半村 良
わがふるさとは黄泉の国
目 次
わがふるさとは黄泉《よみ》の国
農閑期大作戦
庄《しよう》ノ内《ない》民話考
誕 生
わが子に与える十二章
二都物語
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わがふるさとは黄泉《よみ》の国
1
室谷啓一はサングラスを忘れたことを後悔していた。ネクタイを半袖《はんそで》シャツの胸ポケットにねじこみ、ともすれば汗で背中にへばりつきそうになるシャツの感触を避けるため、ことさら上体をしゃんと伸ばし、気分的にはかなり反りかえった姿勢で歩いていた。
七月の陽《ひ》ざしは舗道やビルの壁画へぶち撒《ま》けるように浴びせられており、時折り思い出したように吹く街の風は、キナ臭く感じられるほど暑く蒸《む》れていた。
そう、太陽は疑いもなく東京の空にたちこめたスモッグを蒸しあげようとしているのだ。耳のうしろの生え際のあたりからは、ひっきりなしに汗の玉がころがり落ち、眉《まゆ》のあたりにも額からふきあげた汗が、今にもしたたり落ちて眼《め》に入りそうだった。
銀色に赤い帯の入ったバスが車道の端をゆっくりと通りすぎ、後部にある下水の蓋《ふた》のようなラジエーターから、うなぎでも焼けそうな熱風を啓一に吹きつけた。
土曜日の午後である。啓一は駆け出しの商社マンで、ことし二十六歳。やっと商社マンらしい物腰が身につきはじめたばかりであった。会社では娘たちが海へ行く相談で持ちきっていて、彼らの相手をするグループは、ちょうど啓一たちの年代であったが、啓一はこの週末になってもとうとう娘たちの遊び相手に名乗り出る機会を見出せないまま、こうして暑い午後の街を、ひとりで歩きまわっているのだった。
彼は幼い頃から読書家で通って来た。現に今もこの週末に読み耽《ふけ》る本を探して、神田の書店街を歩いているが、彼自身はそれを余り愉《たの》しんでいるつもりもない。仲間づきあいが空っ下手で、はた目にはひどく寡黙な男なのである。
いわゆる内弁慶というのだろうか。とことん気をゆるした相手なら、かなりおしゃべりな一面を見せるし、頭の中ではいつも他人に対する呼びかけや、会話に割って入る台詞《せりふ》が渦を巻いているのだ。しかし、それを実際に舌へのせることはほとんどないと言っていい。キッカケが掴《つか》めないのだ。会社の娘たちと海へ行く気は充分すぎるほどあって、彼女らのプランをちらっと耳にした瞬間から、実にさまざまな、時には不逞《ふてい》なほどの空想をめぐらせているのだ。
が、結局はプランを耳にしなかったのと同じことで、全く関知しない風の沈黙を守り通してしまうのだ。……だって、陰気なんだもん。ある娘が自分のことをそう評したのを、啓一はだいぶ前に小耳にはさんでいる。その女子社員は社内でも指折りの美人で、若い男たちの罪のない冗談から、啓一の恋人に擬せられたのだ。彼女はその時すぐにそう言ってのけ、周囲もまたそれをごく自然の反応として軽く笑ったにすぎなかった。
啓一は彫りの深い横顔をもち、見方によっては相当の美男と言えた。しかし、彼の持って生まれた性分は、他人に対してひどく臆病《おくびよう》で、ピシャリとにべもなく戸を閉め切ってしまったような、内向的というには余りに露骨な閉鎖的|雰囲気《ふんいき》をそなえていた。
啓一自身でそれを望んでいるわけではない。むしろそのことで悩み、自己|嫌悪《けんお》にかられる時も少なくないのだ。かつてのクラスメートで、唯一の友人とも言うべき高木道雄は、その交際の初期、高校で彼に死神という仇名《あだな》をつけてしまった。
「だってそうじゃないか。お前はいつだってとほうもなく不吉な顔をして歩いてるんだよ」
高木が拡《ひろ》めてしまった仇名について啓一が抗議すると、彼はずばりとそう言い放ち、さもおかしそうに笑ったものである。
読書はそうした性分にどうしようもなくついてまわる一種の逃避的快楽であった。眩《まぶ》しい夏の太陽の中を歩きまわり、十軒あまりの書店を出入りしたのち、やっと彼を満足させたその日の収穫は、神仏のゆくえ、という民俗学の古本と、記紀新釈という新刊書であった。
汗まみれになって麹町《こうじまち》のわが家に戻った啓一は、買って来た本を自室の机に置くと服を脱ぎすて浴室へ入った。古い家だが浴室はこの春改築したばかりで、シャワーのついた青いタイルばりの浴室は、啓一が最も安らげる場所のひとつであった。
「また禊《みそぎ》かい」
厚いすり硝子《ガラス》のドアの前で、母親のまつ江がからかい半分に声をかけた。冷たいシャワーの水音の中で、啓一は、「え……」と言って聞きかえし、母親がもう一度同じことばをくりかえすと、安心したようにまたシャワーの中へ体を戻した。
幼い時からあれこれの区別なく書物を読み漁《あさ》った啓一は、どういうわけか結局のところ歴史、民俗学、人類学、考古学といった分野へその興味を定着させ、ことに古代の葬制とか、原始信仰とかに熱中するようになっていた。
新しい事実を識《し》って昂奮《こうふん》すると、啓一は余り話相手もないまま、母親のまつ江にその新知識を語って聞かせるのだった。
「お前は神主かお坊さんにでもなればよかったんだねえ」
母親は嘆くという風でもなくそういうのだった。水浴しているのを禊と言ったのは、そういう親子の日常から発した、ごく自然な冗談なのである。
父親はすでに死んで、戦前からある古い家には啓一とまつ江、それに啓一が≪ばあちゃん≫と呼んでいる年老いた女中の三人ぐらしであった。家業は呉服商で、銀座の≪やす田≫と言えば小さいながら名の通った老舗《しにせ》であった。長い間祖父と母親のまつ江が≪やす田≫の店を守り通し、つい先年祖父が死んでからも、まつ江は慌てず騒がず、見事に女あるじの役を果している。
ひとりっ子の啓一は当然≪やす田≫をつがねばならぬ身なのだが、もとより口下手ではなり立たぬ呉服店のことで、まつ江も祖父も早くから啓一をあきらめ、「いいお嫁さんでもみつけて……」と、啓一の嫁に店をまかす手だてを考えているようであった。
そういう具合で、家こそひどく古びたが、庭木や垣根《かきね》の手入れも行き届き、カラーテレビもクーラーも、時のはやりは何につけ不自由なく買い揃《そろ》えて、シャワーを浴びた啓一は、ほどほどに冷房のきいた書斎風の自室で腹ばいになると、籐《とう》の夏枕《なつまくら》に座蒲団《ざぶとん》をのせ、あごをその上へひっかけるようにして、買って来た本の頁《ページ》を繰りはじめた。
庭のやつでの茂みを西陽《にしび》が赤く染めはじめる頃、啓一はふと聞き耳をたてた。居間のほうで不遠慮な男の高笑いが聞えたからである。声の主が判《わか》ってまた活字を追いはじめたとき、廊下の襖《ふすま》がそっとあいて、
「啓ちゃま。叔父《おじ》さまがお見えですよ」
と、ばあちゃんの嗄《しわが》れた声がした。この老女中は若い頃から陰気なタチで、この室谷家へ来るまで何度もお払い箱になったものだそうだが、どういうわけか啓一はひと目で彼女になつき、それ以来いつの間にか家族の一員としてゆるぎない地位を獲得している。
「マイナスとマイナスならくっつかねえ筈《はず》なんだけどなあ」
まつ江の兄で不動産業者である叔父の健吉は、よくそう言って不思議がったという。
「ん……」
と答えて啓一は本を閉じた。そこはやはり呉服屋のせがれで、立ちあがると手早く浴衣に着がえ、うす青色の夏帯をぎゅっとしめると居間へむかう。
「よう陰気坊主。景気はどうだ」
叔父の健吉は威勢よくそう言って啓一をむかえた。啓一は黙って坐《すわ》り、黒い漆塗りの座卓の上の煙草入れから一本抜きとると火をつけた。
「とうとうまた夏だな」
叔父は啓一を探るように見ながら言う。
「うん」
「海水浴へでも行って来いよ。陽にやければちっとは威勢よく見えるぜ」
啓一はうふふ、と笑った。
「ほんとにねえ、もうお盆だもの」
まつ江は麦茶のコップがつけた座卓の丸いしみを左手で拭《ふ》きとりながら、ちょっとしんみりした言い方をした。
そうか。それで叔父が来たのか。啓一はそう思った。七月十三日。きょうはお盆の入りであった。それで気がつくと、隣りの部屋からかすかに線香の匂《にお》いが漂って来ている。
「地獄の釜《かま》の蓋もあこうって時だ。年に一度くらいお前もこう、パアッと派手にやらかしたらどんなものだ。何ならつれてってやるぜ」
叔父はそう言って盃《さかずき》をほす仕草をしてみせた。
「駄目《だめ》よ。この子は相かわらずなんだから」
まつ江は何の感情も見せずに言った。
「それにしても、外は暑うございますわねえ」
ばあちゃんがとりなすように口をはさむ。
「まったくだ。どういうわけか夏の暑すぎる日ってえと、戦争が終った年を思い出しちまうんだなあ。このところ何年か、まい年そればかりだ。としかなあ」
「暑かったわねえ」
まつ江は仏壇が置いてある隣りの部屋のほうを眺《なが》めながら言った。
「今は気違いじみてるぜ。なんでもかんでもあり余ってやがって。こないだなんざ、テレビを見てたら、なんとか言う喜劇役者たちがメシを投げっこしてふざけてやがるじゃねえか。テレビだから怒鳴ったって仕様がねえけど、やっぱり怒鳴りつけてやったね。なんてえ世の中になっちまったんだろうねえ」
「そうよ」
まつ江は勢いこんで相槌《あいづち》をうった。「貨車にぶらさがって買い出しに行ったの、ついこの間のことじゃないの」
叔父とまつ江とばあちゃんは、感慨をこめてひどかった昔の想《おも》い出ばなしに入って行った。戦災のこと、焼死体のこと、飢えたこと、たたかったこと……それはもう何百遍も聞いた昔がたりであった。だが啓一には、かすかに空腹の記憶があるだけで、それも果して自分の経験したことなのか、何度も何度も聞かされる内に経験したように思いこんでしまったことなのか、夢の記憶を追うように奥のほうはさだかではなかった。
玄関のほうでブザーが鳴り、ばあちゃんが立って行った。すぐ戻って来ると、
「啓ちゃま。高木さんですよ」
と部屋の入口に立ったまま告げた。
「高木……」
啓一は珍しく勢いよく立ちあがると玄関へ出た。
「よう」
玄関で高木は逞《たくま》しく陽焼けした顔に白い歯をのぞかせて言った。
「めずらしいな」
「出るか」
「いや、暑いよ」
「それもそうだ」
高木は勝手知った様子で靴を脱いだ。
「ビール」
啓一は廊下の途中で待っている老女中にそう言うと、片手を振って高木に自分の部屋へ行けと示し、叔父と母がいる居間へ戻った。
「高木君が来たから……」
まつ江は、「ああそう」と軽く答えたが、叔父の健吉はまた手で盃を持つ真似《まね》をして、「こっちで一緒にどうだ」
と言った。啓一はニヤリと笑ってみせ、首を一回半ほど左右に振った。
「そうそう啓ちゃん、私たち静岡の叔母さんと、この夏ちょっと旅行するからね」
まつ江が思い出したように言った。
「北海道だ。北海道……」
叔父は羨《うらや》ましがらせたいのか、大げさに言って顎《あご》で天井のほうを示した。飛行機で行くという意味なのだろう。
啓一が部屋へ戻ると、高木はあぐらをかいて庭を眺めていた。
「どうしたんだ」
何かある……長年のつき合いで啓一はそう察していた。
「お前んとこはいいよ、純日本風でな」
「そうでもないさ。陰気臭くって」
すると高木は弾《はじ》けたように笑いだした。
「ご本尊がそう言えば世話ァない」
気がついて啓一も思わず笑った。それを見て高木はいっそう笑い、「見事に陰気に笑いやがった」
と言った。
「おやおや、おにぎやかなこと」
ビールと枝豆を運んできたばあちゃんが啓一たちの笑顔を見て嬉《うれ》しそうに言う。
「どうかしてるぜ、ここん家《ち》のきょうは。死神が揃《そろ》って笑ってやがる」
相かわらず、ずけずけいう高木に閉口したらしく、ばあちゃんはさっさと退散した。
グラスに冷えたビールが注がれると、小ぶりのグラスはみるみる外側に露を結ばせて行く。
最初の瓶《びん》が空になり、枝豆のからがこんもりと盛りあがる頃、高木はさり気なく言い出した。
「弱ったよ、お久《ひさ》の奴《やつ》」
啓一はやっぱり、という表情で高木をみつめた。
「何かしたのか」
「俺《おれ》はなにもしないさ」
高木は慌てて強く言った。クーラーが低い唸《うな》りをたてている。
「どうしたんだ」
啓一はグラスを置き、開き直った表情でまた訊《たず》ねた。
「ここんとこ、会社へも出勤しないでアパートの部屋へとじこもったきりらしいんだ」
啓一はじっと高木をみつめている。「俺はなんにもしないよ。誓ってもいい。平坂久子に指一本触れた覚えもないし、相手に誤解されるような甘いことを言った覚えもない」
「じゃなぜなんだ。お久君、体でも悪くしたのか」
「いや。なんだか知らねえが俺のせいらしい。冗談じゃねえぜ。あの子たちとつき合うようになったキッカケはお前だって知ってるだろうよ。別に男と女でどうこうってつき合いじゃないし、ただ一度だけ、あのお久をボーリングへ連れてって教えてやっただけなんだぜ。恋愛なんてしちゃいねえんだよ」
高木は困り果てた顔で言った。
平坂久子というのは、小さな繊維会社の染図案をやっている、染色デザイナーである。住いは四谷駅の近くのアパートで、ほぼ一年くらい前、彼女ら染色デザイナーのグループと啓一たちの同窓会のメンバーが、同じ日に麹町のホテルでパーティをやったことから知り合いになったのである。久子たちのグループは男女とりまぜて十二、三人。それがパーティのあとなんとなく合流し、互いに名刺など交換し合って、それ以来泳ぎだボーリングだと、他愛もない交際がグループ間で続いた。
「芳《よ》っちんや美津子ならとにかく、お久とそんな具合いに言われるんじゃ迷惑だ。第一お久と俺がそうなるわけがないじゃないか」
高木はますます強く平坂久子との間柄を否定する。啓一は固い表情で聞いていた。「あのグループには女が七人もいる。みんなちょっとした美人だし、男の奴らも気のいい連中だからつき合ってるんだよ。でもよ、お久と俺に何かあると言ってるのは、向うのグループの連中だけなんだぜ。きょう美津子から電話がかかって来て、お久がそんな具合いに参っちゃってるから俺が見舞いに行ってやるべきだ、なんて凄《すご》い剣幕なんだ」
「事情はよく知らない……」
啓一はポツリと言った。例によって、啓一はそのグループ同志の交際に、本心では強く魅《ひ》かれていたけれど、結局積極的に参加することはしそびれて、半ば仲間外れの状態でいたのだ。「でも、冷たくしないでやれよ」
「馬鹿言うない」
高木は憤然として叫んだ。「冷たくするもしないも、ボーリングへ行ったんだって、もののはずみで二人っきりになっちゃっただけなんだぜ。芳っちんも美津子も来る筈のが、美津子は残業になっちゃって、芳っちんはあのとおりおっちょこちょいだから、ボーリング場を間違えて、よそへ行っちゃったんじゃないか。レーンは予約してあるし、あの連中は来ないで、仕方なく二人ではじめたんだ。そのあとはいつも何人か一緒さ。もしお久が俺にどうこうって言うんなら、そいつはお久の一方的なことだ」
「お久君の片想いか」
啓一は無表情で言った。高木はそのひどく底深いような無表情に気押されて、ちょっとうろたえているようであった。「平坂久子という女性は身寄りのない人だそうだな。いつもとても淋《さび》しそうにしているし、向うのグループの話でも孤独な人なんだそうだ。そう聞いている」
「同情はするさ。でも責任はとりようがない。見舞いに行けば……これがお久の何かの思い違いだとしたら、その間違いがいっそうでかくなりかねないだろう」
「気の毒だな」
啓一はそう言って、ごくりと唾《つば》をのみこんだ。
「お久がか。やめてくれよ。お前まで、それじゃなくても今日美津子から電話で、自殺するかも知れないなんて、散々おどかされたり嫌味《いやみ》を言われたりしてるんだから」
「自殺……」
啓一は瞳《ひとみ》に鋭い光を宿らせて訊ねた。とうに日は暮れて、皇居の南側の空が赤く光っている。銀座のネオンだ。
「お前は知らないだろうが、お久ってのは、少し変ってる女らしいんだ。特殊なんだな」
「どう変っているんだ」
高木は言いにくそうに唇《くちびる》をなめ、左手を意味もなく何回か動かしたのち、
「自殺村の出身なんだってよ」
と言った。
「自殺村……」
「そういう村がどこかにあるんだそうだ。その村の奴ってのは、何かちょっとしたことでも悲観して自殺しちゃうんだそうだ。深刻癖っていうのか、気が弱いっていうのか、とにかくいつでも死ぬことばかり考えているんだ。……そりゃ、俺だって多少覚えがあるよ。はたちちょっと前に、やたら死ぬことを考えた時期がある。人生、なんてことをえらく考えこんでしまってな。でも、村中がそんなだなんて、ちょっと信じられないけどなあ」
高木はため息をついた。
「村中が自殺……」
「何かって言うと、実にかんたんに自分から死んじまうんだ。陰気なはなしだ」
高木はそう言ってしばらく啓一をみつめてから、「お久はお前とならうまく行くのかも知れねえな」
とつぶやいた。
話が話だけになんとなく気づまりになり、ビールを三本あけたところで高木は帰ってしまった。
啓一は高木を送ってから部屋へ戻ると、四本目のビールを抜いてひとりで呑《の》みはじめた。しらじらとした蛍光灯《けいこうとう》の光の中で、白いゆかたを着た啓一は、時折りビールを注いだりする以外、身じろぎもせずに坐りつづけていた。その表情は、かつて高木が言ったとおり、とてつもなくまがまがしいものであった。
2
室谷啓一の父親は、昭和二十一年の早春、この麹町の家で自殺して果てた。
自殺の理由がなんであったか、啓一は今もって知らされていない。啓一自身、知る必要がないと、今ではそう思っている。どうせ知って気分のいいことである筈はないし、むしろそういうことは一生触れずにいたほうがいいと、一種の人生の知恵でそう結論している。
だが、自分の性格が暗く陰気なのは、その父の死に原因があると疑い続けているのだ。
「お前のお父さんという人は、いつも何かから逃げているような所があってね。……追われて隠れ歩いてるっていうのか、そんな感じのする人だったよ」
そんなことは滅多にないが、たまさか母親のまつ江が父のことを話すときは、いつもきまってそういうのであった。歴史に興味を持ったり、古代の葬制に関心があったりするのは、多分そうした過去の死と、自分という人間の形成との間の因果関係を、無意識のうちに考えている証拠だなどと思うことも多い。仏壇の位牌《いはい》に刻まれた亡父の命日が、自分の生年月日と一年違いで合致している事実も、そこに恐ろしげな何かの因果が働いているのではないかと思えるのである。
一度その疑問をまつ江にただしてみたが、それは偶然の一致にすぎないと笑いとばされ、そう言えばそうねえ、と逆に不思議そうに顔をのぞきこまれるばかりであった。
だが今、高木から平坂久子の郷里が、多くの自殺者を輩出する特異な村であると聞かされて、自殺という行為を思いたつ体質が、血のつながりの中に伝えられる、一種の遺伝なのではあるまいかという疑問にとらわれはじめたのであった。この持て余すほど陰気な性格は、自殺した父から抜きさしならぬ遺伝としてうけついだもので、変えようもなければ逃げ出す術《すべ》もない檻《おり》の中に自分は生きているのではあるまいかと思うのだ。
だいぶたってから、啓一はふと或《あ》ることに気づいた。
高木は今夜何を言いに自分をたずねて来たのだろう。……お前とならうまく行くかも知れない。そのひとことが言いたくて来たのではあるまいか。陰気同志、死神同志……。
たしかに高木は困った立場に置かれている。身に覚えがあろうとなかろうと、万一平坂久子が自殺でもしたら、彼は迷惑などとは言っていられない立場に追いやられるのだ。
それを救う道がひとつだけある。それが性格が似ていて、それだけに深く理解し合えるかも知れない啓一と久子が、この際二人だけで会う機会を持ち、一挙に恋愛関係にまで発展すればよいのだ。……啓一は腹の底をみすかされたような気分になった。
啓一は最初から平坂久子に関心があった。ひと目惚《ぼ》れというのかも知れない。出来れば大胆に踏みこんで、デートをしたり手紙をやりとりしたり、そういう間柄になりたいと思っていたのだ。だが、所詮《しよせん》彼には無理なことであった。
それに、啓一の心の片隅《かたすみ》には、銀座の≪やす田≫の店のことが根強くわだかまっていた。母親のまつ江や叔父の健吉、老女中のばあちゃんたちは≪やす田≫の店をもりたててくれる女を啓一の妻にしたいと願っていて、その願いを破るような行動に踏み切ることが、どうにもうしろめたく思われてならないのである。
いや、ひょっとすると啓一はそれを自分自身のための逃げ道に使っているのかもしれない。周囲のそんな願いがなくても、彼はやはり平坂久子と夢を語らう機会は作れなかっただろう。≪やす田≫の店が心の底にひとつの責任として感じられるのをさいわいに、恋愛に踏み切れないおのれの不甲斐《ふがい》なさから目をそむけてしまっているのかも知れない。
家業を継ぐ能力もなく、女を口説《くど》くバイタリティーもない……啓一はビールのかすかな酔いの中で、そういう自分を責めはじめていた。
いつも傍観者か、せいぜい諦《あきら》め切った被害者程度の役まわりしか果せない男。……それでもいいと思っている内に、結局は誰かに対し加害者の立場になるのではなかろうか。加害者にはなりたくない。自分の家を守るために他人を傷つけねばならないのだったら、引っ越してしまえばいい。まして商戦に勝ち抜かねばならぬ店を切りまわすなど、どうころんでも自分には出来っこないのだ。……だが、それでは生きて行けるのか。
啓一は堂々めぐりの自問自答をくりかえし、やがてその堂々めぐりは、ひとつのことばに行きついてとまる。
自殺。死んでしまうこと。死を望むこと。平坂久子はひょっとするとそれをやってのけるかも知れないという。代々自殺者を輩出するという村を故郷に生まれ出た久子という女性が、啓一にはたとえようもなく神秘的でロマンチックな存在に思えた。
啓一はふとひとつのありえないロマンスを考えた。久子は高木に恋して自殺してしまう。……高木は冷酷で、久子の死の床へも訪ねてやろうとはしない。そしてその臨終の枕辺《まくらべ》にただひとりみとるのが啓一であった。久子に次の瞬間がない、その最後のとき、啓一は久子への愛を呼びかける。そういう時なら言えるかもしれない。目覚めることがない相手になら、どんな烈《はげ》しい愛の言葉も囁《ささや》けるだろう。久子は逝《ゆ》きかけている。半ば死者となり、半ばうつつに残った魂で、啓一の愛をうけてくれる。去りかけた意識が手をさしのべて啓一の魂をつかみ、啓一は肉体からぬけだして久子の魂とひとつになる。そしてふたりは、あの遠い遠い黄泉《よみ》の国へむかう……。
「悔《くや》しきかも、速《と》くは来《こ》で……」
啓一は低い声でつぶやいた。それは古事記上巻に記されたイザナミの言葉であった。死せる妻を追って黄泉《よもつ》国に至ったイザナギに対し、彼女はそう言って怨《うら》んだのである。
「悔しきかも、速くは来で……」
もう一度つぶやいた。なぜか神話の神と久子のイメージが重なり、それがモノトーンのクローズアップとなって語りかけて来た。
久子を見舞う……。啓一は珍しくそう決心した。死にとり憑《つ》かれながら生きている久子が、自分にとってかけがえのない宝物であるような気がしたからである。
久子を見舞う。
一度はそう決心した啓一だが、翌朝になってみると、やはり腰が重かった。
見舞う……と簡単に言葉できめて、その言葉をみずから信じてしまえば、行きにくいことは何もない。しかし啓一は朝になるとすぐその見舞うという言葉の裏にある本音に気づいてしまった。
結局、口説《くど》きに行くのではないか。そう思った。見舞いにかこつけて久子の状況を打診し、その結果によっては新しい局面に入っていこうという下心があるのだ。最初に見舞うという考え方をしただけに、ひどくうす汚い自分を感じてしまう。
落ちつかぬ思いで時間を浪費し、そのくせ次第に久子に対する感情が強く湧《わ》いて来て、挙句のはては行動に踏み切れない自分がしん底|嫌《いや》になる。
そして夜になった。皇居の南の空は今夜も赤く、幾分風が涼しく感じられる頃になると、ポロシャツとスラックスに着換え、散歩して来ると言い残して、決心のつかぬまま家を出た。足は千鳥《ちどり》ガ淵《ふち》の方向へむかう。
都心でも夏の夜はやはりそれらしく、お濠《ほり》ばたには白っぽい人影がそこここにうごいていた。若いアベックや浴衣がけの中年夫婦、乳母車を押した外人家族。啓一はなんとなく家へ入りそびれているような夕涼みの人々の間を、いつもの陰気臭い表情でゆっくりと歩いた。
自殺。自殺村……。
平坂久子の故郷というのは、いったいどこなんだろう。久子は本当に自殺を考えているのだろうか。
そう考えていたとき、啓一は不意に自分が、今、久子の何に魅《ひ》かれているかに気づいた。
死に介入したいのだ。自殺を考えている人間が抱えている問題を知り、その人間がそれをどう処理し、或いは処理しそこない、どのような姿勢でたたかいに敗れ滅んで行くか、それを見たがっていたのだ。
彼が古代の葬制に関心を持ったのは、その死者の姿勢と、どのような手続きで滅びて行くかを知りたかったからだ。歴史に興味を持つのも、英雄の業績よりは敗者の滅びの姿に魅かれたからである、恐竜やマンモスに魅力を感じるのは、彼らがかつて地上の支配者であったからではなく、彼らの一族があえなく絶滅したからである。
いま啓一はたしかに平坂久子に男性として魅かれている。しかし、そのような相手が死を考えているからこそ、いっそうその滅びの姿を見たいのだ。
ひきとめて、自分のほうへ顔をむけさせるためではない。愛情をもって彼女の死を容認し、滅びるさまを見守ってやりたいのだ。女性としての美しさをたたえるのと同じように、炎をあげて燃え崩れ、美しく滅びるさまをたたえたいのだ。……自分なら、彼女の死を理解してやれるのではないだろうか。
「悔《くや》しきかも、速《と》くは来《こ》で……」
啓一はそうつぶやくと足を早めた。自分のような存在を知れば、久子はイザナミのようにそう思うかもしれない。
彼は半蔵門《はんぞうもん》を曲り、四谷《よつや》へ向って歩きはじめた。いつか一度、仲間とその前まで送ったことのある平坂久子のアパートまで、歩いて行く気だった。なぜかタクシーやバスを利用することを思いつかなかった。彼の考える死は、そのような文明の利器を認めない位置にあるのだ。いつしか啓一は、自分が清浄な白衣《しろぎぬ》をまとった神官のような気持で歩いていた。
彼は平坂久子のすまいの近くへ来ても、いちどもたじろがなかった。最後の角を曲っても歩度はゆるまなかった。約束の時間きっちりに約束の場所へ現われようとしているビジネスマンのように確信にあふれた歩きかたをしていた。両側に家の密集した幅のせまい下り坂を中ほどで右に曲り、その横丁の粗末な木造アパートへ入った。やけに足音のひびく木の階段を登り、廊下の両脇《りようわき》にドアが並んだ二階へ出た。左から三番目……。彼はスピードをゆるめずに進んだ。何かに憑かれていたといっていい、まがまがしいほど陰気な顔でその三番目のドアの中へ一歩足を踏み入れた……。ドアは開かれていたのだった。蛍光灯がしらじらと室内を照らし出していた。啓一はそのせまい入口で、うっそりと立ち止った。顔の色は蒼白《そうはく》で、思いつめたように唇を噛《か》み、両手をきつくにぎりしめていた。
部屋のまん中に女がひとり、入口に背をむけて坐っていた。四帖半ひと間きりの、そのまん中あたりに正座していた。啓一は沈黙したまま、その背中をみつめて突っ立っていた。うしろむきになった女のかげから、うすい煙が右へ流れ出していた。女は身じろぎもせず、啓一も動かなかった。
どれくらいそうしていただろうか。背後の気配に気づいたのか、女が急にふりむいた。青黒く痩《や》せた皺《しわ》だらけの顔であった。老婆は言った。
「おあがりください」
老婆の前には小さな机が置いてあり、その中央に線香が煙を流して立っていた。老婆は畳に両手を突いて、机の正面の座を滑りあけた。啓一は下も見ずに靴を脱ぎ、机の上の線香をみつめたまま、あけられた場所に正座した。
……悔《くや》しきかも、速《と》くは来《こ》で。
「お友だちですか」
「…………」
「静かな行儀のいい娘さんでしたのに」
「…………」
「よくよくのことなんでしょうが、早まったことを……」
「どこにいます」
「はあ、……ああ、久子さんですか。気がついて私が救急車を呼んだときはもう手遅れだったようでした。警察病院ではないでしょうか。さっき主人が電話を受けていたようで、下におりますからすぐ判ると思います」
管理人らしかった。
「遺書は」
「いいえ。なかったんではないでしょうか」
「なん時ごろ」
「救急車を呼んだのは二時間も前だったでしょうか」
……悔しきかも、速くは来で。
とりあえず持ち出したらしい小机の上には、それらしい白布もかけられてはおらず、写真も見当らなかったらしく、かわりに使いこんで艶の出た木櫛《きぐし》が置いてあった。どうやら管理人室の仏壇からでも持ち出したらしい小さな線香立てがひとつと赤い硝子の細い花瓶に、開き切って毒々しい花芯《かしん》が突き出した山百合《やまゆり》が差してあった。
「やあ、どうもどうも」
入口で錆《さ》びた声がした。「とにかくもうびっくりしてしまいましてねえ。ええ、そりゃもう家内とはよく気が合う娘さんで、このアパートの中じゃいちばん親しくしてたんですよ。それにしても無茶をしたもんですなあ。何しろあなた、身寄りたよりが全然ないっていう人ですからねえ。私どももそう聞いてるんで親切にしてあげてたんですが、こうなると困りまさあね。会社のお友だち、と思ったって、日曜日のこってすしねえ。電話したって誰《だれ》もいやしませんよ……。まあ助かったですわい。これでほっとしましたよ」
管理人は入口から膝《ひざ》でずり寄って来ると、老婆と並んで啓一にしん底ほっとした様子で言った。
「間に合わなかったんですよ」
「あ、そうですか。ご存知だったんで……」
管理人は不審そうな顔をしていた。「じゃあ、ナニをする前にあなたに報《し》らせたんですね」
啓一は返事につまった。どうして自分は久子が自殺をすると思い込んでしまったのだろう。なぜああも夢中で歩いて来たのだろう。それが不思議だった。
「余り平坂君についてはくわしく知らないんです。故郷《くに》はどこだったのでしょう」
「ええと、木曾《きそ》だったな」
管理人は老婆を見てそう答えた。
「木曾……」
「入居する時、娘さんおひとりの場合は一応本籍やなんかをうかがって置くようにしてるんです。あの人はお願いしたら、ちゃんと履歴書を書いてくれましてね。そりゃきちょうめんな娘さんでしたから……下にありますからお見せしましょうか。いや、そうだ探して出しとかなきゃな。いずれ警察から言って来るでしょうからな」
管理人はそう言うと腰を浮かせた。
「俺のせいじゃない」
啓一に呼び出された高木は、平坂久子の部屋に坐って蒼い顔でそう言った。
「もういい」
啓一はそれだけ言うと下唇を噛んで考えこんでいる。
「まさか本当に自殺するなんて……」
「お久君のほうの友達に知らせたか」
「うん。できるだけはな。でも、ほとんどが山や海へ出かけちまってるんだ」
「お久君の故郷《くに》が判ったよ」
「あ……」
高木は薄気味悪そうに遺品の櫛をみた。
「その櫛は多分|藪原《やぶはら》のお六櫛というんだろう」
「お六櫛……」
「木曾の民芸品だ。手ごろな木曾みやげだから、行ったことがあれば誰でも知ってる」
「じゃあ、あの……例の村は木曾にあったのか」
「例の村」
啓一は意地悪く問い返した。
「自殺村という話さ。本当だったのかな」
「…………」
啓一は答えない。だが彼は確信していた。代々自殺者が輩出するというその村のことは、彼にとって疑いようもない事実になっていた。啓一はどうしてもその村へ行かねばならぬ宿命のようなものを感じていた。
「とにかく弱ったよ」
高木は力なくつぶやく。
「お前のせいなんかじゃない」
「そうか、信じてくれるか」
「ああ」
「みんなに証言してくれよ」
「なんでもしてやる」
「助かった……」
高木は現金に笑顔で言った。「それにしても、なんで自殺するほど思いつめちまったんだろう」
「出が出だからな」
「え……」
「自殺村の出身だからさ」
高木は本気か、というように啓一を見た。
「おいおい……」
「ほんとさ。さっきアパートの管理人に彼女の出身地を書いた書類を見せてもらった。木曾と言えば長野県だが、彼女は岐阜県だ。岐阜と長野の県境で、地形的には木曾といったほうがいいらしい。地図を見ないとくわしいことは判らないが、中津川の北に当ることは間違いない。多分|北恵那《きたえな》鉄道の終点のほうじゃないかな」
「なんという名前の村だ」
高木はおぞましげに訊ねた。
「湯津石《ゆついわ》村」
「ふうん……」
「知らないらしいな」
「何を」
「湯津石《ゆついわ》という名の意味をだ」
「どういう意味だい」
「古事記にある。イザナミはイザナギの妻として天地創造を行なう。そしてさまざまな神を生み、火の神であるヒノカグツチを生み落したところで、その火のために女陰《ほと》を焼かれて死んでしまうのだ。イザナギは妻の葬式を済ませたあと、死を招いた子であるヒノカグツチを十拳《とつかの》 剣《つるぎ》 で斬ってしまった。するとその刃についた血が湯津石村にしたたって、そのたびごとにまた神々を生じさせたのだ。血から生じた最初の神は石析神《いわさくかみ》という」
高木は要領を得ぬ顔でうなずいている。
「それで……」
「そういういわれがあるのさ。そのあとイザナギはイザナミを追って黄泉《よみ》の国へ行くことになる。……ところで俺の死んだおやじは、室谷の家へ養子婿に入った男で、もとの姓を石析《いわさく》といった。姓としては難読の部類なんでずっと記憶にあるんだ。しかも故郷はお久君と同じ湯津石村……」
「おやじさんは自殺だろ」
高木はほとんど悲鳴に近い声で言った。
「間違いなく自殺村だ。そんな気がする」
「冗談じゃないぜ」
「古事記では、この世と死者の国である黄泉《よみ》の国が地形的につながっているとされている。平坂久子の出身地を知ってから思い当ったんだが、その死者の国との境は黄泉比良坂《よもつひらさか》というんだ。湯津石村には古代人が関係しているのはたしかなようだ。きっと何かがあるんだよ。俺は行ってみる。お久君の骨を彼女の故郷に埋めてやるにも、そうしたほうがいいんだ。なぜそんな地名があるのか、なぜ自殺村といわれるのか。俺は絶対に調べあげてやるつもりだ。だって、そこは俺自身の故郷でもあるんだからな」
高木はそう言う啓一を、まるで幽鬼を見るように、こわごわと身をひきながらみつめていた。その眼を見かえして、啓一はうっすらと冷たい笑いをうかべながら言った。「そうさ。死神が黄泉の国を探しに行くんだ」
しばらく身をすくませていた高木は、やがてケタケタと笑い出した。
「行ってみるがいい。それでお前の陰気な性格がどうにかなるなら、こんなめでたいことはない。そうさ、お前はたしかに死神みたいな奴だ。そうじゃないか、ちゃんとお久の自殺を嗅《か》ぎつけてとんで来るんだからな」
冗談のつもりで言っているに違いはないが、笑顔もこわばり、声もふるえ、だいいち笑い声がいかにもとってつけたようにうつろにひびいていた。「断わっとくが、俺はついて行かないよ」
最後にひどく真剣な表情でそうつけくわえた。
「判ってる。さそいもしないさ。こいつは室谷啓一個人の問題だ」
いつの間にか車の音も間遠になり、夏の夜風が強まっていた。
すぐ窓の外にそびえる高いビルのくろぐろとした影が、その時のふたりには遠く離れた木曾の山かげに思えた。
「太平洋をヨットで横断する野郎だっているじゃねえか。俺たちゃ若いんだ。冒険してみなくてはな……。お前がやろうとしてるのも、ひょっとすると青春を賭《か》けた冒険のひとつなんだろう。お前らしくていいや」
高木はこの夜はじめて、親友らしい思いやりの眼で啓一をみた。
3
ガラにもなく、やみくもに突進している。
室谷啓一にとってそんな感じの日々が過ぎて行った。
彼は生まれてはじめて、仲間の中心になって積極的な行動をしていた。家はまずまず豊かなクラスで、ひとりっ子であり、しかも読書以外に遊びも知らぬ生活をして来たから、いつの間にかいや応なく貯金が増えている。
そのたくわえを派手にばら撒いて、どうやら、平坂久子の葬儀のかたをつけ、一席設けて高木の立場の釈明までしてやった。
だが、久子の死について、母親たちには何ひとつ喋らなかった。啓一はすべて自分の力で答えを探しあてたいと思っているのだ。父の死の理由や、その故郷のことについて母親に説明されたりすると、その答えはひどく生臭く、しかも憎たらしい常識でかたづいてしまうようなおそれを感じたのだ。
突拍子もない謎が秘められている筈であった。そうでなくてはいけない筈であった。だからすべて無言でなければいけないと思えるのだ。喋れば秘密が穢《けが》れる。どんな神聖な事実も、穢れた言葉によって人に伝われば、その実体はかき消えて、俗人のさかしらな知恵で説明し得る、ごくありきたりのものに変えられてしまうのである。すべての奇蹟が、言葉によって伝えられたときそのような消え方をしたのである。
啓一は会社からできるだけ長い期間の休暇をとりつけて来ると、家族には夏休みと称し、ひとりひそかに平坂久子の遺骨をいだいて、新宿駅から中央線に乗りこんだ。新幹線で名古屋からまわるコースもあるのだが、啓一は久子がもし帰省するとすれば、必ず新宿駅から中央線を利用する筈だと考えていた。
汗くさい登山客で混《こ》み合う列車にのりこむと、白い骨ばこをだいた啓一はいやおうなしに目立つ存在になった。あたりを無視したような若い男女の態度に癪《しやく》にさわって、ためしに思い切り陰気くさく坐っていると、驚いたことに効果はてきめんで、いつの間にか若者たちは低声で語りあっている。二時間もたつと、啓一のいる座席のあたりはひえびえとした雰囲気につつまれ、彼がその一劃《いつかく》のあるじのように見えはじめた。啓一は夜汽車の窓ガラスにうつる自分の横顔を眺め、なるほど俺は死神だと、長いあいだただの陰口と思いこんで来た仇名《あだな》を、苦笑しながら認めていた。
木曾へは何度か足をむけたことがある。たいていは、南木曾《なぎそ》、妻籠《つまご》、馬籠《まごめ》とまわるおさだまりのコースだが、実は木曾の古道を辿《たど》ってみたいと思っていた。ことに木曾川の西側を、田立《ただち》、柿其《かきぞれ》、殿《との》、小川、才児《さいちご》、二子持、黒沢、二本木《にほんぎ》、橋詰、幸沢、菅と走る古代の道は、今では想像もできないようなルートだけに、もし歩ければとてつもないものに出くわすような気がしていた。
だが、いま啓一が向おうとしているのは、それを更に西にはずれた、いわば木曾の行きどまり、美濃《みの》国境の奥三界岳の近くなのであった。南に竜神の滝、田立の滝という秘境を持ち、北に真弓峠、卒塔婆山、東は阿寺山、夕森山にかこまれるそのあたりは、飛騨や木曾谷に溢《あふ》れるハイカーも近寄らず、まして湯津石《ゆついわ》村など知る人もないはずであった。
中津川で北恵那《きたえな》鉄道にのりかえた啓一は、付知《つけち》川をさかのぼって終点の下付知に至り、更に上流の付知町へバスで向った。
その日は付知の小さな旅館に一泊し、翌日はあいにくのどしゃ降りの中を、日に二便しかないというバスに揺られて東の山なみへ入って行った。
ひどく揺れるバスには四人の乗客がいた。三人は土工といった風体の屈強な男たちで、一人は農夫らしい老人だった。
その老人が恐る恐る、といった様子で啓一が胸にさげた白い骨ばこを気にしながら、どこへ行くのかと話しかけて来た。
「終点です」
そう答えると、急に人なつっこい笑顔をみせ、自分も倉戸《くらと》の者だと言った。
「倉戸は昔から倉に戸という字を書いたのですか」
啓一が訊ねると、老人は丁寧に掌へ指で書いてみせた。
「くら、と……昔からこう書きます」
それっきりまた沈黙が続く。啓一は昔から倉戸ではあるまいと考えているのだ。倉戸は闇戸《くらと》に違いない。湯津石村を地図で発見して以来、彼はそう信じている。
此の大山津見の神・野椎《のつち》の神の二神、山野に因《よ》りて持ち別《わ》けて生む神の名は、天之狭土《あめのさづち》の神、次に国之狭土の神、次に天之狭霧《さぎり》の神、次に国之狭霧の神、次に天之闇戸《あめのくらと》の神……。
えんえんと神々を生み続けるイザナギ、イザナミが、その終り近くに作り出す天之闇戸《あめのくらと》の神名こそ、これから行く倉戸に本来あてられるべき文字なのだ。闇戸の神とは谿谷《けいこく》の神なのである。そして根片須《ねかたす》、道反《ちかえし》、土岐墓《ときはか》の三部落からなる湯津石《ゆついわ》村は、まさに深い谷あいの村であった。
土岐墓《ときはか》を土地の人々は美濃土岐氏の遠祖の墓所と信じているらしい。しかしすべてを古事記から発想しようとする啓一は、それを時量師《ときはかし》だと考える。黄泉《よみ》の国でイザナミの誓約にそむき、彼女の蛆《うじ》のたかる死体を見たイザナギは、辱《はず》かしめられて怒った妻に追われのがれ、その穢れを祓《はら》うためにさまざまな呪法《じゆほう》を用いた。時量師《ときはかし》はその折り生まれた時の神である。また道反《ちかえし》はそのものズバリ、追われたイザナギが追手を撃退するために黄泉比良坂で道を塞《ふさ》いだ大岩である。そして根片須《ねかたす》こそは、地底の堅い砂の国、根之堅州国《ねのかたすくに》すなわち黄泉《よみ》の国そのものの名なのである。……あらゆることが、古事記中の冥界《めいかい》説話に結びついて来る。啓一自身も自分のこじつけすぎに気づいて苦笑してしまったが、美濃という国名すら、上にひと文字ヨを加えれば、ヨミノクニになってしまうのではないか。不思議なことに、峻嶮《しゆんけん》な飛騨《ひだ》、木曾の山岳地帯に縄文《じようもん》遺跡が密集し、その分布は平野部よりずっと濃いのである。目的地に近づくに従って、何かあるという啓一の確信はますます強まって行った。
「じきに倉戸です」
老人が急に口をきいた。「あいにくの降りで見えませんが、この正面に高いのが奥三界岳、そのすぐ左にちょっと低いのが月読山《つきよみやま》でずっと左が真弓峠といいます」
「月読《つきよみ》ですって」
啓一は驚いて思わず声を高くした。老人はキョトンとしていた。
黄泉の国の穢れを祓ったとき、数多くの神々が生じたが、イザナギが左の目を洗ったとき生まれたのが天照大神で、右目を洗ったとき生まれたのが月読《つくよみの》 命《みこと》 、鼻を洗って生まれたのが建速須佐之男《たけはやすさのを》の命とされている。月読《つくよみ》は夜の支配者として、天照《あまてらす》に対応しているのだ。月弓《つきゆみ》とも記されるから、真弓峠はやはり月読《つくよみ》に関係している地名なのだろう。
「どなたさまで……」
バスの老人はたまりかねたらしく、とうとう遺骨の主を訊《たず》ねて来た。
「知り合いの娘さんです。こちらの生まれなので……」
「それはそれは」
老人は儀礼的に合掌した。「で、どこの娘さんで……」
「湯津石《ゆついわ》村の人です」
「湯津石の」
老人は鸚鵡《おうむ》がえしに言った。ちょっと異様な表情であった。
「湯津石村字|根片須《ねかたす》というと、これからどう行けばいいのですか」
老人は揺れるバスの中で立ち上ると、よろけながら座席ひとり分遠のいた。
「そこへ行きなさるおつもりか」
「ええ」
「それはいかん。やめなされ」
「どうしてです」
「人がおらんのです。なあ……」
老人は土工たちにあいづちを求めた。土工たちは奇妙な憎しみの表情を泛《うか》べてうなずく。
「家がないのですか」
「いや、家はたくさんある。家のあとはな」
「家のあと……」
「みな死にたえてしまったのです」
「それは困ったな。では湯津石村のほかの部落は」
すると土工の一人が大声で答えた。
「似たようなもんだぜ。湯津石村はみんな死んじまいやがる。生きた人間が住んでるのはもう何軒もないよ」
「だいいち、この降りで倉戸谷へ入って行けるものですか。道反《ちかえし》までも行けはせんでしょう」
「でも道はあるんでしょう」
「道はあるが、今は川と言ったほうがいい。降れば道が川になってしまいます」
「降らなくたって今日は無理さ。この時間じゃ倉戸谷のまん中で夜になっちまうよ」
「弱ったな。倉戸には旅館はありませんか」
「そんなものあるわけがない」
バスの四人は失笑したようであった。
「でも、どうしても行かねばならないのです」
啓一は遺骨の箱を撫《な》でながら言った。
「どういうご事情かしらんが、あなたはえらい役を背負われたようじゃ」
「せめて晴れていてくれれば野宿でもかまわないのですがねえ」
老人は大きく舌打ちをした。
「仕方ない。これも何かの縁でしょう。儂《わし》の家へ泊まりなされ」
「泊めて頂けますか」
「申して置くが、この近在の者は湯津石の者を好いておらんのですぞ。湯津石の者といさかいをすれば、七生たたられるというくらいなものでのう」
「なぜですか。執念深いのですか」
「執念深い……それなら何もそれほど恐れはせんですむ。その反対じゃよ。ちょっとあしざまに言われただけで、くびれ死んでしまうのが湯津石もんの恐ろしい所じゃ」
「くびれ死ぬ……」
「こうじゃ」
老人は両手を輪にして首にあてがい、首つりの真似《まね》をした。「湯津石もんは先祖代々何かというと自分から死に急ぐのじゃ。崖《がけ》からとび降りるわ、川へ身を投げるわ、木の枝で首を吊《つ》るわ、のどを突くわ……そりゃもう話にもなにもならん連中じゃ。いまもそれで困り果てとりますよ」
県こそ違っても同じ木曾の中で、すぐ近くの坂下、田立、妻籠、南木曾といった所が観光ブームの恩恵を受けているのに、このあたりは昔ながらの山間僻地《さんかんへきち》として孤立していた。しかし、土地の人々には奥三界岳と月読山にはさまれた倉戸渓谷が、木曾のどの名勝にも劣らぬものを持っているのをよく知っていた。奇岩、怪石が到る所にひしめいていて、奥深い洞穴《どうけつ》や死んだような瀞《とろ》、断崖《だんがい》、そして数え切れぬほどの滝を有する秘境なのである。入口はせまく奥深く、人を総毛だたせるような、それでいて思わずひきこまれてしまう不思議な雰囲気を持っているのである。
「やまいで一度死にはぐった者がいうには、あの世とは倉戸の谷のような所じゃったそうな。いや、それが嘘かまことかは別にして、行けばおわかりになるが、まさしくあそこは死神のすまいですわい」
老人は肩をすくめて言った。
湯津石周辺の人々は、その天下の奇観を放置しておくテはないと考えた。新しい観光ルートを作るべく、まず手はじめに付知《つけち》町から倉戸へ至る自動車道路の建設に着手し、同時に倉戸渓谷の周遊歩道を整備しようとした。ところが、そこで人々は意表をつく反対運動に直面してしまったのだ。
渓谷にある湯津石村村民がそれに反対の意思表示をし、何回かの話合いで道路建設計画を成立させられてしまうと、一人また一人と自殺をはじめたのである。
道路建設によって彼らの生活が極端におびやかされた事実は何もない。また、彼らの死が道路建設に抗議した結果であるという証拠も全くない。ただ、今日一人、明日二人と、思い思いの方法で自殺していくのだ。
しかし湯津石村周辺の人々は、それが彼らの抗議であることを知り抜いていた。昔から、湯津石村の人々は、心の平静を乱され、その情緒が好ましくない方向へ傾けさせられると、実に呆気《あつけ》なく自殺し続けて来たのであった。人々は道路建設に形を借りて、湯津石村虐殺を押し進めているような、理屈に合わない加害者意識に悩みはじめ、遂《つい》にはそのように生命をたやすく放棄する相手を、まるで別世界から来た化物のように恐れ、忌《い》み嫌《きら》うようになってしまったのだということであった。
バスで会った親切な老人の家へ泊めてもらった啓一は、その夜老人から倉戸谷の様子をいろいろ教えてもらった。
老人は七十を越えた高齢であったが、この土地に住んでもうそんなにたつのに、実際に谷へ足を踏みいれた経験は何度もないらしかった。
倉戸川が作る倉戸渓谷は、奥三界岳と月読山のあいだを、ほぼ真東から真西にむかってひらけている。麓《ふもと》の倉戸村から倉戸川をさかのぼって行くと、次第に両側へ山が迫って来て、複雑に谷間を蛇行《だこう》する倉戸川が右に流れている。道はその川岸にそってついているが、道といっても岩の間を縫う迷路のようなもので、急流に押し流され、角の丸くなった玉砂利のような小石から、五《いつ》かかえ十《と》かかえもある大岩がごろごろしている荒涼たる河原なのだそうだ。そしてその右手、つまり奥三界岳側は、そそりたつ絶壁で、山上から流れ落ちる水が細い数本の滝となっている。
櫛滝《くしだき》というのだそうだ。櫛滝から先、川は左の月読山側へ大きく曲り、ちょうど谷を横切るかたちになる。だから増水すると水は本流から溢れ、広いその入口の河原いっぱいに流れだす。したがって雨が少し激しく降れば道は河原ごと水没し、谷へ入ることは不可能になってしまうのだ。
左へ曲って月読山の山腹にこすりつけ、その基部が深くえぐり取られたあたりに、第一の奇観がある。川の上へ庇《ひさし》のように突き出した月読山の岩肌《いわはだ》にすがりつくようなかたちで道があり、川幅はそこで急に膨れあがって深い瀞になっている。そして瀞とそそりたつ岩壁のあいだに、道反岩《ちかえしいわ》と呼ばれる巨大な岩塊が居すわっているのだ。有名な松野湖の鬼岩など、まるで問題にならぬ奇観だという。
道反岩を過ぎると、そこはちょっとした谷がひらけていて、湯津石村第一の部落、道反《ちかえし》である。ずっと左岸をたどって来た道は、その谷間の中央あたりで川を渡り、右岸へ向うという。下瀬《しもせ》と呼ばれる深い瀞に流れ込む川は、その辺りでいちじるしく川幅をせばめ、しかもほとんど一直線の水路となっている。そのため水は恐ろしいほどの速さで流れ、そのせまい直線水路に、まるで誰かが作りつけたような円柱形の岩が飛石のようにつらなっている。
道はその石橋と呼ばれる飛石をつたって右岸に入るのだ。右岸には、道反の民家が点在しているという。
道反の谷間は上流で両側の山が再び迫って、ひょうたんのようにくびれて終る。右岸の崖に辛うじて人ひとり通れるだけの道が刻みつけられ、左岸にはさっきの道反岩に似た千引岩《ちびきいわ》が、くびれた谷を塞ぐ役を果している。
その難所を過ぎると、いよいよそれが根片須部落である。右岸が片須原、左岸は上片須原といい、中央を流れる倉戸川は怪奇な大岩の間を幾重にも曲りくねり、左右の山からいくつかの滝が、思い思いの奇景を演出しながら谷へ落ちこんでいる。
老人は道反までしか行ったことはないらしく、千引岩の先については、以前誰かから聞いたうけ売りにすぎなかった。その奥の谷には九つの大岩があり、そのひとつは根の岩と言われて何かの信仰の対象になっているらしいこと、残りの八つの岩はそれぞれ八柱の雷神の依代《よりしろ》とされ、その内のひとつに女陰岩《ほといわ》と呼ばれる世にも妖《あや》しげな大岩があるということであった。上片須原の奥は上瀬《かみせ》といわれて、谷の入口の下瀬と対をなした瀞である。そして第三の部落|土岐墓《ときはか》がその対岸の狭い土地にあるのだ。倉戸辺に古くからある伝承で、その上瀬《かみせ》の瀞の右岸に黒岩という最後の奇岩があり、黒岩の背後は人間ひとりが横になってやっとすり抜けられる、ごく狭い通路があって、それが一直線にえんえんとつらなって、山の向う側にある阿寺川源流の小川に行きつくことができるとされている。ただし、湯津石村の人間以外でそれをたしかめた者はいないし、その岩の通路を実際に見た者もいないということであった。
「ところで、さっきから気になっているのですが、あの神棚《かみだな》の脇に飾ってある物は何でしょうか」
黒ずんだ板敷きの部屋で、啓一はうすぐらい電灯の光にぼんやりと浮きあがった、妙な人形を指さした。
「そうすると指の先から腐ってしまいますぞ」
老人は半ば冗談めかして、啓一が指でさし示すのをたしなめた。
「あれは随分古くからこの辺りの家に伝わっておるものでな、……まあ、正体を言えば土偶なのじゃが」
「土偶……」
啓一は立ち上ってその下へ行き、神棚の土偶をみあげた。「下へおろして拝見していいですか」
「いいじゃろう」
そっと背をのばしてとりあげ、電灯のま下へ置いて眺めた。
土偶は高さ約三十センチ。バランスのとれたプロポーションで、踏んばった両足でずっしりと立っている。
「どういうものかご存知かな」
「これは……たしか縄文後期の。ええ、縄文後期のものにそっくりです。東北の猿《さる》ガ森や鼻ガ岡《おか》の土偶と同系統のものでしょう」
「ほほう……値打ものかのう」
「さあ、専門家じゃないとはっきりお答えはできないでしょう。しかし、これは大きい。とても大きい。もし本当に縄文期のものだとすれば、やはり相当価値のあるものでしょうね」
その土偶は巨大な両眼を持っていた。しかも眼は閉じられていて、上下のまぶたがまるでしっかりと結んだ唇のようであった。
「どこで発見したんでしょうね」
「さぁ、儂らにも判らんのです。言い伝えによると、むかしよく畑を荒しに谷から出て来て、村人につかまってしまったのじゃそうなが……」
どこかこの辺りに縄文期の古墳かなにかがあるに違いないと、啓一はその濃く艶々とした土偶を指の腹で撫《な》でながら思った。
「倉戸の谷といい、この辺りは面白いところですねえ」
「そう思いなさるか、儂らもそう思うのじゃ。観光道路さえつければ、この辺りもずっと栄えるはずじゃよ」
老人はそう言って嬉しそうな顔をした。
「雨もやんだようですね」
「そのようじゃ。これならあなたも、明日は安心して谷に入れますじゃろう」
老人ははげますような口ぶりで言ったが、その表情はなぜか啓一に対して恐れをいだいているようであった。「儂などはこの歳じゃから、とても行く気力はないが……」
老人はそう言って横を向いた。
4
倉戸村から川ぞいの道を、白い遺骨の箱を胸にさげて室谷啓一が谷へ向っている。
シラカシ、アラカシ、サカキ、ツバキ、モチノキ、アオキなどの広葉樹の中に、ヒノキ、サワラ、スギ、アカマツ、モミ、ツガ、トウヒ、イチイなどの針葉樹が顔をのぞかせている。川岸にはネコヤナギ、マダケ、カワラハンノキ。そして岩の間にはコリヤナギ、イワチドリ、イワヒバの姿も見える。
きのうの雨が嘘のようにあがって、渓流の音のする道に、ウラクロシジミ、オオムラサキなどの蝶が舞っている。黒と黄の毒々しい縞模様《しまもよう》は、多分この辺りに多いギフチョウなのだろう。
吹く風は雨あがりのせいばかりではなく、ひどく爽快《そうかい》であった。かんかん照りに照らされても、風さえあれば汗を感じないですむ。日蔭《ひかげ》へ入ればひんやりと冷たいくらいで、幾分増水して強くなった流れの音も、こうした静かな山あいで聞けば天然の妙音であった。
が、やがてその流れの音に混って、遠くから更に騒がしい水音がして来た。谷の入口の右岸にあるという櫛滝の音であろう。
道の脇に大きなま新しい石碑が立っていて、それが啓一の足をとめた。
是《これ》より倉戸峡。
新しい碑にはそう彫りこまれていた。観光開発の具体策が、まず木曾街道にあるのと同じ碑をまねるのでは先が思いやられると、啓一は苦笑しながら歩きはじめる。何年かすれば、ここも飛水峡とか横谷峡のような先輩そっくりに演出され、コカコーラやバヤリースの瓶が転がるただの名所にされてしまうのだろう。……眼前にのしかかって来る山容をみあげながら、啓一はそう思った。
老人の説明は正確であった。左岸をたどる道は次第に土の色が薄く失われ、やがて石ころだらけの河原に変る。
その頃には櫛滝の音が轟々《ごうごう》ととどろき、それがのしかかる山肌にこだまして、身のすくむような心細さを味わわせる。
櫛滝は名のとおり、幅広く厚味のない瀑布《ばくふ》であった。イザナギの髪を飾っていた櫛の一本が、湯津津間櫛《ゆつつまくし》という名だったことを思い出したのは、滝を通りすぎてふりかえったときであった。啓一はそのことで、これから進む秘境の一歩一歩が、ひどく価値あるものに思え、一木一草をもみのがすまいと心をひきしめた。
なるほど、倉戸川は谷の入口を塞ぐように、右から左へ斜めに横断している。大小の髑髏《されこうべ》をぶち撒けたように、白くつるりとした石塊が河原を埋めつくし、川に近づくと飛水峡の甌穴《おうけつ》に似たおとし穴が口をあけていた。
思ったよりずっと危険な道だ。……啓一はそう感じて歩度をゆるめた。次から次へ、石塊の白い肌が現われて、行手はまるで見えなかった。道はその石のまわりをぐるぐるとめぐり、啓一は自分が白い色しか見ていないことに不安を感じはじめていた。彼は時折りその不安を消すために、手ごろな石塊によじのぼってあたりを見まわしながら進んで行った。
左側、月読山の緑がどんどん近づいて来て、やがてこの白一色の河原も終るのが判った。道はまた川岸につき、不気味な青さの下瀬《しもせ》の瀞《とろ》が見えた。
ここでは水が死んでしまっている。……啓一はそう思った。指をつければ、ねっとりと粘るのではあるまいかと思えるほど、その瀞は深くとどこおっていた。餌を呑んだ蛇のように膨れあがった瀞の向うに、うす茶色、というよりはベージュに輝く広い岩棚があり、そこにまったく唐突に家が何軒か建っていた。
まさにそれは唐突に建っていた。花崗岩《かこうがん》らしいまっ平らな岩盤の上に、焦茶にくすんだわらぶきの家が、模型のように置かれてあったのだ。乾いて白く照りかえす岩のテーブルの上で、それは余りにも現実ばなれのした民家のたたずまいであった。人の気配はまったくない。もしそこに人が動いているのを見たとしたら、啓一はきっとゼンマイ仕掛けの人形たちだろうと思ったに違いない。
対岸に見とれていた啓一は、やがて気をとり直して前進した。すると今度は、彼の進路に不気味な巨岩がたちふさがっていた。
「鬼岩以上だ……」
啓一は声に出して言った。こぶだらけのフランスパンの怪物だ。左側は百メートル以上も垂直に切り立った月読山の岩肌で、川と崖との間が三メートルほどの幅にせばまった先に、それはまるで栓《せん》をしたように頑張《がんば》っている。爪をたてる余地さえない、つるつるした花崗岩の露頭で、こぶの間には奇型児のようなアカマツがへばりついて枝を張っている。花崗岩の節理にそって風と水との浸食が進み、節理塊の稜角《りようかく》をまるめてしまった結果なのだろう。
道は崖と巨大な道反《ちかえし》 岩の隙間《すきま》にもぐりこみ、ひと一人やっと腰をかがめて抜けられる空間を通って向う側へ続いていた。左岸は鬱蒼《うつそう》と繁る月読山の落ちこんだ斜面で、そう面積はないが人跡未踏の原始林といった趣があった。
昼なお暗い密林を縫って、細々とつづく道を辿《たど》るうちに、啓一はひとつの異常に気がついた。
鳥、けもの、昆虫など、いきものの気配が全くないのである。谷の入口まではたしかに蝶もみえたし蜻蛉《とんぼ》もとんでいた。虻《あぶ》の羽音を耳もとで聞きもした。……それが絶えてしまっている。啓一はそんなことはあり得ない筈だと、道の両側に注意を払いながら進んだ。しかし、小鳥の啼き声ひとつしない。
クロマツ、アラカシなどの中に、マダケの群生している一劃があり、それが風に鳴って不吉なざわめきを聞かせている。
啓一が巨大なヒノキの下をとおりすぎようとしたとき、道にある何かを踏んだのに気づいて立ち止った。右足をずらせると、履きふるしたわら草履の片方であった。
腰をかがめてひろいあげ、鼻緒をつまんで何気なく上をみた啓一は、ギャーッという叫びをあげてとびのいた。
頭の上に二本の足がぶらさがっていた。異様に膨れあがった中年女の脛が、ゆらりゆらりと揺れているのだ。
素直に伸びた巨大なヒノキの一番下の枝……といってもヒノキのことで、とてつもなく高い所にあるのだが、そこへ二本に束ねた荒縄《あらなわ》をひっかけて、その女はくびれ死んでいた。異様に長く伸びてしまった体……。死んでから、もう何日もたっているらしい。
どうやってそんな高い枝に縄をかけ、どうやってその輪に首を通したか、あたりには彼女の縊死《いし》を補助する道具は何も見当らなかった。
啓一は夢中でその場をのがれた。樹々の間を駆けに駆け、息を切らせてやっと陽の光の中へ出た。
「きのうはふたり、きょう三人……湯津石もんはわれがちに自分から死んで行きますのじゃ」
老人が言った言葉は嘘ではないらしい。啓一は川岸の石に腰をおろすと、ふるえる手で煙草をまさぐり、四、五本もマッチを無駄にしてから、やっとひと息深く吸いこんだ。
「お久君。なぜなんだい」
啓一は心細さをおさえるために、遺骨の箱にむかってそう問いかけた。しかしそれに答えてくれたのは、噴流となって狭い一直線の水路を下瀬の瀞にとんで行く、冷たい川の音だけであった。
老人の話にあった石橋という名の飛石群は、あつらえたように急流につらなって、苦もなく啓一を対岸に運んでくれた。
着いた場所は道反《ちかえし》 部落で、さっき向う岸から眺めたとおり、平坦なベージュのステージに建ち並ぶ、わらぶき民家のオープンセットであった。掌で触れてみると、そのステージは直射日光にさらされて、かなり温度のあがった花崗岩である。すべすべと、部落全体が掃ききよめたように、塵ひとつ見当らなかった。
啓一は硬い岩床に靴音をひびかせながら、こわごわ民家をのぞいてまわった。半ば覚悟していた死体はなく、ただその中の二軒の入口に、明らかに血潮の跡と判る黒ずんだしみがとび散っていた。
奥三界岳の山腹は、基部が部落の岩床と同じようなつるつるした花崗岩で、それが約二十メートルほどの高さでつづいた上に、草や樹木が密生して山頂に至っていた。そして、その植物の最下層は、山百合でいっぱいだった。
家々のわら屋根にも、その山腹から飛んだらしい山百合が群生していた。もちろん川ぞいの家はそれほどでもないが、山側の屋根はわらの地が見えないくらい山百合が繁っていて、それがまた今をさかりと咲き乱れている。啓一はこのように密生した山百合を見たことがなかった。
「お久君の部屋にもあったな……」
家を頭からしゃぶりつくそうとしているかのような山百合におじけをふるい、啓一は元気づけに遺骨に語りかけた。いまや、彼の唯一の友は、ゆすればカラコロと鳴る平坂久子の白骨なのであった。
死に絶えた部落をあとに、啓一はさらに倉戸谷を進んだ。道反の谷は直線水路の起点で終り、そこはさっきの道反岩と同じような難所になっていた。
両側の山が握手するように、そこで互いに腕をのばし合っているのである。川はその中央を流れ、対岸に道反岩をひとまわり小さくしたような岩がそそり立っている。
それは千引岩《ちびきいわ》と言い、左岸路が石橋飛石群をつたって右岸へ渡らねばならない理由になっていた。川と月読山の間を完全に塞いでしまっているのだ。
これは明らかに人間の手が加わった道であった。谷へ張り出した奥三界岳を辛うじて削り取り、一歩間違えば渦まく急流に転落死は確実という、危険な山腹の道になっている。
轟々と大音響をとどろかせるのは、その足もとの急流ばかりではないことが、進むうちに判って来る。千引岩の裏側に、月読山からかなり大きな滝が落ちているのだ。そして、山腹の岩を削った隘路《あいろ》が突き当るのは、道反岩の二十倍もある、丸っこい大岩塊であった。老人に大岩という名を教えられて来たが、大岩山とでもいいたいほどのスケールである。隘路はそこで終り、安全な平地の道を山ぞいにまわりこむと、啓一は思わず嘆声をあげた。四十戸ばかりの民家が整然と並び、その間を直線道路が結んでいたのである。
今度はベージュのステージではない。暗灰色の地面であった。うねうねと曲りくねった倉戸川ぞいに、入口の大岩をはじめとして、大小さまざまな岩塊が、その頂きにグリーンのベレーをかぶせたような植物の茂みをのせて散在していた。そして上流と下流に、ふたつの短い吊り橋が見えている。対岸にふたつ、こちら側にふたつ、ゆたかな水量で落ちる滝があり、谷へ落ちた水が倉戸川へ注ぐ支流を作っていた。
「おおい……」
啓一は夢中で叫んだ。とにかく人に会いたかった。だが眼下にひろがる根片須《ねかたす》の家々は、しずまりかえって誰も出て来ない。
啓一は不安にたえられず、部落へ向って道を走りおりた。きちんと区画された道路へ出て、また大声で人を呼んだ。
「おおい、誰もいないのか……」
彼は手近の家から一軒一軒のぞきこんでまわった。……気配もない。
「おおい、根片須の人。平坂久子さんの親類の人。僕は石析《いわさく》五郎の息子なんです。……根片須の人。出て来てください」
啓一は声をかぎりに叫んでまわった。
「おおい……おおい……」
いつの間にか夕風が立っていた。陽は月読山の向うに落ちて、けむるような夕闇《ゆうやみ》がしのび寄っていた。啓一は焦った。なぜか、ここで夜を迎えては危険だと思った。
それは夢中になっているうちにも、無意識に数々の疑問をとらえた啓一の理性が、強い不安という形で彼に警告を発していたからであろう。
おかしい。変だ。
啓一はやつぎばやに考えはじめた。ここも道反《ちかえし》のベージュのステージと大差ないらしいのだ。区画された道は、どれも踏みかためた道ではなく、線を地面に掘りこんだようなものである。家々の間に草木は一本もなく、柔らかい土のような色に欺《だま》されてしまったけれど、ここもまた硬い岩床なのであった。しかも山ぞいの家々の屋根には、あのまがまがしい生命力を誇示した山百合が、家を貪《むさぼ》り啖《くら》う悪魔のようにとりついて咲き乱れているのだ。
そうだ、たしか老人はこの右岸を、根片須《ねかたす》の片須原《かたすはら》だと言っていた。とすると……啓一はあわててしゃがみこみ、足もとの岩床から小さなかたまりを引きはがした。
「砂岩だ」
啓一は叫んだ。
妣《はは》の国、根之堅州国《ねのかたすくに》に罷《まか》らまく欲《ほ》りすれば……。イザナギに海原の神を命じられたスサノオは、それを嫌って母イザナミを恋したった。その時彼の母イザナミはすでに黄泉《よみ》の国にあり、黄泉戸《よみと》の大神となっていた。
妣の国、根之堅州国……亡き母のいる国、地底の堅い砂の国。ここは名の示すとおり、根之堅州国なのだ。俺はいま黄泉の国にいる。飛騨、木曾にかけての地質のベースは、二億ないし五億年前に生じた秩父古生層の、粘板岩や砂岩なのだ。
見あげれば、山にかこまれて空は丸い穴のようにあった。暮れなずむ夏の夕空は、まだ灰色に赤味を残し、ぽっかりと丸く頭の上に抜けていた。
……悔《くや》しきかも、速《と》くは来《こ》で。
いま啓一は黄泉の国に夜を迎えようとしている。地の底へは、下らねば行けぬものときめ、地のおもてを辿って来たつもりであったが、ここはすでに根之堅州国。髑髏《されこうべ》の並ぶ河原を越えて、あの道反岩《ちかえしいわ》をくぐり抜けたとき、彼はすでに黄泉戸の大神イザナミが支配する冥界へ踏みこんでいたのである。木と草以外、生あるものの影を見なかった道理である。……ふと気づいてうすあかりの中で左手首につけた時計を眺めれば、いつの間にかそれは停まっていて、しかも秒針、短針、長針と、その三つの針は切って揃えたようにピタリと12の数字の所で重なっていた。
渓谷は、陽がかげると急速に温度を下げて、山の上から轟とひと吹き、最初の夜風が吹きおろして来ると、うす紫のとばりが幾重にも切って落され重なり合って、うす紫は次第に濃紫。またたくあいだに疑いもなく夜の色となって谷をおしつつんだ。
「おおい……」
それはもう啓一の絶叫であった。風に揺れた樹々のどよめきに魂を奪われ、死に絶えた家々の戸口から、今にもほの白い人影が湧き出すように思えて、彼はそのまま砂岩の上に尻をつけ、丸くちぢこまってしまった。
「お久君。お久君……」
両手で遺骨をしっかりとだきかかえた啓一は、死者を呼びさますようにその名を心の中でとなえつづけた。
恐怖に眼を閉じ、ひたすら久子の名を念じていた啓一は、ふと物の気配を感じて眼をあけた。両膝をかかえるようにうずくまり、面を伏せて上眼づかいにあたりをうかがった彼は、一瞬血も凍って硬直してしまった。
ほの白い不思議な微光の中に、あの老人の家で見たのとそっくり同じ縄文の土偶が立っていたのだ。それもひとつやふたつではない。十も二十も三十も、せまくした視野いっぱいに重なり合って、彼をみつめているようであった。土偶たちは、時折りシャシャシャシャ……と紙の上を虫が這うような音をたてて位置を入れかえ、そのたびにとりまく環をせばめているようであった。
「お久君、お久君……」
啓一はますます強く遺骨の箱を包む白布をにぎりしめ、ますます烈しく彼女の名を念じた。……それにどのような効き目があるわけでもない。しかし彼の心の中に平坂久子はまだ生きており、その魂のぬくもりにとりすがっていたのである。
シャシャシャシャ……。ひときわ強く音がして、奇怪な縄文の土偶が彼の眼の前で左右に列を作った。そしてそこへ、赤い鼻緒のわら草履をはいた夜目にも女と知れる白い素足が近寄って来た。
啓一は恐る恐る顔をあげた。
そして相手の顔をひと目見るなり、弾かれたように立ちあがった。
「あ、お久君……」
「あなたはだれ。そしてお久って久子のことなの……。どうやって来たの」
藍《あい》が匂いたつような、簡素な筒袖《つつそで》の無地のきものに鼻緒と同じまっ赤な帯を締め、襟《えり》に純白の襦袢《じゆばん》をのぞかせてその女は言った。
「お久君」
痺《しび》れた頭からふりしぼるように、啓一はまた言う。
「それ、平坂久子のことなの」
女は小首をかしげて訊ねた。抜けるように色白で、濃い眉とゆたかな頬、ちょっと厚めの受け口が、平坂久子そっくりであった。
啓一がかすかにうなずいてみせると、女は足もとの白布に包まれた箱をみおろし、
「死んだのね、久子も」
と言った。
「あ、あなたは」
「そう、それでわざわざ届けに来てくださったのね」
女は啓一を憐れむように見た。
「あなたは……」
「お礼を言わなくてはいけないのね。わざわざ久子のために、どうも有難う。私は久子の姉の明子という者です」
女はお辞儀もせずにそう言って、じっと啓一をみつめていた。
「これは……」
啓一はふるえる指で自分をとりかこむ土偶の群れを示した。
「こわがらなくてもいいのよ。シコメたちは生きてる人には何もしないんだから」
「シコメ……」
「そう。ここは黄泉の国。シコメは黄泉の国の召使いたちよ。みんな眼を閉じているようだけれど、これでちゃんと見ているのよ。なんでも見て、それで仕事があると判ればちゃんとやってのけるの。触れもせず、手も動かさずにね」
明子という女は、微笑を泛べながら言った。
「湯津石《ゆついわ》村の人たちはどうしたのです。みんな死んでしまったのですか」
「そうよ。この間まで、ここも大変だったの。でももうおしまい……」
……悔《くや》しきかも、速《と》くは来《こ》で。
「おしまいというと、どういうことなんですか」
「この黄泉の国にも終りがあったということね。随分長い間続いたらしいけれども、もうすぐ何もかも終るらしいのよ」
「どうしてです」
「麓で聞かなかったの。そのうち人間が大勢やって来るのよ。そして穢《けが》れれば何もかも終りよ……。あら、おかしいわね。あなたはここを穢していないようだわ。どうしてなの。穢せばシコメたちは、あなたに見られただけでただの土くれになってしまうのに」
「何だか知りませんが、僕の父もこの湯津石村の出身だったのです」
「まぁ、それでなのね」
「石析《いわさく》五郎というのが父の名前です」
「石析ならもう一人も残っていないわ」
「そうでしたか。でも、もういいんです。ここがひょっとして黄泉の国ではないかと、それを知るためにやって来たのです。判ったから、もういいのです」
「湯津石村の者は、みんなかわいそうな人間だったのよ。ここでシコメたちと暮しているだけならいいのだけれど、どうしたって外の世界に触れなければならないでしょう。でも、外の世界の人にここのことは何ひとつ喋れないように生まれついてるの。半分はシコメと同じなのよ。だから外の人と争いそうになると、自分から死なねばならなくなるわけね。シコメは生きている人には指一本触れられないし、何もできないんですもの」
5
暮れかけて、いったん暗くなった倉戸谷は、夜が更けるに従って白い微光が満ちて来て、昼とは違った明るさをとり戻していた。
明子は啓一から妹の遺骨を渡されて、少し当惑気味であった。
「本当のことを言えば、わざわざ持って来てくれる必要はなかったのよ。だってここは黄泉の国でしょ。久子はもうとっくにここへ戻って来ている筈なんですものね」
そう言われてみればもっともであった。黄泉の国とは死者の国。すべての人間が死んで辿りつく場所である。死者の遺骨に意味があるのは、魂を呼び戻せない残された生者の側だけのことであった。
啓一がそう言うと、明子は成熟した女の笑顔でうなずき、
「だったらもういいわね」
と言ってから、かたわらのシコメに向って、「お掃除をなさい」と命じた。
シコメは滑るように動いて遺骨の包みをみつめ、あっという間にそれを消し去った。
「ね、かわいいでしょ」
明子は啓一に弟を見るような瞳で言い、「あなたははじめてだし、それにこの黄泉の国ももう終りなんだから、少し案内してあげましょう」
と、先に立って片須原の奥、奥三界岳の根もとのほうへ歩きはじめた。滝の音が近くなり、巨大な岩塊が迫って来た。
「ここが根《ね》の国の入口になっているの」
松野湖の鬼岩がそうであるように、この大岩塊にも累積した岩石の空間があり、岩屋くぐりのような隙間の道がついていた。いわば岩の胎内道である。だが、この胎内道はいつ果てるとも知れなかった。「黄泉の国のほんとうに大事なところは、みんなこの根の国にあるのよ。死んだ人はみな根の国へ来て、そこでめいめい自分の生きた長さだけ根の国にとどまるの」
「生きた長さだけ……」
「そう。そのあとは常世《とこよ》の国へ行くそうなんだけれど、よく知らないわ」
「なぜ生きた長さだけ根の国にとどまるのです」
「生きている人間に必要だからよ」
「どうしてですか」
「人間は自分たちの明日をよく作らなければならないのよ。でないとあともどりをしてしまうでしょう。黄泉の国には時量師《ときはかし》という役目もあって、そこでは時の流れがさかさまにならないようにしているの。でも、いくら時が正しく流れても、人間があと戻りをしてはなんにもならないわね。だから死んだ人間はここにいて、ときどき自分のことをまだ生きている人たちに思い出させる役目をするのよ。生きている人間は、そうするとときどき死んだ人のことを思い出して、その人が生きているうちにしたことを上手に利用して、少しずつ自分たちの明日をよくして行くわけよ」
「生きている者が、死んだ人のことを思い出すのではないんですね」
「生きている人はそう思うけれど、本当は死んだ人間が思い出させているのよ」
「つまり死者は明日の糧になるわけですね」
「そう」
「ところで、さっきのシコメたちですけれど、あれは死んだイザナミが夫のイザナギを追いかけたとき、その追手に使われた黄泉醜女《よもつしこめ》じゃないのですか」
「知らないわ。どうしてそんなことを知っているの……」
明子はおもしろそうに笑った。
そこは灰色の壁にかこまれた大空洞で、たくさんのシコメが動きまわっていた。最初啓一は溢れる光に眼を細めたが、やがて慣れて来ると、それは空間に散った無数の点の集りが発している光だと判った。
「ごらんなさい。あの小さく光る点のひとつひとつが死んだ人間なのよ。点は光のおかげで見えているけれど、本当は大きさも重さもないものなのよ」
無数の極微の蛍《ほたる》が群れ飛んでいるようなその大空洞の中で、シコメたちは水平に移動するばかりか、垂直にも浮いて移動し、いそがしく働いていた。
「シコメたちは何をしているのです」
「シコメたちはすべての点をちゃんと知っているのよ。いつ生れ、何をし、いつ死んだか、ひとりひとりのあらゆることを覚えているの。そして必要な時に必要なことを、生きている人間たちに思い出させるため、光の点になった死人を出発させているのよ。よく見ていてごらんなさい、光の点がまわりの壁を出たり入ったりしているでしょう」
瞳をこらして観察すると、明子のいうように光の点は思い思いの方角の壁へ吸いこまれる、または壁から内部へとび出して来ていた。そこには人間が必要とするような機械的秩序は全くなく、勝手気儘《かつてきまま》な混乱が、いつ果てるともなく続いているように見えた。
啓一はいつの間にか左手を明子につかまれているのに気づいた。明子は決して死者ではなく、その証拠にふくよかな女らしいぬくもりが肌《はだ》につたわっていた。
「さあ出ましょう。次は根の国の仕事が終った死人が、常世《とこよ》の国へ行くところをみせてあげるわ」二人は手をつないだまま、極微の蛍が群れとぶ大空洞を出ようとした。
その時一個の光点が急に近寄って来て、啓一の眼の前で二、三度輪をかいた。すると啓一には光点がその輪の大きさに膨らんだように見え、やがて光は更に大きさを増し、茫《ぼう》とかすんだ光る霧のかたまりとなって彼の体をおしつつんだ。
シャシャシャシャ……。シコメの動く音がして、二十ばかりのシコメが急にそのまわりに集って来た。
「いったいどうしたというんだ」
啓一はうろたえて言った。
「判らないわ、あたしにも」
明子も同じようにうろたえて、啓一の手をはなした。
「シコメ、教えなさい」
すると一体のシコメが明子の正面へまわって彼女を仰ぎ見た。彼女は眉《まゆ》をひそめてそのシコメの唇を閉じたような両眼を見かえし、やがてゆっくりと、「あなたのおとうさんよ」と言った。
「僕の父……」
鸚鵡がえしに啓一が言ったとき、彼は激しい戦闘で次々に倒れて行く、泥まみれの軍人たちを思い泛べていた。その中のひとりはのどと左肩の下に銃弾を受け、焼けつくような痛みにのたうちまわっていた。その軍人はガタゴトと走るマッチ箱のような路面電車を思い出し、次にどこかの芝生にねそべって、青空をみあげながら煙草をふかしているのを思い出していた。銀座のパーラーでコーヒーをすすり、学校の図書館で書物の匂いをかぎ、若い女の体をだきしめて胸をワクワクさせているのを、次々に猛烈な速さで回想していた。そして一番最後にどこかへ置き去りにして来た赤ん坊を思い出した。それは赤ん坊というイメージだけで顔もかたちもつかみどころのないものだったが、奇妙なことに啓一はその他人の思い出の中で自分自身を回顧していた。大学時代のこと、高校時代のこと、高木、母親、ばあちゃん、叔父の健吉、そしてかすかに残る空腹感をともなった戦後の幼年時代……。
突然そういった自分自身の回想はやみ、生きたい……死にたくない、という強烈な願望が啓一の心を支配した。死ぬものか、死ぬものか。そして静岡の叔母さんの声がした。その声は自分を呼んでいる。……宗一、宗一、宗一、そういち。記憶がうすれ、ぼんやりとしはじめ、何もかもがごちゃごちゃになりはじめた。そして最後にその魂はこう呼んだ。
「まつ江、まつえ……」
啓一は何が何んだか判らぬまま、ぼんやりと立ちすくんでいた。その前で明子が恐怖に歪《ゆが》んだ表情をしていた。
宙に浮いていたシコメたちが次々に堅い床に墜落をはじめた。落ちたシコメたちはただの赤茶けた土くれとなって飛散した。いつの間にか啓一をつつみこんだ光は消え去り、残りのシコメたちも生命を失ってただの土偶と化して転がっていた。光の点は今度こそ本物の混乱ぶりをみせ、大空洞の中を乱舞している。そして灰色の壁は、つやつやと光る黒色に変り、次第に赤味を帯び、やがて灼熱《しやくねつ》した鉄の色になった。
「誰のせいでもないのよ。これは黄泉の国全体の犯した誤りなんだわ」明子がみずからを慰めるようにそう言った時、大空洞の灼熱した壁面から鋭い音とともに幾百条となく稲妻が走った。
「八つの岩の雷神《いかずち》は、このために準備されていたんだわ」
明子がその雷鳴の中で叫んだ。稲妻は間断なくきらめき、無数の光の点、すなわち死者を叩《たた》きつぶし、消滅させていた。
明子は再び啓一の手をとって強く引いた。
「行きましょう」
ふたりは雷鳴のとどろく大空洞から、あの長い胎内道へのがれ出た。
「どうしたというんだ」
「まだ判らないの。あなたは黄泉の国を誤らせたのよ。……いいえ、あなたに責任はないわ。外の世界がこの黄泉の国に道をつけ、生きている人々を送りこむことにした瞬間から、この黄泉の国は終ることがきまっていたの。だからそれが少し早くなったからといって、大した問題ではないのよ」
「でも、黄泉の国が終ったら、人間の世界は進歩しないんじゃないのかな。さっきそう言ったでしょう」
「安心して、黄泉の国は決してなくならないわ。この黄泉の国はおしまいになるけれど、すぐどこかに新しい黄泉の国が出来て、死んだ人はそこへ新規に集められるのよ。常世の国はそういう仕事をするためにあるの。だから常世の国は決してなくならないように出来ているわけなのよ」
「それにしても、僕が何かしたみたいだ」
「気にしなくていいのよ」
明子はそういうと励ますように啓一の手を自分の胸に押しあてて歩いた。そして根の国の穴を抜け、外の夜風に触れたとき、ほっとしたように柔らかい声で言った。
「あなた、久子を好きだったの……」
啓一は素直に答えた。
「うん」
「あの子が死ぬ時、そばにいてやったの……」
「そうしたいと思ったけれど、間に合わなかったんだ」
……悔《くや》しきかも、速《と》くは来《こ》で。
明子はそう言いながらもどんどん手を引いて闇の中を進む。さっきあった白光は消えて、ただの谷あいの闇になっている。
啓一がそれを言うと、明子はさっぱりしたというように、
「ここはもう黄泉の国じゃなくなってしまったのよ。ほんとうの秘密というのはとても脆《もろ》いものなのね。何もかもが純粋でないといけないわけよ。あなたは間違ってここへ入ることを許されてしまった最初で最後の人間なのよ。すべてが純粋で、したがって単純でなければいけない世界へ、いろいろなものがからみ合った要素が入ってしまったとき、その秘密の世界は純粋さを失って、そのために奇蹟の力も失い、複雑で不純でありきたりのものになってしまうのよ。神の世界で穢《けが》れるっていうのはそういうことなの。よごれるというのとは別なことなのよ。あなたは決してよごれた人間ではなかったけれど、それでも穢《けが》れは起ってしまったの。そういうわけ……」
ふたりはいつしか上瀬《かみせ》の瀞《とろ》と呼ばれる深い淵《ふち》の岸にそそり立つ女陰岩《ほといわ》の頂上に立っていた。
「あなた妹を愛していたといったわね」
「うん」
「それで、妹と愛し合ったの」
「いや、口に出したこともなかった」
すると明子は急に啓一の手を引いて体を寄せた。
「私は姉、私は妹」
そうささやくと、明子はかぐわしい息を啓一の顔のあたりに漂わせ、じっと瞳をのぞきこんだ。月が昇っていて、その光が女陰岩《ほといわ》の頂きでいだき合う二人の姿をくまなく照らしだしていた。
明子は啓一にいだかれたまま赤い帯をとき、体をくねらせて白い肌をあらわにして行った。やがて二人は互いに裸身をさらけだし、岩の頂きにゆっくりと横たわった。
「時量師《ときはかし》の柱もきっと崩れ落ちた筈だわ。だから……あなたと私の時は……ここにいるかぎり」
明子はもどかしげに啓一と体を入れかえた。啓一の上で月に照らされた白い乳房が揺れて光った。
「きっと……何日か……いえ、ひと月も……狂ってしまう筈よ」
そう言った明子は、白い喉《のど》を啓一にさらし、ああ、と呻《うめ》いてそりかえった。あおむいた明子が見る空には、月が煌々《こうこう》と輝いている。
やがて、かつて黄泉の国であった倉戸の谷の片須原に、明子の口からほとばしり出た女の叫びが、月にもとどけと谺《こだま》した。
「久子の分と私の分、そして黄泉の国に生まれたばかりに死に急いだ湯津石のすべての娘たちの分……」
いとなみをおえた明子は、裸身のままそう言ってすっくと立ちあがり、
「どうもありがとう」
とまだ岩に仰臥《ぎようが》している啓一に礼を言った。
「これからどうする」
「あなたは谷を出るのです」
明子は隙のない厳しさで命令した。「あなたは湯津石の者ではありません。石析《いわさく》五郎はあなたの父親ではなかったのです。さっき根の国でそれが判ったでしょう。だからあなたは帰るのです。帰って生きなければいけないのです。精いっぱい生きるのです。死んだあなたのお父さんをはじめ、あなたがた生き残った人々のために根の国にとどまる大勢の死者の知恵を、あなた自身の明日のために生かすのです」
「きみはどうするんだ」
啓一は起きあがって訊ねた。
「私は黄泉の国の女です。死ねばシコメとなって、新しい黄泉の国で死者のために働かねばなりません」
「行くのか……」
「ええ」
「愛しているよ」
「私はシコメになる身です。あなたに思い出してもらうために、あなたの所へ出かけられる身分ではありません」
「思い出させてくれなくても、僕のほうから思い出すよ。決して忘れやしない」
「ありがとう」
明子は微笑するとさっと身をひるがえし、一気に瀞へ身を投じた。水音が一度して、あとには月の光だけが啓一と共にあった。
あくる日川を下って倉戸谷を出た啓一は、麓の老人を訪ねて礼を言った。すると老人は気味悪そうに、ひと月近くも湯津石村のどの家に置いてもらったのだと言った。
愕《おどろ》いて日付を訊ねると、なんとたったひと晩のはずが、もう八月の十四日になっていた。会社からもらった休暇もとうに期限が切れていて、啓一は大急ぎで中津川から東京へ戻った。
その車中、啓一はこの奇怪な体験を、隅《すみ》ずみまで考え直してみた。ことにあの光につつまれた時のことを……。
あれはたしかに自分の実の父親であった。父親は啓一の母親と恋愛し、まつ江に子を宿らせたまま戦場へ送られたのだ。そして左肩と喉を撃たれて死んでしまった。静岡の叔母と啓一が呼んでいる女性には、戦死した弟がいると聞いている。あの時啓一を光でつつんだ死者は、その叔母の声で、宗一、宗一と呼ばれていた。すると、静岡の叔母は啓一の父の姉に当るのだろう。
石析《いわさく》五郎は、まつ江が宗一の子を宿しているのも知らず、終戦の年にあわただしく室谷の家へ入って来た。多分祖父がまつ江の急場を救う知恵を出したのだろう。そして、その事情を知った石析五郎は、啓一の誕生日に、湯津石ものらしく自殺して果てたのだ。
戦争の記憶が全くない自分にも、それほどの傷跡がつけられていたのかと、啓一はあらためて考えさせられた。
だが、そのために黄泉の国が破壊され、戦争の死者はもう生き残った者に想い出を語ることもなくなってしまった。これからその想い出は、新しい黄泉の国にストックされる新しい死者を通じて、生者に与えられるしかないのだ。
戦争による直接の死者の声は、もう黄泉の国にもない。しかし啓一は明子に誓ったのだ。死者の知恵を生かしてよい明日を作ると……。帰りは東海道へまわった啓一の車窓にうつる表情は、たくましい生への願いで明るく輝いて見えた。
だが、八月十五日、東京へ着いた啓一を待っていたのは、静岡遺族会と共に北海道周遊の旅をしていたまつ江と健吉が、自衛隊機との空中衝突で遭難したという報らせであった。
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農閑期大作戦
東京の都心から渋谷《しぶや》、三軒茶屋《さんげんぢやや》、駒沢《こまざわ》をへて二子橋《ふたこばし》で多摩川を渡り、更に西へ向う道路が国道二四六号である。
別名|厚木街道《あつぎかいどう》。渋谷から二子橋の間は玉川通りと呼ばれ、数年前までその路面に玉川電車が走っていた。
今は電車も撤去され、そのあとに高速三号線と地下鉄新玉川線の工事が平行して進められている。完成すれば一般道路の下に新玉川線、その上に高架の高速三号線が東京の西郊と都心とを結ぶことになる。
相当幅の広い玉川通りだが、今は中央が工事用の柵《さく》でえんえんと仕切られ、その両脇《りようわき》に上り下りの車の列がつらなっている。
渋谷と三軒茶屋の中間あたり、三宿《みしゆく》 附近の工区を受持つのは有名な鞍馬建設であるが、実際に地下で働いているのは、その下請けの鬼藤組に所属する労働者たちであった。
鬼藤組は本社を上野に置き、東北・北陸方面の季節労務者をよく組織化していることで知られている。つまり、玉川通りの地下を掘り進めている主力は、出稼《でかせ》ぎの連中であった。
工事は昼夜兼行の突貫工事体制が組まれ、鬼藤組も三班にわけられて三交代制がしかれていた。しかも昼のあいだは交通渋滞がはげしく、土砂の搬出や資材の搬入も思うにまかせないため、自然主力は夜間、早朝となる。一班は近県から通勤して来る、いわば鬼藤組子飼いの労務者によってかためられ、したがって昼間専門である。二班と三班が東北・北陸の出稼ぎ労務者の集団で、昼のあいだは渋谷にほど近い、環状六号線ぞいにあるプレハブの飯場で休養している。大部分は出稼ぎずれのした連中で、万事につけて要領がいい。だが中にはことしはじめて出稼ぎに踏み切ったという、不慣れな者もいる。
第三班では斎藤孫吉と斎藤彦太郎がはじめての出稼ぎであった。ふたりとも同じ村の出身で、羽越本線の駅からバスで数時間も山の中へ入った、加曾郡大加曾村が故郷である。その地方では斎藤姓がやたら多く、お互いを昔ながらの屋号で呼びあっているという。
孫吉は四十三歳、彦太郎は二十四歳。孫吉は戦中、戦後と十度あまり上京の経験があるが、彦太郎は怪我《けが》で修学旅行もしそこない、東京は今度がはじめてであった。
二月の空っ風が肌《はだ》を意地悪く刺すあけ方、玉川通りの地底から黄色いヘルメットが二十ばかり、しらじらとした朝の光りの中へ湧《わ》き出して来た。
揃《そろ》いの作業服に地下足袋。思い思いのスタイルで首にタオルをまきつけ、汚れた軍手を脱いだりはたいたりしている男たちの中に、ずんぐりした孫吉と、背が高くてがっしりした体つきの彦太郎の姿が混っている。
「何|持《たげ》でいなだ、お前《め》」
孫吉が彦太郎に言った。
「土《つじ》の中《なが》さ入《へえ》っていだけ」
彦太郎は軍手をはめた指先でしめった土をこすり落し、まるくて青光りのする鉄の板を孫吉に渡した。
「何だろか」
「知らね。都会の土《つじ》さだば何でも埋もれているはげ」
「金《かね》になろが」
孫吉は直径二十センチほどの、中央がふくらんだ金属円盤をすかすように眺《なが》めながら言った。
「ここだば電車が通っていだはげ、電車の何がだろ」
「これ、模様か」
「三ツ星マークだげっちゃ」
たしかにそれはテレビや洗濯機《せんたくき》や街角の銀行の入口や、そのほかありとあらゆる場所で見かける例の三ツ星マークであった。
「時代ものだば金になるが、三ツ星マークだばなあ」
孫吉はがっかりしたような表情でそれを彦太郎にかえした。
「さあて、帰《けえ》って寝るがな……」
仲間が動きだし、ふたりもそのあとについて歩きはじめた。飯場へ着くと熱い味噌汁《みそしる》に山盛りのカツライスが待っていた。
*
「何だわれ、まだ寝《ね》ねだか」
窓から冬の弱々しい日ざしがさしこむ飯場の蚕棚式《かいこだなしき》のベッドから首をつきだした孫吉が、一段下の彦太郎に言った。
「なんだが寝る気がしなぐで」
彦太郎は落ちつかぬ風で寝がえりを打ち、すぐまた体を動かしてベッドからうす汚れた畳敷きの上に降りた。あぐらをかき、何やら不機嫌《ふきげん》そうに拾って来た円盤を右の掌にのせてじっと眺めている。
「早く寝れ。疲れは怪我のもとだば」
孫吉は壁に貼《は》ってある安全標語をそのまま東北弁に翻訳した。
「面白《もしよ》くねっちゃ」
彦太郎は膨れ面で答える。
「なんで……」
「そんだで、俺《おら》だちは仕事はうまぐね。それに田舎《ぜえご》もんだ。そんだども、いちんちじゅうからかわれるのは嫌《や》んだのう。そうでねえか、親爺《ダダ》ちゃ」
「なんだで、そんなだか」
孫吉は軽く笑って自分もベッドから出る。飯場の中に豪快ないびきが聞えている。
「田舎者《ぜえごもん》でもパッとしたこと出来るでの、いっぺんうんと見せでやりてのう」
「ここさいるのは、みんな田舎者《ぜえごもん》だ」
「んだろか」
「んだ。班長にしたたて立派に見えっども、元はどいえば木更津《きさらづ》のよたもんだどや。気にすんな、春さ来だらば俺《おら》だちは帰《けえ》るで、関係《かんけ》ねえのう」
「そんだのは判《わか》ってる。んだども口惜しど思わねか。東京の澄ました連中さ、いってえ何ができんだがの。荷を背負うだば奴《わねべ》らの三|倍《べ》も背負うぞ。熊の捕《しめ》かたも知らねだろうが。奴《わねべ》らに出来るこど言ったば、他人《ひど》に要らねもん売りつけっか、遊びさ誘って金儲《かねもう》けっか、んだねばボールペンで数字つけるくれのもんでねか」
「んだ、んだ」
孫吉は物判りのいい表情で愚痴を聞いてやっている。
「俺の出来る仕事と、奴《わねべ》らの出来る仕事に、それほど差があんだかのう」
「ねえさ」
「だったら、なして勝った者《もん》みでな顔さして俺だちを見んのがなあ」
「それが都会の顔というもんでねかのう。だども、みんなはじめは田舎《ぜえご》から来たもんだ。それで都会さ住みついて、いつの間にあんな顔さなってしまうだ。田舎者《ぜえごもん》と思われたくないからの」
「そんでも俺《おら》つくづく嫌《や》んだ」
「若《わ》けから無理もね」
「雪泊《えきどまり》だば、良《え》がったのう」
彦太郎はため息をついてゴロリと横になった。某県加曾郡大加曾村大字谷底字雪泊。それが二人の故郷である。そこには孫吉の孫吉《まんぎじ》家と、彦太郎の吉兵衛《きじべ》家の二軒だけがある。
「気晴ししてけばいいんでねか」
「気晴し……」
「渋谷さ行って若《わ》け娘でも見て来《こ》ばいっちゃ。今日は土曜日だでの、奇麗なのが大勢歩いてっぞ」
「そうか、土曜日か」
彦太郎はむっくりと起きあがる。
「金持ってるか」
「うん。千円ほど……」
「奇麗な娘とコーヒーでも飲んで来《こ》ばいっちゃ」
「そんな娘がいるかのう」
彦太郎はそう答えながら、嬉《うれ》しそうにシャツをズボンにたくしこみはじめた。
「若《わ》けもんはええもんだのう」
孫吉は励ますように声をかけ、戸口の四角い光りの中へ消えて行く彦太郎を見送った。
*
それから数時間。渋谷の道玄坂《どうげんざか》から宮益坂《みやますざか》にかけてを行ったり来たりしていた彦太郎は、とうとう一人の娘にも声をかけずじまいで、いつの間にか人波に押し流されるように並木橋《なみきばし》方面へ歩いていた。やたら新聞が落ちていて、道に男たちがたむろしている。彦太郎は何かお祭りじみた雰囲気《ふんいき》に好奇心をそそられ、人の行くほうへ歩いて行く。
行きついた先は、殺風景なコンクリートの建物であった。鉄道の駅に似た感じで、人々が長い列を作っているところなど、汽車の切符売場そっくりであった。
「ここはどんだ所だろ」
彦太郎は壁によりかかっている老人にたずねた。
「え……」
老人は呆《あき》れたように問い返す。
「何する所だろか」
すると老人は、信じられないという様子で言った。
「本気かね」
「教《おせ》えてくれっちゃ」
ウフフ……。老人は長い間含み笑いを続けていたが、やがておごそかな表情で、
「場外馬券売場だよ」
と答えた。
「ああ、競馬だのう」
彦太郎はあらためて建物の中を眺《なが》めまわした。そう言えば突き当りに、第六競走とか第七競走とか書いた札が見える。
「競馬やるのかい」
「やったことねえ」
「そいつはいい。はじめての時はよく馬鹿ツキするもんだ。ところであんた何をしてなさる人かね」
「俺《おら》いま地下鉄を作ってる」
老人は彦太郎の肩をポンと叩《たた》き、
「そうかい。地下鉄をこさえてなさるのか」
と笑った。
「やって見てもんだのう」
彦太郎はそう言って人の列を見た。誰《だれ》も相手にしてくれぬこの東京でも、運なら神様は五分五分に扱ってくれるだろう……そう思った。
「買い方教えてやろう」
「んだば馬を見てねば。どこで走るんだろ」
「こいつはうれしい人に会ったもんだ」
暇をもて余していたらしい老人は、彦太郎に場外馬券の仕組みから教えはじめた。
*
「ほれごらん。言ったとおりだったろう」
彦太郎が七レースの2〜4を当てて配当を受取って来ると、老人はわが事のようによろこんだ。
「二百円が八百四十円になった」
「はじめてだとツクんだよ。みんなそれで病みつきになるんだがね」
「そんでも、あんたは損したろ。少しまわそうか」
彦太郎は掌の中で硬貨を鳴らしながら言った。
「いいよ。それより二百円はしまっときな。あとのもうけで勝負すれば敗けてももともとになる」
「こんどは何がいいろうかのう」
「もう教えんよ。自分の好きなのを買いなさい。そのほうがとれるかも知れん」
「んだば1と1……」
「そんなのはない。次のレースの1枠《わく》は一頭しか走らんのさ」
「むずかしいもんだのう。んだば行ってこう」
彦太郎は老人から離れ、人ごみの中に消えた。
次のレースは3〜5で二千九百円の配当。それを彦太郎は見事にあてた。二百円券三枚で一万七千四百円になる。老人のほうが昂奮《こうふん》してしまった。
「来い。特券売場へ行くんだ」
「ここは千円券の売場か。んだば2〜7に特券十七枚だのう」
「馬鹿言いなさい。そんな買い方があるもんかね」
「そんでもはじめてだばツクなでながったかの」
「いくらなんでも……」
「元は取ってあるし、半端さ入れっと五百円は余分になるでのう。やろやろ……」
彦太郎は老人の手を振り切って売場へ突進した。
「今のラジオ聞いたかい。2〜7の人気は二百七十倍ぞ」
「二百七十倍だばどうなる」
「百円が二万七千円になっちまう。来るわけはないがね」
「来たらおもしれ」
彦太郎は腕まくりをして手に唾《つば》をつけた。
「まあいいさ。高い夢見てこりるんだな」
老人はあきらめ切った溜《た》め息をついた。
スタート。
2枠にいたジリ脚という定評のサヤマチャオーが、どういうわけか素晴しい勢いでとび出し、予想を裏切ってそのまま逃げ切ってしまった。二着は7枠十三番のダイニトキワ。
場内にウワーンという異様な熱気が流れた。
「どうしたなだ」
彦太郎は慌てて老人をだきとめた。
「は、吐き気が」
「困ったのう。医者を呼ぼうか」
「よ、四百五十九万……」
「何の事かね」
「ち、畜生。お前の取った配当だ」
「そんなにか」
「そうだよ。こん畜生め。お前みたいな奴《やつ》は死んじまえばいいんだ」
「おこらねでくれや。なんしたなだ」
「俺は戦争前から競馬やってんだぞ」
「好きなんだのう」
「あっちへ行っちまってくれ。ほっといてくれ。俺はいま恥かしくて仕方ないんだから」
「なんして」
「他人の取った馬券でこれほどふるえが来ようとは思わなかった。ああ、俺はなんて未熟なんだ。修業が足りなかったんだ」
老人は彦太郎をつき放し、よろよろと人混みへ消えた。
*
「親爺《ダダ》ちゃ起きれ」
しつっこく揺り起されて孫吉は蒲団《ふとん》の間から片目をのぞかせた。
「もう時間か」
「んでね。いいからちょっと起きてくれや」
彦太郎はあたりに気を使って低い声で言った。
「どうした。何かしたなだか」
「これみろ、これ」
「ひ……」
孫吉は一万円札の束を鼻先へつきつけられて蚕棚式のベッドからころげ出た。
「凄《すげ》えもんだろ」
「拾ったか」
「拾わね。競馬だ」
「競馬……。お前競馬しただか」
「渋谷の町だばいろんな店があんだのう。競馬の馬券さ売っでる大きい店みつけたなだ。大勢客が入ってたけ。あれだばでえぶはやってるらしいのう」
「そこで当てたのか」
「んだ」
「よく馬券の買い方さ判ったもんだの」
「どっかのじいさんに教《おせ》てもらったなだ」
あぐらをかいた彦太郎は、その股《また》のあいだへ札束を積んでみせた。
「ひ……」
「四百五十九万も当てたなだぞ。どうすっか。何か買うか」
「も、元金はいくらだや」
「たったの二百円だ」
彦太郎は胸を張った。「馬券を三度買っただけでこんないっぺなってしまっだ」
「なあ彦太郎《ひこだろ》や」
「なんだで」
「東京だば、おっかねところだのう」
孫吉はそう言って胴ぶるいした。
「判ったで、俺《おら》」
「なにが……」
「みんなこんなして儲《もう》けるのだのう。ほれ、あのマンションとか外国の車とか買って持ってる連中は」
「そうかも知んねが、負けて身上《しんしよ》すってしまうもんもいるだろ。そいで、お前《め》に教《おせ》てけだじいさんはどこの人だ。ちゃんと礼をしただろが」
「憤《たか》ってどっかさ行《ん》でしまった」
「なんして憤《たか》る」
「知んね俺」
「こら。人に世話さなったば、ちゃんと礼しねばだめでねか。バクチ場の仁義はやかましもんだ。ほんとに仕方《すかた》ね。何の為《ため》に健さんの映画ばかりみてるだ」
「それよりこの金どうする。もう雪泊《えきどまり》さ帰《け》っか」
「とんでもね」
孫吉は居ずまいを正した。
「競馬はいっときの遊び、出稼《でかせ》ぎは俺たちの仕事。競馬で儲けたからって、かんたんに仕事をやめて帰ったりしていいもんだかどうだか考えてみれ」
「だって金は金だろ。仕事で稼いでも競馬で儲けても金はおんなじだ」
「この馬鹿野郎。出て来る時雪泊《えきどまり》さまに何と言ってお願いして来た」
村役場のある大加曾から渓流ぞいの道を八キロ余り山へはいると大字谷底がある。そこの大加曾小学校谷底分教場の横から更に山路を六キロ行った道の突き当りに、ひとつの祠《ほこら》があった。
道の行止りを示して道祖神を祀《まつ》ったものらしいが、雪泊では田の神を祀ってあるということになっている。四季おりおりに二軒の家の家族が総出で手厚く祀り、雪泊の守り神のようにあがめていた。
はじめて出稼ぎに旅立つことになった去年の終り、両家の家族がずらりと並んでその祠でふたりの安全を祈ったものである。そして旅だつふたりは……
「どんな事があっても、春まで一所懸命はだれて来《く》っから、そのあいだどうぞ雪泊《えきどまり》のもんを守ってやってくださいと……」
「心から雪泊《えきどまり》さまにそうお願《ねげ》して来ただろが」
孫吉は厳しい表情で言った。
「どんなことがあっても――だば、これもそのどんなことの内かのう」
彦太郎は憮然《ぶぜん》として札束に目を落した。
「そうだ。金は金、仕事は仕事」
「親爺《ダダ》ちゃがそういうのだば……」
彦太郎は素直にそう答えると、札束をポケットへねじこんだ。
「それにしても、金のしまい場所さ考えねばのう」
孫吉は蛙《かえる》をのんだ蛇《へび》のように膨れあがった彦太郎のズボンをみつめて唸《うな》った。
*
豪勢な邸宅がたち並ぶ渋谷南平台《しぶやなんぺいだい》。
その一面にどっしりとした石の塀《へい》をたてまわした白い建物がある。石の塀の上に更にたかだかと金網を張り、芝を植えた広い庭のあちこちに、制服を着たガードマンが規則正しく巡回している。犬を連れているのもいる。遠くから見ると、その奥にある建物は赤坂のアメリカ大使館に似ている。
車寄せから石段を登って正面玄関のドアをあけると、そこはとりすました雰囲気のホールになっていて、右手の中央に巨大なデスクがある。デスクの上には色とりどりの電話が並んでいて、ひときわ大げさな飾りをつけた制服姿の男がひとり、回転|椅子《いす》にふかぶかと腰かけている。ホールから廊下にむかう樫《かし》の下の大きな両びらきのドアの前には、ふたりのガードマンが冷酷な表情で突っ立っている。腰に三角形の革袋をつるしていた。拳銃《けんじゆう》のホルスターである。
と言って、米軍の施設でもないらしい。ガードマンたちの胸についているマークは星が三つ。三ツ星マークであった。
厚い絨緞《じゆうたん》を敷いた廊下の両側には、ずらりとドアが並んでいて、時折りタイプライターらしい音や電子機器の作動音が聞えてくる。
二階への階段の登り口に、またチェック・ポイントが作られていて、そこにも本物の拳銃をつるしたガードマンがいる。みんな胸に三角の標識をつけていて、ちょっとアンクル本部じみている。
二階には白衣を着た男女がいて、みんな静かだが緊張した足どりで歩きまわっていた。二階の絨緞はすべて緑色で、ドアのひとつが同じ色に塗られていた。
この国のあらゆる産業を支配するといわれる大三ツ星コンツェルンの最高幹部が数人、その緑のドアの中にいた。緑の壁に緑の床、緑の天井、緑のランプシェード。緑色のベッドの上に緑色のパジャマを着た異様な人物が横たわっている。
その異様な人物は、明らかに衰弱している様子である。
「三回連続して馬券を適中させるのは容易なことではありません」
最高幹部のひとりが言った。
「レースが仕組まれていた事実はないのだな」
ベッドの人物が言った。
「たしかにフェアなレースでした」
「二百円を二万二千九百五十倍したわけだな」
「そうです」
「四回連続なら疑いもないが、三回では結論を出しかねる。……その人間はどういう職業だ」
ベッドの人物に訊《たず》ねられて、最高幹部のひとりがトモを見ながら答えた。
「土工です。新玉川線工事にたずさわっている季節労務者のひとりです」
するとベッドの人物は、ゆっくりと低い含み笑いをはじめた。
「これで終るな」
「は。何がでしょうか」
「諸君にも長い間迷惑をかけたが、それももう終ると言っておるのだ」
「するとやはり……」
「儂《わし》はあれがなければ正常な活動はできん。しかし、いくら病床にあってもそれくらいのことは判る。三ツ江め、あのとき土の中に埋め込みおったのか」
ベッドの人物はそうつぶやいて、また長い含み笑いをした。「何をしておる。その土工めはあれを掴《つか》んだのだぞ。影響が大きくならん内に早く取り戻して来い。儂の元気さえ回復すれば、お前たちの望みどおり、三ツ江物産も三ツ江金属も、いや三ツ江コンツェルンそのものを叩《たた》きつぶすのはわけないことだ。今度こそ三ツ江の奴《やつ》を徹底的に叩きつぶしてくれる」
三人の最高幹部は言い合わせたように顔を紅潮させ、足早にその緑色の部屋を出た。
「あのお方が三ツ江を叩きつぶすとおっしゃったぞ」
「よかった。これですべて我々の思うがままだ」
*
「ほれ。親爺《ダダ》ちゃの番だぞ」
仕事を終えた彦太郎は鬼藤組の飯場へ戻ると半裸になって体を拭《ぬぐ》い、首につるした大きなペンダントを外して孫吉に渡した。数日前に地下から掘り出した三ツ星マークの金属円盤であった。小さな孔《あな》があいていたところへ木綿の細ひもを通し、あの大当り以来縁起をかついでお守りがわりにしている。
「おい来た。これさえ掛けだば花札でもなんでも負けっこねえからの」
孫吉はうす汚れたどてらの帯を締めながら言うと、彦太郎からペンダントを受取り、首へつるした。
「いい歳してそんなまじないを本気にしてるのか」
鬼藤組の正社員である班長の井田が横でからかった。
「班長だってこいつのききめにはかなわなかったでねか」
井田はほとんどプロと言っていいギャンブラーである。若い頃から一天地六の鉄火場ぐらしを続け、縁あって鬼藤組に籍を置いてから幾分堅くなって、今は現場監督をしている。やくざの経験者だけに万事融通がきいて人望が厚い。
朝の六時であった。
飯場の入口があいて人影がさした。
「何か用事かね」
井田がのっそりと入って来た男たちを見て応対に出た。
「人を探してるんだけどよ」
相手は明らかにやくざらしかった。人を無視した態度で、じろじろと飯場の中を眺めまわす。外には黒い乗用車が三台停まっていた。
「そうかい。で、探してる奴の名前は……」
井田が訊ねた。
「おめさんが班長かい」
「そうだよ」
「じゃあひとつ教えてもれえてえ。この中に先おとついの土曜日、渋谷の場外馬券でえらく当てた奴ぁいなかったかな」
「場外で……。さあ、聞かねえな。おいみんな、そんな奴がいるのか」
井田に言われて孫吉はそっと彦太郎の顔をみた。
「いねえようだぜ」
「おめさんは知らねえのかもな。じゃあ聞くが、ここんとこ馬鹿ツキしてる野郎はいねえか」
みんなの視線がいっせいに孫吉に集った。彦太郎はあやめが何月かも知らない花札オンチだが、孫吉はここのところ連日ツキにツキまくって仲間を口惜しがらせていた。
「おッ。おめえさんかね。ちょっと面《つら》ァ貸してもらうぜ」
無礼にも、土間同様の畳敷きだが、その上へ靴のまんまふたりほどあがりこんで来る。
「待てよ。おい」
班長の井田の表情がさっとやくざの生地を見せた。「土足ァねえだろう」
「邪魔すんなよ」
あがりこんだ一人が凄味《すごみ》をきかせた。
「待てこの野郎。どこの三下か知らねえが、筋の通らねえ挨拶《あいさつ》をしやがると只《ただ》ァ帰れねえぜ」
そいつの左腕をつかんで入口の土間へ突き戻す。
「よしなよ、あんさん。こっちは仕事なんだ」
「知らねえな。こんな堅気衆にてめえみてえ三下やくざが何の用だ」
「なんにゃ、わりゃあ。暴力団け」
能登《のと》のとっさきから出て来ている気の強いのがしゃしゃり出て、あがりこんだもうひとりを土間へ押し戻した。
「知らねえぜ、邪魔して怪我しても」
「俺ァここを預ってる班長の井田ってもんだ。おめえらが仕事なら俺も仕事だ。この男に用があるんなら鬼藤組の本社へ行って筋を通して来い。でなけりゃ渡せねえ」
やくざのひとりが外へ声をかけた。どやどやっと土間に物騒な面がまえが並ぶ。
「並んだもんだのう」
彦太郎が嬉しそうに大声をあげた。「本物のやくざだば指さツメてるそうだげ、見せてくれっかのう」
「うるせえ、どん百姓」
どてら姿の孫吉が憤った。
「百姓で悪《わ》りか、この野郎《やろ》め、百姓で食いかねただば東京さ出て来ただぞ。お前《め》ら米食うだろが。地下鉄さ出来たば乗っだろが。誰が作ると思うだ、あほめ。百姓が汗水流して作ったもんだ」
「こっちは忙しいんでね」
それが戦闘開始の合図になって、靴をはいた一群と、どてらに作業服の入り混った素足の一群が飯場の中で乱闘をはじめた。
「小癪《べんこ》なッ」
「糞餓鬼《くそがき》ッ」
東北、北陸の悪態が乱れとび、ドシン、バタンと飯場が揺れた。凄味をきかすだけで、腕力となったらまるでお粗末な東京やくざは、労務者たちの怪力に押されて二人、三人と戸口から逃げ出す。
「覚えてやがれ、畜生」
顔中血だらけになった最後のひとりが戸口でそう捨て台詞《ぜりふ》を残し、車の中へ駆けこんで行った。
「わりァ、待たにゃあ……」
北陸人がひとり、つるはしを手に追いかけて行き、逃げ出す車のトランクのあたりへ腰の入った見事なフォームで思いきり一撃を加えた。丁寧なワックスの跡を見せる黒塗りのシボレーは、尻につるはしをおったてたまま環状六号線へ乗り入れて行った。
「怪我ァねえか」
井田は場慣れた様子で全員を見渡した。
「あのやろっこ、やくざのくせに爪でひっかきやがった」
「娘みてえだなや」
みんな声をあげて笑った。
「班長さんよ。暴力団暴力団というども、暴力団の暴力だばあの程度の暴力かのう」
「おめえらが強すぎるんだい」
井田は苦笑していた。
*
その翌日。飯場で寝ていた孫吉は、賄いのおばさんの声に起された。
「斎藤孫吉《さいどうまんぎじ》はあんただげ。電話さ掛って来たけ」
「電話だァ……」
孫吉は素《す》ッ頓狂《とんきよう》な声ではね起きた。彦太郎も同時にベッドからすべり出る。
「なんだろ。よくねえことだろか」
この東京でふたりに電話をかけて来る者など居るわけがない。掛るとすれば故郷の雪泊からで、しかも雪泊の者が電話をするためには、この季節だと十四キロの山路を、スキーかそりで大加曾まで出なければならないのである。
ふたりは青くなって鉄梯子《てつばしご》を登り、二階の事務所へ行った。
「はい。斎藤孫吉《さいどうまんぎじ》です。……誰だ、あんちゃんけ。……違う。……リョクセイカイ」
孫吉は送話器を手で掩《おお》い、「リョクセイカイさんて知ってだがや」
と彦太郎に言った。
「はい。はい。きのうの朝……」
孫吉はそこで声の調子を変えた。「なんだ、あの暴力団の人かね」
と彦太郎を見て笑う。
「班長。班長はいねよ。色男だもの、たまにはひと晩ぐれ消えてもいいんでねか。……え、そっちにいるてか」
また送話器に手をあて、「てえへんだぞ彦太郎。班長さきのうの奴《わねべ》らにつかまってしまっているだど」
「どれ、俺に貸せちゃ」
彦太郎は血相変えて孫吉とかわった。
「俺は斎藤彦太郎《さいどうひこだろ》だ。……馬鹿いうな。同じ斎藤《さいどう》でも孫吉《まんぎじ》はとなりの家だ。俺《おら》ほは吉兵衛《きじべ》で、おやじが吉兵衛《きじべ》という名だ。……いや、死んだ爺《じ》さまも吉兵衛《きじべ》だし、その前の爺《じ》さまも吉兵衛《きじべ》だ。うん。俺もその内|吉兵衛《きじべ》になっげど、今は彦太郎《ひこだろ》」
「何喋ってるなだ。俺にかせて」
と孫吉がかわる。
「電話変ったぞ。俺は斎藤孫吉《さいどうまんぎじ》だ。……そうか。たしかに土曜日に競馬したなだば俺《おら》たちだ。だから班長は関係ねえ。ひどいことしねで放してやれてば。……え、取りに来いてか」
ふり返って彦太郎に、「班長さ取り返《けえ》しに来いだと」
という。
「行《い》ご。班長は関係ねえだからな」
「彦太郎《ひこだろ》も行くと言ってる。どこへ行けばいい。……新宿。……あのコマ劇場のある新宿かね。……ウン。歌舞伎町《かぶきちよう》だな。よし判った。いまどてら着てっからな、ふたりとも。着換えてすぐ出掛けるだ」
切れたらしく、しばらく黙って電話を耳にあてがっていたが、気の抜けたように机の上に戻した。
「なんだって」
「どてら着たままでもかまわねと」
「そんでもかっこ悪《わり》だろ」
ふたりは急ぎ足で鉄梯子を降りて行く。
*
新宿。
コマ劇場うらの通りに面してちょっとした事務所がある。表に仰々しい金文字の看板がかけてあって、緑声会と書いてある。いまその前を大和交通のタクシーが通りすぎて行く。
「ここだば、緑声会の事務所というのは」
タクシーの中で孫吉が言った。
「あんたらあそこに何の用事だね」
人の好さそうな中年の運転手が訊ねる。
「あそこさ人がつかまっていだはげ」
「班長は暴れっから縛られてるかもしらねな」
「どうする気だい」
運転手は心配しているらしい。
「どうするって、班長をとり返しに行ぐなだ」
「二人でかね。そいつはやめときな。悪いことは言わないから」
「そんだこと行《い》がねえ」
「男の仁義だもん。さあ、場所は判ったからこのあたりで停めてくれ。これからちょっくら撲《なぐ》りこみしてくっから」
「およしよ」
「停めれってば」
「やだよ。あたしゃ停めないよ」
「乗車拒否ってのは聞いたことあっけど、この運ちゃんは降ろさねえつもりだなや」
「そうじゃないけどさ。どだいあんたがたむちゃくちゃだよ。緑声会相手に何をやろうっていうんだか、自分で判ってるのかい」
「こらしめてやるなだ」
「えれえ客乗せちまったよ」
運転手はメーターを空車の位置に戻し、ちょっとしたすき間をみつけて駐車した。
「気の毒で見ちゃいらんないね。知恵貸すからちゃんと作戦をたてて乗りこみなよ。俺が外で見てて、いざとなったら一一〇番してやるから」
「どうやる」
「これから考えるのさ。そうだ、こうしたらどうだね」
タクシーの運転手はふたりに裏口から奇襲しろとすすめはじめた。
*
すぐ近くの建築工事場からドラム罐《かん》をころがして来た孫吉は、そいつを両手で差しあげると緑声会の事務所のガラス戸へむかって恐ろしい勢いで投げつけた。
ガシャン、とひどい音がして戸が砕けとぶ。
「火事だァ。火事だァ」
孫吉の胴間声が、まだ陽の高い歌舞伎町に響き渡り、近所の店から人々がとび出して来る。同時に緑声会の男たちも通りへとび出し、とび出した順に孫吉の鉄拳《てつけん》に張り倒されている。
緑声会の裏はおにぎり屋になっていて、その間にある細い路地から事務所の裏口にしのびこんだ彦太郎は、男たちが表へとび出すのと入れ違いに、班長の姿を探し求める。
「誰だてめえ……」
出会いがしらに、二階から降りて来た派手な背広の男に誰何《すいか》される。
「斎藤彦太郎《さいどうひこだろ》」
堂々と名乗ると男の顔色がさっと変る。そいつの腕をひっつかんで振りまわすと、男は反対側の唐紙《からかみ》を突き破って狭い板の間にころがり、呆気《あつけ》なく気絶する。
「火事だァ。火事だァ」
表では孫吉が自分の健在を知らせる合図にそう怒鳴り続けている。
「二|階《けえ》だなや」
彦太郎は一気に階段をかけのぼると、思いのほかきちんとした床の間つきの和室に、両手両足を縛られた班長がころがっている。
「班長、助けに来たど」
彦太郎はそう言って細引きをほどきにかかる。
「畜生、ひどい目に会わせやがったぜ」
いためつけられたらしく、班長はふらついていた。
「そうれ、あっちの二階へとんで行けや」
彦太郎はとっさに物干しから裏手の寿司屋《すしや》の二階へ班長を落ちのびさせ、自分はそこいらにあった家具類を、表側の窓から手あたり次第に通りへ投げおろす。桐のたんすが道に落ちて割れ、和服が散乱する。
「火事は二階だあ」
孫吉と渡り合っていた男たちはいっせいに上を見あげる。
「野郎ッ」
どっと事務所へ駆けこむ隙《すき》に、孫吉は身を翻して弥次馬《やじうま》の中へ消えてしまう。炭火の入った大きな火鉢《ひばち》が階段に投げこまれ、登りかけていた男たちが下へころげ落ちる。最後に煮えたぎった鉄瓶《てつびん》が降って来て熱湯をぶちまけると、あとは収拾のつかない灰《はい》神楽《かぐら》だ。
「あちィ……」
悲鳴を聞きながら彦太郎はとなりの寿司屋の二階にとびこみ、ガラス戸の鍵《かぎ》をかけてしまう。
「あなたがこのお店のご主人かや」
豆絞りの手絞りに白い上っ張りの中年男が、おびえたように突っ立っているのをつかまえて彦太郎が丁寧にたずねている。
「早く行っちゃってくれよ。とばっちりはごめんだ」
「申し訳けねえと思ってます。そんで、これはほんの気持だから」
緊急の場合だから札《さつ》を数えているひまはない。例の四百五十九万円の中から何枚かつまみ出して寿司屋の主人に握らせ、店へ降りると班長が柱によりかかって青い顔をしている。
「迷惑さかけて済まねのう、班長」
肩を貸し、寿司屋の粋《いき》な格子戸をあけて路地へ出る。
「駅だばどっちの方角かのう。すっかり判らねもんだ。どうせ田舎者《ぜえごもん》だで」
彦太郎は照れたように言った。
*
雪が降っている。風もなく、ただ静かに白い雪が降りて来る。遠くで鴉《からす》が三声ほど短く啼《な》いた。
まわりは四方が山。樹木もずっしりと雪に覆われ、白い大きな塊りがのしかかるように迫っている。近くにポツン、ポツンと民家が二軒。
よく目を凝《こ》らせば、青いけむりがその民家から立ち昇っているようだが、ひっそりと音もない。
雪に埋もれた祠がひとつある。足跡がひとすじ、前方からまっすぐつらなって、祠の前で直角に民家のほうへ折れている。
ここは孫吉と彦太郎の故郷、雪泊である。
雪泊さまと呼ばれる祠の前に、不思議な老人たちが集っていた。
「うまく行ぐだろかや」
白髪白髯《はくはつはくぜん》の、見るからに土臭い、というよりはいっそ神々しいほど田舎臭い老人が言う。
「心配《しんぺ》ねえ。俺《おら》まだそんなにおいぼれているわけでもねがらのう」
似たような老人が答えた。
「だども、鉄神《ヘテ》の奴《わねべ》らが相手ではのう。油断してはなんねぞ」
「俺心配《おらしんぺ》でなんね」
「なして、田の神っちゃ」
田の神と呼ばれた老人はうすい煙のたちのぼる民家を見やりながら、
「まあ、あの者達《もんだち》、毎年毎年《まいどしまいどし》、春だ秋だと、季節の変るごとさ、俺《おら》の面倒よく見てくれっがらのう。いるもんでねえ、いまどきあんな者達《もんだ》ちゃ。鉄神《ヘテ》をやっつけるだば仕方《すかた》ねえけど、あの者達《もんだち》に手傷だけは負わせちゃなんねど」
「んだ」
二人の老人も民家のほうを見やりながらうなずいた。
「そんだども、三ツ星と三ツ江の鉄神《ヘテ》同士がこれがら噛《か》み合いをすっかと思《おも》ど、ゾクゾクして来るなだや」
「んだ。奴《わねべ》らあとからこの地球さやって来だども、このごろの威張りかたはまんず礼儀知らずの見本みてなもんだのう」
「どごもかしごも石さ並べて蓋して行ぐがら、土《つじ》の神さ寝こんでしまったども……」
「三ツ星の守り礼だば、あのまんま土《つじ》の中さ埋もれさせて腐らせたほうがいがったでねかのう」
「そんでもまだ三ツ江の奴《わねべ》らがいるでねか。噛み合わせてやっだ」
「そのほが良《え》だろ」
「木の神っちゃ、も一回様子見て来《こ》ばいっちゃ」
「東京さは鉄神《ヘテ》の味方ばかりだでのう」
木の神と呼ばれた老人は億劫《おつくう》そうに消えた。
*
飯場の前にとてつもない高級車が停まっている。気をつけて見ると、その超高級車から少し離れたところに、どことなく警察のパトカーに似た雰囲気を漂わす車が二台ほど停まっていて、中にはきちんとした身なりの男たちがつまっている。どれも逞《たくま》しい体つきをしていた。
飯場の中では第三班の連中が横にずらりと正座して土間に立ったふたりの男をみつめている。
「そういうわけで斎藤孫吉君と斎藤彦太郎君は、しばらくのあいだ三ツ星銀行さんの秘書課のお世話になることになった。人手が足りなくなる分はすぐ応援を寄越すから、みんなもしばらくのあいだ頑張ってもらいたい」
鬼藤組の社長が、柄にもなく少々アガリ気味で喋った。
「来ていただきたいと言うのは手前ども三ツ星銀行の勝手なお願いなので恐縮なんでございますが、いかがでしょう斎藤さん。ほんの数日でも結構ですからお力を貸してはいただけませんでしょうか」
三ツ星銀行の秘書課長は、ひどく丁寧に言った。
「だども、俺《おら》だち田舎者《ぜえごもん》に何が出来っかのう」
孫吉は渋っている。
「銀行はやんだ俺」
と彦太郎。
「そうおっしゃらずに」
「わっちゃ行ったらいいがに。ひどい出世ないかいや」
能登の若者がすすめた。
「お受けしろよ」
額に赤チンの跡をつけた班長の井田もすすめる。
「だども、仕事もろくに出来ねではのう」
「一応うかがうだけでも……このとおり社長の儂からもお願いする」
土間で体を折った鬼藤組の社長は、汚れた畳に両手をついた。
孫吉と彦太郎は顔を見合わせ、
「んだば行《い》ぐか」
と言っておずおず立ちあがる。
「そのほうがいい。また緑声会に狙《ねら》われて怪我でもしてはつまんねえからな」
班長の井田が送り出しながらそう言って孫吉の肩を叩いた。
地下足袋をはいて孫吉たちが外へ出ようとしたとき、三ツ星銀行の秘書課長と鬼藤組の社長は、飯場の前に停めた車に乗りこもうとしていた。
その時、前を走る環状六号線から急に一台のシボレーが強引に乗り入れて来たかと思うと、突然その窓から何条かの火が噴き、鋭い銃声と同時に秘書課長と鬼藤社長がボロきれのように車のドアに叩きつけられて倒れた。
さり気なく停まっていた二台の車から屈強な男たちが泡《あわ》をくらってとび出し、手に手に拳銃をふりかざして近寄って来る。シボレーは狭い飯場の前で悲鳴をあげるようにエンジンをふかせ、必死に方向転換しようとしている。車の窓ガラスが割れ、銃声が入り乱れた。車の内と外の撃ち合いは一分間ほども続いたが、やがて最後のひとりが血だらけになって車からころがり出て来ると、それでおわりになった。
飯場でひとかたまりにうずくまっていた連中が、恐る恐る出て見ると、まだ拳銃をぶらさげたままの男たちが、秘書課長と鬼藤社長の前に集って来るところだった。
「どういうことなんだ」
班長の井田がふるえながら怒鳴った。
「見いや。ふたりとも死んどってや」
車に駆け寄った能登の男が叫んだ。遠くからサイレンの音が近づいて来る。
「社長を殺《や》った連中はどこの奴らなんだ」
井田が男たちに訊ねる。
「私たちは三ツ星のガードマンです。ここからお連れするふたりを護衛する筈でした。あいつらは多分緑声会の者でしょう」
背広を着たごつい男が、拳銃をしまいながら穴だらけのシボレーを見て言った。
「ひ……。また緑声会が出て来ただど」
*
深夜の青梅街道《おうめかいどう》を、一台のダンプカーがすっとばして行く。作業服に黄色いヘルメット、いこいをフレンドホルダーに突っこんで唇のはしにくわえ、冷たい表情でふそうの四トンダンプのハンドルを握っているのは、雪泊の吉兵衛《きじべ》家の長男彦太郎である。助手席で通過する町の名を読んでいるのは孫吉であった。ふそうの四トンダンプは意外にスピードが出る。いっぱいに踏みこめば百キロは軽い。
「健さんの気持がようく判《わが》るのう」
孫吉が言った。散々みんなにとめられたが、緑声会を放って置いたらこのあと何人に迷惑が掛るか判ったもんじゃない。そう思ってふたりで出掛けたのだ。緑声会のボスは上田吉五郎といって政財界とのつながりを噂《うわさ》される大物である。
田無《たなし》を過ぎると、やがて前方に西武新宿線《せいぶしんじゆくせん》が見えてくる。
「あれさ越えれば右折でねか」
「んだ、右折だ」
ダンプカーは追い越そうとしていた白いカペラの鼻先をこするように、ブレーキを軋《きし》ませて強引に右折する。カペラは驚いてハンドルを切り、彦太郎のダンプと並んで右折するとガードレールに激突して歩道へのりあげた。
「いくらかっこ良《え》がっても、あんだけぶつかったば情けねもんだのう」
彦太郎は冷酷な微笑を浮べて言った。
車はやがて小平にさしかかる。
「でっけえ墓場でねか」
小平霊園ぞいに入りこむと急にあたりは静かになり、運転席の中にまで木枯しの音が聞えて来る。
「やり損ねたば、ここさ仲よく入《へ》っかのう」
孫吉はそう言って笑った。
「あれか。行ぐだぞ」
彦太郎は行手に見えて来た巨大な邸宅の門柱を睨《にら》みつけると、一気にアクセルを踏みこんだ。時速百キロで鉄の塊りが洒落《しやれ》たスペイン風の門を突き破り、玉石を敷きつめた玄関への道を突っ走る。
「それえ、やれえ」
奇妙なかけ声と共にダンプカーは贅《ぜい》を凝らした数寄屋造りの玄関へ、大音響と共に突入した。
「行ぐどォ」
孫吉と彦太郎はダンプをとび出し、散乱した木材の間を抜け出すと、とび出して来た用心棒らしい男の股倉《またぐら》を蹴りあげて拳銃を奪う。
「本物だろか」
「一発撃って見れ」
言われて彦太郎が試射すると、廊下の向うから走って来た男が拳銃を放り出してバタリと倒れた。
「あそこにもう一挺《いつちよう》落ちているなだや、拾って来るべっちゃ」
孫吉が廊下を地下足袋で駆け出す。
「上田吉五郎。どけにいるなだ」
拳銃を拾った孫吉が叫んだ。とたんに座敷から銃声が発し、孫吉のすぐそばの障子のガラスを突き破って雨戸につきささる。
「そっちにいるなだかや」
その障子をガラリとあけて首をつき出す。麻雀《マージヤン》テーブルのそばに男が三人突っ立っている。
「て、てめら何者《なにもん》だ。赤軍派か」
ヘルメットをかぶりタオルを首にまきつけた孫吉は、そう言えばそのように見えなくもない。
襖《ふすま》がスラリとあいて、同じようなスタイルの彦太郎が拳銃を擬してあらわれた。
「死んでもれえます」
二挺の拳銃を見て、一人がガラリとマージャン牌《パイ》の中へ拳銃を落し、やくざ三人|呆気《あつけ》なく手をあげた。
「外に大勢仲間がいるがら、じっとしてれ。静かにしでれば死ぬこどもね」
と孫吉が威《おど》す。
「親分は」
彦太郎が聞く。やくざ三人はいっせいに顎《あご》をしゃくってとなりの部屋を示す。孫吉と彦太郎は、目顔で合図し、その境の欄間をめがけて拳銃を乱射した。
「やめろ、やめてくれ」
何かを引っくり返したらしい音がして、すこし上ずった男の声がした。二挺拳銃になった彦太郎が踏みこんで行く。
「畜生、思い切ったことをしやがって。いいよ、判ったからブッ放すのはやめてくれ」
「俺は斎藤彦太郎《さいどうひこだろ》。あっちは斎藤孫吉《さいどうまんぎじ》」
「あ……」
「知ってくれてるだのう」
「お前《めえ》さん方か」
「んだ。何人ブッ殺したら気が済むというなだかや」
「こっちは商売さ。頼まれただけだよ」
上田吉五郎は怯《おび》えを精いっぱいおしかくして、ふてくされたあぐらをかく。
「誰にだ。どこの誰に頼まれたなだ」
「よせやい。そんなこと言えるかい」
「言ったほうがいいんでねか」
レボルバーの撃鉄がカチャッと鳴る。
「言うよ、言うよ」
吉五郎はのけぞってあとずさりながら内閣総理大臣の名を言った。
「聞いたような名だども、どこの者《もん》かのう」
「総理大臣と同じ名でねか。この糞餓鬼《くそがき》だば、本当のことを言わねど……」
彦太郎がつめ寄る。
「そ、そ、そのご当人だ。あんた達はよッぽど大物らしいが、俺だってこいつを吐くのは命がけなんだぜ」
「なあ彦太郎《ひこだろ》。俺たちだば、えれえ人に憎まれてしまったげだのう」
「総理大臣だば楯《たて》つくわけに行がね。日本に住めなぐなってしまうがら」
「何《なん》してそんな命ねらわれっほどあの人に憎まれちまっただか知んねども、あやまって来《こ》ばいっちゃ」
「んだ。吉五郎さん。あんた道順知っでだら教《おせ》て見れ」
「ど、どこの……」
「総理大臣さいるとこだ」
「この時間なら世田谷《せたがや》のほうにいるよ」
「そんだば俺たちの飯場の近くでねえか。こいつはあんべいいのう」
「済まなかったのう。これはほんの気持だば家の修理代にでも……」
ざっと三十枚。彦太郎は一万札をつかみ出して吉五郎の前に置いた。「廊下の若げのは死《す》んだふりしてっだがら、もうとうに逃げ出してるだろが。やくざもだらしねのう」
彦太郎はそう言って孫吉と拳銃を構えたままあとずさって行く。
*
「木の神っちゃ。二人はどんなげだった」
雪泊の祠《ほこら》の前である。
「総理大臣の私邸さ真夜中に訪ねで、警察庁に連れてがれだども、今はとうとう三ツ星の家へ入《へ》ったとこだ」
「思うように行《い》ぐのう、田の神っちゃ」
「んだ。三ツ星と三ッ江が噛み合ってくれただば、昔のようにあんべよくなるだろ」
「だども孫吉《まんぎじ》と彦太郎《ひこだろ》が鉄神《ヘテ》の守り札ば返《け》してまっだら奴《わねべ》らっちゃまた元気だして水腐らしたり毒の風さ吹かしたりすっでねだろかのう」
「そうは行《い》ぐめ。三ツ星は執念深けがら、守り札さ返《け》ったら、どんなごどさしても三ツ江に仕返しするだろ。なあや水の神」
「んだ。それにこのごろはやっと海の神も鉄神《ヘテ》らよそもんのやり方さ気がついだらしだがら、みんな掛れば鉄神《ヘテ》を追い出せっかも知んね」
「だども、早くしねどまた田植さ始まっど」
「俺《おら》だち農閑期だけ鉄神《ヘテ》とやりあうがらいけねなでねか。奴《わねべ》らと来だら一年中|俺《おら》だちを弱らせるなに働《はだ》れているがらのう。ちっとの間|俺《おら》だちも一年中やらねと……」
「それはいがね。土《つじ》の神さはじめ俺だちは、春がら秋までは休めねだもん」
「だどもよ。鉄神《ヘテ》の考《かん》げだば、鉄さ腐らすもんは川の水、海の水、土《つじ》に風に、なんでもかでもみんな地球がらなぐしてしまうことだがらのう。土《つじ》の上さどんどん鉄さ流して固めてるでねかや。煙突だば人間だちに立てさせて、風に毒混ぜるでねか。風の神だば、もう東京にも大阪にもいらんねことになって、土《つじ》の神っちゃより重い病気さかかったでねか」
「だども、土《つじ》の神や風の神もよぐね。鉄神《ヘテ》が天から地球にやって来たどぎ、ふだりで鉄神《ヘテ》さいじめ抜いたんだがらのう。鉄だばすぐに腐れっがら、しまいにゃ腹立てで、こんなげになったもんだ」
「居ねもんを悪ぐ言うもんでね。そういう水の神っちゃ、あのふだりと一緒んなっで鉄神《ヘテ》さいじめだでねかったか」
「何抜かす、この糞餓鬼」
「仲間割れだばすっと、鉄神《ヘテ》の思う壺《つぼ》だろが」
木の神が言い合いをとめた。
*
「ひ……」
孫吉が一目見るなり叫んだ。「化けもんだろか」
緑の部屋に緑のベッドがあり、その上に異様な人物が横たわっていた。
目が三つ、耳が三つ、鼻の穴が三つで、手も足も三本ずつの緑色をした生物が、緑色のパジャマを着ているのだ。
「こわがる事はありません。このお方は、わが三ツ星コンツェルンの創始者で、遠い宇宙からいらっしゃった、ヘテという宇宙人です」
「宇宙人だなかや」
「そうです」
「病気みてに見えるだけど」
「ええ。実は……」
三ツ星銀行の頭取が言いかけると、宇宙人はそれを制し、
「君はさがっていなさい」
と命じた。「社員どもの不手際でおまねきが遅れたが、私が三ツ星というヘテ人です」
「人間みてだども、何もかも三ツだのう」
「三ツ揃いだば洋服だども、人間の三ツ揃いは気味|悪《わ》りのう」
「君らが地下から掘り出した丸い金属板だが、それを返してもらいたいのだ」
「や、この電車の部品さか」
彦太郎はシャツの上から胸を探って言った。
「それは電車の部品などではない。われわれヘテ人のエネルギー源なのだ。それを紛失してしまったので、このように病床に臥《ふ》しておる」
「だば気の毒したのう。だども、なんしてそんな大切なもんさなぐしてしまったのだ」
「実は、この地球に大昔私と一緒にやって来たもう一人のヘテ人がいるのだ。その女が今になって私を裏切り、エネルギー源である円盤を、我々の敵である土の中に埋めてしまったのだ」
「土《つじ》が敵……」
「我々の本体は、この地球で言う鉄なのだ。土には酸がある。我々は長い間この地球にある酸のために苦しんで来たのだ」
「よぐ判らねけど、鉄は酸につけると錆びるだのう」
「女が裏切ったて、あんた悪《わ》り女とつき合ってるだな。なんという名だ」
「三ツ江という」
宇宙人の頭に突然緑色の触角が三本突っ立った。
「やや、頭《あだま》の上さ毛が三本」
「さいわい君たちが拾ってくれたので私は助かったわけだ。発見がもう二、三百年も遅れたら私は死ぬ所だった」
「それは良がったのう。だばお返《け》しする」
彦太郎は首からひもを外し、幸運のペンダントを三ツ星に差し出した。
「有難う。三ツ江の奴め、これが発見されたのを知って君たちからとりあげようとしたんだ」
「そんだば緑声会は……」
「そうだ。あれは三ツ江物産がかげで糸を引いていたのだ」
「そんだば総理大臣は」
「あれはこの前、わが三ツ星グループから資金を得て総裁になった男だが、私が病床にあって再起不能と見たらしく、三ツ江側に寝返ったのだ」
「総理大臣ちゃ、そんな悪《わ》り奴だったかのう。そんだば今度は社会党に入れねばのう」
「何しろまた選挙が近いし、あの男も金が必要なのだ」
「んだろ。俺《おら》ほの村会議員選挙でも一票三百円すっがら」
「選挙はおもしれ。酒もまんず呑《の》み放題《ほうで》だし」
「ところで、私に力をかしてくれないか」
「力貸すだか」
「ほれ、お前《め》の四百万だろが」
「惜しいなや」
「違う。金ではない。ふたりともかなり長い間これを肌《はだ》につけていたらしいが、そのためにこのエネルギーに汚染されているのだ」
「ひ……」二人は顔色を変えた。
「別に毒ではない。その逆だ。エネルギーに汚染され、その精気が体にこもって異常な力を与えられてしまっているのだ。競馬で大当りしたのもそのためだし、プロの殺し屋たちを向うにまわして、かすり傷ひとつ負わなかったのもそのためだ」
「なるほどのう。どうもおがし、おがしと思ったわけだ。いくら乱暴しても死なねがっただもんな」
「私はそうは行かぬのだ。ヘテ人の体と地球人の体は違う。これが戻って来てもまだ当分の間は回復できんのだ」
「気の毒に」
「しかし三ツ江は私がこれをとり戻したことを知っている。だから必死になってわが三ツ星コンツェルンを叩きつぶしに出るに違いない。私の元気が回復するまで、三ツ江とたたかって欲しい」
「乗りかかった船だば、やってやろかのう」
「んだ。病人さいじめるような奴らは許さね」
「引受けてくれるか」
「だども、これも出稼ぎの仕事だっちゃ。給料もらわねど……」
「もちろん払う。税抜きで月に百万ずつ」
「ひ……」
「ほかに掛った実費は経理に請求しなさい」
「百万だば耕耘機《こううんき》でも何でも買えっど。やるべ、やるべ」
*
雪に埋れた雪泊の祠《ほこら》。
「だいぶあんべいいのう」
「三ツ江自動車の工場が爆弾でふっ飛んだでねか」
「んだ。千葉の製鉄所も九州の製鉄所も」
「あのふたり、やるもんだのう」
「三ツ江も負けずにやってるでねか」
「電車も道路も石油会社のタンクも、発電所さもみんなぶっ飛んじまったし」
「また昔のように奇麗な水が川に流れっだか」
「んだ。まぢけえのう。めでてことだなや」
「そんだば、土の神や風の神も元気さ戻って……」
「いっぺやっか」
「そうすっだかや。行《い》ご行《い》ご」
*
その冬火を噴いた三ツ江と三ツ星の企業間戦争は、まず政府与党をまっぷたつに割り、次いで日本のあらゆる官僚機構を二分してしまった。警察も機動隊も自衛隊も、それまでの陰の関係を一挙に顕在化させ、三ツ江かしからずんば三ツ星かという二者択一を迫られ、遂《つい》に日本全土が内戦の様相を呈した。
機銃が火を噴き、ヘリコプターは爆弾をばら撒き、放送局はそれぞれの陣営に有利なニュースを流しつづけている。
あらゆる産業活動が停止し、砲火の交錯する市街地から、一日ごとに黒い土の露出した部分が拡がって行った。鉄とコンクリートの繁栄は進行をとめ、流血の代償に川の水が澄みはじめた。ヘドロを吐き出す製紙会社は炎上し、硝煙の合間に青い空が見えた。
庶民は自給自足の為に争って舗道をはがし、井戸を掘り、緑の苗を植えた。
瞬く間に経済大国日本は、三流農業国に転落をはじめ、焼け残った住宅街では夜中にこっそりと他人の家の人肥が盗まれる事件が流行した。
「敬礼ッ」
今や三ツ星の私兵化した陸上自衛官でごったがえす白い館《やかた》へ、黄色いヘルメットに作業服、地下足袋姿のふたりが現われた。孫吉と彦太郎は軽く挙手の礼を自衛官たちに返し、三ツ星軍総司令部になっているその館へ駆けこんで行く。
「大将はいるだが」
「ハッ。グリーンルームでありますッ」
「よし」
彦太郎は少し疲れた表情で言い、二階の緑の部屋へむかう。
「ヘテさん、俺だちはもう帰《けえ》ろと思ってるだどもな」
「冗談じゃない。今きみたちに手を引かれてはなんにもならん」
「だどもよ、もう春だでのう」
「せめて夏まで……。そうすれば私が三ツ江の奴をやっつけてやれるんだ」
孫吉と彦太郎は気の毒そうに窓の外を見ながら言った。
「田植だもんなあ」
「来るとき雪泊さまに約束して来ただがら、それを嘘にすることさできね」
「雪泊さま……」
「田の神だ、おらほの」
ヘテ人は緑の顔を紫にして唸《うな》った。
「なんでそれを早く言わん。糞《くそ》ッ、あの田舎者たちにしてやられたか」
「なんだ、田舎者《ぜえごもん》だ……。やいヘテのやろっこめ、もういっぺん言ってみれ」
孫吉が怒声を放った。
「んだ。田の神さまを田舎者《ぜえごもん》だど……この罰あだり。もう二度と力貸してやんねだぞ」
「帰《けえ》ろ。都会もんだばどこまで行《い》でも都会もんだっちゃ。田舎者《ぜえごもん》でどこが悪《わ》りか。この糞ッたれ宇宙人め。今まで黙ってだけど、三ツ江っちうのはお前《め》の女房だでや。見れ、この有様……」
孫吉は窓をあけ放った。三ツ星、三ツ江のどちらかに所属する東京のビルというビルが、みじめに崩れ落ちた廃墟《はいきよ》と化していた。
「宇宙人の夫婦|喧嘩《げんか》で地球がひどいことさなったでねか。鉄さ持ってお前《め》も生まれ故郷さ帰《け》っだらいいだ」
ヘテ人は憮然《ぶぜん》としていた。
「さあて、これで農閑期さ終りだば、また精出して米作らねばのう」
「そんだば勝手に夫婦喧嘩でもやれ」
ふたりは飄然《ひようぜん》と去って行った。
彼らの故郷にはコンクリートの道がない。工場もない。あるものはただ、昔ながらの山と谷と川と風と、そして生きとし生けるものすべてに命の精を感ずる、鉄神《ヘテ》到来以前の地球人たちであった。
某県加曾郡大加曾村大字谷底字雪泊。
春の訪れ遅いその山里も、今はすでに雪も溶け、人々の姿が祠のあたりを行き交っていることであろう。
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庄《しよう》ノ内《ない》民話考
まえがき
民話は、その民族の心の故郷である。何に美を感じ、どれを善とし、いかなる現象を霊異と見るか、民話はその民族の特性に根ざし、育《はぐ》くまれ、語り伝えられて今日に至っている。
だから民話は、ただ聞いているだけでも充分に面白い。そのストーリーは、あたかも野にある石の仏たちのように、風雪にさらされて磨滅し、全体のおぼろげな輪郭だけを残して細部は見る者の想像の力にまかされている。発生当初にはくどくどとつなげられていたに違いない世俗的な部分はいち早く風化し、大らかな飛躍と、小ざかしい実証主義など音もなく呑《の》みこんでしまうほどの寛容な笑顔で、野の道に、山の襞《ひだ》に、ひっそりと私たちが訪れるのを待っていてくれる。
だがしかし、そのアルカイックな微笑に私たちが迂闊《うかつ》に手をあげてほほえみ返すとき、民話は時として思いがけない侮蔑《ぶべつ》のまなざしを投げかけて来ることがあるのを忘れてはならない。
民話を収集し、その発生や伝播《でんぱ》の経路、分布を研究する時、私たちは古拙な立ち姿の背後に恐るべき真実が隠されているのを知って愕然《がくぜん》とすることがあるのだ。
これから紹介する東北の庄ノ内地方の民話の幾つかは、或《あ》るひとつの事実から発生した一連のものであると思われる。もちろん民話には、相互の間に順序があるはずもなく、発生の時期もおおよそのことしか判《わか》らない。したがって配列の順は筆者の独断である。
だが心ある読者は、筆者同様この一連の民話の背後にひそむ、或る事実を感じとってくれるに違いない。
一 石ころ長者
むかしむかし、この広い庄《しよう》ノ内《ない》にもまだごくわずかの民家しかなかった頃のことです。
その頃の庄ノ内は田も今のようには多くなく、たくさんの小川と、その間に自然のままの野原がひろがって、わがもの顔に歩きまわっているのは、狐《きつね》や狸《たぬき》やうさぎなどのけものたちと、それを追う猟師だけでした。
だが、そうした野原に小川から水をひき、田を作って一所懸命稲を育てようとしている働き者の百姓も何人かはいました。
いつの頃からか庄ノ内へやって来て、小さな岡の上へ粗末な小屋をたてて住みついた宗左衛門もその一人です。
宗左衛門は一所懸命働いていました。すぐ北の酒田《さかた》や鶴岡《つるおか》のあたりの百姓は、みな広い田をひらき、秋になると黄金色《こがねいろ》のふさふさとした稲をみのらせていたからです。庄ノ内だって今にきっとあのようになるに違いない。宗左衛門は見わたすかぎりの稲穂に、黄金色の波をうたせる日を夢みていたのです。
それは田の草をとる頃の或る夜のことだったといいます。昼間の疲れで宗左衛門がぐっすりと寝入っていると、誰《だれ》かが外に立って、トントン、トントン、と板戸を叩《たた》きはじめました。随分長いこと叩いていたようでした。
やっと宗左衛門がその音に気づいて起きだし、寝ぼけまなこをこすりながら板戸を繰ると、そこには月の光をいっぱいに浴びて、見知らぬ旅人がひとり立っていました。
その夜の月の明るさと言ったら、まるで蝋燭《ろうそく》を百も一度につけたようだったといいます。
見知らぬ旅人は言いました。
「旅で難儀をしております。水を一杯いただけませんか」
旅人がとても疲れている様子なので宗左衛門は気の毒に思い、さっそく裏へ行って水を大きな木の椀《わん》にいっぱい入れて持って来てやりました。
ところが、旅人はそれをおしいただいてひとくち口に含むと、ゴクリと呑《の》みこんでから目を丸くして叫んだのです。
「これはおいしいお酒だ」
宗左衛門は酒など与えた覚えがないので、キョトンとしていました。旅人はうまそうにゴク、ゴクと一気に残りを呑みほし、
「こんなおいしいお酒ははじめてです。すみませんがもういっぱいいただくわけにはいかないでしょうか」
と重ねてねだります。
「お安いご用ですとも」
宗左衛門は裏へ行ってまた水をくんだが、その時自分でもちょっと舐《な》めて見ました。やはり水は水で、酒の味など少しもしませんでした。
しかし旅人はまた、
「こんなおいしいお酒ははじめてです」
といってさもうまそうに呑み、すっかりいい気分になったようでした。
「こんなおいしいお酒があるなら、これからたびたびうかがいましょう。これは少ないけれどほんのお礼です」
呑みおえた旅人はそう言うと、ふところから何かを大事そうにとり出して宗左衛門に渡しました。宗左衛門が受取ってそれをよく見ると、なんのことはない、それはただの小さな石ころなのです。
ふだんはおとなしい宗左衛門も、さすがに莫迦《ばか》にされたような気がして、
「これは何です。ただの石ころではありませんか。私があげたのがただの水だから、石ころのお礼でも仕方はないが、こんなものならそこらにいくらでもあるのです」
と言って庭にごろごろしている石ころの間へその小石を投げつけてしまいました。
旅人はその剣幕におどろいて目を丸くし、しばらく庭を眺《なが》めていましたが、やがて大声をあげてとびあがると、
「やあ黄金《こがね》だ黄金《こがね》だ」
と言ってあたりの石ころを拾いはじめました。
「そんな石ころのどこが珍しいのです」
宗左衛門がふしぎに思ってそう尋ねると、
「私の国ではこれを黄金と言い、大層な宝物なのです」
と答えました。
宗左衛門はハテナ、とそこで考えたのです。水をやったら酒だという。石ころを黄金だという。旅人の見なれぬ風体からして、ひょっとするとこれは話に聞くあべこべ国の者なのではあるまいか。そこで宗左衛門はこう言ってみました。
「そんな黄金なら私のほうにいくらでもあります。だから欲しければいくらでも差しあげましょう。そのかわり、私はあなたの国の石ころが欲しい。私の黄金とそちらの石ころをとりかえませんか」
旅人は嬉《うれ》しそうにニコニコして答えました。
「私はこれでも抜け目のない旅の商人です。よろこんで石ころと黄金をとりかえましょうが、とりかえに来るたびに、今のおいしい酒をタダで呑ましてもらえますか」
お酒と言っても宗左衛門には水なのですから、お安いご用です。
「いいでしょう。いくらでもお呑みください」
こうして宗左衛門は、石ころと黄金をとりかえることになりました。それから毎とし田の草をとる頃になると旅人がやって来て、たくさんの黄金を置いて行き、そのかわり同じ重さだけの石ころを持って帰りました。もちろん旅人は帰るとき、水のお酒で上機嫌《じようきげん》になっていました。
宗左衛門はその黄金で人をやとい、鍬《くわ》や鋤《すき》や牛や馬を買って、あたりの野原を思いどおりの立派な田にしました。
庄ノ内は宗左衛門のおかげでだんだんにひらけ、家が増え、おかげをこうむった人々は宗左衛門のことを、石ころ長者と呼んでいつまでも敬ったということです。
[#この行1字下げ]〈註〉 石ころ長者に関連するあべこべ国の話は、庄ノ内地方を中心とする東北地方一帯に分布している。石ころ長者はあべこべ国民話の一変種だと主張する研究者が多いが、その発生の前後を証明する確たる資料は今のところ何も残っていない。
二 人さらいの腰かけ
よく晴れた春の或る日、いつものように百姓たちが大勢田に出て働いていると、いつの間にか山ぞいの田を見おろす場所で、一人の着飾った男が、大きな腰かけにすわってあたりの景色を眺《なが》めていました。
その男の着飾りようと言ったら、いつも泥まみれの野良着《のらぎ》を着ている百姓たちが見たこともないほどだったのです。
頭にはキラキラと五色に輝くかんむりをかぶり、銀色の布地にさまざまな縫いとりをした美しい衣裳《いしよう》を着て、身動きするたびにそれがキラキラと遠くまで光ってみえました。
「あれは一体誰だろう。この辺りではついぞ見かけぬ人だが、都から来た高貴なお方ではないだろうか」
人々はそう噂《うわさ》し合いながら、物珍しさにぞろぞろと集って来ました。
その男は大きな腰かけにすわっていましたが、おかしなことにそれを運ぶ従者の姿が見当りません。そんな大きな腰かけは、この辺りにあるはずがないのです。
しかし身なりが余り立派なので、人々はすっかり気を呑《の》まれてしまい、粗相があってはならないと、近くの家へ案内して湯茶の接待をすることにしました。
大人たちがその人を先頭に、ぞろぞろと去って行ったあと、腰かけのそばには何人かの悪戯《いたずら》小僧たちが残りました。
「こんな立派な腰かけは見たことがない」
子供たちは口ぐちにそう言い合って眺めていましたが、やがて一人がこわごわそれに腰かけてみました。ふわふわして、とてもすわり心地のいい腰かけでした。
俺も俺もということで、かわり番こに腰かけている内、一人の子供が肘《ひじ》かけのどこかをいたずらしますと、びっくりしたことに腰かけはあっと言う間に音をたてて一丈の余も宙をとびあがってしまいました。
地面に残った子供たちはあわてて逃げ散ってしまい、腰かけに乗った子供は泣き喚《わめ》きました。そのうちどう身動きしたのか、腰かけの仕掛けがはたらいて、どんどん宙を動きはじめたのです。
急を聞いて大人たちが腰かけを追いましたが、追えば追うほど早くなり、とうとう空高く西の山を越えて飛び去ってしまいました。
気がついて大人たちがあの着飾った男を探そうとしましたが、男はいつの間にか姿を消してどこにも見当りませんでした。
人々は、きっとあれは人さらいだったのだろうと言いました。そして腰かけに乗った子供はとうとう帰って来ませんでした。
[#この行1字下げ]〈註〉 この民話を持つ庄ノ内帯川村一帯には、現在でも椅子に坐る時その持主によく断わらないと不吉だとする俗信が残っている。
三 おゆきぼとけ
むかしまだ船山さまがまつられていなかった頃、帯川の岸の船山にひとりの仙人が住みついていました。
仙人はときどき村へおりて来て百姓たちの家々をたずねていましたが、いつしかその中でも弥市夫婦とは特別に親しい間柄になりました。
弥市の女房はおゆきと言い、とても気だてのいい働き者でしたが、残念なことに体が弱く、いつも病気がちでした。
そして或る冬、ふとした風邪がもとで、高い熱を発し、幾日も苦しんだ挙句、とうとう死んでしまったのです。
弥市は泣く泣く野辺の送りをすることにしましたが、その時話を聞きつけた仙人がやって来て言うことには、
「さいわい寒い季節のことでもあるから、おゆきのなきがらをわしにあずけてもらいたい。春までにはなんとかおゆきを元のように生き返らせてみせよう」
と自信ありげなのです。
村の者はみんな反対しました。一度死んだ者を生き返らせるなんて、神さまでもとてもむずかしいことです。まして仙人は、時々村の家々をまわって、あれこれ物をねだって歩く乞食《こじき》じみた暮しをしているのです。
でも弥市は、仙人のたっての望みをいれ、おゆきの死骸《しがい》を預けることにしました。
やがて冬が終り、春が来ました。でもおゆきは生き返りません。仙人は弥市に会うたびに、あれが足りなくて、これが足りなくて、といろいろ言いわけばかりしていました。
次の冬になると、村の世話役の間で弥市ののち添いの話が持ちあがりました。のち添いは、となり村のおくにという娘でした。
とんとん拍子に縁談が進んで、弥市は冬の終りに二度目の嫁をとりました。のち添いのおくにはとても美しい女で、みんなが弥市のことを羨《うらや》んだくらいです。
ところが、雪がとけはじめた頃、突然死んだはずのおゆきが仙人にともなわれて帰って来たのです。おゆきは一年ぶりのわが家へとんで入りました。
しかしそこには美しいのち添いの女房が、仲むつまじく弥市と語り合っていたのです。
ふたりの女房にはさまれて、弥市は困ってしまいました。世話役が呼ばれ、相談がはじまりました。けれど、世話役は自分たちがのち添いのおくにを嫁にしたこともあって、生き返ったおゆきには何かと辛《つら》く当り、弥市も美しいおくにがすっかり気に入っていましたので、とうとうおゆきを追い出すことにきめてしまいました。
せっかく生き返って来たのに、おゆきはそんな悲しい目に会い、雪どけの道をトボトボと去って行きました。
相談の結果を知って腹をたてた仙人が、弥市の家へどなり込んで来た時、おゆきの姿はどこにもありませんでした。そして翌日、帯川のずっと下流で、おゆきの溺《おぼ》れ死んだむくろが見つかりました。
仙人は嘆き悲しみ、もう二度と人を生き返らせたりはしないと叫んで、船山へ帰って行き、それ以来姿をみせなくなりました。
次の冬、弥市とおくにの夫婦はおゆきの幽霊をみるようになりました。特に雪の降る日に、一日中家のまわりをおゆきが弥市の名を呼んでさまよいあるき、二人は生きた心地もしませんでした。春になると二人は逃げるように村を離れ、雪の降らない南の国めざして旅立ったということです。
[#この行1字下げ]〈註〉 これを雪女郎の一種だとする説があるが賛同しかねる。なぜなら庄ノ内にはこのほか雪女郎系の民話がふたつ存在し、それには死者復活の要素が全く欠けている。その点でやはりこの民話は雪女郎とは別系統のものであろう。
四 たんぼずっこ
庄ノ内一帯に、雀《すずめ》がひどく増えたことがありました。稲の穂に実がつくころになると、何千、何万という雀が押し寄せて、片はしからついばむのです。おかげでどのくらい収穫が減ったかわかりません。
そんな雀の害が二年もつづくと、百姓たちはすっかり困りはててしまいました。追いはらっても追いはらっても、とにかく雀の数が多すぎるのです。
鳴子や案山子《かかし》をいくら作っても、どんな恐ろしげなおどし方を考えても、数をたのむ雀たちは日ましに図々しくなり、いろいろな仕掛けにすぐ慣れて、我物顔に暴れまわったのです。
その二年目。やっとの思いで雀に食い荒らされた田から稲を刈り終え、籾《もみ》を納屋や倉に納めた百姓たちは、次の年こそ雀に全部食べられてしまうのではなかろうかと、青い顔を寄せ合ってため息ばかりついていました。
田んぼがつらなる庄ノ内のまん中、帯川のほとりに船山という小高い山があり、その頂上にいつの頃からか何さまを祀《まつ》るとも知れぬ小さなお堂がありました。庄ノ内の百姓たちは来年の雀の害をなんとか切り抜けようと、その山の上のお堂の前へ集って相談しはじめました。
だが相手は自在に空をとぶ羽根を持った鳥のことです。全部をつかまえるうまい知恵などうかぶはずもありません。日が暮れ、夜がふけても相談は一向にまとまりませんでした。
すると突然お堂のあたりに白い光がさし、大きな声がひびき渡りました。
「これから冬の間、お前たちは一心に石の仏をきざむがよい。たくさんの石の仏をつくり、春になったら田の畦《うね》の要所要所にそれを置き配ってよく祈れば、きっと雀の害をまぬがれるであろう。ゆめゆめ疑うことなかれ」
大きな声が重々しくそう言い終ると、お堂の白い光も消えて、あとは百姓たちの燃やす焚火《たきび》の赤い火が揺れているだけでした。
庄ノ内のおもだった百姓はみんなそこに集っていましたので、このふしぎなお告げを聞くと大喜びで船山をおり、村々へ帰ってみんなに石の仏をたくさんつくるように伝えました。
その冬、庄ノ内の百姓はみな一心不乱に石の仏をきざみつづけました。中には一人で五十もの石仏を用意した者もいたそうです。
春が来るとお告げのとおり田の畦の要所要所に石の仏が据《す》えられました。丸顔のもあれば長い顔のもあり、背の高いのもあれば、あぐらをかいて空を眺めているのんきな姿の石仏もありました。とにかく百姓たちがつくった思い思いの石仏はたいそう珍しく、評判を聞いて遠くからわざわざ見物に来る者もいて、雀の番をするという石の仏たちにたんぼずっこという仇名《あだな》がつきました。
そして秋が近づき、稲穂がふくらみはじめました。雀たちは去年にも増した勢いで、稔《みの》りの秋を待っている様子です。百姓たちは心配でいても立ってもいられず、毎日列をなしてお告げのあった船山のお堂へお参りに出かけました。
或る朝、百姓たちは田の畦へ出てびっくりしました。なんとたんぼずっこたちが、一夜の内にみな揃《そろ》いの笠《かさ》をかぶっているではありませんか。
そして陽が登り、雀たちが稲に襲いかかろうとすると、その笠から細い赤糸のような矢がとびはじめ、雀はコロコロと面白いように田へ落ちて死んだのです。ぶじに舞い降りた雀は一羽もいません。雀の死骸《しがい》を拾って見ると、みな焼火箸《やけひばし》でつつかれたような傷を負っていました。
百姓たちは大喜びでした。落ちた雀の羽をむしって串《くし》にさして焼き、それを肴《さかな》に酒をのんで大うかれにうかれた挙句、ワッショイ、ワッショイと酒樽《さかだる》をかついで船山を押しのぼり、頂上のお堂の前で夜どおしお礼の踊りを踊りました。
今に残る船山祭りは、こうして始まったということです。
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〈註〉 ずっこ=おじ。おじっこ。次、三男坊のこと。
船山祭り=庄ノ内帯川村船山神社の例祭。毎年八月三日〜七日に行なわれ、勇壮な神輿《みこし》登りと笠踊りで知られる。
なおこの民話に残る畦の石仏「たんぼずっこ」は散逸したらしく、現在ごく少数が見られるにすぎない。
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五 わるさのむく犬
むかし富田村に神社があり、その神主の倅《せがれ》で茂平という大層な乱暴者がおりました。
茂平は大酒呑みの上すね者で、村人がちょっと小声で話しているところを見ても、俺の悪口を言ったに違いないと思い込み、酒をくらった挙句その家へ暴れこむと言った具合でした。
船山さまの霊顕があらたかなことが知れ渡り、どんどん船山さまへ参る人が増えてくると、反対に富田村の神社がさびれはじめ、それが茂平のひがみの種になりました。
ことあるごとに船山さまを悪しざまに言い、あんないかさま神のどこがいいのだと、酒を呑んでは大暴れをしました。
でも船山さまを信仰する人々は増える一方で、いろいろな願いごとを叶《かな》えてもらうため、お神酒《みき》をささげに船山へ向う人がひきも切らない有様でした。
茂平は繁昌する船山さまが憎くてたまらず、あろうことかあるまいことか、或る晩酔いにまかせてこっそり自分の精を摺《す》り掻《か》いて徳利につめ、人々にまじって神前へ奉納すると、村へ帰って大笑いしました。
「何が船山さまだ。そんなあらたかな神様なら、なぜ俺の摺り掻いた精とお神酒の区別がつかないのだ」
そう言い触らして歩く茂平に、村人たちはいまに船山さまの罰が当るだろうと噂《うわさ》し合いましたが、五日たち、十日たっても一向にその気配はなく、茂平は相変らず酒を呑んでは船山さまの悪口を言いつづけました。
ところが、人々が茂平のわるさを忘れかけたころ、富田村へ船山のほうから一匹のむく犬が駆けて来ました。コロコロと肥《ふと》った、とても可愛らしい小犬でしたが、近づいて抱きあげようとした村人は、みなびっくりしてそれを投げ出し、家に逃げこんでしまいました。
それもそのはず、むく犬は茂平そっくりの顔をしていたのです。
さあ大変です。精を摺り掻いて徳利につめ、船山さまへ供えて来たことは茂平が自分で言いふらして誰もが知っていましたから、これこそ船山さまの罰に違いない。茂平は船山さまに祟《たた》られたと、誰ひとり相手にしなくなってしまいました。
おかしなことに、茂平の顔をしたむく犬は茂平によくなつき、茂平が蹴とばしても蹴とばしても、クンクン鼻を鳴らしてついて歩くのです。あれは茂平の精で出来た犬だ、茂平はむく犬の倅を持った。口々にそう言われ、茂平はむく犬から逃げようとしますが、犬はどこまでもどこまでも、嬉しそうに尾を振って茂平のあとを追い慕うのです。とうとう茂平は父親である神主の家にひきこもってしまいました。
神主はその話を知って大変悲しみましたが、茂平の精から生れたのなら、たとえむく犬でもわが孫に違いはないと、毎日|餌《えさ》を与えてやりました。
むく犬はどんどん育ち、ますます茂平そっくりの顔になって、性質も幾分茂平に似たらしく、子供や野良仕事をしている女たちをたびたび噛《か》むようになったので、とうとう神主もその土地に居たたまれず、茂平とむく犬をつれてどことなく去ってしまいました。
[#この行1字下げ]〈註〉 船山関係の数多い民話の中でも、このむく犬の話は一風変った存在である。現在庄ノ内地方には、他の地方における犬張子に相当するものとして、むく犬をかたどった郷土|玩具《がんぐ》があり、その顔は人面である。そして民話「わるさのむく犬」は、船山信仰発生当初、この地方に幾分か反対勢力があった痕跡《こんせき》をとどめたものであろうと思われる。
六 ぼんぼり風ぐるま
庄ノ内九ヶ村の守り神である船山さまが、いつまでも薄汚い小さな社では勿体《もつたい》ないと、新しく大きな社殿を建てることになりました。
これには領主の津田但馬守《つだたじまのかみ》様も大層な力の入れようで、工事は夜に日をついで行なわれたのですが、さしたる高さではないと言っても、何せ船山は登るに急な場所で、木材や石材を頂上に運びあげるには、大変な苦労が要ったということです。
ことに夜などは、いくら灯火を増やしても、生い茂った大きな杉木立にさえぎられて道を辿《たど》るのも心細く、仕事中の百姓が何人もすべり落ちて大怪我をする有様でした。
それというのも、船山への登り口が、昔どおりの帯川ぞいの道で、うねうねと幾曲りもしていたからです。でも、その時は誰ひとりとして新しい登り口を作るということに気がつきませんでした。
ところが或る晩、仕事がえりの百姓が、南の長者ヶ原のあたりにさしかかると、船山の山腹に昼のように明るいひと筋の光がつらなっているではありませんか。百姓たちは驚いて帯川ぞいの登り口にとって返し、お作事小屋の役人にそのことを告げました。
役人は、
「きっと狐《きつね》にでも化かされたのだろう」
と言って相手にしてくれませんでしたが、余り百姓たちが言いつのるので、しぶしぶ長者ヶ原へやって来ました。
やはり百姓たちの言うとおり、その山腹には明るい光の道が麓《ふもと》から頂上までつづいていたのです。
翌日、このことはお城のお殿様にまで知れました。お殿様は大変ご英明なお方で、それを聞くとすぐ馬を駆って長者ヶ原へやって来ました。そしておんみずから道のない山腹をおよじ登りになり、ゆうべ光ったというあかりをおしらべになったのです。
あかりのもとは大きなぼんぼりでした。しっかりした台が地面に埋めこまれていて、細長い鉄の棒の上に花のつぼみをかたどった、すきとおった火覆いがついていました。
ただ奇妙なことに、そのすきとおった火覆いの上にまた棒がつき出していて、そのさきに小さな風ぐるまがついているのです。風ぐるまはほんのわずかな風にもクルクルとよくまわり、火覆いの中のあかりは、昼日中でも風ぐるまがまわるのにつれてピカリピカリと光っていたのです。
お殿様は頂上までつらなったそのぼんぼり風ぐるまをじっとごらんになり、しばらく腕を組んでお考えでしたが、やがてハタと手をおうちになり、
「これは、ここに登り口をつけよという神意に相違ない。即刻帯川ぐちをやめてこのぼんぼりぞいに道をあらためよ」
とおっしゃいました。
お殿様の鶴のひと声で、その日の内に帯川ぞいの難工事は中止となり、新しく長者ヶ原からの道がひらかれました。
それは、どこをとってもこれ以上工事のしやすい場所はあるまいと思えるほど、道のつけやすい場所でした。しかもぼんぼり風ぐるまの光に照されて、夜でも昼と同じように仕事がはかどったのです。
やがて工事は終り、今のように立派な社殿がたちました。お殿様が完成した長者ヶ原からの石段の登りぞめをなさり、それ以来船山さまは女子供でもたやすく参詣《さんけい》できるようになったのです。
でも、ぼんぼり風ぐるまは、いつの間にかみえなくなってしまいました。どこへ誰が持って行ったか、最初誰がそこへ並べたのか、今になるまで、くわしいことは何も判っていません。
[#この行1字下げ]〈註〉 これも船山霊異譚のひとつであるが、明らかに風力発電装置を示していて興味深い。なお、今日でも船山祭りの際の軒行燈《のきあんどん》には、各戸で手製の風車をとりつける風習がある。
七 ねむらぬ彦次郎
いつの頃か、庄ノ内に一人の唖《おし》の乞食《こじき》が迷い込んで来ました。唖は彦次郎といい、自分を指さして地べたに仮名でその名前だけは書くことができましたが、あとはすべて手真似で、生国も、身よりがどこにいるのかも全くわかりませんでした。
その彦次郎は少しおろかなところがあり、一椀《ひとわん》の飯のかわりに用事を言いつけると、
「もうよい」
と声をかけてやるまで、いつまででも仕事が終りきるまでつづけるのでした。
或る時一人の女房が、
「済まないが田んぼへ行って蝗《いなご》を取って来てくれないか」
と言いつけました。晩のおかずに蝗を少し煎《い》って置こうと考えたのです。
しかし、夕方になっても彦次郎は戻って来ませんでした。女房はあてが外れてブツブツ言いながら夕餉《ゆうげ》の仕度をすませ、一家そろっての食事がすむと、いつものように寝てしまいました。
ところが翌朝起きだしてみると、家の前に千匹もの蝗が積んであるではありませんか。
「これはどうしたことだ」
家のあるじが驚いてそう言うと、女房は笑いながら、
「そう言えばきのう、唖の彦次郎に蝗をとって来てくれとたのんだのです」
と答えました。あるじはそれを聞くと大いに怒り、
「今すぐ田んぼへ駆けて行って彦次郎に蝗とりをやめるように言うのだ」
と叱《しか》りつけました。女房はあるじの剣幕におろおろと田んぼへ走り、
「彦次郎やあい。今すぐ蝗とりをやめて帰って来ておくれ」
と叫びました。するとどこからともなく、袋にいっぱい蝗をつめこんだ彦次郎が、ニコニコ笑いながらあらわれました。なんと彦次郎は夜もねむらずに蝗をとりつづけていたのです。
おろかな唖の彦次郎をそのように働かせてしまった心なさを、その女房は深くはじて、家へ戻るとあるじに何度も詫《わ》びました。
「わしに詫びても仕方がない。だがこれから彦次郎に用事を言いつける時は、よほど言葉づかいに気をつけねばいけないぞ。何を、どれだけ、いつまでにやって終りにせいと言わないと、彦次郎は夜もねむらずに働きつづけてしまうのだからな」
あるじはそう言い、彦次郎にたらふく飯をふるまってやりました。
そういう馬鹿正直な彦次郎でしたから、唖の上に少々頭がおかしくても、村人たちに大層重宝がられ、農繁期になるとあちらの家、こちらの家から引く手あまたで、村には彦次郎を使う順番をめぐって争いが起るほどでした。
しかし村人たちが彦次郎を使うことに慣れてくると、だんだんにあわれみの心を忘れてしまうようになったのです。
あした稲刈りという日に、彦次郎を使う順番が外れると、こっそり呼び寄せてこうささやくのです。
「さあ彦次郎よ。夜のうちにわたしの稲を刈りとってしまっておくれ」
すると彦次郎は言われたとおり夜どおしかけて稲刈りを終え、翌《あく》る朝は順番どおり次の家の田へ行って稲刈りを手つだうのです。
「なんだ、彦次郎はねむらないでもいいのではないか」
いつしか人々はそう思い、夜も昼も区別なく彦次郎に働かせつづけました。
ねむらぬ彦次郎は庄ノ内ばかりか、遠くの村々にまで有名になり、やがてその噂は領主の津田但馬守様の耳にも入りました。
「身よりのない憐れな者を、皆でそのようにむごく働かせるとは不届きであろう」
お殿様はそうお怒りになり、罰としてその年の年貢米をいつもの年よりおふやしになりました。
百姓たちはそれではじめて自分たちのむごさに気づき、相談したすえ彦次郎を船山さまの番人にしました。
「毎日家々を一軒ずつ順にまわって食べ物をもらいなさい。そしてそのほかの時は船山さまの社殿の内外を掃ききよめ、もし異変が起った時はすぐ山を下って庄屋どのに知らせなさい。夜はよくねむり、朝になったら起きて働き、いつまでも元気で番人をつとめるのですよ」
百姓たちは彦次郎にそうさとしました。
それ以来、ねむらぬ彦次郎はただ一人船山さまに起きふして、村の百姓たちの誰よりも長生きしたということです。
[#この行1字下げ]〈註〉 この民話には幾通りかの別伝があり、彦次郎ははじめから船山の番人をしていたことになっているものもある。いずれにせよ、この物語は領主津田但馬守と船山が相当親密な関係にあったこと、領主の善政、船山の霊異などが同時に含まれたものであろう。とすれば発生年代はかなり下ったものとしなければなるまい。
八 どこでも石段
庄ノ内の或る所に、昔ふしぎな石段があった。何十段もある石段を登りおりする時、その中ほどにあるひとつの石に足をかけると、次の足を踏みおろす時、そこは見知らぬ遠い場所になってしまうのだ。人々はその石段をおそれ、登りおりにも用心して決して踏むことがなかったという。
[#ここから1字下げ]
〈註〉 これは庄ノ内でも丸岡村の古老の一部だけに伝わる話である。恐らく原型はもっとしっかりした物語だったのだろうが、残念なことに今では全く断片的になってしまっている。
しかしこれを特にここに加えたのは、船山神社の石段にこの短い説話と明らかに関係すると思われる部分があるからである。全部で四百七十五段ある船山の石段の、上から丁度八十枚目の板石は、他の段と異ってひどく苔《こけ》むしており、人々はその段を「どこでも石段」と唱えて踏むことを禁じている。禁を破ってその段を踏めばたちどころに船山の神が祟るというのだ。今日、その禁忌を知らぬ観光客は平気で踏みすぎて行くが、苔の状態から言って、近年までかなり堅く守られていた禁忌に違いない。
とすると、これはいったいどのような事を物語っているのであろうか。どうも空間瞬送、又は次元移動などのことが連想される話である。
[#ここで字下げ終わり]
九 三百和尚
[#この行1字下げ]〈註〉 これも「どこでも石段」同様、きわめて断片的にしか残されていない話であるが、船山に住んだといわれる和尚《おしよう》に関するものとして、各村々に少しずつ異る部分が存在している。筆者は可能な限りこれを収集し、各部分を補強してつなぎ合せてみた。
船山にひどく長寿の和尚が住んでいた。何でも船山さまがまつられる以前、すでにそこにいたとか言い、過ぎた昔のことについては恐ろしく博識であった。
一説には、すでに三百歳に達するとも言い、なお青年の如《ごと》く矍鑠《かくしやく》としておとろえるところがなかった。人々はその異常な長寿を崇《あが》め、俗に三百和尚と呼んでいた。
和尚は近在の村人たちの困難を何度も救い、危難に遭遇した者は、いつでも心に和尚を念じたという。するとたちどころに現われ、必要な処置を講じてまた去って行くのだ。しかも和尚の該博な知識は行くところ可ならざるはなく、地暦経数天文に至るまで、 掌《たなごころ》 をさすように常に明快な解答を与えたというが、或る天変の日この世を去ってしまった。
[#ここから1字下げ]
〈註〉 船山は神仏の混淆《こんこう》が甚だしく、信仰の対象が果して神であるのか仏であるのかさえはっきりしない。
現在は一応淡島大明神を祀《まつ》るとされているが、よく調べるとこれも明治初期に必要があってそのような神を仮りに定めたにすぎない。一説には大日如来、また一説にはオオナムチノミコトを祀るともされるが、結局その源は庄ノ内地方農民の民間信仰であろう。したがって船山神社と言いながら、このような和尚の存在もあり得るので、ひょっとするとこの三百和尚こそ、船山信仰発生のごく源近くにいるのではないだろうか。
次に挙げる手鞠唄《てまりうた》は、庄ノ内全域に亘って現存する優雅なメロディーの民謡であるが、原詞と思われるものは全編三百和尚に言及したもので、部分的にはほとんど意味不明になっている。
またこれは鞠つき唄とされているが、船山祭りの際の例の有名な笠踊《かさおど》りは、この唄と歌詞もメロディーもよく似通った唄に合せて踊られる事実に注目したい。
[#ここで字下げ終わり]
十 手鞠うた
船山和尚は三百和尚
呼べばすぐ来て
すぐ帰る
雨の降る日は
傘《かさ》さして
くすり一荷に
銭《ぜに》ころげ
鍛冶屋《かじや》
占《うらな》い
暦《こよみ》うり
まじないモニャモニャ
あてばらしょ
星の降る夜に
あーがった
あとがき
庄ノ内地方は、最高級米「ささこがね」で名高い米どころである。
私がはじめてその地をおとずれたのは、昭和二十三年の夏のことで、ありていに言えば米の買出しであった。帯川村に遠縁の者がおり、ひと夏東京での餓《う》えをその米どころでみたし、その上あわよくば貴重な米をいくらかでも持ち帰ろうというのが、床ノ内行きの目的であった。
羽越本線を鶴岡の少し手前の郡庄駅で降り、そこから船山電鉄に乗り換えて山なみへわけ入ると、増川、有吾《うご》、角田《つのだ》、勇山《いさやま》、丸山、帯川の順でおもちゃのような駅がつづき、終点の船山に至る。船山電鉄はもと船山参拝鉄道といい、例の草軽《くさかる》線を更に軽便にしたような、なんとも言えぬ雅趣を漂わせる鉄道であったが、昭和四十年に道路が通じて以来急に不振となり、四十三年にはとうとう廃止されてしまった。今思い出してもまことに愛すべき軽便鉄道で、ぜひ生きのびて欲しい路線のひとつであった。
さて、私はそこで老人たちから数多くの昔ばなしを聞かされた。若年ながら民話のぼんやりと靄《もや》につつまれたような味わいが理解できて、ひとつひとつが心に沁《し》みるような思いで聞いたものだった。
ところが宿をしてくれた家に私と同年の阿部道雄君がいて、ここの民話にはおかしなところがあるのだと教えてくれた。多分それは彼の学校の教師の誰かからのうけうりであったのだろうが、そう言われてみると私にも彼のいうおかしな点が幾つか感じられた。
老人たちは別々の話としてひとつずつ語ってくれるのだが、聞きおわると明らかに一連の話としてつながりそうなものがあるのだ。
やがて八月に入って船山祭りがはじまると、私は阿部道雄君に案内されて船山へ何度か登ることになった。そしてその祭礼で見聞した事柄がのちになって空飛ぶ円盤の存在を知ったとき、理屈抜きにいきなり生々しく思い出されたのである。
以来私は庄ノ内の民話にとりつかれ、暇をみてはそこへ通うようになった。丸山、帯川、富田などの村々を歩きまわり、民話を収集した。そして私はとうとうひとつの仮説をたてることに成功した。
大昔、庄ノ内に異星人の来訪があった。「石ころ長者」はその来訪の目的が交易にあったことを教えてくれる。しかし何度目かの来訪のとき、異星人側に事故が起り、彼ら(又は彼)は庄ノ内に漂流することになった。「人さらいの腰かけ」は彼らの宇宙船に備えつけた救命ボート、又は射出座席のようなものではなかったろうか。
異星人はいや応なく庄ノ内の人々と接触するようになり、卓越した科学知識で数々の奇蹟を行ってみせた。「おゆきぼとけ」の死者蘇生術《ししやそせいじゆつ》、「たんぼずっこ」のレーザー、「わるさのむく犬」の人工受精、「ぼんぼり風ぐるま」の風力発電などがそれである。
時代がたつに従って彼らの科学工房は充実したかもしれず、「ねむらぬ彦次郎」はアンドロイドだったかとも考えられるし、「どこでも石段」のような空間瞬送機構まで備えるに至ったかもしれない。
と、まあ、これは空想癖のある私の強引な仮説であるし、私自身もまさかそのような、と自分の子供っぽさに苦笑する折りも多い。
しかし、県の文化財に指定されている船山頂上の能舞台……長さ三十メートル、幅二十メートル、厚さおよそ二メートルの継ぎ目のない岩の一枚板は、いったいどう解釈すればよいだろう。また、八月の船山祭りのときに麓《ふもと》から引きあげられて、その石の能舞台に安置される、お船さまと呼ばれる巨大な皿状《さらじよう》の山車《だし》の由来は……。
やはり私は円盤に違いないと思う。そう思うほうが愉《たの》しいし、夢がある。
今ごろはもう、その船山にも丈余の雪が降りつもっていることだろう。去年はとうとう船山に行けずじまいだった。春が来て、雪がとけたら、ぜひまた庄ノ内へ行きたいものだと思っている。
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誕 生
――マリー・セレスト号への挑戦――
東京の空模様はこのところぐずついていた。きのうは一日中重苦しい雲が掩《おお》いかぶさり、いつ降るかいつ降るかと気を揉《も》ませながらもちこたえ、今日も朝からスモッグに濁って、昼を少しまわった頃にはとうとう降りはじめてしまった。
八月の終りの雨は、熱のこもった街路にかなり激しく叩《たた》きつけるように降り、人々は汗ばむ襟《えり》もとを気にしながらも、このひと降りできのうからの鬱陶《うつとう》しい雨雲が清算されることを願っていた。
そういう人々の願いは、実は経験に裏打ちされた期待でもあったようである。気象庁はそれが前線の通過によるもので、そのひと降りが天候の好転を確実に約束していることを知っていた。間もなく雨があがり、風向が変り、視界がよくなる筈である。
午後三時。雨はまるで時計の文字盤を見ていたかのように、さっと止んだ。雨で洗われた街路に軽い涼風が吹き抜け、気がつけば西に薄日さえ射しはじめて、灰色の空はかすかに青味を加え高くなっていた。
太平洋の彼方《かなた》から、その雨のあがった東京へ進入して来る英国海外航空《B・O・A・C》のボーイング707は、大島上空ではまだ雨雲のはるか上空にあった。
大島通過で東京管制区用の一二五・七メガサイクルに周波数を切換えたその旅客機のパイロットは、房総半島|御宿《おんじゆく》 上空で定点報告をする。東京はまだ厚い雲の下にあって見えない。
「木更津へ直行、高度三千呎で報告せよ(クレアド・ダイレクト・トウ・キサラヅ・リポート・ツリー・タウズンド)」
東久留米にある東京管制部《トウキヨウ・コントロール》が指示する。
タイムテーブルによれば、そのB・O・A・C機は、サンフランシスコ発ホノルル経由のBA911便で、羽田到着予定時刻は十五時二十五分となっている。
順調な航行を続け、羽田空域もいつものように混雑していないから、ほとんど定刻到着《オン・スケ》の見込みであった。
BA911は降下を続け、木更津の少し手前で再び発信する。
「只今高度三千呎通過(ナウ・パツシング・ツリー・タウズンド)」
「BA911、了解(スピードバード・ナイナ・ワン・ワン・ラジヤー)」
東京管制部《トウキヨウ・コントロール》はそこで下層空域を担当する東京国際空港の進入管制所《アプローチ・コントロール》にバトンタッチする。
「国際空港進入管制に切換えよ。周波数は119・5メガヘルツ(コンタクト・インタナシヨナル・アプローチ・オン・ワン・ナイナ・デシマル・フアイフ)」
管制公用語は英語であるが極端に圧縮され、簡潔をきわめている。それが空を飛ぶものと見あげるものの間にある緊張感を、いっそう高める効果を生み出している。
「了解。周波数は119・5(ラジヤー・ワン・ワン・ナイナ・デシマル・フアイフ)」
BA911の降下が続く。
「進入管制所へ。こちらBA911。木更津に接近しつつ高度千五百呎へ降下中(アプローチ・コントロール・スピードバード・ナイナ・ワン・ワン・アプローチング・キサラヅ・デイセンデイング・トウ・ワン・フアイフ・ハンドレツド)」
地上からの応答の声が変る。
「了解。進入を許可する。滑走路22へ向え。高度計規正値29・92インチ(ラジヤー・クレアド・フオア・アプローチ・ランウエイ・ツウ・ツウ・アルチメター・ツウ・ナイナ・ナイナ・ツウ)」
羽田空港の滑走路は十字形に二本交差している。海ぞいに走るのがA滑走路《ラン》、陸へ向って食いこんで来るのがB滑走路《ラン》である。しかし管制上は進入時の方位角で呼ぶ。ターミナル・ビルから見てA滑走路の右から進入する場合は|三 三 〇《スリー・スリー》度、左から進入する場合は|一 五 〇《ワン・フアイフ》度、国内線待合室の脇《わき》から海へ伸びているB滑走路は|二 二 〇《ツウ・ツウ》度と呼ばれる。そしてB滑走路の陸側から進入することは禁じられている。そこには空港専用の燃料貯蔵タンクがあるからだ。
この頃空港のコントロール・タワーでは、風向が変って来たので滑走路をBから海ぞいのAに切換えることを検討しはじめていた。
「BA911、滑走路を視認せり(スピードバード・ナイナ・ワン・ワン・ランウエイ・イン・サイト)」
レーダー・コントロールにBA911のパイロットの声が響いた。
「了解。管制塔と交信せよ。周波数118・1(ラジヤー・コンタクト・タワー・オン・ワン・ワン・エイト・デシマル・ワン)」
レーダー・コントロールがそう言って空港管制塔に引渡し、パイロットはサンキューと言って周波数を切換える。
「BA911、滑走路22に接近中。滑走路視界にあり(スピードバード・ナイナ・ワン・ワン・アプローチング・トウ・ランウエイ・ツウ・ツウ・フイールド・イン・サイト)」
引きついだ管制塔の声は一段と緊張している。
「BA911、着陸を許可する。風向180度。風速25節(クレアド・トウ・ランド・ワン・エイト・ゼロ・デグリーズ・ツウ・フアイフ・ノツト)」
管制塔が着陸に必要な地上データを送り、パイロットが復唱する。
「BA911、誘導路B2を使い、58番駐機場へ向え。周波数121・7にて地上管制と交信せよ(ゲイト・ナンバー・フイフテイ・エイト・タクシー・ヴアイア・ブラボウ・ツウ・コンタクト・グラウンド・コントロール・オン・ワン・ツウ・ワン・デシマル・セブン)」
濃紺に金色の帯が入ったB・O・A・C機がはっきりと見え、脚を出してB滑走路の先の海の上へ降下して来た。スロットルを絞り、うす茶色の航跡を引いている。
そして難なく着陸した。五八番スポットでは、やがて滑走して来るBA911便を待ちかまえ、機体と同じ塗装をした電源車や貨物車が乗っていた。
最初におや、と思ったのは、地上誘導をするグラウンド・コントロールだった。BA911はB滑走路のはずれにあるB2点で左へ回頭し、助走路へ入る予定だったが、スロットルを絞りこんで、キーンという細いジェット音を響かせたまま、まるで弱い追風《テイル》に押されたかのように、のろのろとB2点を通過してしまったのである。
地《グラウ》 上《ンド・》 管《コント》 制《ロール》 は少しあわて、「BA911、誘導路B1を使い、58番駐機場へ向え(タクシー・ヴアイア・ブラボウ・ワン・アンド・トウ・ゲイト・フイフテイ・エイト)」
と一部変更を命じた。この時他に三機が上空で順番を待っていた。
しかし、BA911はよろよろとよろけるように助走路B1へ向い、左折する様子もみせずにキーンというエンジン音をたてたまま、B1を少し過ぎたあたりで停止してしまった。
グラウンド・コントロールはさっきの命令を二度ほど大あわてにくり返したが、応答する気配もない。
滑走路の端にすわりこんでしまったBA911をかかえたまま、次の機の進入誘導をすることになった管制塔が青くなって怒鳴る。
「BA911。滑走路から大至急出ろ(クリアー・ランウエイ・イミデイエイトリー)」
一二一・七メガサイクルと、一一八・一メガサイクルが同時にBA911を怒鳴りつけている。
滑走路を監視する民間航空局の黄色く塗ったブルーバードがジャンボ・スポットのあたりでブレーキを軋《きし》ませると、怒り狂ったようにB滑走路に向ってUターンし、巨大な機体の間を突っ走って行く。どこにいたのか、灰色の車体の屋根に黒く「税関」と書いた税関監視課の車がそれに続き、五八番スポットからB・O・A・Cのメカニックの車がとび出して行く。ほんの少し遅れて電源車もついて行く。
「BA911。きこえるか?(ドウ・ユウ・リード・ミー)」
一二一・七メガサイクルのグラウンド・コントロールに切換えていないらしいのを知って、管制塔が騒ぎを一手に引受けている。ほとんど立ちあがって、国内線の建物の向うに停止している濃紺の機体を眺めていた。
ハイジャック……。誰の頭にもそれがあった。だが民間航空局の係官はそれすら悠長《ゆうちよう》なことに思えていた。滑走路を早くあけなければ後続機がやって来てしまうのだ。
「このビー・オーをなんとかしろ」
車から転がり出て来たB・O・A・Cの整備員《メカニツク》に向って、中年の係員がやきもきしながら叫んだ。メカニックは機首前方へ走り、両手を頭の上でクロスしてから、助走路《タキシー・ウエイ》へ向けて振りおろした。誘導の手信号である。しかし耳に突きささるようなピーンという音をたてたままボーイング707は動こうともしない。
係官はおびえたように海上の空をみながら、
「動かないんなら牽引車《トウイング》で持って行け」
と叫んでいる。車に残っていたもう一人のメカニックがヘッドホーンをつけて前《ノーズ》 脚《・ギア》の下へもぐりこみ、そこにある通話用のプラグへ端子をとりつけて何か喋《しやべ》りはじめた。四つのエンジンから発する甲高い金属性の爆音で、その声がかき消されている。
管制塔の反応は素早い。長引きそうな事態をみてとると、後続進入機の進入許可をとり消し、大慌てに順番を組み変えて、|滑走路 三 三《ランナウエイ・スリー・スリー》を使う手筈を整えた。風向が変ってA滑走路《ラン》の使用が出来るのだった。
B滑走路《ラン》使用中止《キヤンセル》を知って航空局員がほっとする。その頭の上を、着陸寸前だった日本航空のボーイング727が轟音《ごうおん》を残して急上昇して行った。
機首前方で誘導しようとしていたメカニックが、顔をしかめながら係官の所へ戻って来た。
「キャプテンは何してた」
「見えないんですよ。窓が反射しやがって。副操縦士《コ・パイ》は席にいないようです」
「故障《トラブル》か」
二人は顔を近々と寄せ、怒鳴り合った。そこへヘッドホーンを外しながらもう一人のメカニックが来る。
「通じてるよ。でも返事がないんだ」
「またハイジャックかよ」
税関の二人は若い男で、それが弥次馬的な昂奮《こうふん》を示しながら加わって来た。
中年の航空局員は濃紺の機体を見あげながら、
「そうでもなさそうだが……」
と不安気に言った。
そこへもう一台、B・O・A・Cの塗装をした乗用車がやって来て、きちんと上着にネクタイをつけた男が降りた。B・O・A・Cの空港マネージャーである。
「とにかく機長と連絡をとれ」
メカニックから事情を聞くなりそう命じた。メカニックの二人は車へすっとんで行き、とび降りると高速で一直線にバックして日航のオペレーション・センターと背中合せになっている格納庫《ハンガー》の前から、車輪つきの整備|梯子《はしご》を借りて引っ張って来た。
一人が機首の横窓へ昇って操縦室《コツクピツト》を覗《のぞ》き、あわてて手を振ると梯子を機首正面に移動させ、レーダー用の鼻の上へ身をのり出すようにして中をしげしげと覗きなおした。
見あげている男たちに向って何か叫び、聞えないと気づくとじれったそうに梯子から降りて来る。
「いけねえや、こいつは」
「どうした」
顔色を変えたメカニックに、空港マネージャーが叱《しか》りつけるように言った。
「コックピットはもぬけのからですよ」
男たちは報告を聞いて顔を見合せた。地上へ降りたとは言え、航空ルールではスポットへ入って|車輪止め《ブロツク》を入れるまでが飛行中ということになっている。飛行中にコックピットがからになるのは、まさに異常事態である。
「乗客は何人です」
覗いて来たメカニックが空港マネージャーに言った。
「八十五人のはずだ」
「八十五人……」
メカニックの顔に強い驚愕《きようがく》の色が走った。
「どうかしたのか」
「コックピットのドアがあいてるんです。見てくださいよ」
マネージャーはそう言われて航空局の男と一緒に梯子を登りはじめる。
「どうしたって言うんだ」
税関二人とメカニック一人を相手に覗いて来た男が言った。
「客が見えねえんだよ。クルーばかりか客まで見えねえんだ」
「そんな馬鹿な。ドアのかげになってるんだろう」
「だって八十五人だぜ。満席の三分の二じゃないか。コックピットのドアがあいてれば、十人や二十人は見えるはずだろう」
「間違いだよ、何かの……」
話し合っていると二人が降りて来た。管制塔のデータでは二十八度でも、実際は三十度ほどの暑さなのに、二人とも青ざめた顔になっていた。
「ドアをあけよう」
マネージャーが震え声で言った。鉄の整備梯子がガラガラと移動しファーストクラスのドアにとりついた。最初に覗いたメカニックがまた登り、慣れた手つきで厚い扉を引き出し、押しこんだ。胴体にポッカリと穴があく。
航空局員と空港マネージャーが梯子を登り、三人は機体の中へ消えた。
冷房の効いた機内は、空調特有の乾いた繊維の匂《にお》いが充満し、リクライニング・シートの白いカバーが並んだ中で、ベルトをしめよの赤ランプがついていた。
「誰もいねえぞ」
中年の航空局員が悲鳴をあげた。
「なんてこった、これは」
空港マネージャーは一直線の通路をエコノミークラスのキャビンへ駆け抜けて叫んだ。メカニックはコックピットで立ちすくんでいる。
梯子の下では三人の男が上を見あげ、国内線の送迎デッキでは何も知らぬ団体見学者に混って、勘の鋭い空港詰め新聞記者がひとり、ニコンのシャッターを切っていた。空は晴れはじめ、そこここにいる国内線《ドメス》の機体が、白い光をはね返していた。海ぞいのA滑走路に爆音が轟《とどろ》き、赤い機体が走りすぎて行った。
風速二十|節《ノツト》、気温二十八度。空港上空の視界はますますよくなって行くらしい。
B滑走路のはずれで停止したB・O・A・CのBA911便は、そのままの位置でメカニックにエンジンを切られ、瀟洒《しようしや》な機体に謎《なぞ》を秘めたまま沈黙した。
空港警察が駆けつけ、航空局員が上司を呼び、空港詰めの新聞記者が殺気立った表情でとりかこんだ。ガードマンが召集され、機体のまわりに二メートル間隔で立ち並ぶ。到着十五分後には国内線送迎デッキは黒山の見物人で、東京中の報道写真家やテレビカメラが、この前代未聞の怪事件を取材しようと、混雑した羽田への道で焦りに焦っていた。
発着はA滑走路を使用して順調に運航されているが、国内線の一部はスポットが変更され、謎のB・O・A・C機の付近から、一機また一機と機影が減って行く。
最初に実況を流しはじめたのはTBSラジオとラジオ関東で、テレビカメラで問題の機体をとらえることに成功したのはNTVであった。しかしその一番乗りも、独占できた時間はごく僅《わず》かの間で一時間後には空港にカメラの放列がしかれていた。
この種の突発事件では、各社の流すニュースに一長一短があって、結局どれも完全なものにはなりにくい。しかし各社の叫びたてている問題点は総合すると次のようなものであった。
BA911のパイロットは、空港進入時までたしかに管制塔と交信していた。しかし着陸時はどの機も例外なく交信が絶え、着陸後に助走路へ入るため周波数を切換えてグラウンド・コントロールと交信を再開する仕組になっている。着陸時のコックピットは複雑な操作に忙殺されて交信できないからである。
そしてパイロットは、その例外なく交信が絶える短い間に機内から消失してしまったことになる。
交信が予め仕組まれたテープか、又はBA911以外の場所からの発信ではないかという疑問については、交信内容やタイミングから考えて絶対にありえないと断定できるし、高度千フィートで滑走路有視界となったBA911は、完全な有視界飛行で着陸したのであるから、無人機であった筈がない。
更にテレタイプによるホノルルとの連絡で確認したのは、乗客八十五名と機長以下のクルー十名が確実にその機に乗り込んで出発したという事実である。羽田到着は予定時刻ぴったりの十五時二十五分で、途中ウェーキ等へ寄港した事実はなかった。
最初に機内へ入った三人の人物と、そのあと本格的に第一次の現場検証をした空港警察の談話は完全に一致していて、コックピットには、キャプテン、コ・パイロット、ナビゲーター、メカニック等の搭乗していた形跡が歴然としており、キャビンにも、多数の乗客がいたことは疑いようもなかった。
そして調査が進むにつれ、驚くべきことに、キャビンにはベルトの留め金のかかった椅子……例のベルトをおしめくださいのアナウンスで腹にまきつけた状態になったものが合計八十五席あり、他にジャンプ・シートと呼ばれるキャビン・クルー専用の席に、同じくベルトの留め金がかかったものが六席数えられ、乗客八十五人とキャビン・クル一六名、それにコックピットの四名を加えた九十五人が、このBA911に着陸寸前存在していたことを示していた。
合計九十五名という人数は、ホノルル出発時の人数とピタリー致している。
ラジオはこれらの情報をほとんど五分おきに断続的に流しつづけ、テレビ各局は五時になると早くも特別報道番組の編成に入っていた。騒ぎは加速度的に拡大し、人々はテレビの前に釘《くぎ》づけになっている。謎のB・O・A・C機を見ようと羽田へ駆けつける弥次馬も多く、B滑走路の端を見渡せる国内線送迎デッキは、すぐに関係者以外立入禁止になってしまった。
そのような人々の昂奮に追いうちをかけるように、機内調査の結果が発表される。
機内には八十五名の乗客にサービスした食事および飲物の容器が、通常の整理方法できちんと積まれており、キャビン内の手荷物はじめ貨物類にも一切異常は認められない。トイレは二十人以上が使用した形跡を残していて、搭載《とうさい》した燃料の消費分も、ホノルルから東京まで正常な飛行を続けて来た計算と完全に一致している。イギリス人を主とする外国人乗客の中に二十一名の日本人がまじっており、クルーの中にも日本人スチュワーデス一名がいた。各座席の間にはキャビン・クルーが配った雑誌類が散在し、灰皿にはかなりの量の吸殻が発見された。そして女物、男物をとりまぜ計六足の靴が座席の下に置いてあった。……これは多分靴を脱いで坐《すわ》っていた乗客がいたことを示すと思われる……。
人間が九十五名、いつものように、全く平静にBA911に乗っていたのだ。機内には何ひとつ混乱の跡は見えない。パイロットは正確に着陸し、乗客はベルトを外してタラップを降りさえすればよい状態だったのだ。
それが消えた。何の混乱も起さずにかき消えたのだ。いったいどこへ……なぜ……。
テレビカメラの何台かは、もっとよくB滑走路をとらえるために建物の上へ引きあげられた。カメラはまずB滑走路の端に停止して人垣《ひとがき》に囲まれているB・O・A・C機をうつし、次にゆっくりと右に首を振ってブラウン管に謎を秘めた数百メートルの空間をうつし出していた。
「恐らく、この千メートル足らずの間で乗客が消えたのではないでしょうか。いや、乗客はもっと早くに消え去ったのかも知れませんが、少なくとも操縦室にいるパイロットは、この謎の千メートルで蒸発した筈です。パイロットがいなければこのような着陸は出来ないのですから、問題はこの謎の千メートルにならざるを得ません。しかし、いったい百人近い人々はどこへ行ってしまったのでしょう」
アナウンサーがそう言った。そしてその放送を見た人々の間に、謎の千メートルという表現が、この全く常識をこえた桁《けた》はずれな出来事の最初のキャッチフレーズとして受け入れられて行った。
空港内のそこここに据えつけられているテレビを見た人々の中に、空飛ぶ円盤らしいものを見たとか、怪光を目撃したとか主張する何人かが登場して来た。その数名はたしかに事件発生当時空港内にいたことが証明されたが、果して本当に目撃したかどうかはかなり疑問の余地があった。
しかし、空港内を駆けまわっている記者たちにとっては、事の真偽よりそのような人物を発見したことのほうが重要であった。談話はすぐに電波に乗り、主張した人物はテレビカメラの前に立たされた。
機内で発見された事実はすべて謎を深めるだけであり、解答らしいものが何ひとつない中では、その数人が主張する円盤、もしくは怪光の目撃談だけが、唯一の手がかりに思えた。フィクションの世界に置かれていたUFOの存在が急に現実の世界で意識されはじめ、常に白か黒かの結論を求める短気な大衆は、一気に飛躍してUFO説に引きずられて行った。
それとは別に、もっと堅実で常識的な行動も起されていた。航空局および海上保安庁はこの乗客消失事件を一応遭難として受け取り、BA911の進入コースに従った捜索体制をとり、またその延長線上にある太平洋を航行する船舶、航空機にも協力を呼び掛けていた。
しかし、堅実で常識的な方策というのが、この場合いささかそらぞらしいものになっていたのはいなめない。機体は安全に着陸しているのだ。もし何らかの事情で乗客達が機外へ飛行中に脱出したのだとすれば、シートに残された留め金のとじたベルトはどう解釈したらよいのであろう。人々は一度席を立ち、そのあとで丁寧にベルトの留め金を掛けてから去ったのだろうか。
五時になるとテレビ、ラジオとも、一斉に乗客とクルーの氏名を発表しはじめた。出迎えに来た関係者のために空港内の一室があけられ、乗客名簿発表後はその部屋の人数がどんどん増えて行った。
が、以前何度か起った遭難事故にくらべると、その部屋の人々の様子はだいぶ違っていた。泣声もなければ涙顔もない。勿論《もちろん》不安におしつつまれ、緊迫した雰囲気《ふんいき》はあるのだが、その間にもこのようなことはあり得ないのだという、楽観的な表情がひそんでいる。何かの間違いであり、誰かのとんでもない手違いがあるのだという、一種の確信めいたものすらうかがえるのであった。
インタビューの記者やアナウンサーも、適切なボキャブラリーを見出せず四苦八苦している。口を開けば「いったいどういうことなのでしょう」というだけであとが続かないのだ。
ジェット機はいつも通り喧《かまびす》しく発着しその騒音の中で華やかな外人客をまじえたロビーを通り抜けたりしたのでは、空飛ぶ円盤とかUFOとか言った言葉は、本気で口にするには余りにもふさわしくない。消失した乗客の家族たちに向ってその言葉を言うのは余程勇気があるか、さもなければあえて非礼を承知の上でなければ出来ないことであった。
しかし、現場のそうした空気から遠いテレビ局などでは、六時のニュース解説にUFO関係の記録が持ち出されていた。普段良識のかたまりのように思われているニュース解説者たちが、異口同音にUFO、空飛ぶ円盤と言い出すのを見て、空港の関係者の間にもようやく動揺の色が濃くなって来た。
夜になってもB滑走路の端に停まったBA911は移動させられず、その濃紺の機体はガードマンに囲まれたまま照明に浮びあがっていた。外からの道が空港に入るトンネルのあたりの歩道は、金網ごしに問題の機体がひと目で見えるとあって弥次馬が引きもきらず、赤ランプを持った警官が立ちどまらないように人々を追い立てている。それは車も同じことで、その地点へさしかかると必ず徐行して見物するから、警官の鋭いホイッスルがひっきりなしに鳴り、物々しい雰囲気をかきたてている。
BA911が最初の停止地点で車輪止めを入れられ、異例の滑走路内駐機をさせられているのは、現場を可能な限り保全する応急策であったが、風向次第によってはすぐ別の場所に移動させなければならないのである。
記者たちはこうした場合、短い間に素早く必要なことを学びとるすべにたけている。滑走路内の駐機がいかに異例な措置であるかを航空法規から嗅《か》ぎとると、どこからか米軍筋の強い要請があったためだという噂《うわさ》が流れ出し、それが現実にUFO取扱いセクションを持っている米軍機構と結びついて、UFO説を裏づける要素に加わって行く。
未知の宇宙人の高度な科学力によって連れ去られたのではあるまいかなどという説を増やしながら時間はむなしく過ぎて行く。
午後九時。当局は緊急科学調査団を編成し、その団長に選ばれた老科学者が声明を発表した。
自分は世間で言われているほどこの問題の謎が底深いとは思っていない。問題は見落されたデータを発見することであって、欠落した要因を発見できれば現代科学で充分に説明できると信じている。しかし要は乗客乗員の発見、救出であって、これは人道上の問題であるから、調査団はただちに活動を開始する。UFOまたは宇宙人などという根拠のない臆測《おくそく》でいたずらに混乱をまねくようなことのないように希望する。
声明の要旨はおおむねそのようなことであったが、既に初期の調査結果を知らされている大衆は、そのような説得に耳をかす風もなかった。その夜テレビに登場したありとあらゆる人物がBA911事件に関しさまざまな見解を述べ、午後十時には各界タレントを総動員した特別番組がNTVをキーに全国へ流された。
漫画家、カメラマン、映画監督、俳優、作家、科学者、編集者、評論家……。それぞれの立場からこの怪事件の謎に挑戦して行ったが、その中に一人、日本に数少ない奇現象の研究家として招かれた北川宏が、BA911事件に酷似した過去の事例を挙げて注目された。
一八七二年、ジブラルタル海峡付近の洋上で発生した、マリー・セレスト号事件である。
その年の十二月五日の午前十時近く、ニューヨークを出発してヨーロッパに向った貨物船ディ・グラチア号は、ポルトガルのセント・ヴィンセント沖約七百マイルの海上を南に航行中、不審な航法をする二本マストの横帆船を発見した。
その船はディ・グラチア号の信号にこたえなかったばかりか、船首の三角帆と支索帆を張って右舷《うげん》開きに進み、微風のたびに進路を一、二ポイントずつ変えているようであった。……熟練した帆船乗りにとって、それが操舵《そうだ》されていない状態であるのを読みとるのは至って簡単なことであった。
ディ・グラチア号のモアハウス船長は直ちに接近を命じ、相手の甲板に人影が全くないのを知るとボートを降して、二等航海士オリバー・デボーほか二名のクルーを従え、その怪船に移乗した。
それがマリー・セレスト号と呼ばれる問題の船で、当時としては中級以上に属する二百六トンのアメリカ貨物船であった。
船内に人影は全くなく、しかもたった今まで秩序ある生活が行なわれていた証拠が歴然としていた。
船体には全く損傷がなく、新鮮な水や食料がたっぷり保存されている。クルーの私物や衣服類、日常の小間物類もあるべき所にごく自然に配置されており、デッキには洗濯《せんたく》した下着類が乾してあった。
キッチンには鍋《なべ》に料理が残っていて、ストーブは燃え切ったものの、丁寧に積まれた灰が腕のいいコックのいたことを示していた。船長室の食卓には、食べはじめたばかりの状態で二人分の皿に料理が残っており、途中まで殻をむいたゆで卵があった。
また前甲板下の水夫室の洗面所には、水を張った洗面器のそばに、よく手入れしたかみそりが置いてあり、しかもその刃には、そりかけてやめたように、少量のひげが付着していたのである。
更に、船長室には食卓の脇《わき》にゆりかごがひとつ置いてあって、その中に半分ほど牛乳の入った哺乳瓶《ほにゆうびん》と、そのすぐ傍の棚《たな》の端には子供用のせきどめの薬瓶《くすりびん》が、蓋《ふた》をあけたままのせてあった。
航海日記には、十一月二十四日の分までが詳細に記載してあり、メモ用の石盤には二十五日の朝の分が記入してあった。石盤のメモによれば、十一月二十五日朝のマリー・セレストの位置は、北緯三六度五六分西経二七度二〇分で、それから発見された十二月五日までに約六百七十キロを移動したことが判った。積荷はイタリー向けのアルコール千七百バレルで、当時の価格にして約七万五千ドルに相当するその積荷は、全く無傷で船倉にあった。
この謎の漂流船はジブラルタルへ回送されて、たちまちBA911事件同様、もしくはそれ以上のセンセーションをまき起したが、船長以下乗組員の消息は杳《よう》として知れず、結局伝説的な怪事件としていまだに謎にとざされたままになっているのである。
たしかに状況は酷似している。しかし一方は海上、一方は空……ないしは滑走中のジェット機である。海上の船からの脱出は至って簡単だが、高速移動中のジェット機から、しかも百名近い人間が衆人環視の中で行方《ゆくえ》不明になった今度の事件とは全然くらべものにならない。……奇現象研究家北川宏の問題提起も、多くの出席者が語るさまざまな意見のひとつとしてかたづけられてしまった。
空港ロビーのテレビの前に集った群衆は、番組が終ると何か味気ないような表情で散って行った。いろいろな意見を代弁してはくれたが、結局は言葉の上だけのことで、何ひとつ解決の手がかりは残らなかったからである。
ロビーの係員が来てチャンネルを変え、NHKのニュースにして行った。その係員の背中をぼんやりと見送りながら、一人の男がつぶやいていた。
「そうだよ。こいつは間違いなくマリー・セレストなんだ……」
青いポロシャツを着たその男は、肥《ふと》り気味の頸《くび》を撫《な》でて言うと、急に大股《おおまた》でロビーの人混《ひとご》みをかきわけ、階段を小走りに降りるとターミナル・ビルを出た。ぎっしりと車のつまった駐車場の鳥居のあたりに停めてあった古ぼけたMGのドアをあけ、かなりの長身を折ってその中へすべり込むと、苦労して道に引っぱり出し、一気に加速してトンネルをくぐった。
MGは時々エンジンを咳きこませながら、それでもなんとか高速一号線を都心に向けて突っ走り、神田橋で下の道へ降りると、うすぐらいビルの谷間へ入って行く。
ビルとビルへの間の細い路へ鼻先をつっこんだMGから降りたその男は、すぐに四階のあたりを見あげ、窓に灯りが見えると指を鳴らしてそのビルへ駆けこんだ。
エレベーターを出ると目の前のドアに「奇現象」「アメージング・ストーリーズ」と大きな文字が二行並んでいる。そのドアを荒っぽくあけて中へ入ると蛍光灯《けいこうとう》に35ミリのロールフィルムをかざして眺めていた貧相な男が言った。
「まただもの、いやになっちまう……」
「なぜだい」
男は突っかかるように言う。
「編集長と取材に行くと、いつだってはぐれちまうんだから」
「馬鹿言え」
男はごつい体をどすんと椅子にのせ、積んである原稿用紙をデスクに置くと、鉛筆をつまんで考える様子もなく書きはじめた。
「お前といつ取材に行った。第一奇現象の取材なんて、そうちょくちょくあってたまるかい」
書きながら喋《しやべ》る。
「のべつ行くじゃないスか」
「あれが取材かよ。記事のさし絵を撮るようなものだ。ボロ別荘の遠景や砂浜の足跡なんて、どこにだってころがってるんだ」
「とにかく行くたんびにどこかへ消えちゃうんだから」
「自分のドジをたなにあげるな」
男は鉛筆を走らせながら言い、ふと顔をあげた。
「電話、なかったか」
「いいえ」
貧相なカメラマンは「暗室」と書いたベニヤ板の裏側へ消える。男は書くのをやめ、机の上の電話器をみつめている。すると一分もしない内にベルが鳴った。
「ほれみろ」
男はニヤリとし、受話器をとった。
「……行くよ」
それだけ答え、ガチャリと受話器を返すと、前にも増したスピードで原稿を書きはじめる。だがすぐにまたベルが鳴る。
「……もう田所が行ってる」
またそれだけで電話を切る。原稿を書きおえるとクリップで止め、机の上にそのまま置いて立ち上り、
「タクシーで帰ったのか」
と大声でベニヤ板の奥へ言った。
「ええ……」
こもった返事がする。男はポケットから千円札を出し、入口の黒いカーテンに片手を突っ込んだ。
「いいんですか」
「早くとれよ、馬鹿」
カメラマンに車代を渡した男は、入って来たのと同じように荒っぽくドアをあけて出て行った。カメラマンはカーテンから首を出し、部屋を見まわして男が帰ったのを知ると舌打ちをして首を引っこめた。
「どうやって君たちはそう要領よく集合できるんだい」
派手なアロハシャツを着た初老のマスターが言った。六本木のはずれにある、ロバという小さなバーである。入口にひとつ、奥に三つテーブル席があって、店の中央は表の通りと平行になったカウンターである。そこにいま男が二人と女が一人。男の一人はいま来たばかりの月刊誌奇現象の編集長であった。奥にひと組若い客がいる。
「この人達普通じゃないのよ」
女が言った。二十五か六。面長ですらりとした体つきである。
「そりゃそうだろう。お前みたいな娘と気が合うんじゃ只者《ただもの》じゃないさ」
「で、どうだった」
額がいやに広く、ひょろりとして色の白い男が編集長に訊《たず》ねた。
「BA911は語らず、さ」
「奇現象編集長津山英介氏のご見解は……」
女が言った。
「恵子にも話したから知ってるだろう。マリー・セレストさ、あいつは」
「やっぱりね……」
恵子はそう言うともう一人の男と顔を見合せた。
「同意見だね」
「おや、田所お前何か気づいてるな」
津山英介がまん中の恵子ごしにのぞきこんだ。
「気づいたってほどのことじゃない。ただ発表された乗客名簿を書き写してみたまでのことさ。こんな時おんなじニュースをあちこちの局で流してくれるのは有難い」
田所は恐ろしく神経質な手つきで、きちんと折った紙をひろげた。マスターがのぞきこむ。
「また丹念《たんねん》に書き写したもんだな」
乗員名簿の写しが恵子と津山の間へ移動する。じっと読みおろして行き、途中で津山は口笛を鳴らした。
「何なの……」
恵子が訊ねた。
「ロバート・ブリッグス」
津山はそう言って名前のひとつをポケットからとり出した赤鉛筆で囲んだ。
「ロバート・ブリッグスってだれなの」
すると津山は田所と顔を見合せて首をすくめた。
「教えていいのかい」
津山が言い、田所は素っ気なく「どうぞご勝手に」と答えた。
恵子は正面を向き、拗《す》ねたようにブランデーを含んだ。
「ね叔父《おじ》さん」
「なんだい」
「こいつら嫌《いや》な奴《やつ》……」
するとマスターは笑い、
「何だか知らないが、お前に教えるとまた逆に煽《あお》りたてられるからじゃないのかな」
と言った。
「教えてくれたほうと結婚するわ」
恵子はマスターにささやいた。
「つまり……」
津山が言いかけ、田所が割りこんだ。
「マリー・セレスト号の船長と同じ姓なのさ」
津山が口惜しそうに唸《うな》り、マスターが笑った。
「ほんと、それ」恵子の瞳《ひとみ》は艶っぽく輝いていた。
「グアムでいいかい」
「よせよせ。新婚旅行なら俺がヨーロッパへ連れてってやる」
津山は田所から引き離すように恵子の腕をつかんだ。
「本当かね、それは」
マスターが言った。
「何せ一八七二年の出来事ですよ。それにブリッグスという姓だってそう珍しくはないでしょう。しかし、マリー・セレストの船長がベンジャミン・ブリッグスという名前だったことはたしかなんです」
田所は陰気なくらい静かな喋《しやべ》り方をする。
「信心深いクリスチャンでね。品行方正、いくらか金持ち。そして美人の女房と可愛い二歳の女の児がいた……」
「その一家が十人のクルーと一緒に消えちゃったのね。救命ボートも使わずに、いったいどこへ行っちゃったのかしら。……そうだわ。今度の事件とマリー・セレスト号事件の共通点を探せば、きっと何か判るわよ」
「ほら始まった」
津山はつかんだ腕をほうり出すようにして横を向いた。
「だって、ブリッグスという名前がもう発見できてるじゃないの。やりましょうよ。百年前の世界的な謎の事件を解決するなんて素敵じゃないの。それに日本中が大騒ぎしてたって、これを知ってるのは私たちだけよ。私たちが乗り出さなきゃ、羽田の事件だって解決できないんだし……」
「彫金家はハンダづけでもやってたほうが安全だよ」
田所が言った。
「あんなこと言うのよ、叔父さん」
恵子はマスターに甘ったれた声を出した。
「判り切ってるさ。君たちの一人が、何か言い出した時は、三人とも同じ事を考えてるに違いないんだ。いつだってそうじゃないか」
マスターはそう言った。
「おい、田所お前やる気なのか」
津山が恵子ごしに訊ねる。本気な表情だ。
「二人がやるのに俺が黙って見ていられるか。危くて仕様がない」
田所は静かに言う。
「何が危いのよ」
「あいつは手が早いし腕力もある。それにまだ善悪の判断がついてない。従って君が津山と二人切りでいるという事は手ごめにされる危険性がある」
「へえ……英介にそんな度胸あるのかしら」
「馬鹿にするな。そんなのは朝飯前だ」
「朝早く会ったこともあるわよ」
「恵子、若い娘がそんな話題に乗るもんじゃないよ」
マスターが叱った。
新聞の第一面をBA911事件の大きな見出しが黒々とぶち抜いている。三種類ほどの新聞の一面の見出しはどれも似たりよったりで、油に汚れた木箱にのせてあるその新聞紙が、風の吹くたびに木箱の端へ揺れながらすり寄って行く。コンクリートの上に錆《さ》びの出たスパナと大きなボロ切れがあって、その傍にアジア大陸に似た形の油のしみが、青黒く光っていた。片側はうす汚れた褐色《かつしよく》の壁で、ずらりと並んだ窓に、色とりどりの洗濯物や夜具がぶらさがっている。反対側に痩《や》せこけたポプラが何本か並んでいて、古びたMGがその一本の根方に置いてあった。MGの鼻先が黄色いジャッキで持ちあげられていて、ゴム草履をはいた太い毛脛《けずね》が二本、車の下から突き出している。
建物のかげから青いワンピースを着てエプロンを掛けた三十歳ぐらいの女がやって来て、その毛脛の所で立ち止った。微笑してサンダルの爪先《つまさ》きでゴム草履の裏をつつく。買物籠《かいものかご》をぶらさげていた。
毛脛が動いて、いも虫が這《は》うようにMGの下からずり出た津山英介は、女を見あげると、やあ……と言った。
「坊やを寝かしつけて来た所だから、エンジン掛けないでね」
「そうか。じゃどこかほかでやろう」
「相変らず調子悪いの……」
「嫌《いや》になるね、このおんぼろ車には」
「十年も乗ってれば文句ないじゃないの。ウチのスバルなんて、とってもいい調子だそうよ」
津山は起きあがり、黙ってジャッキをまわしはじめた。「そろそろ買いかえなさいよ」
女はそう言って商店街のほうへ去って行く。
前輪が地面につき、津山はジャッキを引っ張り出した。
「冗談言うなよなぁ……」
そう言ってボロ切れをとりあげると、フロントフードのあたりをゆっくりと拭《ふ》きはじめた。
「三六〇のブリキ箱に見かえりゃしないから安心しろよ。お前がこなごなになるまで乗ってやるからな」
そのMGで追突されたのは六年ほど前のことである。それ以来あちこち故障の絶え間がなく、それを欺《だま》し欺し乗っている内に、友情に近いものが車と人間の間に生れていたのだ。
津山は車を拭き終ると油に汚れた工具類を木箱にしまい、その上へ腰をおろすと煙草をつけてもう一度朝刊に目を通しはじめた。いろいろな角度からBA911事件がとりあげてあったが、百年前のマリー・セレスト号事件と関連させた部分は一行もなかった。
夏の朝の微風が痩《や》せたポプラの葉を揺らせ、赤褐色に汚れた古いコンクリート二階建ての都営アパートの屋上に雀が囀《さえず》っていた。高輪《たかなわ》の狭い通りを車がひっきりなしに走り抜け、明け方ひとしきり吹いた強い風のせいで、東京の空は珍しく青く澄んでいた。東京湾は流石《さすが》に白く濁った空気に霞《かす》んでいるが、それでも巨大な貨物船が何十隻も見えており、空には相変らず着陸の順番を待つジェット機が大きく旋回していた。レーダーや管制官はきのうと同じようにそれらの機と緊張したやりとりをしているに違いないし、空港のロビーも送迎客でごったがえしている筈であった。
しかし、ゆうべ厳重な交通規制を行なっていた空港入口のトンネル付近には、もう整理をする警官の姿はなかった。風向が変り、B滑走路の必要が出て来るとすぐ、謎のBA911は牽引車《けんいんしや》に引っぱられて滑走路を出、ターミナルビルとは反対側にある日航格納庫の前の、整備用駐機場《オーバーナイト・スポツト》へ運び去られていたのである。今はとりかこむ人影も少なく、青っぽい制服にしゃれたヘルメットをかぶった、空港ガードマンの一隊がそのまわりを退屈そうに歩きまわっているだけだった。
調査団はまだ何も発表していない。どんな作業をしているのかそれすら知らせず、空港北西部の整備区にある航空局の建物の中にとじこもった切りであった。活溌《かつぱつ》に何かを発表するのは、別動している警視庁鑑識課で、指紋、血液型、毛髪分析、遺留品調査等の結果が、ほとんど二時間置きに発表され、乗客名簿と実際の座席配置の照合が、朝十時までには八割方終っていた。
乗客蒸発事件。……第二日目の前半で、BA911事件はそう呼ばれるようになっている。完全な密室からの大量蒸発だからどんなセンセーショナルなキャッチフレーズをつけられても当然であろうが、やはり新聞の活字やもっともらしいアナウンサーの口から、宇宙人とか四次元とかと言う単語が飛び出すのは異様だった。数少ないSF作家や推理作家の一部がマスコミの裏側を走りまわることになり、奇現象関係の出版物が急に売れはじめているということであった。また、何人もの心霊研究家や霊媒を名乗る人物たちが登場して、BA911の内部で実験させるよう要求していた。
だが、この信じられないほどの怪事件の翌日も、社会はいつもどおり常識的な秩序の中で活動をはじめ、結局は新しい話題がひとつ増えただけのことになりそうであった。
そんな中で、津山英介は午前中簡単な編集会議をひらき、四人の編集者の取材内容をきめると、自分はさっさとMGでとび出してしまった。津山は次号をいつもより簡単だと思っている。あれこれ品揃《しなぞろ》えをする必要もなく、BA911の乗客蒸発事件で全編を埋めればそれでいいのだ。掘りさげはその次の号でよい。今は表面に出た事件をずらりとラインアップするだけで充分なのだ。
ただ彼は是が非でもマリー・セレストの件を次号に大きくとり入れるつもりでいる。そのために、マリー・セレスト関係だけは一手に引受け、奇現象研究家の北川宏をつかまえに出かけたのであった。
北川宏は昨夜来千葉の自宅へも帰れず、テレビ局やラジオ局の間を引っ張りまわされて、津山がやっと所在をつきとめた時には河田町のフジテレビにいた。
フジテレビの入口にある、人の出入りでやけにざわついた喫茶店で落ち合うと、津山はいきなりゆうべ田所が書いた乗客名簿の写しを突きつけた。
「赤丸でかこんであります」
すると北川は睡《ねむ》そうな眼をしょぼつかせて言った。
「気がついたんですね、あなたも」
睡気ざましのつもりらしく、北川はしきりにコーヒーを啜《すす》り、名簿のほかの部分を丹念に読んでからコーヒーカップを置くと、万年筆のキャップを外して太い青い線で別の名前に丸印をつけた。
「ハンナ・タッケル……ドイツ人ですか」
津山が嬉しそうに大声で言った。
「タッケルというのは、マリー・セレストの水夫にも一人いたんですよ。カスパー・タッケルというんです。マリー・セレストのクルーは十人説、十一人説、十三人説と三通りあるんですが、十人説が一応正しいとされています。ところが、全員の正確な氏名となると、どうもはっきりしないんです。ただこのカスパー・タッケルというのは大西洋航路の貨物船の間では、ちょっと名の知れた腕ききコックらしくて、それが乗っていたことはたしかなんです。それと、ローレンゼン兄弟……これはインチキな方で有名なんで、この悪いことで知られたローレンゼン兄弟が乗っていたことから、のちにマリー・セレストは何かの犯罪にまき込まれたのだと言う説が有力になるわけなんですが、それにしてもタッケルとかブリッグスとか、余り珍しくもない名前なんで、たしかめにかかったとしても期待薄のようですね」
「それはそうです。しかし僕はやって見るつもりです。……とに角、お忙しいでしょうが一週間ほどで二、三十枚、マリー・セレストについての原稿をぜひ頂きたいんです」
北川は津山を見て苦笑した。
「あなたじゃ断っても無理なんだから……」
「そうですとも」
津山はしゃあしゃあと答えた。「マリー・セレストの乗員ではっきりしている名前は、ほかにありませんか」
「ベンジャミン・ブリッグス船長でしょ。それにカスパー・タッケル。ローレンゼン兄弟……船長の奥さんがたしかファニーとか言う人で、子供は女の子。あとは記録によって名前がまちまちなんで、よかったら原稿をお渡しする時、一覧表でも作って置きましょうか。今は資料を見ないとよく判らないんです」
「ぜひお願いします」
北川宏と別れた津山英介は、MGの中でひとりごとを言い続けていた。
「そうぶつぶつ言いなさんな。今朝だってちゃんと手入れしてやったじゃないか。お前のは神経痛みたいなもんなんだ。それに気管支炎とな。悪い部分がはっきりしねえんだよ。追突されて以来、全体にガタが来ちまってるんだ。こっちだってお前の癖どおりにうまく扱ってやろうとしてるんだから、機嫌《きげん》を直してすんなり走ってくれよ。大患いされたりしちゃ安月給だからどうにもならなくなるんだ。……判ったか。ほらもう神楽坂《かぐらざか》だ。お前だって高輪の隅っこで雨ざらしになるのは嫌《いや》だろう」時々|咳込《せきこ》むエンジンと、ひどい右利きのブレーキ、それにいくら探しても見つからない外れたネジがカラカラ鳴る音に悩まされながら、津山はむしろそういう故障を持つこのMGを愛しているのだった。
と言ってもMGはMGで、スタートや加速はオートバイなみに素早い。右折する都バスの陰にかくれるようにまわりこみ、路線バス以外右折禁止の大きな交差点で見事に警官の目を盗むと、一気に加速してあっという間に先行車の群れへもぐり込んでしまう。
「上出来、よくやったぞ……」
そう言っていつものビルの間へ突っ込むと、車を出て片手で屋根を愛撫《あいぶ》しながらドアをロックした。すると丁度ビルから出て来た男が津山を呼び、
「編集長、お客さんですよ」
と言って向い側のビルの下を指した。津山は眉《まゆ》をあげ、ちょっと考えてから両手を前に突き出した。右手の親指と左手の小指が立ててある。
「正解。さすが……」
男は茶色の紙袋を振って去って行く。津山は煙草をくわえて前のビルの地下にある喫茶店へ向った。
ドアをあけると案の定田所と恵子がいた。津山はしばらく近寄らず、入口のレジの所で考えていたが、やがて大股に近寄ると両掌を下向きにしておしなだめるような身振りをした。
「まあまあまあまあ……。用件は判ってる。乗客名簿のことだろう」
「あたったわ。がっかりね」
恵子は本気で失望した様子だった。津山はポケットから名簿の写しをとり出してテーブルの上へ抛《ほう》り出すと、恵子のとなりに腰をおろした。
「俺もみつけたよ」
そう田所に言う。田所は名簿を拡げ、太い青インクの線を人差指でちょっとこすると、
「そうか……北川さんに会って来たな」
と苦笑した。
「ハンナ・タッケル……その人コックのカスパー・タッケルの子孫よ」
恵子はいやに断定的に言った。ガルボ・ハットとかいう、つばの広い帽子をかぶっていた。
「そいつは調べなきゃ判らんさ」
津山が言うと田所は顔をあげ、
「俺が引受けたよ」
と少し得意そうに答えた。余り表情を変えない田所がそんな顔をしたのが珍しく、
「へえ、これは驚いた」
と大げさに恵子を見て笑う。
「ハンナ・タッケルって人のお兄さんがいま東京にいるんですって。会いに来てあの災難にあったんだわ」
「それ本当か」
津山が目を丸くする。
「本当だ。タッケル氏は西ドイツのV・B商会の東洋支配人なんだ」
「V・B商会というと……そうか、医療機械関係か。それならお前の取引相手だ」
「そうさ。支配人のタッケル氏は一年ほど前から俺ん所を販売窓口にしたくて運動中なのさ。しかし東洋商事は今の所アメリカのコスモ医療機とかなり取引量を持ってる。俺も何度か会わされたことがあるが、いつも銀座のクラウンへ連れ出される。馬鹿のひとつ覚えというか、日本の商社マンはああいう所が好きなんだと思い込んでるらしい」
「神楽坂の伊勢藤《いせとう》のほうが喜ぶって知ったら、クラウンで使った馬鹿|金《がね》に自殺したくなるんじゃないかな」
津山が笑った。
「なに、結構自分でもたのしんでるのさ」
「それじゃタッケル氏のほうはまかせる。しかし出来るだけ早く頼むぜ。来月号になんとか間に合せたいんだ」
「判った。それからこれが届いた」
田所は派手な新聞紙にくるんだ細長い箱をさし出した。
「なにそれ……」
恵子が訊ねた。
「英介のおもちゃさ」
「ああ、またプラモデル……」
恵子はそう言って派手に笑った。さっきから店中の男客が恵子を気にしていたが、その声で一斉に振り向いた。
「イタリーの単車さ」
津山は照れもせず、バリバリと新聞を破いて子供っぽいイラストを印刷した箱をあける。「この鋳型《カタ》を起したのはタルクイノ・プロビーニなんだぜ」
「あ、そうか。それでお前、こいつをやけに欲しがってたんだな。……プロビーニって言うのは本物のグランプリ・ライダーなんだ。六三年のモンツァでジム・レッドマンのホンダ250四気筒を破った男さ」
田所はあらためて関心を持ったように、津山のあけた箱をのぞき込み、しきりにイタリーのプラモデルをほめはじめた。恵子はコーヒーカップを手に、その対照的な二人を等分に、好もしげに眺めていた。
恵子は新進の彫金家として、いくらか世間に知られはじめている。かなり裕福な家に生れたが今は両親もなく、麹町《こうじまち》のマンションで勝手|気儘《きまま》なくらしをしている。見る人が見れば少し鋭角的すぎるかも知れないが、メイクアップをして誰それという名のあるカメラマンにアップで撮らせたら、資生堂のポスターも真ッ青という美人である。ふたひねりほどしたおしゃれが得意で、ブランデーを飲みはじめると底が知れない。しかし六本木のはずれでバーを経営している洋画家崩れの叔父には手も足も出ないらしい。
津山と田所は体格も風采《ふうさい》も性格も、陰と陽で全く対照的なのに、どういうわけか恵子ひとりに惚《ほ》れ切っていて、他の女には見向く気もないのだ。恵子も津山と田所を等分に愛していて、自分でもどっちがどうと決めかねている。時々子供の頃からつき合っている津山と田所の強い友情に嫉妬《しつと》するらしく、そんな時はきまって片方に寄り添う態度を見せるが、二人ともそれが本物ではないと知り抜いていて、そういうチャンスは利用しようともしない。五分五分のフェアーな状態で恵子の選択にまかせたいらしいのだが、恵子にはどうしてもそれが選べない。今では三すくみの中に男女の枠《わく》を超えた友情みたいなものが生れて、津山などは死ぬまでこのままでもいいと思いはじめた節が見えている。とにかく奇妙なほど気の合うトリオであった。
恵子たちが帰ったあと、津山はデスクでぼんやりとそのことを考えていた。……田所はライバルではないのだ。彼と自分は不可分の間柄で、どこまでも心の通い合う得難い友人なのだ。そこへ恵子が現われた。彼女は自分と田所のどちらにもぴったりと通い合うものを持った女性で、二人の男を同時に等分に愛してしまっている。はたから見れば奇妙な関係でも、真の友人同志の前へ真の恋人が出現すれば、当然そういうことにならねばならないのだ。つまり三人の関係はこれ以上求めようもないほど完全だということになる。恵子の相手に田所以外の男はあり得ないと思っているし、田所も彼女の相手にはこの津山英介以外は考えられないと思っている。……そういう関係を持てることがこの上もなく誇らしいし、満足でもある。実際に津山はそう思い、満ち足りた思いの中でマリー・セレストのことを考えていた。
時間は容赦なく過ぎて行く。津山たちは最初から期待していなかったが、科学調査団という常識にこりかたまった学者の一群は、案の定何の役にも立たないことがはっきりして来た。ご大層に調査活動を秘匿して権威づけに専念している内に、敏感な大衆はいつの間にかそんなもののあったことさえ無視しはじめ、学者たちは自己の存在理由を立証するために、急に媚《こ》びたような発表を開始せざるを得なくなった。しかし、何らの具体的な収穫もなく、事態の進展に貢献してもいないことは明白であった。調査から締め出された想像力に富む人々が騒ぎはじめ、調査団はこれ以上何の手掛りも発見し得ないと科学的に証明できる段階になったら、それらの人々にBA911を引渡すと約束した。
しかし問題の機体の所有者であるB・O・A・C、ひいては英国政府が自国科学者の派遣を決定していて、当分は解放されそうもなかった。
現代科学は実証主義という大前提に従って組立てられており、同一結果が繰返し実験可能なもの以外は、すべて誤認とか迷信とかと断定して、数多くの奇現象を見て見ぬふりをして来たのだから、同一結果を繰返し実験できないBA911事件については、学界は一切手を引くべきであるという強硬な論評すら行なわれてきた。
調査団は、どういうつもりか過去の数多い奇現象記録の中から、人体焼失のケースをとりだし、機内の燃焼痕跡《ねんしようこんせき》 を調べているらしい。多分奇現象の中で残留物調査が出来るのはそれだけだと考えたのであろう。
ということは、正規の学界を代表する科学者が、史上はじめて公式に奇現象調査をはじめたことでもある。人々は現代科学がBA911事件でひとつの大きな転機を迎えたことを嗅《か》ぎ取って、マスコミは異例の奇現象ブームに沸き、SF読者の平均年齢が一挙にはねあがった。
しかし、マリー・セレスト号との関連は、どういうわけか一般受けはしなかった。それは多分百年前の事件そのものが、人為的に仕組まれたと考える余地を充分に残していたことに依《よ》るのだろうが、津山のいる雑誌、奇現象だけは、その主張をつらぬき通し、今では後退するもならず、社長以下全員がその考えにしがみついて行かねばならぬ状態になっていた。
それだけに津山の責任は重くなり、首を賭《か》ける羽目に追いこまれている。
「結局カスパー・タッケルのケースは現地調査をしなければ判らんのか」
小柄な社長が渋い顔で津山に言った。秋もさなかと言った十月のなかばであった。
「そのほうはご心配なく」
津山は太い声で答えた。「手は打ってあります。B・O・A・C機でやって来たハンナ・タッケルはたしかにV・B商会東洋支配人の妹でしたが、兄のタッケル氏は実は米国籍で、ハワード・タッカーというんです。商売上タッケルと読ませていたんでしょうが、ドイツ系には違いなくて、ハンブルグにアメリカのタッカー家の本家があると判りました。そのほうは今、人をやって調べさせてる所です」
「人をやって、と言って、いったい誰をハンブルグくんだりまで送りこんだんだ」
「なに、費用はよその会社持ちです。東洋商事の海外契約調査課にいる男で田所というのが、V・B商会の調査に行ったんですよ。そいつに全部まかせました」
「そいつは上出来だ」
社長は嬉しそうに笑った。「ロバート・ブリッグス氏のほうは、サンフランシスコに一人息子がいることがはっきりしてる。これは文通でかたづくわけだ」
「社長、そうは行きませんよ」
「なぜだ」
「僕は来週アメリカへ行くつもりです」
「アメリカへ……」
「社で出張させられないんなら、少し前借りをさせてもらいます」
社長はあわてた。
「待てよ君。何も行かせないと決まったわけじゃない」
「でも何しろ貧乏会社ですから」
津山はニコリともせずに言った。
「とに角、そんな急に行かねばならない理由を聞こうじゃないか。理由次第では出張扱いにするよ」
「有難うございます。そうしていただければ本当にやり甲斐《がい》があるというものです」
小柄な社長の倍もありそうな津山が腰掛けたままペコリと頭をさげた。
「君にはかなわんよ。一人で話をすすめてしまうんだからな」
社長はボヤいて見せたが、その初老の瞳の奥には津山に対する愛着の色があった。
「プランがあるのです。それも凄い奴が」
「ほう……」
「いま東京にいるハワード・タッカー氏が、百年前のマリー・セレスト号の腕ききコックの子孫だとすると、あのBA911にはマリー・セレスト号にいて消えた人々の内の三人の子孫が、確実に乗り合せていたことになるんですよ」
「もう一人いたのか」
「ええ。北川先生が乗客名簿と過去の記録を突き合せて発見したんです」
「誰なんだ」
社長は応接用のテーブルにひろげてあった乗客名簿をとりあげ、せきこんで訊ねた。
「フレッド・ウインチェスター……」
そう言った津山は、週刊誌から切り抜いた警視庁鑑識課発表の座席表をひろげた。手荷物など遺留品の状況から推定した乗客の座席配置図である。
「フレッド・ウインチェスター……ウインチェスターなんてマリー・セレストのクルーがいたのか」
「いいえ。盲点だったんです。我々は長いことそいつに気づかなかったんですが、マリー・セレスト号の船主はJ・H・ウインチェスターというボストンの資産家で、ニューヨークにもオフィスを持っていました。そのためにJ・H・ウインチェスターはヨーロッパ側の記録ではニューヨークの人間ということになっています」
「それで、マリー・セレストにはウインチェスター氏が乗っていたのか」
「いいえ。ウインチェスター氏はちゃんとボストンにいたんです。しかしその娘と孫が乗っていたんです」
「あ……。ブリッグス船長の夫人は船主のウインチェスター氏の娘だったのか」
「そうです。考えてみればごく自然な関係じゃないですか」
「そうだな。しかしよく判ったな」
「これも北川先生のおかげです。マリー・セレスト号事件は世界的に注目を集めた謎の大事件で、五十年もたった一九二七年ごろ、まだ時々ジャーナリズムをにぎわしていたんです。一九二七年のニューヨーク・タイムズ・マガジンというのに特集されましてね。それが或る日本の奇現象マニアの手でスクラップされていたんです。その中に、航海の途中テスーテン・アイランドから両親にあて発信された、ブリッグス夫人最後の手紙が全文掲載されているんです。発信日は一八七二年十一月七日付です」
「それがボストンのウインチェスター家へあてられたものだったんだな」
社長は昂奮気味であった。
「ええ。しかもこの乗客配置図を見てください。フレッド・ウインチェスターとロバート・ブリッグスは並んで坐ってるじゃありませんか。そしてハンナ・タッケルは右の二つ先きの通路側です。ウインチェスターとブリッグスが日本へ観光に来たのははっきりしてます。そして帝国ホテルに予約した部屋まで隣り同士なんです。六十何歳の老人同士が、気楽な二人旅をしてたんですよ。恐らくマリー・セレスト以来の親類づき合いでしょう。何しろあの事件の関係者はヨーロッパでもアメリカでもスター扱いだったでしょうからね。ただ、ハンナ・タッケルとは只の行きずりの人だったんでしょう。偶然三人が一緒になったんですよ」
「それで、プランというのは……」
社長は大乗気になっている。
「まず、マリー・セレストとBA911は全く同じ事件としましょう。マリー・セレストのほうの原因は謎につつまれています。しかしBA911にマリー・セレストと同じファクターがあるということになると、BA911の原因はマリー・セレストと同じであるということが判ります」
「そういうことになるな」
「マリー・セレストは何が原因でああいう結果になったか不明ですが、とに角百年後にその乗員の中の三人が一堂に会したら、全く同じ結果が起ってしまった。そうでしょう」
「うん」
「ということは、マリー・セレストの原因もその三人だったということになるじゃないですか。現代科学は実験で繰返し同じ結果を得られる現象のみを研究対象としているんです。だったら実験をくり返しましょうよ」
「なんだって……いや、そいつは凄い。こいつは独占しろ。正規の学界に所属する学者を集めてその前で三人をつき合わしてみるんだ。直系の子孫を東京へ呼び集めて来い」
社長は顔を赤くして叫んだ。
恵子と津山は六本木のロバにいる。
いつものようにカウンターにすわり、恵子の叔父であるこの店のマスターが向う側で話相手になっていた。珍しいことに、津山が恵子と一緒にブランデーグラスを持ってゆすっていた。
「ほんとに車は置いて来たんだろうね」
マスターは真顔で恵子にたしかめた。
「オンボロMGを出張中雨ざらしにして置くのは可哀そうだからって、この人近くのガレージへ預けちゃったのよ」
「それならいい。送別会なんだから盛大に飲んでもらおう」
マスターは人の好い笑顔になると、ヘネシーのスリースターをカウンターの上へ置いた。
「送別会だなんて……私いやだわ」
恵子がしんみりと言った。「ふたりとも一遍に東京からいなくなるなんてはじめてじゃない。何だか未亡人の心境みたいよ」
「おいおい、おだやかじゃない言い方だな」
恵子の叔父はそう言って津山に笑いかけ、とてもついて行けない、と言うような首の振り方をした。
「入れ違いに田所がハンブルグから戻って来るさ」
「でもやっぱり三人一緒がいいわ。早く帰って来てね」
「妙なトリオだなあ、君たちは。そんなことをしてると三人共一生独身だぞ。それでもいいのかい」
恵子の叔父が本音を吐いた。「どっちかと早く結婚してくれなきゃ落ちつけないよ」
「あら、何も人間は二人ひと組じゃなくったっていいじゃないの。三位一体ということだって、あるし……」
すると津山が急に思いついたように言った。
「そうだ、マスターはクリスチャンでしたね」
「まあ一応ね」
「教養としての三位一体論というのはどんなことなんです」
「おやおや、この瀬戸際でまだ仕事の勉強かい……三位一体というのは、たしかラテン語でトリニタス……いや語学のほうは津山君のほうが専門家だったが、父・子・聖霊の三位が結局は一体のものであり、神は単一の実体で、ただ三つの様態をもっているということかな。これは形の上のことではなくて、内在的・存在論的な神学上の構造説明なんだな。儂《わし》らにはとても難解だし、また神学というのがどうも一般人には判らないように作りあげられているからね。しかし、どうもキリスト教本来のものでもないようなんだな。プラトン派の善・智・世界霊なんていう三位一体論もあるし、キリスト教以外にも三つの神を一体の神と考えたり、三つの神を一組と考える宗教は沢山あるらしいんだ。智・仁・勇だとか三拍子|揃《そろ》うとか、三位一体的な考えは世界中にあるんだな」
「仏教にも三密というのがありますね。人間のすべての行為を身・口・意の三業《さんごう》で総括させちまうあれですよ。いま僕が一番関心を持っているのは、仏の身・口・意のはたらきは、無量無辺不可思議で凡夫にはとうてい測り難いという三密の問題ですね」
「どういう意味よ、それは」
恵子が眉を寄せて訊ねた。
「身・口・意の三業……つまり仏のすべての行為は無量無辺不可思議で人間には理解出来ないというんだ。だからその三つの業を三つの秘密、つまり三密というんだ。ところが一方では人間もまた仏のいう世界の六つの根本要素で成立しているから、三業のひとつひとつを……身、つまり姿勢、口、つまり仏の言葉すなわち経文、意、つまり仏を心から念ずることなど、三拍子揃った正しいあり方で修行すれば、無量無辺不可思議である仏の三密に自然に感応して不思議な働きがあらわれ、超人的な力が得られるとも考えられているんだ」
「それじゃ今度の事件と似てるじゃないの」
「仏さんは案外マリー・セレストやBA911みたいな現象をよく知っていたんじゃないのかい」
マスターは笑いながら言った。
「だから三位一体を聞いて見たのさ。どっちにしても田所のきのうの連絡で、タッケル家がカスパー・タッケルの子孫であることがはっきりしたんだから、連中を集めてみればすべてがはっきりするんだ」
すると恵子はひどく深刻な表情になった。
「ひょっとするとこれは人間の孤独の問題につながっているかも知れないわね。もしあなた方の実験で具体的な何かが見つかればの話だけど……」
「おやおや、今夜は馬鹿にむずかしい話ばかりだな」
マスターはからかい半分にそう言ったが、
「津山君がいい歳をしてプラモデル作りに熱中するのも、案外孤独のせいだよ、きっと」
と言って、ちらりと恵子を見た。
「どうしてですか」
「淋《さび》しいのさ。パズルのたぐいと言い、カルタのたぐいと言い、人間は何か欠けた部分を埋めて完全にしたがる共通の癖をもっているじゃないか。詰将棋もそうだし、考えてみれば男女の間も只の肉欲の充足とは言い切れない部分がある。いち早くひと組になり了せて、長い人生をたのしむのが幸福というもんじゃないかな」
「私たちは三人ひと組……」
「まぜっ返すんじゃない」
苦手の叔父に叱られて恵子はしゅんとなった。それが津山にはたまらなくいとしく思えた。
「田所君が帰って来たら、儂はきっぱり宣言するつもりだよ」
「なにを宣言するの……」
恵子が首をすくめるようにして訊ねた。
「こんどのことを汐《しお》に、君たち二人の間のどちらかが恵子の夫になるよう決断しなくてはいけないとね」
「無理よ、叔父さん」
「何が無理だ。そりゃ、男同志としてはたかが女一人のことで友情にひびを入れるわけには行かんだろう。しかし、たかが女一人のことでひびの入るような友情では仕方がないと思うよ」
そろそろ来る所へ来てしまったようだ……津山はそう思った。
「別にひびが入るとも思いませんがね」
「それなら結構。儂も実はそう思ってるよ」
「どうせたかが女一人のことよ……」
恵子が膨れた。だが本心からである筈もない。津山も恵子も田所も、三人ひと組の今の状態が、そろそろ限界に近いということは判っていた。それは男たちよりも、恵子がいちばん強く感じていることなのかも知れなかった。近ごろめっきり艶めいて、時には思わずドキリとするような媚態《びたい》を見せるのが、避けられない女体の成熟を示しているようであった。
珍しく酔った津山は、大きな体を細い恵子に支えられるようにして高輪のアパートへ帰った。恵子が送ると言ってきかなかったのである。
二間のアパートへころがり込むと、恵子は津山の靴を脱がせ、コップに冷たい水をついで飲ませてやった。そして肩を抱いて恵子が津山を起そうとした時、とうとうそれは起ってしまった。どちらからともなく唇が重なり、恵子は首を、津山は細くくびれた胴をだきしめた。
長い息のつまる時間の末、恵子はすべての表情を押し殺した事務的な顔で立ちあがると、次の間のベッドの横でうしろ向きに服を脱いだ。恵子はいさぎよく全裸になり、毅然《きぜん》とした態度でベッドに横たわった。
やがて恵子は津山の厚い胸の下で呻ぎ、のがれ去るようにずりあがって行った。そのあとで津山の太い左腕を枕に、長い間すすり泣いた。津山はその間、田所の面影と必死に闘い続けていた。
翌朝、津山は自分のベッドに恵子の処女のあかしを見た。……恵子は見送りに来なかった。
サンフランシスコ・ヒルトンは、とてもお上品とは言いかねる場所にあった。建てた昔はそんな土地を選んだわけでもないのだろうが、街の汚れの拡大が、そのホテルを予定外の環境に追い込んだらしい。
とに角一歩入口を出た途端、東京で言えばなんとか名画座と言ったようなポルノ映画館のネオンである。その隣りにはボトムレス・ゴーゴーガールはこちら、という馬鹿でかい粗野な看板が立っている。昨夜ちょっと出て歩いて見たが、もののワンブロックも行かぬ間に得体の知れないのが、ヒルトンにお泊りで、などとニヤニヤしながら寄って来るのだ。浴衣の柄《がら》で旅館を見分け、馴々《なれなれ》しく声をかけて来る日本の温泉場のほうがまだ気味がいい。ほんの少し上のセントフランシス・ホテルのあたりはしっとりとオツに構えているのにと、少々津山は後悔した。
そんな街並に恐れをなしたわけでもないが、前夜は早々にベッドへ潜りこみ、テレビのラーフ・インなどを見ている内にいつの間にか睡《ねむ》ってしまったらしい。三十分いくらのコイン・テレビだからつけっ放しの心配はなかった。
おかげで午前六時というおそろしく早い時間に目が覚めてしまい、着換えてコーヒー・ショップにとびこんだが、時間をかけてのんびりと朝食をというつもりは見事にアテ外れで、こまめにひっ切りなしコーヒーをおかわりしていないとおちおちすわって居られない仕掛けだった。
やはり他人の街は勝手が違う。訪問を指定された時間が朝の八時というのも、東京ではちょっと考えられないことだった。
フロントに寄って番地を言い、道順をたずねると、睡そうなクラークは案外親切で、地図を出して丁寧に教えてくれ、タクシーを使う必要はないとくどく言った。そういうお節介ぶりが、なんとなく地方都市的であった。
七時からケーブルカーが動くというので部屋へ戻って時間を潰《つぶ》し、少し見物するつもりで早目に外へ出た。
昼間の暖かさに欺《だま》されると、朝晩の冷えこみには全く驚いてしまう。
そしてホテルの前の通りは、夜店が仕舞ったあとのように寒々と白け切っている。ヒッピー風のが二人ほど、駐車場の金網によりかかってすわりこんでいた。
ウールワース百貨店の建物にしみついてしまったような安香料の匂《にお》いが漂ってくるケーブルカーの終点で、でかい白と若い黒が電車を押してまわしていた。電車に両手をかけて手伝ってやりながら、メイスンとバレジョの角を通るかと聞くと、「イヤッ」という掛声みたいな答が返って来た。
ビルの掃除婦といった風な、ひと目でドイツ系と知れる小母さんと黒の若いのが一人、それに津山の三人が朝のケーブルカーの客だった。吹き抜けのベンチに坐ってガラガラの道をケーブルカーで登って行くと、津山は次第に爽快《そうかい》な気分になって行く。恵子への甘ったるい満足感や田所へのうしろめたさが消えてしまったようである。
ユニオン・スクエアーを過ぎてブッシュストリートを横切る時、きのうの夕方飯を食いに行った日本料理店の看板がちらりと見え、津山は少しぐらいならこの街を知っているような気分になった。
それは錯覚ではなく、事実津山はこの坂のあちこちに見覚えがあった。その記憶が鮮明になったのは、物凄《ものすご》い急坂を引っぱりあげられて、フェアモント・ホテルの横に出た時だった。
ワーナーのギャング映画でおなじみの場所だったのだ。ジョージ・ラフト、ボギイ、リチャード・コンテ……シドニー・グリーンストリートにピーター・ローレたちの活躍した古戦場だ。
夢中になって白黒スタンダードサイズの画面を思い出していると、ひどい登り降りを二回ほど繰り返したケーブルカーの運転手が声をかけてくれた。
「ヘイ・デイスズ・ユア・プレイス」
それはバレジョとメイスンの角だった。津山は慌てて降り、ケーブルカーの去るのを眺めている内にギャング映画の夢から覚めたようだった。
時々車が風をまいて通りすぎる以外、人通りは全くなかった。道脇に停めてある車を見ながら歩き出すと、突然シスコの中古車は買うもんじゃない、という言葉の意味が実感をもって迫って来た。ひどい急坂に、それこそブレーキ様のおかげひとつで停まっているのだ。津山は自分のオンボロMGの片効きブレーキを思い出しておかしくなった。
気がつくとドアの番号が若くなっている。逆に歩いてしまったのだ。急ぎ足で引き返し、元の角へ戻ると帰りのケーブルカーが通り過ぎて行く所だった。出勤らしいのがだいぶ乗っていた。それをやり過して、道を横切ると、行手は見あげるような登り坂だった。思わず立ち止って眺めあげていると、突然灰色の壁を背に、目の前にリチャード・コンテそっくりの薄い唇の男が、
「ヘイ・ユア・ルキン・フォミ」
と、その薄い唇をリチャード・コンテそっくりに、動かさずに言った。黒い厚手のハーフコートを着て、脇に新聞をかかえていた。津山はその新聞で消音銃をつつんでいるのではないかと疑った。
「ミスタ・ブリッグス……」
訊ねると低く渋い声で、「イヤッ」と答え、右手をさし出した。
リチャード・コンテのミスタ・ブリッグスに案内されて、いかにもサンフランシスコと言った一劃《いつかく》へ入りこむと、九三八番地という住所の意味が、ずしりと伝わって来た。
九〇一から一〇〇〇番地のそのブロックは、本来一番地一棟で正確に区切られていたのだろうが、それが今では次々に枝番を生んでいる。だから九三八番だけで枝番がないのは、恐ろしくでかい家か、オフィスでしかないのであった。
しかも外見はどれもこれも禁酒法時代の面影を見せるごとく古びた建物で、貧富の程度は中へ踏み込まぬ限り見当もつかないのだ。
バレジョ九三八のブロッグス家は、とに角|贅沢《ぜいたく》な家だった。通された部屋には歴代のあるじの肖像画が並び、家族のさまざまな記念写真が小さな額に収まっていた。
ボストンから出て来たウインチェスター氏は、四十がらみの典型的な東海岸紳士だったが、当家の新しい主人はハーフコートを脱ぐとヒッピーそこのけのスタイルをしていた。
それも道理で、バレジョの一本戻った通りはブロードウェイの高台になっている。BA911で消えたロバート・ブリッグスは、長い伝統を守ってボストンのフレッド・ウインチェスターと海運業を共同経営して来たが、この長男は地元のブロードウェイや、オールドチャイナタウンの辺りの歓楽街に何軒も店を持つ水商売の男なのだ。やくざっぽい凄味《すごみ》があるのも当り前のことだった。
二人を前に、津山はBA911とマリー・セレストの関連性を詳しく説明した。男達は熱心に聞き、時々嘆声をあげて顔を見合せたりした。
ぜひ東京へ来てくれというと、二人は相談もせず、そういうことならすぐ行きたいと答えた。余り簡単なイエスなので逆に拍子抜けした津山が訊ねると、理由は至って即物的だった。
遺産相続にからんでいるのであった。失踪《しつそう》とも死亡ともつかない異常な事態に、ボストンもサンフランシスコも困りはてているらしい。死亡、もしくは二度と戻り得ないことが証明できれば、その問題もケリがつくのであろう。二人は津山以上に大乗気で、逆にハンブルグのタッカー家が本物かどうか、しつこく問い返す始末だった。
雑談になってから、いろいろな事実が出て来た。まず第一は両家とも百年来の親密な交際が続いていて、どの世代でもピタリと息の合う親友同志なのだという。第二は両家とも代々家族に恐ろしく信心深い者が生れ、中には有名な霊媒となってその筋に知れ渡った者もいるということだった。
マリー・セレストのブリッグス船長も、後に迷信家とさえ記録されたほどの信仰家で、ウインチェスター家出のファニー夫人とは至極円満な仲だったそうである。
津山は二人の息の合ったやりとりに接している内に、恵子よりむしろ田所に会いたい気分になっていた。
田所に会いたいという気分は、帰りの飛行機の中でも消えなかった。敏感な田所のことだから、恵子とああいう事になったのもとうに感付いているに違いない。立場が逆だとして、自分が恵子をひと目見た瞬間、それは判るに違いないと津山は確信していた。同時にそうなった場合、自分はどこか二人の目に触れない所でひどく酒を飲むだろうということも判っていた。とすれば、ハンブルグから帰った田所は、今ごろどこかでぐでぐでに酔っているかも知れない。
津山はそう思い、むしょうに田所に会いたかった。会って詫《わ》びるわけではない。黙って傍にいて、そのことだけで救いになってやりたかった。その役が田所以上に辛《つら》いのは判っている。しかしその辛さを味わうことで、二人の間か元の淡々とした状態に戻れる筈である事も判っていた。
とにかく恵子は決断したのだ。はっきりさせるために自ら全裸となり、ベッドを赤く染めたのだ。神話は終った。これから三人の歴史がはじまる……津山は日航機の中でそう思った。
ジェット機は快晴の空を飛行している。そして津山がふとBA911もこんな具合だったのではないかと考えた瞬間機体は突然激しく沈下し、キャビンの品物が音をたてて跳ねあがった。
その瞬間、オーッという異様などよめきが全乗客の間に発生し、ドスンと底につくと全員が申し合せたように息を吐いた。
前後左右の見知らぬ乗客の間にひどく親密な連帯感が生れ、まるで兄弟のように互いの顔を眺《なが》め合った。
しかし、その親し気な表情はやがて冷め、照れ臭い苦笑に変って行く。
「エアポケットですね」
「百メートルは落ちた感じだ」
「いや、もっとじゃないかしら」
客席の間に声があがった。
そのように訓練されているのかキャビン・クルーの若い男女がゆったりとした笑顔で歩きまわり、散乱した品物や、椅子の背もたれの角度を整理しはじめた。
どの席へも同じことを言っている。
「恐れ入りますがしばらく息をおつめになって見て下さい。どこもお痛みになりませんか。只今《ただいま》のは |晴 天《クリーン・エアー・》 |乱 流《タービユランス》 でした。大きい時には数百フィートも落ちるケースがありますが、そう珍しいことではございません」
……お怪我は、とは決して言わないらしい。打撲や捻挫《ねんざ》は息をつめれば痛くなる。結局怪我人を見つけて歩いているんじゃないかと、津山は面白がりながら息をつめた。田所の面影をしまった心の一部分以外に、痛む場所はどこにもありはしなかった。
V・B商会の東洋支配人ハワード・タッカーはアメリカ国籍を持っていたが、妹のハンナ・タッケルはドイツ籍で、ロンドンのV・B商会支店に勤めていたということであった。ハンブルグにはタッカー家の一族が多勢いて、相当な生活をしていた。従って百年前の事件もはっきり語りつがれていて、カスパー・タッケルの直系の子孫だということは疑問の余地がなかった。
津山の社長は、彼が帰国するとすぐ精力的な活動をはじめ、当局筋や学者達に働きかけた。しかし実験結果の発表を独占しなければならぬという商業的な制約と、奇現象の専門誌という社会的な立場が重なって、思うように話は進まない様子であった。
その内国際電話で今すぐに行くという性急な連絡がサンフランシスコからとびこみ、処置に困った社長は遂《つい》に奥の手を出して出身地の県人会のルートから、有力政治家に渡りをつけた。
これが馬鹿臭いほど効いて、実験場所……と言っても椿山荘《ちんざんそう》の茶室なのだが、一応はそういう形の密室を設定し、例の科学調査団の一部がそれに立ち会ってくれることに決まった。
よく考えてみれば現実とは結局そういう形にしかならぬのだろうが、津山と田所と恵子は互いに何もなかったふりをきめ込み、もうワンステップ時機の熟するのを待つ態勢になった……まさしく神話は終り、生臭い演技の時代へ入っていたのである。
津山と恵子は新派大悲劇のような、人目におびえながら忍び逢う関係になった。深刻で暗く、それだけにとび切り甘美な二週間が過ぎ去って行った。
しかし体のことはあれ以来二人とも求め合おうとはしない。高輪の津山のアパートや麹町の恵子のマンションでなら、恐らく二人は二度三度と求め合ったに違いないが、そこではいつ田所が、よう……と言って現われるかも知れなかったのである。三人の間にお互いの居場所を知る嗅覚《きゆうかく》のようなものが存在するのが判っているだけに、麹町や高輪で会う気はしなかったのである。かと言って、ホテルを利用するほど二人の間は褻《な》れていもしなかった。結局駅などで待ち合せ、行き当りばったりに歩いて喫茶店にもぐり込むような具合でしかない。
田所にいつ言うか。問題はその日時というところまで煮つまって来た。無論すでに田所は察知しているに相違ないし、言えばおめでとうを心から言ってくれるだけの覚悟も出来ているだろう。しかし人間はこうした場合、理由のはっきりしないやり方でケジメをつけたがるのだ。……なぜ恵子との事を田所に言うのが、椿山荘での実験のあとでないといけないのか、津山にもさっぱり判らなかったが、恵子ともどもそのタイミング以外にないと思い込んでいた。
そしてその実験の日まであと五日という日突然予定より早くサンフランシスコからの客が羽田へ着いたのであった。
「何でこんな早く来たんだ」
社長はまるでそれが津山の責任でもあるかのようにうろたえて喚《わめ》いた。
津山は素早く田所と恵子に二人のアメリカ人が着いたことを報告すると、例のボロMGを駆ってひと足さきに羽田へ向った。
日本側のそんな騒ぎに関係なく、ウインチェスターとブリッグスの二人は、のんびりムードで到着ロビーで待っていた。
どうせならゆっくり遊ぼうという相談がまとまって、急に出発を早めたのだという。乗って来た飛行機が、いかにも遊び人たちらしく凝っていて、B・O・A・Cのボーイング707で、便名も同じBA911便だった。
ブリッグスはリチャード・コンテそっくりの笑い方で、
「オール・オア・ナッシング・ユーシー……」
とふざけて見せた。そんな冗談が出る所から見ると、遺産は相当大きな額にのぼるのだろう。
恵子も田所も社長も駆けつけて来た。
ひとわたり紹介が済むと田所が津山を脇へ呼び、北川宏に連絡していないのかと聞いた。
「しまった、まだだよ」
「悪いよ、それは。北川さんだってどんなにこの人達を見たいか……」
田所が言った。津山はロビーの隅《すみ》の赤電話へとびついた。
北川宏は千葉の自宅にいた。是非会いたいが仕事の都合で一時間半ほど出られないと残念そうに言う。一応電話を切ってブリッグス達の所へ戻ると、二人はパレスホテルを予約してあるから一旦《いつたん》そこへ入り、夜になったらぜひ銀座のバーへ連れて行ってくれとせがんだ。勿論《もちろん》ブリッグスは自分の商売柄の見学には違いないが、銀座のバーも世界的になったものだと田所たちは大笑いした。
ウインチェスターがもうひとつ注文をつける。実験まであと五日あるのは構わないが、その前に一度タッカーに会いたいと言うのだ。ブリッグス同様気の合う仲かも知れないし、会うのを楽しみにしているのだと言う。但《ただ》し消えたくないから安全な所で、という冗談がついていた。
「タッカーならクラウンがいい」
田所がすぐそう提案した。
「銀座のですか」
社長が言い、「そいつは丁度いい。タッカーさんはクラウン好みなんですね」と笑った。津山は二人のアメリカ人を眺め、この男たちもきっと似たような好みなのだろうと思った。
「何時にしますか」
津山が言うと、社長は腕時計をちらりと眺め、
「七時半、いや八時にしよう。それだと北川先生もご同席願えるじゃないか」
と言った。
「そうですね。そいつは好都合だ」
津山はそう答え、また赤電話へ飛んで行った。北川を呼出し、時間がたっぷりあるから迎えに行くと言うと、それでは仕度をして待っているという返事だった。
ハイヤーを呼んでパレスホテルへ向うことになったブリッグスとウインチェスターは、すっかり恵子を気に入ってしまい、田所と二人でいろいろ案内してくれないかとたのんでいた。津山はそんな一行と別れ、北川宏を迎えにMGで船橋へ向った。道は混んでいた。
だが時間はたっぷりあり、クラウンへ着く約束の時間に二時間近くも残して北川の家へ着いた。北川は待ちかねたようにMGの低いシートにすべり込み、津山は今来た道を引き返しはじめた。
「さあ、たのしみだなあ」
北川はそう言って笑った。「本当のことを言うと、奇現象奇現象と憧《あこが》れてはいるんだけれど実際にそういった第一関係者に会うのは生れてはじめてなんですよ。学者が今までずっと奇現象のたぐいを疎外して来てたでしょう。だから記録などもみんなあやふやで、実際にこの目でたしかめたくても、そういったじかの関係者を見つけ出すのがむずかしいんです。二人は本当にそんな仲がいいんですか」
「息の合いようったらありませんね」
「そいつは凄いや。そこへカスパー・タッケルの子孫が一枚加わるんだから、奇現象研究家としては死んでもいいくらいなものだ」
「考えてみたんですがね、マリー・セレストの船長室にあった、食べかけの二人分の朝食のことですけれど……」
「赤ん坊が揺りかごでミルクを半分ほど飲んでいて、咳どめの薬瓶が蓋をしめ忘れてあったあの朝のことだね」
「ええ。ブリッグス夫婦は奥さんがウインチェスター家の人だから、当然|琴瑟《きんしつ》相和していたんでしょう」
「だろうね……」
「そこへ腕のいいコックのカスパー・タッケルが入って来るんですよ。当然考えられるでしょう」
「うん」
「その時三人の間に何か精神的な大ショックみたいなもの……たとえば霊波みたいなもののボルテージが一種の共鳴作用か何かで爆発的にあがってしまうとか」
「あり得るね。感動みたいなものの、恐ろしくスケールの大きい奴だ」
「それでクルーが全員まきぞえになっちゃったんじゃありませんかね」
「おかしいよ、それは」
北川が反論した。日はすでに暮れきり、対向車のへッドライトが二人の顔を引っきりなしに照している。
「どうしてです」
「それで消えたのなら共鳴した三人だけのはずだろ。まきぞえになるってのがどうもおかしいよ」
「それなんです。実はアメリカからの帰り、日航機でタービュランスに会ったんです」
「でかい奴かい」
「ええ。百メートル以上落ちた感じでした」
「一回こっきり……」
「そうです」
「そいつは晴天乱流……クリーン・エアー・タービュランスというんだ。略してC・A・Tともいう。雲のある時はこまかくガタガタするが、C・A・Tは一発大きいのがドスンと来る。晴れてる時のほうが乱流はスケールが大きいそうだよ。乗客は驚いてたろうな」
「一斉にオーッと言いましてね。何事もないと判るとみんな急に仲良くなったんです。よくあるケースですが、その時ふと思ったんです。雰囲気とか気配とかいうのは単に心理的なものじゃなく、計量化の可能な物理的、もしくは超物理的現象じゃないんでしょうかね。百人の中にひどく陽気な一組がいて、そのために全員が陽気になるとか……」
「そりゃあるさ」
北川はそう言い、何か続けようとして急に口をとざした。
「部屋とか乗物の中とかは、そういう雰囲気の場でしょ。雰囲気のようなものの発生源が極端に強力な場合は、たとえば船のキャビンのような薄い仕切りなどつき破って、大きな場全体……マリー・セレスト号全部の心に共鳴現象を起させてしまうんじゃありませんかね」
北川は黙り続けていた。片利きのブレーキと咳きこみがちなエンジン、そしてどこかでカタカタと落ちたネジの鳴る音をたてて、津山のボロMGは東京へ近づいていた。
「まずいよ……」
北川が陰気な声で言った。
「何がです」
「銀座で三人を会わしちゃいかん」
北川は急に怒ったような大声になった。「危険だ。クラウンというのはキャバレーだろ。ワンフロアーのでかい部屋だ。しかもそこにいるホステスたちはみな雰囲気にのることに慣れたベテランぞろいじゃないか。もしその共鳴現象が起ったらあっと言う間に爆発するぞ」
「まさか……」
「まさかが起るのが奇現象じゃないか」
北川は叱りつけた。「連絡するんだ。会うのをとめるんだ」
津山は慌てて前方に見えて来たドライブインの店へ加速した。急停車し、車からころがり出る。
いらいらと赤電話のダイヤルを廻すが、市外通話は十円玉を減らすばかりで、一行の行方はどうしても掴《つか》めない。二度ほど北川が売店へ両替えに走り、それも結局徒労に終った。
「どうしましょう。もう両方とも出掛けてしまって、めいめいどこかをぶらついているらしい」
「そうだ、クラウンへ電話をしろ。二人と一人で別々にやって来る一組の外人客を会わせないようにたのんで見ろ」
津山はじりじりしながら長い時間をかけ、やっとの思いでクラウンの電話番号を探しあてた。しかしキャバレーのボーイなどという徹底したリアリスト達に、そんなおかしな扱いを理解させるほうが無理だった。
「駄目《だめ》か……それなら俺《おれ》がやる」
北川は意を決したように十円玉をつかみ、東京の一一〇番をまわした。今は津山も祈るような気持でやりとりを聞いている。
だがやはり同じことだ。
「憤ってやがる。いたずらするなだとさ」
北川は蒼《あお》い顔で受話器を戻した。
「こうなったらぶっとばしましょう」
「よし」
二人はMGへもぐりこんだ。バリバリと排気音をあげてMGがとび出す。津山は夢中で追い越しを続けた。
小松川橋を渡り、平井の辺りかと思われる頃、ブルブル、ストンとエンジンが切れた。
「畜生、やりやがったなお前」
津山はMGをののしった。今まで無理をすると必ず起った症状であった。
「故障……」
「ええ。こいつがこれをやるとひどく厄介なんです。一度事故にやられてからガタが来てるんですよ」
「あそこにエッソのスタンドが見える。押して行こう」
二人はMGを道の脇《わき》に寄せ、のそのそと押して行った。
「こんなに可愛がってやってるのに、大事な時に裏切りやがって……」
津山は低くののしりながら押していた。
「駄目だよお客さん。ちょっくらちょいとじゃ直りっこないスよ」
汗まみれになった二人を迎え、エンジンをのぞきこんだサービスマンが言った。
「そいつは判ってる。急ぐんだ、預ってくれよ。金は払うから」
「料金はいいですけど、この辺じゃ空車は来ませんぜ」
「ほんとか、おい」
「あの信号の所へ行って駅の方へ入ればねえ……駅前まで行くこってすね」
サービスマンは気の毒そうに言った。
「よし」
北川が走り出した。津山もあとに続く。信号まではまだだいぶあった。
結局空車がつかまるまでにスタンドからの時間で三十分近くも失い、東京駅の前を通りすぎた時には八時二十分近くになっていた。
こまかく信号にひっかかり、タクシーは遅々として進まない。
そして銀座教会の辺りへさしかかると、先行車がぎっしりつまって動く気配もなくなってしまった。
「デモですかねえ」
運転手はのんびりと言った。
「よし、ここで降りる」
津山は言い、千円札を抛《ほう》り出すとドアをあけて北川と一緒に歩道へとびこみ、一目散にかけ出した。
「どうしたんだ……」
北川が先きに言った。数寄屋橋《すきやばし》交差点に無数の車が突っかかり合っていて、そこから新橋への道も、衝突したりビルへ突っこんだりしている車でいっぱいだった。
二人は車をのりこえのりこえ、ソニービルの前の道のまん中に立った。
人間がいなかった。
見渡す限りの銀座の道に人間がひとりも見えなかった。
「やったァ……」
北川が悲鳴をあげた。
津山は夢中で人間のいなくなった銀座を疾走した。クラウンのドアに体当りし、たたらを踏んですぐ右へ曲るといきなりうすぐらいフロアーへ出た。
人間がいなかった。
テーブルの上にはグラスや瓶が何の混乱もなく並び、灰皿から吸いさしの煙草が煙をたちのぼらせていた。ステージには丸いスポットライトがあてられ、スタンドマイクが一本歌い手の出を待つように浮き出していた。たった今まで、いつもどおりのキャバレーのさんざめきが、そこに聞えていたのだ。
「田所ォ……。恵子ォ……」
津山はダンスフロアーの中央に突っ立って叫んだ。
「恵子ォ……田所ォ……」
絶望の叫びだった。
その時急に津山はひとつの平穏な想念にとらわれた。それは田所と恵子のいともむつまじげにより添った想念であった。
――そうよ。そうなんだ。お前が今理解していることはほぼ正しい。あなたは正しかったのよ。私たちは、俺たちは、マリー・セレストの三人に、あの三人に、導かれて、つれられて、人間が本来あるべき存在に、人間がもともと作られた形に、たった今昇華したところだ。ついさっき完成させられたのよ。マリー・セレストの三人は、あの船の三人は、バラバラになっていたものが、分解していた三つの部分が、最終的な姿に、本来あるべき形に、ぴったりと組み合される一組の人間だったのよ。三位一体となって完成するべき宿命的な組合せだったのだ。人間は、人間は、すべて、すべて、一人一人が、一人一人が、あの三人のように、あの三人のように、一体となって、一体となって、宇宙の全次元を、宇宙の全次元を、自在にかけめぐる、自在にかけめぐる、一匹の幸せな獣に、一匹の幸せな獣に、完成される筈の、完成される筈の、もう二人の体質を、もう二人の体質を、所有して、所有して、いる。いる。不幸はそれにめぐりあえないことだ。不幸はそれにめぐりあえないことだ。そのひと組が一匹の宇宙獣に誕生する時、そのひと組が一匹の宇宙獣に誕生する時、付近の個体は共鳴し、付近の個体は共鳴し、みずからもまた一匹の宇宙獣の仔になる。みずからもまた一匹の宇宙獣の仔になる。さらば津山英介、さらば津山英介、汝《なんじ》もみずからの三位一体を求むべし。汝もみずからの三位一体を求むべし。我はいま至福の境にあり……
より添った恵子と田所の想念は、次第に想念すらもとけ合い、許し合い、全き合一の極限を示して次第に高次の知性体へと進み、遂《つい》にはひとつの想念と化して遠のいて行った。津山は嫉妬に燃え狂った。テーブルを蹴散《けち》らし、コントラバスを投げた。キャバレーはいま津山英介ただ一人のための狂乱の舞台であった。
銀座から一瞬にして消えた人間が、いったい何千人になるのか見当もつかなかった。客も、ホステスも、通行人も、運転手も、その夜八時何分かにタッケル、ブリッグス、ウインチェスターの三人に共鳴してこの世界から消えて行った。
ふぬけたようになった津山英介が、やっと立ち直りを見せはじめたのはそれから二週間余りもしてからであった。きっかけになったのは、あの夜以来憎み続けたMGを、余りの孤独に耐えかねてとり戻したいと思ったことであった。
憎しみもまた愛の変形ではないか。かつてあれほど心を通わした相手なら、たとえ機械であろうとまた愛せる時も来るのだ。
津山はそう考え、あのガソリンスタンドへふらつく足を向けた。
平井へ向う国電の中で、親しげに語り合う若いカップルを見たとき、津山は完全に立ち直っていたと考えていいだろう。なぜなら彼はこう思っていたからだ。……人間が愛せるのは人間ばかりじゃないんだ。あのMGだって、俺の相手のひとりなのかも知れないんだ。何しろこの宇宙には、人間の手がまだ触れないものが沢山あるんだからな……。
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わが子に与える十二章
1 ほんとの雨
ときどき雨がふるね。
天気のいい日はそとであそべるけど、
雨のふる日はおうちの中で、
じっとしてなきゃならない。
やだね。
でも、
雨がふるから草や木がそだつし、
黄色いカッパや長ぐつだって、
雨がふるから着れるんだ。
雨は水だよ。
水がポツポツつぶになって、
空からおっこってくるんだ。
水道みたいに、
いっぺんにつながっちゃったら、
それでも雨って言うのかな。
でも、
雨がそんなふうになることなんて、
いままで一度もないんだ。
いつだって、
つぶつぶでふってくるんだよ。
こんど雨がふったら、
すきとおるコップにいれてみよう。
水道の水みたいに、
きれいだと思うよ。
でものんじゃいけない。
よごれた空気のあいだを、
つぶつぶでおっこってくるだろ。
だからよごれた水なんだ。
だから、
もし汚れてない空気のあいだを、
つぶつぶでおっこってきたとしたら、
その雨はきれいで、
ほんとの雨のまんまなんだ。
ほんとの雨はきれいだよ。
すきとおるコップにいれて、
雨がはれたあと青い空がでたら、
たいようのひかりにあててごらん。
キラキラきれいにひかって、
こんぺいとうみたいになって、
ピカピカひかりながら、
ひとつ、またひとつ、
じょうはつして行くんだよ。
ひかるこんぺいとうになったら、
それはほんとの雨なんだ。
そしてどこかに、
ほんとの雨がふるばしょがある。
いつかお前も、
ほんとの雨をすきとおるコップにいれ、
キラキラひかりながら、
じょうはつするとこを見なくちゃね。
でもそれには、
ほんとの雨がふるばしょを
じぶんでさがさなくっちゃ。
おおきくなったら、
さがしに行きな。
すきとおるコップをもって。
2 月のしずく
月のしずく、
あるとおもうかい。
あるっていう人もいるけど、
それはうそ。
月はひかるけど、
月のしずくなんてないんだ。
でも、
草や木のはっぱには、
よるになるとつゆがたまる。
せかいじゅうのはっぱに
つゆがたまる。
なんぜんも、
なんまんも、
つゆがたまる。
アフリカのジャングルなんて、
木や草がいっぱいはえてるから、
アフリカだけだって、
なんまんも、
なんおくも、
よるになると、
はっぱにつゆがたまっているんだ。
月のひかりは、
そのたくさんのしずくを、
ぜんぶてらすんだよ。
よくみてごらん。
月にてらされたしずくには、
ひとつひとつ、
月がうつっているだろう。
月のしずくはないけれど、
しずくが月をうつすんだ。
月はかぞえきれないしずくにうつされて、
そのぶんやせてしまうのさ。
いくらなんでも、
あんなにたくさんのしずくにうつされては、
大きな月だってほそくなっちゃう。
だんだんだんだんやせてって、
みかづきさまになっちゃうんだ。
ふとったりやせたり、
しずくのせいなんだ。
3 からすのねどこ
からすはなんてなく。
カア、カアってなくね。
からすはなにいろだ。
まっくろだね。
まっくろからすはどこでねる。
きっと木の枝だろうね。
でも、
木の上でほんとにねむったら、
おっこっちゃわないかな。
なぜおっこちないか、
おしえてやろう。
ほんとうのからすのねどこは、
やみのなかにあるんだ。
まっくらやみのやみのなかさ。
からすはくろいだろ。
くろいのは、
いつもやみのなかでねむるせいなんだ。
よるになって、
くろいやみがひろがると、
からすはそのなかへとけちゃうんだ。
やみにとけてしまえば、
もうだれだってみつけらんない。
てきがきたってあんしんだろ。
やみにとけて、
ぐっすりとねむるから、
あさはいちばんさきにおきて、
カア、カアって、
げんきにとびまわるのさ。
からすのねどこはやみのなか。
こんどお前もとけてみな。
ぐっすりねむれて、
あさがくるとげんきになるよ。
4 でんでん虫のひみつ
でんでん虫はかたつむり、
かいがらみたいなうちしょって、
のろのろ、のろのろはってるね。
でも、
あのでんでん虫には、
だれにもおしえない、
すごいひみつがあるんだぞ。
ほんとうは、
でんでん虫はとべるんだ。
かいがらみたいなうちをしょったまま、
ふわふわとんでゆけるんだ。
でもひみつなんだ。
とべるなんて、
だれにもおしえない。
とびたいときは、
ふたつのつのをつきだして、
あたりにだれもいないかたしかめる。
だれかがみてたら、
ぜったいとばない。
はねがないのにとぶんだもの、
きっとかっこわるいんだよ。
こんどでんでん虫をみつけたら、
そっとかくれてみていよう。
でんでん虫がとぶとこを、
そっとかくれてみていよう。
5 かいしゃのなんきんまめ
なんきんまめをしってるかい。
ひとつぶずつのやつじゃないぞ。
からにはいっているやつさ。
ひょうたんみたいなかたちして、
ふたつぶずつ、
ふたつぶずつ、
まめがはいっているやつだ。
そう、
ひとつしかないのもあるね。
でもそのほかに、
かわをむいて、
すぐたべられるように、
ふくろへいれて売ってるのもある。
あれはなんきんまめがいしゃが、
こうじょうでからからだして、
すぐたべられるように、
ふくろへつめて売っているんだ。
なんきんまめがいしゃのなんきんまめは、
ふたつずつじゃないんだぞ。
かいしゃのなんきんまめは、
もっとながいからにはいってるんだ。
ひとつのからにふたつぶずつじゃなく、
十つぶずつもはいってるんだ。
だってそのほうが、
からをむいてまめをだすのに、
ずっとべんりじゃないか。
十つぶずつもはいった、
ながいからのなんきんまめは、
みんななんきんまめこうじょうでむかれ、
ふつうは売ってくれないんだ。
みんなが買うのは、
ふたつぶかひとつぶだけの、
ふべんなみじかいなんきんまめだけさ。
ながいのを売ってくれればいいのにね。
6 きいろい花
花のいろはいろいろあるね。
あかい花、青い花、
むらさきの花、白い花。
でも、
いろんないろの花の中で、
いちばんいいのはきいろい花さ。
しぜんにはえてて、
人間がみていないとき、
いろんな花のなかで、
きいろい花だけは、
うたをうたえるんだ。
きいろい花はいちばんいい花なのさ。
花ばかりじゃなく、
いろんないろのなかで、
きいろはいつもいちばんいいいろなんだ。
人間だっていろがあるね。
くろい人間。
しろい人間。
日本人はきいろだね。
花とおんなじように、
いろんないろの人間のなかで、
いちばんいいのはきいろい人間。
しろやくろはだめなんだ
7 アリはねずみのスパイ
アリんこがうちのなかへきたら、
すぐふんづけなくちゃいけない。
アリはねずみのスパイなんだからな。
アリはちっちゃいから、
戸のすきまなんかからはいって、
おいしいものがどこにあるか、
スパイしてるんだ。
よるになると、
アリからばしょをおそわったねずみが、
こそこそどろぼうにくる。
だからアリんこをみつけたら、
すぐふんづけてつぶさなくてはいけない。
アリなんてちっちゃい虫だし、
たくさんいるから、
ころしたってへいきさ。
あんなの、
かたきうちなんかできないもんね。
ふんづけちゃえ、ふんづけちゃえ。
弱いからへいきさ。
8 きれいな女の子をみつけたら
きれいな女の子は、
かわいい女の子は、
なぜきれいでかわいいかっていうと、
星のひかりがしみこんでるからなんだ。
きれいな女の子をみつけて、
きれいだなとおもったら、
かわいい女の子をみつけて、
かわいいなとおもったら、
よるおそく、
おうちのそとへつれだして、
星のひかりにあててやろう。
女の子なんて、
なぜじぶんがきれいなのか、
なぜじぶんがかわいいのか、
しらないんだもの。
星のひかりにあててやれば、
もっとかわいくて、
もっときれいになるんだよ。
だからきれいな女の子をみつけたら、
よるおそく、
おうちのそとへつれだしてやろう。
9 ねこの地図
ねこはいろんな道をしってる。
人間がとおれないとこでも、
ねこはいつもとおって、
ちかみちができるんだ。
へいのうえ、
えんのした。
やねからとびおり、
かきねをくぐり、
音のしないように、
そっとあるきまわっている。
ねこはみんな、
そうやってちか道ばかりさがして、
ちゃんと地図にしてかくしているのさ。
ねこの地図なんて、
まだみたことないだろう。
ねこの地図は、
死んだねこのかわにかくのさ。
ねこはみんな、
じぶんのひみつのばしょに、
じぶんの地図をかくしていて、
まいにちそれをみては、
きょうはどこへあそびにいこうかなって、
かんがえてるんだ。
ねこの地図みつけちゃおう。
うちのまわりのどこかにあるよ。
どこかな。
やねのうえかな。
えんのしたかな。
10 おしゃべりおばさん
どこかに、
お前のことをよくしってる、
いじわるなおばさんがいるんだ。
お前がすること、
いったこと、
なんでもよくしってて、
どんどん人にしゃべっちゃう。
おこられたことも、
ないたことも、
いたずらしたことも、
みんなしゃべっちゃう。
でも、
どこにいるかまだわかんない。
どんなおばさんなのか、
だれもしらない。
きをつけなくてはいけないぞ。
おしゃべりなおばさんがいたら、
きをつけてじっとにらんでいろ。
もしお前のおしゃべりおばさんだったら、
はやくにやっつけちゃわなければ、
お前のこと、
みんなしゃべられちゃうぞ。
おしゃべりなおばさんは、
ふとってるかやせてるか、
よくわかんないけど、
めじるしはブスだっていうことさ。
11 ほとけさまと神さま
ほとけさまと神さまは、
いつもけんかばかりしてる。
ほとけさまも神さまも、
よくばりでうそつきだ。
おそなえものをほしがるし、
おがんでもおがんでも、
なんにもしてくれない。
ほとけさまと神さまは、
いつもけんかしてるから、
みんなのとこへくるひまなんか、
ぜんぜんないのさ。
だからあんまりみた人がなくて、
人間みたいなかたちで絵にかくけど、
ほんとうは、
すごいかいじゅうみたいなすがたなのさ。
ほとけさまも神さまも、
どっちもすごいうそつきだから、
おがんだりしちゃ、
そんをするよ。
12 学校にきをつけろ
お前もいまに学校へゆく。
みんな行かなければならない。
学校には先生たちがいて、
いろんなことをおしえてくれるさ。
とてもやくにたつし、
学校はたのしいとこだよ。
でも、
とってもたのしいことって、
きをつけなければいけないよ。
してはいけないことって、
するとたのしいだろ。
あれとおんなじさ。
学校はとてもたのしいから、
たのしいぶんだけ、
きをつけなくてはね。
どの学校もそうだというのではないけど、
ときどき学校でへんなことがおこるんだ。
先生がにこにこわらって、
あしたは遠足ですよ、
なんていったら、
とくべつ気をつけないとね。
あやしいとおもったら、
遠足なんかいかないほうがいい。
先生がみんなを遠足につれてって、
そのままかえってこないことだって、
ときどきあるんだぞ。
いつもやさしくしていたのはうそで、
ほんとうは人さらいだったんだ。
人さらいの学校や、
人さらいの先生がいるから、
よくきをつけようね。
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二都物語
1
R電機の本社は丸の内にあった。入社した最初の一年間、駒井はそこへ通勤した。大学を出たばかりで、夢も大きかったし野心も人一倍持っていた。
だが二年目、彼は営業部へ廻された。
R電機は東京を東西南北の四地区に分け、それぞれ独立した組織を作っていた。車のディーラーと似た方式で、日本中にそれと同じものが販売網をめぐらせていた。
セールスは駒井の性質には適していないようだった。彼の望みは企画か宣伝、でなかったら調査のような仕事だったが、会社は有無《うむ》を言わさず彼を東京の東地区に配属した。
駒井はなんとか頑張《がんば》った。セールスマンになり切ろうと努め、特約店づくりに駆けまわり、他のメーカーのセールスマンたちとしのぎをけずって争った。商売の勘のようなものも掴《つか》み、給料もおいおい上った。
だが三十歳を目の前にしたこの夏になって、会社は突然辞令を発し、駒井を馴れた東地区から外し、日本でも最も競争が烈しいといわれる西地区へ移してしまった。
そろそろ肩書きのつく年齢に達し、それなりの実績もあるのだが、東地区には彼に与えるポストがなかったらしい。一緒にやって来た同期の一人は係長に昇進し、人事の裏側を察することができるようになった駒井には、なんとも不愉快な処遇だった。
だが、西地区は最激戦地と言われるだけに、精鋭が揃《そろ》っていて、同じ係長でも一格上に扱われるということだったから、東地区の上司たちは送別会の席で、「いよいよ駒井君も一軍入りか」などと昇進しそこなったことにはまるで触れず、「今に気安く肩を叩《たた》けなくなるぞ」「その節はよろしくたのむよ、アッハッハ……」と、冗談のようなおだて方をするばかりだった。
地方へやられないだけめっけものだ……駒井は胸くその悪くなるような思いの中で、辛うじて自分をそう慰めた。
もっと小さな会社へ入った連中は、すでに平社員など一人もいなかった。それぞれ主任、課長といった椅子《いす》につき、中には部長という名刺で駒井を驚かせた男もいた。もっともその男は久しぶりに会ったあと、すぐに別荘地を買わないかと持ちかけて来た。三流不動産会社へ勤めているのだった。
そこへ行くと平社員でもR電機なら超一流だった。ボーナスも悪くないし、厚生施設もしっかりしていて、海へ行くにも山へ行くにも、安い保養荘が利用できた。ただ北関東と東海地方にある二つの工場がPCBだのシアンだのを附近に撒きちらして悪《あ》しざまに言われているのが弱味だった。だが、それとても東京都内のセールスに直接悪い影響があるというわけではなく、テレビのコマーシャルもこの夏のものは上出来で、宣伝が強力に駒井たちをバックアップしてくれていた。
西地区への転属が丁度夏休みシーズンにかかっていたため、駒井は要領よく四日間の有給休暇をとり、恋人の西村美津子を連れて西伊豆へ行って来た。美津子との交際は、特に結婚を前提としているわけではなかったが、もうすぐ三十という歳を考えると、この辺で美津子あたりを妻にしてもいいと思ってはいる。
美津子は青山にあるかなり大きなスーパーマーケットの事務員で、歳は二十五。典型的な現代娘だった。ロックやフォークに詳しく、安あがりな労働着風のおしゃれが上手で、六本木や飯倉あたりのスナックやサパークラブのマネージャーと友達づきあいがあり、米のたき方は知らないがスパゲッティのゆで方ならお得意で、会ったこともない教祖的グラフィックデザイナーの名を言う時は、必ずチャンづけで呼んだ。
2
「君は早いとこアパートを探さなければいけないのダ」
西伊豆から帰って来て、東京駅で別れる時、美津子はそう言って駒井の肩を叩いた。
「ああ、明日はいちんち部屋探しだよ」
そう答えると、八重洲口の人波がごったがえすどまん中で急に真正面から抱きつき、
「ネグと歯ブラシがあんたのカバンの中に入ってんの。新しい部屋へ置いといてね」
と言った。修学旅行の女学生たちが、その横をぞろぞろと通り抜けて行く。駒井はぶらさげたズックの鞄《かばん》を見ながら、
「ああ」と言った。
「ではごきげんよう」
美津子は大げさに一礼し、あっという間に改札口のほうへ消えた。
その夜駒井は小岩の駅に近いアパートの部屋で、地図を拡げて新しく住む場所を物色しはじめた。西地区の営業所は駒沢にあった。だが余り近すぎると何かと余分に使われやすいのを知っている駒井は、適当な距離を置いたほうがいいと思った。
しかし山手線の環《わ》に近づくほど家賃は高くなるし、私鉄の駅に近いのも同じことだった。駒井の目はいつの間にか三軒茶屋で切れているもとの玉川電車……今の世田谷線沿線に吸い寄せられて行った。その沿線なら駒沢とは一応離れている。しかし場所によっては直線距離にすると意外な近さなのだ。但し車以外にはぐるりと大まわりしなくてはならず、わりと不便だ。
「この辺から自転車で通ってやるか」
駒井は思いついてそうつぶやいた。自転車通勤……なんと優雅ではないか。他の交通機関では大まわりしなければならない道を、一直線に自転車でスイスイ走り抜ける。……その考えが気に入って、駒井は満ち足りたねむりについた。三日ばかり美津子と過しているうちに、そんなことを嬉《うれ》しがるような気分になっていた。
明くる朝、駒井は銀行へ寄って預金を引出した。アパート探しは速戦即決だ。手付金だ何だと堅苦しい手続きをするほど大げさな部屋を借りるわけではない。ひょっとするとすぐ引越しということになるかもしれないし……駒井は案外簡単に夢うつつになってしまう美津子の細い体を思い泛《うか》べながらそう思った。
東地区の営業所は両国にあって、駒井は長年の習慣であやうくその駅で降りそうになった。途中で地下鉄にのりかえ、渋谷へ向う。渋谷からはバスで三軒茶屋へ向った。
ひょっとすると東京でいちばん安い乗物かも知れない全線二十円の世田谷線に乗り、ひと駅すぎると電車は環状七号線の手前で一時停車した。前を見ると線路を車がどんどん横切っている。電車のほうが車に遠慮した恰好にさせられていて、先を急がぬ駒井にはそんな光景さえ、これから住むにはよさそうな土地だと思えるのだった。
次の駅で降り、その小さな二輛連結の電車を見送った。先頭にもちろん運転手、最後尾に車掌がいて、乗客はそのふたつのドアからしか乗れない。残りのドアは降車専用だ。ワンマンカーというには乗務員が二人いるわけだし、妙な具合だった。だが昔はどうしていたのだろうか。一輛にドアは三つずつついている。全部のドアに切符を切る人間をつけたとすれば、二輛編成で六人の人間が要ることになる。始発や終電で乗客が一人だけだったら、箱の中には三人の車掌がいるわけでさぞ奇妙な気分になることだろうと、駒井はのん気なことを考えていた。
屋根だけはついた改札口も何もない駅を出て、駒井は環七通りへ向った。真夏の太陽が照りつける中に、渋滞した車がのろのろと青い排気ガスを吐き出しながら動いていた。
3
環七と世田谷通りの交差点の角で道路工事をしていた。耕耘機《こううんき》に似た機械がとほうもない騒音をたて、黄色いヘルメットをかぶった男がゆっくりとそれを押していた。鋭い鋸《のこぎり》の歯が回転して、車道に引かれた黒い線どおりに舗装を噛《か》み切っている。回転する鋸歯の上からたえず水がそそがれ、舗石の底の土も一緒に切りさいているらしいその傷口から、粘りつくような黄色い泥水が溢《あふ》れ出していた。
下水管埋設工事……車をせきとめた立札にそう書いてあるのを読んだ駒井は、この辺りもすぐ水洗トイレになりそうだと知って、なんとなく儲《もう》けた気分になった。小岩のアパートは昔ながらの汲取式《くみとりしき》で、天候によってはひどい臭気に悩まされたものだ。いくら誘っても美津子が泊りに来たがらなかったのはそのせいだと思っている。
美津子の欠点は温泉マークが好きなことだった。それも同じ所へは二度行きたがらない。いつも趣きの違った部屋へ入りたがるのだ。また近頃のそうした宿は、あの手この手と趣向をこらし、極端な変態趣味までは行かないにしても、平安朝風の御簾《みす》をたれた一段高い所に、キンキラキンの夜具をのべたり、ぐっと江戸趣味に長火鉢と浮世絵を貼った枕屏風《まくらびようぶ》とか、たしかに美津子のような女がいろいろ寝場所を変えたがるほどのたのしみはあった。
もっとも平安朝風の御簾内の夜具のいちばん下が、妙に四角張ったマットレスだったり、江戸趣味にしつらえた部屋の天井に蛍光灯がしらじらと光っていたりするお粗末な面もないではなかった。
駒井にとって面白かったのは、行き当りばったりにそうした温泉マークへとび込んで、果してどんな部屋へ通されるかという、一種のスリルだった。もっとも一度池袋に近い家で、野原の間というのに通されてびっくりしたことがある。壁いちめんに上高地かどこかの風景が貼ってあり、床はやわらかい人造芝風のカーペットだった。「なんだこの部屋は」と思わずそう大声で言い、女中が引きさがったあとで天井を眺めたら青地に雲が描いてあった。要するにこれは青カン趣味で、一風呂浴びて格子縞《こうしじま》の浴衣に着換えてしまうと、野原のまん中で寝巻きを着ているようなあんばいで、どうにも居心地が悪かった。美津子も流石《さすが》に「企画倒れなのダ」と言って白けた顔をしていた。
水洗になればそうした無駄な出費もしなくてすむかも知れない。引っ越せば引っ越したで美津子以外の女が出来るかもしれないし……駒井はそう思うと会社の処遇に対するもやもやも忘れ、なんとなく楽天的な気分で銀杏《いちよう》の街路樹が並んだその道を進んで行った。
小さな、ひどく貧相な不動産屋が一軒、曲り角の家の庭へはいりこんだような形で建っていた。駒井はその前に立ちどまってガラス戸に貼《は》り並べた紙の文字を眺《なが》めた。どれもこれもアパートばかりで、店の様子と言い、なんとなくこの土地に根を張った素人のアルバイト、という感じがした。
こんな店が案外親切なんだ……彼はそう思いながらガラス戸をあけた。案の定、中には主婦風の女が一人坐っていて、黙って駒井を見あげた。
「あの、アパートを探してるんですが……いや、あの、小さな安い部屋を借りたいと思って」
駒井はアパートの売物を探していると思われはしないかと、途中からいやに正確な言い方をした。だが考えてみると店の小ささや自分の風体からして、そんな誤解が生じる余地もなさそうだった。
女もその場違いな念の押し方に気づいたらしく、からかうような笑顔をする。
「お一人ですか」
「ええ」
女はひどく艶《つや》っぽい目付になった。
4
渡された名刺を見ると女の名は津川綾子と言い、その小さな不動産屋の主人らしかった。だがそれにしてもいいかげんな店で、外へ出てあらためて看板を探しても、不動産の不の字も見当らない。
「何を見ていらっしゃるの」
女は歩きかけて言った。
「看板、ないんですね」
「モグリみたいなもんですものね。要らないのよ。これでも女一人が食べて行くだけのお客は来るわ」
津川綾子は女一人という所に念を入れた言い方をした。年の頃は三十二、三……と駒井には見えたが、たしかなことは判らない。
「本当にそんな安い部屋があるんですか」
駒井は案内する女のあとについて歩きはじめながら訊《たず》ねた。
「家主が人の好ききらいをするのよ。でもあなたなら合格しそうだから特別に紹介してあげるの」
綾子はいつの間にか、くだけた言い方になり、世田谷通りを進んで行く。前方にマンションが見えて来た。
「ちょっと道路から引っ込んでるけど」
綾子はそう言い、マンションのだいぶ手前の歩道橋のところで右に曲った。石の塀《へい》がつらなり、閑静な住宅街へ道が下り気味につづいていた。
「静かそうな所ですね」
「これから行く所はもっと静かよ」
彼女は武家屋敷風の大きな門のある家の角を曲り、未舗装の横道へ入った。道は踏み固められていず、畑の土のように柔らかかった。
変な場所だ……その道へ入ってしばらくすると駒井はそう感じた。奇妙に静かで、どういうわけか物哀しい雰囲気《ふんいき》があった。
「静かでしょう」
綾子はそう言い、また道を曲った。道筋は複雑で、U字形にあと戻りをするかと思うと急に斜めに折れ曲ったりした。
「あれよ」そう言われて前をみると、かなりの広さの空地のまん中に、ポツンと二階だての家が建っていた。近づいて見るともとは古い平屋で、その上に二階を建て増していることが判った。玄関の脇から鉄の階段が二階へつながっていた。
その階段を登って二階へ行くと、彼女は鍵を使わずにドアをあけ、さっさと中へ入って窓をあけた。
「おつとめは……」窓に腰かけてそう訊ねる。
「R電気」駒井は部屋を見まわしながら答えた。流しとトイレと三畳と四畳半。押入れが一間《いつけん》と半間《はんげん》。半間のほうは三畳にあり、両方とも天袋がついていた。
「駒沢ね、それじゃ」
「ええ。ここからなら自転車で通える……」
「彼女いるの」
「は……」
「恋人よ」
「ええ。はっきりしないけど、一人」
「はっきりしないっていうと、それは結婚する相手ではないってことかしら」
「そういうことですね」
「ご両親は」
「お袋は早く死んでいないんです。おやじはつい二年ほど前亡くなりました。北海道に姉が一人いるだけです」
「そう……」
不動産屋の女主人・津川綾子はつぶやくように言うと、しばらく駒井をみつめて考え込む様子だった。
「ここ、借りたいな、安いし、大家さんてどんな人です」
「私よ」
「え……」
「私が下の住人。つまりこの部屋の家主」
「なんだ。好ききらいをするって、あなたのことか」
「そうよ」
「僕は合格?……」
「ここに住む気になったの」
「丁度手ごろです」
小岩のアパートは六畳ひと間だった。ここは二部屋あるし、独立して一世帯分が平屋の上に乗っかっているだけだから、隣室の騒音に悩むこともない。それに今どきの東京にこんな原っぱが残っているなんて信じられない程だった。
「貸してください」
駒井は夏草の生え茂った下の空地を見おろして言った。
「いいわよ。あなたなら合格」
「お金持って来てます。でも不動産屋さんが家主だったら手数料はどうなるんだろう。何だか変な具合だな」
「取らないわよ」
綾子という女は笑いながら言った。
5
妙なことが起った。
小岩から運送屋に家財道具を運ばせて、自分はその時間に駒沢の営業所から早退して待っていたが、一向に荷物が着かない。地図は念入りに書いて渡してあるから迷う筈はないのだが、ひょっとしてこのややこしい道へ入る入口が判らないのではないかと、未舗装の道の入口まで行ってみると、目の前をゆっくりと見覚えのあるガラクタを積んだ小型トラックが通りすぎて行った。「おおい、ここだここだ」と追いかけると、運転手が口をとがらせて文句を言った。
「何度行ったり来たりしたって、この地図にあるような横丁はありゃしないよ」
「何言ってるんだ。僕はいまそこから出てきたんだぜ。君が見落したんじゃないか」
「じゃ乗って案内してくれ。ぐるぐるまわっていいかげん嫌《いや》になってたんだ。本当にもう帰ろうかと思ってたんだぜ」
運送屋は本気で腹を立てていた。駒井が助手席に乗るとゆっくりバックしはじめ、
「ほらみろ。ここを左へ曲ればいいんだ」
と言うと、
「ありゃ、こんな道はなかったぜ」
と大声で叫んだ。
「ちゃんとあるじゃないか。見落したのさ」
「ちぇっ、どうもそうらしいや」
運送屋はそう言って未舗装の道へ突っ込んで行く。うねうねと曲りつづける柔かい土の道の上にタイヤの跡がつづいた。
「おかしいな。そう言えば車の通った跡が一本もないな」
駒井はつぶやいた。この柔かい道の上を走る車は、少くともここ何〓月間、このトラックだけのような気がした。
道を見つけそこねて思わぬ時間を食った運送屋は、駒井のガラクタを手荒く運びあげると、空地で方向転換をし、エンジンをふかせながら戻って行った。
それから午後いっぱいかかって荷物をかたづけた駒井は、急に腹が減っているのに気づいた。暮れかかってあたりはうす暗くなりはじめている。
ところが電灯をつけようとスイッチをいくらいじっても灯りがつかない。ソケットにも電球にも異常なく、安全器のヒューズも健在だった。
「どうしたっていうんだ」
そう言って階段を降り、夕空に貧弱なシルエットを浮びあがらせているわが新居を眺めた駒井は、大声で「しまった」と叫んだ。
電線がなかった。
「安いわけだ、こいつは」
とんでもない物件をつかまされた……そう思い、一階の玄関をあけた。
出あいがしらに女の顔が真正面にあった。
「暗くなったわね」
津川綾子は笑顔で言い、妙なものを差しだして見せた。両手にひとつずつ、石油ランプを持っていた。
「こんなもの買うと言ったって急には買えないものね。あげるわよ。これをお使いなさい。ガスもないけど、ご飯はこれからみんな私が作ってあげる。一人分よりは二人分のほうが何でもおいしく作れるのよ」
駒井は石油ランプを受取り、
「み、水は……」
と言った。
「水は大丈夫。ほら」
指さす方を見ると、赤いゴムのホースが長々と空地を這《は》っていて、それが一軒の家の板塀の下から向う側へ消えている。「あの家は空家なのよ。水道局が元栓締めて行っちゃったんだけど、なんとか自分であけたの」
「もらい水じゃなくて盗み水か」
駒井は呆《あき》れ返って言った。
「えらい所を借りたもんだ」
「後悔してるの」
「してるさ、そりゃ。石油ランプじゃテレビもみれない」
「でもあなたなら、向うの空家からなんとかして引っぱって来れるんじゃないかしら。私はまるで電気に弱くてダメなのよ」
「あんた何者。どうしてこんな所に住んでるの」
「説明するわ。決して後悔はさせないわよ。それよりあなたと私ならここでひと財産作れるのよ」
綾子はそう言って艶然《えんぜん》と笑った。周囲の家々に灯りがともり、空地に幸せそうな光がさしこんでいた。
「それにしてもおかしいじゃないか。ここは世田谷の行き止りかい」
「どうして」
「見りゃ判るだろ、長く住んでるくせに。この原っぱをとりかこんだ家は、みんなこっちへ裏を向けてるぜ」
「あら、もうそれに気がついたの」
綾子はケロリと言った。
6
津川綾子は五年ほど前からこの近所に住んでいた。夫は友一と言い、近くの大都タクシーの運転手だった。二人は恋愛結婚で、世田谷線の駅の近所のアパートに住んでいたが、友一はトラックにぶつけられて死んでしまった。綾子は手に職もなく、頼れる親類もなく、大した補償金もとれぬまま、少しばかりの保険金で心細いくらしをはじめなければならなかった。
或る日、行く先ざきのことなど考えながらぼんやりと歩いていると、一台の単車がいきなり世田谷通りから突っ込んで来て綾子をはねとばしそうになった。道の端へとびのき、石の塀へ体をぶち当てた……と思ったがそうではなく、柔かい土の道へあおむけに転っていた。後頭部を思い切り地面にうちつけ、舗装してあったらそのまま死んでしまったかもしれないところだったという。頭がふらついてしばらくは起きあがれず、目の前の道を通る人に助けを求めたが、誰も見向いてもくれない。そのうちふらつきも治まり、気分が落ちつくと、どうもそんな道は今までなかったような気がして来た。毎日歩き慣れた道だが、赤土のむき出しになったそんな道は覚えていないのだ。不思議に思って奥へたどると、この原っぱの一軒家に行き当ったというわけだ。
「しばらくはここに住むことなど思いつかなくて、時々思い出しては来てみるだけだったの。そのうちに、ここは誰にも見えないし、誰も住んでいないし、誰も入って来もしない場所だってことが判って来たのよ」
綾子はランプの灯りのともる二階で、駒井にそう語って聞かせた。
そう気がつくと綾子は暇にまかせてあたりの家々の配置を地図にしてこしらえてみた。家々の順序は正確に表と裏とが一致したが、さてそこへ空地を入れるとなると、まるで面積が足りなくなるのだ。地図では空地の両端にあい対している家と家が、外側の道をたどって行くと背中合せに接しているのだ。つまり空地をとりまく家々の表側の道……舗装された外の道から見ると空地は全く存在しないことになる。
ためしに近くのマンションの屋上へ登って見おろすと、たしかに空地も曲りくねった道もない。
「運送屋さんが入口をみつけられなかったはずよ」
「するとこの東京に一ヵ所異次元の空間が割り込んで来ていることになるじゃないか」
「そうじゃないの。ここは二つの東京が重なっている場所なのよ」
「二つの東京……」
「水道の水を引っぱって来てる空家があったでしょ。そのおとなりにどうもこの家があったらしいのね」
「どうして判ったんだ」
「ずっと空家らしいんで、水が欲しいから塀を少しこわして向うへ行ってみたのよ。するとどう……向う側の様子が、道なりに出て向うへまわった時と少し違うの。あなたや私がいた世界……つまり道なりに出て向う側へまわったところでは、あそこは空家じゃないのよ。しかもそのおとなりにはこの家とまるで同じ建て増した二階だての家があるわけよ。ところが裏の塀をこえて向う側へ出ると、そんな家はないし、あの家も空家なの……つまりそこは別の東京。そうじゃないかしら」
駒井は考え込んだ。「私は女だし、何かとても恐ろしい気がして、それ以上向うの世界へ深入りする気にはなれないけど、あなたなら行って見れるでしょ。ここは持主もないんだし、きっと何かでひと儲けできるわよ」
「まあ待てよ……そうか。東京が二つあるか。もしそれが本当なら……」
もしそれが本当なら、駒井はR電機のセールスマンとして、他人より倍の大きさのマーケットを持つことになる。こっちで売れればあっちでも売れる道理だった。
7
津川綾子のいうとおり、そこは二つの東京の接点だった。多元宇宙の隣接した二つが、そこで何かの理由から癒着《ゆちやく》してしまっているのだ。駒井は考え抜いた挙句《あげく》、この大秘事を本社の営業部長に、そっと教えた。勿論《もちろん》信じさせるにはひと騒動あったが、一旦《いつたん》信じると部長の眼の色が変った。
部長だって成績はあげたい。空地の仮の持主である津川綾子に大金を支払って二階だての家をとり払い、そこに堂々たるビルをたて始めた。場所のことについては、運送屋の例で判るとおり、ゼロという観念を知らなかった者が、それを教えられると苦もなく理解してしまうように、一度そこへ連れこまれれば二度目からは見えないということがなかった。
R電機は営業部長をこの新しい巨大なマーケットに対する責任者とし、空地のビルを侵略拠点とする一方、ひそかに向う側へ手をまわしてその世界への出口である例の空家を買い取ってしまった。空家は向う側ではごく平凡な電機器具商の看板をかかげ、その実、裏側には大きなビルを持って続々とR電機製品を吐き出しはじめた。正規の販売網は向うのR電機がおさえているから、こちら側のR電機製品は安売り業者にまわすしかない。しかしそれでも流通マージンが不要だし、こちら側の特約店などに影響を及ぼす心配はなかったから、再販制度糞くらえで、メーカーがじかに安売りをはじめたと同じことだ。品物はどんどんさばけて行った。
駒井は向う側の安売り業者の間をまわる特別営業部の課長にとびあがり、大いに羽ぶりをきかせはじめた。
津川綾子は空地から見えたマンションの七階を買い、近くにスナックを開店して、そこのマダムに納まった。
「ただいま」
駒井は夕方になるとマンションの七階へそう言って入り込む。
「どうだった、あなた」
行きがかり上、綾子もR電機の向う側の成績には関心が深く、駒井の脱いだ服をしまいながら毎日必ず様子をたずねた。
「R電機の奴、まるで泡くってるよ」
「あんただってR電機じゃない」
「そりゃそうだけど」
「向うのR電機、倒産しやしないかしら」
「さあどうかな。そんなこと知るもんか。それよりビールだ」
駒井は部屋着に着換えるとそう言い、綾子の肩をだいて軽くキスをした。
「でも大丈夫なのかしら」
「何がだ」
「R電機同士でやり合っちゃって」
「企業なんてそんなものさ。いざとなれば自分たち同士でだって食い合うんだ。ビジネスは厳しいもんだ」
「向うにもあんた、いるんでしょ」
「僕が……そうか。向うのR電機にも僕がいるんだな」
「そうよ。品物がさばけなくて困っているんじゃないかしら」
「そう言われれば、ちょっと可哀そうだな」
「ねえ、なんとか助けてあげられないの。だって、あんたっていい人なんだもの。あんないい人を自分でいじめちゃ悪いわ」
「莫迦《ばか》に向うの奴に同情するじゃないか」
「あらやだ。自分に嫉《や》いたってしようがないじゃない」
「それなら言うけど、君だって向うに一人いるんだぜ。向うの君はご主人に死なれてないかもしれないじゃないか。毎晩彼と愛し合っているんだぜ。そう思えば君だって自分に嫉けるだろう」
綾子の目の色が変った。
「本当……ねえ、ほんと。ほんとに向うのあの人まだ生きてるの。ねえ」
綾子は血相変えて通りに面した窓をあけ、すぐ近くに見えるタクシー会社のモータープールを眺めた。
8
Y銀行とQ銀行がR電機に圧力をかけて来た。もうひとつの東京市場を、他の業種にも開放せよというのだ。秘密はいつの間にか洩れていた。
国税庁も動いていた。あの奇妙な空間にあるビルへ製品を運びこむトラックのうしろに調査員がぶらさがり、見事に場所を覚えてしまったのだ。固定資産税をよこせ、この特別営業部の売上を公開せよ……そう要求する。
法務省は未登記土地の問題をつつきはじめ、防衛庁は向う側の世界の情報提供を迫る。厚生省は防疫体制を憂慮し、外務省は向うに出先機関の設置を望んだ。農林省は古米、古々米が処理できないかとR電機に問合せ、警視庁は犯罪者の逃亡、流入を惧《おそ》れた。
問題が拡大するにつれて駒井の重要度もまし、地位はぐんぐん昇った。昇りすぎてもっと毛並みのいい社員たちがそのポストを狙いはじめ、やがて駒井は本社の第二首都開発本部というプロジェクトチームのリーダーに引き戻されてしまった。
「駒井もなかなかやるねえ」
問題はまだ上層部の一部からおろされておらず、多元宇宙の実態など知りもしない社員たちは、彼の異例の昇進を羨《うらや》んでそう噂《うわさ》した。
「でも第二首都開発本部というのはいったい何なんだい。第一がないじゃないか」
その意味が、二つ目の東京ということを知らない連中は、そう言ってしきりに首をひねっている。
「やい駒井、俺《おれ》はゆうべ見たんだぞ」
同僚と銀座へ呑みに出た或る晩、駒井は酔って目を据えた男にそう言われた。
「なんだい、いきなり」
金持|喧嘩《けんか》せずで、鷹揚《おうよう》にかまえた駒井が言うと、その男は卑しい笑い方をした。
「新宿の温泉マークへお前が入って行くところをさ……俺はみたんだぞ」
「嘘《うそ》つけ、僕はちゃんとゆうべも世田谷へ帰ったさ」
「いや、ごまかすな。ポニーテールの、脚のすらっと長い女だった。一緒にいたのは絶対お前だよ」
「ポニーテールの脚の長い……」
西村美津子だと思った。随分長いこと逢っていなかった。
「間違いない。酔っちゃいなかったし、それにすぐ傍で見たんだ」
男はしつこく言いつのった。駒井は不安になり、次の瞬間、あ……と低く言った。
「大変だ、向うからも出て来てやがる」
「何だ、血相かえて」
「いや、ちょっと失礼するぜ」
駒井は慌《あわ》ててカウンターへ電話を借りに立った。手帖をとり出して西村美津子のアパートの電話番号をまわす。
「もしもし、西村さんをお願いします」
管理人の不機嫌《ふきげん》な声が消え、やがて聞き慣れた美津子の声になった。
「僕だ、駒井だよ」
「あら、あなたア」
「ずっと連絡しないで申しわけなかった」
「ほんと……まるで連絡してくんないんだもの」
美津子は笑って言った。「朝まで私ずっとあそこで寝ちゃった。枝の間ってどんな部屋かと思ったけど、わり合いイカしたじゃない。ちょっとしたターザン気分なのダ」
「枝の間……ターザン気分」
「でもゆうべだって早く帰っちゃうんだもの。前みたいにゆっくりできないの。つまんないわ」
「畜生め」
ガチャリと電話を切った駒井は、そのまま茫然《ぼうぜん》と棚《たな》の洋酒|瓶《びん》を眺めていた。
その翌朝、丸の内本社の会議室にR電機の首脳がずらりと顔を揃えていた。
「世田谷と同じように、向う側もこちら側へ抜ける接点を発見したんだ。その場所がどこかはまだ判らない。ただはっきりしているのは、大量にわが社の製品を安売り業者に流している人物が……」
専務は一段と声をはりあげ、立ちあがって人差指をつき出した。
「駒井啓介……君なのだっ」
駒井は頭をたれ、テーブルの下でにぎりしめた拳《こぶし》をふるわせていた。あん畜生め、殺してやる……心の中でそう叫んでいた。自分は向うの美津子に手出しなどしなかった。困っているなら救ってやろうとさえ思ったんだ。それなのに人の女を奪《と》りやがって……。
その頃津川綾子は向う側のアパートの部屋で、自分とつかみ合いの喧嘩をしていた。明け番で部屋に寝ていた運転手が一人、二人の妻を前におろおろしている。
「やめろよ、みっともない。落ちついて話せば判ることじゃないか。お前らはすぐかっとするからいけないよ」
果して話せば判ることなのかどうか……今はただふたつの世界の関係が戦争にまでエスカレートしないことを祈るのみだった。
角川文庫『わがふるさとは黄泉の国』昭和51年9月20日初版発行
昭和53年1月20日4版発行