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社会学を学ぶ
内田隆三
目 次
序 章[#「序 章」はゴシック体] 社会学を学ぶ人のために[#「社会学を学ぶ人のために」はゴシック体]
第一章[#「第一章」はゴシック体] 社会学以前[#「社会学以前」はゴシック体]
第二章[#「第二章」はゴシック体] 社会学入門[#「社会学入門」はゴシック体]
――行為理論を学ぶ
第三章[#「第三章」はゴシック体] マルクス[#「マルクス」はゴシック体]
――物象化論の射程
第四章[#「第四章」はゴシック体] 構造主義[#「構造主義」はゴシック体]
――あるいは主体の不安
第五章[#「第五章」はゴシック体] ミシェル・フーコー[#「ミシェル・フーコー」はゴシック体]
――系譜学のまなざし
第六章[#「第六章」はゴシック体] 現代社会の理論[#「現代社会の理論」はゴシック体]
――システム論と極端現象
1 現代社会とシステム論
2 システムの超成長と極端現象
第七章[#「第七章」はゴシック体] 習俗の思考[#「習俗の思考」はゴシック体]
――柳田国男の挑戦
第八章[#「第八章」はゴシック体] ヴァルター・ベンヤミン[#「ヴァルター・ベンヤミン」はゴシック体]
――あるいは社会記述の方法をめぐって
エピローグ
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序 章[#「序 章」はゴシック体] 社会学を学ぶ人のために[#「社会学を学ぶ人のために」はゴシック体]
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†問いをもつこと[#「†問いをもつこと」はゴシック体]
なぜ社会学を学ぶのかといわれると、いろいろな理由が思い浮かぶ。だが、そんな理由をいくら挙げてみても、なかなか満足のいく答えにはならない。どんな理由もその背後で「社会とは何か」という大きな問いにつながっているからである。
「社会とは何か」とは、いかにも抽象的で遠回りにみえる問いである。だが、どこかでそんな問いをもってしまわざるをえないことが、社会学を学ぶ理由ではないのだろうか。「社会とは何か」という問いは決して酔狂な問いではない。人が世の中を生きていると、いろんな出来事に出会い、思いもよらぬことを知り、あるいは考え悩み、そしていつしか抱くことになる問いである。それは「自分とは何か」、「人間とは何か」、「生きるとはどういうことなのか」……といった問いと密接に重なっている。
重要なことに、この種の問いは「……とは、こうです」というふうに答えられるものではない。それは問いが立てている「主語」(自分や、人間や、生きることや、社会や、……)そのものを問題化し、解体し、変容させるなかではじめて、本当に何事かを見いだしうるような問いだからである。実際、重要な問いは、ただ「答えを得る」ためというより、その問題をめぐって自分の思考を極限まで深めるためにあるというべきだろう。「社会とは何か?」という問いも、そうした問題化、解体、変容への具体的な道筋をひらくなかではじめて深められる問いである。本質的な問いは、しばしばその答えを得るためというよりも、その問いの実質を深めるために存在している。
しかしながら、誰しも「迷い」というものがある。問いを深める手前に、問いはしばしばその問いの主体を取り巻く、身近な状況のなかに埋没していく。時期によっては、そのような埋没の感覚のなかで藻掻《もが》いたり、あきらめたりする経験が一度や二度あってもおかしくない。それは差し迫った状況のなかに問いが分散していくときである。何か近くに見えるもの、どこか具体的に見えるもの、わかりやすいもの、自分の感覚にあうもの、あるいは理想的なもの……、そうした幻覚的な確かさの像がかえって問いを分断していく。あるいは、自分自身のうちにも性急に答えをほしがる不安な心理がはたらく。
こうした幻覚的な確かさや不安から発する誘惑に対しては、冷静な距離をおいてみる必要がある。社会学は世俗の現実にかかわり、あれこれの経験的な知によってみたされ、またそうした知への期待に支えられているようにみえる。だがそれは、思いのほか「本質への問い」の近傍で成立するものなのである。
†本質的なことが大切だ[#「†本質的なことが大切だ」はゴシック体]
私がまだ二十代で大学院生のころである。毎日それなりに勉強しているのだが、突きつめてみると、一体こういう日々に意味があるのか、だが、だからといって何をしたらいいのか、よくわからなくなって、先生に尋ねたことがある。もちろん、こういう問いを発すること自体、気恥かしく、また怖いことでもあったのだが、先生は、「内田君、二十代は本質的なことが大事だよ。」といわれた。あまり簡単に、またすぱっといわれたので、ついなるほどと納得したのである。本質的なこと、それをすればよいと。
だが一人になって、その短い言葉を胸中でくり返していると、だんだん、しかも余計にわからなくなってきた。先生のいう「本質的なこと」が一体何なのか、やっぱり、わからなかったからである。たしかに、つまらないことに気を煩わせていた自分の迷いは一応去ったのだが、それと入れ替わるように、今度は「じゃあ、本質的なこととは何か」という難問が浮上してきた。もちろん、それでも方向が定まったためか、ずいぶん落ち着いてものを考えることができるようにはなった。
若い私は、「本質、本質か、……」と胸中につぶやきながら、ともかく無駄なものを削ぎ落としていこうと思った。自分のありようをなるだけ単純にしようと思ったのである。とはいえ自分の進み方が本質にかなっているかどうかはわからなかった。ただ本質ということを考えると、心が空しくなってよかった。それは自分の日々の努力がきれいさっぱり消えていくような、あるいは空白に浸されて浄化されるような、奇妙にさわやかな感じがした。私はそこでロマンティックな無意味の観念、つまり不条理の観念に倒れ込んだわけではない。もっと膨大であっけない「非在」が自分の眼前をよぎっているのを、意味もなく、無意味もなく、見つめているという不思議な感覚を味わっていたのである。
そうこうしているうちに三十代になった。何とか就職もし、ようやく新米の研究者になった。仕事をするペースをつかみ、前より少し余裕も出てきた。三十代の半ばになったあるとき、ふたたび先生に「三十代は何が大事ですか」と尋ねたことがある。先生はにっこりしながら「三十代も、本質的なことが大事だよ」と答えられた。私は、やっぱりそうかと思ったが、いよいよ大変だとも思った。というのも「何が本質なのか」ますますわからなくなっていたからだ。ただ、このわからなさは何か狼狽するようなものではなかった。そのわからなさと付き合いながら歩を進めていける感じのものだった。問題は解決したわけではなかったが、いつのまにか四十代になっていた。もう、先生にこういう質問をすることはやめた。答えは決まっていると思ったからではないが。
†運命に立ち向かう[#「†運命に立ち向かう」はゴシック体]
生きている以上、不条理な経験はつきものである。何か奇妙な、不可解な、また憤懣やるかたない、あるいは遣《や》る瀬ない事件が身のまわりに起こるかもしれない。それについて「なぜなのか」、あるいは「どういうことなのか」と問う。何か答えがほしくて、懸命に問うのだが、答えはなかなか出てこない。またその問いの切実さも、他人にはなかなかわからない。自分がうちから発する問いというのは、本質に近いようにみえて、しばしば個人的な曲率をもっているからである。
だが、出来事をいくつも経験していくと、そうした出来事をほかにもいっぱい成り立たせているこの世の中、つまり「社会」というものがあることに気づくだろう。すぐに答えがほしいのだという気持ちはわかる。しかし、自分やその周囲を含み込む、もっと大きな広がりや歴史の奥行きのあることを知らずに、個々の出来事だけを取りあげ、いくら問うてみても、理解しようのないことが少なくない。
もちろん、世の中のすべてを理解しようというのは欲張りな話だから、どんなことも「運命」だと考え、問いを打ち遣っておく人もいるだろう。だが、こうして運命を受け入れた人は、何らかの神学や預言者を信じて、運命を少しでもよい方向に導こうと思うようになる。その場合、運命のありようを知っていると称する「賢者」がいて、それを人間の言葉で語ってくれるシステム――信仰はそのひとつだが――がある。この種のシステムに寄りかかって運命の波のなかを生きていくのもひとつの方策ではある。
だがそんな言葉は信じられなくて、人生は一種の賭け事みたいなものだと割り切ってみる生き方もある。そもそも一切は説明不要で、出来事の波をただ次々と乗り切っていけばよいのだと。だがそのためには、結構タフでないといけない。疲れてくると、やっぱり「運命って何だろう」ということになる。
預言者の託宣や賢者の教えに信をおけず、しかも「運命とは何だろうか」という問いの前に立たざるをえないときがいずれやってくる。だがそのとき、「運命」という言葉を通して漠然と考えていたものを、「社会」という言葉に代えてみたらどうだろうか。運命なら決まっていて、ただそれを受け入れるしかない。だが社会なら、未決定で、しかも場合によってはある程度見通しをもつことができる何かを含んでいる。社会なら、何もかも決まっているのではなく、また何もかも不確定であるわけではない。ある程度分別することができるのが「社会」なのである。
もしかすれば運命や宿縁のようなものがあるのかもしれない。しかし、運命という了解の仕方に満足することをやめて、社会を知ることに、思考の方向を転換することもできるのである。それは絶対に大丈夫というような知を与えはしない。それは無知の不安と、不安ゆえの貪欲を取り除き、有効な、いくばくかの知を得る道筋を求めることである。その知はもちろん神の領分を覆うことはできない。だが人間の領分において、運命のひた寄せる重い波形に立ち向かう勇気ある試みのひとつとなるものである。
†方法、あるいは知の条件[#「†方法、あるいは知の条件」はゴシック体]
この方向転換において決定的なことがひとつある。運命の前ではそれを受け入れるか、神にその救済を念じるしかない。いずれも然るべき意志の「証し」であり、そして何よりも厳粛な事実である。しかし、社会についての知は「方法」を要求している。この方法は何か特別な能力(あるいは超能力)を必要としない。それはだれにでも接近できる方法であり、その意味で普遍性をもっている。社会についての知は「論理的で、実証的」なことを基盤としているからである。
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「論理的」というのは、知に整合性・体系性を求めることである。だが、これは必ずしも知が体系的に整備されたものだという意味ではない。ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』のように、分散状態のままの知、不確定性をはらんだコラージュ風の知もある。またホルヘ・ルイス・ボルヘスが探求したように、整合性が部分的にしか成り立たず、パラドックスを通じてはじめて表現されるような知もある。ミシェル・フーコーが「外の思考」と呼んだように自分の限界を侵犯しようとする知もある。要するに、整合性のかたちは一義的ではないのである。
他方、「実証的」というのも、たんに知と事実の照合が必要というだけではない。そうした照合を行う手続き自体を問題にする権利、あるいは検証する過程を、知自身のなかに組み入れておく必要がある。知は事実によって基礎づけられるだけでなく、逆に事実というカテゴリーを弁別し、基礎づける側面をもっている。事実というのも、知が切り取り、知の営みによって確定されるものだからである。
このような奥行きと幅をもちながら論理的で、実証的な志向性をもった「社会についての知」を、社会学と呼ぶことにしよう。これを素朴に社会の科学というわけにはいかない。日本語の科学という言葉はどうしても自然科学をモデルにしている。自然と社会が同じなら話は簡単で、社会についても自然科学の手法を真似ればよいだろう。だが、社会は自然とは異なっているし、社会的なもので解明されねばならない問題の核心は、自然のなかにはないものである。
ではなぜ社会の科学ということが言われたのかというと、「自然科学の成功」に魅惑され、自然科学を模倣したいと考えたからである。この模倣の試みは自然との本質的で微妙な差異を無視して、社会の科学をめざすことになる。それは自然科学、産業革命、資本主義の成果などがもてはやされた、一九世紀西欧の集団的な幻想を背景にしていた。実証主義的な社会の科学も、マルクス主義的な社会の科学も、そのような理想ないし幻想を母胎にして成立していたのである。
†社会についての知の可能性[#「†社会についての知の可能性」はゴシック体]
「論理的で、実証的である」のは自然科学だけではない。ましてそれを社会についての知の領域で模倣し、一般化した科学主義の特権でもない。実際、論理的で、実証的であるためにはいろんな仕方がある。大切なのは、自分の記述はこういう仕方で論理的で、実証的であると説明することだろう。社会についてひとつの知があるとすれば、その条件はたしかに論理的な整合性や実証的な確認の道筋をひらいていることである。だが同時に、それはこの条件自体を自分のなかで深く吟味するようなものでなければならない。
このようにいうのは、社会現象は自然に横断されながら、自然とは異なる特性をもっているからである。それはマックス・ウェーバーやエミール・デュルケームのように、二〇世紀初頭に社会学の試みを再定義した人たちが強調したことである。あえていうならば、社会についての知がどこまでも十分に論理的であることは、論証困難である。また、それがどこまでも十分に実証的であることも、実証困難である。それが論理的にどのような不安を抱えているのか、実証の過程でどんな困難に直面するのか、そうした問題を自分自身のうちにたえず差し返し、くり込んだかたちではじめて、社会についての知は成立するのだといえよう。
こうした不安や困難を表象するように、二〇世紀の前半、知識社会学という「知の自己反省」の試みが現われる。だがこの反省の試みにおいて、社会学は自分自身の根拠をいつまでも掘り崩していく不安な可能性のなかに自閉していった。残念なことだが、社会学のこのペシミスティックな気分は、今もかたちを変えて残っている。重要なのは、こうした不安の構造を誠実に通り抜け、相対化する道を探りだすことである。たとえばミシェル・フーコーは、知に確実無比の根拠だけを求める態度を相対化し、知の営みを、たえず他の誰かによって別の仕方でやり直される、ひとつの可能性として示して見せた。論理的で、実証的であることは知の条件であるが、知の偉大さや個性というのはそれ以上のものである。社会学においてはそのような偉大さや個性こそ深い輝きを放つものである。
†現在性への不安[#「†現在性への不安」はゴシック体]
社会学をこのように社会についての知としてとらえるのは、一九世紀的な「科学主義」の負荷を解除し、また二〇世紀の「反省」による不安な自閉的回路からも逸れて、もっと自由な発想のもとに社会学を学ぶことをめざしたいからである。すでに二〇世紀の後半になると、既存の枠組へのラディカルな問いかけが試みられるようになっていた。とくに一九七〇年代は、大学紛争の余波もあり、最初のそうした不安定な時期であった。
もちろん、若い人たちが学問的な「規律訓練」(discipline) をまったく無視するわけではない。その当時私は、強面の偉い先生に「内田は社会学のディシプリンをどう思っているのか」と問われたことがある。私は毛頭それを無視する気持ちはなかったし、最初の論文は「社会学史入門T」という堅苦しい表題のものだった。私なりにディシプリンに対する配慮はもっていたのである。ただ私は、ディシプリンやその系譜について思考の型が変わればよいと思っていた。最初の論文はそうした思いを言葉にしたものである。そのきっかけは一九六〇年代のフランスにおける思考の革新であり、私にはその成果を社会学のなかに取り込みたいという思いがあった。
こうした傾向は私だけのものではなかった。それは世界中に広がった学園紛争以後の、不安で危うい時代の流れでもあった。先生たちも従来のディシプリンとその守備範囲では応じきれない研究がいくつか出はじめたことを多少とも悩んでいるようだった。私を詰問した先生――私はこの先生が好きだった――は、吉田|民人《たみと》の機能主義(システム理論)と見田宗介《みたむねすけ》の物象化論(存立構造論)を両端とし、そのあいだにあるものなら理解できるといわれた。だがその当時、大学院生のあるものたちは、そうした両端の限界を超えたところに活路を見いだそうとしていた。彼らは社会学のディシプリンに疑問を感じ、自分たちの思考のありようを変えていこうとする機運のなかに立っていたのである。
しかしながら、こうした機運はやがて退潮していった。変化への志向は方法論的な壁を突破できなかったからである。その変化はおそらく「人間」にかんする観念そのものを変更することを要求していた。だが「人間」なるものは、その存在の空虚さこそかえってその存在の確かさであるような、不滅の構造をもってたわむれていた。当時の若者たちも、近代性の証しである、この人間のたわむれを葬り去ることはできなかった。イマヌエル・カントはある意味で社会学的思考の淵源に立つ人だが、人間学的な理解の様式を書き換えるには、まさにカントの『純粋理性批判』のように思考の形式や語彙の体系そのものの配置換えが必要なのである。それは社会学という言説上の変化だけではなく、社会そのものの変化の現在性と連動してはじめて可能なことなのだろう。
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こうして二〇世紀の最後の一〇年になると、若い人たちの関心は「社会とは何か」「現在とは何か」という直截《ちよくせつ》な問題意識から逸れていく。それは歴史の実証的な研究あるいは現在の批判的な研究へと向かっていくことになる。だが、歴史社会学や文化研究への志向のうちで問題と思われるのは、それらの出発点であるはずの「現在への問い」を回避し、空洞化していく傾向が目立つことである。一方は実証的な解釈学を、他方は批判的な解釈学をかたちづくっているが、そこではしばしば、(現在なき)歴史の実証的研究と、(歴史なき)現在の批判的研究が再版されている。
これらの試みには歴史の現在への問いを構成できない社会学的な知の自己不安があり、その不安を解消するためにさまざまな「自己反省」の形式がつきまとう。それらの試みはかつての変化への願望を裏返ししたかのように、自身の言説に何とか安定性をもたらしてくれる領域を求め、その安定性のうちに充足しようとするのである。
†古典的系譜とその変容[#「†古典的系譜とその変容」はゴシック体]
歴史的にみれば社会学は一九世紀につくられた知的遺産である。それは一九世紀における産業資本主義の台頭を背景にしており、産業資本主義の抱える諸問題を研究してきたといえよう。その意味で社会学は、資本主義がもたらした歴史の「現在への問い」を成立動機としていた。オーギュスト・コント、ハーバート・スペンサーらの仕事のあとを受け、エミール・デュルケーム、マックス・ウェーバー、ゲオルク・ジンメルらの精緻な理論的研究が輩出したように、一九世紀末から第一次大戦へいたるころにかけて、社会学はその古典的な達成期を迎える。それは産業資本主義が最初の大きな曲がり角を通過していくときに当たっていたからでもあろう。社会学は「歴史の現在」への問いに立ち向かっていたのである。
アメリカでは二〇世紀初頭から二つの大戦の間戦期のころにかけて、西欧の社会学の影響を受けながら、ソースタイン・ヴェブレン、C・H・クーリー、G・H・ミード、W・I・トマス、R・E・パークなどに代表されるように、経済学や社会心理学、人類学などの隣接領域と交わりながら、実際的な関心をもった、多彩な研究が花開いていく。アメリカは西欧に比べ、第一次大戦をうまく切り抜けたといえよう。だがそこで、社会学の知は、産業資本主義の発展と相関して変貌する社会の現実に肉薄しようとしていたのである。
第一次大戦を経ることによって、偉大な社会学者たちの古典的時代は終わりを告げる。第一次大戦のあとに生じるのは、二〇世紀社会学の基本的な磁場の形成である。それは社会学における、@自己反省の試み、A形式化の試みを、大きな潮流として含んでいる。社会学はまず自分自身にたいして「反省的なまなざし」を注ぐようになる。カール・マンハイムはマルクス主義のイデオロギー批判、そしてゲオルク・ルカーチの『歴史と階級意識』の問題意識を受け止めながら、その限界を相対化するべく「知識の存在拘束性」という概念を立て、知識社会学という「自己反省」の様式を導入した。
この反省に少し遅れて生じたのは、タルコット・パーソンズによる総合と形式化の試みである。『社会的行為の構造』において、パーソンズはデュルケームに代表される実証主義の系譜とウェーバーに代表される観念論の系譜とを方法論的に接続することをめざしたが、それはまず両者の理論を同一の地平に吸収することを要求した。この吸収=総合の地平では、デュルケームの理論もウェーバーの理論もある種の平板化を施されることになる。パーソンズによる総合の試みは「分析的な変数」による形式化された一般理論を導入しようとするものであり、それは第二次大戦後の『行為の総合理論をめざして』や『社会システム論』に結実する。パーソンズは方法論的には分析的概念による現実の把握をめざす「分析的現実主義 analytical realism」という立場を採り、内容的には「構造−機能主義」の図式による規範主義的な傾向をもったシステム論を構築することになった。
†二〇世紀後半――社会学的な知の布置[#「†二〇世紀後半――社会学的な知の布置」はゴシック体]
「反省」と「形式化」は二〇世紀社会学の二つの大きな軸線である。二〇世紀の後半でも、反省は依然としてマルクス主義的な「批判」の言説と相関していたし、形式化は機能主義的な「システム論」の言説と相関していた。だがやがて、二つの試みを同時に遂行しようとする人物が登場することになる。それは一方でパーソンズのシステム論を継承し、他方で批判理論とのあいだに論争を展開したニクラス・ルーマンである。ルーマンにおいて反省は形式化された水準で行われるのであり、社会学はそこで根本的な「自己言及」をはじめ、その自己言及の様態そのものとなる。社会学的な思考がひとつのシステム論を生み出したわけだが、同時にその思考は自分が記述するシステムに内属する一要素となるような循環の軌道に入り込んでいくのである。
パーソンズからルーマンにいたるシステム論の系譜からみれば、それと対立するのはマルクス主義の影響下にある言説であり、それには二つのタイプがある。ひとつはより理論的に見えるもので、ドイツのフランクフルト学派に代表される批判的な社会理論の系譜である。もうひとつは、マルクス主義を潜在的なかたちで維持した英米の批判的研究、つまりカルチュラル・スタディーズ、フェミニズム、ポストコロニアリズム、などの諸派による経験的研究である。これらの経験的研究とドイツ系の批判理論の底辺にはあの「反省」のマルクス主義的土壌が堆積している。
だが、システム論の系譜への対立項はこれらだけではない。もうひとつの対立の系譜が考えられる。それはデュルケーム/ウェーバーという二つの古典的な社会学の圏域から、パーソンズの立てた主意主義の平面よりも、もっと深いレヴェルを通って伸びていく知の系譜である。デュルケーム/ウェーバーという古典的な二つの思考の流れは、一方でパーソンズによって吸収=総合されたが、他方では西欧の知的伝統のなかでその個性をさらに深めるかたちで引き継がれていったのである。
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こうして伸びていく知の系譜には二つの流れがある。ひとつは、エドムント・フッサールの「現象学」を媒介にして、ウェーバーの理解社会学の圏域を意味の世界の社会学に延長していく知の系譜であり、アルフレート・シュッツに代表され、ピーター・バーガー、あるいはハロルド・ガーフィンケル、アーヴィング・ゴフマンらに引き継がれていくものである。もうひとつは、フェルディナン・ド・ソシュールの一般言語学や記号論の流れに媒介され、クロード・レヴィ=ストロースらの「構造主義」に結実していくフランス社会学の系譜である。現象学と構造主義は近代の知のもっとも先鋭的な不安の形象である。デュルケーム/ウェーバーという古典的な社会学の二つの潮流は、この不安の意識に媒介されて二〇世紀という時代に延伸していったのである。
二〇世紀の社会学の大きな流れは、「形式化」された水準に志向し、「反省」という要素を加算していく。自分を抽象化しつつ、自分の上に折り重ねるようなかたちで、社会についての知が求められるのである。そこで社会学の知は二重構造をしている。二〇世紀の社会学は何かある対象について研究しながら、同時にそういう研究をする自分自身の正当性を問題にし、自己言及をはじめるからである。社会学の知は、@何かある経験を一定の形式のもとに思考するだけでなく、Aそのように思考する自分自身の問題構成そのものを思考するというかたちで、その可能性の領野を踏破していく。
このような踏破の果てに、社会学の現在の局面がある。それは社会学が自分で自分を根拠づけようとして、結局、自分を宙吊りにしていく過程でもあった。それは現在の社会学の理論的精緻さへの志向と同時に閉塞感にもつながっている。
†現在の局面について[#「†現在の局面について」はゴシック体]
二〇世紀の最後の四半期、こうした宙吊り状態のなかで、社会学はある種の分散状態に入っていった。形式的なレヴェルでの統合の試みは、むしろその統合の不可能性を印象づけた。そうした宙吊り状態のなか、さまざまな経験的研究が繁茂していった。そしてそれらの研究は「確かさの幻影」を求めることにより、おおむね二つの方向に収束していく。ひとつは歴史の領域へ志向することによって、「過去」の言説的資料の事実性に確かさの基盤を求めることになる。つまり、「歴史社会学」的な実証主義の台頭である。もうひとつは現在への関心を払うのだが、顕在的あるいは潜在的にマルクス主義への依存を強め、確かさの基盤を「現在」における差別や抑圧にたいする批判的なリアリティに求めるような「文化研究」(カルチュラル・スタディーズ)への傾斜である。
理論的な水準で明らかになる閉塞感は、社会についての知に「変容」を生じさせる圧力を高めるはずである。だが実際には、その圧力は二つの回路に吸収されていき、知の大きな再編への動きは抑止されたかたちになっている。第一の回路は、歴史社会学的なものであり、「現在への問い」の漠然とした回避となっている。歴史の探求は系譜学的な動機のもとに現在の由来を示すかもしれないが、現在は決して過去の反復ではないからである。第二の回路は文化研究の諸ヴァリアントである。それは「現在」への多彩な関心は維持するが、それらの関心を批判的な言説に収束させることによって、理論的にはマルクス主義という過去への潜在的な回帰になっている。
問題は、二つの回路が「現在への問い」を回避することを通じて安易に結びつこうとすることにある。実際、歴史の反省は容易に批判的な政治の言説と結びつく。最悪の場合、@歴史研究で実証の強度が弱められ、A批判的研究で現在性が忘れられ、その結果、歴史の領野に安易な批判的言説が立ち現われる。しかもこうした試みは、現在という具体的な他者への回帰を果たすのではなく、自己反省という抽象的な形式に回帰することによって、自己充足的であろうとしている。こうした言説のゲームは知の劇的な変容を促すまで続けられるのだろうか。おそらく社会学は限界的な状況にあるのだろう。ここで考えたいと思うのも、こうした「限界状況」にある社会学の可能性である。そこではかつてない大胆さと慎重さが必要になってくる。
確かさの基盤を求めることは一九世紀以降の思考に固有の不安に由来している。だが、こうした「基礎づけ」への志向――確かさ(の幻影)を求める意識――とその背後にある不安をもっと相対化しなければならない。また他方では、「現在性」というのが、たんなる時間の尖端ではなく、歴史の奥行きもその内部に収めるような深い時間の広がりをもっていることに注意すべきである。歴史的空間という過去への回帰や、マルクス主義という過去への回帰のいずれをも自然な所作と思わせるのは、じつはわれわれの「現在性」が奇妙な時間の広がりをもっているからである。この根源の現在性を仮に「歴史の現在」と呼ぶならば、われわれの課題は、この歴史の現在に照準することによって社会学的な知の可能性を更新することにあるといえよう。
以下の本文では、社会学的な知の布置がその本質的な部分でどのような変遷を辿ってきたのかを、またその深い可能性がどこにあったのかを、自分の経験も参照しながら検証してみたい。そもそも私が社会学を学ぶようになった時代背景、問題意識、またそこで知りえた社会学の問題点、あるいはさまざまな思想的潮流や社会学の隣接領域との緊張関係、そして社会学的な知の核心にある思考の系譜を明らかにしていきたい。その上で、私たちが生きる歴史の現在を記述するために、社会学の可能性を、今一度、考えなおしてみたいと思うのである。
今日、制度としての社会学は、現在の記述に向かう若い社会学徒や研究者にとって、ある意味で制約条件になっている面がある。また、自分の現在に立ち向かう社会学的な知の試みは、必ずしも制度としての社会学者だけにひらかれたものではない。さまざまな領域で、さまざまな人びとが、社会についての知に親しみ、知を試し、知を批判し、知を更新する可能性をもっているからである。ここに書き記すものは、私自身の思考のいかにも愚かで、頼りなく、またごく小さな思考の軌跡であるが、社会学を学ぶ人にとって何らかの参考になればと願う次第である。
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第一章[#「第一章」はゴシック体] 社会学以前[#「社会学以前」はゴシック体]
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†受験生の死[#「†受験生の死」はゴシック体]
一九六九年一月一九日、東京大学・本郷の安田講堂を占拠・封鎖していた学生たちは、警視庁の機動隊や放水車などに包囲され、全員あえなく投降した。このとき機動隊は放水や催涙ガスなどで学生を追い詰め、封鎖解除に成功した。時計台の塔屋に掲げられ、揺らめいた、いくつかの旗は、この日、虚空に向かって最後のメッセージを送っていたのだろうか。意味はわからないが、世界には何か重要なことがあるのだと伝えているように思えた。ただ同時に何かが終わったのである。この闘いの帰趨を、私はテレビの映像のなかに見ていた。
翌日、佐藤栄作首相が壊されて瓦礫の跡となった本郷の構内を見て回った。すでに前年の末、大学の荒廃、自治能力の欠如という批判の声が高まるなか、東大の入試中止は事実上決定されていた。後にも先にもないことだし、受験生から見れば不条理な結論だった。その決定の後、日立の工場で働き、東大を志望していた受験生が自殺したという記事が新聞に載っていた。他方、大学に行くことを止める日比谷の受験生を描いた『赤頭巾ちゃん気をつけて』は芥川賞に選ばれた。いずれにせよ、受験する大学を変えれば済むという問題ではなかったのだろう。
受験はそれなりに意味のある行為だといえよう。だが、その意味の多くは結果が与えるものである。合格は受験の労苦を癒し、その不条理を忘れさせるだろう。また不合格なら、負の意味づけが行われ、失意か、あるいは反省の道筋に回収される。しかし、入試中止はこうした意味づけの可能性そのものを消し去り、受験という行為の成立平面の半ばを露わにしてみせた。
それが社会なのだろうか。わけのわからない力が拮抗してできるアリーナのようであり、何かを保証しているようにみえても、どうかすると予想外なところに動いていくものがある。私はそうした力が自分の近くを掠めていくのを見たような気がした。この力は人間から発しているはずなのだが、その動かしがたさは言いようのないものであり、人間をいろんなかたちで巻き込んでいく。「人間は社会的な存在である」というが、私は社会という言葉で表象されるものへの何かしら言いがたい疑念を呑み込んでいた。
†戦後社会の転換期[#「†戦後社会の転換期」はゴシック体]
安田講堂の封鎖が解除されたとき、三島由紀夫も現場近くに出掛けており、学生の死者が出ないように措置したほうがよいと、警視庁に電話を入れたという。だが、警察はすでに学生の投降がはじまっていることを伝えた。高橋和巳も触れているように、このとき安田講堂を占拠していた学生たちで「自決」する者は一人もいなかった。安田講堂に機動隊員と一緒に突入したカメラマンの目撃証言によれば、そのとき学生たちは震えていたという。しかしその煽りで、目標を失った一人の受験生が死んでいった。
安田講堂の学生たちは「生き延びる」ことを選んでいた。三島由紀夫や、また高橋和巳も、これらの学生とは思想や立場が異なるが、ともに戦前生まれの人間として、何人かの学生の自決の可能性を考えていた。だが、その危惧ないし期待は意外にあっさりと裏切られた。問題の現場――安田講堂では、幸か不幸か、何よりもまず「生」を肯定してはじまった戦後民主主義の子どもたちが闘っていたのである。
福田赴夫は高度成長の時代の世の中を「昭和元禄」と揶揄したことがある。元禄時代とは、関が原を含む百年を超える長い戦争の後にやってきた内向きの平和な時代である。昭和の戦後も、幕末の黒船来航の後からはじまる百年の戦争の時代の果てに生み出された内向きの平和な時代だったからである。三島由紀夫によれば、中身の空っぽな、明るいプラザの噴水のような文化が地上を覆っていた(『文化防衛論』)。あるいは野坂昭如が疑念を抱いた「日常」が人びとの生活をしっかりと包摂していたのである。
学生たちの闘争も、そのような生の現在形に対する抵抗であると同時に、より深い意味では同調の表現でもあった。三島由紀夫は彼らの抵抗に一縷の期待を抱くが、彼らの同調の態度には超えがたい距離を感じていたのだろう。彼は自衛隊市谷駐屯地の塔屋から隊員に決起を呼びかけたが、その精悍な顔は時代に対する皮肉な失望の果てに現われたものかもしれない。学生運動は「遅れて来た青年」たちの運動でもあったが、この遅れは致命的で、何か動かしがたい実体をもっていた。
たとえば同じころ、西武グループは渋谷の公園通りにファッション・ビルのパルコをオープンさせていた。広告の言葉は若い女性たちに向かって盛んに呼びかけていた。八〇年代に開花する高度消費社会の幕がこのころ切って落とされていたのである。石岡瑛子のディレクションは過激さの魅惑を放ちながら、「女の主体化」を訴えていた。それはまた「世界」という広がりを視野に入れていた。そこでは、闘う学生たちの観念的な世界像とは異なり、世界各地に暮らしている、さまざまな女性の生活の断片が妙に美しい映像と化してたわむれていた。
†時計台からの風景[#「†時計台からの風景」はゴシック体]
一九六九年の春、私は京都大学の文学部に入学することになった。入試の少し前の日、大学を見に行ったが、京大も正門の大講堂が解放され、時計台にも自由に入ることができた。受験生と思しき者たちが何人も時計台のなかの狭い階段を回りながら、避雷針のついた高い塔の屋上に昇っていた。私も工学部に入った友人のA君といっしょに時計台の屋上に昇り、天を仰いだことを覚えている。
高橋和巳がいうように、いくら生き延びたのだとしても、あのとき安田講堂の時計台の上に大きな旗を掲げていた覆面の学生たちは、どこか悲壮なもののように見えた。しかし、彼らが死なない以上、それも半ばは幻像だったのかもしれない。受験の日を直前に控えたころ、時計台の上に立った私の眼の前には、あまり替り映えのしない空の下、家並みの低い京都の町が何事もなく、だらだらと続いていた。
あるとき、近衛通から東一条通へと、東大路に沿って石積みの壁が続く舗道を歩いていた。壁の内側には教養部のキャンパスがある。その長い石積みの壁には、機動隊が放った催涙ガスの目を突くような刺激臭が染み付いていた。その傍を通っていると、眼がたまらなかった。すでにガス弾の水平撃ちが問題になっていたが、これを身体に直撃されたら、どんなだろうかと思った。
教養部に入ったときも、「社会」という存在に対する私の疑念は変わらなかった。そのせいもあってか、哲学を勉強しようかと思っていた。哲学科は先生も多かった。ヘーゲルの『精神現象学』から「革命」について考えようとする挑戦的な授業もあった。あるいはフッサールや彼の流れにある現象学の著作が私の前に立ち現われた。大学を占拠していた学生にはマルクス主義にシンパシーを抱く者が多かったかもしれない。だが、私のまわりではフッサール、ハイデッガー、メルロ=ポンティが読まれはじめていた。
†通俗、あるいは生の現在性[#「†通俗、あるいは生の現在性」はゴシック体]
数学科に進んだ友だちがクロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』のことを楽しそうに話していた。サルトルへの批判もさることながら、未開社会のトーテミズムの思考や供犠のシステムを扱う分析手法のエレガントさが受けたのかもしれない。知的な洗練を好む友人のあいだで話題を集めた本だった。私も哲学系の書物を読みはじめていたが、フランス語を選択するクラスに入っていたこともあり、関心はサルトルに、そしてサルトルの「主観主義的観念論」に距離を置いたメルロ=ポンティの「相互主観性」の理論に向かっていった。
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また授業をきっかけに、ジョルジュ・バタイユやロジェ・カイヨワなどフランスの「社会学研究会」に参加した人びとの著作にも惹かれるものがあった。それからもうひとつ、関心を抱いたのは「精神医学」の分野である。だが、精神病理学の授業に出たところ、そこには暗い分類学があるだけで、徐々に関心は薄れていった。
哲学的であり、文学的であることが、私の気分をいくらか充たしてくれる何かだった。そういう意味では、授業で接した講壇風のドイツ哲学は、当時の私の関心から離れたところで語られているようにみえた。それは厳密さを論理や概念に置き換えたところで成り立っているように思えたからである。厳密さはある種の「詩的言語」でしか表しえないこともある。他方、ひとりで読んでいたフランスの思想にはそうした哲学と文学の程よい浸潤があり、また人間の「生の現在性」により深くかかわっているように思えた。
生の現在性とは「通俗」という言葉で置き換えてもよい。通俗とはさまざまな人間のリアルに照準し、等身大の、ある低い視線を取ることで見えてくるものである。知識人好みの普遍を求めて上昇する視線はそれを見過ごすだろう。ドストエフスキーの小説も、知的で倫理的だが、同時に通俗的である。埴谷雄高に馴染めないのは、この意味の通俗がなかったからである。あるとき吉本隆明氏が埴谷の『死霊』について「薄墨色ですね」と語られたが、そのとおりだと思った。当時の私はまだ少年の域から抜け出ていなかったが、リアルを通俗という位相で受け止めることはできた。結局、「言語的な美の感覚(文体)」と、「哲学的思索(推理)」と、そして「生の現在性へのかかわり(通俗)」、この三つが交わるところに、強い関心をもつことができたのである。
†授業というもの[#「†授業というもの」はゴシック体]
授業はそれほど面白いものに思えなかった。一番興味をもったのは、非常勤の先生が担当していた「芸術学」の講義だった。中世社会の美の担い手にかんして民俗学的・人類学的な考察が語られていた。私は何かを吸収している感じがして興味深くその講義を聴いていた。社会理論への言及もあった。そこではいくつかの異なるディシプリン(学問)が自由に交差していた。実証的で資料重視のスタンスも私の興味をそそった。それは哲学的な概念だけでは得られない、意外な事実があることを教えてくれた。私はそのとき「社会」という存在について、これまでとは違う厚みに触れているのを感じていた。
教養部はC闘(教養部の闘争委員会)の学生によってしばしば封鎖された。入学して最初のころは授業があったが、無期限ストなどでよく流れた。授業中にも、中国の文化大革命における紅衛兵よろしく、C闘の学生が教室にやってきて、いま現在、ここで授業すること自体の無自覚を糾弾して帰っていった。大学の建物の壁には、「反帝」(国主義)、「反修」(正主義)といった類の落書きがあちこちにあり、食堂のテーブルにもアジビラが積み重なっていた。教室を使えず、先生が学生を連れてキャンパスをさ迷ったこともある。
教養部の時代、無期限ストやバリケード封鎖の影響を受けて休みが多く、単位を簡単に貰ったようなところもあった。だがそのおかげで、先生や授業に頼らず、自分で何とかすることを教えてもらったような気もする。授業で良い成績を取ったとしても、それは人に教えてもらったことであり、自分で掴んだものではない。もっとも大切なのは、教えてもらうことより、自ら学ぶことだからである。
京大では二回生になると、本部にある文学部の授業、ただし「概論」の単位を取ることができた。これは教養部から学部への橋渡しとなる授業である。私はこの授業を「哲学」を中心に五科目ほど取った。社会学を専攻するかどうかは別にして、哲学科に行こうと決めていた。当時は半期単位のセメスター制は取られておらず、授業はふつう通年で行われていた。この時代は先生も含めて、のんびりと大学生活を送っていた。ひとつの授業が何か長距離旅行のように、「夏休み」を越えて進行していくのも、良いものだと思う。
†『自殺論』を読む[#「†『自殺論』を読む」はゴシック体]
二回生のころ、私はフランスの社会学者エミール・デュルケームの『自殺論』を知った。社会学の池田|義祐《よしすけ》先生や作田啓一《さくたけいいち》先生の授業から、私はジンメルやデュルケームの著作に向かい合うようになった。なかでもデュルケームの「アノミー」という概念に心惹かれるものを感じた。私は、アノミー論を継承した、ロバート・マートンの『社会理論と社会構造』のなかの逸脱行動論や、政治的な共同社会における信念体系の揺らぎや葛藤を分析したデ・グレージアの『疎外と連帯』などを興味深く読んでいった。この感覚が私の進路を変えていく重要なポイントになったように思う。
デュルケームの『自殺論』は逆説に充ちていた。人はなぜ自殺をするのか。素朴に考えれば、自殺はもっとも個人的な決断による、もっとも個人的な行為のはずである。他人に知られれば、まずは止めるように言われるだろう。それは「禁忌」の対象となる行為でもある。だから自殺は孤独な主体のひそかな企てとして行われるのがふつうである。しかしデュルケームによれば、自殺者の統計的な分布――ある社会集団における自殺者の発生割合である「自殺率」の分布――には一定の規則性や傾向が見られる。すなわち個人の孤独の極北に、個人の意思には還元できない社会的な拘束力が顔を覗かせるのである。
デュルケームは、自殺統計をもとにして、たとえばカトリックよりもプロテスタントのほうが、また結婚している者よりも未婚者のほうが、自殺率が高くなることを見いだした。こうした事例は個人が所属する「集団の連帯ないし凝集性」(solidarite が希薄な場合に自殺率が高くなることを示唆しており、こういうタイプの自殺は「自己本位的な自殺」と呼ばれる。他方、戦時中に自殺が減少するのは、社会の連帯や統合が高まるからだということになる。
また、経済的危機のときにだけ自殺が増えるのではない。好景気で経済が活況を呈するとき、その恩恵をこうむるはずの商工業者でも、彼らの欲望が肥大し、満足を知らなくなることによって、自殺率が高くなるという現象が見られる。これは個人の欲望が従うべき「規範的秩序」(norme) が弛緩した状態、つまり個人の「欲望の無規制状態」(anomie) によって発生する「アノミー的な自殺」のタイプを構成する。
個人の自由と平等を追求する近代社会では、産業化や都市化の影響が増し、当然ながら、自己本位的、あるいはアノミー的なタイプの自殺が増える。だがこのほかに、「集団本位的な自殺」という類型もある。この種の自殺は、たとえば軍隊のように、個人が集団のなかに埋没するほど「集団の凝集性」が強くなる場合に起こりやすい。近代的な制度のように見えても、集団への依存や締めつけが強い日本の官僚組織にもこうしたタイプの義務的な自殺が見受けられ、松本清張の社会派推理小説はこの種の自殺をトリックの素材にしていた。
いずれのタイプにしても重要なのは、「自殺」という個人の深淵において起こる個性的な出来事を通して、その個人が属している社会のありようが立ち現われることである。しかもこの社会のありようは、一定の規則性をもって、こうした出来事の分布を規定している。デュルケームの議論はそういうところに焦点を当てていたのである。
†見えない力と実証性[#「†見えない力と実証性」はゴシック体]
たしかにマルクスも、『資本論』などの著作によって、人間社会の総体的な運動に一定の「法則性」を発見しようとした。また社会のありようが個人のありようや知識のかたちを規定するメカニズムを明らかにしようとした。そこで見いだされるのが「下部構造」という概念である。マルクス主義によれば、社会の「下部構造」(生産関係・階級関係)が「上部構造」(人間の意識や芸術、政治など)を最終的には規定するという。だが、私はこの種の主張に対する異和感を解消できなかった。それらは客観的に検証可能な主張というより、むしろ実践的な立場からなされる解釈であるように思えたからである。
ただ時代の流れのなかでは、マルクス主義はなお強い支持を得ていた。たしかにマルクス主義が主張する法則は、人間の実践によって支えられ、かつ弁証法的な挫折さえ勘定に入れているという意味では、ほとんど無敵である。こうした政治的で解釈学的な正当化の理論に対して、私は素朴に馴染めないものを感じていた。マルクス主義がこの社会を貫く「見えない力」を扱っているのはいいとしても、そこに欠けているのは実証的な思考がもっている意外性であった。
他方、デュルケームが示した自殺率の統計的な規則性は、人間社会のすべてをそのまま説明するのではなく、その対象範囲が詳細に限定されており、その点で説得力をもっているように思えた。デュルケームもこの社会を規定する「見えない力」に向き合っていたのだが、その説明は「意外性」に富んでいた。
たとえば一夫一婦制は、結婚生活における女性の地位を高め改善するために、男性の本能や自由を犠牲にした結果だといわれる。だが、デュルケームによれば決してそうではない。一夫一婦制の結婚生活(二〇歳以下の早婚を除く)は男性にとって自殺を抑止する傾向をもっている。しかも、離婚が広く容認されている社会では既婚男性の自殺に対する免疫は低下する。自由の放棄がかえって男性を守るのであり、男性が放棄した自由とはむしろ彼の苦悩の源泉だったのである。離婚を広く認める社会は男性を危うい自由(の欲望)に晒し、「アノミー的自殺」への圧力を高くしていることになる。
女性の場合は、男性がもっていたような自由(苦悩の源泉)からの解放もなく、むしろ一夫一婦制の規律に服することによる負担や犠牲が加算されるだけである。それゆえ離婚が頻繁に発生しているほうが(規制がゆるやかなほうが)、結婚生活は女性の自殺を抑止する方向にはたらくという。デュルケームによれば、一夫一婦制の結婚生活は、こうして男女それぞれに通説を裏切るかたちで作用しているのである。
†社会という力[#「†社会という力」はゴシック体]
デュルケームが示したのは、社会のありようは一定の規則性をもって諸個人の行為の様式を拘束しており、しかもそれは実証的な客観性をもっていることである。このような拘束力の結果生じる行為の様式は「社会的事実」(fait social) と呼ばれる。社会的事実は、@諸個人の意識からみれば外在的なものであるが、A結果として諸個人の行為のありようを強く拘束している。しかも、B社会的事実のもつ拘束力は逃れがたく、所与の社会の全域で「普遍的な力」としてはたらいている。社会的事実は所与の社会で必然性をもって生起するのである。
だが、デュルケームがよく批判(ないし誤解)されるように、この力を実体化してはならない。ここでいう社会は形而上学的な実体ではなく、自殺のように具体的で経験的な現象との相関ではじめて見えてくる何かである。社会学の生命線は、こうした具体的で経験的な出来事との相関のうえで何事かを語ることにある。自殺のような、あるいは犯罪、祝祭、婚姻、流行……といった、さまざまな社会的事実の「作用原因」としての社会とは、何か実体化できるような第一原因ではなく、むしろその具体的な効果自身のうちに存在するのである。
およそ以上のような思考と問題設定に、私は強い関心を覚えた。だが、この問題設定が肯定的に考えられるなら、何か怖ろしいことでもある。というのは、もし社会がたえず私の意志や行為と交錯しながら、それ自身の効果のうちに私の現実を布置づける力として作用しているのだとしたら、一体、私の主体性と呼ばれるものはどうなってしまうのか。そういう不安がよぎるからである。私は反芻してみた。好むと好まざるにかかわらず、私は社会的存在であるが、それはこのような負債にも似た力の効果となり、また自分自身もその見えない力の一部になることだとしたら……と。
私のもっとも根源的な投企であるはずの自殺という行為――それは主体的な意志がなければ不可能に見える行為である。主体性の極致であるような行為の、まさにその核心において、社会のありようという見えない力がはたらいており、結果として、また全体として、一定の規則性が貫いているのだとすれば、それは怖ろしいことに思えた。もちろん、すべての人がみな同じようにこの力に通過されているのだとすれば、私一人が怖がっても仕方ないし、また私だけが自分の行為の責任をこの力のせいにすることもできない。しかし、この力の構造を把握し、一定の方法で操作し、制御することが可能だとしたら、社会学は魅力的だが、何か怖ろしい学問だというべきだろう。私はそう思ったのである。
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第二章[#「第二章」はゴシック体] 社会学入門[#「社会学入門」はゴシック体]
――行為理論を学ぶ[#「行為理論を学ぶ」はゴシック体]
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†一九七〇年[#「†一九七〇年」はゴシック体]
一九七〇年の九月、半年にわたった大阪万博が終わった。延べ六四〇〇万人(実数では約二四〇〇万人程度)が訪れたという。それは高度経済成長の繁栄を祝うお祭りであった。岡本太郎など前衛と呼ばれる芸術家や建築家、デザイナーたちにプロデュースを委嘱して、膨大な振る舞い酒のような祝宴がくり広げられた。祭りは祭り自身のためにあると、バタイユ風の説明がなされただけで、高度成長の意義を深く問う視点は見られなかった。万博が開幕してすぐのころ、赤軍派が日航よど号をハイジャックした。彼らは自分たちのことを「明日のジョーである」といって北朝鮮へ去って行った。万博が終わって間もない一一月には、三島由紀夫が自殺した。三島の決起は「昭和残侠伝・唐獅子牡丹」の道行きを模しているようにもみえた。
三島は日本刀を帯び、楯の会会員数名を連れて自衛隊・市ヶ谷駐屯地に入り込み、一号館二階のバルコニーに立った。集まった千名ほどの自衛隊員に決起を呼びかけたのち、「割腹自殺」を遂げ、もう一名がそれに殉じた。私はこのニュースを京大西部講堂の隣にあった学生食堂のテレビで見ていた。美学の専攻を考えていた友人のB君と見ていたが、何か白っぽい画面が印象的だった。三島の所作は安田講堂の時計台の上で人知れず揺らめいていた旗とどこか似ているように思えた。その精悍な顔は演技のようにもみえたが、どこか眩しいところがあった。しかし、彼が立っているバルコニー、その前の自衛隊員たちの集まっている広場――その束の間の光景は何か虚空の出来事のようであった。
三島の自殺は個性的でもあり、また三島自身が示唆していたように、「道化」――彼はこの決起にいたる前の対談で、自らを「失敗した悲劇役者」であり、「喜劇の部類」に入ると言っていた――のようにもみえた。とはいえ、この自殺を「集団本位的・宿命的自殺」として、デュルケームの「自殺の類型学」に帰属させてもあまり意味がない。社会学は集合現象について語るのであって、個人の行為を直接説明するものではないからである。
三島の自殺はひとつの「時代の終わり」を画す行為として意味があったといえよう。それを自分の現在性において経験することは、時代や社会という抽象的なものにそのまま触れるような、不気味な感じを含んでいた。ただ、このとき何かがまた私のなかで消えていくような感じがした。同時に何かしなければ、何か実のあることをしなければという、そんな気持ちにもなっていた。
†社会学を選ぶ[#「†社会学を選ぶ」はゴシック体]
大学で専攻する分野を選ぶ時期が来ていた。友人のC君といっしょに、私は池田義祐先生の研究室を訪れ、話をお聞きする機会を得た。C君は池田先生について「おにぎり」みたいだねと言った。どういうことかと尋ねたら、先生の姿かたちを含めた雰囲気だという。そうかもしれないが、やはり先生の温厚な人柄が印象に残った。この友人はしっかりしており、すでに自分の行く先を決めていた。だが私には気になることがあった。それは哲学である。どの道、京大は「哲学科」のなかに社会学専攻があるので、所属学科自体は変わらない。だがそれでも、哲学の先生に会って、一度話を聞いてみたかった。
たまたま同期の学生たちといっしょに、西洋哲学史の辻村公一先生のお宅を訪問する機会を得た。辻村先生は、実存主義哲学の代表と目されたマルティン・ハイデッガーの研究で知られていた。先生は長身で痩せて見えたが、哲学者の風貌が印象的だった。私たちは先生の家に上がり、やや狭い階段を数珠連なりに昇っていき、二階の部屋に通された。それは和室の部屋だった。そこで私を含め、数人の学生を相手に、辻村先生は気さくに優しく応対してくださった。
しばらく哲学の話をした後、先生は「君たちは長男ではないか」どうかと、謎かけのように尋ねられた。何でこんな問いを発せられるのか不思議だった。やがて先生は、哲学をやるなら、「長男は向いていない」と言われた。どういうわけかと思っていると、先生は長男だと苦労するという話をされた。私は学問とはそういうものだったのかと思った。だが私は単純で、自分は弟身分だから、一応資格があるのかなと思った。
辻村先生のお宅ではハイデッガーの映っている写真を見せていただいた。日の暮れた帰り道、私は依然としてこれというものが得られず、先生の家から離れていくのと同時に、自分が哲学という学問から遠ざかっていくのを感じた。私のなかの実証的であることへの志向――それは私流のリアルの意識につながっている――が頭をもたげていた。私のなかに芽生えていた確かさの感覚が微妙に違っていたのかもしれない。私は歩きながらデュルケームの『自殺論』のことを思い出していた。
†研究会を敬遠する[#「†研究会を敬遠する」はゴシック体]
結局、私は社会学専攻を選んだ。新しい年度に入り、私たち三回生は十数名いたように思う。だが、このころではなかったかと思う。セクトの活動家をしていた高校時代の同級生のD君が、どういうわけか自殺していたということを聞いた。大学に入りたての頃、友人のA君といっしょに彼の下宿を訪れたことがあった。真剣さと、しかもひょうきんさを併せもった、まっとうなところのある男だった。なぜそうなったのかと考えても、これという答えのない、不安な、重い問いが残るだけだった。
私は三回生になって、大学(というより文学部図書館)に近いところへ下宿を移した。ひとり落ち着いて社会学の勉強をはじめてみたら意外に面白かった。本を読むたびに、また論文を読むたびに、今まで知らなかった新しい言葉が次々と頭のなかに入ってきて、何だか自分が賢くなっていくような気がした。同級生は何か研究会に入っていたようだが、私はマイペースで勉強していた。深刻な議論をするなら宗教学に進んだE君がいたし、東大に行ったF君、それにC君ともよく議論をしたから、これで十分という考えもあった。
当時の社会学専攻では、ドイツ語系の学生たちはウェーバーの研究会、フランス語系の学生はデュルケームの研究会をやっていたように思う。他にもあったろうが、私が同期生から話を聞くのはその二つだった。そうした研究会の中心には、博士課程の院生や助手クラスの先輩がいて一緒になって教えてくれていた。両方の研究会に出ている人もいたようだが、私はひとり自由に、好き放題の勉強をしていた。
私はタルコット・パーソンズの「行為理論」から研究をはじめた。パーソンズはウェーバーやデュルケームらの社会理論を総合したといわれるように、ウェーバーやデュルケームのような古典的社会学者よりものちの時代の社会学者である。社会学史の順序からすると、いきなりで最先端の社会学者でいいのかと思われるかもしれないが、私はともかく「現在」に関心があった。またこのころは、デュルケームからの連続性を考えても、パーソンズがいいと思っていた。デュルケームの可能性を徹底的に追求すると、この連続性はある種の誤解を含んでいる。のちにその誤解を知るとしても、単刀直入、私はパーソンズを勉強しようとしたのである。
†タルコット・パーソンズ[#「†タルコット・パーソンズ」はゴシック体]
パーソンズの大著『社会的行為の構造』の第一章は、「誰がいまスペンサーを読むだろうか。」という有名な文章からはじまる。それはクレーン・ブリントンの『一九世紀における英国政治思想』からの引用である。ブリントンによれば、スペンサーが世界にどれほど大きな興奮を与えたかを理解するのはもうむつかしい。スペンサーは「進化」という原理を一種の「神」として信奉していた。だが、この神が彼を裏切ったのであり、われわれはスペンサーを超えて進まねばならないと。私はパーソンズの著作に彼の気迫や情熱が籠もっているのを強く感じていた。
スペンサーは『社会学原理』の著者であり、社会は生物有機体のように進化し、「強制的労働にもとづく軍事型社会」から「自発的協働にもとづく産業型社会」に発展すると考えていた。スペンサーは近代における社会進化の実質を「産業主義」に求めたといえよう。またそこでいう産業主義は自由で功利的な主体性をもった「個人主義」を基盤にするものであった。「社会有機体説」はたしかに全体主義的な問題構成をしているが、スペンサーは社会有機体の「進化」を、自由な個人やレッセ・フェールの思想の実現に見いだしていたのである。
しかしながら、パーソンズがその著作を書いていた一九三〇年代は、第一次世界大戦によるヨーロッパの破壊のあと、それに追い討ちをかけるようにアメリカの大恐慌の余燼《よじん》がくすぶっていた。やがて第二次世界大戦が忍び寄ってくる困難な時代であり、スペンサーの予定調和的で、リニアーな進化の教説は維持しがたいものになっていたといえよう。
スペンサーの理論は社会有機体説、社会進化論という機軸をもつが、それは基本的に「個人主義的−功利主義的」な思想の伝統に属している。だがもはや「スペンサーは死んだ」ということに同意しなければならない。これがパーソンズの結論であり、彼が社会的行為の理論を構成するための出発点であった。パーソンズによれば、ひとつの全体的構造として見たとき、スペンサーの理論はもう死んでいる。だが、「誰がスペンサーを殺したのか? いかにして? それが問題である」。いささか謎めいた問いが私に突きつけられたのである。
ミシェル・フーコーは『言葉と物』で西欧の思考のシステムの歴史を分析し、その終章に「人間の終焉」というテーゼを提示した。そこで終焉を告げられた人間は、一九世紀的な知が想定する人間であり、スペンサーの理論が依拠するような個人でもある。フーコーはこの人間の基本形式を(知の主体であると同時に客体である)「経験的=先験的二重体」と呼んでいた。
たしかにフーコーとは方法論も違うが、パーソンズは、スペンサーの理論の終焉、つまり進化という「神」の死を、理論それ自身の進化の結果として語ろうとしていた。フーコーとパーソンズの両者にはどこか共通点がある。それは、@思考のシステムの歴史を問題にすること自体がひとつの学問的探究を構成しており、Aひとつの時代の終焉を告知する「死の発見」を通じて、不安な歴史の現在から問いを発するという構えをもっていることである。つまり社会学的な想像力をはたらかせていることであった。
†社会学の動向[#「†社会学の動向」はゴシック体]
私がパーソンズを読みはじめた時代には、「共同幻想論」の吉本隆明や、「物象化論」の廣松渉が注目を浴びており、マルクス主義の系譜にある言説が世の中を賑わしていた。それらの思想や理論の魅力は社会を全体として総括し、批判していく「否定の精神」にある。青年にとってこうした否定は魅力的である。これに比べると社会学の理論は地味であり、また「保守」的な思考、つまりパーソンズに代表される「機能主義」の系譜にあった。社会学は実証的には経験的なモノグラフを生み出し、理論的には体制の側に立つ保守主義的な学問と考えられていた。経験的研究によって社会問題や現実批判の契機を見いだしても、それは個々の矛盾を是正し、社会の均衡を回復する、社会統制の理論に収束すると思われていたのである。
デュルケームの研究で知られる京都大学の中|久郎《ひさお》先生は「逸脱の行為―状況理論」(『哲學研究』五一四号)を展開されていた。それはウェーバーの行為理論やデュルケームのアノミー論を背景にしつつ、基本的にはパーソンズによる行為システムの理論の系譜のうえに構築されていた。また、逸脱行動へのプッシュ/プル要因という視点の導入は、社会性の場へ分析の関心をひらくものであった。C・W・ミルズのいう「社会学的想像力」やさらにラディカルな問題意識が要求される時代であり、中先生もそうした問題意識と直に触れ合う姿勢を示されていた。
このころ大阪大学から京都大学に移られた吉田民人先生は、史的唯物論との対抗関係を意識しつつ、パーソンズのAGIL理論を修正・発展させようとしていた。吉田先生はある種超越的な視点から社会システム論の再構成を図っているようにみえた。見田先生の『価値意識の理論』も、概念図式はパーソンズのAGIL四機能要件の理論をベースにしていた。在野では小室直樹氏もパーソンズ理論の形式的な洗練と進化をめざしていた。私はパーソンズの理論を理解し、行為理論をマスターすることが、社会学研究の第一歩だと思っていた。
大学院に進むには社会学史を知らなければならないが、当時はドン・マーチンデールの『現代社会学の系譜』のように社会学史の流れをうまくまとめた著作も翻訳されていた。ただ、その社会学史は分類学的な系譜学に終わっていた。パーソンズの行為理論も社会学史を踏まえて構成されていたが、そこでは社会学史と社会理論が見事に一体化していた。彼の社会理論は社会学的な思考の歴史が現在の探究につながるかたちで書かれていたのである。私はヘーゲルの「ミネルヴァの梟は暮れ方に飛び立つ」という言葉を思い出した。パーソンズはそれまでの社会理論の系譜の到達点で満を持して飛び立った「ミネルヴァの梟」のように思えた。
†行為理論の伝統とブレークダウン[#「†行為理論の伝統とブレークダウン」はゴシック体]
パーソンズは社会理論の核心を「行為理論」に求め、行為の概念を準拠点にして、それまでの社会理論の歴史を検証した。『社会的行為の構造』の展望によれば、人間と社会にかんする思考のシステムの歴史には「実証主義」(positivism) と「観念論」(idealism) という二つの伝統がある。行為理論もこうした伝統のなかではぐくまれたが、行為理論の発展過程で、二つの伝統のいずれでも重要なブレークダウンがあった。それらのブレークダウンは行為理論を「主意主義」(voluntarism) 的に編成しなおすものである。実証主義の系譜からのブレークダウンとしてはデュルケームの試みが、観念論の系譜からのブレークダウンとしてはウェーバーの試みが代表的なものである。パーソンズはこうした展望のもとに、デュルケームとウェーバーの試みを総合し、主意主義的行為の理論を再構築しようとしたのである。
パーソンズによれば、人間社会にかんする思考のシステムの機軸としてまず「実証主義」的な理論があり、この実証主義の伝統のうちに個人主義的な思考、つまり功利主義の体系が形成される。ホッブズからスペンサーにいたる理論がそうである。だが、功利主義は個人の欲望や利害という要素に準拠するため、根本的な安定性を欠いている。功利主義的な理論体系のもとでは、人間の欲望や利害の追求から「万人の万人に対する戦い」を帰結し、規範的秩序がいかにして構成されるのかという問いに答えることができない。いわゆる「ホッブズ問題」である。この問いに答えるには、人間とその行為の功利主義的な基盤を相対化し、その基盤を記述することで成立する実証主義をブレークダウンする必要がある。
そこで実証主義的な伝統のブレークダウン、つまり実証主義の系譜から「主意主義」的な行為理論が発生する局面が考察される。代表的な理論家はA・マーシャル、V・パレート、そしてデュルケームである。パレートはワルラスの一般均衡理論の影響のもとに、経済学的な変数の均衡を数学的に定式化したが、これはパーソンズの「構造−機能分析」の形成に大きな刺激を与えた。だが、より重要なのはデュルケームである。デュルケームの理論には実証主義を超える要素、つまり行為を規制する超越論的な審級として「規範」(norme) の概念が導入されているからである。これはたしかに実証主義を乗り超える要素だが、オーヴァーランにもなっている。パーソンズは自身の主意主義を完遂するうえで、デュルケームのように「規範」を集団の超越論的な経験から一挙に基礎づけることは回避しようとしたのである。
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実証主義と対抗する思考のシステムのもうひとつの機軸として「観念論」的伝統がある。観念論的伝統のブレークダウンがあり、そこにも「主意主義」的な行為理論が発生する。パーソンズによれば、マックス・ウェーバーの行為理論がそれである。ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』など宗教および近代資本主義の研究で知られる。ウェーバーは「経済と社会」を考察の対象とし、広く社会科学の方法論を精錬し、膨大な比較社会学的考察を行った。また、ウェーバーは西欧知識人の良心を代表するような存在として半ば神格化されている。メルロ=ポンティが「悟性の危機」(『弁証法の冒険』)や『ヒューマニズムとテロル』で訴える倫理も、ウェーバーのいう心情倫理と責任倫理の相克のなか、深い沈黙を生き抜いていく「人間」の軌跡に収斂していく。ウェーバーの思想はたしかに人間を見つめていたのである。
†ウェーバーの行為理論[#「†ウェーバーの行為理論」はゴシック体]
ウェーバーの社会学の機軸には、西欧近代の歴史を「合理化」の過程として理解するパースペクティヴと、その合理性を支点として構成される「行為の理論」がある。ウェーバーからすると、西欧における近代社会の発展の軌跡は「魔術からの解放」であり、「合理化の過程」である。近代社会では、合理性を体現する行為の類型が優越し、それが近代社会の発展の原動力となる。たとえば権力の「正当性の根拠」が合法性に求められ、官僚制化された合理的な組織が社会を主導していく。そこでは「目的合理的行為」が優越する。だが、無視しがたい問題点もある。目的合理性の追求は形式的な合理性の追求に逸れていき、人間の実質的な合理性を踏みにじりかねないからである。
ウェーバーによれば、社会学とは、社会的行為をその主観的に思念された意味(動機)にしたがって理解し、行為の過程および結果を因果的に説明する科学である。主観的に思念された意味とは、人間の抱く心的現実のすべてを指すのではない。意味とは行為者の状況に対する「志向的な関係」のことである。意味があり、理解の対象となる社会的行為には次の四つの類型がある(清水幾太郎訳『社会学の根本概念』岩波文庫)。
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@「目的合理的行為」…外界の事物の行動および他の人間の行動についてある予想を持ち、この予想を、結果として合理的に追求され考慮される自分の目的のために条件や手段として利用するような行為。
A「価値合理的行為」…ある行動の独自の絶対的価値――倫理的、美的、宗教的、その他の――そのものへの、結果を度外視した、意識的な信仰による行為。
B「情緒的行為」…直接の感情や気分による行為。
C「伝統的行為」…身に着いた習慣による行為。
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これらの行為類型を組み合わせて、生起しうる出来事の理想的なパターン、つまり「理念型」(Idealtypus) がつくられる。「理念型」は現実の出来事ではない。現実の出来事にはさまざまな非合理的な要素が入り込み、行為の理想的な因果過程(理念型)を攪乱し、逸脱と偏差をもたらすからである。理念型は、現実に起こった出来事の特徴を調べ、その逸脱や偏差を測定するための理想的標準として設定される。社会学の課題はこのような理念型を構築し、それを用いて、現実の社会現象や行為の意味を理解することにある。
†パーソンズの構想[#「†パーソンズの構想」はゴシック体]
しかしながら、パーソンズはこのような理念型にもとづく理解社会学の方法論に対して一定の距離と限界を感じていた。ウェーバーの考える「理念型」はひとつのフィクションであり、個々の歴史的出来事を理解し、説明するために、その都度つくられるものである。パーソンズからすれば、理念型は、@現実の出来事の偏差を測定する理想的標準としてそれ自身は「フィクション性」を刻印されており、また、A出来事の個別性の記述を重視するために「モザイク性」を免れないものとなっている。
これに対し、パーソンズは、分析的概念は現実を何らかの仕方で把握しているものであり、フィクションである必要はないという。その立場は「分析的現実主義」と呼ばれる。またパーソンズは、理論は一定の「体系性」をもつべきであり、その都度やり直されるモザイク的概念の集合にとどまってはならないと考える。パーソンズは、ウェーバーの理念型論に代えて、分析的概念による体系的で、もっと一般化された理論、つまり「行為の一般理論」(general theory of action) を求めたのである。
パーソンズが乗り超えようとしたのは、ウェーバーの「行為」理論とともに、デュルケームの「社会的事実」の理論であった。デュルケームの理論には規範の拘束力が経験的な準拠を超えて、超越論的な仕方でセットされているようにみえる。それは規範の拘束力の根拠を「集団の情緒的熱狂」という超越論的な事実性に還元しているようにみえるからである。それはホッブズ問題を解決しているようにみえなかったのである。
他方、ウェーバーのいう理念型とは歴史事象のいくつかの要素を理想的なかたちで再構成した一種の理想的な可能性のことである。それは比較の準拠点として、現実の歴史が辿ったコースを測定し、理解するための尺度となるような概念である。パーソンズからすれば、理念型にもとづく方法論はモザイク的で記述的であり、しかもフィクションと現実という二分法を取っているため、一般化された分析的概念、そしてシステム論的な概念構成を欠いているようにみえたのである。
†パーソンズの問題点[#「†パーソンズの問題点」はゴシック体]
パーソンズはこうして共編著『行為の総合理論をめざして』でフロイトの精神分析、社会心理学、文化人類学などの成果を取り入れ、「行為のシステム」にかんする体系的な理論の構築をめざした。その構想は『社会システム論』でさらに詳しく分節されている。そこでは、ウェーバーの理念型論を克服する方向で、体系的な一般理論の構築がめざされる。それは相互に連関する分析的要素(変数)の体系を一般均衡のかたちで定式化することを理想とする。だが、社会領域ではこうした定式化には制約があり、そこで導入されることになるのが「構造−機能分析」である。
構造−機能分析では、社会システムの同一性を標識し、安定的で、常数とみなしうる部分を「構造」として取り出し、他の諸要素はこの構造を維持するうえでどのような「機能」(あるいは逆機能)を果たしているのかが明らかにされる。システムにおいて構造が維持されていることを一種の均衡状態と見なし、この均衡条件を明らかにすることが構造−機能分析の重要な焦点になるのである。
構造とは社会システムがその同一性を維持するために是非とも充たされねばならない機能的要件の集合であるといえよう。だが、このような構造の存在をシステムの要件として予め前提するのは、図式としては、規範を超越論的に前提するデュルケーム流の思考に接近することである。それはやがて社会学的機能主義の保守的論理と結びつけられ、「規範主義的偏向」として批判の対象となっていく。パーソンズが当初めざしていたのが主意主義であることを考えると、これは残念な展開であるというしかない。
もともと主意主義とは、実証主義がアポリアとして抱える「ホッブズ問題」――単純化すれば規範的秩序はいかにして成立しうるかという問い――を解くために要請されたブレークダウンのかたちであった。だが、主意主義の要請は実証主義をどこかで超えていく部分を含んでおり、理論的に大きな負荷を招くことになる。デュルケームに見られるように、主意主義的な要請は超越論的な前提の要請に収束する可能性があり、そう簡単に成功するものではない。こうした経緯もあり、パーソンズは、実証主義的なスタンスでは十分に説明できない規範的秩序の形成を――集団の超越論的な経験ではなく――相互的な行為の過程に求めたのである。
しかしながら、パーソンズの行為理論でも、自己と他者のあいだの相互作用(主意主義過程)を一定の安定した秩序へ導くには「二重の不確定性」(double contingency) という困難が立ちはだかっていた。パーソンズは、この困難を、自己と他者の「対称性」、そして自己と他者のあいだの「期待の相補性」(complemetarity of expectations) という好都合なメカニズムの作動によって乗り超えられると考えた。だが、パーソンズが規範的秩序の成立のために仮想した自己と他者の対称性や、期待の相補性という概念には、規範主義的な秩序形成の青写真があらかじめ書き込まれているというしかない。パーソンズの行為理論は主意主義という体裁をもつが、他方では超越論的な規範主義への回帰を立論の大きな軸線としていたのである。
†パーソンズに対する批判[#「†パーソンズに対する批判」はゴシック体]
パーソンズの行為理論、システム理論を理解していくなかで、それに対する批判の書をいくつか読むことになる。そのなかで触れておかなければならないのは、パーソンズの規範主義、保守主義を批判した、新明正道の『社会学的機能主義』である。京都大学、東京大学の社会学研究者は、どちらかといえば機能主義のうちに社会学の「共通の平面」や未来を見いだそうとしていた。だが、東北大学の新明教授はパーソンズに結晶する「社会学的機能主義」に対して忌憚のない批判を展開した。
実際、これを読めば、機能主義の哲学的前提、また行為、機能、規範、動機づけ、要求性向、役割期待、価値志向の型、……といった抽象的で分析的な概念の展開にもかかわらず、機能主義的なシステム理論は、一九世紀の「社会有機体説」のある種の変形と反復、つまり二〇世紀的な「反復」(reflection) になっていることがわかるだろう。それは一九世紀の理論を「形式化」して反復しているのである。
もう少し別の文脈の批判として、パーソンズの理論を、社会的合意を重視する「統合理論」(balance theory) の系譜に位置づけ、葛藤や緊張を重視する「闘争理論」(conflict theory) の系譜と対比する議論も影響力をもっていた。社会学の闘争理論にはラルフ・ダーレンドルフの『産業社会における階級および階級闘争』のような著作があった。
デーヴィッド・ロックウッドは「『社会システム論』についてのいくつかの意見」(メBritish Journal of Sociologyモ, 1956, vol. 7) でパーソンズのシステム論が行為の規範的な構造化の分析を優先させ、「行為の非−規範的要素」を軽視しているという批判的な問題提起を試みた。闘争理論といっても、ホッブズの万人の万人に対する闘いよりも、ある階級の他の階級に対する闘いを問題にするマルクスの唯物弁証法を考慮しなければならないというわけである。実際、唯物弁証法に隣接する西欧の社会理論は、機能主義的な社会学の系譜よりももっと大きな流れとして続いていた。
たとえばドイツ・フランクフルト学派のユルゲン・ハーバーマスの『晩期資本主義における正統化の諸問題』、あるいはチェコスロヴァキアのカレル・コシークの『具体性の弁証法』などが読まれていた。人間学とマルクス主義の結合を図り、全体化の道を探ったサルトルの『弁証法的理性批判』も大きな読者をもっていた。ルイ・アルチュセールの構造主義的な認識論や独自の実践の概念にもとづく『甦るマルクス』、『資本論を読む』も読まれていた。ヘゲモニー装置論(『獄中ノート』)で有名になったアントニオ・グラムシあるいはローザ・ルクセンブルクも人気があった。
ルカーチでは、『歴史と階級意識』がマルクスの物象化論の理解のためには重要な文献のひとつだったし、主観的観念論の系譜を批判した『理性の破壊』は社会学にとっても大きな意味をもっていた。『ヴァルター・ベンヤミン著作集』は一九六九年から刊行されはじめるが、当然ながら『パサージュ論』は含まれていなかった。T・W・アドルノとM・ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』もまだ翻訳されていなかった。ベンヤミンが見直されるのはベルリンの壁が崩れる前後から、むしろ一九九〇年代に入ってからだろう。
†ヒューマニズムと党派の彼岸[#「†ヒューマニズムと党派の彼岸」はゴシック体]
マルクスの系譜を取り巻く華やかな思想の星座があり、その議論の中核にはマルクスの著作があり、またその注釈や解釈があった。自分の周囲から見ると、一九七〇年代初めの時期で重要なことは、マルクスの解釈をめぐって、『経済学・哲学草稿』に見られる「疎外論」や「人間学的な解釈」の流れに対し、『ドイツ・イデオロギー』以降の思想を対置し、後者の文脈で『資本論』を読もうとする廣松渉の哲学的なマルクス解釈が影響力をもったことだろう。アルチュセールとは異なる視角だが、廣松渉の物象化論はデュルケームの社会的事実論とも深く連接しており、私のような社会学徒から見ても重要なかかわりがあるものだった。
この時代に自己否定、自己解体の思想によって人びとの心情を魅惑したのは高橋和巳であった。高橋にはある種のヒューマニズムへの傾斜があった。だが、彼の作品にはその後の時代の可能性を予見するような無力感が沁みるように像を結んでいた。高橋に比べれば、三島由紀夫の小説を読むのは、何か気恥かしいところもあった。高橋は埴谷雄高を師としながらも、この国の湿潤な風土に浮上する人間の思想を描いて見せた。文学部の研究室に高橋和巳という教官の札が掛かっていたのを覚えている。その研究室のドアの上にある、埃のついた窓ガラスが割れていたが、中は見えなかった。
これに比べると廣松のほうは、西欧志向の理論的な構築物であり、一定の価値関心や党派性も感じられた。西欧近代の思想史の連続性を断ち、マルクスのなかに近代知の革新を見る点で、多くの人たちに魅力的な言説と思われたのだろう。だが、学生たちの闘争は「無益な受難」のように敗北を重ねていった。
私はマルクス主義に理論的な信頼を置くことはできなかったが、機能主義の社会学にも距離を感じはじめていた。理論的に確かなものが何もない世界に、また経験的な出来事の意味を理解するには程遠いところに私はいた。だが、そういう不確かな場所こそ学問の立ち向かう場所だったはずである。パーソンズ理論の成否はともかく、彼のうちに結像する欧米の研究者の果敢な試みに、私は何か大きな情熱が棒のように貫いているのを感じた。そして懼れのようなものを抱いたことも覚えている。
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第三章[#「第三章」はゴシック体] マルクス[#「マルクス」はゴシック体]
――物象化論の射程[#「物象化論の射程」はゴシック体]
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†大学院に入る[#「†大学院に入る」はゴシック体]
私はパーソンズの「行為理論」の検討をテーマとする卒業論文を提出した。この論文は四回生の夏休みに書き上げていた。機能主義の限界も見えてきたので、秋以降はもう少し広く社会学を勉強することに当てたのである。卒業とともに、私は東大の大学院社会学研究科に進学した。東大にいたF君が東京に来るように強く誘ってくれたこともある。東大のほうが先に試験があり、私は京都から東京へ移っていった。
大学院に入って、最初のオリエンテーションが大学構内の山上《さんじよう》会館で行われた。橋爪大三郎さんら自治会の先輩が大学院生活をやっていくうえでの細かい資料を作成し、配ってくれたのを覚えている。自治会による詳しいオリエンテーションやアドヴァイス、そして先生の強調する学問的トレーニングの階梯など、面倒見の良さに囲まれて私はいささか当惑もした。大学院をどこか孤独な森のような場所だと思っていたからである。
授業がはじまり、私は見田宗介先生のゼミに所属した。それまで私は、見田先生の社会学を『価値意識の理論』に見られるようにアメリカ社会学の延長線上で考えていた。だが、永山則夫の意識や行動の軌跡を分析した論文を含む『現代社会の社会意識』には、サルトルを介して、マルクスの社会認識の方法が思考の準拠枠に導入されていた。こうした問題意識や方法の推移は『人間解放の理論のために』にも読み取れた。
ただ、私自身は『現代日本の心情と論理』にあるような分析や文章に心惹かれるものがあった。この著作は〈心情〉/〈論理〉という二つの焦点を交叉させながら、「目前の出来事」、つまり「現在の事実」をとらえたものである。私がこの著作を通して感じ取ったのは、社会についての社会学的な分析のありようと同時に、分析する者がその社会をたしかに生きていること、そして前者が後者に裏打ちされていることの大切さであった。
†乱読時代[#「†乱読時代」はゴシック体]
当時の見田ゼミではマルクスの『経済学・哲学草稿』や『ミル評注』(経済学ノート)、「価値形態論」、またサルトルの『方法の問題』や『弁証法的理性批判』が議論のベースにあったように思う。『思想』の一九七三年五月号に、見田先生(真木悠介)の論文「現代社会の存立構造」が発表されている。これは廣松渉の物象化論とは異なる視角から、『資本論』の再構成を試みた論文で、同時に現代社会の存立構造を明らかにする理論的な準拠枠となるものであった。この論考は一九七四年まで断続的に連載を続け、一九七七年に『現代社会の存立構造』となって刊行されている。
友人のF君はヘーゲル、マルクスに関連する書物を実によく読んでいた。その影響もあったのだろう、私も同じような著作をいくつか読むようにはなっていった。もちろん、機能主義的な社会理論やシステム理論に対して、ある種の閉塞感を感じていたこともあった。機能主義は理論的な整備や洗練を先行させているが、実際に社会に横たわる問題群や出来事を分析し、批判するという段になると、具体的なリアリティに乏しく、また常識の域を超えないというきらいがあったからである。
私はあまり学校にも行かず、研究会にも参加せず、またぞろひとりで理論的な放浪をはじめていた。私は読む対象を社会学に絞らず、西欧の哲学思想や文学に向かっていった。また手探りでだが、読書の裾野を言語学や経済学などの領域にも広げていった。放浪の読書に案内図はなかった。不安もあった。だが、試行錯誤をすること、あるいは意外な連絡線を発見することは結構楽しいものだった。私は社会学にこだわらず、「教養」だと思って、古典的な著作を賞味するように読んでいった。それが大学院修士課程の学生である私の仕事だった。おかげで、この時期の私は「社会学離れ」を引き起こしかけていた。
そうした乱読を重ねるなかで修士論文を書いた。これは果たして社会学かどうかということが問題になったようだ。私のつもりでは、修士論文はイマヌエル・カント以降の西欧思想史の社会学的探求であった。それはアルチュセールやハイデッガーに刺激を受けて書いた論文である。私は焦点を「超越論的自我」に絞り、その生成から内的なずれの発生、そして破局と不安の意識にいたる過程を探ろうとした。まだ系譜学の意識はなく、むしろパーソンズの『社会的行為の構造』のイメージが頭の片隅にあったのだが、認識論的な抽象にすぎたといえよう。
†物象化とはどういうことか[#「†物象化とはどういうことか」はゴシック体]
当時、私の読書に強い遠心力を与えるきっかけになったが、同時に私を社会学の思考の圏内から遊離させないようにもしている理論があった。それが「物象化論」である。実際、一九七〇年代は日本においてマルクスの系譜に立つ理論が大きな達成を見せるときである。西欧では構造主義の流行により、マルクス主義が衰退し、あるいは変形されていくが、日本ではその核心において構造主義と匹敵するような思考の波が高まっていたのである。それは人間主義的な疎外論を乗り超えていくとともに、『資本論』の価値形態論を軸とする粘り強い読解から練り上げられていったものである。
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物象化というのは、人間の労働生産物が「商品」という形態をとるときに生じている現象である。物が商品となるのは、それを売買する人と人の社会関係を通じてである。商品は、それを売る人(生産者)と買う人(消費者)のあいだの交換関係を通じて成立するからである。商品は何らかの使用に役立つという意味で「使用価値」をもつと同時に、いくらで買えるのかという意味で一定の「交換価値」をもっている。
だが、商品である物それ自身の素材・属性・形・構造をいくら調べてみても、「交換価値」を検出できるわけではない。物それ自身に見いだされるのは、たとえば木製の椅子なら、心地よい木の感触や、座れるなどといった「使用価値」である。商品にこのような使用価値があるのは、それが人間の具体的な労働の成果物だからである。他方、商品に一定量の交換価値があると見なされるのは、それをつくりだすのに一定の労働時間が費やされているからである。物の交換価値の量は、それをつくりだすのに(実際にかかった時間ではなく)その社会で平均的に見て必要と思われる労働時間の量で定まると考えられる。
こうしてたとえば椅子でも、机でも、ノートでも、それが商品であるかぎり、「使用価値/交換価値」という二重性を帯びることになる。つまり感覚的にして、超感覚的な物となっている。これらの属性は人間の労働が生み出したものと考えられる。たとえば机の使用価値は人間が机をつくりだすときの「具体的な有用労働」が生み出したものであり、机の交換価値は人間が机をつくりだすときに、社会的に必要と思われる「労働」(抽象的人間労働)の量、つまり労働時間で決まる、というわけである。
しかしながら、ここには大きな問題がある。日常意識によるこうした理解では、机の交換価値は(机の使用価値と同じように)机という物それ自身の属性のように見えているからである。だが、机という物の交換価値は、それを生み出した労働の社会的性格に由来している。この由来がすっかり忘れ去られること、そしてその結果、物の交換価値が物それ自身の属性のように実体化されてしまうこと、これが「物象化」(Versachlichung) と呼ばれる事態である。労働時間によって交換価値を実体化する意識は、すでにして、交換価値の由来の社会性を捨象する「物象化」のはじまりなのである。
†ロビンソン・クルーソーの彼岸――社会性の成立[#「†ロビンソン・クルーソーの彼岸――社会性の成立」はゴシック体]
日常の意識からすれば、商品には一定量の交換価値が込められている。それは商品である物に込められた「抽象的人間労働」の一定量である。そこでは抽象的人間労働が価値の実体として想定されている。この価値実体が労働の生産物のうちに転移し、込められることにより、生産物はその価値量を自然な属性のように帯びている、と見なされるのである。このような意識の根源には、抽象的人間労働という価値実体の存在を自明とする想定がある。労働によるこの価値実体の物のうちへの流出が、物に交換価値を帯びさせ、物を感覚的にして、超感覚的なものにしているというわけである。
問題はこのような価値実体の想定において起こっていることである。よく考えれば、抽象的人間労働なる実体は誰も見たことがない。実際に存在するのは、人びとのさまざまな労働の協働連関である。市民社会の人びとはロビンソン・クルーソーのように孤島で自給自足の暮らしをしているわけではない。ロビンソンが孤独な労働で工夫してつくりだしたあれこれの物には、具体的な使用価値はあるとしても、交換価値は認められない。彼は他の誰かのために物をつくっているのではなく、他の誰かが彼のために物をつくっているのでもない。そこには社会がないからである。彼の労働は社会的性格をもっていない。
交換価値を生み出すのは労働の社会的性格である。労働の社会的性格とは、ある労働が社会的総労働の一部になっていることを意味している。「物象化」とは、労働の社会的性格が生み出す効果(物が交換価値を帯びること)を、物それ自身の自然で自明な属性と見なして実体化してしまうことである。ある物の交換価値はそれが他のすべての物とどのような関係にあるのかを示すものであり、この関係の総体は社会的総労働が織りなす協働連関そのものである。
たしかに、抽象的人間労働というのは労働の社会的性格を集約したような概念である。だが、実際に存在するのは、抽象的人間労働のような仮想の実体ではなく、さまざまな私的労働のつながりや相互依存、つまり人びとの不安定な協働連関でしかない。人びとのこの協働連関がひとつのまとまりをなしていることを表象するのが「抽象的人間労働」という観念である。物象化が成立するのは、じつは、こうした社会的なまとまり、つまり社会性の場が成立していることと等価なのである。マルクスによれば、人びとはこの物象化の営みを、それと知らずに、行っていることになる。
†物象化の定義[#「†物象化の定義」はゴシック体]
「物象化」とは、見田宗介によれば(『社会学事典』)、「人と人との関係が、当事者たちの意識に、物象のように映現する事態」である。つまり人と人との社会関係が、物それ自身の自然な属性のように見えてしまうことである。それは、商品それ自身に一定の「交換価値」があるように見えることだけではない。貨幣という物それ自身に「購買力」があるように見えること、資本それ自身に「増殖する力」があるように見えること、……なども「物象化」の端的な例である。こうした事態は資本主義社会では不思議なことではなく、むしろ自然で自明なことであるといってよい。
さらにいえば、この物象化という事態は、「偶発的」な出来事でもなければ、個々人の主観的な「幻想」でもない。それは一定の社会的条件に置かれた人びとの日常生活では「必然的に起こる事態」だからである。このような社会的条件を恒常的に保証するメカニズムは「資本制生産様式」と呼ばれる。マルクスは『資本論』で、この社会的メカニズムの実態を明らかにしようとしたのである。
資本制生産様式の媒介を受けて、物は商品として受け止められる。そこで物は、@具体的な使用価値(使用対象性)だけでなく、A一定量の交換価値(価値対象性)をもっていると意識されている。物が一定の交換価値(価値対象性)をもつのは、それを生み出した労働が社会的性格をもっているからである。そこに社会性の場、つまり社会というオーダーが成立しているからである。「物象化」とは、このような社会性の場を成立させると同時に、その社会性の効果として生じる交換価値を、物それ自身の自然で自明な属性であるかのように思わせるメカニズムなのである。
物象化のメカニズムの延長線上に「物神崇拝」(Fetischismus) が成立する。物に対して、その具体的な使用価値や機能、効能といった「使用対象性」よりも、その物に見込まれる交換価値という「価値対象性」のほうを重視し、この交換価値を崇拝し、交換価値の虜《とりこ》になること、それが「商品」の物神化である。また交換価値の中身となる抽象的な価値実体そのものを崇拝するのは、その価値実体を純粋に体現する「貨幣」の物神化である。資本主義社会の日常意識は、物象化のメカニズムを通じて、「商品物神」の崇拝、「貨幣物神」の崇拝にはまり込んでいく。マルクスが明らかにしようとしたのはこの物神化のプロセスとその必然性であった。
[#挿絵(img/fig7.jpg)]
一九世紀の半ば過ぎから、ロンドンやパリで大規模な万国博覧会が開催されるようになるが、そこでは膨大な数の物や製品が「商品」として展示された。いわば商品の祝祭である。エルネスト・ルナンは、全ヨーロッパの人びとがそれらの商品を眺めるために万博会場へ新種の「巡礼」をしたのだという。ヴァルター・ベンヤミンによれば、そこで人びとは物を「商品」として、「交換価値」として礼拝し、それらの商品によって自分たちの生活や世界が区切られている仕方を眺めていたのである。
†主体の疎外/客体の物神化[#「†主体の疎外/客体の物神化」はゴシック体]
マルクスによれば、物象化、そしてそれに伴う物神化は「倒錯した意識」の現象である。ただし日常の意識は、この倒錯を自然で自明なものとしている。人びとは物象化、そして物神化と呼ばれる事態を、日常的に自明のこととして生活している。ヘーゲルのいうように、弁証法による概念的把握があるとすれば、その課題は、この自然で自明な意識の倒錯を徹底的に相対化することである。それはこの倒錯の構造をその総体性において明らかにすること、つまりそれを資本制生産様式がもたらす構造的な必然として明らかにすることである。
資本制社会では、「商品」だけでなく、「貨幣」も物象化され、神格化される。つまり貨幣物神である。また「資本」も物象化され、自己増殖する価値として神格化される。こうした客体(商品、貨幣、資本、……)の神格化、すなわち「物神化」と対応するように、主体であるはずの人間がそれらの物神を崇拝する僕となり、奴隷となる。資本制によって物象化された世界では、「人間=主体の疎外」と「物=客体の神格化」がペアになって成立する。そこでは主体として自律性をもつはずの「人間」が、何よりも貨幣を崇める賤しい奴隷となる。同時に、娼婦のように賤しいはずの「貨幣」が物神としてもっとも高貴な存在に転移してしまう。
資本制の媒介を受けて、このように物象化、そして「主体の疎外」/「客体の物神化」が起こる社会は「集合態」(ゲゼルシャフトGesellschaft)と呼ばれる。「集合態」とは、「共同態」(ゲマインシャフトGemeinschaft)のように人と人の関係が「直接的な共同性」のうちにある社会ではない。集合態とは人と人の関係が貨幣のような物神によって「媒介された共同性」のもとにある社会のことである。近代の市民社会はこうした「集合態」の典型である。共同態の社会にはその共同性を象徴する神のような存在がある。だが市民社会では、貨幣という新たな物神が集合態、つまり媒介された共同性の「依代《よりしろ》」になっているのである。
たしかに市民社会の内部には家族のような共同態もある。市民社会はこうした小さな共同態を単位として形成される集合態と見なすこともできる。だが、市民社会の物象化が高次化していくと、その効果は家族の内部にも浸透していく。家族という共同態自体が物象化、物神化の力に曝されるからである。それは家族の共同性が貨幣の媒介を受けたさまざまな機能的等価物によって代替され、家族の実質が剥がれていくことを意味している。戦後日本の高度成長の時代に、マイホームや小さな家庭の価値が称揚されたが、このマイホームは物象化・物神化が共同態的なものを削ぎ落としていく力と、共同態へ回帰しようとする人びとの幻想的な志向性とが微妙に拮抗するところで成立したものといえよう。
†物象化論の射程[#「†物象化論の射程」はゴシック体]
ある物が商品であるとき、その物は二重の位相をもって現われる。つまり、@その機能ないし「使用価値」の側面(使用対象性の次元)、Aその社会的な「交換価値」の側面(価値対象性の次元)である。物象化とは物に商品としての価値対象性を与えるメカニズムのことだが、物象化が生じるのは、商品を生み出す労働の社会的性格に由来している。それはこの労働が社会的総労働、つまり社会的分業の体系の一部であり、他のさまざまな労働やその生産物と「交換のシステム」を形成しているからである。この点について、マルクスは次のように述べている。
[#2字下げ]労働生産物はその交換の内部においてはじめて、その感覚的にちがった使用対象性から分離された、社会的に等一なる価値対象性を得るのである。
[#地付き](向坂逸郎訳『資本論(1)』岩波文庫)
交換のシステムは、使用対象性が異なるさまざまな生産物の交換を可能にする、共通の媒体として「価値」が存在することを示している。物の交換価値とはこの「価値」の一定量のことである。マルクスによれば、価値対象性を生み出すのは労働の社会的性格であり、それは「抽象的人間労働」として実体化される。抽象的人間労働が投下され、生産物のうちに結晶したもの、それが「価値」であると。
ここで重要なのは、物象化論が何を語っているのかということである。物象化というメカニズムの核心は、物が「価値対象性」、つまり社会性を帯びて存立することにある。物がそうした社会性を帯びて立ち現われる場所を、われわれは「社会」と呼んでいる。それゆえ物象化とは、物が物のまま存在するのではなく、「社会性」(価値対象性)を帯びて存立すること、つまり「社会性」――社会というもの――が存立するメカニズムを示している。すなわち物象化論は、規範的秩序(社会性そのもの)がいかにして成立するのかという社会学の根本的な問いと同型の問いに、別の仕方で答えようとしているのである。それは社会学にとって重要な意味をもつ試みだったのである。
†商品の成立から、言語記号の成立へ[#「†商品の成立から、言語記号の成立へ」はゴシック体]
廣松渉は『世界の共同主観的存在構造』で、商品の価値対象性の成立をもっと一般的な水準でとらえている。そこで廣松は、「物」(etwas) が、それ「より以上の物」(etwas Mehr) として立ち現われること、つまり「real」な物が「ideal」な意味を帯びて現象することを、物象化のメカニズムとしてとらえている。たとえば人間(主体)によるその都度の規定に先立ち、自然で自明な事実として、物が一定の意味や価値を帯びて存在していることである。それは「real」な物が、つねにすでにそれ「より以上の」物として、つまり「ideal」な位相を帯びて存立していることである。
物にとって「より以上の物」である意味や価値といった「ideal」な次元の形象は、共同主観的な構造、いいかえれば人びとの協働連関=交換のシステムの媒介を受けて成立している。意味や価値が「より以上の物」として通有していることは、そうした物が循環する領域が「共同主観性の場」として、つまりひとつの「社会」として成立している証しである。物象化とは本質的には「社会性の成立」を標識する現象である。それゆえ物象化と同じようなメカニズムは商品以外のものでも見られるはずである
実際、物象化と同じようなメカニズムは言語についても考えることができる。ソシュールの『一般言語学講義』によれば、言語は「記号」(signe) として、「意味スルモノ」(signifiant) /「意味サレルモノ」(signifie という二つの側面が結合したものである。このうち「意味スルモノ」(シニフィアン)という形式は、「音」という物質性の水準で分節される差異のことであり、マルクスの議論では「使用価値」に当たる。他方、「意味サレルモノ」(シニフィエ)という形式は、「意味」という観念の水準における差異のことであり、「価値」の次元でその一定の分量として規定される「交換価値」に相当している。「音」という物を通じて、シニフィアン/シニフィエという二重性が成立すること、それが言語記号における社会性の形態である。
どうして音がこのような言語記号と成りえているのか。この問いは物象化論と同じ構造をもっている。しかし言語の場合、重要なのは、シニフィアン/シニフィエがいずれも形式的な差異であるという点である。言語記号と商品の同型性を想定すると、商品の使用価値/交換価値も形式的な差異だということになる。すなわち、使用価値とはある物の実体的な具体性ではなく、それが使用価値のシステムのなかでもつ差異のことであり、また交換価値もいくらかの量の実体的な価値そのものではなく、それが交換価値のシステムのなかで占める示差的な位置のことにすぎない。こうした構造主義的な物象化論の読み直しは、柄谷行人が強調したことでもある。
†機能主義のブレークダウン[#「†機能主義のブレークダウン」はゴシック体]
機能主義的な社会学の文脈では、社会の成立は「ホッブズ問題」(「秩序問題」)として、自由な行為主体のあいだの相互作用の過程から規範的秩序が成立するメカニズムとして問題にされてきた。だが、「物象化」論では、社会の存立機制は、「物」がそれ自身「より以上の物」として立ち現われるメカニズムとして理解されることになる。物がその自然形態を上回る、「より以上の物」として立ち現われるとき、この「より以上の物」を生み出し、「より以上の物」に相当する共同主観的な意味の水準に「社会」があると考えるのである。したがって物象化のメカニズムが明らかになれば、「社会性の成立」という、社会学の根本問題にひとつの解答が与えられるわけである。
いわゆる秩序問題は、廣松渉の物象化論や見田宗介の存立構造論と決して別次元の問題ではなかった。物象化論や存立構造論は、デュルケーム/パーソンズのもとでは秩序問題の十分な解決ができなかったことから要請され、見いだされた理論と見ることができる。いわば「機能主義のブレークダウン」として、物象化論ないし存立構造論が出てきているのである。このブレークダウンの過程を端的に示しているのが、パーソンズの理論に準拠していた『価値意識の理論』から、マルクスの資本論に準拠する『現代社会の存立構造』にいたる、見田宗介の理論的な展開の道筋である。
『価値意識の理論』は機能主義的なシステム理論の立場から、価値意識の型を総合的に分類し、秩序づけている。これによって価値意識の比較社会学が可能になるし、また価値意識の差異にもとづいてさまざまな行為や社会システムの作動の仕方を分析することもできる。しかしながら、この価値意識の理論では説明できないことがあった。そこで記述され、分類される価値意識そのものはいかにして成立したのか、それが謎のままだからである。「価値意識は存在する」というところから出発して、その価値意識の分類や機能の分析が可能になる。だが、そのような「価値意識自体はいかにして存在するようになったのか」という問いが残り、この問いに答えようとしたのが存立構造論であった。
この問いに答えられなかったのは、むしろ価値意識の理論の準拠点となったパーソンズ自身の限界でもあった。パーソンズは価値体系の存立という問題、つまり秩序問題をうまく解決できず、結局のところ、「秩序」を超越論的な社会的事実として、一種の規範的アプリオリとしてシステム理論の内部にくり込むかたちになってしまった。これがパーソンズの「規範主義的偏向」である。社会的事実がどのように機能するのかは、機能主義的な分析で明らかになるだろう。だが、社会的事実がどうして成立するのかという問題は機能分析の枠を超えている。機能主義は機能=結果から物を考える知の様式だからである。
†デュルケームの問題[#「†デュルケームの問題」はゴシック体]
そもそもデュルケームはホッブズのいう「戦争状態」が社会状態の起源ではなく、そのひとつの結果であると考えていた(「ルソーの『社会契約論』」)。だから、戦争状態から秩序を導き出そうとするような「秩序問題」は擬似問題にすぎない。デュルケームが社会性の成立という問題に立ち向かう視点は、レヴィ=ストロースが批判的に継承したように、構造主義的な問題構成に近いものである。それは行為者の対立(戦争状態)のなかから秩序を導き出すという手法ではなく、共同主観的な形象(商品、言語、etwas Mehr、……そして近親姦禁忌)が成立することのうちに、社会性の成立を見いだすものである。
廣松渉がデュルケームに親近感を見いだすのも、またレヴィ=ストロースがデュルケームの問題を継承したのも、共通の動機があるといってよいだろう。それは両者がともに人間学的な主体の平面を去ろうとしているからである。秩序問題は、対立する主体から出発して秩序を導き出す可能性を探るが、そこでは出発点がその可能性を塞いでいるのである。問題はこの主体を抜き去って、社会性の成立を考えることである。デュルケームはこのような問題設定の大きな道筋をつけたといえよう。
デュルケームは『宗教生活の基本形態』その他で、社会的事実がいかにして成立するのかという問題に挑戦していた。それは社会学がカントの超越論的哲学をまったく異なる仕方でやり直すという課題と重なっていた。
デュルケームは未開社会で用いられるさまざまな分類体系や時間・空間などのカテゴリーを分析の対象とした。これらの分類体系やカテゴリーのはたらきは、カントのいう感性的直観の形式や悟性のはたらきに該当している。デュルケームからすれば、それらは未開社会の人びとの思考や行動を規制する社会的事実である。問題はこの種の拘束力をもった社会的事実(共同主観的な形象)がいかにして成立したのかという点にあった。
デュルケームは最終的には、社会的事実の拘束力(規範)を、それを生み出した社会集団の集合的な沸騰という情緒的で経験的な事実から基礎づけることになる。たしかに集団の情緒的経験・情緒的沸騰はそれ以上遡行不可能な社会性の原基のようにもみえる。だが、この社会的な生の原形質のようにみえるものも、視点を変えれば、集団の意識や心的な過程のひとつにすぎない。たしかにそれは集団という社会性が担保されていることの生々しい原点であり、社会的な存在のぎりぎりの発生現場ではある。しかし、これをすべての根拠として実体化すると、パーソンズと同じことがかたちを変えて生じることになる。その帰結は、規範の超越論性が解明されないまま維持されることである。
†物象化論の位置するところ[#「†物象化論の位置するところ」はゴシック体]
デュルケームの問題点はその「情緒の理論」にある。デュルケームの理論において、集団の情緒的な経験は、@他のすべての可能性の条件であるような根源的な事実であり、A集団の生々しい「経験」として実証的に言及しうる事実でもある、という二つの要請を同時に充たすものである。それは超越論的な関心と同時に、社会学的な実証主義を満足させるという要請に応えるものだった。だが、それは欲張りな理論であり、その裏返しとして次のような問題点をはらんでいた。
この「情緒の理論」は、第一に、「情緒」が輪郭の不明瞭な社会心理的な事実であるという欠陥をもっていた。レヴィ=ストロースは次のように述べている。
[#2字下げ]デュルケームが社会的秩序から範疇および抽象観念を派生せしめると主張するとき、この秩序を説明するべくかれが手もとに見いだすものは、感情、情緒的価値、ないしは伝染とか感染とかいう漠然とした観念だけになってしまう。
[#地付き](仲沢紀雄訳『今日のトーテミスム』みすず書房)
第二に、より根本的なことをいえば、デュルケームの理論構成は、情緒を根拠に据える「基礎づけの理論」になっている。根拠の位置に、集団の情緒以外の別のものを持ってきたとしても事態はさほど変わらない。いずれにしても「基礎づけ」という、カント以来の超越論的な問題構成の反復になってしまうからである。
見田宗介の存立構造論は、機能主義の系譜からマルクスの系譜へ軸足を移すことによって、こうした「基礎づけ」の問題構成を回避していく。廣松渉の物象化論でも同様である。これらの理論は、「基礎づけ」の根拠となる何か特定の審級――集合的情緒の経験、抽象的人間労働、(あるいは期待の相補性など)――を実体化するのではなく、むしろ歴史的な過程のうちにそうした実体を解体しようとするのである。廣松であれば、人々の社会的な労働が無意識のうちに形成する「協働連関」の過程を見いだし、この協働連関の過程から、ある種の実体化、つまり物象化が起こることによって、社会的事実が成立する――たとえば貨幣がふつうの商品より以上の物として通有すること、いいかえれば規範的な拘束力をもった社会的事実が成立する――ことを説明するのである。
物象化論は、それゆえ、社会的な事実の実体性をひとつの歴史的な過程に解体する。存立構造論も、社会的事実がひとつの物象として構築され、存立する過程を解明する。ここで日本の社会学的な思考は、デュルケームの抱えた問題を、マルクスの媒介によって位置をずらしながら継承していくという軌跡を辿っている。だが西欧では、マルクスを直接経由しないで、デュルケームの問題構成を解体しながら継承していく重要な試みがなされていた。それがレヴィ=ストロースの「構造主義」(structuralisme) であり、彼が理論的に重要な準拠点としたのはソシュールの『一般言語学講義』から発する思考の系譜であった。
[#改ページ]
第四章[#「第四章」はゴシック体] 構造主義[#「構造主義」はゴシック体]
――あるいは主体の不安[#「あるいは主体の不安」はゴシック体]
[#扉絵(img/face4.jpg)]
[#改ページ]
†野生の思考[#「†野生の思考」はゴシック体]
構造主義は柔らかな装いのもとに入り込んできた。『野生の思考』(La Pens仔 Sauvage) の表紙に描かれた「三色すみれ」(La violette tricolore : pansy) の花の鮮やかさが印象的であった。キャンパスでは大衆闘争や革命が声高に叫ばれる時代に、三色すみれの花は何か優雅なものを表象しながら、時代を相対化する知を運んできたのである。『野生の思考』は構造主義のブームに火をつけた著作だといわれる。だが、それは人類学者が未開社会を訪れ、トーテミズムに見られる思考――トーテムを操作媒体として世界を理解する分類学的思考のシステム――を見事に分析しただけという代物ではなかった。
[#挿絵(img/fig8.jpg)]
メルロ=ポンティの思い出に捧げられた、その書物の最終章、「歴史と弁証法」には、時代の指導的な知識人であったサルトルに対する過激な批判が書き込まれていた。レヴィ=ストロースは、サルトルの総決算ともいうべき『弁証法的理性批判』に込められた人間学や、弁証法や、歴史観に対して痛烈な批判を浴びせたのである。とりわけサルトルの「弁証法的理性」と未開社会の人びとの「野生の思考」の対比はいかにも興味深いものだった。レヴィ=ストロースは、弁証法的理性も野生の思考の一変種にすぎないことを皮肉な仕方で印象づけようとしたからである。
レヴィ=ストロースは、歴史的要因が社会の安定と連続性に及ぼす影響をほとんど自動的に消去しようとする「冷たい社会」と、西欧近代におけるように歴史的生成を取り込んで発展の原動力とする「熱い社会」を区別している。近代の歴史認識のように「家畜化された思考」は、野生の思考に根を下ろしているとしても、それを醸成する社会のありようは区別されるのである。冷たい社会に見いだされる「構造」は、決して主体の疎外に基盤をおく「実践的惰性態」のようなものではない。そこで社会は主体による弁証法的発展の過程にあるのではない。冷たい社会は神話と儀礼のシステムを通じて主体が関与的ではない構造の反復のうちに、つまり回帰的で循環する時間性のうちに存在している。
レヴィ=ストロースの批判はサルトルだけを対象とするものではなかった。より本質的なことをいえば、レヴィ=ストロースはそれまでの西欧近代の思考、つまりカント以来の理性や超越論的主体をベースに置いてきた思考の体制そのものに異議を唱えていたのである。それは超越論的な主体とその理性にもとづく「西欧中心主義」、あるいは「(西欧的な自己)民族中心主義」を根底から相対化することを含んでいた。階級闘争や革命の弁証法がいかに深刻であろうとも、それは人類の普遍的な問題というより、西欧中心主義的な思考の内部で醸成され、構築された争点にすぎない。人間はその倫理性を含めて、自分自身の内部にもっと本質的で未知の問題を含んだ存在であることが示されたのである。
レヴィ=ストロースの影響は、すでにフランスで知的な革新の波を引き起こすまでにいたっていた。レヴィ=ストロースの分析に見られる思考の様式は「構造主義」と呼ばれた。構造主義という枠のもとで、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ルイ・アルチュセールらの著作が受け入れられた。またジャック・ラカンの仕事もフロイトの解釈を通じて大きな影響力をもった。これらの著者による分析や方法論が大雑把に構造主義的と見られたのは、そこに共通の線分が走っていたからである。それは超越論的な主体をベースとして展開される近代の思考や人間学に対して「醒めた距離」を取り、あるいは相対化し、解体するという不安な志向である。
†構造の水準[#「†構造の水準」はゴシック体]
近代的な主体の哲学から距離を取るうえで、構造主義的な思考が重要な準拠点としたのはソシュールによる一般言語学の系譜であり、その記号論的な思考であった。とくに一九四二年から四三年にかけて、ニューヨークの高等研究自由学院でロマン・ヤコブソンの「音韻論」にかんする講義を聴いたことは、レヴィ=ストロースが『親族の基本構造』を書くうえで重要な意味をもったと考えられる。
人間が使う「言語」の基本的な特性は「二重分節」(double articulation) に求められる。レヴィ=ストロースによれば、二重分節をもつ「言語」を使いこなすことは、「近親姦禁忌」(incest taboo) を守ることと同じように、人間の人間としての本性、つまり「文化」を保持するうえで本質的なことと見なされる。社会学的な問題意識からすると、レヴィ=ストロースのいう「文化」とは、人間がルソーのいう「社会状態」にあることを示すものであり、人間における社会性の成立を意味するものといえよう。
[#挿絵(img/fig9.jpg)]
ヤコブソンによれば、言語の二重分節とは次のような構造のことをいう。すなわち、言葉は〈文→節→語→形態素〉という順でより小さな単位に分節されていくが、これらの単位はいずれも固有の意味作用をもっている。言葉はまず、@意味を有する最小の文法的単位(語根、たんなる接頭辞、接尾辞)、つまり「形態素」(morpheme) にまで分節される。だが、Aこの形態素もいくつかの「音素」(phoneme) に分節される。音素は意味の弁別に役立つ要素だが、それ自身はもはや有意味的な単位ではない。それぞれの音素はいくつかの「弁別特性」(trait distinctif) の束からなっている。この「二重分節」の過程をまとめると次のようになる。
[#2字下げ]「語」→@「形態素」→A「音素」(=弁別特性の束)
このように人間の言語は二重のレヴェルに分節される。すなわち、@「形態素」を基本単位とする有意味的な水準へ、Aそれ自身はもはや意味を有しない、「弁別特性」の束からなる音素の水準へ、というようにである。
意味作用の主体、いいかえれば主体の意識が関与しうるのは、形態素を基底とする有意味的な水準である。他方、音素の水準は、主体にとって無意識的な水準である。そこにはひとつの構造――音韻論的な構造――が存在しており、この「構造」は意味作用の可能性の条件として役立っている。社会学的な場に問題を移せば、言語のように有意味的な主体の行為に対して、その無意識の制約条件として機能している「構造」を抉り出し、解明することが重要な課題となるのである。
†音素と近親姦禁忌の機能的等価性[#「†音素と近親姦禁忌の機能的等価性」はゴシック体]
レヴィ=ストロースはこうした音韻論的な構造のモデルから重要なヒントを得ている。レヴィ=ストロースは、有意味的な主体の行為として、未開社会の親族集団における「女性の交換」行為、つまり婚姻行動を取りあげ、この交換行為の制約条件として作用している無意識の構造を解明しようとしたのである。
こうした女性の交換は「近親婚の禁止」を基本原則として構造化されている。たとえば、ある氏族の男性が別の氏族の女性を婚姻の対象として選ぶとき、それはたしかに有意味な行為である。性愛の領域であるから、そこには個人の主体的な選好がはたらき、またさまざまな感情や情緒もつきまとうはずである。しかし、こうした主体の意志や情緒を伴う選好の過程を通じて、しかも個々の主体の意志や感情が関与的ではない水準で、一定の構造が人びとの行動を規制しているのである。
レヴィ=ストロースは「音素」と「近親姦禁忌」(近親相姦の禁止)のあいだに機能的等価性を見いだした理由について次のように述べている。
[#ここから2字下げ]
音素と近親相姦の禁止といった観念がどんなに異質であろうとも、私が後者についてつくりあげようとしていた考えは、言語学者たちが前者に与えた役割から着想を得ている。固有の意味作用はないとしても、意味作用を形成するための手段である音素と同じように、近親相姦の禁止は別物と見なされる二つの領域のあいだの蝶番をなすように私には思われた。こうして音と意味の分節に、別の平面で、自然と文化の分節が対応したのである。
(ロマン・ヤコブソン著
『音と意味にかんする六つの講義』への
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]レヴィ=ストロースの序文)
音素は純粋に「形式」(forme) の水準にあり、それ自身は意味を担う単位ではない。だが、このように空虚な形式である音素は、コミュニケーションを打ち立てる普遍的な手段として、あらゆる言語に与えられている。レヴィ=ストロースによれば、「近親姦禁忌」も音素と同じ機能をもっている。近親姦禁忌もその否定的な面だけを見るなら、どの社会にも普遍的に存在する空虚な形式である。近親姦禁忌は人間の親族集団の分節を可能にする不可欠の条件であり、その積極面では、交換の具体的なシステムとして構造化され、それを通して集団相互のコミュニケーションが成立すると考えられるのである。
†近親姦禁忌の根源性[#「†近親姦禁忌の根源性」はゴシック体]
レヴィ=ストロースにしたがえば、人間の社会性というのは、人間が文化的な生き物である点に求められる。人間は自然状態にあるのではなく、文化の次元を生きている。だが、人間の生のありようが文化の次元を担保するには、つまり自然状態から文化への移行を果たすには飛躍が必要である。この飛躍を刻印し、担保するもの、それが近親姦禁忌である。レヴィ=ストロースは人間における社会性の成立を近親姦禁忌という規範の確立のうちに見ようとする。ここで重要なのは、近親姦禁忌が他のどんな社会的事実にも先立つ根源的な規範であり、それゆえ、他の社会的事実ないし社会規範――それらはすでに社会性の成立を前提している――からは導き出すことができないことである。
デュルケームは近親姦禁忌という現象を、「月経血」への恐れ、より本質的には「血」への恐れから導き出そうとした(「近親婚の禁止とその起源」)。それによると、各氏族の成員は自分と自分の氏族のトーテムとの実体的な同一性を信じており、血への恐れはこうした宗教的感情に由来している。この場合、氏族の成員は自分とトーテムとの実体的な同一性を象徴する「血」に畏怖の感情を抱くが、他のトーテムにはそういう恐れはない。つまり、自分と同じトーテムをもつ女性の血に対する恐れが、これらの女性との婚姻を忌避させるというわけである。婚姻は女性の月経時の出血によって男性を継続的に危機に晒すからである。
しかし、レヴィ=ストロースによれば、この血への恐れ、とくに月経血への恐れは決して普遍的な現象ではない。むしろ近親姦禁忌のほうが、月経血のタブーよりももっと普遍的で、根源的なタブーになっている。近親姦禁忌は、文化の出現、つまり社会性の成立そのものを刻印する根源的な規範だからである。月経血のタブーや死のタブーはすでに成立した社会性のもとではたらく規範のひとつでしかない。それゆえデュルケームの説明は本末転倒していることになる。
またデュルケームが社会的事実の基盤に据えようとした集合的情緒の経験は、そのような情緒の主体である人間集団そのものの成立を根本的な条件としている。だが、人間集団が一定の同一性をもって存続するということは、集団がその文化的な次元をすでに獲得しているということである。近親姦禁忌は人間の集団がこうした文化の次元を獲得するための根源的条件なのである。
しかも、近親姦禁忌というのはたんに性愛の領域にかかわる情緒的な反応のことではない。この禁忌はその積極面においては婚姻規則の分節・形成と深く結びついているからである。それは集団が世界について思考し、世界とのかかわりにおいて自己を了解するための知的な構造の成立と表裏をなしている。それは情緒ではなく、「知」の次元に属しており、知は人間の社会性の成立、そしてその同一性を担保する媒体である。この知は必ずしも文字を必要としない。その知はトーテミズムのような「神話的実践」のうちに活動している思考の営みであってよいのであり、それが「野生の思考」と呼ばれたのである。
†文化のもつ恣意性[#「†文化のもつ恣意性」はゴシック体]
近親姦禁忌はきわめて強い拘束力をもっており、人間の社会集団では普遍的に見られる規範である。この意味では、近親姦禁忌は人間の〈自然な〉属性であるということもできるだろう。だが他方で、近親姦禁忌は〈文化の〉範疇に属している。なぜなら、その禁忌は主体に対して性的に交渉可能な相手の範囲を厳しく制限するが、この制限は自然の次元のままでは検出しえない差異――性的に交渉可能な相手/性的に交渉不可能な相手の区別――にもとづいているからである。この差異が自然の必然性のうちにはないとすれば、それは文化のはたらきがもたらしているのである。
自然から文化への移行とは、自然のままでは弁別不可能な差異をつくりだし、その差異を自然のうちに刻み込むことである。このような差異は自然のなかには存在しないものであり、人間の集団的な営みがつくりだしたものである。こうした差異のシステム、それが文化である。近親姦禁忌とは、一方で、自然の次元に属すような普遍性をもつ現象であるが、他方では、自然にはない差異の運用をはじめることであり、文化の次元のはたらきである。要するにそれは、自然と文化の交わるところであり、自然から文化への移行を可能ならしめるものというわけである。
近親姦禁忌は、男性の主体を想定するとき、自然状態のままでは何ら差異のない女性たちを区別し、一方を「近親」として彼女らとの婚姻を強く忌避し、他方を「近親ではないもの」と見なして彼女らとの婚姻を積極的に肯定することを含意している。この区別は自然にもとづかないという意味で恣意的である。だが、どの文化にもこの区別が存在するという意味では普遍的である。このように普遍的現象であると同時に、恣意的な差異の運用であるもの、それこそが自然から文化への移行を標識しているのである。
†交叉イトコ婚[#「†交叉イトコ婚」はゴシック体]
レヴィ=ストロースによれば、近親姦禁忌の問題で、とびぬけて重要なのは「交叉イトコ婚」である。仮にある男性を基準にした場合、「交叉イトコ」とは、自分の母の兄弟(母方のオジ)の娘たち、あるいは自分の父の姉妹(父方のオバ)の娘たちである。前者は母方交叉イトコ、後者は父方交叉イトコと呼ばれる。これに対して、「平行イトコ」とは、自分の母の姉妹(母方のオバ)の娘たち、自分の父の兄弟(父方のオジ)の娘たちになる。前者は母方の平行イトコになり、後者は父方の平行イトコになる。
問題は、平行イトコ(従姉妹)との結婚を回避し、交叉イトコ(従姉妹)との結婚を選好する社会が多いことである。より原理的なことをいえば、イトコ(従姉妹)たちのこうした区別が、結婚可能な対象を規制する規則――つまり近親婚の禁止の積極面を具体的に分節する規則――の根底をなしていることである。
しかしながら、ある男性から見たとき、交叉イトコも平行イトコも、ともにイトコ(従姉妹)であることに変わりはなく、生物学的な血縁の濃さ(生物学的な親等)で見れば等距離にある。つまり両者との婚姻をそれぞれ優先あるいは除外する規則は、自然が課した区別ではなく、じつは文化がその恣意性のうちにつくりだした区別にもとづいている。レヴィ=ストロースはそこで考えねばならない問題を次のように説明している。
[#ここから2字下げ]
生物学的観点からすればある親族が等しい親等になるのに、なぜ社会的観点からすると全く異なったものと考えられるかを我々が理解するようになれば、そのとき我々は交叉イトコ婚の原理ばかりでなく、近親婚の禁止自体の原理をも発見したといい得るからである。
(馬渕東一・田島節夫監訳
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]『親族の基本構造』第9章、番町書房)
文化が自然のうえに刻みつけるこうした区別(交叉イトコ/平行イトコ)はただいたずらになされているわけではない。レヴィ=ストロースに従えば、こうした区別=差異化は、それを通じてある社会が女性を交換するシステムの基底をなしているからである。交叉イトコ婚において「交叉イトコが優先されるのは平行イトコが除外されるのと同じ理由による[#「同じ理由による」に傍点]」といわれるように、肯定的/否定的な二つの側面は別物ではなく、同じひとつのシステムの作動にもとづいている。こうしたシステムの作動を通してある社会性の場が分節されるのである。
†記号論的な形式としての構造[#「†記号論的な形式としての構造」はゴシック体]
レヴィ=ストロースが明らかにしたように、未開社会における人びとの婚姻行動における選好は、一見、主体的なもののように見えても、それは親族関係のシステムを分節化するものとなっている。この主体の意志や情緒をはらんだ行為の集合は、結果として、婚姻体系の規則を実現するものとなっているのである。
この規則の体系は一定の構造をもっており、さまざまに変形されてもその同一性を保っていると見なすことができる。すなわち、ある規則の体系が特定の部族(さまざまな氏族の集合体)の婚姻行動に対応しているだけでなく、一定の変形を加えると、他の部族の婚姻行動にも対応しているときがそうである。このように一定の変形を通じても、なお同一性を維持する関係の束(システム)のことを「構造」と呼ぶ。
たとえば二つの部族の婚姻規則の体系について、現象的には異なっているとしても、構造的には「同型」である可能性もある。構造とは一連の変形を加えてもなお同一であるような形式的な水準にある関係性の束(システム)のことである。レヴィ=ストロースは構造を形式的な「記号」の水準に求めており、ひとつの関数的な関係ととらえている。構造とは、さまざまに変形されても、その形式的な同一性(同型性)を保持しているような関係性のことをいうのである。
このような構造の分析により、異なる現象のあいだに「構造的な同型関係」を析出できれば、それによってさまざまな比較・推論が可能になり、未知の連関について発見をもたらすこともできる。また、構造が「形式的な記号の水準」に想定されるものとするなら、この分析手法は文化人類学以外の分野にも適用可能である。それはさまざまな文化事象、あるいは文学的資料やテクストについて、その記号論的な「構造」を分析する道をひらくことになる。レヴィ=ストロースの構造分析は文化人類学の領域に留まるものではない。記号論的な形式のレヴェルに射影可能なかぎり、さまざまな文化事象、社会現象が構造分析の適用範囲に入ってくるのである。
†構造と主体の不安[#「†構造と主体の不安」はゴシック体]
記号論的な「形式」の水準に照準していたことは、構造主義がひとつの学問領域を超えて大きな広がりを見せた理由のひとつである。たとえばロラン・バルトはファッションの領域でも記号論的な分析を展開した(『モードの体系』)。また、バルザックのような文学的テクストの領域にも分析の方向を伸ばしていった(『S/Z』)。だが、記号論的な形式の水準への志向は、たんなる分析の遊びではすまない。というのも、記号論的な形式の水準とは、主体の意識や選択が関与的でない水準だからである。この水準で分析を行うことは、主体のはたらきによって中心化できない世界、記号がそれ自身のうちでたわむれている不気味な世界に向き合うことだからである。
構造主義はひとつの流行でもあったが、同時にフーコーのいう、近代の目覚めた不安な意識を介して広がっていったのである。日本では、巷間、「記号論」と称しながら、主体の欲望をただ記号を用いて分節しているだけのものがほとんどである。それは主体の言説に安住しているのであり、構造主義が出会った不安とはおよそ無縁の人びとといわざるをえない。
構造主義の発想はもともとソシュールの記号論に依拠している。ソシュールによれば、記号とはシニフィアン/シニフィエいう二つの次元が結合したものである。言語記号の場合、記号は「語」であり、シニフィアンの素材となるのは「音」のように物質的なものである。シニフィエの素材となるのは「意味」のように理念的なものである。記号論が問題にするのは、これらの物質的な素材や意味の平面そのものではなく、それらの素材や平面を切り抜く差異の網目、つまり差異のシステムである。この差異のシステムは具体的な素材ではなく、それらに適用される「形式」(forme) の水準にある。
この形式の水準では、意味の形状に沿って描かれる具体的な主体の形象は括弧に入れられる。その代わりに、主体の選好や意識が関与的ではない差異のシステムが立ち現われる。このシステムは一定の構造をもっている。このシステムからみれば、具体的な意味の水準に描かれる主体の意識は恣意的な要素でしかない。さまざまな主体の恣意を通じて、彼らの意識しない水準に実現される整合性の秩序、それが構造である。おそらくこのような構造は社会生活のいたるところで見いだされる可能性がある。構造主義のまなざしが現代社会に差し向けられるのは、現代社会が主体の意識に還元できないものから成り立っているのではないかという不安の意識と関係しているのである。
†ポスト構造主義の第一のタイプ――経験論の更新[#「†ポスト構造主義の第一のタイプ――経験論の更新」はゴシック体]
構造主義の成功は、それに対する批判的な視点も用意した。構造主義が人間学に対する距離を取り、超越論的な主体を抜き去る努力をしたことは、ある意味で近代性の時代にとって大きな曲がり角がやってきたことを示している。主体と人間学の立場から、構造主義を非難するのではなく、むしろ構造主義の不徹底を乗り超えるような思考の波の高まりが出てくる。この思考の波をポスト構造主義と呼ぶことにしよう。そのうち、ここでまず取りあげてみたいのは、構造主義の問題設定に対する経験論的な地盤からの批判である。
構造主義はたしかに近代の、目覚めた不安の意識かもしれない。それは主体の意識や選好が恣意的なものに還元されてしまう空間に分析の目を向けていた。しかしながら、主体の問題が解消されたわけではない。ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが『ミル・プラトー』で構造主義の思考を批判したのは、それが超越論的な主体とのつながりを依然として維持しているからである。「構造」が超越論的な主体に代位し、新たな意味作用の可能性の根拠となっているからである。それはあの超越論的な問題設定を引き摺っている。超越論的な問題設定とは、カントにはじまり、デュルケームに経由された、経験の可能性の条件を確定するという「基礎づけ」の問題設定のことである。
構造主義においては、「構造」の概念が主体に代替するようになる。だが、それは主体を不在のかたちでだが、依然として維持している。これに対してドゥルーズたちは、構造を成立させる統合の次元を欠いた、つまり構造化されない、そして全体化しえない諸要素の組み合わせとして、「リゾーム」(rhizome) というモデルを提示する。社会的な現実や生の様態がリゾーム状の振る舞いをするとき、これらの経験を構造という枠のなかに投射して分析することはできないというわけである。
ジュリア・クリステヴァの場合も、『ポリローグ』その他で、構造主義が主体とは異質な生の様態を思考することを回避している点を問題にしている。「構造」は女性を交換する主体の意味作用の世界を可能にするものであり、その裏面で近親相姦を禁止している。他方、「文法」は語る主体の意味作用の世界を可能にするものであり、その裏面で死の欲動から眼をそらし、詩的言語を抑圧している。近親相姦の禁止や詩的言語の抑圧が閉ざしている経験の世界には、たんなる自然ではなく、しかも文化が隠している、異質な表現の層や生の様態があるのではないか。構造が成立するのは形式の水準だが、そうした形式では掬い取れない物質性の経験が存在しているのではないか。この種の問題意識からすれば、自然と文化の狭間にある経験や出来事の世界は、構造を主題化し、構造に焦点を置く考察の「余白」に置かれることになる。
†代補――構造を形成するメカニズム[#「†代補――構造を形成するメカニズム」はゴシック体]
ジャック・デリダは『差異とエクリチュール』に収められた論文で、構造には中心があるという。中心とはそのまわりの諸要素をたわむれのなかに導き入れ、構造を形成することを可能にする要素である。同時に、中心とは自分自身についてはいかなるたわむれも許容せず、むしろゲームがそこで停止するような点である。すなわち中心とは、構造を形成するたわむれを可能にしながら、それ自身は構造を形成するたわむれから逃れている特異点のことである。近親姦禁忌もこうした特異点のひとつである。それは文化というたわむれを引き起こすと同時に、文化の外、つまり自然の次元に身を置いているからである。
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性愛の領域に近親姦禁忌が課されることによって、婚姻行動にかんする規則の体系、つまり文化のゲームが成立することになる。近親姦禁忌はそこで「象徴価値ゼロ」の記号(ゼロ記号)としてはたらいている。ゼロ記号とは、それが指示する対象が存在しないような空虚な記号のことである。それは具体的に何も意味しないという意味では余分な記号である。しかし、その余分さは別の次元で役立っている。というのもゼロ記号は、意味作用のシステムがそこに存在していること自体を意味しているからである。意味作用を果たす記号のシステムには、象徴価値ゼロの記号という空虚で/余分な要素があらかじめ付加されている。
この空虚で/余分なゼロ記号の付加を、デリダに倣って「代補」(supplement) と呼ぶことにしよう。構造とそれを代補するものは、婚姻規則の体系と近親姦禁忌だけでなく、商品世界と貨幣など、種々の仕方で存在する。
構造が意味作用のシステムとして成立するものだとすれば、構造の外部にあると同時に内部にあるようなゼロ記号が代補されているはずである。逆にいうと、このようなゼロ記号を発見し、ゼロ記号が代補されるメカニズムを明らかにすることによって、構造の形成や構築状態が明らかになるということである。ひとつの構造が成立しているとき、それを「脱構築」(deconstruction) するとは、実質的には、構造を形成する代補のメカニズムを摘出し、明らかにすることになるだろう
†音声中心主義の批判[#「†音声中心主義の批判」はゴシック体]
ここでもし、このような「構造」形成のメカニズムを、未開社会の親族の世界ではなく、「西欧の形而上学的思考」の世界に当てはめるとどうなるだろうか。西欧の形而上学の世界もひとつの構造的な「閉域」(closure) をなしており、ある根源的な代補の作用を受けて成立しているとすればどうなるだろうか。この問いはきわめて野心的に見えるが、それ自体は、レヴィ=ストロースが見いだした論理の応用問題にすぎない。
デリダによれば(『グラマトロジーについて』)、西欧の形而上学的思考の伝統を貫き、本質的に規定しているのは、「ロゴス中心主義」(logocentrisme) であり、そのロゴス中心主義を保証する「音声中心主義」(phonocentrisme) である。もし西欧の思考の世界に、あの中心(特異点)があるとすれば、それは「ロゴスが真理を担保し、表現する」という考え方そのものだろう。ロゴスは論理であり、言葉であるが、このようなロゴスの現前を保証するものは「声」という媒体である。ロゴスは語られ、聴き取られることによって、自身の現前を実現するからである。ロゴスの現前を確実に保証する声の理想は、経験的な外部世界を経由しないという意味で、内面の独語、つまり語られると同時に聴き取られる沈黙の声である(『声と現象』)。
デリダによれば、ロゴス中心主義、そして音声中心主義は、レヴィ=ストロースの構造分析においても核心的な役割を果たしている。そこでは音韻論的構造がひとつの範例として用いられているからである。問題は、こうした音声=ロゴス中心主義が排除し、貶めているものであり、それはエクリチュール(書くこと、書き言葉)と呼ばれる。音声中心主義は、ロゴスの現前を保証する音声(語ること)を第一次的なものとし、エクリチュール(書くこと)のはたらきを代替的で、不完全で、二次的なものと見なすからである。
音声=ロゴス中心主義は、エクリチュールのこうした貶価や抑圧によって成立している。エクリチュールは紙や、色や、染みやらがつくる記号的標識から織りなされている。音声=ロゴス中心主義からすれば、それらの代替的な記号のたぐいは、真理をはらんだロゴスを語ると同時に聴き取る内面的な直接性の場の外部に存在するものである。エクリチュールは世界という外部性を経由する不完全な経験でしかない。だが逆にいうと、エクリチュールは不吉な脅威でもある。エクリチュールは、それを書いた主体が不在でもそこに存在しているからである。もし、ロゴスが現前する親密な同一性の場が、つねにすでに、こうした外部の代補によって成立しているのだとしたらどうなのか。デリダの問いはこうして音声中心主義の脱構築に向かうことになる。
†ポスト構造主義の第二のタイプ――批判的政治学への転回[#「†ポスト構造主義の第二のタイプ――批判的政治学への転回」はゴシック体]
レヴィ=ストロースが分析した近親姦禁忌は、音素と同じようなはたらきをもち、基本的には音韻論的な構造を形成する。しかしデリダによれば、この構造は西欧の思考そのものを規定する根深い構造に由来している。デリダが批判するのは、@この根深い構造の構造性と、Aその植民地主義的な運用についてである。「構造」の概念は西欧の思考の歴史が依拠している音声=ロゴス中心主義を体現している。これを未開社会のさまざまな部族に適用し、彼らの生活実践のなかにそうした構造を見いだすことは、まさに西欧自身の「民族中心主義」(ethnocentrisme) になる。
右に述べたデリダの批判のうち、とくにAの部分の視点は、その後の批判的な理論や文化の研究に継承されていく。この視点は西欧の自己民族中心主義、植民地主義、あるいは西欧世界自身においても、男性中心主義(ファロス中心主義)など、さまざまな中心主義を批判し、解体する試みとして継承されていくのである。そこでの問題は、このような中心を解除すること、脱中心化ということになる。それは構造の構造性を相対化し、解除するという意味では脱構築と呼ばれて然るべきだろう。
この種の批判的な政治学は、構造主義・記号論が後退する一九八〇年代後半から九〇年代にかけて繁茂していくことになる。それは一方でマルクス主義と結びつき、他方で社会史や歴史社会学と結びついて、批判的言説の諸形態を展開することになる。ポスト構造主義の批判的な政治学への転回を用意する重要な軸線は、デリダによる音声=ロゴス中心主義への批判にあったといえよう。フーコーの権力分析があれほど受容されたのも、ある種の緊張関係にあった記号論と政治学の対立の場を逃れ、政治学のほうへ問題意識を移動させる大きな潮流があったからである。
フーコー自身においても、『言葉と物』や『知の考古学』から、『監獄の誕生』や『知への意志』にいたる過程で問題構成の大きな移動があった。この移動は、フーコー自身の意図とは離れていたとしても、ポスト構造主義の思考の場を記号論から批判的政治学へと転回させていくときの権威あるモデルとなったのである。デリダの音声=ロゴス中心主義に対する批判は、マルクス主義に回帰する大きな潮流に支えられ、またフーコーの権力分析を平板化しながら取り込みつつ、政治学的な批判の諸形態を繁茂させる源泉となった。しかし、そこにひそむマルクス主義に悩みが多いとすれば、この潮流は脱中心化というベクトルを呑み込んでおり、批判はもはや全体の展望を与ええず、分散したかたちでしか可能でないことである。
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第五章[#「第五章」はゴシック体] ミシェル・フーコー[#「ミシェル・フーコー」はゴシック体]
――系譜学のまなざし[#「系譜学のまなざし」はゴシック体]
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†『言葉と物』という書物[#「†『言葉と物』という書物」はゴシック体]
ミシェル・フーコーは、サルトル以降もっとも影響力ある知識人の一人となったが、彼を著名にしたのは『言葉と物』だろう。それはきわめて専門的な書物であるにもかかわらず、ベストセラーになった。だが、そうなる理由もあった。『言葉と物』は、@生物学、経済学、言語学の領域に及ぶ広範なディシプリンの歴史にかんして「横断的な展望」をひらく書物であり、その展望を通じて、A「人間とは何か」という根源的な問いにかつてない仕方で答えるものだったからである。またそれは、B冷徹であると同時に、躍動感のある若い文体で書かれていた。Cイデオロギーの終焉がささやかれる時代のなかで、『言葉と物』は「構造主義」の代表的な著作とみなされたのである。
『言葉と物』という書物について、吉本隆明氏――吉本氏はフーコーと対談したことがある――から聞いたことがある。あれはレーニンの『国家と革命』のように使い方によっては大変な書物になる、と述べておられた。サルトルのような人間学的マルクス主義に傾斜した知識人からみると、『言葉と物』は実践の場から遊離したテクノクラートのイデオロギーのように思われたかもしれない。だが、サルトルの批判はそこで提起された問題の深さを見逃している。吉本氏は、『言葉と物』がある原理的な実践の書物であることを見抜いていた。もっとも今のところ、その原理的な実践に呼応するような熱い解読が行われた形跡はまだない。それはむしろ難解で、知的な芸術作品のように了解されてしまった観がある。
しかしながら、『言葉と物』は紛れもなくフーコーの代表作であり、その可能性の核心に位置している。その基本ラインは、構造主義的な分析の手法を西欧のルネサンス末期以降、古典主義時代を経て、現代――というより近代性の時代――にいたる「思考のシステム」の歴史に適用したもののようにみえる。西欧の思考のシステム、もしくは「知」は、どのような布置を取り、どのようなかたちで変容していったのか。それがフーコーの問いである。そこでは思考のシステムが全体として自律的な変化を遂げていること、また諸個人の思考もこのシステムの拘束力の場で営まれていることが明らかにされた。
たとえば「人間」(l'homme) というのも、このような思考のシステムのある布置のなかで浮かびあがり、また別の布置では消えていく形象である。ある時代の思考のシステムの基本的な布置をフーコーは「エピステーメー」(姿ist士・ と呼ぶ。「人間」がひとつのまとまりをもつ基礎的な主体として浮上してくるのは、古典主義時代が終わり、一九世紀初頭の近代性の時代になってからのこと、つまり近代性の時代に固有のエピステーメー――「有限性の分析論」として定式化される――のもとにである。それゆえ近代性の時代が終わり、エピステーメー、つまり知の布置が変わると、今日知られる「人間」という形象も砂浜に描かれた顔のように消えていくというのである。
†権力の問題系へ[#「†権力の問題系へ」はゴシック体]
『言葉と物』という作品は決して唐突な仕事ではなく、むしろ社会学的思考の伝統を踏まえたものになっている。コント、デュルケーム、レヴィ=ストロース以来、人間の社会性を刻印する根源的な拘束力のありようは「知」という水準で分析されてきたが、フーコーもまたこの問題意識を継承しているからである。レヴィ=ストロースは未開社会の知(野生の思考)を対象として社会的な拘束力のはたらき方を明らかにした。他方、フーコーは西欧文化における「知」(les connaisances) の変遷を問題にし、その歴史のなかに構造的な変形と切断の関係を発見していく。重要なのは、こうした変形や切断がどんな主体の意図にも還元できないことである。
しかしながら、英米系の世界に与えた影響という点では、『言葉と物』よりも、その後に書かれた『言説の秩序』や、『監獄の誕生』、『知への意志』のほうが大きいだろう。それらの著作はフーコーがコレージュ・ド・フランスの教授になった後に書かれたものである。フーコーの仕事は、@真理の問題系、A権力の問題系、B自己の問題系、と大きく三つのグループに分かれるが、一九七〇年代のこれらの著作は「権力の問題系」に属し、権力の分析論として書かれている。
思考は具体的には「言説」として存在する。だが、『言葉と物』はこの言説の存在を分析の射程に収めながらも、言説が出現すること自体をうまく説明せずに終わっている。そのことに関連するさまざまな批判や反省は、フーコーに根本的な問題設定の移動を促したといえよう。フーコーが言説の存在や出現を媒介する「力の関係」に強く着目するのは一九七〇年前後からであり、それは「権力分析」というかたちに結実する。
『監獄の誕生』や『知への意志』でフーコーの権力分析が見いだした歴史的なパースペクティヴはおよそ次のようなものであった。すなわち、近代社会は、通常、それまでの絶対主義的な権力からの解放の歴史であり、市民社会の実現、そして個人の自律と主体化のプロセスとして理解されている。それはヒューマニズムと結びついた理想的な価値の追求と見なされるものである。しかしながら、フーコーはこうした近代社会のありようを根底から見直し、近代社会が暗黙裡に内包する権力の「暗い土壌」とその危険な性質を見事に可視化したのである。
†権力分析という視点の魅力と陥穽[#「†権力分析という視点の魅力と陥穽」はゴシック体]
権力の分析論として書かれた諸著作では、人間性、個人の自律、主体化という回路を通じて、じつは近代社会に固有の隠微で精緻な権力のメカニズムが作動していることが明らかにされた。フーコーによれば、われわれは権力にかんする前時代的な錯覚――マルクス主義はしばしばそうした錯覚に囚われている――を取り除くべきである。権力の概念を吟味しなおし、近代社会の民主的な権力のメカニズムの実態に改めて光を当ててみる必要がある。実際、民主的な権力の過剰ないし延長として、ファシズムのような権力の病いが発現しているのである。
しかしながら、フーコーが提示した権力批判の新しい視点は決してそのまま伝わっていかなかった。フーコーは権力概念を根底から更新することの必要性を訴え、それによってマルクス主義との切断線をくり返し強調していた。だが、多くの人びとが受け入れた権力の分析論はマルクス主義の地盤に回帰していくものであった。すなわち自己と他者の二項対立――ブルジョワジーと労働者の階級対立を基本モデルとし、マジョリティとマイノリティ、本国と植民地、大人と子ども、男と女、壮年と老人、健常者と障害のある者、健康なものと病んだもの、理性と狂気……などの二項対立――において権力を問題化するような試みが無数に蔟生していったのである。
こうした問題化では、権力のゲームは、「自己」(ブルジョワジー、マジョリティ、本国、大人、男、壮年、健常者、正気、……といった強者の系列)と「他者」(労働者、マイノリティ、植民地、子ども、女、老人、障害者、狂気、……といった弱者の系列)の二項対立を自明視したゲームに還元されていく。そこでは自己が他者を抑圧し、排除することによって自己の同一性を維持していることに、権力関係の実質が求められる。またそうした権力関係を暴きだし、自己の同一性を批判的に相対化すること、これが権力分析の課題となる。
ここでは分析の営みが社会問題に対する批判の意識に直結しており、ほとんど目的論的な構成になっている。社会学における機能主義も、その目的論的な構成のために、はじめから予期されるものしか発見しないという欠陥があった。この種のマルクス主義的な権力分析も同じような陥穽に落ち込んでいるのである。
†権力の実体化――マルクス主義の緩和された反復[#「†権力の実体化――マルクス主義の緩和された反復」はゴシック体]
二〇世紀後半になり、ブルジョワジー対労働者という、マルクス主義が強調した一九世紀的な対立の物語は後退していった。そのため、対立の物語はより小さなものに「差分」されたかたちで設定される。たとえば労働者という大きなカテゴリーではなく、同じ労働者でも、男と女、壮年と老人では条件が違うというように、「新たな対立の条件となる差異を分節していく」わけである。二〇世紀が一九世紀を反復するのは、こうした差異の分節、つまり差分という形式においてである。この差分によって、革命という大きな物語は個々の社会問題の改革というかたちに姿を変えて反復されていく。
アメリカ社会はマルクス主義に対して敏感かつ攻撃的であるため、マルクス主義は正面からではなく、より緩和され、差分されたかたちで、つまり多様な社会問題の批判や改革というかたちで受け入れられていく傾向がある。フーコーの権力分析が受容されたのも、差分されたマルクス主義の粒子が堆積する知的土壌においてである。さまざまなかたちに差分された、二項対立の権力を実体化する知的土壌のなかで、フーコーの問題提起は半ば換骨奪胎されながら受け入れられていったのである。
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こうして成立する権力分析は、ブルジョワジー/労働者という経済学批判のための関係を、国民国家のような主体が発動する政治的文脈にずらし、本国/植民地という権力関係を分析の基本モデルとしている。二項対立における弱者は、強者によって「植民地」化されていると見られる。たとえば第三世界は先進国の、狂気は理性の、女は男の、そして子どもは大人の植民地にされてきたというわけである。ポストコロニアリズムはこうした権力関係を暴きだす。その意味では、男女の役割関係の差異に焦点を当てるフェミニズムも、文化の階層的な差異や政治学に焦点を当てるカルチュラル・スタディーズも同型の批判的図式を運用している。
これらの図式では、弱者の側の抵抗も考慮されるが、基本的には強者の政治学がヘゲモニーをもって世界を維持していることが強調される。しかしながら第一に、こうした政治学的な厚みや奥行き――それは植民地・属領といった基本的にはマルクス主義的概念によって単純化されているが――だけから社会現象が構成されているわけではない。政治的な空間が単純化されると同時に、現象を成立させている社会的な拘束力の空間、あるいは認識論的な空間に根ざす問題は二次的な場所にすべり落ちていく。ここには政治学的転回というよりも政治学的な抽象があり、それは構造主義の不安以前の、心地よい眠りの時代への回帰となっている。
第二に、こうした植民地化・属領化の権力関係は、当事主体の政治的な意識や意図を支えとしているが、それらはたいてい功利主義的な振る舞いをすることが予料されている。つまりマルセル・モース、あるいはバタイユが問題にした、「社会論理」と呼んでいいような奥行きはたいてい凍結されている。問題は功利的な主体の表象の平面に立てられており、その意識、意図、イデオロギーが説明の準拠点になる。そして環境、制度、組織といった多少とも客観的と見なされる構造的な要素が補完項として外から挿入される。これはおおむねマルクス主義の構図に収まるものであり、権力の分析論は主体と制度の弁証法のなかに倒れ込んでいくことになる。
†フーコー自身の問題点[#「†フーコー自身の問題点」はゴシック体]
フーコー自身は、こうしたマルクス主義への回帰や政治学的抽象とは異なる志向性をもっていた。ただ、理論がある種のわかりやすさをもって広がっていくとき、こうした変形はつきものなのかもしれない。とりわけ、それがアメリカという知的土壌のなかで性急に受け入れられたことが不幸であった。だがそれとは別に、フーコー自身の権力分析について考えてみなければならない。そうするともっと重要な問題が浮かびあがってくる。
それは彼の権力分析の主題が「主体化」(assujettissement) のメカニズムにあることと関係している。フーコーは近代社会における主体の自律を問題にし、それが権力の執拗な媒介を通じて、権力の関係を個人のうちに内面化することによって成立するという。個人の内面に及ぶ執拗な配慮――これは同性愛への圧力に悩み、自殺も考えた若い時代のフーコー自身の権力像でもあったろう。
問題は、こうした権力と主体の離れがたい双数的関係であり、対抗しながら密着しあう共棲の関係にある。それは次のような循環論的な構成となって現われる。すなわち、主体の意識は権力関係の装置が生み出す効果であるが、同時に、権力関係は主体の意識をその一部として動員しながら作動するという構成である。そこで主体は、権力の装置の「部分」であると同時に「効果」であるという、矛盾した、あるいは奇妙な二重性をもっている。この規定によれば、主体は装置の作動に「先行する」と同時に、装置の作動に対して「事後的」なものとなるからである。ジャック・デリダの言葉を借りれば、主体は権力の装置を「代補」(supplement) するものとなっている。
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たとえば『監獄の誕生』で「従順な身体」というテーマが取りあげられている。この従順とはどういうことか。それは監獄のシステム、つまり規律訓練の装置によって、逸脱や非行のない、社会的に従順な身体をつくりあげるという意味である。この規律訓練の装置が素材として受け取る身体はまだ従順ではない。それは反抗する身体であったり、粗野な身体であったりする。規律訓練の権力の装置はこうした野生の身体を取り込んで従順な身体にするものとされている。しかし、一体いつ、どのようにして、野生の身体は従順な身体に移行するのか。つまり身体はいつ規範的な社会性を帯びることになるのか。この問いは社会学がずっと考えてきた秩序問題のひとつの系である。
この点を探っていくと、フーコーの権力分析では、野生の身体そのものにある種の従順さ、「原−従順さ」というべきものが見込まれていることがわかる。それは社会学でいえば、身体における社会性の成立を説明するのに、すでに「原−社会性」が身体に書き込まれているというような想定に等しい。しかし、この「原−社会性」はどのようにして書き込まれたのかと問うと、それは身体に「代補」されていると答えるほかはない。すなわち規律訓練以前には、社会性はまだポジティヴには到来していないが、その痕跡である「原−社会性」はすでに認めることができる。規律訓練により、いずれ社会性が到来し、その痕跡のうえに易々と書き込まれるというわけである。
†言説分析を動機づけるもの――ニーチェのまなざし[#「†言説分析を動機づけるもの――ニーチェのまなざし」はゴシック体]
フーコーの権力分析は、しばしば言説分析と同一視される。権力分析は非言説的な、制度的実践の分析も含んでいるのだが、その方法論が整備されていないので、しばしば制度的実践は制度的実践について語られた言説の次元に還元される。そうして結局のところ、言説の分析だけが残ることになる。とりわけ歴史的な資料は言説のかたちを取って残っているので、言説分析は歴史社会学という衣裳をまとって立ち現われることになる。だが、ここにも大きな難関が待ち構えている。言説分析と称しながら、実際にはいくつかのテクストを人間学的に解釈したり、マルクス主義的に解釈したり、あるいは機能主義的に解釈したり、政治学的に解釈したりと、さまざまなかたちの解釈学に倒れ込んでいくからである。
そういう意味では、今日、言説分析と称するものの多くが、分析する者の恣意的な解釈学に終わっているのが現状である。しかも実際の制度、行動、出来事といった次元に触れないで、何かを語ろうとする臆病で、不毛な努力に陥っている。それは自分が(恣意的に)切り取ったテクストを解釈し、またその解釈を解釈するといった自己言及にのめり込んでいき、この解釈の反復をどこかで(恣意的に)切り上げることで終わっている。この切り上げの根拠として導入されるものは、下部構造のような経済学的準拠枠であったり、国民国家や近代家族のような政治的主体であったりとさまざまである。
「社会構築主義」(social constructionism) の場合もよく似た問題を抱えている。社会構築主義は、ある現実が社会的に構成されたものだということを明らかにしようとする。だが、S・ウールガーとD・ポーラッチによれば、それは「客観的な存在」として実在する事柄をどこかに設定しており、それとの対比ではじめて有効な主張にすぎない。彼らはこの点をとらえて「存在論的ゲリマンダリング」が行われているという。構築された現実とは別に、「客観的な存在」をどこかに担保しておく線引きは、研究者の恣意(主体の意思)によるのか、研究者が属す集団の恣意(集団の規範)によるのかのいずれかである。そこでは、現実は主体の恣意的な表象に還元され、言説はその恣意的な表象の媒体でしかないのである。
他方、フーコーが考えた言説分析には一定の手続きがある。それは言説を扱うさいに、言説の主体というものを前提しないことを基本的な条件としている。言説を語る具体的な当事者がいるとしても、それは言説そのものを生み出した創設的な主体ではない。フーコーの言説分析では、言説は主体に先行する実定性であり、「歴史的先験性」の相にあると見なされるからである。この見方は、「言説」をテクストのように何かを意味するもの(語る主体の表象)と考えることを退ける。テクストとは言語の意味表示的な組織のことにすぎず、テクストに対してはその意味を解読することが課題になる。だが、言説はテクストではない。言説とは、言語の意味する次元ではなく、言語の存在条件、つまりある言語が存在するためにそれを支えている具体的な条件の総体を指しているからである。
言説にかんするフーコーのこうした発想は、ニーチェの「系譜学」(Genealogie) から来ている。ニーチェは形而上学的な存在論を退け、あるものがいかにして存在するようになったのか、その系譜を明らかにすることを課題とした。系譜学とは、物事の生成、由来、つまり物事が存在するようになった歴史的過程を明らかにすることを任務としている。たとえば道徳の系譜学は、キリスト教道徳――その「善」、「良心」、そして「禁欲主義的理想」――の歴史的系譜、つまりその暗い土壌を明らかにした。こうした系譜学的な問題関心を言語の存在に差し向けるとき、「言説分析」への道がひらかれる。ある言説について、その起源や原因、あるいは創設者となる主体(の意図)を探るのではなく、それ固有の分散状態のままにおいて、その出現の様態を明らかにすること、それが言説分析の動機なのである。
†言説分析の基本枠組[#「†言説分析の基本枠組」はゴシック体]
言説分析の視点は知識社会学のそれと似ているように見えるかもしれない。しかし、よく考えてみると重要な違いがある。知識社会学は知識の「存在拘束性」(Seinsverbundenheit) を明らかにするが、その発想のモデルはマルクス主義におけるイデオロギー論にある。マンハイムにおけるように、知識社会学の問いの核心にあったのは知識人の責任という問題である。知識社会学の反省的まなざしがこだわっていたのは、左翼であれ、右翼であれ、知識の主体にかんする問題であり、誰がどのような位置から語っているのかという問いである。そこで存在というのは、知識の主体を制約する条件のことである。知識の「存在拘束性」とは、歴史的・社会的条件における主体の位置が、主体の知のありようを拘束するということである。このように知識社会学は知と存在のあいだを「主体」の概念で結んでいる。それは知識人という主体(の苦悩)を自己反省の形式を通じてなお維持しようとしているからである。
だが、言説分析はこのような「主体」の問題を取り扱わない。言説分析が問題にするのは主体の存在条件ではなく、「言説」の存在条件である。言説はひとりの主体が生み出すものではない。言説というのは、デュルケームが問題にした集団の「自殺率」のように、個人の語りではなく、一定の広がりをもった社会の関数として存在する語りのことである。言説分析にとって、個別に特定の人間の言説を問題にすることはほとんど意味がない。ある社会的な言説の布置の総体を問題にするとき、はじめて言説の規則性や希薄性が浮かびあがってくるからである。それらは個人的現象ではなく、社会的事実なのである。
もうひとつ重要な点は、ある社会における言説の布置を問題にするとき、言説が何を意味するのかだけを見ていてはならないことである。言説分析とは、言説の意味を理解することではなく、言説の同一性をその言説機能におい把握し、分類し、またその規則性を発見しようとするものだからである。だが、ここでいう言説機能を「〜のため」という言説の目的論的な意味と考えると、ふたたび誤りをくり返すことになる。たとえば「人間味豊かな言説が人間性を否定するために用いられた」という場合、言説の意味と機能はたしかに異なっている。だが、そこで考えられている言説の機能は言説の外部に立つ主体が目的論的に付与するものでしかない。これだと言説はイデオロギーとほとんど等価なものに還元されてしまう。
言説はこうした目的論的な主体に先行する場でとらえられねばならない。言説機能とはその言説を出現させ、その言説の存在を支える「系譜学的条件」のはたらき方のことであり、この系譜学的条件の布置を確定することが言説分析のベースになる。
それゆえフーコーの言説分析では、@言説を個人的なレヴェルではなく、「社会的事実」の水準で問題にし、A言説が意味することではなく、言説の「系譜学的条件」を確定することが、基本的な枠組を構成する。まず、言説はそれを語る個々人の意図や意識とは別に、他の言説との隣接関係、つまりその「集合的な連関」において同定されねばならない。次に、そのような言説の出現や機能状態を支えているいくつかの系譜学的条件を明らかにし、これによって言説の同一性を確定しなければならない。この二つの問題を確定することにより、言説の歴史的な変容のプロセスを分析する道がひらかれることになる。
†言説とテクストのずれ[#「†言説とテクストのずれ」はゴシック体]
『言葉と物』はおおむねこうした問題枠組で作業をしていたといえよう。だが、その書物は膨大なテクストを扱い、それらの意味の次元を問題にしているような誤解を受けた。それはテクスト的な意味の次元が言説の系譜学的条件と無縁ではなかったからである。『知の考古学』によれば、言説の同一性を確定するための系譜学的条件として、@言説の隣接関係、A言説を語る主体の制度的な場所、B言説の関説領域、C言説の物質的基盤、の四つが挙げられる。誤解が発生したのは、このうち@やBにかんする分析は、言説の意味作用の確定とある程度まで重なっているからである。
言説の同一性は、テクストの同一性にかんする条件を含んでいる。だが、言説の系譜学的条件はテクスト的な意味の次元に収まり切るものではない。それゆえ言説の同一性の基準は、テクストの同一性の基準と同じではない。たとえばマルクスから見れば、アダム・スミスとデーヴィッド・リカードは同じように国民経済学の系譜に属している。彼らの言説は価値の源泉を労働に求めており、その意味で両者は同一のテクスト群に属すからである。だが、言説分析の視点からすると両者のあいだには重要な断絶がある。スミスとリカードでは、彼らが語るテクストの系譜学的条件が質的に異なっているからである。
すなわち両者のあいだでは、テクストの同一性の下地にある労働の概念に大きな差異が存在する。リカードでは人間の有限性を台座にしてはじめて成立する労働の概念が機能している。彼のテクストはスミスのそれと類似していても、それを支える系譜学的条件はスミスのテクストが基盤にしていたものと異なっているのである。
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フーコーにとって言説とは、テクスト、つまり何かを意味する文や命題そのものではなく、それらの文や命題の出現・存在を支える機能的条件のことである。言説とはある種の機能的な営みのことであり、一定の文や命題群を蔟生させる個性的な場のことである。言語の奇妙なヴォリューム、言説という独自な位相、そしてテクストを支える系譜学的な場の発見は、ニーチェ、そしてレーモン・ルーセルの作品を介した、フーコーの功績であるといえよう。フーコーの言説分析とは、その系譜学的条件における言語の同一性の確定、および変容の測定にかかわる仕事である。この同一性の拘束力や変容の諸様態は、歴史の世界に大きくうねる、社会的なものの力をまざまざと見せつけることになるだろう。
†言説が変容するということ[#「†言説が変容するということ」はゴシック体]
言説の変容の例として、『臨床医学の誕生』はその冒頭できわめて興味深い場面を取りあげている。それはある病状にかんする二人の医師の記述の差異、またそうした記述の差異をもたらした彼らのまなざしの差異をとらえたものである。ひとつは、古典主義時代、一八世紀半ばの医師P・ポンムが「ヒステリーの女性患者」を治療するさいに残した文章である。もうひとつは、近代性の時代、一八二五年に、医師A・L・J・ベールが「進行麻痺」における脳と脳膜の解剖学的損傷について描写した文章である。
フーコーによれば、この二人の医師の文章(=テクスト)のあいだの差異は、ごく小さなものに見えるが、じつは構造的なものである。一九世紀の医師、ベールの文章における記述は単語のひとつひとつが、その質的な精密さによって、われわれのまなざしを「恒常的な可視性の世界」(un monde de constante visiblite に導いていく。他方、一八世紀の医師、ポンムの記述は知覚の支えのない「心象」(des fantasmes) の言葉を語っていく。一八世紀の医師は何よりも患者が苦悩する心象の世界を見ているために、自分の眼が見ているはずの事物の世界をありのままに見ていなかったのである。
一九世紀の医師のまなざしはある実証的な知覚の空間にひらかれている。だが、それは一八世紀の医師が見ていた暗い心象の世界が消えてしまったことを意味しているのではない。苦痛にみちた表象は、患者の独自性のうちに、つまり彼らの主観的症状のうちに封じ込められたのである。その代わりに実証的な医学のまなざしが対象化した、客観的な表象が記述のうちにもたらされる。要するに、肉体とまなざしの交叉する空間のなかで、客観的な知覚と心象という二種類の表象の「配分の仕組」が変わったのである。
二人の医師は患者に対してそのまなざしを向けるところがまったく違っている。ここで重要なのは、百年たらずのあいだに、医学的なまなざしが世界を表象する仕組が変わってしまったことである。言説分析の視点からすれば、一八世紀と一九世紀の医師のあいだでは、彼らのまなざしや、それを追う言葉を支えているもの、つまり言説の構成が異なっているのである。だが、医学的言説の座標系が根底から変わったと言えても、その変容がどうして起こったのかはわからない。ひとつの理由は、ある座標系にもとづく知の空間が踏破しつくされたことであろう。だが、それが必ずしも劇的な変容をもたらすとは限らない。ある種の反復が生み出されるかもしれないからである。
†知の社会学に向かって[#「†知の社会学に向かって」はゴシック体]
重要なのは、前記のいずれの医師も、ある知の拘束力の圏内で、いいかえれば言説の制度のうちでまなざしを行使し、患者の様態を記述していることである。この拘束力は知そのもののうちにあるのだろうか。この問いの答えは半ばイエスであり、半ばノーである。というのは、知とはその具体的実態においては「言説」のことであり、言説とはテクスト的な意味の次元だけでなく、共在する言説群との関係、語る主体の場所、言説の物質的な媒体などの相関項をあわせもった、多面体になっているからである。知は言語的なテクストだけでなく、制度的空間、権力関係、メディアなどの領域に通じている。知は言語表現の領域だけに自閉しているのではない。言語表現にはそれを支える社会的な変数が関与しているのである。
ニーチェ/フーコーによれば、知は意味の次元に自足する営みではなく、言説として存在する。そして言説とは、それ自身のうちに他の言説や、制度や、権力関係や、メディア論的関係を含み込んだ社会的関数として存在している。知識社会学はこの複合的な関数を、「語る主体」という準拠点に集約し、この主体を拘束する社会的条件から解読しようとする。だが、フーコーの言説分析はこの「語る主体」の特権性を解除することからはじめる。そこで知は個人の所有するものではなく、また個人の内面を構成する私秘的なものでもなく、むしろ「社会的事実」として主題化されるべきものである。
もちろん、ここにはふたつの危険な陥穽がひそんでいる。というのは、@言説を貫通する制度や権力関係を抽象的に実体化すると、言説分析は簡単に「知識社会学」になり、イデオロギー分析になってしまうからである。また他方、A言説を貫通する他の言説との連関や隣接関係、あるいは言説の関説領域にかかわる意味作用の軸を抽象的に実体化すると、言説分析は限りなく「テクスト分析」に近づいていくからである。文化研究や歴史社会学に見られる権力分析は知識社会学的な解釈学の延長線上にあり、記号論はテクスト分析の一様態になっている。
しかしながら、知識社会学とテクスト分析のあいだに、また両者から同時にずれたところに、言説分析に固有の場所がある。それが新たな「知の社会学」の可能性をひらいている。それは知にはたらく拘束力の形態を内在的にとらえようとする努力である。ここでいう内在性とはテクストが内蔵する意味の領域に自閉することではなく、知を支える場としての言説を分析することである。しかし、言説を分析する手法は未完のままである。フーコーは『知の考古学』で言説の系譜学的条件として権力関係などの政治的・制度的条件を導入したが、こうした条件は知のありようを規定する独立変数としていつのまにか実体化されてしまう危険がある。
知に内在しようとするまなざしは決してテクストの記号論的表層にとどまるものであってはならない。他方、知に対する外在性を確保しようとするまなざしは、政治的ないし経済的条件や制度に依存するものであってはならない。知の社会学が考慮すべき条件は、はたしてフーコーの列挙した系譜学的条件で必要十分かどうか、あるいはそれ以外の可能性を改めて問い直すことが必要である。『言葉と物』の成功の後、フーコーは権力関係をとらえることに傾注した。だが、『言葉と物』ではそれをある程度括弧に入れた水準にフォーカスしたからこそ、知の領域にかかる拘束力や言説の布置の変容をくっきり浮かびあがらせることができたのである。われわれはこうした前進と回帰のあいだに新たな可能性を見いださねばならないのだろう。
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第六章[#「第六章」はゴシック体] 現代社会の理論[#「現代社会の理論」はゴシック体]
――システム論と極端現象[#「システム論と極端現象」はゴシック体]
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1 現代社会とシステム論[#「現代社会とシステム論」はゴシック体]
†現代社会論とフーコー[#「†現代社会論とフーコー」はゴシック体]
フーコーの仕事は、西欧社会の歴史における二つの大きな曲がり角、つまり古典主義時代の「出現」と「終焉」を主要なターゲットにしていた。西欧近代の社会の母型は一七世紀半ばから一八世紀末にかけての「古典主義時代」(le classique) にあるとすれば、古典主義時代とその前・後に起こった変化を把握することはきわめて重要な課題になる。一体、どのような変化を経て人びとはルネサンス末期の一六世紀から、一七世紀の古典主義時代に入っていったのか、またいかなる変化を経て人びとは古典主義時代を抜け出し、一九世紀以降の近代性の時代に入っていったのか。こうした歴史的な問いがフーコーの仕事を動機づけ、その理論を条件づけている。
それゆえ現代社会論という問題設定に近づけば近づくほど、フーコーの理論は鮮やかさやリアリティを薄めていくようにみえる。現代社会が近代性の時代の延長にあったとしても、フーコーの理論では現代社会をとらえることに一定の限界がある。その理論は現代社会の固有性、特異性に十分な配慮をしたものではないからである。『フーコーを忘れよう』で、ジャン・ボードリヤールは、フーコーとはひとつの時代が終わろうとするときに現われた「恐竜」であると皮肉った。歴史の現在に照準するとき、フーコーの理論はそのまま通用するものとは言いがたいのだ、と。
ボードリヤールの前衛志向的な視点からすれば、フーコーの権力分析は時代遅れなものに見えたのである。たしかにフーコーの権力論は近代的な権力概念の限界を批判して出現したものであり、それ自身は近代の反省という形式に帰属する出来事である。だが、そうして得られ、精錬された権力分析を適用できる理想的なターゲットは近代社会の権力現象でしかない。
現代社会が人間の終焉の時代であるなら、人間を相関項とする権力も死滅の過程に入っており、そもそも権力関係、あるいは権力というタームをベースにして現代社会の現象を記述することは出来事の本質を見失うことになるのではないか。現代社会に生起している出来事を記述するには、古典主義時代や近代性の時代に照準してできあがった理論では困難だというしかない。現代社会は本質的な変容の過程に入っている。それは「消費社会」と呼ばれるシステムを媒介にして、人間の経験の様態を根底から織り直しているからである。ボードリヤールの批判はこのような問題意識にもとづいていた。
†現代社会ヘのスタンス[#「†現代社会ヘのスタンス」はゴシック体]
ボードリヤールは現代社会を「消費社会」(social de consommation) という角度から読み解こうとしていた。そこでは近代の社会理論が提示したさまざまな概念がうまく適用できないという陥穽がある。実際、現代社会が近代性の時代を何らかの仕方で切り抜けたからこそ、フーコーのように近代性の時代をトータルに対象化する「ミネルヴァの梟」が現われたといえなくもない。フーコーが人間を主体化する権力の装置を分析の対象となしえたのは、もはや人間を主体化しないような社会が出現しているからではないか、というわけである。
こうした問いは決して恣意的なものではない。W・W・ロストウは経済成長の最終的な段階として「高度大衆消費」(high-mass-consumption) の時代を想定したが、二〇世紀には、一九二〇年代以降のアメリカや一九五〇年代以降の西欧・日本などの先進的な産業社会が、高度大衆消費の段階に入っていったと見なされている。J・K・ガルブレイスはほぼ同じようなことを「ゆたかな社会」(afluent society) という概念でとらえようとした。ロストウは高度大衆消費の時代には人間のありようや社会性の場が変容することを予想していた。だが、ガルブレイスは「ゆたかな社会」の内実を近代性の時代の側から一種の疎外現象として批判的にとらえたため、「ゆたかな社会」の内部に起こっている問題を積極的にとらえることはできなかった。
ボードリヤールはこうした批判的言説や疎外論の問題構成を外し、現代社会を積極的に見直すというスタンスを取ろうとした。だが、現代を見る彼のまなざしはペシミスティックな色調で彩られている。レヴィ=ストロース以降、ペシミスティックなニュアンスをもつ醒めた表情が社会理論に漂うのは、近代性の主体がそれらの言説からさまざまなかたちで身を引いているためだろう。主体の欠落が静かな陰翳となって社会理論の表情をかたどっている。フーコー自身もそうなのだが、フーコーを批判するボードリヤールにもそうした色調が宿っている。
ニクラス・ルーマンも、システム論からパーソンズに残るような主体を抜き去り、むしろ主体の空白自体を問題構成の場としている。だが、その空白を埋める努力は現実に対する遠心的なパフォーマンスを結果しているようにみえる。他方、ピエール・ブルデューのように、階級の問題など現代社会の構造を実証的に追跡する人もいる。こうした試みはごく健全なもののように思われるだろう。だが、その健全さがマルクス主義の概念を引き摺っている限り、現代社会に起こっている変化を歴史の後ろ側から見るような歯痒さがつきまとう。そこでは資本の概念が経済資本と文化資本のように差分されるが、差分という操作は物事に対する視点を変えるのではなく、むしろ反復し、延長するからである。
†現代社会のシステム論的展望[#「†現代社会のシステム論的展望」はゴシック体]
ボードリヤールの特徴は、彼の仕事が一方でマルクスの経済学批判に準拠し、他方でレヴィ=ストロースの構造主義に依拠することにより、システム論的展望をもとうとすることにある。現代社会をある程度のまとまりでとらえるには、システムという視点が必要であり、社会学はそうした要請に親しんできた。アメリカの大衆文化を分析したスラヴォイ・ジジェクにも類似の軌跡が認められ、一種の構造論的な展望が与えられる。ジジェクの場合にはマルクスへの準拠とラカン派の精神分析への依拠がある。
ボードリヤールは理論の軸足を社会学に置いており、社会性の形態や歴史性に照準している。その分析の実定性は言語、性、商品などの社会的な形象への照準によって、また資本主義という歴史的な形象によって維持されている(『象徴交換と死』)。他方、ジジェクの分析の主軸は精神分析のほうにあり、歴史性への配慮が希薄である。
この違いはマルクスの資本主義分析に対する両者の注目の仕方の違いにもよく現われている。ボードリヤールの理論が注目するのは「領有法則の転回」という歴史的な現象であり、それは消費社会の成立と関係している。他方、ジジェクの分析が注目するのはむしろ歴史性の希薄な「価値形態論」のほうである。ジジェクは価値形態論における「商品」の分析をフロイトの「夢」の分析と等価な構成をもつものとして、ごく自然に構造論的な分析に移行していくのである(『イデオロギーの崇高な対象』)。
ボードリヤールの現代社会分析は、現代社会の営みや挙動に一定のシステム論的な展望を与える。つまり現代社会の営みや挙動には一定の拘束条件がはたらいており、その拘束条件のはたらき方が明らかにされる。また、ボードリヤールが主題化するシステムは、マルクスの資本主義的な生産様式のように歴史的なものである。ボードリヤールの分析は具体的には先進的な資本主義社会のシステムに照準しており、現代の資本主義社会の営みがもっている拘束条件のうちに、システムの具体的な様態を見ているといえよう。
†社会システム論の系譜[#「†社会システム論の系譜」はゴシック体]
システム論には、しかしながら、もうひとつの理論的な系譜がある。それは具体的で歴史的な社会の現実から出発するのではなく、システムの一般理論から出発し、その具体的適用として現代社会を捉えようとするものである。パーソンズからルーマンへいたる試みはそうした系譜のなかにある。この思考の系譜は、@何らかのかたちで挫折するにせよ、個人や行為、コミュニケーションなどの要素的な単位から社会秩序の形成を導き出そうとする志向性をもっている。またそれは、A一般性・普遍性を志向しており、歴史的、具体的な社会的現実や出来事の調査や分析を通じてではなく、むしろ生物学、心理学、経済学などの先進的な分析モデルへの準拠によって自己言及的に理論を精緻化していくという傾向がある。
一般に、システムとは、ある種の「仕組み」(秩序)であると同時に、その仕組みによって維持され、相互に連関する「諸要素の一総体」のことをいう。だが、社会の構造や機能を理解するには、こういう抽象的な規定だけでは十分とはいえない。つまりシステムの種差性を考えねばならない。社会学は人間をその生活の集合性を通じて考察するものであり、個人、家族、小集団、組織、地域社会、包括的社会、あるいは群集などについて考える。現代社会論はそれらがいま現在どんな状況にあるのかを記述し、分析する。それゆえシステム論的に考えるとしても、何らかの仕方で関係しあう人間や人間の集まりについて記述し、分析できるようなものでなければならない。
それゆえ多くの場合、社会システムという言葉は、社会集団に一定のまとまりがあり、またそれを維持する仕組み(秩序)が認められるとき、そうした社会集団をとらえるために使われる。しかし、パーソンズの場合、社会システムとは、具体的な社会集団をそのまま指すのではなく、「行為」という分析的な要素の連関として想定されるものである。つまり個人であれ集団であれ、「行為者」という実体的な要素ではなく、「行為」という分析的な要素が社会システムの単位と見なされる。社会システムは行為のシステムであり、行為はさらに分析的な要素=局面(A=適応、G=目標達成、I=統合、L=潜在的な型の維持)に分節される。社会システム論はこのような行為の意味連関を明らかにすることを基本的な課題としている。
†主体の不在がひらく空間に[#「†主体の不在がひらく空間に」はゴシック体]
しかしながら、パーソンズの分析的な「行為」の概念には、「行為者」に属す主体性や人間学的な要素が復元可能なように投射されている。それは社会的な秩序形成を説明するときに遭遇する困難(「二重の偶発性」という問題)を解決する重要な局面にも現われ、結局のところ、規範的なコンセンサスを外挿するような結果を招いていた。これに対してルーマンは、主体や人間学の要素を徹底的に抜き去ることにより、社会システム論のパラダイムの更新を試みようとする。主体や人間学の要素の不在は不安な空間をひらくように見えるかもしれない。だがそれは、新たな理論装置を導入し、社会的な現実をパーソンズとは異なるかたちで分析するために不可欠の契機だったのである。
主体の不在がひらく空間に、ルーマンが導入したのは、システムが自己自身を継続的に産出していく動態的な過程、つまり「オートポイエーシス」(自己作成Autopoiesis)の過程であった。オートポイエーシスというのは、ギリシャ語の「自己」と「作る」を合成してつくりだされた言葉である。オートポイエーシスはもともとH・R・マトゥラーナとF・J・ヴァレラが「生命」システムの特性を説明するために概念化したものである。この概念の出自に問題は残るのだが、ルーマンはそれをシステム理論のベースとして一般化し、「社会」領域に転用していくのである。
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ルーマンは一九八四年に刊行された『社会システム』において、こうした立場を明確にしている。ルーマンはそこで諸システムについて三つの分析水準を設けている(図1)。第一水準には、一般システム理論の分析対象となるシステムがある。システムには、「心的システム」、「社会システム」、「有機体」、「機械」といった異なるタイプがあり、これらは第二水準をなしている。社会システムには、「社会」、「組織」、「相互作用」といった異なるタイプがあり、これらは第三水準をなしている。オートポイエーシスの理論は第一水準に位置づけられ、その成果に準拠して、ルーマンは社会システムの一般理論を展開するのである。
†ルーマンの問題構成[#「†ルーマンの問題構成」はゴシック体]
ルーマンにおいては、社会システムはオートポイエーシス的(自己作成的)なシステムであり、それ自身による継続的な自己生成の過程が問題になる。パーソンズの場合は、こうした動態的な過程ではなく、すでに均衡状態にある静態的な構造とその安定性が基本的な問題になっていた。経済学には市場に成立する均衡を連立方程式の体系で表現する理論があるが、パーソンズの理論はそうした定式化を理想としたのである。だがそこで、安定した構造が自律して存在するように見えるのは、その構造を外から観察する主体を、超越論的に前提することと表裏の関係にあるといえよう。
ルーマンは主体や人間学の要素から距離を取ることにより、こうした超越論的な観察を相対化している。彼が取り扱うのは、観察者自身もその動態のうちに取り込んでいくシステムである。ルーマンはさらに社会システムの具体的な構成においても、主体や人間学の要素を慎重に取り除いていく。彼はまず、社会システムを行為やその主体(パースン)からとらえるのではなく、「意味」を媒介にして成立するコミュニケーションという位相でとらえる。この意味で、ルーマンにとって、社会システムはコミュニケーションのシステムである。
だが、ここには一定の留保がある。コミュニケーションは自己準拠的な単位と見なされるが、情報、伝達、理解という三つの選択的局面の総合であり、その実現には「行為」が深く関与しているからである。またコミュニケーションは直接には観察されず、推測されるだけで、実際に観察されるのはコミュニケーションを担う行為のシステムである。この意味で行為は重要な役割を果たしている。しかしその場合でも、ルーマンのいう行為は、パーソンズのように主体の自律的な存在を宿す要素的な単位ではなく、システム論的な関係のなかでしか意味をもたない行為になっている。こういう留保や条件のもとで、社会システムは基本的にコミュニケーションのシステムと考えられるのである。
社会システム、つまりコミュニケーションのシステムは主体を前提しない「創発的な現象」であり、自己作成的に継続されていく意味連関の領域である。コミュニケーションを基点とするこうした概念化は、ルーマンの考える行為理論の系譜(主体の理論)と構造主義の系譜(ルールの理論)を同時に乗り超えようとする意図を託されている。ルーマンの社会システム論は、方法論的な個人主義と集合主義の双方を同時に乗り超える〈つなぎ目〉に、オートポイエーシスの理論をセットしているといえよう。こうした所作が可能になっているのは、システム論から超越論的な主体や人間学の要素を抜き去ることによってである。その結果として、コミュニケーションによる意味連関の領域が自分で自分を産出していく過程が浮上してくるのである。
†人間学の失効と視点の移動[#「†人間学の失効と視点の移動」はゴシック体]
社会システム論でも「社会秩序はいかにして可能か」という秩序問題に答えることが重要な課題となる。そこで社会秩序というのは、社会システムの同一性のありどころと言い換えてもよいが、問題はこの同一性の中身である。社会システムの同一性をその「構造」の同一性によってとらえるなら、それはパーソンズ的なシステムの理解になる。パーソンズはこの「構造」を価値志向の型という具体的な制度の水準でとらえている。一定の価値志向の型が、社会に制度化されると同時に、諸個人に内面化されることにより、「構造」が成立していると見なされるのである。
だが、ルーマンは「秩序問題」を考えながら、その問題設定を変えていった。彼は秩序の生成を、@超越論的な主体抜きの方向で、A具体的にはオートポイエーシス(自己作成)の過程としてとらえようとしたからである。だが、このような視点の移動は決してルーマンだけの問題ではない。社会学の「秩序問題」は、社会と個人の対立を軸にして展開される「人間学」と深いかかわりがあるが、この人間学の失効がルーマンによる視点の移動を促しているからである。パーソンズがシステム論を構想しながら、行為主体のあいだのコンセンサスの導入に集約される規範主義的な問題構成を外せなかったのは、人間学の呪縛から身を引き離すことができなかったからといえよう。
人間学の失効を確認する言説は、秩序問題を人間学とは別の平面で、したがってまた別のかたちで思考することになる。たとえばミシェル・フーコーは近代社会の規律訓練の権力について分析したが、この規律訓練の権力の作用は、制度的な価値の内面化ではなく、そのような内面化の可能性の条件そのものを諸個人の身体性のうちにしつらえる営み――「従順な身体」をつくりあげる試み――であると考えられる。
フーコーによる規律訓練の権力の分析は、秩序問題を人間学の内部で解明するのではなく、そもそも秩序問題が成立する可能性の条件の水準に分析の焦点を当てたものといえよう。フーコーがそこに見いだしたのは「権力の仕掛け=装置」の作動である。ルーマンの「オートポイエーシス的なシステム」の作動に対する注目と同じように、ここにも秩序問題に対する視点の移動がある。
†システム論の転回軸[#「†システム論の転回軸」はゴシック体]
フーコーの場合は、秩序問題をルソー的な社会契約論の文脈で考察し、社会契約の主体そのものを生み出す「仕掛け=装置」の作動に問題の場を移動させる。『監獄の誕生』は社会契約論という言説の場がどのようにして生成しているのかを明らかにしたものである。他方、ルーマンは、秩序問題をホッブズ的な闘争をベースに考えた、パーソンズの延長線上から出発している。だが、初期のルーマンのように、安定した秩序形成を行為主体の「予期」の連鎖から説明することには限界がある。その試みは行為主体のあいだの「二重の偶発性」(doubule contingency) が引き起こす不確定性の罠を、自我と他我の「期待の相補性」によって切り抜けようとしたパーソンズとさほど遠くないところにある。
橋爪大三郎が指摘しているように(『言語ゲームと社会理論』)、システム論の基盤に予期の主体である行為者や、それに相関する人間学を引き摺るかぎり、問題は解決しない。予期の連鎖の過程のどこかで秩序(の表象)をひそかに挿入することになるからである。ルーマンの理論が、どこかに主体を潜伏させる行為理論から意識的に転回し、「二重の偶発性」の意義を読み替える文脈を整備するのは『社会システム』においてである。そこで「二重の偶発性」という問題は、行為主体の意志にも、秩序の先験的仮定にも頼らず、創発的な秩序を自律的なものとして考える可能性をひらく契機となる。
『社会システム』ではシステムの基本単位はパーソンズの考えるような行為ではなく、コミュニケーションである。パーソンズが考えたシステムの構造、つまり制度化された「価値志向の体系」は、具体的な行為、そしてその行為の主体を相関項としている。だがルーマンからすれば、このような行為やその主体とは別の仕方で作動している「意味」の複雑な絡まり、つまりコミュニケーションのシステムについて考える必要がある。
ルーマンは社会システムを「意味」をベースに形成されるコミュニケーションのシステムとして理解する方向を取った。社会システムは多様な選択可能性、つまり「複雑性」の問題を抱えているが、「意味」とはこの複雑性を縮減し、処理する形式のことである。パーソンズのいう価値志向の体系は、この処理形式をひとつの安定した装置として制度の空間に写像したものである。パーソンズはこの装置の安定性の条件を分析の焦点としていた。他方、ルーマンは意味の装置が成立する条件そのものに反省的な分析の焦点を当てようとした。というより、この成立条件の水準にこそ、社会システムのオートポイエーシス的な作動の継続があること、つまりそのシステムの同一性の実態を見ていたのである。
†システム論の問題点[#「†システム論の問題点」はゴシック体]
ルーマンのシステム論にもいくつかの疑問や批判が提示されている。だがたとえば、ハーバーマスとの批判的応酬は必ずしも理論に内在的なものではなかった。社会学の問題という視点からみたとき、重要と思われるのは佐藤俊樹による批判(「「社会システム」は何でありうるのか」『理論と方法』27号)である。橋爪大三郎による批判は『社会システム』以前の構成に向けられたものだが、佐藤の批判はそれ以後の構成も射程に置くものであった。
佐藤俊樹は、ルーマンのシステム論が「社会とは何か」という問いに対する有力な答えになっていることを認めつつも、その答え方の核心において、「システムの実在性」を不当に前提している可能性が高いことを問題にする。システムの実在性とは、システムという特別な次元があるということだが、この特別な次元の実在は十分に正当化されず、結局、ルーマン自身によって超越的に担保されているというわけである。その意味ではルーマンは、別のかたちでだが、パーソンズの反復を演じていることになる。
ルーマンはコミュニケーションのオートポイエーシス的な自己産出の領域をひとつのシステムとして描こうとした。だが、この領域がシステムであるという保証はさしあたってどこにもない。しかも、そのようなシステム論的前提を取ると、かえって厄介な問題が生じることになる。コミュニケーションの領域がもしシステムであるならば、コミュニケーションをコミュニケーションとして確定しうる他者のコミュニケーションが後続する必要があるが、このコミュニケーションの連鎖はシステムの全域に循環していく。つまりシステムの全域が確定しない限り、どのコミュニケーションもコミュニケーションとして確定しないことになる。これがコミュニケーションの「事後成立性」と呼ばれる事態である。
全域的な社会システムでは、継続するどのコミュニケーションも、自分が何ものかを確定されるために、他者への依存による連鎖をほとんど無限に辿っていかねばならない。ここにはコミュニケーションの不確定性を消去するために、システムという(全域を確定する)次元が代補される十分な理由がある。「組織」システムの場合でも、自ら境界を産出しているわけではなく、それがシステムであることを担保しているのは法制度という外部である。「相互行為」システムについても、それがその場の束の間のものであり、現在というあり方しかもちえない以上、それをシステムと呼ぶのは外挿的な貼りつけでしかないことになる。
振りかえってみれば、パーソンズのように、社会領域の全体像を特定の単位要素から出発して内在的に記述する方法には大きな困難がつきまとっていた。そうした記述はいくつかのレヴェルで創発的な現象に出会うからである。ルーマンのシステム論はこうした困難に対応するために、システムという概念のなかに要素的単位を溶かし込もうとする。しかしこうした対応が取られても、今度は、システムという概念を持ち込むこと自体の妥当性が問われるだろう。右に見たように、その境界、その同一性はどうして担保されるのかということになる。パーソンズにおいて超越論的なものは行為の主体というかたちで現われた。ルーマンはこうした主体を拭い去るが、システムが存在するという仕方で超越論的なものはふたたび生き延びているように見えるのである。
2 システムの超成長と極端現象[#「システムの超成長と極端現象」はゴシック体]
†システム論的営みとその変化[#「†システム論的営みとその変化」はゴシック体]
前節で見てきたシステム論では、諸要素の一総体に、システムという創発的な属性が加算されることが問題の原点にあった。そこではシステムという、過剰な要素が代補されている、あるいは冗長な記述が付加されているようにみえる。だがこれに対して、諸要素のほうを、むしろ過剰なもの、冗長なものとみなすシステム論の系譜がある。たとえばデュルケームの『自殺論』を考えると、社会なるものの諸要素が具体的に何であるかはわからないが、そのシステム論的営みの効果やその変化――「自殺率」の布置やその変動――が一定の仕方で記述されている。フーコーの『言葉と物』でも、「言説」の変動にかんして同様の視点が見られる。以下においては、こうした系譜に沿ってシステム論的思考の現在のありようを見ていくことにしよう。
ここでは、システムがどんな要素的単位から構成され、それらの要素がどのように結びつくのかという〈存在論的な把握〉には立ち入らない。システム論的営みという想定で重要なことは、システムを存在ではなく、その効果においてとらえることである。それはシステムが何であるかではなく、どんな拘束力としてはたらいているのかという〈機能論的な把握〉にかかわっている。重要なのは、拘束力の原因を求めることではなく、拘束力のかたち(布置)を写し取り、そこに起こる異変を把握することである。システム論的営みの布置とその変化を測定し、その変化の意味や方向を探ることである。
システム論的な布置の変化は、われわれの生活の動向に大きな影響を与える可能性をもっている。だが、システム論的な布置の同一性にはおそらく一定の幅がある。この幅のうちに、さまざまな社会現象の生成、増殖、発展、停滞、衰退、消滅といった諸相が見られるだろう。だが、これらの変化の諸相はシステムの営みの同一性を損なうものではない。それはシステムの営みが維持する同一性の範囲内における変化にすぎない。こうした変化を「社会的な変調」と呼ぶことにしよう。
問題は、システムの営みがその布置の同一性を失うような場合、あるいはまったく新しい形態に変化してしまうことである。こうした根本的な変化をシステムの「位相論的な形態変化」と呼ぶことにしたい。社会的な変調と位相論的な変化とのあいだには中間的な様相があるだろう。たとえばシステムの営みにいくつもの切断線が走り、その同一性の布置がさまざまな箇所で消えていくときである。それは修復可能な異変や障害かもしれないが、場合によってはシステムの位相論的な変化の「兆候」(symptom) でもありうる。こうした兆候を辿ることがシステム論的記述の重要な課題になるだろう。
†逆説的な逸脱[#「†逆説的な逸脱」はゴシック体]
ボードリヤールの分析にはたしかにシステム論的な前提がある。システムのはたらきだけでなく、システムの存在にかんする仮想も前提されている。そうした留保を置いたうえでのことだが、彼が注目してきた現代社会のシステム論的布置について検討したいと思う。ボードリヤールは西欧社会の歴史的で段階論的な分析をしていたが、一九八〇年代以降、〈現在〉のシステム論的布置に注目し、システムが過剰な自己肯定の果てに、別のものに転移していくメカニズムに分析の焦点を絞るようになっていった。
その背景には、高度な消費社会が実現していく過程で、人びとの生きる現実がハイパーリアルなものに転移していくという問題があった。モードの自己準拠的な論理による恣意的な記号のフローが現実を埋めつくすが、そのような現実のなかで人間的な主体や内面の次元は干上がっていくように見えたのである。こうした変化の到来は、デーヴィッド・リースマンやダニエル・ブーアスティンの研究が憂慮していたことでもあった。
「社会的な変調」ということで、ふつう問題になるのは、制度化された価値志向の型に対する逸脱的な現象の発生である。実際、われわれの社会には犯罪、自殺、病気などの逸脱的要素がつきものである。こうした逸脱は排除されるか、未然に防がれている。しかし、逸脱的要素がまったく希薄であるのも手放しで喜ぶわけにはいかない。それはシステムが理想的な均衡を達成しているのではなく、むしろシステムのうちに強い抑圧、あるいは外部との緊張関係や戦争など、別の重要な不均衡が発生しており、その裏返しとして逸脱的要素が希薄になっている可能性が高いからである。
もちろん、逸脱が増え続けることは問題を含んでいる。そこで逸脱を不可逆的に増幅させる因果過程がはたらくと、逸脱の規模がシステム論的な同一性を壊す地点にまで達しかねないからである。逸脱増幅がそこまで及ぶと、社会のシステム論的な同一性の変容、つまり「位相論的な形態変化」が生じることになる。
しかしながら、非−同調的な行動だけが逸脱的なのではない。問題はむしろ同調行動が最大限に追求された結果生じるような「逆説的な逸脱」にある。それはシステムが肯定する価値や制度を、個々人が肯定することを通じて発生するような逸脱である。そこで個々人は逸脱的な振る舞いをしているわけではない。むしろシステムが求める価値に対して肯定的な振る舞いの集積が、結果として、致命的な逸脱、つまり社会のシステム論的な形態の変化を引き起こす可能性がある。それは、システムの営みが成功裏に生み出したものが、システムの成立条件そのものを書き換えるような場合である。
†同一性の過剰[#「†同一性の過剰」はゴシック体]
かつてロバート・マートンは、アノミー論を批判的に継承しながら、「逸脱行動」の諸類型を分析していた。マートンはそこで「過剰同調」といえるような逸脱類型を取りあげている。ふつう同調行動は逸脱とはいえない。だが、過剰同調の場合は事情が違う。たとえば硬直した役所や官僚制の組織の内部で、規則に過剰同調した官吏が、紋切り型の、実質を伴わない、規則の過度な遵守により、結果として仕事を遅滞させたり、甚だしい損失を招いたりするような場合がある。そこには「儀礼主義」と呼ばれる、形骸化した、形式だけの同調行動が発生しているのである。
マックス・ウェーバーに従えば、こうした行動は官僚制の病理としてとらえられるだろう。この種の病理的行動は、もっと一般化していえば、表面上の「形式合理性」はもつとしても、「実質合理性」はもたないような行為類型に当たる。そこでは「手段の物神化/目的の疎外」が起こっている。組織における規範への過剰同調はしばしばこの種の逸脱を分泌する。こうした逸脱類型はある程度取り除くことが可能なものだし、またある範囲内でコントロールすることも可能である。
重要なのは、こうした形式だけの過剰同調ではない。問題は、システムが求める価値を積極的に肯定し、追求する同調行動が集積していくとともに、逸脱的要素や異物による不透明性(他者性)が排除されていくことにある。それはシステムがある価値観から合理化され、一様で均質なもので充たされ、自分自身に対して透明になっていく過程でもある。
この場合、システムは順調に作動しているように見える。だが、その順調さが同時にシステム全体のレヴェルに負のポテンシャルを蓄積させている可能性がある。システムの営みが類いまれな成功を実現していることが、じつはシステム自身の崩壊を招きかねないのである。それはシステムの有効な作動の集積が、結果として、システムの成立条件そのものを変容させ、その書き換えにつながるときである。そのような場合、システムは位相論的な形態の変化に見舞われる可能性がある。
†啓蒙の弁証法[#「†啓蒙の弁証法」はゴシック体]
逸脱ではなく、同調ないし自己肯定による崩壊という逆説は、必ずしもシステム論だけの話題ではない。アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』でも類似したパラドックスが取りあげられている。アドルノとホルクハイマーが示したのは、ヨーロッパの歴史において、神話からの離脱という「啓蒙」の過程は、他ならぬ啓蒙そのものの追求と発展により、ふたたび「神話」に転落するという逆説である。啓蒙という文明化の過程、脱神話化の過程、つまり理性による「自然の支配」の過程が、結局のところ、啓蒙が否定し、克服しようとしたはずの野蛮と、暴力と、非理性の状態をもたらすというわけである。それは「啓蒙のパラドックス」と言ってよいものである。
問題は、啓蒙が人間の「主体性」を原理とし、人間の「自然支配」の過程として進行することにある。主体性の原理とは、神話やアニミズムに隷属するのではなく、脱魔術化の努力、つまり理性によって、人間が主体としての自己を形成することを意味している。啓蒙の過程は、人間の外なる自然を科学や技術によって支配し、人間の内なる自然を道徳や教育によって支配することを通じて、つまり理性を通じて実現される。
しかし啓蒙の過程は、それが内蔵する「支配の論理」によって、自然を客体化し、抑圧し、無化する努力を通じて、人間の生の自然な基盤やそれにもとづく目標を失っていくことでもある。啓蒙の努力の果てに成立する生は、そうした基盤を取り崩されて、たんに形式的な目的への従属、つまり人間の「自己保存のための自己保存」というトートロジーの運動に陥っていく。そこに見られるのは、合理的だが、実質的な目標のない生である。それはかつて自然に隷属していた不安な生に劣らず空しいものである。それは人間的な不安以前の、つまり自然への単純な隷属状態ではないとしても、空しい充足に取りすがる生の様式への「頽落」になっている。
アドルノとホルクハイマーが示した啓蒙の弁証法において、人間による啓蒙の試み(自然支配の試みの総体)をシステムと読み替えてみよう。そうすると、啓蒙の弁証法で述べられているのは、あるシステムの論理の徹底した追求、つまりそのシステムの飽くなき自己肯定の結果もたらされる「逆説的な破綻」の道筋である。ここでシステムは、その内部に逸脱的な要素が多数発生することによって破綻するのではない。システムが肯定する価値を徹底的に追求した結果、システムの自己崩壊が起こるということである。たとえば二〇世紀ドイツにおけるナチスの支配も、乱暴な逸脱が手に負えなくなったからというより、むしろ民主主義のシステムを肯定する軌跡を辿りながら成立したのである。
†フォードの敗北[#「†フォードの敗北」はゴシック体]
「啓蒙の弁証法」は、自然を支配しようとした人間の、「自然への頽落」の過程を説明するものであった。だが今度は、システムがたんに破綻するのではなく、根本的に別のものに「変容」する場合を考えてみよう。それは位相論的な形態変化である。ここでは例題として、「なぜフォードはGMに敗れたのか」という問題を考えてみたい。二〇世紀のはじめ、フォード社は大衆車フォードT型の驚くべき成功によってアメリカの自動車市場を制覇した。ヘンリー・フォードは、工場にマス・プロダクションのシステムを導入し、大量生産によるコスト削減、値下げ、大量消費、そしてまた大量生産へという「好循環」のサイクルを生み出した。だがいつしか、この名車が売れなくなり、生産停止に追い込まれる日がやってくる。
デーヴィッド・リースマンは「アメリカにおける自動車」(エリック・ラーラビーとの共同執筆)という論文でこの問題を見事に分析している。その核心は「フォードT型の成功はもはやフォードT型では満足できない欲望を生み出した」という命題にある。T型の成功は並々ならぬものであり、たんに人びとの自動車に対する欲望を満足させるのみならず、結果として、T型そのものへの欲望も飽和させてしまったからである。市場におけるこの欲望の飽和は、欲望そのものの形態の根本的な変化を招き寄せる。この位相論的変化を推し進める第二の主人公、それがGM社である。
フォードの成功はまず技術的なものである。その技術の核心は、自動車というモノをいったん「標準化された互換性の部品」に分解し、それを「流れ作業」で組み立て、「単一車種」を、「大量に」生産するという方式にある。フォード・システムと呼ばれる、この流れ作業方式は一九一三年にハイランドパーク工場で導入された。フォードT型はそれより前の一九〇八年からつくられ、一九二七年までのあいだに、じつに一五〇〇万台も製造された。T型は自動車の値段が二〇〇〇ドルを下らない時代に、九五〇ドルで売り出され、一九二四年には二九〇ドルまで価格を下げている。これは大量生産、大量消費のシステムの成功の象徴といってよいだろう。
ここで問題があるとすれば、フォードが「消費社会」を十分に理解していなかったことにある。フォードT型は「大量生産の社会」の商品であるが、ボードリヤールのいう「消費社会」の商品ではない。そこには根本的な落差が存在している。というのも消費社会は、商品と同時に、その商品の(他の商品との)差異を消費する社会のことだが、重要なことに、この差異は産業システムの外部にある自律的な審級――既存の宗教、文化、階級など――が備給する実体的な差異ではなく、産業システム自身が合成し、つくりだす「恣意的な差異」のことだからである。
フォードはそれまで贅沢な憧れの商品であった自動車を大衆に安価で提供した。自動車がまだ高級な文化を象徴する商品であった時代に、フォードT型はその象徴的な意味を削ぎ落とし、大量生産品の規格に見合ったもの、すべて同じ、黒塗りの、頑丈な、人や物を運ぶだけの道具として登場した。T型が既存の自動車とのあいだに「差異」をもつとすれば、大衆の階層にも接近可能であり、大衆の文化にある機能的で実用的なエートスを体現していたことである。そこで重要なのは、このエートスが大衆の文化としてフォード・システムの外側に存在していたことである。つまりT型が体現していた差異は、フォード・システム自身が合成し、つくりだした恣意的な差異ではない。フォード・システムはそこで外部準拠、つまり既成の価値志向や欲望の型に依存し、適応していたのである。
†欲望の形態変化[#「†欲望の形態変化」はゴシック体]
GMの創設者であるウィリアム・C・デュラントは、機能的で実用的な精神の持ち主であるフォードとは異なり、「美術と色彩の部門」に大幅な権限を与える組織をつくった。そこに登場するのがハーリー・アールで、彼は工業デザイナーからGMの副社長の地位を獲得した。アールが重要なのは「自動車は見かけで売れる」という命題をGMの政策にまで高めた人物だからである。こうしたポリシーが浸透していく結果、ロラン・バルトが指摘したように、自動車が「金属製の彫刻」として創造されるような事態が生じてくる。
GMは製品を差別化して、多様な欲求に応じるフルライン・ポリシーを打ち出し、単一車種のフォードに挑戦した。しかもモデルチェンジの採用や、広告、そして割賦信用販売の拡大など、人びとの直接的な購買力の次元を超えて「欲望」を創出し、操作するためのマーケティング・システムを総合的に展開していった。ついに一九二七年五月、フォードT型は生産中止に追い込まれる。これはたんにT型の敗北ではなかった。それは市場における人びとの欲望の形態が位相論的に変化したことを示している。
商品の恣意的な差異――産業システムが自ら合成し、つくりだす差異で、商品の使用価値を支える構造に関与的でないという意味では非構造的な差異と呼ばれる――に志向する欲望を相関項とする、「消費社会」という新たなシステムが登場しようとしていた。禁欲的で実用を重んじる老フォードが身につけた産業主義の精神は、「消費社会」の精神をうまく理解できなかったのである。
ここにはフォードの大量生産のシステムから、消費社会の自己準拠的なシステムへの移行、つまり両者のあいだにおける欲望の位相論的な変化がある。人びとはもはやフォードT型では満足できない。フォードのシステムは自分自身の足場である環境――人びとの欲望のかたち――を変えてしまったのであり、そうして変容する市場にGMのシステムが作動する。他のメーカーもGMのシステムを取り入れ、その一般化が行われる。しかもこの位相論的な変化はたんに自動車産業だけに起こったことではなく、他のモノ=商品をめぐる市場においても一般化していく。既存の価値や欲望の体制に依存する単純な大衆消費社会が退潮し、「消費社会」という自己準拠的なシステムが成立するようになるのである。
二〇世紀に入って、産業システムの供給力が圧倒的な規模に達したとき、その膨大な生産力を吸収しうる購買力や、消費の意欲、そして欲望の生成がきわめて重要な課題になってくる。これを産業システムの側から見れば、たんにモノを生産するのではなく、欲望の生産を内蔵するようなモノの生産が要請されるようになったということである。「消費社会」とは、このような産業システムの変容を基盤として成立する社会の別称である。フォードの敗北は大きな歴史の流れのなかで見れば、二〇世紀における産業システムの、位相論的な変化のひとコマ、またもっとも重要なひとコマということができよう。
†自己準拠の戦略[#「†自己準拠の戦略」はゴシック体]
産業システムはその営みの軌道を安定させるために、他者への依存、外部への依存を抑制する戦略を取るようになる。これを「自己準拠の戦略」と呼ぶことにしよう。外部への依存、他者への依存、偶然性への依存は、システムの営みを、その外部や他者や偶然がもっている危険な可能性に曝すことになる。@気候、戦争、発見などの偶然、A宗教や道徳、階層や習俗などの外的環境の布置、B国家や政府などの他者は、必ずしも期待通りに動かない。それらはシステムの営みにとって不透明な要素であり、場合によってはシステム論的な布置の同一性を危うくする障害になりかねない。
産業システムの役割は人びとの欲求を充足させることにある。だが、生産力が増大するとともに、それに見合う需要の量は自律的欲求だけでは足りなくなってくる。産業システムの営みを安定化するには、システム自身による欲求の人為的な拡張が必要である。すなわち産業システム自身が人びとのうちに新たな欲望の次元をつくりだし、その欲望を刺激し、活性化し、膨張させることである。そこでシステムは、さまざまな偶然や、道徳や宗教や階層や習俗の布置、あるいは政府といった、システムにとって外在的な要素に由来する欲求ではなく、システム自身が新たに合成した欲望を充足させることを基本的な営みとするようになる。
システムはそこで欲求の外部性、他者性、偶然性に依存することを止め、自分自身(が合成した欲望)に依存している。この自己準拠の戦略は、産業システムが抱える不安を、安定的、合理的に解消するための戦略である。だが、合成された欲求に依拠することは、この欲求の急激な収縮による破局のポテンシャルを高めていく過程でもある。
消費社会ではこのように欲望の次元が改変され、操作されている。そこでは人びとの欲望の対象は、物の記号論的な価値(他の物との恣意的な差異)に移行していく。モードが備給するこの記号論的な価値は、集団の共同性に根ざした象徴的価値でないのはもちろん、物の使用価値にも、また交換価値にも合致しないという意味で浮動状態にある価値であり、いつでも消えていくものである。ジル・リポヴェツキーの言葉を借りれば、それはエフェメラのように儚い価値である(『エフェメラの帝国』)。
広告の語りやデザイン、モードによって、人びとはこのエフェメラルな価値を求めるように、日々「規律訓練」を受けているようにみえる。たとえばガルブレイスによれば、人びとは合成された欲望の主体として生きていく。一九世紀には「労働」の次元で人間がその生産物から疎外されることが批判されたが、二〇世紀には「消費」の次元における人間の欲望の疎外が批判されるわけである。しかしながら、消費社会がひらくのは、自律的な欲望と合成された欲望の区別が相対化され、無効になる領域である。そこでは自律的な欲望(の主体)という想定自体がフィクションになる。消費社会では、疎外という現象そのものが成立の基盤を失っていくのである。
†システムの超成長[#「†システムの超成長」はゴシック体]
自己準拠的なシステムの「成長」を考えるとき、そこで欲求の収縮による破綻が回避されたとしても、じつはもっと重要な問題が残っている。それはこのシステムの成長にかんして固有の合目的性を設定することができないことにある。このシステムは人びとの欲求の自律性を超えたところに成立している。それゆえシステムがどこまで成長を続けるのかという目的論的な問いに答えることができない。自らの成長に固有の合目的性を設定することができないまま成長しているシステム、これをボードリヤールに倣って「超成長」(excroissance) のシステムと呼ぶことにしよう(『透明な悪』)。それはシステムの営みが癌細胞の転移のように管理不能な増殖の過程に入っていることを意味しているが、いいかえれば、システムの存在自体をうまく仮想できない状態でもある。
超成長の軌道にあるシステムの問題点は、それが充足だけでなく目的さえ知らない、つまりアノミー的というよりも、むしろ「原因(目的性)のない」欲望を駆動力としていることにある。システムは超成長の軌道を安定させるために、自己準拠性を高め、ますます強化していく。それは他者や外部や偶然といった恣意的な要素に依存するのを止めることであり、その代わりにそれらの要素を代補する無数の「模像」(simulacres) をつくりだし、増殖させ、機能させることになる。
欲望そのものがこうした模像の次元で合成される。そして模像のような欲望をベースにして作動する超成長のシステム自身も模像の次元に存在していることになる。超成長のプロセスでは、人びとも、システムも、模像が第一次的であるような世界を生きていく。こうした模像の次元の形成を「疎外」という言葉で理解することはできない。そこで人びとはむしろ疎外のない、だがもっと深刻な世界を生きているからである。疎外とは充たされるべき物が欠けている状態における苦悩のことである。超成長のシステムでは充たされるべき物(模像)が溢れかえっている。このようなシステムの営みを拘束条件として生きる人びとには重大な問題が待ち構えている。
†極端現象の社会学[#「†極端現象の社会学」はゴシック体]
自己準拠の戦略を通じて、システムにとって環境の次元にあったもの、たとえば人びとの欲求も、システム自身が合成したいくつもの模像(の欲求)によって代替され、あるいは補充されていく。つまりシステムの環境は模像の代補によって成り立つようになり、このような模像が限りなく増殖していくことになる。こうして環境から異物や他者や欠如が消し去られていく。システムはそこで自身の同一性を強化していくが、それはシステムと環境との差異が消えていくことでもある。問題は、この差異の全面的な消失点が未来のどこかに予想されることにある。
環境がいつかシステム自身の合成した「模像の環境」によって代補され、合目的性を欠いたまま増殖していくことになる。このような環境の形成において、システムは内部から見れば超成長の加速された営みの過程にあるが、外部から見れば自足した静止状態に埋没していることになる。人びとは自足した静止状態に入ったシステムの不安を種々の仕方で表象するだろう。「歴史の終焉」という意識やポストモダンという考え方には、安易ではあるが、この種の不安が少しばかり投影されている。
システムの自足した静止状態とは、@システムも、環境も、そしてそれらを分節する差異も、すべて模像の次元に入り込むとともに、Aシステムの全面的な自己肯定が実現している状態である。それはシステムの内部で追求される無数の「営み」が、システムの外部から見ると「営みの不在」でしかないような状態である。つまりシステムが正気のまま、狂気を発症しているような状態である。だが、システムはこの状態に入る手前に一種のブレーキを踏むことになる。システムは自分の軌道に逆行するように、他者性をはらんだ異様なもの、つまりアノマリーな現象を生起させる。システムの営みが静止状態に接近するプロセスで、それと逆行する対抗的で劇的な他者の形象が次々に分泌されるのである。
人びとはアノマリーな他者がもたらすさまざまな病いによって、自己の同一性が根底から病んでいることを忘れようとする。これらのアノマリーな現象には、たとえばテロリズムなどの暴力、エイズなどの疫病、市場におけるクラッシュ、性愛を回避する独身者(オタク)の増大、……などがある。いずれも素朴に見れば、現代の社会システムにとって異様な他者性をはらんだ現象である。アノマリーな現象はシステムの静止状態の到来を遅延させるものであり、超成長の軌道にあるシステムにとっては、対症療法的な覚醒状態をもたらすことになる。システムに一種の幻覚的な覚醒状態をもたらす、これらのアノマリーな現象を「極端現象」(phenomees extremes) と呼ぶことにしよう。
システムの営みはある限界域に入ると、極端現象と呼ばれる異様な出来事を発生させることにより、かえってその営みを延長していくという仕組みを作動させる。極端現象は社会システムが何らかの臨界状態にあることの兆候である。社会のシステム論的な同一性の布置を辿っていったときに、一連の極端現象に出会い、またその増殖を確認できるなら、それはシステムの位相論的な形態変化の可能性を考えさせるものといえよう。極端現象論はシステム論的前提――たとえばグローバリズムの前提など――によって成り立ち、またその前提が強いほどアクチュアルになる。だが、極端現象論が向き合わねばならないのは、それが前提するシステム自体の不在や位相論的変化にかかわる問題群なのである。
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第七章[#「第七章」はゴシック体] 常民という問題[#「常民という問題」はゴシック体]
――柳田国男の挑戦[#「柳田国男の挑戦」はゴシック体]
[#扉絵(img/face7.jpg)]
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†常民という問題[#「†常民という問題」はゴシック体]
これまで西欧近代に成立した社会学的思考とその推移を見てきた。社会学は近代社会の運動が切りひらく「歴史の現在」を相対化する問いとともにはじまり、その問いを先鋭化し、屈折させ、変形する営みであった。日本社会も産業資本主義を基盤とする工業化や都市化の過程で、西欧社会とよく似た現実を抱え込むようになる。だが、日本の現実がそのまま西欧近代に成立した学問で整除できるわけではない。柳田国男もドイツの農政学を学び、農商務省の官僚として、日本の農村の近代的な再編をめざすが、結局、芳しい成果を得ることはなかった。そこには近代的な合理性の型を表層でしか受け入れない、日本の農村に固有の問題――習俗の世界――が横たわっていた。
西欧近代の社会理論の多くは、日本社会にそのまま適用できるようなものではない。それらの理論は、宗教の世俗化とある種の合理性を、そしてその合理性を担う「個人」の主体性を要求し、あるいは前提しているからである。たとえば西欧の近代性のもとでは、死によって根本的な不連続性を刻印される「個人」を主体として形成する社会的な装置をある程度有効に機能させている。だが、近代日本にはそうした社会的装置が欠落しているか、導入されるとしても運用の仕方が異なり、十分に機能しないからである。西欧の近代性と日本社会に横たわる習俗の地層とのあいだには埋めがたい落差が広がっている。
また、西欧近代の言説が語る「共同体」の観念も、日本の習俗の世界にそのまま当てはまるものではない。近代の言説は過去の実態や多様性を共同体という概念で整形し、平板化し、そのような過去=共同体からの近代化というノスタルジックな図式を好む。そこにはたしかに近代の不安がある。ジャン=リュック・ナンシーによるまでもなく、共同体の幻像は、近代がつくりだした、近代自身の陰画でしかない。近代化とは実際に起こったことから見れば、一種のわかりやすい幻影なのである。
柳田国男の「常民」という概念は、その核心において、西欧の近代性に対するこうした落差や違和を象徴している。常民という存在の仕方には、個人の死を超えて同一性を維持する「連続性」の原理が埋め込まれている。死はたしかに個人の不連続性を刻印し、喪失の深い悲しみをもたらすだろう。だが同時に、幼い死は必ず再生をもたらすし、また死とともに個人の輪郭は先祖という匿名の存在に回帰するように水路づけられている。生の領分でも、習俗の世界は個人の特異性を弱めるような記号技術を発達させている。農民の自律を支えるための産業組合の構想が失敗に終わったように、主体性や合理性を個人の存在に結びつけることは、柳田にとって思った以上に難しいことだったのである。
†柳田国男と山人論[#「†柳田国男と山人論」はゴシック体]
柳田の仕事は多岐にわたるが、その思考の領域はおよそ三つの軸線をもっている。第一の軸線は農政学から民俗の探究を開始したころにはじまり、『山の人生』によってひとつの決着を見たものである。それは「山人」にかんする共同幻覚を主題としている。第二の軸線は広く日本の民俗を実証的に探究するものであり、民俗学の方法論的な形成にかかわっている。第三の軸線は太平洋戦争の敗色が強まるころからはじまる。それは天皇と日本社会のかかわりに対する根本的な反省であり、伊勢神宮にかんする思考に結実する。これらをそれぞれ「山人論」、「民俗学」、「伊勢考」と呼ぶことにしよう。
柳田の山人論――『山の人生』によって山人の実在を主張する言説は放棄されたが――は、彼のその後の思考のベースになるものである。山人とは、山男、山女、あるいは大人、赤人、山姥、山爺などと呼ばれ、里に住む村人からすれば、山に棲む異人たちのことである。柳田によれば、山人は日本人と祖先を異にしており、むしろ列島の「先住民」であるという。山人は日本人の侵入と定着によって平地から追い払われ、山中に孤立して隠れ棲んだ者たちの子孫である。最初、彼らは国津神と呼ばれたが、のちに天狗、鬼、そして山人となり、やがて河童のような妖怪にまでその地位が零落していく。
このような地位の変遷の過程で、山人と呼ばれる他者は、日本人に同化し、あるいは殺され、あるいは自ら滅んでいった。また山中に生き残ったわずかな者たちも孤立したままだが、ときに村人と交渉する機会もあるという。しかし南方熊楠によれば、山人とは決して先住民の末裔のようなものではない。それは猿の類を村人が見間違えたか、村人のなかの変わり者が山に入ってひとりで生活し、村人からすっかり忘れられたような者ではないかという。柳田は当初、山人実在説を主張していた。だが『山の人生』では、山人の諸形象を、山に囲まれて生きる日本人の共同幻覚であると考えるようになる。
山人にかんする共同幻覚が日本列島のどこでも見られる根拠は必ずしも明らかではない。しかし、山人という共同幻覚がこの列島に普遍的に見られる以上、それは日本人と呼ばれる人びとにとって本質的な「他者の表象」である。しかも歴史的な系譜のなかで、この他者の表象は、畏怖の対象である「神」から、侮蔑を混じえて見下される「妖怪」へと変遷していく。習俗の語りにおいて日本人が自分のアイデンティティを確かめる媒介として、山人という他者の表象が要請されるのである。しかもこの他者の表象はその歴史的な変遷の過程で構造論的な同一性を保持している。
†山人論と植民地主義の仮想[#「†山人論と植民地主義の仮想」はゴシック体]
柳田の山人論は、その後、次のような文脈で批判されることになる。それは柳田が植民地主義に加担しているという批判である。明治近代において、「山人」のような他者の表象はアイヌ、沖縄、台湾、朝鮮といった異民族へと抽象的に拡大しうるものである。柳田の山人論はこれらの異民族を吸収し、同化する過程で発想され、成立したものではないのか。しかもその発想は自身の成立基盤を捨象され、ロマンティックな山人論として自立したかたちを取ったのではないのか。いったん成立した山人論は、逆に異民族の同化・吸収を受容しやすくするための精神史的な、またロマンティックなモデルとして提供されたというわけである。
しかしながら、この種の批判にはいくつかの無理がある。山人論が日本の植民地主義と親和的な部分をもっているように見えるとしても、その意味するところは植民地主義が志向するものとは異なっており、むしろ矛盾するものだからである。
第一に、山人論という言説の発想の基点は、むしろハンリッヒ・ハイネの『諸神|流竄記《りゆうざんき》』にある。それはギリシャ、ローマの異教の神々が追放され、零落し、キリスト教社会に適応・同化しながら生き延びていく物語である。この物語の核心は、キリスト教社会のなかで正当性をもっているように見える主体が、じつは異教徒の流れを汲む者であり、彼らが自分の過去を隠し、裏切り、キリスト教徒に成りすましていることの欺瞞と恐怖を暴くことにある。柳田はこの自己欺瞞を「黒い技術」であるという。山人論は植民地主義と方向が違うどころか、そうした同化・混交政策の自己欺瞞を暴きだし、同化・混交を強要する文化の黒い技術を明らかにしているのである。
第二に、山人論は日本人=天孫族という強固な同一性の神話を相対化し、日本人の同一性のうちにその起源から他者性を導入する言説になっている。他方、植民地主義はその前提として、支配する主体の神話的な同一性を強権的に担保するものである。その同一化政策は内部に鋭い差異を含んでいる。それは領土のなかに支配と隷属の境界を立てることを忘れない。その差異が植民地主義の利益の源泉となるからである。だが、山人論はそれが志向する根底においてこうした差異を相対化し、解消するものであり、植民地主義と相容れない部分をもっているのである。
†習俗の空間、習俗の時間[#「†習俗の空間、習俗の時間」はゴシック体]
柳田国男の民俗学的探究は、日本社会に横たわる「習俗」の地層を記述することを本質的な課題とした。習俗の現象には二つの特色がある。ひとつは、地域が限定されていることである。もうひとつは、長い時間がそこに堆積していることである。たとえば見田宗介が分析したように、「民謡」はある限定された地域で、きわめて長い年月にわたり、ずっとくり返し歌われるものである。他方、「流行歌」は狭い地域を超えて社会の全域で歌われるが、時間的にみれば一過性のものにすぎない(『近代日本の心情の歴史』)。
ふつう民謡は習俗の世界に見られる現象であり、流行歌は近代社会の現象であると見られる。だが、明治二〇年代に「民謡が流行する」という奇妙な現象が起こった。主な理由は、市町村制の公布や憲法の発布などにより国民的な一体感が形成され、また日本列島に主要な幹線鉄道が敷設されるなど、人びとの往来や記号や物の移動が頻繁になり、また村々から都会へ移り住む人びとも増えたことにある。民謡は、故郷にいる人びとが、故郷で口ずさむものだけではなくなったのである。都会にいる人びとが、自分の故郷のものでもない民謡を口ずさむこと、それが民謡の流行である。
「民謡の流行」という現象は、習俗の世界が産業化にともなう大きな流動性の場に晒され、都市という不安な社会性の場が形成されていく過程をよく示している。だが、この動きによって習俗の世界が消えていくわけではない。習俗の文化技術は、近代社会の文化技術によって代替されていく面もあるが、近代社会のなかに入り込み、近代社会に融解している場合も少なくないからである。
実際、現在を原点とするリニアーな時間軸のもとに、習俗の空間を前近代とか、単純に過去として了解する近代化論は――あるいはそのような歴史社会学も――誤りを含んでいる。習俗は近代が設定する歴史を斜めに横切っているからである。またそれは近代という起源=原点が設定する歴史主義的な時間では測りがたい奥行きを内蔵しているからである。『遠野物語』が洩らしているように、習俗というのは「現在の事実」であり、深い奥行きがあるとしても現在の土壌そのものなのである。「常民」とはこの土壌とその奥行きの同一性を集約する概念である。習俗の世界にもさまざまな出来事が現われては過ぎていく。それらの出来事が濾過され、いつのまにか無意識の同一性として存在するとき、その同一性の形象が常民という存在の様態を支えるのである。
†近代の根底をめぐる問い[#「†近代の根底をめぐる問い」はゴシック体]
日本社会は急速な西欧化を受け入れたが、何百年という長い時間にわたって反復されている習俗の秩序を一気に消し去ったわけではない。むしろ西欧の文物を受け入れた地層の下地には、習俗の世界が長い歴史のなかで練りあげた観念や規範、身体技術が生き続けている。習俗の秩序は前近代というような括りで単純過去の世界に送り込むことのできないものである。いつの時代にも、過去の習俗は単純に滅び去るのではなく、その重要な部分は変形されながら生き延びており、歴史の現在が描かれる深い下地として存在している。
日本社会の近代性という問題を根底から考えるとき、習俗の秩序の側からすると、次のような三つの問いが浮上してくる。
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@習俗の秩序を生きていく人間は自分の同一性をどのように構成しているのか。
A習俗の秩序はどのような文化技術を蓄えているのか。
B習俗の秩序は近代性と交わる過程でどのような葛藤に悩んだのか。
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第一の問いは、習俗の秩序を生きる日本人の同一性の所在を問うものであり、柳田はそこに「常民」という存在の様態を見いだした。また彼は、常民が自分の同一性を確認する媒介として「山人」という他者を想定する。
第二の問いは、習俗の秩序がどのような規範や信仰や技術や知の形式をもっているのかを問うものである。これは民俗学と呼ばれる実証的な調査研究を要求するだろう。
第三の問いは、習俗の秩序が近代性を媒介する力との関係で、どのような葛藤を経験したのかを問うものである。この問いに対する答えは近代性をどうとらえるかによって異なってくる。それを西欧文化の導入によるものとするなら、日本の近代性とは西欧の文物や制度を積極的に取り入れはじめた江戸晩期から明治以降の現実である。だが、近代性を市場=貨幣経済の浸透という視点でみれば、それは江戸時代の前期あるいは中世に遡るだろう。この意味では、習俗の秩序はずっと市場や貨幣経済の力に晒されてきたのであり、その影響力によってさまざまな葛藤を経験してきたのである。
†習俗の世界をとらえる二つの視線[#「†習俗の世界をとらえる二つの視線」はゴシック体]
習俗の秩序の安定性という視点からみたとき、重要な問題は貨幣経済の浸透にある。明治以降の近代になると、貨幣経済は産業資本主義のかたちを取って習俗の世界に入り込んでくる。だがそれ以前にも、貨幣経済は商業資本主義的な交通の発展とともに習俗の世界に入り込んでいた。習俗の世界は、西欧であれ、都市であれ、それらの文物や制度を、ある程度の変形を施しながら消化・吸収していくことができる。だが、習俗の秩序は貨幣経済との関係において根本的な葛藤を経験することになる。習俗の世界はある限度で貨幣経済に依存しながらも、その論理を十分に受け入れることができず、貨幣経済との微妙な抗争関係のうちにそれ固有の輪郭を露呈することになる。
習俗の秩序は貨幣経済の外部にあるわけではなく、思いのほか貨幣経済は習俗の内部に入り込んでいる。習俗の秩序と貨幣経済の葛藤という問題に積極的に取り組んだのは、小松和彦の「異人論」である。それは人類学的な思考にもとづく部分があるとはいえ、「山人論」と並ぶ重要な業績である。習俗に対するこの二つの視線には次のような特徴がある。
「山人論」はすでに触れたように、習俗の世界を生きる人びとの、内面的な同一性という問題にかかわっていた。「山人論」は、村人たちの共同幻覚の世界、いわば想像的な他者との内面的な交流に焦点を当てており、この他者の位相には鬼、天狗、山人、山女、あるいは河童などの妖怪といった「心象」(fantasme) が立ち現われる。
他方、「異人論」は、習俗の世界とその外部に広がる現実的な世界との交通に焦点を当てている。この外部世界は、山や、異界や、他界のように死とかかわる象徴的な想像力の次元に発しているのではなく、むしろ商品、貨幣、市場、交易などにかかわり、現実的な「利害」(interest) をはらんだ経済的な交通の次元に存在している。
「山人論」と「異人論」という二つの言説は、ある意味で実証を超えた部分を含んでいる。それらは習俗のあれこれの断面ではなく、習俗の秩序の同一性そのものに迫るという問題構成をもっているからである。習俗の実証的な探究の数々はこの二つの言説のあいだに配列されると見てよいだろう。習俗の世界はじつにさまざまだが、それぞれある程度自律し、また内閉的な空間をつくっている。一方には、これらの小さな世界をその差異と同一性において具体的に明らかにしていく地道な作業がある。他方には、これらの小さな世界をある一般性においてとらえようとする理論的な作業がある。山人論と異人論は、前者の作業を後者の作業に統合するような問題意識に貫かれている。
†「異人殺し」伝説[#「†「異人殺し」伝説」はゴシック体]
『異人論』が問題にするのは村落共同体と貨幣経済の関係である。具体的には「異人殺し伝説」と呼ばれる習俗の語りが問題になる。村落の共同体に何か不幸な出来事が起こると、原因を究明するために、巫女や神主などの霊能者(シャーマン)が呼び出される。そして彼らの声を介してその原因が語られる。不幸の様態は、疫病が発生したり、事故が続いたり、死者が出たりと、さまざまである。こうした不幸は当然ながら村人のなかに不安や動揺をもたらす。そこでこのような不幸がなぜ起こったのかを、村人が納得するように説明し、また不幸をもたらした原因を取り除くことが求められるのである。
シャーマンの説明によると、不幸が生じた原因は、かつてその村で起こった「異人殺し」の事件にある。「異人殺し」とは、旅人(異人)が村に立ち寄り、村人の家に宿泊するのだが、そのとき村人に殺され、所持していた金品を奪われるという、何とも忌まわしい事件のことである。旅人を殺して所持金を奪った村人はやがて急速に富を蓄え、長者になる。多くはこの長者になった家に不幸な出来事が起こる。シャーマンはこの家の過去を暴くというかたちで「異人殺し」事件の経緯を語るのである。「異人殺し」の伝説が定着することにより、異人を殺したとされる家は差別あるいは排除の対象になる。
「異人殺し」伝説の語りは、村落共同体の内部に起こった不幸な出来事について説明するが、じつはその説明を通じて、村落共同体に起こったもうひとつの重要な異変について語っているのである。その異変とは、村落共同体の内部における、ある家の急速な富の蓄積と繁栄という事態である。富の急速な蓄積という「異変」は、実際には貨幣経済に媒介されたものと思われるが、そのままでは人びとにとって理解しがたい出来事である。だが、この出来事を理解不能なまま放置すれば、村落共同体にある習俗の秩序に致命的なゆらぎを与えかねない。そこでこのゆらぎや不安を鎮め、習俗の秩序を安定させるために「異人殺し」伝説が語られるというわけである。
†習俗が閉じていること、開いていること[#「†習俗が閉じていること、開いていること」はゴシック体]
小松和彦は「憑き物筋」のタブーとの比較で、「異人殺し」伝説による差別や排除の構造を位置づけている。憑き物筋のタブーも、村落の共同体においてある家筋が急速に富を蓄積するという「異変」を説明し、その異変による不安を鎮め、共同体を安定化する装置であるとされる点においては共通したところがある。憑き物筋のタブーでは、急速に富を蓄積した家には、狐などの動物霊が憑いており、そのおかげで富を手に入れたと考えられる。その家は憑き物筋とされ、共同体の他の成員から差別を受けることになる。
「憑き物筋」のタブーと「異人殺し」伝説は、いずれも、共同体の内部である家が急速に富を蓄積し、繁栄したという「異変」を習俗のタームで説明し、その異変による共同体の混乱や不安を取り除くという機能をもっていると考えられる。だが、両者のあいだには重要な違いがある。というのは、それらの語りが想定する村落共同体の置かれた社会状況が異なるからである。
小松によれば、「憑き物筋」と「異人殺し」という二つの語りの比較において重要なのは、語りの主体である村落共同体のありようが異なっていることである。「憑き物筋」の語りは相対的に「閉じたシステム」を語りの主体として前提しており、異人殺し伝説は相対的に「開かれたシステム」を語りの主体として前提している。村落共同体が貨幣経済の浸透や交通の発達にかんして、ある程度開かれたシステムになっている場合、異変を説明する語りは「異人殺し」伝説のほうにシフトしていく。他方、「憑き物筋」のタブーは、閉じたシステムにおける異変の説明方式なのである。
「憑き物筋」の語りでは、急速に蓄積される富は、村落共同体の「内部」にある他の家から、動物霊の暗躍によって取り集められたものとされる。そこで生じる異変――共同体におけるある家筋の急速な繁栄――は「閉じたシステム」の内部におけるゼロ−サム・ゲームの結果である。つまり誰かの繁栄は他の誰かの没落になっている。他方、「異人殺し」の語りでは、急速に蓄積される富は、共同体の「外部」から入ってきた旅人の所持金(貨幣)の強奪を源泉にしている。この場合、村落の共同体はその外部に対して「開かれたシステム」になっている。「異人殺し」の語りは、村落の共同体が貨幣経済とそれに媒介された交通の広大な網目のなかにひらかれた過酷な状況、つまりある種の社会変容が起こっている過程を黙示しているのである。
しかしながら、こうした議論にも問題は残っている。村落の共同体=民俗社会を基本的に自律的な存在とみなし、それが貨幣経済の浸透にさらされていくとする近代化論の視点はいくつかの困難を抱え込むからである。近代化の歴史的な段階論を立ててしまうと、憑き物筋のタブーと異人殺し伝説をその段階論に対応させて歴史的に順序づけねばならない。だが、そうした順序づけは相対的なものにとどまるか困難だからである。そもそも、民俗社会なるものが原点に存在するという仮想を疑う必要もある。つねにすでに貨幣経済の媒介を受けて存在するのが習俗の秩序だとすれば、貨幣経済を排除するかたちで習俗の安定性をはかるという構図自体も相対化されねばならないのである。
†習俗の地域性と社会性[#「†習俗の地域性と社会性」はゴシック体]
山人論も、異人論も、習俗の秩序をある一般性の水準でとらえている。柳田の山人論では、村人と山人との幻想的な関係は――歴史的な変遷があるにせよ――構造論的な同型性の水準でとらえられている。小松の異人論では、村落共同体のゆらぎや同一性の回復の過程がシステム論的な合理性の水準でとらえられている。山人論には人類学的な構造主義の発想があり、異人論には人類学的な機能主義の発想がある。しかしながら、問題は習俗の世界がそうした人類学的な普遍理論の記述に馴染むものかどうかである。人類学的普遍性のなかに、習俗の世界のもつ特異性が消えていくのではないかという疑問が残るのである。
人類学的な普遍性をもった理論によって整除されるとき、習俗の秩序は果たしてどれだけ自己の真実を露呈するのだろうか。あるいはどれだけの真実が余白の闇のなかに消えていくのだろうか。社会学はこういう問いを真剣に考えてみなければならない。というのも、習俗とはある限定された狭い地域に、長い時間をかけて成立している規範や、観念や、信仰の絡まりであり、それぞれ一種独特の文化技術をもったものだからである。柳田はこうした地域の習俗の多様性を眺めながら、それでも、それらのなかにある本質的な同一性を抽出しようとしていた。なぜなら、この同一性こそ「日本」という社会性の場にとって共通の核心となるものだからである。
たしかに柳田の時代には「日本」という同一性を構築することが政治的に重要な課題であったといえよう。だが、山人論の視線が見いだす同一性はあくまで習俗の内部に浮上してくるものであり、それは国家が要請する習俗を超えた同一性(天皇制)とは異なっている。どこかで習俗の共同性と国家の共同性を収斂させるメカニズムを作動させないかぎり、習俗の同一性はそのまま国家の同一性になるものではない。それゆえ近代国家は、習俗の核心にある神社の合祀《ごうし》や、自然村的秩序の解体、あるいは報徳主義による地方改良運動などの作業を通じて、習俗の秩序を外側から再編し、天皇制という同一性の形式に適合させることを画策し続けたのである。
日本列島は北から南まで長く伸びており、互いに見知らぬ人びとがそれぞれの地域に多種多様な習俗を発達させている。それは近代の要請にしたがって習俗のうえに降り立った、天皇制という同一性の形式とは別の現実である。しかしながら、これらの習俗の連なりには、それ自身のうちから醸成され、ある種の同一性を措定できるような共通の核心が見いだされるといえるのではないか。たとえば、それが山の神に対する信仰であり、山人に対する共同幻覚である。
この共同幻覚は必ずしも天皇制に結びつくものではないが、だからといって、たんに恣意的な事実ではない。それはこの列島に住みつく者たちに普遍的な無意識の志向性といってよいものである。日本列島にひとつのまとまった社会性の場を認めるなら、それは地域の習俗の自発性のなかに、地域の習俗を超えるような普遍的な現象をとらえることによってである。だが、個々の習俗のうちにこうした普遍的核心がそのまま見いだされるわけではない。それは多様な習俗のうちにパズルの断片のように分有され、あるいは変形されて存在しているからである。地域の入り組んだ多様性のなかに分散して存在する同一性として、社会的なものを浮かびあがらせることができないのか。習俗にかんする柳田の仕事が示唆しているのはそういう思考である。
†一九四五年、敗戦[#「†一九四五年、敗戦」はゴシック体]
柳田の思考の始まりから帰結までを辿っていくと、日本という社会性の場をどのような水準で考えるのかという問いがずっと同伴しているように思える。それぞれの地域にある習俗の秩序を観察しているだけでは、社会性という問題は十分に浮かびあがってこない。比較の視線が必要であり、さまざまな習俗をある共通の平面に並べて、それらの類似と差異を観察しなければならない。日本という形象が入り込むのは、この共通の平面の設定においてである。この共通の平面をどのような水準で設定するのかに応じて、日本という社会的な同一性の場がどのようなものになるのかも決まってくる。
習俗の世界に根を下ろすこの社会的な同一性を、天皇の秩序にもとづく国家の同一性と区別しながら、両者の関係を再考すること――柳田がこの仕事に本格的に取り組むのは、やはり日本の敗戦という厳しい反省の契機を媒介にしている。近代天皇制の政治学は習俗の同一性を国家の同一性と強権的に同致させようとしたが、両者のあいだには葛藤がひそんでいる。習俗の世界からそのまま内発的に天皇制が出てくるのではないからである。一九世紀以降、とりわけ国外からの大きな力への対応を通じて、近代天皇制という抽象的な同一性の場が成立しているからである。
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しかも、天皇制の文化技術やそれがもたらした戦争は、習俗の世界に対していくつもの破壊的な作用をもたらした。天皇制と習俗の秩序とのあいだの関係を明らかにすることは、悲惨な敗戦に際し、習俗の世界を考察対象とする民俗学の重要な責任といわねばならなかった。一九四五年八月、柳田はポツダム宣言を受け入れる天皇の最初の「聖断」を知ったとき、日記に次のように書いている。
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八月十一日 土よう 晴あつし
早朝長岡氏を訪う、不在。後向うから来て時局の迫れる話をきかせらる。夕方又電話あり、いよいよ働かねばならぬ世になりぬ。
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[#地付き](「炭焼日記」『柳田國男全集32』ちくま文庫)
長岡隆一郎から御前会議の結果を知らされたのだろう。戦後最初に柳田が著した『先祖の話』は、戦争による無惨な死を常民の信仰と実践の歴史のなかに、つまり家にかかわる文化技術によって回収し、救済しようとするものであった。だが他方で、柳田が照準する家は国体ではなく、「民族の自然」に調和できるものでなければならなかった。柳田は、天皇制のもとに闘った国民の精神力の根底に、日本人が古来より「年久しく培《つちか》ひ育てゝ来た社会制」、つまり「常民の常識」を見ようとした。この時期の柳田には、習俗の秩序のなかにある同一性のありようを、近代の天皇制や国体論だけでなく、近代以前の伊勢の信仰からも差異づけようとする問題意識が自分の「責任」として渦巻いていたのである。
†氏神の問題[#「†氏神の問題」はゴシック体]
氏神と伊勢神宮にかんする一連の考察はこの問題意識に裏打ちされていた。それは『先祖の話』(一九四六年)を書いた思いを受けつつ、「新国学談」とも呼ばれる三部作、『祭日考』(一九四六年)、『山宮考』(一九四七年)、『氏神と氏子』(一九四七年)を軸とし、『田社考大要』(一九五〇〜五一年)なども含みつつ展開された考察である。これらの考察は日本人の「固有信仰」の展開という習俗の歴史をめぐるものであり、その核心には氏神への信仰、先祖崇拝の伝承などを正しく理解するという目的があった。
問題の出発点は、地域の習俗に根を下ろす氏神信仰と平行しながら、またその頂点にあるかのように、伊勢神宮への信仰が存在することである。伊勢神宮は日本人の信仰のなかでも特別な地位にある。それは天照大神を祀るという意味で、古くから国家の同一性にかかわっている。他方、日本人の習俗のなかに現われる信仰は氏神の信仰を基本的な形式にしているようにみえる。天照大神も皇室の先祖神であるという意味では、皇室の信仰も習俗のなかに現われる氏神信仰と一定の平行関係を保っているようにみえる。
伊勢神宮が祀る天照大神は、天皇家以外の他の氏族も含め、日本と呼ばれる社会の全域にある人びとの多くがそこに祖先の本源的な流出点を見るような普遍性をもつ神である。だが、国津神に由来するような氏神は、天津神の系譜にある伊勢神宮とは系譜を同じくしない。それが地祇ではなく、天神のように崇敬されるように幾多の努力をしたとしても、このような系譜の違いは残る。考えるべき問題は、このような違いを含みながらも、天照大神の超越論性とその威力のもとへのさまざまな氏神の系譜の包摂であり、それがどのようなメカニズムを通じて成立しているのかということである。
このような天神の系譜への包摂を可能にしているメカニズムは、じつは氏神信仰そのものの特性と深いかかわりがある。なぜなら氏神の論理は、必ずしも習俗の秩序にそのまま合致する個別性を刻印されたものではなく、さまざまな変容と抽象に身をひらいて成立しているからである。それはある抽象的な力のはたらきによって、習俗の場を、より広大な、あるいは全域的な社会性の場に接続していく操作媒体となっている。氏神信仰のなかには、たとえば氏神を祭る人は、必ずしもその氏人に限らないというような流動性が認められるのである。
原田敏明も指摘するように(『宗教と社会』)、幕藩制の時代と近代天皇制の時代のあいだでも、さまざまな地域によっても、氏神祭祀や氏神祭祀組織のありようは異なっている。おそらく、そうした変化の根底に「原本的な形」があるのかもしれない。だが、氏神という形式が国家の政治や行政に媒介され、全域的な社会性の場に収斂可能な装置として存在しているかぎり、それは原形的な習俗の論理からどこかで遊離しているといわざるをえない。それゆえ氏神の論理だけから習俗の固有性を同定することはできない。氏神の論理は、それを引き伸ばしていけば、一般の人びとの先祖信仰だけでなく、皇室の祖霊信仰をも一種の同型性において包摂するように、すでにしてある種の抽象的な社会性を内包しているのである。
†深部への問い――氏神の秩序と習俗の差異[#「†深部への問い――氏神の秩序と習俗の差異」はゴシック体]
もし柳田が習俗の秩序を「氏神」の論理だけで考えているなら、柳田が天皇の共同幻想と村落の共同幻想を平行・同致させていたという吉本隆明の批判も、ある程度は妥当するといえよう。吉本がそのような批判のスタンスを取るのは、米英との開戦の年の二月、柳田が「宮中のお祭と村々の小さなお宮のお祭とは似てゐる。これではじめて本当に日本は家族の延長が国家になつてゐるといふ心持が一番はつきりします。」(「民俗学の話」)と述べているからである。そこで吉本は、柳田が「土俗共同体の俗習が、そのまま昇華したところに国家の本質をみたのである」というのである。
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だが、柳田が「敗戦」を契機に明らかにしようとしたのは、習俗の秩序が氏神の信仰に服属するときに消される差異である。逆にいうと、この差異の探究には、むしろ習俗の秩序の深い固有性を見いだそうとする問題意識が認められる。なぜなら、氏神を制度化する力がはたらく場ではすでに抽象的な社会性の場が成立しており、習俗はそこに包摂可能なものとして整形されているからである。戦争に向かった天皇制の国家の共同幻想はこうした抽象的な社会性の場とつながっている。
それゆえ戦後の柳田が問題にするのは、氏神の政治学に同伴しながら、氏神の論理に対して微妙な差異をはらむものである。そこで主題化されるのが山宮祭であり、山宮祭と氏神祭という二つの祭りがどのような関係で――どのような差異において――結ばれているのかという問いである。山宮の祭りと氏神の祭りのあいだに何か解消できない「差異」が走っているとすれば、その差異は習俗の秩序をその深い固有性において担保するだろう。また同時に、その差異を処理するメカニズムは、習俗の秩序が抽象的な社会性の場に接続し、包摂されていく様態を明らかにするのではないか。こういう問いが柳田の考察を触発していると考えられるのである。
近代の天皇制は柳田が考察している伊勢神宮の文化技術より新しい、より表層のものにすぎない。そこには伊勢に結像する文化技術の近代的な改編と創作がある。習俗の秩序の深部に本当に迫るためには、近代の天皇制よりも、むしろこの伊勢の信仰と相互に収斂するような氏神信仰の水準とのあいだにより深い差異を発見しなければならない。そのうえで習俗の秩序、伊勢神宮を分節する秩序、そして近代天皇制の秩序のあいだにある、さまざまな葛藤や落差がどのように埋められていったのかを明らかにしなければならない。これらの葛藤や落差を処理しながら社会性の場が形成されていったからである。
柳田の見据えた課題は、社会学の言葉でいえば、さまざまな地域の習俗を含み込みながら、この国の社会性はどのようなかたちで分節されているのかを明らかにすることであった。習俗はそのままでは多様性のなかに拡散したままであり、ひとつの社会を構成しているとは言いがたい。習俗の場が社会的な秩序に組み込まれているとき、一体何が追補され、何が省略されているのかが明らかにされねばならない。
全体は部分の総和より以上のものであり、仮想的な統合の次元を追補されている。だがこの統合の効果として、全体は部分の総和より以下のものとなり、たんなる総和よりもはるかに複雑性を縮減したエコノミーを成立させるだろう。深部の習俗から見れば、この仮想的な統合の次元に、山人の共同幻覚が、伊勢の信仰が、そして近代天皇制の文化技術が追補され、それぞれ異なるエコノミーを成立させる。つまり日本という場がさまざまな仕方で成立し、葛藤をはらみながら折り重ねられていく。習俗を成立させている小さな力の場は決して自律しているのではなく、こうした抽象的な場と干渉しながら持続しているのである。
[#改ページ]
第八章[#「第八章」はゴシック体] ヴァルター・ベンヤミン[#「ヴァルター・ベンヤミン」はゴシック体]
――あるいは社会記述の方法をめぐって[#「あるいは社会記述の方法をめぐって」はゴシック体]
[#扉絵(img/face8.jpg)]
[#改ページ]
†歴史意識とベンヤミン[#「†歴史意識とベンヤミン」はゴシック体]
デュルケームからレヴィ=ストロースへ、あるいはパーソンズからルーマンへ流れる社会学的思考の系譜では、異なるかたちでだが、システム論的な視点が優越している。それはある種の普遍性への志向において社会現象を眺めており、歴史性への配慮に乏しいというきらいがある。そこでは歴史的な変化が稀薄な未開社会や、自己の普遍性を信憑する近代の産業社会が分析の第一次的対象として想定されている。また、現象学や心理学に立脚する社会学も、その有効性は、人間のありように強い一般性・普遍性を想定できる範囲にとどまっている。他方、史的唯物論は歴史的に大きな展望を与えてくれるが、これも図式的な抽象による歴史の枠組にとどまり、歴史の実相に迫りうるものとは思えない。
歴史の領域における社会学的思考の試みの空白を埋めるのは、むしろマルク・ブロック、リュシアン・フェーブル、フェルナン・ブローデル、ジャック・ルゴフらの社会史、フィリップ・アリエスの文化史など、歴史にかんする研究であった。だが、それらの研究は資料中心の実証性に志向しており、社会学的思考を鍛え続けてきた秩序問題や、社会的なものの探求において直接重要な貢献を果たすことはなかった。
歴史の領域で成功した社会学の代表的な試みは、マックス・ウェーバーによる「宗教」の比較社会学的分析や、ミシェル・フーコーによる「思想のシステム」の系譜学的分析である。ウェーバーやフーコーの試みは歴史の領域を分析するための方法論的な整備を徹底している。もちろん、ウェーバーの分析枠組にある近代的な視点と、フーコーの近代性を相対化する問題意識とのあいだには大きな違いがある。だが、両者は自分が身を置く近代そのものを歴史のなかで容赦なく相対化してとらえ返す、不安な歴史意識をもっている点で共通している。
ウェーバーやフーコーとは視角が異なるが、彼らに劣ることのない醒めた歴史意識を湛え、近代性の時代を歴史の過酷な流れのなかに置きなおした人物がいる。ヴァルター・ベンヤミンがその人であり、彼の孤独な知の営みは社会学的思考の領域にも大きな足跡を残したのである。ベンヤミンは一八九二年七月にユダヤ系ブルジョワ家庭の長男としてベルリンに生まれた。そしてナチスに追われ、亡命の旅の途中、四十八歳で自殺した。コント、スペンサーを社会学の第一世代、デュルケーム、ウェーバー、ジンメルらを第二世代とすると、ベンヤミンは第三世代に属している。レヴィ=ストロース、フーコーらはそのあとの世代ということになるが、ベンヤミンの仕事はこうした世代の流れを突き抜けるような光芒を放っている。
†亡命の死の前に[#「†亡命の死の前に」はゴシック体]
ベンヤミンが死んだのは、パリを逃れ、マルセイユからスペイン国境を越えて行くときのことであった。スペイン警察に検束され、フランスへ送還されることを告げられ、自殺を決意したという。一九四〇年九月末のことである。前年の九月一日に、ナチス・ドイツがポーランドに侵入し、九月三日、英、仏がドイツに宣戦布告することによって第二次世界大戦がはじまる。それとともに一時期、ベンヤミンは敵国人としてパリ近郊の収容所に拘束されていた。だが、一九四〇年六月一四日、ナチス・ドイツによってパリは陥落する。その直前にベンヤミンはパリを逃れ、アメリカへの亡命の旅に出る。この年の春、亡命の旅の前に、ベンヤミンは「歴史の概念について」を書いていた。
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「歴史の概念について」という文章は一八の短いテーゼからなるが、それは歴史が突きつける切迫した現在のただなかで、歴史について本質的な問いなおしを試みたものである。ベンヤミンはそこで歴史を考えるひとつの標準として「歴史的唯物論」を取りあげ、独特の意味づけを施していく。それはマルクス主義者の標榜する歴史的唯物論にそのまま従うものではない。なぜなら、そうした議論は歴史の前で一種の硬直状態にあり、人間が生きる歴史の現在性を、あるいは根源的な歴史のありようを見過ごしているからである。必要なのは歴史的唯物論の鍛えなおし、あるいはその可能性の再構築であった。
歴史的唯物論を名乗るものの多くは弁証法的な総合の過程のなかに歴史の動態を見ようとしている。それはいつも勝つ仕掛けになっているが、その勝利は事後的な意味づけにおいてである。実際には、歴史がそのような勝利の過程にあるのかどうかはわからない。それでも歴史的唯物論が歴史主義より優れているとすれば、歴史の現在には過去からの呼びかけが届いていることを意識している点にある。歴史は決して均質で空虚な時間の連鎖ではないからである。歴史的唯物論は、歴史の現在に過去の時間(期待や希望)がくり込まれていること、つまり歴史的な時間の奥行きを知っている。そしてまた、解放が達成される最後の審判の日には、過去の歴史の瞬間がすべて呼び出されるという、一種独特の時間性を信じているのである。
しかしながら、歴史的唯物論が過去とのあいだに保持しているこうした秘密の約束、あるいは最後の審判=解放の思想は、すぐさま進歩の思想に取り込まれ、何らかのユートピアを結像していく。それはどこかで歴史の現実から遊離している。というのも、歴史は人間を過酷な現実のなかに置き去りにし、人間のまわりには瓦礫のような現実のかけらが次々に転がっていくばかりだからである。ベンヤミンは、一方でメシア的な救済の思想に思いを寄せながらも、他方では「歴史の天使」が見ているように、過去の瓦礫がうずたかく積みあがっていく破局の過程のうちに歴史の現在を見つめている。歴史的唯物論は、救済の思想を進歩の時間から解き放ち、むしろ破局の過程のうちに見いだす強い力を必要としているのである。
†歴史の天使がいるとすれば[#「†歴史の天使がいるとすれば」はゴシック体]
人間が真底、歴史的な存在であるとしても、歴史は人間にかんして予定調和的なプログラムをもっているわけではない。救済や最後の審判にかんする信仰がその不安を埋めるかもしれないが、そうしたメシア的信仰も歴史のなかに浮遊する断片でしかない。通俗的なマルクス主義が約束する人類の救済=解放の歴史もそうした断片のひとつにすぎない。ベンヤミンがメシア思想のヴェールを透かして見ていたのは、歴史のなかで人間が生きることの、意味というより、むしろ深い感触のようなものであった。生きることの感触や知覚のありようは、人間が世界とのあいだに結ぶファンタスマゴリックな時間――実存的でもなく、客観的でもなく、むしろある集団を通して生きられる時間――のなかに多彩なかたちを取って揺らめいている。
人間が世界に棲みつき、世界と取り結んでいる、根源的な時間の流れや関係があり、そこに成立している歴史があるはずである。そのような歴史の奥行きのなかで、人間の事象をとらえなおすこと、それがベンヤミンの課題であったといえよう。「歴史の概念について」の第九のテーゼで、ベンヤミンは「歴史の天使」という比喩形象(アレゴリー)を使って、人間が自分の歴史的現実とのあいだに見いだす関係を次のように描いている。
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「新しい天使」と題されたクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれていて、この天使はじっと見詰めている何かから、いままさに遠ざかろうとしているかに見える。その眼は大きく見開かれ、口はあき、そして翼は拡げられている。歴史の天使はこのような姿をしているにちがいない。彼は顔を過去の方に向けている。私たちの眼には出来事の連鎖が立ち現われてくるところに、彼はただひとつ、破局だけを見るのだ。その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。
(浅井健二郎編訳・久保哲司訳
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]『ベンヤミン・コレクション1』ちくま学芸文庫)
ベンヤミンによれば、歴史の天使はこの瓦礫の場所に踏みとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊された物を寄せ集めて、つなぎ合わせたいと思っているのだが、それは容易に叶うことではない。楽園から嵐のような風が吹きつけていて、この風が天使を未来のほうへ押し流していくからである。天使をこのように後ずさりさせ、瓦礫の場所から遠のけていく風とは、人びとが「進歩」と呼んでいるものである。ベンヤミンは、ここで「進歩」という歴史主義的な観念――それは均質で空虚な時間のなかで享受される幻想だが――を振り払い、歴史の現在のなかに瓦礫となって積みあがっていく過去の断片を蒐集し、つなぎあわすという、コラージュ風の仕事に魅せられている。
†パリ・パサージュ論の地平へ[#「†パリ・パサージュ論の地平へ」はゴシック体]
このコラージュ風の仕事こそ「パサージュ論」(Das Passagen-Werk) である。それはたんに歴史主義に対する批判だけでなく、世の多くの歴史的唯物論に対しても距離をもつものだからである。歴史主義が過去を過去のうちに自足させるのに対して、歴史的唯物論は来るべき現在と過去のあいだを弁証法的な約束によってつなぎあわせる。歴史的唯物論は、歴史の現在が連続的な変化のたんなる移行点ではなく、それ自身のうちに過去の経験を呈示する果実のような厚みをもっている、と考えるからである。
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しかしながら、歴史的唯物論も楽園から吹いてくる風に煽られ、進歩の概念をはらむことになる。それは過去の経験とその真実を呈示すべき厚みのある現在を、結局は、歴史の到達点というユートピアのなかでしか見いだせないからである。抑圧された過去を蘇らせ、救済し、解放する場としての現在は、いつまでも遠い幻影にすぎないのである。
むしろ現実に存在する歴史の現在は、刻一刻、悲惨な破局をはらむことによって立ち現われ、過去の真実(をはらむ厚み)はそこでたえず瓦礫に変貌していく。過去は救済と解放のためにではなく、屍体のように裁断され、現在のうちに呈示されているだけである。歴史的唯物論の約束が不確定なものとなる地平に、歴史の現在は横たわっている。パサージュ論が記述の対象として開示するのはこのような不確定性のうちにある歴史の現在である。
「歴史の概念について」というテクストでは、歴史主義に対する批判は明瞭だが、世の歴史的唯物論に対して微妙な距離が取られている。そこには歴史的唯物論を鍛えなおし、自分の考える方向に引っ張っていこうとする意図も見える。だが、「歴史の天使」にかんするテーゼは、もはや歴史的唯物論というよりも、パサージュ論と呼んだほうが適切なある方法を指し示しているのではないだろうか。
もちろん、ベンヤミンがマルクスの『資本論』に強い刺激を受けていることはパサージュ論にも読み取れる。だが、パサージュ論がその独自性において実現しているものは、マルクスのシステム論的な視点や記述から逸れていく。パサージュ論が訴えているのは、むしろ引用の織物にも見える、何か不確定性をはらんだ「蒐集」的な記述の有効性をめぐる問いである。この「不確定性」をはらんだ記述こそパサージュ論の独自性であり、それは歴史の現在がはらむ時間の奥行きをとらえようとすることと強く相関している。そこには歴史の記述を現在に向けてひらく希望と失意の入り混じった作業がある。
†アレゴリーという視点[#「†アレゴリーという視点」はゴシック体]
ベンヤミンの問いの中心にあるのは、現在、それも過去との関係においてある現在、つまり「歴史の現在」である。たしかに現在と過去のあいだには内在的なつながりがあるのだが、現在は過去の因果的な帰結でもなければ、過去にあった希望の産物というわけでもない。他方、過去について見ても、それは現在のありようを規定する本質でもなければ、また現在の意識が構築するたんに恣意的な形象というわけでもない。
ベンヤミンのなかには、現在と過去をつなぐひとつの方法、つまり歴史の現在をとらえる重要な視点がある。それが「アレゴリー」(Allegorie) である。アレゴリーとはふつう抽象的な観念を具象的なものを用いて比喩的に示すもので、風喩や寓喩とも呼ばれる。「象徴」(Symbol) との比較でいえば、象徴が何かある存在をその全体性や本質において把握するものであるのに対し、アレゴリーはもっと恣意的な断片を指し示すものと見なされることが多い。象徴がひとつの奥深い全体性を指示する作用なら、アレゴリーは断片的な類似性にとどまる比喩形象というわけである。だが、ベンヤミンはアレゴリーの用法にもっと深い意義を認めようとする。
ベンヤミンがアレゴリーの重要な意義を取り出すのは近世のバロック悲劇にかんする研究を通じてである。ベンヤミンによれば、アレゴリカルな表現の台頭は宗教改革の進展と関係がある。ルネサンスにより古代の神々が復活するが、この異教的な神々の聖域は、宗教改革による激しい抗議のなかで解体されていく。異教的な神々の聖域の解体とともに、それらの神々の死がもたらされるが、アレゴリー的表現はこうした神々の凋落の動きを背景にしてその輝きを増すのである。
それゆえ、ベンヤミンにとって、アレゴリーとはたんなる寓喩のことではなく、神々の死とともに生まれ、神々をその屍体において、それゆえその断片化において描き出すような寓喩である。彼はたんなる寓喩ではなく、対象をその死において描き出すような寓喩に、アレゴリーの意義を見ているのである。アレゴリーとは、過去が瓦礫のように現前すること、つまり対象がひとつの屍体として、事物のように細断される断片性のうちに現前することである。
アレゴリカルな記述があるとすれば、それは過去をこのような死の位相で現在に蘇らすことである。歴史の現在にはそのような過去の断片が無数に浮遊しており、現在の生のありように微妙な陰影や曲率を与えている。たとえばパサージュ論は一九世紀パリという都市の形象を描き出すが、ベンヤミンの生きる歴史の現在は、そうした都市の形象(の瓦礫や屍体)でみたされることによって固有の陰影や曲率を帯びている。過去の死せる形象、そして過去の形象の分解と散乱のうちに、歴史の現在がもつ「幻想的な奥行き」(Phantas-magorie) をとらえること、それがベンヤミンの手法の核心をなしている。
†大都市と群集の問題[#「†大都市と群集の問題」はゴシック体]
ベンヤミンは『パサージュ論』で一九世紀パリの街に生きる人間の生の様態を問題にした。それはパリという都市社会の諸相を具体的に明らかにする。この都市の置かれた状況や、その都市を生きる人間を理解するうえで、ベンヤミンに重要な直観を与えたのは、シャルル・ボードレールである。ボードレールは美術評論家であり、詩人であった。また都市の生態を観察する批評家でもあった。ボードレールが一九世紀パリという都市を理解するときの、もっとも重要な媒体、それは「群集」(Menge : foule : crowd) である。
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一九世紀の大都市に出現する「群集」に対して、批評家、小説家、学者の態度はいかにも否定的なものや不安なものが目につく。ベンヤミンは「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」で、この問題をとりあげ、大都市の観察者たちが群集という存在に感じ取っていたのはどこか「不気味なもの」だったという。「大都市の群集は、それをはじめて直視した人びとのうちに、不安、嫌悪感、そして恐怖を呼び起こした」のである。
哲学者のヘーゲルは、死の少し前に、当時まだ地方的であったドイツからパリにやって来たが、そのときの経験を次のように記している。「町中を歩くと、人びとの外見はベルリンとそっくりだ。みんな服装の点で異なることはないし、顔つきもほぼ同様だ。同じ眺め、しかしそれがここでは巨大な群集をなしているのだ」(一八二七年九月三日付手紙、久保哲司訳)と。マルクスにとっては「不定形の大衆」は強靭なプロレタリアートに鍛えなおすべきものであった。他方、フリードリッヒ・エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』のなかでは、ロンドンの大衆は次のように映っていた。
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すでに街路の雑踏からしてなにか嫌悪を催させるもの、なんとなく人間の本性に逆らうものをもっている。そのなかをひしめきあいながらすれ違ってゆくこれら数十万ものあらゆる階級およびあらゆる身分の人たち、彼らはみな同じ特性と能力をもち、幸福になりたいという同じ関心をもっている人間ではないのか。……それなのに彼らは、まるでお互いになんの共通点もなく、お互いになんの関係もないかのように、肩を触れあわせながら走り過ぎてゆく。
(浅井建二郎編訳・久保哲司訳
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[#地付き]『ベンヤミン・コレクション1』ちくま学芸文庫)
エンゲルスによれば、これらの群集のあいだには、他人に対して目もくれない「残酷な無関心」が支配しており、「各個人が自分だけの関心にとらわれて無感覚なまま孤立している」様子は嫌悪感を催させるというのである。
†群集に外在するまなざし[#「†群集に外在するまなざし」はゴシック体]
エンゲルスにとって群集とは「人を狼狽させるもの」であった。他方、『群集の人』を描いた、エドガー・アラン・ポーも、ガス灯の光のなかを動く群集に不安を感じ取っていた。群集という匿名のヴェールは、大都市の迷宮のような空間とともに、「探偵小説」の成立の重要な契機となった。ポーにとって群集は野蛮な何かであり、「規律」を受け入れるとしてもそれは表面的である。画家のジェームズ・アンソールは謝肉祭を思わせるような群集の光景のなかに「軍隊」を描き込んだが、それは群集が何を代補されるべき存在であるのかを、すなわち全体主義へ移行する危うい道筋があることを暗示していた。
ポール・ヴァレリーは、文明史的な観点から、大都市の住民はかえって野生状態、すなわち孤立状態に逆戻りするという。なぜなら社会的な機構の完備は、かつては必要上たえず呼び覚まされていた、諸個人の絆にもとづく感情を失わせ、共同生活に対する態度や感受性や行為の様式を無効にしていくからである。ヴァレリーは、大都市を生きる人間のなかに、便利な社会機構への依存と表裏をなすように、一種の「野生状態」や「孤立状態」への逆戻りが見られるのを感じ取っていたのである。
他方、ギュスターヴ・ル・ボンは、群集の台頭する時代を破壊と混乱の相で見ていた(『群集心理』)。ル・ボンは、群集のなかに、個人の心理や判断力を超えたひとつの集団的な心理の成立を見る。ル・ボンによれば、この群集の心理は、衝動的で、興奮しやすいこと、暗示を受けやすく、物事を軽々しく信じること、感情が誇張され単純であること、偏狭で横暴で保守的であることなどを特徴としている。群集は理性によって動かされず、「心象」にもとづいて思考し、しかもこの心象は相互に何の連絡もなく、相次いで生じるという。ル・ボンも群集の出現に野蛮な混乱状態への回帰を見ていたが、同時に彼は、群集の力が老朽期に入った文明の「破壊作用」として機能するという視点をもっていた。
†「通りすがりの女に」――群集に内在するまなざし[#「†「通りすがりの女に」――群集に内在するまなざし」はゴシック体]
群集に対して否定的感情を抱く論者の共通点は、エンゲルスに代表されるように、群集なるものを「外在的」な視点からとらえていることである。群集に対するボードレールの見方にも、群集への嫌悪感や不信の要素がないわけではない。だが、ベンヤミンがボードレールを評価するのは、ボードレールのなかには群集に対する「内在的」な視点が保持されているからである。ボードレールにとって都市の群集はその内面に浸透しており、決して自分の外部にあるものではない。ボードレールはその作品のなかで、大都市の群集に魅惑されていると同時に、そのことに抵抗しているのである。
ボードレールは『悪の華』のなかのソネット、「通りすがりの女《ひと》に」A une passante で、大都市の群集の経験のなかではじめて成立する「ひと目の恋」を美しい詩句で形象化している。黒い喪の装いをしたひとりの女が、喧騒の街路を、その雑踏のなかを、無言のまま通りすぎていく。詩人のまなざしの前を見知らぬ女が通りすぎ、はかなく消えていく。詩人は一瞬のうちに彼女に魅せられる。「そのまなざしが、たちまち私を甦らせた女《ひと》よ、もはや私は、永遠のなかでしかきみに会わないのだろうか」と。
だが、この一瞬の出会いと別れのなかで、詩人のまなざしはどのような構造のもとにあるのか。ベンヤミンが問うのは、詩人のまなざしがそこで見知らぬ女をとらえている知覚や経験の様態にある。大都市に生きる者の経験に浮上するこの魅惑的な形象は、決して匿名で不確かな群集と単純に対立するものではない。群集から際立つとしても、その魅惑的な形象は群集によってはじめて彼のもとへ運ばれてくるからである。
このソネットでは、心を奪われる瞬間が同時に永遠の別れである。そこで呈示されているのはショックの形象、あるいは破局(カタストロフィ)の形象である。それは身をひきつらせるような経験であり、エロスでみたされた人間の幸福な経験ではない。それは大都市に生きる孤独な人間を襲う魅力的な戸惑いの状態である。ベンヤミンによれば、この詩は大都市で生活する者だけが経験すような愛の形象、彼らの生活に不意に訪れる「切ない傷痕」をくっきり浮かびあがらせている。問題は、このような経験を成り立たせている知覚の様態である。
†アウラの衰退――群集の知覚するもの[#「†アウラの衰退――群集の知覚するもの」はゴシック体]
「通りすがりの女《ひと》」に死や永遠の象徴を見ようとする解釈もあるだろう。だが、風と埃に充ちた都市のなかでは、そうした象徴自体がすでに儚い屍体(=アレゴリー)と化し、群集の情景の断片となって運ばれていく。ベンヤミンの考察からすれば、群集というヴェールを通して「通りすがりの女《ひと》」を知覚する経験は、興味深いことに写真というメディアが実現することになる知覚の経験と構造的に照応している。ボードレールの「ソネット」が描き出したイメージは、その構造において、「写真」という複製技術がとらえるようになる一瞬の映像と世界の切り抜き方を共有している。両者のあいだには構造的に共通する知覚の経験が存在しているのである。
通りすがりの女《ひと》に対する「最後のひと目の恋」は、@決して超越的な視線ではなく、身を引きつらせるような「触覚的経験」(Haptischen Erfahrungen) のひとつであると同時に、A出会いが最後の別れであるような一瞬の「ショックの映像」(Figur des Chocs) でもある。スナップ・ショットが可能な「写真機」が与えるものも同じ構造をもっている。それは、@指のひと押しで、瞬間というものに触れ、紙の上に生々しく定着させることであると同時に、Aその瞬間に対して、それが最後のひと目であるような死のショックを与えることだからである。
ベンヤミンは、芸術作品が技術的に複製可能となった時代に衰退していくのは、芸術作品が身にまとっている「アウラ」(Aura) であるという。いわゆる「アウラの衰退」(Verfall der Aura) だが、それは芸術作品の分野をはるかに超えて、社会一般に広がっている。アウラの脱落は、むしろ一定の社会的条件に伴う現象であり、「現代性」(modernite の時代にある知覚の場の基本的な属性をなしている。
ベンヤミンによれば、アウラとは真正な芸術作品がそうであるように、空間と時間から織りなされた不可思議な織物である。それは「どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に現れているもの」である。他方、複製作品は、世界にただひとつしかない本物の芸術作品とは異なり、「一時性」と「反復可能性」が密接に結びついたかたちで経験される。また複製作品は、どこまでも遠くにある〈本物〉に接するのではなく、「近く」でその〈模像〉を所有するという大衆の欲求に対応している。このような複製作品の経験で与えられる形象には本物のみがもっているアウラが消失している。
†遊歩者と群集の世界[#「†遊歩者と群集の世界」はゴシック体]
アウラを崩壊させることは、ある種の知覚やまなざしの特徴である。しかしながら、アウラの消失は決して悪いことではない。いやむしろアウラの消失のなかにこそ、かえって「現代性」をひらく美意識や誘惑の様態が出現しているからである。たとえばボードレールのソネットがとらえた美しい女のイメージは、まさにアウラの消失する世界ではじめて知覚可能な美の形象である。「通りすがりの女《ひと》」は一枚の写真のように知覚されている。
ところで、アウラなき美の形象を、一瞬のうちに、しかも一種の永遠のように反復可能なものとして定着するまなざし、このまなざしを可能にしたものは何なのか? その女の形象をまなざしの前に運び、浮上させ、また連れ去っていったもの、それは群集である。大都市の群集はアウラの消失をまさに社会的な水準で体現している。「通りすがりの女《ひと》」がまなざしに浮上するのは群集というスクリーンを通してである。
他方、群衆の波のなかを通り過ぎる女《ひと》へ、その不思議なまなざしを差し向けた主体は一体どのような存在なのか。ベンヤミンは群集の波にさらわれるこの不思議なまなざしの主体を「遊歩者」(fl・eur) と呼んでいる。ボードレールはそのような遊歩者のひとりである。遊歩者は群集のなかに混じりながら、群集のなかに十分溶け込めない孤独な人間だが、群集とは多かれ少なかれ、そういう人間を含んでいる。
群集のこのような位相を明らかにしたのはベンヤミンの功績である。群集はゲゼルシャフトにも、またその対立物として(理念的に仮想される)ゲマインシャフトにも等しくない。それは都市のダイナミズムが生み出す存在の様態であり、メディア技術に媒介された知覚の様態と共振する生の様態だからである。群集は固定した社会のタイプではない。ベンヤミンは社会学の対象として、「社会」というシステム論的な〈単位〉ではなく、「生の様態」とでも呼ぶべき〈位相〉を導入した。それは近代社会学の伝統的な系譜とはおよそ異なる視角で、社会学的分析を試みるべき重要な事例であったといえよう。
†社会記述の方法をめぐって[#「†社会記述の方法をめぐって」はゴシック体]
すでに行為理論、物象化論、構造主義、システム論、そして習俗の理論を見てきたが、ベンヤミンの試みを通して出会っているのは、そうした思考や理論の系譜に回収できない、したがってまたそれらの理論的系譜が見逃していた問題領域である。それはいわゆる「社会」という類型や単位を記述対象としていない。したがって史的唯物論や、構造主義、あるいはシステム論や、民俗学などを分析の道具にすることはない。それは社会という単位に容易に回収できない現象を、すなわち人びとの集団的な生の様態を、彼らの歴史の現在性において記述することを課題としている。
フーコーの言説分析、あるいはシステム論の現代的展開において、秩序問題の考察はすでに微妙に後退していた。それらの理論では秩序問題を語ることを可能にするような条件ないし言説の場自体が問題になっていた。二〇世紀の後半になって、先鋭的な思考は秩序問題への視点を微妙にずらしていたのである。だが、ベンヤミンはまったく別の仕方で視点の移動を行っていた。それは社会というユニットや単位の実定性に縛られない思考であり、群集という流動的な生の様態を分析の対象に据えることによって水路づけられている。群集を生み出した大都市自体が社会という想像力の規定をはみ出し、超え出るような、一種の怪物のような次元にまで達していたからである。
社会学はもはやその対象を社会という想像力の規定に引き渡すことはできない。現代という時代には、社会というには余りにも巨大な集積や分散した現象があり、そしてそれらの集積や現象のなかを横断する生の様態がある。いまだそれを正確に名づけることはできないが、社会学はその成立の現場から時を経て、いまこのような対象に向かい合っている。社会という言葉が指し示す領域を、システム論的な単位や規範的秩序の枠組から自由にすること、そして巨大な集合現象や、メディアに媒介された記号や物の集積のうちにある、人びとの生の様態に照準してみる必要がある。社会記述の課題や方法を、生の条件や現在性を参照しながら、改めて考えてみる必要がある。
社会記述の方法にかんして、ベンヤミンの方法は示唆的なものを含んでいる。ひとつには、彼が群集なるものを社会秩序や理性の立場から外在的、批判的に眺めるのではなく、むしろ内在的な仕方で、歴史的な生の様態として、また同時にメディアや技術に媒介された経験の構造として分析したからである。もうひとつには、システムの概念やそれが導入する予断――物事の可能性の条件を確定しようとする超越論的な思考――に依拠しなかったからである。それは彼が自分の「運命」を生きていくなかで、歴史の現在や時間に対する関心と考察を深めていったからでもある。そこにはシステム論的な単位としての社会(の同一性)に準拠する確定的な記述とは異なり、さまざまなテクストの引用からなる「蓋然性の空間」が記述されている。人間の生の諸形象が星座をなしてたわむれる不確定な場がそこに浮かびあがってくるのである。
[#改ページ]
エピローグ[#「エピローグ」はゴシック体]
これまで社会学的思考をさまざまに試みた先人たちの軌跡を見てきた。それらの思考はいずれも、われわれ自身の試みに重要な課題を提示している。だが、そうした思考の系譜を配慮しつつ、われわれも自分の生きる歴史の現在に立ち向かわねばならない。そこには実に多くの問題が噴出しているように見える。しかし、重要なことは、何が本当の問題であるのかを見きわめることである。学問の世界にも流行はある。すでに多くの部分が商品化され、また政治的な意図をはらんだ形象ともなっている。
眼前の問題ほど目立つものだし、気にもなり、しばしば何か重要な事柄を含んでいるように見えるものである。だが、歴史が教えているのは別のことである。本質的な問題はそんなに目移りするものではないからである。私は今も先生の言葉を思い出す。本質的なことが大事なんだよという言葉である。私がその言葉にどれほど誠実であったのかはわからない。だが、私が自分の出会う学生に言えるのは、やはりこの言葉しかない。そして本質的なこととは何かを自分で考えることである。
この短い冊子で、私の学んだことをすべて書けるわけではない。しかも、私は社会学のすべてを学んだわけではない。百科全書的な紹介に徹するなら、もっとたくさんの頁が必要だろうし、多くの人びとの協力も仰がねばならないだろう。しかし、私がこの冊子で言いたかったことはたったひとつである。人びとの生の様態について少しでも本質的なことを考えることである。それが私の考える「社会学を学ぶ」ことである。
社会学の先人たちにおいても、社会的なものとは何か、自分の生きる社会とは一体何ものであるのかといった問いが何度もくり返されたはずである。しかも社会はそのありようを変えていく。しかし、ありがたいことに、方法はいろんな仕方で継承可能である。社会学をめざす若い読者、あるいは社会について考えようとする読者の前に広がっているのは、先人たちの冒険や努力の数々である。そこには現実を見据えながら、現実に縛られない思考の試みがある。この冊子を介してそうした試みに直に触れ、新たな想像力が形成される機会があることを期待しつつ、いったん筆をおくことにしよう。
内田隆三(うちだ・りゅうぞう)
一九四九年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得。現在、東京大学大学院総合文化研究科教授。専攻は、社会理論、現代社会論。消費社会論やシステム論、パサージュ論の視点を総合し、従来の社会学では捉えきれなかった〈社会〉〈歴史〉〈身体〉の新しい位相を提示しながら、現代における「社会記述」の可能性を探る。著書に『消費社会と権力』『社会記 序』『ミシェル・フーコー ―主体の系譜学』『柳田国男と事件の記録』『さまざまな貧と富』『テレビCMを読み解く』『生きられる社会』『探偵小説の社会学』『国土論』ほか。
本作品は二〇〇五年四月、ちくま新書の一冊として刊行された。