嘘つきみーくんと優しい恋日先生
入間人間《いるまひとま》
イラスト†左
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)恋日《こいび》先生
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)現実|逃避《とうひ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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ぼく自身に関してはもはや、
予想さえ必要ないほどじさつの容疑こうほに祭り上げられている。
うそだけど。
死のうとしないことが、ぼくと先生の約束だから。
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うそつきみーくんと優しい恋日先生
四月の屋上は、ぬるいび風だらけだった。
照りつける昼下がりの日差《ひざ》しは、春度がひじょうに低い、夏気味の仕様。
肌と衣服のすきまを障害物競走する風も、おだやかに熱がこもっていて昼寝向きじゃない。ぼくを通過した空気の群れは、手と、先生から借りた漫画の先にある金網《かなあみ》フェンスの穴ぼこを規律無く飛び出していった。左は屋上の出入り口の壁があり、右はフェンスに挟まれた袋小路の状態である為《ため》、風が収束して勢いが一層強まっている。ぼくもその勇ましさを見習おうと、こころ(漢字で書くのもおこがましい)にちかいを立てた。うそだけど。
「ここと……ここにも」
ぼくは視覚と触覚の両方で、正面のフェンスのきずを確かめる。金網の結び目がとだえている箇所に指をおいて、押したり引いたりしてもてあそびつつ、その先の山林を風景として楽しむ大名気分を味わった。うそだけど、さて、これはどういうことか。赤い細線から軽く血が、血が血が血がにじむ。なめておいた。完璧《かんぺき》。
ぼくの頭頂より少し高めの位置で、金網が網を辞めさせられている。部分的ではあるけど、フェンスを手の平で強めに押すとへこみが大きい。もう少し網目を破壊《はかい》すれば、わざわざ三メートル以上あるフェンスをクモとして踏破《とうは》しなくても空中遊泳に挑戦できてしまう。下は裏庭の花壇《かだん》で、先生が花を育てて管理している。けど今は摘《つ》み終えたのか土しか見当たらないから、大輪の赤い花を咲かせるのにふつごうはない。
「……だれがやったんだろう」
どうみても人の手が加えられているフェンスに、思わずつぶやいてしまった。けど、速度ちょうか(先生がこないだ、これでけいさつに怒られたそうだ)を起こしていそうな風が耳と髪を騒々《そうぞう》しく駆けぬけ、耳鳴りに似た音がつぶやきをかき消した。
屋上の出入り口から回りこんだ陰に位置する場所で工作に励んでいるあたり、秘密の作業であることはまちがいない。フェンス全体を見渡しても黒ぬりはまだまだ現役で、ろうきゅう化によるさびつきもない。つまり破壊は人為的ってやつ。
ようはこの病院にいるだれかが、じさつしようとしてがんばってるわけだ。
「……だれかな」
アメさん(いつもあめ玉で頬《ほお》がふくらんでるおばさん)、ジャラおさん(将棋の駒《こま》がジャラジャラしているお隣《となり》さん)、ヤマナさん(広間のテレビを不法占拠する人)と、病院内の知り合いが犯人として悪役の顔を作りながら脳裏に浮かぶ。
筆頭生(借りた漫画から得た言葉)であるぼく自身に関してはもはや、予想さえ必要ないほどじさつの容疑こうほに祭り上げられている。
うそだけど。
死のうとしないことが、ぼくと先生の約束だから。
厳守するかは、さておき。
右手の紙の束が風にばさばさとめくりあげられ、セクハラ被害を音でうったえてきた。多分うそだけど、そろそろ院内に戻ることにした。
フェンスのことは、様子見することに決めながら。
扉を開けて、階段をおりて、ぼくは病院の空気を思いっきり吸い込んだ。
ここは、町の隅に立てられたせいしん(漢字で書くのも以下りゃく)病院。
狼《おおかみ》(に大事なものを食べられた)少年は小学校に通わず、入院して退屈とたたかう毎日。
監禁され終えてから二ヶ月が経《た》つ間。ずっと、ぼくの敵は時間だった。
そしてぼくは屋上で、人がゴミのように見えるかという実験に明けくれて暇を潰《つぶ》していた。
うそだけど。
「……今度、じしょでうそって字を調べとこう」
今日は恋日《こいび》先生が休憩に来なかったので、漫画を直接返しに行かないと。
「……いいですか、誤解をなさっているようですがウチは病院です。教育施設でもなければ隔離《かくり》施設でもない、治療《ちりょう》施設です。貴方《あなた》は足を骨折した患者に力学を教える病院をご存じなんですか? ないでしょうあったらアタシが受験前に入院してましたよ本当に! お孫さんに適切な教育を施《ほどこ》すのは保護者となったあなた方の役目です、こちらへ苦情を持ち込まれても対応しきれません。……だから、分からない人ですね、ウチは更生施設じゃないんです。それにですね、記憶《きおく》が回復したら、お孫さんの精神は本当に再起不能にあんる可能性が高い。それでも治せと仰《おっしゃ》りますか? 残念ですが、貴方が夢見ている、目に入れても痛くないかつてのお孫さんを取り戻すことは不可能です。貴方の都合で人を変えられるとは思わないで下さい。……は? みーくんはどこにいるかって? お孫さんの交友範囲は、それこそアタシの管轄《かんかつ》か外れてるでしょう。探してると仰られても、あの子が見つけるのは無理です。自分で拒絶してる部分が見受けられますから。ええすいません、こちらも業務が山の如《ごと》く押し寄せているわけであなた方の手を借りたいほどなんです。……はい、はいでは失礼します」
「ガッチャン!」と効果音を口に出しながら受話器を叩《たた》き付け、電話コードを引っこぬいてぐるぐると本体に巻きつけ、「ほあー!」と部屋の隅っこへ投げつけた。がっしゃんがちゃがちゃ。意外と攻撃的《こうげきてき》な人だったんだなぁ。後、わりばしをへし折ってから青い椅子《いす》の背もたれをきしませる。電話がはりついていた右の耳を手の平でぬぐって、肩をぐるりと回す。左手は右肩をもみ、何とも相互補助だった。うそだけど。
「新米に何を期待してんだか……美味《おい》しそうな表現ではあるけど」
「……どういう納得の仕方なんですか」
「ありゃ? いつからいたのさ」
先生がようやく、入り口で突っ立ているぼくに気づいた。
本棚の中身以外は白に埋めつくされた部屋の窓際《まどぎわ》に、先生の机はある。机上には割ってから更《さら》に折れたはいき物寸前のはしと、未開封のお弁当。それと、先生が育てて病院とかに飾った白い花が、微妙にしおれていた。
「先生が一番盛り上がる前あたりからです」
「あーあの時からー? マジでちょー恥ずかしい」
ぼくのいい加減なうそに、呆《あき》れながら適当な対応をしてくれる先生。お買い得とシールの貼《は》ってあるお弁当を開封する。それから手招きされたので、ぼくも椅子に腰かけ、先生と向き合った。
「今日も屋上にいたんでしょ、髪が風で乱れてる」「はい」「ホントは立ち入り禁止なんだけどね」嘆息して、先生が折れたはしを握る。
「君も飽きない子だ、あんなとこに面白《おもしろ》いものでもあるの?」破壊されかけてるフェンスとかなら。「ただの日光浴です」「とか言ってアタシを待ってたりしたの?」「バレました?」「嘘《うそ》つけ」そっちがバレてた。ねめつけられる。
「君はくだらないことにじゃなくて、もう少し、大事なところで嘘をつきなさい」
変わったお説教をされた。けどそれが、ぼくの人生を変える一言になったと後で知ることになるのである。この時はぼくはいつか重要で、ちめい的なうそをついて度肝《どぎも》とかぬかしてやろうと硬い決意を手にしたのだ。まぁ、うそだけど。
それはさておき、先生は決して、ぼくを名前で呼ばない。『君』とか『少年』とか『おじさま』とかだ。一つうそだけど、ありがたいのは確か。
先生はスリッパを脱いで素足をさらす。足の爪《つめ》が少し伸びていた。
「今日も元気そうな君にご褒美《ほうび》。美味しいお菓子をあげる」
満面のえがおの先生は、お弁当に入っていた青色の一口ゼリーをぼくに手渡す。ふたを見ると貧血味というオシャレな名前が付けられていた。うそだけど。
食欲の湧《わ》かない色をひっくり返して眺めたり、光に透かしてみたりする。そうやって食べるのを先送りにしながら、ぼくは一つの質問をした。
「先生」「うん?」
「今の電話、なんですけど」
みーくんって言ってましたけど、マユちゃんですか?
先生はポテトサラダをそしゃくしてから、「内緒《ないしょ》」と返事をした。
「君の人生が第三部当たりに差しかかったら教えてあげる」
「……あの、先生の時間感覚はぼくには難しすぎるんですけど……」
「んー、砕いた表現ならコミックスで言う十二巻辺り?」
だから、分かんないっつーの。結局、教える気がないんだ。そう思うことにした。
「…………………………………………」
マユ。みそのマユ。苗字の漢字は、本人も書けないって言ってた。
ぼくのお父さんに誘拐《ゆうかい》された女の子。怯《おび》えるときも眠るときも泣くときもみーくんの側《そば》から離《はな》れなかった子。誘拐犯の息子を許してくれた子。お父さんに一番気に入られていた子。
そしてぼくたちの中で最初に壊《こわ》れた子。
ぼくはあの子の人形になった。ぼくはあの子が怖かった、ぼくはあの子を見捨てなかった。
だからだけどそれでもあの子はぼくを覚えていなかった。
ぼくがこの病院で、家の地下じゃなくて外で、彼女と出会ったとき。
『だれですか』『話かけないでください』『ぼくだよって、だから知りません』『……何度言われてもそんな名前、知りません。それに、何で吐《は》くんですか?』
うそだけど。ぼくは本当は君のこと知らないし、君もぼくを知らないんだ。
ごめんなさい。
名前も満足に名乗れなくて。ぼくがまず、ぼくのことを知らない。
「う」と「あ」と「ぎ」が混合した。口から漏《も》れる醜悪《しゅうあく》な音。歯を食いしばっても、呻《うめ》きが止まらない。沈んでる。こころの底を無理矢理|覗《のぞ》かされる。他《た》の誰《だれ》かに眼球を使われるようなこの感覚は、何度経験しても慣れない。
色々備わってるのに、ぼくがグズだから使いこなせないから捨てられているもの。
山を成し、掃除も行き届かない汚臭《おしゅう》の集《つど》い。
喉《のど》が圧迫される。最近、呼吸の仕方を忘れがちになる。呼吸をしながら瞬《まばた》きをして手足を動かすことがちぐはぐになる。ぼく、人間のやり方が難しいです。
だから一個ずつ。まず、手と足を取る。なかったことにする。次に、日を忘れる。
さあ、呼吸しなきゃ。
すーはーー、ー、ー、すすすは。
下手くそながらできた
安堵感《あんどかん》で、ぼくは目の前が真っ暗になる。
何も見えなくなるぐらい、ぼくは生きるのを止めていた。
……というか、ぶつり的に塞がれていた。
鼻がひくつく。白衣の匂《にお》いがした。
接続がようやく再開される。
全部取り戻して、気づけば。
汗とその他が入り混じった顔は先生にくっついて。
その先生の手に、背中をあやされていた。
「はい、深呼吸して。澱《よど》んだもの全部吐き出す」
指示に、素直に従う。息とこころを全部投げだして、身体《からだ》を震《ふる》わせた。
今度は、容易《たやす》く出来てしまった。手足はぶらぶらしてるし、瞬きも、少しだけ。
手の中でゼリーが潰れていることに気づく。指の傷に染《し》みたけど、冷たくて気持ちいい。
正面から抱かれてるから世界は不規則に回転し、嘔吐感《おうとかん》が押し寄せる。鳥肌もひどくて、寒気が春の陽気をぬりつぶす。先生もきづいていないぼくの弱点。
身近な人にこれを知られるのはちめい的だと、頭の何かが教えてくれている。
先生がハンカチで、汗を拭《ふ》き取ってくれる。何でか、目とか鼻まで荒っぽく拭かれた。
「今の君がしなければいけないことは、朝起きて夜眠る生活習慣を身につけること。自分のことで手元を一杯にして、人のこと考える余裕は、まだ保たなくていいから」
ああ、全部見抜かれてる。ぼくが何を考えてたか、筒ぬけだ。
大人は本当にすごい。お父さんも、人が嫌がることを的確にこなしていた。
先生とお父さんは、ぼくにとって大人で、けどまったくの別物だった。
「先生」
……どうせ、うそなんだろうけど。
「んー?」
「漫画、新しいの貸してください」
ぼくはこの人がかなり好きであることを、少し認めた。
「これなんてどう?」
「はぁ」先生の広げた漫画には世紀末の救世主が限りなく無縁そうな、見目麗《みめうるわ》しく柔らかい輪郭の女の子がページ一杯に跳梁跋扈《ちょうりょうばっこ》していた。
「こういう漫画がこれから流行《はや》ってくと予想してるの。君も流行を先取りしときなさい」
「いいですけど……」クラスにいた、『これ絶対流行るって思ってたし』とか勝ち誇る同級生(肥満児)の姿を思い出す。うそだけど。
「ん、不服かえ?」
「そうじゃなくて、眠剤ください」おっと、せんもんようごがばしばし飛び出た。せんもんか?
「この間配ったでしょ」
「あれ、ぼくにはほとんど効かないみたいなんです。そのポッケで患者の要望をかなえてください」
「アタシはドラちゃんじゃねーっての……仕方ない、どうしてもって時に飲みなさい」
というわけで、所望した睡眠薬《すいみんやく》と漫画を小脇《こわき》に抱えながら退室した。二階の奥にある先生の部屋から廊下を少し移動し、階段を上る。その間、袋に入った粉を揺すり、音を楽しむ。何だか煎《い》った小麦粉みたいだけど、これが誉《ほま》れ高いかがくといがくの結晶なのだろう。しかし、いまにも香《こう》ばしそうな色をしてるなぁ。
薬をポケットにしまい込み、三階の廊下を歩く。左手の窓が視覚情報を受信している景色には山と電線の鉄塔がそびえている。どれも背が高いけど、登るのは簡単そうに見えた。地下室の天井《てんじょう》を見上げたとき、容易く触れられそうだったって思ったのと同じ感覚だ。
ナースステーションを通った先の右手には病室が続いて、開けはなった鍵付《かぎづ》きの入り口からは見知った人もちらほらと発見できた。食堂でいつもぼくに話しかけてくるお爺《じい》さんと目があったので、ぎこちなく頭を下げて、歯がまだまだ現役の笑顔を返されながら通過した。
ぼくの病室は三階の、非常階段の側にある。そしてその少し手前、右に存在する広間。喫煙所《きつえんじょ》とテレビ部屋に、いつも通り座っている人がいた。
ヤマナさんだ。漢字は知らない。姓名どちらなのかも不明瞭《ふめいりょう》だ。
手入れの行き届いた髪をたらして、清潔なパジャマに身を包んでいる。けれど何より、デタラメに爛々《らんらん》とした光彩を放つ眼球が、ヤマナさんのすべてを印象づける。
年齢は、この病院ではぼくに次いで若い(自称)。多分、じゅうはちくらいだ。
今日も今日とて、ソファの位置をテレビの眼前に移動させて、目玉に画面を取り込むように凝視している。
ぼくはこの人がかなり好ましくないことを相当に認めている。一応、うそだけど。
「そこのしょーねん、カモナカモナ」
目を釘で刺し貫かれているようにブラウン管に視線を固定しなら、独り言の矛先《ほこさき》をぼくに向けて手招きをするヤマナさん。テレビの音量を前触れも無く最大まで上げて看護師さんや患者さんに怒られ、ぼくまで共犯にされて以来、この人とテレビ鑑賞《かんしょう》するのはぼくの音楽の成績ぐらい得意科目じゃなかった。うそだけど。
「お、あたしを警戒している。いいぞいいぞしょーねん、君は人間嫌いになれる素質ばりばりだ」
人を勝手に品評してから、「担保《たんぽ》」と言ってリモコンをノールバックパスしてくる。勿論《もちろん》、ぼくの斜め上をフライトして床に不時着した。ぼくは、無言で拾い上げてから、時間を浪費する為に広間へ入り、ソファに腰かける。ヤマナさんとは二人分ほど間を空けて。後ろを確認すると、喫煙所には二人の中年が座って煙を吐き出していた。
「そこのしょーねん。しょーねんのそこってーと何かやらしいね」
ぼくが座った途端、ヤマナさんはそう発言して楽しくなさそう笑う。ぼくは分からないフリをして「そこって何ですか?」などと首を傾《かし》げた。
「でさ、しょーねんはいつ退院すんの?」
ぼくの反応などまるで感知せずに、質問に移行するヤマナさん。その横顔からテレビへ目を向けると、貧乏兄弟が食い逃げして、焼肉屋から飛び出していた。
「特に予定はありませんけど」うそだけど。おじとおばに、二学期までには来いと言われてる。
「むしろいつ退院するのがしょーねんなのやら」
「特に規定はありませんけど」うそだけど。後、二年ぐらいかな。
「つか退院する気ある?」
特にその気はありませんけど。……どうしようかな、うそかまことか。
ヤマナさんはぼくを見ない。ヤマナさんは人を見つめない。たまに見上げたりする仕草を入れるのは、音を目で確かめられそうなときらしい。
「あるわけないよねー。あたしがないし。お互い人嫌いですからな。もっとも、あたしはどっちかって言うと人の付属品が嫌いなだけですが」
なかまなかま、と握手をヤマナさんの左手にねだられた。気にしないことにした。
「……ぼくとヤマナさん、双子でしたっけ?」
「およよ、おとぼけさんだな。レベルの問題を考慮《こうりょ》してあげたのに」
ヤマナさんの左手が引っ込み、頬がゆがむ。
「しょーねんの人生に比べたら、あたしなんかジャンケンで負けただけなのに泣き喚《わめ》くガキぐらいだもんねぇ」
ぼくは上に向かって貶《おとし》められる。ヤマナさんの日本語は継続する。
「そしてしょーねんは年の割に聡《さと》い。だから、外に出たがるはずないんだよ」
付け足すようにほめられた。画面では、追いかけてきた焼肉屋を撒《ま》くのに成功した兄弟が肩で息をしている。
「この病院の中ではさー、しょーねんも一患者に過ぎないよ。患者はただのしょーねんなわけだ。けど外に出たら、地元の犯罪に巻き込まれた少年を注目する輩《やから》がざっくざく出てくるよ、それも遠巻きにね。退院して小学校に通いだしたら表立っては苛《いじ》められない、けど絶対に孤立する。ガキはしょーねんを恐れたり嫌がったり両親が近づくのを許さなかったり」
歌唱のように、ぼくに予言を与えるヤマナさん。ぼくはそれが大体当たることを知っていた。兄が自殺してからの学校生活と、大して差は無いんだろう。
「しょーねんは外に出れば、必ず死にたがる生き物となってしまっているのですよ」
したり顔で決めつけられた。ぼくは数日前にテレビ番組を真似《まね》て「そーですね」と反応した。こういう件の会話が始まると、ぼくはどうしてか頭の中身が冷たくなる。そして自分の意見を言い出すと、熱くなる。それが嫌いだった。
何かに負けたみたいで。
ぼくは話題を押し返してやることにした。
「ヤマナさんの退院したくない理由は?」
「ふふふ、就職するのが面倒だからじゃないぜ」
誰も、何も、言ってません。この人に尋問するなら警察のおねえさんとかも楽だろうなぁ。
「ま、楽だからってのが一番の理由かもねー。こうして一日中テレビ見てても怒るのは看護士しゃんだけだし。楽だからでたくない、うーん、出たくないと思うから楽? どっちかな」
「たまに外とか出たくなるけど」と付け足し、瞬きを三十回ほど繰《く》り返す。睫毛《まつげ》が目に入ったらしく、「ぎゃうぎゃう」と悶《もだ》えだす。
「知っちる? あーたーしーってさ、鬱病《うつびょう》なんだって。あたし鬱病、鬱病イズあたし」
今更その話ですか、と肩をすくめた。うそだけど。
睫毛を取り終えたのか、指にいじくられて涙目となった目玉をまたテレビに引き上げる。
「それを認めたくない為に明るく頑張ってるんだって。あたしちょー健気《けなげ》じゃん。惚《ほ》れてくれ」
面倒そうに笑うヤマナさんの左手がぼくに突き出される。指先がうごめいて、頬を掠《かす》める。
「ぼくはかいしょうなしですよ」
「なはは、冗談だって。あたしは人が嫌いなんだっての。それにしょーねんは坂下《さかした》センセのものだからねー、それぐらいの分別は付いてますよあたしゃ」
人差し指が、ぼくのこめかみをはじいた。分別ってなんだろう。今度は本気で不明。
「あたしは自分の弟ちゃんで我慢しときますよ」
「いたんですか、姉弟」
「まねー」と金の英語のような発言で肯定するヤマナさん。少しぶっきらぼうな物言いだった。何か触れたくない事柄なのかな。
「でさ、しょーねんは何病なん?」手早く話題を振り、振り込ませはしなかった。
「…………………………………………」
自分アレルギーなんて、どうだろうか。
それから夕飯の時間まで、ぼくはテレビを見て時間を圧殺した。
ヤマナさんと一緒《いっしょ》にいた気は、しなかった。
屋上に作られたじさつ用フェンスを発見してから三日ぐらいは経った。あまりに退屈な病院暮らしだから、一日を経過させるのも大変だ。そう先生に報告したら頭を小突かれた。『社会人に喧嘩《けんか》を売るんじゃありません』だそうだ。
……さて。その頭に手をやりながら、ぼくは昼ご飯の前に、屋上に足を運んでいた。扉の取っ手を捻《ひね》り、風を押して開く。屋上は相変わらずいい天気で、風は元気だし人気が無い。洗濯物《せんたくもの》を干しに看護士さんが来ることもないから、居心地のよさは格別でもあった。風が耳の側を通る、ぼやけた音も好きだし。
屋上の真ん中で一度伸びをしてから、右側へ回りこむ。お目当ての場所に到着する。損壊中のフェンス。屋上のきず。
日射《ひざ》しに目を細めながら、きずの進行を確かめる。そのきぼは男子ばりに三日でかつもくするほど成長していた。うそだけど。
ただ、着実に綻《ほころ》んではいる。やっぱりこれは、じんいてきということを再認識。
「作業が終わったら、飛び降りるのかな」
金網フェンスに指を重ねて、至極《しごく》当然なことをつぶやく。
他に理由はないと思う。屋上から落下するのを防ぐ障害物を破壊するなら、それ以外の動機はないんじゃないだろうか。ぼくの単純化されてしまった頭では、それが限界の発想だった。
でももし、飛び降りて死にたいというなら、この場所に決めた理由は分かる。
窓はほんの少ししか開かず、割ることも困難だ。
病院で飛び降りたいなら、ここを選ぶしかない。
その気持ちが分からないでもない。
「……?」
分かるのかな、ぼく。適当に納得してみたけれど。
思い当たるふしは、ありそうだけど。
たとえば、
……あのとき。フェンスに指が食いこむ。
ぼくが地下室で半分ぐらいしか生きてなかったとき。切れた金網が指の皮を突き破る。
マユちゃんがぼくをみーくんって呼び出したとき。血が血が血がなだらかに滑《すべ》る。
ぼくは死にたいと心の底から願っていたんじゃないのか?
「……うーむ」
記憶があやふやだ。何をされたかは覚えていても、何を考えていたかなんて思い出せるはずがない。
けれど不思議と、相手が死んでしまえって呪ったことは「そんなとこで何してるのさ」
心臓だけが飛び降りそうになった。思わず、背筋がお母さんみたいに真《ま》っ直《す》ぐに伸びてしまう。
首の骨を不自然に鳴らしながら振り返ると、恋日先生が「ん?」といった表情で立っていた。左手は白衣のポケットに入れて、右手は髪を風から守るように柔らかく押さえている。
「なにビクついてるの?」
「花壇の花を鑑賞して楽しんでる乙女《おとめ》チックなとこを知られて、つい」
「嘘つけ。そんなものそこからは見えないっての」
咄嗟《とっさ》の言い訳はバレてた。ん? 先生も、ここから見下ろした景色を知っているのか。
何で、だろう。冷や汗みたいなものが、背中を滑り落ちる。
先生がぱたぱたとスリッパを鳴かせて近寄ってきた。
「ほら、そこは危ないからこっちにおいで」
先生がぼくの手を取り、ずんずんと引き返す。けど、危険だってどうして知ってるんだろう?
疑問系で自分をごまかし、先生の手につれられることにした。
「先生は、ここへ何しに来たんですか?」
ぼくの質問に、先生は少し間を置いてから答える。
「そだね、今にも落ちてきそうな空の下で眠れる奴隷《どれい》の鎮魂歌《レクイエム》は静かに奏《かな》でられるかを実証しにきたじゃ駄目《だめ》?」「駄目にできるほど意味が分かりません」
「そのうち嫌でも分かるようになるよ」
先生がゆかいそうに笑う。
「あと、もう一個」「ん?」
「その右のポケット、何が入ってるんですか?」
手もないのに、膨《ふく》らんでますけど。
「んー」と、先生は少し返事に迷う声。
「いつもの漫画とかじゃないみたいですけど」
そして、いつものじゃないものを屋上に持ってきた理由はなんだろう。
「そだねぇ……今はまだ内緒」
結局、悪戯《いたずら》っぽくくちびるを曲げるだけだった。
「それよりさ……ん?」と先生が眉根《まゆね》を寄せて振り向く。一旦《いったん》、手を離して腰を屈《かが》める。ぼくの手を取り指先を取って、そっか、きずや血にいわかんを覚えたんだな。
「何したのこれ」
人差し指の、はがれかけたかさぶたに触れなら先生が質問してくる。
「成長期ですから自然とこうなってですね」「バカたれ、三年早い」額を小突かれた。けど現象は否定されないから、ぼくは成長期に対しておそれを抱いた。うそだけど。
「まったく、生傷の多い子だな。屋上でドングリでもさがしてるのかね」
あくたいをつきながら、先生は診察を続ける。まるで、他のお医者さんのように。
「一応消毒しとこうか、ちょっと深い傷もあるし」
「えーと、すいません。今日は昼からおじと盲腸の約束が」「いーから。ほら、行くよ」
先生がぼくおの左手を握る。休憩時間なのに申し訳ないなぁ、とその背中に軽くしゃざいした。
うそだけど。
先生はジャラおさんとかによく『過保護やなぁ』と面白がられている。ぼくはいまいち実感がわかないけど、お年寄りの言うことは大抵直感に頼《たよ》っているので信じないことにした。日本が適当で、しかもうそだ。
「治療がおわったら食堂に直行?」「あ、はい」「今日はあんまり残さないようにね」「努力はします」なんで知ってるのかな。
先生が、今は出口の扉を開けはなち、ぼくも続いて屋上から立ち去る。階段を下りる速度は緩《ゆる》やかで、ぼくの歩幅に合わせてくれていることを理解する。
手を引かれながら、くちびるが自主学習に励んだ。何か、いつかの参考になるかもと思って。
「先生」「なに?」
「先生は、」フェンスを破壊したんですか?「じさつしたいと思ったことって、ありますか?」「特にない」先生は歩みを止めず振り返らず、あっさりと答えた。
「たまにはあったかも知れないけど、出来事と直結して思い出せる感情に自殺の項目はないもの。アタシは幸せな人間なんだよ」
自慢げな言い方なのに、斜め後ろから除ける先生の横顔は仏頂面《ぶっちょうづら》だった。
「ホントはそういう気持ちを知らないと駄目なのかもね、この仕事」
溜息《ためいき》と、自嘲《じちょう》。疲れと皮肉が顔に浮かぶ。
まさかそれを既知にする為、破壊しようとしたってことは……ないはず。多分
先生にじさつする気がないなら……患者さんの為とか。いや、先生が壊してるなんて、ぜんぜん決まってないんだけど。
「あ、でも知らないからできるって部分もあるかも知れないし……難しいねぇ」
先生は一人で思慮にふけりだしてしまった。
ぼくもうそをつかず、だまりこむ。
……あれ、でも。
そうか。さっきの踏み絵に使えるかも。
ぼくのこころに連絡を取る。ノイズばかりだけど、辛《かろ》うじて通信は出来た。
興味は……あるな、よし。
じゃあ、後で確認はしておこう。
うそだけど。これを使い出した始まりには、お父さんがいた。
お父さんは家族に対してはおうぼう、というか暴力ばかりふるう人だったけれど、外面《そとづら》はよかった。家へ遊びに来た他の人にいい態度を取るのを、部屋の隅っこで見届けてから「うそだけど」とこころの中で付け足してあげていたら、いつのまにか口癖《くちぐせ》っぽくなってしまた。
けど、そのうその矛先がまさかぼく自身に回ってこようとは、予想もつかなかった。うそだけど。ぼくはお父さんに似ているそうだから。性格か顔か、どちらかは知らないけど。
恋日先生に消毒を塗り塗りされたりしてから、その後にちょっとした確認を取り、ようやく食堂でお昼ご飯を胃に詰め込んで(三割ほど残した)、病室に帰る途中。広間にはやはりヤマナさんが鎮座していて、ウーロン茶のペットボトルの飲み口を吸いながら、ひょっとこみたいな顔で手招きしてきた。ぼくはその誘《さそ》いに、今回はあまり迷わず乗ることにした。理由はうそだけど、分からない。
ソファの端に座り、ヤマナさんとはちゃんと距離《きょり》を取る。礼節にのっとり、年上は敬《うやま》わなくてはいけないからだ。うそだけど。
テレビは昼メロの第七回目の放送が始まっている。テロップが消えてからヤマナさんを見ると、中身を吸い終えたペットボトルを床へ吐き出していた。空のペットボトルが床で跳ねたり滑ったり、束《つか》の間の休息を体全体でおう歌する。
「昼ご飯、食べなかったんですか?」
「今日はちょっと胃酸過多なのだよ」
そう言いながら首筋を揉みだした。
「ところで、何でぼくが通りがかると手招きするんです?」
自称、人嫌いなのに、ヤナマさんは鼻を鳴らしながら大笑いする(酸欠になりそうだ)。
「しょーねんは病院のマスコットだから。それにほらなんつーの、あたし寝取り系だし」
ねとり? ねっとりの短縮かな?
「坂下センセからしょーねんを奪ってだね、一つのジュースとか煙草《たばこ》を二人で吸ったりとかしてみ? どうよ」叱《しか》られると思いますけど。
「あの人は泣くね、間違いなく。うわ、一回見てみたいねー」
珍しく、楽しげに微笑《ほほえ》むヤマナさん。……ふぅん。
「先生のこと、嫌いなんですか?」
ヤマナさんは「んー」「あー」「まーねー」と若干《じゃっかん》、曲がりくねって肯定した。
「坂下センセはねぇ。人としてはマシな方だけど、医者としては失格だね。無免許よりタチの悪い失格医者だ」
ヤマナさんは隠す必要もなさそうに先生への些細《ささい》な嫌悪感《けんおかん》を露出《ろしゅつ》する。ぼくは、何となく反抗した。
「いい先生だと思いますけど」
「そりゃしょーねんには甘いからね。君みたいな危なっかしい子に弱いんだろね、あの人」
「べつに、他の人にも……病室に花とか飾ってくれるじゃないですか。ほら、あれ」
ぼくはテレビの置かれた台の上にある花瓶《かびん》を指察す。
「ああ、知ってる。裏の花壇で育ててんでしょ。似合わねーっていうか、何というか。綺麗《きれい》だけどさ、華がないよあの人。あたしと違ってね。あ、今は花がないっつーか何もないしどっしりとしてお似合いかな。……およ、大好きな先生を貶《けな》されて怒った?」
「いえ、べつに」
「悪いね、あたしの自慢できる代物《しろもの》はお顔しかないからつい誇っちゃうの。こいつ剥《は》がれたらちょっと立ち直れないぐらいでして」
前者はともかく後者は大体の人がそうだと思いますけど。
「これでもお姉さんがクソガキの頃《ころ》はねぇ、モテモテだったんじゃよ」
お婆《ばあ》さん系の身振り手振りをテレビに向かって駆使して、過去の栄華を語るヤマナさん。喋《しゃべ》りはともかく、行動を端《はた》から見ているとアレな年頃っぽい。
対するテレビは、床屋を始めた女性が店の中を目まぐるしく移動していた。
「ドッジボールに参加すればあたしに当てようなんて男子は誰もいなくて、最後の一人としてコートに立っていたら次のゲームが始まるぐらいじゃった」それって無視されただけでは。
「ま、そんな美貌《びぼう》ちゃんですが、剥がされなくても後十年たてば価値なしになるのは明白だ」
唾棄《だき》するように態度を荒っぽく戻し、背筋を伸ばすヤマナさん。髪を一掻《ひとか》きする。
「人間は長寿になりすぎた。長寿なのが人間みたいになってるのは、どーもね。日本人の平均寿命がせめて三分の一になればもっと楽しくなるのになぁ」
ヤマナさんの願望が現実なれば、取り敢《あ》えずこの病院の患者さんは二人になるだろう。
「しょーねんも長生きは遠慮した方がいいよ。特にしょーねんみたいなのはさ。よく言うじゃん、人生はごんぶとにこぢんまりと……だったか?」
できるかそんなこと。むじゅんしたことを言いすぎだ。
ヤマナさんの疑問系に返事はせず、正面を凝視した。
隣の鼻歌がふんふんと、近所迷惑を演出する。
「ていうかしょーねんさ、自殺とかしたいでしょ」
軽々しい口調で、ぼくの願望を決めつけてきた。
ヤマナさんがテレビのリモコンを宙にほうって、回転するそれをぱしりと片手で「あっ」受け止めるのに失敗した。むしろスパイク。床と衝突《しょうとつ》して、乾いた音を立てるリモコン。その所為《せい》か、テレビの電源が切れて広間は消音となってしまった。
ヤマナさんは無表情に、黒色を放送しているブラウン管と睨めっこ。
「しょーねん」「はい」「女子バレーって楽しいかな?」「すいません、それはまだ小学校で習ってないもので」
「……しょーねん」「はぁ」「リモコン拾って」めげない人だった。
フリスビーを拾いにひた走る犬のようにリモコンを回収して、ヤマナさんの伸ばす左手に置いた。ヤマナさんは電源を入れ直し、チャンネルを別に変更する。宇宙人からのメッセージが読み取れそうな、ノイズだらけの画面が写った。
「話、バレーの前に戻しますけど」
「うむ」
「……ぼくが、じさつ?」
「うん。目も死んでるし、虫っぽいし」
ヤマナさんの蛍光過多な目玉と比べられても、なぁ。
「おねーさんからアドバイスするとね、こんな難儀《なんぎ》なところじゃなくて、ちゃんと外で死ぬようにしなよ」
「そう言われても……」ぼく、ひきこもりですので。
「しょーねんは外に出る機会があるんだから」
「…………………………………………」『は?』
ぼくの物言わない疑問を読み取ったように、「あたしと違ってさ」と付け足すヤマナさん。それにひかれてぼくが珍しくヤマナさんを横目で見つめると、「おっと失言だった」と舌打ちをもらした。
「……外泊許可、もらえないんですか?」
ぼくでさえ下りるのに。そして許可があろうとここから出ていかないけど。
ヤマナさんの表情が露骨にしぶくなる。まどガラスが暑さで溶けだしていないなら、本人のご自慢の容姿が捻《ひね》くれだしてるのだろう。どうやら弟のことと言い、ヤマナさんは家や家族が弱点みたいだ。その意味のぜんあくは判断しかねるけど。
「恋日先生なら、ちゃんと話せば」「うっせ。あたしは帰りたくないっての」
突っぱねられた。ぼくは口をつぐみ、ここを離れる機会を待つことにする。それは多分、ヤマナさんの始めた貧乏ゆすりが停止したときなんだろうと感じ入った。うそだけど。
「……」じー「……」観察中「……」目撃中「……」おや「………………」あ、止まった。
そして、まどガラスから顔を背《そむ》けたヤマナさんのつぶやきがぼくのこまくをゆする。
「しょーねんさ、人の音って好き?」
「……それが何を指してるか、わかりません」
「しょーねんも人ではあるんでしょ? 人だからしょーねんなわけ。だから、分からんかったら自分で考えてみれば、すぐ理解できるはず」
もし出来ないなら、君はしょーねんでも人でもないわけか。
ヤマナさんはそう嘲笑《あざわら》って、立ち上がる。……二足歩行してる姿を始めて見た気がする。
「今日はしょーねんにこの栄えある席を譲る。そこで前向きに死ぬことを検討するといいよ」
猫背の前屈姿勢で、ヤマナさんが歩き出す。ペットボトルを踏みつけ、回収せずにさっていく。ずいぶんと不吉《ふきつ》に明るい助言を残されてしまった。
「しぬことをけんとーするのがまえむきなんだー」
まねしてみた。ヤマナさんは一回だけ足を止めたけど、振り向かなかった。
「……けいそつだ」階段に行ってから言うべきだった。
一息吐いて肩の力を壊して、ソファに深く沈んでみる。
耳を雑音から保護しようと手を当てて、流れる汗に気づいた。
額を拭《ぬぐ》う。なめてみる。信じられないほどまずかった。
「…………………………………………」
喫煙所と廊下に人気が無いことを確かめてから、ひとりごとで尋ねてみる。
「ぼくは死なないとだめなのかな」
それを人に親切として薦められるほど。
死ぬって、……でも、ぼくは屋上で……。
「そうだけど、だから……」発見したわけで。
屋上の、誰かが誰かのために作ってくれたフェンス。空。地面。猫の毛みたいに逆立つ風。
次々浮かぶものに、右手からのみこまれそうになる。
いっかい、しんけんに考えてみた方が、いいのかも。
おとなは本当に、するどい意見ばかりぼくにぶつけてくる。
けれどその前にこのテレビ画面。
古いノイズが目の中で、矢継ぎ早に新しいノイズが目の外で集る《たか》。
これじゃあ、とても集中できない。
くらくらする。いらいらする。だらだらする。
……うそだ、画面をみることにがんばりすぎてしまう。
目玉をだれかに使われてしまう。
いやだ。ぼくはまだ、だれかじゃない。
消さないと。
ぼくの目でリモコンを探す。よしよし、まだぼくのだ。みつけることもできた。
手を伸ばす。ひきちぎりたいぐらい。
でもリモコンは、ぼくの手に届かなかった。
がんばったのになぁ。
「……うそだけど」
さて、どれのことだったかな。
雑音と濁線《だくせん》に目と耳をしんりゃくされながら、ぼくはただ同じ言葉を反芻《はんすう》し続けた。
どこまでも、うそであるように。
病室は天国に一番近い。ふむふむ。
けどぼくらは例外で、こころが天国に近寄っている。かきかき。
「坊《ぼっ》ちゃん、何しとるんだ?」
「漢字の書き取りです」
ぼくの病室の隣人《りんじん》であるジャラおさんは、それを聞いて「ふほほ」と笑った……んだよな。
ジャラおさんのベッドには、携帯用の将棋|盤《ばん》と詰め将棋の本。パチリと、爪を切ったような音を部屋に響《ひび》かせる。二日前のテレビの耳鳴りがようやく止まり、効果音が正常にこまくをゆらすようになっていた。
「先生からの宿題け?」と、歩《ふ》を指に挟みながらジャラおさんが質問を追加してくる。
「これは自主的です」と答え、四方までいっぱいに黒線で埋まってしまったメモ用紙と、ボールペンをサイドボードに置く。中指の横についた、ペンの陰を指でなぞりながら部屋を見渡す。
全員いるけど、ぼくとジャラおさんしかいないように感じるのはいつもどおりだ。
四人部屋で、会話が成立するのはジャラおさんだけだった。
前のベッドの人はぼくをにらみ、一言も会話しようとしない。喫煙所で煙草を呑むか、ノートに何かを書き記しているだけで、人と交流がない。それはそれで良好な生活だと思う。
斜め右の人は、妄想症《もうそうしょう》の中年さん。人の話をほとんど聞かなくて、自分は国家を動かす裏の繋《つな》がりがあるってことをあるごとに自慢し、吹聴《ふいちょう》している。ぼくみたいな政治に無知の子供とは話が合わない。でもそれより、時間の片づけがへたくそで夕食に遅刻するのを直した方がいいと、ぼくはつねづね考えている。うそだけど。
将棋の駒が鳴る。ジャラおさんの顔を覗くと、険しさとしわの薄《うす》い顔つきで、本を読み取っていた。この五十すぎのお爺さんは、十年ほど、病院暮らしで人生を経過させていると笑い話にしていた。でもぼくには、この人のどこが変質しているか指摘することはできない。
ぼくのお父さんの方が、よっぽどゆがんでいたぞ。
「やってみたいんか?」
ぼくのぶしつけな目線に気づいて、頬をほころばせるジャラおさん。将棋仲間の開拓に光明を見つけて、指先にもてあそばれる桂馬《けいま》の回転速度も上昇する。でも、ぼくは断った。
「すいません、時代劇と将棋と海水浴は、老後の楽しみに取ってあるんです」
うそだけど。ぼくはこの手の遊びが無茶苦茶《むちゃくちゃ》弱いから、恥をさらしたくなかっただけだ。
五歳の妹にオセロで惨敗したのはまだ記憶に保存されてる。緑と白のコントラストがきれいだった。ぼくは先を考えるという能力とかそれ以前に、そういう意識事態が希薄《きはく》らしい。
せつな的で、いちご、えーといちご一パック三百二十円。そんなやつね、ぼく。
ジャラおさんは「なんだいなんだい」と子供じみた拗《す》ねでぼくを咎《とが》める。それから、控えめにしょんぼり。「儂がジジイの頃はのぉ」とかぐちりだした。冗談なのかマジなのか、区別つかないんですけど。
「冷たい田舎《いなか》っ子やねぇ」なぜにおばさん口調。しかも手振りつき。「すいません」
「こんなしょぼくれた糞《くそ》ジジイより若い女医さんとぴーちくぱーちくしとる方が楽しい……だろなぁ。分からんでもない」言葉のキャッチボールではなく壁当てで納得していただけだ。
「俺だって爺さんよりうら若い女になってだな、こう、羊羹《ようかん》を土産《みやげ》に貰《もら》ったりお誕生日に彼氏から将棋盤を買ってほしかったもんだ」なりたかったのかよ。そして嗜好《しこう》があくまでもお爺さん仕様なところに、ひしひしと不可能を感じる。
「ふふぅむ」ジャラおさんが落ち込みからはい上がってきて、鼻息荒くぼくを凝視してくる。
「えぇと、何かお困りでしたらナースセンターにどうぞ」看護士さんの文章をこぴぺした。
「いやいや、坊ちゃんは俺の若い頃そっくりやねと自画自賛」うわーん。
現実|逃避《とうひ》にジャラおさんから目玉が逃げると、廊下を猫背で、億劫《おっくう》そうに通りがかる恋日先生と目があった。ぼくは小さくえしゃくする。そこで先生は思い立ったように進路を変更し、非常口しかないんだけどな。
「ところで坊ちゃん」先生の進行に気づいていないジャラおさんは、悪意の無い笑顔で「ヤニ持ってないけ?」「あるわけねーだろ」先生の平手が、ジャラおさんの頭部をはたいた。
「うぉう」とジャラおさんは驚《おどろ》きを動力源として尻《しり》だけでベッドを移動し、先生から距離を取るけど、相手を確認してから、またすぐに弛緩《しかん》した表情にまい戻る。
「過保護先生の登場かぁ」そのやゆに、先生はムッとくちびるを尖《とが》らせる。
「悪いか」と、内容自体は特に否定しない。それから、ぼくのベッドに腰かけた。
「身体の調子はいい?」先生が、いつも最初に質問する言葉だ。
「あ、はい。すごく普通です」
先生は「うんうん」と頷《うなず》いてから、「じゃあちゃんと朝食を食べなさい。今日も残したと報告が来たわよ」とお小言に繋げられてしまった。
「うちの出してる食事は、けっこうマトモだと思うんだけどねぇ」
味に不満がないとすれば、何が不服だ? と遠回りにアンケートしてくる。ぼくは「隣の垣根が」とか世間話でお茶を濁《にご》したかったけど、先生にそれは通じない。無言で話題の切り替わりを待つことが一番効果的だった。けど、一応は頭の中で自問自答する。
……不満があるとするなら、食堂、かな。
集団の中で食事する感覚に、まだ不慣れだから。
だから小学校復帰で一番不安なのは休職の時間だったりする。うそだけど。
「そういえば、あげた眠剤は効いてる?」
「ばっちしです」と言っておいた。まだ一度しか飲んでないけど。
「そっかそっか」と、先生はいたずらっ子めいた微笑を浮かべる。
「おねえさん、きみのそういうとこには偶《たま》に安心しちゃうよ」
「はい……」と口では曖昧《あいまい》に納得しつつ、疑問符がぽんぽんと血液中を巡る。
「時々、良い子だねぇ」と頭を撫《な》でられる。言葉は両方とも不可解なまま、それを受けれ入れる。
「あ、そういえば貸した漫画読んだ?」残っている先生の手が、棚から本を取り出す。
「半分ぐらいですけど」「あ、ていうと女の子の正体が分かったあたりか。ここから肝《きも》でね」と漫画を開き、パラパラと捲《めく》り出す。
その途中で、ジャラおさんがごほごほと咳《せ》きこんでぼくらの注意を引いた。
本当はごほごほというかぐぇほぐぇほで、半分白目をむいて、気管支が全力で支援していた。演技とわかっているのにちっとも安心できない咳きの仕方だ。
「どうしました、入れ歯飛ばさないでくださいよ」と先生が大きなお世話をやいてみる。
ジャラおさんは肩を落とし、しんみりしてみる。
「君らのやりとりを見てたら孫の顔が見たくなってのぅ……」
「じゃあ早くご結婚してください」「あんたとか?」「血族途絶えろ」
などとこころ温まるやり取りを、ぼくは傍観する。
少しだけ、関《かか》わりのある位置で。
それだけで、ぼくは今、交流しているんだと感じる。
胸のざわめきが、漸増《ぜんぞう》する。
でも、それは特に抵抗なく過去へ通り過ぎてしまう。
「お取り込み中、失礼」
三者三様の速度で、入り口に目を向ける。
背広の男が、明らかに不慣れな子供向けのえがおで突っ立っていた。年は三十歳過ぎぐらい。多分、警察の人だ。ぼくが入院してから時々、こうやって訪ねてくる。
お見舞いという名目で、事件のことを聞き出しに。
くだらない。
もう何も残っていないのに、何を知りたがるんだ。
ジャラおさんが「ん? ん?」と首をかしげ(この人はぞくせに疎《うと》くて事件のことをしらない)、先生はあからさまに悪い目つきで警察男を出むかえる。先生は警察が嫌いだと言っていた。
警察男が、ベッドの正面に立つ。「こんにちは」と挨拶《あいさつ》されたので「おはようございます」と返事をした。まだ午前十一時五十二分である。
「僕はこういうものでね」と手帳で身元を証明してくる。名前の欄《らん》はよく見えなかった。
「それで君が、」
続くものに嫌な予感が、
「××君だね」
こまくが壊れた。
ぼくの感覚が色んなものに奪われる。
人の死んでいく感触が、よみがえる。
耳、おさえないと。脳が溶けるのふせがないと。
ボクノナマエハ、エッ、ドウシタンダイ、××クン。
世界の捻くれが特盛りになる。目の端から白いものがにじみ出して、半分も前が見えなくなる。耳をおおう手から聞こえる筋肉の音。ああ、これが人の音か。
うずくまる。ベッドの上で? うそじゃん、 だから下りた落ちた。
壁にぶかってから、ゆうげんじっこう。 ふほほ、ぼくいいっこすか?
でも三歩進んだから二歩失わないと。呼吸、ちゃんと忘れました。
ダイジョウブ? ダイジョウブ? 耳元でささやかれる。 だからぼくはだいじょうぶってこころで伝える。あら、ぜんぜん伝わってない。
××クン? ××クン?
歯ぎしり。爪。かべ。頭。血。
さつい。
呼ぶな。
ぼくの名前を、呼ぶな。
お願いだから、もう名前を与えないで下さい。
「バカかあんたは! 口を噤《つぐ》んで離れろ!」
先生の、怒号。突き飛ばされる男。不愉快そうな目つきだった。鬱陶《うっとう》しそうで見下してそうで、ぼくを単なる異常者としか見てない顔だった。
ヤマナさんの言葉が、ごぞうろっぷに今頃染みてきた。
でもそれより今は、空気を食べないと、好き嫌い、いくない。
「この子に物を尋ねたかったら、少しは理解してから来い! 帰れ!」
先生が怒鳴りちらす。そうやって、年上の人に食ってかかる姿を滲《にじ》んだ視覚の中で見上げていると、過保護って当たってるかもなぁって実感した。
ぼくはぜんぜんへいき、へっちゃらッ、なのに。
ねー? と天井の人に聞いてみたり。
おとな二人が言い争ってる。前のベッドの人はしかめ面でそれを見守り、ジャラおさんはベッドから出てきてぼくを支えてくれている。ありがたいことです。
先生と警察男の討論は、僕が話題のちゅうしんとなっているみたいだ。その感情をむき出しにした姿は、別に醜《みにく》くなんかない。ぼくうはいわゆる、ようしょう期に一度は言いそうなお母さんとけっこんするみたいな感慨《かんがい》を先生に抱いた。うそだけど。
さて、当事者であるぼくはこの場合、どうすればいいのか。
ぼくのために争わないで! はやめとこう。
うーむ、ぼくがいなければ二人は敵対する理由が逃げ出すわけで、舌が休まるかも。
それに、おとなの話に子供は口出ししてはいけないのだ。
よいしょっと。ジャラおさんにお礼を言いながら、立ち上がる。
目の中の漂白が少しずつ洗われるのを待って、それから二人の間をすり抜けた。
入り口で立ち止まる。
ぼくはぜんりょうな少年なので、先生には外出先を教えておくことにした。うそだけど。
「ちょっと、風に当たってきます」
だって、まどが開かないもの。
だから、屋上に行かなくちゃ。
廊下を歩く。僕の少し後ろに、ぺたぺたという足音がひっついてくる。
ヤマナさんの手招きを、お日柄のいい本日は無視した。
そうこうしていると、馬鹿《ばか》なこと考えるんじゃないよって背中がどなられた。
先生もけっこう失礼だなぁ。
ぼくは、前向きに対処しようとしてるだけなのに。
スリッパ履《は》き忘れたから、バカかも知れないけどさ。
屋上の前に、トイレへ寄って吐いてきた。追いかけてきた先生に背中を撫でられながら。
今回もぼくがおうとするときの指定席を利用した。
心臓までついでに青春をおう歌できそうなほど、ゲロの見事な勢いの飛び出しぶりだった。
簡単に涙も流してから、口を水で拭って、いざ頂上へ。
足取りと頭と胃を軽くして、すたこらさっさ。
「いい、絶対に危ないことするんじゃないよ」
「はい」
念押しに適当に答え、先生は仕事に戻った。
階段を上り、風の奔流《ほんりゅう》に反抗しながら、扉を力強く開放した。
日に温められた、コンクリートの床を素足で踏む。今は太陽が雲に隠れて、日射《ひざ》しのない明るさに包まれていた。扉を念入りに閉じる。
今日は一段と風が荒い。穂先《ほさき》がゆれて風情《ふぜい》を楽しめる撫で風とは別種である。浜で砂嵐《すなあらし》を引き起こしてしまいそうな、暴風の新入り。うそだけど。海ないし。
「さて、」
青色のベンチに用はない。ぼくは日課となったように回りこみ、傷ついたフェンスにじひときゅうさいを与えに向かう。おおうそだけど。
じさつフェンスの完成度は、六割ぐらいに達していた。もう少しだ。
見るだけ。触るだけ。落ちるだけ。うそだけど。
大丈夫《だいじょうぶ》、先生。ぼくは約束を守ります。
「おあー、足がすべったー」
ふりょのじこでフェンスに思いっきり体当たりしてみた。訂正、してしまった。
かべにぶつかったミカンみたいに、事もなくひしゃげる金網。小学生は懐《ふところ》に受け入れる対象外なのか、サッカーのゴールネットみたいにしか機能してなかった。
漂白剤のふたが開く。頭と耳を真っ白に、昆虫を殺すようにばらまかれる。
ぐぅぅと、フェンスのゆがみに身体を預け、溜《た》めの時間を満喫する。
本来は角度の問題で見ることのわからない、真下の景色まで眺めてしまった。
すごく鮮明に青だった。
「っっは、っっっっっっは、っはは、はっ」
よろめいて、数歩後ずさる。右のフェンスでしこたま身体を削りながら。
へたりこむ。発汗したのが全部、律儀《りちぎ》に報告されて鋭敏に感じる。
ぼくの足腰は精気と活力を失い、蒼白《そうはく》に染まって身動きが……あれ、試したら簡単に立ち上がれた。でも演出さんに怒られたので女の子座りに戻る。股関節《こかんせつ》が少し痛い。
「……ふぉぉ」深呼吸。むせた。
大関とかに後押しされてたら、本当に落下して先生の花壇を彩《いろど》るところだった。
そしてその場所には毎年、きれいな赤い花が咲いて村人はそれを……話が進まないのでよいこの昔話はそっと棚に戻して、叫ばねば。
「死ねって、こっわー!」
こころはさておき、身体は拒絶しまくってる。
「おあー……心臓すごっ」
ていうか、心臓どこ? っていうぐらい手首や首筋、足の付け根までばっくばっくと拍子を打っている。
冷や汗もすごい。手があっというまにぬめりとしてる。……と思ったけどこれは手洗いしたときのせっけんの名残《なごり》だった。
「……かっこわるいなぁ」
生きることを上手《うま》くできないやつは、死ぬことも上手にできないのか。
こんなにみっともなく、ひざまずいて。
コツとかあるのかな。
フェンスから飛び立とうとしてる人にでも、聞いてみようか。
「そうしようそうしよう」
服装を整えて、ついていた膝《ひざ》を持ち上げる。フェンスを一回、手の平で撫でてから反転する。
「また来るよ」
うそじゃないよ、きっと。
「るーららー、るーるーららー、るるららぁらー」
だれもいないので、趣味《しゅみ》のカラオケに精を出して屋上を去る。うそだけど。
ていうかぼく、何でこんなに頭のスイッチ入れまくってるんだろう。
やりすぎると、これが標準になっちゃいそうだから自重してたのに。
風に後押しされて扉を開き、踊り場から階段を一番上から見下ろす。身近な危険に目がらせんを描く。
下り階段が横になったり、上を目指したり。
直るのにじかんがかかりそうだったので、そのまま進む。
半分をすぎたあたりで、今度は本当に足をすべらせ、階段を踏み外した。
見事、着地に失敗。
右肩から落ちました。
「いったー」
額も膝も、足首も。
ぼくってやつ自体が、いったーい。
地下暮らしが終わった後、警察にほごされて。
そこにいた、やさしい顔のおねえさんにこんな質問をされた
あたなは運が悪かったと思いますか?
それとも、生きながらえて幸運だと思いますか?
正解の無い意地悪な質問だけど、名答を期待されても困る。
ぼくは、何も答えなかったのだから。
「おおう? なんだしょーねん、戦隊ヒーローのリーダーにでもなった? 赤いよすっげー」
テレビの前のちびっ子じゃないヤマナさんに話しかけようとしたら、まず驚かれた。
あくまでもぼくへほとんど眼球を動かさないまま、冷静に判断するとビックリより、笑い転げていそうな口調だった。
ぼくも指摘されて確かめ、ようやくけがと出血に気づく。額がかち割れて、こころ(うそ製造器とも言う)が露出していた。風でスースーしますわ。うそだけど、血はあまり指につかず、擦《す》り傷が大きく皮に張りついているみたいだった。血をジッと見ても、紫色に変化して偽人間だ、とか展開はしない。うん、大丈夫。克服。ここにくる途中でもスイッチがいくつか入っちゃってるからな。もう頭の中は手探りでしか記憶を探せないほど真っ白だ。表の赤色と混ざって、赤白帽子みたいねうふふ。
「ちょっと赤い実がはじけまして」
「うっわ懐《なつ》かしー。あたしが平成生まれの頃はねぇ……」たわごとは聞き流した。
今日はヤマナさんと、一人分だけ間をおいてソファに身体を委《ゆだ》ねた。
喫煙所に目をやると、いつもは四、五人で空気を不健康にしているのが普通なのに、今日は影と煙がなかった。
その理由はヤマナさんが音量を通常より上回らせているからだと、こんなに早く気づく。
本当は三メートル前ぐらいから分かりそうなものだけど、今の僕が基準なので。
「しかし赤い。実に赤い」と評論家風に、ぼくをみないまま評価するヤマナさん。
「てっきり自殺に失敗したのかと失望しかけるとこだった」
「はぁ、それはすみません」といい子ぶって頭を下げる。
下げながら、考える。
……じさつ。そしてヤマナさん。
話題の出たついでに、聞いておくか。
「……で、ヤマナさんが屋上のじさつフェンスを作ってくれてるんですよね」
ヤマナさんの眼球が縮こまる。収縮し、警戒を浮き彫りにする。
手の指先が膝に食いこみ、血管は自己主張の絶頂を果たす。
なんてことは何一つ起こらなかった。
反応があったのは、口だけ。
「なにィ!」
そんな表情を変えずに驚かれても、こっちが落ち着かなくなる。そして叫ぶのが少し遅いです。本人もそれを気にしてはいるのか、ジャラおさんよりもはるかに根菜類な演技で咳きこんで間を取った。僕はその間、ブラウン管の奥を見ようと目を凝《こ》らしていた。
「で、何のことだい?」男前な喋り方だった。
「あ、だから屋上のフェンスを壊して飛び降りようとしてるの、ヤマナさんですよね?」
「……ふぅん、あたしがフェンスをねぇ。フェンスはあたしじゃないからその可能性もなきにしもあらず。しょーねん。言ったからにはちゃんとあたしを犯人扱いしてみな。あたしが犯人で、犯人をあたしにするんだ」
へらへらと笑いながら、何も楽しそうじゃないヤマナさん。目が変化せず、口だけ縦横無尽《じゅうおうむじん》だからそんな印象を毎回与えられていたことに、初めて理解する。
この人、隠す気が無いんじゃないかな。
「気づいた理由は、ヤマナさんが勘違いしてたからです」
「なんだとォ!」
「今度は完璧でしたね」「狙《ねら》っていたのだ」
ふふんと勝ち誇る子供以上のお姉さん。何を言っても同じ反応する気だったのかな。
ということは、ぼくがたとえば『お名前は?』と尋ねていたら隣のお姉さんは『なんだとォ!』さんに手続きなく改名して、あるいは『控えおろう!』と叫べば『なんだとォ!』と反抗したので打ち首にできたわけか。惜しいことをした、うそだけど。
「それで、そろそろ話し戻していいですか」「うむ」
「ヤマナさんの勘違いを聞いて、犯人だと気づけた話なんですけど」
「あたしの書くaとdがよく間違えられたやつのことけ?」だまらっしゃい。
「勘違いしたのは、病院にある花壇です」
ぴ、ぴ、ぴーん。ヤマナさんがテレビの時報の音とデュエットする。
「直接見に行ったことがないからまちがえたんです」
ヤマナさんの目線が一秒だけ、ぼくに向いた。多少は興味を引かれたのかも知れない。
「この前、花壇は今何もないと言ってましたけど、それはまちがってます。花壇は二面あって、病院の手前側にある方は青い花が咲いてるんですよ」
「うむん」「……えーと、もう少し具体的な反応を」「ふむむん」続けよう。
「でも、ヤマナさんは花壇には何もないと言い切った。そうやって理解するには、屋上の壊れかけのフェンスから下を眺めるしかないんです。直接行かないであそこからだと、手前の花壇がみえませんから」外に乗り出さない限りは、そこから『は』見えない。
「立ち入り禁止の屋上の、あんな隅っこに行くことは何か目的がなければ足を運びません。それにだれでも気づけますからね、金網の切断。それを知ってて、誰にも報告しないならやっぱり、その人があやしいかなと」
ただ、その条件をみたしてるのは、もう一人いると思う。
坂下恋日先生だ。
けど先生より、ヤマナさんの方が細身で非力に見える。金網を壊すのにも時間と労力をさく必要があって、そして、金網の壊れる速度が遅かったことに加えて先生とヤマナさん、どちらがじさつに向いているかを考えれば、
「だから、ヤマナさんが犯人ということで」
一つその線でよろしく。そんなぼくの熱意が伝わったのか、ヤマナさんが大仰《おおぎょう》に頷いた。
「うん、犯人どぅえす。ようおこしやす」
なぜか揉み手しだした。お昼のニュースでは、動物園のパンダがさおだけ屋と格闘《かくとう》していた。うそだけど。
そういえば、昼食の時間になってる。先生や警察男はもう病室から去ったのかな。
「ま、誰か気づいてくれないとあたしも頑張ってる甲斐《かい》がないしね」
少し唐突に、ヤマナさんがそう独白した。
「だれかって……」
「何だその訝《いぶか》しい溜めは。あたしはこれでもみんなの為を考えてやったのだよ」
ヤマナさんが、心外だと言わんばかりにムッとなる。ぼくはマッとなった、うそだけど。
「あれって、人の為とか考えてやってるんですか?」
「うん。けど、それがしょーねんだったとは、あたしも見る目があるな」
自画自賛して、「見る目があるからこそあたしさ」と自己否定にまで持ちこんだ。
「顔のパーツはどれも一級品なのですよ」「まあ、パッと見はそうっぽいですね」「この鼻にも自信がある」「はぁ」「こないだなんか十円玉見つけたよ」吸い込んだのか?
「で、どこらへんが皆さんの為になるんでしょうか? 病院にはとても迷惑かけてると思うんですが」患者さんに飛び降りられたら、ニュースかとになっちゃうし。
「おんや。しょーねんなら言葉なく共感してくれるはずなのに。なんていうかほら、飛び降りれるっていう安心感を皆さんにもお裾分《すそわ》けですよ」滅茶苦茶《めちゃくちゃ》不安定なんですけど。
ぼくの懐疑的《かいぎてき》な視線を感じ取ったのか、ヤマナさんが「めんどくさいからナレーターを雇って」とニュースキャスターに向かって言い出した。目を細め、乾いた鼻先を指でこする。
「ではぼくが勝手に理由をでっちあげますか」「うむ、一任する」「まずですね、スイミーが」「あ、やっぱいいあたしが話す。しょーねんに任せると破廉恥《はれんち》な娘さんになっちゃうもん」
頬を特に染めず、手を当ててぶりっこする。どちらかというとハレンチより、ブランチが脳天に突き刺さってほしい。
ヤマナさんが姿勢を正す。そして、テレビの音量をまた一段上らせる。
「ま、時には昔の話と洒落《しゃれ》込もうか」
「それ、昨日のロードショーでやってましたよね」
「うむ。……ま、しょーねんには特製フェンスの創作秘話でも語っておくか。君がこの病院で、一番気に入った人間だし」
何だか遺言《ゆいごん》を残すみたいな言い方で、ヤマナさんが喋り始める。
「つまりさ、辛《つら》いことから楽になりたいと願ったとき、ここにいる患者は満足に飛び降り自殺することも出来ないじゃん。ようは、追いつめられたときに、精神の矛先が塞がれちゃってるんだよ。だからフェンスを取り除けば、やる、やらないは別として閉鎖感《へいさかん》を和《やわ》らげられるかと思ってね」
ヤマナさんは米国人風に肩をすくめる。分かるかい? と挑発するように。
正直言って、分かる部分が六割はあった。ぼくはうつ病ではないけれど。
「と言っても大々的に告知するのは広告費がかさむから、きづいた人だけの特典ってこと」
おめでとー、と空虚に祝福される。ぼくはありがとうご代わりに質問を返した。
「でも、自殺しない為に入院してる人とかもいますけど」
「おいおい、しょーねん、ここは何のために病院で看護師がいて医者がいて、そして患者には家族がいるのさ。それを止めるのが彼ら彼女らの義務で、逆に助長するのがあたしの役目」
胸を張らず、責任感を一つまみも振りかけず、役目なんて言葉をまるで意識してないヤマナさんのせりふ。ぼくも適当に言い返そうと思ったけど、文案を検討しているうちに追加が来てしまった。
「あたし自身が利用する可能性を考慮してもあるのは認めるけど、しょーねんだってあったら活用するでしょ?」
「何をおっしゃる」兎《うさぎ》さんにしては月が似合わないので、じしゅくしながら否定した。
それにしても飛び降りを活用か。皮肉が効いてていいなぁ。
ヤマナさんが「ふん」と鼻で笑って、テレビのリモコンを握りしめる。音量が、二段、三段と駆け上がる。これがおとなの階段だったら、もうお葬式《そうしき》まで駆けぬけているぞ。……おとなの階段って、そういう意味でいいのかな?
音が割れてこまくに届く、野鳥やキャスターのおねえさんが一様にジャイアンとなる。
いても立っても耳を塞がないといられない環境になってきた。
「しょーねんは無理して生きてるのが見え見えなのに、突っ張るじゃないの」
「この前から、ぼくはそんな風に見えますか」テレビの画面としか向き合ってないのに。
「あたしみたいなやつにも、痛々しさが伝わってくるよ」言い終えて、くちびるを舐《な》める。
お互い、ほとんど怒鳴りの範囲になる声の絞りだしだった。
「確かにしょーねんはあたしより幸せな部分もあるよ。外泊許可が病院側だけのものと決めつけてんだからさ」
珍しく、嫌みしか上乗せされていない言葉を、辛辣《しんらつ》にぶつけられた。
それも、目と鼻に鋭さを被《かぶ》せて、真剣みをさらけ出して。
ぼくはその言葉を、三分クッキングのおばさんのはなつ轟音《ごうおん》と一緒に思考の鍋《なべ》で煮こむ。
……外泊許可。外泊、変える場所。
つまり許可しないのは、
「ヤマナさんの、家族?」
「ピンポーン、と言いたいけど時間切れで解答は無効です」
屈託なく、目だけは緩まず、隣人は微笑む。
「あたしさー、家に帰れないんだよ」
ヤマナさんは明朗に、何かをごまかすように語尾を上昇させてそう弱みをさらした。
「変えれない家を、家と呼んでいいものかなぁ」とぼやき、テレビの発声を更に強める。
限界であることが、画面の下に表示される。
「病院から戻ってくるなって言われてんの……とりわけ、弟にね」
ヤマナさんの弟。略してヤマナ弟。そのまますぎるか。世界民族音楽研究会が世民研となるぐらい短縮したいのに。うそだけど。
ヤマナさんの目薬が、画面の下側に下りる。見方を変えれば、小さくうつむく。
「弟さんとケンカでも?」
「んー、仲はよかったけど喧嘩《けんか》するほどじゃなかった。しょーねんとそこらの赤ん坊を足して三倍ぐらい掛けた子だったねぇ」しみじみと身内自慢された。少し席を離れたくなる。
「しかし、そんな弟にも致命的な問題があった」グッと握り拳《こぶし》が台頭する。ぼくも固唾《かたず》を呑んで、耳を押さえた。あーうるさい。
「弟は、人間だったのだ!」だだーん! と煽《あお》るヤマナさん。
「……それはなんぎですね」
根本的すぎます。
「あたしはさぁ、人の立てた音が、鳥肌出るほど嫌いなの。テレビの音や肉声は平気だけど、側にいる弟が歩くと足音するし、肌が耳にくっつけば筋肉の音がするし、一緒の布団《ふとん》で寝れば息の音がするし。そういうのが逐一《ちくいち》流せなくてエラー起きて、胃に回ってくるの」
ヤマナの左手がお腹《なか》に当てられ、右手が銃っぽい形を作ってこめかみをぐりぐりと押す。
だから病院でも食堂には来なかったのか。合点する。
「あー、テレビの音が主音源で、それに混ざる感じで聞けばけっこー大丈夫みたい」
なるほど。だから、ずっと騒音のオーケストラをえんそうするテレビの前にいるのか。
「これが結構ワガママで、自分のやつなら単独でも平気なのがあたしの素敵《すてき》なところ」
「けなしたり褒《ほ》めたりお忙しいですね」
「緩急《かんきゅう》をつけないとね」と、何事もなく答えになってない返しで終了させてしまうヤマナさん。
目線は水平に復帰し、好みのチャンネルを指先が模索《もさく》し始める。
「弟との関係は、あたしが我慢する形を取ってはいたけど、そこまで険悪じゃなかったよ。外見だけなら仲睦《なかむつ》まじかったもの。内臓は激痛を訴えてだけど、自分を削って他の人を詰め込むのが人間関係だから、それには納得してた」
ヤマナさんの親指が止まる。画面にはドラマの再放送が映る。
ぼくがもっと子供の頃から、半ば定期的に繰り返して放送している番組だ。
「無理にだって限界はあるものだと実感した日が来るまで、そう長くなかったけど」
ヤマナさんが、小石を投げるような仕草をした。即席の羽が生えたのはリモコンだった。
テレビの下段、ビデオテープを収めていた棚に体当たりして、あえなく床に伏す。
「歩く音のするサンダルってあるじゃん。子供が良く履くやつ」
「えぇと、はい」知ったかぶった。ぼくの死んだいもうとは、そんなのはいてたかな。
「あれを母親に買って貰って、ご機嫌で履いた弟があたしの周りをぐるぐる歩いてね。その間抜けな音が格別にあたしを射抜いて、我慢が全く効かなかった。もう不愉快が大フィーバーして、弟の原型を紙吹雪にせんばかりにハッスルですよ」「何したんです?」「大車輪とだけ言っとく。あたしの対外的イメージを損なわないために」
ぼくに手の平を向け、具体性の言及不可の意を表す。
変なこと心配する人だな。既《すで》にテレビ女という肩書きは院内ではゆるがないのに。
「いやー、あの時は角とか羽がばしばしと入れ替わってた感じだった。思春期の前に成長期がピークを迎えてたね」
どんな生き物だ。天狗《てんぐ》だってそんなに色々と生えてないぞ。
「で、弟は虫の息になってあたしはあっさり病院送り。丁度《ちょうど》、しょーねんぐらいの年だったよ」
ヤマナさんはにこっと、年上のお姉ちゃん(じゃなかったら恐ろしい)風に微笑(テレビに)。
ぼくは「そうですか」と適当に返事をしながら、話を聞くことに意識を維持する。
「あたし、入院暦は将棋のじーさんと同期なの。しかし不思議と平成生まれ」
なぜその無理がある設定だけ押しとおそうとする。そんなのだったらぼくだって、実は監禁事件ではなくて集団引きこもり計画でしたとか主張するぞ。うそだけど。
できるか、そんなこと。死ぬことも生きることも、恩義と悪意、全部なかったにことなんて。
「入院してからの家族の反応が、ほんと淡白でねぇ。産卵直後の魚ぐらいぱさついてやがるの。着替えと入院費以外、あたしに支給してくれるものは皆無《かいむ》なわけ。言葉はいらないってルームサービスに注文したわけじゃないのに。
ヤマナさんの左手が、以前より目的を定めてぼくに伸びてきた。首でも絞める気だったのか、喉《のど》を親指でぐりぐりといじめて、それから取りやめになったのか離れた。
ぼくは小さく息を吐き、けれど距離は空けずにそのまま座っていた。
「極めつけはあれだ、これはお姉ちゃんじゃない、ですよ。病院から抜け出して会いに行った弟に言われちゃいました。お姉ちゃんじゃないからこれ扱い。あたし謝ってるのにさ、砂利道《じゃりみち》に頭|擦《こす》りつけて。でも弟からすれば、あたしはもう姉扱いできなくて、別の人なの。そりゃ、血の繋がった他人が幾《いく》ら謝ったって、許してくんないよね」
同意を求めはしないヤマナさん。一人で言葉を完結させる。
でも、ぼくは、握手を求められてもよかった。
この仲間になら、なれるはずだった。
ぼくがマユちゃんに向けたものと、似ている気がしたから。
「それを理解したとき、あたしは、あたしという人間の底辺に落ちた」
今のしょーねんみたいに。そう、幻聴《げんちょう》がぼくらの頭上をつうかしたのが見えた。
「だからあたしは今のうちに自殺する。まだあたしの外面には過去が残ってる。抱いて死にたい」
言って、宣言どおりに自分の肩を抱いた。
その態度は、過去にすがってるみたいで、好きになれない。
ぼくには、あまりできそうもない。
「そして、しょーねんは、こんなあたしより死にたがり。あたしより恵まれたものを持ってるのにさ」
両手をバサッと広げ、あっぴろげを装ってぼくを再評価するヤマナさん。
何だか少しだけ、妬《ねた》みっぽいものが入ってたような。気のせいだけど。
「そこは譲《ゆず》らないんですね」
「だってさ、自分で言ってたじゃない。あんな屋上の隅、用事がなければ近づきはしないって。じゃあ、しょーねんの用事ってなんだったのかな?」
「…………………………………………」
際《きわ》どいとこを突かれた。
反撃にのどをえぐられ、額の痛みをゆり動かされる。
発見したことは確かに、偶然じゃ無理だった。
ぼくは疑われてもおかしくない。むしろどれだけ疑われてもおかしくないほどだ。
けどそれは退屈だったから、やることがなかったから修理工目指してたから。
いっぱい他の理由があって、そんなに深刻だったわけじゃない。
そんなに死にたがってたわけじゃ、ない。
「しょーねんはこのまま時間を経過させると、死ぬことと生きることの価値さえ見失う。意味を忘れる。そうだね、あたしの年になるまでには必ずそうなる」
「……平成生まれのヤマナさんは、今何歳なんでしょうか」
「内緒。死にたがりなやつがあたしよりしょーねんだってもの悲しいけどね」
首を左右にぶんぶんとふる。あなたは悲しい口元が緩むのですか。
「飛び降りフェンスが完成したらしょーねんにいの一番に報告してあげる。ノーロープのバンジージャンプの開演をね。勿論使用していいし、五十円引きのチケットも刷ってあげる」
ただし、
「利用できるのは、あたしが自殺するまでになるだろうけど」
先着一名だ。
そう言いきって、ヤマナさんはその場で横になった。「腹減ったー」と喚《わめ》きながら、ぼくと反対の方向へ寝返りを打ち、膝を折り曲げて丸まる。「喉渇いたー」
催促せずに食堂へ行けよ、とぼくは思わなかった。うそだけど。
「今日はちょっと喋りすぎだ。何でこんなに語っちゃったかなぁ……アホめ」
自戒と自問が混ざった言い方で独白して、そしてヤマナさんは動かなくなった。
それを観察し終わってから、ぼくは、耳栓《みみせん》のお役目を果たした手を力なく下ろす。
テレビの爆発音に対しては耳鳴りがぼくを防護してくれて、気に障《さわ》るから気になるあいつまで格下げしてくれていた。
ずるずると尻をだらくさせてソファを滑走《かっそう》し、床にへたり込む。
ソファを背もたれにして、今度こそ、立ち上がれそうになかった。
証明を見上げる。……夕暮れの色に変わってほしいと、少し願う。
そういえば、ぼくはヤマナさんに質問をしに来たんだった。
ぼくは本当に死ぬべきなんですか?
うそだけど。こんな極まったやつじゃない。
何だっけ、本当に思い出せない。
合間に階段落ちたりしたからなぁ。あのとき、だれかとぶつかってこころだけが入れ替わっている可能性もある。そのときの衝撃で忘れたかも。
だとするなら、今のぼくはだれだろう。
だれになりたい。
……そうだなぁ。どうせ夢なんだから、好き勝手に言ってみよう。
みーくんなって、いいんじゃないかな。
少しだけ昔みたいに。
マユちゃんが笑顔になる。ぼくに笑う。ぼくを笑う。
そうしたら、きっと。
こんなぼくでも、笑顔を浮かべられるんだろう。
「…………………………………………」
ばかくさ。こんなこと、考えるなんて。
過去にすがれないといったばかりになのに。
ぼくは、三十分前と別のスイッチを入れてしまったことを後悔した。
これ、何がうそなのかな。
こころはどこまで、うそで作られているのだろう。
そして、数週間後。
そして、先着一名が現れてしまってから三日後
屋上の五月晴れがぼくを焼いていた。
「うーむ……」
ベンチで寝返り。汗が耳と、枕《まくら》にしてる手の甲の間でぬめる。
焼肉になる夢って、見れないものだな。
セミの鳴き声が遠くから響いてきそうな、夏を錯覚《さっかく》させる熱さ。横になっていると、耳に熱湯を注ぎ込まれてるみたいだった。寝返る。耳に熱湯が、寝返る。
「……………………………………………あつい」
クーラーほしい。
立ち入り禁止が明確になってしまった屋上だから、無理だけど。
ヤマナさんがじさつしたのは、フェンスを破壊しきってから三日後だった。
ぼくのところに、利用可能となったお知らせはこなかった。多分、壊すのに苦労したから独り占めしたくなったのだと思う。うそかほんとか、ぼくにだけは分からない。
ニュースにも小さく取り上げられて、街がぼくの事件以来のテレビ出演を果たした。
病院の中では、話題の寿命が三日保たなかった。仲のいい人がほとんどいなかったし。言い方は悪いけど、小学校で隣のクラスの人が交通事故で死んでも、ぼくらは「ふーん」となるだけだ。朝礼で、一時間目の算数が中止になることを喜ぶ子がいる程度の、そんな遠い死。
病院側としても管理の不手際を多少責められて、後は先生が、花壇の位置を変えるのに少し苦労したぐらいだ。ヤマナさんの家族も、ほとんど反応なし。
屋上は使用禁止という処置を取り、後は平穏に暮らしは続いてく。
でもてっていするなら、ドアノブを破壊してしまった方がいい。
鍵があれば、こうやって入れてしまうのだから。
ヤマナさんの努力の跡は、完全に閉鎖されてしまっているけど。
「…………………………………………」
ヤマナさんは、何でぼくに身の上話なんか残していったんだろ。
自分を惜しむ人がほしかったわけじゃないと思うし。
風が、頼りなさそうにベンチを覆った。
クーラーではないけど、扇風機の中ぐらいの強さとありがたさ。
目にゴミでも入ったのか痛みだして、まぶたを閉じる。
「……ねむい」と念じる。
昼に寝たら、夜眠れなくなる。そうするとみんなみたいに夜の廊下を歩いたりして。
また先生に怒られる。
「お腹|空《す》いた」昼ご飯の時間は、もうすぎてると思う。
「のどがかわいた」赤色みたいな痛みが、のどを攻める。
でも、今は川でおぼれたように眠りたい。だって、熱い。
だけどさっき見た夢は、むなしいからもう目にしたくない。
ぼくが家族と一緒に過ごせるのは、天国に行ったって無理なのに。
お父さん、あなたはきっとじごく行きでしたよね・
ヤマナさんは、どっちですか?
ぼくとマユちゃんは、どっちなら行けますか?
だれも答えないでほしい。だって、かみさまは、いないほうが納得できるから。
目覚めたとき、そよそよしていた。
身体を載せているベンチも頭限定で柔らかくなってる。熱さで溶けた?
額の髪を除《よ》けて、汗を拭ってからまぶたを開く。恋日先生の顔が、暗めに映った。
「おはよ」短くご挨拶。返そうとして、のどが乾きで痛む。唾《つば》を億劫《おっくう》に飲み込んでから、「おはようございます」と言った。そこで、いつの間にか仰向けになっていたことにも気づく。
どうやらぼくは、先生にひざまくらされているみたいだ。頭がやわっこいわけだ。
それに、うちもぱたぱたと扇《あお》いでもらっていた。いたれりつくせりだ、今なら死ねる。
うそだけど。
「こんなとこで寝て、干物《ひもの》にでもなるつもり?」
「夏をさきどりしてみようかと」うちわの柄《え》で小突かれた。
「大体ね、屋上は立ち入り禁止というお達しなのに、何を普通にお昼寝してるの」
こつこつと、できの悪い生徒をしかるように額を突いてくる。
「あ、とりあえず起きますから」と身体を持ち上げようとして、また柄で額を突かれた。
「君が逃げないように、寝転ばせたまま話をするから」
「はぁ……」というわけで、ひざまくらは継続。少し落ち着かない。
「重くないですか?」
「軽いよ。軽すぎ」まるで頭の中身を言われてるみたいだった。
またうちわを扇ぎだしてくれる。ぼくが身動きできないように風を送っているとうことにして、おとなしく受け入れた。
先生がほどよい陰になってくれていて、青空が目に痛くない。
この機会に、ジッと、目に取り込むように眺める。
瞳《ひとみ》を閉じれば暗闇《くらやみ》じゃなくて青空が湧くように。……それはそれで嫌だなぁ。
目の青い外人さんみたいじゃないか。うそだけど。
「畑仕事は終わりました?」
「アタシはお百姓《ひゃくしょう》さんじゃないっての。花壇だよ。今度は花じゃなくてスイカを育てることにした」そう言って、右のポケットから種の入った袋を幾つか取り出して、ぼくに見せた。
「スイカ、ですか」実はあんまり好きじゃなかったり。
「やっぱり食べられるものの方が楽しみだし、花は止めた」
花より団子《だんご》(みたいな形の作物)を地でいく先生だった。
「で、君は何しに屋上へ来てたの?」
先生の手が、頬に触れる。冷たいのに、安まる。
「ヤマナさんのことを、ちょっと考えたくて」
寝起きだからか、ぼくは意外と正直に申告した。理由とか、うそだけど。
「……そう」何だか、やっぱりって、合点してる表情だった。
「先生」「ん?」
「ぼくは、ヤマナさんがじさつすることを知ってたんです」
「うん」先生は驚かない。
「でも、一回も止めなかったんです」
「……うん」
「ぼくは」ひとごろしですか?「まちがってますか?」
「アタシもそれが知りたいよ」
溜めと迷いなく、あっさりと偏屈な答えが返ってきた。
背後からデッドボールを投げつけられたような、そんな言葉。
「アタシも、あの子が自殺の用意をしてたことは知ってた。半年ぐらい前に一回、夜中に見つけて止めさせたことがあったから」
ああ、だからあの位置が危険だって知ってたのか。
先生がぼくから、屋上の出入り口へ視線を移す。
「けど、止めたらあの子は廃人みたいになっちゃってね。どうもあの子は、死なないと生きてる意味をなくしちゃう子だったみたい。」
語る口調は湿っぽくなくて、だけど硬質だった。
ヤマナさんのむじゅんをどう感じていたかは、計り知れない。
先生には分からない領域なのだ。多分、ぼくのことも。
「止め続ければあの子は自殺しなかったと思う。でも、死にたがりながら生きてるのと、生き生きと死にたがるのとどっちがマシか、アタシには判断出来なかった。人は生きるだけで意味あるんだって、そんなことは学んでこなかったから。だから好きにしていいって言っちゃった。」
「…………………………………………」
先生は、そう言うしかなかったのかな。ぼくも、先生のことはよく分からない。
というか、分かる人っていない。
マユちゃんの求めるものは、だれでも理解できるけど。
「で、患者を一人死なせたと」
軽く自嘲する先生。
でも。
先生のお陰で死ねたのだと、ヤマナさんならそんな言い分をもってたかも知れない。
自分をどんな形にせよ、認めてくれる人がいたのだから。
それは、家族よりも。
だけど先生は落ち込んだような、覇気《はき》のないせりふだけがくちからこぼれる。
死にたい人の気持ちがわからないから、となげくように。
「アタシは、医者失格なんだ」「……ヤマナさんもそう言ってました」「うむ、やっぱりか」
ぼくはそう思わない。思うはずがない。
なぜなら、ひざまくらされてるからだ。うむ、微妙にうそじゃない。
「ヤマナさんは、ぼくもじさつするべきだって忠告してきました」
ぼくがまだ判断をできるうちに。
「あーそれは駄目。却下」
ものすごく簡単かつじんそくに否定されてしまった。
子供の玩具《おもちゃ》ねだりを拒否する母親より適当だ。
けっこう重いことを言ったはずなんですけど、ぼく。
そしてなぜか、酢飯を冷ますように扇ぐうちわを手で打つ。
「君はアタシより死を先取るな。アタシが一人金さんと呼ばれるほど長寿だったとしても、それを越えること。はい、約束ね」
耳の穴に小指を突っ込まれた。鉤状《かぎじょう》中で引っかけ、「おおお、いたたたた!」指切りという拷問《ごうもん》を課された。弓なりにならざるをえない。頭と足の指だけでブリッジできそうだ。
「はい、ゆびきーった」スポッと引きぬかれる。
「いやー、君がヨボヨボの爺さんになる日が楽しみだ」
ぼくをいじめて、すっかりご機嫌な先生である。攻撃的人はこれだから。
「あのですね、先生……」「何かね?」なぜ男前な言い方。もう他の話題に移ろう。
耳穴を押さえつつ、これは得心する前に、聞いてみないといけないことだった。
「何でぼくが死ぬことは、断言して止められるんですか?」
ぼくのそぼくを装った質問に、先生はどうしてか難しい顔となってしまった。
どことなく、不機嫌にも映る。そっぽまで向かれる。
「何でって……言ったでしょ。あたしは、医者失格なの」
ぶっきらぼうな言い方だった。
「納得できたね?」「ぜんぜんしてません」空じゃなくてこぶしが落ちてきた。あべし。
「花丸あげるからイエスと言いなさい」「そーですね」おでこに平手打ちされた。
花丸じゃなくて、モミジをもらってしまった。
どう考えても要領を得ないなぁ、と不可解を抱いていたら、
しょーねんはまだまだクソガキだねぇ。
と、空耳が頭に反響《はんきょう》した。
続いて。けらけら、クソガキだからしょーねんだねぇって。
目に焼きついた青空と、一足先に記憶の一角を占拠した、壊れた金網がぼくを嘲笑った。
ヤマナさんの声を借りて。
おおう、シンナーあそびしてないの幻《まぼろし》にさいなまれてる。
そんなにぼくを死なせたいか、ヤマナさん。
けど、それ無理だから。
だってぼくは飛び降りれるようになってから、一度も屋上には来なかったんだよ。
ヤマナさんが先に落ちるの、待ってたんだ。
……まぁ、いいか。
ふともも柔らかいから。
だからまだ、ぼくは死にたがりじゃないってことに設定しとこう。
だけど死ぬときは飛び降りようとも、意識を植えつけて。
ぼくは久しぶりに、柔らかい人に触れられた気がしていた。
こうして、
ぼくのこころの逃げ場所はフェンスの裂け目と青空に決まったのだった。
何とかは高いところが好きなわけだし、お似合いだ。
「……うそだけど、」
変換して、
嘘だけど。
[#地付き]了
[#改丁]
あとがき がわりに……
「春近し……」で一言
冬も日程の半分を消化して、佳境を迎えました。日本人の寿命に当て嵌めれば中年も過ぎたこの時期、冬自身は何か思うことがあったりするのだろうか。春の人気に嫉妬するとか。過去を振り返るとか。無いかな。
[#地付き]入間人間《いるまひとま》
冬の時代は終わった。春が違いが先見の目を養ってる私の頭はもうすでに夏。青い空! 青い海! ……は色ではなくイラストレーター泣かせ。だがしかし、まぶしいビキニ! 雑誌上の女性キャラも段々薄着になってくる! ……かな?
[#地付き]左
底本:電撃文庫Magazine プロローグ2「嘘つきみーくんと優しい恋日先生」 (株)メディアワークス
発行二〇〇八年三月一日 発行