内田康夫
天河《てんかわ》伝説殺人事件(下)
目 次
第七章 雨降らしの面
第八章 浅見の「定理」
第九章 歴史と奇跡は繰り返す
第十章 初恋の女《ひと》
第十一章 悲劇の演出者
第十二章 ひとり静《しずか》
エピローグ
自作解説
第七章 雨降らしの面
川島智春《かわしまちはる》が水上和憲《みずかみかずのり》の死を知ったのは、午後六時半頃のことであった。
夕食のテーブルについて、さて箸《はし》を取ろうという時、天河《てんかわ》神社の福本《ふくもと》が訪ねて来た。
民宿のおばさんが食堂のドアから顔を覗《のぞ》かせて、「福本さんやけど」と言っている背後から、福本本人がもう顔を出して、それも、血相を変えて――という感じで「ちょっと」と手招きした。
「たった今、連絡してくれた人がおったのやけど」
智春と須佐千代栄《すさちよえ》が食堂の外に出ると、福本は声をひそめるようにして、早口でそう言った。
「じつは、水上和憲さんが死にはったそうです」
「えっ?……」
智春と千代栄は同時に叫んで、顔を見合わせた。
「ほんとですか?」
千代栄はつづけて訊《き》いた。
「ああ、ほんまです……しかし、そうや、いきなりそう言うても、そちらのお嬢さんには何のことやら分からしまへんやろな。じつは、水上和憲さんいうのは……」
「あ、そのことでしたら、私から彼女に説明してあります」
千代栄が言った。
「福本さんがヒントを言ってくださったので、鈴の持ち主はたぶん水上|和鷹《かずたか》さんのお祖父《じい》さんじゃないかって」
「ああ、そうやったですか。はっきり言わんかったが、やっぱし分かってもらえましたか。いや、そのとおりです。あの鈴の番号は水上和憲さんの番号でした」
「それで、水上さんが亡くなったっていうのは、いったいどういうことなのですか?」
「私もたったいま、連絡をもらったので、詳しいことは知りませんがね。亡くなったんは昨日の夜やそうです、それも、吉野《よしの》の奥山で死にはったそうです」
「吉野で? じゃあ、すぐ近くじゃないですか」
千代栄は引きつったような顔になった。
「死因は何だったのですか? やっぱり心臓|麻痺《まひ》か何かですか?」
和鷹の死因を連想して、そう言った。
「いや、それがどうも病死ではないらしいのですな」
「病死でないって、じゃあ? あの、自殺ですか?」
千代栄も智春も、跡継ぎである和鷹の死を嘆いたあげくの自殺――と連想した。
「たぶんそうやないかと思うが、警察はひょっとすると殺人の疑いもあるとして、捜査を始めたらしいのです。そろそろニュースにも流れると思いますがな」
千代栄は反射的に身を翻《ひるがえ》すと、食堂のテレビのスイッチを入れた。ちょうど民放のニュースが始まったところだった。
テレビは最初、日米貿易摩擦が緊迫した情勢であることを伝えてから、アナウンサーの語調が変わった。
――次のニュースです。能楽《のうがく》の家元のひとつである水上流宗家《すいじようりゆうそうけ》の水上和憲さん七十二歳が、今日の午後、奈良県の吉野山で変死体で発見されました。
今日、午後三時頃、奈良県吉野郡吉野町のタクシー運転手江川道雄さん三十一歳が、吉野山の吉野・大峰《おおみね》ドライブウェイを走っていて、崖《がけ》の途中に転落している男の人を見つけ警察に届け出ました。
警察で調べたところ、この男の人は東京都世田谷区の能楽師水上和憲さん七十二歳で、発見した時には、すでに死後十数時間を経過しており、死亡推定時刻は昨夜の午後九時から深夜の十二時にかけてと考えられます。
死因は青酸性毒物の服用によるものとみられ、警察では現在、自殺他殺両面で捜査を進めております。
亡くなった水上和憲さんは能楽の水上流家元十九代当主で、昨年度の芸術祭奨励賞を受賞している、いわば能楽界の指導者的存在でした。
家族や関係者の話によると、水上家では先頃、和憲さんの孫にあたる、跡継ぎの水上和鷹さんが舞台で急死するという不幸があったばかりで、和憲さんはそのことをたいへん悲しんでおり、三日前に家を出たきり、姿が見えなくなっていたことから、心配していた矢先の出来事でした。
水上さんの突然の死に、水上流一門の人々や能楽関係者は、大きなショックを受けております。
ニュースはこのあと、暮色と憂色の漂《ただよ》う水上家門前からの生中継に切り替わり、水上一門を代表するかたちで、高崎義則《たかざきよしのり》老人のコメントを流している。高崎老人は涙を浮かべた目を天に向けながら、しきりに「信じられない」を繰り返していた。
食堂には昨日から泊まっている中年女性の三人連れのほかに、今日の薪能《たきぎのう》を観《み》ようとやって来た若い女性が二人いて、智春と千代栄、福本の異常な様子につられるように、テレビの画面に見入っている。
「どういうことかしら……」
智春は呟《つぶや》いた。
「やっぱし、テレビが言っているように、和鷹さんが急死したことが原因じゃないでしょうかなあ」
福本は吐息と一緒に、痛ましそうにそう言った。
「どうなるのかしら」
智春は、放心したように呟いた。
「どうなる――って?」
千代栄が振り向いて、低い声で訊《き》いた。
「私の父のこと……そっちのほうはどういうことになるのかしら?」
福本と千代栄はチラッと目を見交わして、眉《まゆ》をひそめた。
「その話はあとで」
千代栄は小声で言って、「さあ、食事にしましょう」と智春の肩を叩《たた》いた。
福本もひとまず引き上げて行った。
テーブルについたものの、智春は食事どころではない心持ちだった。
水上和憲は、智春の父が最期《さいご》の瞬間に持っていた『五十鈴《いすず》』の、本来の持ち主だった人物だ。その和憲の死は、父の死の真相を探るための、いちばん重要な手掛かりが失われたことを意味する。
「ねえ千代栄さん、水上和憲さんの死は父の事件と、何か関係があるのかしら?」
智春は囁《ささや》くように、すがるように言った。
「さあ……」
「和鷹さんが亡くなったことを悲しんで――っていうことだそうだけれど、ひょっとすると、父の事件のことが自殺の原因になっている可能性だって、考えられなくもないと思うんですけど」
「しいっ……」
千代栄は唇《くちびる》に指を当て、さりげなく焼き魚をつつきながら、言った。
「とにかく、もっと状況がはっきりしてこなければ、何がどうなっているのか、分からないわよ」
それからは会話が途切れた。しかし、二人の胸の中では、それぞれの事件に対する思いが去来していた。
食堂を出て、部屋に引き上げてから、智春は心を決めたような、きっぱりした口調で、千代栄に言った。
「明日、吉野山へ行ってみます」
「吉野っていうと、死体のあった場所へ行くつもり?」
「ううん、警察へ行くの」
「警察……」
「たぶん、吉野警察署に行けば、東京から来ていた刑事にも会えると思うんですよね。もしかすると、水上家の人たちだってやって来ているかもしれないでしょう。そうすれば、あの五十鈴《いすず》のことだって、何か詳しい事情が聞けるかもしれないし」
「そうねえ……」
千代栄は首を横に振った。
「正直言って、私には、こういう場合どうすればいいのか、まるで見当がつかないわ」
「須佐《すさ》さんは気にしないでください。何かが分かったら、連絡しますから」
智春はむしろ慰めるように言った。
それから二人は薪能《たきぎのう》を観《み》に出掛けた。気温はいちだんと下がって、トレーナーの下にセーターを着こんできたのに、それでも、凍りつきそうな寒さを防ぎきれない。
おまけに、天河《てんかわ》神社の境内《けいだい》には、冷たく濃密な夜霧が立ちこめていた。
「この霧は天川《てんかわ》の谷から昇ってくるの。谷の水より、気温のほうがグンと冷えているのね。つまり、冬が近いっていうこと」
須佐千代栄が解説した。この霧がやがて雪になって、天川郷《てんかわごう》を真っ白に埋める日も、そう遠くないそうだ。
その寒さのせいか、薪能の観客は意外なほど少なかった。境内の中央には、休憩用と瞑想《めいそう》用を兼ねた床几《しようぎ》が並べられてあるのだけれど、人々は暖かさを求めて、篝火《かがりび》の近くにばかり屯《たむろ》している。
智春と千代栄は観客の疎《まば》らな真ん中辺の床几に寒々と腰を下ろした。
「本来は、薪能は神事《しんじ》であって、観客を動員するのが目的ではないの。だから誰もいなくても奉納されるんですって」
千代栄はそう言うが、門外漢の智春にしてみれば、折角の催しに客が少ないというのは、人ごとながら寂《さび》しい。
「やっぱり、水上和鷹さんというスターを欠いたことが、影響しているんじゃないのかしら」
智春が言うと、千代栄は「そうかもしれない」と、寂しそうな顔をした。
水上和鷹の急死というアクシデントによって、能の演者は他家《たけ》から、若手の代役が駆けつけていた。技術的なことはともかく、水上和鷹をお目当てにしていたファンにしてみれば、やはり物足りなさはあるだろう。
とはいえ、能楽《のうがく》に興味があるどころか、ただの一度も見たことのない智春にとっても、この夜の薪能は素晴らしかった。
神楽殿《かぐらでん》を望む境内《けいだい》の一角を囲むように、あかあかと篝火が燃え、一切の人工的な照明を拒否した中で、能が演じられた。
この夜、奉納されたのは『国栖《くず》』、吉野ゆかりの能であった。
『国栖』のストーリーは、壬申《じんしん》の乱の際、浄御原《きよみはら》天皇(天武《てんむ》天皇)が大友皇子《おおとものおうじ》に追われて吉野の山奥に逃れた故事に取材したものである。
吉野川の急流を船で下ってくる老夫婦(尉《じよう》と姥《うば》)が、わが家の辺《あた》りに紫雲が漂《ただよ》っているのを見て、高貴なお方がいるのではないかと驚く。
家に帰ってみると、案の定、そこには王冠を戴《いただ》いた浄御原天皇とその一行が屯《たむろ》していた。天皇のために、姥は摘んだばかりの芹菜《せりな》を、尉は釣ったばかりの鮎《あゆ》を焼いて供える。
吉野川を「菜摘《なつ》みの川」と呼び、鮎を「吉野の国栖《くず》魚」と別称するのは、この故事から出ているという。
尉は天皇のために鮎を用いて、行く末の吉であることを占う。
ところがこの時、追手が襲ってきた。尉はとっさに船の中に天皇を隠し、追手に対して激しい気迫をもって立ち向かい、追い払う。
やがて夜も更け、老夫婦が姿を消すと、美しい天女が現れて舞を舞う。それにひかれるように吉野の神々も来臨し、さらには蔵王権現《ざおうごんげん》までが姿を見せ、天武の御代《みよ》の万歳と国土安泰を誓う。天皇の一行を救った老夫婦は、じつはこの神々の化身《けしん》であったのだ。
以上のような物語で、スケールも大きく、神事能としてはきわめて相応《ふさわ》しい。
能の終演とオーバーラップするように、例の電子音楽が流れ出して、夢幻の雰囲気《ふんいき》を醸成したのも、心憎い演出であった。
終演は午後十時を回って、夜気はしんしんと冷たく、霧は衣服を濡《ぬ》らした。
しかし、智春は寒さを厭《いと》う余裕もないほどに、能に魅了され、天河《てんかわ》の「気」に満足しきっていた。
舞台から人が去り、音楽も止み、やがて境内《けいだい》の人影も消えていった。その中で、智春《ちはる》と千代栄《ちよえ》だけが床几《しようぎ》に腰を下ろして、じっと動かないでいた。
境内のあちこちにある常夜燈《じようやとう》が点《とも》され、辺《あた》りはいくぶん明るくなった。四辺の篝火《かがりび》もまだ燃え残り、二人の顔をチラチラと赤く染めている。
「こうしていると、天河の夜の中に溶け込んでしまいそうな気持ち」
智春は吐息と一緒に、呟《つぶや》くように言った。
「そう、そう思う? だったらあなたも天河に受け入れられたんだわ、きっと」
千代栄は「おめでとう」とでも言いたそうな口調で言った。
「あーあ、明日はもう、ここにはいないのねえ」
智春はまた溜《た》め息《いき》をついた。
「また来ればいいじゃない。天河は逃げやしないわ」
「それはそうだけれど、でも、その時もまた須佐さんに会えるかどうか分からないでしょう」
「私に会えなくても、もっとすてきな人にめぐり会えるかもしれない」
「だといいんですけど……でも不思議ねえ、たった三日間のお付き合いなのに、なんだか、須佐さんとはずっと昔からの知り合いみたいな気がします」
「でしょう、それが天河の天河たる所以《ゆえん》なのよね。誰とでも気楽にうち解けるような何かが、ここにはあるのね」
「そのことで、一つだけ訊《き》きたいことがあるんですけど、訊いてもいいですか?」
智春は思いきって言ってみた。
「何? 一つだけって」
「怒らないって約束してください」
「変なひと、怒るわけないじゃないの」
千代栄は篝火《かがりび》の明かりを白い歯に反射させて笑った。
「須佐さんと水上和鷹《みずかみかずたか》さんのことですけど、何かあったんじゃないのですか?」
「なあんだ、そのこと……」
千代栄は軽く受け流そうとして、しかし、ふっと顔を曇らせた。
「やっぱりそのこと、訊いちゃいけなかったみたいですね」
「そんなことないわ。でも、もう過ぎたことだし、それに、和鷹さんは亡くなってしまった人ですもの」
「じゃあ、ほんとに何かあったのですか?」
「ええ、夢みたいな話だけど」
「何があったのか、教えてください」
「そんなこと、人に話すようなことじゃないんだけれど」
「でも、やっぱり聞いてみたいんです。ただの野次馬根性っていうんじゃなくて、天河神社では、何か不思議な力が働くっていう、そういうことのひとつの顕《あらわ》れみたいなものが、須佐さんと和鷹さんのあいだにあったような気がして」
「それは否定しないけど、でも、それを証明する片方の人がいなくなってしまった今となっては、私が喋《しやべ》ったりするのは、欠席裁判みたいで、気が進まないわね」
「欠席裁判……」
智春は思いがけない言葉を聞いて、目を丸くした。
「ということは、水上和鷹さんは悪い人だったのですか?」
「あははは」
千代栄は男のような笑い方をした。
「悪い人だなんて、そんなんじゃないわ。そうじゃなくて、私が言いたいのは、あの夜のことは、もしかするとこっちの思い込みでしかなかったのかもしれないっていうこと。ほんとにね、ほんとに夢みたいな出来事だったし、たとえ事実だったとしても、一方的にこういうことがあったなんて喋っても、信じてもらえない可能性だってあるじゃない」
「そんなことはありませんよ。信じますよ。私は須佐さんの話すことを疑ったりするつもりはないですもの」
「そう……」
千代栄はしばらく考え込んでから、ふいに言った。
「私と水上和鷹さんは、結ばれたの……ううん、結ばれたのだと思うって言うべきかもしれない」
「どういうことですか?」
智春は胸をドキドキさせて、訊《き》いた。
「よく分からないの。さっきも言ったけど、あれがほんとうにあったことなのかどうかがね。比喩《ひゆ》じゃなくて、ほんとに夢でしかなかったのじゃないかっていうふうに思えて、よく分からないの」
千代栄は悲しそうに首を横に振った。
「だって、和鷹さんは私とは住む世界の違う人でしょう。その人と私が愛しあったなんていうことが、信じられるかしら? たった一夜のアクシデントみたいな出来事だったとしても、現実にあったことなのかどうか、いまでは自信がなくなってしまって……それで、ここに来れば確かめられるかなって、そう思って……そうしたら、和鷹さんが何日も前に亡くなっていたなんて……」
千代栄は絶句した。
能楽《のうがく》名流の御曹司《おんぞうし》とはいえ、まだ家元ではない水上和鷹の死は、テレビでは放送されなかった。しかし、東京の新聞には訃報《ふほう》が出ていた。ひょっとすると、熊本の地方紙にも掲載されたのかもしれないが、彼女は和鷹の死を知らずに天河へ来てしまった。
愛する者の死を悲しむのと同時に、それを知らなかったことへの後ろめたさや屈辱感にも似た想いが、千代栄を辛《つら》くさせているに違いない。
「春の薪能《たきぎのう》の夜だったの」
千代栄はふたたび話し出した。
「春先の夜は寒いけれど、今夜ほどではなかったわ。それに、これから冬に向かういまと違って、春の夜は、なんていうか、気持ちにも華やぎみたいなものがあるのね。舞台が終わって、観客もみんな帰ったあと、篝火《かがりび》だけの境内《けいだい》に私だけポツンと残っていたの。そう、今夜の私たちみたいにね。どうしてなのか、よく分からないのだけれど、たぶん、私なりに何かの予兆を感じたのじゃないかって、いまでは思っているわ」
そう言った一瞬、千代栄の目の中には、暗い闇《やみ》の中に激しく燃える篝火が映ったような光が宿った。
「社殿の脇《わき》から、スーッと人影が出てきた時は、私は亡霊かと思ったの。能の擦《す》り足《あし》のように、音もなく――っていう感じだったし、まるで夢遊病者みたいに頼りない様子だったのね。だけど、不思議に恐ろしいっていう感じはなかった。それに、先方も私がそんなところにいるなんて思ってもいなかったのでしょう、ギクッと足を停《と》めて、それからゆっくり近づいてきて、私が幽霊やキツネの化けたのでもないことを確かめるような目で、じっと見つめていたわ」
「その人が水上和鷹さんだったのですね?」
智春は話の先を催促した。
「ええ、でも、その時は分からなかった。私は舞台でしか和鷹さんを見たことがなかったし、舞台ではいつも面をつけていらしたでしょう。服装だって、ふつうの青年と同じ、ジーパンにラフなブルゾン姿だったの。それで、私もふつうの人に挨拶《あいさつ》するように、こんばんはって言ったら、彼もこんばんはって言って、私と並んで坐《すわ》って、ぼんやり闇を眺《なが》めていたわ」
千代栄は話を止めて、じっと空間の一点を見つめつづけた。
智春も同じように黙ったまま、神楽殿《かぐらでん》の奥の闇を見つめていた。たぶん、「その夜」の千代栄と水上和鷹がこれとそっくりの状態だったのだろう――と思った。
「突然、『愛してる』っていう声が聞こえたの」
千代栄は低い声で言った。
「ううん、耳で聞いたのじゃなくて、心で聞いたのね。ほら、テレパシーとか、そういうことを言うでしょう。あれみたいなものだと思うのだけれど、私ははじめての経験だから、びっくりして、思わず『えっ?』て訊《き》き返そうとして、だけど、声にはならなかったのね。声にはならなかったけれど、彼には通じたみたい。もう一度『愛してる』って聞こえたのよね。それで私も、心の中で『愛してます』って言って……」
千代栄ははにかんだように俯《うつむ》いた。
またしばらく沈黙が流れた。
「それから、彼は立ち上がって、私の腕をとって……私も立って、一緒に歩いて行って、神楽殿の階段を上がったの」
短く区切り区切り言って、千代栄の言葉は途絶えた。だが、それから先、千代栄と和鷹のあいだにあった出来事は、智春の脳裏《のうり》に、まるで映画の一場面を見るように、ありありと映し出された。
「床に敷かれた薄縁《うすべり》に、樟脳《しようのう》の匂《にお》いがしていたわ」
千代栄のそのひと言だけが、ひどく印象的であった。
翌朝、智春は九時に宿を発った。
千代栄は川合《かわあい》のバス停まで送ってきてくれた。別れがたい想いが、二人の胸中に行き交っていた。
はるか先の川合のバス停に、三人の客がいるのが見えた。智春と千代栄は、どちらからともなく、少し手前の橋のたもとで足を停《と》めて、天《てん》ノ川《かわ》の急流を見下ろした。
「吉野で何かあったら、また戻って来るのでしょう?」
千代栄は不安そうに訊《き》いた。
「分からない。たぶん戻って来ると思いますけど、でも、この先どうなるのか……もし戻れなかった時のために、一応さよならを言っておきます」
智春はおどけた様子でピョコンと頭を下げたが、顔は笑えなかった。
「昨夜《ゆうべ》のことは、もう言わないで――っていう歌、知ってる?」
千代栄が訊いた。
「ううん、知りません」
「でしょうね。ゆうべの秘密っていう曲で、小川知子が唄っていたの。私が子供の頃、いちばん最初に覚えた歌なんだけれど、いまはその歌の心境ね」
川を見下ろしたままの姿勢で、照れ臭そうに言った。
「分かってます。天河《てんかわ》であったことは天河だけで通用すると思ってますから」
智春は快活に言った。
「ありがとう」
千代栄は手を差し延べて、智春の手を握った。
「じゃあ、ここで……また会えることを信じているわ」
「私も」
智春は千代栄の手を握り返した。男っぽく、固く締まった感触であった。
菜津美《なつみ》未亡人と、彼女を護《まも》る水上《みずかみ》家の人々は、夜中の十二時近くになって、秀美《ひでみ》と浅見《あさみ》が待つ桜花壇《さくらかだん》に到着した。一行は途中、橿原《かしはら》市の病院に寄って、和憲《かずのり》の遺体と対面してきている。
深夜にもかかわらず、宿では、彼らが寛《くつろ》げるようにと、特別に広い部屋と軽い食事を用意してくれた。
浅見|光彦《みつひこ》もその席に参加して、とりあえずの挨拶《あいさつ》を交わすことにした。
度重なるショッキングな出来事と長旅の疲れで、菜津美は憔悴《しようすい》しきっていた。
出迎えた秀美のほうも、努めて平静を装おうとしてはいるものの、母親以上に憔悴の色を隠せない。先刻の秀美の動揺を見ているだけに、その理由が分からないまま、浅見は彼女の自己抑制の糸が、プッツンと切れてしまいはしないかと、そのことが気掛かりでならなかった。
「こちら、浅見さんです。こんどのことで、いろいろご相談相手になっていただいているの」
秀美が紹介した。
「そうだそうですわねえ、秀美から電話でお聞きしました。ありがとうございます」
菜津美は深々と頭を下げた。
「浅見様のお父様には、宗家《そうけ》も私の亡くなった主人もたいへんお世話いただいたと聞いております。それに、お兄様は警察のお偉い方でいらっしゃいますものね。何かとお力になっていただけるよう、どうぞほんとうに、よろしくお願いいたします」
菜津美は浅見本人よりも、兄・陽一郎《よういちろう》の威名《いめい》に関心があるらしかった。とはいえ、水上家の人々にとって、浅見光彦は、この際、農協のヨーロッパツアーの添乗員ほどには、頼りになる存在であることは間違いない。菜津美はともかくとして、彼女と一緒に来た三人――親戚筋の竹宮雅志《たけみやまさし》と門弟《もんてい》の斉藤《さいとう》と友井《ともい》――は、すがりつくような視線を浅見に注いでいた。
「浅見さんは警察の人たちのあいだでも有名な、探偵さんなんですよ」
秀美は母親の言い方に、浅見を軽んじるようなニュアンスが籠《こ》められていたことを、敏感に悟って、浅見の肩を持つような説明を加えた。
「まあ、探偵社にお勤めですの?」
菜津美はかえって、やや鼻白んだように言った。彼女には「興信所《こうしんじよ》」だとか「探偵社」だとかいうものに対して、ある種の偏見があるのかもしれない。
「いや、僕はルポライターのようなことをやっているのです」
浅見は苦笑して言った。
「ルポライターと申しますと、あの、テレビで、突撃インタビューとかいうのをなさったりしている、あれでしょうか?」
菜津美の心証はますます悪くなる。
「いえ、あれはレポーターですね」
「では、写真雑誌のほうで?」
「はあ、あれも同業ですが、僕のはずっと地味なもので、たとえば、今回の能謡|史蹟《しせき》めぐりですとか、そういうあまりパッとしない……」
言いかけて、浅見は慌《あわ》てて口を抑えた。
「いえ、能謡そのものはすばらしいのですが、僕のやっているようなものはですね……つまりその、目立たないというか……」
しどろもどろになった。
「はあ……」
菜津美もどう評価していいものか、困惑ぎみのまなざしで、この一見、坊《ぼ》っちゃん坊っちゃんした青年を眺《なが》めている。
「でも、浅見さんは名探偵としてのほうが有名なんですって」
秀美はもどかしい想いを露《あらわ》に、言った。
「名探偵?」
「ほら、シャーロック・ホームズとか、金田一耕助とか……」
「でも秀美、それは小説の世界のことではありませんか」
菜津美は、こんな時に、ばかげたことを言うものではありませんよ――という、苦々しい目付きで、秀美を窘《たしな》めた。
「でも……」
秀美はなおも反発しかけたが、それに被《かぶ》せるように、菜津美が言った。
「それより浅見さん、さっき警察の方が言ってらしたのですけれど、明日の朝、刑事さんがこちらに見えて、いろいろお訊《き》きになりたいことがあるそうです。そういう場合、私どもはどのようにお答えすればよろしいのでしょうか?」
「それは、刑事さんの質問に応じて、ありのままをお話しになればいいと思います」
「ありのままっておっしゃっても、どの程度までお話ししていいものか……正直なことを申し上げますと、なにぶん水上家の体面というものもございます。ことに、宗家《そうけ》がああいうことになったというのは、水上家始まって以来の不名誉な出来事ですし、第一、自殺の原因をと訊かれましても、どうお答えしてよいものやら、まったく思い当たることがありません」
「自殺なさったのかどうか、まだはっきりしていないと思いますが」
浅見は、受け取りようによっては、いくぶん冷ややかに聞こえる言い方で言った。
「は? 自殺かどうかって……でも、警察では毒を飲んだと言ってましたが」
「ええ、服毒してらしたことは間違いありません」
「でしたら……」
「お母様、お祖父《じい》様は殺された可能性が強いって、浅見さんはおっしゃってるの」
秀美が脇《わき》から言った。
「殺された……ですって?」
菜津美の面上に、たちまち不信感が広がった。
「警察の人は殺されたということは、おっしゃっていませんでしたけれど」
「はあ、警察でも、いまのところ、どちらとも断定できないでいるようです」
「でしたら、どうして?……」
「それは……」
浅見は苦笑した。秀美に対してしたのと、同じ解説を繰り返さなければならない。
「今あなたがおっしゃったことが正しければ、そういうことになると思いますが」
「私が? 私が何を申し上げたかしら?」
「自殺を水上家にとって不名誉なことと言われました」
「ええ、そうですわよ」
「ご宗家《そうけ》は、お家の不名誉になるようなことをなさる方でしたか?」
「いいえ、とんでもない……あ、そう……そういうことでしたの」
菜津美は、自らの矛盾に気付いて、愕然《がくぜん》となった。
「そうですわね、義父《ちち》がそういう不名誉なことをするはずがありませんわね」
しばらく考え込んでから、顔を上げて言った。
「そうしますと、宗家は何者かに殺されたのでしょうか?」
「はあ、もしあなたや秀美さんの言われたことが正しいとすると、そうなります」
「秀美はどう思って?」
菜津美は娘の顔を見つめた。
秀美は母親の視線を避けて、スッと脇《わき》を向いた。菜津美は重ねて訊《き》いた。
「お祖父《じい》様が自殺なさることはあり得ないわよね」
「ええ……でも、よく分からない」
「分からないって、じゃあ、秀美はお祖父様が自殺したかもしれないって、そう思っているの?」
「そうは思えないけれど……」
「どっちなの?」
「だから、分からないって言うの」
秀美は向き直って、激しい口調で言った。菜津美は驚いて丸く口を開け、一瞬、絶句したほどだった。
「どうしたの、その口のきき方は」
「ごめんなさい」
急いで謝ったが、膝《ひざ》の上に置いた秀美の手は、彼女の興奮《こうふん》を物語って、小刻みに震えていた。
「あの、今夜はお疲れでしょうから、そろそろお寝《やす》みになったほうがいいのではありませんか」
浅見がおそるおそる進言した。
「そうですわね」
さすがに菜津美も秀美の情緒不安定に気付いたらしく、浅見の提案に渡りに舟とばかりに従った。
「明日は浅見さんも警察に付き合っていただけるのですね?」
「ええ、僕に出来ることでしたら、何なりと申しつけてください」
水上母娘は同室におさまり、浅見は自室に、ほかの者もそれぞれの部屋に引き上げた。
すでに午前一時を回り、廊下《ろうか》には冷え冷えとした空気が漂《ただよ》っていた。
寝床に入ってから、浅見はなかなか寝つかれなかった。
寒さのせいだろうか、夜のしじまの奥のほうから、時折、何か枝のはぜるような物音が聞こえた。そのつど、浅見の神経はピクッと痙攣《けいれん》する。
勝手《かつて》神社の境内《けいだい》で会った水上老人が、吉野奥山で死んでいたという、その情景を想像するだけで、臆病《おくびよう》な浅見は背筋が寒くなる。
取材で吉野山に来て、思いがけない出来事の連続であった。あげくの果て、殺人事件に遭遇《そうぐう》したとなると、これはもう、何かの因縁《いんねん》か、前世の悪縁とでもいう以外にない。吉野だとか天川だとかいう土地には、そういう超常的現象が似つかわしいようにさえ思えてくるのだった。
それにしても――と浅見は天井の黒いシミを数えながら考えた。
水上秀美のあの異常な興奮状態は、いったい何を物語っているのだろう。
――祖父はやっぱり自殺したのかもしれません。
――兄を殺して、私に宗家《そうけ》を継がせたかったに違いありません。
――祖父は私のために兄を殺した……。
興奮のあまりとはいえ、秀美はじつに重大な発言をしているのだ。もし、これを警察が聞いたら、さぞかし雀躍《こおど》りして喜ぶに違いない。
いったい、秀美はなぜそんなことを口走ったりしたのだろう? ただの娘らしい感傷やヒステリー症状から発せられた、無責任な言葉に過ぎない――とは思えない。
(それに――)と浅見は、もう一つの意味不明な言葉を思い出した。
――雨降らしの面。
秀美はそんなことを言っていた。
――雨降らしの面を……どうして、お祖父《じい》様は雨降らしの面をつけさせたのかしら?
「雨降らしの面か……」
仰向《あおむ》けに寝た恰好《かつこう》で、浅見は声に出して呟《つぶや》いてみた。
翌朝、巡査部長の肩書のある刑事が二人、やって来た。一人は気賀沢《きがさわ》という吉野署の刑事だが、もう一人の若いほうは奈良県警から来た刑事で「小西《こにし》」と名乗った。気賀沢の大兵《たいひよう》と対照的に小柄だが、目付きの鋭い、いかにも俊敏そうな男だった。
瀬田《せた》たち東京の二人組は来なかった。管轄《かんかつ》違いの事件ということで、一応、遠慮しているのだろう――と浅見は思ったのだが、そうでないことが後で分かった。
昨夜の広い部屋を借りて行われた、菜津美や秀美、それに水上一門の人々に対する事情聴取には、浅見も立ち会わせてもらうことができた。
そのことについて、はじめ、刑事は難色を示した。ことに小西刑事は「絶対に困る」と言ったのだが、菜津美のたっての希望があって、老練の気賀沢が署長に相談した結果、OKが出た。「兄の七光《ななひかり》」がものを言ったことは否定できないが、事件そのものが、どうやら自殺と判断できることから、署長は軽く考えたらしい。
事情聴取は主として小西が行うらしい。まず型どおり、水上和憲が吉野山に来た理由から問い質《ただ》した。
「跡継ぎの孫――私の息子《むすこ》の和鷹が急死したことを、ひどく気に病んでおりましたので、やはりそれが原因ではないかと思います」
菜津美は、すでに何度か訊《き》かれ、そのつど答えたのと同じ言葉を繰り返した。
「その際、和憲さんは遺書とか、書き置きのたぐいは残さなかったのですか?」
「はい、何も残しておりませんでした。ですから、私どもといたしましても、よもや自殺などということは考えてもおりませんでしたので……」
菜津美は目頭を押さえた。
菜津美は四十八歳。ふだんは和服姿で通していることが多いのだが、長旅とあって、ライトグレーのツイードのブルゾンスーツを着ている。髪型も化粧も控えめで、能の家元の人間に相応しく、古風な感じだし、疲労のせいもあって、年齢は隠すすべもないけれど、それなりに魅力的な女であった。
おそらく、若い頃は秀美とそっくりの美貌《びぼう》だったに違いない――と、浅見はひそかに秀美と見比べながら思った。
「毒物を所持していたということについて、何か知りませんか?」
小西刑事は訊いた。
「いいえ、そんなものがあるなどということは、まったく存じておりませんでした」
「吉野にお知り合いはいるのですか?」
「いいえ、おりません」
「和憲さんも、ですか?」
「はい、義父《ちち》はたしか、吉野には一度も参ったことがないはずですから」
「その和憲さんが、なぜ吉野に来たのですかねえ」
「それは、ぜひ行ってみたいと申しておりましたし、吉野には能に関係する史蹟《しせき》が沢山ございます。ことに静御前《しずかごぜん》ゆかりの土地ですから、一度は訪れてみたいと思ったのではないでしょうか」
「なるほど……」
小西は頷《うなず》いたが、すぐに首をひねった。
「自殺の原因に思い当たることがないということだし、遺書もないのですなあ。しかし、和憲さんは毒物を所持していた……となると、あらかじめ自殺の覚悟をしておられたのではないかと思量されるのですがねえ。どうも、その点が矛盾しておりますねえ」
「はあ……」
菜津美は救いを求める目で、浅見を見た。しかし浅見は気付かないふりを装って、黙っていた。口を開けば、どうせ「殺人の疑いが濃厚です」と言わないわけにいかない。それでは、ただでさえ反感を抱いている小西の神経を、逆撫《さかな》でするようなものだ。
「祖父は殺されたのじゃありませんか?」
いきなり、秀美が言った。浅見も含めて、全員がギクリとした目を彼女に向けた。
気賀沢刑事は曖昧《あいまい》な表情を浮かべただけだったが、小西刑事は、きわめて冷ややかな反応を見せた。
「昨日もそのようなことを言われたそうですね。たしか、浅見さんの意見だとか?」
「はあ、まあそうです」
浅見ははじめて口を開いた。
「素人《しろうと》の方がいろいろ推量されるのは勝手ですが、そういうことはわれわれ警察も考えていないわけではありませんのでねえ。いくらお身内に警察幹部の方がおられるにしても、あまり予断めいたことを言われるのは困るのです」
小西は敵意を剥《む》き出しに、そう言った。
「いえ、僕は捜査の妨害をしようなどとは思っていませんから」
浅見は首を竦《すく》めた。
「浅見さんのせいじゃありません」
秀美が不満そうに言った。
「祖父が自殺なんかする人じゃないというのは、私だって母だって同じ意見なんです。自殺なんてみっともないことをすれば、水上家の体面を損なうことぐらい、いくら気持ちが動転していても、祖父には分かり過ぎるくらい分かっていたはずですもの。祖父は絶対に自殺なんかしていません」
強弁する秀美を見て、浅見は痛々しい思いがしてならなかった。秀美は明らかに、祖父の自殺の原因が和鷹を殺害したためである――と思い込み、「自殺」を否定しないと、和憲の「殺人」までも浮かび上がってくると恐れているのだ。
「そう言われても、現場の状況やら、これまで行った事情聴取の結果から言って、自殺の可能性が強いことも事実ですからなあ」
気賀沢刑事が、いささか当惑ぎみに言った。
「どうしても他殺であると言うのなら、それでは逆にお訊《き》きしますが、あなたのお祖父《じい》さん――和憲さんには、誰かに殺されるような理由があったのですか?」
小西のような鋭さと違って、まとわりつくような、ねばっこい口調だ。
「そんなこと……」
秀美は口を尖《とが》らせた。
「そんなこと、分かりません。それを調べるのは警察の役目でしょう」
「ははは、そのとおりですよ。小西さんも言われたように、警察はそういう可能性も勘案しながら捜査を進めております。しかしながら、和憲さんが殺害されたとする状況というものがですね、今までの調べでは、まったく浮かんでこないのです。それで、そのような動機を持つ人物の心当たりがあるのかどうかと、お訊きしたようなわけですが」
「…………」
秀美は口を噤《つぐ》み、母親や一門の人間を見回した。
誰も何も言わず、中には首を横に振る者があった。
「よろしいですかな。和憲さんが殺されたものだと仮定しますと、いわゆる通り魔といった、ゆきずりの殺人でもないし、強盗などでもない。要するに怨恨《えんこん》による犯行と断定せざるを得ないわけであります。しかも、顔見知りの人物による犯行であると考えられる。なぜなら、和憲さんは、カプセル様の容器に入った毒物を飲んでいるし、しかも死体があった現場まで、暴力をもって拉致《らち》された形跡はまったく認められませんのでね。つまり、殺人事件であるとするならば、和憲さんはきわめて友好的な状況のうちに現場まで行き、突然、思いもよらぬ死に襲われた――と、こういうことになるのです。そのためには、犯人の周到な用意がなければならない。通り魔だとか強盗だとかいう、突発的な犯行でないことは明らかであるわけです」
朴訥《ぼくとつ》なゆっくりした語り口だが、なかなか理路整然とした論旨であった。
「いかがでしょうか、そういう親しい間柄の中に、和憲さんを殺害するような人物がおりますか?」
気賀沢に訊かれて、今度は全員が首を横に振った。
「いや、もちろん、みなさんは立場上、誰それとは名指しできないと思います。いずれ警察がそれらしい人物に聞き込みをすることになると思いますが、もしそういう人物の犯行であるならば、第一にそれ相当の動機を持った者でなければならないこと、それにアリバイなどの問題で、かなり該当者の範囲が搾《しぼ》れます。したがって、割と簡単に容疑者の目鼻がつくわけで、そういう危険を冒して、あのような犯罪を実行に移すものかどうか、きわめて疑問と言わざるを得ません」
気賀沢の言葉を受けて、小西が言った。
「どうです? そういう動機を持つ人物に心当たりはありますか?」
また、全員が首を振った。
「浅見さんはどうです。まだ殺人事件の可能性があると思いますか?」
小西が訊いた。やはり、相当、浅見の存在を意識している。
「はあ……」
浅見は少し躊躇《ためら》ってから、言った。
「殺人事件だという証拠を握っているわけではないですけど、一つだけ非常に気になることはあります」
「何ですか? また体面問題を言うのじゃないでしょうねえ。そりゃ、水上家というのは立派な家柄であることは確かです。しかし、精神的に追い詰められると、人間というものは、前後の見境《みさかい》がつかなくなるものでもあるわけですよ」
「はあ、そういうものかもしれません。とはいえ、その点については、いろいろな見方があると思いますが……しかし、僕が気にしているのは、それとは別のことなのです」
「何なのですか?」
小西はまるで被疑者に対するような、きつい口調で催促した。
「はあ、そのことは秀美さんにも言ったのですが、つまり、水上和憲さんが、今まで一度も吉野に来たことがないというのがですね、どうしても腑《ふ》に落ちないのです」
二人の刑事は顔を見合わせた。
「どういう意味です?」
小西が訊《き》いた。
「いや、僕も吉野ははじめてなのですが、今回、能や謡曲にまつわる土地を取材して歩いていて、吉野ほど史蹟《しせき》の豊富な土地はないことを知りました。それなのに、水上流《すいじようりゆう》の宗家《そうけ》ともあろう人が、なぜ吉野を訪れなかったのか、そのことがひどく不思議に思えてならないのですよ」
「そんなに不思議なことですかなあ」
気賀沢は得心《とくしん》がいかないらしく、不精髭《ぶしようひげ》が目立つ顎《あご》の辺《あた》りを、しきりに撫《な》でている。
「ええ、不思議に思えました。それに、和憲さんは、すぐこの先の天河《てんかわ》神社にはちょくちょくおいでになっていたそうですしね」
「そら天河神社は芸能の神様だから、お参りするのが当然でしょう」
「それにしても、通りすがりのような吉野山に立ち寄らなかったというのは、どう考えても不自然ですよ」
「そうですかなあ……どうなのです? その点については。吉野山を訪れない理由のようなことを、和憲さんは言っていたことがあるのですか?」
気賀沢は、菜津美やほかの水上家の連中の顔をグルッと見渡した。
「いいえ、そういうことを聞いた記憶はございませんけれど」
菜津美は答え、ほかの者を見返って、「どうなの?」と確かめた。誰もが一様に首を横に振った。
「近くに住んでいる者であっても、かえってなかなか行かないということは、よくあることと違いますかなあ」
気賀沢は言った。
「現に、私など、ここに赴任した頃から、ぜひ一度、天河神社へ行こう行こうと思いながら、三年を経過しようとしております。そろそろ転勤の時期であるし、このぶんだと、結局、行かないままになってしまいそうですからなあ」
「はあ……」
浅見は苦笑した。気賀沢の考え方を覆《くつがえ》すほどの根拠があるわけでもなかった。
「かりに、かりにですよ」
と小西が言った。
「さっきも言ったように、水上和憲さんが殺害されたものと仮定すると、その犯人像はきわめて限定されるわけです。しかもですね、ああいう方法で殺すというのがですね、ちょっと考えにくいです。なぜ吉野山でなければならなかったのか、それ自体がおかしい。わざわざ吉野まで追っ掛けて来て殺害しなければならない理由があるとは思えませんからねえ。それに、あの現場を選んだことも説明できにくいでしょう。殺しておいて、死体遺棄だけにあの場所を選んだというのなら納得もできますがね。被害者はあの場所に来るまでは生きていたのです……あ、どうもこれは、みなさんの前で言うのは気がひけるのですが……」
「要するに、刑事さんはどうしても祖父の死が自殺だっていうことをおっしゃりたいのですね?」
秀美が強い口調で言った。浅見は驚きの目で彼女を見た。昨夜は祖父の「自殺」を口走っていた秀美が、そのことをまったく忘れたような口振りであった。
「いや、そうは言っておりません。言ってはおりませんが、いままで説明したような諸般の状況から考えて、その可能性のほうが大きいということをですね……」
小西は苦々しげに言った。なんでこんな小娘なんかに、警察の捜査方針を説明しなければならないのか――と言いたげであった。
「とにかく、当面は自殺他殺両面で捜査を進めるわけですので、みなさんに何か心当たりがあれば、警察に教えていただきたい。よろしいですね」
最後は結論じみて言って、引き上げた。
二人の刑事と入れ代わるように、瀬田、森本の東京組の両刑事がやってきた。いや、実際に外のパトカーで待機していて、入れ代わったとしか考えられないようなタイミングであった。
一度、それぞれの部屋に散った水上家の人々と浅見は、ふたたび元の、宿が用意してくれた広い部屋に招集された。
「お疲れのところ恐縮ですが」
瀬田はこの男らしくない低姿勢で言った。
「ちょっと東京の事件について、参考までにお訊《き》きしたいことがありますので、一つご協力ください」
「東京の事件といいますと、何のことでございましょうか?」
菜津美はたちまち警戒して、緊張そのもののように顔を強張《こわば》らせて、訊いた。
「はあ、じつは昨日も東京のお宅のほうへ刑事が伺《うかが》ったと思いますが」
「ええ、お見えになりましたけれど、宗家《そうけ》にお会いになりたいということで、べつに東京の事件というようなことはおっしゃっていませんでしたよ」
「昨日の段階では、ですな。昨日は水上和憲さんからお話を聞くことが目的でありましたから、事件のことは申し上げなかったようなわけであります」
「ですから、その事件というのは何のことですの?」
菜津美は、いかにも神経がピリピリしている様子を見せている。これには瀬田が圧倒されると同時に、疑いを抱いたらしい。
(何をそんなにヒステリックになっているのだろう?――)という目付きで、菜津美を見つめた。その刑事特有の目が、浅見を不安にさせた。
「東京の事件というのは、新宿のオフィス街で人が殺されたという事件のことですよ」
浅見は瀬田の疑惑をはぐらかすために、急いで言った。
「新聞にも出ていましたから、ご存知かと思いますが、川島《かわしま》という愛知県の人が殺された事件です」
「ああ、その事件のことですの」
菜津美の顔から、極度に緊張した表情が一挙に消え失せた。
「その事件でしたら、私もテレビのニュースか新聞か、どちらか忘れましたけれど、存じております。たしか、二週間か二十日ほど前のことではございませんか?」
「ええ、まあそうです」
瀬田は浅見にチラッと視線を送って、つまらなさそうに頷《うなず》いた。
(この女、たしかに妙な感じだったのに、余計なことを言いやがる――)
そう言いたそうな感じが、浅見には手に取るように分かる。
「でも、その事件のことが、義父《ちち》とどういう関係がありますの?」
菜津美は平静を取り戻して、逆に質問を発した。
「じつはですね、その事件の被害者が持っていた鈴がありまして」
瀬田はポケットから五十鈴《いすず》の写真を取り出した。
「これと同じような鈴なのですがね、見憶《みおぼ》えはありませんか?」
「あら、それは天河神社の……」
菜津美はごくふつうの反応を見せた。
「そうです、天河神社の『五十鈴』という、いわば御神体になっている鈴のレプリカなのだそうです。事件発生の最初の段階では、われわれはあまり重要視していなかったのですが、あとになって、その鈴がきわめて珍しい物であることが分かりました。つまり、一般的にお守り用に売られているのとは違う、ごく限られた信者だけに授けられる鈴であったのですね。そこで、何かの手掛かりになるのではないかと考えて、天河神社に聞き込みに行ってみたところ、なんとも幸運なことに、その鈴には通し番号の刻印が打ってあって、その番号の持ち主が水上和憲さんであることが分かったのです」
「ええ、おっしゃるとおりでしてよ。たしかに義父《ちち》は、天河神社からその五十鈴を戴《いただ》いておりました」
菜津美は肯定した。
「でも、その鈴をどうしてその被害者の方が持っていらしたのかしら?」
「そこです」
瀬田はわが意を得たり――というように、膝《ひざ》を叩《たた》いた。
「それですぐに東京に連絡して、水上和憲さんに話を聞くように依頼したというわけなのです。しかし、その時にはすでに和憲さんは吉野に来ておられたのですな。いや、それもまた偶然というべきか、幸運というべきか、不思議なことではありました」
たしかに瀬田は「幸運」であったに違いない。もし天河神社の福本のところに、川島|智春《ちはる》が五十鈴《いすず》の所有者のことを訊《き》きに行ってなければ、それほどの収穫は無かったはずなのである。しかし当然のことながら、瀬田はその間の事情については口を噤《つぐ》んでいる。
「天河神社の記録によりますと、和憲さんが神社から五十鈴を授かったのは、昭和三十六年だそうです。刻印の番号は0012。つまり、信者の中では筆頭とも言っていいような若い番号だったわけです。神社の人の説明によると、水上家は室町時代から天河神社とゆかりのある家柄であって、そういう特別待遇を受けて当然なのだそうですなあ」
瀬田の尊敬の視線を受けて、菜津美は黙って頷《うなず》いた。無意識に誇らしげな表情になっている。
「となるとです。その鈴は非常に大切なものであるわけで、それほどの鈴がなぜ川島という人間の手に渡っていたのか、そこのところが大きな謎《なぞ》になってきます。いったい、水上和憲さんと川島さんの関係はどのようなものなのか――ということがですな」
瀬田は顔を突き出すようにして訊いた。
「どうです、そのことについて、何かご存じありませんか?」
菜津美は首を振った。
「いいえ、まったく存じません」
「その鈴があることを知っていたと言われましたね?」
「ええ」
「鈴を最後に見たのはいつ頃のことでしたか?」
「さあ……」
菜津美は遠い記憶を呼び起こす目付きになって、秀美を見返った。
「ずいぶん昔のことのような気がします。この子がまだ子供の頃ではなかったかしら」
「それじゃ、私がお祖父《じい》様に叱《しか》られた時だわ、きっと」
秀美が言った。
「ほら、鈴をおもちゃ代わりにして遊んでいて、お祖父様に叱られたことがあったの、憶《おぼ》えていない?」
「ああ、そうねえ、そういうこともあったかもしれないわね。でも、はっきりとは憶えていないわ」
「そう? 私はありありと思い出せるほどはっきり憶えているわ」
「だとすると」と瀬田が言った。
「何年ぐらい前ということになりますか? 十年前……いや、もっと前ですかな?」
「たぶん十五、六年前じゃないかと思いますけど」
「ええと、お嬢さんはおいくつでしたかなあ?」
「二十四歳です」
「なるほど……そうすると、八歳か九歳かそこいらの頃ですか。鈴をいたずらしてもおかしくない年頃ではありますなあ」
瀬田は納得したように、何度も頷《うなず》いてみせた。
「それ以来、鈴を見たことはないのでしょうか?」
「ええ」
秀美と菜津美はほぼ同時に答えて、顔を見合わせた。
「だとしますと、いつ鈴が和憲さんの手元から川島さんのところに渡ったのか、事実上分からないに等しいということですね」
瀬田は溜《た》め息《いき》をついた。
「でも、祖父がそういう、川島さんでしたっけ……あまり親しくない方に、あの大切な鈴を差し上げるかしら?」
秀美は首をひねった。
「いや、上げたかどうかは分かりませんよ。単に預けたのかもしれないし。それに、直接、和憲さんから川島さんに渡ったのかどうかも不明です」
「ああ、そうですわねえ」
そうなるともはやお手上げである。いつ、どんな理由で、どういうルートで、鈴が川島孝司《かわしまたかし》の手に渡ったのか、皆目、見当がつかない。
「はっきり申し上げて」と、瀬田は眉《まゆ》をひそめながら言った。
「和憲さんの死亡原因が、川島さんの場合ときわめてよく似ておりましてねえ、いわゆる手口というヤツがです。もしこれが殺人事件だとすると、同一犯人による犯行という見方もできるわけですよ」
「でも、さっきの刑事さんは、祖父は自殺したのだって主張していました」
秀美は憤懣《ふんまん》やるかたない――という思いを込めて、言った。
「ああ、それはですね、ここの警察はそういう考え方をしているようですが、われわれ警視庁の人間としては、若干、意見を異にしているわけですよ。まあ、二つの考え方があるとご理解いただきたい」
瀬田は憮然《ぶぜん》として言った。いっぺんですむところを、二度に分かれて事情聴取にやってきたのには、そういう理由があったということらしい。
瀬田はその後、水上和憲に怨《うら》みを抱いている者はいないかとか、和憲が死んで得をする人間はいないか――といった、ほとんど前の刑事たちとダブるような質問をした。
結局、大した収穫もないまま、そろそろ引き上げるか――という時、部屋に電話がかかってきた。吉野警察署からのものであった。
秀美が電話に出て、すぐに瀬田に受話器を渡した。
「川島さんの娘さんが、ですか?」
瀬田は電話に向けて渋い顔を作り、「ふんふん」と相槌《あいづち》を打っていたが、最後に、煩《わずらわ》しそうに「すぐに戻ると伝えてください」と言って、邪険に受話器を置いた。
「噂《うわさ》をすれば何とかというヤツですなあ。例の川島智春さんが吉野署に訪ねて来ているそうですよ」
浅見に言ってから、瀬田は菜津美に訊いた。
「東京で殺された人の娘さんなんですがね、いま電話で聞いただけなので、どういうことかよく分かりませんが、水上家の方に会いたいと言っているそうなのです。どうしましょうかねえ」
「どうしましょうって……そんな、存じ上げない方とお会いしてもしようがありませんわねえ」
菜津美は難色を示した。
「そうですなあ、じゃあ、断っておきましょうか」
瀬田はぜんぜん拘泥《こうでい》しない。
「もしよければ、僕が会いましょうか。構わないでしょう?」
浅見が言った。
「はあ、そりゃ、べつに構いませんが……」
「私もお会いします」
秀美も言った。
「まあいいでしょう。とにかく、どういうことなのか聞いてみて、電話で連絡しますよ。ではこれで」
瀬田と森本刑事は引き上げて行った。
「やれやれ……」
菜津美は刑事の姿が部屋の外に消えるやいなや、ドッと疲れが出たように、溜《た》め息《いき》をついた。
「警察もあまりアテにはならないみたいですわねえ。同じ警察の内部で、あんなに意見が違うなんてねえ……そうじゃありません? 浅見さん」
「はあ、たしかに……」
いきなり質問の矛先《ほこさき》を向けられ、浅見は慌《あわ》てた。兄の手前もあって、必ずしも全面的に賛成するわけにはいかないが、一応、同意を示しておいた。
第八章 浅見の「定理」
刑事の事情聴取の際には、竹宮《たけみや》やほかの若い二人の門弟は、必要以外にはひと言も喋《しやべ》ろうとしなかった。菜津美《なつみ》が命じたわけではなく、そういう分《ぶん》を弁《わきま》えたようなところが、彼らにはあるらしい。
浅見《あさみ》は水上《みずかみ》母娘の部屋を出て、玄関ロビーを通過するところで、竹宮の肩を叩《たた》いた。
「ちょっとお訊《き》きしたいことがあるのですが、よければ僕の部屋にいらしていただけませんか」
「はあ……」
竹宮は一瞬、警戒した目の色を見せた。
年齢は浅見より少し上ぐらいだろうか。水上家に繋《つな》がる人間らしく、ほかの若い門弟とはひと味ちがう、華《はな》のようなものを感じさせる男だ。選ばれて菜津美の後見《こうけん》のようについてきただけあって、口も堅く、信頼できる人物なのだろう。
妄《みだ》りに質問に答えていいものかどうか、しばらく悩んでいたが、菜津美ですら「お世話になっている」と言っていた浅見である。やがて竹宮は腹を決めたように頷《うなず》いて、浅見のあとについて来た。
部屋に入ると、浅見は備えてある茶道具でお茶を入れた。
竹宮は、まるで周囲にバリヤーを巡らせたような、とっつきにくい緊張した顔で、お茶を啜《すす》った。
「お訊きしたいというのはですね」と浅見は言った。
「秀美さんが『雨降らしの面』ということを言っていたのですが、それは何のことなのですか?」
「ああ、そのことですか」
竹宮はほっと胸を撫《な》で下ろした様子だ。
「雨降らしの面は、水上家に室町《むろまち》時代から伝わる『蛇《じや》』の面のことですよ。蛇の面はちょっと見たところは般若《はんにや》の面とそっくりですが、般若にはない舌があるのです。で、問題の雨降らしの面という名前の由来ですが、その面を使うと、一天にわかにかき曇って雨が降り出したり、何か不吉な事件が起こるという、古くからの言い伝えがありまして、豊臣秀吉が使用を禁じた……つまり『お留め面』にしたといういわくつきの面なのです」
「なるほど……そういう言い伝えがあるのに、和鷹《かずたか》さんはその面をつけて『道成寺《どうじようじ》』の舞台に立ったのですね」
「はあ、そうです」
竹宮は仕方なさそうに頷《うなず》いた。
「『道成寺』のシテは蛇の化身《けしん》ですからね。本来から言うと、当然、蛇の面を使うべきなのです」
「えっ、それじゃ、その雨降らしの面は、これまでにも何度か使ったことがあるのでしょうか?」
「いや、雨降らしの面は『お留め面』ですから、ずっと長いこと使っていなかったと思います。少なくとも、私が知っているかぎりでは、使ったという話を聞いたことがありません。水上家には何百という面が保管されていて、ほとんどの面は、一門の人間であれば、いつか使わせてもらえる可能性があるのですが、雨降らしだけは宗家《そうけ》にしか許されない面なのです。それも、宗家が一生に一度、使うか使わないかだそうです。このあいだの舞台に和鷹さんが使われたのを除くと、私などはたった一度、天河《てんかわ》神社で薪能《たきぎのう》を奉納した際に拝見したことがあるだけです」
「天河神社……ですか」
「ええ、その時は宗家――今度亡くなった和憲《かずのり》宗家が『道成寺』を演じたのですが、その時も結局、宗家はふつうの般若を用いて、雨降らしの面は舞台では使われることなく、観覧に供せられただけでした」
「それはいつのことですか?」
「ええと、あれはたしか五年前頃ではなかったでしょうか……そうですね、若先生が亡くなった翌年のことでしたから」
「そういういわくつきの面を、和鷹さんはあえて使ったのですね?」
「はあ、そうです。しかし、さっきも言ったように、奇怪な言い伝えがあるために、これまでは雨降らしの面を使わず、般若の面で代用していたとはいえ、本来、『道成寺』は蛇の面を使うべき番組ですからね。そういう古い迷信を一掃する意味もあって、和鷹さんはあえて雨降らしの面を使うことにしたのではないかと、私などは思っています」
「秀美さんは、お祖父《じい》さん――和憲さんがそうするように指示したと言ってましたよ」
「はあ、そうですか……いや、そうかもしれませんね。雨降らしの面を着用するのには、まず宗家の許可が必要ですからね」
「そうすると、和憲さんとしては、跡継ぎの和鷹さんに、いわば、それとなく跡目を託す意味あいがあったということでしょうか」
「だと思います。しかし、結果的にそれがよかったかどうか……」
竹宮は沈痛な面持《おもも》ちになった。
「あの日は雨こそ降りませんでしたが、ああいう悲劇が起こったのですから」
「その時のことですが、どういう状況で亡くなったのか、教えていただけませんか」
浅見は訊《き》いた。
「はあ……」
竹宮は少し躊躇《ためら》ってから、ポツリポツリと思い起こすままを語った。道成寺の鐘供養《かねくよう》にやって来た白拍子《しらびようし》の女が、怪しい舞を舞いつつ、ついには鐘に飛び込み、鐘が落ちる。その鐘を僧侶《そうりよ》たちが祈りとともに引き上げると、中から蛇《へび》の本性を現した女が飛び出してくる――というストーリーだ。
「しかし、鐘が上がった時には、すでに和鷹さんは亡くなっておられたのです。ウロコ模様の衣装に早変わりして、蛇の面に顔を覆われたまま、息絶えていました」
「死因はたしか心不全《しんふぜん》だったとか」
「はあ、そのように聞いております」
「しかし、鐘に飛び込むところまではお元気だったのでしょう?」
「はい、元気そのものでした。白拍子の舞のところなど、鬼気迫るというか、とにかく迫力があって、われわれ舞台にいた者でさえ、魅《ひ》きこまれそうな、すばらしい出来映えでした」
「そんなに元気だった和鷹さんが、その直後、倒れられたというのは、ちょっと不自然だとは思いませんでしたか?」
「それはもちろん、信じられない気持ちでした……しかし、そのことが何か?」
竹宮は浅見の質問の趣旨に疑惑を抱いて、不思議そうに問い返した。
「いや、そんなに迫力満点に舞台を努めていた人が、突然、亡くなるような状態というのは、いったいどういうものだろうかと思いましてね」
「それは、そういうことがあっても、まったく不自然ではないと思います。何しろ『道成寺』は激しい番組ですからね。白拍子の舞にしても、かなり体力を消耗する激しい動きですし、ことに面をつけての舞は、素人《しろうと》の方が想像できないほど辛《つら》いものです。額《ひたい》や、時には髪の毛の中から噴き出してくる汗が、面と顔のあいだを流れてきて、語りの時など、口に飛び込んでくるほどです。雨降らしの面のようなすぐれた面になると、皮膚に密着しますからね、それは息が詰まるような思いがするはずですよ、和鷹さんも若さにまかせて、迫力充分に舞ったために、予想以上のエネルギーを消耗したのではないでしょうか」
「そのあげくの心不全ですか……」
浅見は目を瞑《つむ》った。和鷹の舞い姿を想像し、彼が「雨降らしの面」をつけた時の状況を実感しようと、精神を集中させた。
顔面にピタリと張りつくような面――。
吐く息、吸う息もままならない、狭い密室のような面の内側――。
目といわず鼻といわず口といわず、容赦なく流れ落ちる玉のような汗――。
「どうかしましたか?」
ふいに黙りこくった浅見の顔を、しばらく覗《のぞ》き込んでから、竹宮は心配そうに声をかけた。
浅見はようやくわれに返ったように、ほうっと吐息をついた。苦しさのあまり、目に涙があふれていた。
「よほど苦しかったのでしょうねえ」
浅見は言った。
「はあ……しかし、それほど大袈裟《おおげさ》なことではないと思います。いくら名人が彫った面だからといって、所詮《しよせん》は能面ですからね。苦しくて能が演じられなくては何の価値もないことになります」
「そうなのですか?」
浅見は意外そうに訊《き》き直した。
「さっき竹宮さんは、面のせいで亡くなったというようなニュアンスでしたが、そうではなかったのですか?」
「いや、いくらなんでもそれは考えすぎですよ。私は熱演のあまりエネルギーを消耗したのだろうと、そのことを強調したいがために、いささかオーバーに言ってしまったのかもしれないですが、面のせいで亡くなったとは言ってません」
「しかし、現実に、和鷹さんは白拍子《しらびようし》の面を雨降らしの面につけ換えたとたん、亡くなったわけですよね」
「それはまあ、そのとおりです。で、それが雨降らしの面であったがために、何かこう因縁《いんねん》めいたものを感じて、薄気味悪く感じたということはあると思いますがね」
「ずいぶん恐ろしい顔だそうですね」
「まあ不気味な面です。毛書きというのですが、額《ひたい》の辺《あた》りに描かれている髪の毛のほつれも、じつに邪悪な感じでしてね」
「いちど、ぜひ拝見したいものですねえ。その雨降らしの面ですが、今はどこにあるのですか?」
「は? それはもちろん、水上家の蔵《くら》に仕舞ってあると思いますよ」
「竹宮さんはその時、舞台におられたのでしたね」
「ええ、地謡《じうたい》を務めておりました」
「それでは、和鷹さんの異変の一部始終を見ていたわけですね」
「まあそうです」
「鐘が上がって、和鷹さんが倒れていた。さあ大変となって、遺体を運び出し」
「そうです」
「その時、面はどうしたのでしょうか?」
「?……」
「和鷹さんは面をつけたまま運ばれたわけではないのでしょう?」
「もちろんはずしたと思いますよ」
「どうだったのですか? たしかにはずしたのかどうか、そのへんのところをはっきり思い出していただきたいのですが」
「それは……いや、たしかにはずしましたよ。和鷹さんの蒼白《そうはく》になった顔を見た記憶がありますからね」
「そうすると、その面は誰が持って行ったのでしょう。それとも、代役を務めた方がつけられたのですか?」
「いや、代役は何もつけない、いわゆる直面《ひためん》で後を引き継ぎますからね……さあ、誰が持って行ったのかな?……」
最後のほうは独《ひと》り言《ごと》のように呟《つぶや》いて、考え込んだ。
浅見は粘りづよく竹宮が思い出してくれるのを待った。
「そうだ、あれは義則《よしのり》老人だったかな……そうそう、高崎《たかざき》さんですよ」
竹宮は目を上げて言った。
「高崎さんといいますと?」
「高崎義則さんという、親戚の総代みたいなご老人です。まあ、宗家《そうけ》の子弟やわれわれを含めて、若い連中のお目付け役みたいな、なかなかのうるさがたです。あの日は『頼政《よりまさ》』を演じたあと、ずっと楽屋におられたのですが、異変があった時、真先に駆けつけたのが高崎老人だったはずです」
竹宮の脳裏《のうり》には、その時の情景がしだいに鮮明に浮かび上がってきたらしい。
「そうです、高崎老人が面を外して、若い者に和鷹さんをお運びするよう、指示していました。そのあと、誰かに面を渡したとも思えませんから、おそらくそのまま高崎老人が持って行ったと思いますよ」
言ってから、竹宮は怪訝《けげん》そうに訊《き》いた。
「しかし、その雨降らしの面が何か、今度の事件と関係があるのですか?」
「いえ、そういうわけではありません。ただ、恐ろしい言い伝えのある面を使ったとたん和鷹さんと和憲さんという、かけがえのない方々が亡くなったというのがですね、いかにもオカルトじみているので、ちょっと気になったものですから……」
浅見は口ごもってから、言いにくそうに訊いた。
「ところで、水上流の宗家である水上家に跡継ぎがいない場合、いったい家元の地位は誰が継ぐことになるのですか?」
とたんに、竹宮はギクッとした。いちばん触れられたくない話題を持ち出された――という反応であった。
「誰が後継者になるのか……それは親族のあいだで話し合って決めることだと思いますが、私は詳しいことは知りません」
「順序からいうと、親戚の中の筆頭の地位にあたる家柄から選ばれるのではありませんか?」
「まあ、そういうことになるでしょうね」
「筆頭の家柄というと、高崎家がそれにあたるのですか?」
竹宮は答える代わりに、浅見の顔をじっと見つめた。
浅見は根気よく、返事を待った。
「それはどういう意味でお訊《き》きになっているのですか?」
竹宮は硬い口調になった。
「いえ、特別な意味はありません」
「しかし、受け取りようによっては、水上家の相次ぐ不幸に、後継者問題が絡んでいるように聞こえるではありませんか」
「なるほど、それはたしかにそのとおりですね。いや、ほんとにそういうことも考えられるかもしれませんねえ」
浅見は平気な顔で言った。
「もしそうだとすると、竹宮さんもご一族ということですから、ひょっとすると順番が回ってくることもあり得るわけですね」
「おかしなことを言わないでください」
竹宮は苦笑――というより、引きつったような笑いを浮かべた。
「私の家は親戚といっても末席のほうですからね、そんなチャンスはまったくありません。いや、そんなことより、後継者問題を軽々《けいけい》に口にして欲しくありませんねえ。世間から思わぬ誤解を受ける原因にもなりかねませんから」
竹宮は「よろしいですね」と念を押すと、それを汐《しお》に席を立った。
菜津美と竹宮、それに二人の若者は、東京への連絡をすますと、ひと足先に吉野を引き上げて行った。途中、橿原《かしはら》の病院へ寄って和憲の遺体の搬送手続きを取る。今夜は東京の自宅でお通夜。明日が密葬。告別式の日取りや会場の設営など、やらなければいけないことが山積している。
秀美《ひでみ》だけが別行動で、浅見とともに吉野警察署に赴《おもむ》き、川島《かわしま》の娘と会ったり、警察での事後処理に当たることになった。
「どうもお世話になりました」
浅見は、桜花壇《さくらかだん》の玄関先に勢揃《せいぞろ》いした女将《おかみ》や番頭、それに例のにぎやかなおばさんに挨拶《あいさつ》した。
「いろいろご迷惑をおかけしました」
秀美も丁寧《ていねい》に頭を下げた。
「何をおっしゃいますやら。それよか、ただのお客さんでなく、身内の人みたいな気がして、お帰りになるのんが寂《さび》しゅうてかないまへんわ」
女将はそう言ってくれた。
この日は重い曇り空で、午後になってもいっこうに気温が上がらない。浅見と秀美が外に出る頃には、季節風を思わせる冷たい風さえも吹いてきた。
「そろそろ、山奥のほうは雪になるのやろかなあ。お風邪《かぜ》ひかんように、気ィつけてくださいや」
にぎやかなおばさんは、寒そうな顔をして、走り出した車をいつまでも見送っていた。
浅見のソアラは人気の疎《まば》らな吉野山の街を、ゆっくりと抜けて行った。狭い道の両側に並ぶ茶店の壁に、「甘酒」「葛湯《くずゆ》」といった、温かそうな品名を書いた真新しい張り紙が目立つ。秋から冬へと季節の移ろいを感じさせる風景だ。
柿《かき》の葉鮨《はずし》の店の前に、浅見を警察にサシた亭主が立っていた。のんびり空を見上げているところに、浅見は車を寄せて停《と》めた。
亭主はお客かと思って、愛想のいい顔をこっちに向けた。
浅見は、ドアを半開きにして外へ片足を踏み出した恰好《かつこう》で、屋根越しに笑顔で声をかけた。
「昨日はどうも」
亭主は一瞬、とまどってから、「あっ」と思い出し、怯《おび》えた表情になった。
しかし、浅見の他意のない笑顔と、助手席に美貌《びぼう》の女性が坐《すわ》っているのを見て、いくらか安心したらしい。「どうも」と曖昧《あいまい》な挨拶《あいさつ》で応《こた》え、頭を下げた。
そこへ、すぐ先の「弁慶《べんけい》」の店からママが現れた。こっちの様子に気付いて、「あらあら」と嬌声《きようせい》を上げ、お辞儀をしながら近づいてきた。浅見も「やあ、どうも」と挨拶を返した。
「そしたらお客さん、釈放されたんやねえ」
ママは嬉《うれ》しそうに言って、柿の葉鮨の亭主に、「ほうれ、私が言うたとおり、やっぱし犯人と違うたでしょうが」と詰《なじ》った。
「いや、わしかて犯人やなんて言うてはおらんで」
柿の葉鮨はムキになって抗弁した。
「そらそうやわ。こんなボンボンに人殺しがでけるはずがないもの」
弁慶のママは助手席の秀美に気付いた。
「いやあ、べっぴんさんやわァ……」
あっけらかんと言ってのけてから、ふと秀美に視線を留めて、首をひねった。
「あら? こちら、どこぞで会《お》うたことがあるのかしら?」
浅見は車の中に戻りながら、「?」という目で秀美を見た。
秀美は首を横に振って、「知らない」という意思表示をした。
「一昨日《おととい》、彼女もこの辺を歩いているから、その時に顔を見たのじゃないですか」
浅見は秀美とママと、両方に等分に聞こえるように言った。どっちにしても、他人にあまり干渉されるのは、秀美の場合、望ましくないことだろう。
「そうやないわね……」
ママはなおも考えていたが、浅見は構わずサイドブレーキを外して、外の二人に「それじゃあ」と挨拶を送った。
「……ああ、そうや、トシコさんのところで見た写真の……」
ブツブツと呟《つぶや》くようなママの声が聞こえたが、すでに車は走りだしていた。
「さすがに水上家のお嬢さんともなると、雑誌に写真が載ったりもするのですねえ」
「まさか……」
秀美は呆《あき》れたように言った。
「私の写真なんか、雑誌に載るわけがないでしょう。からかわないでください」
「いや、からかってなんかいませんよ。さっきのママ――弁慶っていうスナックのママですが、彼女がそう言ったのを、あなたも聞いていたじゃないですか」
「でも、それは人違いですよ。私の写真がどこかの雑誌に載ったりしたことは一度もありません。いくらぼんやりの私でも、そんなことがあれば、うちの者や、友人の誰かが知らせてくれますもの」
「はあ、それもそうですねえ……」
秀美があまりにも強弁するので、なんだか白けてしまって、浅見はもう、その問題について話すのはやめにした。
吉野署に着くと、瀬田《せた》が待ち構えたように現れて、すぐに応接室へ案内した。
そこに若い女性がいた。
「こちらが例の川島さんの娘さんで、ええと、美春さんじゃなくて……」
「智春《ちはる》です」
娘は笑いも見せずに言った。
「そうそう、川島智春さん。こちらが水上秀美さんと浅見名探偵」
いくぶん揶揄《やゆ》をこめたような口振りで、紹介した。
「よろしくお願いします」
川島智春は「探偵」という言葉にたじろぐ様子もなく、むしろ積極的に浅見を見つめるようにして頭を下げた。
「じつはですね、川島さんはお父さんの持っていた五十鈴《いすず》のルーツを探るために、天河神社に行って、そこで私と会ったのです。それでもって、五十鈴の元の持ち主が水上和憲さんであることが分かった。そして、さて和憲さんを訪ねようと考えた矢先に今度の事件が発生し、和憲さんが亡くなってしまったというわけです。まあ、なんといっても、亡くなられた水上さんはお気の毒ですが、われわれや川島さんとしても、せっかくの手掛かりを失ってしまって、非常に残念に思っているわけですなあ」
瀬田の説明が終わるのを待って、浅見は訊《き》いた。
「それで、川島さんのお父さんと、水上さんとの関係について、その後、何か判明したのでしょうか?」
「いや、これまでのところ、収穫はまったくのゼロです。亡くなった川島さんは、能や謡《うたい》にはぜんぜん関係がないのだそうですよ」
瀬田が言い、智春もそれを補足するように頷《うなず》いて見せた。
「しかし、水上さんの五十鈴が川島さんの手に渡ったことは事実なのですから、どこかに何らかの接点があったはずですよね」
浅見は言った。
「そりゃそうです。鈴が一人で勝手に歩いて行ったわけではないのですからなあ」
瀬田はあまり上手《うま》くもない冗談を言った。
「ただし、どういう接点があったのかということになると、いろいろな場合が考えられるわけでしてねえ。たとえば、あの鈴が直接、水上さんの手から川島さんの手に渡ったとはかぎらないわけですよ。あいだに仲介者がいたかもしれないし、じつは、とっくに水上さんの手を離れた鈴が、人手から人手へと渡ったあげく、川島さんが手に入れたということだって、あり得ますからな」
「でも、祖父はあの鈴を売るようなことは絶対にしないはずです」
秀美は不満そうに異論を唱えた。
「いや、売らなくても、盗み出された可能性だってあるでしょう」
「そんな……」
今度は智春が非難の声を発した。
「それじゃ、父が鈴を盗んだというんですか?」
「えっ? いや、そうではなくて、つまり、いったん何者かの手によって盗まれた物が、次々に人手を経て川島さんの所有物になったということを言っているのです」
若い娘は、どうも短絡的で困る――と言いたそうに、瀬田は浅見を見て、ニヤリと苦笑した。
「でも、あの鈴が盗まれたとしたら、大変な騒ぎになったと思うんですよね」
秀美は首を傾《かし》げた。
「祖父は子供の私がいたずらしても、ひどく怒ったほどですもの、ずいぶん大切にしていたはずです。その鈴を盗まれたとか、そういう話は聞いたことがありません」
「しかしですねえ、盗まれたことに気付いていなかったということも、考えられるのではありませんか?」
「それは絶対にないとは言いきれませんけど、でも、それにしたって、あんな鈴だけを盗んだりするものかしら? 天河神社の信者にとっては大切な品でも、財産価値としたら、ごくつまらないものでしょうに」
「それはまあ、そのとおりですがねえ」
こうなると瀬田はお手上げだ。
「いかがです。浅見名探偵としては何かご意見はありませんか?」
また、からかい半分の言い方だったが、浅見はニコリともしないで、応《こた》えた。
「回答は一つしかありません」
「は?……」
瀬田は最初、聞きまちがえたかと思ったらしい。
「えっ? いま、答えがあると言ったのですか?」
「そうです、ただし一つだけですが」
「そりゃ、答案なんていうものは、二つあるより一つだけのほうがいいに決まっていますよ。しかし、ほんとに答えがあるんですかねえ?」
「ええ、ありますよ。ただ、秀美さんも川島さんも、たとえ僕が、気にそまないことを言っても怒らないで欲しいのですが」
「そうそう」
瀬田は大きく頷《うなず》いた。
「どうも、われわれの仮説に対して、若いお嬢さんがいちいち目くじらを立てるのでは、なんともやりにくいですからなあ」
「すみませんでした、もう文句をつけたりしません」
秀美も智春も首を竦《すく》めるようにして、頭を下げた。
「では言いますが、考え方は一つ、要するにその鈴は、水上和憲さんが自分で持ち出したのでしょうね」
浅見が言い終えたのに、三人はまだその続きがあるものと思って、黙って待っている。
しかし、浅見も彼らと一緒に黙ったままであった。
「ん? 浅見さん、それだけですか?」
瀬田が驚いて訊《き》いた。
「ええ、それだけです」
浅見はすまし顔で言った。
「そりゃ何ですか? 水上和憲さんが持ち出した……だけじゃ、何の説明にもなっていないじゃないですか」
二人の女性も、「そうよ、そうよ」というように、頷いている。
「そんなことはありません。売ったのでもなく盗まれたのでもないというのならば、つまり、和憲さん自身が持ち出した……ということ以外には考えられないという、これはいわば定理のようなものです」
「いや、定理か何か知りませんがね、それだけじゃ話はちっとも前進しませんよ」
「そうでしょうか、僕は違うと思いますがねえ。話を前進させるためには、ここの部分をしっかりさせておくことが肝心なのです。あれこれ迷わないで、『鈴は和憲さんが持ち出した』と断定するところから推理を進めてゆく――それが肝心なのですよ。そこから先のこと……たとえば、和憲さんは鈴をいつ、誰に渡したのか、直接、川島さんに渡したのか、それは何が目的だったのか、といった問題は、すべてこの最初の出発点を土台にしてかからなければ、単なる仮説の上の仮説として、きわめて影の薄い論理にしかなり得ないのです。そんなあやふやなものを、真剣に考える気には、誰だってなりませんよね」
「うーん……なるほど、それはまあそのとおりかもしれませんなあ」
瀬田は唇《くちびる》を尖《とが》らせながら、しかし、大きく頷《うなず》いた。浅見光彦という青年に対して、はじめて、端倪《たんげい》すべからざるものを感じた――という顔であった。
もっとも、瀬田が感心したほどには、二人の若い女性は満足した顔ではなかった。それを見てとって、浅見は快活な笑顔を彼女たちに向けた。
「鈴を和憲さんが持ち出したことがはっきりしさえすれば、いろいろな仮説を樹《た》てて、推理の幅を拡げてゆくことができるものなのですよ」
その説明を聞いても、二人は当惑げに顔を見合わせるばかりだ。
考えてみると、これまで二人は、ほとんど会話らしい会話を交わしていない。しかし、そうやって目顔で意思を交わしているうちに、彼女たちのあいだに、いつしか共通の悲劇を背負っている者同士である――という気持ちが通じあった。
「ところで、問題の鈴ですが、川島さんはその鈴を今、持っているのでしょう?」
浅見は智春に訊《き》いた。
「ええ」
「それ、ちょっと拝見できませんか」
「いいですよ。もともと、この鈴は水上さんのものです。早くお会いして、お返ししなければならないと思っていましたから」
智春は旅行バッグの中から、桐《きり》の箱を取り出した。
浅見はテーブルの上で慎重に箱の蓋《ふた》を取り、紫の布にくるんだ鈴を掌《てのひら》に載せた。手にズッシリと持ち重りのする、冷たい感触と、銀色の鈍い光を湛《たた》えた物体から、リリーンという音がこぼれ出た。
「いい音ですねえ。それになかなかきれいな鈴です。この三角形の奇妙な形は、たぶん音と音の干渉によって効果を出そうという狙《ねら》いでしょうか」
「ええ、そうです。天河神社で知り合った人が、そう言ってました」
「それは、神社関係の人ですか?」
「いえ、そうじゃなくて、私と同じように天河を訪れた女性です」
「じゃあ、お友達?」
「いえ、初対面なんですけど、とても親切で、いろいろ相談に乗ってくれました」
「というと、はじめて会った人に、この鈴を見せたり、いろいろ、打ち明け話をしたのですか?」
少し軽率ではないか――という意味を含ませて、浅見は言った。その意図は智春にも伝わったに違いない。智春は弁解するような口調になった。
「ええ、でも、ほんとにいい人でしたし、それに、彼女から聞いたのですけど、天河っていうのは不思議なところで、人と人とのあいだにある垣根を取り除いてしまうのだそうです。たしかにそういう感じがしました。その人も天河で知り合った男性と……」
言いかけて、智春は慌《あわ》てて口を噤《つぐ》んだ。考えてみると、目の前にいる水上秀美は、須佐千代栄《すさちよえ》が「結ばれた」と打ち明けた、あの水上和鷹の妹なのだ。
中途で言葉をとぎらせた智春に、瀬田が興味深そうに訊《き》いた。
「その男性とどうしたのですか?」
「は? いえ、べつに大したことではないのです」
智春は困った様子を見せた。
「大したことはないって、しかし何があったんです?」
「プライベートなことです」
「つまり、恋人同士になったというわけですかな」
「ええ、まあそうです」
「どの程度の仲になったのかな。たとえばですね……」
「その件はまあいいんじゃないですか」
浅見が脇《わき》から制止した。
「それより、この鈴がどうして川島さんの手に渡ったかを考えましょうよ」
「そうですな」
瀬田はつまらなそうに顎《あご》を撫《な》でた。
「まず最初に、和憲さんはその鈴を持ち出して、どうしようとしたのか――です。とにかく和憲さんは鈴を持ち出して、誰かに渡した。それも水上家の人々に知られないように……ですね」
浅見は言って、秀美の反応を見た。秀美は不服そうだったが、黙っていた。
「それでは、和憲さんはなぜ水上家の人に知られないようにしたのか……その答えも簡単です。つまり、知られては具合が悪い相手だったからですよね」
「ははは、そりゃ浅見さん、当たり前じゃないですか」
瀬田は笑ったが、浅見はあくまでも真面目《まじめ》くさって言った。
「その、渡した相手が誰かですが、秀美さんにも思い当たりませんか?」
「ええ、まあ……」
秀美は悩ましそうに眉《まゆ》をひそめた。それは見ようによっては、かすかに思い当たることがあるような印象を与えた。浅見はともかくとして、瀬田にとっては意外な反応だったらしい。すばやく、意味ありげな視線を浅見に飛ばした。
浅見はしかし、何も気付かないふうを装った。
「僕はあまり水上さんのお宅の内部事情を知らないので、いまの段階では、この部分は仮定で言うほかはないのです。ともあれ、和憲さんがご家族の人たちに知られないように、この鈴を持ち出したというのは、よほど、知られては具合の悪い何かの事情があったことだけはたしかなのでしょうね」
「その事情とは、いったいどういうものですかなあ?」
瀬田がもどかしそうに言った。
「一般的に言うなら……」と浅見は苦い顔をして言った。
「こういうケースでは、まず女性問題が絡んでいるのが普通でしょうね」
「女性? なるほど」
瀬田は大きく相槌《あいづち》を打った。
「それはあり得ますなあ。犯罪の陰に女ありですからなあ。そうすると、和憲さんにはひそかに愛人がいたとか……」
「やめてください、そんな不潔な想像は」
秀美はいきり立った。
「祖父はもう七十を超えた老人です」
「困りますねえ、怒らないっていう約束だったじゃないですか」
浅見は窘《たしな》めた。
「でも、祖父のことを……亡くなって、何の反論もできない祖父のことを、そんなふうに一方的に悔辱するような言い方をするのは卑怯《ひきよう》です」
「いや、僕は何も、そういう、愛人だとか、そんなことを言っているつもりはありませんよ。瀬田さんも、あまり刺激的なことは言わないようにしてくださいよ」
「しかし、女性が絡んでいるといえば、まず考えられるのは愛人ていうことになるのじゃありませんか?」
「どうしてそうなるのですか? そうとはかぎらないと思いますがねえ。そうでしょう秀美さん、どうですか? あなたの考えているのは違う人ですよね?」
「えっ?……ええ……」
秀美は不意を衝《つ》かれて、うろたえ、うろたえながら頷《うなず》いた。
浅見と秀美のあいだで、抜き打ちの刃《やいば》がチャリンと切り結んだような会話だった。
さすがに、瀬田は一瞬、(あれっ?……)という目を浅見に向けた。その瀬田の疑惑が、まだ形を成さないうちに、浅見は素早く言った。
「ともかく、和憲さんがひそかに鈴を渡した相手は女性である――と、これも仮定ではなく、定理として推理を進めようと思うのですが、どうですか?」
浅見の問い掛けに、今度は秀美も反発する気配を見せなかった。
「ところで、今度は鈴を受け取った川島さんの側について考えてみましょう」
浅見は言って、智春に訊《き》いた。
「川島さんのお父さんが鈴を受け取ったのは、十月二十一日……事件の当日であると思って間違いなさそうですね」
「ええ、そうだと思います」
智春はしっかりと頷《うなず》いた。
「それ以前に、もしこの鈴が父の手元にあれば、家族の者が気付かないはずがありませんから」
「そうですよね。それに、受け取った場所も、たぶんあのビルの中のどこかだったと考えてよさそうです。残る疑問は、なぜ、誰の手から受け取ったかということだけですが、これもすでに女性ということがはっきりしているのだし、警察の組織力をもって捜査を進めれば、簡単に手掛かりが掴《つか》めるにちがいありませんよね」
「簡単……」
瀬田は、とんでもない――というように肩をすぼめた。
「そう簡単に『簡単』だなんていうことを言ってもらいたくないですなあ。捜査本部では連日、何十人もの捜査員を繰り出して、ビルおよびその周辺で聞き込み捜査をやっているのだが、いまだにほとんど収穫がないのですからねえ。まあしかし、そのほうはいずれ何らかの成果が上がるとしても、しかし浅見さん、かりに水上さんが鈴を渡した相手が女性であったとしても、川島さんに鈴が渡るまでのあいだに何人の人物の手を経ているか、また最後に川島さんに手渡した人物が何者かは、容易なことでは特定できんでしょう」
「そんなことはありませんよ」
浅見は背筋を伸ばすようにして、きっぱりと言った。
「というと?」
「あいだに何人もの手を経ているというのがです。あいだには問題の女性一人だけしかいなかったと思いますよ」
「え?……」
瀬田ばかりでなく、三人の目が非難するように浅見に向けられた。
「どういうことですか、それは?」
「どういうって、要するに、水上和憲さんの手から川島さんの手に鈴が渡るあいだには、ただ一人の女性しか介在しなかった――ということです」
「まさか……いや、どうしてそんなことが断言できるのです?」
「それはこの鈴の性格を考えてみれば分かることです」
「鈴の性格?」
「ええ、この鈴はたしかに、なかなか魅力的ではあります。しかし、水上さんや信者にとっては、かけがえのない貴重なものであるけれど、僕のような門外漢にとっては、ただの鈴でしかないわけですよね。子供の頃の秀美さんが玩具にしたように、つまり、縁無き衆生《しゆじよう》にとっては何の商品価値もないに等しいということです。水上和憲さんが鈴を与えた……あるいは譲ったか貸したかした相手は、当然、鈴の持っているそういう背景だとか、性格や値打ちを知っている人物でなければなりません」
「うーん、なるほど……」
瀬田は唸《うな》った。
「ということは、受け取った相手もまた天河神社の信者というわけですか」
「いや、この場合は信仰とは直接関係ないような気がします。もしその人物が天河神社の信者で、単に鈴が欲しいということだけなら、直接、天河神社からお守りを戴《いただ》くようにするでしょう」
「じゃあ、いったい何なのです? なんだって、水上さんは大切な鈴を他人に渡したりしたんです?」
瀬田は焦《じ》れったそうに、早口で言った。
「それはきっと、証《あかし》として渡したのだと、僕は思います」
「アカシ?……」
瀬田はピンとこなかったらしい。
「つまり、何かの契約か、あるいは約束のための証拠として、鈴をその人物に与えたのじゃないかと思うんです」
「契約の証拠、ですか?」
「ええ、ほら、よく天地神明にかけて……とか言うでしょう。そういう誓いを込めて、この鈴は渡されたのだと思うのです」
「ふーん、誓いをねえ……いったい何を誓ったのです?」
「そこまでは知りません」
浅見はケロッと言ってのけた。
瀬田も二人の女性も、欲求不満そのもののような顔になった。
「しかし、浅見さんの言うとおりだとしてですよ、それじゃ、その大切な証拠になる鈴を、その女性はなぜ川島さんに渡してしまったのですかなあ?」
瀬田は訊《き》いた。
「もしこちらの、川島さんのお嬢さんの言うことが正しいとすると、川島さんだって、われわれ同様、この鈴の値打ちを知ってはいなかったと考えられますからねえ。でなければ、歩きながら鈴を取り出したりするはずがないでしょう」
「そうそう、そのことも重要な意味を持っていますよね」
浅見は頷《うなず》いた。
「たしかに鈴の値打ちを知らなかったということもそうですが、もう一つ、川島さんが鈴を受け取ったのは、あのビルの中であることを裏付けるものです。なぜなら、川島さんは珍しさのあまり、歩きながら鈴を取り出してみようとしているくらいですからね」
「なるほど、そういう考え方もありますかなあ」
瀬田は(ああ言えばこう言う男だな――)と言いたそうに、浅見の顔を眺《なが》めた。
「たぶん……」
智春はしばらく考えてから答えた。
「これは僕の推測ですが、たぶん、川島さんは、ある人物の……つまり、水上さんから鈴を受け取った人物の意を体《たい》して……いわば代理人として行動しようとしていたのではないかと思います。つまりあの時、ビルのどこかでその人物――『X』っていうことにしておきましょうか――から鈴を預かり、それを証拠の品として、『X』の代わりに水上さんのお宅を訪ねるつもりでいたのではないかということです。ことによると、鈴と引き換えに水上さんから何か……たとえばお金を受け取ることになっていたのかもしれません」
「ふーむ……」
瀬田は唸《うな》った。
「その『X』なる人物を、浅見さんは女性であると言うのですな」
「そういうことですね」
「しかし、それはかなり大胆な推測ですなあ。第一、かりに浅見さんの言うとおりだとしてですよ、その川島さんを、肝心の仕事を前に毒殺してしまっては、何をやったのか分からないことになるじゃないですか」
「そうです、そのとおりです。そこのところが僕にはどうしても説明がつきません」
浅見は顔をしかめてから、言った。
「ただ、またしても推測で言わせてもらうなら、あれは何かの手違いだったのじゃないかという気がするのですが」
「そんな無茶な……」
瀬田がさらに反論しようとした時、ドアをノックして、森本刑事が入ってきた。
「瀬田さん、ちょっと」
ドアのところまで呼んで、瀬田の耳になにごとかを囁《ささや》いた。瀬田は真剣な顔で聞いていたが、森本の話が終わると、ニヤリと笑ってこっちを向いた。
「浅見さん、いま東京から連絡が入りましてね、川島さんがあの日、会っていた相手の手掛かりが掴《つか》めましたよ。といっても、まだほんの影のようなものですがね。ただし、浅見さんが今言っていたこととは、根本的に違っているようですなあ」
「はあ、そうなのですか……」
浅見は眉《まゆ》をひそめた。
「決定的に違う点は、あの日、川島さんが会っていたのは、どうやら男性のようだったそうですよ。しかも、それは老人……ちょうど水上和憲さんのような感じのご老人らしいということなのです。これはどういうふうに説明するつもりですか?」
瀬田は、まるで弁護士を言い負かした検事のように、肩をそびやかして言った。
事件当日、川島|孝司《たかし》と思われる人物を見掛けた――という情報が、ようやく一つ、捜査本部にもたらされたのは、事件から二十日間ほども経過してからであった。
それもじつに意外な場所である。警察は川島が出て来たビルの中と、ビルに出入りする人々を対象に聞き込みをつづけていたのだが、川島が目撃されたのは、なんと、そのビルの隣――といっても、広い通りを隔てた、直線距離でも百メートルは離れている――にあるホテルのロビーだった。
目撃者は事件のあった日、たまたま福岡から上京し、そのホテルに宿泊した、吉川《きつかわ》という会社員である。
吉川はその日の午後二時過ぎに、いったんホテルにチェックインをしてから、川島が出てきた高層ビルの二十一階にある取引先のオフィスを訪れ、商談をすませ、ホテルに引き上げてきた。
ホテルの玄関を入り、エレベーターに乗る前に、ロビーの奥にあるトイレに立ち寄った。そして、トイレを出てロビーを横切ろうとした時に、川島と思われる人物を見たというのである。
ロビーにはソファーや肘掛椅子《ひじかけいす》、テーブルなどが置かれ、軽い飲み物も頼める、ラウンジ風のスペースがある。フロアの通路とは、真鍮《しんちゆう》の柵《さく》に臙脂色《えんじいろ》のビロードのロープを張りめぐらせて区切っただけで、そのオープンな雰囲気《ふんいき》がこのホテルのひとつの名物になっている。
吉川が通りかかった時、いちばん奥――つまりもっとも端のトイレ寄りのテーブルを挟《はさ》んで坐っていた男が二人、立ち上がった。
吉川は何の気なしに二人の動きを見ながら、そこを通過した。したがって記憶はひどく曖昧《あいまい》なのだが、二人が中年と老人で、老人は通路側に背を向けていたことと、若いほうの顔が見えたことだけは憶《おぼ》えていた。
もっとも、見えたといっても、それほど特徴のある人物でもなかったし、その気になって見たわけではないから、はっきりした記憶になることはなかった。
吉川の記憶に残ったのは、むしろ、男の持っていた白っぽい木製の箱のほうである。男がいかにも大事そうに両手で抱えるようにしていたのが印象的であった。
翌日の朝、吉川は事件のことをテレビニュースと新聞の記事で見て知ったが、よもやあの時の男が事件の被害者であるとは思ってもみなかった。
そして、その日には吉川は福岡に帰っている。もし、彼がそのまま東京に来なかったなら、事件のこともすっかり忘れてしまったままになっただろう。
吉川がはじめて(もしや?――)と気付いたのは、ふたたび上京して、前回と同じようにホテルに泊まり、問題のビルの取引先を訪れて、担当の人間から、事件の詳しい話を聞かされた時である。
「いやあ、驚きましたよ。少し前を歩いていた男の人が、いきなり引っくり返って、取り落とした桐《きり》の箱の中から、おかしな恰好《かつこう》の鈴が転がり出しましてね、リリーンという、なんともいい音で鳴ったのです」
事件当時、たまたま現場を通りかかって、一部終始を目撃していたという、その担当者は、そういう話をしていた。
「桐の箱ですか、まさか、あれじゃないでしょうねえ……」
吉川は妙に気になって、箱の大きさなどを訊いた。
「へえー、吉川さん知ってるんですか? 知ってるんだったら、警察に教えてやったほうがいいですよ」
相手は面白そうに勧めた。警察から、被害者の特徴を書いた手配書が配られ、目撃者が名乗り出てくれるのを待っているらしいということであった。
吉川は大抵《たいてい》の市民がそうであるように、そういった、警察|沙汰《ざた》に関わりあうことは望まない性質だが、お顧客《とくい》さんの勧めをもだしがたく、警察に届け出た。そうして、川島の写真を見せられ、ほぼこの人物に間違いない――と言ったのである。
「いま森本君が電話で聞いたところでは、目下のところ、川島さんの相手の人物については、老人らしかったという以外、何も分かっていないのだそうですがね、しかし老人――男の老人であることだけはたしかだそうですよ」
瀬田部長刑事はその点は残念そうだが、とりあえず、浅見の主張した「相手は女性」という定理が覆《くつがえ》ったことを喜んでいるのは間違いない。
「そうですか、老人でしたか……」
浅見は腕組みをして考え込んだ。その困った様子を見て、瀬田はますます得意そうである。
「老人となると、水上和憲さんがまず考えられますかなあ。いや、目撃者は水上さんの写真を見ても、その時の老人かどうかは分からないと言ってはいるのですがね」
瀬田は三人の「客」の反応を見るように、言った。浅見は無表情に思案に耽《ふけ》っているが、秀美と智春はそれぞれ衝撃を受けた。
その老人が何者であるにせよ、川島孝司――智春の父親――を殺害した疑いのもっとも濃厚な人物ということになる。それがもし、瀬田が言ったように秀美の祖父であったとしたら……。
秀美も智春も、無意識に、たがいに視線を避けあっていた。
「どうもよく分からないなあ」
浅見はそういう状況には関わりなく、呻吟《しんぎん》したあげく、溜《た》め息《いき》をついた。
「鈴を渡したのが老人だったとはねえ……信じられませんねえ」
「そんなことを言ったって浅見さん、事実そうなのだから仕方ないですよ」
瀬田は浅見の未練を哀れむように言った。
「そうですかねえ……」
浅見は頭を抱えてから、気を取り直して、智春に言った。
「あらためて訊《き》きますけど、お父さんは、それまでに、水上さんのことについては何もおっしゃってなかったのですか?」
「ええ」
「それどころじゃないですよ、浅見さん」
と瀬田が言った。
「川島さんの家族も会社の人たちも、川島さんが東京へ行くことなどまるっきり知らなかったのですからなあ。川島さんは大阪へ行っているものとばかり思っていたのです」
「えっ? 大阪に?」
浅見は驚いて智春を見た。
「ええ、そうです。でも、父が理由もなしに嘘《うそ》をつくはずはないんですよね」
智春は悔《くや》しそうに、瀬田の横顔を睨《にら》みながら言った。
「たぶん、途中で何かがあって、急に東京へ行くことになったのだと思います」
「なるほど……」
浅見は智春に向いたまま、何かを見届けようという遠い目になった。
「問題は、定理を大切にするかどうかによって変わってきますね」
浅見はぼんやりした表情で、老人のたわごとのようにブツブツと言いながら、俯《うつむ》いて、また思案の中に沈み込んでしまった。
瀬田は(頭がおかしくなったのじゃないか――)と言いたそうな顔で、そういう浅見の顔を覗《のぞ》き込んだ。
五分か六分を経過しただろうか。
「どうやら、少しずつ分かってきたような気がしますよ」
浅見はゆっくり顔を上げて、言った。
「分かったって、何がです?」
「つまり、水上さんと鈴と川島さんとの関係が、です」
「要するに、水上さんが川島さんに鈴を渡したっていうことでしょう?」
「それは僕の定理にはない図式です」
「また定理ですか。それじゃあ、浅見さんは、まだ事件の陰に女ありで行こうっていうんですか?」
「そうです」
「やれやれ」
瀬田は二人の女性に、どうしようもない――というふうに首を振って見せた。
「まあ、浅見さんがどうしてもって言うのなら、私はべつに異論を挟《はさ》むつもりはありません。名探偵は名探偵の信念に従ってやってください。しかし警察は別の方向で捜査を進展させることになるでしょうな。捜査本部はすでにその老人の洗い出しにかかっているはずですよ」
「それは当然でしょうね。警察の優れたところは、何といっても組織力です。僕たちにはそういう人海戦術が使えませんから、大いに頼りにしていますよ」
浅見は褒《ほ》めたつもりなのだが、瀬田はなんとなく浮かない顔だ。浅見にそんなふうに言われると、なんだか、「人海戦術」などと、体《てい》よく煽《おだ》てられながら、結局、大掃除をやらされているのではないか――という気がしてきたのだ。
「さて、それではそろそろ失礼しましょうかね」
浅見は立ち上がって秀美に言った。
「えっ? 帰ってもいいんですか?」
秀美は驚いて、浅見を見上げた。
「もちろん構いませんよ。それに、お宅では今夜、お通夜でしょう。水上家の跡継ぎとして、あなたは一刻も早く出席しなければいけないはずです」
「ええ、それはそうですけど……でも、事件のことはどうなるのでしょう?」
「それはまだ分かりません。いろいろと出てきた謎《なぞ》を整理したり、事実関係を確認しなければならないことも沢山あります」
「せめて、祖父の死の真相だけでも分からないのでしょうか?」
「それについては、いまの段階では『水上流宗家《すいじようりゆうそうけ》は自殺しないというのが、僕の定理である』ということしか言いようがありません。警察の意見は、必ずしも一致しないみたいですしね」
瀬田は不服そうな顔をしているが、秀美は浅見の自信たっぷりの言葉に引きずられるように、立ち上がった。
「あの、私はどうしたらいいのでしょう?」
智春が心細そうに瀬田に訊《き》いた。
「ああ、川島さんもとりあえずお宅に帰って結構です。私のほうには差し当たって訊かなきゃならんこともないし、われわれもじきに東京へ戻りますから」
「もしよければ」と浅見が言った。
「僕と一緒に天河神社に行きませんか」
「天河に?」
「ええ、できれば案内してもらえるとありがたいのですが」
「はあ……」
智春は浅見と秀美の顔を見比べるようにして逡巡《しゆんじゆん》した。
「もし都合が悪ければいいのですよ」
「いえ、そんなことはないのですけど……分かりました、一緒に天河へ行きます」
それじゃ――と、慌《あわ》ただしく挨拶《あいさつ》を交わして、三人の「客」は瀬田と別れ、吉野署を出た。
車の中で、智春は秀美に五十鈴《いすず》を渡した。
「事件の真相がどういうことであろうと、私たちはおたがいに被害者だと思ってます」
智春は健気《けなげ》に言った。しかし、その言葉の中には、ことによると秀美の祖父が父親を殺した犯人であるのかもしれない――という疑惑が込められているようで、秀美は素直に頷《うなず》くことができない気持ちがした。
近鉄《きんてつ》線の駅まではほんのひとっ走りだった。駅前で車を停《と》め、秀美を下ろした。
「明日か明後日《あさつて》、お宅にお邪魔します」
浅見は秀美を駅の構内まで送って行って、別れ際に励ますように言った。秀美は改札口を通る時、心細そうに振り返り、伸び上がるようにして浅見に頭を下げた。
「水上さんとご一緒しなくてもよかったんですか?」
車に戻って、吉野の町を走りだすとすぐ、智春が言った。
「ああ、もう大丈夫ですよ。事件のショックから立ち直ったみたいです」
「いえ、そうじゃなくて、浅見さんが私と天河へ行ったりしても構わないのかと思って……」
「え? どうしてですか?」
「あの、浅見さんと水上さんは、あの、恋人同士では……」
「え?……」
浅見はチラッと助手席の智春に視線を飛ばして、笑いだした。
「僕と彼女とは一昨日《おととい》、はじめて会ったばかりですよ」
「あ、そうなんですか……でも、お二人はずっと一緒だったんでしょう?」
「ははは、困ったなあ。そうか、川島さんの話によると、天河では人間と人間とのあいだにある垣根が無くなってしまうのでしたっけね。しかし、水上さんと僕が会ったのは天河でなく、吉野山でしたからね。残念ながら、あなたが考えるようなロマンスは生まれませんでしたよ」
「すみません、おかしな想像をして。いやらしい女だと思われたでしょうね」
「いや、そんなことはないけれど……そうそう、じつは、さっきはほかに人がいたので訊《き》かなかったのだけど、あなたが天河神社で会ったという女性のこと、それこそロマンスがあったとかいう話。その話をしている時、なんだか言いにくそうにしてましたよね」
町を出はずれるところの信号が赤になり、車が停《と》まった。浅見は智春に視線を向けて言った。
「それがすごく気になっているのです。あれはいったい何だったのですか?」
どんな秘密でも貫いてしまいそうな、それでいて優しい光を湛《たた》えた目であった。その目とまともに見つめあって、智春は思わず頬《ほお》を染めた。
「あの、その人は須佐千代栄《すさちよえ》さんというんですけど……」
智春は躊躇《ためら》いながら、話しだした。
「須佐さんは、今年の春、独《ひと》りで薪能《たきぎのう》を見にきていて……」
智春の話は途切れがちだ。信号が変わって、車はスタートした。浅見は黙って、智春の話の続きを待った。
千代栄が男性と神楽殿《かぐらでん》で結ばれたところまで話すのに、ずいぶん時間がかかった。
「問題はその男性の名前ですけど……」
またしても智春は言い淀《よど》んだ。
「水上和鷹さん、ですね?」
浅見はズバリと言った。
「えっ? どうして?……」
「それは、あなたの表情を見れば、だいたいの想像はつきますよ。さっきは秀美さんの前でうっかり言い出しかけて、ずいぶん困った顔をしていましたからね」
「浅見さんはその時、すでに分かっていたんですか?」
「ええ」
浅見はニッコリ笑った。
「その女性……須佐さんでしたか。彼女はまだ天河にいるんですね?」
「ええ、一週間の予定だって言ってましたから……じゃあ、浅見さんは須佐さんに会いに天河へ行くんですか?」
「まあ、それも目的の一つです。しかし、それだけではない。あなたの話を聞いて、僕も天河神社というところを、いちど見ておきたいと思ったのですよ。天河の不思議な雰囲気《ふんいき》みたいなものに、ぜひ浸ってみたいと思いましてね」
「そうなんですか……」
智春は胸につかえていたいろいろなことが、いっぺんで無くなったような、ほっとした安堵《あんど》の気分を味わった。
そして、天河に漂う不思議な「気」が、この魅力的な青年とのあいだにある垣根を取り払ってくれればいいのに――と、ひそかに考えていた。
第九章 歴史と奇跡は繰り返す
下市《しもいち》町を過ぎて登り坂にかかる。渓谷のV字型が狭くなった頃から、白いものがチラホラ舞い落ちてきた。桜花壇《さくらかだん》のおばさんが言っていた「天気予報」が的中したらしい。
気温もぐんぐん下がって、フロントガラスが曇った。
「昨日の夜はすごい霧だったんです。須佐《すさ》さんが、霧が雪になって冬が来るって言ってましたけど、このぶんだと、今夜の薪能《たきぎのう》はどうなるのかしら」
智春《ちはる》は心配そうに、谷の上の鈍色《にびいろ》の空を見上げた。
「この程度の雪なら、積もるほどは降らないでしょう」
浅見《あさみ》は楽観的に言った。チェーンを用意してきていないのだから、積もってもらっては困るのだ。
民宿に着いた頃には、天川《てんかわ》村は夕暮れの気配であった。
玄関を入ったところで、おばさんの代わりに「はーい」と言って出てきた千代栄《ちよえ》とバッタリ顔があった。
「あっ、やっぱり戻って来たのね」
千代栄は満面に喜色を溢《あふ》れさせて、弾んだ声で言った。
「ええ、ちょっとわけがあって……」
智春は申し訳なさそうに言って、後ろを振り向いた。その視線の先で、浅見がペコリと頭を下げた。
「はじめまして、浅見といいます」
「はあ……」
千代栄はお辞儀をしながら、丸くした目で智春と浅見を交互に見た。
「川島《かわしま》さんに天河《てんかわ》神社のよさを聞きまして、どうしても見ておきたくなったのです」
浅見は智春の代わりに説明した。
「ところで、ここには泊めてもらえるのでしょうかねえ」
「はあ、大丈夫だと思いますけど」
千代栄は急いでおばさんを呼んできた。おばさんは新しい客を見て、いきなり「ハンサムやわあ」と大きな声を出した。
「川島さんが連れて来やはったん?」
「ええ」
「へえーっ、そら大したもんやわ」
「おばさん、そんなんじゃないんです」
智春は慌《あわ》てて手を振った。
「何でもええよって、上がってください。けど、お部屋はべつでっせ」
「きまってますよ、そんなこと」
智春は呆《あき》れて、負けないほどの大声を出してしまった。
おばさんが浅見を部屋に案内して行ったのを見送って、智春も自分たちの部屋に荷物を置きに行った。並んで歩きながら、千代栄は「かっこいい人じゃない」と智春の脇腹《わきばら》をつついた。
「いやだなあ、違うって言ってるのに」
智春は赤くなった。
「そうじゃなくて、吉野警察署で会った人なんですから」
「え? 警察で?」
「そうですよ。東京でフリーのルポライターをやっていて、アルバイトみたいに私立探偵もしているとかいうんです」
「じゃあ、あなたのお父さんの事件や、水上和憲《みずかみかずのり》さんの事件のことを?」
「ええ、それで、天河神社に行ってみたいって言うから……」
「そうなの……」
部屋に入って、二人はテーブルを挟《はさ》んで向かい合いに坐った。千代栄は智春のためにお茶を入れてくれた。
「で、どうだったの? 吉野では」
「どうもしませんよ、浅見さんとはほんとに警察で会っただけなんですから」
「えっ? やだなあ、違うわよ、そうじゃなくて、刑事さんや水上さんのご遺族に会ったのでしょうって訊《き》いているの」
「ああ、そのこと……」
語るに落ちた感じで、千代栄はおかしさを堪《こら》え、智春はいっそう顔が赤くなった。
「会ったけど、でも、まだ何がどうなっているのか分からないみたいなんです。ただ、警察の人は、もしかすると、父に鈴を手渡したのは水上和憲さんじゃないか――っていうような雰囲気《ふんいき》でした。もしそうだとすると、水上さんが犯人っていうことになるらしいんですよね」
「まさか……」
「ええ、私もまさかと思うし、浅見さんは、父に鈴を渡したのは女性だって言っているんです」
「えっ? そんなことが分かるの? どうして?」
「よく分かりませんけど、それが定理だとか言ってました」
「定理って、あの数学や幾何《きか》の定理?」
「ええそうです」
「でも、定理って言ったら、動かせない事実っていうようなことでしょう? そんなにはっきり断定できるのかしら?」
「浅見さんに言わせると、そうなるのだそうです」
「ふーん、変わった人みたいね」
「そうなんです、ボンボンみたいな感じだけれど、何でも見透してしまうような目をする時があって、ちょっと怖いみたいな……」
「いくつぐらいかしら?」
「さあ、聞かなかったけど、三十歳ぐらいじゃないですか」
「独身?」
「知りません、そんなこと」
「だめねえ、それも聞かなかったの?」
「だって、そういう関係じゃないって言ってるでしょう」
「だからァ、これからそういう関係にならなきゃだめでしょう」
「えーっ、だめですよ、私なんか。それより須佐さんのほうこそ……」
言いかけて、智春はふいに千代栄に嫉妬《しつと》している自分を感じてしまった。
(ばかねえ――)
自分を叱咤《しつた》しながら、また顔が赤くなるのを感じた。
その時、ドアがノックされ、浅見の声が聞こえた。
「もしよければ、お話を聞かせていただけませんか」
千代栄は「はーい」と答えて、手を伸ばし、もういちど智春の肩をつついてから立ち上がった。
食事時間には少し間があった。浅見と二人の女性は、食堂で、おばさんの入れてくれたあまり美味《おいし》くないコーヒーを飲んだ。
千代栄は根っから人見知りしないタチなのか、それともやはり天河の「気」のせいなのか、初対面の浅見に対して、まるで昔からのボーイフレンドのように親しげに喋《しやべ》った。
浅見もさすがにルポライターだけあって、話を聞き出すコツを心得ている。ただし、智春が車の中で、「あのことは須佐さんには言わないでください」と釘《くぎ》を刺しているので、水上|和鷹《かずたか》の名前を出すことはなかった。
浅見は主として天河神社の話を聞いた。天河神社の由来はもちろん、天川郷《てんかわごう》そのものの歴史についても、千代栄の知っているかぎりのことを引き出した。
「天川郷は昔、都を追われて吉野に逃れ、さらに吉野山を追われた人々が落ちてきたところだったそうです」
千代栄は驚くほど豊富に、天川や天河神社にまつわる歴史を勉強していて、興味深い話をいくつも語ってくれた。その中でも、南朝《なんちよう》の盛衰に天川が密接に関わりあっていたという事実は、浅見には刮目《かつもく》すべき新知識だった。
後醍醐《ごだいご》天皇が吉野に遷幸《せんこう》して樹立された南朝は、天皇の逝去とともに衰微していった。後村上《ごむらかみ》天皇のときに、有名な四条畷《しじようなわて》の戦いで楠正行《くすのきまさつら》が戦死、勢いをかって足利《あしかが》勢の高師直《こうのもろなお》が六万の大軍で吉野に攻め寄せた。
以後、南朝の流転の歴史が始まる。
後村上天皇は吉野から撤退、天川を通って紀州有田《きしゆうありた》郡に移った。
後に有田郡も攻められ、ふたたび天川に逃れる。
『太平記』には「天河ノ奥|賀名生《あのう》ノ辺ニ御忍候ヘシ」とある。
もしこの時、高師直がそのまま兵を進め、天川を攻めたらどうなっていたか分からないのだが、なぜか高師直はそのまま軍勢を引き返させた。
「それは、天川の郷民《ごうみん》たちの反撃を恐れたためなのだそうです」
千代栄はそう説明した。地元民の天皇家に対する忠誠心は旺盛《おうせい》で、さすがの高師直と彼の大軍も、山の地理に詳しい郷民のゲリラ戦法を警戒したらしい。
南朝はいちど北朝と和解して、京都に戻るのだが、後にふたたび決裂、大和《やまと》の南を中心とする、いわゆる「後南朝《ごなんちよう》」を開く。その八十年の歴史のすべてに、天川が関わっていたというのである。
また、天河神社には観世《かんぜ》十郎|元雅《もとまさ》が奉納した「阿古父尉《あこぶじよう》」と呼ばれる面がある。
観世元雅も、父親の世阿弥《ぜあみ》とともに政変のあおりを食って失脚した悲劇の人であった。
世阿弥・元雅父子は足利将軍・義満の死と同時に栄華の絶頂から急転、落魄《らくはく》の身となった。足利|義教《よしのり》が世阿弥の甥《おい》、元雅には従兄弟《いとこ》にあたる音阿弥《おんあみ》を寵愛《ちようあい》し、世阿弥父子を疎《うと》んじたためである。
もっとも、一説によると、世阿弥・元雅父子は南朝に忠誠を誓ったスパイであったともいわれている。足利家に仕えていながら、時折、大和の南にある社寺で演能を催したのは、ひそかに南朝に通じることが目的であった――というのだ。
戦乱の世にあって、どういうわけか能楽師《のうがくし》たちは、比較的に自由に往来ができた。そういうところから、彼等の多くは、じつは、いわば「忍びの者」のような役割を果たしていたのではないか――とする説もあるそうだ。
世阿弥は佐渡《さど》に流され、元雅は身の危険を感じて伊勢北畠《いせきたばたけ》氏を頼って落ちのびる。その途中、元雅は天河神社に立ち寄り、「阿古父尉」の面に万斛《ばんこく》の想いを込めて「所願|成就《じようじゆ》」と書き、奉納した。
その後、元雅は伊勢の地で非業《ひごう》の最期《さいご》を遂げる。
「毒殺されたという噂《うわさ》もあるそうです」
千代栄は言った。
「毒殺?……」
浅見は連想が走って、思わず智春の顔を見た。智春もむろんそのことを感じたのだろう、反射的に浅見を見返した。
「あっ、変なこと話してしまったわ。ごめんなさい」
千代栄は慌《あわ》てて、手で口を覆った。
「そんなこと、気にしないでください」
智春は困った顔で、言った。
「そうですね、この際は割り切ることにしませんか。それより、毒殺されたというのは、本当のことですか?」
浅見が話のつづきを催促した。
「ええ、そういう話を聞きました。この地方の山奥には、植物の根から猛毒を採集する方法が伝わっていたのだそうです」
「なるほど、そうするとたぶん、アルカロイド系統の毒物ですね」
「何ですか? そのアルカなんとかっていうのは?」
千代栄が訊《き》いた。
「ほら、狩猟民族が矢毒に使ったといわれる、トリカブトという植物の名前は知っているでしょう。アルカロイドというのは、簡単にいえば、そういう、植物から採取した毒のことです。この付近の山はかつて山伏《やまぶし》や行者が闊歩《かつぽ》していたのだから、そういう薬草や毒物についての知識が伝わっていたとしても不思議ではないでしょうね」
そう言いながら、浅見はひそかに「謎《なぞ》」の一つが解けようとしているのを感じていた。
その夜、三人はうち連れて薪能《たきぎのう》を観《み》に出掛けた。気温は低いが、昨夜より空気に湿り気があるのか、肌《はだ》を刺す――という感じではない。雪も、浅見の予想どおり、降り積もるまでには至らなかった。
この夜の番組は『鵺《ぬえ》』。題名どおり、ずばり鵺の話である。
鵺というのは、顔は猿《さる》、胴は狸《たぬき》、尾は蛇《へび》、手足は虎《とら》――という得体の知れない怪物だ。
世を捨てた旅僧が難波《なにわ》の芦屋《あしや》の里を通りかかり、御堂をかりて一夜の宿とする。
その夜更け、怪しげな舟人がやって来る。舟人は旅僧に、自分は源頼政《みなもとのよりまさ》の矢に射殺《いころ》された鵺の霊魂であることを告げ、自分のために回向《えこう》をしてくれるように頼む。
旅僧が夢から覚めた想いで読経《どきよう》しているところに、今度は鵺の亡霊が恐ろしい姿で現れ、頼政に射殺された時の怨《うら》みを物語るのである。
源頼政は鵺を退治した武勇によって、宇治《うじ》大臣|頼長《よりなが》に重用されたが、それに引きかえ、自分は宇治川の流れに沈んで、惨《みじ》めな思いを味わっただけだ――と鵺は訴え、なおなお回向を頼むと言いつつ消え失せる。
これが『鵺』のストーリーのあらすじである。
記憶のいい読者なら、水上|和春《かずはる》の追善能《ついぜんのう》で、高崎義則《たかざきよしのり》老人が『頼政』を演じたことを憶《おぼ》えているだろう。その頼政が、鵺退治で勇名を馳《は》せた「源三位頼政《げんざんみよりまさ》」その人である。
史実の中の頼政は、武勇に優れていたばかりでなく、歌人としても、『新古今集』などに多くの歌が収録されるなど、よく知られた存在だ。
頼政は保元《ほうげん》の乱の時には後白河《ごしらかわ》天皇方に参じ、平治《へいじ》の乱では同族の源義朝《よしとも》を捨てて、平清盛に味方した。その時の働きで従三位《じゆさんみ》という破格の出世を遂げた。なんとなく無節操な人間のようだが、彼が一人だけ平氏《へいし》についたために、源氏の血筋が残ったということは言えるかもしれない。
しかし、頼政はその後、以仁王《もちひとおう》を奉じて平氏を討とうとして失敗。大和へ逃れる途中、宇治川のほとりで平家の大軍に捕捉《ほそく》され、息子《むすこ》たちや一族のほとんどを討たれ、絶望して自害し果てる。後に以仁王も死ぬが、王の出した令旨《りようじ》は、やがて木曾《きそ》の義仲《よしなか》、伊豆《いず》の頼朝《よりとも》に届いて、頼政の遺志は遂げられることになった。
謡曲『鵺《ぬえ》』では鵺の悲嘆が語られるのだが、その鵺を殺した頼政もまた、謡曲『頼政』の中で身の不運を悲しんでいる。そして、それぞれの物語の主人公が、同じように僧侶《そうりよ》に回向《えこう》を頼みながら「失《う》せにけり」と消えて行くのである。
この「栄枯盛衰」の無常感、「失せにけり」で象徴される宗教的な諦観《ていかん》は、古来、日本的精神と日本文化の底流をなしているように思える。
〔祇園精舎《ぎおんしようじや》の鐘の声、諸行無常の響きあり〕
〔人間五十年、下天《げてん》のうちを比ぶれば、夢まぼろしのごとくなり〕
〔逢《あ》うは別れのはじめ〕
〔世の中は三日見ぬ間の桜かな〕
どれを取っても栄華の夢のはかなさを言っている言葉ばかりだ。パッと咲いてパッと散る桜を好む国民性は、千年の歴史に裏打ちされているといっていい。
こういう一種の潔《いさぎよ》さは、西洋文化にはない。西洋人はもっとねちっこく、ある意味では狡猾《こうかつ》だ。政治家が汚職をやっても、国民が怒るのはその時だけで、じきに忘れてしまうのも、日本的現象だ。アメリカでは、汚職や女性問題でスキャンダルを起こした政治家はたちどころに失脚する。
「忘却とは忘れ去ることなり」と、当たり前のような文句を冒頭に言うラジオドラマがあったが、忘れ去ることはむしろ美徳とされていたし、いまでも「サラリと水に流す」大度《たいど》こそが好ましいらしい。大侵略戦争をやってから半世紀も経っていないのに、「西洋の侵略よりはマシだった」などと、堂々と言ってのける大臣がいるくらいだ。
だが、そういう日本人の中にも、受けた恩や怨《うら》みを決して忘れはしない――という人間だっていないわけではないのだ。
いや、もしかすると、本当は誰だって心の奥深くに、恩や怨みを仕舞っているものなのかもしれない。忘れたように見えるのは、悲しみのたびに出来た心の襞《ひだ》に、隠されて見えないだけなのかもしれない。
篝火《かがりび》に照らされた舞台で演じられる、華やかな能を見つめながら、浅見の脳裏《のうり》にはさまざまな想いが浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。
能が終演しても、浅見はじっと考えごとに耽《ふけ》っていた。夜気はブルゾンの薄い生地を通して、しんしんと寒い。しかし、その寒さをも感じないほど、浅見の脳髄は回転し、熱くなっていた。
観客はそれほど多くなかった。舞台の余韻に心を残しながらも、人々は闇《やみ》の中に消えて行った。
千代栄と智春は立ったが、浅見は依然として床几《しようぎ》に坐ったままだ。
智春は浅見を見返って、動きを停《と》めた。その時になって、千代栄はようやく浅見の様子に気付いた。
「私、先に帰るから……」
智春の耳に囁《ささや》くと、千代栄は意味ありげな微笑を見せて去って行った。智春が制止するひまもなかった。
智春は仕方なく、浅見と並んで坐った。坐ってみて、ふと、この状況が、千代栄と水上和鷹が結ばれた夜のケースとそっくりであることに思い当たった。そう気がついたとたん、篝火《かがりび》のせいばかりでなく、智春の顔はカーッと火照《ほて》った。心臓がドキドキしてきた。見まいとしても、視線は神楽殿《かぐらでん》の方角に向いてしまう。
千代栄が和鷹と結ばれたという、神楽殿の床には、今夜も樟脳《しようのう》の匂《にお》いのする敷物が延べられているのだろうか?――
自分のテレパシーが、いまにも浅見の「愛している」という囁きを聞きはしまいか――と、智春は全身全霊を傾けて、霊的な信号をキャッチしようと努めた。
「行きましょう」
ふいに浅見が言った。それはテレパシーではなく、肉声であった。それと同時に、彼の手が智春の腕を掴《つか》んだ。智春が浅見という青年にイメージしていたのとは少し違う、荒々しい仕種《しぐさ》であった。
(来た――)と智春は思った。浅見に誘われるままに立ち上がりながら、反射的に神楽殿の方向に視線を走らせた。
だが、浅見は神楽殿とは逆の方角に向かって歩きだした。智春の腕を掴んだのも、どうやら、単に暗い道を歩く際の女性に対する思いやりであって、多分に儀礼的な意味あいでそうしているらしかった。
ひょっとすると、そういった行為自体、浅見は無意識に行っているのではないか――と智春には思えた。浅見はむやみに速足で帰路を急いで、とてものこと、智春に対して必要以上の思いやりを尽くしているような気がしなかった。
「ずいぶん急ぐんですね」
智春はつい、不満をそのまま声に出した。
「ええ、時間が遅いですからね、早くしないと夜が更けてしまう」
浅見は分かりきったようなことを言って、いっそう足を速めた。
「私なら平気ですよ。夜はいつも遅いんですから」
「えっ?」
浅見は妙なことを言うな――と智春を見た。その時だけ、少し歩く速度が鈍った。
「いや、都会の人間はそうですが、田舎《いなか》の人は夜が早いでしょう」
「田舎の人?」
「ええ、僕は福本《ふくもと》さんという人の家を訪ねたいのです。家がどこか、民宿で訊《き》けば分かるでしょうね」
「それは、分かると思いますけど……」
なんだ――と智春は落胆し、腕から浅見の手をそっとはずした。もう目の前に宿の明かりが見えていた。
千代栄は二人を見て、「あら?」と怪訝《けげん》そうな顔をした。
「早かったのですね」
「いや、早くはないです」
浅見は急《せ》き込んだ口調で言って、おばさんに福本家の場所を訊いた。福本家はここからほんの数分の所である。
「でも、いまから訪ねるのは、先方に悪いんと違いますかなあ。福本さんは朝、いちばん先に神社に行かなならん人やさかい、もう寝てしまわれたと思いますよ。明日の朝にしやはったほうがよろしいわ」
おばさんは時計を見て、忠告した。まだ十時になったばかりだが、そういうサイクルで生活している家もあるのだろう。
「朝の拝礼に出はったらよろしい」
おばさんはそう勧めた。
「拝礼っていうのは、何時からですか?」
「六時からです」
「六時……」
起床時間が午前九時以降――というのが日課の浅見にとっては気の遠くなるような早朝だ。
「なんとか、努力します」
結局、いずれにしても、福本を訪ねるのは明日の朝ということになった。
「あの、何か思いついたんですか?」
智春はようやく口を挟《はさ》む間隙《かんげき》を見つけて、浅見に訊《き》いた。
「ええ、ちょっとね……」
浅見は、喋《しやべ》ってしまうと折角の思いつきが逃げて行く――とでもいうような、曖昧《あいまい》な返事をした。それから、「さあ、早く寝て早く起きるぞ」と弁解がましく言い、そそくさと自室に引き上げた。
「あれから、何もなかったの?」
千代栄は蒲団《ふとん》に入ってから、訊いた。
「もちろんですよ」
智春はムキになって答えた。
「だって、私たち、そういう関係じゃありませんもの」
「あら、私たちの場合だって、そういう関係なんかじゃなかったわ」
千代栄はおかしそうに、笑いを含んだ声で言った。
「それに、あの時、浅見さんは何か思いつめたような顔をしていたし、あなたの雰囲気《ふんいき》だって悪くなかったし、間違いなく何か起きる――って思ったんだけどなあ」
「そんなの嘘《うそ》でしょう。だって、ここに来る前、浅見さんはずっと水上さんのお嬢さんと一緒に行動していたんですよ」
「えっ、水上さんのお嬢さんて……あの、秀美《ひでみ》さんと一緒だったの?」
「あ……」
智春は問い返されるまで、水上秀美が和鷹の妹であることを失念していた。
「ええ、そうらしいです」
智春はいまさら話題を変えるわけにもいかず、仕方なしに、水上秀美が行方不明になった祖父の和憲を探しに吉野山に来ていて、そこで浅見と知り合い、一緒に行動していたことを話した。
「やっぱり生まれ育ちっていうのかなあ。秀美さんて美人だし、背がスラッとしていて、品があって、私なんか圧倒されちゃいそうにすてきな人なんですよね」
「そんなことないわよ。あなただってとてもすてきだわ。羨《うらや》ましいくらい」
「そんな……須佐さんのほうがはるかに魅力的ですよ」
「あははは、やめましょう、そんな話。それよか、そうだったの……それで浅見さんは天河神社に来たっていうわけね。そうすると、さっきの様子からいって、何か事件の謎《なぞ》を解く鍵《かぎ》を掴《つか》んだのかもしれないわね」
「でも、天河神社に来ただけで、何か分かるものでしょうか?」
「そうねえ、天河は不思議が起きるところですものね」
千代栄は言って、蒲団から半身を出して、枕元《まくらもと》のスタンドを消した。
暗くなると、遠い谷川の水音がにわかに高くなったように聞こえる。天川郷《てんかわごう》はすっぽりと闇《やみ》に包まれているのだ――という想いがして、しぜん、その風景が心のスクリーンに浮かび上がる。「闇の風景」というのは妙だが、漆黒の中に漆黒の山や森、神社や民家などが、しっかりと形を見せている。
(明日は奇跡が起きるかもしれない――)
闇の奥を見つめながら、智春はひそかに念じた。念じながら、眠りに落ちた。
浅見は部屋に入ってすぐ、東京の三宅《みやけ》に電話した。
「夜分どうもすみません」
「何を言ってるんだ、電話してくるのを待っていたんだぞ。それに、たった今、水上家のお通夜から戻ったところだ。で、どうなった、そっちの状況は?」
三宅は年齢差を感じさせない、まるで兄貴のように若々しい口調で言った。
「詳しいことは東京に戻ってからご報告しますが、水上和憲さんは殺された可能性が強いと思います」
「殺された?……しかし、水上家で聞いたところによると、現地の警察では自殺らしいということを言っているそうじゃないか」
「警察はそうですが、僕の勘では他殺です」
「また、きみの勘がはじまったか。それで、その理由は?」
「水上流宗家ともあろう人物が、自殺みたいなみっともないことをしますか?」
「なるほど、それはいえるね。しかし、これまでに私が知り得た情報からいうと、自殺と判定するのは簡単なようだが、他殺の根拠を説明するのは難しいのじゃないかね」
「そのとおりです。和憲さんが和鷹さんの突然の死にショックを受けていたということもあって、自殺の条件は揃《そろ》っているというのが警察の見方です」
「そうだろうね。だったら……」
「まあ待ってください。問題はその和鷹さんの死についてですが、じつは、秀美さんが妙なことを口走ったのです」
「妙なこと……とは?」
「和憲さんが和鷹さんを殺して、自殺したのだ――というようなことです」
「…………」
「もしもし、聞いてますか?」
「ん? ああ、聞いていますよ」
「それでですね、いったい、和鷹さんの死には何か疑惑のようなものはなかったのか、それを知りたいのですが」
「…………」
「三宅さんは母と一緒にその舞台を見ていたのでしょう?」
「うん」
「だったら、和鷹さんが亡くなった時、当然、楽屋へ行かれたはずですよね」
「うん、行ったよ」
「その時の様子を聞かせてもらえませんか」
「そりゃ、まあ、たいへんな騒ぎだった」
「いえ、そんな大雑把《おおざつぱ》な説明でなく、細かい状況を、です」
「なんだ、刑事みたいなことを言うな」
「そうそう、まずはじめに訊《き》きますけど、警察は来なかったのですか?」
「ああ、来なかった」
「やっぱりそうでしたか。いままでに聞いた感じでは、どうも警察|沙汰《ざた》になっていないようなので、ひょっとしたらと思っていたのですが……しかし、どうしてですか? 舞台上で急死したのでしょう。明らかに変死じゃないですか。なぜ警察を呼ばなかったのですかねえ?」
「宗家《そうけ》の頼みがあったのだよ」
「宗家が? 和憲さんが警察を呼ぶなと言ったのですか」
「うん、そういうことだね」
「救急車は呼んだのでしょう?」
「ああ、呼んだが、しかし、その時点ではすでに和鷹さんは死亡していた」
「ん? 死亡を確認したのは誰です?」
「それは、もちろん、医者だよ」
「医者? おかしいですね、その日は休日でしょう? なのに、お医者さんのほうが救急車より早く到着したのですか?」
「いや、たまたま観客の中に医師が二人来ていたのだ」
「ああ、そうでしたか。そうすると、医師が診断した時は、まだ和鷹さんは生きていたのですね?」
「いや……」
「じゃあ、舞台上ですでに亡くなっていたということですか?」
「そうだ」
「死因は急性の心不全《しんふぜん》でしたね」
「そうだ」
三宅は極端に言葉を省略している。浅見はその様子に疑惑を覚えた。
(いったい、三宅老は何を隠しているのだろう?――)
しばらく会話が途絶えた。
「もしもし……」
三宅のほうが先に声をかけた。
「はい」
「あ、まだいたか。切れたのかと思った」
「三宅さん、これはおかしいですね」
浅見は暗い声音で言った。
「おかしいって、何が?」
「宗家が警察に伏せるように頼んだのは、和鷹さんの死因に疑問があったからではありませんか?」
「…………」
「秀美さんが、和鷹さんの死を『祖父が殺した』と口走ったのは、単なるヒステリーといったことではなく、何かそれなりの根拠があったのだと僕は思ったのです。正真正銘、ただの病死ということであれば、いくら悲しみのあまりとはいっても、水上家の令嬢ともあろう人が、ああまで取り乱したりはしないはずです。彼女なりに何かおかしな点に気付いていたからこそ、あんなことを言ったのだと思うのですが」
「光彦君」
三宅は強張《こわば》った口調で言った。
「きみが無茶をしない男だと信じるから言うのだが、じつはたしかにきみの指摘したとおりなのだ。その時、二人の医師のうちの一人が、死因に疑わしい点があると言った。当然、警察に届けて、しかるべき措置を取るのが筋だったわけだが、宗家がそうしないよう、拝み倒したのだ」
「そうすると、本当の死因は何だったのでしょうか?」
「はっきりしたことは、いまとなっては分からない。私も直接、説明を聞いたわけじゃないから、詳しいことは知らないが、アコニチンがどうしたとか言っているのを、チラッと洩《も》れ聞いた」
「アコニチン……アルカロイド系ですね」
「うん、アルカロイドという単語も出ていたようだな」
「毒殺ですか……」
「いや、念のために言っておくが、それはあくまでもその疑いがある――ということで、事実はどうだか分からないのだからね、軽はずみなことはしないでくれたまえよ」
「分かっています。しかし、もし犯罪が行われたのだとしたら、それなりの処置を取らないといけないでしょう。臭《くさ》いものにフタをしようとしたから、宗家までが殺されるようなことになったのかもしれません」
「じゃあ、きみはあくまでも和憲さんは殺されたと?……」
「決まっているでしょう。水上宗家が自殺したりしないというのは、これは定理なのですから」
「定理か……」
三宅は呟《つぶや》いたが笑いはしなかった。浅見の考えに同調する気持ちを、ひそかに抱いていることを暗に認めたかたちであった。
「きみの言うことが事実だとすると、誰が何のために……ということになるが」
「そうです、もちろんそれを解明しなければなりません」
「しかし、それを暴《あば》いた結果として、水上家が再起不能になるほどのダメージを受ける危険性がありはしないかな」
「それは、事実の内容によりけりです」
「真相がどういうものだろうと、取り返しのつかないスキャンダルであることはたしかだろう」
「それは分かりませんが、その可能性は大きいでしょうね」
「それゆえに、宗家《そうけ》は闇《やみ》から闇に葬ろうとしたのじゃないか。残された者は……むろんわれわれ門の外の人間としても、その意志を尊重しないわけにはいくまい」
「しかし、そうしたために、宗家自身までがああいう目に遭《あ》いました」
「それはまだ、真相がどうか分からないことだろう。きみの主張する定理は、私には理解できないこともないが、しかし、警察が言うように自殺であるのかもしれないのだ」
「自殺ではありませんよ、絶対に」
「ははは、強情だな」
三宅はようやく笑ったが、元気がない。
「とにかく、三宅さんの話を聞いて、僕の考えた定理はますます強固なものになったと思っています」
「ふーん、ということは、事件の真相を見極めたという意味かね?」
「そうまではまだ言い切れませんが、あと少し、事実関係をはっきり把握できれば、推理は完結します」
「つまり、それは、犯人が誰かを指摘できる――ということを言っているのかね?」
「そうです」
「どうしてもそれをやるつもりかい?」
「ええ、どうしてもやらなければならないと思っています」
「誰かが傷つくぞ」
「やむを得ません」
「うーん……」
三宅は唸《うな》った。
「いいだろう、私も正義を貫くこと自体には賛成なのだ。ただし、真相を解明したら、真っ先に私に話してくれないか」
「…………」
「いや、だからといって、きみが正義を行うのを妨害するつもりはないよ。ただ、私もきみのおふくろさんも、警察に通報しなかったという事実を考えた上で、きみの善処を期待している」
「僕の母も、ですか?」
「そうだよ。おふくろさんは、この事実を私の口から聞いた時、陽一郎《よういちろう》君にじゃなく、きみに知らせることを黙認している」
「そうですか……」
浅見は愕然《がくぜん》とした。あの母が兄には内緒でことを運んでいるというのは、少なからずショックだった。
電話を切ったあとも、そのことが浅見の胸にしこりのように残った。
冷たい蒲団に潜《もぐ》り込むと、頭が冴《さ》え渡って、つぎからつぎへと思考が回転した。
仰向《あおむ》けに寝ていると、いままでに遭遇《そうぐう》し、推理してきたさまざまな謎《なぞ》が、闇《やみ》の中に現れては消えてゆく。それを、浅見は一つずつ数えるように見据えていた。
追善能の『道成寺《どうじようじ》』の舞台で起きた、水上和鷹の悲劇的な死。
水上宗家・和憲の失踪《しつそう》と、それにつづく吉野山での奇怪な死。
その二つの死に魁《さきが》けて、新宿の高層ビルの前で起きた川島孝司の「サドンデス」。
川島が持っていた「五十鈴《いすず》」の謎。
川島がホテルのロビーで会っていた老人とは何者なのか。
「雨降らしの面」の謎。
和憲が吉野山を訪れた意味。そしてそれまで一度も訪れなかったことの意味。
秀美が「祖父は兄を殺し、自殺した」と口走ったのはなぜなのか。
そして、もっとも重要な謎は、あの「雨降らしの面」はどこへ行ったのか――ということであった。
竹宮の記憶によると、『道成寺』の舞台から雨降らしの面を運び去ったのは、高崎義則だったという。
はたして、いまでも高崎老人が雨降らしの面を持っているのか……それとも……。
浅見の推理は、最後のハードルにかかっていた。
翌朝、浅見は七時半に目覚めた。こんな早朝に、誰にも起こされずに目覚めるのは、浅見としてはごく珍しい。やはり緊張しているせいなのだろう。
起き抜けに吉野警察署に電話してみた。瀬田と森本の二人は、昨夜のうちに東京へ引き上げたということであった。
ついでに吉野山での事件のその後の経過を訊《き》いてみたが、さしたる進展がないのか、それとも口が固いのか、はっきりした答えは聞けなかった。
食堂の方角から、味噌汁《みそしる》のいい香りが漂ってくる。朝食の準備ができているらしい。浅見は眠そうな顔で部屋を出た。
驚いたことに、泊り客の全員が、とっくに食事をすませてしまったらしい。食堂には、千代栄と智春の二人だけがいて、コーヒーを飲んでいた。
「おはようございます」
智春が元気よく声をかけた。千代栄は年長らしい落ち着きを見せて、アルト系の声で挨拶《あいさつ》した。
「私たち、朝の拝礼に行ってきました。浅見さんも起こして上げようかと思ったんですけど、千代栄さんが止めなさいって言うものだから黙って出掛けました」
「そりゃありがたかったなあ。僕は朝はまるでだめなんです。家にいると、今ごろはまだ夜中ですよ」
「それじゃ、サラリーマンは勤まらないわけですね」
「いや、サラリーマンが勤まらない理由は、寝坊のせいだけではありませんけどね」
「あら、ほかにもあるんですか?」
「うん、要するに落ちこぼれっていうことかな」
「えっ、浅見さんが? 嘘《うそ》でしょう?」
「ほんとですよ、僕は子供の頃からずっと、だめ人間なのです」
「うっそ……嘘ですよねえ」
智春は千代栄に同意を求めた。千代栄は「さあ、どうかしら」と首を傾《かし》げて、曖昧《あいまい》な笑い方をした。
智春ははぐらかされたような気がしたのか、つまらなそうな顔になった。
「あ、そうそう、さっき福本さんにお会いしましたので、あとで浅見さんがお訪ねするっていうこと、お伝えしておきました」
千代栄が思い出して、言った。
「そうですか、どうもありがとう」
浅見は慌《あわ》ただしく、一人だけの遅い朝食をすませて、天河神社へ向かった。智春も一緒に行きたそうな顔だったが、浅見は誘わなかった。
千代栄は福本に浅見のことを、東京から来たフリーの雑誌記者――というようにふれこんでいた。
「天河神社のことを調べておられるそうですな」
福本は浅見を社務所の客間に案内して、巫女《みこ》さんにお茶を頼んでくれた。
「はあ、今回、『能謡|史蹟《しせき》めぐり』という企画の本を出版することになりましたので、とくに観世元雅の故事などを中心に、お話を聞かせていただければと思っております」
浅見はしかつめらしく言った。
福本は疑う様子もなく、観世元雅の話や、それ以前と以後の芸能と天河神社の関わりについて語った。
浅見のほうも真面目《まじめ》にメモを取っている。『能謡史蹟めぐり』の取材というのは、まんざら出鱈目《でたらめ》ではないのだ。
しかし、福本の話はときには専門的すぎて、何度も訊き返さないと理解できない場合があった。ことに面の話になると、猿楽《さるがく》の歴史や、鎌倉《かまくら》、室町《むろまち》、安土桃山《あづちももやま》時代の文化の形式などから勉強し直さないと、とてものこと、何が何やら分からない。
しかし、浅見は根気よく、熱心に耳を傾けた。その姿勢は福本の目には好ましいものに映ったにちがいない。
ひととおりの解説が終わったところで、浅見はさり気なく訊《き》いた。
「ところで、観世元雅が毒殺されたという話は、あれは事実なのでしょうか?」
「ああ、そういう俗説がありますね」
福本はあっさり言った。
「俗説というと、事実ではないという意味でしょうか?」
「それは分かりません。ただ、元雅が伊勢の北畠家で死んだというのは歴史的事実のようです。北畠家は足利《あしかが》将軍家に対して、ある時期は反発していたかもしれませんが、所詮《しよせん》は抵抗しきれない立場ですからね。将軍家に睨《にら》まれている元雅の処置に困っていたという事情はあったと考えられます」
「そうすると、毒殺もあり得るということですか」
「まあ、そうでしょうね」
「何か、この付近の山で採集される毒草を使ったという説もあるそうですね」
「そのようですが、はっきりしたことは分かりませんよ」
「ところで、先日亡くなった水上和憲さんも、こちらで能を奉納されたそうですね?」
「はい、演じていただきました。あの方も思わぬことになってしまわれて……」
「たしか、五年前でしたか、和春さんの一周忌で能を奉納されたとか」
「そうでした」
「その時、『雨降らしの面』を使ったと聞きましたが」
「いや、当初はそのおつもりのようでした。水上流秘蔵の『雨降らしの面』をつけて演じるという噂で、ずいぶん期待した人も多かったのですが、実際にはべつの面を使われて、『雨降らしの面』は展示しただけです」
「展示、というと、一般の人々も見ることができたのですか」
「もちろんです。あの時は、薪能の当日より三日前から、特別な展示会場を設営しましてね、ほかの天河社蔵能面と並べて観覧に供しました」
「ほう、そうだったのですか。それじゃ、かなりの賑《にぎ》わいだったでしょうねえ」
「いや、天河神社は宣伝して客寄せするようなことはしませんので、さほどのことはありませんでした。まあ、静かにゆっくり展示品をご覧になっていただけたと思いますよ。実際、何度も足を運ばれた熱心な方もおられたようだし」
「観世元雅が奉納した、有名な『阿古父尉《あこぶじよう》』の面というのも、展示されたのですか?」
浅見は訊《き》いた。
「もちろん展示しました」
「それはいまも拝見できるのですか?」
「いや、なにぶん社宝でありまして、いつも公開しているというわけではありません。実物大の写真でよろしければ、お見せできますが……そうそう、それなら面の裏側まで見ることができますよ」
「そうですか、それはありがたい。ぜひ拝見させてください」
福本は「では」と立って行って、写真集を持ってきた。
「これがそうです」
「阿古父尉」の写真は本の真ん中あたり、A4判のページの見開きを使って、右に表面、左に裏面を大きく紹介してある。
阿古父尉の「尉」というのは、「衛門府《えもんふ》」「兵衛府《ひようえふ》」「検非違使《けびいし》」などの判官《ほうがん》のことで、兵隊の位の「尉官《いかん》」にも使われているが、能楽《のうがく》の世界では女性の「姥《うば》」に対する、男性の老人を意味する。阿古父尉は老人の面である。眉間《みけん》や頬《ほお》の皺《しわ》が深く、眼窩《がんか》が落ちくぼみ、頬の肉の削《そ》げた、死人のように、見るからに精気のない顔であった。
これが傑作なのかどうか、浅見には判断できるほどの審美眼がない。しかし、写真集に掲載されたどの能面にも共通していえることだが、何かしら鬼気迫るような迫力は感じられた。
左ページの写真はことに面白い。能面の裏には観世元雅が奉納の際に書いた直筆《じきひつ》がある。「所願円満|成就《じようじゆ》・世阿弥|嫡男《ちやくなん》観世十郎元雅」などの文字が読める。しかし、面の裏全体に書かれた文字の、鼻と口のあたりが黒く掠《かす》れて判読がしにくい。
「ここのところだけ、どうしてこんなに掠れるのでしょうか?」
浅見は写真のその部分を指差して、訊《き》いた。
「ああ、それは、これまでに何度か、実際の演能に使用したための汚れなのです」
福本は言った。
「ほう、この面を実際に使ったのですか」
「使っております。現在でも、年に一度ほどですが、使用する場合があります。そのために、このように墨が滲《にじ》み掠れてしまったのですね」
「こんなに墨が落ちるのでは、能を演じ終えると、顔が真っ黒になるでしょうねえ」
「ははは、面白いことを言われる。まあ顔はともかく、鼻の先と唇《くちびる》と舌が真っ黒になりますね。謡《うた》いながら舞う際に、つい舌で面の裏側を嘗《な》めてしまうそうで」
「はあ……そうすると、あまりきれいなものではありませんね」
「ははは……」
福本は、浅見の無邪気な発想に声を立てて笑った。
福本に丁重に礼を述べ、浅見は文字どおり、翔《と》ぶようにして宿に帰った。
「いかがでした?」
「どうでしたか?」
千代栄と智春は心配していたらしく、浅見の顔を見るなり、異口同音《いくどうおん》に訊いた。
「収穫ありです。須佐さんに紹介してもらって、ほんとに助かりました」
「収穫って、どんな収穫ですか?」
千代栄が訊いた。
「それはまだ、具体的には分かりません。しかし、いつかきっと、実を結びそうな予感だけは、確かにしました」
浅見はにっこり笑って答え、それから智春に向けて言った。
「さて、われわれもそろそろ引き上げましょうか」
「ええ」
智春は頷《うなず》きながら、無意識に千代栄を気にした。
「私はまだしばらくここにいます」
千代栄は訊かれる前に言った。弾むような陽気な口調には、どこか、智春と浅見青年とが、「天河の気」に包まれたままであることを願う気持ちが感じられて、智春はわれ知らず赤くなった。
外へ出て天川郷上空を見上げると、昨日とはうって変わって、狭い視野いっぱいに、抜けるような青空が広がっている。ドライブの前途を祝福しているようで、気分がよかった。
淡いブルーのブルゾンを着た浅見と、白いシャツの上に白いカーディガンを羽織った智春は、まるで、ドラマの青春コンビだ。
「このぶんだと、下界はきっと小春日和《こはるびより》でしょうね」
宿の前に見送りに出た千代栄が、そう言って、眩《まぶ》しそうな目で二人を眺《なが》めた。その目を見返しながら、智春は今度こそ、ふたたび千代栄と会うことはないだろうな――と思い、その瞬間、たまらない寂寥《せきりよう》に襲われた。
谷沿いの道を下り、トンネルを抜けると、ほんとうに春先のような陽光が、汗ばむほどだった。
「もしよければ、このまま僕の車で行きませんか?」
浅見は智春に言った。
「でも、浅見さんに悪いです」
「なに、どうせ僕もお宅に寄って行こうと思っているのです」
「えっ? ほんとですか?」
「あははは、そんなに迷惑そうな顔をしないでください」
「迷惑だなんて思ってません」
智春は唇《くちびる》を尖《とが》らせた。
「いや、本当は豊田《とよた》という町を、いちど見てみたいのですよ。豊田はいわばこの車の生まれ故郷ですからね」
浅見は愛車・ソアラのハンドルを叩《たた》いた。
「ああ、そういえばそうですね……でもほんとに送ってくださるのですか?」
「ええ、よければそうさせてください。それに、真面目《まじめ》な話、あなたのお父さんのことで、いろいろ知りたいこともありますしね」
「そうなんですか……」
智春は不安げな顔になった。
「父のどういうことが知りたいのですか?」
「それはまだ分かりません」
「私で分かることなら、何でもお話ししますけど」
「たぶんあなたの知らない部分でしょう」
「どんなことですか?」
「たとえば、お父さんの女性の知り合いにどういう人がいるか、とかです」
「そんな……父はそういう人じゃありませんよ」
「あははは、あなたがお父さんを信頼している気持ちは分かります。しかし、ほんとうのところは、お父さんしか知らない世界です。いや、それに、何も妙な関係にある女性というわけではなくても、たとえば会社の女性だとか、帰りに一杯やるおでん屋のおばさんだって、みんな知り合いの女性でしょう。それに、小学校の同級生だとか、先生……お父さんにだって、いろいろな女性関係があるのですよ」
「そんな……私は真面目《まじめ》に考えているのに……」
「僕だって真面目ですよ。なぜこんなことを考えるかと言うと、お父さんに五十鈴《いすず》を渡したのは女性だというのが、僕の定理だからなのです。しかも、その女性は、お父さんに、誰にも内緒で実際は東京へ向かわせるほどの影響力を持っていなければならない……」
「えっ?……」
智春は驚いて、車が揺れるほど背を反《そ》らせて浅見を見た。
「それはどういう意味なのですか?」
「そんなに怖い顔をしないでください」
浅見はチラッと智春の顔に視線を走らせて、笑いながら言った。
「つまり、お父さんはあの日、会社や家族の人には大阪へ行くとだけ言って家を出て、実際には大阪から密かに東京へ行かれたのですよね。最初からそういう計画になっていたのか、それとも、その日に誰かと会って、急に予定を変更されたのかは分かりませんが、とにかくお父さんにそういう、会社やご家族に内緒の行動を取らせた人物がいたということは、まぎれもない事実です。そして、その人物が女性で、その女性の手からお父さんに、問題の五十鈴が渡されたことも、ほぼ間違いない――と僕は考えたのです」
「…………」
智春は目にいっぱいの不信感を込めて、浅見の横顔を睨《にら》みつけていた。
第十章 初恋の女《ひと》
愛知県|豊田《とよた》市はその名が示すとおり、世界的な自動車メーカー「トヨタ自動車」の本拠地である。もともとの市名は「挙母《ころも》市」といった。昭和三十四年に近隣の町村と合併するのを契機に、市名を改めた。
当然のことながら、市の中軸産業はトヨタ自動車とその関連企業群、およそ千三百社によって成り立っている。
年間工業生産出荷額はおよそ七兆円に達し、これは名古屋市を抜いている。東京、大阪、川崎、横浜などはともかく、三十万足らずの豊田市の人口から考えれば日本一のスケールだ。
浅見《あさみ》はそういう詳しいことは知らなかったが、豊田市について抱いているイメージといえば、やはり自動車産業そのものということになる。濃尾《のうび》平野の東のはずれ近くに建ち並ぶ近代的な工場、テストカーがつっ走る広大なテストコース――といった風景を想像してしまう。それはいわば「鉄とコンクリート」のイメージだ。市民生活そのものが、すべて自動車産業に集約されているような姿といってもよい。
おそらく、日本中の人々がそれに近いイメージを、豊田市に抱いているのではないだろうか。しかし実際には豊田市は緑の豊富な、清楚《せいそ》な都会である。国道一五三号と二四八号が交差する、市の中心部には、トヨタの本社や工場、それに市役所などの施設が集まっているけれど、城跡や古い社寺、遺跡などを包む森がいたるところに散在する。周辺の丘陵地帯には、ゴルフ場が開かれ、その背後には、ちょっとしたハイキングや山登り気分を楽しめる自然遊歩道や渓谷もある。
川島智春《かわしまちはる》の家は名鉄三河《めいてつみかわ》線の若林《わかばやし》駅からほど近いところにあった。建ててから十数年だそうだが、小ぢんまりした二階家である。
智春の母親は事件のショックからようやく立ち直ったらしく、思ったより顔色が明かるかった。むしろ娘の身を案じていて、三日ぶりに帰った智春の顔を見るなり、いきなり叱声《しつせい》を浴びせた。
「まったくもう、ほんとに心配ばかりかけるんだから」
智春は詫《わ》びを言う代わりに、背後を振り返って、浅見に「どうぞ」と言った。
「あら、どなたか一緒?」
母親は慌《あわ》てた。
「失礼します」
浅見は智春に続いて、ドアの陰から姿を見せ、玄関に入った。
「こちら浅見さんておっしゃるの。東京から来た名探偵さんよ」
「探偵?……」
母親は反射的に、夫の無残な死を連想したのだろう、怯《おび》えたような表情を浮かべた。
「いや、探偵というのは趣味で、仕事はルポライターのようなことをやっています」
「パパの事件のこと、いろいろ相談に乗ってくださるっていうことなの」
「事件て、智春、それは警察が……」
「警察なんかに任しておいたら、いつまで経っても犯人が捕まらないわよ。まあいいからいいから、浅見さんにお願いしましょうよ。あ、ママ、お礼のこと心配しているのね。心配しないでいいの、浅見さんは探偵は趣味だって言ったでしょう」
「そんなこと言ったって、おまえ……」
「いや、ほんとのことですよ。趣味というと聞こえはいいのですが、僕の場合は道楽みたいなものなのです……というと、少し不謹慎に思われるかもしれませんが、決して不真面目《ふまじめ》なわけではありません。真面目な遊び……いや、これもいけませんか」
浅見は当惑したように、頭を掻《か》いた。その仕種《しぐさ》に、母親ははじめて笑顔を見せた。
浅見を応接室に通しておいて、母娘はキッチンでひそひそ話をした。
「ほんとに大丈夫な人なの?」
「大丈夫よ。よく知らないけど、浅見さんのお兄さんは、警察の偉い人みたいだし。それに、若い割にすっごく紳士なの。ちょっと物足りないくらい」
智春は昨夜の天河《てんかわ》神社でのことを思い浮かべながら、言った。
「だけど、ウチに来て、何か調べようっていうんじゃないの? そんなの、私はいやですよ」
「調べるったって、警察みたいにゴツイことはしないわよ。パパの交友関係を知りたいんですって」
智春は「女性の……」という部分を省いて言った。
「面倒なことにならなきゃいいけど」
紅茶とケーキを運んで応接室に戻って来た母親に、浅見は「あの、ご主人にお線香を上げさせていただけますか?」と言った。
仏壇には遺影とまだ新しい位牌《いはい》が置かれ、飾ってある花も新鮮なものだった。
「そうそう、忘れていたけど、あの鈴は持ち主のところに返してきたわ」
浅見が鐘を鳴らすのを聞いて、智春は母親に囁《ささや》いた。
「あら、持ち主が分かったの?」
「うん」
浅見が振り返って、お辞儀をした。母と娘も礼を返した。
「それで、どこの人だったの?」
応接室に戻りながら、母親はもどかしそうに智春に訊《き》いた。
「東京の人で、それも大変な家柄の人だったのよ」
智春は水上和憲《みずかみかずのり》のことを話した。鈴の持ち主が能楽《のうがく》の宗家《そうけ》で、しかも、その人が吉野山で変死したという話には、母親は夫の死の時のように驚愕《きようがく》した。
「何なのそれ? どういうことなの?」
得体の知れない不気味さを感じて、母親は客の前であることも忘れ、取り乱した。
「ね、びっくりしたでしょう。だから浅見さんにお願いするの。あんまり難解すぎて、警察の手に負えないのよ」
智春は生意気な口調で言った。しかし、母親も今度はそれに文句をつけなかった。ほんとうに智春の言うとおり、わけの分からない事件のように思えてきている。
「でも、何をどうお調べになるのですか?」
浅見に訊いた。
「はあ、僕が知りたいのは、ご主人の交友関係……ことに女性のお知り合いのことなのです」
「女性?」
母親は眉《まゆ》をひそめた。
「心配しないでもいいの。変な関係の女性じゃないんだから」
智春が急いで注釈を加えた。
「会社の女の人とか、学校の同級生とか……そういう人のことよ」
「同級生だったら、鎌谷《かまたに》さんに訊けばいいんじゃないかしら」
「ああそうね、鎌谷さんなら小学校から高校まで、ずっと一緒だったわね」
「いいですね」
浅見は脇《わき》から言った。
「その鎌谷さんという人に、お会いできませんか」
「大丈夫です。会社がここの近くなんです。トヨタの関連会社で、なんとか部長をしてる人なんです。だったら、ママ、すぐに電話してみて」
すでに夕方近かった。鎌谷は会社が終わったら寄ってくれると言い、その言葉どおり、終業時刻から十数分後には、川島家のチャイムを鳴らした。
小柄だが、聡明そうな整った顔立ちの紳士だった。遠近両用の眼鏡《めがね》がよく似合う。
「失礼ですが、浅見さんは、警察庁の浅見刑事局長のお身内でしょうか?」
挨拶《あいさつ》がすむと、鎌谷は訊いた。
「あ、兄をご存じですか?」
「ほう、そうすると、あなたは弟さんですか。いや、もちろん存じ上げているわけではありませんが……まことに恐縮ですが、知人に警察関係の人間がおるもので、念のために調べさせていただきました。浅見というお名前で警察の偉い方というと、刑事局長さんがそうだと言っておったもので、ひょっとするとと……いや、これはどうも失礼なことをいたしました」
「いえ、とんでもない。さすがに川島さんが頼りになさっておられる方です。おそれいりました」
浅見は思ったとおりを言って、頭を下げた。直感的に、この人物は信用できる――と思った。
「ところで、私に川島君の交友関係のことをお訊きになりたいそうですが?」
「ええ、もし出来れば、川島さんがごく親しくしておられた女性のことがお聞きできればと思っています」
「親しいって……」
鎌谷は目を丸くして、川島母娘を顧みた。
「鎌谷さん、いいんですよ、私たちに気を使わなくても」
智春が陽気に言った。
「そうなの……」
鎌谷は苦笑して、言った。
「しかし、気を使うも何も、川島君にはそういう結構な関係の女性はいなかったのですよ。いや、私は彼のプライベートなことは、ひょっとすると奥さん以上によく知っているかもしれないが、彼はまったくの堅物《かたぶつ》でしたからねえ。むしろ私のほうが、彼にそういう意味では迷惑をかけましたよ」
「しかし、奥さん以外に、親しい女性がまったくいなかったということは考えられませんが」
「ん?……」
鎌谷は少し不快そうな表情を見せた。
「そうおっしゃるが、いないものは仕方がありませんな」
「あの、浅見さんはそういう、変な関係の人じゃなくって……」
智春が目敏《めざと》く気付いて、とりなすように言った。
「たとえば、おでん屋のおばさんとか、小学校の同級生だとか、そういう女の人でもっておっしゃっているんです」
「ははは、おでん屋のおばさんはよかったなあ……」
鎌谷は笑った。
「そりゃまあ、小学校はともかく、中学・高校時代には、彼にも人並みに初恋みたいなものがあったけれどねえ。しかし、そんなのはカビの生えたような話だし……」
「そのカビの生えた女性……いや、昔の初恋の人はどうしているのですか?」
浅見は急《せ》き込んで言った。
「さあ、それは分かりませんよ。中学時代までは一緒だったが、高校は女子高へ行ったのじゃなかったかな? とにかく何十年も昔の話ですからねえ。名前もはっきり憶えていないくらいです。たしか、長岡とかいったと思うが……同窓会名簿でも見れば分かると思いますがねえ」
「ちょっと探してきます」
智春は言って、スカートの裾《すそ》を翻すようにして、部屋を出て行った。
「ははは、いいんですか奥さん。初恋のきみの話をしても」
鎌谷は未亡人を冷やかした。
「いまさらしようがありませんよ。いくら焼き餅《もち》を焼きたくても、あの人はいないんですから」
「はあ……」
冗談を言ったつもりが、しんみりしてしまった。
智春が戻ってきた。
「同窓会名簿は見当たらないけれど、中学校の卒業アルバムがありました。これに載ってますよね」
「ああ、アルバムがあったか。どれどれ」
鎌谷は、智春の手からアルバムを受け取ると、玉手箱の蓋《ふた》を開けるように、いそいそとページを開いた。
写真はやや変色ぎみだったが、保存の状態はよく、小さな顔も、ちゃんと識別可能だった。
「ははは、いたいた、これが川島君、これが私ですよ。この男は出世頭《がしら》で、いまはトヨタの工場長です。本来なら私なんかペコペコしなきゃいけないのだが、いい男でしてねえ」
鎌谷は懐かしそうに指差して、説明を始めた。
「それより鎌谷さん、パパの初恋のきみはどの人なんですか?」
「ああ、そうだったな……」
鎌谷は眼鏡《めがね》を直して、セーラー服の一人を指差した。目鼻立ちのはっきりした、いわゆる美少女タイプだ。
「この人ですよ。ええと、名前はなんていったかな……こっちに印刷されている」
トレーシングペーパーのような紙に氏名が印刷されているのを、写真に重ねた。
「ああ、長原《ながはら》だ長原、長原|敏子《としこ》っていったっけ。可愛《かわい》い女の子で、クラスの中でも倍率が高かったのだが、どういうわけか……というと語弊がありますか。とにかく川島君と仲がよかったですなあ」
鎌谷は三十何年かの昔を偲《しの》ぶ目になっている。
「それで、お二人のあいだはどうなったのですか?」
浅見は鎌谷の回想に水を差した。
「どうなったって……」
鎌谷は驚いた目で、浅見を見つめた。その目が一瞬、焦点を失った。明らかに遠い記憶に視点を定める、心の動きがあった。
「ははは、そんなもの、子供の頃の話ですよ。どうもならんでしょう」
鎌谷は笑い飛ばした。
「そりゃねえ、たしかに高校時代までは、時折、彼女の噂《うわさ》をして、将来は結婚するみたいに意気込んでいたようだが、いつのまにか、そういう話も出なくなりましたねえ。どこかへ引っ越して転校でもしたのか……いずれにしても、それもこれも思春期の淡い夢物語といったところでしょうなあ」
鎌谷はそう結論づけた。
しばらく白けたような沈黙が漂った。
「さて、それでは私はこれでお役御免でしょうかな。そろそろ帰らないと……」
鎌谷は時計を見た。時刻はすでに夕食どきにかかっている。
「この人の住所は分からないでしょうか?」
浅見が鎌谷を引き止めるように言った。
「さあねえ、私は知らないが……誰か女の子なら知っているかもしれませんね。あるいは高校の同窓会名簿を見れば、住所が記載されているかもしれませんよ。高校はたしか、智春ちゃんと同じところじゃなかったかな」
「明純女子高ですか?」
「ああ、そうそう明純だ明純。この辺《あた》りの出来のいい子は、みんなあそこでしょう」
「だったら、私が名簿を持っています」
智春はまた走るようにして同窓会名簿を持ってきた。鎌谷の言う卒業年度の名簿を調べたが、「長原敏子」の名前は無かった。
「おかしいな……やはり中途で転校したか、退学したのかもしれないな」
鎌谷は諦《あきら》めたように言うと、
「また何かお役に立てることがあったら、いつでも言ってくださいよ」
母と娘に等分に言って、立ち上がった。
「前に停《と》まっているのは、浅見さんのソアラですか? でしたら、恐縮ですが、そこまで送っていただけませんか」
「ああ、いいですよ。僕もそろそろ失礼しなければなりませんから」
浅見も立った。秋の日暮れは早くて、時分どきに、いつまでも上がり込んでいるわけにもいかない。それに、鎌谷が誘ったのには、何か意味があると感じたのだ。
「またお会いできますよね」
智春は車まで送ってきて、名残《なごり》惜しそうに言った。
「ええ、今度会う時には、きっと犯人が捕まっていますよ」
浅見は力づけるように言ったが、智春はかぶりを振った。
「そんなことはいいんです。そういうことじゃなくても、また来てください」
浅見を見つめる目の奥に、熱く滾《たぎ》るものがあった。
車が走りだすと、まもなく、鎌谷は背後に川島母娘が遠ざかるのを確かめてから、言った。
「じつは、あなたに川島と長原敏子がどうなったかと言われて、ふと思ったのですが、川島は死ぬ少し前、妙なことを言っていたのですよ」
「は?……」
浅見はハンドルを持つ手がおろそかになるほど、緊張した。
「いや、べつにどうということでもないのかもしれませんがね」
浅見の反応が、いささか過剰《かじよう》だったのに気がさしたのか、鎌谷はそう前置きをしてから、言った。
「川島はこう言ったのですよ、『無意味なことをやる楽しみというのも、この世の中にはあるんだな』と、正確ではないですが、概《おおむ》ねそんなようなことでした」
「無意味なこと……とは、どういう意味でしょう?」
「私も、何のことか分からないので、訊《き》いてみました。ゴルフだって、無意味なことと言えば言える……と、そんなような、ごく常識的なことを言ったと思います」
「そうですね、仕事にしろ遊びにしろ、人間の営《いとな》みすべてが、無意味だと言えば言えるのかもしれませんよね」
「ははは、私もね、それと同じようなことを言ったと思います。恋愛だって、いや、生きること自体が無意味だとかね。ところが、それは違うと言うのです。ゴルフだとかテニスだとか、読書、旅行、すべて目的的でないものはないというのです。『おれの言うのは、自分のやっていることが何なのか、それすらも分からないような、完全な無目的、かつ無償の行為なのだ』とか、そういうことを言って、愉快そうに笑うのですよ」
話しながら、鎌谷は「次を右」とか「そこは真っ直ぐ」とかいった調子で、道案内をした。浅見は言われるままに、車を進めた。
「私は少ししゃくに障ったので、そんなふうに、ひけらかして、自分だけ承知して楽しんでいることからして、すでに目的的ではないかって、そう言ってやりました。川島は、それは詭弁《きべん》だと言いましたが、私が気を悪くしているので、いくぶん、ひとりよがりを反省したのか、『しいて言えば、恋心かなあ』と、そう言ったのです」
「恋心?……」
浅見は、ちょっと古風なその言葉のニュアンスを、確かめるように、言った。
「そう、恋心と言いました。その時は私は笑いましたよ。およそ、『恋心』などという言葉は、川島には似合いませんからね。それで、『川島は無菌培養《むきんばいよう》されたような男だから、どこかのホステスにおいしいことを言われたんだろう』みたいなことを言って、冷やかしたのです。川島はニヤニヤ笑いながら、『俗人はその程度のことしか想像できないのかなあ』と、嬉《うれ》しそうに言って、その話はそれっきりになりました。しかし、さっき浅見さんが長原敏子のことを言われた時、ふっとそのことを思い出しましてね。もしかすると、川島の言っていた『恋心』というのは、彼女とのことではないかと、そう思ったのです」
鎌谷は「あ、そこで結構」と言った。
夕暮れの色は濃くなっていたし、少し方角が異なっていたけれど、浅見は周囲の風景に見憶えがあるように思った。
「あれ? ここは川島さんのお宅の近くじゃありませんか?」
「ははは、すみません、じつはそこに停まっているのが、私の車なのです」
鎌谷は頭を掻《か》いて、言った。
「ちょっとね、この話は、川島の奥さんには聞かせたくないと思ったものですから、失礼をしました」
「あ、なるほど……」
浅見は苦笑して、ブレーキを踏んだ。
「そうすると、鎌谷さんは、川島さんがああいうことになった事件の背景には、長原さんへの『恋心』が絡んでいると、そう考えておられるのですか?」
浅見は車が完全に停まる前に、言った。
「えっ? まさか……そんなことは考えてもみませんでしたよ」
鎌谷は驚いて、ドアロックにかけた手の動きを停めた。
「じゃあ、浅見さんはそう考えているのですか?」
振り返って、まったく同じ質問を、鎌谷は返して寄越《よこ》した。
「いえ、そういうわけではありませんが……ただ、もし川島さんが、そういう話をしたのが、あの事件の直前だとすると、タイミング的にいって、何かそういう関連があったのかなと、そんな気がしたものですから」
「なるほど、それは確かにそのとおりですが、しかし、関連があるというと、いったいどういう関連があり得るのです?」
「さあ……そこまでは分かりませんが」
「まさか、殺されたのが無償の行為だなどというわけではないでしょうね? 無償どころか、たいへんな代償です」
「まさか……」
浅見は笑おうとして、表情が強張《こわば》った。
鎌谷と別れてまもなく、東名高速道を走りはじめると、浅見は頭の中に芽生えた思考の痼《しこり》のようなものが、どんどん膨《ふく》らんでくるのを感じた。
『無意味で無目的で無償の行為』
『恋心』
川島が言ったという言葉が、一つ一つ、クッキリと見えている。
考えてみると、人間というものは、生まれ落ちるやいなや、ただひたすら、目的的に生きている。生存競争にうち勝つための、本能がそうさせるとはいえ、ある時、ふと立ち止まり、そういう営《いとな》みの虚《むな》しさを感じることは誰にもあるのかもしれない。
ことに、川島のような、もっとも「目的的」に生きてきた真面目《まじめ》人間の典型が、ひとたび、そういう思いに取りつかれたとしたら、その虚しさは人一倍のものがあったにちがいない。
無意味、無目的、無償の行為――というのは、川島にとって、宝石のように、というより、悪魔の囁《ささや》きのように、魅力的で新鮮な世界に見えたのではないだろうか。そうして、そういう川島が、現実に『無意味で無目的で無償の行為』をするケースがあるとすれば、その動機には、まさしく『初恋』こそが相応《ふさわ》しい。
「長原敏子か……」
川島の「初恋のきみ」の名を呟《つぶや》いてみた。その名前に、なんとなく聞き憶《おぼ》えがあるような気がする。もっとも、ありふれた名前ではないかもしれないけれど、さりとて、極端に珍しいというほどの名前でもない。似たような名前に、どこかで出くわしているのかもしれない。
ところで、その女性がはたして、川島に「五十鈴《いすず》」を渡した人物なのだろうか。
川島は彼女を心底から愛していたような、鎌谷の口振りだった。中学から高校を通じて――というのは、男がもっとも純な気持ちで女性を愛せる時期だ。もし、彼女に対するそういう気持ちを、川島が現在まで持ち続けていたとしたら、「五十鈴の女」の第一候補は長原敏子だということになる。
鎌谷や家族の話を総合すると、川島は真面目《まじめ》一徹の男であったらしい。三つ子の魂――というが、おそらく、そういう性格というものは、成人したあとも……いや、中年になろうとも変わらないのではないだろうか。
浅見自身、少年期から今にいたるまで、多少、世渡りが上手《うま》くなったにしても、基本的な感性や性格はほとんど変化していないような気がする。
おとなになればおとなになっただけ、進歩もするし変化もするのがふつうなのかもしれないので、自分のことはあまり敷衍《ふえん》できないけれど、聞いたかぎりでは、川島も自分と同じように、少年の心をそのまま持ち続けた男のように、浅見には思えた。
さて、自分が川島の立場に立ったなら、長原敏子に対する初恋はどうなっていただろう――と、浅見は真剣に考えてみた。
ただし、浅見には初恋と呼べるようなものがあったのか、きわめて曖昧《あいまい》だ。浅見は中学時代に野沢光子《のざわみつこ》という少女と仲がよかった。光子も美少女で、クラスの男子生徒にとってアイドル的存在だったが、並みいる優等生を差し置いて、なぜか浅見だけに気を許しているようなところがあった。クラスメートから「光光コンビ」などとからかわれた、甘酸っぱい思い出がある。
野沢光子は高校は私立の名門女子学園に進んで、それ以後、浅見との交流は途絶えた。当然、お嬢さん学校を出て、エリート商社マンか何かと結婚して……というコースを想像していたのだが、十数年ぶりに再会してみたら、なんと、どういうわけか、浅見と同様の独身を続けていた。
浅見が光子とひょんなことから旧交を温めるようになったきっかけは、彼女の姉が巻き込まれた、高村光太郎《たかむらこうたろう》の彫刻をめぐる奇怪な事件である。(拙著「『首の女』殺人事件」参照)
浅見も光子も、たがいに独身同士であり、好意を持ちあう同士でありながら、しかし、二人が結婚するという状況は、金輪際《こんりんざい》、あり得ないような気がする。なぜか――と理由を訊《き》かれても困る。世の中にはそういう男と女の間柄も存在し得るということだ。
もし光子に何かを頼まれたとしたら――と浅見は想定してみた。
(やっぱり自分は彼女のために、何かをしてやることになるだろう――)
死を賭《と》して――といった大袈裟《おおげさ》なことでないかぎり、出来るだけの努力は惜しまないに違いない――と浅見は思う。現にその『首の女』の事件の時には、浅見は躊躇《ちゆうちよ》なくそうしているのである。
それ以外の女性にはどうだろう?
肉親をべつにすれば、赤の他人である女性のために、欲得抜きで努力するようなことは、実際にはほとんどあり得ないだろうな――と浅見はいまさらのように思った。
真面目《まじめ》人間の川島が、会社や家族にまで嘘《うそ》をついて尽くす「他人」がいるとすれば、それは「初恋のきみ」・長原敏子以外にはないに違いない。
もっとも、そう思うのは浅見の主観――というより、かなり独断の色が濃い。もともと「水上和憲が自殺などしない」というのも、「川島に鈴を渡したのは女性だ」とする『定理』も、とくに警察など、第三者には評判がいいとは言えないのだ。それに対して、浅見自身、説得力のある説明は出来ない。ほとんど浅見一流の「勘」としか言いようがなかった。
第一、川島が長原敏子という女性に再会したという点からして、いささか飛躍しすぎた仮説といえなくもない。
それに、もし川島が長原敏子の依頼で東京に行き、五十鈴《いすず》の受け渡しに関与したのだとすると、ああいう事件があって、川島が死亡したにも拘《かかわ》らず、長原敏子はなぜ警察に出頭しないのか――という疑問が生じることになる。
ただし、もしもその「女性」が事件そのものに深く関わっていたり、ひょっとして犯人か共犯者であったりすれば、事件後に顔を出さないというのは、むしろ当然のことだ。
とはいうものの、「女性」が川島を殺さなければならない必然性というのが、浅見にはどうしても思い浮かばない。
(思い違いか――)
さすがの浅見も、しだいに退嬰的《たいえいてき》な気分になっていった。
東京が近づくと、思考はそこから離れ、水上家のことへと移っていった。
現時点で浅見がもっとも関心があるのは、雨降らしの面の所在だ。今のところ、警察はもとより、水上家の関係者の誰ひとりとして、雨降らしの面について、注意を払おうとしていないようにみえる。
いや、秀美がかすかに疑惑を抱いているように、中には浅見より早く、雨降らしの面の持つ重大な意味について気付いている人物が、いるのかもしれない。
たとえば高崎老人はどうだろう――。
水上和鷹が舞台で倒れた時、高崎老人はいちはやく雨降らしの面を持ち去ったという。それは一見したところ、ごく自然な、当たり前のような措置であったのだろう。なにしろ雨降らしの面は室町時代の作といわれる、水上家にとってはかけがえのない品の一つに違いないのだから。
しかし、高崎老人がもし、雨降らしの面に浅見と同様の疑惑を抱いたものとすると、その臨機の措置も何やら意味ありげに思えてくる。
かりに高崎老人が「秘密」に気付いたとすると、それとほぼ前後して、水上和憲も気付いただろう。和憲が二人の医師に対して、和鷹の死因を伏せておいてくれるよう懇願したという、その理由も説明がつく。
いずれにしても、謎《なぞ》は雨降らしの面に隠されている――と浅見は思った。というより、事件全体の中で、浅見の推論を立証できる「物証」としては、今のところ、わずかに雨降らしの面だけしか無いに等しい。雨降らしの面を見ることによって、浅見の大胆な推論や定理が立証されるかもしれないし、逆に、それこそ砂上《さじよう》の楼閣《ろうかく》のごとくに崩れ去る可能性もある。
ところで、その問題の雨降らしの面は、今どうなっているのだろう。追善能《ついぜんのう》の事件のあと、水上家の倉庫に戻されたのだろうか。そのことに浅見は一抹の危惧《きぐ》を抱いている。
闇《やみ》はどんどん濃くなってゆく。水上家では今ごろ、葬儀を終えたあとの、しめやかでけだるい空気の中で、故人を偲《しの》ぶ宴が開かれているに違いない。
浅見の脳裏《のうり》には、喪服を纏《まと》って端座する、水上秀美の清楚《せいそ》な姿と白い貌《かお》が浮かんだ。
東京には夜半に着いた。おそるおそるチャイムを鳴らすと、お手伝いの須美子が眠そうな顔で玄関を開けてくれた。出がらしかどうかはともかく、お茶も入れてくれた。
「お風呂、沸かしておきましたよ」
無愛想に言った。
「えっ、ほんと? ありがとう。やっぱり須美ちゃんは優しいねえ」
「私じゃありません、大奥様がそうおっしゃったんです」
親切だなどと勘違いされては、沽券《こけん》に関わる――と言いたげだ。
「へえー、母さんが?」
浅見は一瞬、自分の耳を疑った。
「お帰り」
背後から声がして、浅見はドキッとした。息子の帰宅を聞きつけて、雪江《ゆきえ》が出てきたのだ。
「須美ちゃん、ここはもういいわよ、お休みなさい」
須美子を遠ざけてから、息子の前に坐って、言った。
「三宅さんから電話がありました」
「はあ……」
「光彦、あなた、水上さんの事件を追及するつもりなの?」
「はあ、そのつもりですが……」
「ですが、どうなの? はっきりしなさい」
「三宅さんはあまり賛成していませんでした。水上家を傷つけることになると、それに、お母さんにも迷惑が及ぶことを心配しているようです」
「三宅さんやわたくしのことはいいのです。それよりあなた自身の考えを訊《き》いているのです」
「僕はただ、ほんとうのことを知りたいだけです。その結果、水上家が傷つくかどうか、それは分かりませんが」
「傷つくでしょう、たぶん」
「しかし、誰かが犯罪を犯したことだけはたしかなのです。それを放置しておくわけにはいきません」
「つまり、正義を行おうというわけね」
浅見は母親の顔をまともに見た。皮肉かと思ったのだったが、そうではないらしい。真面目《まじめ》くさった目でこっちを見ている。
「真実を明らかにするのが正義であるというのなら、そういうことになります」
少し気張った言い方になった。
「いいでしょう」
雪江は小さく頷《うなず》いた。
「分かりました、存分になさい。ただし、注意しておきますけれど、陽一郎さんを頼ることはいけませんよ。事件の謎《なぞ》を解きたければ、あなた一人の力ですることです」
「もちろん、そのつもりです」
雪江は「お休み」と言って去った。何か横ヤリが入るのかと思っただけに、浅見は拍子抜けがした。三宅から電話があったというから、二人で何かを相談したに違いない。その上での了解となると、一種の重みのようなものが感じられる。
水上家は憂愁の気配に包まれていた。
門扉《もんぴ》は車で来る浅見のために開かれてはいたが、塀《へい》の内側はひっそりと静まり返って、いつもなら時折|洩《も》れてくる鼓《つづみ》の音や謡《うたい》の声も聞こえない。
門前を通る一般の通行人さえ、どことなく遠慮がちに見えた。
玄関に出迎えた秀美《ひでみ》の目は、浅見の顔を見たとたん、あらたな悲しみを思いついたように、涙を浮かべた。
「吉野ではお世話になりました」
母親の菜津美《なつみ》は丁寧《ていねい》に挨拶《あいさつ》をした。彼女の面窶《おもやつ》れは吉野で会った時よりもいっそう深まったように思えた。昨日が葬儀で、密葬とはいえ会葬者が多く、その接待などで夜が遅かったせいだろうか。
「その後、何かお分かりになりまして?」
「いえ」
浅見はかぶりを振った。
「まだ捜査は始まったばかりですから」
それからすぐに、本題を切り出した。
「じつは、今日は、雨降らしの面のことで伺いました」
「は?」
「あの、和鷹《かずたか》さんが『道成寺《どうじようじ》』の舞台でつけておられたという、雨降らしの面ですが、今、その面はどこにあるのでしょうか?」
菜津美は、浅見の質問の意図が分からず、戸惑《とまど》った視線を、チラッと秀美に向けてから答えた。
「雨降らしの面でしたら、蔵にしまってあると思いますけど……それが何か?」
「その面を一度、拝見させていただくわけにはいきませんか」
「はあ、それは構いませんけれど」
「だめですよ」
秀美が脇《わき》から、強い口調で言った。母親はびっくりして、秀美を見つめた。
「だめです」
秀美はもう一度、重ねて言った。
「なぜですか?」
浅見は訊《き》いた。菜津美も怪訝《けげん》そうに「どうしてなの?」と訊いた。
秀美は理由を言わずに、口をへの字に結んで、黙っている。
「そんなことを言わないで、秀美、浅見さんをご案内して差し上げなさい。斉藤《さいとう》を呼ぶといいわね」
それでも秀美は立ち上がらなかった。それには、浅見よりも菜津美が呆《あき》れた。
「どうしたの、秀美」
語調に怒りが込められた。客の前で醜態《しゆうたい》をさらけ出して――という気持ちが、菜津美の表情を険しくしている。
「はい……分かりました」
秀美はようやく頷《うなず》いた。思わず「だめ」と口走ってしまったものの、抵抗する理由のないことを認めないわけにいかなかったに違いない。
秀美はインターフォンを使って、門弟の斉藤に蔵を開けるように頼んでから、浅見を先導して蔵へ向かった。
「蔵」といってもせいぜい物置の丈夫なもの――程度の小さなものを浅見は想像していたのだが、廊下を二度曲がって辿《たど》りついた倉庫は、質屋の土蔵よりもはるかに大きかった。屋根が本屋《ほんや》の屋根と一体に繋《つな》がっているので、外部から窺《うかが》い知ることはできないのだが、構造的にはほとんど別の建物のようになっていると考えてよさそうだ。
本屋と蔵との接続部分は、明らかに防火帯と思われるコンクリート床の空間がある。壁も、すべて不燃性の材料を使った建築だ。その向こうに、一間四方の、コンクリートで塗り固めた重い扉があった。
「ずいぶん立派な蔵なんですねえ」
浅見は感心して言った。
「ええ、中に国宝クラスのものがいくつか入っているんです」
秀美はこともなげに言っている。さすがに室町時代から続いている家柄だけのことはある――と、浅見は国宝クラス云々《うんぬん》よりも、その血筋を生きる秀美自身に対して、ちょっと気圧《けお》されるものを感じた。
斉藤青年が鍵《かぎ》を持ってやって来た。ガラガラと重い扉を開けると、その内側に時代劇の牢屋を思わせる、太い白木を枡目《ますめ》に組んだ格子戸《こうしど》がある。それにも厳重に鍵がかかっていた。
「雨降らしの面を出してちょうだい」
秀美は言った。
斉藤は先に蔵に入って、右手奥にある階段を上がって行った。
一階の床はコンクリートの上に分厚い板を張ったものらしい。周囲には天井まで届く桐《きり》の戸棚《とだな》が設《しつら》えられてある。
「ここはほとんどが衣装棚です、面やお道具類は大抵《たいてい》、上にしまってあります」
秀美が説明した。
フロアの中央にあるテーブルを挟《はさ》んで、浅見と秀美は向かい合いに坐った。
斉藤が下りてくるまで、そんなに長い時間ではなかったけれど、密室のような中で面と向かい合っているのは、かなり気づまりなものであった。
斉藤が桐の箱を抱えて下りてきて、テーブルの上に載せた。
箱には十文字に紫の紐《ひも》が掛《か》かっている。その結び目の上を和紙でさらに結び、和紙には封印が捺《お》してある。
「雨降らしの面はお留め面ですから、この封印を切るためには、本来は宗家《そうけ》の許可がいるのです」
秀美は言いながら封印を切った。たったそれだけのことだが、彼女は今、水上宗家を継ぐ決意に一歩、近づいたな――と浅見は感じた。
斉藤がものものしい手付きで紫の紐を解き、蓋《ふた》を持ち上げた。
「あら?」
秀美は驚いた。
「中身がないわよ」
「あれ?……」
斉藤は子供っぽい声を発した。
「どうしたんだろう?」
「誰かが出したんじゃないの?」
「いえ、そういうことは聞いていません」
斉藤は首を振った。
「もし出すのなら、管理日誌に記入してあるはずです。それに封印が……」
「変ねえ……」
秀美が浅見を見た目には、こういう奇怪なことが起こることを、漠然《ばくぜん》と恐れていた――という気持ちがほの見えていた。
「最後に雨降らしの面を使ったのは、お父さんの追善能《ついぜんのう》の公演があった日、和鷹さんが『道成寺』を演じた時ですね」
浅見は訊《き》いた。
「ええ」
答えながら、秀美の顔から血の気が引いていった。
「その面を蔵に戻したのはどなたですか?」
「私です」
斉藤は青くなっている。
「いつ戻したのですか?」
「追善能が終わったあとです」
「それ以後、ここから面を出したことはないのですね?」
「ええ、ありません。少なくとも、私の知るかぎりではありません」
「あなたの知らない間に、誰かが面を持ち出した可能性はありますか?」
「はあ、それはあります。この鍵《かぎ》は私と友井《ともい》君の二人が預かって、管理室の金庫の中にしまってありますから、私がいない場合には友井君が取り出すことはできます」
「それじゃ、友井さんを呼んできていただけませんか」
斉藤は友井を呼びに、小走りに去った。斉藤は菜津美にも「異変」を知らせたのだろう。友井と一緒に、菜津美も駆けつけた。
「どういうことなの?」
菜津美は空っぽの箱を覗《のぞ》いて、二人の内弟子に、詰問《きつもん》するように言った。
「さあ……」
斉藤と友井は困惑して、顔を見合わせるだけだ。友井も斉藤と同様、心当たりはまったくないと言う。
「追善能のあと、この面を蔵にしまう際のことを、詳しく話してくれませんか」
浅見が二人に言った。
「あの時は、高崎先生がずっと箱を抱いて帰られて、蔵の中で私に渡されたのです」
「それをそのまま二階にしまったというわけですか」
「はい」
「中を確かめずに?」
「もちろんです。第一、この箱にはすでに封印がされていました」
斉藤は浅見に反発するように、唇《くちびる》を尖《とが》らせて、言った。
「では、その時から空っぽだった可能性はあるわけですね」
「…………」
「どうなの、斉藤さん」
秀美が声をひそめるように、しかし苛立《いらだ》ちを見せて言った。
「はあ、それは、そういう可能性はありますが……でも、まさか……封印がされていましたし」
「封印は当然、ご宗家ご自身がなさるのでしょうね?」
浅見が訊いた。
「はあ、そうです。あの時も、たしか楽屋で、宗家が封印をなさっているのを見たような気がします」
「ほんとうですか?」
「そうおっしゃられると、はっきりそうだと断言はできませんけど……なにしろ、あの時はみんなが右往左往していましたので。しかし、箱にはちゃんと封印されていたのだし、高崎先生も傍《そば》で見ておられたし、間違いないと思いますけど」
「高崎さんがいらっしゃったのですね?」
「はあ」
「高崎さんはどちらですか?」
浅見は秀美に言った。
「あの、それじゃ、浅見さんは、雨降らしの面を高崎さんがどうにかなさったと?」
菜津美が慌《あわ》てて口を挟《はさ》んだ。
「いえ、それは分かりませんが、一応、いま斉藤さんが言われた状況が間違ってないかどうか、お訊《き》きするだけでも……」
「でも、それはちょっと……ことがことですから、問題が大きくなってしまってはいけません」
それから菜津美は、二人の青年に「あなた方はもういいから」と立ち去らせた。
「浅見さんが雨降らしの面をご覧になりたいとおっしゃったのは、何か理由があってのことでしたのね?」
あらためて訊いた。
「はあ、もちろんそうです」
「何ですの、それは?」
「その前に、なぜ面が消えてしまったのか、それを確かめるのが先です」
「それはたぶん、高崎さんがお持ちになったのでしょう。それ以外には考えられませんもの」
菜津美は断定的に言った。
「あの二人が嘘《うそ》を言う理由がありません。それに、面を運び去るチャンスのある者は、ほかにおりません。あの騒ぎの際、舞台から能面を運び去ったのは高崎さんでした。高崎さんが箱を持って行って、宗家に封印をとお願いすれば、宗家が中身を確かめずに封印なさった可能性は充分、ありますもの」
「そうすると、追善能《ついぜんのう》の日、高崎さんは雨降らしの面をひそかに取り出して、箱だけを元に戻させたというわけですね」
浅見は彼にしては珍しく、粘っこい口調で復唱するように言った。
「ええ、そのとおりだと思います。それで、浅見さんは、高崎さんがそうなさった理由を、どうお考えですの?」
「和鷹さんの死因ですが」
浅見はそれこそ能面のような顔で言った。
「急性の心不全というのは疑わしいと思いました。いえ、もちろん医師の診断があったことは知っています。しかし、おそらくそれはこちらのお祖父《じい》さん――宗家のご依頼でそうしたのだと思います」
「まさか、あなた……」
菜津美は言葉が震えた。秀美は何も言わず目を閉じた。その二人の様子を見比べながら、浅見は言った。
「そのまさかです。僕は和鷹さんは毒殺されたと確信しています。じつは、『道成寺』の舞台で亡くなったと聞いた時、僕は漠然《ばくぜん》と、もしかすると――という気がしました。それが確信になったのは、天河《てんかわ》神社で観世元雅《かんぜもとまさ》が奉納した面の写真を見せてもらった時です。面の裏に書いた文字が掠《かす》れていて、それは唇《くちびる》や舌で嘗《な》めたためだということでした。もし雨降らしの面の裏側に、何かの毒物が塗ってあったなら……と思ったのです。そのことは、僕より早く、秀美さんがお気付きになっていたみたいですね」
「えっ?……」
菜津美は驚いて、浅見の視線に誘われるように、秀美を見つめた。
「ほんとうなの? 秀美」
「分からないわ。でも、お祖父様がなぜ、お兄様に雨降らしの面をつけるようにおっしゃったのかって考えると……」
「何を言ってるの? それじゃ秀美、あなたはお祖父様が……まさか、そんなことを考えているのじゃないでしょうね?」
「だって、雨降らしの面をお兄様にお許しになれるのは、お祖父様しかいらっしゃらなかったのよ」
「なんていうことを……どうして……」
菜津美は絶望的な声を上げて、怯《おび》えた目を浅見に向けた。
その時、斉藤青年が戻って来た。
「あの、高崎先生がお見えになりました」
緊張のあまり、ひきつったような表情をしている。
「高崎さんが? それじゃ、たぶん本葬の打ち合わせに見えたのでしょう」
菜津美はむしろ落ち着き払って言ってから、眉《まゆ》をひそめた。
「あなた、うろたえて、余計なことは話さなかったでしょうね?」
「はあ、私は何も……」
「そう、それならいいけれど。いますぐに行きます。昌枝《まさえ》さんに言って、お茶をお出ししておくようにね」
斉藤が立ち去ると、三人はたがいに顔を見合わせた。戸惑《とまど》いこそあれ、「噂《うわさ》をすれば影とやら」などと、軽いことの言えるような雰囲気《ふんいき》ではなかった。
「浅見さん、どうしましょう」
「率直に、雨降らしの面の行方《ゆくえ》をお訊《き》きになるのがいいと思いますが」
「そうでしょうかしら……でも、そのことを切り出した時の、高崎さんの反応が怖いですわね」
「べつに何もなさらないと思いますが」
「いいえ、そういうことではなく、あの方が何か秘密めいたものをご存じだったらどうしようかしらって、そのことを思うと……」
「もしよろしければ、話のほうは僕に任せていただけませんか」
「任せるっていっても……」
「ご心配なく。僕は警察ではありませんから、無茶なことは言ったりしません」
「そうですわねえ……では、お話のほうは成り行き次第ということとして、浅見さんをどういう方と言ってご紹介すればよろしいのかしら? まさか探偵さんなどとは申せませんでしょう?」
「はあ……そうですね。でしたら、秀美さんのボーイフレンドとでもおっしゃっていただきましょうか。ボーイと呼ぶには、ちょっとヒネすぎかもしれませんが」
「まあ……」
菜津美は思わず笑《え》みを浮かべた。この緊迫した状況の中で、よくもそんなジョークが出るものだ――と、なかば感心し、なかば呆《あき》れている顔だ。
応接室に行くまでに、三人の間では了解が成立していた。
高崎老人は母娘に悔《く》やみを述べ、菜津美は高崎に対して、昨日の密葬を取り仕切ってくれたご苦労をねぎらった。
それから浅見が紹介された。
「ほう、これはこれは、なかなか……」
「ボーイフレンド」を「恋人」と受け取ったらしく、高崎老人は意味不明のことを口走った。宗家令嬢の相手として、まずは合格点――といった顔であった。
「高崎さん、ちょうどいいところにいらしていただきました」
菜津美が言った。
「じつは、浅見さんが雨降らしの面をご覧になりたいっておっしゃるものですから、蔵から箱を取り出したのですけれど、驚いたことに中身が空っぽですのよ。ちゃんと封印もされておりましたし、斉藤たちの話ですと、あの日以来、誰も触れた形跡がありませんのに、いったいどういうことでしょうか?」
「ほう……」
老人は一瞬、絶句した。目が落ち着きなくキョトキョトと動いた。高崎は痩《や》せ型で、悲しそうな目をすると、天河神社で見た阿古父尉《あこぶじよう》の面とそっくりな顔になった。
「封印は追善能《ついぜんのう》のあと、宗家自らしているのですけど、宗家は中身まで確かめないまま、封印をなさった可能性がありますわね。それ以後は誰も面を持ち出した形跡がありませんから、あの日、誰かが面を持ち去ったとしか考えられませんわよね」
「いや、これまで一度だって、宗家が中身を見ずに封印をなさったことはありません」
「でも、あの時はふつうの状態ではありませんでしたもの」
「はあ、なるほど、それはまあ、そのとおりでしょうかなあ……」
状況的には、高崎はとぼけているとしか思えないのだが、あからさまにそれを言うわけにはいかない。
「ずいぶん由緒《ゆいしよ》のある面なのだそうですね」
浅見が言った。
「でしたら、警察に届けたほうがいいと思うのですが」
「いや、それはいけませんな」
即座に、高崎が反駁《はんばく》を加えた。間髪《かんはつ》を入れず――という早さであった。顔つきは情けなさそうだが、声はさすが、「ワキの名人」と謳《うた》われる人物だけあって、まさに音吐朗々《おんとろうろう》そのもので、浅見の耳を圧した。
「しかし、重要な宝物なのでしょう?」
浅見は遠慮がちに訊《き》いた。
「それはおっしゃるとおりだが、しかし警察|沙汰《ざた》にするのは好ましくありませんな。それでなくても、水上ご宗家は、このところいろいろとございますからな」
「はあ……」
浅見は怪訝《けげん》そうな顔を作って、それとなく菜津美の意向を確かめた。菜津美はかすかに頷《うなず》いて見せた。
「ではどうすればいいとお考えですか?」
浅見はいかにも素人《しろうと》っぽく、素朴な聞き方をした。
「私に心当たりがあります」
「と、おっしゃると、面のありかを知っておられるのですか?」
「ん? いや、知ってはおりません。知ってはおりませんが、心当たりがですな、若干あるということです」
浅見は迷った、高崎老人の言うとおりにさせていいものかどうか。高崎は現段階ではもっとも疑わしい人物といっていい存在だ。しかし、これ以上の追及を望むとなると、こちらの「探偵」という素性《すじよう》を明らかにしないわけにはいかない。
「それでは、高崎さんにお任せいたしましょう」
菜津美が浅見の迷いを吹き飛ばすように、言った。
「そうしていただきたい」
老人も頭を下げて、そう結論づけた。浅見のつけ入る隙《すき》はもはや無かった。
「さて、宗家のご本葬のことで、ご相談があるのですが」
高崎はかたちを正して、菜津美に言った。
「はい、承《うけたまわ》ります」
菜津美も改まってお辞儀を返した。
「それじゃ秀美、浅見さんをあちらにご案内して、お写真などお見せしてちょうだい」
浅見は胸の中で溜《た》め息《いき》をついた。警察のように捜査権があるわけでもない立場が、これほどもどかしく思えたことはなかった。もしかすると、高崎が和鷹殺害の犯人かもしれないし、吉野山で和憲を殺害した事件にも、この老人が何らかの関わりを持っているのかもしれないのだ。
うわべはどこか頼りなげに見えるけれど、その実、凶暴なものを内に秘めていないとはかぎらない。
浅見は無念と不安を抱きながら、秀美に従って奥の座敷に入った。
「高崎さんは、ほんとうに雨降らしの面の行方《ゆくえ》をご存じなのかしら?」
秀美は浅見の気持ちを推《お》し量《はか》ったように、気兼ねを感じさせる言い方をした。
「知っているでしょうね。いや、それどころか、ご自分で隠し持っている可能性が大きいと僕は思っていますよ」
「でも、高崎さんの顔を見ていると、嘘《うそ》をついているようには見えませんでしたけど」
「分かりませんよ、それは。あのくらいの年代になると、人間の表情は能面よりも難解です」
「まあ……」
秀美は非難する目で浅見を睨《にら》んだ。
「高崎さんは私の家といちばん近い親類ですのよ。母は血の繋《つな》がりはありませんけど、私にとっては大叔父《おおおじ》に当たります」
「あ、そうでしたね。失礼しました」
「あの大叔父は、幼い頃の私たちをとても可愛《かわい》がってくれたんです。兄のことも分け隔てなく可愛がって、それで、母なんかとは少し気まずいこともあったようですけど……」
「は?」
浅見は秀美の言葉に引っ掛かった。
「ちょっと待ってください。いま、妙なことを言いましたね」
「妙なことって?」
「お兄さんを分け隔てなくとか、お母さんと気まずくなったとか……それはどういう意味ですか?」
「あら、浅見さんはご存じなかったのですか? 兄のことを」
「ええ、知りません、お兄さんがどうしたのですか?」
「あの……兄は母の子ではないのです」
「えっ?……」
浅見は驚いた。
「お母さんの子でないっていうと?」
「父が、母と結婚する前にお付き合いしていた女性とのあいだに生まれた子なんです」
秀美はひと息で言った。
「そうだったんですか……」
浅見は驚きと同時に、これまでモヤモヤしていたものが、朝霧のようにサーッと晴れてゆくような予感がした。
「そのこと、詳しく話してくれませんか」
「はあ……」
秀美は躊躇《ためら》いながらも、ポツリポツリ、「水上家の醜聞《しゆうぶん》」について語った。
秀美が兄・和鷹の出生の秘密を知ったのは、父が死んだ直後、兄自身の口からその事実を聞かされた時である。
「うそ……」
秀美は呼吸をするのを忘れるほど、はげしいショックを受けた。
「黙っていようかと思っていたのだが、いつか分かってしまうことだからね。他人の口から、おかしな具合に伝わるより、僕が話したほうがいいと思って」
和鷹は優しい目を、かすかに曇らせながら、気の毒そうに言った。
「それに、母親が違ったって、僕たちは兄妹であることに変わりはないのだし」
ほかにもいろいろ、慰めの言葉を言ってくれたと思うのだが、秀美はそれをほとんど思い出せない。ただ取り乱し、とめどなく泣いた記憶ばかりがあった。
何よりも、兄が遠い存在になってしまったことが悲しくてならなかった。生まれてからずっと、頼りにして、甘えて、身も心もすべてさらけ出してきた唯一《ゆいいつ》の男性が、突然、目の前から消えてしまった。
しかし、興奮が通り過ぎて、時間が経過するにつれて、秀美は被害者が自分ではないことに気がついた。
ほんとうに辛《つら》く悲しいのは兄なのだ――と思わないわけにはいかなかった。
男だから泣くことはしないけれど、兄がその秘密を知った時、どれほどのショックを受けたことだろう――。
それなのに、兄はこれまで、ただの一度だってその素振《そぶ》りも見せなかった。少なくとも妹に怪しまれるような醜態を見せたことはなかった。じっと耐え、平静を装いつづけていたであろう、その精神力は、いくら男といえ、敬服に値する。
その秘密を知った時から、秀美は兄と自分とが、水上家の中で微妙に差別して扱われているように思えてならなくなった。父親が死んだことによって、その傾向はいっそうはっきりと形を成してゆくようにも思えた。
母親の和鷹に対する態度が、ふつうの「息子《むすこ》」へのものと少し異なって、どことなくよそよそしいのは、宗家の跡継ぎを意識してそうしているのかと、子供の頃からずっと、当然のように思っていたのだけれど、「なさぬ仲」ということを思い合わせれば、なるほどそうだったのか――と頷《うなず》ける。
和鷹に能の稽古《けいこ》をつける祖父・和憲の仕打ちもそうだった。いくら稽古とはいえ、必要以上に厳しすぎるように感じることが、しばしばあった。何も知らないうちなら「愛のムチ」として映ったことが、じつは単なる「イジメ」としか思えなくなった。
妹の自分がそう感じるくらいだから、当の和鷹の感じ方ははるかに強かっただろう。
水上家の中の和鷹は子供のころから、何事にも控え目で、妹の秀美に対しても遠慮がちだった。父親や祖父は、そういう和鷹を歯痒《はがゆ》そうに、「もっと男らしくしろ」と叱《しか》った。秀美ですら、幼ごころにそう思うこともあった。
ある日、中学校の帰り道に、秀美が街の不良グループ四人にからまれたことがある。その時、和鷹が飛び込んできて、秀美の前に立ち塞《ふさ》がると、「妹の代わりに僕を殴れ」と叫んだ。不良たちは結局、手を出さずに、悪態《あくたい》を残して立ち去った。
和鷹が口止めしたので、その日の出来事はついに家族の者には語られなかった。いわば武勇伝といってもいい「美談」ですら、黙して語らなかったのも、今にして思うと、和鷹の水上家に対する遠慮がそうさせたに違いない。
秀美は追善能《ついぜんのう》の日の朝、ハイヤーの中で兄が呟《つぶや》くように言った言葉を思い浮かべた。
――小さい頃からずっと、僕は違うんだ、みにくいアヒルの子なんだって意識していた。
――宗家は僕が嫌いなんだ。秀美への愛情のほうがはるかに大きい。
あの日、「雨降らしの面」の着用をゆるされ、水上流宗家への道を委譲《いじよう》されたといってもいい晴れの舞台に向かう車の中で、和鷹はなぜそういう述懐を言ったりしたのだろう。
そのことが秀美には不思議な気がする。
和鷹はその時、「みにくいアヒルの子」に許されるはずのない栄光の舞台が、蜃気楼《しんきろう》のように実体のないものに思えたのではないだろうか。いや、それどころでなく、もしかすると、本能的に死の予感を感じていたのかもしれない。
「なるほど、そうだったのですか……」
浅見は秀美の長い話が終わると、当の秀美よりもむしろ、疲れ果てたように溜《た》め息《いき》をついた。
「それであなたは、あの時、吉野で、お祖父《じい》さんがお兄さんを殺したとか、そういうことを言ったのですね」
「ああ、あの時は、私はふつうじゃないくらい、取り乱していましたから……でも、今お話ししたように、祖父が兄を差し置いて、私に宗家を継がせようとしたことは、ほんとうにあったことなのですから」
「いや、それはあなたの思い過ごしかもしれませんよ。現に、お祖父さんは和鷹さんに、言わば一子相伝《いつしそうでん》とも言える雨降らしの面をお授けになったじゃないですか」
「ですから、それは兄を殺して……」
秀美は焦《じ》れて、思わず叫んだ。
「しいっ!」
浅見は唇に指を立てた。
「声が大きすぎます」
窘《たしな》めておいて、言った。
「お祖父さんがお兄さんを殺害した――などとは不用意に言ってはいけません。第一、お兄さんを殺害しようとするのなら、なにも雨降らしの面である必要はないのでしょう。どんな面だって毒を塗れば、目的は達せられるじゃありませんか」
「それは違いますよ」
秀美は反論した。
「雨降らしの面はお留め面ですもの、事件の前もあとも、祖父の許しがなければ、誰も封印を開けることはできません。ほかの面でしたら、門弟たちや私たちだって、試みに顔に当てたり、手入れをしたりするチャンスがあります。面の内側に毒が塗ってあったりすれば、べつの被害者が出るかもしれませんし、死なないまでも、具合が悪くなったりすれば、怪しまれてしまうでしょう」
「なるほど……」
浅見は言い負けたかたちになった。たしかに秀美の言うとおり、「凶器」に雨降らしの面を選んだ理由は、雨降らしの面が宗家か、宗家の後継者だけが顔につけることを許される――という点にあったに違いない。
それでも浅見は気を取り直して言った。
「雨降らしの面が封印されていたことは分かりました。しかし、封印が解かれて、面が外にある時なら、お祖父さん以外の人が触れることだってできたのではありませんか?」
「それはそうですけど……でも、毒を塗るとか、そういう細工をするチャンスはありませんわ」
「それでは、あらためて訊《き》きますが、あの追善能《ついぜんのう》の日、雨降らしの面の封印を解いたのはどこですか?」
「もちろん能楽堂の楽屋です」
「その時、楽屋には誰と誰がいましたか?」
「封印を解いたのは祖父ですけど、ほかには高崎さんと、それに斉藤、友井など門弟たちがいました。もちろん私も兄もいました」
「そして、そのあと、面はどこに置いたのですか?」
「『道成寺』の鐘の中に仕込みました」
「あ、なるほど、そうでしたね。その作業は誰がやったのですか?」
「斉藤と友井です。ほかの二人の門弟が鐘を支えたりして手伝いました」
「秀美さんはそれをずっと見ていたのですか?」
「ええ、私ばかりでなく、さっき名前を挙げた人たちは、全員がその場にいました。面を鐘のどこに仕込むのかとか、そういう作業はいつでも見られるわけではありませんから、みんなが注目していました。もちろん、毒を塗るなんて、そんなことができる状態ではありません」
秀美の説明を聞きながら、浅見はその時の楽屋の風景を想像した。慌《あわ》ただしい中にも、厳粛《げんしゆく》な気配の漂う能楽の楽屋である。
「それから鐘はどうするのですか?」
「担《にな》い棒に縛りつけて、出番が来るまで、楽屋に置いてありました」
「そうすると、もうその時点からは、面に細工をするなんていうことはできないわけですよねえ」
浅見はまた溜《た》め息《いき》をついた。刀折れ矢尽きた――という感じがした。
「やっぱり祖父がやったことですね」
秀美は浅見が反撃してくれないことを悲しむように、俯《うつむ》いた。
「そんなことはありませんよ、きっと」
浅見は駄々《だだ》っ子がムキになったように、口を尖《とが》らせた。
「お祖父さんにとっては、和鷹さんもあなたと同じ、可愛《かわい》いお孫さんであることには変わりはないのでしょう? しかもたった一人の男の子ですよ。殺したりするはずがないじゃありませんか」
「それは……それはたしかに、理屈から言うとそうかもしれません。でも、事実は事実なんですもの」
「事実かどうか、まだ分かりませんよ。第一、雨降らしの面に毒が塗られているかどうかさえ、まだ確認したわけじゃないのですからね」
「そんな気休めをおっしゃらなくてもいいんです。真相が暴《あば》かれても、どうせ祖父は自殺して、誰の手も届かないところへ行ってしまったのですし、警察も捕《つか》まえることはできませんもの」
「それは、お祖父さんが犯人である場合はそのとおりですね」
「では浅見さんは、別に犯人がいるっておっしゃるのですか?」
「僕はそう思いますね。お祖父さんが可愛いお孫さんを殺害するという図式がですね、僕にはどうしても理解できない。いや、僕だけじゃなく、警察だってそういう疑いを持つと思いますよ」
「警察が?」
「ええ、ことに、警察は犯罪の動機について、非常に関心を抱くものですからね。和鷹さんが亡くなって、もっとも得をするのは誰か。あるいは、和鷹さんが生きていては具合の悪い人は誰か。和鷹さんをもっとも憎んでいた人は誰か――といったことを徹底的に調べるはずです。お祖父さんがそれらの条件のどれかに適合する人物だとは、僕には思えません」
秀美は目をいっぱいに開けて、浅見を見つめた。ことに、浅見が最後の条件を言った時には、震え上がった。
「兄を憎んでいた人ですって?……そんなこと、きまってます。兄の存在をいちばん憎みつづけてきたのは、母です」
これ以上はない露悪的《ろあくてき》な口調で、秀美はそう言った。
「お母さんが?……」
浅見は愕然《がくぜん》として表情を強張《こわば》らせた。
「ええ、そうです。浅見さんがおっしゃった、『兄を憎んでいる人物』といえば、誰よりも母だと思います」
浅見は返す言葉もなかった。
たしかに、秀美の言うとおりかもしれない。もっと前の時点で、和鷹の出生の秘密を知っていれば、浅見だってとっくにそのことに想到《そうとう》しただろう。
「そうだわ……いちばん可哀相《かわいそう》なのは、兄でもなければ私でもないんだわ」
秀美はうつろな目になって、何かに取りつかれたように喋《しやべ》った。
「私は、兄の出生の秘密を知った時から、ずっと、そういう星の下に生まれた兄や、その妹である自分が、この不幸な物語の被害者だと信じ込んでいたんですよね。そして、その被害者意識を胸に秘めて生きてゆくことを、まるで、悲劇のヒロインのように美化して、甘えていたんです。でも、それは違うんですよね。いま浅見さんに言われて気がつきました。本当の被害者は、私なんかより、はるかに、母だったんだわ」
秀美の目から涙が溢《あふ》れた。
浅見も彼女の言っていることを正しいと思うしかなかった。
菜津美が水上家に嫁《とつ》いで来た時には、すでに和春の子供がべつの女の腹に宿っていた。そのことを知った時の菜津美の驚きと嫉妬《しつと》と悲しみは、たとえようのないものであっただろう。
しかも、彼女の悲劇はその時だけで終わるものではなかったのだ。
憎むべき女の産んだ子を、わが子として育てると決まって以来、菜津美には一日たりとも心安らかな日はなかったに違いない。
「母がどんな気持ちだったかを思うと、私は浅見さんがおっしゃった、『兄をもっとも憎んでいた人物』という言葉の重みがいっそう実感を伴ってくるんです」
秀美の顔面から、サーッと血の色が消えてゆくのが分かった。
「兄を殺したのは、母なんですね」
秀美は涙を拭《ぬぐ》って、きっぱりと断言した。
「そんなことを口にしてはいけませんよ」
浅見は痛ましい目で窘《たしな》めた。
「まだ何も分かっていないのですから」
「いえ、気休めをおっしゃらないでいいんです。母が犯人だって仮定して、これまで起きた事件や出来事を眺めると、私にだっていろいろな謎《なぞ》が解けてくるように思えますもの。……そうだわ、さっき、蔵で、雨降らしの面が消えていたと知った時だって、母の驚きようは、いかにも芝居じみていたような気がしますものね」
「いや、ちょっと待ちなさい。そんなふうに勝手に決めつけるのはよくないですよ」
「いいんです」
秀美は正面に視点を定めて、はっきりした口調で言った。
「私は、兄を殺したのは祖父じゃないか――って思ったんですけど、その図式をそのまま、兄を殺したのは母だ――という図式に置き換えることは可能でしょう? だって、母なら雨降らしの面に毒を仕込むこともできたに違いありませんもの。母が雨降らしの面を見たいと言えば、祖父はすぐに希望を叶《かな》えたに違いないんですよね。なにしろ母は父よりも祖父に気に入られて、水上家に嫁《とつ》いできたくらいですもの。それなら、箱の蓋《ふた》に封印がしてあっても不思議はないですよね。そのつど封印を解き、封印をしたとしても、第三者にはその封印がいつ解かれ、いつ封印されたのかは分からないでしょう」
浅見は秀美が喋《しやべ》るに任せているしかなかった。
たしかに秀美の言うとおり、追善能《ついぜんのう》の前に、菜津美が和憲に頼んで雨降らしの面を出してもらい、毒を塗っておく――ということは、少なくとも物理的には可能なことだ。
そして、雨降らしの面の封印が、忠実に守られていたとするなら、和憲が毒を塗ったのでない以上、菜津美以外には犯行のチャンスはないと考えるしかない。
菜津美には、和憲に対する単純な憎しみばかりでなく、和鷹が宗家を継げば、菜津美自身と娘の秀美の、水上家における身分保証が損なわれる――といった不安があったかもしれない。
宗家・和憲が引退して和鷹が水上家を継ぎ、やがて和憲が死亡したあかつきには、本格的な和鷹の復讐《ふくしゆう》が始まるという怯《おび》えがあったとすれば、それは充分、和鷹殺害の動機になり得るだろう。
「あの時」
と、秀美は頬《ほお》の肉を痙攣《けいれん》させながら、言葉を続けた。
「楽屋にお医者さんが二人いらっしゃったのですけど、そのお二人を、祖父が急いで別の部屋へお連れするのを見たんです。その時はそれほど不自然に思わなかったのですけど、今にして思うと、あれは何か、ことを穏便《おんびん》にすましてもらうよう、頼み込んだのじゃないかっていう気がするんです」
浅見はギクリとした。それは、まさに三宅が言ったことを裏付けるのだ。
「兄が舞台で死んだ時、祖父には何が起きたのか、すぐに分かったに違いありませんよね。それどころか、誰が犯人なのかだって分かったのかもしれない。いいえ、祖父ばかりじゃなく、高崎の大叔父《おおおじ》だって、兄の出生の秘密や母の苦悩と憎しみを知っているんですもの、きっと、もしや――という疑惑が浮かんだはずです」
秀美の心にいったん生まれた疑惑は、どこまでも際限なく広がってゆく様子だった。浅見は彼女の頭のよさに感嘆しながら、秀美に引きずられるようにして、自分の推理を進めていった。
秀美が言うように、和鷹の死の原因が菜津美によるものではないか――と疑った時、和憲や高崎老人はどう対処するだろう。
高崎老人と和憲の連携プレーで、雨降らしの面が処分された――と考えれば、雨降らしの面の消えた理由も納得できるし、面がどこへ行ったのかも推測できる。
浅見がそう思った時、
「もしかすると、雨降らしの面は、祖父が吉野へ運んだのじゃないかしら?……」
秀美は鋭い視線を空間の一点に据えて、予言者のように言った。
浅見はまたしても驚かされた。
(なんて頭のいい女性だろう――)
「ねえ、浅見さん、そう思いませんか?」
秀美は視線を浅見に向けた。
浅見は返答のしようがなくて、彼女の視線を避けた。
「そうですよ、きっと。祖父は母の代わりに罪を負って死ぬことにしたんです」
秀美はまったく浅見と同じテンポで思考を進めているのだ。
「祖父に聞いたことがあるんですけど、母を息子の嫁に――と思いついたのは祖父だったそうです。祖父は『おまえの親父《おやじ》なんかより、わしのほうが菜津美に惚《ほ》れ込んで、たってと望んで嫁に迎えたんだ』って、そう言っていました。もちろん、兄のことは祖父には何の責任もありませんよね。その時点では父に『隠し子』がいるなんて、誰も知らなかったことなんですもの」
秀美は『隠し子』と言う時に、わずかに顔をしかめた以外、能面のような表情を変えなかった。
「でも、いくら知らなかったことといっても、結果的に、可愛《かわい》い嫁に、思いもよらぬ屈辱と苦悩を押しつけた事実は事実ですよね。祖父にはその罪の意識があったのじゃないかしら。もしかすると、いつの日にか、今度のような悲劇の起こることを予測していたのかもしれません」
浅見は秀美の話を聞きながら、三宅や雪江が言っていた「水上菜津美評」を思い浮かべていた。彼女に対する世間の評判は概して――というより、きわめて良好なのだそうだ。
菜津美は笑顔を絶やさない女だという。いついかなる場合にも、水上宗家の嫁として、御曹司《おんぞうし》の妻として、にこやかに、優雅《ゆうが》に振る舞った。もともと能楽には縁のない家の出だから、もちろん仕舞《しまい》の心得などあるわけもないのに、日常の挙措動作《きよそどうさ》には、まるで能の素養があるかのような、優美な身のこなしが備わっていた。
和憲にとって、菜津美はまさに見込んだとおりのみごとな嫁であったのだ。
その嫁のにこやかな笑顔の裏側に、じつはおぞましいほどの憎悪《ぞうお》と怨念《おんねん》がひそんでいたとしても、和憲はそれを許すほかはなかっただろう。
考えてみると、生まれ落ちた時から、能の世界を通じて、女の魔性や二面性をいやというほど学んできた和憲にしてみれば、たとえ菜津美がその魔性の女であったとしても、それほど奇異な感じはしなかったのかもしれない。
「祖父は……」
秀美は浅見の空想をなぞるように、最後の結論を言った。
「祖父は、母の復讐《ふくしゆう》を知っても、それを罰するどころか、母が罪を免れるように、自分のできるかぎりのことを尽くして、そして吉野山に死んだのです。それがきっと、祖父の母に対する……それから、兄に対する……もっと言えば、兄を産んだ実の母親に対する償《つぐな》いだったような気がします」
それから長い沈黙が流れた。遠い稽古場《けいこば》で鼓《つづみ》を打つ音が聞こえる。謡《うたい》の声は聞こえないが、おそらく斉藤や友井など、門弟たちが稽古に励んでいるのだろう。
秀美も浅見も、どこか物憂《ものう》いその音に耳を傾けながら、今語られたばかりの事件ストーリーを反芻《はんすう》した。
「浅見さん」
秀美は沈黙に耐えられなくなったように、言った。
「どうですか、私の言ったことに間違いないでしょう?」
「さあ……」
浅見は首を振った。
「正直なところ、僕にはよく分かりません」
「そんな……慰めは言っていただかなくていいんです」
秀美はむしろ怒ったような口振りだった。
「いや、そうでなく、ほんとうに僕にはよく分からないのですよ。何か違うような気がするんです」
「違うって、どこが違うんですか? 母が犯人じゃないっていう意味ですか?」
「そうですね、結論的に言えば、そういうことです」
「どうしてですか? どうしてそう思うんですか?」
「勘ですかねえ……」
浅見は自信なさそうに、下を向いた。
「勘?」
「ええ、勘としか説明できないんですよね」
「そんなの……」
ずるいわ――と言いそうになって、秀美は絶句した。
「よく、ベテラン刑事なんかが、第六感とか言うでしょう。あれみたいなもので、僕はときどき、得体《えたい》の知れないものを感じることがあるんですよね。論理的には説明できない……たとえば、車を運転していて、横町からヒョイと子供が飛び出しそうな予感がするみたいな……そういうことってあるでしょう。しいて言えば、そういうことかなあ」
「…………」
「ああ、あなたは呆《あき》れ返っていますね。いえ、いいんです。べつに文句を言うつもりはありませんよ。僕だって、さっきの秀美さんの話はほとんど間違っていないって認めているんですから。しかし、どこかが違う、何かが違うような気がするんですよね。あなたの推理は、状況的にはそのとおりだと思うし、お母さんの置かれている立場や、雨降らしの面の封印の謎《なぞ》、面が消えた謎、お祖父《じい》さんや高崎さんの奇怪な動き――と、どれを取っても、すべてがあなたの論理を裏付けると解釈できることばかりです」
「でしょう? でしたら……」
「いや、それはそのとおりなのですが、しかし、いま挙げたようなことは、決定的な証明にはならないことも事実です。つまり、そういう状況的な論拠をいくら積み上げてみても、『お母さんは犯人なんかじゃない』って断言することだって、完全に可能だということです」
ついさっきまでの、秀美の弁舌に圧倒されていた浅見からは想像もできないような、自信に満ちた口調で、言った。
秀美は気をのまれたように、口を小さく開けて、じっと浅見の顔を見つめた。暗闇《くらやみ》の中に明かりを見たように、緊張しきっていた皮膚がみるみるうちに緩んで、大きな目から涙が溢《あふ》れ出た。
「ありがとうございます」
秀美は頭を下げた。
「嘘《うそ》でも、そうおっしゃってくださると、希望が湧《わ》いてきます」
「いや、嘘じゃない、嘘じゃありませんよ」
浅見は困惑しながら、慌ててハンカチを出した。
第十一章 悲劇の演出者
高崎義則《たかざきよしのり》が出てくるのを、浅見はソアラのシートに身を沈めるようにして、じっと待ちつづけた。
駅へ向かって、門からは百メートルとは離れていないところだが、道がややカーブしているので、かりに門内から水上家の人が出てきたとしても、ここに浅見がいることに気付くおそれはなかった。
ずいぶん長く感じたが、実際には二十数分で老人が門から現れた。
水上和憲《みずかみかずのり》より一つ年下だそうだから、七十歳代に入ったばかりか。和憲のほうがいくぶん肥満体であっただけに、むしろ高崎老人のほうが老《ふ》けて見える。鶴のように姿勢の真っ直ぐな老人だ。歩く姿はゆったりとして、寸分の隙《すき》もない武芸の達人を髣髴《ほうふつ》させた。
この付近は表通りまで出なければタクシーは掴《つか》まらない。それに、もともと老人は車を利用する気がないのか、急ぐ気配のない足取りで、駅へつづく道をやって来る。
老人がほんの目の前に来た時、浅見は車を出て声をかけた。
「先程《さきほど》はどうも失礼しました」
「おう、これはこれは」
高崎はびっくりした顔だが、べつに浅見の待ち伏せに困惑した様子はなかった。
「もしよろしければ、お乗りになりませんか?」
「さようですな……」
老人はしばらく考えて、「では、お言葉に甘えましょうか」と、存外、あっさりと頷《うなず》いて、浅見が開けたドアの中に入った。
「いい車にお乗りですなあ」
しきりに中を見回して、世辞を言った。
「お住まいは田園調布《でんえんちようふ》でしたね」
浅見は車を発進させながら言った。
「ほう、よくご存じですな」
「はあ、秀美さんにお聞きしました」
「なるほど……そうそう、秀美とはどういう?」
「友人です、ただの」
「ただの、ですか。それは残念ですなあ。あなたのような立派な方があの子の婿さんになってくださると、水上家も万々歳で、ありがたいのですがなあ」
「立派だなんて、とんでもありません。いまだに兄の家の居候《いそうろう》で、嫁さんの来手もないのです」
「そうですか……いや、それはいい。人間、独りが何よりです。わしなど、かれこれ五十年近く、そう思い続けております」
「五十年近く……ですか?」
「さよう。つまり、女房をもらったとたん、そのことに気付いたわけですな。けだし、女というものは恐ろしい。戸隠《とがくし》山の鬼も道成寺の蛇《へび》もすべて女性の化身《けしん》ですからな。それに気付いたもんで、わしはすぐに独りになることに決めました」
真顔で言っているので、冗談なのか本気なのか分からない。むしろ、口ぶりには実感が込められていた。
「和鷹《かずたか》さんは菜津美《なつみ》夫人のお子さんじゃないのだそうですね」
浅見はさり気なく言った。
「ん? ああ、ご存じでしたか。そのとおりです。もっとも、和春《かずはる》さんも菜津美さんと結婚したあとになってはじめて、相手のご婦人が妊娠していることを知ったようなわけですがな」
「その相手の女性は、その後、どうなったのでしょうか?」
「一切、関係を絶つということで、それなりのことはしました」
「いまも健在なのですか?」
「さあ……」
高崎は、その一線はどこまでもとぼけ通すつもりのようだ。浅見はそれを突き崩《くず》すように、言った。
「その人の名前ですが、長原《ながはら》さんでしたか、長原|敏子《としこ》さん」
「えっ……」
高崎はギョッとして、背凭《せもた》れから身を起こした。浅見は正面を向いたまま、高崎の驚愕《きようがく》ぶりに満足の笑《え》みを浮かべた。
「やっぱりそうでしたか。それでいろいろなことが分かってきました」
「浅見さん、あなた、どうしてそのことをご存じなのかな?」
高崎の質問には答えず、浅見はさらに言った。
「天河《てんかわ》神社の五十鈴《いすず》は、長原敏子さんに渡されていたのですね?」
「…………」
「鈴を渡したのは何のためだったのか、僕なりに考えてみました。常識的に考えれば、和春さんの結婚に際して、長原さんとの問題に決着をつけるための道具として用いられた――ということになりそうですが、しかし、鈴は現実にはその後、九歳頃の秀美さんが玩具代わりにしていたという事実があります。だとすると、次なるチャンスは、和春さんが急死した時しかありません。つまり六年前です」
高崎はふたたび背凭れに深く沈み込み、浅見の言葉に対する反応をできるだけ抑える姿勢を作った。
「僕の勝手な推測なのですが、鈴を渡した理由は、長原さんの動きを封じ込めるためだったのではありませんか?」
「…………」
「和春さんが急死された時、おそらく、長原さんは死因に疑いを持ったと思います。もしかすると、和春さんの死は、和鷹さんの身分を失墜《しつつい》させるための謀略ではないか――ぐらいには思ったかもしれません。そう思い始めると、いわゆる疑心暗鬼というやつです。このまま見過ごせば、次に消されるのはわが子・和鷹だ――そう思うと、じっとしてはいられなくなるのも当然です。そして、わが子を守るために、水上家の平穏を覆《くつがえ》しかねない強硬な言動を見せた。それを鎮めるための証《あかし》として、宗家はあの五十鈴を渡されたのだと思いましたが……どうでしょうか、違ってますか?」
高崎老人は目を瞑《つむ》って動かない。そのまま、サザエのように口を閉ざし通してしまうつもりなのだろうか。
「その鈴を、豊田《とよた》市の川島《かわしま》さんという人が東京に持参して、新宿のホテルで何者かと会い、その直後、毒殺された……これまた不可解な事件です。僕の推論が間違っていなければ、その鈴は長原敏子さんから託されたもので、つまり、川島さんが長原さんのいわば代理人であることの証明だったと考えられます。上京の目的は、もちろん水上家の方と接触して、何かの話し合いをすることだったはずです。その川島さんが毒殺されたとなると、犯人は水上家ゆかりの人物である疑いが強いわけで、警察も当然、そのスジで捜査を進めていると思われます。現在、警察がキャッチしている事実は、新宿のホテルで川島さんと会っていた人物が男性の老人である――ということですが、いずれ水上家に対して捜査の手が伸びてくることは目に見えています」
「警察は……」
ふいに高崎老人が口を開いた。浅見がチラッと視線を走らせると、老人は目をいっぱいに見開き、例の阿古父尉《あこぶじよう》を思わせる顔に苦痛の色を浮かべていた。
「警察は長原敏子の存在には気がつきますまいな」
「いえ」
浅見は冷たく否定した。
「警察はそんなに甘くはありませんよ。今はまだ気付いていないとしても、いずれは探し出します」
「なるほど、そうですか……」
高崎はまた黙りこくった。
田園調布の街が近づいていた。浅見は車の速度を落としながら、訊いた。
「長原敏子さんは、今どこにいるのですか?」
「ほう……」
高崎は意外そうな目を浅見に向けた。
「それはご存じなかったのですか」
「ええ、知りません。中京地区周辺ではないかと考えているのですが、違いますか?」
「さあ、どうでしょうかなあ」
とぼけた口調で言って、「あ、そこで下ろしてください」と街角を指差した。浅見は車を左に寄せて停《と》め、サイドブレーキを引くと同時に、最後の質問をぶつけた。
「川島さんを殺したのは、高崎さん、あなたなのですか?」
「ん?……」
ドアロックのはずし方が分からず、戸惑《とまど》いながら、高崎は浅見を振り返った。浅見の目と高崎の目がものの五十センチの距離で睨《にら》みあった。
「あははは、これはゴツいことを言われる。さあてねえ、わしかもしれませんぞ。それより、このドアの開《あ》け方が分からないのですがね。何とかしてくれませんかな」
「あ、失礼」
浅見は急いでロックをはずし、ドアを開けた。
「いや、どうもお世話になりましたな。それではお気をつけて」
高崎老人は訣別《けつべつ》とも受け取れるようなことを言って、去って行った。車を停めた場所が高崎家の前というわけではなかったらしい。ゆるやかな坂道を悠々たる足取りで行く、老人の痩《や》せた後ろ姿には、何の屈託もないようにさえ思えた。
それから数日は、少なくとも表面上は穏やかな時が流れた。
水上流宗家《すいじようりゆうそうけ》・水上和憲《みずかみかずのり》の本葬は青山《あおやま》葬儀所で盛大に執《と》り行われた。能楽界《のうがくかい》はもとより、政財界や各国大使館、宗教界、教育界、文化団体など、広範な人々が参会した。
マスコミ各社の取材陣が、カメラの放列を並べる中を、次々に到着する有名人たちが通って行った。
浅見は会場で瀬田《せた》部長刑事に出会った。
「このあいだのお通夜と密葬には、浅見さんは見えませんでしたな」
瀬田は挨拶《あいさつ》代わりのように、言った。
「ということは、瀬田さんは両方とも顔を出したのですね」
「え? ああ、そういうことです。どういう顔触れが現れるものか、いちど見ておきたかったもんでしてね」
「それで、収穫はありましたか?」
「いや、何もありませんよ。まあ気休めみたいなものですからね。最初からあまり期待はしていないものです」
「じゃあ、今日も気休めですか」
「まあそうです。というより、気晴らしといったほうがいいかな……ここだけの話ですがね」
瀬田は周囲を見回して、「へへへ」と首を竦《すく》めた。
瀬田はそう言うが、気晴らしになるほどのいい陽気とは言えなかった。この時期としては異常に冷え込み、朝から重そうな雲がビッシリと垂れ込めていたが、文部大臣の代読が告別の辞を読み始める頃には、白いものがフワフワと舞い落ちてきた。
「吉野の捜査も目新しいものは何も出てこなかったようで、結局、水上和憲氏は自殺ということに落ち着きそうですなあ」
「新宿のオフィス街の事件はどうなったのですか?」
「うーん、あれもねえ、川島さんがホテルで会っていた男というのがです、年齢は川島さんよりは上らしいということが分かった程度で、人相着衣とも、今ひとつはっきりしないのですよ。まあ、むりやりこじつけて、水上和憲氏かなと仮定しても、証拠も説得力もありませんしねえ。何より、当のご本人が死んじまったのだから、確認のしようがないわけでして」
「となると、捜査は完全に行き詰まったというわけですか」
「ここだけの話ですがね」
瀬田はまた寒そうに首を竦めた。
浅見は複雑な気持ちだった。瀬田の言うとおりだとすると、警察は早くも終結宣言を出しそうな気配だ。メンツの上から、公式的にはそうしないまでも、早晩、捜査陣を縮小して、なしくずしに終結してゆくことは間違いない。
もしここで、浅見の持っているいくつかのデータを警察に教えてやれば、捜査が新たな方向に向けて展開するであろうことは目に見えている。五十鈴《いすず》の謎《なぞ》だって、長原敏子という女性のことだって、警察はまだ何も気付いていないのだ。そして、もっとも重大な秘密である、水上和鷹の変死事件についても、警察は何も知らない。
「水上和憲さんが亡くなった時のアリバイについてですが」
浅見は気乗りのしない口調で言った。
「水上家の関係者のアリバイはお調べになったのですか?」
「もちろん調べましたよ」
瀬田は言下に答えた。
「吉野署からの依頼もありましてね、少なくとも水上家と利害関係のある人物については、すべて事情聴取を行い、ウラも取りました。結果は全員シロでした」
「和憲氏が殺されたものだとすると、新宿の事件と手口が似ているわけですが、その件についてはどう解釈されたのですか?」
「それはねえ、カプセルに入った毒物を飲んだというのは共通しているには違いないが、それだけでまったく同一犯人による犯行であるとは断定しがたいわけですよ。まあ、そういう手口というのは珍しくもありませんからなあ。それに……」
瀬田は声をひそめた。
「水上氏が新宿の事件の犯人であるならば、じつにすっきりと説明がつくわけで、われわれとしても大いに助かるのだが」
浅見は(不謹慎な――)という意志を込めて眉《まゆ》をひそめ、瀬田を見た。
「いや、これはここだけの話です。お兄上には内緒ですぞ」
瀬田は少し喋《しやべ》りすぎたのを後悔したらしく、急に用事を思い出したような仕種《しぐさ》を見せて、浅見の傍《そば》を足早に離れて行った。
葬儀は滞《とどこお》りなく進行しつつあった。それにしても、じつに多くの人々が浅見の前を通過して行った。人混みの中には浅見の母親も三宅の顔もあった。能楽《のうがく》の世界などというのは、ごく一部の愛好者だけのものかと思っていたのだが、水上和憲ほどの人物となると別格らしい。
考えてみると、能楽は歌舞伎《かぶき》なんかよりはるかに昔から、日本の芸能の中に確固たる地位を占めていたのだ。潜在的なファンは想像以上に多いのかもしれない。
浅見は天河神社の薪能《たきぎのう》で、若い人たちの比率が高いのには驚かされた。ロックで大騒ぎするほうが似合いそうな若者が、動きの乏しい能の舞台に魅了され尽くしたように、じっと見入っていた。
三宅の説によると、現実に、能の観客に若い層が増えているのだそうだ。若い連中が発売を待っていたように、切符を買いに走るというのは、かつては見られなかった。かといって、能そのものが変化したわけでも、歌舞伎の玉三郎のようなスターが出現したわけでもない。能の本質は六世紀のあいだ、ほとんど変わっていない。
「能は観客におもねらないからね」
三宅はそう言う。
「テレビドラマに象徴されるように、現代の演劇はあまりにも観客にオベッカを使いすぎるのだな。つまりそれは、観客を見下げた精神の現れでもあるわけだよ。この程度までレベルダウンをしなければ、理解されないだろう――などという思い上がりが、いつか自らを貶《おとし》めていることになる。感性の豊かな若者が、そういう欺瞞《ぎまん》にいつまでも気付かないはずがない。演劇ばかりでない。あらゆる文化や文明が、若者におもねる方向ばかりを模索しているうちに、賢明な若者は本質の純粋性が確かな能に魅了されてゆく」
浅見もなるほど――と思った。能はおもねるどころか、理解を拒絶しているのではないかとさえ思えるほど、表現を抑制した演劇である。本来なら豊かでなければならないはずの表情にしてから、「能面のごとく」と言われるように、まさに無表情そのものの面をつけて、内なる心の動きを秘めてしまう。動作にいたっては、場合によっては何十分間もじっと動かず、動かないことが芸の極致であるとさえされるのである。
その不可解な能が、今はブームだという。なぜいま能が――という理由はともかくとして、目の前を通過する参列者の数を見ていると、それが実感できる。
「光彦《みつひこ》君」
背後からの呼び声に振り向くと、三宅が立っていた。桜の木の陰に隠れるようにして、おいでおいでをした。
「今話していたのは刑事だね?」
三宅は瀬田の去った方角を指差して、言った。
「ええ、そうです。新宿署の瀬田という部長刑事です」
「新宿署? というと、宗家の事件を調べているわけではないのかな?」
「はあ、吉野の事件は吉野署の扱いです。しかし、捜査協力という形で、彼なりに何かを調べていることはあるでしょう。それに、新宿の事件についても、あの鈴の出所が水上家である以上、二つの事件を関連づけて考えているに違いありません」
「なるほど……それで、どの程度まで事件を解明できたのかな?」
「思ったほどの進展はないようです。というより、警察の感触としては、和憲さんが犯人である可能性が強いと思っているのかもしれません。そのあげく自殺した……それで捜査が行き詰まっているという考え方です」
「あれはどうなのかな、和鷹さんの事件については」
「まったく関知していませんね」
「そうか、それは何よりだ」
「そうでしょうか?」
「ん? いや、そりゃ道義的なことを言えば、感心した話ではないけどさ。しかし、それも和憲氏のしたことだし、自ら死によって贖罪《しよくざい》をしたと思えば、われわれはもって瞑《めい》すべしとしなきゃならないだろう」
「三宅さんは、まるで和憲さんが犯人だと特定しているようなことを言いますね」
「そうだよ。えっ? じゃあ違うの?」
「僕には和憲さんが可愛《かわい》い孫を殺すとは考えられませんが」
「しかし、きみだってそう言ったじゃないか。雨降らしの面に毒を塗ったと……」
「毒は塗ったと思いますが、和憲さんが塗ったかどうかまでは特定できません」
「そんなことを言って……あの面は和憲氏が封印し、和憲氏が封印を解いているのだろう? それとも、ほかの人間にも毒を仕込むチャンスがあったとでも言うのかい?」
「いえ、それはありません。一般的には、面をつけるのは、楽屋から橋懸《はしがかり》に向かうあいだにある『鏡の間』だと聞いていたので、ひょっとすると、鏡の間に面があるあいだに、そういう細工《さいく》ができるのではないかと思ったのですが、実際には無理だということが分かりました」
「ああ、そりゃそうだねえ、あれは『道成寺』の鐘の中に仕込んでおくのだから」
「そうなんですよね。しかし、それでも僕は、何かカラクリがあるような気がしてならないのです」
浅見は強弁しながら、溜《た》め息《いき》をついた。
「とにかく、僕にはどうしても、宗家がお孫さんを殺害したという図式を認める気にはなれないのです」
「そりゃ、きみの感傷というものだろう。いや、正直を言えば、私だってそんなおぞましいことは考えたくないさ。しかしだね、きみの場合は別問題だ。名探偵たる者、そんな女々《めめ》しい感傷に流されてどうする」
「名探偵だなんて……僕は軟弱なノンポリの落ちこぼれ人間でしかありませんよ」
「ははは、ずいぶんダメ人間の要素を並べたな。そこまで自己分析ができていれば、何も言うことはない」
三宅は笑った。
「しかし、冗談でなく、ひょっとするとまさにそのとおり、きみの取《と》り柄《え》は、まともな人間なら考えないような、突飛なことを思いつくという、その異常性だけしかないのかもしれないな」
「その言い方はちょっとひどすぎます」
「ははは、いや、いい意味に解釈してもらいたいのだよ。たしかにきみは異常感覚の持ち主だ。そのきみがあえてカラクリがあると言い、和憲氏が犯人ではないと言うのだから、もしかするとそのとおりかもしれないな。私もなんだかそんな気になってきたから不思議だね。まあせいぜい、そのカラクリなるものの発見に勤《いそ》しんでみることだね」
三宅は突き放すような言い方をした。腹が立つほどのそっけなさだが、そういうのが三宅流の期待感の表現なのである。
「ところで、きみのほうはどうなっているんだね?」
「は? それは、ですから、今言ったような状態です」
「何を言ってるんだ。そうじゃなくて、私の紹介した史蹟《しせき》めぐりのほうだよ」
「ああ、あれですか」
「あれですかはないだろう。頼むよ、出版社に対してもきみに対しても、私が無理矢理押しつけたようなものだけに、結果が悪いと困るからね」
「大丈夫です。三宅さんほどにはうまくありませんが、それなりに纏《まと》まっていると思いますから。あと五日ばかりで一応、原稿を渡せる状態です」
「そうか、それなら安心。じゃあ、まもなく事件のほうにも専心できるというわけだ。どっちも頑張《がんば》ってくれたまえ」
言うだけ言うと、三宅はすっかり気楽そうな顔になって、行ってしまった。
浅見はぼんやりと三宅の後ろ姿を眺《なが》めながら、必ずカラクリの正体を見極めてやるぞ――と思った。
青山葬儀所で本葬のあった日から三日後に発売された週刊誌に、水上秀美の記事が大きく掲載された。
――能楽《のうがく》名流の総帥《そうすい》になった美女――
こういう見出しで、葬儀所で各界有名人を迎える際の秀美の白い貌《かお》が、かなりのアップで写っていた。
傍《かたわ》らに母親の菜津美と高崎老人を従え、まるで何かに反発するように、顔をキッと上げたポーズの彼女には、たしかに水上宗家の後継者たらんとする、強い意欲のようなものが感じられた。
「ほんとうに、こうして見ると、きれいなお嬢さんねえ」
雪江がつくづく感心したように言った。
「このお嬢さんを光彦にだなんて、三宅さんも酔狂《すいきよう》なことをおっしゃるわねえ」
「は?」
浅見は自分の名前が出たので、思わずスープの中に顔を突っ込みそうになった。
「それは、どういう意味ですか?」
「あら、三宅さんお話しにならなかった? あの方、あなたに秀美さんはどうかなんて、そんなことおっしゃってらしたのよ」
「はあ、悪い話ではありませんね」
「ばかおっしゃい。あなたと秀美さんとでは、文字どおり提灯《ちようちん》に釣《つ》り鐘《がね》ですよ……あら、そうそう、あの時もそう言って、それで三宅さんが『道成寺《どうじようじ》』を思い出して……」
謹厳であるはずの雪江が、珍しく思い出し笑いをした。
「『道成寺』がどうかしたのですか?」
浅見は気味悪そうに訊《き》いた。母親もついにもうろくしてくれたか――という期待も、多少はあった。
「いえね、三宅さんがこのお話をなさった時も、『提灯に釣り鐘』って、そう申し上げたのよ。そしたら三宅さんは『道成寺』の鐘を連想なさって、追善能《ついぜんのう》を観《み》に行きませんかっておっしゃって……考えてみると、そのことから事件に巻き込まれたといっていいのかもしれないわね」
「はあ……」
浅見は深刻な顔で頷《うなず》いた。思えばひと月ばかりのあいだに、水上家では天地がひっくり返るような転変があったわけだ。
コーヒーを啜《すす》りながら、浅見は雪江が置いていった週刊誌を広げた。グラビアの秀美の顔は美しいには違いないが、完全に意思を包み隠した無表情であるのが、なんとも遣《や》り切《き》れなかった。
何を想うのか、悲しいだけのはずの口許《くちもと》が、かすかに笑《え》みを浮かべているように見えるのは、能の若女《わかおんな》の面を連想させる。もしかすると、この記事を書いた人間も、彼女のそういう不思議な表情に「能楽名流の総帥」を見たのかもしれない。
浅見は写真を眺《なが》めているうちに、水上秀美という女性が、じつは遠い存在であることを改めて思った。彼女はすでにこうしてマスコミに持て囃《はや》され、スターダムにのし上がった「時の人」なのだ。吉野の山道を、ソアラに乗せて走ったことなど、すべて、あれは幻であったような気がしてきた。
そう思った時、浅見はふと後頭部のあたりに小さく光るものを感じた。
――写真が雑誌に載ったことなんか、一度もありません。
秀美が妙に気張った口調で、そう言っていた、その時の情景が蘇《よみがえ》った。
興味本位の雑誌なんかに載るのは、泥に塗《まみ》れるようなものだ――とでも言いたそうな顔をしていた。
その時、浅見は秀美のそっけない口調に白けると同時に、(いいな――)と嬉《うれ》しくもなったものだ。このごろのマスコミの、芸能人に対するばか騒ぎぶりには呆《あき》れ返る。結婚したといっては大騒ぎ、赤ん坊が生まれたといっては大騒ぎ。朝のワイドショウみたいな時間に、各社いっせいにえんえんと放送する、あのくだらなさはなんとかならないものだろうか――と思っている。
秀美が芸能人と同一視されるのを拒絶するような反応を見せたことに、浅見はむしろ爽《さわ》やかなものを感じた。
その時はそう思った。それだけしか感じなかった。
いま、雑誌に掲載された写真を見て、その時、秀美が「載ったことがない」と強弁したことの持つ重大な意味に気づいた。
(ばかな――)
浅見は自分の頭の鈍さを罵《ののし》った。それから電話に向かった。
受話器を取ったが、思い直した。電話では逃げられる危険性があると思った。
身仕度《みじたく》を整えると、急いで家を出た。ソアラを駆って田園調布へ向かう。デジタル時計の数字がどんどん変わる。
高崎家はこのあいだ高崎老人を下ろした場所から、さらに三百メートルも行ったところにあった。ことによると、高崎は自分の家を浅見に見せたくなかったのかもしれない。それほどに貧しげな佇《たたず》まいであった。これが水上流分家としては宗家に次ぐと謳《うた》われる名人の住まいか――と、何か索漠《さくばく》とした気持ちにさせた。
ブロックを積んだ塀《へい》はところどころが崩れかけ、危険なのでそうしたのだろう、全体を半分の低さに削ってある。
そのむこうに、庭とも呼べない、ちっぽけな植え込みがあった。
建物は木造モルタルの平屋。おそらく終戦直後に建てたような老朽家屋である。屋根の瓦《かわら》もあちこちが欠けていて、このぶんだと、夕立程度の雨でも雨漏《あまも》りがしそうだ。
濡《ぬ》れ縁《えん》のある、庭に面した側は雨戸が閉ざされていた。
(留守かな?――)
浅見は不吉な予感がした。
玄関はガラスの嵌《は》まった格子戸《こうしど》であった。いまどき、こういう格子戸の家は下町へ行っても、そうザラには見つからない。表札の「高崎」の文字は消えかけている。
呼鈴《よびりん》を押したが応答はなかった。戸を引いてみたが、動かない。鍵《かぎ》がかかっているらしい。もっとも、鍵をかけてなくても、簡単には開きそうにないほど立て付けに歪《ゆが》みがきている。
五十年来の独身――と高崎が言っていたのを思い出した。内弟子のようなものがいるとも思えなかった。
浅見が考え込んでいると、隣家の主婦が出てきた。どこかへ買い物にでも出掛ける様子らしい。五十歳ぐらいの、口やかましそうなおばさんだ。
「高崎さんでしたら、あちらのお稽古場《けいこば》のほうじゃないかと思いますよ」
数軒先の路地を指差して言った。
「あ、稽古場があるのですか?」
「ええ、高崎さんは有名な能楽師《のうがくし》さんですからね」
主婦は自分の身内を自慢するような顔をしている。
「ああ、そうですよねえ。ここでは稽古が出来ませんよねえ」
浅見は背後の建物を振り返って、思わず正直な気持ちを言ってしまった。
「高崎さんは清廉《せいれん》の方でいらっしゃいますからね、私財はすべてお弟子さんのためにお使いになっておいでですのよ」
おばさんはツンと顔を背《そむ》けるようにして、立ち去った。
いまどき、こんなにムキになって、隣人を褒《ほ》めそやすのは聞いたことがない。高崎老人はよほど人望の篤《あつ》い人物のようだ。
浅見はおばさんが指差した路地を入った。路地の角の電柱に、「水上流能楽指南所」と書かれた小さな看板が張りつけてあった。
短い袋小路の突き当たりが「稽古場」であった。いかめしい神殿《しんでん》づくりのような建物に、浅見は目をみはった。高崎の家とはえらい違いだ。隣家の主婦が言ったように、私財を投げうった結果の産物だろう。玄関を入るだけでも、身の引き締まるような思いがする。能を学ぶ者にとっては、そういう緊張感も必要なのかもしれない。
訪《おとな》うと、頬《ほお》の紅《あか》い、ちょっと見には少年のような男が出てきた。
「高崎先生はお留守ですが」
声の様子も口のきき方も稚《おさな》い。やはりまだ少年なのかもしれない。
「お出かけですか?」
「はあ、ご旅行です」
「ご旅行……どちらへいらしたのですか?」
「分かりません。何もおっしゃっていませんでしたから」
「長いご旅行ですか?」
「さあ……分かりません」
浅見はいやな予感がしてきた。
「あの、浅見さん、ですか?」
少年はオズオズと訊《き》いた。
「ああ、これは失礼、申し遅れました、そうです浅見といいます……しかし、どうして分かりました?」
「あの、浅見さんでしたら、お渡しするものがあるんです」
少年は「ちょっとお待ちください」といったん引っ込んで、まもなく現れた。手に封書を持っている。表に「浅見様」と書いてあった。
「高崎先生がこれをと」
浅見は受け取るとすぐに封を切った。中には便箋《びんせん》が一|葉《よう》。
――すべては天河で終わります――
達者なペン字である。
「高崎さんは、天河へ行かれたのですか?」
浅見は少年に訊いた。無意識に語気が強くなっていたらしい。少年は一瞬、怯《おび》えた目になった。
「天河ですか? 知りませんけど……」
天河へ行ったかどうかを知らないのか、それとも天河そのものを知らないのか、戸惑《とまど》った答え方であった。
浅見は礼を言って稽古場《けいこば》を出た。
高崎が自分の訪問を予測していたことに、ショックを感じた。これから起こるであろう、さまざまな出来事も、あの老人には予測がついているのかもしれない――と思った。
――すべては天河で終わります――
その短い文章の意味する、もろもろの不吉な結果が、浅見を不安にさせた。
冬へと向かう街の風景そのままに、水上家には日毎に、冷え冷えとした気配が深まってゆくように、秀美には思えた。
シェークスピア劇のようなおぞましい悲劇が、この家を舞台にたしかに行われたのだ――と思うごとに、秀美はゾーッとした。
そして、毎日、朝から晩まで顔を合わせている母親が、じつは恐ろしい殺人犯なのかもしれない――という恐怖が、抑えても抑えても、頭を擡《もた》げてくるのだ。
和憲の死後、菜津美の面窶《おもやつ》れは少しずつ進行しているように見える。しかし、それにも拘《かかわ》らず、彼女の顔からは微笑が絶えることはなかった。痩《や》せたせいか、小さな皺《しわ》の目立つ頬《ほお》に、かすかなえくぼが浮かぶのを見ると、秀美はそれが母親であることも忘れ、まるで暗闇《くらやみ》でふいに増女《ぞうおんな》の面に出くわしたように、ゾッとするものを感じるのだった。
広い屋敷の中には隙間風《すきまかぜ》が吹くような寂しさが漂《ただよ》っている。斉藤たち、一門の者たちも、ひっそりと声をひそめていることが多い。訪れる客も間遠になった。あの浅見光彦も、まったく顔をみせない。
母親に対しても、門弟たちに対しても、朝な夕な、顔を合わせれば、さりげなく、にこやかに挨拶《あいさつ》を交わすけれど、秀美はしだいに孤立感を深めていった。
和鷹が死に、和憲が死んで、水上家の中の肉親は、もはや母親以外には誰もいない。その最愛の人である母親が、もう一人の最愛の人である兄を殺した犯人であるかもしれないなんて――。
この恐怖の中で発狂せずにいるために、秀美にできることといえば、殻《から》の中に閉《と》じ籠《こ》もってしまうことぐらいなものである。
水上流宗家の葬儀風景を撮《と》った週刊誌のグラビアは、そういう秀美の心理をみごとに捉《とら》えていた。しかし、複雑な彼女の内面を知らない者には、どこか昂然《こうぜん》とした白い貌《かお》が、不遜《ふそん》なほどの自信に満ちたものに見え、孤高のごとくに映ったに違いない。
しかし、秀美の心は揺《ゆ》れに揺れていた。
青山葬儀所での本葬が終わるまでは、何かと慌《あわ》ただしく、緊張することが多かったので、気も紛れた。もろもろの跡片づけがすみ、人の訪れも間遠になって、母親と顔をつき合わせる時間が増すにつれて、秀美のカタルシスは我慢の限界に近づいていった。
秀美は母親から――というより、母親への疑惑から逃れるために、しばしば稽古場《けいこば》に出て仕舞《しまい》に没入した。
斉藤や友井に小鼓《こつづみ》を乱拍子《らんびようし》に打たせ、時には面をつけて狂気のごとくに舞った。
面をつけた秀美は、知らずに見れば男性と見紛《みまが》うほどの迫力である。その力感を抑えぎみに女を演じることで、女性を演じる男性を演じているような、いわば二重構造の逆説的効果を生み出している。
二人の若者は、稽古場であることも忘れ、しばしば無我の境地で小鼓を打った。
古来、能は男性により創造され、演じられ、管理されてきた。能の登場人物のおよそ半分が女性だというのに、である。
同じように男性が女を演じるにしても、歌舞伎の女形《おやま》が、嫋々《じようじよう》として、可能なかぎり女性の姿に近づこうと演技するのとは対照的に、能は男性が気迫に満ちた力の演技をすることによって、最高の女性美を表現しようとするのである。
能楽に女は無用――と誰もが言う。
そんなことはない――と秀美はひそかに、胸のうちで反論しつづけてきた。それを実証するために、切磋琢磨《せつさたくま》もした。小品のツレを演じる時も、仕舞を舞う時も、秀美はつねに真剣勝負の気迫をもって立ち向かった。兄の和鷹ですら「かなわない」と舌を巻いたほど、秀美の能は男勝りだった。
和憲が「能をやれ」と命じた時には、尻込《しりご》みする気持ちもあった秀美が、いつかしら、和憲もタジタジとなるほどの打ち込みようだったし、ついには和憲の期待をはるかに凌駕《りようが》した。
追善能《ついぜんのう》の舞台で『二人静《ふたりしずか》』を演じたあと、和憲は楽屋で額の汗を拭《ぬぐ》いながら、「もう、技術的には、おまえに教えることは何もないかもしれんな」と、嘆息のように言った。
「あとはウカウカと演じることだ」
そう言って、力感のない笑い方をしたものである。
「ウカウカと演ずる」とは、古今のワキ方の名人・宝生新《ほうしようあらた》の言った言葉で、虚心坦懐《きよしんたんかい》というような意味だ。
肩肘《かたひじ》張った「真剣勝負」の気持ちでは、とても「ウカウカと演ずる」至芸にはとどかない。さすがに和憲はそこを見抜いて、そう言ったのだろう。
しかし、それはたしかに褒《ほ》め言葉には違いなかった。その言葉を聞いた時、秀美は晴れ舞台を終えたばかりの興奮もあって、有頂天になった。「男もすなる」能の世界に、思いきり羽ばたいてみせる――と思った。
「お祖父《じい》様のお墨付をいただいたのね」
楽屋の世話を焼いていた菜津美も、嬉《うれ》しそうに秀美の耳元で囁《ささや》いて、『道成寺《どうじようじ》』の開演を待つ観客席へ戻っていった。
「悲劇」が起きたのは、その直後である。
考えようによっては、自分の異常ともいえる能への打ち込みさえなければ、兄の悲劇は起こらなかったのかもしれない――と、秀美は思う。
たしかに、秀美が平凡な力量の持ち主であったなら、和鷹は水上流宗家のかけがえのない後継者だったのである。
菜津美がどれほど和鷹を憎んでいたとしても、大切な後継者を抹殺《まつさつ》するほど、血迷った真似《まね》はしなかっただろう。
(因果《いんが》だ――)と秀美は震えるような想《おも》いがした。娘が原因をつくり、母親が結果を行ったのだ。
菜津美が驚くほど冷静でいる様子も、秀美にとっては耐えられないことであった。罪の意識などというものは微塵《みじん》もないらしい。
浅見は「違う」と否定していたが、思いきって母親の罪を暴《あば》くことを、秀美は何度考えたかしれない。
かりにそんなことをしてみたところで、「何をばかなことを」と一蹴《いつしゆう》されれば、それを覆《くつがえ》す証拠は何もないのだ。秀美自身、この疑惑がばかげた思い過ごしであると思いたかった。
(ほんとうのところはどうなの?――)
秀美は、癌患者《がんかんじや》が事実を知りたい反面、癌の宣告を聞きたくないのと同じような、苛立《いらだ》つ気持ちでそう思った。
母以外で真相を知っている人物といえば、唯一《ゆいいつ》、高崎老人だという気はしていた。しかしあの老人のことだ、たとえ真相を知っていても、金輪際、誰にも言わず、あの世にゆくまで胸に秘めたままでいるに違いない。
(でも、私だけは真相を知っておかなければ――)
と秀美は思った。自分にはその権利も、そして義務もあるのだ――と思った。
浅見光彦からの連絡は途絶えていた。
「僕が報告に来るまで、決してみだりに動かないでください。まだ犯人は捕まっていないのですからね」
浅見はそう言っていた。
――まだ犯人は捕まっていない。
そのとおりなんだわ――と秀美は思う。
その「犯人」がつい目と鼻の先にいる――という思いが、たえず秀美の胸に去来し、針のような痛みを伴って、心臓をチクチクと刺す。
(あのひと、何をしているのかしら?――)
浅見とは葬儀の日、青山葬儀所でチラッと顔をみかけたきりである。電話ひとつ寄越《よこ》さない。きっと見えないところで動き回っているのだろうと思うけれど、そう思うだけでは心の安らぎにはならない。
手紙でも電話でもいいから、何かひと声かけてくれればいいのに――と、待ち侘《わ》びる想いがしだいに恨みがましい気持ちへと変化していった。
それにしても、秀美がこんなに人のおとずれを待ち侘びたことは、いまだかつてなかった。
大学が芸大の能楽科という特殊なコースだったせいか、秀美には友人が極端に少ない。そうでなくても、「能楽師の娘」などというのは、一般的に言うと、とっつきにくい人間に思われがちなのかもしれない。
子供の頃から、秀美はクラスメートにさえ(敬遠されているな――)と感じることが多く、心を許せる友人が少なかった。
兄が死んで、そのことをいっそう痛感した。思えば、兄は秀美にとって友人であり、時には恋人のような役割を演じてくれていたのかもしれない。
それでも折ふし、水上家の訃報《ふほう》を聞いたといって、女子学院時代の友人が訪ねてくることがある。気晴らしに街に出ようと誘ってくれる。秀美も彼女たちの好意の前で、努めてはしゃいで見せようとする。
しかし、そういう努力は虚《むな》しいものだし、何の解決にもなりはしない。
街を歩けば、気の早い店からは、もうジングルベルの音楽が流れ出し、むやみに苛立ちをかき立てられる。
「悪いけど……」と、秀美は友人に謝って、逃げるように帰宅してしまう。
「どうしたの? せっかく誘ってくださったのに」
菜津美が出迎えて、不満そうに言う。
「秀美、あなた少しおかしいわよ」
「何が?」
「何がって、自分でそう思わないの? 妙によそよそしかったり、そうかと思うと、へんに下品にはしゃいでみたり……そりゃ、いろいろあったし、気持ちが乱れていることは分かりますけどね。だからって、あなたは水上家の跡取りなのよ。もっと毅然《きぜん》としていなければいけないでしょう」
「いやよ、跡取りなんて!」
「…………」
秀美の剣幕を、菜津美は怒るより、心配そうに見つめるばかりだ。秀美もすぐに気づいて、口調を変えて言う。
「跡取りになる資格なんて、私にはありませんよ」
「どうして? あなた以外にはもう、この家には誰もいないのよ」
「ええ、そうよね、お母様が望んだとおりになったのよね」
「何を言っているの? どういう意味なの、それは?」
母親の顔が、まるで雨降らしの『蛇の面』のように恐ろしげに見えた。
「ごめんなさい、変なことを言って……ちょっと頭が痛いの」
秀美は逃れるように自室に戻って、ほんとうにベッドに潜り込む。
こんなことを繰り返していたら、自分も母も、それに水上家ばかりでなく、流派の一門が崩壊してしまうような気がする。
(たすけて……)
誰かに――たぶん神にむかって、秀美は心の底で叫んでいる。目を閉じると、脳裏《のうり》に兄の面影が甦《よみがえ》り、それとオーバーラップするように、浅見青年の少し頼りなげな面差しが浮かんでくる。
思いきって、浅見に電話をかけてみた。
「あらまあ、水上様のお嬢様……」
浅見の母親が、大感激をもろに表現したような声を出した。
「光彦ですの? まあ、わざわざお電話していただいて……申し訳ありませんけど、光彦は留守ですのよ……いつ戻りますことやら、ほんとうに鉄砲玉のような子でして。このあいだなどは、一週間も連絡ひとつ入れませんのよ……せっかくねえ、お電話をいただいたっていうのに。ほんとに運のない子ですわねえ……ええ、もちろん、必ずお電話をするように申しつけますわよ」
秀美はいても立ってもいられない気分になった。浅見が動いているのに、自分だけがじっとしているなんて――と、ほとんど本能的な競争心といってもいいような想《おも》いが、勃然《ぼつぜん》と湧《わ》いてきた。
ほんの近くまで出掛けるような素振りで、秀美は家を出た。表通りでタクシーを拾い、「田園調布へ」と告げた。
高崎の大叔父《おおおじ》は留守だった。
裏の稽古場《けいこば》へ行くと、若い門弟が現れ、秀美を見てびっくりした。
「あ、お嬢さん……」
幽霊でも見たような顔で、体を硬直させている。
化粧もろくにしていないのだから、ほんとうに幽霊みたいな顔をしているのかもしれない――と、秀美は苦笑した。
「高崎先生は?」
「先生はお出掛けです」
「どちらへ?」
「あの……よく分からないのですけど、天河《てんかわ》へいらっしゃったのではないかと……」
「天河へ?」
「はあ、そうらしいです」
「天河へ、何しに?」
「さあ、分かりません。あの……私ら天河のことも知らなかったのですが、さっき、浅見さんという人が見えて、私がことづかっていた先生からのお手紙を見て……そこに天河へ行くって書いてあったみたいなのです」
「浅見さんが見えたの?」
「はい」
叱《しか》りつけるような秀美の質問だったので、若者は怯《おび》えた目になった。
「それで、浅見さんはどうなさったの?」
「急いで出て行きました」
「じゃあ、浅見さんも天河へ?」
「さあ……」
若者は当惑げに首をひねっている。浅見が天河へ向かったかどうかなど、分かるはずがないのだ。
「浅見さんが見えたのはどれくらい前?」
「一時間ばかり前です」
「高崎先生がお出掛けになったのは?」
「けさの九時頃でした」
「そう……」
秀美は若者に礼を言って、玄関先から引き上げた。頭の中には、天河への道程が思い描かれつつあった。
秀美が帰って行くのを見すまして、若者はすぐに電話をかけている。
「今、お嬢さんが見えて、すぐにお帰りになりました……はあ、高崎先生のことも浅見さんのことも申し上げました……すみません、ついうっかり……はあ……いえ、はっきりとは分かりませんが、天河のことを申し上げた時の感じでは、たぶん、いらっしゃるのではないかと……はい……はい、分かりました、失礼します」
電話を切ったあとも、若者は不安そうな顔をして、置いた受話器を握ったまま、しばらくのあいだ、じっと立ちつくしていた。
第十二章 ひとり静《しずか》
吉野に入るころになって、とうとう雪が降りはじめた。積もる心配はなさそうだが、フロントガラスにベチャッという感じで、湿気の多い大きな牡丹《ぼたん》雪が当たる。
それほどの降りではないので、ワイパーを間歇式《かんけつしき》に作動させてある。雪片が半透明の白い血痕《けつこん》のように、ペタッペタッとガラスに散って、しばらく経ってから、ワイパーが拭《ふ》き去る。それまでの数秒、視界が歪《ゆが》んで見えるのは鬱陶《うつとう》しかった。
吉野口で浅見《あさみ》は一瞬迷ったが、信号が変わるまでに腹を決め、吉野山へ登る道にハンドルを切った。
「桜花壇《さくらかだん》」の前に車を停《と》めると、目敏《めざと》く例のおばさんが飛び出してきた。
「あら、また来てくれはったんでっか? いやあ、嬉《うれ》しいわ」
こっちが恥ずかしくなるような、若やいだ声を出した。
「天河《てんかわ》へ行く途中なんです。今夜は泊まらないかもしれない」
「そうでっかァ、そないなこと言わんと、泊まって行かはったらよろしいのに。雪も降ってますさかいに」
「この雪だと、天河へ行く道は危ないですかね?」
「いいえ、そんなことはない、思いますけど……でも、折角《せつかく》やし……」
おばさんはしきりに残念がる。
「ちょっと聞きたいのだけど、弁慶《べんけい》のママを知ってますか?」
「ええ、知ってますとも。吉野山は狭いさかい、どこの家とも付き合うてますがな。弁慶のママやったら、ウチと同じでよそから入った人やし、よう話も合います。そやけど、なんぞ、弁慶さんに?……」
「あの人の友達で、学校の先生をしている女性がいますか?」
「ああ、聞いたことはありますわ。たしか、ママさんと同じで独身や言うてはったんと違うかしら?」
「そうです。独身の女性だそうです。その人の名前は知りませんね?」
「知りまへんなあ。弁慶さんに聞かはったらよろしい」
「そうですね、そうします。それで、ちょっと車を置かせてもらいたいのですけど」
「はいどうぞどうぞ、あとしばらく、年末まではお客さんもいてませんし……そうや、なるべく泊まって行ってくださいな」
「ええ、なるべくそうするつもりです」
浅見は桜花壇には上がらずに弁慶へ向かった。
吉野山の街は、この前よりもいっそう寒々として、桜花壇から弁慶の店まで、散策する観光客と行き会うこともなかった。
弁慶も閑散としていた。浅見が入ってゆくと、テレビを眺《なが》めていたママが、眠そうな目を振り向けた。
「いらっしゃい……あら? お客さん、いつかの……」
「このあいだはどうも」
浅見は笑顔でペコリと頭を下げた。
「あらあら、いらっしゃい。そしたら、また来てくれはりましたの。嬉《うれ》しいわァ」
桜花壇のおばさんと同じような反応で、歓迎してくれた。冬の吉野山は、人寂しい気分が満ちているのかもしれない。
「きょうはベッピンさんはいてはらしまへんの?」
「ああ、このあいだの彼女ですか? 彼女は来ません。しかし、ママは彼女のこと、見たことがあるって言ってましたよね」
「ええ、似た顔をたしかに見たことがありますねんよ」
「雑誌の写真で見たのでしたっけか?」
「いえ、写真は写真ですけど、雑誌やないんです……でも、あれは私の間違いやったかもしれまへん」
「間違い? どうしてですか?」
「そうかて、違う言いますねんよ」
「違うって、誰が、ですか?」
「いえね、その写真を見たとこの人がですねんけど……私が、写真とそっくりの女の人、見た、言いましたら、それは絶対に違う、言わはるんです。その写真の人は死にはったんやそうです」
「死んだ?……」
「ええ、それでも、よう似てはったんやけど、言うて、もう一度、写真を見せてもらおう思ったんやけど、どないしても、見せてくれはらしまへんねん」
「どうしてでしょうかねえ?」
「さあ、分からしまへん。ふだんはええ人なんやけど、ちょっとこじれると、難しい人になってしまいますねん。私のほかともだちがいてへんいうのは、やっぱし、無理ないいうところもあるわねえ」
弁慶のママは「ともだち」のことを、気掛かりそうに、暗い顔をしてそう言った。
「そのともだちというのは、もしかして、長原《ながはら》さんていいませんか? 長原|敏子《としこ》さん」
「えっ……」
ママは驚いて、目を丸く、口をポカンと開けた。
「お客さん、敏子さんのこと、知ってはりますの?」
「いや、直接は知らないのだけど、ちょっとね、ある事情があって……その長原さんの住所、教えてもらえませんか」
「…………」
ママは明らかに警戒の色を見せた。
(まずかったかな――)
浅見は悔《く》やんだ。少し性急にすぎたかもしれない。しかし、いったん踏み出した以上、今更後戻りはできない。
「じつは、あるご老人が吉野に来た時、体の具合が悪くなって、地元の女の人に親切にされたという話をしていましてね。ところが、その女性は『長原敏子』という名前を告げただけで、どうしても住所を言わないらしいんですね。しつこく訊《き》くと、笑って『吉野山です』ととぼけて……しかし、どうやら、小学校の先生らしいということだけは、会話の中で分かったのだそうですよ。このあいだ吉野に来て、ママから、学校の先生で独身の女性がいるという話を聞いていたでしょう。それで、ひょっとしたら――という話をしたら、今度、吉野へ行くついでに、ぜひ確かめて来てくれと頼まれましてね」
話していて、われながら下手な作り話だ――と、浅見はいや気がさした。それはママにも通じるのだろう。白けたような、薄笑いを浮かべた。
「何や、けったいな話ですなあ……しゃあけど、敏子さんの名前を知ってはるいうのは、ぜんぜん出鱈目《でたらめ》とも思えんし……」
「そうですよ。それに、その気になれば、この辺の小学校を全部調べればいいんですからね。だけど、僕にはそんなひまはないし、出来たら教えてもらえるとありがたいんだけれど……、もちろん、迷惑はかけませんよ」
浅見は、この男としては珍しく、熱意を込めて女性を口説いた。
「いい男に、そないに頼まれると、いや言うわけにいかなくなりますわ」
ママは笑った。
「そしたら教えて上げますけど、私に聞いたというのは、黙っといてくださいよ」
「もちろんです」
浅見は大きく頷《うなず》いた。
ママはメモ用紙に住所と、簡単な地図を書いてくれた。
驚いたことに、長原敏子の家はこのすぐ近く、勝手《かつて》神社から天河の方向へ行く道を、ほんの百メートルばかり行ったところにある一軒家であった。
あの日、勝手神社を去った水上和憲《みずかみかずのり》が、誰にも目撃されないまま、消えてしまった理由は、それで理解できた。あの道は、吉野山の町並みとは異なって、昼間でもほとんど人通りがない。
(和憲老人は、長原敏子を訪ねた――)
浅見の樹《た》てた仮説は、実証されたと思った。だが、老人は「親切」にはされなかったのである。その情景を想像すると、浅見は体が震えそうな、おぞましい思いに襲われた。
浅見は「弁慶」を出ると、その足で長原敏子の家を訪ねた。勝手神社の脇を、少し谷のほうへ下って行く道である。長原家はすぐに分かった。そう大きくも新しくもないが、東京辺りなら、並みのサラリーマンにはとても借りられそうにない一軒家である。
小さいながら、門から玄関までのあいだには、庭と呼んでもいい空き地がある。丈の低い山茶花《さざんか》の木があって、三つ四つ、可憐《かれん》な花を咲かせていた。
浅見は空き地を通って、玄関前に立ち、呼鈴《よびりん》を押した。
中からチャイムの音が聞こえた。可愛い音で、女性の住まいであることを思わせる。
応答はなかった。
(留守かな?――)
浅見は思い、一瞬、「弁慶」のママが電話で連絡したことを思った。だとすると、逃げたか、あるいは居留守を使っているのかもしれない。
しつこいくらい、何度も呼鈴を押した。なんとか掴《つか》まえて話を聞きたいという焦りもあったが、多少、意地にもなっていた。
(この寒空に、吉野くんだりまで来たんだから――)
夕暮れはそう遠くない。
見上げる空は、重い雲に覆われ、依然として、時折、雪を舞わせている。足下から山の寒気がしんしんと伝わってくる。
「長原さんやったら、お留守と違いますか」
声がした方角を見ると、道路に近所のおばさんらしい女性が立っていて、胡散臭《うさんくさ》い目をこっちに向けていた。
「あ、そうですか、まだ学校ですか?」
「いいえ、学校からは帰ってみえたけど、さっき出掛けて行きはりました。車、あらしまへんやろ?」
「さっき、ですか?……」
瞬間、やっぱり弁慶のママが報《し》らせたか――と思ったが、違った。
「はい、一時間ばかし前やったかしら。お客さんと一緒でしたがな」
「お客さんていうと、あの、ご老人じゃありませんでしたか?」
「はい、そうです。そしたら、お知り合いでっか?」
「ええ、まあ……」
浅見は愕然《がくぜん》とした。やはり高崎《たかざき》老人は長原敏子の所在を知っていたのだ。
そのことは予測していた。しかし、高崎が敏子を訪ねることも、誘い出すことも、浅見の予測にはまったくなかった。
当然、浅見は水上和憲のケースを連想しないわけにはいかなかった。
「あの、長原さんはどちらへ行くとか、そういうことは言ってませんでしたか?」
浅見は無駄と分かりながら、縋《すが》る想いで、隣家のおばさんに訊いた。
「さあ、何も言うてはりませんでしたよ」
おばさんは浅見の切実な表情に驚きながらも、少し気の毒そうに言った。
(天河か――)
浅見は直感的にそう思った。そう思うと同時に、歩きだした。
――すべては天河で終わります――
高崎老人の、達者な文字が瞼《まぶた》の裏に蘇《よみがえ》った。
天川郷《てんかわごう》を囲む峰々は、夕闇《ゆうやみ》と、密度を増して降る雪に包まれていた。気温はかなり低くなっているに違いない。道路もすでに、薄く雪を敷いて、カーブではかすかなスリップが感じられた。
行き交う車も無かった。谷あいの道を抜けて、集落のある盆地に出ると、ほっとした。
浅見は真っ直ぐ、天河神社に福本《ふくもと》を訪ねた。ちょうど帰り支度をしていた福本は、浅見の顔を見て目を丸くした。
「おや、またお見えでしたか」
大歓迎――というニュアンスには聞こえなかった。
「じつは、この前お聞きした、五年前に能面の展示をされた時のことで、ちょっとお聞きしたいことがあったものですから」
「はあ、何でしょうか?」
「その際にですね、展示された能面を、観客が手に取って見ることは可能だったのでしょうか?」
「は? 展示場で、ですか?」
「ええ、たとえば、能面をもっとよく見たいとか、裏はどうなっているのかとか……そういうことに興味を持って、です」
「なるほど、それはまあ、個人的にお見せする場合ならともかく、展示場でそういうことはありませんな。もっとも、会場にいつでも監視する人間がいるわけではないのですから、もし不心得な人がいれば、手を触れるようなこともあったかもしれませんがなあ。しかし、天河神社の信者の方々に、そういうけったいな人はおりませんでしょう」
福本は妙なことを言うな――と言いたそうに、苦笑している。
浅見は礼を言って辞去すると、いつかの民宿に行った。さすがにこの時期は、ガラガラに空いている様子だ。
「おやまあ……」
民宿のおばさんは、歓迎というより、むしろ呆《あき》れたような顔をして迎えた。
「まあまあ、雪の中をようまあ……」
しかし、若い男性客の訪れは嬉《うれ》しかったらしい。いそいそと部屋に案内してくれた。
「明後日からは、女《おな》ごはんも大勢、来はりまっせ。賑《にぎ》やかになるさかい、それまでおってやってください」
お茶を入れながら、おばさんは花街の客引きのようなことを言った。
「いや、残念ながら、そんなにのんびりしていられませんよ」
浅見は笑った。
「ところで、きょうはほかにはぜんぜん、お客さんがいないのですか?」
「はい、お客さんお一人です。なんやったら、うちらと一緒にご飯、食べませんか?」
「はあ、それはいいのですが……」
高崎と敏子はどこへ行ったのか、それが気に掛かった。
「ここには、お宅のほかにも旅館だとか民宿だとかは、あるのでしょうね?」
「そら、ありますがな。けど、お宿やったら、うちが一番よろしいで。なんたって、おかみさんがべっぴんやさかいにな」
おばさんは言って、キャキャキャと、下品な笑い方をした。
ほかの宿を探すにしても、時間が時間だ。明日の朝を待つしかあるまい。浅見は観念して、浴衣と丹前に着替えると、風呂に入った。広い浴槽《よくそう》に浸《つ》かっていると、天川谷の瀬音か峰を吹く風の音か、判然としないざわめきのような音が聞こえてくる。
千年の歴史を持つこの村の、さらに遠い歴史を、その音は奏でつづけているのだ――と思った。この谷をかつて、天皇を擁護する一行が通り、それを追う軍勢が通った。都を追われた観世元雅《かんぜもとまさ》が、名誉回復の祈りとともに能面を捧《ささ》げ、寂しく落ちて行った。
そういう歴史を刻んだこの土地で、今、こうして湯に浸《つ》かっていることが、浅見にはそら恐ろしいような不思議に思えた。
たとえ何十年生き延びようと、人間のいのちなど、儚《はかな》く、あわれである。だのに、その虚《むな》しさを知りながら、それでも人は精一杯、自己主張をし、幸福という名の幻想に向かって、一歩でも近づこうとする。しかし、結局は、人間の営みなど、一つところを堂々めぐりしているにすぎないのかもしれない。火が原子力に代わり、狼煙《のろし》が通信衛星に代わったからといって、とどのつまり、どれほどの進歩や変化があったというのだろう――。
なんだか、生きてゆくのが億劫《おつくう》になりそうな気持ちがしてきた。もしかすると、天河という場所は、人間をそういう退嬰的《たいえいてき》な気分にさせる、魔力のような気配に満ちているのかもしれない。
浅見は慌《あわ》てて、湯で顔を洗った。ともあれ、彼にはソアラのローンを支払う義務が、まだしばらくは続いているのだ。
翌朝、遠い太鼓の音で、浅見は目を覚ました。かすかに鈴の音も聞こえてくる。
時計は六時を回ったところだ。この寒さの中でも、朝の拝礼は行われているらしい。
(どうしようかな……)
浅見は起き出して、窓のカーテンの隙間《すきま》から外を覗《のぞ》いた。
一面の雪であった。そう深くはなく、すでにやんではいるが、雪は雪だ。浅見は身震いをして、いそいで蒲団《ふとん》に潜り込んだ。
次におばさんの声で目が覚めたのは、九時過ぎであった。夢の中で須美子の声とごっちゃになっていたから、よほど熟睡していたに違いない。
「谷で人が死にはったそうでっせ」
おばさんは廊下の雨戸を開けながら、言った。浅見は、いっぺんに眠気がふっ飛んだ。
「えっ、死んだのですか? 誰ですか? 男、女?」
浅見は蒲団から廊下へ直行して、矢つぎ早に質問を浴びせた。
「女ごはんやそうです」
おばさんは、浅見の剣幕にびっくりして、答えた。
「誰ですか? 名前は?」
「知りまへんがな、まだそういう話を聞いたばっかしやもの。それよかあんた、そんな恰好《かつこう》でおったら、風邪ひきまっせ」
その言葉に誘われるように、浅見はブルブルと体を震わせた。
「ほら、見てみなはれ」
「いや、違うんだ、そうじゃないんですよ」
「なんや知らんけど、はよ起きて、御飯食べなはれや、いま味噌汁《みそしる》、温めますよって」
おばさんが行ってしまっても、浅見はしばらくそこに立っていた。それから急いで服に着替えた。
「駐在所はどこですか?」
食堂へ行くと、浅見のための食事を支度しているおばさんに訊《き》いた。
「駐在さんやったら、川合《かわあい》やけど……あら、あんた、御飯はどないするんでっか?」
おばさんの声を背に、浅見は玄関へ向かって走った。
車は五センチばかりの雪を被っていたが、道路のほうはさほどのことはなかった。すでに何台もの車が通ったらしく、黒い条痕《じようこん》が路上の雪を、ほとんど消していた。
川合の集落までは、ゆっくり走っても五分足らずの距離だった。駐在所の前では、巡査の夫人らしい女性が、長靴を履いて、せっせと周辺の雪掻《ゆきか》きをしていた。
「ちょっとお尋ねしますが」
浅見は車を下りて、丁寧にお辞儀をした。
「谷で女の人が亡くなったそうですね?」
「ええ、そうですけど」
「その女の人は、身元は分かったのでしょうか?」
「あの、どちらさんですか?」
駐在夫人は問い返した。さすがにしっかりしている。
「浅見という者です」
名刺を渡すと、しげしげと眺めて、建物の中に入った。浅見もつられるように、後に続いた。
「浅見さん……と」
夫人は日誌を広げて記入している。まったく、出来すぎたくらい、夫の職務に忠実な女性だ。
「どうなのでしょうか? 名前など、分かっていたら教えてください」
浅見はいらいらしながら、あくまでも低姿勢で訊いた。
「まだ分かってないのと違いますか」
「そうですか……それで、いくつぐらいの女性ですか?」
「そういうことは、答えてはいけない、いうことを言われて……」
その時、電話が鳴った。夫人は救われたように浅見の前から離れ、受話器を握った。
「はい駐在所です……はいそうです……お名前は?……はい……水に上ですね?……はい、水上秀美《みずかみひでみ》さん……」
「えっ、水上秀美さんですって?……」
浅見は悲鳴のような声を発した。
「どうして……どうして彼女が死んだりしたんだ……」
まるで秀美を殺したのが、駐在夫人ででもあるかのように、彼女を睨《にら》みつけた。夫人は怯《おび》えて、受話器を盾に身構えた。
「何しますの?」
強い語調に、浅見は愕然《がくぜん》とわれに返った。
「あ、失礼……しかし、その、亡くなったのは、水上秀美さんに間違いないのですか?」
「何言うてますの、誰がそないなこと、言いました? いま、電話で話している人が、水上秀美さんですがな」
「えっ、秀美さんからの電話ですか? ちょっとすみません、代わってください」
夫人の手から受話器をひったくった。
「もしもし、秀美さんですか? 浅見です」
「えっ? 浅見さん……」
言ったきり、秀美は絶句した。
「もしもし、秀美さん、今どこです? もしもし……どうしたんです?」
浅見は秀美がこの世の中から消えてしまいそうな不安にかられて、受話器の中に大声を吹き込んだ。
「……はい……すみません……」
秀美は涙声になっている。
「今天河に来ているんです。昨日、遅くに吉野に着いて、桜花壇に泊まったんですけど。あのおばさんが、浅見さんが天河にいらしたって……それで、さっき天河に登ってきて、旅館で浅見さんのことを尋ねて……そしたら、天川谷で人が亡くなったって……女の人だっていうので……それで、駐在所に電話して……」
「えっ? どうして? なぜ電話なんかしたんですか?」
浅見には分からなかった。秀美が長原敏子の存在を知っているとは考えられなかったのである。
「あの、けさ、家に電話してみたら、私のあとを追うように、母も旅行に出たっていうんです。それで、もしかして……」
「ばかな!……」
浅見は思わず叱咤《しつた》した。叱咤しながら、頭の中は混乱していた。秀美の危惧《きぐ》はいわれのないことではないのかもしれない――という想いが、頭を掠《かす》めた。
「とにかく会いましょう。いま天河のどこですか?」
「天河館という旅館です」
浅見は駐在夫人に「天河館」の場所を訊《き》いた。川合の集落の中にあるという。
「すぐに行きますからね、そこを動かないように、いいですね」
くどく念を押した。それでも秀美がいなくなりそうな不安が、強くした。
「天河館」は古い小さな商人宿のような建物である。
かつて、天河神社が今ほどのブームに賑わっていない時代、そして、天川村の人口が今ほど過疎《かそ》傾向にない頃、村の中心・川合の集落にあった、唯一の旅館が「天河館」だった。
何度か建て替えたとしても、創業はおそらく江戸期か、ひょっとすると、もっと古い歴史があるのかもしれない。白っぽく風化した板壁や柱、黒光りする床板などに、天川郷そのもののような、古さを感じる。
水上秀美は、玄関の上がり框《かまち》に坐り込んで、凍えたようにじっとしていた。
いや、実際、そこの空気は凍えるほどの冷たさであった。旅館の嫁らしい女性が、心配して、「どうぞ、上がってお待ちなさい」と勧めるのに、秀美はかたくなに「ここでいいです」と言い張って、ただひたすら浅見の来るのを待ちつづけていた。
浅見が玄関に飛び込んできた時、秀美は人目を気にする余裕もなく、浅見の胸に縋《すが》りついた。
「浅見さん、母は……」
言ったきり、絶句した。
浅見は秀美の顔を見下ろして、微笑を浮かべた。内心の不安や恐怖をおし隠すすべを、自分がいつのまに身につけたのか、浅見自身、不思議な想いがした。
「ずいぶん冷たい手をしてますね」
浅見は両手で、胸元にすがっている秀美の手を、優しくつつんだ。
「何か温かい飲み物はありませんか?」
秀美の背後で、びっくりしてこちらを眺めている女性に、声をかけた。
「は、はい、あの、ココアがありますけど」
女性はドギマギして、答えた。
「ココアがあるんですか、いいですね、それ、二つください。それから、お部屋を一つお借りできますか?」
「ええ、どうぞ上がってください」
女性の先導で、二階の、いちばん上等そうな、床の間つきの部屋に入った。
「ここ、温めておきましたので」
秀美のために、すでにヒーターをつけ、電気|炬燵《ごたつ》を用意してあったらしい。
「どうもすみません」
秀美は、その時になって、女性の好意を知り、頭を下げた。
女性は待つ間もなく、ココアを運んできた。もちろんインスタントだが、タイミングが絶妙な感じだった。
向き合って、炬燵に手を突っ込んでいる二人のあいだに、湯気を立てた、白い大きめのカップが二つ置かれた。
「いい人、ですね」
秀美は温かいココアをひと口|啜《すす》って、ぽつりと言った。
「よかったな、落ち着いてくれて」
浅見は心の底から、安堵《あんど》の声を洩らした。
「すみません、ご心配おかけして」
「いや、僕だって、正直なところ驚きましたよ。あなたが天河にいるなんて」
「あの、それで、どうなのですか?」
やはり、秀美はなによりも、そのことを確かめずにはいられない。
「お母さんのことですか? 何を言っているんです。お母さんがそういう……あなたもずいぶん、おかしな想像をするもんだなあ」
浅見は笑った。
「じゃあ、違ったんですか? 違う女の人だったんですか?」
「いや、まだ駐在所に連絡は入っていませんでしたけどね。奥さんしかいなかったから、おそらく、駐在巡査も現場に行っているのでしょう」
「だったら、まだ、亡くなったのが誰なのか、分かっていないのですね」
「だからって、どうしてそんなに短絡的に考えちゃうんですか? 秀美さんらしくないですよ」
「そんな……それは、浅見さんは第三者だから、そんなふうに落ち着いていられるんです。こんなに、次から次へと、いろいろなことが起きて、兄も祖父も亡くなって……それに、今度は高崎《たかざき》の大叔父《おおおじ》まで、天河へ行ったっていう……」
「え? じゃあ、あなたは高崎さんのところへ行ったのですか?」
「ええ、行きました。それで、浅見さんも天河へいらしたらしいって分かって、無我夢中で追って来たんです」
「しかし、お母さんまでがこちらにいらっしゃるはずがないでしょう?」
「ええ、それは分かりませんけど、でも、きっと母もこっちへ向かったのだと思います。そういう……そうです、浅見さんがおっしゃった『勘』で分かります」
「なるほど、勘ですか……」
浅見は苦笑した。
「しかし、いくら勘でも、亡くなった女性がお母さんだというのは、ちょっと飛躍しすぎましたね」
「ええ、浅見さんにお会いして、こうして落ち着いたら、自分でも滑稽《こつけい》な気がしてきましたけど、でも、あの時は……いいえ、今でも、ほんとは恐ろしいんです。ただ、ココアを飲んで、浅見さんの顔を見ていると、ヒステリーは起こさずにすみそうです」
「それは僕のせいですか? それともココアのせい?」
「あら、それはもちろん……」
ムキになって言いかけて、秀美は後半分を、泣き笑いのような表情に隠してしまった。
「さて、それでは確かめてみましょうかね」
浅見はわざと悠長な言い方をして、のっそりと立ち上がった。
秀美の前では、精一杯、陽気なふりを装ってはいたものの、階下に下りてくると、とたんに浅見は、うろたえた行動に移った。電話帳で吉野警察署の番号を調べ、もどかしい手付きでダイヤルを回す。
「いやあ、どうもどうも、先日は……」
吉野警察署長の田中警視は、のっけから笑い声を交えて、怒鳴るように話した。えんえんと無駄な挨拶《あいさつ》がつづくのに、サッと割り込んで、浅見は訊《き》いた。
「けさ、天川村で女の人が死んだそうですね?」
「ああ、そのようですなあ」
「えっ? 署長さんはその事件のこと、あまりご存じではないのですか?」
「天川村は下市《しもいち》署の管轄《かんかつ》ですのでねえ」
「あ、そうでしたか」
「その女の人が、どうかしたのでっか? また浅見さん、名探偵ぶりを発揮しようというわけでっか?」
「いえ、そうではないのです。これは本職のルポライターとしての仕事ですが、亡くなったのはどういう女性かと思いまして」
「それだったら、私のほうで下市署に聞いて上げましょうか?」
「え? ほんとですか? それはありがたい、ぜひお願いします、助かります」
「なんのなんの、刑事局長さんの弟さんの頼みとあれば、最高幹部の頼みと一緒ですのでなあ」
どうも、役人のジョークはひと言多いのが欠点だ。
七分後に、その返事が入った。それまで、浅見は二階に上がらず、ずっと電話の前で立ちん棒をしていた。
「ええと、死んだのは長原敏子いう、四十八歳になる女性ですな。住所は吉野町やけど、隣町の学校の先生をしてはるいうことやそうですが……」
「まさか……」
浅見は思わず呻《うめ》き声を発した。
「は? なんぞ言いましたか?」
「は、いえ、学校の先生が、何でまた……」
「いわゆる、厭世《えんせい》自殺いうやつでんな。この人は天涯孤独でしてな。それで、前途を悲観して死ぬいう遺書があったそうです」
「ばかな……」
「いや、浅見さん、そないなこと言うたらあきまへん。それは、たしかに愚かしゅう見えるかもしれんが、本人にしてみれば、死ぬには死ぬだけの、他人には推《お》し量《はか》れん理由があったのと違いまっか?」
関東ではさりげなく使われる「ばか」という言葉は、関西ではカチンとくるニュアンスを秘めている。そのせいか、署長は口調をあらためて、若い浅見を窘《たしな》めた。
「失礼、そういう意味で言ったのではありません。僕はその、とても残念で……どうして死んだりしたのか、悲しくて……それで、つい……」
「ほう……そうでっか……浅見さんはその、ルポライターでしたか、そういう職業の人にしては、ちょっと変わってはりますな」
署長にも、浅見の気持ちが通じたらしい。
「それで、署長さん、現場は天川のどこなのでしょうか?」
「川合の集落からちょっと下った、天川谷の中やそうです。いまはすでに引き上げて、下市町の病院に収容したそうですがな」
「谷の中、ですか……」
「それがちょっと変わってましてね。死体のそばに能面が落ちてあったそうですねん」
「能面?」
「はい、それも、恐ろしげな般若《はんにや》の面やったそうです」
それは違う、蛇《じや》の面でしょう――と、浅見はもう少しで叫ぶところだった。
「もしかすると、その面は谷川の流れの中にあったのではありませんか?」
「さあ、どないでっかなあ。いま時分は谷の水は少ないさかい……しかし、浅見さんはなんでそないに思われるのです?」
「は? いや、谷で亡くなったのなら、そういうことではないかと……」
「なるほど。まあ、それは常識的なことではありますかな」
うっすらと雪の積もった天川谷のせせらぎに、女が倒れ伏し、傍らには奇っ怪な蛇の面が天を睨《にら》んでいる――そういう構図を、浅見は思い描いた。
「ところで署長さん」と浅見は訊いた。
「その女の人は、独りで亡くなったのですか?」
「そうですよ。一人です、心中やおまへん。遺書にもそう書いてあったそうです。下市署の話によると、『静かに一人で行きます』とかいう文章があったそうです」
「静かに一人で……ですか?」
浅見は首をひねった。
「それはへんですねえ」
「何がです?」
「だって、その女性はもともと独りなのでしょう? 独りだから前途を儚《はかな》んで自殺したのでしょう? それなのに、わざわざ『一人で行く』と書くのは、ほかにも誰かがいるけれど……というニュアンスを感じさせるような気がしますが」
「はあ……そういうものですかなあ? 私にはよう分かりまへんが……まあ、詳《くわ》しいことをお聞きになるんやったら、下市署に電話しておきますさかい、直接、お話ししてみなはったらよろしい」
署長は、もう面倒見きれない――というように、言った。
受話器を置いて、浅見は「ほう……」と吐息をついた。猛烈な虚脱感が、全身を地の底に押し込みそうに重くのしかかってきた。
その重い体をひきずって、浅見は二階に上がった。
「やっぱり違いましたよ。亡くなったのは、吉野町の女の人だそうです」
浅見は笑顔を作って、部屋に入った。
「そうですか……」
秀美は緊張を解いたが、表情は固かった。
「その方、どうして亡くなったのですか?」
「病気か何かで、前途を悲観したとか、警察は言ってました」
秀美は黙って頷いた。
浅見も炬燵《こたつ》に手を突っ込んで、しばらくおし黙った。
「いろいろな人生があるんですね」
秀美が、呟《つぶや》くように言った。
「そうです。いろいろな人生があるのです」
浅見も同じ口調で、言った。
それからまもなく、浅見は秀美を天河館に残して、下市署へ向かった。もっとも、秀美には「『能謡史蹟めぐり』の取材に行きます」ということにしてある。
「ここで待機していてください、三時間ほどで戻って来ます。このあいだ、ちょっと取材不足があったものですから」
「すみません、祖父のことで、ご迷惑おかけしたせいですね?」
「いや、違いますよ。まるっきり忘れていたところがあるのです。吉野山に登っていながら、『吉野|静《しずか》』をうっかりしていました。素人はこれだからこわいのです。出版社にどやされましたよ」
言い訳をする時は、浅見は一気に喋《しやべ》るくせがある。しかし、秀美はそれを見破るほど、すれてはいない。
「たいへんなんですねえ」
気の毒そうに言った。
「その前に、桜花壇とお宅に、あなたがここにいることと、電話番号を教えておいたほうがいいでしょう」
「はい、そうします……あ、あの、お願いしてもいいでしょうか?」
「ええ、何ですか?」
「あの、もしどこかでお花を売っていたら、祖父が亡くなった場所に捧げていただきたいのですけど」
「ああ、そうですね、そうします。その代わり、あなたはここでじっとしていてください」
浅見はそう言い残して、山を下った。
下市警察署には、吉野署長からの連絡が入っていて、すぐに応接室に案内された。
ここの署長は定年間近の警視で、痩せた温厚な人柄だった。その分、刑事課長が張り切り型で、浅見を賑《にぎ》やかに歓迎してくれた。
「名探偵だそうですなあ。まあ、刑事局長さんの弟さんであれば当然でありましょう。今後ともよろしくご指導ください」
浅見より三つ四つ年長らしいが、ざっくばらんで、気さくな男だった。
「何か、天川村の自殺者のことで、お聞きになりたいことがあるとか?」
「はあ、その女性が、妙な遺言を残したというのがですね、ちょっと興味を惹《ひ》いたものですから」
「そうそう、たしかに、けったいな遺言ではありましたなあ」
刑事課長は遺書の写しを見せた。
(あっ――)と、浅見は思った。
やはり、吉野署の署長が言っていたのとは、少し違う文面であった。
生きているということは、知らぬ間に罪を犯していることなのかもしれません。
私は少し長く生きすぎたようです。二十年、いえ、せめて十年早くこのいのちを絶つべきでした。それをしなかったのは、私の愚かさであり、おんなの悲しさというものでしょうか。
思えば、吉野山にひそむ、へびのような半生でした。すくいのない、おぞましいばかりの歳月でした。
生きることが死ぬことであるとは、思いもよらぬ宿縁でもありました。
もう行きましょう。ひとりぼっちで行きましょう。
静は一人で失《う》せるのが似合います。
「抽象的というのですかなあ。何のことか分からないところがあります。そりゃ、まあ、生きていることが罪作りだ――というような発想は、自殺を美化する者にありがちなことですが。しかし、吉野山のへびだとか、生きることが死ぬことだとかいうのは、さっぱり意味が分かりません。最後の静がどうしたとかいうのにいたっては、完全にお手上げですわ」
刑事課長は、言葉どおり、両手をバンザイしてみせた。
「静というのは、静御前のことでしょう」
浅見はしぜん、悲しそうな口調になっていた。
「なるほど、静御前ですか……しかし、それがどうだというのです?」
「自分のことを、『二人静《ふたりしずか》』の前シテになぞらえたのですよ」
「は?……」
刑事課長には、何のことやらますます分からない。
「前シテは、静御前の亡霊なのです。亡霊は失せて、生ある者へその場所を譲《ゆず》ったのかもしれません」
浅見は相手が理解できないような喋り方をしている。この壮大な復讐劇《ふくしゆうげき》が、他人になど分かってたまるか――と、最前の吉野署長の言葉を借りて言いたいところだった。
刑事課長は、それこそ、亡霊でも見るような目付きになって言った。
「じつはですな、自殺した女性というのは、小学校の教師をしとったのですが、同僚の先生や、ともだちの話によると、ひと月前あたりから、若干、ノイローゼぎみのところがあったのだそうです。しかし、まさか自殺するとまでは思わなかったそうだが……昨日の午後、おじいさんが訪ねてきて、一緒に出て行ったのを、隣の奥さんが目撃しておりまして、その時、なんとなく沈み込んだ様子だとは思ったらしい。そのあと、若い男がやってきたりして、何かゴタゴタがあるのと違うか――思ったというのです。目下、その二人を特定して、事情聴取をしたいと思っているのですが、しかし、いずれにしても、遺書のあるれっきとした自殺ですからな、事件性はまったくありません」
名探偵の出番も、今回はありませんよ――と断言したい口振りだった。
下市署を出て、浅見は吉野山へ向かった。
見上げると、吉野奥山は花ならぬ、淡雪で薄化粧していた。浅見は麓《ふもと》の花屋で小さな花束を作ってもらい、助手席に置いた。
弁慶のママと隣家の奥さんの目につかないように、まっすぐ桜花壇へ行った。通りすがりに横目で見ると、勝手神社から曲がってゆく道に、警察官が何人か見えた。浅見は車の中で、首をすくめた。
桜花壇のおばさんは浮かぬ顔で出迎えた。やはり、吉野の人々は噂話に敏感だ。女教師の自殺は、この町の空気を雪よりも冷たくしてしまったらしい。
「あの、先程、水上さんのお母さんから電話がありまして、それで天川村の天河館いうのに、お嬢さんがいてはるいうのを教えて差し上げました。そしたら、そちらへ行かはるとか言うてましたけど」
「そうですか、それはよかった」
浅見は、おばさんとは対照的に、明るい声を発した。これで一つ、懸念は消えた。
「それで安心しました。僕もこれから天河へ行くことにします」
浅見はふたたびソアラに乗った。
吉野奥山へ向かう道の両側は、進むほどに少しずつ、雪の量が多くなってゆくように思える。
水上和憲が死んだ現場に、一人の老人の姿があった。車が接近しても、ひそとも動かずに佇《たたず》んでいる。
浅見は花束を抱き、車を出て行った。
「高崎さん」
浅見が呼ぶと、老人はようやく振り向いて笑顔を見せた。
「やあ、浅見さん、こんにちは」
「こんなところで、お寒いでしょう」
「なんのなんの、心頭滅却《しんとうめつきやく》すればですな」
浅見は老人と並んで立ち、崖縁に花束を供えて、長いこと祈りを捧げた。
「よく来てくださった、ありがとうございました」
高崎老人は祈りを終えた浅見に、深ぶかとお辞儀をした。
「やはり寒いですよ、車にお入りになりませんか」
「そうですな……」
高崎は少し思案して、浅見に従った。
運転席と助手席に並んで坐り、二人はしばらく正面の森の奥を眺《なが》めた。車内には、花の残り香がわずかに漂っていた。
「昨日、長原さんをお訪ねになりましたね。僕は少し間に合わなかった」
「そうでしょうなあ。あんたが来ると、話がややこしくなると思って、ひと足お先に失礼しましたよ」
「その結果なのですか? 彼女が亡くなったのは」
「そうとも言えるが……まあ、いずれはそういう結末になるしか、仕方のないことだったのでしょう」
「しかし、無残なことです」
「さよう、無残なことです……老人を責めないでください。これでも、わしにも人並みなこころはあるのです」
「ああいう方法を選ばせたのは、高崎さんなのですか?」
「いいや、すべてはあの人の選んだ道ですよ。悲しいが、立派な人でした」
「和春さんが愛した人だけのことはある――とおっしゃりたいのですか?」
「さあ、愛したかどうか……あれは、愛と呼べるものではなかったかもしれません。天河の気の中では、自分でも思いもよらぬ所業に走ることがあるものなのです」
「…………」
浅見は天河神社の薪能《たきぎのう》の夜、川島智春《かわしまちはる》と二人だけの、あの長い「瞬間」のことを思い出していた。あの時、浅見はたしかに、智春の「愛してます」という言葉を聞いた。声ではなく、心で聞いた。浅見自身、あやうくその心の声にこだましそうな精神の震えを感じたのだ。それに耐えたのは、自制心の強さというより、臆病《おくびよう》のせいだ――と、浅見はむしろ恥じている。
「しかし、長原敏子さんは、心の底から和春さんを愛してしまった。そして和春さんの子を宿してしまった。それが悲劇の始まりなのですね」
「たしかに……」
高崎老人は目を閉じて、頷いた。
「そのとおりですが、そのことは誰が悪いのでもない。だから、生まれた子――和鷹を引き取ることによって、長原さんとの関係は消えるはずだったのです。長原さんにはそれなりのことをしました。ただし、一つだけ、約束したことがありましてな」
「それは、和鷹さんの行く末について、ですね?」
「ほう……」
高崎は感嘆の声を上げて、浅見を見た。
「あなたはどういう頭脳をしておられるのですかなあ……その分だと、今度の出来事のすべてをお見通しなのかもしれませんな。いかがです?」
「ええ、たぶん……じつを言うと、和鷹さんの出生の秘密を知るまでは、謎だらけだったのです。しかし、そのことを知ってからは、謎だった部分が、次々に消えていったと言ってもいいでしょう」
「ではお聞きするが、和鷹の死は?」
「もちろん毒殺です。雨降らしの面に塗られた毒で亡くなったのです」
「では、宗家の死は?」
「自殺です」
「ほほう、あなたは、宗家は自殺などという、不名誉なことはしないと言われていたのではありませんかな?」
「ええ、あれは水上家……ことに秀美さんへの配慮からそう言いました。真相は、宗家は自殺された……それも、あたかも殺されたように見せ掛けて……つまり、不名誉を避けるために、そうされたのです」
「なるほど……」
「一つだけ、どうもはっきりしないのが、川島氏を殺害した事件です。あの人をなぜ殺さなければならなかったのか、それは高崎さんにお訊きしたいですね」
「やりすぎだと言われるか?」
「ええ、そう思います」
「たしかに、今ならそう思うでしょうが、あの時は、相手の素性がまったく分からなかった。単なる恐喝者にしか見えなかったのですよ」
「川島さんは、いったい何が目的で、どういう現れ方をしたのですか?」
「とつぜん、ですな。とつぜん宗家のところに電話をかけてよこして、長原敏子さんの代理として会いたいと言ったのだそうです」
「ずいぶん唐突ですね」
「さよう、唐突だが……じつは、それ以前に長原さんのほうから再三再四、電話はあったらしい。水上流宗家《すいじようりゆうそうけ》の継承問題について、とかくの噂があるが、ほんとうかどうかという詰問だったようです。その頃、エセ消息通のあいだで、宗家を和鷹ではなく秀美に継がせるというデマが流れていたことは事実なのです。それを長原さんは恐れた。昨日会ったとき、長原さんは『もし和鷹をないがしろにするようなことがあれば、過去のスキャンダルを洗いざらいぶちまけるつもりだった』と言ってました。それに対して宗家は『そんなことはない』と言うしかなかったのだが、それを長原さんは、女と侮って、軽くあしらわれたような受け止め方をしたのでしょうかな。そして、川島さんに五十鈴を託して、東京に乗り込んでもらったというのが真相です」
「それを……それだけのことなのに、川島さんは殺されたのですか」
「むごいことをしたとおっしゃるのは当然です。結果だけを見ればそのとおりなのだが、わしとしては精一杯のことをしたつもりでしたよ。さっきも言ったとおり、川島さんのことは、単なる恐喝者としか思えなかった。長原さんがあの男に五十鈴を託して、水上流を恐喝しようとしているようにしか思えなかったのですな。もっとも、長原さんの話によると、川島さん自身は詳しい事情は知らなかったようですがね」
「しかし、もしそれが事実だとすると、川島さんが長原さんの使者の役を引き受けたのは、なぜなのでしょうか?」
「そのへんの細かい事情は、わしにもよく分かりません。長原さんの話によれば、あの数日前、長原さんは大阪で偶然、川島さんに会って、その瞬間、川島さんに使いの役を引き受けてもらうことを思いついたのだそうですよ。なんでも、あの二人は子供時代にきわめて親しかったらしい。その関係なのか、川島さんは長原さんの頼みを二つ返事で引き受けたということでした」
「そんな思いつきのようなことで……」
浅見はその結果の無残さを思って、眉をひそめた。昔の淡い恋心が作用したかどうかはともかくとして、川島にしてみれば、おそらく、子供のころのいたずらにも似た軽い気持ちで、その重大な任務を引き受けたに違いない。いや、長原敏子にしたって、よもやあのような悲劇が待ち受けているとは考えもしなかっただろう。
「あの日……」と、高崎老人は平板な口調で言った。
「川島さんは大阪での商用をすませたあと、長原さんと落ち合い、五十鈴を受け取って東京へ向かったのです。長原さんは宗家に電話で、代理人を向かわせたことを言い、会見場所として、一方的に新宿のホテルと時刻を指示した。宗家は驚き、当惑したでしょうな。宗家に相談されて、わしが宗家の代わりにその男と会うことを決めた。いや、どう対処するかも、そのとき瞬時に決めましたよ。水上流一門の名誉を守り、崩壊を防ぐためには、寸時たりとも、恐喝者の跳梁《ちようりよう》を許しておくわけにいかない――と、ただそのことだけを一途《いちず》に思いました」
高崎老人は、その時の憎悪と恐怖を思い出したのだろう。悲しい中にもいくぶん穏和さのある阿古父尉《あこぶじよう》の顔が、救う余地のない悪尉《あくじよう》の顔になった。
「ホテルで会うやいなや、あの男、五十鈴をチラつかせて、『分かっていますね』と言いおったのです」
「分かっていますね――とは、何を分かっていると?……」
「いや、それは言わずに、ただ『分かっていますね』と言うばかりで、わしは憤怒で体が震えました。しかし、うわべはしごく友好的に振る舞って、さり気なく世間話のようなことを話し、そうして、別れる少し前に、栄養剤のカプセルを飲み、川島さんにも勧めたのですよ。川島さんはなんの疑いもなく、わしの与えたカプセルを飲み下しました」
「なんということを……」
浅見は絶句して、顔を背け、フロントグラスの向こうの、淡雪に覆われた吉野の山々に視線を向けた。老人の悲痛な表情を見るにしのびなかった。
川島本人には何の悪意もなかったのだ。川島は長原敏子の「代理人」として、意味もよく知らずに、結果として、水上家を脅す役割を担ったにすぎない。「分かっていますね」とは、長原敏子にそう言うようにと指示されたとおりの台詞だったのだろう。死が訪れる瞬間まで、川島は自分がなぜ死ななければならないのか、まったく理解できなかったに違いない。
そのことは、川島が死んだあと、しだいに事実関係が明らかになるにつれ、高崎老人にも分かったはずだし、長原敏子もまた、思いがけない成り行きに仰天したことだろう。高崎はもちろん、長原敏子もまた、自分の犯した取り返しのつかない愚行を悔いたに違いない。だが、いくら悔いても、失われた人のいのちは償うすべもない。
長い時間が流れた。鳥も飛ばず、風もなく、無粋なエンジン音だけが、吉野山の静謐《せいひつ》をかき乱していた。
「さて、温まらせていただきました。そろそろ失礼しなければなりますまい」
高崎は懐中から、カプセル製剤の入った小ビンを取り出した。
「そうそう、念のため、もう一つだけ、浅見さんに質問しておきましょうかな」
ビンの中から、カプセルを二個、掌の上に転がして、言った。
「宗家が、可愛いお孫さんである和鷹を殺すわけがないと思うが、それをどう説明なさる?」
「宗家は和鷹さんを殺していませんよ」
浅見は即座に答えた。
「ほう……しからば、何者が殺しました?」
「長原敏子さんです」
高崎老人は、ギョッとして、穴のあくほど浅見を見つめた。
「実のわが子を殺しましたか」
「そうですね、結果的にはそうなりました。しかし、長原さんが殺そうとしたのは、和憲さん、宗家だったのでしょう。和春さんが急逝《きゆうせい》した時、長原さんはてっきり、殺されたものと思い込んだのですね。おそらく、世阿弥《ぜあみ》と元雅《もとまさ》の悲劇が頭をよぎったに違いありません。いずれはわが子までが……と思い込んで、そうなる前に宗家を殺そうと思ったのです。宗家が死ねばわが子は水上流一門の総帥《そうすい》です。そうして、天河神社の薪能《たきぎのう》に、水上宗家が雨降らしの面を使うと聞いて、展示中の面に毒を塗った。だが、雨降らしの面は、その時には使われず、なんと、五年の歳月を越えて、わが子、和鷹さんが宗家の座を譲り受けるべき、『道成寺』の晴れ舞台で使われたのです。そして長原さんは、その雨降らしの面を抱いて、死んだ。谷川の中に面を置いたのは、毒と一緒に、すべての過去を流し去るためとしか考えられません」
高崎老人は俯《うつむ》いていた。浅見が話し終えても、その姿勢を続けている。
やがて、「くっくっ……」という含み笑いのような声を出して、顔を上げた。声は笑っているのに、顔は引きつっていた。
浅見は一瞬、高崎が毒を飲んだ――と思った。
エピローグ
「まさに浅見さん、あなたの言われたとおりですな」
老人は、いっぺんで、さらに老け込んだように、嗄《しわが》れた声を出した。
「和鷹が倒れた時、宗家も私も、何が起こったのか、すぐに分かりましたよ。あの女……長原敏子さんは、われとわが手で、大事な息子さんを殺してしまった。だが、そのまま放置しておけば、そのことすら、宗家の仕業だと思い込んで、今度こそ、夜叉《やしや》のごとくに狂うであろうと思われました。宗家はそれを惧《おそ》れ、雨降らしの面を持って吉野に長原さんを訪ねたのです」
老人の声は、ついにか細く、消え入らんばかりになった。
「宗家は長原敏子の罪を責め、その上で自らの罪を処断されました」
そう言い切ると、もはやいのちそのものが燃え尽きたとでも言わんばかりに、高崎老人は語り終えた。
物憂く動いて、高崎はドアを開け、外へ出た。
浅見もつられるように、反対のドアを開けた。
「浅見さん、あなたもお一つ、いかがですかな?」
高崎は茶目っけのある目で浅見を見て、カプセルを一つつまみ、差し出した。
「こんなものでも、なかなか、体によろしいようですぞ」
浅見は近づいて、カプセルを掌に受けた。見た印象では、栄養剤か風邪薬のような、何の変哲もないカプセルであった。
高崎は、口の中にカプセルを放り込むと、枯れ草の上に積もった雪を、手で掬《すく》い取って美味そうに食べた。
「いかがです?」
高崎は興味深い目で、試すように浅見を見つめた。
浅見は心臓が高鳴った。
新宿で死んだ川島も、まさしく、こうしてカプセルを飲んだのだ。
「頂戴《ちようだい》します」
浅見は高崎を真似《まね》て、雪でカプセルを飲み下した。喉《のど》から食道を、冷たい感触が流れ落ちてゆくのを感じた。
「うんうん……」
高崎は満足そうに頷《うなず》いた。
「秀美のこと、よろしく頼みました」
それから、時計に視線を落とし、「あと、十四分か……」と呟《つぶや》くと、肩をそびやかすように歩きだした。
「吉野山、雪の旅路の、末を見むと、ひとり静かに、失《う》せにけり、ひとり静かに、失せにけり……」
謡の一節なのか、それともアドリブなのかは、浅見は知らない。それにしても、疲労|困憊《こんぱい》しきったようにみえる高崎の、どこにそれほどのエネルギーが残っているのか――と思わせる、驚くべき大音声《だいおんじよう》であった。
桜の枯れ枝に載っている雪を、ハラハラと散らせるほどのひびきが、吉野全山に朗々とこだました。
自作解説
内田 康夫
僕と角川書店の大和氏の二人が、僕のソアラで天川《てんかわ》への道を辿《たど》ったのは一九八七年十一月、時雨《しぐれ》模様の底冷えのする朝であった。吉野《よしの》や麓《ふもと》の下市《しもいち》町あたりでは雨だったのが、谷が深くなるにつれて雪もよいになり、天川村に入るころには、谷底の露岩のそこかしこに淡雪が積もっていた。そのとき見た天川谷の風景が、そのまま『天河伝説殺人事件』最終章の描写に生かされている。
当時、天河神社は改修中で完全な静謐《せいひつ》というわけにはいかなかったけれど、それでも境内《けいだい》に一歩足を踏み入れた瞬間から、言いしれぬ「気」のようなものが漂っているのを感じた。古来、人びとが神域だとか神籬《ひもろぎ》だとかいう空間を特定する際には、ただやみくもに適当な立地場所を定めたとは考えられない。それぞれ何らかの条件があったにちがいないと思うのだが、その重要な条件の一つに、この「気」があったのではないだろうか。
大峰《おおみね》山系の急峻な山肌を吹き下ろす「天の気」、あるいは天川谷から吹き上げる「地の気」が谷間《たにあい》で淀み、「神気」とでも呼ぶべきものに凝縮する。ある日この谷にまぎれこみ、天と地の「気」を感得した異能者がこの地を神域と定めた――。ここに佇《たたず》み天川谷の歴史に遠く想いを馳《は》せると、そんな光景が脳裏に思い描けそうな気がするばかりか、自身、擬似体験のような感覚にとらわれる。
取材作業の過程でこういう体験をすることを、僕は「地に染まる」と表現したい。「地」とは「土地の気配」とでもいうべきもので、ガイドブックや資料に書かれているような、単なる地理的環境だとか産業だとか風俗習慣だとかいうのとは少し違う。それらをひっくるめたすべてのプラスアルファ――のアルファの部分の、つまり論理的に説明のつかない「何か」に触れ、取りこまれた状態に陥《おちい》ることが、いわば現地取材の醍醐味《だいごみ》であって、そういう精神現象が生じるような取材を期待しながら旅をするのである。
戸隠《とがくし》で、遠野《とおの》で、津和野《つわの》で、高千穂《たかちほ》で……さまざまな土地で、僕はしばしば得体の知れぬオーラのような「地の気」を感じ、それを作品の上に投影してきたが、天河ほど強烈な「地の気」を発散する場所はほかにない。わずかに信州戸隠神社三社のうち、奥社の神域にそれに近いものを感じる程度だった。
さて、その日天河神社で見た奇妙な三角形の鈴のお守りが、この物語の起承転結それぞれの場面を彩る効果的な「小道具」になった。そして天河神社の取材を終え、参道を帰る道すがら立ち寄ったうどん屋で、たまたま出会って話を聞いた二人連れの若い女性の一人のイメージを、そのままヒロインのキャラクターづくりに借用した。「川島智春」は彼女の実名である。この二つの「出会い」から、上下二巻にわたる長い物語が、僕の頭の中で胎動を始めたのである。
『天河伝説殺人事件』は僕の作品群の中では出色の出来だった部類に入ると思う。伝説、歴史、宗教の世界を背景に、能楽という特殊な社会を舞台に、人びとの愛憎が複雑に絡みあうストーリー――と、まあ惹句《じやつく》を書くならさしずめこうなるだろう。
高層ビルの前で死んだ紳士。
能の「道成寺《どうじようじ》」の鐘《かね》の中で死んだ御曹司《おんぞうし》。
この二つの、一見、まったく無関係と思える殺人事件の糸を辿《たど》ってゆくと、その先に天河があった――。そういう筋書きはよく使われる手法であって、さほど珍しくもないかもしれないけれど、二つの糸の錯綜《さくそう》の中に描かれる千年の歴史的背景や人間模様と、事件との結びつきには必然性も説得力もあると、ひそかに自負している。
圧巻は何といっても道成寺の鐘の中での御曹司のサドンデス。この「事件」の中で、僕は観世元雅の怨念《おんねん》や犯人の憎悪、被害者側の苦悩などを描くことによって、人間の愚かさ美しさ悲しさを集約的に表現したつもりだ。宗家と孫娘の「二人静《ふたりしずか》」から悲劇にいたるまで、能楽堂での描写にはわれながら迫力がある。御曹司の父親が弟子たちが医者がジャーナリストが観客が、それぞれの立場で右往左往するありさまに、読者も共感を覚えてくれたと信じている。推理小説といえども「小説」である以上、単に「事件がおきた、謎を解いた――」というだけの「おはなし」であっていいはずがないというのが僕の持論だけれど、そういう意味でも、この作品の物語性にはある程度、満足のいけるスケールと奥行きの深さがあった。
そして何よりも、『天河伝説殺人事件』は、お読みになってお分かりのとおり、本格派の推理小説である点を強調したい。トリックにも謎解きにも論理性や整合性がきちんと備わっている。カドカワノベルズ版本書のカバーには「伝奇ミステリー」と銘うってあるけれど、したがってあれは正しくない。ついでにいえば、実業之日本社刊『日蓮伝説殺人事件』の惹句《じやつく》が、「歴史ミステリー」となっているのも困ったものだ。信じられないことかもしれないけれど、そういう「肩書」は著者の関知しないところで進行し、上梓《じようし》されてから「あっ」と気がつく仕組みになっている。題名が「伝説」だの「日蓮」だのとなっているからといって、それはあくまでも材料をそこに求めただけのことにすぎない。僕が意図したところはあくまでも本格なのだし、そういう肩書や惹句によって読者を惑わしたとすれば、まことに申し訳ないことである。
読者からのお便りに『天河伝説殺人事件』を読んだのがきっかけで、天河を訪れたというのがいくつもあった。中には天河へ行って人生観が変わった――などというのもある。ほんとうにそうなるものかどうか、保証のかぎりではないが、天川村はふつうのガイドブックにはほとんど載《の》っていないような辺鄙《へんぴ》な場所にあるので、たしかに、この本との出会いがなければ一生、その存在を知らずに過ごしたかもしれない。
天河はUFOの舞い降りる場所――という話も聞いた。UFOを目撃したとか交信したとかいう噂をまことしやかに話す人もいた。僕は素直でないから、そういうのは信じないことにしているけれど、前述したように、天と地の「気」を感じることは出来ると思う。もっとも、それは森林浴的効果だといってしまえばそれまでだけれど……。いずれにしても天河はもういちど行ってみたい場所の一つである。そして『天河伝説殺人事件』は、作者の僕ですら、もういちど読んでみたくなった作品の一つだ。高崎老人が吉野の山々に朗々と謡を響かせながら消えてゆくラストシーンは、伝説の世界が能楽の舞台を借りて現代に再生されたようなこの作品の、複雑にもつれた糸を美しく収斂《しゆうれん》させる全編の終焉《しゆうえん》にふさわしく、不思議な余韻を心に残した。
平成二年四月 本書はカドカワノベルズとして昭和六十三年四月に刊行されたものです。なお、本書はフィクションであり、実在の個人・団体等とは一切関係ありません。(編集部)
角川文庫『天河伝説殺人事件(下)』平成2年6月10日初版発行
平成13年10月20日51版発行