[#表紙(表紙.jpg)]
内田春菊
あたしが海に還るまで
[#改ページ]
あたしが海に還るまで
長崎に向かう列車の中で、あたしは機嫌が悪かった。たった二週間かそこらで長崎に戻らなければならなくなったのは、隣にいる塚田のせいだ。
「大丈夫だよ、おれんちの人間しか駅には来ない約束だから。しばらくおれんちにいればいいじゃんか」
こいつ、見た目は世間ずれした不良だけど、中身は甘いおぼっちゃんだとあたしは改めて感じた。それは今回の家出の間、何度かいまいましく思ったことでもあった。塚田の家で暮らそうがどこで暮らそうが、あたしはもう長崎にはいたくなかった。養父の手の届かないところで生きていたいということだけが望みで家を出たのに、こいつはそれをわかっていない。確かに金を持って駆けつけてきてくれたときは嬉しかった。「あんた、まさかまともなところに寝泊まりできるなんて思ってないよね?」なんて世慣れた口調で言ったのもなんだか良かった。海のそばの神社や公園で野宿しながら博多まで行ったのも楽しかった。でも、所持金がなくなり、住み込みで働く頃にはもう、塚田のエネルギー残量は少なくなっていたのだ。つまり塚田は親をちょっと心配させる程度の家出についてのみのエキスパートだったのだ。住み込み先の雇い主の夫婦に、「やっぱり君たちは何か隠していると思う。本当のことをいいなさい」と言われて、家の電話番号までばか正直に書いた塚田。「なんでほんとの電話なんか書くのよ。一番違いだって良かったのに。そしたら掛けても通じないのに」とあたしは塚田を責めた。塚田は、「ああ、そう言われればそうだなあ」とぼんやりした言い方をした。あの時からこいつはもう、自分ちに帰りたかったんだ。結局塚田の家に電話されてしまい、長崎に帰るように言われてしまった。あたしは、自分だけでも帰りたくなかったので、雇い主に「今までに働いたお金、下さい」と言った。それを持って一人で逃げたかった。でも、「長崎までの切符を買ってあげてるのに、そんなことまで言うのかね」と言われてしまった。二十歳と十九歳の姉弟と偽っていた十六歳の家出カップルを知らずに雇わされていた立場にしてみたらそうだったのかもしれない。あたしは先週もらった給料を、塚田が一日で遣ってしまったことを苦々しく思い出した。生活に必要なものの他に、「こういうもん喰うとこういうもん飲みたくなるだろ」かなんか言いながら楽しそうに全部遣っていた塚田。現在の所持金ゼロ。あたしは長崎に帰るしかなかった。
塚田に電話したのは間違いだったかもしれない。あの日、家を出たのが午前四時頃だったので、しばらくあたしはぶらぶらと歩き回っていた。今にも後ろから養父が追いかけて来そうで少し恐かった。最初に思い出したのは、つい最近つきあいだした俊のことだった。高校に通う途中でいつもすれ違っていた、誰よりも目を惹くリーゼントの男の子。声を掛けたらあっさりベッドに誘われた。話が早いのが良かった。まだ頼って行くほどの仲ではないが、最後に逢いたいなと思った。電話もせずいきなり行くことにした。
俊の家まで歩いていくと、空が明るくなってきていた。俊の家の玄関には、鍵がかかっていなかった。玄関から一番近いベッドで寝ていることは知っている。あたしは勝手にあがりこんで寝ている俊に声を掛けた。
「何してんのお宅」
俊はたいして驚いた様子もなかった。この人のこういうところが好きだと思った。
「家出してきたの。どっか行こうと思って」
「ここだとかあちゃんが起きるから、隣に行こう」
隣は空家で、やはり鍵はかかっていなかった。
「こないだまで知り合いが住んでたんだ。もう越しちゃったんだけど」
それでもベッドだけはなぜか置いてあった。
「なんでベッドだけあんの?」
「置いてったんでしょ」
俊はだまってあたしを押し倒した。
「でも生理なんだ、あたし……」
「あ、そう。じゃちょっと待った」
しばらくして彼はどこからかバスタオルを持って来て、あたしの腰の下に敷いた。セックスすることになるとは思っていなかったのであたしは少しとまどったが、顔には出さなかった。俊は、セックスのときあたしが出す声が気に入っていると言っていた。あたしの前につきあっていた女は、まるきり反応のないタイプだったんだそうだ。
バスタオルは汚れなかった。その最中、ぜんぜん血が出てくる気配はなかったのだ。なのに、俊が最後に後ろからして、終わったあとペニスを抜いたら、それと一緒に血がぼたぼたとこぼれ落ちた。バスタオルの上でなく、シーツに。
「あ」
シーツには真っ赤な染みが現れた。それでも俊はさしてあわてているようではなかった。すぐにシーツをひっぺがし、台所で血のついた部分だけ洗うと、ベッドに斜めに広げて干した。その様子は、まるで毎日でもこういうことをしているかのように手慣れて見えた。
干したシーツの横にひざを抱えて座り込んだあたしは、自分の家のことを少しだけ話した。
「もう、父親にやられてんの、いやんなっちゃったし」
俊は黙って聞いていた。応援も、引き留めも、しなかった。でもそんなところが好きだと思った。
俊の家から出たときは、すっかり明るくなっていた。もう母があたしの書き置きを見つけているかもしれないと思った。きっと少し弱気になっていたのだろう。もうすでに男としては興味を失っていた塚田に電話したのだもの。
「とにかくそこにいろ、今行くから」
意外にも駆けつけてきてくれた塚田と、あたしは列車に乗り込んだのだ。
旅の途中も、塚田はやたらあたしとセックスした。男ってものは、生理であろうがなんであろうがセックスするものなのだなとあたしは認識した。最初に降りたのは、大村の小さな無人駅だった。海沿いに歩いていくと、松のたくさん生えた空き地のそばに幼稚園があり、その隣に小さな神社があった。時代劇で旅の浪人がよく寝泊まりしている、賽銭箱のついた家。その観音開きの障子を開けると、中には何体かの仏像のようなものがあるだけで、あとはがらんとしていた。そこの板張りの床に丸くなっていると、嫌でも家出の気分が盛り上がった。何時頃寝たのだろう。あたしは自分が時計をしていたかどうか覚えていない。高校に入ったとき養父から時計をもらったが、「高い時計なんだぞ」と何度も恩に着せるのでかえって迷惑に思っていた。ときどきのぞきこんでは、「ガラスに傷がついとるじゃないか」などと言ってあたしを責めた。そんなことまで言うのならくれなければいいのだ。あたしはその時計をしているだけで、左手に養父の子分をぶら下げているような嫌な気分だった。塚田はあたしとセックスし終わっても、なかなか眠らなかった。あたしは疲れてて寝たかったのに、「今そこに幽霊がいた」とかなんとかそんなことまで言ってあたしを起こそうとする塚田がうっとうしかった。
翌日は早くに目が覚めた。早朝のお日様に光る波をみながら海沿いを歩いた。しあわせだった。
その日は佐世保までたどり着いた。二十四時間営業の喫茶店に初めて入り、鍋で煮詰めたようなまずいコーヒーを飲んだ。しばらく話もせず過ごしたが、朝までいるわけにもいかず、近くの公園のジャングルジムの上で寝た。梯子になっている鎖を登り、板で出来た部分の上で横になっていたのだが、あまりよく眠れなかった。見おろすと少し離れたベンチの上でも浮浪者が一人眠っていた。あたしたちよりずっと年上の男の浮浪者だった。朝になると何人かの人たちがその公園を横切って会社や学校に行くのが見えた。制服の女子高生が一人、ベンチの上の浮浪者を立ち止まって見つめていた。
それから博多に来たのだ。最初の夜、寝ようとした公園はたいそう広くて、都会の匂いがした。茂みのそばに横になっていると、アベックの影が動く。そして、あたしと塚田の近くにまで忍び寄るのぞき屋たち。あたしは塚田とセックスする気はなかったので、アベックのシルエットをぼんやり見ていた。男のほうがズボンを脱ぐ様子まではっきり見えたのには少し驚いた。これほどこちらから見えるということは、相当明るいところで絡み合っているということだ。あたしも塚田も眠れなくなって、公園を探検することにした。公園のまわりには空のタクシーが何台も止まっていた。「運転手がいないってことは、こん中でのぞいたりしてるってことじゃないの?」と塚田が言った。タクシーの運転手という仕事はそんなに暇なのかとあたしは思ったが、実際その公園にはおびただしい数のアベックがいるようだった。小さな野外音楽堂のようになっているところなんか、ステージのまわりのベンチはやたら明るいというのに、男の股間に顔を埋めている女までいた。こういう人は、人に見られながらこういうことをするのが好きなのだろうかと思った。結局眠るのには向いていなかったその公園から出て、あたしと塚田はその近くの人んちの庭にもぐり込み、軒下の茂みのそばでうとうとした。もう、夜明けに外で眠るには肌寒い気候になっていた。あたしたちはその家の人々が起きてくる前に公園に戻り、トイレで歯を磨いた。
もう三十八円しかなかった。あたしと塚田は街の中をうろうろし、なんとかすることを考えた。「お手伝いさん、店員、募集」の貼り紙を見て、雇ってもらったわけでもないのに勝手にこれで行こうと決めた。そして、小さなパン屋で一袋三十円の売れ残りのパンを買った。あたしは、「あんましお腹空いてないから、あげるよ」と嘘をついて自分のぶんを半分塚田にやった。それからパンを買うまえに買ってあった履歴書用紙に、あたしが二十歳、塚田は十九歳の弟、大分出身、などと大嘘を書いて、見事その家に雇ってもらったのだった。その夜は風呂に入れてもらい、今まで着ていた服は洗濯機に放り込んだ。数日野宿していたあたしと塚田の服は、洗濯機の水をみるみるうちに真っ黒にした。あたしはマンションの給水システムがよくわからず、水とお湯とを蛇口で調整出来ずにいた。熱くなりすぎたり水になったりするシャワーを浴びたあと、借りた寝間着で塚田と並んで寝た。家の人と別室ではあったが、こんなときまでセックスを仕掛けてくる塚田に少し腹が立った。
その家は父親が刺繍職人で、マンションの地下に刺繍屋を開き、母親は一階でコットンショップをやっていた。コットンショップで入荷した木綿やタオルを地下に持っていき、それらに刺繍を入れてもらって、オリジナル製品としていた。あたしは二人の子どもに朝御飯を食べさせたあと、掃除洗濯買い物を済ませてから、合間にショップの店員をし、時間が来ると夕飯を作りに部屋に戻った。塚田は地下で刺繍職人として修業しているらしかった。まもなくマンションでの寝泊まりをやめ、もう一人の刺繍職人の住む、小さなアパートの一室で暮らすことになった。あたしは、長崎にいた頃から好きで毎週見ていた、三億円犯人が主人公のドラマを、彼の部屋で見せてもらったりした。塚田はまもなくあたしの家のことを彼に話した。彼は、「それは、いのちの電話とか、青少年相談センターみたいなところに言ったほうがいいんじゃないのかなあ」と言った。そういうところに養父のことを話せばあたしは助けてもらえるのだろうか?
家出人は家に帰りなさい、というのは正しい意見なのだろうか。あたしは結局、養父にぶんなぐられたりやられたりしているから帰りたくないんです、と雇い主の夫婦に言うことさえできなかった。あっという間に長崎に着いた。ホームに降り、見回しても誰も迎えに来ている様子はない。そうか、着く時間までは知らないのかなとあたしは思った。このまま塚田の家に行ってしまっていいんだったら、なんかしばらくは楽しそうだ。が、改札を抜けようとしたその瞬間、そこにその前から立っていた知らない男が、あたしの腕をグイとつかんだ。
「静子、おにいさんだよ、一緒に帰ろう」
「あんた、だれ?」
それだけ言うのがせいいっぱいだった。その男の顔を見ても、まるきり覚えがなかった。それどころかそいつの後ろから、あの二度と会いたくなかった養父がものすごい剣幕で走ってくるではないか。ああ、こんなことだと思った。だけどあたしの腕をつかんでるこいつはいったいだれなのだ。
「いやー!!」
あたしは大声をあげた。
「こいつ、この、この」
養父も興奮していてわけのわからないことを沢山口走った。とんでもない犯罪者を捕まえたようなその状況に、回りの人々がいっせいに集まってきた。その中に、どう見てもやくざという感じの男が何人か混ざっていた。そのやくざたちは「何だ何だ。何だって言うんだ」と口々に言い、「ちょっとこっちに来い」とあたしたちを連れていこうとしたので、あたしは少し恐かった。ふと見ると、後ろに母がいた。
やくざだと思ったその人たちは刑事だった。たまたま何か別の事件で長崎駅に張り込んでいたということだ。あたしはそこらへんの登場人物全部と一緒に、公安室のようなところで彼らに質問されることになった。
「この子は大変な不良娘でしてね」
養父が演説を始めた。
「男と家出なんかしおって。やっと捕まえて家に連れて帰るところです。別にもうこちらの話ですし。手伝ってもらうことはありませんから」
あたしはかっとした。こいつ、自分のしたことはなかったことにしてあたしを不良娘として片づけるつもりなのだ。父親なんかじゃないくせに。思わず腹に力の入った声で、
「あんたが今まで何をしてたか言ってやろうか」
と発言した。ほんの二週間の家出だったが、そのくらいの知恵がつくには十分だった。
「静子ちゃん」止めたのは母だった。「それだけはやめて。言わないで。言ったらもうおしまいよ」と泣き声ですがりつかれた。何がおしまいなんだ。あたしは聞きたかったが母が悲しんでいるのが辛かった。みんな黙っていた。誰かに、「いいから話してみなさい」と言って欲しかったが、誰も言ってくれなかった。あたしはそのまま黙ってしまった。そしてまた、あの嫌な匂いのする養父の車に乗せられた。
「あの塚田っていううちは何だ。あんなうちの者となんかつきあいやがって」
車の中で養父は言った。「あいつら、俺に『娘の布団にもぐりこんでたくせに』って言いやがったんだぞ」彼はかんかんに怒っているようだったが、あたしにはなぜ怒っているのかわからなかった。確かに布団にもぐりこまれた覚えはない。あたしのほうが寝室に呼びつけられていたのだ。しかし、塚田の家の人間のそのセリフは結局養父があたしにしていたことと同じことを言っているのではないのか? 母は黙っていた。母も同じ意見なのだろうか。昔から母も養父も、自分がそうしていたことは事実なのに、それを他人から指摘されると怒り狂うという性癖の持ち主だった。人に言われて恥ずかしいことなら止めればいいのにとそのたびあたしは思っていた。
家に着くと養父は、「まったくおまえは金も持たずに出ていきやがって」と言いながら少しにっこりし、洋服ダンスを開けて自分の背広のポケットを指さした。
「ほら、ここにいくらでもあるんだからな。こっから取っていけばいいじゃないか。取って行けよ」
芝居がかった微笑《ほほえ》みを浮かべ、気前の良い人間を気取る彼を見て、あたしは心からしらけた。確かにあたしは高校の月謝の三千数百円しか持って出なかった。しかし養父のポケットから金なんか抜いて行った日にゃ何されるかわかったもんじゃない。それよりも金に困っているほうがよっぽどましだ。
「あたしたちはね、あんたが死にに行ったんじゃないかと思って、山探しまでしたのよ。お父様が、この辺で死んでる可能性もあるっておっしゃるから……お父様の車で唐八景《とうはつけい》まで行ってねえ」母が淋しそうに言った。唐八景というのは、小学校の頃からよく遠足などで行った、市内の有名な山だ。「白いものが落ちているとあんたが倒れているんじゃないかと思って胸がどきどきして……」母は少し涙ぐんでいたが、あたしは、死にに行くなんてひとことも言ってない。書き置きにはただ「出ていく」と書いただけだ。どうして死にに行くことになってしまうのだろうか?
しかし母は何かに酔ったように山探しまでした自分たちの悲しみを語るのだ。ちょっと待ってよ。じゃああんたたちは、自殺するかもしれないくらいあたしのことを追いつめたってこと? こないだまで、十五で妊娠するようなとんでもない娘を改心させようと努力しているのにあんたは逆らってばかりいる、って悲しんでいたのはいったい何だったの? 妊娠六カ月になってしまって、堕ろすのは医者も嫌がる時期だから俺がつついてみるなんて言ってあたしのことやっといて、堕胎が済んだら、あいつはあのとき痛がらなかった、もう相当男を知っているはずだ、月に一度くらいしてやらないと男が欲しくて勉強しなくなるから俺がしてやっているのだって理屈で言うことを聞かせていた日々は何だったの? あたしの頭の中でそんな言葉がぐるぐる回ったが、口には出せなかった。ここで反論するよりも、死にに出たかもしれないと思った母のその後に期待したかった。そのくらい思ったのなら、もう養父にやられる生活は止めさせてくれるはずだと考えたのだ。実の母だし、あたしは十六歳だし、そのくらい期待してもいいと思う。どうも変な話だとは思ったが、良いほうに考えたかったのだ(その後、自分たちがしたことを外の誰にも話さずに、山あたりで死んでいるだろうというその推測こそが彼らの希望でもあったのだということにやっと気が付いたのは、十九年経ったある日のことであった)。
「まあおまえも、家を出るくらいのことをしたわけだから」
話し合おう、と養父は言った。今まで否応なしに言うことを聞かせていた彼がそんなことを言い出しただけでも、家出したかいがあったかもしれないと思った。
「少しは社会で働くという意味もわかっただろうし」
あたしは頷《うなず》いた。
「どうしても家を出たいというなら、金も出してやろう。外で働くほうを選ぶか」少しの間があった。「このままお父様の言うことを聞いてちゃんと学校へ行くか、どっちか選びなさい」養父は自分のことをお父様と言った。その「お父様の言うことを聞いて」という部分は「前のように俺にやられながら」という意味に違いなかった。
家出の間にあたしは高校を退学させられていた。母によると、「家出したんだから退学届を書いてください」としつこく高校から母の職場に電話があり、根負けしてしまったとのこと。あたしはもう学校なんてどうでもよかったのだが、母や養父は、復学したい旨担任に頼んだりもしたのらしい。そしてそれも受け入れられなかった。高校生に戻るためには、これからまた別の方法を考えなくてはならないらしいのだ。養父はあたしが復学したがると思いこんでいたのだろう。受験しなおすにしても、他の学校を探すにしても、また金や手間暇がかかるので、それであたしに恩を売れると思っていたのだ。ところがあたし自身は、養父の思惑に反して、自分が働いて稼いだ金で暮らす喜びをとっくに知ってしまっていた。
「働きたいです」
あたしは静かに言った。
「なんと言った?」養父は腑に落ちないというふうに聞き返した。「おまえは中卒なんだぞ。これから働いてどんなことになるかわかっているのか。学校に行かせてやるということがどんなことか」
「働くほうがいいんです」
「馬鹿か!」大きな声だった。びっくりする間もなく、殴られた。「この馬鹿が! この馬鹿が!」あたしは意味もわからず殴られ続けた。「人の金を何と思っとるのか。このステレオだってな。タンスだってな。俺が働いた金で買ったんだぞ!」養父は部屋の隅の道具箱から金槌を取り出して振り上げた。
「俺は出ていく! 俺が買ったものは全部たたき壊して出ていってやる!」金槌でステレオやタンスをドンドン叩きながらわめき散らす養父に母はいつものように「あなた、あなた」と哀れっぽい声を出してすがりついていたが、あたしとしてはさっきの話し合いがどうしてそういう怒りに結びつくのかが今一つ把握できずにいた。それに養父の金槌の振るい方ではとても家具が壊れるようには見えなかった。しばらく怒鳴り続けたあと養父は母を突き飛ばし、「俺は出ていく! おまえたち二人でホステスでもして暮らすんだな!」と捨てぜりふを残して出ていった。あたしは「ああ、それもいいかもなあ。でもまた歳をごまかさないといけない」などと考えていたが、横を見るとなぜか母は悲しんでいた。またもやあたしは知らないうちに母を悲しませてしまったのだ。そしてどうせ養父はいつものようにしばらくすると戻ってきてしまうのだろう。あたしが彼の言うことを聞くかどうか、駆け引きされているのはあたしでなくて母なのだ。あたしはだいぶその空気が読めるようになってきていた。
それは、あの駅で会った男が誰だか聞いたからでもある。彼は、養父の本妻の息子だった。籍が入ってなくて当然、この家は妾宅だったわけだ。日曜祭日盆暮れ正月に家にいない不思議な父親は、その日は自宅に帰っていたのだ。母の話したところによると、むこうの奥さん(という言い方をした)は養父より年上、子どもは長男、次男、末っ子の女の子の三人。駅に迎えに来ていたのは、その次男の勝だという。奥さんは体が弱くて、奥さんとしての役割(それがどういう意味かは知らないが)は果たすことができないので、最初は母の存在を聞いて泣いたりもしたが、最近では「もうあなたに籍は差し上げます」と言ったことさえあるという。でも、その申し出を母は断ったという話だ。理由は知らない。母は「あたしは、そんなつもりじゃないから……」というような言い方をしていたが、あたしにはまだよく意味がつかめなかった。昔、「あんな籍も入っていない人」と言って母に初めて殴られたことや、「どうして日曜はお父様いないのって、お父様に聞いてごらんなさい」と母が甘ったるい声で養父に聞こえよがしに言っていたことなども、まだそれほどはっきりこの事実と結びつけて考えられなかった。それよりまだあたしは自分のことで頭がいっぱいだった。すでに味わってしまったあの素晴らしい自由をどうしたらまた自分のものに出来るのか、そればかり考えていたのだ。
結局あたしの意志に関係なく、復学の準備は進められた。自分が望んだわけでもないのに、あたしは養父から「まったく手間がかかる」とぶつぶつ言われながら面接などを受けたが、どの高校も受け入れてはくれなかった。
そのうち中学浪人の予備校というものに行かされることになった。そこは、聞こえはいいが単なる小さな塾だった。あたしは外に出られるようになったのをいいことに、予備校を抜け出しては俊に連絡を取ったり、外で煙草をふかしたりした。街でばったり塚田にあったこともあった。塚田はにたにたしてあたしを見ていたが、あたしはもう彼への興味を完全になくしていた。
「よう元気だったのかよ」
と塚田はいかにも自分の女みたいに声を掛けたが、あたしは黙っていた。この甘ちゃんのおかげで、また養父にやられながら暮らす生活に戻らなくてはいけなくなったのだと、少し恨んでもいた。回りには塚田と似たような雰囲気の連中がたむろしていた。そいつらにももう興味は湧いてこなかった。
いつからか養父は、「静子は大学出たらおれの秘書にしてやる。そしておれの子どもを産ませる」と口に出すようになった。母もあたしも聞き流していたが、もしそれが現実になるんだったら死んだほうがましだ。あたしははやくまた家出したかった。しかしこのあいだのように発作的に出ても成功しにくいのはわかっていたので、あれこれ一人で考えていた。こんどこそ家を出たら二度とここには戻りたくなかった。
あたしはまず、養父がたぶん帰ってこないであろうある日に、俊の家へ行ってそのまま一晩帰らなかった。養父がもし帰ってきたら大変なことになるはずだった。あたしはどきどきしたが、母はもっとしているはずだった。養父は自分が帰ってこない夜、つまり本宅にいる夜だったわけだが、そんな時にも必ず電話を入れてきて、それを母は嬉々として受けていた。彼女があたしの無断外泊を養父に言えるかどうか、あたしは試したのだ。もし養父が帰ってきたら、あたしだって袋叩きだったが、そんなの平気だった。はらはらしているはずの母を想像しながら一晩中俊とセックスして過ごした。
翌日は知らん顔して帰った。「あんた、どういうつもりなの。どこにいたかも言わない気でいるの。そんなことしていいとでも思ってんの」と母はわなわなと震えていたが、あたしは相手にしなかった。やはり彼女は養父に話せなかったのだ。あたしは忠誠より保身を選んだ母を冷たい目で観察した。いい気味だった。
あたしが最初の家出から帰ってきて安心した母が、嬉しそうに言い渡した二つのことをあたしはよく覚えていた。一つは、あたしが俊に書いた手紙だった。内容は「話がしたいので学校が終わったら会って欲しい」というだけのものだったのだが、書いて封をしたあとどこへやったかわからなくなってしまったので、結局口頭で済ませたのだった。母はあたしの家出中にその手紙を見つけたらしい。鬼の首でも取ったように「静子ちゃん、あんたラブレター書いてたでしょ」という言い方をしたので、最初はなんのことかわからなかった。ああ、あれか。わかったあともさして気にしなかった。たいしたことは書いてなかったし、とっくに俊とはつきあっている。しかし母の態度を見て、説明する気も失せた。あたしはあの手紙は渡せなかったのでなく必要なかったのだということも、俊とつきあっていることも母には話さなかった。
もうひとつは包丁のこと。妊娠が発覚したとき養父に包丁で刺されそうになったことがあるあたしは、あたしが家出したことで母や妹が同じ目に遭うといけないと思い、台所の包丁を全部抜いて、流し台の下の洗い桶の中に突っ込んでから出ていったのだ。それを母は笑った。「あんなことしちゃって」と馬鹿にしたように笑ったのだ。「何を思ったのかしらないけど、この家ではお父様に包丁で刺されそうになるような人間は静子ちゃんくらいなものなのよ」と言われたような気がした。
母とも妹ともだんだん話をしなくなった。家出までしたということで妹は少しあたしを尊敬しているようだったが、母の手前、だいたいは「おねえちゃんってやっぱし変だよね」という態度でいた。別にもう何でもかまわなかった。あたしは俊のことと再び家を出ることだけを考えて暮らした。あのくそ面白くもない予備校に春まで通って、もう一度高校を受験するということが想像しにくかった。
ある冬の日。あたしは退屈のあまり予備校の中田という男の子とある部屋にいた。小太りでたいして気のきいた感じもしないやつだったが、多少皮肉っぽい発言もするところが、その他の「ママの言いなり」なやつらと少し違っているようだった。しかしあたしはただそう思いたかっただけかもしれない。俊とあまりにも会えないので、話し相手に飢えていたのだ。そこは中田の部屋ではなかったが、彼の仲間がいつも勝手に入り込んではたむろしている友人の部屋だということだった。あたしたちはベッドに座り込んで話をしていたが、中田の話はつまらなかった。その上話が、ある空気を含みながらとぎれだした。中田はやりたがっているのだ。あたしは少し後悔した。中田は黙っている。誘う度胸まではないようだ。帰ってしまうことも出来たが、セックスしたあとに面白くなってくれるかもしれないと少しだけ思った。あたしは家に帰るより好奇心を選んだ。長い沈黙を破ってあたしは言った。
「何かしたいと思ってるでしょ」
中田はうなずいた。おそるおそるそれらしいことが始まった。中田は知ってる振りを装っていたが、経験があるのかどうか怪しかった。あたしも協力したつもりだったが、行為はつまらないまま終わった。すると待っていたかのように、部屋の戸が開いて五、六人の男がなだれ込んできた。中田の友人たちらしかった。彼らは「何やってたの?」「おれもおれも」などと口々に言いながらあたしの上に全員でのしかかってきた。面倒なことになってきたなと思った。ここでこいつら全員にやられてしまったらきっと心も体もくたくたになるだろう。しかし服を脱がされるわけでもなく、男たちは交互にあたしの首に吸い付いたり、腕や胸をもむ程度で、その状況に興奮しているだけだった。ただ粘土のようにこねられながら何人もの男に乗っかられているのは退屈だった。輪姦《まわ》すんならもっとさっさとやって欲しいと思った。中田はあたしを助けたりするどころか、「口でやってもらえよ、さっきおれもやってもらって気持ちよかった」などとベッドの横からほざいていた。ふん、ばか、へたくそのくせに何がやってもらえよだとあたしは心の中でつぶやいた。「富田のときみてえだな」と誰かが言った。その女もこいつらにこういうふうにされたらしい。聞くとそれはあたしの中学の同級生だった。なかなかことは始まらなかった。だれも勃起しなかったのだ。サービスする筋合いなんてないのであたしも口でしてやったりなんかしなかった。中田にしてやったことさえ、さっきの中田の発言で後悔していた。ようやく中の一人が、「おれ、できるかもしんない」と言いながらスカートをめくりあげ、あたしに挿入しようとした。他のやつらはただあたしを押さえつけながら見守っていた。「早くやれよ」「だってまだおれいっぺんしかしたことないし」この中でいちばん好感の持てそうな男ではあった。やっと彼のものがあたしの中に入ってきたが、だからといって状況はそれほど変わらなかった。そいつはしばらく動いたあと「だめだ」と言って抜いてしまった。お祭りはそれで終わりだった。
帰り道、あたしは黄色いマフラーで首を隠すようにしていた。あいつらがみんなで吸い付いていた首は、あざだらけになっていた。こんなしるしだけは派手に残してくれたあいつらがいまいましかった。あたしは母に、「変な男にマフラーを引っ張られた」と嘘をついた。母は「まるでキスマークみたいじゃない」と言いながら、養父に見つからないようにとあたしの首にファンデーションを塗りたくった。ファンデーションで隠す、ということに母は慣れている気がした。養父に殴られて顔をあざだらけにしたりしていたからかもしれない。
数日後、家に帰ると母が険しい顔をしていた。「変な電話があったのよ」と母は言った。「おまえんちの娘、おれたちで輪姦《まわ》してやったんだぞって。キスマークだらけで帰ってきただろうって……」母はあたしを責めるように見た。あたしは高校のときの生徒手帳をあの部屋に忘れてきたのに気がついていたが、中田とはもう口をきく気も起こらず、なにもかもほったらかしにしていた。あの中のだれかがそんなことを思いついたのだ。輪姦? ふん、勃《た》ちもしなかったくせに。あたしはあいつらを改めて軽蔑した。母は、「ねえほんとなの静子ちゃん。あんた、そんなことしてたの?」という言い方をした。その中にはあたしの女としての災難に同情する気はないようだった。「あんた、そんな沢山の男と楽しむような恐ろしいことしたの?」という意味で言っていた。あれはあたしがうっかり飛び込んでしまった場面だ。責任はあたしにあるんだから同情して欲しいとまでは思わない。だけど、相手が「輪姦《まわ》してやった」とまで言っているのに、この人はなんであたしばかり責めるんだろうということが少し不思議だった。
「嘘だよ」それだけしか言わなかった。説明する気には全くなれなかった。しかしそれから十一年後、母と決別する直前の言い争いの中でもまだ母は「あたしはあの日あんたが何してたか知ってるよ」という言い方をしていた。母はあたしが複数の男を相手にセックスするような恐ろしい女だと非難することを切り札と思っていたようだ。あたしは「輪姦《まわ》されたんだよ。それがどうしたの。だから何なんだよ」と言い返した。母はあたしをそういう女だと思いこんでいたようだが、それこそが母自身のセックス観を裏付けるものだったとあたしは思う。だれが望んで輪姦なんてされるものか。
受験の時期は近づいていた。もうとっくに受験する気のなかったあたしは、俊の家に何日か泊まったりするような小さな家出を繰り返していた。家に帰ると、母も養父もあきれてあたしを見た。養父には相変わらずたまにやられてはいたが、ただ人形になっているだけで、養父のことなど完全に無視していた。ときどき大声を出されたり殴られたりしても、黙って顔に湿布を貼って予備校に行った。予備校に行って勉強していれば、受験の意志があると養父は判断したようだが、あたしは大嫌いなこの家から出かけられるのが嬉しかっただけだった。受験の話にぼんやりしたりしていると、
「なんでおまえはまじめにやらないのか。学歴がなくて働くのがどういうことだかわかっとるのか」
と怒鳴りつけた。養父は熊本大学を出ている。でも養父の兄と父は東大だった。それだけのことだ。あたしにはなんの関係もないことなのだ。
「わかるわけないじゃん」
あたしは小さく言った。そのとたん、顔に液体がはじけた。養父が、飲んでいたビールをあたしの顔にぶちまけたのだ。次の瞬間なぜか養父がそばにあったポットをつかみ、
「顔を焼いてやる! こいつは色気づいとるからこんななんだ! 熱湯で顔を焼いてやる!」
と言ってあたしの顔にかけようとした。母が養父の腕をつかんで止めている間に、あたしは裸足のまま外へ逃げた。養父は外までは追いかけて来なかった。あたしも裸足で遠くまで行くことが出来ず、家の近所にぼんやり立っていた。近所でも性格の悪いので有名な子どもが「やーい、はだしはだしー」とはやし立てた。あたしは母が縫ってくれたスカートをはいていた。そのスカートから出ている裸足の両足を眺めながら、なんでああいうわけのわからない怒り方をするんだろうと思った。その時代、ポットのお湯は熱湯なんかじゃなかった。お向かいの大家のおばあちゃまが、母に「裸足でかわいそうじゃないの」と声を掛けてくれていた。
ある日、ついに養父はあたしの進学のことなんてどうでもよくなってしまった。
「あれは頭がおかしい」と彼は母に言い渡した。「こんなに人のいうことを聞かないのは異常だ」
そのあと養父は母に何か怒鳴りつけていたが、ふと家を出ていった。すぐ母はあたしと妹のいる部屋へやってきた。
「逃げるよ」新しい展開だった。「お父様は静子ちゃんを精神病院に入れるって。ほんとに入れられるよ。逃げよう」母は急いで荷造りを始め、あたしと妹もあわてて身の回りのものをバッグに詰めた。「あの人は、あの人はほんとにやる人だ」と母はつぶやいていた。三人で家を出るとき、飼い犬のゴローが少し心配だったが、連れていくわけにもいかなかった。
あっと言う間に博多を過ぎ、新幹線の中にあたしたちはいた。「お父様が、静子ちゃんがあまりにも人のいうことをきかないから頭がおかしいって……精神病院に入れて、手術するって言うの」ロボトミーとかいう名前の手術で、それを施すと日常生活には困らないのだが自分の意志だけがなくなる人間になってしまうのだそうだ。凶悪犯などに行うという。それをあたしに?
「そんな簡単には出来ないはずなんだろうけどね……知り合いの医者に頼んでやらせるって……頼みに行くからと言って一回出ていったのよ。あたしは今しかないと思って」養父は医薬品の営業をやっていたが、いつも医者の悪口ばかり言っていた。そんなことを頼めるような知り合いがいるのか? なんにしても、それがほんとならすごい話であることくらいあたしにもわかった。自分でなくあたしのほうが頭がおかしいと養父が信じていることも含めて。
「あたしはもう恐ろしくってね。お父様ならやりかねないと思ったのよ」あたしは嬉しかった。ついに母はあたしを選んでくれたのだ。
その夜遅くあたしたちは東京へ着いた。誰も知り合いはなかったが、母は東京ならなんとかなると判断したようだ。日暮里という駅で降り、小さな連れ込み宿の一部屋に泊まることになった。布団を敷くと、長旅の疲れが出てあたしはすぐ眠ってしまった。母と妹は火鉢にあたりながら二人で話し込んでいた。妹はその晩、いつも「お父様がお話があるそうよ」と母に言われて、養父とあたしが二人きりで寝室の中にいた夜あたしが何をされていたかを母から聞いたようだ。妹はあたしが養父にやられている夜、「お姉ちゃん、怒られたの?」などと言っていたから、あたしはいつも黙っていた。母がどういう言い方をしたかはわからないが、とにかく彼女は初めてそのことを知ったのだ。
母の行動は早かった。すぐに駒込という駅の近くにアパートを借り、生活用品を揃えた。まだ中学生だった妹の転校手続きだけが少しやっかいだったが、東京にはそういう相談に乗ってくれるところが多くあるようだった。「そんなにぜいたく出来ないけど、三人で暮らせば楽しいよね」と言ってくれる母が嬉しかった。母に憑《つ》いていたものはついに取れたのだ。貯金はあるだけ持ってきてはいたらしいが、節約しなければならない。ある日の夕飯に、母がちくわにキュウリを通して切ったのを作ってくれたのを覚えている。あたしはとにかく職をさがすことになった。母が、堅い職業についたほうが良いと勧めるので、印刷業などを当たってみることにした。職はすぐに見つかった。飯田橋の写植専門の会社に雇ってもらえることになった。アパートに帰ると、妹が興奮してあたしに話しかけた。
「今日ね、上野動物園でパンダ見たんだよ。すっごい並んだけど、可愛かったー!」
母と妹は二人であちこち出かけているようだった。あたしは観光にさほど興味があるほうではないので聞き流していたが、その頃パンダを見に行くと言ったらけっこうなイベントだった。とにかく職が決まったことを母も妹も喜んでくれた。給料は八万くらいだっただろうか。アパートの家賃が一万だったのだが、やりくりまではしたことのないあたしは、八万で三人食べて行けるのかどうかよくわからなかった。どっちにしてもあたしは母も働くはずだと思っていた。あたしの高校のごたごたや、養父のわがままで会社を辞めてしまっていた母だったが、本人も「働きたかったのに」とこぼしていたし、あたしは働いている母が好きだったから。
しかし、母はいっこうに職探しに歩く気配はなかった。まだ転校手続きの進まない妹としょっちゅうどこかへ出かけて楽しんでいるようだった。その様子はまるで観光のために東京へ来たかのようだったが、あたしはそのうち落ちつくだろうと思っていた。
ある日は、会社から帰ってきたあたしに母はハンドバッグを差し出した。「池袋の西武のバーゲンに行ったのよ。これ、お勤めにいいかと思って」どうみてもあたしの使いそうにない品だったが、あたしはありがとうと言って受け取った。「東京っていろんなデパートがあるのねえ。あたしは長崎のダイエーしか知らないからほら、最初なんか近所の人に『ダイエーはどこですか』って聞いちゃったもんだから、『はあ?』なんて言われちゃって、はははは」母は笑い転げた。妹も楽しそうに笑った。あたしだけが、なんとなく変な気持ちでいた。
会社ではまず校正のしかたを教わった。本社では女子社員はほとんど校正だけをしていた。あたしは分室に回されることになったので、写植を打たせてもらえるらしい。ラッキーだと思った。まず、活字の並んでいる順序をそらで記憶した。八時に出社して、狭い分室のみんなの机を拭いて、お茶をいれた。急に社会人になった気がして嬉しかった。しかし母はついに職を探そうとすることはなかった。そしてある晩突然、置き手紙を残していなくなった。心配しないでいいから、ちゃんと会社に行きなさいと書いてあった。あたしも妹も心細かったが、しかたなく翌日会社と学校に出かけた。
そしてその次の晩、会社から帰って来てアパートの暗い土間の廊下を歩いていると、あたしたちの部屋の前に養父が青黒い顔で立っていた。そしてあたしを見てにっこり微笑んだ。悪い夢だと思った。逃げ出したかったが、母や妹はどうなる。養父は芝居がかった笑みを浮かべたままで、
「しず、大丈夫だ。恐がらなくても大丈夫だ。何もしないから……」
とおだやかに言った。今まで養父にそう言われて大丈夫だったことなんて一度だってない。しかしどうも彼はすでにあたしたちの部屋にやって来ていて、廊下の隅にあるトイレから戻ってきたところらしいのだ。養父は部屋の中の母にあたしが戻って来たことを告げ、あたしは母に声を掛けられ部屋の中に入った。
六畳一間に小さな台所がついただけのその部屋が急に狭く見えた。母は言った。
「お父様、あたしたちを必死で探し回ったんだって……会社にも行かずに……」
でも、見つかったのはどう考えても変だと思った。確かに養父はあたしが家出から帰ってきたあとも、「全国にコマーシャルを流してでも見つけてやるつもりだった」などと豪語していたが、どうせそんなの口だけ。話を派手にすればあたしが恐れ入るとでも思っているのだ。必死で探し回ったって、なぜ見つかる? あたしは母を少しだけ疑っていた。
「お父様ったらこんなに痩せちゃって……幽霊みたいになって来るんだもの」
母はしんみりしていた。そして、嬉しそうだった。ゆうべ母は養父と一緒にいたのだろうが、詳しいことは話してくれなかった。ただ、中学の手続きからあたしたちが東京にいるというところまではわかって、その後、最近越してきた母と娘二人の家族はいないかという探し方をしたら、このアパートの裏のほうの住人が教えてくれて見つかったという言い方をした。なんだそれはとあたしは思った。まるで説得力のない話だった。裏の住人? ほんとだとしたら余計なお世話だ。
「俺は心を入れ替えた」養父はまだ芝居を続けていた。「静子、そんなに働きたいのならおまえだけここへ残れ。知恵はまだ中学だし、二人は連れて帰る」これは意外だった。その上「五万円置いてってやるから遣いなさい」と小遣いまでくれた。あたしは内心小躍りした。三人で暮らせなくなるのは残念だったが、これであたしは自由になれるのだ。
そして本当に三人は帰って行った。母は「春になったら手続きをして、定時制の高校に入りなさいよ」と言い残した。養父は一貫してしおらしくおとなしかった。長崎へ帰る前に彼の泊まっている京王プラザの部屋を三人で訪ねたとき、「ここのホテル代はすごく高いんだからな」と的外れな自慢をしたのが唯一の彼らしい発言だった。
あたしはすぐに東京弁がしゃべれるようになった。長崎に電話すると「おねえちゃん、なんだか別の人みたい」と妹が淋しがった。あっというまに三月が来て、あたしは定時制高校の手続きをしそこねた。もうとっくに学校のことなんかどうでもよくなっていたし、それより仕事や東京のいろんなことを覚えるのに頭を遣いたかった。
あるときは巣鴨商店街を歩いていて二人の若者に声を掛けられた。なんだかさえないやつらだったが一応部屋に遊びに行った。片方のにきび面の男と二人きりになったとき、そいつはあたしに「チューして」と言った。あたしはおかしくなってその部屋から逃げた。その後も一度だけ商店街で会ったが、声を掛けられてももう返事もしなかった。
まもなく近所の魚屋に勤める十九歳の男の子と仲良くなってセックスした。初めての東京の寒さに、あたしは玉ねぎみたいに重ね着していて、裸になるのにずいぶん時間がかかった。でもその男の子には十八歳の処女の美容師の恋人がいた。小学校の六年生のとき十歳年上の水商売の女と初体験して以来、たくさんの女と関係してきたという彼は、その恋人のことは肉体関係のないまま大切にしているそうなのだった。遊びに来ていいよと言われて行ってみたら、彼女がその男の髪の毛をカットしている最中だったりしてあたしはしらけた。彼女も同じ商店街の中の美容院に勤めていて、その何もかも地元で用が済んでいる感じも好きじゃなかった。あたしが彼と仲がいいのを知って、「たまには女同士で飲みましょうよ」と誘ってきた彼女に、「あたし、あの人と寝たよ」とあたしは言ってやった。まだ男を知らない彼女はぼんやりと悲しい顔になった。肉体関係込みで男とつきあったこともないくせに、とあたしは冷たい気持ちになり、彼らへの興味をすっかりなくした。
もう一人、商店街の中のパン屋の女店員に知り合いが出来た。ときどきパンをただでくれたり、お酒をおごってくれたりするので相手にしていたが、どうもうさんくさい女で、好きにはなれなかった。何かとあたしをかまうのも、あとで自分のために働かせるための準備だというのが見え見えだった。最初は魚屋の男の子の話などしていたが、だんだんつきあわないようになっていった。新宿まで出るようになったのはその後のことだ。
店の名は「怪人二十面相」。伊勢丹の裏の、エレベーターもない小さな雑居ビルの四階にあった。あたしはそこで沢山のミュージックビデオを見て、自分が長崎にいるとき音楽だと思っていたものが、そのほんのさわりだったことを知った。そこに夜あつまってくる人々はみんな魅力的で綺麗だった。みんなあたしより年上で、客は東京の人間が多かった。逆に店員の男の子たちはほとんど地方から来ていた。みんなきちんとリーゼントにして、腰の部分がゆったりしたズボンをはいていた。
あるとき梶という店員の男の子があたしの部屋に泊まった。背が高く、体格のいい男だった。彼は当たり前のようにさっさとあたしとセックスした。とても大きなペニスをしていた。正常位で普通に動いていただけなのに、あたしはいってしまった。十五歳の時、塚田の母親が経営するスナックに昼間もぐり込んでしたとき以来の絶頂感だった。あたしが驚いていると、梶は避妊する様子もなく膣内《なか》に射精してしまった。起きあがってティッシュでそこを拭っていると、梶の精液が出てきた。
「あ、出てくる」
とあたしが言うと、梶は、
「だめだよ、中に入れとかなきゃ。子どもできないじゃん」
とあっさり言った。そして、背中を向けて寝てしまった。
翌朝、会社が休みだったあたしはずっと梶と一緒にいた。夕方近くなると、彼は「そろそろ店行かなくちゃ」と言ってリーゼントに櫛を入れた。
「いい歳してこんな頭したくないんすけどねえ。決まりだかんね」
そんなものなのか、とあたしは思った。彼の歳は二十三、四くらいだったはずだ。ポマードの沢山ついた彼のリーゼントは、櫛を入れるだけできれいに元通りになった。山手線の中で、あたしは自分のあそこから梶の精液が降りて来るのを感じた。ナプキンを当ててくればよかったと思った。新宿に着くと、梶は、
「めし喰ってくか。腹へってたら仕事つらいっしな」
と独り言のように言ってラーメン屋に入った。あたしは黙ってついていった。
「餃子食べっかなあ。ほんとは店の前は餃子まずいんだけどなあ。いいや、食べよ」
と餃子も頼んだ。あたしなんかそこにいないかのような言い方だったが、冷たい感じはしなかった。あたしはこの男が好きだなと思った。それから梶はあたしを連れて、でも何もなかったかのように「怪人二十面相」に出勤した。そして二度とあたしを誘うことはなかった。
他の店員も、なにかとあたしをかまってくれた。アキと呼ばれていた黒縁の眼鏡の店員は、ある晩、酔っぱらって騒いでいたあたしと、そばにいた十八くらいの女の子を店の隅まで引っ張っていって、説教を始めた。
「おまえたちね、まだ十代でしょ。毎日こんなことやってちゃいけないよ」あたしとその子はくすくす笑った。「おれも女二百人くらい知ってっけどね。自分をそまつにしちゃだめだよ」アキの言うことはまったくつじつまが合っていないように思えた。それにしても二十二歳で二百人というのは半端じゃなかった。その晩、結局店に残っている子たちはそのままアキのマンションに遊びに行くことになった。いつも店で会っている女の子たちが、「あれある」「グラス」「行く行く」などと声を掛け合っているのが聞こえた。もう夜明けが近かった。外に出てタクシーを待っていると、そばに停まった車の中から、
「アンパン?」
と声が掛かった。
「は?」
よく聞こえなかったあたしは、思わず聞き返した。アキたちのようにリーゼントをした、でも少しくずれた感じの若者がもういちど、
「アンパン?」
と言った。
「くらあ!」
後ろで叫んでいるのはアキだった。
「あっち行けや!」
アキは大声を出してそいつらの車をおっぱらってしまった。
「静子あんなのにひっかかってんじゃないよ」
アキはどうもあたしを守ってくれたのらしかった。
「こいつアンパン売りに声掛けられてんの」とまわりの子たちにも言っていた。アンパンとは、シンナーのことらしい。ドリンク瓶に詰めたシンナーを駅のロッカーに入れておいて、シンナーを吸っていそうなのが来ると声を掛け、そのロッカーの鍵をいくらかで売っているのだそうだ。あたしはシンナーが欲しそうな顔をしていたのか。その後もよく新宿駅の近くではアンパン売りに声を掛けられた。でもあたしがシンナーを吸うようになるのはもっとあとのことだ。
アキのマンションには、六、七人の男女が集まっていたと思う。アキは奥の部屋に入ると、手鏡くらいの丸い缶を持ってきた。ふたを開けると、その中には煙草の葉のようなものがびっしり詰まっていた。
「グラス、グラス」とみんなが言った。これがそのグラスというものらしかった。アキは小さな紙でその葉を巻いて煙草を作り、火を付けた。すっと吸い込んだと思ったら息を止め、左手で自分の口を押さえながらその煙草を近くにいる女の子に渡している。そしてその女の子もアキと同じようにして、隣の子に煙草を回す。どうやら大切な煙草なのらしい。甘い匂いが部屋にこもってくる。他の女の子たちは待ちきれないように「あたしも、あたしも」と手を伸ばす。どういう効果があるのか、煙草を吸った子からだんだん淫らな態度があらわれてきた。あたしの斜め前にいる太った女の子なんか、となりの痩せた男の子に「ねえ、やって。やってよ」と露骨におねだりしている。電気が消され、部屋は薄暗くなった。「しょうがねえなあ」煙草に夢中なその痩せた男はいやいやながら煙草を人に渡し、太った女の子に乗っかっていった。
「うーん」
ほんとにしているらしい。少しして男は顔をあげ、
「やだよこいつがばがばなんだもん、入れてんだかわかんねえ」
と言った。失礼な男だと思ったが、やられている女は平気なのだろうか。あたしは気持ちがさめていくのを感じていた。「静子初めて? 吸い方、教えてやるよ」とアキに言われたが、吸わなかった。まわりの女はみんな、あたしの分まで吸いたくてうずうずしていた。この煙草を持っているというだけで、アキは人気者なのらしかった。暗い中、あっちでもこっちでも男と女が絡みあっているのが見えた。
夜が明けて昼頃になると、部屋にはアキとあたしと、ゆうべ初めて会ったおかっぱの女の子の三人だけになった。あたしは服を着ていたが、おかっぱの子は紺色の小さなパンティしかはいていなかった。暗くてよくわからなかったけど、ここにこうして残っているくらいだからこの人はゆうべアキとセックスしていたのかもしれないなと思った。あたしがぼんやりしていると、アキは奥の部屋にあたしを連れて行き、セックスした。おかっぱの子には、「こっち来ないでねー」と声を掛けていた。二百人も女を知っているアキがどんなセックスをするのかと思ったが、「あっここ、ここも舐《な》めて、こっちのほうも」などと催促をしたりするずうずうしいやり方で、別にどうということはなかった。終わるとアキは、さんざん洗濯してすっかり白くなったところが自慢だというジーンズをはいて、仕事に出ていった。部屋にはあたしとおかっぱの子ふたりだけが残った。おかっぱの子は、どうやらいつもこうして部屋をまかされたりもしているらしかった。彼女はさっきあたしとアキがしていたとき、どういう気持ちでいたんだろうと少し思った。
「名前、なんていうの?」
彼女があたしに聞いた。
「静子」
「静子いくつなの?」
「十六」
「十六かあ」
「おねえさんは?」
「十九。しおりっていうの」
彼女はまだ紺色のパンティのままだった。紺色のパンティは彼女によく似合うと思った。顔の両脇から降りているおかっぱの髪のあいだから、くわえ煙草が揺れていた。あたしは彼女に少し親しみを覚えた。ゆうべから不思議だったことを聞いてみようと思った。
「ねえ、グラスってなに?」
「マリファナよ」
顔には出さなかったがあたしはすごく驚いた。
「それって警察に捕まるようなものじゃないの?」
「まあね」
アンパン売りをおっぱらったときのアキが頭をよぎった。
「すごく高いんじゃないの?」
「だと思うよ」
「でも沢山あったね……」
「アキちゃんはいつも沢山持ってるよ。ルート知ってんじゃないの」
それから彼女とあたしはタクシーで新宿まで一緒に行くことにした。アキのマンションは中野というところにあるのらしい。あたしの頭の中にはまだ、東京の地図は出来てはいなかった。
タクシーの中で、あたしはふと思いついて言った。
「ねえ。しおりって呼んでいい?」
彼女は少し驚いたようだったが、「いいよ」と言ってくれた。
でもそれきり彼女に会うことはなかった。アキの部屋に行ったのもそれが最初で最後だった。
しばらくするとあたしは久美という十八歳の女の子とよく遊ぶようになった。それまであこがれていた秋子やカオルたちには、アキの部屋でマリファナに群がっているところを見てからなんとなく興味をなくしてしまったのだ。久美はちょっとふっくらしたいかにも女の子女の子した子だった。おかあさんの編んでくれたセーターを腕まくりして着てきては、
「ねえねえ、セーターで腕まくりするのってあたしくらいだと思わない?」
とはしゃぐような子だった。「二十面相」の店員のサトルとつきあっていた。サトルは店員の中でも一番おっさんくさくて人を安心させるタイプだった。
久美の家は世田谷のどこかにある団地だった。新宿の地下から電車に乗って、小さな駅で降りたのを覚えている。久美の家に泊まって、翌朝はまた新宿に出てレストランでランチを食べたりした。自宅に住む久美と違って、一人暮らしのあたしにはレストランのランチは大きな出費だった。久美は、
「こんな高いのを食べてあたしったらぜいたくだと思うでしょー、ごめんねごめんねー」
と甘い声で謝ったが、かといって気を遣っているようでもなかった。すぐにタクシーを使って移動し、次に行った店の子に、
「オートンで来ちゃったー」
と自慢したりした。あたしにないものを持っている女ではあった。
ある日、深夜まで店にいたあたしはサトルの部屋に泊めてもらうことになった。その晩あたしはウイスキーを飲み過ぎて店のトイレでげえげえ吐いた。サトルが後ろで、「あーあーそんなに吐いちゃって、セックスできねえじゃん、それじゃ」と冗談を言っているのが聞こえた。
「ちゃんとうがいしてきたもん」
あたしもやり返した。近くにいた外国人の男たちから歳を聞かれ、
「シックスティーン」
と言ったら、びっくりしていた。
あたしはサトルはセックスしないと思っていた。久美とつきあっているし、あたしも久美とよく遊んでいるのを知っている。店に来る女の子たちがしょっちゅうアキの部屋などに出入りしているのもわかっていたし、ただ泊めてくれただけだと思っていたのだ。でも、やっぱり、した。今までした店の子の中のだれよりも小さいペニスだった。
あたしはサトルの部屋に泊まったことを久美に話すべきかどうか少し考えたが、セックスしたってことを言わなければいいんだと思って、話すことにした。
「こないだサトルちゃんちに泊めてもらったんだよ」
久美の表情はみるみるうちに暗くなり、彼女は黙り込んでしまった。あたしは、セックスしたって言ったわけでもないのになぜだろうと思ったが、弁解するのはやめた。
「そりゃあそうでしょう」
サトルはその話を聞いてそう言った。怒っているようではなかった。
「そうだったんだ……」
あたしはちょっと悪いことをしたかもしれないと思った。でもそれからまたあたしはサトルの部屋に泊まって彼とセックスした。サトルはあたしにいろんなことを話してくれた。あたしはサトルの部屋の、ビールのケースを並べて作ったベッドや、伸びっぱなしの観葉植物が好きになってきていた。あたしは東京で初めて、自分の家の話をした。
ここまでたったの二カ月だった。今思うとあたしはむさぼるようにだれかを探していたようだ。二カ月後の給料日。おなかをすかせて帰ってきたあたしは、部屋のテーブルの上に給料袋を置いたまま、近所にごはんを食べに出かけてしまった。すぐに戻るつもりだった。途中、あのパン屋の変な女にばったり会ってしまい、くっついて来たのには困った。とりあえず家に帰るからと言って、戻ってきた。
帰ってきたら、給料袋がなかった。その代わりに、養父と母がいた。突然のことにあたしは声も出なかった。養父はすっかりパワーを取り戻し、いつもの邪悪な目をぎらぎらさせていた。
「長崎に帰ったら、おまえのしていたことは何もかもばれたんだぞ」
何のことを言っているのだかわからなかった。
「おまえは警察のブラックリストに載っていた。覚醒剤をやっていたのも知っているぞ」
そんなのやった覚えはなかった。
「このあたりの男全部とやっていたのも知っている。さっき裏口から男が来ていたぞ」
どんどん話が大きくなっていく。魚屋の男の子がときどき裏口から遊びに来ていたことはあったが、もうそんなつきあいはとっくになくなっていた。
「そうなんです。この子はもうたいへんな男好きですよ。有名です」
口を出したのはパン屋の女だった。
「なんなのよそれ」
あたしは思わず叫んだ。やっぱりこいつは頭がおかしかったのだ。
母は横で悲しそうな顔をしていた。
「静子さん、長崎に帰りましょう」
パン屋の変な女はまだ何か言いたそうだった。とにかく、話をややこしくしないように帰ってもらい、あたしは養父と母から納得のいかない話をながながと聞かされた。何を言ってもだめだった。
ふと、母が言った。
「静子さんたらお給料を置いたまま出ていくなんて、ぶっそうねえ」
ぶっそうなのはあんたたちだ、とあたしは思った。
「俺が置いてってやった五万ももう遣ってしまいやがって。なんかのときのためのつもりだったのに、なんというやつだおまえは」
じゃああたしの給料を盗っちゃってるあんたはどうなの? とあたしは心の中で言い返した。給料を返して欲しかった。
せっかく自由になれたのに、またこうしてあたしは連れ戻されてしまうのだ。やっぱりこの男にあたしの居場所がわかっているうちは、何をやっても同じだったのだ。
翌日、養父はさっさと引っ越し業者を呼んでしまった。どう見てもまだ買ったばかりの家具を見て、業者の一人があたしに、
「もう帰っちゃうのかなあ?」
とお愛想を言った。もちろん知らないおじさんだった。新しい家具だし、まだ五月だからそんなことを言ったのだ。なのに養父はそれを聞いて、
「ほら見ろ。こいつがこの辺の男全部とやっているから、あんなやつまでにあんなことを言われるんだぞ」
と母にすごんだ。あたしは何か言いたかったが、母までが、
「静子ちゃん、あんたよく妊娠しなかったわねえ」
と言うので、もう何も言わないことにした。どんなにすごい妄想でも、母は養父の言うことなら全部信じるつもりでいるのだ。
誰にもお別れが言えなかった。
空港に着いたら、まだ飛行機の時間までに余裕があった。養父は飛行場の中の喫茶店にあたしたちを連れて行った。
「俺はコーヒー」メニューをちらと見て、養父が言った。
「あたしも」母はそう言った。
「おまえは何にする」養父はあたしに聞いた。でもあたしは、メニューなんか見せてもらっていなかった。「メニュー見せて下さい」とウエイトレスからそれを借り、「オレンジジュース」と頼んだ。
ウエイトレスがいなくなると、養父はあたしをにらみつけた。
「なんだジュースなんか頼みやがって。七百円もするのに、なんでおまえは人と同じ物を頼まないのか。こんな飛行場の店は高いのに馬鹿が」
またこれだ。じゃあなんであたしに聞くの? 何にすると聞かれたから選んだだけだ。選ばせる気がないのなら最初から勝手にコーヒー三つを頼んでしまえばいいではないか。あたしを働かせる気も、東京で暮らさせる気も最初からなかったくせに。あたしは黙っていたが、心は煮えくり返っていた。
「静子ちゃん、一応これを飲んどきなさい」
長崎に帰ると、母は養父に内緒であたしにえんじ色のカプセルを何個か渡した。それは、初期の妊娠なら胎芽を流すことが出来る薬だということだった。この人は、こっちが何を話したわけでもないのに、本気でやりまくっていたと思ってるんだなあ、とあたしはしみじみと感心してしまった。でもまあそれほど事実と違っているわけでもないので、有り難くそれを飲んだ。妊娠はしていなかったと思う。別に何も起こる気配はなかった。
帰ってくるとあたしはやはり勉強して暮らさなければならないようだった。子ども部屋で机に向かっていると、母が養父にねちねちといびられているのが聞こえてきた。
「全部持って行きやがったからな。百万だぞ、百万。よくもまあ」
養父はあたしたちが東京に逃げたとき、母が通帳全部を持っていったことを責めているのだった。
「ゴローは置いて行きやがって。犬が可哀そうだとは思わなかったのか、ああ?」
それでは精神病院でロボトミーやられるかもしれなかったあたしは可哀そうじゃないのか?
母はただしょんぼりしていた。通帳が誰の名義になっているか知らないが、たぶん彼女は娘を助けるので夢中だっただけだと思った。養父はあたしが家出から帰ってきたときに「いくらでも持って行け」などと言ったのはもうなかったことにしているのだろう。くれると言った五万円も同じだ。あたしはまだ、取り上げられた給料袋のことを思うと悔しくてしょうがなかった。でももちろん養父は稼いだ本人にそれを返すことなんか考えてもいなかった。
養父は母をいびりにいびったあげく、
「わたしはお金を持ち逃げしましたと、一筆書いておけ」
と命令までした。あたしはびっくりしたが、母はだまってそれを書いていた。そんなことまでさせられなきゃいけないの? とあたしは母の背中に声にならない問いを投げかけた。どうしてなんでも言われるままになるんですか。そうやってあなたが何でも言うことを聞くから、どんどんひどいことになっているのではないんですか? あたしにはまだ、妾だからだろうという判断はできなかった。だけど妾だからと言って、ここまでしなければならないものなのだろうか。
[#改ページ]
そんな状態でも母も養父もまだ、あたしの進学をあきらめてはいないようだった。あまりのしつこさにあたしはうんざりし、そして不思議になってきた。養父はまだ「静子は大学を出たら俺の秘書にしておれの子を産ませる」と言ってる。どうも大学に行きさえすればあたしがおとなしく勉強だけしているものと思ってるらしい、なぜだろう。それとも、もしかしたらあたしが学生をやっているあいだじゅう、こっちが思いもつかないようなすごい方法であたしを見張るつもりなのだろうか。
「お父様は静子ちゃんに賭けているのよ」
母は言った。
「長男の明弘さんは、お父様とずっと言い合いしているような息子さんだったんだって。相当成績は良かったのに、結局勉強しなくなって自分の行きたい学校へ行ってしまったの。次男の勝さんはそんなに勉強できないから、今でもずっと浪人でね……一応医学部志望なんだけど、もうたいした学校へは入れないだろうって。末っ子の娘さんは、あの子は、最初っからそっちはだめなのよ……」
彼女は養父がハイミナール中毒の頃に出来た子どもなのだという。
「お茶をいれたりごはんを作ったり、そういうほうにはとても気の利くいい子なんだって。でも勉強はぜんぜん出来ないの。特殊学級に入れませんかという話まで来たんだって。お父様がかんかんに怒って入れさせなかったそうなんだけどね」
養父らしい話だ。
「だから、静子ちゃんだけが望みの綱なのよ。あんただったら東大でも医学部でも入るとお父様は期待をかけてらっしゃるのよ」
母はほめているつもりなのだろう。でもあたしは嬉しくない。
だってあたしはあの男の子どもじゃない。
それに、それがほんとならあたしとやりたがるのは止めて欲しい。だいいちあたしがもし、大学を出てほんとに養父の子どもを産んだとしたら、母はどういう立場になるのだろう。母自身はそういうことを考えたことがあるのだろうか。母はそれに関してはあたしと話をしようとはしなかった。
母も妹も出かけてしまったある日、あたしはまた養父のベッドに呼ばれた。むしずの走る思いだったが、せっかくだから一つ謎を解いてやろうと思った。あたしはふだんよりおとなしくして、この状態を受け入れているような芝居をしてみた。
養父は簡単にだまされた。機嫌をよくして、
「おまえは大学を出たら俺の秘書にしてやるからな」
と言った。あたしがそれを喜ぶとでも思っているような言い方だった。あたしは、ちょっとだけ恋人に言うみたいな言い方で、
「お母様はどうなるの?」
と聞いてみた。養父がどう答えるか見ものだと思った。
「あれは」
養父は母のことをあれと言った。
「あれは、そのままでいい」
「そのままって?」
「そのままは、そのままだ」
あたしは、その意味を考えてみた。実の奥さんは、実の奥さんのまま。あたしの母は、妾のまま。その上であたしには子どもを産めという意味のようだった。養父は母と籍を入れる気なんか全くなかったのだ。
ある晩、母が暗い顔であたしに話しかけた。妹は別の部屋で寝ていたし、養父はまだ帰ってきていなかった。
「静子ちゃん、あたしね、子ども堕ろしてきたのよ」
母はそう言って産婦人科の領収書をがさがさと開いて見せた。書かれている金額はよく見えなかったが、あたしは少しだけ、そんなものまでわざわざ見せなくても話だけでいいのにと思った。そういうところが、母まで養父に似てきているような気がした。
「いつ?」
「おとといよ」
母は寝込みもせず、ふだんどおりに家事をこなしていた。いつのまに手術なんかしてきたのだろう。母は、
「こんなときにあたしが中絶するなんて、皮肉でしょ」
という言い方をしたが、あたしはそれを、養父があたしや母の態度に目をつけているときだから、家事を休んでゆっくりすることも出来なかったのよ、という意味に受け取っていた。
そういえば、いつだったか早朝の五時ごろ、母の大きなあえぎ声が聞こえてきたことがあった。
彼らの寝室は二つ向こうの部屋なので、その声の大きさにあたしは少しとまどった。二人ともあたしが勉強で起きていることを忘れているのだと思った。ふだんは朝までちゃんと起きて勉強していないと「勉強のためならともかく、ストーブの石油がもったいない」とうたた寝さえ怒られていたのに、やっぱりセックスのときはそんなことも忘れるものなのかなあ、とあたしはぼんやり考えた。ほかにも、そうか、早朝にするっていうのもあるのか、とか、大きい声で元気だなー、とかは思っていた。
なのに母の中絶を聞いた今、そのときの記憶と母の「皮肉でしょ」という言葉が、アボイドノートを入れながら、それでも一つの和音を形成しようとしている。あたしは、そのいくつかの音をそのまま頭の中の深い井戸の中に放り込んでしまった。その頃のあたしの耳には耐えられなかった響きだったのだ。
あたしには、実の父親に対して「パパのお嫁さんになるの」なんてのどかなことを言う少女時代すらなかった。いつも、大人の男は母を苦しめる役として登場してきた。母を殴ってばかりいた実父。実父と別れたあとも続けてやってきた借金取りの男たち。母はそのたび「うちはもう関係ありませんから」と帰ってもらっていたが、一度母の留守にやってきた初老の男は、「お母さんが留守ならあんたたちでなんとかしろ。金を払え」とあたしと妹に詰め寄った。大人の男はいつもそういう役だ。あたしの体を触る痴漢たちもみんな大人だ。学校の先生たちも含めて、実父や養父に歳の近い男はあたしにとってはたいがいが敵だった。そんなあたしが母親と男を取り合いたいなんて思うだろうか。あたしは養父のことを男として意識したことはなかった。体はやられていても心はけして許さなかった。養父があたしについて、どのような妄想を持ち、それをいくら母に得意げに話していようが、あたしには全く関係ないことだったのだ。なのに、母はあたしに養父を取られるとでも思っていたのだ。あれは、「あたしだってやってもらってるんですからね」という意味だったのだ。
養父はあたしとセックスするときいつも避妊をしなかった。医薬品を扱っている彼が「俺は精子を殺す薬を飲んでいるから大丈夫なのだ」と言うのでそんな薬もあるのかと思っていた。
母はあたしの生理日を知っていた。母が買いだめしていたナプキンをあたしは生理が始まる度に母のところへもらいに行っていたのだ。母もあたしも、生理は割にきちんと来るほうだった。でももちろんその頃は、母が安全日まで考えてセッティングしているなんて全く気がつかなかった。あたしはただ、今月もあの儀式はあるんだろうか、なければいいのにな、なくて済みますように、とそればかり祈っていたから。
「あのパン屋の女から手紙が来たぞ」
養父があたしたちの部屋にまで聞こえる声で母に話をしている。
「あの女、どうもあやしいと思ったら、東京に来るとき電話してくださいなんて言っている。若い女の子を紹介するそうだ」
なんだそりゃ、とあたしは子ども部屋で首をかしげた。
「売春の斡旋をしているらしいな。どうも様子がおかしいと思っていたのだ。相手にしないほうがいいな」
東京ではあたしの言うことなんか聞かないであの女が言うことを信じたくせに、とあたしは腹が立った。養父の言い方には「おれはもてるからなあ」という自慢が隠れていた。母はだまっていた。どんな顔で聞いているのだろうとあたしは思った。
あたしは新宿の「怪人二十面相」が懐かしかった。あの店でよくかかっていた、もう解散してしまったというバンドのレコードを買って、何度も何度も聞いていた。リードヴォーカルの人よりギターの人の声のほうが好きだと思った。ギターのソロのところも、救急車みたいな音の掛け合いがあったりして面白いと思った。細かいところまで聞こえたのは、いつもヘッドフォンをかけていたからかもしれない。ステレオの前に座り込んでいても、自然に体が揺れてきた。あたしは、ダンスの教師だったはずの母に、
「ねえ、ここんとこ面白いんだよ」
と音楽の話をしようとした。母はあたしの話をさえぎり、
「面白いのはあんたのほうだよ、一人で踊って」
と言った。それから妹と二人で笑った。あたしはもう母にレコードの話はしないことにした。そのかわり、突然思い立って髪にパーマをかけて帰った。母はあたしのくるくるに巻いた髪を見て、
「お父様に見られたらどうするの」
とあわてた。いい気味だった。
養父はあたしたちが小学生の頃から髪型や着るものにうるさかったが、とくにあたしが段カットにして髪を後ろに流していたときにいやな顔をした。ワンレングスの長い髪は気に入っていたらしいが、ウエーブやカールのある髪型は、男に媚びているように見えていまいましいらしい。くせのあるあたしの髪は、ちょっと段をつけてカットするとすぐにウエーブが出てしまうので、だいたいあたしは養父の前では髪をくくっていた。
「お父様の前では見つからないようにしなさいよ」
しかし養父は目ざとかった。あたしが通り過ぎて行っただけで、
「あれは耳んとこの髪が縮れとるじゃないか。何をしたのか」
と母に言っているのが聞こえた。母は小さくなっていた。
そのうちあたしは髪をくくるのをやめてしまい、カールした髪を揺らしながら養父の前をうろうろしてやった。どこへも出させてもらえるわけではなかったが、あたしは自分の好きな格好でいたかった。
「なんだあの頭……」
養父が怒りに絶句しているのが聞こえた。
「静子ちゃん、ちゃんとカールが出ないようにくくっていなさい」
母が言っても聞かなかったので、ついに養父に呼びつけられた。
「おまえはなんでそんな頭をしているのか」
自分が何を答えたか覚えていない。次の瞬間あたしは殴りとばされた。それから髪を鷲掴みにされて引きずられ、前が見えなくなった。いつのまに養父がそれを手にしていたのかわからない。あたしの額のすぐ上で、母の使っている大きな裁《た》ちばさみがじゃきんと音を立てた。
「こんな、こんな頭をしやがって」
養父は次々にあたしの髪をつかんではざくざくと切り落とした。母は止めようとはしなかった。あたしの頭はあっと言う間にいがぐりのようになってしまった。
「どうだ」
養父は自分の作品に満足したらしい。
「この頭で外に出れるなら、どこにでも行ってみろ!」
と言って、あたしの頭を張り飛ばした。倒れながらあたしは、ああまたこの言い方だと思った。冷めた気持ちになり、涙も出なかった。それでなくても少し前から、あたしは養父に殴られても泣かなくなっていた。この言い方は、「私は勉強をさぼりました」と書かれたプラカードをつけて男子校の前に立っていろと言ったときや「熱湯で顔を焼いてやる」と言ったときと同じだ。放っておけばあたしが毎日そこらへんの男に色目を遣っているものとなぜか思い込んでいて、それを邪魔することこそあたしをやっつける最良の方法だと考えているのだ。
あたしは養父のそのセリフを忘れなかった。あとで母が、
「静子ちゃん、美容院に行って髪をそろえてもらいましょう」
と言いに来たときも、むちゃくちゃに切られた頭のまま、帽子もかぶらず外に出てやった。母はなるべく家から離れた美容院にあたしを連れていった。美容師はアバンギャルドなあたしの髪型を見て、
「どうしたんですかこれ」
と目を丸くした。
そしてあたしは男の子みたいな頭になった。その短い髪で、サトルみたいにポマードをつけて櫛でなでつけたりしてみた。妹は不思議そうな顔でそれを見ていた。そんな夏だった。あたしは十七歳になった。それからすぐあたしはまた家を出た。それが最後だ。何がきっかけだったか覚えていない。小さな家出を繰り返していた頃、母があたしに、
「雨が降ると静子ちゃんは家を出ていくのね」
と言ったことがあるから、雨が降っていたのかもしれない。
あたしはしばらく俊の家にいた。俊は、自分の大きなアロハをあたしに着せて、踊りに連れて行ってくれた。あたしが踊ると、みんながこっちを見た。そういえば、新宿のあの店でも、ツイストを踊ってみたら、サトルに「うまいなあ」と言われたことがあった。母からは一度もそんなふうに言われたことがなかった。母が昔「運動会のあの広いグラウンドでも静子ちゃんだけ動きでわかるんだもんねえ」と言ったときは、そのばかにしたような言い方にあたしは小さくなっていたのだ。自分では特別な動きをしたつもりはなかったのに、ダンスの教師だった母から暗に「みっともない」と言われて悲しかった。体育の授業のときも、あたしが踊ると「なあに、あれ」と言われてたりしてたし、あたしはやっぱりどこか変なのかもしれないと思っていた。なのにここでは「だれ、あれ」「うまいじゃん」という声が聞こえてくる。あたしは生まれて初めて自分が誇らしかった。あたしの踊りは変じゃなかったのだ。
毎日俊とセックスした。昼間っからベッドの中でいちゃいちゃしていた。俊はあたしの耳の中に舌を入れると、あたしが身もだえするのが気に入っていた。あたしは東京に俊から借りたミッシェル・ポルナレフのレコードを持って行ったのに、それを魚屋の男の子に貸したまま帰ってきてしまったのを済まないと思っていたが、俊は何も言わなかった。そのかわりあたしは、俊が気持ちいいと思うことのすべてをしてあげた。
さすがに俊のお母さんもあたしがいつも家にいるのを気づいていた。俊に、
「あの子ずっといるけど」
と聞いたりしているようだった。あたしはどうしていいかよくわからず、ちゃんとあいさつもしていなかった。俊のお母さんはホステスをしている。朝は遅くまで寝ているし、夕方には出かけてしまうので俊とはあまり接触がない。俊は彼女がいなくなってからあたしに食事をさせた。自分の身の回りのことはほとんど自分でしているようだった。
ある日、俊は新聞を広げてはさみで切っていた。その小さな小さなたんざくをあたしに渡し、
「ここに行ってみ」
と言った。それは、旅館の住み込みの従業員の募集の記事だった。
「どっかここら辺に、使ってない履歴書しまっといたんだけどな」
と言いながら、俊は履歴書用紙を探してくれた。
「俊ちゃん履歴書用紙なんて使うの?」
俊はまだ高校三年生だった。
「バイトんとき、書くでしょ」
そう言いながら、俊はあたしの履歴書を書くのを手伝ってくれた。十七歳と書くと親の連絡先を書かなきゃなんないから、十八にしときな、と言った。
「もし捜索願とか出てたらやばいから、名前うそ書いといたほうがいいかもな」
あたしも今度こそ塚田と一緒のときのようなへまはしたくなかった。名字は田中を逆にして、中田にした。
「あたし、静子って名前も嫌い」
「なんか好きなのにしちゃいな」
静子という名が持つ暗い響きがいやだったあたしは、思いきり明るい名前になりたかった。
「明美だ」
「あけみ?」
「あたし、明美がいい」
こうしてあたしは中田明美になった。それから三年後に上京するまで、あたしは長崎ではずっとアケミだった。
虎屋旅館は思っていたより大きかった。四階建てのビルで、看板には「国際観光旅館」と出ていた。俊はカブで旅館の前まで送ってくれ、
「がんばってねー」
といつもの静かな調子で言って、帰っていった。あたしは難なく雇ってもらい、売店の売り子になることが決まった。
社員寮は旅館から少し離れたところにある古ぼけた一軒家だった。沢山部屋があったが、人が使っているのは二階の六畳と、一階の中庭のそばのトイレと洗面所だけだった。あとの部屋はみな、土足で入らなければならないほど汚れていた。その二階の部屋は両側に二つの二段ベッドが置いてあり、先輩になる二人の女子社員はそれぞれのベッドの下の段に住んでいた。三人目のあたしは、左の上の段を借りることになった。二人の先輩は、右のベッドの人が斉藤さん、左の人が由美ちゃんと言った。斉藤さんは少し年上でおばさんくさい人だったが、由美ちゃんはあたしと同じ(ほんとは一つ上)の十八歳だった。彼女たちは二人とも売店でなくフロントの担当だった。
あたしはまもなく自分の嘘の歳や嘘の名前に慣れてきた。最初の頃、すぐそばで、
「中田さん」
と呼ばれてもぼんやりしていたりして、
「どうしたの? 耳遠いの?」
と言われたこともあったが、そのうちそういうこともなくなった。嘘の歳に慣れるには、干支《えと》を覚えておくのがポイントだということも知った。
売店の仕事は簡単だった。早番のときは朝に買い物をするお客の相手をし、在庫を調べて伝票を書いてフロントへ出す。それから郵送のおみやげの発送。遅番のときはほとんどお客の相手だけ。包装紙を使って箱を綺麗に包むのが少し難しかったが、まもなく上手に出来るようになった。食事は地下の厨房の隅の小さな部屋に交替で行って取った。従業員用のおかずは部屋の横の棚に並べてある。そこから自分でおかずを取り、従業員用の大きなジャーからご飯をよそって食べる。味噌汁だけは厨房を横切って、板さんたちからもらって来る。板さんたちにお愛想を言うと、卵を入れてくれたりすることも学んだ。おかずはいつも冷めてはいたが、そんなプロセスが新鮮で、あたしには楽しい食事だった。
売店の先輩は、東山路さんという長い名字のお姉さんと、どう見てももうおばあさんの村田さんの二人だった。あたしはこの村田という人が苦手だった。ものすごいおしゃべりで、余計なことまでいちいち干渉する人なのだ。東山路さんがもうすぐ結婚して辞めてしまうと聞いて、あたしは気が重くなった。あんのじょう、東山路さんが辞めると村田さんの干渉の度合いがますますひどくなってきた。ほかの従業員たちも、
「あの人はあんなだから、自分の子どもたちにも相手にされないの。だからあの歳になって、住み込みで働いてるんだよ」
と悪口を言っていた。あの古い一軒家に住んでるのはあたしたち三人だけだが、他にも住み込みの人は結構いて、その人たちは旅館の地下に住んでいるのだそうだ。つまりあたしたちはそこからこぼれた三人なわけなのだったが、あたしは旅館の中に住むよりもあそこの方が気が楽だと思った。昼間に窓を開けてぼんやりしていると、聞き慣れない音楽がときどき流れてくる。毎週休みの日には俊と行く、いつものダンスホールでかかる音楽に少し似ているけど、響きが違うのだ。気むずかしい和音を沢山含んでいるようだったが、あたしは嫌いじゃないなと思った。あとになって、それがジャズという音楽なのを知った。
東山路さんが辞めたというのに、あたしは支配人からフロントに移るように命じられた。その準備のために、テレックスの操作を学ぶ教室に通えと言う。あたしは業務命令通り、毎週その時間になると売店の仕事を抜け、電電公社に通った。
テレックスは、黒い電話の受話器とタイプライターのくっついた大きな箱だった。旅館のフロントの奥にあるそれが、遅番の時間にときどきすごい音をたてて、勝手に動き出すのが聞こえてはいた。
操作そのものは簡単だった。電話をかけてからタイプを打てばいいのだ。こちらで打つと、それと同じ文面を、電話をかけた相手のテレックスも打つ仕組みだという。あたしはまだ、旅館でそれが何に使われているのかよくわからずにいたが、使い方はすぐに覚えられた。タイプの運指がおぼつかないのだけが問題だったが、前もってゆっくり打っておいたものをテープにしてそれで送ることも出来るという。教室には他にもいろんな職種の人たちが来ていた。久しぶりの勉強は面白く、通うのは楽しかったが、ある日教室の帰りに、あの中学予備校で一緒だった中田とばったり会ってしまった。中田は、旅館の制服の胸に「中田」というネームプレートを付けたあたしを見て、
「なんでおまえ、中田になってんの?」
と聞いた。言われて初めて、こいつと同じ名字になっている自分に気づき、あたしは舌打ちした。中田はまだ学生服を着ていた。無事高校に入ったのかもしれなかったが、それを質問するほどの興味も湧いてこなかった。どっちにしろ、もう住む世界が違うと思った。あたしは何も答えず、旅館に向かって走って行った。
村田さんの干渉は日に日にひどくなり、我慢が出来ないほどになってきた。もう少ししたらフロントに移るんだから、とあたしは自分に言い聞かせたが、どうしようもない。遠回しに、「そんなことくらいわかりますから黙っててください」と言っているつもりなのだが、聞いてもらえない。
ついにある日、あたしは切れた。本人にはっきり言うつもりで、遅番が終わった時間に、裏口近くにあるタイムカードのところで彼女を待ち伏せした。
黒い細身の影になって彼女がやってきた。あたしは、
「ちょっと話があるんですけど」
と低い声を出した。村田さんはあたしがまだ何も言わないうちから、
「あなた、なに、なんのつもり」
と体中で動揺を表した。今にも走って逃げそうなその様子に、あたしは思わず彼女の胸ぐらをぐいとつかんでしまった。
「ぼ、ぼ、暴力はやめなさい! いや、やめて!」
こんな大騒ぎになるとは思わなかったあたしだったが、それでも抗議の主旨だけはなんとか伝えなくてはと思った。だが、こっちも興奮してしまっていてつい、
「人のこといちーちごちゃごちゃ言わないでほっとけよ」
というような言い方になってしまった。手を離すと村田さんはタイムカードも押さずに走って逃げた。そして、あたしがフロントに移るころには旅館を辞めていってしまった。
「あんな人ほかに雇ってくれるとこなんてあるのかしらねえ」
と他の人たちが言うのを聞いて、あたしは少し申し訳ない気持ちになった。最後の日には村田さんの子どもだという人が彼女を迎えに来ていた。
売店にはまもなく、新しい人が入った。それと同時に、斉藤さんが寮を出て自宅から通勤することになった。あたしは彼女が使っていた右側の二段ベッドの下の段に引っ越しをした。由美ちゃんは、歳の近いあたしと二人になって嬉しそうだった。
フロントの仕事にもまもなく慣れた。テレックスは、交通公社や、近畿日本ツーリストからの宿泊の予約を流してくるものだということも知った。夜中に動き出してガシャガシャとそれらを打ち出したあと、こちらから「りょうかい」とキイを打ってやると、顔も知らない相手が「こんばんは」などと打ち返してくることもあって、楽しかった。
フロントの遅番はチェックインの午後三時から夜の十一時。続けて翌日の早番の朝七時から昼の三時までを務めると、こんどは次の日の三時まで休みになる。一日置きに遊んでいられるので、給料の四万五千円はあっと言う間になくなってしまう。
まず三時に入ったら、チェックインしてくるお客を客室まで案内し、客室係のおねえさんたちに知らせる。あたしたちはほとんどがおばさんやおばあさんである彼女らを、「圭子ねえさん」のように、名前に「ねえさん」と付けて呼ぶよう教育されていた。支配人の奥さんであるおかみさんのことは、「おかっつぁま」。それが正しい長崎弁での呼び方なのだそうだ。夕食時にはおねえさんたちから来る飲み物や食べ物の注文の伝票を書いてから、厨房に知らせる。板さんには気むずかしい人もいて、お客から来た注文なのに、「なんだと?」とフロントへ因縁をつけ出す人もいた。あたしは一度そういうタイプの人につかまってしまい、何度「そういうご注文なんです」と言っても聞いてもらえず、いつまでもしつこく怒鳴られ泣いてしまった。おねえさんたちも、何かというとトラブルをフロントのせいにする。夜中に酔っぱらってチェックインするお客に、エレベーターの中で体を押しつけられるのはフロント。でもそのあと客室にやってくる年寄りのおねえさんたちには誰もそんなことはしない。文句を言われるのはフロントで、チップをもらえるのは客室係。損な仕事だと思ったが、売店よりは何倍も面白かった。
もちろん板さんにも優しい人はいた。あたしは最初、一番若くて可愛い見習いの子が気に入っていた。彼とは一度公園を散歩した。ブランコに並んで座って、しばらく過ごしたが、彼の話はちっとも面白くなかった。あたしはちょっとふてくされて、
「ねえ、なんであたしと一緒にいるの?」
と聞いてみた。彼は何も答えられないようだった。あたしは続けて、
「あたしが、やらしてくれそうだから?」
と聞いた。彼は、
「うん」
と正直に答えたが、その頭の悪そうな、でもしっかり期待だけはしている表情を見て、あたしの気持ちはすっかりしらけた。あたしはいきなりブランコを揺らして立ち上がり、彼を置いてさっさと一人で帰ってきてしまった。
もう一人、色白で小太りで、いかにも人の良さそうな板さんとも夜道を歩いてみた。彼は、ラブホテルを見るたび、
「ラブホテルがあるね」
とあたしに言った。
「あたし、まだラブホテルって行ったことない」
とあたしは応えた。
「中、見てみたい?」
「うん、見てみたい」
それは嘘ではなかった。彼とあたしはそのあと近くのラブホテルに入って、二人で部屋に並んで座った。赤い照明の下に、妙にふかふかした布団が敷いてある小さな和室だった。あたしたちが働いてる旅館の部屋とはだいぶ雰囲気が違っていた。彼がなんだかそわそわしているようなので、あたしはちょっと困った気持ちになった。彼は、
「ねえ布団に入んないの? おれ入るよ」
と言って布団に入ってしまった。あたしはその横に座ったまま、自分の家の話をしてみた。自分では、この話をしたあとの印象で、相手の性格もわかるし、この話は何よりもこういう気まずい場面で間が持つものと思っていた。ところが彼は話の途中で、
「よくある話じゃん」
と一言だけ言った。なんでここまで来てそんな話すんだよ、いいだろ別にしなくても、といった感じだった。この人はあたしと一緒に布団には入りたくても、あたしの育ってきた過程には全く興味がないのだということがあまりにも良くわかってしまい、あたしはなんだか淋しい気持ちになった。
「ねえ布団には入んないの?」
彼はもう一度聞いた。
「あたし、中見たいって言っただけだもん。帰るね」
とあたしは言い残して外へ出てしまった。彼は別に引き留めようともしなかった。そのままそこに泊まったようだ。その後は、彼の人の良さそうな丸顔を見るたび、人は見かけによらないなと思った。
お風呂は、旅館の中の浴室を使わせてもらっていた。遅番の仕事が終わる十一時には、お客はもうすっかり浴室に来なくなるので、一度部屋にタオルを取りに戻ってから、消灯までに急いで入浴するのだ。
地下の洗濯機も使っていいという話だったが、あたしは順番を待ったり、人に頼んだりするのがかえってめんどくさく、いつも寮の洗面所で手で洗った。家にいたときはねだることすら出来なかったスヌーピーのバスタオルを給料で買ったときなんか、真冬でも冷たい水で洗って一所懸命絞った。大きくてうまく絞れず、びしょびしょのまま干したけど、あたしはそのタオルを広げた図に満足していた。
斉藤さんがいなくなってから、部屋には前にも増して沢山の友だちが遊びにきた。由美ちゃんはその友だちとシンナーを吸うのが大好きで、あたしにも吸い方を教えてくれた。
「斉藤さんいたときも吸ってたよ。あの人はやらなかったけど」
と由美ちゃんは言った。
ビニール袋の両はじに結び目を作るのは、蒸発面を広げ過ぎず、扱いやすくするため。あとはただ吸い込んでいればいい。厳密に言うとあたしたちが吸っていたのはニスばっかりだった。シンナーのほうがおいしいけれど手に入りにくいという。由美ちゃんの友人の中では、工事現場からシンナーの一斗缶を盗んでくるやつは英雄だった。でもいちばん効くのは「G10」というボンドなのだそうだ。
あたしたちは好きなソウルのテープをかけながらニスを吸った。由美ちゃんの赤い小さなラジカセはいつも電池が切れかけていて、音楽を遅回しにした。「Do It」を歌うダイアナ・ロスの細い声が太いゆっくりした男の声になって消えていくころ、あたしは夢の中にいる。よく見ていたのは、街のあちこちに小さなガラスの瓶が置いてある夢。その中に小さくなって入って行くと、また別の瓶があるどこかに移動できる、そんな夢だった。夢を見ているあいだ、自分がどうしているのか記憶がない。目が覚めると、腕にニスがべったりついていたこともあった。隣のベッドでは必ず由美ちゃんがボーイフレンドと重なり合っている。あたしは一度夢から覚めると疲れてしまって吸うのをやめていたが、由美ちゃんは覚めるとまた吸っていたらしい。それほど吸いながらどうやってセックスしているのかがあたしは謎だった。彼女はニスのとき、ビニール袋と同じようにいつもセックスの相手を用意しているのだ。たまに、前と同じ男の子だと思って「こないだはどうも」と挨拶したら違う子だったりして、おこられた。俊を呼んで三人で吸ったときには、相手のいない由美ちゃんが俊にしなだれかかっているのがぼんやり見えた。それきり記憶がないけど、俊は由美ちゃんとセックスはしなかったと思う。あたしは二度と俊をニスに誘わなかった。ところがその後、由美ちゃんとあたしの二人だけで吸っていたら、今度はあたしが由美ちゃんとセックスするはめになってしまったのだ。
どうしてそんなことになったのかわからない。気がついたときにはあたしははだかの由美ちゃんの上におおいかぶさって、彼女の大きな乳房を舐めまわしていた。なんてことをしているんだあたしは、と内心驚いたが、由美ちゃんは気持ちよさそうに声をあげている。彼女から誘ったのかもしれない。ニスとセックスが必ず結びついているのは由美ちゃんのほうだ。でもあたしは今まで意識がなかったのに、気づいたらこうしてるなんて、どういうことだろう。もう止めるわけにはいかない気がした。あたしは由美ちゃんの両方の乳房を時間をかけて揉み上げながら、乳首を舐めた。由美ちゃんの真っ白な乳房についている乳暈は大きく、代わりに乳首がとても小さかった。あまりにあたし自身と胸のありかたが違うので、自分が気持ちいいのと同じようにしてあげても、はたして感じてくれるのだろうかと少し心配になった。由美ちゃんの唇にはキスしなかったと思う。そんなことよりも彼女は早く下半身を刺激して欲しいみたいだった。あたしは頭をそっちの方へ下げていった。思ったより早く、それは目の前に現れた。あたしより少し上の方に位置しているようだ。あんなに沢山の男の子とセックスしているのに、由美ちゃんのその部分はきれいなピンク色で、小さく、しっかり閉じていた。いちばん感じるはずの丸いくるみボタンも、とても可愛かった。あたしはそこに堅くとがらせた舌を押しつけ、小さな円を描いて舐めながら、由美ちゃんの中に指を入れて動かした。由美ちゃんはせつなそうな声を出して腰を揺すった。由美ちゃんが濡れていたかどうか、よく覚えていない。そのころのあたしはまだ、自分のそこに対してさえも、濡れるということにあまり注意を払っていなかった。
かなり長くそうしていたような気がする。由美ちゃんがいったかどうかわからなかったし、何をきっかけに止めたのかも覚えていない。ただ初めて見た自分以外の女性器だけがしばらく忘れられず、そこまであたしに自分を差し出した相手として由美ちゃんのことを今までより気にかけるようになったのは確かだ。由美ちゃんはあたしとのことは忘れてしまっているのか、そのときの話はその後一度もしなかった。
由美ちゃんはその頃太田靖夫という男の子とつきあっていた。あたしにも俊のほかに何人か男がいたが、いつも長続きせずにいた。由美ちゃんは靖夫の前は、彼の実の兄の靖史とつきあっていたという。
「あいつはやくざだし結婚してるから、止めて弟のほうにしたの」
と由美ちゃんは軽く言ってのけた。弟に乗り換えられた靖史は怒っていて、やくざらしい仕返しを考えているかもしれないとも言った。あたしは由美ちゃんと同時に靖夫のことまで気になるようになってしまった。それは靖夫に伝わってしまったらしい。いつだったか、靖夫を含む数人でどこかの部屋で雑魚寝《ざこね》しているとき、後ろにいた靖夫があたしの体に手を伸ばしてきた。あたしは嬉しかったが、彼はしばらくあたしを触っただけで、それ以上の接触はなかった。そのとき由美ちゃんはいなかったが、彼女にはすぐ伝わったようだ。その後、由美ちゃんはわざとあたしの目の前で靖夫と絡み合うようになった。向かいのベッドから、
「あけみちゃんが見てるから、もっと」
という声が聞こえてきたこともあった。あたしはなるべく靖夫のことを考えないようにした。ダンスホールで踊っていれば、いやなことも忘れられた。俊と行っていたホール以外の場所にも行くようになった。
「なあ、ちょっとつきあいなよ」
いかにもがらの悪いその男に声をかけられたのも、別の店でひとりで踊っていたときだった。
「あんた目立つからさ」
そう言われながら、店の外へ連れ出された。壁に押しつけられてキスされ、スカートの中に手を入れられた。
「そんな……ここでそんなこと」
と言うと、
「でも、濡れてるぜ」
と耳元で言われた。それがからだの中まで響いて行って、あたしは抵抗するのを止めた。表で立ったままセックスしたのは、それが初めてだ。でもそのときはまさか、そいつが靖夫の兄の靖史だなんて夢にも思わなかった。
由美ちゃんは靖史のことをやくざだと言っていたが、靖史はただのちんぴらだった。彫りかけの入れ墨も、靖史の根性のなさの証明だ。靖史はあたしが他の男とベッドにいるところにいきなりやってきたかと思うと、あたしを引っ張り出して無理矢理ラブホテルの部屋へ押し込み、
「あいつと何回した。どんなふうにしたんだ」
と言いながらあたしを突きまくったりするくせに、避妊はいっさいせず、いつも中で出してしまっていた。それから、
「もし妊娠したらすぐに知らせろよ」
と格好つけて言い渡すのだ。あたしは内心、妊娠してからじゃ遅いだろーがと思ったが、靖史のいかにもやくざ風なふるまいが面白かったので、しばらくはつきあっていた。
ある日、靖史は自分の兄貴分だという男にあたしを会わせた。帰る時間になると、その兄貴の車で送ってもらえと言う。
「いいよあたし、電車で帰る」
と言ってもしつこく送ってもらうよう勧めるのだ。しかたなくあたしはその男の車に乗った。車はまもなく、全然違う方向へ向けて走り出した。
「太田は、女房とは別れねえよ」
その男はそんなことを言いながら、バイパスにまで乗ってしまった。
「寮に帰して」
あたしは頼んだ。
「だめだ。おれはおめえみたいなちゃらちゃらした女見ると許せねえんだ」
「じゃあ飛び降りるよ」
あたしは助手席のドアを音を立てて開けてやった。ほんとにやるつもりだった。
「うわ。やめろ」
そいつはあわてた。
「じゃああたしを帰して」
「わかった、わかったから」
案外あっけないやつだった。やくざなんて言ってもこんなものなのかとあたしは思った。それからどういう理屈か、
「おまえはおれが思っていたより根性のすわった女だった。見損なっていた。タクシー代をやるから太田には今日のことは黙っててくれな」
と言って三千円くれた。あたしはそれを持って帰って、由美ちゃんにその話をし、二人で笑いころげた。それきり靖史とは逢わなかった。もともと靖史が兄貴分にあたしを差し出したのだということに、あとから気づいたからだ。一度だけ靖史が勝手にやってきて寮の外で待っていたが、車の陰に靖史を見つけたあたしは、
「ふざけんじゃねえよ」
とだけ言って立ち去った。
由美ちゃんはその後、一人でもニスを吸うようになった。あたしがニスから少しずつ遠ざかっていき、由美ちゃんの誘いに乗らなくなっていたからだ。
その日も早番から帰ってきた由美ちゃんはニスの準備をしていた。明日の三時まで、ニスにどっぷりつかる気でいるのだ。覚めては吸い、覚めては吸いして、まる一日過ごすつもりなのだ。あたしがニスを止めてしまったのは、単に飽きたからというのもあるが、由美ちゃんのようにニスにはまっている子たちの顔に、ある共通点を見つけたからでもあった。ニスのおかげで、あまり物を考えずに済むからだろうか、みんな妙に若いのだ。二十三歳なのに、中学生くらいにしか見えないやつもいた。あたしはまだ十七だったが、人からはかなりそれより年上に見られる自分をけっこう気に入っていた。二十歳過ぎて、十代みたいな顔しているのはごめんだと思った。
その日あたしは仕事中、寮で一人ニスを吸っているはずの由美ちゃんのことをときどき思い出していた。最近靖夫も姿を見せない。由美ちゃんは今、少し淋しいのかもしれないなと思った。ふだんは口が悪くて、下世話で、なにか意地悪なことを思いついては細い目をつり上げて笑ってばかりいる彼女。その唇はまだ、淋しいという言葉を知らないでいるのだろう。それしか当てはまる言葉がないときにも、きっと発音できずにいるのだ。
十一時になり、あたしは寮へ帰った。由美ちゃんはいるはずだが、明かりはついていないようだ。きっと昼間のままになっているだけなのだろう。階段を昇ると、表の電柱からの薄明かりで由美ちゃんがベッドとベッドの間に寝っころがっているのが見えた。
ちょっと変なところで寝ているな、と思った次の瞬間、彼女の左手首が真っ赤なのに気づいた。その下には水の入った洗面器が置かれ、その水も真っ赤だった。
「由美ちゃん!」
あたしはあわてて彼女に駆けより、いつか母があたしにしたように、ぱんぱんぱんと彼女の頬に往復ビンタをくらわせた。
「うう」
彼女が少しうめいた。良かった、生きてる。よく見ると、手首の血はすでにかたまっているのもわかった。あたしは斉藤さんのことをすぐに思い出した。今ならまだ旅館にいるかもしれない。寮を出てからの彼女は、仕事が終わってもすぐに帰らず、住み込みの従業員たちと雑談などしていることが多かった。あたしは旅館に駆け戻り、彼女に寮まで来てと頼んだ。
再び部屋に入って行くとき、息があると思ったのがあたしの勘違いで、由美ちゃんはほんとは死んでたらどうしようという考えが頭に浮かんで恐ろしくなった。由美ちゃんは黒い影になって横たわっていた。あたしは斉藤さんにうまく説明できないまま明かりをつけた。もともとおっとりした性格の斉藤さんが騒いだりしなかったおかげで、あたしもだんだん落ちついてきた。
明るくなった部屋の床には、あたしたちがむだ毛を剃るのに使っていたかみそりが血だらけになって散乱していた。切れが悪くなったものを捨てもせず次を出していって、そのまま何本も鏡の前にほったらかしておいたものだった。由美ちゃんの手首の傷はそのかみそりを束ねて当てて、のこぎりを引くように何往復もさせたような状態だった。幸い思ったより出血は少なく、洗面器の水もよく見るとそれほど赤くなかった。あたしと斉藤さんは由美ちゃんをベッドに移した。由美ちゃんはしばらくぼんやりしていたが、そのうち、ぽつりぽつりと話をしだした。
「ニス吸ってたらそこから……六人くらい男がはいってきて……」
「え?」
あたしと斉藤さんは顔を見合わせた。
「押さえつけられて……やられたの……自分でしてない……」
「えー!? 誰? 誰がそんなことしたの?」
「顔よく見えなかった……靖夫、が、いたような気がする。よく、わかんないけどね……」
靖夫が!?
「なんで靖夫さんがそんなことすんの?」
あたしは由美ちゃんに言った。
「わかんない……あいつらもなんかやってたのかもしんない」
「靖史じゃないの?」
「うーん……」
「まあ、今はちょっと休みなよ」
斉藤さんがあたしをさえぎった。
「ここ、ちょっと片づけたほうがいいんじゃないのかな」
そうかもしれない。どっちにしても警察に知らせたりするわけにはいかないのだ。あたしと斉藤さんは、散らばったかみそりを拾い集めた。
「ねえ、この洗面器ってなんなの?」
斉藤さんがあたしに聞いた。
「よく知らないけど、昔、お風呂の中で手首切るとすぐ血が出て死んじゃうって聞いたことある。お風呂ほどじゃないけど、血を固まらせないでどんどん出させようとしたんじゃないのかな」
「あ、畳、濡れてる」
洗面器の回りだけでなく、部屋のあちこちが濡れていた。それらを全部合わせると、洗面器に何杯分もの水分がありそうな感じだった。由美ちゃんの言ったことがほんとだとしたら、彼女が抵抗して洗面器の水をこぼすたびに、洗面所で汲んできたのかもしれない。
「ちょっとこの上の段、見てよ」
なんとさらに、右側のあたしのベッドの上の段から水に濡れた毛布まで出てきたのだ。最初どこにどういう状態であったのかわからないが、とにかく水で濡れてしまったあと、誰かがこの上まで投げ上げたのだ。こんなことの全部を、ニスでラリっている由美ちゃんが一人で出来るだろうか。もし発作的に死にたくなったとしても、何度も一階の洗面所に降りて水を汲んで、あんなひどい傷をつけて……。
「由美ちゃん、前もニス吸ってたとき手首切ったんだよ」
と斉藤さんは言ってたけど、そのときは切ったと言ってもほんのかすり傷だったって話だ。あたしはどうしても由美ちゃんが自分でやったと考えにくかった。かといって、男が六人もやってきて由美ちゃんを殺そうとするなんて……そりゃあ恨まれるようなところもなかったとは言えないけど……殺すほどのことか?
結局結論は出なかった。翌日は由美ちゃんと交替しますと申し出て、早番から遅番まであたしが続けて働き、その間に彼女を病院へ行かせた。由美ちゃんは、
「店の厨房で転んで、板さんの包丁で切っちゃったんですう」
と嘘をついて傷を縫ってもらったそうだ。
「まっさかほんとのことは言えないもんねえ」
とつけ加える彼女はあいかわらずの細い目でけらけら笑った。あんまりこたえてはいないように見えた。
しかしさすがの由美ちゃんもその後はニスに興味を示さなくなっていた。そのかわり、運転免許を取ると言い出して、教習所に通いだした。もともと彼女はバイクならナナハンまで乗れる免許を持っているのだそうだ。
「むかーし取ったからね。今はもっときびしいんだよね。バイク倒れたら起こせないとだめで」
と由美ちゃんは言った。
「そういえば昔知り合いとその彼氏がバイクの事故で死んだとき、みんながあたしが死んだって勘違いして大騒ぎになったっけなー」
珍しくそんな昔話もした。
数週間後のある日、仮免を取ったから乗せたげるよ、と言って由美ちゃんはあたしを車の助手席に乗せて運転しだした。しかしその途中、
「車は、まっすぐ進む」
と言ってしばらくハンドルから手を離してみせたので、あたしは内心冷や汗をかいていたのだった。
[#改ページ]
あたしはまた中絶することになった。俊に振られてちょっとやけになっていたのかもしれない。お金はスナックのバイトをして作った。すべて先輩の由美ちゃんが教えてくれたとおりにした。由美ちゃんがこないだ中絶したときは、あたしが遅番まで続けて働いて彼女を休養させたので、今度は由美ちゃんがそうしてくれるはずだった。
あたしも由美ちゃんも、妊娠に対してセンチメンタルな気持ちになることはほとんどなかった。ただ、うっかりしてしまったという気持ちがあるだけで、相手が誰だからということもさして関係がなかった。俊の子どもだったら産みたいと思ったのだろうか? それも、そうなってみないとわからない。そういうものだと思う。
俊に振られたのはある日の真夜中。あたしはその晩、旅館に泊まっていたペエペエの歌舞伎役者に誘われて二人で飲みに行っていたのだ。行くべきではなかった。人生の無駄と言ってもいいほど彼の話は退屈だった。その上、彼はあるスナックに入ると、そこのママと、わたしにわからない奇妙な話を始めたのだ。
「あたしはね、あれなんですのよ。ほら、山本リンダさんもやっているあれ」
「おお。ぼくもですよ」
「まあそうですかあなたも」
「そうなんですよぼくもあれで」
などと勝手に二人で意気投合しているようなのだ。あたしはただその横でぼんやりしていた。彼らが何を喜んでいるのかあたしにはまったくわからない。一人で帰りたいくらいだった。
ようやくその店から出られたのはいいが、今度はすっかりいい気分のそいつと二人で夜道を歩かなくてはならないのが苦痛だった。そいつが何を期待しているかはっきりわかるのが嫌でしょうがなかったあたしは、ついに旅館と逆方向に走り出した。そしてそのまま、家出したあの晩のように、いきなり俊の家にまで行ってしまったのだ。
「またこんないきなり来ちゃって」
俊は怒っているようには見えなかったが、こう言った。
「もうあんたにはついていけないよ」
あたしは悲しくなった。
「それ、どういうこと?」
「もうオレ、女出来たからさ」
あたしはそれが誰だか知っていた。知っていたも何も、その女、優子は、どういうつもりかしょっちゅうあたしのそばに出没しては、聞こえよがしに俊のことを大声で話す、というのを続けている真っ最中だった。
「こないだ俊ちゃんのおかあさんに、俊ちゃんの赤ちゃんのころの写真見せてもらったのー」
などというセリフが、音楽の鳴り響くダンスホールでちゃんと聞こえてくるのだ。そしていつのまにか由美ちゃんたちに取り入り、いつかは寮までついてきてしまった。あたしは優子が俊のことをしゃべり続けるのをベッドの中でだまって聞いていたが、一度だけ、
「俊ちゃんたらフィンガーベールなんて持ってるのー」
と言った彼女に、
「それ、あたしのよ」
と言ってやったことがあった。指で入れるタイプのタンポンに付いているオブラートの指サックを、俊が珍しがったのであげたことがある。優子はその言葉にショックを受けたらしい。あとで、ひどい、と言って由美ちゃんたちに泣きついたそうだ。由美ちゃんがあたしに、
「あんなこと言われたら誰だってショックだよ。あけみちゃん、可哀そうだと思わないの?」
なんて言うので、
「なんで? もともと俊とつきあってたのはあたしのほうなんだよ」
と言ったら、由美ちゃんはびっくりしていた。あまりに優子の態度が大きいので、優子のほうが古くから俊とつきあっているものと思いこんでいたようだ。そうか、そういう効果があるからああやってまわりじゅうにアピールして歩いているのか、とあたしは優子を心から軽蔑した。あたしは、たとえ俊が彼女と関係していても、自分の方が俊と強く結びついている自信があったのだ。どっちが前からつきあっているとか、ほんとはそういうこともどうだってよかった。俊があたしの前につきあっていた女のこともあたしはよく知っている、中学の同級生だったから。でもそんなことはどうでもいいことだ。離れていても、お互い体が誰と寝ていようとも、あたしは俊がいちばん好きだった。
なのに今、俊はあたしを断ち切ろうとしている。
「もう会わないほうがいいよ」
「はっきり言うんだね、俊ちゃんて」
「こういうことははっきり言ったほうがいいんだよ」
そうかもしれなかった。いつまでも期待させるようなことを言う男よりも、彼のほうが誠実なのだと思った。あたしはやっぱりこの人がいちばん好きだな、と思いながら悲しい気持ちで寮へ帰った。その翌日はとても仕事に出る気になれなかった。由美ちゃんに早番を替わってもらったが、なぜそんな状態なのかも説明出来ずにいた。
次に出勤したら、電話交換手のおばさんが、
「あけみちゃん、こないだの歌舞伎の人となんかあったんでしょう」
と言ってきた。あたしは、そうか、そういう話になっているのかと驚いたが、俊のことを話す気にもなれず、そういう話になってるならそれでいいやとうっちゃっておいた。
それから、その後に知り合った依夫の子を妊娠してしまったのだ。失敗した。淋しかったんだと思う。依夫は俊と正反対の、いかにも頭の悪そうな子どもっぽい男だった。あたしより年上なのに、
「ヨリはねえ」
と自分のことを名前で呼んだ。でも、踊っているときの体の動きは、あきらかに人と違っていた。彼が踊ると独特の空気が回りに起こった。でもほかに、何のとりえもなかった。そんな彼を、あたしは自分と同じ人間だと思った。
十五の時にやった、あの早産まで起こさせておこなった中絶と違って、早期のそれは簡単なものだった。
左手に大きな麻酔の注射を打たれているあいだ、口に出して数を数えるように言われる。
「いーち、にーい、さーん、しーい」
五くらいまでまともに発音できただろうか。口がだんだん回らなくなってふにゃふにゃ言い出した自分がおかしくてたまらなかった。そして眠るよりも急降下に意識がなくなっていった。あまりにそれがわかりやすかったので、あたしは生きて還れるのかなとちょっとだけ心配になった。
目が覚めたら布団の並んだ部屋だった。隣ではあたしよりずいぶん年上の主婦らしい女がうなり声をあげて苦しんでいた。あたしは下腹部に鈍い痛みをかかえて横たわっていた。どういう経路でここへ運ばれたんだろう。ちょうど横にされるときに意識が戻ったのだが、下着をはかされたのも、手術台から降ろされたのも覚えていないので、その部屋が診察室からどういう位置にあるのかわからなかった。隣の主婦は今度は苦しみのあまり吐いている。しばらくすると看護婦が来て、
「そろそろ動けると思うから、病室のほうで休んで下さい」
と言い、あたしを上の階に連れて行った。隣にはあたしと年が近そうな女がベッドに寝ているのがカーテンの間から見えた。看護婦がいなくなると彼女はあたしに、
「何カ月だったの?」
と話しかけてきた。
「二カ月だよ」
「そうか、出来てすぐだよね」
「うん」
今回の決断は早かった。十五のときみたいなことはもうごめんだった。
「あたしは四カ月。すごく痛かった」
掻爬《そうは》で中絶できるぎりぎりまで迷ってしまった、と彼女は言った。
「でも相手の人に奥さんがいたから、仕方ないよね」
十九歳だという彼女は自分の勤め先を教えてくれた。有名なステーキハウスだった。
「ウエイトレスしてるの。来れたら、来てね」
「覚えとく……でも、高いところだもんね。あたしには行けない。行けても、ずっと先のことかもしれない」
その後、あたしはその店に行くことが出来たが、その時にはもう彼女の名前も顔も忘れてしまっていた。
中絶を終えたあたしは、また由美ちゃんに交替してもらって一日寝ていた。なのに今度は交換のおばさんは何も言わなかった。泊まり客と関係するよりも中絶の方が大きな出来事だとあたしは思っていたが、由美ちゃんが内緒にしていてくれたせいか噂にはならなかった。お客と飲みに行った翌日に休むとあんなにいやらしく「なんかあったんでしょ」などと言われるが、黙ってさえいれば中絶して休んでいるというのに何も言われない。そんなものかもしれないが、あたしはなんだかそんな噂を喜ぶ人たちが好きになれなかった。それでなくてもそのおばさんはときどき電話の盗み聞きをするのが大好きで、従業員に異性から電話が入ったときなどは必ず聞こうとしていた。嫌だったがその代わり、旅館に内緒で私用電話を掛けさせてくれた(ただし、横で聞いていてもいいことを条件に)。あたしも一度、東京のサトルに掛けさせてもらったことがある。
「連れ戻されて今長崎なの。でもまた家、出てきたし、そのうち会いに行くからね」
と言ったら、サトルはへえ、と驚いていた。
それでも噂好きのおばさんたちに、あたしはほんとの年や名前、家のことなどは話さなかった。そしてそのまま、あたしは旅館を辞めた。数日だけのつもりだったスナックのバイトを本業にすることにしたのだ。そして、毛虱《けじらみ》までいたことのあるあの寮を出、新しいアパートは依夫と二人で借りた。
新しい勤め先は、スナック「須磨」。ママと、支配人とあたしの三人だけという小さな職場だ。ママのご主人であるマスターは閉店まぎわに顔を出すだけだった。由美ちゃんの紹介で行くことになったバイトの最初の日、なじみ客の一人が、あたしにセックスに関する冗談を言った。あたしはそれを聞いてむしずが走り、泣きそうになった。年の近い子たちとはそういう話も出来ていたが、親に近い年齢の人間がそういうことを言うのは我慢がならなかった。あたしの沈んだ顔を見て、支配人は店の隅であたしに言った。
「あけみ、こういうところではな、ああいう話がいちばん罪がないんだ」
あたしにはまだその意味はわからなかったが、気を取り直してそのお客のそばに戻った。しばらく話すと、ほんとはいい人なのがわかってきた。彼は、初日のお祝いだと言って、あたしに五千円チップをくれて帰った。あたしはなんだか、大きな仕事を一つ成し遂げたような気がした。
そして、その支配人がとても上手に仕事のこつを教えてくれることも知った。細身で淡々とした彼は、いつも早めに店に来て、インスタントでない蝶タイをゆっくり締めてからお客を迎える。この人となら新しい仕事でも大丈夫だ、と思ったのがあたしの転職の理由だった。
依夫はトラックの運転手をしていた。二トントラックに乗って、依夫の友人と三人で佐世保のディスコまで遊びに行ったりもした。佐世保のディスコは外国人がいっぱいで、長崎とはぜんぜん違っていた。あたしは黒人の踊りに見とれ、それと同時に、白人ってなんてリズム感がないんだろうと思った。踊ることしかとりえのないあたしと依夫は、踊ってばかりいた。そのころは、それで楽しかった。
家賃が五千円のアパートは、丸山のもと女郎屋で、鍵もかからない六畳一間だった。共同の炊事場には小さなガスこんろが一個しかなかった。ほとんどは外食だったが、たまにそこでインスタントラーメンをつくって食べた。洗濯は相変わらず水で手洗いした。
となりの部屋にはやくざの夫婦が住んでいるようだった。その夫婦のけんかはとても激しく、妻が殴られて泣き叫んでいるのまで全部聞こえた。けんかがおさまってしばらくの沈黙のあと、今度はけんかに負けない大きなあえぎ声が聞こえてきて驚いたこともあった。そのころはそれを依夫と二人で笑っていたが、まもなくあたしは彼にも暴力を振るうくせがあることを知った。
その晩も酔ってあたしに因縁をつけだした依夫は、何度もあたしを殴った。小さな子どもが小さな拳でぐずって母親を殴るときのように、本人もたぶんどうしようもない気持ちでいるのだろう、そんな殴り方だった。でも依夫はもう幼児ではないのだ。あたしはたまらず部屋から逃げ出した。露地を走りながら、このまま帰らなくてもいいと思った。依夫が追いかけてくるのを後ろに感じたが、こっちに酒の入っていないぶん、逃げ切れる自信はあった。
「あっ」
角を曲がったら、目の前が火事だった。野次馬に取り囲まれたその家からは大きな火柱が立っていた。
「この!」
見とれていて、依夫に追いつかれた。依夫はその場であたしを殴り、部屋に引きずって行った。
ある日俊が飲みに来てくれた。俊はあたしに、
「オレ、あんたのこといちばんいい女だと思ってんの」
と言った。
「でも、ほかの女に興味持つのやめられないんだよね。性格なんだよ、これ」
あたしは嬉しかった。俊が帰ったあと、あたしは支配人に、
「支配人、あたしがほんとに好きな人はあの人なんです」
と言った。支配人は、
「あけみ、でもおまえ依夫さんと一緒に住んでるでしょ。そんなこと言うと、まわりの人は変に思うよ。そんなこと言うもんじゃないよ」
と言った。そうか、とあたしは思った。
それでもあたしはまもなく荷物をまとめてとっくに優子と別れていた俊の家へ転がり込んだ。俊のそばへ戻って来れただけでなく、それまであまり話すことのなかった俊のお母さんからも、
「あたしは優子ちゃんよりあけみちゃんのほうが好きだったよ」
と言われて嬉しかった。
それからしばらく俊の家で暮らした。俊のお母さんの恋人である鳥屋のおじさんとも顔見知りになった。年末には、東京へ働きに出ていたお兄さんが帰ってきた。あたしを含めた四人で正月を迎えようとしていると、突然電話が鳴った。
「おとうさんだってよ」
俊が電話をお母さんに渡した。
「あらまあ、あんたもずっと連絡もしないで……今どうしているの?」
俊のお母さんは涙ぐんでいた。あたしは困って俊の顔を見た。俊はいつもの冷静な笑顔であたしを見つめた。そして夜中にはいつものダンスホールにあたしを連れて行った。
正月も終わり、俊のお兄さんはまた車で東京に戻ることになった。昔世話になった兄貴分のような人から「途中まで乗せてってくれ」と連絡があり、その人を岐阜あたりまで乗せていったそうだ。その後、その人は同居していたホステスを殺していたことがわかり、知らずに逃亡の手助けをしていたことになったとかで騒ぎになっていた。
年が明けて間もなく、俊は新しく出来る店にけっこういい待遇でスカウトされることになり、それにかかりっきりであたしをあまりかまってくれなくなった。長崎では初めての、ある有名なチェーンの店だそうで、そこではバニーガールが接客するのだという。俊は、高校の卒業式だけは出るけど、それ以外はもう行く意味もないと言っていた。小さなスナックのホステスであるあたしは、俊が違う世界に行ってしまうようで淋しかった。
ある晩、あたしは小さな寿司屋にいた。あたしとそう年のかわらない脚の悪い男の子が一人でやっている店だった。話をするうちにあたしは彼が好きになってしまった。とてもけなげでいい子だと思ったが、関係するとちょっと違った。妙にいやらしいことをさせては、
「おめえも好きだなあ」
なんて言ったりするのだ。あたしは内心驚いたが、彼の外面と内面の差が面白くもあり、そのままつきあっていた。俊のお母さんは、いそうろうのくせに帰りの遅いあたしに皮肉を言うようになった。
ある晩、依夫が友人と三人で「須磨」にやってきた。来たときから酔っていて、
「ヨリんとこからだまって出て行くなんてひどいじゃない」
と泣き言を言っていたが、あたしはただ受け流していた。支配人から刺激するなと言われていたし、言われるまでもなく依夫にはもう何の興味も湧かなかった。あたしは、もともとはお父さんが「須磨」の常連だったという、坊主頭で体格の良い学生さんとばかり話していた。彼も冬休みで東京から長崎に帰ってきているそうで、空手の使い手で、お父さんも警察署の人だという。支配人が、
「円能寺さんとこに付いてれば安心だから」
と言うし、あたしもそう思った。学生といってもあたしより年上なわけだが、若くてあか抜けたお客が来ることなんて珍しかったから、あたしは依夫がじゃまでしょうがなかった。
しかし、そのうち依夫は、
「この伝票、多めにつけただろ」
と勘定のことまで因縁をつけ出してきた。
「一時になったら、あがっちゃっていいから」
支配人の言葉通り、あたしはさっさと依夫を置いて店を出た。板前の男の子と逢う約束をしていた。脚が悪いのに一人で店を切り盛りしているというので、板前の子は「須磨」でも評判が良かった。
「まて。まてあけみ」
後ろから依夫たちがついてきた。
「何よ。もう関係ないでしょ」
あたしはどんどん先へ行こうとした。
「まて。まてって言ってるのに」
いきなり髪の毛をつかまれた。しまった、と思ったときは遅かった。あたしは狭い露地に引きずり込まれ、依夫たちに袋叩きにされた。何度も目の前に星が散った。あたしとも共通の友人だったはずの二人も、依夫につきあってあたしの腹を蹴ったり、頭を殴った。あたしの鼻血がアスファルトにぼたぼたと落ちた。
「ヨリを裏切るとな、こうなるんだ、こうなるんだ」
と殴り続ける依夫に、
「殴らないで。あたしたち仲良しだったじゃない、殴るのはやめて」
と頼んだが、
「うるさい」
と言ってはまた殴られた。少し離れたところに通行人が見えた。女一人で三人の男に殴られているのがわかって、助けてくれないだろうかと祈ったが、駄目だった。みるみるうちにあたしの顔は腫れ上がった。実家で養父に殴られるより何倍もしつこくやられた。
やっと殴るのをやめた依夫は、あたしの腕を取って言った。
「これからまたあけみはヨリと暮らすんだ」
まっぴらだと思ったが、これ以上殴られてはかなわないのであたしはしおらしくしていた。依夫が腕を引く方向へおとなしく歩いた。間抜けにも依夫たちはもと来た道を通って帰ろうとしている。あたしは隙を見て彼らの手を振りほどき、走り出した。
「あっまてっ」
後ろから三人が追いかけてきた。待ってたまるか。あたしは、
「助けて!」
と叫びながら「須磨」に駆け込んだ。あたしの血だらけで腫れた顔と、後ろから追ってきた依夫たちを見て、円能寺さんが立ち上がった。その顔は、すっかりやる気だった。一時を過ぎて、マスターもママを迎えに来ていた。依夫たちは店内をちょっと見ただけで逃げていった。
その晩はマスターの家に泊まることになった。知らせを聞いて駆けつけて来た板前の男の子も一緒に泊めてもらうことになった。ママは氷水に浸したタオルであたしの顔を冷やしてくれたが、何度も殴られた顔はあとからあとからふくれあがり、夜中には目が開かなくなった。鼻血で鼻が詰まって、うまくしゃべることも出来なかった。あたしは、この顔もとに戻るんだろうか、と気が遠くなった。髪の毛をさわるとごっそりと抜けた。何度も掴んで振り回されたからだ。
「大丈夫か」
板前の男の子は、最初こそ心配そうにしていたが、そのうち本性をあらわしてきた。みなが寝静まった頃になって、あたしはぶよぶよに腫れた顔のまま、そいつにやられた。こんな顔の女とセックスして楽しいのかなあ、とあたしはやられながらぼんやり考えた。
翌日の昼に俊の家へ帰った。俊があたしの顔を見て驚いているところへ、
「あーら、お嬢さまのお帰りよ」
と俊のお母さんが皮肉を言うのが聞こえてきた。次の瞬間、彼女もあたしの顔を見て絶句した。
「ちょっと、殴られちゃって」
あたしは照れ隠しにそう言った。
「ちょっとってあんた」
あたしの両目と鼻は紫色に腫れ上がり、目も薄くしか開けていられなかった。あたしは俊の勧めで眼底検査というものを受けることになった。俊も以前けんかでひどく殴られ、目が腫れたときに受けたのだという。目のことは注意したほうがいいからと言われ、あたしはマスクをし、ひどく腫れているほうの目に眼帯をした。それでももう片方の目も腫れていることは明らかなので帽子をかぶって出かけた。片目ずつ手で押さえてろうそくの炎を見たりするような、簡単な検査だった。年老いた男の眼科医は、原因については何も聞かず、
「異常ないでしょう」
とあっさり言った。何も聞かないでいいのかなあ、とちょっとだけ思った。
それからあたしは、養父に殴られて店に出れなかったときの母のように、ただ俊の家で留守番して過ごした。その頃のあたしはときどきだが、俊の家の家事を手伝ったりもした。
「あたしは、警察に言わなくていいのかねえ、って言ったんだけどね」
俊のお母さんはあたしに言った。
「鳥屋のおじさんが、あれだけのことされて、相手となんもなかったわけないだろうって」
あたしはしばらくその意味がつかめなかった。俊のお母さんの口調は責めるような、残念なような空気を出していた。「なんもなかったわけはない」というのは、「あたしと依夫は関係していた」ということだろう。それはほんとうのことだからいいけれど、じゃあ関係していた男は、女を殴ってもいいということなんだろうか?
あたしは少し前に、由美ちゃんの友だちのある女の子に、妊娠したら養父に包丁で刺されそうになったと言ったら、
「そりゃそうだわ」
と言われたことを思い出していた。彼女は、娘が妊娠したらその父は怒って殺そうとすることくらい当たり前だと確かに思っていた。関係した男に殴られることや、妊娠したら父親に殺されそうになることはそんなに当然なことなのだろうか? それほど女は男から何をされても我慢しなければならないのだろうか? 誰から教わったわけでもなかったが、あたしにはどうもそうは思えなかった。でも、俊のお母さんにそれをうまく話すことも出来なかったので、あたしはただ黙っていた。この件に関して、俊本人があたしに何も言わなかったことだけで、とりあえず十分だと考えることにした。
俊はほんとにあたしに意見しない人だった。ときどきはあきれていたのかもしれないが、自分の好きなようにやるしかないでしょう、オレもそうする、あんたもそうしな、というのが俊の考え方だった。
顔の腫れが引くと、今度は両目をかこんでくっきりとあざがあらわれ、あたしと俊はそれを見てパンダみたい、と笑い転げた。そのぶちが少しずつ薄くなっていくのを待ちきれず、あたしはある晩、目の回りに思いきり厚くファンデーションを塗ってそれを覆い隠した。そして負けないようにはっきりと口紅も引いた。そんなにしっかり化粧をしたのは初めてのことだった。
その顔で俊の働く店に現れると、俊は、
「女ってこわいよなあ」
と言って驚いた。お店の人があたしをじろじろ見た。
「俊ちゃんこの子背も高いし綺麗だし、バニーにぴったりじゃない。うちに入れてくんない?」
あたしはびっくりした。人から容姿をほめられたのは初めてだった。まさか殴られたあざ隠しに化粧した日にそんなことを言われるとは。この誘いに乗ってバニーガールになったら、俊と同じ店で働ける。あたしは内心どきどきした。だが、
「この人、十七だからだめですよ」
と俊はあっさり断ってしまった。十七歳と聞いて、あたしをスカウトしかけた店の人はますます驚いていた。
今度は家賃七千円のアパートを借りた。貞操観念のないあたしは、好きな男の母親と同居するのに結局向いていないのだ。でも俊のお母さんはアパートを一緒に探してくれたり、掃除を手伝ってくれたりした。
「あたしは定時制の女学校に行きながら働いてねえ」
という話を涙ながらにしてくれたこともあった。あたしはその時もののついでと思い、
「あたしは中学で妊娠したら義理の父親にやられちゃいました」
と自分のことを話してみた。俊のお母さんはしばらくぼんやりしていたが、
「あんた、だから家出してんの?」
と目を丸くして聞いた。俊が横で、
「そう、この人そういう人なの」
といつもの淡々とした調子で言った。
「なんでそれを早く言わないの」
あたしと俊は顔を見合わせた。話したからどうなる、というふうには二人とも考えていなかった。あたしはただ、好きなようにじたばたさせてくれて、あまり余計な手を貸さない俊のそばにいたかっただけなのだ。俊のお母さんが、息子のガールフレンドという位置でなく、同じホステス仲間としてあたしを扱うようになったのはそのときからだったように思う。
「あたしは俊のお母さんが一人の女として好きだな」
アパートで一人になったあたしは、俊の家からもらってきた布団の中で丸くなって考えた。部屋には、虎屋旅館にいた頃に買った古くて重い鏡と、靴と服しかなかった。すぐ隣が銭湯なのが便利だった。毎日「須磨」に出勤する前に銭湯に行った。このアパートももと女郎屋で、広い階段の回りを間貸し用の部屋がぐるりと取り囲む造りだった。角部屋ではあったが、窓を開けても隣の壁と屋根しか見えなかった。以前の持ち主はこんな部屋でも会社をやっていたとかで、置き去りにされた黒電話は営業用だという。番号がわからないので受信の役には立たないが、しばらくはこちらから掛けるだけは掛けられて重宝した。でもそのうち通じなくなり、大家さんが取り払った。
初めて一人でアパートを借り、あたしはなんだか勝手に偉くなったような気がしていたのだと思う。ふと、母に連絡を取ってみようと思い立った。あたしからの電話に母は驚き、とにかく会いましょうと言った。あたしはアーケード街のサンデーズサンというファミリーレストランで母と待ち合わせることにした。
「とにかく元気でいてくれて良かったよ」
母は優しかった。あたしは、やっぱり母はほんとはあたしの味方なのだと思った。
「学校はどうするの? 通信制っていうのもあるんだってよ。それでもいいから行きなさい。高校出てないとほんとに苦労するのよ。何も資格が取れないのよ」
それでもまだ学校の話が出るのかと思った。
「また、連絡するから」
あまりいっぺんに長く話は出来ない気がした。
「考えておきなさいね。あんたのためなのよ」
「ほんとに、これからはときどき連絡するから」
あたしは早々に母と別れた。そして、しばらく連絡しなかった。
俊が就職した店は、往来で従業員が一列に並んで大声を出して景気づけをしたりする、変わったやりかたをしていた。俊と同じ高校の男の子がもう一人同時に就職していた。俊から紹介されたその子は、俊と全く違うタイプの男だった、将来を熱く語ったりするような。不器用そうな感じはしなかったが、冷静な俊と並べたらぜんぜん子どもっぽかった。彼は俊にあこがれていたのかもしれない。あたしにすぐ興味を示し、部屋に泊めてくれと頼まれてしまった。そしてあたしはそれを聞き入れ、彼と一回だけセックスした。つまらなかった。あまりに相手が熱心でも興ざめするものなのだな、とあたしは学習した。ところがその次の月の生理がなかなか来ないのであたしはあせった。彼に話すと、
「自分が責任取るから」
と相変わらず熱いのだった。でも、幸いにも生理は来て、彼とはそれきりだった。
そのあとは直樹という、茂木の漁師の男の子とつきあい始めた。直樹はわかりやすいろくでなしで、女に金を出させるのが何よりも上手だった。女が金を出すのが当然と考えているので、こちらもいつのまにか出しているのだった。出すだけならいいが、そういった相手を複数持っているのが気に入らなかった。ときどきは責めたが、直樹は、
「むこうがしつこいんだ」
などとその場を言いくるめるのも上手かった。何よりも人から金を借りてくる天才だったと聞いていたあたしの実父もこういう男だったのかもしれないと思った。
春も近づいたある日。あたしはブーツを買った。幼児の頃、あたしは晴れの日でも長靴をはいて歩くくせがあったという。初めて自分のお金で買った、ちょっと大きいブーツで歩くと、なんとなくその頃の自分に戻ったような気がした。それまではいていたパンプスをバッグに入れてそのまま「須磨」へ向かった。そして、「須磨」まであと二十メートルというその交差点で。
出会ってしまったのだ。養父に。妹と二人で買い物にでも出てきていたらしい。その顔を見たとたんあたしの体中の血はどこかへ行ってしまった。養父はすぐにあたしを見つけ、全速力でこっちへ向かってきた。あたしも走りにくいブーツで必死に逃げた。
「待たんかーッ!!」
悪魔のような怒鳴り声が響いてくる。全身全霊をかけてあたしの後ろから地獄が走ってくる。まもなくあたしは体当たりしてきた養父に地面にたたきつけられた。ざあっと音がして、あたしのひざ小僧は血だらけになった。
「助けて! 殺されるー!」
あたしは大声で叫んだ。このまま家に連れ戻されるのは殺されるのと同じだった。すぐに通行人が集まってきた。その中には「須磨」のマスターもいた。
「捕まえたぞ! この不良が!」
養父は憎々しげに言った。
「こんな人知らない! 助けて! いや! 殺される!」
あたしは続けて叫んだ。回りの人は、どうした、どうしたと口々に聞く。養父は例によって演説を始めた。
「こいつはとんでもない不良娘で、やっと捕まえたんです! これから家に連れて帰らなければならんのです!」
「嘘! こんな人知りません! 親じゃない! お願い助けて、殺される!」
あたしは泣き声をあげ続けた。
「ちょっと待ちなさい、こんなにおびえているのはおかしい。あなた、この子に何をしたんですか?」
声を掛けてくれたのは「須磨」のマスターだった。あたしは嬉しくて泣いた。こんなふうに言ってくれた大人は初めてだった。なのに養父はずうずうしくもこう言ったのだ。
「人のうちのことに、口出ししないでもらいましょうか」
そう言われて、マスターも黙ってしまった。なんなの!? あんたなんか、家族じゃない! あたしは気が狂いそうなほど悔しかった。なのに、タクシーに乗せられ、連れ戻されてしまうのだ。絶望で目の前が真っ暗になったが、あたしの頭の中はもう次のことを考えていた。あたしはずいぶん賢くなっていたのだ。依夫にフクロにされた経験は無駄ではなかった。
「見てみろこの顔を。化粧なんかしやがって」
突然帰ってきたあたしを見て、母は驚いていた。一緒に帰ってきた妹はただ黙って、子ども部屋に引き下がった。
「水商売していたんだぞ。こんな格好で嬉しそうに歩いていやがって」
養父は何度も何度も同じことを言ってあたしをののしった。あたしはただしょんぼりしていた。上目遣いでにらんだり、言い返したりせずに、いつまでもただうなだれていた。そして、養父がののしるのに疲れ、
「おまえもこれからはちゃんと真面目にやることだな」
と諦めるのを待って、
「すいませんでした……」
と涙声を出して深々と頭を下げた。もちろん芝居だったが、それを見て養父は安心して寝てしまった。
「さて」
あたしは母に言った。
「じゃあたし、帰るから」
「静子ちゃん、また行くの?」
「行くよもちろん」
あたしは玄関からブーツを持ってきた。さっきの格闘で、新品にあるまじき傷がたくさんついてしまっていた。
「一応、家出娘らしく台所の窓から出るね。玄関開けると音もするだろうし。気がついたらいなかったってことにして」
母にそう言い残して、あたしはさっさとアパートに帰った。その頃飲んでいたピルを「須磨」に置きっぱなしなのが気になったが、その日はもう取りに行くには疲れすぎていた。
翌日直樹についてきてもらって「須磨」に行きピルも取ってきたが、十七だったこともばれてしまっていたし、そのまま勤め続けるわけにもいかなくなってしまった。何よりもまた養父が探しにくるはずの店にいるのはいやだった。
母に相談すると、これをきっかけに堅い仕事に移りなさいと言う。あたしは迷い、直樹にも相談したが、ろくでなしの直樹は助けてくれるどころか、ますますややこしいことばかり引き起こすのだった。
その日あたしはダンスホールで直樹を待っていた。直樹と噂のある、体の大きな女がうろうろしているのを知らないではなかった。何かと言ってはすぐ乱暴を働く女だということも聞いていた。その前歯はけんかで折れ、二年前に産んだ子どもは施設に預けっぱなしだという、いわゆる札付きだった。女はあたしの目の前をこれみよがしに歩き回ったり、
「待ってんだよあれ」
と聞こえよがしに言ったりしたが、あたしは無視していた。
「ねえ。あんた直樹待ってるんでしょ」
声を掛けてきたのはそいつの子分の女だった。よそ見をしていたあたしは、
「は?」
と言ってそっちを見た。そのとたん、
「その目つきはなんだあ!」
と体の大きな女のほうが横から飛び出してきて、あたしの胸ぐらをつかみあげた。あたしはただそっちを見ただけで、目つきも何もあるもんじゃない。もともと因縁をつけようと狙っていたんだ、とすぐ判断したあたしは、その女の頬を思いきり張り飛ばした。女はまさかあたしが先に手を出すとは思わなかったらしく、びっくりした顔になった。あたしはもうすっかりやる気だった。さあ次はどこ、と構えたところで、あたしもそいつもまわりの女たちに押さえつけられた。まわりの女はみんな、けんかにはしたくなかったのだ。絶対けんかになると覚悟していたあたしは拍子抜けした。直樹もあたしとそいつがそろってしまっているのを誰かから聞いていたらしく、その後も店に現れる気配はなかった。あたしはそのままアパートに帰った。そのあと、直樹はあたしとその女のところを交互に行き来したようだ。片方の女の家では、もう片方の悪口を言うのだ。それがどっちの前ででも本気でやれる、直樹はそんな男だった。あたしはしばらく、直樹のつくるそんな箱庭の中から抜け出せずにいたのだ。
結局あたしは母の言うことを聞き、またもや印刷会社に就職して写植を打つことになった。その上、母は家の近くに引っ越して来いと言う。あたしは養父と出会ったあの嫌な出来事からまだ抜け出せずにいたので、母はどうしてそんなにとんでもないことを勧めるのかと恐ろしくなった。
「灯台もと暗しよ。お父様は朝早くに諫早の会社まで車で出てしまうんだからかえって大丈夫なのよ。いろいろ世話もしたいから、近くにいてちょうだいな」
そんなものなのだろうか。あたしはまだ迷っていた。なのに母は、家から歩いてすぐのアパートをさっさと見つけてきてしまった。四畳半の間貸しだったが、今度はもと女郎屋でなく、日も射し込むところだった。
突然給料が半分以下になる転職をした上に引っ越しまでしたので、あたしはすぐお金に困ってしまった。まだ十八歳になってはいなかったが、会社が終わってからスナックでバイトでもするしかなかった。母が新聞に求人広告を出している店にしなさいと言うので、そんなものかと思い、新聞を見て探した。「かんな」というその小さな店のママは、面接に来たあたしをちらと見ただけで雇うことを決めた。あたしはママにお願いして週払いでバイト代をもらうことにし、それでやっとなんとか生活出来ることになったのだが、それを聞いた母は今度は、ついでに冷蔵庫などの電気製品を買ってしまいなさいと言う。
「でも、部屋狭いし、冷蔵庫って高いんでしょう」
とあたしはしぶったが、母は、自分がホステスをしてた頃のお客だとかいう電気用品店の偉い人にさっさと話をつけて、週払いの分割で冷蔵庫やこたつを買えるようにしてしまった。あたしはどんどん話をすすめる母をあっけにとられて見ていた。
「これであんたんとこにも食べ物を置いてってあげられるわ」
と母は喜んでいた。そしてほんとに、あたしが働いている間に部屋に来てはせっせと食べ物をめぐんでくれるのだった。
しかしあたしの会社での評判はけして良くなかった。印刷会社は残業が多いのに、あたしはバイトのせいでそれが出来なかったからだ。ふつう副業は禁止だし十八歳未満だしで、わけを話すことも出来ず、あたしはただの、入ったばかりのくせに残業をしない生意気な写植打ちでしかなかった。
それでも「かんな」での仕事は楽しかった。美しく上品なママは、あたしたちバイトにも細かく気を遣ってくれる人だった。カラオケのない時代のことであったが、あたしは一度お客の前で演歌を歌って喜ばれた。あまりにほめられたのでその後、ほかのお客の前でも歌おうとしたら、そのお客は、
「きみに歌が歌えるようには見えないねえ」
と言うのだった。あたしはびっくりした。聞いていたママが、
「あら、あけみちゃんは歌うまいんですよ」
と言ってくれたので、お客も思い直してあたしの歌を聞く気になってくれ、あたしは「津軽海峡冬景色」を歌った。そのお客は、
「こんなに歌えるとは思わなかった」
と心底驚いていた。あんまりな言い方なので、あたしも嬉しくなかった。自分では子どもの頃からオーディション番組やのどじまん番組に出てチャンピオンになったりしていたので、自分が歌えることは当たり前だと思っていたのだ。まさか「歌えそうにない顔」と言われるとは夢にも思わなかった。
まもなく「かんな」のバイトの期限が切れ、印刷会社の仕事に集中出来ることになった。あたしはこれまで残業出来なかったぶん、一所懸命仕事しようと思い、徹夜の仕事でも喜んでやった。しかし、一度張り付いた悪いイメージをぬぐい去るのは容易ではなかった。
ある晩、あたしが一人で写植のファイルを見ていると、上の階に住んでいる社長が、声も掛けずに現れた。パジャマ姿でいきなりドアのそばに立っている彼を見てあたしは驚いたが、
「あ、こんばんは」
と挨拶した。なのに社長は何も言わずにきびすを返して行ってしまった。あたしが残業といつわって漫画を読んでいたという噂が立ったのはその直後だ。訳は簡単。その会社では打ち間違えた写植や使わなかった写植の印画紙を漫画雑誌に糊でべたべたと貼っておき、それをファイルと呼んでいたのだ。一字や二字で改めて写植機を操作するよりも、ファイルから探せそうなときは、みな必死でその漫画雑誌をめくっている。ちょうど社長が現れたのはあたしがそうしているときだったのだ。
「あたしはファイルを見ていたんですよ。漫画を見ているように見えたんだったらどうしてそのときに、何してるか聞いてくれなかったんでしょう」
あたしは社長より何倍も人格者だと言われている専務に訴えた。専務は黙って聞いてくれていたが、あたしはだんだんこの会社で働くのがばかばかしくなっていった。それでなくても、もともと会社の中のだれとも話が合わないと思っていたのだ。こっちは普通にしているつもりなのに、
「田中さんたら、変な化粧してるよねえ。化粧、濃いよねえ」
だの、
「なんか変わってるよねえ」
だのと聞こえてきてときどきうんざりしていた。
いくら多少の時間差があるとは言え、目と鼻の先にある家のそばを、養父が会社に行く頃にうろうろするのもいやだった。一度、養父の車が出勤するあたしを追い越して行ったことがあり、あたしは顔から血の気が引いた。その頃は何かと言うと養父と出会ってしまう気がしてしょうがなかった。雨の日に傘をさして歩いていると、向こうから来る傘の中に養父の顔があるような気がして恐ろしくなった。母はどうしてあたしをこんな恐い目に遭わせるのだろう。近所でなければまだ平気だし、活動時間が夜であればまた、ここまでニアミスの危険はないはずなのに。あたしはこんな恐ろしい目に遭いながら、毎日話の合わない人たちの中に入っていって、以前の半分以下のお金をもらっていることに納得が行かなくなってきた。そして結局母の思惑に反し、また水商売に戻っていくのだった。しかもあたしはもうちゃんと十八歳になっていて、誰にはばかることなくホステスをしていてもよかったのだ。
あたしは俊に追いつきたかった。良い店に勤めて、俊と仕事の話が出来るような人間になりたいと思った。だめでもともとと思い、長崎でいちばん美人ばかりいると言われている「公爵」というスナックに面接に行った。そうしたら、簡単に雇ってもらえたのだ。他の女性たちはみな、輝くような美女で、あたしはその中でどう見てもいちばんブスだった。皆と同じ制服を着ても、どうにもあか抜けないのだ。店長は言った。
「あけみ、秀美に化粧教えてもらえ。秀美は美容部員だったから。そんでその顔をなんとかしろ」
ひどい言われようではあったが、あたしは素直に秀美さんの指導に従った。
あたしはだんだんに仕事に慣れていった。店にカラオケも入り、歌が歌えるのも喜ばれた。カウンターの他にボックス席もある店だったが、ボックスでは隣に座らず、ひざまずいて接客する様式を取っていた。先輩たちが、
「うちは隣につかなくていいから楽なのよ」
と言うので、そんなものなのかと思っていた。
ある日、偶然にも太田靖夫が店にやってきた。あの、あたしの前で由美ちゃんとわざといちゃいちゃしていた靖夫が。あたしはあの頃気になってしょうがなかった靖夫を改めて見て驚いた。「公爵」の中では靖夫は、ただの汚いちんぴらだったのだ。あたしはへえ、そんなものなのかとしみじみ思った。なんだか自分が少し大人になったような気がした。
ある日、店長があたしに言った。
「あけみ、ちょっと今日、残ってろ」
あたしは何かしたっけか、とどきどきした。少しだけ小さくなって店長と二人きりの店のボックスにぽつんと座っていた。店長はあたしのすぐそばに座った。
「あの、あたし何か……?」
「あけみ、おまえもなあ、だいぶさまになってはきたが……」
口で言ってることとはうらはらに、店長はあたしをソファに押し倒そうとしている。
「あの、ちょっと」
「まあ、いいじゃないか」
いいじゃないかじゃない。あたしは店長を押し戻した。でも店長は押し倒すのをあきらめない。
「やだちょっと、やだッ!」
あたしは無理矢理立ち上がって出口へ向かって駆け出した。店長は後ろから追いかけてきたが、あたしがドアに手を掛けるほうが間一髪、早かった。
「さいならっ!」
あたしは外へ飛び出した。高いヒールをはいていたので、ちょっとだけ危なかったと思った。後ろで店長が、
「バカが……」
と言っているのが聞こえた。
翌日店長は何気ない振りをしていた。あたしも、店長のことは恐ろしく女ぐせの悪い男だと聞いていたので、大して気にもしなかった。女と麻雀で家に帰らない間に、奥さんが首つり自殺したという噂まである、筋金入りの人らしかった。ただ、親しい先輩にはその夜の話をして、一緒に笑ったりした。
まもなくあたしは本店から思案橋支店に移されることになった。
[#改ページ]
あたしには、虎屋旅館の住み込みをしてたときにも強姦されかけた経験があった。あれはまだ十七歳の頃、「タイガー」に一人で行った晩のことだ。あたしは「タイガー」にはたまにしか行かない。フロアは広いけど遠い店なのだ。路面電車が終わる前に店を出ないといけない。その日もあたしは電車に乗り遅れないように早めに「タイガー」を出た。そしたら、林野というやくざに従っていた舎弟の男の子が、後ろからあたしを追いかけてきた。あたしはさっきまでその林野の席に呼ばれて、苦いビールを飲んだりしていたのだ。林野はあたしにサービスしているつもりだったのかもしれないが、酒を飲むより踊っているほうが好きなあたしにとって、そんな接待はただうっとうしいだけだった。なので、ろくにあいさつもしないで店を出てきてしまっていたのだ。
「送ったげるよ」
「あ、あたし、いいです。電車で帰るから」
「でも林野さんから送ってやってくれって頼まれちゃったんだ、あんたを連れてかないとおれが怒られちゃう」
さっき会ったばかりだったが、あたしはなんとなくこの舎弟の松田という子をいい感じだと思っていた。
「どうせおれが運転していくし」
それならいいかと思い、あたしは松田と肩を並べて「タイガー」へ戻った。「タイガー」の営業はもう終わっていた。あたしは林野と二人で松田が車を転がしてくるのを待っていた。あたしから見れば林野はもうとっくにおじさんで、たいして話も合わない相手だった。車が来ると林野はあたしと並んで後部座席に座った。松田はただ黙って背中を向けていた。松田に誘われて車に乗ったようなつもりでいたあたしは、なんだか淋しくなった。普通こういうときは、もっと和気あいあいとお話しながら送ってもらうものではないのだろうか。松田はなぜか、兄貴分であるはずの林野とさえ言葉を交わさずに車を走らせている。様子が変だ。ろくに行き先も聞かれないことに気づいたときにはもう遅かった。車は山の方向に向かっている。あたしは右側のドアにむしゃぶりつき、必死で腕を回して窓を開け、叫んだ。
「助けてー!!」
「黙っとれエ!!」
後ろから林野があたしの口を押さえた。その怒号の迫力は太田兄弟やその周辺のちんぴらの比ではなかった。林野がそのあと怒鳴っている内容から、このままだと口封じのために危害を加えられるかもしれないと察し、あたしは黙るしかなかった。車はどんどん山に入って行き、まわりは木の陰で暗くなった。運転している松田が助けてはくれないだろうか。しかしまさか、松田の目の前であたしをやったりはしないだろう、などと思っていたあたしは甘かった。松田は車を適当な木の陰に止めると、無言で車から降りてしまったのだ。
「うそ!! 松田さん助けて!!」
あたしは叫んだが、無駄だった。すごい力で後部座席に押し倒され、スカートをめくり上げられた。
「いやー!!」
叫んでも、もう誰にも聞こえない。林野はあたしが暴れたせいか、体のほかの部分にはまったく何もせず、あたしの下着をはいでしまうことだけに集中していた。
「やめてー、やめてー!!」
あたしはあきらめずに抵抗した。これを言ったら止めてもらえるかもしれない気がするありとあらゆることを叫んで暴れた。
「あたし、今膀胱炎で血が出るの、痛い、痛いよー」
これは本当だった。
「おやじにやられるのがいやで家出してきたのに、また無理にやられるのはいやー」
と言っては泣き出した。それでもスカートの下にストッキングも穿《は》いていなかったあたしのパンティは、ついにはぎ取られてしまった。あたしはまだ泣き叫んでいたが、まもなく脚の間に入り込んで来た林野のペニスの先が、そこに当たるのを感じた。もうだめだ、入れられる……あたしは観念した。
ところが、林野は入れてこなかった。体を離し、後ろを向いてしまった。まもなく松田が呼び戻され、車は街に向かって走り出した。
あたしはまだ泣いていた。パンティだけはあわてて穿いたが、いつまた林野の気が変わるかもしれない。なので、続けてそのあとも、
「あたし、あたし、無理にされるのはいやー」
としゃくりあげていた。林野はいまいましそうに、
「もう泣くな!」
と短く怒鳴った。松田はあいかわらず黙っていた。街に戻ってくると、林野は、
「どこからなら帰れるか」
とあたしに聞き、適当な場所であたしを降ろした。やられなくて済んだものの、あたしはもうくたくただったし、車の中で大事なアドレス帳を落としてしまっていた。
あとで聞いたところによると、林野はあたしの中学の同級生の、同じく林野という女生徒の叔父にあたる人間だったそうだ。その女生徒はかなりの不良ではあったが、叔父が本物のやくざだというのは意外だった。しかしそれよりも、自分の叔父に相当するような年頃の男に強姦されそうになったことがやはり恐ろしかった。
松田が無言のまま山へ入って行き、無言のまま車を降りていったところを見ると、あたしを呼びにきた直後に、もうすべての打ち合わせは終わっていたのだ。そうやってものにした女はもちろん他にもいたのに違いない。あたしは、本物のやくざはそういうことが平気なのだなと考えた。しばらくは腹が立ってしょうがなかったが、ダンスホールにいる連中にそのことを話すと、
「そんな話してるとあんた、林野さんにつぶされるよ」
と言われるのだった。
「つぶされるって、どういう意味?」
と聞き返しても誰もはっきりとは答えてくれなかった。しばらくすると林野が暴力団取り締まりかなんかで警察につかまったと新聞に出ていた。
しかしあそこまでされながら、どうしてやられずに済んだのだろう。幸運だったが、そのわけまではあたしにはわからなかった。なので、いろいろ考えてみて、いくらやくざでも相手が本気でいやがって泣いたらする気にならないのだろうと結論を出していた。
だから、「公爵」の本店の店長に押し倒されそうになったことはそれほど気にしていなかったのだ。言っちゃ悪いけど、あの経験に比べたら可愛いもんだと思っていたし、走って逃げては来たが、それは、「この人はあたしに特に話があったわけじゃないんだな」と判断したからだ。なにしろやくざに山の中まで連れてかれて無事だったもんだから、店長なんかにやられたりしない自信はむやみと持っていた。
なのに今、思案橋支店のさびれ具合を見てあたしは考える。もしかしたらこれは左遷というやつなのかもしれない。やっぱりお情けで置いてもらってるブスのくせに、店長にやらせなかったのが、まずかったのだろうか。
支店はママと、マネージャーとウエイターの三人だけで営業している小さな店だった。ママは派手な顔つきの声の低い、姉さん肌の女性だった。ユッケが好物で、ときどきウエイターの稔ちゃんに買いに行かせて、パックに入ったものを二人前も厨房で食べているときがあった。初めてその場面を見かけたとき、あたしはママが食べているものの名前を知らなかった。ママは、
「あたしはこれを食べると元気が出るんだよね」
と言った。
「それはなんと言うものですか?」
あたしは聞いた。
「ユッケっていうの。生肉なんだよ。食べたことないの? ちょっと、食べてごらん」
と、わけてもらった。おいしかったので、その後は自分でも食べるようになったが、ただそれだけを二人前も一人で食べたことはあたしにはまだない。
本店と同じように、マネージャーがギターを弾いて歌ったり、お客の歌の伴奏をしたが、本店と違ってまだ珍しかったカラオケは置いていなかった。稔ちゃんもギターを少し弾いたが、マネージャーに比べたらギターも歌もへただった。それでもあたしより一つ年上の彼は、何でも親切にあたしに教えてくれた。
あたしはまだ直樹とつきあっていた。直樹は相変わらず嘘ばかりついていた。何度でも同じ嘘をついてはあたしを泣かせた。あの体の大きな女があたしの店に来て、あたしのつけでさんざん飲み、金を払わなかったことまであった。あたしは悔しくて、ダンスホールで会ったそいつに、
「つけ払ってよ!」
と言ったが、その女も、
「払ったよ」
と直樹と同じような言葉で嘘を言うのだ。あたしはこいつらと関係していることが心底いやになった。
ある夜、とうとうあたしは彼を断ち切らなければ自分が壊れてしまうと思い、直樹を置いて一人で歩いて帰ろうとしていた。このまま直樹のことはあきらめるつもりだった。
「どこ行くのー」
隣にくっついてきた車から声がかかった。そんな車を相手にしたことはそれまでなかった。なのにその晩のあたしはそれにふらふらと乗り込んでしまったのだ。車はまた、いつかのようにどんどん山に入って行った。あたしはもうどうでもよかった。
草むらに車を止めたそいつらは、何かたあいのないことを話しながらきっかけを探していた。あたしはただぼんやりしていたが、その中の一人があたしの手を引くので、よくわからないままそっちへついていった。
「おれ、あんたのことが好きになった」
百八十センチは軽くありそうな長身の男だった。
「このままだとあんた、おれらみんなに輪姦《まわ》されちゃうから、おれのこと選んでくんないか」
そう言われて断る理由があるわけがない。あたしは、
「うん」
とうなずいた。その男はあたしを草むらの上にそっと横にして、上からおおいかぶさって来た。寒かったが、彼のからだだけがあったかかった。
それから彼はふたたびあたしの手を引いて車に戻り、ほかの仲間に、
「おれの女にしたから」
と言った。ほかのやつらはただ黙っていた。
数日後、その男は店に飲みに来てくれた。暗いところでしか見ていなかったのでよくわからなかったのだが、とても恐い顔をした青年だった。今は造船所に勤めているが、むかしはちんぴらだったらしい。覚醒剤を打ったこともあるそうだ。なのにその件に関してとても醒めていて、彼は、
「あんなもんは、くせになるやつだけがなるんだ、シンナーと同じだよ。おれ、打ったときはまあラリったけど、続けてやっていたいとは思わなかった」
と淡々と言った。どうりであの時ほかのやつらが黙って従ったはずだと思った。でも彼はとても優しく、顔以外には恐いところはなかった。あたしは彼とバイクに乗って海へ行ったりしたが、たいしたつきあいもしないうちに、会うのをやめてしまった。優しくて情が厚くて何も問題はなかったのだが、なんだか話が合わないのだ。セックスしても、熱心になれなかった。努力したのだが、なぜだか彼としているとどうでもよくなってきてしまうのだ。一度、すごく眠いのを我慢して口でしてあげていたらうたた寝してしまったことがある。彼の、
「いてっ!」
という声で目が覚めた。寝てしまったので噛《か》んでしまったようだ。悪いことをした。
そのかわりまもなく稔ちゃんとつきあうようになった。ママにも稔ちゃんとつきあっていることを話した。あたしはその頃、まだ自分のお客というものを一人も持っていなかったので、店の男の子とつきあうことが悪いことだなんて思ってもみなかった。お客はみんなママの客だったから、あたしは失礼のないようにさえしていればいいと思っていたのだ。
ところが一人だけ困った人がいた。あたしはその客に、カウンター越しに胸を掴まれたことがある。それも、あたしがまさかと思って油断しているすきに、ブラジャーの中まで手を突っ込んで乳房を握ったのだ。ママのお客なのにどうしてこんなことをするんだろうとあたしは腹が立った。その人だけが、あたしと稔ちゃんのことを目ざとく感じとっていた。
「あけみはあいつとつきあってんだろ。店の男といちゃいちゃしやがって。客をなんだと思ってんだ」
とママにねちねちと文句を言っているのが聞こえてきた。ママはその晩、そのお客とついに言い争いになって縁を切ってしまったらしい。
「あけみちゃん、あたしはね、若い子たちのことだから見守ってあげて欲しいと頼んだのよ。でもあの人、聞かないからさ」
ママの目からは大粒の涙がこぼれた。
「いいんだよ、あんな人。つきあいは長かったけどね。もうあたしはいいの」
あたしはしんみりした。どうしてそういうことになるのかよくわからなかった。あたしがそのお客に色目を遣ったあげく、稔ちゃんと目の前でいちゃついたとかそういう話だったらわかるが、そんなわけでもないのにむりやり胸をさわられた上に一方的に文句を言われるのはなぜなのだ。
それでもほんとうはあたしのほうが悪いのらしい。聞くと、水商売の店では従業員どうしの恋愛は基本的に禁止されていて、店によってはどちらか首になることもあるという。しかし、それだったらなぜ本店の店長はあたしを押し倒そうとしたのだろう。平の従業員どうしが仲良くなって内緒でつきあうのだったらともかく、店長がそういうことをしかけるのはまずいのではないだろうか。あたしにはよくわからなかった。
でも反面、ママがあたしのほうを選んでくれたことが嬉しかった。一所懸命働いてママの役に立とうと思った。ところが次の給料から、あの体の大きい直樹の女が飲んでいったつけをざっくり差し引かれることになってしまった。それは、あたしには初めての経験で、とても悲しく痛いことだった。
「ほんとうに引かれちゃうんですねえ」
とあたしはため息をついた。ママはなぐさめてくれると思っていた。そしたら、
「当たり前じゃないよ。なんだよ、まったく甘えてんだから」
と冷たく言われてしまった。
あたしはがっかりすると同時に、腹が立ってきた。直樹なんかと関わったばっかしに、こんなことになったのだ。直樹があたしに出させた金はもう戻ってこないだろうしそれでもかまわないが、貸しっぱなしのレコードだけは返して欲しかった。
あたしは稔ちゃんの車に乗って、直樹の家のある茂木まで電話もせずに突然出かけた。新築の二階建ての家は何度か来たことがあった。直樹と直樹の父が漁師をして建てた家なのだ。直樹は中学しか出ずに漁師になったが、すぐ下の弟は受験のため勉強しているのだという。
あたしは鍵のかかってない玄関を開けて、だれもいない廊下を抜け、直樹の部屋に勝手に入り込んだ。ベッドの横にあたしの貸したレコードが重ねて置いてあった。その近くには、あたしが編んだ白いモヘアのセーターも落ちていた。あたしはそれらを抱えて急いで稔ちゃんの車に戻った。そして、走る車の窓からセーターを思いきり海に放り投げた。
「なんで捨てるなんてもったいないことするの。要らないならあたしが着たのに」
母がそう言うのを聞いて、あたしは体の力が抜けた。
「そう? だってその子にあげるために編んだんだよ」
そんなものを自分の母親がもらって着るのは変じゃないだろうか?
「だってモヘア高いのに」
こういうときあたしは母とは話が合わないなと思う。直樹は身長が百八十センチもある上に手足の長い男だった。それでもゆったり着れるようにと大きく編んだセーターを、太ってはいてもあたしと身長の変わらない母が着ているところなんて想像するだけでもおかしい。
しかし母の頭のなかには「もったいない」しかないのだ。あたしは今もまた、その妨害にあおうとしている。この部屋を引っ越して、稔ちゃんと一緒に街に近くて広いところを探しているのを責められているのだ。
「そんな家賃の高いとこ。それに、せっかく近くに住んだのに」
だからそれがいやなの、という言葉をあたしは飲み込んだ。どうしてそんなにそばに置いておきたがるんだろう。あたしは毎日、また養父にばったり会ってしまうかもしれない危険をおかしながら暮らしているのに。ほんとうは同じ長崎にいるだけでもいやなのだ。この狭い市内だもの、街に近いほうと言ってもたかがしれている。歩いていける距離だ。なのに母は遠いと言う。
「四万も毎月家賃払ったら貯金もできないよ。家賃なんて捨て金だと思わないとだめなのよ。毎月四万なんてああ。そんな高いところにどうして」
母はこの世の終わりが来たかのように頭を抱えている。その頃のあたしと稔ちゃんの稼ぎを合わせると三十万はあった。あたしにはそんなに高い家賃だという感じはしなかったが、母にはとんでもないぜいたくに思えるらしい。あたしは自分と母の経済観念の違いに驚きながら言った。
「とにかくお風呂のあるところにしたいのよ。毎日銭湯行ってから出勤するのめんどくさいし、帰りも遅いから貸間じゃなくて、自分の玄関のあるところがいいし」
近くの銭湯にはあたしの他にも水商売の人が来てはいるようだったが、その人たちはなんだかくたびれた感じのする人たちで、仲良くなりたいタイプじゃなかった。それに毎晩、一時過ぎになって大家さんの玄関のわきの戸を開けて稔ちゃんと部屋に戻ってくるのはいくらなんでも肩身が狭かったのだ。
母はしばらく黙っていた。今思えば彼女は、あたしがもう昼の勤めに戻る気がないのを悲しんでいたのだ。
「とにかくそんな家賃じゃ身動きとれないから、それだけはやめて。もっと安いところで探しなさいよ。お願いだから」
あたしは釈然としなかったが、母があまりにつらそうなのでその部屋に住むのをあきらめた。かわりに母が探してきた部屋は、今住んでいるところのすぐそばだった。あたしはまたこんなに家と近いのか、とうんざりした。それに、あたしが街で見つけていたところには二つの部屋があったが、そこは1DKとか言うやつで、細長い台所以外には六畳の部屋が一つあるきりだった。お風呂も、トイレと一緒になっている。トイレとの間にはアコーディオンカーテンが一枚あるだけで、どっちかがお風呂に入っているときはトイレを使うのがむずかしそうだった。母は、
「新築だから綺麗よ。二万七千円もするのはちょっと高いけど、うちから近いし。新築って言ったら、まだだれも住んでいないってことなのよ」
と言うのだが、あたしは新築だからと言って喜ぶ母の気持ちがよくわからなかった。それまで一度も出来たばかりの部屋になんか住んだことがなかったから、誰かが使ったあとだからいやだと思ったことがなかった。四万の部屋のほうは新築ではなく、ここに比べたら壁も柱も色がくすんではいたが、そんなこと気にもしなかった。二人で住むという新しい生活があるだけで良かったのだ。でも母は部屋が新しいほうがあたしが喜ぶものと思っている。なぜだろう。その上その六畳の部屋は、今まで見てきた六畳に比べてなんだか狭いのだ。畳のサイズが少し違うらしい。ここに二人で住むのはちょっと狭いんじゃないだろうか、とあたしも稔ちゃんも思ったが、母がどんどん話を進める上に、引っ越しまで手伝ったので、なんとなくそれでもいいかという気になってしまった。その反面、母と話をしているうちは、自分の好きな暮らしはできないのだろうなとも思った。
稔ちゃんの荷物は洋服が少しだけだった。彼の実家は市内にあるのだが、街からけっこう離れているので、あたしと暮らす前から、マネージャーや、その回りの人たちのところを泊まり歩いていたのだ。自分のものがほとんどないので、家具らしい家具が欲しかったのだろうか。その頃発売されたばかりの家庭用ビデオデッキを買うと彼が言い出した。二十五万円もするもので、もちろんそんなお金はない。
「月賦で買えばいいんだよ」
稔ちゃんは簡単に言う。知り合い関係で、もう月賦の手続きをしてきてしまったらしい。契約書を見ると、購買者があたしの名前になっていた。
「ここ、あけみの名義で借りてるじゃん、ここで使うもんなのに、いきなりおれの名前に出来なかったんだよね」
そう言いながら彼は一回目の支払い分の二万円をあたしに手渡した。そういえば稔ちゃんの住民票は実家にあるのだ。
しばらくして契約の確認をしに、クレジット会社の人が保証人の母を訪ねてきた。ところが母は無職で、保証人にはなれないという。家が持ち家ならいいのだそうだが、それも借家だ。あたしは初めて母が契約の保証人としては全く頼りにならないという事実を知り、驚いた。あたし自身も水商売でまだ十八歳だから、月賦を組めるような状態では全然ないのだそうだ。あたしは少し落ち込んだが、もともとビデオデッキが欲しいと言い出したのは稔ちゃんなので、彼にこう言った。
「やっぱり現金で買えないような値段のものまで欲しがるのはよくないよ。そのうち買えるようになったら買えばいいじゃん。別になくても困んないもんだし、返しちゃっていいでしょ?」
彼はしぶしぶうなずいた。ところがどこがどうなったのか、それでもいいから払ってくれという話になってしまったのだ。担当の人間が解約をめんどくさがったのか、その頃かなり大きな買い物だったからなのかわからないが、結局買うことになり、その後、毎月二万円はあたしの口座から引き落とされた。稔ちゃんは初めて手にした新しいビデオテープに油性マジックで「あけみちゃん用」と大きく書いてあたしを喜ばせた。しかしその後、稔ちゃんがビデオの支払い用としてあたしにお金を渡すことは二度となかった。ついでに、家賃の半分や、その他住まいに必要なお金も全然出さなかった。たまに一緒にごはんを食べるときや買い物したときに払ってくれる程度で、あとは麻雀したり飲みにいったりして使ってしまっているようだった。
稔ちゃんはまもなく「公爵」を辞め、麻雀仲間の田代という人と遊び回るようになった。田代さんが近々店をまかされることになるので、そうしたらいい待遇で雇ってもらえるからと言うのだが、あたしにはその話は信じにくかった。
田代さんという人は「公爵」の本店にいた、色白のやさ男のウエイターだ。ものすごく女にもてるらしいが、仕事ぶりはそんなに誉められたものではないとあたしは内心思っていた。歌もすごくうまいことになっていて、地元のテレビ番組で歌ったりもしていたが、しろうとうけのする古くさいヴォーカルスタイルだった。田代がいかにもいい男ふうの表情を作ってロマン歌謡を歌い上げると、たいがいの女は嬌声をあげたが、あたしは彼に興味がなかった。
「田代さんが店長でおれが支配人だからさ」
とはしゃぐ稔ちゃんを見て、あたしは暗い気持ちになった。
「それ、実現しないと思うよ。いつになるかわかんないんだったらそれまでどっかで仕事してればいいのに」
と言ったが、
「だめだよ、田代さんといろいろ詰めていかなきゃいけないことだってあるんだから」
と彼は言うのだ。まだ十九歳の小僧のくせに、すっかり一足飛びに出世したつもりになっている。毎日何か理由をつけては田代と遊び歩く彼を、あたしはことあるごとにちくちく責めた。
そしてついにある日、あたしは十歳近くも年上のその水商売の先輩と電話で対決させられることになってしまったのだ。田代がひとこと言えばあたしが引っ込むはずだと、田代も稔ちゃんも思っていたのだろう。
「あけみ。おまえな」
田代はかっこつけて言った。
「稔の出世を喜んでやれないのか?」
「そんなの出世だと思ってません」
あたしはきっぱり言った。
「なんだと。おまえそんな口をきいていいと思ってんのか!」
田代は怒鳴りだしたが、あたしは動じなかった。あたしはしばらく黙って聞いていたが、田代の言うことは筋が通っていなかった。そして一方的に電話は切られた。
あたしは店のピンク電話の受話器をゆっくり戻した。稔ちゃんはもう帰ってこないかもしれない。それもしかたないか、とあたしは思った。なのに、そのあとあたしに電話を掛けてきたのは、田代でも稔ちゃんでもなく、田代の年上の恋人のベルさんだった。ベルさんは田代よりこの業界でははるかに信用がある美人ホステスで、あたしの憧れの人だった。
「稔ちゃんのことで彼が迷惑かけてるそうね?」
とベルさんは大人の言い方であたしに聞いた。あたしは田代のときの何倍も緊張した。
「稔ちゃん、田代さんともう一緒に店やるような気になってるんです。でも、なんだかちょっと違うんじゃないかって気がして。あたし、彼にはもっと地道に働いて欲しいんです」
地道なんて言葉を使うのは初めてだった。なんとなくおかしい気もしたが、ほかに言い方がみつからなかったのだ。ベルさんは何も意見せず、
「こんどうちに遊びにいらっしゃいね」
と言った。
その後、結局田代がまかされるはずだった店はいっこうにオープンする気配がなかった。稔ちゃんもついにあきらめて、どこかのスナックのウエイターの職を探してきた。年末には稔ちゃんの実家に遊びに行って、俊のときのように正月もそこで迎えた。稔ちゃんの家族はあたしのことを嫁のつもりで可愛がってくれているようだった。
「あけみさん、稔をよろしくお願いしますね」
とおかあさんから言われたりした。
「それにしてもベルさんが遊びにいらっしゃいって言ったってのがなあ」
ベルさんは、嘘つきの多いホステスの中でも社交辞令をしないので有名なのだそうだ。
「おまえそれは、ほんとうにベルさんに気に入られたんだよ」
稔ちゃんにそう言われて、あたしは嬉しかった。
ベルさんは「公爵」の支店のすぐ上の階にある「おしゃれ泥棒」というサパークラブに勤めている。その隣には「ロイヤル」という高級クラブがあって、その二つは長崎でもトップクラスの店なのらしい。ときどき「ロイヤル」のホステスさんが「公爵」で同伴の待ち合わせをすることがあった。ママの知り合いのホステスさんだったらしいが、
「ああ遅れちゃった。早く行かなくちゃ。ごめんね! またゆっくり来るから」
と来るなりお客の手を引いていく様子を見ていると、まるでうちの店なんて喫茶店代わりという感じで、格の違いを思い知らされるようだった。
あたしは「ロイヤル」より「おしゃれ泥棒」にあこがれていた。音楽に理解のある店という噂だったからだ。「泥棒貴族」というクラブの姉妹店だそうだが、「泥棒貴族」には専属のピアノ奏者、「おしゃれ泥棒」にはエレクトーン奏者がいるという。「公爵」あたりではしろうとのウエイターが兼業でギター弾きもしているのだが、それらの店ではプロの演奏者が担当しているのだ。それだけでもあたしは「おしゃれ泥棒」に移りたいくらいだった。
そんなことを考えているうちに、あたしの勤める「公爵」思案橋支店は店を閉じることになってしまった。あたしは途方に暮れるどころか、すぐに「おしゃれ泥棒」に移ることを考えた。ベルさんに頼めばスムーズに入れるかもしれないと思ったが、それでは卑怯な気がして一人で面接に行った。十八歳という若さが幸いしてか、あたしは「おしゃれ泥棒」に雇ってもらえることになった。
「おしゃれ泥棒」は活気ある職場だった。「公爵」と違って制服ではない上に、かなり変わった服装をしてても許されるのだ。ベルさんは特に、その頃ホステスの間ではタブーとされていたパンツルックやヒールの低い靴を堂々と着こなし、勇気ある前例をたくさん作っていた。エレクトーン奏者は十二時までは女性で、それから閉店の一時までは彼女の先生にあたるという小柄な男性が担当していた。
ホステスはベルさん以外はみな、歌も歌う。意外にもベルさんだけが音痴なのだそうだ。エレクトーン奏者と相談してレパートリーを決め、お客のいない時間に練習させてもらう。奏者の二人は、それぞれのホステスの声の質の相談にも乗ってくれる。あたしは積極的に質問し、レパートリーもどんどん増やしていった。
そのうち、みんながショウちゃんと呼んでいる男の奏者のほうが、あたしの歌のレッスンを本格的に担当してくれるようになった。月に一回、彼が十二時までピアノを演奏している高級クラブに昼間に出かけて行って、歌を歌ってはアドバイスをもらう。あたしはそんなことを月謝も払わずに毎月やってもらっていた。その代わり、深夜に彼が演奏している店に毎晩行っては歌を歌った。どうもそれをただでやっていることでバランスが取れていたようだ。店が終わってからその深夜の部に移るまでの時間、あたしはほとんど毎晩ショウちゃんにくっついて歩いて、ごはんまでおごってもらっていた。
稔ちゃんは、「おうどぼうず」というスナックに移ることになった。「おしゃれ泥棒」のホステスのシルビアのだんなさんでもある、小形さんというにぎやかな人が店長をやっているところだ。「おうどぼうず」に移ってから、稔ちゃんは小形さんと賭事ばかりするようになった。寝言で、
「取った!」
と言ったりした。競艇の夢を見ていたようだった。かと思うと、
「なあ、おれが店の女の子と浮気してるとしたら誰だと思う?」
と変な質問をしたりした。
「なにそれ……」
としばらく相手にしなかったが、
「いいからさあ、もしってことで言ってみて」
と言うので、あてずっぽうで、
「よしえちゃんかな」
と言った。
どういうわけかそれが当たってしまっていた。稔ちゃんはよしえちゃんとの浮気にはしゃいでいるところだったのだ。あたしが「おうどぼうず」に彼を迎えに行くとき、彼はわざと別の女の子といちゃついてカモフラージュしていたつもりだったらしい。彼はすっかりあわててしまい、必然的に浮気はばれた。
それからしばらくして、稔ちゃんが行方不明になった。部屋にも帰ってこないし、「おうどぼうず」にも姿を見せない。なんでも、よしえちゃんが結婚して店を辞めることになったのがショックで、昔住んでいた京都に一人で傷心の旅に出ていたのだそうだ。
それまで、稔ちゃんの無断外泊を、
「勝手に帰ってこないとか、そういうことするんだったら、もう一緒に住むのやめようよ。連絡ないと心配するでしょ」
と責めていたあたしも、三日もそんな旅に出ていたと聞いて、怒る気もしなくなった。やっと帰ってきた彼に、
「もういいから、とにかく出てって」
と言ったが、
「よしえが……よしえがさ……」
と悲しむばかりで要領を得ない。なんでこんな男にかまっているんだろうあたしは、と自分に腹が立ってきた。
それでもそのあとしばらくまじめに働いているようなので、あたしたちは小康状態を取り戻した。日曜になると、あたしはいつも一人でディスコへ出かけた。踊ってすっきりするといい気分になれた。それから、日曜も営業している「おうどぼうず」へ稔ちゃんを迎えに行って一緒に帰っていた。
あたしが冷静でいられたのは、あたしのほうにもとっくに別の男が出来ていたからだ。太郎ちゃんというその男は、あたしが入る前から「おしゃれ泥棒」に勤めていて、稔ちゃんとも古い友だちだった。あたしと関係してしまったあと、だったらしなければいいのにというくらいしきりに稔ちゃんのことを気にした。あたしのほうは、同じ店の子だから当然関係を内緒にしてくれるし、ちょうどいいやくらいに思っていたのだが、太郎ちゃんのほうはあたしとのことを人に言えないことがだんだん苦になってきたらしい。
「言えないんだよな……あけみとのことは、誰にも……」
と二人きりのときしんみりするようになった。その湿っぽい様子を見て、稔ちゃんもよしえちゃんと二人のとき、こういう感じだったのかもしれないなあとあたしは想像した。そのせいか太郎ちゃんがセンチメンタルになればなるほどあたしは醒めた気持ちになっていくのだった。
その晩、いつものディスコによしえちゃんが来ていた。
「あら、こんばんは」
あたしはそれだけ言ってさして相手にもせず踊っていた。むこうもそんなものだろうと思っていたら、いつのまにかよしえちゃんの姿はなかった。あたしと会ってしまったから帰っちゃったんだろうか? まさかね。だって皮肉の一つも言わなかったのだ。
ディスコの営業が終わり、あたしは銅座の雑居ビル街に向かった。「おうどぼうず」の裏口から厨房へ入ると、稔ちゃんが洗い物をしていた。
「手伝いに来たよ」
と声を掛けたが、彼の表情は暗かった。何かいやなことでもあったのかなと思った。しばらく彼は黙っていたが、おそるおそるあたしに言った。
「よしえに、何て言った?」
「は?」
「何か言っただろ? なんでそんなこと言ったんだよ」
「何て? ああ、あいさつはしたけど、それがどうしたの?」
またしばらくの沈黙があって、
「よしえが、泣いて電話してきた」
と稔ちゃんは言った。
「あけみちゃんに、『めかけ女!』っていじめられたって」
あたしはしばらく、どういうことかわからずぼんやりしていた。やっと把握できたとき、まずスーと息を吸い込んだ。それから最近ヴォーカルレッスンで鍛えている声を全部出して怒鳴った。
「なんでそんなことになんのよ!!」
その声は厨房を抜けてスナックの店内まで響きわたった。
「あんたあたしをそんな女だと思ってんの!?」
今度は小形さんがあわてて飛んできた。
「おまえら何騒いでんだ!」
あたしは止めなかった。
「どーしてあいさつしただけがそこまで変わるわけ、信じらんなーい!!」
「あけみ黙れ。お客がびっくりしてんじゃねーか!」
小形さんはあたしをおさえつけた。あたしはばたばたと抵抗しながら叫び続けた。稔ちゃんはただ呆然と見ていた。
「はい。じゃあこれで全部だからね。さようなら」
稔ちゃんの荷物は大きめの紙袋に二つしかなかった。稔ちゃんは黙ってそれを受け取り、部屋の鍵をあたしに渡し、肩を落として玄関を出ていった。
やれやれとあたしも出勤の準備をした。その頃のあたしは部屋にポメラニアンという犬と、雑種の猫を飼っていた。両方にえさをやって、猫のほうは外に出してから店に出かけていた。猫を抱えて玄関を開けると、何かがドアに当たってぱたんと倒れた。それは、ついさっき稔ちゃんが持って出ていったはずの二つの紙袋だった。
店に来て、まだお客のいないうちにあたしは「おうどぼうず」に電話をかけた。
「なんで持って行かないの?」
稔ちゃんは黙っていた。また振り出しに戻るのか、とあたしはため息をついた。
「持って行ってちょうだい。もういて欲しくないの」
また部屋に戻ってきた稔ちゃんの前に二つの紙袋を差し出し、あたしは念を押すように言った。
「お願いします」
稔ちゃんは下を向いていた。しょんぼりしていればあたしが考え直すとでも思っているようだった。
「早く」
あたしはせかした。それで、彼はかっときたようだ。
「おまえという女は」
と低い声を出して立ち上がり、足であたしの頭を蹴りつけた。あたしは、この人は逆上するとこういうことをするのかと少し意外に思った。それでもそれも長くは続かず、彼はすぐに紙袋を提げて走り去った。あたしは心からせいせいした。
お客とつきあうようになったのはそれからだ。もう家に入り込まれたり、「おれの女」づらされるのはこりごりだった。相手が妻帯者ならそんなこともないし、だいいちこっちが生活をみてやらなくても良い。お互い逢えるときだけ逢って、干渉されずに済む。早くこうすれば良かったのだ。
最初につきあったのは十歳くらい年上のホテル業のお客で、岩戸さんという、がっしりした人だった。一緒に飲んでいるうちに遅くなってしまったので、彼が、
「部屋空いてるけど、泊まってくか?」
と自分の職場のホテルの一部屋を使わせてくれたのがきっかけだった。お客と深夜まで一緒にいるのは初めてで間が持てなくなったあたしは、例によって自分の家の話をしてみた。そしたら、そのあとあたしを抱こうとした彼が、
「だめだ、さっきの話聞いたからかもしれない、勃《た》たないや」
と言って体を離したのだ。
その晩はただ、岩戸さんときょうだいみたいに並んで眠った。朝になると彼は人目も気にせず、そのホテルで朝食を食べさせてくれた。そんなことがあってから彼と仲良くなっていったのだ。
セックスは、その後ちゃんと落ちついてからした。でも困ったことに、彼はあたしには大き過ぎた。あたしはいつも痛さに逃げているうちに、ベッドの上部や床の間に頭をぶつけた。酒の勢いで何も考えずにおこなったら、翌朝シーツが血だらけになっていたこともあった。生理ではなかったので、あたしは恐くなって産婦人科に行った。
「中がただれていますね。少し性行為を控えてくださいね」
と医者が言った。まるで淫乱女のようなことを言われているあたしだった。
「あんたも水商売だし、定時制はもう無理だろうから」
母はまだあたしに高校に行くことを勧めていた。
「通信制は入学試験もいらないしさ。西高でやってるんだってよ。だから、卒業したら公立の高校を出たことになるのよ」
そんなことはどうでも良かったが、勉強はそれほど嫌いじゃないので、あたしは西高の通信制に行くことにした。
あたしと同時に通信制に入ってきた人たちはほとんどが中年で、子どもが手を離れたから高校でも行くかという人たちばかりだった。何年も勉強から離れているため、英語の授業などはアルファベットの書き方から始められた。ほとんどの生徒よりはるかに若い女の英語教師が、いまどき中学校でもやらないような親切さで筆記体のアルファベットを一字一字教えていった。それでも、どっかのおじさんが立ち上がって、
「先生、おれたちの時代はそういうふうに習わんかったですよ」
と黒板を指さしていちゃもんをつけたりした。能率の悪い授業だった。
現代国語の授業では、グループ学習が行われた。題材は「洟《はな》をたらした神」という、農業をやりながら子どもを育てる女性が書いた文章だった。とても良い作品だと思ったが、まわりのおばさんたちが、
「すばらしいわー」
「えらいわー」
「あたしたちにはまねできないわねえ」
とあまりにもずさんな誉めかたをした上に、
「というような意見だということにしましょう」
とさっさとグループのレポートを書き始めてしまった。とにかく誉めればいいのだというその様子がちょっと気になったあたしは、
「あのー、それはいいんですけどそんな、この人のすべてが特にえらいっていうんじゃないんじゃないでしょうか。子どもを育てた人なら誰でもしてきたようなこともたくさん混ざっているんじゃないですか?」
と意見を言った。おばさんたちはいやな顔になった。彼女たちはとにかくすばやく無難に勉強を終わらせたかったのだ。意見の交換なんて、めんどくさいと思っていたのだ。少ししてリーダー格のおばさんがあたしに、
「まあまあ、あなたは若いから」
と言った。それで授業は終わりだった。そんなもの勉強でもなんでもなかった。あたしはそれ以来通信制の人たちと口をきかなくなった。先生に質問したりはしに行ったが、生徒の誰とも仲良くしなかった。
生徒たちは、みなレポートの写しっこをし、みんながそろっていい点を取っていた。中にはどこから仕入れてくるのか、前年度のレポートを手に入れてまる写ししている人までいた。そんなふうなので、レポートが全部「A」をもらっている人が試験だと五点ぐらいしか取れないことがざらにあった。ほとんどの人は公立の高校を卒業したというその事実だけが欲しくて通信制にやってくるのだった。
あたしには歌や踊りの勉強のほうが楽しかった。ディスコで踊っているだけでなく、モダンバレエの教室に通い始めた。バレエの先生は五十代の男性だったが、髪を金色に染めていて、長崎の中ではおそろしく目立った。
「あけみちゃん、加藤んとこ習いに行ってんの? おれあいつと同級生なんだよ」
というお客がいたが、とっくにおじさんで、とても同級生には見えなかった。
ある晩、あたしは布団の中で誰かからもらった文庫本を読んでいた。
「ポルノなんだけど、すっごく面白いよ」
と言われていたとおりだった。夢中で読むうちに、あたしの中指は遊び始めた。
これまでもたまにこうして自分を刺激することがあったが、いつもは少しそうしただけで眠ってしまっていた。セックスするときは、自分がどうやったらいくか、もうだいぶわかってきてはいたのだが、一人でいったことはなかった。ところがそのとき初めて、あたしはそのままいってしまったのだ。自分でもびっくりした。それから、なんて面白いんだろう、と感激した。
いつも酒の席にいるあたしは、男たちがマスターベーションの話をするのをよく聞いた。何度も続けてしたとか、変わった工夫をしておこなったとか、そんな話をして笑い転げる彼らを、そんなものなのかと見ていた。でも今やっとわかった。自分の手で絶頂感を起こさせることはこんなに面白いことだったのだ。あたしはさっきどういうふうにしたか思い出しながら、もう一度同じようにしてみた。しばらくして、やはり絶頂感はやってきた。今度はそれが背骨に添って上がってくるような気がした。あたしはまた面白くなってもう一度した。それからさすがに疲れて寝てしまった。
翌朝、目覚めたあたしはゆうべの経験を早く人に話したくてしょうがなかった。誰を相手に選べば面白く話が出来るだろうと考えながら出勤した。
店には、毎日誰よりも早く来て、トイレの掃除を自らすると決めている店長だけがいた。ホステスはまだ誰もいない。あたしは、こういう話をする相手は男のほうがいいと考えた。女がマスターベーションの話をして笑っているのは、まだ見たことがなかった。
「店長店長」
あたしは店長に近寄っていった。嬉しくて顔が笑ってしまっていた。
「なんだ」
いつもボタンダウンのシャツに細いネクタイを締め、きっちりとリーゼントにしている人だった。大声を出したり取り乱したりせず、どんなときにも落ちついていた。そんな店長にあたしは何でもよく相談していたのだ。
「あたしね、きのうね、初めてひとりでしてて、いったんですよ」
「………」
「すごく面白かった。あんまり面白かったんで三回もしちゃいました」
店長はしばらく黙っていたが、ちょっとだけ困った顔になって言った。
「あけみ、そういうことは、人前で言うな」
「えっ。言っちゃいけないことなんですか」
「女の子はだめ」
あたしはまたひとつ世間を学んだのだ。
[#改ページ]
「おしゃれ泥棒」は狭いカウンターの他にガラスの丸テーブルが五つしかない小さな店だった。そのころあたしを含めてホステスは五人。一テーブルに一人ついたら、もうそれで手いっぱいなのだ。どうしてかというと、ここは正式にはクラブではなくサパーレストランで、風俗営業許可というものを取っていない。つまり「女の子が接客」してはいけないのだ。あたしたちはホステスでなくウエイトレスで、ほんとうはお客の隣に座るのはまずいらしい。
「隣に座れよ」
と言われたら、
「すいませんが、決まりで出来ないことになってるんです」
と断っていいことになっていた。あたしにとっては好都合だったが、もともとこの店のお客にはそういうタイプの人がほとんどいない。なのでみんな、なかよしのお客の隣にはすすんでよく座っていた。店長は、
「警察らしい人が入って来たなと思ったら、お客と一緒に遊びに来た女の子の振りをするように」
と言っていた。
特に夜中の十二時を過ぎたら営業していることさえ内緒にしなければならない。警察にばれたら営業停止だそうだ。
あたしが入って三カ月目に、「おしゃれ泥棒」はほんとに少しだけ営業停止になった。あたしたちは何組かに分かれて、姉妹店の「泥棒貴族」や「スナック朱鷺《とき》」などで働いた。エレクトーン奏者の和ちゃんは、「朱鷺」のカウンターでピアニカを演奏してお客を喜ばせた。それなりに楽しい日々ではあったが、あたしは見習い期間の三カ月がちょうど終わったところで、本当は一段階給料が上がる予定だったのがしばらく遅れて残念だった。しかし社長や店長の不機嫌さはそれどころではなかった。隣の「ロイヤル」の社長がこちらの店の人気を妬《ねた》んで警察に言いつけたことがわかっていたからだ。サパーレストランが何時まで営業しようが来ているお客に文句があるはずもない。警察に呼ばれたとき、店長は、
「どっかが言いつけたんでしょう? どこですかねえ」
と聞いてみたそうだ。そしたら、
「まあどことまでは言えないけどねえ。お宅と同じフロアの店だね」
と言われたのだ。警察の人はこの階にはうちと「ロイヤル」しかないのを知らなかったらしい。
また長崎に「スター誕生!」が来ることになった。あたしは中学二年のとき、予選に通ったのに養父から番組に出させてもらえなかったことを苦々しく思い出した。もうあたしは十八歳になっている。十三歳から十五歳あたりが対象と言われている番組だから、もうだめかもしれないと思ったが、どうしてももう一度受けてみたかった。
「この曲とこの曲、どっちがいいと思う?」
あたしは和ちゃんに相談して「女はそれを我慢できない」という曲に決め、予選の日までそれを一日に何度も練習させてもらった。そして見事予選を通過した。
それからそれを母に知らせた。母は今度はとても喜んでくれた。
「お父様に見られないようにしなくちゃね!」
あたしはそんなことまでは考えなかったが、そう言われればそうかもしれない。「スター誕生!」は家でも毎週見ている番組だ。あたしが出ているのを見つけたら養父はテレビ局に問い合わせるだろう。
「日曜だから、外に行こう行こうって、あたしと知恵で連れ出すよ。あたしたちはあとで、ここであんたのビデオで見せてもらえばいいから」
稔ちゃんの残していったビデオデッキが、こんなにも役に立つ日が来たのだ。そしてあたしは最高点を取って本選に受かり、もう一人の中学生の女の子と一緒に決戦大会に行くことになった。二週間も店を休んで東京に行かなければならないのに、店でもみんな喜んで応援してくれ、餞別をくれるお客さんまでいた。
決戦大会に行くまでの三カ月は、地元でレッスンを受けるという話だった。しかし、実際はテレビ局から三万円のレッスン費が出るだけで、紹介されたのはあたしでもすぐに見破れるようなうさんくさい演歌の先生だった。その人のへたくそなピアノで歌うことさえあたしにとっては苦痛だった。リズム感がまったくなく、ポップスが弾けないのだ。難しいコードが出てくると右手をだららら、とすべらせてごまかしてしまう。
「演歌は良いよう」
その先生は日本作詞家協会とかなんとか書いてある賞状の額や、あやしいトロフィーだらけの部屋であたしに演歌の素晴らしさを長々と語った。そして最後にこう言った。
「決戦のときに歌う曲は演歌に変えたら?」
あたしはうんざりした。以前は楽譜やカラオケがそれしかないから、あたしは演歌も歌っていた。でも、ポップスも伴奏してもらえる「おしゃれ泥棒」に入ってからは、ほとんど歌わなくなった。演歌の好きなお客は多いので、一回でも歌うとまたやれと言われる。それがいやでますます歌わないようになっていた。
あたしはテレビ局の人に、
「あんなとこにレッスンに行くくらいなら、いつもレッスンしてくれる先生にその三万をあげて、番組のために特訓してもらうというのにしたいんですけど」
と頼んだが、聞いてもらえなかった。もう一人の女の子のほうはなんと、本選ではポップスを歌っていたのに決戦では演歌にすることにしてしまっていた。それを聞いたあたしはその子と話をするのも嫌になった。
月謝も取らずに毎週あたしをレッスンしてくれているショウちゃんにも気の毒な気がした。ショウちゃんは、
「まあそういうこともあるよ」
と言った。
「それよりそろそろあけみちゃんはジャズヴォーカルのレコードも聞くといいんじゃないかな。『泥棒貴族』でピアノを弾いている金井先生はジャズに詳しいから、おうちに遊びに行っていろいろ教えてもらいなさい」
あたしは金井先生とはほとんどつきあいがなかった。ピアノはうまいが酒癖がものすごく悪いという噂の人だった。あまり話が合いそうになかったが、ショウちゃんがそう言うのでわざわざこちらからお願いして先生の家を訪ねた。
先生は有名なジャズヴォーカルを次々と聞かせてくれた。あたしは、
「なんかお酒に酔っぱらって歌っているような感じですね」
と感想を述べた。
「ああ、そうかもしれないね。でもこれがジャズの味なんだよ」
家の中には先生とあたししかいなかった。先生はとても紳士で、家族旅行の写真を見せてくれたりもした。でもまた遊びに行きたいとまでは思わなかったので、そのあとは自分でジャズのレコードをあてずっぽうで買っては聞いた。
ある晩、「最後の20セント」という小さなスナックにいたら、ベろベろに酔っぱらった金井先生が入ってきた。酔ってるときには相手にするなと言われていたので、あたしはしらん顔をしていた。
「おう。あけみじゃねえか」
別人のようになれなれしい口調で金井先生が近づいて来た。あたしは簡単にあいさつした。すると彼は、
「おまえこないだ、おれのこと誘っていただろう」
と言うではないか。そのあまりの変わりようにあたしは怒るより感心してしまった。
決戦に行く前にあたしは十九歳になった。こんな歳になって「スター誕生!」で歌手になったケースはほとんどなかった。それでもあたしは「もしかしたら」という気持ちでいっぱいだった。
出発の前の晩は岩戸さんと過ごした。岩戸さんとベッドで並んで、テレビをぼんやり見ていた。
「あけみ。おまえもしこれに通って歌手になったら、おれとつきあってることとか人に黙ってなきゃだめなんだぞ」
と言った。
「え?」
あたしは何を言われているのかよく飲み込めずにいた。
「だから、歌手になったら何も知らないような顔をしてなきゃだめなの。おまえは言わなくていいことまで人に言っちゃうほうだからなあ」
「はあ」
この人いい人だなあ、とあたしは思った。
あたしはあっさり決戦に落ちて帰ってきた。受かったのは十五歳の、井上望という少女一人だけで、他の出演者はみんな、ただ二週間だけ業界の風に触れただけだった。
それでもあたしはプロデューサーがミーティングの時に聞かせてくれた話や、土居|甫《はじめ》さんの踊りのレッスンなどがとても勉強になった。スタッフの一人からは、
「また月収二十一万のクラブ歌手に戻るわけね」
とからかわれたが、あたしはなんでもずけずけ言ってくれるそのスタッフが好きだった。その人は、
「学校は行ってないの?」
とあたしに質問した。あたしは、
「言いにくいけど、通信制の高校に行ってるんです」
と答えた。それを聞いて彼は表情も変えずに、
「言いにくいって何なの。通信制通ってることを自分で『かわいそう』とでも思ってるわけ? そんな自意識過剰な考えじゃ芸能界なんてやってけないぜ。甘えてんじゃないよ」
とぽんぽん言った。あたしは少し驚いたが、そのあとずっとその人のことが忘れられなかった。
あたしの部屋にはそれまで机がなかった。あたしは本棚のついた机を買い、原稿用紙に漫画を描き始めた。家では隠れて小さな紙に描いてばかりいたから、原稿用紙はとても大きく感じた。東京で写植を打っていたことのある大人の漫画誌に短い漫画を送ったら、副編集長の名刺がついた手紙が来た。嬉しくてまた送ったが、次には何も連絡はなかった。
岩戸さんは奥さんと別れて独身になっていたが、あたしは中富という三十歳くらいのお客とつきあい始めた。背の高い、声の低い男で、あたしはその声を好きになってしまったのだ。彼は奥さんと二人で、呉服の販売をする会社をやっていた。
「好きな人出来ちゃったから、もう逢わないね」
と岩戸さんに言ったら、
「おまえ、どうしておれと結婚しなかった?」
と言われた。そんなことを考えたこともなかったあたしはとても驚いた。
養父の留守にあたしは中富を実家に連れていったこともあった。母には妻子持ちだということは話してあったが、母はそんなこと気にもしていないと言った感じで彼と談笑していた。その姿を見ながら、あたしは自分が中富を家に連れていったくせに、母もこの人も不思議だよなあと二人をじろじろ観察した。あたしは二人の出かたを見たくてこういう場を作ったのかもしれないと思った。
そしてまもなく、どういうわけか中富の子を妊娠してしまったのだ。あたしはがっかりした。永遠にこんなことを続けていなければならないのかと思った。中富は家庭のある身でいながら、
「産めないの?」
とあたしに言った。
「産めないんじゃない?」
とあたしは答えた。
それでも一人になるとあたしは貯金通帳を引っぱり出して悩んだ。母の勧めで毎月十二万ずつ積み立てていたあたしには、百万近い貯金があった。母はいかにも中富を気に入ったふうに振る舞っていたくせに、
「あの人がお金貸してくれって言っても絶対貸しちゃだめよ。貯金があることも言っちゃだめ」
と何度か念を押していた。中富はときどき自分の会社に金が足りないとこぼしていたのだ。
あたしはメモ用紙に、月何万あれば暮らしていけるかを書き付け、子どもを産んでしばらく動けない自分にどのくらいの金が必要かを考えてみた。十七歳で子どもを産み、その後すぐその子を預けてピンクサロンで働いていた昔の知り合いのことを思い出した。ほかにもまわりに十六かそこらで子どもを産んで母子家庭をつくっているホステスは多かったので、あたしはなんとなく出遅れたような気にまでなっていた。中富と結婚したいという考えは湧いてこなかったが、このへんで子どもだけはなんとか産めないものかといろいろ考えた。
でもやっぱり堕ろすことに決めた。中富は、
「ほんとにだめなのかな。堕ろすしかないのかな……」
としょんぼりしていた。
「うちの子、女だけど、この子は男かもしれないのになあ」
とそんなことまで言うので、あたしも少ししんみりした。中富は病院まで付いてきてくれた。十七歳のときと同じ病院だった。今度は診察台から看護婦たちに抱き上げられるところで意識が戻った。こうやってだんだん麻酔の効く時間が短くなっていくのかと少し気味が悪くなった。
中富は部屋のベッドにあたしを横たえると、買ってきた弁当を渡してくれたが、あたしは少ししか食べられなかった。
「どうしたの……食べなきゃ、元気出ないよ」
「うん……でも、もういいや。あした、仕事だから、寝る」
あたしは金曜の朝に手術してその夜だけ休み、土曜には出勤すれば、風邪でしたと言って済ませられると思っていた。次の日の日曜の間に体も回復するはずだった。
土曜の夕方は中富につきそわれて出勤した。中富はそのまま終わりまで店にいてあたしを見守っていた。二日くらい休めばよさそうなものだったが、ほとんど店を休んだことのないあたしにはそういうやり方しか思いつかなかったのだ。
「もう……見てるだけでつらかったよ。ふらふらしてるんだもの。代わってあげたかった」
店を出るとき中富が言った。
「大丈夫……」
あたしは力の入らない声で答えた。
部屋まで送ってくれた中富はあたしとベッドに並んで横たわった。ずっと店で飲んでたから、相当酒も回っていたのかもしれない。中富はまもなくもぞもぞとあたしをまさぐりだした。堕胎のすぐあとにこういうことをされるのは初めてではなかった。あたしは男はこういうものだとどこかであきらめていた。ただ、なんかこの人、口で言ってることとすることが違うなとぼんやり思いながら、中富のするままになっていた。中富は、
「あんまし深くしないようにするね」
とかなんとか言いながらあまり時間をかけずに済ませた。
「あっ。もうこんな時間だ」
後始末が終わると中富は時計を見て飛び上がった。
「あした大変なんだ、うちの会社」
「そうなんだ……」
だったらなぜしたの? とは聞けなかった。中富はさっさとズボンをはき、こっちを見もせずに、
「そんじゃ帰るから」
と言った。その言い方には「やることやったし」というニュアンスが聞き取れた。あたしは嫌な気持ちになり、
「そんじゃって何?」
と聞き返した。中富は、
「あっ、おれ急に態度変わり過ぎた? ごめんごめん」
と言い残して帰って行った。堕ろして正解だったな、とあたしは思った。体中から力が抜けていくような気がして、そのあとあたしは何キロも痩せた。あたしは中富に対してすっかりしらけてしまったのだ。
「うちの女房やらせてくれないんだ、仕事で疲れてるとか言って」
という中富の話を聞き流しながら、セックスしたそうな彼を無視して眠ってしまったりした。
そういえば初めてあたしの作った食事を食べているとき、中富が、
「これちょっと味噌汁が濃いなあ」
と言ったことがあった。あたしは、
「あ、じゃあ薄めようか」
と手を出した。すると、
「いや、おれ、猫舌だから」
中富はそう言いながらコップに汲んであった水をざばっと味噌汁に入れてしまった。そして、
「こうすればいいんだよ!」
とおどけて言った。あのときもあたしは内心、何をするんだこの人はと驚いていた。そんなことをして、初めてつきあってる男に食事を作った女が、
「まあ合理的ね!」
と喜ぶとでも思っていたのだろうか。思えばあれも無神経さの現れだったのかもしれない。口では優しそうなことを言いながら、中富はただやれれば良かったのだ。
言うこととすることが違う彼に対して、あたしは何も言わないようにした。自分の言葉に対して責任を取らない人と話し合ったりしたくなかった。彼の化けの皮がはがれたのと同じように、自然に自分の気持ちが態度に現れるにまかせた。そしてあたしはだんだん酒飲みになっていった。月に一、二度は、その晩何をしたか全く憶えていない日があった。中富とちゃんと別れようとしないまま、他の男とも適当につきあったりした。時間はかかったが、そのうちあたしのあまりのやる気のなさに中富のほうがあきらめた。
しばらくしてあたしは、ショウちゃんが夜中にピアノを弾いている「サンシャイン」という店で、ショウちゃんと交替でギター演奏をしている江木さんという人とつきあいだした。ショウちゃんはあまり歌を歌わなかったが、江木さんは高い声でよく歌った。早い時間はクラブのバンマスをやっているそうで、バンドの話をいっぱいしてくれた。
そのころ稔ちゃんに子どもが生まれたという噂が流れて来た。水商売を辞め、家業の手伝いをまじめにやっていると聞いてあたしは少し感動した。あんな人でも、ちゃんと結婚すれば考え直すんだなと思うと、結婚という言葉に希望が持てるような気がした。だから道でばったり稔ちゃんに会ったとき、つい嬉しくて、
「子ども生まれたんだってね!」
と声を掛けてしまったのだ。
「うん」
と答えた稔ちゃんも嬉しそうだった。彼は市場の配達中で、作業着に長靴をはいていた。働く男って感じで、ちゃらちゃらしてたときより何倍もかっこよかった。たいした話もせずに別れたが、いろいろあったあげくにほんとの友だちになれた嬉しさに、気持ちが弾んだ。稔ちゃんもきっと同じ気持ちだろうと思っていた。
なのに、稔ちゃんの嬉しそうな顔は、あたしが思っていたのと全然意味が違っていたのだ。それはそのあとしばらくして掛かってきた彼からの電話でいやというほどわかった。
「おれだよ」
彼は名乗らず、夜這《よば》いにでも来たような言い方で言った。
「どちらさまでしょうか」
あたしはわざと冷たく聞いた。頭の中は悪い予感でいっぱいだった。
「昔の|かれし《ヽヽヽ》だよ」
そのまま電話をたたき切りたかった。あたしはこんなことのためにあの日声を掛けたんじゃなかった。情けなくて悔しくて、涙が出そうだった。しかし、声には出さず、
「え? 英樹?」
「あ。ごめん。紀夫だ。紀夫でしょ?」
「もしかして。俊ちゃん!」
と思いきり芝居しながら、次々とでたらめに男の名前を出した。稔ちゃんはただだまって聞いていた。言うだけ言って、あたしは一方的に電話を切った。
その少しあとに中富からも電話があった。
「おれ、離婚しちゃった!」
と彼はわざとらしい明るさで言った。
「へえ」
特に感想はなかったので、あたしはあまりしゃべらなかった。何を期待して電話してきたのか知らないが、そんなのわざわざお知らせ下さらなくても、という感じだった。
江木さんはあたしの面倒を何から何まで見ようとした。この曲が好きだと言えば、譜面書いてやろうかと言うし、どこにでも連れていってくれるしどこにでも付いて来ようとする。最初はそういう性格なのだろうと思うようにしていたが、ときどきはほっといて欲しいとも思った。
ある晩、ひどく酔っぱらったあたしは、ついに江木さんの手を振り払って逃げ出した。
「あーあたし、この『かんな』ってとこに勤めてたんだあ」
と叫びながら、誰もいないビルの階段を駆け上がって行った。江木さんは、昔のバンドの人だけがはいているかかとの高いぽっくりのような紳士靴であとを追って来た。あたしはきっとその時、この人のことが心からめんどくさくなってしまったのだと思う。
「ヤッホー」
と声を上げながら、十段も上の階段から飛び下りてしまったのだ。あたしの体は江木さんの脚の上に落ち、彼の脚の骨は砕けてしまった。
「やっぱり、折れとったわ」
翌日の夕方、彼から電話をもらったあたしは、
「何が?」
と聞き返してしまった。何も憶えていなかった。江木さんの隣には奥さんがいたらしく、その時はそれ以上の説明はなかったが、その後彼の友人から「おしゃれ泥棒」にかかって来た電話で、あたしはやっとすべてを把握し、申し訳なさに泣き出してしまった。江木さんのお見舞いには毎日行った。江木さんは入院したまま正月を迎えた。
あたしはだんだん「このまま長崎にいても何も起こらないかもしれない」という気持ちになっていった。さすがに少し賢くなり、漫画はちゃんと新人賞をやっている雑誌に投稿していたが、何カ月も待ったあげくほんの何行かの選評が載る程度でむずむずした。
ときどき江木さんのバンドで歌わせてもらうようになってから、ピアノやギターだけで歌うよりもバンドの歌手のほうがはるかに面白いことに気づいてしまってもいた。長崎でバンドの入っている店は数えるほどしかなかったが、どの店にも魅力を感じなかった。
ショウちゃんたちからときどきパーティで歌う仕事をもらったりしても、お客から、
「スター誕生に出てた人でしょ!?」
と言われるのでうんざりした。とっくの昔に終わったことなのにそればかり言われると、なんだかそれがあたしの人生のすべてのようで嫌だった。やはり、ここが田舎だからだとあたしは判断した。ジャズ雑誌に広告のでているジャズスクールの数々は、あたしが今通っているエレクトーンの教室よりはるかに面白く役に立ちそうだったが、それも全部東京にあるのだ。
あたしはもう二十歳になっていた。行くしかないかもしれない。
幸い貯金はある。百五十万もある。
母がこの積み立てを勧めた訳はこうだ。
「たとえホステスしていても、信用金庫に毎月きまった額を積み立てていれば、何かのときお金を貸してくれるのよ。今のうちにしっかりとお金と信用を作っておいて先で事業でもしなさいな」
これを聞いたときはそんなもんかなあ、とあまり実感も湧かなかったが、その後、俊のおかあさんがホステスをやめて小料理屋を始めたり、「おしゃれ泥棒」のマネージャーが自分の弟と焼鳥屋を始めたりということが重なったので、母の言うことも少しわかるような気がしてきた。
母はよくあたしが貯金している信用金庫についてきて、あるときは支店長を紹介までしてくれた。その上、あたしに「杉の子会」という会にまで入れと言う。これから事業をしたいと思っている若者たちの会なのだそうだ。支店長は杉の子会のアルバムを出してきて見せてくれ、
「このようにダンスパーティなどをして交流を深めているんですよ」
と言った。
「はあ……」
あたしは、なんだかさえない人たちが幼稚園のお遊戯室のような所で真面目な顔をしてダンスを踊っているそれらの写真を見て、気が重くなった。おせじにも、
「楽しそうですね」
なんて言えなかった。あたしがだまっていると、母は、
「ほら会費とかいらないんだから入っときなさいよ、ねっ」
と言ってさっさと申し込んでしまい、一センチくらいの小さな杉の形のバッジをあたしに渡した。母は、あたしが通信制の高校を出、こつこつ貯めたお金で何か自分で仕事をするというのを希望していたらしいが、それはあくまで母が勝手に考えていたことであって、あたしの希望ではない。上京を思いとどまる理由には全くならないどころか、あたしは最初からそんなこと真面目に聞いちゃいなかったのだ。
「あたし東京に行くことにしたから」
思いついたらさっさと決めてしまったあたしは、そう母に言った。
「えっ?」
母はふいをつかれてぽかんとした。それから何かと必死に戦っているような表情になった。
それから「おしゃれ泥棒」の店長に同じことを言い、いつまで働けるかということ、東京に部屋を探しに行くとき休みが欲しいことなどを話した。
数日後、母は言った。
「あたし、あんたが東京行くって言い出した日からしばらく胃が痛かったよ……でも、あんたは言いだしたら聞かないもんねえ」
あたしは母の意見なんて聞く気はなかった。そんなことよりもついこないだ東京の大きな出版社からかかってきた電話のことで頭がいっぱいだった。妹が読んでいる雑誌の新人賞に投稿したら、担当者から電話がかかってきたのだ。その女性はまず、
「この原稿、万年筆で描いたでしょう?」
と言った。
「いいえ……」
あたしは否定したが、よく考えたら製図用でも証券用でもない、普通のインクで描いてしまっていたので、同じようなものだった。
「あなたの作品は、賞を取るというようなレベルには全然達してないんだけど、何か面白いところがあるんですよ。それで、良かったらまた描いてみてくれないものかと思って」
あたしは舞い上がり、
「あたし、ちょうど東京に行こうとしているところなんです!」
と言った。
「そうですか。じゃあこっちに来たらぜひ編集部に来て下さい」
短い電話だったが、それで十分だった。やっぱり東京に行くべきなんだ、とあたしは胸をときめかせた。
「おしゃれ泥棒」には東京からのお客も多く来ていた。そんな中に、建築士だというその渡辺さんはいた。
「おれ、こんど自分のビル建てるんだ。猫の額みたいなもんなんだけどさ、自分のビルが建つかと思うと、嬉しくてなあ」
渡辺さんはうまい酒を飲んでいるようだった。
「東京からいらしたんですか。あたし今度上京する予定なんですよ」
と話すと、
「じゃあぼくに出来ることがあったら助けになろう」
と、それが当たり前みたいに言ってくれた。そしてほんとに、東京の不動産屋や、自分がよく行くクラブなどを紹介してくれることになった。
ある晩、いつものように「おしゃれ泥棒」が終わったあと「サンシャイン」に顔を出すと、マスターの山本さんが話があるという。
「実はさ、新しい店出すんや。うちのにやらして。ミニクラブなんやけどな」
山本さんはもと関西やくざだという噂の、可愛い顔した働き者で、奥さんは抜けるように色の白いおっとりした美人だった。
「あけみ、その店に来てくれんか?」
あたしは驚いた。この長崎にあたしみたいな問題の多い生意気なホステスを引き抜きたいと言う人がいようとは。ついこないだも「おしゃれ泥棒」の社長に服の中に手を入れられて乳房をじかに掴まれ、辞めるの辞めないのの大げんかをしたばかりだ。店長が間に入ってくれなかったらあたしは完全にクビだった。
「山本さんとこ手伝いたいけど……あたし四月に東京に行くの」
「は!?」
山本さんはびっくりしていた。あたしはまだそのことをあまり人に話していなかったので、ちょっと淋しい気持ちになった。
「だから、それだと二カ月しかないや」
「そうかー。うーん。よしわかった。二カ月でもええからてつどうてくれ」
そこまで言われたらかえって嬉しい。あたしはそれを「おしゃれ泥棒」の店長に話した。
「オープンから二カ月だけでもいいからっていうのが嬉しいんで、少しでも力になってから行きたいんです」
「そうか、じゃあそうしてあげなさい」
店長はあいかわらずクールだった。話はちゃくちゃくと固まって行くが、あたしはまだ他の従業員にはそれを話さずにいた。仲良しのエリザベスや昔からいる人たちは好きだったが、ベルさんは出産育児で辞めたし、その頃の「おしゃれ泥棒」には若くて綺麗だけど頭のわるいホステスが増えてきていたのだ。そういう子たちほど我が物顔にしているので、あたしはちょっと疲れていた。でもこれで、変わってしまった古い職場から、新しい店に引き抜かれ、さらに東京まで行くのだ。引き抜きのときは必ず前の給料に色がつくことになっているし、誇らしい気分だった。センチメンタルになんか、少しもなっていないつもりだった。
なのにある晩、閉店のための別れの歌を歌っているとき、突然涙が出てきて声が詰まってしまった。自分でも驚いてなんとかしようとしたが、あせればあせるほど涙が止まらない。何も知らない他の従業員はただきょとんとしていた。恥ずかしかったが、自分でも気づいていない自分というのがいるものだな、と少し面白く感じた。
山本さんの新しい店「マーメイド」がオープンした。あたしたちホステスはおそろいのロングスカートの制服を作ってもらい、記念写真を撮った。あまりおしとやかでないあたしは、しょっちゅうスカートのすそを踏んづけて転びそうになった。
すぐにあたしは部屋探しに行かなくてはならなくなった。山本さんにはすでに話してあるが、ママである山本さんの奥さんにもう一度話しておいたほうがいいと思い、閉店してから声を掛けた。
「あのー、お願いがあるんですけど」
「お金ですか?」
ママは優しい微笑《ほほえ》みで聞き返した。長崎を出て行こうかという人間が今さらお金が足りないから貸してくれなんて言うはずはないのだが、ママは当たり前のように言ったのだ。その様子は今まで何度も、それこそ条件反射のようにこうしてきたかのようで、あたしはある種の感動をおぼえた。
「そうじゃないんですけど、あっちにアパートを探しに行きたいので、二、三日お休みをください」
「はい、いいですよ」
ママはまたにっこり笑った。
東京で部屋を探しているあいだ、あたしはあの懐かしいサトルの部屋に泊めてもらおうと思っていた。ところが渡辺さんから反対されてしまったのだ。
「ぼくだって不動産屋を紹介した手前、いい部屋が見つかっただろうかとかいろいろ気になるよ。連絡が取れないのは困る。ぼくがおごるから、ホテルに泊まりなさい」
「そうですか。いやあ、なんかすいませんね」
そこまでしてもらわなくてもという気もしたが、本人がそう言うのだからしかたがない。
渡辺さんは御徒町《おかちまち》のタカラホテルというところに二泊分の部屋を取ってくれた。わたしは「御徒町」という字が読めなかったので、危うく電車から降りそこねるところだった。渡辺さんは、
「部屋に遊びに行こうかな」
と顔に似合わない冗談を言った。
渡辺さんの紹介してくれた不動産屋は代々木にあった。担当の女性は生け花が趣味だというとても親切な人で、お昼までごちそうしてくれた。
住まいは、中野坂上という駅から歩いて二分の場所にすぐ見つかった。渡辺さんの紹介で勤める予定の新宿の店からは、その気になれば歩いてでも帰れるところだ。一軒家の一階と二階をそれぞれ貸間にしてある形のアパートで、あたしの部屋は一階だった。四畳半のダイニングキッチンに六畳の部屋。トイレは狭いけどちゃんとお風呂と別になっていた。新築で、家賃は五万。
あたしは住まいの契約をさっさと済ませた。お金も全部払った。引っ越しまではまだ間があっても、ここはもうあたしの部屋なのだ。あたしは簡単に掃除をしたその部屋に、純毛の絨緞を買ってきて敷いた。純毛はどんどん毛が抜けて大変だと聞いていたけれど、使ってみたかったのだ。まだ何もないその部屋の絨緞の上であたしは一人でごろごろ転がってくつろいだ。
二日目の夜、渡辺さんがホテルに電話を掛けてきた。
「ぼく、飲んでて電車なくなっちゃってさあ。君の部屋に泊めてもらっていいかなあ」
もとホテル業者だったあたしは、そんなことをしたら怒られるのをよく知っていたのでちょっとあわてた。それに、なんだか渡辺さんの様子がおかしい。たとえホテルの人にばれなくても、部屋に入れたりしたらもしかして面倒なことになるかもしれない。あたしは渡辺さんとはキスさえしてないばかりか、男女の関係になる気は毛ほどもなかったのだ。でも結局、渡辺さんは来なかった。なんだ、言ってみただけか、とあたしは思った。しかし不動産屋も、これからのあたしの勤め先も全部新宿のまわりなのになぜ御徒町のホテルだったのだろう。
東京行きの日は近づいて来た。サトルにも電話して、
「もうすぐ行くから、また遊ぼうね」
と言った。
「長崎みやげ、何がいい?」
「そうだなあ。あ、あれ。あのほら、なんとかっつーでっかいみかん」
「ざぼんかあ」
そう言われてみればよその人には珍しいのかもしれない。
江木さんはやっと退院したが、複雑骨折だったため、骨にビスが埋め込んであるので、もう一度手術をして取り出さなければいけないらしい。江木さんが、
「おまえとの記念に埋めたままにしとこうかなあ」
と言うのであたしは少しぞっとした。リハビリになるから動き回ったほうがいいと言われてから、病院からパジャマに松葉杖であたしの部屋までしょっちゅうやってくるのにも実は閉口していたのだ。
「ほんと言うと、おまえんちに近いからわざとあの病院にしたんよ」
と言われて、何だか恐ろしくまでなった。それでもけがさせた張本人であるあたしが、
「そんな格好で来られたら迷惑なんですけど」
と言うわけにもいかなかった。果ては頼みもしないのに奥さんに内緒の外出許可まで取ってあたしの部屋に泊まりにきた。これじゃまるで、そこらへんの若い子とつきあってるみたいだ、とあたしはくたくたになった。
そんな中、今度はあたしが入院することになってしまったのだ。
それは土曜日の晩だった。あたしは以前も経験したことのある吐き気を感じていた。その後についてくる鈍い腹痛。中学生のときに一度散らした虫垂炎の再発に間違いなかった。
「あーあ。あした病院休みじゃん」
めんどくさくなったあたしは、痛みを忘れるため日本酒をがぶがぶ飲んだ。それから抗生物質を適当に飲み、日曜じゅう寝ていた。
しかし、これからまもなく上京し、むこうにはほとんど知り合いもいないのだ。このままではまずい。あたしは月曜になると、近所にある総合病院に、
「盲腸なんですけどー」
と出かけて行った。
「なんだ、あけみじゃないか」
「あ」
出てきたのは「おしゃれ泥棒」のお客だった長田先生だった。
「先生、大学病院にいるんじゃなかったの?」
「いろいろ行くんだよ」
「ふーん」
「あ? なんだこりゃ。抗生物質飲んだなおまえ。どっからそんなもん持ってきた」
先生は検査結果を見て言った。
「うち、医薬品関係なんですよ」
「そっか……でもこりゃもう、切ったほうがいいな。入院の準備して来な」
あたしは彼が、宿直のくせに店に来て酔っぱらっているところに呼び出しをくらってあわてていたことを思い出して、ちょっと心配になった。
「あのー、まさか先生が切るんじゃないよね?」
「いや、おれが執刀するから」
えらいことになってしまった。しかし、どっちにしろこのままにしておくわけにもいかない。あたしは観念して入院の準備をし、手術に臨んだ。あの有名な剃毛を経験できると思ったら、お腹に近い部分の陰毛をほんのちょっと剃っただけだった。そのあと、簡単な手術衣一枚だけになり、大きな麻酔の注射を腰に打った。ちくりとしたのは最初だけだが、腰骨の間に針がぐりぐりと入り込んで来る感触には参った。
「意識あるだろ。なんか聞かれたら、口だけで答えろよ。うなずいたりして頭動かすと、麻酔が頭に残って頭痛がするぞ」
「そうなんだ」
顔の真上の照明のならんだまるい金属板には、あたしの体が全部映っていた。このままだったら手術の様子が見られると思っていたら、顔に白い布がかけられてしまった。先生には今、あたしの陰毛まで見えているはずだった。
「くっついてんなあ」
「え。くっついてんの」
「うん。はがすのに時間がかかる」
「そうか。一度散らしてるから……」
会話はしていてもあたしの頭は麻酔でもうろうとしていた。やっと手術が終わったころには、先生の注意も忘れて、質問にうなずいたりしていた。
「ほら。頭動かすなって言ったじゃんか」
「あ。いけない。そうだった」
言われたとおり、翌日から激しい頭痛に苦しめられた。起きあがっていると頭ががんがんするのだ。しかたがないので痛み出すと横になるようにした。ずっとこのままだったらどうしようと思ったが、三日目くらいから嘘のように消えてくれた。
江木さんは毎日見舞いに来てくれた。来てくれるだけでなく、まだ腹に力の入らないあたしをトイレに連れ込み、あそこをいじくりまわすという迷惑なサービスまでしてくれたりしたが、あたしは例によって、
「あたし別に、そんなことしたいとか思ってないんですけど」
と言えなかった。そういえば痛みだした夜も、
「そんなの忘れさせてやっから」
と言ってセックスしたりする迷惑な江木さんだった。
あたしが退院する日は、風呂がわかしてあった。あとで聞いたら、合鍵を持っていた母と江木さんの両方が同じことを考えていたらしく、どっちかが新しく張った水を、どっちかが古い水と勘違いして抜いてしまい、また貯めて沸かすという無駄なことをしたようだ。あたしは濃すぎる愛情に両側からはさまれていた。
その後、江木さんは今度は、
「女房が書き置きを残してどっかへ行ってしまった。あいつは悩んでいたんだ」
と騒ぎだした。当たり前だよ、とあたしは思った。頼みもしないのに毎日毎日あたしに張りついてるんだもの、奥さんが気づかないはずがない。でも、それもこれももう終わりだ。あたしは母からも江木さんからも離れて東京に行くのだ。江木さんだってあたしがいなくなったらちゃんと醒めるに違いない。
こんな時になって今までずっと会っていなかった知り合いにばったり会うことが続いた。まず、退学させられた南高で一緒だった萩野だ。あたしや塚田とほとんど同時に南高を辞めてしまったのだけは知っていたが、そのあと全く会っていなかった。最後に会った時、萩野は村田とかいう数学の教師にぼこぼこにされた後で、顔中あざだらけだった。
あたしは萩野が音楽をやる人間だなんて全く知らなかったが、なんと彼は近くのクラブのバンドのサイドギターをやっていたのだ。まだ目立つところは弾けないけど、一所懸命コードを追いかけてバッキングしているようだ。給料も二、三万の小遣い程度。でも今の仕事は楽しいと言う。
「よかったじゃん」
「それはいいんだけどさ……」
彼女が妊娠してしまって堕ろす金がないらしい。
「一万五千円貸してくれ」
「いいけど……あたしもうすぐ東京行くから、それまでに返してよ」
「ああわかった。それまでに持ってくよ」
そして金は返ってこなかった。
それからもう一人はあの由美ちゃんだ。彼女から声を掛けてきた。二人で喫茶店に入り、テーブルで向かい合って座った。あたしはなんだか気恥ずかしくて、なかなかまっすぐ顔を見られなかった。彼女は以前と同じく、あたしと肌を重ねたことなんてなかったかのように振る舞っている。本当に忘れてしまっているのかもしれない。あたしだって、ニスを吸っているときの記憶はとぎれとぎれなのだから。
「あれからも、子ども堕ろした堕ろした」
由美ちゃんはあたしが聞きもしないのに唐突にそんなことを言った。
「四回堕ろしてさ。五回目、とうとう流産。流産だから手術代要らなくてさ、何千円かで済んだよ」
料金のことなんか言ってる場合だろうかと思ったが、それがいかにも由美ちゃんらしくもあり、あたしはだまって聞いていた。
よく見ると由美ちゃんの片方の白目が真っ赤に充血している。彼女はそのくらい当たり前とでも思っているかのように、
「これは今の彼氏にぶん殴られた」
と煙草をふかしながら言った。あいかわらず過ぎるほどだ。由美ちゃんはあれからずっと由美ちゃんだったのだ。肌の白さも、細くてつり上がった目も、細かいパーマをかけた髪型も変わってはいなかった。
会っているあいだじゅう、由美ちゃんは一人でしゃべりまくっていた。何と言って別れたかも、東京に行くことを話したかどうかも憶えていない。
いよいよ出発が近づいてきた。あたしは母に手伝ってもらって荷造りを始めた。ポメラニアンは母の知り合いがもらってくれることになった。猫はとうにあたしの部屋よりいごこちも食い物も良い、近所のおまんじゅうやさんの飼い猫になってしまっていた。
数カ月前彼女が妊娠しているとわかったとき、あたしはお産のための場所を用意していたのだが、ある日その箱の中で、見たこともないよその猫が子どもを産んでしまっていたのだ。その猫はあたしを見てハーッと息の音を立てて威嚇したが、その体はやせ細って、ほんとはお腹が空いているのに違いなかった。あたしはこれも何かの縁だと思いえさを置いてやった。そのあとだ、本来ここの猫であったはずの彼女が帰って来なくなったのは。あたしはカエルのようなお腹で歩きにくそうにしていた彼女が、あの不自由な体のまま帰る場所をなくしたことが気の毒でしょうがなかったが、まもなくそのおまんじゅうやさんでしあわせそうにまるまると太っているのを発見したのだ。
育てていた植木は全部母に押しつけた。夏のあいだ、たくさんの花をつけていたブーゲンビリアも一緒だった。あまりに次々と花が咲くので、
「エアコンから出るあったかい水をあげているのがいいのかしら?」
と母は言っていた。
運送屋のトラックが来て部屋はあっけなくからっぽになり、あたしは空港へ向かった。
母は「なるべく早く戻っておいで」などと言っていただろうか? もう二度と長崎に戻って来ないつもりだったあたしは、母の言葉をちゃんと聞いていなかったようだ。
東京に行くのはだいたい飛行機だ。でないと、ものすごく時間がかかる。電車を乗り継いで行ったのは、母や知恵と逃げたときだけ。あのときはほんとにお尻が痛かった。
この頃のあたしは飛行機に乗るのが恐くなかった。飛行機には、東京に行く、つまり田舎から連れ出してくれるポジティブなイメージだけがあった。
中野坂上に着いたら雨だった。しばらくして運送屋のトラックが家具のすべてを運んで来た。電話がつくのはまだ少し先なので、あたしは何か音の出るものが欲しかった。しかしテレビもビデオも動かない。あたしはまだ、50ヘルツと60ヘルツの切り替えを知らなかったのだ。雨の落ちる音だけがしみこんで来るその部屋で、あたしは一人淋しさに涙をこぼした。
[#改ページ]
新しい仕事場は歌舞伎町にあった。真ん中にグランドピアノが置いてある、ホステスが十五人ほどの店だった。「おしゃれ泥棒」に比べて、どう見てもさえない内装だったし、「ファッションクラブ・カラーラ」という店名の「ファッション」という部分になんだかすっきりしないものを感じてはいたが、渡辺さんの紹介で入店するのだ。全く知らない所へ飛び込むよりはいいだろうと思うことにした。
あたしはまず部長と呼ばれる、背は低いが胴回りが大きい、落ちついた感じの男の人の面接を受けた。部長は分厚い名刺ファイルをあたしに渡し、
「これみんな僕のお客さんだから、お店に来てくださいっていう内容の手紙を出して下さい」
「手紙? ですか?」
あたしはお客に手紙なんて書いたことはなかった。
「どういうふうに書けばいいんでしょうか……」
「簡単なご挨拶でいいんですよ。自分の名前書いて。そしたら指名してくれるから。手紙はけっこう効果があるんだよ」
部長の言ったとおりだった。会ったこともない相手に出したその手紙たちは、当たり障りのないことしか書いてないにもかかわらず、次々とお客を店に連れて来た。彼らは皆、最近「カラーラ」に来ることがなかったらしく、あたしを指名しては、
「ふうん、あんたがあけみさん」
と言って頭からつま先までじろじろ見回した。
あたしはあっというまに指名三位のホステスになってしまった。
でも、こんなことがいつまでも続くはずはない。指名が続くと、そのうちその客の売り掛けを持たされることになる。給料から客のつけを引かれてしまったら、今度は昼間に客の所まで自分で集金に行ったりしなければならない。そこまでやったら漫画の持ち込みもヴォーカルの勉強も出来なくなってしまう。あたしはただ働けて、歌わせてもらっていればよかったのだ。ところが、歌っていれば幸せ、というわけにもいかなかった。
営業中は女性のピアノ弾きと、男性のギターの弾き語りが交互に演奏していたのだが、どっちもへたくそで、特にギターの方は、リズムが狂っているのにも気づかないようなレベルの人だったのだ。彼はリズムボックスのスイッチペダルをブレイクの度に踏むのが美しいと思っているようだったが、ブレイクのあとリズムを始めるタイミングを間違えて、その後改める様子もなく裏になったリズムのままでその曲を歌い終わってしまっていた。あたしは接客しながら耳を覆いたくなった。それでも彼は「カラーラ」のほかに二件の店を掛け持ちしていて、月に何十万もギターで稼いでいるという。あたしは一度お客に連れられて彼が深夜働いている店に行ったことがあるが、そこでは彼は演奏だけでなく、接客から灰皿の交換までしていた。あたしは、
「これは、ギターで稼いでいるというのとは違うんじゃないだろうか」
と思ったが、彼にはそれ以上の興味は湧いてこなかったので、ろくに話もしなかった。
そのかわりあたしはジャズヴォーカルの学校に通うことにした。まずその学校の校長である女性が直接行うオーディションを受けてからということだったので、あたしはそのころ気に入っていた「サテンドール」を歌うことにした。この曲を最初に歌わせてほしいと頼んだとき、ギターの江木さんから、
「サテンドールだとう? 十年早いんだよ」
と言われたことがあったが、それでもあたしはその曲で受けたかったのだ。
「んー、田中さんね」
あたしが歌い終わると校長は、英語のようなアクセントで言った。
「ジャズっぽく歌いたい、という気持ちは伝わって来るんですけどねえ。……英語の発音が、悪いですね」
「はあ……」
「初級クラスから、始めましょう。土曜日に英語の詞の教室もあります。そちらも受けるといいですよ」
「はい」
あたしは素直にうなずいた。クラブで歌っていたと言っても田舎でのことだったから、東京に比べたらたいした経験にはなっていないのだろうと考えた。
授業は週に二回、個人レッスンが三十分、それから団体で受ける、土曜日の英詞クラスが一時間半。個人レッスンではまず発声練習をしてから、担当の先生と相談して、課題曲を決めて歌う。英詞クラスでは毎週先生が出した課題曲の詞を読み上げ、訳や解釈を聞き、いろんなヴォーカリストの歌ったその曲のテープを次々と聞かせてもらう。英語の理解や発音の練習のほかに、男性ヴォーカリストと女性ヴォーカリストが歌ったときの詞の違いなども教えてくれる、充実した授業だった。
しばらくすると、検定試験の課題曲が発表された。その曲を歌ったテープを受験料と一緒に提出すると、校長先生のアドバイスが録音されて戻ってくるのだそうだ。まだ入学したばかりだから、それほどいい成績は取れないだろうと思いつつ試験を受けたら、
「英語の発音がいいですね」
というアドバイスが入っていて驚いた。
その学校の先生たちはもちろん全員ヴォーカリストなのだが、みなピアノも弾く。
「ヴォーカリストもコード進行くらい弾けたほうがいいですよ。弾き語りが出来ると出来ないとでは、仕事が来る量がぜんぜん違ってきます」
と言われたあたしは、もう一つ教室を掛け持ちし、ジャズの音楽理論とジャズピアノのレッスンにも通うことにした。そちらにも通うようになったおかげで、譜面の転調くらい自分で出来るようになり、とても重宝した。嬉しくて、長崎の江木さんに電話でそれを話した。すると、喜んでくれるどころか、
「譜面くらいおれが書いてやるのに」
と不満そうに言うではないか。確かに、上京してきてからも一度譜面を頼んで送ってもらったことがあるが、そんなことをいつまでも続けるつもりは、あたしにはなかった。江木さんは、あたしが一人でいろんなことが出来るようになるのが気に入らないのだろうか。たとえ東京からでも、なんでも自分を頼ってくれないといやなのだろうか。あたしはなんだか、それは愛情とは違うような気がしてきた。
隔週の日曜日には、通信制の高校に通った。あと一年で卒業できる予定だったから、長崎西高から上野高校へ転校手続きを取っていたのだ。それだけでなく、せっかくこれだけ続けたのだから、出来れば大学に行こうかなという気にもなっていた。しかし、のんきな通信制の授業だけでは普通の受験なんて出来るわけはない。なので、塾のようなつもりで、渋谷にある、出来たばかりで妙に授業料の安い予備校の申し込みもし、気の向いたとき、気の向いた授業だけたまにのぞきに行ったりした。
そしてなおかつ漫画の持ち込みに行き、アマチュアバンドのヴォーカルまでしていたのだ。はっきり言ってやりすぎだった。
あたしはきっと都会に狂っていたのだと思う。高層ビルを見上げてため息をついたりすることはなかったが、そのかわり、それまで経験できなかったありとあらゆることを手に入れようとしていたのだろう。
ある日あたしは風邪をひいて寝込んでいた。知恵熱のような発熱だった。窓際に置いたベッドに横たわってぼんやりしていると、電話が鳴った。
「近くまで来たんだけど、会えないかな」
アマチュアバンドのメンバーの一人、ギターの岩城という男だった。熱はあっても、そんな電話があるのは嬉しかった。
「じゃあうちにこない? 風邪ひいて寝てるし」
「え、いいの?」
「うん」
あたしははずんだ声で答えた。
まもなくオレンジの入った紙袋を抱えて岩城がやってきた。彼はあたしの横たわるベッドの前に座り込み、煙草をふかしながらしばらく他愛のない話をして帰っていった。岩城は若く見えるがあたしより八つも年上で、いろいろと音楽のことを教えてくれるところが好きだった。
何日かして、岩城から電話があった。
「こないだは、家に来ていいなんて言うからほんとはびっくりしてたんだよ」
と彼は言った。
「あ、そうなの?」
と今度はあたしが驚いた。水商売の人間は二言目には「家に遊びにおいでよ」と言うし、実際たいして親しくもない人間が家に来てもみんな平気なので、あたしにもそういうところが少しはあったのだ。
「オレほんとは近所の喫茶店でお茶でも飲めれば、ぐらいに思ってたのにさ」
岩城はちょっと嬉しそうに言ったが、あたしはなんだかそっちのほうが変な気もした。それにあたしは、風邪をひいていると言ったはずだった。
「カラーラ」では月に一回、営業前の時間にミーティングが行われた。四時から店に出なければいけないのだが、さぼるとその日の日給を半額にされてしまうのだ。
ミーティングでは指名の順位が発表され、注意事項が言い渡されたあと、みんなでお弁当を食べてからそのまま営業にはいる。あたしはそれがなんだかホームルームみたいで嫌いではなかった。
その月は社員旅行のお知らせがあった。
「親睦を深めるためなので、みんな極力参加して下さい」
と部長が言った。
「社員旅行なんてあるんだ」
あたしはつぶやいた。あたしはまだそう呼ばれるものに参加したことが一度もなかったので、どことなく気恥ずかしかった。さして仲の良いホステスがいるわけでもないし、気は進まなかったが、これも仕事のうちと思い参加することにした。
その日の朝、みんな絵に描いたように「普段着のホステス」という格好で店に集合しているのを見て、あたしはおかしくなった。あたしはそれが嫌で、ぴったりしたジーンズなんかはいてこなかったのだ。ところが一人だけ全然毛色の違う参加者がいた。アンナという名のそのホステスは、ショッキングピンクのサテンのハーレムパンツにブラウスにジャケット、という普通では考えられない格好で、店のソファで大いびきをかいて眠りこけていた。いつも指名二位を保っている人気者だったが、ホステスの中でその子だけがピンクサロンの出身だと聞いていた。また、お客とすぐに関係してしまうらしく、毎晩のように酔っぱらっては、
「アンナはみんなのものー!」
と大声をあげていた。
「またあの子タケノコしてたんだよ、もう十九だからほんとはOBなのにさ」
とだれかの声が聞こえた。どうも竹の子族とかいうのに混ざってときどき道ばたで踊っているらしい。出発の時間になっても彼女が起きないので、男の従業員が抱えあげてワゴンに乗せた。
行き先は箱根という所だった。しばらくするとアンナが目を覚まして騒ぎだした。ワゴンの窓を全開にして身を乗り出し、ついにはそこへ腰掛けてまわりの車に手を振りだした。ウエイターたちは必死で彼女の脚を引っ張って車内に戻していた。
途中小さな遊園地のようなところで休憩を取った。みんな降りて乗り物に乗ったりはしゃいだりしたが、あたしは一人で車の中で寝ていた。
旅館につくとすぐ宴会になった。案の定アンナは日本酒をがぶ飲みし、浴衣を脱いでパンツ一枚になって走り回った。八重歯の童顔に似合わず大きな乳房だったが、パンツはあたしが子どもの頃穿いていたような、白いメリヤスのものだった。細かいパーマのかかった茶色くて短い髪と、笑うとつり上がる細くて小さな目は昔どこかで見た記憶があった。あまり飲んでいなかったあたしは一人で部屋に戻り、布団の中で本を読んだ。
しばらくするとママたちが、酔いつぶれたアンナを抱えて運んで来た。裸のアンナを布団にくるむと、ママは部長に呼ばれて部屋を出ていった。あたしもそのまま浅い眠りについた。
朝。アンナは布団とまったく別の場所まで転がって行って、それでも大いびきをかいて眠っていた。ママは洗面所で、白いメリヤスのパンツを洗っていた。どうやらアンナがおねしょをしたらしい。パンツをぎゅっと手でしぼり、タオルの横に広げて干しているママを見て、あたしはただただ感心してしまった。クラブのママってのはこんなことまで出来る人じゃないとつとまらないのだったら、あたしには到底無理だなと思った。
目を覚ましたアンナはおとなしかった。ようやく気が済んだという顔になっていた。
こうして社員旅行は終わった。アンナに振り回された人々はくたくただったが、本人は風邪もひかずにピンクのスーツのままで帰って行った。
あとになってあたしは、ほかのホステスから、
「あけみちゃん、あのとき店長と何してたの?」
と言われた。最初意味がわからなかったが、どうもあたしが宴会から抜けたとき、店長も一緒にいなくなったらしい。あたしはまたか、とうんざりした。
「あたし、旅行のとき店長と何してたのって言われてます」
と店長に言うと、もと役者だったという彼は、
「あ、宴会のときだろ? おれ温泉入ってたんだよ」
とそのよくはずむ声で答えた。外国人と見間違うほど鼻筋の通った、背の高い男だった。「カラーラ」の前にはピンクサロンにいたそうで、店が忙しくなってくると声がでかくなるくせがあった。そのでかい声で、
「はい素敵な二名様ご案内!」
などと叫ぶので、
「店長、そのピンクサロンの言い方やめて下さい」
と言って笑いあったりもした。彼の企画で、役者時代の知り合いだというストリッパーがショーで入ったこともあり、なんだかいいなあ、とは思っていた。でも、宴会から同時にいなくなっただけで、もう何かあったことになっているとは気がつかなかった。どうしてみんなこういう話が好きなんだろうとあたしは不思議に思った。それまでは、噂好きな人が多いのは娯楽の少ない田舎だけだと思いこんでいたのだ。
その数日後、あたしはロッカーの中に入れていたバッグからお金を盗られてしまった。財布の中の一万円札が、どう見ても一枚少ない。
なのに部長に話すと、
「そんな所に現金を置いてる自分が悪いんだよ。テーブルの上にお金が置いてあって、誰もいなかったら普通盗るでしょ」
と言われてしまった。
「普通盗るでしょって……盗るかあ?」
とあたしは思ったが、それ以上は相手にしてもらえなかった。
あたしは、とても嫌な気分で家へ帰った。お金を盗られたことによって、今までの店への不満がいっぺんに表面に噴き出してきた。へたくそなギター弾き。噂好きな人々。安っぽい内装。給料のほとんどを売り掛けで引かれながら、それでもナンバーワンにしがみつくしょぼくれたホステス。人の災難をなぐさめもしない部長。一人も話の合う人がいないこの店にこれ以上いて、なんのいいことがあるというんだろう。
「やめようかな」
まだ東京の水商売のことはほとんどわからなかったが、一軒だけ、ここなら移ってもいいなという店を見たことがあった。「おしゃれ泥棒」に少し似た造りの、バンドが入っている小さなクラブ。三田というお客と同伴したとき、出勤前に連れていってもらったのだ。まだぜんぜんガラガラだったが、その雰囲気がなんとなくあくせくしてなくて好きだと思った。でも、「カラーラ」を紹介してくれた渡辺さんになんて言おう。
渡辺さんは何度か「カラーラ」に来てあたしを指名してくれていた。
「そのうち君の部屋にも遊びに行かなきゃなあ」
「ええ、来て下さいよ」
という会話もあった。紹介してもらった不動産屋で見つけた部屋だし、お茶くらい飲みに来てもらうのが礼儀だと思っていた。
その時、電話が鳴った。深夜の一時。渡辺さんからだった。
「これから遊びに行こうかな」
なんと間の悪い、とあたしは内心がっくりした。今夜は渡辺さんと話をする気になんかなれない。
どうしたら角が立たずに断れるだろうとあたしは考えた。いきなり深夜に、というのもあんまり礼儀正しいとは言えないと思った。そういえば前にも似たようなことがあった。この人はよほど深夜にうろうろするのが好きなのかもしれない。遊びに来るのはいいけど、そんなに親しくもないのにいつも深夜というのもちょっと困る。そうだ。あたしはとっさに思いついて言った。
「今日は、彼が来てるの」
まだそんなふうに呼べる人はいなかったが、こう言っとくのが一番簡単だと思ったのだ。「そういうことだってあるわけですから、深夜はこれから避けていただけませんか」というくらいのつもりだった。
ところが、渡辺さんは、
「なんだと!」
と大きな声を出したのだ。その上、
「おまえはなんてえ女だ!」
と続けて怒鳴り始めた。あたしはすっかり面食らって、何も言えなくなった。なぜ怒鳴られているのかわけがわからなかった。なのに、渡辺さんはあたしのことを裏切り者とののしり続けた。なぜ? あたしは渡辺さんとセックスどころか、キスもしたことがないのに、どうしてこんなこと言われなければならないのだろう。
怒りの止まらない渡辺さんに何も言えないまま、あたしは一所懸命考えた。この人に今まで何をしてもらっただろう。不動産屋を紹介してもらったけど、別に経済的に援助なんか頼んだことはない。部屋探しのとき、サトルの部屋に泊まろうとしたら、連絡が取れないからとホテルを二泊分おごってもらったが、こっちが頼んだわけじゃない。それから、もう辞めたくなってる「カラーラ」を紹介してもらった、それだけだ。どう考えても、こんなことを言われる筋合いはないはずだった。頭の中でその結論が出たときに、あたしは一方的に電話を切った。渡辺さんはまだあたしを恩知らず呼ばわりしていた。彼はあたしを囲ってでもいるつもりだったようだ。何もしていないのに、なんでそんな気になっていたのだろう。
あんな真面目そうな人だったのにな、とあたしは途方にくれた。お世話になったことは確かだから、そのうち何かの形で恩返しを、と思わないではなかった。でも、あたしの方は彼を男性としてはまるきり意識していなかったのだ。
その後のある日、あたしは店長たちと飲んでいて、その流れで朝方店長があたしの部屋までやって来た。あたしは結構そういう場面に慣れていた。もともとが寝るところのない生活だったから、男女に関係なくしょっちゅう人んちに泊まっていたし、その後は逆もよくあった。雑魚寝のたびにセックスしていたのでは体がもたない。なので、ほかに布団も持ってないあたしは、店長と狭いベッドに並んで横にはなったが、
「じゃ、おやすみなさい」
と言って背中を向けてしまった。時間はすでに七時か八時になっていて、あたしは本気で眠かったのだ。なのに、なぜか店長はもじもじ動いてあたしを眠らせてくれない。セックスしたい旨言葉で申し込むわけでもないのに、そっとあたしの体をなでたりしている。あたしは無視して眠ってしまおうとしたが、その電車の痴漢のようなやり方にとうとうカッとして言った。
「帰れば?」
もう十時になろうとしている。
こんなに眠いのに、あたしはまだ店長と話してる。
結局関係してしまったのだ。店長はあたしのことを好きだったのかもしれない。あたしがあんなにひどいことを言ったのにめげなかった。ちゃんと顔を合わせてから再び始められてしまい、最後までいってしまった。
「前、役者の時、外人のストリッパーとやったんだけどさ。むこう体が大きくて、おれのなんか小さいからはいってんだかはいってないんだかわかんねーの」
確かに、通った鼻筋や高い身長からは想像も出来ない小ささだった。でもあたしは顔には出さず、ただ、
「ふーん」
とだけ言って聞いていた。
「外人の演出家の芝居に出たときさ……」
彼の話は続く。彼は、役者だった頃の自分のことが好きみたいだ。
「日曜日の稽古に遅刻しちゃってさ、おれ。その演出家に注意されちゃって。思わず『ネヴァー・オン・サンデイ』って言ったらうけちゃってさあ」
そう言われてもあたしには何のことだかわからなかった。でもあたしはただ黙って聞いていた。ほかにも店長は、ピンクサロン時代のことなどを沢山話してくれた。退屈させない話し方ではあったが、あたしはただ眠かった。
やっぱり「カラーラ」を辞めることにした。まだ新しい店は決めていなかったが、部長には、
「三田さんに連れて行ってもらった店に移ろうと思ってます」
と話した。部長は何も言わなかった。ところが、給料を取りに行ったら、たまたま来ていた社長があたしにからみ始めたのだ。
「三田の知ってる店に行くそうだな」
社長はすごみのある声で言った。
「引き抜きかけられたんだから、三田にも落とし前つけてもらわなきゃなあ」
そんなことを言われるとは夢にも思わなかったあたしはあわてた。
「引き抜きなんてされてません」
「うるせえ! この世界じゃあそうなんだ!」
「あたしがそっちに行きたいから行くんです。三田さんのこと、そんなふうに言わないで下さい」
「てめえみたいな小娘にそこまで言われて黙ってられると思とんのかあ!」
社長は世にも恐ろしい声を出した。あたしは恐くて涙がぽろぽろこぼれたが、このままでは三田さんに迷惑がかかってしまう。
「あたしはただこの店がいやなだけです!」
あたしは声をふりしぼって言った。
「ギターはへたくそだし、みんなだらだらしてる! こんな店見たことない! 働く気になんてなれない、こんなとこ!」
涙で声がふるえたが、あたしは止めなかった。
「あたしは何も頼るもんがない。お金だけが頼りなんだもん。だから一所懸命仕事したんだもん。でも合わなかった。だから辞めるんだもん。あたしのことはほっといてほしい!」
叫びながら、給料袋をひったくられたらどうしようという考えが浮かんできて、袋を持つ手に力が入る。よく考えたら社長ともあろうものがそんなことをするわけがないのだが、養父に給料を盗られた経験がそうさせてしまうのだった。
「もうわかった」
化粧もせず、オーバーオールなんか着ている二十歳のあたしが、涙をぽろぽろこぼしながらいつまでも訴えるのを聞いて、社長はついに根負けした。
「そんなら思ったとおりがんばればいいじゃんか」
そう言い残すと、席を立っていった。
あたしはしばらくしゃくりあげていたが、社長が帰ってしまったので店を出ようとした。すると店長が、
「あけみ、おまえもしょうがないなあ」
と声をかけた。あたしが黙っていると、店長は外の光であたしの顔をじっと見て、
「やっぱりどんな女でも泣きべそかいたらブスだなあ」
と言った。なんだ、なぐさめてくれるんじゃないのか、とあたしは少し拍子抜けしたが、彼が、
「メシでも行くか」
とだけ言って背中を向けて歩き出したのを見て、これがこの人のなぐさめ方なのかもしれないな、と思い直した。
「なんであんなひどい言い方すんのかな、社長……」
落ちついたころ聞くと、店長は、
「あれ元やくざだからなあ」
と当たり前のように言った。それを聞いて、店を紹介してくれたことで渡辺さんに恩を感じることはなかったな、とあたしは思った。
次の店はやっぱり自分で決めることにした。「カラーラ」の社長が、三田さんに何かするかもしれないと思ったからではない。あとで考えたら、あれはただ自分の店をやめていく人間へのただのいやがらせだったと思う。「次はこういう店に行こうと思います」などと、やめる店にバカ正直に報告したあたしが悪かったのだ。
あたしは履歴書も持たず、ただ街をうろうろして次の勤め先を探した。
「彼女、働くとこ探してんの?」
と声をかけてくる呼び込みの人までいた。呼び込みが立っているような店に、誰が勤めるものか。
もし、良さそうな店を見かけたら、入って行って面接を受け、感じ悪かったらそれきり行かなければいいんだ。長崎なら狭い街だから、そんな失礼なことをすれば自分の評判をすぐに悪くしてしまうが、ここは東京だ。あたしはもうその程度には東京になじんでいた。こっちのお客さんが嫌なやつばかりなのもそのせいなのだろうと思っていた。東京では揉めたらそこへ二度と行かなければいいだけだが、田舎では一度かかわったら最後、誰もがみなご近所さんなのだ。
あたしはひとりでぶらぶらと新宿を歩き、生バンド演奏のようなものが聞こえていたというだけの理由で「エスペランサ」という店に入って行った。中を見ると、「カラーラ」とは比べものにならないくらい綺麗な店だった。そして確かに四人編成の、なかなかうまいバンドが入っていた。特にギターの人がいいと思った。あたしは歌もやらせてもらうことを条件に出し、その店で働くことを決めた。
今度は指名を集めるようなへまはするまいと思った。あくまでお姉さんホステスのヘルプという位置で働き、ワンステージに一、二曲歌わせてもらえればそれでいい。それよりあたしは早くバンドの人たちと仲良くなって、いろんな話を聞きたかった。岩城のいるアマチュアバンドだけではもの足らなさ過ぎた。岩城のギターが一番ましではあったが、ほかの楽器の連中があまりにもひどかった。
ドラムは8ビートしか叩けない男だった。キーボードの女の子は練習日を忘れてすっぽかしてばかりいた。ベースは「おれ今日はレゲエの曲、作ってきた」と言いながら、「ミスタージャンキー」というタイトルの譜面を配ったが、演奏してみたらただのブギウギだった。あたしの譜面を渡して演奏させても、しょっちゅう誰かが戸惑って曲を中断させた。常にお客が聞いているステージしか知らないあたしは、譜面を追えなかろうが間違おうが、とにかく曲は最後まで演奏してみればいいじゃないかといらいらした。それでも練習が終わり、楽器を持ったままのメンバーとだらだら歩いたり、酒を飲んだりするのはちょっと楽しかった。
その晩もメンバーの一人のアパートでみんなで飲んでいた。
あたしの隣に岩城がいた。岩城は最初なかなか自分の職業が何かを話さなかったが、よく聞くとレーサーくずれで、ふだんは改造車のチューニングをして稼いでいるという。あたしには、どうしてそれが聞かれてすぐに言えない職業なのかわからなかった。
岩城もあたしも相当酔っていた。誰かが部屋の明かりを消してしまい、あたしは岩城にキスされた。
「隣の部屋、空いてるよ」
とアパートの主が言った。隣は彼の部屋ではなかったが、空き部屋になっていて、鍵がかかっていなかった。あたしはその部屋で岩城とセックスした。岩城は、
「静子、ノーブラだったから嬉しかった」
とあとであたしに言った。まるであたしが自分のために下着をつけてなかったような言い方だったので、変な気がした。
岩城とあたしはしょっちゅう一緒にいるようになった。彼は決まった時間に工場に行かなくてもよい身分らしく、朝になってもいつまでもあたしと寝ころんでいた。
毎日毎日話をした。岩城はあたしがいろんなことをやろうとしてがんばっているところがいいとほめてくれた。
「おまえみたいな女初めて見たよ」
と言ってくれた。そんなふうに言われたことは一度もなかった。何種類ものことをいっぺんにやろうとしているがどういうつもりなのだとか、おまえはいろいろやろうとしているけど何ひとつものにならないのな、などと言われたことはあっても、そこがいいなんて言われたことはなかった。岩城は今までだれもがけなしていた点をほめただけでなく、そのあとに、
「オレ、おまえとだったら結婚してもいいな」
までおまけに付けたのだ。あたしにとってそれは、大きな大きなおまけだった。自分のものにするためでなく、あたしのやっていることを認めてくれた上での結婚という言葉は、あたしの中にどうしようもなくしみこんで行った。
あたしは岩城と一緒に暮らすことにした。そして岩城がしてきた、
「うちの大家さん結構ちゃんとしないと嫌がる人だから、籍、入れようぜ」
という提案を断れなかった。あたしは結婚する決心をしてしまったのだ、それまで自分は結婚なんかしないと思っていたのに。
あたしはまず岩戸さんに電話して、長崎の戸籍を送ってもらうよう頼んだ。それから母に電話して、
「結婚することにしたから」
と言った。母はただ驚いていたが、
「あんたは何もかも言い出したら聞かないもんねえ」
とあきらめてもいた。
その後少し考えたが、江木さんにも電話することにした。このまま引っ越したら、あたしと突然連絡が取れなくなってしまう。そしたらきっと驚いたり心配したりするだろうし、それではあまりにも気の毒だ。ところが、江木さんの反応はあたしの理解を越えたところにあった。
「結婚するだって……」
彼はあたしからの報告を聞くとしばらく絶句し、
「おまえはひどい女だ」
と泣き声で言った。あたしはあまりのことに何も言えなくなった。そんなにこの人に悪いことをしたのだろうか。確かにつきあっているときはその気にさせるようなことを言ったりもしたかもしれない。でも今は彼を置いて東京に出てきてしまっているのだ。もともと家庭のある江木さんとの関係の半分以上はそれで終わっていると思っていたあたしは、冷たい人間だったのだろうか。
しかしどっちにしろもう結婚をとりやめるつもりはなかった。あたしはこの新しい展開にすっかり気を良くしていたのだ。まもなくあたしは岩城の部屋に引っ越し、彼と籍を入れた。式も何もしなかったが、結婚したという事実だけで十分だった。それに結婚したおかげで、「エスペランサ」のバンドのドラムの男の子から毎日しつこくきていた新興宗教への勧誘の電話もかかってこなくなったのだ。
岩城の住まいは練馬にあった。窓から隣の駐車場が見える二階の部屋だった。八畳に四畳半、それに小さな台所と風呂場がついていたが、家具はあまりなく、広々としていた。岩城はあたしが持っていたクーラーやビデオが自分の部屋にやってくるのは大変喜んでくれたが、重なるものは置く気がないらしく、
「ステレオ二台あってもしょうがないから現金に換えちゃおうぜ」
と言った。東京に来てから買ったコンポーネントのステレオで、二十万以上もする新品だったが、彼には価値がないようだ。売ると十万にしかならなかったが、それでも彼は現金のほうを喜んだ。
入籍してすぐに彼は、急に暗い表情になって、
「これからオレ、おまえのことこのまま一生面倒見ていかなきゃなんないんだよな。もう二度と、自分の好きなこと出来ないんだよな」
とつぶやいたことがあった。その表情があまりに思い詰めた感じなので、あたしは嫌な予感がしたが、まもなく彼は元気を取り戻し、前のように優しい男になって、目を覚ますなり、
「朝から好きだよ」
と言ったり、おそろいのTシャツを買ってくれたりした。
部屋には大家さんに内緒でクリという名の猫を飼っていた。あたしが最初にこの部屋に来たとき、人見知りのひどいこの猫が隠れもしないだけでなく、あたしにすぐになついたので、岩城はとても驚いていたのだ。
「クリがオレ以外の人間になつくなんて今までなかったよ」
思えばあれがあたしが見初められたきっかけだったのかもしれない。
「見てみな、クリ、ちょっと脚が悪いんだ。歩くときこっちへ傾いてるだろ」
よく見ると、確かに彼女は緩《ゆる》い円を描きながら歩いていた。
「こいつと一緒に生まれた猫は、みんな死んじゃったんだ。生まれつき目のないのまで混ざってた。弱いんだよ。オレだけが頼りなんだ」
岩城はしみじみそう言った。
「だからどんなにひどく殴りつけても、投げ飛ばして壁にぶつけても、オレのところへ戻ってくる。ぼろぼろになってもオレを慕ってくるんだ」
彼は美しい話だと思っているようだったが、あたしはぞっとした。「慕ってくる」のはいいが、そんな目に遭わすのはちょっとおかしい。そこまでしてしつけなくてはいけないことなんてそんなにないはずだ。この人は自分のうっぷん晴らしのために飼い猫を殴ったり投げ飛ばしたりしていたのだろうか。
「前、こっくりさんしたときにさ。この脚の悪いはずのクリが、いきなりものすごく興奮して壁から壁に飛び回ったんだ。壁から、床で、それからまた壁じゃないんだぜ。壁から壁だぜ」
岩城はそんな話もした。
「なんか来てたんだよ、ぜったい。オレのこと、守ろうとしたんだよ」
「なんかって……?」
「霊だよ。その証拠に、あとでその時使ったこっくりさんの紙見たら、変なことになってたんだ。文字が動いて、前見たときと違ってた」
あたしは体に鳥肌が立った。それでもクリ自身は、ちょっとかなしげだけど普通の可愛い猫だったので、あたしはあまり気にせず彼女を可愛がっていた。
岩城はあたしのことも猫のように可愛がってくれた。あたしたちは毎日何度もセックスした。岩城は思いつく限りのことをあたしと試そうとしていた。ときどきは自分の体がおもちゃになっているような気にもなったが、
「こんなことをしたのは、おまえとだけだ」
と言われると、幸せな気分になって、何もかもどうでもよくなった。しかし、フェラチオしているとき革鞭で背中をたたかれたのには慌てた。革鞭でたたかれるなんて生まれて初めてだったし、昔あたしが民芸品展で買って、しゃれで部屋に飾っていたことのあるそれを見た岩城が、そんなことを思いつくなんて考えもしなかった。たった一打ではあったが、彼がそれにひどく興奮しているのも手に取るようにわかった。
「口でしてるときは、危ないよ……」
そう言いながらそれとなく止めてもらうことに成功したが、あとであたしは彼が二度と見つけられない場所に鞭を隠した。
結婚したら、やはり男は女を征服した気分になりたいものなのだろうかと思ったが、もともとあたしは、セックスの上でのことは香辛料みたいなものだと考えるたちなので、それほど彼のことが恐くはなかった。だいいちあたしにはあたしの仕事があるのだ。
ところがなんということだろう。「エスペランサ」が営業停止をくらってしまったのだ。十八歳未満のホステスを雇っていたのだという。三十人以上もホステスのいる、出来てまだ一年のクラブが三カ月も営業できないということはどういうことか、あたしは身をもって知った。しばらくは支店の「国賓」でジャズ歌手として置いてもらってはいたが、ジャズは英語でわけがわからないのでお客の評判が悪いと言われるようになり、そしてある日突然あたしのかわりだというロングドレスの演歌歌手がやって来て、あたしはあっさり首になってしまった。
あたしはしょんぼりして家に帰ってきた。わけを話すと、岩城はあたしを抱きしめ、
「またがんばればいいじゃん。な、がんばれよ」
と励ましてくれた。あたしは嬉しさに涙ぐんだ。
「もしこんなとき一人で暮らしてたら、きっとあたしたいへんだったよ」
と結婚したことを心から幸せに思った。
元気を取り戻したあたしは、張り切って仕事を見つけることにした。すぐに次の店で働かないと、習い事の月謝や学費などが払えなくなってしまう。あたしは求人情報誌を買い、歌の勉強になりそうな店はないかどうか探した。そして、赤坂まで面接に出かけて行った。
小さな店だったが、申し分なかった。その頃まだ珍しかった、シンセサイザーまで使っている、うまいバンドが入っていた。働いている女性はみな歌が上手でどきどきするほどだった。昔、「ブラックコーヒー」というヒット曲を出した歌手まで混じっていた。求人誌を見た女の子がほかにも面接に訪れていて競争率も高そうだったが、絶対にここで働きたいと思った。それに、歌っている女性に一人だけだが、知っている人までいたのだ。「エスペランサ」のドラムの男の子に連れられて、新興宗教関係のコンサートに行ったとき、彼と話をしていた女性だった。そんな偶然はなかなかあるものではない。あたしは勝手に運命を感じて、彼女に近寄ってあいさつをした。
「実はあの日、日比谷でお会いしたんです」
と説明すると、彼女は、
「そうですか」
と言ったあと、
「信心していらっしゃるんですか?」
とあたしに聞いた。
「いいえ、していないんですけど」
とあたしは答えた。あたしにとっては、そのドラムの子や、(そしてギターの人も同じ宗教の信者だったのだが)今目の前にいる彼女の演奏や歌がたいへん素晴らしいということしか問題ではなかった。そのことだけが嬉しく、お店のママにも、
「実はあのかたを知ってたんです」
と話したが、ママがちょっと真面目な顔になって彼女に目をやり、
「まあ、どこのお知り合いなのかしら」
と言ったところを見ると、そのことだけを喜んでもいられないようではあった。
とにかく面接は合格だった。それだけでなくあたしは相当その店から気に入ってもらったようで、担当者が来るまでの待ち時間に食事までおごってもらったのだ。嬉しくて嬉しくて、一刻も早く岩城に知らせたかった。岩城が家に着くのを待ちきれず、駅で彼を待ち伏せた。
「ねえねえ、聞いて聞いて」
「なんだ、嬉しそうだな。オレ、腹へっちゃってんだ」
「あ、そうなんだ。あたし外でてたからなあ」
「あそこのサ店入ろうぜ。オレめし喰うからよ」
あたしたちは腕を組んで喫茶店に入った。岩城はスパゲッティ・ナポリタンを注文し、あたしはコーヒーを頼んだ。店内はすいていて、どちらの品もすぐにテーブルにならんだ。
「あたしねえ、新しい店見つけたんだよ。赤坂。すっごくいいの。バンドも歌もみんなうまいの」
あたしはうきうきして言った。そして岩城が、
「よくやった、がんばれよ」
と言ってくれるのを待った。
ところが、岩城の表情はみるみる暗くなった。一言も反応がないばかりか、空腹だと言っていたくせにナポリタンに手をつけようともしない。
「……どうか、したの?」
あたしはおそるおそる訊ねた。岩城は、沈んだ声で、
「また、夜、出るのか」
とだけ言った。
そしてそのままナポリタンは冷めていった。岩城は水も飲まず、煙草に火もつけず、うつむいたままいつまでも黙り込んでいた。
どう考えてもなぜだかわからないのだが、あたしは新しい仕事をあきらめるしかないようなのだ。
家に帰ってから、あの店に電話をした。ちょうどショータイムで、あたしも歌わせてもらえるはずだった、あの素晴らしい演奏が聞こえていた。
「すみません、そちらへ働くことを主人に反対されてしまいまして」
とあたしは言った。それでもショーをただで見せてもらったことや、食事をおごってもらったことの礼は言うべきだと思い、気を取り直して、
「今日は、本当にお世話になってしまって……」
と言いかけたところで、一方的に電話は切られた。みじめだった。泣きたい気持ちだった。
あたしはこれからどうすればいいのかわからなかった。今までしていた仕事と同じ仕事を見つけてきたことが、どうしてそんなに気に入らないのだろう。いや、そうではない。前の仕事よりいい仕事なのだ。接客より音楽を聞かせるほうに重きを置いている店なのだから……なのに、なぜ? あたしは何度も、
「また、夜、出るのか」
という岩城の言葉を頭の中で反芻した。昼間ならいいのだろうか? でも昼間にクラブ歌手の仕事なんてあるはずがないではないか。
あたしはそのまま専業主婦になっていった。岩城は、
「別にオレの稼ぎで二人暮らせないわけじゃないし」
と少し満足げだった。そのころ、月に三十万くらいの収入があっただろうか。岩城の給料は毎週、チューニングした車の数だけ歩合制で支払われていた。六万のときもあれば、八万のときもあった。でもあたしだって、それまで三十万は稼いでいたのだ。あたしは人のお金で暮らすのに慣れていない。二人で暮らせない額ではないと言われても、これまで身勝手な一人暮らしを続けてきたあたしは、やりくりなんてしたこともなかった。とにかく、まずあたしは今まで通っていた習い事のうち、一番月謝の高いヴォーカルスクールをあきらめ、ジャズピアノと音楽理論だけにしぼった。それから今まで買い放題に買っていた漫画の本をがまんして、本屋ではなるべく立ち読みするようになった。あっというまにあたしの生活からは潤《うるお》いがなくなっていったが、あたしは結婚したんだからと自分に言い聞かせてがんばった。それでも週給のせいで、家賃などのまとまった支払いをするのが難しかった。あたしの貯金はあっというまになくなってしまった。岩城はもともと貯金なんてしていなかった。岩城の口座の残高は最初に見たときが五万。二十九歳の成人男子の通帳とは思えない。なのにどうしてあたしが働くのを妨害したのだろう。
あたしはもちろん、式だけでなく指輪ももらっていなかったが、それを気にしていなかったのは、岩城も同じだと思っていた。ところがある日会社から帰ってきた彼は、怒ったようにあたしに言った。
「オレ、おまえに指輪買ってやるからよ」
「は?」
そんなお金がないのはだれよりもあたしがよく知っていた。
「今日、会社の、今度結婚するやつが指輪の話してたんだよ。何十万もする指輪買ってやったって自慢してやがってよ。オレも、絶対指輪買うからな」
この人は何か勘違いしているようだとあたしは思ったが、いつものことなのでただ黙って聞き流していた。思ったとおり、その話は見栄を張れない自分へのただの怒りの現れであり、岩城はその後指輪のためにお金を作ろうとしている様子はなかった。
あたしはなんとか主婦の仕事にも生き甲斐を感じたいものだと努力した。なるべくお金のかからない新しい料理を工夫したりしたが、岩城は好き嫌いが激しく、食べたことのないものを出すと、
「なんだこれ」
と言って手も付けなかった。
「別にさあ、いつも喰ってたもんをローテーションで作ってくれてりゃいいんだから」
しかし、勝手に連絡もなく外食したり、それほど量もないおかずはいつも皿に残した。あたしはだんだんやる気がなくなっていき、昼間からウイスキーを飲むようになった。
[#改ページ]
新しい経験のまっただ中にいる人間はどうしてあんなに眠いのだろう。
生まれて初めて「仕事をせず、男の稼ぎで暮らす生活」に放り込まれてしまったあたしの睡眠に対する欲求はあまりにも激しく、まるで思春期の頃のように昼間でもぐうぐう寝てしまう自分をどうすることも出来なかった。もしかしたら岩城は、「専業主婦にしてやったのだから真面目に家事をやるだろう」と思いこんでいたかもしれないが、実際のあたしの昼間の生活と言えば、岩城を駅まで送って行ったあとは、五百円だけパチンコしたり、本屋で長いこと立ち読みして帰って来て、ウイスキーを飲んで眠ってしまうだけ。何もやる気になれないのだ。
ウイスキーも最初は水割りにして、残り物を食べながら飲んでいたが、じき何も食べずにストレートであおるようになった。だれも話し相手がいないので、自分がどのくらい酔っているのかもよくわからない。太っていっているのか痩せていっているのかも知らない。すでに岩城はあたしの容姿について何か言ったりするほどあたしを構わなくなっていた。
なんとか会話したくて話しかけると、
「おまえは余計なことばっかり言うから話したくないんだよな」
と言われた。自分が機嫌のいいときには話しかけて来るが、その内容はあまり歓迎できないものも多かった。
「こないだ駅で昔つきあってた女とばったり会っちゃってさ。おまえを見てたみたいで、『結婚したんだ』って言われたよ」
「その人、この近くに住んでんの?」
「たまたま来たみたいよ」
そう岩城は答えたが、朝の出勤時間にたまたま来てたというのはどういう状態なのだろうか。
しばらくして岩城が昔この部屋で一緒に住んでいた女だという人物から電話がかかってきた。岩城はしばらく彼女と話したあと、電話を切ると、
「三万円払ってくれだって」
とあたしに言った。
「なに、それ?」
「ほら、あいつが買って置いてった台所用品とかあるから」
あたしは絶句した。
「おまえ払っといてよ」
しかし三万もの金をまとめて作れるような生活ではなかった。あたしは最後の最後に使うつもりで、秘密に取っておいた自分の貯金を引っぱり出した。それからその女の家に電話をかけさせられ、口座番号を聞いて三万を振り込んだ。こんな金を要求して恥ずかしくないのか、とあたしは内心煮えくり返っていたが、その女は悪びれる様子もなく、当然といった感じだった。
テレビをじっと見ていたかと思うと、
「火星に秘密基地があるの知ってるか?」
と言われたこともあった。
「主要人物だけそこに移す計画があるらしいんだ。地球はもうすぐ滅びるからさ。オレも、そこへ行きたい。そこへ行って生き伸びたい」
「………」
冗談だと思っていたが、彼は真剣だった。それでもあたしは顔が少し笑ってしまうのを止めることができなかった。
「行きたいって言っても……どうやって?」
やっとそれだけ聞いたが、声が笑いにふるえてしまった。岩城の表情はみるみるうちに険しくなった。
「おまえもオレの言うことまじめに聞いてないんだろ。おまえもあいつらと同じだ。どうせオレのことをバカにしてんだ」
それきり彼は黙ってしまった。あたしにはどうすることもできなかった。
あるときの岩城は、
「オレ、やろうと思った女とやれなかったことないんだ」
と話し始めた。あたしは岩城にはとっくに養父や、昔のボーイフレンドの話もしていたし、すっかり異性関係の話は対等にできていると思いこんでいたため、こう答えた。
「あたしは、やろうと思って、とかそれほどはっきり考えたことはないけど、今まで……」
ここまで言ったときに岩城が嫌な顔をしているのに気づいた。
「なんでオレがおまえの昔の男の話なんか聞かなきゃなんないの? おまえのそういうとこ、オレ信じられねえよ」
あたしは黙ってしまった。これは会話ではなかったのだ。だんな様のおっしゃることをただ黙ってうけたまわっているだけの儀式だったのだ。
「男と一緒に写ってる写真は全部捨てろ」
と言って、あたしのアルバムをびりびりに破いたこともあった。
「男にもらったものも全部だ」
と、本から腕時計までごみ袋に入れさせられた。
「ほら、これもこれも」
と岩城の指さす写真を台紙からはがしながら、あたしはだんだん虚しい気持ちになっていった。この人はこういうことをして満足なのだろうか。物を捨てたり、写真を破いたりしてもあたしの過去が消えるはずはないのに。それも、結婚するまえは「おまえもいろいろあったな」と慰めてくれたり、養父に対して激怒してくれたりしていたのに、今ではまるで汚い物でも処理するような言い方だ。
「これも捨てろ」
「え?」
岩城が最後に指さした写真を見て、あたしは首をかしげた。あるパーティで、長崎の「モンゴメリー」というジャズ喫茶のママと一緒に写っている写真だった。彼女は長崎では珍しいジャズヴォーカリストでもあり、あたしが尊敬する人の一人だった。
「これ女の人と写ってるじゃない」
と言うと、岩城はまるで当たり前のように、
「この後ろの男だっておまえと何があったかわかるもんか」
とすごんだ。狂ってる、とあたしは思った。その男はたまたまそこに通りかかっただけの人なのだ。それでなくても、長崎に公演で来ていた好きなミュージシャンと一緒の写真まで捨てさせられていたあたしは、ついにふてくされた。
「じゃあ勝手にすれば」
そんなものまで捨てたきゃ自分でやれ、と岩城から顔をそむけた。アルバムの最初の何ページかのセロファンを破かれてしまい、このままでは全部が台無しになりそうだったので岩城の言う写真をはずしては捨てていたが、もうやってられないと思った。
その瞬間、首根っこを掴まれ、ぐいと持ち上げられた。
「だんな様の言うことが聞けないのか」
そのまま壁に突き飛ばされた。危険を感じて、あたしは黙った。両目から涙がぽろぽろこぼれ落ちた。
岩城に掴まれたところが赤くあざになっている。同居して三カ月で彼は別人のようになってしまった。これまでも暴力を振るう男や、金にだらしない男ともつきあったが、あれほど優しく、理解ある態度だった岩城がここまで変わるなんて。その上あたしはそいつと結婚してしまっているのだ。
話しかけても、返事をしてくれない。
「ご飯食べる?」
と言うと、
「ああ」
と言うだけ。そしていつものようにおかずを残される。
あまりにもたくさん残すので、唐揚げとサラダを別の皿に盛って出したことがある。サラダの水分でいつもぐずぐずになった残り物の唐揚げを食べるのは翌日のあたしだ。油物があまり得意でないあたしにはそれが苦痛だった。ところが、
「こんな盛りつけで喰う気になるかよ」
と怒鳴られてしまった。そして、食事はそれで終わりになった。
寝る前にはただ黙ってテレビを見ている。ひざの上には猫のクリがいるが、まるであたしはそこにいないかのようだ。話しかけても、
「テレビ見てんだよ」
と冷たく言われる。
しかし、猫のクリには、
「さあクリ、寝ような」
と愛撫しながら話しかけているのだ。たいして広くもないベッドで背中を向けられたまま無視しつづけられたあたしは、とうとう泣き出してしまった。
ベッドが嗚咽で揺すられ、あたしのしゃくりあげる声が静かな部屋に響いた。あたしはもうながいことここで、女として扱われていなかった。ときどきフェラチオだけさせられた。あたしはただの奴隷だった。
「もー。揺らすなよっ」
岩城は泣いているあたしに苛立つように言った。彼には同情する気など微塵もなかったのだ。
マリファナをやっていたらしいのもあたしには嫌な感じがした。だれかから買うとお金がかかるからと言って、鳥のエサとして売られている麻の実を水栽培しようとしたりしていたが、うまくいかないようだった。
「これけっこう芽が出るんだけどな」
とまじめな顔で言う岩城は、マリファナには害がなく、音楽を聞く耳を鋭くさせるものと信じていた。
「だいたい法律で禁止してるほうが間違っているんだから」
そんなこと言われても、禁止されているのは事実なのに。でもあたしには何も言えなかった。
ある日母から電話があって、
「どう? うまくいってる?」
と優しい声で聞かれたとき、あたしは彼女に悩みなど話したこともないのに、不覚にも泣き出してしまった。
「どうしたの?」
あたしは泣きながら母に今の状態を説明した。さすがにあの養父と一緒にいるだけあって、彼女はあまり驚きはしなかった。
「そういうのはね、よくあることなのよ」
彼女は先輩らしく言った。
「そのうち落ちつくこともあるから、頑張ってみなさい。せっかく結婚したんだから」
そうかもしれない、とあたしは思った。今まで男とのつきあいを持続させるという考えをいっさい持たなかったあたしは、相手と何かあるとそのたびにつきあうのをやめていた。男とのつきあいというものはそういうものだと思いこんでいた。でも今度は結婚したのだし、とりあえず岩城は、あたしが漫画を描くことは邪魔しないのだ。
あたしは気を取り直し、漫画の持ち込みに励んだ。
ところが今度はそれが出来ない事態になってしまった。岩城が突然会社に行かなくなってしまったのだ。
「行きたくないんだ、あいつらのとこなんてよ」
と言うだけで、何があったのかも話してくれない。
このままでは当然暮らしていけなくなる。あたしはあわてて週払いをしてくれるバイトを探したが、岩城の稼ぎと同じだけもらえる仕事は、水商売しかなかった。
幸い、池袋のアルバイトクラブが週給制な上に、バンドも入っていた。面接を受け、すぐにでも働くことにした。今度は岩城は、
「また夜出るのか」
とは言わなかった。
アルバイトクラブでのあたしの名前は摩耶だった。気恥ずかしかったが、店の人がその名前なら作った名札が残っているというので、それでもいいやと思った。
バンドはバンマスがドラムの人で、変拍子などもなんなくこなす元気なプレイヤーだった。あたしは今まで夜の店ではあきらめていたダンスナンバーなども歌えるのでなかなかいい気分だった。
岩城は毎日のようにあたしを迎えに来て、外で一緒にご飯を食べた。あたしの留守中はただ、テレビを見たりしてぼんやり過ごしていると言った。昼間には二人で散歩したりしたし、ベッドではまたあたしを女として扱ってくれるようになっていた。あたしはもとの仲良しに戻れたことが嬉しかったので、彼には何も聞かなかった。また働くことができるようになったし、自分が家計を支えているという意識はなかった。岩城はあたしの代わりに家事をしたりはしなかったが、あたしはただ迎えに来てくれるだけで良かった。あまり先のことが考えられないあたしはこれが結構しあわせだったのだ。
ところがまたまずいことになってしまった。あきらかな失敗で、妊娠してしまったのだ。あたしはがっかりした。またあの手術台に上らなくてはならない。
「ほんとに堕ろすの?」
岩城は弱気な声であたしに聞いた。
「オレはおまえのからだが心配なんだよ……」
彼はあたしが今までしてきた中絶を知っていた。でも、「産んでくれ」と頼むことはしなかった。それにあたしは産むつもりなんて毛ほどもなかった。
岩城は元気の良かったころ、よくあたしに子どもの話をした。
「どんなところにも連れてってよ、オレの生き様《ざま》を見せてやるんだ」
あたしはその「生き様」という言葉があまり好きではなかった。それに、
「ぜったいレーサーにするからな。女でもする。絶対だ」
と言い切るのにも困っていた。
「レーサーなんて、危ないよ」
あたしが言っても彼は聞かなかった。
生まれてもいない子どものことをながながと語るのも変だと思った。岩城はもう三十になっていたから、子どもが欲しかったのかもしれないが、あたしはまだ二十一歳だったし、自分がしたいことがあって上京してきたのに、まだ何一つものになっていなかったのだ。子どもを持つことなんて想像も出来なかった。その上その後の岩城に対する不信感は、内心膨らむばかりなのだ。
あたしは手術前に店を辞めた。自分の担当のマネージャーだけに、妊娠していることを話した。あたしは今まで何かと相談に乗ってくれた彼のことを信頼していたのだ。なのに、最後の給料をもらって帰るとき、ぜんぜん別のマネージャーから、
「摩耶も大変だな。妊娠したんだって?」
と言われてショックを受けた。そのとき初めて、結婚した相手のわがままに振り回されてここで働いていた自分をみじめだと思った。
しかし岩城はこのころまた会社に行くようになっていた。あれだけ無断で欠勤していても、受け入れてくれる会社のようだった。なんだか不思議な気がしたが、彼に実力があるからかもしれない、と良い方に考えることにした。
手術に対する恐怖は一つだけあった。前々回の手術のときあたしは、布団に横にしてもらうころに意識が戻った。それが前回では手術台から降ろされるときだったのだ。あたしは少しずつ麻酔が効かない体になっているのかもしれない。もし今度の手術で、手術の真っ最中に意識が戻って激痛を感じることになったらどうしようと考えていた。
何の心配もいらなかった。近所の病院の麻酔はそれはそれは強力だった。あたしは手術が完全に終わってもしばらくは手術室の横のベッドで眠りこけていた。
目が覚めたらだれもいなかった。岩城は家に帰っているようだった。あたしはふらふらしながら赤電話まで歩いていき、岩城に電話した。
「目さめたから、迎えに来てー」
「おまえ、なんだその声……」
岩城は驚いていた。
「お腹に力はいんないだけだよ。だいじょうぶ」
そう言ったのに岩城は悲痛な表情で迎えに来た。
「なんか、食べるか」
「うーん」
あたしはどうでもよかった。早く家のベッドで横になりたかった。空腹なのは岩城のほうのようだった。
岩城はあたしの好きな刺身や何かを買って、ベッドでも食べられるようにしてくれたが、あたしはあまりお腹がすいてない上に手術したばかりなので、刺身醤油にわさびを入れずに食べた。その頃のあたしには、こういうときにはなるべく刺激物を避けたいという考えがあった。しかし、いつも涙の出るほどわさびを使って刺身を食べていた岩城は、むっとしていた。わけも聞かず、
「それわさび入れないとうまくないじゃないかよ」
と、ただでさえよく効くチューブ入りのわさびを山ほど絞り入れた。思いやりのないことをするな、とあたしは思ったが、黙っていた。
しかしそんなものは序の口だった。翌日、会社から戻ってきた岩城は、ベッドの中にいるあたしを見て、
「まだ寝てんの?」
とふてくされた。あたしはびっくりした。岩城は続けて、
「まえ一緒に住んでた女は、手術したあとすぐからちゃんと家事やってたぞ」
と言った。それはあたしの貯金から三万円を払わされたあの女のことなのだろうか。あたしは、この男があたしが中絶すると言ったとき、
「オレはおまえのからだが心配なんだよ」
としおらしげに言ったのは嘘だったのだなと悲しい気持ちになったが、やはりただ黙ってベッドから起き出し、おそるおそる家事をした。中絶のあとに男からひどいことを言われたりされたりすることなんて、よくあることだと思い直した。それにあたしは岩城を、言い合いや喧嘩のできる相手だとはもう思っていなかった。岩城があたしを征服することしか考えていないことを、あたしはうすうす気づいていた。その後、あたしは中絶した病院でカンジダという黴《かび》を感染《うつ》されていることを知った。しばらく治療に通い、ついでにピルももらうことにした。もう二度と、岩城の子を宿すのはごめんだと思った。
しばらくしてあたしはまた仕事を探し始めた。なるべく岩城と同じく週給の仕事がいいと思ったが、水商売以外で週給制の仕事なんてそうそうなかった。
やっと一つだけ、「電話応対」と書かれた週給の仕事を見つけて面接に行った。面接に受かったのは良かったが、
「では明日から研修です」
と言われ、おかしいなと思った。
試しに行ってみると、大きなバインダーを渡された。その中には、「これから英語がどんなに大切か」といった話が、イラストや写真入りで展開されていた。あたしたちは研修室でそれを大声を出して読み上げた。
「あのー、今度行った仕事、なんか変わってるんだけど」
岩城に話すと、
「ああ、知ってるよ。オレもやったことある」
と答えた。
「え、そうなの」
「ああ。おまえに向いてそうだったらやればいいし」
岩城は言葉少なく言った。そうか、だったらやってみようかなとあたしは思った。あんまり変わっている職場なので、好奇心だけはあったのだ。
しかし、得体のしれない研修に、まわりの人間はどんどん辞めていった。それもそのはず、「電話応対」と書かれていたはずのこの仕事は結局英会話カセットのセールスであり、契約が取れないうちは一円の給料も出ないのであった。あたしは研修を終えてある班の所属になったが、そこには一カ月もこの班にいながら一本の契約も取れてない女性がいた。
セールスのやり方はこうだ。まず、どこかから、なるべく上京してきたばかりの二十歳そこそこの若者の住所や電話番号を調べてくる。それはどこかの職員名簿のこともあったし、ときには区役所の出張所に、「青年の意識調査が目的です」と嘘をついて閲覧させてもらい、書き写してくることもあった。それから、彼らに、
「あなたはみごと選ばれました。ユニークなお知らせがあります。お電話下さい。USAプラザ・岩城静子」
という内容の葉書を出すのだ。あたしは中野に住んでいるとき、自分にも似た内容の葉書が来たのを思い出した。上京したばかりのあたしにはそんな郵便は胸がはずんだが、心あたりが全然ないので、「カラーラ」の店長に相談したのだ。店長が、
「それ、高い百科事典かなんか売りつけられるやつだよ」
と言うので、破いて捨ててしまった。それを今度は自分が出す方になってしまったのだ。
あたしのセールスの成績は思わしくなかった。班長からは、
「その暗い声がいけない」
とか、
「葉書のなまえ、岩城静子じゃなくてもっと明るくて可愛い名前にしたら?」
とか、よくわからないアドバイスをされた。仕事仲間はみな明るく、仲良く声を掛け合ったりしていたが、それはうわべだけで、内心自分が契約を取ることしか考えていなかった。その証拠に誰かの友だちが会社に遊びに来ると、必ず他の誰かが勝手にその人を談話室に引っ張って行き、売り込みを始めた。アポイントを取った相手が、そんなカセットいらない、と言い出すと、突然その上司が説得に加わり、逃がさないようにするやり方まであった。
あたしは、自分にはこの仕事は向いてないなと思い始めていたが、たまに契約が取れ、歩合給が振り込まれると岩城がすごく喜んでくれるのだ。あたしの通帳を見て、
「よくやった」
と言う岩城は優しいお父さんみたいだった。ところが、その直後必ず、
「これで欲しかった車の部品買おう」
とすぐ自分の買い物に遣ってしまうので、家計はちっとも楽にならなかった。あたしはちょっとだけ不満だったが、家計のほとんどを稼いでいる岩城は、あたしが稼いでいるのは自分の小遣いだと信じて疑っていないようだった。
契約が取れたのは、はっきり言ってまぐれだった。あたしは行き詰まりを感じ、机でため息をつくようになった。
「岩城ちゃん、みんな一所懸命仕事してるんだから、机でため息つかないでくれる?」
と班長から注意された。
この班長はふだん何も仕事をしていない。班の構成員が契約を取ると、自動的に班長にも歩合が行くようになっているのだそうだ。いったいこのカセットの値段はどれだけ水増ししてあるのだろうか。
アポイントが取れて喫茶店で話していても、相手は自意識過剰のへんな男の子が多く、あたしと個人的につきあえるかどうかばかりを気にしているのはすぐにわかってしまう。カセットを買ったあとも、社員に構って欲しいばっかりに、葉書を受け取った人間の振りをして電話してくるのまでいた。
そんな購買者の一人に、みんなが振り回されていた。いかにも買いそうなことを言って人を呼び出し、すっぽかすのだ。何度か同じケースが続いた。変に思ったあたしは、前の机の先輩に相談した。
「ああ、それきっとあの人だよ。電話してみな」
と言われた購買者のところへ電話してみると、
「妹はただいまお使いに行ってまして、五分くらいしたら戻ってくると思います」
という返事だった。しばらくして掛け直すと、さっきのお姉さんの方が出て、
「ちょっとお待ち下さい」
と足音が去って行き、代わりにそれよりせっかちな足音とともに、姉よりはすっぱな口調の妹が電話を取った。
「どーして担当でもない人から電話かかってくんですかァ?」
と彼女はあたしを責めた。
「ちょっとおうかがいしたいことがありまして」
「なんでわざわざ知らない人から電話までもらって……」
その不満そうな口調を聞きながらあたしは、いたずらしているのが彼女本人だという先輩の話はほんとだろうなと思った。電話を切ってから、その先輩に報告に行った。
「さっき、その人に電話したんですけど」
「どうだった」
と彼は聞いた。
「最初お姉さんが出て」
と言ったら、間髪入れず、
「あの人お姉さんなんていないよ」
と言われてしまった。
「嘘。だって」
「自分でやったんでしょ。そういう人なんだって」
あたしは愕然とした。その後ろから、
「岩城ちゃん」
と班長に声を掛けられた。
「担当でもない岩城って人から変な電話来たって苦情が来たよ。それも最初お母さんに電話したんだって?」
「お姉さん」はほんとはいないものだから、話がお母さんに変えられているのだ。
「違います。その人のほうが変なんです。みんな迷惑してるんです」
あたしがわけを話しても、班長は気の毒に思ってくれるどころか、
「そんな人、ほっときなさい。構ってる岩城ちゃんが悪い」
と頭から言われてしまった。あたしはその購買者の担当の女の子にも話をしてみたが、彼女からも「放っておいてほしい」という反応をされてしまった。
あたしは悲しい気持ちで家に帰った。岩城はもう帰ってきていて、あたしのほうを見もせずに、
「なんだこんな遅くなって」
と不機嫌そうに言った。
「あたし、あの仕事、やっぱりつらい。今日ね……」
「めし買ってこい」
岩城はあたしをさえぎって言った。あたしは話を聞いて欲しかった。
「こんな時間までうろうろして、なんだ。めしの用意もせずに」
岩城はしょっちゅう無断で外食したり、深夜まで帰ってこなかったりしていたが、自分が早く帰ってきたときに食事が出来ていないのが気に入らないようだった。
「だって、あたし仕事で……」
と言うと、
「おまえ契約取れないじゃん」
とやはりこっちを見ずに冷たく言った。あたしは悲しくなった。そして、何もいい思い出の残らなかったその仕事を辞め、また専業主婦に戻ってしまった。
それでもしばらくすると今度はデザイン事務所のバイトを見つけた。あたしの仕事は商品ロゴのトレースや紙焼きだった。この仕事がちゃんと出来るようになると、自宅でも注文が受けられるという。実際、外注スタッフの中には主婦の人もいた。自宅にいながらトレーサーの仕事をしている、まるで通信教育講座の広告のキャッチコピーのような彼女を見て、あたしは心が躍った。あたしも一所懸命やれば、彼女たちみたいに自分の仕事が手に入るかもしれないのだ。
ところがパートで入ったのをいいことに、岩城が、
「なあ、今日疲れたからもう帰ってきちゃった。おまえも帰ってきてめしつくってよ」
などと電話を掛けてくるようになった。あたしはうんざりしたが、それが当然だと思っている岩城に強く言えなかった。岩城はまた、自分があまり早く出社したくないときにはあたしにまで平気で遅刻をさせた。あたしは当然のことながらだんだん会社に居づらくなり、まもなく辞めてしまった。
次にもデザイン事務所の仕事を見つけた。今度は前の失敗に懲りて、正社員として就職した。仕事はチラシやパンフレットなどのレイアウトだった。あたしはこっちの仕事のほうが向いていた。すぐにデザイナーとして使ってもらうようになったのはいいが、ここの事務所の社長のセンスのほうに、根本的な問題があった。
仕事相手の会社の担当の人の中には、
「あの事務所にでなく、岩城さん自身のほうにデザインを頼みたい」
と言う人まで出てくるようになった。
事務所の社長はセンスがないだけでなく、デザイナーなんて呼ばれる人がこんなにみみっちくてもいいのかというほど貧乏性な人だった。初めて残業をした日、社長と先輩と一緒にそば屋に食事に行ったのだが、こっちが何も言わないのに、
「岩城さんざるそば?」
と聞くのだ。あたしはお腹がすいていたし、自分で払うものと思いこんでいたので、
「いいえ、丼物にします」
と言ってしまった。社長は困ったような顔で食事し、困った顔のままで食事を終えた。そして、
「あの、ほんとはね、残業の食事代、一人五百円までなんだよね。岩城さんだけ、五十円オーバーしちゃったけどね、うん、今日はいいからね」
と言ってお金を払いに行った。あたしは顔が赤くなるような気がした。だったらなぜ最初に教えてくれなかったのだ。たった五十円で恩を売られるくらいなら、とあたしはむかむかした。
最後にした仕事は、へんなウサギのイラストのついた、出版社のチラシだった。変な絵だなあと思っていたら、もとの絵を見て驚いた。それはちゃんと可愛い貼り絵のウサギだった。あたしの事務所でつくったチラシは白黒印刷のため、カラーで描かれたその絵がそのまま使えなかった。なので社長がそれをいいかげんにトレースして入稿したらしいのだ。あたしは絵描きの卵のはしくれとして、そのずさんさが我慢できず、その事務所を後にした。
それからしばらく、あたしは次の仕事をどうするべきか迷った。アマチュアバンドのメンバー募集の記事を見てオーディションに出かけて行ったり、少女漫画の臨時のアシスタントに出かけたりした。持ち込みは相変わらずうまくいかなかった。
いつも情報誌を見ていた。あたしも早く何かになりたかった。
「ねえ、劇団受けてみたい」
と岩城に相談した。岩城はうんざりした顔になり、
「おまえいったい何がやりたいわけ?」
と言った。ついにこの人も今までの男と同じことを言うようになった、とあたしは悲しくなった。
あたしは次のバイトをウエイトレスに決めた。赤坂の小さな店で、店長とあたししかいなかった。店長はぼうようとした三十半ばの男で、もともとはこの店に営業に来ていたコーヒー豆店の担当者だったのだそうだ。この店のオーナーママに、かねてから、
「僕も赤坂で喫茶店やるの夢なんです」
と話していたので、ママが店を閉めようと思ったとき、それよりはと彼にやらせることにしたという。
あたしは接客から出前から買い出しまで一人で走り回った。そしてまもなく、店長がこの仕事にものすごく向いてないことを知った。彼がおかしなことばかりするのであたしはしょっちゅう彼と言い合いになった。そしてついに彼はふてくされ始め、店をほったらかして出て行ってしまうこともあった。
あたしは困ってママに相談した。するとママは、
「岩城さんのほうが仕事できるから、あの店、あなたに任すわ」
と言うではないか。あたしはそこまでは望んでいなかったので、そこを辞めることにした。隣のテレビ制作会社に出前したとき、あこがれの映画監督がいたということだけが、その店での良い思い出だった。
次の職場は池袋の大きな喫茶店だった。雇う立場と雇われる立場がごっちゃになるような所はやめたほうがいいと学んだのだ。あたしがなりたいのは漫画家や歌手であって、喫茶店のママではないのだ。
その頃時給六百円と言ったら高給だった。制服らしい制服を着る仕事も初めてだった。貼り紙に「経験者優遇」と書いてあるので、履歴書に経験有り、と書いたが、待遇は同じですと面接の時に言われた。
「接客業はかなりやってきたんですけど」
と言ってみたが、どうしても未経験の人間や、学生のバイトと同じ給料から始めて欲しいと言う。結局、一年続いたところでやっと五十円時給があがるだけで、経験とは何の関係もないらしい。あたしは何だか不満だったが、部長と呼ばれるゴリラによく似た男から、あべこべに、
「ふうん。いくらもらうつもりだったか知らないけど」
といやみを言われてしまった。
学生バイトの子はしょっちゅうオーダーを間違えた。おしゃべりばかりに熱心で、あまり役に立たなかった。こんな人たちと同じ給料なのか、と考えるとむかむかしたが、部長や店長は、役に立たなくても若いウエイトレスが入ってくるのを喜んでいた。
一人だけ友だちが出来た。郁美という名の、色白で背の低いウエイトレスだった。無口な子だったが、調子のいいことを言わないところが好きだった。彼女はドラムを叩いていて、バンドもやっていた。彼女としゃべっていると、お互いがんばろう、という気持ちになり、嬉しくなった。スカートで出勤してきた彼女が、
「急にバンドの練習やることになっちゃったよー。どっかで安いズボン買わなくちゃ」
などと言っているのを聞くと胸がわくわくした。
その頃すでにあたしの生活の希望は岩城なんかより彼女との友情にあった。岩城は、試運転だ、レースだと言ってはしょっちゅう外泊していた。帰ってくるとあたしのほうを見もせず、猫を撫でながらそっぽを向いてさっさと寝た。あたしは、
「あたしに何か悪いところがあるんだったら言って」
と泣くのにももうすっかり飽きてしまい、馴れるしかないのだと思い始めた。しかし岩城はそれもまた気に入らないらしく、あたしの好きな歌手がテレビに出ていると、彼の出番まぢかを狙って、
「駅前まで行ってケーキ買ってこい」
と言って、見せないようにしたりした。
日曜に、今日は少し機嫌がいいなと思ったあたしが、
「ねえどっか行かない?」
と言ったとき、
「今日はそと出たくない」
と答えておいて、その後あたしが茶碗を洗っているときに、黙って一人で出かけてしまったこともあった。何がそんなに気に入らないのだ、とあたしは唇を噛んだが、だんだん、そっちがその気ならという気持ちにもなっていった。
それでも岩城はあたしの給料日だけは上機嫌だった。十一万円の現金を封筒から出すと、
「小宮が金に困ってるって言うから、この七万であいつのスピーカー買うだろ」
などと言って、そのほとんどをすぐ遣ってしまった。あいかわらずあたしの稼ぎは自分の小遣いだと信じて疑っていないのだった。あたしたちの暮らしはちっとも楽にならず、カードキャッシングでたびたび借金もした。それでも岩城は、
「最近あにきの会社がしんどいらしいんだ。金、貸してやれれば貸してやりたい」
などとぬけぬけと口にした。岩城の兄の会社に二人で訪ねて行くと、しょぼくれた男が出てきてオフィスコーヒーサービスのコーヒーを出してくれた。それが岩城の兄だった。
「このコーヒーも結構高くてさあ。このプラスチックの混ぜ棒、捨てないようにしてんの」
などとしみったれたことを言う義兄を見て、そんな目先の小金にとらわれてるから会社も傾くんだ、とあたしは内心いらいらした。
あたしは岩城の親や友人ともあまりそりがあわなかった。義母は芝居がかったはしゃぎ方であたしを迎え、豆腐より固い茶碗蒸しをもったいぶって出してきたし、岩城の友人は下品な男ばかりだった。唯一、業界中の注目を集めている、フランスのクオーターだという美少年レーサーが友人にいたが、岩城はかげで、
「あいつはいいよな。スポンサーついてるし、女にはもてるし。あいつがにこっとしただけで女、ふらーっとなってついてっちゃうんだぜ」
とやっかんでばかりいた。岩城はほかの友人のことにもよく、
「あいつんち金あるから」
とか、
「あいつんちは地元だから、遺産相続したらすごいはずなんだ。いいよなあ」
というようなあさましい嫉妬のしかたをした。あたしは聞いていて恥ずかしくなった。
あたしには、郁美のほかにも味方が増えていた。
「君はよく働くよね」
と同じビルのお客さんはよく名刺をくれたし、
「ほかの子はぼんやりしてるから君じゃなきゃ」
とまで言う人もいた。
黒ぶちの眼鏡をかけた変わった雰囲気のお客からも名刺をもらった。「秋山道男」と書かれたその名刺のデザインはとても綺麗だった。そのお客は、
「き、君はかっこいい主婦だ。僕に電話しなさい」
と言ったが、何と言ってかけたものかわからなかったので、そのままにしていた。すると、次にエレベーターの中で会ったとき、
「き、君なかなか電話しないね、十円玉あげよう」
と言って十円くれた。変な人だと思ったが、構われて悪い感じはしなかった。
あるときあたしはお客の一人から食事に誘われた。この人ならロマンスグレーと呼んでもいいだろう、という感じの上品な紳士だった。郁美も一緒にと言ってくれるので、あたしは喜んで岩城に話した。
「来週ぐらいにどうかって言われてるんだけど」
岩城は黙っていたが、あたしは行くつもりだった。ちゃんと報告したもんね、というくらいのつもりだった。郁美も一緒だし、まさか邪魔はすまいと思っていた。途中、
「水曜日に決まったから」
とまた言ったが、岩城は黙っていた。
そして水曜日、いつものようにベッドの横に朝食を用意したあと、
「じゃあ今日だから、帰り行ってくるね」
と出かけようとすると、布団の中から、
「行くな」
と岩城の声がした。
「え? だってもう約束しちゃってるよ、何度も言ったじゃない」
と驚いて言うと、岩城はただひとこと、
「命令だよ」
と言った。
あたしは自分の気持ちが醒めていくのを感じながら駅へ向かった。命令。命令ね。とあたしはその言葉を反芻した。もう岩城とのことに関して、努力するのはやめだと思っていた。あたしはついに愛想が尽きたのだ。
それからあたしは店の中で一番好きだった厨房の男の子を誘ってさっさとセックスした。こんなときは、こういう相手が必要なのだとあたしは思った。
岩城とは去年の二十三歳の誕生日にしたきりだった。それも、
「誕生日だからしてやるよ」
と言われて、していただいたのだ。あんな屈辱的なセックスは生まれて初めてだ。養父にやられるより情けなかった。
あたしと厨房の子は短い間にたくさんセックスした。郁美だけにはそのことを話した。そして自分に男が出来て初めて、そうか、岩城もとっくに浮気していたんだ、と今さらながらに気づいた。それまで恐ろしくてそういう考えになれなかったようなのだ。昔のあたしは平気で妻帯者とつきあっていたと言うのに、いざ妻の立場になったら、結婚した相手が浮気しているなんて考えるのも嫌だったのだ。あれだけ外泊されても、仕事だと信じていた。あたしは何のためにピルなんか飲んでいたんだろうと皮肉な気持ちになった。それから、あたしのピルは浮気の相手を喜ばせるためだけに役立つようになった。
しばらくして、あたしは長崎の母に電話した。
「あたし出てくから、お金貸して」
母は、
「あんたは言い出したら聞かないもんねえ」
と言いながら四十万円をすぐに振り込んでくれた。
あたしは店を辞め、店に通っている振りをして新しい部屋や仕事を探した。新しい職場は赤坂のジャズ喫茶だった。雑誌に「どこかのバンドに入れて欲しい」という個人広告を出したとき、
「あたしのコーラスやってくんない?」
と電話してきたヴォーカルの女の子の勤め先に、あたしも入れてもらえることになったのだ。その店にはバンドの人がたくさんやってくるし、バイトの子も何かになろうとしている子が多くて嬉しい活気があった。あたしは初日にさっそく久保田というドラムの男の子を紹介してもらった。部屋は世田谷代田というところに見つけたが、来月にならないと空かないというので、別のウエイトレスの子の部屋にそれまでいそうろうさせてもらうことになった。
家出の準備はちゃくちゃくと進んでいた。岩城は何も知らないどころか、あたしと口もきかなかった。
岩城はこうしてときどきまるきりあたしとしゃべらなくなるのだ。こっちが、
「ごはんは?」「お風呂は?」
と言うのに聞き取れないくらいの返事をする日々が、長いときは一カ月半も続いた。そして、そのときもそういう状態だった。しかし、余計な会話をしなくて済むのであたしには好都合だった。あたしの中では、ふんいい気味、出て行こうとしているのも知らないで、という意地悪な快感と、もしまた話しかけてくれたらあたし、思い直すかもしれないのよお願い、というすがるような気持ちが交互に浮かんでは消えした。
厨房の男の子との関係はまだ続いていた。あたしは、
「家でたら、もっといっぱい逢えるよ」
とはしゃいだ。
「うん……ずっとこうしていたいけど……」
と彼はあたしを抱きしめ、
「でも、おれにはあんたのこと、濃すぎるジュースみたいだ」
と言った。それを聞いてあたしはやっと、彼は、自分を好きになったからあたしが家を出ることにしたのだと思いこんでいることを知った。
うぬぼれの強い子だな、とあたしは思った。あたしたちはそれだけを理由に離婚を決意するほどまだ深く関わっていない。ただセックスしているだけだ。あたしが欲しかったのは、とにかくちょっとした心の支えと、彼のペニスだったのだ。
でもあたしは彼にそれを言うのはやめておいた。これから彼のことをもっと好きになれるかもしれない。たとえ今は体だけでも、先でもっと良い関係になれるならそれも歓迎したかった。
あたしは家出する日をもう決めていた。その日に向けて、自分の好きな本や、服だけをそっと段ボールに詰めたりしていたが、本棚の並びやタンスの中の様子が変わっていっても、岩城は何も気づかないようだった。
果たして本当に気づいていないのだろうか、とときどきあたしは思った。気づいていて知らんぷりしているのだとしたら、あたしは本気で嫌われているのだな、と考えると悲しくなった。でも、そうなのかもしれない。これまで岩城にされたことを全部思い出しても、好かれている気なんか全然しないのだ。
「出て行け」
と言われているのと同じだ。どうして岩城はあたしと結婚なんかしたのだろう。素直な家政婦が欲しかったのなら、もっと家庭的な女を選べば良かったではないか。
あたしは近所の区役所の出張所に行って、離婚届をもらった。ここで婚姻届を出したとき、
「おめでとうございます」
と係の人が言ってくれたことを思い出していた。自分の記入欄だけを埋めてしまい、印鑑も押した。
あたしはまだ少しだけ迷っていたが、もう岩城と話し合うなんて絶対無理だとも思った。それでなくても、ほんとにひとことも会話がないのだ。あたしは、あたしがいなくなったら岩城はすぐあたしと離婚するはずだと思っていた。
いつもあたしが払いに行っていた家賃と駐車場代も早めに払っておくことにした。岩城の週給の給料日がまだ来ていなかったのでお金が足りなかったが、あたしは自分が母から借りたお金を足してまでそれを払った。あたしが消えたあと月末に岩城が自分で行くことになってしまったら、
「奥さんはどうしたの?」
と大家さんに聞かれてかわいそうだと思ったのだ。
そしてとうとう、その日が来てしまった。前の晩、あたしは、もし今夜思い直してくれたらと一人で祈ったが、無駄だった。岩城はいつもと同じように黙ってあたしに背を向けて過ごした。
あたしは出勤する振りをして家を出、岩城が出ていくのを待った。昼頃家に戻ってくると、岩城はもういなかった。
あたしはまず岩城に手紙を書いた。
「もう話し合っても無駄だと思ったから出ていきます。離婚届を書いて出しておいて下さい、さようなら」
と書いた。それから少し思い直して、
「あたしにも悪かったところがあったのは謝ります、子どもを産まなくてごめんなさい」
と書き足した。少しだけしんみりしたが、もう同じことを繰り返すのはいやだった。
あたしは引っ越しセンターに電話を掛け、まとめておいた段ボールを引っぱり出した。ふと思いついて近所の貸しレコード屋に走って行き、そこで一番仲の良かった男の子に声を掛けた。
「ねえ、家出するから手伝って」
「はあ?」
とその男の子は目を丸くした。
「家出すんのよ、家出」
あたしはまだその子が状況を把握しないままに腕を引っ張って家に連れていった。そしていきなり抱きしめ、
「お礼」
と言って唇にキスし、体を触らせてやった。
あきらかにあたしよりだいぶ年下の彼と抱き合いながら、あたしは、ジャズの音楽理論の教室の帰りに高校生の痴漢にあったことを思い出していた。
そいつは学生服を着てるくせに、道の端からむき出しのペニスを握って飛び出してきたのだ。その上あたしが無視して通り過ぎると、追いかけてきてペニスを握っていた手であたしの顔に触れた。かっとしたあたしが大声を出すと必死で逃げていってしまったが、高校生のくせに主婦のあたしに痴漢行為をするなんてと腹が立ち、なかなか気持ちがおさまらなかった。でも今はこうして、はるか年下の少年に手伝ってもらうために自分の体を利用している。こんなことまでしなくても手伝ってくれたのかもしれないが、あたし自身がこういう場面を必要としていた。わざと不道徳な行為をしたほうが、ここを出ていくパワーが付くような気がしたのだ。
「もうすぐ引っ越しセンターの人が来るから、この段ボール外に出して。なるべく早く、済ませたいの」
あたしは体を離すと少年にそう言った。彼は一所懸命働いてくれた。まもなく引っ越しセンターのトラックが来た。猫のクリは他人の気配に驚いて隠れてしまった。あたしは彼女にだけ声を出してお別れを言った。
「じゃーねー、どうもありがとう」
あたしは少年に手を振って別れた。二度と会うことはないだろうな、と思った。トラックは窓を開けたまま走った。早春の風が気持ちよくあたしの髪を波打たせていた。
初出誌 「オール讀物」
一九九四年十、十一、十二月号、
一九九五年一、二、六、八月号
単行本 一九九六年一月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成九年十月十日刊