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彼が泣いた夜
内田春菊
目 次
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昔の男から電話があった。
なんでだろうね。男ってわりと、別れた女とも仲良くしたがる人が多い。
こっちがもうなんとも思ってないばかりか、顔も見たくねーやと思ってても、平気でなつかしそうにしてくる。困る。あたしはまだいいとしても、そばに今つきあってる男がいたりした日にゃ、すんげえ迷惑、なこともあるのに。無神経だよ。それなりにいろいろあって別れてこっちは気が済んでるってのに。あれだけいろいろがんばったけど駄目だったしな、ってもうとっくに諦《あきら》めて、言っちゃ悪いけど愛想《あいそ》も尽きてるってのに。
体のでかい恐竜は、しっぽを踏まれてから三日くらいして「痛い」と感じてたなんて話があるけど、男ってそういう人、多い。技を決めてから三年くらいで効いてくるとかさ。恋愛三年殺し? だれもそんな気長な技遣っちゃいないっての。
思い出なんていらない。可愛《かわい》いのは、今仲良くしてる男だけなのよ。
あたしがつい関わってしまう男のタイプには二つある。いいかげんで、嘘《うそ》つきで、虫のいいことばっかり考えてるタイプと、最初はとっつきにくいけど、そのうち誠実なのがわかってきて、でも、ちょっとしつこいタイプ。どっちかに煮詰まりだすと、もうかたっぽの性質のやつにも手を出してしまう。いけませんねえ、と口では言うが、治らない。一応、ややこしいことにはしないように気はつけてるつもりなんだけど、うまくいかない。だっていいかげんいい歳になってきたら、ずるいタイプのほうとはつきあいたくないはずだ。なのにいつのまにかまたそういうのがそばにいる。
電話してきたのもそういうタイプのほうだった。
いきなりこうだ。
「ねえ金持ってる?」
最低だね。こいつは、これが口癖だった。あたしは男女関係なく金はある方が出せばいいという考えだけど、それでもはっきり言わせてもらう。恋人に「金持ってる?」なんて言う男はクズだ。金がなかったら、ないなりに過ごせばいい。それに気づかせてくれたのがこいつ、呈児《ていじ》だった。
いつだったか金を渡しながら、
「大丈夫? 足りる? まだあるよ」
と声を掛けたら、
「うん……」
と言いながら目をそらしたことがあったのを憶《おぼ》えてる。絵に描《か》いたように後ろめたそうなその顔。人をだまし通す度胸もないというより、結局あたしがどのくらいまで甘えさせてくれるか様子を見ていたのだ。
「持ってたら何なの?」
そっけなく言ったつもりだった。
「飲みにでも行かないかなと思って」
効果なかった。
「誰が? 誰と?」
もっと不機嫌にしてみた。
「なに? 寝てたの?」
労力のムダだった。
「別れたはずなんですけど」
態度ではダメ、言葉だ。
「オレって別れても仲良く出来るやつでしょ?」
ああ。ああ。そういえばこいつ、つきあい始めの頃からそんなこと言ってた。あれは、描写でなくて契約だったのか。「別れても仲良くしてくれ」という。ひええ。信じらんない。
「こっちが金出してまで?」
やっと強力な皮肉が思いついたぞ。あんたはもう賞味期限切れてんだよ。
「オレ今金なくてさー」
「だから、……だったら普通電話しないんじゃないでしょーか?」
「いや、いっくらオレだって電話代くらいあるから」
うわー、どうしよう。会話が成立しない。
「まあでもあんまり長電話になりそうだったら、かけなおしてくれると助かるけどね。おまえ電話長いじゃん、いつも」
「…………」
あたしはしばらく黙った。言い返しちゃ、ダメなんだ。
「なによ、どうかしたの?」
呈児は鼻にかかった声で言った。あたしはどう言えばいいかまたしばらく考え、やっと、次の手を思いついた。
「出かけるの……これから」
「なんだよ。じゃあなんで電話出たの」
どういう筋合いだか不平を言われるあたし。めまいがしたが、何を言ってもムダなんだから、怒っちゃいかん。
「彼氏かと思って」
「…………」
やっと黙ってくれた!
「男いるのか」
「ええまあ……(当たり前だろーが!)」
「ふーん、じゃまたかけるわ」
かけないで、と言う前に電話は切れた。
ほんとは会う予定があるのは女ともだちであった。結婚したての彼女にあたしは思わずこぼした。
「ああ。なんであんなのとつきあってたんだろう」
「後悔してんの?」
「してる。すごく。ねえ、うまくおっぱらう方法ないかなあ」
「そうねえ……」
壱子《いちこ》は眉間《みけん》をきゅっとしぼった。あたしも思わず、まねをした。
「壱子って顔の筋肉がよく動くよね」
「そう? 八寿美《やすみ》は動かないの?」
「自分ではわかんないけど……」
「でも、そういえば、あんまりいろいろ顔に出ないかもね」
「え、そう?」
あたしは自分の顔を撫《な》で回した。
「だからつけこまれんのかなあ。嫌がってる顔とかもっと、はっきりすればいいのかしら」
「どうかしら……」
「ねえ、嫌がってる顔、やってみてくんない?」
しばらくして、壱子が丹精込めて作ってくれた表情を見たあたしは、心から笑い転げた。
「笑かしてどうすんのよ」
壱子も笑った。
それでも今の彼に逢《あ》うと呈児のことなんて頭から飛んでいってしまう。目の前にいてくれるだけで嬉《うれ》しくて、あたしは顔をじろじろ見た。
「ん?」
ああ、この声。
「清市《せいいち》の声、いいね」
「そう?」
「あたし清市の顔大好き。この目とか」
あたしは彼の目を指さした。それから唇。
「こことか。ここも。ここも。好き好き」
彼は黙ってあたしに顔を触られている。
「からだも好き。この肩も。手も」
それからあたしの手は彼のひざの上に乗り、そこに滑って行った。
「ここも」
まだ彼は黙ってる。
「あたしに逢えなくて淋《さび》しかった?」
「うん」
清市はちょっと困ったような顔で言った。彼は呈児に比べてあんまりしゃべらない。余計なことも言わないかわりに、最初の頃はどういうつもりでいるのかが読めなくてほんと、困った。もしかしたらあたしのことあんまし好きじゃないのでは? と何度も悩んだ。なんとなく、突き放されているようなところを感じていたのだ。
「清市はあたしのこといつ頃から好きになったの?」
「逢ってすぐだよ」
「あたしも……」
つきあい始めの頃の話ができるようになってきた、そんな状態の彼とあたし。連絡するとき、緊張で鼓動が速くなることもなくなってきた。ついこないだまで、電話に出た彼が「なんの用?」と言うような気がして恐《こわ》かったけど、今はもう大丈夫だ。
「それでも逢ったばかりの時間はちょっと、あがってるな、あたし」
「八寿美があがるなんて。そんなふうには見えないけど……」
そう言いながら、ときどき小さく唇を合わせる。言葉とはちがう意味がそこから入ってくるみたい。
「またしばらく逢えないのに……今日もあんまし、時間ないんだ。もうすこししたら、行かないと……」
「そうなんだ……」
あたしはちょっとしょんぼりしたけど、すぐ思い直した。
「じゃあ、して。すぐ入れて、すぐ出して。あたし、そういうのも好きだよ。清市とだったら」
「八寿美……」
清市はあたしのシャツのボタンをはずして、ブラジャーの上から胸をつかんだ。耳や首すじに、彼の唇が押し当てられる。
「いいの……頂戴《ちようだい》。道具みたいに乱暴にして?」
「ほんとに」
「うん。このままして」
あたしは下着を脱がないまま、その部分に布を指で寄せて彼が入って来れるようにした。
「汚れちゃうよ」
「いいの。あんたが汚すためにあるのよ」
「でも……」
「じゃああたしが乗っかってあげる」
あたしはそのまま彼に覆い被《かぶ》さった。ろくに準備もしていないそこを無理矢理に押し分けて。音がするかと思うくらい、強い接触。
「痛くない?」
「八寿美は?」
「痛い。でも、うれしい」
それだけ聞くと彼は激しくからだを揺すった。そのいきおいで、まだ全部入ってなかったことがわかって、背中が反り返った。ゴムまりみたいに弾む自分が恥ずかしい。なかで、どんどん彼のが大きくなる気がして、恐くてお腹を手のひらで押さえた。
「ここに……入ってる……清市」
「八寿美」
「ああん。いいのお」
「んん……」
清市の低い声がいっそう低くなった。
「我慢しないで、出して、このまま、なかに」
「でも……」
「いいの。して。頂戴、清市」
彼の動きが止まった。
今、注ぎ込まれてる、全部。
ほんとに短時間しか一緒にいられなかった。彼はまたどこかへ行ってしまった。嘘《うそ》、行き先は知ってる。
「出張で地方行くと淋《さび》しい」
彼は言った。
「そうなの? 忙しくてそれどころじゃないんだろうと思ってた」
「残された方はいつもの日常の中にいるけど、出かけてきた方は知らない人たちの中にいるだろ」
「そうなのか……あたしはそんなに忙しくないからわかんない。そのうちわかるようになるのかしら」
「仕事続けていくんだったら、いつか、なるよ」
「お兄さま……」
「なんだ、それは」
「だっておにいさんみたいなんだもん。なんだか嬉しくて」
「そんなに歳、変わらないよ」
「うそー」
「女のほうがおとなだからなあ。かえって八寿美のほうが年上かも知れない」
「もう、子どもの振りして。あたし、男の人に甘えられんの苦手だよ」
「そう?」
「そうよ。甘えるのが好き」
「そうか」
「甘えてもいい?」
「いいよ」
嬉しい。でも、なんでだろう。あたしには甘え方がわからない。どうすれば甘えたことになるのかを知らない。男があたしにしてくる過剰な要求に対して、甘えんじゃねえ! と思うことはよくあるのに、あたしにはやり返すことが出来ない。なぜだろう。
清市とつきあうまでこんなことを考えたことはなかった。
「結婚するとどうなるの?」
あたしは壱子に電話で聞いた。
「結婚して良かったことって何?」
「うーん。結婚したい、と思わなくなったことじゃないかな」
「なんだそりゃ……あ、キャッチだ」
「もしもし」
げ。呈児だ。
「ごめん、キャッチなの」
「なんだ。じゃあ待ってるよ」
「しばらくかかるから切って」
「ああ……」
あたしは壱子との電話に戻った。
「清市かと思ったのに」
「呈児さんだったのね」
「待ってるなんて言うのよ、ずうずうしい。切らせたけどさ」
「呈児さん今彼女いないのかしら?」
「知らない。関係ないもん。ああ、でも今あたし確か『ごめん、キャッチなの』って言っちゃったわ。なんでごめんなんて言っちゃうのかしら。だからつけ込まれるんだわ。反省しよう」
「でもつい言っちゃうよね」
「うーん。でも相手によって気をつけようと思うよ、最近」
「英語でもノーサンキューとか言うじゃない」
「でもサンキューのとこしか聞いてないやつ、いるしね。あっ、まただ。今度こそ清市だわ、きっと」
「じゃああたしはこれで」
「ありがとう。またね」
あたしは壱子の好意で電話の相手を換えた。ところが、呈児だった。
「もう終わった?」
こいつ、何の権利があって……とあたしは内心煮えくり返った。
「何でしょう」
「今日は機嫌いいかなと思ってさ。こないだ何? 生理だったの?」
「…………」
「生理じゃ逢っても、なっ。オレ血、苦手だし」
「なに? それ……」
あたしは次の言葉が出なかった。
「だっておまえ生理でもやって欲しがるじゃん」
「やって欲しがるじゃんって……じゃあ、何? あんたあたしとやる気でいたの?」
「おまえと逢《あ》うとだいたいそうなっちゃってただろ。オレがその気なくてもさ。セックスしてしてって」
あたしは一方的に電話を切った。それから留守電にした。すぐに電話は鳴り、モニターから呈児の声が流れて来た。
「なに切ってんだよ。出てよ」
あたしは頭を抱えた。清市がかけてきたらどうしよう。こんなやつの妨害にあって、彼の連絡を受けられなかったら。番号を変えようか。でもあたしが何をしたって言うんだ?
とっくにこいつとは別れてるのに!
「またかけるよ」
呈児があきらめて電話を切ると、あたしは清市の携帯電話にかけた。留守番伝言サービスのアナウンスが流れる。
「もしもし。ごめんね、ちょっとわけあって、部屋にいても留守電にしてるときがありますんで、留守電でも切らないで伝言入れてね。いたら、すぐ出ますから」
あ。またあたし「ごめんね」からしゃべり始めた。
そりゃ心配かけて悪いな、ってことでそう言っちゃったんだけど……でも、あたしが悪いわけじゃないよな?
そういえば、交際を申し込まれた女が断らなければいけない時、「ごめんなさい」と言う場面があるが、あれだってなんでこっちが謝らなければいけないんだろうか? 好きでもない男に交際を申し込まれるのって、考えようによっては不快なのに。「期待させてごめん」ってこと? 冗談じゃない。そんなことまで責任もてない。よく考えればそうなのに、でも「ごめん」と言ってしまう。言わなければ、あとでひどく非難されるのが空気からわかるからだ。やだなあ。
電話。あたしはモニターからの声を待つ。
「もしもし」
ああ……また呈児だ。
「なんだってんだよ……オレ、行こうか? 今から」
うわ。ちょっと、なんでそうなるの? 信じられない。あたしは思わず電話に出そうになったが、やっとのことで自分を抑えた。来たって、ドアを開けなければいいんだ。これ以上あの男に振り回されてたまるもんか。
しばらくして電話は切れた。あたしはアドレス帳を引っぱり出し、今はたった一人になってしまった呈児と共通の友人に電話した。
「松田くん、突然すいませんが」
「やあお久しぶりです。電話はだいたい突然なんで気にしないで下さい」
「そうか……そうかも知れない。あの、呈児のことなんですけど」
「はい」
「最近うちにしつこく電話がかかってくんですよ。聞かれても困るかもしんないけど、何でなんでしょうね?」
「うーん」
「今別の彼いるのに、人の話ぜんぜん聞いてなくてさ」
「まあ、人の話聞いてないのは」
「いつもか」
いつも、の所で二人の声がそろった。
「淋しいんじゃないですかねえ」
「でも、あたしは」
「迷惑ですよねえ」
「あたしと別れたこと、忘れた振りするのよ」
「忘れたいんじゃないですかねえ」
「でも、あたしは」
「迷惑ですよねえ」
「あいつ、女いないの?」
「どうなんでしょう……あ、いないかな? 最近仕事もうまくいってないみたいですよ」
「あたしには関係ないのに! でもなあ、松田くんにそれとなく言ってもらったとしても、逆効果だよね、きっと」
「言ってもいいですけど……」
「それをネタにまたこっちにかかってくると思う……」
「刺激しない方がいいかも知れませんね」
あーあ。どうしよう。
気晴らしにお風呂《ふろ》だ。
ちょっと匂《にお》いの強い中国の海藻入りせっけんで、からだにいっぱい泡をつける。このせっけん、くさいだけでなく、アップで見るとなんだかよくわからないつぶつぶがいっぱい埋まっててけっこう気持ち悪い。箱に「美肌」とは書いてあったけど、だれが痩《や》せるせっけんだなんて言い始めたんだろう。
痩せるゼリー状ローションのほうはまだ良かった。焦がしたお砂糖みたいな色が多少ナゾだが、このせっけんに比べたらすっごくいい匂い。からだにつけると初めの一瞬だけちょっとあったかくて、お風呂あがりにはつけたとこがスースーする。でも冬だと寒いだろうな、あたしは夏に使ったので気持ちよかった。しかしあれも、容器に肌がすべすべになるとかなんとか書いてあっただけで、痩せるんだかどうだか……説明書きがフランス語と英語だからよくわからないけどさ。好奇心で一本だけ買って、今んとこそれきりだなあ。このくさいせっけんなんか一個使い切る自信すらないわ。
泡のあるうちに腕と脚のむだ毛を剃《そ》る。あたしはホテルでもらってきたかみそりを使ってる。宿泊客が女だからってかみそりを使わないってことはない。でも、ソーイングセットをもらってくるのが一番好き。いつもバッグに一、二個入れてる。家には裁縫箱なんてないのにね。針と糸持って歩いてるってだけで死ぬほど感動する男ってバカだと思う。昔はシャワーキャップもらってくるのも好きだったけど、これほど毎日髪を洗ってないと非難される今では、シャワーキャップなんて出る幕がない、かんじ。
さて、あたしは電話のベルとモニターのボリュームをゼロにしぼって寝てしまうことにした。清市のことは少し気になったけど、彼は夜中にはあまり電話してこない。呈児はその逆、どんな真夜中でも電話してくるような男。夜中じゅう振り回される恐れがある。
「こんなことを明日の仕事にひびかせるわけにはいかないわ」
あたしは今夜の清市の電話をあきらめるために、声を出して言ってから、ベッドにもぐり込んだ。
なのに、なかなか眠れない……。悔しい。あんなやつのために睡眠時間が少なくなるなんて。だがそう考えれば考えるほど目が冴《さ》えてしまう。くそー! 負けるもんか。あたしはパジャマのズボンの中に手を突っ込んだ。
清市がするみたいに、下着の上からそこを触る。彼のやりかたがなつかしい。それだけでも簡単にあたしをいかせてしまう、清市の指。
しかし「負けるもんか」なんて考えながらマスターベーションするあたしって何なんだろ。でもまあ、だいたい、一回すれば眠れるしな……。たまに二度三度することもあるけど。でも、何度繰り返してもあたしの小さな丸いものは大きく育ってきたり、しない。いつ触っても小指の先より小さい。なのに、摩擦するだけで、こんなにあたしのすべてを揺さぶる。性器って不思議だ。
あっ。
しまった、電話が光ってる。
音を全部消しただけじゃだめだったんだ、プッシュボタンのライトが……。
ああ、気になる。上から何か掛けとけばよかった。今度こそ清市かもしれないのに、でも……呈児かもしれないし……。
やめよう。寝てしまおう。清市はきっとわかってくれる。
あたしは目を閉じた。そして、清市のことだけ考えて指を動かした。彼はもう寝てしまっただろうか。眠る前に、あたしのことを少しでも思い出してくれたかしら。
あたしはひざと爪先《つまさき》をまっすぐ伸ばして、そこにそれがやってくるのを待った。
しばらくするとまぼろしが、
「八寿美、いくぞ」
と言った。
「清市……いく……」
一人でいくときも、やっぱり声が出てしまう。
翌朝。
あたしは留守録の内容が気になったが、時間がなくてそのまま部屋を出てきてしまった。
あとで外から聞けばいいわ。
それを、人でぎゅうぎゅう詰めの電車に乗って、会社までたどり着いた自分へのご褒美にしよう。
あ。ご褒美だって。
あたし、やっぱり清市の声が入ってるはずだって思ってるんだなあ……。
「八寿美? いないの? いないのか……? こんな夜中にいないの?」
やっぱり入ってた、清市だったんだ。嬉しいけど、心配させてしまった。わけを話さなきゃいけない。
「あーあ」
コンピューターのモニターの前で思いきり頬杖《ほおづえ》をついていると、
「どうしたの?」
と壱子が気づいてくれた。
「きのうのキャッチさ、呈児だったの」
「あらま」
「あまりにもずうずうしいこと言い出すんで、頭に来て勝手に切って、留守電にして音消しといたの。そしたら、珍しく夜中に清市がかけてきちゃっててさ。夜は寝ちゃったし、朝は時間がなかったからさっき、聞いたんだけど」
「それから話した?」
「まだ。今日も彼、出張先だから……でも、早くしなくちゃ。地方で心配させるの可哀相《かわいそう》で」
「もしなんだったら、あたしのこと言い訳につかってもいいよ」
「なんで?」
「じゃあ昔の男が、ってまんま言っちゃうつもり?」
「そういうつもりでいたけど」
「清市さん、怒んない?」
「怒んの? だってもう関係ないんだよ」
「そりゃそうだけどさ」
「怒んのかなあ……なんか、嘘《うそ》の言い訳するほうがかえってまずいような気が、あたしなんかするんだけど……」
「八寿美はそうかもね」
「そうかなあ。でももし違う言い訳をつくるとしたら、部屋にいても留守電にした上に、音消して寝ちゃうような状況ってどんな状況だろう?」
「いたずら電話がしつこかったとかさ」
「まあ、いた電みたいなもんだけどなあ」
でも、もしただのいた電だったら、あたしはあそこまでしなかったと思う。前につきあってた男だったからこそ、あのずうずうしさに腹が立ったんだ。
出会った頃、呈児の人なつっこさがとても可愛《かわい》いと思った。でもそのなつっこさはもちろん、あたしだけに向けられてるわけじゃなかったわ。あたしの周りの女にまんべんなく、嬉《うれ》しそうになついていく彼を、あたしがどんな思いで見ていたか、あの男にはきっと死んでもわからない。二時間前にあたしとキスしたその唇で、
「あの女、うるせえからさあ」
と別の女にあたしの悪口を言う男。遊びと悪ふざけの境目もわからない男。人が見てなければどんな卑怯《ひきよう》なことでもする男。そして、そんな男に引っかかっていたのはあたし自身だ。
それが一番腹の立つことなのだから。
「昔の男って……なんでそんなのをかまうの? 八寿美?」
清市はけげんそうに言った。しまった、やっぱり壱子のほうが正しかったかな、とちょっと思ったが、あたしは彼に嘘をつきたくなかったのだ。
「かまってないの。かまってないのよ、あたし。だからなんでしつこくされるのか全然わからないの」
「なんでって……」
「不思議だったから、共通の知り合いに聞いたのね、そしたら、あいつ今彼女いなくて仕事うまくいってないからって……」
「そいつも男なのね? 八寿美はずいぶんたくさん男ともだちがいるんだね」
「清市……?」
どうしたんだろう、清市があたしの話を聞いてくれない。
「ちゃんと別れたって言ってもね。ふつう何もないのに電話なんかしてこないよ。八寿美がどこかで許すっていうサインを出してるんだよ」
「そんなー。そんなの出してないよ……なんでそんなこと言うの? あたしのこと信じてないの?」
「信じるもなにも、前その男とつきあってたんでしょ」
「……後悔してるよ……」
「だから……」
「でも、別れたもん!」
「ちゃんと別れてないからそんなことが起こるんでしょ」
「別れたってば!」
「向こうはそうは思ってないんだよ」
「だってそんなのあたしの知ったこっちゃないよ」
悲しくなってきた。なんでこんなこと言うんだろう、清市。あたしにとって今、大切なのは清市だけなのに。
「俺《おれ》は八寿美の声を聞きたくて、一人でホテルに帰って来たんだよ。人の誘いも断って。なのに昔の男と痴話げんかして俺の電話に出ないなんて」
「なんで痴話げんかなんて言うのよ! そんな言い方、なんでするの……」
「俺をないがしろにしたのは八寿美のほうじゃないか」
「なに? ないがしろって。そんなのするわけないじゃない。あたし、恐ろしかったんだもん。こっちがそんな気ないのに、今から行こうかまで言われて恐《こわ》かったんだよ」
「だから、そういう会話をしてたんでしょ? これから逢《あ》いたいって思わせるような」
「してないよ!」
だめだもう、何言っても……あたしは黙り込んだ。悔しくて、涙が頬《ほお》をつたった。
「泣かなくても……」
清市がとまどって言った。
「ごめん。言い過ぎたよ」
いつもの優しい声に戻っていた。
「あたし……やましいことがないからこそ、話せたのに……」
あたしは震える声で言った。
「悪かったよ」
「悪いとか……そういうことより、なんでこんなことになって……さっきみたいなこと言われたのか、わかんない。あたしは、なんかもっと……勘違いしたやつからうっかり降りかかってきちゃった災難みたいなもんだと思ってたし、清市にもそう思ってもらえるって信じてたから……」
「…………」
「まさか、あたしのせいって言われるなんて……」
「でも、用心すれば……防げたんじゃないのかな」
「どうやって?」
「だから……やめよう、また同じ話になっちゃうよ」
「…………」
清市は本気で思ってる。あたしが呈児をその気にさせてるって……信じたくないけど、思ってる。説明してもきっと、……だめなんだろうな。あたしは目の前が暗くなっていくような気がした。
「もういいから、こっちにおいでよ、八寿美……」
清市が手を伸ばしてあたしのからだに触れた。あたしは、ただぼんやりと彼に抱きしめられた。
「俺はやなんだよ……おまえのこと好きだから」
好きだったら、信じてくれるものじゃないの? あたしは声に出さずに思った。言えばまた、同じ話になってしまうんだろうから。
あ。
今、おまえって言った……。
前にも、好きでもない男に妙になつかれたことがある。
嫌いというほどでもなかったけど、仕事の相手だったので、ずいぶんまめな人だくらいにしか思っていなかった。
一緒に酒を飲んだこともあるので、くだけた話もしたと言えばした。でもあたしは仕事相手なんか最初っから男だなんて思ってない。ちょっと、どういうつもり? って言わなきゃならなくなったときには、一応相手もあやまってはくれた。でも、結局、もめた。そんな気があったのなかったのなんて、あとから言ってもしょうがない。あたしはその仕事の担当からはずれることになった。屈辱だった。もう関係ないのに、なんだかんだ理由をつけて手紙や電話が来た。名前を見るのも声を聞くのもいやなのに、相手には全然それがわかってないのだ。その度に落ち込んだ。あの時のことも、清市はあたしがサインを出していたって言うんだろうか。
「そうだよ」
やっぱり言われた……。
「八寿美はセックスの話も平気でするし、誘ってるように見えるんだよ」
「でも。あたしの周りには、あたしがどんなやらしい話しても、ただ単に楽しんで、ふつうに接してくれる男の方が多いんだよ。誘われたと解釈する男の方が、あたしにとっては変わってるよ」
「そんなに……そんな話をしてる男がいるんだね」
あたしは彼の顔を見つめた。
「今は……壱子みたいに女のともだちもいるけどね……男ともだちの方が、ずっと多かったんだよ、あたし……」
「俺は、いないよ。そんな話する相手」
清市は煙草に火を点《つ》けた。あたしは、彼のひざを手でさすった。
「……清市、やきもちやきなんだね」
「男は、誰だってそうだよ……」
「あたしだって、自分のこと嫉妬《しつと》深いと思ってるよ」
「俺がどこかの女になれなれしくされるとやでしょ?」
「あたし、清市のこと、信じてるもん」
「信じてるとか、そういう問題じゃないでしょ。用心しろって言ってるんだよ」
「用心は……してるつもりなんだけど」
「その服。体の線、出すぎだよ。いつもそうだよ」
清市はあたしの腰に手を回した。
「あたし、昔からこうだったよ」
「俺とつきあってるうちは、やめてよ」
「…………」
あたしはただ、自分で稼いだお金で好きな服を着て、ふつうに話してるだけなのに。もし清市の言ってる用心を完璧《かんぺき》にしたとしたら、あたしは男ともだちも仕事も全部失うだろう。
清市の手が、あたしのからだをゆっくりなぞっていく。
「あたしのからだは、あたしのものじゃないんだね」
あたしはしょんぼりして言った。
「俺のものだ」
ずきんと衝撃が走った。それじゃあほんとは困るのに、そう言われると嬉《うれ》しい、なぜだろう。
「もいちど、言って、清市」
「俺のだ。八寿美のからだは俺のものだ。誰にも触らせたくない」
「清市……」
あたしは目を閉じた。
俺のもの。
あたしは、もの、なの?……。
でも、清市の手があたたかいのは、感じるのよ。
「八寿美、こんなのつけてる……」
「初めて見たっけ? これ……」
「俺はね」
「やだ、そんな言い方……」
「誰かに見せたの?」
「誰にも見せない。清市だけよ。だって、そんなの、知ってるくせに」
清市は馴《な》れた手つきであたしの最後のラッピングをすっかり解いてしまった。もの、のあたしはふるえた。清市のやりかたを、すでにかなり飲み込んでいる自動人形。とてもよくできているわ。だって、ちょっと撫《な》でられただけで、もうこんなになってる。恥ずかしくて、起きあがって彼のほうを向いた。
「あ……なんか」
「う?」
「ううん」
あたしは彼の下着の上から唇を押し当てた。
「なあに」
「なんでもない……」
歯のない子犬になって、彼を噛《か》む。
「言いかけてやめるの、くせだね。だめだよ、言ってよ」
清市の息が少し荒い。
「だって……思春期の男の子みたいになってるねって、言おうとしたんだけど、そしたら」
彼の下着に手をかけて、降ろす。
「思春期の男の子としたことあるの? って、言われそうだったから」
「それは……あ」
彼の口をふさぐみたいに、口のなかにふくんでしまう。あたためるようにしばらくそのままにして、口のなかが濡《ぬ》れていくのを待つ。それから、そっと、奥まで沈める。
「うーん……」
清市の声、嬉しい。
こうしているとき、わたしは両手でそのまわりを触っているのが好き。あたしと違って脂肪のない、平らなおなか、堅い脚。口のなかに彼のを隠してしまうと、その下にもうひとつ、正確には二つ、丸い不思議ないきものがいる。撫でてあげると、ゆっくり動いてそれに応《こた》える。可愛《かわい》くて、そっちにも唇を当ててみる。それから、そこからまっすぐ、舌でなぞっていく。清市があたしに手を伸ばして、からだの向きを変えようとしている。
「あ……いや、だめ」
恥ずかしいのに、変えられてしまった。あたし、これ、困る。うまく、できなくなるんだもの。
「あっ」
って、声をあげるたびに、清市のが、しなる竹みたいにあたしの口のなかから逃げていく。
「だめ、もう、して……」
清市が黙ってあたしの上にかぶさってきた。手も添えないのに、そこに、埋まっていく。
「あー……」
その棒を差し込むと、自然に目を閉じ、声を上げる仕掛けなの。
清市はあたしの両足に腕をまわし、持ち上げてもっと奥まで入ってきた。そのまま、あたしのなかが広がるくらい、かきまわした。それから枕をお尻《しり》の下に入れて、あたしの脚をまっすぐにしたまま、いっぱい、した。そうすると集中するのを彼は知ってる。もうすぐあたしの小さなスイッチが、作動する。
清市はとうとうあたしの気持ちをわかってくれなかった。呈児につけこまれるのはあたしがそれとなく関係を続けようと仕向けているからなのだと、彼はほんとに信じてる。
「じゃああたしはおうちから出ちゃいけないのね? ずっと部屋にいて……清市だけを待って過ごせば安全?」
皮肉で言ったつもりのこの言葉に、清市は喜んでしまった。
「そうだね」
と言って、優しく抱きしめてくれた。
「そんな……だって、そんなことしたら」
「八寿美。どこにでも俺が連れて行く。ずっと一緒だ」
「清市……」
もしそうすることができたら、もちろん最初は楽しいと思う。でも、そんなのあっという間だ。
あたしは、男と一緒に旅行するのが苦手で、これまでもほとんどしたことがない。旅行なんかしたら、部屋を別にしてもらうことはとても難しいはずだもの。恋人の目の前で化粧をするのさえ嫌なのに、いきなり生活をともにするなんてできない。とくに清市とは難しい。清市へのあたしの気持ちの中には、愛情と同じくらい憧《あこが》れの気持ちがあって、一緒に暮らすなんてまだとても考えられない、たとえ短期間でも。
「八寿美が俺の仕事が終わるのを待っていてくれたら、出張も楽しいだろうな」
「…………」
もしもあたしが清市について回ったりしたら、あたしは自分の仕事を失う。だからもちろん、本気で言われてるわけじゃない。でも、清市は嬉しそうだ。嬉しそうな顔を見ると、あたしも嬉しい。
呈児のときは、こうじゃなかった。呈児が嬉しそうな顔をしているとき、なぜかあたしは悲しんでいることが多かった。呈児の喜びはあたしが傷つくことの上にあったとしか思えない。好き、と言ったり、優しくしてあげたりしても口をへの字にしているくせに、呈児のせいであたしが仕事に遅刻してしまったり、あたしの知ってる女との浮気がばれてあたしが涙をこぼすと、呈児の顔には隠しきれない喜びが浮かぶのだ。
「オレが浮気するのはね、あんたがそう仕向けてるんだよ。あんたがオレを追いつめてんのよ」
なにもかもあたしのせいにする呈児の言葉が頭に浮かぶ。
呈児に言わせれば、あたしと関係したのも、自分が浮気するのも、みんなあたしのせいなのだ。
「オレ、ほんとはセックス嫌いなのに、おまえがしてして言うからなあ。やらされるほうの身にもなってくださいよ」
いつだってそう言われた。最後までずっとこうだった。そのかわりこの一言で切ることができたのだ。
「そう、すいませんね。じゃあ、いいよ、もう」
「…………」
突然立場が代わったことに、呈児はついて来れなかった。もちろん、来てくれなくてもあたしはよかった。あたしのほうがお金を出すことが多いのに、それを稼ぐための仕事の邪魔をされた上、セックスもあたしがお願いしてしていただいてる、ことになってる。そんな遊びがいつまでも続くと思っているなんて、呈児のほうがおかしい。
だって、その上ずうずうしく嫉妬《しつと》までしていたのだ。自分ではどんな卑怯《ひきよう》な手をつかってでも浮気するくせに、あたしが少しでも他《ほか》の男と仲良くしていると機嫌が悪くなる。まわりくどく、いつまでもいつまでも責める。いろんなことにすりかえて因縁をつけるので、あたしは最初、嫉妬だということさえ気がつかなかった。だって、あれだけ他の女にもてたことの自慢ばかりしていた呈児が、あたしのことになると他の男と話をしただけで怒るなんて。でも、怒るのだ。呈児の頭の中には「お互いさま」なんて言葉は存在しない。いい思いをするのは、絶対に自分一人でなくてはならないのだ。
呈児にくらべたら、少しくらい清市と気持ちがすれちがっていても……。あたしはそう考えることにした。そういう結論に達した頃、マンションにたどり着いた。
郵便受けの並ぶコーナーに立ち寄ろうとして、愕然《がくぜん》とする。
呈児がいる。床に座り込んで、ひざを抱えてる。そばには、煙草の灰がいっぱいついたコーヒーの缶。
「よ」
「…………」
あたしは応えなかった。すぐに背中を向けて、外に出ようとした。これ以上この男をかまって、むだな時間を過ごすのはいやだ。いま鍵《かぎ》で自動ドアを開けたら、このまま部屋まで来られてしまう。あたしは一度逃げて、あとで裏口から中にはいるつもりだった。
ところがすごい力で腕をつかまれた。
「放して」
「なんで逃げるんだよ。なあ」
「もう関係ないじゃない。なんでこんなことするの。帰って」
あたしはあたしの体を引き寄せようとする呈児を必死で押し戻そうとした。
「何言ってんだよ。どうしたんだよ八寿美ィ。ねえ、どうしたの」
「どうしたのって? 何なのよ、どうしたのって! まるであたしのほうが間違ってるみたいじゃない。自分のしてることわかってるの?」
あたしの言うことなんて聞いちゃいない。呈児はあたしの体を郵便受けのコーナーのほうへずるずると引っ張って行った。
「いや。ちょっと、やめてよ。やめて、呈児」
いやな予感がした。呈児の片手が、コートの中からスカートの下に入り込もうとしている。
「やめて。やめてよ」
「どうしたんだよ八寿美。ほら、握れよ」
あたしの手を自分の股間《こかん》に向けて引っ張っている。ここで? ここでそんなことを? 信じられない!
あたしは呈児の顔を見上げた。もう、目がかなりいっちゃってる。自分の世界に入り込んでしまってる。へたに騒いだり、ばかにしたりしたら危ないかも。でも、じゃあどうすれば?
あたしのストッキングとパンティは引きずり降ろされてしまった。あたしの手が壁につく形にしておいて、呈児はあたしのお尻《しり》に顔を埋《うず》めた。
「うっ」
さっきまで清市に可愛がられていたそこに、おぞましい生き物がくっつく。やっぱり、いやだ! いくらこないだまでつきあってた男だと思おうとしてもだめだ! あたしの体はもう、こいつのやりかたを嫌っている。
「やめてー」
あたしは床に座り込んだ。目の高さに、呈児のそれがあった。ジーンズをひざまで降ろしている。完全にやる気だ。だめかもしれない。
「どうしたの。ほら、舐《な》めて」
顔の真ん前に突き出される。
誰か来て。
恥ずかしいけど、でも、来て。
「ほら」
あたしはそこにそっと舌だけ触れ、呈児を見上げた。頼めば許してくれるだろうか?
「ねえ、やめて。お願い……呈児。やめてよ」
呈児の荒い息づかいが聞こえる。
あたしは、彼をかえって興奮させてしまったようだ。
後ろを向いて、壁に手をついた。
楽しめるだろうか?
彼が入ってくる。
興奮のあまり、うまくいかないらしい。そのあいだにあたしは思いをめぐらす。
どうしよう?
次の瞬間、玄関から誰かが入ってくる気配があった。
あたしは急いでパンティとストッキングを引き上げると、そっちに向かって走った。見覚えはないが、住人のような若い男がいた。助けを求めることはせず、あたしは彼の横をすり抜けて外へ飛び出した。
「ねえ、どうしたの。どこ行くんだよ」
後ろから呈児の声が聞こえる。
「もういいから、部屋行こうぜ。なあ」
なんてことだ、呈児はあたしの部屋に入れると思ってる。今してたことは遊びで、続きはゆっくり部屋で出来ると信じてる。あたしは振り向いて言った。
「帰んないんだったら、警察呼ぶよ」
「だからもうそれはいいからさ」
呈児は顔に笑いを浮かべていた。あたしは途方に暮れた。
「行こうぜほら」
のどかな声。気が狂いそうになりながら、あたしは道向こうの交番に走った。
「ちょっと。何やってんだよ」
呈児はやっと状況がわかり始めたらしい。
「おい」
声が動かなくなった。立ち止まったのだ。あたしはそのまま交番に駆け込んだ。
交番の中は寒かった。こんなすきま風の中で警官は夜を越すのだろうか。
「すいません」
あたしは短い時間で必死に言葉を選んだ。
「あの、じつは、家に帰ろうとしたら待ち伏せされていて……」
「はあ」
四十代くらいのその警官はあたしの後ろに少し目をやった。
「追いかけられました?」
「少し……。あの、マンションに入るまででいいんですが、見てていただけませんでしょうか……」
「いいですよ。玄関の中には入れないようになってんですね?」
「はい」
警官につきそわれてマンションに戻ると、呈児の姿はなかった。あたしは警官に礼を言ってマンションに入り、無事、部屋に帰ることができた。
呈児は電話をかけてくるだろうか。まだ留守電にはメッセージが入っていなかった。どっと疲れが襲ってきた。このまま眠ってしまいたかった。
脚をひきずるようにして洗面所へ行き、鏡で自分を見た。目が充血している。シャワーを熱めにして、あそこだけを、せっけんで何度も洗った。それから化粧も落とさず、ベッドにくずれ落ちた。
やられてしまった。
あたしの体は、呈児に使用されてしまったのだ。望んでもいないのに。さっきの出来事が、順序を無視した断片で頭に浮かんだ。あたしがどこで気をつけていたら、どこでどう行動したらやられずに済んだのだろうか? でも、もう遅い。
やられてしまったのだ。呈児に。
もちろん射精させるほどの時間なんてなかったし、あれ以上危険なことにならないように頑張ったつもりだ。
でも、やられてしまった。
呈児のセリフと、目の前に突き出されたペニスがあたしの頭を支配した。なにかがこみあげてきて、胸が悪くなった。
あたしはトイレに駆け込んでげえげえ吐いた。胃の噴門のゆるい赤ん坊みたいに何度も何度も吐き続けた。
吐く物が無くなってしまって水を飲むと、今度は水だけ吐いた。
パシャッと音を立てて、透き通った液体を吐くなんて初めて。水で、胃が冷えるから吐くのかもしれない。今度はあたたかい飲み物をとってみた。
でも、また吐いた。
胃に何かがあるから吐くのかしら、とのどの渇きをがまんしてみる。このまま眠ってしまえば……とあたしはじっと目を閉じた。
でも、だめだった。あわててトイレに行くと、苦くて黄色い液体を吐く。胃液なんだろうか? 水や飲み物を吐いたときの何倍も苦しい。これだったら胃にうがいでもなんでもさせてたほうがまだましだ。あたしは台所で、苦さの消えるような飲み物をごくごくと飲んだ。そして数分後、もともとこういう仕組みだったかのように、抵抗なくそれを吐き出した。こんなことを繰り返してて大丈夫なんだろうか。いつになったら止まるんだろう、あたしは壊れてしまったのか。このまま死んだらどうしよう。不安な言葉が次々と頭に浮かぶその隙間に、さっきの呈児とのことが短く思い出される。
「だからそれはもういいからさ。部屋行こうぜ。なあ」
嗚咽《おえつ》。
つらい。
あたしの体はなぜ、あたしにとってこんなにつらいことをする?
繰り返し吐くうちに、呈児のこと以外にも考えが及ぶようになった。
昔、なんで昔の人は「ゲロ吐く」ってことを「反吐《へど》が出る」って言ってたんだろうね、って誰かと話したことがある。「へど」なんて言われたってぜんぜんピンとこない。
その時の相手の返事がこうだ。ゲロ吐くって言うと、ただの飲み過ぎかなって感じだけど、反吐が出るって言ったら、精神的に嫌悪感を感じてますって気がする。なるほどなあって感じがした。今でもお芝居なんかで使われてるけど、そういう意味だと思えばつじつまが合うなと思った。
そしてあたしからは今まさに、反吐が出ているのだ。
会社は休まなかった。部屋にいると呈児がやって来そうな気がした。吐き続けたせいでのどが痛く、しゃべるのがおっくうだった。壱子がいれば何か話したかもしれないが、彼女は出張で会社にいなかった。
壱子がいても、うまく話せる自信はなかった。どうやったらあたしが死ぬほど嫌だったことをわかってもらえるんだろうか。かえって傷つくようなことを言われたらどうしよう。いや、壱子に限って。
ああ、でも。
別れた男といつまでもだらだら関係する女がけっこういることは知ってる。同窓会で浮気が始まるのなんかも、似たような話だと思う。でも、あたしにはそんな趣味はない。別れた男とまた逢《あ》いたいなんて思ったこともない。あたしと考えの似た女はどのくらいいるものなのか知りようもないが、別れた男ともつきあいたいと思う女のほうが多いのなら、あたしの今の気持ちをわかる人は少ないってことになる。そんな人に説明するのはとても面倒《めんどう》なことだ。いや、したってわかってもらえないのだから、ただの無駄なのだ。
でもあたしはこのまま、誰にも話せずにいられるだろうか。無理だ。少しくらいずれた応対をされてもかまわない、たまった毒を出すようにこの嫌な嫌な事件を誰かに話してしまいたい。
「やられちゃったの……?」
「うん……」
「……やられちゃったの?」
「…………」
きょとんとして繰り返す清市の顔を、あたしはよく見れなかった。
「そんな……なんでやらせるの……」
清市はぼんやりしている。あたしは冷静な声でこう言ってみる。
「やられるくらいなら、死ねばよかったのかな。死んでもいいからやらせるなって?」
「まあ、男の考えから言えばそうだね」
彼には悪気はないようだ。それにあたしはこんなことくらいではショックは受けない。男が女の体を所有物のように思っていることくらい、大人になれば誰だって知ってる。呈児なんか清市の百倍そう思ってる。
「なんとかして……逃げられなかったの?」
「だから、逃げたよ。刺激しないようにして。そんなこと考えるやつを逆上させたらこわいでしょ。それ以上危ないことにならないように、うまく逃げなきゃって思うでしょ」
「だから……やられないようには、できなかったのかな」
「射精はされてない。それはさせないようにしたつもりだよ」
「でも、……入れられちゃったんでしょ」
繰り返しが淋《さみ》しくなり、あたしは黙ってしまう。呈児みたいな男と一時期でもつきあっていたあたしが悪いのかもしれない、という考えが湧《わ》いてきて気が重くなる。だけどあたしはちゃんと別れた。別れてから呈児としたいなんて一度も言ってない。あたしが仕向けた覚えなんて、あたしにはないのに。
「どうして、……どうしてされちゃうの」
清市は戸惑ったようにつぶやきながら、あたしの上におおいかぶさって来る。すでに何も身につけていないあたしたちの体温がまじりあう。
「どうしてなんだ……」
そのまま入ってきた彼は、さっきよりあたしを広げた。
「清市……?」
なぜだろう。あたしはこの話をしたら、清市からもう抱いてもらえないのではないかと心配していたのだ。だからこそ一度抱かれたあとに話すことを選んだ。これで彼とは終わりになってしまうかもしれないとドキドキしながら話した。なのに、彼はあたしの中にこんなに入ってくる。どうして……?
「ああ……」
「八寿美……」
動きも、絶対いつもと違う。どうしたんだろう、あたしの、広がっちゃう。まるで、ふだんは届かないところにまで入って行ってやろうとしてるみたい。
「清市、どうしたの……」
「ん? 何が」
そう言いながらまた、奥まで。あたしはもう集中するしかなかった。いっぱい揺さぶられて、いっぱい声をあげた。
少し眠ってしまったようだ。
まだ体じゅうがだるい。
隣りに清市がいない。テーブルを見ると、彼はひとりでお酒を飲んでいた。
「寝ちゃってた……」
あたしの声に彼が振り向く。
「疲れたでしょ? 清市」
「うん……まあ……」
清市があたしの隣りにすべり込みながら、脚の間に手を入れてくる。
「いやん……」
もうくたくたなのに、いちばん敏感なところをさすりあげてくる。
「だめ……もう、……もう触ったら痛いよ……」
あたしはからだをよじって逃げた。その腰を、両手で掴《つか》まれる。それから、それが左右に別れてあたしの脚を広げてしまい、その真ん中に清市の顔が降りて来る。
「あっ、だめっ、そんなこと」
言う間もなかった。そこに清市の舌が当たる。
「やーん、だって、だめ、もうそこは……だめだったら……」
だってもう、そんなことをしていいほどきれいじゃない。それは彼がいちばん知っているはずなのに。なのに清市はあたしを食べ物のようにする。音を立ててあたしをすすったり、小さな突起に軽く歯を立てたりしてる。
「清市、やめてえ。ねえ、もういいよ、お願い」
それでも清市はやめない。しばらくするとその舌は一ヵ所に狙《ねら》いをつけ始め、あたしの気が遠くなるまでそこを舐めていた。逃げようとして、脚に力を入れたのが余計によくなかった。あたしは清市の舌でいかされてしまったのだ。恥ずかしいくらい大きな声を出して、からだじゅうが小さくけいれんしているのに、それでも清市はあたしを舐めている。
「お願い……もう……いくと、痛いの……やめて……」
その言葉でやっと清市はそこから離れてくれた。あたしは彼の頭を両手で抱え、舌をからみ合わせて彼とキスした。それから、彼を強く抱きしめた。
「清市ってば……」
だんだんわかってきた。彼は、使用されてしまったあたしのからだを取り戻そうとしているのだ。俺のものだったことを思い出してくれと、からだに言っているのだ。
清市がああいう反応をしたおかげであたしは救われたのかも知れない。
くたくたになったけど嬉《うれ》しい疲れだったし、自分のからだを「汚れてしまったもの」と思わずにすんだ。
あれからしばらく電話を取らないようにし、留守番電話の応答メッセージも自分の声のものをやめて、内蔵されているあの事務的な、それも男の声のやつを使った。ときどき切れてしまった記録だけ残ってはいた。録音テープであっても、男の声が電話に出るのはそれほど嫌なものなのだろうか。
このままあきらめてくれれば、電話番号を変える手続きをしなくても済むかも知れない。あたしは、こっちがお金や手間を掛けてまで呈児から逃げなきゃなんないなんて癪《しやく》だと思っていた。どうせそうなるんだったら、訴えたりしたほうがましかもしれない、とも考えた。
「でも、そいつ前つきあってた男なんでしょ。そういうの、同情されにくいと思うよ」
清市の言うことは、残酷だけどたぶん、事実だ。
「訴えるのはやめる。法律ゲームしたいわけじゃないし、別に、他人が信じてくれなくったっていいもん」
あたしは清市の顔をじっと見た。
「八寿美自身は、誘ったつもりはないんだってことはわかるよ。でも」
清市はあたしの顔を見ない。
「やっぱり俺はこのままでいられないよ。そいつを殴らないと気が済まない」
「でも……そんなことしても、なんにもなんないよ」
「……なんにもなんないからって、黙って許すの? 何もしないの?」
「許すわけじゃないよ。ただ、これから一生、会わずに済むほうを採りたいの。もう関わり合いになりたくないし、顔も見たくないだけ。それが出来れば、あたしはそれだけでいいの」
「俺は……そういうわけにはいかないよ。だって平気なの?」
「平気なわけ、ないじゃない……」
あたしはあの日に着ていた下着と服のことを考えた。気に入っていたものだったのに、あれ以来しまい込んだままになってる。身につける気になれないのだ。タンスの中で見かけると、捨ててしまったほうがいいのだろうか、とふと考える。もしそれで全てを忘れられるのなら、迷わずそうする。でも呈児に似た名前、または呈児に関する何かに似たものを見たり聞いたりするたびに、いちいち暗い気持ちになっているくらいなのに、そんなことだけで忘れられるはずがない。清市が呈児を殴るところを見れば気が晴れるのか? あたしにはそうは思えない。
昔、まだ呈児が十代だった頃。
どっかの女とセックスしたら、そいつの彼が押し掛けて来てしまった。
「おまえに話あんだけどさ。俺の女、知ってるだろ?」
とその彼氏はすごんだ。呈児は何人かの友だちと一緒だったが、そんな話じゃうかつに呈児の味方をするわけにもいかず、ただ見守っていたという。
「え? だれのことかなあ」
とりあえず呈児はとぼけた。女の名を聞いて、間違いないことがわかった次の瞬間、呈児は思いきり笑い転げて見せた。
「え? あんたあのヤリマンの彼氏? 可哀相《かわいそう》っスねえ! あいつだったら、この辺の男としょっちゅうやりまくってっぜ。あーあ。ねえ、ちょっと恥ずかしくない? あんな女のことで話つけにきたわけ?」
それを聞いて、まわりの友人もにやにや笑った。それで充分だった、そうだ。
清市が呈児に会いに行ったって同じ様な目に遭うだけだろう。呈児は、こういうことに馴《な》れている。あの男には男女の間の愛情のすべてを見くびることが出来るのだ。と言うよりも、そんなものは無いと信じてる。愛情を持つのではなく、相手が傷つくようなことをして、あわてたり落ち込んだりするのを見て何かを確認していく、親を試す幼児のようなやり方。それが彼にとっての恋愛なのだ。彼にしてみればすべてがゲームだからこそ、観客は多ければ多いほど嬉しい。そして役者の身内の人間ほどその芝居を熱心に見るように、ある種の人々の中では役者、裏方、観客が常に入れ替わるように、自分と寝た女とその恋人が真っ先にチケットを買ってくれることも、彼はよく知ってる。だから、徹底して相手にしないことがいちばんの仕打ちなのだ。
時間はとりあえずあたしに味方した。何事もなく過ぎてってくれたから。たった一人になっていた、呈児との共通の友人の松田くんもついこないだ結婚した。披露宴に呈児が来ると嫌なので出席しなかったが、律義な彼は何かと葉書で連絡してくれる。幸せそうで何より。呈児に関する情報が、周りに何一つない安らかな暮らし。
「八寿美は清市さんと結婚しないの?」
壱子がそう聞いた。あたしの鼓動は速くなった。
「考えないわけじゃなかったけど……」
「呈児さんのこととかあったからね……それで?」
「うん、それもあるけど……あまりにお兄さまだから。もっと自分自身の仕事の基盤を固めたくて」
結婚しても仕事よ、なんて声を大にして言わなきゃならない相手となんてもう最初からつきあう気もないけど、清市の中の古風な部分をあたしはよく知っている。仕事で認められたくてやっきになっている女が持つ野蛮さには、あたし自身も眉《まゆ》をひそめることがあるくらいだもの。軽やかに仕事をするためには、もう少し鍛錬の時間が要る。
「でも、自分では気づかないうちに歳もとるのよね」
「壱子、子どもは?」
「堕《お》ろしちゃった、こないだ」
静かに言われてしまった。
妊娠を、専業主婦になるための手段にする女もいれば、仕事を続けたいために堕胎する女もいる。
「ねー、今日飲みに行こうか」
「うん。清市さんも呼びなよ」
月末の金曜日。清市も無事つかまった。次から次に知り合いが来て、その店の中はまるでパーティーのようになってしまった。
「すごい人だね。なんか、複雑な気持ちになってしまうな」
と清市は言う。
「みんな、たまには楽しいことがしたいのよ」
でも、あたしより彼のほうが飲んでいた。あたしはあの日以来、飲んでない。こわいくらい吐き続けた経験がそうさせている。こんなににぎやかな場所にいるのも、あれから初めてだ。
「八寿美ー。八寿美じゃないか。最近連絡もくれないで。電話くれよ。たまには」
石器時代くらいの大昔に一度だけつきあった男が酔って声をかけてきた。清市がじっと見ているのがわかる。
「うん、そのうちまた連絡する」
あたしは頑張って「ぜんぜんそんな気はありません」という表情を作ってそう言った。
「そんなこと言って。ほんとに、ほんとに連絡してよ。八寿美ほんとはオレのこと嫌ってない? ねえ」
ちょっとしつこかった。あたしは清市が怒り出すのではないかと心配した。
やっとその男が離れてくれたとき、あたしは清市に声を掛けた。
「これと同じものでいい? もう一杯頼もうか」
「ああ……」
清市の知り合いも少しはいるようだったが、あまり話がはずんでいない。
そんな時だった。仕事の上で今でも憧《あこが》れている、前の会社のデスクがいるのを見て驚いた。
「鴨下さん。いらしてたんですか。お久しぶりです」
「やあ。来てたの。やっぱり同じ業界だと遣う店、似るのかなあ。ここ、よく来るの?」
「ときどき……わあでも、嬉しい。ほんとにお久しぶりです。あ、この方は、今いろいろ教えて下さってる白河さん。あの、鴨下さんです」
あたしは清市を名字だけで紹介した。二人は礼儀正しく名刺を交換していた。清市は恋人ではあるが、仕事の上で尊敬している人だ。そんな二人が出会うのは、あたしにとってすごく嬉しいことだった。
「いやあ、ほんとに久しぶりだなあ。八寿美ちゃんがやめてから淋《さみ》しかった」
「え?」
「淋しかったよ」
鴨下さんはあたしの耳に口を寄せて言った。どんどん騒がしくなる店内で、人の声は聞き取りにくくなっていた。
「わたしこそ。今でも鴨下さんに教わったことはその度財産だったなあって」
あたしも鴨下さんの耳に口を寄せて言った。鴨下さんはあたしが新人のころから目をかけてくれていた大切な人なのだ。彼のプッシュがなかったら、今のあたしはないかもしれない。
「ほんとにお会いできて」
嬉しい、と言おうとしたとき、頭に衝撃が走った。誰かが酔ってあたしにぶつかったらしい。ちょっとむっとしたが、みんなが酔って騒いでいるときにそんなことを気にしてもしかたがない。
「ずっとお会いしたいと……」
と言い直したとき、またがつんと来た。間違いない、今のは拳《こぶし》だ。
あたしはとなりの清市の顔を見た。知らん顔をしてはいたが、酔いと怒りで赤くなっている。
それから鴫下さんに何を言ったかよく憶《おぼ》えていない。彼が人に呼ばれて離れて行ったあと、あたしは清市に尋ねた。
「今、殴ったでしょ」
「殴った。俺はこんなとこは嫌いだ。もう帰る」
清市は赤い顔で言った。
「信じらんない、殴るなんて」
次の言葉が続かなかった。この人はどうしてそんなことをするのだろうか。
二人して黙っているところへ、壱子が気持ちよく酔った顔で帰ってきた。
「清市さんはー、八寿美とー、結婚しないんですかー?」
彼女はいきなり周りの騒がしさに負けない声で清市に言った。彼が黙ってるので、かわりにあたしが同じく大声で、清市にもよく聞こえるように言ってやった。
「ねえ壱子はー、だんなさんに殴られたことってあるのー?」
「は? ないよー」
答えてからやっと、なにか変だなという顔になった彼女は、あたしと清市を交互に見た。あたしも彼の顔をじっと見つめた。そこには絶対あやまったりするものか、という決意が表れている。
初めてこんなことをした彼の顔。
あたしに、「おまえは俺《おれ》の所有物だ」ということを殴ってわからせようとした彼。
彼はあたしがまだ呈児とのことから立ち直れてないって知ってるだろうか? あの日道具として扱われたことのショックから、あたしは今でも完全には抜け出していないというのに。
清市、ひどい。あたしは何もしてない。
壱子は酒のお代わりを頼んだ。それから、清市に何かと話しかけている。彼女が作ってくれているこの時間の中で、あたしは自分がどうするか決めなければならない。
ああ、そろそろ夜が明けそう。
眠い。疲れた。もう飽きた。
清市はまだ怒ってる。あたしの前の席で果てしなくお説教してる。
「俺の目の前で男と抱きあって囁《ささや》きあうなんて、どういうつもりなんだ。なんでそんなことわざわざして見せる」
「そんなことしてないでしょう。店がうるさかったから、耳元で話しただけでしょ」
始発待ちの客や、一目で水商売とわかる女性連れの男たちばかりのレストランで、まだ清市は飲んでる。飲めば飲むほどくどくなり、怒りが大きくなって手に負えない。もうあたしたちはだめかもしれない。
あたしは清市の煙草の箱から薄荷《はつか》煙草を一本抜いて火を点《つ》けた。ふだん煙草なんて吸わないけど、話も聞いてもらえないあたしには他《ほか》に何もすることがなかった。
「俺はほんとはしつこい人間なんだ。あんただってそのうちきっと嫌になるよ」
とっくになってるよ、とあたしは思った。でも黙っていた。これ以上刺激して長引くのはごめんだ。
「人前であんなことをする人間の気がしれないよ。腰に手を回してたじゃないか」
「して、ないよ!」
あたしは煙草をくわえたままふてくされて言った。しつこい追及とくわえ煙草のせいで、すっかり不良少女みたいな気分になっていたのだ。
「なんだ、その態度は」
一方清市はもう風紀の先生そのものでしかなかった。あたしはもう何もかもどうでもよくなってきた。身に憶えのないことをやりましたと白状する容疑者の気持ちがわかるような気がした。
あたしは肩で息をしていた。「別れようよ」と言おうとした。なのに直前でハンドルを切ったのだ。右足のヒールを脱ぎ、からだを沈めてその足を清市の股間《こかん》に押しつけた。そして、言った。
「しよ」
清市の顔に戸惑いが走った。意外だった。思春期の男の子みたいに、
「……どこで?」
と言うのだ。
「どこででも。ここの駐車場でする? あたしはいいよ」
「でも……」
「ね。しようよ」
あたしたちは店を出た。清市は外の空気を吸ったとたん、しゃっくりがとまらなくなった。
「清市、飲み過ぎ」
「だ、だれのせいで……」
また文句になりそうなその唇をふさいだ、道のど真ん中で。
「こんなとこで、だめだよ……人が、見るじゃないか……」
清市はあわててあたしの顔を押し戻したが、嫌がってるようではなかった。あたしはちょっと意地悪な気持ちになってきた。
「平気だよ、そんなの。ここでしたっていいよ」
服のボタンをはずし、胸元を開けようとした。
「こら。だめだよ。こっち、こっち来て」
あたしは清市に腕を引っ張られて歩き出した。しゃっくりはもうとまったみたいだ。
結局あたしの部屋に来た清市は、一瞬で服を脱ぎ、あたしのワンピースをさっさと引きずり降ろしてしまった。ベッドでなく、そのままソファの上で重なり合い、何かを確かめるように裸の胸を合わせた。清市はちょっと気まずそうに、
「さっきまで、あんなに怒ってたのに……」
と言いながら、あたしのからだを触った。あたしは黙ってされるままになっていた。今までの状況から、きっと乱暴に後ろからされるのだろうと思っていた。あたしは争いに負けたけもののように観念してお尻《しり》を差し出した。ところがそこに押しつけられたのは彼の唇だった。
「清市……」
「後ろからがいいの? 八寿美……」
「…………」
清市の舌があたしを舐め回してる。そんな……これじゃ、あたしのほうが奉仕させてるみたい。
「ねえ……後ろからがいい?」
「あたしは……ああ……どっちでも……」
思っていたのと逆に、あたしは彼のからだの上に乗せられてしまった。さっきと正反対の立場に、頭がついていかない。あたしの男はあたしに根元までくわえ込まれ、すっかりお姉さまに犯される少年の顔になってる。明るい部屋の中でそれは恥ずかしいほどよく見える。あたしが突き出してたお尻もこんなにはっきり見えてたのかと思うと、恥ずかしくてたまらない。どうしてそんなに可愛《かわい》い顔するの? 彼はあまりにあたしに怒りをぶつけすぎて、あたしが挑発した瞬間、折り返し地点まで来てしまったのだろうか。それともあたしに仕返ししてほしくてあんなに責めたのだろうか。わからない。あたしにとってこんなことは初めてだ。これまでも男に似たようなことで責められた経験はあるが、彼らはみな取り返しのつかないくらいのことを言ったりしたりしたので、ほとんどはそれをきっかけに別れてしまった。セックスのとき「おまえは俺のものだ」と言われるのは盛り上がるから嬉《うれ》しいけど、ふだんやられると腹が立ってしまうのだ。「なんの権利があって」と思ってしまうのだ。あたしだけだろうか?
「ああ……八寿美……」
清市はただけなげにあたしとの結合を受け止めている。俺だけのものでいてくれ、とか俺を苦しめないでくれ、などという約束を口にする様子はない。
可愛い。
あたしは彼の頭を両手で抱え、耳元で、
「清市のこれ、気持ちいい……」
と言った。あたしの下で彼がお魚みたいにぴちぴちはねた。
あれだけぐずっていたくせに、清市は今日も仕事だったそうだ。気の済んだ顔で、朝日を浴びて帰って行った。
さっき部屋に来てからの彼は思い出しても愛《いと》しい。ごねられてる時は叫び出しそうだったけど、今考えると彼にもどうしようもなかったのだろう。
疲れた。
でも頑張って良かった。なんだか、ゲームのワンステージを終えたような感じ。
あたしの中に「俺のものだ」って言われたい人格と、「なんの権利があって」って思う人格があるように、彼のなかにも二人の男が住んでいるのかも知れない。
「でもさ、ぐうで殴るのはちょっとひどいと思わない?」
「そんなことになってたとはねえ」
壱子は笑いをこらえながら言った。
「壱子がいたから助かったよ。でもあのあとも長かったんだー。朝までだよーもー。あたしが何をしたっていうのよ」
「まだ結婚もしてないのにね」
「結婚するとやられる?」
「うーん。人によるかな」
「やだなあ……途中、もう別れようと思ったよ」
「働く女はそういうことにこらえ性がないからね」
「壱子だって働いてるじゃん」
「あたしはあわよくば養ってもらおうと思ってるから」
「うそ。だったら……」
「っていうか、そうも言えるほうが楽だよなって思うようになったの」
「…………」
そうかも知れない。
あたしはまだそう思えないから、結婚を考えられずにいるのかも。
壱子って大人だ。権利とか、差別とか、そういう言葉をつかわないで仕事したり、男と愛し合ったりしようとしてる。
「あたし……でもあんな身勝手な男と暮らすことなんて……考えただけで気が遠くなるよお」
「いいほうかもしんないよ」
「ぐうで殴るのに?」
「人が見てないとこでボコボコにする男だっているしね」
「ああ……」
そういえば清市は、二人っきりになってから急に優しくなったんだった。
また清市は忙しくなった。なかなか逢《あ》えないと、彼に対する評価も変わる。
「もしかしたら清市は、理解ある男なのかもしれないね」
「何言ってんの。俺《おれ》は常識人だよ。自制心強いし」
「ウーロンハイ三杯しかもたないものも自制心と言ってよければね」
「生意気なやつだ。次逢ったらお仕置きしてやる」
電話が切れると急に部屋が広く感じる。清市と重なり合ったこのソファ。あの日のあたしたちは体育館の道具置き場で抱き合う高校生みたいだった。あたしはどうすればいいのかわからなくて、ただ清市がどうしたいのかだけを考えようとした。やりたがるだけの男に戸惑いを感じてた十代の頃のあたしは、あんな気分でセックスしてたような気がする。男の要求をただ受け入れるだけで、あたしはこうしたい、なんて思う余裕はなかった。でも嫌じゃなかった、それでせいいっぱいだったから。今またこんな気持ちになるなんて不思議だ。なんだか懐かしい。
あたしは、離れた土地で眠ろうとしている清市のことを思いながらベッドに入った。
と、電話が鳴った。
清市はよく、眠りにつく前に「おやすみ」と言うだけのためにまた電話してくるのだ。
「はい」
「もしもし」
「ん?」
清市と信じて疑わなかったため、判断が鈍った。
呈児だ。目の前が暗くなるような気がした。
「あのさ……」
切ろうかどうしようか迷った。
「オレ……話がしたくて」
初めて聞くしおらしい声。
「こないだ……ごめん。悪かったよ」
あたしはまだ黙っていた。
「むりやりあんなことして……ごめんよ、オレやり直したかったんだよ。でも、それがだめだったら、話だけでもしたいんだよ……」
「……やり直す? 何を?」
「だから、もう一度つきあいたいんだよ」
「そんな……」
つきあっていた時にされた仕打ちがつぎつぎと頭をかすめた。あれを全部、なかったことにしてくれってこと? そして、こないだのことも?
「もういいよ、あたしは……」
「オレさ……」
「もう、かけてこないで下さい」
あたしは電話を切った。それから番号を変えなかったことを深く後悔した。だってほら、またベルが鳴ってる。せっかく忘れかけていたのに!
あたしは目を閉じた。知らず知らずのうちにベルの数を数える。15回くらい鳴ると「おかけ直し下さい」のアナウンスが流れて切れる仕組みになっている。あたしが席をはずしていてそのアナウンスが流れると、呈児はよく、
「なんだよ機械に『かけ直せ』なんて言わせてさ。それお聞きいただくだけのために、オレ様から十円|盗《と》ったわけ?」
とみみっちい不平を言っていた。それだけ思い出しても腹が立ってくる。だれがそんな男なんかとやり直すか。
「やり直す……」
あたしはもう一度声に出して言ってみた。
やり直す。ずるい言い方だ。
そんな言葉で、今までしたことを無しにできると思っているんだろうか。あたしの人生はゲームじゃない。いいとこだけセーブしといて、命はつなげようなんて虫が良すぎる。こないだのことだって、ありていに言えば強姦《ごうかん》だ。あたしが本気で法に訴えれば犯罪扱いにだってなることなのだ。
あたしはタンスの引き出しの中を思った。あのとき付けていた下着は、少し前に思い切って捨ててしまった。あの可愛《かわい》らしい布きれたちには何の罪もないのに捨てたのだ。愛撫《あいぶ》されるためにこしらえられた小さな蝶々を、ハサミでずたずたに切り刻んで。それを選んで買い求めたときの弾んだ気持ちや、買うために働いたぶんの自分のエネルギーも全部一緒にダメにしたのだ、あの男の暴力のせいで。服のほうは捨ててはいないが、わけを話して、それでもいいからというので壱子がもらってくれた。
「立ち直れて、着れるって思ったら、すぐ言ってよ。それまではあたしが面倒《めんどう》見ててあげる」
壱子がそう言ってくれたとき、涙が出そうになった。でもあたしはもうあの服を着ることはないだろう。壱子が着てるのを見るだけでも戦慄《せんりつ》してしまうのだ。まだこんなにも傷が残っている、とその度に痛感するのだ。彼女に悪いから、そんなそぶりは見せないようにしているつもりだが、壱子は気づいているのかも知れない。なんだか、着てこなくなった。ごめん、壱子……。下着と同じように捨ててしまえば良かった。
電話のベルが止まった。
あたしは、引っ越しを考えた。
その中に少しだけ、清市と一緒に住めないか、というアイディアが混ざり、すぐ消えた。
清市の束縛ぐせが、少しずつ程度を増してきているのを思い出したのだ。
「次逢ったらお仕置きしてやる」というさっきの清市の言葉が頭に浮かんだ。あれは、べッドの中でのことを言っているのだとは思う。だったら良いんだ、でも……。どうしていつのまにかベッドの中の遊びが遊びだけではすまなくなってくるんだろう。遊び、と分けてしまっているあたしのほうに問題があるのか? ベッドの中で秘密に過ごして、外に出たら知らん顔で仕事してたほうが面白《おもしろ》いから、今まであなたはそうしていたんじゃないの? なのにあたしには、仕事仲間の前でもご主人様の奴隷のように振る舞えと言う。最初はあんな人じゃなかったのに。清市はどういうつもりでいるんだろう。自分が変わってしまったことをどのくらい意識してるんだろう。意識しているとしたらわざとやってることになるわけだけど……。
考えれば考えるほど、彼の身勝手さに嫌悪感が湧《わ》いてくる。いっそ今のうちに死んでくれたら良い思い出になるのに、などと乱暴なことまで考える。いたわりあうためにつきあいだしたはずなのに、なぜ戦いになってしまうんだろう。
あっ、また電話。
あたしは反射的に電話のコードを引き抜いた。最初からこうすれば良かったのだ。
呈児がしおらしい声を遣うのは計算ずくのこと。だってあたしは呈児のあの芝居がかったしおらしさにだまされて彼とつきあい始めたんだもの。
「オレなんて結局みそっかすだからさ。ほんとは、つらいんだよ」
かなんか言われて。ああ、自分が嫌になる。馬鹿だった。呈児と別れられたと思い込んでた頃は、あれはあれで良い経験だったと考えることも出来たけど、今はもう出来ない。呈児とつきあったこと、死ぬほど後悔してる。あんなのとつきあった私が馬鹿でしたと言って、世界中の人に懺悔《ざんげ》して歩きたい。でも……。
たとえ世界中の人があたしに同情してくれても、きっと清市だけはあたしを許さないのに違いない。
「八寿美が気のあるようなそぶりをしているからだ」
と言い切るのに違いない。だって彼はあの日、他《ほか》の男にやらせるくらいなら死ねとあたしに言ったのだ。耐えて聞き流したけど、あたしはあの言葉を一生忘れない。忘れられるわけがない。あたしの体は清市にとってただのおもちゃ。いや、それよりひどい、壊れてもいいおもちゃだ。黙って人に使われるくらいならばらばらにして火にくべてしまえ、そういうものなのだ。どんな乱暴な子どもだって彼よりはもっとおもちゃを大切に扱うだろう。あたしをむりやりやった呈児を殴るだって? 口では何度もそう言っていたけど、結局口だけ。そのうえ殴られたのはあたしだ。責められるのはいつもあたし一人。清市はあたしに「愛してる」って言うけど、あれは愛じゃない。あたしはただ、所有物化されてるだけ。それも勝手に思ってるだけでなく、あたしが自分の所有物として振る舞わなければ怒り狂う。あの無茶な言い分に、あたしが協力しなければならない理屈はいったいどこにあるのだ。たかが何度かセックスしたくらいで何の権利が発生するというのか。
「ねえ、あのあとどうしたの?」
清市にそう聞かれたとき、最初はなんのことだかわからなかった。
「あのあとって?」
「電話、何度かけても出なかったじゃないか。おやすみって言いたかったのに」
「電話……ああ……」
あのあとも清市はかけてきていたのだ。あたしは半分|嬉《うれ》しく、半分うんざりした。
「お風呂《ふろ》入ってたの」
「でも、何度もかけたよ」
「そう? 何度くらい?」
「聞こえてたんじゃないのか? 風呂場からなら、少しは聞こえるだろう」
「……潜ってたの」
「え?」
「潜って、遊んでた」
あたしは少しふてくされて言った。もうこの辺で察してくれ、という意味を込めたつもりだった。でも、無駄だった。
「何十分も?」
「…………」
「普通、風呂なんて、十五分くらいで出るだろ」
「出ないよ。あたし、一時間だって入ってることがあるもん」
「オレは電話してたんだよ?」
あたしは今まで、コードレスの子機を身近に置き、風呂場でもトイレでも清市からの電話を待っていたことを心から後悔した。何をしててもあたしが電話に出ることが、彼にとってはすっかり当たり前になっているのだ。あたしって、やっぱり馬鹿。男が図に乗るようなやり方しかできない、頭の弱い女なんだ。
「ゆっくりお風呂に入りたいことだってあるよ……」
あたしはあなたのために生きてるんじゃありませんと言うべきだろうか。
「オレを無視してまで?」
「だって……じゃあ、用はなに?」
「用って?」
「用があるからかけたんじゃないの」
「別にないよ。どうしてるかなと思っただけだ」
さすがのあたしも、この矛盾にむっとした。
「じゃああたしは、用もないのにかかってくる電話のためにお風呂の時間を決めなきゃなんないの?」
言い過ぎたかな、と思った。なのに、清市の言い分はもっとすごかった。
「なに? じゃあオレは八寿美の生活時間に全部合わせなきゃいけないの?」
それは、こっちのセリフだ!
「清市、今、言ってることめちゃくちゃだよ。わかってるの?」
「だってそうじゃないか。オレはおやすみが言いたかっただけなのに、なんでこんなこと言われなきゃなんないんだ」
「…………」
ああ。
ついにこの日が来てしまった。この人も、言ってもだめな人になってしまったんだ。
久しぶりに逢《あ》えたのに……あたしは迷った。今夜一日くらいは楽しく過ごしたかった。
「あたしは……」
言いかけてまた、言葉を飲み込んだ。清市はだまって煙草をふかしている。その煙が流れてきたせいで、彼に殴られた日のことが頭をかすめた。そしてついに言った。
「わざとやってるわけじゃないのに……怒られてばかりで、疲れました」
「…………」
「しばらく、一人でいたいです」
「それ、どういう意味なの。別れたいってことなの」
清市は意外そうだった。あたしが何をしても自分から離れないと思っていたのかしら。わけわかんないこと言って責め続けても? 人前で殴っても?
「……こんなに怒ってばっかりで、清市だって疲れるでしょ……? 言い争いばかりで、嫌でしょ?」
「それは……」
「清市にはもっと、家庭的で、心の休まるような人のほうが合ってるんじゃないのかな……あたしには無理だよ」
口調はしおらしくしたほうが、より意地悪く「あなたは古い男なのよ」という意味を感じてもらえるはずだった。
そりゃあたしだって、自分のこと、時代の最先端を行く女だなんて思ってない。もしそうだったら、こんなことで悩んでないと思うし、呈児なんかに引っかかることも、清市に殴られることもなかっただろう。少し前まで、自分はほんとは仕事するのに向いてないんじゃないだろうか、誰かが(もちろん清市なんだけど)「結婚しよう」と言ったとたん、今まで努力したことなんて嘘《うそ》みたいに全部投げ出して、会社を辞める決心をしてしまうのではないだろうか、という考えがときどき浮かんでは消え、浮かんでは消えしていた。浮かぶ度に、ぶくぶく太って台所で飲んだくれる自分を想像して、ぞっとしてはいたんだけどね。でも自信がなかったの、このまま仕事して健康でいられるのかどうか。
だけど、そう考えて不安になるのは、とりあえず今はやめだ。
だってこの人とこれ以上つきあってても先が知れている。すでにもうじゅうぶん清市はあたしの人生の障害物、あっても嬉しくない、なんの喜びにもならないものに変わりつつある。この状態はもう改善されはしないだろう。
「悪いけど、私、これで帰ります」
清市は黙っていた。あたしを引き止めようとはしなかった。もうこのまま? これで終わり?……いや、それでもかまわない。別れよう。「さようなら」
あたしは、出来る限りの意味を込めて口に出した。そして、ゆっくり歩き出した。彼の手の届かないところへ。
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なのに。
なのに、生理がまだ来ない。
もうそろそろあってもいいはずだ。もしかしたら……ああ、なんてことなの、せっかくこれで終わりだと思ったのに! なんでこんなことになったんだろう。まるきり気をつけてなかったわけじゃないのに。あたしは妊娠したかったんだろうか? とにかく、判定薬を買って……ああ、でもまだ結果が出るような時期じゃないんだよな。
妊娠してたら、どうするんだろう? あたしは子どもを作った相手として、清市のことを考えられるんだろうか? 清市は? 彼はあたしのことをどうしたいんだろう。
今のままでは結婚なんかしたくない。このままそういうことになれば、なしくずしに家に閉じ込められるのは目に見えている。いや、いや。それだけは絶対にいやだ。じゃあどうする? 中絶?
……やめよう。まだ妊娠と決まったわけでもないのに。それに、あたしはもう清市とは別れたんだ。彼とあたしは、もう何の関係もない。
思えばどうしてここまですれ違ってしまったんだろう。どこからだったら修復できたんだろう。あんなに愛《いと》しくて、優しくて、憧《あこが》れだった清市。彼と早く同じように仕事がしたかった。お互い忙しい中、短い時間に濃い愛情を交わす、そんな生活に憧れていた。清市とだったらそれができると思ってたのに。玉手箱の煙を浴びてしまったら、清市はただの嫉妬《しつと》深い、傲慢《ごうまん》な男だった。あたしのことなんて同じ人間だなんて思ってない。それが言い過ぎでも、少なくとも同じ社会人と考えていないことは確かだ。ほかの男と話をしただけで、弱ってるあたしを人前で殴るなんて。それも、つきあってた男とかじゃなくて、仕事で世話になってた先輩と話してたのに。まるで頭の悪い高校生みたい、いやだいやだ。子どもっぽい男は嫌い……少年の心とかなんとか、男には都合のいい言い方もあるけど、仕事している女には迷惑なだけ。愛してる振りして足を引っぱってるんだもん。ほんとに愛してるなら、あたしの悲しむことや、嫌がることはしないようにするはずだ。でも清市はあたしの話なんて聞いちゃいない。自分の言い分が通るまでひたすらぐずりまくる。疲れる。あの人の世界に閉じ込められるくらいなら、いっそ結婚せずに一人で子どもを産んで育てたほうが楽かもしれない。どうせ清市は家事や育児なんか手伝わないに決まってるし。頼れなくていらいらするくらいなら最初からいないほうがましだ。
とにかくあたしは判定薬を手に入れた。薬局には若い女が一人で店番をしていたが、恥ずかしくはなかった。
「いないのか……。……俺も、あれから考えたんだけど……。……またかける」
清市から留守電が入っていたのは次の晩だった。まだ生理は来ない。かと言って判定薬も何も言ってくれてない。
「あれから考えたんだけど」? 考えてどういう結論になったんだろう? 清市はあたしと別れようとしているのか、それとも?……体のことさえなければこんなに気にならないだろうに……。どうしよう、電話したくなってきた。どういうつもりでいるのか知りたい。
そのとたん、電話が鳴った。あたしは思わず出てしまう。
「もしもし」
「ああ……早かったね、出るの」
呈児じゃないか! ああ! あたしのバカ!
「…………」
「なんで黙ってんの?……ああ……ほかの男だと思ってたんか」
「…………」
「いいよそれでも。声聞けて嬉《うれ》しいよオレ。八寿美。オレさ。結婚しようと思ってるんだ」
「ほんと!」
思わず声が出た。報告されるいわれはないが、これでもうつきまとわれずにすむ!
「今まで言えなかったんだよ、思ったことはあったんだよ。でも仕事、ずっとうまく行ってなかったし。一応、男だからさオレ。自分のほうが収入多くねーと、そういうことは言えないんじゃねえかって」
「はあ……まあ……」
結局祝い金をよこせと……? しかし長いな。こいつは人の受け売りばっかりの薄っペらな話しか出来ないくせに語りを入れるの大好きなのだ。でもここで刺激しちゃまずい。
「でもふっきれたんだよ。オレ、家事でもなんでもするよ。オレさ、料理とかほんとうはうまいんだよ。知ってるだろ? おまえ」
「…………」
なんかおかしい。あたしどうしてこんなこと聞いてなきゃいけないんだろ。
「さいわい今おまえのほうは儲《もう》かってるみたいだからよ」
「! ちょっと待ってよ! あんた何? あたしと結婚するつもりでいんの?」
「だから家事だって育児だってやるって言ってるだろ?」
「冗談やめてよ! なんでそうなんの? 頭おかしいんじゃないの」
「松田に聞いたよオレ」
「何をよ!」
「戻ってきて欲しいんだろ?」
「あっまたそういうことになってるわけね? うぬぼれるのもいいかげんにしてよ! あのねえ、あたしにはもう……」
「もう、何だよ」
「結婚の予定があるの」
「うそ。誰と」
「あんたに関係ないでしょ。いつまでも勘違いしてんじゃないわよバカ! こっちは本気で迷惑してんだから」
あたしは思いきり電話を切った。こんなときに、こんなときに! なんでそんなことを言う! おかげであたし、嘘《うそ》までついちゃったじゃないか! あと味の悪い嘘を……。
……でも、次がかかってこない。
ということは……。
あの嘘で追っ払えた? あの低次元な、怒りに任せて出た大嘘で?……だったら早く言えばよかった。「結婚するの」くらい、こんなややこしい時でなければもっとどんどん言えたのに。じゃあ待てよ、結婚の予定のないうちは昔の女は自分のものだと思ってたわけ? なんで?
わからん……。
生理が遅れてると、時の経つのが遅い。
会社の帰り、清市に待ち伏せされてたとき、思わず、
「あら久しぶり……」
と言ってしまったのはそのせいだ。しかし清市は別の意味にとった。
「八寿美はやっぱり、ほかの男と仲良くやってるんだな。あの昔の男なの?」
「はー……」
鼻にかかったため息を長く引きながら、あたしはばか面をさらした。話をする気力がエクトプラズムみたいに鼻から抜けて行った。
そのまま歩き出そうとして、清市に腕をつかまれた。
「なんで俺をないがしろにするんだ」
「ないがしろって言葉、好きだね……」
あたしはぼんやり言った。答えになっていなかった。
「馬鹿にしてるのか」
「殴れば?」
目の前に交番があるのを知ってて言った。
「そうやっておまえは、自分を思いやる男を全部、敵に回すつもりなのか」
「誰があたしを思いやってるって?」
あたしは清市に向き直った。
「思いやってる人間がなんで弱ってるあたしを殴るの? ほかの人と話したくらいで。あたしを助けるより、思いどおりに動かすほうが目的のくせに」
「なんでそんな言い方をするんだ」
「事実だからだよ! あんたの子どもなんか……」
しまった。
「子ども」
「…………」
「今、なんと言った?」
「何も言わない」
「妊娠してるのか、八寿美」
「わかんない……気が弱くなってるのよ。もう何も言いたくない」
涙声になった。
「とにかく、どこかへ入ろう」
清市は近くの喫茶店に入ろうとした。
「もっと離れて……ここじゃ、会社の人に会っちゃうわ。あなたは……そういうの好きなんだろうけど」
「こんなときに皮肉を言うなよ。それどころじゃないだろ」
なんだか清市が優しい。あたしはしんみりした。もしかしたら、もしかしたらあたしたちはいたわり合えるようになる?
乗り込んだタクシーはなかなか動かない。かと言って、混んだ電車で移動する気にもなれない。あたしは夕暮れの街を黙って見ていた。
「ねえ」
清市が待ち切れずに声を掛けてくる。
「さっきの話、ほんと?」
運転手はもちろん、聞かない振りしてくれるんだろうけど。
「ここでそんな話、しないでくれる?」
「…………」
「あたしの社会性をつぶしにかかっているのはあなたよ。仕事する人間としてはあたしのこと考えていないのよ」
「人前で泣くくらいだから、せっぱ詰まってるんじゃないのかと思っただけだよ」
「大げさねえ。声が詰まったくらいで人前で泣いたなんて」
「…………」
「人前であたしに泣いて欲しいんでしょ。殴るくらいだもんね」
「やめてよ。今度は俺《おれ》がいやだよ、そんな話」
「先に話しかけたのはあなたよ」
清市はホテルに部屋をとった。そこまでしなくてもいいのに……まさか、セックスするつもり?
「しないよ、あたし」
「人前で話すのいやなんだろ」
「そうだけど……部屋までとらなくても」
「俺だってさっきみたいなこと大声で言われたくないよ」
「誰も大声なんて……」
「やめよう。ねえ、妊娠したの? 八寿美。いつわかったの?」
「わかってないよ。まだ……ないだけだよ」
「いつわかるの?」
「もうじき、判定薬が使えるはずなんだけど。待てなくて一度使ったんだけど、早すぎてわかんなかったみたい」
「早すぎてって?」
「生理の予定日から二週間くらいたたないと結果が出ないのよ」
「なんで?」
「知らないわよ。ホルモンかなんかでしょ」
「いつわかるの」
「あなた、もう少しあたしの気持ちを考えてものを言えないの? あたしは学校の先生じゃないのよ。困ってるのはあたしなのよ」
「困ってる? 困ってるのはこっちだろう」
「は?」
またこいつ、わけのわかんないことを言い出したわ。
あたしはどこか知らない世界にでも迷い込んでしまったんじゃないんだろうか。この男はあたしがこのあいだまでつきあってた人物と顔と名前が同じだけで別人なのでは? そうでもなきゃ、こんなに話が通じないわけない。
「まったく……こんな時に」
この知らない男はまだなにか不平を言おうとしている。
「だいたい八寿美がいつも男を誘うそぶりを見せてるのがいけないんだ。昔の男がどうとか……すきがあるからそんなことになるんだ」
「清市?」
「今日だって、妊娠してるかもしれないってのにそんな服着て……」
「ねえ……あなたさっきからいったい何が言いたいの?」
「俺はいつも心配してるんだよ」
「何を」
「あんたのからだのことだよ。決まってるじゃないの」
「そうは見えないけど」
「俺がいつも気にかけて電話してるのにむりやりやられるし……電話はうるさがるし」
「だってうるさいんだもの」
清市はあきらかにむっとした。あたしはその顔を真正面からにらみかえした。ややあって、彼は小さなため息とともに、目をそらした。
「俺もね……少しは反省してるよ。八寿美のこと監視してるところもあったかも知れない」
「かも知れない?」
「……いや、うーん……してたんだよ、きっと。でもね、心配だったんだよ、八寿美のからだが」
「…………」
「だからね、こんなはっきりしないときに妊娠って言われてもね。だからふだんから気をつけておいて欲しかったって、そう言おうと」
「……何を言われてるのか、よくわからないんですけど」
「だから、実際やられてるわけでしょ? そういうことがあったあとにだね」
「…………」
あったあとに、何なのだ? それでなくてもまだあまり、思い出したくないことを何度も……あのことと今の状態と何の関係があるのだ。
「あんたはだいたい……不用心だよ」
「だから、何が言いたいの!」
「怒らないでよ……」
「何言ってんだか全然わかんないんだもん! わかるように言う気がないんなら帰るわ」
あたしは速足でドアの方へ歩いた。
「待ってよ。八寿美。ちょっと待って」
清市があたしの腕をつかまえる。そのままベッドに向かってあたしを引きずる。男の力だ。
「痛ーい、放して! どうしてそっちなのよ、しないよあたし! しないって言ったでしょ!」
「でも、八寿美、するとおとなしくなるから」
「それはあんたでしょ! 放してよ! いやー! 助けて!」
清市の手があたしの口をふさいだ。殺されるかもしれない、という考えが頭をかすめた。
「どうしてそんなに大声出すんだ。放すから静かにしてよ」
良かった、そこまで熱くなってはいなかった。あたしは黙り、しかしベッドからは遠く離れて立った。
「どうしてそんなに離れているんだ」
「したくないって言ったでしょ」
「でも、俺は」
「したいの?」
「うん」
「バカじゃないの」
「なんでしたくないの」
この人には「そんな気になれない」という言い方は通用しないんだろうな、とあたしは壁にもたれて思った。こんな状態になってもまだこの男は昔の遊びが続いてると思ってる。別れた女とでもいつでもセックスできると思いこんでる呈児とどこが違うのだ。同じじゃないか。
「もうね、あたしとあなたはそういう関係じゃないと思うの。わかってなかったの?」
「そりゃ俺だって、今までと同じようにはつきあえないとは思ってたよ」
「そうでしょ」
「行き詰まってきてるから、何か道を開かなけりゃなんないなって」
「そういう意味じゃなくて」
「え?」
「あたしはもう、別れたつもりでいたんです」
さっと清市の表情が曇った。ちょっとかわいそうな気もしたけど、わかってなかったってことは、前にあたしが言ったことをちゃんと聞いてなかったということだ。
「別れたの? 俺たち」
「もう、すっかりそう思ってた。あたしの中ではもう、終わっちゃってた」
「なに八寿美、俺と別れたいの?」
ほら聞いてない。あたしの話、全然聞いちゃいないよこの男!
「あなた、前会ったときにもそう言ったの覚えてる?」
「だって、じゃあどうするんだ。妊娠のほうは」
「だから気が重いんじゃないの。でもね、決まったわけじゃないのよ。まだ」
「だって、ずいぶん遅れてるんでしょ」
「だけど……」
「だけど、何よ」
「あなたには関係ないことにしてしまうことだってできるのよ」
「八寿美」
「そうでしょ? あたしの話を聞いてもくれないし、同じ人間扱いしてもくれないんなら、一緒にいても……」
「だからもっと早く俺《おれ》の言うとおりにすれば良かったんじゃないか!」
「えー?」
「俺より若いとか、なんか、何比べて駆け引きしてたのか知らないけど……俺はあんたに貞操を守ってきたのに」
「…………」
また空間がねじれてきた。もうだめだ、耐えられない。帰ると言うからつかまるんだ、だまして出よう。つまり、逃げよう。
「ちょっと」
「どこ行くんだ」
「トイレ」
あたしはバッグ以外に荷物を持ってなかったことを頭の中で確認しながら、トイレに入ると見せかけて、そのまま部屋のドアから飛び出した。
小走りでエレベーターの方向に走る。清市はまだ気づかない。こないだの呈児と同じだ。真正面から抗議しても全然だめなのに、たあいのない嘘《うそ》にはころっとだまされる。よく昔の女が「はいはいって言って横向いて舌出してりゃいいのよ」なんて言うのは、今でもこれほどに有効な手段であったのか。
でも、あたしはいやだ。嘘をつくよりちゃんと話し合いたかった。人間どうしなのに。一度はつきあった相手なのに。でも、なんだかもうそれはあきらめなきゃなんないのかもしれない。
ああ、壱子と話したい。
でも、彼女はこないだ中絶したばかりだ。思い出させてしまう。あたしには一切弱音は吐かなかったけど、でも、辛《つら》くなかったわけないし。どう話したらいいの。
壱子はだんなさんにどう話したんだろう。もしかしたら、話さなかった? あんなわけわかんない反応されるくらいなら……。清市は、ほんとうにどうかなっちゃったんじゃないだろうか。
あたしは頭の中で清市の言ってたことを整理しようとした。「気をつけろって言ったのに」……とか、「困るのはこっちだ」……何なんだ? なんで清市が困る? どう勘違いしたらそういう話になるんだろう。わからない。ああ、こないだはずみとはいえ「結婚の予定がある」なんて呈児に言ってしまった自分がいやになる。もし妊娠してたら中絶か、一人で産むしか選択肢はないのに。
ほんとうにないんだろうか……。
ない、ような気がする。清市があんなつじつまの合わないことしか言わない状態なんだもの。平和に結婚して二人で育てるなんて出来そうにない。
中絶かなあ……。
一人で産めるほどあたし、仕事出来てるんだろうか……。自信ない。
中絶したのなんてもし呈児にばれたら、さっそく押しかけてくるだろうな。そしたらもう、めちゃめちゃだ。ああ。ああ。どうしよう。だめ! 一人で考えてたら頭おかしくなりそうだ。
あたしは松田くんにすがることにした。彼の奥さんには悪いけど、今のあたしには松田くんしかいないのだ。
「もしもし」
良かった! 彼が出た!
「あー、お久しぶりです。その後どっすか?」
「あのね、呈児がね、また電話かけてきてね」
あたしはとぎれとぎれに話した。頭が弱ってる証拠だ。声がふるえる。一人で留守番してる子どもみたいにぺたんと座り込んでる自分がいる。
「調子悪いんすか?」
「うん……ごめん、なんか、うまくまとめて言えなくて。順を追ってしか……あたし」
「いっすよ。オレひまっすから」
「ありがとう……」
あたしは呈児のことをゆっくり話した。
「あたしが呈児に戻ってきてほしいから松田くんに相談してるって思い込んでるのよ」
「そういうことになってんすね、あいつの中では」
「もちろんそんな話し方してないんだよね?」
「それどころか、あれから八寿美さんの話、したことないんすよ」
「えっ! そうなの」
「いつも元気でやってるフリしてるんすよ。ずっと前、仕事うまくいってないって話したじゃないすかオレ。あれも、本人から聞いたんじゃないんです。顔見れば景気悪いのバレバレなんすけどね、本人はかくしてんです」
「じゃあ、全部嘘……それってもう、完全にやばいんじゃないの?」
「オレの名前出す以外にとっかかりがなかったってことでしょうね」
「でもそんなの……すぐばれるのに」
「うーん。だから、八寿美さんと結婚すればなんとかなんじゃないか、ってのが先にあって……」
「……そのために話をむりやり作ったってこと? なんだろそれ……なんかそれって、結婚さえすればなんとかなるって思ってる仕事の出来ない女みたいじゃない」
「でも、そういうやつ、いますよ、最近。ほかにもいたな」
「あたし、結婚の予定があるって嘘言っちゃったの。頭にきて」
「嘘なんすか?」
「うん……」
「じゃあ、でもそれで追っ払えたんじゃないんすか?」
「うん……」
「元気、ないすね」
「今の彼ともね、うまくいってなかったの。思い切って別れたところだったの。そしたら運悪く」
「呈児が?」
「そうじゃなくて、あの、」
あたしは少しためらったが、言った。
「生理がなくて」
「それ、今の彼の。その、別れようとした彼が相手で、ですよね」
「もちろん。だけどね」
そのとたん、あたしの頭の中にいっせいに灯《あか》りがついた。
「わかった! 今やっとわかったわ!」
「どうしたんすか」
「あっちはあっちで、呈児の子どもかもしれないって思ってるんだわ!」
「え! そうなんすか?」
「そうだったのよ。ありがとう、松田くんと話してたおかげでわかったよ。あー、そうだったのか!」
だから困るのは俺だの、こんな時にだのってセリフになってたんだ。わけのわからなかった清市のセリフのすべてが、ジグソーのピースみたいにパキパキと所定の場所にはまっていった。そうか、そういうわけだったのか……。待てよ。それも、あたしが結婚を希望しているという前提だよな、ありゃ。ひゃー。誰もそんなこと言ってやしないのに。そういうものだと思い込んでいる。
「ねえ、じゃあちょっと教えて? 男の人って恋人が妊娠したらもれなく結婚するものなの?」
「うーん。ふつうはするんじゃないでしょうかねえ、困りながらでも……」
「困る。そうよ、それよ。困るんだよね。それと、結婚させられるんだったら確実に自分の子だってことじゃないともっと困るよね?」
「ああ、まあ、ふつうはそうでしょうねえ」
「わかった! もうこれですっきりよ。よかったー!」
「お役に立てましたか」
「とっても! 自分がこれで結婚迫ろうって気がなかったもんだから、向こうが困るだの、昔の男とどうこうしてるこんな時に、だの言うのがもう、ぜんぜん謎《なぞ》だったのよー」
「あーそりゃあ、呈児のこと疑ってんですね。じゃあ八寿美さん、あいつのことその彼にも話してたんですね」
「うん」
「八寿美さんらしいなあ……ふつう、黙ってますからねえ」
「あーそれ、女ともだちにも言われたわ。バカなんだねあたし」
「いや自分は、八寿美さんのそういうとこ良《い》いなって思いますけど」
「ありがとう。あたしも自分のそういうとこ、これでまた好きになれると思うよ。良かった、松田くんに電話して。聞いてくれてありがとね」
「いやあ、またいつでも言ってくださいよ」
それからあたしはどうしたかって? まず思いきり電話のコードを抜いたわ。そして貯金通帳を引っぱり出し、堅実だった自分自身に感謝した。
数日後、あたしは妊娠判定薬が陽性を告げるのを見た。ちょっとだけどきどきしたが、すぐにおだやかな気持ちになってきた。これも運命の一部なんだな、としみじみした。
また数日が経ち、あたしはやっと壱子にこう言うことができた。
「壱子、あたし産婦人科に行かなきゃなんないや」
彼女はあたしの顔をじっと見つめた。
「困ってるのか、喜んでるのかだけ先に教えてくんない?」
「うーん……」
あたしは少し考えてから聞き返した。
「なんで?」
「だって、どっちなのかわかんない顔してるんだもん」
「そうかも。自分でもどっちだかわかんないのよ」
「判定薬とか使ったの?」
「使った。できてるみたい」
「清市さんには話したの?」
「遅れてるってのは言った」
「それだけ?」
「それから口きいてないの。別れたし」
「別れたの!?」
「うん」
「いいの?」
「うん」
「じゃあ……堕《お》ろすの?」
「かもしれない……けど、産婦人科行ってから決めようかな、と」
「…………」
「しっかりできてたらさ、お医者がとにかく、おめでたですとかなんとか言ってくれるわけでしょ。そのとき自分がどう感じるかで考えようかなって」
「そうか……。じゃあ報告待ってる」
しかし仕事が忙しく、なかなか時間が取れない。
「どう? 八寿美」
「まだ行けないでいるんだ」
とトイレで壱子と言葉を交わした直後、あたしは出血を見た。まさか? あわてて出るあたし。
「どうかしたの?」
「出血してた」
「どんな?」
「なんか、黒っぽかった」
「きれいな血だと危ないって言うけど……」
「少し前から、なんかお腹が張ってるんだ」
「それ、急いで行ったほうがいいよ」
「そうなんだけど……こういう時に仕事に差し障ると、余計にあせるような気がして」
「なんかあったらどうするのよ。仕事よりからだが大事だよ」
そうなんだけど、どっちにしろ妊娠してることは間違いないんだし。もしかしたら中絶するかもしれないし。
迷っているうちに、お腹の張りがだんだん強くなってきた。便秘してるわけじゃないのに、ひどい便秘のような、ガスのたまったような張り。出血も、少しだけど続いている。
「八寿美。あなた、真っ青よ」
「ファンデーション白過ぎたかしら……」
「そういう感じじゃないよ……鏡、見てごらん」
「うーん……」
ほんというと、少し前からお腹の張りがほとんど痛みと言ってもいい状態になっていたのだ。からだをねじったり、腰を揉《も》んだりして耐えていたのだが、まずいかも知れない、と思ってはいた。
「じゃあ、ちょっとトイレ……」
立ち上がったとたん、目の前が暗くなった。
「八寿美! 八寿美」
壱子の声がフェイドアウトしていく。
きびきびした男の声。
壱子の声もする。
からだが揺れる。
この音は。
なんの音だったんだっけ。子どもの頃からよく知ってるのに思い出せない。
薄目をあけると白い天井があった。窓のない白い……車?
救急車じゃん!
あれまー……
病院についたら、なんと、すぐ手術だって! 血圧が下がってて危ないそうだ……なんで? ぼんやりしてよく考えられない。
夢も見ずに眠った。
からだが動かせない。
下腹が痛くて、目が覚めた。
痛い、痛いよ、すんごく痛い。
助けてー。
運良く看護婦さんが!
「あの……」
「あ。目、覚めました? 痛いですか?」
「とても」
ほへも、と発音しちゃったかも。
「筋肉注射打ちましょうね」
肩の少し下をぎゅー、とつねるようにされ、そこへ注射針が入った。痛い。
「いたた……」
ひはは、と発音しちゃった。
「痛いんですよねこれ。でも楽になりますからね」
ほんとだ。
また眠れた。
次に目が覚めたら、もう朝だった。
きゅっきゅっというナースシューズの音と、布の擦《こす》れ合う音が聞こえる。
下腹はまだ痛い。
あ、点滴入ってる? あれ? こんなとこにも管? 下半身にも管が見える。そんなに何本も点滴入れてるんだろうか?
「どうですかー?」
顔を出す看護婦。
「あ、ずいぶん顔色よくなりましたねー」
「あ、そうですか」
あたしは自分の頬《ほお》を両手で押さえてみた。
「今カテーテル入れておしっこ取ってます。ここに」
看護婦はベッドの横を指差した。よくは見えなかったが、そこには少しふくらんだビニールの袋が取り付けてあった。
「おしっこ?」
あたしは意味が飲み込めないでいた。しばらくしてやっと、ビニールの袋から出ている管が、自分の下半身につながっているのがわかって、顔が赤くなった。あたし、こんなもの入れられてる! あのビニール袋に入っているのはあたしのおしっこ!? なんて恥ずかしい状態なの!
「こんな……あの……」
「まだ動いちゃだめですよ。歩けるようになったらこれは抜きますから」
「この、管って……どうやっておしっこ取ってるんですか」
「奥のほうに入れてますからね。奥まで入れると、自然に出てくるんです。吸い出したりしなくても」
「はあ……」
「輸血もしましたしね、無理はいけません。ゆっくり休んで下さいね」
輸血。
血が足りなかった。どうしてそんなことに? 妊娠じゃなかったんだろうか?
あたしは子宮外妊娠を起こしていたらしい。妊娠はしていたが、受精卵が卵管の中につまって、そこで破裂してしまった。その出血で腸が押されて、お腹が張っていたのだ。知らない間にお腹の中に血がたまり、ついに貧血で倒れてしまった。運びこまれてすぐ手術になったのも、急いでお腹を開けて卵管の出血を止めないと命が危なかったからなのだ。
「死ぬかもしれなかったのよ」
壱子が涙声で言った。
「死ぬかもしれなかったのか……」
あたしはぼんやり繰り返した。病室の窓ガラスに鳩の影が映ってる。個室じゃないけど、窓際で良かった。
「妊娠中って、お腹の中の血、出だすと止まんないんだって」
「ああ……それで……」
「ずいぶん出血してたらしいよ」
「輸血したしな……卵管も、破裂したとこ縫い合わせようとしたけどだめで……一本なくなっちゃった」
「八寿美……」
「ん?」
「あたしが救急車呼んだのとかね、もともと親しかったからって、連絡とか全部、会社から任されてんだけど」
「ああ……」
「妊娠してたことだしね、まだご両親には……それと清市さんにも、つまりまだ、誰にも知らせてないのよ、あたしからは。八寿美に聞いてからと思ってさ」
「ありがと」
「でもこういう話題だとね、親ごさんはともかく清市さんには言っちゃうやつ、出てくると思うよ。どうする? 噂《うわさ》で伝わるよか、あたしがちゃんと知らせようか」
「うーん……」
「あれから電話とか?」
「してない」
「自分でしたい?」
「どっしようかな……清市ね、あたしのこと疑ってるのね」
「は?」
「呈児の子かもしんないって思ってるみたいよ」
「うそ」
「あたしも最初なに言ってんだかわかんなかったんだけど……こないだ、遅れてることだけ言ったときさ」
「うん」
「なんでこんな時にとか、だから気をつけろっていつも言ってたのにとか言うんだわ」
「はあ」
「わかんないことばっか言うから頭に来てさ。困ってるのはあたしなのよ、って言ったら『困ってんのは俺だ』……」
「何で困ってんの?」
「だからね、自分の子じゃないかも知れないのに結婚させられようとしてるって」
「結婚したいって言ったの?」
「言ってないからわかんなかったのよ。もう話すれ違いまくり。あたしは、堕《お》ろすか、一人で産むかって考えてたのね」
「それもまた乱暴な……」
「結婚、したくないのよ、清市と……」
「それほど?」
「うーん、正直言うとどこかでは、昔みたいに理解ある人に戻ってくれないかな、そしたら、って思ってるけど、でも」
「殴られてたもんねえ」
「弱ってるのにね。あれで、見損なったって思ったよ。あたしのからだより、自分のプライドなのよ。その後も反省の色は見られなかったな。なんか妙に、前よりやりたがるようになったけど」
「嫉妬《しつと》かしら」
「ああ、かもね。ふん……うっとうしい男」
「そこまで言う」
「言わせてもらうよ。生理遅れてるって話のときもホテルで部屋とっちゃってさ。やられそうになった。あんときやってたら、あたし死んでたかもしんないぞ。いっきに出血して」
「…………」
「どっしようかなあ……」
「あたしは……連絡したほうがいいと思うけど」
「見舞いに来るかな?」
「来てもらいなよ。こんどこそ、ちゃんと話ができるかもしんないじゃん」
「そうかなあ」
「普通は病人相手にあつくなったりは……しないんじゃないかな」
そんなもんだろうか。普通はそうかもしれないけど、清市とはもうずいぶん永いこと、まともに会話出来てないような気もする。あんな人にあたしはどうしてあこがれていたんだろう。
「とにかく、清市さんの子どもだったのは間違いないんでしょ」
「うん」
「だったら報告は、やっぱししたほうが……いいのでは」
「そうかも」
「どうする? あたし、しようか?」
「壱子がしたほうが清市は喜ぶだろうね。やっぱし俺のこと、いろいろ相談しているのだな、とかって」
「ああ……。ちゃんと自分の子だったってのも、わかってくれるかもよ」
「そうだね。あたしがするよ、電話」
「あれ?」
「もうね、そんなことでこれ以上あの男をつけあがらせたくないの。周りの目とか男のプライドとか……そんなものがそんなに大事なら、別の女とつきあって欲しいのよ」
「そりゃまた……ずいぶん愛想《あいそ》が尽きたもんだね」
「それだけ努力もしましたからね」
そう言うと自然に視線が下がった。ああ、あたしは悲しんでいる。そして弱っている。こんなに弱っているときに清市に会っても大丈夫なんだろうか。
壱子が帰ったあと少し迷ったけど、やはり電話することにした。清市のケイタイが一回鳴り、二回鳴り、留守電であって欲しいような、出て欲しいような、三回、でも留守電だったらなんて言おう。
「もしもし」
出た!
清市の声。
「あのー……」
「ああ。どうだった」
「えーと……」
「してたの? できてたの?」
「……うん」
「そうか……あれから俺も、考えたんだけど」
「はあ」
なんかまた、前の話は無いことになってるっぽいな……。
「もし俺《おれ》の子じゃないんだったら、堕ろして欲しいんだけど」
「…………」
やっぱりまだそういう所にいるんだな、とあたしはため息をついた。このまま切ろうかどうしようか、迷って黙ってしまった。
「もしもし、聞いてる? だからね、確実に俺の子だって……」
「だめだったの」
「え? なんて言った?」
「子宮外妊娠起こしてて」
「え?」
「子宮外妊娠」
「子宮外妊娠? ってどうなるの? 子宮の外で育ってるの?」
ばか。
「育たないの」
「じゃあどうなるの? 手術とかしてないんでしょ?」
どうして、「してないんでしょ」なんだろう。
「手術したの」
「したの?」
「貧血で倒れたから。お腹切って……卵管一本、だめにしちゃった」
「じゃあもう子どもできないの?」
「…………」
「ねえ、どうなの?」
あたしは死にかけたのに、この人はやっぱりこんな言い方しかできないのか。やっぱりもうだめなんだろうな。
「あのね……ここ、病院なの。わたしね、まだ入院してるんですよ。わかってもらえます?」
やっと清市は黙ってくれた。
「あなたの好奇心を満足させるために話をするには、元気がなさすぎるの。そういう話しかできないのなら、これで電話を切ります。もともともう別れてるんだし、これで終わりということで」
「ちょっと待ってよ。勝手に切らないでよ」
「もうこれ以上傷つきたくないんです」
「見舞いくらい……行ってもいいんだろ?」
「…………」
少し嬉《うれ》しい。でも。
会っても、大丈夫なんだろうか。あたしはまたいやな思いをするんじゃないだろうか。
「ねえ、いいんでしょ。教えてよ、病院」
「少し……考えさせて」
「どうして」
「今、あたしに、じゃあもう子どもできないの? って言ったよね」
「…………」
「言ったでしょ?」
「……それは……じゃあ、ほんとはどうなの」
「あたしが何もかも説明してからでないと、あなたはいたわりの言葉ひとつ言ってはくれないでしょ」
「でもね、説明してもらわないとわからない。俺は頭悪いから」
「ふてくされないで。こういうのがいやなのよ、もう。切るからね」
「待ってよ。悪かったよ。心配なんだよ。見舞いに行かせてよ」
あたしはため息をついた。
どうしよう?
「やっぱし、一回切る」
「八寿美」
「しばらく考えさせて」
何か言いかけた清市の声が少し残った。
「清市さんから連絡あったのよ」
次に壱子が来たとき、そう言われて驚いた。
「病院教えてくれって言われたんだけど」
「そうか……」
「八寿美が教えてないってことは何かあったんだろうと思って、聞いてからにしようと」
「ありがとう、助かった」
「またすれ違っちゃった?」
「うんまあ……」
と目を上げたらそこに清市がいた。
そのまま止まったあたしの視線に気づいて壱子も振り返った。
「清市さん……誰かにお聞きになったんですか?」
「いや……あと、つけてきちゃった」
「はあー……」
「これ。何にしようかと思ったんだけど」
清市はあたしに果物の包みを差し出した。
「彼女のあとをつけてきたのに、よくまあそんな余裕が」
「昼休みに買っといたの。手ぶらで来るわけにもいかないでしょ」
「この包みを抱えたまま探偵ごっこを」
「あ、あたしむいて来てあげようか」
壱子が出した手に包みを渡しかけたが、
「やっぱりちょっとここにいて。この方、人がいなくなると言うこと変わりがちなんだよね、わりと」
清市はだまっていた。壱子は困っていた。だけどあたしは続けた。
「人のあとつけて病院確かめるだけの労力つかうんだったら、ほかにもっと考えることがあるんじゃないの」
「心配で来たのに」
清市はしおらしい声で言った。
「ボキャブラリー少ないね。心配してる、心配なんだ、いつも心配心配言ってる。でもそれはね、自分の知らないところで何か起こってるのを見そびれる心配とか、あたしが勝手なことしてやしないか、って心配なのよ。あたしのことを思いやってるわけじゃないの。もういやというほどわかったわ、あたし」
「八寿美……」
壱子がせっかく来てくれたのに、とかほかの患者さんに聞こえるわよ、とかいう意味をこめてあたしの名を呼んだ。
「いいのよ。もうこんな子どもっぽいことはいや。あとをつけるとか、テレビドラマじゃあるまいし。今さらそんなことするくらいならほんとに今までもっとしてほしいことはいくらでもあったのよ」
「……どんな? 俺は何をすればよかったの?」
「全部言っていいの?」
「言ってみてよ」
少し考えて、やめた。
もういいから別れて、と言いかけてまたやめた。
人前で恥をかかせるとあとが面倒《めんどう》なのはもう知ってるし、別れてとか帰ってとかって話になると、この果物の包みを返したい。でもそれがまたややこしいことになりそうな気がする。病室の床に叩《たた》き付けられたりしたらすごくやだ。やりかねない。もしそうなったら見舞いに来てもらってる分、こっちが責められる。
今はやり過ごしたほうがいい。そういう結論に達した。
「八寿美、ね。これ、洗ってくるよ、あたし。ね、そうしよ」
沈黙に耐えられず、壱子が包みをひったくって行ってしまった。
二人きりにされた。これでまた話は振り出しに戻るのだ。何度でも何度でも戻るのだ。戻りたいという清市の望みがある限り、あたしの気持ちや話したことは根気よく無視され、なかったことにされ……たぶんあたしがすっかりあきらめて、自分で物事を考えるのをやめてしまうまで続くのだろう。
「ぐあい……どうなの?」
「どこの?」
「どこのって……」
「このベッドじゃやれないわよ、あなたの大好きなことは」
皮肉のつもりだった。
「そうかな……俺はかまわないよ」
効かなかった。
「八寿美が入院してそれを見舞うなんて。そんな日が来るとは思わなかった」
「そう?」
「うん」
「どんな気分?」
「新鮮だ。そうやってベッドにちょこんとすわってる八寿美は可愛《かわい》い」
「…………」
この人にとっては、あたしに振りかかったことはすべて香辛料でしかないんだろうな。こんなにも自分のことだけが好きな人だったのだ。あたしは今弱っていて治療のためにここにいるのだが、この人には患者と見舞い客というコスチュームプレイでしかない。だから、だれも病院の場所を教えないのに壱子のあとをつけてやってくるなんてことができるのだ。ここが個室だったらもうやられているところだろう。個室でなくてほんとによかった。
「ただ今」
果物を持った壱子が帰ってきた。
「ありがと。いただきます」
あたしが果物に手を出したので、彼女はほっとしているようだった。清市の持ってきた果物はおいしかったけど、食べながらあたしは、退院したらどうやってこの男を完全に追っ払おうかと考えていた。
退院したら留守電に松田くんからのメッセージが録音されていた。
「松田です。こないだ呈児と話す機会がありました。八寿美さんと結婚するかもしれないと言ってました。また電話します」
「うわー」
とあたしは声に出した。
もうひとつは清市からだった。
「もう退院したんだね。今日病院に行ったらいないので驚いてしまった。また電話します」
なんで二度も来るんだろ。よくわからない。きっとまた新鮮な気分に浸りたかったんだろう。もしかしたら今日こそ病院でやる気だったのかもしれない。
とりあえず松田くんに電話。
「入院! してたんですか?」
「子宮外妊娠だったの。手術しちゃって」
「えっ、じゃあこないだ遅れてるって言ってたのが……」
「そう、できてたんだけどね、卵管で詰まっちゃって破裂してたの。その出血が止まらなくて……妊娠中のそういう出血って止まらないんだって。結局貧血で倒れて運ばれてさ、そのままお腹切ったんだよ。びっくりしちゃった」
「そんな大変なことになってたんですか……何も知らずに、すいませんでした」
「いやそんな……」
「その、その後は大丈夫なんですか?」
「卵管一本だめになっちゃったけど。もう一本あるし」
「何か気をつけることとか……」
「うーん。別にないみたい。あ、でも輸血とかしたから、鉄分|摂《と》ったほうがいいのかも」
「輸血? そんな大手術だったんですか」
「手遅れだと死ぬみたいだから……」
「……ご無事で……何よりでした」
「ありがとう」
いい子。
どうしてあたしは松田くんみたいな子とつきあわないんだろう。あたしのつきあう男はバカばっかしだ。
「呈児、あたしと結婚するかもって言ってたの?」
「ええ、そのことなんすけど……大丈夫ですか? なんか、話すと体にさわりそうで……」
「大丈夫だよ。知ってないとまた怖いし」
「そうですか……」
「あたしがOKしたって話になってるのかな?」
「いや、あの……」
「じゃあもしかして、あたしが結婚したがって……とかそこまで?」
「えーと」
「すんごく言いにくそうだね。いいよ、言って?」
「あの……前あったじゃないすか、あいつが玄関で待ち伏せしてて……」
「うん」
「あの話がですね……八寿美さんが誘ったことになって……」
「うそ!」
さすがのあたしもこれには驚かざるをえない。
「自分は部屋行こうって言ってるのに、ここでしてって言ったってことになってるんです」
「部屋行こうって言われたことだけは合ってるけど」
「あいつ飲んでたから、よけい話でかくしてたんだと思うんです。結局その晩は人に見られるのもかまわず玄関でやりたがった、と。で、今散らかってるから、次に部屋に来るときは荷物ごと来て、って言われたって」
「ほほー…‥」
「あたし今稼いでるから、あんた一人くらい遊んでていいよって言われた、と。まあそうなったら籍入れるくらいはしてやると思う、と」
「うわー。すごいね。それ完全な虚言症じゃない。ほかに誰か聞いてた?」
「自分以外は、八寿美さんのこと知らない人間だったです」
「そうか……」
「あいつ最近仕事だめなのが周りにばれてるんで、それをとりつくろうためにそういう話にしちゃってるのかも知れません」
「男って大変なんだねえ。体面を保つためにはそんな嘘《うそ》までつかなきゃいけないんだね」
あたしはしみじみ言った。さっきからキャッチの入る音がしている。清市にちがいない。
「キャッチじゃないんすか?」
「もう一人の、体面を保ちたい男がまた作り話を聞かせようとがんばってかけてきてるんだよ」
「あの、こないだの彼のことですか?」
「うん。やっぱしもうあっちともまともな話できなくなってきてんの。なんかあたしのほうに原因があるのかな。話つくってまでどうにかしたくなるような女なのかな、あたし」
「って言うか……その彼もそうなんでしょうけど、呈児はやっぱり八寿美さんのことが一番好きなんじゃないんでしょうか。別れてから気がつくってことだってあるじゃないですか」
「違うね。呈児が好きなのは自分だけ。あの男はどうしようもなく自分しか愛せない人間なのよ。まずそれが第一。その上で、どの女を相手にすれば一番自分を良く見せられるかを気にしてるだけだよ。良くっていうか、それもあいつの物差しなんだけどさ、稼いで自分を楽させてくれそうだとか、話題性あって楽しそうだとか……。そうやって相手を選ぶために、人の感情を天秤《てんびん》にかけたり、残酷なことして人の傷つくところを観察したり、あたしもさんざんやられた。結局そんなことばっかりしているうちに、誰が好きだったのか、何をしたかったのか、もうすっかりわからなくなってしまってるんだと思うわ、呈児は。……いい気味だよ」
「はあ」
「松田くん以外の人には、また別の女のこと、勝手なふうに言ってるのかもよ」
「うーん……」
「どっちにしても、もう海の向こうからビンに詰めた手紙を流すようなやり方だよね。ビンが流れ着いても、あたしは栓を抜いたりしないよ。こないだ結婚する予定があるって嘘言っといてほんとによかった。もうあたしには直接何も言ってこれないんだよ。松田くんにそういうこと言えば、あたしが怒って反応してくると思ってるんでしょ」
「じゃあ俺《おれ》……あいつから道具みたく思われてるってことなんでしょうか……友だちとかじゃなくて……」
「愛情とか友情とか、そういうものは呈児にはないんだと思ったほうがいいよ。つきあってるときだって、あたしなりに努力したつもりだったもん。でも、だめだった。とことん自分にしか興味ない人だった。男どうしだって同じだと思うよ」
「……もしそうだとしたら……俺、すっかり遣われちゃって……言わなくてもいいことを」
「そんなことないない。あたしはもう大丈夫だから教えてくれたほうがいいの。相手にしないけど、用心するのに助かるから。ほんと、助かってるんだよ、いつも」
「そう言ってもらうと……嬉《うれ》しいっすけど」
「呈児はまたそのうち、自分を楽しく演出するのにいい相手をみつけるよ。放っておけば」
「そういうふうにしか……ほんとに考えてないんでしょうかね」
「あたしにはそういうふうにしか思えないね。もしかしたら、向こうは向こうで、あたしには何やっても大丈夫なんだって思い込んでるとこがあって……そう思わせる何かがあたしにはあるのかもしんない。でもこっちはとっくにつきあってらんない、ってとこへ行っちゃってるから、やっぱ向こうの勘違いなんだよね。勘違いで強姦《ごうかん》までされて、そのうえで結婚したがってるってことにされたんじゃたまんないもん。次来たらまじで警察|沙汰《ざた》にするつもりだよ」
「警察……警察はかんべんしてやってくれないでしょうか。何かのときは自分が駆けつけますから」
「気持ちはわかるけど、でもそんなのだめだよ。松田くんはもう結婚して、一番に守らなきゃいけない人がいるでしょ。そういう相手をむやみに増やすのはよくないと思うよ」
「…………」
「それに、それにね、今回の子宮外妊娠なんだけどね。直接の原因がクラミジアなんだって」
「クラミジア……って」
「性病で……トラホームかなんかと同じ菌で、知らないでかかってる人、多いらしいんだけど……トラホームの人が使ったタオルにさわったあと、トイレ行ったりしてもそうなっちゃうってこともあるって。でもね、証拠はないけど、あの呈児にむりやりやられた時があたしの場合、いちばん可能性が高いのね」
「じゃあ、あれが原因で」
「殺されかけた、かもしんないの。そこまで言わなくても、もし自分が性病って知ってんのにだまってセックスしたら傷害罪とかね、あるって聞いたよ。むりやりだったらなおさらでしょう。知らなかったのかもしんないけどさ」
「知らなかったって言っても……やられるほうはたまんないすよね」
「たまんないよね。それが、こっちが誘った話になってるわけだしね。訴えたりするような方法はあたしは選ばなかったけど、だからと言って許してるわけじゃないんだよ。このまま一生会わずにすめばそれでいいんだけど、でも今度なんかあったらすぐ警察。迷わずそうする」
「それは……そういうことだったら、しかたないすね」
「うん。だから呈児に関してはもうそれでいいの。今度はもう一人のほうを追っ払わなくちゃ」
「そっちの人も、もうだめなんですか」
「そっちの人も、あたしが強姦されたっていうのに『なんでやらせたんだ』って怒るような人でねえ」
「やらせた……」
「でもそういう男って多いみたいね。強姦とか性病とか、あと子どもが出来ないとか、昔は全部女が悪いことになってたんだから。女が誘ったとか、女が病気うつしてるとか言ってさ」
人に話しながら気づくことってある。
結局清市も呈児も、都合のいいとこだけ古風な男だったってわけ? じゃああたしは? あたしはいつも何に足を引っぱられているんだろう? 何のせいでこうしていつも同じところをぐるぐる回っているんだろう?
呈児みたいな調子の良《い》い、子どもっぽい男にこりごりして、地味だけど仕事の上で尊敬できる清市にひかれた、つもりだった。嘘つき男と誠実だけどしつこい男を交互にかまっているつもりだった。でもなんだかそうじゃない気がしてきた。真面目《まじめ》な男だったはずの清市が、今ではあんなめちゃくちゃなことを言うようになってる。でも自分ではわかってないみたい。自分の嘘にまず自分がだまされてる、そこも呈児と同じだ。自分の中ではまるきり事実になっているのだ。あたし以外誰も嘘を見抜けないから、あたしさえ調子を合わせればそこには彼等のおとぎの国ができ上がるのだ。でも、あたしはそこに組み込まれると自動人形になってしまう。彼等が仕組んだとおりの反応しかしてはいけないことになる。あたしはそんな役はいやだ。自分の考えたとおりにしゃべり、動きたい。でも彼等はそれではいやなのだ。
どうしてそんな男ばっかりなんだろう? それともあたしに見る目がないだけで、世の中にはそうじゃない男もいっぱいいるのだろうか。でも、どの男も最初はそういうふうに見えたのだ、あたしには。あたしの仕事や、考え方、服装などをありのままにほめてくれていた。だからつきあった。なのに、いつのまにかあたしの収入をあてにしたり、生意気だと言い出したり、またそんな服、そんな格好だからやられるんだ、って……。結婚してほしいと言った覚えもないのに、すっかりその気でいるのもなぜなんだろう。つきあいが永くなったからって、結婚するとは限らないのに。いつのまにかすべてのセックスは「あたしから誘った」ことになってるし。そんなのどっちから誘ったのだっていいけど、なんであたしが誘ったことに、そんなにもしておきたいんだろうか? 誘ったほうが何か、責任でも取らなきゃいけない決まりでもあるのか? 金払うとか? 知らないぞ、そんなの。
とにかく清市とちゃんと別れて、体を大事にして、また仕事がんばろう。
電話。
清市なんだろうな。
少し迷って、出た。
「いたの?」
やっぱり、清市。
「さっきから、何度もならしたんだけど」
「そうですか」
もう、ごめんなさいとかすいません、とか絶対言わない。つけこまれるだけだから。
「何十回もならしたよ」
このおれ様が、と続きそうなくらい、不平がましい。あたしはむかむかしたが、ただだまっていた。
「もしもし?」
聞いてるのか、の代わりのもしもし。
「聞こえてます」
「聞こえてるの」
「もう今日は、休みたいので」
「お見舞いに来たんだけど」
「それは留守電で聞きました」
「あれは病院でしょ」
「! ……え?」
「だから今、下にいるんだけど」
「下? って?」
「ここの玄関だよ。開けてちょうだいよ」
「えー! なんでー!」
「なんでって、だからお見舞いに来たって言ってるじゃない」
「いいよ、来なくて」
「なんでそんなこと言うの」
「もう休みたいんです。迷惑です」
「だから、なんでそんなこと言うのよ」
「会いたくないからですよ」
「どうしてよ」
「だから別れたんですよ」
「別れたの?」
「同じこと何度も言わせないで下さいよ」
「こないだ病院にお見舞いに行ったじゃないの」
「あなたが勝手に来たんでしょ。あたしのともだちのあとまでつけて」
「……迷惑だったの?」
「喜んでると思ってたんですね」
「俺が、そこまでしたのに」
「感謝しなきゃいけなかったんですね」
「どうしてそんな言い方するんだ」
「疲れてるんです。もう寝ます」
「ちょっとだけ顔見せてくれたっていいじゃないか」
「……やりたいんでしょ」
「そんな……」
「病気で弱ってるのが新鮮なんでしょ」
「いやなら、しないから」
何がいやならだ! あたしのこめかみがぽっと音をたてて点火した。やっぱしやる気なんじゃないか!
「お見舞いってのは、病人をいたわるためにするんじゃないんですか? あんたは、病人をおもちゃにしようとしてるだけでしょ。帰ってよ。断りもなく来ないで。約束なんかしてない。帰らないと管理人さんや交番に連絡するからね」
あたしはそれだけ言うと一方的に電話を切った。それから留守電、それももちろん男の声の出るやつにして、モニター音量をゼロにしてやった。ほんとはコードを引き抜きたかったが、それをやると壱子からかかってきた時に困る。
さあ、どうしよう。横にはなったが、むかむかして寝るどころじゃない。
あの男、もし上がり込むことに成功したら、なんだかんだ言って一発決めたあと、
「俺《おれ》は病人相手にそんな気なかったんだけど八寿美が誘うから」
とかなんとか言うつもりだったんだろうな。それも避妊もせずにね。なんかしんないけどあいつ、あたしのことをすっかりいつでも使用できる穴だと思い込んでいやがる。こっちは病気でそうしてるだけなのに、あたしが病院や家にいて外に出かけられないのをなんだか喜んでる。まるであたしを囲ってて、自分ひとりを待たせてるみたいなつもりでいる。そのあげく弱ってるあたしのからだを楽しもうと。
ふざけやがって。あんなやつと、死んでも二度と寝るもんか。
電話がかかってきてる。
壱子か? モニターの音量を上げてみる。
「……だけでも渡したいから、ちょっと鍵《かぎ》を」
清市の声だったのでまたすぐ下げた。なんか買ってきてんだから、部屋に上げろと言ってるらしい。バカか。手を白くしたオオカミより頭悪い。誰がそんな話でドアをあけるもんか。
しかしまだこの辺うろうろしてるんだな。やな感じ。
壱子、今日はどうしてるのかなあ。また残業か。それとももう家に帰ったかしら。いつから会社行こうかなあ。
ピンポーン・ピンポーン。
ついに清市が下から鳴らし始めた。うるさい。無視しよう。
ピンポーン・ピンポーン。
しつこい。
ドンドン。
え?
「開けてよ、八寿美」
清市の声がする? なんで?
あたしは飛び起きた。
確かにドアを叩《たた》いてる。あの男、誰か住人が鍵を開けたのにまぎれて入って来たんだ。なんてずうずうしい。誰が開けるもんか。
ドンドン。
「八寿美」
ああうるさい。
「ねえってば」
大の男が開けてもらえない女の家のドアを叩いている図。なんてみっともないの。恥ずかしくないのか。
ドアのノブをがちゃがちゃいわせてる。どういうつもりなんだ。
管理人さん、まだいるだろうか。
あたしはインターフォンの受話器を取って『管理呼』のボタンを押した。
誰も出ない。もう帰ってしまったみたい。
まだ清市はドアを叩いてる。
「八寿美。いいかげんに開けてよ」
いいかげんに?
そのひとことであたしは決断した。
110。
「どうなさいました?」
乾いた声が尋ねた。あたしはどきどきした。
「あの、わたし、マンションで一人暮らしなんですけど」
なるべく落ち着いた声を出すように気をつけた。
「呼んでもいない人がですね、あの、男なんですけど、勝手に玄関から入ってきて、さっきからずっとドアを叩いているんです。ドアノブをがちゃがちゃしたりして。わたし玄関開けてないんですけど、誰かが帰ってきたとき、住んでる振りして入って来たんだと思うんです」
「ご住所と電話番号をおっしゃって下さい」
両方を言うと、一度電話を切るように言われた。しばらくして、電話がかかってきた。
「交番からですけど、まだ続いていますか?」
「今ちょうど静かですけど、ついさっきもドア叩いてました」
「これから向かいます」
ついに警官が来るのだ。警官が来て清市を追い払ってくれるのだ。
ドンドン。
「八寿美」
まだいる。
警官が来るまでいるだろうか。もし清市が今帰ってしまったら、あたしは警官に嘘つきだと思われてしまう。
ピンポーン。
やった! 下の玄関だ!
「もしもし」
「交番から来ました」
「今開けます。まだドア叩いてます」
鍵を開けるボタンを押すと、あたしはドアの前に飛んで行った。
「開けてくれないの? いつまで待たせるの」
待たせる。まるであたしが呼んだみたいな言い草。
これから起こることを覗《のぞ》いていたい気持ちになったが、それじゃあたしが呈児みたいだ、と思ってやめた。
「もしもし。こちらの部屋にご用ですか」
警官の声。
「え、どういうことですか」
うわずった清市の声。こりゃ覗かなくても充分だ。
「ここは友人の部屋で、私は見舞いに来たんです。そんな、あやしい者では」
「こちらの方から、呼んでもいない人が入ってきてずっとドアを叩いているという通報があったんです」
「え。ちょっと、八寿美!」
またドアを叩く清市。
「ちょっとご質問に答えていただけますか。ここまで、どうやって入って来られました」
「それは……」
二人の声が遠ざかっていく。
あたしは肩で大きく息をしている。ゲームの最終ステージを何度もコンティニューしてやっとボス敵をやっつけた気分だ。
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V
数年後のあたしを待っていたもの。社内表彰に続いての管理職の座。社内結婚と出産は、思っていたほどそれらのさまたげにはならなかった。まだ小さい息子を、夫と交代で保育園に送り迎えしながらの生活はあわただしいが、楽しい。
「こんなに何もかも手に入っていいのかってときどき思うよ。少し前まで、仕事と結婚くらいしか頭の中に入ってなかった。子どもまで産むなんて思わなかった。あの子宮外妊娠のときもうあきらめちゃってたんだね」
「そんなこと言ったら、あたしもよ」
壱子もあたしの出産の少しあとに女の子を産んだ。
「一時は離婚しようかと思ってたけど、まあしなくてよかったかも」
「しなくてよかったね、壱子んとこ、もう永いもんね」
「まだちょっと大変だけどね。あたし一人でやってること多いから、このまま子どもが大きくなったら、連れて出ちゃう可能性もあるな」
「でも少しずつ手伝ってくれるようになってるんでしょ」
「まあね。少しずつね」
あいかわらずあたしと考え方が違う壱子。あたしは手持ち札をすぐ全とっかえしちゃうけど、壱子は一枚ずつ根気よく取り替えてペアを集めていく。結婚にしても、あたしは入籍だけで済ませてしまった。結婚式に使う労力や時間を、仕事に回したかった。今でもあのときウエディングドレス着てはしゃいでたら、今の状況はなかったと思う。着る気なかったけど。あのおびただしい量の白い布には、俺《おれ》の色に染まってくれという男の呪《のろ》いがこもっているそうじゃないか。そんなもん着てだれが嬉《うれ》しい。
壱子はその昔、
「結婚して良かったことって何?」
とあたしが聞いたとき
「結婚したい、と思わなくなったことかな」
と答えていたけど、今のあたしならその答えはこうだ。
「結婚して良かったことだけを考えて、その中で暮らせるようになった」
まるで合わせ鏡のようなその中で、とりあえず夫はほかの男からあたしと息子を守ろうとしてくれている、と思う。結婚指輪は、そんな夫の手伝いをする。こないだも、街で声を掛けてきた男が、
「あ、結婚してるんだ」
と言ってあきらめて去って行った。へー、そういう魔除《まよ》けの効果もあるのか……とあたしは左手をしみじみと見た。呈児を「結婚の予定がある」という嘘《うそ》だけで追い払えたときと似た気分だった。
「こんな輪っかじたい、何してくれるわけでもないのに。結婚してなくたってこんなの、いくらでも嘘ではめていられるのに」
たまに、結婚してると聞くと逆にしつこくしてくる男もいるが、少ない。おかげであたしは結婚してからのほうが仕事に集中できて助かってる。昔を思うと、どうしてあんなに激しい日々だったんだろうと不思議に思う。
どうしてあんなに泣いたり、憎んだり、叫んだり、お酒を飲んで吐いたりしたんだろう。どうしてわけのわかんないことを沢山《たくさん》言われて、悩まなきゃならなかったんだろう。あれは何か、駆け引きのようなものだったのか? だったら目的は何だったのか。そして、その目的を持っていたのは彼等か、それともあたしだったのか。
壱子が目をくりくりさせている。
彼女はあいかわらず表情が豊かだ。
「ねえ八寿美、今度の仕事さ、あちらのメンバー、名前見た?」
そう言って机の上の紙を拾ってひらひらさせた。
「見てない」
「清市さんいるよ」
「うそ」
ほんとだった。それも、けっこうペーペーな扱い。あたしと壱子のほうがリーダー格になってる。
「なにこれ、部下じゃん、今回」
「みたいね」
「なんか失敗したのかな清市。この数年のあいだに」
「じゃなかったら、知らないうちにこっちががんばってて、追い越しちゃったとか」
「ふーん」
なんか、不思議な気持ちだった。ずっとお兄さまで先輩だと思ってた清市を、いつのまにか追い越してた? そんなことってあるんだろうか。それとも、たまたま今回だけなのか。
「どんな顔して来るんだろ、楽しみ」
ところが。
ちゃんとお兄さまの顔でやって来たのだ。ペーペーのくせに。
「ひさしぶりだねー」
何事もなかったように。
あたしは内心むっとしながら、だまってビジネス微笑《ほほえ》みを返した。
それから、個人的なことに触れないように仕事の説明だけをした。なのに、
「どうしてんの? 今。結婚してないの?」
この男、これだから出世が停止したのだ。
あたしは答えず、何度でもわざとらしい微笑みだけで通していたが、ついに、
「今、ご説明中です。個人的なお話はあとに」
と言ってしまった。
すかさず、
「じゃあ終わったら食事でもしようか」
と言われた。
皮肉だったのに、また「誘った」ことにされてしまったみたい。ちっとも変わってなかった。失敗。ほかのスタッフの前でふざけるなとも言えず、だまっていたが、どっちにしろこの仕事が終わったら二度と会うこともあるまい。
その日は、終わったら食事の言葉を無視してさっさと帰った。
次の日、帰ろうとしたら、待ち伏せされていた。
「そういうところ、ぜんぜん変わってないんですね」
「また110番されちゃうのかな」
あたしは鼻で笑って、清市の脇を通り過ぎようとしたら、腕をつかまれた。嫌悪感に思わず顔が歪《ゆが》む。怒鳴りそうになるのをこらえて、
「夫が迎えに来てるんだけど」
と静かに言った。清市の手から力が抜けた瞬間、走って逃げた。
「逃げなくても……」
清市の声が、またあたしの意図と違って聞こえる。夫が来たというのは嘘だけど、清市はあきらかにあたしが夫の目を気にして逃げたと思ってる。
またこんな状態のまま、一緒に仕事しなきゃなんないなんて、気が重い。
翌日、他の若手のスタッフから、
「白河さんと昔つきあってたんですって?」
とあっさり言われてしまった。
あたしはうんざりした。壱子が言うはずない。言ったのは本人以外にありえない。
「八寿美は若い男が好きだからなあ。ほんとは俺なんかじゃなくてもっと若い男とつきあいたいと思ってるんだろう」
はるか昔の清市のせりふが頭をよぎる。若手に昔の話をするのも、「あれは俺の女だったんだから手を出したりするなよ」という意味を込めてのことなのだ。
「誰から聞いたのかなー?」
あたしは小さい子に言うように尋ねた。
「やっぱ、ほんとなんですか」
その男の子しか部屋にいないのを確かめてから、あたしはまっすぐ彼に向き直り、じっと目を見てゆっくり近づきながら言った。
「里見くんだっけ。きみ、あたしのそういう部分に興味あんの?」
「え」
「知りたきゃ直接教えたげようか……噂《うわさ》なんかじゃなくて直接。そのほうが面白《おもしろ》いよ? きっと……」
彼はすっかり真顔。清市のしたことはこれで、すっかり逆効果となった。ざまあみろだ。
清市はすでに結婚して子どもも二人いるらしい。郊外に小さな建て売りも買い、支払いが大変のようだ。子どもは男の子と女の子。女の子とはまだ一緒にお風呂に入っている。彼はこれらのことを仕事中聞きもしないのに一人でしゃべりまくり、報告してくださっている。
「お互い子持ちになったんだねえ」
またどういうわけか、話しもしないのにあたしのことを知ってる。
「私ね……」
「男の子なんだって?」
「息子を保育園に預けてて、それを夫と交代で送り迎えしてるんですよ」
「いいご主人じゃないの」
「だから、仕事の時間をむだに過ごしたくないんです」
「ご主人も大変だね」
「白河さん、私が言いたいのは、あなたは私語が多すぎるということです。少し控えて下さい」
「ぼくは……ただ親睦《しんぼく》をはかろうと」
「あなたが話題になさっているのはご自分のことばかりです。親睦のためというより、演説に近いように聞こえますが?」
あたしは下を向いたままそう言ったが、清市が憮然《ぶぜん》とするのが見なくてもわかった。
「なんか、ここの女子社員って優しくないなあ。お茶もいれてくれないしさ」
清市はみんなの同意を求めるように言った。冗談のつもりらしい。
「私、女子社員ですけど、これでも一応管理職です。さらに、今回私が中心で進めるように上から指示されています」
里見くんがあたしをじっと見ている。
「もう一つ、ご存知なかったのならお教えします。お茶とコーヒーのサーバーはこの後ろです。以上です。私は今日はこれで失礼して、息子を迎えに行きます。あとは彼女が」
あたしは壱子を視線で指した。
「壱子さんは娘さんを迎えに行かなくていいの?」
「私は夫の実家が近いので」
「みんな大変だねえ。うちの女房なんて専業主婦だからな。昔は働いてたんだけど」
清市のまわりの若い男の子たちが顔を見合わせた。あれだけ言われたのにぜんぜんこたえてない清市の鈍さに、さすがに気づいたようだ。
「すっかりおじさんになっちゃったってことなんですかね?」
壱子があたしと二人きりのときに言った。
「語り入れまくりだし、人の話聞いてないし……八寿美がいるから安心してやってるのかもしれないけど」
「なのにあたしに突っ込まれて恥かかされて」
「でも、仕事中だからねえ……あたしだって、ちょっと思うもん。なんかこの会議室、飲み屋みたいだなって」
「でも……もともとあんな人だったのかもしれないなあ」
「そう?」
「うーん……。だって、あんな大変な手術したのに子ども出来て良かったね、とかは絶対言わないんだよね、だけどさ……」
「ああ……」
「こないだ待ち伏せしてたとき、『また110番されちゃうのかな』とかは言ってたのよ。恨んでるのよ、あたしのこと」
「恨んでる……のかな?」
「私語多くしてだらだらしてるのも、結局仕事の能率を下げてるわけで……」
「そこまで意識してるかしら」
「今回下っ端だからね、彼。『俺がリーダーだったらもっといい仕事できるのに』って思ってるんじゃないかな」
「あ……そういえば」
「何?」
「清市さんに、八寿美の仕事のこと結構聞かれたよ、根ほり葉ほり。『管理職なんだって? ほんとにだいじょぶなの』とか『変わった会社だよね』とか言ってた、もう最初の頃だけど」
「あいつ……ふざけやがって」
「どうどう。あたし、こりゃ怒るなと思ったから言えなかったんだよ」
「怒るよ……怒るけど、どうしたもんかね。会社では110番するわけにもいかないし」
「そんな」
「だって結局同じ話なんだよ。清市はあたしの気持ちを考えたり、意向に添うつもりはない、それだけなんだもん。白河清市さまを特別扱いしてさしあげて、ご意見を全部聞くという場にならなきゃ、協力する気はないわけよ」
「…………」
「そう思わない? これからもどんどんこじれていくと思うよ。仕事が進むにつれて……ってこれじゃうまく進みようがないけど」
「そういえば、期日は近づいてるのに、清市さんって何かというと『行き詰まったね』ってすぐ言うのよ。口癖なのかな」
「ああ、あたしも聞いたことある。その時は『違いますよ。行き詰まったんじゃなくて白河さんの案が良くなくて通らなかっただけです。お話をすり替えないで下さいね』って言ってやったけど」
「そんなにはっきり」
「でも事実だし」
「うーん……事実であればあるほど、もしかしたら向こうはすねてしまうのかも……」
「そうみたいね。もう公私混同とか、そういうことが当たり前の話になってるおっさん的姿がそこにあるよね。自分の能力のない部分を認めようとしないから、出世が止まったんだね。若い人間や女から死んでも学んでたまるかって態度だもんね。あれじゃ行き詰まるよ、行き詰まってんのは自分の人生なんだよ。常にそういう感じがつきまとうから、つい人にもそう言っちゃうんじゃないの? 別れてほんとによかった。心からそう思うよ」
「八寿美は……あいかわらずきっついね」
「つきあってた相手だからって、みえみえの事実を曲げて考えるなんて気のきいたことができないだけだよ。あたしはもしかしたら、女はみんなふつうに、誰に教わらなくてもしているそんなことがぜんぜんできない、不器用な人間なのかも」
「本気で言ってる?」
「少しはね。ほとんど皮肉だけど」
「それ聞いて安心したよ」
「そう言ってくれるから壱子とは続いてるんだよね。でも清市とはだめだった。彼はあたしを、そういうことができる女だと思いたがってた。っていうか、思いこんでた。だから他の男と話をしただけでも怒った。きっと彼の妻は、あたしとぜんぜん違うタイプなんだと思うよ。だけど、不思議なのは、なんで今でも前と同じように攻撃をしかけてくるのかってこと」
「そりゃ征服できなかった山が、前より高くなって目の前に現れたからじゃないの」
「征服……かあ。男って結局、女にはそれしかないのかしら?」
「パーセンテージは人それぞれなんだろうけど」
「そういう感じには見えなかったんだけどなあ。逆に、あたしのほうがあこがれて近づいて行ったんだもん。彼の知ってる仕事のやり方を、あたしも彼から吸収したかった。その頃のあたしの欲望と言ったら、ほとんど野蛮と言ってもいい激しさだったのに」
「で? 噛《か》み終わって味が無くなったら、ペッ?」
「うわー。言うわね」
「永いこと八寿美さんとおつきあいさせていただいてますからね」
「うーん。噛んだらペッ、か。そうなのかも知れないなあ」
「じゃあ言い過ぎじゃないんじゃん」
「はっきり言ってもうぜんぜん興味ないもんなあ。顔見るのもいや。食事なんて、金もらっても。ほんとにくれたら少し考えるけど」
「でも、ちゃんと話すか、完全にスタッフからはずすか、どっちかしないと仕事にならないのでは」
そうかもしれない。そしてそれはやっぱり、話すほうから始めなきゃいけないのかもしれない。でも、話してもむだかもしれないのだ。自分をいい気分にさせてくれる言葉しか清市の耳が聞く気がないのだとしたら、あたしが話そうとしていることなんて最初っから彼にとってはこの世のお話じゃない。
「もし無駄でも、やっぱり話さなきゃいけないんだよね。だってあたしは管理職なんだもん。管理職ってそういう仕事だと思う。たとえ昔のあこがれの人が老人ボケで部下に成り下がっているのを見るのが辛《つら》くても」
「それ言い過ぎ」
「老人ボケでなくてもさ、なんか、おとぎ話の中に逃げて行っちゃった人の手を引っ張って、現実に戻そうとしているような気分よ」
「片方の手は、彼の奥さんが握っているのね」
「いやならいつでも放すよ。あたしだって反対の手には夫や息子や壱子、それにあたしを管理職までにしてくれた会社がつながってるんだもん」
「二人で話すの?」
「どうしよう。そのほうがいいのかな」
「呼び出したらすんごい、期待するだろうね」
「ああ……」
あたしは頭を抱えた。清市はまだ、あたしとやりたいと思っているんだろうか?
「もうあたしなんて若くないから、大丈夫だと思うんだけど」
「そんなに若い子好きなの?」
「もう好き好き、大好きよ。昔、誰か知り合いの女の子の話しててさ、『ああ、あの人あたしと歳同じですよね』って言ったら『いや、あっちゃんはまだ何歳!』とか言い切られたんだけどさ、いくつか忘れたけどたかが一つ年下なだけだったのよ。一つでも若いほうがいいのかって。あと、『八寿美ももう歳だからなあ』ってのもしょっちゅう言われてたなあ。関係ないけど『八寿美は太ってる』ってのも」
「油断しまくりだったんだねえ」
「あたしは本気にして、あわてて仕事がんばったよ。それ以外あたしには価値ないって感じるような言い方だったからね。清市に仕事ほめられるのが一番|嬉《うれ》しかったな。それが今じゃ『管理職なんだって? 変わった会社だね』」
最後の言葉が詰まった。
「泣いてるの、八寿美」
「少しね。やっぱしその辺が来るんだろうな。ちょっと飲み過ぎたか」
「八寿美ってほんとに仕事好きなんだね」
「そうなのかなあ。あたしね、たぶん男引っかけるのうまいのね。大人になりかけの頃は、それが一番|面白《おもしろ》かったんだと思うのよ。でも、男って最後はみんな同じこと言い出すの。程度の違いはあるけど結局清市みたいになっちゃって」
「征服欲とか……? みたいになっちゃうわけ?」
「そうだね、なんか『俺の言うことを聞け』ってなるね。社会より国より神さまより自分より俺だよ、って。そいでね、自分以外の男がもっといやな敵なのね。あたしにふれさせたり、話しさせたりしたくない敵。職場なんか他《ほか》の男だらけだからさ。しだいに俺《おれ》さまの都合で早退欠席はあたりまえだろって感じになる。わざとはっきり言わないで、いろんな手を使って、そう仕向けられるんだよね」
「たとえば?」
「約束の時間が近づいてくると押し倒されたり、大事な話始めたり。逆に約束もしてないのに突然会いに来たり。それがいちばんいやらしいやり方なんだけど」
「『愛優先だろ』みたいな?」
「そうそう。『この男の俺さまが忙しい中会いにきてやってんのにおまえは追い返すのか』。ただその時間、自分がヒマなだけなの。ほんとにこっちが会いたいときは思いきり寝てたりすんの」
「あるね」
「そんなこんなでね、あまりにも最後はみんな同じになるから、男の子と遊ぶのつまんなくなっちゃった。でも仕事はそんなこと言わないじゃん。やればやっただけ面白くなっていく。『しもべになって言うことを聞け』なんて言って人の足引っ張ったりしないし。逆にさぼってると面白いことから置いてかれるけど」
「面白くないといやなのね」
「そういうことだね」
「女として落ちつくとか、そういうのが嫌い?」
「自分がそうしたくてするのならまだしも、他人から言われる筋合いはないし」
「八寿美が結婚式しなかったわけがなんとなくわかってきた」
「だって今の夫と一生一緒にいるかどうかわかんないじゃん」
「ふつう、わかんなくたってするのよ」
「入籍で充分よ。契約なんだもの。あたしにとっては、式よりも、その後どう暮らすかってのを見せるほうが大事なの。時間はかかるけど」
「でもほんとに相手がみつかって良かったね、そんなあなたに。友人として心からおめでとうを言うよ」
「ありがとう、って今さら何よ。それはともかく、だから、とちゅうから一所懸命、とにかく仕事の邪魔しない男、って物差しで相手を選んできたつもりだったのよね」
「清市さんも」
「そう。なにしろ仕事ではあこがれの人だったし。鴨下さんもそうだったけど、結婚してたからあこがれるだけにしといたし」
「鴨下さんと話してるとき、殴られたんだったよねえ」
「ねえ。信じらんない。もー、思いだし怒り」
「殴るってのは、困るよねえ。話し合いは出来ないって落ちになっちゃうもん」
「殴られないようなシチュエーションで会わないといけないな」
アルコール無しで行きたいとこではあるが、すぐにふてくされるしらふの時とくらべて、ほろ酔いの清市は機嫌が良《い》い。彼の頭の中には本人しか知らない手柄がいっぱいストックしてあって、まずその自慢話から始まり、そのはしばしに口説き文句が混ざってくるあたりまでは、たいへん扱いやすい。だが飲むうちにいつのまにか愚痴になり、特定の人間の悪口になってくると、もういけない。すぐにあたしの素行の悪さに対する批難にすり替わり、昔のことまでぶり返し出すのだ。愚痴になり始めたあたりで、すかさずホテルに部屋をとり、射精させてやらなければならない。精液と一緒に怒りや不満が排出される仕掛けになっているのだ、そこんとこはほんとうにうまく出来た体だと思う。射精さえさせれば大丈夫なのだが、させるための時間があたしの方になかったりするとその夜の気分はもうめちゃくちゃ。次に会うまで恨みの電話が続く。思えばつきあい始めの頃、あたしはまだ暇だったし彼は出張ばかりで時間がなく、すぐセックスしてすぐ別れてたから、あたしたちはうまい具合に仲良くしていられたのだ。しかしもう射精させてやるわけにはいかない。ただそれだけでも大変なのに、向こうがそこまで期待してやってきた場合、やらせてもらえないと気づいたときの荒れようを足したら、考えただけでも気が遠くなるほどだ。
「まず、靴屋さんが寝ているあいだに靴を作ってくれる小人さんを手に入れるしかないかもしれないわね……」
「は?」
壱子のいつもの豊かな表情を横目に、あたしはわざとゆっくりしゃべった。
「その小人さんを、呼び出した清市のズボンのポケットにそーっと入れるの。すると小人さんは小さなハサミでズボンのポケットをちょきちょきちょきって切って、そこから下着の中に忍び込んで、清市を射精させてくれるのよ。すると彼はおとなしくなってあたしの話をお利口に聞いてくれるって寸法よ」
「話を聞く前に、ズボンをはき替えに帰っちゃうと思うけどね」
「いや、トイレのエアタオルで乾かそうとするんじゃない?」
もう二人とも我慢できなかった。テーブルを叩《たた》いたり手を打って笑いながら、親友は言った。
「それだけ言えればきっと平気。絶対この場を乗り切れるよ。頑張って。八寿美なら大丈夫だよ」
あたしの涙腺《るいせん》は笑い過ぎの涙とうれし涙の切り替えに果たして間に合ったのだろうか。
ここで会ったがコンティニュー、ボス敵はさらにグレードアップして現れた。
「八寿美も、そろそろ俺に文句がある頃じゃないかと思ってはいたんだけどね」
さっそく攻撃された。防御かもしれないが。あたしがダメージを受けないようにする方法は一つしかない。相手が使いそうな技をなるべく沢山シミュレーションしておくことだ。彼が力技に出ない限りそれだけでもOKだけど、蹴《け》りやパンチなどの実技は練習してきてないからあとは祈るしかない。
「文句ですか……」
「そうじゃないの? なにかというと俺につっかかってくるじゃないか」
どっちが、という言葉を飲み込んだ。ここでそれを言ってしまったら、それだけ言い続けて今日が終わってしまうだろう。
「うーん……」
あたしは頬杖《ほおづえ》をつき、さっきテーブルにつこうとしたあたしに、清市が、
「ねえねえ。カウンターのほうが良くない?」
と言ったのを思い出していた。
その昔あたしと彼は、カウンターを使うことが多かったのだ。恋人だった彼の手はいつもあたしの脚を撫《な》で回し、ときにはもっといけないこともしていた。
だけどあたしは今夜、わざわざテーブルの大きいこの店を選んだのだ。それはもちろん、その下でも会話を交わしていた彼の手や足が届かないようにだ。そこまで用心する自分のいやらしさに赤面しながら。なのにまさかカウンターに座りたがるとは。もしかしたらこの男にとってあたしは、悠久のときを越えてもすぐやれるはずの女なのかもしれない。
「お顔を見ながらお話したいので……」
とうまくかわしたつもりだったが、文句だのつっかかってくるだのという言葉を使うところを見ると、すでに少しふてくされているらしい。さあ、どうしよう。
「そのカバン……」
「ん?」
「白河精次って」
「ああ、これ」
子どもの名前なのは聞かなくてもわかった。
「子どものだったんだけどね、俺がぶんどったの」
「精次くんっていうんですか」
「俺の清って字にする案もあったんだけどね、俺はほら、あまり精力的でないから、子どもにはも少し精つけてもらおうと思って。でもまあそれに治めるをつけると俺のいちが市って字だけに出来過ぎだから次にした」
何十回と言ったせりふなのだろう。つるつると正しい抑揚でそこまで一気にしゃべり、嬉しそうにカバンの名前を撫でた。このカバンを持ち歩けばそれだけで必ず子どもの話題になるというわけだ。お母さんのへたくそな手編みのセーターをわざといつも着て歩く子どもの逆バージョンって感じだ。まあ機嫌がなおったからいいけど。
「息子さんと仲いいんですね」
「まあね。でも最近生意気。どうも女の子にかまわれるほうらしくて。女房に似て顔がいいからかもしれない」
「奥さま、おきれいなかたなんですね」
「今はもうだめだめ。あんまり外に出ないんだ。服でも買いなさいって金を渡しても、その封筒がずっと本棚に置きっぱなしになってるし。家族の健康にしか興味ないみたい」
八寿美と違って、という言葉がいつ出るかと待っていたが、出なかった。まさかとは思うが、その程度のこと切り札とでも考えているんじゃないだろうな。それともあたしに言って欲しがっているのか。
「家のことばっかしやってるよ。庭にいっぱいなんだかんだ植えててね。料理につかうちょっとしたものはそこから取ってるみたい。買ったほうが早いだろうに、って俺なんか思うんだけどね」
なんと退屈な。いったい誰がこんな話を興味持って聞くと言うんだ。
「なんかちょっとした工夫をいつでも考えてるみたいよ。こんなもんいつ買ったんだっけ、って聞くと『あ、牛乳パックで作ったのよ』なんて言うんだよね」
わかってきた。こんなくそつまらない話題を嬉しそうに続けるわけが。
「家庭的なかたなのね」
「いや、ただそういうのが好きみたいよ。知り合ったときはそんな感じじゃなかったんだけどね」
「お幸せそうで、何よりです」
「何よ、他人行儀な」
他人だってんだよ。
「いえほんとに……」
「八寿美だって、幸せなんでしょ」
「ええ……」
「なに、なんか悩みでもあるの」
ねえよ。
「…………」
「ん? どうしたんだ」
「白河さん」
「なあに」
うわ。気分出してんじゃねえっつの。あー、ほんとにカウンターから逃げられてよかったよかったよかった。
「わたし、やっぱし自分のこと、仕事しかできない女だったなって思うんです」
「そうなの」
「今でももちろんそうなんですけど、昔から、そうだったなと」
「じゃあやっぱし、家のことってご主人が全部やってるわけ?」
やっぱしって何なんだ、ふざけんな。
「ええ……」
「そうだろうと思った」
んなわけあるか。どっちが子ども産んだと思ってんだ。
「わかってらしたんですか」
「まあ普通わかるよね。だってそうでもなきゃ、女が管理職になるまで働けるわけないしね」
こいつ、とことんあたしの能力なめてんな。今回部下のくせに。どうしてくれようか。
「だから……あたし、必死だったんですよ……」
「だから110番したわけ?」
「……一人になりたかった……」
「俺《おれ》をおまわりに連れて行かせてまで?」
「取り込まれそうで、怖かったんです」
「取り込むなんて……俺は心配して行ったのに」
「もうあたしには、恋愛に使うエネルギーなんて、ぜんぜんなかったんです。とにかく一人で眠りたかった」
「寝顔を見てるだけでも良かったのに、俺は」
「そんなことされて、眠れるとでも思ってるの?」
「俺は眠れるよ」
「私はできません。あなたと私は違う。そうでしょ」
「違うところはあるよ。俺は八寿美に貞操を守ってたのに、あんたはいつも……」
「いつも、何?」
「ほかの男とまた燃え上がったり、公衆の面前で腰に手を回しあったり」
「しつこいなー!」
「ほら、その目だ。結婚したって隠し通せるもんか。自分のだんなはうまくだませてるんだろうけど、俺は知ってるんだ。110番までされたんだからな」
「女の独り暮らしの部屋に押し掛けて来て、しつこくドア叩《たた》いてたからでしょうが」
「女のって、俺は恋人だよ?」
「別れてたね」
「病人だから心配して行ったんじゃないか」
「来て欲しくなかったのに。壱子のあとまでつけて。もうそこから犯罪でしょうが」
「犯罪とはなんだ」
「犯罪だから警官だって来たんでしょうが」
「あんたが110番なんかするからだ。人を何だと思ってるんだ」
「110番しなきゃ眠れなかったよ。あんなにしつこくドア叩いて」
「入れてくれないからじゃないか」
「聞けよ、人の話を!」
「なんだ、その口のききかたは」
「…………」
「何急に黙ってるんだ」
「あの時とそっくり」
「いつの話だ」
「あたしを殴った時」
「制裁だ、あれは」
「なに様?」
「おれ様だ!」
「……そうよね。そう思ってるんだよね。そのおれ様って? 神様より偉いの? 何でも言うこときかなきゃいけないの?」
「決まってるじゃないか」
「わかりました」
あたしは伝票に手を伸ばした。
「もう話しても同じです。ちゃんと話し合おうと思った私がばかでした。さようなら」
あとも見ずにレジに向かうあたしを、清市はあわてて追いかけて来た。そして私が、
「領収書下さい」
と出した伝票を横からひったくった。
「きみ、何してるんだ。落ち着かないか」
なんて卑怯《ひきよう》な手を使う! こんなおっさんとあたしじゃ、この芝居、通ってしまう!
「いいからちょっと戻って座りなさい」
なさい、だと? よくも一瞬でそんなことが出てくるもんだ。しかし、ここで大声出したら、こっちが不利だ。
「ね、ね。ちゃんと聞いてあげるから」
あたしの背中に腕をまわす清市。あたしは低い声で「触らないでください」というのが精いっぱいだった。
落ち着かなきゃ、落ち着かなきゃ。こんなずるい男に負けてたまるもんか。
「わかった、わかったから。ね、座んなさいって」
清市は心の広い年上の男を演じ続ける。
ああ、はらわたが煮えくり返る。落ち着かなきゃいけないのに。
大丈夫、大丈夫……あたしには。
「まあ飲みなさいよ。ぼくがおごるから」
あたしはゆっくり深呼吸した。
「じゃあ、あの、おたずねしますけど」
「なあに」
「あたしは、どうすれば良かったんでしょうか」
「110番しなきゃ良かったんだよ」
「いや、そうじゃなくて」
「なあに」
「あなたの、今の奥さん、いらっしゃいますよね」
「ん?」
「もし私が、今のあなたの奥さまのようになりたかった場合は、あたしはどうすれば良かったんでしょうかね。それを、順を追って、教えていただけませんか?」
「女房みたいに? どういうこと?」
「だからあの、こないだ、最初は働いてたっておっしゃってませんでしたっけ」
「ああ、うん。よく覚えてるね」
「それは何度も……いや、いいんですけど、だから、今は専業主婦なんですよね」
「そうだよ」
「じゃあまずですね、あたしが仕事を辞めて家庭に入ってたら、奥さまみたいになれたんでしょうか?」
「いや……それは無理なんじゃない?」
「言っとくけど、あたしの方がブスだとか、そんなこと聞いてるんじゃないんですよ?」
「わかってるけど……だって、タイプが違うもの」
「だから、だからそこですよ」
あたしは息が荒くなるのを抑えられない。
「たとえば、態度とか、いろいろ。違うこといっぱいあるんでしょ? 思いつく限り、教えて欲しいんですよ」
「そりゃ、まず……女房には、貞操観念があるよね。まあ普通あるんだけど」
「ええ、ええ。それと?」
「だからまあ、いつでも男を誘うような服とか、下着とか着けない。ほかの男と話すときは、ちゃんと誰に見られても誤解されないような節度をもって話す。普通そうだろ」
「ええ、ええ、それから?」
「もし昔つきあった男がいたとしても、誤解されないようにきちんと距離を置く」
「はいはい。それで?」
「それでって……ほんとに反省してるのか、あんた」
「別に反省の材料としたいから聞いてるわけじゃないです。あとは? それで、会社を辞めて結婚すれば終わりですか?」
「簡単に言うなよ。その前に、ちゃんと俺の言うことを聞く気があるのかどうか試させてもらうだろ、普通」
「どうやって?」
「髪とか化粧とか格好とかを俺の言う通りにするかどうか。言葉遣いもだな。俺の面目をつぶすようなことをしそうな女と結婚してやるわけにはいかないじゃないか」
「なるほどね。わかってきたわ」
「反省した?」
「誰がするか」
「なんだ、それは」
「あたしがいつ、あんたと結婚したいなんて言った?」
「……言ったって……」
「あたしはね、あなたとなんか結婚したくなかった。でもあなたは、言うこと聞くならしてやってもいいと思ってた。だからよ。だからあんなにひどいことになったのよ!」
「ひどいって、あれはあんたが」
「どうしてあたしが結婚したがってるなんて思ってたの? 何を証拠に?」
「したがってたじゃないか。昔の男やらなんやら出してきて、嫉妬《しつと》させようとして。あんなに駆け引きした女はあんたしか知らないよ」
「バカじゃないの。じゃあ110番したのも駆け引きだって言うの? そんな駆け引きなんかあんの? 説明してもらおうじゃないの」
「そこがわからないから、こっちだって質問したかったんじゃないか。それなのに何を言っても『私語はやめろ』。たまたま今回の仕事でリーダー格だからって、何を威張ってるんだ。普通に出来ないのかって、俺はいつもむかむかしていたんだ」
「……それはどうも、どうも」
「バカにしているのか」
「いや。よくわかりました。お互い人間ですから。主観からは逃れられないですからね」
「何を言いたいんだ」
「こうしてお話するのも今日が最後だと思うので、あたしの話も聞いてもらえませんか。あたしは、あなたの仕事にあこがれていました。早く、あなたにあたしの仕事を認めてもらって、同じように、出来れば一緒に仕事をしたかった」
「夢がかなったじゃないか」
「うぬぼれないで下さい」
「な、」
「どうしてそんなにうぬぼれられるんですか。あたしの足をさんざん引っ張っといて。言うことを聞かせることしか考えていなかったくせに。そんなことが目的ならどうしてあたしなんかとさっさと別れて、奥さんみたいな女性を探してくれなかったんですか。あたしは奥さんみたいには絶対ならない。わかってたはずじゃないんですか。あたしもあなたも時間の無駄な上に、あんなに傷ついて。どうして早くあたしを解放してくれなかったんですか!」
あたしの目からは涙がこぼれ落ちていた。
「泣かなくても……泣かないでよ……」
「どうしてもっと早く別れてくれなかったの!?」
「そんな……だって、そんなことわからないじゃないか。きみがいくら結婚に向いてない女だからって、もしかして導いてやれば改心していい妻になるかも知れない、って考えるのが思いやりってものじゃないの。こっちだってさんざんいやな思いさせられたのを、あんなに」
「なんですって!」
あたしはそのまましばらく絶句した。この男、そんなにもお偉かったとは! やっぱり、何を言ってもだめだったのだ。見抜けなかったあたしがバカだった。
「……もう、わかりました」
「まだ……」
「いや、もう結構。充分です。お幸せに」
あたしは今度こそ捕まらないように、内蔵ジェット噴射でふくらはぎから炎を噴きながら外へ飛び出した。
次の週、清市の姿は社内から消えた。
「さあ、打ち上げ行こっか」
リーダーのあたしの声は、自分の耳にもさわやかに響いた。壱子の満足そうな顔。若いくせに首をぽきぽき鳴らすやつ。「はらへったー」という声。やっと、終わったわ。
「最後まで白河さん、戻ってきませんでしたねー」
「ああ、そうね」
あたしは何食わぬ顔で言った。壱子がちょっとだけ肩をすくめて、小声で言った。
「二度目の110番」
「ほんとにねえ」
「え?」
里見だけが反応した。
「今なんておっしゃいました?」
「いえ別に」
「ねえ」
あたしも壱子もとぼけたが、彼は何かを感じ取っていた。
「酒入ったらしつこく聞いちゃおっかなー、オレ」
「ふふふ。いいよ」
しかし、実際酔い始めたら里見はあたしを口説くのに必死で、清市のことなんて話題にもしなかった。
「あいかわらず男にかまわれるねえ」
壱子が感心したように言った。
「あれはね、仕方ないの。清市がまいた種」
あたしは清市が里見に昔のあたしとのことを話したので、それを逆手に取ってやったいきさつを話した。
「あさはかなんだねえ、清市さんて……」
「今はね」
「男のプライドに振り回されて……それも、古くさくてもう誰も同情しないようなねえ。そんなにプライドが大切なのかねえ」
「大切なんだろうねえ。左遷されてもいいくらい」
「え? 白河さん左遷されたんすか!」
壱子の隣りにいきなり若者の顔。
「里見くん、何でもよく聞いてるねえ」
「すいません……でもそれももとはと言えば白河さんが……」
「寝た子を起こすようなことをねえ」
壱子が里見のセリフを受けて言った。
「壱子、酔ってる?」
「酔ってるよ。良《い》い酒良い酒」
「白河さんどうなったんすか。教えて下さいよ」
そう言いながら必要以上にあたしに近づく里見。あたしはそれを知りつつ壱子の方へ体を少し動かした。
「どこ飛ばされたって言ってたっけ」
「八寿美が刺される心配のなくなるくらい、遠いとこ」
「刺されなかったけどね。恨み言は言いに来たよ。またお得意の待ち伏せで」
「なんだって?」
「まずね。どういうつもりなんだ、でしょ」
「ああ」
「俺《おれ》は女房に泣かれたんだよ。せっかく買った建て売りをまた売って、賃貸に逆戻りだ」
「せこ〜」
「そうそう白河さんて結構せこいんですよ。おごってもらったりするといつまでも恩着せがましく」
「あっ後ろに!」
「ちょっ……やめてくださいよー」
「俺の女房が可哀相《かわいそう》だと思わないか、同じ女として、だーって」
ぎゃははははは、とあたしと壱子は声をそろえて笑った。
「すごいねえ。あたしもあれ聞いてるだけに、笑わせてもらったよ今、思いきり」
「ねーえ」
「あれ? ってなんですか?」
「あ」
「いいよ、いいよもう」
「いっか」
「あのね、白河せんせえあまりにも態度悪いからね、お話したのね、あたし」
「教育的指導っすか?」
「そういうふうに受け止めてくれる人だったら良かったんだけどねえ。簡単に言うと、いまだに『オレの女扱い』って言うんですか?」
「ああでもそういうのって社内でも……じゃなかったでしたっけ?」
「あはははははは」
「きゃはははははは」
「えー? 違いましたあ?」
「いや、違わないのよ。だからもう、仕事になんないからさ。そういうのやめてくんないかと思ったんだけどもー、ぜんぜん。でもね、あたしね」
「はい」
「バッグの中でちゃんとテープ回して録音してたんだ、その話」
「うわー。で、どうしたんすか」
「上司に聞いてもらった」
「どひゃー」
「だからセクシャルハラスメントで左遷」
「ひえええええ。おっそろしーなー」
「と思うでしょ」
「ええ、そりゃあ」
「じゃあ聞く?」
「え! 持ってんすか、今?」
「あげてもいいぞ。おたくの全部の支社に配ってもまだあまるくらいダビングしてあるよ」
「すげー……」
「だからね、女房がどーたらって言われたときも。じゃああたし、奥さんにもテープ送っときますから。あたしの夫にはもう聞いてもらってますし。それで充分だったね」
「そーいうとこ見ると、何言ったかちゃんと覚えてんだろーね。考えてみりゃ、ずうずうしいよなあ、おれ様」
「おれ様だから」
「それ、せりふ内に有りってわけですか?」
「もちろん」
「やっぱオレにも一本下さい。いくらですか?」
「タダタダ。だってこれで笑ってくれる男がふえてくれれば、ねえ。カラダ張った立場としては、こんな嬉《うれ》しいことはないよ」
あたしは里見にテープを手渡した。
「感想文書きますよ、オレ」
それでまた壱子と爆笑したところまでは覚えてる。
そして今。ラブレターにしては真面目《まじめ》な封筒があたしの机の上にある。差出人は里見。
「そうか。もしかしてほんとに書いた? 感想文?」
どうも、そうみたい。真面目なやっちゃ。
「テープ、聞かしてもらいました。感想文書く約束しちゃったんで、何回か聞きました。笑かしてもらおうと思ってたんですけど、だんだんいろんなこと考えてマジになっちゃいました。
これ聞くと、白河さんてまるきりガキですけど、僕にもこういうところ、あるんだと思います。あんまし認めたくないんですけど、でも、なんかをきっかけに、もしかしたら自分もこんなこと言いだすかも知れないと思いました。もし最初からこれやったら女からバカ扱いされると思いますけど、相手にものすごく気を許してたら、こう言えたら、もしかしたらオレ、すげえいい気分かもしんないです。もちろん、女が受け入れてくれればなんでしょうけど。白河さんは、受け入れてもらってるって信じたかったんじゃないんでしょうか。男って、まじでうぬぼれだすと止まんなくて、あと戻り出来ないようになってんのかもしれません。男の中身はもしかしたら全員ガキで、そんで、ガキでいさせてくれる女を見つけたら捕まえて自分のもんにする仕組みになってんのかもしれません。でもなんでなんだろうな、と自分なりに考えてみたんですが、オレの思い付いただけのことなんでバカっぽいかも知れませんが、やっぱし自分の子どもを産んでもらうためにそうするんじゃないかと思うんです。子どもを産んで育てるって大変じゃないですか。それを自分のためにちゃんとやってもらえるかどうか、まず自分がガキになって試してんじゃないのかなって思うんですけど。試験問題みたいに。どうでしょう。人によっては、そんな問題古くさくて解いてらんないってこともあって、きっと今回はそういうことだったんじゃないでしょうか。ではまた連絡します。
[#地付き]里見健次郎」
「試験問題……」
読み終わった壱子は、あたしが読んだときと全く同じようにつぶやいた。
「里見くん、けっこういいじゃん? 期待される新しい世代って感じ」
「あたしも考えるべきだったかもな……試験問題」
「意識すると効果出ないもんなのかもしんないよ。だって今の相手には? 彼を試すようなことってあった?」
「そうか……」
清市は本気だったもんなあ。疑いもせず意識もせず、ただ何か深いところから来るなにかのためにあれだけぐずりまくったのか。
「そうかもしんない。最後の最後まで。だって、あのときもこうだよ」
あたしはバッグからカセットを取りだして壱子に聞かせるため、巻き戻した。
「なになに。その最後の待ち伏せのときも録音してたの?」
「うん。だってあたしを助けてくれるのはこういう事実だけなんだもん。こないだのテープだってさ、聞いた清市の上司は、ほんとは『わかるわかる……でもそれ、人前では通んないんだよなあ』って思ってたのかもしんないんだよ。でもつきつけられたら、そうは言えない。そこしかあたしらの助かる道は……あ、あったあった」
あたしはイヤフォンを抜いて、オープンで再生した。
『もう……きっと八寿美と逢《あ》うことってないんだね、きっと二度と……』
「泣いてる?」
壱子が驚いて、小声で言った。
「なんか思ってたのと違う」
「このあとよ、このあと」
『あのさ……もう最後だからさ……ちょっと、よかったらホテルつきあってくんないかな』
「げ!」
「ね」
「何がよかったら……八寿美、これ今度彼が飛ばされた支社の支社長に送るべきだよ。そんでもっとど田舎に行ってもらいな!」
壱子の怒りが夜空を翔《か》ける。
彼女のおかげであたしは今夜も笑っておうちへ帰れるのだった。
本書は平成十年五月、小社より刊行された単行本を文庫化したものです。
角川文庫『彼が泣いた夜』平成13年6月25日初版発行
平成14年5月25日再版発行