうしろに自衛隊の車輛が続いている。道は前方で右に少し曲がっており、歌子たちのトラックがそこを走り抜けた。大倉は直進するランクルのルーフからフルオートで射った。追跡する二輛目のトラックがぐらついた。弾が運転席を通り抜けたのだろう。ドライバーはブレーキを強く踏んだのかも知れない。二輛目が激しくスピンしたところへ三輛目がぶち当たった。二輛目は道を外れて雪の中へ横転し、三輛目は四輛目に思い切り突きとばされて横転した二輛目へ大きな音をたてて噛《か》みついた。あとは四、五台の玉突き。走っているのは最北運輸のトラックと先頭の一台だけになった。しかし、うしろの事故に気づいてその一台も急停車する。スピンして道路と直角にとまった。歌子たちの車はそのまま逃げて、灯台へ入る細い道の前でとまった。
歌子は車をおりた。自分が助かったことは自衛隊のトラックの列がバックミラーの中に見えたときから判《わか》っていた。運転していた松井という男は、うしろのトラックへ走って行き、運転席に向かって拳銃を構えていた。
「おりろ」反対側へもドンキー・コートの男が銃を持ってまわり込む。トラックから怯《おび》え切った顔の二人が外へ出る。「そこへうつむけに寝ろ」松井が言い、その二人は雪の中へ体を伏せた。もう一人が助手席へ入ってライフルを取り、松井が二人のボデーチェックをした。ドンキー・コートの男はそのライフルでトラックのタイヤを射った。伏せている二人がビクッと体を震わせる。
もう二人の牧場の男たちは、最北運輸のトラックのリヤゲートを開けた。中にスノーモビルが四台入っていた。渡し板をおろし、スノーモビルを外へ出した。一人がそれに乗ってうしろへ走り去る。道路はトラックで塞《ふさ》がれているのだ。歌子はその音を背中に聞いて灯台を見ていた。海上に霧が濃く、風が哭《な》いている。
「ばか……」
歌子はつぶやいたようだ。
「我々は介入できない。民間人の争いだ」「かまわんですよ、それで。こんな所で交通事故とは珍しいですな。おかげで道路が渋滞している」大倉はジープの三尉に言った。そのときスノーモビルがやって来た。「そいつを積んで来たのか?」ジャンがイングラムM11をぶらさげてうれしそうな顔をした。そのスノーモビルには小型のハンドマイクがぶらさげてある。「あんたがたはここにいてくれればそれでいいですよ。事故で道を塞《ふさ》がれたわけですから、迷惑はかからんでしょう。部下のみなさんもお疲れでしょうから、外へ出て休ませてあげてはどうです。銃を持ったままでね」すると、三尉は子供っぽい笑顔になった。「協力はできませんよ。彼らがAGIとかに内通していることも自分たちは関知しておりませんしね」三尉はうしろのほうへ小走りに去った。「そいつを借してくれ」スノーモビルを指さして大倉が言った。「いいですよ。でも、あとは自衛隊にまかせるんじゃないんですか?」「そうも行かんらしい」大倉はスノーモビルにまたがり、トラックの列を見渡せるところへ走らせて行った。
「諸君の武器を回収する。持っている者はこちら側へ投げ出してくれ。そのあとでボデーチェックをする。万一武器を隠し持ったり、反抗したりする者がいれば、その者は特別な待遇を受けることになる」
大倉がハンドマイクで言うと、すぐトラックの窓からライフルや拳銃《けんじゆう》が次々に外へ投げ出された。数はあまり多くなかった。その間に自衛隊員が散開しはじめた。ただの見物だがトラックの連中にはそうは思えないはずだった。ジャンと牧場の男がトラックの列にそって銃器を拾い集める。
「トラックからおりて全員雪の上に伏せてください」
大倉はいやに叮嚀《ていねい》に言った。「そこの四人は事故車の負傷者を助けてやりなさい」
結局全員雪の中に伏せてしまい、ボデーチェックなどされなかった。後日当局の調査が行なわれるが、悪質な者に対しては、漂流者としてソ連側に引きとらせることが可能だという大倉のおどしが、叮嚀な言葉づかいの伏線だった。かなりこたえたようである。そのあいまに、大倉はキャビンのラジオでジャンに全車始動不能にさせるよう命じ、ジャンは歌子の部下を使って大倉の命令通りにした。
大倉はトラックの連中を雪の中に伏せさせたまま灯台の入口へスノーモビルで行った。スノーモビルは松井がトラックの中へ入れ、大倉は歌子と並んでタバコに火をつけた。
「くだらないわ、こんなこと」「まったくだな」「もう港《トマリ》のこともおしまいよ。チュプカに食糧を送ることももうできないでしょうね」「そうらしいな」「東京へ帰らない? 一緒に」大倉は答えない。「もうあなたの子供たちだって判《わか》ってくれるはずよ。あなたが仕事に夢中になって、外地へ行きっぱなしになってしまった。単身赴任のうんと長い奴《やつ》。奥さんの立場も判るわ。典型的……いえ、それ以上のモーレツ社員を夫に持って、人なみ以上の生活をしていたけど、美人だし、お金以外の豊かさが必要だったのよ。あなたは奥さんのしあわせをこわすまいとしている。古いのよ、あなた。今の子供は両親が離婚したってそう気にはしないそうよ」
大倉は答えた。
「相手は妻子のある男だ。名だけのことにせよ子供たちには父親が要《い》る」
歌子は乾いた声で笑った。
「奥さんとかわりたいわ。安定した生活、おとな同士の恋愛。でもあなたはどうなの? それで何かを償《つぐな》ってるつもり? 自分を不要な人間にしてしまって。そんなに奥さんを愛してるの? 奥さんがしあわせなら、奥さんの恋愛までこわすまいとするほど」
大倉は答えない。
「あなた死にたがってる」
歌子は大倉のほうへ向きなおり、真正面からみつめた。
「あたしと」
岬の灯台が突然霧笛を鳴らした。体の奥まで震わせるような大きく重い音だった。大倉は歌子の唇が動くのを見ていた。その音の中で、歌子は何か叫んだようだった。
10
国道44号。彼らは霧多布《きりたつぷ》をあとに根室へ向かっている。
霧多布。アイヌ語で茅《かや》を刈る土地のキタプにその字を当てたと言うが、霧の出る日が多いので有名だ。突端の岬は湯沸《とうふつ》岬と言い、灯台があり、観光客向けに霧笛に関する注意書きをした表示板が出ている。霧の日に灯台へ近づきすぎると、霧笛で鼓膜がやられることがあるからだ。
その霧の名所が霧の中に消えている。トラックの連中も無線は備えているだろうが、救援が来たところで全部の修理がおわるには相当な時間がかかるだろうし、事件を公けにするわけにも行くまい。
「釧路《くしろ》の倉庫へ来た連中を信用したのがいけないんだ。あの中に最北運輸と俺《おれ》たちが手を組んでいることを通報した奴《やつ》がいるんだ」
ジャンは陰気な声で言う。ランクルは前から三|輛目《りようめ》、歌子のトラックは五輛目で、自衛隊の車輛は厚床《あつとこ》まで送ってくれるそうだ。
「怒っているのか」大倉が言う。「当たり前だろ。連中は武器を持っていた。マダムが俺たちの身替りになってしまったんだぜ」「手違いだ。この部隊が厚岸から道道《どうどう》へ入るとは知らなかったんだ」「こんなドジははじめてだよ。女を敵の中へ放り込んで、こっちは軍隊の護衛つきだなんて」「今さら言ってもはじまらん。それよりあの連中に武器が渡されているほうが問題だ。中古だが暴力団などの手に入る銃じゃない。全部ベルギー製だ。俺たちの本当の相手がこの地域にかなりの組織を作りあげているはずだ」「何から何まで俺たちにやらせようというんじゃないぜ。俺たちは傍観者でもいいはずじゃないか」「真琴内《まことない》には彼女の身内がいる」「母方の親類とか言ってた。そう親密な付き合いでもないようだったぜ」「肉親愛とか、そういうことじゃないだろう。彼女は戦いをはじめたんだ。きっかけがどんなことだったかは知らん。だが彼女が銀座と赤坂の店を叩《たた》き売り、鷲尾《わしお》英二郎のチュプカ援助に参加したのは、はっきりした戦いをしたかったからだろう。女にだってそういう奴はいる。死んだ鷲尾英二郎や彼女の思惑に反して、いま真琴内は危険な場所になってしまった。人口は二百そこそこの小さな漁港だそうだが、多分一部の者に完全に制圧されているはずだ。表面は従来通り、北方少数民族の支援基地の顔をよそおっているが、その実だいぶ以前からソ連の支配下に置かれている。だとしたら最初からの善意の集団は日本側に向けた飾りの人形にされているだろう。あいつは責任を感じているんだ」大倉は自分が歌子をあいつと言ったことに気付かないようだった。
暗くなってしまっている。左右に森。森が切れ、ひらけた土地へ出ると道に沿って防風板がえんえんとつらなる。冬期の風向きはほとんど一定しているらしく、防風板は風そのものよりも粉雪が吹《ふ》き溜《だ》まりを作って道路を埋めてしまうのを防ぐのだ。道路はあくまでまっすぐで、雪煙りの中から対向車のライトが妙に柔らかい感じで接近して来る。霧多布で自衛隊の出動を見せつけられた連中が連絡したのだろう。敵らしいものの存在はまったく感じられない。
国道243号の標識が見えた。厚床《あつとこ》へ着いたのだ。第二十七普通科連隊の車輛《しやりよう》とは、そこで別れることになっていた。彼らは別海《べつかい》駐屯地へ向かうため、霧多布からそのまま44号線を突っ切って、道道1020号を北上するところ、大倉たちのために厚床経由の迂回《うかい》路をとってくれたのだ。根室本線厚床駅の前のT字路で部隊の車輛が左折して行き、大倉は無線で三尉に礼を言った。ランクルと最北運輸のトラックは、その角にあるガソリンスタンドに乗り入れた。根室へはあと三三キロ。
暗い道を走って根室市内へ着いた。ホテルへ入る前にランクルはスポーツ用品店の前でとまり、大倉が店へ入ってゴルフクラブをフルセット買った。店員には贈り物だと言い、長い箱をかかえて車へ戻ったが、すぐクラブと発泡スチロールの詰め物を外して、AK47とファイアマンをその中に入れた。猟銃のケースはあるが、それではホテルのロビーで目立ちすぎるだろう。イングラムM11はサウンドスプレッサーを外して、他のマガジンや弾薬、手榴弾《しゆりゆうだん》などと一緒にボストンバッグへつめ込み、大倉はM586とローマン、ジャンはローマンと417スペッシャルを身につけてホテルへ入った。歌子たちのトラックは、最北運輸の根室支店へ落着くと言って、スポーツ用品店の前で別れている。
チェックインした二人は三階のツインの部屋へ入りひと息ついた。フロントで西村という男の部屋を尋ねると、450号室だという。大倉は内線でその部屋へ電話をし、自分たちの到着を知らせた。
小ぢんまりとまとまったスーツ・ルームだった。ウイスキーと氷とミネラル・ウオーターのセットを運ばせてあり、ウイスキーはバレンタインの十二年ものだった。
西村はダーク・グレーの三《み》つ揃《ぞろ》いを着て、マルボーロを喫《す》っている。年恰好《としかつこう》は四十二か三。額が広く眉《まゆ》はやや薄めで、全体的としてはなかなか清潔な印象だ。タバコを片手にドアをあけ、「大倉です」と聞くと体を壁へ寄せて大倉を先に部屋の奥へ入れ、自分でドアをしめてから、「そこへおかけください」と言ったが、大倉がソファーに腰をおろすまで彼のうしろに立っていたのが、なんとなく癖のある感じだった。それから大倉の正面へまわって自分のソファーを少し斜めに動かし、はすに坐《すわ》って脚を組み、ソファーの背にもたれて大倉をみつめた。大倉は黙っている。どうやら西村は相手が先に喋《しやべ》り出すことに慣れている人間のようだ。だが大倉には社交儀礼的な雑談から徐々に本題へ向かうような会話はあまり必要ではない。少し不自然な沈黙が続いた。
灰皿《はいざら》にタバコの灰を落とすのをきっかけにして、西村が口を開いた。
「真琴内港の支援組織から報告がありましてな」大倉は西村をみつめていた。「ソ連側があの漁港を制圧しているという報告でした。あなたですね、発言者は?」「多分そうでしょう」
「我々は困難な事態に陥りましたよ」「そうですか」大倉の返事は素っ気ない。「あなたは我々の側の人間ではない。CIAの潜在要員《アセツト》でしょう?」「海外ではそうでした。しかしもう引退しています」「でもまた活動を開始した」西村はみつめ、大倉は答えない。
西村はタバコを灰皿に置いてテーブルの上のグラスをとった。
「あなたもいかがです」氷と水、ウイスキーの瓶は二人の中央にあって、グラスは大倉の前に置かれている。「また活動を開始したわけです」大倉は上着の襟《えり》をつまんでひろげて見せた。ホルスターから銃把《じゆうは》がのぞいている。「あなたのことは以前から聞いています。オイル・ジャッカー……失礼、これはよくない言葉だそうですな」「自分がそういう綽名《あだな》で呼ばれていたことは知っています」「日本政府は強い抗議を受けましたよ」「大変ですな」「あなたがこの件で動きだしたのはほんの数日前だと聞きましたが、本当ですか」「ええ」
西村は首を横に振ってみせた。「プロですな。我々は完全に裏をかかれました。相手が真琴内漁港を逆用してからどれくらいたっているのか、それが知りたいのですが」「私には判《わか》りませんな」「そんな短い間になぜ察知できたのですか」「私が理解していることを、順に言いましょう。まずオロチョン、ニブフ、ウリチ、ナナイの四少数民族が、沿海州《えんかいしゆう》の開発と軍事的価値の増大によって整理の対象にされた。彼らの生活形態は非近代的で、よくないたとえだが絶滅に瀕《ひん》した野生動物の立場に似ている。開発を進め管理を強化すれば消えてしまう。私は決して悪意からではないと思っている。彼らは北方民族で寒気に強い。近代漁法を教えてオホーツク海を生活の場として与えようとした。少数民族の問題は意外に大きいのです。彼らの一つでも滅びれば政治や行政の失陥として非難されるからです。だが現実にはなかなかうまく行かんものです。現地の他の人種との格差や差別が問題をこじらせます。サハリン北部に移住させられた彼らにとって、その政策は迫害以外の何物でもなかったのでしょう。それで日本漁船と接触したとき彼らは日本側に援助を求めた。恐らくささいなことからそれははじまり、終戦時の大陸残留者とその故郷の肉親たちのつながりが復活した。少数民族の側に北海道出身者がいたらしい。漁船を通じて援助物資が向こうに渡り、真琴内という漁港がその基地になった。援助物資を購入し輸送する会社も作られた。その段階で政治家が介入し、政府も北方との情報収集にその組織を利用しはじめた。組織を防衛する者も送り込んだ」
西村は頷《うなず》く。
「おおむねその通りです」「そちらでは道東《どうとう》地区における乾電池類のケタ外れな販売量を把《つか》んでいますか?」「電池?」「低温下における電池の性能低下が原因ですが、ソ連側にも電池を必要とする器具機械はあるでしょう。彼らの国情から考えて、電池の供給が円滑だとは思えんでしょう」
西村はグラスを置き、悔しそうな表情をあらわにした。
「電池か。そんな単純なことになぜ気付かなかったんだ」「国境は越えるためにある。漁撈《ぎよろう》、狩猟の民《たみ》にとって国境は理不尽なものです。相手に見せたくない軍事施設などを造るほうが慚《は》ずべきことでしょう」「本来はそういうことですかな」西村は微笑した。いくらか大倉という男を彼なりに理解したようだ。「銃を所持している私は下劣な人間です。自衛のためとは言いながら、本来なら敵を持たぬ人間であるべきですよ」「あなたは狩猟民などに理解があるのですな」「私自身が狩猟民です。だからこういう世界へ入ってしまったのでしょう」「そのハンターの勘ですぐ真琴内の件に気づいたわけですかな」「私が真琴内という場所へ行きそうだという情報は、仕事を引き受けた翌日、もう相手方に知れ渡ったようです。反応がありましてね。その中にハイテク関係のにおいがするものがまじっていたのです」
西村は組んでいた脚をとき、体を乗り出して来た。
「それを教えてください」「新聞や雑誌でしか近ごろのことは知りようがないのですよ。引退した身ですからな。しかしたとえば、アメリカの戦略防衛構想には、対日依存の部分が相当大きいということですね」「砒化ガリウム素子、レーザー発振機がその件で問題になっているところだし、ミサイル電子戦装置の中枢神経部分では、完全に日本側が優位に立っています。日本は電子国境監視システムを開発しているし、それはソ連や中国など、長大な国境線を持つ国には喉《のど》から手が出るほど欲しいものです。ところがそのシステムと来たら、実際にはほとんどが既製の製品の組合せなのです。バラで買って寄せ集めればできるんですから始末が悪い。もちろん中枢部分は別ですがね」「じゃあ多分それでしょうな。真琴内から向こうへ出て行っている物は。もちろんほかの物もですが。私は電子機器関連の動きが真琴内にあるとすれば、その漁港はとうにソ連側にコントロールされているはずだと思ったのです。そうだとすれば、政治やイデオロギー抜きに、かつての隣人に救いの手をさしのべようとしている善意の人々が、その漁港で監禁状態になっているはずです。彼らを解放してやらねばならんでしょう。あと始末はあなたがたの仕事ですがね。それとソ連側へ電子機器を送り込むルートの破壊。根は東京にあるに違いありませんが、ハンターとしては善意の真琴内港をそんな風に歪《ゆが》めた連中を狩り出してやりたいですね。アメリカ側の指令で動いたとおっしゃられればその通りだが、ここは彼らの国じゃない。私はすでに独自の行動をとっているつもりです」「密漁船グループを引っぱり出しながらここまで来られたようですな。おかげで我々は楽になりましたよ。だがひとつ頭に入れておいてください。我々はあなたの行動に制約を加えないつもりでいます。何しろ不なれな連中ばかりでしてね。しかし、極東軍管区に配備された特殊部隊《スペツナズ》のうち、サハリン駐屯《ちゆうとん》部隊の一部が常時|国後《クナシリ》にいるようなのです」
大倉は表情を硬《かた》くした。
「それじゃ私の手には負えん。スペッナズがアメリカのグリーン・ベレーやイスラエルのハヘレブなどという特殊部隊と一番違う点は、水に強いということです。彼らは全員スキューバ・ダイビングのプロです」「知っています。国後《クナシリ》のノツエト岬から野付《のつけ》半島へは一六キロ。羅臼《らうす》と国後《クナシリ》島は三〇キロの距離です。折半ラインから彼らのプラスチック製|牽引式潜航機《トウレイング・ボート》を使えば一五キロ、約三時間でこちら側へ上陸できるのです」「真琴内にスペッナズが来ているわけですな。彼らは私などと格が違いますよ。こっちにはCIAスペッシャルのファイアマンしかないが、連中は射程一キロの正確な狙撃《そげき》をやってのける。ソ連は河川を防衛線に使うので、特殊部隊はスキューバ・ダイビングを重視されるし、広大な地形での行動が多いから、CIAのファイアマンのような、主に市街地で使う狙撃銃など、かなわんのですよ。それは、ファイアマンも射程では充分対抗できますが、引退後毎日本ばかり読んでいましたからね。老眼がはじまったらスナイパーは引退ですよ」「私は火器についてはほとんど何も知らんのです」
大倉は無表情で言った。
「鷲尾《わしお》牧場の善意は認めるのでしょうな」西村は微笑する。「こちらでレンジャーを送り込んだくらいです。消毒《サニタイズ》……ですか。それを行なうにしても鷲尾牧場には手をつける気はありません。ただし、真琴内漁港のために設立された最北運輸と楡《にれ》商会は何らかの処置を受けることになるでしょう。ことに楡商会は鷲尾牧場に対して背信行為を働いているようです。東京では郷エンタープライズという会社が浮かんで来ています。表向きは技術情報を扱っているようですが」
大倉は頷《うなず》いた。
「手を引け、と言われるのかと思っていました。しかし私が引受けた仕事は少数民族支援組織の発生とその経過、および日本側のその件に関する処理の調査観察です。いわば傍観者ですから手の引きようがない。そうお答えするつもりでした。だが個人的にせよ、消毒前に真琴内から一般人を避難させたいものです。彼らは北方領土の引揚者や、かつて彼らを厳寒の地へ送り出した実家の者たちなのですから。日本側の諜報《ちようほう》機関が彼らを利用し、今度はその裏をかいてソ連側が利用している。そのためにソ連側は漁船の越境監視をゆるめる措置をとり、日本側にはかなりの規模の密漁船組織ができあがってしまったわけですな。真琴内を潰《つぶ》しても、いずれまたその線からハイテク武器の新素材や基本機器、部品などがどんどん流出するでしょうな」「今回私は真琴内漁港の件について、アメリカ側が納得する程度の処置をするよう命令を受けて来ました。しかし、この件にタッチしてすぐ判《わか》ったのですが、おっしゃる通りこれきりではすまないはずです。|対 情 報 工 作《カウンター・インテリジエンス》のための相当強力な組織を新しく作る必要を感じています。今回のことはとにかくとして、それに力をかしていただけませんか」大倉は笑った。「同じ日本人を疑う商売はしたくありませんな」「そう言わずに考えておいてください」「消毒《サニタイズ》はどのレベルで行なうつもりです?」「できるだけ穏便に」「特殊部隊《スペツナズ》が来ていたらどうです」「それは議論の余地はないでしょう。その場合、私は彼らがいなかったことにしようときめています」「全員|抹殺《まつさつ》?」「ソ連側もそれを望むんじゃありませんか? 捕虜を作れば米軍が訊問《じんもん》したがります。渡せばソ連にいびられますしな。渡さなければ米軍の強いプレッシャーを誰《だれ》かが捌《さば》かねばならない。事なかれ主義だと思われるかも知れませんがね」「あなたの方針は判りました」「真琴内に対する通信は、すべて相手方の管制下にあるはずです。十人ほどの学童が数日前から登校していません。学校へは流感に罹《かか》ったという届けが出ているそうです」「釧路の部隊を出していただいたことに感謝します。助かりました」「タイミングがよかったのです。移動の予定があったのです」「あまり極端な結末にならんで欲しいですな」「まったくです」
西村はそう言い、自分のグラスにウイスキーをついだ。
「伝言があります」「誰からです?」「ミスター・オールドリッチからです。東京を離れる間ぎわに彼と会って少し話し合いました。別れるとき、あなたに伝えてくれと」西村はグラスを片手にしてポケットから小さな紙片をとりだして読んだ。「河上夫人は四か月前|喉頭癌《こうとうがん》で死亡。それだけです」「ありがとうございます」大倉は西村に頭をさげ、立ちあがった。ドアへ向かい、ドアの前で振り返った。「欧亜商事の第三営業本部長は谷岡といいます」西村は大倉をはっとしたような顔で見た。「失礼します」大倉は450号室を出た。
三階の部屋ではジャンが待ちかねていた。
「遅かったじゃないか。腹ペコだよ」「俺もだ」大倉はベッドの上に置いたままになっているゴルフクラブの箱を見た。「マダムから電話があったぜ。飯を食おうって」「そうか」「用意しとくからこっちへ来いってさ。最北運輸のガレージだよ。会ってもらいたい人がいると言ってたぜ」大倉はすぐ電話のそばへ行った。西村の部屋を呼び出して行先を告げる。
本町四丁目。ホテルを出て港へまっすぐ下ったところだった。倉庫や缶詰工場などが並んでいる中に、二階だての建物とガレージを持った最北運輸の根室支社がある。ガレージは思ったより小ぶりだ。ランクルが入って行くと見覚えのある鷲尾牧場の青年が右手を振って駐車位置を示した。駐《と》めてあるトラックは一台だけ。そのほかにクラウンが一台ある。大倉はボストンバッグを、ジャンはゴルフクラブの箱をかかえて油臭いガレージに立った。青年は勝手口のような狭いドアから二人を中へ入れた。肉の焼けるにおいがたちこめている。「その先の部屋です」青年はそう教え、自分はまた外へ出て行った。床はコンクリートでひんやりしている。右隅に浴室があるようだった。
教えられたドアを入ると、ごつい板で作った細長いテーブルが置いてあり、折りたたみ式のパイプ椅子《いす》が並べてあって、その先にでかいストーブがある。ストーブから出た煙突が天井を這《は》って窓を突き抜けている。ダイニング・キッチンと言いたいが、そんなモダンな風情《ふぜい》はない。台所の隅であわただしく飯をかきこむ運転手たちの姿が目に泛《うか》ぶようだ。
歌子と松井が料理をしている。ストーブのまわりに年配の男が三人いて、大倉たちを見ると椅子から立った。三人ともポケットから名刺を出そうとしているようだ。歌子は振り返り、白いタオルで手を拭《ふ》きながらまずその三人に言った。
「この人たちに名刺なんか出したって意味ないわ。大きいほうが大倉さん。その人がジャン。ジャンでいいわよね?」「名前なんか好きなように呼んでくれよ」ジャンはにこやかに言った。
「実はわたくし、国会議員の市川信行の伯父《おじ》に当たる者でして」
三人の中の一人で、八十近い老人がおずおずと言った。
「儀一さん。その人たちおなかがすいてるのよ。食べながら話して」歌子はテキパキと言い、まずテーブルの上へ大きな皿《さら》にのせたでかいステーキを二人分出した。松井がナイフとフォークをそのそばへ置きに来る。「ここらじゃ魚ばかり食べさせられるから」歌子は楽しそうだ。中くらいの大きさのジョッキーに白い飲物を満たしてテーブルの向こうからそれを二人の皿の前へ置いた。「ミルクよ。どぶろくだと思った?」そして三人の地元の連中に向かっては、「この人たちは大酒飲みなの。でも今は仕事中」と笑顔で言う。
大倉とジャンはナイフとフォークを取った。「失礼しますよ」大倉は男たちに言って肉を切りはじめる。
歌子は薄切りのガーリックをパリパリに焼いたのを皿の中にごっそり盛って二人の間に置き、ほかにもう一皿、ストーブのそばにいる男たちのほうへ持って行った。「儀一さん、よかったら飲みなさいよ。これはおつまみ」「酒、あるのかね」「清酒、焼酎《しようちゆう》、国産のウイスキー。それくらいのものね」歌子は台所の棚《たな》を見て答えた。「じゃあ日本酒コップで」「いいわよ」
大倉とジャンはステーキを食べながら顔を見合せた。「旨《うま》いな」ジャンが言う。歌子は男たちに清酒をついだグラスを配り、一升|瓶《びん》をテーブルの端に置いた。「俺《おれ》、運転ですから」「それじゃコーラがあったから」歌子はそう言うとその男に缶コーラと新しいグラスを渡し、自分は大倉の正面に坐《すわ》って、余分になった清酒のグラスを持ち、二人が食べるのを少しの間見ていたが、グラスをあげたかと思うと半分ほど一気に飲み、茶色く焼けたガーリックに手をのばした。「ちゃんと焼けてるわ。儀一さんも食べてみて」老人はそう言われて一枚つまみ、「うまいもんだね。油で揚げたのかい」と言った。「凄《すご》いでしょ、この人の食べっぷりは」「いい体をしてなさるから」「放っとくと牛一頭まるごと食べるのよ」老人は笑った。「おかわりは用意してあるわよ」「君らは……」「着いてすぐすませちゃったの」「じゃあもう一枚焼いてよ」ジャンが言った。「一枚だけだよ。この旦那の分だけでいい」歌子は立ちあがる。「一枚四百グラムよ」儀一という老人が仲間と顔を見合せる。「じゃ八百だ」大倉は歌子を見たが、歌子は彼に背中を向けていた。
「君らのしたことには三つの区切りがある」大倉は最初のステーキを食べおわり、ミルクをひと口飲んで言った。
「ひと幕目では君らだけだった。チュプカと連絡がとれて、向こうにいる邦人と関係の深い真琴内の漁港が中心となり、救援物資を用意するために鷲尾英二郎が乗り出した。この時点ではソ連側も日本側も気づいていない」歌子は仕事が手早いほうらしい。二枚目のステーキが大倉の皿の上へ無造作に乗せられた。ジャンは食べおわってミルクを飲んでいる。
「二幕目は日本側がそれに気づいたところからはじまる。チュプカに対する君らの活動を国側が極秘でバックアップしはじめた。そのかわりチュプカの船と接触しに行く君らの船には、特別な立場の人間が何人か乗って行くことになったのだろう。船の一部に何かの機器が隠されたかも知れない」
儀一という老人が頷《うなず》いた。「その通りです」大倉はそれを無視して続ける。
「二幕目は日本側が気づいてソ連側はまだ知らなかった。その第二幕がはじまったのは、多分市川信行氏のせいだ」「弟の長男です」儀一老人がすまなそうに言う。
「三幕目。混乱はそこで起こった。日本側はソ連がチュプカの件にまだ気づいていないと思い込んでいた。日本の情報機関の甘さだな。ソ連の国内に対する管理体制というのはそんな生ぬるいもんじゃない。恐らくかなり早い時期に、サハリンのチュプカの村……ペンケ・コタンと言うんでしたな。そのペンケ・コタンは厳重な監視下に置かれてしまったと俺《おれ》は思う」「すると儂《わし》らは無駄な援助をしていたわけですか」「恐らくそうでしょう」「なんてことだ。鷲尾は身上《しんしよう》を全部入れあげたっていうのに」「チュプカの男たちはそれでも海へ出た。家族を人質にされてしまったのでしょう。チュプカは君らをあざむくことを余儀なくされた。同時に東京からソ連側の組織が動きはじめ、最北運輸が真琴内に搬入する物資の中に、あの国が欲しがっている電子製品などが紛《まぎ》れ込むようになった。そのことに気づいたのは日本政府ではなく、アメリカの情報機関だった。実際の第三幕はそうしてはじまったのだ。アメリカ側は日本がチュプカと接触して北の海の情報をとっていることを黙認していたのだと思う。しかしアメリカの宇宙防衛計画に必要とする最高級のハイテク製品が、北からソ連へ流出しているとなれば、連中は黙ってはいない。すぐその北方ルートを叩《たた》き潰《つぶ》せと、強い抗議と要求が日本に突きつけられた。第三幕目は短いでしょう。その港は悲しい目にあうかも知れない」
大倉は二枚目のステーキを食べながら老人たちに説明した。
「儂《わし》ら、どうしたらいいでしょうか」儀一老人は怯《おび》えていた。「あなたがたは関係ないですよ。もう手を引いて自分たちの生活を続ければいいんです。あとでこれまでの経過くらいは調べに来るでしょうが、俺に言わせればあんたがたは何も悪いことはしていない。はじめのころはとにかく、二幕目あたりからは、ソ連側はこっちの密漁船を歓迎していたんですからね。あんたがたの動きに便乗する形で、ほかの密漁船の動きが活溌《かつぱつ》になったのはそのころからでしょう。漁獲量が多いから密漁の仲間が増え、陸《おか》の暴力団がそれにとりついて組織ができあがった」
儀一老人は悲しそうな顔で連れの男たちを見た。三人とも似たような顔だちのところを見ると、一族なのだろう。
「あの遭難事故のとき、もっと注意しとればよかったんだ」儀一老人は悲痛な声で言った。
「遭難? なんのことです」「二年半ほど前、盛行丸《せいこうまる》というのがたいした時化《しけ》でもないのに転覆事故を起こしたのです。そのとき三人死にまして……真琴内の頼りになる男たちでしたが」殺《け》されたのだ、と大倉は思った。
歌子は残りの酒を飲みほした。「これからどうするの?」大倉は珍しく戸惑ったように歌子から目をそらせた。「俺には結果を見届けて報告する義務がある。真琴内へは行く。しかしもう君らは近寄るな。行くな」「それ、命令なの?」「そう思ってもいい」歌子の目が光った。「そんなに危険?」「ああ。向こうの特殊部隊が来ている可能性がある」ジャンが口笛を吹いた。「スペッナズか?」「スペッナズってなんなの?」「アメリカのグリーン・ベレーなんかよりずっと凄《すご》い奴《やつ》らだ。ご免蒙《こうむ》るね、俺は。そんな奴らとぶつかったら死ぬだけだ。日本のレンジャーが束《たば》になったって勝てるかどうか」「一人も帰さんつもりらしい。捕虜も作らんそうだ」ジャンは首をすくめた。「あそこにいる人たちはどうなるの?」大倉に歌子が刺すような声で訊《き》いた。「さっき救出の要請はしておいた」「当てになるの、それは」「判《わか》らん。俺たちはそれをたしかめに行く」「ジャン。この人また危ないことをする気よ」
あんたは死にたがってる、という歌子の言葉が大倉の心によみがえって来た。
「俺は見に行くだけだ」大倉は怒気を含んだ声で歌子に言った。歌子は怯《おび》えた目で大倉をみつめる。大倉の声は低く太く、彼女の体の芯《しん》を震えさせたようだった。
ガタン、とドアがあいて男が入って来た。息を切らせている。
「楡《にれ》商会の連中が花咲港で第八大進丸に荷を積み込んでいます。様子がおかしい」「どうおかしいの?」歌子がきつい声で早口に尋ねる。「変な連中がかくれているんです」「どんな連中だ?」大倉は立ちあがった。「みんな似たようなジャンパーを着て、背の高さも似たり寄ったり」大倉はジャンを見てニヤリとした。「やるな、あの男」西村のことを言ったのだ。「騒ぎがはじまった。みなさんは引きあげたほうがいい。これは国と国の喧嘩《けんか》だ。あんたがたが気を揉《も》んでもはじまらん」儀一老人たちは立ちあがり、ストーブのそばを離れた。
「ひとこと聞いてください」
儀一老人が言った。「儂《わし》ら漁師です。密漁船の連中も漁師です。儂ら、あいつらのことを本当は悪く思っていないのですよ。スケトウだって羅臼《らうす》あたりで、当たれば百億円もの水揚げになることもあるんです。漁港がさびれるのは国同士が勝手に引いた海の上の線のせいなのです。儂ら、沖で魚を追うときには、国のことも家族のこともありはせんのです。男。みんな男になってしまうのです。相手は海と魚だけになってしまうのです。漁師というのはそういうもんです。港へ戻って魚を揚げたら、酒を飲んでまた翌朝は海。家族を養うのは陸《おか》へあげた魚なんで、儂ら漁師は魚を追って海を走るだけです。国と国の間のことなど知りはせんのです。何が秘密のものか、見たって判りゃせんのです。上の人らにそれを判らせてもらえませんか。魚には国境などないのですよ」
大倉は老人に優しく言った。
「俺も似たようなもんです。ハンターの性分でね。どっちの国の役人にも、その気持が判るといいんですが」
歌子が言った。
「うちへ帰るのよ、儀一さん」「ああ、そうするよ」三人は建物の正面から出て行き、すぐクラウンがガレージから走り去った。歌子は台所の火を消してまわる。
「あんたがたはここにいて。あたしはこの人たちと行って来るから」
歌子はミンクのコートを左腕にかかえた。大倉とジャンはボストンバッグとゴルフクラブの箱を持って外へ出た。
「一つの漁協で百億円もの水揚げがあるなんて本当かい?」ジャンが車に入ってから言った。大倉はうしろの床に坐《すわ》りこみ、歌子は前のシートでコートを羽織《はお》っている。「本当よ。その反対に根室のような北洋漁業の基地は、ソ連との漁業交渉が難航すると、かんたんにそのくらいの損失を出してしまうの。密漁船を悪く言えない理由が判《わか》るでしょ?」
ランクルがガレージを出る。すぐメインストリートへ出て坂を登り、国道を突っ切ってホテルの前を通りすぎる。「これが花咲町通りよ。このまままっすぐに花咲港へ入るの」
花咲港まではほんのひと走りだった。郵便局の前で右折し、ちょっとの間少し細い道を走ったと思ったら、すぐ広い道へ出た。花咲港・海岸通り。それを港ぞいに西へ走る。もう行き交う車もない。
前方で赤色灯が回転している。近づくと警察の車ではなく、黄色く塗った港湾局の車だった。ブルドーザーが二台、道を塞《ふさ》いでいる。通行止めの工事用の柵《さく》が置いてあった。白いヘルメットをかぶった二人の男が、ランプを手に近寄って来る。大倉は車からおりた。
「すみません。この先で工事をしていますので」大倉はその二人にみあげられている。
「俺たちは攻撃には加わらん」大倉はいきなり言った。「身分を証明するものは何もない」大倉はコートのベルトを解き、ボタンを外した。上着をひろげて見せる。ヘルメットの男は一瞬あとずさる。「証明するものはこれだけだ。米軍の要請で君らの処理状況を視察させてもらう。連絡したまえ」一人が素早く自分たちの車へ走った。もう一人は拳銃《けんじゆう》をとり出していたが、顎《あご》をしゃくって大倉をランクルのほうへ戻らせ、別に銃口を向ける様子もなく、歌子の側の窓へ近づいた。ジャンはいつの間にかゴルフクラブの箱からファイアマンを出して両手に持ち、ルームランプをつけてニヤニヤしていた。でかい身分証だ。港湾局の車から男が戻って来る。
「西村参事官のルームナンバーを言ってください」「450」「結構です。お通りください」ヘルメットの男たちは、大倉が右手をあげて指先をベレーのヘリにつける形をとると、反射的にキビキビとした敬礼を返した。
「北海道のレンジャーは、そのうち白いベレーをかぶるようになるかもしれないわね」「ホワイト・ベレーか?」ジャンと歌子が冗談を言う。ブルドーザーが道をあけ、ヘルメット男が柵《さく》を動かした。
「まったく平和な国だ。アメリカでもヨーロッパでも、こんなときはいきなり射って来てもふしぎではないのにな」「伝統なのよ。太閤《たいこう》の刀狩り以来のね」歌子は意外な言い方をした。
「なんだ、それ?」ジャンには通じないようだ。
そこは山側に水産会社の建物がある前で、先へ行くと幌《ほろ》つきのトラックがまばらにとめてある。ひとけはない。
「楡《にれ》商会の出張所は汚水処理場のそばよ」
歌子がそう教えたとき、道の中央でライトを振っている姿が見えた。左へ行けと指示している。ランクルは指示通りに左折し、港の中の道路へ入った。左と前に海。またライトが振られ、停車を命じられた。
そこに車をとめ、ジャンがライトを消して一分もしないうち、すぐ左前方で爆発音が起きた。防波堤を背景に一九トンタイプのありふれた小型漁船が火の中に浮かびあがった。船首は明らかに港の出口に向いている。どういう仕掛けをされたのか、船の形が見えたのは僅《わず》かな間で、すぐ船体すべてが炎に包まれて激しく燃えている。「あのやり方は沈ませないやり方だ。積荷の残骸《ざんがい》は全部残ってしまう。あとでじっくり調べることができるのさ」ジャンが歌子に言い、ファイアマンをうしろの大倉に渡した。
その炎に見とれていると、今度は右手のほうで何か音がした。「出張所がやられてるわ」歌子が言った。車のヘッドライトが幾つか動きだした。港の中の道路を乗用車が突っ走って来る。
まったく無造作に、突然大型トラックがライトをつけてその道へ出て行った。そしてまったく無造作にその乗用車の正面へ向かい、相手のスピードをしっかりと受けとめた。すさまじい音がして乗用車が短くなった。火を発することなく、トラックのライトも消え、正面衝突した二台は闇《やみ》の中にうずくまっている。
トン。とランクルのうしろのドアをノックする音がした。窓の外に丸っこい顔がのぞいている。
「ほう……」大倉はうしろのドアをあけてやった。小男だった。きちんとした服を着ている。「林君か」「森だよ」「こんな所へなんの用だ」「仕事だ」「コートもなしでか」すると小男はさっと自動拳銃を構え、大倉に突きつけた。「車を出せ。ここから出るんだ。しばらく死体を乗せて走ってもかまわないんだぜ」「お前か? 谷岡に知らせたり漁民を煽《あお》ったりしたのは」「お前らだってクロフォードの手下じゃないか。車を出せよ。何かすればこいつが死ぬ」
歌子がミラーを見ながら言った。「ぶん撲《なぐ》ってやりなさいよ。そんなチビ助」「黙れ」森が喚《わめ》いた。「女はおりろ」「寒いわよ、外は」「おりて大倉と入れかわるんだ」「あらそう? あたしはうしろへ行くの?」「そうだ」「じゃ、そうしましょう」歌子はドアをあけ、車を出た。羽織《はお》っていたコートの袖《そで》に手を通している。森は大倉のうしろへまわり、しっかりと銃口を押しつけた。「前へ行け。へたな細工をすると死ぬだけだ」大倉はシートの間から前の席へ移った。森は大倉の後頭部に銃口を当て、片手でうしろのドアをあけた。「女、乗れ」「はいはい。チビだけどなかなかやるわね、あんた」
歌子は車へ入った。「そいつのうしろへ行け」森は歌子をジャンのうしろにしゃがませて、三人を扱い易《やす》いようにまとめたつもりだったらしい。「女。まず前の奴《やつ》から銃をとれ。こっちへ寄越すんだ」「彼は持ってないわ。その人は二|挺《ちよう》持ってるけど」森はまた左手をのばしてうしろのドアをしめようとした。
ポッ、という音がした。座ぶとんにパチンコの玉を思い切り投げつけたらそんな音がするだろう。ドアをしめようと左手をのばした森が、車の外へころげ落ちた。ジャンは車をスタートさせた。歌子が前のシートの背につかまりながらドアをしめた。
「ラシアンブルーシルバーフォックスよ、このコート。ちょっと焦《こ》げちゃった」「いくらだった?」大倉が訊《き》く。「六百万」
歌子は長いサイレンサーつきの銃を右手に持って、銃口のにおいを嗅《か》いでいた。
11
歌子はそのままホテルへついて来た。勝手にフロントへ行ってひと部屋とり、大倉にその部屋へ寄ってくれと言った。大倉はジャンにボストンバッグを渡し、歌子の部屋へ入った。
「もうやめましょうよ、こんなこと」先に入った歌子はコートを着たままそう言うと振り返った。泣いている。「人を殺したわ、あたし」「死んではいないさ」歌子はコートの裏に縫いつけた特製の細長いポケットから、ハイスタンダード・モデルBを引き抜いてベッドの上に投げた。「22口径だ。あいつは小心な男らしかったからそれだけにすぐ射つ。俺は本当に危なかったんだよ」
歌子はコートを脱いで銃の上へ放った。「何もかも無駄になったわ」窓へ寄り、カーテンを引きあける。建物の屋根と庭と道路が白く、あとは黒かった。
「君がすることはまだ残っている」歌子がさっと振り向いた。窓を背に、目には怒りの光と涙の潤《うるお》いがあった。「何があるっていうのよ」「牧場を続けろ」「なんでよ。もう牧場なんてなんの意味もないわ」「ある」大倉は叱《しか》りつけるように言った。「あなたが来てくれるというの?」「真琴内の人間をあの牧場で使ってやることにならんか?」「嫌《いや》よ。もし港《トマリ》にいられなくなった人が出たって、あたしとはもう関係ない」「銀座へ戻るわけにも行かんだろう」「負けたのよ。あたしは負けたの。チュプカを助けようとしたけど、全部裏目に出ちゃったわ。人を射ったのよ、このあたしが」歌子はヒステリックに言い、ベッドの上のコートを引きはぐようにして、その下の銃を取ろうとした。
大倉が素早く動いて歌子のそばへ行き、銃を把《つか》んだ歌子の手からそれをもぎ取った。「痛《いた》……。痛いわよ」歌子が大倉をみあげた。大倉は微笑していた。
「こんな俺《おれ》でさえまだ夢はある」
歌子は大倉をみつめている。
「そのうち子供たちに会えるはずだ。きっと会えると思っている」
「それがあなたの夢?」
大倉は頷《うなず》いた。
「俺は死にたがっている奴をたくさん見て来た。スパイなんてたいていそんなもんだ。何かにはまりこんでぬけ出せなくなり、仕方なくそのまま生きている。自分が嫌で結着をつけたがっている。俺はふしぎに思った。こいつらなぜ死なんのだろうとな。だがこの冷たい土地へ来て判《わか》った。いつか息子に会える……そんなちっぽけな夢でさえ、人間を生かし続けておけるんだ。北海道へ来てから、俺は風景画ばかり描いていた。だが、どの絵にも最後は子供を描き入れてしまう。俺の子供をな。ばかなことだが結局そのために気に入った風景を探してコツコツと描いていたようなもんだ」
「一番気に入ったところは?」
「去年|富良野《ふらの》で高校生たちに会った。六月だったかな。ラヴェンダーの畑の道を歩いていた。絵は描かなかったが、それ以来あそこを息子と歩いている夢を見るんだ」「あなたの絵、見たい」「見せてやる」「行ってもいいの?」「ああ歓迎するよ。新冠《にいかつぷ》と苫小牧《とまこまい》だ。今まで行き来をしなかったのがふしぎさ」
歌子は大倉のそばを離れ、ソファーに思い切りよく腰をおろした。「なだめられちゃったわ」「落ちついたか、いくらか」歌子は微笑した。「行っていいわ。あたし眠る」
「なんだ、もう来たのか?」ジャンはバスルームへ戻りながら言った。バスタオルと銃を手にしてドアをあけたのだ。素っ裸だった。
大倉はコートを脱《ぬ》いで奥の部屋の衣裳棚《いしようだな》にあるハンガーにかけた。ベレーと上着も脱いだ。一|挺《ちよう》はベルト、一挺はショルダーホルスターに収めたまま居間のソファーに腰をおろし、タバコを喫《す》いはじめる。考え込んでいる。
河上夫人が癌《がん》で死んだ。
ミスター・オールドリッチからの伝言だ。死んだのは四か月前だという。大倉はその女性が病気であったことさえ知らない。喉頭癌《こうとうがん》だという。相当長い期間病床にあったのではないだろうか。
ミスター・オールドリッチ。西村はそれを大倉にしか通じない暗号だと思ったに違いない。だがその伝言に裏の意味はまったくなかった。河上|恭介《きようすけ》。四十三歳……のはずだ。はっきりした記憶ではない。高級雑貨を専門に扱う貿易商の専務取締役だということを聞いている。大倉は唇を歪《ゆが》めた。本人は気づいていないが。
再婚の条件は整った。香織には幸福な主婦になるチャンスがめぐって来ている。もう十年ごしの交際なのだから。あと一年か二年。しかし、二人は再婚するだろうか。河上夫人が死んで、かえって関係が冷えてしまう男女がある。どうするのだ、香織。俺の償《つぐな》いをおわらせるのか。それとも俺を許してうけ入れるのか。大倉が唇を歪めたわけはそのことだった。
ひとり暮らしに慣れてしまった男。その日暮らしが身についてしまった男。獲物を追って歩き続けていたい男。凍《い》てつく大地と吹きつける風雪の音を、自分の歌のように思いはじめた男。消えてしまえばみんながほっとする男。
本当に俺はそんな男か?
大倉は心の中で自分に大声で問いかけているようだった。
「今夜は向こうでお泊まりかと思ったよ」ジャンがバスタオルで髪を拭《ふ》きながら居間へ入って来た。腹と胸と背中に八か所の創痕《そうこん》。みんな深くて長い。アラブ人四人につかまって斬《き》りきざまれたのだ。その四人を射ち殺したのは大倉だった。ジャンはそこで命を失ったはずだった。原因がばかげている。彼らの一人の妹をベッドへ誘ったのだ。ジャンは任務遂行中敵にとらわれたことになって病院から出て来た。大倉はジャンの命を救ったことを貸しとは考えていない。しかしもっと大きな貸しがあると思っている。四人分の命だ。大倉は無駄にその命を奪う羽目になった。しかしジャンは命を救われたことを借りにしている。彼にとって大倉が背負った四人殺しは勘定に入っていない。ジャンと大倉の間の微妙なズレだ。
「なん時に出る?」「あんたがきめろよ。それより俺は少し飲むようにすすめたいね。以前のようにシャキッとしていない。あのチビのことだってそうだ。女に射たせるなよな」「引退したのを引っぱり出す奴《やつ》が悪い」「出て来たものしようがないじゃないか」「これがおわったらどうする?」「南米だ。俺のツラは南米向きだとさ」「足を洗ったらどうだ?」「俺に何ができる?」「考えてやるよ。カウボーイはどうだ」ジャンは笑ってとりあわない。「北海道はどうだ。気に入ったか?」「ほかの季節は知らないが、このコチコチの道は気に入ったね。ひところがりごとが命がけだ。急ブレーキだめ、急ハンドルだめ。スリルあるぜ」「今度のことで、北海道に|対 情 報 工 作《カウンター・インテリジエンス》の本格的なエージェントが必要になった。推薦してもいいぜ」「面白そうだな」ジャンは興味を示した。「やるのかい?」「俺はもう引退さ。これっきりだ」「じゃ指令者《コントロール》はどんな奴だい?」「知らんよ。まだそこまできまっちゃいなかろう」「組む相手によってはやってもいいな」「それなら推薦しよう。ただし条件がある」「どんな?」「俺を巻き込むな」ジャンは苦笑する。「あんたがMで、俺がダブルオーセブンならいいのに」「ばかやろ」大倉は苦笑した。
ノックの音。ジャンがさっと銃を把《つか》んだ。ドアのそばへ行き、バスルームへ半分体を入れて、「どなた?」と訊《き》く。「あたしよ」歌子の声だ。「連れがいたらドアを蹴っとばせ」ドン、とドアを蹴る音がした。ジャンは笑いながらドアをあけた。「風邪《かぜ》ひくわよ」歌子が入って来て、ジャンがドアをしめた。
アイスペールとヘネシーをぶらさげている。スリースターだった。「つき合ってよ」歌子は持って来たアイスペールとボトルをテーブルの上に置く。大倉が笑った。アイスペールの氷の中に、ハイスタンダード・モデルBが突っ込んである。「俺、いま先輩に少し飲んだほうがいいと忠告してたんだ。気持が通じたね」「何か着て来なさいよ」「はいはい」「それからボーイさん、グラスがそこらにあるでしょ」「せめて店長くらいにしてもらえないかな」「冷蔵庫みて……つまみくらい入ってるでしょ?」「あ、いけねえ。バンパーにソーセージを二本くくりつけたまんまだ」大倉もすっかり忘れていて、ジャンの言葉でそれを思い出し、失笑した。「はいグラス」歌子がついだ。大倉と自分のと。ジャンのはない。「一杯くらいいいだろ」「一杯だけよ」歌子は三つめのグラスにもブランデーをついだ。「あのチビ、ドアを左手でしめようとしてた。マダムは22口径でそれを射った。右からだ。あいてはちょっと血を出しただけだよ」ジャンはそう言って浴衣《ゆかた》の紐《ひも》をしめ、グラスをとった。
「なんだか知らねえけど、とにかく乾杯」
ジャンが言い、三人は飲んだ。
「ソーセージはうちのガレージで預かるわ」
歌子が言いだした。「なぜだ」「うちのトラックで行って。もしどうしても行くなら。松井たちも一緒に行くから」「君らは行くことはない」大倉は厳しい声で言う。「ダメよ、あのランクルじゃ。うちの連中がいま中に鉄板をはってるわ。5ミリよ。いくらか違うでしょ。それに道を塞《ふさ》がれたときスノーモビルが要るでしょう。ランクルじゃあれを二台も積めやしないしね」
大倉は考え込み、ジャンはすぐ同意した。
「そいつはいいや。スノーモビルは四台積んであったな」「トラックのドライバーとで五人。六人でもちょうどよ」「よし」大倉は立ちあがり、寝室へ行った。電話をかけている。
「連絡した。出発は八時にして欲しいそうだ。道路封鎖をやる気らしい。ほかに最北運輸のトラックは行かんだろうな?」「ええ」「ガレージの連中に言ってくれないか。ランクルのバンパーに、ビニールで包んだソーセージが二本くくりつけてある、そいつをランクルからとって、トラックのドアに一本ずつ裸のまま落ちないようにしっかりぶらさげておいてくれるように」「どうするの、ソーセージなんか?」ジャンはケタケタと笑った。「ばかげてるが傑作だな、そいつは」大倉が歌子に言う。「目じるしだ。最北運輸とボデーに書いてあれば、どんな型のトラックでもフリーパスじゃにせ者を通してしまうかも知れない」「呆《あき》れた。そこまで用心深くないといけないの、あんたたちは?」「もうそう連絡してしまった。ソーセージなしでは通れない」ジャンがまたばか笑いをした。「ソーセージをぶらさげて走る車なんてあるわけないもんな。誰《だれ》だって思いつきゃしないさ」
そのジャンは本当に一杯だけでベッドへ行った。
「待っていてくれ。よければこのホテルで」
歌子は三杯目をついでいる。
「耳ざわりのいい科白《せりふ》ね。もう一度聞きたいくらい」
大倉は答えない。
「待っていてくれ」
歌子が静かに言う。
「意味はどうあろうと、そんな言葉を男から言われるなんて……もう思ってもいなかったわ」
「やりたい仕事が残っている」
歌子がまたきつい表情になった。
「まだやり足らないの?」「子供が港《トマリ》にいる。正確な人数は知らんが十人かそこらだろう」「ええいるわよ」「このところ学校へ行っていない」「全員?」「そうだ。港《トマリ》が厳戒態勢に入った証拠だが、人質に使われそうだとは思わないか?」今度は歌子が答えない。「俺とジャンの今度の仕事は一部始終を見届けて報告することだ。こいつは国と国との問題で、世間一般の常識は通用しない。最悪の場合はすべての証拠が抹殺《まつさつ》される。人間を含めてな」「まさかそんな」「いや、そういう世界なんだよ。しかし俺とジャンはさいわい日本の政府にとってはあまり楽しくない存在になっている。アメリカの政府要人の目玉のかわりをつとめるんだ。俺たちがいる限り、子供を犠牲《ぎせい》にはできないはずだ。少なくともためらいはする」歌子は静かに泣きはじめた。「なんて残酷なことをあたしに言うのよ」
大倉はバスルームへ行く歌子を見送っていた。歌子はタオルを持って戻って来た。元通りに坐《すわ》り、タオルを握りしめている。
「向こうが人質にして港にたてこもったらどうなるの? もし証拠を消すために最悪の手段をとるときまったら? あなた、出て行く気でしょう。立派な理由をみつけたわね。あなた、自分の子供たちに憎まれたんでしょう。捨てたと言って……」
大倉は答えない。
「北の涯《は》てで償いをするつもりね」
歌子の涙はとまらなくなった。
「いいわよ、やりなさいよ。あたし……あたしからもお願いするわ。しなくちゃいけないんだわ。この薄ぎたないスパイ野郎。子供たちを助けてよ。プロなんでしょう? どこで死んでもいい命なんでしょう? 死に場所を探してたんでしょう? あたしにも責任があるのよ。鷲尾《わしお》牧場にもね。子供たちを助けるためなら、あんたなんか死んじゃったっていい」
「そんなケースになるときまったわけじゃない」
「もちろんよ。そんなことされてたまるもんですか。でも問題は別よ。あなたが死んでもかまわないと本気で言うあたしの立場を考えてよ。恋人でもなし、亭主でもない。でもあたしにだってまだ人生の残りはあるのよ。希望を持ったわ、牧場へ現われたとき。でも死んでかまわない。もしそうなったら子供たちを助けてやって。あたしもあなたを失う理由があるんだから」
いつの間にかジャンが起き出していた。
「マダム。治郎さんが死ぬときまったわけじゃないぜ。子供たちだってもう避難しているかも知れない」
「そんなことじゃないのよ」
歌子は涙を拭《ふ》き、冷静な声で言った。
「万一の場合にもせよ、好きな男に死んでくれと頼まなければならない女のことを話してるのよ」
大倉が言った。
「このホテルで待っていてくれ。終ったらすぐ電話をする」
声は太く低く、どっしりとしていたが、その言葉は窓の外へ出すと、粉雪まじりの風にはかなく吹き飛んでしまいそうなほど軽かった。
12
根室《ねむろ》グランドホテル前をジャスト八時に彼らは出発した。ランクルは歌子のために正面玄関前の駐車場に置かれた。その辺りは官庁街と言ってよく、出勤する歩行者の数が多いのが、車社会化している北海道では、かえって都会の雰囲気をかもし出している。納沙布《のさつぷ》岬が日本最東端の岬だから、根室は日本で一番東に位置する市ということになるはずだが、市街の形はよく整っている。市街のほぼ中央を貫通する国道44号線はまっすぐで、海側への道はみな下り坂である。運転は松井で、ジャンが中央、大倉が左に坐《すわ》り、鷲尾牧場の三人はうしろだ。スノーモビルを四台積み、内側に五ミリの鉄板を張って装甲を強化してあった。運転席とうしろの男たちとの間にはインターフォンをとりつけ、スイッチを入れっぱなしにして双方の会話が聞こえるようにしてある。無線機と長い銃は運転席の背後の寝棚《ねだな》で、拳銃《けんじゆう》は全員が身につけた。
「マダム、見送りに出てくれなかったな」ジャンが走りはじめてすぐそう言った。「そういうの、好きじゃないんですよ」松井が笑って答える。「ウエットな人じゃないですからね」「牧場じゃ厳しいか?」「奇麗《きれい》好きでしてね。雪がとけたら一度いらっしゃいよ。公園か遊園地みたいだから」インターフォンから荒い声が流れる。「料理が上手だよ。えらい手のかかった料理を食わしてくれるんだ」ジャンは大倉を左の肘《ひじ》で軽く小突いた。「最高じゃないか、そういう人のご亭主は」大倉は「ワインが好きなはずだが」と言った。出勤時間なのに車の数が多くない。やはり行きどまりの町だからだろう。「奥さんが牧場へ来てすぐ、ワインの倉庫みたいのを作りましたよ。半地下式のね。温度のことで苦労しました。普通にやると冷えすぎちゃうんでね」松井が言い、「十四度」とうしろからの声がつけ加えた。
トラックはきのう来た道を戻っている。「朝刊にはやくざの抗争事件だなんて書いてありましたね。地元紙だけだったけど」松井がそう言うのを聞き流し、ジャンはしみじみと道路を見ている。「ここらは乗用車の似合う道じゃないんだな。ポルシェやフェラリなんかが走っても似合いそうもないや」「まわりの景色がごついですからね」松井もそれには同感らしい。
「温根沼《おんねとう》か。あ、熊《くま》出没注意だとさ」ジャンはよろこんでいる。「すぐに右側が風蓮《ふうれん》湖になります」「外にソーセージなんかぶらさげてたら、熊が寄って来るかな」「妙な目じるしを考えたもんですね。なんでランクルのバンパーにあんなものをくくりつけたんです?」「車の中じゃ暖かくてイカレちゃうじゃないか。非常用の食料のつもりだったからね」「あ、そうか。でも笑っちゃいましたよ。ドアにリングをとりつけるのには手間どりましたけどね。トラックは荷台に置いとけば腐り易いものは安心だけど、ワンボックスの車じゃ冷えるところがないですからね」またうしろから声がある。「そういうのを作って売ろうぜ。きっと売れるよ。でもこっちは冷え切ってる」「辛抱しろ」松井は笑っていた。
雪がまた少し強く降りだした。風も強まっている。この辺の雪は静かに降り積もるということを知らないらしい。風と一緒に吹き荒れて大地を駆けめぐる感じだ。
きのう釧路の部隊と別れた厚床《あつとこ》の三叉路《さんさろ》へ来た。標津《しべつ》へ五八キロの表示があった。「243号線か。バント失敗のゲッツーか」「なんです、それ?」「キャッチャーが拾って二塁フォースアウト、一塁へ送ってダブルプレー」うしろで笑っている。
一〇キロほどで別海《べつかい》、弟子屈《てしかが》方面への分岐点へ出た。「横綱|大鵬《たいほう》の出身地ですよ」松井が教えた。「弟子《でし》が屈《かが》むか。横綱になるわけだ」ジャンはばかに陽気だった。直進すると244号線になる。別の名は野付《のつけ》国道。海ぞいの道だ。対向車がほとんどない。吹雪《ふぶ》いて来たが道路は直線で車が少ない上に、トラックで視点が高いからわりと気楽に走っていられる。道路の右百メートル足らずで波が牙《きば》をむいている。従って道路ぞいには民家もまばらだ。小さな船が岸に引きあげられていたりするところを見ると漁民の家なのだろう。そんな家が集落を作っていても、海岸ぞいに一列に並んでおり、裏庭に相当する土地はみな海へ突き抜けている。「ワイアライあたりなら大金持だぜ」ジャンはそれを見て満更《まんざら》冗談でもなさそうに言った。あまり大きくはないが、道はよく川を渡る。橋の上から見ると、川口に漁協の小屋などがあって、明らかに鮭《さけ》の遡上《そじよう》をブロックする構えの川と、そうでない川がある。ジャンはそのことで松井に尋ねたが、松井もうしろの連中も理由はよく判《わか》らないようだった。
「野付半島か?」ジャンが言った。「そうです」「長いな」「細長いんです。人は住んでいません。番小屋《ばんごや》があるだけです」「番小屋って、漁をする時の?」「ええ」大倉が地図を見ながらジャンに注意した。「現場は近いぞ」ジャンは意外そうだった。「もうかい?」「あの半島のつけ根が標津《しべつ》だ。あと一四キロだ」「尾岱沼《おだいとう》か」ジャンは標識を読んだ。「トウはアイヌ語で沼のことだそうですよ」そう言う松井も表情が引きしまって来ている。「まったく北海道の地名はおかしなのがあるよ。ゆうべ地図を見てたら於尋麻布《おたずねまつぷ》なんてところがあってびっくりした。地図《マツプ》にお尋《たず》ねってわけだもんな。理屈が通りすぎてる」ジャンはまた軽口を叩《たた》いたが、うしろからもなんの反応もない。
「国後《クナシリ》が見えてますよ」松井がジャンに注意をうながした。雪の彼方にぼんやりと黒いかたまりがある。「でかいじゃないか。あんなでかい島だったのか?」ジャンは驚いたようだ。
「部隊がいるぞ」大倉は野付半島のつけ根へ近づくとそう言った。細い半島へ入る道をすぐ入ったところに、軍用トラックが二、三十台かたまっている。その先に信号機があり、警察のバンが一台とパトカーが二台、赤色灯をつけてとまっていた。先行車がないので彼らのトラックはいきなり警官たちのそばへ行き、停車を命じられた。
「どちらまで?」
交通係の腕章をつけた若い警官が言う。
「知床《しれとこ》です」「道路崩壊があって通行不能です」「困ったな」松井は生真面目な態度で言った。そのとき警察のバンのかげから自衛隊員が二人現われて、警官に手を振って見せた。警官はパトカーのほうへ去る。一曹と准尉《じゆんい》だった。「これはなんですか?」松井の側のドアにぶらさげてあるソーセージにさわって見ている。「ソーセージですよ」「ソーセージね」一曹のほうが妙な表情で准尉を見た。准尉が頷《うなず》くと、その一曹は右手を振って行けと合図した。「ハムだったら逮捕されたかな」ジャンが言い、松井が失笑する。
「すぐまた検問があるはずだ。五キロ先で244号は右へ入る。いよいよ国後《クナシリ》国道だ」大倉がそう言った。
「大倉さんにちょっと尋ねたいんですが」松井が言う。「なんだい」「ゆうべ話に聞いたら、大倉さんたちは苫小牧港のはずれでやくざに出会ったそうですね」「ああ」「いきなりその連中の車を射ちまくったって本当ですか」「うん」「なぜですか。目立たないほうがいいお仕事なんでしょう?」「どの仕事にもそれなりのノウハウがある。世界中どこへ行っても、その土地のやくざなどには、こっちが危《ヤバ》い人間であることを早めに教えてやったほうがいいんだ。彼らとは無関係な立場でいながら、へたにさわるとケタ違いの暴れ方をする人間だということを早く教えるほうがいいんだ。所詮《しよせん》彼らは金がめあての連中だ。ただしそういう時も連中が他人に見られていないところでやらなければならない。面子《めんつ》があるし、土地の者に舐《な》められたら生活できないから、へたにやるとかえってムキになる。あの時は誰《だれ》も見ていなかったからいいチャンスだった」
松井が「なるほど、そういうもんですか」と感心していると、ジャンが喋《しやべ》りだした。「盗聴器を仕掛けられたような場合も、テレビ映画なんかじゃすぐに探し出して外しちまうだろう」「ええ」「あれもリアルじゃない」「どうすればいいんですか、そういうときは?」「盗聴してる奴《やつ》に挨拶《あいさつ》するのさ。よく聞こえてるかい、なんてね。俺は一度エロテープを聞かせてやったよ。ホテルの中だったけどな。おわったあとで、どうだ、興奮したかって言ってやった」「盗聴させて置くんですか? 判《わか》ってても」「そうさ。盗聴されてるのを相手が知ってると判れば、たとえ本当のことを喋ったって裏の意味を考えてしまうだろう。盗聴されているかどうか判らない場合でも、その可能性があったら奴らに挨拶して、のべつからかっていればいい。盗聴なんか別にこわいもんじゃない。素人《しろうと》さんに対しては有効だけどな」
松井はスピードを落とした。今度は大々的に警察と自衛隊が道路を封鎖している。双眼鏡を首から吊った三尉が、警官や隊員たちに見守られる中で、ちょっと気取った歩き方をしてトラックへ近づいて来た。
大倉の側の窓を叩《たた》いてあけさせ、ステップに足をかけて窓の中へ腕を入れ、体を支えると、「行ってください」と言って封鎖線の中央をあけるよう隊員たちに合図した。網走《あばしり》方面から来た車が何台かUターンしているのが見えた。松井は最徐行で自衛隊員たちの間を通過し、その三尉は途中でひょいと道路へおりた。大倉が敬礼を送ると、三尉とそのまわりの隊員たちもさっと敬礼を返した。
「この旦那、どう見たって将校だものな。また、そのベレーがきいてるよ」ジャンはぼやくように言った。
トラックはまたスピードをあげる。と言っても六〇キロの制限内だが。
「ここにも忠類《ちゆうるい》ってとこがあるぜ」ジャンは地名に興味を持ったようだ。道路は相変わらず海ぞいながら高みへ登っている。海面には定置線の浮標がつらなっているのが見えた。漁期は九月上旬からはじまって十二月中でおわるそうだ。国境とされる海峡の折半線は、標津《しべつ》あたりで僅《わず》か六キロだという。流氷が根室海峡へ侵入して来るのは二月だが、その流氷はすでにチュプカたちの操業海域に出はじめている。十二月末の真琴内からの出航が、この冬の最終便になる理由がそれなのだ。
「まったく車が通らないな」
大倉はそう言い、山側に注意を向けている。海側はほとんど断崖《だんがい》同然で、その斜面は原生林と言っていい。「連中がいるはずだけどな」ジャンも自衛隊の姿が見えないのをふしぎがっている。
「山側へ入る道はみんなまっすぐだ」
ジャンは驚嘆した。森の中を一直線の幅広い道が走っている。「この奥へ行ってみたいな」たしかにそんな誘惑を感じさせる、白く広い直線路だ。古多糠《こたぬか》、薫別《くんべつ》……その区間に山へ入る直線路がことに多い。
「待て。とめろ」
大倉が命じた。トラックは停車し、バックする。いったん下って橋を渡り、またすぐ登ったところに山へ入る直線路が西へ伸びていた。
「路面を見ろ」
大倉がジャンに言った。白い道に太いタイヤの跡がまだなまなましく残されている。
「かなりの数が通ったらしいな」「この奥に集結した部隊がいるはずだ」ジャンは無線機の電源をいれ、通信を傍受しようとするが、ひどい雑音だ。中波はガリガリという音を発し、短波ではザザーッという波動音が出る。「畜生、オブストラクションをやってやがる」強い妨害電波が出ているらしい。「どっち側の仕業《しわざ》かな」大倉は首を傾《かし》げていた。「どうする。この奥へ表敬訪問に行くかい?」ジャンが言う。「やめとこう。俺たちが通るのは判っているんだから、この先で待っている者がいるかも知れん」大倉は時計を見た。十時七分前だった。標津《しべつ》で一一〇キロくらいだったから、だいぶ慎重に走って来たわけだ。
「先へ行こう」
大倉が言い、トラックが走り出す。道が下りになるのはその先に橋があるという知らせのようなものだった。
「なんて読むんだ。この地名は?」ジャンが標識を見て言った。崎無異と書いてある。「サキナイ、だろう」大倉が言った。そこも漁港だ。この辺りは家がかたまっていればみな漁港だ。それもごくささやかな港である。また橋を渡り、登ってからしばらく直線の道が続いたと思ったら、また下って橋を渡った。植別《うえべつ》橋と、今度は読み違えのない文字が書いてあった。しかし、橋のそばに高いアンテナをたてた小型トラックとジープがいた。
「そろそろにぎやかになって来たな」ジャンはそう言い、うしろの連中に向かって「おい、前線へ近づいたぞ」と伝えた。
羅臼《らうす》町。
半島基部にある海別《かいべつ》岳から発するその川が、標津《しべつ》町と羅臼《らうす》町とを分けている。半島中央の峯々を結ぶ線のオホーツク海側は斜里《しやり》町だ。
羅臼《らうす》町は世帯数二千五百余、人口八千ほどだが、時には冬場三か月ほどの漁期内に百億円もの水揚げをする漁業力を持っている。ただし漁はバクチに似ているので、いつもそうとは限らないが。
「注意して進め。スピードを少し落としてな」
大倉がそう言うと、松井は「はいっ」と力をこめて答えた。
風と雪が強まっている。道路にところどころ吹《ふ》き溜《だ》まりができていて、その上を走り抜けると濛々《もうもう》と雪煙が立つ。
峰浜《みねはま》町を通り抜ける。この辺りは羅臼《らうす》町峰浜町などと、町の下にまた町をつける呼び方をする。字《あざ》というマイナーなイメージを避けたのだろうか。
海側に並ぶ家々は、沿道の一列だけである。家のうしろにもう一軒という形は見られない。それでも峰浜町には山側へ入る道路があり、その両側にも民家があった。町を流れる二本目の小川を渡ったところで道は左に曲がり、また登って行く。
「いた」
松井が高い声で言った。道路の左側に軍用|車輛《しやりよう》が長い列を作ってとまっている。
「こいつは本格的だ」
ジャンが言うまでもなく、ヘルメットに白いカバーをかけ、アイスホッケーのゴールキーパーがかぶるようなぶきみなブリザードマスクをかぶった白い戦闘服の隊員たちの姿が見え、64式小銃を持った隊員が四名、道路の中央に並んで大倉たちのトラックに銃口を向けている。
トラックはゆっくりとその前へ行って停《と》まった。
銃口を向けた兵士はそのまま動かない。
「誰《だれ》か来るまで待とう」
大倉がそう言い、三分間近くも銃口を向けられていた。やがて前方からジープがバックして来た。前進するのとさして変わらない見事なテクニックだ。マスクをしていない白い戦闘服の兵がさっと降りて、四人の兵に銃を引かせると、トラックへ近づいて来た。
大倉もドアをあけて外へ出た。相手の階級がまるで判《わか》らないが、防眩《ぼうげん》ゴーグルをヘルメットの上にあげているから表情はよく判る。大倉に笑顔を向けている。
「ようこそ。西村参事官からお出迎えするように言われました」「来ているんですか、あの人も?」「はい。この先に司令車があります」その男は大倉にジープへ乗るように言うと、トラックについて来るよう合図した。
大倉はジープに乗せられて自衛隊の車輛の右側を通り抜けて行く。しっかりと幌《ほろ》をとじたトラックの中に有蓋車《ゆうがいしや》がまじり、ざっと四十輛ばかり並んでいた。
車の列が切れたところに左へ入る道があった。右はずっと崖《がけ》が海へ落ち込んでいるが、雪をかぶった大木が密生していて海面は見えにくい。左も急な斜面で熊笹《くまざさ》の下生えでびっしりの森だ。
ジープが左の幅広い道へ入り、トラックもそのあとに続く。軍用車輛はその道にもえんえんと並んでいる。国道の車輛とはガラリと趣きが変わって、そこにはキャタピラ車が多い。ひどく物騒な感じだ。
「73式装甲車です」
迎えの男が大倉の横で言った。
「ほかにもいろいろ来ているようですな」
「ええ」
ジープが右折した。森に囲まれた牧場のそばだった。61式大型雪上車の周囲にジープが五台と救急車が一台、そのほか大型トラックや燃料タンク車などが集まっており、テントも幾つか張られていた。
が、大倉が目を光らせたのは、大型|牽引車《けんいんしや》につながれた特大型セミトレーラーが四輛並べてあることだった。粉雪をおし潰《つぶ》したキャタピラの跡がある。戦車まで持って来ているのだ。トレーラーに乗せられて来た戦車の姿はなく、トレーラーの上に恐らく戦車を掩《おお》っていたと思われる防水シートがごそっとしたかたまりになっている。
司令車、というのは61式大型雪上車のことだった。西村はその中にいた。ヘルメットをかぶり、軍用の厚いコートを着ていた。
「観戦武官のおでましですな」
西村は快活に言い、まわりの連中には「特殊な立場の方だから紹介はしない。この方のことは記憶から除外するように」と言った。そしてまた大倉に向かい、「コードネームはジョーカーでよろしいな?」と言った。霧多布《きりたつぷ》のとき使ったコードが、あの三尉から報告されているのだろう。
「ではジョーカー氏に説明しましょうか」
すでに車内の側面に地図が貼《は》られていた。
「ここから七キロ先に熊沢《くまざわ》牧場跡という地点があります。スペッナズがそこに潜伏していました。昼間はそこに隠れ、夜になると真琴内へ出て行っていたのでしょう。一応陣地らしきものも構築してあるようですが、兵力は判《わか》っています。七名です」
大倉は西村を睨《にら》んだ。
「たった七名に戦車を四台もですか?」
西村は苦笑した。「完璧《かんぺき》を期したわけですよ」「まあ、そちらの領分ですからな」「真琴内漁港にも敵が立て籠《こも》っています。間もなく風、雪ともに激しくなるらしいので、それを待っています」「なぜ待つのです?」「前後の町との交通は完全に遮断《しやだん》してありますが、射撃音や爆発音にも気を使いませんとね。演習ということで押し通すつもりですが、できるだけ隠密裡《おんみつり》に処理したいので」「ここへ来るまでの様子でも相当に派手でしたがね」「まあそう言わんでください」「乗って来たトラックはどうしましょうか?」「あなたには一部始終を見ていただかねばなりませんからな。さっきの二尉に案内させます。国道ぞいで真琴内を一望できる地点に牧場があるのです。スペッナズがいるのは、その牧場の持主が二十年以上も前に放棄したものでしてね。熊沢牧場と言います。住んでいる者は避難させてありますから、そこへ入っていただこうと思っています。もちろん住居へ入られては困りますが、畜舎のそばにしっかりした納屋がありますから」「スペッナズへの攻撃はいつですか?」「あっちは無人地帯ですから、間もなくはじめます。ご一緒しましょう」「もう一人同行させたいのですが」「判っています」西村はその雪上車を出ると、73式装甲車のほうへ歩きだした。
標高千メートル程の無名峯があり、それを背にして朽《く》ちたような木造の廃屋とサイロの残骸《ざんがい》があり、敵はそこに潜んで息を殺しているようだった。彼らの北にある無名峯には既にレンジャーが中腹あたりで散開しており、牧場の周囲千五百メートルは、白い兵士が完璧《かんぺき》な陣形を整えていた。輪は閉じられているのだ。
大倉は62式機関銃の照準器をのぞいて、雪中になかば体を埋もれさせた兵たちを見た。「冬戦教《とうせんきよう》だな、まるで」そんなささやきが聞こえる。冬期戦闘教育隊の略だ。
左の森の陰から74式戦車が姿を現わした。雪がまだらにこびりつき、迷彩をほどこしたように見える。四台の戦車が横一列に並んでサイロと廃屋の方向へゆっくりと前進を開始する。白い歩兵がそのあとに続いていた。
北の斜面に何十条ものシュプールが伸びはじめる。ストックなしで射撃をしながら滑降するモッディ・アタックである。彼らからは敵の位置が見えるらしい。
シュプールの伸びがぴたりととまった。それより下へ行けば正面からの火線の中へ入ってしまうからだろう。静止して射っている。
一台の戦車の砲塔が動いた。ドン、と肚《はら》に響く音がして廃屋が吹っ飛んだ。続いてサイロの基部にも一発。近いが正確な射撃と褒《ほ》めねばなるまい。敵はまだ沈黙している。戦車がとまり、それを盾《たて》に白い歩兵がかたまった。ライフル榴弾《りゆうだん》を射ちはじめた。左から右へ順序よく雪がはじけて舞いあがる。
ようやく敵の応射がはじまった。
「AK47ですよ。彼らの火力は知れています」装甲車の横に立って西村が大倉にそう言った。「玉砕覚悟ですな、彼らは」「向こうにもこっちにも、ほかに方法はないのです。隠密裡《おんみつり》にではありますが、ソ連と日本の正規兵同士の戦闘はこれが最初でしょう。戦後ではね」「一人でも生き残れば、日ソ双方にとって厄介なことになるわけですな」「そうです」
非情なものだ、と大倉は口に出かかったが、結局黙っていた。言えば自分の過去にもその言葉がつながって行く。
山腹からライフル榴弾《りゆうだん》が射ち出された。戦車はそれを合図のようにまた前進をはじめた。寒い。本当に寒い。大倉はコートの下のホルスターに収めた銃の位置をひえびえと感じ取った。
ビンビンビン……と鋭く危険な音が聞こえた。戦車の装甲に銃弾が跳《は》ねた音だ。戦車が停止し、味方の銃声がぴたりとやむ。
「幕切れかな?」
西村が言った。その数秒後、廃屋のあったあたりで爆発音がたて続けに起こった。
「全弾射ち尽して自決したようです」
それは西村の予測どおりの結末だったようだ。ソ連陸軍のエリート部隊スペッナズの七名にとっては、日本領土内で脱出不能になった場合は投降などあり得ないと知っていたのだろう。
「あなたは七名とおっしゃるが、八名かも知れないし九名かも知れませんよ。私のいた世界ではよくあることでした。死体を七つ発見したからと言って、部下の方に手を抜かぬよう注意なさることですね」
大倉が言った。
「なるほど、たしかにそうですな」
西村は背後に立っていた部下の一人に何か言いに戻った。
動きは完全にとまっていた。戦車も兵士も銃も砲も、雪の中で静まり返り、冷え切っている。一風が吹き、雪が舞う。そのつかの間の静寂は、自決したソ連兵たちのものであったようだ。
「へえ、鴎《かもめ》という鳥も雁《かり》のように列を作って飛ぶんだな」
ジャンが空を見て感心したように言った。大倉もそれにつられて空をみあげたが、たしかに斜め一列に並んで行く鳥は鴎のようだった。本州の鴎と種類が違うのかどうか、それもよく判《わか》らなかった。
場所は家族がどこかへ避難させられて無人になった牧場の納屋の扉《とびら》の前だ。トラックはそこにとめてある。
来るとき国道の山側に軍のトラックが並んでおり、その横を通って山側の道へ入り、西村たちのいる司令車へ行った。
戦闘があったのは更にその七キロ奥であり、ジャンと大倉は西村とあれからすぐに別れていったんジープで国道へ戻り、羅臼方面へ少し行ったところに入口のある、この熊沢牧場へ入ったのだ。ジャンは寡黙《かもく》になり、今やっと口を開いたところなのだ。
「怒ったな、お前」「虐殺だよ、あれは」「正規の戦場じゃない。平和なつき合いを続けている相手の国へ潜入した特殊部隊の兵員だ。スパイよりたちが悪い。ああなるしかないさ」
「戦車四台に装甲車、兵員五百。補給班、医療班。奴ら七人相手に戦争ごっこを楽しみやがった」「そんなもんさ。俺もその数字ははっきり報告してやるつもりだ」「みろ、兄貴だって腹をたててる」「いちいち喚《わめ》きたてんだけだ」
松井たちはスノーモビルをトラックからおろしていた。北西の隅にサイロや牛舎、家、そして納屋がかたまっており、東に向かって広く白い大地がひらけている。
「大倉さん、ひとまわり様子を見て来ますよ」
松井はもう一人の男とスノーモビルのエンジンを始動させ、純白の牧場を走り出した。
「あまりでかい音じゃないな。ラジコンでちょっとでかめの舟か車の模型を動かしてるような音だ」
スノーモビルは牧場のへりにそって北側から東へまわり、南の端でいったんとまってから、ほぼ四角になっている敷地を斜めに突っ切って戻って来た。
「ここは特等席ですよ。問題の港が丸見えです。行って見ませんか?」「よし」大倉とジャンはスノーモビルにまたがり、二人がつけた斜めの線を辿《たど》って南の端へ行った。
「なるほど、ここはいい」
大倉が一目見て言った。
牧場の北の端は沢になっていて、西岸に木が繁っている。小さな川だが北から一直線に流れて来て国道の下を暗渠《あんきよ》で抜け、海へそそいでいる。
牧場の海側は急な崖《がけ》で樹木が密生し、その下を南北に国道が走っている。国道の海側は再び崖と樹木で、その急|勾配《こうばい》がおわったところから海までは平たい土地になっていた。
川の右、つまり南側は小さな家畜の囲いで、その囲いは左右二つに分れている。左すなわち北の囲いはきちんとした長方形で、南の囲いはナイフの刃先のように右のほうが鋭く斜めにとがった形になっていた。そして左右の囲いの中央に木造の牛舎があり、囲いの中に牛の姿はなかった。
牧場の端から一直線に海へ向かう川は、下が平坦《へいたん》な土地のせいか、北側に湿地帯を作っているのが判る。ところどころに氷の面があり、樹木は生えていない。また、その湿地帯の右側は川がふくらんで小さな沼になっていた。
そして川口が漁港だ。川口の左、つまり北側には太い築堤があり、防波堤がその先から南へ直角に突き出している。湿地帯を埋めたてたのだろう。コンクリートでかためた埠頭《ふとう》のような広場が作られ、幅広い築堤とその埠頭に八隻の漁船が繋《つな》いである。二〇トン未満という規制から生まれた、典型的な一九トン型漁船だ。
コンクリートの基盤は大きな正方形で、北の隅に大きめの倉庫、その右となりに湿地を背にして二棟の木造の建物がある。どちらも二階建てだ。多分漁協の事務所とか漁具や船具の物置ではないだろうか。
そのコンクリートの正方形の埠頭から、じかに川を渡る橋がかけてある。トラックが悠々《ゆうゆう》と通れる幅のコンクリートの橋だ。市川信行のバックアップで、ふんだんに補助金を受けていたという成果なのだろう。
橋を渡ると海と平行に舗装道路がついている。南に山があってその道は急な斜面の手前で山裾《やますそ》を通って国道へ出て行く。国道へ出るには途中から登りになる。
民家は橋のそばからはじまって、その道路の両側に並んでいる。海側、山側とも家が二列あり、家々の間に細い道路が見えていた。南の山の下には鉄筋二階建てで陸屋根の四角い建物があった。公民館だろう。
川口は海岸でだらしなくひろがり、小さなデルタを作っているが、その川口の右に海中から岩が突き出している。その岩をつけ根にした形で、まっすぐ沖へ向けた防波堤があり、それで港は東南に入口を持った形になっていた。
南の防波堤から海へ突き出した山にかけての海岸には、まあたらしいテトラポッドが整然と並んでいて、それは北の築堤から北へかけても同じことだった。おまけにテトラポッドの内側には土盛りまでしてあって、小さな漁村としては至れり尽せりという感じである。
そう言えば北の倉庫の背に二〇メートルほどの鉄塔が立っている。テレビの山かげ地区に入るのだろうか。しかしテレビのためのアンテナとばかりは思えない。それだけの塔を持っているなら、ソ連領と交信するのはわけもなかろう。
真琴内の港を見ていた大倉は、ふと気づいてスノーモビルを右のほうに生えている木のほうへ向けた。そこは樹木がまばらで通り抜けられそうだったし、奥が小高い丘になっていて、今の位置より見はらしがよさそうだと思ったのだ。
だがそのまばらな木の間の雪の上に、足跡が深くへこんでいるのに気づいた。大倉は一気にスノーモビルを丘の上にあげ、停止するとすぐ拳銃を抜いて左手に持った。
掘立小屋がある。六メートル四方ほどの粗末な小屋だ。
「おい、誰かいるのか」
大倉はわざとのんびりした声で呼びかけた。すぐ返事がある。
「やかましい音だばさせて、なんの用だ」
嗄《かす》れた老人の声である。
「入っていいかね」
「いいだども中はくせえだぞ。俺だばなんもにおわんが、来る者《もん》はみんなそう言うだよ」
入口に立ててある古い戸板を横にずらせると蓆《むしろ》が二枚重ねてぶらさげてあった、その端を持ってめくり、中をのぞいた。
「すぐに閉めるべし」
茶だか黒だかはっきりしない色の毛皮の胴着をつけ、その下に綿入れのきものを着て、ダブダブのズボンの裾《すそ》をゲートルで巻いて、ベルトがわりにくたびれた兵児帯《へこおび》を巻きつけている。首には黒いマフラーをしっかり巻きつけ、古めかしい防寒帽の耳あてを、上へ折りあげててっぺんで紐《ひも》でしばってある。毛糸の手袋は十本とも指先が出ていた。
「やあ」
大倉はその爺《じい》さんの前にあぐらをかいて言った。
「晩がた少し吹くだぞ、この分《ぶん》だば」「タバコ喫《す》うかい?」「余分に持ってるだか?」「ああ」「だばくれや」大倉は袋ごと差し出した。爺さんは一本抜きとり、つまんだタバコを額のところへ当てるようにした。礼のつもりらしい。大倉も咥《くわ》え、ライターをつけてやる。「近ごろのタバコはみんな尾っぽさついちまっただな」「俺、この辺ははじめてだ。爺さん、名前は?」「松爺《まつじい》」「松爺《まつじい》さんか。いくつだね」「ことしで七十三。正月さ来っと七十四だ」「元気だな」「そりゃ俺たちだばきたえ方が違うだよ。今どきのもんはすぐストーブさあたるべが。寒《さぶ》いときぬくもってばかりいただば寿命が縮まるだ」「ここで何してるんだね」「なんもせんとおる。港さ放り出されただども、行くとこもねえだしな。そりゃ、昔はここらも鮭《しやけ》だ、すけとうだ言うてよう獲《と》れたもんだ。こう見えても船の一、二はいも持って親方言われたこともあるだ。食うだけなら死ぬまでのもんはちゃんと持っとるだよ。でもな、よその土地さ行ったら金みてえなもんはすぐなくなるだい。だから俺はここさ自分の死に場所にきめとるだよ。生まれて育った港さ毎日見れるだべし。ここが一番だ」「港を放り出されたと言ったね。どういうわけなんだ?」「知らん者《もん》さ入《へえ》って来て、邪魔にしくさるだよ。いびり出されてよそさ行った者《もん》もおるが、俺《おら》ここでがんばっとる。雪さとけただば、港の子供たちに草つみ教えたり茸《きのこ》さ出る場所連れてって教えたりな。傷にきく草やうさぎの通り道に罠《わな》かけるのを教えたり、いそがしいもんだ、こいでも」「楽しそうな暮らしだな」「んでもねえ。やっぱし漁師ちうもんは海さ出て行かねば。魚の重さはほかのもんの重さと違うだぞ」「どう違うんだね?」「重さが動くだよ。なんとも言えねえもんだ」「それで毎日ここから海を見て暮らしているのかい?」「んだ。俺らこのあたりでは古い者《もん》だ。身内にはカバフト行った者《もん》もおるし、牧場しに山へへえった者《もん》もおるだから、尋ねて行くとこは多いだぞ」「カバフトへ行った身内は引揚げて来たんだろ」「ああ。あっちでもうまく行かねえうちに追い返されて来ただ。下の真琴内にも引揚者の子供たちがおるだ。もうみんないいとしだどもな」「真琴内は昔から漁師ばかりだったのかい?」「マクはアイヌの言葉でうしろという意味だ。ナイは川のことだしな。そいでコトニという場所があるのを知っとるだか?」「琴似《ことに》なら知ってるよ」「コトニは低い土地いうことさ。マク、コトニ、ナイいうのがマコトナイの本当の言い方だ。それをちぢめて真琴内《まことない》というようになったんだども、こういうことは古い者《もん》でねえと知らんだよ。ほれ、今のコンクリさでかためたとこのうしろは湿地《ヤチ》だべし。港のうしろさ低い湿地《ヤチ》があるだ。そいで川もあるしな。マク、コトニ、ナイだ。アイヌの者《もん》はちゃんと土地をよく見て名をつけとっただども、今の真琴内いう名だば、なんのことか判《わか》らんだべし」
老人の話はとりとめもなかった。
納屋へ戻ると西村が来ていた。ジャンと気楽な話をしているようだった。
「やあどうも。いい場所を提供してくださって」「いまオッセン氏に売込みを受けていたところですよ」「北海道が気に入ったらしいのです」西村は笑った。工作員《エージエント》のこともですが、うちのレンジャー部隊のことでしてね」「ほう?」「北海道のレンジャー部隊は、ホワイト・ベレーを制帽にきめろと言うんです」大倉は笑った。
西村は微笑しながら言う。「実はグリーン・ベレーなどに相当する特殊部隊を、他の部隊とはっきり区別させるのも悪くない考えなのです。志気向上の面でね。日本はこういう位置関係にありますから、ホワイト・ベレーも満更冗談ではないのです。ひょっとするとそのうち実現するかも知れませんよ」
ジャンがうれしがる。「そうなったらうちの兄貴がホワイト・ベレーの元祖だな」西村は周囲を見ながらヘルメットを脱いで見せた。大倉はちょっとうろたえ気味に目をそらした。根室のグランドホテルで会ったときは、高級官僚風にきちんと黒髪を七・三に分けていた。しかしヘルメットの下から現われた西村の頭は禿《は》げていて、両すそでうしろのほうに髪が少し残っているだけだった。
「どうも、こういう具合でしてね。あなたのようなベレーなら制服のまま人に会ってもスマートでいいんでしょうが。実はかつらをかぶれというのも上司の忠告でしてね」「情報関係にいると、いろいろな場所へ行かねばなりませんな」大倉は当たりさわりのないことを言った。
「真面目な問題に移りますが」
西村はヘルメットをかぶり直して言った。
「最終の船で連中が必死に運び出そうとしていたのは、やはり電子国境警備システムの基幹コンピュータでした。陸路をあきらめて海上から真琴内へ運ぼうとしたのを、我々が花咲港で捕捉《ほそく》したわけです。ああ、森という男が右肺に弾を射ち込まれていました。生命に別状はありませんが、あの人物についてはほかにだいぶ波及しそうです」「谷岡はどうでしたか」「欧亜商事あたりの力でなければ、国境警備システムなど、ちょっと手をつけられんでしょう。ほかにも何かあるようです。身柄を保護しましたよ」「警視庁?」「まあそんなところです。自殺の恐れもあるし、殺《け》される可能性もあるようなので」
西村は乗って来たジープのほうへ去りかけ、「あ、もうひとつあります。漁民のことですが、彼らに対する追及は行なわれんでしょう。いわゆる密漁船と呼ばれるものの中に、特別な立場の者がかなりいるものでね」
西村はジープに乗った。「密漁船はスパイ船か。それじゃお咎《とが》めなしだろうさ」「全部じゃない」「でも、数が減ればスパイ船の比率は高くなるぜ。困るのは彼みたいな連中だ。多分海上自衛隊もやらせていることだろうしな」「悪いのは国境があることだ。国家というものの持つ悪い部分だ」「国家がなくなればもっといい世界になるのか?」「判らんよ、俺には」大倉は納屋へ入った。ストーブもない。風と雪は真横から吹きはじめていた。
薄暗くなった。午後三時だ。四台のスノーモビルが松爺《まつじい》さんの小屋がある丘の上にとめられている。大倉はジャンが用意して来た双眼鏡で真琴内の家なみを観察している。ジャンはスノーモビルを横に置いて、その黒い座席にファイアマンの重味を預け、スコープでのぞいている。ファイアマンなら真琴内中が射程内だ。
「人質をとってやがるからな」
松井が仲間に言っている。爺さんは小屋の中だ。トラックのドアにぶらさげて来たソーセージを一本プレゼントしてある。大倉たちは部隊の給食を受けたばかりだ。
「動いた」
大倉が言った。「どこだ」「左。テレビ塔のほうだ」
その方向は国道が曲がって行って海のすぐそばを通っている。海へ落ちこむ崖《がけ》の上へ出るまでの間に、山を削った切り通しの部分が三百メートルほどある。切り通しの海側の山は真琴内港の北へすぐに迫っており、そこから白服の兵たちが、海岸に並べたテトラポッドを遮蔽物《しやへいぶつ》として利用しながら近づいて行く。雪と風ばかりか、波しぶきをたっぷりと浴びているはずだ。
コンクリートで湿地の海側に人工の地盤を作った上に建てられた倉庫から、その兵たちの接近を食いとめるべく射撃がはじまった。しかし白服の兵士らは果敢に前進し、バリバリと連射をはじめた。建物の内部は充分防備を整えていたと見え、その射ち合いはかなり長く続いた。
しかし所詮《しよせん》は木造の建物だ。手榴弾《しゆりゆうだん》を投げられたらしく、爆発音と共に三分の一ほどが呆気《あつけ》なく吹っ飛んでしまった。黒煙が建物から立ちのぼり、風に流されて海側へその煙が横に流れたと見る間に、大きな炎が狂ったように揺れ動いて倉庫を包んでしまった。するとすぐに隣接した二棟も炎をのぞかせはじめた。そのあたりに油のタンクがあったようだ。
松爺《まつじい》の丘から眺めている大倉たちは、白服の兵士たちが炎の中を走り抜けるのを見た。同時に鉄骨を組んだ東京タワーの模型のようなアンテナ塔の根元で爆発が起こり、塔がゆっくりと海側へ倒れて行った。
大倉は双眼鏡をあげて港の外の海上を見た。警備艇が南のほうからやって来て港の入口あたりへ向かっている。海上も封鎖する気だ。同じ型の警備艇が少し遅れて北からも接近している。
大倉は双眼鏡をおろし、額の筋肉を二、三度強く動かした。寒さで顔面が硬直したのをほぐそうとしているのだ。
湿地があるので北からの攻撃は海ぞいに進んで港を通り抜け、橋を渡るしかない。国道に布陣した兵はまだ一発も射っていなかった。民家に火線を向けるわけには行かないのだ。
しかし真琴内の内部では、外からの攻撃に備えて、住民を一か所に集めているらしい。こちら側の攻撃の結果ではなく、明らかに内部の人間の手によって放たれた火が、三か所から同時に燃えあがった。
このときになって松爺が小屋から出て来た。
「野郎《やろ》っこめら、人の家《うち》さ火をつけてまわっとるだな?」
松爺が甲高《かんだか》い声で叫んだ。
「以前第二|福丸《ふくまる》に乗って来たチュプカの男さ、あいつらが殺しただぞ。俺はちゃんと知っとるだ。燃えとる……燃えとるだよ。兵隊さこれほどおるだになんで火を消してやらん。なんのためにここさ来とるだ」
松爺は自分の肩ほどの高さの杖《つえ》をあげて怒鳴った。
「火さ消すべし。火事さ消してくれぇ」
風が鳴り、雪が飛ぶ。松爺の声はすぐ下の国道にいる兵たちにも届くまい。大倉は松爺が振りあげる杖を見ていた。何の木か判らないが、少し曲がった手ごろな太さの杖だった。手もとのあたりは使いこんで艶々《つやつや》としている。それ一本を頼りに、この冷たい大地を歩きまわって来たのだろう。
真琴内の風は気ままに向きを変えている。三方を山に囲まれて、強い風を避けて住むには恰好《かつこう》の地形だろうが、それだけに風がまわる。火を放たれた家の炎は低くのびて、左右の隣家へすぐ燃え移った。風も大地も家々も、水分は氷と化すから乾き切っている。二、三軒かたまって燃えあがると、次の家は類焼などという生やさしい燃えかたではなく、爆発するように一気に炎を噴いてしまうのだ。
港を制圧した白い兵士たちは、橋を渡って炎上する民家の間を歩いている。思ったより銃声は少ない。風がまた変わって北へ吹きはじめたころには、四十戸ばかりの民家のうち、三十戸近くが燃えあがっていて、川に近い十戸ほどは焼け崩れてしまった。
背後に人の気配を感じて、大倉もジャンも松井たちも、みんな一度に振り返った。ダウンジャケットに毛糸の三角帽をかぶり、眼鏡をかけた中年男が、激しい息づかいで丘へ登って来たところだった。短いスキーをはいている。
「なんですか、これは。まるで戦争じゃないですか」
泣くような声でその男は言った。
「松吉《まつきち》さん。何が起こったんです」
「チュプカのことで戦争をはじめただよ、こいつら」
松井があわてて中年男に言う。
「僕らじゃありませんよ。僕らだってこんなことやめさせたい」
「最北運輸のトラックが向こうにあったけれど……」
「僕ら、鷲尾牧場の者です。心配になったから見に来たらこの有様です」
松井はショックを受けているらしく、激しい声でそう言った。
「子供たちはどうなっているんです。子供たちは?」
大倉が尋ねる。「どなたですか?」松爺が前を向いたまま教えた。「小学校の先生しとる」
大倉はその男を見た。
「ここの子供たちが行っている植峯小学校の教師です。六年の担当で」
「あの右の四角い建物は?」
大倉は南の山裾《やますそ》にあり、真琴内の民家が尽きた地点にある建物を指さした。
「公民館です。子供たちはどうなるんでしょう? こっちへ逃げて来ないんですか? なぜこんな火事だというのに逃げ出さないんです」
「チュプカのことをご存知のようですね?」
「知っています。この辺には北方領土からの引揚者が多いのです。帰れなくて向こうにとどまった者もいるそうです。彼らを援助しようと言ったら誰《だれ》も反対などしない土地柄です」
「ところがそれをソ連に逆用された」
ジャンが口をはさんだ。「真琴内はソ連の息がかかった連中に制圧されてたんだ。それがバレてこういうことになった。熊沢牧場跡に隠れていたソ連の特殊部隊の連中は全滅したよ」
「それと子供たちにどんな関係があるんですか?」
「人質」
大倉はそう言って双眼鏡の紐《ひも》を首から外し、その男に渡した。男はストックを雪の中に突きたて、双眼鏡をのぞいた。
「あ、いる。二階です。見えますよ。飯岡も篠崎も丸山も……二年生の達也まで」
「全員あの公民館にとじこめたわけか」
大倉は呟《つぶや》いた。
「どうする気なんだ? 民家を焼き払ってあんなところへたてこもったってどうにもならんだろうに」
ジャンが呻《うめ》くように言った。
「何かを待っているはずだ」
「救出をか?」
「妨害電波が出ていた。奴らには火の合図が必要だったんだろう」
「どんな連中なんだい」
「向こうの工作員たちさ」教師が訊《き》く。「ソ連人?」大倉は答えた。「日本人でしょう。へたな組織を作ったもんです。ここまでずるずると真琴内に居続けることはなかったんだ。彼らの組織が東京やワシントンの情報を的確に与えられていれば、真琴内などさっさと放棄して新しい基地を作ったはずだ」
「こっち側だってそうだよ」
ジャンが怒気を含んで言う。
「しっかりしたカウンター・インテリジェンスをやっていれば、奴《やつ》らをここまで追い込むことはなかったんだ」
「いったいあなたがたはなんの話をしているんです?」
「スパイのことだよ」
ジャンが教師に答えた。
「とにかく連中は今夜ソ連側へ重要なものを引き渡すはずだった。そいつがあまり重要なので、ソ連側は念のためスペッナズを七人派遣していた。そろそろヤバイということは判《わか》っていたんだろうな。ところがタッチの差でこういうことになってしまった」
「何かあるということは薄々知っていたんです。この真琴内にね。でも、真琴内の港は栄えはじめてたんです。水揚げはこの辺りじゃ一番平均してるし、港や町の整備にもどしどし金を使ってくれるもので、みんながよくなるならと……」
「そいつの親爺《おやじ》と俺は飲み友達だっただよ。そいつは子供んころからよう知っとるだ。吉田いういい親爺でな。そいつも吉田|先生《せんせ》いわれてみんなに好かれとる。もう何年ここの子たちだば教えとる?」
「十八年」
「ここの者《もん》だばみんな漁師の子だ」
北へ吹く風の中で、ハンドマイクを使った呼びかけがはじまっている。
「投降せよ。海上を封鎖した」
松爺が大倉に訊《き》いた。
「なんというとるだい?」
「降参しろと呼びかけている」
「耳さ遠いで聞こえんよ。そいで、返事は?」
「まだない」
大倉が答えたとたん、公民館の中から射ちはじめた。
「やはりカラシニコフを持ってやがる。あの分だと弾《たま》もふんだんにありそうだ」
ジャンが言った。
「また射ち合っとるでねえかよ」
爺さんは憤然として大倉を睨《にら》んだ。
「いや、公民館の中から相手が射っているだけだ。こっちは人質がいるから手出しはできない」
吉田先生が震える声で言った。寒さと不安で全身をガタガタと震えさせていた。
「子供たち、どうしてるだろう。こわがってるんだろうなぁ」
すると爺さんがさっと振り返って吉田先生に杖を振りあげた。先生は反射的に右|肘《ひじ》をあげて杖《つえ》を防ごうとして、双眼鏡を雪の上へ落とした。
「十八年も学校《がつこ》の先生《せんせ》さして、腑抜《ふぬ》けになっただか。みんな漁師の子でねえか。漁師だばどんなことがあっても港さ帰《けえ》るもんだ。魚を獲《と》るばかりが漁師ではねえだぞ。命がけで魚さ追いまわしても、港へ帰《けえ》らねえ漁師だばただの魚釣《うおつ》り遊びと変わらんでねえか。漁師だば必ず生きて港さ帰《けえ》るもんだ。それが漁師の根性《こんじよう》だいうのを忘れただか」
爺さんは吉田先生を撲《なぐ》りはしなかったが、そのかわり思いがけない身軽さで、松井のスノーモビルへ近寄ると小型のハンドマイクを取り、それと杖を持ってひらりと崖下《がけした》へ飛びおりて行った。
大倉たちは崖のふちへ走り寄り、雪の上をころがるでもなく、実にたくみに滑りおりて行く松吉爺さんの姿を見守った。
爺さんはやすやすと国道へおり立ち、そのまま道路を突っ切った。
「どこへ行く。待て」
兵士が二人それに気づいて爺さんに銃口を向けた。崖の上で反射的にジャンがファイアマンを構え、下を狙《ねら》った。
「やめろっ」
大倉がすさまじい声で叫んだ。国道の兵士たちは、爺さんをとめようとした二人も含めて、いっせいに大倉たちをふり仰いだ。
その間に爺さんは、国道から樹木の密生した海側の斜面へ姿を消してしまった。
やがて爺さんは斜面の樹木の間から出て、純白の雪の中を公民館へ向けて歩き出した。南側の家畜の囲いの柵《さく》をこえ、膝《ひざ》のあたりまで雪の中に埋めて立ちどまった。
爺さんのつけた足跡のほかにはまったく何の痕跡《こんせき》もない。爺さんは左手に杖を持ち、右手でハンドマイクをあげた。
「おおい、松爺《まつじい》だぞぉ。松吉《まつきち》の爺《じじい》だぞぉ。子供たち、聞いとるだかぁ」
公民館の窓のどれかが音をたてた。
「開いとるだかぁ。お前《めえ》ら漁師の子だぞぉ。漁師の根性さ見せてみれや。こっちさ港だと思うべし。二階にいるだば飛びおりて見せれ。こっちさ出て来い。港さ帰えって来い。射たれたらそんときは死ぬべし。漁師だば死んでも港さ帰《けえ》るもんだぞぉ。鉄砲玉さこわくて流氷の海さ出られるもんでねえべよ。こら、漁師のガキども、根性見せんか。漁師のガキどもぉ」
二階の窓があいた。二つ、三つと次々にあいた。そして小さな体がそこから勢いよく飛び出しはじめた。下は雪だ。凍った雪だがコンクリートほどには固いわけがない。
「そうだ。えれえぞ。静かにゆっくり歩いてけや。国道へ行け。兵隊が戦車さ乗せてくれっかも知れねえぞ。そうだそうだ、お前《めえ》ら漁師の子だ。みんないい漁師さなれっぞ」
子供たちは国道への除雪した道を一列になって歩いている。爺さんはよろこんで雪の中を跳《は》ねまわっていた。
「父《とう》ちゃんや母《かあ》ちゃんたちよぉ」
爺さんはまた呼びかけはじめた。
「見ただか、子供たちの……」
ドン、と鈍い破裂音がして雪煙が火柱とともに散った。
「地雷だ」
国道の兵士たちの間からそんな叫びがあがった。
「牛を出していなかったわけだ。奴《やつ》らあんな仕掛けをしてやがった」
ジャンが言ったとき、吉田先生が崖へ体を投げ出した。短いスキーで国道へ滑りおり、爺さんと同じようにあっという間に斜面の樹木の中に姿を消した。
彼は子供たちのほうへ行った。牛の柵《さく》の前を横に滑って行き、国道への道へついた。
子供たちが吉田先生のそばへ駆け寄って行き、ひとかたまりになった。
しかし先生はすぐ子供たちのかたまりを散らせ、早く国道へ登ってしまうように彼らを急がせると、自分は子供たちとは逆に公民館へ向かった。
「どうする気だ?」
ジャンが言った。
「あの先生は親のない子を作るまいとしてるんだ」
大倉が言った。
「親たちを連れ出そうというのか?」
「そうだろうな。愛国心などを子供に叩《たた》き込めば、結局は親のない子を作ることになる。あの先生は正しい」
「悲しいほど正しい」
ジャンはそう言ってファイアマンを公民館に向けた。大倉も双眼鏡についた雪をはらってそのほうへ向けた。
「見ろ、一階でごたついてるようだ」
大倉が言った。ジャンは二階の窓を見ていた。四人の男が窓際で銃を構えていた。
「先生が何か言っている」
大倉はそう言ったが、先生の声は聞こえない。
「出て来た」
制止をふり切って来たのだろう。先頭の何人かの男は顔から血を流していた。
しかし彼らは子供たちと同じように、公民館からの銃口に背を向けて、ゆっくりとこちらへ歩きだしていた。
ぞろぞろと公民館の正面玄関から男女が出て来る。二階の窓から発砲しはじめた。明らかにその列を停止させようという威嚇《いかく》だ。
先生は大胆にも公民館の入口まで行って、とじこめられた住民たちに声をかけている。恐らく励ましているのだろう。
ぞろぞろと人の列が伸び、国道へ向かった。そして五十人ほどでその列が切れた。
列の先頭は小走りになり安全な山かげへ入ろうとすぐ全力疾走になった。女たちもみな逞《たく》ましい走り方だ。
先生はあとずさりして何か言いながら公民館を離れた。何を言っているのか判《わか》らないが、中に残った者にも投降をすすめているのかも知れなかった。
脱出した人々はほとんど国道への登り坂へ着いていた。そこならもう山のかげで安全だ。
先生はあとずさるのをやめ、公民館に背を向けて歩きはじめた。彼が短いスキーをすてたのはすぐそこだった。
そのとき二階の窓から銃が火を噴いた。先生はその長連射を浴びてはじめ両手を上にあげてのけぞり、すぐ前方へ突きとばされたように倒れた。銃弾は倒れた先生の周囲に雪煙をあげた。
「フルオートで全弾ぶち込みやがった」
ジャンはそう言い、ファイアマンで二階の窓を狙《ねら》った。二階の射手は窓から姿を消した。それをきっかけに、現場へ持ち込まれた銃がすべて火を噴きはじめた。すさまじい音が続き、ジャンもファイアマンを射ちまくった。
奇妙な事が起こった。真琴内を包囲し、町の中へ入った兵たちが、みないっせいに後退をはじめたのだ。見事な撤収ぶりである。恐らく妨害電波は味方が発していたのだろう。それがやんで相互の連絡が緊密になったのだ。
下の国道にいた兵たちも走り去り、どこかへ行ってしまった。
「これはどういうわけだい?」
大倉は寒さのせいばかりではなく蒼白《そうはく》な顔をしていた。
「やる気だ」
「何を?」
「消毒《サニタイズ》」
ぶきみな静けさが真琴内を覆《おお》った。民家の何軒かがまた新しく火を発していた。
五分ほどたったか?
大倉たちは北から異様な風音を聞いた。ジャンと大倉は反射的に松爺さんの小屋のうしろへ飛んで、丘の裏側へ身を伏せた。
「伏せろ」
大倉が言う間もなく、ドドド……っとぶっ続けに爆発音がはじまった。炎上中の民家と言わず港と言わず、真琴内のありとあらゆる場所に火柱があがり、それが突然ピタッとやんだ。
「何だった?」
ジャンが大倉に訊《き》く。そばに松井たちも伏せていた。
「130ミリロケット弾だろう。数を数えてみたら三十発だった」
あとで大倉の推測は外れていなかったことが判る。75式自走多連装130ミリロケット発射機だ。一五キロほど先の高地から、事前に緻密《ちみつ》な距離調整をすませ、待機していたのだ。
その砲撃はもう一度繰り返された。丘の下へ雪上車がやって来て、「すぐ退去するように」という命令を彼らに伝えた。その牧場から川ぞいに国道を破壊して港に至る土地の破壊作業がはじまるのだという。
「自然災害に見せかけるつもりだな」
大倉は丘に立って真琴内をみおろした。歌子の知っている真琴内はもう存在していなかった。
エピローグ
半年後、大倉は歌子に誘われて富良野《ふらの》へ行った。あのランクルではなく、大倉は歌子のベンツを運転して行った。
あれから大倉は苫小牧《とまこまい》に戻り、相変わらず無為な日を送っているが、ジャンは西村と気が合ったらしく、北海道のどこかでこそこそとやっているようだった。
歌子はあと始末に追われているようで、東京へよく出かけて牧場を留守にすることが多かった。どうやら牧場を手ばなす気にはならなかったようだが、最北運輸も楡《にれ》商会も縁を切り、今後いっさいチュプカ問題のようなことには関係するまいというきつい姿勢を示している。
大倉はまた欧亜商事に貸しを増やしてしまった。第三営業本部長の谷岡は案外厳しい取調べも受けず釈放されたが、自宅へ戻ってから数日後に発病し、急性|肝炎《かんえん》で入院したままだ。メジャーリーグにはそういうボールを投げるピッチャーがごろごろしているのだ。日本は平和な国だから、肝炎と言えばただの肝臓の病気でしかないが。
歌子が富良野のホテルから大倉を連れ出して歩きはじめた道筋は、大倉にある予感をもたらしていた。
ラヴェンダーの畑が見えて来たとき、大倉は柄にもなくそわそわしはじめた。歌子は観光客を歩かせる道ではなく、ラヴェンダーの世話をしている農家の人が通る道へ彼を連れ込んだ。
紫の花の香の中で、歌子は足をとめた。
「あたしは遠慮する。まっすぐに行って」
歌子はそう言い残すと足早に去ってしまった。
ジャンと走った凍《い》てついた道の記憶がよみがえっていた。漁師の最大の目的は魚をとることより港へ戻ることだ、と言い切ったあの薄汚ない爺《じい》さんの顔が泛《うか》んで来た。
港へ帰れ、と励まされて銃口を背に昂然《こうぜん》と歩きはじめた子供たちの姿。その子たちに親を失わせまいと走った小学校の先生。
教えてやりたい。何を捧げ持って生きて行くべきかを。息子の雅樹に……。
そのとき、薄茶のスポーツシャツに白いカーデガンを着た背の高い男が前からやって来た。
大倉は久しぶりに見る息子を、もう青年と呼んでもいいほどだと思った。彼が描く絵に現われるのは、小学生くらいの男の子ばかりであった。
「やあ」
雅樹が照れくさそうな顔で、しかし大倉をほっとさせる快活さで手をあげ、近寄って来た。背丈は大倉とまったく同じだった。
「俺よりでかくなったかな?」
「一メートル八七」
「じゃあお父さんと同じわけだ」
お父さん、と大倉は無意識に言っていた。
「おやじより高くなるかも知れないよ」
雅樹はなんのてらいもなく、おやじと言った。
「大学はどうする?」
「法律をやりたいんだ」
「やめとけ。こんなおやじがいるんだぞ」
「いろいろ聞いたよ。俺、知らなかったんだ。すげえ人生だな、お父さんの人生って」
「誰がそんなことを言った?」
「瀬川って人。かっこいい人だね」
旧姓瀬川歌子。またその名に戻る気なのか?
「緑はどうしてる?」
「あいつ、結構モテてるんだ。ボーイフレンドを集めてパーティなんかしやがんの。でも心配ないよ。緑は性格がお父さんに似てるみたいだ。俺はおふくろ似だけどね」
雅樹は手に持っていた白い封筒を大倉にさし出した。
「これ、お母さんから」
ひどく厳粛な態度で雅樹は言った。受取ると中に固い物があった。大倉は封を切った。
指輪が二つ。
一つはシンプルな結婚指輪。もうひとつはそれとセットになった婚約指輪で、陽光を受け、並んだ小粒のダイヤがキラリと光った。
大倉は二つの指輪をしげしげと眺めてから封筒の中へ戻し、封筒の口をしっかり折って雅樹に返した。
「緑にやってくれ」
雅樹は父親をみつめた。
「いい考えだよ。あいつはお父さんのことを一度も悪く言わなかったんだよ。俺は憎んだりしたけど、ごめんね」
大倉は微笑した。
「お前に頼みがあるんだ」
「え……」
「お前、一人で暮らすようになるんだろう? 一発で合格しても浪人しても」
「そういうことになりそうだね」
「お前が住むところを俺に用意させてくれないか」
「緑がギャーギャー言うよ、きっと」
雅樹はうれしそうな顔で言った。
「できれば家具もオーデオやビデオやパソコンなども、俺に全部|揃《そろ》えさせてくれないか。それがしたかった……長い間な。まとめてやらせてくれ」
「俺、めちゃめちゃ贅沢《ぜいたく》なリスト作っちゃうよ。いいのかい?」
大倉は頷《うなず》いた。
「そこが当分の間、お前の港になる」
「すげえ。場所はどこ?」
「それもお前の都合のいいところだ。ときどき見に行きたいな」
「当然だよ、そうなれば」
大倉は雅樹に親友がいるなら、その友達にも是非会いたいと思っていた。
「でも、なんでここで会わなきゃいけなかったの?」
大倉は答えない。風が吹いてラヴェンダーが揺れていた。
角川文庫『ラヴェンダーの丘』昭和62年11月10日初版発行