内田康夫
怪談の道
目 次
プロローグ
第一章 倉吉の娘
第二章 地獄の宿にて
第三章 黄色い土・黒い雲
第四章 優美の悲劇
第五章 美作《みまさか》街道・関金《せきがね》温泉
第六章 亡霊の復讐
エピローグ
自作解説
プロローグ
そうして、白い手がたえず波のようにそろって揺れうごく。まるでなにか呪文《じゆもん》でもひねりだすように、白い手は輪の内と外とへ、かわるがわるに、あるいは手のひらを上に、あるいは下に向けながら、しなりしなりと動くのである。それといっしょに、いたずらな小鬼のような長い袖《そで》が、羽のような影をそえながら、ほの白くそろって、その複雑な動作のリズムにのりながら平衡をたもっていく。だから、じっとそれを見ていると、まるで水がきらきら光って流れているのを、いっしょうけんめいに見つめているような、――なんだか催眠術にでもかかっているような感じがしてくる。
この催眠術のような眠気の底にひきこまれるような感じは、あたりが水を打ったようにしんとした静けさのために、いっそう強められる。だれひとり口をきくものがないのである。見物人もだまっている。おどり手が軽く手をたたくから手をたたくまでの長いあいまには、やぶにすだく虫の声と、軽く埃《ほこり》をあげるぞうりのシュッ、シュッという音が聞こえるだけである。
なにかこれに似たものがあるかしらと、わたくしは自分に問うてみた。似ているものはなにもないが、しいていえば、歩きながら空を飛んでいる夢を見ている夢遊病者の空想がこんなものではあるまいかと、およその見当をつけてみた。
わたくしはそのとき、ふと、こんな事を考えた。――自分は、いま、遠い遠い太古のものを見ている。この東洋人の生活の記録にさえ残っていない太初《たいしよ》のもの、おそらくは薄明の神代時代のもの、あの神変不可思議な神々の時代のものを、自分はいま見ているのだ。無量の歳月の間に、意味のことごとく忘れられてしまった動作のひとつの象徴を見ているのだ、と。ところが、その見ているものは、さっきからだまってにこにこしたり、だまってお辞儀をしたりして、なんだか目に見えない、幽霊の見物人にでも挨拶《あいさつ》しているようなぐあいに、ますます現実離れがして見えてくる。わたくしは思わずこんなことを思ってみた。――かりに自分がいまここで、なにかひとことそっと小さな声をもらしたら、ここにあるいっさいのものは――この荒れはてた境内と、寂しい堂と、それからおどり子の顔にあるのとおなじ妖《あや》しげな微笑をたたえているかけた地蔵の像と、これだけを残して、あとのものはいっさい、これなり永久に消えてしまうのではないかしらん、と。
円《まど》かな月の下で、いまおどりの輪のまんなかに立っているわたくしは、なんだか魔法の輪のまんなかに立っている人間のような気がする。じっさい、これは妖術《ようじゆつ》だ。わたくしはいまそのあやかしにかかっているのだ。あの幽霊のようなさす手ひく手、ひょうしをとってするりするりとすべりでる足、ことにあの美しい着物の袖――幽霊のように音もたてず、熱帯の大こうもりがひらひら飛ぶように、ビロードめいたすべらかさでひるがえるあの美しい袖、それに魅入《みい》られて、わたくしの魂はいまや宙に迷っているところだ。いや、夢でもこんな夢は見たことがない。それに、うしろには墓場がある。墓場にはうす気味の悪いお迎えの盆ぢょうちんがともっている。場所も場所なら、時刻もちょうど幽霊の出る時刻だ。なんだかおばけにとりつかれているような、ぞうっとした、なんともいえない心持ちがそろりそろりと。――いやうそだ、うそだ。ちがう、ちがう。あのたおやかな、音をたてない、なびくようなさす手ひく手は、あれは白いちょうちんのあかりで照らされている幽霊の手ではあるものか。――そのとき、とつぜん、小鳥の声のように美しいほがらかな顫律《せんりつ》にみちた歌の声が、いく人かの娘たちの口をついて、うたいだされた。つづいて、五十人のやさしい声が、それにうたい和した。
そろうた そろいました おどり子がそろた
そろい着てきた 晴れゆかた
あとはまた、虫のすだく声と、ぞうりのシュッ、シュッと鳴る音と、軽い手びょうしの音である。そして、ゆらりゆらりと揺れなびくおどりは、無言のうちに、眠くなるようなゆるやかな調子でつづけられていくのである。このふしぎな優雅な気分は、それのもつ素朴さゆえに、あたかも周囲の山々のように古いものに見える。
あの白いちょうちんのともっている灰色の墓の下に、いく世紀もの眠りをむさぼっている人たち、あるいはその親たち、そのまた親の親たち、それよりもまた前の知らない時代の人たち、千年の間、どこがその場所だやら、それさえ忘れられてしまったような墓穴に埋められた人たち、そういう古い古い人たちも、きっと今夜のような、こうした光景を、かつては見たのにちがいない。それどころではない。げんにいま、あの年の若い足がまきあげている埃、あれがかつては人間の生命《いのち》だったのだ。その小さな生命が今夜の月とおなじ月の下で、「足を織り、手を振りあい」、やはりあのようににこにこ笑いながら、きっとあのような歌をうたったにちがいないのだ。……
「盆おどり」小泉八雲著(平井呈一=訳)より
第一章
倉吉の娘
カーテンを開けたときに、ちょうど坂を登りきってこっちを見上げた男と視線がぶつかった。道ですれ違ったら気づかないかもしれないが、男は伸夫《のぶお》であった。伸夫のほうも一瞬、自分の目を疑うような顔で優美《ゆみ》の様子を窺《うかが》ったが、すぐに嬉《うれ》しそうに笑って、「やあ」と口を開け、手を振った。
(いやだな――)と思ったけれど、とぼけて視線を外すわけにもいかず、優美は軽く右手を挙げて応《こた》えた。
しばらく見ないあいだに、伸夫はすっかり老け込んだ感じだ。もう還暦を過ぎたはずである。「ここだったのか、いいアパートじゃないか」と、玄関先で珍しそうに部屋の中を見回す様子には、男の匂《にお》いでも嗅《か》ぎ当てようという魂胆が読める。
「電話番号、忘れちまったもんで、ずいぶん探した」
(嘘《うそ》ばっかし――)
インスタントコーヒーを入れながら、優美は鼻先で笑った。電話をかけると逃げられるから、直接訪ねてきたに違いない。
「独りかい?」
「決まってるでしょう」
「そうか、独りか。いくつになったかな?」
「大台よ」
「ふーん、そうか三十か、そろそろいいんじゃないのか」
「そろそろってことはないわね」
優美は頬《ほお》を歪《ゆが》めて笑って、コーヒーカップを少し邪険にテーブルに置いた。
「用事、何?」
「ああ……」
伸夫は生返事をして、旨《うま》そうに音を立ててコーヒーを啜《すす》り、しばらく黙った。
「優美と会うのは何年ぶりかな」
「そうね、かれこれ十年になるかしら」
高校を出てすぐ東京の短大で寮生活に入って、卒業までに二度か三度、帰省した記憶があるけれど、それっきりのはずだ。
もともと優美は東京生まれだが、中学三年のときに栃木《とちぎ》の父親の郷里に引っ越した。生家の敷地内に納屋のようにして使っていた離家《はなれ》の二階に住まわせてもらったのだが、伸夫は父親との折り合いが悪くて郷里を離れたような人間だったから、生家に帰っても歓迎されるわけはなかった。優美に対しても、祖父母ばかりでなく、伯父《おじ》にあたる伸夫の長兄夫婦の応対も冷たく、優美まで肩身の狭い生活を強いられた。そのせいもあって、とうとう土地に馴染《なじ》めないまま、優美だけ東京に舞い戻った恰好《かつこう》であった。
六年前に祖父が、その翌年には祖母が亡くなったという通知をもらったが、どちらの葬儀にも帰らなかった。
「どう、栃木のほう、変わった?」
ほんのちょっと娘らしく儀礼的に、優美は訊《き》いた。
「いや、相変わらずだ」
父親はどう相変わらずなのか、説明もしたくないような、つまらなそうな口ぶりで言った。優美もそれ以上の質問を重ねる気持ちはない。会話はすぐに途絶えて、優美も伸夫も、意味もなく時計を見た。
「母さんが死んだよ」
呟《つぶや》くように伸夫が言った。
「えっ?」
さすがに優美は視線を上げた。
「母さんて?」
「おまえの母さんだ、佳代《かよ》だよ」
「そうなの、いつ?」
「二年前だそうだ。このあいだそう言って寄越《よこ》した」
「ふーん、二年も前に……何だっていまごろになって……」
二年も前のことを――という意味と、それに、何をいまさら――という非難を込めて、優美はきつい口調で言った。
母親とは優美が二歳のときに別れた。両親は協議離婚で、親権は生活力があるという理由で父親が取ったと聞いているが、それ以上の詳しい事情は、優美は知らない。知りたいと思ったことがないわけではないけれど、知ればいっそう悲しい結果になりそうな気がしていた。
「弁護士が来てな」と伸夫は憮然《ぶぜん》とした顔で言った。
「佳代がおまえのために遺産を残したという話だ」
「遺産?」
「ああ、と言っても、大した額じゃないが、五百万ばかしだそうだ」
「大した額だわ、五百万なら。だけど、どうして? 私になんか遺産、残す義務はないんでしょう?」
「たぶん……いや、法律がどうなっているのかは知らんが、遺書があったのと、銀行の通帳がな、おまえ名義の積立預金になっていたので、向こうで……つまりその、遺族のほうで勝手に処分するわけにはいかなかったのだろう」
「積立預金?……」
「別れてから、死ぬ少し前まで、二十六年間つづけたものだそうだ。最初はごく僅《わず》かでも、まあ利子だとかいろいろついて、けっこう溜《た》まったのだろう。佳代はそういう、何ていうか、律儀にしつこく思いつめるようなところがあって、そういうのがおれはどうもあまり……」
伸夫がクダクダと、自分の曖昧《あいまい》な生きざまを弁解するようなことを言うのを聞きながら、優美はとまどいにも似た気持ちを持て余していた。正直なところショックと言うべきかもしれない。いままで経験してきた世の中にはなかった新鮮な風景が、パッと目の前に現れたような気分だ。
(そうなのか、そういうこともあるんだ――)
「先方はおまえに取りに来てもらいたいと言っているらしいが、どうする?」
「取りにって、どこなの?」
「倉吉《くらよし》だそうだ」
「倉吉ってどこだったかしら?……」
名前は知っているけれど、日本地図を思い浮かべても、場所がピンとこない。
「鳥取県だよ」
「鳥取県? 遠いのね」
東京で夫と娘と別れて、遠い鳥取で死ぬまでの母親の――というより、一人の女の人生を、優美は一瞬のうちに想《おも》った。しかし、その感傷とは裏腹の、乾いた口調で言った。
「面倒くさいのね、送ってくれればいいじゃないの」
「おれもそう言ったが、それが先方の条件らしい」
「遺書にそんなことも書いてあったの?」
「まさか……要するに、あれだろう、面子《メンツ》っていうか、カッコつけたいのだろう」
「そんなんだったら、いいわよ、遺産なんか貰《もら》わなくたって」
「えっ」と伸夫は明らかにうろたえた。
「折角くれるってものを、貰ったらいいじゃないか」
「だったら父さん、代わりに行ってよ」
「いや、そうはいかないんだ。先方はどうしてもおまえでなきゃ困ると言っている」
どうやらそのことも確認ずみということのようだ。語るに落ちる――と、優美は心の中で苦笑して、少し意地悪な気持ちになった。
「そんな面倒なの、いらないわ。たかが五百万ばかしで鳥取県まで行って、頭を下げるなんて……」
「そう言うが、五百万は五百万だよ。ないよりはあったほうがいい。もしおまえさえよければ、ちょっと父さんのほうに貸してもらいたいくらいなものでね」
気楽そうに冗談めかして言っているが、本心であることは、伸夫の落ち着かない指の動きを見ていれば分かる。
「仕事、うまくいってないの?」
「ああ、不況でな、どうにもならん」
そう言われても、父親がいまどんな仕事をしているのかさえ、優美は知らない。栃木へ行った当座はたしか生命保険のセールスをやっていた。あらかたの親類や知人を勧誘し尽くすと、じきに成績が上がらなくなった。もともと力がないだけに、長続きはしなかったにちがいない。まもなく勤めを変えたところまでは知っているが、優美が東京へ出たあとのことは分からない。どんな職業についたとしても、それほど成功しそうなタイプではなかっただろう。それに、ふつうの勤めなら定年を迎えたはずである。「不況でどうにもならない」と言うからには、定年に左右されない仕事をしているということか。しかし、それを確かめる気は優美にはない。
「それもあってな、できればその金を融通してくれるとありがたいのだが」
伸夫はしだいに本音を洩《も》らし始めた。それはほとんど哀願としか聞こえなかった。
「いいわ」と優美はあっさりと言った。結局はそうしなければ収まりがつかないことは、幼いころから見てきた父親の性格からいっても分かりきっている。拒否すれば、それだけ長い時間、父親の愚痴を聞かされることでしかなかった。
「そうかい、行ってくれるかい、頼むよ」
伸夫はセールスの客に対するようにもみ手をして、愛想のいい声を出した。
「まあ、先方も厭味《いやみ》の一つや二つは言うかもしれないが、我慢して聞いてやりなよ」
「だけど、死んでから二年ものあいだ、どうして放っておいたのかしらねえ?」
優美は首をかしげた。
「さあな、それは何か事情があるのだろう。こっちの住所も変わってるし、探していたのか、それとも、もしかすると、なろうことなら出さないで済まそうとでも考えたのかもしれねえ」
伸夫らしい憶測だ。
「それより分からないのは、母さん――あのひとが、どうして私のためにお金、残したのかってことね」
「そりゃ、あれだろ、罪滅ぼしのためじゃないのか」
「そうかしら」
母親が自分勝手な理由で家庭を捨てたという話は、父親ばかりでなく、祖父母や伯父たちからも聞かされている。優美の気持ちも考えずに、口汚く「男に走ったのだ」と言う者もいた。幼いころはそれをまともに信じていたが、長じてからは、必ずしも彼らの言うことを鵜呑《うの》みにはできないと思った。ただ、結果として、母親が赤子同然の自分を置いて去ったのは事実だ。それは許せないとは思うけれど、そうしなければならなかった「あのひと」の事情のことも思いやる隙間《すきま》が、気持ちのどこかに生じていた。
「そうだとも、そうに決まっている」
伸夫は脇《わき》を向いて断言した。
「あのひとと別れたほんとの理由って、何だったの?」
「それは昔、何度も話しただろう」
「子供のころね。だけど、分別がついてからは一度も聞いてないわ。悲しくていやだったから、聞きたくなかったのだけど、いまは聞いてみたい気もする。本当のことをね」
「本当のことを話したさ」
「そうかな、違うと思う。父さんもみんなもあのひとを悪者にしていたけど、そんな単純なことで子供を捨てて……それも、たぶん可愛《かわい》い盛りの女の子を捨てて行けるなんて、信じられない」
「しかし事実そうだったのだから仕方がないよ。鬼のような女だったってわけだ」
「ふーん、鬼のような女が、二十六年ものあいだコツコツと積立預金をするものかしらねえ。もしそうだとしたら、鬼のような女がそうやって貯《た》めたお金を貰《もら》うなんて、ますます気が進まないな」
「いや」と、伸夫は慌てて、気弱そうな目を優美に向けた。
「鬼のようなというのは、たとえ話だよ。そりゃ、おまえと離れ離れになるのは辛《つら》かったに違いないさ。だから……」
「心配しなくても行くわよ。お金、貰って来るわよ」
優美は冷やかな目で父親を見て、頬《ほお》を歪《ゆが》めるようにして笑った。伸夫は「そうか、そうしたほうがいいよ」と嬉《うれ》しそうに頷《うなず》いた。
いざ行く段になって調べてみて、優美はつくづく、倉吉って遠いんだ――と思った。地上を電車で行くとなると、新幹線で京都まで行って、京都から倉吉までだけでも山陰本線で四時間半もかかる。何だかんだで八時間もの長旅になる。
結局、東京から飛行機で鳥取まで飛んで、鳥取から電車で行くことにした。これだと全部合わせても二時間半である。往復の旅費が五、六万円もかかるのは痛いけれど、五百万円の集金旅行としては仕方がないかなと思うことにした。
勤めのほうは有給休暇がたっぷり残っているから、問題はない。「三日間、休ませてください」と言ったら、課長が「新しいのが出来たのかい」と、下卑たことを言った。優美は「ばか」と言って電話を切った。
倉吉には午後一時半ごろに着いた。駅前タクシーに乗って「西仲町」の住所を言うと、「やっぱし土蔵を見るのですか」と、ひとり合点された。どういう意味なのかは、降りてみて分かった。そこはまさに土蔵の街なのであった。
タクシーの運転手は優美を観光客と見て、観光案内のプリントを渡し、「倉吉ではここの土蔵群と、打吹《うつぶき》公園を見て、土蔵そばを食べるといいですよ」と教えてくれた。物見遊山の気分ではなく、そのどれにも興味があったわけではないけれど、土蔵の街並みはちょっと魅力的な風景であった。
土蔵の壁は下半分は板壁、上半分は漆喰塗《しつくいぬ》りの白壁で、さながら敷地の境界線いっぱいを仕切る城壁のようにそそり立つ。壁には小さな窓がいくつも暗い口を開けて、どことなく中世の城の因習と猜疑《さいぎ》に満ちた空間を連想させた。
土蔵の壁の下は石垣で、石垣とこちら側の道路とのあいだを幅三メートルほどの小川というか、堀割のような水が流れている。案内によると、市内を縦貫して流れる「玉川」というのだそうだ。
道路から土蔵群に渡るための橋が、不揃《ふぞろ》いの間隔で玉川に架かっている。どれも一枚岩を成形して造った石橋である。太鼓型とまではいかない、ほんのわずかに反りのある素朴な石橋だが、これほど大きな石をどこから切り出して、どうやって運んだものだろう。
タクシーを降りたときから感じていた、かすかな香ばしい匂《にお》いは、どこかの醤油蔵《しようゆぐら》から流れてくるらしい。そぞろ歩きの観光客が、その匂いに誘われたように、街の空気を嗅《か》ぎながら幾組もやって来た。
聞いてきた番地は、ちょうどその土蔵群の真ん中近くのものであった。ひときわ立派な石橋の向こうに門がある。門といっても、土蔵と土蔵のあいだの、一見した感じでは「城壁」の一部のように見える、高さが四メートルほどの瓦屋根《かわらやね》を載せた塀の真ん中を、ポッカリくり抜いた城門のおもむきである。
優美はここまで歩いてきて、土蔵群がずうっとほとんど隙間《すきま》なく建っていることに気がついた。土蔵そのものが「城壁」を形成しているし、土蔵と土蔵のあいだも高い塀で結ばれ、外界とは徹底的に遮断された空間を創《つく》り出しているらしい。門の木戸が開け放たれているのが、かえって胡散臭《うさんくさ》く感じられる。何か陥穽《かんせい》が仕掛けられてあって、入ったとたん罠《わな》に落ちそうな気がした。
いまごろになって、遺産なんかを貰いに来たことに罪悪感に似た逡巡《しゆんじゆん》をおぼえた。
母親が自分を捨てて出奔した相手の男の手から、金を受け取る惨めさを思った。男の、人を見下すような視線さえ想像できた。
優美はオズオズと橋を渡った。門柱のいかめしいくらい立派な表札に「大島」と読めた。大島佳代は再婚後の母親の名前であった。門内は狭い庭だが、中央の植え込みによく手入れされた松の木やイチイなどが枝を張って視界を遮り、奥のほうがどうなっているのか、窺《うかが》うことができなかった。
風が動いて、醤油の匂いがフワーッと流れてきた。あの懐かしいような香りの根源はここだったのかもしれない。優美はしばらく躊躇《ためら》ってから、ちょっと頭を下げて門を潜《くぐ》り、「城」の中に入った。
庭に面して土蔵や、たぶん醤油の醸造施設らしい建物が軒を接して建ち並び、庭に向けて大きな口を開けている。蔵の中は暗く、大小の樽《たる》や大きな箱などがかすかに見えた。
敷石を踏んで行くと、植え込みの向こうに、思いがけない近さで母屋《おもや》が建っていた。黒い瓦屋根の古めかしい二階屋である。玄関はガラスの嵌《は》まった格子の四枚引き戸。その一枚が誘うように細めに開けられている。優美は戸を少し引き開けて「ごめんください」と声をかけた。
すぐに「はい」と、若い声が応じて、小走りの足音が聞こえ、式台の奥の廊下から二十歳ぐらいの女性が現れた。
紺地に椿《つばき》の花を散らした絣《かすり》の着物に、山吹と朱色を組み合わせた、パッと陽が射《さ》したような明るい帯を締めている。
「あ、優美さんですね」
こっちの自己紹介を待たずに、女性は言って、白い歯を見せて、笑いかけた。色白で、人形のような大きな黒目が印象的な美しい顔立ちである。短めの髪が額の真ん中で割れて、見るからに活発で利発そうだ。
「私、翼《つばさ》です、あなたの妹です」
「妹……」
優美は心臓がドキンとした。現実にそういうことがあっても不思議はないのに、迂闊《うかつ》にもまったく予期して来なかった。記憶にない母親の血を引く娘が目の前にいる――と思うと、無意識のうちに彼女の顔に母親の面影を求めようとして、そういう自分に気がついて、ますます心が波立ち騒いだ。
「そう、あなたが……」
かろうじて平静を保って、「脇本《わきもと》優美です、よろしく」と頭を下げた。
「お待ちしてました。どうぞ上がってください」
大島翼は式台の上で腰をかがめ、左手で奥を指さしながら、右手を差し出した。こっちが手を差し延べれば、その手を取って引っ張って行きそうな仕種《しぐさ》だ。
「お邪魔します」
翼の軽い動きに反発するように、優美はゆっくりした動作で式台に上がり、靴の向きを直した。
鍵型《かぎがた》に廊下を左に折れ、左右にいくつかの部屋を過ぎ、奥まった洋間に案内された。応接セットと勉強机や本棚が雑居している。「国文学概論」だとか「古典文学研究」だとかいった分厚い本が机の上に重ねてあった。本来は応接室だったのを、翼の居室に使っているような雰囲気の部屋だ。
「いまお茶を入れてきますから、待っていてくださいね」
翼は陽気に言って、優美に何か言わせる間を与えずに部屋を出て行った。
優美は窓辺に立って外の様子を見た。どういう方角になっているのだろう、ここからは土蔵は見えず、植え込みの頭越しはるかに山の木々が望めた。山頂が柔らかな丸みを帯びた山である。
ドアの開く気配に振り向くと、翼が紅茶を運んできたところだった。
「優しい山でしょう、あれは打吹山。打吹公園は桜とツツジの名所で春はずいぶん賑《にぎ》わうんです。あとでご案内しますね」
テーブルの上に紅茶を出しながら、楽しげに言った。
紅茶に砂糖やミルクを入れる作業のあいだ、会話が途絶えた。翼は自分が入れてきた紅茶を啜《すす》って「ああ、おいしい」と目を細めている。遠来の、それも初めての客が訪れたというにしては、ずいぶんのんびりした様子なのに、優美は訝《いぶか》しく思った。
「あの、お家の方は?」
「いません」
「お留守ですの?」
「いえ、そうじゃなくて、誰もいないんです。私一人で住んでいるんです」
「えっ?……」
優美はガチャリと音を立てて、カップを置いた。
「お一人って……あの、ご家族は?」
「父がこのあいだ亡くなりましたから」
翼は笑おうとして頬《ほお》を歪《ゆが》めたが、そのまま表情が停まって、眸《ひとみ》がみるみる涙に潤んだ。優美は息がつまるほど驚いた。
「亡くなったって……あの、いつ、どうして?」
「十日前です。心臓の発作だって、お医者さんはそう言っていました。土蔵の中で倒れて、発見されたときはもう亡くなっていたそうです」
「そうだったんですか……父のところに弁護士さんが見えたのは、半月前だそうですから、じゃあ、お父さんが亡くなったのはその直後なんですね。わざわざ母――あなたのお母さんの遺言を伝えてくださったのは、ご病気が悪化していることを知っていらしたからかしら?」
「それは違います」
翼は涙を拭《ぬぐ》って、言った。
「弁護士さんに頼んで、母の遺言を伝えていただいたのは、父ではなく私の一存だったのですから」
「えーっ、あなたが?……」
「父は、じつは、そのことに反対していました。母の遺言をお知らせすることにね。その必要はないって」
「…………」
優美は何と言っていいものか、言葉を見失った。
「それに、父に心臓病のケがあるなんて、誰も、もちろん私も知らなかったのです。ほんとのことを言うと、父が心臓の発作で死んだこと自体、間違いだと思っています」
「間違いって?」
「嘘《うそ》じゃないかって」
「嘘?」
「それは、人間が死ぬときは心臓が停止するのだから、心臓発作って言ってしまえば、間違いにはならないですけど、本当の原因は違うと思うのです」
「じゃあ、何だったのかしら?」
「もしかすると、殺されたのかも」
「えっ……」
思わず背を反らせた優美を、翼は小悪魔のような歪んだ笑顔で見つめた。
「そんな……それ、どういうこと?」
「まだ説明はできないけど、そんな気がしてならないんです」
「だけどあなた、殺されたって、それ、重大な発言だわ。そんなこと、妄《みだ》りに口に出して言っていいものかどうか……」
「それは分かっています。あなたがお姉さんだから言ったんです。ほかの人には言いませんよ、こんなこと」
お姉さん――という言葉を聞くと、優美は胸を衝《つ》かれる想《おも》いがする。懐かしさやくすぐったさを感じる以前に、抵抗感のほうが強い。いまのいままで、まったく関係のなかった世界や人々との関係が生まれ、責任を分担しなければならない状況に、どんどん引きずり込まれるような気分が否めなかった。
しかし、そうは言っても、この不幸な娘を前にして、私はあなたとは他人よ――などと残酷なことは言えそうにない。
「ほんとのところ、よく分からないの」と、優美は翼の父親の死のことから遠ざかろうとする意識を持って、言った。
「私……たちのお母さんのこと、私はほとんど何も知らないんですよ。別れたのは私がまだ二歳のときですもの。だから、どうして別れなければならなかったのかも知らないし、その後どうなったのか、あなたのお父さんといつ結婚したのかなんて、もちろん知らないし、それに、私のための遺産なんて、どうして残していたのか、ぜんぜん分からないんですよ」
「えっ、ほんとに?……」
翼は目を大きく見開き、唇を丸くすぼめて驚いた。そういう表情をすると、まだ十分、あどけなさの残る娘であった。
「信じられません。私でさえ、ある程度のことは知っているのに、お姉さんが知らないなんて」
「でも本当のことよ。ううん、それは、父やほかの人たちの言うことは聞いたけど、そういうのって、一方的な言い分でしかないわけでしょう。誰もがみんな母の悪口しか言わないし、それを鵜呑《うの》みにするほど単純じゃないつもりだし」
「ママの悪口ですって? ひどい……」
翼が「ママ」と言ったことにも、優美はショックを受けた。そうか、この家では母親のことをママと呼んでいたんだ――。
「でも、ここの人たちだって、ママをよく思っていた人ばかりとは限らないけど……」
翼は少し悄気《しよげ》た様子を見せた。
「あの、この大きなお宅に、あなた一人で住んでいるって、ほんとなの?」
「ええ、いまは一人です。醤油《しようゆ》の仕込みや出荷のときなんかには大勢来ますけど」
「ああ、やっぱりお醤油のメーカーなのね」
「メーカーって言うほど大きくありません。地元の人たちや、関西のお料理屋さんの注文に応じるだけで手一杯ぐらいの量しか作らないんです」
「じゃあ、本当の手作りみたいな」
「まあそうですね。機械化されているのは、瓶詰め作業ぐらいなものかしら。醸造期間も長いし、効率が悪くて、ちっとも儲《もう》からない商売なんです」
いっぱしの商売人のような口をきく。
「でも、お父さんが亡くなられて、これから大変なんじゃありません?」
「大変は大変ですけど、でも、何とかするより仕方ないでしょうね」
「あなたはいま、大学?」
「ええ、松江の大学へ行ってます。もう三年ですけど、大学をやめようかどうしようか、迷っているところです」
「やめちゃだめですよ。経済的な理由でやめなきゃならないのだったら、例の私への遺産、使ったらいいわ」
優美は伸夫が聞いたら腰を抜かしそうなことを口走った。
「どうもありがとう。でも理由はそれじゃないんです。一つは、父が亡くなって、私以外には後継者がいないから、そっちのほうに専念しようかと思って。叔父《おじ》たちは卒業してからでいいって言ってくれるし、いっそのこと、こんなちっぽけな醤油屋、やめてしまってもいいみたいですけど、でもけっこう熱心なファンがいて、毎年、新しい製品が出来るのを待っていてくださるんです」
「そう、だったらますますやめちゃいけませんよ。でも、そういうお仕事はほかの人に頼めるのでしょう?」
「ええ、まあそうですけどね」
「それで、ほかの理由は何ですの?」
「えっ?」
「いまのことが理由の一つって言ったわ。ほかにもあるのでしょう?」
「ああ……」
翼は暗い目になって、長いこと躊躇《ためら》ってから言った。
「もう一つは、父の死の真相を調べようかと思っているんです」
「真相って……じゃあ、ほんとに殺されたって?……」
「ええ、そう思っています。父は間違いなく殺されたって信じているんです。嘘《うそ》やでたらめを言ってるわけじゃありません」
翼は語気鋭く言って、ひたと真っ直ぐに優美の目を見据えた。
「嘘を言ってるなんて、思わないけど」
優美はかすかに笑った。翼はうろたえて、視線を外し、ペコリと頭を下げた。
「あ、ごめんなさい。叔父たちは真面目《まじめ》に聞いてくれないものだから、つい……でも、信じてくれないのは無理がないことかもしれません。お医者さんがそう診断したのですから」
「それなのに、どうしてあなただけがそんな風に思うの?」
「分かるんです、何となく、感じっていうか、みんなで隠しているなっていう……」
「隠している?」
「ええ、父の死には十分、疑っていいところがあるのに、みんなそれから目を背けて、見なかったことにしようっていう感じなんです。それが分かるんです」
「ちょっと待って、どういうことなのかよく分からないわ。最初から説明してくださらない?」
若い翼の思い込みのはげしさを、優美は少し持て余しながら、そう言った。
二人はしばらく黙って、すっかり冷えてしまった紅茶を啜《すす》った。翼は何をどこまで話していいものかを模索しているように見えた。優美は優美で、たぶん深刻なものになるであろう翼の話を、まともに聞いていいものかどうか、なかば警戒する気分で身構えた。
「その日、私は松江にいて、大学から下宿に戻って、はじめて父が亡くなったことを知ったのです」
翼はようやく考えが纏《まと》まったらしく、物憂げに口を開いた。視線を宙に据えて、頭の中で錯綜《さくそう》している記憶を呼び起こしながら、少しずつ筋道を辿《たど》るように話した。
「それから急いで帰宅したときは、父はお棺《かん》の中に入っていて、お通夜の席に親戚《しんせき》や近所の人たちが詰めかけていました。父が死んでいるのを発見したのは叔父で、午後四時ごろ、二番蔵の中ででした。叔父は醸成中の醤油の出来具合をチェックしに、ときどき蔵を見回るのです。蔵の中で父が苦しそうに胸を押さえた恰好《かつこう》で倒れているのを見て、すぐにお医者さんを呼んだのですけど、そのときはもう、父は冷たくなっていたそうです。お医者さんの話によると、父が死んだのはそれよりだいぶ前の、昼過ぎごろではないかということです」
「そうだったの……それで、死因は心臓の発作だっておっしゃったのね」
「ええ、そうなんですけど……」
翼はまた少し躊躇《ためら》ってから、言った。
「でも、本当のところは分からないと思うんですよね」
「どうして?」
「だって、解剖もしないで、そんなに簡単に死因なんて分かるはずはないでしょう?」
「あ、そうなの、そうよね……でも、お医者さんがそうおっしゃったって……」
「ええ、そう説明されて、その時はそうなのかって思いました。私のほうも悲しくて、気持ちが動転して、何が何だか分からない状態でしたから。だけど、お葬式がすんで、しばらくボーッとしているうちに、変だなって思ったんです。それで、叔父に詳しく聞こうとしたら、余計なことを言うなって言われました」
「えっ、どういうこと?」
「そうなんです、私もどういうことって訊《き》きました。そうしたら、ここだけの話だって前置きして、本来なら変死扱いになるところを、お医者さんに頼んで、警察には黙っていてもらったのだと言うのです。もちろん、だからって、怪しいことがあったわけではないって、その点は強調していました。ただ、誰も見ていない状態で死んでいたとなると、本来は警察に届けて、変死扱いにされて、解剖したりしなければならないのだそうです。でも、そんなことをしたら新聞記事にもなるし、それに、醤油蔵の中で死んでいたなんていうことが知れたら、お醤油のメーカーとしてはあとあとロクなことにならないだろうって言うのです」
「なるほどねえ、そうかもしれないわね。叔父さんの措置は納得できるわ」
「私もそう思いました。あとでお医者さんにも確かめたら、叔父と同じことを言っていました。叔父にあまりしつこく頼まれるので、心ならずも同意したのだから、くれぐれも秘密を守るように。死亡時刻のことなんかは、他人に洩《も》らしてもらっては困るって釘《くぎ》を刺されました」
「じゃあ、本当のことを知っているのは、ごく限られた人たちだけなのね」
「そうなんです。ですから、お姉さんも決して他人には言わないでください」
「もちろん喋《しやべ》ったりしないけど……でも、それだけのことだったら、あなたが言うみたいに、殺されたとか、そういうことにはならないのじゃないかしら」
「ええ、それだけならべつに怪しいと思わなかったかもしれませんけど、その後、妙な物が見つかったんです」
翼は立って、デスクの引出しから小型のテープレコーダーを持ってきた。巻き戻して頭を出すと再生ボタンを押した。
はじめのうち、ゴチャゴチャと操作をしているような音が響いてはっきり聞こえなかったが、やがて電話でやり取りする声が聞こえてきた。どうやら会話の途中から録音を始めたらしい。「もしもし、それで、どうすればいいのでしょう?」という大きなはっきりした声が聞こえた。
「いまの、父です」
翼が急いで注釈を加えた。
相手はしばらく考えてから、「要するに、カイダンの道の当時の話は忘れてしまうことだよ」と言った。声は小さくかすれていて、明らかに電話の中から聞こえてくる声だ。さらに声は「それがあんたのためだよ」と続き、「でないと……」と言いかけてやめた。
――でないと、どうするのですか?
――それは言うまでもないだろう。
――殺しますか。
――ははは、どうかな……まあ、賢明なあんたのことだ、とにかく、昔の誼《よしみ》で穏やかに話をまとめようじゃないか。それじゃ、明日行くのでよろしく頼む。
あっけなく電話を切った。
翼はテープレコーダーのボタンを押してテープを停めた。
「父はビジネスの電話の際、メモ代わりにこうやってテープに記録しておく習慣があったのです。でも、これは話の途中からだから、ビジネスではなく、ふつうの知り合いからの電話だと思います」
「ふつうの知り合いにしては、話の内容はなんだかずいぶん険悪だったけど。殺すとかおっしゃっていたでしょう」
「ええ、そうなんです。だから父は録音しておこうと思いついて、途中からスイッチを入れたにちがいないんです」
「それで、叔父さんにはこのテープを聞かせたの?」
「もちろん、聞かせました」
「そうしたら?」
「叔父も驚いていましたけど、でも、いや、あれは病死だって。殺されたものなら、お医者さんも診《み》ているのだし、気がつかないはずがないって。テープの内容については、商売をやっていればいろいろトラブルもあるし、相手がヤクザがかった人だと、この程度の脅しは珍しくないって言ってました」
「ほかの人はどうだったの?」
「ほかの人っていっても、あまりおおっぴらに話すわけにいかないので、もう一人の叔父とお医者さんに相談しましたけど、両方とも前の叔父と同じ答えで、きっとみんなで口裏を合わせているんだなって思いました。あとは警察に相談するしかないけど、それをしたら大変なことになるでしょう。そんなわけで、残された道は自分で調べることだって決心したのです」
喋《しやべ》り終えた翼より、むしろ優美のほうが「ふー」とため息をついてしまった。
「すごい決心だけど、でも、それだけのことでは真相を突き止めるのは難しいのじゃないかしら?」
「難しいですけど、だからって何もしないではいられません。それに、決心したのは一昨日のことで、いろいろ調べる余地はまだ沢山あると思うんです」
「どんなふうに?」
「それは……」
勢いよく言いかけて、翼は悲しそうに絶句してから、「まだ考えが纏《まと》まっていませんけど……」と呟《つぶや》くように言った。
「ほんとうに難しそうだわねえ。私なんかにはどうすればいいのか、想像もつかない。でも立派だわ。そんなこと考えるだけでも偉いと思います」
「そんなに褒めないでください。まだ何かができるかどうかも分からないんですから」
翼は眉《まゆ》をひそめて笑った。
「そうだわねえ、そのテープだけが手掛かりではねえ……そうそう、その会話の中に、たしか『カイダンの道』とかいう話が出てきてたけど、それは何なのかしら?」
「分かりません。長い階段がある道かなって思ったんですけど」
「たとえば、四国の金比羅《こんぴら》さんみたいなところ?」
「ええ、私は行ったことがありませんけど、たぶんそうだと思います。そういうところだったら、この近くにもありそうだし」
「そうねえ、日本全国だったら、ずいぶんあちこちにあるでしょうね。でも、かりにそうだとしても、それが何なのかしら?」
「さあ……」
二人とも黙って考え込んだが、何のイメージも湧《わ》いてこない。
「カイダンって言ってたのは間違いないですよね?」
しばらくして、優美は確かめた。
「ええ、確かにそう言っています。それで、一応『カイダンの道』にほかの意味がないかどうか調べてみたのです。そしたら、カイダンにはいろいろな意味がありました」
翼は机の上の広辞苑《こうじえん》から、栞《しおり》のように挟んでおいた紙片を取ってきた。紙片には六つの「カイダン」が並んでいた。
会談
快談
階段
怪談
戒壇
開壇
「このうち、最後の『開壇』は密教の何だとかいう、ややこしいことですから、関係なさそうです。それと初めの二つも、電話で言っていた『カイダンの道』という言葉の感じからすると、ちょっと違うかなっていう印象ですよね。残りの三つについては、それぞれ意味はあるかなって思ったのですけど」
「これはどういう意味なの?」
優美は「戒壇」の文字を指さして言った。翼は広辞苑のページを開いて、優美にその場所を示した。
――戒壇、梵語《ぼんご》で四摩、訳して別住。僧尼に戒を授けるために設けた壇。石などで築く。
わが国では七五四年、鑑真《がんじん》が東大寺に設置したのが初め。
「ふーん、そういう意味なの……よく分からないけど、でも、そうすると『戒壇の道』というと、戒壇へ通じる道っていう意味には取れるわね」
「ええ、なんとなく神秘的で、こっちのほうが正解かなとも思ったのですけど、だからといって、それが何なのかって言われれば、さっぱり分かりません」
「もう一つのこの『怪談』はあまり意味がないんじゃない?」
「そうですね。でも、私が『怪談』をやっているせいか、なんとなく無視できない気はするのですけど」
「えっ? 怪談をやっているって?」
「ラフカディオ・ハーンの『怪談』です。いま小泉八雲《こいずみやくも》のゼミに出ているんです。私の大学は松江にあって、八雲の研究がさかんなのです」
「ああ、そっちの怪談……私はまた、翼さんが文化祭か何かで怪談ばなしでもするのかと思っちゃいました」
二人は控えめに声を立てて笑った。初対面からずっと、陰気な話ばかりしていて、はじめて気持ちが緩んだ一瞬であった。
「嬉《うれ》しい」と翼は言った。
「えっ、何が?」
「いま翼って呼んでくれたでしょう」
「ああ、ほんと……」
無意識に出たのだけれど、優美はそう指摘されて、照れて、顔が赤くなった。
「翼って男の子みたいな名前でしょう」
「そういえばそうね。でもいい名前」
「私も気に入ってはいるんです。東郷湖《とうごうこ》の畔《ほとり》で旅館をやっている叔父が命名してくれたのだそうです。東郷湖っていうのは、鶴《つる》が翼を広げた恰好《かつこう》をしていて、その翼のつけ根にあたるところに旅館があって、私はそこで産まれたんですよ。それで……」
二人は期せずして顔を見合わせた。同じ母親の胎内から産まれた者同士という意識が、ふいに濃密に通いあった。
翼がぜひ打吹《うつぶき》公園を案内したいと言うので、街へ出た。翼は着物姿のままである。白足袋《しろたび》に優しく丸みを帯びた黒塗りの下駄を履いた。何色というのか、紅を燻《くす》ませたような渋い色の細い鼻緒が、ドキッとするくらいに粋《いき》な感じだ。石橋を渡ると、下駄の音が心地よく響いて、観光客を振り返らせた。
「いつも和服なの?」
「いいえ、ふだんはジーパンにセーターです。これ、大学に入ったときの両親からのプレゼントなんです。いまはまだ喪中のつもりだから……」
言って、また涙ぐみそうになって、慌てて空を仰いだ。十月の空はよく晴れて、絹のような雲が流れている。
「門の戸、開けっ放しで出て、構わないのかしら?」
「えっ? ああ、平気です。倉吉って、わりと呑気《のんき》な町なんです。それに、ときどき叔父なんかが見回りに来ますから」
土蔵群の切れたところを左へ曲がる。物産品を売る店やお休み所などがあって、この辺が観光スポットの一つになっているらしい。しゃれた和風の茶店のようなのが、倉吉名物の公衆トイレなのだそうだ。
「ちょっと覗《のぞ》いて行きませんか」
翼が誘い、二人して入口から首を突っ込んだ。とてもトイレとは思えない風流な造りである。かつては日本一の折り紙をつけられた公衆トイレなのだそうだ。「トイレ自慢で有名だなんて、おかしなところでしょう」と翼は笑った。
「ほんとに笑いごとでなく、倉吉って何もない町なんです。バブルで日本中が大騒ぎしている時でも、倉吉はぜんぜん関係なくて、かえって、最大の企業だった紡績会社が撤退して行ってしまったりね。ちっとも発展しない代わりに、古いものがいっぱい残っていて、私は好きですけど」
「そうね、なんだか昔の城下町の雰囲気があって、ほっとするみたい」
優美はお世辞でなく、言った。歩くたびに目の前に迫ってくる打吹山のゆったりした風情を仰ぐと、この地に根をおろした人々の気持ちが伝わってくるような気がする。「あのひと」もまた、この山の緑したたる気配と町ののどかさに包まれて、心安らかに暮らしていたにちがいない。
「この町で殺人が起こるなんて、ちょっと信じられないわね」言ってから、「ううん、翼さんの考えを否定する意味じゃないのよ」と付け加えた。
「私だってそう思います。こんな穏やかな町で殺人事件が、それも自分の家で起こったなんて、考えたくありません」
道路を渡るとすぐ打吹山の麓《ふもと》の、ゆるやかな斜面が始まる。椎《しい》の大木が天を覆い、その下に桜、椿《つばき》、ツツジなど、花の咲く木々がびっしりと植えられている。広場と散歩道がそのあいだを縫うように設けられ、人工の池に朱塗りの橋が架かり、その奥は果てしなく山の奥までつづくかと思わせる。
「ママは……母はここが好きで、子供のころからよく一緒にこの橋を渡りました」
翼は橋の中央に佇《たたず》んで、欄干に手を置きながら言った。和服の彼女がそうしているのは、絵のような風情がある。
「そうなの……羨《うらや》ましいな。私にはお母さんの記憶がまったくないの」
「あ、ごめんなさい」
「いいのよ、仕方のないことだもの。ただ、どうしても分からないのは、母が私を捨ててあなたのお父さんのところへ行ってしまった本当の理由ね。父もほかの人たちも、誰も真実を教えてくれてないと思うの。もしかして、あなたはそのこと、知っているんじゃないかしら?」
「それは少し違うみたいですけど」
翼は当惑げに首をかしげた。
「違うって?」
「母がお姉さんを捨てて父のところに来たっていうことです。父と母が結婚したのは、私が産まれる二年前ですから、そのあいだ何年かブランクがあったはずですよ」
「えっ、そうだったの……」
救われた――と思う一方で、優美は母親の何年間かのブランクの持つ意味が、また気にかかった。
いつの間にか日が傾いて、山裾《やますそ》の森に靄《もや》のような影が立ち込めてきた。
「戻りましょう」
翼が言って、優美の腕に手を添えた。優美は一瞬、身を固くした。家族との触れ合いというものを、ほとんど知らないで育った彼女にとっては、こういう、一種の甘えのポーズは、したこともされたこともまるで経験がない。どう応じればいいものかとまどいながら、翼のなすがまま、姉妹が寄り添って坂道を下って行った。
その夜は、東郷湖畔の長生館という温泉宿に泊まることになった。例の翼の名付け親になった上の叔父が養子に行った先だという。セーターとジーンズに着替えた翼が、なかなか達者なハンドル捌《さば》きでカローラを走らせた。倉吉から東へ四キロほど行ったところに鶴の姿の東郷湖があり、その「鶴の翼」のつけ根にあたる、湖の中心に向かって突き出た岬に長生館はあった。
二階の部屋から眺めると、三方に湖面が広がっていて、小さな水鳥が波を揺らしながら、三羽五羽と岸辺に急ぐのが見える。夕暮れどきのせいか、ちょっとホロリとなりそうな旅愁を感じさせた。
長生館の主人・草尾直巳《くさおなおみ》は相撲《すもう》取りを思わせるような体格の、いかにも気のよさそうな人物であった。自分が穏やかであるばかりでなく、世の中に波風が立たないことのみを願っているタイプだ。まさに旅館のような客商売にはうってつけの男を、長生館は獲得したといっていい。
部屋に挨拶《あいさつ》に来た草尾に「脇本優美です」と名乗ると、「そうですか、あんたが佳代さんの……」と、草尾は優美と翼を見比べて、
「そういえばどことのう、二人とも佳代さんと面差しが似てますなあ」と感嘆したように背を反らせた。
「そうよ、姉妹ですもの」
翼は得意そうに言って、「今夜は私もお相伴にあずかりますから、ご馳走《ちそう》お願いしますね」
「分かった分かった」
草尾は大きく笑ったが、すぐに顔を引き締めて、小声で「気ィつけてな、新聞屋が来とるで」と言った。
「新聞屋って、萩原《はぎわら》さん?」
「ああ、そうや」
「何なの? あのことで調べに来たの?」
「まさか、違うがな」
草尾は慌てて手を振って、優美のほうに気を遣った。
「大丈夫、お姉さんには話しました」
「えっ、ほんまか?」
「いいじゃないですか、お姉さんなんだから。ねえ」
翼に同意を求められ、優美は当惑して、曖昧《あいまい》な笑顔で小さく会釈を返した。
「困った子ォやなあ。けど、脇本さん、この子の言うことを丸々信じたらいけませんよ。日頃から、わしらが持て余すような無茶苦茶をやらかしますのでね」
「無茶苦茶なんかしないわ。これでも分別は弁《わきま》えているつもりです」
「何が分別なものかね。とにかく新聞屋には気をつけてな。勘づかれたらうるさいで」
草尾は嘆かわしそうに首を振り振り去って行った。
「叔父たちは知らないけど、西日本海新聞の萩原さんて、私に気があるんですよ」
翼は茶目っ気たっぷりな表情で言った。
「地方紙の、こんなちっぽけな支局の新聞記者にしてはけっこう優秀なんだけど、安月給なもんだから、三十にもなって、まだお嫁さんもらえないって、みんなに噂《うわさ》されているんです」
「あはは、悪いこと言って。それに、三十は私と同い年なんだけどなあ」
「あ、いけない、ごめんなさい」
「いいのよ、気にしないから」
恐縮して首をすくめていた翼は、ふと思いついたように、オズオズと言った。
「あの、こんなこと訊《き》いて、怒らないでください。お姉さん、結婚は?」
「しましたよ、バツ一ってやつ。実質的にはバツ二かな。それで懲りて、いまは何もありません」
同じ質問を何度繰り返されることか。あっけらかんと答えることに、すっかり慣れっこになってしまったけれど、そのつど、去って行った男どもへのいまいましさが蘇《よみがえ》る。
「それより翼さんのほうはこれからなんだから、幸せにならなくちゃ。その萩原さんだけど、あなたが好きだって、ほんと?」
「ほんとですよ。はっきり言わないけど、分かりますからね、そういうのって」
急に、成熟したおんなのように、昂然《こうぜん》とした口調になっている。
「すごい自信だこと」
優美が笑うと、翼はムキになった。
「嘘《うそ》じゃないですよ、ほんとですよ。嘘だと思ったら試してみましょうか」
「試すって?」
「電話したら、すぐ飛んできますよ」
優美がおやめなさいと言う間も与えず、翼は交換に電話して萩原のいる部屋と繋《つな》いでくれるよう、頼んだ。
大口を叩《たた》いただけのことはあった。翼が電話の相手に「大島翼です、いまここに来ているんですよ」と言って受話器を置いて、ものの一分後にはドアをノックする音がした。
「ほらね」と、翼はいたずらっぽく舌を出して見せてから、ドアを開けに立った。
「やあ、ちょうどよかった」
大きな声に圧倒されたように、翼は尻込《しりご》みして部屋の中に戻った。その後から若い男が足を踏み入れかけて、優美に気づいて、「あっ、失礼」と立ち止まった。
「お客さん?」
「そう、お姉さんです」
「お姉さん?……」
驚く視線に向かって、優美は「脇本です」と頭を下げた。
「西日本海新聞の萩原です、よろしく」
萩原はやけに畏《かしこ》まって、三十度近く体を倒してお辞儀を返した。
「入りますか?」
翼は遠慮がちに言った。あんなに威勢がよかったのに、どうしたのかしら?――と優美が怪訝《けげん》に思ったとき、萩原がチラッと背後を振り向いてから、「いいですか?」と翼に確かめて、言った。
「ちょっと紹介したいのだけど」
「ええ、どうぞ……」
翼は当惑げに、しかし頷《うなず》いて、座敷の中央まで戻ってきた。萩原が「お邪魔します」と入り、その後ろからもう一人、萩原よりいくぶん年長かと思える男が入ってきた。優美は急いで少し居住まいを正した。
「こちら、僕の大学の先輩で浅見さん」
萩原の紹介で、男は「浅見ですよろしく」と立ったままで軽く挨拶《あいさつ》した。スリムな体型の、ほどいい程度の長身だ。無造作なヘアスタイルやカジュアルなブルゾン姿からは、おしゃれなんかに気を遣わない性格が感じ取れる。萩原の「先輩」だそうだから、三十は過ぎているのだろうけれど、スキッとした首筋や、顎《あご》の線の清潔そうな印象は、少年のそれを思わせる。
座卓を挟んで男女二人ずつが向かいあうように座った。萩原はいきなり胡坐《あぐら》をかいたが、優美の正面の浅見青年はきちんと正座している。
「浅見先輩はフリーのルポライターをやっているんです」
萩原が妙に堅苦しく説明した。
「何だか、お見合いみたい」
翼がおかしそうに言って、みんなが笑いだし、それをしおに浅見は膝《ひざ》を崩した。
「だけど、翼ちゃんにお姉さんがいるなんて、知らなかったなあ。ご結婚なさっているのですね?」
萩原が詮索《せんさく》好きそうな目をして訊《き》いた。
「いえ……」
優美は当惑して翼に救いを求める目を向けた。
「そうじゃないんですよ」と、翼が手短に状況を解説した。かなり深刻なニュアンスの話も、彼女の陽気な語り口にかかると、あっけらかんとして世間話のようなものに変質して聞こえる。
「そうなんですか。いやあ、ちょっとしたドラマだなあ」
萩原の受け止め方もカラッとしたものであった。
「ところで、翼ちゃん、カイダンの勉強しているんだったよね」
いきなり萩原が言ったので、優美は驚いた。翼も一瞬ドキッとした様子だったが、すぐに気がついて「ああ、それは怪談だけじゃなくて、ラフカディオ・ハーンの研究ですよ」と言った。
「あ、そうかそうか。素人は八雲っていうと、怪談しか知らないからなあ」
萩原は屈託なく笑って、
「じつは、浅見先輩が八雲のことを調べていて、面白い発見をしたっていうんで、その話を翼ちゃんにぜひ聞かせたくてね」
「あ、そうなんですか、浅見さんは八雲の研究をなさっているんですか」
翼は同好の士というよりライバルを意識したような言い方をした。
「いや、研究なんて立派なものではないのです。どうも萩原の話は大袈裟《おおげさ》すぎて」
浅見は苦笑した。
「たまたまこっちへ来る仕事があったので、八雲関係の本をいくつか読んでいて、ほんとに偶然に、興味深い事実を見つけたものですから。ただそれだけのことなのです」
「興味深い事実って、どんな事実なんですか?」
「ラフカディオ・ハーンがかつてこの旅館に来ているという話です」
「えっ、この旅館て、ここですか?」
翼は親指の頭を下に向けた。
「ええ、ここです。もっとも、明治時代の話ですから、建物なんかは違うでしょうけれど、ここであることは間違いありません。ハーンはこの宿のことを『地獄だ』と言ったのだそうですよ」
「地獄?……」
翼は負けん気の顔で浅見を睨《にら》んだ。
第二章
地獄の宿にて
浅見光彦が東京を発ったのは十月なかばのことである。『旅と歴史』の藤田編集長から、妙な仕事が舞い込んで、あまり気乗りのしないまま引き受けてしまった。この優柔不断は誰に似たのだろう――と、浅見はつくづく、きっぱりと断りの言えない自分に愛想が尽きる。
「同居人」である母親の雪江は猛女だし、兄の陽一郎にいたっては警察庁の幹部ときて、優柔不断とはほど遠い。亡父も剛直の人で、さらにその先を溯《さかのぼ》っても、似たり寄ったりの優秀な人材を輩出した家系らしい。次男坊だけが突然変異なのか、それとも、よほど悪い星の下に生まれたにちがいない。
「法外なギャラの仕事があるんだけど」と藤田は電話で切り出したのだ。
「法外なギャラなんて、いまさら驚きませんよ。いつだって信じられないくらいの原稿料じゃないですか」
「えっ? ああ、いや、ああいうのは法内と言うべきだよ」
藤田は聞いたこともない新語で誤魔化して、「今回のは正真正銘、掛け値なしに法外な話だ」と強調した。
「何しろ浅見ちゃん、実働わずか一週間で、三十万を出すっていうんだから。おれが代わりたいくらいなもんだよ」
「ふーん、だったら代わったらいいじゃないですか」
「いや、そういうわけにはいかない。二つの理由で浅見ちゃんでなきゃだめなんだな、これが」
「何です、二つの理由って?」
「一つはおれには浅見ちゃんみたいなヒマがない。もう一つは、先方がぜひ浅見光彦さんにというご指名なんだよ」
「ご指名? 誰ですか、そんなご指名をする物好きは?」
「おいおい、かりにもスポンサーに対し奉《たてまつ》り、物好きはないだろう。しかも三十万だよ三十万。この不況下に、そんな気前のいいスポンサーはざらにはないぜ」
「ははあ……」と浅見は電話のこっちで頷《うなず》いた。
「分かりましたよ、公共的事業ですね、相手は。電気かガスか鉄道か道路か、それとも自衛隊ですか?」
「当たりっ、さすがだねえ」
「そんなの誰だって分かりますよ。この不景気に気前のいいスポンサーはないって、編集長も言ったばかりじゃないですか」
「うーん、まあそのとおりだが、依頼主はドウネンだよ」
「はあ、同い年ですか」
「ばか言っちゃいけない。動燃――つまり動力炉・核燃料開発事業団だ」
「は? 何ですって?」
一瞬、浅見の耳を、その長ったらしいお経のような名称が素通りした。
「動力炉・核燃料開発事業団。要するに原子力発電所に核燃料を供給するところじゃないのかい」
偉そうなことを言う割に、藤田もあまり詳しいことは知らないらしい。それにしても、浅見は「原発ですか……」と驚いた。
「しかし、原発……いや、動燃がまた、何だって僕をご指名なんかしたのです?」
「その言い方は光栄なのかい、それとも迷惑なのかい?」
「いや、どっちとも言えませんよ。それ以前に気味が悪いなあ。どうして僕のことを知っているんだろう?」
「何を言っているんだ。浅見ちゃんが自分で蒔《ま》いた種じゃないか」
「蒔いたって、何の種を?」
「例の軽井沢のセンセが書いた『若狭《わかさ》殺人事件(光文社刊)』だっけ、あれで、美浜《みはま》の原発を見学に行って、かなり好意的なリポートを書いたのはきみじゃなかったのか?」
「ああ、あれ……」
浅見は思い出した。思い出すと同時に唖然《あぜん》とした。
「あれはあくまでも小説でしょう。巻末にこの作品はフィクションですって、ちゃんと断り書きがしてあるはずですよ」
「しかし、読者のほうはそうは思わないさ。三文小説のほうはどうでも、浅見ちゃんの取材は信憑性《しんぴようせい》があるものとして捉《とら》えている。ことに原発の電力会社や動燃としては歓迎すべき意見だったろうね」
「困るなあ、迷惑ですね、そんなの」
「困ろうが迷惑だろうが、自分で蒔いた種は責任をもって刈り取らなければならない」
「しかし、僕は動燃だとか原発だとか、物理学のことに関してはまったくの無知ですよ。引き受けたって、何の役にもたちません」
「そのほうがいいと先方は言っている。いや、じつは話を持ってきたのは、おれの友人で動燃の広報室に勤めているやつでさ、飲み会の時にその『若狭――』の話が出て、やけに浅見ルポライターのことを褒めやがんのさ。それで、おれがきみのことを知ってるって言ったら、ぜひ動燃のPR雑誌に執筆してくれるよう、頼んで欲しいって言うから、浅見っていう男は、歴史や旅行には詳しいが、そんな高尚な話は書けないよと教えてやった」
「ひどいことを言いますね」
「そしたら、そのほうがいいって言うんだ。むしろ、ごく一般的な素人の感覚で取材してもらって、誰にも分かる話を書いてもらいたいらしい」
「いや、だめですよ。だいたい原発問題は賛否両論入り乱れていますからね、一方的な提灯《ちようちん》持ちの記事なんて、僕のプライドが許しませんよ」
「またまた、古井戸みたいな顔をして、かっこいいこと言わないの。以前は政治家のオベンチャラ記事だって、ほいほい書いていたじゃないの」
「あんなものは誰も信用して読みませんよ。しかし、原発の話となると、シリアスですからねえ。公平な立場に立って書かなければならない」
「だったら公平な立場に立てばいいじゃないの。先方もそう言っているよ。恣意《しい》的な書き方でなく、賛否それぞれの側から、ごく初歩的な疑問をぶつけあうような内容を期待しているそうだ」
「しかしねえ……」
「しかしもかかしもないの、とにかく頼むよ。明日の朝十一時に、赤坂|溜池《ためいけ》のDAMという会社を訪ねて行くように。そこが動燃のPRを請負っている会社で、河野《こうの》とかいう人が会う手筈《てはず》になっているそうだ。それじゃ、よろしく」
一方的に言うだけ言うと、ガチャリと電話を切った。
藤田の押しつけがましいのは、いまに始まったことではないから、浅見は諦《あきら》めて、翌日、指示されたとおりDAMの河野を訪ねた。アメリカ大使館に近い、新しいビルの六階にある小ぢんまりとしたオフィスだが、動燃をはじめ公共事業関係のPRを中心に、この不況下、かなり忙しそうな雰囲気だった。
河野とは応接室で会った。六十歳ぐらいの、この年代にしては大柄な、ゴルフ焼けかテニス焼けか、色の浅黒い紳士だ。名刺に「取締役企画部長 河野|知之《ともゆき》」とあった。
「私は存じ上げなかったが、浅見さんは優秀なルポライターなのだそうですなあ」
河野は浅見の名刺を仕舞いながら言った。
「とんでもない。僕などは本当に不勉強でして、原発のことも素人同然、まったく知らないと言っていいほどの代物です。むしろご辞退したほうがいいのではないかと思っているのですが」
「ご謙遜《けんそん》でしょう。動燃のほうからご指名がかかったのは、あなたが初めてですよ。素人にもじつに分かりやすく、要点を的確に衝《つ》いておられるとのことでした。ご辞退などとおっしゃらずに、ひとつよろしくお願いしますよ。ここに、取材の参考になりそうな資料を詰めておきましたので、できるだけ早く、現地へ出かけてみてください」
同じ原稿依頼でも『旅と歴史』の藤田とは対照的に、河野はどこまでも紳士的で、丁寧に依頼のむきを説明すると、大型の角封筒に入った資料を渡して頭を下げた。
帰宅して資料を広げると、「動力炉・核燃料開発事業団」の名前入りのパンフレット類が数葉入っていた。その中に取材先である、「動燃・人形峠事業所」の見学用パンフレットがあった。
「人形峠か……」
思わず口に出して読んだのを、雪江未亡人が聞きつけて「あら、懐かしい名前だこと」と近寄って来た。
「お母さん、知ってるんですか、人形峠を?」
「知っているどころか、忘れられない懐かしい名前ですよ」
「行ったことがあるんですか?」
「人形峠のそばを通ったことがあるのよ。お茶の水へ行っている頃、八雲の足跡を訪ねて岡山から倉吉へ抜けて、出雲の松江まで旅行をして……」
雪江は五十年以上も昔の女子大(当時は東京女子高等師範学校)時代の一コマを思い出して、夢見るような目になった。
「でもね、人形峠のことは、もっとずっと後になってからの出来事が大切なの。人形峠といえば、日本で初めてといっていい、大きなウラン鉱が発見されたところですよ」
「そうですそうです。驚いたなあ、詳しいんですね、僕よりよく知っている」
「当たり前ですよ、あなたのお父様がご苦労されたのですもの」
「えっ、おやじさんがウランを掘っていたのですか?」
「ばかおっしゃい」
雪江は嘆かわしそうに首を振った。
「そうではなくて、お父様の大学のお友だちが通産省工業技術院にいらして、ウランの探鉱に従事してらしたのね。ところが、まだ海のものとも山のものともつかない仕事だったでしょう。それで、探鉱や研究の予算がまったく下りないといって、しげしげとうちに押しかけては、当時、大蔵省の課長だったお父様に談判してましたよ。日本のエネルギーの将来をどうするのかっておっしゃって、それはえらい剣幕でしたよ。もともと、日本が太平洋戦争を始めたのも、エネルギー問題が原因だったのですものね」
「えっ、そうなのですか?」
「そうですとも。列国が日本への石油の供給を断ったことが直接の原因ですよ。このままでは軍艦や戦車を動かす燃料も切れるし、国家経済が干上がってしまうという焦りから、開戦に踏み切ったのです」
(ほんとかな?――)と浅見は思ったが、もとより反論だの疑問だのを挿《はさ》める相手ではない。
「お父様はよし分かったっておっしゃって、ずいぶん無理をして、通産省の復活折衝に便宜を図ったのね。それから間もなく、そのお友だちが訪ねて来て、人形峠でウランの露頭を発見したって、涙を流して報告なさっていましたよ。岡山県と鳥取県の県境の山の中を何カ月もジープで走り回って、苦労の末の発見だったそうよ。あれはそう、忘れもしない昭和三十年の秋でした」
雪江はまた遠くを見つめる目になった。昭和三十年といえば、遠いどころか、浅見が誕生するはるか以前のことだ。
「そうすると、それが日本の原子力の曙《あけぼの》ということになりますね」
浅見は母親の追憶を彩るように、ちょっぴり文学的な表現を言った。
「そう、そうですよ光彦、あなたも時にはいいことを言うのね。いまの日本の電力の二十パーセントは原子力発電だそうだけれど、その第一歩はその人たちの血の滲《にじ》むようなご苦労の結果だったことを忘れてはいけませんわね。原発反対を叫ぶ人たちがいるけれど、口で簡単に言うほど単純なことではないのですよ。かけがえのない石油資源を燃料として使う量を、できるだけ少なくてすむようにするために、原発がどれほど必要か、あの人たちは分かってないのですよ」
(なるほど――)と浅見はわが母親ながら感心させられた。さすが高級官僚の妻を長年やっていただけのことはある。世の中の動きをちゃんと知っているし、体制側の「ここが言いたい」というツボを心得ているかのごとき論調である。
「そうなの、原発のお仕事を依頼されたの。それは結構だこと。せいぜいいいお仕事をさせていただきなさい。あ、そうそう、鳥取県へ行くのなら、中山町まで足を伸ばしなさい」
「中山町……そこに何かあるのですか?」
「おや、知らないの? 八雲の名作『盆おどり』の舞台じゃありませんか。お仕事ばかりでなく、文化的なことも少しはお勉強なさい」
賢い母親に諭《さと》され励まされ、従順であるべき居候次男坊としては「はい」と頷《うなず》いたが、もともと、すんなり「体制側」の言いなりになることのない天《あま》の邪鬼《じやく》の浅見である。引き受けるか断るか、その後もグズグズと思案が定まらなかった。
その浅見を、とにもかくにも人形峠へ向かわせたのは、動燃でも原発でも、いわんや金三十万円也のギャラでもなく、母親がチラリと洩《も》らした「八雲の足跡を訪ねて」という言葉である。浅見は小泉八雲のことは、子供の頃に父親の蔵書にあった「小泉八雲全集」の『怪談』などを通じて親しんだ程度で、これまで正面に据えて勉強したこともないけれど、その記憶は脳細胞のどこかにひっそりと隠れ棲《す》んでいる。八雲は外国人でありながら、日本の原風景や日本人の精神構造のあえかな部分について、日本人以上に精通し理解していたような気がする。日本人が忘れてしまった日本人の「心」を、八雲の著書から学ぶところが、たしかにある――と思った。
あらためて小泉八雲にまつわる、いろいろな資料や書物を引っ張り出して調べているうちに、八雲が倉吉付近を旅行中、「地獄」に出会った話を発見して、いっそう興味をそそられた。
(八雲に会いに行ってみるか――)
逡巡《しゆんじゆん》する気持ちに弁解じみたことを言い聞かせて、浅見は旅行計画を練り始めた。
それにしても、人形峠までの道のりは遠かった。
その日、浅見は午前八時過ぎの新幹線で岡山まで行き、駅前のレンタカー屋でソアラを借りた。もっと小さな車でもよさそうなものだが、いつもと同じでないと、なんとなく不安なのだ。レンタカー屋にはソアラが少ないのか、それとも需要が多いのか、車の用意ができてなくて、そこで少し時間を食った。
岡山から国道五三号で津山を抜け、一七九号で人形峠へ向かった。机上の計算では午後二時か、遅くとも三時ごろには着くはずだったのに、人形峠に着いたのが四時十分前、展示館の受付で「四時まででおしまいですけど」と言われた。
それでもいいからと入館した。展示館は展示室、映写説明室など、けっこう見るものが多いが、要所要所以外は駆け足で廻り、その代わり資料だけはいっぱいもらって、閉館ぎりぎりまでいて外に出た。
他の見学者たちの流れに取り残されて、駐車場で独りきりになって、ようやくほうっとひと息ついた。見渡せば、ほとんど山並みの頂上に近いところである。展示館の左|脇《わき》に正門と警備事務所があって、そこからいくぶん下りぎみに諸施設への道が始まっているらしい。個々の建物や施設は見えないが、パンフレットによると、かなり広大な敷地に、ウラン濃縮パイロットプラントだとか、精錬転換施設とか、意味もよく分からない名称の施設をはじめ、宿舎など何十棟もの建物が展開している。
これを全部見学して勉強しなきゃならないのかな――と、第一歩から辟易《へきえき》していると、斜め前方から「浅見先輩じゃありませんか」と声がかかった。
「あ、やっぱりそうだ、浅見さんだ、僕ですよ萩原です」
目を上げると、大学で二年後輩の萩原秀康が車の窓から顔を突き出している。
「よお、きみか、妙なところで会うな」
「先輩こそこんなところで……」
萩原は車から出ながら、四辺を見回した。
「新婚旅行ですか? それとも不倫旅行?……」
「ばか言うなよ、新婚も不倫も関係ないよ。ご覧のとおり独りっきりだ」
「でしょう、結婚したっていう話、聞きませんからね。じゃあ、まだ居候……」
「うるさいな。僕のことはどうでもいいが、きみは何をしているんだ」
「ブンヤですよ、ブンヤの秀康……」
「ほう、じゃあ第一志望どおりか」
萩原は大学に入った時から、新聞記者を目指していた。六歌仙の一人で百人一首にも入っている文屋康秀《ふんやのやすひで》をもじって「ブンヤの秀康」を自称しては悦に入っていた。
「そうか、新聞記者か、羨《うらや》ましいな」
「いや、正直言うと、そんな立派なものじゃないんですよ。西日本海新聞なんていうちっぽけな地方紙の支局勤めですからね。先輩のほうがずっとかっこいいじゃないですか。フリーのルポライターで、ときどき私立探偵みたいなことをやってるんでしょう。読ませてもらってますよ、浅見探偵の事件簿……あ、それじゃ、先輩もあれを取材しに来たんですか。さすが早耳だなあ。地元しか知らないはずだと思っていましたけどねえ」
「何だい、その『あれ』っていうのは?」
「またまた、とぼけちゃって。こんなところに一人で現れるんだから、知らないとは言わせませんよ。あれでしょう、黄色い土問題で来たんでしょう?」
「…………」
浅見は咄嗟《とつさ》に、これは迂闊《うかつ》な返事はできないぞ――と思った。萩原の口ぶりから察すると、何か重大な秘密要因を伴う「問題」が存在するらしい。
「ほうら、やっぱり図星でしょうが」
浅見が黙ってしまったのを見て、萩原は愉快そうに言った。
「だったらそう言ってくださいよ。水臭いんだからなあ。動燃については、当方はいささかうるさいですから、大抵の質問には答えられますよ。黄色い土問題のこれまでの経緯《いきさつ》だって、知ってることは何でも話します。先輩と僕の仲じゃないですか」
どうやら「黄色い土」というのは、動燃に関わりがありそうだ。浅見は好奇心が疼《うず》くのを抑えながら、のんびりした口調で言った。
「そうか、ありがとう。いや、確かに動燃の取材に来たことは事実なのだが、それより、僕の関心はむしろ八雲にあるのだよ」
「八雲って、小泉八雲ですか」
「ああ、その八雲が『地獄』と評した宿が倉吉の近くの東郷湖畔にあるらしい。長生館というのだけど、きみ倉吉にいるんだったら、知っているんじゃないか?」
「長生館なら知ってるどころか、ちょっとした顔ですが、へえーっ、あんなところに八雲が泊まったんですか」
「いや、泊まったわけではないが……まあとにかく、そこを教えてくれないか。どうせなら、今夜はその宿に泊まりたいしね」
「いいですよ、ちょうど帰るところですからね。長生館まで先導します。飛ばしますからね、ついてきてくださいよ」
萩原は昔のままの軽薄さ丸出しで車に戻ると、タイヤを滑らせて走りだし、勇躍、峠を下ったのである。
思いがけない出会いと成り行きで、その日の晩餐《ばんさん》は、知り合ったばかりの四人の男女がテーブルを囲むことになった。
自己紹介をしあって分かったのだが、驚いたことに、脇本優美は浅見が住む東京・北区西ケ原に住んでいるのだった。浅見家は西ケ原三丁目、優美のアパートは一丁目だが、同じ台地の街でほんとうに目と鼻の先のような距離だ。浅見の母親がご贔屓《ひいき》の、お団子の平塚亭も桜で有名な飛鳥山《あすかやま》公園も、優美はよく知っていて、ひとしきり東京組の二人のあいだでは、「地元」の話に花が咲いた。
会食の初めには、宿の主人である草尾直巳も顔を出して、仲居が鍋《なべ》の支度をするのを手伝ったりしながら、東郷湖のことや東郷温泉と長生館の成り立ちの話をした。
東郷湖の湖底から温泉が自噴していることは、かなり昔から知られていたらしい。単純食塩泉であったために、魚の棲息《せいそく》にも適していて、冬季など、周辺にはかなりの魚が集まってきた。現在でも、エビ、ワカサギ、フナ、シラウオなどを獲る四つ手網漁が行われ、東郷湖の風物詩になっている。
その温泉を実用化したのが、草尾家四代前の主で、竹筒の中を抜いた筧《かけひ》を繋《つな》いで、湖底から湖畔まで温泉を引き、簡単な湯治宿を建てた。それが大いに当たり、大袈裟《おおげさ》でなく千客万来の繁盛で、まもなく楼閣風の料理旅館を建て、昼となく夜となく、大小宴会で賑《にぎ》わった。明治初期ごろのことである。明治から大正にかけての長生館の記録を繙《ひもと》くと、政財界の著名人たちが、かなりの数、来訪している。「山田信道農商務大臣、芳川顕正内務大臣、西郷従道海軍大将、伊東祐亨海軍大将、李王韓国皇太子殿下、後藤新平鉄道総裁、山階宮殿下、大隈重信侯爵、幸田露伴……」といった名前がズラッと並ぶ。
その後、長いこと東郷温泉は長生館の独占だったのだが、ボーリング技術が導入され、湖岸の松崎や羽合町《はわいちよう》でも温泉が湧《わ》くようになった。とりわけ羽合温泉は「ハワイ」に通じるという語呂《ごろ》合わせのような売り方をして、それが成功した。最近では羽合温泉のほうは何軒も大規模なホテルを建て、団体客を中心に派手な宣伝を繰り広げている。
長生館は時流に乗り遅れた。というより、初代を除く歴代当主が、いずれも頑《かたくな》な守旧主義者ぞろいで、新規なことをやりたがらなかったのである。
「叔父さんはご養子さんだしねえ」と、大島翼は遠慮のない口をきいた。
「ははは、そうだなあ」
草尾は屈託がなく、撫《な》で肩の大きな体躯《たいく》を揺すって笑った。
「けど、翼はそう言うがな、わしにもそれなりに経営哲学いうのはあるのだ。建物を大きく立派にするのも一つの考え方やろけど、そうすれば銀行から金を借りねばならん。高い利息も払わにゃならん。いきおいサービスも低下するやろ。それだったら、建物は小さいまんまでも、その分を料理にかけて、お客さんに旨《うま》いもんをたっぷり食べていただいたほうがいいのではないかいうことや」
「ふーん、そうだったの、さすがねえ。やっぱり素人考えなんか、だめだわ」
「ははは、ちょっとかっこよすぎたかな。しかし、正直なところを言えば、わしもそろそろ歳だし、いまさら冒険しよう気ィにもならんということかもしれんなあ。まあ、真実子《まみこ》にいい婿でも来てもらって、新規|蒔《ま》き直しをしてもらうまで頑張るだけや」
いかにも人が好さそうに、ニコニコ笑っているところは、まったく捉《とら》えどころのない大物にさえ見える。
翼の解説によると、真実子というのは草尾の一人娘で、現在、倉吉東高校の三年だそうだ。
「ねえ、萩原さんなんかどう、真実ちゃんのお婿さんに」
翼がいきなり言って、茶目っ気たっぷりの目で、草尾と萩原の顔を交互に見た。
「じょ、冗談じゃない」
萩原は慌てた。
「真実子さんはまだ高校生だよ。僕といくつ違うと思っているんだよ」
「あ、そうですよね。やっぱり三つか四つぐらいの年齢差がいいわよね」
「えっ、いや、そういうわけでもないけどさ……」
翼とは十歳も違う萩原は複雑な表情である。
「浅見さんは奥さんはいらっしゃるのでしょう?」
翼の質問に出会って、浅見は苦笑した。
「いえ、僕もまだ独りです」
「だったらお姉さんとどうですか? 年恰好《としかつこう》もぴったりだと思いますけど」
「翼さん……」
脇本優美が顔を赤くした。
草尾は若い者たちのやり取りにヘラヘラ笑いながら、「それじゃ、ごゆっくり」と頭を下げ、部屋を出がけに萩原に「帰りに、ちょっと寄ってください」と言った。
料理は東郷湖の川魚と日本海の鮮魚が主体で、草尾が自慢しただけあって、料理旅館の伝統を感じさせる、なかなか凝ったものが多かった。
浅見はあまりいけるくちではなく、萩原も翼も車ということで、アルコールは控えめになった。優美は飲めそうなタイプに見えたが、さすがに遠慮している。ほかの三人も無理強いはしなかった。
「あ、そうだ、さっきのハーンの話、叔父さんに教えて上げればよかった」
翼が思い出して、言った。浅見が話した、小泉八雲が長生館を訪れて「地獄だ」と言ったという話のことである。
浅見は、八雲に関連する資料を漁《あさ》っていて、八雲の妻、小泉|節子《せつこ》の「思い出の記」の中に次の一文があるのを見つけた。
伯耆《ほうき》の国に旅しました時、東郷の池という温泉場で、まず一週間滞在の予定でそこの宿屋へ参りますと大勢の人が酒を飲んで騒いで遊んでいました。それを見ると、すぐ私の袂《たもと》を引いて「駄目です、地獄です、一秒さえもいけません」と申しまして宿の者共が「よくいらっしゃいました、さあこちらへ」と案内するのに「好みません」というのですぐそこを去りました。
さらに調べを進めると、「ラフカディオ・ハーン著作集 第十四巻」にあるチェンバレン教授宛《あ》ての手紙の一節にも関連の記述があった。それにはさらに露骨に、「わたくしは東郷池が嫌いです」と書いている。
鋸《のこぎり》の歯のような、ぎざぎざした姿を見せて森の生い茂る低い山々に取り囲まれた稲田ばかりの谷間、その真ん中に、長さ約一マイルと四分の一、幅半マイルほどの小湖、そしてその湖水の上に張り出して旅館が建っているところをご想像ください。ここはわたくしがこれまで日本で訪れた最も寒い場所です。旅館は火山性の噴泉から竹のパイプで熱い湯を引いていますが、風呂《ふろ》は、ここよりずっと質素な出雲の保養地――玉造温泉のそれに比較すべくもありません。冷たい風はわたくしには身を突き通すばかりにこたえ、病気になってしまいます。
悪意丸出しの表現だが、どうも、ハーンにとっては東郷湖と長生館はよほど肌に合わなかったとみえ、そのあげくが「地獄」と口走らせたにちがいない。
「なるほどねえ……」と、その話を浅見の口から最初に聞いた萩原はもちろん、萩原から受け売りの解説を聞いた翼も優美も、ひどく感心したことであった。
「ご養子の叔父さんはともかく、あの誇り高い草尾のおばばが、『地獄』だなんて言われたことを知ったら、どんな顔をするかしらねえ。そうだ、おばばに話して上げようかな」
「おばば」とは草尾家の口やかましい姑《しゆうとめ》のことだそうだ。万事おっとり型の婿どのが歯がゆくてならない。本人ばかりか婿どのの親戚《しんせき》に対しても、何かというと「先代はよう働いたけど、町場のおひとは悠長でよろしいな」と皮肉を言い、翼の顔を見ると、「遊んでおらんと、はよ帰り」とくる。翼は叔父に話すよりも、おばばの高慢な鼻を折るほうの効果に期待したような口ぶりだ。
「およしなさいよ、悪趣味ですよ」
優美が窘《たしな》めた。
「そうですね、よしたほうがいい」
浅見も穏やかに諭した。
翼は「はい、言いません」と、首を竦《すく》めて笑った。
「それにしても、八雲がこの地に来ていたことだとか、長生館を地獄って言ったなんてこと、面白い話だなあ」
萩原はあらためて感にたえぬ――とばかりに首を振り振り、言った。
「浅見先輩は、昔っからそういう、妙なことを見つけ出す天才でしたねえ。だから私立探偵なんかやったりしちゃうんだ」
「えっ?」と、翼と優美が目を見張って、浅見を見つめた。
「浅見さんて、ルポライターじゃなかったんですか?」
翼が非難するような口調で訊《き》いた。
「いや、僕はれっきとした、しがないルポライターですよ。おい萩原、余計なことを言うなよ。誤解されるじゃないか」
「いいじゃないですか、事実なんだから」
萩原は口を尖《とが》らせて、翼と優美に「ほんとの話ですよ。浅見先輩の名探偵ぶりは知る人ぞ知るといったところで、素人の域を越えていますよ」
「いいかげんにしないか」
浅見はなかば諦《あきら》めながら、萩原を睨《にら》みつけた。
「そうなんですか、名探偵なんですか……」
翼が妙に深刻そうに言うのが気になった。浅見が「探偵」であることで、何かを思いついたような気配を感じさせる。優美が心配そうに、翼の横顔にチラッチラッと視線を送るのも、何やら意味ありげに映った。
しかし、その場ではそれ以上、話は進展しなかった。どうやら、萩原が同席していては具合の悪いことらしい。
もっとも、浅見は浅見で、先刻、萩原が話してくれた「黄色い土」の話題のほうに興味を惹《ひ》かれている。こっちの話も、二人の女性にはそぐわない内容であった。
食事のあいだ、問わず語りのように、それぞれの身の上話めいたことが語られた。偶然とはいえ、四人四様に「独り身」であるのも、同病|相憐《あいあわれ》むような気持ちの通じあうところがあったにちがいない。かなり深刻な部分についてまでも、ポロリと口からこぼれ出たりもした。とりわけ、大島翼を襲った不幸な出来事は、聞き流すことのできない衝撃と、この先、何らかの形で関わりが残りそうな予感を、浅見に与えた。
翼のケースは特別なものとして、脇本優美の身の上も、幸福とはほど遠い。さり気なく話した「離婚経験」も、実際には苦渋に満ちたものであっただろう。浅見にいたっては、ルポライターだの名探偵だのと「虚名」だけはかっこいいが、実体といえば居候の汚名に甘んじている落ちこぼれでしかない。
唯一、威勢がいいのは萩原で、彼は「ちっぽけな」と謙遜《けんそん》する倉吉の町で、それなりにやる気十分だ。以前は中央紙の岡山支局にいたのだが、上司とぶつかって尻《しり》を捲《ま》くり、西日本海新聞にトラバーユした。
「取材先でよくかつての上司と顔が合うんですけどね、あっちのほうが避けて通ってますよ。だいたい大新聞の連中なんて、地方紙をばかにしきって、日頃大きなことを言っているくせに、中央のほうばかり向いて仕事をしてるもんで、こと細かな取材となると、地元の人間には敵《かな》わない。たとえば、例の黄色い土の話にしたって……」
言いかけて、慌てて言葉を飲み込んだ。
「何ですか、黄色い土の話って?」
翼がすかさず訊《き》いた。
萩原は「いや、三朝《みささ》のほうで発掘調査をしてたら、黄色い土が出たっていう話」とごまかして、「それより脇本さんは、いつ帰るのですか?」と、強引に話題を逸《そ》らした。
「明日、帰るつもりでしたけど」
脇本優美は翼の顔を窺《うかが》った。翼次第――という事情があるらしい。
「あら、そんなに急ぐんですか? もっといてくださいよ。私も大学、休むから。浅見さんもまだいらっしゃるのでしょう?」
「ええ、僕はまだ三、四日はいる予定です」
「だったらお姉さんも、ねえ萩原さん、あちこち案内してくれるでしょう?」
「いや、僕は仕事が……それより浅見先輩のソアラに乗せてもらったほうがいいんじゃないかな」
「そういうわけには……」
浅見は手を挙げて制した。
「いいじゃないですか。あっちのほうは僕が資料を纏《まと》めておきますよ。先輩はのんびり八雲の足跡を辿《たど》って歩いてください」
萩原が言い、翼までが身を乗り出した。
「あ、それがいいですねえ、お願いしますよ、付き合ってくださいよ。同じ東京の西ケ原の人じゃないですか」
「まあ、西ケ原なんて知らないくせに」
優美は吹き出し、浅見も笑ったが、それが結論のようなことになってしまった。萩原がデータを纏めてくれるというのなら、八雲の足跡を取材したい浅見としても願ってもない展開といっていい。
「それじゃ、明日」とおひらきになって、浅見は萩原を伴って自室に戻ると、ドアが閉まるのももどかしく、訊《き》いた。
「さっきの黄色い土の件だけど、かなり深刻な問題になっているのかい?」
「いや、それがですね、曖昧模糊《あいまいもこ》として、よく分からない。すべてが霧の中っていう感じなんです」
地元に精通しているはずの萩原が、困惑ぎみに答えた。
「黄色い土」というのは、動燃の人形峠事業所が、人形峠周辺一帯の数カ所から掘り出したウラン鉱の残土のことである。長年にわたり掘り出してきたウラン鉱の残土が方々に堆積《たいせき》していて、そこから、かなりの濃度のラドンが発生しているというのである。
「ラドン」というと、ゴジラ映画の一方の主役クラスの怪獣を思い浮かべるが、本物のラドンは「ラジウムが崩壊してできる放射性ガス」と定義されている。長期間ラドンを吸うと肺ガンにかかるという説があるが、因果関係ははっきりしていない。国による安全基準値も絶対的なものではないらしい。
とはいうものの、そんなものが身近にあるのは、住民にとっては薄気味が悪い。ことに、ソ連(ロシア)のチェルノブイリ原発の事故以来、一般市民は放射能汚染に対して過敏になっている。
「いずれにしても、残土の処理と責任問題については、ものがものだけに、かなり紛糾《ふんきゆう》しそうですね」
萩原は懸念と、それ以上の期待感をこめた口ぶりで言った。
「だけど、浅見先輩は勘がいいなあ。何も知らずに取材に来たのでしょう? それでちゃんと重大問題に遭遇しちゃうんだからねえ。ひょっとすると、予知能力があるんじゃないですか?」
「分かるかね」
浅見が真顔で言うと、萩原はジョークとは思わなかったらしい。「いや、大学のときから、何となくそんな気がしていたのです」と神妙そうに頷《うなず》いていた。
萩原は間もなく引き上げたが、ものの三十分後には電話してきた。
「帰りに草尾さんのところに寄ったのですがね、またまた厄介な問題が持ち上がっているみたいですよ。例の黄色い土がですね、東郷湖に流れ込む川の上流部の谷間にも捨ててあったというのです。このぶんだと、いよいよ忙しくなりそうですねえ」
何だか喜んでいるようにさえ聞こえる口調であった。
部屋係のおばさんに「露天風呂《ろてんぶろ》にお入りなさい」と勧められていたので、浅見は庭に出てみた。春先のようにぼんやり霞《かすみ》がかった、温かい夜であった。湖面にチラチラと対岸の明かりが揺れるのも、まぼろしを見るような風情がある。
母屋《おもや》から小灌木《しようかんぼく》のあいだの敷石伝いに三十メートルばかり行ったところに、小屋のように素朴な露天風呂の建物がある。
長生館自慢の露天風呂は、ほんとうに昔ながらの岩風呂を男湯と女湯に仕切った、かなり広々としたものだ。あいだには簡単な板塀があるだけで、もちろん天井は天に抜けている。昼間なら、岩や植え込みの隙間《すきま》から、湖の風景が見えるはずである。
ほかに客はなく、男湯も女湯もひっそりと静まり返って、少しぬるめの湯加減が眠気を誘う。浅見は安楽|椅子《いす》のような滑らかな岩に凭《もた》れ、タオルを枕《まくら》にして夢とうつつの境を行き来した。
ふいに人の声がして、「……浅見さん」と聞いたので、いっぺんに頭が冴《さ》え渡った。
隣の女湯に脇本優美と大島翼が入ったらしい。べつに名前を呼ばれたわけでなく、何かの噂話《うわさばなし》の中に名前が出たのだろう。会話は中断して、「あら、ほんとに誰も入っていないわねえ」と優美が安心したように言って、すぐに衣擦《きぬず》れのような音が聞こえた。
浅見は穏やかではいられなくなった。若い女性二人が、板塀の向こう側で真っ裸になっているのだ。当たり前のことだが、板塀がなければ、ほんの三、四メートルの距離である。その姿が目に浮かぶようだ。
ひとしきり、ジャブジャブと湯音がして、「ああいい気持ち」「でしょう」などというやり取りがあってから、しばらく静かになって「あの人、信用できるかしら」と、突然、優美の声が言った。さっきの話のつづきらしいから、「あの人」が自分のことであると、浅見は緊張した。
「信用できると思うけど」と翼は言ったが、あまり自信のある口調ではない。
「萩原さんのお知り合いだし、見た感じはハンサムだし、悪い人には見えないわ」
翼ぐらいの年頃だと、とりあえず顔かたちに誤魔化されるということか。それにしてもハンサムと言われて、浅見は悪い気はしなかった。
「ただねえ、ルポライターなんて、わりといい加減な人が多いんじゃないかなあ。第一、三十過ぎにもなって、いまだに独身で、独立もできないでいるっていうんだもの。一人前の男として信用できると思えないけど」
(それは言えてる――)
浅見は思わず顔を洗いたい衝動に駆られて、慌てて息をひそめた。
「でも、萩原さんの話だと、けっこう名探偵だっていうのでしょう。ほかに相談できる人もいないし、思いきって話してみたら、何かいい助言を与えてくれるかもしれませんよ」
「うーん、そうかなあ……でも、とにかくしばらく様子を見たほうがいいと思うけど。どうせ明日一日、お付き合いしてくれるみたいだし、たっぷり観察して、その結果で決めたらどうかしら?」
「そうですね、そうします」
結論が出たものの、まだ浅見の側には、彼女たちが何の相談をしようとしているのかが分からない。
それよりなにより、身動きひとつできないのには参った。さいわい、浅見のいるところは、岩風呂《いわぶろ》の片隅で底が浅く、生ぬるい程度の湯加減だから、まだしばらくはのぼせる心配はなさそうだが、いつまでも入っているわけにはいかない。かといって物音を立てるのは具合が悪いし、いっそ、このまま湯に溶けて消えてしまいたい心境だった。
「だけど、ほんとに殺されたのかしら?」
かなり長い沈黙のあと、ふいに優美が恐ろしいことを言ったので、浅見はまた驚かされた。
「私はそう思っています」
翼は妙にきっぱりと、意地を張るような言い方をした。誰が何と言おうと――というニュアンスが感じ取れる。
「はいはい……」と、優美は笑いを含んだ声で言い、威勢のいい湯音を立てて風呂を出てゆく気配だ。「お部屋のバスでシャワーを浴びるわ」「私もそうしようっと」と、姉妹らしい会話を交わしながら、間もなく露天風呂の着替え所を出て、敷石を踏む足音が母屋《おもや》の方角へ遠ざかった。
浅見は「ふーっ」とため息をついて、ようやく立ち上がった。
翌朝は曇り空で、いまにも降りだしそうな気配だったが、翼は早くから浅見の部屋に電話してきて、九時には出発しましょうと気の早いことを言っている。
「昨夜、お電話したのですけど、お留守でしたね。どこかへお出かけでした?」
「ああ、まあ……」
まさか露天風呂にいたとも言えない。
九時を三十分だけ繰り下げてもらって、玄関前に出ると、翼はもうとっくに来ていて、優美と二人、ソアラの脇《わき》に立って待機していた。「いい車ねえ」と、翼は自分のカローラと見比べて言った。
助手席に乗った翼の案内で、東郷湖の東側を迂回《うかい》するコースからスタートした。池と言ってもよさそうな小さな湖だが、湖岸にはそれなりにいろいろな史跡や名所があるものである。
翼が「ここだけは、私のお勧め」と言って、小高い岡の上の社《やしろ》に登った。倭文神社という、かつての伯耆《ほうき》一の宮だそうだ。倭文はシトリと読む。
翼の解説によると、倭文は古代(奈良時代)の織物の名で「シズ」または「シズ織」と称《よ》んだ。シズオリが転じてシトリになったという。神社の創建当時、この地方の主たる産業が倭文《しず》織だったことから、その名がつけられたということだ。
中腹の車止めから先の長い参道を行く途中、優美が翼に「ここも階段の道ね」と言っているのが聞こえた。ゆるやかな坂道だが、ところどころに思い出したように石段がある。しかし、翼が浅見のほうにチラッと視線をくれて、「ええ」と小さく頷《うなず》いた様子には、何やら特別な意味がありそうで、浅見は気になった。
祭神は織物の祖神である建葉槌命《たてはつちのみこと》と、大国主命《おおくにぬしのみこと》の娘の下照姫命《したてるひめのみこと》などで、下照姫命は安産の守護神として有名なのだそうだ。
参道のなかばに安産岩《あんざんいわ》というのがあった。浅見は軽薄に「安山岩《あんざんがん》ていうのが、標本にあったな」と笑ったが、翼は不満そうに、「笑うと罰が当たります」と言った。
「私がお腹《なか》にいるとき、母は草尾のおばあさんに連れられて、この岩にお参りに来たのだそうですよ」
昨日は、長生館の姑《しゆうとめ》のことを「おばば」と言っていたのが、「おばあさん」に昇格しているのはおかしいけれど、浅見も優美も「そうなの」と神妙に頷いた。ことに、優美にとっては母親の記憶がないだけに、翼の話を聞いて、複雑な想《おも》いが去来するのだろう。さりげない笑顔の中に、かすかな翳《かげ》りが射《さ》すのを、浅見は一瞬、見て取った。
そこから梨畑《なしばたけ》の脇《わき》を抜けて馬の背のように低く窪《くぼ》んだ尾根を通り、羽衣石山《うえしやま》へ登った。ここには貞治《じようじ》元年(一三六二)からおよそ二百五十年にわたって城が築かれ、戦国期を中心にいくたびかの合戦が行われた。その城を模したミニチュアのような小城が、展望台代わりに建っている。
「羽衣石の名の由来は、天女がこの山に下りて、羽衣を岩に脱ぎかけたところからきているのです」
展望台に上がって、翼がガイドのように解説した。
「天女が水浴びをしているとき、若い農夫が羽衣を盗んで、天に戻れなくなった天女を妻にめとってしまいます」
「ずいぶんひどいやつだなあ」
浅見が言うと、翼は「お客さん、黙って聞いていてください」とおどけた。
「それから天女と農夫のあいだには二人の女の子が生まれるのですが、その姉娘のほうがあるとき、母親に羽衣の隠し場所を教えてしまうのですね。天女は大喜びで羽衣を身にまとい、天に帰ってしまいます。二人の娘はたいそう悲しんで、姉は鐘を打ち鳴らし、妹は笛を吹いて、遠くの山の頂まで母親を追ったのですけど、ついに呼び戻すことができなかったというお話でした」
「その遠くの山が、あの打吹山《うつぶきやま》なのね」
優美が愛想よく合いの手を打って、翼を喜ばせた。
「そう、そうなんです。つまり羽衣石山と打吹山がワンセットで伝説を作っている、珍しい例ですよね」
文学部の学生らしい分析だが、そういう例は日本中の到るところにある。宮崎県の高千穂《たかちほ》の|高天ケ原《たかまがはら》にある天の岩戸を、手力男命《たぢからおのみこと》が放り投げ、長野県の戸隠山《とがくしやま》を造ったというのなどは、はるかに規模が壮大だ。しかし浅見は、翼の気持ちを慮《おもんぱか》って、その話はしないことにした。
「残された農夫はどうなったのかしら?」
優美が言うと、翼は「そういえば、農夫のことは何も言ってないわねえ。たぶん悲しくて死んじゃったんじゃないかしら」と陽気に言った。
「それとも、怒った天女に殺されたかもしれないな」
浅見としては、ごくさり気なく言ったつもりの言葉だったが、二人の女性にとって、きわめて効果的に作用したらしい。二人とも表情から笑いを消し、気まずそうに、あらぬ方角を眺めている。
「だってそうじゃないですか。農夫は羽衣を盗んで、天女が逃れるすべをなくした上で、強引に結婚を認めさせたんですからねえ。天女だって怒りますよ」
「帰りましょう」
翼は話の途中で浅見に背を向け、階段を下りて行った。
「何か僕、まずいこと言いましたかね?」
浅見は優美に囁《ささや》いた。
「さあ?……」と、優美は当惑して、翼の後ろ姿を目で追っている。
しかし、ソアラが走りだすころには、翼も思い直したのか、「三徳山《みとくさん》へ行ってみましょうか」と言った。三徳山というのは、山形の山寺のように、峻険《しゆんけん》な岩山の中腹をくり抜いて、そこに堂を造った修行場のようなものだそうだ。
「そこもいいけど、僕は中山町へ行ってみたいんですけどね」
「中山町ですか? あんなところ、何もありませんよ」
中山町の人間が聞いたら、怒られそうなことを言った。
「えーっ? 驚いたなあ」
浅見は少し大袈裟《おおげさ》に驚いてみせた。
「ラフカディオ・ハーンを勉強している人とは思えないお言葉ですねえ」
「えっ、どういう意味ですか?」
翼は不安そうに、体を前に倒し、浅見の顔を脇《わき》から覗《のぞ》き込んだ。
「盆おどりを知らないんですか?」
「盆踊り……ぐらい、倉吉にだってありますから知ってますけど、それが何か?」
「いや、八雲が書いた『盆おどり』のことですよ。その舞台になっているのが中山町なんだけど」
「そうなんですか……私、ハーンを勉強しているって言っても、今年からですから、あまり詳しいことないんです。著作だって、『怪談』とあと『心』とか、三冊ぐらいしか読んでいないし」
「ははは……」
「笑わなくてもいいと思います」
翼はムッとして、噛《か》みつくように言った。
「あ、失礼、そうじゃないのですよ。じつは僕もまったくの付け焼き刃で、ほんとうに読んだのは『怪談』ぐらいなものなんです。ただ、たまたま僕のおふくろが、学生のころ八雲に傾倒して、岡山県から島根県の松江まで旅したほどの女でしてね。僕が鳥取県に行くと言ったら、中山町に寄ってこいという命令なのです。それで、にわか勉強で読んだのが、その『盆おどり』なのです。しかし、読んで感動しましたね。いままで知らなかったけれど、小泉八雲というのはすごい人物ですよ。それに、日本人より日本の心を理解している人物だと思いました」
「どういう物語なんですか、その『盆おどり』って?」
優美が後ろから訊《き》いた。
「物語というより、エッセイですね。ハーンが旅の途中、中山の旅館に泊まり、その晩、村で盆踊りがあったのを見物した……言ってしまえば、ただそれだけのことなのですが、その描写がすごい。もちろん文章は翻訳されたものだが、描き出している情景の物の見方というか、精神と感性の問題としか言いようのない、研ぎ澄まされたような、それでいて優しくて、温かくて……いや、だめですね、僕にはとても的確に伝えられない。ことに、墓地に囲まれた広場で、村人たちが次々に踊りの輪に入ってゆくあたりの描写なんか、ほんとうに鬼気せまるものがありますよ。あ、これがあの『怪談』を書かせた、ハーンの根源なのか――と思いました。旅の道すがら出会ったエピソードが、ハーンに『怪談』を書かせたのですね」
浅見はかなり興奮ぎみに喋《しやべ》った。
翼が黙りこくって、一心に前方を注視しているのは、浅見の熱弁に圧倒されたというより、ハンドル操作に不安を感じたせいかもしれない。
「それ、私も読んでみます」
優美が翼に成り代わったように言った。
「あ、私も読みますよ」
弾《はじ》かれたように振り向いて、翼もそう言った。
だが、そういう魅力的な触れ込みで訪れた中山町の、八雲が「盆踊り」を見物したという場所は、町の人に訊いてもちょっと分からないような、寂れたところだった。
「もう何もないのだな」
浅見はがっかりした。
ここら辺りは町の中心からはずれているのだろうか、家が立て込んだ感じはないが、物置か鶏舎か、掘っ建て小屋のような建物がそこかしこにある。墓地の傍らに建つ寺は、ほとんど廃寺同然といっていい荒れようだ。
寺と掘っ建て小屋のあいだに、ほんのネコの額ほどの空き地がある。しかしそこが「盆踊り」の会場だとは思えないから、かつては寺の境内のような広場があって、祭りや盆踊りの会場になっていたのだろう。
それにしても、あまりにも索漠として、八雲の文学を偲《しの》ぶよすがもない。翼は露骨に、(なあーんだ――)という顔だ。
「しかし、ここに八雲が佇《たたず》んで、盆踊りを眺めていたのですねえ」
浅見は二人と、それに自分自身の気持ちを引き立てるように、少し無理をして、感動的な声で言った。そうして、あらためて眺めると、そう捨てたものではないかもしれない。低い家並みの上遥《はる》かには伯耆大山《ほうきだいせん》の秀麗な姿も望めるし、山裾《やますそ》までの長いゆるやかな斜面に広がる田園は、いかにものどかな環境だ。そこではきっと、豊かな稔《みの》りも、人々の営みも、八雲が訪れたそのころと変わらずつづいているにちがいない。
「ハーンがこの地に来たのは、いまからおよそ一世紀前のことです。それから半世紀後には、まだお茶の水の学生だったおふくろが、やはりこうして、ハーンの足跡を偲んでここに来て、さらに半世紀後、僕がここに立っている。中島みゆきの『時代』っていう歌があるでしょう。まわるまわる……っていう。そういう、時代を超えた何か不思議なものを感じますねえ」
「ほんと……」と、優美がしみじみした声音で頷《うなず》いた。
「芭蕉《ばしよう》の奥の細道だとか、先人の旅した場所や文学に描かれた場所を辿《たど》って歩くのは、時代の移り変わりや人間の儚《はかな》さに触れるためには、有意義ですね。そういえば、僕の学生時代にも、英文科の連中が、おふくろと似たような、『八雲の道を歩く』とか、そういう旅合宿みたいのをやってたなあ……大島さんの大学ではやらないのですか?」
「やっているのかもしれませんけど……」
言いながら、翼はふいに口を丸く開けて「あっ……」という、吸い込む声を上げた。
「どうしました?」
「いま、浅見さん、『八雲の道を歩く』って言いましたよね」
「ええ」
「それはつまり、八雲が通った道を歩くっていう意味と、八雲の文学に描かれた土地や風物を尋ね歩くという意味があるのじゃないかしら?」
「そうでしょうね。僕のおふくろの場合は、八雲が初めて山陰にやって来たとき、どの道を通ったのか、ルートを辿ろうとしたらしいけれど、それだって結局、八雲の文学を知ることに繋《つな》がるわけですからね」
浅見は翼の顔を見つめて、「それがどうかしたのですか?」と訊《き》いたが、翼は物《もの》の怪《け》にでも憑《つ》かれたような目を優美に向けて、言った。
「カイダンの道……ねえお姉さん、カイダンの道って、それじゃないかしら? カイダンは八雲の『怪談』のことだったのよ、きっとそうですよ」
「でも、怪談の道だとすると、何か意味が通じるの?」
「それは……それはまだ分からないけど」
「でしょう」
「でも、八雲の『怪談』を尋ねて歩く旅の途中で何かがあったとか……」
「何かって?」
「たとえば、殺人……」
優美も、言った当人も、ギクリとして顔を見合わせた。
「お話中ですが」と、浅見はわざと冗談めかして、二人の会話に割り込んだ。
「ずいぶんその『カイダンの道』にこだわっていますが、いったい何があるのか、そろそろ僕にも教えてくれてもいいのではありませんか?」
翼と優美はたがいに相手の考えを探りあっている様子だったが、結局、決断したのは翼のほうであった。
「じつは、父が亡くなったのは、単なる病死ではなく、誰かに殺されたのじゃないかって、私は思っているのです」
「ほうっ……」と、一応は驚いてみせたが、昨夜の露天風呂で、予備知識を仕込んでいるから、浅見は実際にはそれほど意外なことと受け止めていない。
「お医者さんも叔父たちも、心臓発作だって言ってますが、私は違うと思うのです」
「そう思う理由は?」
「それは、叔父が発見したときには、父は亡くなって、もう冷たくなっていたのだから、死因なんか分からなかったはずなんです」
「なるほど。それで、警察は何て言っているのですか?」
「だから、それが……」
翼は言い淀《よど》んだ。
「警察には知らせなかったのだそうです」
優美が助け船を出した。
「明らかに病死なのだから、病死として届けるよう、叔父さんたちがお医者さんと話し合って決めたという話です。亡くなっていた場所が、醤油《しようゆ》の醸造蔵の中でしたから、それが知れると、やっぱり具合が悪いと思われたのじゃないでしょうか」
「そうなんです。変な噂《うわさ》でも立ったら、うちみたいなちっぽけな醤油屋は、すぐに潰《つぶ》れてしまうでしょう。だから、叔父たちがそうした気持ちも分かるのです」
翼は第三者である浅見に対して、きちんと弁解しておきたいらしい。
「分かります。僕にもよく分かりますよ」
「でも、娘の私としては、もし父が殺されたものだとすると、このまま放っておくのは悔しいし、そこへもってきてあのテープが……奇妙なテープが父の机の引出しから見つかって、それにちょっと脅迫めいた言葉が録音されていたのです」
「それがカイダンの道――ですね」
「そうです、そうです」
聞き手の分かりのよさに、翼は勢い込んで、大まかな状況を説明した。
「行きましょう」
浅見は言うなり、大股《おおまた》に歩きだした。
「行くって、どこへですか?」
「決まっているじゃないですか、あなたのお宅へですよ。そのテープを聞きたいし、それに、現場も拝見したいですからね」
「現場」という生々しい言葉に、いったん足を停めたが、翼も優美も遅れじと小走りになってついてきた。
車の中で、あらためて詳しい事情を聞かせてもらったが、やはり医者を含む三人の関係者が、内々に事を処理したことには、かなり問題が残りそうだ。だからといって、いまさら警察に届け出るのも、ますます具合が悪いだろう。
「浅見さん、秘密を守ってくれますよね」
翼は心配そうに、二度、そのことを確かめた。
「守りますよ。しかし、もしこれがほんとうに殺人事件だったとしたら、犯人を捕まえるときにはどうしますかね? それでも警察には内緒というわけにはいきませんよ」
「…………」
「そのときは仕方がないでしょう。憎い犯人が分かって、それで捕まえないというわけにはいかないもの。ねえ、そうでしょう?」
優美が励ますように、翼の肩を叩《たた》いた。
「ええ、まあ、そうですね、仕方がないですよね」
翼は当惑ぎみに、力なく頷《うなず》いた。
「でも、警察に言わないで、犯人を見つけ出すことができるかしら?」
「ははは、その言い方だと、何だか犯人が見つからないほうがいいみたいですね」
「えっ? まさかそんな、そんなこと思っていませんよ。でも、ほんとに、私たちがいくらその気になったところで、無理なような気もしますけど」
「どうしてですか?」
「だって、警察が一生懸命やったって捕まらないケースがいくらでもあるくらいなのでしょう。まして素人の私たちなんかが……そうじゃありませんか?」
「それはたしかにその通りですが。しかし、必ずしもそうとばかりは言えませんよ。警察の力が偉大だといっても、何も警察署の建物が捜査をするわけではなく、捜査は一人一人の刑事がやるのですからね。彼も人なり、我も人なりです」
「でも、警察にはいろんな……捜査のための機械だとか、コンピュータとか、そういうものがあるじゃないですか」
「そう、その点は負けますね。それに、犯人の手掛かりになる遺留品探しや、目撃情報に通じる聞き込み捜査など、人員の動員力、組織力においてはとても敵《かな》いません。ただし今回の場合は、警察には絶対負けっこない状況ですから」
「えっ、絶対負けないって、どうしてですか?」
「どうしてって……だって、警察は事件があったことを知らないじゃないですか」
「ああ、なんだ……」
「ははは、それはまあ、ジョークみたいなものだけど、真面目《まじめ》な話、電話を録音したテープという、有力な手掛かりがあります。それと、いつでも自由に家宅捜索ができることも強みです」
「家宅捜索?」
「そうですよ、あなたの家の家宅捜索ですから、いつでもできるでしょう」
「それはそうですけど、でも、何を捜索するのですか? まさか麻薬とか、拳銃《けんじゆう》とか、そんなものが……」
「困った人だなあ。暴力団事務所じゃあるまいし」
浅見は笑いながら、真剣に怯《おび》えた顔の翼を横目に見て、この負けん気の娘が、つくづく可愛《かわい》いと思った。二年前に母親を亡くし、今度は父親を――それも、疑惑の残るかたちで亡くした。いわば天涯孤独になった翼のために、自分でできる精一杯のことをしてやろう――と思った。
「あなたのお宅には、お父さんや、それにお母さんの過去がたっぷり眠っているのですよ。その一つ一つをたぐってゆけば、お父さんを殺した人間と、その動機が必ず見えてくるはずです」
「ああ、そういうこと……」
翼は納得したように何度も頷《うなず》いて、あらためて、信頼に満ちた視線を「名探偵」の横顔に向けた。
翼の大島家には、玉川沿いの土蔵とは母屋を挟んで反対側の道路に面して、事務所に使っている建物がある。その脇《わき》に駐車スペースがあって、車をそこに置いた。
「商売が盛んなころは、事務所に何人もの人がいたのですけど、いまは……父が生きていたときは、父ともう一人、パートのおばさんだけで、あとはたいていのことは留守番電話に任せっきりでした」
翼は事務所の鍵《かぎ》を開けて、中を覗《のぞ》かせてくれた。広さもデスクの数もかなりあるが、ガランとして人けのない事務所は、この家の衰退を物語っているようだ。
「父が亡くなった日は、そのパートのおばさんもいなくて、たまたま叔父――長生館の叔父の下の弟です――が見回りに来たからいいようなものの、そうでもなければ、父の死が発見されるのは、さらに遅くなっていたかもしれません」
事務所の裏から屋敷に通じるドアがある。ふだんはロックされていて、家人やプライベートな来客は、すべて土蔵側の庭から入るのだそうだ。そのことから、公私の区別にきびしい大島|昭雄《あきお》という人物の、生真面目《きまじめ》で几帳面《きちようめん》な性格が偲《しの》ばれる。
翼は鍵を使わずに、わざわざ通りをグルッと迂回《うかい》した。父親に倣《なら》って大島家の伝統を守るというより、浅見に、玉川に架かる石橋を渡らせたかったのかもしれない。
建物全体に醤油《しようゆ》の匂《にお》いと色がしみついたような家であった。古い醸造業の家庭の中など、浅見にとっては何もかもが珍しく、そのくせ、妙に懐かしさを覚える情景だ。この懐かしさは、日本人の心の証明なのだろうか。
薄暗い廊下を通って翼の居室に入り、まず問題のテープを聞いた。
「関東の人ではありませんね」
浅見は最初の感想を述べた。よほど慌ててマイクを使ったのか、きわめて録音状態が悪く、言葉は何とか聞き取れるが、声の音色まで判断するのは難しい。しかし、話し方のイントネーション程度は識別できた。文字で書き表せば、一応、標準語らしい言葉にはなっているが、いわゆる東京弁とは微妙に違うように思える。
「鳥取か島根か、この辺りの話し方でしょうか?」
翼に訊《き》いた。
「さあ……倉吉周辺ではないと思いますけど、ちょっと山のほうに入ると、だいぶん違うというし、島根でも沿岸部と山間部では異なるそうです」
「そういえば、松本清張の『砂の器』に、出雲《いずも》地方の訛《なま》りには東北弁と似ているところがある――というのがありましたね」
何度も繰り返して聞いてみたが、専門的な声紋分析でもしなければ、判別は難しそうだった。
「このテープ、お借りして行ってもいいですか?」
「えっ? ええ……」
翼はチラッと優美の顔を見て、「どうぞ持って行ってください」と言った。
その後、大島昭雄の居室と書斎をひととおり検分した。途中、仏間を通りかかって、翼は仏壇の前に座って手を合わせた。優美も浅見もそれに倣った。仏壇の中には父親の写真と、その脇《わき》に母親らしい女性の、いくぶん小ぶりの写真が並んで飾られている。
大島昭雄は鼻筋の通った、いわゆる殿様顔の好男子だ。大島佳代も美人の面影を残しているけれど、どことなく薄幸の気配を感じさせる女性であった。
「お通夜もお葬式も、どこか別の場所でなさったのでしょうか?」
仏間を出ながら、浅見は訊いた。
「えっ、どうして……どうして分かるのですか?」
翼は不思議そうに浅見の顔を見つめた。
「いや、いま気づいたのですが、仏壇にお線香がありませんでしたからね。きっと醤油に匂いが移るから、お線香は使えないのだろうと思ったのです」
「そう、そうなんです。お通夜はここでしたけど、お線香は控えめにしました。でも、ちょっと見ただけで、よくそこまで分かるのですねえ」
「ははは、そんなことぐらいは誰だって分かりますよ」
「そんなことありませんよ」と、優美が脇から否定した。
「私なんか、ぜんぜん分からないどころか、お線香がないことにさえ、気がつきもしませんでしたもの」
「そうですかねえ……しかし、そういう細かい配慮をする習慣があると分かって、叔父さんが病死で処理しようとした理由が納得できました。そうでないと、叔父さんを疑ってかからなければならないところでしたよ」
「叔父を?……じゃあ、浅見さんは叔父が犯人だと疑っていたのですか?」
「ええ、まず第一発見者を疑うのが、事件捜査の基本みたいなものです」
事もなげに言う浅見に、翼はかすかに非難の籠《こ》もった目を向けた。
「それに、動機の点から言っても、おそらく叔父さんには動機があるはずです。たとえば遺産の問題。それから、このお醤油屋さんの経営の問題。あるいは経理上の不正があるかもしれない。おまけにアリバイも叔父さんには不利な状況でしょう。そして極めつけは、病死として処理したこと。どれ一つを取ってみても、叔父さんを容疑の対象とする、十分な根拠になりうるものばかりです」
翼は目を見開いて浅見を見つめたまま、しばらく動かなくなった。
そのとき、玄関の戸を開ける音と、「翼、いるんか?」という声がした。翼は弾《はじ》かれたように立って、「はーい」と答えた。
「びっくりした、噂《うわさ》をしたとたんだわ」
行きかけて、浅見を振り返り、「いまの話はしないでください」と釘《くぎ》を刺した。浅見は「もちろんですよ」と笑った。
まもなく廊下に足音がひびいて、「お客さん……」という、翼が叔父に予備知識を与える声が近づいてきた。
下の叔父――大島|浩三《こうぞう》は草尾とは対照的な、見るからに腕っぷしが強そうな、気の短そうな、年齢の割りには大柄な男だ。
「そうか、あんたが佳代さんの……」
挨拶《あいさつ》をすますと、優美をしげしげと眺めて言った。
「よう似とるもんやなあ……二人のいいところだけを合わせて二で割ると、佳代さんそっくりになる。もっとも、そうすると悪いところは誰のもんか、いうことになるがな」
「叔父さん、あほなこと言わないの」
「ははは、それで、あっちのほうはもう済んだのか?」
「ううん、今日の三時に弁護士さんが見える言うてたから」
翼の言葉に合わせて、優美が小さく会釈を送った。
「そうですか、それはいい。そしたら、長生館に泊まってもらったらよろしいな」
「分かってますよ。昨日、長生館に泊まっていただきました」
「何や、そうだったのかいな。それで、おたくさんが優美さんのご主人ですか?」
いきなり言われて、浅見は「えっ、いや、とんでもない……」と狼狽《ろうばい》しながら、急いで名刺を出した。
「浅見さん……えーと、どういう仕事をしておられるのかな?」
肩書のない名刺を、引っ繰り返した。
「フリーのルポライターをやっています」
「ルポライターですか……浅見さんか……どこかで聞いたことがあるような……」
叔父はふと顔を上げて、言った。
「たしか、私立探偵に浅見という人がいたはずだが……まさかあんた、その浅見探偵と違うでしょうな?」
「はあ、たぶんあなたのおっしゃるのと同じ浅見だと思います」
「えっ、そしたら……」
叔父は、いままでの笑顔とはうって変わって、険しい目で翼を睨《にら》んだ。翼は悪びれず、真っ直ぐ叔父を見返して、言った。
「ええ、お話ししました」
「何という、あほなことを……草尾の兄さんは知っておるのか?」
「いいえ、まだ。だって、浅見さんにお話ししたのが、ついさっきだもの」
「勝手なことを……わしらに内緒で、わざわざ東京から呼んだのか?」
「いえ、それは違います」と、浅見は手を上げて叔父の怒りを制した。
「僕が倉吉に来たのは、ぜんぜんべつの目的です。翼さんからこの話を聞いたのは、まったくの偶然みたいなもので……」
「偶然で話すようなことと違うでしょうが。どういうことだ、翼」
「大丈夫ですよ。浅見さんは信頼できる方ですから」
「信頼って……赤の他人を信頼できるかどうか、考えてみたらどうや」
「お言葉ですが」と、浅見は静かな口調で言った。
「赤の他人だからといって、いちがいに信用できないと決めつけるのはいかがなものでしょうか。それに、怨恨《えんこん》がらみの殺人事件は、身内の中に犯人がいるケースが少なくありませんよ」
「身内?……あんた、何が言いたいんや」
「はっきり言って、翼さんのお父さんの死が殺人だとしたら、もっとも疑われるのはあなたです」
「なにっ……」
浩三叔父は飛びかかりそうな気配を感じさせるほど、怒りをあらわに見せた。
「気を悪くなさらないでください。僕は一般論を申し上げているだけなのですから、たとえば、警察が関わったとしたら、まず第一発見者であるあなたが疑われたであろうことだけは間違いありません」
「…………」
「警察に届けないで済ませようとなさったことも、きわめて不利な心証を与えます」
「しかし、それはやな、先生――お医者さんが病死だと言われたから、それだったら届けんで済むようにしてくれ言うて……」
「分かります、よく分かっています。しかし、この場合はやはり届け出の義務がお医者さんにはあったのですから、もしこのことが知れると、お医者さんも含めて大変なことになります」
「そうや、それだから秘密にしろと、あれだけ言うとったのに、なんてこった」
また翼を睨みつけた。
「それは十分、承知した上で、翼さんは僕にこの話をしてくれたのです。そうしないではいられなかった翼さんの気持ちも、理解して上げてください」
「理解するって……けど、なんで相談もせんと、勝手なことを……」
「相談したら、叔父さんたちはだめだって言うに決まっているでしょう」
翼が唇を一文字に引き締めるような顔で、言い返した。
「当たり前だ」
「それじゃ、浅見さんに相談なんかしないで、警察に行けばよかったと言うんですか?」
「あほなことを……」
怒りのせいか恐怖のせいか、浩三叔父の語尾が震えた。それから力なく肩を落として、
「こうなってしまったら、もうどうしようもないな。浅見さん、翼の気のすむように、あんたにやってもらうよりしようがない。費用もかかるやろうから、それなりのことはさせてもらいます」
「ありがとう、叔父さん」
翼が深々と頭をさげたが、浩三叔父は完全に無視して、浅見に言った。
「けど浅見さん、言うておくが、これは殺人事件でも何でもありませんよ。あくまでも翼のわがままを通してやるだけです。それと、何度も言うが、絶対に他言は無用です。もし秘密を洩《も》らすようなことがあったら……そうや、わしがあんたを殺すかもしれん」
本気で殺しかねない、恐ろしげな顔を作った。
第三章
黄色い土・黒い雲
少し遅くなった昼食に、「土蔵そば」というのを食べてみましょうと浅見が提案して、三人は街に出た。かつての土蔵を改造した、骨董屋《こつとうや》のような土産物の店に入って、狭い階段を二階、三階と上がってゆく。
二階も三階も民俗資料館みたいなガラクタが展示してある、何ともケッタイな店であった。
三階の奥まったところに、ちっぽけなカウンターがあって、先客が二人、ボソボソと喋《しやべ》りながら、そばを食っていた。カウンターの向こうには中年の女性が一人いて、接待に当たっている。
どこもかしこも薄暗く、古色|蒼然《そうぜん》とした雰囲気で、世の中の変化から取り残された倉吉《くらよし》の町の象徴のような気さえしてくる。
先客は男同士で、浅見たちが入って来るのを見て、いったん会話を中断させたが、ただの女性連れの観光客とみきわめたのか、話を再開した。
「岡山県側じゃ、絶対引き取らない、言うとるし、どこへ持って行くんだかな」
「あんな黄色い土みたいなもん、どこも引き取るところはないがな」
「けど、事業所があるのは岡山県やないか。引き取らない言うのはおかしいで」
「そうや、おかしいことはおかしいが、しかし、掘り出した場所は鳥取県側やし、いったん捨ててしまったもんは、知らん言うだろうなあ」
「迷惑なことやないか」
「ああ、迷惑なことや」
話の結論が出たつもりなのか、二人は立ち上がって勘定を済ませると、階段を下りて行った。
浅見は目の前の女性に、「いまの黄色い土というのは、例のウラン鉱の残土のことですね」と言った。
「ええ、そうです」と、女性は少し警戒するような目になって、答えた。
「ずいぶんあっちこっちに捨ててあって、問題になっているそうですね」
「そうですけど、大騒ぎするほどのことはない、いう人もおいでですけどなあ」
「でも、放射能が出ているのでしょう?」
「出てるいうても、ごくわずかで、べつに体に害があるいうわけではないそうですよ。元から山の中にあった土やし、その近くには昔から人が住んでおるのですしねえ。第一、放射能が問題いうなら、三朝《みささ》のラジウム温泉なんか、どうなります?」
「あ、ほんとだ、そうですね」
浅見は(なるほど――)と思った。「黄色い土」の問題が、中央にまで及ぶ大事件にならないでいるのは、そういった「差し障《さわ》り」が地元にあるからなので、それだけに、問題はじつは深刻なものなのかもしれない。
浅見は急に背筋がムズムズしてきた。一刻も早く、ことの真相を見極めたい欲求の証拠である。運ばれてきたそばも啜《すす》り込むようにして、たちまち平らげた。
倉吉名物は一に打吹《うつぶき》公園団子、二に土蔵そばと聞いていたのだが、期待したほどのことはなかった。味はともかくとして、土蔵というより物置小屋の中を思わせる雰囲気も、あまり感心しない。ガラクタを片づけて、白壁に黒い柱――といった、すっきりした店づくりをしたら、お客も納得できるだろうに――と思った。
店を出ると、浅見は二人と別れ、人形峠へ向かった。
倉吉から天神川沿いの国道を行くと、途中、三朝温泉を通過する。
ところで、観光パンフレットに記載されている三朝温泉の「泉質と効能」は次のようなものである。
泉質は単純泉、含重曹食塩泉で、ラドン最高七〇二マッヘを含有する世界一のラジウム泉です。泉温は五五度内外の適温で疲労回復、神経痛、婦人病、リュウマチ、皮膚病等に特効があります。
ラドンというのは、前にも説明したように「ラジウムが崩壊してできる放射性ガス」のことだ。「七〇二マッヘ」がどういう単位なのかは知らないが、世界一と豪語しているニュアンスからいうと、数字の大きさを誇っていいものであるらしい。
考えてみると、三朝は人形峠の麓《ふもと》に位置するのだ。天神川の支流である加茂《かも》川は人形峠付近を源流として、三朝町内を流れ天神川に合流する。地下水脈だって、似たような方向で流れてきても不思議はない。
温泉が人形峠付近の地中の成分を溶かして運ぶのであれば、泉中成分に放射能があって当然だ。それを温泉だと「ラジウム温泉」として、その効能を珍重するくせに、ナマのままの「黄色い土」に対しては拒否反応を示すというのは、おかしなものではないか――などと浅見は思った。
国道一七九号を南下すると、三朝からおよそ二十キロ程度で人形峠越えの坂道にさしかかる。
人形峠の名の由来はいくつかある。昔、中国山地のこの辺りに、体長三メートルほどのハチの大王がいて、旅人を襲い生き血を吸った。旅僧がこれを知って、村人に人間そっくりの人形を作って峠に立てて置けと教えた。村人が言われたとおりにすると、ハチは三日間その人形を攻撃したあげく、疲れ果てて死んだ――という話。
もう一つは、母娘《おやこ》連れが峠にさしかかると、みるまに霧が立ち込め、母娘は道を見失って、離れ離れになった。たがいに遠くから名前を呼びあっていたものの、やがて娘の声がとだえてしまう。霧が晴れて、母親が見たのは、わが子そっくりの人形だった――という話。こっちのほうが実感があって、共感もできるものがある。
電話でアポイントを取らずに訪れたのだが、動燃人形峠事業所の吉永所長は快く迎えてくれた。「本社のほうから、浅見さんが見えるという連絡は受けておりました」と言っている。
「じつは、昨日お邪魔したのですが、四時を過ぎてしまいまして」
「そうでしたか。寄っていただけばよかった。私のほうは構わなかったのですが」
吉永は五十代なかばだろうか。温厚そうな紳士で、早速、施設を案内してくれた。
山間の盆地一帯にかなり広く、さまざまな施設が点在している。探鉱プラント、採鉱プラント、製錬転換施設、ウラン濃縮パイロットプラント、ウラン濃縮原型プラント……といった具合に、浅見の理解力を超えた施設を車でグルグル回って、文字どおり駆け足の見学を済ませ、事務所に戻り、それから吉永のレクチャーを承った。
資料によると、人形峠でウランの露頭が発見されたのは昭和三十年晩秋のことである。当時作成された報告書には、次のように記載されていた。
――一九五五年の秋、ラジウム温泉で名高い鳥取県三朝温泉から南へ、岡山県との県境に通じる県道沿いに一台のジープが走っていた。これぞウラン探しの「カーボーン」調査班である。これはという収穫がないまま、ついに今日は調査最終日となってしまった。ジープが三朝町字|穴鴨《あながも》という麓《ふもと》の集落にたどりついたのは、秋の日もとっぷり暮れた五時過ぎであった。一行は相当に疲れてはいたが、今日は最後だ、ラストヘビーで頑張るぞとばかり、岡山県との県境までの険しい山路を、当時は名前さえも知らなかった人形峠へ向かって暗闇《くらやみ》の中にジープを走らせた。
県境まで二百メートル足らずの地点にさしかかった時、それまで毎分七千カウントあたりを上下していたシンチレーション・カウンターの計数が、にわかに二百万カウント以上にはね上がった。それっとばかり一同ジープをとび下りて懐中電灯をたよりに、道路の崖《がけ》に出ている露頭をつきとめたのである。
敗戦からわずか十年。いや、それより以前の、国民が飢餓からようやく立ち直ったころ、すでに核開発を目指して、この山の中を駆け回っていた人々がいたのかと思うと、日本人の勤勉さというか、めげない国民性には感心させられる。
浅見がそのことを言うと、吉永は「おっしゃるとおりです。諸先輩の努力には頭が下がります」と大きく頷《うなず》いた。
「日本は天然資源の乏しい国ですからね。石油の需要のほとんど百パーセントといっていいくらいを、外国に依存しています。石油が枯渇すれば……いや、枯渇しなくても、輸出国が戦争など政治的経済的な理由で輸出を拒否したら、日本の産業も社会そのものも、壊滅的な打撃をこうむります。それはコメ問題などより、はるかに重大な問題で、代替エネルギーを一刻も早く準備する必要があるのです。現在のところ、核エネルギーがそのもっとも有力なもので、日本の消費エネルギーの二十パーセントを核エネルギーによって賄っています。これによって、原油価格の高騰を抑えている効果は、計り知れぬものがあるといってよろしいでしょう」
吉永は核エネルギーの必要性を熱っぽく説いた。
「必要性はよく分かるのですが、ただ、一方に安全性の問題がありますね」
浅見は反対側の意見を代表してぶつけてみた。
「おっしゃるとおり、残念ながら、安全性において、百パーセント安全と言えるだけの自信も実績も、まだわれわれにはありません。チェルノブイリなどは論外としても、若干の放射能漏れ事故などが、わが国でも起きていることはご承知のとおりです。しかし、それでもなお、かぎりなく百パーセントに近い安全性があると言ってよろしいでしょう。たとえば、石油や石炭などの化石エネルギーは安全かといえば、必ずしもそうではない。大気汚染はもちろん、二酸化炭素による地球温暖化現象など、現実にはそっちのほうが、はるかに大きな被害を及ぼしているのですからね。要は、核エネルギーの安全性をいかに高めつつ、管理・使用してゆくかにあるのではないでしょうか」
「しかし、管理の安全性という点では、かなり問題点が多いのではありませんか? たとえば、今度の黄色い土のことなんか」
浅見はようやく核心に触れる話題を持ち出した。
「ああ、浅見さんはすでにそのこと、ご存じでしたか……」
吉永は残念そうに首を振った。
「知っているといっても、ごく断片的な知識しかありませんので、もしよければ、詳しい状況を教えていただきたいのですが」
「もちろん、必要とあればお話しますが、ただ、この問題は不確定要素が多くて、たとえばその安全性に関して、数値的な結論も出ていないような状況でしてね。したがって、すでに公表され、あるいはマスコミ報道されている程度のことしかお答えする材料がないのです」
「じつは、その安全性についてですが、こちらに伺う途中、そういえば三朝温泉もラドンの効能をうたっているな――と気がついたのです。あれもやはり放射能なのでしょう? だとすると、反対運動を展開するのもいいけれど、あまりやり過ぎると、地元の観光資源に悪影響が出る懸念がある。そのために、反対派の追求の矛先《ほこさき》も鈍りがちだということがあるのではありませんか?」
「うーん……それについては、私の立場からはコメントできませんが、確かにそのような配慮が働いているかもしれませんね。しかし、それはそれとして、安全性問題については、恣意《しい》的でなく、誠意をもって対処していきたいと思っております」
吉永所長の話によると、今回の「黄色い土」問題は、一九八八年夏、人形峠付近に野積みされていた、ウラン鉱山から出るウラン鉱石混じりの土砂の一部から、国の被曝《ひばく》基準を上回る放射線が出ていたことが分かったところに端を発しているのだそうだ。
それをきっかけに、採鉱時に出た土砂の行方をチェックしたところ、岡山・鳥取両県の数カ所に、一九五六年から八一年までの間に、合計約十六万立方メートルの土砂を捨てていたことが判明した。
「正直言って、石炭のボタ山と同じで、そこに埋まっていた土砂を掘り出して、別の場所に捨てただけですから、認識が甘かったこともあるかもしれません。とはいっても、採鉱が開始された当時はもちろん、その後もずっと、一応の監視体制はしいていたのですが、八一年に土砂捨て作業が終わった時点での線量は、〇・〇二ミリレントゲンと、管理目標値を下回っていたので、それ以降、測定を中止していたのです。それが、八八年の夏の調査で、放射線濃度がもっとも強い中津河地域の一カ所で、毎時〇・六八ミリレントゲンという強い数値が出ましてね」
「ちょっと待ってください」と、浅見は悲鳴のような声を発した。
「そのレントゲンという値ですが、どれほどだと人体にどのような影響を与えるものなのですか?」
「うーん、それがどうも、私にもはっきり分からないのですなあ。ただ、数字上のことだけを申し上げると、〇・一ミリレントゲンの場所に一年間いると、計八七六ミリレムの放射線を浴びることになるのですが、一般の人の被曝線量限度は一〇〇ミリレムと定められていますから、この数値からいうと、かなり上回ることになります」
そう説明されても、ますます分からなくなるばかりだ。
「まあ、数値上は限度を上回るにしても、しかし、その場所に人が住んでいるわけではないのでしょう?」
「もちろんです。百メートルばかり離れた場所に人家があって、近くを通ることはあるようですが」
「じゃあ、ほとんど安全といってもいいのではありませんか?」
「それはもちろん、いわゆる核廃棄物のような危険性はまったくありません。しかし、住民にばくぜんとした不安でも与えることは好ましくありませんので、何らかの対策を講じるつもりです」
どうも、所長の話を聞くかぎりでは、動燃側は万全の対応をしているように受け取れるのだが、建前と本音ということはあるのかもしれない。
「いまふと気になったのですが、現在の黄色い土のこともともかく、十六万立方メートルでしたか、その土を採鉱して土砂を捨てる作業に従事した人たちは、その後どうなったのか、分かっているのでしょうか? その人たちは、それこそ一年中どころか、何年にもわたって鉱山にいたわけですから、放射能の影響をもろに浴びているはずですよね」
「そのとおりです。じつは、その点について調査しているところなのですが、動燃職員以外の採鉱作業員の資料は、古い物は破棄されておりまして、追跡調査ができないという状況なのです」
「動燃の職員については把握しているのですか?」
「把握しております。現在までのところ、調査対象者の中に、とくに放射線被曝による異常が生じたというケースは出ておりませんが、なお鋭意、追跡調査を行うことになっております」
「採鉱中に放射能が原因で病気になったとか、死亡したとかいう例なんかはないのでしょうね?」
「それはありません。もちろん、ごく一般的な事故による死傷者はありましたが」
「一般的な事故といいますと?」
「たとえば転落事故とか、発破による事故といったものです。もちろん放射線とは無関係ですよ」
ドアがノックされて、所長の返事を聞く間もなく、若い職員が入ってきて、吉永に紙片を見せた。吉永は「すぐ行く」と言い、浅見に、「ちょっと失礼」と言い残して部屋を出て行った。
浅見はその隙《すき》にトイレに立った。
用を足して応接室に戻る途中、所長室の前を通ると、中から怒鳴るような声が聞こえてきて、浅見は思わず足を停めた。
「東郷湖に流れ込んでいるやないですか。魚に影響が出んという保証はないでしょう」
西日本海新聞の萩原が言っていたのは、このことだな――と思った。
所長の声はほとんど聞き取れない。それほど小声で喋《しやべ》る人ではないのだから、相手の客のほうがかなりの大声ということになる。
「害はない言うけど、イメージが悪いいうことだけでも、十分、観光地としては致命的な問題ですよ。とにかく、われわれ東郷湖で生活する者にとっては、迷惑千万な話だ。元来、岡山県にある動燃事業所が掘った土なのだから、相手が何と言おうと、そこに持って行って処理するのがスジとちがいますか? ただちに対策を取ってもらいたいです」
そこまで聞いて、浅見は応接室に戻った。まもなくやって来た吉永所長は沈鬱《ちんうつ》な表情の中に、興奮の色を浮かべていた。
「どうも、困ったものです」
テーブルの上の冷えきったお茶を不味《まず》そうに啜《すす》って、言った。
「何があったのですか?」
浅見はとぼけて、訊いた。
「いや、先程、浅見さんとお話していたようなことです。いわゆる黄色い土――採掘した残土の処理を巡って、鳥取県側と岡山県側で引き取れ、いや引き取らないの押し問答がつづいておりまして、そこへもってきて、また新たに東郷湖に流れ込む川の上流域の山に残土を廃棄した場所があるのが発見されたというわけです。それをまた、マスコミさんが書き立てるものですからね、ハチの巣をつついたような騒ぎになってしまう」
所長が何気なく言ったことで、浅見は人形峠のハチの伝説を思い出した。
「黄色い土といったって、だいたい、プルトニウムや核廃棄物と違って、自然天然、山に埋まっていた土ですよ。有害か無害かの論議はさておくとして、移動させたから放射線が出たというわけのものではないのです。山にあったって、雨が降れば川に流れ出すのは同じことです。何でもかんでも動燃を悪者にする論調ばかりで、動燃の役割だとか功績だとかいったものに対する評価は、マスコミはほとんど書いてくれない。こんなことをやっていたのでは、将来のエネルギー政策を誤る結果に繋《つな》がりかねませんよ」
吉永は悲憤|慷慨《こうがい》を述べてはみたものの、すぐに冷静に立ち返って、「そうはいうものの、対策は万全を期すつもりです」と、落ちついた声で言った。
「残土の運び出しが不可能な状態ですので、致し方なく、ゴム製の袋に詰めて、流出を防ぐ方式を取ることにしました」
「十六万立方メートルを袋詰めにするのですか」
浅見は想像しただけで、吉永以上に憂鬱《ゆううつ》になりそうだった。
竹中弁護士と大島家とは、先代同士のころからの、家族ぐるみの付き合いで、翼も遠慮なく物の言える間柄であった。
挨拶《あいさつ》がすんで、優美はまず最初に、ずっと疑問だったことを訊いた。
「母が私に遺産を残してくれたことは嬉《うれ》しいのですが、それを二年間も放置していたのはなぜか、不思議でならないのですが」
「ああ、それは当然の疑問ですね」
竹中はゆっくりと頷いた。六十歳ぐらいだろうか、細面に縁なしの眼鏡をかけ、秀才タイプの人物だ。
「じつは遺言書を読んでもらうと分かるのですが、あなたに遺産をお渡しするのには付帯条件があったのです。その条件というのは、翼さんが二十歳になって、しかも大島家が安泰であること。つまり、倒産したり、あるいはお父さんが亡くなったりするようなことになっていないことだったのです。お母さんが亡くなられて、二年近く経って、翼さんが無事に成人された時点ではその条件が満たされていたわけですが、もし、お母さんがお元気のままであったら、遺産という形ではなく、あなたに直接お渡しするつもりだったのだと思いますよ」
「そうだったのですか……」
疑問が氷解するとともに、優美は母親の深い心遣いに感動した。
「でも、今度は翼さんのお父さんが亡くなられたのですから、遺産は受け取ることができないと思いますけど」
「いや、それはご懸念には及びません。すでに翼さんは成人されて、条件は満たされたのですからね」
「でも……」
逡巡《しゆんじゆん》する優美に、脇《わき》から翼が言った。
「お姉さん、気を遣ってくださらなくていいのですよ。私は父の保険金も沢山入るし、醤油屋《しようゆや》もあるし、すごいお金持ちなんだから。それに、これまでずっと、お母さんを独り占めにしてきたのだし」
「ありがとう……」
優美は思わず涙ぐんだ。しかし、すぐに涙を拭《ぬぐ》って、もう一つの疑問を訊《き》いた。
「翼さんが言っていた、翼さんのお父さんが遺産を渡すことに反対していらしたって、事実なのですか?」
竹中弁護士は一瞬|躊躇《ためら》ったが、翼が「事実ですよ、ねえ先生」と言ったので、しぶしぶ頷いた。
「でも、どうしてなのでしょうか?」
「それがじつは、私にもはっきりした理由が分からないのです」
弁護士は首をひねった。
「大島さんに理由を訊いたのだが、どうしても言わないのですなあ。何でも率直に話してくれる人だったが、そのことについてだけは貝のように口を閉ざしたままでした。翼ちゃんにも言わなかったのだろう?」
「ええ、いくら訊いても言わないんです」
「それは、あれじゃないでしょうか、私や、それに父を嫌っていたとか」と優美は言い、「むしろ当然のことだと思いますけど」と付け加えた。
「そうでしょうかなあ……、いや、私はそんな単純なことだったら、そう言っていたと思いますがねえ」
弁護士は否定したが、「分かりませんよ」と翼が言った。
「父は妙にプライドが高いところがあって、みみっちく思われたりするのを嫌ってましたからね。そういう、焼《や》き餅《もち》を焼いているみたいに取られそうなこと、言えなかったのじゃないかしら」
「そうかねえ、そういうことかねえ」
「そういうことですよ、きっと」
「まあ、確かに金を惜しむような人ではないし、そうだったのかもしれませんな」
弁護士は結論がついたところで、用意した書類と小切手を出した。小切手に記載された金額は五百七十二万三千円あまりという、きわめて半端な数字だ。二十数年間に及ぶ積立預金の成果だそうだから、最初は千単位から始まって、時には多かったり、時には少なかったりしながら、利息を積み上げてきたのだろう。いかにも、一家の主婦がへそくりをコツコツ貯《た》めた――という印象があって、優美はまた胸がつまった。
事務的な話がすんだあと、しばらくコーヒーを飲みながら雑談した。そのときに翼は、竹中に例の「カイダンの道」のことを持ち出した。
「カイダンの道?……何のこと?」
「ちょっと、父のメモの中に、カタカナでそう書いてあったので、何かなと思って……たぶん、カイダンは小泉八雲の『怪談』ではないかと思うんですけど、先生はご存じありませんか?」
「ふーん、怪談の道ねえ……石段の階段なら、金比羅《こんぴら》さんとか、三徳山《みとくさん》の参道なんか、階段だらけだし、ぴったりだと思うが」
「ああ、三徳山ね、そうですねえ」
やはり、一般的に連想されるのはそんなところらしい。
忙しい弁護士は間もなく引き上げた。
「浅見さんはどうしたかしら?」
玄関で竹中を見送った恰好《かつこう》のまま、翼がそう言った。優美もその背後でまったく同じことを考えていたから、ドキリとしたが、「ああ、そういえばどうしたかしらねえ」と、さり気なく言った。
「お姉さんはどう思いますか、あの人」
「どうって、そうねえ、信用していい人だと思うけど」
「ううん、そういうことじゃなくて、なんていうか、男性として見て、どう思うかっていうこと」
「男性として? 考えてもみなかったけど。そうだなあ、悪くないんじゃない」
「そうなのねえ、お姉さんぐらいになると余裕なんだ」
「というと、翼さん、彼を好きになったっていうわけ?」
「ええ、そうかもしれない。ちょっとね、いままでと違うっていう感じなんです。いままでのボーイフレンドとか、萩原さんとかだと、会っているときは楽しいけど、いなくなった後のなんていうか、たそがれみたいな感じはなかったんですよねえ」
「たそがれみたいな感じか……」
(負けた――)と優美は思った。浅見という男に対して、好ましい想《おも》いを抱いたという点では同じでも、二十歳の翼の「たそがれみたいな」切ない気持ちは、もう自分には抱きようがない――いや、抱いたとしても、あんなふうに素直に口から出すことは永遠にないだろう――と思った。
「だったら、今夜、長生館へ行って、浅見さんにそう言ったら?」
「えっ、まさか、だめですよ、そんなの。ばかかと思われますよ」
「どうして?」
「どうしてって、十以上も上ですよ」
「いいじゃないの。愛があれば歳の差なんてっていうし、それに、ああいう人は、翼さんぐらい歳の離れたお嬢さんと結婚したほうがいいのよ」
「いやだ、結婚だなんて……」
「あら、違うの? そういう意味での好きなのかと思ったけど」
「それはまあ、究極的にはそうかもしれませんけど」
「ほらごらんなさい。だったら言うべきよ。でないと、永久に言わないままになってしまうかもよ。とくに彼の場合なんか、ほんとの一期一会《いちごいちえ》だもの。もしかすると、運命的な出会いの瞬間なのかもしれないわ」
「あはは、そんなふうに煽《あお》らないでくれませんか。それより、さっきお姉さん、『ああいう人』って言ったでしょう。それはどういう人っていう意味ですか?」
「えっ、ああ、そんなこと言ったわね。どういう人って……浅見さんて、ものすごく頭はいいんだけど、たぶんふつうの社会常識からはずれていると思うのよね。だからああいう、フリーライターみたいなことをしているのだし、もしかすると、女性の愛し方だって知らないんじゃないかな。だから、うんと歳の上の女か、翼さんみたいな若い女性とでないと、やっていけない人だわ。いまだに独身でいるのは、そのせいだと思う」
「それだったら、いっそのことお姉さんみたいな経験者のほうがいいんじゃないかしらねえ」
「ははは、経験者かあ」
「あ、ごめんなさい、そういう意味で言ったわけじゃ……」
「いいのよ、経験者は経験者なんだから。けど、そんなこと言ってると、取っちゃうわよ、浅見さん」
「えっ、だめ、それはだめですよ」
翼は、ほとんどむきになって口を尖《とが》らせた。優美は「嘘《うそ》ですよ」と笑いだし、翼もすぐに笑ったが、優美は心の内にちょっぴり悔しさがあった。
その夜も萩原が長生館にやって来て、特別|誂《あつら》えの魚すき鍋《なべ》を四人でつついた。萩原がいるので、翼の父親の死にまつわる話は禁物であった。また、浅見は浅見で、人形峠へ出かけて取材してきた話を、あまり出したくない様子だ。四人が和気あいあいやっている割りには、なんとなくぎくしゃくして、時折、妙な具合に会話が途切れた。
萩原はしきりに翼の歓心を買おうとしている気配が見える。翼は翼で、浅見の存在を意識して、何となくいつもの調子が出ないらしい。彼女を観察しているつもりの優美にしたって、ふいに浅見の鳶色《とびいろ》の眸《ひとみ》に出くわしたりすると、ドキリとして、つい目を伏せたりした。
一人、浅見だけがマイペースといったところのようだ。
「脇本さんは明日、お帰りですか?」
浅見が訊《き》いた。
「ええ、明日の朝の飛行機で帰ろうかと思っています」
「そうですか、僕はもう少し滞在しますが、東京へ戻ったらまたお会いしましょう」
「ええ、ぜひ。お隣さんみたいなものですものね」
「そうかァ、西ケ原同士ですものねえ。いいなあ」
翼が、いかにも本音としか思えない口ぶりで言うので、優美は急いでフォローした。
「翼さんもいらっしゃいよ。三人で平塚亭のお団子、食べに行きましょう」
「ええ、行きます、必ず。ほんとに行ってもいいですね? 浅見さん」
「もちろん、歓迎しますよ。しかし、僕はまだここにいますから、そんな、さよならみたいなこと言わないでください」
「あ、そうですよね。それじゃ、明日もまたうちに来てくれますか?」
「ええ、伺います」
浅見があっさり答えるのを見て、萩原が穏やかでない顔になるのが、優美の目には分かった。
「先輩は翼さんのところに、何か用事でもあるのですか?」
「ん? ああ、ラフカディオ・ハーンの足跡を辿《たど》る興味深い資料があるのだそうだ」
「僕も先輩に見せたい資料があるんですけどね」
「ああ、そうだったね。そいつはあとで僕の部屋で見せてもらおうかな」
「いや、いいですよ。明日、大島さんのお宅に持って行きますよ」
「そんな、わざわざ忙しいのに……ん? なんだ、そういうことか。だったらきみも大島さんのところへ来てくれよ」
言って、浅見はニヤニヤ笑っている。萩原はがぜん嬉《うれ》しそうだし、翼は対照的につまらなそうな顔である。
優美は三人三様の表情を見ていておかしかったが、浅見という男が、鈍感のようでいて、存外、男女の機微に勘のいいことには、ちょっと驚かされた。
翼は萩原よりひと足先に引き上げた。優美は翼に別れの挨拶《あいさつ》をし、浅見にも、朝の出発が早いので、もしかすると会えないかもしれません――と挨拶して部屋に戻った。
翼のように「たそがれ」と言うには少し気恥ずかしいけれど、心にふっと憂愁の翳《かげ》が射《さ》すのを感じた。「お隣さん」の西ケ原に戻っても、浅見はもう会えない遠い人のような気がしてならなかった。
萩原の話によると、「黄色い土」の廃棄場所は全部で二十四個所にわたっているそうだ。その内のとくに放射線濃度の高い地点七個所について、動力炉・核燃料開発事業団側は何らかの措置を講じることになったらしい。といっても、吉永所長が言っていたように、問題の岡山県側への移送は当面は困難なものとして、崖崩《がけくず》れの心配のない安定した場所への移送や、袋詰め処理によって、流失などの拡散を防止する対策に頼る方針だ。
萩原が持ってきた地図を広げると、岡山県から鳥取県に到る国道一七九号と三一三号沿いの、あちこちの山中に、赤丸のマークがつけられている。岡山県側の上斎原《かみさいばら》村にある人形峠、中津河などは、最初にウラン鉱が採鉱されたところだけに、もっとも高濃度で残土量も多い。しかし、人形峠の事業所ではヒープリーチングという施設で処理が行われつつある。むしろ問題なのは、岡山県に搬入拒否をされていて、堆積《たいせき》した残土を運び出すこともままならない、鳥取県側のウラン鉱跡だ。関金《せきがね》温泉の東四キロあまりの山中の菅原というところや、東郷湖の南東三キロの方面《かたも》、さらにその上流にあたる麻畑付近にも大量の残土が捨てられたままになっている。現在、処理が計画されているのは、方面の山間にある分についてだが、そこだけでも十六万トンという膨大な量だそうだ。
「それにしても、数万トンもの土を掘り返して袋詰めにするのだから、膨大な費用と時間がかかるのです。廃棄場所がいずれも山の中みたいなところだから、移送ルートを新たに開設したりしなければならないし、動燃はもちろん、倉吉市をはじめ、関係各市町村は頭を痛めていますよ」
「ひとつ、頼まれてくれないかな」と浅見は言った。
「いいですよ、何でも引き受けますよ」
「かつて、人形峠のウラン鉱で採掘作業に当たった人たちのことだが、吉永所長に聞いたところ、下請け作業員の資料はまったくないが、職員のデータは残っているらしい。それで、彼らの追跡調査をやってみたらどうかと思ってね。採掘作業に従事していれば、数年から十年以上も、黄色い土と接触していたはずだからね。人体に与える影響がどれほどのものなのか、学術的な理論や推論であれこれ言っているより、はっきり実態が把握できるのじゃないだろうか」
「なるほど、調べてみましょう。といっても、動燃が資料を出してくれるかどうか分かりませんけどね。明日、午前中に人形峠へ行ってみます。帰りに、たぶん昼頃、大島家に寄りますから、そこで落ち合いましょう」
萩原が引き上げたあと、広い座敷の真ん中に敷かれた布団に引っ繰り返って、浅見はぼんやりと天井を眺めた。
そもそもは藤田編集長に言われて、動燃の取材に来たのだが、本来の目的からいえば、ウラン鉱の残土処理問題などという、マイナスイメージにつながるテーマに関わることになろうとは、浅見はもちろん、取材を依頼した動燃側やDAMの河野も考えてはいなかったにちがいない。逆に核開発の安全性について、一般市民の理解を求めるような記事になることを望んでいたはずだ。
もっとも、ウラン鉱残土の問題がクリアできれば、これほど効果的な安全PRはまたとないだろう。その点からいって、採鉱当時の職員の追跡調査が重要な意味を持つかもしれない。
とはいうものの、「黄色い土」問題が動燃にとってプラス要因をもたらす可能性は、あまり期待できそうになかった。もしそうだとすると、浅見の取材は頓挫《とんざ》することになりかねない。核開発が将来のエネルギー源確保のために必要だということは、よく分かる。しかし、だからといって、安全性に対する疑惑に目をつぶって、一方的な提灯《ちようちん》記事を書くつもりには、浅見はなれなかった。
はるばる旅費をかけてやってきたが、空振りに終わりそうだ。ドケチの藤田に言ったって、旅費の面倒は見てくれそうにないが、DAMの河野は紳士だから、彼に掛け合えば、実費くらいは出してくれるのだろうか――などと、気分はだんだんブルーになってくる。せめてものお土産は、『盆おどり』の舞台を取材できたことである。
(まあ、いいか――)
最後は例によって浅見らしく、諦《あきら》めの境地に達した。それより、せっかく来たのだから、大島翼のために力を貸してあげて、ボランティアの喜びを満喫して帰ろう。
翌朝、十時きっかりに大島家を訪れた。萩原がやって来る前にだいたいのところは片づけておきたかった。
石橋を渡るとき、門の中から野太い男の声が聞こえた。そろそろ醤油《しようゆ》の蔵出し時期なのだろうか、浩三叔父が二人の男と一緒に、中庭と蔵の中を行き来して、何やら作業を始めていた。
浩三は浅見の顔を見ると、ニコリともせずに近寄って来た。
「いまさら言うまでもないが、くれぐれも、外に漏れんように頼みますよ」
「はい、分かっています」
「それから、これは当座の費用です」
ジャンパーのポケットから、無造作に封筒に入ったものを取り出し、浅見の手に押しつけると、こっちが物を言う間もなく、さっさと蔵の中へ行ってしまった。
浅見は浩三の背中に向けて、封筒を押しいただいた。浩三にしてみれば、一種の口封じの目的なのかもしれないが、正直なところ、この際ありがたい。が、その一方では責任が生じたことを感じないわけにいかない。だいたいが、責任とか義務とかいう社会通念となじまない性格だ。(困ったな――)という気持ちが半分はあった。結果として役に立たなかった場合には、返却すればいい――と、言い訳がましく思ったりもした。
翼は玄関まで走って出て来た。鮮やかなブルーのスカートに純白のセーター、ダークレッドのブラウスが襟元を飾って、まるでフランスの三色国旗のように眩《まぶ》しい。
翼は「コーヒーを入れましょうか」などと少しはしゃぎぎみだったが、浅見はすぐに仕事に取りかかりたいと言い、父親の書斎に入った。書斎といっても広い座敷の壁を書棚で埋め尽くし、座卓を明かり窓に寄せてデスクにしたものだ。
デスクの上には翼が揃《そろ》えた手帳やメモ、日記帳、手紙のたぐいが用意されてあった。デスクの脇《わき》にも、木箱に入ったものがかなりの量、ある。
「仕事関係の書類は除いておきました。ずいぶん古い物まで揃えましたけど、こんなには要らなかったですか?」
「いや、分かりません。もし『怪談の道』というのが、小泉八雲研究に関係する何かだったとしたら、学生時代まで溯《さかのぼ》る必要があるかもしれませんからね」
「父の学生時代というと、三十年以上も昔のことですよ」
「そうですね、僕が生まれるより前のことでしょうね」
ビジネス関係の書類は抜いたとはいえ、ノート、手帳よりも手紙類がとくに多く、膨大な「資料」の量である。しかしキーワードを唯一「怪談の道」に定めてしまえば、そう難しい探し物ではない。かなりギッシリ書き込まれたページでも、「怪談」という文字は視覚的に強烈な訴求力を持つだろう。ただし、はたしてそんな文字が出てくるのかどうか、はっきりした確信がないだけに、不毛の作業をしているのではないか――という虚《むな》しさはつきまとった。
浅見と翼はテーブルの両端で、次から次へと書類に目を通した。浅見のほうはかなり機械的だが、翼はやはり父親の過去に触れて、それぞれに思い入れがあるのか、時折、手を休め、文章を目で追っている。
「読んじゃだめですよ」
浅見は笑いながら注意した。翼は「はい」と慌てて作業に戻るのだが、また何かを発見しては、引き込まれるように読んでいる。懐かしい思い出につながる記述でもあるのか、涙ぐんで、鼻梁《びりよう》を伝わった雫《しずく》がテーブルに落ちた。
「ほらほら、読んじゃだめって言ったでしょう」
「すみません……でも、父と母と三人で旅行した時のことが書いてあって……父も母もほとんど旅行をしない人だったので、この時の楽しさはいつまでも憶《おぼ》えていて……」
「そうですか、ご両親とも旅行嫌いだったのですか?」
「嫌いっていうことはないと思うのですけど、父は仕事が忙しくて、組合や商工会の旅行にときどき参加するぐらいだったかしら。母のほうはもっと出なかったわ」
「お母さんはどこのご出身なのですか?」
「広島です。広島の原爆で一家全滅して、母一人だけが生き残ったのだそうです」
「そうだったのですか……」
浅見は探し物の手を休めて、翼の顔を見つめてしまった。
何かが――原爆がピカッと光ったような衝撃を、頭の中で感じた。しかし、それを見極めようとしたときには、光は消えた。
謎解《なぞと》きの端緒に触れた瞬間は、いつもこういう感触なのだが、いったん消えてしまったあとは、根気よく一歩一歩、試行錯誤しながら光の根源に向かって辿《たど》ってゆくより方法はない。
「原爆の時は幼かったお母さんが、その後、東京へ出て、脇本さんのお父さんと結婚して、優美さんを生んで、離婚して、それからあなたのお父さんと結婚するまでの経緯《いきさつ》を、翼さんは知っているのですか?」
「まさか……知りませんよ、そんなこと。優美さんというお姉さんがいたことだって、母の遺言を見て、初めて知ったのですもの。ただ、父と知り合ったり結婚した時のことを訊いてみたことがありますけど……」
「ほう、それで、どうだったのですか?」
「だめ、言わないんです。『ごくふつうの結婚よ』って、笑ってごまかして……ただ、いちど『幸せ?』って訊いたら、『とっても幸せ』って答えて、『いい人とめぐり会えたから』って、何だかすっごく遠いところを見る目をして言ったのが印象的でした」
「お父さんと会ってからは、幸せだったということなのでしょうね」
「そう、だと思いますけど……でも、ちょっと変なのですよね」
「変とは、何が?」
「母が亡くなった後、父に聞いたところによると、父が母と知り合ったのは、結婚するずっと前だったみたいなんです」
「それはそうでしょう。脇本さんのお父さんと離婚されてから、かなりのブランクがあったのだし」
「ううん、そうじゃなくて、もっと前、いまの天皇皇后両陛下のご成婚のころだったみたいです」
「えっ?……」と浅見は驚いた。天皇皇后のご成婚は、たしか昭和三十四年――一九五九年のことである。いまから三十四年前――優美が生まれる四年前にあたる。
「じゃあ、脇本さんと結婚する前に知り合ったのですか」
「そうなんです。私もびっくりしたのですけど、父はその時、皇太子様と雅子様のご成婚パレードをテレビで観ながら、天皇皇后のご成婚の思い出話をしていて、ほんとに何気なくポロッと、母との思い出話を洩《も》らしたっていう感じでした。だから、私が驚いて確かめたら、うろたえて、そうだ、十年ぶりに再会して結婚したんだとか言って、それっきり逃げて行ってしまったのですけど」
浅見は頭の中に、翼の母親・大島佳代の年表を描いてみた。
1938年 広島に生まれる
1945年 原爆によって一家全滅
1959年 大島昭雄と知り合う
1962年 脇本伸夫と結婚
1963年 優美誕生
1965年 脇本と離婚
1971年 大島と結婚
1973年 翼誕生
1991年 死去(享年五十三歳)
「死因は何だったのですか?」
浅見が思考の経路を抜きにして、いきなり訊《き》いたので、翼は「えっ?」と身を引くほど驚いた。
「あ、失礼。お母さんは何で亡くなられたのですか?」
「ああ、死因は慢性骨髄性白血病です」
「というと、原因はやはり原爆……」
「ええ、そうみたいです。だから、母は原発なんかは大嫌いでした」
「その原発嫌いのお母さんが、人形峠のすぐ近くに嫁いで来られたのですか……奇妙なめぐり合わせですね。動燃に抗議行動に来たのならともかく……」
そう言って笑いかけて、浅見は表情がこわばるのを感じた。
「いや、冗談でなく、ひょっとすると、お母さんがお父さんと知り合ったのは、それがきっかけだったのじゃないかな」
「えっ、抗議行動がですか?」
「抗議デモか何かで出会ったのが交際のきっかけだったとか……どうなのですか? お父さんは原発やウラン鉱山には反対していませんでしたか?」
「いいえ、ぜんぜん……それに、母だって口では原発には反対していましたけど、反対運動のデモなんかに出掛けたりすることはありませんでしたよ」
「それはあなたが生まれて、物心がついてからのことですね。それ以前のことについてはどうなのかな?……そうだ、叔父さんに訊いてみませんか」
翼はすぐに反応して、飛び出して行った。浩三叔父は鬱陶《うつとう》しい顔で入ってきて、「わしは何も知らんよ」とぼやきを言っている。
しかし、大島昭雄が人形峠のウラン鉱開発反対運動に参加していたことは、おぼろげに記憶していると言った。
「わしがまだ中学のころだったと思うが、昭雄兄は京大の学生で、さかんに学生運動なんかしとった。地元の倉吉で人形峠のウラン鉱開発に反対運動が起きたときも、わざわざ大学を休んで帰って来て、毎日のように人形峠やら小鴨《おがも》やらへ出掛けて行って、おやじとしょっちゅう言い争いをしとった」
「小鴨というのは?」
「倉吉の西のほう、関金《せきがね》温泉から小鴨川沿いに少し北へ下ったところの集落ですよ。そもそもウラン鉱が最初に発見されたのは、その小鴨地区でしてね、それがきっかけで、原燃――動燃の前身ですな――それの倉吉出張所ができたのです」
「その関金温泉ですが」と、浅見は唾《つば》を飲み込んで、訊いた。
「やはりラジウム温泉なのでしょうか?」
「そうです、ラジウムです。三朝《みささ》に較べると湧出量《ゆうしゆつりよう》が少ないので、あまり大きな温泉ではないが、かつて関金宿は美作《みまさか》街道の宿場町として栄えたところやから、明治時代あたりまでは三朝より知られとったらしい。露天風呂《ろてんぶろ》なんか、ほんまに素朴で、わしなどは、どっちかいうと三朝よりは関金のほうが鄙《ひな》びた温泉らしくて、好きやけどね」
浩三の解説を聞きながら、浅見は温泉とラジウム――放射能の関係をまたしても連想してしまう。
「いま、京大の学生時代とおっしゃいましたが、その後はどうなのでしょう?」
「その後いうと、大学を卒業した後ですか。そうやなあ、はっきり憶《おぼ》えておらんが、一、二年はどこかに勤めて、運動のほうも何やらやっとったのと違うかな。それからしばらくしておやじと仲直りして、家業の醤油屋《しようゆや》に専念することになったみたいやが」
「というと、原発の反対運動から手を引いたのですか」
「まあそうでしょう。少なくとも表立っては行動しておらんですな。社会人になると、ずいぶん人が変わっておとなしくなるもんやいうて、おやじなんかは喜んでおったが」
「昭雄さんが奥さんと知り合ったのは、どこなのか、ご存じありませんか?」
「さあなあ……そこまでは聞いておらんですな。たぶん倉吉ではないかと思いますよ」
「なぜですか?」
「いや、なぜ言われても困るが、昭雄兄は、大学から戻った後は、あまり倉吉から出ん人間やったからね」
「そういえば、旅行に出ることが少なかったそうですね」
「そうそう、昔は年中、家を空けとったのになあ。人が変わったいうのはそこあたりのこともあるのやが。だから、たぶん佳代さんが倉吉に観光にでも見えた時に、知り合うたのと違いますか」
「昭雄さんのご両親は、佳代さんとの結婚に反対はしなかったのですか? 戸籍謄本を調べれば、佳代さんに離婚歴のあることや、優美さんを生んでいることも分かったと思うのですが」
「いや、父親はその前年に亡くなっておりましたのでね。母親のほうはあまり反対はしない人間だったし。それでも、兄は佳代さんの過去のことに気を遣っていたのじゃないですかな。結婚の披露《ひろう》もごく内輪にすませたものだから、大島家の恥晒《はじさら》しじゃいうて、親戚《しんせき》からはだいぶん文句も出とったですよ。しかし、兄が佳代さんを選んだのは正解だったことは確かです。ほんま、佳代さんはようできた人でした。兄にはもちろん、われわれ弟どもにもようしてくれたし、親戚にも近所にも気を遣って、あんないい人はまたといないという評判でしたなあ。そのうち、羽衣でも着て、飛んで行ってしまうのではないかいう、冗談も出たほどでした。そしたら二年前に、思いがけぬ早死にをなさって……」
浩三は言葉を詰まらせ、翼は顔を覆って涙にむせんだ。
浩三叔父が去って、翼の涙が止まるのを待って、浅見はふたたび作業に戻った。
「キーワードは昭和三十四年前後にあると思いますよ。そこを重点的に探しましょう」
励ますように言い、翼も頷《うなず》いて、書類の山に立ち向かった。
だが、驚いたことに、ちょうど昭和三十四年から後の、およそ五年間の分が、どこを探しても欠落していることが分かった。その前後は、多少の増減はあるけれど、大学ノートのリポートや手紙を含め、日記やメモ風の、何らかの記録は保存してあるのに、そのおよそ五年間に関しては、まったく何も残っていない。これは明らかに廃棄したものとしか考えられなかった。
「どういうことかしら?……」
翼は不安そうに浅見を見つめた。
「何かを抹殺したかったのでしょうね」
浅見は少し冷淡に聞こえるような言い方をした。
「抹殺……何を、何のためにですか?」
「不愉快な過去。思い出したくないこと。他人に見られては具合の悪い事柄……とくに、お母さんに見せたくない記録だったかもしれません」
「というと、昔の恋人のこととか、そういう過去ですか?」
「そうかもしれないし……それ以上に、きわめて特徴的なのは、このおよそ五年間というのは、たぶん原発やウラン鉱の反対運動を行っていた時期だということですよね。ところが、それに類するものがまったくない。抹殺したのは、そのことに関係する記録じゃないでしょうか」
「あっ、そうですね。きっとそうです」
「だとすると、なぜその記録を抹殺したのかが不思議です。原発の反対運動は、お父さんにとってはいわば正義のための戦いだったはずです。たとえ結果的には若気の至りだったり、誤りだったとしても、僕みたいに何もしないでいるよりは、はるかに立派な行動ですよ。誇っていいとしても、隠したり抹殺したりする必要なんか、絶対にありません」
「じゃあ、なぜ?……それも、母に見せたくなかったというのは?……」
「おそらくお父さんやお母さんにとって、何かよほどいやな思い出に繋《つな》がる記述があったからだと、僕は思います」
「じゃあ、母もその反対運動に参加していたのですか?」
「たぶん……としか言えませんが、お母さんが原爆の被災者だということ、原発を嫌っていたということ、ちょうどそのころ、お父さんと知り合ったということ……そういったことを総合して考えれば、一つの仮説としては成立すると思います」
「でも、それがいやな思い出というのは、どういうことでしょうか?」
「うーん……まだ分かりませんね。お母さんにとっても、お父さんにとっても、何かつらい出来事があったとしか考えつきません。ただ、言えることは、その時の出会いが単なる出会いではなく、恋愛感情に結びつくものだったのではないか……そういう、翼さんがさっき話した、お父さんが皇太子ご成婚のテレビを観ていて、思わずお母さんの思い出を語ったと言ったでしょう。それはまさに、その証拠ではないかと思うのですが」
「ああ……」
翼は悲しそうな声を発した。
「私もそう思います。あの時、父はとてもつらそうな顔で、逃げるようにしてテレビの前を離れて行きましたから」
「お二人がそこで出会って、互いに愛し合って、しかし結ばれなかった。お母さんはその後に脇本伸夫さんと結婚して優美さんが生まれた。えーと、脇本さんとのご結婚は昭和三十七年でしたね」
「ええ、そうです」
「そうすると、三十四年に大島さんと出会って、遅くとも三年後に破局を迎えたということになりますね。まあ、そんなことはこの世の中、珍しくはないけれど、しかし、その三年後には、お母さんは可愛《かわい》い盛りの優美さんを残して脇本さんと離婚。さらにその六年後には、お父さんと再婚されたというのだから、これは波瀾《はらん》の人生といっていいでしょう」
「何だかそういう言い方だと、母がすごく悪い女のように聞こえます」
翼は恨めしそうに浅見を睨《にら》んだ。
「あ、失礼、気に障《さわ》ったなら勘弁してください」
浅見はきちんとお辞儀をして、「ただ」と言った。
「いま、ふっと思ったのだけど、あの話とちょっと似てますね」
「あの話?」
「ほら、羽衣石山《うえしやま》の天女の話です。あの天女は、ひたすら天に帰りたいと思いながら、心ならずもいやな男と結婚して、子供まで作りながら、羽衣が戻ってくるやいなや、可愛い二人の娘を置いたまま、天に帰ってしまったでしょう。だけど、その天女が悪女だとは誰も思いませんよ。それより、羽衣を盗んで天女を強引に手に入れた男こそが、悪人だと思います。天女にとって、地上での暮らしがよほどつらくて、どんなにか天に帰りたかったかを思い、同情するばかりです」
「それじゃ、母もそうだと……父の元に行きたくて、優美さんを捨てて別れてきたって言うんですか?」
「そう考えると、すべての辻褄《つじつま》が合うとは思いませんか」
「だけど、それは変ですよ。もしそういうことだったのなら、離婚してすぐに父と結婚しそうなものじゃないですか。もちろん、法律上六カ月は待たなければならないとしてもです。実際に父と母が結婚したのは、六年後のことなのですもの」
「それは結婚できない理由があったからではありませんか?」
「理由って、何ですか?」
「ほら、お祖父《じい》さんがご健在だったでしょう。そしてたぶん、お二人の結婚には強硬に反対されたか、あるいは反対されるおそれがあったでしょうね」
「ああ……」
「それでお二人はじっと待ったのですよ。ことによると、倉吉のどこか――あるいはこの近くのどこかにお母さんはひっそりと暮らして、お父さんと会っておられたのかもしれない。しかし、晴れて結婚することはできなかったのでしょう」
翼は言葉もなく、ぼんやりと考えに沈んでしまった。少し刺激が強すぎたかな――と、浅見は気の毒に思いながら、そういう彼女をじっと見守った。
「悲しい……」と翼は呟《つぶや》いた。
「悲しいけれど、好きです。そういう、両親のそういうところ……」
目にうっすらと涙を浮かべて、どこか遠いところを見つめている。窓の外の、黄ばみ始めたイチョウの色が眸《ひとみ》に映っていた。
やがて翼は涙を拭《ぬぐ》って、力なく言った。
「でも、もしそれが事実だとしたら、母のしたことはやっぱり悪いことだったと思います。どんなに父のことを愛していたとしても、たった二歳の優美さんを捨てて来たことは、許されませんよ。たとえ罪滅ぼしのための遺産を優美さんに残して上げたとしても」
「そう、そのことがね、ちょっと腑《ふ》に落ちませんが……しかし、何かそれなりの理由があるのじゃないかな。わが子を捨てるのは、誰よりもご本人であるお母さんが最もつらいのですからね。そこまでつらい想《おも》いをしなければならない、もっと大きなつらいことがあったのかもしれませんよ」
「そうでしょうか」
「そうですとも。人は、他人のしたことを、簡単に批評したり貶《けな》したりするけれど、当人でなければ分からない何かがあって、それぞれ傷ついているものです。あなたのお父さんの偉いところは、何年ものあいだ、羽衣をなくしていたお母さんをじっと待っていて、帰ってきたら、黙って迎えて、そっと傷を癒《いや》して上げたことだと思うな。その大きな優しさは、たぶん僕なんかには真似《まね》できないでしょうね」
「ああ、ほんと……ありがとう……」
俯《うつむ》いたとたんに、また涙がこぼれた。気の強い翼が、今日はよく泣いた。
玄関に萩原の声がして、翼は慌てて涙を拭った。浅見が立って、玄関に出た。
萩原を従えて、浅見はなるべくゆっくり戻ったつもりだが、萩原は目敏《めざと》く翼の泣き顔に気づいた。
「あっ、先輩、泣かすようなことをしたんですか?」
きつい声で詰《なじ》った。
「ばか、お父さんの書類を見ていて、いろいろ思い出しただけだよ」
「ほんとですか? ならいいけど……大丈夫ですか、翼さん?」
「大丈夫よ。意地悪ねえ、気がつかないふりをしてくれればいいのに」
「そうか、申し訳ない。先輩と違って、どうもそういうところ、人間ができてなくて」
「何を言うか、そういうところもああいうところも、できてないくせに」
「言えてるなあ」
男二人が「ははは」と高笑いをして、翼もようやく、かすかに笑った。
翼が「お茶を入れてきます」と席を立って行った隙《すき》に、萩原が動燃の報告をした。
「職員の追跡調査は、十年前までの分については可能だけど、それ以前のは難しいって言うんですよ」
「なんだ、僕に言ったのとは、だいぶニュアンスが違うな。やはりマスコミに対しては警戒しているのだろうね」
「それと、プライバシーの問題もあるでしょうしね」
「なるほど……十年前っていうと……たしか、ウラン鉱の残土を捨てたのは十二年前の一九八一年までじゃなかったっけ?」
「そうなんですよ。だから、実際上は、追跡調査が不可能という意味です。どうも、その辺り、臭いのですけどねえ」
「となると、初期のころの昭和三十四、五年あたりの分は、まったく話にならないね」
「まずだめでしょうね……えっ? その初期のころのがどうかしたのですか?」
さすがに萩原は敏感だ。油断はできない。
「いや、かりに黄色い土が危険なものだとしたら、そのころから採鉱作業に当たっていた人たちが、もっとも汚染されているはずだと思ってさ」
「ああ、それはそうですね。しかし、あの所長もガードが固いからなあ」
萩原は慨嘆したが、すぐに「なに、いくらガードが固くても、その気になれば調べられますよ。東京の動燃本社には、古い社員名簿も保存されているはずですからね」と、したたかなところを見せた。
「じつは、翼さんの叔父さん――浩三さんに聞いたのだが、ウラン鉱は最初、小鴨《おがも》というところで発見されたのだよ」
「ああ、そんなことがあったそうです」
「なんだ、知っているのか」
「そりゃ、一応、ブンヤの端くれですからね。それに、この辺の人間ならたいてい知ってますよ」
「ところが、僕が人形峠の事務所で見せてもらった資料によると、最初にウラン鉱の露頭が発見されたのは、人形峠のほんの少し手前だったということになっていたのだが。すると、それは間違いなのか?」
「いや、そうじゃなくて、厳密に言うと、小鴨で見つかったのはウラン鉱というより、ウラン鉱石という程度のものだったのじゃないですか。たしかにガイガーカウンターは、かなり高いレベルの放射能を捉《とら》えたけれど、そこ自体には、人形峠のような大規模な鉱脈があるというわけではなかったのだと思いますよ。もっとも、小鴨の少し上流には関金温泉があって、そこも三朝と同様、ラジウム温泉ですからね。まあ、人形峠からあの辺りにかけては、ウラン鉱脈が繋《つな》がっていたとしてもおかしくはないでしょう」
「そうすると、小鴨というところ、人形峠の鉱脈を発見するきっかけになったということなのか」
「でしょうね。だいたい関金温泉も小鴨地区も、美作《みまさか》街道の街道筋ですからね。ガイガーカウンターを積んだジープが、たまたまあの辺を走っていて、偶然、放射能をキャッチする可能性があったとしても不思議はないのです。そこへゆくと、人形峠は当時はあまり交通の便がよくなかったですから、小鴨の発見で勢いづかなければ、積極的に調査に向かう気にはならなかったのじゃないかな」
「なるほど、そういうことか……」
浅見は関金温泉、美作街道――と、心の内で反芻《はんすう》していて、ふとラフカディオ・ハーンを連想した。
「そうか、ハーンが通った道だな……」
「は? 何ですか?」
「いや、小泉八雲が姫路《ひめじ》から松江へ行く時に通ったのが、美作街道だったから、関金宿も小鴨も通ったのだろうと……」
言いながら、浅見はもう少しで「あっ」と声を出すところだった。
翼がお茶を運んで来たが、萩原がいては具合の悪い話だった。
「飯、食いに行きましょう」
萩原が誘った時、ポケットベルが鳴った。
「ちょっと電話貸してください」と、萩原が電話をかけに行った隙《すき》に、浅見は大急ぎで、たったいま思いついたことを言った。
「最初にウラン鉱が発見されて、原燃の事務所ができた小鴨というのは、美作街道沿いにある――つまり、八雲が歩いた道の途中だったのですね」
「ええ……」
翼は浅見の真意を掴《つか》めずに、怪訝《けげん》そうな目を向けた。
「そうですよ。八雲は姫路から津山《つやま》へ上がって、勝山《かつやま》から美作街道に入り、湯原《ゆばら》温泉を通り、関金温泉、小鴨、そして倉吉の西をかすめるようにして由良《ゆら》、中山へと旅して行ったというのが、現在の定説みたいです」
ちょうど勉強したばかりのことなのだろう、翼は得意そうに解説を加えた。
「そこ、歩いてみましたか?」
「ええ、地元ですからね、ゼミの仲間を案内して、車で往復して、ところどころで検証して歩きました」
「ほら、やっぱりそうだ。研究者なら、その道を歩いてみたくなるに決まってます」
「そうですけど、でも、どうして?」
「もしかすると、それが『怪談の道』かもしれないじゃないですか」
「あっ……」
「それがもし、『怪談の道』で、学生の研究対象になっていたとしたら、小鴨か関金温泉辺りに、核開発反対運動の人たちとの接点がありますね。そこで何かが起こったのかもしれない」
翼が困惑して、眉《まゆ》をひそめたとき、萩原が戻って来た。
「いま社のほう、断っておいたから飯、食いに行きましょう。倉吉で唯一、本格的な西洋料理の店を紹介しますよ」
屈託のない調子で言った。
萩原が「西洋料理の店」と言ったのは、萩原らしいジョークかと思っていたら、本当に素朴な昔風の「西洋料理」の店なのには驚いた。店構えはレストランだが、「カレーライス」はもちろん、ちゃんと「ショウガ焼き」や「焼きそば」までがメニューに入っている。頼めばラーメンも出てきそうな店だ。
「倉吉はだいたいこんなもんですよ」と萩原は、なんだか得意そうにさえ聞こえる言い方をした。
倉吉が町から市に昇格したのは、昭和二十六年のことである。その当時は、町村合併が盛んに行われ、人口も増えたのだが、いまやこの辺りもごたぶんに漏れず過疎化が進み、活気も失われたのだそうだ。
「つまらない町でしょう」
翼が申し訳なさそうに言った。
「そうかなあ、僕は静かで好きですよ。仕事のない時は、こういう町でひっそり過ごしたいですね」
「そうなんですよ」と萩原が手を叩《たた》いた。
「京都の大学教授が、倉吉に来た時、いま先輩が言ったのと同じことを言ってました。リタイアしたら倉吉に住みたいって」
メニューの中からスープとフィレステーキを選んで、「今日は僕の奢《おご》りです」と萩原は胸を張った。
「いいのかい、悪いな」
「なに、取材費で落としておきますよ」
大きなことを言うわりには、またポケットベルで呼び出しを食うと、入口近くにあるピンク電話に飛んで行って、何やらペコペコしながら長々と言い訳をしている。
「さっき、ふと思ったのですけどね」
浅見は小声で翼に言った。
「優美さんのお父さん――脇本さんがあなたのお母さんと知り合ったのは、どこだったのでしょうか?」
「さあ……」
突然の質問に、翼は当惑したが、すぐに気がついて、顔色を変えた。
「あっ、もしかして、小鴨とか関金温泉とか……」
「そう、羽衣を盗んだのは脇本氏じゃなかったのかな? それだと、万事、辻褄《つじつま》が合うような気がしませんか」
「でも、脇本さんはもう六十歳ぐらいでしょう。その頃、学生っていうことはないと思うのですけど」
「学生でなくっても、文学散歩や研究サークルみたいなところに所属していたかもしれない。僕の知人の推理作家なんか、ファンと一緒のミステリーツアーとかいうイベントを主宰していますよ」
「そう、ですね……考えられないことはありませんよね」
「お父さんが、お母さんの遺産を渡したくないと言われた理由は、それだったとも考えられます」
「…………」
「優美さんに、それとなく確かめてもらったらどうでしょうか。けさの飛行機に乗ったとすると、もうそろそろ帰宅してますね」
浅見は時計を見て、言った。
「ええ、でも、どういう言い方をすればいいのでしょう?」
「それはあなたに任せます」
「そう言われても……」
翼は苦しそうに身をよじった。その後ろから萩原がやって来て、「まったく、つまらねえことで電話させやがる」と、空威張りの文句を言った。
第四章
優美の悲劇
萩原は翼と並んだ席でステーキを食って、ご機嫌であった。訊《き》かれもしないのに、近頃の自分の仕事ぶりを披露している。中央紙の支局員と張り合って、スクープをものにした話などは、とくに熱が入った。
「そいつは、福岡から飛ばされてきた、出来の悪いやつのくせに、やたら生意気でしてね。このあいだ、評論家が倉吉で講演をやったあとのインタビューで、知ったかぶりして、ここの海岸から朝鮮半島が見えるなんて、いいかげんなことを言うから、笑ってやりましたよ」
「ふーん、見えないのか。見えそうな感じがするけどねえ」
浅見が言うと、急に不安になったのか、翼に「見えないよね?」と確かめている。口ほどには、自信のほうは伴っていないらしい。翼も「さあ?……」と首をひねって、「そんなこと、考えてみたこともないわ」と冷たいことを言った。
洋食屋を出ると、萩原は「倉吉随一の喫茶店」なるものに案内した。打吹《うつぶき》公園に隣接した市役所|脇《わき》の坂を下りたところにある、しゃれた洋館だった。ここはなるほど、洋食屋と違って自慢するだけのことはあった。天井が高く、テーブルの配置もゆったりしている。褐色の柱とアイボリーホワイトの漆喰《しつくい》壁が清潔な感じを与える。店内にはたえずクラシック音楽が流れ、壁面の大きなアイドホールスクリーンに、北欧の森や湖の風景が映し出されて、旅の疲れを忘れさせる。
「どうです、いいでしょう」
案内役の萩原が、自ら堪能《たんのう》していた。
「そうだね」と浅見も賛成した。
「正直言って、倉吉には観光の目玉になるようなものは、ほとんどないと思う。だからといって、むやみに人寄せを目的としたガサツなものを作ったりしないで、その何もないところを売り物にするのがいいと思うな。ひそやかで、しっとりとして、素朴で、清潔で、ここに来て、半日ぐらいぼんやり過ごして、それだけで帰る。物欲しげにセカセカと歩き回ったりしないで、ただひたすらぼんやりして、自分を見つめる場所。これがまさに倉吉にふさわしい文化だと、僕は思うなあ」
「ふーん、さすが先輩、いいこと言いますねえ……何もないのを売り物に。自分を見つめる場所か……」
萩原は急いでメモ帳を出して、書きつけている。コラムのネタにでもするつもりなのだろう。
喫茶店を出て、大島家まで翼を送って行って、そこで三人は別れた。別れ際に浅見はもう一度翼に、「優美さんによろしく、ね」と念を押した。
長生館に帰ると、浅見は『旅と歴史』に電話した。
藤田編集長は浅見の悲観的な報告を聞くと、「何とかならないのかねえ」と不満そうだった。
「僕だって何とかしたいのは山々ですが、現地の情勢を見ると、動燃側が期待するようなリポートは書けそうにありません」
「そう固いことを言わないでさ。適当にいいところだけ取り上げればいいじゃないの。どうも浅見ちゃんは、いまいち融通がきかないとこがあるからなあ」
「いや、それはことと次第によりけりですよ。核開発の問題は、そういういいかげんな気持ちで書くべきじゃありませんよ」
「しかしさあ、それじゃ仕事にならないよ。旅費だってかかってるし、浅見ちゃんにとっても困るんじゃないのかなあ」
「大いに困ります。まあ、日当とまでは言いませんが、旅費分ぐらいは出してもらえるのでしょうね」
「出すって、おれがかい? 冗談じゃないよ。おれはただ、動燃と浅見ちゃんとの橋渡し役でしかないんだから、文句があったら、動燃かDAMの河野氏に直接言ってくれよ」
「分かりましたよ。編集長はそう言うだろうと思っていました。だけど、河野氏は人形峠がそういう状況になっているってことを、知っていたんじゃないのかなあ。黄色い土の騒動を知らないとは思えませんけどね。それで、自分で行くのはいやなもんだから、僕に頼んだっていうことじゃないのですか?」
「いや、それはないだろうよ。動燃の広報から浅見ちゃんにご指名だっていうのは、事実らしい。それに、河野氏はプロモートはするが、ライターじゃないって聞いてるよ」
「そうですか、だったらいいけど。それじゃ、動燃の人だけにでもそういう事情を伝えておいてください。僕は明日、東京に帰りますから」
電話を切ると間もなく、翼からの電話が入った。
「優美さんに連絡しました。おやじに彼女との馴《な》れ初《そ》めを訊くなんて、照れるなって、笑ってました。でも、ちょうど電話しようと思っていたところだから、訊いてみるそうです。たぶん、今夜にもお父さんと会うようになるとか言ってました。どっちにしても、今晩、その結果を電話してくれます」
「そう、それじゃ、電話がありしだい、僕に電話してくれますか。何時でもいいから待っています」
だが、十一時過ぎになってかかってきた翼からの電話は、優美からの連絡がないことを伝えるものであった。
「忘れているのかと思って、こっちから三度、電話してみたのですけど、ぜんぜん出ないのです」
「そうですか。東京の人間は宵っぱりだから、まだ帰宅していないのでしょう。仕方がないから、明日にしましょう。僕は十時ごろここを出ますから、それまでに電話があったら報告してください」
翌朝、十時きっかりに、浅見はフロントから翼に電話した。翼はすがりつくような声で「ああ、浅見さん……」と言った。
「まだ帰ってないみたいです。朝早くから、もう何度も電話しているのですけど」
「おかしいですね、何かあったのかな?」
浅見もにわかに不安がつのった。現金化したか、それともまだ小切手のままかはともかく、優美は五百万の金を所持している。近頃は韓国人の集団暴力スリなどという、物騒なものが横行しているそうだし、不測の事態が起きないとはいえない。
「まあいいでしょう。東京へ戻ったら、優美さんを訪ねてみますよ」
翼を安心させるような口調で言って、受話器を置いた。
ソアラを鳥取駅近くのレンタカー屋で乗り捨てにして、鳥取から飛行機を利用した。この際、飛行機が怖いだの嫌いだのと言っている場合ではなかった。午後三時には自宅に帰り着いた。
「お帰りなさい」と出迎えたお手伝いの須美子に「電話、なかった?」と訊いた。
「ええ、ありませんけど」
「そう……」
浅見は土産と洗濯物が入ったボストンバッグを玄関先に置くと、靴も脱がず、すぐに出掛けた。
脇本優美の住むアパートは、細い坂道を上りきった辺りにあると聞いていた。浅見の家から徒歩で十分ばかりのところだ。だいたいの見当をつけて行くと、道路に数人の人だかりができて、何やら井戸端会議のようなことをしている。ほとんど車の通らない細道だが、人間が通るのにさえ邪魔になりそうだ。
その人だかりの場所が、まさに優美の住むアパートの真ん前であった。アパートの門内を覗《のぞ》き込むようにして、ヒソヒソと囁《ささや》き交わしている。
「何かあったのですか?」
手近なおばさんに浅見が訊くと、恐ろしげな顔をして「人が殺されたのですよ」と言った。
「殺人?……」
けさからの胸騒ぎが的中して、一瞬、浅見は呼吸が停まった。
「それはあれですか、まさか、脇本さんのところでは?」
「えっ? ええ、そうですけど……あの、お知り合いですの?」
おばさんは反射的に身を引いた。他の連中もいっせいに浅見に視線を集中させた。浅見はそこを離れてアパートの門を入った。
せいぜい十世帯程度の、あまり規模の大きくない二階建てアパートだ。坂道に沿った塀際の、一階に優美の部屋があった。門内の庭から直接、部屋に入れる造りになっている。
すでに実況検分は完了したのだろうか。例の黄色と黒のだんだらのロープもないし、住人の通行に差し支えるようなものは何もないが、地面には足跡を採取した石膏《せつこう》の白い痕跡《こんせき》などが、生々しく残っている。建物に近づくと、ドアのノブなどにも指紋採取の痕跡が見えた。
ドアをノックしたが、むろん応答はない。試みにノブを回して、ロックされていることを確かめた。窓にはカーテンが引かれ、人の気配はまったく感じられない。
(何ということだ――)
浅見は暗澹《あんたん》として、しばし天を仰いだ。長生館で鍋《なべ》をつついて、陽気に喋《しやべ》っていた脇本優美が、もはやこの世にいないとは――。薄幸という言葉は、優美のために用意されたもののような気がした。
長旅の疲れがいちどにドッと出たようにうちひしがれて、浅見は踵《きびす》を返した。
野次馬のおばさん連中は、まだこっちの様子を窺《うかが》っていた。その後ろから目つきの鋭い二人の男が現れ、浅見を指差しておばさんたちに何か訊いている。いやな予感がしたとたん、二人は、いままさに門を出ようとする浅見に近づいた。
「失礼ですが、ちょっとお訊きしたいことがあるので、署まで来ていただけますか」
紋切り口調で言って、すばやく手帳を見せた。ふだんなら逃げ出したいところだが、この際は違う。「いいですよ」と浅見は頷《うなず》き、二人の刑事に前後を挟まれた恰好《かつこう》で、歩いて行った。
所轄の滝野川警察署に行くと、刑事課長の小堀《こぼり》が目敏《めざと》く気がついて、「やあ、浅見さん、またですか」と露骨にいやな顔をした。
二人の刑事はギョッとして、浅見と小堀を交互に見て、「あの、課長はこの人、ご存じなのですか?」と訊いた。
「知ってるって……なんだ、そうか、きみたちはまだ来たばかりだったな。名探偵・浅見光彦センセイだよ。同じ町内に住む名士の顔ぐらい憶《おぼ》えておきたまえ」
皮肉たっぷりに言って、「殺しっていうと首を突っ込む、困った人だ」と笑った。
「きみたちも、ぼやぼやして、名探偵に嗅《か》ぎつかれたんだろう。おれはいいけど、ややこしくなっても知らんよ」
刑事は「いえ、そういうわけでは」と弱りきっている。
「違うのですよ小堀さん」と浅見は彼らに代わって、説明した。
「じつは、亡くなった脇本さんとは、ひょんなことから知り合って、偶然、現場を訪れたところだったのです」
「えっ、ほんとですか? だったら話が違うな。ちょっと、応接室へ行きましょうや。きみたちも来たまえ」
小堀は顔色を変えて席を立った。なかば容疑者を迎えたような剣幕である。行く先が取調室でないだけが救いのようなものだ。
「さあ、どういうことなのか、浅見さん、話してくれませんか」
応接室の椅子《いす》に腰を下ろすやいなや、小堀は催促した。たとえ相手が警察庁刑事局長の弟であろうと、場合によっては容赦しないという姿勢だ。
「その前に僕に質問させてください」
浅見は言った。
「ん? ああ、まあいいでしょう」と小堀は鷹揚《おうよう》なところを見せた。
「まず、脇本さんの死亡時刻は?」
「昨夜の十一時から十二時のあいだと考えられます」
「死因は?」
「鈍器による、後頭部殴打。頭蓋骨《ずがいこつ》が陥没しているほどの強打で、ほとんどショック死だったでしょうな」
「やはり強盗ですか?」
「さあ、それは何とも言えないが」
「しかし、額面五百万円あまりの小切手があったはずです」
「ああ、そのことは被疑者も言ってますがね、はたして事実かどうか……」
「えっ、すでに被疑者を特定しているのですか?」
「いや、被疑者は言い過ぎですな。重要参考人というところです」
「それにしても……何者ですか? まさか、父親……」
「そう、父親ですからねえ、まさかと思うのだが……しかし浅見さん、どうしてそこまで知っているんです?」
「いや、彼女が父親に会うと聞いていましたからね。しかし、いくら何でもそんなことは考えられませんよ」
「そうはいっても、親子の言い争う声を隣の住人が聞いております。父親が出て行ったあと、しばらくしてから、娘が追いかけて行った気配もあったと言っているのです」
「えっ? というと、現場はあのアパートではないのですか?」
「違いますよ。平塚神社の境内です。おそらく上中里《かみなかざと》駅へ行く途中、境内で争いになって、殺害に到ったものでしょうな」
「父親は何て言っているのですか?」
「父親は……浅見さん、冗談はよしてくださいよ」
「冗談て?……父親を重要参考人として確保してあるのでしょう?」
「はあ? 何か勘違いしているんじゃないですか? 父親は遺体安置所にいますよ」
「えっ? じゃあ、殺されたのは父親のほうですか?」
「そうですよ……まさか浅見さん、あんた、娘のほうが殺されたと?」
「…………」
浅見は全身の筋肉が弛緩《しかん》するような虚脱感に襲われた。「よかった……」と口には出さないが、安堵《あんど》感も広がった。
「驚きましたなあ、浅見さんは娘が被害者だと思っていたのですか」
「ええ、アパートのドアなんかに、実況検分をした形跡がありましたから、てっきりそうだと思いました」
「そりゃ、娘の供述を裏づけるために、足跡や指紋の採取ぐらいはやりますよ」
「だとすると、警察は優美さんを被疑者として拘束しているのですか?」
「拘束というと語弊があるが、しかしまあ、目下、鋭意取り調べ中です」
「どういうことなのか、状況を教えていただけませんか」
「そうですなあ……」
小堀刑事課長は渋い顔をしたが、これまで何度か、事件捜査で浅見に借りがあることを思い出してくれたらしい。「いいでしょう」と頷いた。
小堀の話によると、事件の発生はけさの六時ごろだったそうだ。毎朝この時刻に、決まって平塚神社の境内を散歩する老人――というより、老人が連れていた老犬が第一発見者であった。
平塚神社というのは、源義家《みなもとのよしいえ》が奥州遠征の帰途、戦勝を祝ってこの地に兜《かぶと》を埋めて、祠《ほこら》を祀《まつ》ったのが起源とされる。神社の拝殿の裏に兜塚と呼ばれる古墳が残っている。
かつての日光|御成《おなり》街道である表通りから、社殿に向かう長い参道がそのまま境内になっていて、参道の入口に平塚亭という茶店がある。団子と豆餅《まめもち》が名物で、浅見の母親の好物でもある。
境内の奥まった辺りに、いくつかの神輿《みこし》倉が並んでいて、脇本伸夫の死体はその裏に隠されていた。通勤・通学にJR上中里駅を利用する住人の中には、神社脇の坂道でなく、わざわざ境内を通り、神社に参拝して行く者も少なくないのだが、死体が彼らの目に止まらなかったのはそのためだ。
老人からの通報で警察が駆けつけ、脇本優美の存在を突き止めるまでは発見からわずか四十分ほどしかかかっていない。老人のポケットに、娘の住所・電話番号を書いた紙片が入っていたからである。
警察はすぐに優美を連行し、被害者の身元を確認する一方、事情聴取を行なった。
脇本優美はショックは見せたものの、比較的冷静で、むしろ父親の死に直面したにしては、冷淡すぎるように見受けられた。刑事の訊問《じんもん》にも落ち着いて応じている。
脇本優美は昨日の午後、鳥取県倉吉から帰京し、栃木県に住む父親に電話している。頼まれた金を渡す段取りを打ち合わせるためだそうだ。そして、まもなく家を出て父親のところへ向かった。
午後七時ごろ、宇都宮《うつのみや》駅近くのレストランで落ち合い、約束の小切手を渡した。そこで食事をしているうちに言い合いになり、その状態のまま、二人は今度は東京の優美の家に向かった。「言い合い」の原因は、優美に栃木に戻れ戻らないの意見の食い違いだったということである。優美によれば、伸夫は娘が男と同棲《どうせい》でもしているのではないかと疑っていて、東京まで同行したのはそれを確かめる目的もあったらしい。そして、その言い合いは列車の中でも続いていたそうだ。
午後十一時ごろ帰宅した優美の家で、もうひと悶着《もんちやく》あってから、伸夫はようやく引き上げた。優美は父親を送り出したあと、どうにも気持ちに収まりがつかず、父親の後を追った。文句のひとつもぶつけてやるつもりだった――と優美は言っている。
しかし、駅への坂道を、かなりの速歩で、ときには小走りになって追ったにもかかわらず、父親の姿は見えなかった。それで諦《あきら》めて帰宅した――というのが、事件当夜に関する脇本優美の供述のあらましである。
「いま、彼女はどこにいるのですか?」
「現在も取調室にいますよ」
「じゃあ、警察は本気で彼女を疑っているのですか?」
「一応、そういうことになりますなあ。けさからの聞き込み捜査で、かなり不利な状況が出てきていますからねえ。たとえば、さっき言った言い争いであるとか、五百万だかの小切手の受け渡しであるとか。それに、父親を追いかけて行った事実は、本人が認めていることでもありますしね。いや、血相変えて走って行ったのを、近所の人間と上中里の駅員が目撃しているのです」
「その五百万ですが、小切手はあったのですか?」
「いや、被害者の所持品の中にはありませんでした」
「だったら強盗ですよ、これは」
「脇本優美もそう言ってますがね、証明する裏付けがないのだから」
「僕が証明します。優美さんがそう言っているのなら、間違いなく彼女は小切手を父親に渡したはずです」
「いや、こればっかりはいくら浅見さんの証言でも、確認が取れない以上、信用できませんなあ」
それに反論する決定的な材料は、浅見は持ち合わせていない。五百万円の「遺産」を父親に渡すのが惜しくなって、争ったあげく、殺害に到った――という結論は、警察の事務的にして冷淡な判断に基づけば、そうなるものかもしれなかった。
「優美さんに会わせていただけませんか」
「そうですなあ……」
小堀はしばらく思案したが、仕方なさそうに「ま、いいでしょう。十分間だけ、特別に許可しましょう」と、恩着せがましい言い方をした。
取調室には二人の刑事がいたが、小堀に耳打ちされて部屋を出た。入れ替わりに浅見が一人で取調室に入った。
「あ、浅見さん……」
脇本優美は折り畳み椅子《いす》の上から、救いを求めるような目で、浅見を見上げた。
「どうも……」
浅見は短く挨拶《あいさつ》して、向かい合う椅子に腰を下ろした。
「一つだけはっきりさせておきます」
じっと優美の目を見つめてから、言った。「僕はあなたに聞いたことを、警察はもちろん、誰にも洩《も》らすことはしません。もしそれが信じられると考えるなら、何もかも正直に話してください。時間は十分間もらいましたが、決心がつくまで、五分間だけ猶予を差し上げます」
優美は脅《おび》えたように視線を逸《そ》らした。
浅見にとって、五分間は短すぎる時間だが、優美にとっては耐えがたいほどの長さだったのかもしれない。まだ二分以上余裕を残して、浅見に向き直ると「どうぞ、訊いてください」と言った。訊かれたことには正直に答える――という意思表示なのだろう。
「まず、東京に帰ってからの行動についてお訊きします。お父さんに連絡したのは、翼さんから電話があった後ですか?」
「ええ、後です」
「翼さんは何て言ってました?」
「父に母との馴《な》れ初《そ》めの頃のことを尋ねてもらいたいって言ってました」
ここまでは翼の言っていたとおりだ。浅見は優美が事実を話してくれるものと信じることにした。
「それで、電話でその話をしたのですね?」
「ええ、しました」
「お父さんは何ておっしゃってましたか?」
「べつに……ごくありふれた恋愛関係だったということです」
「どこで知り合ったとか、そういったことは聞かなかったのですか?」
「ええ、そこまでは聞いていません」
「離婚された理由は何だったのでしょう?」
「離婚の理由は、以前聞いたときには、性格の不一致だと言ってました」
「あなたはそれを丸々、単純に信じたのですか?」
「ええ」
「疑いもしないで?」
「ええ、疑う余地がありませんもの」
浅見の期待を裏切って、優美は完全に心を閉ざした表情になっている。浅見は首を振って、気を取り直して訊いた。
「それ以外に何を話しましたか?」
「いえ、べつに」
「そんなはずはないでしょう。単にお母さんのことを話しただけということはない。たとえば、五百万円の小切手を受け取ってきた話だとか、どこでどう受け渡すか、そういった話もしているのではありませんか?」
「ああ、それはしました」
「ですから、そういったことすべてについて、正直に話してください」
「それだけです」
「脇本さん……」
浅見は世にも情けない顔を作った。
「僕を信じないのなら、これ以上話を聞いてもしようがありません。なぜ隠そうとするのですか?」
「隠してなんか……」
優美は悲しそうに俯《うつむ》いた。
「隠してますよ。第一、翼さん――大島さんのお父さんが亡くなられた話をしてないはずがないじゃありませんか」
「ああ、それはしましたけど」
「ほらごらんなさい。どうしてそう、小出しにしか喋《しやべ》ろうとしないのですか? もう時間がいくらもないというのに」
「…………」
「それで、大島さんが亡くなったことについて、お父さんは何て言われましたか?」
「べつに……驚いて、それはお気の毒だとは言いましたけど」
浅見はついに沈黙せざるを得なかった。これほどまで優美を頑《かたくな》にしている理由とは、いったい何なのか?――その疑惑が頭の中で渦巻いていた。
ノックもなしにドアが開いた。
「もういいでしょう。二分ほどサービスしましたがね」
小堀の面白くもないジョークに催促されて、浅見は黙ったまま取調室を出た。
「どうでした、収穫はありましたか?」
「いえ、何も……しかし小堀さん、彼女に容疑を向けるのは見当はずれですよ。いますぐ帰宅させるべきです」
「いや、そうはいきませんよ。まだ事実関係を正直に喋っているとは思えませんからね。それに、このまま釈放したら、証拠|湮滅《いんめつ》のおそれがある。まもなく捜査本部が開設されるし、そうなったら本庁の指揮下に入るから、釈放するかどうか、主任捜査官どのが決めるでしょう。それまでは勝手なことはできませんよ」
「しかし、彼女は被害者の身内じゃないですか。それを被疑者扱いするのは、マスコミに知れても具合が悪いんじゃないですかね」
「浅見さん、そいつは脅迫ですか? まさかマスコミに流しやしないでしょうな」
刑事課長はギョロリと浅見を睨《にら》んだ。
「とんでもない。ただ、大事に扱ったほうがいいと提案しているだけです」
「分かってますよ。十分丁寧に取り扱うつもりです」
「ところで、家宅捜索の結果はもう出ているのでしょうね?」
「ああ、もうすみましたよ。大して広いアパートでもありませんからね。確かに被害者はあの部屋を訪問して、お茶を飲んだりしていました。その部分については供述どおりのようですな」
「栃木の、被害者の自宅はどうでした?」
「父親の自宅は、べつに家宅捜索の必要はありませんがね、身内の人間や周辺に対する聞き込み捜査は現在行っておりますよ。父親と娘の仲がどうであったのか……まあ、勾留《こうりゆう》するかどうかは、その結果待ちというところです」
「勾留?……」
チラッと窓を見ると、すでに暮色が漂っている。
「そんな可哀相《かわいそう》なことはしないでくれませんか」
「可哀相とか、そういう問題じゃないでしょう。仮にもこれは殺人事件ですぞ」
「しかし……」
浅見は抗議しかけて、やめた。刑事課長の言うことのほうが正しいのは分かりきっている。少なくとも本庁のスタッフにバトンタッチするまでは、「重要参考人」を手放すはずもなかった。
「さて、それじゃ浅見さん、今度はあなたの話を聞かせていただきますかね」
小堀はふたたび応接室に戻って、部下にコーヒーを持って来させた。しっかり腰を落ち着けて訊問《じんもん》する構えである。
浅見は問われるまま、倉吉で出会った脇本優美についての話をした。昔別れた母親の遺産を受け取りに行って、そこで大島翼という義妹とめぐり会い、翼の父親の死を知り、同情しながら帰宅したら、今度は彼女自身の父親が殺されたという。いわば数奇な運命の糸に操られたような一人の女性の話である。ただし、大島昭雄の死に、殺された疑いがあることなどは、もちろん黙っていた。
「なるほど、だいたいのところは、脇本優美の供述と一致しますなあ」
刑事課長はむしろ、一致することが不満であるかのような口ぶりだ。
「してみると、やっぱり五百万を目当ての強盗殺人ですかねえ。娘の供述が嘘《うそ》でないとすると、現実にその小切手が消えているのですからな。もっとも、被害者が五百万もの小切手を所持していたかどうか知っていればの話だが。そうでなければ、たまたま襲った相手が小切手を持っていったことになる」
「僕は顔見知りの犯行だと思いますね」
「ふーん、それはまた、浅見さんの言葉とも思えませんな。こっちが折角、娘の犯行を否定しようとしているのに」
「いや、もちろん彼女の犯行ではありませんよ。第三の人物による犯行だと言っているのです」
「というと、心当たりでもあるのですか?」
「そんなものありませんが、被害者がなぜ平塚神社の境内を通ったのか考えれば、何者かが介在したことを想像できます。だいたい、あそこは夜は真っ暗だし、朝の通勤時なんかは駅へ行く途中、よく利用するけれど、深夜に通るような道ではありませんよ。僕らが子供の頃は、肝試しをしたような場所ですからね。しかも五百万円の小切手を持っていて、慣れない暗闇《くらやみ》を通って行くなんて、常識では考えられません」
「だから、娘と一緒だったら問題ないでしょう」
「まだ言ってる……どうしてもそこから抜けられないのですかねえ」
浅見がオーバーに慨嘆してみせると、小堀は苦笑いした。
「ははは、浅見さんに心配してもらわなくても大丈夫。われわれはちゃんとそれなりに範囲を広げて捜査を展開しますよ。もちろん怨恨《えんこん》の線も含めてね。それと、凶器の問題がありましてね。現場付近から凶器と思われるブツが発見できていないのです。あれだけの強打を加えられるのだから、金属バットか何か、かなりの重量感のあるものが想定されるのですがね。彼女の身辺にそういったものがあった可能性は少ないらしい」
「そうでしょうね、それで安心しました。しかし、しつこいようですが、脇本さんは帰して上げてください。勾留だなんて、あまりにも気の毒すぎます」
「分かりました」
小堀はさほど迷惑そうでもなく頷《うなず》いた。
「もうそろそろ本庁の連中が来る頃でしょう。顔合わせだけしたら、たぶんそういうことになりますよ」
その言葉をせめてもの気休めにして、浅見はようやく席を立った。
その日の夕食のテーブルに、帰宅したばかりの浅見が顔を出すと、雪江はすぐさま「どうだったの?」と訊いた。
「は? いえ、大した問題ではありませんでした」
浅見は急いで答えた。それにしてもさすが恐怖のおふくろだ、どうして、たったいま関わってきたばかりの事件のことを知っているのか――と思ったが、そうではなかった。
「大した問題ではないって、それ、どういうことなの? 人形峠の取材、うまくいかなかったの?」
「あ、はい、必ずしもあれです、満足すべき結果ではなくて、つまり、難しい問題が生じていましてね」
「難しい問題……何なの、それ?」
「じつは、ウラン鉱の残土処理問題が、ややこしいことになっているのです」
浅見は「黄色い土」の騒動を、かいつまんで話した。食事どきにはあまりふさわしい話題ではないのだが、雪江は「ふーん、そうなの……」と、身を入れて聞いている。
「そんなお話、ちっとも知らなかったわねえ。新聞に出ていたかしら?」
「現地の新聞にはかなり大きく取り上げられてましたが、東京あたりでは関心がないのかもしれませんね」
「そうなの……でも、ウラン鉱山が邪魔者扱いされているなんて、変われば変わるものだこと。あの頃は、人形峠の事業所を岡山県と鳥取県のどちら側に建設するか、誘致合戦で大変だったのよ。ウラン鉱石だって、地元の人たちは鉱山からわざわざもらってきて、お風呂に入れて、ウラン風呂とかいって珍重してらしたくらいなのにねえ。なんだか、おかしな話」
憮然《ぶぜん》として言った。夫が大蔵省の課長だった頃、工業技術院の友人に泣きつかれて、予算の復活を世話してやった――という自慢話をしていたほどだから、そのウラン鉱山が「鬼っ子」扱いされるのは心外なのだろう。
「そういえば」と浅見はふと思いついた。
「お父さんの友人だった、工業技術院に勤めておられた方はご健在なのですか?」
「ああ松添《まつぞえ》さん? お元気のはずですよ。今年もお年賀、戴《いただ》きましたもの」
「いま、おいくつぐらいですか?」
「七十五か六か……ひょっとすると喜寿かしらねえ」
「紹介していただけませんか。昔の人形峠が盛んだった頃の話を聞けるかもしれませんから」
「ええいいですとも。浅見の息子が人形峠の取材に行ったなんてことをお聞きになったら、お喜びになるわ、きっと」
あまり「お喜びになる」ほどの魂胆ではないのだが、浅見は「よろしくお願いします」と頭を下げておいた。
それから間もなく、滝野川署の小堀刑事課長から電話で、脇本優美が帰宅を許されたことを伝えてきた。「一応、しばらくのあいだは禁足状態でという条件ですがね」と言っている。
栃木での聞き込み捜査の結果も、優美が父親に殺意を抱くほどの確執は存在しなかったということのようだ。
「宇都宮のレストランの従業員が、たまたま小切手の受け渡しの現場を目撃していて、父親が押し戴いて、ニコニコしていたと言ってましてね。和気あいあいとした雰囲気だったらしい。どうやら五百万円については、しこりがあった形跡はありませんな」
「だとすると、いったい何を揉《も》めていたのでしょうねえ? それも、わざわざ東京まで出掛けて来て……」
「だから、それはあれですよ。男と同棲《どうせい》しているのではないかとか、そういったことをしつこく言われたり、言い返したりしてたのだそうですよ」
小堀は優美の供述をそのまま言っている。しかし(それは嘘《うそ》だ――)と、浅見は電話を切りながら思った。優美と彼女の父親の冷えきった関係は、金策のような用件でもなければ、顔を合わせることすらなかったにちがいない。三十歳にもなった、しかも一度離婚経験のある優美のプライベートなことに、父親が干渉するはずがない。
それにしても、優美は何をそんなに隠す必要があるのだろう?――その疑問はいくら考えても何も思い浮かぶものがなかった。
翌日、浅見は母親の紹介状を持って松添|公一《こういち》に会いに出掛けた。東大の正門前を少し入った、古くからの住宅街に松添の屋敷はある。この辺は空襲にも遭わなかったそうだから、たぶん明治か大正のころに建てられた家に違いない。その屋敷と同じくらいに古そうな老人が松添であった。
「ほうほう、奥さんはお元気ですか。そうですか、よく来られた、ほう、ルポライターをな。そうですか、なるほど、いやあ立派な息子さんですなあ」
大きな家に、老妻と二人だけの暮らしだそうだから、よほど人懐かしかったのかもしれない。雪江の手紙に度の強い遠近両用の眼鏡《めがね》を近づけたり遠ざけたりして、松添はこれ以上はないほどの上機嫌であった。むしろ、あまりにも好々爺《こうこうや》然としているので、これがかつての通産省のエリート官僚か――と、不安になるくらいだ。
「じつは、人形峠のウラン鉱探しのころのお話をお聞きしたくて、お邪魔しました」
「そうですかそうですか。いや、あのときはきみのお父上にすっかりお世話になりましてなあ。何しろわが国の核開発の将来を左右するような重大時期だったのです。終戦から十年そこそこの、物資も何もない時代で、海のものとも山のものとも分からないようなウラン鉱探しですからなあ。そんなものより、ダムを作るか石炭でも掘っているほうが、どれだけ実質的か分からない――などと、誰《だれ》もまともに相手にもしてくれん中で、浅見君だけは理解してくれた。いったんカットされた予算が復活したときは、本当に泣けたですよ。いやあ、思い出しますなあ」
言いながら、松添は涙目になっていた。話に熱中すると、唇の端から涎《よだれ》が滲《にじ》み出る。生きていれば自分の父親もこういう歳《とし》か――と思うと、いささか寂しくなる。
「その当時は、原発反対の運動のようなものはなかったのでしょうか?」
浅見は訊いた。
「原発?……ああ、そのころはまだ、原発といったってどんなものなのか、一般の国民には具体的な知識はなかったのじゃないかな。ただ、漠然と核開発に対するアレルギーのようなものはありましたよ。長崎、広島の記憶が強烈なもんだから、日本人は原子力というと、短絡的に原爆を連想しちまうらしい。人形峠でウランの採鉱が始まると、すぐに反対派の連中が押しかけて、原燃の職員や地元の推進派と揉《も》めたりしていましたな。当時は学生運動も盛んで、しかも先鋭的でしたから、なかなか大変でした。こっちも負けずに警備要員を増強したり、スパイを放って敵を攪乱《かくらん》させたりもしたものです。いやあ、いま思うと、懐かしい気もしますけどねえ」
松添老人は、三十数年前の若き日々を想《おも》う目を天井に向けた。その追憶に水をかけるように、浅見は言った。
「今回、取材に行ってみて知ったのですが、人形峠周辺では現在、ウラン鉱の残土処理が問題になっていました。ご存じでしたか、そのことについては?」
「ああ、多少のことは知っていますよ。しかし、大した問題ではないと理解してるが」
「それがそうでもないらしいのです。京都大学の教授の測定によると、ある個所《かしよ》では、発生するラドンガスから許容量を超える放射線が検知されたとかで、地元には不安が広がっているという話でした」
「そんなもん……」
老人は顔中の皺《しわ》を鼻の頭に寄せるような、苦い表情を作った。
「学者たちはいろいろ言いますよ。無責任に勝手|気儘《きまま》なことを言って、それをまたマスコミが書きたてるから、何も知らない市民は不安になるに決まっている。地元の観光や農作物の評判に悪い影響を与えることなど、少しも考慮しようとしない。しかし、考えてもみなさい、ウラン鉱の残土なんてものは、前からそこにあったものですぞ。いわば自然に存在していたもので、核廃棄物とはわけが違う。それが危険だと言うのなら、ウラン鉱石が埋まっている地方には人が住めないことになりますよ。それがいかに安全かといえば、この僕を見なさい。僕はその頃、ずっとヤマの中にいて、試掘坑に入り浸りだったが、三十数年|経《た》ったいまも、こんなにピンピンしてるじゃないですか。むしろほかの連中より長生きしそうな勢いだ。僕は専門家じゃないから分からないが、経験からいえば、ウラン鉱のお陰で長生きできたと思っていますよ。うちの両親とも、比較的短命でしたからね。だいたい、ラジウム温泉が体にいいなんてことは、誰一人、疑う者はないでしょう。クスリだって、大量に使用すれば毒になる。それを何でもかでも一緒くたにして、毒だ危険だと騒ぐのは間違っているのです」
さすが、人生を核開発に捧《ささ》げ尽くした人間だけのことはある。引退したいまもなお、ウランの話をさせると熱気を帯びてくる。眸《ひとみ》は輝き、唇もキリッと引き締まって、まるで青年のようだ。浅見もつられたように「おっしゃるとおりですね」と言ったが、松添の話を一方的に信じたわけではない。何しろ、相手はウラン鉱山推進派のボス的存在だった人物である。
「ウランが長生きの原因という話は、非常に面白いと思います。そういう体験談を、当時の採鉱作業に従事していた人たちから聞きたいのですが、松添さんはどなたかご存じありませんか?」
「さあなあ、僕も人形峠に関わらなくなって、かれこれ二十年以上になるし……それだったら、動燃に行かれたらどうですかな? あそこには資料もあるでしょう」
「いえ、それが、職員のものはあるのですが、採鉱労働者のものは残っていないのだそうです」
「そうですか、ありませんかな……」
松添は首をかしげた。
「僕の部下だった連中なら何人か知ってはいるが、いずれも役所の人間で、労働者というわけではないし……」
そうして考え込んでいるうちに、松添の顔はただの老人の弛緩《しかん》した表情に戻っていってしまう。浅見は急いで言った。
「いかがでしょうか、その頃の日記や記録にどなたか、名前が残っているようなことはありませんか?」
「そうですなあ、あるかもしれませんな。いちど、調べてみましょうかな」
「ぜひよろしくお願いします」
浅見は頭を低くさげてから、訊いた。
「ところで、当時の反対運動ですが、その人たちの中には女性もいたのでしょうか?」
「ああ、もちろんおりましたよ。ことに若い女子大生なんかが多かった。ことの善悪はともかく、昔の若い人は純粋でしたなあ。近頃はどうです、ジュリなんとかいうダンスホールで、若い娘が裸踊りをしくさって、業者が野球場に五万人だか集めてどうしたとか、それをまたマスコミがはやし立てる。馬鹿なことだとは思いませんか。世界中の笑いものでしょうが。そこへゆくと、あの頃の若い人たちは真面目でしたよ。反対派の連中なんか、あまり分からず屋なので、しょっちゅう怒鳴りあいをしてましたがね、それでもいまどきの馬鹿どもよりは、はるかに立派だ……あ、きみのことを言ってるわけじゃないです。いや、きみのような青年ばかりなら、日本の将来も明るいのでしょうがね」
「はあ、どうも、光栄です」
浅見は思わず首をすくめた。万年居候の実態を知らない相手に褒められても、手放しでは喜べない。
松添老人の話を聞きながら、浅見の脳裏には、人形峠の山並みを背景に、反対運動の旗を押し立てて行く人々の姿が思い浮かんだ。当時のことだから、たぶん粗末な服装で、鉢巻きを締めて、シュプレヒコールなど勇ましかったにちがいない。
その中に大島昭雄も佳代もいたのだ――と浅見は思う。
松添が言うように、ことの善悪はともかくとして、それぞれが純粋に核開発を恐れ、国を憂い、運動に参加していたのだろう。
そういう同志のあいだに恋心が芽生えたとしても不思議はない。ことによると、自らの原爆体験をもとにした強固な信念を抱く佳代の姿には、ジャンヌ・ダルクのような颯爽《さつそう》とした魅力があったかもしれない。考えてみると、ちょうど大島翼の年頃である。翼の美しさになぞらえれば、往時の佳代の様子を彷彿《ほうふつ》させる。大島でなくとも、彼女の雄姿には魅《ひ》きつけられたことだろう。活動の合間、倉吉のしっとりした街《まち》を散策する大島と佳代の姿が、頭の中のスクリーンに映画の一場面のように浮かんでくる。
その佳代は、しかし大島と別れ倉吉を去り、脇本伸夫と結婚した。
なぜなのだろう?――。
これが第一の謎《なぞ》であった。
いや、恋が破れることぐらいべつに珍しくもない。会うは別れの始めというくらいのものである。しかし、その佳代が、脇本とのあいだに優美を産みながら、二年後には脇本と離婚して、さらに数年後、倉吉の大島と再婚したというのだから、どう考えてもふつうではない。浅見は翼に、「羽衣石山《うえしやま》の天女伝説のようだ」と評したが、まったく、羽衣を着たとたんに、別世界へと飛翔《ひしよう》して行ってしまった天女のような転身ぶりである。
佳代という女性がそんなに奔放な性格だという印象は、翼や叔父《おじ》たちの話を聞いているかぎりでは、まったく伝わってこない。いったい何があったというのか?――。
それに、そういう彼女を、当然のごとくに妻に迎えた大島昭雄という人物の考えもよく分からない。自分の愛を振り切って、他の男のもとに去った憎《に》っくき女のはずである。その「罪」を許した寛容は、よほどの愛情でもないかぎりあり得ないことだ。つまりは、そういう大きな愛が彼らのあいだにはあったということなのか。
浅見の知り合いの若い女性に、妻子のある男を恋したあげく、ついに結婚にまでこぎつけたケースがある。その彼女が、いみじくも洩《も》らした言葉が「こんなにも人を愛すことができるものとは、思わなかった……」であった。それを聞いたときは、単なるノロケかと思ったのだが、それほどに切ない愛がこの世にはあるものかもしれない。
松添の家を辞去して、ソアラを置いた駐車場まで歩く道すがら、浅見はいままで知らなかった純愛の世界をかいま見たような、あるいは、常識では計れない妖《あや》しい情念の世界を覗《のぞ》き見たような、奇妙な感慨にとらわれていた。
その日の午後、浅見は東北自動車道を北へ向けて走った。むろん行く先は宇都宮郊外の脇本家である。
いまのところ、警察はまだ脇本と大島家の関係にさほどの関心を抱いていない。脇本伸夫が娘の優美から借用した五百万円が、かつての別れた妻の遺産である――という事実を重視しているのかどうかはともかく、そのことと今回の殺人事件とを結んで考えることは、たぶんしていないはずだ。
しかし、早晩、警察はそのことの重大さに気づくに違いない。二年前に死んだ母親の遺産を娘が受け取って、父親に渡した直後、父親は殺された――。その事実関係を確認するためには、遅かれ早かれ、捜査員が倉吉に飛ぶことになるだろう。そうして、つい最近、大島昭雄が急逝した事実を掴《つか》む。
脇本――佳代――大島と、因縁の糸で結ばれたような三人が、わずか二年ばかりのあいだに、相次いで死んだのである。しかも最後の脇本にいたっては、はっきりと殺害されたものだ。ただでさえ疑り深い警察が、これを単なる偶然と見過ごすことはないだろう。
とはいえ、脇本伸夫の事件が、はたして倉吉の大島夫妻と関わりがあるものなのか、それはあくまでも仮定の話だ。あるとすれば、どういう関わりなのか――。
やはり、どうしても、脇本と佳代との「馴《な》れ初《そ》め」の部分に突破口があるという気がする。そのことについて、優美はごくありふれた恋愛だと言っているけれど、それが真実であろうはずはない。
脇本と佳代の結婚には、何かよほど屈折した事情が背景にあるのであって、その「事情」の束縛から解き放たれたとたん、佳代は羽衣を着た天女のごとくに、ひたすら大島のいる倉吉に向かった――としか、浅見には思えなかった。
脇本家は宇都宮市域の南東のはずれ近く、農村部といっていい辺りにある。ごく最近まではおそらく、一面の田園だったところに、ポツポツと住宅やアパートが浸食してきたという印象だ。その中にあって、脇本家はどっしりした、いかにも古くからの豪農を思わせる佇《たたず》まいである。大きな屋根は黒光りする瓦葺《かわらぶ》きだが、おそらくかつては藁葺《わらぶ》きの堂々たるものだったにちがいない。
道路と生け垣で仕切られた広い敷地内に、大きな母屋《おもや》と小屋、それに二階建ての離家《はなれ》があって、その二階が脇本伸夫の住まいになっていたようだ。
母屋と離家のあいだを、黒ずくめの何人かの男女が行ったり来たりして、忙しそうだ。どうやら今朝方、遺体が戻ってきたらしい。離家に祭壇を設《しつら》え、通夜を執《と》り行う準備にかかっているのだろう。すでに事情聴取のほうは完了したのか、刑事らしい人間の姿はなかった。
母屋の玄関先に応対に出た長兄が、浅見の顔を見るなり、いきなり「あんたも借金取りかい」と訊いた。脇本の死を知って、そのたぐいの連中が押しかけたにちがいない。そうではないと分かってからも、胡散《うさん》臭そうな目は変わらなかった。
浅見が名刺を出すと、裏返してみて、「肩書も何もねえんだね」と言った。
「はあ、フリーのルポライターをやっております」
「ルポライターっつうと?」
「事件記者のようなものです」
「ああ、新聞記者さんかい。そんだら何人か来て、帰って行ったところだ。大して話すこともなかったですよ」
「僕は、脇本さんのお若いころのことがお聞きできればと思っているのですが」
「ふーん、若いころなあ……」
無下に追い返すわけにもいかないと判断したのか、「ま、上がってください」と応接間に入れてくれた。
「まあ、伸夫も若いころは真面目にやってたが、どうもあの女とくっついてからは、ろくなことがなかったようです」
「あの女とおっしゃいますと、優美さんのお母さん――佳代さんのことですか?」
「ああ、あんた優美を知ってんかに」
「東京でお会いしてきました。なんでも、お母さんの遺産をお父さんに渡したのが、今回の強盗に遭った原因ではないかと、ショックを受けておられましたが」
「そうだよ。だからそんな遺産みたいなもんに手を出さなきゃよかったのによ。これはあれだ、あの女の最後の復讐《ふくしゆう》だっぺ。イタチの最後っ屁《ぺ》みたいなもんにやられたんだ」
「復讐?……」
浅見はわざと目を丸くして問い返した。
「というと、遺産をくれたことが復讐だという意味ですか?」
「ん? あ、いや、そういうわけではねえけどよ。まあ、遺産がなかったら、殺されることもなかったんじゃねえかと……」
脇本の兄は、まずいことを言った――という顔をそっぽに向けた。
「それにしても、佳代さんにとって、復讐しなければならないような何かが、過去にあったのですね?」
「まあ、そういうことも言えるんじゃねえかと思ってな」
兄はほとんど投げやりな口調である。
「脇本さんは、かなり強引に佳代さんと結婚されたと聞いたのですが……」と、浅見は相手の表情を読みながら言った。
「復讐とおっしゃったのは、やはり、そのあたりに何かしこりがあったということなのでしょうか?」
「強引て、むしろ強引に押しつけられたのは、こっちのほうだと、伸夫は言っておったけどね」
「押しつけられた――といいますと?」
「まあ、詳しいことは知らねえけど。あれじゃねんけ、その、責任取らされたっつうんかなぁ。伸夫は気の弱いやつで、いやと言えねえようなところがあったし」
浅見にもようやく事情が飲み込めてきた。「というと……」と、吐き出したい唾《つば》を飲み下してから、言った。
「ご結婚されたとき、佳代さんにはすでに子供ができていたというわけですか」
「そうだよ。月足らずで生まれたんだから、調べれば分かっぺ」
「じゃあ、もしかして、優美さんは脇本さんの……」
絶句した浅見に代わって、脇本の兄はこともなげに言った。
「ああ、あれは伸夫の子ではねえと、おれは思ってる。いや、おれらの両親もみんなそう思ってたよ。顔も似てねえもんな。伸夫はそんなことはねえ、おれの子だと言って、血液型を調べたりもしておった。血液型はA型で伸夫と同じだったそうだ」
「佳代さんは何型だったのですか?」
「B型だったっけな。だからおれの子に間違いねえって言うんだけど、そんなもん、血液型は四種類しかねえんだから、たまたま合っていたって不思議はなかっぺ」
浅見は頭がクラクラしてきた。
「もし、優美さんが脇本さんのお子さんでないとすると、誰の子だとお考えですか?」
「そんなもん知らねえよ。けど、あれじゃねんけ。大島とかいう、佳代が再婚した相手がそうじゃねえんけ。今度はじめて知ったんだけど、大島は倉吉の人間だっつうし、伸夫も若い頃は倉吉に行ってたしな」
「えっ、倉吉に行かれていたのですか?」
「ああ、ずいぶん昔のことだけどよ。それまで勤めてた足尾銅山のほうが、あんまし芳しくねえことになって、向こうのほうでウラン鉱山の仕事があるとかで移って行ったんだよ」
「ウラン鉱山?……」
「あんたら若い人は知んねぇんだろうけど、人形峠という山でウラン鉱が発見されて、ひと頃えらい騒ぎだったもんだ。けど、一年か二年で辞めちまったんだよ。伸夫は子供の頃から、長つづきのしない性格だったからなあ」
「それで……」と、浅見は平静を装うのに苦労した。
「その時に佳代さんを連れて、戻って来られたのですか」
「そういうことです。けど、それから間もなく東京へ出て、半年かそこらで赤ん坊を産んだから、倉吉から帰って来た時には、すでにあの女の腹には大島の子供が出来ておったにちがいないね」
「しかし、もし優美さんが大島さんの子だとしたら、佳代さんは離婚されたとき、優美さんを連れて行かれたはずではありませんか。確か、まだ優美さんが二歳かそのくらいの時なのでしょう?」
「いや、それはそんなこと――男親が違うなんてことは言えなかったんじゃねんけ。それに、伸夫はどうしても子どもを手放さねえって言って、頑張ったんだよ。どこまでお人好しなんだかって、みんなの笑い者になったっつうのにな。あげくの果てには、赤ん坊を置いてけぼりにして、さっさと逃げられちまってよ。おかげで仕事も辞めなくっちゃならんねえことになったりして。まあ情けねえもんだ」
浅見はだんだん憂鬱《ゆううつ》になってきた。大島と佳代の関係は、必ずしも純愛物語というわけではなさそうだ。それに、優美と翼は両親とも同じ、正真正銘、混じりっ気なしの姉妹ということになる。優美が心を閉ざしたような態度を取ったのは、そういった過去に触れられたくないからだろうか。
脇本家を出て、ソアラをスタートさせて、浅見は余計なことに関わりあった――という後悔が、ジワジワと胸を浸してゆくのを感じていた。そうでなくても陰湿なラブストーリーは、浅見のもっとも苦手とする分野だ。もし、殺人事件が絡んでいなければ、さっさと背中を向けてしまいたい状況であった。
(しかし――)と、浅見は辛うじて冷静さを維持していた。見えている事物だけで判断することの危険を思わなければならない。
宇都宮の市街地に入ったところの公衆電話で、浅見は倉吉の翼に電話をかけた。
「あっ、浅見さん……」と翼は嬉《うれ》しそうな声を発した。
「もう少ししたら松江に行くところでした。ほんとにグッドタイミング」
「松江……それじゃ、明日から大学へ復帰するのですか」
「ええ、いつまでもサボッていられませんから……あの、それより浅見さん、あれからどうなったのですか? 優美さんに何かあったのじゃありませんか? 電話しても、やっぱり出ないし、浅見さんからも連絡はないし、すっごく心配していたのです」
「すみません」
浅見は電話に向かって頭を下げた。
「じつは、いろいろ大変なことがありましてね、しかし二度ほどお電話したのですが、あなたはお留守のようでした」
「ええ、何度か留守しましたけど……それじゃ、優美さんに何かあったのですか?」
不安そうな声になった。
「そうですか、その様子だと、やっぱりまだのようですね」
どうやら、翼は脇本伸夫が殺された事件のことは知らないらしい。テレビニュースにはならなかったようだし、ローカル紙は他県のニュースはあまり取り上げないから、その可能性はあった。
「まだって、何がですか?」
「じつは、優美さんのお父さんが殺されたのですよ」
「えーっ?……」
悲鳴のような声が受話器から飛び出して、浅見の耳朶《じだ》を打った。
浅見は手短に事件の経緯を話した。五百円のテレフォンカードは、残量が尽きてしまいそうだ。
「いずれあらためて詳しいことをお話しますが、それとは別に、ひとつ聞かせて欲しいのですが、あなたの血液型は何ですか?」
「血液型?……」
思いがけない質問に、翼は戸惑いながら「B型ですけど……うちは両親も私も、三人とも全員B型です。でも、それが何か?」
「いえ……」
浅見は大きく息をついて、「僕もB型ですよ」と意味のないことを言って、「それじゃまた」と電話を切った。電話の残量表示はピタリ「1」を示していた。
大島昭雄も佳代も、血液型がB型だとすると、優美が大島の娘である可能性はゼロだ。そのことを知って、浅見は何がなしほっとするものがあった。
だとすると、優美はやはり脇本伸夫の血を引いていることになるのだが、しかし、伸夫は兄たちの誹謗《ひぼう》中傷に反論するために、血液型の確認をしている。そのことは、とりもなおさず、同時期に佳代と付き合っていた男が脇本以外にもいたということを意味しているのではないだろうか。だからこそ、伸夫は確かめずにはいられなかったのだ。
それに、伸夫が家人に洩らした「押しつけられた」という言葉には、暗に「他の男の女を」というニュアンスが込められているのを感じ取れる。いや、ことによると「他の男の赤ん坊」を押しつけられたとも受け取れる。
少なくとも、伸夫は優美が自分の娘であることに、絶対的な自信を持てなかったに違いない。
またしても浅見は、佳代という女性像が分からなくなってきた。ジャンヌ・ダルクどころか、男どもを手玉に取った傾城《けいせい》の悪女を彷彿《ほうふつ》させる。かといって、大島との愛を貫いたことや、翼の人となりを通じて窺《うかが》い知る美しさや賢さ、それに優美に「遺産」を残した優しさも、一方にある事実には違いない。それを見るかぎり、やはりジャンヌ・ダルク――というより、まるで日本古来の大和撫子《やまとなでしこ》のイメージといっていい。
(所詮《しよせん》、女は魔性の者なのかなあ――)と、浅見の女性観はますますいじけてしまいそうであった。
第五章
美作《みまさか》街道・関金《せきがね》温泉
翌日、浅見はDAMの河野知之を訪問した。人形峠取材は結局、ほとんど実効が上がらなかったのだが、それなりのリポートをまとめ上げた。当初の約束どおり、浅見の目で見たありのままを書いてあるから、内容はどう粉飾しようと、動燃のPR誌に載せられるような代物にはなりっこない。
「なるほど、昨日は、動燃のほうから連絡がありましたが、存外きびしいことになっているのですなあ」
河野はリポートにサーッと目を通して、何度も頷《うなず》いて見せた。
「どうも、お役に立てなくて……」
浅見が言うと、「いやいや」と、首を横に振った。
「それより、むしろ浅見さんに無駄骨を折らせたことを申し訳ないと思っていますよ。原稿料というわけにはいきませんが、取材費プラスアルファーはお支払いします。いや、遠慮しないでも結構ですよ。それくらいの経費はちゃんと見込んでありますから」
この物分かりのよさは『旅と歴史』の藤田編集長とはえらい違いだ。浅見にしてみれば、後半の二日間は大島家で旅費と経費の面倒を見てくれたのだから、本来ならば遠慮すべきなのだが、ネコババを決め込むつもりではなく、ただ何となく話すタイミングを失ってしまった。
「まったく、忙しいあなたに、遠くまで行ってもらったというのに、えらい迷惑なことだったでしょう。しかし、本当のところ、残土処理の問題がそんなに深刻なことになっているとは知らなかったのですよ」
河野はしきりに不明を弁解した。
「やはり、そういう問題は現地に行ってみないと分からないものなのでしょうか」
「うーん、それはあるかもしれませんなあ。動燃側としては、あまり騒ぎ立てたくないでしょうし、実際に大きな公害が発生しているというわけのものでもありませんからね。どっちかといえば、ムードで、何となく核廃棄物とゴッチャにされているようなところもあるでしょう。そんなことより、当面は、青森の六ケ所村の再処理施設の問題のほうが重要なのです。世間もマスコミも、もっぱらそっちのほうに注目していますしね」
「しかし、地元としては、ムードや噂《うわさ》にすぎなくても、ウラン鉱残土問題が発生したことには困惑していますよ。人形峠の麓《ふもと》には三朝《みささ》温泉など観光地もあることですし、名産の二十世紀|梨《なし》など、農産物への悪い評判が立ちはしまいかと、かなり神経質になっているようでした」
「でしょうなあ。だから、むやみやたら、騒げばいいっていうものではないのです。そりゃ、確かに実害が発生しているというのなら別ですがね。たとえば、熊本県の水俣《みなまた》だとか、栃木県の足尾銅山などの場合は、むしろ企業や政府の対応が遅きに失したことは事実です。しかし、だからといって羹《あつもの》に懲りて膾《なます》を吹くようなことになるのは困りものです」
「あ、足尾銅山といえば……」
浅見はあやうく脇本の話を出しかけて、口を閉ざした。そのことに触れると、倉吉での一件すべてを話さなければならなくなって、二日分の取材費プラスアルファーに差し障りが生じかねない。
「足尾銅山がどうかしましたか?」
河野に訊かれて、急いでごまかした。
「いえ、たしか足尾銅山の公害のことは、中学か高校のときに習ったような気がしますが、どんな内容だったか、ぜんぜん憶《おぼ》えていないものですね」
「そうでしょうなあ、古い話ですからね。しかし、われわれの若い頃は、まだ現実の社会問題でした。まったく、足尾銅山の鉱毒事件というのは悲惨をきわめましてね。精錬所から出る亜硫酸ガスで、付近一帯の山林は丸坊主になる、田畑は枯れる、村が一つ全滅したというひどいものです。当時、私は通産省に入りたてで、被害救済の調停などに関わったのですが、若気のいたりで威勢がよくて、地元住民側と派手にやり合ったりしたものでした。もっとも、あげくの果てはノイローゼに罹《かか》って、とうとう役所を辞める羽目になりましたがね」
河野は昔の苦い思い出を語って、泣き笑いのような表情を作った。
浅見はそれからしばらくして引き上げたが、河野の話は頭の中に腫瘍《しゆよう》でもできたように、いつまでも意識のどこかに引っかかっていた。
帰宅して車を置いてから、脇本優美のアパートを訪ねてみた。昨日が通夜で、たぶん今日が告別式かな――と思ったのだが、意外にも優美は在宅していた。
女性一人のアパートに入り込むのは気がひけたが、この際、そんなことを言っている場合ではなかった。優美のほうもまったく意に介さない様子で、ほとんど無表情に「どうぞ」とスリッパを揃《そろ》えた。
木造アパートだが、2DKのマンション形式の、小奇麗な部屋だった。玄関を入ったとっつきが居間兼応接間、奥の部屋が寝室兼書斎になっているらしい。
優美は「お構いできませんけど」と言いながら、それでもインスタントコーヒーを入れてくれた。
「今日は栃木のほう、お葬式ではなかったのですか?」
「ええ、そうですけど、私は行きません」
「えっ、どうしてですか? まさか、警察に禁足を食らっているわけではないのでしょうね?」
「いえ、違います」
「だったらどうして……」
浅見は絶句した。脇本優美という女性が分からなくなった。不仲は不仲として、仮にも父親の葬式ではないか――。
優美は弁解もせず、黙ってコーヒーを啜《すす》っている。浅見も義憤のようなものを感じて、しばらくは物を言う気になれない。気まずい沈黙の時が流れた。
「栃木のお宅へ行って来ました」
浅見が言うと、優美はチラッと視線を向けかけたが、無視するようにまたコーヒーを口に運んだ。そういう優美の頑《かたくな》なポーズを眺めていて、浅見は少しずつ彼女の胸の内が読めてきたような気がした。
倉吉での優美と、東京に戻ってからの優美とでは、まるで人が変わったように見える。気の強さはある程度、分かっていたけれど、こんな風に心を閉ざすのは、ただごとではない。この落差は父親が殺されたショックから来たものかと思えたが、じつはそうではないのかもしれない。
「ご両親の馴《な》れ初《そ》めについて、あなたは単なるありふれた恋愛だと言ったけれど、必ずしもそうではなかったようですね」
「…………」
「お父さんの事件が起きる前ですが、あなたは、ご両親の出会いや離別にまつわる、何か秘密めいたことを、お父さんの口から聞いたのではありませんか?」
「えっ?……」
優美ははっきりと動揺して、真っ直ぐ、浅見の目を見返した。
「あ、やっぱりそうでしたか」
「何のことか分かりませんけど……」
優美は反発するように言って、すぐに目を逸《そ》らした。
「今度の出来事を順を追って考えてみると、どうしても、あなたが何かを隠しているとしか考えられないのですよ」
浅見は優美の頑な気持ちを溶《と》かすような、静かな口調で言った。
「宇都宮でお父さんに五百万円の小切手を渡して、別れるはずだったのに、お父さんはなぜかしつこく東京までついて来られた。そのあげく、言い争いになって、最後には、あなたが家を飛び出して追いかけて行ったほどの騒ぎになった。それについてあなたは警察に、お父さんがあなたの私生活について邪推したり干渉しすぎたからだ――と説明したけれど、そんなことは誰も信じませんよ。警察は、お金のやり取りのことで揉《も》めて、その結果、殺意が生じた――と考えたくらいなのです」
「そんな……ばかげてます。五百万円は小切手で、全額父に渡したのですから」
「そう、ばかげていますね。しかし、あなたの言い訳よりはずっとましだ。もっとも、警察は後で宇都宮のレストランなどを調べて、その疑いが的はずれであることを認めたようですけどね」
「そうでしょう、嘘《うそ》なんかついてないのですから」
「しかし、あなたが言う結婚問題うんぬんのほうは、明らかに嘘ですね」
「そんな……だったら、浅見さんはいったい何だと思っているのですか?」
「答えは簡単です。お父さんは、あなたに、さらに金策を頼もうとしたのです」
「…………」
優美の表情に驚きの色が現れた。
「あの日まで、お父さんはあなたから五百万円をもらうだけで、十分、満足していたはずです。そうではありませんか?」
優美は黙って、小さく頷いた。
「ところが、その気持ちが変わった。お父さんは、あなたに五百万円をもらっただけでは満足できなくなって、もっと大きな遺産を手に入れようと思いついたのですね。そうなのでしょう?」
「そんな……」と、優美はようやく反論を試みた。
「母にはあれ以上……五百万円の預金以外に、遺産なんてありませんよ」
「そうです。しかし、それにも関わらず、あなたが倉吉に行って帰ってきたとたん、お父さんはにわかに欲を出した。それには何か原因がなければならない。それは何かを考えてみたのです。お父さんが欲を出す前と後とでは、いったい何が違っているかを考えれば、その答えは出てきます。要するに、あなたが倉吉に行ったということです」
関係のない人間が聞けば、冗談を言っているように聞こえるが、浅見は真顔だし、優美も笑わなかった。むしろ緊張で頬《ほお》がひきつったような顔になった。
「あなたが倉吉に行ったことで状況が変わった点は何かといえば、大島昭雄さんが亡くなっていたということです。あなたがそのことをお父さんに伝えた瞬間、お父さんの脳裏には、大島家の遺産のことが思い浮かんだのです」
「だけど、そんなもの……」と、優美はこわばった口を開いて、言った。
「私には関係ないじゃないですか」
「そう、あなたはお父さんに対してもそう言ったのでしょう。ところがお父さんは、そうじゃないのだとおっしゃったに違いない。優美さんには当然、大島さんの遺産を受け取る権利があると……」
優美は怯《おび》えた表情で、肩を震わせた。
「いや、心配しなくても、僕は誰にもその話はしないと約束したでしょう。これはあなたと僕だけの秘密にしておきます。もちろん、翼さんにも内緒ですよ」
翼の名を聞いて、「ああ……」と、優美はため息をついた。
「お願いします、翼さんには言わないで」
「はい、言いません。もっとも、実際は翼さんに話しても、べつに構わないことなのですがね」
「やめてください!」
優美は大声を出した。ふいに彼女本来の気の強さが戻ってきたような剣幕であった。しかし、その怒りようを見て、浅見はますます自分の仮説の正しさを認識できた。
「言いません、言いませんが……」
浅見は苦笑して言った。
「脇本さん、あなたは……それにたぶんお父さんもそうだったのですが、勘違いしているのですよ。大島さんがあなたの本当の父親である可能性はまったくないのです」
「えっ、ほんとですか?……」
「ははは、やっぱりそうでしたか。いや、笑ったりしてはいけませんね。謝ります。しかし、安心していいのです。大島昭雄さんもあなたのお母さんも、血液型はB型でした」
「えっ……」
優美は一瞬息を飲んでから、非難するように言った。
「どうして……浅見さんはどうしてそんなことまで調べたのですか?」
「いや、調べたわけではありません。たまたま知ることになったのですが、あなたもお父さんもA型だと聞きました。あなたはやはりお父さん――脇本伸夫さんの血を引いているのですよ」
「いいえ……」と、優美は悲しそうに首を振った。
「それは違いますよ」
「どうしてですか?」
「父が違うと言ったのです」
「ですから、それはお父さんが……」
「いいえ、そういう、勘違いではなく、父はそういう、その……肉体的な欠陥があったのだそうです」
優美は躊躇《ためら》いながら、思いきったように言った。頬を赤らめた彼女を見て、浅見も思わず「ああ……」と視線を逸らした。「肉体的な欠陥」がどういうものか聞き返すことはできなかったが、無精子症のようなことを想像できる。
「本当ですか?」
辛うじて訊いた。
「ええ、本当です。それが離婚の原因だし、だから再婚もできなかったのだって、父はそう言ってました。そのことを私が知ったのは、高校生のころでした。その瞬間、幼いころからの父親とのことがいろいろ頭に浮かびました。よその家の親子とはどこか異質の、何となくギクシャクしたような関係に思えていた理由が、いっぺんではっきりしました。祖父母なんかが、よく『おまえは押しつけられた子だ』と言っていた意味が、はじめて理解できて、むしょうに悲しい反面、いっそすっきりした気持ちでもありました。これからは別の人間として生きていける――と思ったんです」
優美が話し終えると、重苦しい沈黙の時間が流れた。こういう話題となると、浅見は自分のことのようにつらく悲しく、どういう言葉で語ればいいのか、分からなくなる。
「もし」と、ようやく浅見は口を開いた。
「あなたが脇本さんの子でもなく、大島昭雄さんの子でもないとしたら、ほかに本当のお父さんがいることになります」
「それはそうですけど……でも、翼さんのお父さんがB型だったって、それは間違いのないことなんですか?」
「確かめたわけではありませんから、事実かどうかは分かりません。しかし、翼さんが嘘《うそ》を言っているとは考えられないし、勘違いするようなこととも思えません」
「…………」
反論しようとして、優美は結局、何も言わなかった。三十歳にもなって、いきなり自分の父親が誰なのか、疑問を抱かなければならなくなるとは、思いもよらぬショッキングな出来事に違いない。
帰宅すると、兄嫁の和子と須美子が夕餉《ゆうげ》のテーブルを用意しかけているところだった。今夜はすき焼らしい。奥から雪江がダイニングルームに出てきたのと、ちょうど鉢合わせになった。
「おや、タイミングのいいご帰館だこと」
雪江は、風来坊の次男坊に皮肉を言って、「光彦に松添さんからお電話があったわよ。電話をくださいっておっしゃってました」と付け加えた。
浅見はリビングルームへ行って、松添に電話を入れた。
「やあやあ、昨日はどうも」と、老人は機嫌のよさそうな声を出した。
「久し振りに雪江さんのお声を聞いて、昔を思い出させてもらいました。いやあ、お元気そうで何よりですなあ。最後にお会いしたのは、きみのお父さんが亡くなった時だから、何年前になりますかな。えーと……」
黙っていると、いつまでも思い出話にふけりそうなので、浅見は「あの、お電話をいただいたそうで」と、用件を催促した。
「ああ、そうそう、あれから、きみに言われた古い書類をひっくり返していたところ、当時の日誌が出てきましてな」
「えっ、ありましたか」
「ああ、役に立つかどうかは知らんが、もしよければ、明日にでも見に来ませんかな」
「もちろんお邪魔します」
浅見は二つ返事で答えた。
ダイニングルームに戻ると、雪江が待ち兼ねたように訊《き》いた。
「松添さん、何ですって?」
「参考になる資料があるから、見に来るようにということです」
「そう、それはよかったわね。あの方、気さくないい方でしょう」
「ええ、お母さんのこと、ちっとも変わらないで、若いって言ってました」
「おや、そんなことを? いやだわねえ、お電話でお話しただけなのにねえ」
雪江は柄にもなく照れて、妙に若やいだ声で「ほほほ……」と笑った。須美子が何かあったのか――と、キッチンから心配顔を覗《のぞ》かせた。
テーブルにすき焼鍋が載り、肉や野菜の皿が並べられて、浅見は自分の椅子《いす》に坐《すわ》り、意味もなく箸《はし》の位置を直したりした。すき焼という料理に向かうと、いくつになっても、ちょっとした期待感に胸がときめく。
和子が義弟の様子を察して、「光彦さん、お腹すいたでしょう? そろそろ始めましょうか」と、リビングルームにいる子供たちの様子を覗いた。
「陽一郎さんがまだじゃありませんか」
雪江が窘《たしな》めた。
「ええ、でも、パパは今夜も遅くなると思いますから」
「まあまあ、もうちょっとお待ちなさい。せっかくのおいしいお肉なんですから」
母親に落ち着かれては、次男坊たる者、ガツガツするわけにはいかない。甥《おい》と姪《めい》も空腹でないはずはないのだが、彼らは叔父さんほどには、すき焼に対して感激がないらしく、ファミコンゲームに興じている。
浅見は観念して、意識をすき焼から引き剥《は》がすように言った。
「お母さんが昔、小泉八雲の足跡を訪ねて旅をしたというのは、どういうコースを辿《たど》ったのですか?」
「そうねえ、どこかはっきり憶えてないけれど、岡山からたぶん津山のほうへ行く汽車に乗って、バスに乗り継いで、倉吉のそばへ抜けたことだけは間違いないわ。たしか、美作《みまさか》街道を通って、何とかいう温泉で一泊したのじゃなかったかしら」
「関金《せきがね》温泉ですか?」
「ああ、そうそう、そんなような名前だったわねえ。温泉というより、宿場町のような雰囲気のあるところでしたよ」
「それは単なる物見遊山ではなく、八雲の足跡を偲《しの》ぶ、学習の旅だったのでしょう? だとすると、研究テーマとしては、どんなタイトルをつけたのですか?」
「研究テーマのタイトル? さあ、題名は何だったかしらねえ……」
雪江は首をかしげて、懐かしそうな目で、かすかに笑った。
「景色や温泉のことはよく憶えているのに、お勉強のことはすっかり忘れてしまうものだわねえ。それはまあ、真面目な学習のつもりでしたけれど、正直なところ、多少は遊び心もあったことはたしかだわね」
「しかし、一応は研究テーマは掲げたのでしょう?」
「もちろんですよ。いまと違って、昔の学校は素行についてはやかましかったものです。まして女ばかりの学校ですからね。指導の先生もご一緒だったし、きちんとしたものでしたよ。でも、題名は何だったかしら……」
「たとえば、『怪談の道をさぐる』なんていうタイトルはつけませんでしたか?」
「怪談の道って、ああ、八雲の『怪談』のことね。ふーん、しゃれた題名だこと。でも、そんなセンスはその頃はなかったわね。もっとふつうの、『小泉八雲の足跡を辿る』といったようなものですよ、きっと」
雪江はそう言ってから、すぐに付け加えて言った。
「ただ、わたくしたちのその時の旅が、八雲の『怪談』の研究の延長線上にあったことはたしかだわね。八雲といえば、やっぱり『怪談』ですよ。ああいう日本的な伝説を、八雲はきっと、あちこちと旅をする道すがら、拾い集めたに違いないって思って、その道を追い求めたかったのでしょう」
「じゃあ、『怪談の道』というタイトルをつけても、おかしくありませんね」
「そうねえ、いい題名だわねえ。あの頃は堅苦しい発想しか出なかったけれど、いまだったらそう名づけたかもしれない。光彦はお勉強はだめだったけれど、そういう文学的センスだけは、なかなかのものだわ」
雪江は褒めたのか貶《けな》したのか分からないようなことを言って、二人の孫に「さあさあ、叔父様がお待ち兼ねだから、そろそろテレビを消して、ご飯にしましょう」と言ってくれた。
雪江が感心したほどには、「怪談の道」というタイトルが新鮮でセンスがいいとは思えないにしても、いまから三十何年も昔なら、ちょっとしゃれたセンスと言っていいのかもしれない。だとすると、「怪談の道」を掲げて、八雲の研究に勤《いそ》しんだグループがあって、大島昭雄もそのメンバーの一人だった可能性はある。
そして、優美の「父親」である脇本伸夫もそうだったのだろうか。
さらにいえば、大島に「怪談の道」という電話をかけた不審な人物もまた、そのメンバーだったのだろうか。
食後のお茶を飲み終えて、自室に戻ったと思う間もなく、須美子が「電話ですよ」と呼びにきた。あまり愛想のよくない口調で「若い女の方です」と付け足した。
電話は大島翼からであった。「ああよかった、お留守じゃないかって、心配しました」と、ほっとした声で言った。
「僕のほうも大島さんに電話しようと思っていました。しかし、松江のほうの電話が分からないので、困っていたところです」
「だったら電話してくださればよかったんです。まだ倉吉にいるんですよ。ちょっと調べることがあって」
「ほう、何を調べたのですか?」
「父にかかってきた例の電話の『怪談の道』のことです。あれ、ラフカディオ・ハーンの研究テーマじゃないかって言っていたでしょう。そのことを確かめようと思って、父の学生時代のお友達がいないか、ずっと調べていたんです。その結果分かったのは、父は、高校時代の友人は地元にいますけど、京都大学の同窓会には全然出なかったし、もともと学生仲間には、あまり親しくお付き合いしている人がいなかったらしいんです。でも、ようやく一人だけ見つけました」
翼は息を弾ませるように言った。
「大学のときのお友達で、広島大学の教授をしておられる小酒井《こさかい》さんておっしゃる方なんですけど、小酒井教授の話によると、たしかに父はラフカディオ・ハーンの勉強をしていたそうです。ただ、卒論のテーマがそれだったはずなのに、途中で挫折《ざせつ》したのじゃなかったかって、そうおっしゃってました」
「挫折?……どうしたのですか?」
「それは分からないけれど、とにかく、途中でハーンの研究をやめて、違うことを始めたために、一年留年する羽目になったはずだとおっしゃってました」
「それで、怪談の道については何か訊《き》いてみなかったのですか?」
「ええ、そのことなんです。父の卒論のテーマは、もしかすると『怪談の道』というのではなかったですかってお訊きしたのです。そうしたら、テーマがそれかどうかは知らないが、ハーンの怪談の成立過程を実証的に解明するために、ハーンの旅の足跡を辿《たど》るといったようなことを、熱っぽく話していた記憶があるって、そうおっしゃってました」
「ハーンの旅の足跡ですか……」
浅見は、リビングで孫娘に編み物を教えている母親に、チラッと視線を飛ばした。雪江もまた、同じことを言っていたのだ。
誰にしたって、『怪談』に代表される、小泉八雲の「日本風土記」とでもいえるような作品群に興味を抱けば、八雲がいったい、日本のどの地方の、どんな伝承や伝説をもとに、日本人の精神構造の根幹に触れるような物語や評論を書き綴《つづ》ったのか、追及してみたくなるにちがいない。
現に、雪江はそうして、八雲の『盆おどり』のふるさとを訪ねているし、浅見自身、八雲が「地獄」と称した東郷温泉の長生館に泊まったのである。八雲の旅の通過点の一つである倉吉に生まれた大島昭雄が、より深く、八雲の本質を探ろうとしたとしても、不思議ではない。
「やはり『怪談の道』がその研究テーマだった可能性がありますね。問題は、その研究には、お父さん以外にも複数の仲間が参加していたことです」
浅見は「いたかどうか」ではなく、「いた」と断定して言った。
「その仲間の一人が、たぶんお母さんだったのだし、それから、例の電話の主だと思って間違いありませんよ」
「そう……でしょうか」
翼は気負い込んで電話してきたくせに、むしろトーンダウンした口ぶりになった。
「そうですとも」と、浅見は逆に翼を励ますように言った。
「その小酒井教授に、もう少し食い下がって、お父さんの周辺にいた人物の記憶を辿ってもらえませんか」
「ええ、一応やってみますけど、でも無理だとは思いますよ」
「そう諦《あきら》めないで、しつこく頼むことが必要です。人間の記憶っていうやつは、本人の意識の上には上がってこなくても、脳味噌《のうみそ》のどこかに眠っていて、ひょっとしたはずみにチラッと顔を覗《のぞ》かせることがあるものなのですから」
「分かりました、お願いしてみます」
「そうしてください。僕のほうも心当たりを探してみるつもりです」
「心当たりって、浅見さんにも何かそういうあてがあるのですか?」
「ええ、ないこともありません」
「優美さんじゃないのでしょう?」
「ああ、違いますよ」
「優美さんていえば、どんな様子ですか? 大丈夫なんですか?」
「大丈夫みたいですよ」
「みたいって……浅見さん、わりと冷たいんですね」
「あ、いや、そういうわけじゃないけど……彼女はしっかりした人ですから。それより、あなたのほうが心配だったな」
「私は大丈夫……といっても、本当はときどき、ふっと寂しくなりますけど、叔父たちもいるし、私がしっかりしなくちゃって思っています。でも、浅見さんが心配してくださってるって、それ、とても嬉《うれ》しいです。どうもありがとうございます。また電話させてください。じゃあ、失礼します」
最後のほうは、なんだか情緒不安定になったように、とりとめのない口調で言うだけ言って、唐突に電話を切った。
受話器を戻して、浅見はしばらくじっと電話を見つめた。両親を亡くして、広い家に独りでいる翼の気持ちを想《おも》いやった。臆病《おくびよう》な浅見なら、もうとっくに松江の下宿先に逃げ出しているところだ。気丈そうに見える翼だが、つらく悲しくないはずはない。何か彼女を力づけてやることができるなら、そうして上げたいと、心底、思った。
翌日、浅見は松添老人を訪ねた。老人は浅見を客間に通すと、すぐに「資料」を出して広げた。古びた大判の角封筒から、大学ノートとリポート用紙を数枚、取り出した。
「これは昭和三十三、四年当時、人形峠に動燃の事業所が出来て間もないころの記録です。本格的な採鉱が開始されるのに合わせて、反対運動もさかんになりましてね。団体交渉もあれば、個別に説得することもあればで、なかなか大変な騒ぎでしたよ。僕は四十になるかならないかの、まだまだ血気さかんな年代でしたから、相当、頭に血が昇ったようなことを書いている。まあしかし、こうやって読み返してみると、なんだか懐かしい気がしてくるから妙なものですなあ」
手渡された「記録」を開くと、全体的には几帳面《きちようめん》なリポートのように見える。いくつかある試掘坑から出た放射性物質の品位など、専門的な単語や数字の羅列が多いけれど、日常の事務的な事柄や、反対派との交渉の様子を書いた部分もかなりの量だ。頁の中には松添が言うとおり、殴り書きの乱暴な文字が躍っている個所もある。「分らず屋め!」などという、露骨な罵声《ばせい》をナマのまま書いているのは、これが公式の記録ではないことを物語るものだ。それだけに、読み物として見ても興味深いものがある。
文章の中には個人名がいくつも出てくる。当時の松添は動燃の人間ではなく、通産省工業技術院という、いわば政府から派遣された指導者として、初期の事業に参画した。したがって動燃の職員ばかりでなく、地元や反対運動の人々とも接触しなければならない立場だったのだろう。
出てくる名前には動燃側の職員のものもあるが、それは文中に書かれている。それに対して、訪問客――ことに反対運動の交渉相手と思われる人々の名前は、きちんと一行に一人ずつ、職業や住所まで書いてあった。
浅見はリポートを読みながら、記録の中に「大島昭雄」や「脇本佳代」の文字がないかと、目を大きく見開いて大学ノートの頁を繰った。もっとも、そのころまだ大学生だった大島や佳代のような若い連中が、交渉の表舞台に名前が出るほどの活動をしていたとは、ちょっと考えられない。
「ははは、だいぶ熱心ですな」
松添は笑った。
「ご覧のとおりのひどい内容なので、他人に見せるのは気がひけるのだが、まあ、三十年以上も経っているのだから、そろそろ時効でしょう。必要なら持って帰って、じっくりお読みになったらどうかな」
「えっ、貸していただけるのですか? ありがとうございます。では……」
浅見は松添の気が変わらないうちにと、書類を元の封筒に戻すと、大急ぎで引き上げることにした。
自宅に帰ってから、ふと、大島佳代の旧姓は「脇本」ではないことに気がついた。これでは、たとえ松添の記録に名前があったとしても、分かるはずがない。
優美に電話して訊《き》くと、旧姓は「村中」だという。「母の旧姓がどうかしたのでしょうか?」と、優美は気掛かりそうに言った。
浅見は三十何年か前の、人形峠での騒動の話をした。
「その記録に、もしかするとお母さんと、大島昭雄さんのことが出ているかもしれないと思いましてね。たぶん、あなたのお母さんはジャンヌ・ダルクだったのだから」
「そうでしょうか、出てるでしょうか」
記録に残っていればいたで、優美にとっては気掛かりが一つ増えるだけなのかもしれない。
自室にこもって本格的に記録を読み始めたが、「大島昭雄」「村中佳代」の名前はなかなか見当たらない。やはり反対運動としては「その他大勢」の一人にすぎなかったのだろうか。それに、松添の文字は細かくて、崩し文字が多く、むやみに読みにくい。その日その時に会った人物の名前を文中に綴《つづ》っているので、一文字一文字、ちゃんと目を凝らして読まないと、うっかり読み飛ばしてしまうおそれもあった。
そうして、大学ノートの終わり近くになって、「村中佳代」の文字が目に飛び込んできた。
ほとんどの名前は苗字《みようじ》だけなのに、佳代の名前だけがフルネームだったのは、やはり相手が女性だったことと、美貌《びぼう》に松添が目を惹《ひ》かれたせいらしい。「きれいな顔をして、厳しい言葉を吐く」と書いてあった。
その日の交渉団には学生の肩書の者が多かったようだ。「京大生」「広大生」などという文字が見える。しかし京大生だったはずの大島の名前はなかった。「村中佳代」には肩書がないのは、単に書かなかっただけなのか、あるいはすでに学生ではなかったという意味かもしれない。
京大生の名前は「橋爪良雄《はしづめよしお》」。
浅見は翼に電話して、広島大学の小酒井教授にその人物の所在を教えてもらうよう頼んだ。翼からその返事が来たのは翌日のことである。
「橋爪さんという方は、東京にいるのだそうです」
「東京?」
「ええ、橋爪さんは父や小酒井教授と親しかった一人ですけど、中途退学したので、同窓会名簿には載っていないそうです。ただ、何年か前、たまたま消息が分かったとおっしゃってました」
「で、東京のどこにいるのですか?」
「住所ははっきりしないけれど、目黒駅近くで、『爪《つめ》』という、小さなコーヒー屋さんをやっているそうです。でも、その人が今度の事件に何か関係があるのですか?」
「いや、そうではないけれど、ちょっと昔のことを調べてみるだけです」
浅見はそう言って電話を切ったが、事件の核心に迫りつつある予感のようなものが、胸の奥で疼《うず》いていた。
山手線《やまのてせん》目黒駅周辺は、バブル全盛期に急速に再開発が進んだが、その終焉《しゆうえん》も早かった。したがって、開発に乗り遅れた裏街には、古びた雑居ビルがそのまま残っている。
そういう古いビルの一階に、パリの裏通りにありそうな小粋な下げ看板の「爪」の字を見つけた。間口が二間ばかりの小さな店である。緑色のペンキが剥《は》げかけたガラス窓が、なかなか渋い感じだ。同じ緑色の木枠に切子ガラスの嵌《は》まった扉を押して、浅見は店に入った。
カウンターの中から「いらっしゃい」と、眠そうな男の声がした。五十代なかばくらいだろうか。白いワイシャツに黒ズボン、蝶《ちよう》ネクタイのきわめてスタンダードなマスターのスタイルである。
客はただのひと組、中年のアベックが、いちばん奥の薄暗いところで、何やら深刻そうにボソボソと話し込んでいる。
浅見はカウンターに坐った。ウェートレスはいないらしく、マスターが自らグラスの水を出した。浅見が「コーヒーを」と言うと、「今日はモカにしなさい」と、ほとんど命令するように言った。何となく、寿司《すし》屋のおやじが「コハダのいいのが入ったよ」と客に勧めるのを連想させた。
パーコレーターをコポコポとさせて、手際よくコーヒーが出されるまで、浅見は黙ってマスターの手元を眺めていた。
通ぶる気はないから、浅見はいつもどおりに砂糖を入れ、液体の中でグルッとスプーンを回してから、ミルクを静かに落とす。ミルクがコーヒーの表面で渦を巻き、螺旋《らせん》状に縞《しま》模様を作ってゆくのを見るのが、コーヒーの味覚を楽しむのと同じくらい好きだ。
あとは掻《か》き回したりしないで、小さく音を立てて啜《すす》るように飲む。母親には「下品だこと」と眉《まゆ》をひそめられるが、そうするのがいちばん旨《うま》いのだから仕方がない。もっとも、ここのマスターがどう思うかは、少し気になった。
マスターは客が通であろうとなかろうと関心がないのか、それとも最初から、コーヒーの味の分からないダメな相手と見極めているのか、そっぽを向いて何も言わない。
「お店の『爪』というのは、マスターの名前から取ったのですね」
浅見はおもむろに切り出した。
「そうですよ」と答えて、マスターは怪訝《けげん》そうに浅見を見た。はじめて見る顔だが――という目である。
「橋爪さんは、京大出身だそうですね」
「いや、そういうわけじゃないが……えーと、どこかで会いましたかね?」
「いえ、初対面です」
「じゃあ、誰かに聞いたのですか?」
どこのおしゃべり野郎が――と言いたげな、不愉快そうな顔だ。
「小酒井さんです。広大教授の」
「えっ、小酒井……ほう、あいつと知り合いなのですか?」
「間接的な、です。直接の知り合いは大島さんです。倉吉の大島さん」
橋爪は一瞬、ギョッとして振り向いたが、すぐにそ知らぬ様子を装ってグラス磨きをつづけながら言った。
「大島を知っているのですか」
「知っていると言っていいものかどうか……生前の大島さんとは会ったことがありませんから」
「生前?……」
今度こそ無視しきれなくなったのだろう、グラスを置いて、こっちに向き直った。
「というと、大島は死んだのですか?」
「ええ、半月ほど前のことですが、じゃあ、ご存じなかったのですか?」
浅見は橋爪の目の奥を見透かすようにしながら、言った。それに気づいて、橋爪はスッと視線を逸《そ》らせた。
「いや、知らなかったですね。そう、大島が死にましたか……しかし、そうするとあなたは大島とはどういう?」
「その大島さんの死に疑いを抱いている者です」
「ん? 疑い?……えっ? じゃあ、大島は……大島は何で死んだのです? まさか、殺された……」
真意なのか偽装なのかはともかく、橋爪の驚愕《きようがく》ぶりは相当なものであった。その気配を感じたのか、奥のアベックがチラッとこっちを見た。
「医師は病死と診断しましたが、その疑いがあると、僕は思っています」
浅見は声をひそめて言った。
「あなたが? どうしてですか?」
「根拠はべつにありません。勘のようなものです」
「勘? ははは、なんだ、そうですか」
「しかし、疑うに足るものがあると信じています」
「ふーん、何をもってそう疑うのか知りませんがね、それはどうですかな。医者が病死と診断したのなら、そっちのほうが正しいと思いますよ。たしか、大島は心臓が悪かったはずですからね」
「えっ、そんな病歴があることをご存じなのですか?」
「ああ、昔ね。ちょっとしたショックで心臓発作みたいなことになって、病院へ運び込む騒ぎになった記憶があります」
「昔というと、いつごろのことですか?」
「だから、あれですよ、人形峠……いや、まだ学生だったころですな」
「人形峠の動燃事業所ができたころのことじゃありませんか? たしか、大島さんも橋爪さんも、反対運動に参加しておられたとか聞きましたが」
「ああ、まあ……あなた、生前の大島は知らないと言ったが、そんなことまでよく知ってますな」
橋爪は浅見の意図を探るような目をした。浅見のほうは、その橋爪の目の奥にある、心理の動きを覗《のぞ》くように視線を注いだ。
「発作を起こしたとすると、やはり、核開発反対闘争の時でしょうか」
「そうだったかもしれません」
「どんな状況だったのですか?」
「どんなって……もう忘れちまったですよ」
「でも、病院へ運び込んだのは橋爪さんなのでしょう?」
「それはそうですがね」
「発作の原因は何だったのですか?」
「原因というより、もともと、心臓に欠陥があったようですよ」
「しかし、発作を起こすには、何か直接のひきがねになるようなことがあったはずです。さっき橋爪さんは、ちょっとしたショックと言われましたが、どんなショックだったのですか?」
「さあねえ、過労か何かじゃなかったですかねえ」
「過労はショックとはいえないでしょう」
「それはそうだが……とにかく三十年以上も昔のことです。忘れましたよ」
「いえ、あなたは忘れてなんかいませんね。ちゃんと憶《おぼ》えているはずですよ」
「どうして……」
橋爪は露骨に不愉快そうに言った。
「あなた、何が言いたいのですか?」
「本当のことを知りたいだけです」
「本当のことを言っているじゃないですか。嘘だと思っているのは、あなただけでしょうが。しかも何の根拠もなしにそんな一方的な話をするのは、迷惑なことだ」
「それではお訊きしますが、橋爪さんが大島さんに最後に会われたのは、いつのことですか?」
「ん?……」
橋爪は目の端で浅見を捉《とら》えて、ふてぶてしく苦笑した。
「何だ、今度は犯人扱いでもするつもりですか。あなた、刑事ではなさそうだが、何者なのです?」
浅見は名刺を出して、「フリーのルポライターをやっている者です」と言った。
「ふーん、ルポライターがどうしてそんな話を持って来たのです?」
「じつは、大島さんのお嬢さんの友人なのです」
「お嬢さん……」
橋爪の目の中に、微妙に揺れるものがあった。何か特別な感慨が、彼の胸をかすめたにちがいない。
「お嬢さんのことはご存じないのですか?」
「ああ知りません。そうですか、大島には娘さんがいたのですか」
「翼さんといいます。その翼さんが、お父さんの死に疑惑を抱いたのです」
「なるほど、それで私のところに来たのですか。だとしたらお門違いですな。私は大島とは、さっきも言ったとおり、三十年以上も昔に会ったきりです。それに、ここ半年ばかり、東京を離れたことはありませんよ。もっとも、それを立証しろって言われたら、かなり難しいですがね」
「僕はべつに、あなたに大島さん殺害の疑惑を抱いているなどとは、ぜんぜん言ってませんが」
「ん? ああ、そうでしたか。どうも先回りしてしまう癖があって……」
橋爪は頬《ほお》の辺りにほんの一瞬、ニヒルな笑みを浮かべた。
「ところで」と、浅見は話題を変えることにした。
「橋爪さんは大島さんの奥さんをご存じでしょう?」
「いいや、知りません。なぜそんなことを訊くのかな?」
とぼけているとは思えない、本当に不思議そうな目をした。
「橋爪さんがよくご存じの人です。旧姓村中佳代さんですよ」
「えっ、村中佳代、さんが?……まさか、そんなはずはないでしょう」
「どうしてですか? 佳代さんが大島さんの奥さんになるはずがないとは、どういう理由でそう思われるのですか?」
「いや、それは……しかし、それはおかしいなあ」
「橋爪さんがそう思われるのは無理がありません。事実、橋爪さんが知っているころの佳代さんは、脇本という人と結婚したのでしょうからね。しかし、結婚して三年ばかり経って、佳代さんは脇本さんと別れたのです」
「ふーん、そうですか」
橋爪は首をひねって、「その、大島の娘さんというのは、いまいくつですか?」
「二十歳か、二十一歳か……いま大学の三年ですから、そのくらいだと思います」
「二十歳……」
「もちろん大島さんとのあいだに生まれたお嬢さんです。ただし、佳代さんには前のご主人――脇本さんとのあいだにも、優美さんというお嬢さんがいますが」
「そう、ですか……」
橋爪は、この件については浅見の話を納得できたらしい。それらの事実を反芻《はんすう》するように、何度も頷《うなず》いてから、ふいに不安そうに言った。
「それで、彼女は大島の死について何て言っているのです? 佳代夫人――いや佳代未亡人というべきですか」
「いえ、未亡人ではありませんよ。佳代さんはすでに二年前に亡くなっているのです」
「えっ、そう、そうなのですか、亡くなったのですか……」
橋爪は痛ましそうに眉《まゆ》をひそめ、そのくせどことなく安堵《あんど》したような様子を見せた。そういう、いくつかの仕種《しぐさ》を通じて、浅見は橋爪が基本的には嘘の言えない人物であることを、信じていいと判断した。
「橋爪さんは怪談の道をご存じですか?」
浅見はようやく本題に触れた。とたんに、橋爪は強い警戒の色を示して、能面のようなマスターの顔に戻ってしまった。
「カイダンの道?……何です、それは?」
その答え方で、浅見はかえって、橋爪に何か思い当たるもののあることを感じた。いったいこの男を信じていいのかどうか、また分からなくなった。
「大島さんが、卒論にハーンの『怪談』の研究を手がけていたこと、橋爪さんがご存じないはずはないでしょう。小酒井さんもご存じだったほどですから」
「ああ、そういえばそんなことがあったかもしれないが、あまりよく憶えてはいないですねえ。私は大学をドロップアウトしたクチですからな」
「そうだそうですね」
「ふーん、小酒井はあなたにそんなことまで喋《しやべ》っているのですか」
「いえ、何でもかんでも小酒井さんに聞いたわけではありません。それは、いろいろ調べて分かった中の一つです。ほかにも、橋爪さんや大島さん、それに佳代さんたちが人形峠の闘争に参加されていたことなんかもすべて調べました」
「…………」
橋爪は虞《おそれ》を帯びた目を浅見に向け、身を反らせた。それを追いかけるように、浅見は言った。
「それで、あらためてお訊きしたいのですが、その当時、人形峠でいったい何があったのですか? 大島さんの心臓発作の原因は何だったのですか?」
「帰ってくれませんか」
ふいに橋爪は険しい顔をして、言った。それから、奥のアベックにも「すみませんが、店を閉めるので帰ってください」と言った。アベックは「何だよ……」とブツブツ言いながら立ち上がった。レジのところで金を払おうとする客に、橋爪は「いや、コーヒーはサービスします」と頭を下げた。
浅見は席を立たなかったが、橋爪はさっさと窓にカーテンを引き、扉に「準備中」の看板をぶら下げた。
「さあ、帰ってもらおうか」
橋爪は冷やかな語調で言って、ドアの方角を指差した。店を閉めれば客ではないということか。
「まさか、脇本さんを殺したのは、橋爪さんじゃないでしょうね?」
浅見はカウンターを向いたままの姿勢で、笑いを含んだ声で言った。
「なんだって?……えっ? 脇本が殺された? いつ、どこで?」
橋爪は、途切れ途切れに掠《かす》れた声を発した。浅見が振り返って顔を見たときには、いくぶん平静を取り戻したあとだったが、その取り乱し方には、浅見のほうがかえって驚かされた。
「えっ、橋爪さんはその事件、知らなかったのですか? 新聞にも出たはずですが」
「いや、知らない……新聞は、そういう話は読まないのでね」
橋爪は苦しそうに顔をしかめて、そっぽを向いた。しかし、浅見の持ち出した新しい話には関心以上のものを感じたのだろう。もはや出て行けよがしな言葉を言うつもりはないらしい。
「あなた、浅見さん、こっちへ来て、その脇本が殺された事件というのを、詳しく聞かせてもらえませんかね」
橋爪は浅見にテーブルのほうに来るように指差して、妙に弱々しい口調で言った。
「ええ、いいですよ」
浅見は言われるまま、店の真ん中のテーブルに向かって坐《すわ》り直し、脇本の死にまつわる話をした。
橋爪はうんうんと頷きながら、浅見の話をおとなしく聞いた。浅見は脇本が殺された事件そのものだけをピックアップして話したのだが、それでも橋爪には重すぎるくらい深刻な内容であったにちがいない。
「そうですか、脇本が殺されたか……」
浅見の話が終わると、そう言ったきり、考え込んでしまった。浅見は根気よく橋爪のリアクションを待ったが、テーブルの上の一点を見つめたまま、動こうとさえしない。
「不思議ですね」と、浅見はついに苦笑しながら言った。橋爪は「はっ」と気づいたように顔を上げた。
「何が、です?」
「いえ、橋爪さんが何もお訊きにならないことがです」
「…………」
「ふつうなら、たとえば、脇本さんを殺したのは誰なのか、とか、なぜ殺されなければならなかったのか、とか、疑問を抱きそうなものだと思うのですが」
「それは、ああ、まあ、そういう疑問はありますけどね……じゃあ、浅見さんは知っているのですか?」
「いいえ」
「でしょう、知らない人に訊いても仕方がないじゃないですか」
「そうでしょうか。僕は違う理由で質問しないのかと思いましたが」
「違う理由とは?」
「つまり、橋爪さんは犯人の心当たりがあるっていうことです」
「まさか……どうして私が犯人を知っていなければならないのです?」
「さあ……」
浅見は小首をかしげて、橋爪の顔を眺めた。べつに射すくめるように見たわけではないけれど、橋爪はすぐに目を逸らした。
「橋爪さん、しつこいようですが、三十三、四年前の人形峠……いや、ひょっとすると倉吉か、それとも関金温泉辺りかもしれませんが、そこでいったい何があったのか、教えてくれませんか」
嘆願するような浅見の言い方に、橋爪は当惑げに眉をひそめただけだった。
もはや浅見には、橋爪の口を開かせる決定的な材料や武器は何もなくなった。刑事でも検事でもヤクザでもない以上、恫喝《どうかつ》も拷問《ごうもん》もできない。ただひたすら、「証人」の自発的な協力を待つほかはなかった。そして、その可能性はあると浅見は思っていた。
貝のように閉ざされた橋爪の口許《くちもと》や、悩ましげに宙を彷徨《さまよ》う目の動きに、橋爪の動揺する想いが表れている――と信じて、浅見は待ちつづけた。
店の壁にアンティークな時計がかかっている。ちいさなくすんだ窓の中で振り子がせわしなく揺れる。長針が短針を追い越して、目盛りを六つ行き過ぎたとき、橋爪はようやく顔を上げた。
「人形峠で何があったのですか?」
浅見を見つめて、ポツリとそう言った。
「は?」と、浅見は面食らった。自分の問い掛けをそのまま返されたようなものだ。
「それは僕がお訊きしていることですが」
「ああ」と、橋爪は笑いもせず、「昔のことでなく、最近、人形峠で何かがあったのではないかと思ったものだから」と言った。
「それは……どうしてそう思われるのですか?」
「いや、何かが起きてなければ、説明のつかないことなのです」
「説明がつかない――とは、何がですか?」
「大島の死や、脇本が殺されたこと」
まるで禅問答のようだ。かといって、べつにはぐらかそうという、意地悪や悪意があるわけではないらしい。浅見は脳味噌《のうみそ》をフル稼働させて、橋爪の質問の意味を分析するとともに、人形峠で何かがあったかどうか、風景のあれこれを思い浮かべた。
「ああ……」
思いつくまで、ほんの一瞬といっていい時間だったかもしれない。
「人形峠というわけではないですが、いま倉吉周辺では、ウラン鉱山の残土が問題になっていますよ」
「残土?……」
「ええ、採鉱したあとの残土から、高濃度の放射能が検出されたとかで、その処理問題で鳥取県と岡山県側とのあいだで、かなり揉《も》めています。鳥取県側は人形峠の処理施設に運び出したいと言うし、岡山県側は引き取れないと言って、譲らないようです。いずれにしても堆積《たいせき》したものを掘り起こして、袋詰めにするか、移動することになるとかいう話でした」
「そうですか」
橋爪はため息をついた。言葉には出さないが、「やはり」という気持ちが伝わってくるような表情である。
「何なのですか? その残土の問題と、大島さんや脇本さんの事件とのあいだに、何か関係があるということですか?」
「分かりません。分かりませんが、ほかに人形峠で何事もなければ、そういうことになるのでしょう」
「そういうことって、どういうことなのですか?」
「いや、それは言えません。いずれ分かることかもしれないが、まだ言えません」
橋爪は立ち上がり、静かな仕種《しぐさ》でドアの方角を示すと、「どうぞ、お帰りください」と言った。
「帰りますが、その前に肝心なことを聞かせてくれませんか」
浅見は席を立たずに、言った。
「肝心なこと? 何ですか?」
「脇本さんのことです。橋爪さんと脇本さんはどういう知り合いなのか、お話をしながら、じつはずっと不思議でなりませんでした。僕の知識だと、脇本さんは足尾銅山から人形峠に移ったはずですから、動燃側の人間で、橋爪さんたち反対派の人々とは、いわば仇《かたき》同士だったはずです。その脇本さんと付き合いがあって、しかも、佳代さんにいたっては結婚までしている……」
話しているうちに、浅見は「はっ」と思い当たるものがあった。
「もしかすると、脇本さんは動燃側が放ったスパイだったのじゃありませんか?」
「ほうっ……」
橋爪の面上に、何度目かの驚きの色が浮かんだ。
「そんなことまで、よく調べましたねえ。しかし、脇本はスパイではありませんよ。彼が動燃の従業員であることは、われわれは最初から知っていましたからね」
「そうですか……だとすると、どんなお付き合いだったのですか?」
橋爪は視線を壁の時計に向けた。単調に揺れる振り子の向こうに、懐かしい記憶を求めるような目であった。
「あの頃、われわれは関金温泉の古い湯治宿に泊まっていましてね」
いままでとは明らかに違う、まるで老人が思い出話をするような、訥々《とつとつ》とした語り口で言った。
「暑い夏の盛りで、昼間は抗議行動で騒ぎ回り、夜は相手構わず議論をふっかけるような毎日でした。そうそう、むやみに蚊が多いのには閉口しましたなあ。それに、懐の寂しい連中ばかりで、イモばかり食っていましたよ。大島は倉吉の素封家の息子で、頼りにしていたのだが、親父さんの勘気に触れて、家に寄りつけない状況なものだから、むしろわれわれのところに居候しているような有様でした。その同じ宿に、村中佳代さんもいたし、脇本もいたのです」
橋爪は遠くを見る目をして言葉を途切らせたが、浅見はじっと動かずに、話のつづきを期待した。その期待に応《こた》えるように、橋爪は口を開いた。
「そんな殺伐とした日々の中では、疲れて帰って、イモを食って、温泉に浸《つ》かるのが、唯一の楽しみのようなものだったが、大島だけはよく勉強していました。むしろ、やつのラフカディオ・ハーンの研究にとっては都合がよかったのかもしれない。ひまがあると、近くに出掛けて行っては、地元の古老を訪ねて聞き書きなんかをしていました。おまけに、佳代さんという同好の士がいることも分かった。村中佳代さんは、当時、広島大学に在学していて、やはりハーンをやっていたのです。大島と佳代さんは意気投合したし、たがいに愛しあうようになった。もっとも、近頃とはちがって、真面目なというか、いわゆるプラトニックな恋愛でしたがね。それでも、私の目から見ると、大島の生真面目さはじれったいほどのものでしたよ。何といっても、佳代さんは美人で、若い連中の憧《あこが》れの的でしたからなあ。そのうち、誰かに横取りされなきゃいいがと思っていたのだが……」
橋爪は目を瞑《つむ》り、嘆かわしそうに首を横に振ってから、言葉を継いだ。
「大島の影響で……というより、佳代さんの魅力が目当てだったのかもしれないが、しだいに、その二人を囲む、小泉八雲の研究会のようなものが出来ましてね。学生ばかりでなく、同じ宿にいる支援の仲間や、脇本のような動燃の連中までもが参加するようになった。大島を講師に仕立てて、主に『怪談』をテキストにして、八雲の著作に見る日本人の心の問題を話し合ったり、休みの日ごとに、八雲の足跡を訪ねて、美作《みまさか》街道を歩いたりしたものです」
「それが……」と、浅見は感慨をこめて言った。
「……怪談の道、なのですね」
「そうです、怪談の道。怪談の道と呼んでいました」
反復して、頷いて、言った。
「正直言うと、浅見さんがさっき、怪談の道と言ったときには、ドキッとさせられましたよ。あの頃のことはみんな忘れてしまいたいと思っていますからね。そんな亡霊みたいな言葉を聞くとは……」
「なぜですか? なぜ忘れなければならないのですか?」
「それは……」と、橋爪は苦汁を飲んだような顔になった。
「それは、誰にだって忘れてしまいたいことの一つや二つ、あるのじゃありませんか? あなたのように恵まれた人生を送っている人は別かもしれないが」
皮肉な目を向けられて、浅見は顔が赤くなるのが分かった。
「いえ、僕だって恥ずかしい思い出だらけですよ。自分こそが正義だ――みたいな思い込みで、他人を律したことなど、全部恥ずかしい。しかし、後戻りすることができない以上、これからの生き方で償うしかないと思うのです。それでもまた恥をかくかもしれないけれど、逃げてばかりいるわけにはいかないでしょう」
「ほう……」
橋爪は顔を上げ、目を瞠《みひら》いて浅見を見つめた。浅見もその目を見返した。ほんの数秒だが、たがいに相手の心の奥を覗き込んで、時間が流れた。
「あなたは小泉八雲の『盆おどり』という作品をご存じですか?」
橋爪は視線を外しながら言った。この唐突な質問が口から出るあいだには、彼の心のどこかで、何か、タガのようなものが外れたのかもしれない。
「ええ、ごく最近になってから読みました」
浅見は正直に答えた。
「じつは、『盆おどり』の舞台を訪ねて、鳥取県の中山町へ行って来たばかりなのです」
「そうでしたか、行きましたか。何もないところだったでしょう」
「ええ」
「われわれが訪ねたときも何もなかった。夏の日盛りの、白っぽい風景の中に、古びた納屋のようなお堂と、倒れかけた墓標の群れと、そこかしこに咲くヒマワリの花がやけに印象的でした」
聞き手の脳裏に、その風景が定着するのを待つ程度の間を置いて、つづけた。
「その夜、関金温泉でも盆踊りがありましてね、私は生まれてはじめて盆踊りなるものを見たのだが、そのときつくづく、八雲の『盆おどり』は、あれは名著だと思いましたね。まるで墓場から湧《わ》いてきた幽霊のように、闇《やみ》の底からいつの間に現れたのか、踊り手たちが白い手をしなしなと振り、しゅっしゅっと足をすべらせて踊る……八雲の描いたとおりの光景でしたよ。盆踊りというのは、死んだ者たちを慰めるイベントだということを、しみじみ思ったものでした」
それからまた、橋爪は口を噤《つぐ》み、今度は長い沈黙のあと、呟《つぶや》くように「その晩、悲劇が起きたのです」と言った。
浅見は「悲劇?」と問い返したい衝動を抑え、じっと待った。
「その晩、大島と佳代さんは結ばれるはずでした。私の、ほんの悪戯《いたずら》心だったのですがね、あの二人を二人だけにしようと企《たくら》んで、その企みどおりにことが運びました。近くの神社の境内に二人を置いてけぼりにしてやったのです。私がほかの仲間と宿に引き上げてからずいぶん経っても二人が戻らないので、これは計画どおりにうまくいったと思いましたよ。しかし、夜中近くになって、ちょっと心配なので様子を見に外へ出ると、佳代さんが一人、ひどい恰好《かつこう》でやって来るのと出会った。衣服は乱れ、顔まで泥で汚れ、ひと目で暴行を受けたと分かる恰好でしたね。どうしたのかと訊いても、彼女は何も言わず首を振りながら、背後の闇の奥を指さして、ようやく『大島さんが、神社のところで、倒れて』とだけ言うと、露天風呂《ろてんぶろ》の方角へよろめくように行ってしまった。彼女のことも気にはなったが、私はとにかく神社へ走りました。大島は神社の境内にある街灯の下で倒れていました。見たところ外傷はないが、意識はなく、苦しそうに喘《あえ》ぐような息をしている。私は宿まで飛んで帰って、救急車を呼びました。それから後は大騒ぎになったが、佳代さんにとってはむしろそれが幸いしたかもしれない。大島は、発見が遅れていれば命も危なかったかもしれないという、医者の話だったけれど、一応は単なる心臓発作ということで、そこで何があったのかなど、ほかのことは一切話さなかったし、私以外には誰も、佳代さんの身に起こったことなど気づかないですんだのです。そんなわけで、私がその夜、何があったのか、真相を知ったのは、三日後のことでした」
橋爪は立って、カウンターの中に入ると、グラスの水を不味《まず》そうに飲んだ。それから橋爪がテーブルに戻って来て、話を再開するまで、浅見は息をひそめるようにしていた。
「佳代さんは次の日には、もう宿から姿が消えていました。病院から戻った大島は、しばらく何も言わず、布団の上でうつろな目をしていたが、私と二人だけになったとき、突然、『殺してやる』と言ったのです。『殺すって、誰を?』と訊くと、『久藤《くどう》だ、やつが佳代さんを襲った』と言う。久藤というのは抗議運動の支援者の一人で、ときどき行動に参加していた男です。その夜、神社の境内へ行った直後、大島と佳代さんはふざけて、鬼ごっこのようなことをして、少し離れたとき、佳代さんの背後から現れた久藤が佳代さんを抱きしめた。驚いて駆け寄ろうとした瞬間、大島は背中にショックを感じて、そのまま倒れ、あとのことは何も覚えていないのだそうです。ただ、街灯に照らし出された久藤の顔だけは、死んでも忘れなかったろうと言っていました。そして大島は『やつはスパイだ』とも言いました。その前の日、久藤が動燃のジープに乗っているのを目撃したというのです。『ばかなことはよせ』と私は言った。かなり思いつめた様子ではあったが、まさか実行するとは思いませんでしたよ。だが、それから十日ばかり経って、大島が『決闘をするから、立会人になれ』と言うのです」
「決闘?」
「ええ、決闘ですよ」
橋爪は頷いた。
「古い話なので、私も詳しいことは憶えていませんが、とにかく、大島は久藤を呼び出して、決闘を申し入れたのだそうです。大島はどちらかというと文学青年タイプの華奢《きやしや》な男でしたし、久藤というのは筋肉質の大柄な男だったから、私は初めから勝ち目がないと思って、とめたのだが、大島は立ち会わなければ一人でやると言う。仕方ないので、私は彼の言うままになることにしました。ただし、武器を使わず、素手で闘うことを条件にしました。素手ならば、よもや殺すところまではいくまいと思ったのです。決闘の場所は谷間の崖下《がけした》の窪地《くぼち》でした。こっちが先に行って待っていると、久藤は動燃のジープに乗ってやって来ました。運転していたのは脇本でしたが、車から下りたのは動燃事業所で見かけたことのある男でした。その男と私が見守る中で、大島と久藤は取っ組み合いの決闘をして、その最中、大島は例の発作に襲われ、意識が朦朧《もうろう》となった様子でした。勝ち誇った久藤が大島の胸に馬乗りになって、とどめの一撃を加えようとしたその瞬間、背後にいた立会いの男が石を振り上げて久藤の頭に振り下ろしたのです」
「えっ……」と、浅見は自分がその一撃を受けたような声を発した。
「じゃあ、味方が……」
「そうなのですよ。動燃の男は『卑怯《ひきよう》なやつだ』と言って、ニヤリと笑いました。いまでもその顔ははっきり憶えています。それから脇本も車から下りてきて、三人で窪地に穴を掘って、久藤の死体を埋めました。動燃の男の話では、この窪地にはウラン鉱の残土を捨てるから、未来|永劫《えいごう》、死体が発見されることはないとのことでした。大島は横たわったまま、三人の作業を眺めていました。そうして、別れ際、動燃の男が『ここであったことは忘れよう』と言い、全員が黙って頷《うなず》きあいました。しかし、忘れようとしても忘れることなどできないものです。むしろ、三十何年ものあいだ、ほかの出来事はすべて忘れてしまっても、あの日の風景と久藤の死に顔だけが、ありありと目に浮かぶのです」
長い話を終えて、橋爪は全精力を使い果たしたように、肩を下げ、椅子《いす》の背に寄り掛かった。
「それからどうなったのですか?」
浅見は遠慮がちに訊《き》いた。
「それっきりですよ」
橋爪は物憂げに、目を半分|瞑《つむ》った恰好で答えた。
「大島は病気を理由に去り、私も宿を逃げ出した。反対闘争に疑問を抱いたからだなどと、仲間には言い訳したが、本心はただ恐ろしかっただけです。そのあげく、大学をやめることにした。ただ、大島と村中佳代さんのことだけが気になっていたので、折りにふれて大島と連絡を取り、消息を追っていたら、なんと、佳代さんが脇本と結婚したという。大島の話だと、あの夜、佳代さんを凌辱《りようじよく》したのは久藤だけではなく脇本もそうだったというのです。大島は久藤しか見ていなかったのだが、佳代さんは何か催眠剤を嗅《か》がされ、記憶を失う寸前、自分を襲ったのが久藤であることと、大島を背後から襲った人物が脇本であることは見ていたのだそうです。その悲劇の結果、彼女は妊娠した。いまの若い娘なら、あっけらかんと始末するのだろうけれど、彼女にはそれができなかった。そうして、その責任を脇本に取らせたということです。佳代さんからの手紙にそう書いてあったらしい。その話をするとき、たぶん電話の向こうで大島は泣いていたにちがいない。純潔を汚されたことなど何とも思わないのに――と、悲痛な声で言ってました」
浅見はしばらくは言葉も出なかった。
大島の日記や記録から、そのあたりの数年間分が抹消されていた理由が、ようやく明らかになった。三十数年前の人形峠や倉吉で何があったのかも見えてきた。
それにしても、「事件」の後、佳代の取った行動は、いかにもジャンヌ・ダルクの異名にふさわしいと浅見は思った。二人の犯人のうち久藤が死んだ以上、残された脇本に責任を取らせ結婚したのは分かるが、その脇本が無精子症と分かり、生まれた子が脇本の血ではなかったことを知ると、佳代はさっさと離婚して、大島のもとに奔《はし》ったのである。幼児を残して去らねばならなかった事情はともかくとして、その決断もみごとすぎる。
佳代を迎えた大島の度量の広さや愛情のひたむきさ。その愛に応《こた》えて、大島に尽くしきった佳代のいじらしさ。そして別れた優美のためにと残した積立預金のことなど、その部分だけを見れば、美しい愛情物語だが、前段の凄《すさ》まじいばかりの転変を知れば、こと恋愛に関しては優柔不断きわまる浅見など、女の強さに圧倒されるばかりだ。
「一つ疑問が残るのですが」と、浅見はようやく口を開いた。
「久藤を殺した動燃の男というのは、いったい何者なのですか?」
「いや、それは知らないのですよ」
橋爪は首を横に振って、「人形峠の事業所で二、三度顔を見たことはあるのだが、直接話したこともないし、名前を聞いたこともないのです。事件の後は逃げることと忘れることばかり考えてきましたしね」
「動燃の職員であることは間違いないのですか?」
「たぶん……としか言えません」
浅見はしばらく考えをまとめてから、言った。
「橋爪さんはひとつ、重要な思い違いをしていますね」
「は? 思い違いとは何でしょう?」
「村中佳代さんを暴行したのは脇本氏と久藤氏だったという点です」
「しかし、それは大島の口から聞いたことですよ」
「ええ、たしかに佳代さんが脇本氏と久藤氏を見たことと、大島さんが久藤氏を見たことは事実そうだったのでしょう。しかし、その直後、二人は気を失っています。だからもう一人の男の存在には気づいていなかったのですよ」
「もう一人の男?……」
橋爪はおうむ返しに言って、「あっ……」と小さく叫んだ。
「じゃあ、あの、久藤を殺した……」
「ええ、その男のことを、除外する理由はありません」
「しかし、あいつも暴行に加わったという証拠もないでしょう」
「いえ、それを言うなら、三人の内の誰が――という論拠もないことになります。唯一はっきりしているのは、佳代さんが妊娠したことと、その子の血液型が大島さんとは一致しなかったという事実です」
浅見はそう言ったが、もう一つの事実――脇本伸夫が無精子症であったことと、さらに重要な事実――脇本が「もう一人の男」を恐喝しようとした本当の理由については、あえて触れずにおいた。
第六章
亡霊の復讐
山陰地方に冷たい時雨《しぐれ》が降る日、東郷湖から南東へ数キロ入った山の中で、ウラン鉱残土を処理するはじめての作業が行われた。当初は堆積《たいせき》した残土のほとんどを撤去し、人形峠の処理施設へ送るはずだったのだが、岡山県側の徹底的な拒絶に会って、現場処理する方針に転換した。
現場処理といっても、要するに残土を袋詰めにして保管するというだけのことだ。それでもとにかく、大気中に剥《む》き出しにしておくよりはましという考えなのだろう。出水の際に流失しないためには効果的であることはたしかだ。
作業現場には報道陣が詰めかけ、数台のテレビカメラも入った。場所は大型車がかろうじて入れる程度の谷間のような地形だ。
この辺りの谷は、北西寄りの風が吹くと、霧のような雲が湧《わ》く。そのせいか、テレビの報道番組では、放射性ガスのラドンとひっかけて、「暗雲立ち込める」といった表現をしていた。その「暗雲」が谷を下って、二十世紀|梨《なし》などの農作物のイメージを悪くする――ことを、農家の人々は心配しているのだそうだ。それが分かっているのなら、放送を控えそうなものだが、どうもそのへんの考え方がよく分からない。
テレビカメラは地元農家の人を何人か取材していた。彼らの誰もが、当惑げに顔を歪《ゆが》めるだけで、インタビューに答える言葉が出なかった。地元にとっては、学者先生たちが騒ぎ立てたことだって、いまとなってみると迷惑千万だったにちがいない。騒ぐだけ騒いで、結局、何の適切な解決方法もないなどということにでもなれば、救われないのは地元の農家や観光業者ということになる。
だいたい、放射性ガスといったって、環境汚染につながるものなのかどうか、これまでにも述べたとおり、はっきりしていない。残土といえば、もともと、そこの土地の一部として地中にあったものだ。住民は先祖代々その土地の上に住んできて、べつに何の支障も生じていない。温泉にいたっては、その効能をうたい上げているほどである。それが何となく、あたかも核廃棄物であるかのように、錯覚されて伝わったのでは、たまったものではない。
それにしても、何万トンあるか知れぬ残土である。それをせいぜい一トン程度しか入らない袋に詰めるのに、クレーンを使ったりして、ずいぶん時間のかかる大変な作業であった。この調子ですべての残土を処理し終えるには、おそらく数年はかかるだろう。作業に従事している人間も、周囲の報道関係者も、誰一人として、その効果のほどを信じているとは思えない。これはいわば一種の儀式にすぎないのではないかとさえ疑いたくなる。
だが、この無意味とも思える残土の撤去作業が、ある人物にとっては恐ろしかったのだ――と、浅見はテレビの画面を眺めながら考えていた。
長い沈黙の後、橋爪が突然、「人形峠で何があったのですか?」と訊《き》いた、その時の彼の怯《おび》えた表情は、浅見の網膜に焼き付いている。
人形峠とその周辺で、ウラン鉱残土処理問題が持ち上がっていると知った瞬間、あれほど頑強だった橋爪のガードが崩れ、過去の悲劇がポロポロとこぼれ出るように語られたのである。そのショックの破壊力はかなりのものだったようだ。
まるでエドガー・アラン・ポーの『黒猫』のように、埋めたはずの過去が死体と一緒に現れるのだ。橋爪は直接にはあの「事件」に関与していないにも関わらず、それでも恐怖は抑えきれなかったのだろう。
地元倉吉にいて、真っ先にこの情報をキャッチしたとき、大島昭雄がどれほど動揺したか、想像にかたくない。翼の話や大島の書いたものを通じて、生真面目で、繊細な彼の性格をかいま見た浅見には、そのときの大島の心の動きが分かるような気がする。いや、大島の心に浸りきろうと努めた。
事件の筋書きを読み取ろうとするとき、浅見は登場人物と同化して、心の動きを共有する。たとえば被害者が、たとえば犯人が、そのとき何を考え、何をしようとしたのだろうか――を思う。思うというより疑似体験しようと心掛ける。
これは事件捜査における現場検証と似ているが、現場検証が物理的事実の再現であるのに対して、浅見の場合は憶測や類推による心の動きの検証である。何を思い何をしようとしたかを突き詰めてゆけば、動機が見えてくる。その結果の行動が見えてくる。
とはいうものの、これは至難のわざだ。この世にすでに存在しない被害者、あるいはまだ特定されてもいない「犯人」の心の動きを、どうやって自分の内面に寄生させることができるのか、そのメカニズムは浅見自身にもよく分かっていない。
ラフカディオ・ハーンは『怪談』の中で、「なぞらえる」ということについて語っている。「なぞらえる」という言葉は適当な英訳がないらしい。つまり、それに見合った考え方そのものが欧米の宗教や思想にはないのである。
たとえば、敬虔《けいけん》な宗教心の持ち主であるなら、誰だって仏像のひとつも奉納したいと思うのだが、資力がない者にはそれができない。その場合には仏像の代わりに、姿のいい石を飾ってそれに香華《こうげ》を手向《たむ》けることによって、仏像を造ったと同じように仏に心を通じることが可能だという。
また、憎しみの対象になる人物がいたとする。その男(または女)に直接、憎悪をぶつけることが不可能な場合、その憎むべき相手の代わりに藁《わら》人形を作り、丑三《うしみ》つどきに五寸|釘《くぎ》を打ちつければ、その憎悪の気持ちが通じて、相手を苦しめることができるという。
この「……の代わりに……」という考え方が「なぞらえる」なのである。
人間の心の中にある宇宙は、他人と共有できるものとできないものがある。生まれたばかりの赤子の心は、おそらく無垢《むく》で垣根も壁もなく、誰とでも交流できる自由な宇宙だったにちがいない。成長するにつれて、人は心に垣根を巡らせ、自ら宇宙を狭くする。
ことによると、浅見の心の中には、赤子のような、のびやかで、自由な宇宙があるのかもしれない。
子供のころ、よく、ぼんやりと考えごとに耽《ふけ》っては、教師の声を聞き逃したりすることがあった。浅見の学業成績が必ずしも芳しくなかったのはそのせいでもある。あなたの周囲にだって、一見、ボーッとしているように見える子供たちが少なくないのではないだろうか。しかし、そのとき彼は、どこか外界の宇宙と交信しているのである。この表現が嘘《うそ》くさければ、心のどこかに開いた窓から、途方もなく遠い世界の風景に思考のほとんどを奪われていると言ってもいい。
さらに言葉を変えて言えば、それは豊かな空想力の飛翔《ひしよう》である。
だが、おとなたちは、彼の空想癖を認めたり許したりはしたくない。世の中をまっとうに生きてゆくためには、空想は無用であるし、ときには危険でもあるのだ。学力社会で勝利するためには空想は役に立たないし、早い話、そんな調子で道路を歩いていたら危なくてしようがない。
こうして大抵の人間は、おとなになると同時に、あるいはそれ以前に、空想力のほとんどを喪失する。浅見のように、いつまでも空想癖を失わない者は、幼児性を引きずっている落ちこぼれ扱いされるものである。
空想は心の宇宙の広がりの豊かさであるところから、それは他人の心を思いやる優しさに通じる。あのひとがいま、何を考え、何を欲しているのかを悟ることができる。あるいは、その時、彼は何を考え、何をしようとしたのかを推し量ることができる。
石の仏ではなく、藁の人形でもなく、何も見えない、何もない空間に、その空間に存在したであろう「彼」の心情に自分の心をなぞらえることができるのである。
橋爪から、三十数年前に何があったかを聞いたいま、ウラン鉱残土の撤去という情報を知ったときの大島のショックと、その後の彼の心の動き、行動に想《おも》いを馳《は》せることぐらい、浅見にとってはさほど難しくはない。
問題は、大島がそのショックを分かち合おうとした、「もう一人の男」の存在である。大島と脇本と橋爪と、そしてその男が久藤殺害の現場にいた。しかもその男こそが久藤の頭に石を打ち下ろした、殺人の実行犯にほかならない。
その、まだどこの誰とも知れぬ男の心情を、浅見は推し量ろうとした。いかに冷酷で残虐であろうと、人である以上、「あいつ」には心がある。心があれば、自分の心になぞらえて、意思も行動も推し量ることができるはずだ――と浅見は信じている。
大島から話を聞いたとき、「あいつ」はわらったにちがいない。「何をそんなに恐れているのだ」と叱《しか》ったかもしれない。三十何年も昔に埋めた死体が掘り出されたところで、身元の確認すらもおぼつかないではないか――。
そうでしょうか――という、怯《おび》えた大島の声が聞こえてきそうだ。
久藤の死体は衣服も所持品もそのままに埋められた。三十数年前の行方《ゆくえ》不明者の記録がどうなっているかは知らないが、それらを照合すれば、過去の犯罪が明るみに出る可能性はあるのではないか。
恐怖を抑えきれない大島は、恐れることを知らない傲岸《ごうがん》な相手の対応に、不信と不安に駆られ、思わず電話録音用のテープを回したのだ。
浅見の耳朶《じだ》に、録音状態の悪い、心細げな会話が蘇《よみがえ》った。
――もしもし、それで、どうすればいいのでしょう?
――要するに、怪談の道の当時の話は忘れてしまうことだよ。それがあんたのためだよ。でないと……。
――でないと、どうするのですか?
――それは言うまでもないだろう。
――殺しますか。
――ははは、どうかな……まあ、賢明なあんたのことだ、とにかく、昔の誼《よしみ》で穏やかに話をまとめようじゃないか。それじゃ、明日行くのでよろしく頼む。
そうして「あいつ」は大島を訪れた。
静かな倉吉の街の、とりわけてのどかな蔵の町の昼下がり――大島と「あいつ」は向かい合った。
庭に出て、二番蔵に入り、そして……。
そして、そこであった出来事に向けて、浅見は内なる宇宙の窓をいっぱいに開いた。
重く湿った空気。
醤油《しようゆ》の香ばしい匂《にお》い。
掃き清められたコンクリートの土間の冷たい感覚。
暗い壁にぽっかり開いた鉄格子の窓。
大島には、自分の城にいる安心感があっただろう。穏やかで平和な倉吉の町に育《はぐく》まれた優しい気性も、彼を無防備にさせていたかもしれない。
「あいつ」に背を向け、大きな樽《たる》に仕込んだ醤油の熟成について、大島は得意気に話していたことだろう。
そして突然、大島は倒れた……。
浅見の空想は、いきなり暗黒の闇《やみ》の中に突入する。そこにあるのは、あまりにも唐突な大島の死、である。闇の中で、「あいつ」がひそやかに遠ざかって行く気配を感じる。
浅見はわれに返って、大島が斃《たお》れる瞬間を反芻《はんすう》した。しかし、たとえ心臓停止に到る苦しみを疑似体験できたとしても、そこで何があったのかは見えてこない。
彼の心臓を襲った衝撃が病的なものである以上、「あいつ」には何の責任もない。かりに殺意があったとしても、それを行使せずにすんだのは、「あいつ」にとって幸運としか言いようがないだけのことである。
だが、「あいつ」は逃げた。逃げる必要がないのに逃げた。いや、逃げることはむしろその場合、危険を冒すことになる。どこかに目撃者がいないとはかぎらないだろうし、大島が「あいつ」の訪問予定を誰かに洩《も》らしていたか、何かに記録していた可能性だってありうることだ。その人物が逃げたあとに死体が転がっていたとあっては、「あいつ」が何かをしたと疑われても仕方がない。明らかに挙動不審人物なのである。よしんば何もしていないにしても、警察は「あいつ」の人となりや過去のあれこれを詮索《せんさく》するに違いない。そうやってほじくり出されれば、そういう人間のことだ、余罪や微罪の一つや二つ、明るみに出るかもしれない。
それにもかかわらず逃げだした理由とは、いったい何だったのだろう?
大島が倒れたとき、善意の訪問者として、救急車を呼んだりしてはいけなかったのだろうか。それとも、そこにいては具合の悪い何かが「あいつ」にはあったのだろうか。
いや、そんなはずはない。「あいつ」自身が大島に言っていたように、忘れてさえいれば、三十数年の断絶した時間がある以上、「あいつ」には何ひとつ「後ろめたいこと」などなかったはずだ。少なくとも、死者を放置して逃げだす危険を冒すほどの必然性があったとは考えられない。にも関わらず、「あいつ」は逃げた。
考えられる理由はただ一つ、要するに「あいつ」が殺人者であったということだ。「あいつ」は大島を殺害し、それゆえに逃げたのである。
ふたたび、浅見は二番蔵の中の情景に立ち戻った。斃れる寸前の大島の意識をわがものとした。
突然、ショックを受けて、大島の心臓は痙攣《けいれん》し、苦しみの中で意識が遠ざかる――。
「あいつ」は大島に何をしたのだろう?
翼の叔父と医師の目には、大島に外傷があったとは映らなかった。解剖に付すことはしていないまでも、死に到るような打撃を与えられたものであるなら、気づかないはずはない。外見上は、大島はきれいな状態で、急性心不全という病名で死亡したのである。
しかし、それとよく似た状況を、大島がずっと昔に経験していることを、浅見は思い出した。
浅見は目黒の「爪」に電話した。客が混んでいるのか、ずいぶん何回もベルの音を聞かされたあげく、橋爪は不機嫌そうに「はい」とだけ言って電話に出た。
「浅見です。ちょっと確かめたいことがあって電話しました」
「はあ、何でしょう?」
迷惑そうな口ぶりだが、必ずしも逃げようとしている気配ではなかった。
「関金温泉の盆踊りの夜のことですが……」
「えっ、そんな昔のこと……」
「その晩、神社の境内で大島さんが襲われたとき、大島さんは背後からショックを受けたということでしたね?」
「ああ、そうですけど」
「たしか、橋爪さんの話だと、外傷はなかったのじゃありませんか?」
「そうです、倒れた際に手の指に擦《かす》り傷を負っただけで、外傷というほどのものはありませんでしたよ。病院でも診察していますからね、それは間違いありません」
自分の話したことにケチでもつけられると思ったのか、橋爪は少し気張った言い方をした。
「だとすると、大島さんはいったい、どんなショックを受けたのでしょうか? たとえば押されたとか……」
「いや、そんなものではなく、何か、いきなり心臓の辺りを焼けた金槌《かなづち》で殴られたような――というようなことを言ってましたね」
「焼けた金槌で?……」
「それはあくまでもたとえですよ。あの時、佳代さんが大島の後ろにいる脇本の姿を目撃していたので、私も当初、脇本にやられたのかと思ったのだが、そんな殴られたような痕跡《こんせき》はなかったのです。まあ、心臓発作が出たときに、そういう感覚があったのじゃありませんかね」
「それから、たしか、もし発見が遅かったなら、死に到っていたかもしれないとおっしゃいましたね?」
「ええ、医者がそう言ってました。詳しいことは知りませんがね」
橋爪は背後にいるらしい客に「ちょっと待ってください」と言った。浅見は忙しい最中に邪魔したことを詫《わ》びて、電話を切った。
これまでいくつもの事件に関わってきて、ときには、本業のルポライターよりも探偵ごっこのほうが性に合っているのではないかと思うこともある浅見だが、事件のストーリーが見えてしまった時の、何か恋の終わりのような虚《むな》しい気分だけは、いつの場合も好きになれないものであった。
だが、今度ばかりはいつもと違うような気がする。事件のストーリーが見えてくればくるほど、筋書きの妖《あや》しさに、背筋が寒くなる。見たくはないのに、目を背けるわけにいかない、一種の使命感のようなものを感じる。
事件に関わった最初のきっかけが、ラフカディオ・ハーンの『怪談』だったことからして、なにやら因縁じみている。ハーンが「地獄」と称して泊まらなかった長生館を訪れたのが、そもそも迷路への入口で、そこから魅《ひ》き込まれるように、底無し沼のような事件の深みに落ち込んだ。
事件のルーツを追いかけて、どうにかこうにか、三十数年前に何があったのか――に行き着いた。橋爪の話で、当時の悪しき因縁が「現世」に尾を引いていることを知って、浅見はそれこそ、まるで『怪談』の世界に踏み込んだような戦慄《せんりつ》を覚えた。
とはいえ、真相の究明がこれで終わったわけではないのだ。大島昭雄の死の謎《なぞ》もさることながら、脇本伸夫が殺された事件も、まったく解明されていない。
滝野川署の小堀刑事課長に電話して聞くと、脇本が殺害された事件は、捜査本部では引き続き強盗殺人事件として捜査を進めているとのことである。浅見がいくら「違うと思いますけどねえ」と言ってみたところで、確たる根拠もないのだから、捜査方針に影響を与えることなど、あるはずもない。
犯人は要するに被害者を殴打、死に至らしめ、五百万円余の小切手を奪取、逃走したものである。この点に関するかぎり、客観的にいっても、強盗傷害致死事件であることを否定しようがない。
警察は事件直後に銀行関係に手配しているから、いまのところ小切手の現金化は防げている。もし犯人が銀行などに現れたりすれば、即刻、警察に通報がいく手筈《てはず》である。捜査本部ではむしろそれを待っているといってよかった。
もっとも、犯人がおめおめとその罠《わな》に引っかかるとは思えなかった。そのことは小堀だって認めている。「いまごろ、犯人は宝の山を前にしながら、小切手の使いようがなくて弱りきっているでしょう」などと、口では呑気《のんき》なことを言っていたが、事件捜査が長引きそうなことは、なかば諦《あきら》めているような口ぶりであった。
警察がその方針を貫いているかぎり、事件は解決しないだろう――と浅見は考える。脇本の事件ひとつ取ってみても、単なる金欲しさの犯行ではないのだ。浅見がこれまでに手繰《たぐ》ってきた糸の先にある「過去」に溯《さかのぼ》れば、亡霊のような因縁が絡み合っていることや、「あいつ」の存在が見えてくるはずなのである。
「浅見さん、何かいい知恵はありませんかね?」
電話の向こうで、小堀刑事課長は言った。軽い口調だから、どうせありっこないだろうが――の反語に聞こえる。
「いえ、べつに……」と口ごもりながら、浅見はふと思いついて訊いた。
「ちょっと参考までに教えていただきたいのですが、最近、スタンガンという、護身用の電子銃みたいのを使った、強盗事件がよくありますね。あのスタンガンで人を殺せますか?」
「ん? スタンガン? ほう、妙なことを訊きますね。何かあるのですか?」
小堀は怪しんで、探るように言った。
「いえ、ただの好奇心です」
「まあ、あんなものでは人殺しは出来ないが、しかし、かなりのショックですからな、心臓の弱い人間なら死ぬ可能性があるかもしれません。いや、心臓が弱いったって、私のような人間のことではありませんがね」
面白くもないジョークを言って、もう一度、「そのスタンガンがどうかしたのですか?」と訊いた。浅見は「何でもありません」と電話を切ったが、気のいい小堀を騙《だま》すのは、多少、後ろめたい気がしないでもなかった。
しかし、かといって、警察に「あいつ」の存在を教えることは、躊躇《ちゆうちよ》しないわけにいかない。現時点ではまだ、「あいつ」がどこの誰かを知らないのも事実だが、そのことよりも、「あいつ」のことを語れば、三十数年前の謀殺を暴露せざるをえないわけで、それが浅見にはできなかった。
大島翼にしても、脇本優美にしても、いまのところ、自分は父親を殺された「被害者」側の人間だとしか思っていない。よもや、その父親がかつての殺人事件に関与していたなどと、知るよしもないのである。
橋爪が洗いざらい「旧悪」を打ち明けてくれたのは、浅見という人間に全幅の信頼を置いたからにほかならない。もちろん、三十数年も昔の事件が明るみに出たとしても、刑事上の罪に問われることはないだろう。とりわけ橋爪などは、久藤の死にはまったく責任がないといっていい。彼はただ、決闘に立会い、久藤の死体を埋める作業を手伝ったにすぎない。しかし、だからといって、平然としていられるような鉄面皮ではないから、橋爪は大学を中退し、世捨て人のようにひっそりと生きてきたにちがいないのだ。
過去を洗い出せば、そういう彼らのささやかな平穏をかき乱す。若い優美や翼にとっては、おそらくこれからの人生を変えてしまうほどの不幸な結果をもたらすだろう。
だからこそ、浅見は「あいつ」の存在を突き止めるのと同時に、どうすれば過去の亡霊を呼び醒《さ》ますことなく、「あいつ」の悪行を処断できるかを考えなければならないのだった。
思案のあげく、浅見はもう一度、松添老人を訪ねた。大学ノートやリポート用紙を返しながら、何気なく訊いてみた。
「以前お訪ねして、人形峠の反対運動の話をお聞きしたとき、松添さんはたしか、『スパイを放って敵を攪乱《かくらん》させた』というようなことをおっしゃいましたが、あれは本当にあったことですか?」
「ああ、そんなことを言いましたかな。僕が直接関与したわけではありませんが、本当にあったことですよ」
松添はいくぶん照れくさそうに言った。
「そのスパイの名前は憶《おぼ》えていらっしゃいませんか?」
「スパイの名前?……いや、思い出せませんな」
「久藤という人ではありませんか? 久しいに藤と書きます」
「久藤ねえ……いや、憶えていませんな」
松添は首を傾《かし》げた。
「ひょっとすると、僕の知らない人間だったかもしれん。当時はレッドパージだとか、戦後の混乱がまだ尾を引いているような時代でしたからな。そういうのを専門にやっている連中がいたものですよ」
知っていたとしても、老人に三十数年前の、ちょっと知り合ったかもしれない程度の人間のことを思い出させるのは、所詮《しよせん》、無理難題だが、浅見は諦めなかった。
「その人はたぶん行方不明になったはずなのですが、そういうケースはありませんでしたか?」
「行方不明……うん、そんなこともあったかもしれません。その人かどうかは知らんが、突然、誰かがいなくなったという話は、たしかにありましたよ。もっとも、スパイなら、突然現れたり消えたりしたっておかしくはないですからな」
「動燃の中で、そういったスパイを管理したり、指示を与えたりするセクションはどこだったのでしょうか?」
「ははは、動燃にはそんなセクションは存在しませんよ。あるとすれば、警察の公安関係のどこかか、あるいは通産省筋のどこかでやっていたのかもしれませんがね」
「通産省? 通産省なんかでも、そんなことをやるものですか?」
「いや、通産省自体はそんなことはしませんが、通産のOBだとか、一種の通産Gメンのようなものがあったとは聞いたことがありますな」
松添自身は策謀好きな人種とはほど遠い性格のようだが、通産省工業技術院のOBだけあって、そういう知識を小耳に挟む機会があったのだろう。
「通産省ですか……」
それでは、たとえ動燃の職員名簿をいくら溯ってみたところで、該当者が出てくるはずはない。
しかし、かりに「あいつ」が通産省筋の人間だったと仮定するにしても、それならなぜ身内である久藤を殺してしまったのか説明がつかない。あの場合、決闘を申し入れてきたのは大島の側なのであって、むしろ、それをもっけの幸いとばかりに、抗議運動のメンバーである大島を消してしまったほうが、どれほど道理に叶《かな》っているか、考えるまでもないことだ。
それを、逆に、久藤を殺して大島を救ったのだから、話はややこしい。そのとき、「あいつ」は「卑怯者《ひきようもの》」と言ったのだそうだが、そんなことが正当な理由になるとは、到底考えられない。何か、久藤を殺す動機があったのかもしれない。
そうだ、ことによると、大島との決闘を利用して、久藤を消したのではないのか――。大島が勝てばそれでよし、もし久藤が勝ちそうになったら、そのときは「卑怯者」呼ばわりをして殺してしまう。
浅見はだんだん「あいつ」が嫌いになってきた。
殺人犯人を嫌いになるのは当然のことには違いないが、好きになれないまでも、彼(または彼女)の心情に共感を覚えることは少なくない。同情というばかりでなく、殺人を犯さなければならなくなった事情が理解できて、「分かる、分かります」と慰めて上げたい気持ちに駆られたりもする。
しかし、今度の事件の「あいつ」のように、知れば知るほど嫌悪感と憎悪がつのってくるケースもあるのだ。
死刑廃止論というのがあるけれど、浅見はどうしてもそれに乗れない部分がある。たとえば、かつて群馬県で起きた連続婦女暴行殺人事件や、ピストルによる連続殺人魔、最近の愛犬家殺人事件などのケースでは、死刑以外にどういう方法で彼を罰することが可能なのだろうかと思う。
たとえ無期懲役刑だとしても、「生きている」ということは、「死んでしまった」ことに対して、比較にならないほど圧倒的な優位性をもつ。彼は手を振り、足を上げて歩くこともできる。本を読み、絵を描き、自由に考えることもできる。おまけに現代の刑務所は昔と違い、「人権擁護」の名のもとに、清潔で規則正しい日常生活が送れるような制度が確立している。これではいったい、死んでしまった者の人権はどう擁護されるというのだろう。
もし生かしながら完全に罪の償いをさせるとしたら、「死ぬほど」の苦役を生きているかぎりつづけさせるしかない。しかし、そんなことは死刑以上に残酷な刑罰である。むしろ死なせてやることのほうが、はるかに人道的といえるのではないだろうか。
死刑廃止論の一つの論拠は、冤罪《えんざい》によって刑が執行される危険性のあることを挙げている。これなどは本来、次元の異なる問題で、議論の対象にはならないものだ。冤罪を防ぐには「疑わしきを罰せず」を履行することなのである。少しでも疑わしい部分があるケースでは、絶対に死刑の宣告をしてはならないと定めておけば、取り返しのつかないミスは生じないはずだ。
もし「あいつ」の正体を暴き出したら――と、浅見は思い、思いながら、「あいつ」を正当に罰することができないのではないかという不安に駆られる。
これまでの過程で、「あいつ」の犯行を立証するに足る、決定的な証拠はまったくないに等しい。憎むべき凶行を、いとも無造作に行って、しかも痕跡《こんせき》を残さない。冷酷で狡猾《こうかつ》で、まさに「姿なき殺人者」と呼ぶにふさわしい。
松添老人のところから帰って、丸三日間、浅見は事件の謎《なぞ》を解明することよりも、「あいつ」の処罰の方法を思い巡らすことに知恵の限りを尽くし、エネルギーを注ぎ込んでいた。
中途半端なリポートであったにもかかわらず、DAMからの支払いは契約の満額にほぼ近い金額であった。振込通知書を見て、浅見は嬉《うれ》しい反面、申し訳ない気がした。
新橋にある『旅と歴史』の編集部に顔を出したついでに、藤田編集長に「いいんですかね」と訊いてみた。
「なに、あすこは半官半民みたいなものだ。金のあるところから、沢山ふんだくっておきなさいよ」
藤田はこともなげに言い、「その分、うちのギャラが安いのは我慢してね」と、相変わらず小狡《こずる》いことを言った。
帰り道、『旅と歴史』からほど近いDAMに寄って、河野に会い礼を述べた。藤田に言ったのと同じように、「こんなに頂戴《ちようだい》していいのでしょうか?」と言うと、「うちは動燃のほうからたっぷりもらっているから、気にしないでいいですよ」と、こっちのほうは藤田とは対照的に紳士だし、気前がいい。
(やっぱり半官半民だけのことはあるなあ――)と感心しながら、そのとき浅見はふと、胸にズキンと引っかかるものを感じた。
「どうです、せっかくだから、その辺でめしでも食いませんか」
河野は愛想のいい笑顔で言った。
「あ、そうですね、お礼にご馳走《ちそう》させてください」
「ははは、いいんですよ、こっちが奢《おご》ります。ちょっといいことがあったもんでね」
近くの著名な中華飯店に案内して、昼の定食を奢ってくれた。「いいこと」とは、娘の結婚が決まったことだそうだ。
「相手は大蔵省のエリートでして、事務次官さんが媒酌人を務めてくださるのだそうです。いや、浅見さんの前だが、うちの娘というのが、この親に似ず気立てのいい娘でしてなあ。まあ、先方のほうからどうしてもという、熱心な申し入れでありましてね。もっとも、それなりにいろいろ支度がかかるし、えらい物入りですわ」
アルコールが入ったわけでもないのに、顔を赤くして、何度もご機嫌に笑った。気が緩むとかすかに関西系のイントネーションが出て、いかにも幸せな「花嫁の父」という感じがしてくる。
挙式は十二月の第一日曜。予算編成が追い込みにかかる前にすませてしまいたいという先方の希望でそうなったという。「まったく慌ただしいこって」と言いながら、河野はまた愉快そうに笑った。
浅見の脳裏に、父親を失った優美と翼の面影が浮かんだ。せっかくの料理の味が、急に索漠としてきた。
河野と別れて銀行に行って、帰りにちょっと豪華なバラの花束を買って優美の家に寄った。ドアチャイムを鳴らすと、マジックアイで客を確認する気配があって、すぐに威勢よくドアが開いた。
「ああ……」
優美は何か言おうとして、言葉を見失ったように、大きな目を開けて浅見を見た。
「元気づけに花を届けに来ました」
浅見はいきなりバラを差し出した。優美は反射的に花を受け取り、「嬉《うれ》しい、大好き、この色」と言った。深紅色のバラの花を、頬《ほお》ずりをするように抱きしめた。
「ちょっとお邪魔してもいいですか?」
「えっ、ええ、いいですけど……」
優美は浅見の背後を透かすようにした。まだ刑事か報道関係者のことを気にしているらしい。
「ははは、大丈夫ですよ。誰かが見ていたって構いません」
浅見は陽気に笑って、ごく自然にドアの中に入った。優美はいそいそとスリッパを揃《そろ》えた。おそらく、まともな客の訪問はしばらくぶりのことにちがいない。
勧められるまま、ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろしながら、「会社はお休みですか?」と訊いた。
「ええ、いえ、勤めは辞めました」
「そう、ですか……」
やはり――という想《おも》いがあった。ふつうの庶民は大抵、そんなふうに世間を慮《おもんぱか》って生きているのだ。
優美はテーブルの上で、大きな花瓶にバラを活《い》け、浅見が「お構いなく」というのに手早くコーヒーを入れてくれた。
浅見は例によって砂糖を入れ、スプーンをクルクルッとさせて、ミルクの渦巻きを作った。見ていると優美も同じ動作をする。「やあ、あなたもそういう流儀ですか」と言うと、優美はびっくりしたように、「あら、浅見さんのを真似《まね》したんです」と言い、他愛なく笑いあった。
「あなたのお父さん――脇本伸夫さんのことで、お聞きしたいことがあるのですが」
浅見は真顔に戻って、言った。
「はあ」と、優美は少し身構えた。
「このあいだの蒸し返しのようになりますが、あの夜、宇都宮のレストランでお父さんと会ったとき、お父さんはあなたの本当の父親のことを言ったのではありませんか?」
「えっ……」
優美は息を吸い込みながら、声を発した。その息が喉《のど》のところでつまって、呼吸が停《と》まりそうな表情になった。
「その人の名前は誰だったのですか? 大島さんとは違う人物の名前を言ったのでしょう?」
「いいえ……」
優美ははげしく首を横に振った。
「隠さないでください。いま、事態はとても重大なことになっているのです」
浅見は叱《しか》るように言った。
「いいえ、そうじゃないんです、違うんです、聞かなかったのです」
「聞かなかった? どういうことですか?」
「ただ聞きたくなかったから、聞かなかったのです」
まるで幼児がいやいやをするような言い方だった。
「父は……あのひとは、母との結婚は自己犠牲みたいなものだって言ったのです。おれは騙《だま》されて、押しつけられたのだ――って。それはどういうことかっていうと……」
「あ、そのことはいいのです、言わなくてもいいのです」
「えっ、どうしてっ?……浅見さん、知っているんですか? 母がどうして私を、あの……言います、言わなければ、いくら浅見さんでも分からないはずですから言います。母は暴行されて、あのひとと、それからほかのもう一人の男と……」
「もういいのですよ。そのことは分かっているのです」
浅見は手を挙げて、不思議そうな目をする優美を、優しく宥《なだ》めるように頷《うなず》いてみせた。優美がつらいのと同じ程度に、聞いている浅見がつらくなる。
「それで、あなたはそのもう一人の男のことを聞かなかったのですね?」
「ええ、あのひとが言おうとしても、耳を押さえて、逃げ出して、聞かないようにしたのです。だって、あのひとは私に、『おまえにはそいつから金を貰《もら》う権利がある』って言って、協力しろって……」
「やはりそうでしたか」
橋爪に話した推測が裏打ちされて、浅見はむしろほっとしたように頷いた。
「そんな汚らわしいこと、耳にするだけでも翼さんに悪いと思ったんです。でも、それは大島さんのことではなかったのかも……」
「そうですよ、だから僕がそう言ったでしょう」
「ええ、でも、浅見さんから血液型のことを聞くまでは、大島さんだとばかり思い込んでいました。だから、翼さんのことを考えて、むしょうに悲しくて、腹が立って……いまになって冷静になって考えれば、あのひとは『そいつから金を貰う』って言ったのに、その時は大島さんが亡くなっていることに、ちっとも気がつかなかったのですよね」
自分の愚かな錯覚を悔やむように、優美は唇を噛《か》みしめ、頬を歪《ゆが》めた。もっとも、「錯覚」は彼女だけのことではないのだ。橋爪もまた、優美の父親を久藤だと思い込んでいた。だが、脇本伸夫が優美の真の父親を恐喝しようとしたのなら、とっくに死んでいる久藤を相手にする筈《はず》はなかった。
「たぶん」と浅見は言った。
「脇本さんは、あなたからの電話で大島さんが亡くなった――それも疑わしい死に方をしたと聞いて、大島さんがもう一人の男に殺されたに違いないと憶測したのですよ。そして、その男を脅すことを考えついて、早速、電話をかけるか何かして、恐喝を始めたのでしょうね」
「だけど、その男はなぜ大島さんを殺さなければならなかったのですか?」
「それは……詳しいことは後で言いますが、おそらく、その男の旧悪を大島さんが知っていて、暴露される危険を感じたためだと思います。翼さんのところで聞いたあの録音テープが、その証拠でしょう」
「じゃあ、父も……あのひとも、その男の旧悪を知っていたのですか? その男を恐喝したのは、私のことだけじゃなかったっていうことですか?」
「まず間違いありません。あなたのことで脅されたぐらいでは、そんなに過激な行動に走るはずはありませんよ。脇本さんは大島さん殺しの疑惑をぶつけたに違いない。だから、その男はすぐに反応して、脇本さんを付け狙《ねら》い、おそらく宇都宮から尾行してここまで来て、お宅からの帰り道、平塚神社の境内に誘い込んで凶行に及んだのです」
優美は肩をすくめ、寒そうに震えた。彼女が追って行った、ほんの少し先のところで、脇本は冷酷な怪物の犠牲になったのだ。
「どうしたらいいのでしょう?」
優美は自分の肩を抱きしめるようにして、オズオズと訊いた。
「もし浅見さんの言うとおりだとしたら、警察にこのこと、知らせるべきなのでしょうか?」
「そうですね……そうするのが妥当なのでしょうが、しかし、それで傷つく人が出ることを考えなければなりませんよ」
「傷つくって、誰が傷つくのですか?」
「その男の旧悪を知っていた人たちです」
「旧悪を知っていた人たちって……ああ、翼さんのお父さんですか? あっ、それから私の父……あのひとのことですか?」
「ええ、そのとおりです。お二人が、その男の旧悪を知っていて、なぜ沈黙を守っていたかを考えてみてください」
「沈黙を守っていた……というと……えっ、あの、それは大島さんやあのひとも、やっぱりその男の旧悪に関係していたっていうことですか?」
浅見は黙って頷いた。優美は苛立《いらだ》たしそうに言った。
「何なのですか、その旧悪っていうのは?」
「殺人です」
「殺人……」
「といっても、大島さんや脇本さんが殺人の共犯者というわけではないのです。ただ、ある事情があってその男の殺人を黙認した。結果としては殺人の従犯というかたちになったのですね。その殺人事件はずっと地下に埋まっていたのですが、突然、白日のもとに晒《さら》される危険性が生じたのです」
オーバーな言い方をしたが、この際は、むしろぴったりの表現だったかもしれない。
「あの電話の録音からも想像できるように、動揺した大島さんがことによると事件を告発するおそれがあると思ったその男は、躊躇《ちゆうちよ》なく大島さんを殺害したのです」
「ひどい……」
「ひどい話ですが、男の凶行はそれで止《とど》まらなかった。もっとも、その男に言わせれば、脇本さんを殺したのは自衛のためということになるのでしょうけどね」
「それはそうかもしれないけど、やっぱり許せませんよ」
「ええ、許すわけにはいきません」
「だったら早く……ああ……」
優美は愕然《がくぜん》と気がついた。
「そうなんですね、その男を捕まえると、大島さんやあのひとや、それに翼さんや私が傷つくって、浅見さんはそのことを言いたいのですね……私はともかく、翼さんがかわいそうだわ」
「翼さんばかりでなく、狭い倉吉の町では、叔父さんたちにも影響が及ぶかもしれませんね」
「でも、それじゃ、どうするのですか? このままその男を許してしまうのですか?」
「いや、許しませんよ、僕は」
「じゃあ、やっぱり警察に?」
「警察に任せるわけにはいかないでしょう」
「だったら、どうやって……」
「僕が始末をつけます」
「えっ、浅見さんが? まさか……」
「ははは、まさか僕が殺人を犯すはずないじゃないですか。穏やかに、話し合いで始末をつけます」
「話し合いって、そんなことで始末がつくことではないと思いますけど」
「そうかもしれないが、やってみなければ分かりません。あとはその男の人間性に期待するだけです」
浅見は乾いた声で言い放った。
「何だか、浅見さん、怖いみたい……」
優美は怯《おび》えた目をして、言った。
「ははは、それは僕自身が怖いからですよ。本当に恐ろしい、けど、やらなければならない」
「大丈夫なんですか? 危険じゃありません?」
「それは心配しなくても大丈夫、君子危うきに近寄らずです。ただ……」
浅見は深い憂愁を湛《たた》えた目で、優美の顔を見つめた。
「ただ、あなたに、一つだけ、いちばん重要なことを確かめておかなければならないのですが」
「は? 何でしょう?」
不安そうに見返す優美に、浅見は次の言葉が出なかった。優美は戸惑いながら、浅見の表情にひそむ意思を読み取って、「ああ」と吐息をついた。
「そうなのですね、忘れてました。その男が私の本当の父親であるかもしれないっていうこと……でも、それは違うのだと思います。もしそうだとしても、その男は父親なんかではなく、私の母を犯した憎むべき凶悪犯でしかありませんよ。その男がどこの誰なのか知りたいとも思いません。どうぞ、浅見さんの思いどおりに始末してください」
優美の眸《ひとみ》に、ジャンヌ・ダルクのような輝きを見て、浅見は怯《ひる》むような想いで、静かに頷いてみせた。
外は師走《しわす》の風が冷たかったが、休日の河野家は春めいて賑《にぎ》わっていた。
この辺りは小田急線の経堂《きようどう》駅に近い高級住宅地だが、河野家はそれほど大きな屋敷ではない。トレンディドラマにでも出てきそうな、アーリーアメリカン風の外観からは、なんとかこの一角に食い込んだ――という、この家の主人の見栄《みえ》が感じられた。
「この次の日曜が大安で、帝国ホテルで挙式ということになっているもんで、今日がいわば、親子水入らずの最後の休日というわけでしてね」
河野はリビングルームの方角から聞こえてくる嬌声《きようせい》を気にしながら、夫人が運んで来た紅茶を浅見のほうに押し出すようにして勧めた。上機嫌ではあるけれど、あまり長居されたくない気持ちが、ちょっとした仕種《しぐさ》からも感じ取れる。
「末っ子だもんだから、どうも、いざとなると嫁にやるのが惜しくなりました。しかしまあ、相手はエリート官僚ですからな。もって瞑《めい》すべしでしょう」
「河野さんだって、エリートでしょう」
「私が? ははは、かつてはそうでしたな。通産省に入った当座は、それなりに嘱望されたりもしましたが、しかし調子に乗って、早いところ躓《つまず》いてドロップアウトしちまった。若気のいたりいうことですなあ」
「それは足尾銅山でのことをおっしゃっているのですね」
「ああ、そうですよ。いささか血気にはやって、常軌を逸《いつ》したというやつです」
いまいましそうな口ぶりであった。
「通産省を辞められてから、どこへ行かれたのですか?」
「辞めたといっても、役所のために殉じたようなものですのでね、上の方で面倒を見てくれて、関連のオフィスみたいなところを世話してもらいました。出世はないが、まあ、私のような野人には向いておったかもしれませんな。その後、現在のDAMに納まるまで、きちんとバックアップシステムが働いておった。さすが通産省というべきでしょう」
官庁の天下りシステムを、手放しで礼賛している。
「通産省の関連のオフィスというと、仕事内容はどんなことをするのでしょうか?」
「うーん、そうですなあ、大したことはしておりません。いわば雑用ですかな」
「たとえば、動燃の人形峠事業所あたりへ派遣されるとか、ですか」
「ん? よく知ってますな」
河野の顔から笑みが消えた。
「スパイを駆使して、核開発反対運動の鎮静化を図るとか」
「あんた……」と、河野は不安そうに、ドアの向こう側に神経を集中した。
「あまり妙な話をしないでもらいたいですな。家族が聞いたら、どう思うか」
「そうでしょうか。それはそれで立派なお仕事だと思いますが」
「ふん、それは皮肉ですか……いや、そういうことをあなた、誰に聞いてきました?」
「幽霊に聞きました」
「なに?」
「怪談の道で会った幽霊です」
「…………」
河野は、まるで、彼自身が幽霊に会ったような顔で浅見を見つめた。驚きから恐怖へ、恐怖から怒りへ――と、表情が移り変わってゆくのが、ありありと分かった。
「あ、あんた、どうして、いったい何を……いや、それは何のことかね?」
かろうじて感情を抑制して、絞り出すような声で言った。
「倉吉へ行って、僕も怪談の道を歩いたのです。そこで幽霊に会いました。三十数年前の亡霊を見たのです。ウラン鉱の残土からわき出るラドンの霧とともに、怨念《おんねん》が漂っていました」
「ははは、そいつはさぞかし恐ろしかったでしょうな」
「恐ろしいというより、悲しかったですね。むしろ、恐ろしいのは生きている鬼のほうでしたよ」
浅見はゆっくりと、正面から河野の顔の真ん中を指さした。
「ん? 何の真似だ。やめたまえ!」
悪霊を払うように右手を振ったが、浅見がわずかに腕を下げたので、河野は空を切って、ひじ掛け椅子から飛び出しそうな恰好《かつこう》になった。はずみでテーブルに膝《ひざ》がぶつかり、紅茶のカップがはげしく音を立てた。
浅見はハンカチを出して、落ちついた仕種で、テーブルの上に散った琥珀《こはく》色の液体を拭《ふ》いた。河野は放心したように、それを眺めている。
ドアが開いて夫人が顔を覗《のぞ》かせ、「何かございましたの?」と訊いた。おっとりした感じの、端正な顔だちの女性だ。
「すみません、ちょっと粗相をしました」
浅見はにっこりと笑って、「どうぞご心配なく」と言った。
夫人が行ってしまって、しばらく間を置いて、河野は声をひそめるように言った。
「あんたが何を言いたいのか知らんが、不愉快だ。しかしまあ、ことを荒立てるつもりはない。当方はめでたいことが控えているのでね。いや、もしそれが望みなら、いささかのご祝儀を考えてもいいが」
「ご祝儀?」
「金だよ、金。なんぼ欲しいのかね?」
「なるほど。そういうことでしたら、ぜひ額面五百七十二万三千円の小切手をいただきたいものです。もっとも、警察も欲しがっていましたから、当分使えそうにありませんけどね」
河野の面上から血の色が消えて、死人のような土気色に変わった。
「……五百七十二万だと? 何をあほなことを言うんだ。こっちは、せめて車代でもやろうと思っておったのに」
「そうですか。ご不満なら、これを買っていただいても結構ですが」
浅見は下手なマジシャンのような手つきで、ブルゾンのポケットから小型のテープレコーダーを取り出した。
「お持ちしたのは、ほんのサワリの一部分だけですが、聞いてください」
前口上を述べて、ボタンを押した。
――もしもし、それで、どうすればいいのでしょう?
――要するに、怪談の道の当時の話は忘れてしまうことだよ。それがあんたのためだよ。でないと……。
――でないと、どうするのですか?
――それは言うまでもないだろう。
――殺しますか。
――ははは、どうかな……まあ、賢明なあんたのことだ、とにかく、昔の誼《よしみ》で穏やかに話をまとめようじゃないか。それじゃ、明日行くのでよろしく頼む。
テープが停まって重苦しい静寂が戻った。リビングのさんざめきが、別世界のように遠いものに聞こえる。
「脇本さんとは、足尾銅山のときからの知り合いですか」
静寂に遠慮するように、浅見は低い声でポツリと言った。しかし、その呟《つぶや》くような声は、まるで湖面に石を投じたほどの衝撃を河野に与えたらしい。たかが若造――と見くびっていた相手が、底知れぬ恐怖の塊のように見えてきたにちがいない。
「村中佳代さんのおなかの中には、あなたのお子さんがいたようですね」
「…………」
「それを脇本さんに押しつけた……」
「やつは……」と、河野は浅見の言葉を遮《さえぎ》り、唇を醜く歪《ゆが》めて、呻《うめ》くように言った。
「脇本はあの女を自分の物にしたいと懇願したのだ。あの女の腹に誰の子がいたか、そんなことは私は知らん。大島のか久藤のかそれとも……いや、そんなことはやつだって承知の上だった。それを今頃になって、この私の子ではないかなどと……」
「それで恐喝してきたのですか」
「ああ、そうだ、卑劣なやつだ。娘の結婚が間近いことを知って、私が弱気になっているところに付け込みおって」
「しかし、脇本さんの恐喝の直接のネタは、大島さん殺害に関することではなかったのでしょうか?」
「…………」
河野は言葉に詰まった。遠い部屋の女たちのさんざめきが、ひときわ甲高く聞こえてきた。嫁ぐ日を目前にした娘のいる、幸せな家庭の華やいだ風景であるはずだった。
「分かった、いくらだ、なんぼ欲しい?」
ヤクザな口調で、投げやりに言った。
「お金はいりません」
「ん?」
「自首してください」
「あほな……」
片頬で笑おうとして、泣き顔のようになった。
「どうされるか、選択は河野さんの意志で決めることです」
浅見は自分の言葉の冷たいひびきに、全身が凍るような想いでそう言った。
「私の意志?……」
河野は縋《すが》るような目を浅見に向けた。何を選択しろというのだ?――という、すでに答の分かっている質問が、その視線には込められていた。
「では失礼します」
浅見は立ち上がった。
「三日間だけお待ちしましょう。四日目には警察に行きます」
「待ってくれ……」
河野は座ったまま、浅見を見上げて手を伸ばした。
「半月……いや、十日間だけ待ってくれ。それまでに結論を出す。頼む」
最後の「頼む」は、悲痛に声がかすれた。
「分かりました、お待ちしましょう」
浅見は寛大に言って、深ぶかとお辞儀をした。ドアに向かいかけて、ふと思い出して振り向いた。
「そうそう、二つだけお訊きしたいことがありました。一つは、三十数年前に久藤氏を殺した理由ですが、あれはやはり、恐喝ですか?」
「ああ、そうですよ」
河野の表情に傲岸《ごうがん》な怒りの色が蘇《よみがえ》った。
「やつは、スパイ工作や反対派対策の工作資金を湯水のように使いおって、それを全部、私の使い込みであるかのごとく見せ、逆に私を恐喝しようとした。許すわけにはいかなかったのです」
「なるほど……ではもう一つ、大島さんにショックを与えたのは、スタンガンを使ったのですか?」
「ん? ああ、そうですよ。昔、米軍から手に入れたのを脇本が面白半分に使ってみたところ、大島が失神した。そのことを思い出してね。もう一度使わせてもらった。彼は見かけは健康そうだが、そういう、心臓に欠陥のある体質なんですなあ」
河野は、ほんのかすかだが、得意そうな笑みを浮かべた。浅見はその顔に唾《つば》を吐きかけたい衝動に駆られ、ドアを開けて部屋を逃れ出た。最後の最後まで、この河野という男は好きになれそうになかった。もっとも、そう思う反面、河野の心情には、僅《わず》かながら同情できる面もないわけではない。彼にしてみれば、久藤の時も大島の時も脇本の場合も、自己保全の手段として「殺人」を選んだのだ。橋爪のように、何もしない人間に対しては悪意を抱いていないのがその証拠である。そのかすかな「善意」に対して、浅見は蜘蛛《くも》の糸のような細い希望をつないだ。
この冬いちばんの冷え込みが話題になった日、朝のテレビで山の遭難のニュースをやっていた。
「昨日の朝、鳥取県の大山《だいせん》に登った男の人が、下山予定の昨日の夕方を過ぎても宿に戻らず、遭難したのではないかと、地元関係者は心配しています。登山案内所の話によりますと、この男の人は東京都世田谷区の会社役員、河野知之さん六十歳で、昨日の朝八時ごろ、一人で山頂へ向かったということです。昨日の大山は午前中はよく晴れていましたが、午後から雲が出て冷え込み、山頂付近では夕方から、今シーズン初の本格的な吹雪になりました。大山はふだんは比較的やさしい山で、初心者の訓練コースにもなっていますが、天候が変わりやすく、道に迷う事故も起こりやすいと言われています。家族の話では、河野さんは単独の山歩きが趣味で、かなりのベテランですが、冬の大山に登るのは初めてで、半年前から計画していたということです。鳥取県警と地元山岳会は救助隊を組織して、けさ九時から山に入る予定ですが、天候がさらに悪化しており、河野さんの安否が気づかわれております」
テレビの画面には五合目あたりから雲に覆われた大山が映っていた。みぞれまじりの横なぐりの風が、枯れた木々の枝を震わせていた。
浅見が河野家を訪ねてから、ちょうど十日目のことであった。
浅見は目を瞑《つむ》り、テレビの中の荒涼たる風景に向け、わずかに頭《こうべ》を垂れた。
エピローグ
二十二日に、少し早いクリスマスカードが届いた。大ぶりの角封筒に、脇本優美と大島翼のカードが同封されている。翼のはマンガチックな丸文字を散らすように、陽気であっさりしたものだが、優美はカードとはべつに二枚の便箋《びんせん》に、細かい文字でびっしりと、近況を書き綴《つづ》っていた。
――メリークリスマス、お元気ですか? 浅見さんが東京へ帰られたのが、ずいぶん大昔のような気がします。私もいろいろありましたけど、松江の大学に戻ったと思ったら、もう冬休みで、忙しくしているうちにすぐ年増《としま》女になってしまいそうです。
萩原さんがときどきやってきて、浅見先輩のことを根掘り葉掘り聞きます。浅見さんをライバルだと思っているみたいです。ぜんぜんそんなことないのに(残念だけど)。
父を殺した犯人が分かりそうなのですってね。優美さんから聞きました。浅見さんにお任せしておけば、きっと事件は解決すると信じてます。でも、危険なことはしないでください。死んだひとより、生きているひとのほうが大切です。
来年はきっといい年です。またぜひ倉吉に来てくださいね。翼より愛をこめて――
――その節は何かとお世話になりました。私はいま、翼さんのご招待で倉吉のお宅にお邪魔しています。このままお正月までいて欲しいって、翼さんが言ってくださるので、本当にそうしようか、悩んでいるところです。
倉吉の町は東京と較《くら》べると嘘《うそ》のようにのどかで、時間がゆっくり流れてゆくのが、見えるような気がします。大島家は広くて少し寒いですけれど、いつか浅見さんもいらした打吹《うつぶき》山の麓《ふもと》の喫茶店は暖房もよく効いて快適そのもの。ここで音楽を聴きながら過ごす時間は、三十年生きてきた私の人生の中では見つからなかった、小さな真珠のような優しいひとときです。
四、五日前、翼さんの運転で、大山の登り口にある大山寺というところに行ってきました。例の『盆おどり』の中山町から入って行くのです。そういえば、知らなかったのですけれど、中山町というのは、後醍醐《ごだいご》天皇が隠岐《おき》の島から戻られた際に上陸された土地なのだそうですね。大山寺へ行く途中には、天皇が一息つかれた「一息坂峠」というところもありました。
大山寺に参拝した時、ちょっと奇妙なことがありました。隣でお参りしていた六十歳ぐらいのご年配の登山者が、私と翼さんの顔を不思議そうに見て、まるで幽霊でも見たようにびっくりした顔をして、何度も何度も振り返りながら登山道の方向へ行ってしまったのです。翼さんは「変な人」と怒ってましたけど、私はとても気になっていました。そうしたら、その次の日、大山で遭難者が出たというニュースがあって、単独行だったことや、六十歳という歳恰好からいって、なんだかその人がそうなのじゃないかしらって思えてならないのです。東京の世田谷の人だそうですから、どこかで会ったことがあるのかもしれません。あの時、引き止めてあげたら、遭難しなかったのに――と、そんなできもしなかったことを考えてしまいます。
あのことはその後、どうなりましたでしょうか。律儀な浅見さんのことですから、いまも「始末」することに専念なさっていらっしゃるのでしょうけれど、どうぞ危ないことはお止《や》めください。こんなことを申し上げると叱《しか》られるかもしれませんが、私としてはもう、このままでもいいのではないかと思うようになっております。父が殺されたのは、父のほうに原因があったことですし、大島さんのことは確かに理不尽ですけれど、でも、きっとその犯人もいずれは死ぬ運命にあるのですから、浅見さんが危険に身を晒《さら》してまで、始末をなさることはないと思います。どうぞくれぐれも自重なさってください。浅見さんは翼さんにとっても私にとっても、とても大切な方だと思っております。
向寒の折、お風邪など召しませぬよう、お体をおいとい下さいませ。お正月明けには、元気な顔をお見せできると思い、楽しみにしております。
かしこ
浅見の脳裏には雲になかば隠れた大山の姿が蘇《よみがえ》った。優美と翼が出会ったという、年配の登山者はおそらく河野知之だったにちがいない。その不思議なめぐり会いに、天の配剤というようなことを思わないわけにはいかなかった。河野もそのことを思い、慄然《りつぜん》としたことだろう。翼と優美の顔に佳代の面影を見て、追われるように山へ向かったのかもしれない。
この日も「爪《つめ》」は空いていた。浅見がカウンターに坐《すわ》ると、橋爪は待ち構えていたように、「このあいだ、あなたに話した男のことですが」と言った。
「たまたま新聞を見ていたら、その男の写真が載っていましてね。むろん年齢はずいぶん隔たりがあるが、面影は残っていて、それに経歴が書いてあったものだから、すぐに分かりました。じつは、その男というのはですね……」
「大山でしょう」
浅見は微《かす》かに笑ってみせた。
橋爪は「えっ?」と言ったきり、しばらくのあいだ浅見の顔を見つめて、動かなくなった。
やがて、呪縛《じゆばく》を解かれたように、額の汗を拭《ぬぐ》って、「いや、どうも、驚きましたなあ。どうして、あなたはそのことを……」と言いかけ、また浅見を見つめた。
「まさか、あなたが……」
「いえ」と、浅見は小さく手を振った。
「あの人は、自分で、山に登る道を選んだのですよ」
その言葉は、かえって橋爪を脅《おび》えさせたらしい。気の弱いマスターは、震える手をブルーマウンテンの袋に伸ばした。
自作解説
世の中に作家は数多いが、著作のプロローグに他人の文章を丸々使った作家は、たぶん僕以外にはいないと思う。本書『怪談の道』のプロローグは、そっくり全部が、かの小泉八雲先生の『盆おどり』という小品から借用した文章である。
どういうきっかけで、いつ、そうしようと思いついたのかは、いまとなってははっきりしない。取材や資料調べの過程でこの名文を発見したとき、すでに、作品のどこかでそのイメージを借りようと考えていたのかもしれない。
『怪談の道』を書くきっかけは、倉吉市の青年会議所か何かの主催するトークショーに出演を依頼されたことである。そのトークショーには、テレビで浅見光彦役を演じている榎木孝明氏と、地元出身の脚本家と僕と三人が出演している。トークショーはその脚本家がお膳立てしたもので、「ついては、倉吉を題材にして小説を書いてもらいたい」という希望が附帯条件になっていた。
倉吉は町自体にしっとりした雰囲気があって、なかなかに魅力的だが、それ以上に、この付近に小泉八雲の足跡が残されていると聞いて、がぜん創作意欲をそそられた。八雲は出雲《いずも》街道を通って松江に向かったのだが、その後も倉吉近郊の温泉などを訪れて、エッセイや小品を書いている。八雲の名著『怪談』の舞台にはなっていないにしても、そういう「妄想」を抱けそうな気配は、十分、この町から感じ取れた。
プロローグに使った文章は倉吉とは関係がない。倉吉よりはるか西へ行った中山という町の盆踊り風景を描いたものだ。鳥取県西部地方の雰囲気――日本海側に共通した陰鬱《いんうつ》な気配と、それとは対照的にのどかな牧歌的な田園風景とが混在した――を表現するには、僕の下手くそな文章を羅列するよりは、八雲先生の名文のほうが百倍もすぐれているにちがいない。少なくとも、いかにも日本的な謎《なぞ》と怪奇に満ちたこの作品のマクラとして、怪しげな盆踊り風景の描写は効果があった。
もっとも、この「名文」は、元は英語で書かれたものであることはいうまでもない。子細に読むまでもなく、この文章を魅力あるものにしているのは、ひとえに平井呈一氏のたぐいまれな名訳にあったと思う。平井氏のことはさっぱり存じあげないのだが、文学的な素養はもちろん、感性の豊かさにはただただ恐れ入るしかなかった。文章を読むだけで、自分までが、ゆるやかに流れる単調なメロディやリズムに乗って、紙面の上で踊りだしそうな気分に誘われる。この文章がなかったなら、『怪談の道』のストーリーそのものが成立しなかったような気がしてならないのである。
岡山県北部の人形峠でウラン鉱が発見されたのは、いまから四十年以上も昔のことだと記憶している。その直後に僕は人形峠を越える旅をしている。一九六〇年頃のことだ。バスで、妙に赤茶けた土が露出する峠道を越えて行って、鳥取県側の麓《ふもと》の三朝《みささ》温泉の古い宿に泊まった。バスは岡山駅から乗ったと思うのだが、地図を見ると、岡山から三朝まではかなりの距離だ。どこかで乗り継ぎがあったのかもしれない。バスの車掌が陽気な男で、踏切ではいちいち下りて安全確認をしていたことを思い出す。
その当時の僕は(いまもそうだけれど)政治活動などとまったく無縁で、ウラン鉱の発見は一つの朗報として国民に受け取られていたと思い込んでいたふしがある。ところが、『怪談の道』ではその当時、現地で猛烈な反対運動が展開されていたように書いている。
取材して書いたのだから、根拠のあることなのだろうけれど、どういう資料があったのかはすでに忘れてしまった。
三十何年ぶりかで見る人形峠はすっかり様変わりしていた。動燃関係の建物が山頂付近を埋め尽くすように立ち並び、PRセンターには観光バスが何台もやってきていた。青年会議所の担当者とともに、地元紙の「萩原」という人が取材を兼ねて案内してくれた。その萩原氏の名前を作中に使っている。
弁当をご馳走《ちそう》になりながら、動燃の所長さんからいろいろ話を聞いた。その時点ではまだ動燃を書くかどうかも分かっていなかったのだが、取材を終えて東京に戻った頃、倉吉周辺で「黄色い土」問題が発生した。黄色い土とは、作中にも書いたように、ウラン鉱から出た、放射性物質を含む廃土のことで、その土を廃棄した広大な土地から、高い濃度の放射線が出るとして、学者などから騒ぎが持ち上がった。まるで、黄色い毒雲がいまにも麓の民家や田畑に襲いかかりでもしそうなムードだった。これが事実なら、住民は不安だし、それ以上に付近の農作物に与える影響は想像を絶する。
間もなく「黄色い土」問題はどこかへ消えてしまった。その後どうなったのか、まったく消息が途絶えた。素人考えだが、廃土といっても、山から掘り出した土を捨てただけなのだから、場所が移動しただけで、もともとは山にあったものじゃないか――という気がする。そもそも「ラジウム風呂《ぶろ》」などと、放射能のある温泉を有り難がっている土地柄なのだ。
「黄色い土」などと、恐ろしげに報道されたが、プルトニウムのように濃縮された放射性物質ではないわけで、そんなに大騒ぎする必要はなかったのかもしれない。もしそうだとしたら、騒いだ人たちの責任は追及されてしかるべきなのだが、僕の記憶違いでなければ、そっちのほうも処分されたという話は聞いていない。何となくうやむや、あいまいのうちに雲散霧消した感がある。これもまた日本的風土の特色というものなのだろう。
こういった社会背景を巧みに(?)取り入れて、『怪談の道』は書かれている。前述したような結末を見透かしたかのごとく、「黄色い土」の善悪も両論併記の形で処理してある。このようにイデオロギー色がなく、等距離で物事を見、判断するのが僕の作品の特徴といえる。
「黄色い土」を出した元凶(?)である動燃は、その後も「もんじゅ」や「東海村」などの放射能漏れ騒ぎで叩《たた》かれつづけているが、だからといって、限りなく二酸化炭素を出しつづけている社会の「犯罪行為」は許されるのかという疑問も抱かないわけにいかない。原子力発電は怖いけれど、さりとて石油が枯渇したときの代替エネルギーとして、原子力以外に頼るものがあるのかどうか、分からない。
廃棄物処理に文句を言いながら、消費者の無駄遣いはいっこうに改まらない。
ことほどさように、一方的にどちらが正しくてどちらが悪いかなど、言えたものではないのである。殺人という犯罪についても、なるべく加害者、被害者双方の「言い分」を伝えたいと思っている。大抵は加害者が悪いに決まっているのだが、彼にも何かしら同情すべき点がある。それを思うと、罰の与え方に悩まないわけにいかない。
エピローグの、翼と優美から浅見に届いた手紙の文面が、この物語のあいまいな結末を認め、許している。読者の中には、それでは物足りない、官憲の手による正しい制裁を与えるべきだ――というご意見もあるにちがいないが、僕はこれでよかったと思っている。
一九九九年 春
角川文庫『怪談の道』平成11年4月25日初版発行
平成13年10月15日3版発行