内田康夫
浅見光彦殺人事件
目 次
プロローグ
第一章 トランプの本
第二章 二重構造の鍵
第三章 『御花』からの便り
第四章 思い出探し
第五章 組織対個人
第六章 浅見光彦の死
エピローグ
あとがき
プロローグ
目覚めたとき、詩織《しおり》は頭の右端のほうにチクリと刺すような、そのくせ鈍重な痛みを感じた。昨夜の最後のオンザロックが余分だったにちがいない。
飲みたくもなかったのに、なんとなくオーダーして、だったら飲まなきゃいいのに、お酒を残したままバーを立つのは、バーテンに申し訳ないような気持ちで、去り際に一気にあおった。
「お客さん、そんな飲み方したら、体によくありませんよ。それに、少しオーバーペースだったみたいだし」
バーテンはまるで自分の娘を諭すように言ったけれど、そういう忠告はオーダーしたときにしてくれるといいのだ。
歯を磨いていたら、電話のベルが鳴った。受話器を耳に当てると、「もしもし」と父親の大輔《だいすけ》の声だった。
口じゅう歯磨きの泡だらけにして、モガモガと答えると、何を勘違いしたのか、大輔は「失礼しました」と電話を切って、しばらくするとまたベルが鳴った。
詩織は口を漱《すす》ぎ終えて、待機していたところだったから、すぐに受話器を取って、「はい、寺沢《てらさわ》です」と言うと、大輔は安心したように「ああ、よしよし」と言った。
「何なのよ、何がよしよしよ?」
「いまさっき電話したのだが、歳《とし》のせいかな、自分のうちの電話番号を押し間違えて、へんな婆《ばあ》さんが出た」
「だめねえ、ボケちゃったんじゃないの? まだまだしっかり働いてもらわないと困りますよ」
「そうだな、ドラ娘を嫁にやるまでは、オチオチボケてるわけにもいかないか」
「ははは、そんな憎まれ口をきけるうちはボケないわね。何? 用事は」
「いや、べつに大した用事はない。生きているかどうか、確かめてみただけだ」
「うそ、ちゃんと帰っているかどうか、でしょう」
「うん、それもある。昨夜、遅くまで電話をしたが、帰っていなかったからな。どこをほっつき歩いているのか……しかし、もう起きているとは感心感心。ベルが一回鳴っただけで出たから、びっくりした」
「起きてるわよ。パパこそ、まじめに出張してるの?」
「当たり前だ、堅物《かたぶつ》の常務と一緒だからな。夜まで広島支社の連中と飲んで、ホテルに帰るとバタンキューだ。これからまた支社に顔を出して、夜は夜で得意先と付き合わされることになるだろう。明日の朝は東京へ戻る予定だが、会社に寄るから、帰りはやっぱり夜になるかな。晩飯は作っておいてくれ」
「やれやれっていう感じね。冗談抜きにして、ほんと、働きすぎだわ。無理しないでちょうだい」
「ああ……なんだ、ママみたいなことを言うじゃないか」
「そうよ、ママ代わりよ」
「ははは、そいつはありがたいような、迷惑なような……そうそう、それで思い出したが、ママっていえば、ママが死ぬとき言ったことな、憶《おぼ》えているだろう?」
「ああ、トランプの本のこと?」
「そうだ、トランプの本だ。その謎《なぞ》がどうやら解けたんだよ」
「えっ、ほんとに?」
「たぶんな。昨日の福岡からの列車の中で、少し離れたシートにいた娘さんが、それらしい本を持っていた。ダイヤのクイーンの表紙でね、そのときはぼんやりしていたから、何とも思わなかったのだが、ママが言っていたのはあれかもしれない」
「何だったの、それって?」
「いや、まだ現物を見てないから何とも言えないが、夜中にふと目が醒《さ》めて、そのときに思い出して、ひょっとしたら――と思った。たぶんあれが……」
電話の背後で「キンコーン」というチャイムの音がした。
「あ、常務だな、せっかちな人だ。そういうわけだから、とにかく、帰ってから話すよ。じゃあな」
あっけなく電話を切った。
詩織は受話器を持ったまま、しばらくのあいだ、父の声が聞こえていた小さな穴がいっぱい開いている部分を眺めた。父親がひどく遠い存在になったような、なんとなく不安な気持ちがしてきた。
第一章 トランプの本
1
無意識に車のキーを掴《つか》みかけて、詩織は(ああ――)と思った。免許を取り消されたことを、ときどき忘れてしまう。
免許取消の最後の事由は「速度違反」であった。八十キロ制限のところを百十五キロで走った。だいたい、あんな真っ直《す》ぐな高速道路を八十キロで走れというのが、無理なのだ。もっとも、その前に酒酔い運転で捕まっているから、大きなことは言えない。持ち点が一点しかない、ギリギリのところで速度違反をやらかしたとあっては、われながら可愛《かわい》げがなかった。
「若くてきれいなお嬢さんが、こういう乱暴運転をしてはいけませんなあ」
ネズミ取りの警察官が嘆かわしげに言っていた。若くてきれいなのと乱暴運転とが、どう結びつくのか、訊《き》いてみたかった。
父親は詩織の免許取消を喜んだ。「天の配剤だ」と言った。このまま運転を続けていたら、たぶん事故を起こすだろう。自分が死ぬ分にはいいが、人様を殺すのはまずい。警察もいいときにネズミ取りを仕掛けてくれたものだ、などと言った。
そうかもしれない――と、詩織も思わないでもなかった。勝気な女は車なんか運転しないほうがいいのだ。
いちど、何気なくルームミラーを覗《のぞ》いて、自分の顔の険しいのにびっくりしたことがある。こんな顔をして運転しているのかと思うと、そら恐ろしくなった。
しかし、取ってまだ一度も書き換えをしないうちに、免許を喪失するのは腹が立つ。怒りの持ってゆき場所が、結局、自分自身であることに、なおさら腹が立つ。もう免許のことは考えないことにしたはずなのに、手のほうが勝手に動いて、車のキーを掴もうとするのにも、腹が立った。
玄関を出ると、門の内側に、失格者を主人に持つ赤いロードスターが、所在なげに坐《すわ》っていた。
詩織の家は中野《なかの》区の鷺宮《さぎのみや》にある。西武新宿《せいぶしんじゆく》線の鷺ノ宮駅まで歩き、新宿までは片道二十分ほどの距離である。
目指す「ユニ・アカデミー」のオフィスのあるビルは、新宿駅から歌舞伎町《かぶきちよう》方向へ行って、靖国《やすくに》通りを渡った、一つ裏の通りにあった。そこで翻訳の仕事のできる女性を募集していた。アルバイトでも可というので、行く気になった。
ビルのワンフロアを使った、まあ、そうインチキ臭くはない佇《たたず》まいだ。面接は上岡《かみおか》という社長以下、三人の男たちが行なった。お定まりの質問があって、語学力のテストらしき応答があって、試しに自宅でやってきてくださいと、数枚ばかりのプリントを渡された。英語の小説の一部らしい文章だ。
「これを翻訳してもらって、だいたい一万円程度をお支払いします。翻訳の質によって採用させていただくし、そちらのほうも、その金額でよければ仕事を手伝っていただくことになります」
ざっと目を通して、できそうだなとは思ったが、はたして一万円が妥当なのかどうかは分からない。とにかく、言われたとおり試してみるしかないだろう。
伊勢丹《いせたん》を冷やかして、昼食にスパゲティを食べて、地下で食料品を仕込んでから帰宅した。
鷺ノ宮駅からぶらぶら歩いてゆくと、自宅近くの路上に三人の男が佇んでいて、詩織が近づくといっせいにこっちを見た。揃《そろ》いも揃って目つきの悪い連中だった。
(どうしよう――)
一瞬、詩織は足の運びを停《と》めた。何となく不穏な気配を感じた。しかし、どうすることもできないので、そのまま歩いて、自宅の門を入ろうとした。
「ちょっとすみません」
男の一人が声をかけてきた。詩織は門の中に半身を入れたところで、振り返った。
「何でしょうか?」
「失礼ですが、寺沢さんの家《うち》の方ですか?」
「ええ、そうですけど」
見れば分かりそうなものでしょう――と言いたかったが、詩織としては、この際、余計なことは言わないほうがいいと判断した。
「えーと、たしか詩織さんでしたね?」
「ええ」
見知らぬ相手に名前を知られているのは、少なからず気色が悪いものだ。
「そちらは、どなたですか?」
「警察の者です」
男はポケットから手帳を出して、詩織の目の前に差し出した。
「警察……」
交通違反以来、警察に対しては猛烈なアレルギーがある。詩織は気圧《けお》されて、無意識に門内に尻込《しりご》みした。それを追うように、三人の男も門の中に入ってきた。ロードスターが鎮座しているので、四人が立つには窮屈なほどだった。
「あの、警察が何か?」
「ちょっと、お邪魔していいですか? 外ではいささか具合の悪いことがありますので」
「はあ……」
詩織は仕方なく、ドアの鍵《かぎ》を開けると、三人を家の中に入れた。
三人の刑事は、ケースから勝手に出したスリッパをつっかけ、詩織の後ろに密着するように、応接室に入った。
刑事の中でもっとも年配の男が名刺を出した。「警視庁中野警察署刑事課巡査部長 笠井武」と印刷されていた。
「朝のうちから何度も電話したのですが、ずっと出かけられていたようですな」
「ええ、ちょっと新宿まで行く用事があって、九時前には家を出ましたから」
「そうですか、じゃあ、ほんのタッチの差でしたか」
「あの、何かあったのですか?」
「じつは、たいへん申し上げにくいのですが、寺沢大輔さんが亡くなられました」
「えっ、父が? うそ……」
詩織は叫び声で言って、刑事の顔を睨《にら》みつけた。人間は自分にとって都合の悪い事態が起きると、まず何かの間違いにちがいないと思い、事実の認識まで、少し時間のクッションを用意したくなるものだ。
「残念ながら」と、笠井《かさい》部長刑事は沈痛な面持ちで言った。
「これは事実なのです。すでに遺体の身元確認もしたという連絡が入っています」
「遺体……父が?……そんなばかな……だって、昨日の朝、広島から電話が……」
「寺沢さんが亡くなられたのは、昨夜遅くのことです。おそらく十時から十二時ごろのあいだかと……亡くなっておられるのが発見されたのは、けさの八時半ごろ、ホテルの部屋で、でした」
笠井は手帳のメモを見ながら、言った。
「信じられない……」
詩織は大きな肘掛《ひじか》け椅子《いす》に身を委《ゆだ》ねた。全身が埋まってしまえばいいと思った。椅子ごと、どんどん床にめり込んで、地面に沈んでしまえばいいと思った。現実なんか、何も信じたくなかった。何かのドラマの一場面を演じているような気がした。これは虚構なのだ――という慰めを、無意識のうちに、自分に言い聞かせていた。
三人の刑事は黙って、この哀れな娘の混乱が鎮まるのを待っている。
彼らの顔を眺めながら、詩織はどこかに虚構の証拠を見つけようと、模索した。
「でも、どうして警察の人が?」
ふいに疑問に思って、訊いた。
「いや、会社の人も一緒に来ているのです。ついさっきまで表にいたのですが、お留守なので、会社に連絡を取りに行きました。じき戻って来られますよ」
笠井は説明した。
「だけど、それにしたって、なぜ警察の人が来たんですか?」
「それはですね、お父さんは殺された疑いがあるからです」
「えっ、殺された?」
「いや、まだ確実にそうだとは言えませんがね、広島県警のほうから、それらしい連絡が入ったのです」
詩織がさらに質問をしようとしたとき、チャイムが鳴った。
「会社の方たちでしょう」と、笠井は若い刑事に玄関に出るよう、命じた。
刑事のあとから、俯《うつむ》きかげんに、二人の男がやってきた。名前は忘れたが、二人とも父親の部下だ。二度ばかりこの家にも来たことがあって、詩織も顔を知っている。
「野木《のぎ》です」
「安田《やすだ》です」
二人はそれぞれ名乗り、体を固くしてお辞儀をした。詩織も立ち上がり、卒倒しそうになるのをこらえながら、挨拶《あいさつ》を返した。
「父が、あの、広島で亡くなったって、本当なんですか?」
詩織は非難するような口調で言った。
「はあ……」
二人の社員は顔を見合せ、いくぶん年長の、たしか父親の下で課長をやっているとかいう野木のほうが、口を開いた。
「すでにお聞きになったとおりです。寺沢部長は昨夜、お亡くなりになりました」
野木はいまにも泣き出しそうな顔で、顎《あご》を突き出すようにして、言った。
「それとですね、じつに何とも申しようがないのですが、警察の調べによりますと、何者かに殺害された疑いもあるということであります。ご遺体は広島の病院に安置されていますので、すぐに広島に出発していただきたいのですが」
「うそ……」
詩織は腰の力が抜けて、ストンと椅子に落ちた。二人の社員を見ているうちに、正月に、大勢の部下に囲まれて、上機嫌だった父の笑顔が思い浮かんで、とたんにボワーッと涙が湧《わ》いてきた。
2
人間の顔がどうしてこんなに白くなれるのだろう――と、詩織は父親の遺体と対面しながら、そんなことばかりを考えていた。
固い寝台の上で、仰向《あおむ》けに横たわった大輔の顔は、質の悪い紙のような、少し茶色がかった白であった。
きっと、解剖されて、体中の血液が全部出きってしまったにちがいない。
(かわいそうなパパ――)
とっくに涸《か》れたはずの涙が、あとからあとから湧いてくる。
東京からずっと付き添ってきてくれた野木と広島支社の社員に腕を支えられ、控えの部屋に戻ったが、その間、ほとんど何も思考していないような状態であった。
それからずいぶん長いこと、刑事にいろいろと訊かれ、詩織のほうも父親の死の「真相」について質問した。
父親――寺沢大輔の死を最初に発見したのは、同じホテルに泊まっていた添島《そえじま》常務だったそうだ。
朝、東京へ向かう出発の時刻が迫ったというのに、大輔が部屋から出てこないのを怪訝《けげん》に思って、添島はさんざん電話をしたりドアをノックしたりしたあげく、フロントに頼んで部屋に入った。
大輔はベッドから床に半身を投げだすようにして、絶命していた。すでに冷たくなっていたが、とりあえず救急車を呼んでもらった。しかし、駆けつけた救急隊員は、遺体の状況を見て、変死扱いになるとして、警察に連絡を取った。
警察は最初は心不全か何かの発作による病死――と見たようだが、一応、解剖に付すことになった。沖縄でトリカブトによると見られる、保険金がらみの変死事件があって、それ以来、この種の変死に対しては慎重に対処するよう、指示が出ていた。
解剖の結果、やはりトリカブトの作用を想像させるような、異常な神経マヒと筋肉の収縮をきたしたらしいことが分かった。また、毒物の種類はすぐに特定できないけれど、明らかな薬物反応があった。
警察は殺人事件と判断し、広島中央警察署に捜査本部を設置したのである。
詩織に対する事情聴取に当たったのは、広島県警捜査一課の、川根《かわね》という部長刑事であった。わずかに関西系の訛《なま》りがあるものの、ほとんど標準語と変わりがなかったので、詩織は好感が持てた。関西弁や広島弁を聞くと、詩織はお笑い番組や、ヤクザ映画を連想してしまう。
「お父さんが誰かに憎まれていたとか、恨まれていたようなことについて、何か心当たりはありませんか?」
川根がまず知りたいのは、その一点につきるらしい。
そう言われても、詩織には、父親が他人の恨みや憎しみを買うようなことは思い当たらなかった。
「父にかぎって、人に恨まれるなんてことは、何もないと思いますけど……」
何度訊かれても、少し自信のない口調で答えるしかなかった。
「あるとすれば、会社の中でのライバルじゃないでしょうか」
そう言ったとたん、野木がうろたえて、手を振って否定した。
「そんなこと、ありませんよ。寺沢部長は社内では人望が高くて、誰からも好かれていましたからね」
野木は、寺沢営業部長の直属の部下で、第一販売課長という役職にいる。上司が死んだあとの、新しい人事に関《かか》わるような、あらぬ噂《うわさ》を立てられては、たまったものではないのだろう。
「まあ、そっちのほうの事情については、あらためて会社の人たちにお訊きすることになりますが」
川根部長刑事は皮肉な笑みを浮かべて、野木に冷やかな一瞥《いちべつ》を与えてから、詩織に向けて言った。
「それとも、お父さんから何か、会社の中のことについて、それらしいことを聞かれましたか?」
「いいえ、そういうわけじゃありませんけど……」
詩織は、悲しみで混乱した精神状態の中でも、言葉に気をつけて喋《しやべ》らないといけないことを悟った。ちょっとした不注意な発言に、警察は鬼の首でも取ったような意気込みで、食らいついてくるものらしい。
「父はいちども、会社内での不満らしいことは言いませんでした」
「そうですか……」
川根はつまらなそうな顔になった。
「それ以外に、何か、最近のお父さんの様子に変わったところはなかったですか?」
「ええ、べつに……」
詩織は、大輔の日常のあれこれに思いを巡らせながら、首を横に振った。思い出すごとに、涙が溢《あふ》れてきそうで、辛《つら》かった。
警察での事情聴取は一時間あまりつづいた。その間に浦和《うらわ》に住んでいる伯父《おじ》夫婦が到着した。詩織からの連絡が行ったとき、伯父は会社にいたのだが、すぐに帰宅して駆けつけてくれたのだそうだ。
伯父夫婦の顔を見たとたん、詩織はまた新しい涙にくれた。
警察は伯父に対しても事情聴取を行なった。伯父は大輔の兄であり、二人兄弟だったから、悲しみも一入《ひとしお》であった。「どうしちゃったんだ、どうしちゃったんだ……」と、詩織に負けないほど涙を流した。
警察を出るころは、すでに夜も更けていたにもかかわらず、玄関前には、報道関係の連中が待ち受けていて、マイクやテープレコーダーをつきつけ、質問してきた。
「犯人の心当たりは?」「いまのお気持ちは?」「犯人に言ってやりたいことはありませんか?」
十人以上はいただろうか。いずれも物慣れた様子の記者ばかりだが、彼らが浴びせかけるのは、どれもこれも、ばかげた質問ばかりであった。いつもテレビで見聞きして、そのときは他人事《ひとごと》として笑っていたのだが、自分がこういう質問を受ける立場になるとは想像もしたことがなかった。
詩織は伯父や野木にガードされながら、報道陣の手を逃れて、警察が用意してくれた車に乗り込み、ホテルへ向かった。
ホテルには、父親の大輔と一緒に出張していた添島常務と秘書の金田《かねだ》という男が待っていた。詩織も伯父夫婦も疲れてはいたけれど、添島はそれ以上の心労であったろう。全員がひとまずラウンジの片隅に落ち着いて、あらためて挨拶《あいさつ》が交わされた。
「このたびは、私がついていながら、思いがけないことになってしまって、申し訳ありませんでした」
添島常務は丁寧に悔やみを言った。大柄で恰幅《かつぷく》のいい紳士だが、がっしりした顎の辺りに、青黒く髭《ひげ》が浮き出しているのが、痛々しい印象を与えた。
大輔は添島より三年遅い入社で、以来ずっと、二人は肝胆あい照らす親しい間柄だったそうだ。添島は返す返すも残念――と、沈痛な面持ちで語った。
「それにしても、いったい何者が何の目的であのようなことを……」
結局、話はそこへ向かう。
「じつはですね、ばかげた話だが、警察は一応、私にも嫌疑をかけているのですよ」
添島は苦笑したが、本心は笑いごとではないらしい。
「なんといっても、昨夜、寺沢君を訪問できた人物としては、私がもっとも可能性が強いですからなあ」
「そんな滅相もない、常務が部長を殺されるなどと、そんなことはあり得ませんよ」
野木は狼狽《ろうばい》したように言った。
「もちろんそのとおりだが、警察は何でも疑ってかからないと気がすまんらしい。かれこれ二時間近くも事情聴取されました」
「申し訳ありません、ご迷惑をおかけしました」
詩織は頭を下げた。
「いやいや、謝らなければならないのは私のほうです。寺沢君があんなことになっているというのに、まったく気がつかないでいたとは、じつに情けない……」
添島は何度目かの溜《た》め息をついた。
「父には、ああいうことになる、兆候らしいものは何もなかったのでしょうか?」
詩織はおずおずと訊いた。
「うーん、残念ながら、何もなかったとしか思えませんなあ。広島での仕事もきわめて順調だったし、その間に何らかのトラブルめいたこともありませんでしたしねえ」
「ホテルには常務さんと一緒に入ったのですか?」
「そうです、私と一緒の車で帰って来ました。その前は会社のお得意さんとの会合がありましてね。ホテルに入ったのは八時半ごろでしたかな。フロントでキーを貰《もら》って、エレベーターまでは一緒でした。私は九階で寺沢君は八階だったのでね」
「父がエレベーターを下りたとき、ほかに人はいなかったのでしょうか?」
「ああ、いませんでした……なんだか警察で訊かれたのと、同じことを訊かれているみたいですな」
添島常務は穏やかな微笑を浮かべて、言った。
「あ、すみません、変なことをお訊きして。でも、べつにお疑いしているわけじゃありませんから」
「いや、構いませんよ、私も気にしません。お父さんのことをいろいろお聞きになりたい気持ちは、よく分かりますからな」
「もし父が殺される理由があるとすると、私のまったく知らないことだと思います。父はそんなに秘密をつくるような人ではありませんから、やはり、何か会社の関係か、仕事の関係で殺されたのだと思うのですけど、ちがいますか?」
「いや、それは違うでしょうな」
添島はほとんど表情を変えずに、しかし、断固とした口調で言った。
「あなたに思い当たることがないのと同じように、私にも、寺沢君が死んだり殺されたりするような理由は思い当たりません。寺沢君の仕事ぶりは明快そのものでしてね、腹芸だとか根回しだとかいった陰気くさいことはあまりしない男でした。寺沢君にかぎって、殺されるどころか、何か大きなトラブルが起こる要素は、まったくないと言ってよろしいでしょうな」
「会社にも家庭にも理由がないとすると、いったいどういう理由で殺されなければならなかったのでしょうか?」
詩織は悲痛な声になった。
「うーん、それは……」
添島は天井を仰いで、絶句した。
3
大輔の遺体は車で夜を徹して帰京した。詩織も同行すると言ったのだが、時間がかかるのと、疲労が著しいという理由で伯父夫婦と一緒に、翌朝の飛行機で帰った。
それからの数日は慌ただしく、荒波に揉《も》まれるようにして過ぎていった。
東京二十三区も中野区のこの辺りまでくると、まだ大きな樹木が沢山残っている。隣家の庭にそそり立つケヤキの梢《こずえ》のほうでは、もう芽吹きが始まっているのだろうか、早春の陽射《ひざ》しに、かすかな緑が感じられた。
とにもかくにも葬儀をすませ、警察や父親の会社の人々との事後処理を終えて、ふとわれに返ると、ポツンと独りきりの寺沢家になっていた。
母親の位牌《いはい》だけだった仏壇に、父親の真新しい位牌と写真が飾られた。詩織は時折、仏壇の前に立って、ぼんやりしている自分を発見することがあった。
詩織が生まれてまもなく、この家を建てて、つい何年か前、ローンを払い終えた。
「ずいぶん長かったが、詩織にこの家を残してやれたから、もうわれわれの役目はすんだみたいなものだな」
そう言って笑っていた両親の顔が、ありありと思い出される。その言葉が何か予言ででもあったかのように、それから一年も経《た》たないうちに母親が死に、そして、いま父親が死んだ。
(なんということだろう――)
詩織は茫然《ぼうぜん》自失そのもののような日々であった。東京に戻ってからの五日間は、伯母が泊まっていてくれたが、伯父が働いているのに、いつまでも引き止めておくわけにもいかない。
「私はもう大丈夫だから」
そう言って帰ってもらったけれど、本当は心細い気持ちだった。
父親の知人や詩織の友人たちの訪れも途絶えて、父親の遺品の整理も少しずつ片づいてきた。遺品の中に、何か父親の死の原因につながるような物でも見つかるかと期待したのだが、それらしい物は発見できなかった。
(父親を殺した犯人の狙《ねら》いは、いったい何だったのだろう?――)
その疑問が、常に頭にこびりついていて、ふとしたはずみのように、思考の表面に顔を出す。目を閉じると見える犯人像は、いつも黒いシルエットであった。
警察がどのような捜査を行なっているのかは、想像もできない。とにかく、いかめしい捜査本部を開設したのだし、何十人という捜査員が連日、動き回っているのだから、何らかの手掛かりは早晩、掴めるのだろう。それを信じて待っているしか、詩織には何の方策も持てなかった。
それにしても、広島は遠い。ともすると、もはや父親の事件は忘れ去られてしまったのではないか――という不安が頭をもたげてくる。新聞にも事件の続報は載っていない日がつづいた。
父親の部下だった野木が、ポツリポツリと電話をかけて、様子を窺《うかが》ってくれる。そのときに、広島での捜査のことを、それとなく訊いてみるのだが、野木にも会社の誰にも、警察のやっていることは推察のしようがないらしい。
「お力を落としておられるのは分かりますが、ご自分のこれからのことも考えて、しっかりなさってください。何か困ったことができたら、すぐに連絡してください。先日伺った安田君もお役に立つようにしておきますから、どんどん使ってくれて結構です」
野木は、父にとって、本当にいい部下であったにちがいない。野木の親身な励ましを聞くたびに、詩織も、いつまでも悲嘆にくれてばかりいてはいけないと思うようになっていった。
ずっと忘れていた、例の新宿のユニ・アカデミーの「宿題」をやってみた。五枚の英文を翻訳するのに、七時間かかった。それほど難しい専門用語もないし、慣れればもう少しは早くなるのだろう。これで一万円なら、バイトとしてはいいほうかなと思う。
ユニ・アカデミーとの契約はうまくいった。先方は「事件」のことは何も気づかず、ごく事務的に条件を取り決めてくれた。上岡という社長が少し下心ありげなのが気にはなったけれど、そのときはそのときと割り切って、「よろしくお願いします」と頭を下げておいた。
鷺ノ宮駅を出て、歩き始めてまもなく、後ろから来た男が声をかけた。
「失礼ですが、寺沢さんですか?」
「ええ、そうですけど」
振り返って答えた。
「こういう者です」
男は名刺を差し出した。三十歳を少し越えたかという感じの、割と長身で、容姿もまあまあ詩織の好みにあっている。
――浅見光彦――
名刺には肩書は何もなく、住所は東京都|北《きた》区|西ケ原《にしがはら》――であった。
「フリーのルポライターをやっている者ですが、寺沢大輔さん――あなたのお父さんが殺された事件を取材しております」
「ああ……」
詩織はいささかうんざり――という表情を見せた。
「そのことでしたら、放《ほう》っておいていただきたいのですけど。それに、現在、警察で捜査している最中ですし」
「そのことはよく分かります」
浅見《あさみ》はやわらかみのあるバリトンで言って、「歩きながらお話ししましょう」と、詩織の意向を確かめもせずに、歩きだした。詩織も仕方なしに、浅見よりいくぶん遅れた位置を、並んで歩いた。
「でも、取材されても、お話しすることは何もありませんけど」
当惑した様子を露骨に示して、言った。
「いや、僕は単に記事ネタを取材しようと思っているだけじゃないのですよ」
浅見は横顔に苦笑を浮かべた。
「むしろ、この事件を解決したいために、あなたのお話をお聞きしたいのです」
「えっ、事件を解決するっていうと、つまり、警察の捜査に協力するのですか?」
「協力というより、競争といったほうがいいかもしれません。警察は民間人の捜査協力をあまり望みませんからね」
「だって、あなた一人で、何ができるのですか?」
「ははは、そんなに見くびらないでください。これでも、僕は、探偵としてちょっとは知られた存在なのです」
「探偵?……でも、ルポライターっておっしゃったじゃないですか」
「本業はね。しかし、興味があれば探偵もやってしまうのです。もっとも、そっちのほうは趣味みたいなものですから、金儲《かねもう》けにはなりません」
「そんな、父が殺された事件を、趣味や道楽の対象にされるなんて、不愉快です」
「あ、これは僕の言い方が悪かったかもしれません。どうも露悪的なことを言ってしまう悪い癖があるものだから……しかし、それじゃお聞きしますが、あなたは警察の捜査に満足していますか?」
「…………」
「きっと不満だと思いますよ。僕の経験からいって、警察に任せておいたのでは、なかなか事件が解決しないケースが多いことも事実なのです。警察の捜査方法には、無駄が多過ぎますからね。たとえば、現場の捜索だって、やらなくてもいいことまで、ひととおりすべてをやらないと気がすまない。病院の検査好きとよく似ているのです。僕の友人で、水虫で病院に行ったら、脳波の検査をやられたというのがいますよ。そんなことをやっているから、本質を見逃してしまうことがあるのです。今度のお父さんの事件でも、きっと警察は余計な事情聴取をえんえんとやったのではありませんか?」
「え、ええ、それはまあ……」
詩織は浅見の言うことが図星だったので、少し彼を見直す気持ちに傾いた。
「そうでしょう。お父さんは誰かに憎まれたり恨まれたりしていたのではないかとか、利害関係の対立している人物はいないかとか。そんなことが分かっていれば、犯人なんかすぐに特定できてしまいますよ。そして、お父さんの友人、知人から、出入りの商人まで、洗い浚《ざら》い質問されたのでしょう?」
「ええ、ほんと、そうなんです。そんな人がもし犯人だとしても、わざわざ広島まで出かけて行くはずがないと思うような人のことまで、全部訊かれました」
「ははは、分かりますよ。さぞかし、ばかばかしいと思われたでしょうね。しかし、そういうのが警察の事件捜査の、いわば手続きというべきものなのです。まあ、たしかに、それで事件が解決する場合が多いのですから、何もかもがいけないとは言えませんが、しかし、単純な事件の場合ならそれでもいいでしょうけど、意外性に富む事件を、同じ教科書どおりに捜査したって、解決するはずがありませんよね」
「浅見さんなら、それができるっておっしゃるのですか?」
詩織は多少、反発をこめて言った。
「もちろんです。僕なら,警察とはまったく異なる観点から事件を眺めますからね。たとえば、あなたに対する質問だって、警察が思いもよらなかったようなことをお訊きしますよ」
「たとえば?」
「たとえば……そうですね、お父さんがあなたに最後に言われたことは何か、とか、お母さんの死因は何か、といった具合です」
「えっ、母の死因?……」
詩織は度胆《どぎも》を抜かれた。
浅見の言ったとおり、警察ではその二つのことの、どちらも質問されなかった。母親の死因についてはともかく、父親との会話についても、「お父さんは何か言ってませんでしたか?」という、漠然とした訊き方をしていた。
それは、言外に「何か事件に関するような」という意味を含んでいるように思ったから、詩織は「いいえ、何とも」とだけしか答えなかった。
しかし、父親が最後に言っていたこと――という具体的なことだとすると、質問の意図ははっきりする。
詩織は大輔と交わした最後の会話を思い出して、ふっと涙ぐんだ。
「あ、失礼、悲しいことを思い出させてしまったようですね」
浅見は軽く頭を下げた。それに対して「いいんです」と言おうとして、詩織は声が出なかった。
幸い、道行く人がいなかったからいいけれど、もしこんなところを見られたら、どう思われるか――と、急いで涙を拭《ふ》いた。
「そこ、私の家ですけど、もしよければ、中でお話します」
詩織は言った。
「えっ、しかし、お独りなのでしょう。僕のような初対面の男がお邪魔しても構いませんか?」
浅見は紳士的なことを言った。
「ええ、構いません。そんなこと言ってたら、生きていけませんもの」
詩織は笑顔を作って、門を開けた。
応接室に案内して、お茶でも――と思ったとき、浅見は「何も構わないでください」と言った。
「すぐに帰りますから、お話のほうを聞かせてください」
「分かりました」
詩織もそのほうがありがたかった。
「父と最後に話したのは、亡くなる日の朝、広島のホテルからの電話で、でした」
もう泣くまいと、心に決めていても、やはり父親のことを話そうとすると、ふっと込み上げてくるものがある。
詩織は少し間を取って、言葉を繋《つな》いだ。
「そのとき、父は『トランプの本』のことを言っていたのです」
「トランプの本?」
浅見の鋭い目が、一瞬、ポカーンとしたように光を失った。
「ええ、知らない人が聞くと、変かもしれませんけど、父と私にとって、そのことはずっと長いあいだの疑問になっていたのです」
「はあ……どういうことですか?」
「母が亡くなる直前、そう言ったんです。『トランプの本』て」
「はあ……それは、つまり、ダイイングメッセージですか」
「ダイイングメッセージ……というと、何だか推理小説みたいで、大袈裟《おおげさ》に聞こえますけど」
「いや、しかしそれは、まさにダイイングメッセージそのものかもしれませんよ。それで、お母さんは『トランプの本』がどうしたっておっしゃったんですか?」
「それが、あまりはっきりしないんです。もう意識が混濁してきた状態のときに、ふっと目を開いて、『あっ、トランプの本を』って言ったんです。私が『何?』て訊き返したら、『ほら、思い出のトランプの本、あれを守って……』って言ったのが最後でした」
「思い出のトランプの本――ですか。そういう本があるのですか?」
「いいえ、私も父も、そう言われても何のことやら分からないのです。でも、母が臨終の際にそう言ったのですから、よほど気になることだったにちがいないでしょう。しかも、『あれを守って』っていうのは、何か重要なものだという証拠ですよね。そう思って、ずっと気になって、オーバーでなく、その日からずっと気になっているといってもいいんですけど、結局、何のことか分からなかったのです。そうしたら、父が電話で『その謎が解けた』って言ったのです」
「ほう、謎が解けたのですか。いったい、どういうことだったのですか?」
「いえ、謎の中身は分かりません。ちょうどそのとき、誰かがホテルの部屋に来たらしくて、チャイムの音がして、父は『帰ってから話す』と言って電話を切ってしまいましたから」
「そうですか……」
浅見は正直に落胆した顔になった。このハンサムな青年にそんな顔をされると、なんだか、こっちが気の毒になってしまう。
「ただ、そのときに父が妙なことを言っていたんですよね」
詩織は、そういう浅見を慰めるように言った。
「昨日の列車の中で、近くに坐っていた女性が、それらしい本を持っていたんですって。ダイヤのクイーンの表紙だったそうです。それをあとで思い返して、もしかすると、母が言ったのは、その本のことじゃないかって思ったようでした」
「ダイヤのクイーンの表紙のトランプの本ですか。それでだいぶハッキリしてきましたね。そういう本がお宅にあるのかもしれませんよ」
「いいえ、うちにはそういうトランプの本はありません。父のお葬式が終わってしばらく経って、ようやくそのことを思い出して、念のために、母の蔵書リストを調べて見たのですけど……」
「蔵書は沢山あるのですか?」
「ええ、母は少女時代から詩やエッセイや、それに小説も書いていて、すごい読書家だったみたいです。蔵書も沢山あって、まるで図書館みたいにきちんと分類されて、インデックスもきれいに整理されているほどです」
「それで探しても、トランプの本はなかったのですね?」
「いえ、トランプの本そのものはあるにはあるのですけど、父が言っていたような『ダイヤのクイーンの表紙』の本なんかじゃありませんでした」
「そうですか……」
浅見は眉根《まゆね》を寄せて、思索的なポーズを作った。
「しかし、お父さんは列車の中で、『ダイヤのクイーンの表紙のトランプの本』を見たとおっしゃったのですから、そういう本が実在することだけはたしかですよ。問題はその本が何を意味するものなのか。そして、どこにあるのか――です」
「ええ、それはそうですけど……」
詩織は天井を見上げ、父親の言葉の中に何かヒントが隠されてはいなかったか、模索した。しかし、何も思い浮かぶものはないし、「トランプの本」の正体も分からない。考えあぐねて、視線を浅見の顔に戻すと、浅見もじっとこっちを見つめていた。
浅見の黒い眸《ひとみ》に射竦《いすく》められて、詩織はドキリと胸の痛みを感じた。もしかすると、私はこの人に誘惑されてしまうのかもしれない――という不安が過《よぎ》った。
しかし、当の浅見には何の意識も邪心もないらしい。こっちを見ている目も、詩織の顔を見ているようでいて、じつはまったく何も見ていないのと等しいほど、別のことを考えているのかもしれなかった。
4
「そうそう」と、浅見は長い呪縛《じゆばく》から解かれたように背筋を伸ばして、言った。
「お母さんが亡くなられた原因は、何だったのかを、まだ聞いていませんでしたね」
「ああ、母は癌《がん》です」
「癌?」
「ええ、食道癌で、発見が遅れたものですから、入院してほんの三か月足らずで、あっけなく逝ってしまったんです」
「お母さんはそのこと――つまり、癌のことをご存じだったのですか?」
「いえ、最後まで知らせませんでした。でも、最後のころは、私たち周囲の者の様子や体の具合なんかで、たぶん自覚していたのだと思います。それとなく、身の回りのことについて、言い残しているようなところがありました」
「だとすると、例のトランプの本のことも、それこそ遺言のつもりでおっしゃったのかもしれませんね」
「ええ、そんな感じです。たしかにあれは、いちばん大切なことを、最後まで言わずにいて、いよいよ死を予感した瞬間に言ったというような印象でした」
詩織はそのときの母親のカッと目を見開いた、明らかに死相を思わせる、凄惨《せいさん》な顔を思い出した。
「お母さんは『思い出のトランプの本を守って』とおっしゃったのでしたね」
浅見は詩織の言ったことを反芻《はんすう》して、記憶に刻み込んでいる様子だった。
「ええ、そうですけど……」
「それにしても、なぜ、守ってほしいとおっしゃったのでしょうかねえ?」
「さあ……」
詩織は浅見の思索的な横顔を見ながら、胸の痛みがますますつのるのを覚えた。
「もし差支えなければ、お母さんの蔵書というのを拝見できませんか」
会ったときからずっと感じていたことだけれど、浅見はきわめて丁寧な言い方をする。ルポライターという職業の人間に出会うのはこれがはじめてだが、広島でさんざん取材攻勢に遭って、マスコミぎらいになった詩織にとっては、浅見がとてつもなく紳士的に思えてならない。
「ええ、どうぞ見てください」
母親が自慢していた蔵書を、この男にも見てもらいたい気持ちがした。
書庫は床をコンクリートにして、金属製の可動式書棚を並べた、一般の民家としては、かなり本格的なものだ。そこに、文学関係の書物を中心に、図書館のような索引番号を背表紙に張った本がズラッと収まっている。
書棚に詩書が多いのは母親の専門がそれだったせいだが、小説を書くための資料なのか、化学や歴史、地理といった学術書も少なくない。
問題の趣味関係の参考資料はそれほどの量ではなかった。「トランプの本」は一冊――東京堂出版から出ている『トランプゲーム事典』というのがあるだけだった。
書棚から引き出してみると、ケースに入っていて、装幀《そうてい》のイラストにはトランプカードが使われてはいるものの、カードは「ダイヤのクイーン」ではなく、「ハートの8」であった。
中身は四六判ハードカバー。赤身がかった褐色のクロス張りで、表紙は無地に『ENCYCLOPEDIA of CARD GAME』とだけ印刷されている。
「どうも、これではなさそうですね」
浅見はあっさり首を横に振って、本を元の書棚に戻した。
ひととおり書棚の背表紙を全部眺めて回ったけれど、トランプの本はそれ一冊であることは間違いなさそうだ。
「やっぱりありませんねえ」
浅見はほうっと息をついて、諦《あきら》めた様子だった。
「すみません」
詩織はなんとなく謝った。
「ははは、あなたが謝ることはないです。それより、いったい、そういうトランプの本が実在するものかどうか、それからまず調べたほうが手っ取り早いかもしれませんね。こうなったら、意地みたいなものです。東京駅前のブックセンターあたりに行けば、かなり沢山の種類があるはずです。明日にでも行ってみますよ」
「そんなに熱心に……」
詩織は少し不安になってきた。
「ははは、僕みたいな無関係の人間が、なぜそこまでこだわるのか、疑問に思っているのでしょう?」
浅見は皮肉な目で詩織を見た。
「そういうわけじゃないですけど、ただ、そこまで事件に関わって、何かメリットがあるのかしらと思ったものですから」
「メリットなんて関係ありませんよ。真相を究明して、犯人を追い詰める……ただそれだけでいいのです。ほら、ファミコンゲームだってそうでしょう。あんなものを解決したって、何かの資格が取れるわけでもないし、単なる時間の無駄遣いですよ。それに較《くら》べれば、探偵ごっこは社会正義のためになるのですから、それだけで充分、満足すべきではありませんか?」
「ええ、それはたしかに、そのとおりですけど……なんだか申し訳なくて……」
詩織は頭を下げた。
「ははは、僕としたことが、すっかりカッコいいことを言っちゃいましたね」
浅見は照れ臭そうに笑った。
「しかし、正直を言いますとね、僕が犯罪捜査にのめり込むのには、それなりの理由があるのですよ。じつは、僕の兄というのが、警察庁のお偉方なのです」
「えっ、警察の人なんですか?」
「といっても、警視庁ではなく警察庁ですから、事務職のほうですが。いずれにしても、僕なりに警察に応援したくなる気持ちは分かっていただけるでしょう」
「ええ、それはまあ……」
「ただし、こんなことをしているのを、兄に知られるのは絶対に禁物なのです。下手すると兄の足を引っ張ることにつながりかねませんからね。それに、いま住んでいる家というのが、その兄の家でしてね、兄ばかりでなく、家の人間にも内緒で動いているのですよ。探偵ごっこなんてことが、もし知れたら、たちまち追い出される、可哀相《かわいそう》な居候の身の上なのです」
「まあ……」
詩織は思わず笑ってしまった。「事件」以来、はじめて心底からこぼれ出た笑いであった。
「そういうわけですから、その名刺の電話番号にはなるべく電話しないでください。お手伝いの女性が、ものすごく感じ悪いですからね。トンチンカンなことを言ったりするかもしれない。その代わり、僕のほうからはちょくちょく電話させてもらいます。何か分かったら、そのつど報告もしますよ」
浅見はそう言い残して引き揚げて行った。
門の外に消えるまで、浅見の後ろ姿を見送って、玄関のドアを閉めてから、詩織は溜め息をついた。
ほんの少し前までは、まったくの見ず知らずだった浅見を、いまは世の中でもっとも頼り甲斐《がい》のある人間のように感じていることに、詩織は驚いていた。こんなふうに、心の内側にスルリと入り込んできた人物と、詩織はいまだかつて出会ったことがなかった。
ただ、一抹《いちまつ》の不安がないこともない。いくら紳士的に見えても、浅見という人物のことを何から何まで信用していいものかどうか、それは疑問だ。
だいたい、ルポライターなどというのは、一般的にいって、怪しげな人種と考えるべきなのかもしれない。
詩織は浅見の名刺を眺めていて、ふと思いついて、電話をかけてみることにした。
浅見は困ると言っていたけれど、そう言われればなおのこと、確かめたくなるのが人情というものではないか――。
ベルが二度鳴っただけで、相手が出た。
「浅見でございます」
若い女性の声で、かすかに新潟か秋田か、そっちのほうの訛りがあった。もしかすると、浅見が言っていた「感じの悪いお手伝い」かもしれない。
「あの、浅見|光彦《みつひこ》さんはいらっしゃいますか?」
「いえ、坊ちゃまはただいま留守ですけど、あの、どちらさまですか?」
少し突慳貪《つつけんどん》に聞こえる口調だ。なるほど、たしかにこれは感じが悪い。
「あ、いえ、お留守なら結構です。またおかけ直しします」
詩織は名乗りもしないで、急いで電話を切った。
受話器を置いたか置かないかという瞬間、ベルが鳴りだした。詩織はギョッとして、反射的に受話器を握った。
「やあ、こんにちは、会社の添島です」
バリトンが陽気に言った。
「あ、常務さんですか、その節はいろいろとありがとうございました」
詩織は思わず、電話に向かってお辞儀をした。
「いま近くまで来たものですからね、ちょっとお線香を上げさせていただこうかと思いましてね、よろしいかな?」
「もちろんです、ありがとうございます」
それからほんの数分後に、添島常務はやって来た。きちんと七三に分けた髪。目鼻立ちや体躯はすべて大柄で、エリートらしい雰囲気が、仕立てのいいスーツ姿の全身に行き渡っている。
「車を表通りに待たせてあるので、すぐに失礼しますよ」
いかにもモーレツ・ビジネスマンの添島らしく、せっかちに焼香をすませた。
「お急ぎでしょうけれど、せめてお茶をお一つぐらいは」
詩織が言うと、「そうですな」とソファーに腰を下ろした。
「どうです、落ち着かれましたかな?」
「はい、なんとか。そろそろ仕事も始めるつもりです」
「そうですか……なんだ、それだったらうちの会社に入ってくれればよかったのに」
「いえ、私みたいなチャランポランな人間には、大会社は勤まりません。ちょうどいい、翻訳の仕事が見つかって、これなら自宅でもできますから」
「そう、翻訳もできるの。ますますわが社としては欲しい人材ですなあ。気が変わったら、いつでも言ってくださいよ。すぐに採用させてもらいますからな」
「はい、何から何まで、ありがとうございます」
「それにしても」と、添島は辺りを見回すようにして、言った。
「独りじゃ寂しいでしょう。そろそろ、ご結婚のことも考えたほうがいいのじゃありませんかな?」
「結婚なんて……それに、独りでも寂しくはありませんから」
「いや、寂しいより物騒ですよ。近頃は妙な連中が徘徊《はいかい》しますから、気をつけたほうがよろしい」
「はい、充分、注意します」
詩織は言って、ふと思いついた。
「あの、フリーのルポライターって、信用していい人種なのでしょうか?」
「ん? 何ですか、藪《やぶ》から棒に?」
「さっき、そういう人が取材に来て、いろいろお話なんかしたものですから」
詩織は「この人です」と名刺を見せた。
「浅見光彦……どこかで聞いたことがある名前ですな……」
添島は首を傾《かし》げた。
「なんでも、半分趣味みたいにして、探偵もやっているのだそうです」
「ああ、そういえば聞いたことがある。いま売り出しの素人探偵ですよ。たしか、兄さんが警察の人間じゃなかったかな?」
「ええ、そうですそうです、警察庁のお偉方だとか言ってました。それじゃ、信用できる人物なんですね?」
「そうですな、浅見氏なら大丈夫でしょう。しかし、その彼が何だってやって来たのですかな?」
「ですから、父の事件を解明したいのだそうです。警察は頼りないから――なんて言ってました」
「ほほう、自分の兄さんが警察の幹部にいるというのに、警察の悪口ですか。なかなか面白そうな男のようですな」
「ええ、とっても変わっているんです」
「ふーん……」
添島は興味深そうに、詩織の顔をまじまじと見つめた。
「しかし、男は押しなべて油断がなりませんぞ。頼りになりそうだからといって、全面的に信頼しないことですな。もっとも、信頼が愛情に発展したとしても、べつに不思議のないことではありますがね」
「えっ、あら、いやだ……そんなんじゃありません」
「ははは、まあまあいいではないですか。あなたなら男を見誤ることもないでしょう。とはいえ、万事慎重に、よろしいですな」
「はい、気をつけます」
詩織は深々と頭を下げた。
第二章 二重構造の鍵
1
浅見光彦《あさみみつひこ》から電話があったのは、それから数日後の昼過ぎのことである。詩織《しおり》は例のユニ・アカデミーの翻訳の作業に取り掛かっているところだった。
「やあ、先日はどうも」
浅見の屈託のない口調を聞くと、詩織は閉ざされていたものが一気に開いてゆくような、爽《さわ》やかな気分を感じた。
「あれからトランプの本を調べましてね、本屋を五軒、はしごしました。それにしてもトランプの本が意外に多いのには驚きましたよ。なるべくトランプの絵や写真が表紙になっているのばかりに限って集めてみたのですが、それでも破産しそうです」
浅見は言って、「ははは」と乾いた声で笑った。
「そんな、父の事件のためにそんな散財までしてくださるなんて……」
詩織は恐縮してしまった。
「そのトランプの本のことで、これからお邪魔してもいいでしょうか?」
「ええどうぞ、お待ちしています」
浅見の電話を切ると、詩織はほとんど無意識のうちに鏡に向かっていた。それから急いで家の中を片付けにかかる。いそいそと、心が浮き立つのを抑えようがなかった。
浅見はこのあいだと同じ、スポーツシャツの上にラフなジャケットという恰好《かつこう》だった。ネクタイはしない主義の男らしい。そういうところにも、詩織は好感を抱いた。
応接室に入ると、浅見は余計なお喋《しやべ》りを抜きにして、テーブルの上に紙袋の中のトランプの本を広げた。電話で言っていたとおり、大小さまざま、全部で十冊の本が並んだ。
『トランプの遊び方』
『トランプの遊び方60種』
『トランプのあそび方』
『トランプゲーム』
『トランプ――ゲーム・占い・手品』
『トランプゲーム――トランプにツヨクなる本』
『トランプ』
『面白《おもしろ》いトランプゲーム』
『トランプ・マジック』
『カードマジック』
「これ以外にもまだ沢山ありましたが、こういうふうに、表紙にトランプの絵や写真が出ているのはこれだけでした」
浅見が示すとおり、どの本も、カバーにトランプの絵がデザインされている。しかし、ダイヤのクイーンが大きくレイアウトされたものは一つもなかった。
それどころか、ダイヤのクイーンそのものがあまり使われていない。クイーンのカードが出ているのは、大抵、ハートである。たぶん、自分がカバーデザインをする場合でも、やはりハートのクイーンを使うだろうな――と詩織は思った。
唯一、ダイヤのクイーンが目立つデザインのカバーは、「泰光堂《たいこうどう》」という出版社から出ている『トランプの遊び方60種』だが、これとても、二十枚ばかりを散らした写真の、いちばん手前にクイーンのカードが写っているというレイアウトだ。離れた位置から識別できる大きさではない。
「どうでしょうか、この中にお父さんがおっしゃっていた『トランプの本』はありますかねえ?」
浅見は、黒い眸《ひとみ》を詩織に向けて、自信なさそうに訊《き》いた。
「さあ……」
詩織はもういちどトランプの本を見渡して、首をひねった。浅見には気の毒だが、どの本もそれらしいとは思えなかった。
「違うのでしょうね」
浅見も察しよく、詩織の返事を待たずに頷《うなず》いた。
「ええ、違うと思います。父は少し離れたシートに坐《すわ》っている娘さんが持っていた本――て言っていましたから。絵にしろ写真にしろ、かなり大きくデザインされていたにちがいありません」
「なるほど、そうですか……」
浅見は残念そうに、トランプの本を一冊一冊拾っては、テーブルの端に積み上げた。
「すみません」
詩織は小さくなって、頭を下げた。
「えっ? いや、あなたが悪いわけじゃありませんよ」
浅見は笑った。
「しかし、これだけ探しても、ダイヤのクイーンが大きくデザインされた本がないというのも、不思議なことです」
「古い本なのかもしれません」
詩織はふと思いついて、言った。
「古い本?」
「ええ、母は、『思い出のトランプの本』て言いましたから」
「ああ、そうでしたね。そうか、思い出のトランプの本ですか……」
浅見はしばし天井を見上げて、思案していたが、結局、何もいい智慧《ちえ》は浮かばなかったらしい。
「父が列車で見たという女性が誰《だれ》なのか、分かるといいのですけどねえ」
詩織は愚痴のように呟《つぶや》いた。
「ははは、たしかにそのとおりですね」
浅見は笑った。
「だけど、そんなこと、ぜんぜん無理な話ですよね」
「しかし、少なくとも美人であることだけはたしかだと思いますよ。何しろ、お父さんの目を惹《ひ》いたのですから」
「そんな……」
詩織は少しいやな気がした。
「父はそんないやらしい人間ではありませんでしたわ」
「さあ、それはどうですかね。男はみんなオオカミ――というほどではないにしても、大なり小なり、美しい女性には心を惹かれるものです」
「浅見さんもそうなのですか?」
詰問するような口調になった。
「え? 僕ですか? それはまあ、たぶんそうなのでしょう。こう見えても、僕も男の一人ですからね。それをいやらしいという言葉でしか表現できないとすると、僕もいやらしい人間かもしれない」
詩織は急に息苦しいものを感じた。誰もいない家に、若い独身男性を一人だけで入れたなんて、これまでなかったことに、いまさらのように気がついた。
「遅いわ、どうしたのかしら?……」
ふと思い出したように時計を覗《のぞ》いて、言った。
「誰か、来るのですか?」
「ええ、刑事さんが来ることになっているんです。何度も同じことを繰り返して訊くだけなのに」
「ほう、刑事が……それじゃ、僕は退散したほうがよさそうだな。素人探偵がコソコソやっていると、警察は不愉快なものらしいですからね」
浅見は腰を上げた。
詩織はほっとしたような、なんだか大きな落とし物をしたような、自分の臆病《おくびよう》さに対して腹立たしいような気分でもあった。
「あの……」と、思わず声をかけた。
「せめてコーヒーでもいかがですか?」
「はあ……」
浅見は上げた腰をどうしたものか、戸惑っている。
「刑事さんが来ても、玄関で応対しますから平気です」
「さあ、それはどうかな。刑事は図々《ずうずう》しいですからね、中に入ってきますよ」
「それならそれで構いませんよ。何も悪いことをしているわけではないのですもの」
「それはまあ、そのとおりですけどね」
浅見は苦笑して、「それじゃ」と、ソファーに坐り直した。
詩織は大急ぎでインスタントコーヒーを入れてきた。浅見は無造作に砂糖とミルクを入れて、少し粗野な仕草で掻《か》き混ぜた。
「あの、このあいだ、浅見さんのお宅にお電話したのですけど」
「ほう……」
飲みかけたカップを口元につけた恰好で、浅見は視線を詩織に向けた。
「いつのことです?」
「浅見さんがいらした日だったと思いましたけど、お留守でした。でも、そのこと、ご存じなかったのですか?」
「ん? ええ、知りませんでした。何か用事でしたか?」
「いえ、用事はなかったのですけど……じゃあ、やっぱり、あのお手伝いさん、電話があったこと、おっしゃらなかったんですね」
「ん? ああ、そう、彼女の場合、そんな具合に伝言をしてくれないのが、じつに困ったことなのですよ」
「でも、こっちも名前を言うの、忘れましたから、それでお伝えしなかったのかもしれません」
「いや、そうとばかり言えない面がありましてね。ことに女性からの電話は、なかなか取り次がないから困る」
「あら、どうしてですか?」
「さあねえ、ジェラシーかもしれませんね。あなたのことを、僕の恋人か何かかと思ったのでしょう。ははは……」
浅見は笑った。
詩織はまたしても、いやな気がした。
目の前にいる浅見はハンサムだし、ジョークも言うし、べつにこれといって非のうちどころはないと思うのだけれど、時折、ふっと、何かしれない不穏な空気のようなものが流れ込むのを感じるのだ。
「しかし、それは失礼をしました、僕から謝ります」
笑いの残る顔で、浅見は頭を下げた。
「いえ、いいんです。むしろ謝らなければならないのは私です。浅見さんになるべく電話するなって言われていたのに、勝手にお電話したのですもの。もうお電話はしないことにします」
「そう言われると、恐縮ですが、正直なところ、そのほうがいいですね、また不愉快な思いをさせないともかぎりませんから」
そう言うと、浅見は立ち上がった。
「さて、ほんとに刑事が来ないうちに引き上げることにしますよ。兄の威光をかさにきていると思われてもいけませんから」
浅見が帰って行ったあと、詩織はトランプの本のことを、あれこれと思い巡らせた。
母親が「思い出のトランプの本」と言い、父親が列車の中で見たという、その本はいったい何なのだろう?
列車の中で若い女性が持っていたくらいだから、現在も世の中に出回っている本であると考えてよさそうだ。「思い出の――」というのは、本が古いという意味ではなく、母にとって何か、忘れがたい思い出であるということなのかもしれない。
それにしても、母親が臨終の際に「守って――」と言ったのには、どういう意味があるのだろうか? 「思い出のトランプの本」に、何かヘソクリのようなものでも隠してあるとでもいうのだろうか?
「思い出のトランプの本」が何なのかももちろんだけれど、むしろ、その本に「守らなければならない」ような、どんな大切なことが秘められているのか、そっちのほうが重要な謎《なぞ》であるのかもしれなかった。
詩織は二重構造の謎を目の前にして、何一つ解明の手掛かりも掴《つか》めないでいる自分が、ひどく情けなく思えた。
(やっぱり、頼りはあのひとだけなのかしらねえ――)
浅見光彦の面影が、また脳裏に大きく浮かんできた。添島《そえじま》常務は「信頼が愛情に発展したとしても、不思議はない」などと、意味深長なことを言っていたっけ――。
(冗談じゃないわ――)
詩織は慌てて、そのいやらしい記憶を振り払った。
そのとき、ふいに、添島の言葉と入れ替わるように、父親の大輔《だいすけ》が列車の中で、トランプの本を持っている女性に見惚《みと》れている情景が思い浮かんだ。
――昨日の列車の中で――
大輔はそう言っていた。
それから二日と経《た》たないうちに、大輔は殺されたのだ。
(まさか――)
詩織は父親がトランプの本を持つ女性を見たことと、殺されたこととのあいだに、何かの因果関係があるのではないか?――と思い、しかし、それがあまりにもばかげた、根拠のない想像であることに気づいて、すぐに思い捨てた。
2
表面上は事件に何の進展もないようでいて、警察はそれなりのことをやってはいるらしい。
浅見が訪ねてきた翌々日、広島県警の川根《かわね》部長刑事が部下と二人で寺沢《てらさわ》家を訪れた。
「あれからずっと、お父さんの会社や、関連する仕事関係の人たちに対する、聞き込み捜査を行なっていたのです」
川根は精悍《せいかん》な顔に、明らかな疲労の影を見せて、そう言った。
「しかし、あなたも言われたとおり、お父さんには、他人から恨まれるような状況はまったくなさそうですなあ」
「そうでしょう、父は人を傷つけたりするような人ではないのですもの」
「たしかにそのようですな。中には仏様みたいな人だったという表現をする人もおりました。ただ、そういう温和な人が、よくも部長さんにまでなったものだという、やっかみ半分みたいな言葉も耳にしましたがね」
「そうですね、それは娘の私だって不思議に思うくらいですもの。いいえ、父自身、そのことは不思議だったみたいです。いい大学を出たわけでもないし、べつに大した働きをしたつもりもないのに、いつのまにか部長にしてもらったとか」
「添島常務に可愛《かわい》がられていたという話を聞きました」
「ええ、それは私も父から聞いたことがあります。常務さんは恩人だって」
「最後のときも、添島常務と一緒だったのですから、因縁ということでしょうかなあ」
川根部長刑事は腕組みをして、しばらく考えてから、「ただ、ちょっと気になることはあるのです」と言った。
「寺沢さんの評判がいい割に、常務さんの評判はいまひとつ、よくないのです」
「よくないっていいますと?」
「つまり、人格者とは言いがたいというような意味でしょうかね」
川根はもってまわった言い方をした。警察官としては、個人の中傷になるような、あまり露骨な表現はしたくないらしい。
「そうなんですか……でも、だからといって、まさか……」
詩織は思わず口に出かかった言葉を、もういちど喉《のど》の奥に戻した。
「いや、そんなことは考えていませんよ」
川根は詩織の頭に浮かんだことを、いち早くキャッチしたように、苦笑した。
「たしかに、添島常務は同じホテルに泊まっていたし、お父さんと接触するチャンスもあったには違いありませんがね、それだけで疑うなどということは、いくら警察が疑り深いといっても、ありませんよ」
「あら、私は何も……」
「まあまあ、いいじゃありませんか、ここでは誰に聞かれるわけでもないですからね」
「だけど……」
「それに、添島常務が寺沢さんを右腕のように頼りにしていたというのは、事実のようです。寺沢さんほど忠実な部下はないという評判でした」
「そうなんですか……」
詩織は父親を褒められていると分かっていながら、なぜか、素直に喜ぶ気にはなれなかった。忠実な部下――とは、イエスマンと同義語かもしれないではないか。
もしかすると、父親は添島のロボットだったのでは――という憶測は、以前から詩織にはあった。大輔が添島のことを語るときの、身も心も捧げきったような口振りが、ときにはもどかしくも思えたものだ。
母親の美咲《みさき》が元気だったころ、夕餉《ゆうげ》のテーブルで大輔の添島|礼讃《らいさん》を聞いていて、詩織はふと、「そんなに素晴らしい人なの?」と、多少の揶揄《やゆ》を込めて言ったことがある。大輔は詩織の悪意には気づかず、「ああ、素晴らしい人だよ」と目を細めていた。
だが、そのとき、詩織は美咲のいくぶん俯《うつむ》いた顔に、冷たい笑いが浮かぶのを見たような気がしたのだ。
それ以来、詩織は父親の添島に対する思い入れに対して、漠然とした疑問を感じるようになった。
いや、それ以来というのは正しくないかもしれない。詩織は十三歳のときに父親の年始に付き合って、はじめて添島に会ったのだが、添島に対する大輔の必要以上とも思えるへりくだり方に、悲しいような想《おも》いがした記憶がある。
添島を囲んで、大勢の年始客が談笑している席であった。大輔は場を盛り上げようと、上手《うま》くもないジョークをしきりに飛ばしていたが、添島は完全にそれを無視して、ほかの客との話に熱中していた。
そうして、大輔の話がとだえた瞬間を待っていたように、ふいに笑顔を詩織に向けて、「お母さんはお元気かな?」と訊いた。
詩織が「はい」と応じると、「それはよかった。何しろ、あんたのところはあの賢いお母さんでもっているようなものですからな」と言った。
母親の美咲は、かつて大輔と同じ会社に勤めるOLだったと聞いたことがある。もう三十年ほども前のことで、たぶん、その当時は添島も中堅エリート社員だったにちがいない。美咲自身は昔のことを話してくれたことがないけれど、大輔がときどき、若いころの美咲がどれほど美しく、怜悧《れいり》で、社内の男性の憧《あこが》れの的であったかを、手放しで娘にのろけて聞かせた。
大輔の話によると、美咲は秘書課勤務で、社長以下、役員たちの誰にも可愛がられたそうだ。美貌《びぼう》はもちろんだが、目から鼻へ抜けるような機転のきく、有能な秘書であったらしい。
そのことを、添島はお世辞のつもりで言ったのかもしれないけれど、詩織にしてみれば、母親を褒められたというより、父親を無視されたように思えて、ひどく屈辱的だったのを、いまでもはっきり憶《おぼ》えている。
とはいえ、添島が父親をあそこまで引き立ててくれたことに対しては、その娘として、感謝しないわけにはいかないのだろうと、詩織なりに思いはした。おとなになると、好むと好まざるとにかかわらず、しぜん、世の中の仕組みらしきものが見えてくるものだ。
「明日、われわれはひとまず広島に帰ることになりました」
川根部長刑事は複雑な面持ちで、そう言った。彼にしてみれば、大した収穫もなしに捜査本部に引き上げるのは辛《つら》いのだろう。
「そうなんですか……」
詩織は川根以上に気落ちしたが、それでも「ご苦労さまでした」と労をねぎらった。
川根たちが玄関を出る寸前、詩織はふと思いついて、訊いてみた。
「あの、警察のお偉方に、浅見さんていう人、いますか?」
「は?……」
川根は質問の意味が掴めなかったらしい。キョトンとした目を詩織に向けて、しばらくしてから、「ああ」と頷いた。
「警察庁のほうにはおいでですよ。ほら、ときどきテレビにも出られるでしょう。国会中継なんかで答弁している」
「えっ、そんな偉い人ですか?」
「警察幹部の浅見さんといえば、浅見刑事局長さんのことでしょうね。つまり、われわれ全国の刑事の総元締みたいな偉いさんです。しかしそれが何か?」
「え? いえ、べつに何でもありません」
詩織は言葉を濁した。川根は怪訝《けげん》そうにこっちを見つめていたが、結局、詩織が何も言わないのを見きわめると、諦《あきら》めて帰って行った。
「警察庁刑事局長か……」
玄関のドアが閉まると、詩織は呟いた。
刑事局長というのが、どんな役職なのか知らないけれど、全国に何万人もいるであろう刑事の総元締だとすると、かなりの大物にちがいない。
ふつうの市民なら、刑事という名前を聞いただけで、何となく恐ろしげなものをイメージしてしまう。その総元締とくれば、これはもう、詩織の想像など及ばない、恐怖の存在であった。
そういう兄がいるのなら、浅見はただの素人探偵どころか、彼が「ちょっと知られた」などと、冗談のように言っていたとおり、ひょっとすると警察の組織を動かせるほどの実力の持ち主かもしれない。
そういえば、浅見が時折見せる、凄味《すごみ》のある目の動きは、彼がタダ者でないことを示している――と詩織は思った。
警察の捜査がいっこうに実を結ばないような状況であるだけに、浅見の存在がいよいよ頼もしく思えてくる。
遺品の引き取りや退職金のことなどで、詩織は父親の会社を訪れた。受付の女性や営業部の人々、みんなから、あらためてお悔みを言われた。
添島常務も部下の野木《のぎ》販売課長とともに応接室に出迎えて、お茶を飲みながらいろいろと慰めを言ってくれた。
詩織はこの機会にと思って、添島にトランプの本のことを訊いてみた。列車の中で大輔が見たという「トランプの本」に心当たりがないかどうか――。
添島は怪訝そうに首をひねり、「いや、知りませんなあ」と言った。
「そのトランプの本がどうかしましたか?」
「いえ、そういうわけではないのですけど」
詩織があいまいに答えるのを、添島はしばらく見つめていたが、会話がそれ以上は進展しないのを見きわめると、「今後のことは野木君にご相談してください」と挨拶《あいさつ》して、忙しそうに部屋を出て行った。
「添島常務が専務か、ことによると、新たに副社長制をしいて、その第一号に就任するという噂《うわさ》もあります」
常務が消えると、野木は声をひそめるようにして、言った。
「へーえ、そうなんですか。いよいよトップに近づいたんですね」
「そう、まさにトップそのもの、つまり、一足飛びに社長になるのじゃないかと言う人もおります。少なくとも、次期社長候補の筆頭だと目されていることはたしかです」
「ほんとですか! すごいですねえ」
感嘆したものの、もし父親が生きていたら――と思うと、詩織は、素直に、添島の栄光を喜ぶ気にはなれなかった。
「今度の人事では、私も、どこか遠くへ飛ばされるかもしれません」
野木は情けなさそうな顔でこぼした。
「遠くって、どこですか?」
「よくて札幌《さつぽろ》か福岡支社あたりですかな」
「それ、左遷ていうことですか?」
「ははは、まさにそのとおりですよ」
「だけど、野木さんは父と親しかったのでしょう? 父は添島常務さんの直系だったのだから、常務さんが出世なさるのなら、そのままエスカレーター式に引き上げていただけそうなものだと思いますけど」
「いや、それはご認識が間違っていますよ」
野木はきびしい表情で言った。
「寺沢部長が常務の直系であったというのは、ある意味では正しいのですが、正直に言いますと、その恩恵が私どもに及ぶことはないのです。常務にとって、部下などというものは、ただの将棋の駒《こま》……いや、それ以下の存在でしかないのです」
「でも、父はずっと長いあいだ、常務さんには可愛がっていただいたみたいですけど」
「そう、ですね……それはたしかに否定しません。じつは、いまだから言いますが、社内の誰もが、常務が寺沢部長を重用していたことについては、信じられない気持ちでいたというのが本音なのです」
「それは、父が有能なビジネスマンではなかったという意味ですか?」
詩織は切り込むように言った。
野木は狼狽《ろうばい》して、「えっ、いや、そういうわけではありませんが……」と手を横に振ったが、その否定の仕方には消極的な気配が感じ取れた。
「いいのです、お隠しにならなくたって。私だって、もしかすると、父は常務さんのロボットだったのじゃないかって、思ったことがあるのですもの」
「そんな……」
「私だけじゃないんです。父自身、部長に就任したときに、どうしてこんなに引き立ててもらえるのか、不思議でしようがない――と言っていたくらいなんです」
「はあ……」
野木は当惑しきった様子だが、やがて意を決したように、眉《まゆ》を上げて言った。
「お嬢さんがそこまでおっしゃるのなら、正直に申し上げますが、その部長の疑問は、われわれ社員のほとんどが感じている疑問でもあるのです。寺沢部長と同期の人たちの中には、本来ならとっくに……つまり、出身校とか縁故関係とかですね、そういう背景からいっても、寺沢部長より早く部長になっていいはずの人が何人もおられるのです。それにもかかわらず、寺沢部長が出世の先頭を走っていることを、わが社の七不思議の一つだなどとですね……」
「やっぱり……」
詩織は溜《た》め息をついた。
「私もそのことはうすうす感じていました。子供のころは、父の出世がただ嬉《うれ》しかっただけなんですけど、いろいろ、世の中のことが分かってくるにつれて、なんだか変だなとか、父がずるをしているんじゃないかなとか思えてきたのです」
「いや、ずるだなどと、そんなふうに考えないでください。寺沢部長は誠実な方でした。根本的には寺沢部長の人徳のしからしむるところなのですから」
「うそです、それは」
詩織はきっぱり言ってのけた。
「父はたしかに、穏やかで優しい人でしたけど、大会社の営業部長なんていう責任ある地位にいて、部下を引っ張ってゆくには、そんな人徳みたいなものだけでは役に立たないことぐらい、私にだって分かります。だからこそ、会社の七不思議の一つだなんて言われたのでしょう?」
「…………」
野木はそれには何も答えず、あらぬ方角に視線を逸《そ》らした。
「でも、父が無能だったとしたら、そんな父を無理に引き立ててくださった添島常務さんは、社内的な批判を浴びたりして、いろいろとやりにくかったのじゃないのかしら?」
そう言ったとたん、詩織は、父親が死ぬのを待っていたように、新しい人事体制が動きだしたのを、単なる偶然とは思えないような気がしてきた。
「もし父が生きていたとしたら」と詩織は不安そうに訊いた。
「添島常務さんが次期社長の有力候補にのぼるようなことは、なかったのじゃありませんか?」
「は? それはどういう意味で?……」
「父の存在が常務さんの足を引っ張っていたのではないかって、そんな気がしたものですから」
「ほうっ……」
野木はびっくりした目を詩織に向けて、しばらく絶句していた。
それから、目にゴミでも入ったように、いそがしく瞬《まばた》きをして、「いやいや、そんなことは」と、取ってつけたように首を横に振った。
3
ユニ・アカデミーの翻訳のバイトは、予想以上に高収入であった。しっかり働けば、一日平均一万何千円かにはなる。先方も喜んでくれているし、こっちも語学力はつくし、何も不満はない。
一週間ぶりに、新宿《しんじゆく》のユニ・アカデミーまで行って、翻訳を終えた原稿を渡し、代わりに原文を仕入れてきた。上岡《かみおか》社長が挨拶代わりのように、「こんどぜひ、食事を奢《おご》らせてくださいや」と言うのを、聞こえないふりをして引き上げた。
自宅に戻って、リビングのドアを開け、電気のスイッチを入れて、キッチンへ向かいかけたとき、詩織はふっと妙な気がした。その原因はすぐに分かった。
(キャリーが横を向いている!――)
テレビの上の犬のぬいぐるみの、鳶《とび》色の眸は、いつもなら電気をつけた瞬間に、キラリと光るはずである。ガラス玉の眸に反射した光が、壁のスイッチのあるこの場所に、ちょうど飛んでくる位置関係にある。
その眸が光らなかった。キャリーはほんのわずかだが、いつもの視線の向きを変えているのであった。
出がけに見たときには、いつもどおりに可愛い眸をこっちに向けて見送っていた。部屋の明かりを消すまで、鳶色の眸は光っていたのである。
(変だわ――)
詩織はリビングルームの中を見回した。そう思って見るせいか、どこがどうというのではないけれど、部屋の雰囲気に何となく違和感を覚えた。
詩織は仏壇のある部屋の、母親がお嫁入りのときに持ってきた和ダンスの引出しを開けてみた。
(やっぱり――)と思った。
ほんの少しだけれど、中のものが動かされている。衣類にかぎったわけではなく、詩織の物の仕舞い方には、母親譲りといってもいい、デリケートな癖というのか、コツのようなものがある。もし誰かが、衣類の底のほうまで捲《めく》って、あとを元どおりにしたつもりでも、決して元とそっくりの状態には戻せないだろう。少なくとも、詩織ならそれに気がつく。いまがまさにそれであった。
(ドロボー?――)
詩織はゾーッとした。
思わず首をすくめ、耳をそばだてて、辺りの様子を窺《うかが》った。
しかし、家の中に人のいる気配はない。
(鍵《かぎ》はかけてあったわ――)
自分に言い聞かせた。帰ってきたとき、たしかに玄関の鍵がロックされていたことは、間違いない。
(だとすると、どこから?――)
詩織は父のゴルフクラブを握って、廊下のガラス戸や窓の鍵を調べて回った。
どの鍵もきちんとロックされている。
(勘違いかしら?――)
自分に問い直してみた。キャリーの向きは、無意識のうちに動かしてしまったのかもしれないし、タンスの中身なんて、ほかの物を出し入れしているうちに、多少は動いてしまうものかもしれない。
しかし、詩織はその考えをすぐに打ち消した。
(私にかぎって――)と強く思った。
自分のそういう判断には、詩織は確固とした信念のようなものがあった。
何者かがこの家に入って、何かを探したことは間違いない――と思った。
それもただのドロボーではないらしい。ふつうのドロボーなら、乱雑に荒らしたままで引き上げるだろう。痕跡《こんせき》を残さないように、細心の注意を払っているのは、よほど優秀なドロボーか、それとも特別な目的を持つ犯人である証拠だろうか。
(それにしても、いったい何を盗んだのかしら?――)
詩織はタンスや書棚やデスク、そのほか、ありとあらゆる物入れの中を改めてみた。その何か所かに、ひょっとしたらここも――と思えるような、ふだんとは異なった「移動」の形跡があった。
しかし、何かが盗まれたのかどうかは分からなかった。いや、たぶん何も盗《と》られていないというべきだろう。デスクの引出しには、わずかだが現金もあったのに、犯人は手をつけていない。そのほか、絵画や置物など、ある程度は金目のものもあるし、化粧ダンスには宝石もいくつかある。それがそっくりそのまま、残っていた。
(どうしよう――)
詩織はこのことを警察に届けるべきかどうか、迷った。
刑事がきて、「何を盗まれました?」と訊かれて、「何も」と答えたら、どんな顔をするかしら?
鍵はかかっていたのですね?――
どうしてドロボーが入ったと思ったのですか?――
物色されたり荒らされたりしたような形跡はどこにあるのですか?――
立て続けに訊かれて、どう答えればいいのか、詩織はその状況を想像しただけで、うんざりする気持ちだ。
思いあぐねて、詩織は、浅見の電話番号をダイヤルした。
またあのお手伝いが出たら、いやだな――と思ったら、やっぱり的中して、このあいだの女性の声が「はい、浅見です」と、呼び掛けた。
詩織はうろたえて、「あの、浅見さんはいらっしゃいますか?」と、ばかなことを言ってしまった。
すぐに気づいて、「あ、あの、浅見光彦さんです」と言い直した。
「坊ちゃまはただいま外出中ですが」
(やだわ、坊ちゃまだって――)
あの中年に近い青年を掴まえて――と、詩織は吹き出したくなった。
「いつごろお戻りになりますか?」
「それは……あの、先日お電話いただいた方ですね? お名前をうかがっておりませんでしたが、どなたさまでしょうか?」
「あ、あの、鷺宮《さぎのみや》の寺沢ですけど」
どういうわけか、この相手に対しては、詩織はうろたえてしまう。
「鷺宮の寺沢さま……そうお伝えすれば存じ上げておりますでしょうか?」
「え、ええ、よくご存知です。ついこのあいだも来ていただきましたし、いろいろお世話になっていますから」
「さようでございますか」
とたんに、お手伝いの口調は紋切り型になった。「お世話」というのが気に入らなかったのかもしれない。何か勘違いでもしているのだろうか。
「坊ちゃまは夕方には戻ると思いますけれど、ご用件を聞かせていただければ、申し伝えますが」
「いえ、それは結構です。またあらためてお電話いたしますから」
詩織も硬い口調で言った。用件を言ったって、ほんとうに伝えてくれるものかどうか、分からない――と思った。
詩織は電話を切って、しばらく思案してから、広島の川根部長刑事に電話をかけることにした。
折よく、川根は広島中央警察署の捜査本部にいてくれた。何者かが家宅侵入したらしいことを話すと、川根は当惑げに「うーん」とうなった。
「間違いなく、何者かが忍び込んだのですね?」
「ええ、たぶん……」
「たぶんでは困るのです」
「じゃあ、間違いありません」
「しかし、鍵はかかっていたのでしょう? どうやって侵入できたのですか?」
「さあ?……」
「あなた以外に鍵を持っている人物はいませんか?」
「それは伯父《おじ》の家に一つ、預けてありますけど」
「だったら、伯父さんかもしれないのではありませんか?」
「えっ、伯父がですか? だって、家に来るなんて、何も言ってませんよ」
「しかし、急に来られた可能性もないわけではないでしょう。一応、伯父さんのところに訊いてみてくれませんか」
「はい、分かりました、そうします」
そう言って電話を切ったものの、詩織は伯父が無断でこの家に入るとは思いもしなかった。いや、伯父にしろ伯母《おば》にしろ、そんなことをするはずがないし、もしそうなら、何か伝言ぐらい残してゆくだろう。よほど急ぐことがあって、詩織の留守中に訪ねて来たのだとしても、自宅に戻ってからだって、電話をしてこないはずがない。
(違うわ、伯父さんたちなんかじゃないわ――)
そうは思ったが、伯父でないという証拠もありはしなかった。それと同時に、じつにばかげたことだが、もしかして伯父か伯母の仕業だったら――などと考えてしまい、とたんに気が重くなった。
伯父の謙輔《けんすけ》は父の実兄である。埼玉県の浦和《うらわ》に不動産関係の事務所を持っていて、近郊の住宅建設も手がけている。ひところはずいぶん景気がよかったそうだけれど、このところ経営不振だとか言って、詩織の父親にぼやいているのを、耳にしたことがある。
そういえば、父親の初七日の日に、さりげない口調で「遺産、どのくらいあるのかな」と言っていたっけ――。
そのときの詩織は、まだ悲しみが吹っ切れていない状態だったから、「知らない、そんなこと」と、突っぱねるように言ったきり、すっかり忘れていた。
伯父にとって、父親の遺産は無関心ではいられないものかもしれない。あらためてそのことを思い返してみて、詩織はとてもいやな気分になった。
重い気持ちにムチを打つようにして、受話器を握った。
電話には伯母が出た。「元気? 大丈夫なの?」と訊いてくれた。
「大丈夫ですよ、いつまでクヨクヨしてたってしようがないもの。それに、とりあえず働かなくちゃいけないし」
「そうよ、しっかりするのよ」
「はい、ありがとうございます」
詩織は電話に向かって頭を下げてから、「伯父さんは?」と訊いた。
「まだ会社のほうよ。きょうは遅くなるって言ってたけど、何か用事?」
「いいえ、そうじゃないけど、たまには声を聞いてみたかったから」
「あら、そんなこと言ったら、伯父さん、喜ぶわよ、きっと」
伯母は屈託なく、ケラケラと笑った。
「東京に出ることがあったら、うちに寄ってくださいって、そうお伝えください」
「はいはい、でも、忙しそうだから、しばらくは無理みたいよ」
体に気をつけて――と、伯母は電話を切った。
伯父は忙しいらしい。それが本当だとすると、この家になんか来ているひまはないのかもしれない。
(ごめんなさい、伯父さん――)
詩織は心の中で伯父に詫《わ》びた。ほんの束《つか》の間《ま》でも、伯父を疑ったりしたことが、自分に対しても恥ずかしかった。
しかし、それならいったい、誰が――と、また新しい疑惑に頭が閉ざされてしまう。
この家の鍵は詩織と伯父以外には誰も持っていないはずだ。そのことを、もういちど確認してから、もしほかに鍵があるとしたら――と想定してみた。
むろん、あるとすれば、鍵のメーカーにあるか、そうでなければ、何者かが鍵を複製したことになる。
(父の会社の人?――)
詩織はすぐに気づいた。父親は鍵を、毎日のように会社に持って行っていたことはたしかだ。どこにしまっていたかはともかく、周辺の部下や、ことによると上司にだって、その鍵を手にするチャンスはいくらでもあったにちがいない。
野木や安田《やすだ》といった部下の顔がいくつも、脳裏に浮かんでは消えた。そして最後に添島常務のあのにこやかな顔が映った。
添島常務――。
詩織はギクリとした。添島なら父の鍵を手にするチャンスはいくらでもあったにちがいない。たとえば旅行のあいだなど、その気になれば、一時失敬して、近くの鍵屋でスペアキーを作らせることも可能だったかもしれない。
(だけど、なぜなの?――)
自問してみた。添島が合鍵《あいかぎ》を作ったとして、いったい何が目的なのだろう?
それは父が殺されたことと、関連があるのだろうか?
(この家に何があるっていうのよ――)
詩織はまた部屋を見回した。家の中のありとあらゆる場所を想起して、そこに何か盗まれそうな重要な品があるかどうか、考えてみた。
しかし、「ドロボー」は金目の物には目もくれなかったのだ。端金はもちろん、宝石や書画|骨董《こつとう》のたぐいよりも、はるかに貴重な何かが、どうやらこの家にはあるらしい。
(何なのよ、それって?――)
詩織はだんだん腹が立ってきた。いまや一家のあるじになった自分でさえも知らない物が、どこの誰とも分からぬやつに狙《ねら》われているのだから、これほど不愉快で、しかも不気味な話はない。
電話が鳴った。詩織は心臓がどうにかなりはしまいかと思った。
受話器を耳に当てると、しかし懐かしい声が聞こえてきた。
「浅見です」
「ああ、浅見さん、早かったんですね」
「えっ? というと、電話してくれたんですか?」
「ええ、あら、じゃあ伝言、聞いてなかったんですね。お手伝いさんにお願いしておいたのに」
「またですか、あんちきしょう、しようがないなあ。いや、申し訳ない。しかしもう大丈夫です、移動電話を手に入れましたからね。今度はどこにいても大抵、繋《つな》がりますよ」
浅見は陽気に言って、電話番号を教えてくれた。
「で、用事は何だったのですか?」
「ドロボーです」
詩織は手短に、今日の出来事を話した。浅見は驚きをあらわにして、「うん、うん」と相槌《あいづち》を打ちながら聞いていた。
「それで、何を狙ったのかも分からないのですね?」
「ええ、まだ分かりません」
「権利証なんかは、どうなっているのですか?」
「権利証?」
「家の権利証ですよ。あのお宅なら、場所もいいし、かなりの財産でしょう」
「ああ……それはそうですけど、でもそんなもの盗んだって……」
「いや、僕もあまり詳しいことは知りませんが、権利証と実印さえあれば、どうにでもできるのかもしれませんよ。とにかく、一応、確認してみたほうがいいな」
「分かりました、そうします……だけど、もしそうだったとすると、いったい誰が?」
「それは僕には分かりません。むしろあなたのほうに心当たりがあるのじゃないですか? それより何より、とにかく確認してみて、それから考えましょう」
浅見の電話をいったん切って、詩織は不動産の権利証を探した。それは父親の書棚のファイルブックに収まっていた。実印もちゃんと父親のデスクの引出しに入っていた。
詩織は喜び勇んで、浅見の移動電話の番号をダイヤルした。「030」で始まる番号であった。浅見は電話のそばにいたらしく、ベルが一度鳴っただけで、すぐに出た。
「ありましたよ、盗まれてなんかいませんでした」
詩織の声が弾んだ。
「そうですか……しかし、それは発見されなかったということなのかな?」
「いいえ、そうじゃないと思います。私が探しても、すぐに分かる場所に置いてありましたから」
「なるほど。だとすると、ドロボーの目的は依然として不明のままということになりますねえ」
「ああ、そうですよね。そうなんだ……」
必ずしも喜んでばかりいられないことに、詩織は思い当たった。
「今日はたまたま留守だったからいいですけど、もし私がいるとき……夜中にドロボーが入ったらどうしましょう」
「そう、それがいちばん心配なところです。ドアの鍵を新しくして、窓なんかには二重ロックができるようにしたほうがいいですね。もっとも、テキは空き巣狙いでくるつもりのようだから、あなたがいるときは入らないと思いますけどね」
「ほんとにそうなのかしら? だって、父を殺した犯人かもしれないでしょう」
「うーん……それはまあ、絶対にあり得ないとは言い切れませんけどね。しかし、お父さんとあなたとでは、ケースが違うような気がするなあ」
「違うって、どう違うんですか?」
「よく分かりませんが……たとえば、お父さんは何か重大な秘密を握っていたのかもしれないけれど、あなたは何も知らないっていうような違いはあるでしょう」
「重大な秘密って、何ですか?」
「だから、それが分かったときは、あなたもターゲットになるのかもしれないっていうことですよ」
「ああ、そう、ですよね……」
詩織はあらためて、全身の肌が粟立《あわだ》つような恐怖を感じた。
4
すでに夜に入っていた。浅見は、とにかく身辺に注意して、鍵は厳重に確認して寝るように――と言っていたが、そんなことを言われても、どこまでやれば絶対に安全といえるのか、詩織にはまるで自信がない。
簡単にインスタントラーメンで食事を済ませると、詩織は、リビングルームのテレビを夜中じゅう、ガンガン鳴らしっぱなしにしておいて、二階の自分の部屋に閉じ籠《こ》もった。ドアには鍵をかけた上に、椅子《いす》をノブの下に立て掛けた。窓のカーテンには、隅々に画鋲《がびよう》を刺して、間違っても室内を覗《のぞ》かれないようにした。
父親のゴルフクラブ一式をベッドの脇《わき》に置いて横になった。
テレビの音が聞こえてくる。知らない者には、賑《にぎ》やかな談笑のように聞こえるかもしれない――と、無理にでもそう思いたかった。
こんなんじゃ眠れっこない――と思いながら、いつの間にか眠った。人間の恐怖は睡魔の敵ではないということか。
目が覚めたら、時計はとっくに八時を回っていた。リビングのテレビは、相変わらず音を出していた。朝のワイドショーのテーマ音楽が始まった。どうやら何事も起こらなかったらしい。
詩織はゴルフクラブを握りしめながら、おそるおそる部屋を出て、空気が冷え冷えとした階下に下りて行った。
結局、ふだんと何も変わらない朝であった。コーヒーを沸かし、トーストを焼き、フライドエッグを作った。
ワイドショーでは、例によって殺伐とした事件や、芸能人たちのくっついたの離れたのという、愚にもつかない話題を取り上げていた。詩織の父親の事件も、一つの局が取り上げたそうだが、詩織は幸運にも、それを観《み》ていない。
食事を終えたところに、浅見から電話が入った。無事の確認であった。
「でも、私がいなくなると、また侵入するんじゃないかしら?」
「そうですね、新しい鍵が出来るまでは留守にしないほうがいいかもしれないな」
「そんなこといっても、買物だってあるし、仕事の関係で出なきゃならないときだってあります」
「買物ぐらいなら大丈夫でしょうけどね。長い時間、留守になるようだと……今度はいつですか、お仕事の外出は?」
「明後日です」
「じゃあ、それまでに鍵を作ればいいでしょう。何なら、僕が頑丈なのを買って行ってあげましょうか」
「ええ、お願いします」
「それじゃ、明日にでもお邪魔しますよ。それと、買物に出られるなら、念のためにドアに封印をして出かけるといいな。ドアのいちばん下あたりに、細く切った紙を、そっと分からないように貼《は》っておくのです」
「分かりました。そうします」
さすがに、自分で探偵だなどと言うだけのことはある――と、詩織はいよいよ浅見に頼る気持ちがつのった。この前、刑事が来るからなどと嘘《うそ》をついて、浅見を追い出すような真似《まね》をしたことを、恥ずかしいと思った。
その一方で、添島が「信頼が愛情に……」などと言っていた、まさにそのとおりになりそうな予感がして、詩織の気持ちは波立ち騒ぐのであった。
ここしばらく、インスタント物ばかりの食事がつづいていた。十時を過ぎると、詩織は買物に出かけることにした。近くのスーパーまで、急げば三十分もあれば行って戻って来られる。
浅見に言われたように、玄関ドアの下のところに封印を施して出かけた。
門を出たところで、ふと、五十メートルばかり先の街角に立つ電柱の陰に、スッと身を隠したような素振りを見せた男がいることに気がついた。ただの気のせいで、実際は何でもないのかもしれない。しかし、神経が立っているせいか、そんなささやかな動きにも、ひどく敏感になっている。
詩織はしばらく門の前に佇《たたず》んで、考えごとをするようにしながら、電柱の辺りに注意を向けていた。
たしかに男がいた。こっちの様子を窺っているのかどうかまでは分からないけれど、こんな住宅街で、じっと佇んだまま動かないなんて、ずいぶん胡散《うさん》臭い。
(刑事かしら?――)
そうも思った。しかし、考えてみると、被害者の家を刑事が張り込むというのは、おかしな話だ。
詩織は、心臓の鼓動が聞こえてきそうなほど、ドキドキした。足の力が抜けてしまうのではないかと思った。
(負けるもんですか!――)
胸の中で、大声を出した。全身に勇気をみなぎらせて、男のいる街角のほうへ一歩を踏み出した。
精一杯の大股《おおまた》で、ドンドン歩いた。
男は狼狽したらしい。スッと電柱を離れると、背を向けて歩きだした。スラリとした長身で、ブルゾン姿がよく似合っていた。脚も長く、詩織の大股歩きでも追いつかない。みるみる距離が広がった。
(逃げる気ね――)
詩織は小走りになった。男は一瞬、振り返ったが、さすがに走りだすことはしなかった。むしろ、観念したように、足を運ぶスピードが鈍ったように思えた。
詩織は息を弾ませて男に近づいたが、追い越して顔を覗き込むわけにもいかず、男の少し後ろから、同じ速さでついて行った。
表通りに出たところで、横断歩道の信号が変わった。男は信号が赤になっているのを無視して、跳ぶように車道を渡って行った。すでに走りだしていた何台かの車がクラクションを鳴らし、運転手の一人は窓から顔を出して、「ばかやろー!」と怒鳴った。
かなり距離が離れてから、男はチラッと、詩織のほうを振り返り、ニヤッと笑ったように見えた。
(空き巣狙いはあの男かしら?――)
すぐに見えなくなった男の、ほんの一瞬だけ見せた横顔を心に刻みながら、詩織は歯がみをしたくなるほど、もどかしい気持ちであった。
(まさか、あの男が父を――)
スーパーへ向かう方角へ歩きだしたとき、その連想が頭をかすめた。しかし、そう思うより先に、無意識に(まさか――)と打ち消していた。あの、どちらかといえば優男のイメージの男が、冷酷な殺人を犯すなどとは、信じたくなかった。
その日の夕刻、思いがけなく、広島県警の川根部長刑事が部下と二人でやってきた。「お電話をもらってから、いろいろ考えましてね、その空き巣狙いがお父さんの事件と関係があるかどうか、一応、確認しておくことになったのです」
川根は開口一番、そう言ったが、なんだか妙に言い訳がましく聞こえた。
遠路はるばる捜査のために来たのだから、大きな顔をすればよさそうなものを――と、詩織は怪訝に思った。
「空き巣には入られるし、家の近くで変な人を見かけたし、心配なので、鍵を二重にすることにしました」
「なるほど、それはいいですな。ところで、伯父さんのほうには問い合わせをしてみたのですか?」
「ええ、しましたけど、やっぱり伯父の仕業なんかじゃありませんよ」
詩織は少し業腹な気持ちを込めて言った。
「そうですか、それはよかった」
川根は詩織の気持ちなどよりも、「容疑者」が一人減ったことを評価するような言い方であった。
「そうそう、それから、このあいだ浅見刑事局長さんのことを言ってましたな。あれは何だったのです?」
上目遣いに訊いた。明らかに刑事の目であった。
「いえ、べつに何でもありません。ただ、そういう名前を聞いただけです」
詩織はとぼけ通すことに決めた。浅見も警察との接触は避けたいらしいが、それよりも詩織自身、警察に介入してもらいたくない気持ちであった。
「それならいいのですがね」
川根は疑わしげな目を、仕方なさそうに外して、言った。
「じつは、あの時点では私は知らなかったのですが、あとで聞いたところによると、浅見局長さんの弟さんというのがいましてね。その人が探偵気取りで捜査にチョッカイを出すのだそうですよ。まあ、たしかに、たまには捜査の役に立つこともあるにはあるのだそうですが、警察としてはあまり歓迎できないもので……それに、局長さんも迷惑しておられるそうです。そんなわけですので、もしそういうことがあるのであればですね……」
「そんなことはありませんよ」
詩織は思わず声高に言った。まるで浅見に対する誹謗《ひぼう》中傷にがまんがならない――という口調だったから、川根も部下の刑事もびっくりしてこっちを見た。
「いや、それならいいのです」
川根は苦笑して、テーブルの上の書類入れを手にし、腰を上げかけて、ふと山積みされているトランプの本に目を留めた。
「ずいぶん沢山ありますなあ。トランプが趣味なのですか?」
「いえ、そういうわけじゃないですけど」
詩織は刑事を怒鳴ったことを後悔していたから、せめて「お土産《みやげ》」代わりにトランプの本の話をしておこうと思った。
「じつは、父が殺された日の朝のことですけど、父から電話がかかってきて、『トランプの本』のことを言っていたのです」
「トランプの本? ほう、それはどういうことです?」
川根はがぜん興味を示し、坐り直して、詩織の顔を覗き込んだ。
詩織は大輔の電話の内容と、「トランプの本」にまつわる母親の「遺言」のことを話した。川根は要所要所をメモしながら、「ふんふん」と聞いていたが、話を聞き終えると、心外そうな顔をして、言った。
「そういう重要な事実があるなら、どうしていままで話してくれなかったのです?」
「でも、そんなこと、事件と関係があるとは思えませんでしたもの。それに、父がその直後に殺されたわけでもなし、刑事さんたちだって、朝、父から電話があったことを話したとき、何も突っ込んだ質問をしなかったじゃありませんか」
「うーん……」
川根は仏頂面をした。
「まあ、たしかにそうおっしゃられれば、事情聴取に迂闊《うかつ》な面があったことも否定しませんが、しかしもっと早く教えてもらいたかったですなあ。ところで、この話はわれわれ以外の誰かに話しましたか?」
「えっ……いいえ……」
詩織は首を横に振ったが、われながら情けないほど、うろたえた。川根がその様子に視線を凝らしているのを感じ取って、この場から消えてしまいたかった。
「ふーん、そうですか……」
川根は明らかに疑わしげな目をして、不満そうだったが、さりとて、容疑者でもない人間に、それ以上の訊問《じんもん》をするわけにもいかないと思ったのか、深くは追及しなかった。
「それで、『トランプの本』なるものの正体は判明したのですか?」
「いえ、分からないんです」
詩織は、「トランプの本」を探して、結局、いまだに何も発見できないでいる状況を説明した。
もちろん、浅見に相談したことなどはおくびにも出さない。しかし、そうやって隠しごとをしていることで、またしても刑事に負い目を感じないわけにはいかなかった。
もっとも、詩織は刑事に説明しながら、気持ちのどこかには、こうして浅見と同じデータを警察に与えて、さて、どちらが先に事件の謎を解明してくれるのか、見きわめてみたい――という、少し狡猾《こうかつ》な茶目っけのある狙いがなくもなかった。
二人の刑事が引き上げたあと、すぐに電話がかかった。父親の会社の野木販売課長からだった。
「やっぱり転勤することになりました。行く先は福岡です。ご報告だけでもと思いましてお電話しました」
野木は努めて明るい声を出しているけれど、事実上の左遷に対しては、かなりのショックであるはずだ。
「たいへんですね」
「なに、しばらくは単身赴任で、大いに独身生活を楽しむつもりです。それに、九州は出張以外では行ったことがないので、あっちこっち見て歩きたいと思っています。お嬢さんもいちどいらっしゃいませんか。ご案内しますよ」
「ええ、ありがとうございます。でも、なんだか寂しくなりますね」
「ははは、そんなふうに言われると、こっちも滅入《めい》ってしまいますよ」
野木は笑おうとして、変に声が湿っぽくなった。
第三章『御花』からの便り
1
浅見は約束どおり、鍵を買ってきてくれた。一見すると、昔ふうの錠前のように、単純で見映えのしないデザインだけれど、ロックされる部分が、精巧なシリンダー錠になっている。
浅見は大工道具を使って、器用に鍵を取り付けた。
「プロが本気で開ける気になれば、これだって万全というわけじゃないですが、二重になっていれば、それだけで侵入する意欲を削《そ》ぐはずです」
「ありがとうございました」
詩織は深々と頭を下げて、最高度に感謝の意を表した。
「ほんとうに、浅見さんには何から何までお世話になっちゃって、お礼のしようがありません」
「ははは、何を言ってるんですか、お礼だなんて……」
浅見は、照れ臭そうに頭を掻《か》いて笑う。そういうざっくばらんなところが、詩織にはたまらなく魅力的に思えた。
詩織は浅見をリビングルームに入れて、コーヒーを供した。ダイニングテーブルの、いつも大輔が坐《すわ》っていた椅子《いす》に、浅見は腰掛けて、珍しそうに部屋の様子を見回している。
「昨日、広島から刑事さんが来ました」
「ほう、捜査に何か、進展でもあったんですかね?」
「いいえ、そうじゃなくて、空き巣のことを心配して来てくれたみたいです。それで、せっかくですから、トランプの本のこと、話しました」
「えっ、言ってしまったんですか?」
「ええ……いけませんでした?」
「いや、そういうわけじゃないけど……しかし、警察が首を突っ込んでくると、ややこしいことになりそうですね」
「でも、トランプの本て言っても、刑事さんには何のことかさっぱり分からないみたいでした。それに、浅見さんのことは黙っておきましたし」
「そう、それならいいけど……」
浅見はそう言いながら、浮かない顔をしていた。警察幹部の兄さんのことが、よほど怖いらしい――と、詩織はおかしかった。
その翌日、詩織はユニ・アカデミーに顔を出して、帰りに新宿で食事と買物をして、午後三時過ぎに帰宅した。
玄関ドアの下の封印は切れていなかった。まずそのことを確かめて、ほっとしながら、新しい錠に鍵を差し込もうとして、「はっ」と手を停めた。
錠の状態が家を出たときと違っていた。この前のキャリーのぬいぐるみのことがあったので、詩織は念のため、錠の向きを記憶しておいたのだ。
誰かが錠に触っている――。
詩織はもどかしく二重の鍵を開け、家の中に飛び込んで、浅見の移動電話の番号をダイヤルした。
「やあ、昨日はどうも」
のんびりと挨拶《あいさつ》する、浅見の声にかぶせるように、詩織は叫んだ。
「また来たみたいです、誰かが錠に触っているんです」
「えっ、何ですって?」
面食らっている浅見に、詩織は早口で状況を説明した。
「それで、家の中の様子はどうなんです?」
「それは大丈夫です。ドアの封印は切れていませんでしたから」
「ははは、なんだ、それじゃ空き巣に入られたわけじゃないのですね」
「でも……」
「まあまあ、落ち着いてください。錠が動いていただけじゃ、必ずしも空き巣かどうか分からないでしょう。押し売りか何かが、触ったのかもしれないし。かりにドロボーが来たのだとしても、侵入を諦《あきら》めたのだから、それで所期の目的は達したわけになるじゃありませんか」
「ええ、それはそうですけど……」
たしかに浅見の言うとおりであった。そのために二重に鍵をつけたのだ。
「これでもう、当分は心配しなくても平気ですよ。少し神経が過敏になっているみたいだから、これからは気持ちを安らかにするようにしないと、ノイローゼになってしまうかもしれない」
浅見の穏やかな口調を聞いているかぎりでは、何の心配もないようだけれど、それでは物足りない気分でもあった。
「でも、神経質にもなりますよ。家の周りを変な男の人がウロウロしているし」
「ほう、そんな男がいるのですか?」
「ええ、いるんですよ」
浅見の声がいくぶんトーンダウンしたのに満足しながら、詩織は言った。
「街角の電柱の陰に隠れて、こっちの様子を窺っていたんです。追い掛けていったら、ドンドン逃げて……」
「何者でした?」
「分かりません、最後にこっちを見て、ニヤリと笑ったりして、薄気味が悪いったらないんですから」
「それは刑事じゃないですか」
「刑事? まさか……だったら、なんだって逃げたりしたんですか?」
「それは分かりませんが、しかし、あなたのお宅に接近する人間の中に、犯人がいる可能性がありますからね、張り込んでいるのかもしれない。現に、おかしな空き巣が侵入したじゃないですか」
「あら、それだったら、空き巣の犯人そのものじゃないのかしら?」
「ん? ああ、そう、もちろんそうかもしれませんが……」
「そうですよ、きっとあの男が犯人ですよ」
詩織は、はじめて浅見を上回る着想を得たことで、誇らしげな口調になった。
「そうですかねえ、僕にはそうは思えませんが」
「どうしてですか?」
「いや、理由はないけれど、ただ何となく、ですね」
「そんなの変ですよ、あれが犯人ですよきっと。警察に教えてやったほうがいいんじゃないかしら?」
「それはまあ、あなたがそうしたいというのなら、止めはしませんが」
浅見は、最後まで、あまり感心しない口振りであった。
「ええ、そうします。こんど現れたら、中野《なかの》警察署に連絡することにします」
詩織は気張ってそう言った。
しかし、「おかしな男」はそれっきり姿を見せなかった。浅見に大見得《おおみえ》を切った行きがかり上、詩織としてはあの男に出てきてもらいたい。毎日、用事もないのに、まるでこっちが刑事か何かのように、近所をうろついたりしてみるのだが、なかなか接触できなかった。
浅見から電話で問い合わせてくるごとに、「まだです」と答えるのが、詩織はだんだん腹立たしくなってきた。
浅見にはそういう詩織の気持ちが手に取るように分かるのか、電話のたびに笑いをこらえている気配が伝わってくる。それがまた、詩織には面白くなかった。
しかし、ともあれ平穏な日々が流れていった。あちこちで桜の便りも聞かれるようになった。
父が勤めていた会社――成都《せいと》物産株式会社――の人事が新聞に載った。野木が言っていたとおり、新社長に添島|良三郎《りようざぶろう》が選任されるという記事であった。
――成都物産は二十八日、江崎信博《えさきのぶひろ》社長が会長に就任し、添島良三郎常務が社長に昇格する首脳人事を固めた。五月末の株主総会で正式に決める。添島氏は東京大学文学部卒、一九五六年に成都物産に入社以来、一貫して営業畑を歩み、七八年営業部長、八四年四月に常務取締役に就任。58歳。経済界では添島氏の抜擢《ばつてき》は異例のことといわれ、同氏の積極策が注目されている。――
記事の中には、添島の真面目《まじめ》くさった正面からの顔写真が出ていた。
季節のうつろいを反映するように、会社も社会もどんどん変わってゆく。父親の死のことなど、その大河の流れに没して、忘れ去られてしまうのだろう。
そういえば――と、詩織はあの野木がその後どうしているか、ふと思い出した。野木もまた、大河の本流からはずれた存在なのかもしれなかった。
詩織の想いに応《こた》えるかのように、その日の午後、野木からの便りがあった。
緑したたるような堀川の写真の絵はがきであった。川舟に客を乗せた船頭が、長い竿《さお》を操っている。
(水郷かしら?――)
そう思いながら裏を返すと、野木の走り書きのような文字の中に、「柳川《やながわ》」の二字が目についた。
――柳川に来ております。早いもので、福岡暮らしが始まってからひと月、お元気でしょうか。本日、仕事でこの地に参って、面白い物を発見しました。お嬢さんもきっと驚かれると思います。四月二日に上京しますので、その節、お邪魔させてください。お土産をどうぞお楽しみに。――
手紙の文章の下に、絵はがきの説明が印刷されている。「沖の端水天宮より殿の倉を望む」とあった。
「柳川か……」
詩織は呟《つぶや》いた。柳川のことは名前と川下りのことぐらいしか知識がない。福岡県柳川市という住所を見ても、どの辺にあるのか、頭の中の地図には場所が特定できない。詩織はじきに諦めて、頭を振った。
それにしても、野木が父のことを、いまだに大切に思っていて、その娘にまで気をかけてくれるのが、詩織には嬉しかった。
(お土産って、何なのかしら?――)
少しもったいぶったような書き方をしている「面白い物」とは、何なのか。野木が「きっと驚かれる」と書いているくらいだから、意表を衝《つ》くような品物にちがいない。
詩織は無意識にカレンダーに目をやった。四月二日は四日後に迫っていた。
だが、野木は現れなかった。
四月二日はずっと自宅で翻訳の仕事をしていたが、何の連絡もなかった。
もっとも、この日に上京したとして、当日は社用があって来られなかったのかもしれない――と思いやったけれど、三日になっても、四日になっても、ついに訪問はおろか電話さえくれなかった。
むろん、詩織はずっと家にいたわけではない。買物にも出たし、ユニ・アカデミーにも出かけた。しかし、野木の性格からいって、いきなり訪れることはないだろう。あらかじめ電話して来るだろうし、不在だったら、また電話をかけ直すはずだ。
(変なひと――)
何かの事情が生じて、来られなくなったのだろうか? それにしても電話ぐらいは――と、腹立たしくもあった。
社用の上京というのが、ふつう何日ぐらいの日程なのか知らないが、常識で考えて、五日も六日もということはないと思う。
詩織は思い悩んだあげく、成都物産に電話をしてみた。父の部下だった安田という男がまだ東京本社にいた。もっとも、そのころは販売課だったのが、いまは資材課に異動しているということであった。
「あ、部長のお嬢さん」
安田は懐かしそうに言った。
挨拶もそこそこに、詩織は野木のことを尋ねた。
「野木さんはもう、福岡のほうにお帰りになってしまわれたのでしょうか?」
「えっ?……」
安田は急に緊張した、不安そうな声になった。
「とおっしゃると、お嬢さんは野木さんと、東京で会われたのですか?」
「えっ? いいえ、そうじゃなくて、上京したついでに家《うち》にお見えになるっておっしゃってたものですから、心待ちにしていたのですけど……」
「そうですか、じゃあやっぱり、東京には来てないのかなあ……」
安田は独り言を呟いている。詩織の胸の中に、黒雲のような不安が広がった。
「あの、それって、どういう意味なんですか? 野木さんは東京には来られなかったのですか?」
「あ、失礼……それじゃ、お嬢さんはまだ何もご存じなかったのですね。じつは、野木さんが行方不明なのですよ」
「えーっ、行方不明!……」
詩織は悲鳴のような声を上げた。
2
安田の話によると、野木が行方不明になったのは、三月二十九日のことであるらしい。電話だから、あまり長く喋《しやべ》っているわけにいかないのか、会社側に箝口令《かんこうれい》をしかれているのか、安田は簡単に、事実関係を話してくれただけであった。
行方不明の理由についても、もちろん安田には「分からない」としか言いようがないらしかった。
「あの、こんなことを言ってはいけないのでしょうけど」と、詩織はしぜんに声をひそめて、訊いた。
「まさか、野木さん、父のようなことにはなっていないでしょうね?」
「ああ、いや、じつはそれをですね、私たちは心配しているのですよ」
安田の声も、極端に小さくなった。
「これはただごとではないのじゃないかってですね。すでに一週間も経っているわけでしょう。どうもねえ……」
電話の向こうで「安田君」と呼ぶ上司のものらしい声が聞こえた。安田は「はい」と応じて、「ではまたあらためて」と詫《わ》びるように言って電話を切った。
(野木さんが行方不明――)
詩織はしばらく受話器を握ったまま、放心したように身動《みじろ》ぎもしなかった。
いったい何があったのだろう?――
詩織は、テーブルの上の野木の絵はがきを手に取った。
消印の日付は三月二十七日になっている。配達されたのは二十九日の午後だった。まさにその日に、野木は行方不明になったということだ。
消印には不鮮明ながら「柳川」という文字が読み取れる。ということは、三月二十七日に柳川でこの絵はがきを買って、その場で文面を書いて送ったと考えられる。
――四月二日に上京します――
――お土産をどうぞお楽しみに――
このはがきを書いたとき、野木はよほど気持ちが弾んでいたにちがいない。ボールペンの文字が躍っている。
だのに、その二日後、野木は行方不明になったという。
そのわずか二日間のうちに、野木の身の上に、何があったのか――。
――面白い物を発見――
詩織の目はその文章に釘《くぎ》づけになった。
もはや永久に届けられることがなくなった「面白い物」とは、何だったのだろう?
不安と同時に、いいしれぬもどかしい気持ちに苛《さいな》まれながら、詩織はふと、これと似たような経験が、かつてあったことに気がついた。
(そうだわ、あのときとそっくり――)
そう思った。
大輔が広島のホテルから電話してきて、トランプの本のことを話して、結局、それっきりになってしまった、そのときの状況と、きわめて似通った体験であった。
(まさか――)
詩織はふいに浮かんだ思いつきを、慌てて打ち消して、またすぐにその疑惑に囚《とら》われてしまった。
野木の行方不明は、父親の事件とつながっているのではないだろうか?――
詩織の頭の中で、その着想はグングン肥大化して、抑えようがなくなった。
詩織は浅見の移動電話の番号をダイヤルした。
しかし、電話はかからなかった。録音された女性の声が「おかけになった電話は、電波の届かない場所におられるか、電源が入っていませんので、かかりません」と、繰り返し言っている。
少し躊躇《ちゆうちよ》してから、浅見の自宅の番号にかけ直した。
「はい、浅見でございます」
また例の小憎らしいお手伝いの声であった。その声を聞いただけで、詩織は電話を切ってしまいたい衝動にかられる。
「あの、寺沢と申しますが、光彦さんをお願いしたいのですけど」
「はい、少々お待ちください」
詩織はほっとした。どうやら浅見は自宅にいるらしい。だとすると、あの移動電話は自動車電話なのかもしれない。
ところが、電話口に戻ってきたお手伝いは「お待たせしました。あの、坊ちゃまは外出しておりますが」と言った。
(うそ――)と詩織は反射的に思った。お手伝いの口調に、嘘をついている気配を感じ取った。しかし、そうだという証拠があるわけでもなかったし、「嘘でしょう」とも言えない。こっちの思い込みかもしれなかった。
「あの、ご用件をうかがっておきますが」
お手伝いは、彼女としては珍しく、やや恐縮したような口調で言った。きっと、嘘をついたことへの後ろめたさを感じているにちがいない――と、詩織は勝手に思った。
「いえ、結構です、警察のほうに電話することにしますから」
詩織は硬い言い方をして、「えっ、警察ですか?」と驚くお手伝いの声をシャットアウトするように、電話を切った。
捨て科白《ぜりふ》みたいなことを言ったものの、少しも溜飲《りゆういん》が下がったわけではなく、あの意地悪なお手伝いに対する反感は、いまや怨《うら》みの段階に達してしまった。
(もう、あの電話になんか、絶対にかけてやらないから――)
詩織は受話器を握り直すと、広島中央警察署に電話をかけた。
川根部長刑事は捜査本部にいた。「やあ、どうも」と、あまり愛想のいい声ではなかったけれど、あのお手伝いの意地悪のあとだけに、それでも詩織は嬉しかった。
「あの、川根さんは、父の部下だった野木さんていう人が、行方不明になったこと、ご存じですか?」
「えっ、行方不明ですと? いつ、どこで、何があったのです?」
川根は驚きをあらわに、立てつづけに訊いた。「いつ、どこで、何が……」という、まるで警察の教科書どおりみたいな訊き方にもリズムがあって、詩織は好感が持てた。
「私もいま、会社の人に聞いたばかりで、詳しいことは分かりませんけど、三月二十九日からずっと行方不明なんだそうです。それで、もしかすると、父の事件に関係があるのではないかって思ったものですから」
「分かりました、あなたのおっしゃるとおりかもしれません。すぐに成都物産のほうに問い合わせてみます」
川根は緊張した声で、「知らせてくれて、どうもありがとうございました」と言って、こっちが何も言わないうちに、ガチャンと電話を切った。
詩織は川根の対応に満足できた。やはり野木の失踪《しつそう》は、警察にとって重大な出来事だった可能性があるということらしい。
それはそれとして、詩織には野木の失踪そのものとはべつに、心残りなことがあった。野木がはがきに書いていた「面白い物」とは何だったのか、それが分からずじまいになったことである。
野木が浮き立つような気持ちではがきを書いたであろうことは、「お土産をどうぞお楽しみに」という、あの文面から伝わってくる。
「柳川か……」
詩織は絵はがきの、のどかな川下りの風景に見入った。
ときは春、この絵はがきとそっくりの、やわらかな柳の緑が水面に美しく映えていることだろう。
「行ってみようかしら……」
絵はがきを何度も引っ繰り返して、詩織はしだいに気持ちが、柳川への旅立ちに傾斜してゆくのを感じた。柳川へ行けば、野木が発見した「面白い物」がみつかるかもしれない――とも思った。
それに、行方不明になった野木の消息も、福岡へ行けば、何か分かるだろう。
詩織は念のために、浅見に連絡を取ってみることにした。しかし、いぜんとして浅見の移動電話は応答しない。さりとて、あのお手伝いのいる自宅のほうには、死んでもかけたくはない。
出発は明日の朝の列車――と決めて、詩織は旅の支度にかかった。それまでに浅見と連絡が取れればいいし、もしだめならだめで、それは仕方のないことだ。
その夜、遅くまで浅見に電話をかけつづけた。そのつど、単調な女性のアナウンスで、「おかけになった電話は……」とつれなく答える。
翌朝、出がけに最後の試みのつもりで、電話をかけてみた。
浅見はいなかった。
東京駅まで行って、さんざん迷ったあげく、ついに決心して、プラットホームの公衆電話から浅見の自宅のほうに電話した。
やっぱりまた、あの因業なお手伝いが電話に出た。
「あの、坊ちゃまはただいま外出中でして、寺沢様からお電話がありましたら、ご用件を承っておくようにと言いつかっております」
いくぶん申し訳なさそうに言った。それにしたって、どうして電話をしてくれなかったのか、腹が立った。
「じゃあ、これから柳川へ行くとお伝えください」
「ヤナガワですか?」
「そうですよ、福岡県の柳川です」
「あの、何をしにいらっしゃるとか、そういうことは……」
「それは……それは、とても大切なことで行きましたとだけ、お伝えください」
詩織は、この気詰まりな相手との会話を、これ以上、一秒もつづける気にはなれなかった。
博多行きの「ひかり」は指定席は満席だったが、自由席にはかなりのゆとりがあった。ウィークデーの早い時刻、列車の利用客はほとんどがビジネス関係の人らしい。一様に新聞を広げ、じっとおし黙ったままだ。目をつぶると、ほかには誰も乗客がいないような錯覚におちいる。
父もあんなふうに、しかつめらしい顔をして、日本中を飛び回っていたにちがいない。
そう思ったとき、詩織は父親の最後の出張先が福岡と広島だったのを思い出した。
大輔は、福岡支社から広島支社へ移動して、その翌日の晩、殺されたのだ。
野木もまた、福岡で行方不明になった。
その二つの事件に、「福岡」が共通の要素として関係しているのだろうか?
生意気に、浅見のように探偵を気取って、自分なりに推理してみようと思ってみたけれど、詩織は、父親と野木の事件に相関関係を見出《みいだ》すことなんか、とてもできっこない――と、すぐに諦めた。
列車の中で、詩織は柳川について、多少、付け焼き刃的だけれど、ガイドブックをひもといた。
福岡県柳川市は、立花《たちばな》氏十二万石の城下町だそうだ。北原白秋《きたはらはくしゆう》、檀一雄《だんかずお》などの出身地でもある。野木の絵はがきにあった、掘割の川下りが何よりも有名で、柳川観光の目玉になっている。
そのほかの見所は、白秋の生家、立花家の別邸を改築した料亭旅館「御花《おはな》」、踊り山車《だし》の「どろつくどん」で知られた三柱《みはしら》神社等々がある。
食べ物はうなぎの「セイロ蒸し」というのが名物。あとは有明海《ありあけかい》のムツゴロウやワラスポ、タイラギなどの珍味。
ガイドブックを読むかぎりでは、とにかく川下りと北原白秋に尽きるような、鄙《ひな》びた観光地であるらしい。おなかのすいた詩織は、うなぎのセイロ蒸しというのに挑戦してみたかったが、それ以外には、わざわざ東京から出かけてゆくほど、魅力的なところとも思えなかった。
新幹線も博多までとなるとさすがに遠い。昨夜、遅くまで起きていて、けさは早かった詩織は、静岡を過ぎるあたりから、なんどとなくトロトロと眠った。
3
博多からは西鉄大牟田《にしてつおおむた》線の特急に乗って約五十分で西鉄柳川に着く。
駅を出ると、平坦《へいたん》な土地にさして高い建物もない、昼下がりののどかな街であった。
(いったい、野木さんはここで何を発見したっていうのかしら?――)
駅頭に佇んで、詩織はしばらく明るい陽射《ひざ》しを見上げていたが、この平和そのもののような街に、「失踪事件」の原因が潜んでいるとは、考えられない気がした。
案内表示に従ってゾロゾロ歩く観光客についてゆくと、掘割を渡った橋のたもとに、川下りの乗船場があった。川下りといっても、どっちが上流でどっちが下流なのか、判断できるほどの流れはない。淡く緑がかった水が、波もなく、ゆったりと岸辺の柳を映している。
船縁《ふなべり》に原色のブルーで波模様を描いた小舟が、六、七|艘《そう》ばかり行儀よく並んでいる。船頭の指示に従って数人ずつの客がそれぞれの舟に分散して乗った。
客のほとんどはグループ客だが、詩織のような独り客も少なくはない。ことに女性の独り客が多いのは、心強かった。
客たちは舟の中央に細長く置かれたテーブルを挟んで、向かい合いに坐る。詩織の前には、やはり独り旅をしているらしい女性が坐った。詩織よりはいくぶん年長だろうか。あざやかな山吹色のコートを着て、清楚《せいそ》な感じのする女性だった。
詩織の乗った舟の船頭は、若くて、菅笠《すげがさ》の下の日焼けした顔は、まぶしいほどに精悍であった。お仕着せの白い法被《はつぴ》に黒帯をキリリと締めて、威勢よく、長い竿を水中深く突くと、舟はスイッと船着き場を離れた。体に何のショックもなく、やわらかに水面を切って舟は進む。
船頭はお世辞にも流暢《りゆうちよう》とはいえぬ、朴訥《ぼくとつ》な口調で、柳川の歴史やこれから先の水路の風景について、一席ぶった。それから「わがふるさと柳川が生んだ、大詩人・北原白秋先生の詩を読ませていただきます」と、顔に似合わず、優しい声で詩を諳《そらん》じた。
金の入日に繻子《しゆす》の黒――
黒い喪服を身につけて、
いとつつましうひとはゆく。
海のあなたの故郷は今日も入日のさみしかろ。
…………
きっとこの青年も詩の好きな文学青年なのだろう。都会の塵《ちり》にまみれて戦う道よりも、こののどかな街で舟を漕《こ》ぎ、詩を楽しむほうが、どれほど人間らしいかしれない――と、詩織は彼の生き方が羨《うらや》ましかった。
船頭は、興がのってくると、いい喉《のど》で、この土地の民謡らしきものを聞かせた。
桜の季節は過ぎたけれど、水辺にはいたるところにさまざまな花が咲いて、客たちの目を楽しませてくれる。
もうそろそろ二時を過ぎるころである。ころあいの気温とゆったりした舟の揺れとが、眠気を誘った。
街の中を行く掘割なのだから、当然のことには違いないのだけれど、左右の風景は民家の裏庭そのものといってよかった。植え込みのある庭はまだしも、ときには建物が掘割の岸辺に迫っていて、住む人の息づかいまでが伝わってきそうなところもあった。
船頭の話によると、むかしは、各家々に船着き場があって、そこから舟で往来をしたものだそうだ。
「婚礼舟ちゅうのがあったとです」
船頭は懐かしそうに目を細めて言った。いまはほとんど観光化してしまったが、かつては本物の花嫁を乗せた舟が、自宅の船着き場から舟に乗って、お婿さんの待つ家の船着き場までゆられて行ったという。
途中にガラス張りの小屋のような建物があって、立派なカメラがこっちを向いている。舟はその前で停まり、記念写真を撮った。希望者はあとで注文すると、自宅のほうに写真を送ってくれるのだそうだ。
川下りが終わりに近づいたころ、右手に高い塀をめぐらせた屋敷が見えた。「ここが柳川藩主・立花家の別邸だったところで、現在は『御花』とよばれています」という趣旨の説明があった。
「柳川観光の目玉は、一に川下り、二に『御花』、三、四がなくて、五にうなぎセイロ蒸しちゅうところですかな」
船頭はおもしろおかしく、節をつけて言った。
五十分という時間はあっというまに過ぎてしまった。何の変哲もない単調な風景のようでいて、乗客を飽きさせることがない。変化が多過ぎる世の中に生きていると、こういう何もない単調さに、ほっとするものを感じるのだろう。
終点の船着き場は、ちょっと倉敷《くらしき》の美観地区を思わせる、まるで時代劇のセットのような雰囲気であった。
石組みの岸壁に上がると、目の前にうなぎ屋の看板が見えた。掘割を囲むように、名物のうなぎのセイロ蒸しを食べさせる店が何軒も並び、あたり一面、うなぎを焼く芳しい匂《にお》いが立ち込めている。土産物屋を兼ねている店が多い。詩織はその一つの、格子窓が黒光りしていて、どことなく由緒ありげな店を選んで入った。
テーブルについて、注文取りのおばさんに「セイロ蒸しを」と言ったとき、詩織はふと、右の頬《ほお》に突き刺さるような視線を感じて、振り返った。
(はっ――)と思って、すぐ視線を元に戻した。
あの男であった。鷺宮の街角に潜んで、じっとこっちの様子を見ていた、あの胡散《うさん》臭い男であった。
男はまるで詩織がここにいることを、当たり前のような顔をして、微笑さえ浮かべた目で、こっちを見つめていた。
詩織の心臓は、これまで経験したことのないスピードで鼓動しはじめた。周囲に大勢の客がいなければ、詩織はすぐに逃げだしていたにちがいない。
うなぎが運ばれてきた。セイロ蒸しというのは、うな重のような容器にうなぎの蒲焼《かばや》きとご飯を二層に重ねて、セイロで蒸したものであった。あつあつのをフーフーしながら食べる。うなぎは柔らかく、重箱の隅々まで、ご飯にうなぎのうま味がしみこんでいる。
空腹だし、当然、美味《うま》いはずであるのに、詩織はその豊かな味を楽しむ気分になりきれない。意識の片側には、常にあの男のことがひっかかっていた。いや、実際、あの男の目はまだ右の頬に突き刺さったままにちがいないのだ。
ばかげたことだけれど、うなぎを食べるのに、知らず知らずのうちに男の視線を意識したポーズを作っていることに、詩織はふと気がついて腹が立った。
(何よ、あんな男ぐらいで――)
考えてみると、あの男がほんとうに悪い人間なのかどうかすら分かっていないのだ。むろん、実害なんか、まだ何もない。少し神経質すぎる自分に対しても腹が立った。
そう思ったらゆとりが生まれた。平然とした態度を装って、男のいるテーブルを振り返った。
(あら?――)
男はいつのまにか消えていた。何のことはない、詩織はずっと男の虚像に向かって、あれこれと思い悩んでいたことになる。
そう思ったとき、前の席にお客が坐った。
「ここ、いいですか?」
やわらかなバリトンであった。
「ええ、どうぞ」
顔も上げずに、詩織は応え、うなぎセイロ蒸しの箸《はし》を置いて、お茶を手に取った。
客は椅子を引いて腰を下ろし、通りかかったおばさんに「僕にもセイロ蒸しを一つ」と言った。
その声につられるように、詩織は視線を上げて、思わず「あっ」と声を発した。
あの男が目の前にいた。
三十歳ぐらいだろうか、スリムなボディに、白っぽいラフなブルゾンを着ている。面長で白皙《はくせき》の顔の中に、ぬいぐるみのキャリーのような鳶色の眸が二つ、いたずらっぽく、こっちを見ていた。
「やあ、どうも」
男は微笑《ほほえ》んで、ヒョコッという感じで頭を下げた。
つられるように、会釈を返してしまってから、詩織はまた腹が立った。しかしもう、恐ろしい気持ちはなくなっていた。近くで見て分かったのだが、そういう圧力を感じさせない陽気さが、この男にはあった。
「独り旅ですか?」
男は訊いた。
「ええ、そうですけど」
「度胸がありますねえ」
「あら、そんなの関係ありませんよ。独り旅の女性って、意外に多いんじゃないかしら。私も一人が好きです。一人だと誰にも気兼ねしなくてすむでしょう。食べる物も、泊まるところも、見たい場所も、勝手に決められるし」
「それはたしかにそのとおりですが、怖いことはないんですか?」
「怖くはないけど、スリルはありますね。男の人が近寄ってくることもあるし、そういうのって、いやだなと思うといやだけど、スリルを楽しむ気になれば、それはそれで面白いでしょう」
「というと、僕の出現も楽しまれているってことですか?」
「さあ、それはどうか、まだ分かりません。あの、お名前お訊きしてもいいですか? 私は寺沢といいます、寺沢詩織です。もっとも、あなたはすでにご存じなのかもしれませんけどね」
「ははは、いや、僕は何も知りませんよ。僕の名前は木下《きのした》です。木下|陽一《よういち》といいます。えーと、職業は……」
「あ、いいんです、身元調査はそこまで。それ以上は立ち入らないし、立ち入ってもらいたくありません。旅先でのことは現実の生活に引きずらない主義なんです」
「ああ、それはいいですね、僕もその主義に宗旨変えします」
「そうですね、そうお願いしたいものです。というわけで、これ以上はもう、私に付きまとうのはやめてください」
「は? いや、僕は何もあなたに付きまとったりはしていませんよ。さっき、船着き場のところで、たまたまあなたを見掛けたのと、たまたま、僕もうなぎを食べたかったことが一致したにすぎません。もちろん、その偶然には感謝していますけどね」
「でも、鷺宮では私を見張っていたんじゃありませんか?」
「ああ、あれはそう思われても仕方ありませんけどね」
木下陽一はあっさり認めた。
「やっぱりそうじゃないですか。いったい何なのですか? なぜ私をつけ狙ったり……そうだわ、空き巣に入ったのもあなたなのでしょう?」
「空き巣? それはひどいなあ。僕はそこまでセコいことはしませんよ」
「そう、たとえ人を殺すことはあっても、ですか?」
「人を殺す……」
木下は急いで周囲に気を配った。
「そんな過激な言葉は、この店にはふさわしくないですよ」
木下のうなぎが運ばれてきた。たしかに彼の言うとおり、食べ物の店で人が死んだ話はすべきではない。
詩織はこれを汐《しお》に席を立とうとして、バッグから財布を出しかけた。
「あ、そうそう、今日の泊まりはやはり御花ですか?」
木下はうなぎの蒲焼きを口に入れながら、視線だけを上げて訊いた。
「御花って、旅館のことですか?」
「まあ、旅館ていえば旅館だけど……寺沢さんはそれ、ガイドブックで読んだんでしょう、『御花』のことを料亭旅館て書いてある。僕も最初、あの本で読んだけど、あれ、ちょっと古い感じですね。さっき見てきたばかりですが、ほんとうは、どちらかというと、ホテルっていうイメージかな。部屋とか庭とかは日本風だけど、ほかのロビーなんかは完全にホテル風で、とてもいい。ん? というと、あなたはお泊まりは『御花』じゃないんですか?」
「ええ、まだどこも決めないできたんです。泊まるところがなければ、福岡に戻ればいいと思ったものですから」
「しかし、まだ柳川に来たばっかりでしょう。柳川にはまだまだ見るところが沢山ありそうですよ。もし泊まるのなら、ぜひ御花にしなさい」
「そんなこと、あなたに命令される義理はありませんよ」
詩織は冷たく言って、立ち上がった。
「あははは、失礼しました」
木下陽一は照れたように笑った。
その木下を尻目《しりめ》に店を出たものの、詩織は最初から御花に泊まるつもりで、すでに宿泊の予約をしていた。旅の雑誌で御花の評判を知っていたし、いまさら、この街でほかにいい旅館を探す自信もないし、第一、そんなエネルギーが残っていなかった。
うなぎ屋を出ると、御花はほんのすぐそこにあった。広大な敷地の中に建つ、まるで東京・赤坂《あかさか》の迎賓館《げいひんかん》を思わせる西洋館が、かつての立花家の別邸だという。むかしの殿様・華族の暮らしがどんなに豪勢であったかの象徴のようなものだ。
その向こうに新館ビルが建っている。こっちのほうは、木下陽一が言ったとおり、東京のホテルと変わらない、瀟洒《しようしや》な近代建築であった。
ガイドブックによれば、ほかに、いちどに三百人ぐらいは楽に食事ができそうなレストランの建物や、松濤園《しようとうえん》とよばれる庭園の池に面した、古い日本建築の料亭もある。鄙びた田舎街《いなかまち》かと見くびっていた詩織が、度胆《どぎも》を抜かれるほどの規模だ。
詩織は念のため、フロントで、木下陽一という人が泊まっていないかどうか調べてもらった。しかし、宿泊者の中に木下という名前はなかった。
客室は和洋折衷の広々としたツインルームで、ここに一人で泊まるのはもったいないくらいであった。
窓から見下ろすと、松島湾《まつしまわん》を模したという池を中心にした、みごとな庭園が広がって、そこに無数といってもいい水鳥が羽根を休めていた。詩織は旅の本来の目的を忘れて、ほうっと気抜けしそうな、穏やかな気分になっていった。
4
部屋でひと休みすると、詩織は御花の館内を見学することにした。
ホテルのパンフレットと係員の説明によれば、『御花』のオーナーは、柳川藩主立花家の十六代目にあたるのだそうだ。
立花家は源頼朝《みなもとのよりとも》の末裔《まつえい》で、第二代の左近将監宗茂《さこんのしようげんむねしげ》というのは、豊臣秀吉《とよとみひでよし》に激賞された猛将として、歴史に名を刻むほどの人物である。明治維新後も、立花家は伯爵として当地に君臨した。
白亜の壁、緑の屋根、赤い絨毯《じゆうたん》を敷き詰めた旧館には、その立花家の歴史を物語る宝物のかずかずが展示されていて、ちょっとした博物館の雰囲気がある。
詩織は係員の説明を聞きながら館内をひと巡りし、そのあと、庭園に出た。「松濤園」と名づけた庭は、典型的な回遊式庭園で、松を繁《しげ》らせた築山や巨石を配した池の設計には、日本特有の造形の美しさがあふれている。池の面にはマガモが群れ泳いでいて、人が近づいても逃げようとはしなかった。
しばらく、ぼんやり池を眺めてから、詩織はふたたびロビーに戻った。朝から動きづめで、さすがに足が重く感じられた。そろそろ夕刻だが、さっき食べたうなぎセイロ蒸しが効いて、当分、食欲は湧《わ》きそうにない。
ロビー脇の喫茶室へ向かいかけたとき、その方角から連れ立って歩いてくる、二人の男の顔を何気なく見て、詩織はギョッとして立ち止まった。
男の一人がすぐにこっちに気づいて、詩織と同じように驚いて立ち止まった。
「あっ、あんた、寺沢さん……」
男は広島県警の川根部長刑事であった。もう一人はたぶん川根の部下らしい。
「こんにちは」
詩織はとりあえずお辞儀をした。
「参ったですなあ、こんなところにまでやって来たのですか」
川根は言葉どおり、うんざりした顔で言った。
「だって、野木さんが行方不明なのは、私にとっても心配ですもの」
「それはそうかもしれませんがね。しかしあんた、どうして柳川に来たのです? 野木さんがいなくなったのは、福岡市か、あるいは東京へ向かったあとか、どっちかですよ」
「あら、でも、刑事さんたちだって柳川にいらしたじゃないですか」
「それはあんた、警察としては、ひととおりは……いや、こっちのことはともかく、あんたがここに来た理由は何なのです?」
川根は、「とにかく話を聞かせてもらいましょう」と、出てきたばかりの喫茶室に逆戻りして、隅のほうのテーブルに、詩織を押し込んだ。ことと次第によっては、容疑の対象にしかねないとでもいうような、怖い顔つきであった。
ウェートレスに詩織だけがコーヒーを頼んで、すぐに話しだした。
「私は野木さんから、はがきをいただいて、それが柳川からのものだったから、何となく来てみただけです」
「はがき?」
「ええ、これです」
詩織はバッグの中にずっと入れてある、野木からの絵はがきを取り出して、川根に渡した。
「何だ、これはここで売っている絵はがきじゃないですか」
「あら、そうなんですか?」
詩織は川根の手元を覗き込んだ。
「ほら、ここに『御花』と印刷されているでしょうが」
川根が示した場所を見て、詩織は「あら、ほんと」と間抜けな声を出した。絵はがきの宛名《あてな》を書く部分と通信文を書く部分とを二分する横のラインに、草書体で『御花』と印刷されてあるのを、詩織は何かの模様かと思って、見過ごしていたのだった。
「それよりあんた、こんなはがきを貰《もら》っているのに、どうして黙っていたんです?」
川根は面白くなさそうに言った。
「だって、刑事さんに電話したとき、何も聞かないで、そそくさと電話を切ってしまったじゃありませんか」
詩織も負けずに仏頂面で言った。
川根は「うーん」と唸《うな》った。
「まあ、そのことは不問にしましょう。しかし、このはがきは、いうなれば野木さんが失踪する直前に出したものですからなあ。じつに重要な証拠物件になる可能性があるでしょう」
「それはまあ、そうですね」
「それに、この『面白い物を発見しました』という、これは何ですかね?」
「それなんです。ほんとは、それを知りたくて柳川に来てみたんです。私を驚かせようというくらいですから、よほど意外性に富んだ物だったと思うんですよね」
「それはまあ、そうでしょうなあ」
川根部長刑事は、はがきを詩織に戻して、難しい顔をして考え込んでしまった。
「あ、そうそう、それから、刑事さんに話した、うちの近くをうろついていたっていう、胡散臭い男の人と、さっきうなぎ屋さんで出会ったんです」
「えっ、ほんとですか?」
川根は部下の刑事と顔を見合わせた。
「ほんとです、間違いありませんよ。だって、目の前の椅子に坐って、うなぎを注文して、話したんですもの」
詩織はムキになって言った。
「ふーん、何者でしょうかなあ……」
川根はまたまた厄介なことになりそうだ――と言わんばかりに、腕組みをした。
「名前は聞きました」
「えっ、名乗ったのですか?」
「ええ、木下陽一っていうんだそうです」
「木下……なるほど、そうですか、そういう名前でしたか」
「刑事さんには、何か心当たりはありませんか?」
「は? いや、もちろんありませんよ、そんな名前には」
川根はそっぽを向いた。その様子に、なんとなく、じつは知っているのに、隠しているような気配が感じられて、詩織は妙な気がした。
「まさかその人、殺人犯人じゃないのでしょうね?」
詩織が言うと、川根は「とんでもない」と首を振った。
「警察はそういう人物のことは関知しておりません。だいたい、犯人がこんなところをウロウロしているわけがないでしょう」
「それはそうですけど……だけど、だったら何でうちの近くを見張っていたり……あ、そうだわ、刑事さんのお仲間じゃありませんか?」
「じょ、冗談じゃない、違いますよ、そんな人は警察にはおりません」
川根は断固として否定した。
「それじゃ何者なのかしら? 気味の悪い、得体の知れない人だわ。もしかすると、麻薬のバイニンとか、青ひげみたいな女たらしとかじゃないですか?」
「まさか……」
川根は若い女性の想像力を、持て余したように、苦い顔になった。
「そうですよねえ、あの人、そんなふうには見えませんでした。もっとも、人は見掛けによらないっていうから、意外や意外ってこともあるかもしれない。そうか、ああいう人に多いのは詐欺師かもしれませんね。それも結婚詐欺師だとか……」
「いいかげんにしてくれませんかなあ」
川根はついに呆《あき》れ返って、立ち上がった。「とにかく、若いお嬢さんは殺人事件や失踪事件に関係しないで、さっさと東京に帰ってくださいよ。事件捜査は遊びじゃないんだから」
「だったら、刑事さん、あの男の人、訊問してみてくださいよ。でないと、私は心配で夜もろくろく眠れませんよ」
詩織は二人の刑事を見上げて、言った。
「分かりました。なるべくあなたのご要望に添うようにしますので、今後は一切、余計な手出しはしないように。よろしいですな」
一人取り残された詩織は、ゆっくりコーヒーを啜《すす》った。
まったく、警察なんて頼り無い感じであった。あの浅見のほうがどれだけ頼り甲斐《がい》があるかしれやしない。
(それにしても、あの人、いまどこでどうしているのだろう?――)
詩織はむしょうに浅見に会いたくなった。これは恋の兆候なのかもしれない。少なくとも、いま、気持ちの中でいちばん身近に感じる男性といえば、浅見光彦ということになりそうだ。
詩織は急に寂しさが込み上げてきた。独り旅の感傷のせいばかりでなく、父親が死んでからの長い緊張の日々への反動のように、詩織は誰かの愛情に浸りたかった。
部屋に戻り、バスを使い、ベッドに横になってテレビを見ているうちに、少しまどろんだ。
目覚めたら七時を回っていた。うなぎセイロ蒸しもようやく消化したらしい、若い胃袋は食料の補給を要求していた。
レストランで軽く食事をして、部屋に戻ると、パジャマに着替えて、九時前のローカルニュースから、テレビをつけた。父親の事件以来、ニュースを見る習慣がついていたし、野木の消息につながるような、何かの情報が流れることも期待した。
そして――テレビニュースは、いくつかの地元の政財界に関係する話題を取り上げてから、かなり気になるニュースを報じた。
――きょうの午後五時過ぎごろ、朝倉《あさくら》郡|宝珠山《ほうしゆやま》村古城原付近の山林で、男の人が死んでいるのを、付近の住人が発見、警察に届けました。この男の人は年齢は三十歳から四十歳程度、身長が一メートル六十七、八センチ程度の中肉中背の体型で、死後一週間ほど経過しているものと見られます。死因その他について警察で調べておりますが、後頭部に打撲痕があり、何らかの事件に巻き込まれて殺された可能性もあるものとみて、警察は捜査を開始しました。なお、この男の人は身元を示すような物を所持していないため、現在までのところ身元は不明ですが、警察では、先月末から行方不明になっている福岡市の会社員との関連があるのかどうか、調べることにしています。――
(野木さんだわ――)
詩織は直観的にそう思った。そう決めつけていい証拠は、もちろん何もないけれど、そうでないという証拠のほうが、はるかに少ないと思った。
背中がまるで湯冷めでもしたように、スーッと寒くなった。
(野木さんが殺された――)
それも、詩織にはがきを書いて、何か「面白い物」を発見した――と、喜び勇んだような筆致で告げてきた直後の出来事だ。
父親の大輔のときと、あまりにもよく似ているような気がして、そのことも詩織を震え上がらせた。
詩織はいても立ってもいられない気持ちにかられて、浅見に電話をかけた。
こんどこそいてちょうだい――と、祈るような想いが通じたのか、受話器がはずれる音がして、「はい」という、重たい口調で浅見は電話に出た。
「寺沢です、ああ、やっといてくれたんですね」
詩織は泣きそうな声で言った。
「やあ、あなたですか。どうしました?」
「いま、柳川に来ています」
「柳川?……」
「ええ……あ、じゃあまた、お手伝いさん、伝えてくださらなかったんですね」
「え、いや、彼女は福岡へ行ったと言っていたものだから。そうか、福岡県の柳川だったのですか。しようがないなあ……」
「そのことはもういいんです。それより浅見さん、大変なことが起きているみたいなんです。父の会社――成都物産の野木さんていう人が、行方不明になっているんですけど、いまのニュースで、それらしい人が変死体で見つかったんですって」
「ほんとですか? しかし、こっちのニュースではそんな話は出ませんでしたが?」
「それはたぶん、福岡県のローカルニュースだからじゃないでしょうか」
「なるほど……えっ? しかし、あなたはどうして柳川に行かれたのですか?」
「だから、そのことでずっと浅見さんに電話をかけつづけていたんです。だのに、ぜんぜんいらっしゃらないんですもの」
詩織はもどかしさで、ほんとうに泣きそうになった。
「ああ、電話はずっと車に置きっぱなしで、このところ車に乗る機会がなかったですからね。出版社の編集部で缶詰状態で仕事をしていたんです。そうですか、それは申し訳ないことをしました」
「それに、鷺宮で見掛けた怪しい男の人と、柳川でバッタリ出会ったんです。向こうから話しかけてきて、偶然だなんて言ってましたけど、なんだか私を尾行《つけ》てきたような気がしてならないんです。それやこれやで、恐ろしくて……」
「話しかけてきたって、いったい何者だったのですか? その男は」
「名前は木下陽一って名乗りました。でも素性は分かりません。そんなに悪い人間にも思えないのですけど、何だか詐欺師みたいだし、薄気味が悪くて」
「で、いまはどこにいるのですか」
「その人ですか? 私ですか?」
「ん? いや、両方です」
「私は柳川の御花っていうホテルに泊まっています。でもその木下っていう人は、ここには泊まっていません」
「そうですか、それなら大丈夫だと思いますが、身辺には充分、注意したほうがいいですね。東京にはいつ帰ってきますか?」
「明日のつもりでしたけど……でも、ひょっとすると明後日になるかもしれません。あの、浅見さんはこっちには来られないのでしょうか?」
「うーん、僕はいまのところ、ちょっと動けないのですが……まあ、しかし、できるだけ努力してみます。連絡は御花にすればいいですね?」
「ええ、明日の午前十時ごろまでは、少なくともここにいるつもりです。でも、こんなにいろいろ変転するんですもの、明日はどうなるか、ほんとのところ、分かりません」
「ははは、そんなに悲観的にならないで、頑張ってくださいよ」
浅見は元気づけるように笑って、電話を切った。こっちの深刻さが浅見に伝わらなかったようで、詩織のもどかしい想いは、いっそう募るばかりだった。
第四章 思い出探し
1
その夜は、詩織はなかなか寝つかれなかった。ようやく眠ったと思ったとき、ドアをノックされ、マジックアイから覗《のぞ》くと、野木が立っていた。
「あらっ、無事だったんですね」
詩織は思わずドアを開けた。
だが、目の前にいて、ニヤリと笑ったのは、あの木下陽一だった。
詩織は叫び声を上げようとしたが、喉がこわばって声が出ない。木下は詩織を押すように手を伸ばして、部屋に入ってきた。
パジャマ姿の詩織はベッドに倒れ、毛布の中に潜り込もうとしたが、慌てれば慌てるほど、シーツが手足に絡まって動きが取れない。背後には木下の手が迫ってくる。その手を払った瞬間、何かに腕が当たったらしく、激痛がはしった。
「痛っ……」と悲鳴を上げたとたん、目が醒《さ》めた。
暗い部屋だった。詩織は急いでルームライトをつけた。
木下の姿はない。夢は夢だが、腕の痛みは本物だった。夢中で腕を払ったのは現実のことであったらしい。
詩織は腕をさすりながら、こんどは電気をつけたまま、横になった。それからも何度となく悪夢に悩まされつづけた。翌朝は疲れ果てて、九時過ぎまで眠りこけていた。
目覚めて、すぐにドアの下に挟みこまれている新聞を拾ってきた。
死体発見の記事は、昨夜のニュースのときと似たりよったりの内容だった。朝刊の締切の段階では、まだ身元が明らかになっていなかったのかもしれない。
昨日、川根たちがどこに泊まっているのかを聞きそびれてしまったことを、詩織は悔やんだ。念のためにフロントに訊《き》いてみたが、やはりここには宿泊していなかった。警察官の出張費では、こんなに立派な宿には泊まれない規則なのだろう。
しかし、考えてみると、かりに、発見された死体が野木のものであったところで、詩織にはどうすることもできないのであった。それに、その死体が野木であることは、もはや確かめるまでもないことのように思えた。
こうなったら、ジタバタしても始まらないとハラをくくることにした。
詩織は朝食をとると、ホテルの売店で、昨日、川根が言っていたような絵はがきがあるかどうか、探してみた。
土産品コーナーはかなり広く、充実していた。有明海の珍味もちゃんとある。絵はがきもいろいろあった。その中の『御花物語』という、いわば絵はがき帳とでもいうような、十枚一組に綴《と》じられた絵はがきが、どうやら野木が出したものらしい。御花に宿泊したことを記念するには、またとないお土産だ。
詩織はその絵はがきを買って、売店の女性に訊いてみた。
「柳川では、まずどこを見学すればいいのかしら?」
「それは、まず北原白秋先生の生家へおいでになられるのがよろしいでしょう」
女性は街の案内図を渡してくれた。白秋の生家は昨日の船着き場から、ほんの少し行ったところだった。
チェックアウトを済ませて、詩織は案内図にしたがって白秋の生家へ向かった。昨日の船着き場のほとりを歩き、沖端《おきのはた》という、うら寂しい漁師町の、小さな河口のような船溜《ふなだ》まり沿いの道を行く。
野木もこの道を通ったのだろうか――と、詩織は想った。「九州は出張以外に行ったことがないので、あちこちと歩き回ってみたいと思っています」と言っていた、野木の声が耳によみがえった。
野木もこうして、柳川の観光ルートを歩いたにちがいない。そして、その道すがら、どこかで「面白い物」を発見したのだ。この風景の中で、いったい彼は何を見つけたというのだろうか?
北原白秋の生家は造り酒屋で、柳川ではかなりの素封家だった。大火で酒蔵と新酒も古酒も失ったものの、白秋はその家の坊ちゃんとして育ち、恵まれた少年時代を送った。その白秋の生家が、そっくりそのまま保存されているらしい。ナマコ壁の土蔵造りに、格子戸がはまった、往時の生活をしのばせる建築である。建物の中も造り酒屋の器物がふんだんに展示してある。白秋の育った時代や家庭環境の中に、わが身を置いているような気分に浸れる。数多い詩集の初版本などもズラッと並んでいる。
展示品を一つ一つ子細に眺めて歩いて行って、詩織はドキリとして足を停《と》めた。
(トランプの本!……)
胸の中で叫び声を発した。
ダイヤのクイーンを大きく印刷した本が、目の前にあった。
かなり古い本らしく、色褪《いろあ》せてはいるけれど、白い地に四色刷りのダイヤのクイーンがレイアウトされている。そのカードの下には、気取った書体のローマ字で「O MO I DE」と書かれていた。
「ああ……」
詩織は溜《た》め息を洩《も》らした。
母親の美咲がいまわの際に言ったのは、これだったのだ……と、泣きたいような気持ちが込み上げてきた。
詩織もこの本なら知っていた。幼いころ、母が大事にしているのを、見た記憶がかすかにある。もし「トランプの本」でなく、「詩集」と言ったのであれば、「ダイヤのクイーン」というキーワードで、すぐにこの本を思い出したにちがいない。
「トランプの本」は白秋の詩集『おもひで』のことだったのだ。
蔵書の中を探すのに、「トランプの本」やゲーム、遊びのジャンルをいくら漁《あさ》ったところで、出てくるはずがなかった。
(それにしても、この本がどうしたというのかしら?――)
新しい疑問がすぐに湧《わ》いてきた。美咲が死ぬ間際に、ぜひとも言っておかなければならなかったほどの、いったい何がこの本に秘められているというのだろう?
それに、ひょっとすると、父親や野木の死につながるような何かが、この本にはあるのだろうか?
(まさか――)
詩織はかぶりを振って、そんなばかげた妄想から脱出することにした。
詩織はこの本のカバーに記憶がある程度で、北原白秋の詩集『おもひで』がどのような内容なのか、ぜんぜん知らない。いや、それどころか、白秋の詩といえば、ママさんコーラスのレパートリーには必ずありそうな、「この道」だとか「からたちの花」だとか、そういう抒情《じよじよう》的な詩があることを知っている程度だ。
詩織は『おもひで』を手に取って、調べてみたい衝動にかられたが、展示品はガラスケースの中にあって、手を触れることはできない。
案内の係員がいるので、ケースの中から取り出して見せてもらうわけにはいかないか、訊いてみた。
「申し訳ありません」
係員は断わった。
「あの、『おもひで』というのが、どんな詩集なのか、中身を見たいだけなのですけど」
「それでしたら、隣の資料館のほうで、復刻版を販売しておりますけど」
係員の言葉の途中で、詩織はお辞儀をして歩きだしていた。
同じ敷地のつづきに、「柳川市立歴史民俗資料館」がある。鉄筋コンクリート三階建ての小ぢんまりとした建物である。
詩織は入館するやいなや、展示品はそっちのけで、即売品のコーナーに走り寄った。
『おもひで』は二千円で売られていた。文庫本程度の大きさで、厚さは三センチほどもある。ハードカバーの、いかにも昔、本を大切にしたころの書物らしくカチッとした装幀《そうてい》であった。それをさらに、分厚いケースに収めてある。ケースもダイヤのクイーンのイラストで飾られている。それはまさしく「トランプの本」と愛称したくなる本であった。
詩織は係員がいったん紙袋にいれてくれた本を、震える手で引っ張り出した。
ページを繰ると、目次の前に「この小さき抒情小曲集をそのかみのあえかなりしわが母上と、愛弟Tinka Johnに贈る。Tonka John.」とあった。
詩織は「母上」という文字が気になったけれど、それ以上には思考は発展しない。
詩集『おもひで』は「わが生ひたち」という散文から始まる。
時は過ぎた。さうして刈麦のほめきに、赤い首の蛍に、或《あるい》は青いとんぼの眼《め》に、黒猫の美しい毛色に、謂《いわ》れなき不可思議の愛着を寄せた私の幼年時代も何時《いつ》の間にか慕わしい「思ひ出」の哀歓となつてゆく。
(新カナルビ――筆者。以下同)
こういう、少し照れくさいほどの抒情的な書き出しで、自分の生い立ちと、生まれ故郷の柳川のことを書いている。
文体は美文調で、事実、かなり美しい文章であることは疑いようもないのだけれど、昔の漢字・かなづかいや、白秋独特の言い回しなどで、若い詩織にはいかにも読みにくかった。むしろ英語の小説のほうが、はるかに読みやすい。
巻末の解説を読むと、『おもひで』は一九〇七年に発表された詩篇《しへん》だそうだ。いまから八十年以上も昔のことである。その二年後の一九〇九年に第一詩集として『邪宗門』が出版されたが、作品としては『おもひで』のほうが先に発表されたというのである。
しかし、そういうことを読んでみても、この本に何か「面白い」あるいは「重要な」謎が秘められているとは、思えなかった。かりにあったとしても、どうやってそれを発見すればいいのか、その手掛かりすら掴《つか》めそうになかった。
途方にくれて、詩織は「トランプの本」を両手で支えながら、ぼんやりと即売コーナーのほかの商品を眺めていた。
ふと、一冊の写真集に視線が止まった。
表紙に大きな活字で「木下陽一写真集」の文字があった。
「あらっ……」と呟きをもらした。
(そうだったのか、あの人、写真家だったんだ――)
写真集のタイトルは『柳川詩情』。週刊誌より大きなサイズの立派な写真集だ。
詩織は写真集を手に取って、ページをめくった。それぞれのページに美しい柳川の風物が載っている。船下り、御花、白秋生家、沖端の漁師町、町の祭り等々、しっとりとした水の感触や、土手の木々や草花の香りが伝わってきそうな風景であった。
そして――巻末に「著者略歴」が紹介されていた。
木下陽一――一九三二年(昭和七年)福岡市|天神《てんじん》に生まれる。
(ちがうわ――)
一九三二年生まれなら、もうすぐ六十歳になろうという歳《とし》ではないか。だとすると、単なる同名異人というわけか。
詩織は拍子抜けがした。
しかし、何だか気持ちにひっかかるものを感じた。あの男は偽名を名乗ったのではないか――という疑惑が生じた。そういう嘘をつきそうな、怪しい人物だと、いつのまにか詩織の胸のうちに、先入観が居座っていた。
(こんど出会ったら、あらためて名前を訊いてみたいものだ――)
そう思って、ふと目を上げたとき、真正面に|あの男《ヽヽヽ》がいるのに気づいた。たったいま、名前を確かめたいと思ったばかりの「木下陽一」である。
いつのまに現れたのだろう、二人の距離はほんの数歩でしかない。詩織には心臓が停止するほどのショックであった。全身の血管が収縮して、何秒間かは血液の流れさえ停まったかもしれない。
木下はいつもの笑顔を消して、妙に深刻そうな目をこっちに向けていた。
詩織はギョッとした。木下の視線は詩織の顔ではなく、彼女の手元に向けられているのであった。詩織は反射的に『おもひで』を背中に隠した。とたんに、木下の視線は詩織の目を捉《とら》えた。
「やあ」
木下はようやく笑顔を見せて、詩織に近づいてきた。
詩織は無意識に左右に気を配った。館員や客が周辺だけでも十数人はいた。
「どうも」
詩織はニコリともせずに答えた。
「どうでしたか、御花は?」
「ええ、まあまあでした」
「ははは、あんないいホテルに泊まって、まあまあですか。リッチなひとなんだなあ」
「あなたはどこに泊まったんですか?」
「僕は……」
言いかけて、木下は怪訝そうに訊いた。
「ほう、僕が御花に泊まっていなかったと、どうして分かるのですか?」
「それは……」
詩織は言葉に詰まった。
「ふーん、フロントで確かめたのですね。ずいぶん用心深いんだなあ」
「違いますよ」
「まあいいでしょう。独り旅です、用心するに越したことはありません」
木下は皮肉な笑みを浮かべている。詩織はしゃくにさわった。
「あの写真集、あなたの作品ですか?」
木下の顔を見たまま、指先だけをショーケースの本に向けて言った。
「は?……」
木下は「木下陽一写真集」を見て、一瞬、困ったような顔をして、それからすぐに笑いだした。
「ははは、あれを見ちゃったんですか。じつはそうなんですよ。あなたに名前を訊かれたとき、とっさに、あの写真集の名前が頭に浮かんだもんだから……」
「じゃあ、やっぱり……」
詩織はジリッと後ずさりした。
「いったい、あなた、何者なんですか?」
「ははは、偽名を使ったことは謝ります。しかし、悪意はないのです」
「悪意もなしに、なぜひとを騙《だま》すようなことをするのですか? それに、私をつけ狙う目的は、いったい何なんです?」
「それはですね……」
「いいんです、何も聞かなくても。とにかく、今後一切、私に近づかないでください」
これ以上、「木下」の言葉に耳を貸すと、彼の得体の知れぬ魔力に捉えられてしまいそうな気がした。
詩織は反転して入口の透明なドアに向かって走りだしていた。男の「あ、寺沢さん!」と呼ぶ声が耳朶《じだ》を打ったが、足を停めなかった。
歴史民俗資料館から表通りに走り出たとき、川根ともう一人の若い刑事がやって来るのが見えた。二人とも、いくぶん前屈《まえかが》みになって、セカセカした足取りだ。
「刑事さーん!」
詩織は後ろを振り返りながら、「木下」にも聞こえるように叫んだ。その声が聞こえたのか、「木下」は資料館のドアを出たところで、立ち止まった。
川根たちも驚いて、詩織が近づくのを待っていてくれた。
「どうしたのです?」
「あの人です」
詩織は背後の「木下」を指さした。
「ほら、あれが私につきまとっている男です。木下って名乗ったのも偽名だったんです。いまもきっと、私をつけてきたにちがいありません」
「ほんとですか?」
川根は同僚と顔を見合わせた。
「ほんとですよ。早く捕まえて、訊問するべきです。少なくとも、本名が何なのかぐらいは確かめたほうがいいわ。もしかすると、野木さんを殺したのも、あの男かもしれないのですから」
「えっ、野木さんを殺した?」
「ええ、ほら、福岡県のなんとかいうところで、死体が発見されたって、ニュースで言っていたでしょう。それ、まだ知らないんですか?」
「いや、知ってはいますがね」
「それって、野木さんじゃないんですか?」
「…………」
川根は当惑しきっている。詩織は焦《じ》れて、思わず噛《か》みつきそうに言った。
「もし野木さんだったら、あの男が犯人かもしれないでしょう。早く行って、訊問してくださいよ」
「しかし、そう簡単には……」
「とにかく、早く捕まえてください。放《ほう》っておいたら、何をされるか分からないわ」
道路の真ん中で若い娘に騒がれて、川根は辟易《へきえき》したにちがいない。
「分かりました、一応、事情聴取をしてみますが、あなたはこれで東京へ帰ってくださいよ。いつまでも事件に関《かか》わっていると、ほんとうに危険だ。よろしいですな?」
最後は少し怖い顔を作って、命令口調で言った。
「ええ、そうします」
詩織が頷くと、二人の刑事は大股で資料館へ向かった。
「木下」は逃げる気配もなく、相変わらず入口のドアを出たところにいて、ふてぶてしい笑顔でこっちを見ている。おそらく、警察官の訊問など、屁《へ》とも思っていないにちがいない。実際、詩織が騒ぐような犯罪を犯した証拠など、何もありはしないのだ。
二人の刑事は「木下」と何か言葉を交わしてから、「木下」に誘われるように、建物の中に入った。最後の瞬間、「木下」の目がこっちを向いたようだが、詩織は知らん顔をして歩きだした。
2
午後一時半のひかりで、詩織は東京へ向かった。まだいろいろ仕残したことがありそうで、後ろ髪を引かれる想いだったけれど、早く自宅に戻って調べたい気持ちのほうが勝っていた。
膝《ひざ》の上には『おもひで』が載っている。思いついたように広げては、幾枚かページを繰って、また元に戻す。そういう仕草を何度も繰り返しているうちに、詩織はふと、父親の大輔が列車内で見たという女性の話を思い出した。
いまの自分が、まさしくそのときの女性とそっくりなのではないか――と思った。
試みに、シートの上に『おもひで』を置いて、通路を少し離れたところまで歩いて行って、振り返ってみた。
たしかに大輔が言ったとおり、『おもひで』は「トランプの本」のように見えた。知らない人間には、この本が詩集であることなど、思いもよらないことだろう。
その女性もきっと柳川へ行って、この本をお土産に買ったのだ。そうして、旅の思い出に浸りながら、膝の上でこんなふうに『おもひで』を広げていたにちがいない。
ちょうど掌《てのひら》と同じぐらいの大きさの本である。ドッシリと持ち重りはするけれど、ダイヤのクイーンのつぶらな眸が、この本を持つ者の気持ちを優しく詩の世界へと誘う。
白秋が生まれたのは明治十八年(一八八五年)。『おもひで』を発表したとき、彼は二十二歳だったことになる。目次でざっと数えたところ、全部で三百ほどの詩がこの中に収録されているらしい。膨大ではあるけれど、これは北原白秋の詩のほんの一部にすぎないのだから、白秋の天才ぶりが偲《しの》ばれる。
川下りの船頭さんが諳《そらん》じた「金の入日に繻子の黒――」の詩も、この『おもひで』の中にあった。
巻末近くに「梅雨《つゆ》の晴れ間」という詩があった。
廻《まわ》せ、廻せ、水ぐるま、
けふの午《ひる》から忠信《ただのぶ》が隈《くま》どり紅《あか》いしやつ面に
足どりかろく、手もかろく
狐六法《きつねろつぽう》踏みゆかむ花道の下、水ぐるま……
廻せ、廻せ、水ぐるま、
雨に濡《ぬ》れたる古むしろ、圓天井《まるてんじよう》のその屋根に、
青《あお》い空透き、日の光、
七寶《しつぽう》のごときらきらと、化粧部屋にも笑ふなり。
…………
詩織には詩のことはよく分からないが、分からないなりに、この詩のリズム感や、言葉遊びの面白さのようなものを感じた。白秋がまだ若いころの作品なので、精神的な深みはないのかもしれないけれど、若さの発露そのもののようなきらめきは、若い女性である詩織の胸に共感を呼び起こす。
この詩が八十年も昔に書かれたというのだから、芸術とはすばらしいものだ。
(それにしても、この詩集がどうしたというのだろう?――)
詩織の思索は、また現実に引き戻される。とにかく、母親が臨終のときに「守って」と言ったほどだから、何かそれなりの理由はあるはずなのだ。
しかし、何かがあるにしても、ただこうしてページを繰っているだけでは、何も収穫が生まれるような気はしない。
(もしかすると――)と、詩織は思いついた。北原白秋生家で、展示してある初版本を見せてほしいと頼んだとき、係の女性は当惑げに、拒否した。薄汚れた初版本が、まるで宝物のようにガラスケースに入れてあった。
ひょっとすると、母親の『おもひで』も初版本なのかもしれない。初版本は高価で手に入りにくい。だからこそ「守って」と言ったのかもしれない。
しかし、『おもひで』の初版本がどれほど価値のあるものだとしても、それを手に入れる目的だけで、父親や野木が殺されたとは考えられなかった。
考えあぐねて、詩織は窓外を通過する風景に目を転じた。列車は長い鉄橋を渡りつつあった。暮れなずむ空に富士《ふじ》山が茜色《あかねいろ》に染まってそそり立っている。
あれから「木下」はどうなったのか、川根は何か掴んだだろうか――。
発見された死体は、やはり野木のものだったのだろうか――。
そして、最後の締め括《くく》りのように、浅見光彦の顔が思い浮かんだ。
(あの人、どうしているのかな?――)
一刻も早く会いたい――と思った。
東京駅に着くと、まず詩織は夕刊紙を買った。もどかしい想いにかられながら、社会面を広げた。
(あった――)
福岡の変死体発見の記事が、かなり大きなスペースを割いて載っていた。
単身赴任の会社員、福岡県で殺される
きのう福岡県朝倉郡宝珠山村で発見された男性の変死体は、その後の調べで福岡市に住む会社員野木|和芳《かずよし》さん(39歳)と判明した。野木さんは東京に本社のある成都物産の社員で、三月はじめから、福岡支社に単身赴任していたが、三月二十九日の夕刻、会社を出たきり消息を絶った。会社や東京の家族から警察に捜索願が出され、安否が気づかわれていたものだ。
警察の調べによると、野木さんの遺体には明らかに他殺と思われる痕跡があり、何らかの事件に巻き込まれ、殺害されたものとみられる。現在までのところ、物取り目的か怨恨《えんこん》か、いずれとも考えられ、福岡県警は甘木《あまぎ》警察署内に捜査本部を設け、付近の目撃者探しを重点に捜査を開始した。
成都物産福岡支社長|関根卓男《せきねたくお》さんの話 野木さんは温厚な人物で他人に恨まれるようなことはまったく考えられません。何かの事件に巻き込まれたのでしょうか。福岡支社には赴任したばかりですが、私の片腕として頑張ってもらっていただけに、残念です。
記事には野木の写真が出ていた。まっすぐこっちを向いている、野木の真面目そうな顔を見ているうちに、詩織は涙が込み上げてきて、困った。
(福岡に寄ってくればよかった――)
詩織は後悔した。変死者が野木であると、ほとんど確信していながら、川根に「早く東京へ帰りなさい」と追い立てられたのを、これ幸いとばかりに、福岡を去ってしまったのは、ある種のエスケープだったかもしれない。そう言われても反論できないような、後ろめたさがあった。
とはいえ、たとえば警察で野木の身元確認に協力してくれ……などと頼まれることを、詩織は本気で恐れたことはたしかだ。
父親のときでさえ、詩織は身元を確認するのが死にたいほど恐ろしく、辛かったのだ。それが赤の他人の野木の、しかも腐乱死体など、とても正視できっこない。
(もうこれ以上、人の死に立ち会うのはごめんだわ――)
つくづくそう思った。
東京駅から中央線で|阿佐ケ谷《あさがや》まで行き、そこからタクシーを奮発して帰宅した。
家の門を入り、埃《ほこり》まみれのロードスターを見たとき、詩織はほうっと肩の力が抜けるような気持ちだった。
だが、鍵を使おうとした瞬間、また新しい恐怖に襲われることになった。
浅見がつけてくれた南京錠《ナンキンじよう》が壊れていた。いや、自然に壊れるはずはないのだから、壊されて……というべきだろう。どういう方法を用いたのかは知らないけれど、太いアーム状の金具が捩《ね》じ折れていた。よほど強い力で、何かの器具を使って捩じったものにちがいない。
詩織はしばらく立ちすくんでいたが、ハンカチを出して壊された南京錠を取り外すと、ドア本体のほうの鍵を開けた。南京錠についているかもしれない指紋に配慮したつもりだ。いつの間にか、詩織にはそういう捜査に対する意識が培われていた。
ドアの鍵のほうはきちんとロックされていたが、前回の空き巣のこともあるから、はたして開けられなかったのかどうかは、分からない。浅見に教わった「封印」は南京錠ができて間もなく、やめてしまった。そのことを詩織は後悔したが、後の祭りであった。
玄関に入ったが、ふだんと変わった様子は見られない。
リビングルームは――ドアを開けて壁のスイッチを入れると、ぬいぐるみのキャリーの目はちゃんと光っていた。詩織はようやくほっと一息ついて、キャリーにほおずりしてから、疲れた体をソファーに投げ出すようにして坐り込んだ。
家の中のひんやりした空気が、孤独感を思い起こさせた。
詩織は受話器を取って浅見に電話してみた。またいないかと思ったが、浅見はちゃんと電話に出た。
「やあ、いまはどこですか?」
浅見はのんびりした声で言った。
「東京です、いま帰ったところです。それで、大変なんです」
詩織は畳み掛けるように言った。
「ああ、野木氏のことでしょう。僕も新聞を読みましたよ。やはり殺されていましたね」
「ええ、それに、今日も柳川であの変な男に出会ったんです」
「ほう、えーと、木下とかいう男ですね」
「ところが、その木下というのは偽名だということが分かったんです」
「ふーん、で、何者だったのですか?」
「それは分かりません。でも、私が刑事さんに教えてやりましたから、いまごろは警察で調べられていると思います」
「そう、ですか……ん? それが大変だというのですか?」
「いえ、違うんです。そうじゃなくて、じつは、帰ってみたら、浅見さんにつけてもらった南京錠が壊されていたんです」
「えっ、ほんとですか? それで、家の中は荒らされていましたか?」
「いえ、それはまだ分かりません。これからあちこち調べてみようと思っているところですけど、できれば浅見さんにお知らせして、一緒に見ていただこうと思ったんです」
「それはどうも……しかし、僕よりも警察に通報したほうがいいかもしれないな」
「警察ですか?」
「ははは、なんだか気乗りがしないみたいですね。しかし、僕があまり余計なちょっかいを出したことが知れると、具合の悪いことになりますからね」
「だったら、警察には浅見さんのことは黙っています。とにかくいまは、一刻も早く、浅見さんに来ていただきたいんです。いけませんか?」
「うーん……」
「それに、もう一つ、柳川で大変な物を発見したんです。野木さんが面白い物を見つけたと言っていたのも、多分これだと思うんですけど。母や父が言っていた『トランプの本』の謎が解けたんです」
「ほう、何だったのですか、それは?」
「それは……だから、浅見さんとお会いしたら、そのことやらいろいろ、お話ししたかったんです」
「ははは、美味《おい》しそうなエサをチラつかせるというわけですか……」
浅見はしばらく考えていたが、「分かりました」と言った。
「それじゃ、なるべく早くお邪魔しますが、しかし、ちょっと片付けなければならない仕事がありますから、どんなに早くても、あと三時間ぐらいはかかりますよ」
「ええ、いくら遅くても私はかまいません。お待ちしてます」
詩織は浅見の気の変わらないうちに、急いで電話を切った。
3
浅見には「一緒に」と言いはしたものの、詩織はじっと待っていることなど、できっこなかった。ともかく、何よりもまず「トランプの本」を確認しなければ、落ち着かない。
書庫に入って、詩集のある棚を探した。
詩集の本はどういうわけか、大きさやタイプがまちまちである。いわゆる変型サイズの体裁のものが多い。
それにしても、『おもひで』はきわめて特徴的だし、白いカバーだからすぐに分かると思った。
だが、詩の本の棚には、なんど見直しても『おもひで』はなかった。
(記憶違いかな?――)
詩織は自分の記憶を疑って、母が作ったインデックスを調べてみた。
「あるじゃない」
思わず呟いた。インデックスにはちゃんと『おもひで』の書名が記載されている。しかも、その整理番号は詩集が並ぶ棚である。ところが、その番号にあたる場所には隙間《すきま》ができていた。明らかに本が一冊分、欠落しているのだ。
(盗まれたのかしら――)
残念ながら、詩織にはそこに『おもひで』があったかどうかの記憶はなかった。盗まれたのだとしても、柳川へ行っている留守のあいだなのか、それともずっと以前のことなのかは分からない。
しかし、母親が亡くなるときに、「守って」と言ったことを思い併《あわ》せると、少なくともその時点までは、そこに『おもひで』があったと考えてよさそうだ。
そして、それ以後も本を持ち出したことはないものと思っていいだろう。詩織はもちろん持ち出したりはしていないし、父親にしたところで、もし持ち出したのなら、「トランプの本」についての記憶が鮮明であったはずだ。福岡出張の帰路に、列車の中で見るまで思い出せなかったというのはおかしいことになる。
だとすると、持ち出しのチャンスは、このあいだ、空き巣が入ったときか、それとも昨日のことか……。
詩織はそーっと後ずさりして書庫を出た。これ以上引っ掻《か》き回して、犯人の痕跡を無くしてはいけない――と思った。
リビングルームに戻ったとき、視野の中に電話が入った。詩織は(もしかすると――)という願いを込めて、伯母に電話してみた。こっちの不安が伝わるのか、応対する伯母の声も沈みがちなような気がする。
「変なこと訊きますけど、伯母さん、『トランプの本』のこと、知りません? ほんとうは北原白秋の『おもひで』っていう詩集なんですけど」
「いいえ、知りませんよ」
伯母はそっ気なく答えた。あらぬ疑いをかけて、気分を害されたのか――と、詩織はいっそう気が滅入って、早々に電話を切った。
それから浅見が来るまでの時間の、なんと長く感じられたことだろう。詩織はたっぷり時間をかけて食事を作り、テレビを見ながら遅い夕食をすませたが、それでもまだ二時間ほども待たされた。
浅見は十二時近くになってやって来た。ドアを開けたとき、浅見がひどく消耗した顔をしているので、詩織は待たされた不満を言うどころではなかった。
「すみません、急にお呼びたてして」
詫びを言いながら、詩織はふっと涙ぐみそうになって、慌てて浅見の足元にスリッパを揃えた。
「いや、そんなこと……しかし、正直なところ、いささかグロッキーなのです」
浅見はほんとうに疲れている様子だ。詩織が感傷的になっているのにも気づかずに、リビングルームに通るやいなや、「それじゃ、話を聞かせてください」と催促した。
詩織は柳川行きの一部始終を話した。ついに、北原白秋の『おもひで』にたどり着いたところまで話すと、さすがに浅見も「ほう」と驚きの声を上げた。
「そいつはやりましたね、それがこの本なのですか?」
詩織がバッグの中からテーブルの上に出した『おもひで』を拾い上げた。
「それは私が買ってきた本です。問題の『トランプの本』のほうは、母の蔵書の中にあったはずなのです。インデックスにも記載されていました。ところが、その本が書棚から抜き取られているのです」
「というと、今日の空き巣はそれを盗んだと考えられるわけですか」
「分かりません、今日盗まれたものかどうかも」
「ちょっと書庫を見ましょう」
浅見は立って、詩織の案内を待たずに書庫へ向かった。詩集の棚の、欠落した部分に目を近づけると、浅見は息をひそめるようにして、周辺の様子と何度も見比べていた。
「この本は、昨日や一昨日どころでなく、かなり以前に抜き取られていますね」
浅見は詩織を振り返って、言った。
「この書庫はあまり埃が立たないはずなのに、ほら、この部分にはうっすらと埃が見えるでしょう。ほかの部分と較《くら》べてみるとよく分かりますよ」
浅見は近くの一冊を抜き取った。棚の表面には埃はまったくなかった。
「ほんとですね。だとすると、いつごろ抜き取ったのかしら?……」
「科学捜査研究所にでも調べてもらわないと、何とも言えないけど、一年か二年か、とにかく、かなり前と思っていいでしょう」
「そうなんですか……じゃあ、母が亡くなったころかもしれません。あのころは人の出入りも多かったし」
「どんな人が出入りしたか、憶えていませんか?」
「それはまあ、お葬式のときには、父の会社の人だとか、近所の人もずいぶん大勢、お手伝いに来てくれましたし……でも、書庫に入ったりはしないと思います。それに、かりに誰かが書庫に入って、あの本を読みたいと思ったとしても、それならそれで、ちゃんとそう言って借りて行くはずですもの」
「それにしたって、書庫にまで勝手に入り込む人なんて、それほど多くはないでしょう。そういう可能性のある人は誰と誰か、絞ってみてくれませんかね」
疲労のせいか、浅見は少しじれたような口調になっていた。詩織を見つめる目に、これまで見せたことのない、屈託した気配が現れていた。
「ごめんなさい、そう言われても、すぐには思い出せそうにありません」
詩織は浅見のそういう表情に出くわして、悲しくなった。彼女も疲れていた。疲れて、恐怖に苛まれて、ひたすらに浅見に会いたかったのだ。
「いや、何も謝ることはない」
浅見は頬を引きつらせるようにして、苦笑した。最大限の抑制に努めているのが、詩織にはありありと見て取れた。
「怖かったんです」
詩織は叱《しか》られた子犬のように肩をすくめ、浅見の前にうなだれた。
「野木さんまでがあんなことになって、それも、父のときと同じように、『トランプの本』のことを私に伝えた直後のことですもの、きっとこの『おもひで』の本が事件に何か関係していると思うんです。だから、一刻も早く浅見さんにそのことをお話しして、助けてもらいたかったんです。それで、わがまま言って、浅見さん、疲れてるのに、ごめんなさい……」
ふいに、ポロポロと涙が床に落ちた。詩織自身がびっくりするほどの脆《もろ》さで、涙腺《るいせん》が緩んだ。
浅見も意表を衝かれたらしい。一瞬、身をのけぞらせるようにしてから、反動的に詩織の左肩に右手を載せた。
詩織はギクリと体を固くした。この歳になるまで、男性の手がこんなふうに体に触れたのは、父と伯父以外には経験したことがなかった。
「おまえはきついね」と、よく大輔が笑っていた。男の子に混ざって、絶対に負けない生き方をしてきた。高校のころ、いちどだけ同級生の子に恋らしきものを経験したけれど、みごとに裏切られて、それ以来、男性不信に陥ったことは確かだ。大学時代もチャンスはいくらでもありながら、肝心なところまでくると、自分からスッと身を引いた。
詩織は自分の容貌《ようぼう》にもプロポーションにも、いちどだって自信を持ったためしがなかった。むしろ、それらを売り物にすることを恥だと思い込んだ。化粧とおしゃれにうつつを抜かしている友人たちに反発するように、詩織は素顔でいたし、服装に金をかけることもしなかった。「もうちょっとお化粧すれば、詩織はいい女なのにねえ」と、親しい友人は慨嘆してくれたが、そう言われれば言われるほど、かえって、かたくなに素顔と粗末な服装を押し通した。
だけれど、本心をいえば、詩織の心の奥深いところには、人並みな女としての欲望が疼《うず》いていないわけではないのだ。
いま、男性と二人きりで、深夜の狭い書庫の中にいるのだという事実が、急に胸苦しく、そのくせ甘酸っぱい期待感のようなものを伴って、意識いっぱいに広がった。噴き出した涙は、両親や野木の死に対するような悲しみからのものではない。明らかに、女の男に対する甘えの発露であった。スピード違反を咎《とが》める警察官に、きつい言葉で反発したのと同じ口で「ごめんなさい」と詫びていることに、詩織は自ら驚きながら、涙しながら、奇妙な快感をさえ覚えていた。
「そんなに気にしなくてもいいのに。僕は平気ですよ。あなたのほうが疲れているでしょう。少し休んだほうがいいな」
浅見にはその気はなかったのかもしれないけれど、詩織は浅見の手というより、言葉に引き寄せられるように、浅見の胸に額をつけた。外見の印象より、ずっと逞《たくま》しい筋肉質の胸の感触であった。
浅見の手は肩から背中へと回され、ごく自然に詩織を抱き締める形になった。そして、空いている左手を詩織の顎《あご》の下に入れると、そっと詩織を仰向《あおむ》かせた。
詩織は目を閉じていた。全身の血が煮えたぎるように熱くなって、それでいて、体は悪寒を感じたように震えた。
緊張に耐えきれず、詩織は口を小さく開き、ホッと溜め息をついた。その口を浅見の唇がふさいだ。詩織はいやいやをするように頭を振り、体をのけ反らせた。詩織を抱き締める浅見の手に力が込められ、詩織は息がつまるかと思った。
そのとき、浅見は腕の力を緩め、唇も離した。詩織は恥ずかしさと、いくぶん物足りない想いとを、こもごも感じながら、浅見の胸をそっと押すようにして後ずさり、脇を向いた。
「失礼」
浅見はほとんど無感動とも取れるような声で言った。詩織は首を横に振ったが、言葉は出なかった。
「それじゃ、僕はこれで帰ります。表のドアの鍵、さっき見ましたが、あれはかなりの力で壊していますね。やはり警察に通報して、調べてもらったほうがいいでしょう」
「いいんです」
詩織はか細い声で、しかし、断固として言った。浅見の事務的な口調が、いつもの詩織の負けん気を急速に呼び覚ました。
「警察が調べても、どうせ分かりっこないんですもの。それより、浅見さんに調べていただいたほうが……そうだわ、浅見さんは探偵もおやりになるって言ってらしたじゃないですか。だったら、正式にお願いすれば、調べてくださるのでしょう?」
「それはまあ、引き受けないこともないですがね。しかし、そのことは警察には絶対に内緒にしないとまずいのですよ」
「ええ、それは大丈夫です。浅見さんにはご迷惑をおかけしませんから、ほんとにお願いします。費用もちゃんとお払いします」
「ははは、そんなことはいいんですよ。といっても、必要経費だけは出してもらいますけどね」
「ええ、もちろんです。父の保険金が沢山入るんですもの、平ちゃらです」
「いいでしょう、じゃあ契約しましょう」
浅見はスッと右手を差し出した。反射的に詩織もその手を掴んだ。もういちど、さっきのようなシーンを期待したのだが、浅見はいくぶん強めに握手をしただけで、あっさりと詩織の手を放した。
「それでは、まず探偵として最初にお願いしますが、さっきの『おもひで』を持ち出した人物のこと、それがとにかく、事件の謎を解く鍵になりますからね、ぜひとも思い出してください」
「でも、思い出せるかどうか……」
「大丈夫、精神を集中して過去の記憶を遡《さかのぼ》れば、必ず記憶は蘇《よみがえ》るものですよ。じゃあ、それを宿題にしておきます」
家庭教師のようなことを言って、浅見は帰って行った。
取り残されて、詩織は腑抜《ふぬ》けのように、しばらくは玄関先に突っ立っていた。ほんの瞬時のような体験だけれど、あのとき詩織の体内を貫いたはげしく熱いものは、浅見が去ったあとになって、よりいっそう、生々しく感じられるのだった。
(もし――)と詩織は、ひとり頬を染めながら思った。
もし浅見が、愛の行為をあのままつづけていたとしたら、詩織はきっと拒絶はしなかったにちがいない。
あの狭い書庫の中で、抱きすくめられ、そして……。
ひょっとすると、いまごろはリビングのソファーの上で、浅見の腕に抱かれ、身も心もとろけるような世界に浸っていたのかもしれない。そうなってみたかった気持ちと、そうならないでよかったと思う気持ちとが、詩織の胸をいっそう熱くしていた。
それにしても、浅見の抑制力には、感心するよりもむしろ呆れてしまう。
(男の人って、もっと一途《いちず》なのかと思っていたのに――)
身勝手だけれど、詩織はその点で浅見に不満を感じ、その不満がいつまでもしこりのように胸に残った。
4
浅見の「宿題」はしかし、なかなか難しい問題であった。いくら精神を集中してみても、記憶の闇《やみ》の中に光は見つからない。
浅見からは連日、記憶を呼び覚ましたかどうか、訊いてくる。そのつど詩織は、出来の悪い生徒のように、ひたすら電話に向かって頭を下げるばかりだ。浅見は笑っているけれど、内心、苛立《いらだ》たしい気持ちを抑えているのは、彼の口調から感じ取れた。
浅見も焦っているのだ、と詩織は思った。
(なぜそんなに焦るの?――)
そのことが疑問になるくらい、浅見は詩織の記憶に期待している。その気配をひしひしと感じた。
四日目の午後、ふいに川根部長刑事が寺沢家を訪れた。例によって少し若い刑事を連れている。
「突然お邪魔します」
川根は無骨に頭を下げた。そういえば、刑事は電話で在宅を確かめたりはしないものらしい。こっちはフリーターだからいいようなものの、もし留守がちな家だったら、しょっちゅう無駄足を踏むことになるのに――と、詩織は迷惑の裏返しのように、そう思った。
それに、こんなふうに不意打ちを食らわされるのでは、浅見に来てもらうタイミングも、考えなければならない。
「野木さんの事件ですが、なかなか難しいようですな」
応接室に収まると、川根はまずその話題を持ち出した。
「事件は福岡県警の扱いですが、私も一応、現場へ行って見てきました。死体が発見された宝珠山村というのは、福岡県の東南のはずれにあるちっぽけな山村でしてね、周りを山に囲まれたようなところです。そこを国道211号というのが走っているのですが、死体はその国道からちょっと山林に入ったところに遺棄されておったのです。かなり腐乱が進んではいたが、いろいろな状況からみて、死後一週間以上――つまり、失踪した当日には殺されておったようです。胃に残っていた食べ物がですね……」
「もうけっこうです」
詩織は悲鳴のような声を出して、川根の説明を遮った。
「あ、どうも、これは刺激がきつすぎましたかなあ」
川根は頭を掻いた。
「それより刑事さん、このあいだの男、木下って名乗っていた。あの人、どうなったんですか?」
「ああ、彼ですか」
川根はあいまいな笑顔を見せた。
「あの人はべつに悪い人間ではなさそうですよ。一応、事情は聴取しましたがね、実際に何か罪を犯しているわけでもないし」
「でも、私をつけ狙っていたことは事実じゃありませんか」
「そうはいってもですな、何か盗まれたとか、迷惑を被ったとか、そういう事実はなかったのとちがいますか?」
「え、ええ、それはまあそうだけど……」
詩織はその点は認めないわけにいかなかった。しかし、だからといって、つきまとわれたというのは、まぎれもない事実だと思っている。
(やっぱり警察は頼りないわ――)
またしても、そう思ってしまう。
「ところで」と川根はあらたまって言いながら、古びたバッグから『おもひで』を取り出した。
「例の、あなたが言っておった『トランプの本』ですが、柳川でこういう本を見つけましてね。これはまさしく『思い出のトランプの本』という、あなたのお母さんの言葉と合致するものであると考えたのですが、違いますかな?」
「ええ、私もそう思います。やっぱり柳川でそれを見つけた瞬間、あ、これだって思ったんです」
「ほほう、そうでしたか。しかし、それだったらそれで、あの時点で教えてもらわんと困りますなあ。まあ、われわれも気がついたからいいようなもんだが、知らなければ、捜査の進捗《しんちよく》に支障をきたすことにもなるわけでしてね」
「すみません、でも、家に帰って確かめてみるまでは、私自身、確信がなかったものですから」
「家に帰って確かめるというと、何を確かめたということですかな?」
川根はジロリと、下のほうから見上げる目で詩織を見た。まさしく刑事の目であった。
詩織は内心、しまったと思った。こんなふうに、ちょっとした言葉尻《ことばじり》を捉えて追及するのが、刑事のやりクチなのだ。警戒しなければいけない――と、まるで犯罪者のように思った。
「母の蔵書の中に、この本があるかどうか、調べてみたかったのです」
「なるほど、それはそのとおりですな。で、ありましたか?」
「いえ、それが、なかったんです」
「ということは、本来はあったはずのものがなかった、ということですね?」
「え、ええ、まあ、たぶん……」
「それは、図書目録か何か、そういったもので確認したのですか?」
「ええ、そうです。蔵書のリストの中には入っているのに、書庫にはないのです」
「というと、誰かが持ち出したわけですな」
「そうだと思います」
答えながら、詩織は川根の質問が的確で無駄のないものであることに、驚いていた。まるで何か、台本のようなものがあって、あたかもこっちの答え方まで予測しきってでもいるかのような、鋭い追及であった。
「じつはですね」
川根は「煙草《たばこ》、いいですか?」と断りを言って、ポケットからハイライトを出して、唇の端に銜《くわ》えた。
しかし、すぐには火をつけるわけでもなく、話の間《ま》を取った印象であった。
「殺された野木さんが、やはり柳川でこの本を買っているらしいのです」
「えっ、やっぱり……」
思わず詩織はそう言った。
「そう、どうやら絵はがきに書いてあった面白いものを発見したというのと、お土産を楽しみにというのは、この本のことを言っていたのだと思ってよろしいでしょうな」
「ええ、私もそう思いました」
「ところがです、野木さんの遺品の中には、この本がなかったのですよ。いや、現金などは盗まれておらんのに、です」
「えっ、じゃあ、犯人は『おもひで』を盗む目的で野木さんを殺したんですか?」
「どうも、そうとしか考えられんのですな。要するに、犯人としては、野木さんがこの本をあなたに届けることを阻止したかったのではないかと、そう考えられるわけです」
「そんな……」
詩織は茫然《ぼうぜん》として、絶句した。
「まあ、常識的に言えば、たった二千円の本を盗むのが目的で殺人を犯すなどとは考えられんことですが、しかし、現実に野木さんは殺され、所持品の中から失われたものは、この『おもひで』のみというのですからな、そういう考えも、一概には否定しきれないわけでして……」
詩織は(おや?――)と思った。川根の口調には、彼自身、その「考え」に必ずしも肯定的と言いきれないものを抱いているニュアンスが感じ取れたからである。
「あの、それって、刑事さんのお考えじゃないんですか?」
「は? いや……」
川根は詩織の突っ込みに、いくぶん狼狽の色を見せてから、苦笑した。
「正直なところを言えば、私にはそんな突拍子もない考えは浮かびません。何しろ、たった二千円の本ですからなあ。しかし、そう指摘されてみると、そんなことは絶対にあり得ないとも言えんのです」
「じゃあ、どなたがそんな変なこと、考えたんですか?」
「まあ、それはつまり、上のほうの人が考えたことですがね。しかしあれでしょう、あなたも同じ考えなのではありませんか? それだから、柳川まで行って、その本を発見して、いろいろ蔵書なんかも調べたりしたのとちがいますか?」
「え、ええ、それはそうですけど……」
詩織は川根部長刑事の、人が変わったような鋭さに舌を巻いた。そして、その鋭さの背後にある、警察の組織の力を見せつけられた思いがした。川根が言う「上のほうの人」の深い洞察力や推理力が、個人のものなのか、それとも組織の総合力を意味するものなのかはともかく、いままで、警察を甘く見ていたけれど、この分では、ひょっとすると、浅見よりも早く事件の謎を解いてしまうのかもしれない。
もちろん、父や野木を殺した犯人を、一刻も早く捕まえて欲しいに決まっているけれど、その一方で、どうせなら浅見の手で事件を解決してもらいたいという、ばかげた気持ちもあった。
「問題は、です」と、川根はそういう詩織の心の動きにはおかまいなしに言った。
「いったい犯人はなぜ『おもひで』を盗んだのか、です。この本自体には何の価値もありはしないことは確かでしょうな。となると、犯人の目的は、野木さんがこの本をあなたのところにお土産として持って行くことを阻止したかったのではないかと、そう考えるほかはないというわけでして……」
「えっ、まさか!……」
詩織は叫ぶように言った。
「そんなばかげたこと……だって、それだったら本だけを盗むか、そうでなければ、お金を出して譲ってもらえばすむことじゃないですか。殺すことはないわ」
「いや、そうではないのですよ。といっても、さっきも言ったように、この考えは私の考えではありませんのでね、異議があったらそっちのほうに言ってもらいたいくらいなものなのだが……それはそれとしてです、つまりどういうことかというと、犯人としては、野木さんがあなたに、『おもひで』の存在を伝えることを阻止したかったということなのです。要するに、本を盗むことではなく、この本があるという情報そのものを盗むことが目的だった。したがって、その情報の持ち主である野木さんを殺してしまわなければならなかった――ということなのだそうです」
「えっ? えっ?……」
詩織には目もくらむような、何とも不可思議な論理であった。説明をする当の川根でさえ、「……なのだそうです」などと、頼り無い口振りで言っているくらいだから、必ずしも、完全には消化できていないにちがいない。いったい、こんな奇妙なことを考え出す人間の頭は、どんな構造になっているのだろう?
「そういうわけでです」と、川根は話をつづけた。
「結論を言いますと、お宅にある、つまり、お母さんが『守って欲しい』と言っておられた『おもひで』に、何らかの重大な秘密が隠されているのではないか。その秘密が欲しいために、犯人はお父さんを殺害し、さらには野木さんも殺害したのではないか――と、こういうことなのです」
「だけど、この本の中に、何かが隠されているなんて……」
詩織はテーブルの上の分厚い小さな本に手を載せて、首をかしげた。
「いや、もちろん、すべての『おもひで』の本という意味ではなく、あくまでも、お宅にある『おもひで』という意味です。たとえば、ヘソクリを隠すとかですな、そういうたぐいのことだってあるわけでして」
川根は真面目くさった顔で言ってから、慌てて付け加えた。
「いや、ヘソクリというのは、たとえばの話でして、実際に隠されているのはもっと重大な秘密です。少なくとも殺人を犯してでも奪い取りたいほどの秘密でありますので」
そういうふうに、分かりきったことに、蛇足のような説明を加えるのは、この刑事の本来の体質なのだ――と、詩織はむしろ、川根のいかにも人間くさい素朴な一面を垣間《かいま》見て、なにがなしほっとするものを感じた。
「だとすると、どうしてもその『おもひで』の本を探さないとだめなんですね」
詩織は少しわざとらしく溜め息をついた。
「そのとおりです。何としてでもその本の在りかを探すのが先決であります」
「でも、どこへ行ってしまったのか、私には分からないんですよねえ」
「いや、そんなことはない!……」
川根は勢い込んで言って、「これはその、上の人の言うことですがね」と、また注釈を加えた。
「その本の行く先について知っているのは、あなたしかいないはずだというわけです。いや、もちろん、本を持ち出した人物以外にはという意味ですがね。でありますので、あなたがじっくり考えれば、必ず思い出せるはずだからと、こう言っているのです」
「あら……」
詩織は驚きが口をついてこぼれた。浅見が言っていたのと、似たようなことを言われた――と思ったからだ。
「その上司の方って、ずいぶんいろいろなことが分かってしまう人みたいですね。どういう方なんですか?」
「は? あ、いや、それはまあ、確かに、われわれよりは頭がいいのでしょうなあ。ははは……」
川根は、まるで詩織の質問をはぐらかすように高笑いして、それ以上長居をするのは得策ではないとでも言いたげに、腰を上げた。
「とにかく、そういうわけでありますので、よく考えて、『おもひで』の行方を思い出していただきたい……あ、これはべつに駄《だ》洒落《じやれ》で言っておるのではありません」
「分かっています」
詩織はようやく笑顔を見せるゆとりが生まれた。
二人の刑事を玄関まで送って、応接室に戻ったとき、テーブルの上に川根がハイライトを忘れているのに気がついた。急いで追い掛けて外に出ると、川根は表通りへ出る角に差し掛かったところだった。
ハイライトを振りかざしながら、駆け出そうとした瞬間、詩織はギョッとして足を停め、門の陰に引き下がった。
街角で二人の刑事を迎えるように現れた男が、あの「木下」だったからだ。
「木下」は川根と額を寄せるようにして、何ごとか話している。川根がチラッとこっちを振り向いたときには、詩織はまるで殺人犯のように身を固くして、門の内側に隠れた。
(何なのよ、あれは?――)
信じられないような謀略が、あの男と警察のあいだで仕組まれていることを想像して、詩織は心の底から凍りつくような恐怖を感じた。
家の中に引き返すと、詩織は震える指で浅見の電話番号をプッシュした。
浅見は物憂げな声だったが、こちらが詩織だと分かると、意気込んで、「分かったのですか?」と訊いた。
「そうじゃないんですけど、いま、刑事さんが来て、そのあと、ちょっとおかしなことがあったものですから」
詩織は早口で、いま見た出来事を話した。
「ふーん、妙なことですねえ……」
浅見は深刻そうに言った。
「でしょう? いったいどういうことなのかしら? 警察と暴力団が、変に結びついていたりするって、聞いたことがあるんですけど、それじゃないのかしら?」
「ははは、まさか……」
浅見は笑ったものの、あまりすっきりした笑い方ではなかった。ずいぶん疲れているみたい――と詩織は思った。
「それはいいんですけど、警察の人たちがうちの周囲をウロウロしていたりするといけないから、浅見さんはあまり近づかないほうがいいのじゃないかって、そう思ったものですから」
「なるほど、そうかもしれないな……どうもありがとう。充分、注意することにしますよ。あ、それから、この電話ですが、しばらく使えないことになるので、当分のあいだは、僕のほうから電話することにします。それじゃ、どうも」
浅見はあっけなく電話を切った。なんだか、これっきり浅見と会えなくなるような、遠い距離を感じさせる会話の終わり方だった。
第五章 組織対個人
1
浅見からの連絡は日に一度か二度は必ずあった。実際にはもっと多く、詩織が不在のときにもかかってきているにちがいないのだが、浅見はそのことはあえて言わない。
用件はむろん、『おもひで』の行方について、何か思いついたかどうかと、その一点であった。もっとべつのこと――たとえば「その後どうですか」とか「元気ですか」とか、その程度のことは言ってくれてもよさそうに思うのだが、無駄口はまったくないまま、短い詩織の答えを聞くと、すぐに電話を切ってしまう。
(あの人、感情がないのかしら?――)
そんなふうに疑いたくもなる。
むしろ警察のほうが、しげしげと連絡をしてくるのだった。電話はもちろんだが、二日に一度は川根が顔を見せた。例によって前触れなしに、である。ずっと東京にいつづけて、聞き込み捜査を展開しているらしい。
「お父さんの事件と、野木さんの事件と、合同捜査を行なうことになりましてね」
川根はそう話している。詳しいことは分からないが、野木の事件は福岡県警扱いなのだが、詩織の父親の事件との関連が無視できないとして、川根の所属する広島県警と、さらに東京の警視庁との合同捜査に入ったということのようだ。
「父の事件と野木さんの事件が関連しているというと、何か、父のいた会社にも関係するのでしょうか?」
詩織は不安になって、訊いた。
「まあ、そういうことも含めて、鋭意捜査中であるとしか言えんのですが」
「そうなのですか……」
詩織の脳裏には、添島常務――いや、いまや成都物産の代表取締役社長に就任することが決定した添島の顔や、野木とともに父の忠実な部下だった安田の顔が思い浮かんだ。
そういう警察の動きは、新聞などにはぜんぜん現れない。しかし、川根たちが東京に居座っているくらいだから、毎日のように刑事が動き回っていることは間違いないだろう。彼らがどこをどのように調べているのか、気掛かりなことではあった。
それにしても、警察が動いているのに反して、浅見はまったく近寄らなくなった。仕事が忙しいとは言っていたけれど、たまには来てくれてもよさそうなものなのに――と、詩織は寂しいのを通り越して、腹立たしくさえあった。
桜前線が関東平野を通過して行って、明日からゴールデンウィークに入るという四月末の金曜日、川根ともう一人の刑事が別れを告げにやって来た。
「ひとまず東京での捜査を中断して、態勢を整えてからまた来ます」
消耗した顔をして、そう言った。
「今日はお父さんに、そのご報告をさせていただこうと思いましてね」
「ありがとうございます、わざわざ……」
詩織は頭を下げた。迷惑な部分もないことはないけれど、やはり、そうして訪ねて来てくれたことには感激した。
二人の刑事を座敷の仏壇の前に案内しておいて、詩織は応接室に紅茶を支度した。川根は昔ふうの教育を受けているのか、何やら長いことお経を読んでいる様子だった。
「いいお写真ですなあ」
川根は応接室に戻ると、仏壇の写真を褒めた。写真嫌いだった父親の少ない写真の中から、詩織のいちばん好きなのを伸ばして飾ったものだ。
「真っ直《す》ぐにこっちを見ておられるので、何だか、捜査がモタモタしているのを叱られているような気がしました」
「そんなことはありません。父は刑事さんに拝んでいただいて、きっと感謝しているにちがいありません」
詩織はあらためて、丁寧に礼を述べてから、語調を変えて言った。
「それで、捜査のほうは進んでいるのでしょうか?」
「そうですな、かなり進んでいると言っていいでしょう」
「じゃあ、父を殺した理由とか目的とかは何なのか、分かったのですか?」
「うーん……まあ、はっきりとは申し上げられんが、動機については、ほぼ推測できる段階です」
「何だったのですか、それって?」
「いや、それはまだはっきりと断定するわけにはいきませんが」
「でも、そこまで推測できているのなら、ある程度、犯人なんかも分かっているんじゃありませんか?」
「ははは、まさか、そこまではいっておりませんよ。しかし、あと一つ、鍵が見つかれば、すべての謎は解けたも同然でしょう」
「その鍵っていうのは何なのですか?」
「もちろんあれです、ほら、北原白秋の『おもひで』ですよ」
「やっぱりそれなんですか」
「そう、お父さんのケースでもそうでしたが、とくに、野木さんが殺された状況を考えると、『おもひで』を発見したことと、密接な関係があるという結論になるわけで、犯人はいぜんとして『おもひで』の行方を追っていると考えていいでしょうな」
「だとしたら、犯人は私の家に『おもひで』があると思っているのじゃないかしら?」
「もちろん、そう考えておったでしょうな。だから空き巣に入っているわけですが、しかし、『おもひで』は発見できなかった」
「それじゃあ、もう、私のうちが犯人に狙われることはないって考えていいのですか?」
「いや、そうとは言いきれんでしょう。まだ諦めたかどうかは分からんのです。それに、『おもひで』そのものはないとしても、どこにあるのかの手掛かりは、やっぱり、あなたが知っていると考えておるかもしれんですからなあ」
「いやだ……」
詩織は肩をすくめた。
「私は何も知らないのに」
「しかし犯人はそうは思っておらんでしょうな。したがって、今後も充分、戸締りには用心していただきたいのです。もちろん、警察のほうでも、パトロールを強化するようにしておりますけどね」
「えっ、そうなんですか?」
「ははは、気がつかんでしょうが、警視庁の人に聞いたところでは、中野警察署のほうで、すでに、この周辺地域の巡回を三倍に増やして、警戒に当たっておるそうですよ」
「そうだったんですか……」
詩織は少し感動した。警察は好きじゃないし、頼り無いと思っていたけれど、市民のために、いろいろやってくれているものであるらしい。
「だけど、そんなにまでして探し回るような、いったい何が『おもひで』に隠されているのかしら?」
「それは三つ考えられるそうです」
川根は重々しく言って、指を折った。
「まず第一に、『おもひで』そのものに非常な価値があること。たとえば初版本に値打ちがあって、マニアにとっては、殺人を犯してでも手に入れたいほどの――ということです。次に、『おもひで』のどこかに、宝の在りかを示すような秘密のもの――地図であるとか、暗号であるとか――が示されている。これはいささか推理小説めいておりますがね。それから三番目には、要するに、犯人にとって、それが世に出てはきわめて都合の悪い何かが秘められておるのではないか。まあ、現在のところ、この三つ目のケースがもっとも可能性が高いということです」
「えっ? えっ?……」と詩織は驚いてしまった。
「前の二つのことは、何となく分かるような気もしますけど、三番目の、犯人にとって都合の悪い何かって、何なのですか?」
「それはまだ、何とも言えませんが、たとえば犯人の旧悪とかですな。そういうものを暴露するような事実が隠されておるのかもしれんのです。あなたのようなお嬢さんには分からんでしょうけど、人間、真っ直ぐに生きてきた者ばかりとはかぎらんものです。水上勉の『飢餓海峡』だとか、松本清張の『砂の器』なんかを読むと、過去に罪を犯した男の宿命というか、悲しみというか、そういったことが、じつによく分かりますな」
「はあ……」
詩織は、川根の思索的な表情を、まじまじと見つめてしまった。
「刑事さんて、犯人を追い掛けているだけかと思ってましたけど、ほんとうはすごく思慮深くて立派なんですねえ」
「えっ? ははは、参ったですなあ。じつはいまのは、すべて、その、上のほうのある人からの完全な受け売りでありまして、ほんとのことを言うと、自分は三日前にこの話を聞いて、はじめて『飢餓海峡』と『砂の器』を読んだばっかしなのです」
「あら、そうだったんですか……でも、その上司の方って、頭が切れるばかりでなく、とても文化人してるんですねえ。ずいぶんご年配の方なんですか?」
「は? いや、若いですよ。私よりもだいぶん若い」
川根は少し薄くなった額の上のあたりを抑えながら、言った。
「まあ、エリートというのですかなあ。おまけにハンサムだから、実際、あなたにもぜひいちど会わせたいものです。なあ、きみ」
川根は若い同僚と顔を見合わせて、二人で声を上げて笑った。二人は面白そうだが、詩織は、なんだか、自分だけ疎外されたような、少し白けた気分であった。
「だけど、さっきの話ですけど」
詩織は肝心な話題に、二人を引き戻した。
「犯人にとって都合の悪いような秘密だなんて、そんなものがどうしてこの家にあったりするのかしら?」
「はあ?……」と、川根は、そんなことが分からないのか?――と言いたげだ。
「それはもちろん、あなたのお母さんが残されたものでしょう」
「えっ、ええ、『おもひで』はたしかに母の遺品だと思いますけど、でも、それに秘密が隠されているなんて、そんなこと、母は知らなかったのでしょう?」
「驚きましたなあ……」
川根は化け物でも見たような目になって、詩織のプライドを傷つけた。
「そんなふうに軽蔑《けいべつ》しないでください。どうせ私は、刑事さんたちと違って頭が悪くて、何がどうなっているのか、分からないのですから」
「あ、いや、勘違いしないでください。そういう意味ではないのです」
川根は慌てて手を横に振った。
「そうでなくて、あなたがたぶん、そのことに気づいていないのではないかと、われわれもそう言われたものですので」
「えっ、そう言ったのは、やっぱり例によって『上のほうの人』なんですか?」
「そうです、自分らはあなた同様……あ、いや、あなたよりもアホですからな、もちろん何も分かってはいなかったのです。さっきも言ったとおり、これまで話したことはすべて受け売りですが、それだって、話を聞いているときは、正直いって半信半疑でしたよ。しかし、ここまで何もかもピタリ的中するとなると、これはもう、神様を信じるみたいに、信じるほかはありませんなあ」
川根はほんとうに畏《おそ》れを感じたように、顔をこわばらせた。
詩織も川根と同じか、あるいはそれ以上に驚きを禁じえなかった。何しろ、その「上の人」はいちども詩織と会っていないし、この家にも訪れたことがないのだ。それでいて、まるで手に取るように寺沢家の事情に通じているらしいし、母の死のことや、遺品として残された『おもひで』のこと、そしてそれらにまつわる秘密の存在についても、どうやら、こっちが何も分からないでいるうちに、ある程度のことは洞察してしまった様子だ。
しかし、そこまで見透かされると、詩織はなんだか、あたかもプライバシーを侵害されたような不快感を覚えた。
(冗談じゃないわ――)
そう反発する気持ちのどこかに、詩織は浅見光彦の存在を感じてもいた。浅見だってきっと、その程度のことは、とっくに見抜いているにちがいない――と思った。
「だけど、病床にある母が、そんな重大な秘密みたいなものに関係できたとは思えませんけどねえ?……」
詩織は、「上の人」に対する川根の心服に水を差すように、首をひねって、言った。
「私の知るかぎり、母はとても頭のいい女性でしたけど、どちらかといえば控えめで、父には従順で、出しゃばるようなことはしなかったと思います。もちろん、過去に罪を犯していたなんてこと、考えられません」
「えっ、いや、あなたのお母さんが罪を犯していたなんて、誰も思っていませんよ」
川根はうろたえて、言った。
「でも、刑事さんのおっしゃるのは、『おもひで』には過去の犯罪の秘密が隠されていたっていうことでしょう? そして、母がその秘密に関わっていたのだとすると、やっぱり母も何かの犯罪に加担していたことになるじゃありませんか」
「それは違うでしょう」
川根は苦笑した。
「もしあなたの言うとおりだとすると、警察官は犯罪に関わっている、ゆえに犯罪に加担している――と、そういうことになってしまいますよ」
「そんなの、詭弁《きべん》だわ、比較になりませんよ。母はあくまでも民間人ですもの」
「そう、民間人です。しかし、民間人であっても同じことなのです。民間人だからといって、犯罪に関わることがまったくないどころか、しばしば犯罪に直面するわけでしょう。もちろん、被害者として関わるケースが多いのですが、ときには犯罪に立ち向かう人だって、いないわけではない。強盗を追跡して殺された悲劇だって何度となくあります。そういうことを言われたのですよ」
「言われたって……その、『上の人』が、ですか?」
「ははは、そうです、すべて受け売りだと言ったでしょう。自分らにはそんな発想は、なんぼ考えたところで、浮かぶものではありません」
「じゃあ、母は……」
「そうですよ、お母さんは罪を犯したどころか、正義の人だろうと、その人はそう言われたのです」
川根はまるでその「お母さん」が自分の母親ででもあるかのように、誇らしげな口調で言って、胸を反らせた。
「正義の人……」
詩織は母親の美咲が、ベッドの上でわずかに身を起こして、「守って……」と呟いたときのことを思い出した。
(母はいったい、何から何を守ってと言いたかったのだろう?――)
消えてしまった『おもひで』の中に、守らなければならない何があったというのだろうか?
詩織の思考は、ようやくその「ことの本質」に向かって、まとまりはじめていた。
「さて」と、川根は腰を上げた。
「われわれはこれで失礼しますが、身辺にはくれぐれも用心してください。犯人側はいまだに『おもひで』の行方が分からないので、不安だろうし、相当、焦っていると考えられます。かなり強引なことをやらんともかぎりませんのでね」
「でも、身辺に注意するといっても、限界があると思うのですけど。具体的にはどう注意すればいいんですか? まさか用心棒を頼むわけにもいかないし」
「ははは、ヤクザのデイリではないですからな、強引といったって、殴り込みをかけてくるわけではない。相手がどういう人物か、男か女かも分からない状況ですので、まあ、接近してきたり、訪ねてきたりする人物は要注意と考えていただきたいということですな。といっても、刑事はべつですがね」
川根は最後を冗談で締め括《くく》って、帰って行った。
2
詩織が電話で、川根の話をすると、浅見は「やっぱり」と、憂鬱《ゆううつ》そうに言った。
「このあいだ、お宅の近くまで行ったら、刑事らしいのがウロウロしていたので、引き返してしまったのですよ。これじゃ、当分はお宅に近づくこともできませんね」
「でも、べつに何も悪いことをしているわけじゃないんですから、構わないと思いますけど」
「ははは、それはまあ、法的には差し支えはありませんけどね。しかし、わが家の憲法は僕が警察の捜査に介入することを固く禁じているのです」
「でしたら、どこか外でお会いすればいいんです」
詩織はそう言ってから、何だか物欲しげな言い方をしてしまった――と、電話のこっちで顔が赤くなった。浅見と緊急に会わなければならない用件など、何もありはしないのだ。そのことは浅見も感じたらしい。一瞬、とまどったような声で応じた。
「は? ああ、それはまあそうですが……しかし、しばらくは注意したほうがいいでしょう。あなたにも尾行がついていると考えなければなりませんからね」
「えっ、私を尾行しているんですか?」
「もちろん、その恐れは多分にありますよ。まずお宅に現れる人物、そして、あなたに近づく人物を疑ってかかるのが警察のやりクチなのです」
「あ、それは刑事さんも同じようなことを言ってました」
「やっぱりそうでしょう。そういう意味では、僕なんかも充分、容疑の対象になるかもしれない。あなたとこそこそ、デートをしていたら、たちまち不審訊問されてしまいますよ。ははは……」
浅見は笑っているけれど、詩織にしてみれば、少しも笑う気分ではなかった。毎日が緊張の連続のような中で、ほんとうに、ふっと浅見の面影を求めている自分に気づくときがあるのだ。
「あの、刑事さんの言うところによると、『おもひで』の中には何か重大な秘密が隠されているのだそうです。そして、それはたぶん、犯人の旧悪に関わることだろうっていうのですけど、その点については、浅見さんはどう思います?」
「犯人の旧悪ですか? それはどうかなあ。ちょっとミステリー小説の読みすぎじゃありませんかねえ。僕はむしろ、宝物のほうだと思いますよ」
「そうですよねえ、母が犯罪みたいなものに関係していたなんて、考えられませんもの。ああよかった、そんなこと言われたものだから、私は本気で心配しちゃいました」
「それはともかく」と浅見は冷静な口調に戻って、言った。
「まだ『おもひで』の行方は不明ですか?」
「ええ、まだぜんぜん分からないんです。すみません」
「いや、あなたが悪いわけじゃない。しかし、刑事が言ったように、犯人側が焦っていることは間違いありませんからね、一刻も早く所在を知ることが望ましいですね」
「ええ、私もそうは思うのですけど……」
言いながら、詩織は悲しくなった。警察も浅見も、誰もかれもがただひたすら、『おもひで』の行方を知ることだけを中心に、自分の周辺で動き回っているような、索漠とした気持ちであった。
浅見の電話が切れるのを待っていたように、伯母から電話が入った。「元気?」と、のんびりした声で言って、「いつだったか、詩織ちゃんが言っていた、北原白秋の詩集ね」と言いだした。
「えっ? あの『おもひで』のこと?」
「そうそう、『おもひで』だったっけ、あれ、いまごろになって、ちょっと思い出したんだけど」
「えっ、じゃあ、やっぱり伯母さんのところにあったの?」
「ううん、そうじゃないのよ。そうじゃなくて、あなたの家でね、ほら、美咲さんが入院する前、お手伝いに行ったでしょう。あのときに、美咲さんが書庫から小さな白い本を持って出てきて、お仏壇の中に入れたような気がするの」
「えっ、ほんとですか?」
「たぶんね」
伯母は自信のない口調だ。
「もう何年も前のことだし、わたしもボケちゃったから、はっきり憶えていないんだけど、たしか、そんなようなことがあったと思うの。でもね、本の題名は見えなかったのよ。だからそれが『おもひで』だったかどうか、はっきりとは言えないのだけれど」
「白い小さな本なら、たぶん間違いないと思うけど……」
詩織は仏壇のある部屋の方角を見つめて、首をひねった。
「でも、仏壇なら毎日見てるし、パパが亡くなったときには、写真だとかお位牌《いはい》だとかを飾るので、ちゃんとお掃除もしたけど、そんなもの見当たりませんでしたよ」
「あら、そうなの?……そう、じゃあ、わたしの記憶違いかしらねえ……」
伯母が情けなさそうに言うので、詩織は気の毒になってしまった。
「ううん、私の調べ方が悪いのかもしれません。念のために、もういちど調べてみます。どうもありがとうございました」
お礼を言って、あまり期待感もないまま、ともかくも仏壇を見に行った。
仏壇はそう大きなものではない。美咲の母親――つまり詩織の祖母が亡くなったときに新調したもので、黒檀でできているのだそうだが、仰々しいのは嫌いだからと、父親が中庸をゆく程度のものにしたと聞いたことがある。
中を覗いてみたが、『おもひで』などありはしなかった。あればとっくに気づいているはずだ。それでも、ひょっとすると――と思って、詩織はお供え物を載せる棚を持ち上げてみた。
「あっ……」
小さく叫び声を上げた。階段状になっている棚の裾《すそ》の隙間に、白いものが見えた。棚の上の燭台《しよくだい》などを除《の》けて、棚を取り外すと、そこに『おもひで』があった。
白い地にダイヤのクイーンが描かれた表紙を見たとき、詩織は足がすくむほどのショックを覚えた。
「あった……」
急に涙があふれてきた。なぜ泣くのか、自分でも説明ができないけれど、きっと、これまでに溜まりに溜まったいろいろな想いが込み上げて、涙になるのだ――と思った。
手を差しのべ、『おもひで』を掴んだ。ドッシリと持ち重りのする詩集を掌に載せた。これが母の大切にしていた遺品なのだ――と、あらためて思った。
それにしても、この『おもひで』に、いったいどんな秘密が隠されているというのだろうか?
詩織が柳川で買ってきたのはケースに入っていて、カバーもかけてあった。しかしこの『おもひで』はケースもカバーもない、剥《む》き出しの状態で仕舞われていた。表紙には少し手垢《てあか》がついたような汚れがあった。
裏表紙の隅っこに小さく「筑後《ちくご》柳河版」と印刷されているので、復刻版であることはすぐに分かる。奥付には「この書物は故郷柳河を生涯愛した詩人白秋を永久に記念するため、日本郷土文芸|叢書《そうしよ》の趣意により柳川市に於《お》いてのみ発売するものである」という断り書きがしてある。詩織が買ったのと同じ、「柳川土産」なのだ。
(母も柳川に行ったのね――)
詩織は母の美咲が柳川の街で、この本を手に取っている姿を空想した。
詩織はふと、母親は誰と柳川に旅行したのか気になった。
大輔から柳川の話を聞いたことはない。美咲の口からも、ついぞ柳川へ行ったなどという話は聞かなかった。両親の話によると、新婚旅行の行き先は宮崎だったそうだが、その話の中に「柳川」は出てこなかった。かりに柳川へ寄ったのなら、その話だってするはずである。
もしかすると、母は独身時代最後の旅行を楽しんだのかもしれない。父親と結婚する前――二十何年か前の母親は、いまの詩織より五、六歳年長だが、それでも一応、青春真っ盛りの歳《とし》ごろといっていい。
(だとすると、いったい誰と?――)
詩織は、見てはならないものを見たように、ドキリとした。
もっとも、若いころは誰だって友達と旅行はするし、女性同士のグループ旅行や、この前の詩織のように、独り旅だったこともありうるから、そんなに神経質になることはないのだ。
そう思いながらも、詩織は母の「道連れ」が気になった。|何でもない《ヽヽヽヽヽ》旅行なら、一度くらい昔ばなしの中に出てきてもよさそうなものだ――という気もした。
いずれにしても、同行者が父親でないことだけはたしかだと思う。もし大輔が一緒だとしたら、美咲があの『おもひで』を買ったのを知っているだろうし、美咲が言い残した「トランプの本」を聞いたとき、すぐに『おもひで』を想起するはずだ。
詩織は『おもひで』のページを繰ってみた。この本のどこに「秘密」が潜んでいるというのだろうか?
当然のことだが、詩織が買ってきたのと、装幀も中身も同じである。ただ、母親の青春時代を想うせいか、冒頭のトビラにある「この小さき抒情小曲集をそのかみのあえかなりしわが母上と、愛弟Tinka Johnに贈る。Tonka John.」という文章は、以前に見たときと違った印象を詩織に与えた。
目的意識もなく、詩織はページを繰っていて、写真版のページでふと指を停めた。
(おや?――)と思った。
(こんな写真、あったかしら?――)
『おもひで』の中には、白秋自身が描いたイラストの図版と、何枚かの写真版が挟み込んである。そのことは知っていた。しかし、詩織の記憶では、写真はたしか柳川の風景ばかりだったような気がするのに、この本には人物の写真が載っていた。
どこかの公園だろうか。若い母親が草地にひざまずき、まだヨチヨチ歩きの男の子をいとおしそうに抱き締め、ほおずりをしている。その背後から、若い父親が屈《かが》み込むように二人を抱くようにして笑いかけている。いかにも平和そのもののような写真であった。
父親はスポーツシャツ。母親は花模様を散らしたワンピース姿だ。
背景に場所を示すような建物はない。木立の向こうに頭の尖《とが》った山が見える。服装から見てどうやら夏のようだ。写真はもちろん白黒だが、母親のワンピースの花柄が、あざやかな色彩を感じさせる。
(これ、変だわ――)
ちょっと見たときには、白秋が子供のころに撮った写真か、あるいは白秋夫妻と息子《むすこ》の写真かと思ったが、それにしては、ずいぶん鮮明に撮れているし、印刷もきれいだ。第一、服装の感じが明治や大正のころのものとは思えなかった。
詩織は急いで自室から『おもひで』を持ってきた。思ったとおり、彼女の『おもひで』にはそんな写真はなかった。写真版は二ページあるが、いずれも不鮮明そのもののような柳川風景であった。
変だと思って、注意して見ると、写真版の挟み込み具合が明らかにおかしい。きれいに仕上げてはいるけれど、前にあった写真版を切り取って、あとから糊付《のりづ》けしたものであるらしい。
詩織は心臓がドキドキ音を立てるのを感じた。これはただごとではない――と思った。
美咲が「守って……」と言い残したのは、この『おもひで』の本そのものではなく、この写真のことだったにちがいない。
(だけど、何なの、これ?――)
仏壇の中で笑っている母親の写真に問い掛けながら、詩織はふいに、まるで霊界の中に引きずり込まれそうな、得体の知れぬ恐怖を覚え、慌ててリビングルームへ走った。
あらためて写真の三人の顔を眺めて、詩織は、母親と子供はともかく、父親の顔はどこかで見たような気がしてならなかった。
しかし、いくら思い出そうとしても、こんな人たちに知り合いはなかったし、第一、この本を母親が買ったのが二十何年も昔だとすると、詩織自身、生まれてもいなかったのだ。知っているはずはないと思うのだが、それでもなんとなく見たような気がする。
「どうしよう……」
詩織は独り言を呟いた。えらい物を見つけたことはたしからしいが、これをどう処理すべきか、悩んだ。
詩織は受話器を握り、浅見の自宅の電話番号をダイヤルしかけて、やめた。あの意地悪なお手伝いの声が、耳によみがえった。
3
翌朝、浅見から電話がかかったとき、詩織はかなり興奮ぎみに「発見」のことを告げた。昨夜ひと晩、まんじりともしないで、浅見の反応をあれこれ思い描いていた。
「えっ、ありましたか!」
浅見は詩織の期待どおり、強く反応してくれた。
「これ、浅見さん、見ますか?」
「もちろんです、これからすぐ行きます」
「でも、刑事さんが見張っているかもしれないでしょう?」
「うーん……それじゃ、協力してくれませんか。いったん、あなたが家を出て、刑事を引きつけているあいだに、僕がお宅に入りますから」
「ええ、いいですよ、やってみます」
詩織は何だか、自分がドラマのヒロインを演じているような、昂揚《こうよう》した気分になってきた。
それから一時間後、手筈《てはず》どおりに詩織は外出し、駅まで往復して帰宅すると、浅見はちゃんと応接室にいてくれた。
「どうでした? 刑事は尾行していましたか?」
「さあ、分かりません。一度も後ろを見なかったし、それに、たとえ尾行していたとしても、私には見分けがつかないんじゃないかしら。それより、浅見さんのほうは大丈夫だったのですか?」
「たぶんね。もっとも、僕だってどれが刑事か分かりっこないのです。ただ、それらしい人物は周辺には見当たらなかったことはたしかですけどね」
浅見は苦笑して、「問題の本を見せてください」と催促した。
詩織は浅見を仏壇の前に案内して、「ここにあったんです」と、いかにも自慢そうに、お供物の棚の下から『おもひで』を取り出した。
「ほう、よく気がつきましたね」
浅見は一応、褒めてはくれたものの、気持ちは『おもひで』の中身に向かっていることが、その表情から分かった。
詩織はすぐには本を浅見に渡さず、『おもひで』を抱くようにして応接室に戻った。
「ここに、おかしな写真があったんです」
その写真のあるページを開いて、ようやく浅見の手に『おもひで』を委《ゆだ》ねた。
「こんな写真、本来はないはずなんです。ほら、よく見ると、これ、後から貼《は》ったものなんですよね。第一、明治時代や大正時代のころとは、服装の感じが違うでしょう? 写真だって、こんなに鮮明なはずがないと思うんです」
詩織の説明に、浅見は少し煩わしそうに、こまかく頷いた。何かを模索するように眉をひそめ、視線を忙しく宙に彷徨《さまよ》わせた。
それから、もどかしげな手付きで奥付を開いて、「ん?……」と声を発し、非難するような目を詩織に向けた。
「これ、ほんとうにお母さんの遺品なのですか?」
「は?……」
詩織は浅見が何を言っているのか、分からなかった。
「そう、だと思いますけど」
「どうして遺品だと分かったのですか?」
「どうしてって……でも、こんな場所に母が隠したんですもの、ほかに考えようがないんじゃありません?」
「ほんとうにお母さんが隠したのですか?」
「え? ええ、そう聞きました」
「聞いたとは、誰から聞いたのですか?」
浅見の口調に、詩織は、何だか詰問されているような、不愉快な気分だった。
「伯母から聞いたんです。伯母は、母が入院する少し前、ここにこの本を仕舞うのを見たと言ってました」
「伯母さんが?……」
浅見はもう一度、『おもひで』の奥付を確かめた。
「しかし、それはおかしいな」
「おかしいって、何がですか?」
「ここに発行年月日があるでしょう」
浅見が示したのを見ると、なるほど、発行日は次のように印刷されていた。
昭和四十二年 六月 一日 発行
平成 元年十二月 一日 十一版
「あっ……」
詩織もすぐに気づいた。いや、昨夜、これを見たときに気づかなかったのが不思議なくらい、単純な事実だった。母親の美咲が亡くなったのは昭和六十三年の秋――つまり、この本の第十一版が出る前の年なのである。
「どういうことかしら?」
詩織は不安と同時に、浅見を騙したような結果に、身のすくむ想いであった。
「これがここに隠されているというのは、伯母さんが教えてくれたのでしたね?」
浅見は、黒い深みのある眸で、詩織の目をじっと見つめながら、冷ややかとも思える口調で訊いた。
「ええ、そうですけど」
「伯母さんが最後に来たのは、いつごろのことですか?」
「かれこれひと月前ですけど」
「ひと月前……」
浅見は視線を天井に向けて、しばらく黙りこくった。それから、横目で詩織を見て、訊いた。
「最近はどうです。ここ二、三日のあいだに、お宅に来た人は誰ですか?」
「誰も来ませんけど」
「誰も、ですか? たとえば宅配便だとか、新聞の勧誘だとか……」
「いいえ、べつに……刑事さん以外には誰も来ていません」
「刑事……」
浅見の眼が鋭く動いた。
「その刑事ですが、本物ですか?」
「えっ?……」
詩織にとっては思いがけない質問であった。川根たちが贋物《にせもの》の刑事だなんて、ただの一度も疑問を持ったことがない。
しばらく返事をためらうほど、詩織はショックを受けた。
「えっ、ええ、本物ですよ、間違いなく」
ようやく、確信を掴んで、そう答えた。
「だって、父が殺された事件のとき、広島の警察に行って川根さん――その刑事さんの名前ですけど、その人に会って、それ以来ずっとですもの」
「そうですか、刑事ですか……それで、その刑事はあの仏壇のある部屋に入りませんでしたか?」
「ええ入りました。しばらく東京を離れるからって言って、父に挨拶して行くって、拝んでくれたんです」
「それだ……」
浅見は溜め息をつくように、言った。
「それだって……じゃあ、そのときに刑事さんがこの本をあそこに隠したっていうんですか?」
「そうだと思うしかない」
「まさかァ……だって、そんなの無理ですよ。伯母が教えてくれたのは、その直後みたいなものですもの。もし刑事さんが本を隠したのだとすると、伯母がそんなこと、知っているはずがないじゃ……」
浅見に抗議しながら、詩織は愕然《がくぜん》と気がついた。
「えっ、まさか、そんな……」
浅見が指摘したように、奥付を見るかぎり、この本が発行されたのは、母親の美咲が死亡したあとである。だとすると、伯母が「目撃」したという話は矛盾でしかない。
「どういうことなの、これって?……」
詩織は完全に頭が混乱した。
「伯母は嘘をついたんですね。みんなでグルになって、私を騙して……いったい何をしようっていうのかしら?」
浅見はそういう詩織から目を背けるようにして、じっと考え込んでしまった。その横顔は、いままでの彼が見せたこともない、憂鬱の影に覆われていた。
詩織はたまらず、電話に向かった。
「あ、寺沢さん、どこに電話するつもりですか?」
浅見ははじかれたように振り返って、言った。
「伯母のところです。いったいどういうことなのか、訊いてみます」
「いや、それは待ったほうがいい」
「どうしてですか?」
「これは何か、大きな背景を持った企《たくら》みですよ。もう少しじっくり見きわめて、真相を把握したほうがいいでしょう」
「企みって、それ、何なのですか?」
「さあ、それはまだ分からないが、下手に動くと、それこそ寄ってたかって騙されてしまうかもしれない。何しろ、テキは警察までグルになっている可能性がありますからね」
「えっ、じゃあ、やっぱり……」
「いや、可能性の問題ですよ。何かの間違いかもしれませんけどね」
「間違いだなんて……こんなの、間違いで起こるはずはないですよ。どう考えても、伯母と警察がグルになって、私を騙そうとして仕組んだことだわ。だけど、どうしてなの? いったい何が目的なの?……」
この世の中でもっとも信頼できる存在といえば、父親が死んだいまとなっては、伯父伯母しかいない。それと警察。その信頼すべき者たちに騙された――それも、母の遺品という、詩織にとっては神聖な物を利用して――のだから、詩織は脳細胞がいまにも破壊されそうなほど、混乱の極に達してしまった。実際、詩織は自分が発狂したのではないかとすら思った。
「しっかりして!」
浅見は詩織の両方の肩を抑えて叱った。浅見の掌の温もりを感じて、詩織はふっと気が遠くなりそうだった。
「これが何かの策謀であるにしても、いや、策謀であるならなおのこと、うかうかと引っ掛かって騒ぐのは敵を喜ばせることになるばかりですよ。いまは落ち着いて、じっくり状況を見きわめるべきです。伯母さんが、わけもなくあなたを陥れようとするはずがない。これには何かの理由があるはずです」
「ええ、それはそうですけど……」
詩織は素直に頷いた。たしかに浅見の言うとおりかもしれない。あの伯母が可愛い姪《めい》を理由もなしに騙すはずはない。そう信じたかった。もし何か、のっぴきならぬ理由があって、伯母がそうしたのだとすると、下手に騒ぎ立てては、伯母を窮地に追い込むような結果にならないともかぎらない。
二人はそれぞれの椅子に腰を下ろして、しばらくは虚脱したように黙ってしまった。
それから詩織はノロノロと動いて、またあの写真のページを開いた。
「だけど、この写真に写っている人は、いったい誰なのかしら?」
詩織は写真に見入って、素朴な疑問を投げた。
「この男の人なんか、どこかで見たような気がしてならないんですよね」
そうは言ったものの、結局、詩織は何も思い出すことはできなかった。それに、いくら鮮明とはいえ、モノクロの小さな写真である。たまたま他人の空似のように、誰かの顔とそっくりに写っているのかもしれない。
浅見は詩織の手から本を受け取って、写真を見つめ、かなり長いこと深刻そうに考え込んでいる。さすがの名探偵も思いもよらぬ展開に出くわして、困惑しきっているように見えた。
「ねえ浅見さん、この本が母の遺品でないことは分かりましたけど、伯母の仕業にしろ刑事の仕業にしろ、なぜこの写真を貼りつけたりしたのかしら?」
「分かりません」
浅見はあっさり答えた。取りつくしまもない、素っ気ない口調だった。
それからまた長い時間が流れた。興奮が冷めてくるにつれて、詩織は目の前にいる浅見の存在が、全宇宙のように大きく重く感じられてきた。思索的な黒い眸がどこかに対象を求めようとして動くたびに、身の置きどころもないような緊張が強まった。
「お茶、入れますね」
詩織が言って立つのと、浅見が立ち上がるのと、ほとんど同時だった。
詩織は「はっ」と呼吸が停まった。浅見がいまにも襲いかかってくるのではないか――と、なかば期待しながら、身構えた。
「失礼します」
浅見は言って、ドアのほうへ向かった。
「あの、もう……」
帰ってしまうのですか――という声を、喉の奥に戻した。浅見の様子にただならぬ緊迫感が現れていた。「ん?」と振り返った表情にも、凄惨《せいさん》といってもいいほどの、切羽詰まった気配が見て取れた。
「ああ、ちょっと気になることがあるので、失礼しますよ」
浅見は軽く会釈すると、ドアを押し開けて部屋を出て行った。
「あの、これから私は、どうしたらいいんですか?」
詩織は小走りに追い掛けながら、訊いた。
「そうですね……」
浅見は玄関で靴を履きながら、思案をまとめていたが、玄関ドアを開け、外の様子を窺ってから、ようやく言った。
「とにかく、しばらくは何もしないで、じっと待ってください。この先もまだ、おかしなことが起きるかもしれないけれど、惑わされないことが肝心です」
最後に「じゃあ」と軽く右手を上げて、外へ出た。
しかし、玄関ドアが閉まるか閉まらないかのうちに、浅見は引き返してきて、「まずいですね」と言った。
「表に刑事が二人、見張ってました」
「でしたら、もう少し中にいませんか?」
「いや、そうのんびりしてもいられないのです。それに、連中はたぶん、交代で張り込むでしょうからね――そうだ、あなたの車で、その辺まで送ってもらえるとありがたいな」
「だめなんです、それが。目下、免許取り消し状態で」
「ほう、あなたも交通違反をするのですか」
浅見は見直した――という目をした。
「車なら、お貸ししますよ」
「しかし、ピッカピカの新車でしょう。いいんですか?」
「いいんです。浅見さんなら喜んでお貸しします」
「そう……ですか」
浅見はドアの隙間から、赤いロードスターを眺めていたが、「それじゃ、お願いしようかな」と言った。
「ただし、返しに来られるのは、明後日になりますよ」
「構いません。どうせ当分、乗れないのですから」
詩織はキーを取ってきて、浅見に渡した。
「感謝します」
浅見はおどけて、挙手の礼をしてみせたが、笑顔を作ろうとした顔は、妙な具合に歪《ゆが》んだように見えた。慌てて顔を背け、玄関を出ながら背中で挨拶している。
詩織はドキリとした。浅見が泣き出しそうに思えたからだ。
いや、顔を背ける寸前のほんの一瞬、詩織は浅見の目に宿った涙を見たと思った。
陽気というより、感情の起伏を見せないような浅見が、たしかに泣いた。
(どうしたのかしら?――)
浅見が出て行って、ロードスターの軽いエンジン音が聞こえなくなったあとも、長いこと、詩織は言いようのない不安を抱きながら、凝然と佇んでドアを見つめていた。
4
午後になって、詩織は自宅を出た。警察の張り込みのせいで、このところ、すっかり出不精になっているけれど、食料品の買いだしには出かけなければならない。
門を出て駅に近いスーパーへ向かう道を歩きはじめて、すぐに、詩織は行く手の電柱の脇に佇む若い男に気づいた。のんびり煙草に火をつけようとしているのは、何度か見掛けたことのある、おそらく中野署か警視庁の刑事だ。
詩織は構わず、若い刑事との距離をぐんぐん縮めた。
刑事はよほど油断していたらしい。ほんの十メートルほどに近づいてから詩織に気づいて、(あれっ?――)という顔になった。
「ご苦労さまです」
詩織はわざと正面に立って、丁寧にお辞儀をしてやった。警察に対する敵愾心《てきがいしん》のようなものが、彼女の気持ちを占めていた。
「えっ、は、いや、どうも……」
若い刑事はうろたえて、火をつけたばかりの煙草を、側溝の中に捨てて挨拶を返した。ここに詩織がいるのが信じられない――という表情であった。
詩織は刑事の前をすり抜けるように、ツンと顎を突き出して通った。
「あっ、ちょっと待ってください」
刑事は慌てて詩織の前に回り込んだ。
「いつ帰ったのですか?」
「は?」
「いや、さっき車で出かけたのじゃなかったですか?」
「いいえ、私はずっと家にいましたよ。これから買物に行くところです」
「しかし、車が……」
「ああ、あれは人に貸したんです。私は免許取り消しの身分ですからね」
警察の「ネズミ取り」に腹を据えかねる分を、この際にぶつけてやった。
「貸したって……誰に貸したのですか?」
「そんなこと、あなたに言わなければならない理由はありません」
「いや、そういう、しかしですね……」
若い刑事は、自分の失態に完全に惑乱している。
「ちょっと待っていてください」
詩織を制止しておいて、携帯電話を使って、どこかに連絡を取った。背中を向けて喋っているけれど、刑事の言葉は詩織にも切れぎれに聞こえた。
「はあ、車でです……いや、決して……はあ……分かりません……ちょっと待ってください」
刑事は振り返って、「車はどこへ向かったのですか?」と訊いた。
「知りませんよ、そんなこと」
「知らないって、あんた……」
刑事は文句を言いかけたが、じきに諦めて電話に向かい、またしばらく言い訳じみたことを喋っていた。
詩織は刑事を尻目に、歩きだした。刑事が「あっ、ちょっと、あんた」と呼ぶのも無視した。追い掛けてくるかと思ったが、何か指示があったのか、それ以上、刑事は追ってこなかった。
買物をすませてから、喫茶店で三十分ばかり過ごして、帰宅した。刑事を焦《じ》らしてやろうと、意識的にそうした。
帰り道に刑事の姿はなかったが、帰宅してまもなく、チャイムが鳴った。マジックアイで覗くと、最前の若い刑事と一緒に、中野署のたしか「笠井《かさい》」と名乗った部長刑事の顔が見えた。
笠井は「どうも」と、いかにも不機嫌そうに、口をへの字にし、腰に手をあてがって挨拶をした。そういう顔つきやポーズをすると、刑事はヤクザのようだ――と、詩織は冷ややかに思った。
「何かご用ですか?」
二人の刑事を玄関に入れて、詩織は愛想のない口調で言った。そこから先は、一歩たりとも入れてやらない――という姿勢だ。
「さっき車で出て行った人ですが」と、笠井は上目遣いに言った。
「あれは浅見さんじゃないのですか?」
「えっ?……」
詩織は単刀直入に訊かれて、さすがに動揺しないわけにいかなかった。「いえ、違いますけど」と言ったものの、きっと「嘘をついています」という顔をしているにちがいない――と自覚していた。
「どこへ行ったのか、教えてもらいたいのですがねえ」
笠井刑事は、すでに車の男が浅見であると決めてかかっているらしい。
「知らないんです、ほんとに」
「そんなはずはないでしょう。どこへ行くかも分からずに車を貸してやるなんて、考えられませんなあ」
「考えようと考えまいと、そんなの、そちらの勝手だわ。私はほんとに知らないんですから」
詩織は頑強に言い張った。いや、浅見がどこへ行くのか知らないのは事実なのだから、それについてだけは、胸を張って主張できる。それは刑事にも伝わったのだろう、笠井は当惑して、懇願するように言った。
「じつはですね、もし、浅見さんの行く先が分からないと、厄介なことになる可能性があるのですよ」
「厄介なことっていいますと?」
「まあ、詳しいことは言えませんが、人のいのちに関わることだと考えてください」
「いのちに関わる……というと、また殺人事件ですか?」
「そうですよ、そのおそれがあるのです」
笠井は怖い顔をした。
「ほんとですか? でも、まさか、浅見さんが殺されるとか?……」
「えっ? 浅見さんが?……」
笠井のほうが驚いて、若い部下と顔を見合わせた。
「いや、それはないと思うが……ん? しかしそうか、いや、待てよ、そうですね、そういうこともあり得るかな……」
思案を巡らせて、いろいろな状況を想定しているらしい。目玉をクルクルさせて、まとまりのない言葉を口走った。
詩織も笠井の頭の中の動きをあれこれ想像した。笠井がいちどは否定しながら、すぐに思い返して、浅見が犠牲者になる可能性もあることを匂《にお》わせるようなことを言ったのには、どういう事情があるのだろう?――
「だけど、ほんとに知らないんです。浅見さんがどこへ行ったのか」
詩織はしだいに不安がつのってきた。警察がこれほどまで真剣になっているからには、脅しや冗談でなく、新たな殺人事件の発生が予測されているためなのかもしれない。
「えっ、じゃあやっぱり、さっきのは浅見さんだったのですね?」
笠井はすかさず食いついた。
「ええ、ごめんなさい、浅見さんに固く口止めされていたものですから――でも、これ、警察幹部の浅見さんのお兄さんには言わないでくださいね。でないと、私の立場がなくなっちゃいますから」
「分かりました。とにかく、それよりも浅見さんの行く先を教えてください」
「それは知らないんです。ほんとに知らないんですよ。ただ、車は明後日になれば返しに来るっておっしゃってました」
「明後日ですか……それまでは連絡がつかないのですか?」
「ええ、たぶん……でも、電話連絡ぐらいはしてくださるかもしれません」
言いながら、詩織はふと気がついた。
「あら、そうだわ、浅見さんのお宅に電話すればいいんじゃないですか」
「ん? ああ、それはそうですがね」
笠井は苦い顔になった。電話をしにくい理由があるらしい。
「浅見さんは探偵みたいな真似をしていることが、お家の方に知れると具合が悪いんだそうですけど、友人だとか言って電話すれば、分からないんじゃないかしら」
「そうですね、そうしてみますか」
笠井はあまり気のなさそうな口調で言って、引き上げて行った。
独りになると、詩織は急に心細くなった。刑事は好きじゃないけれど、話し相手にそばにいてくれるなら、刑事でもいいか――と思えてくる。
それにしても、何がどうなっているのか、これからどうなるのか、詩織はわけが分からなかった。
あれから浅見はどうしたのか、そのことも気にかかる。刑事は浅見も殺されるかもしれないとか言っていたけれど、だとすると、浅見が犯人を追い詰めつつあるということなのだろうか。
仏壇に『おもひで』を隠したのは、ほんとうに川根刑事たちの仕業なのだろうか。伯母はグルになっているのだろうか。
(何のために?――)
(そもそもあの写真は何なの?――)
詩織はしだいに焦燥感がつのって、いても立ってもいられない気分に陥った。恐ろしいというよりも腹立たしさのほうが強かった。誰もかれもが、寄ってたかって自分をばかにし、いじめ、あるいはからかっているような気持ちだった。
(冗談じゃないわ――)
詩織はついに我慢の糸が切れて、電話に向かい、伯父の家の番号をダイヤルした。
伯母は詩織の声を聞くと、おびえたような声で、「あ、詩織ちゃん」と言った。
「きのうはどうもありがとうございました」
詩織は紋切り型の口調で言った。
「えっ、ああ、ううん、いいのよ……」
伯母はしどろもどろだ。
「伯母さん、あの本、どうしたんですか?」
「えっ、どうしたって、何が? 何がどうしたって言うの?」
問い返す様子には、演技ではなく、不安そうな気配が感じ取れる。伯母も何も知らないのではないか――と、詩織はふと思った。
「ねえ、詩織ちゃん、何か変なことでもあったの?」
伯母はオズオズと訊いた。探りを入れるというより、ほんとうに何も知らない、善良で小心な伯母の本質が、その声音ににじみ出ている。
(そうだわ、伯母さんに悪事を企んだり、ひとを陥れたりするような真似ができるはずはないのよ――)
詩織もそう思った。
「ねえ、伯母さん、とても変なことを言うようだけど、怒らないで聞いてくださる?」
「えっ、ええいいわよ、怒りませんよ、何なの?」
「伯母さんが言っていたこと……ママが仏壇に本を仕舞うのを見たっていうの、あれは嘘なのでしょう?」
「…………」
伯母はしばらく声も出さなかった。
詩織は根気よく待った。
「ごめんなさい詩織ちゃん、そうなの、あれは嘘なのよ」
伯母は力なく言いだした。
「だけど、どうしてそれ、分かったの?」
「分かるわよ、そんなこと。だって、あの本の奥付に発行年月日が印刷されていて、平成元年なんですもの。母が亡くなる前に仕舞えるはずがないじゃない」
「あ……」
伯母はまたしばらく絶句してから、溜め息まじりに、「そうだったの、でもよく気がついたわねえ」と言った。
「ねえ、伯母さん、どういうことなのか説明してください」
「ええいいわよ、お話するけど、とても変な話なの。じつは、このあいだ詩織ちゃんから、『おもひで』っていう本が来てないか、問い合わせがあったでしょう。ほんとうはその本、美咲さんのお葬式のときに私が借りてきていたのよ。北原白秋の詩が好きだったし、それに白秋の詩集の復刻版なんて珍しいもんだから。もちろん、あなたのお父さんに、ちゃんと断わりましたよ。だけど、大輔さんはこっちを見もしないで、どうぞどうぞって――それでその本、ここにあったの。ところがね、詩織ちゃんから電話がある前の日に、刑事さんが来て、これこれこういう本はこちらで預かっていませんかって……」
「えっ? どうしてそんなことが分かったのかしら?」
「ほんと、私もびっくりして、最初は詩織ちゃんから聞いてきたのかと思ったのだけど、そうじゃなくて、まったくの当てずっぽうだって言うのよ。でも、考えてみると、詩織ちゃんの家と親しくしていて、自由に書庫に出入りできる人って、ほかにはいないかもしれないものね」
「ええ、それは、まあ、そうだけど……」
それにしても、驚くべき洞察力だ――と、詩織は舌を巻いた。
「それでね、もしあなたにその本のことを訊かれたら、ありませんて答えて欲しいって言うの。だから嘘をついたのよ、ごめんなさいね」
「ええ、それはいいんですけど。でも、どうしてなのかしらねえ?」
「さあ、分かりませんよ、それは。だけど、警察の人にそう言われたからには、それなりの理由があると思って、従わないわけにいきませんもの」
伯母の説明を聞いて、詩織は溜め息をついた。
「そうだったの、そんな前から仕掛けをしていたんですか――そうしておいて、川根っていう刑事さんがやって来て、この本を仏壇に隠して、それから伯母さんが電話してきて、私に本を発見させたっていう段取りだったわけですね」
「そうなのよ、詩織ちゃんが言ったとおり。あーあ、もう何もかも分かってしまったのね。だから私はいやだって言ったんですよ。詩織ちゃんは頭がいいから、そんなことしても、きっとバレちゃうって。だのに、どうしてもって……詩織ちゃんのためになることだからって、あんまりしつこく頼まれたもんだから、つい……」
「それって、誰に頼まれたの? あの刑事さんなの?」
「ええ、まあ刑事さんもいたけど、頼まれたのはべつの人よ。今度の変な計画を考えたのもその人だったみたい。贋《にせ》の本を詩織ちゃんの家の仏壇に隠すとか、そのほかいろんなこともその人の計画だったのじゃないかしら。そういったこまかい説明は、みんなその人がしたのだし」
「誰なんですか、こんな変なことを考えたりする人って?」
「それがだめなのよ、当分のあいだは内緒にしておくようにって言われてるの」
「いいじゃないですか、どうせここまでバレちゃったんですもの」
「それはそうだけど……」
「あっ、分かった、川根さんの上司の人じゃない? 若くてエリートで、すっごく頭がいいとかいう」
「ううん、若いことは若いけど、警察の人じゃないんですって」
「ふーん、違うの……だったら誰なんですか? ねえ伯母さん、教えてくれてもいいじゃないですか」
「困ったわねえ……じゃあ、あなたに教えたこと、黙っていてちょうだいね」
「ええ、言いませんよ、約束します」
「だったら言うけど、浅見っていう人なの」
「えーっ、浅見さん?……」
詩織は悲鳴のような声を上げた。
「あら、詩織ちゃん、知ってるの?」
「知ってるって……あの、浅見さんて、あの、私立探偵の?」
「そう、そうなんですってね、本業はルポライターだけど、探偵としても有名なんですってね。なあんだ、そうなの、詩織ちゃんも知ってたの。だったら隠しておくことはなかったのに。警察も変なことをするものねえ」
伯母が何を言っているのか、詩織の耳は聞いていることを理解する能力を失ってしまった。
(何なのこれ、どういうことなの?――)
あの浅見までがみんなとグルになって、自分を騙していたなんて、詩織には天地が引っ繰り返ったような、到底、受け入れることのできないことであった。
ほんのさっき、何だか涙ぐんでさえいたような浅見の後ろ姿は――あれはいったい何だったのだろう?
「もしもし、詩織ちゃん、聞いてるの? もしもし……」
伯母の心配そうな声が、受話器の中でだんだん小さくなっていった。
ずいぶん長いこと詩織は沈黙していたらしい。伯母の「切れちゃったのかしら?」という声に、ようやくわれに返った。
「伯母さん、それで、本物のママの遺品の本は、伯母さんのところにあるんですか?」
「ええ、ありますよ、ちゃんと」
「それって、真ん中へんに家族三人の写真が挟んであります?」
「そう、そうなのよ、それなのよ」
伯母は意気込んで言った。
「はじめ見たとき、私はその写真も詩集の一部かと思っていたの。ほかにも写真が入っていたしね。ただ、ちょっと紙の厚さが違うから、変だなとは思ったけど、昔の本だし、そういうものかって思って……そしたら、刑事さんとその浅見っていう人が来て、写真を抜き取って複写するっていうんで、はじめて、これはただごとじゃないって知ったのよ」
「そうだったの……」
刑事はその複写した写真を、こっちの贋の本に挟み込んだというわけだ。
「ねえ詩織ちゃん、これはいったい何事なのかしらねえ?」
「分かりませんよ、私にだって。ただ、分かっていることは、ママがその写真を隠し持っていたっていうことだけ」
「そうなのねえ……だとすると、この写真に写っている人は、美咲さんと関係がある人なのかしら?」
その疑問にぶち当たって、二人ともまた沈黙してしまった。
第六章 浅見光彦の死
1
翌々日、詩織は新宿のユニ・アカデミーに翻訳原稿を持って行った。父親が殺され、野木が殺され、不可解な出来事が周辺で続発しているというのに、日々の営みはしていかなければならない。人間とはなんて悲しい生き物なのだろう――と思ってしまう。
家から駅までのあいだ、注意して歩いたけれど、刑事の姿は消えていた。重くのしかかっていた鬱陶《うつとう》しいものが、とりあえず一つだけ取り除かれたような気分だった。
しかし、詩織を取り囲む謎めいた状況は、少しも改善されるどころか、ますます混迷を深めるばかりだ。道すがら、電車の窓から赤いロードスターが見えたりすると、詩織はドキリとした。
いまごろ、浅見はどこにいるのだろう――。詩織の赤いロードスターはどこを走っているのだろう――。
ユニ・アカデミーの上岡社長は上機嫌で、詩織の翻訳の出来を褒めてくれた。
「うちの社もようやく、明日からゴールデンウィークの仲間入りですよ。寺沢さんはどこかへ行くの?」
「いいえ、ずっと家にいます」
「ふーん、若いのに、もったいない……ああ、そうか、ボーイフレンドが来たりしちゃうのかな?」
「そんな人、いません」
「嘘でしょう、寺沢さんみたいな美人がゴールデンウィークを独りで過ごすなんてさ。だったら私がお相手をつかまつるかな。だめですか、こんなオジンじゃ?」
「ええ、だめです」
詩織はニベもなく言った。真顔で、はっきり言ったものだから、さすが厚顔の上岡も白けた顔で黙ってしまった。
寄り道もせずに帰宅して、詩織は浅見からの電話をひたすら待つことにした。
リビングルームのテーブルの上に、『おもひで』の本が置いてある。詩織は何度となく問題の写真のページを広げた。
若い父親と母親と幼児のいる、ごくありふれた、幸せな風景である。見るたびに、詩織は父親の顔にかすかな記憶があるような気がしてならない。ただし、母親と、それにもちろん幼児の顔は知らない。
浅見は彼らの素性を知っているのかもしれない。少なくとも、伯母の家に行く前から『おもひで』に秘密が隠されていることを知っていたフシがあるのだ。詩織の前でも、この写真が『おもひで』に挟まっていたほんとうの理由について、何かしら思いつくことはあったような気配を感じさせた。ずっと黙りこくって、最後にはひょっとすると涙ぐんだのではないかとさえ思わせるような、ひどく感傷的な横顔を見せていた。
(だけど、それがまたおかしいわ――)
詩織は首をひねらざるを得ない。伯母のところで写真を複写したりして、すでに分かっているのに、詩織の前ではまるではじめて写真を見るような仕草を演じていた。
それほどまで詩織を騙そうとする理由は何なのだろう?
浅見と再会したら、あれも訊きたい、これも訊きたい――ということが、詩織の胸のうちにあふれ返っていた。
その日の午後は、ついに刑事も現れず、不気味なほど静かなうちに日が暮れた。
そして、その夜、浅見からの電話が入った。
「いま、箱根《はこね》に来ています」
ひどく疲れた声で言った。
「浅見さん!……」
詩織は浅見の用件を聞くより、自分の疑惑をぶつけたかった。
「一昨日、伯母のところに電話して、いろいろ聞いてしまったんです」
「えっ、伯母さんのところに?……」
浅見はおうむ返しに言った。いかにも沈痛な口調だったから、詩織はいけないことをした――という思いに落ち込んでしまった。
「そうですか……それじゃ、もう、何もかも分かってしまったのですね」
「ええ、みんな仕組まれたことだったんですね。なぜそんなことをしたのか、浅見さんの口から聞かせていただきたいと思って、お電話、待っていたんです」
浅見はしばらく黙った。どう対応すればいいのか、方策を考えている様子だ。詩織も根気よく、浅見が何かを言い出すまで、沈黙を守った。
「いずれ、お話ししなければならない時期がくるとは思っていました」
浅見は静かに言った。
「しかし、電話ではちょっと話し尽くせるものでもないし、相応《ふさわ》しい内容でもありません。明日、お会いしませんか」
「ええ、いいですよ。どうせ車を返しにいらっしゃるんでしょう?」
「いや、残念ながら、僕は行けません」
「えっ? 行けませんて、じゃあ、車はどうするんですか?」
「業者か何かに頼んで、運んでもらうことにします。必ずお返ししますから、そのことはご心配なく」
「そんな……それはいいとして、浅見さんはどこにいらっしゃるのですか?」
「ですから、箱根です。箱根に来ていただけませんか?」
「箱根に?……」
「ええ、強羅《ごうら》の駅前で正午に待っています。来てくれますね?」
「えっ、そんなに急に……困ってしまうわ」
「とにかく来てください、お願いします」
「でも……だめだわ……」
「いや、あなたは来てくれますよ。僕の最後のお願いです」
浅見は、そう断言して、あっけなく電話を切った。
「ひどい……」
詩織は受話器を睨《にら》みつけて、しばらくは茫然としていた。浅見がこれほどまで強引な人間だとは思いもよらなかった。どんなに紳士で優しそうに見えても、男とは所詮《しよせん》、身勝手な生き物なのかもしれない。
「最後のお願いか……」
詩織は呟いた。まるで選挙演説みたいなせりふだ。しかし、これは選挙の常套句《じようとうく》とはわけが違う。浅見にとっては、もしかすると乾坤一擲《けんこんいつてき》の想いを込めた言葉なのかもしれない。それはまた、詩織にとっても、これからの人生を左右する、重大な意味を持っているのかもしれなかった。
「どうする、詩織……」
何度も自分に問い掛けた。しだいに夜が更けて、決断のときはどんどん迫ってくる。玄関の時計が十時を告げた。
「だめよ、絶対にだめだわ」
詩織は断固として宣言してから、受話器を握った。しかし、プッシュボタンに指を載せようとして、電話すべき先のないことに気がついた。箱根のどこにいるのかすら、訊きそびれてしまったのだ。
詩織はさんざん逡巡《しゆんじゆん》してから、浅見家の番号をダイヤルした。やはりあのお手伝いの女性が出た。詩織はぶつけるような口調で、言った。
「浅見さんにお伝えください……」
その瞬間、詩織の中で、何かが崩れるような感覚があった。そして、「明日、箱根へ、強羅へ参りますって、お伝えください」と口走った。
お手伝いは「は? 箱根ですか?」と問い返そうとしたらしいが、そのときはすでに、詩織は受話器を置いていた。呼吸がつまって、苦しいほどだった。
(サイは投げられた――)
詩織は自分に言い聞かせた。それと同時に、何もそんなに大袈裟《おおげさ》に考えるほどのことじゃないわ――という気持ちもあった。
(いい歳の女じゃないの、箱根でデートするぐらい、何てことないわ――)
そう思いながら、浅見との「デート」には特別な意味あいがありそうな、不穏な予感がしていた。それが詩織を躊躇《ためら》わせる。
浅見という男には、何か得体の知れぬものがまとわりついているような、一種の不気味さがある。それがまた彼に妖《あや》しい、謎めいた魅力を加えてもいるのだ。
(箱根に呼び出して、あの人はいったい何をしようと企んでいるのだろう?――)
詩織は懸念しないわけではない。箱根だとか熱海《あたみ》だとかいう地名には、昔から艶《つや》めいたイメージがつきまとう。しかし、それならそれでいいじゃない――と、開き直った気分でもあった。
相手は警察幹部の弟だということも分かっている。これほど確かな身元は滅多にありはしない。それに独身の「坊ちゃま」でもあるのだ。この辺が年貢の納めどきかもよ――と囁《ささや》くものが、詩織の中にあった。
「正午に強羅か――」
詩織はベッドに入ってから、何度となく反芻《はんすう》して呟き、ヒツジを数えるほどそのことを思いながら、いつのまにか眠った。
2
ゴールデンウィークだというのに、未明からの雨が梅雨のはしりのように降りつづいていた。
詩織は迂闊《うかつ》にも、小田急《おだきゆう》の特急列車が全席指定であることを知らなかったけれど、かなり早めに家を出たお蔭《かげ》で、次の列車になんとかキャンセルが取れた。
湯本《ゆもと》から強羅までの登山電車も混雑していた。周囲はすべてグループ客かアベックである。詩織はなるべくそれらを見ないですむように、視線を窓の外へ向けつづけた。
新緑の山々は霧に包まれて、詩織の気持ちを重たくした。
強羅駅には十一時半には着いた。駅前で待ち合わせといっても、狭いスペースのどこにいればいいのか、とまどってしまう。むろん、一般|車輌《しやりよう》の駐車する余裕など、ここにはありそうになかった。
登山電車を降りた客のほとんどは、そのままケーブルカーに乗り継いで、早雲山《そううんざん》へ登って行く。それでも、休日とあって、駅前は乗り降りする客と、ひっきりなしに通る車で渋滞していた。
ここでこうしていて、ほんとうに浅見に会えるのか、不安になってくる。登ってくる車、下ってゆく車にたえず注意をして、赤い車が遠くに見えると、それだけで胸が苦しくなるほど緊張した。
あと数分で正午というとき、詩織はポンと肩を叩《たた》かれた。振り返ると浅見の笑った顔があった。
「ああ……」
詩織は挨拶することも忘れ、思わず吐息をついた。
「行きましょう、車、下のほうに停めてあるんです」
浅見はすばやく左右に気を配る視線を送ってから、歩きだした。踏切を渡って強羅温泉の坂を下り、少し左のほうへ入り込んだところに、「玉樹《たまき》」という旅館がある。そこの玄関前に赤いロードスターが見えた。
「まあ、きれいになってる」
詩織は、唯一の身内に会えたような歓声を上げた。自宅にあるときはあんなに埃《ほこり》まみれになっていた車が、汚れを洗い落とされ、霧雨にしっとり濡れて、つややかな肌を見せている。
「さっき、番頭さんが洗ってくれたんです。しかしこの雨の中を走ったら、じきに汚れちゃうな」
その番頭が中から出てきて、「お帰りですか、またどうぞお越しください」とお辞儀をした。
浅見は詩織のために助手席のドアを開けてくれた。考えてみると、詩織にとって、車を買ってから、助手席側のシートに坐るのははじめての経験であった。
「この車、かなり目立ちますね」
アクセルを踏んで、車をスタートさせてから、浅見は照れたように言った。
「ええ、こっちの運転が下手でも、相手が避けてくれるようにって、父がこの色を指定したものですから」
「なるほど、そうか、そうですね……」
浅見は妙に感心して、しきりに頷《うなず》いた。
強羅温泉街の右手から急な坂を登って、大涌谷《おおわくだに》を経由して芦《あし》ノ湖《こ》畔の湖尻《こじり》に下りた。駐車場に車を停め、大きなドライブインに入る。霧でけぶる湖面を、遊覧船がゆっくりと滑って行くのが見えた。
「両親と、あの船に乗ったことがあるんですよ。もう十何年も前だけど」
詩織は懐かしそうに話すのに、浅見は「そうですか」と、とおりいっぺんに相槌《あいづち》を打って、どんどん先に立って歩き、広いフロアのいちばん隅のテーブルについた。
二人とも軽い食事をということになって、サンドイッチとコーヒーを注文した。
「昨日はあの旅館に泊まったんですか?」
浅見が黙っているので、詩織はわれながらつまらない質問をした。
「ええ、いまどき、箱根に来て、フリーで泊まるところを探すのは、よほど間が抜けているらしいですね。あそこにちょうどキャンセルがあったので、助かりました」
「あら、私もね、小田急のロマンスカー、キャンセル待ちだったんです。正午までに間に合うかどうか、不安でした」
「そう、悪いことしちゃったかな、呼び出したりして」
「いいえ、そんなことないわ。たまには箱根も見たかったし……それより浅見さん、お話って、事件のことなのでしょう?」
「ああ……」
浅見は不愉快なことを思い出したような顔になった。しかし、どうしても通らなければならない関門であることを、覚悟はしていたらしい。すぐに表情を引き締めて、言った。「まず、あの写真のことをお話ししたほうがいいでしょうね。あの写真に写っている人物は誰なのか」
「えっ、それじゃ、分かったんですか? 誰だったのですか?」
「成都物産の添島常務……いや、もう社長と呼んでもいいのかな」
「えーっ! 添島さん……」
詩織は驚いた。そういえばどこかで見たような記憶があったけれど、しかし、それにしても、あの添島良三郎だったとは――。
「もう三十年ほども昔の写真ですからね、分からなくて当然なのです」
「それじゃ、若い女性とヨチヨチ歩きの赤ちゃんは、奥さんとお子さんですか」
「うーん……そうでもあるし、そうでもないようだし……」
「はあ? それ、どういう意味ですか?」
「あの女性は亡くなったのですよ」
「えっ? ほんとに?」
「あの写真を撮ってから、まもないころに亡くなりました」
「まあ……」
詩織は痛ましさに、顔をしかめた。あの幸せそうな若い母親が――。
「あら?」と、しかし詩織はすぐに気がついた。
「添島さんのお宅に、一度だけお邪魔したことがありますけど、奥さんはいらっしゃったわ。それに、お子さんも。ということは、再婚された奥さんだったのね。お子さんもそうだったのかしら?」
「写真のこと、もう少し話してもいいでしょうか?」
浅見は、詩織が脇道《わきみち》に逸《そ》れたのを、辛抱づよく待って、言った。
「あ、ごめんなさい。どうぞ先を話してください」
「あの写真を誰が撮ったのか、それからまず話したほうがいいかな……うん、そうですね、それをお話しておいたほうが、事件の本質を説明しやすいかもしれない」
浅見は自分を納得させるように頷いてから、言った。
「あの写真は、その当時、成都物産の秘書課にいた、あなたのお母さんが撮ったものなのです」
「えーっ……」
詩織は悲鳴のような声を上げて、慌てて、周囲を見回した。さいわい、近くには客はいない。離れたテーブルで若い女性のグループが騒いでいて、こっちの話を聞かれるおそれはまったくなかった。
「母が撮ったって、それ、どういうことなんですか?」
「あの写真は望遠レンズで撮られたものなのです。背景の山がひどくボケているのは、そのせいなんですね」
「じゃあ、母は探偵みたいに、盗み撮りをしたんですか?」
「結果的にはそうなりましたけど、もともとはそうじゃなく、あなたのお母さんは探鳥会に所属していて、鳥の写真を撮りに森の中を歩いていて、偶然、あの場面に出くわしたのだそうです。もっとも、三十年ほども昔の話ですから、こういったことはすべて人からのまた聞きです。話してくれた人物を信じていいものかどうか、それに、あなたのお母さんが本当にそう言われたのかどうか、真相はもはや分かりません。鳥の観察中に偶然――というのだって、真実はどうなのか、ことによると、お母さんが狙っていたのは、鳥ではなく、三人の親子だったのかもしれません」
「狙っていたって……でも、母はなぜそんなことをする必要があったのですか?」
「それを理解してもらうには、当時のことを説明しなければならないのですが――」
浅見は憂鬱そうに眉を寄せて、しばらく黙ってから、話の先をつづけた。
「添島氏は、当時の成都物産の中ではエリート中のエリートで、大勢の女性社員の憧れの的であったらしい。なかなかのプレーボーイだったそうだから、ことによると、大勢の女性に錯覚を与えるような、調子のいいことを言っていたとも考えられます。その相手の一人がお母さんだったとしても、不思議はないでしょう」
「…………」
詩織はあまり愉快な話ではなかったから、黙ってしまった。
「ところが、添島氏には、成都物産の創立者の孫娘との縁談が持ち上がっていた。エリートがいよいよエリートコースを走りだす、絶好のチャンスが訪れたのです。結局、添島氏はその令嬢と結婚することになるのですが、そこで問題なのがあの写真です」
「えっ、じゃあ、あの写真の女性はその令嬢ではないのですか?」
「もちろん違いますよ。令嬢は現在の添島夫人です」
「というと、あの女性は……それに子供さんはどうなっちゃったんですか?」
「ですから、さっきも言ったように、あの女性は亡くなったのです」
「あ、そうだったわ――だけど、まさか、その女性の死は……」
「医師の死亡診断書に書かれた死因は、心筋梗塞《しんきんこうそく》だったそうです」
「そう……ですか」
詩織の頭の中には、恐ろしい想像が黒雲のように広がりはじめていた。最近、沖縄で起きた、保険金目当てに妻を殺害した事件のことをすぐに連想した。その事件で、夫はトリカブトを妻に服用させ、医師は心筋梗塞と診断したということであった。詩織の父親の事件でも、死因について似たような判定が出されたと聞いた。しかも、毒物が何であるのか、はっきりと断定することは難しいという話だ。現在の医学でもそうなのだから、三十年も昔なら、正確な診断ができなくても不思議ではないのかもしれない。
「彼女の急死は、添島氏にしてみれば、きわめて幸運だったことになるでしょうね」
浅見は、詩織の頭の中を見透かしたように、皮肉な笑みを口元に浮かべながら、そう言った。
「それって、まさか、あの、殺されたなんてこと、ありませんよね」
詩織は遠慮がちな言い方をした。
「殺されたのだと、僕は思っています」
浅見はあっけなく断言した。
「しかし、いまとなっては、真相を知っているのはただ一人、添島氏だけです」
詩織は黙って頷いた。
「ところで、問題はあの写真の存在です」
「ああ、そうですね、あの写真だわ。写真も真実を語るかもしれませんよね」
「そのとおりですよ。あの写真は真実を語る唯一の証言者なのです。撮影した動機が何なのか――狙って撮ったものか偶然かはともかくとして、いずれにしても、お母さんがあの写真を撮ったことが、長い悲劇の発端になったのです」
「悲劇……」
「そう、悲劇ですよ。じつにひどい悲劇というべきです」
浅見は悲しそうに眉をひそめ、窓の向こうの湖面を眺めた。
「悲劇って、どんな……それより、あのお子さんはどうなっちゃったんですか?」
詩織は浅見の表情にやり切れないものを感じて、話の先を促した。
「ああ……」と、浅見は物憂げに振り向いて、「そのことは後回しにしましょう」と言った。詩織は頷くしかなかった。
「添島氏が創立者の孫である令嬢と結婚して、出世街道を驀進《ばくしん》しはじめたとき、あなたのお母さんもまた、結婚しました。お相手は寺沢大輔氏。こんなことを言うと気を悪くするかもしれないけど、ごく平凡な大学を出て、平凡なサラリーマンとしての道を歩むはずだった――です。すみません、怒らないでくださいよ」
「怒りません。私も父は凡庸な人間だったと思っていますもの。父の長所といえば、優しさと誠実さだけでした。大会社の部長という、重要な役どころが務まる柄だなんて、とても思えませんでした」
「ところが、寺沢さんは着々と出世した。超エリートの添島氏に引き立てられて、同期の連中よりも早いスピードで部長にまで進んだのです。これには添島氏の強引な人事工作があった。そのために添島氏には敵が多く、添島氏自身の政治力と出世にかなりのブレーキがかかったといわれます」
「やっぱり……」
詩織は、それと同じようなことを、野木や安田の口から聞いていた。
「実際、添島氏は前社長が死去した直後に、社長に就任してもおかしくない状況があったのです。しかし、寺沢部長の存在がその足を引っ張った。いや、それどころか、寺沢さんにかまけているかぎり、添島氏は社長にはなれないだろうというのが、社内外でのもっぱらの定説でした。添島氏はなぜ寺沢氏を切れないのか……これが成都物産の七不思議の一つだったのですよ」
「それが……」と、詩織は顔をこわばらせて、言った。
「あの写真のお蔭だというわけですね?」
「そのとおりです……というより、あなたの賢いお母さんのお蔭というべきでしょう」
「つまり、母はあの写真を利用して、父の出世を助けたっていうのですか?」
「あなたにとっては、あまり愉快ではないかもしれませんが、それが事実です。添島氏の裏切り行為に対して、ふつうの女性なら、ヒステリックに、あの証拠写真を使って、添島氏の結婚を破談にするところでしょうけれど、お母さんはそんな愚かな真似はしなかった。折にふれて、あの写真を添島氏にチラつかせて、夫である寺沢さんの出世を強要する道具に利用したのです」
「何ということを……」
詩織は唇を噛《か》んだ。添島が詩織に、母親の美咲のことを「賢いひと」とベタ褒めに褒めていた、ほんとうの理由はそれだったのだ。添島のにこやかな笑顔の後ろには、美咲に対する、殺したいほどの憎悪が込められていたにちがいない。
そのとき、詩織は(あっ――)と思った。浅見が初対面のとき、母親の死因について質問したのには、そのことがあったからではあるまいか――。だとすると、この浅見という男の洞察力は底が知れない。
「でしたら、母が亡くなったとき、添島さんはさぞかし喜んだでしょうね」
敵意を剥《む》き出しにして、詩織はきつい口調で言った。
「もちろんです。これで天下晴れて社長の椅子に就くことができる――はずでした。ところが、一つだけ気掛かりなことがあったのですよ」
「分かるわ、それがあの写真の存在なのですね?」
「まさにそのとおりです。あの写真があるかぎり、添島氏に完全な安らぎはなかったのでしょうね。ところが、どうやら寺沢さんは写真のことを知らないらしい。これは安心してもいいのかな――と思いかけた矢先に、福岡から広島へ行く列車の中で、寺沢さんは添島氏に『トランプの本を見た』という話をしたのです。奥さんが亡くなる直前、遺言のように言われた、『思い出のトランプの本を守って』という言葉も一緒にです。命懸けで守らなければならない貴重な品にちがいない――ということを、そのとき、寺沢さんは添島氏に得意そうに話したのですよ」
浅見の話は事件の核心部分に迫ろうとしていた。しかも、添島が父を殺した犯人であることは、これまでの話の成り行きからみて、もはや疑う余地がない。
(それにしても――)と、詩織は不思議な感じがした。浅見がすべてを「です」と断定的に話すことが、である。よほどの確信が彼にはあるのだろうけれど、ここまで断定できる自信はどこからきているのだろう?
「添島氏は寺沢さんのいう『トランプの本』が、問題の写真の隠し場所であることを、直観的に察知したそうです」
浅見はたんたんとした口調で、話の先をつづけた。
「もし寺沢さんが、東京に戻ってトランプの本を調べれば秘密が分かってしまう。今度は寺沢さんが新しい恐喝者として登場することになるだろう。少なくとも、寺沢営業部長を解任して子会社に出向させる計画は、一|頓挫《とんざ》しなければならなくなり、ひいては念願の社長の椅子もまた遠のいてしまう……添島氏は絶望的な恐怖を覚えて、すぐに寺沢さんを消すことにしたのです」
詩織は強い寒気に襲われた。お人好《ひとよ》しの大輔が、何も知らずにいるとき、すぐ隣の席で悪魔が殺人計画を思案していたのだ。
「でも、どうやって?……」
辛うじて、訊いた。
「父を殺したのは、ごく特殊な毒物だと聞きました。添島さんは福岡と広島で忙しくスケジュールをこなしていたのですもの、そんな毒物を急に、しかも誰にも知られずに入手できるはずはないでしょう。だから警察も、早い段階で添島さんを容疑の対象から外したのじゃないかしら」
「そのとおりですよ」
浅見は詩織の賢さに満足したように、大きく頷いた。
「添島氏は暗殺者を呼び寄せたのです」
「暗殺者ですって?……」
「ははは、ちょっと大袈裟《おおげさ》ですけどね。しかし結果からいえば、たしかに暗殺者であることに変わりはありません。事実、彼は寺沢さんを殺害した毒物を運び、添島氏の犯行に協力したのですからね」
「だけど、そんな暗殺者に頼んだりしたら、添島さんはまた新しい恐喝者に脅えなければならなくなっちゃうじゃありませんか」
「いや、その暗殺者は添島氏には絶対に忠実な人物なのです」
「どういう人なんですか? まさか会社の人では……」
詩織の脳裏を、安田をはじめとする、知っているかぎりの成都物産社員の顔が、次々にかすめた。
「それは違います」
浅見はまったく表情を変えずに、言った。
「添島氏は会社の人間なんて、誰一人として信用していませんよ。そう、あなたのお父さんをべつにすればね」
浅見に、そんなふうに父親のことを言われると、詩織は辱めを受けているような気がした。
「それじゃ、いったい誰なんですか?」
「添島氏の息子ですよ。つまり、あの写真の赤ん坊です」
「えっ……」
浅見の口から、ポロリと落ちるように出た言葉に、詩織は体が硬直するようなショックを覚えた。
「添島氏はあの子を認知はしなかった。だから彼は私生児であり、しかも母親を幼くして失うという悲劇的な星の下に育ったのです。ただし、彼は経済的にはきわめて恵まれた人生を歩んできた。裕福な里親に育てられ、一流の学校を卒業したところまでは、曲がりなりにも幸せだったといっていいでしょう。それは、添島氏という『あしながおじさん』がいたからですが、その添島氏が父親であることを、彼はずっと知らなかった。ただ親切なおじさんとして全幅の信頼と感謝を捧げてきたのです。だが、彼の悲劇的な運命は、もはや宿命というべきかもしれません。彼は大学を出て、菓子業界の専門誌を出している出版社に就職したのですが、ある尊敬する人物の影響で、大きな犯罪に加担することになってしまったのです。その犯罪は失敗して、仲間の一人は一審で死刑を求刑されたほどですが、彼は執行猶予つきで釈放されました。それももちろん、添島氏のひそかな働き掛けがあったためです。こうして彼は添島氏の恩義に報いるべき義務感を、骨の髄まで叩きこまれたというわけですよ」
「…………」
浅見の長い話を聞いて、詩織は言葉も出なくなった。一人の不幸な男の、どうしようもない宿命が、目の前にマザマザと浮かび上がるような気がした。
3
「野木さんの事件も」と、詩織は力のない声で訊いた。
「やっぱりその人の犯行なんですか?」
「そうです。その前日、野木さんは福岡支社を視察に来た添島氏の接待の際、柳川でトランプの本を発見した話をした。あなたや警察の連中が悩まされている『トランプの本』とは、いったい何のことであったかを、得々として話したことでしょう。そして寺沢さんの場合と同じように、東京へ向かう直前に殺された。今回も添島氏は容疑の外にいたのです。福岡県の山の中みたいなところに、死体遺棄ができる条件は、添島氏にはありませんでしたからね」
「そうだったのですか……」
詩織の神経は「事実」の重圧に耐えきれぬほど疲れきった。しかし、浅見の「解説」を聞いても、詩織にはまだ分からないことが沢山あった。
「母があの写真を撮ったとして……」と、詩織は記憶の暗闇《くらやみ》の中から細い糸を捜し出すように疑問を見つけた。
「なぜあの『おもひで』の中に隠したのかしら?」
「そう、それは当然の疑問ですね」
浅見はまた満足そうに頷いた。
「もし、ふつうの人間が考えつくような場所に隠したのだとしたら、執拗《しつよう》に家捜しすれば発見されたかもしれません。しかしあの隠し場所は絶妙でした。あれなら税務署の査察が入ったところで見つかりはしなかったにちがいありませんよ。『トランプの本』というキーワードを知った上で探しても見つからなかったほどですからね。それにしても、お母さんは最後のときが迫っててもなお、『北原白秋の詩集』とおっしゃらなかったとは、驚くべき強靱《きようじん》な意志の持ち主です」
「でも、沢山の本がある中から、母はなぜ『おもひで』を選んだのかしら?」
「そう、それもまたきわめて興味ある疑問です」
浅見は嬉しそうに言った。
「その理由の一つは、あの本の大きさと装幀にあったと思います。あの写真は白秋の詩集の、ほかの写真とほとんど違和感のない状態で、ピッタリと収まっていたでしょう。しかし、何よりも決定的な理由は、たまたまあの本がお母さんの手元にあったということだと僕は思いますね。『おもひで』の復刻版の初版本が発行されたのは、昭和四十二年だったこと、憶えていますか? たぶん、その年にお母さんは柳川に旅したのですよ。そして、あなたのご両親が結婚したのも、その同じ昭和四十二年。お母さんの添島氏に対する復讐《ふくしゆう》というか、意趣晴らしというか、とにかく寺沢大輔氏を出世させる作戦が開始された、記念すべき年でもあったのですよ」
話し終えたとき、浅見は人生の重荷をすべて払い落としたような、サバサバした顔になっていた。いつのまにか、芦ノ湖もその向こうの山も霧が晴れて、明るい陽射しにさざ波がキラキラと輝いていた。
そういう風景を目を細めて眺めていた浅見が、何かいやな物を見たように眉をひそめたのに、詩織は気づいた。
浅見の視線を辿《たど》ると、赤いロードスターを駐車してある場所に行き当たった。車を覗き込むようにしている男が二人いた。車好きの少年が興味を持って覗くのとは様子が違う。ナンバープレートの数字を手帳にメモしているらしい。
(刑事――)と詩織はピンときた。
無免許運転の容疑かもしれない――とも思った。
浅見は時計を見た。うるさい刑事が来ないうちに、退散することを考えているのだろうか。
「一つだけ……」と詩織は浅見を引き止めるように言った。
「まだ聞いていないことがあります」
「ん? 何でしたっけ?」
浅見は落ち着かない表情になっていた。
「犯人……つまり、添島さんの息子さんのことです。彼はいったいどこでどうしているんですか? あ、それに何ていう人なのか、名前も分かっているのでしょう?」
「ああ、それは分かっていますよ」
「だったら、早く警察に教えてやらないといけないんじゃありませんか?」
「ははは、それは大丈夫」
浅見は白い歯を見せて笑った。
「彼は逃げないはずです」
「えっ、ほんとに? でも、どうして逃げないのですか? それに、どうしてそんなことが分かるのですか?」
「彼が添島氏の犯行に加担したのは、自分が疑われるはずはないと信じたからなのです。要するに彼は、寺沢氏とはもちろん、添島氏とのあいだにも、世間的には何の関係もないかのような状態ですからね。犯行の動機もなく、警察の追及の対象外にいると考えられたのです。ところが、彼にとって思いもよらぬ、絶望的な証拠が存在した……」
浅見の表情から笑いの残滓《ざんし》が消えて、世にも悲しげな顔になった。
「証拠って、それ、何なのですか? 私にも分かるものですか?」
「もちろん、あなたにも警察にも、じつによく分かる証拠物件です。それは、あの親子三人が写っている写真なのですよ」
「ああ……」
詩織は、まるで彼女自身が犯人の絶望に感染でもしたように、深い溜め息をついた。
「あの写真の存在を知って、そこに赤ン坊の自分が写っているのを見た瞬間、彼は何もかもが終わったことを悟ったのです」
浅見は話し終えると、テーブルの上からグラスを取って、残った水を美味《うま》そうに飲んだ。
「さて、そろそろ行きましょうか。あなたも気がついているでしょうけど、さっきから車のそばをウロチョロしている、変な連中がいます。面倒なことにならないうちに、逃げ出したほうがよさそうだ」
二人は席を立って、レジへ向かった。
「そうそう、あの車、保険には入っているのでしょうね?」
ふと思いついたように振り向いて、浅見は訊いた。
「ええ、もちろん……でも、どうして?」
「いや、慣れない車ですからね、ぶつけたりしたら、申し訳ないと思って」
「いいんです、そんなこと。もう車には乗らないつもりですから」
「ははは、よほど懲りたみたいですね」
浅見はのけぞるようにして笑った。
レジをすませて入口のところまで行くと、二人の男が少し離れたバンの陰に隠れて、赤いロードスターを見張っているのがよく見えた。
「しようがないなあ……」
浅見は立ち止まり、「そうだ、あなたに手伝ってもらおうかな」と、いたずらっぽい目で詩織を見た。
「ええ、それはいいですけど、どうするのですか?」
「いったん車に近づいて、二人がやって来たら逃げ出してください。そう、湖の方角がいいな」
「分かりました、やってみます」
詩織は餓鬼大将のいたずらに参画するようなスリルを感じて、頷いた。
「じゃあ」
浅見は手を上げて、敬礼のような合図をした。
詩織はドライブインを出て、わざとゆっくりした足取りで車に近づいた。最後の数歩のところで、バンの脇から二人の男がやって来た。詩織は身をひるがえし、湖へ向かって走った。二人の男は何か叫びながら追ってきた。振り返ると、浅見が車に走り寄って行くのが見えた。二人の男は気がつかない。
詩織は充分、二人を引きつけたところで立ち止まった。詩織も二人の男もゼイゼイと肩で息をして、しばらくは言葉も出ない状態であった。
「あっ、あの車……」
男の一人が、赤いロードスターが走りだすのに気づいた。
「ちきしょう!……」
罵って、すぐにトランシーバーのスイッチを入れ、怒鳴るような声で緊急事態を告げている。
「……湖尻から仙石原《せんごくはら》方面……いや、この道からだと、大涌谷へ行く道と芦ノ湖スカイラインへ向かう道もあります……」
トランシーバーは「了解、現在地で待機せよ」と言って沈黙した。
「くそっ……」
男はまた口汚く罵ってから、詩織をジロリと睨んだ。
「あんた、グルになってたのか」
「知りませんよ、そんなこと」
詩織はさすがに緊張して、反抗的な口調になった。
「あの車で逃げたのは何者かね?」
「さあ……」
「知らないはずがないだろう」
「それより、あなた方は誰なんですか? 何でそんなことを訊いたりするんですか?」
「ん? ああ自分らは警察の人間ですよ」
男は二人同時に手帳を示した。詩織は「えっ、警察?……」ととぼけた。
「警察がどうして?」
刑事は苦笑した。「分かっているくせに」と言いたそうだ。
「まあいいか。とにかく、あんたにはしばらく一緒にいてもらいますよ」
左右から詩織を挟むようにして、歩きだした。駐車場の端に白い乗用車が置いてある。後部シートのドアを開けて、中に入るように言った。
刑事はエンジンをかけると、すぐに無線をオープンにした。あちこちに散っている車と、たぶん本部と思われるところとが、ひっきりなしに交信している。雑音が入ったり、詩織には何を言っているのか聞き取れない言葉も混ざったりするけれど、逃げた赤いロードスターを追っていることは分かる。
そのうちに、「全車、芦ノ湖スカイラインの××地点へ急行せよ」という、緊迫した指示が発せられた。
刑事は車を発進させた。湖尻から仙石原方向へ少し行ったところから左へ折れると、芦ノ湖スカイラインへの入口がある。
指令のアナウンスは矢継ぎ早に情報を送っていた。
「……芦ノ湖スカイライン××地点で事故が発生した模様。当該事故車は赤いロードスターと見られ……」
「えーっ!……」
詩織は引きつったような声を発した。ついさっき、浅見がまるで事故を予告するように、「慣れない車だから」と言っていた言葉がよみがえった。
「やだー、まさか……」
救いを求めるように、刑事の顔を見たが、二人とも真っ直ぐ正面を向いたきり、詩織を見返りもしない。
車はスピードを上げて芦ノ湖の西側の外輪山へ駆け登って行った。尾根のT字路に達すると、そこを左折した。右側は深く切れ込んだ急斜面である。霧は晴れ視界は良好だ。斜め右後方に富士山が見えたが、眺望を楽しむ余裕は詩織にはなかった。
ほんのわずか走ったところで、前方に車が渋滞していた。はるか向こうには赤色灯を回転させたパトカーがいる。刑事は座席の下から赤色灯を出して屋根につけ、車を道路の右側にはみ出して走らせた。対向車はどこかでストップしているらしい。
現場では大勢の野次馬が断崖《だんがい》のような斜面の下を覗き込んでいる。制服の警官が数人、斜面を苦労して下りて行った。こっちの刑事も車を道路脇の草地に停めて、外に出た。詩織も彼らにつづいた。
「あっ、あんた、中にいて」と刑事は振り返って叫んだが、詩織がほかの野次馬と一緒になって斜面を下りはじめたのを見て、諦めた様子だ。
崖下が見通せるところまで行くと、赤いロードスターが、ブッシュの中に頭から突っ込むようにして、腹を見せた恰好で逆立ちしているのが見えた。破損状態は不明だが、この車は軽量でいかにも脆《もろ》そうな印象がある。相当なダメージを受けていることは確かだろう。
野次馬の中から、「すげえ勢いで飛び出したもんな」「ブレーキもかけないで、あれじゃまるで自殺行為みたいだ」などと話す声が聞こえた。
詩織は目を覆いたくなる気持ちに鞭打《むちう》って、さらに斜面を下った。
車の本体からさらに十メートルほど下に、ハードトップの部分が飛んでいるのが見えた。そして、その少し手前に、操り人形を放り出したような不自然な恰好《かつこう》で倒れ、ピクリともしない人間の姿があった。
詩織は一瞬、呼吸が停まった。足の力が抜けて、草地の上にしゃがみ込んでしまった。「人間」が着ている淡いブルーのジャケットに見憶《みおぼ》えがあった。まぎれもなく、あれは浅見光彦のものであった。
そこまで辿り着いて浅見を覗き込んだ警官が、遅れてやって来る刑事に向けて「ダメダメ」というように手を振っている。
詩織はスーッと意識が遠のいた。
4
どれほどの時間が経過したのだろう。詩織は首筋にひやりとするものを感じて、目を開けた。誰かが体を支えているらしい。いくつもの顔が目の上にあって、その中のいちばん大きな顔が笑いかけた。
「やあ、気がつきましたね」
詩織は急速に意識を回復すると同時に、ギョッとして、ふたたび失神しそうになった。すぐ目の前で笑っている鳶《とび》色の目に見憶えがあった。
「あっ、あなた、木下……」
いや、そうではない。木下は偽名で、えーと、本当の名前は?……。
詩織の頭は疑惑と恐怖とで混乱して、耐えきれずに目を閉じた。
「浅見さん、大丈夫ですか?」
どこかで呼ぶ声がした。詩織は「えっ」と、男の腕の中で身を起こした。
「生きていたんですか? 浅見さん」
声のした方角に視線を彷徨《さまよ》わせた。そこに川根部長刑事の日焼けした顔があった。
「あっ、川根さん」
「やあ、もう大丈夫みたいですな。あなたも死んだかと思って、びっくりしましたよ」
川根は笑いながら近寄ってきた。
周囲にいた野次馬たちは、どこかへ追いやられたのか、付近にいるのは警察官たちと、そして「木下」だけのようだ。
詩織は慌てて「木下」の腕から逃れ、立ち上がると、衣服についた枯れ草や土と一緒に、彼の感触を払い落とした。
いくら顔を背けようとしても、目はいやでも事故現場に引きつけられた。
夢であってほしい――と願ったけれど、赤いロードスターの無残な情景はそのままになっていた。浅見の死体には青いビニールシートが被せられて、それがせめてもの救いではあった。しかし、それは同時に、詩織の希望を打ち砕いた。
「浅見さんは、やっぱり……」
川根にすがるように、訊いた。
川根は何ともいいようのない、複雑な表情をして、例の「木下」に視線を向けた。
「あなたの言っているのは、あのシートの下の人のことですか? 彼だったら、即死だったそうですよ」
川根は言って、すぐに「ただし、彼は浅見さんではありませんけどね」と付け加えた。
「えっ、違うのですか?」
詩織の胸に、また希望の灯がともった。
「ええ、あそこで死んだのは、下川健一《しもかわけんいち》という男です」
「そうなんですか……でも、あの車は私のロードスターみたいでしたけど……それに、あのジャケットも――」
「そうですな、たしかにあの車はあなたの車のはずです」
「えっ、じゃあ、どうして?……浅見さんはどうしちゃったんですか?」
「うーん……その説明はご本人にしてもらうしかありませんなあ」
川根は言って、隣にいる例の男を見た。
詩織もつられるように、長身の男の顔を見上げた。
男は照れたように白い歯を見せて、ペコリとお辞儀をしてから、言った。
「浅見光彦です、よろしく」
詩織はその声を聞きながら、意味を理解できずにいた。見るもの聞くもの、何もかもが信じられない気がした。
「寺沢さん、びっくりしたでしょうが、こちらが本物の浅見さんなのですよ」
川根が気の毒そうに言ってくれなければ、詩織はまだ夢の中にいるような錯乱状態に陥ったかもしれない。
「あなたが浅見さん……だとすると、あの人は?……」
詩織は振り返り、青いビニールシートを見つめて、言った。
「彼の名前は下川健一氏――添島氏の息子さんと言ったほうが分かりやすいかもしれませんね」
浅見は静かな口調で言った。彼の声音には、深い哀悼の意が込められているように、詩織には感じられた。そう思ったときに、詩織の中で「浅見光彦」と名乗った男のイメージが、青いビニールシートを被せたように、不透明なものになっていった。
それからの数時間は、寺沢詩織にとって、一生を凝縮したように濃密で、そのくせ、赤ん坊のころのように曖昧《あいまい》な体験になった。
詩織は浅見や川根に伴われて、ひとまず箱根警察署に落ち着いた。そこの応接室で川根から型通りの事情聴取を受けたのだが、それとは逆に、詩織の側から川根や浅見に質問することも多かった。
川根はしばしばそのことに苦笑していたけれど、拒否する気はないらしかった。
「あの人……下川っていう、あの人が、どうして浅見さんの名前を騙《かた》ったんですか?」
それをまず、詩織は訊きたかった。
「その理由は二つあると、僕は思います」
浅見は優しいバリトンで言った。話す口調には、どことなく「下川」というあの男と似た印象を受けるけれど、浅見には、おそらくこの男の天性のものと思われる明るさがあった。下川を陰とすれば、浅見は明らかに陽であった。
「第一の理由は、僕の名前――浅見光彦を名乗れば、警察に怪しまれなくてすむし、お宅にも安心して受け入れてもらえると考えたからでしょう。いかがですか? 現実に、そうなったのではありませんか?」
「ええ、たしかに――」
詩織は頷いた。彼が「下川」などと名乗って接近したのであれば、最初から警戒してかかっただろうし、警察の連中だってすぐに身元調べをしたにちがいない。
「それに、もしあなたが僕の家に電話をしても、滅多にバレないという、つまり僕や浅見家に関する知識が彼にはあったのでしょう。もっとも、そういう浅見家の体質――とくにあの小姑《こじゆうと》みたいなお手伝いのことは、ある推理作家が書いている僕の事件簿を読むと、ほとんど分かってしまうのですけどね」
いかにも迷惑そうに、浅見は苦笑しながら言った。
「それから、第二の理由ですが、彼には僕に対する復讐の意図があったのだと思います」浅見は厳粛な表情になった。
「じつは、彼はかつて、ある大きな事件の一味として逮捕されたことがあるのです」
「ああ、そのことでしたら、あの人が言ってました。仲間の一人が死刑を求刑されたほどの事件だとか」
「そうですか、彼はそこまで話していたのですか。じつは、その事件を解決したのが、浅見光彦、つまり、僕だったのです」
浅見は目を閉じて、大きく吐息をついた。その表情には、誇らしさよりも、むしろ苦渋に満ちた悔恨の色が浮かんでいるように思えた。一つの事件を解決するごとに、この男の顔には悲しみの皺が一つ刻まれるのかもしれない。
「だけど、浅見さんや警察には、あの人が贋者《にせもの》であることは、ある時点から分かっていたのでしょう?」
詩織はいくぶん非難を込めて、言った。
「それなのに、どうしてもっと早く逮捕に来てくれなかったのですか?」
「いや、何者かが僕の名前を騙って動いていることを僕が知ったのは、そんなに前のことではないのですよ。それに、そういういたずら電話は、これまでにもしばしばかかってきて、お手伝いの彼女を悩ませているのです。しかし、鷺宮の寺沢さんという名前を聞いたり、広島県警のほうに問い合わせしたりした結果、どうやらこれは事件らしいと思って、それとなく探りを入れることにしたのです。ところが、あなたに見つかって追い掛けられるし、肝心の贋者が誰なのかはなかなか分からないしで、犯人側の意図が何なのかを掴むのに苦労したのです。川根さんからいろいろ話を聞くと、どうやらその贋者が合鍵を作ったり、親切めかして南京錠をつけたりしているらしい。しかも、忍び込んでも何も盗むわけでもないし、いったい何が目的なのか分からないというのでしょう。これはしばらく様子を見たほうがいいと考えたのですよ。そうしたら、そのうちに『トランプの本』というキーワードみたいなものが出てきた……」
浅見がその話題を持ち出したとたんに、詩織は思い出した。
「あっ、そうそう、伯母から聞いたんですけど、刑事さんがとつぜん来て、『おもひで』という本を預かっていないかって訊いたんだそうですね。なんでも、当てずっぽうで来たとかおっしゃってたって……それも、浅見さんの推理なんですか?」
「ははは、推理というほど大袈裟なことではありませんよ。その程度のことは寺沢さんのお宅の事情を少し分かれば、誰だって考えつくことでしょう」
「そう、かしら……でも、最初、伯母に問い合わせたとき、伯母自身が忘れていたくらいですけど」
「ははは、伯母さんがそうおっしゃったのは、あれは嘘なのですよ」
浅見は申し訳なさそうに頭を掻いて、笑いながら言った。
「伯母さんには僕がお願いして、知らないと答えておいてもらったのです。そうしておいて、贋の『おもひで』を作って、川根さんがお宅の仏壇に隠したというわけです」
「ひどい……」
詩織は悔しさが込み上げてきた。やはり、寄ってたかって誑《たぶらか》されたことに変わりはなかったのだ。その点については警察も浅見も後ろめたいものがあるのか、詩織の感情が鎮まるまで、じっとおし黙っていた。
「でも、どうしていままで気がつかなかったのかしらねえ?……」
詩織はまるで他人事のように呟いて、首をかしげた。
「浅見さん……じゃなくて、あの下川っていう人が贋者だっていうこと……考えてみると、浅見さんのお宅に何度も電話して、そのつど、お手伝いさんの応対に不自然なものを感じていたのだし、それに、いつ電話しても浅見さんがお留守だったのもおかしいし……だけど変ですよねえ、浅見さんの名前を騙るのはいいけれど、本物の住所や電話番号を印刷した名刺まで渡すなんて……私が電話したとき、たまたま浅見さんが留守だったからいいけど、もし本物の浅見さんがいて、電話でお話ししたら、すぐに贋者だっていうことがバレちゃうのに……」
「そう、その心配は考えられましたね。実際、一度だけ僕がいるときに電話があって、居留守を使ったことがありましたから」
「あっ、じゃあやっぱりそうだったんですね。なんとなくそんな感じのときがありました。ひどいわァ……」
「申し訳ない。あの時点では、もう少しのあいだ、彼に浅見光彦役を演じていてもらいたかったものですから」
浅見は苦笑しながら頭を下げた。
「しかし、彼にはバレないという、それなりの自信はあったのでしょう。彼が最初にあなたのお宅を訪ねた当時、僕はある事件捜査で鳥取のほうへ行っていて、数日間、東京にはいませんでした。うちのお手伝いが、どこかの雑誌社から問い合わせがあって、僕のスケジュールをしつこく訊いていたというのです。それがおそらく下川だったと考えられますね。彼は僕の留守を確認した上で、僕の名前を騙ったにちがいありません」
「でも、ずっと浅見さんがお留守でいるわけじゃないでしょう?」
「そう、その点、抜け目のない彼にも、重大な齟齬《そご》があったということでしょうね。彼はこんなに長いあいだ、僕の名前を騙っていなければならなくなるとは、思ってもみなかったのですよ。彼にしてみれば、『トランプの本』というキーワードがあるのだから、当然、あなたのお宅に行って、書棚や書庫の中を探せば、すぐに見つかるはずだと考えたのです。ところが『トランプの本』は見つからなかった。あなたの留守中に入り込んで、家探しをしても発見できない。どうやら、誰かがどこかに持ち出しているらしい。そして、日にちだけはどんどん過ぎてゆく……彼は、贋の浅見光彦であることがいつバレるか、いつあなたが気づくかと、気が気ではなかったでしょうね」
(そういえば――)と、詩織は「浅見」の不可解としか思えないような、曖昧な物言いや、必要以上に刑事を避けたがるなどの不自然な行動を思い浮かべた。
「そうだったのね、それでなるべく自宅に電話をしないようにとか……あっ、そうか、移動電話なんかを使ったのも、そのためなんだわ」
詩織はようやくそのことに気付いた。
浅見は「それもありますが」と頷いてから、言った。
「もう一つの目的は、あなたに対する、いわばアリバイ工作に利用したものでしょう。下川は福岡県に行っているあいだでも、あなたからの連絡があることを考慮したのです」
「福岡県?……」
「そうですよ、福岡県に野木さんを殺しに行っているあいだ、まるで連絡が取れないのでは、疑われる心配がありますからね」
「ああ……」と、詩織はいやな記憶を呼び覚まされて、頭を振った。
「でも、一時期、あの人の電話、いくらかけても通じなくて、あとで訊いたら、何でも雑誌社でカンヅメになっていたとかいうことでしたけど」
「それは嘘です。通じなかった理由は、おそらく、野木さんの死体を棄《す》てるために、福岡の山の中――つまり電話の不通区域にいたためです」
「ああ……」
詩織は、余計なことを訊いたと後悔しながら、また新しい疑問が浮かんだ。
「それにしても、おかしいわ。あの人、そんな電話を使ったりしたら、いずれそこから正体がバレちゃうじゃありませんか。そのことを考えなかったのかしら?」
「もちろん考えていたでしょうね」
浅見は詩織の着想を肯定するように頷きながら、言った。
「しかし、彼にしてみれば、問題の『トランプの本』を発見して処理してしまえば、移動電話の存在を消すことぐらい、造作もないと思っていたのでしょう」
「あら、どうしてですか? いくらNTTと移動電話を解約したって、その番号そのものを私が記憶している以上、あとで調べれば誰が契約したものかはすぐに分かっちゃうじゃありませんか」
「記憶は消せるでしょう」
浅見はほとんど冷ややかに聞こえるような口調で、ポツリと言った。
「記憶は消せるって……」
詩織は背筋がゾーッとした。ほんの一瞬だけれど、浅見の顔が悪魔のように見えた。
「じゃあ、あの人、私のことも殺すつもりだったんですか?」
「そう、少なくとも、ある時点まではそのつもりだったと思いますよ」
「うそ、そんなはずないですよ、殺すなんてそんなこと……」
詩織はムキになって否定した。狭い書庫の中での、ほんの束の間のような出来事が、鼻の頭をツンと突き刺すように思い浮かんだ。
「ある時点までは――と言ったでしょう」
浅見はじっと詩織を見つめて、穏やかな声で言った。
「彼は、ある時点から考え方を変えたと、僕は思っています」
「変えたって、どう変えたんですか?」
「あなたの記憶を消す代わりに、電話の存在そのものを消すことにしたのですよ。そんなことをしても、あなたが電話番号を憶えているかぎり、危険度に変わりはないのに、それが分かっていながら、彼は方針を転換したのです。その瞬間から、じつは彼は自分の敗北を覚悟したのだと思いますよ」
詩織は「移動電話を解約した」と告げたときの下川の顔を思い出した。たしかに浅見の言うとおり、あのころから下川の顔つきや態度から覇気のようなものが消えていった。
「でも、どうしてかしら? どうして、そんなふうに変わってしまったんですか?」
「それには二つの理由があると思います」
浅見は詩織の目の前に、Vサインのように指を立てて、言った。
「一つの理由は、計画そのものの失敗を予感したからでしょう。事実、問題のトランプの本は見つかったけれど、明らかにそれは警察が仕組んだ贋物であることが分かった時点で、敗北は確定的になりました。しかし、当初の計画を取り止《や》めた本当の理由は、べつのところにあったのかもしれません」
浅見はそこまで言って、口を閉ざした。しばらく待ってから、詩織は「それは何?」と訊きそうになって、やめた。またしても、ほんの一瞬のようなあのキスの記憶が蘇った。詩織は、下川が父親を殺した憎むべき男であることを、忘れかけている自分に気がついた。
川根部長刑事が照れたような顔をして、「コーヒーでも飲みますか」と立ち上がり、そそくさと部屋を出て行った。
エピローグ
夕焼けに染まった富士山は感動的に美しかった。芦ノ湖スカイラインの西側は急峻《きゆうしゆん》な斜面がストンと落ち込んで、正面に富士山がそそり立つ雄大な景観だ。
見下ろせば御殿場《ごてんば》市、裾野《すその》市、三島《みしま》市、沼津《ぬまづ》市と谷間に連なる家々や市街が、パノラマ模型のように広がって、やがて駿河《するが》湾に溶け込んでゆく。
詩織と浅見は車を下りて断崖の際に立ち、長い祈りを捧げた。連休の終わりを楽しむ行楽の車が、ひっきりなしに背後を通って行く。すでに事故車は引き上げられ、現場にはほとんど痕跡は残っていないけれど、誰が置いたのか、崖の縁に、小さな花束が心細く揺れていた。
その花を見つめる詩織の目から、涙がこぼれてきた。
「何で泣けたりしちゃうのかしら」
詩織は自嘲《じちよう》ぎみに笑いながら、涙を拭《ぬぐ》い、また新しい涙にむせんだ。
誰のための涙なのか、詩織自身にも分からなかった。父のためでも野木のためでも、むろん下川という男のためだとも思えない。それなのに、詩織は泣いている。
「私って、気が強くて、母がいつもそのこと、嘆いていたんです。お嫁の貰い手がないって……なのに、やだなあ……」
詩織は富士山に向かって、「あーあ」と胸の息をいっぺんに吐いて、天を仰いだ。
「天地は悠久ですねえ」
浅見はしみじみと言った。
「都会に住んでいると、たまにこうして自然に向かい合わないと、そのことを忘れてしまう。でっかいビルを建てて、人間がいちばん偉いような気になったりしちゃう。ほんの一瞬のいのちのくせに、ね」
詩織は「ええ」と頷きながら、浅見にうまくはぐらかされたようで不満だった。私の嫁のクチと天地の悠久と、どう結びつくの?――と訊いてみたかった。
しかし、浅見の視線を追うようにして、もういちど富士山を仰いで、「まあ、いいか」と心の中で呟いた。その瞬間、何かが吹っ切れたらしい。涙腺が乾いて、もろもろのこだわりがスーッと消えてゆくのが分かった。最後まで残っていた疑問――添島はどうなるのだろう?――という疑問も、もはやどうでもいいことのように思えてきた。
富士山を染めていた茜色が、ゆっくりと紫がかってゆく。
あとがき
本書「浅見光彦殺人事件」は僕の生涯の中で、もっとも特徴的であり、風変わりな作品といっていいでしょう。お読みになれば分かることですが、これと同じ趣向のテーマは二度と書くことはできません。そういう意味からも、じつは本書を発表するに際して、少なからず不安な気持ちを抱いています。
カバーに「著者からのお願い」として、「浅見シリーズを三作品以上お読みになった方だけ……」とお断わりをしたのも、ちょっと風変わりだったと思いますが、お読みいただけばその理由はお分かりでしょう。浅見のファンであればあるほど、この作品から受けるショックが大きいはずですし、逆に「浅見シリーズ」をはじめて読む人には、何のことやらチンプンカンプン、ちっとも面白くないかもしれません。
編集者の説によると、本を買って、いきなり「あとがき」から読む人が少なくないのだそうです。でありますから、詳しい裏ばなしを書くと、内容に触れてしまうことになるので、これ以上「浅見光彦殺人事件」誕生にいたるエピソードを書くわけにいきません。
ただ、この作品には、浅見ファンにとってきわめて興味深い事実(?)が秘められていることだけを披瀝《ひれき》しておきましょう。それは「白鳥殺人事件」(光文社刊)と「鳥取雛送り殺人事件」(中央公論社刊)という二つの作品との関わりについてです。それらの作品が「浅見光彦殺人事件」といったいどのように関わっているのか、これまた詳しく説明することはできませんが、好奇心旺盛な方はどうぞ調べてみてください。
さて、この作品をお読みになって、あなたはどのような感想をお持ちでしょうか? 最初に僕の原稿を読んだ担当編集者は、最後まで真相を見極めることができずに、結末を読んで「あっ」となったのだそうです。あなたにもそんなふうに驚いていただけたなら、著者としては満足しなければならないのでしょう。
しかし、かりに読者を驚かせ、悲しませ、また喜んでいただけたとしても、僕はとてものこと「してやったり」という気分にはなれそうにありません。それは、この作品の犯人が、かわいそうでならないからです。「伊香保殺人事件」(光文社刊)の中で、僕は「日なた道、日かげ道」といったことをテーマの一つにして書きましたが、「浅見光彦殺人事件」の犯人が生まれながらにして背負わなければならなかった宿命は、あまりにも悲しい日かげ道でした。この作品を書き終えたいま、僕は彼が気の毒で、涙に咽《むせ》びながら、追悼すべき言葉も見つかりません。
一九九一年早春
著 者
角川文庫『浅見光彦殺人事件』平成5年3月10日初版刊行