内田春菊
ファザーファッカー
私は、よく娼婦の顔をしていると言われる。今までに、ホステスを含めた何種類かの職業を経験したという話をすると、「もしかして、あれも?」と売春をほのめかした聞き方をよくされるのだ。それも当然のように軽い感じで。顔には出さないようにしてきたが、私はそれがとても嫌だった。十六になってすぐ家出して、野宿から始めた生活ではあったが、ぜったいに売春だけはしないと機会ある度に考えていたし、ちょっとやってみない? としむけられそうになったときも、ずっと断ってきたから。しかし、人は私にけっこう平気な顔で、
「やってたの?」
と悪気もなく聞く。あまりにも軽く聞かれるので、怒るというよりも、不思議な気がしていた。私にそれを言う人が、特に無神経なタイプの人というわけではないからだ。なのに、こんなふうに聞けるということは、私が平気で娼婦をやってきたような顔に見えるからなのだろう。でも私は、それを言われるのが本当は物凄く嫌いだし、それだけはぜったいしないという考えで暮らしていたのだ。人が私をどう見ようが構わないが、いったい何故私はそんな顔をしているのだろうか。
きのう、やっと思い出した。私は娼婦だったのだ。私がずっと、売春だけはやるものかと思っていたのも、やってはみたけど向いていなかった、そういう意味での「辛い仕事」に戻るのは嫌だという、単純な理屈だったのだ。私はホステスとしての才能にもまるで恵まれていなかったが、娼婦としては比べものにもならないくらいもっともっと最低最悪の素材だった。おかげで私は、娼婦の頃いつも頭がおかしくて、売春宿のおかみさんにおこられてばかりいた。お客はたった一人だというのに、私はその一人のお客さえもうまくあしらえない無能な娼婦だったのだ。だから十六になってすぐのある雨の夜、ついにそこを逃げ出した。そしてそれからなんだかんだやっているうちに、もともと自分のやりたかった職業につくことができた。そして、きのうまで自分が娼婦だったことはすっかり忘れてしまっていたのだ。
その売春宿は、西のはずれにあった。おかみさんは私を十六まで育ててくれた人であり、なおかつ実の母で、お客は彼女の情夫であり、私の育ての父だった。
実父の名の音を取って付けられた自分の名が大嫌いだった。母がいつもろくでもない男と呼んでいたその人の顔を、もう私は覚えていない。ものごころついた時には、アルバムから彼の写真は消えていた。半分に破いて彼を取り外した写真や、顔だけ切り抜いた写真まであった。白い夏物の下着を着た、腕と脚だけの彼。その顔の無い実父の真ん中で、赤ん坊の私が笑っていた。実父の名は志津男、私の名は静子という。
二年置いて妹が生まれた。妹は、知恵と名付けられた。彼女の名は親戚の誰かがつけたのらしいが、私は何故か、自分の名に比べて知恵という可愛らしい名に積極的なものを感じてしまう。静子という響きには、女の不幸や、哀愁が漂っているような気がする。実際、幼稚園や小学校でも、おばあさん臭い名前だとよく言われた。でも、私は自分の名を付けたのが母なのか父なのか知らない。
私は自分が小さかった頃のことをあまり覚えていない人間のようだ。眠っているとき見た夢をいつまでもよく覚えているかと思うと、空想したことと現実の記憶との境目が、思い出そうとする度に違う形で融合し合っていたりする。自分の記憶と、母から聞いた話を足して構成しようとしてもなかなかうまくいかない。私が家を出てから十一年目に、母や妹とは言い争いの末、訣別《けつべつ》してしまった。それから六年近く経ったが、いまだに最後に言い争った時の印象は消えていない。その印象とは一言で言うと、母も妹も大嘘つきだったということだ。彼女たちの話はいつも、ご都合主義と陳腐な脚色に満ちている。私はそれに二十七年間も気がつかなかった。気がつきたくなかったのだ。成人してから、自分のこれまでの物語を否定し、改めて構成しなおすのは大変な仕事である。今、私は十六歳で家出するまでのそれに取り組もうとしているわけだが、それだけでも気が遠くなる。しかし、あの時の母の捨てぜりふが私を奮起させるのだ。
「そんなこと言ったって実の親子なんだからね。一生離れないよ」
彼女は私の稼ぎを当てにして上京してきていた。私は、自分が抱いていた母のイメージと実際がかなり違うことがもうわかってしまった。そして、自分が母から愛されてなんかいなかったことも。
一番昔に見た夢は、実父に関する夢だった。私と妹が、何故か警察に捕まってしまう夢だ。母はナイトクラブの仕事に出かけてしまっていて、そのことに気づかないでいる。二人の警官が私と妹を、赤ん坊でも抱くかのように胸に抱えて何処《どこ》かへ連れて行こうとしている。私はなんとかして逃げ出さなくてはと考え、自分を抱いている、図体がでかくて人の良さそうな方の警官に、何か理由をつけて一度家へ帰してくれるように頼む。警官は私の口車に乗せられ、妹を残して私だけが釈放される。
家の近くの道を歩きながら、私は考えている。今度は、妹を助け出さなくてはならない。仕事もしないでそこらへんをぶらぶらしている筈の父に助けを求めようか。いや、あの人はあてにならない。自分でなんとかしなければ。そういう夢だった。
父と母はダンスホールで知り合ったという。二人そろって社交ダンスの教師の免許を取り、ホールで働いていたが、父だけすぐに働かなくなり、よその女と遊び歩いたり賭事《かけごと》をしたりして、家に寄りつかなくなったのだそうだ。一人でダンスを教えるだけでは食べていけなくなった母は、いろんな職を転々としていった。
避妊をしていたのかどうかは知らないが、私を産む前にも母は何度か妊娠したらしい。だが、その度に父から産むことを諦めさせられた。私がお腹の中に入ったとき、母は、
「今度こそ産もう、子どもの顔を見ればこの人も変わってくれる筈だ」
と強く思ったのだそうだ。
「でもねえ、静子ちゃんのことも堕ろせと言われたのよ。あたし、どうしても産みたくてねえ。借金して産んだからね。お産のあと、ほんとはあんまり動いちゃいけないのに、すぐ働いたの。そうしたら、ほら」
母のふくらはぎには、静脈が青く浮き出ていた。
「これねえ、もう治らないのよ」
そのとき自分では覚えていないが、母によると幼児の私は、
「静子がお医者になって、ぜったい治してあげる」
と約束したのだそうだ。ほかにも、母は妹を産んだあと、まるまる一カ月間も経血が止まらなかったことや、全く鼻が利かなくなったことがあるという。毎日毎日血を流し続けているのに、それでも働き続けなければならなかった。鼻が利かないと、何を食べても美味《おい》しくない上に、妹のおしめの様子がわからない。悔しさに泣いた時もあった。それでもやっぱり働き続けなければならなかった。その話を聞いて私は、母の体は私たち二人を産んだことによって、どうしようもなくくたびれ果てたものに変わってしまったと感じた。母は、そんな犠牲を払ってまで私たちを産んだのだと思い、申し訳なさに心が痛んだ。
「子どもを産む時は、ちゃんと貯金してから産んだほうがいいわよ。お金しか頼りにならないんだから。男に頼ろうなんて思ってちゃ絶対駄目よ」
母は、幼い私に父の悪いイメージを熱心に吹き込んでいた。実際父は、ときどきどこからともなくふらりと帰って来ては、母が稼いできた僅かなお金を捜し出しては持っていってしまっているようだった。まだ母がクラブ勤めを始める前、私たちはパチンコ屋と雀荘をやっているところに一家で住み込んでいたが、母が幼稚園児の私に与えた三百円のお年玉を、
「ちょっとそれを貸しなさい」
と持っていってパチンコに使ってしまったこともあった。父がお金を持っていったまま戻ってこないので、私が母にその旨を伝えると、母は悲しそうな顔をしてもう一度三百円くれた。
幼稚園に行ってたときだと思うが、たまたま父が家に戻ってきて金目のものを探しているとき、私は彼に、
「おとうさん、たまにはお金を持ってきてください」
と敢然と言い放ったことがある。しかしそのとたん、父は、
「子どもは黙っとれェ!」
と怒鳴り、箪笥《たんす》の引き出しを引っ張り出して私の頭をぶん殴った。大きな音がしてびっくりした私は声をあげて泣いた。おかげでその場面はよく覚えている。
実を言うと私は、近所のおばさんに、
「あんたんちのおとうさんはちっともお金を持ってこないで持っていってばかりいるんだよ。おかあさんのために一度、お金持ってきてくださいって言ってやんな」
と吹き込まれてよく意味も分からずやっただけだったので、いきなり殴られるとは夢にも思わなかったのだ。私はすぐ母にそのことを話した。
母は話を聞いてひどく怒ったが、その怒りは父に向けてのものではないようであった。かといって父に生意気な発言をした私にでもなく、結局それは、私をそそのかしたその近所のおばさんに向けてのものだった。私が小学校にあがるまで、夜、ホステスの仕事に出かけていた母の留守に子守に来ていた、イワナガという痩せて色の黒いおばさんだった。母は、
「あのおばさん、子どもにそんなことを言うなんて」
というふうな怒り方をしていた。母にとっては、父が家庭を顧みず、子どもに暴力まで振るったことよりも、自分の家のみっともない内情を他人が知っているということのほうが遥かに気に入らないのであった。私は私で、おばさんの言うとおりにしたら父に殴られたので嫌な気分だった。おばさんには、小さい子どもなら言いにくいことを平気で言えると思って彼女なりの善意でけしかけたのだろうが、私は殴られてただ痛い思いをし、たいへん損をしたのだ。それに私はイワナガのおばさんがもともとあまり好きではなかった。彼女は子守に来てくれている時、私たちの家なのにわがもの顔に振る舞う。おばさんにそっくりの意地の悪い「ケン坊」という息子と、おっとりしていて優しい「久美子」というそのお姉さんがよく一緒に来て、テレビのチャンネルなども勝手に決めてしまったりもしていた。二人とも絵が上手で、弟の方とは男の子向きの絵、お姉さんの方とは女の子向きの絵を描いて遊んだのは楽しかったが、弟の方は嘘をつくのでときどき大嫌いになった。
「最初に僕たちがここに挨拶に来た時、静子ちゃんは奥から走って出てきて、よろしくねって僕のほっぺたにキスしたんだぜ」
この大嘘を聞いたときは、私は自分がそんな恥知らずなことをする子どもだったのかと顔が真っ赤になった。おもちゃの水鉄砲に穴を開けて、壊されてしまったこともある。私がその水鉄砲を使うと、顔に水がかかるようにしようとしたらしい。彼はそうやって七つ近く年下の私を本気でかまった。苛《いじ》められていたような気もするし、好かれていたような気もする。私のほうも、
「もうケン坊にいちゃん大嫌い!」
と言いながら、彼の喜ぶような新作漫画を描いては、彼の家を訪ねていた。
私は男の子と遊ぶほうが好きだった。ままごとよりも、メンコやビー玉の思い出の方が多い。そして何よりも、暇さえあれば絵を描いていた。妹も一緒に描いていたが、妹の描くものは私と少し趣が違っていた。
たった二歳の違いだったが、母が働きに出ている時間、私が母の代わりをしていたせいか、妹は必要以上に私を頼るところがあったように思う。私たちが寝つくとイワナガのおばさんたちは自分の家に帰るのだが、夜中に妹は必ず一度目をさます。そして、
「おねえちゃん、お水」
とか、
「おねえちゃん、おしっこ」
とかいって私を呼ぶのだ。私が用を足してやるとまた安心して寝るのだが、ほんとにまるで日課のように、妹は私を一度は起こさないと気が済まないのだった。それでも途中まで、私は妹をまるでお人形のように可愛がっていた。寝つくまで、頭や顔を撫でたりもしていた。しかし、ある日突然、そんな習慣に嫌悪感を感じ、それを求める妹に冷たくするようになってしまった。
なんにつけ私に甘えてくる彼女が嫌いになったのかも知れない。妹は私に比べておっとりした性格で、普段はぼんやりと私の言うことを聞いているだけなのだが、ときどき妙なところで自分を出す。ある時、久美子ねえちゃんが雑誌の懸賞に応募してもらった小さなバッジを私たち姉妹に見せてくれたことがあった。私たちにとってそれはとても羨ましい品だったが、私はそれを口には出さず、
「いいね、これ」
とだけ言って返した。ところが、妹はそれを手に取るなり、褒めようとしてうっかり、
「ありがとう」
と言ってしまったのだ。私も久美子ねえちゃんもケン坊にいちゃんもそれを聞いて思わず知恵の顔を見た。すると知恵は、自分でもそんなことを言ってしまったことにびっくりして泣き出してしまった。久美子ねえちゃんは、そのバッジを知恵にくれた。私は姉として知恵が恥ずかしかった。
また知恵は甘いものが大好きで、家に甘いものがない時は、小皿に砂糖を盛ってなめていることもあった。
私が妹に腹を立てると、妹はすぐ泣いた。すぐ泣いてしまわないと私からもっと酷《ひど》い目に遇うというのも、その理由の一つかもしれない。私は妹が何か気に入らないことを言うと、飲んでいたコップの水を頭から浴びせかけたり、鉛筆で妹の顔を突いたりする、激しい姉だった。妹のまぶたにはその時鉛筆で突かれたあとが今も残っている筈だ。
しかし私は妹からもっと手痛い仕返しをされたらしい。ある日母が、近所のおばさんたちに、多めにあった野菜を分けてあげていると、子ども部屋から私の泣き声が聞こえた。慌てていくと、二段ベッドの上の段で遊んでいた筈の私が床に落ちて泣き叫んでいたという。母がびっくりして、
「どうしたの」
と聞くと、妹は笑って、
「チーコが落としたんだよ」
と言ったのだそうだ。どういう状態だったのかよくわからないが、私は、床に置いてあった二段ベッドのはしごの上に顔から落ちて、顔の筋肉が切れ、片面オランウータンになってしまっていた。そういうわけで私の顔は今でもアンシンメトリーだし、かなり長い年月、私は自分を醜い女だと思っていた。笑うと顔の筋肉の切れた部分がはっきり人目にわかると思い込み、写真を撮られるときはなるべく笑わないように努めた。でも本当にそれだけが原因だろうか。自分を醜いと思っていたほうが楽だったのかもしれない。顔半分を紫色に腫《は》れ上がらせたまま、それでも幼稚園に出かけていって、
「おばけ、おばけ」
とはやし立てられていたような記憶があるから、私本人はその怪我を最初は面白がっていたのだろう。妹が、私を突き落として笑っていたと言ったのは母なのだが、思春期を迎えた頃になってそんなことを妹に話した彼女の真意は何だったのだろうか。その話を聞いてからというもの、まぶたの鉛筆の芯のあとと、切れた顔の筋肉を指差しあってはわいわい言い合いしていた私たちも、お互いの傷、とくに私の傷のことについては触れないようになってしまった。
そういえばケン坊にいちゃんもおばけみたいなところがあった。裸になると、胸に大きな窪みがあるのだ。私のこぶしがすっぽり入ってしまうくらい大きな窪みだった。海水浴に一緒に行って横になっててもらうと、そこで水遊びが出来るほどだった。そこのところに肺だか何かがあるはずなのに、どうしてこんなに窪んでいられるのか不思議だった。母は、
「ケン坊にいちゃんって、体が弱くて体育とか出られないんだよ」
と言っていたが、私は彼にしょっちゅう苛められていたので、彼をそんなに弱い人だとは思えなかった。でも、彼は十年ほど前、二十七歳で死んだそうだ。
母と妹の三人で何処かの島に出かける夢を見た。島に出かけるというのに、私たちは何故か汽車で来ていた。ところが、島を観光している間に離れ離れになってしまった。その上、島の中にある火山が噴火しそうだから避難しなければならないという。私はあわてて二人を探した。駅のそばまでいくと、私を残して二人で汽車に乗り込んでいた。私は驚き悲しんで大きな声をあげたが、二人は完全に私のことなど忘れているようだった。見ると、妹と母は、二羽のめんどりに姿が変わってしまっている。私はそれを見て、急に気持ちが冷めるのを感じる。同じ人間ではなかったのだ、私が置いて行かれても仕方がないな、と思う。私がそこにいるのに、何故かその島は俯瞰《ふかん》で見渡せる。死ぬかもしれないのに、もう怖くない。
母は母で、よく父にぶん殴られて顔を腫らしていた。
ある日の母は、水族館のイルカショーのイルカのジャンプのように、私たちの目の前を左から右に身をくねらせて飛んでいき、頭から火鉢に激突した。母の大きな体が飛ぶのを見て、私と妹は恐ろしさに家から逃げ出した。しかし、何処へも行くところはないので、二人で玄関に座り込み、声をあげて泣いた。しばらくすると、近所のおばさんがやってきて、
「ちょっと、もういいかげんにしたら」
と声を掛けて父を止めてくれた。私と妹は、ばつの悪さに何処かへ出て行ってしまった父と入れ代わりに家の中へ戻った。そして、私は母が泣きながら言うことを黙って聞いていた。母の頭には、大きなこぶが出来ているようだった。
「静子ちゃんね、あたしね、もう出ていくから。お父様と一緒に暮らしなさいね」
私は、それだけは勘弁して欲しかった。私だってお父様嫌い、と思ったがそこまでは言えなかった。私はとっさに、母の編みかけていたレース編みのことを思った。母はその頃レース編みに夢中で、貧乏所帯のぼろ家の中に、次々と役に立たない大作を生み出している最中だったのだ。母と父は、ダブルベッドなんて洒落たものを使っていたが、母はそれさえもレースで覆い尽くしてしまっていた。私が幼児のころ、訪ねてきた親戚に、聞かれもしないのに、
「これはね、おとうちゃまとおかあちゃまがねるの」
と言って彼らを苦笑させた、と繰り返し繰り返し母に聞かされた、そのダブルベッド。そのカバーを母がレースで編み上げてしまったとき、私と妹はそれがこの家に似合うものかどうかも知らず、ただその根気に敬意を表して、
「きれい、きれい」
と褒め称えたものだ。そして、テーブルの上、箪笥の上と、さほど多くもない我が家の家具全てにレースが敷きつめられても、まだまだ母の作品は箪笥の中に溜まっていったのだった。レース編みの話題こそは母をひきつけるものだと、幼い私は思っていた。だから私は、
「あのさ、今編んでるレース編み、あれが出来るまでおうちにいて、ね?」
と母に提案してみた。
それからどうなったのかはわからない。母はその後も何度か出ていくと言い出したが、結局出ていったりはしなかった。しかしときどき思い出したように、
「静子ちゃんはお父様に似てるし、静子ちゃんだけ置いて出ていこうと思ったんだけどね」
と言うのが内心悲しかった。母はあれだけ父の悪口ばかり言っておきながら、私と父はよく似ているとその後ことあるごとに私に言った。私はますます自分の名前が嫌いになっていった。
何年もあとになって、
「あの時静子ちゃんたらレース編みが出来たら出てっていいなんて言って、私よりレース編みの方が好きだったんだからねえ」
と母が言ったのはよく覚えている。私はそれを聞いて驚いたが、母が笑っていたので、弁解する機会を逸してしまった。私はそんなに母のレース編みが好きではなかった。あの頃母のレース用の編み針をうっかり踏んで、足の裏に刺してしまったことがあるのも私だ。編み針は先が鉤《かぎ》になっているため、なかなか抜けず、とても怖い思いをした。レース編みが出来上がったら自分の母親なんていなくなってもいいと考える子どもなんているだろうか。私はただ母を引き止めたかっただけだったのだ。
一度だけ、父が私と妹を海水浴に連れていってくれたことを覚えている。
なぜか母は、家で留守番していた。そのかわりに、色の黒い、顔にしみのある知らない女の人がついてきた。父はその人が誰なのか私たちに教えてくれないばかりでなく、どういうわけか、
「この人が来ていたことは、お母様には言っちゃいけないよ」
と言った。私は、言わないことを約束した。その女の人とは、とくに会話しなかった。彼女は泳ぎもしないで、ずっと海の家だかパラソルの下だかに座っていたと思う。どことなくぎこちない行楽ではあったが、海に来たことだけでも何となく嬉しかった。
夕方になり、家に帰ると、父はまた何処かへ行ってしまった。父は家を、自分のやすらぎの場所とは思っていないようだった。
母は、私を呼びつけ、
「女の人が来てたでしょう」
と言った。私は驚いて、
「お母様、なんで知ってるの」
と言ってしまった。父との約束はあっけなく破ってしまったが、私は母が何でもわかっているようなのが、おそろしかった。
父の姉だか誰だかが、しばらく私の家に泊まり込んでいたことがある。私は、その人と折り合いが悪く、言い争いばかりしていて、ついには大の大人であるその人を泣かせてしまったことまであるという。私はそんなに癇の強い子どもだったのだろうか。それに比べて妹は、誰にでもなついていく性質の子どもだと母は言っていた。パチンコ屋に住み込みしていた時も、母が体をこわして寝込んでいると、妹はそこの住み込み仲間の人によちよち歩きで寄って行ったのだという。ところが、その人は子どもが嫌いで、冷たくされた妹は泣いて母のところへ戻ってきた。
「小さい子にそこまでしなくてもねえ、と思ったよ。可哀そうにねえ」
母はしみじみとそのことを思い出して語っていた。私に関しては、早くからひらがなを読んでいたけど、あまり何度もやらせたので、何かほうびをやらないと読まなくなったとか、幼稚園で習ってきた歌に母が振り付けを考えてやったら、さっそく近所の食堂の厨房《ちゆうぼう》に行って歌って踊ってはお菓子をせしめて来たとか、そういう話ばかりをしていた母だったので、私はそのことをよく覚えている。私は放っておいても、人一倍うまくやる子どもだと母は思っていたのだ。そして私は、幼稚園の卒園式前の知能テストで、母のその考えをますます強めるような良い成績をとってしまったのらしい。しかしその逆に、母は妹には常に保護してやらなければいけない何かを感じていたようだった。母に甘えられない分、私は何だか損をしているような気もしていたが、その反面、何かにつけ自分の能力を褒めてもらうことに誇りを感じてもいた。泊まりに来ていた父の親戚のことも、話しぶりからして、母はあまり快く思っていないようだったし、その人を泣かせたというので、私は自分のことを、悪者を退治したたいした子どものように思い込んでいた。
小学校にあがる少し前、奇妙な夢を見た。いや、夢かどうかはっきりはわからない。つい最近までは、体験したことだと思っていた。しかし、夢じゃなければ辻褄《つじつま》が合わないので、夢の記憶の中に入れることにした。
夜、眠っていると、イワナガのおばさんが私を揺り起こした。母の留守には鍵を開けておく習慣だったので、誰かが勝手に入ってきても不思議はないのだが、もしかしたら母だったのかもしれない。その女は、これからある人が、静子ちゃんの小学校入学のお祝いを買ってくれるからついて来なさいという。私は、子ども心に、こんな夜中にお店が開いているのかなあと考えるが、大人がそういうなら、開いているのかもしれない、と思い直す。私は寝ぼけながら、その頃気に入って晴れの日でも履いていた長靴、そうでなければサンダルか何かを履いて、暗い道を、手を引かれて歩いて行った。すると、どこかの家の縁側のような所に、老人のような、父くらいの年のような、顔を知らない一人の男が座っている。母方の祖父はもう死んでいたので老人に心あたりはないのだが、老人だったような気もする。その男に、お祝いだと言って何かを与えられる。とてもいいもののような気がする。でも、その人が誰なのかよく知らないし、何をもらったのかも覚えていない。
夜の道を誰か中年の女に手を引かれて歩いている部分だけは、まるでほんとに経験したように記憶があるのだが、その時もらったはずのものがどう考えても残っていないので、やっぱり夢だったのかもしれない。
私は夜の道を歩く夢もよく見た。港に近い坂道に長く真っ黒な影を落として、ただただ歩いている夢だった。
その男と私が初めて顔を合わせたとき、母は、
「ほら、おじちゃんにあいさつしなさい」
と私に言った。それはその男にも聞こえていた筈だった。なのにあとになってそう話したら、
「お前、俺のことおじちゃんなんて言ったのか」
「やあねえ、静子ちゃんたらそんなこと言って」
と二人から責められた。そうなのだ。気づいた時には、私たちはその男のことを「お父様」と呼ばされてしまっていたのだ。そして母は、実父のことを話す時には、「前のお父様」とまわりくどい言い方をするようになっていた。
実父は相変わらず家に寄りつかなかった。たまに家にいてそれも機嫌が良かったときなのか、濃い髭《ひげ》で頬擦《ほおず》りされた覚えがある。それは柔らかい子どもの頬にはとても痛く、本気で逃げ回ったが、狭い家なのですぐに捕まってしまう。ちょっと嫌だったが、母が嬉しそうに笑って見ているので我慢した。
幼児のころ、夏に花火をしたとき、私は家の前の崖の草にうっかり火を付けてしまった。生えている草だから大丈夫だと思って火を近づけたら、すっかり枯れて乾いていたらしく、燃え出してしまったのだ。下は人の家なので、私は慌てた。その時、すぐにバケツの水で消してくれたのは実父だった。実父はとても落ち着いていて、頼もしかった。養父のする様に、その後私を馬鹿と言っていつまでも怒鳴りつけたりもしなかった。
小指の爪だけを長く伸ばしていたのを覚えている。
「どうしてこれ伸ばしてるの?」
と聞くと、
「便利だからだ」
と答えた。牛乳瓶の蓋をその爪で開けて飲んでいた。私も、実父に牛乳瓶の蓋を開けてもらったことがあるかもしれない。
養父が初めて家にやってきたのは母が仕事を終えた真夜中だったという。養父は母の勤めるクラブの客だったのだ。母に誘われて家にやって来たら、めったに帰ってこない実父と鉢合わせして大騒ぎになったのだという。そのときの話を、養父は何度も繰り返して話していた。養父は面白おかしく話しているつもりだったのかもしれないが、その話はちっとも面白くはなかった。私と妹はただぼんやりと聞き、母は目をそらして苦笑していた。
私たちの住んでいた家は、板を張り合わせてかろうじて風を塞《ふさ》いでいるようなあばら家で、あちこちに穴が開いていた。外から帰ってきたとき鍵が閉まっていても、窓についている木の手すりの下に大きな穴があるので、私の小さな体ならそこから家に入れた。体をよじってそこから出入りするのは、子どもの私にとって「こういう家で良かった」と思えるほど面白いことだったが、家の中に便所が無いのがとても嫌だった。すぐ隣だが、一度外に出なくてはならない。雨の日は傘をさして用を足しに行く。裸電球が一個付いていたが、それが切れてしまっていても、なかなか新しい電球をつけてもらえない。そんなとき、夜には懐中電灯を持って行った。
私はそれでも絵を描いたり本を読んだりして、あまり外には出なかったように思う。たまには家から出ていけと、母からほうきで掃き出されたことがある。母はいつも掃除する時に、塵《ちり》の中にいると大きくなれないからあっちへ行きなさい、というのが口ぐせだったのに、その時は私を塵のように掃き出したのだ。私の自尊心はとても傷ついた。
私が小学校に上がるか上がらないかの頃、近所だが引っ越しをした。新しい家は長屋で、細かく区切られていたのを、二軒ぶん借りた。なので玄関と便所が二つずつあった。家の中に便所があるだけでも嬉しいのに、それが二つもあるので私も妹もはしゃいだ。両方の玄関に表札を掛けていたため、知らずに訪ねて来た人を別の玄関から迎えてびっくりさせたりした。しかし、家が穴だらけであるところは変わらなかった。家の中にはいつも鼠や蛇がいた。壁の穴から押入れに入り込んだ野良猫が、中に子どもを産んでいたこともあった。
片方の玄関には、台所の床まで続く広い土間があった。養父は、その土間の上に板張りの床を造り、居間まで地続きにしたが、勝手口の戸に穴があるため、その床の下にはいつも野良猫が入り込んでいた。
引っ越ししてから、ほとんど実父は姿を見せなくなり、養父がいつも家にいるようになった。
私はなんでまた箪笥の中でそんなものを見つけたのだろう。たぶん、二つのうちの片方が真っ赤で綺麗《きれい》だったから、目を引いたのだと思う。
私は何故か、赤いものと縁のない女の子だった。というより、母は私から赤いものを取り上げようとしていた。その頃、赤いものといえば女の子のもの、青や緑や黒っぽいものといえば男の子のものだった。母は、赤いだけでなく、フリルがついていたり、リボンがついていたりするものを、ほとんど私に与えなかった。そして、それが私自身の嗜好《しこう》によるものだと、私に思わせていた。
例えば、同じ形で、青い服と赤い服が用意される。母は私と妹を呼び、どっちかを選ぶように言う。その頃、女の子が選ぶのは赤い方に決まっていた。妹は赤を欲しがるに違いない。だから私は青を選ぶ。それが何度か続くと、母は、
「静子ちゃんたら、青が好きなのねえ。いつも青ばかり」
と私に言う。そんなものかな、うん、お母様が言うのだからそうに違いない、と私はずっと思っていた。
しかし、その後、赤くてフリルのついた鮮やかなビロードのフレアースカートのツーピースと、かちっとしたグレイのチェックのプリーツスカートのスリーピース、という全く傾向の違う服を両方試着させたあと、
「こっちがいいよね、かっこいいし。長く着られるし」
とスリーピースを選ばされたことや、近所の人から、赤いフリル付きのニットの服を安く譲ってもらえるといって、サイズを見るために私に着せたあとになって、
「あれ、断っちゃったからね。あんなのなら、人のをもらわなくってもあたしが編んであげるからさ」
と言って、結局編んでくれなかったことなどを考えると、母は私に、あまり女の子らしい恰好はさせたくなかったのらしい。
とにかくそれは赤いフリルだった。手に取ると、パンツだった。私のものと比べて、驚くほど薄くて、赤い昆虫の羽みたいだった。でも、どういうわけかいちばんパンツの役目をする筈の部分に大きな穴が開いていた。小学生になったばかりだった私はそれを「穿《は》いたままおしっこのできるパンツ」であると頭にインプットしたが、それは、自分で思いついたのか、母に質問してそういう答えをもらったのか、覚えていない。私はそのパンツを穿いたままおしっこするところを、いろいろと想像してみた。しかし、その穴の周りにもフリルがいっぱい付いていて、どう考えても濡らさずにするのは難しそうであった。大人には出来るのかもしれない、と思った。もちろんそれは穿いたままで性交するためにつくられたものだったわけだが、私はそれを持っていたことで、母を責めるつもりはない。勤め先のクラブのゲームなどの景品に出たのかもしれないし、たとえ自分で買ったのだって、大人だったらそんなものくらい持っていたって不思議はない。
しかし、箪笥で見つけたもう一つのものについては、ちょっとあわてた。それは一葉の写真で、そこには母と実父が裸で写っているのだった。母は立てひざをして左を向き、父に接吻している。しようとしているようなポーズだったかもしれない。横を向いてひざを立てているため、乳房も陰毛も見えてはいないが、何も身につけていないのは確かである。実父は、左に少ししか写っていなかったが、彼もまた何も身に着けていないようだった。母の近くには、張り紙か掛け軸かがあって、そこには「もう放さぬと心に決めた」という部分が見て取れる、恋の詩《うた》のようなものが書きつけてあった。私はそれを見て、心臓が飛び出るほど驚いた。そしてあわててもとあったところにそれをしまった。それから部屋じゅうをうろたえて歩きまわった。そしてまたその写真を引っ張り出して見てしまうのだった。
とにかく、これは本当は人に見つかってはいけないものだと思った。その「人」の中に養父は含まれていただろうか。たぶん、それほど養父の嫉妬《しつと》について考えていたわけではなかったと思う。ただ、妹や私のような子どもは見てはいけない、そして、こんな写真があることはだれにも知られてはならないのだと思ったのだ。
しかし、私がどこかよそへ隠すわけにもいかない。そこでしかたなく、またもとの場所に隠した。妹が何かの拍子に見ないようにと、少し奥の方に入れた。そうしておけば、母が見て、子どもが見つけたりしないような何処か他のところへ隠してくれるはずだと思った。
しかし、次に見た時も写真はそこにあった。そして、その次に見た時も。
私はその写真がそこにあることが我慢できなかった。何度見ても、それはそこにあるのだ。そして、そこにあるから、私は何度も何度もそれを見てしまうのだ。それは、もしかしたらほんの短い間のことだったのかも知れないが、私の中ではものすごく長い間そのことだけを考えていたような記憶になって残っている。私は悩んだ。母は、こんな写真を撮ったことなんかもう忘れてしまったのだろうか。
私はその写真の内容よりも、そんな写真が、私のような子どもが見つけてしまう場所に放ったらかしにしてあるのを母が忘れている、そのことのほうが、もっと罪深いことのように思えてしかたがなかった。母が写真の存在を忘れてそのままにしていると、そのうちだれかに見つかって、彼女はとんでもない恥をかくかもしれないと考えていた。そんな自分勝手な正義感に理由を結晶させた私は、ある日ついにその、母の青春の記念だったかもしれない写真をびりびりに破いて、片方の便所の中に捨てた。もちろんまだ汲み取り式だった。しかし、そこまでしながら、それでもその写真が誰かに見られることはないかしらと、しばらく気にしながら暮らしていたのだった。
もう養父を「お父様」と呼んでいただろうか。どっちのこともお父様と呼んでいた頃があったのかもしれない。何故なら、実父が出ていった日に、母に、
「お父様が出ていくから、ご挨拶なさい」
と言って起こされたような覚えがあるからだ。七歳の私も五歳の妹もよくわからないままに、パジャマのままで外へ出た。大通りまで小走りに出ると、実父は少ない荷物をタクシーの荷台に詰め、すでに出発するだけになっていた。私はピンクの縞の男物のパジャマを着ていた。ねまきのまま外へ出るのは少し恥ずかしかったが、そんなことを言っている場合ではないようだった。私は内心、お気に入りのパジャマだったので少しは良かったと思っていた。
私と妹は言葉もなく実父と向かい合った。思っていたより小さい男だった。彼は、
「静子も知恵も、お利口に暮らせよ」
と、ぼそぼそと口の中で言い、タクシーに乗り込んだ。私はこの人があんまり怖くはなかったなと思った。私が転んでも初めて泣かなかったその坂を、タクシーはゆっくり滑り降りて行った。それを見ているうちに、どういうわけか私は涙をこぼしてしまい、自分でもそれに驚いていた。
妹はただぼんやりして泣いてはいなかった。私もすぐに泣き止み、家に帰って朝ごはんを食べて小学校へ行った。泣いたのは誰にも見られてないと思っていた。
ところが、不思議なことに養父は私が泣いたのを知っていた。私が実父を見送っているとき、母はともかく、彼がそばにいたとは思えない。母が彼に私だけ泣いていたと言ったのかもしれないが、とにかく私はその後何度か、
「志津男が出て行ったとき、こいつだけ泣いてやがった。ちゃーんと俺は見てたんだからな!」
と養父に憎々しげに言われることになるのだった。変だなあと思いながら、私はただ黙ってそれを聞いていた。
その頃私は小学校の帰りに、知らないおじいさんから手を握られたことがあった。そのおじいさんは私の前に来て、ちょっと手に触れて、すぐにどこかに行ってしまった。何だろうと思ったが、私はそれを、よしよしと子どもの頭を撫でるような類のものだろうと考え、帰ってから、何気なく母に話した。
するとどういうわけか、母は火のついたように怒り出し、
「何それ! 痴漢じゃないの。いやらしい! なんでそんなことさせとくの、あんたは!」
と私を責めるのだった。私はそれが怒られるようなことだと思っていなかった。なのに、母があまり激しく怒るので、すっかり驚いて萎縮《いしゆく》してしまった。
夏には、母が縫ってくれたショートパンツばっかり穿いていた。ある日、私は縁側の廊下で、外に向けて足を投げ出して寝ころんでいた。するとそれを見た母が飛んできて、私を怒鳴りつけた。
「何をしてるのっ!」
私はびっくりした。母は、私がショートパンツを穿いていることに気づいていないのだと思った。スカートをはいてそんなことをしたら、お行儀が悪いと怒られてもしかたないと思ったからだ。私は母に、
「ショートパンツだったんだよ」
と言ってみた。しかし、母の怒りはおさまらなかった。母は、
「だれか男が見てるかもしれないのに!」
という言い方をした。
「変な人がいたらどうする!」
とも言っていた。
縁側と言っても、塀も何もないので、目の前を人が通る。しかし、家の前の道は行き止まりで、通るにしても、大家さんの老夫婦か、私の家より奥にある三軒の家の住人だけ。つまり、ほとんど人通りはなかったのだ。私は、もし誰か通ったら起き上がろうくらいに思っていたのだった。
母がいったい何について言っているのか、意味はわからなかったが、これほど母が怒るのだから、何かあるのかなとは思った。私はただしょんぼりしていた。
私は他にも、怒られるようなことではないと思っていたことで母にも養父にもひどく怒られ、びっくりすることがよくあった。
母はまだクラブ勤めをしていたので、朝がつらく、朝食を作らなかった。私たちは、起きると、テーブルの上に置いてある小銭でめいめい好きなものを買ってきて、勝手に食べていた。私はそういう朝ごはんが、何だか大人っぽくて好きだったので、小学校の先生から、朝ごはんは何を食べているかと聞かれたとき、ありていに答えた。すると、それを知った養父はかんかんに怒り、大声を出して母を責めた。
「こいつ、お前が朝めしを作らないのを教師にばらしやがったぞ。世間体が悪い! 明日からは毎日ちゃんと起きて朝めし食わせて出せ!」
私はまたまたびっくりした。こんなに怒られることだと知っていたら、先生にそんなことを言いはしなかった。母はしょんぼりしている。私は母に悪いことをしたと思ったが、謝ったりはしなかったと思う。私は、なぜ叱られたのか、自分のどういうところが悪かったのか納得するまでは絶対に謝らない子どもだった。
母は次の日から、朝早く起きて朝食を作って食べさせてくれるようになり、私たちは勝手にお金を使って自分で食べるものを決める楽しみをなくしてしまった。これはとても残念なことだった。
養父が家に入り込んできてからというもの、家の中の食べ物は一切断りなく食べたりしてはいけないことになっていた。母が夕方には出勤してしまうため、我が家の夕飯は四時と早く、育ち盛りの私たちは必ず夜に空腹になる。冷蔵庫に何かあることがわかっていても、勝手に食べたら叱られてしまう。私は妹と二人で、母の勤めるクラブに、冷蔵庫にあるお菓子を食べてもいいかどうかを聞くためだけに電話をかけて、勤務中の母を呼び出したことまである。しかし母は、そんなことで電話しても怒ったりしなかった。母や自分の知らないうちに家の中の食べ物が無くなっていると、養父がその度に激怒していたからだろう。他にも、買い食いなども絶対にさせてもらえなかった。養父の怒りはいつもただごとでないので、私は約束を破ることが出来ず、友だちが買い食いしていてもただ黙って見ていた。みんなが出てくるのをお店の前で妹と立って待っていたこともある。意地の悪い男の子などが、わざわざかき氷などを持って出てきて、
「ああ、うまい」
と目の前で食べて見せたこともあった。妹は、誰も見ていないんだからここまで我慢しなくても、という顔をしていたが、私は、養父はいつどこで聞きつけてきて怒鳴り出すかわからないと思っていた。それに、いつも怒鳴られるのは私の方なのだ。
小学校三年か四年生の頃、母と私と妹の三人で、夏のワンピースを仕立てた。どこの仕立て屋さんに行ったのか忘れたが、母は貧しい中でもそんなことを企画する人だったのだ。お洒落というか、派手好きだったのだろう。私たちは育ち盛りですぐに服が窮屈になってしまう年頃だった。体じゅうの寸法を計ってもらったり、仮縫いに行ったりと、それはなかなかのイベントであった。袖のない、スタンドカラーのついたAラインのデザインだった。夏にはいつもショートパンツだった私がそのワンピースを着て学校に行くと、好きだった男の子から、お洒落してやんの、とはやしたてられた。形はシンプルだったが、大きな向日葵《ひまわり》のプリントが鮮やかだった。
しかし、母と妹は茶と黄色で描いたほんとの色の向日葵なのに、私のは違っていた。母は、私のワンピースだけ、色違いの生地を使ったのだった。私は向日葵が大好きだったが、私の向日葵は、青い色で描かれていて、何か別の花のようだった。出かける時妹と母がお揃いの向日葵のワンピースを着ていても、私だけは青い別の花の服を身につけているのだった。
養父は「お父様」と呼ばれるようになって、ますます家で付け上がるようになってきた。
以前は、おつかいに行ってこいと言われた私が、
「あんたが行けばいいじゃない」
と言っても、養父は、絶句していたのかもしれないが、黙っていた。母の方が、
「静子ちゃん、お父様に口答えするんじゃありません」
と私をなだめる役だった。
私はいつも養父に楯突《たてつ》いた。この人がなんでここにいてこんなにでかい顔をしているのかわからなかったからだ。実父が出ていってしまっても、私たちの名字は養父の名字にかわったりしなかった。そして、それがどうしてなのか聞いても、母も養父も答えてくれなかった。
それどころか、私が、
「ねえ、どうしてお父様の名字にならないの?」
と聞くたび、母は薄笑いを浮かべて、
「なんでかしらねえ。お父様に聞いてみなさい」
と言う。
私はあまり養父と口を利きたくなかった。口の利き方を知らないと言って、しょっちゅう揚げ足を取られるからだ。
いつだか置き手紙の文面に、
「お母様、お父様へ」
と書いただけでも、
「俺は『お父様』なんだぞ」
と言われたことがある。その時は何を言ってるのかわからなかったが、あとになってわかった。何故自分の方を先に書かないのかと言っていたのだ。何者かも知らないのに、無闇《むやみ》に敬わなければならないのだ。
養父に質問しなければならないくらいなら別にいいやと思っていると、母が、
「ほらお父様に聞いてみなさい」
と催促までする。しかたなく、
「お父様、なんでですか」
ととってつけたような敬語でたずねると、養父は、
「知らん! やかましい!」
と、大きな、でも怒っているのではなさそうな声で言い放ち、新聞などを手に取ってしまう。養父と母は二人でそんな遣り取りを楽しむかの様に薄笑いまで浮かべているのだ。そしてそれは何度も繰り返された。子ども心にもそんな二人には何か淫靡《いんび》なものを感じた。自分がそんな空気を作るための材料にされているのもだんだんわかってきた。私は馬鹿馬鹿しくなってきて、そのうちその質問をするのは止めてしまった。そして、母と養父は戸籍上の夫婦ではないということも知った。私は母と父のことをよそでたずねられると、
「内縁の夫婦なんです」
と、母が聞いたら腰を抜かしそうなことを、小学生のくせに真顔で言ったりしていた。
養父は自分が「お父様」という呼ばれ方をされているのが気に入っていたらしい。こんな家庭なのにどうして「お父様・お母様」なんていう気取った呼び方になってしまったのか。それは、私が子どもの頃そう決めたからなのだそうだ。母は、
「あたしたちは照れ臭いんだけどねえ、静子ちゃんたら幼稚園のとき、『これからはお父様、お母様と呼びます』って宣言するんだもの」
と言っていた。それまでは「おとうちゃま・おかあちゃま」と呼んでいたのだそうだ。しかしそれは、それまでの呼び方をそのまま変えただけである。それまでの呼び方はだれが決めたのだろうか。母か実父に決まっている。
私はこの「お父様・お母様」という呼び方があまり好きではなかった。家庭に似合わないという判断まではまだ出来なかったが、小学校の友だちと両親をどう呼んでいるかという話になると、私の家の呼び方を聞いてみんなが驚くのが恥ずかしかったのだ。だから何となく、子どもの頃自分でそう呼ぶと言ったのらしい、という話をするはめになる。私は覚えもないのに、自分で選んだのだからしようがないという気分にさせられていたのだった。
養父は「お父様」と呼ばれている自分を演出しようとしていた。私たちに、「お父様」の権威を示すだけのために、さまざまなことを要求し、それを教育だと思っていた。
私は相変わらず絵ばかり描いていた。本を読んだりしてあまり外に出なかった。出ても、あまり気の合う友だちがいなかったのかもしれない。夜、布団に入ってもなかなか寝つけず、ぼんやり空想に耽《ふけ》ったりした。私はいつか死んでしまうのだという考えにとらえられて、怖くなったりした。私が死んだときのことをいろいろ考えたりした。母が、死んだ私を見て、
「静子ちゃんにもっと優しくしてあげればよかった」
と言って泣いているところを想像してみた。すると涙がぽろぽろ零《こぼ》れていい気持ちだった。
養父は毎晩母を迎えに行っていた。一度帰って来てから行くこともあったし、そのまま母の所へ行く時もあった。私が小学校にあがってから、イワナガのおばちゃんたちも来なくなり、妹が寝ついたあとの時間は、私にとって一番楽しい時間になった。私の寝る時間はどんどん遅くなり、十二時過ぎまで起きているところを帰ってきた養父と母に見つかってしまったこともあった。
養父も母も赤い顔をしていた。母は、家ではほとんど酒を飲むことはなかったが、養父と二人のときや、店では飲んでいたのだろう。化粧を施した母の顔が上気しているのはなんだか淫《みだ》らな感じだった。二人とも、深夜まで起きていた私を見て、怒るというより呆《あき》れていた。
その日以来、養父が私の監視のためにわざわざ早く帰ってくることもあったように思えた。私はテレビの音を小さくして耳を澄まし、男ものの靴の音が聞こえるとすぐさまテレビと電気を消して、二段ベッドに駆け登った。しかし、養父は、テレビや蛍光灯にひとつひとつ手を当て、余熱を調べると、子ども部屋のふすまをいきなり開け、
「起きてたのはわかってるんだぞ!」
と怒鳴ったりした。なので私は、養父の帰って来そうな時間になると、寒くても炬燵《こたつ》のスイッチを切ったり、テレビを消して、本を読んでいたりした。
靴音が聞こえて慌てて隠れてから、狸寝入りで養父をやり過ごすまでは、豆の木を登って大男の家に忍び込んだジャックが、大男の隙を窺《うかが》っている場面みたいでスリル満点だった。養父がふすまを開ける。私は息を殺してじっとしている。心臓の音が聞こえてしまうのではないかというくらいどきどきする。寝ていると判断して養父がふすまを閉めてしまうと、思わず溜め息が出た。十二時近くになれば養父はまた母を迎えに出ていく。出ていったら起き出してやろうなどと考えるが、そのうちいつも眠ってしまっていた。
ある時、なかなか眠れずにいると、養父はハーモニカの練習を始めた。彼は旧満州生まれで、軍歌が大好きだった。古くさく野暮ったい、下手な演奏だった。養父の右頬には五センチもあろうかという大きくて深い傷がある。子どもの頃、旧満州でソ連兵の流れ弾《だま》を受けた跡だという。そしてその弾はまだ後頭部あたりに埋まっているらしい。へたに取り出すと危ないと言われ、そのままにしているのだそうだ。養父は、その傷が自慢のようだった。
「これを見ると、やくざだって、こいつはただものじゃない、と怖がるんだ」
と威張っていた。そんな養父を、母は頼もしそうに見ていた。養父が毎日迎えに来てくれるので、深夜の帰り道も安心なのだそうだ。ちんぴらにちょっかいを出されていたところを、追っ払ってもらったこともあるという。しかし、毎日迎えに行く目的の中には、母の浮気を防ぐためというのもあったはずだ。何故なら養父は、他の客にしなだれかかっていたと言って、ホステスである母を顔が変わるまで殴り続けたことがあるからだ。
その時母はあまりの痛さに何度も失神しかけたという。目の前にはあまたの星が散り、気を失ってしまったほうがましだと思ったという。養父は、母を殴るだけ殴ると、そばにあったそろばんを母の頭に叩きつけた。そろばんの玉はばらばらに弾《はじ》け飛び、そこらじゅうに散らばった。それは、クラシック音楽のエンディングのシンバルの一発打ちのようであった。養父はそのあとさらに、そろばんの玉で滑って転倒までして見せてくれ、気まずさからか、
「もう俺は出ていく! 絶対帰ってこないからな!」
と捨てぜりふを残して出ていってしまった。母は、
「あなた、戻ってきてください」
と哀れっぽい声を出して訴えていた。母ひとりだけメロドラマの役者のようであった。私は内心、これでうるさいのがいなくなったとほくそえんだ。養父のいない生活を私は心から望んでいたのだ。大の大人が帰ってこないと言うのだから、よもや戻ってくるまい。経済的にも、別に養父が家を助けているという印象はなかった。
ところが彼は、パチンコかなんかに行っただけであっという間に戻ってきてしまい、私をひどくがっかりさせた。そして、自分の勤める会社が扱っている湿布薬を母の顔に黙ってぺたぺたと張りつけた。彼は一言も謝りはしなかったらしいが、母はその手当てだけでとても満足し、私や妹に、
「高い湿布薬を沢山使ってくれているのよ」
と自慢までしていた。しかし顔がもとに戻るまで、母は一カ月近くも店を休まなければならなかった。
養父は、医薬品の販売会社の営業マンだった。資格も心得もないはずなのに、母や自分に注射を打ったりしていた。母が顔のしみで悩んでいたとき、養父が続けて打ってくれたビタミン注射が、それをきれいに消してくれたのだという。
小学校に上がるまでは、絵画教室や、オルガン教室に通わせてもらっていた。私はどちらも好きで、教室での評判も悪くなかった。しかし小学校に上がると同時にどちらも止めさせられ、代わりに通わされたのは、書道の教室だった。母は、自分が悪筆に悩んだので、同じ苦労をさせないようにと、書道教室を選んだのだそうだ。角刈りの、ちょっとやくざっぽい、色白で目元の涼しい男の先生だった。小学校の六年間、ずっと通い続けていたが、あまり楽しくなかった。字を書くことのほかに、正座して静かにしていなければならないことなどなど、礼儀作法のような空気がくっついてくるのが、私の性に合わなかった。それに、絵や音楽に比べて私にはどう見ても書道の才能はなかった。強いて言えば、それは知恵の方にあった。私がちまちまと図案の様な字を書いているのに比べて、知恵の作品は力に満ちていた。私は小学校で描いた絵で賞を取ったり、子どもののどじまんに出て優勝したりはしていたが、書道展の方は、何度出品しても、六年間、ろくな賞も取れなかった。その逆に知恵は、素晴らしい字を書く代わりに、人前に出て何かするのはまるきり駄目だった。母と私と三人で家族のどじまんの予選に行った時も、ひどく足手まといになった。子どもは踏み台の上に乗って歌うのだが、知恵はその踏み台の上で歌いながらじりじりと私に体を押しつけて来、ついには私を台から突き落としてしまったのだ。私は、予選に落ちたのは知恵のせいだと怒ったが、母は知恵を責めたりしなかった。
母は歌を歌うのが好きで、よく大きな声で歌っていた。
「声が大きくて恥ずかしいよ」
と私たちが言うと、
「大きな声で歌わなきゃ歌った気がしないでしょ。大きな声くらい出せないとあんなうるさい店の中で働いていけないよ」
と言った。
ずっとあとになって知ったが、実父は達筆な人だったらしい。妹は、実父の才能の方を引き継いでいたのだ。しかし母は、どんな時にも、妹と実父が似ている部分には触れなかった。いつも念仏のように私が実父に似ているとだけ言った。母方のいとこには絵がたいそう上手《うま》い姉弟がいるが、絵のことも歌のことも、私が母方から引き継いだと思われるものについても一度も話題にしなかった。ただいつも、
「静子ちゃんは性格が前のお父様に似ている、顔も似ている」
と言った。嫌だった。
結局、小学六年生のときその書道塾をやめたきっかけは、先生がどうも母の勤めるクラブの客であるらしい、ということだった。そのころの私にはまだそれが何故やめるきっかけになったのかはわからなかったが、養父は母がホステスをしていることを恥と考えたか、先生に母がホステスとして接する機会が少しでもありそうなのを嫌がったかどちらかなのだと思う。
小学校四年生のとき、担任の中島先生から、将来何になりたいかと聞かれた。私は迷わず、
「漫画家になります」
と答えた。口に出して言うのは初めてだったが、私はとっくにそう決めていた。中島先生はそれを聞いてにっこりと微笑《ほほえ》み、
「それはいいわね、じゃあこれをあげましょう」
とどこからか藁《わら》半紙の束を取り出してきて、私にくれた。私はびっくりした。いつも絵を描くのは新聞に入っているストアの折り込みチラシの裏で、裏も表も白い紙なんて使ったことはなかったからだ。それに、それはかなりの枚数だった。ほんとにこんなにもらってもいいのかと思った。
「丸めて置いといたから、くせがついてしまったの。くせがついていると、ガリ版の印刷がしにくいから。全部持っていっていいわよ」
私はこおどりして家に帰り、早速母に報告した。母も喜んでくれるはずだった。ところが、私の話を聞いて母の顔色はみるみるうちに変わっていった。
「漫画家になるですって? 本当にそんなことを言ったの、あんた!」
母は真っ赤になって漫画家という職業を口汚く罵《ののし》った。そんな反応をされるとは夢にも思わない私は、ただあっけにとられた。私が毎日絵さえ描いていればいい子どもなのを母は知っているはずだし、私が母にわざわざ言わなくても、母は私が漫画家になろうとしているのをとっくに知っているとばかり思っていた。なのに母は怒りのあまり先生まで悪く言うのだった。
「漫画家になるなんて言うほうも言う方だけど、先生のくせにそれを応援しようなんて一体どういうつもりなの! 今すぐそれを返して来なさい!」
私は紙の束を抱えて外に出た。学校までの道を歩きながら、何も返して来いとまで言わなくてもいいのにと思った。ランドセルを背負わずに学校の中に入るのは、何だか後ろめたい気持ちだった。中島先生はまだ教室にいた。他にも、掃除当番の生徒が何人か残っていた。
「あの……おかあさんに、返して来なさいって、言われました」
私は力なくそう言って、さっき先生のくれた紙の束を差し出した。何か聞いて欲しかったが、先生は何も質問してくれなかった。ただ、
「そう」
と言って、その束を受け取った。私は失望して、黙って踵《きびす》を返した。そして、坂道をのろのろと登って家に帰った。学校から家までの間には、石段が五十段も続いている「五十段坂」と呼ばれている坂がある。こんなにしょんぼりしている時でも、小さい時から坂と石段に慣れている私の脚は、ゆっくりだが一気に五十段坂を登ってしまうのだった。
母はまだ怒っていた。養父が帰って来ると母はすぐに昼間の話を持ち出し、私は母と養父の二人から改めて叱られた。
「あなた、静子ったら漫画家になりたいなんて言うんですよ」
「何をふざけたことを言ってるんだ」
「それを先生に言っちゃったんですよ」
「ばーかが!」
「先生も先生で、じゃあこれに漫画描きなさいって静子に紙をくれているの。あたし、びっくりしてすぐ返しに行かせたわよ」
「馬鹿が。教員なんかやってる人間はみんな馬鹿ものだ」
養父は「馬鹿もの」が口ぐせだった。先生のことを、必ず「教員」と言った。そして、どの先生にも必ずけちをつけ、おとしめた。母も同じだった。あの先生のおかあさんはくずひろいをしていてちょっと頭がおかしいとか、プライベートなことまで言ってけなすこともあった。
それよりも私はあの紙が惜しくてしかたがなかった。先生の好意を無にしてしまったことも悲しかった。養父はともかく、母が私の希望している職業をあれほど嫌がったのも腑《ふ》に落ちなかった。このことがあってからというもの、絵を描いている私を見る養父の顔つきは、日に日に険しくなっていった。
「静子、お前医者になれ。今の医者は馬鹿ばっかりだ」
養父は、何かというと医者の悪口を言った。病院に営業に行くと、馬鹿な医者が威張っているのが我慢出来ないという。私は、母がたびたび、
「静子ちゃん小さい頃、お医者になって私の脚を治してくれるって言ってたのよ」
と言っていたことをぼんやり思い出していた。なれるのなら、なってもいいな、とも思った。そうすれば母が喜ぶと思った。
母はとにかくテストで百点を取ってくると喜んでくれた。学級委員になるのも、賞状を貰うのも喜んだ。学級委員になると、「何学年何学期の学級委員を命ずる」と書いた証状がもらえる。私は一学年三学期のうち必ず二回は委員になっていた。母は、その証状を全部箪笥の中に皺《しわ》にならないようにきちんとしまいこんでいた。テストも小学校の頃はほとんど百点を取っていることが出来ていたが、九十五点や九十点までは、養父と母もそれほど機嫌を損なわなかった。八十点台になると、今度から頑張りますと頭を下げて謝らなければならない。ところが私は一度だけ五十点という恐ろしい点数を取ってしまった。それは珠算のテストで、計算問題だけなのだが、そろばんを使って解くテストだったのだった。そろばんを習いに行っている子たちはみんなすらすらと解いていた。書道教室では、いくら良い級を取っても、子どもと大人では書く文字が違うので、年をとると一からやり直さなければならない。私は小学校六年で六段まで取ったが、中学にあがったらそれも五級からやり直し。さらに、高校にあがったら十級までまた落とされる決まりだといわれていた。でも、珠算教室でとった級は、一生同じ価値だという。私は、書道よりそっちのほうがよっぽど役に立つような気がした。
私はとうとう、珠算のテストとはいえ五十点を取ったことを母に言い出せなかった。教室に行ってないからなどという言い訳など、養父は聞いてくれないと思った。私はその恐ろしい点数のテスト用紙を机の奥にしまいこんでしまった。
しばらくすると今度は母が勉強しだした。簿記の資格を取り、会社勤めを始めるのだという。母は、クラブの仕事をしながら、昼間は簿記の学校へ通った。その頃の母は忙しさにいらいらしていることが多かったが、私はそんな母が頼もしかった。母は、あっという間に一級の資格を取り、クラブ勤めを辞めた。
「一級っていったら、簿記の先生にもなれるのよ。人間、何をやっても食べていけるようにしなくちゃね。私はダンスも洋裁も編み物も出来て、どの道に入ってもプロになれるけど、よそには何も出来ないおかあさんだっているのよ」
と母は私と妹に自慢した。
私は母が簿記の先生になるのかと思っていたが、母はあっけなく小さな建築会社に就職した。そして毎日そこの社長と先輩の悪口を言って暮らした。
母の会社が終わる時間になると、私や妹はよく母と待ち合わせて夕飯の買物につきあった。母がクラブを辞めたのには、養父が出世したという理由もあったのらしかった。母の会社の給料だけではやっていけないが、養父が経済的に援助を始めたので、母はクラブ勤めを辞めることにしたのだった。
「昔は私が食わせてるって感じだったんだから」
とこっそり母が私と妹にだけ言ったこともあった。
しかし養父は、母のホステス時代のことが今になって気に入らないらしく、酒が入ると冗談めかしてねちねちと母を責めた。
「あーら、ターさーん、とかやってたんだぞ、こいつは」
と鼻で笑って、私たち子どもの前で罪人のように母を指差すのだ。ホステスという職業を選んでいたことを、
「お前は楽して金を稼いでたんだからな。その報いは必ず来るんだからな」
と、かなり悪意のこもった言い方までして批判するときもあった。
母が夜に家にいるようになると、養父は晩酌を日課とするようになった。必ず五品以上の酒の肴《さかな》を作らせ、ウイスキーの水割りを何杯か飲みながらそれをつつき、すぐに真っ赤になって、米飯を少し食べて寝てしまうのだった。翌日、養父のつまみの残りをおかずにして、私と妹でご飯を食べた。母は養父が帰るのを待って食べずにいたように思うが、食事のときも席を立ってばかりでろくに食べられず、養父が寝ついてから改めて一人で食べているときもあった。養父は、一番良いものが自分の食べ物、そのお余りが母や子どもの食べ物というふうに、はっきりと食事の形を分けていた。
ある日の夕方、鶏肉が古くなりかけていることに気づいた母は、それを唐揚げにして私と妹に食べさせた。ところが運悪くその夜、養父がつまみに鶏肉を出せと言いだしてしまった。彼は、自分と他の家族の食べ物の階級を分けただけでなく、食べたいと思ったものはいつでも出てくるようにという要求までしていたようだ。子どもたちに食べさせたと聞くとかんかんに怒り、大声で母をののしりだし、ついに今から買って来いと言って母を玄関から外へ出してしまった。
夜中の十時まで開いている店などない時代のことである。どうすることも出来ず、私と妹は子ども部屋で小さくなっていた。長い長い時間が経った。だが母はなんと、鶏肉を手に入れて戻って来たではないか。繁華街まで行って、小料理屋さんから分けてもらったという。私はそんな母をなんだか尊敬できない気がした。そこまでしなければならないのだろうか? そんなことをしたら、養父はますますつけあがるのではないだろうか。
養父は食べ物に関しては異常な執着を持っていたようだ。近所の小さなレストランにみんなで食事に行ったときも、ランチよりあとにコンソメスープが出てきたと言って、ウェイトレスを怒鳴りつけた。中年夫婦と、アルバイトのウェイトレスでひっそりとやっているその小さな店内に、養父のヒステリックな声が響き渡った。母と私と妹は、逃げ出したいような気持ちで、黙って食べるしかなかった。
またあるとき養父に呼ばれて居間に行くと、テーブルの上に、お菓子が山と積まれていたことがあった。母と二人でパチンコに行って取ってきたのらしかった。甘いものに目のない知恵は、
「わー、すごーい!」
と歓声をあげた。養父は、にやにやして私と知恵の反応を見ていた。
「さーて」
養父はゆっくりとお菓子の山に手を伸ばした。しかしそれは私たちにお菓子をくれるためではなかった。まず、お菓子の山を作ったり壊したりしてゆっくりもてあそんだ。
それから、お菓子の箱を積木に見立てて、街のようなものを作った。
「ほうらビルだぞう」
説明までした。
知恵は食い入るようにお菓子に見入っている。養父は今度は、山と海を作っていた。
「これは船だぞう」
さらに動きを入れることにしたらしく、チョコレートの細長い箱の上にキャラメルの箱を乗せた船で、航海を始めた。私はいいかげんうんざりした。妹はただお菓子を目で追っている。
「ぽんぽんぽんぽん」
何がそんなに楽しいのか擬音まで入れる養父を、母は恥じもせず微笑んで見ている。私はついに我慢できなくなった。
「あたし、いらない」
ひとこと言い放って、席を立った。玄関で運動靴をつっかけて、外へ走り出た。こんなことをしたらあとでひどく叱られると思ったが、養父にへつらってまでお菓子をもらおうとは思わなかった。私はいつも遊んでいた運動場の隅にある小さな公園に行って、ブランコに乗りながら歌を歌った。
ふと見ると、だれもいなかった公園に、知らないおにいさんがいて、私の歌を聞いていた。目が合うとそのおにいさんはにっこり笑ってどこかへ行ってしまった。私はちょっと照れくさかった。
帰ったら、意外にも養父は私を叱らなかった。母が私の分のお菓子を渡してくれ、
「ほら静子ちゃん、お父様にお礼を言いなさい」
と諭《さと》した。私は本気でいらないと思っていたので大して嬉しそうな顔もしなかった。養父は、そんな私を見て、
「ふん、やせ我慢しやがって」
と鼻で笑った。でも、目は笑っていなかった。私は、あとで「やせ我慢」という単語を辞書で引いてみた。
私が楯突けば楯突くほど、教育に名を借りた養父のいやらしい要求はエスカレートしていった。彼は『スパルタ教育』という題名の本を購入し、滑稽なほどそこに書いてあるとおりを実践しようとしていた。
その本を隅から隅まで暗記するほど読んでいた私は、そのまんまをやろうとする養父が馬鹿に見え、ますます彼を軽蔑する気持ちを育てていった。(私はよく養父と母の留守に本棚からいろんな本を引っ張り出して、見てはいけないと言われていた大人向けのものも勝手に読んでいた。養父は男が女を征服しつつ活躍するバイオレンスものの小説などを好んで読んでいたようだったが、どっちにしても私が面白く思えるものや、彼のことを尊敬出来るようになる類の本はほとんど発見することが出来なかった。小説誌の欄外に、彼が描いたへたくそな女の裸の落書きを見つけたこともあった。)『女の子の躾《しつ》け方』という本もあったが、そちらの方はまるで実践されている気配が無かった。
『スパルタ教育』の内容には、「子どもと同じものを食べるな」「夫婦二人だけで外出しろ」「子どもとの遊びでも本気で闘え」「母親は男の子のオチンチンを褒めろ」などがあり、たいがいは身勝手に歪《ゆが》んだ形で実践された。他にも、今日から一日一時間正座の時間を作るだの、これから悪いことをした時は物差しでぶつだの、いつも芝居がかった教育らしきものを思いついては飽き、思いついては飽きしていた。
朝起きると、三つ指をついて、
「お父様、お早ようございます」
と挨拶しなければならなくなった。これは最初の頃さすがに自分でも照れくさかったらしく、新聞でにやけ笑いの顔を隠したりしていた。私は三つ指をつきながら、何がそんなに嬉しいんだ、馬鹿馬鹿しいと思っていた。
夜になって養父が仕事から帰ってくると、今度は何をしていても(というよりも、本当は勉強以外のことをしていてはいけない決まりなので、そういうふりをするのだが)中断して出迎え、
「おかえりなさい、お疲れさまでした」
と言わなければならなかった。それが済んだら、風呂の時間以外は、寝るまでひたすら勉強すること。見たいテレビ番組があったら、お養父《とう》さまに申し出、お願いすること。許可をもらったら見てもよい(!)。
養父に頭を下げてまでも見たいテレビ番組なんて、そんなには無かった。たまに申し出ても、
「ほう! こんなもんが見たいのか」
と馬鹿にされたり、
「またこんなの見たがりやがって」
といちいちいびられるので、ますます我慢するようになった。しかし、子どもたちがまったく寄りつかないのも気にいらないらしく、たまに養父のほうから、
「おい、ちょっと二人とも呼べ。この番組は、勉強になるから見てもよし」
と私たちを呼びつけることもあった。どうでもいいやと思って行くが、普段見せてもらえないだけに、知らず知らず夢中になってくる。すると、今度は突然大声を出して私たちを脅かしたりする。養父は私たちを一瞬たりともリラックスさせたくないのだ。私は、そんな彼のすべてが嫌いだった。
養父も私の反抗的な態度が気に触るらしく、何かというと刑事口調で私をののしった。
「|あれ《ヽヽ》には不良の芽がある!」
という言い方をした。お前の今までの教育のせいだと、母を責めた。
「|これ《ヽヽ》は!」
と私を物のように言って指差し、
「要注意!」
と決めつけた。何かする度に、
「ほら、要注意、要注意!」
と指摘した。
しかし、嬉しいことに、養父は一週間に二度、家に帰ってこない日があった。週の真ん中に一度、そして日曜日の夜。お仕事なのよ、と母は言っていたが、理由は何でもよかった。養父がいないだけで、こんなにも家の中が楽しい。私たちはその日だけ、好きなテレビを見たり、思う存分ごろ寝をしたり出来るのだった。日曜日、養父は夕方くらいまでは家にいるのだが、夜になると必ずどこかへ出ていき、月曜の夜まで帰ってこない。週の真ん中の日は、木曜日が多かったが、たまに夕方だけ戻って来たり、かと思うと深夜にいきなり帰ってきたりするので油断は出来なかった。
母も、
「お父様がいないと楽よねえ。羽が伸ばせるよね」
と言っているので、私は、母もあまり養父が好きじゃないんだ、よかったと思っていた。しかし、帰ってこないはずの彼が突然玄関を開けたりすると、結構嬉々として出迎えているのだった。私と妹は一度慌てて子ども部屋に逃げてから、しぶしぶ養父を出迎える。帰って来ないはずの養父が戻ってくると、ほんとうにがっかりする。
しかし、他にも、正月や、お盆や、それと祭日にも養父は家に帰って来ない。連休の時などは、養父は最初のころ家にいるのだが、しばらくすると名残惜しそうに背広を着込んで、居なくなる。私は早く出ていけ、早く出ていけと心待ちにしていた。つまり彼は、日曜祭日盆暮れ正月に外泊をする奇妙な父親だったのだが、私は養父がいない方が好きだったため、一度もそんな状態を疑問に思ったことはなかった。しかし母は、そこのところをもっと私たちに聞いて欲しかったらしい。
「お父様がね、日曜帰ってこないのは、お仕事なのよ、何のお仕事なのかしらねえ、ほら、お父様に聞いてごらんなさい。あなた、静子が聞きたいって」
と何度も私をだしにして養父に何かを言わせようとするのだった。そしてそんな時、養父は、
「知らん!」
と|怒ってはいない大声《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を出す。それも、何度か繰り返し見た情景であった。
養父の馬鹿馬鹿しい教育もどきに付き合わされるのはまだいい。私には、どうしても許せないことがあった。それは、養父が冗談めかして私の胸やお尻を触ることだ。
「どら、おっぱい触らせてみろ」
などと言って、手を伸ばしてくるのだ。私はその度に、
「いやらしい」
と露骨にいやな顔をするのだが、一向に止めないばかりか、
「色気づきやがって。お前は素直じゃない」
とあべこべに責められてしまう。その上母にまで、
「ほらやっぱりあれには不良の芽があるぞ。お前がホステスなんかやってたからだ」
などと言っている。母は、悲しそうな顔になって、
「静子ちゃん、もっと素直になってちょうだい」
と哀願する。私にはその意味がわからない。素直とは一体何なのだ。お父様がお菓子を下さる時は土下座して感謝しろというのか。お父様が体を触らせろと言ったら、喜んで胸やお尻を差し出せとでもいうのか。でも、そういうことだったのだ。養父と母はそういう意味で言っていたのだった。
パンパンパンと、爆竹の弾ける音が聞こえる。
小学校五年生の秋祭りの最後の日だった。もう出し物はとっくに終わっている時間だったが、出店のまわりはまだ賑やかなはずだ。
「しず、チーコ、行くから早く用意しろ」
養父はいきなりそう言い出し、私と妹は慌てて靴下を履いた。養父も母も知恵をチーコと呼んだが、私の名はそういう可愛いアレンジが出来なかったらしく、しずなどと、江戸時代の娘のように呼んだり、あだ名を付けようとして失敗したりしていた。養父にはかわいそうなほど笑いのセンスというものが無く(自分が世界一偉いヒトであるから当然と言えば当然だが)、あだ名を付けるセンスにおいてもしかりであった。私が、好きでいつも食べているインスタントラーメンの名をそのままあだ名にしようとして勝手に私をそう呼んでいたが、面白くも何ともないので家族の間で定着せず、すぐすたれてしまったりした。
それでも養父はなんとかしてたまには私たちを笑わせたいらしく、母のスカートをはいて戯《おど》けるという捨て身の手段に出ることもあった。そこまでされたらいくらつまらなくても子どもの立場としては笑わないわけに行かなかった。あとで彼は必ず、
「学校で綴《つづ》り方に書くなよ」
と念を押した。母に綴り方とは何かを尋ねたら作文のことらしい。そして、もちろん私はすぐ作文に書いた。
表はまだ大分明るかった。この地方特有の、鯨を象《かたど》った張りぼての出し物が道のはじっこで笑っている。波のような形の目を持ち、思い切り両端をつりあげ歯をむいた口をもつその鯨の背中からは、水が噴き出す仕掛けになっているのを一度テレビで見た。養父はひとごみが嫌いで、お祭りなどにあまり私たちを連れていってはくれなかった。たまに何処かへ連れていってくれても、どういう訳かそういう時ほとんど母は留守番なのであった。これではせっかくのお出かけも楽しいはずがなかった。養父だけの前では私も妹もびくびくしていなければならないし、家にいた方がましなくらいだ。
途中まで私は、どの家もこうなのだろうと思っていたので、友だちの家に遊びに行くとそこの家のお父さんが気になってしかたがなかった。高梨という、近所の家に行った時は、そこのお父さんが、
「おーい、灰皿ないか」
と言っているのになかなか灰皿が出てこないのですっかり慌ててしまい、
「あの、あの、これで一応灰を受け止められます」
と言いつつ、遊んでいたトランプを差し出した。すると友だちの女の子が灰皿を持って現れ、トランプを差し出している私を見て変な顔をした。私は顔が真っ赤になった。
また、山口という、クリーニング業を営む家に友だち数人と遊びに行った時も、ガラス戸の向こうでアイロンをかけているそこのお父さんから私だけどうしても目が離せないのだった。挙げ句には、そのお父さんが自分を指差したような気がして、なんとガラス戸を開けて仕事場へ入っていき、
「呼びましたか」
と声を掛けてしまったのだ。
実際は、そのお父さんは、何かの道具を手を伸ばして遠くへ置いただけだった。私にはその道具が目に入らず、「おい、ちょっと」と人を呼ぶ時に似たそのポーズだけを見てしまったのだ。呼ばれたのは自分ではなかったかもしれない、と少しは思ったが、とにかく私は慌てた。自分の家ならば、養父が誰かを呼んだ時すぐに駆けつけなかったりしたら大変なことになるからだ。怒鳴られるだけではないのだ。昔のことまでねちねちと蒸し返され、その日一日、家の空気は鉛の様に重苦しく変わってしまうのだ。私はとっさに、
「もう間にあわない。私が何の用なのか聞いて、ここのお母さんか誰かに教えてあげるしかない」
と思ったのだった。しかしお父さんにしてみればさぞかし奇妙に思っただろう。自分は仕事をしていただけなのに娘の友だちがいきなり仕事場に入ってきて、
「呼びましたか」
などと言ったのだから。結局私の申し出を聞いたお父さんは、
「は?」
とだけ言い、私はまたもや顔から火が出たのだった。
夜店はまだまだ賑やかだった。よその子たちは皆手に手にリンゴアメや水飴、せんべいを持ち、薄荷パイプを首からかけて楽しそうだった。養父はいつも、
「ああいうお菓子はバイキンだらけだから病気になる」
と言っていたが、まだ病気になったという話は聞いたことがなかった。子どもはみな大きな声で何か言いながら、笑い合っていたが、私は黙って見ていた。養父の前では、買い食いはもちろん大きな声で笑うことさえ禁止されていた。(彼の言った冗談に対してなら許されたのだろうが、それは出来ない相談だった。)大声で笑ったと言っては「馬鹿笑いをするな!」と怒鳴られ、流行歌を歌ったと言っては「そんな歌を歌うな!」と怒鳴られた。その頃はもう、漫画を読む事も絵を描く事も、
「こいつ狂ったように熱中してるぞ! 止めさせろ!」
となっていた。
私には空想癖がつき、焦点の合わない目でぼんやりしていることが多くなった。(知恵にも虚構の楽しみに逃げる癖がついたのか、紙人形遊びなどをよくしていた。彼女の作る設定はお姫さまとかお嬢さまとか現実離れしているものが多いのだが、そんな設定のわりにはどんどん演技に熱が入っていき、最後には周りがわからなくなるほど集中し、見ていて気味が悪くなることもあった。他にも、何度も同じ夢を見ると言って事細かにその夢を説明してくれたりするのだが、あとでよく考えたら夢にしては都合が良すぎて、どうもつくり話のようなのだ。私は少しずつ、彼女が自分の都合のいいほうに事実を作り変えて話す癖があるのを知っていった。)
養父と二人の子どもは、ただ漫然と歩きまわっていた。昔はままごとの食器などを買ってくれたりしたのだが、
「もう大きくなったからおもちゃは要らんだろう」
などと言って何も買ってくれなかった。私も知恵も彼に物をねだるなどというだいそれた事が出来るはずもなく、黙って腕にしがみついて歩いた。
だんだん暗くなり、子どもたちの姿は少なくなってきた。私は頭の中で、めったに見られない夜の街の風景を楽しんだ。ところが、養父は急にとんでもない事を言い出したのだ。
「よしほら、ここ行くぞ」
それは、人が渡ってはいけない危険な橋だった。列車のためのものらしいが、そこを列車が通るのさえ私は見たことがなかった。お座なりではあるが立ち入れないようにロープがかかっていたから、もうすでに使われていなかったのかも知れない。
私は最初、また養父のつまらない冗談だと思ったが、なんと彼はそのロープをくぐって渡り始めてしまった。どこも掴《つか》まることのできない鉄骨と枕木と線路だけの橋。私は思わずとまどい、養父の腕を手放してしまった。
私にとってはほんの一瞬だった。気がつくともう彼と知恵の姿は数メートル先にあった。知恵は怖くなかったのだろうか、養父の腕にしっかりしがみつき、一緒になってどんどん渡って行った。私は姉として知恵が心配だったが、少し経つと知恵がきゃあきゃあと歓喜の声をあげているのに気付いた。信じられないことだったが知恵はスリルを楽しんでいたのだった。
そうこうしているうちに私はすっかり取り残されてしまった。慌てて一人で渡ろうとして、二、三歩踏み出し、はっとした。遠くで見ている時には分からなかったが、枕木と枕木の間は驚くほど離れていたのだ。そしてその隙間は、ひとつひとつが遥か下に暗黒の流れを持つ恐ろしい落とし穴だった。私は足がすくんだ。ここから落ちたら助からないと思った。枕木は私の小さい足が充分乗る幅ではあったが、怖くて自分の足元から目が離せなくなった。向こう岸までは何十メートルもあり、養父も妹も夜の闇がとうに飲み込んでしまっている。引き返して岸を回って行こうかとしばらく迷ったが、そんな事をしていたら完全に二人とはぐれてしまいそうだった。そしたら私は家に帰れないのだ、なんとかしなければ。
私は大した能力もないくせに、妙なところで人を頼らない所があった。養父が向こうで私が回って来るまでの時間待っててくれるという予想や、お巡りさんを含めた周りの大人に訳を話して助けて貰おうということなどは、全く頭に浮かばなかった。私は、再び足を踏み出した。這《は》いつくばって行こうかとも思ったが余計危ないような気もした。一歩一歩、ゆっくり確かめるように歩いた。枕木が磨《す》り減ったようになって、幅が狭いこともあり、何度ももう駄目かもしれないと思った。引き返す事も叶わないほど進んだ頃、若いアベックと擦れ違い、面食らった。養父の他にもこんな危ない所を渡ってやろうという人間がいたとは。ところが、その二人も養父と知恵がそうだったように、明らかに危険を楽しんでいるのだった。男の腕にしがみついた女は、嬌声《きようせい》をあげながら私の方を見もせず視界から消えて行った。見ると他にも渡っている人が結構いる。私は誰かに助けを求めたかったが、何故か出来ないのだった。枕木の隙間のうねる水羊羹《みずようかん》のような真っ黒い川を睨みつけながら、だんだん足が強張《こわば》っていくのを感じ、ここで死ぬのかもしれないと思った。ときどき枕木の間に鉄骨が組まれている部分が現れて私を励ましてくれたが、そこで立ち止まって休憩するほどの度胸はなかった。
歩いても歩いても向こう岸が逃げて行くような気もしたが、それでもようやくあと数メートルという所へ来た。見ると、橋の終わりの所に、随分沢山の人がいる。なんであんなに人がいるのだろう、あの中に養父と知恵もいるのかしらと思いつつ見ていたら、その人たちが何か口々に叫んでいるのが分かった。
「頑張って!」
「もう少しもう少し!」
「気をつけろ!」
何ということだろう。それは私のために結成された応援団だったのである。背ばかり高くてひょろひょろに痩せた小学生の女の子が一人で危なっかしく橋を渡っているので、いつのまにか見物人が集まってしまっていたのだ。それに気付いた私は恥ずかしさで怖かったことも忘れて真っ赤になった。最後の数歩を思い切って走り、人々の歓声と安堵の溜め息のゴールを抜けたが、次は完走後のインタヴュー攻めとなってしまい、いたたまれない気持ちだった。
「だいじょうぶ?」
「おかあさんは?」
「なんで一人で渡ったの?」
「よかった、よかった」
私は全ての質問にノーコメントのまま、エイドリアンを捜し求めるロッキー・バルボアのように養父を捜したが、その中には彼も知恵も見当たらなかった。今度こそ本当にはぐれてしまったのだ。
人ごみの中を抜け、絶望的な気分で歩いていると、
「馬鹿ものが!」
と何処からか養父の口癖が聞こえた。彼は、一応私を待ってはいたのだが、人が騒ぎ出したので、「世間体の悪さに」隠れていたのだった。私はそれでも二人が見つかった嬉しさに走り寄った。が、養父は怒ったように背を向け、
「バーカが、のろのろして、大騒ぎにしやがって!」
と言い放ってどんどん歩き出してしまった。私は当てが外れてがっかりしたが、すぐに、この人が優しく自分を受け止めてくれると思っていたのが間違いだ、家に帰れるだけでも喜ばなくてはと思い直し、彼のあとを追って少し走り、左腕を取った。右腕の妹は私には何も言わず、にたにたしながら養父の顔と私の顔を見比べていた。全く私はこの妹に処世術を伝授して頂くべきであった。
養父は二人の娘を両腕にさげて黙々と歩いた。歩きながら私は膝が痛かった。満身の力を込めて枕木を踏みつけていたらしい。あんなことはもうこりごりだったが、ほんのちょっとは何かをやり遂げたような気分でもあった。私はもう人通りの少なくなった街を見ながらめったにない夜の外出の名残を惜しみつつあるいた。この市街地は殆ど川を埋め立てて造られたものだと聞いたことがある。川はすっかり細くなってしまったのだろう、水もないところにコンクリートの橋が沢山残っている。
そんな橋のひとつを渡っている時だった。むこうから歩いてきた知らないおじさんが、通りすがりに後ろ手で私の腰をポンと叩いたのだ。私は思わず振り返った。
「なんだ」
養父が怖い声を出した。
「あの、あの人、知ってる人?」
間抜けな話だが、私は養父の知り合いかも知れないと思ったのだ。
「何言ってんだ、お前は?」
「だって、今の人、私をポンって、叩いて行ったんだよ」
昔から自分を知っている人が、気安く体に触れてみたという感じだった。
「何処を」
私は自分の腰を指差した。すると、
「馬鹿ものがーっ!」
養父はいきなりびっくりするほどの大声を出した。
「それは痴漢だろうが! なんでお前はそういう事を黙ってさせておくのか! ぶん殴ってやる、どの男だっ!」
養父にまくし立てられ、私はすっかり驚いてわけがわからなくなってしまった。
「わからない、顔、見なかった。もう、行っちゃった」
と泣き声で言うと、
「なんで早く言わなかった! 馬鹿か、お前は! のろまがっ!」
養父の怒りはなかなか収まらなかった。私は何故自分が怒られているのかわからなかったが、こういう怒られ方が初めてではなかったことだけは覚えていた。
「お前に隙があるからそういう事をされるんだ、馬鹿がっ!」
そんな事も言っていた。妹はあいかわらず黙っていたが、その口元には薄笑いが浮かんでいた。妹も私がこういうことでよく叱られているのを知っているのだ。「あんたに隙があるから」という言い方は確かに母にもされたことがあった。隙があるってどういう事なのだろう。今だって私は養父の腕をしっかり掴まえていたのにそれでは足りなかったのか。私は前にも増して暗い気持ちで家に帰った。
養父は、家に帰ってまでも、
「この馬鹿が、痴漢にあったのにぼんやりしていやがって……」
と母を相手に私をなじり続けた。何故そうまで言われるのか分からなかった私は、あとで痴漢という言葉を辞書でひいてみた。でも、やはりピンとくるものが無かった。それに昔私の手を握ったお爺さんや、腰を叩いて行ったおじさんよりも、胸やお尻を触る養父の方がよっぽど痴漢に近いような気もした。しかし、母まであんなにむきになって怒るのだから、やっぱり私にどこか悪い所があるのかも知れなかった。
夏休みも冬休みも日曜日も嫌いだった。家にいたくなかったのだ。
日曜日など、外出するには前もってお父様の許可を頂くことという事に決まっていた。養父は、子どもたちが無断で外出したりするとかんかんに怒るのだ。学校でならば、漫画を描いてすごせるのだが、家ではそうはいかない。
いやらしいことに父はときどき子ども部屋と居間との間のふすまを音のしないように開けて、ちゃんと勉強しているかどうか見にやって来るのだ。ふとそっちを見ると、彼がそろそろとふすまを開けている最中だったりして、私はうんざりした。これのほうがよっぽど勉強のじゃまだと思った。ときには一晩に数回もやって来て、何かと意見した。一度こっそりノートに漫画を描いていたのを見つかって大目玉を食ってしまった。その時は母からも、
「勉強するためにノートを買ってやってるのに、漫画描くなんて一体どういう神経してるの」
とひどく怒られた。養父は、勉強のためのノートを無駄にしたとねちねち叱っただけでなく、作品のセリフの部分を馬鹿にした様な調子で読み上げ、稚拙さを嘲笑《あざわら》ったので、私の自尊心はまたまた深く傷ついた。漫画の人物が怒っているという表現のために、人物の頭の上に地図帳で使う温泉の印を描いていたら、それを指差し、母に向かって、
「こいつ色気づいているぞ!」
と言う。また、ハートが描いてあったといっては、
「ほら見ろ、色気づいてる」
どういう訳か、心の貧しい彼には小学六年生の私の描いたギャグ漫画が、ポルノグラフィーに見えるのらしい。安上がりな男もいたものであるが、結局その漫画の描かれたノートは見せしめのため取り上げられ、その後も養父は気が向くと私を呼びつけては、
「鑑賞会をすーる!」
と言い、私の漫画を何度も何度も読み上げては嘲笑い、馬鹿にしたのだった。それをどんなにしつこくやられたか、その四年後に家出するとき私が彼の机の引き出しからそのノートを抜いて持っていった事からも分かるというものである。養父は、そうしていれば私が自分には才能がないとあきらめるとでも思っていたのだろうか。しかし、私はただ漫画が好きで描きたいから描いていただけなので、誰かの評価など求めていなかった。ましてや人を楽しませる能力が皆無な養父の評などは。私に限ったことではないが、漫画を描いているとまわりの級友たちが、
「おにんぎょうさん描いて」
と列を成したり、覗き込みにきたりする。サービス精神が旺盛だった私はいくらでも注文通りの絵を描いてやったり、名作童話のパロディ紙芝居を作って先生を含めた皆を笑わせたりした。だが、彼らの漫画に対する意見には、あまりにもつまらないので耳を貸さなかった。わかりもしないくせに勝手な事を言われている悔しさはあったが、それだけであり、そしてそれはますます私の創作意欲のようなものを刺激するのだった。
私は今度は見つかるまいと小さい紙に小さく小さくコマを割って手の平に乗るような漫画を描いた。ノートはもう使えないので、家の隅に忘れられていたもらいものの去年の手帳(それも父に見つかりそうになって、私は顔から血の気が引くという状態を初めて体験したが)や、書道用の半紙まで使った。私のその頃の友人たち(妹はその内にあらず)は、縦五センチ横三センチに切った半紙の漫画を、楽しみに読んでくれたものだ。
とにかく養父にとって私は「要注意」人物なため、監視がきびしかった。養父の怒りが自分たちに向けられるのを防ぐためか、母も妹も私が何かすると彼に報告し、その度に私は長い時間をかけて叱られた。三人とも口を揃えて、
「まったく静子は変わっている」
「私、こんな子に育てた覚えなんかありませんから」
「おねえちゃん、ちょっとおかしいよね」
とはやし立てた。私は孤独だった。
その頃家にゴローという名の犬がいた。広いほうの玄関に繋いでいて、昼間は玄関を開けっ放しにしていたが、一日一回は外に出してやらないと中で糞《ふん》をしてしまう。私は平均してよくゴローをかまったが、妹は自分の都合のいいときばかり可愛がって、肝心なときになると世話をするのを面倒がった。
ある夜、ゴローの散歩を忘れていたのに気付いた私は、すぐそこまでのつもりで外へ出た。午後十時ごろだったと思う。歩いているとぽとぽとと雨が降ってきたが、私はさして気にも留めなかった。犬が糞をしさえすればどうせすぐ帰るのだし、私はけっこう雨に濡れるのが好きだったのだ。ざあざあ降っている中を傘をささずに歩くこともあった。ところが、その頃家では妹の知恵がめったに起こさない仏心を起こして、濡れている私を助けてやろうとあとを追って出発していたのだった。
私が、ある同級生の家の近くまで行ったときだった。夜中だというのに、たまたま帰ってきたその子とばったり顔を合わせた。
「偶然だねー、どこへ行ってたの」
「算盤《そろばん》塾の帰り」
私とその子は、軒下で雨を避けながらすこし立ち話をした。こんな時間に友だちに会うのは不思議な感じで嬉しかった。が、ふと見ると、恨めしそうな空気を出す人影がそばに立っているではないか。それは、傘をさした妹だった。そしてその顔には汚らわしいものでも見るような表情が浮かんでいた。私ははっとした。隣に立っている同級生は、男の子だったのだ。
「チーコ、どうしたの」
声を掛けたが間に合わなかった。私を迎えに来たはずの彼女は、いきなり踵を返して早足で戻って行ってしまった。
帰ると、養父の怒り狂った顔が待っていた。彼は、小学生のことだというのに、
「お前は男と話をしていたそうだな」
という言い方をした。何がそんなに憎いのか、知恵は養父の後ろでざまあみろというふうに私を見ている。
「してません」
と私は嘘を言った。していたと言ったら、もっと怒られると思った。
「嘘、おねえちゃん話してたよ」
知恵が言った。
「あいさつだけだもん」
私が言うと、養父は、
「そう言い張るならよし。俺がこれからその男を追っ掛けてとっつかまえて聞いてきてやる」
と大声で言い、本当に外へ出て行こうとした。養父の性格ならやりかねなかった。ただでさえ近所で私のうちは変人の家で通っているのに、この上友だちにまでそんな事をされてはたまらない。私は慌てて、
「ごめんなさい、しました」
と謝った。
「ほれ見ろ!」
彼は勝ち誇った。それまで黙って聞いていた母も哀れみをこめた言い方で、
「静子ちゃん、あんた何で最初から本当の事を言わないの? 何がそんなに後ろめたいの?」
と私を罪人扱いした。
「何をしてたか怪しいもんだ。本当にこいつは要注意だからな」
養父はそこまで言うのだった。私は、勉強以外のことに決して興味を持ってはならないらしかったが、その中でも性に関しては、養父も母も異常なほど先回りして私を制しようとするのだった。漫画を読むのを許さない母も、勉強になる学習漫画だけは買ってくれるのだが、「人の誕生」というタイトルのものだけは買ってくれないばかりか、
「またこんな本を読みたがって!」
と私を責めた。
「まったくこの子は異常だぞ」
養父に言わせると私は好奇心が強すぎるからおかしいということであった。
そんなだから、私はなるべく性に関する事に興味がない振りをしていなければならなかったのだが、あいかわらず養父は私の体を触るのを止めなかった。それどころか、五年生の冬に私が初潮を迎えたあと、胸など以前は叩く程度だったのが、いきなり乳房を握りしめたりするようになった。痛いので私は母に止めてもらうように頼んで欲しいと訴えた。ところが母は、
「悪いお父様ねえ」
とにたにたするばかりで聞いてくれないのだ。養父はそれだけでなく、
「静子はおれが処女を奪ってから、嫁に出してやる」
とも言っていた。意味はよくわからなかったが、冗談めかしてそういう彼は、すごく下品な男に見えた。処女という言葉はしばらくしてから、性交をしたことがない女のことだとわかったが、性交というものがどうやったら出来るのか知らなかったのでまだピンと来なかった。
あまりにも性に関することでひどく叱られたり、どう考えても辻褄の合わない言われ方をするせいか、私は、自分のそういう部分を無理に忘れようとしていたような所があった。
ある日、運動場に出て体育の授業の準備をしていた私と級友たちの前に、二人の、世間ずれした感じの若者があらわれた。二人は、体操着姿の私たちを舐めるようにじろじろ見、嫌らしい口調で、
「だいぶおっぱい大きくなってきたなあ」
と言うのだった。級友たちはみな、なあにあれと顔をしかめたが、いつも養父から同じようなことをされていた私だけは、間抜けなことに、
「あれ、もしかして私を小さい頃から知っているおにいさんなのかな」
と一所懸命誰だか思い出そうとしていたのだった。
夏にはまた別の嫌なことがあった。ごきぶりが出ると、養父はそれを殺し、どういうわけか必ず私のところへ持って来てそれで私を追い掛けまわすのだ。バンバンとごきぶりを叩く音が聞こえてくるたびに、私は目の前が真っ暗になった。しばらくすると、
「ほら見ろー!」
と真っ黒でぎらぎら光った死んだごきぶりの触角を指でつまんだ養父が嬉しそうにやって来る。私は彼の大好きな勉強をしている最中だというのにだ。彼は私の首根っこを掴み、死んだごきぶりを顔につきそうなくらいにそばまで持って来、服を掴んで引っ張り、ついにはごきぶりを私の服の中に入れようとするのだ。私も必死で逃げようとするので、それだけに彼が私を物凄い力で掴んでいるのがよくわかる。どうして私だけがこんな目にあわなければいけないのだろう。養父は母や妹にはやらないのだ。
私が泣き声を上げて嫌がるのをさんざん楽しんだあと、流しのところでごきぶりに火をつけて燃やす。これが、ごきぶりが出さえすれば一晩に数回も繰り返される夏の養父の日課であった。必ず火をつけるのが私にはよけいに異常に思えた。
当然のように私はごきぶりが大嫌いになった。ごきぶりを食べる夢をよく見た。おいしいごはんだと思って食べていると、いつのまにかごきぶりがたくさん混ざっている。うわあ、ごきぶりだと思いながらも、私はそれを食べ続けなければならないのだった。次第に口のなかがじゃりじゃりしてきて、すごく嫌な気分だ。そんな夢を何度も見た。
「中学校に行ったら、出来る人がいっぱい集まってくるんだから、静子さん、油断したら駄目よ」
いつのまにか母は、私を「静子さん」と呼ぶようになっていた。私は、それでなくても落ち着いた感じの名に「さん」付けでは、まるきり大人みたいだなと思った。その呼び方には母の「早く子どもなんて卒業なさい」という気持ちが込められていたことは、その頃でさえ分かった。妹はずっと「チーコ」であり続け、ついに「知恵さん」と呼ばれる事はなかった。
知恵のほうは、養父と母には「お父様、お母様」なのに、私を絶対に「お姉様」とは呼ぼうとしなかった。私は、母が養父のことを「あなた」と呼ぶのがなんとなく好きだったが、それに対して、養父が母を呼ぶときの呼び名は「ブタ」というひどいものであった。私の目には、養父が母より痩せている様には見えなかったが、彼に言わせると養父のは「体格が良く」て母のは「でぶ」なのだそうだ。母は、それもお父様の愛情の表現なのよと笑っていたが、それにしてはしょっちゅう減量に挑戦していた。
「でもねえ、前のお父様に比べたらずーっといい人よう」
母は、子どものころ角膜乾燥症とかいう眼病に罹《かか》ったのだそうだ。それは角膜に白い星の出る病気で、それが出た部分はもう角膜として役を成さない。母はついに手術を受け、完治しないまでも病状をくい止めることが出来たのだという。しかし、やむをえぬことだったが、その手術で片目の視神経がいくらか切断されてしまい、ときどきそっちだけがあらぬ方を見ている。実父も養父もそんな母をときどき、
「お前、どこ見てんだ」
とからかっていたらしいが、同じからかうのでも、養父のは愛情を感じるが、実父のはなんだか腹が立ったのらしい。母にとっては、その事が実父に愛想が尽きた大きな要因であった。
母は養父の留守に、実父の悪い部分を、思い出しては飽きずに子どもたちに零《こぼ》していたが、最後には、
「でも、あんな人でも私は九年も我慢したんだからね」
というのが彼女の自慢であった。なんという矛盾に満ちた自慢であろうか。しかし母はこう続ける。
「あんたたちのためを思ってあたしは我慢したのよ」
それにつけても私は、母に、実父と私が似ていると言うのだけはもういいかげんに止めて欲しかった。私は実父の名を取って付けられた自分の名がすっかりいやになってしまい、本気で改名したいと母に言ったりした。母だってこれだけ彼を嫌っているのだから、今は私の名だっていやだろう、賛成してくれるはずだと思った。しかし母は、
「あら、そんなこと簡単に出来ないのよ、静子さん」
と言って、何故か取り合ってくれないのだった。
私のすむ街にも少ないながら私立の中学校がいくつかあり、そこは公立の中学校よりはるかに勉強に対して熱心なようであった。しかし養父は、
「勉強をちゃんとしていれば私立なんて行く必要は無い」
という意見であり、そっちへ行けとは言わなかった。そのままだと、梅中と呼ばれる、不良がごろごろいると評判の中学に「要注意」の私が進学することになっていたが、大して気にも留めていないようで、私は少し拍子抜けした。
その後、高校、大学においても、
「私立は金ばかりかかる。勉強さえ出来れば行く必要無し。大金払っていく奴は馬鹿ものだ」
というのが口癖で、とにかく金のかかることは嫌なのらしかった。
そしてもうひとつ、養父には兄がいるらしいが、その兄も、養父の父親も東大に行ったのに、彼だけが行けなかったのらしい。私はなんだかど根性スポーツものの主人公のように、「彼の果たせなかった成功へむかってまっしぐら」をさせられようとしていたわけだが、実は私はあまりそれを気にしていなかった。血も繋がっていず、籍も入っていない人間のことなど本当の父親だと思っていなかったので、そんなことを押しつけられる謂《いわ》れはない、と内心のんきに思っていた。
小学生の頃は、
「内縁のお父さんが──」
などと無邪気に言っていた私も、世の中がぼんやりと分かってくるにつれて、
「うち、お父さんいません」
ということにしてしまうようにしていたのだ。母だって、養父の怒りが怖いから彼に合わせてうるさく勉強勉強と言っているが、本当は私がしたいことをするほうが幸せになると思ってくれているはずだ、と勝手に信じていた。養父とは母についている憑《つ》きもののようなものであり、御祓《おはら》いしさえすれば母は目が覚めると、おめでたい私はその後もずっとそう思い込んでいたのであった。
公立の中学には入学試験はなかったが、クラスわけのための簡単な試験があった。私は、百五十人強いる女子で十四位という順位を取り、けっこう嬉しかった。さんざん、中学に行ったらお前程度の子なんて掃いて捨てるほどいると言われていたので、やれやれ、これで一応養父のご機嫌は取れたと思ったのだ。ところが、彼は、私の順位を聞くと火のついた様に怒りだした。
「何だその順位は。そんなひどい順位を取りやがって、教員たちからもすっかり馬鹿だと思われてるぞお前は!」
私はうろたえ、母を見た。なんと、母は黙ってこそいたが、その顔には、
「そうよ、当然よ。静子さん、あんたはそんな順位を取ってあたしを悲しませようというの?」
という表情が浮かんでいた。私は、心底困ってしまった。いくつかの小学校の子たちが集まってきてるとしたら、そんなに悪い順位じゃないはずなんだけど、と頭の中で、必死に計算した。
「中間試験の時は、五位以内にすること!」
養父にそう言い渡され、むちゃくちゃを言ってる、と思った。何の根拠があってこんなことを言われるのか分からなかった。しかし、中間試験で、私はどうせ大した順位は取れないに決まっているし、時間をかければ諦めるかもしれないと思った。
ところが中間試験の発表を見たら、私は学年で五位だった。嬉しくはあったが、「なんだか、えらいことになってしまった」という気がした。案の定、うちでは誰も褒めてくれないだけでなく、
「ほれ見ろ。お前はやれば出来ることを最初にやらなかった。勉強を舐めやがって、どういうつもりだったのか!」
と逆に叱られたのだった。母も、怒り狂う養父の横でそうよそうよという顔をしている。まぐれで取った順位でこんなふうに言われては堪《たま》らないと私はうんざりしたが、その裏で、まあ、母が喜ぶのならやれるだけのことはやろうかとも思った。
次の期末試験は学年で三位だった。ゲームを制していくような快感はあったが、やはり褒めてはもらえなかった。褒めると私がつけあがると思っていたのか、本気で当然と考えていたのか、それが二位になり、一位になっても同じだった。いい成績をとっても母は、やれやれ、今回もお父様のお怒りが爆発しなくて済んだわという顔をするだけだった。私は解せなかった。そんなにまでして養父に合わせなければいけないのか。もしかしたら母は人が変わってしまったのではないかしら。
逆に順位が下がると酷い目にあわされた。口汚くののしられ、殴られることもあった。私は定期的に偏頭痛におそわれるようになった。ひなたに出ると痛むのだ。頭は重く、何も考えられなくなった。病院に行ったが、総合病院では十六歳前だと言って小児科にまわされるのが不満だった。小児科で何がわかるのだ、という気がした。
母は「お父様の会社のお薬」をもったいなくも子どもの私にも授けようとするのだが、私は、養父の会社の薬が大嫌いであった。
小学校の頃から私は腸が弱くて、食中《しよくあた》りでもないのにしょっちゅう下痢していた。かと思うと、原因のわからない腹痛で、動くことさえ出来なくなることもあった。最初は「お父様のお薬」でおさまっていたが、だんだんそれも効かなくなっていった。
養父は、効き目の強い薬に替えても替えても治らない私に苛立ち、
「こいつこのままだと腹に穴があくぞ」
などと根拠のないことをいって私を脅したりしていたが、あるとき、薬を飲んだ私が吐き気を催し、なにもかも吐いてしまったことに、かんかんに腹を立てたのだった。実は、「お父様のお薬」ごと吐いてしまった私の気分は憑きものが落ちたようにすっきりしてしまっていたのだが、養父は私が治ったことなどこれっぽっちも喜ばず、
「高い薬をやったのに吐くなんて、なんて奴だこいつは」
といつまでも怒っているのだった。母もすまなそうに養父の顔を見ているだけで、治ってよかったとは思っていないようだった。私はがっかりした。養父は、権威を示すためや、やっぱりお父様の薬はすごいねと有りがたがられるために薬をくれていたのであり、私の病気を治すためではなかったのだ。それから、私は母に養父の会社の薬を貰っても飲まなかったり、こっそり捨てたりした。それが私の、養父の権威に対する地味な反抗であった。
母が、へその緒を少し削って飲むとひどい腹痛も治るという話をしていたので、試してみようかと考えたこともある。
私のへその緒は、小さな桐の箱に入って、人形ケースの奥にいつもあった。それを見ると、私は本当に母の子なんだなという気がしたが、母がそれをあまり大切に思っていないようなのが少し気になった。あのへその緒はどうしたのだろう。私がもらってしまって、なくしたような気もする。もらったのだとしたら、何故くれたのだろう。普通そういうものは、母親のほうが記念にとっておいてくれるものではないのか。そういえば母は、私がもらった賞状や成績表は、場所を取るだろうに、いつのものでもきちんと箪笥の中に揃えておいていたのだが、そのへその緒の入った小さな桐の箱は、観光みやげの安っぽい貝の人形や、「根性」と書いてある楯の間に置いていたのだ。安っぽいみやげものの中に位置しているというのが、今思えば何か象徴的でもあった。
私の頭痛はだんだん頻繁に起こるようになったが、今思えば原因は明白であった。試験が終わった後の、発表を待つ時期にもっとも症状がひどかったからだ。試験中にはそれほどでもないのは、頭痛など養父の前では言い訳にもならないからであろう。一度は、母と一緒に病院へ行った。私はそのとき、「自律神経失調症」と診断する医師に、
「私、精神科に行きたい」
と訴えた。母は目を丸くし、医師は憮然《ぶぜん》とした顔になった。
「静子ちゃん、なんてことを言うの」
「精神科がどういう所か知ってるのかね」
まだ若い医師であった。私は二人に責められ黙り込んだ。そんなに大層なことを言ってしまったとは思っていなかった。なぜなら私は養父が精神病院に入院したことがあるのを聞いていたからだ。ハイミナール中毒ということだった。
「入院が決まった時、これで最後だと思って山ほど薬を飲んで、さあ連れていけ、と自分から言ってやったのだ」
とか、
「酷い状況だった。いろんな人間がいた」
などと養父は、まるで兵隊として戦火をくぐってきた思い出のように誇らしげに話すのである。私は彼がそれほど誇らしげに語るその体験はどんなものであるのかという好奇心を禁じえなかった。
ところがそれは、人前で口にするとこれほど責められることであったのだ。この、私の家庭の内と外とのバランスの悪さは、子どもの頃から私を苦しめたものであったが、この時も私は母の体面を壊してしまったことを知り、それ以上は何も言わずに帰ってきた。そして「自律神経失調症」用の赤い小さな錠剤をもらい、黙ってそれを飲んで過ごしたが、ぜんぜんよくならなかった。
毎日、錠剤の数を数えては精神科に入院することを思った。試験の発表の日、順位を見ては気が重くなった。クラス内の順位は一位から下がったことがなかったが、調子の悪いときには、学年での順位がふたけたになってしまったこともある。いくら学級内での一位が変わらなくても、養父は恐ろしい顔をして、私の言い訳など聞きはしなかった。
あるとき、私の順位に腹を立てた彼は、
「こいつは言っても駄目だ」
と太字のマジックインキを持ち出し、新聞のチラシの裏に、
『私は勉強をさぼりました』
とでかでかと書いた。そしてそれに二つの穴を開け、荷作り用のビニール紐を通し、私の首に掛けた。
「よく似合ってるもんだ」
私は黙っていた。
「よし、じゃあその恰好で快晴高校の門の前に立っていること!」
私は仰天した。快晴高校とは、私が毎日前を通って学校へ行っている男子校だ。よくもまあそんなことを思いつくものだが、顔には出さず、依然黙っていた。すると養父はいきなり立ち上がり、私の首ねっこを掴みあげ、玄関までずるずると引きずって行った。
「ほら靴を履け!」
養父は自分もサンダルを履き、片手でガラガラと玄関の戸を開けてしまった。私は声を上げて抵抗したが、彼の恐ろしい力にはかなわなかった。大声で泣いて嫌がった。靴なんて履かなくても、養父は私を裸足のまま何処までも引きずって行きそうな勢いであった。私が泣き出さなければ、本当にそうしたかも知れないが、今考えればあれは底意地の悪い脅しであった。彼がシャツとステテコのままで外を歩くわけがない。養父は不良娘を成敗《せいばい》するためという大義名分があれば泣き叫ぶ私を街を引っ張りまわすくらいは平気だし、その後私は実際にやられたこともあるが、下着姿では決して人前に出ないのだ。私はそこをよく見るべきであったが、結局その日は、
「今度からちゃんと勉強します」
と泣きながら誓わされてお終《しま》いになった。養父が引っ張っていた首の所があとまで痛かった。あとで、養父は私が「色気付いている」から、快晴高校の門の前なんて言ったのだな、と分かったが、彼が思っているほど私は「快晴高校の門の前だから恥ずかしい」とは感じていなかった。あんなものを首から下げて外へ出ろと言われたら、それが何処であったっていやに決まっている。しかし養父はその、男子校の前という場所の指定こそが私を打ちのめしたと思っていた。養父も母も何故か、思春期と呼ばれる時期に来ている私のそういう部分をあいかわらず必要以上に忌み嫌い、先回りしてたたきつぶすことばかり考えていた。
入浴時間が長いというのも、養父に言わせれば色気付いてるかららしかった。彼は血圧が高いので、あっという間に入浴を済ませて出てくるのだが、私や妹や母は低血圧なので、体はなかなか暖まらない。それもそのはず、私の家の風呂は吹きっさらしの中にあったのだ。銭湯に行くのを嫌がった養父が、家の外のドブの横に、無理やり湯船と風呂釜と簀《す》の子《こ》を置いただけの風呂場だったのだ。少しだけの軒先が湯船の半分を守ってくれてはいるものの、星も見えれば、雨の日には傘が要る。養父は、洗濯物を干す紐を張り、そこに傘を引っ掛けるという工夫をしたが、台風が必ず通るような街である。雨はざんざん降り込むし、裏の家からは覗き放題だし、蛾やごきぶりは湯船に飛び込むし、ろくな風呂ではなかった。湯船の蓋の上が暖かいので野良猫がよく寝床にしていたのは面白かったが、真冬の寒さには本当にまいった。どんなによく暖まったつもりでも、髪など洗っているうちにどうしようもなく冷えてくるので、上半身だけ湯船の外に出して洗ったりした。それでも肩や背中はすぐ冷たくなってしまった。
養父は、そんな風呂場でも、私たちが生理の日にはお湯が汚れるからと湯船に入ることを禁じた。私はざぶざぶお湯を掛けてなんとか暖まろうとしたが、お湯を沢山使うことも叱られる。あまりにも寒いので、入浴したくないと言ってみた事もあったが、それもまた汚らしいと言って許されなかった。生理の日には貧血のため余計に体が冷えるような気がした。私はがたがた震えながら急いで体を洗っていた。
「水をかぶれば体はあったまる」
と言って、真冬に水をかぶらされたこともあった。
とにかくそんな条件でも養父は、風呂に時間のかかる私たちを決して許しはしなかったのだった。
ある日、私が風呂から上がったら、養父が怒って何かぶつぶつ言っていた。その日はとても寒く、いつもより時間がかかったかもしれない。しかし、彼の怒りはいつものことだし、私は特に気にもせずに黙って服を着こんだ。
養父は、
「反省するまでそこにいろ」
と、寒い台所に正座して聞いている私に、暖房のきいた暖かい部屋から障子越しに怒鳴った。彼は、自分のいる部屋や寝室には、贅沢なほど暖房を施し、シャツとステテコだけの姿で過ごした。夏には、寒いくらいにクーラーを利かせ、布団をたっぷり被って寝るのだ。障子の向こうで、ウイスキーの水割りを飲んで顔を赤くしているはずの養父。酒を飲むと、しらふのときにも増してねちねちとしつこい性格になる彼。養父は、ときどき私の入浴中に冗談めかしていきなり勝手口を開け、私の裸を覗こうとする。なので以前は無邪気にタオル一枚でうろうろしていた私も、自然にそれを止め、ぴっちり服を着込んでからしか養父の前に出ないようになっていた。
しかし彼から見れば、色気づいている私の方が悪いのだった。
「まったく色気ばっかり出しやがって、何時《いつ》まで入ってるんだ馬鹿ものが」
あまりのしつこさに、私は不貞腐れ、よせばいいのに小さく咳払いした。それが彼の逆鱗《げきりん》に触れた。
養父は畳を揺らして障子に走り寄って来、鬼のような顔でバーンと音を立てて障子を開いた。何か大きな声を上げながら私を殴り、突き飛ばし、台所の横の便所まで引きずって行き、その中に私を入れると大きな音を立てて戸を閉めた。中は真っ暗であった。
「そこにずっといろ! お前のような者は便所の中で暮らせ!」
彼は廊下でいつまでも憎々しげに私を罵っていた。しばらくすると、ガンガンと、金槌《かなづち》を振るう音が聞こえてきた。その便所の戸は開けっ放しになりやすかったため、横の柱には蒲鉾板が外鍵代わりに釘一本で打ちつけてある。それを戸に対して垂直にしておけば開きはしないはずだが、彼はその上に見せしめのために釘まで打っているのだった。しかし、私は別に騒ぎもしなかった。
「まあ、死ぬわけじゃなし」
目が慣れてくると、なんてことはなかった。向かって左の窓から月の光が差し込んでくる。立ち上がって外を見ると、雑草がキラキラ光ってなかなか綺麗だった。めったに見られないものを見ている気がした。探偵小説の主人公の少年のように、ここから抜け出す方法を頭をしぼって考えたりした。しかし、窓は二つとも小さ過ぎ、私は小林少年にはなれないことを知った。それでもしばらくはいろんな空想をして楽しく過ごした。
私は小さい頃から、こういう狭くて暗い場所が嫌いではなかった。実父が居た頃は、叱られると押入れに閉じ込められ、それは最初は怖かったのだが、そのうち、逆に自分から押入れに入ったりするようになった。押入れの中で眠ってしまって、「静子が帰ってこない」と大騒ぎになったこともあった。机の下にもぐって本を読んだりするのも好きだった。でも、同じ狭いところでも養父の車の中は大嫌いだった。すぐに車に酔ってしまい、私だけがげえげえ吐いた。養父は頭に来て、家族で出かけるときに私だけを家に置いていったりした。それでも私は彼の車に乗らなくていいことが嬉しかった。
養父の車の中は、いやな臭いがして耐えられない。ここの便所も、酒を飲んだ養父が使ったあとはとてもいやな臭いがするのだが、幸いまだその前だった。私は薄暗いなかで一応こっち側からも鍵を掛け、小用を足した。それからスリッパを並べた上に座り込んでいたが、しばらくすると壁に凭《もた》れてうたた寝してしまった。
目が覚めたら寒かった。すっかり体が冷えてしまっていた。私は慌てて、戸を叩いて母に訴えた。
「お母様、寒いよー。ねー、寒いよー」
母なら来てくれそうな気がした。私は、根気よく拳で戸を叩いた。しばらくして、みしみしと誰かの足音がした。
「静子さん」
母の声だった。母は、釘抜きで、みりみりと音を立てて養父の打った釘を抜き、戸を開けてくれた。私は、養父が何本くらい釘を打っていたのかに興味があったので、母の握っている釘に目をやった。見て、驚いた。その釘は一本だけであったが、鉛筆くらいの長さがあったのだ。一体家の何処にそんなものがあったのか、それはその噂に聞く「五寸釘」というものらしかった。母は、薄暗い中、右手に釘抜き、左手に五寸釘という迫力あるネグリジェ姿で、
「静子さん、もうお父様に逆らっちゃ駄目よ。あんたがお父様に逆らうからこんなことになるのよ」
と言った、私は黙っていた。布団にもぐり込む前に時計を見ると、午前三時だった。六時間近くも、あの便所の中にいたのだ。私は、自分の体が臭くなってしまったかも知れないな、と少し思った。
私は漫画を相変わらず隠れて描いていた。級友たちの評価は悪くはなかったが、小学校の頃と同じく、私を満足させる程ではなかった。私は漫画を褒めて欲しいというよりは、手応えのある話し相手が欲しかった。特に女の子たちの話は、みんなつまらなかった。
他の子は皆、課外クラブにはいって楽しくやっていたが、私の家では帰りが遅くなるという理由でそれも許されなかった。友だちと何処かへ出かけることを養父や母がとても嫌ったので、だんだんとそういうことも少なくなってきた。中学にあがってからというもの、小遣いも、本しか買ってはいけない決まりになっていた。
「友だちなんかつくる必要はない。友だちなんかいても勉強しなくなるだけだ。勉強は一人でするもの!」
と養父は言った。私は、話の合わない友だちなら、無理して欲しいとも思わなかったが、男の子の中には、話の面白い子がたまにいると思っていた。そして私は、同級生の男の子たちと話が合うだけでなく、上級生の男の子からも何かと構われた。私をよく構う、ある男の子を好きだとかいう女の上級生が、わざわざ二級下の私の所まで嫌がらせを言いに来たりすることもあった。そんな事があっても、男の子たちと話をするのは結構楽しかった。
しかし私は門限の四時には仕方無く家に帰り、誕生日に買ってもらったフォークギターを抱えてはジャカジャカやった。母はそれを聞いて、
「あんたはほんとにいつまでもやってるのねえ、ああ、やかましいこと」
といやな顔をした。母も養父もあいかわらず私が何かに熱中しているのが大嫌いで、よくそれで叱られた。
お芝居が好きで、小学校で演劇部に入っていた私が、国語の教科書の戯曲を夢中で音読などしていると、一応勉強とも言えるので叱るわけにはいかなかったのか、
「お上手なことだねえ」
と養父から皮肉を言われた。
癖っ毛だった私がいつまでも髪を梳《と》かしているといって母が癇癪《かんしやく》を起こしたこともあった。
いずれの場合も、養父も母も何か呪われたものでも見るような表情であった。しかし、どんなに夜遅くまで起きていても、勉強のためなら、責められはしないのだ。
中学一年生で、はじめて午前五時まで起きているという経験をしたが、それが六時になり、七時になっても、勉強のためという名目であれば、だれからも怒られはしない。逆に、朝方にストーブの前で居眠りなどしていると、
「勉強するためにストーブをつけてやっているのに、寝るとはなにごとかッ! 灯油がもったいない!」
と養父に怒鳴られた。ほとんど家では睡眠を取らなかったが、だれも私の体調を気づかう様子はなかった。
私は、昼間には頭痛を理由に学校の保健室で寝込み、夜には一人で起きているという生活をするようになった。うるさい養父が寝ついた真夜中に、ラジオを聞きながら過ごす時間の子ども部屋は、楽園だった。一人になってしまうと、私は勉強など止めてひたすら漫画を描いた。たまに養父が目を覚まして便所に行ったあといきなり偵察に来るので気を付けなければならなかったが、夜は本当に楽しく、朝が来るのが寂しかった。真昼の日差しは眩《まぶ》し過ぎて、私は頭痛を起こしてしまう。
担任も大嫌いだった。田口という、数学の教師だった。上の空で授業を受ける私に腹を立てた彼は、始終私を怒鳴りつけた。彼が黒板に何かを書いて振り向いた時、ちょうど私が隣の席の男の子に消しゴムを貸していたと言っては、いきなり飛んできて横っ面を張り飛ばされた。ストアなどでくれる、化粧品会社の小冊子を学校に持って来ていたと言っては、母を学校に呼び付けた。どういう訳か、たかがそのくらいのことで私は担任からもとんでもない不良にされてしまっていたのであった。
私は、数学の授業の前には必ず保健室に避難するようになった。それでも試験では私の数学の点数は決して九十点台から落ちることはなかった。
しばらくすると、特定の男友だちができるようになった。小学校の頃からいたにはいたのだが、暑中見舞いを貰って喜んでいる程度の付き合いで、大した進展はなかったのだ。小学校一年の時一人だけませた子がいて、接吻したりもしたが、子どものじゃれあいという感じで、別に感動はなかった。中学生になってからの男友だちは、ハートの片割れの形のペンダントを私にくれたりして、結構わくわくさせてくれるのだ。
中学で最初に好きになった男の子は、私に冗談めかして、
「セックスってのは、女と男の性器が結合することだ」
と教えてくれた子だった。私は、男の性器が棒状で、女の性器が穴になっていることはとっくに知っていたのに、その二つが結合するというのを考えたこともなかったので、自分の鈍感さに驚いてしまった。なあんだ、そうだよ、そうだよなあとなんどもなんども思った。しかし、何よりも一番に私の事を気に掛けてくれるのが良かった。私が頭痛を起こすと、本気で心配してくれる。それは女友だちのお座なりな同情とは、まるで質の違う反応だった。
男との付き合いはいいものだと思ったが、母を見ていたら、結婚への希望は持ちにくかった。その頃母は、養父が帰ってくると、晩酌の用意のために忙しく台所と居間の間を行ったり来たりし、酒の肴が揃うと愚痴の聞き役になり、寝ると言えば寝つくまで背中や足を揉んでやったりしていて、完全に養父のしもべだった。ホステスをしていた頃の失点を取り戻そうとしているのか、やり過ぎるくらいに一昔前の貞淑な妻をやっているように見えた。養父はそれを当然と思っていただけでなく、もっと何かさせる事はないか、もっと文句をつける事はないかと目をぎらぎらさせていた。
「お父様ったら、もう寝たかなって手を離して行こうとすると、突然『まだ寝てないぞ!』って言ったりするのよ」
そういう母を見ると、結婚とは、こんなことまでしなければいけないものなのかと思ってうんざりしてしまうのだった。
時には、私や妹までもが、養父のマッサージのためにかり出された。私は、養父のべたべたした体を触るのが大嫌いだったが、母のためと思って、一所懸命揉んでやった。妹は、ああ疲れたとかなんとか言って、要領良く逃げ出す事が多かった。私は、養父が寝つくと手を洗ってから母の肩を揉んでやった。
母は大変だと思った。ダブルベッドに一緒に寝ていても、養父は母が反対側に寝返りをうつと必ず目を覚まし、
「男に尻を向けるな!」
とお尻をひっぱたくのだという。
私は、そんな生活をしている母が不憫《ふびん》だったので、いつまでも肩を揉んでやり、白髪《しらが》なども根気良く抜いてあげた。飽きずにひとつのことを続けるというところは、母が嫌っている私の性質であったが、こういう時だけは喜んでもらえるのだ。妹の知恵は何かに熱中し過ぎて母をいらいらさせることはなかったかわりに、何をやっても飽きっぽく、母の肩を揉んでいても白髪を抜いていてもすぐに、
「ああもう、疲れた」
と止めてしまうのだった。
しかし、ひとつだけ私もかなわないほど熱中することがあった。それは、タレントに熱を上げるという事だ。対象とするタレントがかわる度にファンクラブにはいったり、
「あの人と結婚するの」
と夢見るように言ったりしていた。私や母がそのタレントの悪口でも言おうものなら、目に涙を溜めて弁護するのだ。知恵は私と違って、母の惨《みじ》めな結婚生活を見ていても、結婚に夢が持てるらしいのが、私には不思議だった。
結婚について母は、いつも私には、
「静子さんったら、小さい頃から『私、結婚なんかしない』なんて言っていたものねえ。ずいぶん前からねえ」
などと言っていた。母がそれだけを嬉しそうに言ったということは、それが母の望みでもあったということだ。母は私に、中途半端な結婚なんかを夢見る女になどなって欲しくなかったのであろう。何しろ東大に行って医者か弁護士になれというのが希望であるから、結婚なんかにいれ込まれては困るのだ。私は、東大、医師、弁護士の三つの単語を養父から、
「お医者になって私の脚を治してくれると言った」
「一歳半でひらがなを読み、五歳で小説を書いていた。幼稚園を出る時の知能指数が二百近くて」
「だから静子さん自身が勉強をさぼりさえしなければ」
の三つの話を母から、間を置いては何度も繰り返し聞かされて暮らしていたのだ。私の頭痛は、一向に治らなかった。
ペンダントをくれた男友だちのことは、すぐに嫌いになってしまった。接吻をしたまではよかったのだが、二度目の時、スカートに手を入れて私のお尻を撫でたのだ。その性急さが嫌になって彼とつきあうのはやめた。ペンダントも担任の田口に取り上げられてしまった。田口は、
「卒業するときに返してやる」
と言っていたが、ついに返してはくれなかった。
私はいつも何かを我慢しているような顔つきだったかもしれない。相変わらず痴漢に狙われるのが止まなかった。小学校五年生の頃、紺色のワンピースを着て買物に行ったとき、店の店員と間違えられたくらいだから、「体だけは一人前」だったのだろうか。
中学一年生のある日私は、母に買ってもらったワンピースを着て、妹と二人で街に出かけた。熟《う》れ過ぎたみかんのように鮮やかなオレンジ色のよそゆきのそれは、自分でもちょっと派手かなと思ったが、夏休みの終わりは近づいていた。
毎年、前の年のものが着られなくなっていく年頃である。母から、まあそんな派手な恰好で、とあとから責められても、折角のワンピースがこのまま着られなくなるのは忍びなかったのだ。妹のほうはどんな恰好をしていたのか忘れたが、とにかく二人で歩いて十五分のストアへ行き、文房具やおもちゃなどを見てささやかに楽しんでいたのであった。
その頃、ストアの中で一番胸のときめく売場はレコード売場だった。私と妹は、思い思いに好きな音楽のレコードを見てまわっていた。私はEPの並んでいる棚で、新しく出たレコードを見ていた。私の左隣に、ストアの店員が一人いた。妹はそのまた向こうにいたようだったが、私と妹とは全然音楽の趣味が違うので、気にもとめなかった。
と、誰か知らない人影が、私と店員の間に素早く入り込んだ。随分急いでる人だと思った途端、そいつは私の股間に思いっきり手を差し込んできた。私は息が詰まり、声も出なかった。手にはレコードを持っていたし、左肘でそいつを突き飛ばしてとにかくそのおぞましい手と手の持ち主を自分から少しでも離そうともがいた。するとそいつは私から離れ、くるりと向きを変え、私の右の通路を、何事もなかった様にゆっくり歩いていった。頭の毛の薄い、眼鏡をかけた、見るからにうだつの上がらない中年男だった。会社帰りらしく手には鞄を提げていた。相当なちびで、身長が私と同じ位しかなかった。後ろから殴りつけて殺してやりたかった。なんであんなに何もなかったような後ろ姿で歩いていられるのか。そして私はどうしてこいつを殴りつけたり大声を出したり出来ないのだろうか。煮え滾《たぎ》る思いで体をいっぱいにしながら、私は金縛りにかかっているしかなかったのだ。
「おねえちゃん、どうかしたの?」
しばらくして妹が寄ってきた。私は怒りでもつれる口でなんとか訳を話した。
「ええっ、だからなんか急に寄ってったと思った!」
妹からも、その男が不自然に私に近づいて行ったのは見えていたと言うのだ。私は内心、だったら何ですぐ来てくれなかったのだと恨めしく思った。なぜ自分はあんな事をされなければならなかったのだろう、そしてどうしてそのあと何もやり返せなかったのだろう。子どもの頃からのこれに似た経験や、母や養父から怒鳴られたときの割り切れない気持ちがいっぺんに吹き出して来て、口もきけないくらい重い気分になっていった。
「よくそんなことするよね! おかしいよ、信じられないよ」
妹はしばらく私のされた事について付き合って怒ってはいたが、私があまり長く暗い表情でいるため、少しずつ面白くなくなってきたらしく、ついには、
「おねえちゃん、まだ暗い顔してんの。もう、あのくらいのことで」
と逆のことまで言い出した。それほど私は長いこと押し黙っていた。気を取り直して明るく振る舞いたくても、出来なかった。
妹があの男が去って行ってからしか私のそばに来てはくれなかったように、そして最後にはこうして、付き合って怒ってやったのにと怒り出すまでになるように、家に帰っても誰も私をこの嫌な気分から救ってはくれないのを私は知っていた。それどころかきっと逆に自分の方が叱られてしまうに決まっているのだ。いつものように、あんたに隙があるからと言われるのかも知れない。それどころかもっと酷く、そう、そんな派手なオレンジ色のワンピースでは痴漢にあって当然のように言われるのかも知れない。
母も養父も、私がまるで痴漢に遇いたがっている世にも嫌らしい子どもの様に私を責めるのだ。たとえ自分たちがこのワンピースを買ってくれた当人であっても、関係ないのだ。私の家では、性に関するすべての苦情は私にだけ向けられるのだった。家に帰りたくなかった。でも、何処も行く所はなかったから、私は暗い顔のまま、妹は不満気な顔のままだまって家に帰った。妹はきっと母に、私が痴漢に遇ってしまった事を言いつけただろう。私は、淋しかった。いつも、家の中では。
中学二年になると、学校へ行くときに足首が痛くなり、引きずるようにして歩くようになった。血を取って調べたり、何か電気のようなものを当てたりしたが、一向に良くならなかった。授業中に息苦しくて堪らなくなったり、鉛筆を持った手が小刻みに震えたりした。病院へ行き、生気の薄い老人ばかりが周りにいるのを見ていると、自分は三十くらいで死にたいなどと思ったりした。この先、それほどいいことがあるとも思えなかった。
しかし調子のいいもので、好きな男の子が出来ると、そんなことも忘れる。実際、中学二年の終わりに好きになった男の子とつきあうようになってから、だんだんいろんな痛みの起こる回数は減っていったように思う。
その男の子の名前は浩樹という。くせっ毛で、目が大きくてにきび面の、芯のある低い声をした子だった。話が面白く、ギターがうまかった。クラスは別だったが、一緒に帰るようになり、いろんな話をした。なんでも話せたし、どんな小さなことでも話し合った。うれしかった。浩樹とつきあうようになった私は、文化祭にははりきって芝居を書き、演出、主演までやった。学生服を着て男の子の役をやった私は、上級生の女子までが嬌声を上げるほど好評だった。
その頃、ある有名なテレビのオーディション番組が、私たちのすむ街にやってくることが決まった。そんなことはめったにないので、予選会には八百人近くの子どもたちが集まった。私も、養父と母の承諾を得て参加した。
七人の出演者で二番組|録《と》るので、選ばれるのは十四人だけだ。一次予選に落ちたと言って、会場のロビーで泣き出す子までいた。私の通う中学校からも、たくさんの参加者があった。皆が皆、この特別な出来事に興奮していた。そんな中、私は見事に予選を通過することができたのだった。
私は夢見心地で飛び跳ねながら帰った。あまりの嬉しさに帰り道を間違えた。何百人もの予選会だったので、あたりはもうすっかり暗い。少しだけ、帰りが遅くなったことを気にしたが、いくら養父や母でも喜んでくれないはずはないと思ったので、とちゅう電話もしなかった。
ところが、待っていたのは母の怒った顔だった。養父は家にいなかったが、私の帰りが遅いのを母が話したため、やはり怒っているということだった。
「何時だと思ってるの。お父様がね、そんなものには出るなとおっしゃっているわよ」
まさかそんなことを言われるとは夢にも思わない。私はびっくりして、
「どうして、どうして駄目なの。いっぱい人来てたんだよ。せっかく通ったんだよ」
とかきくどいた。
「お父様が駄目と言ったら、駄目」
たまらない気持ちになり、私はくやしさに泣き出してしまった。母から養父を説得して欲しかったが、母はそんな気はさらさら無いようだ。私はとうとう頭に来て、
「何よ。あんな、戸籍も入ってない人から、なんでそんなこといわれなきゃなんないの」
と怒鳴った。それは、言ってはいけないセリフであった。私は生まれてはじめて母にぶたれた。母は泣き出し、
「どうして子どものあんたにそんなことまで言われなきゃなんないの」
と大声を出した。母の取り乱した姿を見て、私は騒ぐのをやめた。あとにも先にも、母が子どもを殴ったのはその時だけであった。
翌日、私はテレビ局に電話をかけ、
「家から反対されて、出られなくなりました」
と言った。その晩、帰ってきた養父は、私と母の争いも知らずに、
「静子、あれもう断っちゃったのかあ?」
とふざけたように聞いてきた。
「はい」
「そうかー」
養父は少しだけ残念そうな素振りをみせた。私は内心煮えくり返っていた。今さらなんでそんなことを、あんたが言ったから断ったんだろうが、と思っていた。
番組の放送当日まで養父は、
「ほおう。これかあ」
とにやにやしながら私の顔色を覗き見るのだった。私のかわりに、補欠として選ばれた女の子が出ていた。予選会のとき、
「私、補欠なんですよー。ね、通った人なんですよねえ? うらやましいなあ」
と私に声を掛けてきた子だった。私はなんとも言えない気持ちで画面を見つめた。この親がいる限り、私はずっとこんな目に遇ってなきゃいけないのか、と頭が怒りと諦めでいっぱいになった。でももう泣いたりはしなかった。この頃から、私はますます自分の感情に鍵を掛けることを覚えた。浩樹の前だけは別だったが、それ以外の場所では、だんだん、何も感じない子どもになっていった。
浩樹だけは何でもわかってくれた。どんな時でも私を慰めてくれた。誇張ではなく、その頃は浩樹だけが心の支えだった。中学二年生の終わり頃のある日の帰り道、私たちは自然に接吻した。そして三年生で私たちは同じクラスになり、私は毎日彼だけを見て暮らした。
彼が望むことなら、何でもしてあげたかった。前の男の子のときと違って、彼が私のからだに興味を持つのも嬉しかった。彼が私のからだに触れると、養父が触ったときに付いた汚れがとれてきれいになるような気がした。まもなく私たちは、性交した。
とにかくどうすればいいか分からなかった。お互い十四歳で、当然初めてのことだったし、からだを触り合ったりはしていたものの、結合するのとはわけが違う。私は、性器だけ露出すれば性交できるものと思っていたので、服も下着も全部取ってしまったその上に、びっくりするほど脚を開かなければならないことに面食らった。自分の性器がどういう形態や状態なのかも把握していないため、ただ彼にまかせて目をつむっているしかなかった。
しばらくして、どうにか彼の性器が挿入された気配が伝わってきた。彼を信用してからだの力を抜いていたせいか、別に痛くはなかった。浩樹は遠慮がちに動いていた。なるほどこんなものか、と思っていたら、浩樹の動きが大きくなったとたん、からだの中でぽんと栓が抜けるように何かの抵抗が取れて、浩樹が奥まで入ってしまった。
「あっ」
驚いた。こんなにはっきり、処女膜の破れる瞬間が分かるとは思わなかったのだ。あまりの分かりやすさに、少し泣いてしまった。ちょっと恥ずかしかったが、ここは少しくらい泣くのが礼儀だと思った。そのあとは、興奮していてよく覚えていない。相手の名前を呼んだりしたような気もする。彼はしばらく動いていて、そのあと動かなくなったが、射精したのかどうかもよくわからなかったし、その頃まだ射精というものがどういうものなのか、たとえばどのくらいの分量でどういうものが出てくるのかなど、何も知らなかった。ただ彼が離れてから、出血が気になってそこを拭ったものを一所懸命見た。しかし、血がついているかどうかほとんどわからない状態で、それだけはちょっと残念ではあった。
その日から、次の生理が来る日まで、浩樹とは性交しなかった。生理がくるかどうかが恐ろしくて、とても出来なかった。
しばらくして無事生理が始まった。私はすぐそれを浩樹に伝えた。私はとても嬉しかったが、彼は私ほどではないように見えた。
二度目も私の家でだった。あっという間に終わってしまい、私はまだ性交というものの全体像がつかめずにいた。それに、何だか今回は危ない日だったような気がしてならない。なかなか性交する機会がないので、余り考えずにおこなってしまったような気もするのだ。このまま、また次の生理まで不安な気持で暮らすのは、なんだか嫌だった。
「ねえ、もう一回してみて」
と頼むと、浩樹は、
「え、なんで?」
と言った。私は何故聞き返すのかと少し思いながら、
「もう一回しても、心配は同じだから」
というような事を言った。
浩樹はただ黙っていた。そんなに続けてすぐ出来るものではないことさえ、教えてくれなかった。
「コンドームってのを、買ったほうがいいんだよね」
「どうやって買うのかな」
「薬局とか行くんじゃない」
「買ったほうがいいよねえ」
避妊の話も、こうして話だけで終わっていった。どうすれば妊娠の心配をしないで性交できるのか、私も彼も知らなかった。
そのかわり、私は口や手で彼を射精させることを覚えた。そして、彼はそれが気に入っているようだった。なぜなら、つい今まで友人の家族の死などの深刻な話をしていたのに、自分の家族が出かけたりしてチャンスが訪れると、何事もなかったようにさっそくそれをしてほしがる素振りを見せたりしたからだ。私は少しだけ意外な気がしたが、それと同時に、男とはこんなものなのかも知れないと思った。それに、彼をがっかりさせたくなかった。彼に嫌われることを考えたら、こんなことはなんでもないと思い、一所懸命彼を射精させた。彼は、それがすむと急に気が済んだといった感じになり、少しだけ雰囲気の違う人物に変わる。それも、私はそんなものなのだろうと思うことにしていた。
彼の家は丘の上の新興住宅地の一角にあり、まわりには同じ造りの一戸建てが並んでいる。私はその街が少しずつ好きになった。彼の弟にも会った。しかしどこかで自分が道具になっているような感じもした。でもやはり、そんなものなのだろうと思いなおした。母と養父の関係以外に比較対象もなかったし、それに比べたら全然ましだと思った。
しかし依然として性交というものはまだまだ謎の中にあった。嫌なものではなかったが、どうしたらこれが気持ち良いものになるのか、いつすれば妊娠しないのか、まるで分からなかった。そして、そのままで二人とも十五歳になり、三度目をしたら、次の月、私の生理は来なかった。
妊娠を信じたくなかった私は、何か、ほかのことが理由に違いないと思うことにした。浩樹には、
「生理まだ来ないんだけど、あの、なんか、体調が悪かったりしたら、遅れるらしいから、そういうのだと思う」
と言った。
「そうなんだ。早く、来るといいね」
浩樹は毛ほども疑ってはくれなかった。いつしたんだっけ、と聞き返して一緒に考えたりさえしなかった。私は本当は祈るような思いだったが、自分がそう言った手前、
「もっと心配してくんないの?」
などと言うわけにもいかない。それに、どこかで私は、私のからだのことは私だけの責任のような気がしていた。幼い頃から母に、あんたも知恵も一人で産んだ、そういうことは男には頼れないものよ、と言い続けられてきたからだろうか。それが良いことか悪いことかはともかく、私は浩樹に本当の不安を打ち明けることが出来ずに過ごした。
「きっと妊娠したのよ、本当は怖いの」
と泣きつきたかったのかも知れない。でも、そうしたからと言ってどうなるというのだ。私も彼もまだ十五歳なのに。
毎日微熱が続き、吐き気がした。
あるときは養父の車で小旅行に出かけ、ひどい車酔いで、帰ってからもしばらく動けなかった。しかしもともと車に酔う子どもであったため、誰も疑いはしなかったし、私自身もそれがつわりだなどとは思っていなかった。
「からだの調子が悪いの。なんか微熱もあるし、それに……生理が遅れてて」
私は恐る恐る母に打ち明けた。母は眉をひそめて、
「妊娠みたいな症状ねえ」
と言った。私は胸がどきどきした。
「なんかあんた、思い当たることでもあるの?」
母の問いに、私は思わず首を横に振った。
「そうよねえ。そんなことあったら、あんた、ただじゃ済まないもん。お父様に殺されるわよ」
私は黙るしかなかった。
まだ来ない。まだ来ない。でも明日には来るかも知れない。きっと明日は来る。今はきっと、体調が悪いだけなんだ。私は自分を騙《だま》し続け、内科のお医者にまで出かけていった。
内科医は、私の症状を聞いて、
「妊娠するような原因はあったんですか?」
と母と同じことを尋ねた。
私は、
「ありません」
と答えた。
そこまでいわれたら、内科医としては引き下がるしかあるまい。結局、
「思春期の精神的不安定で、体調が崩れているのでしょう」
とかなんとかいうことになった。そうだわ、きっとそうよ、と私は自分に言い聞かせ、浩樹にもそう告げた。浩樹は相変わらず、
「そうなんだ、早く生理来るといいね」
と優しく言って、私の手や口で射精した。性交しても良さそうなものだったが、彼はさして私に挿入したいとは思っていなかったようだった。私は、彼に対しても少しずつ気持ちが閉じていってしまうのを感じていた。でも彼は優しかった、とにかく口だけは。
しばらくすると私は驚くほど痩せてしまった。何も食べる気がしないのだ。そのくせ、乳房だけが妙に大きくなっていった。
「お母様、ブラジャーが入らなくなっちゃった。大きいの、買って」
母に頼むと、
「まだ生理ないの? 生理なくて、吐いてばかりいて、痩せてくのねえ。それなのに胸だけ大きくなるなんて、本当に妊娠と同じねえ」
と言いながら、Cカップと言われる大きなブラジャーを買ってくれた。
「でも、痩せるのとか、胸大きくなるのは、なんかうれしいから……」
私はうつろな目で、思春期の娘らしいことを言ってみた。しかし、鏡にうつった顔は酷いものだった。十五歳の育ち盛りとは思えないほど頬はこけ、目の下には青々と隈が出ていた。
「でもその顔、いやだわあ。ほんとに顔が変わっちゃったよ、あんた。頼むからもっと食べて太ってちょうだいよ」
母は溜め息をついた、私は、
「うん」
と生返事をしただけだった。どこかで、もっともっと痩せて、からだがおかしくなるほどになってしまいたい、と思っていた。
あるときはひどい便秘で苦しんだ。そんなことは初めてなので私は母にその苦しさを訴えたが、母自身はひどい便秘症のせいか、たいして気にもとめてくれなかった。
毎日、保健室で横になっていた。痩せるだけ痩せてしまうと、今度はだんだん下腹が大きくなってきた。触ると、硬かった。妊娠じゃない、妊娠で出たおなかがこんなに硬いはずはない、と思った。体育用のブルマーを穿くと、下腹がぱんぱんに張っていた。
「ねえ、田中さんておなか出たと思わない?」
という声が後ろから聞こえてきた。次から、体育の時間は全部休んで、保健室で寝た。
「なんか、おなかがすごく硬いんです。生理もないし」
私は保健室の先生に相談してみた。
「それ、なんか婦人科の病気かもしれないよ。婦人科に行ってみたら?」
そうかもしれない、と私は思った。母に話すと、
「そうねえ、じゃあ行ってみようか」
とやっと言ってくれた。そして翌日、学校が退《ひ》けてから、母と近所の産婦人科に行くことになった。
その日私は浩樹にもそれを話した。彼は相変わらず優しく心配などをしてくれた。授業が終わると、彼はバスケット部の練習に行く。私は、彼にバスケ用に靴下を編んであげたりしたことを、ぼんやり思い出していた。
婦人科医は若い男だった。症状を話すと怪訝《けげん》な顔になり、
「ではちょっと」
と、横になった私の下腹部に聴診器を当てた。が、またすぐはずし、
「立派な心音がしてますけど」
と言った。母の顔はみるみる青くなり、私はわっと声を上げて泣いた。ずっと胸につかえていたものがやっと取れた、うぶ声のような泣き声だった。
私は、すべてが済んだ気になってぼうっとしていたが、母はすぐさまその家の近所である産婦人科の診察室から逃げ出すことを考えたらしい。病院を出てもまだ小走りになっていて、私は気の抜けた顔でそのあとに続いた。
「あそこの病院、桑原さんの奥さんが受付してるっていうのに」
先に世間体を考える母が、私は少し悲しかった。でもそれも私が妊娠したのが悪いのだろう。私はもう泣き止んで、それにちょっとさっぱりしていた。だが、
「もう六カ月の初めじゃあ、とてもお父様に内緒で堕《お》ろせないよ。入院しないと」
と母が言うのを聞いて、まだまだ問題はいっぱい残っていることを知った。
「相手は誰なの」
「益田浩樹くん」
「あの、あんたの次に勉強の出来る子?」
「そう」
「ちょっと、会わせなさい。今、どこにいるの」
「バスケ部だから、まだ学校だと思う」
私は、捜して連れてくるからと言って、母をあとにして駆け出した。浩樹はすぐ見つかった。
「あのね、妊娠してた」
と私は彼に言った。
彼はぼんやりしていた。とくに感想はなかったようだ。間もなく母が追いつくと、浩樹は母に礼儀正しく挨拶などしていた。私はただそれをなんとなく見ていたが、緊張のあまり、少しへらへらしていたかも知れない。それどころではないはずなのに、母は彼のことをどう思ってるのかしらなどということが気になったりした。こんな時なのに、母親にボーイフレンドを紹介しているつもりで、どこかちょっとわくわくしている自分がいた。母に男ともだちを紹介したのなんて初めてだったから、ほんとに少しはしゃいでいたのかも知れない。母は、どう言ったものかと口ごもっていたが、しばらくして、
「クラスで成績が一番と二番の人が、そんなことをしちゃ、駄目じゃないの」
と言った。
家に帰ると、いつものくせで勉強して過ごした。妹は、私の妊娠を聞いてあきれ驚き、ただ黙っていた。母はずっとおろおろしていたが、ふと思い出したように、
「一人でずっといろいろ悩んだんだろうにねえ。早く言えば、三カ月かそこらくらいなら、私がこっそり堕ろさせてやったのに」
と言った。私は、胸が詰まった。初めて母に同情してもらい、泣いてすがりたい気持ちになった。しかし、それと同時に、それは本気で言っているの? と問い詰めたい気もした。ほんとに早く話せばよかったのか。早く話せば私の身になって相談に乗ってくれたのか。そんなこと、とても出来そうになかった! 母と私のあいだには、固くて冷たい空気の壁があると、私の方はずっと思っていたのだ。
「でもねえ、|まさかそんなことをしてるなんてこっちは夢にも思わない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》しねえ」
母は続けてそう言い、私の気持ちはしぼんだ。子どもの頃からずっとそうだったように、やはりここでは悪いのはすべて私なのだ。
恐ろしい待ち時間が過ぎ、それよりもっと恐ろしい養父が帰ってきた。
私は息を殺してじっとしていた。
母と養父が、何か二言三言話すのが聞こえた。いきなりふすまが勢いよく開いて、そこに鬼のような顔をした養父が立っていた。養父は私を見ると、口を歪《ゆが》めて、
「この淫売が」
と言った。私はその言葉の意味を知らなかった。何か言う間もなく、殴り飛ばされ、目から火が出た。続けて殴られ、声も出せなかった。殴られてる最中はいつもそうだが、気が張っていてさほど痛くはない。殴られているのだけで精一杯なのだ。養父は何度か殴るとすぐに台所に駆け込み、包丁を持って飛び出してきた。
「あなた。やめて」
母はあわてて養父にすがった。妹も養父に飛びついていった。私は数えきれないほど養父に殴られたが、母や妹が養父を止めたのは後にも先にもこのときだけだった。
養父は母に包丁を取り上げられたので、そこらへんのあらゆるものを使って私を殴った。えものがあまりに多かったので、何で殴られたかは忘れてしまったが、ぼきっと、傘の骨が折れる音は聞いたような気がする。別にいいけど、なんで部屋の中に傘があったのだろう。
しばらく私を殴ると、養父は母と私に、
「相手の男は誰だ! 相手んとこへ行くぞ!」
と言い放って外へ出た。母はあわててあとを追い、私もしようがないので続いた。養父は、私が逃げだすとは全然思っていなかったらしい。私たち三人は滑稽なくらいの緊張感をみなぎらせて坂道を駆け降りていった。
しばらく行くとタクシーがやって来た。養父の命令で母が手を挙げて止めている間、養父はふいに私のほうを振り返り、私の下腹を力まかせに蹴りつけた。息がつまり、私は後ろに倒れ尻もちを突いた。そしたら、手を突いたところのすぐ横に犬のふんがあり、ちょっとだけ手に付いてしまった。痛いのと汚いのとでくじけそうになったが、タクシーはもう停まっている。私は汚れた手をかばいつつ、ふらふらしながらやっとタクシーに乗り込んだ。
タクシーの運転手には、当然私が行き先を言わなければならない。浩樹の家にタクシーで行くなんて初めてだし、私はまたもや少しだけはしゃいでいる不届きな自分を発見するのであった。松の木が並ぶ、浩樹の家の近くの風景を、私はぼんやり見ていた。でも、犬のふんの付いた手はまだ気になっていて、ずっとこすっていた。タクシーの中では、さすがに世間体を気にする養父はおとなしかった。
浩樹の家に着き、初めて見る浩樹の父が出てくると、無礼にも養父はいきなり掴みかかった。何かわけのわからないことをわめきながら、初対面の相手を振り回していた。
「おれがあんたの女房をやってやろうか! えっ、どう思うか!」
などとも言った。私は内心、
「その言い分は何かおかしい」
と思っていたが、もちろん口には出さなかった。養父は父親の後ろにいた浩樹をわしづかみにして引っ張り出し、
「このガキが! このガキが!」
と叫びながら首を両手でぐいぐい絞めた。このままだと殺してしまいそうな勢いであった。あわててみんなで引き離し、浩樹を逃がしてやった。
浩樹に逃げられてしまうと、養父はまた私を殴りつけた。私が倒れると、頭を、靴でがんがん蹴った。養父は、玄関にゴルフクラブが置いてあるのを見て、
「ゴルフなんぞやりおって!」
と忌ま忌ましげにいった。何もそんなことまで言わなくても、と私は頭を蹴られながら思った。
「おまえなんか、帰ってくるな。この家にもらってもらえ!」
それは願ったり叶ったりである。養父と母は私をその場に置いて帰ってしまい、彼らはそれを仕置きだと思っていたらしいが、私にとっては、はっきり言って気分は、
「ラッキー!」
であった。このまま家に帰らなくて済むんなら、こんなうれしいことがほかにあろうか。
養父と母が帰ってしまうと、浩樹の両親は、風呂場に隠れさせていた浩樹を呼び寄せ、私には、濡れタオルを持ってきてくれた。私の頭は、腐った野菜のようにあちこちぶよぶよになっていた。しかし、うずくまっている姿勢が多かったせいか、顔のほうは思ったほど腫れていなかった。
ぼんやり座り込んでいる浩樹と私に向かって、浩樹の父は、
「どんなに大変なことをしたか、わかっただろう?」
と静かに言った。私は、こんな落ち着いたお父さんのいる浩樹を、心から羨ましく思った。浩樹の首には、父の指の跡が赤く付いていた。
しばらくすると、浩樹の母は浩樹に、
「お風呂わいたから、はいんなさい」
と言い、浩樹はまた風呂場に行った。浩樹の家の風呂場は、少し離れた所にあるようだ。浩樹が風呂からあがると、浩樹の母は私にも、
「お風呂にはいったら?」
と勧めた。友だちなどつくるなと言われて育った私は、他人の家で風呂にはいったことがなかった。それに、しょっちゅう養父に殴られているので、殴られてすぐ入浴すると、そこがひどく腫れたりすることも知っていた。体は泥だらけであったのだろうが、きれいにしたいなどと思う余裕もなかった。
「あ、どうも……でも、いいです」
「そう」
私はその代わりに温まってしまったタオルを冷たくし直してもらい、それを頭や顔に押し当てながら壁にもたれかかっていた。
浩樹は、そんな私に背を向けて、勉強机に座り込んでいた。
何か広げて書き物をしている。
この人は明日学校へ行くつもりなのだろうか、と私はぶよぶよの頭で思った。私のほうはとても学校へは行けない。そうしたら私を置いてでも行くのだろうか。今まで、いつでも一緒だったのに、急に運命が別れてしまったような気持ちだった。
私に何か言うことはないのか。これだけのことが起こっているのだから、何か言ってもいいはずではないか。私は全神経を集中して彼の背中を見つめ、念力をかけた。
ふと、浩樹が振り返った。
「ねえ、この字ってどう書くんだっけ」
覗きこむと、クラブの日誌のようなものを書いているらしいのがわかった。私は黙って、言われた漢字を書いてやった。
「サンキュ」
「ううん」
それが浩樹と交わした最後の会話だった。
「おかあさん、いらしたよ……」
敷いてもらった布団の中でやっとうとうとし始めたころ、浩樹の母の声で目が覚めた。まだ真夜中である。私は心からがっかりした。同じ迎えに来るなら、何もこんな時間に来なくとも。一晩くらい泊まってからでもいいではないか。
母はひとりで来ていた。私はしかたなく、母とタクシーに乗って帰った。
家につくと、養父はウイスキーをラッパ飲みしていた。私の顔を見るなり、ウイスキーの瓶でテーブルを思い切り殴りつけた。ものすごい音がして、立派に見えても実は合板のテーブルの表面は卵の殻のようにへこんだ。これは痛そうだと思った。同じことを私がやられたら頭の鉢が割れるだろう。もう殴られるのは嫌だなあ、と私はぼんやり思った。
しかし養父はもう殴る気はないらしく、またウイスキーをがぶがぶ飲んだ。
「馬鹿やろう、静子ォ。おれは、おれはなあ……」
どういうわけか、泣いているようなのである。でも、よくよく見ると涙は出ていない。「おれは泣いているぞ」という芝居をして見せているのだ。なぜそんなことをするのか私には分からなかった。
「どこでしたのか。ここでしたのか。言ってみろ。汚ねえ。あんな汚ねえガキと」
さんざん私と浩樹のことを口汚く罵っていると思ったら、しばらくしてわけのわからないことを言い出した。
「なあ、静子、どっか遠くの山にこもっておれとその子どもを育てよう」
いったいどういう理屈なのか、それは。なんで浩樹の子どもをあんたと育てなきゃなんないの? 私の頭の上にはクエスチョンマークが飛び交ったが、私は無表情を保った。
「静子さん、お父様にあやまんなさい。一からやり直しますって約束しなさい。あなた、静子は反省していますから」
母はそればかり言っていた。母のいうやり直しとは、子どもを堕ろして、一所懸命勉強するという意味らしかった。でも、それはそんなに良いこととは思えなかった。もう別にどうなってもよかった。子どもを産んで、その子の親として生きるのもなかなか面白そうであった。何にしても大好きな男の子どもであるから、妊娠したこと自体は嫌ではなかったのだ。私はときどき胎児が動いているのに気づいていた。お腹の中で浩樹の子どもが動いている。それはとても不思議で感動的な感触だった。しかし、それを土足で踏みにじるように、
「こいつは、担任の教員ともやってるぞ」
と、養父はそんなことまで言い出すのだった。
「てっちゃん、とか呼びやがって」
担任の先生は哲也という名で、みんなから「てっちゃん」と呼ばれていた。私もその先生が大好きだったので、よく、
「てっちゃんがねえ」
と家でも話していたのだ。でもそれがどうして「やっている」ことになるのか分からなかった。養父は、もちろん性交のことを言っているのだ。
「横になってみろ」
父は私を寝そべらせて、腹をなでたり押したりした。
「おれはさっき、これで堕ろしてやろうと蹴飛ばしたが、駄目だな……これは位置が違う、逆子だ」
何言ってんのこのおっさん、と私は内心思った。ああ言ったりこう言ったり、いったいどうしろと言うんだ。養父は自分では医学がわかる気になっているが、何の資格もないことを私はよく知っていた。私が逆子で生まれたのを知っているものだから、あてずっぽうを言っているのだ。
養父はだんだん調子に乗って、診察と称して私の下着を脱がせ、性器をいじくりまわした。
「お前はもう一生、あれはするな。しないで一生を送れ」
私は黙っていた。
「できないように、ここを縫い付けてやる。今おれがやってやる。子どもは帝王切開で産ませてやるから心配するな」
心配するなと言われても。
しかし養父は、私の性器を縫い付けるための準備を本当に始めた。もっともらしく注射器や麻酔薬をへこんだテーブルの上に並べ、縫い針をろうそくの火であぶってつり針状に曲げたりした。
「嘘でしょう、あなた。ほんとですか。ほんとにするんですか」
母はなきべそをかいて養父に何度も尋ねたが、養父はただ黙って手術の準備を進めていた。私はぼんやりとそれを見ていた。あいかわらず感情に鍵を掛け、何も感じてはいなかった。しばらくして、
「風呂で洗ってこい」
と命令され、立ち上がった。いつのまにか風呂が沸いていた。
「あなた、ほんとにするんですか。そんなこと、ほんとに」
母は、あわあわ言って、腰が抜けたなどと騒いでいたが、その風呂はいったい誰が沸かしたのだろうか。それは母以外に考えられない。母は、養父が言い出した性器の縫合などという手術を怖がってはいるようだったが、けっして、
「やめて」
とは言わなかった。私には母もそれを望んでいるように見えた。もともと、母が自分を助けてくれるなんて思っていなかった私は、開き直って風呂場で性器を洗い、養父が新聞紙を何枚も広げて作った「手術台」の上に脚を広げて横になった。
母はもう騒がなかった。そしてもちろん止めもしなかった。
養父は指で私の性器をいじくりまわし、そのあともったいぶって腕時計を見ながら私の脈を計った。テーブルの上の手術道具の針には普通の洋裁用の白い糸が通してあり、注射器には麻酔薬が注入された。私は黙って天井を見ていた。
手術はなかなか始まらなかった。養父は言った。
「ちょっと脈が速いな。これでは手術は無理だ」
私は、
「おまえは怖《お》じ気《け》づいている」
という意味で言われていると思って、少しむっとした。養父にどんなことをされようが、私はおびえたりへつらったりしない自信があったからだ。
「いや、こんなに脈が速くちゃ無理だ。おまえは、そこで寝ていなさい。これからちょっと話し合うから」
養父は、子ども部屋でなく、自分と母の寝室のベッドに私を行かせた。いつもの寝床と違うので落ち着かなかったが、子ども部屋には妹がいるから、こっちに行けと言われたのだと思った。ネグリジェには着替えたものの、その下に何も穿いていないことも気になった。しかしまもなく疲れが出て、私はぐっすり眠ってしまった。
しばらくして、人の気配で目が覚めた。私の後ろから、布団の中に誰かが入って来たのだ。ポマードのいやらしい臭いで養父だとわかった。せっかく寝られると思ったのに、養父はいっときも私をくつろがせようとはしないのだった。養父は、後ろから私のお尻の間に指を入れてきた。また診察かと私は心からうんざりした。ところが、それは指ではなかったのだった。
寝室のふすまを開けると、部屋の隅に母が小さくなっていた。私は、今起こったことがよく把握できないまま、母のそばに行って、聞いた。
「どうして、お父様は、私としたの?」
母は悲しそうに言った。
「もう六カ月でしょ。六カ月にもなると、堕ろすのも大変だし、お医者も嫌がるんだって。だから、おれがつついてみるからって、そしたら降りるかもしれんって、お父様が言われたから……」
私は母の言っている意味がよくわからなかった。
「つつくって? |する《ヽヽ》と、降りるって意味?」
「わかんないけど、やってみるからって。だって、こんなことになっちゃって、私ももう、あなたの好きにしてください、と言ったのよ。だって、もうそう言うしかないじゃないの、もう」
母は泣き声になった。それでも私にはわけがわからない。
「でも、つつくって、お父様、私の胸を吸ったり、『おとうちゃん好きか』とか言ったりしたよ。なんで?」
私は真顔で母に質問した。つつくということの意味が、よくわからなかった。なぜ、ただつつくのにそんなことがくっついてくるのか。私はあくまで真剣だったが、私の質問を聞くと、母の顔からそれまでの悲しみが消え、
「あら……それは……」
と、困ったような笑ったような表情になり、
「気分が出ちゃったんでしょ」
と言った。
私は体を引きずるようにして子ども部屋に帰った。もう夜が明けようとしていた。私の布団は敷かれてはいない。私は、自分の布団を敷く元気もなく、妹の寝ている布団から少し離れてしゃがみこんだ。
きのうの夜からさっきまでのことが、頭の中でぐるぐる回った。まだ私は、下着を着けていなかった。
何もかも、わからなくなった。おとうちゃん好きかって? 気分が出たって? つつくっていったい何? 何ひとつ答えは見つからなかった。かわりに、胸のわるくなるような何かが込み上げてきて、涙がぼろぼろこぼれた。だれかに助けて欲しかった。でも、だれも助けてくれないこともわかっていた。
「おねえちゃん、どうしたの?」
妹が起きて声を掛けてきたが、私は答えずに泣いた。声が漏れるのさえ、がまんできなくなってきた。背中を向けているのが精一杯で、
「大丈夫よ」
なんて、とても言えなかった。
「おねえちゃん?」
私の態度が普通でないので、妹も怪訝に思ったようだった。私は、肩を揺すってただ泣きじゃくった。隣の部屋から、養父が母に、
「まずいぞ、ほらこっちに連れて来んか」
と小声で言っているのが聞こえてきた。
母を通じて、養父からのお達しが来た。
「あんたが心を入れ換えてがんばるなら、中絶して、人生をやり直させて下さるって」
私は、感動なくぼんやり聞いていた。とにかく、養父と性交するのだけはもうまっぴらだった。それさえしなくていいなら、なんでもすると思った。
養父と母はさっそく、私の人生をやり直させる準備に取り掛かった。
まず、家になぜそんなものがあったのか、おびただしい数の他人の名字の印鑑の入った箱を出してきて、中をがらがらとひっかき回した。そして、
「これでいいだろう」
と養父がつまみ上げたのは『山口』という名の印鑑であった。
「山口静子ということで入院させるからな。歳も十五はまずい。十六なら、まあよし」
そういうわけで、私は山口静子十六歳になって、ある産婦人科に入院した。
私は生まれて初めて産婦人科の診察というものを体験し、それがとても屈辱的なものであることを知った。これまでは、おそるおそるしか触れられることがなかった自分の性器が、ぐいぐいと大胆に扱われるのは嫌な気分だ。
母は、毎日診察があるのだからと、普段はほとんどパジャマしか着ない私にネグリジェを何枚も用意してくれたが、そのネグリジェは純白やクリーム色の天使の着るようなデザインで、気恥ずかしかった。そんなものを着て、毎日性器をいじられる妊娠六カ月の自分がとても滑稽に思えた。
初日、医師は私に、
「膣口を広げるために棒を入れますからね」
と言い、何かそういうものを何本も中へ入れていた。私は状況をよく把握できずにされるままになっていたが、その本数が増えていくに従って、下腹にこれまで体験したことのない痛みが突き上げてきた。いつも養父から殴られていた私は痛みにはがまん強いほうであったが、あまりに痛いのでうめき声を出してしまった。
「十三本入りましたから。じゃあ病室に戻って休んで下さい」
「十三本……」
私は一階の診察室から二階の個室までふらふらと戻り、腰のあたりだけシーツの下に真っ黒で分厚いゴムのシートが敷いてある、情緒のないベッドに横になった。下腹をさすりながら、毎日こんな痛い思いをするのかと思った。
しかし、自然にその痛みはなくなり、翌日棒の本数を増やしたときには圧迫感だけになっていた。それだけでなく、翌日などは、トイレで用を足しているときにその棒の中の一本が降りてきて便器の中に落ちてしまった。こんと音をたててそれが落ちると、続けてもう一本がつられて降りてきた。私はちょっとあわてたが、これで初めてその「棒」を自分の目で見ることができたのでよく観察することにした。
それは、フィンガーチョコレートくらいの黒いものだった。しかしいくらなんでもこれが十数本も入っているのは不思議だった。消毒薬くさい病院のトイレの中で、私はそれを見つめながら自分の胎内を思った。
しばらくして看護婦を呼ぶボタンを押し、
「棒が出てきて落ちちゃったんです」
と告げると、看護婦が器具を持ってあらわれ、便器からそれらを拾ってくれた。落ちた本数分また挿入されるのかと思ったが、その日はもう診察はなかった。
次の日、また棒の数は増えた。それだけでなく、点滴をするという。
「膀胱《ぼうこう》を膨らませて子宮を刺激させるための点滴ですから、なるべくおしっこを我慢してくださいね」
そう言って看護婦は私の腕に点滴用の注射針を刺して絆創膏《ばんそうこう》で止め、薬をくれた。陣痛を起こす薬だという。私はこれでやっと、このお腹の中の胎児はお産と同じやり方で出さなければならないことがわかった。たいへんなことなのかも知れなかったが、知識もなければ実感もなかった。言われたとおりにしているしかないのだ。私は薬を飲み、トイレに行かないことにした。しかし、何事も起こる気配はなかった。
翌日は普段と同じように棒を入れたまま過ごした。部屋には、毎日牛乳売りのおばあさんが訪ねてくる。おばあさんは、母と呼ぶにはあまりにも幼いはずの私をいぶかしがる様子もなく、いつも何かと声を掛けてくれた。そのおばあさんや、看護婦とふたことみこと話をするほかは、たいがい、ただぼうっとしていた。病院の中で、ほかの患者が、獣のような声を上げてお産をしているのを聞いたり、生まれた子どもを抱いて家族揃って帰っていく光景を見たりしたが、特に感動はなかった。
その翌日もまた棒を入れたままだった。診察は毎日していたが、棒の数が増えているのかどうかは、よく分からなかった。
変化はその翌日にあった。
まず、私の中からはいつもの棒が取り除かれ、かわりにほかのものが入れられることになった。
それはゴムで出来た大きな風船だった。
医師は、それを私の中に入れると、今度はその風船の中に水をどんどん入れた。三リットルも入れた。
いろんな目に遇うものだと思った。
病室に帰って変な気分で横たわっていると、生理痛のような痛みが起こってきた。それはしばらくすると消えたが、じきにまた起こり、止んでは起こりの繰り返しになってきた。そして時間が経つにつれて痛みは激しくなり、夕方母が来る頃になると、食事も出来ないほどになってきた。
「とうとう陣痛が起こったね」
母が言った。
これが陣痛というものなのか。私はうんうんうなって耐えた。医師が来て私の様子を見、
「風船の位置を……」
と看護婦に指示した。看護婦は私の中の風船から出ているひもにもう一本ひもを結び付け、それをぴんとなるように張って、私の右足の親指に結び付けた。
「脚、伸ばしててくださいね」
言われたとおりにしていると、陣痛がどんどんひどくなる。しかし、脚を曲げると少しはやわらぐ。あまりにつらいのでどうしても曲げてしまい、母から、
「ほら、伸ばしていなきゃ駄目じゃないの」
と諭された。痛い目に遇えと言われているようで少し嫌な感じがしたが、母の言うことのほうが正しい気もした。
夜中になり、母も帰ってしまった。私は一人であいかわらずうなっていた。脚はなるべく伸ばしていたが、つい辛くて曲げてしまうこともあった。痛み以外のことは、何も考えられなかった。
突然、性器から何かが飛び出すのを感じた。私は風船を入れていたのも忘れ、胎児の頭だと思い、怖くなった。頭の中には、私の性器の中から頭だけを出してうらめしそうな顔をしている胎児の図が浮かんでいた。私は、そこを触って確かめることもせずに看護婦を呼ぶボタンを押した。スピーカーから、看護婦が答えた。
「どうしました」
「何か出てきちゃったんです」
看護婦はすぐやって来た。そして私の下半身を見ると、
「ああ、風船が出てきてしまいましたね」
と落ちついた声で言った。それで私はやっと胎児の手前に風船があったことを思い出した。胎児ではなかったことにはほっとしたが、こんなに痛い思いをしたのに、これでまた振り出しに戻ったのかと少しがっかりした。看護婦はベッドの上に洗面器をおき風船の口を開けて中の水を抜き、私の性器からしぼんだ風船を引き出した。
それから医師がやって来て、懐中電灯を使って、私の中を覗き込んだ。医師は静かな口調で言った。
「もうそこに頭が見えていますから、分娩室《ぶんべんしつ》へ移動しましょう」
私の考えはもう振り出しに完全に戻ってしまっていて、その医師の言う「頭」が胎児の頭のことであると分かるのに、少し時間がかかった。が、よく考えたら胎児の頭の他に頭があるものか。私はあらためて少しあわてた。とにかく分娩は始まったのだ。私は、寝台のまま、ガラガラと分娩室に運び込まれるのを待った。ところが、
「はい、一階ですから」
と、立たされ、歩いて分娩室まで行ったのだった。
分娩室は、診察室の何倍も不思議なところだった。診察台には、足首を乗せる所が両側にあるが、手術台には膝の部分から足首まで、しっかりと固定することができるそれが付いている。そして、それに脚を収めるととんでもないくらいの角度で体が開いてしまうのである。私はそんな身も蓋もない恰好で、医師の処置を受けた。医師は、
「麻酔しますからね」
と言いながら私の性器を触っていたが、注射をした感じはなかったし、痛みが和らぐ気配もなかった。
いきなり、性器からお湯が飛び出た。胎内に、あたたかいお湯のたくさん入ったバケツがあったのを、ぶちまけたといった感じだった。ザバッと音がするほどの量で、水芸どころではないほどだった。私の膣の中はすでにブラックホール化していると思った。
「破水《はすい》しました」
と医師に言われても、その意味は知らなかった。ただ自分の腹部だけを見ていた。前に比べて分かりやすい突起があった。見ているうちにその突起がぐっぐっと、生き物の様に下に降りていくので、私は驚いて手で押さえようとした。
「ほら、押さえちゃ駄目」
看護婦に止められ、あわててまた手を引っ込めた。そうしているあいだに、その突起の中のものは、私の外に出て行った。
「もういちど、痛いですからね。あとざんがありますから、我慢して」
あとざんというのも何だか知らなかった。とにかくまだなんかあるらしい。まもなくそこからヌルリヌルリと何かが出てきた。別に痛くはなかった。
だいぶ落ち着いてきた私は、顔を少し起こして、医師の手元を盗み見た。洗面器の中に、臓物のような、肉と血の塊がいっぱい入っているのが見えた。ホラー映画の一場面のようでもあった。
「あのう、男か女か、わかるんですか」
私が聞くと、医師は、
「わかりますけど、知りたいですか?」
と聞き返した。
「はあ」
「それは、聞かない方がいいでしょう」
そうかも知れなかった。
「がんばって、人生をやり直してください」
「はい」
私は少し感動したが、そのあとやはり病室まで歩いて帰らされることを知り、すぐ現実に立ち戻った。大きなおむつを当て、あまり美しくない足取りで、階段をもたもた上っている自分はちょっとだけ情けなかったが、これでやっと終わったのだ。私は二階にたどりつくと、トイレに寄って小用を足した。
ぼちゃっと音がして、何かが便器に落ちた。見ると、血と粘膜の塊のようなものが、こぶし大に揺れている。
看護婦に告げて、見てもらうべきだろうか。私は少し迷った。昨日までの私なら、大騒ぎしたかもしれないくらいの、かなり大きな赤い塊だった。しかしあれだけのものを体から出したあとで、すっかり気が大きくなっていた。それにもう、眠りたかった。
「まあ、たいしたことでもないんだろう」
私は勝手にそういう事にして、便器に落ちた真っ赤なこぶを水で流した。そして病室に戻り、泥のように眠った。
翌日はやすらかだった。看護婦からもらった、母乳の出るのを抑える薬などを飲んで過ごした。診察がすんで部屋に戻ると、私のベッドの中からは、あの分厚くて黒いゴムシートが取り除かれ、白くてきれいな寝床になっていた。
昼過ぎに、母が来た。母乳を抑える薬をもらったと言うと、しばらくは牛乳を飲まないほうが良いと、母は言った。そんなものかと思っていると、看護婦が一枚の書類を持って入って来て、
「これに記入をお願いしますね」
と母に渡した。死んだ子どもを埋葬する手続きのための書類のようだった。
「いつ頃死んだのかなあ。外、出てからかなあ」
私はぼんやり母に聞いた。
「そんなの、あれだけいろいろしたんだから、もうお腹の中で死んでたに決まってるでしょ」
そういえば、途中から動いていなかったような気もする。だが、私のほうも夢中だったので、はっきりとは覚えていない。しかし、もうお腹の中の子どもが死んでいるのにあんなに激しく陣痛が起こって産み落とすことが出来るものだろうか。私はあれこれ考えた。あれだけいろんなことをされたのに一週間もがんばってお腹の中にしがみついていた胎児を、少しだけ不憫に思った。私にはまだ、少ししか思ってやる余裕がなかった。
「六カ月って言えば、もう安定期だもんねえ、大変なことよねえ」
安定期。それは初耳だった。つつけば降りるかもしれないとかなんとか言われて、養父に「あなたの好きにして下さい」と私を差し出したのは、誰だったのか。これだけ一所懸命しがみついていた胎児だ。あんな、指と間違うようなものでつついたからと言って、どうなるものでもなかった。もうひとつ、陣痛の最中、中を覗いた医師は「頭がそこまで来ている」と言った。もちろん真に受けていたわけではなかったが、養父が「これは逆子だ」と言っていたのだって、でたらめだったのだ。私は無表情を保ったままそんなことを考えていた。
「ねえちょっと、この祖母の欄は何? おばあちゃんの名前まで書くのかしら?」
母が書類を指差して言った。私が、
「だって、あたしが母だから、祖母はお母様でしょ」
と答えると、母は憮然とした顔になって、
「冗談じゃないわ」
とすねるように言った。
「この歳でおばあちゃんなんて、いやよ、あたし」
母はちょうど四十歳だった。甘えたように口をとがらす彼女を見て、この人は私が人の親になりかけたということをあまり真面目に受け止めていなかったのだなと思った。そう考えてみれば、堕ろさせることだけを言い続けていた母ではあった。私は母のそういうところが少し嫌いになった。そのときは彼女が、尊敬すべき母親でなく、あまり物事をちゃんと考えていないおつむの軽い女にしか見えなかった。
翌日からは母乳との闘いが始まった。抑える薬を飲んだはずなのに呆れるくらい出るのだ。看護婦が大きなタオルを当てて絞り出してくれたが、絞っても絞ってもきりがなかった。白い水の水芸人間と化した私を見て、看護婦の中の一人は、
「もったいないねえ。出なくて困っているお母さんは多いのにねえ」
と言ったりした。
絞ればきりがないし、放っておくと乳房がどんどんはれあがって熱くて痛い。冷たいタオルだけでは間に合わないので、その上に氷をたくさん乗せて冷やした。鏡で見ると、乳房が両方ともぱんぱんに張り切っていた。その片方だけで、顔の面積と同じくらいあったので、私はすっかり感心してしまった。
母乳をコップに取ってなめてみたりもしたが、味はほとんどなかった。いくらでも出るので植木にもやった。
それでもしばらくすると、母乳の出るのが止まり、はれも引いてきた。母乳をやった植木はちょっとしおれてきたので、私の自尊心は少し傷ついた。私はその植木に母乳をやったことは言わないで、母にその植木を持って帰ってもらった。
落ち着いたことを知ってか、養父が見舞いにあらわれた。私は、会いたくなかった。顔を見ると、胸がむかむかした。妹はしようがないとしても、母まで何事もなかったかのように談笑していて、気味が悪かった。悪い夢でも見ているような気分だった。
ある日、妹から手紙をもらった。内容は、私を励まそうとしているものだったが、
「おねえちゃん、がんばってね。だって、おねえちゃんと浩樹さんは、愛し合っていたんだもんね」
などと、安っぽい恋愛ドラマに酔っているようなことが書いてあるのには面食らった。目の前の現実をどう受け止めたらこんな手紙が書けるのかと不思議だった。しかし、なにがしかの情熱が傾けられているのは確かである。私は浩樹に手紙を書き、妹に頼んで届けてもらった。養父からひどい目にあっている、でも負けない、というようなことを書いた。返事は来なかった。
風呂に入らない日々が続いた。診察のたびに下半身を洗ってもらっているので、嫌ではなかった。しなだれてきた髪を観察しながらくしでとかしたり、いろんな形に結ったりして遊んだ。
なかなか退院の話は出なかった。
「婦人科のほうのことは、大事をとらないとあとで来るのよ」
と母は言っていたが、いくらなんでも、もうもとどおりだという頃になっても、私はまだ入院していた。
退屈だった。
「お父様がこれを読みなさいって」
と母が持ってきた分厚い本も、あっという間に読んでしまった。パール・バックの『大地』という名の本だった。本の内容は面白かったが、こういうときもったいぶってこれを読ませろなどと命令する養父にはあいかわらず嫌悪感しか感じなかった。
しばらくすると、母は私に、
「お父様がねえ、入院していたからといって、次の試験、成績悪かったら許さないって」
と言った。私は、入院前の最後の試験で学年の一位を取っていた。母は教科書やノートを全部持ってきてくれ、私は産婦人科に入院しながらもくもくと病室で勉強した。退屈だったし、もともと勉強は嫌いではなかった。しかし、ここで勉強させるくらいなら、なんで退院させないのだろうとは、少し思っていた。そのくせ私が頼みもしないのに病室にテレビが運び込まれたりした。養父と母と妹が三人で来て、大した会話もせずにテレビドラマなどを見て過ごしているのは、なんとなく滑稽な図だった。私がテレビを見たがると思った養父がサービスのつもりで入れたのかも知れないが、私は一人のときほとんどスイッチを入れなかった。今の自分の状態とあまりにも違う世界が映し出される窓をながめて過ごすより、子どもの頃から慣れている、空想の世界に遊ぶやりかたのほうを私は選んだ。私の入院生活は、一カ月も続いた。
まるまる一カ月入浴しなかった私は、そのままの体で退院した。
看護婦が、
「今日あたり、体拭きましょうか」
と勧めてくれても、ずっと入浴しない状態が面白くて、わざと断っていたのだ。髪の毛は自らの皮脂でつるつるに固まり、それほど汚い感じがしなくなっていた。
家に戻ると母はさっそく風呂を沸かしてくれ、養父は私に病院の領収証を突きつけた。
「ほれ、こんなにかかったんだからな。心してこれからちゃんとするように!」
額面は二十数万円であった。私は別にこたえなかった。そんなことをえらそうに言うくらいならなんでさっさと退院させなかったのだと思った。母は黙って聞いていた。
風呂に入ると、頭も体も何回も洗わなければならなかった。ずいぶん長いこと入っていたが、さすがにこの日ばかりは養父も私を叱れなかった。
学校に行くと、浩樹はすでに転校して行ったあとだった。
担任の教師は私の長い欠席について何も聞かなかった。私は盲腸をこじらせて入院していたことになっていたらしい。私は先生のことを無邪気に、
「てっちゃん」
と呼ぶことさえもう出来なくなってしまった自分が、少し悲しかった。
休み時間になると、私は浩樹の親友の健三のところへ行った。浩樹は隣の市に引っ越したという。そこまでしたわけだ。私は自分の入院があんなに長かったのもわかる気がした。しかしそんなことがわかったからといってどうなるものでもなかった。浩樹に会ったところで、もうお互い話の合うような相手ではなくなっていると思った。健三は私に同情し、
「浩樹も静子のこと、気にしてたよ」
などと言ってくれたが、そんな純情な彼にすべてを話すわけにもいかなかった。
一見平和な日々は、あっという間に終わった。養父は早いとこ私と次の性交をしたくてうずうずしていたのだ。
ある夜、家族でテレビを見ていたとき、妹があるタレントを、
「可愛いよねー」
と褒めたのを聞いて、養父が、
「いやいや、静子のほうがずうっと可愛いぞう」
と冗談めかして言ったのだが、私はそれを聞いて胸が悪くなった。ぞっとして、自分でも表情が暗くなるのを我慢できなかった。
「そんなことないよ。この人のほうがあたしより可愛いもん」
と言い返してしまった。養父の顔はみるみるうちに怒りで赤くなり、私と妹は子ども部屋に帰らされた。
しばらくすると、養父は寝室に入り、母だけが私のところへやって来た。
「静子ちゃんが、反抗的なことを言ったから、お父様がお話があるそうよ」
私は心から後悔したが、もう遅かった。寝室のふすまをそっと開けると、養父がこっちを見ていた。もう怒っている顔つきではなかった。それどころか、少し笑っているようにさえ見えた。
私はもう、養父に体を触られたくなかった。四畳半に無理やりダブルベッドだけを置いてあるその寝室の、いちばん養父から離れている隅に私は座り込んで頭を床にすりつけて謝った。
「ごめんなさい、私が悪かったです。もう言いません。ごめんなさい」
あれだけはもうしないでください、と言いたかった。でもそこまでは言うわけにもいかない。そこまで言ったら、もしかしたらそれまではする気がないのかもしれない養父を刺激するだけだ。私は考えつくかぎりの言い方で養父に謝罪した。養父はときどき、
「ああ」
と生返事をしていたが、とうとう、
「それはいいから、こっちへ来い」
と言った。そして私は、また、入院前のあの日と同じことをされた。
居間を通り抜けて子ども部屋に帰ると、母と妹が薄暗い中で心配そうな顔をしていた。
「おねえちゃん、怒られた? だいじょうぶだった?」
と妹が言った。
「うん」
私がそれだけ答えると、妹はすぐに安心して寝てしまった。私は母と向かい合って座った。
「静子さん、お父様にさからっちゃ、だめじゃないの……」
と母は小さく言った。
私はそんな中でも高校受験を考えなければならなかった。もちろん県でいちばんの受験校に入らなければならないのだ。私は毎晩朝まで勉強し、昼間はほとんど保健室で寝ていた。いろんな夢を見た。何度も出てくる夢もあった。
授業に出ることもあったが、ただぼんやりと、陽の光に赤くなる自分の髪の毛を見て過ごした。教師が私の嫌いな言葉を使うと、手を挙げて起立し、
「頭が痛いので、保健室に行ってもいいでしょうか」
と言っては教室から出ていった。養父は、月に一度くらいの割合で、私を寝室に呼びつける。養父の寝室の天井の木目の模様を、もう私は覚えてしまっていた。あの産婦人科病院で受けていた診察のいやな感じが、月に一回戻って来る。私はただその時、人形のように無反応なまま時間が過ぎるのを待った。養父の性器が浩樹より遥かに小さかったことは、私にとって幸運かもしれなかった。
養父が私にしていることは、母以外のだれも知らなかった。私はまだそれを誰にも言えずにいた。
「静子さんが普通でないことをするから、こうなったのよ」
と母に言われ、自分でもそうなのだろうと思っていたのだ。そのうえ、養父はそれを正当化する理由まで持っていた。私はそれを、母の口から聞いた。
「静子さんがね、最初にしたとき、ぜんぜん痛がらなかったって」
「最初って」
「入院する前……」
「………」
「だから、あれの体は、もう相当男を知ってるって……。だから、ときどきしないと、男が欲しくなって勉強が手につかなくなる、だから月に一回くらいでおれがしてやっているんだって」
私は反論もできないくらいに驚いたが、母は真面目だった。
「あたし……いちばん最初のときから、痛くなかった……それに、あのときって妊娠六カ月……」
私は小声でそう言ったが、母は聞いてはいなかった。
「あたしはお父様にそう言われたよう。ほんとに、あれだけ気をつけてたのにあんたがあんなことを起こすんだもんねえ。いやだよ、あたしだってこんな生活……」
私はもう何も言えなかった。いつものことではあった。
破瓜《はか》のときから痛みを訴えなかったことを、浩樹はどう思っただろう。私はまだときどき浩樹のことを考えていた。
「おれが最初にした女、痛がらなかったんだぜ」
「えっ、そりゃおかしいぜ。普通、ものすごく痛いって言うぜ。そいつ、ほんとは処女じゃなかったんじゃねえの」
そんな会話を、浩樹が遠くで交わしているような気がした。悲しかった。
私はだんだん母と養父のことを話すのを避けるようになった。まだ少しは自分の味方だと思いたい母に、これ以上嫌われたくはなかった。その頃母はとくに肩凝りがひどかったので、私は受験勉強の合間に母の肩を叩いてばかりいた。何十分もそうしていて、母が心地好さに居眠りすることもあった。肩を叩いているあいだは、母は私のことを好きでいてくれるような気がした。だから、第一志望の高校に合格した日、母が喜んでくれたり褒めてくれたりするどころか、
「あんた、落ちていたら大変だったわよ。お父様に殺されたかもしれないわよ」
と冷たい顔で言ったときは本当に驚いた。
そして心から失望した。
でも、顔には出さなかった。
県でいちばんの受験校だといっても、いろんな生徒がいるものだ。私はまず、入学式の日に、ある男子生徒からさっそく呼出しを受けた。
どう見ても、三年生の顔と体格であった。髭も濃いし、簡単に言うとおじさんだったのだ。ところが、そいつは隣のクラスの若林という生徒で、私と同じ新入生だった。
若林は、私を校舎の裏の林に連れて行くと、
「さっきから目つけてたんだけどさ、俺とつきあってくんない」
と言った。私は、これは面白いことになってきたとわくわくしたが、顔には出さず、
「いいけど」
と静かに言った。若林はそれを聞いて、
「じゃあまずキスしよう」
と言った。
ずいぶん話が早いと思ったが、ここであわてたりするのはみっともないので、とりあえず私は彼と接吻した。ただしこの状況に対する自分の好奇心に正直であろうと考え、目を開けたままにしていた。若林は、
「俺、目開けたままキスする女、初めて見たなあ。驚いた」
と言った。
若林の友だちはがらの悪いやつばっかりだったが、つきあっていて今まででいちばん面白い連中だと思った。いつも、私と若林が接吻した裏の林にみんなで行っては、煙草を吸いながら馬鹿話をして笑い転げた。
若林とはその後それ以上の接触はなかったが、そのうち昔から付き合っている女が別にいることがわかった。その女は別の高校の生徒だったが、私が彼女の存在を知るより早く私のことを聞きつけ、わざわざ私の顔を見に私たちの高校までやって来たのだ。若林はその女にあてつけるためだけに私に声をかけたのらしい。その女は私の顔を見に来ただけで黙って去り、あとで他の連中に、
「どんな女かと思ったら、ガキじゃない」
と言ったのらしい。それを萩野という男から聞いた時、私はその女が短い髪をしていたのを思い出した。
「そういえば、若林っていつも私の長い髪をほめるのに、なんであっちは髪が短いんだろうね」
と言うと、萩野は、
「若林はポニーテールが嫌いなんだよ。だからあいつ、髪短くしてんの、ポニーテール出来ないように」
と言った。何なんだそれは、と私は思った。よくわからないが、その女は自分の容姿を若林の気にいるように調整しているのらしかった。変な女だ。そんな女と張り合わせるために私に声をかけたのか。私は馬鹿馬鹿しくなって若林とつきあうのをやめた。
しばらくして私は塚田という男とつきあうようになった。私はそれほど塚田を好きではなかったが、彼は私の知らないことをとても沢山知っていていつも私に教えてくれた。中学浪人していて、歳も私より一つ上だった。彼とは間もなく性交した。最初は、よく晴れたまっぴるまの墓地だった。外でするのは初めてだったし、青空が見えるのがとても変わっていていい気分だった。塚田は途中まですると私から離れて、自分の手を使って私の脚の上に射精した。
「変わったことするね」
と言うと、
「妊娠させたらまずいじゃん」
と言った。そういう言葉を男の口から聞くのは初めてだった。それから彼はハイライトに火をつけて私に勧めた。一本の煙草を二人で吸いながら、私は初めて煙草をうまいと思った。
あるとき私は塚田に、家で養父からされていることを全部話した。塚田は、
「なんだそれ。むちゃくちゃだな、おまえんち」
と真顔で言った。嬉しかった。
「どうすればいいんだろうね」
と相談すると、
「今ちょっと、おかしくなってるだけかもしんないから、もとのお父さんに戻ってくれって頼んでみなよ。話せばわかってくれるぜ、きっと」
そうかもしれない。私はその次に養父の寝室に呼ばれた夜にそれを実行に移してみた。真面目過ぎるくらい真面目になって養父に向かい合い、
「私も心を入れ換えて、しっかり勉強します、真面目にやりますから、お願いですから、お父様ももとのお父様に戻ってください」
と言って床にはいつくばって頭を下げた。養父は、
「うん、うん」
と言って聞いていたが、私の話が終わると、
「わかったから、こっちへ来い」
と私をベッドにあげて、さっさと性交を始めた。計画は失敗だった。
養父は、私と性交している時、途中でわざわざ電灯をつけて、私の両足を持ち上げて結合しているその部分を見たりすることがあった。最初は何をするのかと思ったが、それを見て養父が興奮しているらしいのがわかって、私はますます養父に対して嫌悪感を感じた。人形のようになってやられている女の性器を見てそんなに嬉しいのだろうか。下品なことをする男だと心から軽蔑した。それでも私はこの家にいなければならないのだ。どこも行くところはないのだ。私の生活は娼婦の生活そのものだった。しようがないので私はしょっちゅう塚田と性交して気を紛らせた。自分の意思でする性交は楽しかったし、快感もあった。浩樹ほどではなかったが、塚田の性器も養父よりははるかに大きかった。私は塚田との何度目かの性交で初めて絶頂感を体験した。しかし、まだそれがそう呼ばれるものであることはその時は知らなかった。
塚田との性交がだんだん面白くなるにつれ、私は本気で養父が憎くなってきた。いつものように養父が私を寝室に呼びつけたある夜、私はナイフを用意した。養父をほんとうに刺せるだろうかと思いながらそのナイフを見つめていると、いつのまにか母が後ろに立っていて、すがるような声で私に言った。
「静子さん、それだけは止めて」
私は黙って母を見た。
「今はあんた、子どもだからわからないかも知れないけど、あたしはあんたのためを思って言ってるのよ。それだけはしちゃだめ。それをしたらもうおしまいよ」
頭の中から現実感が薄れていくのがわかった。私はまたいつもの、どこか遠くから自分を見ているような気分に戻り、ナイフを机に戻して養父の寝室に行った。
それでも私はなんとかして養父と性交しないですむ方法をあれこれ考えていた。養父はもう完全に頭がおかしくなっていて、言っても駄目だという気がしていたが、とにかく母には、私が養父との性交をどんなに嫌がっているかをもっとわかってほしいものだと思った。しかし、具体的にどうすればいいかまではわからなかった私は、とにかく母の嫌がることや、わけのわからないことをした。
あるときは風呂場で煙草を吸ってみた。母はマッチのかすを見つけて血相を変えて私のところにやってきた。
「あんた煙草吸ったでしょう!」
私は黙っていた。
「お父様でさえ禁煙なすったっていうのに、なんであんたがわざわざ吸うの」
養父の禁煙と私の喫煙とは何ら関係のないことのように思えたが、そういえば母はその頃、
「お父様が煙草を止めてくれたから家計が助かるわあ。これでお酒も止めてくれたらますます助かるんだけど」
と言っていたのだった。そしてそれを私たち子どもが冗談だと思って養父に言ってしまったため、養父からねちねちと皮肉を言われるはめになってしまい、それをまた私たちにうらめしそうに言っていたばかりだったのだ。
「まったく、最近煙草の臭いをさせて帰って来るから、情夫《おとこ》が吸っているとばっかり思ってたら。自分が吸ってたなんて、ほんとに!」
私は耳を疑った。母は確かに、
「おとこがすってるとおもった」
と言ったのだ。それも、あばずれ女が同じくあばずれ女に言うように憎々しげな言い方だった。
母は私が中絶したあとも当然養父以外にもだれかと肉体関係を持っているものと確信していたらしい。私が毎月養父にやられる儀式のセッティングをしているのは母本人だというのに。そしてその儀式は男を与えないと私が勉強しないからだと養父が言うから行っている事情ではなかったのだろうか。「彼」とか「ボーイフレンド」ではなく「おとこ」という言い方もすごい。私は、また母がわからなくなった。この人は私が思っているよりもはるかに下品な女なのかも知れない。そうは考えたくなかったが、それにしては証拠がどんどん揃っていく。私は、母がホステスをやっていた頃に私たちに言った下品な冗談まで、さかのぼって思い出していた。そしたら、今この人がやっている、とんでもない娘に振り回されながらも、娘を良い大学に入れようとけなげに頑張る不幸な母親像というのは、いったいいつ頃出来上がったのだろうか。その答えはなかなか出てこなかったが、そのかわり私はもっと母をひっかきまわしてやることにした。
次に私は、箪笥の引き出しの中から養父の会社の医薬品をひっぱり出し、その中から精神安定剤を見つけた。そしてそれが、二個も飲めば眠気を催す効き目があるものだと知っていながら、いっぺんに三十個を口の中に放り込んだ。それから敷いておいた布団にもぐり込み、深い眠りに落ちたのだった。
ふと、養父が帰ってきた気配で目が覚めた。私は養父に「お出迎え」をするために起き上がろうとしたが、足がもつれてなかなか立てない。やっと立ち上がって養父のところへ行くと、今度は舌が回らない。それになんだかおかしくってたまらない。私は、普段はそっけなくしか挨拶しないようにしている大嫌いな養父にへらへら笑いかけていた。そんな自分が自分でおかしくて余計にへらへらした。
「おとうひゃま。おかえりなひゃいまへ」
私は愛想たっぷりにそんな挨拶をしてまた布団にもぐりこんだ。
「なんだ。静子の様子がおかしいぞ。何かしたんじゃないのか」
養父のいぶかしがる声が遠くで聞こえていた。
いきなり、母の平手打ちで目が覚めた。母は私の胸ぐらをつかみあげ、力まかせに私をひっぱたいているのだった。私は、なんで殴られているのかわけがわからなかったが、母が取り乱しながらしゃべっているところによると、彼女はただ怒ってひっぱたいているのではないらしかった。私が飲んだ三十個の精神安定剤の袋をくず箱に見つけ、さっき私がふらふらしていたわけがわかった母は、私をなんとかして起こさないとこのまま死んでしまうかもしれないと思ったらしいのだ。
そうか、これは死んでしまうかもしれないことだったのか、と私は思った。別に怖くはなかった。母がかんかんに怒っているのも、なんだか面白くてよかった。死ぬかもしれなかった、か、そうか、うん、でも、別にいいや、と私は首の座らない子どもみたいにまだゆらゆら揺れている頭でぼんやり考えた。
薬を飲んだ日から二週間くらいあとまで、私はぼんやりしていた。虚ろな目をして、母に口答えもせず、かんしゃくも起こさないおとなしい子どもになっていた。体から力が抜けてしまった感じだった。しかし、しばらくすると自然にもとに戻った。そして母は、養父のいるある日の昼間に、私一人を置いて妹と二人で買物に行ってしまった。私は思わず神に祈った。試験の時期を目の前にして、私はこれから仮眠を取って夜中は勉強することになっていた。でもやはり呼ばれてしまった。
「おーい、静子、こっちへ来い」
と恋人でも呼ぶような養父の声は、私にとって悪魔のうめき声よりもっとおぞましかった。今思えば、ほんとうに養父の声は弾んでいた。私は、このあいだやられた日からまだ一カ月経っていないのに! といまいましい思いでいたのだが、養父はそれが嬉しいようだった。私は重苦しい気持ちで自分の布団から出ていき、へそまである白いメリヤスのズロースを脱いで、養父のベッドに横になった。
養父が、私の性器を触っているあいだ、私はあいかわらず黙って天井を見ていた。養父は、
「濡れとらんじゃないか。何か別なことを考えてんじゃないのか?」
と言った。別のことを考えているのはいつものことだったが、私は、養父が言った「濡れる」という意味をまだ知らなかった。どうも、性器が反応していないと言っているのらしいが、だったらいつもはその反応が起こっていたのだろうか。どっちにしろ、私の知ったことではなかったが、ちょうどいい機会だからもっと嫌がってやれ、と思った。養父はその性器の反応を待たずに挿入しようとしていた。私は、
「ちょっと、痛い。痛いです」
と言った。
「我慢せんか」
養父はなおも行為を続けようとした。私は、
「だってほんとうに痛い、痛い痛い」
と言い続けた。それでも養父はむきになって行おうとしていたが、突然、
「うるさいッ!!」
と怒鳴って私を思い切り張り飛ばした。何度かそうやって殴られ、私は声も出せなかった。さんざん殴っても養父はまだ収まらず、今度は私のネグリジェの胸ぐらを掴んで思い切り投げ飛ばした。私は空を飛び、廊下の側にあるガラス戸のガラスに頭から突っ込んだ。ものすごい音がしてガラスはめちゃめちゃに割れた。
あまりの派手さに私はガラスのわくに頭をつっこんだまま唖然としていたが、養父はこれにますます興奮したらしく、今度は私の首ねっこをわしづかみにし、なにか大声でわめきながら私を子ども部屋まで引きずって行った。それから、自分で買い与えたフォークギターで力まかせに何度も殴りつけた。これまたすごい音だった。フォークギターはばりんばりんと音を立てて折れ、弦は弾けとんだ。弦を留める部分がちょうど殴られる度に腰に当たるので、それが痛くてたまらなかった。
ギターがばらばらになってしまうと、今度は私の机に歩み寄り、引き出しを引っ張り出して中のものを私に向かってぶちまけた。
「おまえのようなやつは」
とか、
「もう学校に行かせんからな。こんなものはこうしてやる」
とかわめきながら、全部の引き出しをひっくり返した。そして今回のエンディングは、私の頭を引き出しでぶん殴って締めた。私はよほど頭を引き出しで殴られる運命にあるのらしい。
そして養父は寝室に戻り、私はひとりで髪を振り乱したままがらくたの中に座り込んでいた。勢いよく飛び込んだせいか、体のどこにもガラスは刺さっていなかった。こんな目に遇っても、養父と性交しなくて済んだことが嬉しくてしようがなかった。まもなく母と妹が帰ってきて、家の中の荒れように驚いていた。ガラスは割れているわ、子ども部屋ではがらくたの中で私が泣いているわで母はすっかりおろおろして、
「静子さん、あんた、何をしたの?」
と私に聞いたが、私は答えなかった。妹はただ黙って私を見ていた。
しばらくすると、隣の部屋で母が養父をなだめているのが聞こえてきた。
「あれが、ぎゃあぎゃあ言いやがって……」
とおさまらないふうの養父に、母が苦笑いしたような口調で、
「後ろの方に入れようとしたんじゃあないんですか」
と言っているのが聞こえたが、意味はよくわからなかった。
この時だけは、自分は悪くないと確信できていた私は、ゆっくりとがらくたを拾い集め引き出しを元通りにしていった。ネグリジェを脱ぐと、下に着ていた化繊のスリップが面白いほどびりびりに破れていた。ズロースを脱いでいたので、下半身は裸だ。私の脱いだズロースを妹が見て、彼女に養父の悪事がばれてしまえばいいと思った。しかし、あとで見たら私のズロースは養父によって風呂場の洗濯機の中にちゃんと放り込まれていた。養父はあれだけ激怒していたにもかかわらず、そういうことだけはしっかりおこなっていたのだ。そしてギターの弦を留めるところがさんざん当たっていた私の腰の部分にはあざが出来ていた。小さいあざではあったが、それはそのあと何年も残った。
家出の決心は突然やって来た。夜中にぼんやりひとりで考えごとをしていたときに、
「そうだ。私は別にここにいなくてもいいんだ」
という思いがいきなり頭の中にひらめいた。
そしてそれは、考えれば考えるほど至極もっともなことに思えてきた。
机の上には今月の授業料三千六百円の入った袋が置いてある。月に五千円の小遣いは参考書しか買ってはいけない決まりで、そしてどんな本を買ったかまで全部養父に見せなければならなかったので、ほかにはもう一円の金もない。なのに私には不安はなかった。その三千六百円をポケットに入れ、養父が一番嫌っている黒のマンボズボンに着替えた私は、小さな布のバッグに身の回りの物だけを詰めた。
高一の夏休みが終わったばかりで私は十六になっていた。
ふと思い付いて、台所に行き、包丁差しの中から包丁を全部引き抜いた。私が居なくなったのに気づいた養父が母や妹を刺そうとするかもしれないと思ったのだ。とにかくいつもの場所になければなんとか逃げられるだろうと考え、包丁は全部流しの下にある洗い桶の中に入れた。それから忍び足で養父の引き出しのところまで行き、あのさんざんいびられるネタになっていた漫画のノートを抜いて、バッグに入れた。そのあと、よくは覚えていないが、妹にだけ書き置きをしたような気もする。いなくなります、というような簡単なものを。
表は雨だった。午前四時くらいだったろうか。縁側のガラス戸を音のしないようにそろそろと開け、私は外に出た。初めて本当に、「外」という感じがした。
雨はそれほどでもなかった。道は濡れていたが、心地好い細かいシャワーのようだった。私は自由になるんだ、と思うと胸がときめいた。確かにはしゃいでいた。私は小躍りしながらいつもの坂道を降りて行った。
単行本 一九九三年九月 文藝春秋刊
底 本 文春文庫 平成八年十月十日刊