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ぬけぬけと男でいよう
内田春菊
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1
もしも出来るなら、「不倫」という言葉を作ったやつに文句を言いたい。「浮気」もだけど、「不倫」はもっとひどいんじゃないだろうか。
女はよく、
「そんなのは男の作った言葉よね」
なんて言い方をするが、不倫だけは、絶対女が作った言葉だと思う。
萌実《もえみ》が、
「どうして別れなきゃいけないの?」
と涙を零《こぼ》し始めたとき、僕はぼんやりそんなことを考えていた。
僕は今まで、萌実の恋人として悪くない状態を保ってきたと思う。
職業柄ふだんから日曜も祭日もないから、逆に週末ごとに彼女を泣かせるなんてこともなかった。そんなお決まりな事、させてたまるものかと思ってた。
年末やお互いの誕生日なども、出来る限り一緒に過ごせるようにしていたつもりだ。
聞かれれば少しは答えてきたが、自分から妻子の話なんてしたことはない。妻のことを悪く言って愛人の歓心を買うような男は僕は嫌いだから。
愛人。
思わず今愛人と言ってしまったが、便宜上世間一般の言い方になってしまっただけで、ほんとは萌実のことを愛人だなんて思っていない。じゃあ何か。ただ、タイミングを誤って出来てしまった恋人なのだ。
結婚する前に出逢《であ》っていても、僕らはきっと同じように愛し合ったと思う。
萌実の昔の彼だって、僕が別れろと言ったわけではない。僕はなるべく寛容でいようとつとめた。だって僕の弱みはもう一人相手がいることだけなんだから、萌実の彼のこと、うるさく言う筋合いはないのだ。僕は耐えた。
彼女がとうとう、
「いいの私。もう、十布《とぬの》さんだけで……」
って言い出したときは、勝ったと思った。敵の方は僕の存在について黙っていられなかったらしい。もっとも、
「十布さんだけで」じゃなくて、
「十布さんだけが[#「が」に傍点]いいの(それも『もう』はつかない)」
だったらもっと嬉《うれ》しかったのだが、そこまでは贅沢《ぜいたく》かなと思って彼女には言わなかった。萌実はとにかく僕の方を選んでくれたのだ。
なのに、こんなことになってしまった。
僕から別れを言い出すなんてことは絶対ないと思ってたのに。
つきあいが永くなっていくことに不安はあったが、ずっとこのままでいてもかまわないと思った。僕だけのために老いていく萌実を枯れた目で見つめる甘い老後もいいものだ。
しかし、ある日突然、
「あたし、結婚することになったの」
と萌実が泣きながら告白する、その場面の方をさらに多く想像していた。僕にとってそれは大変に恐ろしい想像だったが、恐ろしくても考えておかなければならないと思った。その図の中の萌実はまだ幼い僕の娘|橘香《きつか》と重なった。
そうとも、僕はそれを覚悟しなければならない。その時が来たら、僕は取り乱してはいけないのだ。たとえ自分が知っている男と結婚することになっても、なこうどを引き受けるくらいの……いや、そこまではやり過ぎかもしれない。僕はただ、静かに「今出来る愛の場面」を積み重ねて行きたいだけなのだ。スタンドプレーは要らない。普通に二人で過ごしたい。だけどそれも今日で終わりなのか…………本当に?
「ねえ、何でなの? あたし何かした? 何かいけないことが……」
「いけないこと……」
「あったの? 奥さんにわかっちゃったの?」
結論から言えば、妻にはとっくの昔にばれていた。なんでなのかわからない。
「わかってないとでも思ってたの!?」
と妻は鼻で笑っていたが、何が原因でわかったのか教えてはくれなかった。僕は寝言で何か言ったのだろうか?
「あたしだけのことなら、我慢しようとも思ったよ。一時の遊びかもしれないと思ったし……あたしの方からしたらね、良い方に良い方に考えるものよ。だけどね、こういうのって結局子どもに影響するんだよね」
そう言って妻は、十布橘香と名前の入った心療内科の診察券を差し出した。
「お父さんも一緒にいらしていただいたほうがいいかもしれませんねって言われて、もうだいぶ経つんだよね。あたし、何度かあなたに話しようとしたよ。でもなんだかんだ言って、あなたはいつも逃げてしまってたでしょ? いや、そう言ってもきっと、覚えていらっしゃらないんでしょうけど」
「心療内科って……」
「症状はいろんな形で出てきてたの。夜中に突然起きて来て、『パパは!? パパいないの!?』ってしくしく泣き出したり……」
「それは……それは何か聞いた覚えあるよ。それで何? そんなことで医者に連れてくの!?」
妻はしばらく僕の顔を見つめ、それから深いため息をついた。
「だからそれはね、それがまず一週間続いたの! 話したときもあなたは、俺のこと好きなんだなあって顔して嬉しそうににやにやしてただけだったでしょ!?」
「そんな……そんな言い方ないだろ」
「……あなたはおめでたい人よ」
僕は女を殴るようなタイプではない。だけどこういうときは少し、女を殴る男の気持ちがわかるような気がする。もっと人を傷つけない会話の仕方があるはずだ。だけど妻は、僕が一番嫌がる点を的確に突いてくる。
「奥さんに……」
「え」
萌実はまだ泣き続けていた。
「わかっちゃったら、もう、終わりなの?」
僕はのどがせまくなったような苦しさを覚え、それを緩和させるため彼女をきつく抱きしめた。押しつぶされた乳房が嗚咽《おえつ》で規則的に動いている。僕の悲しみは、この感触を僕から取り上げようとするものたちに対する怒りに変化し、まもなく性欲に変わった。彼女の頭をやや乱暴につかんで、むりやり唇を合わせる。僕が少し暴力的になったのは、
「そんなことしたいわけじゃないの」
と拒否されるのを危惧《きぐ》してというのもあったのだが、予想に反して萌実はふだんより情熱的に反応してきた。
彼女もこの行為によって僕を引き留めようとしている?
僕は今までそういうことをする女に当たったことがなかった。別れ話の匂いがすると今までの女たちは一様に拗《す》ねて黙り込み、
「もう知らない」
などと言って電話に出なくなる。子どもかお前らは、と思いつつなぜか僕と来たらまめに電話したり、プレゼントを贈ったりしてしまっていたのだ。なのに今僕はこんなにも求められている。もしかして不倫だとこんなにも違う? それとも萌実は特別な女なのだろうか? いつもより大きいあえぎ声を聞きながら彼女の乳首をなめ回し、演技かもしれないと思いつつ差し入れた指にからみつくものの多さに気づいた時の驚き!
頭にかあっと血がのぼった。僕は濡れている女に弱いのだ。萌実の匂いが立ちのぼってくる。下着に手を掛け、それを足の指に渡して思い切りひっぺがす。覆い被さると、手を添えなくても僕のものは萌実の中に滑り込んで行った。
萌実は僕がさっさと挿入しても文句を言わない。あまり男性経験がないのかもしれない。前の彼が、どのくらい萌実を可愛がったのかわからない。しかし萌実は僕を選んだ。別れ話が出た今、こんなにも僕を求めている彼女は、やはり僕のやり方が好きなのだ。僕と別れれば結婚だって出来るかもしれないのに、それでも僕の方がいいのだ。
「ああ、あ〜、十布さん、きもちいい」
萌実は両足を僕に巻き付ける。別れないで欲しいというボディランゲージだろう。僕はますます大きく激しく動く。
「あっ大きい、痛いくらい……」
「痛い?」
気の優しい僕が思わず聞き返すと、
「痛くして」
なんて言う。もう、僕は止まれない。左手で乳房を握りしめ、萌実の声を大きくさせるためだけに突きまくる。やがて僕の根元にじんじんしびれるあの感じがやってきて、告げる時間になる。
「いきそうだよ」
「来て、十布さん、来て」
今日も萌実は僕の精液を拒まない。ひくつきながら、まき散らす、僕。
冷静な男は、セックスのあとにも別れ話の続きをするものなのだろうか。僕には出来ない。やろうとしたけど、出来なかった。
「ねえ、お腹すかない? バジサミの近くにカフェ出来たんだよ」
鼻歌でも歌いそうな萌実。これからバジル・サミュエルズ・スーパー近くのカフェなんかに行ったら、僕はまた帰りたくなくなり、夜中になり、妻からケイタイに電話が来ることを予想してマナーにしても着信が増えていき、ついには電源を切り……。
それは困る。しかしどう言えばいいのか。萌実は何もなかったことにしようとしている。しかし僕にはそれは許されない。今日は結果としてまるで燃えるためのプレイのようになってしまったが、彼女と別れなければいけない状態が変わったわけではないのだ。
まてよ。
でも本当に僕は、別れなければならないのだろうか。
そりゃあ結婚制度から言ったら、そうなのかもしれない。そうでなくて、問題は橘香の病気だ。僕が萌実と別れて、毎日早く帰ってくるようにしたら、橘香のことは様子を見ると妻は言ったのだが、もしかしたら僕は妻にだまされているのかもしれない。
診察券が偽造だとまでは言わない。
いや、もしかしたら……。
やめよう。そこまで言ったらあんまりだ。
しかし。
そうとも、僕はまだ橘香の症状を見ていない。
「あなたがいるときは落ち着いているのよ。当然のことでしょ」
と妻は言うが……。
どうも信じられない。
だって妻は、こんなことまで言うからだ。
「私、あなたが浮気をやめたら、痩《や》せられるかも」
何だって言うんだ!? 子どもを産むと同時にぶくぶく太っていったことまで僕のせいにする!? 何もかも男に責任を押しつけようとする女特有の考え方! 到底理解できないよ。全ての動物はね、おいしい物を食べて動かないようにしてれば太るものなんだ。だいいち君が食べたおいしい物の代金は、僕が稼いでいるんだぜ。
妻が大きなお尻《しり》をぶりんぶりん振りながら歩いている姿を見ると、「貪欲《どんよく》」という熟語が頭に浮かぶ。僕が浮気をやめたら痩せられる!? この上セックスまで迫るつもりなのかよ!? かんべんしてくれ。一度失った恋愛感情を取り戻すことなんて出来るわけがない。萌実だってここで僕が離れてしまって、寂しさに誰かに寄りかからないとも限らない、そしたら僕がまた自由になったとき戻ってきてくれるかどうか……。
「ねえ、行こ?」
萌実はすでに化粧を直し、上着を持ってきている。
「あ、いや、ちょっと待って」
「…………」
みるみるうちに表情が曇る萌実。
「そんな顔しないでくれ」
「……ごめんなさい」
「子どもじゃないんだから、僕だって、冗談でさっきみたいな話をしたわけじゃないんだ」
「でも、……抱いてくれたじゃない」
「それは……」
絶句。この女意外とバカだな、と僕はカチンと来た。抱いたからって、僕の精液の保有量以外の何が変わるって言うんだ。せっかく僕が萌実を傷付けないように、橘香のことは話さないで別れようとしたのに、人の気も知らないで……。
「嫌いになったからじゃないって、言ったじゃないか」
それだけ言うのがやっとだった。別れるという言葉は使わないでおいた。なのにまた萌実の目には涙が浮かぶ。さっきは可愛いと思った涙だったが、今は少しうざったく思える。
「……妻の方を選ぶとかなんとか、そんな話でもないんだよ。もっと……」
「もっと、何?」
「もっと深刻なんだよ」
「詳しく言ってくんないとわかんない。お腹もすいたし」
「…………」
一瞬、萌実と妻がだぶる。
「今日は、食事に行けないよ」
「セックスはしたくせに?」
「するつもりはなかったんだけど……」
僕は、黙ってしまった。女と話し合おうとすると僕はいつも最後には黙ることになる。
僕たちはあまり感情を表現するボキャブラリーを持たない。当然のことだが、社会の仕組みの中で使うと褒められるような言葉を仕入れることに熱心になる。だがそれらは女たちに対しては何の説得力も持たない。女たちは僕たちと違う言語と法律を持っているのだ。
あまり知られていないことだが、女子どもが作っている社会の方が、僕らの社会よりあきらかに排他的だ。ちょっと気が向いて家事や育児を手伝おうとすればそれはすぐわかる。感謝されるどころか、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せてすっ飛んで来ては、僕を能なし扱いする妻! わかったよ、君の勝ちだ。思えば立ち会い出産だって、君に大きな勝ち点を与えるためのものだった。僕は恐れ入ったさ。心からな。
「帰らないで……」
萌実の両手がにゅうと伸びて僕をぐるぐる巻きにする。
帰り道はいつも切ない。泣かれた日はなおさらだ。
萌実が僕のことで泣いたのはこれが初めてかもしれない。
僕は、泣かせなかった。今までは……。
今日、とうとう橘香のことを言い出せなかった。いつも妻子の話をしないようにしてきたばっかりに、僕には話し方がわからない。
そのうち上手に話せるようにしよう。その前に嫌われてしまうのだろうか。でも、もしそうなったらそれはそれでしかたない。冷たいかもしれないが、やはり僕は橘香が一番大事だ。せっかく生まれた子どもを病気に追い込んでまで、恋愛にうつつを抜かすわけにはやはりいかないではないか。
でも、本当に病気なんだろうか……。
「おかえりなさい」
妻は、少し笑いを噛《か》み殺したような顔で僕を出迎えた。
「なんだよ」
「……言っていい?」
「いいよ」
「なんか、臭い」
僕ははっとした。萌実を抱いた後シャワーも浴びていなかった。そんなのわかるのか!? それともカマかけてるのか!?
落ち着け。
落ち着け。
せっかく橘香のために帰ってきたのに、ここで取り乱しては何にもならない。
僕はゆっくり、なるべくゆっくりこう言った。
「臭いって? 何が?」
妻はいやな笑いを浮かべて、
「さあ……」
と言った。
「俺は、どうすればいい?」
「シャワー浴びたら? 橘香と会う前に……」
すごすごとバスルームへ向かう僕。
裸になって、自分でもよく自分の匂いを嗅いでみた。
よくわからない。でも、臭うのかもしれない。
萌実は結構、体臭があるのだ。あまり言いたくないが、ほんと言うと、すごくある。もしかしたら僕よりあるかもしれない。今までは、行為のあとに必ずシャワーを使うようにしていたが、今日は出来なかった。もともとセックスしないで帰ってくるつもりだったし、なのに萌実の方はそのあと食事にまで行きたがった。洗面所に僕のオーデコロンがあるのだが、言い合いの末帰って来たので使うひまがなかった。
しかし、あんな言い方があるか。まるで汚い物でも見るような目で。
むかむかしながら使うシャワー。今日は橘香との入浴もなしなのか?
「橘香は?」
やっと綺麗《きれい》にしてきた僕は妻に聞いた。
「子ども部屋でビデオ見てる」
「元気なの?」
「元気よ」
「風呂《ふろ》は?」
「さっきあたしと入ったよ。……ねえ、それより……」
「ん?」
「別れてきたのよね?」
僕は息をのんだ。
「直球だね」
「これ以上回り道してられないから」
「橘香は元気だって、さっき言ったじゃないか」
「ビデオ見てるようなときは元気なのよ、ビデオの世界に入ってるから」
「現実を忘れられるってこと?」
「バカにしないで」
「バカになんかしてないよ」
「ちゃんと別れたんでしょうね!?」
「…………」
「なんで黙るの」
「努力はしてるよ」
いくら憎たらしいことを言われても、出来れば嘘はつきたくない。なのに、
「え〜〜?」
なんと不満そうなその顔。
「最後の一発じゃなかったの〜?」
僕はびっくりした。いつの間にこいつ、こんなことを言うような女に成り果てたんだ!?
「なんてこと言うんだ。下品だぞ」
「そんな匂いぷんぷんさせて帰ってくるような人に、言われたくないわ」
ほんとに臭ってた!?
「あたしはね、いきなり橘香連れて実家に帰っても良かったのよ。興信所雇って証拠突きつけても良かったのよ。なるべくあなたの足もとをすくうようなやり方はしないようにと思った。それはあたしなりの思いやりだったのよ。なのに女の匂いをぷんぷんさせて帰ってきて……嫌がらせとしか思えない!!」
「そんなつもりじゃなかったんだよ」
「じゃあどんなつもりだったのよ!!」
「って、ほんとに臭ったの?」
妻の顔はみるみるうちに赤く染まった。こうしてまた僕は妻を逆上させてしまうのだ。
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2
小康状態。
僕はまだ橘香の症状を見ていないが、妻は良くなってきたみたい、とご満悦だ。その言葉を聞き逃さず、僕は萌実とお茶することにした。こういうのも、自分へのご褒美と言っていいのかもしれない。
ところが久しぶりに会った萌実は、いきなり暗い顔で僕に言った。
「十布さんて、嘘つきね」
「えっ?」
「聞こえなかった? 『十布さんて嘘つきね』って言ったのよ」
「……僕は、萌実には嘘ついたことないよ」
「そう?」
「そうだよ」
妻にならついてたけど、という部分は言わないようにした。
「奥さんが女優だったなんて一度も言わなかったじゃない」
「それは……」
言わなかっただけだろ、嘘なんかついちゃいないよ、と言えない僕。
「綺麗《きれい》な人だってことじゃない。太ってるとか言ってたくせに」
「太ってるよ」
「女優が太ったって言ったら、それでやっと普通くらいじゃん」
「そんなことないって」
「あるよ!」
どうすればいいんだ、僕は。ここで妻の写真や身長、体重を提示する? そんなこと、出来ない。いや、しても無駄だ。
「……女優だったなんて、昔の話だよ。それに、そんなに売れてたわけじゃないし」
「だって女優だよ!?」
「だって、だったら何だってんだよ」
「どこで知り合ったの?」
「おいおい、……そんなこと聞くの?」
「だってもっと早くに聞いてたら、こんな気持ちになんなかったと思うんだもん」
そんな理屈あるのか?
しかし萌実はこう続ける。
「こないだの話だって……奥さん女優だから、あたしなんかとはもう駄目なのかなって思っちゃったの」
「なんだよそれ! そんなんじゃないって。言ってるじゃん、女優ったって誰も知らなかったような女優なんだってば。たまたま仕事で知り合ったんだよ。その頃から劇団関係の仕事くらいしかなかったし、結婚して子ども出来てからはもう全然仕事してないよ」
「劇団の人なんだ」
「そうだよ」
「なんて劇団?」
「忘れたよ」
「嘘」
「ほんとだよ。仲間うちでやってたような感じだよ。たぶんもうないよ」
「……そうなの」
萌実は何故か、ちょっとがっかりしたような顔になった。
ふと僕は、萌実が誰かに
「あたしの彼、奥さんが女優だったの!」
と泣きついているところを想像してしまった。そしてその話題にたちまち食いつく萌実の友人たちのことも。萌実をそんな女だとは思いたくないが、じゃあ今のがっかりは何なんだ。自分たちの話を盛り上げるための要素がしょぼかったからじゃないのか?
「どうしたの……怒ったの?」
萌実がしおらしい声で言った。
「いや……」
「いやだった?」
「そんなことないけど……」
「いやだったらごめんね……」
そんな謝り方あるか。しかし僕は大人になることにした。
「僕はさ……言わないようにしてたことは、あるよ。きっとまだいろいろ、あるんだよ。今全部言えって言われてもわからない。これ萌実は聞きたくないだろうなって判断したことは、避けてきたんだよ」
「うん……」
「だけどそれは、秘密にして自慢したいとかそんなんじゃないよ、わかるだろ」
「…………」
「そういうふうに取らないで欲しいんだよ。萌実が嫌だろうって思ってただけなんだよ」
「でも、どうせわかるのに」
「なんでわかるの……萌実、その女優だったってこと誰に聞いたの?」
セックスしないで帰るの、というセリフを背中に受けて僕は歩き出す。
セックスねえ。
そりゃずいぶんしてないけどね。
僕はセックスのために恋愛したのかな。
子どもの頃はもちろん、セックスしないのに「つきあってる」なんて言い方をしたものだ。
萌実は結局、どこから妻のことを聞いたのか教えてくれなかった。
なんか嗅《か》ぎ回ってるんだろうか? でも、そんな。まさか。
「ねえあなた、ちょっと面白い企画があるんだけど」
帰るなり、妻は嬉《うれ》しそうにそう言った。
「企画」
僕はそこだけ繰り返した。なんでそんな言葉を使うんだろうと思ったからだ。
「あたしと橘香と、一緒に役くれるって言うんだよ」
「役?」
「そう。子ども連れてる主婦の役」
「仕事すんの!?」
「橘香と一緒にね」
「なんだよそれ! 舞台?」
「そうだよ。一緒に稽古《けいこ》行けるし」
「そんなことしちゃいけないんじゃないの?」
「なんで?」
「だから、橘香が」
「あ、それはね、もう先生に聞いた」
「先生って?」
「心療内科の先生だよ。なんか、かえって良いらしいよ、そういうの」
「そうなの〜?」
「ずっとあたしと一緒だし、お父さんが見に来るって言ったら頑張るだろうし、自信がついて良いでしょうって」
「……橘香を女優にしたいわけ?」
「そんなことまで考えなくても。今楽しめそうならやってみようかなって、それくらいだよ。あたしの知ってる人たちの中なら安心だし」
「安心……なのか?」
「心配してるみたいだね……でも、何を?」
「…………」
僕は心配してるというより、面食らっていた。何で今日に限ってこんな話になるんだ?
「橘香にはもう話したの?」
「話したよ」
「なんて言ってる?」
「喜んでるよ。パパ見に来てくれるかなあって」
「ほんとに?」
こんなとき僕は、全てが妻の策略であるかのように感じてしまうのだ。もう何年も舞台なんか出てなかったくせに、突然橘香と一緒に出るなんて……。
「直接橘香に聞けば?」
また、僕の気持ちを見透かしたような妻の発言。
「もう返事したの?」
「夫も喜んでくれると思うっていうふうには、言っちゃったんだけど」
「ちょっと橘香と話してくる」
まだうがいもしていなかった。僕は帰ってくると、手を洗ってうがいをする習慣を持っている。あるときホテルの部屋でそれをしたら、萌実は何故か悲しそうな顔で僕を見ていた。あとで聞いたら、自分の他にもつきあってる女がいて、その女の匂いを消しているんだと思ってたそうだ。変な子だ。
橘香は自分の部屋で、アニメビデオを見ていた。ぶりぶりで可愛いという設定の女の子が、体の線のよくわかる短い服に着替えると何故か強くなって、悪者と戦うというアニメだ。
「橘香これ好きなの?」
橘香は僕の声にびっくりして振り向いた。
「おかえりなしゃい。なーに?」
「これ好きなの?」
「うん」
橘香の返事は短い。
また画面に視線を戻す橘香を、少し淋《さび》しい気持ちで見つめる僕。
「ねえ橘香」
「なーにー」
「ママとお芝居出たいの?」
「でたい」
「大変だよ?」
「パパみにくるでしょ?」
「行くけど……」
君はママに言いくるめられたんじゃないのかい? と言いかけてやめた。言ってわかるはずがない。
「どうだった?」
妻はテーブルでお菓子を頬張って待っていた。そんなことするから太るんだ、君は。
「どこでやるの?」
「スナズリ」
「北沢砂肝劇場?」
「みんなスナズリって呼ぶから」
「あんなとこへ橘香を……」
「あら、良い劇場よ。あたしは好きだけど」
その女優然とした物の言い方に僕は、冬に突然冷たい手で触られたような気持ちになった。
「橘香に芝居やらせたいなら、子ども劇団とか、子ども向けのミュージカルのオーディションにでも連れてく方がいいんじゃないの?」
「なんで? 私と一緒で、私の知り合いの中の方がいいに決まってるじゃない」
「そう? 子どもにやらせるんだったらそっちが普通じゃないの?」
「え〜? やだよ、ああいうの嫌い」
「俺は小劇場よりましだと思うよ」
つい意地の悪い言い方になった。妻は侮辱されたと思ったことだろう、かっと目を見開いて食ってかかってきた。
「それどういう意味? バカにしてんの?」
妻は「バカにする」という言葉をよく使う。
「バカになんかしてないよ。ただ、子どもの見るもんじゃないだろってことだよ」
「どこがよ」
「普通スナズリに子ども連れてくるやついないだろ?」
「あたし連れて行ってたよ」
「連れてってたの!?」
「そうだよ。仲間の芝居くらい行ってたし。橘香いつも、おとなしく見てるよ」
「嘘」
「おもしろいって言ってるよ。子どもものなんて行ったことないけど」
僕は何となく、血の気が引く思いがした。今まで妻のことを教育ママだと思ったことはなかった。教育ママってのも古い言葉だが、妻はそんな女じゃなく、もっとおおらかなタイプだと信じていたのだ。だけどそれは間違いだったのかもしれない。良い学校に入れようとやっきになるタイプとはまた別の、子どもにある特異なジャンルの早熟を強いるという意味で、彼女は教育ママ化していたのだ。
僕がもっと気をつけていれば良かったのだろうか……。僕は自分を責めた。
「……それ、まずいんじゃないの。それ、なんか違うと思うよ」
「何が言いたいのよ」
「いや、絶対やばいよ。橘香になんか無理させてると思う。もともと奥手なんだからさ、そんなところに放り込んで良いわけがないよ」
「橘香は奥手なんかじゃないわよ」
「え?」
「心療内科の先生が言ってたけど、ほんとね。父親って全員『うちの娘は奥手』って思ってるんだって。あまりに信じ込んでるから、子どもに生理が始まったのを言い出せない母親までいるそうよ。あと、『おれはまだ娘と風呂《ふろ》入ってる』ってのが自慢なんだってね。それってどっちもセクハラだよ」
「おっ、奥手だと思ってるのがなんでセクハラなんだよ」
「他の男に盗られるのをなるべく先延ばしにしたいって心の表れってことよ。娘を自分の物だって思ってるとこがセクハラ。男ってほんとにいじましいわよねえ」
「…………」
「あなたは橘香のこと、ぜんぜん見てなかったってことよ」
「おれ……そこまで言われなきゃなんないのかなあ」
「……これでも我慢してるのよ」
「そこまで言われたら、普通父親辞めたくなるよ」
「今まで『父親』出来てたつもりだったのね」
「もう勘弁してくれよ。何だってやればいいだろ。芝居だろうが劇団だろうがどこへだって連れてけよ」
「橘香はやりたがってるのよ。橘香は橘香のやりたいことをやる権利があるのよ」
「君は意識の高い女性だったんだね」
「茶化さないでよ。あたしは真剣なのよ。あなたも橘香が芝居に出てるのを見たら、きっと感激して泣いちゃうと思うよ。あたしが保証するから」
「今そんなこと言われたって何も考えられないよ」
ふと見ると、部屋の隅に橘香が立っていた。心配そうな顔で僕を見ている。僕はあわてた。
「橘香、こっちにきてごらん」
そばに来た娘は、あまりにも小さい。こんな子を小劇場なんかに……。何が「泣いちゃうよ」だ。なんでまっとうな舞台の方へ行かない? 自分が中途で失敗したことを僕の可愛い娘にロードするつもりだな! とまた妻が憎くなる。だけど今は娘をがっかりさせたくない。
「パパおしばいきらいなの?」
「そんなことないよ。橘香やりたいんだったら、パパ見に行くからね」
「ほんとう?」
「ほんとだよ」
「よかったね、橘香。パパもう別の女の人と遊ばないで橘香のお芝居見に来てくれるって。いいねー」
妻の言葉が発せられてしばらくは、僕は意味がつかめずにいた。それがはっきりし出した頃、世界ががらがらと崩れるような音がした。
「最近パパちゃんと帰ってきてくれるのはね、別の女の人と遊ぶの止めたからなんだよ。もうセックスもしてないみたいよ」
「やめないか!」
「わ〜ん!」
橘香は声を上げて泣き出した。
「そんなこと言うから泣いちゃったじゃないか!」
僕が妻を責めると、妻は困った人ねえといった表情を浮かべて、
「あなたの声で泣いてるのよ。大きな声出さないで?」
「そんなこと言うからだろ!?」
「うわーん、こわいい」
「よしよし、橘香おいで」
橘香は妻の腕に飛び込んで行ってしまう。その背中をぽんぽんと叩《たた》きながら、妻はこう言った。
「橘香にはあなたが浮気してること話してあるのよ。パパはママ以外に好きな女の人が出来たのよって。だからもしかしたらパパとママはさよならするかもしれないよって。ね、橘香」
「うん」
妻の言葉の最後は涙で揺れていた。それにもらい泣きするわけでもなく淡々とうなずき返す娘。どういう世界なんだ。わからない。でも、わからなければ駄目なのか?
「…………」
「だからパパかえってこなかったんでしょ?」
今度は僕に尋ねる橘香。まるで可愛い地獄みたいだ。そんなものあるのか。
「もうそれは……終わったんだよ」
僕はそれだけ言うのが精一杯だった。母親ってやつは恐ろしい。娘を洗脳して夫を責める兵器に仕立て上げてしまう。どうすればいいんだ、僕は……どうすれば……。
「ちょっとごめん」
僕はそういって、ベッドルームに引っ込んだ。
しんと静かだ。
なのにまだ橘香の泣き声が聞こえるような気がする。
僕は思う。
浮気ってそんなに責められることなのか?
僕は人一倍働いてる方なのに。
橘香を盾にするなんてひどすぎる。こんな話を子どもにする親がいるか。橘香は奥手なんかじゃないだと? あいつが無理矢理大人にしようとしてるんだ、可哀相な橘香。
妻は僕と別れる気あるんだろうか?
別れた方がいいんだろうか?
僕は寝室の本棚を見るともなく見た。本に混じって、家計簿やノートが突っ込んである妻のコーナー。家計簿を引っ張り出してみる。こんなのつけるほど、マメじゃないはずだが……。どうせ三日坊主さ。僕は今少しでも妻の欠点を見つけたかった。自信を取り戻したかったのだ。
家計簿は何故か表紙がはがれていた。ばさりと音を立てて中身が滑り落ちる。
「なんだよ」
こんなに気落ちしてるときにはしゃがんで物を拾うことさえ億劫《おつくう》だ。放っておこうかと思ったが、手に残った表紙と落ちた中身のデザインが妙に違う。別のノートだ。家計簿の表紙をはいで、被《かぶ》せてあったのだ。
僕はそのノートをそっと拾い上げた。ぱらぱらと繰る。日記? 日記帳には見えなかったが、文章の前にいちいち日付がつけてある。それとときどき筆跡が、違う。日誌なのか? いや、そうじゃない、筆跡は二種類。妻の筆跡と思えるものと、もうひとつ別の……。それにその文字たちは記録しているだけでなく、どうやら互いに会話を交わしているようなのだ。
『6月2日
ちいはそう言うけどね、おれはこの演出まずいと思うんだ。おれたちあいつのもてない恨みを晴らすために踊らされてるだけだぜ。こんな自己満足芝居見せられる方だって』
なんだこれ……。
しばらく考えた。そして解った。古い古い、十代の頃の記憶のおもちゃ箱を引っかき回してやっとこの言葉を見つけた。これは……
『交換日記』だ!
それも、妻と、誰か知らない、もちろん僕でない男との!
僕は心臓がばくばくする。交換日記だって!? 何だそれ! それもこれ、少年と少女じゃない、大人同士だぞ! それも、隠し持っていた! 家計簿の表紙まで付けて……何だって言うんだ!!
煮物のいい匂いがする。もうすぐ食事の声が掛かるだろう。これをどうすればいいんだ、僕は!
とにかく家計簿の表紙を付けてみる。妻のコーナーの、ノート一冊分の隙間を探す。しかしもうどこだったのかはっきりしない。
「パパ〜」
橘香の声が! 足音が!
「なに? 橘香」
「ごはんできました〜」
「わかったよー、すぐ行くからね。あっちで待ってて」
「パパー、なにしてるの?」
「んー、おかたづけだよー」
「きっかもてちゅだう〜」
「いいよいいよもう、終わるから」
橘香が寝室のドアを開けると同時に、僕は本棚にノートを突っ込んだ。
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3
橘香。僕の可愛い橘香。
子はかすがいって言うけど全くその通りだね。
僕は君がいなければとっくに君のママと離婚していただろう。
しかし君のママが「離婚したくなるような女」に変わっていったのは、君を産んでからなんだ。たまに考えるよ。もし君が生まれなかったら、僕は今でも君のママと仲良くしていられたんだろうか? って。
だけど僕は子どもが欲しかった。子どもが生まれない結婚だったら、もしかしたらそれが原因で離婚したかもしれない。
いったいどうしろって言うんだ?
僕の結論はこうだ。君のママが変わってしまったのは、君とは何の関係もない。君のママはもともと今のような女だったのだ。僕と結婚するために猫をかぶっていたのさ。君を産んだらもうその必要もないと考え、元に戻っただけなんだ。そう、僕は騙《だま》されていた。全く失敗だった。しかし今は君がいる。騙されたからといって簡単に離婚するわけにもいかない。しかし、騙されて腹に溜まっているものをどうにかしたかった。それを抱えたまま生きていくのがつらかったのだ。だから、たぶんそれで、僕は萌実に恋をしたんだよ。
橘香、君はまだ恋というものを知らないだろう。
いや……。
もしかして僕に恋してくれているだろうか?
してると思いたい、僕は。
だから僕は君をがっかりさせないように頑張ってきたつもりだ。
そりゃあ帰りが遅くて、淋しい思いをさせたかもしれない。だけど、どうだい? 忙しくない父親なんてかっこ悪いだろ? 他に女がいたって、なかなか帰ってこなくたって、かっこいい方が良くないか?
う。しまった。他に女。萌実のことそんなふうに。
そんなふうに考えている訳じゃないんだが……。最近なんか萌実が意外な顔を見せるようになったし。
「聞いてるの?」
「ん?」
耳の中を通り過ぎていくBGMは、ジョージ・ベンソンでもカルロス・ジョビンでもなかったようだ。
「聞いてました?」
「あ…聞いてるよ」
「じゃあいいのね?」
「ん?」
わざと聞き流してるわけじゃない。だけど、頭の中を通り過ぎてしまっていたことの内容を妻の会話の中から模索するために、あいまいな返事を繰り返して妻の様子を見る。これはすでに結婚生活での僕のスキルの一つになっていた。
自分の話を聞き流す僕に妻が気づいてからというもの、
「愛してるんなら一度で聞け」
が妻の意見で、
「愛してるんなら何度も言え」
が僕の意見なのだ。
その二つはずっと、長い長い平行線を描き続けている。もう地球を三周くらいしているかもしれない。
「いいのね? もう、返事しちゃうからね」
「ああ……」
「ほんとは聞いてなかったんでしょ」
「聞いてるよ。芝居のことだろ」
「……聞こえてたんだ……」
聞こえてはいなかった。でもここまで会話するとなんとなくわかるのだ。スキルその二。
「じゃあいいのね?」
「うーん……」
ここで僕が生返事をしているのは、さっきの会話からの流れを守るためと、芝居のことだってのは解ったが、それの何が「いいのね」なのかがまだはっきりしないためだ。
「もう返事しないと迷惑かけるからさ。いいんでしょ? 橘香の芝居してるとこ見たいんでしょ? あたしはどうでもいいんだろうけど」
「いや……そんなこともないけど」
「…………」
妻に嬉《うれ》しげな沈黙が宿る。
「……珍しいこと言うじゃない」
「そう? そうでもないだろ」
「……珍しいよ、変なの」
「楽しみにしてるよ」
「……ほんと?」
出勤のために立ち上がった僕のあとを、妻がついて歩く。まるで新婚の頃のようだ。
しかし僕の心は晴れない。こうやって妻が僕のあとをついてくるのは、嬉しさからなのか、後ろめたさからなのかわからないからだ。本当は振り向いて妻の表情を観察したいのだが、そこまでするわけにもいかない。
あの交換日記の相手。
明らかに、同じ劇団の役者だ。
今回、その芝居にそいつは居るのか?
いや、そもそも……。
そいつと逢《あ》いたくて出てきた話だってことはないのか。
まだよく読んではいないが、あの交換日記は昔のものだった。妻がまだ劇団員だったころに、同じような立場の男と書いていた、そんな感じだ。
そいつとまた交流が再開している……? いやまて。妻は自分のいた劇団の芝居は今までも見に行ってたと言ってた。橘香と一緒に。自分一人ならまだしも、橘香まで連れて。もしかして、ずっと続いていたなんてことは……考えたくないが……。
頭の中に、その男にしなだれかかっている妻と、なついている橘香という恐ろしい絵が浮かぶ。
だから僕は本当は、この話を断ってしまいたかった。だけどそれでは、火に油を注ぐ結果になってしまうかもしれない。嫌だけど、とてもとても嫌だけれど、この話を受けて様子を見ないと、そいつに関する手がかりは何も得られない。
もしかしたらあの日記はただの結婚前の遺物かもしれない、そうあって欲しい気持ちもあるのだが、だったら何故今でも本棚に? カモフラージュまでして……。
ここはやはり様子を見た方が利口だと思うんだ、僕は。
自分の方の浮気もばれてしまっている手前、あまり強いことも言えないし。
「いいのね、本当に」
これから忙しくなる妻と僕。妻の声は、弾んでいる。
「帰るの? 今日も?」
萌実の目に涙が溜《た》まっている。
「萌実。今まで言わないようにしてきたんだけどね」
「何? まだあるの?」
「言ったろ……わざわざ言わないようにしてたことはいろいろあるんだよ」
萌実は黙っている。
ふと思う。妻なら今、
「なんか、そーゆー言い方、お義父《とう》さんそっくりー」
って言うかもしれない。
そして僕は妻のそのセリフが大嫌いだ。それを言われないだけでも、萌実のことを妻より愛せると思ってしまう。いくら深い関係になっても、愛人は永遠に親の悪口は言わないものだ。浮気が恋愛でありつづける大きなポイントはそこにある。
「子どもが……調子悪いんだよ」
「え?」
「僕の子どもだよ」
「調子悪いって?」
「病気のようなもの、らしいんだ」
「ようなものって?」
「僕にもよくわからない。だけど、僕があまり留守をすると、よくないらしい」
「…………」
「だから今は無茶出来ないんだよ」
「別れるって言いだしたのも? それが理由なの?」
「そうだよ」
「だって……そんな……」
萌実は大きなため息をついた。そして、黙り込んでしまった。永い沈黙の間、僕は、「もうこんな思いはいやだ。このまま帰ってしまいたい」とか、「黙り込んでいる間僕を引き留めているつもりだとしたら、萌実は結構意地が悪いのかもしれない」とか、「今このときも橘香は苦しんでいるのかもしれない」などと考えた。
やがて、またため息ともに、萌実が言った。
「あたしのせいなの?」
「そんなことないよ」
「だって……」
「悪いのは僕だよ」
「どうすれば治るの?」
「なるべく僕が家に居た方がいいらしい」
「じゃあ、あたしは……」
「少しの間我慢して欲しいんだ」
「少しって……どのくらい?」
「そんなのわからないよ。泣かないで」
「泣くつもりなかったんだけど……」
萌実は両手で顔を覆った。甘い悲しみが僕を襲う。だけどここでまた萌実を抱いてしまったら、また帰りが遅くなり、また妻から責められてしまうのだ。
僕は思いつく限りのありとあらゆる口からでまかせをしゃべり続けた。
そして、やっと萌実から解放してもらったのだった。
外に出たとたん、冷たい風が僕を襲う。この冬はいちだんと寒いような気がする。地球がだんだん暖かくなっているなんて本当だろうか? 橘香の病気とおんなじで、みんな誰かに騙されているんじゃないのか。
何が功を奏して萌実が僕を放してくれたのか思い出せない。
もう萌実に逢うのは億劫《おつくう》だ。
逢いたくない。
いっそ今死んでくれたら、いいことだけ思い出せるような気がする。
ひどいこと考えるな、僕という男は。
だけど、こんなこと考えるのは僕だけじゃないはずだ。数年前に「逢いたい」とかいう、死んだ恋人を思う女の歌がやたら流行《はや》った、あれは自分の男に対して「いっそ死んだらいい思い出になるのに」と思ってる女がそれだけいるってことだ。それにドメスティック・ヴァイオレンスのレポートなんか見てると、自分の妻を殴り殺す男は年間何百人もいるという。そうだよ。実際手を下してるやつだってそんなにいるんだぜ。
僕なんか、疲れたときにただふっと思うだけのことさ。
「おかえり。早かったね」
「橘香は?」
「こども部屋だよ。台本見てる」
「は?……ああ…台本ね…。読めんのか?」
「読めないけど、気分出してるみたい」
「ってもう、ほん出来てるってこと?」
「再演だもん。これから手直ししていくだろうけど」
妻は化粧していた。少しだけど、香水もつけているようだ。
「出かけたの?」
「え? うん。だからほんあんじゃない」
「ああ、もらってきたのか」
子ども部屋へ向かうと、橘香はすでに台本を読んではいなかった。いつものアニメをじっと見ている。そばに置かれた台本らしき紙の束の表紙には、男文字で名前が書いてあるのが見える。思わず手に取ろうとして、橘香を驚かせてしまったことに気づく。
「びっくりしたー。パパ、おかえんなしゃーい」
「あーただいま。ごめん、びっくりしたか」
「わってしようとした?」
「いや、そうじゃないんだけど」
近寄ると表紙の文字が「木田」と読めた。
なんで名前の書いてある台本なんかもらってきたんだ?
木田。
こいつが日記の相手なのか?
「これね、おしばいのだいほんなんだよ」
「もらってきたの?」
「しょー」
「これでママとお芝居するんだ」
「これはきっかのなの。ママはもってるから」
「持ってるの?」
「おうちにあるっていって、おじちゃんがきっかにくれた」
じゃあもともと妻は台本を持ってたくせに、「橘香の分」とかこつけてもらいに行ったのか?
「おじちゃんがくれたんだよ」
「どんなおじちゃんだった?」
「うーん」
「……」
「わかんない」
「そうか…」
橘香に聞いても無理か。僕があの交換日記をよく読めばわかるのかもしれないが、まだそこまでする気にはなれない。出来れば、あそこに置きっぱなしだったことに妻が気づいてあわてて処分するのが望ましい。とっくに女として思えなくなっていた妻の女の部分を見せつけられるのは嫌なものだ。なかったことにしたい。でも、なかったことには決してならないのだ。そしたら調べるしかないじゃないか。僕は夫なのだ。
体が自然に寝室の方に向いてしまおうとする。
頭が逆らう。
「パパー」
「ん? なに?」
「ほんとにきっかのおしばいみにきてくれる?」
「ああ、行くよ」
「ほんと? なんかいくらい?」
「何回って……沢山行くよ。そんなに長い公演なの?」
「こうえん?」
「あーいや、わかった。あとでママに聞くからいいよ」
「コピーチラシならあるわよ」
いつのまにか、妻がいた。
「本チラまだだけど」
渡されたコピーには、すでに妻の名前が入っている。
「なんで入ってるの? 返事したばかりなんでしょ?」
「そんなのマックで一瞬でできるじゃない、今日行ったらくれたんだよ。サービスもあって入れてくれたんでしょ」
「誰へのサービスなの? 君のファンの人?」
「もうそんなのいないよ。橘香にだよ。みんな橘香のこと可愛がってくれてるのよ」
僕の中になんとも言えない感情が湧き上がってきた。その感情の成分は一種類ではなく、いくつもの絵の具が混じり合うようにだんだんと濁った暗い色を作っていく。橘香と妻を囲んだ役者たちが談笑している図が浮かぶ。
「ファンの人だって」
軽く笑いながら繰り返す妻。
「いるんじゃないの? 世の中広いもんな」
「なによう、それ褒めてんの?」
どうしてそんな声出すんだ!
口に出して言えない言葉が横隔膜のあたりに重い。
「パパ、おやすみなしゃーい」
可愛いねまき姿の橘香が僕に言う。
「はいはい。明日も遊ぼうね」
「良かったね、最近パパ遊んでくれるから。ここんとこ、夜中に泣いて起きたりしないのよ。いい感じだよ」
「子ども部屋で寝るの?」
「えっ?」
「いや……」
そういえば妻はあまり寝室にいないような気がする。
「なんで? いつも橘香と寝てるじゃない、あたし」
「ああ……」
妻は何かを察したような顔をし、言い直した。
「どうしても子ども部屋で寝たいってわけじゃないけど……ここんとこ、橘香の調子が良くなかったし」
「うん」
「あたしだってそりゃ、大きなベッドの方が疲れ取れるけど」
「うん」
「橘香がよく寝てたら、来るかも」
「うん」
僕はほんの少しだけ後悔した。後悔は、大げさか。ちょっとだけめんどくさくなったって感じか。
「まあたまには……」
形として僕は、妻を誘ったことになる。
誘わなければ本棚の日記をしっかり調べることも出来たのに。
そして、妻は来た。
どういうふうにやってたんだっけ。僕は努力して思い出そうとした。妻に、
「ふーん、そういうふうにしてたんだ、彼女と」
と言われたくない。
考えながらつい、本棚のあのコーナーをちらちら見てしまう僕。
こんなことをしているとそのうち日記を見つけたことも妻に気づかれてしまうのか?
気づかれないと思いたいのだが、今まで僕がだまし通せたつもりで妻がとっくに気づいてたことの多さが、僕を弱気にさせてしまう。もう本棚に目をやるのは止めよう。
「稽古《けいこ》、いつからなの?」
僕はなるべく妻の好きそうな話題を選んだ。さりげなく、妻好みの業界のトーンで。
「あさって本読みかな」
想像していた通りの女優然とした応《こた》え方に僕は自信を取り戻す。
人は、自信がないときほどいかにもそれらしい立ち居振る舞いをするものだ。今、妻は動揺している。きっと僕のセックスのやり方を批評する余裕なんて無いに違いない。
両手を伸ばして、妻をゆっくり抱き寄せる。
「あったかい……手」
妻が少女のようにつぶやく。手を体に沿わせて下ろして行くと、やはり妻が緊張しているのがよくわかる。
この調子だと、日記の相手とは浮気までは行ってないかもな……。いや、逆に僕に浮気を悟られないようにと堅くなっている?
「橘香…起きないかしら…」
「大丈夫だよ。今日も出かけてたんだろ? 疲れて寝てるよ」
「だといいけど……あ」
妻のこんな声を聞くのは何日ぶりだろう。日頃は嫌なことばかり言うけど、触ってやればこんな声も出す女だったのだ。
妻は僕の手の動きのひとつひとつに反応している。
息も荒くなってる。
そして、とても濡《ぬ》れている。
指が温かくてぬるぬるする体液を確認すると、僕の体の中にある、原始の部分に小さな火が点く。この火は相手が誰であっても僕に同じ衝動を起こさせるのだ。もう僕は、痛いほど堅くなったペニスをこのぬるぬるの中に突っ込みたくてたまらない。
でも待て。
落ち着け。今日の相手は萌実ではない。次はどうするべきだろうか?
迷いながら指を動かしていると、妻が手を伸ばしてきて僕のペニスを掴《つか》み、
「もうだめ、入れて」
と小さくささやいたのだった。
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4
「ママー、ママー」
橘香の泣き声が聞こえる。
「あっはいはい。ここよ、今行くからね」
あわてて飛び起きて妻は子ども部屋へ行く。
僕の匂いをつけたまま行く。
橘香は異変に気づくだろうか。いつものママと違う、と思うだろうか。
橘香がまだ赤ちゃんの頃、このダブルベッドに僕らは三人で寝ていた。
僕が妻とセックスすると、狙ったように橘香が泣き出すことがよくあった。あわてて妻はなだめる。背中をぽんぽん叩《たた》いてやったり、頭をなでて声を掛けても泣きやまないと、自分の乳首を橘香の口に含ませる。さっきまで僕が舐めまわしていたそれに、橘香が目を閉じて吸いつくと、僕はなんだか橘香に悪いような気持ちになり、だけど男として途中で止めるのもなんだか嫌で、そんな妻のお尻《しり》をつかまえて行為を続けるのだ。
妻はもう声を上げない。
橘香がまた泣いてしまうからだ。
僕はなんだか三人でセックスしているような気分になる。それによって僕がいつもよりたかぶっていたかどうか、自分ではわからないが、たぶん僕は、そんなことで興奮するような人間ではないと思う。
だけど妻はどうだったのだろうか。妻の顔は見えなかったし、想像するしかないのだが……。どうだろう、僕と同じ気持ちだったんじゃないかな。
橘香が男の子だったら、違ったんだろうか?
いつのまにか子ども部屋が静かになっている。
妻はなかなか戻ってこない。
だるくなってきた。久しぶりにセックスしたからだ。眠い。
セックスしたあとの妻が僕と一緒に眠らないのはちょっと気になるが、妻は妻で、久しぶりのことに疲れてうっかり寝てしまったのかもしれない。そう自分を納得させたとたん、ずうんと頭が重くなり、僕は眠りに入っていった。
うっすら明るい。隣には誰もいない。ついに妻はダブルベッドに帰ってこなかったのだ。
朝食の匂いがする。
何を話しているかまではわからないが、橘香の声が聞こえる。
「やだ!」
妻の叫びに似た声。橘香の驚く声。いったいどうしたんだ。
ぺたぺたぺたと、しめった小さな足音が走り寄って来る。
「パパ! パパ!」
「なに橘香、どうしたの?」
「あのね、ココアにね、虫さんがわいてたの」
「ココアに虫?」
「うごいてるんだよ!」
「ああ……そりゃびっくりするね」
「びーっくりしたんだよォー」
橘香が思いっきり作った「びっくり」の表情の可愛さで僕は起き上がり、リビングへ向かう。
「なに、ココアに虫が湧いてたの?」
「そうなのよもう、大ショック」
「橘香に虫なんか飲ませないでくれよ」
僕は責めたつもりはなかったのだが、
「なによ、そんな言い方するの?」
妻は突然|弾《はじ》き返してきた。
「家のこと何もかもあたしに押しつけておいて、自分は外でよその女と遊んでたくせに。あなただって虫の湧いた食べ物みつけたことがあるでしょ? ショックでしょ? あたし今、ショックなのよ。追い打ちをかけるようなこと、なんで言うの?」
「…………」
こんな朝っぱらから、目に涙まで溜《た》めて訴える妻に、僕は不審なものを感じる。ゆうべセックスしたってのに、なんでこうなんだ? ふつう、ひさしぶりにそういう行為があった翌朝ってのはさ、妻ってのはこう、機嫌が良くて、早起きして薄化粧かなんかして、朝食にはプラス一品、そうじゃないのか? それともココアに湧いた虫ってのはそれほどショックなものなのか?
「ねえ。なんで言うの!?」
「いや……そんなつもりはなかったんだけど……」
「虫さんもココアのみたかったんだよね?」
橘香のひとことで、気まずい沈黙が、優しい沈黙に変わる。
こうして僕はまた橘香に助けられる。
会社についてもまだ僕は、セックスの翌朝の妻の不機嫌が腑《ふ》に落ちずにいた。
だってそれは、僕に対して失礼と言うものだ。
まてよ、もしかして……。
妻はほんとは浮気していて……。
僕とセックスしてしまったので、もう一人の相手に対して罪悪感が生まれ、混乱している?
それで僕に八つ当たりを?
いや、まさかそんな……。
でも、だったとしたらやって損した。
あっ。
なんて事考えるんだろう僕は。「やって損した」なんて。
僕は、セックスを妻に対する褒美のように考えている?
でもそれは……男たるもの、そうじゃいけないんだろうか?
萌実に対しては?
いやそれはたぶん、自分に対するご褒美だろう。
だけど最近そのご褒美はあまり嬉《うれ》しくなくなってしまった。萌実は抱いて欲しそうなんだけど、なんだかんだ言って僕はそれを避けている。萌実はあからさまに、
「なによ、若いあたしの方がいいんじゃなかったの」
って顔をしているが、ここんとこ萌実はなんだかくすんで見える。妻とセックスした今朝はなおさらそう思える。相手が妻だったからって、快感が損なわれるとかいうことはなかった。それどころか、久しぶりだと結構いいかも、なんて思ってしまったくらいなのだ。萌実が、
「奥さんて女優なんだってね」
なんて言い出したからなんだろうか?
畜生。なんであんなこと言うんだよ。自分の価値を下げるようなことを……。気が重くなってきちゃうじゃないか。萌実がこのまま年をとってきても僕に執着するのを止めなかったら、僕の人生はどうなってしまうんだろうか?
妻はあのあと橘香と一緒に芝居の稽古《けいこ》に出かけたんだろうか。
稽古場ではあの不機嫌さは直るのか? 直るとしたら何によって? 橘香はそのとき、どうしているんだろうか……。
「あたしなんか、どうせただのつまんないOLだし……きっと十布さんは、奥さんの方が良くなったんだわ」
また涙をこぼし始めた萌実を、僕は冷たい気持ちで見つめる。
「そんなことないよ。だってその言い分、おかしいよ。そうだろ? よく考えてごらんよ」
「ねえ。今日泊まってってよ」
萌実はさっきから飲みっぱなしだ。目がすわってしまっている。
「できないよ。送っていくから」
「いやよ。帰らないで」
そう言ってまた、萌実は目の前の赤ワインの残りを一気に飲み干した。
「もう飲むなよ。こんな時間からそんなに酔っぱらって……」
「だって飲まないとこんなこと言えないんだもん! 帰らないでよ! ずっと一緒にいて!」
「…………」
僕はすっかり困ってしまうと同時に、怒りも感じていた。あまり寂しがらせちゃ可哀相だと思って食事に誘ったのに、この有り様だ。萌実は聞きわけがないことを言うようになった。酔わなきゃこんなこと言えないなんて、そういうことを言えば僕が可愛い女だと勘違いするとでも思ってるんだろうか。だいいち君、そのワイン一本いくらすると思ってるんだ。誰が払うと思ってるんだ。僕は大金を払って、君に酔っぱらっていただいて、困らせていただいて、こんな綺麗《きれい》なレストランで恥をかかせていただいてるってわけだ。世の中では、くたびれた禿《は》げおやじと屋台のおでんで暖まって満足してる不倫女性だっていっぱいいるんだぜ。
「帰らないって言ってよ!」
涙を溜め、頬が上気した萌実の顔を見ながら、もうこの顔が可愛いと思えなくなってる自分を認識する、僕。
だって「あたしなんかどうせただのつまんないOL」なんて言うんだもの。それ、すでに恋のせりふじゃないだろう。まずいよ。君がほんとうはそんなことを言う女だったんなら、きっとこれは君にとってゲームだったんだ。そしていま、終わった。ゲームオーバー画面は、君のその醜い泣き顔のアップさ。
「萌実。困らせないでくれ。もう泣かないでくれ。泣いている君を残して帰るなんて出来ないよ」
「……帰る気なのね! 帰らないでって、こんなに頼んでるのに……」
「君は酔ってる」
「だから、酔ってなきゃこんなこと……」
「そんなに酔っている人間とはまともにしゃべれないよ」
「置いていく気なのね」
「泣きやまなければね」
「置いていくの? あたしを。そんなこと出来るの? それでも男なの?」
「支払いを済ませていく程度には、男のつもりだよ」
「…………」
萌実はおとなしくなった。それから静かに涙をこぼした。ナプキンの上に萌実の涙がひとつ、ふたつ落ちた。
僕はまだ冷たい気持ちでいた。萌実はいよいよ声を震わせて、絶望的に、
「なんか、あたしたち、もう……」
とつぶやいた。
そのとたん、僕は何かでのどをしめつけられる。
「言っちゃだめだよ、萌実」
「だって……。こんなんなっちゃって、あたし……もう十布さんに嫌われてしまった」
「嫌ってないよ」
「自信が持てないの。十布さんがいないと駄目なの」
「萌実、そんなことないよ」
僕は時計を見るのをやめている自分に気づく。駄目だ、もう帰らなくちゃ。妻と橘香が、稽古が終わって帰って来てる頃かもしれない。
「最後でも良いの。今日最後でいいから、抱いて欲しいの」
「最後だなんて……。落ち着いたらまた逢《あ》えるよ」
「ううん。もういいの。あたし嫌な女になってしまった。今日最後でいいから、抱いて」
その数分後、萌実の体臭がいっぱいのベッドに僕はまたもぐり込んでしまったんだ。指をそっと入れると、中でカプセルでも仕込んであったかのように温かくてぬるぬるした液体が指を押してきた。なんてこった。思わず僕はつぶやいた。
「こんなになってる」
「え?」
「萌実、すごく濡《ぬ》れてる」
「だって…だって…」
答える代わりに萌実は僕のペニスにしゃぶりついた。こんどはそこに、温かい液体と舌が絡みついてくる。
萌実はいつも、じゅるじゅると音を立ててそれをする。僕はその口元をじっと見る。萌実はいつも目を閉じたままだ。僕にはそれが好ましい。たまに、上目遣いに様子を見る女が良いという話があるが、僕はそれは下品だと思う。日本人はもっと見つめ合いながらセックスするべきだとかさ。あんなのは洋もののポルノに毒されたやつの言い分だ。目を閉じるのはなぜだか知ってるかい。人間の感覚の三十パーセントは視覚だそうなんだ。その三十パーセントを閉ざして、他の感覚に集中する、そのために目を閉じるのさ。
って話をしたら、昔、
「そーゆーのおやじうんちくくさ〜い」
って言われたことがあったなあ……。
だけど僕は萌実の顔を見ているのは好きだ。自分が萌実の中に入っているのを見ているのも好きだ。萌実をしっかり二つに折り曲げて、自分のペニスが出たり入ったりしているのをじっと見ていると、相手が誰かということとはたぶん関係なく、僕は射精してしまう。
関係なくってのも萌実に失礼だけど、要するに僕だって時々はただのオスになるってだけの話なんだよ。
ちょっと心配だったけど、無事萌実は僕を解放してくれた。セックスが良かったから? それとも酔い過ぎて疲れた? 前者だと思いたい。
だったら萌実の方が妻より扱いやすいってことだし、僕としてもぜひそうあって欲しい。
だけど、今僕はとても困っている。帰途につけたのはありがたいが、今日もまたシャワーを浴びていないのだ。このまま帰ったらまた、妻は僕の行為に気づいてしまうのだろうか? そしたらいったいどんなひどいことになってしまうんだろう?
「あたしとセックスした次の日に浮気復活させて一発決めてくるなんてどういうこと? 人を馬鹿にするのもたいがいにしてよ?」
考えたくないが妻のおそろしいせりふが頭に浮かんできてしまう。
離婚を切り出されるだろうか。そうされるかもしれない。でもそれは困る。僕は別に離婚を望んでいない。なにより橘香と離れたくない。
どうしよう。もう帰って来てるに違いないのに。
僕は家を目前にして立ち止まる。
携帯を出して家に電話をしてみる。
続く呼び出し音。
ややあって留守番電話が出る。
「なんだ。まだか」
今のうちだ。僕は家に飛び込み、一直線にバスルームへ。
外国映画みたいに体中を泡だらけにし、それでもまだどきどきしている。
今妻が帰ってきたら、それでもやはり気づかれてしまうんだろうか!?
「なんで帰ってすぐシャワー?」
なんて言われるんだろうか。
いや、それでも匂いで気づかれるよりはましだろう。
頼む。まだ帰って来ないでくれ。泡だらけの僕は、泡だらけの頭で考える。
そっとドアを開ける。
誰もいない。
ほっとする。今のうちに髪も乾かして着替えてしまおう。
すっかり身支度が済んでもまだ、妻と橘香は戻ってこない。
まさか、妻は妻で浮気を?
馬鹿な、娘と一緒にいるのに他の男とそんなこと。いやまてよ。
「あ、帰ってた。ごめんごめん」
「なんだよ、遅いなあ」
「ちょっと打ち合わせしてて。誘われちゃって」
「飲んでるの?」
「ほんのちょっとね。居酒屋でやってたから」
「橘香をそんなとこ連れていくなよ」
「あら橘香いつも行ってるわよ。ねえ橘香」
「なーに?」
「今日のお店橘香行ったことあるよねえ」
「うんとねえ、きっかまちゅまろたべるの」
「マシュマロ?」
「マシュマロを焼いて食べるデザートがあるのよ。橘香はそれが好きなの。ねー橘香」
「しゅき〜」
「あ、そう」
僕は、安心したような、拍子抜けしたような感じだったが、やっと少しだけ怒りが湧いてきた。いい気なもんだな。橘香が一緒だったって、それでもすっかり独身気分じゃないか。
「あれ? お風呂《ふろ》入ったの?」
「えっ」
「あ、シャワーか。何? 汗でもかいたの」
「うん」
恐ろしい。洗面所に入っただけでお湯の残り香を嗅《か》ぎ取るなんて。やっぱりシャワーを浴びなければ大変なことになっていた。
「お風呂溜めてくれればよかったのに」
「ああ、溜めようか?」
「うーんどうしようかな、お腹は? すいてるの?」
「いや、食べたよ」
「そう。ほら橘香。うがいしなきゃ」
「は〜い」
仲良く洗面所でうがいする二人。
よかった。疑われてない。
やっぱりゆうべセックスしたのがよかったのかもしれない。
僕はやっと身体中の力を抜く。そして、複数のメスを満足させているオスとしての充実感を密かに感じる。
寝室に入るたびにあの日記が気になる。
だけどまだ僕はあれをよく見ていない。
今日、妻は子ども部屋にいる。見ようと思えば見れるのだが、僕はただぼんやりしている。
そういえば僕は今回、どちらのときも避妊しなかった。
萌実はいつも僕に避妊を要求しない。
「ああ、大丈夫だから」
と言うだけだ。それを僕は、ピルを飲んでいると判断している。僕は考えが甘いだろうか? ここんとこ、萌実とゆっくり逢えなかったから、もしかしたら今日危なかったかもしれない。
萌実は僕を引き止めるために妊娠を考えているだろうか?
でもなんだか僕は、大丈夫だろうと高をくくっているのだ。
それよりも妻の方がなんだか妊娠しそうな気がする。それはただ、気がするだけなんだけど、もししたとしたら、それはちゃんと僕の子どもなんだろうか。
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5
妻が三十九度の熱を出した。
「三十九度も出すなんて、インフルエンザじゃないの? 検査してインフルエンザの薬もらってきたら?」
僕が言っても、
「そうかもしれないけど、いいよ、検査とかしなくても。あれって鼻に管入れたりすんでしょ? やだそんなの」
そんなこと言ってる場合か?
僕なんて三十九度も出したら今でも引きつけを起こすかもしれない。
妻が熱を出すなんて実際珍しい。橘香が生まれてから、妻が寝込んだところを見た記憶がない。
「ママ、だいじょぶ?」
そう言って妻をのぞき込んだり、熱取りシートをおでこに張ってあげる橘香。
「きっかもおねちゅでたの〜」
と嘘を言って自分もシートをひたいに張ったりしている。
何ともいえないその表情としぐさ。
妻は言う。
「久しぶりに女優業なんか始めたから、知恵熱出てんのよ、きっと」
「のんきなこと言って……」
知恵熱ねえ。
浮気してるからじゃないの? と僕は心の中でつぶやいた。
知恵熱。でもそうなのかもしれない。
僕は一応見透かされないように背を向けてから、妻には言えずにいることにそっと思いを巡らせた。
確かに今の妻には、女優としてそれなりの演技力があると思う。
だけど、小児科の待合室なんかで他の子のおかあさんなんか見てると、そのくらい女なら誰にでもあるものかもしれないよなって思うんだ。
そう、待合室には必ず子ども向けの本が置いてあるだろ?
「絵本読んで〜」
と子どもにねだられると、たいがいの母親は喜んですぐ読んでやる。見た目がどんなに「絵に描いたような子育て中の母親」そのものであっても、彼女たちは皆、一瞬にして絵本のお話にするりと入り込み、一人一人のキャラクターをきれいに声色を変えて演じ分け、男の僕から見るとそれはもう、
「いや、子ども相手にそこまでやらなくても」
と気恥ずかしくなるほどの世界を作ってしまうんだ。
しかしあれは彼女たちの日常のひとこまなのに違いない。でなければ、一応僕という男の目があるのにもかかわらず、あんなふうに出来るわけがない。
それとも、演技力ってのはどうなんだ? 女の方から考えて、男に対するアピールのうちに入ってるんだろうか?
僕は見せつけられているのか? たとえば、
「あたし今はこんなおかあさん役やってるけど、それなりのシチュエーションに入りさえすれば、たちまちセクシーな女にだって戻って見せることが出来るのよ」
って暗に言われているんだろうか?
そう疑いたくなるほど、小児科の待合室や、デパートの子どもコーナーなんかで母親たちは僕に演技力を惜しげもなく見せてくれるんだよ。
それにくらべて父親たちのひどいこと!
まず子どもに
「絵本読んで」
ってねだられると、
「もう自分で読めるだろ」
とか、
「他の遊びしろ。おとうさん読めないよ」
と断っていることが多い。何でか知らないけど、何かいやなんだろうな、まず、お話を読むってことが。
僕なんか読んであげるけどね。可愛い橘香の頼みなら何でも聞く。それに僕は一般の男よりはるかに、そういうことへの才能がある方だと思っている。
それは柔軟性とも言えるが、恋する才能にも似ていて、現代を生きる強さに結びついていると思う。何が起こるかわからない状態では、固いものより、しなってはまたはね返すものの方が生き残るものだ。そして僕も、演じてあげることが出来る。そばにいる母親たちにいやみにならない程度に、抑えた演技で。
しかしこれがまた、他の父親たちはひどい。とても聞いていられない。
いったいどうやったらそんな棒読みで絵本が読めるんだ。学校で国語やったんだろ!? と質問したくなる。演技するのが恥ずかしいとか、そんなレベルの話ではない。生まれつきそうなのだろうとしか言いようがない。
これはどうも、職業とも関係ないらしい。一度、僕のうちに編集者やってる友人が遊びに来て、橘香に絵本を読んでやっていたとき、あまりのへたくそさに僕は思わず、
「おまえ編集者だろ!?」
と叫んだことがある。
友人は、きょとんとしていた。何を言われたかわからないようだった。僕はあわてて話題を変え、彼が橘香とほかの遊びをするようにし向けた。僕はあんなひどい朗読を、橘香にそれ以上聞かせたくなかったのだ。橘香に悪い影響があるのではないかと本気で思った。そいつが編集者としては大変有能なのはわかっている。だからこそそんなに驚いたのだが、本人は気づいてないんだろうな。
自分の演技力に気づくってのは、ふだんなかなかないことなのだろう。国語の時間に劇をやった子どもの頃の記憶なんかすでにない。カラオケだってうまく歌うためには演技力が必要なのだが、しろうと同士そんなことを指摘しあうやつらはいない。
だけど、女は生まれつき誰しもが女優なのだ。もしかしたら演技力とは、子どもを育てるためにかなり必要なものなのかも知れない。
女が恋のことばっかり考えているのも女優だからなんだろうか?
しかし、ここで僕はまた妻には絶対言えないことを思い出している。
僕が見た中で、今まで一番演技力がなかった女性……それが驚いたことに、橘香の祖母でもある、妻の母親なんだ。
最初はわざとやってるのかと思った。「棒読みの演技」なんてものが意識して出来るとしたら、ものすごい才能だと思ったのだ。
だけど、そうじゃなかった。そう気づいたとき、こんどは自分の耳を疑った。それくらいとんでもなく棒読みだったのだ。
妻が子どもの頃、あの読み方で何度も何度も絵本を読んでもらっていたのかと思うと、僕はなんだか複雑な気持ちになる。お義父さんの方はわからないから想像だけど、妻は、もともとは他の子どもより演技力の劣る子だったんじゃないだろうか?
だけど妻は、女優を目指した。そしてついこないだまで、ほんとに女優だったのだ。
「おはようございまふ」
くぐもった声の挨拶《あいさつ》に振り向くとそこには、蜂蜜収集業者が立っていた。
「いつからうちの会社は養蜂業もやるようになったんだ?」
僕はその業者に聞いた。
「何言ってるんですか、十布さん。からかうのはやめて下さいよ」
業者は全身を覆う薄手のコートを脱ぎながら言った。
「このコートは花粉を寄せ付けにくい生地で作ってあるんですよ。今どきはそんなものがあるんですねえ。助かりますよ。フードもついてるし」
「その蜂の入った箱は?」
「ローションティッシュですってば。何箱か置いとかないと、買いに行くのも一苦労なんですから。知ってます? ローションティッシュって舐《な》めると甘いんです。グリセリンが甘いんですね。僕は三枚一組の、そのまますぐ洟《はな》がかめるタイプが気に入っていますね。高いけど」
「ティッシュに贅沢《ぜいたく》する男ってのもどうなんだろうね」
「僕も最初はそう思いました。だけどね、これがもう文字通り、背に腹は代えられないってやつです。僕がいったい一日に何回洟かんでると思います? 鼻の下真っ赤にして打ち合わせに出かける間抜けさったらありませんよ。男はまだいい。僕の隣の席の女子社員なんか、洟かむ度に化粧直し、目|掻《か》く度に化粧直しです。この時期だけは女辞めたくなるって毎日こぼしてます。僕も人間辞めたくなります。洟や涙が出てなくても、もう目覚めたときから体がだるいんですよ。ほんとにやる気なくします」
「僕には楽しんでるようにしか見えないんだけど」
「そうおっしゃいますけどね十布さん。明日は我が身ですよ。今は花粉症じゃない人も、いつかは体内の花粉貯金に満期が来て発病するんです。ちょうどコップに一滴一滴水が貯まっていくように……」
「なんかそれ、ガンでも同じ表現聞いたことあるけど」
「現代の病ってのは得てしてそういうものなのかも知れませんねえ」
ひとり養蜂業|志宮《しみや》は聞いたようなことを言いながら、ティッシュの箱を横抱きにしてロッカールームを出ていった。
今日もまた妻の熱は下がらない。
「橘香だけでも稽古《けいこ》に行かせられたらなあ……」
妻がつぶやく。
「無理じゃないの? 君が一緒じゃないと」
「そうでもないんじゃないかと思うんだけど。みんなになついてるし」
「そうなの?」
僕は内心いい気分じゃない。なのにその上、
「誰か迎えに来てもらおうかなあ」
なんてことまで言い出す。
誰が来るんだ? 誰が。
僕の頭の中にはあの男が浮かぶ。
もちろん顔は知らないが、あの交換日記の男。橘香の持っている台本に名前を書いている男。 二人が同一人物だという証拠はないのだが、どうしても僕の中で同じ人物として像を結んでしまうのだ。
そいつがここへ?
そんなこと、許していいのだろうか?
「僕が稽古場へ連れてってやっても……」
言いかけて、すぐに考え直した。
「だめだ。帰りが……」
どっちにしろ稽古が終わったらまた迎えに行かないと、誰かが(たぶんその男が)橘香を連れてここまで来てしまう。それによく考えたら、僕の今日の仕事のスケジュールは、橘香を連れて行くのにも、終わり時間に迎えに行くのにも大変難しい状態だった。
「いいよいいよ、あなた忙しいのに」
「うーん……」
妻は本気で言ってくれてるのかも知れないが、僕としてはいろんな意味に聞こえてしまう。
そういえばまだ僕は、あの交換日記をちゃんと読んでいない。ここんとこ妻が寝込んでいるから、ベッドルームにはずっと妻がいるのだ。
「ママだいじょぶ?」
「うん、ごめんね橘香ちゃん」
「やっぱ家にいた方がいいんじゃないか? 橘香だって寝込んでる君を置いて稽古場に行っても……。泣いちゃうかもしんないよ」
「うーん……」
「きっかママといる〜」
「な。そうだよなあ橘香」
「パパはやくかえってきてね〜」
「うん、なるべく早く帰ってくるよ。橘香ママの看病してあげるんだぞ」
「うん、きっかかんびょうしゅる〜」
「あ、そうだ。ばあばちゃんに来てもらおうか。ばあばに台本読んで練習させてもらいなよ」
「え」
それ逆効果だろ!? 僕は思わずフリーズした。それから固まってしまったことについて、改めてあわてた。
「どうしたの?」
「いや〜そんな……そんなに稽古しなくったって、まだ本番まで日があるじゃないか」
僕は一生懸命取り繕った。ばれてしまっただろうか?
「うんでも……心配なんだもん」
さすが病気だけあって、妻はいつものカンが働かなかったようだ。助かった。僕はこのすきにさっさと家を出て会社へ向かう。
しかし、ああいうことを言うってことは、自分の親に演技力がないってことに気づいてないのだろうか……? ないんだろうな……。一般的に女は、自分の身内を客観的に見るのが苦手だ。
昔女ともだちが、
「あたしの彼、なんとかって俳優に似てるのー」
って言ってるのを聞いたあとその彼にあったら、
「どこがだよ!!」
と驚いたことは一度や二度ではないし、
「彼ったらいい声なの。みんな彼の声をほめるから、本人も自信持ってるみたい」
って男がとんでもないきんきん声だったり、その度女に優しい僕としてはけげんな顔をしないようにするのが大変だ。
そういう女の思い込みに救われている男も沢山いるんだろうけど……。
悪いけど、僕にはそんな水増しは必要ない。
だから萌実にだって、
「十布さんの奥さん女優だから」
なんてことで盛り上がって欲しくないんだ。
だって女優ったってさ……。
……僕に、少しだけいやな考えが浮かんだ。
今回の、橘香と一緒の舞台でも萌実に見せれば、女優だ女優だなんて、馬鹿なことを言わなくなるかも知れない。そしたら昔のいい子に戻ってくれるかも。
でもそんな、なあ……。
妻と娘の舞台を愛人に見せるなんてひどいこと……。
だけどこのままでは、今の考えから萌実は出て来てくれないのではないだろうか。
しかし、そこまでして僕は萌実と続いていたいのか? 一度は別れようとしたんだし、別れるって妻にも約束してるのに……今だってまだ萌実と続いていることがばれたら、こんどこそ妻は橘香を連れて出て行ってしまうかもしれないじゃないか。
萌実の泣き顔が目に浮かぶ。
ここんとこ、逢《あ》えば泣かれてばっかりだ。
電話しても泣かれる。
留守電でも泣いてる。
萌実の涙はいくらでも出てくる。
萌実には悪いけど、僕は少し、萌実の涙に慣れてきてしまっている。
萌実が泣いているときにも、冷静なことを言えるようになってきた。もちろん萌実はそれを聞いてますます泣くのだが……。
結局萌実は、橘香にはかなわない。橘香を苦しめてまで、萌実とつきあいたいとは思わない。こんなことを考えてることが萌実にわかってしまったら、どっかの映画や事件みたいに、萌実は橘香に危害を加えようとするんだろうか?
恐ろしい。それだけは防ぎたい。
だとしたら萌実が、
「奥さんが女優だから」
ってめそめそしてるくらいがちょうどいいんだろうか? 僕としては、なんだか自分が妻の職業をアクセサリーにして好かれてる男みたいで、あまり気分が良くないのだが……。
「パパおかえりなしゃい〜」
リビングから橘香が走り出てきた。見ると、妻が台本を手にテーブルに腰かけている。
「起きて大丈夫なの?」
僕が声をかけると、
「うん、熱は下がってきたし、ちょっと本読みでもしないと」
「あんまり無理しないほうがいいよ」
芝居なんて結局お遊びなんだから、と言いかけて止めた。今の妻にそんなことを言ったらまた逆上されてしまう。
最近どうも妻の怒り出すポイントがわからない。微妙に以前と違うのだ。そのたび「浮気してるからか?」と僕は思ってしまう。考えたくないが、あの日記を見たら誰だってそう思う。
そうだ、あの日記……。
僕は何気ないふりをしてベッドルームに向かう。
「ママー、バス、なかなかこないね」
「もうすぐ来るわよ」
「あたしのおたんじょうびとどっちがさきにくるの?」
「バスの方がずうっと先に来るわよ」
妻と橘香が台本を読む声が聞こえてくる。
その声だけでもなんだか、妻より橘香の方が自然で上手《うま》いような気がする。
しかし、陳腐なホンだね。こんなセリフ、ほんとの子どもが言わなきゃ面白くも何ともないじゃないか。
少し前にぱらぱら読んだところでは、子どもが出てくるからってさ、椿姫と蝶々《ちようちよう》夫人と両方の要素入れ放題。どうも芝居をやるやつらってのは、著作権ってものにだらしがないね。オマージュって言葉の意味を海よりも広く取ってる。やっても金にならないから何やったっていいんだと思い込み過ぎてるんじゃないのかね。それも今どき椿姫と蝶々夫人。子どもがいる女を可哀相ってことにしたほうが、観客は喜ぶのか?
そんなことを考えながら探してるせいか、なかなかあのノートが見つからない。
どんな表紙を掛けてあったんだったかな? 家計簿?
ずいぶん見てないから、何色だったか忘れてしまった。
「ママは、なにをもっているの?」
「『何を待っているの?』でしょ」
「あ、まちがえた。なにをまっているの?」
「待てば待つほど、来てくれないものよ……」
かーっ、やなセリフ。最低だな。やっぱしこの芝居、萌実に見せるのはやめよう。逆に馬鹿にされてしまう。
「だけどママはまっているのね」
なんだか橘香の情操教育上良くないような気がしてきたぞ。
医者が橘香の病気に良いって言ったなんて、妻はちゃんと芝居の内容は話したのか?
しかし、ノートが見つからない。
僕はいつも妻から
「あなたったら日本一捜し物がへたね」
なんて言われているのだが、今回だけは違う。ちゃんともう隅から隅まで見たし、サイズの違う本が重なり合っているところも調べてみた。第一この辺。絶対この辺にあったはずなんだ。
「人はきっと、生まれたときからずっと何かを待っているものなのよ」
何か言い当てているようで、実は何にも意味のない、ただ表面だけ深刻ぶっている小劇場特有のセリフが僕の神経を逆なでする。いらいらしてきた。なんで見つからないんだろうか?
そして僕はやっと気づいた。というか、結論に達した。あのノートはなくなってしまっているのだ。
何故?
それはもしかしたら、捨てた?
いや、きっと、妻が別の場所に隠してしまった?
何のために!?
僕に見つからないように!?
だって、熱出してたのに!
それは、じゃあ妻はほんとうに日記の男と浮気してるってことなのか!?
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そういうわけでまた僕は、別の女とセックスしてしまったのだ。
それも、禁を犯して会社の女と。
ものすごくめんどくさいことになるのはわかっているのに。
セックスがしたいのならまた妻を誘えばよかったのだ。でも、なんだかそれが出来なかった。
妻が浮気しているような気がするからなのだろうか、なんだか僕の方もよその人間とセックスしなければいけないような気になってしまったのだ。いけないってこたあないだろうが、なんとなくセックスの相手は家庭の外に求めなければいけないような気になってしまった。
張り合ってるとか、そういうのじゃないんだが……。
萌実とはしたくなかったし。
そうそう、別の女として改めて感じたことがある。
萌実の体臭、あれはちょっとただごとではないかもしれない。なんで今まで気づかなかったんだろう。あれは萌実自身がなんとかした方がいいくらいのレベルだぞ。僕は寛大だから、そこまで思ったことはなかったけど。いやしかし、はっきり言って、ひとつだけ、身も蓋《ふた》もない話だが、僕は、萌実のそこに口を持っていったことがないのだ。最初のとき、礼儀だと思ってそうしようとして萌実の胸から頭を下げていったが、あまりのにおいに圧倒されてさりげなく戻ってきてしまった。それっきりだ。たまに気が向いて同じ事をするのだが、やはり結果も同じ。本当に申し訳ないのだが、どうしても口を付ける気にはなれない。
こないだ妻としたときも、そこまでのことにはならなかった。でも今回はした。こんなことは若い男じゃあなかなか経験できないだろうと思われたくて、それはそれは念入りに。
そしたら彼女は、
「もう、もうだめ、変になる、して、もうして!」
だよ。僕としてはちょっと、内心にんまりってところだね。
その子は経理の石本|摩夕《まゆう》。ちょっとした用で彼女の机に近寄った僕は、その、
「この子、やれます」
と大きな文字で描いてあるような机を見て、目をそらしたくなってしまうほど恥ずかしくなった。
僕も娘のいる身。これを見てなんとかしなければと思い、声を掛けた。
「石本くんさあ、これは……」
「はい?」
「このベビーカーに引っかけて荷物をさげるフックのようなものは……」
「え? これですか? こうやって、自分の肩を指圧することが出来るんです。気持ちいいですよ」
「ああ…」
「使ってみます?」
「いやいいけど、その、なんていうか」
「なんですか?」
「年頃の女の子の机にそういうのがぶらさがってるってのも……」
「あーこれは、あたしのじゃないんです。志宮さんが置いてったんです。まああたしが気持ちいいって褒めたからなんですけど」
「志宮。あいつか」
僕の頭の中にはマスクとフードで顔と頭を隠し、ローションティッシュを抱えた志宮の姿が浮かんだ。
「あの、じゃあこれは? この底のない鳥かごのような」
「あーこれですか。これは……十布さん、ちょっと頭貸してもらえます?」
「え? 頭?」
僕が頭を差し出すと、摩夕はその鳥かごを僕にかぶせてこようとするではないか。
「わ。あのちょっと、待って」
「あ、大丈夫です。痛くないですから」
果たしてその鳥かごの端々は、僕の頭皮にぷつぷつと触れ、なんとも言えない感触が頭全体に広がってきた。
「うわ〜、なんだこれ」
「気持ちいいでしょ?」
「気持ちいいってのかなんなのか……」
「個人差あるみたいなんですけどね、もうすっごく気持ちいい人もいるみたいですよ。あたしはそこまではないんですよ、うらやましいです」
「はあ……」
僕は摩夕の机の上の、大事そうにクリップに差してある「エステお試し券」や、どこが可愛いのかよくわからない人形たちや、自分探し系の本などを失礼にならない程度にまじまじと見た。そしてふと、気づいて言った。
「何か君、揺れてない?」
「あ。これです」
摩夕は自分の腹を指さした。
「これって?」
「え? 知らないんですか。これ付けてるだけで運動してるのと同じ効果が得られるんです」
あろうことか彼女は自分の服をめくりあげ、巻き付けている電動腹巻きを僕に見せつけてしまった。キリスト教信者の男ならここで、
「おお神よ!」
と叫ぶところだ。
「あのね。これは忠告だ。一度しか言わない。会社でそんなものを付けながら仕事するのはやめなさい」
「えっ!? だめなんですか?」
「僕に聞かないでくれ。君には君の考えがあるだろう。ただ、僕の世代の男から見たらそうだってことだ。志宮は違うかもしれない。だから一度しか言わないって言っただろ」
「十布さあん……」
僕の名を呼ぶ摩夕の両目に涙が浮かび、僕はちょっとだけ彼女を構い過ぎたことを後悔した。だがもう、後へは引けない。
「あー……君は今日、忙しいですか?」
「いえ」
「食事でもしますか?」
摩夕は黙ってうなずいた。
「えっちょっと! コンドームしないの!?」
摩夕に言われて久しぶりに、世の中にはそういうものがあることを思い出した。
「あーごめん、着けるよ」
「びっくりしたあー。冗談はやめてくださいよねー。あたし持ってますから、はい」
彼女は自分のバッグの中からコンドームを取りだして僕に渡した。この子、これをいつも持ち歩いているのか? 珍しい子だな……。
まあでも、初めてセックスする相手にコンドーム使わないってのも失礼か。しかし僕にとっては着け方も、思い出しながら。確か上の小さな袋をねじるかつまむかしてないと、あとで破裂することがあるんだったよな。
「できました?」
「うん、これでいいんだっけか」
「十布さんって、浮気初めてなの?」
「ああ……、まあ、そんなもんさ」
「嬉《うれ》しいかもー」
勝手に勘違いしてくれて僕も助かる。ゆっくり彼女の部分に押し当てる。しかし、ゴム手袋を着けての作業のように、あの生き物のぬるぬるした感触が伝わってこない。しまったな、これだといけないかもしれないぞ。僕がコンドームを嫌う理由は、ふだんでも射精するまでに時間がかかる方だからってのもあったのだ。今思い出した。コンドームなんかしたら最後まで出来ないかもしれない。しかし、最初だからしょうがない。って言っても二度目が出来るかどうかもまだわからないのだが。
しかし、あたたかい狭い場所へ吸い込まれていく感じはある。それがかなりぬるぬるしているらしいことも、しばらくするとわかってきた。
「あー……はいってくるう」
説明も加わってるし。
「ああん、ああん」
少しわざとらしい声が、今までの男性遍歴を想像させる。こういうわざとらしさを好む男ってのは、確実にいるものだ。それは、僕の周辺を見てもよくわかる。
「あんたそんなぶりぶりで、本気で男を騙《だま》せるとでも思ってるのか?」
ってくらいの演技力。だけど、そういうのが好きな男は、
「あんな見え見えの演技してでも俺に気に入られようとするような馬鹿な女なんだよ」
とややこしい受け取り方をしているのだ。一般的に男は女の方が自分より頭が悪いことを切望してやまない。
あさましいやつらだ。
僕なんか、あの屁理屈《へりくつ》好きで、死ぬほど勘が鋭くて、橘香まで味方につけてしまうような妻とこれだけ苦戦しているってのに。
そんなことを考えたら、少し萎《な》えた。
それでなくても普通、最初の一回目はうまくいかない。「いや違う、俺はうまくいく」と言い張ってるやつもいるがたぶん嘘だ。でなければとんでもなく自惚《うぬぼ》れの強い男なのだ。
「う〜ん」
「痛くない? 大丈夫?」
大丈夫でないのは僕の方なのだが、とりあえずそう聞いてみる。ペニスの不調とともに、
「またとんでもないことをしようとしているんだぞ自分! 会社内の女だし、萌実とはまだ別れてないし下手するとすぐまた妻にばれるし、わかってるのか自分!」
という考えが次々と湧き出てきて止まらない。
「それだけの面倒をしょいこむほどの女なのか!? 会社内でばれたとき、あああの、もてなさそうで欲求不満そうな、やって欲しくてうずうずしてたような石本でしょ、へ〜いたんだ、あんなのにひっかかるのが、って言われるんじゃないか!?」
ああ、ああ、もしかしたら僕はとんでもない間違いをおかそうとしているのでは……。
僕は摩夕の顔をじっと見た。ブスじゃない。悪くない方だと思う。電動腹巻きを付けて仕事しなければならないほど太ってもいない。何かちょっと、ずれているだけなのだ。この子はきっと、磨けば光る素材だと思う。そうだよ。僕とつきあっているうちにあっという間に綺麗《きれい》になっていくかも知れないじゃないか。そしたら社内の噂だって、
「さすがじゃないか。さえない女も十布さんとつきあうとああなるんだね」
「あたしも十布さんとつきあいたいなあ」
「え〜、あたしもー」
なんて方向へ行くに違いない。そうだ、よかった。今はちょっと、こんななだけなんだ、この女は。
「十布さん……」
「ん?」
「後悔してんの?」
「えっ、そんなことないよ」
びっくりした。女って何でこんなこと言えるんだろう。
「綺麗だなって思ってたんだ」
うわ。僕もだ。ときどき自分でもびっくりするほどクサいセリフが口をついて出る。
「やだ、そんな……」
摩夕が両手で顔を覆う。可愛い。僕は恥じらう女が好きだ。過剰に恥じらわれると頭に来ることもあるのだが、このくらいは、わりと好き。おかげで僕は、男としての自信を取り戻せたのだった。
「あ、十布さんの、大きくなってる」
「感じやすいんだね」
「だって……」
摩夕が身をよじると、性器の中もきゅっとしまる。
「きもちいいよ」
「やあーん」
こうなってくるともう、僕のペースだ。
ゆっくり動いていく煙草の煙。
ぼんやりベッドに横たわる裸の摩夕は、あの欲求不満グッズ満載の机に座っていたときとはまるで別人のようだ。
「十布さんって、上手」
「そうなの?」
「言われない?」
「誰に?」
「…………」
「君は男性経験が豊富なんだね」
「いや。そうでもないすけど」
摩夕は男のようなしゃべり方で答えてから、
「久しぶりにこんなことしたもんで」
と身を起こした。
「君は……」
「ん?」
「いや……」
「何よ。言いかけてやめないでくださいよ」
「言葉を選んでたんだ」
「じゃあ待ちます」
「君は、いい匂いだね」
「香水?」
「そうじゃなくて。あそこが」
「…………」
摩夕はびっくりして僕を見てから、ゆっくりと恥ずかしそうな表情を作った。漫画だったらここで、顔が真っ赤に染まるところだろう。何も言えずに幸せそうな空気を体じゅうから出していた。彼女にはもうマッサージグッズはいらないだろう、と僕は思った。
しかし僕が摩夕をいい匂いだと感じたのは、もしかしたら萌実がひどすぎるからかも知れないのだ。もしかして妻に萌実とのことがばれてしまったのも、あのにおいのせいなのではないだろうか。だとしたら、摩夕とのことはばれないのでは?
そんなことを考えていたばちが当たったのか、萌実は僕の会社の近くをうろうろするようになってしまった。
ケイタイの留守電やメモ録に、
「今十布さんの会社の近くにいます。お昼ご飯まだなら一緒に食べて下さい」
とか、
「今会社の玄関前です。聞いたら出てきてください」
などと入っているのだ。わざとじゃないのだが、聞いたときにはもう時間が経ってしまっていて、まだ萌実には会えていない。外へ探しに出ようとしたこともあるが、思い直してやめた。そんなことをして、もし会社の人間に見られたら大変。今は摩夕の件もあるから、うかつなことは出来ない。
萌実なあ。どうすればいいのだ。こういうことにもリセットボタンがあればいいのになあ。
こないだまで萌実に会いたいと会いたくないの比率は半々だったが、摩夕が出てきてから、会いたくないが九十九パーセントくらいになってしまった。
初日の近づいている妻は、摩夕のことには気付いていないようだし。橘香はあいかわらず愛くるしいし。今の僕の生活は、それなりにいい感じなのだ。
だけど、ついに、会ってしまった。待ち伏せされたのだ。
「あたしのこと、ストーカーみたいって思ってるんでしょ」
「そんなこと思ってないけど……」
「思ってないけど、何?」
「自分でそう思うんなら、やめといた方がよかったかも知れないね」
「ひどいこと言うのね」
「本当はこんな冷たいことは言いたくなかったよ」
「じゃあ言わないでよ」
「萌実。君はもっと自分を見つめ直さなきゃいけないよ」
「あたしをこんなにしたのは十布さんでしょ?」
「いや、そんな覚えはないね。君の人生の責任を取るのは君の仕事だよ」
「嘘つき」
また涙をこぼす萌実。知ってるかい。女ってやつは、泣こうと思ったらその一秒後には泣けるんだ。演出、キュー早過ぎ! もっと溜《た》めろ! だけどそんなお粗末な演技でも、泣かした男は世間から責められるようになってる。泣いたもん勝ちってことだ。
「バジサミの近くのカフェでも行く?」
萌実はしゃくりあげながらうなずいた。そろそろ、萌実ともしないともたないかもしれないな。
カフェの客はほとんどが女で、カップルが僕らの他に一組。平熱が低そうで、年に一回くらいは生理が来ててもおかしくなさそうな男と、眉《まゆ》がつり上がって頬紅の目立つ化粧に、頭のてっぺんでくくりあげた髪型、スカートの下にズボンまで穿《は》いてる、やたら煙草をふかす女の組み合わせだ。
萌実がやっとメニューから顔を上げて言った。
「あたしねえ、キャラメルマキアートとストロベリーシフォン」
「それはどっちが飲み物の名前なの?」
「やだ、おじさんみたい。キャラメルマキアートよ」
「おじさんだよ、萌実からしたら」
「そんなこと言わないで。そんなこと言い出したらきりがない。あたしだって誰かとくらべたらおばさんだって言い方もできるんだもん」
「そうか?」
「たとえば、十布さんの娘さんとか」
「言ってることめちゃくちゃだよ、萌実」
「十布さん、何飲むの?」
「僕は……」
メニューを見ているうちに、ただコーヒーと言うのが何だかいやになり、
「この、チャイでも頼もうかな」
「何も食べないの?」
「萌実は何を頼むんだっけ」
「シフォンケーキ。ふわふわの軽いケーキよ」
「萌実がも少し、食べてみたいものがあれば一緒に頼んでよ」
「ほんと。どうしようかなあ」
結局萌実はケーキの他に、ビスコットというものを頼んだ。固い焼き菓子なのだそうだ。テーブルにそれらが揃うと、僕はなんだか子どもの頃のままごとのお客になったような気持ちがした。
「あたしねえ。昔、お菓子作ったりするの好きだったの」
「そうなの。大変だろ?」
「うーん、最近ぜんぜんやってないからなあ。自分一人のためにお菓子まで作るって、仕事し出すと難しいよね。男の人はあんまり、そういうの喜ばないし」
「そう? そうでもないと思うけど」
僕は以前妻の言ってた「男の方が甘党説」を思い出していた。
それは僕が、食事中に炭酸飲料をがぶ飲みする橘香を叱っていた時のことだ。
「そんなにジュースばっかし飲むからご飯が入らないんだよ。それでなくてもご飯にジュースってのはパパは反対なんだ。大人でもそういうやついるけど、食事中に甘いもの飲むやつの味覚なんて信用できないよ」
それを聞いた、食事中に甘い飲み物を摂る大人の論客の代表である妻はこう言った。
「のどが渇いたと言って缶コーヒー飲める人にそんなこと言われたくないわ」
「なんでよ」
「だってあれ、のどが渇いたってときに飲めるものじゃないでしょう。甘すぎるよ。私、男より女の方が甘い物好きってのは、ぜーったいに嘘だと思う。あのくそ甘い缶コーヒーを喜んで飲むのは決まって男だもの!」
その後妻は、缶コーヒーのデザインは男好み過ぎてバカみたいだとか、懸賞が着る物なんて貧乏くさいとか、ありとあらゆる缶コーヒー批判論を披露し続け、それから炭酸飲料をジュースと呼ぶのはやめろ、ジュースとは果実の絞り汁のことであって甘い飲み物の総称ではない、あんたは田舎のおっさんか、まで言ってくれたのだが、その話はまた別の機会にしよう。
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今となってはもう夢のようだが、僕は妻と結婚した当初、自分は浮気を許してもらえるものと思いこんでいた。
正確には、思いこんでいたらしい。
僕は自分では、最初っからずっと身持ちの堅い夫のつもりでいたのだ。僕的には、萌実との恋は不慮の事故だったのだし。しかし、萌実とのことがばれてしまったとき、妻は僕にしみじみとこう言った。
「そう言えばあなた、結婚するとき、『悪いけどおれ、女癖悪いよ』って言ってたよねえ」
「えっ? そんなこと言ったっけ?」
「言ったね。そんで、それを証明するかのように他の女を毎日毎日じろじろ見て暮らしてたよ。私の前でも平気で、ハンターの目つきで。つらかった。でもね、もともとお盛んな方だったからなって、あたしは我慢したんだよ」
「え〜そうだっけ〜?」
妻は、大きなゆっくりとしたため息のあと、続ける。
「うらやましい〜……。自分に都合の悪いことはぜーんぶ忘れることが出来るその脳みそ。あたしもそんな脳みその入った頭に生まれたかった……」
「ものすごい皮肉だね」
「あなたみたいな超失言屋さんから見たら、あたしなんかすんごい皮肉屋に見えるんだろうねえ」
ここまで言われたらもう僕は、黙るしかなくなってしまう。
「あの頃はねえ、いいや、どうせすぐ別れるかもしれないんだしって思ってたの。だけどお腹に橘香が入ってから、そういうわけにもいかなくなって」
「そういうわけって……」
「あたしが妊娠してるのにあいかわらず他の女を嬉《うれ》しそうに値踏みしてるあなたに、『そういうのやめてくんない?』って頼まなきゃいけなくなって」
「頼んだわけ?」
「覚えてないの?」
「覚えてるよ(嘘だけど)」
「あたしの目の前で志宮さんに『こいつ見かけのわりに心狭いんだよ』って言ったことも?」
「俺が?」
今度は妻が絶句する番のようだ。永く気まずい沈黙が訪れ、ほうきに布巾《ふきん》をかぶせて立て掛けてもなかなか帰ってくれなかった。
その状態のまま僕時間で三日経ってからやっと、妻がかすれた声でこう言った。
「あたしが半泣きになって、『自分の子どもがお腹にいる女に向かって、よくそんなこと言えるね。思いやりがなさすぎるよ!』って言ったことも……きっと……覚えてないんだよね……」
「覚えてない」
「そうなんだろうね」
「俺は、覚えてないってことを、謝らなければいけないんだろうか」
「あなたは、あのときから少しも変わってなんかいなかったのね」
僕は自分の記憶の糸をたぐる。糸の先には、聖母の微笑みを浮かべた妻がついてきた。僕は妻が結婚前にどういうことを言ってたかまで、細かくは思い出せない。だけど、僕はなんとなく、妻はなんでも許してくれるものと思いこんでいたのだ。
そういうふうに思いこませたのは妻の方ではなかったのか?
僕が一方的にひどい人間なんだろうか?
僕はね……別に結婚なんかしたくなかった、それだけはよく覚えてる。仕事もプライベートも楽しんでる男はたいがい結婚なんかしたくはないものだ。しかし、楽しんでいればいるほどそこへ女たちが割り込んで来ようとする、僕の生活をつまらない物にするために。僕は彼女たちから魚のように逃げ回った。逃げれば逃げるほど捕まえようとする女たち。ちょっとは接触するものの、必死ですり抜ける僕。下品なたとえを許してもらえるなら、僕はまさしくウナギそのものだった。
ウナギ。
やはりいくらなんでもウナギは下品すぎるかな。
こんなこと考えてるからおじさん扱いされるんだろうか。
まあいいや。だけど僕は結局捕まってしまったんだ、妻に。
それは、妻が、
「この女だったら、世話だけ焼いてもらえて、面倒臭くなさそうだよな」
ってフェロモンを一番出していたからだ。
だまされたのは僕のほうじゃないのか?
昼下がり。
僕はぼんやり、自殺した映画監督のことを考える。
彼の自殺の原因は、浮気の発覚だったという。
しかし彼はたぶん、相当もてるタイプ。浮気くらいで今さらそんな、と誰もが意外に思ったはずだ。僕も昔はそう思っていた。彼は何か別のことで弱っていたんじゃないかと。だって彼の妻は、映像などで見る限りではいかにも浮気を許してくれそうだったからだ。
だけど、今はこう思う。
何度浮気が発覚しても、妻の方は「きっとこれが最後に違いない」という望みは捨てないものなのだと。
だからそのたんびに、責任感の強い彼はものすごいエネルギーを使って、妻との関係を修復しなければならなかった。
年を取るごとに、回数がかさむごとに、それは気の重い仕事になっていく。
君が一番なのだ、気の迷いだったのだ、僕は疲れていたんだ、仕事に必要だと思ったんだ、若い女の野心に引っかかってしまったんだ……。ありとあらゆる言い訳は使い果たし、妻にあげる法外なお詫びの品やサービスも底を突き、まるで自分は自分のためでなく妻のために生きているような気になってしまい、妻の術中にはまってやせ細っていくようなイメージ。憔悴《しようすい》……。
そしてきっと彼は、面倒くさくなってしまったのだ。
今回もまた妻の密かな、だけれど実は肥大するだけ肥大して、家の床下全部を覆い尽くしているその期待に応《こた》えられなかったことを、もうどうすることも出来なかった。
だから、浮気したことはバレバレなのに、遺書の中では「ないこと」にして、人生を終わらせてしまったのだ。
命を懸けて嘘の文章を事実ということにしてもらい、「耐えてきた妻」との関係を修復したのだ。
わかるよ。僕はすごくよくわかる。
僕もいつかそうやって自殺するのかもしれない。
どこか逃げ出す場所を作らない限り、なんだかそれが時間の問題のように思えてしまうのだ。
昼休み、僕は近くの銀行のATMに出かけた。
日付のせいで、すっごく混んでた。
ここのところ急に蒸し暑くなって来たってのに、狭いATMの中は人でびっしり埋まっている。
どうしようか? ちょっと悩んだ。
見たところ、暇そうな主婦がほとんどのようだ。こっちは忙しいのに。順番代わってくれよ、と思ったが当然そんなことは言えない。おとなしく、主婦の蒸気で蒸されていると、僕より三人前に並んでいる、まるまると太った主婦のケイタイが鳴った。
「あ、もしもし? うん、うん」
外に出る様子もなく、かなりの大声で話しているが、また並び直すのも嫌だろうしな、としばらくは気にしないようにした。
ところが、用事ではないのだ。世間話なのだ。盗み聞きする気はなくても、まる聞こえだ。
どうも相手は彼女の母親らしい。それも、ワイドショーか何かを見て、その感想を娘にしゃべっているようなのだ。
「だからさあ、アメリカっていっつもその調子じゃん。今回の戦争だってさあ」
そういうことを、ここにいる人間全員に聞かされても困る。何故電話を切らないのだろう。何故この狭い場所でそんなことを大声でしゃべっているのを迷惑なことだと気付かないのだろう。
「おかあさん何。詳しいじゃん。小泉ウォッチャーじゃん。小泉ウォッチャー。小泉よくみてるじゃん。純一郎。じゅんちゃん。孝太郎じゃないよ」
いいかげんにしてくれ! 僕だけでなく、そこにいるみんながそう思っているはずだ。しかし誰も注意はしない。こんな女に注意したら、今我慢している状態の何倍も不愉快な反応が返ってくるのをみんなが予想出来るからだ。
「いや今そんな時代じゃないでしょ」
おまえが語るなよ時代を!!
しかし、その女の前で機械が空いた。ああやっとこれで、とたぶんみんながほっとした次の瞬間、女はケイタイを肩に挟んで機械に歩み寄り、しゃべりながら操作しているではないか!!
「いらっしゃいませ。画面の案内に……」
「そうそう、だからさあイラクだってさあ」
女の声と機械の音声が重なる。
「え? そうだよ? 何でわかんの? ああ、いらっしゃいませとか言ってるからか」
さすがに電話の相手である母親が、娘はATMで機械を操作しながらしゃべってることに気付いたようだ。
おまえだよ! こんな娘に育てたのは!
「あ、ちがった」
さらに操作間違えてる! 当たり前だ!
頼む! 誰か言ってくれ!
「電話切ってもらえませんか?」
その一言を!
神に祈ったその瞬間、
「あ、うんじゃあね、またね」
女は電話を切った。
そして、カバのような尻《しり》を揺らしながら機械を再び操作し直し、何事もなかったような顔をして狭い部屋を出ていった。
そのとたん、牢獄《ろうごく》が酸素を取り戻し、タヒチの海辺に変わったような気がした。
深呼吸するにはまだ早いが……。
しかし、よくあんなことが出来るよな。一体どういう神経しているのだ。
母親は娘を叱っただろうか? そんな状態で話してはいけませんよと……言うわけないよな、あの女の親だ。
頼むからカバにケイタイ持たすな。
と思ったとたん、僕のケイタイが鳴った。
僕は反射的に外に出てしまい、せっかくの順番を失う。
電話の相手は、萌実だった。耐えに耐えて、もうすぐ回ってくるはずの順番を台無しにしたのはやっぱり萌実だったのだ。
「どこにいるの?」
「ATM」
「逢《あ》えない?」
萌実もさっきのカバと同じ神経を持っている。
「終わるまで待ってくれる? かけ直すから」
「うん……わかった」
電話を切って戻ると、僕の席はなかった。いさぎよく最後尾に並ぶ僕。そしてやっと次の次が僕だ。目の前の人物が視界から消えると、何故か斜め前の機械が空いているのが見える。
「?」
何故だろう、と思ったとたん、後ろから、
「そこ空いてますけど?」
といらついた女の声がして、僕はその機械の前に移動した。
操作していて、やっと気づいた。これは振り込みの出来ないタイプの機械だったのだ。だから空いていたのか! しまった、役に立たない!
さすがにかっと血が上って、今さっき嫌な声で僕を押しやった女を捜したが、すでに見つかるわけもない。
そして僕はまた最後尾に並び直したのだ。
「どうしたの? 嫌なことでもあったの?」
萌実と逢っていること自体がすでに嫌なことなのに、そう萌実に声を掛けられる僕。
「そんなことないよ」
「ねえ」
「何?」
「奥さん、もうすぐ舞台始まるんでしょ?」
「えっ!?」
「娘さんも出るんでしょ?」
「なんでそんなこと……」
「聞いたの」
「誰に」
「舞台にくわしい友達がいるの」
ちょっと待て。ってことは、その友達に僕との関係をしゃべってるってことか?
「大丈夫だよ、彼氏だってのは言ってないよ」
見透かされたような萌実のセリフに身を固くする僕。女ってやつはどうしてこういうこと言えるんだろう。
昼間だって、僕は結局、今日萌実と逢うことになるってんで、予定より少し多めにお金をおろしたんだ、あんな目に遭いながらだよ。偉いよ。僕は自分を褒めてあげたいよ。褒めて褒めて褒めまくって、自分へのご褒美って言いながら高い買い物でもしたいよ。ついでに本当の自分を捜す旅にでて、癒《いや》しの場所でも見つけたいもんだよ。
本当の自分ねえ……。
あれ、都合のいい言葉だよなあ。
ろくな勉強も経験もしてない人間が、突然一足飛びにスペシャリストや有名人を夢見る。「本当の自分を見つけたい」とはそういう意味であり、身の程知らずな人間しか使わない言葉なのだ。だれが考えたのか知らないが、ものすごい言い換えもあったもんだよ。
「なのであたし……会社は辞めたの」
「えっ!?」
「だって……奥さんに負けたくなかったんだもん!」
しまった、僕は話の途中を聞いてなかった。なんで妻に負けたくないと会社を辞めるんだろう!?
「ちょっと落ち着いて。どうしてそんなことになるのか最初っから話してよ」
「聞いてなかったの!?」
「聞いてたけど、何か、唐突だよそれ」
「だって、あたし、本当の自分を見つけたいって思ったの」
「はあ?」
わけがわからなくなって、僕は黙り込んでしまった。
だるいだるい帰り道。
萌実とセックスしたからだろうか?
今日はちゃんと、シャワーを浴びてきた。
「シャワー借りるね」
という言い方が、なんだか投げやりになったのが自分でもわかった。
もう萌実のことを、ちゃんと考えることが出来なくなってきているのだ。
今日も萌実は、臭かった。
ひどい言い方だ、でももうこうしか言えない。
女優にあこがれるより先に病院に行け、そう喉《のど》まで出かかった。
萌実は妻の所属していた劇団に入ってしまったのだ。
つまり、本番間近の妻と娘のすぐそばで、若手として立ち働いているというのだ。
一体どういうつもりなんだろう?
もう考えるのも嫌だ。
「ぜったい言わないから! あたしを信じて! もう何日も稽古《けいこ》見てるのよ、絶対気づかれない!」
そう叫ぶ萌実を見て、さすがに温和な僕も殺意ってものがどういうものか身をもってわかった、わからせてもらった。
「殺すか、死ぬかしか、ないのかよ……」
飲みたい、と思った瞬間、摩夕に電話を掛けていた。
「どうしたの、こんな時間に」
摩夕の冷静な声で我に返った。もうすっかり夜中だ。こんな時間に摩夕を呼び出して酒を飲んで、口直しのセックスをしていたら明日になってしまう。
「ごめん。うっかりしてた。声が聞きたかったんだ」
「嬉しいけど……」
明日にはお互い会社に行かなくてはならない。僕は摩夕に電話して良かったのだ。
「ずっと君のこと考えてて、時間の感覚をなくしてたのかもしれない」
「やだ、十布さんてば。みんなにそう言ってるんでしょー」
「みんなって誰よ」
「うーんと、わかんない」
「言い方が若いなあ」
「またおっさんみたいなこと言ってる」
「ああ。言っちゃったか」
言いながら微笑んでいる僕。癒してもらうって、こんな感じなんだろうか。
「君と知り合えて良かった」
「どうしたの、これから死ぬ人みたいだよ」
「そんなこと言ってもらうと……」
「なあに?」
「好きになっちゃうじゃないか」
甘い沈黙が訪れ、僕は今、摩夕が濡《ぬ》れているような気がしている。
「遅いなあ、橘香が話したがってたのよ?」
「ごめん。今の時期忙しくて」
「そうなんだろうけど……」
「今日も一日、大変だったよ」
「あたしもよ」
「お疲れさん。ワインでも開けようか」
「優しいのね」
「この時期はみんなが、大変なんだよ」
僕は冷蔵庫から冷たく冷えた白ワインを出し、手際よく抜いて、ワイングラスとともにテーブルに運ぶ。
「白で良かったかな」
「うん」
ワインを注ぐ音も、癒しの要素の一つだ。コプコプと透明なゼリーのような濃厚な白ワインがグラスを満たすと、妻の瞳が少しだけ潤んで、本当は他に二人も女がいる僕の顔に、やわらかな紗《しや》をかけてくれる。
「舞台の成功を祈って」
キン、とグラスがシロホンの音を立てる。
「ワインなんて久しぶり」
「そう? ときどき飲んでくるじゃない」
「劇団で飲むとどうしてもねえ、ワインって感じにはなんないもん。チューハイばっかしだよ」
「そうなんだ」
「若手にはおごんなきゃなんないしさ。こっちだってお金になんないのは同じなのに」
「ぜんぜんなんないもんなの?」
「逆に気前の良さそうな役者をゲストに呼んで、カンパや差し入れを期待するとことかあるね。たかりと同じだよ。あたしも若手に言われたよ今回。『だんなさん稼いでるんですってねー。いつもおいしいもん食べてんでしょうねー』だって、すごいでしょ」
どきりとした。
「なんだよそれ。失礼な男だなあ」
「男じゃないよ、新人の女」
鼓動が速くなる。気づかれないように席を立ち、トイレへ向かう。
まさか、萌実……?
考えれば考えるほど萌実だと思えてしまう。全くなんて事してくれるんだ! 妻が出演する劇団に潜り込むなんて狂ってる!
トイレなんて行きたくなかったのだが、仕方なく入る。幸いポケットに煙草がある。一服して気を静めよう。
便座に座ると、嫌な気がした。なんとなくいらつく。何故だ?
便座のウォーマーが付いているんだ! この蒸し暑いのに……。急いでスイッチを切ったが、そうすぐには冷たくはならない。なんで妻は気付かないんだ。確かに女の体は冷たく、冷えに弱いのかもしれない。だけどこんな陽気に尻をあっためてどうする!? 不気味なんだよ!
便座カバーやウォーマーはある意味で女を象徴している。こんな気候になっても惰性で使い続けているのが良い証拠だ。
萌実の部屋でもきっと、まだ便座は暖まっているのだろう。僕は萌実がそこに座ったとき、彼女の匂いが立ち上る様子を想像してみた。
あの匂いはやはり、普通ではない。
まじめに婦人科に行くのを勧めた方がいいのかもしれない。
僕は、自分の尻の下に女の尻が向かい合わせにくっついているような気持ちのまま、まずい煙草をふかし続けた。
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僕が婦人科に行くことを勧める前に、萌実は稽古《けいこ》場で倒れ、病院に担ぎ込まれた。
病名は聞いたけど、忘れた。男の僕には聞いたこともない、覚えにくい単語だった。
開腹手術になるらしい。子どもの産めない体になるかも知れない、と泣きながら電話をかけてきた。
「だからあんなに臭かったのか」僕の感想はこうだ。
可哀相なようだが、あの匂いに耐えながら関係していた立場としてはそう思うしかない。そこまでのことになる前に、自分の体の不調に気付かなかったのだろうか? 僕が指摘すべきだった?
「萌実、あそこが臭いけど、なにか病気なんじゃないか?」
そんなこと言えるか? 普通言えないと思う。
「なんか若手の子がさ、一人入院しちゃったらしいのよね。入ったばかりなのに」
妻が言うので、僕はあわてて妻に背中を向ける。
「ねえ聞こえた?」
「えっ、何だって?」
男が話を聞かないように見える瞬間には、たまにこうした演技も含まれているのだ。それとも女優の妻にはお見通しなのだろうか?
「劇団員が一人入院しちゃったらしいのよ」
「働き過ぎだろ?」
「その子、入ったばかりなのよ」
「体弱いんだよ」
「どうなんだろ。なんか、結構大変らしいよ。手術するとか言って」
「じゃあ持病?」
「病気なのに劇団に入って来たってことよね。なんか、迷惑なかんじ……」
まったくだよ。僕の妻と娘がいるってわかってて。病気だったのに、こんなことになる直前に社会保険まで捨てて。ほんとうにばかげてる!
だけどこれで萌実はしばらく橘香と妻から離れることになる。
「もう初日目の前なのに」
「見に行くよ、初日」
だけどその初日の日に萌実は手術だという。僕に、来て欲しそうなことまで言う。萌実は自分の実家とあまり仲が良くないらしいのだ。
しかし、そんなこと言ったって実の親子じゃないか。娘が病気のときは駆け付けるのが人間ってもんだ。いくらなんでも、他に家庭のある僕が「彼氏でござい」って顔して居られるか。居れるわけない。
「来てくれないの? 初日だから? あっちのほうが大事なのね?」
そんな事を言われると、心底萌実が鬱陶《うつとう》しくなってきてしまう。
「萌実は僕を、試したいんだね?」
何の権利があって? と心の中で付け加えた。
「あたしは、手術[#「手術」に傍点]なのよ。独りぼっちで切り刻まれるのよ?」
「じゃあなんで、僕に相談もせずに会社を辞めたりしたんだ?」
「だって、反対されると思ったんだもん」
「反対されるようなことを、どうして思い付くんだよ」
「だって……」
「だってじゃない、劇団だって星の数ほどあるのに、どうしてあそこなんだ。嫌がらせとしか思えないよ」
「あたし病気なのに、そんなこと言うの?」
「だから、会社を辞めなければ社会保険だってあったんだよ」
「保険なんか……保険なんかにあたしを助けることなんて出来ないよ」
「むちゃくちゃなこと言うんじゃない。もう仕事に戻らなきゃなんない、これで切るよ」
僕は電話を切った。そして石本摩夕との待ち合わせ場所に向かったのだった。
摩夕はもう電動腹巻きを巻いて仕事したりしなくなった。机の周りにも健康グッズを飾り立てない。エステお試し券も捨てた。
「こないだ女ともだちと久しぶりにスパに行ったんだけど、なんだかかえって疲れちゃった。今までなんであんなにむきになって通ってたのかしら」
「癒《いや》されたかった?」
「癒されてると思ってたんだけど……」
「セックスの方が効く?」
「うん、効くみたい」
甘い会話が僕の体をくすぐる。だけど心のどこかで、
「こんな会話を交わせるのもあと何ヶ月くらいだろう」
ともう悲しくなってる。
恋愛が恋愛と呼べる時間は短い。僕が経験した一番短い場合で二ヶ月。デートにしてカウント三回。あっというまに相手の女は長屋の世話焼きばあさんみたいな物言いをし始め、僕の行動を管理しようとしたのだ。綺麗《きれい》な子だっただけに、大輪の花が散ってしまったような寂しい気持ちだった。あの子は今どうしてるんだろう。綺麗な顔で、また誰かうっかりした男を捕まえたのだろうか。
摩夕は続ける。
「あたし、ずっと自分は仕事が好きって思ってたんだけど」
「好きじゃなかったの?」
「好きなの、それは今でも好きなのね。帳簿をコンピュータに入れるとき、最後のリターンを押す快感? 今日もうまいビールを飲むわ! って感じ? 一杯目をきゅーっと空けて、『アーッ、もうこれのために仕事やってんのよねっ!』って」
「男みたいだね」
「男みたい、って自分のこと思うのも含めて嬉《うれ》しかったのね」
「なんか、かわいいね」
摩夕がぐっと言葉に詰まった。
「どしたの?」
「そんなこと言ってくれるから、あたし、あたし、十布さんとこうなっちゃったんだわ」
「そんなこと、だれだって言うだろ」
「そんなことないよ! 男はみんな、どうやって男の方が優れてるかを証明しようとするやつばっかりだよ! 女のことを仕事のパートナーだって考えてない。従属させたいの。『どっちが勝ってるか』しか興味ないのよ!」
「そうなのかなあ」
「恋愛でだって、そんな思いばっかししてきたよ。だからもういいやって。対等の立場でいられないんだったら、仕事するにも支障が出るし」
「そうなの?」
「自分が休みのときにお前も休めとか、急な残業とか機嫌こわすし」
「ああ、そうなのか……」
「職歴永くなるたびに、同世代の男との恋愛はあきらめるしかなくなってきましたね。給料、男の自分の方が沢山もらってないと我慢できないとかさ、いろいろあってもう疲れた。だから仕事続けると自然に、仕事した結果であるお金で買える喜びが癒しってことになってっちゃって」
「やっぱ最初は同世代の男がよかったんだね」
「それは刷り込まれてました。誰でもそういうふうになってるんじゃないでしょうか? 少し年上なのはいいけど、あんまり上だと……。だいいちだいたいの人は結婚してるし。十布さんもだけど」
「最近は年下好きな女の子も多いんでしょ? 摩夕は年下とはつきあったことないの?」
「うーん、それがねえ、難しいんですよ。うちの会社にもいますよ、年上キラー。しゃべったことはあります。かわいいんですよ。イケメン」
「って何?」
「イケてる顔、つまり面ね、お面。イケてる男、MEN、って説もあるみたいですけどね、だいたい顔のことだね」
「…………」
「でねえ、ほどほどにさわやかなこと言うんです。いい子なのかなって一瞬思うの、でもなんか違う。よーく見てるとナルシスティックなとこが割れてくるんですよねえ。あたし、なんかじわ〜っとこう、冷めちゃって」
「ふうん」
「年下はね、難しいです。財布にされるって噂もあるし」
「財布ねえ」
「私、仕事嫌いじゃないけど『財布になる』までは割り切れません。男の人って出来るものなの?」
「いや、出来ないよ」
僕は即答した。
「だけど僕らはまず、生活のために働くのは自分だというところから話が始まってる。稼ぐのも半分ずつ、家のことも半分ずつにしましょうと言われたりすると、なんとなく何をご褒美に働くのかわかんなくなってきちゃうんだよな」
「十布さんち奥さん、働いてるの?」
「働いてるっていうのかどうか……」
僕はちょっとためらった。摩夕になら言えるような気がしたが、萌実の例があまりにも恐ろしくのしかかってきて、言葉がよどんだ。
「あっそうそう、十布さんち奥さん女優さんだったんだっけ」
「えっ?」
「舞台系でしたよね。それじゃあお金にはなんないね」
「ああ、そうだね」
「うーん、でも他の仕事も来る? 女優さんのことは私らには想像つかないなあ」
「いやもう、ぜんぜんやってないから」
「あ、でも今舞台なんじゃないですか? 初日まだ?」
「……まだだけど……。よく知ってるね」
「十布さんはよく社内でも噂になってますからね」
「それは光栄だけど」
僕は摩夕の表情を見逃さないように努力した。冷静な顔。萌実とはえらい違いだ。妻が女優だってことがわかっても、こんな風にしていられる女の子がいるってのに、萌実はいったい……。
僕はとんでもなく勘違いした田舎ものに今まで捕まってたってことなのか?
なんだか、がっかりだ。
だけど、今の僕には摩夕がいる。最初に抱いたときよりずいぶん綺麗になった摩夕が。
唇を重ねると、それだけで僕のペニスには熱い血が溜《た》まる。抱きしめると、キスだけで摩夕の全身から力が抜けていくのがよくわかる。
摩夕の舌は、僕の舌より薄くて細い。だけど長さはある。二匹の蛇が絡まり合うように、僕たちは永い接吻をする。
摩夕も僕も、すでに何も身につけていない。同じ石けんの匂いだけ。小振りな乳房をゆっくり優しくもみしだき、親指で乳首を転がす。
「んん……」
摩夕が体を捩《よじ》る。僕が唇と舌を、ゆっくりもう片方の乳首まで這《は》わせていくと、まだ何もしてないのに、その小さな突起は固くなって僕の舌を待っている。ゆっくり転がし、舌を押し付ける。それから口に含み、口の中で遊ばせる。
「ああ」
摩夕の声はずいぶん自然な声になってきた。一回目はちょっとわざとらしいと思ったが、リラックスしてきたのか。それとも僕が、わざとらしいのは嫌いな男だとわかってきたのか。
交互に乳首を刺激する。きっともう、摩夕は濡《ぬ》れているはずだ。早く指を入れて確かめたかったが、僕は自分で自分をじらすためにあえてそうしないようにした。
摩夕は我慢できずに、目を閉じたまま僕のペニスを手で探し、捕まえようとする。ピアノを弾くようなその指先。女が性的に開いて行くのを見る喜び。
やはり指は使わないようにしよう。僕の舌ははるか遠くまで旅に出る。こないだまで電動腹巻きしか触れるもののなかった白い腹を越えて、胴体の崖《がけ》っぷちまで。両手で摩夕の太股《ふともも》を捕まえ、その一番敏感な部分が逃げないようにし、僕の舌で捕らえる。
「あ〜、うそォー」
細かく動かすと、摩夕は声を上げる。その部分の少し下を味わうともう、ぬるぬるしたスープでいっぱいだ。いつもはこのスープを指ですくいあげ、潤滑油として使うのだが、今日は舌だからそれは必要ない。敏感な場所まで戻った舌を固くしてその小さな隙間に差し入れ、顔ごと突っ込んだり抜いたりする。
「あーっ、そんなことしたら、あたし」
暴れる脚をしっかりおさえると、何度も痙攣《けいれん》が走る。今度は舌だけを上下させると、さっきより摩夕の液体が増えているような気がする。このぬるぬるの中にこのまま突っ込みたい。だけど摩夕はそれを許さない。僕が病気持ちだと思っているわけではないだろうが、摩夕は僕にいつもコンドームを着けさせるのだ。
ペニスがこのまま入れられないのだから、やはり指も差し込むことにしよう。僕は舌でクリトリスをなめ転がしながら、右手の中指を摩夕にあてがい、ゆっくりと中に差し入れていく。
「ああああっ」
摩夕の中の筋肉が僕の中指を引っ張る。彼女の匂いが立ちのぼり、僕は興奮して中指を入れたり出したりする。指の動きに合わせ、くちゃくちゃと摩夕のそこが音を立てる。
「もう、もう入れて」
「気持ちいいの?」
「うん、でももう、いっちゃいそうだから。あっ」
僕が指を鉤《かぎ》の形にすると、摩夕の体が大きく反応した。
「ああーっ、もうだめ」
その声にせかされて僕はコンドームを着ける。頭のどこかで、そんなのいらないから入れて! と摩夕が叫び出すことを期待しながら。だけど少し装着に慣れてきた僕の手作業は意外に早く終わってしまい、ゴム棒と化した僕のペニスの先は、もう摩夕に割って入ろうとしていた。
ゆっくりと、中へ。
「ああ〜……」
悦《よろこ》びの声を上げる摩夕。半分くらい入れて、また抜く。そしてまた、半分。摩夕の中の粘膜が、抜こうとするたびに僕を捕まえにかかるのがわかる。
そしてまた半分。
「ぜんぶ入れて……」
「ん?」
摩夕の両手が伸びてきて、僕を抱きしめようとする。
「ぜんぶ」
「こう?」
僕はゆっくり、ゴムのペニスを根元まで埋めていく。
「あーいい、大きい、もっと、もっと入れて」
摩夕の締め付けがきつくなる。僕は背を丸めて、摩夕の乳首をべろべろなめ回してやる。
「あー、もうだめ、だめかも」
「摩夕」
顔を見ると、何かを我慢しているような表情だ。
「いっ……ちゃう……ああ、もっと、なめて。あたし、いく」
乳首への刺激は絶頂感を呼ぶ。僕は激しくペニスを出し入れさせる。僕は女を何度もいかせて悦に入るタイプではない。一緒にいくのが一番好きだ。
しばらくして僕にも、あのいつものしびれるような感じが訪れた。
「摩夕、僕もいきそうだよ」
「きて、一緒にきて」
二人の痙攣がうまくかみ合ってくれることを祈って、僕はオーガズムに身を任せる。
萌実のお見舞いには本当は行きたくない。このまま縁を切ることが出来たらどんなに助かるだろう。もうその線でお願いしたいくらいだ。土下座でもなんでもして。
だけどいくら何でもまるきり行かないわけにもいかないんだろうな。
電話してから行ったら、萌実はちゃんと僕が親兄弟に鉢合わせしないように取りはからってくれるだろうか。
いやもしかして、わざとその逆をやられたりして。そうしたらどうする? やられるくらいなら、覚悟しつつ抜き打ちで行くか?
しかしその前に初日だ。つまり萌実にとっては手術の日があるのだ。橘香にとってのこの大事な日のことを僕は一番先に考えなくてはならない。
ゲネプロを終えて帰ってきた二人と、摩夕とのセックスを終えて帰ってきた僕が仲良くおしゃべりをする、リビング。橘香は今日、一カ所出るタイミングを間違ってしまったらしく、悲しそうな顔をしている。
「大丈夫よ橘香。練習ではいくら間違ってもいいのよ」
「ほんばんでは?」
「本番だって間違ってもいいのよ」
「ほんとう?」
「ほんとよ。お芝居なんて結局は遊びだもの」
おいおいそんなこと言っていいのかよ、と思いつつ、僕は妻の成長を感じた。以前の妻は、もっと芝居に対して熱心すぎるほど熱心で、何だか男の大学生のような青臭さのある女だったのだ。
「パパきっかのおしばいみにくる?」
「行くよ」
「なんかいくらい?」
「わかんないけど、まず最初の日には絶対行くよ」
妻と恋人どうしだった頃には、初日、中日、千秋楽は行くようにしていた。どんなにつまんない芝居でも必ず三回行った。おかげで妻の劇団の芝居のほとんどは面白くないことがものすごくよくわかった。だからほんとならあまり何度も行きたくない。だけど今回は橘香が出るのだ。そこが大きく違う。出来ることなら橘香が出るところだけ、毎日毎回見せてもらいたい、あとは要らない。
橘香が学校に行きだして、授業参観に行く前ってのもこんな感じなんだろうか。
その日が来た。
萌実の手術は午前中に終わるはずだ。
そんなに難しい手術ではないはずだ。その病気には最近の女性は罹《かか》ることが多いと聞いた。三人だか四人だかに一人? しかし最近の女ってそんなに大勢が婦人科の病気になっているのか? まさか全員が手術まで行くわけではないだろうが……。
悪いけど、僕の頭の中のほとんどは「橘香の初日」が占めている。萌実の病気の悪化は、橘香に襲いかかろうとする悪魔(萌実だけど)を退治してくれた魔法使いの仕業のように思えてしまうことさえある。
ひどい考えだろうか?
でも、妻と橘香のそばへ忍び寄った萌実の方がひどくないか?
会社まで辞めてだよ!? そんなむちゃくちゃなことをするから病気がひどくなったんだよ。自業自得だよ。
手術はもう終わったんだろうか……。
僕は萌実が手術を受けているところを想像してみた。吸入。点滴。血圧計。麻酔の注射。レーザーメス。ついでに、何か事故があって萌実が死んでしまうことも想像してみた。これだけのことがあった後だ、自然な感情だと思う。
そして僕は心臓の音が隣の客に聞こえるのではないかと心配しながら、橘香の出番を待っている。橘香は緊張のあまり泣いてはいないだろうか。やっぱりやめたいと思ってはいないだろうか。だったらやめてもいいんだよ橘香。どうせつまんない芝居なんだから。
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橘香の出た芝居が終わって、めくるめく感動の中に居てもいいはずなのに僕は、不機嫌だ。
つまらなさ過ぎた。
あまりにも芝居がつまらなかったのでなんだか僕は、橘香を汚されたような気分なのだ。僕の目の前には、劇団の主宰だという男が座っている。脚本もこの男が書いたものらしい。
僕は初日打ち上げになんか出たくなかったのだ。芝居が終わったところで橘香を抱いてさっさと帰りたかった。だけど妻が、
「あ〜もう初日無事終わってよかったー! ねえ、あたしまだ片づけあるから、橘香連れて先にここに行っといてくれる!?」
と当然のように僕に地図を渡すので、しぶしぶここに来たのだ。僕らが来てしばらくしたら、缶ビールの詰まった箱がいくつも運び込まれてきた。全部僕が差し入れしたビールだ。そして主宰らしき太った男がのしのしとやってきて、
「橘香ちゃん上手に出来たね! これからもがんばってな!」
と橘香の頭をなでた。それから、劇団員がやってくるたんびに、
「あ、酒あっこから好きなの取って!」
と後ろのビールの箱を指さすのだ。僕からもらったものだと知らないのだろうか? 僕が誰かも関心ないのだろうか? 普通橘香と一緒にいたら橘香の父親だとわかりそうなものだが、僕にはひとことも挨拶《あいさつ》なしだ。こっちから頭を下げろってことなのか? あんなつまんない芝居書いといて、態度のでかいやつだ。
妻が来たらさっさと帰ろう、と思っているのになかなか来ない。
橘香はとっくに僕のそばにいない。劇団員の周りを飛び回り可愛がられている。橘香が可愛がられているのはいいとして、僕にとってはこんなに居心地の悪い飲み会もそうそうない。僕だけがうんざりで、周りにいるやつらは全員上機嫌でハイテンションなのだ。
やっと妻が来た。
「おつかれさま〜! わ〜もうみんな来てる〜」
まだ酒も飲んでないのに妻は周りのやつらと同じように頬が上気し、目が潤んでいる。その上僕なんかそこにいないかのようにそいつらにはしゃぎながら声をかけ続けている。
早く僕の隣に座ってくれ、と僕は念を送ったが、なかなかこっちへ来ない。やっと来たと思ったら、あろうことか、妻は僕でなく僕の目の前の主宰者の隣に座ってしまうではないか。
そして僕にこんな会話を見せつける。
「橘香ちゃん、よかったじゃん」
「いや〜もう、ひやひやしたあ〜」
「あの年であれだけ出来たら上出来やろ」
偉そうに言うな! 僕は心の中で叫んだ。
小劇場の劇団の主宰やってるくらいで、なんでこいつこんな大先生面してるんだ?
そして何で僕は自分の妻にまでないがしろにされなければならないのか……。
僕の忍耐力は限界に近づいていた。
このまま一人で帰ってしまおうか。
しかし橘香が気になる。もう少し様子を見るか。
だが妻はこちらを見もしない。
むかむかしてきた。
「あのさ」
僕はついに、妻に声を掛けた。
「俺、明日早いんだけど」
「えっそうなの!? あっ、夫です!」
妻がやっと、主宰者の方を見ながら僕に手を差し伸べた。僕は、これでやっと僕の居場所が作ってもらえるのかと期待した。ところがそいつは、
「ああ、そうですか」
と言ったっきり、お世話になってますもビールごちそうさまですも橘香ちゃん可愛いですねも言いやしないのだった。さらに数人のスタッフが入ってくると、また、
「あ、酒あっこから取って」
とあごで指している。
やっと僕の隣に座った妻に、
「あのビールさあ、俺が差し入れしたやつだぜ、この人知らないのかな?」
と小さな声で言うと、
「ああ、お金ないからねえ、持ち込みで酒代浮かしてんじゃない?」
「だからそうじゃなくて」
「え? なになに? あっ、おつかれー!!」
スタッフに笑顔を振りまく妻。僕の気持ちなんか解ろうともしない。今この女は橘香の母でも僕の妻でもない、「劇団員」という生き物になってしまっているのだ。
「俺、橘香連れて先帰ろうか?」
「えーなんでえ、芝居の話してよお、鹿島《かしま》さんとー」
鹿島っていうのか。
木田じゃなかった、と僕は頭の中で思った。しかし話してよって言われても……。
「いや、俺のほんはなあ」
当の鹿島は、若い劇団員相手に青臭い演劇論を戦わせている真っ最中のようである。そんな中にどうやって入って行けと言うんだ。だいいち入りたくもない。差し入れにお礼も言えないようなやつの会話になんか。僕からの差し入れと知らないにしても、そういうことをマネージメント側が知らせてもいないような劇団ってことで、どっちにしても論外じゃないか。
話なんかするもんかと思っていたのだが、
「どんな質問をされても、俺には答える用意がある!」
なんてことを言っている鹿島がつい気に障り、僕は思わずこういう言葉を発してしまっていた。
「バスが来る前の橘香のセリフ、日本語として少しおかしいと思うんだけど」
すると鹿島は、僕と目を合わせもせずに、
「いやそれは、俺がそう書きたかったんや」
と言い放ったのだった。
やっと家に着き、車の中で寝てしまった橘香を着替えさせ、ベッドに運ぶ僕。歯も磨かずに寝てしまう橘香が僕は不憫《ふびん》でならない。リビングに戻ると妻は鼻歌を歌いながら洗い物をしていた。
「なんか食べなくてだいじょぶ? 全然食べなかったでしょー?」
「お腹いっぱいだよ、君の芝居で」
「なあにそれえー」
「胃もたれするような芝居だったってことだよ」
「なんでそんなこと言うの?」
妻がこちらに向き直る。
「そんなに面白い物を期待してたわけじゃないよ、だけどね」
「なによ」
「あの主宰の鹿島とかいう男の態度はなんなんだよ。人の意見も聞かないし、差し入れに礼も言わないし、いったい何様だと思ってるんだよ」
「え、でもいいほん書くよ」
「どこがだよ!」
思わず大きな声を出してしまった。
「まさか僕のこと、こういうことにしろうとだと思ってるんじゃないだろ? 君と知り合ったのだって制作者と女優という出逢《であ》いだったんだからね。どのくらいのもの書けるかなんて、一作見ればわかるよ。人の意見を聞くような人間ならまだしも、あのお山の大将ぶりじゃあ、あの劇団に未来は無いだろうね。賭《か》けてもいいよ。『どんな質問されても答える用意がある』なんて言ってるから、僕が日本語としておかしいところを指摘したら『俺がそう書きたかったんや』って言ったんだぜ!? ずいぶんな話じゃないか。『どんな質問にも答える用意がある』なんて言っといて! それはお前んとこの劇団員がバカなだけだろって感じだよ!」
妻は黙ってしまった。
言い過ぎたかもしれない。
僕だって橘香が出てる芝居じゃなければ、そしてあんな態度さえ取られなければここまでむきにならなかった。
本当にあの鹿島の態度はひどすぎだ。ふだんめったにそんなことは思わない僕だが、今夜はあまりのことに、
「あんた、俺を誰だと思ってるんだ?」
というセリフがマジで頭に浮かんだ。言いはしなかったが……。
まだ沈黙は続いている。
妻は今にも泣き出しそうな顔だ。
しばらくして、
「そんなこと言われて、あたしいったいどうすればいいの?」
と半泣きで言った。
「まだ初日終わったばかりなのに。自分だけでも精一杯なのに橘香だっているのに。途中で抜けられないのよ? あと何公演あると思ってんの? そんなこと言われて乗り切れると思う? 鹿島さんと何があったか知らないけど、あなたあたしに対して思いやりがなさ過ぎるんじゃないの? だいたいあなたはいつも、自分のことばっかし考えててそれであたしがどんなに傷つくかとかやな思いするかなんて想像もしない、いつだってそうよ。そんな生活からやっとこの舞台をカタルシスとしてすがりついたあたしだったのに橘香だって心療内科の先生が良いって言うから一緒にって思ったのにこんな話されて明日からどういう顔で舞台にあがれっていうの橘香にママなんか悲しそうって言われたら泣いてしまうかもしれない、自信が持てなくなるようなことをなんでわざわざ」
言いながら妻の両目には涙があふれていた。しかしなぜかその声は泣き声にはならず、言いたいことを言い尽くすまではっきりした滑舌《かつぜつ》で妻はしゃべり続けるのだ。
これが女優の涙でなくてなんであろうか。
気晴らしに僕は摩夕の部屋に遊びに行った。摩夕が、
「お腹すいてない?」
と電話してきたのだ。
「愛に飢えてるよ」
と僕が言うと、
「おっさん」
と返された。
「エスニックめしとか食べれますか?」
「大丈夫だよ。だてに業界やってないよ」
「と思いたいけど、あんましおっさん発言されると確認したくなる」
「何作ったの?」
「生春巻。いっぱい出来ちゃうんですよこれ。なんかこれにあう酒買ってきてくれると嬉《うれ》しいな」
「じゃあ探してみるよ。そっち系のビールとか。みつからなかったら白ワインでいい?」
「いいよ」
「じゃ近くの酒屋経由で行くよ」
「で、生春巻しかないんだけど、平気?」
「いいよ、摩夕がいれば」
「んもう」
摩夕の甘い声の余韻を楽しみながら、酒屋へ歩く。チンタオビールがあった。もちろん白ワインも付ける、それが大人の男ってもんだ。
摩夕の生春巻はなかなか本格的だった。葉っぱの品揃えで入れ込み方がわかる。
「好きなんだね生春巻が」
と言うと、
「語っていい?」
と可愛い前置き。
「聞きたいよ」
「生春巻ってさ、自分で一度作るまではもう、あたしにとって『情熱を持って』と言ってもいいくらい大好きな食べ物だったのよ。八百円とか千円とかときには千二百円も払って、ほんのちょっぴりしか食べられないじゃない。昔はほんと高かった! 一度自分で作って、思う存分食べてみたかった。作り方も知りたかった。子どもの頃思わなかった? プリンとか。固めるだけのやつでもいいのよドンブリ一杯のプリン!」
「ああ、なんかわかるな」
「生春巻が、ライスペーパーってものを用意すれば自分でも作れるって知ったときの喜び! 作ったわよ〜、もうはりきって作った。中に入れる具が多いから大変! 豚肉でしょ、エビでしょ、ニラ、香菜、ビーフン、一つにどれくらい使うもんだとかわかんないからもう、すっごいたくさん出来ちゃって。長持ちしないから友だちに電話よ」
「今日の僕みたいに」
「そう。『生春巻食べに来ない?』結局来たのは女友だち。男はね、『あ、あの白いやつでしょ、俺あれ苦手』」
「へえ」
「そんなやつってセックスも平凡」
「ほう」
「ごめんなさい、今のは失言」
「政治家になれるよ」
「褒めてんの? 十布さんは違うって言おうとしたのよほんとは。でもそれもなんか失礼かと思って」
「そうなんだ」
「あたし、へんなもの食べるって言われて、ショック受けたことあるの、男から」
「そのときは何食べてたの?」
「豚足」
「あれはコラーゲンの固まりだろ。美容食だよ」
「そんなこと言ってくれるの十布さんだけよ」
「美味《おい》しいよ、この春巻」
「ありがとう。でも自分で作れるようになる前の方が、もっとこれ好きだった」
「そうなの」
「わあこれどうやって作るんだろ、って感激するような食べ物に出会うと、自分でも作ってみたくなるのね。でもきっと自分で作れるようになったら、作れるようになる前の、『あーん、もーどうしよう、好き!』って気持ちはきっとなくなってしまうんだわ」
「恋愛に似てる」
「似てる? そうなのかなあ」
「いや、いいかげんなこと言っちゃったな。作れるようになるって意味のたとえがみつからないや」
「うん、でも最初は恋愛のように好きだよ。でもあたし、醒めるとわかってて作っちゃうんだよね。タピオカもそうだった。もちろん嫌いになるわけじゃないんだけど」
「熱烈じゃなくなるんだね」
「そう」
「でも、作らなくてもいつかは醒めるんじゃない?」
「作らないでただ食べ続ける人より、醒めるのがずっと早いと思うの。でも作っちゃう」
「ああ……」
言いながら僕は摩夕の体に手を伸ばす。
「僕は摩夕を食べ続けたいよ。君の体は飽きない」
「もう、上手なんだから。あたしデブだよ。胸もないし」
「僕は痩《や》せてるだけの女の子やおっぱいの大きいだけの女の子に『スタイルがいい』って言うような男は嫌いなんだ。よくいるけどね、語彙《ごい》が貧弱な証拠さ。摩夕みたいにメリハリがあって感じやすい体が僕は一番好きだよ」
「十布さんてほんと、女をその気にさせるのうまいよね」
「女をじゃなくて、摩夕をだろ」
「嬉《うれ》しい……」
「君の料理も美味しい。でも君の体はもっと美味しいよ」
摩夕はもう食べていない。人間の欲は一つが出れば一つは引っ込む。性欲が前に出ているときに食欲を維持することは難しいのだ。
だけど萌実を放ったらかしにするわけにもいかない。僕は季節の果物を抱え、誰に遇《あ》っても揺るがない表情を作って彼女のお見舞いに出かけるのだ。
何人の女に関わっても、出来る限りのことをするのが男子というもの。そういう殊勝な考えで行ったせいか、見舞いのあいだ中、看護婦以外誰にも顔を合わせずに済んだ。
失礼、最近は女でも看護師って呼ぶんだってね。看護婦はすでに差別名称になりつつあるのだそうだ。保母なんかもそうなのか?
それはともかく僕は萌実にけっこう良い話が出来たんだ、そのいきさつはこうさ。
「十布さん、初日行ったんでしょ? どうだった?」
当然萌実はこう聞くわけだよ。そこで僕の頭の中いっぱいに広がったのは、あの主宰者の鹿島の無礼な態度だったってわけ。当然だろ?
「ああ……あの芝居ね」
「面白かった?」
僕は萌実が気付くか気付かないくらいの、浅い浅いため息をついてみた。
しばらくの沈黙。
「萌実はあの芝居、どう思うの?」
「え?」
「読んだんでしょ? 面白かったの?」
「あたしは……あんまし他の芝居、知らないし」
「そうか……」
「なんで?」
「いや……。今は体のことだけ考えなよ。体が良くなったらゆっくり話そう」
「あたし、平気よ」
「そういうわけにはいかないよ」
「平気だってば」
萌実の口調はなんとなくさばさばしていた。もしかしたらこの手術で、萌実は女の部分をすっぱり取ってしまったのかもしれない。昔の、「もう! いったい何が言いたいんだ!」というような粘つきが感じられない。
「うーん、そこまで言うんなら話すけど、あの劇団、やめた方がいいよ」
「えっ? だって奥さんがいる所でしょ?」
「昔ね……。でも僕は芝居見に行ったことなかったんだ。所属してるときに僕の仕事にオーディションに来て、その後見に行こうかと思ったことはあったんだけど、なんだかんだで行かず仕舞いだった。聞いたら主宰者は前と代わったらしいけどね。初めて見たよ。最低。あんな所に居ても何の得にもならない。やめた方がいい」
僕の話には嘘《うそ》と誇張が混ざっている。だけどそれも萌実のためを思ってのことだ。
「そんな……。そこまで言っちゃっていいの? 奥さんに悪くない?」
「いや……彼女にも同じこと言ったよ」
「えー!?」
「やめろまでは言わなかったけど」
「そんな……」
「別にそちらのことは考える必要はないよ。僕は萌実の話をしてるんだ。あそこに居てもいいことはない。あの劇団に未来はないよ。ちゃんと芝居やりたいんなら、もっと別の所へ行った方がいい」
「別の所って、どこ?」
「今はそこまでは答えられない。僕にわかることはあそこはダメってことだけだ、他のことに詳しいわけじゃないんだ」
「どうして? どうしてそう思うの?」
そこで僕は初日の日に思ったこと、実際にあったことを萌実に話して聞かせたんだ、ここでは誇張は要らなかった。萌実はどう聞き取るだろうか?
「それはちょっと……失礼よねえ」
萌実は妻ほど劇団ノリに毒されていなかったようだ。主宰者の無礼な態度がわかったのだ。僕は心の中でガッツポーズをとった。
「鹿島さんて、自分よりかなり年上の男の人とか、面倒見のいい女の人とかにはすごく可愛がられるタイプみたいなの。でも初日にそんな態度だったなんて私ショック。もっと謙虚な人かと思ってた」
「とんでもないよ。僕だって劇団関係者にあんな物言いされたのは初めてだ。もっとも僕のこと、代理店の人間だなんて思ってもいなかったようだけどね」
「バカな人ねえ、鹿島さんて。こういう仕事って誰が見てるかわからないってのに。何でも許してくれるファンだけが自分の周りを取り囲んでるって信じてるのかしら。それって思い上がりだよ。十布さんと良い関係が作れれば、すごい世界が広がったはずなのに!」
萌実が昔のように僕を立ててくれるのが嬉しかった。やっぱり病巣を取り去るってことはいいことなのだ。
「まああまり興奮すると体に障るよ。退院したらゆっくり考えよう。僕もこの公演が終わるまでは見守るしかないんだし」
「うん、でもきっと私やめる」
そう答えた萌実が、たまらなく可愛く見えてしまった僕は結局いいかげんで軽い男なのだろうか。
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10
毎日妻は橘香を連れてあのつまらない芝居に行く。
橘香は人質だよな、と僕は思う。
橘香が一緒に出てなければ、妻の留守に僕は橘香を連れてどこかへ行ってしまっていたかもしれないから。
あの屈辱の初日までは、橘香をしょっちゅう見に行くつもりだった。仕事状況が読めないから行ける日に妻に連絡して飛び込むつもりでチケットこそ買ってなかったが、ほんとうに行くつもりだったのだ。
チケット買ってなくて良かったよ。買ってたら無理やり心を閉ざして行くか、代わりに行く人間を捜さなきゃいけないところだった。
橘香のことは気になる。だけどもう、あの芝居には二度と行きたくない。妻もそれはわかっているみたいだ。次いつ来るの? とは聞かない。聞いてまた悪口が始まるのもいやだと思っているんだろう。
僕はだんだん摩夕の部屋にひんぱんに行くようになってきている。
たまに萌実のお見舞いにも行くが、そこからはすぐに帰る。その足で摩夕のところへ行くこともある。
摩夕を見ていると飽きない。
ある日の夜は、摩夕はハーブの葉と種の袋を何種類も並べてあれこれ考えこんでいた。
その次は、デュラムセモリナ粉と、強力粉と、中力粉の袋を並べて見つめていた。
そしてまた別の日、今度はパスタマシンのカタログを広げてうなっていた。
そんな彼女を僕は、珍しい動物でも見るような目で見つめる。
「どうしたの? 座ったら?」
珍しい動物は僕に甘い声を掛ける。
「君は、まるでそういうものの方が僕より好きみたいだね」
「とんでもないっす」
摩夕はそう言うと、ベッドにカタログを放り投げた。
「十布さんとつきあいだしてから、安心してこういうものにはまりだしたっすよ」
「その前は癒《いや》しグッズ」
「あの頃はねえ……。気付いてなかった。あれ、歯止めが利かなくなってたね」
「でも、はまり性なのは同じなんだね。ちょっと僕は、やきもちやいたよ」
「え〜そんなあ〜。料理ものなら、十布さんが食べてくれるって思うからじゃないですかあ〜」
摩夕は僕に抱きついて、僕の胸に顔を埋めて言った。
「それとね、ほんとは十布さん来たらすぐ飛びついてこうしたいのね、でもそれちょっと照れくさくてね、そんで何か見てるふりとかしちゃうっていう」
なんて可愛いこと言うんだ、僕は摩夕を強く抱きしめた。
「ああ〜この強さで小麦粉練ったらコシのある麺《めん》ができるう」
「何言ってんだよ」
僕はそのまま摩夕をベッドに乗せ、彼女の体の下からパスタマシンのカタログを抜き取り床に置いた。
摩夕とセックスしている間、ふと、妻も劇団の人間とセックスしているような気がした。しかしすぐ僕は、その考えを打ち消した。橘香が一緒なのだ。けれどこんどは、ラブホテルの部屋のソファで眠り込んでいる橘香の隣で行為にふける妻の図が浮かんだ。
もし、もし妻がそうやって劇団の中の誰かと関係していたとして……。
そしたらそいつとの関係は、この芝居が終わったらどうするつもりなんだろうか?
問いは、自分に返ってきた。僕は、萌実と摩夕をどうするつもりなんだろうか?
摩夕はまあいい。まだ若いし、健康だし、僕と別れても誰かと結婚するだろう。しかし、萌実はもう、そんなに若くない。そして、今回の手術で子どもが産めない体になってしまった。それは僕のせいではない、だって僕が関係し始めた時にはもう、萌実の体からは腐臭がしていたのだ。だけど、そういう体だということが明らかになったとき、そばにいたのは僕だ。
僕は何か、この件に関して責任を持つべきなのだろうか?
僕が萌実のそこの匂いを早く指摘していたら、子どもが産めない体になる前にくい止められたんだろうか?
萌実はまだそういう話を僕にはしない。僕はその話題を畏《おそ》れている。
愛人の健康管理まで男の仕事と考えるべきか?
そんなことを考えながらうちに帰ると、なんとリビングに鹿島が座っているではないか。
「あ、おじゃましてますわ」
僕はとんでもなく不機嫌な顔をしていたと思う。妻は僕の顔を見ないようにしている、ように見えた。橘香はもう寝てしまっているようだ。リビングに、鹿島と妻が二人。こんな状況を僕が許すとでも思ってるんだろうか?
「あなた、遅かったのねえ。鹿島さん、待ってたんだよ」
「僕を? なんで?」
待ってたと言われると、摩夕の所にいて遅くなった僕としては複雑な気持ちだ。でもなんで僕がこの男に待たれなきゃいけない?
「いや、送るついでにと言ってはなんですが、奥さんがそれは夫に聞かないと、と言わはるんで」
「何を?」
「あのですね、僕、今もう次の芝居書いてるんですけどね、次も出てもらえないかと思いましてね」
「橘香に?」
僕がそう言うと、鹿島は少しの沈黙のあと、妻と顔を見合わせた。僕はその二人の態度がひどく癇《かん》に障る。
妻が出来てるのはこの男だったのか!?
「奥さんに、なんですけど」
僕はゆっくり妻の顔を見た。
妻の顔が視界の中央に位置すると、妻の声が聞こえた。
「なんで橘香だと思うの?」
「いや、そう言わはるんじゃないかと、僕も思てましたわ」
「……何か、いけなかったかな」
「いけないってわけじゃないけど……」
「橘香ちゃんも一緒の方がいいですか?」
「そういう意味で言ったわけでもないんだけど」
「あたしは、自分が出るとしたら、橘香見てくれる人に困るから、あなたに聞かないとって思ったんだけど」
「困るも何も、君だけ出るなんてことになったら、橘香は僕が会社に連れて行くしか方法はないよ。そんなことが出来ればの話だけどね」
「だから、そんな」
「うちねえ、親がどっちも遠いんですよ」
僕は鹿島に言った。
「はあ」
鹿島はどうとでもとれる返事をした。
「わかってるけどお」
小娘のような言い方をする妻に、ますます腹が立っていく。
「わかってるけど、何? 僕に聞いたら何か状況が変わるわけ? 変わりゃしないよ」
「それは、わかるんだけどお」
「あのだから、ご検討いただくということで今日は一応、お話に」
鹿島はでかい尻《しり》をあげ、帰るそぶりを見せた。
「あなた、怒ってるの?」
鹿島が帰ってしばらくすると、妻はおそるおそる僕に言った。
「ん?」
「怒ってるの?」
「別に怒ってないよ」
「うそ……」
「これ何? ビール?」
僕は鹿島に出されていたコップに残った液体について尋ねた。
「麦茶よ……」
「でも、飲んできたんだろ」
「そりゃ……だって……」
妻は、しばらくしおらしくしていたが、急に僕に向き直って充分発声練習の済んだ声で言った。
「何。そんなことも気に入らないわけ?」
「だれも気に入らないなんて言ってないじゃないか。知らない男がいきなりリビングにいたら誰だって驚くだろ?」
「知らなくないじゃない」
「じゃ言い直すよ。『嫌いな男』だ」
「何よそれ! 大人げない!」
「芝居やってるやつに大人げないなんて言われたくないね」
「あなた先に帰ってると思ったのよ! 何してたの? なんでこんな遅いの?」
「そっちだって毎晩遅いだろ!? 橘香が一緒なのになんで毎回飲んでくるんだよ!? この部屋で一人で晩飯|喰《く》うほどね、僕は稼いでない男じゃないよ」
「稼ぎとは関係ないでしょ? あたしと橘香がいつも夜いないからって、何してもいいってもんじゃないんだからね!」
「何だよ、何してもって。先になんで毎回飲まなきゃいけないのか説明してもらおうじゃないか」
「だから、次回作のこと相談されてたのよ。あたしだって悩んだのよ!? だけど、あなたに言わないと話始まんないって結論に達したから……」
「そんなの結論じゃないね、ぜんぜん違う。それは、最初に考えなきゃいけない話で、もともとわかってることだ。そんなことに『結論に達した』なんて言い方するところ、あの鹿島ってやつの脚本《ほん》に、難解な言い回しだけに酔って中身からっぽなところ、そっくりだよ! 君の言語感覚はすでに鹿島に悪影響を受けている。虫ずが走るね」
「だから、そんなこと言うから! 今まで話せなかったのよ!」
「こんなこと言われるって解ってるんなら、断ればいい。毎日毎日あの男の口説きを受けて喜んでないで断ればいいじゃないか!」
「だって、せっかく出て欲しいって言われてるのに! 今回より役大きいのよ!?」
「そんなの関係ないよ。つまんない脚本の中で役が小さかろうが大きかろうが。もしかしたら鹿島の方は、今回よりもっと大きな差し入れを期待してるかもしれないけどね。君さ、この芝居ノーギャラなんだろ?」
「それがいけないの? 全員そうなのよ!?」
「だから、全員そうだからってことを言ってんじゃない、わかってるんだろ? 芝居として面白けりゃいいよ?」
「面白いよ!」
「つまんないよ」
「わああああん」
妻はとうとう声を上げて泣き出してしまった。
「泣かないでよ。泣かれたからって、つまんないものを面白いって言うわけにはいかないんだから……」
「う、浮気、してるくせに」
「え?」
「また、別の、相手」
妻はしゃくりあげながらそれだけ言うと、子ども部屋に逃げ込んでしまった。
ばれてる!?
なんで摩夕のことがばれてるんだ!?
僕はあわてて妻の後を追った。妻は暗い中、寝ている橘香の隣で泣き続けていた。いつも橘香と二人遅く帰ってくるから、ここんとこまた妻は子ども部屋で寝る生活だったのだ。
「うっ、うっ」
僕は妻の背中に手を当てて言った。
「こっちおいでよ。橘香が起きちゃうよ」
妻を寝室に招き入れると、僕はゆっくりドアを閉めた。
妻はベッドに座り、しばらく泣いていた。その背中を見て僕は、妻は今日鹿島とセックスしたのかもしれないと考えてみた。
今度の芝居に出ることになったら、妻と鹿島はもっと接近するだろう。僕は離婚を思った。橘香は僕に置いてってくれるような気がする。鹿島と一緒にまた舞台女優やりたいんだったら、小さい子どもの面倒は見られないだろう。
橘香と二人になる僕。
そこに摩夕は来てくれるだろうか。
会社を辞めて、僕と橘香のためにあれこれと料理を考える日々を選んでくれるだろうか。
僕は、選んでくれるような気がする。
自惚《うぬぼ》れかもしれないが、摩夕はあっさり、
「それもいいなあ」
と言ってくれそうな気がする。
萌実はだめだろう。
女優になりたいとか言い出して、相談もなく会社を辞めたりするような女だもの、それも鹿島の劇団に。
信用できない、僕だって嫌だよ。
萌実が産めなくなった子の代わりに橘香を可愛がってくれる?
なんかでもそれ、オチがつきすぎてかえって不自然だろ。
萌実とは少しずつ距離を作って行きたいんだ。彼女に摩夕のことがばれてしまったりしたらもう泥沼だ。
まてよ、もしかしてもうばれているのか?
それを萌実が妻に言った?
そんな、いつ……。でも、もしかしたら入院前に? 妻を動揺させる目的で?
まさかとは思うが、突然会社を辞めて妻のいる劇団に入り込まれたりしたら、もう何をしててもおかしくないと思ってしまう。
「あなた」
妻の声が、僕の考えを遮った。
「わたし、わたしね」
「うん」
「やっぱしね」
「うん」
「ずっと、家にいるの、だめ」
「…………」
「橘香はかわいいよ、橘香のためにいろいろするのは楽しい。でもね、あなたを含めた社会と、切り離されてしまうのがね」
「社会」
「劇団員だった頃、あなたと知り合って結婚したときはね、はっきり言って『助かった』って思ったの」
「それは前、言ってたね」
「あたしにもまっとうな結婚なんて出来るんだ、良かったって。すんごく嬉《うれ》しかったのよ。橘香も生まれて、ますますあたしは女として自信をつけたの」
「よかったじゃないか」
「よかったわ。だけど……」
僕は息をのんだ。
「あなたが浮気してるってわかってから、もう、何だか、たまんなくて。今まで幸せだったことが、全部」
「ちょっと待った。僕はもうやめたよ」
嘘をついた。
「言っただろ」
「やめたの? それ、証拠はあるの?」
「そんなことに証拠なんて作れないよ。僕はもうやめた。今日食事してきたのだって仕事関係の人間だよ」
摩夕だって会社の子なんだから、嘘じゃない。
「わたし、信じられない。だってわたしに戻ってきてくれた感じがぜんぜんしないもの」
「それは、君が。……君に後ろめたいことがあるからなんじゃないのか?」
ここが寝室だったおかげで、僕は妻が家計簿の表紙まで付けて隠していた交換日記のことを思い出してしまったのだ。
「鹿島さんのこと?」
「誰かは知らないよ。だけど、君は劇団内につきあってる男がいたはずだ」
「何を証拠にそんなこと言うの?」
「証拠」
証拠なんて言うのか。そういえばさっきも言ってたか。愛人と別れた証拠なんて見せられるわけないのに。ほんとに妻は、鹿島の影響で頭が悪くなってきたのか。
「証拠は、見たよ」
「え!?」
「今は無いけど」
「どういう意味?」
「偶然見たんだ。でも一回だけだ。そのあとどうなったか知らない」
「何、何よ。何のこと」
「自分でよく考えてみなよ」
「えー何!? 何のこと!?」
「大きな声出すなよ、橘香が起きるよ」
「だってそんないやらしい言い方するんだもの」
「いやらしい? よくそんなこと言うね。君が僕に見せつけた証拠の方が、百倍いやらしいよ」
妻は、黙ってしまった。
わかって、とぼけているのか?
僕は本棚を見ないようにした。
妻の交換日記は、消えてしまった。僕にはよく内容すらわからない。しかし、劇団員が相手だったのは覚えてる。高校生じゃあるまいし、肉体関係もない男と交換日記なんかするだろうか?
交換日記だぜ!?
異常だよ!
そんなものが夫婦の寝室にあったなんて、僕にとって侮辱だよ。
「あたしのこと、調べてよ」
妻がそう言ったが、僕には何のことかわからなかった。
「ねえ、調べてよ」
そして、妻は服を脱いでしまった。
久しぶりに見る妻の体。
少し痩《や》せた。
「そのかわり」
妻は深呼吸した。
「あなたのことも、調べさせてもらうからね」
妻は僕のズボンに手を掛けた。
あんなに泣きっぱなしのけんかのあと、仲良くセックスなんて出来るもんだろうか?
僕はやりたくなかった。今日は摩夕とかなり濃いセックスをしてしまったのだ。だけど、断ったらそれだけで「浮気してきました」と言ってるようなもんじゃないか。
シャワーは浴びてきた。摩夕は体臭も強くないし、香水をぷんぷんさせてもいない、それは安心だ。だけど、気分が持つだろうか?
「ねえ。早く」
「でも、こんな時に」
「何よ、こんな時って」
「今までさんざん言い合ってたじゃないか。すぐにその気になるなんて難しいよ」
「やっぱり浮気してきたんでしょ」
「してないよ」
「あたしはしてないから、できるんだよ」
「だって君は女じゃないか。ただ寝てるだけだろ。そんなの一日何回だって出来るよ」
「だからあなた、今日初めてなんじゃないのかって聞いてるでしょ」
「初めてだよ、決まってるだろ」
「じゃあしてよ」
「だから、そんな言われ方しちゃ、出来ないんだってば」
「何よ、自分ばっかし繊細な振りして」
妻は僕の下着に手をかけ、引きずり降ろした。
そしてそこに顔を埋め、しばらくじっとしている。
「やっぱし、してる」
僕は血の気が引くのを覚えた。
「あなたやっぱり、浮気してるわ」
ほんとうにそんなことが解るのか? それともカマを掛けているのか? 女ってそんなに嗅覚《きゆうかく》が鋭いのか? だったらどうしてそんなに女だけ鋭く出来てるんだ!?
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11
またすっかり立場の悪くなってしまった僕は、睡眠不足でぼんやりした頭のまま会社に行く。
体が重い。
少し喉《のど》も痛い。何か薬を飲んでくれば良かった。
人間の体調なんてちょっとしたことで変わってしまうものだ。例えばたまたま乗ったタクシーの運転手の運転が乱暴だったとか、そういうことでもたちまち具合は悪くなってしまう。
結局きのう、僕は妻からも精液をしぼりとられた。一日のうちに二人の女とセックスするなんてほんとうに久しぶりのことだ。少し懐かしいが、懐かしがってる場合じゃないのだ。
妻は絶対に新しい女がいると言い張ったが、僕は最後までそれを否定した。毎日毎日小劇場の空気の中にいるから嗅覚がおかしくなったんだろ、と言ったら妻はまた泣いた。それをなだめて抱いてやっていたら、もう朝だ。妻が眠っているのをそのままにして、僕は出かけて来たというわけだ。むこうはいいよ、昼公演がないかぎり夕方劇場へ行けばいい。仕事してる方の僕の健康はどうなる。断りもなく男を家にあげやがって。その上あの男のつまらない芝居にまた出たいなんて言い出しやがって。僕が優しいからって、何でも許すと思ってるんだ。ちょっと浮気したくらいで、引き替えに何でもかんでも持ち出されてはたまらない。
しかし、僕はこれをきっかけに萌実とはちゃんと別れようと考えている。
こんな状態で、萌実の面倒までは見られない。
幸いもう退院して家にいる。就職先でも紹介してそれで終わりにしよう。まさか本気で女優になりたいなんて思っているわけじゃないだろう。
萌実に電話しないとな。
また泣かれるんだろうが……。
そう思いながら歩く僕の前に人影が立ちふさがり、
「おはようございます」
と声を出した。
志宮だった。
「なんか調子、悪そうですね。十布さん睡眠不足ですか? 僕もここんとこ眠れなくてですね、一度眠っても夜中に起きちゃうんですよ。それでそのあと眠れなくなっちゃうんですね、数数えたり、難しい本を読んだりして眠ろうとするんですけど全然だめです。それどころか京《けい》とかいうとんでもない数について考えたり、見栄で買ったはずの難しい本を読破してしまったりしてなんだか予期しない方向に行っちゃいつつある。こんなはずじゃなかったのになあ、って感じです」
「ああ、こんなはずじゃなかった、っていうのは僕もだなあ」
「あれまあ、十布さんらしくないお言葉ですね。何か悩みでもあるんですか」
「うーん」
普段ならここで話したりしなかったと思う。しかし僕は疲れていた。判断能力が衰えていたのだ。
「人と縁を切らなきゃいけなくなってさ」
「おや。縁を切るって言ったらそれは、リストラか……」
「愛人関係」
「しかない、ですよねえ」
「…………」
「そうかあ、十布さん、もてそうだもんなあ」
「いや、そんなことないけど、たまたまそういうことになっちゃって」
「別れなきゃいけない、と……」
「そうなんだよ」
「私、そういう経験はあんまり持っていない人間なのですが……」
「そうなの」
「そうです。でもまあ、少しはあります。ある女性と別れなきゃいけなくなったことがありまして、その時、ものすごく大変でした。参考になるでしょうか」
「話してもらえるの?」
「私の体験でよろしければ。いや、ほんとに役に立つのかな? ちょっと変わった女性だったもんですから」
「へえ。面白そうだね」
「面白そうなら、お話ししましょうか」
「失礼な言い方しちゃったな。ごめん」
「とんでもないです。なんといいますか、凝り性の女性だったんですね。最初は一緒に趣味を共有できるので楽しかったんですが、いやもう、はまるはまる。いくら趣味が楽しいからって、社会性を損なうところまではのめりこめないじゃないですか。それが彼女は行っちゃう人で」
僕の頭の中には、お下げ髪にした、体じゅうフリルのついた服の女の子が浮かんだ。
「見た目そんな感じじゃなかったんですけどねえ……」
「あ、そうなの」
あわててその像をけす努力をする僕。
「だれだっていかにもの子は用心するじゃないですか。いやー、いるんですねえ、なにげな感じですこーしずつ行っちゃうタイプってのが」
「君がそういうふうに仕向けるのがうまいんじゃないの?」
「そんなことないと思いますよ。僕は、自分が折り合える所は折り合いながらつきあいますよ。自分の色に人を染めようって気はないんです。僕が女の子と続かないのはそこが原因でもあります」
「そうなの? 今どきの子って、ああしろこうしろ言われるの嫌いだろ?」
「そういう人もいます。しかし、少数です。たいがいの女の子はやはり、自分で決定するのが苦手で男に決めて欲しがっています。僕はそれに気付くとがっかりします。どっちかが主導権を握るのではなく、お互い同じ立場でつきあいたいんです。しかし、それも大変難しいことなのをこの年になって知りました」
「自分が勝つことが快感じゃないの?」
「ええ、僕にとってはそれほどではないですね」
「じゃあセックスとか、どうするの?」
「おっと。いきなりつっこんだ質問。それはその、征服という形でなくても行えるものですよ」
「うーん」
「いや、その、あえて描写は控えますが、お互い、サービスして良くしていこうと、そういう行為にですね」
「僕は、性のことまで考えたら、男は勝っている立場だという考えを捨てられないかもしれない」
「はあ、そんなもんですか」
「男がやたらと声出したりとか、いやだね」
「ああ、声ですか」
「出すの?」
「うーん、いやちょっと恥ずかしいな」
「恥ずかしいなら言わなくてもいいよ」
「いや、出しますね。すいません。変なとこ想像させて」
「いや……参考になるよ」
「えーだからそんな私がですね、一緒に楽しめる女性だと思ったんですね、だけどもう、この新製品をいち早く見に行かないと!! とかそんな感じになって来ちゃってですね、君今日は僕仕事があるからね、となだめることが多くなり……。本人は仕事どうしてるんだろうと思うんですけどね、経理とかって休み取りやすいんでしょうかね」
「経理ねえ」
経理?
「まあ制作とかと違ってほとんど九時五時なんだろうからなあ……」
そう言いながら自分の言葉がよどんでいくのを感じた。
「さぼってる人、ってわけでもないんです。仕事もよくやってます。ただ、楽しむことに貪欲《どんよく》なんだと思うんです。僕はそこまで出来なかった。彼女のことを嫌いになって別れたわけじゃないのでそれは辛《つら》かったです。しかし『なんで別れようなんて話になるの!? あたしには全然わかんない!!』と叫ばれたとき、やっぱりもうだめだなと思いました。いろんな嘘もつきました。おかげで今も仲良しです。僕と別れてしばらくは癒《いや》しグッズに凝ってましたね。僕もそれとなく協力しました」
「癒し……グッズ……?」
僕の声はかすれてきた。
考えたくない。でも、似過ぎている。
「いや、魅力的な女性ですよ。僕もときどきは残念に思うことがあります、喉元過ぎればってやつですかね。でも、またああいうことになるかと思うと気が重いんです。だから二人で会ったりとか、もうしませんね。もしかしたら僕にも非があるのかもしれないんですけどね。たとえばの話ですけど、セックスの方でもっと満足させてれば、ああいうふうにはならなかったのかもしれない、とかね。まあ僕にはわかりませんけどね、比較のしようもないですし」
「ああ……」
この話で僕はプライドを少し取り戻した。志宮と僕ではそこらへんが違うと思いたい。でも、それではこの話の女が摩夕だというのを認めたも同じだ。
まずそれを認めたくない。違うと思いたい。違うと言ってくれ!
「あ。そうだ、郵便局に寄って行かなくちゃ。それでは僕は、この辺で」
僕の心の叫びも届かず、あっさり志宮は行ってしまった。
そして僕は萌実の泣き声を聞いている。就職先を紹介するから、という交換条件は、逆に萌実の神経を逆撫でしてしまったようだ。
「あたし、もうそんなのいいの! 十布さんとの間のことしか考えられなくなってるのに、十布さん劇団にも戻るなって言うし……。もうどうしていいかわかんない!!」
「だって劇団にいたって、仕事しなきゃ食べていけないじゃないか」
「そうなったら考えるもん!!」
萌実はもうまともに仕事する気はないのか? ほんとに女優になれるとでも思っているんだろうか? いや、「あの劇団の」という限定付きの女優なら通ってりゃそのうちなれるんだろうが、そんなの鹿島の手の平の上ってことじゃないか! そんなの嬉《うれ》しいのか? 小劇場の空気を吸うと、みんなこうなってしまうのか……。
「泣かないでくれよ萌実、僕だって辛いんだ。だけどここで娘を犠牲にするわけにはいかないんだよ」
「あたし、あたし、十布さんの人生、別に邪魔しない。することも出来ない。そうじゃないの!?」
「…………」
愛人と別れるということは、なんという大事業なんだろう。今まで僕が関わった中で、こんなに難航した仕事は他になかった。話を切り出すまでは、萌実と別れることは至極もっともなことで、これで何もかもうまく行くような気になり、萌実もそれに賛成してくれるかのように思える。しかしそれはとんでもない勘違いで、蓋《ふた》を開けてみるとそこには泣き叫ぶ萌実がいるだけである。
「このままじゃあたし、正気でいられない。お願い、来て。今から来て!」
こうして女はまた、僕を社会から引っ張り出そうとする。僕たち男は社会について女に必死に説明し続けてきた。だけどいくら弁舌を尽くしても無駄なのだ。「うん、わかった」と言ったそばから、女はそれをきれいに忘れる。ちょうど男の浮気心のように、それらは懲りることはないのだ。
萌実は、目を赤くして僕を迎えた。だけど、少し嬉しそうだった。
「来てくれないかと思った」
「いや……。行くって言ったら、行くさ」
来なくても良かったのなら、来たくなかった。
「十布さあん」
抱きついてきた萌実の涙が、僕の服を濡《ぬ》らす。涙の染みを見つめる僕。
「お願い、抱いて」
「でも、体が」
「もう大丈夫なの。お医者さんが、そういうこと、した方がいいって。リハビリみたいなものなんだって」
「でも、こわいよ」
「したほうが回復にいいの。お願い」
本当だろうか? だけど萌実はすっかりその気のようだ。僕を引き止めるためだろうか? なんだかこわい。挿入したとたん、ひどいことになったりしないだろうか。萌実がでなく、僕のペニスが。
逃げ腰の僕のペニスを取り出し、萌実はあっというまに口に含んでしまった。気持ちいい。駄目だ。気持ちよくなっては駄目なのだ。しかしいつもより永い。ていねいだ。なぜだろう。
さんざん舐め回したあと、萌実は、
「ねえ、入れて。すぐ入れて」
と言った。
断れなかった。ろくに触りもせず、萌実のその部分に突き立てる。
きつい。
少しずつしか入らない。
本当に、入れても大丈夫なんだろうか。
「待って」
萌実が枕の下に手を入れ、何かを取り出した。
「なに?」
「ローション」
「え?」
冷たいものが、ペニスにかけられた。
「びっくりした」
「ごめん。これですべるから」
「…………」
萌実の言う通り、すべって楽になってきた。萌実がこんなものを用意していたとは。こんなものを用意してまで、僕に抱かれたがっていたのだ。そう思うと、急に萌実がいじらしく思えてしまい、こういう言葉が口をついて出た。
「痛くない?」
「う、うん、大丈夫」
萌実は何かを耐えているような表情だ。それは苦痛なのか、快感なのか。どちらにしてもその表情は僕の男の部分を刺激してやまない。まるで初めてセックスしている女みたいで、興奮してしまう。
少し動きを大きくする。
「ああああっ」
「あっ、痛かった?」
「ううん……だいじょう…ぶ……」
大丈夫じゃないかもしれない。だけど僕はもう止まらない。こういうのって、歪《ゆが》んだ性欲なのだろうか?
「ああ。十布さん。こんなに大きかったのね。あたし、体が二つに破けそう」
「そんな。ほんとは痛いんじゃないの?」
僕は口ではそう言ったが、自分のペニスが充血によってもう一回り大きくなってしまうのを感じていた。
「いいの。嬉しいの。もっとして欲しいの」
「ごめん、早く済ませるからね」
僕はラストスパートをかけた。この状態を永く持たせたいと思うほど僕は屈折してはいないし、男の部分に自信がないわけではない。可哀相な女が好きな男は多いが、それも度を越すと自分に自信のないやつって図式が見えてきてみっともないものだ。
しかし早く終わらせようと思うとなかなかうまくいかない。
このまま中で出していいのかな。
いや、妊娠はしないのは知ってるけど。
自浄作用までなくなってたら、すっごい中まで洗わなくちゃなんないとかないのか。
いやそんなこと今考えなくても。
いいんだけど。
そうだ、集中しろ。
集中するんだ。
ああ、普段長持ちさせる努力しかしてないから!
「ああああ〜大きいいい〜」
助かった。
やっと終わった。
「はあ、はあ、はあ」
二人で大きな息をする。こうしていると、共同作業を終えたところって気がしてしまうのだが、たぶんいったのは僕だけなのだ。萌実がいくわけない。手術してから初めてだってのに。ほんとにこんなことして良かったんだろうか?
急に後悔の念が湧いてくる。萌実の顔をじっと見ると、両目からだらだらと涙がこぼれているではないか。
「ほ、ほんとは痛かったんだろ!?」
あわててペニスを引っこ抜く。昨日二回もセックスしたから、そんなに沢山は出てないはずだが、それでもいくらかの精液が萌実の部分から零《こぼ》れ出る。
「ううん。あたし、嬉しいの」
「…………」
そんなセリフを聞きながら僕はティッシュの箱を探している。萌実はローションなんかを枕の下に用意していたくせに、ティッシュはどこにやったんだろう?
「もう十布さんに、抱いてもらえないかと思ってたから……」
「いや……結局しちゃったわけだけど……」
「嬉しかった……」
「ほんとに大丈夫だったのかなあ?」
ふふふ、と萌実がちょっと笑ったような気がした。
だけど、その顔は涙で濡れている。
「十布さん、あたし、やっぱり十布さんがいないとだめ」
萌実の涙はさらに流れた。
「こうして抱かれてたら、体が良くなっていく気がするの。嬉しいの。もうあたしをこうして女として扱ってくれるの、十布さんしかいないもん」
「そんな、そんなことないよ。僕なんかにつかまってるのは、君の人生にとってけしていいことじゃない……」
ん?
そうだよ、何言ってるんだ。僕とセックスしてたって萌実の病気は進行してたんじゃないか。それも、いよいよって時になって会社やめて妻のいる劇団に押しかけて行ったりしたくせに、なんか変だぞその理屈! 女って自分を可哀相な人間に仕立て上げるのがなんてうまいんだ、もう少しで引っかかるとこだったよ。
「萌実、ごめん。僕はこんなことするために来たんじゃなかったのに」
「いいの。だってあたしがして欲しかったんだもの」
いや、僕はしたくなかったんだよ。
だってまた君と別れる日が先延ばしになってしまったんだから。
だけど泣いている病み上がりの女にそんなことは言えない。
「萌実、悪いけどシャワー浴びてもいいかな。走って来たし、汗かいてるんだ」
余計な言い訳までしてしまう僕。
萌実のあの匂いは、心なしかおさまっていたような気がする。
ろくに触りもしないで交わったからかもしれないが、あまり感じなかった。病巣を取ってしまったからなのだろうか?
しかし、下着を身につける前にシャワーを浴びなければ。またあの犬のように鼻の利く嫉妬《しつと》深い妻に気付かれてしまっては大変だ。
さあ、さっさとシャワーを浴びよう。病巣を取って、もしかしたら前と違う匂いになっている萌実を、また別の女としてカウントされてしまわないために。
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12
帰ったら、妻がいた。
何でこんな時間にいるんだろう?
橘香はもう寝ているようだ。
何故なんだ?
「今日は……」
言いかけて止めた。またやぶ蛇になっては困る。しかし、もしかしたらもう妻がいるのを驚いた顔で見てしまったこと自体がまずいような気がする。
「なんでいるの、って顔してるよね」
ああやっぱり、なんてとげのある言い方なんだ。
「え? そう?」
「そう思ったでしょ?」
「いや、もう橘香寝たんだなって」
「あのね。芝居は昨日で終わったんだよ」
「えっ、そうだったの!?」
「やっぱり知らなかったんだね」
「…………」
「知らなかったんだ」
「忙しかったんだよ」
「だから昨日、鹿島さん来たんじゃないの。昨日だって、よく考えたらびっくりし過ぎ。あなた、ばかみたい」
「ばかって言うなよ」
「あなたはあたし達のことなんてどうでもいいのね」
「そんなわけないだろ」
「今日だって何してきたかわかったもんじゃないわよ」
「仕事だよ」
「匂い嗅《か》いでもいい?」
「下品だなあ」
「何よ。だれがこんな女にしたのよ!」
「自分でなったんだろ」
妻の両目から涙がこぼれ落ちた。僕は、冷たい気持ちでそれを見つめた。
昔は妻が泣くたびに動揺したものだ。だけどもう僕は、慣れてしまった。女の涙に、それも女優の涙に一喜一憂するなんて間違ってる。男はそうはいかないだろうが、泣けと言われてその場で泣けない女優なんていない。
「泣かないでよ。話し合いにならないだろ。泣くなんて卑怯《ひきよう》だよ」
「ひどい、こと、いうのね」
「君がどうしたいのか、自分で選べばいい、自分の人生なんだから」
「あたし、もう、このまま、あなたに、閉じこめられているのは、いや」
「閉じこめられるって?」
「いや、なの。鹿島さんの、次の作品、に、出たい」
「出ればいいじゃないか」
「あなた、協力、して、くれるの?」
「しないよ。言っただろ、僕はつまらない芝居は嫌いだ」
「わああああん」
「泣いたって、つまんないものは、つまんないんだよ」
「ほん、を、読んでも、いないくせ、に」
「一作見ればわかるよ」
「わあああああん」
「もう泣くなよ。僕がつまんないと思ったって、君が面白いと思うんなら出ればいいじゃないか」
「きっ、橘香はどうするの」
「なんで僕に聞くんだ。君はどうするつもりなんだよ」
「だから、あなたが、協力、」
「あのね」
「なに、よ」
「今回君は、橘香の治療のために芝居が良いって言い出したから僕は許したんだぜ。どう効果があったのか知らないけどね。なのに今度は橘香をほったらかしにして自分が芝居に出たいなんて、どういうことなんだよ」
「だって、で、出たいんだもん、鹿島さんが、この役、は、あたししか、いないって」
「橘香の母親だって君しかいないだろ。どっちが大切なんだよ」
「あなた、だって、父親、でしょ」
「僕に橘香を会社に連れてけっていうの? 仕事を辞めろっていうの? じゃあ君が、その芝居のギャラで僕らを養ってくれるってわけ?」
「そんな、意地悪、いわ、ないで」
「どっちが意地悪なんだよ。君の言ってることはめちゃくちゃだよ」
「あなたの、実家に、預かってもらったり、出来ないの?」
「……そこまでしたいのか」
「だって、役がね、聞いてよ。鹿島さんとこね、劇団員に映像の仕事やる人増えてきてるんだよ、あたしだって、この波に乗ればね」
「君にとってそれは橘香の母親役より大切なのか?」
「だって」
「今の橘香を手放してでもあいつの芝居に出たいのかよ!」
「だって、だって、あたし、このまま前の生活に戻ったら、もう、」
「もう、何だよ」
「気が狂うう!!」
妻は大声をあげて泣いた。
僕は、可哀相な橘香を思った。
こんなひどい話でもし目が覚めてしまったら、橘香は……。
「橘香の病気はどうなるんだよ」
「よ、よくなった、わよ」
「芝居のおかげなの?」
「そうよ」
「だったらもう、橘香をほったらかしてもいいの? 君、そこまでしてやりたいんだったら、覚悟して考えなよ」
「な、何よ、覚悟って」
「君はもう、母親の役を放棄しようとしているようにしか見えないよ」
妻は、はっと息をのんだ。
「り、離婚しようってこと?」
「そう言われているのかと思った。少なくとも、僕は」
「そんな……だってこんなに良い役、今回だけかもしれないって思ったから……」
「橘香の今の状態だって、もう二度とないよ。大切な時期なのに。子どもを育てるってことを甘く見ちゃだめだと思うよ?」
「そんなこと、あなたに」
「言われたくないって?」
「あたしが、ほとんど一人で、育てて」
「だから、生活は誰が支えるの」
「…………」
「ねえ。どうするのよ」
「あなたは、遠回しに、『誰に喰《く》わせてもらってると思ってるんだ』って言ってるのよね」
「言ってないよ」
「あたしが人間としておかしくなってしまっても、妻と母親だけやってれば喰えるんだから、我慢しろって」
「言ってないって言ってるだろ」
「言ってるじゃないの!!」
「大きな声出すなよ。橘香が起きるよ。まったくもう、どうしてそんなに子どもなんだよ。もう母親になったんだろ!? なんで子どもを第一に考えないんだよ」
「あなたは考えてるの!? 外で女と遊んでるあなたは!?」
「遊んでないよ!」
「遊んでるじゃん!! あたしのことバカだと思って、なめてると痛い目に遭わせてやるから! 浮気ってね、ちゃんと訴えるとものすごくお金取れるのよ! わかってんの!」
「やめてくれよ……」
「どこ行くのよ!」
「橘香見てくるよ。泣いてるかもしれない」
やっと僕は逃げ出す。
子ども部屋を覗《のぞ》くと、橘香はすやすやと眠っていた。寝てるふりをしているのかもしれないと思ったが、子どもにとって一番難しい芝居は狸寝入りだという話を思い出し、その考えを打ち消した。
でも、もしかして、僕の子だからほんとは演技の天才で寝たふりが出来るのかも。
しばらく見守る。
本当に、眠っているようだ。
そうだよ、僕だけでなく同時にあの妻の子でもあるんだもんな、と僕は思った。
こんな考えは良くないのだろうか。今僕は、橘香を産んだのがあの妻だということを忘れたくてしようがないのだ。
いやなことがある日には、仕事に集中しようと思う。
これが出来る男と出来ない男では稼ぎがずいぶん違うはずだ。
稼ぐことはいいことだ、と僕はいつも思ってきた。
だけど、ゆうべの妻の最後の言葉。
「あなただって、そんなに働かなくてもいいと思うの。ほどほどに働いて、あたしや橘香の精神的な健康も考えてくれてもいいと思うの。そういうふうに考えたことないでしょう? あなたは稼いでることをあまりにお偉いことと思い込みすぎて、家に閉じこめられているあたしがどんなに辛《つら》いか考えてみたこともないんだわ」
どうしてそんなこと言うんだろう。
今まで僕の稼ぎでのうのうと良い暮らしをしてきたくせに、今になって。
僕らは褒められなければ生きていけない。
男は誰にも褒めてもらえない。
お金が褒め言葉の代わりなのだ。それと、若い女に接することも、そうかもしれない。
不満を述べることばかり達者になっていく妻なんて、男の人生にとってなんの価値もないじゃないか。
僕は摩夕が僕の子どもを産むことを想像する。
だけど摩夕はまだ僕にコンドームを着けさせることを止めない。
僕のけだるい日々は過ぎていく。
妻はもう、僕とあまり口をきかない。
「ところで十布さん、あの件、どうなりました?」
「えっ? なんだったっけ」
「ほら、別れ話」
そういえばうっかり志宮にそんな話をしていたんだった。
「ああ……。だめだね。難しいね」
言いながら僕の頭の中には萌実と妻の二人の顔が浮かんでいた。
「そうですか」
「ああ。もう何もかも放り出したい気分だよ」
「それはいけませんね。何か気晴らししませんと」
「気晴らしねえ」
本当言うと摩夕に逢《あ》った日はそれなりにすっきりして帰るのだ。しかし帰った家には妻が待っている。このまま摩夕の家で暮らせば僕は楽になれるのだろうか?
「浮気を正当化する法律ってのはこの国にはないもんだろうかね」
「ああ、それは、文化国家にはありえないことでしょうねえ。女性にも言い分があるのが文化国家ってものですから」
「女性にも……」
「ええ」
「そうか……」
僕はおかげで思い出したよ。
妻にも浮気の疑いがあるんだった。それと僕の浮気はチャラになったりしないんだろうか?
「なあ、夫婦ってのは性的部分の独占使用権があるんだったよなあ」
「ものすごい言い方ですねえ。でもまあ、そういうことですよねえ」
「ということは、僕が浮気して、それがばれたとしても、妻も浮気してたら責められないってことだよなあ。それとも、男の浮気の方が罪が重いとか? そういうことってあるのかなあ?」
「えっ。何だか急にきわどい話になってきてませんか? 十布さん」
「あ、そう? 何か最近志宮くんのこと他人とは思えなくてさあ。ついいろいろ相談したくなるんだよなあ」
「それはまあ、光栄なお話ですが……」
志宮には僕の言った深い意味は気付かれなかったようだ。
そりゃそうか……。
僕だってまだ、志宮のモトカノが摩夕だって確認したわけじゃない。はっきり言って、確認するのは避けている。頭の中に摩夕と志宮のベッドシーンが浮かびそうになるのをいつもあわてて消去しているんだ。うっかり確かめて、もし本当にそうだったら消せなくなってしまう。摩夕と逢っていても、ときどきふと思い出して、摩夕に尋ねてしまいそうになる。だけど、この幸せが消えるのが怖くてやめる。しあわせってなんてはかないものなんだろう。僕と摩夕はいつまでこの気分を保っていられるんだろう。二人でいるところを志宮に目撃されるまでだろうか?
それとも妻にばれるまで?
萌実にばれるまで?
志宮の話みたいに、摩夕が僕に入れ込み過ぎて、僕がうんざりしだすまで?
そしたら僕はまた別の誰かと恋に落ちるんだろうか?
そしたらその女こそ、依存でもなく、自己満足でもなく、すべては愛のために、僕を平凡で退屈な日常から引っぺがしてくれるんだろうか。
もしそうだったら、早くその恋がしたい。
今日も僕は寝室の本棚をさぐる。
だけど、徒労に終わる。
あの交換日記はいったいどこへ行ってしまったのだろう。
捨ててしまったのか。それともどこかへ隠したのか。
「聞きましたよ。十布さんて、寛大なんですねえ」
ある昼休み、志宮にそう言われた僕はのどから心臓が飛び出すかと思った。
やはり摩夕がこいつのモトカノだったのか!
それも二人で僕の話を!? 寛大なのは志宮、君の方だよ!
僕は観念して、深く息をした。
「僕のどこが寛大だって……」
摩夕が? と続けようとした瞬間、
「奥様に舞台続けさすなんて、そんなことなかなかできませんよ!」
「えっ?」
「いやあ、でももう終わっちゃったんですってねえ。僕も見たかったなあ。あの劇団、昔ときどき行ってたんですよ」
「あ、そうなの?」
「そうですよ、残念だなあ。僕、奥様の舞台、昔見てるかもしれないなあ。何年前くらいですかねえ、奥様が劇団員だった頃って」
「さあ、結婚前までだから。でも、どうだろう。あの頃かなり煮詰まってたしねえ。出てなかったんじゃないかな、いや、出てても良い演技してなかったんじゃないの? そんな女優、覚えてないでしょ普通」
「そうかなあ。待てよ、ということは、それから十布さんと結婚して、気分が安定して、悠々復帰ってわけですね。小劇場でそんな余裕のある女優もなかなかいないじゃないですか。良い芝居だっただろうなあ。でもいいや、次行きますよ僕」
「えっ次?」
「ええ、復帰一作目を逃したのは残念ですけどね。これからおっかけますよ。チケットも予約して」
「え、でも次も出るのかなあ?」
「あら、知らないんですか? 僕この話聞いてから主宰のインタビューも読みましたけどね、今後どんどんメインで出てもらうって話になってましたよ」
鹿島が?
鹿島ってそんな、インタビューなんか出てるようなご身分なのか?
嫌な気分になった。
なんだよ、砂場のお山の大将のくせに、偉そうに。
夫である僕の許しも得ずにそんなことを!
妻を問いつめようと、僕は仕事を早めに切り上げて帰宅した。
妻も橘香もいない。
僕がこんなに早く帰って来るわけはないと高をくくっているんだな。
鹿島のところへ行っているのか?
僕はダイニングキッチンを熊のように歩き回った。
何て言ってやろう。
こんなのはどうだ?
「浮気してる同士、仲良く離婚しよう。橘香は君の女優活動には邪魔だろ? 僕がいただくよ」
そして摩夕に育ててもらう。料理上手な、細やかな娘に育つだろう。妻は毎日どうにかやっつけたみたいな料理しか作らないもの。僕は料理の本が立ててある棚を見つけ、皮肉な気持ちになる。
こんな棚、あったんだ。この家の中の小さな廃墟《はいきよ》だな。近寄り、「パスタ」の文字に惹《ひ》かれて一冊の本を手に取った。摩夕と話題を共有したいと思ったのだ。ところが、表紙だけが手に残り、ばさりと中身が落ちた。
「あなた、帰ってたの?」
妻の声と、妻に話しかける橘香の声が流れ込んでくる。
「パパー、ただいまー、おかえりー」
自分で自分の出迎えまでしながら橘香が僕を捜しにくる。
今僕には腹黒い物がいっぱい詰まっている。橘香にそれを感づかれたくない。
「あ、ここにいたー」
「遅かったね、どこ行ってたの」
「かしまさんとこー」
やっぱりそうか。妻があわてて後から追いかけてきた。
「あのね、今日もちょっと引き継ぎを兼ねた打ち上げがあって」
「橘香、もう遅いから寝なくちゃな」
僕は妻のセリフを聞かなかったことにして橘香だけを見ていた。
深夜。
妻は僕にまだ何も言い出せない。
僕は一人、これからの生活について考える。
そして朝。
僕はやはり、黙ったまま出社する。
今朝の目玉焼きは、ふだんより少しだけ丁寧に作ってあったような気がする。いつも横から橘香に白身だけ全部食べられてしまうのでよく見えなかったが、残った黄身にはいつもより美しい白い膜がかかっていた。
しかし僕は、摩夕の作る、黒胡椒やハーブの添えられた目玉焼きを思い出す。
「サニーサイドアップップ!」
と口を尖《とが》らしながら差し出す摩夕にまで想いが及んだとき、僕の足は自然に経理のフロアへ向かっていた。
本当は用もないのに社内で摩夕に会うのは危険なのだ。だけど今日は、会いたかった。
今この気分で摩夕の顔が見たい。
こういうのが恋する気持ちじゃないだろうか。
摩夕のいる場所が近づいて来る。
摩夕はびっくりするだろうか。
僕の顔をじいっと見るだろうか。
そしたら二人で、あわてるんだ。こんなに見つめ合ったら関係がばれちゃう!
少しだけ微笑んでしまった瞬間、僕のケイタイが鳴る。
摩夕の第六感!? でも、摩夕に使っているメロディじゃない。この音楽は、妻だ。
僕は急に不機嫌になって電話に出る。
「なに」
「あなた……。あたし、今病院にいるんだけど」
「病院内でケイタイは禁止だよ」
「外、出てるけど」
「病院?」
「あの、産婦人科」
僕の風景はひび割れた。なぜ、産婦人科なのか。それはまた、次の章のお楽しみにしよう。
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13
妻が萌実と《たぶん》同じ病気になってしまった。このままだと萌実のように開腹手術をする事になるかもしれず、またその可能性は結構高く、その上運が悪けりゃこれ以上は子どもが産めない体になってしまうかもしれない、簡単に言うとそういうことらしい。
なんてことだろう。僕は、妻と離婚しない限りこれ以上子どもを持てないことになるかもしれないのだ。それだけでなく、今の仕事や日々の雑事に加えて看病のようなことまでするはめになるかもしれない。
たいしたこともやってないくせに何で病気になんかなるんだ。病気なんかになる前に別れておくべきだった!
天罰だと思うんだ、妻自身にとっては。あんなつまらない男の書いた芝居に出るために橘香をほったらかしにしようとしたんだもんな。そんな女にこれ以上子どもが育てられるわけはない。まったく自業自得だよ。
妻はとても落ち込んでいる。もちろん、病気になったからなんだが、この病気のせいで、鹿島の次の作品に出られなくなったからってのも大きいはずなのだ。それを思うとむかむかしてきて、いい気味だと思ってしまう。
僕に内緒で橘香を連れて顔合わせだか本読みだかに出かけていたはずの妻。たぶん鹿島に頼み込んで、今回も橘香の役を作ってもらったんだろうさ。そして事後報告でなしくずしに僕に許しを得るつもりだった。そんなところだろう。でもこれでそのたくらみも終わりだ。妻は治療に専念しなければならなくなったのだ。
「ママ、だいじょぶ? ママ、びょうきはやくなおるといいね」
橘香は一生懸命妻を慰めている。
可愛い、そして可哀相だ。
ママはね、君を利用しようとしてたんだよ。
自分のたいしたことない女優業の盛り返しのために、ママは君を……。
いや、君はきっとママに利用されてもされなくても、将来立派な、ママなんか足元にも及ばない女優になる力を持っていると思うんだ。でもね、鹿島のそばなんかにいちゃあ、結局だめなんだよ。これでよかったんだ。神様はママを病気にして君を鹿島から守ったんだよ。
そこまで考えたとき、僕の頭の中に萌実の顔が浮かんだ。
萌実。何で君は突然女優になりたいなんて大層な望みを持ったんだろう。そんなタイプじゃないのに。確かに恋する女としては可愛かったよ。最初のうちだけだけどね。君のつつましい愛情を感じるたびに僕は幸せな気分に浸ったもんさ。あの頃が懐かしいよ。君は僕の愛情以外は何も求めてこないいじらしい女だった。どうしてここまで変わってしまったのかな。おいしい食事やおいしいワインを摂ることが当たり前になり、業界の楽しい話題が身近なものとなり、そして僕の妻が女優だと知って、ついにそんなだいそれたことまで考えるようになってしまったのか?
はっきり言ってそれ、めちゃくちゃだよ?
同じ男と関係すれば自分もそうなれるなんて、飛躍もいいとこさ。それこそ女の病だ。身の程知らずっていう名の病。自分の実力でなく、男の実力で肩書きの変わってきた女の歴史が、そんな病を生み出したのさ。
「あたしだって同じ女なのに」
きっと君はそう思ったんだろう。よくあることだ。だけど、凶暴な考えだと僕は思うね。
見てごらん、皮肉なことに僕の妻は君と同じ病気になってしまったんだよ。そこだけはほんとに同じ女だったってことだ。いつか君がこの事実を知ったとき、君は満足を覚えるんだろうか?
「ねえあなた、私あなたに聞きたいことがあるんだけど」
目の下にくまの出ている妻が僕のそばにやってきて言ったとき、僕は優しい声で用心深くこう声をかけた。
「寝てないんじゃないのか? 少し休んだ方がいいよ」
「聞こえなかった? 聞きたいことがあるのよ」
妻の声は一段階低くなり、僕はむっとした。
「……別に無視したわけじゃないよ」
「ねえ、あなたどんな人と浮気してたの?」
「えっ?」
「その人、病気じゃなかった?」
「それ、どういうこと?」
「病気持ちの女と寝なかったかって言ってるのよ」
「…………」
僕は自分の考えを悟られないようにするときのいつものくせで、なるべく妻の顔を見ないようにして思った。
妻は何を言おうとしているんだろう。
この病気は、伝染《うつ》るとでも言うのだろうか? そんな種類のものではないはずだが?
「ねえ答えてよ。なんでだまるのよ」
「何を言い出すのかと思って」
「言った通りよ。病気の女と寝なかったかって聞いてるのよ」
「それはどういうことなの? 君が病気になったのはそのせいだって言いたいの?」
「心当たりがあるのね」
「そうじゃなくて」
「あの若手!!」
「えっ?」
目を見開いて叫びだす妻を、僕は呆然《ぼうぜん》と見つめた。
「同じ病気で倒れて辞めてった若手の女がいたわ!!」
萌実のことだ!!
「あのね、ちょっと落ち着けよ」
そう言いながら僕の心臓は喉《のど》から飛び出そうだ。ばれたらどうしよう!? 萌実だってことがばれたら!!
「ねえ、それって伝染するような病気なわけ? 気をしっかり持てよ。何かのせいにしたって治るってわけじゃないぞ」
「あなたって何にも知らないのね。最近はね、子宮ガンだって伝染る病気だって考えが主流なのよ」
「えっ!? どういうこと!?」
「人間の体の中にいるある種の菌がね、ある確率でガンを作ってしまうの。その菌は性交渉で伝染るのよ。性交渉の盛んな人がパートナーだったりすると、そういう悪い菌が入り込む確率は高くなるわ!!」
「それは、そういうこともあるって話だろ!? ガン細胞自体が伝染するわけじゃないじゃないか。だいたい君の病気はガンじゃない。話を勝手に自分に都合のいいように変えるなよ!!」
「変えてないわよ!! ガンですらそうなんだから、あたしの病気だってあなたが運んで来た菌のせいだってことあるわよ!!」
「僕を責めたいだけのためにそんなこと言うのか!? そんなに僕のせいにしたいのか!! 何もかも僕のせいに!!」
「何もかもあなたのせいよ!! あなたが病気持ちの女なんかとつきあうからあたしまで病気になったのよ!!」
「わああああああん。けんかしないでえええええ。ママびょうきなのにー!!」
まだ起きていた橘香がついに泣き出してしまった。
「やめよう。子どもの前でこんな話、よくないよ」
「いやよ!! あたしはいつもこうやって黙らされてきたわ!! もうだまされない!!」
「やめないか!!」
「わあああああああーん」
「あたしだって泣きたい!! もっと泣きたい!! わあああああああ」
「近所迷惑だよ」
「パパ、おこらないでええ。わあああああ」
「橘香、泣かないでくれ。ママはちょっと疲れているだけなんだ、すぐおさまるから。けんかしてるんじゃないんだよ」
「けんかなんて呑気《のんき》な言い方しないで!!」
「けんかしないでえええええ」
もういやだ、逃げ出したい。どこか遠くへ行きたい。
「あなたが浮気してたのはあの若手の子なのね!!」
「そんなわけないだろ!? ちょっと考えればわかることじゃないか」
「違う!! あなたは絶対あの子とやってる!! あの子はいつもあたしばっかし見てた! あたしが客演するって決まってから突然劇団に入り込んできたのよ!? 勤めも辞めて! 変だわ、絶対変よ!! だんなさん稼いでるんですってねって言ったわ!! いつもおいしいもん食べてるんでしょうねってあたしに!!」
「あのね。黙って聞いてりゃ君、僕にそんなこと言える立場なのか!? 自分のことは棚に上げて!!」
「あたしはあなたに病気を伝染されたのよ!?」
「自分はどうなんだよ!! 交換日記の相手のことも考えてくれよ!!」
「えっ?」
妻の顔色が変わった。それから僕に言われたことを頭の中で反芻《はんすう》している表情が浮かび、さらに眉間《みけん》に皺《しわ》が寄る。
「今、なんて言ったの」
「なんでもないよ」
「嘘」
「もういいよ。橘香がかわいそうじゃないか。なだめてやんなよ」
「いやよ。もう一回言ってよ」
「橘香をなだめて寝かしつけてくれたら言うよ」
「いやよ!! 今言ってよ!!」
「わあああああん」
「いいかげんにしないか!! 頼むから橘香の前ではやめてくれ。でないともう君とは話をしない。橘香をなだめてくれないのなら、僕はこのまま出て行くよ」
妻は黙り込んだ。
しばらくして、まだ泣いている橘香の手を引いて、子ども部屋の方へ消えていった。
一瞬だけ、嫌な想像が駆け抜けた。妻が橘香を絞め殺すのではないかと。まさか。僕はそっとあとをつけた。
妻は子ども部屋で、橘香を抱きしめていた。
「ママ、パパと、けんか、しないで」
橘香がしゃくりあげながら言うと、
「ごめんね。ママだってしたくないのよ。したくないんだけど……」
声を詰まらせた妻の目からはらはらと涙が零《こぼ》れ落ちた。
僕は悲しい気持ちになり、やはり僕は結婚に向いていなかったんだ、と橘香の誕生以外のことを全部後悔した。リビングへ戻り、そこら辺から白い紙を引っ張り出し、「タバコ買ってくる」と書きなぐってテーブルの真ん中に置き、外へ出た。
夜の風が冷たく頬を打ったが、僕には心地よかった。湿っぽく暑苦しい空気を吐く生き物が周りにいない幸せ。やっと手に入れた乾いた葉っぱの小さな筒に火を点け、やすらぎの煙を胸いっぱい吸い込む。妻が毒扱いするその煙の効果からか、僕の左手は自動的に摩夕に電話をかけていた。
「あ、十布さん、ねえこないだどうしたの?」
「こないだって?」
「なんか嬉《うれ》しそうに経理の近くまで来て、ケイタイ鳴ったらそのまま帰っちゃったって聞いたけど……」
「えっ。そんなこと、誰が言ったの」
「あたしの友だちが見てたの」
「それは……」
「大丈夫。関係のことは話してないよ。単なる偶然」
「でも、よくそんなの見てたなあ」
「見られてるよお、気を付けないと。あたしはその『嬉しそうに経理の方に来てたのに』ってあたりでフキそうになったね。なんなのよそれ、って」
「ああ……」
「嬉しそうに来てたの?」
僕はやっとそのときのことを思い出し、苦笑いして言った。
「まったくだ。嬉しそうに行こうとしてたよ。あの朝はもう、君とのことが会社じゅうにばれてもいいと思ってた」
「そうなのお?」
「摩夕の焼いた目玉焼きを思い出していたんだ。毎朝それを食べて暮らしたいと考えてた」
「もしもし十布さん、プロポーズみたいになってんですけど?」
「そういう話をしようと思って、歩いてたんだよ」
「ちょっと待って。ちょっと待ってよ」
「今から行ってもいいかな」
「十布さんてほんとに、恋愛体質だね」
その十五分後にはもう、僕は摩夕のベッドの中にもぐり込んでいた。
「きゃあ、冷たい。十布さんの手冷たすぎ」
「ごめん」
僕は手を引っ込め、手のしていた仕事を唇にやらせようとした。
「うう、口も鼻も、冷たい」
そこで、唇を引っ込め、舌を出した。
「ああ……」
乳首を舐め回すと、摩夕はおとなしくなった。
「うん……ううん……」
快感に身をよじる摩夕。僕はしつこく乳首をなぶり続ける。
こないだ僕は新しい事実を知った。女の体は、乳首の刺激だけでもオーガズムに達するように出来ているんだそうだ。
少し温まった指を、摩夕の下着の中に入れる。中指をまっすぐ伸ばして行き、少し左右に押し広げて、また進むと、ぬるりとした感触に行き当たる。
「んん」
摩夕の両足がまっすぐ伸びる。指が押し戻されるが、またしっかり差し込み、ぬるぬるしたそれをしっかり指に取る。それから少し手前に戻って小さな突起を探し、指についた潤滑油をそこへ塗りつけることを繰り返す。その間も僕は乳首を交互に舐め回し、吸い上げ、空いた指で転がすのをやめない。
やがて小さな突起とその周辺がすっかりぬるぬるになると、僕の指と舌はその突起と乳首を同じように刺激し、やさしくこね回す。摩夕は息を荒くして、僕のペニスをまさぐる。急な外出のための鍵《かぎ》を探す手つき。僕の鍵はしっかり握り締められ、早く鍵穴へ、とせかされる。
だけど僕は自分の小さな三つの仕事をやめない。これを成し遂げれば摩夕にオーガズムが訪れることを知っている。僕はそれと同時に挿入したいのだ。摩夕が痙攣《けいれん》しているときに無理やり入り込みたいのだ。
「うう〜!!」
摩夕の息があるリズムを持ってきた。もうすぐだ。
「だめ〜!!」
「いって、摩夕」
「いく…いっちゃう……あ〜っ」
摩夕の痙攣が始まった瞬間、僕は摩夕の下着を引っぺがし、手も使わずにその真ん中に突っ込んでいった。
「あっ!!」
摩夕の小さな叫びはコンドームを着けなかったことについてだろうか?
無視して、温かく濡《ぬ》れた壁を押し広げて進んでしまう僕のペニス。すぐに奥まで届き、壁をひっかきながら戻り、また入り込む。摩夕がコンドームのことなんか忘れてしまうまで、僕は激しく抜き差しを繰り返す。
「ああああああ〜っ!!」
摩夕の痙攣は激しくなり、僕は悦《よろこ》びを感じる。体中で僕を受け入れている摩夕。彼女のその部分は、今まで聞いたこともないような音を立てて泡立ち、僕をますます昂《たか》ぶらせている。このまま中で出したい。全部出したい。出させてくれるだろうか!?
「またいきそう!!」
「いきなよ、僕も」
聞こえただろうか? 僕も射精しそうだ。
「いく!! あーまたいくう!!」
その声を聞いたとたん、僕は自分の先端に向かっていく液体をもう止められなかった。それはそのまま摩夕の中に注入されてしまった。彼女は何も言わない。目も口も半開きにして気を失ったかのようになって体を揺らしている。
何度もいかせてやれば、避妊なんてどうでもよくなるものだったのか……。僕は摩夕を抱きしめながら、じんじんする頭でぼんやり考えた。
妻は眠ってしまったようだ。僕は、いつも妻が橘香と子ども部屋で寝ていたことに感謝した。
念のため子ども部屋に行ってみた。もし無理心中でもされていたら大変と思ったのだ。悪いけど、僕のいないときに妻だけが死ぬのならもう仕方がない。だけど橘香だけは残していって欲しい。
無事だった。妻も橘香も何もなかったように安らかな寝息を立てていた。思い切り大泣きしてガスが抜けたのかもしれない。ほっとして僕はリビングに戻った。のどが渇いて冷たいビールが飲みたい気分だ。
僕は冷蔵庫からビールを出し、注いだグラスと缶をちょっとぶつけて一人で乾杯した。
何に?
摩夕の中に初めて射精した記念だ。
くだらないようだが、僕にとっては大切な瞬間だったのだ。
ついに僕は摩夕を落とした、そんな気分になっていた。心が弾む。もう摩夕は僕のものだ。
僕はいっきにグラスのビールを飲み干した。大きく息をつき、二杯目を注ぎ始めてふと、手が止まった。
なぜ今日に限ってコンドームを着けないだけでなく、中で射精までさせてくれたのだろう。
ついさっきまでは、今夜のセックスがあまりに良かったからだと思い込んでいた。しかし、今夜と同じことなら今まで何度もしている。何が? 何が違ったのだろう?
安全日だったのか? でも、それだったら今までだって……。
二杯目を一口飲んだ。
待てよ。
行く前の電話。もしかして、あれが?
「プロポーズみたいになってんですけど?」
「そういう話をしようと思って、歩いてたんだよ」
あれが?
でもあれはまだ僕が妻の病気を知る前の日の出来事だ。僕の話には続きがあった。だけど、もうそこで僕は電話じゃ我慢できなくなってタクシーに乗ってしまった。まだ摩夕には妻の病気の話はしていない。
たったあれだけでその気になるものか? 中で出させてくれるくらいに? そしたら、もしかして安全日どころか逆だったかもしれないのか?
摩夕は妊娠するかもしれない?
しまった! 僕はなんてことを。
今僕の関係している女で、妊娠するかもしれないのは摩夕しかいないのに、その摩夕の中で出してしまうなんて!
妻の病気がわかったばっかりなのに、今そんなことになったら、離婚だってうまくいかなくなってしまう!
僕は二杯目を飲み干した。
心にひっかかっているものはもうひとつ。萌実だ。萌実と別れるのだって結構大変な仕事なのだ。
新しいビールを出しながら僕は、あるおとぎ話を考えた。妻と萌実が殺しあってどちらも死んでしまい、橘香と摩夕が残るというものだ。
「そんな馬鹿な」
と口では言いながら、僕はそのファンタジーを作っては広げ、作っては広げして一人で遊び続けた。
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ある女と僕とのセックスがどれくらい素晴しいものかを述べ、それが他の女では全然かなえられないものだということを証明できたら、自動的にそうでない方の女たちと別れられるという法律はどうしてないのだろう。そういう法律があったら少子化にも歯止めが利くはずだし、この国の人間はもっともっと満たされるはずだ、そうは思わないかい?
僕は男であり、二分法で言えばこの社会を作ったものの方に所属するらしい。だけど、この社会は当の男たちが幸せになるポイントをいくつも逃している、僕はそう思う。
「十布さんってほんとに恋愛体質だね」
摩夕はそう言って笑ったが、どうなんだ? 僕は社会の仕組みなんかより、自分の恋愛感情に身を任せて動いているときのほうが明らかに幸せだよ。社会は僕の幸せを邪魔するものに満ちているんだものね。仕方ないことさ。だから僕はちょっと考えを変えて、
「こういう妨げとなるものが多いからこそ、だらだらとその中にいられないからこそ、その瞬間の幸せは濃いものなのだ」
と考えるようにしているのさ。邪魔する要素は、一生懸命働くほど少なくなっていくように出来ているしね。だから働いて働いて働いて、その隙間に思い切り君を愛するんだ。短い時間に急いで幸せを噛《か》み締め、また潔く仕事に戻る。働くことによって、家庭の中にいる娘も幸せに出来る。たぶんこんなに働いてたら早死にするだろうけど、それも仕方ない。
結局男は短い寿命でも幸せに死ねるように出来ているんだよ。
なんてことない普通の夜に、摩夕が薄着で部屋をゆっくり横切るのを見ていると涙ぐみそうになることがある。お尻《しり》から脚にかけての健康な丸み、少しバウンドしながら僕の前を移動する乳房。今のこの摩夕はもう何年かしたら見られないかもしれないんだ。ちょっとのどもとが締め付けられ、僕はあわてて言った。
「だめだ、摩夕、音楽を消してくれ」
「どうしたの、何か考え事」
「これがかかってると僕は君と恋に落ちてしまう」
「えっ」
摩夕は驚いてラジカセの方を見た。
「どうしたのいきなり。それに、何?」
ちょっといたずらっぽい表情になった。
「それじゃあ今まであたしには恋してなかったってこと?」
「うーん。そういうことになるのかなあ」
「へーそーなんだ。ふーん。知らなかった」
摩夕は僕のひざに乗り、唇に唇を重ねた。
「あたしたちって、からだだけだったんだね」
「あーいや……」
「いいよ。じゃボリュームあげちゃお」
「…………」
こういうとき、ほんとに音楽ってのはいけない。気持ちの深いところを揺さぶられて、ふだん考えないようなクサーいことが湧き出してくる。そんなときに摩夕とじゃれあっていると、ほんとに恋人同士のような錯覚を起こす。
「愛してるよ」
とか言ってしまいそうだ。子どもみたいに。いけないよ。いい大人になったらあまりナルシスティックになるのはよくない。
摩夕は僕と舌を絡ませながら、僕の胸や肩を両手でさすっている。今日はなかなかその両手が降りて行かない。そのかわり、唇がするりと耳へ逃げ、首筋を伝って胸元まで降りてきた。僕の小さな乳首を唇と指で探す摩夕。やがて彼女は床に両手をつき、唇だけで僕の足の付け根を愛撫する。摩夕が僕のために買っておいてくれた薄い綿ジャージーの部屋着のペニスのふくらみを彼女の唇がゆっくりなぞっていくと、それはますます大きく硬くなっていく。
目を閉じて愉《たの》しむようにそんな仕事をする彼女の顔を、僕はじっと見ていた。今すぐペニスを取り出して、摩夕の口の中に突っ込みたかった。彼女の粘膜に早く触れたい。だけど僕は我慢しておとなしくしていた。布ごしにあたたかいものが動く。きっと僕のペニスの先はもう濡《ぬ》れているだろう。
家路。
妻は最近おだやかだ。いらいらすると病気によくないかなんか言われたらしい。橘香とお菓子を焼いたり、編み物をしたりしてのんびり過ごしている。それはそれで楽しい毎日らしい。顔つきも変わってきて、もうあの舞台の頃のように目をぎらぎらさせていない。僕が少しくらい遅く帰っても、橘香と絵本を読んだりして過ごしているようだ。そうだよ、それが母親ってもんじゃないか。
うん?
もうすぐそこが家なのに、僕はいやな感じがして歩みを止める。
だれかが闇の中に立っている。
こっちを見ている。
あれは、もしや。
少し近づくと、やはり女。
顔。
萌実だ。
「十布さん……?」
「どうしたの。こんな夜中に」
「あたし…あたし…」
もう泣き声だ。いったいなんでこんなことをするんだよ、萌実!!
「僕は、家に帰るところなんだけど」
「十布さん、彼女いるんですってね」
「え?」
今度は摩夕のことを!? いったい、どう嗅《か》ぎまわったらそんなことが!!
「萌実、どうして会いたいなら電話しないんだ」
「待ってたの。あんまり電話したら嫌われると思って……でも、でも彼女出来たって聞いて、もうたまらなくなって」
「でもね、ここは僕の家だよ。ここにいるのは妻と娘だよ」
「だって、ここしか知らないから」
この言い方は僕をちょっとむっとさせた。
「萌実、君は何もわかってない。僕は今、大変なんだ。君がこんなことをしたらますますややこしいことになってしまうんだよ」
「彼女できたのって、ほんと……?」
「…………」
「ねえ。ほんとなの? 今もその人と逢《あ》った帰り?」
「そんなことないよ、仕事だよ」
「会社の人なの?」
「萌実」
「ねえ。会社の人? あたしより若いの?」
「萌実。いいかげんにしてくれ」
「答えてよ!!」
「ここ、家の近くなんだぜ? いやがらせだったら、僕個人にしてくれ。妻子のそばで騒ぐなんてひど過ぎるよ」
「じゃあ答えて!!」
気が遠くなる。殺人って、こういう時に起きてしまうものなのかもしれない。何をしたら帰ってくれるんだろう。
「萌実。妻が病気なんだ」
「こないだは娘さんが病気だって言ったわ」
「ほんとなんだ。それも君と同じ病気だ。悪化したら君と同じことになるかもしれないそうだ」
「……だったら、何?」
「劇団に、同じ病気の若手の子がいてすぐ辞めた、と妻が言うんだ」
「……どういうこと? あたしのこと?」
「その若手があなたの浮気の相手じゃないのか、と詰め寄られた」
「……それって……」
「伝染《うつ》る病気じゃないのは知ってる。病気を伝染されたっていうのは妻の妄想だ、それはわかってる。でもね、その、劇団に入ってすぐ辞めた若手が、僕とつきあってたことは事実だろ? 言い当ててしまってるんだよ、妻は。そしてそんな状態を作ったのは萌実、君だよ。僕はもう弁解できないんだ、君があんなことをしたばっかりに。妻は取り乱してしまい、話し合いも出来ない状態になってる。どうすればいいと思う?」
「……だって……」
「だから、つきあってたのは別の人間だったってことになったほうがいいんだ。そういう話を作ったんだよ」
「え?」
「だから、きみのさっきの誤解のことだよ」
「じゃあ他の人だったってことにするために? 噂を立てたの?」
「いやまあ、そういう話になるように仕向けただけさ。なんか、簡単だったよ。みんな噂話が好きだからね」
「じゃあ、じゃあほんとは彼女はいないの?」
「だから、彼女は君だろ」
「…………」
「さあ、君もまだ体がほんとじゃないんだから、今日は帰りなよ。僕だって、病気の妻をあまり追い詰めるわけにもいかないんだ、わかるだろ? 妻が回復したらまた逢いに行くよ」
「…………」
「ほら、タクシー拾ってあげるから」
僕は優しく萌実の肩を抱き、通りまで連れて行ってタクシーを止めた。そして財布から二万円を引っ張り出し、萌実に握らせた。
「タクシー代。近いうちに、電話する。必ず、するから」
「ほんとね」
「運転手さん、お願いします」
いつまでもこっちを見ている萌実を乗せたまま、小さくなっていくタクシー。僕は、手を振りながら、深い深いため息をつく。
ドアを開けると、とてとてとてと転がるような足音が聞こえてくる。
「パパー、おかえりなしゃーい」
「なんだ、橘香まだ起きてたのか」
「お昼寝しちゃったから…」
ついて来た妻が説明する。
橘香の小さな体が僕の足にしがみつく。ふわふわの髪を撫でてやると、猫みたいに目を細める橘香。
「あなた、お腹すいてない?」
「ん、軽く食べてきたけど」
「パパ、きっかがおりょりしたんだよォ〜」
「何つくったの橘香」
「ぎょーざ」
「へえ、餃子《ギヨーザ》作ったの。すごいじゃん」
「言っとかないと餃子だってわかんないもんね」
妻が笑う。
「いわないで!! パパ、あのね、きっかかわだけのぎょーざもつくったの」
「なるほどね」
僕は笑って妻の方を見る。
「橘香は餃子の皮が好きなのよ」
「そうなんだ」
「だってかわおいしいんだもん」
「そうだね、おいしいよね」
「見る? 橘香の作品」
妻が出した皿には小さな白い折り紙のようなものが並んでいる。
「おいしいんだよォ〜」
会心の笑みを浮かべる橘香。
橘香を寝かしつけてきた妻に、ワインをすすめる僕。
「体の調子どう?」
「うん、今は特別……。ていうか、もともとそれほど自覚症状があったって感じでもないの」
「でも、前はあっただろ。病気がわかったとき」
「あの頃は……すさんでたから」
「…………」
「最近はなんか、なんであんなだったんだろうって感じ。橘香の母親でいることだってこんなに大事なことなのに、あのときはなんかあたし、あせってた……」
「何に?」
「もう一度仕事したかったの。やり残したことが、いっぱいあるって気がしてたの。橘香の気持ちも考えずに……。鹿島さんのおだてに乗っちゃってさ」
「そういえば最近、連絡ないの? 鹿島」
「すんごい若い子と結婚するらしいよ」
「結婚? 独身だったの?」
「うん」
「そうは見えなかったな」
僕は鹿島のでっぷりした腹や、必要以上に大きな態度を思い出していた。
「結局ロリコンだったんだよね」
「え?」
「ロリコンだって言ったの。でもしょうがないよね、日本の男って九十九パーセントロリコンだもんね。一歳でも若い女はいないかって目ぎらぎらさせてるやつばっかし」
「そう?」
「若いだけでなくてロリ系なんだって。わかる?」
「よくわかんないけど」
「八重歯だったり、色白むっちりでとろそうな感じだったり、小柄だったりそんなのを言うのよ。そんな子に、『あたしにあて書き』なんて言ってた役あげて結婚しようかってんだもん、こっちゃ萎《な》えるわ」
「…………」
なんだか妻のセリフは恋に破れた女が負け惜しみを言ってるように聞こえる。
「あたし目が覚めたの。あたしにはあなたみたいな素敵な夫がいるんだもん、別に好き好んで金にならない小劇場の芝居なんてやんなくても、橘香を育てるっていう大きな役目があるんだし」
僕はどんどん嫌な気分になっていく。ただ妻は、小劇場の女優からすてきな母親兼奥様に役を取り替えただけなのだ。その程度の志だから、何もかも中途半端にしか出来ないんだ、子どもや芝居に対する愛情なんてないんだ。金にならないなんて最初っからわかってることを今更引っ張り出して。それ、完全に負け惜しみだよ。若い女の子に主役を取られた中年の女優が、
「でもあたしは稼ぎのいい男捕まえた」
そんなこと言われて嬉《うれ》しいと思うか!?
しかし病人にそんなことは言えない。ここで体をちゃんと治してもらわないとあとが大変なのだ。いい気になっててくれるなら、なってもらってた方がいいのだ。僕はなるべく優しい表情を浮かべるようにした。
「今まで鹿島さんて作品一筋だとみんな思ってたのにさあ、結局若い女の子目当てだったのかねってみんながっかりしてるのよ。確かに今までいなかったのよロリ系の女優。オーディションの時から目ハート型だったんだってみっともない」
「僕はとっくに家庭もあると思ってたよ。だっておじさんだもん、あの男」
「ほんとは若いのよ。結構若いのに、ロリコン。ああ、みっともない」
「ちょっと待ってよ。じゃあ橘香はそのロリコンの芝居にせっせと通ってたってこと!?」
妻の表情が暗くなった。
「橘香には何もしなかったよ」
「されちゃたまんないよ」
「でももしかしたら、橘香が目当てだったのかなあ。でもあたしに次の役くれようとしたんだし……。やっぱあの若手がしたたかなのかなあ。ねえ、どっちだと思う?」
「知らないよ」
僕はグラスに残ったワインを飲み干した。
妻はあのまま、交換日記の話をなかったことにしている。
キッチンからはまた、あのノートが消えた。
妻の病気が一段落ついたら僕は妻に別れ話をしてみたい。
でも、出来るだろうか?
出来たとして、別れられるもんだろうか?
ある朝、会社の中を歩く摩夕を見た。
輝くばかりのその姿。
僕がプレゼントしたスーツ。僕がプレゼントした時計。
そしてあの体の中心には、僕がいつも入っていく小さくて温かい濡《ぬ》れた門がある、と思ったとたん、僕のペニスは勃起《ぼつき》してしまった。
僕は誰かに気づかれなかったかと、周りを見回した。
大丈夫だと思う。
しかし、待てよ。萌実が新しい彼女がどうとかって、あれは何だったんだろう。とっさに作り話でごまかしたけど、あれは摩夕のことだったに違いない。だれがそんなことを。そしてなんで萌実に伝わるんだ?
萌実は妻のいる劇団をつきとめて潜り込んだりもしたわけだから。ほんとに油断も隙もない女だ。
その上待ち伏せなんて。
ああ、いやだ。まるっきしストーカーだよ。そんなことしたらますます嫌われるのがなんでわからないんだろう。
摩夕。
さっきあのまま、会社の中で、僕のペニスで突き通したかった。
あんなにくたびれた女だったのに。僕があんなに綺麗《きれい》な女にしたんだ。なんという悦《よろこ》びだろう。
微笑の残る顔でも一度見ると、さっき摩夕が通った廊下の真ん中にカーネルサンダースがぼんやり立っている。
「なんだ、志宮じゃないか。どうしたんだぼんやりして」
「いや〜、あの、今昔の知り合いが通ったんですが、あんまり変わってたんでびっくりして……」
志宮には、摩夕とつきあっていたかもしれない疑惑が残っている。もしかしたら摩夕の変わりようについての話をしているのかもしれない。僕は、ここで摩夕の話をしたらつきあってたかどうか確かめられる、と身を固くした。
しかし、そんな勇気は出てこなかった。僕は、全然関係ない話をしてしまった。
「ふさふさだった男がバーコード禿《はげ》にでもなってたのか?」
「ああ……まあ、その逆って言えば逆ですが、そんなもんです……はははははは」
志宮は笑いながら去って行った。
その背中に、
「摩夕をあんなに綺麗にしたのは僕なんだぜ! 驚いたか! 女は男で変わるんだ!」
と叫びたい衝動に駆られた。
しかしやはり、出来なかった。
僕は小心者の、恋する男だ。恋する男はみんな小心者なのだ。何かを失うんじゃないかといつもびくびくしている。だけどもびくびくしながらも、恋人の部屋に駆けていって抱きしめずにはいられない。
こないだも僕は、摩夕の中に射精した。摩夕は僕を拒まなかった。
摩夕は僕の子どもを産みたいのかもしれない。そしたら僕は摩夕と暮らしたい。橘香も連れて行きたい。
橘香……。
僕は君とだけは別れたくないんだ、神様にそれだけはすがりたい気分だよ。
志宮の背中はまだ、視界の中にあった。たまにはあいつと昼飯でも食ってみるか。摩夕の話になってしまうかもしれないが……。
僕は怖いもの見たさの思いで、志宮のあとを追いかけた。
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「僕はねえ、やっぱし不倫はよくないと思うんですよねえ」
なんでそんなことを突然言い出すんだか、志宮はしみじみオープンカフェからビルの谷間の空を見上げるのだ。
僕はしばらく固まってしまった。
なんでそんな話題?
あてつけなのか? もしや?
「あっ」
しばらくすると志宮は、口の端からキャラメルコーヒーの泡を飛ばしながらこちらに向き直った。
「すいません、唐突でしたよね」
「ああ、まあ」
「そのことばかり考えてたもんですから」
「そうなんだ。まあ、そうなんだろうね。そんなふうに口に出るんだから」
「花粉の季節が近づいてるのも心配なんですけど、もうそれ以上かそれと同じくらいにですね」
「うんうん」
「いやでも……今さら僕がそんなこと考えたからって何の役にも立たないんですよ、そりゃよくわかってるんですけど」
「今さら、とは?」
「えー、だからその、僕が昔つきあってた女性がですね、今不倫してて、いや、してるらしくて、いやその、たぶんほんとにしてるんだろうなあとは、思うんですけど、僕はその、いや嫉妬《しつと》ってんじゃなくて、いや少しはあると思うんですよ、そりゃああると思います、でも、でもですね」
「でも、何なの?」
「あ」
志宮の動きが一瞬止まった。
「あの、そういえば、えーと、いや、そんな」
「何」
鼓動が速くなる僕。
「いや、以前十布さん、愛人関係の人と別れなきゃいけないって悩んでらしたなと思い出して。そうだ。そうですよ。不倫はやっぱりやめないと。やめようとするほうが健全で当然ですとも。その後、その人と別れられました? 出来ましたよね。もうだいぶ経ちますもんね。今は不倫していらっしゃいませんよね?」
「…………」
志宮は大きなため息をついた。そして、頭を抱えながら話を続ける。
「いや、失礼しました。あきれないでください、しつこいようですけど、たまたま僕がそう聞かずにはおれない状態になってしまったものですから。……そうですよねえ、女優さんなさってる優しい奥様と、可愛い盛りのお嬢さんがいらっしゃるってのに、あのこないだの人とはたまたま、たまたまうっかりそうなっちゃっただけですよねえ。そうに違いないです、はい。すいません、さっきから勝手なことばっかり言って、大変失礼いたしました。ほんとにまじめに、申し訳なく思っています」
「いや……そんなに恐縮してくれなくてもいいけど……。君だって、何か理由があってのことなんだろうしさ」
「そうなんです、そうなんです。実はね」
僕は生唾《なまつば》を飲み込みそうになる自分を制した。
志宮は大きく息を吸い、それを全部言葉に変える準備をしている。
「最近のその、僕が昔付き合ってた女性の言い分なんですけど、普通不倫してるって言ったらですよ、『彼は絶対奥さんと別れて自分と一緒になってくれるはず』とかじゃないかと思うんですよ僕は。ところがですね、その人はこう言うんですよ。『不倫だからこそ瞬間を大事に出来るし、相手もそう思ってくれているようだ。こういう気持ちは独身同士では絶対に味わえない』と。いい大人になってそんな言い分がありますか。自分の恋愛に酔うのもほどがあると思うんですよ僕は」
志宮の意向に反して、僕は密かに、女子高生になったこともないくせにまるで女子高生のように胸がきゅっと締め付けられるのを感じていた。摩夕はそれほどに僕を愛している! 今すぐ抱き締めに行きたい気持ちだ。だけど志宮の話は続く。
「独身同士だと、そろそろ結婚したほうがいいかなとか、だったら自分にこの相手やシチュエーションはふさわしいのかとか計算を始める、それは不純な恋愛であると彼女は言うんです。そんなの、どんな状況でもする人はするんじゃないのと僕は言い返しました。でも彼女は聞かない。何言ってるの、結婚を意識するから計算しなきゃならないのよ。意識できない状態である不倫関係の方が、純粋に相手を思うことが出来るのだと繰り返し言うんです」
「その子は、そういう考えなんだね」
僕は出来る限り平静を装って言った。
「欺瞞《ぎまん》ですよ。僕はそう言ってしまいました。不倫だから結婚を意識しないなんて嘘です。本人が意識してようがしてまいが、僕は不倫ってのはなんていうんでしょうか、素材から料理するのはめんどくさいし失敗するのはやだしって人間が、出来合いのお惣菜《そうざい》に手を出すようなものに思えて仕方がないんですよね」
「そのたとえ、わかりにくいよ」
「えーたとえばその、若い独身同士だと、人のことは言えませんが、男のほうは女のこと、全然わかってなかったり、稼ぎも少なかったりするわけじゃないですか。でまあ、女のほうからしたらですね、こんなのとつきあっちゃって失敗したな、とか、そういうこともありますよね。結婚しちゃった場合はもっと大変。でも、一度結婚してそれ相当の地位になっている男をそのままいただくことができれば、失敗も、育てる苦労もしなくてすむわけですよ」
「それで『出来合い』? 君、それはちょっと乱暴な意見じゃないの。だって不倫したからって相手が女房と別れるとは限らないだろ。そこまで考えて不倫する女なんているのかな。僕は『結婚してる人をたまたま好きになった』って感じだと思うけどな」
志宮はキャラメルコーヒーを喉《のど》に詰まらせ、しばらく咳《せ》き込んでから言った。
「『結婚してる人をたまたま好きになった』!? お言葉ですけどそれ、若い子好きの中年男文化が作った二十年前の定番|台詞《せりふ》ですよ!? 十布さんともあろう人が今どきそんなことおっしゃるなんて、それじゃまるで恋する女子高生ですよ」
見透かされている! 僕は本当に乙女みたいに耳まで赤くなりそうだ。
「僕はあまりダーティーなことは言いたくありませんし、そんなつもりもないのですが、長引く不倫は女性の婚期を逃す大きな理由になると思うんですよ」
「まあ、それはそうかもしれないけど、別に結婚したくないって女の子だっているだろ」
「それは、あの、十布さんのことじゃないですけど、不倫相手の男ってのはもうとっくに結婚していて、子どもだっているかもしれないわけでしょう。自分の方はしっかりやることやっといて、女の結婚の機会だけを奪うってのはちょっと、いかがなものかと思うんですよ、その女の人にだって親兄弟いるわけですしね、自分は恋愛至上主義だって人もいるでしょうし話にはよく聞きますが、実際のところきれい事だけじゃ済みませんでしょうし」
「君はまるで、僕にむかって言ってるみたいだね」
「いやそんな、十布さんはそんな人じゃないですよ、それはわかります。僕の知り合いのその相手だって、最初っから不倫を長引かそう、婚期なんかどうでもいいし相手の家庭なんて気にしないなんて人じゃなかった。常識的な普通の女の人でした。想像してみたんですけど、いろいろと障害がある恋愛ってのはやってるときは面白いんでしょうから、しばらくは気がつかなかったのかもしれません。内緒だから楽しいとかね。しかしですよ。その障害ってのはすなわち片方が結婚してるという事実から起こっているわけですから。長引けば彼女だっていろいろと煮詰まってくるはずなんです。それを彼女ときたら絶対にないことにして、見ないようにしてる。まあ女性たちにとってはお得意芸なんです、好きな男の悪いところには目をつぶってしまうのは。男の僕にはわかりません。あんな無茶苦茶な夢見る乙女みたいなことを」
「そんなに長く付き合ってるの? その、君の知り合いと不倫相手の男は」
「いや……くわしくは知りませんが……。なんかどうも、その相手がですね、彼女だけじゃないらしいんですよね」
「えっ!?」
「正確に言えば、奥さんと彼女だけじゃないってことですね、だから三人いるわけですよ、相手が。そんなのもう、どっから見たって遊びに決まってるじゃないですか。だから僕は早く別れた方がいいって言ってるんですよ、不倫がさらにダブルだなんて、論外ですよ、そんなの」
「そんなこと言ったって、それは、それはたまたまそうなったってことも、いや、それ、ちゃんと確かめたの?」
しまった、慌てているのがわかってしまっただろうか? ああ、だからさっさと萌実と別れておけばよかったのに! いやまて、これは摩夕の話じゃないかも知れないんだ、落ち着け!
「いや、それは僕だって、いくら昔付き合ってたからって言ったって今は関係ないわけですし、相手だってもういい大人なんですから問い詰めたりはしてませんけど、不倫なんて仕掛ける男は僕、最低だと思うんですよ、あの、十布さんみたいに、もてるから仕掛けたりしなくてもそうなっちゃって困ったって人もいるのはわかりますけど、自分は家庭持っててちゃんと基盤作っておいてですね、若い女の結婚の機会を食いちらかすって言うんですか、そういうのはまずいですよね、結局男社会なんですから、女子どもはいたわる方向に持ってかないと」
「でもその相手だって、いろいろ、経済的なことなんかも助けてたりするんじゃないの」
「そーんな、別にこっちだって働いてるんですから、結婚するわけでもないのにちょっとくらいうまいもん食べさせたからって何だって言うんですか。それもその男、最近は彼女のマンションに入りびたりで、かえって彼女の料理をあてにしてるみたいなんです。そりゃ彼女は、『彼のためにお料理するのが楽しくって』とか言ってますよ、でもねえ、どうなんでしょうねえ」
「……だったらいいじゃない、ほっとけば」
僕はちょっとむっとしてしまった。志宮はそれには気づかずにため息をついている。
「もう……それしかない感じではあるんですけどね。もし、いやもう手遅れですけど、もし僕が彼女と結婚していたらって思っちゃうんですね。なんか結婚制度をなめてる男が不倫とかするんじゃないかって。……僕にはそういう、結婚制度を馬鹿にしてかかるような思想はありません。もっと大切に考えています、いや、いました」
「慎重になりすぎて逃す結婚だってあるだろ」
「ごもっともです。僕は彼女を変えることの出来ない男です。付き合ってるときもそうでした。そして今もまたそうです」
「それじゃあ、女は守れないよ。守られる方である女には、ある程度の器の中には入っててもらわなきゃ。男は仕事だってあるんだからさ」
「守れない……。守れない、ですか。そうか。僕には『女は守るもの』という意識が欠けていますね」
「一人暮らしの女は男の下着をわざわざ買って来て干すだろ。男連れの女に声を掛けるキャッチセールスはいないだろ。男は、そこにいるだけで、またはイメージだけでも女を守る仕事が出来るものなんだよ。それは不倫だって同じじゃないのかな」
「うーん、でもそれは結局、男のほうにしてみれば、他のオスに取られないためなんじゃないんでしょうか? それがまた、自分はとっくに結婚してるくせにってのが腑《ふ》に落ちないんですが、僕としては」
「何人もの女をいっぺんに守れる男だっているさ」
「結婚制度はそうなっていませんよ」
「だってその子はそれで納得してるんだろ? じゃあいいじゃないの、しようがないよ、本人の問題だよ」
「それはそうです。もう……そう考えるしかないのはわかってるんですが」
「そうだろ」
「なんで結婚してるくせに恋したがるんだろ、男のくせに、って思いませんか?」
あてつけで言い続けられたとしか思えない志宮の言葉が頭の中で繰り返し浮かんでは消える。
あれだけ言われて、僕は今日もついに
「それは石本摩夕のこと?」
と聞けなかった。聞いたほうが良かったのかもしれない。だが、聞いてもしそうだったら僕はその瞬間志宮に喧嘩《けんか》を売ったことになってしまう。志宮を相手にそんなことが出来るか。やる気になれない。
こんな気持ちで僕は摩夕の部屋へ行けるのだろうか。
摩夕は今日も僕を待っている。自分の仕事が終わってから僕が部屋を訪れるまでの間に、摩夕はいつも僕に何を食べさせようかと頭をひねっている。
そんな彼女を「遊ばれてる」なんて言ってしまうことが出来るなんて、志宮は残酷なやつだ。そんなこと言われたら、僕はますます摩夕がいじらしくなってしまう。火に油を注がれて、今すぐ摩夕を抱きたくてたまらない。志宮が何を言おうと僕が摩夕の所へ行くのは止められない、いや、まるきり逆効果なのだ。
だけど僕が彼女を愛し続ければそれだけ摩夕が不幸になるなんて言われた日にゃ……。
でも本当にそうなんだろうか?
いや。
結婚すれば幸せになるなんて嘘だ。僕だって摩夕を幸せにしてるんだよ。
摩夕の部屋の中にはまた音楽がかかっていた。
若向きの、洗練されていない、歌詞の青臭い曲を流し続ける摩夕。
聞いているとだんだん大人の自分が消えていく。
僕はこの音楽のおかげでここから抜け出せないのかもしれない。
恋愛を歌い続ける若者の声、声、声。
「摩夕、音楽を消してくれ」
「どうして? こないだもそんなこと言ってたね」
「うん……」
「うるさい?」
「なんか、冷静になれない」
「冷静になりたいの?」
「なりたい」
「充分、冷静な大人だよ、十布さんは」
「そんなことはない。僕は身勝手な男だ。君のことをむさぼっている破壊者だ」
「どうしたの? そんなこと言って。あ」
「ん?」
「ケイタイ震えてるよ」
「あ……」
画面を見ると、妻からだった。出られずにいると、伝言メモの発信音がピーッとなって、切迫した妻の声が聞こえてきた。
「なんか、大変なこと?」
「手術」という単語だけ聞き取れた。
「今、手術って」
「うん」
「誰か、病気なの」
「うん」
「行ってあげたほうが」
「いや……」
摩夕は「奥さんなの?」とは言わない。言えないのかもしれないが、行ってあげればと言われれば余計に行きにくくなる。
「大丈夫だよ。連絡してる人間が興奮してるだけだよ」
そう言いながら僕の心は黒雲に覆われていった。
妻が、手術。
ついに彼女は子どもを産めない体になってしまうのか?
いや、手術すれば、治るのかも。
「十布さん」
「ん?」
「今日は、帰った方がいいよ、また来て、ね?」
「なんでそんなこと言うんだ」
「いや、なんとなく」
「摩夕」
「あ、だめだよ」
摩夕の持っていた料理の本がばさりと床に落ちた。すでに僕の右手は彼女のスカートの中に入り込んでいる。
「だめ、だって、そんな」
僕はもう声も出せない。摩夕の下着をひっぺがし、ズボンの前だけを下ろして彼女の中に突進していく。
「あ。ちょっと。そんな。十布さんてば、どうしたって、あっ」
もう中に入った。摩夕はまだ濡《ぬ》れてなくて狭くてきつかったが、それでますます僕は興奮して突き進んでしまったのだ。そして思い切り腰を動かす。
「ああ……」
摩夕は観念したように目を閉じ、僕の動きに身を任せる。
「十布さん……てば…」
僕の息だけが荒く聞こえる。音楽は止まってしまっている。摩夕は抵抗しない。今日も、避妊してと言わなかった。言う暇もなかったのだが。
動く。動く。動く。摩夕がだんだん濡れてきている。
「ああ……」
僕は摩夕が高ぶってくるのを待てるだろうか?
少しだけ気になったが、しかし僕はもう、そんなことは知ったこっちゃない状態だったようだ。
僕の頭に中にあるのは射精のことだけ。摩夕の中に早く出したい、それだけなのだ。
摩夕の腕が僕に絡まる。両足がぶらぶらと揺れているのがわかる。
動きの一定数が過ぎて、射精の波が遠くから近づいてきた。僕はけもののように小さくうなりながらその波を急がせる。ペニスがしっかり摩夕の中に入り込むように注意しながら、突き進む。来た!
「うあ」
小さく叫ぶ僕。その声の中に込めた願いは、
「摩夕、妊娠しろ」。
沢山の精液が僕のペニスを通り過ぎ、摩夕の子宮の中へ、中へ。摩夕は何もかもを受け入れるような表情で薄目を開けてぐったりしている。少なくとも僕にはそういう顔に見えた。彼女の頭の中には出産の恐怖や将来の不安が浮かんだのだろうか? それらのことを忘れさせてくれる快感が訪れることもない、摩夕にとっては精液を受け止めるだけの交わりが今、終わった。
これで何度彼女の中に精液を注ぎこんだだろう。
僕は摩夕を妊娠させるつもりなのか。そうなのかもしれない。特に今日なんて、摩夕は帰ったらと言ってくれたのに……。
僕のズボンには、どう見ても行為のあとといった白い染みがついている。妻に見られたら絶対にばれる。妻の伝言は、やはり手術しなければならないらしいというものだった。そんなときに摩夕とセックスした僕。だけど、これが自然じゃないのか? 何か間違っているとでもいうのか? 僕の子どもがもう摩夕からしか生まれないかもしれないと思ったら、社会の仕組みなんて関係なく摩夕と交わるのが生き物として当然の行為だ。
ケイタイが震え、画面に萌実の名前が現れた。僕は迷わず電源ボタンを長押しし、そのまま電源を切ってしまう。
僕は、ひどい男なのかもしれない。なんとでも言ってくれ。志宮の説教なんていくらでも聞いてやる。妻がいくら泣き叫んでももう平気だ。僕のとる道は決まりつつある。
僕は摩夕の妊娠を望んでいる。そうはっきり意識しながら、見慣れたわが家のインターフォンを押す。それからいつものルーティンワーク。橘香の声と足音を心地よいBGMに、自分の心を落ち着かせ、妻にとっての良い夫の表情を作りつつ、僕はドアをゆっくり開ける。
*この作品は「本の旅人」二〇〇二年十二月号―二〇〇四年三月号に連載された「何のための恋」を改題、単行本化したものです。
角川単行本『ぬけぬけと男でいよう』平成16年8月30日初版発行