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保阪正康
東條英機と天皇の時代
下巻──日米開戦から東京裁判まで
目 次
第三章 敗北の軌跡
戦いの始まり
[#この行5字下げ]東條讃歌の洪水/増長する指導者/知識人と大東亜共栄圏/ドウリットル爆撃の波紋
快進撃から停滞へ
[#この行5字下げ]東條時代の帝国議会/ガダルカナル攻防の裏/中傷と誹謗の渦/玉砕への道/強引な議会人説得/山本五十六元帥の死/チャンドラ・ボースとの出会い
「私への反逆はお上への反逆である」
[#この行5字下げ]勝利とはバランスの問題/絶対国防圏構想/中野正剛の自決/虚しい精神論への傾斜/詐術の参謀総長兼任/疲労困憊の国民/包囲される東條人脈
舞台から消える日
[#この行5字下げ]「あ号」作戦の失敗/ドイツ敗戦濃厚/重臣の倒閣工作/省部から消えた東條色
第四章 洗脳された服役者
承 詔 必 謹
[#この行5字下げ]4月25日までの忍耐/東條排斥の動き/敗戦の日/東條の自殺未遂
「戦争全責任ノ前ニ立ツコト」
[#この行5字下げ]民主主義への感嘆/東條調書の内幕/被告としての東條/口供書の冒頭
象徴としての死
[#この行5字下げ]キーナン検事の焦り/東條の個人反証/デス・バイ・ハンギング/宗教的境地への到達/〈私〉への沈潜/〈東條英機〉の再度の死
参考文献資料
あ と が き
文庫版のためのあとがき
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東條英機と天皇の時代(下)
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第三章 敗北の軌跡
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戦いの始まり
東條讃歌の洪水
十二月八日午後七時、首相官邸一階の食堂に、東條の気を許した閣僚や軍人、官僚が集まった。この日一日の労をねぎらっての夕食会というのが、この集まりの名目だった。
四角い食卓の中央に、東條と向かいあって嶋田海相が座った。東條の右には軍令部総長の永野修身、左に参謀総長杉山元が、嶋田の右には情報局総裁谷正之、左に書記官長星野直樹が腰を下ろしていた。海軍次官沢本頼雄、参謀本部第二部長岡本清福、陸軍省軍務局長武藤章、海軍省軍務局長岡敬純、法制局長官森山鋭一、外務省アメリカ局長山本熊一、内閣総務課長稲田周一、それに三人の秘書官がこの食卓を囲んでいた。
いまや東條には気のおけない要人たちであり、これからの戦争指導を担う人物たちであった。彼らの表情は安堵で満ちていた。「戦果を祝して」と、東條が笑みを浮かべてなんども乾杯の音頭をとった。
中国料理が食卓をにぎわした。彼らは料理をつつきながら、今朝からの朗報を反芻するのに忙しかった。ラジオニュースは、この席にも皇軍の進撃を伝えるアナウンサーの声をはこんできた。座は和んだ。東條のラジオ放送「大詔を拝して」が流れ、それが出席者にいくぶんの追従をもって讃えられた。
東條は饒舌だった。彼は大声で叫んだ。
「今回の戦果は物と訓練と精神力との総合した力が発揮されたのだ……」
その声に酔ったように、誰もがうなずいた。杉山も永野も上機嫌だった。統帥部の力が存分に発揮され、彼らの予想を超えるほどの戦果だったからだ。
「つい先日のことだが、石清水八幡宮に参拝したときは、勝ち戦で終わって神風なぞなくてもすむようにお祈りしてきた」
杉山が身体をゆすって笑った。
首相秘書官のひとり鹿岡円平は、ときどき席を立ち、大本営と連絡をとっていたが、食堂に戻ってくるなり、東條の耳に「総理、また新たな報告がはいりました」とささやいた。
東條は目を細め、全員に報告するよう命じた。鹿岡が姿勢を正して報告した。
「ただいま大本営海軍部発表の連絡がはいりました。ご報告いたします。本八日早朝、帝国海軍航空部隊により決行せられたるハワイ空襲において、現在までに判明せる戦果左の如し。戦艦二隻撃沈、戦艦四隻大破、大型巡洋艦約四隻大破、以上確実、他に敵飛行機多数を襲撃墜破せり、わが飛行機の損害は軽微なり、本日の全作戦でわが艦艇の損害はなし、とのことであります」
食卓を歓声がつつみ、空気はいっそう和んだ。
「この戦況はさっそくお上にも申し上げるようにしなさい。そうだ、ドイツやイタリアの大使たちにも知らせておくといい」
東條の声ははずんでいた。予想以上の戦果だという感想は、一段と出席者に共通のものとなった。
「これでルーズベルトも失脚するにちがいない。アメリカの士気は落ちるいっぽうだろう」
「そうです。これでルーズベルトの人気は下落するでしょう」
追従するように、何人かが東條の言に相槌をうった。
「それにしてもみごとなまでにこの日の攻撃を伏せられましたね。まったく省部でも寝耳に水だと受け止められていますよ」
秘書官のひとりが言った。「これは最高の機密だから洩れたら大変なことだった」、東條は含み笑いでこたえた。実際、十二月八日の午前零時を期しての対米英開戦という軍事作戦は、まったく伏せられていた。陸軍省、海軍省の局長さえ知らなかった。参謀本部でさえ「南部仏印基地航空部隊はマレイ半島攻撃」という軍事作戦を命令する参謀だけが知っていたにすぎない。
東條でさえ数時間まえに、その具体的な内容をきいたにすぎなかった。東條の周辺にいる者、たとえば秘書官赤松貞雄もまったく知らず、この日の午前三時に、東條から帰っていいといわれ、官邸からでかかったとき、逆に自動車から降りてくる鹿岡に出会った。
「これからが大事な仕事なんだ」
鹿岡はそう言い、官邸に消えた。そのひとことで、赤松は開戦を知った。彼は再び官邸に戻った。秘書官の執務室で、「もっか連合艦隊が真珠湾を攻撃すべく前進中だ」と、鹿岡はやっと赤松に教えた。緒戦の主導権をとっている海軍側の秘書官は、さすがにこのことを知っていたのである。
午前三時半すぎ、首相官邸に軍令部から連絡がはいった。「海軍部隊ノハワイ急襲成功セリ」――。
鹿岡と赤松は、東條の執務室に走った。
「ただいま第一報がはいりました。真珠湾奇襲は成功しました」
ふたりは、東條が得意なときに見せる目を細める表情を期待した。が、それは裏切られた。むしろ日ごろの渋い表情のまま、「よかったな」とだけ言った。それからひと呼吸してつけ加えた。
「お上には軍令部から御報告を申し上げたろうな」
それが東條の乾いた第一声であった。
午前七時にJOAKの臨時ニュースが開戦を国民に伝えた。「大本営陸海軍部発表、十二月八日午前六時。帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」――。東條は赤松と鹿岡、広橋の三人の秘書と執務室のラジオで、その放送を聞いた。「交戦状態ニ入レル旨ノ『ラジオ』ヲ聞キ乍ラ身心緊張愈々開戦第一日ノ多忙ナ日程ガ始マレリ」――この日の「秘書官日記」の冒頭はこう書かれた。
このニュースを聞くと、東條はすぐに軍服に着替え、枢密院会議に出席するために宮中に馳けつけた。対米英蘭への宣戦詔書の案文、布告の時期をどうするかが議題であった。宣戦布告の時期を遅らせるべきだと主張する顧問官に、東條は「すぐにでも布告すべきである。開戦時期の微細な点は問題にすべきでない。米英の帝国を圧迫する態度を広く世界に示さなければならぬ」と応酬して、宣戦布告することにより日本側に責任転嫁されるのではないかという枢密顧問官の懸念を押さえた。こうして正午に宣戦詔書が発表された。
このあと、すぐにJOAKのスタジオに行き「大詔を拝して」を読みあげ、国民に呼びかけた。「今、宣戦の大詔を拝しまして恐懼感激に耐へず、私、不肖なりと雖も一身を捧げて決死報国唯々皇国を案んじ奉らんとの念願のみであります」と前置きして、五分間にわたって、かん高い声で朗読をつづけた。「凡そ勝利の要訣は、必勝の信念を堅持することであります。建国二千六百年、我等は未だ嘗つて戦ひに敗れたるを知りません」「帝国の隆替、東亜の興廃、正に此の一戦に在り。一億国民が一切を挙げて、国に報い国に殉ずるの時は今であります。八紘を一宇と為す皇謨の下に此の尽忠報国の大精神ある限り、英米と雖も何等惧るるに足らないのであります」――。
これらの草稿は、十二月六日の連絡会議で承認されたものであったが、日本の指導者の願いはここに凝縮されていた。なかでも東條が絶叫調で説いた「我等は光輝ある祖国の歴史を断じて汚さざると共に、更に栄ある帝国の明日を建設せむことを固く誓ふ」という一節こそ、この時代にめぐりあわせた彼らの責任感と恐怖がこめられていたのだ。
東條はラジオ放送を終えると、大政翼賛会の第二回中央協議会に出席した。東條と海相嶋田繁太郎が姿を見せただけで、出席者たちの歓声があがった。東條は彼らに救国の英雄と映ったのだ。首相官邸には国民からの電報や電話が殺到した。重臣の岡田啓介をはじめ要人たちも相次いで訪れ、相好を崩した。それだけではない。東條の私邸にも人々の歓呼が押し寄せてきたのである。
午後七時にはじまった夕食会は、二時間近くで終わった。誰もが上機嫌に席を立った。
「ルーズベルトはこれで失脚することになるだろう」
そのことに思いがいくのか、夕食会の終わりにも東條はつぶやいた。それをきく者は、いまやこの国の指導者は敵国の指導者の面子にまで関心を寄せているのだと思って感激した。
「総理、お疲れのようですから、今日はお早くおやすみください」という秘書官のことばに東條はうなずき、「今日は家族が待つ陸相官邸でゆっくり過ごすよ」と言って、彼は食堂を出ていった。その姿を出席者たちは頼もしげに見送ったが、この日からしばらく、彼の後ろ姿は〈頼もしく〉と形容しつづけられることになったのである。
東條には、この日は生涯の最良の日であった。輝かしい戦果、そして国民の熱狂的な歓呼。しかも枢密顧問官の懸念を押し切って、正々堂々と宣戦布告をしての戦争と、なにからなにまで彼の思うとおりに進んでいるのだ。「戦争はやはり正面から正々堂々と宣戦布告をしたうえで進めなければいけない」といっていた彼の日ごろの言も、ここに実証された。それこそが日本の軍人の拠って立つ基盤だと思っていた。
だが東條の知らない一面で、彼のもっとも嫌いな形容句〈騙し打ちの張本人〉として、アメリカ国民の憤激がこの日から東條に向けられているのを、彼自身は知らなかった。しかもその汚名は、永久に東條につきまとうはずであった。なぜなら日本はたしかに騙し打ちをしたからだ。
アメリカの巧妙な歴史的なアリバイづくり、その一方での駐米日本大使館の外交上の不手際。そのことを抜きに、この戦争を語ることはできない。まさにこのふたつのでき事こそ、太平洋戦争の方向をかたちづくる象徴的な事実であったのだ。
十二月七日午前七時半、中央電話局に一通の電報が届いた。ルーズベルトが駐日アメリカ大使グルーに宛てた電報だった。その内容は、アメリカではすでに新聞記者に公表され、ニュースとして世界中に打電されていた。陸軍省の電信課では、この電報を十五時間遅れて大使館に届けた。グルーは外相東郷茂徳に電話をかけ、天皇に会えるようにとりはからってもらいたいと要求した。ルーズベルトの親電は天皇に宛てたものだったからだ。
千五百字余りの電文の末尾は「余ガ陛下ニ書ヲ致スハ、此ノ危局ニ際シ陛下ニ於カレテモ同様暗雲ヲ一掃スルノ方法ニ関シ考慮セラレンコトヲ希望スルガ為ナリ」となっていたが、そこには日米交渉の障害となった項目への私見も述べられ、合衆国は、日本が仏領印度支那から撤退すればその地に進出する意思はないと約束されていた。しかし懸案を解決すべき新たな提案はなかった。
東郷は東條と木戸の三人で、このグルーの要求にどう対応するかを、七日の深夜から八日にかけて打ち合わせた。その結果、この親電を天皇のまえで読みあげて天皇に電報の内容を知らせ、そのうえで親電拒否の回答をすることに決めた。
……この親電をもうすこし早くに配達していれば、日米戦争は回避できたという論は、いまに致るも語られている。だが果たしてそうか。この親電は交渉打開のものではない。よく読めば日米交渉の経緯でのアメリカの和平をのぞむ部分を文書化したものにすぎない。のちにハルが回顧録で本音を吐いたように、「歴史にのこす記録として米国の和平の意思」を伝えたにすぎなかった。つまり五十年、百年先のアリバイでしかなかったのだ。
だがたとえそうであったとしても、歴史への透視に欠ける日本の指導者たちとは比べものにならないほど、彼らに理智があったのも事実だ。もし日本に救国の英雄に値する指導者がいたなら、この親電を逆手にとってアメリカに新たな外交攻勢をかけたかもしれなかった。実はそこにアメリカ側の弱味もあったのだ。東郷も東條も、そして木戸もそこまでの見取図をもった政治家ではなかった。そして、なによりアメリカのアリバイづくりを支えたのは、電報を遅らせた省部の融通のきかぬ好戦的な参謀たちだったのだ。
もうひとつの事実が、この失態に輪をかけた。主役は駐米日本大使館の館員たちであった。外務当局は、交渉を中止するという電報が真珠湾攻撃の前にアメリカ当局にわたるように措置をとっていたにもかかわらず、十二月七日の日本大使館は平常とかわらぬ休日勤務をとっていた。この日早朝に着いた電報は、数時間後にやっと暗号解読にはいり、ハルに手渡すよう指示された午後一時にもまだタイプを打っている有様だった。
野村と来栖がハルの応接間にはいったのは午後二時五分だった。さらに彼らは、応接間からハルの部屋に呼びいれられるまで十五分待たねばならなかったが、この間にハルは、すでに真珠湾攻撃の第一報を耳にしていた。しかもハルの机には、彼らがもってくるであろう電文がのっていた。「マジック」は対米外交の打ち切りという文字を伝えていたのである。
ハルの部屋に通された野村と来栖は、椅子も勧められないほどの非礼な扱いを受けた。野村から渡された文書を読むふりをし、さらに興奮した様子を見せるのは苦しい演技だったと、のちにハルは述懐しているが、このときハルは、語気鋭く言っている。
「……私は五十年の公職生活をつうじてこれほど卑劣な虚偽と歪曲に満ちた文書を見たことはない。こんなに大がかりな嘘とこじつけを言いだす国がこの世にあろうとは、私はいまのいままで夢想もしなかった」
ハルは怒り、あごでドアをさした。が、野村と来栖は、その怒りを充分理解していなかった。彼らが真珠湾攻撃を知ったのは大使館に帰ってからである。
こうしてアメリカ側は、思いがけぬ。贈り物=A事前通告のない奇襲という願ってもないものを手にいれた。
〈土壇場まで和平を願っていたアメリカに対して、卑劣にも騙し打ちで奇襲攻撃をかけた日本〉という図式は、たとえ東條には不本意でも歴史的事実としてのこり、その卑劣の代名詞に、東條の名はつかわれることになった。
――駐米大使館の不手際は、しばらくの間、東條は知らなかった。それを知ったのは、大使館員が交換船で帰ってきた昭和十七年八月だった。だが戦況が順調に推移しているとき、その行為は不問に付された。のちに巣鴨拘置所で、この不意打ちに東條が考えた弁明というのは、十二月五日にはアメリカは日本の機動部隊の動きを知っていたはずだし、このころ戦争があるのも当然予期していたにちがいないという論旨だった。だから、「奇襲ノ成功ハ奇蹟的ニシテ一ニ真珠湾ニ於ケル軍不警戒ノ賜ニシテ不警戒ヨリ生セル責ヲ負フ能ハズ」と、苦しい論理をくり返す以外になかった。
増長する指導者
八日、九日、十日、大本営発表は日本の電撃的な作戦の勝利をつぎつぎと報じた。そのたびに東條は、首相、陸相の立場から連合艦隊司令長官に祝電を打った。「開戦劈頭赫々たる戦果を挙げられたるを慶祝し将兵各位の御武運長久を祈る」という文章は、自ら筆をとってまとめたものだった。
そういう草案を書きながら、東條の関心は依然としてルーズベルトに向けられた。
〈詐術と弁舌でヤンキー気質をあおっている敵国の大統領はどんなに衝撃を受けていることか〉
軍事調査部や外務省が届けてくるアメリカの国内情勢の報告書は、東條の期待のなかでページを開かれた。しかし事態は、東條の予想したほうへ転回せず、アメリカ国民はルーズベルトを責めはしなかった。
むしろルーズベルトを中心にして、アメリカ世論はまとまっていった。開戦とともに議会が開かれ、下院でひとりの反対議員があっただけで参戦決議が可決されたというし、ルーズベルトの戦争状態宣言を議会はすぐに認めた。ルーズベルトの議会での演説は、「昨日のハワイヘの攻撃はアメリカ陸海軍に甚大な損害を与えた。甚だ多数のアメリカ人の生命が喪われた。……昨日日本軍はまたマレーを攻撃した。昨夜日本軍は香港を攻撃した。昨夜日本軍はグアムを攻撃した。昨夜日本軍はフィリッピン群島を攻撃した。昨夜日本軍はウェーク島を攻撃した。今朝日本軍はミッドウェー島を攻撃した。日本はかくの如く太平洋全域に亘って奇襲攻撃を敢行したのである……」と、平易なことばをつかって事実の報告だけをしている簡明なものだった。
これを通信社のニュースで知った東條は、この無味乾燥な演説は、国家の意思をまとめることのできない指導者の焦りで、それは野卑で忠誠心のひとかけらもないアメリカ国民を説得する詭弁術だ……と受けとめた。
「勝利の要訣は必勝の信念にあり、建国以来、我等はいまだかつて戦いに敗れたことを知りません」という高邁なことばで納得できる国民をもつ指導者として、東條はルーズベルトに優越意識さえもったのである。
東條に限らず枢軸側指導者、ヒトラー、ムッソリーニもアメリカ国民の鈍重さを嗤った。しかし彼らの侮蔑の蔭で、ルーズベルトの演説によってアメリカ国民は「リメンバー・パールハーヴァー」に結集し、「バイ・ウォア・ポンド・アンド・スタンプ」(戦時公債、切手を買え)を合いことばとして反枢軸戦線に結集したのである。
十二月十日、連絡会議はこの戦争を大東亜戦争と称することを正式に決めた。海軍は「太平洋戦争」「興亜戦争」を主張したが、「大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものとして、戦争地域を大東亜のみに限定する意味に非ず」という陸軍の意見がとおった。自給自足、資源確保を重視する海軍と、自給自足と大東亜共栄圏建設の折衷を戦争目的と考える陸軍の微妙な対立がここにはあらわれていた。
「大東亜戦争と称するのは大東亜新秩序建設を目的とする戦争になることを意味する」と、情報局は陸軍の見解を公式に発表した。思えば傲慢であった。自存自衛で戦いに入ったのに、緒戦の戦果に眩惑され、東亜解放の盟主気取りが前面にでてきたのである。浮わついた空気に国を挙げて捉われ、十六、十七日に開かれた第七十八臨時議会では、東條がかん高い声でアメリカの外交政策を非難し、「もし我にして米国の要求に従属すれば、大東亜安定のために傾注してきた帝国積年の努力は悉く水泡に帰するばかりで帝国の存立すらも危殆に瀕し……」という訴えは、興奮した議員の拍手によってなんども中断した。いま議事録を見ると、十分足らずの間に拍手は二十数回も響きわたっている。
有志議員からは陸海軍感謝決議案が提案された。提案説明に立ったのは、かつての桜会のメンバーで赤誠会の有力議員である橋本欣五郎だった。「衆議院は特に院議を以て陸海軍将兵諸士の偉功を感謝し其の勇健を祈り併せて忠肝義胆鬼神を哭かしむる殉国の英霊に対し深甚なる敬弔の忱を表す」――総員起立で可決された。
東條の立場は強固になる一方だった。
執務室の机に届く憲兵隊、軍事調査部、それに内務省からの「指導層の戦争協力」と銘打たれた書類には、東條を讃える声が溢れ、有史以来の指導者ともちあげる各界の指導者の声が報告されていた。各地で開かれる在郷軍人会と町村自治体主催の「米英撃滅大会」では、いまや帝国は米英の鉄鎖を断ったと言い、日本は国体を有する国、敵国アメリカのように無思想な国民とは異なるとの檄が飛んでいると、内務省の報告は伝えた。「東條首相は救世主です」と各地で賞讃されているとつけ加えられていたが、それは決して虚構でも追従でもなかった。戦後、東條を謗る側に回った論者の多くが、このとき歯の浮くような東條礼讃をつづけていることを容易に散見できる。
こういう国民の燃えあがりを、内務省警保局は特定の枠内でのみ認めていた。好戦意欲を刺激し持続すること、それが枠組みだった。厭戦、避戦につながる言動を監視し、その排除に躍起になっていた。むろん国民のなかには少数とはいえ戦争反対の声はあったが、開戦の翌日には、かつて左翼運動に関係した者、戦争に批判的な者は予防拘禁、スパイ容疑の名目で身柄を拘束されるか、特高の監視下に置かれた。反戦運動の動きなどすこしもなかった。
反戦運動とは別に、政界有力者の間で戦争への不安を洩らす者はあった。近衛と昭和研究会のメンバーは、「えらいことになった。こんな戦況は二、三カ月だろう」とささやき、重臣米内光政邸には前外相有田八郎、前蔵相石渡荘太郎らが集まって、時期をみて終戦にもっていこうと話し合っていた。
戦果を東條の個人崇拝に結びつけようと骨折ったのは、情報局だった。国民を戦争へ協力させるための宣伝活動をするこの組織は、総裁谷正之、次長奥村喜和男らが、いたる所の会合に出向き、東條を英雄視する歯の浮くような演説をぶって歩いた。「諸君はドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニを世界の英傑という。しかしながらもっと偉大な英傑が日本にいらっしゃるではないか。すなわちわが東條英機閣下がそうであります」。開戦から四カ月後には、大本営陸軍部報道部長の谷萩那華雄は、「北方から来襲した元寇を破ったのは北條時宗、いまや東方から脅威する米英を撃滅するのは東條英機である」と叫んだ。時流便乗の似非文化人としての彼らのふるまいは、東條にとっては、自らを偶像視させる貴重な手駒であった。
東條偶像化の波は、東條の足元にも及んできた。ある閣僚は公言した。
「これで東條首相は今世紀の英雄となった。やがていつかインド洋でヒトラー、ムッソリーニとで三巨頭会談が行なわれることになるだろう」
それに同調する閣僚もいた。根拠もないのに「アメリカは亡びるだろう」と得意気に吹聴して歩く閣僚もいた。議員、官僚、在郷軍人が相次いで追従や賞讃のことばをもって、東條をたずねてきた。そういうときの東條はうなずくだけで、それ以上の感情の昂まりを見せまいと気を配っていた。傲慢と小心との表裏の関係にあるその態度は、事態が好転しているときは沈着冷静で頼もしく映り、悪化したときには傲岸不遜と見られるにちがいなかった。
そういう東條の態度や表情に、側近たちは遠慮がちに注文をつけた。もっと表情を崩したり、笑ったりしたほうが人気が沸くというのであった。側近たちにすれば、この首相は驚くほど感情の昂揚を見せない人物だと思われるのを避けたかったからだ。
しかし東條は、「自分は追従やお世辞はいえん。このままでふるまう。政治家のような態度をとるなんてまっぴらご免だ。政治というのは人気でやるのではない。信念で指導にあたればわかってくれる」と反論し、その態度を改めようとしなかった。が、彼自身、お世辞や追従が嫌いだったわけではない。彼は側近や官僚たちの東條讃歌を止めるようには命じなかった。だから〈東條崇拝〉現象が彼の意図を反映していると一般に受けとられても、仕方がなかったのだ。
知識人と大東亜共栄圏
しかし順調にいっているときは伏せられていても、いつか新たな芽となって吹きでてくるのを窺わせるできごとが、この頃にはいくつかあった。背広よりも軍服を着ての執務は、戦況が悪化したときに悪評となってはね返ってくると予想できた。議会での答弁も、いつか反感を買うに違いなかった。たとえばつぎのような例があった。
第七十八臨時議会に提案した「言論出版集会結社等臨時取締法」は、戦争遂行のため一切の権限を政府が握るというもので、衆議院特別委員会で審議された。議員の質問の焦点は、この法律をやむなしとしつつも、いつの時点で実効を失なうのかという点に集まり、「この法案でいうところの戦時下でない状況とは、具体的にどういうことか」という質問が東條に向けられた。すると彼は、いささかの躊躇もなく平然と、「平和回復、それが戦争の終わりである」と答えたのである。
「そうした説明ではなく、法制的にはどういうことだときいているのです」
「それは戦争の必要がなくなったときです」
そんな東條にたいして、委員長は法制的に答弁するようにと注意を与える。だが東條はその意味がわからず、抽象的な答弁「戦争でないとき、平和になったとき」をくり返すことに終始した。その結果、むしろ逆にこの答弁に質問者が助け舟をだし、委員長は質疑を打ち切ることで東條は許容された。
その間、東條は謹厳な表情を崩さずに答弁席に座っていた。自らの答弁のどこが不備なのか、むしろ東條のほうが怪訝な表情を見せているほどだったが、こうした議会の寛容な態度も、すべて八日以降の戦果の賜≠セった。まるで陸軍省軍務課の雑談のような答弁を許すだけの雰囲気があったのだ。大本営発表はいっそう華々しくなり、東條はその象徴とされ、こうした彼の不手際もすべて許容されることとなっていた。
十二月三十日の大本営発表は、三週間足らずの戦果を総括した。中国からアジアの国々まで二万キロに及ぶ戦線を報告し、香港の英米軍を無条件降伏させたといい、「茲に支那大陸より英米の勢力を完全に一掃したのである」と断じた。香港だけでなくフィリッピン、マレー、英領ボルネオ、グアムなどでも日本軍は占領地をふやしているといい、日本軍は既に「粉砕した敵の飛行場六二、撃破せる敵機四百余、其の他莫大なる戦果をあげている」と報告した。それをきく国民に、カタルシスが支配しはじめたことは否定できなかった。
昭和十七年にはいった。
元日に宮中から首相官邸に賜金、酒が届き、東條を感激させた。それを秘書官や職員に配り、「天子様の意を受けるように……」と訓示した。天皇の意を代弁するのは自分であるという意識が彼のなかでふくれあがる徴候だった。ドイツとイタリアの駐在武官が、官邸の初の年始客であった。彼らと会うとき東條の表情は和んだ。圧倒的な戦況を、彼らに伝えるのは楽しいことだったからであろう。
「ドイツ、イタリアにはあらゆる便を惜しんではならない」
開戦以来、東條は陸軍省の将校から、ドイツ、イタリアの駐在武官に戦況の詳しい報告を伝えさせていた。なかでもドイツの武官は、しばしば東條を訪ねてきた。日本の真珠湾攻撃を聞いたヒトラーは、テーブルをたたいて喜び、そくざに対米戦争を決意したと武官は言い、それだけにヒトラーは日本の戦況を知りたがっていると、彼は補足した。それに日本、ドイツ、イタリアは開戦後まもなく日独伊共同行動協定をベルリンで結び、単独で対米英と休戦したり、講和したりはできないと定めてもいた。いまや三国は運命共同体だというのであった。
年始に来たふたりの武官は、ヒトラーやムッソリーニからの年頭のメッセージを手渡したあと、しきりに日本軍の健闘を讃え、東條は、そのことばに何度もうなずいた。官邸の庭では東條の娘たちが羽根つきをしている。それを武官は珍しがった。ヨーロッパのスポーツとはちがうというのである。
「白線をひいて羽根をつけば、それはすでに勝負になる。ヨーロッパはそういう勝負を土台にしている。でも日本はラインをひかずに相手の受けやすいように羽根をつく……」
と東條はいい、「これが日本精神というものなのです」と得意気に言った。
相手と戦いながらも、そこに思いやりと優しさがあるというのだ。それが武官にどのように受けとられたかは判らないが、しかし、実はそうしたことばは東條自身が納得することばとして吐かれていたにすぎない。
宮中での新年奉賀でも、東條は、〈救国の英雄〉として遇された。重臣たちは上機嫌で、真珠湾攻撃の当事者山本五十六連合艦隊司令長官を讃え、東條の労をねぎらった。彼らは近衛に、「悪いときに辞めましたね。もうすこし在任していれば、あなだが戦績の栄誉を担えましたものを……」といったが、それはそのまま東條に戻ってくる賞讃のことばだった。が、東條は、そういった賞讃にはすぐに天皇をもちだした。
「日本にはお上がいらっしゃる。自分が太陽なのでなく、お上が太陽なのです」
自らは全国民に敬服されるほどの人物ではない、日本精神の忠実な実践者なのだ……彼はしきりにそういって周囲のものに答えつづけたが、相手はそれをまた、彼の奥ゆかしさととったのだった。
正月の陶酔を見込んだように、一月三日の夕刻、大本営陸軍部は「帝国陸軍比島攻略部隊は二日午後首都マニラを完全に占領」と発表した。アメリカの拠点だったフィリッピンの首都が日本軍によって制圧されたという戦果は、熱狂にいっそうの輸を拡げた。
あわせてシンガポールの英国軍を撃退中であると、大本営は伝えた。太平洋とインド洋の接触点、東と西を結ぶ貴重な要港。ここを日本の通商輸送の拠点とすれば、対日包囲陣の殲滅を意味するし、戦略上からも重慶政府支援を断ち切ることになる。だから英国本位の世界歴史を崩壊させるのは、このシンガポールという大支柱を叩きこわすことだという日本軍の士気は高く、その陥落も時間の問題とされているというのである。
「もしシンガポールが陥落したならば……」
と東條は、これを耳にしたとき言った。
「日本は世界史に一頁を開くことになる。そのときは大東亜共栄圏の確立を目的にしなければならない。帝国を中心とする道義にもとづく共存共栄の地域にしなければならない」
軍務局軍務課の課員を呼び、連絡会議にかける草案のなかにそれを強くもりこむように命じた。一月二十一日に再開された第七十九帝国議会の施政演説の内容はこうした主旨に満ち、大半は大東亜共栄圏確立への根本方針を執拗にくり返すのに費されたのである。
「しかも今回新たにこの建設に參加せんとする地域たるや、資源きわめて豊富なるにもかかわらず、最近百年の間、米英国等のきわめて苛酷なる搾取を受け、ために文化の発達甚だしく阻害せられたる地域である……」
東條をはじめとする政府、統帥部の責任者たちは、つぎの段階として戦果をどのように日本の政略に組みこむかに腐心しつつあり、それが声高な大東亜共栄圏確立に直結した。東條は秘かに軍務課の課員を呼び、占領地行政を統轄する新しい機関の設置を検討させた。占領地政策は陸軍で行なおうというもので、外務省の外交権を牽制するという心算のあらわれだった。
二月十五日の夕刻、東條のもとに秘書官が電報を届けた。マレー方面から入電したものだった。「軍は本十五日十九時五十分シンガポール要塞の敵軍を無条件降伏せしめたり」――。
執務室の電話をとった東條は、木戸幸一にこの朗報を伝えた。木戸に報告すれば、そのまま天皇に伝えられるからだった。
「杉山総長は十時に参内し上奏いたしますが、私は、明日議会で声明を発表するつもりでおります」
一刻も早く天皇に伝えたいという東條の喜色が木戸には伝わった。それは下僚が上司に認めてもらいたいというときの口調や態度であったろう。そのあと東條は幕僚を集めて陸相の戦況報告演説草稿を練ったが、それはシンガポール攻略を軸にした記述で埋まった。「我が第一線部隊は航空部隊および砲兵特に重砲兵部隊との密接なる協同の下、五日間にわたり、連日猛攻を加え、遂に二月十五日十九時五十分に至り、敵をして無条件降伏のやむなきに至らしめた。シンガポールはここに完全に我が手に帰した次第である……」と、いかにシンガポールが攻略不能の要塞であったかが延々と説明され、この地を占領したことによる軍事的な意義が、饒舌な形容句とともに語られた。
翌十六日の議会で東條は、首相、陸相として登壇したが、陸相としてのほうに圧倒的な拍手があった。
首相としての演説で東條が強調したのは、大東亜共栄圏建設だった。フィリッピンもタイも手に入れ、シンガポールを攻略し、まもなくビルマも手中に収めるといい、そのためにビルマの民衆に「……ビルマ民衆にして既に無力を暴露せる英国の現状を正視し、多年の|桎梏《しつこく》より離脱して我に協力しきたるにおいては、ビルマ人のビルマ建設に対し積極的協力を与えんとするものであります」と呼びかけた。そしてインドに触れ、英国の暴虐なる圧制下より脱出し、大東亜共栄圏建設に参加すべきであると言った。「英国の甘言と好餌に迷い、その|頤使《いし》に従うにおいては、私はここに永くインド民族再興の機会を失うべきかを憂えざるを得ないのであります」――。
予想したより早い戦果に、東條の演説は充分に検討されずに、早急に大東亜共栄圏を訴えつづけた。東亜解放の呼びかけは、この段階では理念として吐きだされているだけで、それぞれの国に説得力はもたなかった。
ところが、東條の演説は意外な面で評価された。戦争の大義を捜していた知識人が、植民地解放戦争と思いこもうとし、様子をうかがいだしたのである。いったいに東條内閣は知識人には人気がなかった。陸軍にたいする潜在的反感、その頂点にいる東條への侮蔑があった。それだけに軍務局長武藤や軍事調査部長三国直福、兵務局長田中隆吉らが知識人を監視し、憲兵隊も彼らの命を受けて必死に動向を監視していた。知識人というのは、大学教授、文化人などであるが、その知的能力は大衆に与える影響が大きい。そこでその影響を逆手にとらなければならないと考えていたのだ。
東條自身はきわめて楽観的に、知識人が戦争協力をするとみていた。日本人はすべて天皇の赤子であり、国家の政策に従うのは当たりまえという漠とした理由が根拠だった。それでも軍務局は東條の意を受け、秘かに文化人のいくにんかを嘱託にし、戦争協力者の拡大につとめていたのである。そういう文化人の中には、作家や大学教授、そして議員などがいたが、彼らが一見親軍派に見えないメンバーであっただけに効果は大きかった。
東條が議会で大東亜共栄圏を唱い、そうした協力者が、あらゆる場であらゆる形で歪んだ東亜解放思想を鼓吹しはじめると、知識人の関心は深まった。とくにインドに対する日本の関心が東條の口から洩れると、共感の輪はいっそう広まった。ヨーロッパのアジア支配の象徴インドの解放は、知識人の感覚にアピールしたのだ。総合誌にも急速に大東亜共栄圏がとりあげられていった。
昭和十三年四月に公布された国家総動員法によって、文化人も半ば強制的に徴用されたが、そういう文化人が南方戦線に従軍し、東亜解放に関心をもつレポートを送ってきた。それらの作品のモチーフに、インドが象徴的にとりあげられたのはこうした必然性のためだった。
折りしも日本にはインドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースがいて、東條の演説を受け、「この天佑に乗じてインドは英国に対して過去の一切を清算すべきだ」と、インド人に呼びかけた。ベルリンに亡命している独立運動の闘士スバス・チャンドラ・ボースもそれにこたえて、日印提携してインド独立のために前進しようとの声明を発表した。
ドウリットル爆撃の波紋
日本軍の果断ない進撃がつづいた。ジャワでオランダ軍が無条件降伏、ビルマ戦線からも英国軍を追い払った。真珠湾の奇襲により制空、制海権を握った日本軍は、地上軍との連携作戦で予想外の戦果をあげたのである。
四、五日にいちど開かれる大本営政府連絡会議での統帥部の鼻息は荒く、杉山と永野も米英軍はたいしたことはないと言った。占領地にどのような行政を行なうか、今後戦局をどうするかと議論は浮わついた。「米国は飛行機や潜水艦の建造に力をいれているが、しかしまだ熟練した兵士は少ないはずだ」、それが会議の主流だった。そして三月二日の連絡会議では、「帝国資源圏は日満支及び西南太平洋地域とし、濠州、印度等は之れが補給圏足らしむるものとす」という案が採択され、当初の予想よりふくれて、濠州まで日本の補給圏とするとした。
このことは第一段階の作戦が順調にいったために、第二段階の作戦に進んだことを物語っていた。大本営が考えていた第一段階というのは、円滑な戦争遂行と自存のために必要な油、米、鉄、石炭などを南方から徴用することを目的とし、そのため必要地域の制圧を四、五カ月で完了するとなっていた。ついでにこれらの地域に防衛線をひき、ラバウル、ソロモン、ニューギニアと第二段階に進む計画だった。
第一段階から第二段階へは、アメリカの戦時体制強化を分析しながら移行するとなっていたが、それがなしくずしに行なわれることになった。ここに指導者たちの|陥穽《かんせい》があった。国内の戦勝気分や新聞、ラジオの派手な報道に幻惑され、指導者自身が勝利を既定のこととして議論を交わしていったのである。そうしたことは、占領地の名称をつける委員会が書記官長の星野直樹を中心にして設けられ、シンガポールを昭南、ニューギニアを新大和と改名するといった愚行となってあらわれていた。
東條にも浮わついた感情が強まった。省部には東條の演説を、「芝居のみにては戦争は結末つかず」と酷評する空気がでていたほどだ。
しかしそういう参謀本部の参謀さえ、アメリカの戦力分析に甘い面をもっていた。開戦から二年を経ると、航空機も戦艦も十倍に増えるが、それもアメリカ本土やハワイにひしめいている限り、たいしたことはあるまいと考えた。三月七日の連絡会議でも、アメリカの戦力はかなりのスピードで上昇するだろうといいつつも、十項目の欠点をあげて有効な戦略は組み立てられないだろうと指摘した。その十項目には、人的資源の低下、戦勝の可能性のないときには士気が衰退するなど、きわめて抽象的な条件が指摘されていたが、第十項には「ルーズベルト、チャーチルノ政策ハ動々モスレバ投機冒険ニ堕シ国民必ズシモ其ノ指導ニ悦服シ居ラス」とあった。戦況の悪化は米国民を悲嘆のどん底に追いこみ、いまやルーズベルトもチャーチルも国民の信を失なっているはずだ。それこそ国家統合のシンボルをもたない自由主義国家の欠陥だ。――そういう願望とも期待ともつかぬ考えに捉われていたのだった。
さらにアメリカが有効な戦力を組み立てられない理由として、物量の損耗費の数字がもちだされた。海軍の報告では、飛行機の撃墜が四六一機、撃破炎上一〇七六機の計一五三七機の損害をアメリカに与えているが、日本軍はわずかに一二二機にすぎないとあった。船舶も一〇五隻(六〇万屯)を撃沈させ、九一隻(三〇万二千屯)を大破させたが、日本軍の損害は二七隻を失なっただけというのである。
こうした事情を考慮して、七日の連絡会議では、「戦争指導の大綱」を決めた。その方向は、イギリスを屈服させ、アメリカの戦意を喪失させ、ソ連とはできるだけ戦争を避け、中国には政戦両様の手段で屈服をはかるということで、開戦前の「戦争終末に関する腹案」に沿っていた。
しかしこの大綱の狙いは、実は第二項にあった。「占領地域及主要交通線ヲ確保シテ国防重要資源ノ開発利用ヲ促進シ自給自足ノ態勢ノ確立及国家戦力ノ増強ニ努ム」。つまり占領地域を日本の領有とし、それを守りぬくというのであり、その圏内は第一段階の成功で大きく広がっているので、それを維持するために膨大な人材と物資を必要とするというのである。
そこに指導者と軍人たちの思いあがった分析と判断があった。
戦況の劇的な展開に、東條には余裕が生まれた。国内を回って民情視察を積極的に行なうことを決意した。こういう決意を彼は誰にも相談しなかったが、しいていえば武藤に伝えるていどだった。まるで駈け込むように戦争にとびこんだのだから、戦況も一段落したこの機会に地方を回って戦争協力を呼びかけ、国内体制をかためたいと、東條は考えた。それに折りから進んでいる翼賛選挙の根回しという意味もあった。〈戦争完遂のための翼賛選挙〉を旗印に結成された翼賛政治体制協議会は地方で立候補予定者を集めているし、これに反対する議会人を押さえつけている時期だったから、東條もそれを秘かに応援する心算があったのだ。
地方に出るまえ、東條はまず東京都内を視察した。戦時下とあって、すべてが配給制なのだが、末端役人の不誠実、不明朗が目にあまり、尊大な態度で〈与えてやる〉式の態度をとる者があるらしく、庶民の訴えが官邸にも数多く寄せられた。
そこでその訴えの役所を視察に行き、役人をどなりつけることが重なった。
「役人は重点をつかんで国民をひっぱっていかなければならぬ」
最高権力者の声は絶対である。役人はうなだれ、叱られた子供のようにうつむく図が、東條のまえにあった。
たまたま東京の千住署を視察したときだった。「身上相談所」という看板のまえに人が並んでいるのに、だれひとり応対をしていなかった。すると例によって東條は、署長を呼びつけた。
「係員がいないのであれば、署長が窓口に立つのはあたりまえではないか」
署長がうつむいていると、東條が窓口に座って相談に応じはじめた。
徴兵検査の視察にもでかけた。かつて陸相就任時に強調した健兵育成の推移を調べるためだった。米穀店の倉庫に入り、貯蔵状況も確かめた。配給所では、応急米の配給の様子を見た。配給を受け頭を下げている老婆がいた。係員はそれを無視してつぎの者に配給をつづけると、東條はどなった。「君も挨拶しなさい。ちょっとの気持で同じ一升が二升にもなる。逆に五合にもなってしまうこともある。役人根性は捨てなければいかんではないか」。係員は万座のなかでうつむいた。東條の叱責は正論でもあり執拗だった。
大本営政府連絡会議という、国策決定の重要な会議の二、三時間後に内情視察で庶民に接する東條のなかには、あらゆる事象が同じ次元で視野にはいっていたのはいうまでもない。指導者にしては些事にとらわれすぎるという批判があったが、それはこのことをいったのである。しかし東條自身は、それを馬耳東風と聞き流した。いやその事実に気がつかなかったというべきかもしれない。彼の視界にはすべてが平面としてあり、事象に軽重はなかった。
内情視察にでかけるとき、あるいは役人をどなりつけるとき、彼はそこにつぎの考えを置いた。
〈天皇御親政の帝国にあっては、だれもが天皇に上奏できるわけではない。私は赤子の代表として、天皇のお考えをすべての国民の一人ひとりに伝えるのが役目なのだ〉
自らが天皇の意思の表現体なのだというぬきがたい信念が、彼に定着した。それはいつか、〈自分に抗することはすなわち天皇への大逆である〉という考えに成長するのが目に見えていた。
赤子の代表として、彼は閣僚たちに、天皇に中間報告、結果報告を欠かしてはならぬとなんども説いた。
「政治を行なうというのは、民心を掌握してその方向を与えるのが大切というが、しかし日本ではそれだけではいけない。国民に等しく天子様の御心持を隅々まで伝えると同時に、赤子である国民の心を纒めて天子様に帰一させることが大事だ。首相としての役割も、大臣としての役割もその点にある」
こうして東條内閣は、上奏が多いので有名になった。東條自身、「上奏癖」といわれるほど上奏に明け暮れた。その上奏の方法もこれまでの内閣と異なった。東條以前の内閣は結論だけを上奏したが、東條内閣の閣僚はそのプロセスも上奏した。むろん建て前として、天皇は肯定も否定もしない。だが上奏をつづけているうちに、天皇の表情から賛否を感じとり、改めて再考して上奏しなおすことができた。しかも東條の上奏は手がこんでいて、浄書したものは天皇には見せず、朱がはいった下書きをそのまま上奏した。
「こうした中間報告をすることで、上下真に一体となって天皇御親政の実があがる。もし浄書したものをお見せすれば、それは知らず知らずのうちに天皇機関説を実践していることになる」
内閣官房の総務課長稲田周一に東條はそう言っているが、上奏のたびに天皇と国民の仲介に立つ己れの姿に、彼は満足感を覚えていたのだった。「表現体」としての自信は、官邸に戦勝記念の奉祝行列が訪ねてくるときにもあらわれ、「東條総理大臣萬歳」と声があがると、あわてて手で制し「天皇陛下萬歳」と自ら音頭をとった。
いま残っているこのころの写真には、すべて共通点がある。東條は目を細めて喜色満面、彼の人生の節々にあらわれた表情のなかで、もっとも人間的な香りをただよわせている。
昭和十八年四月十八日、その東條に初めての衝撃が襲った。
この日、内情視察で水戸市内を歩き回っているとき、地元の県庁職員が耳打ちした。「東京、横須賀、名古屋などに敵機襲来との連絡がはいっております」。
東條は蒼白になった。それは間違いではないかとなんども確かめた。しかし事実と知ると、彼はことばを失なった。本土への空襲などないと陸軍はいいつづけていたのに、それが覆されたのである。内情視察は中止になった。水戸駅に駈けつけ汽車に乗った。東京に着くや、すぐに天皇のまえに進みでた。午後八時、爆撃から七時間を経ていた。上奏内容は『秘書官日記』によると、「恐懼ノ後敵ノ企図ノ判断、被害状況ノ後将来万全ヲ期スル旨ヲ上奏ス」とある。
上奏から戻って秘書官につぶやいた。
「陛下は落ち着かれておった。立派な態度だった。やはり少々まちがったところがあっても至急に中間報告をすべきであり、これがすなわち御安心遊ばす所以であると思った」
それが東條の東京爆撃直後の感想≠セった。
この爆撃は、初めは東條の周辺でも不安な面持で語られた。しかし東京、横須賀、新潟、名古屋、神戸など爆撃された都市にさほどの被害がなかったことが明らかになるにつれて、安易な気持に再び覆われていった。
「敵は焦っている。無暴な攻勢で日本の威信を失墜させようとしている」。そう思うことで事態をのりきることを、東條は命じた。が、心理的にはしこりも残った。陸軍の面目がつぶれたと考えられたからだった。
のちに東條自身が巣鴨拘置所でのメモに書いている。
「……当時国民ニ大ナル衝動ヲ与へ軍ニ対スル批難モ高マリ、軍内ニ於テモ非常手段ヲ以テ斯クノ如キコトヲ将来ニ封止スヘシト論多カリテ、殊ニ小学児童或ハ無辜ノ国民ヲ意識シテ機銃掃射等ヲナシ多数ノ死傷者ヲ出セシコトハ国民ヲ痛ク憤激セシメタリ……」
日本軍は、ドウリットル爆撃隊を撃墜し、八人の搭乗員を中国本土で捕虜にしたが、このとり扱いをめぐっても、陸軍と海軍は対立した。結局、支那派遣軍が軍事裁判を開いて八人のうち六人に死刑を宣告し、このうち三人を処刑した。
戦後明らかになったところでは、この爆撃はアメリカの示威行動だった。アメリカ軍上層部は、昭和十七年の初期に日本の面子を失なわせる奇襲作戦で米国民の士気を鼓舞しようと考え、〈日本本土爆撃〉を太平洋艦隊のキング提督が主張し、ドウリットル陸軍中佐を隊長とする爆撃隊が編成されたのである。キングは「大損害を与えることは期待できぬが、日本の天皇にはいろいろ考えさせることは確かだ」と、空母ホーネットからB25型爆撃機十六機を六六八マイル離れた東京をめざして飛び立たせた。
ドウリットル爆撃隊は、東京を爆撃してから中国奥地の基地に逃げこむことになっていた。が、爆撃隊は日本国内では日本軍によって射ち落とされなかった。このニュースはアメリカ国内を沸きたたせた。アメリカのマスコミはしきりに「反転攻勢」ということばをつかって情勢の転換を期待したが、この爆撃はその象徴的なできごとと、とらえられたのである。
この裏でアメリカと英国の間には、態勢建て直しの動きが煮つまっていた。チャーチルはルーズベルトに電報を送り、相互に作戦を緊密化することも呼びかけた。ルーズベルトは返事を書き、作戦地域と指揮系統について提案を行なった。提案は承認され、南西太平洋方面の最高指揮官はマッカーサー陸軍大将に、そして中部太平洋方面の海戦はニミッツ海軍大将が指揮にあたることになり、英国軍もこの指揮下にはいった。
いっぽうでアメリカは新たに戦時予算を組んで、この戦争は長期戦になるだろうとの確信のもとで巨視的な予算を組んだ。軍需原料をフルに供給できるように総生産をひきあげることにし、失業者を新たに労働力として組みこみ、基幹産業は昼夜交替操業で、航空機や航空母艦の生産体制をつくりあげた。
アメリカは日本については、さほどの知識をもっていなかった。開戦と同時に精力的に日本の分析を行なったが、しかし資料不足だったので、日本の潜在能力をかなり過大評価していた。日本の貯油量は七、五〇〇万から八、○○○万バレルとみたが、実際は四、三〇〇万バレルだったし、ボーキサイトは五〇万トンと推定したのに、実は二五万トンだった。日本の鉄鉱も増加しているだろうと考えたが、その実態は徐々に貯蔵をくいつぶしていたのである。
アメリカの戦略は、まず日本を執拗なまでの消耗戦にまきこむことだった。物量をつぎこんで消耗させる作戦にかえていた。ルーズベルトは議会で報告し、二年間は生産に力をいれ、昭和十九年からは大反攻にでるといったが、それが国民にも共鳴をよんだ。態勢を整えつつあるアメリカのこの実態を、日本の指導者は見抜けないでいた。むしろ開戦前よりも軽視が深まっていた。あまりの戦果に具体案をつくるのを忘れ、かわって空虚なことばと、戦争協力に名を借りた指導者の傲慢がはじまった。
三月に発行された『大東亜戦争』(陸軍省刊)という小冊子は、初めから最後まで「正義なき国家は亡び理想なき国民は衰へる。幸ひなる哉、皇国日本はこの|両《ふた》つながらを持つ」といった聖戦讃歌に満ちたことばで埋まっていた。聖戦を讃える演説が、ドウリットル爆撃後、より熱心に叫ばれたのも偶然ではない。ちょうど翼賛選挙の選挙運動が盛んなときであり、立候補しているのは翼賛政治体制協議会の推薦を受けた時局便乗主義者が多かっただけに、そのことばは彼らをつうじて臆面もなく全国にまき散らされたのである。
東條の意を受けた翼賛会政治部長、藤沢親雄は、翼賛選挙で推薦された候補者は、つぎのょうな性格をもっているといった。「国体観念に徹底している人、なかんずく日本は神国なりとの絶対的信念を把握している人たちである」――。
この選挙では、翼賛政治体制協議会推薦の議員が多数当選してくるだろうし、彼らが戦争協力のために手足となって動いてくれるだろうという確信が、東條にはあった。そうすれば議会も一段と熱心になるはずだった。憲兵隊の極秘情報は、充分、それを裏付けていた。内務省の情報よりも憲兵情報を信じるのが東條の性格だったが、その理由は、憲兵情報には細部のことまでも書いてくるからだった。しかも憲兵隊の中核である東京憲兵隊司令部には、東條系の人間を強引に送りこんでいた。のちには加藤泊次郎、大木繁、四方諒二など、かつての関車憲兵隊司令官時代の部下を要職に据えた。
彼らの報告書には、推薦候補者四百六十七名のうち九割近くの当選者があるだろうとあった。
「九割でも足りない。全国が推薦者でうまってくれればいい」
そういう願望が東條にあり、それを憲兵隊にも伝えた。するといっそう彼らの弾圧はひどくなった。東條に忠誠を誓う憲兵隊の暴走のはじまりだった。
一部のうるさい政党政治家には推薦が与えられていないが、そういう非協力的な足手まといの議員は国会にはきて欲しくない――東條のそういう考えは、彼に忠誠を誓う将校や官僚に当然のように理解された。本来なら東條は内相として、選挙の監視、指導をするつもりでいた。ところが、現役の将官が内相として選挙を担当するのは軍紀を破壊することになるとの批判が強まった。そのために彼は表面から身を退いたが、かわって東條の意を受けた阿部信行が総裁として翼賛政治体制協議会を動かし、ここで退役した軍人を立候補者に送りこんだ。阿部はことあるごとに「国民の要請せる建設戦の方途を政府と一体となって検討する国民代表を選ぶように……」と言い、東條はラジオ放送で「聖戦完遂に必要な候補者を……」と演説し、巧妙な選挙干渉だけはつづけた。
非推薦候補者には生っ粋の政党政治家が多く、尾崎行雄、鳩山一郎、星島二郎、芦田均ら選挙に強い者も多い。「これらの連中はとくに監視しろ」と、東條は内務省警保局長に命じていた。それがために非推薦候補者にたいする特高や憲兵の弾圧はすさまじかった。「戦争非協力者」「アカ」とのレッテルが浴びせられ、特高がこれらの支持者に脅しをかけるだけでなく、警保局長自身がいくつかの選挙区に行って陣頭指揮をとるほどの選挙妨害が行なわれた。
それに推薦候補者には臨時軍事費から五千円の選挙費用が渡されていた。蔭では臨軍議員と噂された。むろん非推薦候補者には手渡されない。
このいい加減な措置は、生っ粋の政党人をあきれさせた。尾崎行雄は東條宛てに「憲政の大義」と題する一文を送ってきたが、そこには「閣下が主宰し、巨大な国費を使用する所の翼賛会が、直接と間接とを問わず、総選挙に関与し、遂に翼賛会をして候補者を推薦せしめたるに至っては、私が閣下のために嘆惜する所であります」とあった。だが東條はまったく無視した。それどころか東條は尾崎を憎み、身柄を拘束できる理由をさがさせたのち、東京三区の応援弁士として演説した尾崎の言のなかに不敬罪に抵触する部分があるとして、強引に逮捕させた。ところが尾崎を逮捕したことは政党政治家の閣僚のなかに反撥を招いた。閣議でも即時釈放を主張する者もあるほどで、このあまりの抗議に東條もまた驚き、尾崎を釈放するように警保局長に命じざるを得なかった。
四月三十日、こうした干渉のなかで行なわれた翼賛選挙は、四百六十七名のうち推薦候補は三百八十一名、当選率は八割を越えた。東條には満足すべき結果ではなかったが、ラジオ放送では、この選挙結果により翼賛議会は確立したと、不満を隠して彼は演説した。そしてその不満を、すぐに国会内で策を弄することで解消しようとした。
議会を戦争協力体制一色に変えるために、まず彼は書記官長星野直樹と、内務官僚出身で東條内閣の蔭の議会対策の助言者である貴族院議員横山助成を動かして、翼賛政治会をつくった。そして五月下旬に翼賛政治会の総会を開くべく、翼賛政治体制協議会幹部の阿部信行や後藤文夫らを精力的に動かし、この日までに衆議院の各政党を解党させて、この総会に加わらせたのだ。この翼賛政治会は「国体の本義に基き、挙国的政治力を結集し以て大東亜戦争完遂に邁進せんことを期す」「大東亜共栄圏を確立して世界新秩序の建設を期す」などの四綱領を掲げた。
結局、非推薦で当選した議員もこの会に組みこまれ、わずか八名の無所属議員だけが、この結社に加わらなかった。この組織に入らなければ、まったく議会活動はできなかったからである。東條は、翼賛政治会以外の政治結社を認めないと脅したのだ。
こういう強引な方法を東條に示唆したのは、星野や横山であった。議会政治についていささかの定見もない東條は、とにかく〈討論〉という手段を理解しようとする姿勢がなかった。議会をまるで陸軍省内部の部課長会議ていどにしか考えてなく、ひたすら恫喝を加え、それを星野や横山が追従を交じえて議会政治の形式を骨抜きにしていったのである。
表面では、すべてが東條にとって順調に回転していた。あまりの順調さに、秘書官や書記官長との夕食の席ではそれにふりまわされぬよう、自戒のことばをも東條は洩らした。
「すべて順調にいくなあ、昨今のことは、どれも一度失敗すれば内閣の命とりになるものだが、みなうまくいくよ。こういうときにこそ謙虚にならなければならん」
「自分はこれからいっそう下手にでていくつもりだ。物事がうまくいくときこそ、この心がまえが必要なんだ。誠心誠意やっていれば気が楽だし、術策を弄するのはまったく気が重いよ」
しかしそういうことばを洩らすのは、彼自身、謙虚にふるまっていないとの反省があったからだろう。また、あまりの強引さに〈政敵〉を意識したからだろう。彼が己れの行動をふり返り、自省じみたことばをつぶやくのは、このとき以外にない。『秘書官日記』を開いてもこのときだけだ。その後の彼の行動も、果たして自省したものであったといえるだろうか。
〈水商売は性格にあっていない〉といっていたのが、まるで嘘であるかのような政治力を彼は身につけつつあった。その政治力が直截な恫喝であることが、不快感として議会人のなかにのこっていったが、いつかそれが表面に浮かんでくることは充分に予想されることだった。
[#改ページ]
快進撃から停滞へ
東條時代の帝国議会
陸軍内部の反東條グループは、戦果があがっているこの期には沈黙のなかにいた。東條の威令は官民のすみずみまでゆきわたり、昭和十七年の四月から五月にかけて、これら批判派の言動は、声をひそめて目立たぬようにくり返されていた。
東條によって陸軍を追いだされた石原莞爾は、東亜連盟会長のポストに就きながら、東條憎悪に燃え、ときに東久邇宮のもとに行ってその怒りを語った。「日本は重慶政府と和平交渉し、アメリカとの戦闘はこれ以上深入りしないほうがいい」。そして「今回の翼賛選挙で、人心は悪化し、国民は東條内閣と陸軍を恨んでいる。この内閣は一日も早く交代し、外交および国内問題を解決しなければならない」と訴えた。
真崎甚三郎、柳川平助、香椎浩平、小畑敏四郎ら皇道派の重鎮は予備役になっていて、陸軍内部に影響力はなかったが、訪う者には反東條を公言した。香椎は、「あんな男が戦争指導などできるわけはない」と罵った。皇道派ではないが、西尾寿造、谷寿夫、酒井鎬次、それに多田駿らは東條の包容力のない性格を皮肉った。予備役という自由な立場で、彼らは、しだいに軍外の要人とも接していくことになる。逆に東條が嫌った軍人は、『東條英機』(東條英機刊行会編)によれば、「同期十七期の篠塚義男、鈴木重康、前田利為、一期後の十八期の山下奉文、阿南惟幾、安井藤治、二十二期の鈴木率道などがその最たるものであり、これに皇族の秩父宮、朝香宮、東久邇宮……」という。いずれも「頭脳明敏で批判精神の旺盛な人々であったので、東條陸相の下では余り重く用いられることはなかった」と書いている。東條の度量のなさが露骨にあらわれているというのである。
軍務局長武藤章は二年半にわたってその職にあり、開戦前の日米交渉では、東條の右腕だった将校であり、しばしば大胆な直言もした。はじめのうち東條もその言を受けいれたが、真珠湾攻撃以来の戦果のまえに、しだいに渋い表情を見せるようになった。武藤は、東條内閣の他の閣僚より政治、軍事の両面に発言権をもち、なかでも書記官長星野直樹をぬくほどの権勢をもった。それが徐々に星野との対立に発展した。東條自身は星野の側に立った。
四月にはいって、東條は武藤を南方の占領地視察に赴かせたが、その間に、武藤を南方の近衛師団長に転勤させることを決意した。直接のきっかけは、星野や鈴木貞一が東條に働きかけたためといわれている。東條を補佐するその役割に、東條のほうがしだいに疎んじるようになったとみるほうがあたっている。立川の飛行場に戻った武藤に、副官の松村知勝が転任の命令書を手渡した。無礼といわれても仕方のない方法だった。このとき激昂した武藤は、迎えにでていた松村にむかって、
「東條は政治亡者になったのか。クーデターを起こして東條を倒すか。このままではズルズルと亡国だ」
とまで口走ったという。しかし軍務局長という激務に疲れていたこともあって、彼は黙したままスマトラのメダンに赴任していった。胸中の無念さの一部は、村田省蔵著『比島日記』に書かれている。
軍務局長の後任は佐藤賢了だった。
陸軍内部はこの人事で、東條時代を明確にした。辛うじて参謀本部の若手将校が、首相と陸相の兼任は無理だから専任の陸相を置いたほうがいいと批判したが、杉山元参謀総長や田辺盛武参謀次長がそれを押さえつけた。
無所属の八名を除き東條の勢力下にはいった議会では、翼賛政治会の主導権を旧政友会前田米蔵、旧民政党大麻唯男が握り、東條とつなぐパイプ役になった。津雲国利、三好英之が彼らのつかい走りとなり、連日、官邸に顔をだし、東條の意を翼賛政治会の領袖たちに伝えた。
五月二十五日から二日間の予定ではじまった第八十帝国議会は、東條時代の様相をはっきり示した。軍服に身を包んだ東條は、「大東亜の要域はことごとく皇軍の占有するところとなり、戦勝の勅諭は実に八回に及んだ」と自讃し、「今後の戦果指導は世界の驚異の的になって居りまする陸海協同作戦の妙を愈々発揮し……」敵を撃退すると演説した。「積極作戦に呼応し、雄大なる建設を敢行し、もって国家総力の飛躍的向上をはかる」というと、拍手がなりやまず、東條はしばらく議場を見回していた。二階の傍聴席からはどの議員が熱心に拍手をしたか、誰が不熱心だったかを星野らが採点したというが、それほどのことをしなくても、東條を讃える空気に満ちていた。
この議会では、国民精神の昂揚、戦時生産力の強化、戦時国民生活確立を掲げて、各地で講演会や国民大会を行なうことを決め、議員はその先頭に立つと決議して選挙区へ散らばっていった。議員は政府の意を受けた宣伝部隊だった。「政治家というのは利害でしか動かん。奴らが流言蜚語をとばしたり、厭戦気分をもちはじめたら注意しとかなきゃいけない。国民の考えもそうだからだ」と、東條は彼らに心を許さず、監視だけは充分につづけさせた。
議員だけが宣伝部隊ではなく、東條の内情視察も、実は戦意昂揚の講演行脚だった。行脚での演説は、精神力が何よりも重要であり、共産主義排撃を目標にするといいつづけ、その合い間に秘書官にはつぎのように言っていた。
「昔の人はうまいことを言ったものだ。打出の小槌というのは、自分の努力によって金がでるか、銀がでるか、それを教えてくれる。……職域奉公、みなしっかりやれということではないかな」「秦の始皇帝の焚書を聞いたのは子供のときだったが、ずいぶん残酷なことをすると思った。だがいまの時代にあてはめてみれば、共産主義撲滅と考えてみると合点がいく」――。
講演行脚とともに、憲兵隊からの報告を、東條は信じた。憲兵司令部本部長加藤泊次郎や東京憲兵隊長増岡賢七らが部下に命じて集めてくる情報には、末端の憲兵のいいかげんなものがあったとされるが、それを東條は信じた。東條の側近や議員の注進による根拠のない情報も信じた。しかし東條が直接末端の憲兵隊員にまで指示をだしてくるようになると、憲兵隊のなかに東條に抵抗する者があらわれた。それはサボタージュとなってあらわれたが、そういう硬骨の士は必ず地方に追いやられた。
東條への忠誠心しかもたぬ憲兵で要職は充たされた。彼らはとくべつの根拠もなしに、マークした者を連行した。理由も告げずに取り調べた。「どんな人間だってたたけばほこりがでるさ」、それが彼らの台詞だった。そして取り調べの過程で罪状をつくりあげた。それがひどければひどいほど、政治家や文化人、それに国民を反東條の側に回すことになったのである。
力で押さえつけている状態は、力が弱まれば反動となってあらわれてくるのを予想させた。四月、五月まで、憲兵隊や内務省警保局がまとめた報告には、まだそれほど反東條の空気はなかったが、それでも「大阪でももはや東條奴を信ずるものなく、選挙は自発でなく、隣組で無理に命令投票であり、米砂糖は腐敗する程倉庫にありて……生活の不公正に『内乱だ、革命だ、東條必殺だ』大衆は今や東條打倒を計画中にて」(大阪南郵便局消印)という投書もでていて、情勢が悪化すれば、東條が憎悪の対象に逆転することをうかがわせる芽はあった。
国内情勢が固まったと判断した東條の関心は、占領地にむかった。
「大東亜建設のために現地をじっくりみてきたい。総理大臣が直接現地に出かけて、住民に呼びかければ効き目はあるはずだ」と秘書官に日程をつくらせた。
そうして六月上旬の一週間を占領地視察にさこうとしているとき、軍令部が作戦行動の挫折を告げてきて、首相の外遊などできる時期ではないと暗に釘をさしてきた。このとき、その意味を東條は深く知らなかった。作戦行動失敗と聞かされたが、それほどひどいものとは思っていなかったのだ。
昭和十七年六月十日午後に、大本営海軍部はミッドウェー作戦を「我が方損害(イ)航空母艦一隻喪失、同一隻大破、巡洋艦一隻大破、(ロ)未帰還飛行機三十五機」と発表した。東條もこのていどの数字しか知らされてなかった。ところが政務上奏の折りに、天皇が何げなく実際の数字を洩らしたのである。秘書官赤松貞雄は、「天子様がミッドウェーで喪失した隻数を洩らされ、この海戦への憂慮を示されたおりに、東條さんは自分に報告されている数字とあまりにも違っているのに驚き、改めてそれを調べてみるとやはり相当の被害があることが判ったのです」と証言している。実際の数字は、空母四更を喪失、重巡洋艦一隻、巡洋艦一隻、潜水艦二隻が大破していた。しかも三千二百名の死傷者をだし、このなかには多くのベテランパイロットが含まれていたのだ。
東條は海軍の作戦に不信をもったが、かといって軍令部に苦言を呈することはしなかった。他の集団へは、彼は、臆病なほど口出しできない性格で、このときも海軍出身の秘書官鹿岡円平につぎのような不満を洩らしたにすぎなかった。
「この戦争が負けるとすれば、その理由は陸海軍の対立と国民の厭戦のふたつしかない。海軍ももっとしっかりしてくれなければ困る」
ミッドウェー作戦そのものは、東條も四月下旬に知らされていた。杉山と永野に呼ばれた東條と東郷は、フィジー・サモア作戦を進めるにあたり、この周辺にある島はフランス領なので外交上の措置をとって欲しい、と要請されたのである。これらの島にはニッケルや地下資源があるし、しかも日本軍の占領によってアメリカとオーストラリアが遮断できるという戦略上の有利さがあった。軍令部としては、これらの島々に航空基地を設営すれば、ソロモン群島と珊瑚海の制空権を握ることができ、アメリカ軍が基地を建設しているニューヘブリデス諸島と対峙できるという判断もあった。
軍令部は参謀本部を説き、フィジー・サモア諸島を占領することにしたが、この分不相応な計画がほころびのはじまりだった。本来なら内海洋のマーシャル、東カロリン、マリアナを最前線とし、そこでアメリカ軍をひきとめるはずだった。しかも日本の戦艦はその距離に見合うように建造されてもいたのだ。
軍令部のなかでも対立があり、連合艦隊司令部は、フィジー・サモアよりミッドウェーを占領することで、アメリカがハワイからでてきても艦隊決戦で迎撃できると主張した。山本五十六連合艦隊司令長官は、ミッドウェーを押さえなければ本土空襲は予想されるし、アメリカの機動部隊は行動の自由をもちつづけると説いた。軍令部と連合艦隊司令部が対立しているころに、ドウリットルの東京爆撃があった。天皇への忠誠心の強い山本は、帝都が爆撃されるのは許されぬといい、強引にミッドウェー作戦の計画にあたった。軍令部は躊躇したが、結局、六月にミッドウェー作戦とアリューシャン作戦を行ない、そのあとにフィジー・サモア作戦を進めることで妥協がなった。
六月にはいって、アリューシャン作戦を含め参加艦隊三百五十隻(百五十万トン)、航空機一千機、兵力十万名という海軍の総力がそれぞれの集結地に集まった。
ところが攻撃開始前に、日本の機動部隊はアメリカの航空機に奇襲を受けた。赤城、加賀、蒼龍は集中的な攻撃で機能を失ない、かろうじて飛龍だけが孤軍奮闘し、アメリカの空母ヨークタウンに打撃を与え沈没させたにとどまった。が、日本海軍は致命的な敗北を受けた。なぜこのような事態になったか。アメリカは日本海軍の無電をすべて傍受し、劣勢を補うために先制攻撃をかけてきたのである。
軍令部は作戦の成功を信じ、祝宴の用意までして報告を待っていた。ところが現地からはなかなか朗報がはいらない。それどころか海外放送は、アメリカがミッドウェーで大勝利を得たように放送している。
〈日本の機動部隊殲滅〉
その信じられぬ報道に軍令部内は衝撃で埋まった。
参謀本部作戦参謀であった井本熊男の証言によれば、戦果をたしかめようと軍令部をのぞくと、全員が憂鬱な表情であった。軍令部参謀の山本祐二中佐も「どうもうまくいかない」と声を落とした。作戦は大失敗だったのだ。しかし参謀本部の参謀たちも、完膚なきまでにたたきのめされた被害状況を詳しくは知らなかったのである。『大本営機密日誌』には、「知らせぬは当局者、知らぬは国民のみ」と書いてあるが、海軍も陸軍も、真相は集団内部の一部の者にしか知らせなかった。
軍令部はフィジー・サモア作戦を中止した。新たに戦略を練り直さなければならなくなったのである。しかも虚心に傲慢さを捨てなければならなかった。そこで軍令部の考えた計画は、南東方面へ飛行場を設営し、そこから東部ニューギニア、ソロモン諸島、ギルバート諸島で戦略態勢を強化して、米英連合軍を押さえようというものだった。そのために若干の兵士と人夫を設営隊としてソロモン諸島に送った。のちに判ったことだが、このときからアメリカは航空機中心の戦略にかえていた。日本も口ではそう言いつつ、実際は戦艦至上主義からぬけだせなかったのである。
ミッドウェー敗戦の実態を知ってから、東條は戦局への緊迫感を覚えた。神経質になったのもこのころからである。占領地視察は中止したが、内情視察をつづけ、役人をどなりあげた。あからさまに役人への不満を口にするようにもなった。
「役人というのは何だ。まるで第三者みたいな言い方をするではないか。ときに批判的な口のきき方をする」
軍人社会のように〈命令と服従〉の一枚岩でないことに苛立ちをもった。それが昂じて大政翼賛会を手直しし、行政簡素強化実施要綱を議会で立法化させ、細則を明文化して「業務はすべて簡素化し即決を旨とすべきである」と訓示をつづけた。陸軍こそが日本精神の具現者、日本はこの具現者によって指導されなければならぬという自信のもとに、陸軍の規律や仕組みを日本の社会すべてに当てはめようとしはじめた。
役人には神経質に接したが、国民には東條の小心さは判らなかった。依然として彼は救国の英雄だった。東京・四谷のある地区では、東條が毎朝、馬に乗って散歩するのが知れわたり、その姿を一目見ようと路地の間で待つ人がいた。東條の乗馬姿を見ると、その日は僥倖に恵まれるという〈神話〉が生まれたのである。
ガダルカナル攻防の裏
東條の権勢が高まった裏には、新聞記者の協力もあった。彼らの記事の内容と方向は、内務省警保局が毎週発行している『検閲週報』によって規定されていた。たとえばこの期には、「国民の楽観を戒める意図で新聞をつくれ」と命じられていて、それも急いで行なえば紙面が暗くなるから漸進的に……と見出しや記事の大きさまで指定してあった。新聞連盟編集委員会は、「活字や組み方まで指定するな、事実を歪曲せず自然な世論指導を行なってこそ民心は昂揚される」とクレームをつけたが、大本営報道部や内務省警保局は無視した。東條の権勢はそういう仕組みに支えられていたのだ。
戦後明らかにされた書物では、内閣記者室の新聞記者たちは東條を快く思っていなかったとある。それは東條が、記者の質問に居丈高に答えたり説教したりして、まるで新聞記者を回覧板の原稿を書く者ていどにしか思っていないと彼らが受けとめたからである。「この首相は知性に欠ける」とささやきながら、しかし彼らの筆は東條讃歌を延々とつづけていた。
また当時、新聞記者たちは、東條は細君にふり回されていると噂していたが、それは母子家庭や戦災孤児への慰問は東條の人間的な思いやりであり、それを美談として報道させたいカツが直接新聞社に電話をして取材要請をするのを、東條が野放図にさせていたからである。
東條の新聞記者への態度は、内閣官房の役人には喜ばれた。この内閣は秘密が洩れないというのであったが、この噂を耳にした東條は得意気に発言した。
「聞けば政党内閣時代には閣議の内容はその日のうちに新聞記者に洩れたそうだ。お上にも上奏していない内容をどうして新聞記者に洩らすのだろう。東條内閣では、断じてそんなことはない」
とにかく洩れないということ、そのことだけが大切なのであった。本質より形式を尊ぶのが彼の性格だった。
東條の性格が、この期にはすこしずつ露呈した。むろんそれは彼の周囲でしか知られないことだった。たしかに、彼はひとりの人間としてみるなら善意にあふれた行動をつづけていた。官邸では電話交換室に入り、交換嬢を励まし、用務員が子沢山と聞けば衣料切符を都合したりした。東條は、歴代首相のなかでも官邸職員に慕われたほうだが、それもこうした親切さの故だった。
衣料の配給がとどこおっていると聞くと、彼は不安にとらわれ、秘書官をつれて住宅街に入っていき、物干し場のおしめに触れて、「まだ木綿だ。大丈夫」と安心した。また魚の配給が減ったときくと、今度はゴミ箱を開いて歩いた。魚の骨を見つけると安堵し、見当たらないと漁獲量を増すためにどうするか、魚に代わってどんな栄養価の代替物があるかを関係者に調査させた。
「総理、もっと大局的な立場から国策を考えられたら……」
秘書官もそれとなく言い、内大臣の木戸幸一も諫めた。そのたびに彼は反論した。
「自分はなにも演技のつもりでやっているのではない。本当に国民の健康が心配なんだ。心配でたまらないからだ」
官邸で家族や秘書官たちと昼食をとることがあった。そういうとき急に箸を止めてつぶやいた。
「日本人がいま全員昼食を食べている……」、頭のなかには、その年度の米の産出石数や貯蔵米の数字があるのだ。日本人全員が昼食に平均一膳半食べるとして……と試算をはじめ、その数字をたちまちのうちに貯蔵米から引き算をする。〈責任感で食事もとれないのだ〉と食卓を囲む者は思った。
東條自身も、自らのこうした懸念こそ為政者の思いやりと考え、それをまた自らの責任と考えていた。そしてそういう日常の気の配りを、東條とその周囲にいる者は東條の最大の暖かさだと思った。
昭和十七年の夏になると、東條は側近たちにすこしずつ精神論を説くことが多くなった。たとえばつぎのような話をした。
「日露戦争のときだった。わしも後方で補給にあたったが、そのとき脚気の兵隊の足に軍医が聴診器を当てているのを見た。おかしなことをするもんだと思った。だがいまならわかる。よくわかる。医者の真剣さが患者に伝わり、それが信頼感になる。病気は気で直る。なにごとも精神のもちようひとつなのだ。あの軍医もそれを知っていたにちがいない」
自分は脚気の患者の足に聴診器を当てる医師になるつもりだというのであった。現実逃避の危険な徴候だった。奈良に視察に行ったとき、演説中に過労からの貧血で倒れそうになったが、旅館に運ばれるや、「大東亜戦争はなんとしても誰かがやらねばならぬ。完遂したときに死ねといわれれば死ぬことなんかお安いことだ。だがいまはまだ死ねない」と言った。そして「国体のある日本は何という幸せな国だろう。そういう国はどこの民族よりもすぐれた精神力をもっている」と、彼はつづけた。
さしたる根拠もなく、平然とそういうことばを吐く東條。果たしてこれが指導者のことばといえようか。
しかしそういう東條の精神力讃歌に、周囲の者は口をそろえて調子を合わせた。情報局次長奥村喜和男が東條のもとに来て、五月にコレヒドール島を日本軍が占領したとき、敵将が、「日本の兵隊が攻めてくるのではなく、精神のかたまりが突撃してきた」と本国に打電していたと電報内容を報告すると、東條は我が意を得たとばかりに得意になって言った。
「そのとおりだ。日本では飛行機が空を飛んでいるのではなく、あれは精神が飛んでいるのだ。精神のかたまりが飛んでいる以上、この戦は負けるわけがない」
東條の私設宣伝係でもあるこの官僚は、東條のこの言を演説のなかにとりいれ、国民の士気を鼓舞した。こういう官僚が、東條の周囲を埋めつくしていたのだ。
精神力をふりまわす東條の真意は何であったか。むろん彼自身の性格に由来しているといえるが、それだけではない。戦況に停滞の兆がみえてきたのを知ったからである。
八月七日にソロモン群島の最南端の島ガダルカナル島にアメリカ軍の急襲があった。ラバウルから南へ千キロの距離にあるこの島には、航空基地を設営した海軍の陸戦隊二千人が守備にあたっていたが、充分な防禦基地もできていなかったので、あっさりと上陸を許した。アメリカ軍はガダルカナル、ツラギ両島に日本軍が航空基地を設営するのを警戒し、早めにこれをたたいておこうというのであった。
日本軍は、この急襲を重視しなかった。陸軍中央はガダルカナル島という名前さえ知らなかった。ましてやこの島で半年間にわたり死闘がつづくことになろうとは予想もしなかった。急襲の翌日、日本軍は第八艦隊(三川艦隊)が攻撃をかけ、アメリカの重巡四隻と四千名の乗組員を沈めた。これが大本営にアメリカ軍の実力を過小評価させた。全力をあげれば、ガダルカナル奪回は容易であるとして、ミッドウェー占領を予期してトラック島に待機したままの一木支隊九百名に作戦命令が下された。八月二十一日、一木支隊は夜襲をかけたが、戦車と砲火の集中攻撃を浴び全滅した。このことはアメリカ軍が急激に態勢を整えていることを意味した。実際、アメリカ軍はガダルカナルに滑走路を完成し、爆撃機と戦闘機を進出させて制空権を握り、攻撃圏内に日本の輸送船の侵入を許さない戦略をとっていたのである。
大本営は焦った。ガダルカナルに進攻を許せば、つぎはラバウルが、そのあとはトラック島が危くなる。八月二十八日、川口支隊三大隊をつぎこんだが、輸送船団は打撃を受け、ガダルカナルにわずかの兵隊が辿りついただけで、やがて飢えとマラリアでつぎつぎと死んだ。このころになると、ガダルカナルの絶望的な状況が東條にも伝えられた。のちにこのときを回想して東條は、「最初から一個旅団でもガダルカナルに入れておけばよかった」といったが、当時はそれまでの軍事的勝利に酔ってそれを忘れていたのである。
ガダルカナル奪回か、それともここをあきらめ防衛線をひきさげるか、大本営は二者択一を迫られた。〈ここでひきさがったらアメリカの戦意は高まり、逆に日本の戦意は落ちこむ〉。こうして大本営は、面子から物量戦にまきこまれることになった。九月二十九日に決めた作戦というのは、弾丸や糧食をそろえ第二師団を中心に正面から戦いを挑み、ガダルカナルを攻略する、そのために海軍は連合艦隊を投入して側面攻撃にのりだすというものであった。このころアメリカでは、ガダルカナルの勝利に沸いていた。ルーズベルトは「……わが国は南西太平洋に足場を獲得いたしました」とスターリンに伝えたし、アメリカ国民は従軍記者の書いた『ガダルカナル日誌』を読み、戦意を昂揚させていた。それも大本営の焦りを誘った。
日本軍の作戦がはじまったころ、東條は国内政治での地歩を固めるため、対東郷との政争に結着をつけつつあった。政争の根は大東亜省新設にあった。占領地がふえるにつれ、「占領地行政を実らせるための機関設置を検討してみろ」と、軍務局の将校に命じていたのが、徐々にかたちをつくった。それを土台に軍務局と東條と統帥部で検討して、大東亜省構想をまとめた。
東條と東郷の関係はそれほど円滑ではない。もとはといえば、開戦回避を前提に入閣した東郷は、東條内閣のなかでは異質だったのである。事務屋と満州組と東條の追従者でできている東條内閣に、いくらかの重みを与える役割を彼は果たしていた。そのぶん東條には煙たい存在でもあった。ふたりの間は戦果があがるにつれ、占領地行政をめぐって亀裂ができた。
占領地行政の責任者は軍司令部が兼務するとなっているが、その実態は歴史上で誇れるものではなく、占領地を補給地と考え、戦勝国の傲慢さで日本化を要求した。現地の入びとに日章旗への礼拝を要求し、神社への参拝を求め、真影への敬礼を強要する……。そういう占領地行政が各国での軍司令官の実態だった。
「主権を尊重して経済協力の基礎のうえで善隣外交を行なわなければだめだ」
東郷は言い、武力統治一本槍でなく、文官統治へと変えていくべきだと主張した。閣議に大東亜省設置がもちだされたとき、東條の意を受けて東郷と論争したのは、企画院総裁の鈴木貞一であり、情報局総裁の谷正之だった。彼らには東條の根回しができていたからだった。
だが東郷は猛然と反論した。
「外交が二元化されるではないか」
この執拗な反論に、東條がこんどは答えた。
「従来の外務省の外交だけでは、東亜の諸国はその他の諸外国なみだと不満に思い、日本にたいし不信の念を抱くことになろう。これらの国々の自尊心を傷つけては独立尊重の趣旨に反する」
東條はきわめて都合のいい論で対抗し、そして最後に本音を吐いた。
「大東亜諸国は日本の身内として他の諸外国とは取り扱いが異なる」
だが東郷もひるまず、外交二元化の不利をなんどもくり返した。外交関係があるのはドイツ、イタリア、ソ連、バチカン、スイスなどわずかの国々だ。このうえ東亜各国との外交交渉から手をひいてしまえば、外務省としても手足をもぎとられたと同然だという反撥が彼にはあった。それだけに東郷も必死だったのだ。ふたりの論争は意地のはりあいとさえなった。
加えて東條の側には、生理的な嫌悪感もあった。外務省には要職から追われているとはいえ英米協調論者も多い。それに二千名の外務官僚の閉鎖性、蝶ネクタイ、洋食、マナーの外交官にたいする生理的な反撥――それらが一体となって、東條は東郷の抗弁に激して反駁していた。
閣議後もふたりで話し合ったが、結局結論はでなかった。かつての近衛と東條のような険悪な雰囲気となり、東郷は辞意をほのめかした。閣内不統一で東條内閣総辞職につながる恐れに、東條は鈴木貞一を呼んで命じた。
「木戸と賀屋を説得して、とにかく大東亜省の設置を認めさせろ」
それでも怒りを隠せない。秘書官にむかっては苦虫をかみつぶしたような表情をして、彼はぐちをこぼした。
「まったくつまらんことで時間をとられる。戦局が停滞気味で、やらなければならんことは多いのに、なんということだ」
八月三十一日、鈴木は賀屋と木戸に会い、大東亜省設置を説き、消極的な賛成を得た。その報告を受けた東條は、きわめて手のこんだ手段で東郷追いだしをはかった。九月一日の午前、東條は東郷に通知せず、閣議を開いた。そこで閣僚に大東亜省の設置の諒解を求め、全員が賛意を示すと、「どんなことがあっても結束を乱さないように……」と確約をとった。午後、東條は東郷を官邸に呼んだ。東郷を待ち受けながら、すでに東條は興奮を押さえきれずに言いつづけた。
「国務大臣たる者は犠牲を忍んでこそ、そこに発展がある。第一線で将兵は大君のために名誉の戦死をしている。大戦下になればこそ、このくらいの心がけがなければ国務大臣たる資格はない」
自らはあらゆる政治的責任から免責された地位にいるという認識、そして自らこそ聖慮の具現者であるとの自負だけが彼に宿っていた。
ふたりの会話は初めからかみあわなかった。
「大東亜省設置案は断固実施する予定だ。この案に不賛成ならば、午後四時までに辞表を書いていただきたい」
東郷が出て行くと、東條は宮中に木戸幸一をたずねた。外相が辞職しないときは閣内不統一で総辞職のほかはない、と言った。木戸は驚き慰留した。この期に首相がかわるのは、内外に与える影響は大きいというのである。天皇も驚いた。
「内外の情勢、戦争の現段階、ことにアメリカの反攻気勢の相当現われ来れる今日、内閣の総辞職は絶対に避けたい」
天皇のことばは木戸をつうじて、たちまちのうちに政策集団内部に広まった。そうなると東郷も打つ手がなく、辞表を書かざるを得なくなった。
きわめて狡猾な東條の戦術だった。この期に首相更迭ができるわけはないと知っている。しかも天皇に信頼されていると自負している。それを読みとって木戸に恫喝をかけた。思惑どおり成功したのである。九月二日の夜、官邸の食堂で食卓を囲んだ秘書官にむかって、東條は得意さを露骨にあらわしていた。「外務省も東郷も見とおしが甘いよ」。彼はそういって嘲笑した。
「奴らは十月にはいってから大東亜省設置が起こると考えていたようだ。だがそうはいかんよ。もしそうなら枢密院がうるさくてかなわん。先手先手は戦争の常識さ。進退と死にぎわはきれいでなければ……。それには修養がいるよ」
東條には、国内政治も戦争の一形態であるというのだ。とすれば外務省は戦略のない烏合の集団でしかないというのだった。夕食をとる東條は機嫌がよかった。そして麗句に満ちたことばを飽きるほど吐きつづけた。
中傷と誹謗の渦
だが東條は、国内政治という〈戦争〉に勝った指導者ではなかった。外務省内部は東條憎しで固まったからである。引き継ぎの際には、臨時外相の東條を前にして、東郷は局長たちに退任の経緯を伝えたが、その声は口惜しさのために震えた。外務省の将来は暗澹たるものがあるといったとき、かわって東條の表情が曇った。局長たちは心中では快哉を叫んでいた。
外相に外務省から人選は得られなかった。そのため東條は連日外務省に顔をだし、次官、局長、課長を呼んでは、協力を求めなければならなかった。だが外務官僚は顔でうなずいても心は開かなかった。戦後になっての元外務官僚による東條批判の強さには、日米交渉とこの大東亜省設置案をめぐっての反感が底流にあったのだ。
二週間後、情報局総裁谷正之が外相に横すべりして表面上の結着がついた。
大東亜省設置案は枢密院でも反対が強かった。外務省に好意的な顧問官が多かったからだが、東條は彼らの抵抗に激怒し、のちに連絡会議では、「枢密院では時代認識ができていない。顧問官の一部を戦地に送り、戦争というものを実際に見せなければならん」といきまいたりした。しかし、ともかく対満事務局、興亜院、拓務省を廃止して、十一月一日には大東亜省を設置することが決まり、初代の大東亜相には東條の側近のひとりで、国務相をしていた青木一男が座った。
大東亜省設置では外務省を押さえた東條も、中国の現地機関設立問題では海軍に手を焼いた。軍司令官と大使を一体とせよという陸軍と、それに反対する海軍の間に対立が強まり、もし陸軍がそれを強行するなら海軍は海相が辞職すると迫った。
この恫喝に東條は頭を痛め、結局、大使は文官から送ることで結着をつけた。東條が東郷や木戸にたいして行なった脅しは、そのまま海軍からお返しをされていたのである。
だがこうした指導者間のエネルギーの空費は、東條自体の性格から発したものが多かった。たしかに東條には、それまでの首相と違って精力と決断力があった。だがそうであるなら、彼は、戦争の推移や終結に目を転じるべきなのに、機構をいじることに熱中した。いみじくも東郷は、最後の閣議で大東亜省設置に反対すると述べたあと、現下の急務は戦力を充実し、速やかに不敗態勢を築くべきで、行政機構改革の如きに時日を空費するのは不可だと言った。
東條のこの期の末節的な行動は、南方軍の首脳がシンガポールに神社を建設したり、真影に敬礼を強要したり、酒樽を日本からとりよせて料理屋をつくったりするような愚行とまったく同次元のものであった。
指導者間の不毛の争い、そして東條の驕慢ともいえる態度は、真綿が水を吸い込むようにそのまま国民の意識に反映した。直接のきっかけは配給制度の不満、物価騰貴からくる生活の苦しさであったにしても、国民の間で秘かに語られる攻撃や中傷の対象は東條英機だった。憲兵隊からの、東條英機を中傷する噂がはびこっているという報告に接するたびに、東條は「芽のうちにつみとらねばならぬ」といって、いっそう厳しい監視を要求した。
そして情報局は各新聞社に紙面づくり九カ条を示し、厭戦気分の蔓延を警戒した。この九カ条のなかには、長期戦を覚悟し、勝ち得るとの自覚をもたせろとか、士気を昂揚して「生産力拡充と貯蓄の増進に総力」をあげるようにさせろといい、「困苦欠乏に耐えて戦争に打ち勝つ」よう指導しろと命じた。国民に少々冷水を浴びせよというのが九カ条の意味だった。
戦争の結果が思わしくないのは国民の熱意が足りないからだといいたげな、大本営と情報局の偏狭な世論対策だった。
統師部の幕僚、情報局の官僚、それに東條内閣の軍人や官僚たちは、まるで国民の意思などはアメ細工のようなもので、熱したり冷やしたりすれば自在になると考えたのかもしれない。彼らは〈日本人は順境に強く、逆境に弱い〉との神話を心の底から信じていたのである。
「国民は灰色である。指導者は一歩前にでて白といえば白となり、黒といえば黒となるものだ」
東條は秘書官に日頃からそう洩らしたが、こうした考えは栄達をきわめた官僚に特有の性向だった。とくに軍人は、陸軍幼年学校、陸軍士官学校そして陸軍大学と、徹底的に選民意識を植えつけられ、国民を侮蔑する教育体系の中で育った。「軍人は二十四時間身を天子様にあずけたものだ。だが地方人はちがう」という東條の尉官時代の発言は、まさにそれをものがたっている。
だが東條を中傷する流言蜚語や諷刺話は、執拗なまでに一郎の層には広がった。それに音をあげた東條は、十月二十九日の連絡会議で、「議事にはいるまえに一言述べたい」といって、その不満をあからさまにした。
「はなはだ不愉快なのは、とみにデマの交錯していることで、そこには三つのデマがいりまじっている。ひとつは東條内閣は総辞職するといい、ふたつは欧州方面の戦局は頓座しているというもので、三番目はソロモン方面の作戦は過失なりとのデマである。これらは秘かに英米と連絡して局面の打開を図らんとするものの仕業か、または重慶との和平を策せんとする空気を醸成するもので、実に不愉快なものである。これらのデマはこのたびの海軍の戦果と政府の三大政策の実行により解消すべきだと思う」
デマ解消の海軍の戦果とは、この会議の三日前にはじまった第三次ソロモン海戦、ガダルカナル奪回のことを指している。これまでは小部隊をだしての偵察戦だったので、アメリカ軍に全滅を喫したが、本格的に正攻法でいどめば、ガダルカナル奪回は容易であるという認識を根拠にしていた。この作戦に成功して、デマを粉砕しようというのが東條の発言だった。
「少々戦況が停滞しただけで、これだけのデマが飛ぶのだから、まったく日本人というのは逆境に弱い」
無念そうに東條はつぶやくのであった。
だが客観的にみれば、デマは誇張したものではなく、一面の真理は伝えている。
∃ーロッパ戦線では独ソ戦が一進一退をつづけている。状況打開のために、ドイツはしきりに日本に対ソ戦参戦を要請してきている。だが日本にはそんな余裕はない。むしろ日本は独ソ和平を望み、後方に戦火を広げたくはない。ドイツも自国エゴまるだしなら、日本もそうだ。しかも参謀本部はドイツに虫のいい電報を打っている。鉄百万トン、船五十万トンの購入を申し入れていたのだ。陸軍の将校は〈乞食電報〉と自嘲的につぶやいた。もしドイツにこれだけの余裕があるなら、対ソ戦参戦など要求してくるわけはないと知りつつ打った電報だった。当然のようにドイツは拒否を回答してきた。
東條がいったデマのひとつ「欧州戦線の停滞」は、まったくの事実であった。
ガダルカナル奪回も、東條が考えているほど甘い情勢のなかにあったのではない。軍令部主導の奪回作戦にしびれを切らした参謀本部が、正攻法の作戦計画を練り、その実施に入ったのだが、「ガダルカナルは日本の決戦場であり、必要とあれば何でもやる」という杉山元の督励で、参謀次長田辺盛武、作戦部長田中新一が作戦の中枢に座るほど追いつめられていた。
十月中旬からは兵員二万五千名と軍需品多数をこの島に輸送する計画が実行に移された。
依然として制空権はアメリカにあり、それを破って陸揚げするには多数の船舶と艦艇が必要だった。しかしアメリカ軍の目を盗んでの輸送に耐える艦艇の不足に悩み、わずかの物量と兵員を潜水艦で運ぶ|ねずみ輸送《ヽヽヽヽヽ》まで行なわれた。しかしアメリカ軍の空と海からの攻撃は熾烈で、ガダルカナルヘ辿りつくまえに艦船の大半は沈み、兵隊も軍需品も海中に没した。
連絡会議のあと、東條はガダルカナル奪回が容易でないことを知り焦りはじめた。ガダルカナル視察から帰った陸軍の竹田宮恒徳王が、東條のもとに戦況報告にきたときには、
「海軍が勝手な作戦をやり、その尻ぬぐいを陸軍に頼むというのでは困る」
と、はじめのうちは自らの周囲でつぶやくだけだったことばをあからさまにぶつけた。そして、作戦が順調にいかないのを知るたびに、参謀本部の将校にも不信を洩らすようになった。「なぜ奪回はできぬのか」、それを彼は、統帥部にも隠さなかった。
ガダルカナルの情勢は悪化するだけだった。十月下旬から十一月にかけて、東條の焦りはさらに深まった。
実際にガダルカナルは悲惨のきわみと化していた。アメリカ軍の猛爆をくぐって上陸したわずかの兵隊で地上戦闘がくり返されたが、補給物資を期待できない日本軍兵士は、糧食の欠乏とマラリヤに痛めつけられ死んでいった。
「この奪回作戦に失敗は許されぬ」
統帥部は増援用の船舶をつぎこんだ。しかし結果ははかばかしくなかった。陸軍も海軍も手持ちの船舶は減り、補充がしだいにむずかしくなった。新たに船舶を投入しなければ作戦の実行は困難になった。このガダルカナル奪回作戦がはじまる直前に、陸海軍の船腹は、陸軍一、三八二(九〇〇万トン)、海軍一、七七一(五〇〇万トン)、民需三、一一二(四〇〇万トン)までに回復し、国民生活物資、軍需生産物資を占領地から輸送するのに必要な民需用三百万トンを、とにかく満たしていた。ところが相次ぐ敗戦で、統帥部は民需用の船舶も作戦行動に回すように申し入れた。しかしそれに応ずることは、南方地域から国内に運ばれている米、麦、野菜などの食糧、それに軍需生産資源が一挙に減り、国民生活は苦しくなり、航空機や船舶の生産の鈍化を覚悟する必要があった。だからもはや敗戦は許されなかったのだ。
ところが被害は拡大する一方であった。十一月十三日にはアメリカ軍が日本の正攻法を予想して大量の物量で待ちかまえている海上で、増援にむかった十一隻のうち六隻は沈められ、軍需物資も猛烈な砲撃のまえに陸揚げができなかった。
ここまでくると道は二つしかなかった。徹底的にガダルカナル奪回に固執するか、それともガダルカナルをあきらめて、後方に強固な陣地を築くか――それが統帥と国務の側に問われることになった。
陸軍省の態度を、東條は軍務局長佐藤賢了、軍務課長西浦進らとはかって、つぎのように決めた。はかって、といっても、東條の考えが追認されたにすぎない。
「国力戦力のすみやかな増強が必要なときだから、この際撤退して態勢を建て直すべきだ。企画院に検討させてみると、現状では南方物資を国内に輸送し、持久戦争態勢を固める方針を崩すベきでないということだった。民需用船舶を軍需用に回さず、ガダルカナル奪回にこだわるべきではない。陸軍省はこの立場を守りたい」
長期戦にそなえるために、ガダルカナルにだけこだわれない。企画院の唱える生産力拡充、つまり後方陣地拡充の側に、東條は立つことを決めた。ところがこの立場は、〈ガダルカナル奪回作戦はあらゆる条件に優先する〉という統帥部と対立した。
玉砕への道
十一月十六日、東條のもとに参謀本部が新たな計画実施のためとして、船舶三十七万トンの増徴を要求してきた。海軍も二十五万トンを主張してきた。これが無茶な数字であるのは統帥部も知っていて、『大本営機密日誌』には、「陸海軍のこの過大なる要求に政府はどう出るか……嵐の前夜を予想せらる」「冷静に考えて、何人にも必勝の成算はない。しかし決戦を避けることは、大本営の意気地が許さない。もしこの決算に敗れたら、後は戦争は御破算だろう」とあり、背水の陣をにおわせていたのである。
参謀本部第一部長田中新一と作戦課長服部卓四郎が、三十七万トンという数字をもって大臣執務室に人ってきたとき、東條はすぐさま答えた。
「船、船といわないで、補給基地をつくったらどうか。ラバウルまで五千マイル、ラバウルからガダルカナルまでは東京、下関間の距離ではないか。航空基地をつくればいいではないか」
補給を船舶に頼るのではなく、現地ガダルカナルでも甘蔗を栽培するようにしろとも提言した。だが現実に兵隊三万名が孤立して死と対峙していることは、なににも増して東條には不満であった。
「三万人を餓死させたら、その責任はあげて統帥部にあるぞ。もしそんなことをしたら、おまえたちとは生きてお目にかからない。地獄で会おう」
と、ふたりにいい切った。
だがふたりは執拗に船舶を要求した。服部卓四郎は官邸の私室にのりこんできては、東條に訴えた。彼は東條の関東軍参謀長時代からの子飼いの参謀であったが、辞表を懐に、風呂にはいっている東條にガラス越しに訴えをつづけた。「辞表を懐に」というのは、東條の性格を知りぬいている幕僚のつかう常套手段で、このことばがでると、とたんに東條は「それほど熱心なら……」と受けいれてしまうのだ。このときもそうだった。服部の訴えに動かされ、東條は第一次分として、陸軍には十七万五千トンの増徴を決めた。
あまつさえ服部のその意気込みを評価して、この直後(昭和十七年十二月)には陸相秘書官に据えた。参謀本部との情報窓口とするつもりがあった。作戦課長には、軍務課長の真田穣一郎が横すべりした。
だが統帥部の作戦は、第一次分十七万五千トンを確保してもガダルカナル奪回作戦には足りそうもない。船が欲しいと田中新一は軍務局長室にどなりこみ、佐藤賢了と殴りあいの喧嘩をした。そして十二月六日、田中は官邸にのりこみ東條に膝詰め談判に及んだ。東條が拒絶すると、田中は興奮し、「この馬鹿野郎」といきりたった。間に人が入ってこの場はおさまった。
翌日、田中は南方軍総司令部付に転じた。東條の報復だった。後任には第一方面軍参謀長綾部橘樹が座った。かつて関東軍参謀時代に東條兵団の作戦を立案し、東條に能力が評価されていた軍人である。しかし田中が去っても、統帥部の要求は鎮まらない。
統帥部との打ち合わせでは、杉山や永野に頭を下げて懇願する東條の姿があった。
「国民生活を最低限度に圧縮し、一般生産も極度に抑制して統帥部の要求に応じるよう努力している。それを汲みとりながら、統帥部も作戦を考えて欲しい」
海相の嶋田繁太郎も、船舶増産にさまざまなアイデアが民間から寄せられているといって、そのいくつかを報告している。本来なら国務の側にいる者は、統帥にはいっさい口だしができない。だが統帥からの要求を受けいれることは、そのまま国民生活の崩壊につながるとあって、東條も嶋田もガダルカナルからの撤退を説きつづけた。両者の対立はお互いの立場そのものに発していた。政治の側にある者は、民需用船舶の犠牲は限界だと考えていた。実際、このとき重要物資を輸送する船舶は辛うじて二百五十万トンラインを維持していたが、これは開戦時の予想を五十万トンも下回っていたのである。
鋼材、鉄鉱石、石炭の消費規制で、戦略物資だけでなく消費物資もいっそう不足がちになった。本来この戦争は、経済封鎖により首をしめられたから、戦略物資を求めて起ちあがったのである。南方資源地域から一次産品を日本へ輸送し、航空機と船舶を製造して海上交通路を維持することが前提だったのだ。
統帥部との激しい応酬を終えて戻るたびに、東條は溜息をもらした。そして秘書官に言った。
「陸軍大臣のときは近衛首相に協力しようとしたが、のちに考えると足りないところがあった。それは自分が陸軍ということだけしか考えなかったからだ」
統帥部のかたくなな主張に、かつての近衛内閣での自らの立場を重ねあわせていたのである。
いっぽう統帥部も、いつまでもガダルカナル奪回に固執しているわけにはいかなかった。国務の側の抵抗に加えて、全般的に戦線が停滞してきたからだ。そこで統帥部は、参謀本部作戦課長真田穣一郎をラバウルの第八方面軍に送り、実情を掌握させたが、真田はこれ以上の戦力投入の危険を説き、戦術転換を訴えた。面子にこだわる論が依然としてこれに抗したが、結局、撤退を決めた。自信を失なっていた軍令部もこれに応じた。
十二月三十一日の御前会議で、ガダルカナル撤退が正式に決まった。かわって日本が死守すべき防衛線をつぎのように決めた。(一)ソロモン群島方面はガダルカナル奪回作戦を中止、一月下旬から二月上旬にかけて撤収。その後はニュージョージャー島、イサベル島以北のソロモン群島を確保する。(二)ニューギニア方面は、ラエ、サラモア、マダン、ウェーク島の作戦拠点を増強し、スタンレー山脈以北の東部ニューギニアの要域を確保する。ブナ付近の部隊はサラモア方面から撤収し所要の地点を確保する――。天皇は、「陸海軍は共同して、この方針により最善を尽くすように……」と言った。
しかしこの防衛線は、ガダルカナル奪回失敗を教訓としているとはいえなかった。ニュージョージャー島もイサベル島もガダルカナルの隣りの島なのだから、やはり面子の上塗りでしかなかった。
昭和十八年一月から二月にかけて、撤退は行なわれた。ガダルカナルに上陸した三万一千四百名のうち、戦死者は約二万八百名。しかもこのなかの一万五千名は戦病死だった。当時第八方面軍参謀として、ガダルカナル作戦に関与した井本熊男は、その日記に「ガ島を餓島たらしめたる責任は後方の司令部、大本営(陸海軍共)に在る。第一線の将兵は悉く飢餓に瀕し、悉く病に冒されたのである。軍隊の戦力は極度に低下し、個人を見ても軍隊を見ても悉く半身不随になってゐた」――と書いた。
十二月三十一日の御前会議では、もうひとつ重大な国策が決まった。「国民政府への政治力を強化し、重慶抗日の名目を覆す」という内容であった。中国政略は「対支全面的処理の礎地を確立して、対英米戦争遂行に専念しうる事態の造成に努める」という背景によっていた。だが真の原因はこうした大義のためではなかった。支那事変の武力解決が無理だという認識が、政治、軍事指導者の間で常識化していたからだ。
重慶政府壊滅作戦(五号作戦)の挫折はこれを端的に示していた。この年秋から立案されたこの作戦は、マラヤ、フィリッピン、インドネシアの作戦完遂と、ビルマでのイギリス軍撃滅のあとに企図されたもので、南方、満州、朝鮮、内地から兵力を集め、十五師団をもって四川省を攻撃し、蒋介石に打撃を与えようという内容だった。だがガダルカナルヘの戦力投入は、この作戦を不可能にした。それが戦略転換の引き金になった。御前会議のあと、東京に集められた支那派遣軍の参謀たちは、軍事作戦から一転しての政略に戸惑いを隠さず、露骨に不満な表情を示した。
ところが政略といっても、日本が後押しする国民政府は、中国国内ではまったく人気がなかった。八路軍が反日抗日を合いことばに国民的支持を広げているとき、国民政府は日本軍のいいなりにふるまっていたからである。その国民政府主席汪精衛には、御前会議の決定に沿って、対英米戦争へ参戦するよう要請がだされた。昭和十八年一月九日という日時まで指定された。このとき日本の指導者たちは、対英米戦に宣戦布告をさせれば、中国人も一丸となって国民政府のもとに結集するだろうと本気で信じた。しかも国民政府の参戦は日本が望んだのではなく、中国国民が自発的に望んだもので、中国民衆には日本の日支提携の誠意を信頼するよう宣伝につとめよとも伝えた。追いつめられた日本のあがきだった。
この一連の政策を、東條は、陸相秘書官に据えた服部卓四郎につぎのように言った。
「この戦争を勝ち抜くには他民族の心をつかまねばならぬ。軍は万一の場合にそなえているだけで、あとは国民政府に任すほうがいいのかもしれん。それが国民政府を有力化する途になるのだろう」
つごうのいい言い分だった。そのご都合主義の蔭に、東條のふたつの側面がはからずも顔をだしていた。ひとつは、日本の軍事力の劣勢を自覚していることだった。もうひとつは、日本の特権的地位を確保している日華基本条約の撤廃を考えつつあることだった。この意見は汪政権の顧問から大東亜相になった青木一男と、駐華大使重光葵に説かれていたのだが、ここにきて日本の権益放棄、中国人の自主性回復の方針に耳を傾けるようになったことを意味した。二年前、日華基本条約が枢密院で審議されたとき、枢密顧問官のひとりが、この条約は日本の信用を下落させたと発言したのに激怒した東條の姿は失せていた。
そしてこのころ、ルーズベルトはホワイトハウスで年頭教書の草案に目をとおし、「われわれの敵が、一九四二年、戦争に勝ち得なかったことは、改めて諸君にいう必要はない」という字句を見ていた。
強引な議会人説得
昭和十八年にはいった。官邸での正月は秘書官と陸軍省将校など、東條の側近に囲まれてのものだった。しかし東條は、そういう追従の語らいの席でも気が晴れずに不機嫌を隠さなかった。
元日付の朝日新開に掲載された囲み記事。東方同志会の中野正剛が、「戦時宰相論」と題して原稿を寄せていた。ビスマルク、ヒンデンブルグ、ルーデンドルフを引用しながら、非常時宰相は強くなければならぬ、戦況が悪化したといって顔色憔悴してはならぬ、と説いていた。
「……非常時宰相は必ずしも蓋世の英雄足らずともその任務を果たし得るのである。否日本の非常時宰相はたとえ英雄の本質を有するも、英雄の盛名をほしいままにしてはならないのである」――。桂太郎は貫禄のない首相に見えたが、人材を活用してその目的を達したと賞め、「難局日本の名宰相は絶対に強くなければならぬ。強からんがためには、誠忠に謹慎に廉潔に、しこうして気宇広大でなければならぬ」と結んであった。
新聞記者出身の中野正剛の文章だが、読みようによっては東條を激励していると受けとめられる。彼の政治経歴はそのほうがふさわしい。が、東條は、自分へのあてこすり、批判、中傷と読みとった。一語一句にこもっている意味は、戦局への対応を誹謗しているというのであった。
すぐさま電話をとり、情報局検閲課を呼びだして「新聞紙法第二十三条により発売禁止にしろ」と命じた。すでに内相の椅子を離れている彼の行為は、この二十三条の〈内務大臣の権限で、安寧秩序を紊したと認めたとき発売、頒布を禁止できる〉という条項そのものに違反していたが、東條は、こんな記事をパスさせるのは検閲課の官僚が寝ぼけまなこで仕事をしているからだと疑って、そんなことにはお構いなしだった。
〈陛下の御親任によって首相の任にある者にたいする批判や中傷は、すなわち陛下にたいする中傷である〉
いまやそれが彼の唯一の武器であった。彼は本当にそう信じていた。そしてこのときから、憲兵隊は中野正剛を監視するように命じられたが、監視するという意味は、ときに「法律違反」の|捏造《ねつぞう》を意味していた。
東條と憲兵隊の関係は、このころからさらに親密な関係になる。戦況の悪化とともに有力者の東條への反撥が強まった。近衛は東久邇をたずね、東條への生理的反撥を隠さずに、財界、政界、一般事業界はこの内閣に反対であり、これ以上東條内閣がつづけば前途は楽観できないとまで言った。東條を批判する空気は政治指導者の間でも広まった。参謀本部の若い参謀たちは、やはり東條の陸相兼任を快く思っていなかった。それに新聞記者たちまでもが、「正月の朝、寝床の中で新聞を読んだ東條の虫のいどころが悪く、中野弾圧をはかった」と噂するようになり、指導者の器ではないと伝えて歩いた。
そういう中傷が入ってくると東條は露骨に憲兵隊に頼った。〈弱味を見せてはならぬ。些事から大事に広がる。いささかでも甘い態度をとってはならぬ〉
一月下旬の議会開会をまえに、彼は風邪で倒れたが、それが不穏な噂となって流れるのを恐れ、秘かに官邸の階段を登り下りして体力をつけ、議会での演説でも身体を後ろにそらし、右手を軽く腰にあてて左手で原稿をめくり、意識的に高い調子の声で演説した。彼の施政演説は、依然として日本に有利だと書かれていた。米英は南方資源を失なって苦境にあり、最後の抵抗にはいっているときめつけていた。
この第八十一議会は、開戦以来四回目の議会で〈決戦議会〉と呼称され、「米英との決戦は今年に在り」が合いことばだった。
東條の施政演説は強気にあふれ、南方諸地域の住民は「御稜威の光に浴し、早くも新しき建設に向かって心からなる協力を示しつつあります。……帝国は、わが真意を了解せざる者に対しましては、徹底的にこれを膺懲するものでありますが、一たびわが治下に入り来れる者に対しましては、真にこれを親子の情を以て遇するものであります」と自讃し、バーモ首相以下の日本軍への協力があるから、ビルマ独立は本年中に承認すると約束した。聞きようによっては、〈独立〉とは日本の傀儡化を意味することのようにも受けとれた。
衆議院、貴族院での質問は、表面上はいずれも東條を激励し鼓舞する内容だった。衆議院本会議での山崎達之輔の質問は、「国家のために切に自愛を祈るところであります」という発言からはじまった。貴族院本会議では伍堂卓雄が、大戦下の思想戦、宣伝対策を質問し、国民の一部に弛緩があるのを憂うると檄を飛ばした。東條は、我意を得たりと長広舌をふるった。「戦況等に関して、帝国の大本営発表が如何に正確無比であるかは、すでに世界周知のことであります」――。ガダルカナルの敗戦を、巧みに「転進」ということばで飾ったが、転進が成功していると解釈する限りでは、たしかに大本営発表は正確であった。
世界のニュースはミッドウェー、ガダルカナル以来、日本の大本営発表を笑っていたが、そんなことは東條とその周囲には認められぬことだった。認めぬ限り、それは存在しないことだった。
そして伍堂の質問を補足し、日本が負けるとすればふたつの理由があるといった。陸海軍の対立と国民の足の乱れ、とくに国民の足の乱れに懸念をもつと断言した。指導者の責任転嫁の弁であった。
「従いまして国内の結束を乱すべき言動に対しましては、徹底的に今後も取り締まってまいるつもりであります。たとえその者がいかなる高官であろうと、如何なる者であろうと、容赦は致しませぬ。……自由主義の打倒、その他の点に仮面を被って、共産主義の台頭という点につきましては終始注意を払って居ります」
この答弁に議場には柏手が沸いた。むろん東條の真意を理解してというわけではない。東條が、高官として意識しているのは、近衛文麿、中野正剛のふたりだというのは、よほどの事情に通じている者しか知らなかった。そういう事情通のなかには、憲兵をつかっての近衛、中野逮捕が近いと判断した者もあった。
この議会では、議員の側から盛んに綱紀粛正が問題にされた。配給制度がゆるみ、横流しや闇屋に便宜をはかる官吏もいるというのである。そのたびに、「私は吏道作振のため自ら陣頭に立つと共に機会あるごとに訓示をし、指導してまいったのでありますが、しかしながら私の徳およばず、その成果未だ全からざることはまことに遣憾であります」と頭を下げねばならなかった。東條に反撥を感じている議員は、とくにこの点を執拗に質した。そこを東條の弱点と考えたのである。議会が進むにつれ、東條の表情は険しくなり、「議員は自分たちは神様のような顔をしてうるさくいうのは遺憾だ」と、官邸に戻るたびにつぶやいた。とくに糾弾型の質問を受けた日は、憮然とした表情を崩さなかった。
「通常議会ノ開期ヲ努メテ短縮シ戦争指導ニ全力ヲ尽ス必要アリ」――このころ彼はメモ帖に憤懣を書いて憂さを晴らしている。
会期が終わりに近づくにつれ、東條の神経を逆撫でする質問がだされるようになった。底流にある反東條の感情が、時間とともに浮上してきたのである。衆議院戦時行政特別法委員会で喜多荘一郎が、「総理の指示権、命令権等による超重点主義生産増強行政は総理の独裁主義化ではないか」と質した。すると東條は怒りのまま、とりとめもなくつぎのように言いつづけた。
「……独裁政治とかいわれましたが、これは一つ明確にして置きたいと思う。ヒトラー総統とか、ムッソリーニ首相とか、スターリン首相とか、ルーズベルトとか、チャーチルとか居ります。これと――日本の私は、陛下の御命令で内閣総理大臣という重職に御任命になって居る。しかして現在におきましては、私は全国の指導者である。これとは本質が全然違うのであります。私一個の東條というものは草莽の臣で、東條そのものはあなた方と一つも変りはしない。むしろあなた方のほうが草莽の臣の中でも草は長いかも知れぬ。私の草莽の臣は草が短いかも知れぬとくらいに感じているのであります。ただ私はここに総理大臣という職責を与えられて居る。これにおいて違うのであります。私は、陛下の御光を受けて初めて光るのであります。陛下の御光がなかったならば、こんなものは石っころにも等しいものである。陛下の御信任があり、その地位について居るが故に光って居るのであります。そこが所謂独裁者と称するヨーロッパの諸公とは趣を異にして居るのであります。これは陛下の御信任がなくなれば、もう罷めろと仰せになれば、それから先は一つもない。石っころである。そこのところの本質は、いまの独裁主義ということと本質的に非常に違う。日本の国体はどうしてもそうでなければならないのであります。どこまでも私は陛下の御光の下においてはじめて存在意識があり、丁度月みたいなもので、陛下の御光を受けて光って居るだけのことであります」(『衆議院戦時行政特別法委員会議事録』)
とりとめのないことを、くどくどとくり返した。権力者の雑談が、公の席で「答弁」という名目で堂々と話されているのである。
しかもこの論を進めれば、東條は天皇の意を受けた執政であり、天皇こそが実質的な独裁者であると推論されていく。この陥穽を彼は自覚していなかった。
だが議会内部には暗黙の諒解があった。
軍人出身の首相にありがちな脈絡のない自己満足に満ちた発言は、法律的な次元からの質問とはとうてい噛みあわぬという諒解だった。すきなだけ話をさせておけ――ということでもあった。たしかに東條の答弁は自讃に終始し、徴用工の士気昂揚のため最低生活の確保を質されると、社長と従業員の関係は親子の関係であるといって、自らの連隊長時代の話をとくとくと話した。国民の士気をどう捉えるかと聞かれれば、負けると英米の奴隷になるのだから、石にかじりついても勝たなければならないと答える。さらに鶴見祐輔に「必勝の信念は何を根拠に言われるのか」と質問されたとき、東條の答弁はまるで人を食ったようなものだった。だがそれは多くの議員の士気を鼓舞するものであったので、さして問題にならなかった。東條はつぎのように答えたのだ。
「由来皇軍の御戦さは、御稜威の下、戦えば必ず勝つのであります。これは光輝ある皇国三千年来の伝統であり、信念であります。われわれの祖先は、御稜威の下、この信念の下にあらゆる努力を傾倒し、戦えば必ず勝って今日の帝国を築き上げてまいったのであります。……」
脈絡のないこの答弁を許容したのが、戦時議会の実態だった。
東條の神経を逆撫でする露骨な質問が、さらに激しくなったのは、戦時刑事特別法改正案の審議にはいってからである。治安を害する罪の実行を協議ないし煽動した者の罰則を重くするというのがこの法案の狙いで、政府への一切の批判は許されないというのだった。この法案を、政府原案どおり通過させようという翼賛政治会幹部と、これに反対する議員の間に対立が起こった。これこそ武断独裁専制法案で議会の機能が失なわれると、反対派の議員は主張した。
「国民は萎縮するだけではないか。これでは戦争協力もおぼつかない」
中野正剛の東方同志会系の議員が反対を唱えた。とくに中野の側近を自他共に認める三田村武夫が反対論の先鋒だった。軍人から政治家に転身した橋本欣五郎、満井佐吉らもその意見に同調した。若手議員のひとり中谷武世らの間には、「権力主義者にこれ以上の権力を与えてなるものか」というつぶやきがあった。
議会内部で反対論が強いと聞くと、東條はすぐに行動を起こし、軍人出身の議員を呼びだして切り崩しにかかった。まず翼賛政治会の有力議員である橋本欣五郎を、築地の料亭に呼びつけた。
橋本の秘書岡忠男は、隣室で、東條と橋本のやりとりを聞いている。はじめのうち東條は声をひそめて橋本を説得したが、逆に橋本のほうが「国民を自発的に戦争協力にもっていくのが本当ではないか」と抗議しはじめたのである。すると東條が怒りだした。
「橋本、貴様はおれの敵か味方か。敵なのか味方なのか、はっきりしろ」
橋本は沈黙のままだった。東條との会議を終えた橋本は、帰りの自動車のなかで、「もし敵だと答えたら、ああいう人だから明日あたり憲兵隊に呼ぶつもりだったにちがいない」と言った。彼も東條の権力的体質を恐れていたのである。
東條の焦慮に呼応して、翼賛政治会の前田米蔵、大麻唯男らも若手議員を説得した。書記官長星野直樹も根回しに走り回ったが、このとき陸軍省から大量の資金が撒かれ、それがために多くの議員が賛成に態度を変えたといわれる。たしかに反対派の議員は短期間に少数になったのだ。そして、三月八日にこの改正案は可決された。
「議会のなかにも聖戦の意味がわからぬ者がいる」
この夜、東條は秘書官との夕食の席で洩らしている。彼の言動は冷静さを欠き、支離滅裂だった。
皮肉なことに、前田や大麻とは逆の立場に立つ議員、中野正剛、鳩山一郎、芦田均、三木武吉らが、この日から東條の姿勢に不安と焦慮をもって動きはじめたのである。彼らも羊でいることに耐えられなくなったのだ。
法案が可決されてまもなく、東條のもとに憲兵司令官加藤泊次郎が報告を寄せた。「憲兵司令官を大臣級にもっていく」と豪語する加藤は、東條の側近を自認する鈴木貞一とはかって、大がかりな情報網を宮中、政界、官界につくったと報告してきたのだ。この報告は東條を感激させたが、内大臣木戸幸一、内大臣秘書官長松平康昌、閣僚では鉄相八田嘉明が加藤と連絡をとり、その情報を東條に伝えるといい、治安関係は司法次官、警視庁特高部長が加藤の副官岩田宗市をつうじて、東條に定期的に情報を寄せることになった。
東條のまえに出るとまるで太鼓持ちのような態度をとる加藤は、得意気にその忠勤ぶりを示した。その加藤に、東條はつぎのように言ってさらに新しい仕事を与え、より一層の忠勤を要求した。
「議会の動きは厳重に監視しろ。不穏な動きは許されない。しかしあえて敵に回すことはない。どうかと思う者の注意だけは怠ってならない」
山本五十六元帥の死
私は東條家に近い人びととなんどか会った。もとより私に特別の緑とか紹介者があったのではない。きわめて直接的に手紙で取材の申し込みをしたのである。三年余にわたって関係書の多くを読み、私なりの疑問点を記してそれに回答をもらえないかと申し出た。関係書を読めばすぐ気づくことだが、東條英機に関しては、恐るべきほどその実像が曖昧だ。資料の孫引きで描かれた東條像には、うんざりするほどの劃一化さえある。
そうした像をいまいちど壊し、改めて東條像を描きたいという私の願いに、もっとも必要なのは新しい資料の発掘である。東條家周辺の人びとや関係者は、そのために、いまいちど関係書類の整理をしてくれた。そこで数冊の新たな手帖が発見された。東條自身の手になる手帖である。昭和二十年八月十五日の夜、東條は自宅の庭で、それまで綴ってきたいっさいのメモ帖を焼却したとされているが、その焼却を免れた手帖が、まだ関係者に残されていたのである。
手帖のひとつは昭和十八年の二月から九月にかけて、主に、国務にたいする偶感を綴ったものである。本人がそのとき、その場で、自ら綴ったものだけに資料的な価値は高い。この手帖の第一頁には、第八十一議会の法案提出についての彼の感想が記されてある。
「一、本議会ニ於ケル模様ヨリ見ルニ議員ノ態度モサルコトナカラ政府トシテモ直接戦争ニ関係浅キ法律案ノ提示多キニ過ク 二、事務当局者ニマカセス各大臣ノ許ニ於テ厳選ニ選ヲ重ネルノ用意厳重ナル指導ヲ要ス 三、明年度ハ法律案ハ極度ニ制限(便乗的法案ハオコトワリ)(通常議会ノ開期ヲ努メテ短縮シ戦争指導ニ全カヲ尽ス必要アリ)」
ここには、官僚が競って法律案をつくりたがり、指導者がふり回されている姿が示されている。
内閣強化を考え実行したのも、生ぬるい答弁に終始する閣僚、官僚にふり回されるだけの閣僚をすげかえ、強力内閣をつくろうとの意図からだった。内相安藤紀三郎、農商相山崎達之輔、国務相大麻唯男、文相岡部長景。安藤は大政翼賛会総裁で陸軍中将、大麻は翼賛政治会幹部、岡部は学習院初等科時代の同級生。わずか一年余しか在学しなかった学習院小学部の同窓会を開き、そこで岡部を見識ったのである。強力内閣といっても東條色の濃い内閣で、外相重光葵だけが斬新だった。中国を武力制圧から政治工作に方針転換するためには駐華大使重光葵を必要としたのである。
当時日本軍の戦況はどうだったのか。二月二十七日の大本営政府連絡会議で、「世界情勢判断」が論議されたが、陸軍省、海軍省、それに統帥部の事務当局がまとめた原案に、東條は執拗に質問をつづけた。原案には米英に勝つ明確なプログラムがないと書いてあるのだ。ガダルカナルの失陥以来、東條は徐々に公式の席上でも統帥部の作戦に口をはさんだが、このときもあからさまにその不満を洩らした。
軍令部次長伊藤整一が、東條の不満に、以前に考えた戦争指導の方法を変える必要があると弱々しく答えた。
ドイツ軍が英国を屈服させるとは、誰も信じない時期にはいっている。英国どころかソ連でも、ドイツは苦境にたっていた。〈ドイツ軍、スターリングラードで大敗〉というニュースは、日本の新聞では伏せられたが、枢軸側の地位が揺らいでいるのは指導者たちも充分理解しなければならぬ事実となっていた。統帥部の出席者は、このころの会議ではひたすら沈黙のなかに逃げこんだ。
東條の質問には、悪化する情勢のなかからすこしでも意気のあがる側面を見つけようとの意味があった。だが重慶政府は日支提携で弱っているはずだと言っても、統師部の責任者は答えず、アメリカは国内分裂と人的払底でそろそろ戦力もダウンするのではないかといっても、誰もそれを肯定しなかった。東條のかん高い声だけが、連絡会議の進行役になっていたのである。もし東條がこのときのアメリカ軍の作戦の実態を知ったなら、そういう楽観的な予想は筋ちがいもはなはだしいと自覚したはずだった。
統帥部は詳しい報告をしていなかったが、昭和十八年にはいって、アメリカ軍は民需用の船舶を撃沈する作戦を採用していた。日本をしめあげる作戦――国民生活を追いこみ、厭戦気分をひきだそうという意図だった。毎月七万トンの商船喪失を予想した日本は、現実にはこのころから十三万トン以上の商船を失なっていたのだ。
この連絡会議が終わって、まもなく、統帥部は新たな作戦活動に取り組んだ。昭和十八年にはいるや、アメリカは大西洋から太平洋にも力を入れるようになり、東部ニューギニアがその対象となった。ここには日本側は留守部隊しか配置してなかったので、ラバウルから大量の兵員、軍需品を輸送することにして、三月一日から「八十一号」作戦と名づけて、物資を送った。しかしアメリカ軍は大型機で迎え撃ち、日本軍は六千九百名のうち三千六百六十四名の兵隊を失ない、軍需品、兵器も海底に没してしまった。援軍の上陸を絶たれた東部ニューギニア、ソロモン群島には、アメリカ軍の爆撃がいっそう強まり、これを打開するには制空権を奪い返し、輸送作戦を進めるのが日本軍の急務となった。そうでなければ、決定したばかりの防衛線もあえなく崩れてしまうからである。
つぎに考えられた作戦計画は「い号」作戦とよばれ、山本五十六連合艦隊司令長官が前面に出て航空戦力の総力を挙げ、東部ニューギニアの制空権奪回にのりだすことであった。四月五日から十日までのソロモン方面をX戦、四月十一日から二十日までのニューギニア方面をY戦として、連合艦隊司令部はその準備をはじめた。
太平洋での新たな戦闘とともに、大陸にも米英連合軍の動きがはじまった。日本が制圧していたビルマにも、米英軍の爆撃機が飛来するようになった。そのために軍事行動だけでなく、政治的にもビルマとの連携が必要という声が高まった。すでに軍事行動が限界に達しているというのであった。
第八十一議会の東條の演説に盛りこまれたビルマ独立の約束には、こうした背景があったが、日本のいう東亜解放とはつねにそういう意味であった。もっとも独立の形態については、ふたつの考えがあった。
大東亜建設という大義のために、ビルマ人に一切を任せるべきだという考え。もうひとつは、新秩序建設という以上、英米流の民主主義思想に追随するのなら独立の意味はないという考えである。後者は軍中央と現地軍の意向だった。ふたつの案が示されてきたとき、東條は躊躇なく後者を選んだ。
「ビルマ独立は戦略のうえでも影響は大きいから、日本側の意図を実行できうる独立でなければ意味はない」
この考えを背景に「|緬甸《ビルマ》独立指導要綱」が決まり、「八紘為宇ノ皇道ニ基キ万邦ヲシテ各々其ノ所ヲ得シムルノ大義ニ則リ……大東亜共栄圏ノ一環タル新緬甸国ヲ生育ス」と唱い、日本軍の指導のもとに独立準備委員会を設けて八月一日を独立日とし、独立とともに米英への宣戦を行なうように指導することが明示された。この大綱は三月下旬にビルマの首相であるバーモを東京に呼んで手渡した。大学教授から独立運動の闘士に転じたバーモは、このとき、典型的な日本軍人である東條に好感をもたなかったようで、「日本政府の発表した声明には深い感謝があるのみです」と儀礼的に答えるだけだった。
「建国精神についてはビルマ人のビルマであるが、しかしビルマは大東亜共栄圏の一群として道義国家であらねばならない。すなわち世界新秩序の建設に協力するものでなければならない」
東條はバーモにそう語ったが、側近に、「バーモにいいふくめておいた」といっているように、東條自身はバーモを自分より下位にある者として見下していた。
しかし、戦況が悪化しつつあるとはいえ、一国の責任者を呼びつければすぐにでも駈けつけてくるのだから、日本の権勢はまだ充分にあった。そしてこの権勢のあるとき、東條の言動が真に東亜解放にふさわしいものであったならば、歴史上、東條の存在もいくぶんは評価されるものになったにちがいない。
「い号」作戦が予定どおりはじまった。当初この作戦は順調に展開した。山本五十六自ら率先してラバウルで作戦指導にあたり、巡洋艦一隻、駆逐艦二隻、輸送船二十五隻を撃沈し、飛行機三十四機を撃墜、飛行場四カ所に大損害を与えたと判断されたが、日本軍もまた四十九機を失なった。日本の被害機数が多いのだ。この損害は連合艦隊の参謀を驚かせたが、このことはアメリカ軍のパイロット技術が、着実に上達していることを教えていた。
四月十八日、山本は、この作戦に従った参謀たちを激励するため、ラバウルからブインに向かったが、ブイン上空で待ち受けていた米軍機に撃墜された。日本海軍の暗号解読に成功した米軍機が待ち受けていたのである。アメリカにとっては、山本五十六の名前は開戦時にマレー攻略戦を指揮した第二十五軍司令官の山下奉文とともに日本軍の象徴のように語られていて、尊敬と憎悪のいり混じった感情で見られていた。山本を倒すのはアメリカ国民の士気を鼓舞し、日本の戦意をくじくと考えての作戦だった。
山本の戦死は、統帥の秘密事項として統帥部と政治の上層部にしか知らされなかったが、その死に天皇は、本戸幸一に痛嘆交じりに話すほどの衝撃を受けていた。一般には一カ月後の五月二十一日、やっとその死とともに、六月五日の国葬日程が発表されたが、〈山本元帥死去〉の報は、財界や政界、それに一般の国民のなかにも、「この戦争はもうだめだ」との感を与えたのであった。
東條は「山本元帥の薨去に遭いて」と題して、メモ帖に和歌二首を綴った。
君逝きみにしむ責の重き加那
されどやみ那ん勝てやむへき
たゞ一にすめらみことにつくす身は
尚ほ足らじとぞ思ふ外に那志
有力な指導者の一角が崩れたことは東條をもとまどわせた。いっそう自らの双肩に責任がのしかかってくることは明らかである。和歌にはその意味があった。
チャンドラ・ボースとの出会い
南方ばかりでなく、北方にもアメリカ軍の攻撃がはじまった。
前年六月のアッツ島、キスカ島の占領は、アメリカ軍に日本本土爆撃の基地を設営させぬようにするのと、米ソの連絡を遮断するとの意味があった。この両島には二千五百名の守備隊がいた。しかし五月にはいると、一万一千名のアメリカ軍がアッツ島に上陸した。この報を受けて統帥部は会議を開き、制空制海権のない作戦は自滅以外にないと認めて、キスカ部隊の撤収を決定した。第二のガダルカナルを恐れたのである。
「西部アリューシャン部隊の撤収に務めるよう、大本営から樋口季一郎北方軍司令官に下達されました」
この報を聞いた東條は不快気にうなずいた。統帥部の要求にあらゆる犠牲を払いながらこたえているのに、ことごとく戦況が悪化するのはどういうことか。これまで占領していた地域から制空制海権を失なうのは、統帥部の怠慢ではないか。彼は不信感を募らせ、メモ帖につぎのように書いた。
「従来ノ経緯ニ見ルモ統帥部ノ重大ナル要求等カ政府事前ニ殆ント関知セス動カス可ラサル至リ然モ事急ヲ要スル直前ニ従テ政府ニ提示セラレ政府ハ情勢上之レヲ承認シ其ノ国防的ノ分野ニ於テ之レカ遂行ノ重大責任ニ当ラサル可ラサル事態トナル例今日迄尠シトセサリキ」
統帥部への不満は、つまり海軍への不満だった。ミッドウェー、ガダルカナル、それに「い号」作戦の失敗、いずれも海軍の不手際に端を発している。太平洋での戦闘というのは海主陸従であるのに、戦闘がうまくいっているときは陸軍をないがしろにし、うまくいかなくなると、陸軍に泣きついてくるのは非礼だというのであった。だがそれを表向きには言えなかった。それをいえば、彼の政治的立場を支える海軍が彼を見限るにちがいないからだった。それだけに海軍には遠慮し、口だしをしてこなかったこれまでの態度への苛立ちが昂まっていた。
「海陸軍攻勢終末点ノ研究不十分ト不一致ニ就テ」と題した彼のメモは、海軍の作戦の不手際を思う存分なじっていた。東條がいかに海軍に憎悪をもっていたかが、そこでは明らかになっている。〈陸海軍の対立が日本敗戦につながる〉というのは、彼の焦慮の反映だったのだ。
「一 陸海軍ノ南方北方西方方面ニ於ケル作戦指導ニ当リ攻勢終末点ノ研究ヲ彼我ノ情勢及国力ヨリ判断シ深刻ナル研究ニ基キ之レヲ決定シ一致セシメ置クヲ必要トセリ 然ルニ事実ハ開戦当初ノ赫々タル戦果ニ眩惑(?)セラレ其ノ研究カ軽視セラレ従テ陸海一致ヲ名実共ニ(一応型式的ニハ一致シアリシヤモ知レサリシカ)一致セシムルコトナカリシカ如シ
従テ其ノ後ノ作戦経過ヲ追フニ|○《不明》ヲ暴露セラレツツアルノ感ヲ深ク、今日ヨリ考フレハ『ミットウェー』海戦ノ蹉跌ヲ見タルトキ国軍ノ追撃情態ヨリ既ニ戦略|○○《不明》態勢ニ転移スヘキナリキ
二 (ガダルカナルについて海戦を批判…略…)
三 ニウキニア作戦ノ今日ニ於テモ海軍ノ要望ト又戦局自体ノ必要トヨリ『ライ』『サラモア』ニ陸軍兵力ヲ進メタルモ補給|○《不明》任ヲ負フ海軍ハ海事力ノ関係上昨今逐次不活溌トナリ陸軍自体ニ於テ何トセサル可ラサル現況ニシテ稍モスレハ陸軍兵力ノ置キサリヲ喰ワントスル形況ニ在ルカ如シ
又|○《不明》地ニ於ケル航空ニ就テモ同様ニシテ|頭《ママ》初ハ該方面ハ『ソロモン』方面ト共ニ海軍カ航空ヲ担任スル約束ナリシニ不拘逐次海軍ノ切ナル要求ニ牽制セラレ相当ナル陸軍航空勢力ヲ該方面ニ割ク(一時的ノ約束)ニ至リ而シテ海軍ハ今日航空ノ主力ヲ後退セシメ一部ヲ『ソロモン』方面ニ充ツルニ過キス
四 (アリューシャン方面の輸送補給を受け持ったはずの海軍を批判…略…)」
海軍がなにひとつ約束を守らぬと憤激し、つねに作戦に名を借りて大量の船舶や航空機の一定量を要求し、それを獲得すればこんどはまったく別の方面につかっていると批判している。とくにソロモン海域での作戦では、海軍の主張を受けいれ、中部ソロモンに前進基地をつくっていたはずなのに、海軍は主力を後方にさげてしまったというのだった。アリューシャン方面にしても、「……海軍ノ活溌ナル作戦ニ依リ其ノ保持ヲ保証セラレアリシモ今日見ル如キ殆ント海軍ノ活溌ナル活動ヲ見ス 該地守備隊ノ悲惨ナル決意ノ情態ニ追ヒ込メラルルニ至リ」といって、彼は海軍の怠慢をしきりに責めた。
このメモを記してから十日後の二十九日、アッツ島の守備隊(山崎部隊)は「残存兵力一丸トナリ、敵集団地点ニ向ヒ最後ノ突撃ヲ敢行シ……」と連絡して玉砕した。日本軍の初の玉砕であった。この報告を耳にして、官邸の執務室で東條は涙をふきつづけた。将校のまえでも涙を隠さなかった。
玉砕の寸前に杉山参謀総長と東條の打った電報の末尾に「必ズヤ諸氏ノ仇ヲ復シ、屈敵ニ邁進セン」とあったが、その電報を誦じながら、東條は徐々に海軍への怒りを増幅させていった。
東條から笑顔が消えた。官邸の執務室で物思いにふけっている姿が、側近によってなんども目撃された。気をきかした秘書官が、官邸に落語家や漫才師を呼んだ。東條が笑い、手をたたくと、彼の側近たちも笑い、手をたたいた。
東條が新たな闘志をもって執務室にすわったのは、六月にはいってからである。五月三十一日の御前会議で国策の方向が決まり、それが彼の意欲を刺激した。新たな国策とは「大東亜政略指導大綱」で、この末尾で大東亜会議の開催を唱っていたのである。「本年十月下旬頃(比島独立後)大東亜各国ノ指導者ヲ東京ニ参集セシメ牢固タル戦争完遂ノ決意ト大東亜共栄圏ノ確立トヲ中外ニ宣明ス」――。
国民政府、タイ、ビルマ、フィリッピンは、大東亜共栄圏の一員として「更生」しつつあり、その他の国々にも〈英米のアジア支配の切断者としての帝国を誇示し、あわせてアジアの人びとに帝国の存在を知らしめる〉というのである。そして東亜の指導者に日本精神を鼓吹するというのが、東條の考えだった。
日本精神鼓吹は有力な武器であると、東條は考えていたからだ。たとえば、このころ国民政府の軍事視察団が東京に来て、東條を儀礼訪問したときには、
「戦いは精神と精神、意志と意志との闘いである。モノはあくまで従にすぎない。どうかしっかりやってもらいたい」
と、まくしたてた。相手にことばを与えず、東條の訓示を一方的に開陳するような会見であった。
このころ東條自身、精神論を吐く者に異常なまで傾斜した。たとえば、インド独立運動の志士チャンドラ・ボースとの出会いがそうであった。マライのペナンでドイツ潜水艦から日本の潜水艦に乗りかえて日本に来たボースは、日本にいるビハリ・ボースと手を結んで反英活動に入ろうとしていたが、そのまえに協力を求めようと、東條に面会を申し込んだ。だが東條は申し込みを無視した。〈自国の独立運動を自国で進めていないうえにドイツの力に頼ろうとしている〉、それが不快の因だった。
東條が、ボースの執拗な依頼にやっと応じたのが六月十四日だった。翌十五日から第八十二帝国議会がはじまるが、その最終的な打ち合わせで忙しいときに、わずかの時間をさいて会おうというのであった。
その日、官邸の応接室にはいってきたボースは、東條に会うなり、射るような視線でまくしたてはじめた。インド人がインド独立のためにどれほど熾烈に反英運動をつづけているか、ことばは途切れることなく、通訳が口をはさむのももどかしげに吐きだした。東條はこの男に関心をもった。
「明日もういちどお会いしましょう。私のほうもあなたといまいちど話したい」
翌朝、ボースは官邸にたずねてきて、また自説を述べた。雄弁は彼の最大の武器であった。
「日本は無条件でインド独立を支援して欲しい。インドの苦衷を救えるのは日本しかないのだから、その点は約束して欲しい」
ボースの申し出に東條はうなずいた。
「もうひとつお願いがあるが、インド内にもぜひ日本軍を進めて欲しい」
さすがにそこまで東條は約束できない。これは統帥にかかわる問題だったからだ。だが、この日からボースと東條の交際がはじまった。
「あの男は本物だ。自分の国をあれほど思いつづけている男を見たことはない。なんとか協力したいものだ」
いちど胸襟を開くとあとは肝胆相照らす仲になる癖をもつこの首相は、いままた新しい友人を見つけたのである。第八十二帝国議会の施政演説でインドに触れた部分は、「印度民衆の敵たる米英の勢力を、印度より駆逐し、真に独立印度の完成の為、あらゆる手段を尽くすべき、牢固たる決意をもっているのであります」と素気なくおざなりの一節だったが、彼はそのことを悔み、もっと強引にインド支援を訴えるような内容にすべきだったとぐちった。
帝国議会の終了日、ボースは記者会見をして、「インド独立のために剣をもって闘う」と言明した。このあとシンガポールに飛び、インド独立連盟大会に出席して、組織的な独立運動にのりだすことを約束した。それも東條の勧めによるもので、日本の新聞に大きく報じられたのは情報局の指導によった。
議会を終えたあと、東條は、東亜各国の訪問に飛び立った。
御前会議の決定に沿って、大東亜会議の根回しと占領地行政にあたっている司令官や参謀をねぎらうためだった。訪問地の最初はタイであった。この訪問のまえに、タイのピブン首相に英国にとりあげられていたマライの北部四州と東部の二州をタイに返し、そのうえで大東亜会議の出席を呼びかけようと画策し、東條は南方軍総司令官の寺内寿一にその打診を申し出ていた。ところが寺内は、「タイの協力態度は怪しい。日本側の勝利にも疑念をもっている。そうしたタイに、旧英国領を与えても有難迷惑だろう」と伝えてきて、東條の申し出を一蹴していた。
「日本の皇国精神をありがたいと思ってもらうだけでなく、充分説明しておかなければならない」
そういう東條の意気ごみは、タイに着いても南方軍の幕僚に冷ややかな目で見られたし、ニューギニア、アリューシャンで日本が追い込まれているのは、タイの指導者たちにも充分知られていた。バンコクでピブンの儀礼的な歓迎を受け、日泰共同声明が発せられただけだった。ついでシンガポールに向かった。占領以来、昭南市と名づけていかにもこの地の支配者であるかのように装う日本に、シンガポール市民の空気は冷たかった。
それだけでなく、南方軍総司令官の官邸での東條の訓示は、寺内や幕僚たちから嘲笑された。寺内は東條を嫌い、彼の周辺に集まっている幕僚も東條を中傷している者が多かったからで、当時寺内の幕僚のひとりだった稲田正純は、その日記に、「東亜民族大同団結をするという一人合点の、冷かせば悪足掻きの弁」だと大東亜会議を酷評した。
しかもこの地でも、東條は彼らしい事件を起こしていた。この地に来て二日目の早朝、東條は早起きして単独で街に出た。すると日本兵を乗せたトラックが走ってくるのが目にはいり、これを呼び止めたが、官邸の護衛に向かうのだと聞いて彼は怒った。そして官邸に戻るや、
「自動車の無駄づかいではないか。日本は石油が足りなくて困っているのだ」
と、顔色をかえて南方軍の幕僚を怒鳴りつけた。
そういう細かさは、東京にあっては率先垂範の美談として報じられるのだったが、この地にあっては、小心で事務的な官吏の像としかとらえられなかった。現地の幕僚たちは、そういう東條を嘲笑の眼で見つめたが、その視線には軍中央での権勢にたいする反撥も含まれていた。
シンガポールにビルマのバーモ首相を呼んだ。
独立準備の進行を確かめ、新しく英国領だった二州をビルマ領にすると約束した。バーモは東條の言を受けいれ、大東亜会議に出席することを約束した。さらにシンガポールでチャンドラ・ボースとも会った。この地で自由インド臨時政府の樹立を宣言し、二万人のインド人に向かって「デリーへ、デリーヘ」と呼びかけて意気が上がるボースは、
「自由インド国民軍にぞくぞく入隊志願者が殺到している」
と東條に感謝のことばを伝え、さらに強力に支援をつづけて欲しいと要望した。
シンガポールからジャカルタに向かうコースは、突然決められた。独立運動をつづけているスカルノとハッタが日本の占領地行政に不満を洩らしているのが、手のこんだ方法で東條の耳にはいっていたのだが、それを確認しようというのであった。
インドネシア独立運動の闘士たちは、東條の、インドネシア独立をゆるやかに認めるという議会演説に失望していた。しかも日本軍のインドネシア統治は、民族の誇りをないがしろにするもので、国民の日本への期待は急速に薄らいでいた。陸海軍将校や民間人のなかに、この独立運動を支える者がいて、なんとか東條に宛ててインドネシアの苦境を伝えることができないかと考えた。
そんな折り、青木一男大東亜相がインドネシアに来て、実情を視察した。スカルノ、ハッタ、デハントロ、マンスールの四人の独立運動指導者は、日本軍将校と民間人の助言で、東條宛ての要求書をつくった。そこにはつぎの三点があった。
[#ここから1字下げ]
一、今次戦争後のインドネシアの地位の明確化。当面の日本陸海軍政の一本化。
二、民族旗の掲揚、独立歌の高唱許可。
三、日本人の粗暴な態度を改めること。
[#ここで字下げ終わり]
日本側の将校が、これを「海軍」の便箋にタイプを打ち、青木に渡した。青木はこの要求書を東條に手渡した。むろん東條は、すぐに背景をしらべた。海軍がこの独立運動の後ろで糸をひているのではないかと疑ったのだ。結局、海軍の若い士官や民間人が、独立運動を熱心に応援しているだけとわかり、東條は例によって、憲兵に彼らの動きを監視するよう命じた。
独立を許すという東條の言のなかに、この三点ていどの政策さえ認めていない日本の占領地行政の破綻があったのである。もし東條が〈東亜解放の父〉になりたいと熱望していたならば、勝者の驕りを捨てて独立運動闘士の言に耳を傾けるべきだった。英国やオランダの強圧的な植民地政策を批判しつつ、実は日本もそれを踏襲しているにすぎないのではないかと自省してみるべきだったのだ。
だが東條は、陸軍の将校に要求書の事実を確かめただけで、むしろ独立運動が行き過ぎて反日運動に転化しないように、厳重に釘をさすだけだった。
一週間余の東亜各国訪問から帰って、東條の言動にわずかだが変化が起こった。以前よりもっと盟主意識が昂まったのだ。
「大東亜民族十億の指導者たる心やりをもつこと。すなわち母が子や孫の食べ物を心配するように、帝国はそのことを大きく念頭におかなければならない」
そういうことばを食卓を囲む秘書たちに言った。
「各国の指導者とも会ったが、自分は軍人なのでまったく外交を知らないので……といっておいた。しかし至誠のわからぬ国民は世界中にはいないと信じているというとわかってくれた」
指導者たちに自らのことばと日本精神が充分理解されたにちがいないと補足した。そして東條は、バーモやボースの愛国者としての言動を讃えるのだった。
だが、アジア各国にとって、もっとも関心のあることは自国の独立であった。各国の指導者も、白国の独立のために日本がよき随伴者である限りにおいては、日本にそれなりの礼を尽くした。しかし、日本とともに大東亜共栄圏を確立しようなどと考えるそれ以上の親日℃w導者などひとりもいないことにまで、東條はまったく思い至らなかったのであった。
[#改ページ]
「私への反逆はお上への反逆である」
勝利とはバランスの問題
歴史年表を見れば、昭和十八年の夏は、第二次世界大戦の転回点だったことがわかる。
枢軸側の劣勢は明らかであり、連合軍の勝利は疑い得なかった。北アフリカで、ドイツ、イタリア軍が連合軍に追われ、七月に入るとイタリア領のシシリー島に連合軍は上陸し、七月下旬には、ムッソリーニが反政府派の政治工作によって失脚、退役軍人のバドリオが首相の座につき徹底抗戦を主張したが、その声は弱かった。ドイツもかつてとは逆に、ソ連軍から逆襲を受けていた。態勢を整えた連合軍は、国内の戦時産業を整備して、前線にぞくぞく航空機や艦船を送りこんだので、物量の差が歴然としてきた。
日本軍の敗退も物量の差だった。ソロモン群島の島はひとつずつ消され、中部ソロモンとサラモアの防衛線も陥落した。レンドバ、ムンダ、コロンバンガラ島も日本軍の手を離れた。
戦場の主導権はアメリカ軍にあった。
つぎにどこを戦場とするか、どれだけの戦力をつぎこむか――それはアメリ力軍の思惑で決まった。アメリカ軍によって選ばれた戦場に日本軍はあわてて駈けつけ、兵員や物資の補給をしなければならなかった。補給に向かう船隊が、アメリカ軍の潜水艦に沈められた。
当時(昭和十八年七月)船舶の割り当ては、陸軍用が一、一八三、三〇〇トン、海軍用は一、六七七、一〇〇トン、民需用は二、七三九、六〇〇トン。民需用は国民生活に必要だとされる三百万トンを下回っていた。しかし陸海軍の割り当ては従前と比べて劣っておらず、この事実は、日本が国民生活を無視して物量消耗戦にまきこまれていたことを物語っていた。
ひとつの作戦に失敗し、戦闘に負けるたびに民需用の割り当ては削られる。そしてそれが、国民生活にはね返ってくる。国務は統帥に口だしできない建て前がある限り、統帥の要求する船舶に応じていかなければならない。両者の対立はいずれ隠蔽できぬ段階に達するはずだった。しかも統帥の責任者は、戦況が好転しないのに苛立たしさをもったが、国務の側からの追及を恐れて、〈統帥権〉という隠れ蓑に身を寄せ、戦況の詳細は統帥事項にかかわることとして説明しなかった。それでもこの期になって軍令部は、大艦巨砲主義にこだわっている限り、アメリカ軍の航空機によって撃沈されるだけなので、航空主力の作戦に切りかえなければならぬという反省をもった。それはミッドウェーの敗戦を教訓としていた。
八月二日に開かれた大本営政府連絡会議では「昭和十九年国家動員計画策定ニ関スル件」を採択したが、そこでは「……戦争指導上ノ要請ニ基キ米英戦カヲ圧倒スベキ直接戦力就中航空戦力ノ飛躍的増強ヲ中心トシテ国家総力ノ徹底的戦力ヲ強化スル……」と国家のすべてを戦力化することを唱いつつ、「直接戦力就中航空戦力ノ飛躍的増強ヲ図ルヲ以テ第一義トシ……」と明文化し、航空主力の作戦に転換することを初めて明らかにした。
このころの航空機生産は、陸海軍あわせて月産千百機ていどで、六百機は陸軍が、五百機は海軍が割り当てを受けていた。しかしこれだけでは統帥部の要求を充たさない。そこでこの連絡会議を機に、航空機増産態勢に努めようということになったのである。航空主力――国民には窮乏生活がさらに強くなることだった。航空機の増産は、あらゆる産業に優先するとし、国民動員にも拍車がかけられ、学徒動員もいっそう進んだ。
戦況が悪化したときこそ、指導者の資質が問われるとするなら、東條はどのように変貌しただろうか。
彼のふたつの性格が、日常の執務のなかに反映した。ひとつは細心さだった。「工夫、創意、努力」――そういうことばが東條の口から洩れ、軍内外の研究家の話をきき、自身でもさまざまなアイデアをだした。たとえば第一連隊長時代の軍医だった松崎陽は、このころ陸軍省のある研究所に勤務していたが、東條に呼ばれて、同一時間内に二倍もの作業能力を発揮できる人間改造や、脳波を改良して思考を最大限に広めることが可能な人間研究のテーマを与えられた。また航空本部総務部長遠藤三郎は、「寡を以て衆を破る方策を考えて答申せよ」と命じられ、航空戦略を再検討して答申したが、その主眼は最新鋭の戦闘飛行団を編成し、これを「新選組」として戦闘地域に自在に飛行させるというものだった。技術畑の将校が官邸に呼ばれ、昭和十五年から進んでいる原子爆弾研究に拍車をかけるようにも命令された。
まさに泥縄式の対応がはじまったのだ。
東條の神経は昂ぶり、感情の振幅が激しくなり、好悪をその発言の核にしはじめた。大臣の服装にさえ口をはさんだ。目前の事実を容認する者や弱気な言を吐く者がいると遠ざけた。負けるというのは、当事者が負けたということによってはじめて負けたことになる。……たとえ客観的に負けていても、それは認めない限りその事実は存在してはいないのだ。
そういう東條の苛立ちは、新しい対象にも広がった。ムッソリーニのだらしなさを嘆き、イタリアの国民性を罵倒し、そして米英の国民性には憎悪を燃やした。「ドイツの国民性には重箱の隅をほじくるようなところがある。これではいけないというので、独裁ということを言って国民を率いているのだろう。およそことばとその実情は反対ではないか。英米人が博愛というのは、それだけ残酷だからだ……」――。会話の最後に「日本にはお上がいらっしゃるので、われわれは救われている」とつけ加えた。
精神論に傾斜する東條の言には脈絡もなく、根拠もなく、ひたすら願望を基にしているだけだった。それは首相としての資格に欠けていた。
しきりに天皇をもちだした。それがこの期の彼のふたつ目の特徴だった。天皇との直結を欲するのは東條の性格の主要な部分を占めていたが、戦況の悪化とともにそれは堂々と公言されるようになった。極論すれば、天皇の威を借りて執務にあたった。天皇は戦況の悪化を心配しているといい、何とか安心させる方法を考えたいといい、たとえばつぎのような意見を秘書に洩らした。
「閣議を宮中で開きたい。それだけでなくもっと天子様にご安心いただくよう配慮しなければならない。天子様の隣室に総理大臣室を設け、統帥関係の首脳部もそこにはいって常時ことあるごとに奏上すれば、敏活に天子様のもとで輔弼、輔翼の任がはたせるはずだ」
実際に九月にはいると、宮中を説得し、毎週火曜日、木曜日の閣議を宮中の一室で開くことを決めた。これが〈御親政の実をあげる〉具体策というのであった。
これらの東條のふたつの性格に加えて、東條の周囲にいる者は、不都合なことは彼の耳にいれなくなった。それが昂じると、具体的な名前をあげて「東條の側近は四奸三愚だ」と謗られるようになった。統帥部は、陸軍省の幕僚に伝えても局長や陸相には届かないことに不満をもった。とはいえ、これは下僚だけが責められることではなかった。不快な情報を耳にすると、東條はたちまち不機嫌になり、あたかも報告に来た幕僚に責任があるかのように叱責するからである。こうして東條の周囲から諫言の士は消えた。
昭和十八年後期から十九年にかけ、米英軍はラバウル、スマトラ、ビルマで攻勢をかけるだろう――統帥部はこう予測した。とくに戦略上重要なラバウルを目標とするだろうと考えた。ラバウル死守を至上命令とした軍令部は、この地に一個師団の派遣を要するとみて、上海に集結している第十七師団の派遣を参謀本部に要求してきた。参謀本部は同意し、これを陸軍省に伝えた。いわば統帥に関しての事後報告にすぎなかった。ところが東條はこれに異論を唱えた。彼は参謀本部の参謀に思いのすべてをぶちまけた。
「戦争指導のうえからも、陸軍の士気からも軍令部のいうとおりにはできない。これまでの経緯はまったく軍令部から欺かれてきただけではないか。つねに陸軍は孤立し、海軍は補給を約束しながら、それを実行してこなかったではないか」
海軍との闘いの第一歩だった。
軍令部も東條への不信を隠さなかった。
「防衛計画が狂ってしまう。すでに事務レベルでは話がついているではないか」
何度かのやりとりのあと、第十七師団の一部の派遣で双方の妥協はなった。だが東條にも、統帥部にも、この一件は傷となった。アメリカ軍の攻勢を予測し、そのつど守備隊の派遣を決めるのでは場当たり的な対応をするだけである。どこをどのようにして守るのか――この段階ではそれが曖昧だった。そしてその曖昧さは、統帥部が巨視的な戦略をもっていないことを意味していた。
東條はそのことをはっきりと知った。〈まったく統帥部は何をしているのだ〉東條の胸中は煮えたぎった。戦略に必要だというので航空機や船舶をその要求どおりに与えようと頑張っているのに、統帥部は作戦行動を起こすたびにあっけなくそれを海の藻屑と化しているではないか――。
その怒りをもとにして、彼は戦争の見通しをメモ帖に書いた。昭和十八年九月七日の日付のはいったメモには「偶感」とあった。
「一 戦争ハ漸次深刻ナル|侍《ママ》久戦ノ様相ヲ呈シテ来テ居ル、戦場ニ於ケル大規模ナル作戦即チ決定的ナル卓越セル作戦ハ遂ニ彼我共ニ望ミ得サルニ至ル。二 最後ノ勝利ヲ得ルモノハ国民精神ト食糧確保カ最後ノ決ヲ与フルニ至ルヘシ 之レカ国内ノ団結、大東亜ノ団結ト共ニ国内ハ元ヨリ各地域ニ於ケル急速ナル自給態勢ノ確立ヲ急務トス」
だがこの戦争が最終的に勝てるか否かは、東條もつかんではいなかった。それゆえにこの日付のメモには、ポツンとつぎのように書かれている。
「|勝利《○○》トハ危機存亡ノ瞬間ニ於ケル|パ《ママ》ランス、ノ問題テアル」
バランスとは何を指すのか。陸軍と海軍の対立、政治と統帥の相剋、あるいは東條自身と反東條要人との力関係。米軍と日本軍との相対関係、あるいは連合軍と枢軸側との勢力バランス。それらのいっさいのものが含まれていたにちがいない。そしてこのメモの二日後に、大きなバランスの変化を認めなければならなかった。国内では政治と統帥の|乖離《かいり》、そして国外では枢軸側の一角の瓦解がはじまったのだ。
九日の早朝、イタリアの無条件降伏が外務省に入電した。さっそく連絡会議や閣議で、対応策が検討された。どの会議もこの衝撃的な事実に沈黙が流れるだけだった。〈米英軍が上陸しただけで降伏するというのでは弱すぎるのではないか。そのうえ事前に日本にもドイツにも諒解を求めてこないとは……〉――それが出席者たちの共通の認識だった。しかもイタリアが、連合軍に武器を没収され、それが対ドイツ軍への有力な武器にかわると判ると、連絡会議の空気も急激に悪化した。それでは敵国に寝がえったことではないか、というのだった。
「無条件降伏とはことばをかえた侵略行為になる。イタリアの駐日大使のごときを優遇することはない」
と東條は激怒し、連絡会議はこの日以後、イタリアを敵国として扱うことを決めた。それでも東條の怒りはおさまらなかった。負け惜しみ気味にいうのだ。
「なにかもやもやしたものが除かれてさっぱりした。だいたいイタリアっていう国は、背信の国で困ったものだが、今後はどちらからも責められるだろう。ドイツは苦しいだろうが、足手まといがなくなって、かえっていいのではないか」
イタリア降伏後、日本はドイツと協議して、「バドリオ政府の背信は三国同盟条約に些かの影響を与えるものに非ず」との声明を発表した。しかもヒトラーが幽閉されているムッソリーニを救いだし、ムッソリーニがバドリオ政府に対抗してファシスト共和国政府をたてると、すぐさま日本も承認し、かたちのうえでは三国同盟がつづくことになった。
絶対国防圏構想
とはいえ、イタリア降伏は軍事上のバランスが崩壊することでもあった。統帥部は改めて戦争内容を詳しく検討した。すると南東太平洋の局地的な戦闘では戦力を消耗するだけなので、〈絶対国防圏〉を設定し、国内外の戦時態勢を堅めようという論が有力になった。
参謀本部の部員がこの案をもってきたとき、東條は上機嫌でこれに賛成した。すこしは事態が進むからである。
九月三十日の御前会議は、約五時間の討議をつづけたうえで、ふたつの方針を採択した。「今後採ルベキ戦争指導大綱」、「『今後採ルベキ戦争指導大綱』ニ基ク当面ノ緊急措置ニ関スル件」――。戦争指導大綱は、十八年、十九年中に戦局の大勢を決するのを目的とし、そのために絶対国防圏の不敗態勢を唱い、その地域をつぎのように定めた。
「帝国ハ戦争遂行上太平洋及印度ニ於テ絶対確保スベキ要域ヲ、千島、小笠原、内南洋(中、西部)及西部ニューギニア、スンダ、ビルマヲ含ム圏域トス 戦争ノ終結ヲ通シ圏内海上交通ヲ確保ス」
この国防圏を確保するため、ラバウル、中東部ニューギニア、外南洋方面は放棄し、国防圏内の地域で守備をかため、アメリカ軍を迎撃しようという考えだった。そのため昭和十九年中期までに強力な防壁を完成するとした。御前会議で決定したもう一件「当面ノ措置」というのは、防壁完成に要する船舶、航空機の銅、アルミニウムなどの機材の目標数字を明文化したものであった。「陸海軍ハ十月上旬ニ於テ計二十五万総噸(九月徴傭分を含ム)ヲ増徴ス 九月以降ニ於ケル陸、海船舶ノ喪失ニ対シテハ計三万五千総噸以内ニ於テ翌月初頭ニ補填ス」――。さらに「今後ノ兵備」として、昭和十九年度において、陸海軍の所要機数を五万五千機にするとも決めた。東條はこの数字を天皇のまえで約束した。枢密院議長原嘉道の「政府として当面の四万機の努力目標を確実に引き受けられるか」という質問に、自信たっぷりに「非常なる決意でやります」と答えたのである。
だが実際はどうだろうか。このとき年間生産能力は一万七、八干機が限界だったから、相当に無理な数字だった。この根拠が曖昧だったのは、実は、上層部の顔色をうかがう下僚の思惑で安易に試算されたことで明らかになる。このときの御前会議では、四万機で絶対国防圏を死守できるのかという点も盛んに論じられた。すると軍令部総長永野修身は、「絶対確保の決意はあるが勝負は時の運でもある。独ソ戦の推移を見ても初期のとおりにはいっていない。今後どうなるか、戦局の前途を確言することはできない」と答えた。軍令部の自信のない態度に会議の空気は変わり、誰もがことばを失なった。それをふり払うように、東條が発言した。
「元来、帝国は自存自衛のためやむにやまれぬため起ったのである。帝国はドイツの存在の有無にかかわらず最後まで戦いぬかなければならない。戦局の如何を問わず戦争目的完遂の決意には変更はない」
しかしそれでも会議は沈んだままだった。開戦以来、本音である開戦目的を確認するような会議の空気にとまどいがあった。かつての東亜解放の盟主意識はどこかに飛んでいた。
「作戦上の要求から見るならば五万五千機を要する。しかし国力を賭してもできぬときはやむを得ないから機動力を利用して数の不足を補い、目的達成に努力することにしたい」
參謀総長杉山元がとりなして会議の空気はおさまった。東條の航空機四万機生産の約束だけが出席者の救いだった。
このころの航空機生産は、陸軍と海軍の対立のなかにあった。両者とも一日も早く、一機でも多く航空機を手に入れたいと、三菱飛行機や中島飛行機に予算を先に払ったり、相手の生産工程の工員をひきぬいたりの足のひっぱりあいをしていた。機種の選定も運用も陸海軍まちまちで、大量生産の組織も作業順序もできていなかった。
まず陸海軍で調整して、資材を適当に配分し工程を整えるのが必要だった。
「航空機、船舶だけを生産管理する組織、軍需省が必要だ」
それが機構組織を点検したうえでの東條の結論だった。陸軍と海軍の間では「軍需省に庇を貸して母屋をとられる」警戒心が働いたが、十一月一日を期して企画院、商工省、それに陸海軍の航空兵器総局を加えて軍需省をつくることにまとまった。東條は自身で軍需相に座って、航空機生産の陣頭指揮をとる心算だった。
軍需省設置をまえに、国民生活の一切は航空機増産、船舶増産態勢に向かった。「学徒戦時動員体制確立要綱」が本決まりとなり、学生は軍需工場へ勤労動員されることになった。しかし誇大な大本営発表とは別に、国民の意気も沈みはじめていた。内務省警保局の報告書は、経済活動不振や労働の強化で国民の間に拘束感が強まり、生活必需物資の不足、配給機構の不備でヤミ物価が横行して不満は高まっていると認めていた。労働者の間でも欠勤やサボタージュ、厭戦、反戦的な落書きや流言蜚語もふえて、その憎しみの対象に東條がいた。「東條のバカヤロー」「東條殺せ」という類の落書きも、公共の建造物に多くみられるようになった。
とはいえ、国民の多くは「頑張れ! 敵も必死だ」という標語のもとに、いまだ国家の方針に忠実だった。米英への憎悪をかきたてるため、生活のなかから西欧的なものを消すという国家の命令が忠実に守られていた。弁護士正木ひろしの個人雑誌『近きより』には、電車の中で医学書を読んでいた医学生が、「敵性のものを読むな」とその本をたたき落とされる挿話が紹介されている。〈見ざる、聞かざる、言わざる〉の閉鎖集団として、国民のエネルギーは歪んだまま内部に充満していたのだ。そしてこのエネルギーが、こんどは航空機生産に向かうことになったのである。
正木ひろしは、やはり『近きより』で、人間は感情の動物だから言論を統制しても感情を統制することはできない、と言った。たしかに日本の指導者たちは、言論だけでなく、感情も統制しようと躍起になっていた。だからつねに疑心暗鬼だった。
アメリカの日本向け放送の内容が、東條の机に届いたときの彼の態度は、そのいい例だった。意識的に反政府運動が大きく報じられていたが、これに東條は苛立ちを示し、「敵性情報では、日本にはわが同志がいるといっているではないか。足並みを乱す者は断固取り締まらねばならぬ。まったく内務省の手ぬるさには困ったものだ」と毒づいた。憲兵司令官加藤泊次郎を呼び、いっそうの取り締まりを命じた。
戦況の正確な情報、指導者の対応、それは国家の最大機密とされていた。統帥部と東條、嶋田の周囲にいる陸海軍の幕僚だけが、情報の中枢にいた。閣僚にも知らされなかった。閣僚は陸海軍の下僕でしかないからだ。むろん重臣にも情報は知らされない。開戦以来、二カ月にいちどの割合で重臣会議は開かれてはいても、ここで報告する陸海軍の幕僚はまるで新聞の焼き直していどのことを伝えるだけで、重臣たちに屈辱感を与えるだけだった。かつて米内光政首相の秘書官だった実松譲の証言では、米内は「どうして本当のことを教えないのか。われわれの発言を押さえるためにか」と憤慨していたという。
昭和十八年秋になると、重臣の間でひそひそ話がはじまった。息子や姪の婿が統帥部の中枢にいる岡田啓介が、その仲介者となった。彼は戦況が容易でないことを重臣たちに伝え、そのあとで「まったく自己反省のない男だからね、東條という男は」とつけ加えた。
この岡田の呼びかけに、米内、若槻礼次郎、広田弘毅が応じて、東條を呼び重臣たちで諫めようと招待状をだした。ところが当日、ひとりで来て欲しいという要請を無視して、東條は閣僚や将校をつれてやって来た。岡田は計画の失敗を知った。東條は、岡田の申し出の裏に反東條の動きがあるのを見ぬき、機先を制したのである。
しかし正確な情報を知らせろという重臣たちのこの呼びかけは、反東條運動の契機となった。近衛もこれに刺激されたのか、木戸幸一に書簡を送り、日本が敗戦の道を歩んでいるのは統制派幕僚が仕組んでいる革命計画のためだ、と断じ、東條こそその元兇だときめつけた。皇道派と関係の深い近衛にすれば、統制下のこの日本の現状は、まさに共産主義体制そのものだというのであった。しかも皇道派の荒木貞夫、真崎甚三郎、柳川平助、小畑敏四郎と近衛との接触が深まっているのを、この書簡は裏づけていた。
岡田や近衛のもとには、外務省長老弊原喜重郎の「現政府は英米撃滅など英米人を鬼畜のごとく思わせているが、こんな方針では和平になったら英米に対する政府の態度が急に変わり国民は納得しないだろう」という伝言を吉田茂が伝えてきたし、さらに吉田をつうじて岡田は、東久邇宮との接触もできた。
東久邇宮は、戦争指導、国民指導で東條に誤りがあると、その日記に書いているが、ここで歴史的一次資料としての、戦後公刊された『東久邇宮日記』の不明朗な部分を指摘しておく。
この日記には「東條の私設秘書若松華遙来る」という項がしばしばでてきて、いかにも若松某が歴史上の重要な役割を担ったかのようにみえる。しかし、若松が東條の秘書だった形跡はない。京都の染色家である彼は皇族に出入りしていたが、東條内閣が生まれるやその伝記を書きたいといって赤松貞雄のもとに来て、その後ときおり東條家に寄った。彼は東條とは二、三度、それも挨拶を交すだけの関係でしかなかったのだ。
その若松が『東久邇宮日記』の軸になっているが、これも上京のたびに赤松や東條家に寄って、東條のことを聞きだし、それを増幅させて東久邇宮に伝えたにすぎない。若松が語った内容は、ほとんどが東條の考えと反していて、単なる情報屋にすぎなかったのではないかというのが、東條家や東條側近たちの推測である。
岡田、近衛、広田、米内、東久邇宮、そして近衛に連なる皇道派将軍。反東條の動きはまだ点にすぎなかったが、いずれ面になることをうかがわせた。海軍内部の反陸軍感情は反東條として凝集し、対米英戦必敗論の幕僚が力を盛り返して和平交渉のプランを練るほどになった。議会でも翼賛政治会を指導する前田米蔵、大麻唯男の東條寄りの姿勢に、すこしずつ批判がではじめた。洩れてくる戦況の悪化がきっかけになっているのであった。
内大臣の木戸は、このころトルストイの『戦争と平和』を読み、戦争には国民の団結が必要だと改めて感じていた。ところが彼のもとにも、しきりに反東條の動きがはいってくる。彼は東條を代える必要はない、と岡田や近衛の動きを無視していた。結局、東條を更迭するには内大臣の協力が必要であり、いずれ彼のもとにすべての動きが集中するのを、彼は充分に知っていた。国民の団結のため、まだ東條の役割は大きいと考えていたのである。
重臣、外務省、海軍、議会の動きの断面は、東條の耳にもはいってきた。近衛の家を見張っている憲兵は、その動きを執拗に監視したし、重臣には護衛と称して監視役がついた。そこからの報告をきくたびに東條は焦り、何かと天皇の威を利用しようとはかった。天皇の行幸に自らが随行することを希望し、宮内大臣松平恒雄に拒まれると、「宮中の考えは現実に即していない」と怒った。いま天皇と東條の直結を妨害するのは、宮中の古い体質なのだ――そこにも東條は不満でならなかったのである。
中野正剛の自決
昭和十八年十月二十一日。この日、東條はふたつの感情を象徴的に示した。午前中、神宮外苑での学徒出陣式では、雨のなか演壇に立ち、大学旗を立てて行進する大学生を見て泣いた。そして午後、警視庁特高課が東方同志会、勤皇同志会の会員百数十名をクーデター計画未遂というでっちあげの容疑で逮捕したのを聞いて笑みを洩らした。このなかには東方同志会を主宰する衆議院議員中野正剛が含まれていたからだ。
中野正剛を、東條打倒を進めたとして国政変乱罪で検束したいというのが東條の希望だったが、該当する事実がないため流言蜚語で検束させたのである。
いまや東條には、中野は目障りだった。このまま野放しにすれば議会で何を言いだすかわからないと恐れた。二十六日からの第八十三帝国議会の開会前にその動きを封じたいと考えていた。しかし警視庁から届く報告は、中野の容疑はひとつとして固められないというのである。議会召集日の前日、二十五日の夜、東條は首相官邸に安藤紀三郎内相、岩村通世司法相、松阪広政検事総長、薄田美朝警視総監、四方諒二東京憲兵隊長を集め、中野正剛の処置を打ち合わせた。このとき、東條は戦時に準じて法解釈をすべきだと、松阪と薄田に詰めよった。
「警視庁からの報告ていどでは身柄を拘束して議会への出席を止めることはできない」
と松阪は拒み、薄田も同調した。そこで東條は四方に意見を求めると、四方はそくざに「私のほうでやりましょう」と応じた。それは議会に出席させないための罪状をつくりあげようという意味であった。そして二十六日早朝、中野の身柄は憲兵隊に移され、四方は腹心の大西和男に「二時間以内に自白させろ」と命じた。午前中に拘留手続きをとらなければ、中野の登院阻止ができないからだった。
大西と中野がどのような会話を交したのかは明らかでない。だがある憲兵隊関係者は、中野の子息を召集し最激戦地に送り込むと、大西が脅迫したという。妻、長男、次男の三人をこの三年の間に亡くしていた中野は驚き、それで憲兵隊の意に沿うような証言をしたとしている。中野と親しかった人物が、昭和五十二年に岐阜に住んでいる大西をさがしだし、脅迫的に証言を迫ったが、彼は震えるだけで決して詳細をもらさなかったという。
この日の夜、自宅に戻った中野は、隣室で大西ともうひとりの憲兵に監視されていたが、秘かに自決した。
この報は開会中の議会にも伝わった。原因は不明とされたが、あの豪気な中野が自決するには東條の圧力があったからだと噂した。噂はふくれあがり、東條が中野に向かって「不忠者」とどなりつけたとか、日本刀を渡して暗に自決を勧めたとか、ひそひそ話となって流れた。「東條という男は何をするかわからん」という恐れを露骨に口にだす者もあった。
代々木の中野家を訪れた議員は、わずか十人ていどだった。東條の報復を恐れたのだが、中野家の周囲は憲兵が埋めつくし、誰何したので途中で引き返した者も多かったのである。
中野自決は、東條にも驚きだった。政治的行動を封じこめようという思惑が裏目にでてしまったからだ。新聞記者や議員が、それとなく自決の背景を確かめる質問をすると、彼は不機嫌に「おまえは中野の味方をするのか」とどなった。議会に出席した東條は、笑顔も見せず、不愛想に答弁した。それがまた議員の反感を買った。「だれがあの男の首に鈴をつけることになるのか」、議員たちはつぶやいたが、議会のなかにそういう腰の座った者はいなかった。かわって噂話だけが飛んだ。東條の枕元に中野の幽霊がでたとか、東方同志会の会員が深夜の銀座に「米機討つべし。|英機《○○》討つべし」と張り紙したとか、そんな類の噂だった。
この議会の会期は三日間だが、東條は、連日参内して上奏した。十日後の大東亜会議の進行具合を天皇に伝えるというのであったが、その実、中野自決の真因を天皇に知らせないための防禦であると噂された。いかにも事実であると思わせる色づけが、この噂にはあった。
十一月に入った。一日に軍需省が発足し、東條は「企画院、商工省の業務は軍需省にひき継がれるが、生産行政には支障がないよう、いっそうの奮起を望む」と言った。三日、明治節のこの日、東條にとって晴れの舞台の序幕がはじまった。満州、国民政府、タイ、フィリッピン、ビルマ、自由インドの代表が、大東亜会議に出席するため東京に集まり、首相官邸でのパーティーに出席した。噴水、生け花、そして七カ国の国旗をめぐらした官邸の食堂に、国民政府汪精衛、満州国張景恵、フィリッピンのホセ・ラウレルが随員とともにはいってきた。そのたびに東條は彼らの手を握り、おたがいの紹介者になった。つづいてタイの王族ワンワイ・タイヤコン殿下、ビルマのバーモ首相が入ってきた。
東條にすれば、タイからはピブン首相に出席してもらいたかった。しかし健康上の理由で出席できないと通知があり、代ってワンワイ・タイヤコン殿下が出席したのだ。現地の日本軍からは、ピブンが訪日しないのは戦況が枢軸側に不利になっているからで、この期に国内を離れると立場が徴妙になるためと伝えてきた。だがそれを知らぬげに、東條は殿下と握手をした。
バーモはすこし遅れて食堂に入ったのだが、このパーティーの模様を、のちに自伝のなかにつぎのように書いた。「会合はきわめて感動的な雰囲気をつくり出していた。……東條首相は、にこやかで観察が鋭く、見せかけでなく会場の空気を支配しており、疲れを知らずわれわれを結びつけた。彼がこの歴史的瞬間と彼がそのなかで果たす役割について、十分自覚していることは明らかだった」――。
そして東條は、チャンドラ・ボースが入ってくると笑みを浮かべ、なんども握手をした。ボースは愛想よく、これは「ひとつの家族パーティーだ」と言って、大東亜共栄圏を讃えた。それが東側の笑みをさらに深くさせた。東側とボースの輪が、もっとも活気があった。
翌日の新聞はこのパーティーを大きく報じた。〈東亜各国を指導する帝国〉の像が国民の士気を高めるように配慮されていた。国民のカタルシスを刺激するこの記事は、情報局の命令によるものだった。
大東亜会議は、十一月五日、六日の二日間、帝国議会議事堂で開かれた。議長席に東條が座り、式の一切は日本側の手で進んだ。東條自身がもっとも得意の絶頂にあったのは、このときだったろう。首相退陣後、彼はこの大東亜会議をしきりに話したし、昭和二十年九月に自殺未遂を起こしたとき、彼の応接間にとびこんだMPの眼を最初に射たのは、このときの会議の写真である。
この会議の初めに、東條は、いつものかん高い声で、「英米のいう世界平和とは、すなわちアジアにおいての植民地搾取の永続化、それによる利己的秩序の維持にほかならない」と言い、日本はその解放者であり、独立を援助する救世主だと説いた。そこにはルーズベルトやチャーチルに向けての意味もあった。つづいて各国の指導者が演説した。ラウレルは「中国が速やかに統一され、三憶五千万のインド民衆がボース氏指導のもとに完全に独立し、再びイギリスの支配に帰するがごときことのないよう希望する」といい、ビルマのバーモも同意した。しかし ラウレルの演説のなかに、日本の軍部の占領行政を批判した部分があったが、それは、不思議なことに東條には訳されなかった。
翌六日、自由インド臨時政府を代表してボースが発言した。インド民族は、イギリス帝国主義に抗して自由を戦いとらねばならぬといったあと、「岡倉覚三(天心)および孫逸仙(孫文)の理想が実現に移されんことを希望する」と結んだ。雄弁に長けている彼は、この戦争を自国の独立運動、アジアの解放に結びつけ、日本の自存自衛の戦争だけではないぞと宣言したのである。
ボースの演説が終わると、東條は発言を求め、彼にしては珍しく芝居気たっぷりにメモを読んだ。「帝国政府はインド独立の第一段階として、もっか帝国軍占領中のインド領アンダマン諸島およびニコバル諸島を、近く自由インド臨時政府に隷属せしむるの用意ある旨を、本席上において|闡明《せんめい》する」――。ボースの表情が大仰に喜色にかわり、自由インド臨時政府の幹部たちと肩を抱きあった。それは彼のスケジュールが成功したことを物語っていた。来日するや、東條に、アンダマン、ニコバル諸島への自由インド臨時政府の進出を許可してほしいと訴えつづけ、それを受けいれた東條は、この日の午前中に連絡会議を開いて、急遽、ボースの申し出を受けいれることを決めたのである。国土をもたなかった自由インド臨時政府は、これによってはじめて自国の領土に足ががりをもつことになった。
六日の夜、大東亜会議が終わってのレセプションが大東亜会館で開かれた。宴会室の壁には、モザイクスタイルで大東亜共栄圏の地図が描かれ、日本の勢力範囲は赤タイルで浮きあがるようにできていた。美麗なモザイク模様に各国の代表者たちは感嘆の声をあげたが、しかし自国が日本の勢力範囲としてまるで属国のように扱われているその地図に、口にはださなかったが不愉快な思いをしたのは当然だった。大東亜会館支配人三神良三は、このレセプションに集まった各国の指導者たちが一様に浮かぬ表情でいるのに気づいた。日本の高官は微笑を浮かべて接待にあたっていたが、汪精衛も張景恵、ラウレル、バーモ、ワンワイ・タイヤコンも|憔悴《しようすい》しきった表情で、なにか思い悩んでいるように見えた。張景恵にいたっては、この会議を舐めきっているような態度であったと、三神は自著に書いている。
この会議のあと、東條の口からしばしばつぎのことばが洩れた。
「あらゆる機会をつうじて大東亜会議共同宣言を通達し、その具現をはからなければならない」
宣言というのは五項目から成っていた。「大東亜各国は協同して大東亜の安定を確保し道義に基く共存共栄の秩序を建設す」ではじまり、「大東亜各国は万邦との交誼を篤うし人種的差別を撤廃し普く文化を交流し進んで資源を開放し以て世界の進運に貢献す」で終わっていた。東條は執務室の机から、なんどもこの宣言を引っぱりだし、「歴史的文章だ」とつぶやいていたから、南方軍の一部で占領地行政に不手際があるという報告があると、大東亜省から人を送り宣言の実施をさえ督励した。
のちに巣鴨拘置所で綴った彼のメモには、占領地の不祥事や軍政批判は心外に耐えぬとして、大東亜会議の宣言の精神を反論の材料として指摘した。だがたとえ精神が高邁であろうと、現実が腐敗していればそれは精神の腐敗と考えられても仕方がなかった。
虚しい精神論への傾斜
大東亜会議で麗句に彩られた共同宣言を採択しているころ、アメリカ軍の反攻はいっそう激しくなっていた。アメリカは、タイやビルマ、フィリッピンを日本の傘下から引き離すためには日本を軍事力で圧倒する以外に途がないことを自覚していて、作戦活動は熾烈になるいっぽうだった。
このころアメリカ軍の潜水艦は集中的に日本の輸送船を狙い、空母機動部隊は中部太平洋を襲い、絶対国防圏の内部にも深く侵入するようになった。そして狙い定めた島には陸海空軍の総力で攻めこみ、その島を占領してはずみをつけては、つぎの島に攻撃をかけてきた。「飛び石作戦」あるいは「蛙飛び作戦」といわれるこの戦略に日本軍はふり回された。
十一月中旬、アメリカ軍はギルバート諸島のマキン、タワラなどに上陸した。マキンの日本軍守備兵七百名は、六千名のアメリカ軍と三日間の戦闘ののち全滅、タラワでは四千八百名の日本兵のうち十七名をのこして全滅した。アメリカ軍は、この年の初めにはこれらの島を攻撃する戦力をもっていなかったのに、このときには上陸作戦を行なうに充分な攻撃空母、戦車揚陸艇をもつほどになっていた。物量の差がしだいに顕わになったのである。
「航空機を、船を……」
という声が統帥部に満ちた。作戦の失敗を隠蔽するかのようにその声は高まった。
だが軍需省は設立されたばかりで、まだ充分な生産態勢をもっていなかった。それどころか仕事にとりかかる準備をやっと終えたにすぎなかった。軍需相に東條、軍需次官岸信介、総動員局長に椎名悦三郎が座り、付設された航空兵器総局には長官遠藤三郎、総務局長大西滝治郎が就き、さしあたり昭和十九年四月からの生産計画を練り直した。昭和十九年七月までに十八年九月の二・一倍の航空機生産、つまり月間三千八百機を目標とすることを決めた。
昭和十八年暮れ、東條は全国の軍需工場を見て回った。日曜日には軍需省に行って、宿直の職員が軍需工場との連絡に当たっているか否かを調べた。どこの工場も終日稼働していたが、工場長に細かい質問を浴びせメモをし、旅館に帰るとそれを整理した。例によって各工場の生産数字をそらんじてみせた。執務室の机に軍需工場の一覧表を貼り、作業がどのていど進んでいるか、それを見るのが日課になった。航空機生産はしだいにふえ、十一月には千七百八十二機だったのが、十二月には二千六十九機になった。さらに昭和十九年にはいると毎月二千五百機以上を生産することになり、目標の数字に近づいていった。
いっぽうで十八年から十九年にかけ、駆逐艦、潜水艦、輸送艦、上陸用舟艇輸送船の生産が飛躍的にふえた。生産工程が簡素化され能率は向上した。航空機も艦艇も完成するやすぐに前線に運ばれた。
人力と資源と時間が軍需生産に向けられた。その分、生活必需品の生産は極端に悪化し、国民の聖戦意識は鈍った。あえていうなら、国民のなかに、戦争とはこれほど苦しいものではなかったはずだという思いが沸いてきたのである。「東洋経済新報」論説委員石橋湛山はいみじくも、「……戦争に対する我が国民の認識は、日露戦争時代の儘に止った。彼等は只だ当局を信頼し、其の為す所に委せて置けば、やがて日本海の敵艦隊殲滅戦は再現し、大東亜戦争は容易に我が大勝利の下に終局するものと、容易に考えた」と書いたが、満州事変、日中戦争とつづく間に、戦火は自らの生活の周囲にこれほどの影響を与えるとは思わなかった。ドイツやアメリカでは軍需生産ばかりでなく、適当に贅沢品の生産をつづけて国民の消費意欲を満足させたが、日本の指導者は耐乏を訴えるだけで、ひたすら軍需生産のみに熱をいれた。だから熱がひとたび冷えると、抗戦意欲は急速に失なわれてしまうのであった。
とくに闇物資横行、不公正な配給が、抗戦意欲を減退させた。このころ庶民の間では、「長い事日本も戦争で疲れていて物の配給も思うようにこないし、値段もあがって生活も困難となり、日本は負けるに決まっている」という話が半ば公然と話された。軍需工場での仕事が辛く、生活が苦しくなればなるほど、東條と天皇を批判する風評が国民の間を歩きだした。それを押しとどめるものは何もなかった。
昭和十八年の暮れのある一日。首相官邸の食堂で赤松、広橋、鹿岡の三人の秘書官と東條の女婿古賀秀正が、東條を囲んでいた。陸大在学中の古賀が、まもなく卒業し近衛師団に戻るのを祝して、一夕食卓を囲み、軍人の心がまえを説いておこうというのであった。
東條は古賀を気にいっていた。長男、次男とも近眼で陸士を受けられなかったが、三男が陸士に入学して、やっと彼の気持もかなえられた。そして四人の娘のうち二女を、陸士十七期同斯生の三男古賀秀正に嫁がせていたのである。
「現状はあまりにも法令にしばられているように考えますが、これではいけないのではないでしょうか」
まだ二十八歳の古賀は遠慮もなく岳父に質問した。他人がたずねれば気色ばむ質問だったが、東條はそれを許容した。
「戦争を遂行している現在、いまの法令が不備だらけのことは判りきっている。たとえば空襲警報下の窃盗を現行法では死刑にできない。これは大きな欠陥だ。たぶん明治の先覚者は日本精神を承知しつつも、欧米法を採りいれたのだろう。帝国大学というのは、この法律を教えているだけにすぎん」
結局のところ、日本精神の継承者は陸軍だけというのであった。古賀が、天皇機関説を批判すると、東條もうなずき、つぎのように言った。
「憲法学者は憲法論を杓子定規にいうけれど、輔弼の責任とは簡にして明だ。よいことは天子様の御徳に帰すべきであり、悪いことはすべて大臣など輔弼者の責任になると考えるだけでいい」
むろん身内の会話だから、これをもって東條の政治感覚を判断することはできない。しかし東條がこのていどの雑駁な感覚であったことは記憶されていい。このとき東條は、天皇の赤子とはいえ国民のなかには不届きな者もいるといわれると、「お上が一億国民を視られること一視同仁である。悪い子供ほどかわいいものと思う。これを直すのが、日本の法律のいき方だ」とも答えた。
東條を囲んでの彼らの会話は、ほとんどがこうした核のない内容で、堂々めぐりをする虚しさをもっていた。こういう会話は、官邸の食堂だけで交されたのではない。それは閣議にも広がった。精神力ということばが閣僚たちの耳に快く響いていったのである。この年の標語「進め一億、火の玉だ」とか「一機でも多く飛行機を!」というスローガンを決定したときの指導者たちの気持も、東條が古賀や秘書官たちに洩らしている精神構造とまったく同じであった。
自由主義的評論家清沢洌の『暗黒日記』には、東條の演説は「恐ろしく抽象的である。『不撓不屈、努力と工夫を凝して、その責務を貫徹すべし』といった調子だ。これをまた東條が例の説教をやっている」とあり、東條の訓示に倦んでいる国民の気持が代弁されている。
昭和十九年にはいり、一月二十一日からはじまった議会での東條の施政演説は、つぎのような内容だった。これまでの施政演説にこもっていた戦況の自讃が消え、形容句だけが蟻の行列のようにつづいている。
「一人克く十人を斃さずんば已まざる皇軍将兵の前に、不逞にも、挑戦し来れる米英軍の前途たるや、正に暗澹たるものがあり、彼等を待つもの只最後の敗北のみであります。此の前線将兵の勇戦敢闘に呼応し、一億国民愈々奮起したのであります」「……大東亜戦争究極の勝利獲得の確信であります。申す迄もなく、戦争は、畢竟、意志と意志との戦いであります。……最後の勝利は、あくまでも、最後の勝利を固く信じて、闘志を持続したものに、帰するのであります。最後の勝敗の岐れ目は、真に紙一重であります」「斯くして、敵味方双方共、疲れに疲れ果てた末、必勝の信念に動揺を来し、闘志を一歩でも早く失った方が、参ると謂う過程を辿るべきは、当然予想せらるる所であります。此の点に於て世界に冠たる国体を有し絶対不敗の帝国に、敵対し来る国々こそ、洵に憐れむべきものであります。三千年来弥栄に栄えます皇室を戴く、大和民族の尽忠報国の精神力は、万邦無比であります。而して、自存自衛の為、已むに已まれずして起ち上った、此の大東亜戦争に於いて、此の力は何物をも、焼き尽さずんば止まざる勢をもって進んでいるのであります。危険が身近に迫れば迫るほど、困難が眼前に積めば積むほど、われら一億国民の精神力は熾烈となっているのであります」――。
これが施政演説なのだろうか。まるで皇国少年の気休めの愚痴みたいなものではないか。それでも議会では拍手が高く長くつづくのだ。そうなのだ。戦況が悪化し、国民の多くが死んでも、それは戦争に負けたことにはならない。目前の現実はすべて勝利の日までの過程にすぎないのである。〈戦争が悪化している〉というのは、そのことばを吐いた瞬間にのみ事実となるのだ。東條にとって帝国に敗戦ということばはなかった。意識と肉体が消滅するときまで目前の事実を認めないのだから、それはありえないことなのだ。
指導者の間に詭弁に似たこういう論理が支配した。目前の事実を認めた者は「非国民」のレッテルを貼られ、すぐに戦場か、監獄か、精神病院かに運ばれた。
詐術の参謀総長兼任
客観的にみれば、戦況は悪化し、すでに戦争の概念をはずれていた。
一月にはニューギニア方面のグンビ岬にアメリカ軍が上陸、二月にはいってからはクェゼリン、エニウェトク環礁が攻撃を受け、日本守備兵は全滅状態になった。マーシャル群島にもアメリカ軍の空襲ははじまった。アメリカ軍の目標が、トラック島であることは容易にうかがえた。だから「トラック島に海軍ははっきりした守備戦略を考えているだろうな」と、アメリカ軍の急襲をきくたびに東條はそのことを確かめた。
いってみればこの島は、日本の〈真珠湾〉だった。連合艦隊司令部がある絶対国防圏の要衝で前進基地だった。ここを失なうと戦略は根本から崩れる。トラック島守備は海軍の担当で、連合艦隊司令長官古賀峯一は、トラック島攻撃にそなえて、二月十五日にパラオに司令部を移した。海軍の第四艦隊、陸軍の第五十二師団が守っているだけだった。二月十七日早朝、アメリカ軍が母艦機による攻撃を加えてきた。十八日にはトラック島に集結している艦船が攻撃された。日本軍の指揮は混乱し、守備はあっけなく崩れ、艦艇(沈没九隻)、特殊艦船(沈没三隻)、輸送船(沈没三十四隻)、航空機(二百七十機大破)、死傷者(約六百名)という打撃を受けた。そしてトラック島への補給をつづけていた輸送船二隻が沈没、千百名の兵員が死亡した。わずか二日間の戦闘で、日本の被害は甚大なのに、アメリカ軍の艦船を一隻も撃沈することはできなかった。日米海軍の軍事力の差は歴然としていた。
二月十九日になって、被害の実相をつかんだ軍令部は、あまりの打撃に顔色を失なった。訓練を終えて第一線にでるばかりの六十機の航空機が全滅し、港内にいた艦船が沈没して、つぎの作戦が停滞してしまったのである。さらに追い打ちをかけるように、南支那海で五隻のタンカー沈没の報が入電してきた。シンガポールからの油槽船は、昭和十九年にはいってつぎつぎと沈められていたが、いちどに五隻というのは例がなかった。このころアメリカの戦略は、油槽船を撃沈させ、日本の存立の基盤をゆさぶろうと考えていた。潜水艦部隊はタンカーを意識的に狙っていたのである。
輸送船団の護衛艦艇が、日本では不足だった。南支那海の五隻のタンカーを護衛していたのも、わずか一艦だったが、この五隻沈没で国内の生産体制はガタガタになり、航空機生産ペースは一気に下落していった。
十八日夜になって、トラック島の守備隊壊滅の報告が、東條のもとにも伝えられた。東條は頭をかかえて考えこんだ。衝撃の大きさに身を震わせているのが、秘書官たちにも判った。
「すこし考えたいことがある。重要事でない限り、連絡はしてくれるな」
と言って、日本間の執務室に人った。いちどだけ赤松が呼ばれ、戦況を綴った参謀本部からの報告書をもってくるよう命じられた。東條は書類を繙き、読みふけっていた。二時間後、もういちど赤松が呼ばれた。机上の書類を整理するよう命じられたが、そのとき東條はつぎのように言った。
「おい赤松、陸相と参謀総長を兼ねる、これについておまえはどう思うか」
秘書官として仕えて以来、東條から意見を求められたことがなかったので、彼は緊張した。しかもその内容が軍令と軍政を兼ねるという、いわば憲法に抵触するような考えであり、山県有朋や桂太郎、寺内正毅さえも試みたことのない権力の掌握であった。
「重大事とも思いますが、ことここに至っては仕方がないのではありませんか」
「そうか、おまえもそう思うか」
東條は満足気にうなずいた。明治以来の慣例を壊すことに東條も恐怖感に駆られているのだと、赤松は思った。
官邸の居間に陸軍省の三人の幹部が集められた。富永恭次陸軍次官、佐藤賢了軍務局長、西浦進軍事課長。彼らにも東條の決意が伝えられ、そのために根回しを行なうよう命じられた。戦況の悪化は統帥の不手際であり、これでは政治が統帥にふり回されるだけではないか。航空機、船舶増産に励んでも、それをつぎつぎに失なうのはなぜか。こうした事態になった以上、国務と統帥の合体で危急をのりきらねばならぬのではないか。
「むろんこれは憲法公布以来の重大事である。だがこの状態はこうした処置でしかのりきれない。そこで自分の人格を、陸相としての東條英機と、参謀総長としての東條英機に区分し、誠意執務にとりくむつもりだ。そうすれば支障はないはずだ」
人格を二分する、それが東條が自らを納得させた論であった。この論に三人はうなずき、東條の命に添って政治、軍事の要職にある者を説得するために、官邸から散った。午後九時すぎのことである。
三人が説得活動にはいったころ、東條は、赤松、広橋、鹿岡、それに昭和十八年十一月に陸相秘書官に就いた井本熊男の四人の秘書に、改めて心がまえを説いていた。抵抗が強くなるから、側近から固めておこうというのである。
「米英相手の戦争だからなまやさしいものではないのは当然覚悟をしているが、わが足を斬らせて敵の生命を断つ、あるいはわが腹を斬らせて敵の生命を断つの覚悟が必要になってきた……。戦況がいよいよ苛烈になればなるほど、秘書官はいっそう沈着冷静にことにあたらなければならない」
「実は、今日のような戦況はもっと早くくるだろうと覚悟していました」
井本がそういい、鹿岡も言い添えた。実際、こうなっては政治と統帥を合体させる指導者がいなくては局面の打開はできないと、ふたりは考えていた。
「いよいよ艦隊決戦のときが来たように思われます。今の防衛線で敵をたたかなければならないと思います」
トラック島を失なえば、日本が不利な状態になるのを、秘書官たちも知っていた。
「いまの線で敵を叩きつけられればそれに越したことはないが、たとえいまの線を失なっても決してへこたれることはない」
東條は余裕を見せるかのように答え、鹿岡に、海軍省には鶴田海相の軍令部総長兼任の根回しをするように命じた。
秘書官に気持の一端を伝えたあと、東條は宮中に出向いて木戸幸一に、「トラック島への敵の攻撃作戦は、わが戦況の不利、同方面の配備の現状からみて容易ならざる事態と思います。一段と一億結集にたいする施策の必要を痛感いたします」と前置きして、自らの案を説明した。それはつぎのような内容だった。
統帥強化のため、杉山参謀総長の辞任を求め、自らがその職に就く。だが自分ひとりでは責任を果たせないので、参謀次長を二人置き、作戦担当と後方兵站担当に分ける。――「海軍には容喙できぬゆえ、陸軍のこの話を伝えるだけにとどめます。しかし軍令部総長が更迭され、海相が兼任されるのは結構なことだと考えます」
木戸の驚きにかまわず、東條はことばを足した。
「さらに新しい提案があります」
統帥部は常時宮中で執務し、統帥部の両総長も宮中で執務をとる。そして国政では賀屋大蔵、岩村司法、山崎農商、八田運輸の各大臣を更迭し、石渡荘太郎を大蔵、高橋三吉を司法、内田信也を農商、五島慶太を運輸に奏請したいといい、天皇親政の実をあげるために、今後も閣議は宮中で開く、という内容を伝えた。
これは三点とも憲法に触れる重要な問題だった。統帥部が宮中で執務するのは、東條にすれば天皇に詳しい内容を伝え安心させるということだが、当然、天皇の意が統帥部に反映する。〈君臨すれど統治せず〉の枠内に天皇を留めておきたいと考える木戸は、この提案に愕然とした。それだけではない。木戸には、東條が天皇の背後に隠れることで事態の責任を逃れようとしているようにも考えられたし、天皇の側近、内大臣や侍従武官長の職務をも奪いとってしまいかねないことも恐れた。まさに天皇を国務と統帥の実質的な地位にひきこもうとする〈宮廷革命〉と受けとめた。
木戸は東條の提案のうち、参謀総長兼任と内閣改造のみに限って了承し、そのほかは保留するとだけ答えた。翌十九日午前、木戸は天皇に会って、東條の申し出を伝えた。すると天皇は、参謀総長兼任は統帥権確立の憲法に触れぬかと質し、再考するよう命じた。木戸はこの言を東條にとりついだ。『木戸幸一日記』には「首相の心境は思召の点は充分考慮して居り、厳に此点は区分して取扱ふ旨、又、今日の戦争の段階は作戦に政治が追随するが如き形なれば、弊害はなしと信ずる旨話ありたし」とある。木戸は東條のこの言を天皇に伝えるが、天皇の疑念は晴れず、東條自身が直接上奏することになった。
午後二時、東條は天皇に上奏した。そのときどのような会話が交されたかは明らかではないが、東條は政治と統帥とを明確に区別して任にあたると述べたであろう。そして天皇は、結局は東條の提案に同意したと推測される。
天皇のお墨つきをもらったあと、東條とその側近の動きが激しくなった。
陸軍次官富永は杉山をたずね、東條の参謀総長兼任に同意されたいと申し出た。唐突の申し出に杉山は絶句し首をふり、建軍以来の伝統の破壊者になるのではないかと抵抗した。杉山の頑強な姿勢に、いちどは富永は退いたが、再び杉山を訪れ、こんどは三長官会議を開くことを提唱した。むろん富永は東條の意を受けていた。しかもこの間に三長官のひとり山田乙三教育総監を説得し、東條の参謀総長兼任を認めさせていた。三長官会議は二対一で杉山の意見が退けられることを意味した。杉山はむろんこの根回しを知らない。
東條の腹案は海相の嶋田にも伝えられた。すると嶋田は自らは辞任し、豊田副武、加藤隆義などを推してきた。これは東條の意に反することで、海軍も嶋田兼任でなければ均衡がとれぬと、東條は官邸に嶋田を呼び説得すると、東條の目くばせで動くといわれる嶋田は、結局、東條の説得を受けいれた。『木戸幸一日記』によれば、午後五時半、東條が嶋田海相は留任の線で決意するが、一日の猶予が欲しいといっていると伝えてきたとあり、さらに「杉山総長は承知せり、との連絡あり」とも記されている。そこで木戸は天皇にこの結果を上奏した。
ここで『木戸幸一日記』が正確であると仮定しよう。とすれば東條は、木戸に偽りの報告をしたことになる。杉山は富永に抵抗し、この段階では三長官会議も開かれていないからである。それなのに、なぜ偽りの報告をしたのか。木戸に報告することは天皇に伝えることでもある。天皇に偽りの報告をする……それは東條には恐懼の沙汰ではなかったか。
もし東條を弁護しようという眼でみれば、富永が東條に偽りの報告をしたとも考えられよう。だが午後七時からはじまった三長官会議の討論をみるなら、富永に責任を負わせることはできない。東條は半ば脅迫気味に杉山を説いているからだ。
「永年伝統の常則を破壊することになる」という杉山に、「逼迫する状況下ではしかたがない」と東條ははねつける。もし杉山を口説けないならば、天皇を欺いたことになる。それを恐れているからこそ説得は強引になったにちがいない。
三長官会議のやりとりは、参謀本部第一部長真田穣一郎が会議の終わったあと杉山から直接確認し、内部資料としてまとめている。そこから重要な個所を引用するならば、つぎのようになる。
「……ドイツの統帥もヒトラー総統の考えと統帥部の考えが一致しなかったためにスターリングラドで誤った。これを範にしてぜひとも考え直されたい」
「ヒトラー総統は兵卒出身、自分は大将である。一緒にされては困る。首相としても今日迄の政策には軍のことも充分考えてきている。その点はご心配ない」
「そう言うが、一人の人間が二つの仕事をするときに、どうしても相背馳することがあろう。いずれに力をいれるのか」
「いやその点はご心配ない」
「悪例を将来にのこす。これが前例になって、首相が総長を兼ねることも考えられるではないか」
「そんなことはない。自分は大将、参謀総長も現役の大将、その両者を兼ねる。現役以外のものにはできないではないか」
「そうはいかない。現役以外のものでも、法令を変えればできることにならぬか」
「末曾有のこの大戦争に、常道を変えてでも戦争に勝つ道があるならばやらねばならない」
「それはいけない。こんなことを君がやったら陸軍の中が治まりませぬぞ」
「そんなことはない。文句を言う者があれば、とりかえたらいい。文句は言わさない」
ふたりの会話は堂々めぐりをするだけだ。すると富永が口をはさんだ。
「それならば、総長御不同意で大臣が上奏したら、総長は単独上奏をなさるか」
杉山はうなずいた。しかしこれは、東條にとってはもっとも恐れている方法だった。杉山は諒解していると伝えている天皇への報告が覆えることになる。東條は必死につぎのように言った
「|陛下は私の心持をすでにご存知です《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|総長が単独上奏すれば《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|私は私の考えを覆さなければならない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。なんとかご同意を得られないか」(傍点保阪)
東條がここまで言うと、山田乙三が口をはさんだ。ここまで逼迫しているのだから、変則的ではあるが認めなければならないだろうと、東條を擁護したのだ。
杉山は孤立を自覚しなければならなかった。しかも天皇はすでに東條に同意を示しているかのような言い回しに、杉山はあっさりと自説をひっこめて、「戦時下の特例で今回限りの処置ということで同意しよう。陛下にもこの点を申し上げ、記録にもとどめおかれたい」と、辛うじてこの点だけを東條に約束させた。
このあと参謀総長室に戻った杉山は、次長秦彦三郎と真田穰一郎、有末精三、額田坦の三人の部長に経過を報告したが、真田は立場と信念を天皇に伝えたほうがいいといって、上奏案を届けることを杉山に勧めた。そして二十一日午前十時、真田の作成した上奏文をもって、杉山は天皇に会った。「洩れ承る所に依れば、苛烈な大戦下の特例として陛下既にこの趣旨を御許し賜るやの御内意の由なるも、事の重大にして軍は勿論のこと、……。今次限りの特例、非常の処置であって、決して常道でない旨≠明確にしていただきたい」
すると天皇は言っている。
「お前の心配の点は朕もそう思った。東條にもその点は確かめた。東條もその点は十分気をつけてやると申すから安心した。お前も言うとおり十分気をつけて非常の変則ではあるが、ひとつこれで立派にやっていくよう協力してくれ」
疲労困憊の国民
東條の参謀総長兼任には不明朗な動きがある。杉山が秦次長と三人の部長に三長官会議の経過を報告したとき、「東條陸相は本日(二十日)上奏する由である」と言い添えている。つまり杉山は、東條がこの日に〈参謀総長も同意した〉と天皇に伝えると思っていたのだ。ところが『木戸幸一日記』は、この日もつぎの日も東條の上奏を記していない。なぜか。上奏する必要はなかったのだ。十九日の夕刻、〈杉山諒解〉とすでに上奏していたからである。
疑問はもう一点ある。軍務局長佐藤賢了は、十八日夕方、官邸に呼ばれ東條から参謀総長兼任を聞かされ、軍内の主だった者に説得活動をはじめている。これは『秘書官日記』で明らかにされているが、一歩譲って佐藤も十九日には知っていただろう。富永はこの日、杉山を説得しているからだ。ところが不思議なことに、戦後の佐藤賢了の著作には、錯誤か恣意的にか、明らかに歪めている部分がいくつかある。さしずめ、つぎの個所はそうだ。
「二十一日朝、登庁すると富永次官があわただしく私を呼んで『大臣はえらいことをやったぞ。杉山さんを辞めさせて、自分で参謀総長を兼ねた。海軍も永野さんを辞めさせて嶋田海軍大臣が軍令部総長を兼ねるんだそうだ』といった。私も驚いて『ヘイ……』といったきり、しばらく言葉も出なかった。『次官も同意されたのですか』『いや、何も相談がないんだ。今朝、大臣に呼ばれて、こう決めたのだから、直ちに事務的手続きをとれといわれたんだ。これは大変なことで参謀本部では騒ぐかも知れないが、大切な時だから君も注意して善処してくれよ』。私は胸にぐっと応えるものがあった」(『佐藤賢了の証言』)
佐藤と富永は、いかにもこの(二十一日)にはじめて知ったように書かれているが、はたしてそうか。なぜ佐藤は十八日、十九日、二十日には知らなかったように書かなければならなかったのか。憲法の根幹にかかわることの大事は、東條を中心に富永、佐藤の間で緻密に計画が練られていたのを、この側近は戦後になっても忠実に隠蔽しつづけたというのはいいすぎだろうか。終生、東條に忠勤を誓った佐藤は、しかも、参謀総長兼任の契機がトラック島破滅だけでは弱いと思ったのか、さらに「マリアナ、カロリン放棄、比島決戦論」をもちだして、統帥部は比島決戦に抵抗するだろうから、統帥部の権限を握り、国務との一体化をはかろうとしたのだという。そして、この比島決戦論は、佐藤が東條に説いたもので、東條はそれを受けいれたというのだ。だが東條が比島決戦論者であった証拠はどこにものこされていない。不明朗な経過がここにある。
私の推測をいう。――東條の参謀総長兼任は虚偽と詐術に満ちたクーデターだったのだ。
二月二十一日、東條は参謀総長に就いた。
「人格を二分して考える。陸相が参謀総長を兼任するのではなく、東條英機が兼任しているのだ」
彼は就任にあたって、そのように自らを戒めた。はじめのうち、参謀本部に入るときは軍服に参謀肩章をつけ、陸軍省ではその肩章を外した。制度が人をつかうのではなく、人が制度をつかうのだとそのたびに言った。
初仕事はふたりの次長を命じることだった。秦彦三郎は留任、もうひとりの次長に中部軍司令官の後宮淳を就けた。東條と同期の陸士十七期生、それゆえ「情実人事」という批判が流れた。海軍もこれにならい、嶋田が軍令部総長を兼ね、次長は二人制で伊藤整一と新たに海軍航空本部長の塚原二四三が就任した。嶋田も伏見宮を後楯にして、永野修身の反対を押さえての兼任だった。だが海軍内部には国務と統帥の合体への反撥が強く、それは東條に盲従する嶋田への批判となって、三カ月後に具体的にあらわれてくるのである。
「統帥権の独立を犯す」「あれもこれも兼任して仕事ができるわけではない」「独裁熱に憑かれている」「東條幕府の時代だ」――東條を謗ることばは陸軍内部にも乱舞した。前線の司令官や師団長にはとくに評判が悪かった。統帥の事務化――作戦活動が政治に従属するのは耐えられないというのだ。これらの批判のなかには明らかに理不尽なものもあった。東條個人にたいする嫌悪の空気のなかで、それは一定の働きをもった。東條はそういう批判を気にした。それゆえにいっそう憲兵を批判封じに使った。彼はそういう方法でしか延命できぬと考えたのだ。陸軍省内部でさえ憲兵が闊歩したし、東條に諌言にきた代議士がその帰りに身柄を拘束されることさえあった。こうしたことで東條の不人気はいっそう広まった。
国民の間でも東條の評判が悪くなった。それは参謀総長兼任のためだけではない。戦況の悪化と航空機増産に伴う労働強化と日常生活に必要な消費物資の欠乏による生活の苦しさ、それに憲兵が国民の間に入りこみ威嚇と恫喝をくり返していることが、いっそう拍車をかけた。本来東條だけに向けられるべきではないのに、国民の不満は東條だけに向いた。巷間ではさまざまな噂話が語り継がれた。アメリカ製の五万円もするピアノを五十円で買ったとか、官邸では夕食は毎日肉を食べているとか、料亭で酒色にふけっているとか、根拠のない噂ではあったが、その広まりは厭戦気分に比例していた。
一月からは学徒勤労動員は年に四カ月が義務づけられた。三月になって大劇場、料亭が閉鎖となった。防空体制強化が叫ばれ、国民はそれぞれの持ち場で戦争協力を求められた。貯蓄が奨励された。十四歳から二十五歳までの未婚婦人も軍需工場に動員された。大政翼賛会傘下の隣り組制度が国のすみずみにまでいきわたり、相互監視はいっそう強まった。国家の意思に反する考えをもっている人物には、この国の制度は〈奴隷制度〉と変わりはなかった。
参謀総長を兼任したその日の連絡会議で、東條は、一月から統帥部が要求していた中部太平洋方面の防備強化のための船舶増徴を、国力とのからみで十万トンと決めている。そしていくぶん遠慮がちに、「今後は作戦行動を国力とのバランスで検討する」と発言し、この日から総長室に入りびたりで戦況の把握に努めるようになった。
その間にもアメリカ軍の攻撃はつづいていた。マーシャル群島クェゼリン島からも日本軍は追いだされ、日本軍の占領する島はアメリカ軍に切断された形になった。地図を広げながら、東條は負け惜しみを言うだけだった。
「物事は考えようで、敵の背後にわが基地があると考えればよい。機を見て両方から攻めればいい」
総長になってからまもなく、東條は、参謀本部の作戦計画が佐官クラスによって立案されていることを批判しはじめた。航空主力の戦争指導ではこのクラスがもっとも軍事知識をもっているのだが、東條にはそれが上級者の怠慢に映った。「上から方針を明示して、下の者はそれに応じて動くだけでいい」と参謀本部の部長たちに訓示し、太平洋方面の防衛線確保を至上命令とするよう作戦部長真田穰一郎に命じ、将校にもその腹案を検討させた。ここまでいって、今度は東條の軍事的能力が試される時がきた。つまりこれ以後の軍事作戦は、東條も責任を負わなければならなくなったからだ。
アメリカ軍の攻撃に休止はなかった。ラバウルは孤立し、ニューアイルランド島を含め十一万名もの兵隊が南東方面に釘づけになった。マッカーサーの指揮する米軍団の、ニューギニア海岸沿いの飛び石づたいの攻撃。ニミッツ艦隊によるマーシャル諸島への攻撃。その攻撃のまえに、日本軍の劣勢は事実に目をつぶらぬ限り誰の目にも明らかだった。三月下旬には内南洋パラオがアメリカ軍機動部隊の攻撃を受け、船舶三十隻、艦艇七隻、航空機二百機が撃破された。むろん大本営発表は日本軍の損害は軽微であり、アメリカ軍の被害を水増しして発表した。
東條は多忙であった。参謀総長として、南方統帥組織を一元化し、ニューギニア、フィリッピン作戦を南方軍総司令部が行ない、本土と切り離しても独自に作戦行動ができるようにという考えを土台に、「フィリッピンを最終絶対なる総決算地域とし、陸海同時同正面作戦、航空の徹底的集結運用による空陸総合決戦」を挑むという方針を決めた。絶対国防圏はもう完全に崩壊していた。
またその一方で、三月から四月にかけ陸軍は第三十一軍を編成し、連合艦隊司令長官の指揮下に入れてカロリン、マリアナ作戦の待機にはいるよう命じた。寺内寿一南方軍総司令官が、国家存亡の危機が迫っていると檄を飛ばしたが、実際そのとおりで、背水の陣をしいた作戦でもあった。東條が多忙だったのは、この作戦に熱中したからではない。相次ぐ航空機、船舶の損失を補うため、その増産にも軍需相として責任をもたなければならなかったからである。まるで〈東條ひとりの戦争〉ででもあるかのように、動かねばならなかった。作戦計画、航空機・船舶生産、国民監視、国内戦時体制整備、議会との折衝――彼の日程は分刻みであった。
航空機生産は、彼のもっとも気に懸るところで、時間をみつけては軍需工場を回った。二月に二千六十機、三月は二千七百十一機と、三千機に近づく航空機生産は国民のあらゆる能力、生活を犠牲にしているのだから、もう限界に達しているのは明らかだった。軍需工場に行くたびに無駄がないかを見て回り、たとえば突然、火力発電所を視察し、ボイラーの火が埋火してあると石炭が無駄だと怒鳴ったことさえあった。しかし工場幹部たちは、夜に火を落とすと翌朝ボイラーが冷えて、かえって多くの石炭をつかわねばならぬのに、いきなり怒鳴るというのはまるで無知な子供のようだと、東條を内心で軽蔑した。
軍需工場での演説には、「必勝の信念」「鍔ぜりあいの時期」といったことばが乱舞した。
「日本の特徴は三つある。皇室中心の忠勇兵、それに皇室中心の一億国民結集、皇室中心の家族制度隣傍共助であります」。そして、これがある限り日本は負けないと、彼は声をはりあげた。また軍需工場の重役には、これまでの会社機構はあまりにも欧米流すぎたから、今後は重役の頭を切りかえ、「家族共同体の心づもりで経営にあたれ」とも注文をつけた。
四月、五月になると国民の忍耐は限界に達した。航空機生産が大幅にダウンしたのだ。軍需省航空兵器総局がその実態を調査すると、原因は、学徒や徴用者が民間企業の社長や株主のために働くのは納得できない、軍人が監視し必要以上に恫喝する、熟練工の不足などにあることがわかった。兵器総局長官遠藤三郎が、民間会社を軍の工厰に改めるべきだと東條に申し出てきたが、制度や機構の問題ではなく日本精神の欠如、敗北主義者のためだと一蹴した。もう東條には、冷静な組織原理や合理的規範などは見えていなかった。
包囲される東條人脈
太平洋方面での戦況が思わしくないとき、すこしでも朗報をと捜していた東條が、もっとも期待をかけたのはビルマ方面軍のインパール進攻だった。東條が参謀総長になってまもなくこの作戦の開始を命じたが、本来なら彼のそういう態度は矛盾に満ちたものだった。この期に戦線を拡大しても補給の見とおしはないうえに、昭和十六年九月の対米英蘭戦争指導計画策定時にはインドに戦線は広げないとの諒解があった。東條自身、昭和十八年夏にはインパール作戦には反対していたのだ。
それがなぜ急に態度を変えたのか。そこに政治上の理由があった。チャンドラ・ボースヘの関心があったからだ。「あの愛国者に報いるのも日本の使命だろう」と、彼は秘書官に洩らしたし、作戦遂行にあたってビルマ方面軍司令官河辺正三に、「インド独立推進の後ろ盾を確立せんとするところにある」とも話しているのだ。彼はボースに振り回されていたのである。
三月上旬にインパール攻略作戦を始動した日本軍は、太平洋戦争の初期がそうであったように緒戦は華々しかった。三月下旬に東條はこの報を知り、喜色を浮かべ、大本営報道部長松村透逸を呼んで「これは重大ニュースだ。すぐ大本営発表しろ」と命じた。「我軍は……印度国民軍を支援し三月中旬国境を突破し印度国内に進入せり」は、この期の大本営発表ではただひとつ正確なものだった。ところが四月に入ると、日本軍は補給に悩み、制空権をもつ英印軍のまえに苦しい戦闘となった。とたんに大本営発表は消えた。
東條がインパール進攻に喜色を浮かべ、つぎに渋い表情にかわったことは、容易に参謀本部の将校から官民指導層の間に洩れていった。清沢洌の『暗黒日記』四月二十三日の頃には、つぎのように書いてある。
「インパール攻撃は、最初は秘密にし、……ところが国境突破の反響がよく、西アジアのほうからもそうしたニュースがあったというので、今後は東條自身が乗気になり、陣頭に立って宣伝を命令しているとか。知識をもたず、目前の現象で動いている、東條らしい話だ」
書斎にとじこもっている一評論家の耳にも、東條の焦りが入ってくるほど、世間には伝わっていたのだ。
反東條の声は高まっているが、その具体的な行動を起こす者は、昭和十九年初めにはまだなかった。東條の権勢に恐怖を覚えていたからだった。ところが四月ごろから、重臣の間に少しずつ動きがはじまった。岡田啓介、若槻礼次郎、米内光政、広田弘毅、平沼騏一郎、近衛文麿、阿部信行のうち、岡田と近衛がそれぞれの人脈のなかで動いた。このころ東條だけでなく、陸軍と東條政府の顧問的存在である徳富蘇峰への批判は許されない状況であったが、岡田と近衛の動きは、そのタブーを破る芽になるはずだった。
昭和十八年暮れに近衛の口添えで高松宮の〈情報役〉となった近衛の女婿で私設秘書の細川護貞が、先ず各方面の有識者と接触をはじめた。近衛は、天皇に実情を伝えるルートとして細川を高松宮の傍に置き、高松宮から天皇へ東條批判の報告を伝えようと考えたのである。彼自身も東久邇宮と会って、東條の指導力は失なわれたから退くべきだと同意させた。
細川はこうした近衛の意に沿って忠実に動いていた。戦後、彼が著わした『情報天皇に達せず』には、その辺の事情が充分に語られている。
この書によれば、逓信省工務局長の松前重義は日米の物量比較の数字をあげ、戦争の困難なことを細川にも伝えているし、陸軍内部からは戦術の専門家であり参謀本部の顧問でもある酒井鎬次が、「敗戦は必至だ。……最後の一兵まで戦うのは国家の滅亡だから、いまただちに降伏するがいい」といったことを伝えている。
細川の行脚は、しだいに池田成彬、小畑敏四郎にも及び、陸軍内部からも積極的に細川への通報があった。もっともそこには真偽とりまぜてのものがあり、東條がある少将に得意気に訓示をしているとか、ヒステリーを起こしてものを投げつけるとかいう類のものだった。しかし、たとえそれが偽りであっても、東條の周囲からそうした情報が洩れていくのは、東條の足元が揺らいでいる証しであった。加えて参謀総長兼任以来、海軍との間に摩擦が生まれ、航空機配分や海軍省詰め記者新名丈夫の召集などで対立が昂じていたから、東條の基盤は徐々にではあるが、なし崩しに弱まってきていたのである。細川の耳にははいっていないが、杉山元でさえ心を許した政治家や軍人にあからさまに不満を口にして歩いていた。
「戦局の挽回には自分が総長を兼務する以外にないから辞めてくれといわれた。私が断わると、それでは戦争の責任がとれぬので内閣を投げだすより仕方がないというし、私は倒閣の責任はとれぬのでやむを得ず辞職したのが真相だ」
これを聞いた内相湯沢三千男は、東條の二枚舌を知り反感をもった。外相重光葵でさえ、「高松宮殿下が時局を憂慮している」と説く細川のことばに、外相としての仕事に口をはさむ東條には、ほとほと愛想をつかしている、と答えたというのである。
このころ高松宮は天皇に会って、「東條では駄目だ」と上奏している。細川の書には「東條では駄目なることを御上に言上遊ばされたるも、代案があるかとの仰せに、柳川(平助)中将のことを申されたり」とあるが、天皇はこの上奏内容を木戸に打ち明けている。『木戸幸一日記』には、天皇から「高松宮より東條に代えて次は陸軍に柳川を起用せよとのことなりしも如何」と下問されたことが記述されているが、このとき木戸は、すぐに近衛に会って「かかる御下問は困る。誰が申したのだろうか」と注文をつけた。むろん木戸は、それが近衛から出ていることを知ってのうえである。木戸はまだ東條を擁護する立場にいたのだ。木戸は二年半まえに東條を推しているだけに微妙だった。彼は自らの立場を勘案しながら、しばらく情勢の推移を見守ろうと考えていた。
本来なら、東條は孤立感を味わわねばならなかった。
憲兵隊からの報告書には、近衛や岡田、その他の重臣の行動が詳しく綴られており、彼らはしばしば会って情報を交換しているといったことが書かれてあった。「護衛」という名目の監視では、話の内容までわからないのが苛立たしかった。会合のあとは、憲兵が出席者一人ひとりにあたって話をさぐる。熱心な憲兵は床下にもぐって話を聞いてくる。電話はむろん盗聴している。それでも正確な内容はなかなかつかめない。
いまや重臣たちの動きは、東條の敵愾心をかきたてるだけだった。〈天皇の信任がある以上は全権を委ねられていることだ。その委任受託者たる自分への反対は天皇に反対することであり、天皇への反逆である〉と信じこんでいる東條の闘志は、燃えあがる一方だった。孤立感など寸分も味わうことはなかった。
「この戦争を指導するのは自分しかいない。そのことに絶対の自信をもっている」
と、国務相大麻唯男や秘書官に話しているのも、その裏返しであった。いやそう思うことで自らの闘志をかきたてていたともいえるが、彼に実相を伝える側近や部下がいなかったことが、この闘志≠フ底にはあった。
五月に入っての一日、東條は陸軍大学の講演の帰りに、麹町にある女婿古賀秀正の家に寄った。運転手を待たせたまま家にあがった。二女との雑談のあと、墨と硯をもってくるように言って、わら半紙に「いまの心境だ」といって筆を走らせた。
此の道や ゆく人も那志 秋の暮
芭蕉の句だった。改めてそらんじてから、「此の道というのは人の道であり、芭蕉は秋深き道というのに託して、人の道を語ったのだろう」と彼は説明した。そしてこの句の隣りに、「人は無心にして道に合志 道は無心にして人に合す」と書いた。自身は無私の立場にいるのに、世間には中傷や策謀をつづける人物がいる。彼らこそ私欲のあらわれではないか、というのであった。
「世の中の、いや歴史の|毀誉褒貶《きよほうへん》を度外視しても大東亜戦争の完遂に全力をつくすつもりでいる」
東條はそういって起ちあがりかけたが、いっそう身体に気をつけてくださいという娘のことばに、彼はもういちど筆をとってつぎのように書いた。
迷ふては此の身に 使はれ
悟っては此の身を 使ふ
肉親の激励に、東條は改めて嬉しさを味わい、首相の座にあって戦争指導をつづける決心を固めたのである。もっとも娘には、この時の父親の表情には疲れがあり、これまでにない弱気な曇りがあるように見えたという。この時期、東條が微妙に変化しているのを肉親たちは見ぬいていたのである。
また東條の次妹の息子、山田玉哉は、陸軍省兵務局の将校として学徒動員を担当していたが、あるとき東條に官邸に呼びつけられ、いきなり殴打された。東條の末妹の家に遊びに行って、冗談にせよ女中の手を握ったことが許されぬというのである。些細なことである。こんなことで官邸にまで呼ばねばならぬのか、と山田は不満だった。しかしこのとき、山田は東條の目に 涙が浮かんでいるのを見た。孤独であり、なにかに不満をぶっつけたいのだと思って、彼は殴打に耐えたという。
孤独感が寂莫とした感情を生み、東條はそれを隠そうと思いつつも、身内には隠せないでいたのだ。
また東條は、軍需工場での演説では、たとえひとりであろうともわが道を行く、という演説を好んだ。が、一方で演説の枕詞に吉田松陰の「天人心一なれば百万の敵も恐れず」をつかったりした。だからその演説は聞く者に奇妙な印象を与えた。
精神論への傾斜はますます目立つようになり、明野飛行学校を視察した折りには、十五、六歳の少年にむかって「敵の飛行機を何で撃墜するか」とたずねた。それに少年たちは、機関銃で、高射砲で……と答えた。しかし東條は首をふりつづけた。それでは答にならないというのだ。ひとりの少年が「自分の気魄によって墜とします」と答えたとき、初めて東條の表情は笑みでいっぱいになった。それが正解だと言うのであった。
しかし、飛行学校の教官か下士官がこういう答に満足するのなら、それは美談になりえても、戦争を指導している最高責任者が、少年たちとこの時期にこのような会話を交しているのは、確かに国民を侮辱しているといえた。戦争への冷徹な眼をもち、その収拾に努めなければならぬとき、彼は己れの充足感を得るためにのみ時間を空費していたのだ。
また宮内省を訪れることでも時間は空費された。省内の一角では統帥部が執務する部屋の増築工事が進んでいたが、天皇の膝下で統帥の仕事を進めるという東條の願いが、しだいに現実になりつつあるのを確かめるためである。参謀本部と軍令部の作戦課だけでもここに移り、作戦計画の立案から実施まで一部始終を天皇にお目にかけて、安心してもらおうというのだ。
この時期、二つの大規模な作戦に着手していたが、ひとつは「一号」作戦で、日本本土爆撃阻止のため中国の桂林、柳州を日本軍の手中にするという目的で実施され、その成功とともに、新たに五月下旬からは「粤漢打通」作戦が開始されて、日本軍は中国内部に入っていた。
もうひとつは、天皇のまえで統帥部が研究しまとめた「あ号」作戦だった。マリアナ、西カロリンを含む中部太平洋方面、西部ニューギニア、フィリッピン南部などを決戦地区に選定し、ここに海軍決戦兵力を主体とする反撃作戦を展開し、敵に徹底的打撃を与え、その進攻企図を破砕する――という作戦だった。この作戦を採用するにあたり、東條は、マリアナ確保には自信があり、トラック諸島は軍事的に敵に利用されないようにすると天皇に約束した。
この「あ号」作戦の約束を守ることが、たとえ指導者間で孤立していても、天皇との信頼関係を不動とする紐帯になるはずだった。天皇の信任が崩れればそくざにこの職から離れると豪語する東條にとって、いま果たさなければならぬ約束は、とにかくこの作戦を成功させ、戦況をこれ以上悪化させないことだった。
ところが二つの作戦の推移を占うかのように、インパール進攻が停滞した。英印軍の反撃のまえに死傷者は増大し、戦場では軍司令官と師団長が対立して、復命と抗命と私怨がらみの相剋があり、一司令官の意地を賭けた愚劣な戦争に変質させていた。参謀次長秦彦三郎は現地に出向き、戦場を視察して作戦行動停止か続行かの分析をしたが、すでにこの作戦は成功の見込みがないと判断した。参謀本部の会議で、秦は、「作戦成功の公算低下しあり」と遠回しに報告した。作戦失敗のショックを東條に与えずに伝えようと、こうしたゆるい表現になったというが、その実、東條の機嫌を損じたくなかったのだ。ところがこれが東條の気に障った。
「どこでどのように成功の公算が少いというのか。何か悲観すべきことがあるのか」
東條は秦の報告に怒りをそのままあらわした。出席者たちはあきれた表情で一言も発せず、そのままこの会議は解散となった。
「この作戦の成功には政治的にも賭けていた期待が大きかっただけに、気に入らなかったのであろうか。……どんな含みで総長は言ったか知れぬが、みんなの前で次長を叱り飛ばす総長の態度は軽率である。怒りを顔にださず、ヌーボーと黙ってしまった秦次長はみんなの前でますます男をあげた」と、『大本営機密日誌』に参謀本部戦争指導班種村佐孝は書いている。会議の終わったあと、執務室で、「困ったことになった」と頭をかかえる東條を見る参謀本部の部員の眼は、必ずしも好意的ではなかった。
六月にはいると、インパール作戦の失敗はいっそう明らかになる。英印軍はさらに戦力を整え、日本軍に攻勢をかけてきたのに、日本軍は糧食の不足、疾病、弾薬の欠乏と、なにひとつ戦うべき条件をもっていなかったのである。ここでも兵隊は見捨てられつつあった。
統帥部の作戦室はできあがったが、東條の意図したような状態にはならなかった。参謀本部、軍令部の作戦担当参謀は、毎日午前中はこの作戦室に詰めたが、実際には業務が思うように進まないため、数日を経ずしてもとの状態に戻った。
確かに陸海軍の作戦担当者間の連絡はよくなったが、参謀本部、軍令部とも各部間の情報交換はかえってとどこおってしまった。しかも戦地から連絡に戻ってくる前線部隊の参謀は、あちこちで報告を行なわなければならず、業務は停滞するほうが多くなった。当時の作戦担当の参謀にいわせれば、数人が数日間この作戦室を使用しただけで、ここの席に座ることはなかったという。
そのほか、東條の命令でできあがった宮内省の執務室や控室は、まったく利用されなかった。〈天皇を御安心させる〉という東條の行動原理は、天皇と同じ屋根の下で執務することだという子どもじみた感覚を基にしていると、統帥部の参謀たちは心底では嗤っていたのである。
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舞台から消える日
「あ号」作戦の失敗
内大臣は天皇の私的な相談役で、とくに憲法上定められた権限はもっていない。明治十八年、伊藤博文が内閣制度をつくったときに、太政大臣三条実美の処遇を考えて用意した椅子である。もともとは天皇の疑問に答え、天皇へ上奏にくる輔弼者の取り継ぎを任とした。現実の政治に直接関与をしないのを建て前としていたのに、詔勅など宮廷の文書事務、天皇への奏請の窓口という位置にあったことからしだいにその力は拡大し、昭和十年代には天皇制を補完する重要なポストに変質していた。とくに元老西園寺公望が老齢で後継首班決定の主導権を手離すと、内大臣の司会のもとに首相経験者(重臣)を集めて重臣会議が開かれ、そこで後継首相を決定することが慣例となり、昭和十五年七月の第二次近衛内閣から二十年四月の鈴木貫太郎内閣の成立まで、この慣例はつづいた。
天皇機関説反対論者が、天皇をとりまく奸臣というとき、まっ先に鉾先を向けられるのが内大臣だった。木戸はそういう反対論者を、「天皇を機関みたいにして政治をやっているのだからいけない、天皇みずからが御親政になって号令をおかけになればいい、後醍醐天皇みたいにやればいいんだという頭なんだ」と一蹴していた。
東條が木戸をわずらわしく思い、その存在を秘書官にぐちるようになったのは、昭和十九年の五月から六月にかけてである。
「どうも木戸が伝える天子様のお考えは、実際に上奏したときに感じる内容と異なっているときがある。この期にはやはり天子様に直結しなければいけない」
天皇へ国政責任者の意思を正確に伝えるのが、内大臣の役目なのに、木戸はその役目をはたしていないというのであった。ここに及んで東條は、天皇親政を考えていたのである。実際のところ、東條は内心の腹だたしい思いを隠すことはできなかった。重臣、海軍、宮中の反東條一派が口うるさく中傷し、なにかと足を引っぱる。いつそれが天皇の耳にはいるかもしれないのだ。
「自分は辞めるわけにはいかぬ。陛下の御信任がある限り辞められぬ」
反東條一派の間で、東條の表情は青ざめ自殺しかねないとの噂がとんでいるという報告をきくと、彼は顔面を紅潮させてどなった。海軍省の教育局長高木惣吉を中心とする反東條グループは、東條の唱える宮中での統帥部合同執務案は、陸軍に海軍を吸収する国軍創設ではなかったのかと不安に思い、しかも嶋田が東條の意を受けて軍令部総長を兼任したことに怒りを増幅させ、米内光政、岡田啓介のふたりの重臣をつうじて嶋田に兼任を解くよう説得させた。そのたびに嶋田は東條を訪れ、苦衷を訴えた。「陛下の御信任がある以上、やめる必要はない」、東條はそういって嶋田を激励した。
だが、「御信任がある……」と考える東條の論理は、あまりにも自分につごうのいいものだった。天皇の信任を失なうということは、天皇から辞めるよう意思表示をされることだ。ところが天皇は「信任しないので辞めるように……」ということばは憲法上言えないし、これまで言ったこともない。つまり東條の弁では、終身総理大臣でいることも可能になる。
しかし東條自身には、そういった自覚はなかった。
彼の頭には、「辞めたい」と申し出ることは天皇の信任に叛く大権干犯だという素朴≠ネ意識しかなかったのだ。
天皇との直結を考える東條は、内大臣木戸幸一だけでなく、宮内省の官僚にも忿懣を洩らした。「なにもかも慣例の一点ばりだよ、宮内省の役人たちは。奴らが自分たちだけの天子様だと思っているのはまちがいだ」と、秘書官にぐちり、つぎのようにも言った。
「連絡会議だってそうだ。われわれは陛下の御膝下の統帥部であるから、内々にお気軽に御出席いただけるのが本当と考えている。ところが宮中では、やはりこれも行幸であって内大臣以下を従えられた行幸のかたちをとり、軍刀を帯し白手袋を用いられるやり方である」
皮肉なことに彼の憎悪の対象は、戦況の悪化に比例して天皇の側近にまで及んだ。彼の思いは天皇だけにそそがれた。かつて「君側の奸」排撃を唱った二・二六事件の青年将校たちが、権力者に抱いたような思考形態がそこにはあった。自らが権力者であるにもかかわらず彼の心情は維新前夜の草莽の士のそれにも似ていたのである。
木戸幸一は、昭和十九年五月の段階では反東條の側にはなかった。岡田や近衛が訴えてくるのは感情的すぎるうえ、とくべつの解決策もないから、上奏はしなかった。下手に動いて陸軍から敗戦主義者とか「君側の奸」といった謗りを受けることを彼は恐れていた。
ところが五月下旬から六月に入ると、木戸は近衛や西園寺公望の秘書だった原田熊雄に、東條への嫌悪を洩らすようになった。ちょうど東條が、木戸の発言が天皇の意思だろうかと疑いはじめたときである。細川護貞は彼の書に、「最近、木戸侯も、東條首相の言動に見兼ねて注意することあるも、その都度『夫れは御上の思召しなるや』と反問する有様にて『大分木戸も弱って来た様だ』とのことなりき」と書いた。たぶんふたりの間はかなり険悪になっていたのだろう。もし木戸が反東條に回れば、東條内閣の支持基盤は失なわれる。にもかかわらず、東條が木戸に抗するのは、天皇に〈木戸か自分か〉の択一を迫るつもりだったのかもしれない。
参謀本部総長室の壁に貼られた東亜の地図から、日本軍の占領地域が減っていった。二年半ほどまえ日本軍が快進撃した道は、いまや撤退と玉砕の道になっている。
五月から六月にかけてのアメリカ軍の攻撃を追うと、マリアナ諸島がつぎの目標になることは容易に想像できた。マリアナ諸島のうち、サイパン、テニアン、グァムは絶対国防圏の要衝で、そのために陸海軍共同で防衛態勢を布いていた。「あ号」作戦の準備を充分に整えたとして、とくに陸軍はサイパン防衛に自信をもっていた。
参謀本部の参謀たちは、サイパンに敵が上陸しても二、三カ月は維持できるから、その間に海軍が敵艦隊を撃滅すればいいと、軍令部の参謀に豪語した。だがサイパンの防衛の実態はそれほど強固だったわけでなく、防衛部隊は寄せ集め、しかもセメント不足のためにタコ壺を掘っただけ、大砲と砲弾も限られていた。陸地要塞は海軍艦艇よりも強いという神話にすがり、この防衛線を省部の幕僚は「東條ライン」と呼んで、不敗を信じようとしていたのである。
六月十一日、十二日、巡洋艦インディアナポリスを中心にしたアメリカの大艦隊――十三万名の上陸攻撃部隊、九百機の艦載機、六百隻を越す艦隊――が、サイパン、テニアン、グァムの日本軍飛行場を攻撃し、十三日、十四日には、サイパン沖合のアメリカ軍戦艦と巡洋艦、駆逐艦が大規模な攻撃をかけ、十五日には、海兵隊員二万名が上陸した。サイパンの日本軍守備隊三万名は、アメリカ軍の上陸作戦を七月以降と予測し、作戦準備を六月下旬に想定していたため統一した行動がとれず、地上での航空機のほとんどを失なった。
十七日、豊田副武連合艦隊司令長官は、小沢治三郎率いる機動部隊に「あ号」作戦の発動を命じた。「我が決戦兵力の大部を集中して……一挙に敵艦隊を撃滅して敵の反攻企図を挫折」させるのが目的だった。
小沢の機動部隊はサイパンヘ向かった。三隻の軽空母を中心とした輪型陣の前衛部隊が進み、その背後をそれぞれ三隻の空母を中心とする二群の輪型陣の主力部隊が進んだ。しかし、日本艦隊の東進はアメリカ軍の潜水艦に発見された。アメリカ軍は大機動艦隊を編成して、サイパン西方で小沢の部隊を待ち受けていた。
東京の大本営では、小沢提督の指揮する機動部隊の動向を注意深く見守っていた。東條も嶋田も、まもなくはじまる海戦が日本の命運を決するのを知っていた。日本の艦載機と地上機の同時攻撃で敵空母群を撃沈し、つづいて戦艦と巡洋艦が敵輸送船団とその支援軍艦をたたけば、サイパンの日本軍守備隊は上陸した敵軍を殲滅できるはずだった。
だがこの作戦に敗れたらどうなるのか。空母と航空兵力の損失だけでなく、サイパンが奪取されることは、中部太平洋の要が敵の手に渡ることになり、初期の「戦果」は一気に失なわれてしまう。とりわけ、アメリカの新しい長距離爆撃機B29の航空基地がサイパンを中心とするマリアナ諸島に設営されれば、日本本土は爆撃圏内に入ることになる。すでに六月十五日には中国の成都からB29約二十機が飛来し、北九州の工業地帯を襲った。被害はとるに足らず、その半数近くを撃墜、撃破したものの、この本土空襲が西日本全域の国民に与えた衝撃は大きかった。
「これぐらいのことは予期せねばならない。蚊がとまったようなもの、泥道で泥がはねたようなものだ」
と、東條は言い、内務省からの報告が誇大すぎると批判した。閣議での内相報告が過大なのも、現地の指揮官の総合判断ができていないからだと叱責した。
中国からのB29二十機の飛来でさえ心理的衝撃は大きいのだから、サイパンから本土爆撃が行なわれたら国民の動揺は大きく、それは日本の最終的な敗北につながると予測された。日本の指導者は、この冷厳な事実に思いをめぐらし、太平洋の一点に目を据えていた。
六月十九日朝、日本の艦隊とアメリカ軍艦隊が遭遇した。小沢提督は、第一次、第二次と三百四十機の攻撃機を出撃させた。先制攻撃で一気に結着をつける考えだった。ところが同じ日の朝、陸上航空部隊が米軍の執拗な攻撃を受け、グァム、トラックの航空部隊はすでに機能を 失なっていた。そのため「あ号」作戦の狙いである母艦航空部隊と陸上航空部隊が一体となっての航空決戦構想は、あっけなく崩れた。
日本軍は空母搭載機だけで戦わねばならなかった。
アメリカ軍には高性能のレーダーがあり、これが日本軍の攻撃機接近を捉えた。四百五十機の戦闘機が待ちかまえていた。日本軍の第一次攻撃隊は、この迎撃の網にかかり、辛うじてこれを突破した攻撃機も戦艦からの対空砲火を受け撃墜された。四分の一がやっと母艦に帰りついた。第二次攻撃隊はもっと惨めだった。伎倆未熟な搭乗員では遠距離攻撃が無理だったためもあるが、ほとんどがアメリカ軍の攻撃で撃墜された。
航空兵力だけでなく、空母翔鶴、大鳳は魚雷を打ちこまれ炎上した。不沈空母とされていた大鳳が魚雷一本で炎上を起こしたのは、海軍の首脳部には衝撃だった。空母瑞鶴に乗り移った小沢は、翌二十日に再び攻撃をかけようと戦力を点検したところ、艦載機が百機に減っているのに驚かされた。さらにこの日夕刻、アメリカ軍は日本の機動部隊に攻撃をかけ、空母干代田、瑞鶴の飛行甲板を破壊し、飛鷹を爆発炎上させた。豊田連合艦隊司令長官は、ここに至って全軍の撤退を命じたが、日本海軍は三隻しかない大型空母のうちの二隻と三百九十五機を越す艦載機、それに四百名近くのパイロットを失なっていた。アメリカ機動部隊に被害らしい被害を与えることができなかったばかりか、決戦まえには誰ひとりとして想像しなかったほどの惨敗であった。
六月二十日午後四時四十五分、大本営は「サイパン島付近十二日以降、本日までの戦果」を発表したが、それは撃沈(戦艦一、巡洋艦二)、撃破(空母四以上、戦二、巡四、輸六、未一)、撃墜(航空機三百機以上)という内容で、末尾に「我方船舶飛行機に相当被害」という語が小さくあった。そこには、日本軍がかなりの打撃を受けながらもアメリカ軍に甚大な被害を与えたというニュアンスがこもっており、この発表で見る限り、日本軍の負け戦は勝ち戦に変わっていた。大本営発表が虚偽と誇大の代名詞といわれるとき、もっとも顕著な例として語られるのはこの発表でもある。
大本営発表文は作戦行動の主軸側が原案をつくる。「あ号」作戦は海軍主導の作戦であったから、原案は軍令部で作成した。そして参謀本部に回した。このとき参謀本部の部員の多くは、この作戦結果をそのまま発表すべきだと言った。しかし、だからといって彼らが国民に真相を伝えようとしたわけではない。海軍主導の作戦が失敗することに業をにやした参謀本部の部員が、腹いせに真相の公表を主張したのである。
東條は、参謀本部の部員たちを押さえた。彼はつぎのような論理を説いた。
「この作戦は軍令部の作戦といっても連合艦隊が中心になった作戦で、こちらから発表内容に口をはさむことはできない。海軍はミッドウェー以来の敗戦で気の毒だ。彼らの言うとおりにしたらいいだろう」
東條としては、海軍に貸しをつくった心算だったのだ。いまや面子が彼らの行動原理だった。
ドイツ敗戦濃厚
「あ号」作戦の挫折は、海軍首脳を困惑させた。あわてて開いた首脳会議では、本土爆撃阻止 という至上目的のためサイパン奪回作戦を行なうべきだという点で、嶋田や海軍次官沢本頼雄、軍令部次長伊藤整一の意見は一致した。が、軍令部の作戦参謀は、母艦航空機の損害が大きいことを理由に作戦中止を求めた。六月二十三、二十四日の二日間、陸海軍統帥部の意見調整を行なったが、二個師団の増援部隊を送りサイパンの確保を図ろうと主張した東條の意見は、十日間の制空権を必要とし、空母と航空機を失なって現状では目途がたたないという意見であきらめなければならなかった。ここに日本はサイパンを放棄することになった。
東條と嶋田は天皇に拝謁し、この結論を上奏した。天皇はこれを裁可せず、判断を保留し、戦争がはじまって以来はじめての元帥会議を開くよう命じた。しかし伏見宮、梨本宮、永野修身、杉山元の各元帥が集まって協議をしても、事態を憂慮するだけで建設的な示唆などできようはずがなく、サイパン失陥は避けられぬという両総長の上奏はやむを得ないと天皇に伝えた。
天皇の焦慮は東條を混乱させた。『近衛日記』の七月二十四日には、木戸幸一と近衛の話し合いの内容が記述されているが、木戸は近衛に、連合艦隊が潰滅的な打撃を受けたといったあと、つぎのように語ったというのである。
「赤松貞雄(首相秘書官)が松平(康昌内大臣秘書官長)の処へ昨日か一昨日かに来て『首相は適当の人があったらやめたい肚だ』と言ったから、松平は『やめるやめないより、四役の荷を軽くしたらどうだ』と言ってやったそうだ。ところがその翌日東條が自分の処に来て、常とは違い酷くしょげて何も言わず一時間余いたが、結局不得要領のままで帰った」――
たしかに東條は自失のなかにいた。しかし彼は内心では辞める心算はなかった。赤松がそれとなく木戸の周辺を打診した結果をきき、さらにその感を強くした。たとえ東條がその職を離れても、次期首班の具体的な人選も戦争への対処も、木戸はまだ考えていないと判断したからである。「なに、まだまだ負けるもんか」、東條は秘書官たちに洩らしている。
「マリアナ諸島の戦況は、天がわれわれ日本人に与えてくれた啓示である。まだ本気にならぬか、真剣にならぬかといっているのだ。日本人が真剣にがんばらないと、もっともっと天の啓示があるだろう」
そして願望ともつかぬ口調でつぶやいた。
「日本人は最後の場面に追いつめられると、何くそと驚異的な頑張りをだすことを私は信じて疑わない。真にわが底力をだすのは今である。壁にいやというほど頭をぶつけて、壁があるのがわかるようでは困る」
彼の意気込みは昂まるいっぽうだったが、指導者がこういう言を吐くのは現実逃避でしかなかった。特攻隊を生みだす精神構造はこうした考えからはじまった。
指導者層の間にサイパン失陥はすぐに知れわたった。近衛、東久邇宮、高松宮のもとには陸軍内部の中堅幕僚が秘かに訪れ、戦争に勝つ可能性がないこと、東條を更迭させねばならぬことを訴えていった。かつて日本軍がシンガポールやマニラを陥落させたときは歓声をあげたのに、いま自らの都市が戦火にさらされると途端に臆病になるのは、東條のいう意味とはちがう意味で卑劣であった。
岡田啓介は重臣のなかでももっとも反東條だった。彼はとき折り重臣会議に出席する東條の怒声に愛想をつかしていた。それに彼は恵まれた情報源をもっていた。長男、義理の甥、女婿が、統帥部や企画院にいたので、戦況悪化の報告は彼に直接流れてきた。典型的な海軍軍人の彼は、嶋田が東條のいうままに軍政と軍令を兼任しているのを、ことのほか怒っていたので、六月にはいってからの彼の行動は精力的だった。米内光政、末次信正のふたりの海軍大将、伏見宮、高松宮、木戸幸一と会い、軍令と軍政は切り離すべきであり、評判の悪い嶋田をとりかえなければならないと説いた。そして米内を海軍大臣に、末次を軍令部総長に、とつけ加えた。
木戸はこれを東條の耳に入れておいたほうがよいと考えた。そこで赤松貞雄を呼び、嶋田の評判が悪いから更迭するよう東條に伝えよと命じたが、赤松の報告を受けると、東條はそれを一蹴した。そこで岡田は、マリアナ海域の作戦が進んでいるころ、つまり六月十六日に嶋田をたずね、軍令と軍政の兼任を解き、米内、末次を現役復帰させてはどうかと進言した。いまや東條しか頼れない嶋田はすぐに首相官邸に飛んでいったが、東條はこれを拒否するよう命じた。
こうして六月上旬から中旬にかけての岡田の反東條策動は失敗に終わった。岡田と気脈をつうじていた海軍軍人の失望は深く、東條暗殺を企図し、民間右翼と接する者もあった。
このころ東條暗殺の噂は至るところできかれた。近衛でさえ、白樺派の作家山本有三に東條暗殺をほのめかしていたが、こうした噂が一人歩きをはじめると、しだいに反東條を口にするのをはばかる空気は薄れていった。
憲兵隊からの情報も、以前ほどスムースに東條には入らなくなった。当時、東京憲兵隊特高課長だった大谷敬二郎によれば、憲兵隊のなかにも反東條感情があり、消極的なサボタージュがあったと指摘している。もっとも、暗殺の気配がありそうだという噂は東條の耳にもはいっていた。陸相秘書官井本熊男は、東條の寝室の隣りで、拳銃を枕元に軍服姿で寝た。刺客が乱入すれば応射する手筈になっていた。
サイパン失陥を耳にした岡田啓介は、海軍省教育局長高木惣吉と謀って、嶋田更迭運動を再び進めることにした。高木は海軍省幹部のなかで、露骨に東條に反旗を翻している幕僚だった。彼は、反東條、反嶋田を直接掲げないで「サイパン奪回」を大義名分とすることを考えつき、六月二十一日から二十二日にかけて、高松宮、鈴木貫太郎、米内光政を説いて歩いた,呼応して岡田も、鈴木、高松宮、伏見宮と意見をかわし、二十五日には木戸をたずねて嶋田更迭を説き、伏見宮が天皇に拝謁できるようとりはからって欲しいと頼んだ。嶋田の熱心な支持者である伏見宮に、天皇のまえで反嶋田を語らせようという狙いだった。
しかし木戸は、それを拒否した。
ところがサイパン奪回が無理というほどの戦況悪化は、岡田、高木が考えていた以上に海軍内部に反嶋田感情を生んだ。戦況悪化の不満がいけにえ≠求めているのであったが、それに嶋田が選ばれたのである。
「事態を放置するわけにいかぬ。この期に及んで足をひっぱるなどもってのほかだ」
岡田の動きを封じようと、東條は、陸軍次官富永恭次、参謀次長の秦彦三郎と後宮淳、軍務局長佐藤賢了を集めて対策を考えた。東條の胸中は、これ以上、彼をのさばらせてはおけぬというのであった。このときも東條の意を忠実に代弁する佐藤が、岡田を拘禁してしまえと言った。しかし東條はこれを採用しなかった。岡田をはじめ倒閣運動を進めている者への憎悪はあったが、下手に手出しをすればそのはね返りが大きいのを、彼は警戒していた。中野正剛の自決とその波紋は、彼には教訓となっていたのだ。
結局、岡田を呼んで警告を与えることにした。岡田を助力する高木には、海軍側から脅しをかけさせ、動きを封じようと考えた。六月二十七日の朝、赤松が岡田をたずね、首相に会って陳謝し、今後は自重して策動と思われるような行動を慎しむ旨をはっきり述べて欲しいと求めた。岡田はうなずいた、と赤松は言う。そのあと、赤松は沢本海軍次官をたずねて、岡田と東條が和解することになろうとの見とおしを述べた。岡田の動きを批判的にみていた沢本は、そのことを歓迎すると言った。
この日午後、岡田は東條に会いに来た。いくつかの不明朗な動きに岡田は遠回しに謝まった。しかし岡田は、海軍部内で嶋田の評判は悪く、部内掌握もできていないと海相交代を要求することは忘れなかった。岡田はその回想録で、「果たしあいにのぞむような気持だった」と言っている。東條は岡田の申し出を、この期に政変があっては国家のためによろしくないと拒み、つぎに睨み据えて言った。
「現今、注意すべきは反戦策動である。ひとつは近衛公を中心とする平和運動、二番目は某々らの赤組、三は各種の倒閣運動で、閣下はこれらのものに利用されているのを承知されたい」
そのあとに、つぎのようにつけ加えた。
「おつつしみにならないとお困りになるような結果を招きますよ」
まさに脅しだった。のちに岡田は、回顧録のなかで、このとき暴力的な脅威を感じたと告白している。
東條のいう「某々らの赤組」というのは、石原莞爾と東亜連盟の動きをさしていて、この人脈と岡田との接触を東條は恐れていたのである。もっとも東條は気づいていないが、六月にはいってまもなく、参謀本部に転勤してきた石原莞爾に私淑している中佐の津野田知重は、これ以上は東條暗殺以外にないと考えて、同志の間を動きつつあった。
さて岡田は、後日、平沼騏一郎と近衛をたずね、東條との会談の様子を伝えている。平沼は、東條は国民の怨みを買っている、天皇の聖断がおりてもいい時期だといい、岡田もそれに同調し、近衛が木戸にそれをうまく伝えて欲しいと頼みこんだ。近衛は岡田を帰したあと、彼にしては珍らしく、どのようにこの事態をのりきるかを考え、木戸あてに自らの考えをまとめ提出した。その前文には、「敗戦必至なりとは陸海軍当局の斉しく到達せる結論にして、只今日はこれを公言する勇気なしという現状なり」とあった。
東條はこうした動きに拘らず、表面的には意気軒昂を装った。岡田と会った翌日に、駐日ドイツ大使スターマーが、戦況の見通しを聞くため官邸をたずねてきた。アメリカはサイパンの戦況で重大な事実を伏せている、それは戦場地域と基地とが離れているのを隠していることだと、東條は強がりを言い、「つまりアメリカの基地と基地の間に、わが基地が残存しているのが現状なのだ。米英は宣伝がうまいので弱点を隠して発表しているが、この点を抜きにして判断すると見誤る」と結論を語った。冷めた現実主義者といわれるスターマーは、この東條の言に相槌を打って帰っていったという。
この時期、ドイツの敗戦は事態を見抜く者には既定のことだった。東部戦線はソ連軍の反撃で敗走をつづけ、西部戦線でも手ひどい攻撃を受けていた。前年十二月のカイロ会談、つづいてのテヘラン会談でスターリンの意向がいれられ、第二戦線が決定していたが、いまそれが効力をあらわしていた。六月四日、ローマから、アメリカ軍とイタリア国民とによる攻撃でドイツ軍が追われた。六日にはノルマンディに連合軍が上陸し、挟撃態勢は一段と固まった。ドイツ国民の厭戦感情は頂点に達し、軍人、政治家、実業家、地下に潜っている社会党、共産党の連携で、ヒトラー暗殺が計画されるほどになった。すでにヒトラーは絶望的で、自己破滅におちいる寸前だった。彼には民族や歴史への展望はなかった。
しかし愚かにも、日本はまだこういうドイツを信じて、ドイツはまもなく新兵器を開発し、それで戦況を一変させるという神話にしがみついていた。
状況に絶望しているヒトラーとちがって、東條は精神論に救いを求め、いつか何かとてつもない力が働き、戦況を挽回することができると信じていた。それが天皇へ忠誠を誓う日本人の底力だというのである。東條のそれは指導者には不要な願望だった。
反東條の動きが線から面になったのは、七月六日からである。この日、翼賛政治会の代議士会が開かれた。前日のサイパン玉砕が口から口ヘと広がり、代議士たちの感情は興奮気味だった。議会を東條の意を受けて動かしている前田米蔵、大麻唯男も、若手の代議士たちの反東條の火を消すことはできず、遠回しに東條を批判する決議文を認めなければならなかった。むしろこの代議士会で東條擁護の弁を吐く者は、野次のなかで立ち往生する有様で、あまつさえ血気盛んな若手代議士たちは、血判状を回して反東條の意思統一さえした。
この様子は東條への協力者津雲国利、三好英之らによって星野書記官長に伝えられ、東條の耳にもはいった。「代議士風情が何を言うか」と東條は怒り、憲兵隊は、反東條の発言をした代議士を瞬時をおかず呼び威嚇した。代議士の側も憲兵隊があまりにも事情に精通しているのに驚き、議会内部に通報者がいるのを知り、東條への怨嗟はさらに深まった。
若手代議士の血判状は秘かに木戸のもとに届けられたが、その木戸は、重光葵外相と終戦の方向をどう模索するかを話し合っていた。さらに築地のレストランでは、海軍省の高木惣吉が国務相の岸信介と会っていた。この段階では、岸はまだ東條を担いでいて、東條内閣の改造を高木にもちかけたが、高木はそれにのらなかった。
いまや誰もが、反東條の方向を模索しはじめていた。とくに木戸は、集めた情報のほとんどが反東條関係であることに驚き、彼自身もその一派につらなることを明言しなければならぬと考えた。高松宮邸で夕食を共にし、改めて天皇への輔弼の責任の重さを語りあった。また彼のもとに、重臣そろって上奏する機会を与えて欲しいという近衛の伝言が入ると、「東條に辞職を勧告するのは賛成だが、適当な時期を待っている」と答えた。彼は政治学者矢部貞治にも会った。内閣更迭のさまざまなケースと憲法の関係を確かめようというのであったが、結局、内大臣の上奏による政治転換は宮中クーデターにつながり、国内事情の逼迫か東條の自発的な退陣しか更迭の途はないと、矢部は洩らした。
木戸は重光、岸、そして安藤紀三郎内相ら東條内閣の閣僚とも秘かに会って意見交換したが、効果的な施策がないことに苛立たざるをえなかった。
東條は反東條グループがしだいに広がり、自らの足元に及んでいることに焦った。神経質に人と接し、自らの意に添わぬ意見には露骨に不快な表情をした。それがまた敵をふやす原因だった。たとえば陸海軍の大将会のメンバー、南次郎、荒木貞夫、松井石根、末次信正、米内光政らが「サイパン奪回」を決議して東條と嶋田のもとを訪ねてきたが、東條は「承っておきましょう」と言うだけで追い払った。政治指導の第一線にあるわけでもないのによけいなことを言うな、という態度がありありで、彼らは憤慨し、いっそう東條から離反した。
閣議でも安藤は、首相の考えはすべて楽観的すぎると決めつけ、東條と口論まがいの議論が行なわれるほどになった。
東條は官邸に富永、佐藤、赤松、それに後宮、秦を集め、陸軍の態度を確認した。「奴らの動きは敗戦に追いこむものだ。サイパン陥落ぐらいで敗戦主義者になって……」とか「開戦時の首相の更迭は敗戦を想定したことになる」という意見が彼らの考えだった。佐藤と富永が、反東條に熱心に動いている重臣を各個撃破して威圧をかけることになり、重臣の家を訪ねて釘をさした。
「東條を倒せば敗戦につながり、そうなれば敗戦の責任はあげてあなたがたにある」
だがこれは逆効果だった。岡田も近衛もますます反東條の感情をもった。
東條もまた。陸軍出身の重臣阿部信行を官邸に呼び、頭を下げた。
「反政府的動きが重臣の間で活発だという情報がありますが、これは敗戦につながると思われます。ぜひ閣下の力で押さえるようにしてください」
ところがこれまで東條の意見に背いたことのなかった阿部がうなずかなかった。むしろ海軍内部では〈嶋田更迭〉の声が強いことを示唆した。翼賛政治会の代議士たちの声も、阿部は説明しはじめた。東條は阿部の説明を聞き流したが、自在に扱っていた阿部からの弁だけに衝撃は大きかった。阿部を帰したあと、彼はひとりで考え込み、〈陸海軍が一体となって戦況を打開し、さらに国民の協力を求めるため天皇の勅語を奏請する〉という結論をひきだした。
七月十二日、東條は反東條運動を抑えるための陸海軍首脳会談を提唱し、陸軍側から東條と後宮、海軍側から嶋田と塚原二四三の四人が集まった。しかし米内、末次、岡田から圧力を受け、軍令部内の中堅幕僚からも辞職勧告を受けている嶋田は弱気で、そのため東條は、ここでひき下ってはバドリオ政府の出現を許すことになると説いた。それでまた嶋田は気を奮い立たせた。
どうにか嶋田を説得したあと、東條は重光外相を呼んで強力内閣をつくりたいと伝え、大東亜相を兼任してもらいたいと要請した。これが重光には魅力あるポストだと思っていたのである。ところが重光は、それには答えず政局への私見を述べ、諸政一新をはかり民心掌握に力を入れるべきだと答えた。
東條には意外な意見だった。いまや彼の意見にうなずく者はなく、回りくどいことばをつかっているとはいえ、要は協力できぬといっているのだ。包囲されつつあるのが明らかだった。この夜、東條は抜本的な対策でこの事態をのりきらねばならぬと、執務室で考えた。彼の周囲に、彼の政策に助言を与える有能な士はいなかった。彼はひとりで悩み、そのあげくに辿りついた結論は、大幅な譲歩を示す案だった。そうしなければ彼の内閣が延命しないことを知ったのである。
彼の案は五項目から成っていた。「陸海軍の真の協力一致」では陸海軍の同一場所での執務を唱い、「大本営の強化」は構成員に両総長、両大臣、外相、そして新たに入閣させる国務大臣二名を加え、大本営の意向に内閣も従うとした。〈内閣改造〉では軍需相を更迭し、米内光政、阿部信行の総理級の国務大臣二名を入閣させ、〈閣議の刷新〉は、今後は閣議も国策審議の場とするように変えるというのである。軍令への干渉を防ぐとして、閣僚は戦争の真相を知らされていず、東條に命じられた業務を消化するだけだったのだ。〈重臣の取り扱い〉は、参議制の運用を考えるというのである。つまりもっと彼らの意見に耳を傾けるというのである。
この五つの政策は、一見、筋がとおっているようで、しかし矛盾にみちていた。大本営の構成員を変更するには法的な手続きが必要だし、その大本営が政策決定するというのでは事実上の戒厳令と同じ状態になる。しかも大本営を国家の最高機関に据えるといいながら、閣議を国策審議の場とするよう変えるというのでは、論理に一貫性はなかった。すべてを小手先で処理しようというのがこの案だったが、実は、これらの項目に重要な問題が含まれていることが、のちに明らかになるのである。
重臣の倒閣工作
七月十三日午後一時、東條は内大臣室に木戸をたずね、この五項目を示した。『木戸幸一日記』には、東條が「国内の情勢を深く考察するに、反戦厭戦の空気、統帥に対する批判等あり、政変を惹起し一歩誤れば即敗戦となるの虞れあり、之は真に臣節を全ふするの所以にあらずと考ふるを以て、此際サイパン失陥の責任問題は暫く御容赦を願ひ、此際は戦争完遂に邁進することに決意せり」と言ったとある。そのうえで五項目が示された。
五項目を聞き終えた木戸は、そくざに質問した。
「参謀総長、軍令部総長はやはり陸相、海相が兼任するのか」
東條はうなずいた。
「統帥の確立は必要で、このままの状態ではいっそう批判は強まる。それに嶋田の評判が悪く海軍の士気昂揚など望むべくもないとうかがえる。さらに一点、重臣や指導者層の適確な把握を行なわなければならぬ」
この三点を述べたあと、木戸は、なぜこのようなことを言うかと前置きして、今日の問題は一内閣の問題ではない、一歩誤れば、御聖徳への批判につながると言って懸念を示した。
「片手間の作戦にお任せになって戦争の将来をどう考えるのか、あるいは東條ひとりに国家の運命をお任せになってそれでよろしいのかという風説をしばしば聞くありさまのゆえ、意見を述べてみた」
東條の失態は天皇の責任につながる恐れがあり、そのことに宮中周辺は不安を抱いていると、木戸は正直に告白したのである。この木戸の言に東條は脅えた。そこに天皇の意思が含まれているように思えたからである。
「統帥兼任は再考してもいい。しかし嶋田の更迭を受けいれるのはつまり下僚への屈伏であり、これでは二・二六事件前の陸軍の状態になるかと思います」
と東條はこたえた。木戸は、自ら述べた三項目を検討するように言い、ふたりの会話は終わった。
官邸に戻った東條は蒼白であった。天皇からの信任が失なわれたと彼は考えた。富永と佐藤を執務室に呼び、木戸がつきつけた三項目は詰め腹を切らそうとするもので、これは天皇の意を体してのように思われる。だから内閣にとどまってはおられない――と説明した。
「はたして木戸の発言が聖意を体してのものか否か、直接お確かめになられたらどうですか」
と佐藤が反論すると、東條も気をとり直し、木戸が天皇の意であるかのように言ったにすぎないのかもしれぬ、と思い直した。佐藤がつけ足した。
「天子様のところに行かれて、私にたいして退めろという動きもありますけれど、お上のご意図はどうでしょうかとおたずねになったらどうですか」
午後四時半、東條は拝謁した。木戸に伝えた自らの案を述べ、それにたいする木戸の考えを言い、そしておそるおそる天皇の考えを確かめた。
このとき天皇と東條のあいだに、どのような会話があったかは不明だ。資料はない。しかし天皇は、自身の回答を午後七時に木戸に語っている。『木戸幸一日記』によれば、それはつぎのような内容である。
「第一、統帥の確立については此際行はざれば大物|に《ママ》動く虞れある故、考慮せよ。第二、嶋田については、東條は部下がと云ふも、部下のみならず伏見宮元帥が御動きになりたる事実もあるにあらずや。第三の重臣云々は、前の二項に比すれば問題にあらずと思ふ云々」――
この記述から推しはかれば、天皇は遠回しに木戸の言を認めたともいえる。いや天皇の考えを、木戸がいくぶん整理して東條に伝えたとも推測できる。もっとも微妙な違いはある。木戸の言にはそれとなく東條の退陣を促す意味があるのに、天皇のことばには国務と統帥との兼任を解き、嶋田の辞任を勧める意味が強い。必ずしも東條退陣の意味あいはないともいえる。
「重臣云々は……問題にあらず」というのはそれを裏づけている。
宮中から戻った東條は、天皇から言われたとおり、参謀総長と軍令部総長に専任者を置き、嶋田の辞任を認めることで、この状況を切りぬけることにした。官邸に嶋田を呼び、彼の手を握り、涙を流して辞任を要求した。二日前には陸海軍の首脳会談を開き、共同歩調をとることを約束したのに、いまそれを反故にしなければならぬというのが、東條の涙だった。嶋田はあっさりと東條の申し出を受け入れ、むしろこの難局にさらに首相を継続していく東條に同情を洩らした。それは嶋田の本音でもあったのだ。
十四日朝、東條は、〈嶋田更迭〉という自らの案を上奏した。天皇がどのように答えたかは判らない。だがこの上奏のあと、参謀総長、軍令部総長と海相人事、それに重臣をどのようなかたちで入閣させるかが、彼の関心事となった。これに失敗すれば彼の内閣は瓦解するはずだった。
いっぽう東條の天皇への上奏は、木戸から近衛に、近衛から重臣たちに伝えられた。東條の政権執着には愛想がつきたという意味を込めて、彼らの間で語られた。たとえば近衛は細川護貞に嘆息している。
「実に厚顔というか、狂人とは話ができない。まさかお上から辞めろと仰せあるわけにはいかぬから、統帥の全きを保つためというお言葉で不信任をお示し遊ばされたるを、その点のみ改めて泰然たるは驚くの他ない」
近衛から見れば、天皇のことばは〈信任していない〉という意思表示なのだ。鈍重な東條は気づかずにいる、まったく輔弼の任にある者の条件に欠ける。東條こそ国体の破壊者だ、と近衛は考えた。近衛や重臣たちは、延命のためになら何でも起こしかねない東條の性格を恐れた。とくに東條の意を受けて天皇が勅語を発し、戦局困難の折りいっそうの協力を……とでも呼びかける事態になれば、反東條の動きはそのまま反乱罪につながることになるので、東條と天皇の結びつきを極力薄めなければならぬと考えていた。それは木戸の立場を微妙にした。
このころ木戸のもとに海軍司政長官山崎巌が訪れ、もし東條が勅語の奏請を申し出てもそれを天皇にとりつがないようにして欲しいと訴えた。木戸もその申し出を受けいれた。山崎は、高木惣吉を中心とする海軍幕僚の「勅語奏請阻止」運動の意図を受けていたが、この運動は重臣の鈴木、岡田、米内へも伝わり、学界指導者には矢部貞治が、近衛には昭和研究会の後藤隆之助が説得にあたることを決めていたのである。
ところで東條が内閣改造で延命をはかろうとすることが判ると、どのような方法で内閣改造を阻止するかが、これらのルートで検討された。高木ら海軍幕僚は、伏見宮に働きかけた。嶋田が自分は軍令部総長にとどまり、海相には海軍次官沢本頼雄を擬すことにし、伏見宮にそれを相談にいくと、伏見宮は幕僚たちの説得どおりに、それではこれまでの嶋田路線の継承にすぎないといって嶋田の案を拒んだ。しかし幕僚たちの力はまだ弱く、永野修身らの威令が一定の力をもっていて、とにかく東條へ協力することになった。参謀総長梅津美治郎、軍令部総長嶋田、それに海相には呉鎮守府司令長官の野村直邦が決まり、それを上奏して裁可されたのである。
これによって東條内閣延命は、重臣の入閣が成功するか否かにかかってきた。それゆえ東條と反東條派の動きは、この一点をめぐる権力闘争となってあらわれたのだった。
東條は軍務局長佐藤賢了を呼び、阿部信行に入閣するよう説得せよと命じた。阿部は佐藤の説得をすぐに受けいれた。つぎに東條は、海軍の幕僚を通じて米内への説得を試みた。だが米内は容易にうなずかなかった。東條は知らなかったが、阿部を除く重臣たちの間では、入閣の誘いがあってもそれを拒否するという合意ができていたのである。
そのことは重臣たちが明確に東條内閣倒閣の意思表示をしたことでもあった。七月十六日夕刻、近衛と平沼が木戸をたずね、東條内閣を総辞職させよと迫った。しかし木戸は、それを天皇にとりつぐことはできないと断った。ふたりが帰ったあと、木戸のもとには東條が、内閣改造の骨子を説明に来た。このとき東條は、閣僚の岸や重光、それに翼賛政治会の幹部大麻唯男、前田米蔵さえ秘かに反東條で動きはじめているのを知り焦っていたから、内閣改造では岸を退任させ、藤原銀次郎を国務相に据え、議会からも前田米蔵、島田俊雄を入閣させるという内閣強化案を伝えた。阿部、米内ともさらに交渉をつづけて協力を仰ぎたいと、東條は木戸に訴えたが、彼は木戸に訴えながら、この改造計画に自信をもっていることをもにおわせた。彼は〈伝家の宝刀〉をもっていたのである。
東條は十七日中に岸を退陣させ、米内を入閣させて、いつものように電撃的に改造計画を行なおうと考えていた。それが指導力の誇示になるという自負すらあった。米内だって海軍側が説得すればいずれ入閣するだろうと甘く考えていたのである。岸の退陣はそれよりも容易なはずだった。なぜなら、東條内閣成立後まもなく燃料庁に汚職があり、その責任をとって商工大臣の岸が進退伺いをだした時、東條は辞めるなと慰留したことがあった。さらに岸と星野との間には、満州国以来の根深い感情的な対立があったが、東條にすれば、両者をうまくたててきたという思いもあり、岸にたいしては、なにかとひきたててやったではないかという自負すらあった。岸が自分のいうことをきかぬはずがないと思っていたのである。
木戸と別れて官邸に戻った東條は、自らの改造計画がまもなく成功するものと信じて機嫌がよかった。藤原銀次郎には、親任式に備えてモーニングを用意して欲しいと伝えたほどである。ここで東條がもうすこし洞察力に富んでいたなら、木戸の胸中を見抜いたであろう。木戸は重臣たちの反東條連合戦線を知っていたし、岸信介や重光葵とも情報交換をつづけ、東條への不信感が広まっているのを充分確かめてから、東條の楽観的な見通しに半ば唖然として耳を傾けていたのだ。
十七日朝、東條は岸を官邸に呼んで、当然のことのように辞職を促した。すると岸は、東條の期待に反して意外なことを言いだした。彼は、「挙国一致内閣ができる保証がない限り辞職はしない」と言ってから、「しばらく時間が欲しい、木戸内府に相談する」とつけ加えたのである。
それはどういうことか――東條は困惑した。飼い犬に手を噛まれたような気持になった。岸が退出したあと、東條は側近たちを集めた。そして憲兵隊に岸の終日監視を命じ、富永や星野には有力者をたずねて情報を集めるよう伝えた。
岸は二時間ほど経てから、再び官邸に来て東條と話し合った。彼は辞表の提出を拒み、改造が完了するまで国務相としての発言権を留保すると言いだした。東條の申し出を拒否するというのだ。『岸信介回想録』(毎日新聞連載)によれば、「……この戦争の状態をみると、もう東條内閣の力ではどうしようもない。だからこの際、総理が辞められて、新しい挙国一致内閣をつくるべきというのが私の原則だ」と言ったとある。
岸の造反は、東條だけでなく陸軍省軍務局の幹部たちを怒らせた。彼らは岸の電話を盗聴し、この二、三カ月の行動をさぐり、さまざまな情報を集めてきた。「岸と木戸は一体のようだ。岸は他の重臣とも連絡をとり後押しを受けている」「松平康昌内大臣秘書官長の話と、これまで届いた憲兵情報や警視庁情報をつき合わせると岸の造反をにおわせている。やはり岡田らが元兇だ」「岸は閣内で自爆覚悟でいる」――。
岸への辞職勧告が暗礁にのりあげたと同様に、米内光政の説得も進まなかった。海軍省軍務局長岡敬純、大麻唯男、石渡荘太郎がのりだして説得したが、米内は他の重臣との約束を守り、入閣要請には決してうなずかなかった。米内の背後では、海軍の反東條の幕僚が説得に負けぬょうにネジをまいていた。最後に佐藤賢了が米内邸に来て、威圧した。
「あなたは東條内閣だから入閣しないのではないですか。それともいかなる内閣でも入閣するつもりはないのですか」
「いかなる内閣であっても入閣するつもりはない」
米内はあっさり答えた。
ここで東條の延命策は停滞した。十七日夕刻、陸相官邸に、東條は、富永、佐藤、赤松ら腹心の将校を呼び、対策を打ち合わせた。彼らの怒りは深く、「国賊どもを逮捕しろ」という激したことばがなんども吐かれた。木戸や重臣は君側の奸だ、彼らをはずして直接天皇を説得しようという案も語られた。民間右翼をつかい、岸に圧力をかけ辞表を書かせようという案。ついで陸軍の兵隊を動かしてのクーデターに近い方法も練られたが、それでは国内の摩擦が大きすぎるという結論が出て沙汰やみとなった。ところがこの打ち合わせの席に新たな情報がもたらされてから、東條の意思は急に萎えた。
その情報というのは、重臣阿部信行からのもので、平沼邸での重臣会議の結果、挙国一致内閣樹立が必要で、一部の閣僚の入替えでは何の役にもたたないという結論をだしたというのであった。阿部の伝言は、「これに抗したのは自分だけで、全員の見解がこれに集約され、この方針のもとに木戸から上奏されることになろう」といっていた。東條内閣では人心掌握はできないというのが切り札だともいい、はじめから重臣たちは入閣の意思などなかったことも明らかになった。
部下たちの激怒をよそに、東條の辞意はかたまった。天皇には重臣の入閣を約束していたのに、それが無理なことが裏づけられたのである。
「お上のご信任にこたえられなくなった以上、もうこの地位にはとどまることはできぬ」
そのあと無念そうにつけ加えた。
「重臣たちの排斥にあって退陣のやむなきに至ったのだ。むずかしい改造計画をだしてきて、しかもそれを邪魔するというのだから言語道断な話だ」
その夜、東條は、家族に荷物の整理を命じた。二年十カ月に及ぶ官邸生活は、この住居を自分のものであるかのように錯覚させていたことに気づくと、改めて重臣を呪咀することばを吐いた。が、これまでと同じように、そこに自省のことばはなかった。
省部から消えた東條色
この夜から朝にかけて、「東條が内閣投げだし決定。明朝十時、閣議を開き辞表をまとめる予定」という噂が広まった。だがそれを東條一流の偽情報として疑う者も多かった。
翌十八日、東條は辞意に沿って行動を起こした。まず宮中にいって天皇に辞意を告げることにしたが、それは書記官長星野直樹の示唆によるものであった。そこには辞意をきいた天皇が、「さらに政権の座に居て戦争完遂に努力せよ」と、東條の翻意をうながしてくれるという期待がこめられていた。
天皇に拝謁するまえ、第一休所で待ち受けていた東條は、木戸と会話を交したが、このときも辞意をもらした。そのときのやりとりを『木戸幸一日記』はつぎのように書いている。
「円満に政変を推移せしむる為め自分の含み迄に後継首相に御考へあらば承り度しと尋ねたるに、首相は今回の政変には重臣の責任が重しと考ふ、従って重臣には既に腹案が御ありのことと思ふ故、敢へて自分の意見を述べず、只皇族内閣等を考慮せらるる場合には陸軍の皇族を御考へなき様願度し云々と答へられたり」――。
陸軍の皇族というのは東久邇宮のことで、東久邇内閣阻止は、各重臣が後継内閣に想定していることへのしっぺ返しだった。このあと東條は天皇に辞意を伝えたが、宮中から帰って東條が星野に洩らしたところでは、このとき天皇はとくにことばを吐かず、「そうか」といっただけだったという。それが事実なら、天皇も東條の辞意を既定のことと受けとめていたのである。つまり東條の天皇への訴えは失敗したということになる。
総辞職を決め辞表をまとめる閣議は、午前十時からはじまったが、東條はメモをとりだし声を震わせて読みあげた。内容は、重臣の陰謀と閣内に不統一の動きがあるとなじったもので、その末尾は「敗戦の責任は重臣にあり」とあった。激情に駆られた東條の思考がそのまま盛られていた。閣僚たちはしばらく黙って東條の様子をうかがっていたが、やがて重光外相が口を開いた。
「挙国一致体制を整備するのに総辞職を行なうことに異議はないが、いまの声明では、国内に分裂があるやにみえて対外的にも好ましくない」
他の閣僚たちもこの意見に賛成した。東條に加担する閣僚はいなかった。こうして東條の声明は発表されないことになった。東條の力はもう完全に失なわれていたのである。
午前十一時四十分、東條は参内し、閣僚全員の辞表を提出した。ここに東條内閣は瓦解した。戦争に勝って国民の歓呼のなかでこの職を離れたいと願っていた彼の就任以来の夢は、この瞬間にあっけなく消えた。これが二年十カ月の在任期間の結末であった。
官邸に戻ってからの東條は、しばらく椅子に座ったまま物思いにふけっていた。彼の不満は重臣たちと閣内の岸や重光にあった。まったくのところこの連中に一杯くわされた――と彼はつぶやいたというが、恨みは深かった。そして彼は、首相を去るときは陸相のポストも去ることだと決心していたそれまでの考えをあえて口にせず、陸相に座れるものなら座っていようとも考えた。それが開戦時に陸相だった者の責任のとり方だと彼は割り切った。
この日午後、東條と教育総監杉山元、それに参謀総長就任予定の梅津美治郎の三人で、次期陸相を誰にするかを打ち合わせた。梅津が、この際東條大将が留任するのは適当でない、杉山元帥に就任してもらうのがいい、と主張した。東條は曖昧に返事をにごした。三人の話し合いは物別れに終わった。しかし、このころから陸軍省のなかに培っていた東條人脈の中堅将校たちが、「陸相は東條留任」とか「富永陸相に決定」とふれ回り、それが宮中や重臣たちの間に不気味に広がっていった。東條系の中堅将校が近衛師団を動かし、議会や宮中を包囲するという噂も意識的に撒かれた。
午後四時からはじまった後継首班を決定する重臣会議は、こうした不穏な情勢のなかで開かれたが、戦時下であり、政治的手腕もある陸軍軍人の首相就任が望ましいとして、寺内寿一、小磯国昭、畑俊六の順に名前があがった。この報告をきいた天皇は、折りから梅津参謀総長の親補式に随行するため参内している東條に、寺内就任によって作戦上の無理はないかをたずねるよう侍従武官長蓮沼蕃に命じた。蓮沼の質問に東條は答えている。
「第一戦の総司令官を一日でもあけるのは不可能であり、内地の政治情勢を前線に影響させてしまうのでは士気が落ちてしまう」
すなわち東條は、寺内に反対し、小磯を首班とするのが望ましいと示唆したのだった。
このことばは、その後もずっと東條を語るに際して引用されている。木戸、岸、それに寺内という長閥に失脚のきっかけをつくられた東條が、腹いせのため寺内首班を阻止したというのである。事実、東條は、岸と木戸が長州閥のよしみで寺内内閣を画策しているのではないかと不安に思っていたから、彼にとってこの行動はまったく的外れでもない。しかしこの噂は、東條の行動を不安と猜疑のなかで捉えることで、東條の政治的狡猾さを浮かびあがらせようとしていることも否めない。
また天皇が、東條の意向を確かめてみよ、といったからといって、東條の信頼があったのではない。梅津の親補式の際に、東條が陸相然としているのに天皇は驚き、木戸を呼びつけると、東條は陸相として居座るのではないかと疑念を洩らしていたからである。さらに蓮沼侍従武官長のもとには、侍従武官山県有光が秘書官の赤松貞雄や井本熊男の働きかけを受け、東條を何らかのかたちで陸軍にのこすよう訴えてきていた。これに蓮沼は困惑し、しぶしぶ東條を呼んで、軍事参議官としてのこったらどうかと打診した。
「いずれの公職をも去って、一介の野人となりたい。こんどお召しがあったら、かりに予備役となっても進んで第一線に行って軍務をとりたい。信念として出処進退だけは潔くしたいと思う」
東條は答えている。これが赤松、井本の工作と知ると、東條は「余計なことはするな」と怒った。だが、不思議なことに東條は、すでに荷物も整理し、秘書官たちには辞任することを約束しながら、表向きはそれとまったく別な態度をとっていた。
天皇から大命降下を受けた小磯は、戦後になって自伝『葛山鴻爪』を著わしたが、そこにつぎのように書いている。
「先づ首相官邸に東條首相兼陸相を訪ね『一体なぜ辞めたのだ。戦争の終結は始めた時の輔弼者が責に任ずべきではないか』と訊ねた。『種々事情もあるが、まあ重臣連と一部議会人の為ですな。閣内でも某大臣の如きは之に合流してゐたのです。かういふ前閣僚には前官礼遇を与へないで貰ひたいのです』……筆者(小磯)は重ねて『僕は思ふ所あつて陸相兼摂を申出す考はないのだが、君は陸相に残る考かね』と聞いて見た。『三長官の協議を遂げなければ今の処何ともお答は出来ません』といふので、半ば留任の意志があるやうにも解された」――。
このとき小磯は、つぎのように言って東條を諫めた。
「君がこのうへ陸相に残るのは全般の関係からも面白くないし、君個人の為から見ても適当でないと思ふね。断念した方がよいな」
東條は、たぶん、このことばによって自らの役割が終わったことを知らされたであろう。七月二十日、小磯内閣の発足が発表になり、それを補足するかのように情報局が東條内閣総辞職の顛末を新聞発表したが、そこには「人心を新たにし、強力に戦争完遂に邁進するの要急なるを痛感し、広く人材を求めて内閣を強化せんことを期し、百方手段をつくしこれが実現に努めたるも……」と、総辞職が本意でないとの意味がこめられていた。実はこの声明こそ、東條が閣議で読みあげたメモだったのである。閣議では発表できぬため、陸軍省が強引に情報局に発表させたのであったが、こう見てくると、東條の真意がどこにあったのか、そのへんは実に曖昧になってくる。
この声明は議会、重臣、陸海軍内部の反東條の人びとの憫笑を誘った。東條はもう正常の感覚でなくなったと|揶揄《やゆ》する者もいたほどである。衆議院の事務総長だった大木操が昭和四十四年にあらわした『大木日記』には、この声明について、新聞記者や代議士、官僚がどのように語っているかが紹介されている。
「今朝発表の文は実にひどい。あの原文はもっとひどい。中に重臣の協力を求めたが遂に得られず云々の文句があった。それはあまりひどいと云うので削って出した。それも強要してやったそうだ」(読売新聞記者)、「あの情報局の発表はひどい。東條の信念はあの通りなんだ。重臣の協力を得ず、その陰謀で倒れたと信じている。あれで頭脳の程度が判る」(内閣参事官)、「惚れた女に迷うと云うが、ああまで思い込むものかな。我々同志の者がどの位その点を注意したか判らぬが、結局見透せなかった」(翼賛政治会代議士)――
戦況悪化と強権政治の責任をとって身を退いたはずなのに、東條はそれをすこしも理解していないというのである。しかし東條自身は、本気でこの声明どおりだと考えていた。一切は重臣に責任があるのだと信じていたのだ。
小磯内閣発足からまもなく、東條は数人の秘書官たちと送別会を開いたが、はじめのうちは「新内閣に批判的な動きをしないように……。自分の気持を汲んで欲しい」と言っていたが、やがて涙声になり、「どうか諸君にはそれぞれの任で国家のためご奉公を望む」といい、自分への批判や中傷には露骨に不満をあらわした。そして会食の間、口惜しそうになんどもつぶやいた。
「サイパンを失なったぐらいでは恐れはしない。まだまだ戦機は微妙だ。それなのにあらゆる手をつかって内閣改造に努力したが、重臣の排斥にあってやむなく退陣を決意した……」
唇をかみ、涙を流して重臣を罵り、東條は官邸から去っていった。秘書官たちに求められるまま書いた揮毫は「自処超然 人処靄然 無事澄然 処事昂然 得意淡然 失意泰然」というものだったが、それは彼の精神状態とはまるで逆であった。
東條が退陣したころ、ドイツでは陸軍の将校たちによってヒトラー暗殺未遂事件が起こった。会議室の机の下に仕掛けられた爆弾は、ヒトラーに軽傷を負わせただけだった。
これと同じように、日本でも参謀本部の津野田知重が東亜連盟系の柔道家牛島辰熊と謀り、石原莞爾らに相談したうえ、東條暗殺の計画を進めていた。決行日は七月二十五日で、宮中での閣議の往復を狙って秘密兵器を投げる手筈になっていた。東條を倒して終戦内閣をというのが、決行者たちの心算だった。――牛島辰熊は、いま重い口を開いて証言する。
「このために山形にいた石原先生のもとにも相談に行きました。そうしたら諒解してくれました。小畑敏四郎、加藤完治、浅原健三にも打ち明けました。私と津野田とは、帝国を救うために終戦は避け難く、東條暗殺は必要なものと思っていたのです」
この計画は、津野田をつうじて三笠宮や高松宮にも伝わった。終戦内閣をつくるために、天皇に働きかけてほしいというのである。しかし現実は、計画が実行に移されるまえに崩壊しつつあったのだ。
参謀本部の将校がこのような計画を立案するほどだから、陸軍内部、ことに南方軍、支那派遣軍、関東軍の師団長、参謀らの間には、東條にたいする批判が極点に達していた。むろんそれは、サイパン失陥による戦況の悪化を東條を憎悪することで解決しようという屈折した心理のためでもあったが、東條はそのことをすこしも考えようとしなかった。しかし指導者は、それを宿命としなければならなかったのだ。
東條退陣後しばらくの間、陸軍省内部でも東條系の中堅将校と反東條の中堅将校が勢力を競いあった。杉山陸相のもとで人事権を握ったのは、これまで東條陸相に冷や飯をくわされていた中堅将校たちだった。彼らが東條憎悪の直接の対象にしたのは、陸軍次官の富永恭次と軍務局長佐藤賢了であった。なかでも富永は、人事局長を兼任していて、その地位をふり回して恫喝を加えるタイプだったので、省部の幕僚からは目の敵にされることとなった。
杉山陸相は、参謀総長解任時の不快な記憶を忘れようとせず、かねてから富永の追放を目論んでいたが、富永が陸軍省の公用車を東條の私用に利用させたという事実をとりあげることによって、富永を第四航空軍司令官に追い払うことに成功した。
もちろん、これが追放の理由になるほどのことでないのは誰もが知っていたが、あえて杉山を諌めようとする者も、既にこの時はいなかった。
富永につづいて佐藤も支那派遣軍参謀副長に追われた。
一方、のこされた東條系の将校への風当たりも強かった。たとえば東條退陣後、身体をこわして一カ月ほど入院した赤松は、しばらくは東條流の執務をひきつぐために軍務課長の椅子にあったが、省部の会議では「ほほう、あそこにまだ東條の残党がいるな」と小磯に揶揄されたりしていた。すでに省部には、赤松以外に会議に列なるような幕僚もいなかったのである。
月にいちど宮中で開かれる重臣会議では、陸軍出身の重臣には陸軍省の自動車が回されたが、東條の家にはこの自動車も意識的に回されなかった。無視するという空気が陸軍省のなかにはあったのだ。
重臣会議の開かれる日、赤松のもとに東條から電話がかかってくる。いくぶんためらいがちに、自動車を回してくれという。そのたびに軍務課長の自動車が用賀の東條宅に駈けつけた。そしてそれが慣例になっていったが、この一事に象徴されるように、東條の時代は、いまや完全に終わったといえた。自らつくりあげた時代によって、東條は露骨に復讐されはじめたのである。
無残な終焉といえた。が、東條はたしかに、「大日本帝国」の最終走者としての地位にあったのだ。それは彼が去ってから徐々に明らかになってきたのである。
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第四章 洗脳された服役者
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承 詔 必 謹
4月25日までの忍耐
権力者がその座をはなれたあとは、いかに孤独になるか――東條はそれを味わわねばならなかった。
玉川用賀の自宅に籠った東條のもとに、一カ月間は、軍人、代議士、官僚が慰労のことばを伝えに来た。しかし八月も半ばになると、門をたたく者はいなくなった。東條の部下も寄りつかなかった。東條への反感が、各界に充満していたから、その東條と親しくするのは誤解を受けるというのである。
東條は六十歳であった。彼の人生で、初めて裸で生きていかねばならなかった。彼の性格はここでもあきらかになった。日常生活は、自分の庭につくった菜園で鍬をもつか、玄関脇の書斎か応接間で読書をするか、丹念に新聞を読み目をひいた部分をメモ帖に書き写すか、それとも妻と三人の娘、そして警視庁と憲兵隊から派遣されている護衛の者と雑談するしかなかった。ときに彼は、和歌や漢詩に目をとおした。
いま私の手元に、当時の東條のメモ帖がある。忠、孝、仁、義、礼と頁ごとに分けられ、藤田東湖や西郷隆盛、頼山陽らの歌がかきこまれている。「忠」の頁にはつぎの和歌がある。
身の為に君我思ふは二心
君の為には身我も忘れて (大棟公)
一日生かは一日の命
大君の御為に盡す我可家の風(橘曙覧)
天皇を想い、そこに自らの生きる支えを見いだし、それを失なえば生の意味が消滅してしまうという自覚を、この和歌はあらわしていた。彼の寂寥感は天皇との接触が切れたことにあった。
メモ帖には、七月二十日に参謀総長を辞したときに、天皇からの「其職ヲ解クニ臨ミ茲ニ卿ノ勲績ト勤労トヲ朕深ク之ヲ嘉ス 時局ハ愈々重大ナリ益々軍務ニ精励シ朕カ信ニ副ハムコトヲ期セ」という「賜リタル勅語」が一言一句、右上りの字で書かれてあり、「大東亜共同宣言」も、こまかい字で書かれていた。
彼はそれらをながめ確認し、いまいちど反芻する。それが臣民の務めだと考えていたのであろう。なんとも実りのない日々の営みであった。
外出するのは、月に一度の重臣会議と陸軍省の大将会であった。そんなとき、東條の周りに賑いはなかった。出席者は挨拶にきても、深く会話は交さない。東條の命令調の口調が嫌われたのと、東條を白眼視するのがこのころの当然の空気になっていたからだ。
いっそうの孤独感をもって、彼は自宅に戻った。そしてそれを埋めあわせるかのように、隣家の医師鈴木をたずねては雑談にふけった。鈴木の眼には、東條はいつも寂しげにみえたという。会話の切れめに東條は、
「誰が何といおうと、俺はまちがっていない。いま弁解したところで判ってもらえるわけはないが……」
と、洩らすことがあった。それがしばしばなので、鈴木には異様に映った。
〈俺はまちがっていない〉と口にしなければならぬほど、東條を見る眼はきびしかったのだ。「疎外された悲しみに耐えているかのような視線だった」――鈴木は、昭和三十四年にある週刊誌に書いている。
東條は四つの新聞を読んでいた。毎朝、順々にそれを読みふけった。彼が知りうる情報というのは、情報局が統制している新聞からであった。それをいま彼は、むさぼり読むだけだった。かつて戦況のすべてが彼のもとに集められたが、いまは虚飾に満ちたニュースを味気なく噛むだけだった。
昭和十九年秋、戦況は悪化しているのに、新聞はまだ戦意昂揚のためと称して、それを伏せていた。事実は無残だった。九月二十七日、グアム、テニアン両島の日本軍全滅。十月十九日、神風特別攻撃隊編成。十月二十日、アメリカ軍、レイテ島に上陸。そしてレイテ沖海戦で連合艦隊は壊滅状態になる。
こうした軍事的敗北のまえで、彼は依然として精神論のなかにあった。昭和十九年の暮れ、彼はメモ帖に「偶感」と題してつぎのように書いていた。
「活殺自在ノ利剣ヲ味方ノ掌中ニ収メルニハ寂トシテ声ナク漠トシテ形ナク、敵ノ心理ヲ全ク支配シテ敵ヲシテ見ルニ能ハス聞ク能ハサルニ到ラシメ得ルニ至ルヲ要ス、孫子曰ク
微ナルカ微ナルカナ無形二至ル、神ナルカナ神ナルカナ無声ニ至ル、故ニ能ク敵ヲ司命ヲナスト、戦ハ武力ノミニ依リ勝ツ能ハス、即チ他民族カ精神的ニ共鳴シ来レハ武力ニヨル征服ヨリ有力ナル征服カ可能ナル訳テアル」
これはどういうことか。彼には、いまや精神論に傾くだけの凡庸な一国民の感覚しかなかったのだ。もしいささかでも冷めた眼があるなら、この戦争の敗北を見ぬくのが容易であるのに、現実を見つめようとはせず、とりとめもなく聖戦完遂を叫ぶだけだった。〈現実〉とは認めない限り存在しないと考える夢想家のそれであった。
もっともこのころ、陸軍省内部に〈小磯内閣は非力だから東條内閣を〉と主張する一派があったという。彼らは陸軍の極秘情報を東條のもとに届けていたともいわれているが、のこされた『東條メモ』からはそれがうかがえない。東條は自らの時代が去ったことを、ひっそりと自覚していたのである。
昭和二十年にはいった。元日づけの新聞は金切り声をあげた。「年頭の諸御議、前線将兵に大御心畏し、野戦食を召させ給ふ」「感状上聞、特攻中核に沖縄猛攻、山本飛行隊」という具合に、天皇の慈悲、天皇への死を誓う忠節が強調された。まさに日本をあげて人間爆弾の局面をつくりだそうという意図が紙面に流れていた。
一月十八日の最高戦争指導会議は、本土決戦即応態勢確立と全軍の特攻化を決めた。国土の一木一草まで戦うと決意した。だがそれは国民に向けての強がりだった。陸軍省と参謀本部の幕僚の会議では、すでに航空戦は無理だという冷徹な数字を確認していたのだ。
航空機の生産は下がる一方で、昭和二十年一月には二千二百六十機の目標のうち、完成したのは三分の一の八百九機にすぎなかった。物資もなく勤労動員も鈍り、生産体制はすでに息も絶え絶えだった。客観的にみれば、戦争終結が具体化しなければならなかった。
二月三日、アメリカ軍はマニラに進出した。日本軍は局地的な抵抗をくり返すだけでこの要衝を失なった。
この期にきて、小磯国昭首相をはじめとする日本の指導者たちは、目前に三つの道があることを知らねばならなかった。彼らが信じている国体二千六百年の破壊者として屈辱に耐え敗戦にもっていくか、戦局悪化をくつがえす武器を生産するか、それとも依然として状況に流されるままに対症療法でのりきるか。もっとも安易な道は、最後の道を歩むことだった。小磯はその道を選んだ。
天皇もまた状況の悪化に困惑していた。種々の資料を分析する限りでは、最初の道と最後の道を振り子のように動いていた。天皇はその決断の参考にしようと考え、木戸に向かって、ひそかに重臣を呼び意見聴取をしたいといった。そこで木戸は、重臣たちが天機奉伺という手続きで意見を奏上することにして、二月七日から三、四日おきにひとりずつ宮中に呼び、情勢への私見を述べさせることにした。
平沼騏一郎は戦争施策を重点的に行なうべきだといった。広田弘毅は対ソ工作に意見を述べた。近衛は上奏文を提出した。戦争が長びくと共産革命の危険が増す、そのために陸軍内部の統制派を一掃する必要があるといった。粛軍こそ当面の急務だというのである。若槻礼次郎は、平和回復は普遍的意見だが敵が戦争継続の不利を悟る時機を待つほかはないといった。重臣ではないが、とくに呼ばれた牧野伸顕は、和平の期を選ぶより戦局を有利にするほうが先決だといった。岡田啓介は戦争終結と陸海軍の協力が必要だと答えたが、その具体案を語ることはできなかった。
情報から閉ざされ、事態の悪化についていけない老人たち、近衛を除いては七十代の老人たちは、なにひとつ有効な意見を吐けなかった。戸惑い、おろおろするだけで、ただ国体の直接の破壊者になることに恐怖感をもっているだけだった。
東條が、重臣の最後として天皇のまえに進みでたのは、二月二十六日である。東條は半年ぶりに宮中に入った。前日、B29百五十機からの爆弾が皇居を襲い、建物のいくつかは崩壊していた。それが東條の戦闘心をかきたてた。天皇のまえに立った東條は、すでに興奮をかくせない状態であった。
侍立している侍従長藤田尚徳には、この時の東條の意気ごみが、現役時の傲慢さにつながっているように見えたと、戦後になって彼の著書で証言している。
天皇は、東條に、「その後元気でいるか」とたずねた。東條は身を正した。上奏の機会を与えてもらったことに感謝する旨をこたえた。そしてポケットからメモをとりだし、読みはじめた。この数日来書き綴っていたものである。参謀本部戦争指導班種村佐孝から軍事情勢をききだし、それをもとに自らの考えをまとめたものだった。大局では、陸軍が東條の口を借りて、自らの意思を示そうという内容である。
東條が最初にいったことばは、つぎのことばだった。
「知識階級の敗戦必至論はまことに遺憾であります」
これによって東條がどのような意見を述べるか、天皇も藤田尚徳も知ったであろう。……二月四日のヤルタ会談では、チャーチル、ルーズベルト、スターリンとも日本にふれていないが、実際はアメリカとソ連の間に諒解事項があるはずだ、そのために太平洋方面の戦況は日ソ中立条約の失効する四月二十五日がメドになるだろう。アメリカは条約を破棄させるためフィリッピンを押さえ、台湾、沖縄、上海へ手を伸ばし、日本の動きを封じこめ、勢力の誇示をはかるだろう、と東條は強調した。
「わが国としましては、四月二十五日までに急速なる変転が起こるということを、しかと考えておくべきかと存じます。わが国の戦備がいかなる状態にあるかについては、半分成功、半分不成功と見られます。楽観はできませんが、さりとてまた悲観もいたしておりません」
東條にいわせれば、アメリカ軍の攻撃はいまがピークだというのだ。生産力にしても、日本も低下しているが、アメリカも可能の限界にまで達しているというのが根拠である。しかし、裏づけになる資料はなにひとつない。
「アメリカ軍が戦艦一隻、空母一隻をふやしたからといってそれを見倣う必要はなく、日本軍は一機か二機の飛行機と爆薬、それに快速艇で対抗すればいい」とも東條はいったが、それは折りからすでにはじまっていた神風特攻隊のことをさしていた。
東條の意見は作戦面にも及んだ。そのことを、のちに藤田は木戸幸一に語ったが、木戸は『木戸幸一関係文書』にそれを書きのこしている。「作戦地域ト各々ノ本土トノ距離ハ、米本土ヨリ八千キロ、我本土ヨリ千数百キロ(注・硫黄島ヲ指セルモノト思ハル)而シテ補給可能ハ距離ノ自乗ニ逆比例ス。漸ク考ヘ来レバ、我国ハ作戦的ニモ余裕アルコトヲ知ルベシ」――。
この期に及んでもまだ東條は、作戦地域論をふりまいていた。内閣総辞職まえに、スターマー・ドイツ大使にもこの論をくり返したが、実際にはアメリカ軍は多くの輸送船を基地に送り補給に成功していたのだから、この見とおしはくつがえされていたのだ。距離が短いというのは何の利点になるというのだろうか。補給能力は距離の自乗≠ノ逆比例するといっても、補給すべき航空機も船舶も、日本にはないのだ。相次ぐ本土爆撃は、補給の要である生産地帯を狙っているのである。
のちに藤田は、その回顧録のなかで、東條の報告がつづくうちに天皇の表情も不満の色に変わったと記し、また、七人の重臣のうち東條だけが依然として強気でいることに、怒りすら感じたと書いている。海軍出身のこの文官(侍従長は文官)は、東條を心底から憎んでいたのだ。
東條にとって、負けている現実はない。それは認めぬかぎり存在しない。知識階級の非戦論は、彼我を客観的に見ることによる結果なのだが、東條はそれを認めぬのだから存在しないのである。たぶん開戦時の首相として、東條は現実を認めたくはなかったろう。しかし天皇に〈まだ負けていない。勝機はある〉と伝えることが彼の責任であり、またそれが客観的には彼の責任のがれであるという迷路のなかに彼はいた。彼は、やはりもっとも安易な道を諾々として歩いているにすぎなかったのだ。
だがこのようなときにも、戦場では兵士が、本土では非戦闘員が死んでいる。そこに彼の思いは至らなかった。
東條の上奏は国内にも及んだ。和平工作を批判し、国民生活はそれほど苦しくないといった。いまなすべきことは大本営を天皇の膝下に置くことであり、閣議も宮中で開くべきではないかということだ。東條退陣後、閣議を旧に復し、首相官邸で行なっているのは納得できないといった。藤田尚徳は、しだいに不快になり、天皇が和平に傾いているのにその意を汲もうとせず、国民の厭戦思想をどなりつけるだけだと憤慨した。
結局、一時間もの間、東條は強硬論を吐き宮中から去っていったが、この内容はたちまち宮中グループと議会に広まった。〈相かわらず頑固で無責任な東條〉という枕詞がついた。「判断は甘く軍事的見通しに至っては一方的詭弁だ」と海軍内部ではいわれたが、それはかたちをかえた陸軍批判だった。
だが東條の上奏に驚いたのは、近衛文麿であった。彼は、東條の意見を押し進めれば敗戦となり、現実に存在する機構や組織が瓦解することになりかねないと恐れた。実体のない強硬論を唱えつづける軍人の背景には、共産革命の意図があると懸念する近衛は、猛進したあげくに自己崩壊する軍人の精神構造が共産主義者に巧みに利用されるのに充分な資質であることを知っている。東條の上奏にそれを感じていた。
その意味では、近衛は、確かに歴史を透視する眼をもち、国体破壊を寸前で止める重臣であったことになる。彼の触覚は、本能的に自らの出身階層を保持する能力をもっていたということにもなる。
東條排斥の動き
四月二十五日まで戦況をもちこたえれば、アメリカ軍の攻撃は政治上の役割を終え弱まるだろう――東條のその意見は何を土台にしていたのだろうか。実際は、陸軍が傍受したヤルタ会談の内容を楽観的に伝えていたにすぎなかった。戦況の推移が何よりそれを証明した。
三月十七日、硫黄島の日本軍は全滅。四月一日、沖縄にアメリカ軍が上陸を開始した。しかも三月十日以後は、B29が大挙して日本本土を襲い、都市への無差別絨毯爆撃を始めた。アメリカ軍が南方ルート、台湾航路を閉鎖したので、食料品、軍需資材は日本に入ってこない。それにB29の爆撃は国内の生産地域を破滅させ、もう日本は壊滅状態だった。こうまで打撃を受けて、四月二十五日までの我慢だといったところでどうして信じられようか。四月二十六日になれば、これが復興するとでもいうのだろうか。四月に入ると情勢はさらに悪化していったのだ。
四月五日、ソ連は日ソ中立条約の不延長を通告してきたし、呼応してアメリカ軍の攻撃は熾烈なものとなった。この日、小磯内閣は局面を打開する施策をうてず総辞職した。陸軍の非協力に悩まされていたこの内閣は、表面上は対重慶工作の失敗とレイテからルソンヘの相次ぐ軍事上の敗北の責任をとったのだが、実際には、戦争終結をめざすのか、それとも本土決戦で状況を打開するかの選択に失敗したからだった。政府、統帥部、宮中、それに議会の多様な声を一本化できず、結局、政権を投げださなければならなかったのである。
次期首班は誰にするか――四月五日タ刻、宮中で重臣会議が開かれた。内大臣木戸の挨拶のあと、すぐに東條が発言を求めた。彼は依然として、四月二十五日にこだわっていた。
「戦時中にしばしば内閣が更迭するのはよろしくない。ことに四月二十五日に開かれるというサンフランシスコ会議が重大なる時期だと思う。そのためにもこんどの内閣は最後の内閣でなければならぬ」
いま必要なのは、最後まで戦うべきだという論と、無条件降伏を甘受して和平を結ぶという論のどちらをとるか、それを先議すべきだと東條は言った。この意見に平沼騏一郎と枢密院議長鈴木貫太郎が賛成したが、岡田、近衛、若槻は、重臣会議の目的は後継内閣の首班を選ぶだけで、そういう権限はもっていないと反対した。微妙な会議だった。本上決戦にこだわる陸軍の徹底抗戦派の総意が東條によって代弁され、それに近衛、岡田の宮中グループが抗するという構図が劈頭にあらわれたのである。
だがその点は曖昧にされたまま人選にはいった。平沼が推した鈴木貫太郎を、鈴木自身と東條をのぞいて全員が賛成した。鈴木は、「軍人が政治の前面にでるのは国を滅すもとだ」と固辞し、東條は陸軍大将の畑俊六を推した。推挙の理由がいかにも東條らしい感覚であった。
「戦争の推移を考えるときに予断は許されない。敵は焦っている。突飛な作戦をするかもしれない。本土の一角に手をかけることになるかもしれない。国内防衛が重点となるのだから、国務と統帥の一体となるのが望ましく、このためには陸軍を主体として人選を考えるべきだ」
むろん東條の陸軍至上主義の考え方は、各重臣の顔をしかめさせた。この戦争がこういう結末になっているのは、陸軍のためではないか――陸軍にたいする不満と東條にたいする侮蔑が一体となって、東條を孤立させようという雰囲気がこの会議には充ちていった。
国民の信頼をかちとるどっしりとした内閣をつくるために、この際鈴木を首班に……といって、木戸が会議をしめくくろうとしたとき、東條がひと言ことばを足した。
「国内が戦場になろうとする現在、よほど注意しないと陸軍がそっぽをむく恐れがある。陸軍がそっぽをむけば、内閣は崩壊するだろう」
東條のいつもの恫喝だといえたが、この発言は重臣たちを激怒させた。木戸が「そんな徴候があるのか」と語気をつよめると、東條は「ないこともない」と答えた。「こういう状態になったいま、反軍的空気も強い。国民がそっぽをむくことだってある」と木戸は強い調子でいい返し、岡田もことばを荒らげた。
「この重大時局困難にあたり、いやしくも大命を拝したる者にそっぽをむくとは何事か。国土防衛は陸海軍の責任ではないか」
東條は弁解気味のことばを吐いて、この場を逃れなければならなかった。彼は曖昧に口を動かした。東條の孤立は陸軍の孤立であり、東條の頑迷な見識はそのまま陸軍の意見と受けとられ、まったく論理もつうじぬ連中だという批判が、重臣たちの間で半ばあきれ顔で交された。
鈴木への大命降下は、むしろ重臣たちのつよい総意となって会議は終わったが、期せずして東條への反感が、彼らを繋げる役割を果たすこととなった。
鈴木はさっそく組閣に入った。その鈴木のもとに、杉山陸相が陸軍側の要望を三条件にまとめ伝えた。
「あくまで戦争完遂すること。陸海軍一体化の実現できる内閣を組閣すること。本土決戦必勝のため陸軍の企図する施策を実行すること」――。これを受けいれぬ限り陸相を推挙しないという含みが言外にあった。東條を露払いとした陸軍の首脳の恫喝ともいえた。鈴木はこれにうなずいた。そこで陸軍は航空総監の阿南惟幾を推してきた。四月七日、鈴木貫太郎内閣が成立したが、陸軍の意向をいれ聖戦完遂の声明を発表した。鈴木のために弁護すれば、これは彼自身の本来の考えとは反した。
日本の指導者たちは不思議な存在であった。心底では、彼らはこの戦争に勝利の可能性がないことを知っていた。首相推挙の重臣会議では、だからこそ東條へのとげとげしい態度となったのだ。それなのに実際の政治の側に立つと、彼らは〈聖戦完遂〉という、もっとも無難で勇気を必要としない政策を採るだけであった。状況の流れに身を任せるだけで、この局面では〈恥辱的〉といえる政策を表向き採用する勇気は示さなかった。
かわって東條へ憎悪をかきたてることで、彼らはかすかに自己満足をもった。それは陸軍の横暴への恨みを、東條という個人に転化することにすぎなかった。鈴木内閣が発足してまもなく、それを象徴するできごとがあった。
小磯内閣になってから、大本営政府連絡会議にかわって新たに最高戦争指導会議を発足させていたが、これは首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長の六人を構成員とし、週二回定期的に会議を開き、国策の決定を行なった。
この会議で鈴木首相が、今後は重臣も出席させることにしようと言った。が、それには条件があると言った。
「ただし重臣のうち、新たに牧野伸顕・元内大臣を加え、東條大将には遠慮してもらうということではどうかという案が、平沼枢密院議長から提出されている」
東條を公式の席から外させようというのである。東條が加わると、会議は紛糾するし、彼の意見には建設的な含みがないというのが、出席を拒む理由だとにおわせた。ところがこの意見に阿南陸相が反撥し、怒気を含んで鈴木を難詰した。東條との間がそれほど円滑ではない阿南にも、この提案は残酷に映ったのである。
「東條大将だけを外すというのでは、死刑の宣告と同じである。初期の作戦のとき、誰が東條大将を恨んだか、誰が謗ったか。この期に及んでこのような言を吐くとはもってのほかだ」
米内海相もこの主張に同意した。そこまで東條を追いこんではいけないというのだった。結局、枢密院を代表して平沼議長だけが特例で御前会議に出席することになり、このやりとりは終わった。
しかし東條自身、こういう経緯――阿南の努力で自らの矜持が守られたことなど、知ってはいなかった。東條が陸軍の先達にたいしてとった態度、重臣にたいしての侮蔑的な対応、それがいまはねかえってきたのだが、阿南によって秘かに守られたことを、彼は知らなかったのだ。よしんば知ったとしても、いまの彼には唇をかむ余裕さえなかったであろう。
このころ彼のメモ帖には、依然として強気の論が書き綴られ、それによってしきりに自らを励ましていた。水戸光圀の「小事ニ分別セヨ、大事ニ驚クヘカラス」がなんども書かれ、その隣りにたったひと言、つぎのように書きのこしていた。
「一大事トハ今日唯今ノ事ナリ」
六月にはいっての戦闘は、すでに戦争の態をなしていなかった。日本軍は沖縄で局部的に抵抗をつづけていたが、六月下旬には圧倒的な物量を誇るアメリカ軍のまえに全滅した。陸軍は本土決戦に備えて、アメリカ軍の機動部隊に反撃を加えず、兵力を温存する方針をとった。
事態の終局は明らかだった。いまや枢軸側は、ムッソリーニがイタリアの民衆に処刑され、ローマの広場に逆さ吊りにされた。またヒトラーはベルリンの官邸地下で自殺し、五月七日にはドイツは無条件降伏をしていた。いまや連合軍の戦うべき相手は日本だけであり、圧倒的な物量が日本に向けて投入されつつあった。
東條が予言した四月二十五日がメドになるという見通しは、このころになると根拠のなかったことが誰の眼にも明らかだった。アメリカ軍の攻勢はさらに激化し、五月以来、東京、大阪への爆撃はかえって苛烈なものとなった。攻撃のやむ徴候などまったくなかったのである。
しかし東條は、見通しの悪さを天皇に詫びる意思表示を行なっていない。予測が外れても、それは自分の責任ではないという態度だった。重臣というのは、その程度の意味しかなかったのだろうか。
六月、七月、東條の生活は、B29の爆撃で防空壕にはいることと、天皇の身を案じることで終日が過ぎた。爆撃のあと用賀の住民は、元首相の消火作業をときおり見ることができた。
七月二十六日、アメリカの対日放送はトルーマン、チャーチル、蒋介石の日本の降伏条件を定めたポツダム宣言を発表した。十三項目から成るこの宣言は、日本の非軍事化、民主化を骨子にしたもので、そこには「……日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ※[#「玄+玄」、unicode7386]ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ」「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル……」「吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ」――といった内容が含まれていた。
日本政府はこの声明を無視することにしたが、それを公表しないと士気が落ちるという陸軍の意向をいれて、二十八日、鈴木首相は「ポツダム宣言を黙殺する」と記者会見で言明した。それは改めて世界に戦争継続の意思を公表することでもあった。
八月六日以後、二つの新しい状況が生まれた。ひとつはソ連の参戦であり、もうひとつが広島、長崎への原爆投下だった。ここに至って天皇は、終戦の意思を東郷外相をつうじ鈴木首相に伝えた。それは鈴木にも渡りに舟だった。
……広島への新型爆弾投下を耳にしたとき、東條はすぐに原子爆撃であることを理解した。彼は昭和十八年半ばに、原子爆撃の早急な研究開発を陸軍省兵器本部に命じていたし、その折りにアメリカがかなり早くから原爆研究にのりだしているのを知っていたからである。しかしアメリカが開発した原子爆弾は、広島とつぎに投下された長崎への二発しかないと彼は考えていた。なにしろ一発を製造するのに十年は要するとの報告を受けていたからだ。事態はこれ以上悪化することはないと考えたが、彼の状況判断はいつもそうであった。
八月九日午後十一時四十五分から十日の午前二時半まで、宮中の防空壕で開かれた御前会議では、ポツダム宣言の受諾をめぐって激論が交された。阿南陸相は「一億玉砕して死中に活を求むべし」といい、梅津参謀総長も「無条件降伏は英霊に済まぬ」と本土決戦論にこだわったが、彼ら以外の指導者は、国体護持が受け入れられるなら宣言の受諾もやむをえないと考えていた。広島、長崎へ投下された新型爆弾のまえには、それしか道はないと考えたのである。二時間余の激論のあと、天皇が受諾の意向を明らかにし、ここにポツダム宣言受諾はきまった。
阿南も梅津も、この受諾がスイスをつうじて連合国に伝えられるという政府の処置を黙認した。だが不思議なことに、陸軍首脳は、政府の意思とは別の意を含む通達〈聖戦完遂の大臣告示〉を軍内の全部隊に伝えていた。これは陸軍の国策決定への困惑と未練を示すものであったが、本土決戦派はこれによって勢いづき、憲兵隊は和平を口にする指導者にいっそう威圧をかけはじめた。
この日(十日)午後一時から、宮中では重臣会議も開かれた。国策決定に重臣の意見も聞こうというのである。このとき集まった七人の重臣たちは、事態を受け入れるだけの認識はなく、呆然としながら御前会議の決定を追認した。ひとりずつ天皇に会い、自説を述べることになったが、彼らは細々と〈国体護持〉を死守する発言をくり返すだけだった。東條は、御前会議の決定が天皇の判断を基にしているのだから、一切の抗弁はしないと誓った。彼自身は陸軍の指導者たちと同様にポツダム宣言受諾に反対であったが、〈承詔必謹〉を口にする以上、彼はその考えを胸の中にしまい込んだ。それが臣下としてのありうべき姿だというのであった。
「自分には意見はありますが、ご聖断がありたる以上、やむを得ないと考えます」
天皇のまえで、彼はそう言った。そしてそのあと、「殻を失なった|栄螺《さざえ》はその中身も死んでしまいます。それゆえ国体護持を可能にするには武装解除をしてはなりません」と彼はつけ加えた。武装こそが安全の基盤であり、軍隊を失なった国家など考えられぬという意味だった。しかしこの時、天皇が東條の意見にどのように答えたかは明らかではない。
この上奏のあと、東條は陸軍省の自動車で玉川用賀の自宅に送られた。そしてこの日をもって、彼は公式の立場で国策決定に携わることがなくなった。〈重臣、陸軍大将、軍事参議官〉といった彼の肩書きは機能しなくなったのである。
十日夜、日本の海外向け放送は、秘かに「ポツダム宣言受諾」を流した。
敗 戦 の 日
政策決定の中枢である軍務課の佐官たちは、御前会議の決定を知っていたが、これまで一木一草に至るまで聖戦を完遂するといっていたのに、ここに至って戦争を終結させると決定すること自体に不満をもった。それゆえ陸軍省、参謀本部の責任者たちが、御前会議での決定を伏せて、さらに聖戦完遂に邁進せよという示達を流したことは、本土決戦派の中堅将校を勢いづけるものだった。
〈東條英機〉という名称は、そういう彼らの頼みの綱である。「あの東條なら、こんなかたちで終熄させることなどあるまい」と彼らが考えても当然であった。なにしろ開戦以来、中堅将校たちは戦いをやめるなど寸分も考えたことはなかったからだ。
彼らの連絡が、東條のもとにはいった。そのルートがどのようなものであったかはわからないが、それは「和平派を監視してでもポツダム宣言受諾はすべきでありません」という内容だった。だがそれに対する東條の答は、「陛下のご命令にそむいてはならぬ」というものであった。
中堅将校たちの眼には、あれほど戦争継続を叫んでいた権力者が、〈ある時間〉を契機にあっさりと態度を一変させたことが不可解に映ったにちがいない。「もし天皇がポツダム宣言受諾を熱心に主張しているなら、それは君側の奸どもが天皇の志を曲げているためだ」と東條は自分たちの計画に同意を示すだろうと、彼らは考えていたのである。その志向をもった指導者は、東條しかいないことを彼らは知っていた。十一日の夜から、陸軍省軍務局の将校たちの間で秘かにクーデター計画が練られたが、そのうちの幾人かは、こうして東條に期待し、裏切られた者たちだった。
東條は将校たちの動きを見て、阿南陸相に会い、〈承詔必謹〉を説くことを決意した。陸軍省に連絡すると、阿南は十二日だけ三鷹の自宅に帰ることが判った。そこで東條は、護衛の警官畠山重人とふたりで、三鷹まで歩いていくことにした。至急阿南に会い、自らの意見を伝えなければ……という焦慮に、彼は捉われていた。
阿南がこの日の夕方、三鷹の自宅に帰ったのは久しぶりのことだった。のちに判ったことだが、阿南は終戦時の混乱の際は自決というかたちで責任をとるつもりでいたので、家族に別れを告げにきたのである。阿南が自宅に帰ってまもなく、松岡洋右が訪れ、阿南と松岡は一時間ほど話し合っている。なぜ松岡が訪ねてきたのか。これは陸軍省軍務局の中堅将校たちが、松岡に阿南を訪ねるよう依頼したからで、この段階で中堅将校たちは、松岡を首班とする徹底抗戦内閣を企図していたのである。しかし阿南は、松岡の説得を受けいれなかった。松岡が帰ってから陸軍省軍務局のふたりの佐官が阿南を訪れ、ポツダム宣言受諾反対を説いた。阿南夫人の阿南綾の証言では、彼らは夜中までいたという。
ところで東條が護衛とふたりで三鷹の阿南宅に着いたのは、すでに十三日に入っている時間だった。このときの模様を、阿南の義弟で陸軍省軍務課の中佐だった竹下正彦はつぎのように証言する。
「たしかに東條大将が訪れたということです。ところが時間がおそかったのと、たまたま応対に出た女中が東條大将を知らなくてふつうの人が会いに来たように思ったらしいのです。それで話のくいちがいがあり、東條大将は帰っていきました。これをしばらくしてから聞いた阿南綾(竹下の姉)が追いかけていきましたが、やっと三鷹の駅の付近で追いつき、自宅に来るよう言いましたが、東條大将は阿南さんがお休みになっているならよろしいです、といって帰られました」――。
結局、東條はこの日、阿南には会わなかった。あるいは東條は、松岡内閣擁立を画策する中堅将校の意を受けて行ったという見方もできるが、それはこの一事によって否定されるだろう。東條が焼け跡の東京都内を歩き回り自宅に戻ったのは、十三日の明け方だった。「阿南はきっと判ってくれる」と、家人に話したという。
十二日になって連合国の回答が外国放送、外国通信社によって伝えられてきた。「降伏時から天皇と日本国政府の国家統治は連合軍最高司令官の制限下に置かれる」とあり、「最終的な政府形態は日本国民の意思で決定する」とあった。邦訳にして五百字足らずのこの回答のなかに、日本の運命は凝縮されていた。
午前八時半、鈴木首相、東郷外相、米内海相は、この回答に不満はあるが、これ以上交渉を延ばしても決裂するだけだと考え、受諾を決意した。しかし梅津と軍令部総長豊田副武は、天皇のまえに出て受諾反対を上奏した。その理由は、大本営が邦訳した訳文では「連合軍最高指揮官に従属されるべきものとす」となっていて、これでは日本が属国になるのを意味しているという理由をあげた。しかし天皇は鈴木、東郷、米内の側に立った。
閣議は揺れ、結論はでなかった。即時受諾派と再度照会派の激論はやまず、そこで正式回答があってから再び閣議を開き、態度をきめることになった。その回答が十三日に届くと、これを受けて最高戦争指導会議が官邸で開かれたが、首相、外相と陸相の対立はおさまらず結論はなかなかでない。アメリカの放送は、日本は故意に回答を遅らせていると批判し、さらに東京爆撃を加えると警告した。
そのいっぽうで米軍機は、ポツダム宣言と連合国軍の回答を日本語で書いたビラを、東京を中心に大量に撒き、日本国民と支配層を分離させる作戦を行なった。
これが陸軍内部の徹底抗戦派をいっそう刺激した。陸軍省軍務局軍事課長荒尾興功、軍務課の井田正孝、椎崎二郎、畑中健二ら佐官級が中心となっている徹底抗戦派の焦りは深まり、阿南に緊急非常措置としての具体的な兵力使用許可を求めた。彼らの計画は、東部方面軍と近衛師団で宮中と和平派を遮断し、国体護持の保証をとりつけるまで降伏しないというのである。阿南はこのクーデター計画に同意せず、梅津はまったく関心を示さなかった。そのため中堅将校たちの計画は、別な生き物≠ニして動きはじめた。
八月十四日午前十時。天皇は杉山元、畑俊六、永野修身の三人の元帥を宮中に呼び、終戦の決意を伝え、陸海軍ともこれに従うよう命じた。十一時半からは天皇が召集する御前会議が開かれ、ここでポツダム宣言受諾の聖断が下り、詔書の文案づくりが命じられた。すぐに閣議が開かれ、詔書の文案が検討された。阿南は御前会議の結論を省部に伝えるため、閣議を中断して陸軍省に戻り、首脳会議を開き、陸軍首脳部は一致して御前会議の決定に従うことを決めた。「陸軍ノ方針」と題されたこの決定は、わずか一行「皇軍ハ飽迄御聖断ニ従ヒ行動ス」と書かれてあるだけで、阿南陸軍大臣、梅津参謀総長、土肥原賢二教育総監が署名することにより全陸軍の意思となった。
八月十四日午後二時四十分は、陸軍が天皇の意思に従い、別な生き物として動かないと誓った瞬間である。
この決定は、東條のもとにも伝えられた。東條退陣後、参謀本部戦争指導班の参謀種村佐孝が、陸軍内部の様相をとき折り伝えていたが、このときも、たぶん戦争指導班の参謀が伝えたものと考えられる。あるいは東條のもとには、陸軍の諜報機関が常時情報をいれていたともいうが、そこのところは、いまとなっては定かな証はない。
皇軍は聖断に従い行動する――それは、東條自身にもうなずけるものだった。いや彼には独自の思想といったものはなく、行動のすべては聖断にしかよりどころはなかった。彼は身仕度をととのえると、市ケ谷にある陸軍省に行くことにした。阿南陸相に会って承詔必謹の意を伝え、危急の時、いっそう奮闘するよう励ましてくるというのであった。
十四日夕刻から夜にかけて、東條は陸軍省に阿南陸相を訪ね、その足で近衛師団司令部に行って娘婿の古賀秀正大尉に会い、自重を求めたと、家族に話している。当時の陸軍省将校の記録や各種の著作をみれば、東條が陸軍省を訪ねたという記録はない。つまり、この期にあっては、東條の存在はポツダム宣言受諾をきめた陸軍首脳にはそれほど意味がなかったということができる。
夜おそく家に戻った東條は、家族に、阿南も訪問を喜んでくれたといっている。さらに古賀にも会って、承詔必謹を説いて自重するように言ったといい、「何も心配することはない」と伝えている。
この日、東條が古賀を訪ねたのは、東條に一抹の不安があったからだ。
前日午後、古賀が突然、東條家に戻ってきた。日ごろ師団に泊まり、家に戻ってくることがないのに、不意の帰宅に家族はいぶかった。古賀は、地下室(防空壕)で一歳の息子をだきあげ、妻と義妹に向かって、
「これからはいかなる風が吹いてこようとも前を見て歩くんだ。わかったな。何かあったらすぐに九州のおれの実家に行け」
と言った。そして「おれの髪と爪はあったか」とたしかめた。
ちょうどそのとき、東條のもとには来客があった。それで古賀は、東條に軽く会釈して再びサイドカーで司令部に戻っていったが、古賀の帰ったあと、東條は家族に、彼が「髪と爪があるか」といったときいて驚き、「なに!」と大声できき返した。「死を覚悟している」「軍内のクーデター計画に加担しているのではないか」と考えたのである。
近衛師団司令部を訪ねて古賀に会ったとき、ふたりの間にはつぎのような会話があったと推測される。
「軍人はいかなることがあっても、陛下のご命令どおりに動くべきだぞ。承詔必謹でなければいかん」
「私もそのようにいたします。ご安心ください」
東條は執拗に承詔必謹を説き、古賀はそれにうなずく光景があったにちがいない。しかし皮肉なことに、この十時間後に古賀が自決することになろうとは、ふたりとも考えていなかっただろう。のちに、東條家に古賀の最後の様子を伝えにきた軍人は、以下のような説明をしたという。(正史とはいくつかの異なる点もある)
このとき古賀は複雑な立場にいた。前日、用賀の東條家から戻ったとき彼を待ち受けていたのは陸軍省軍務局の中堅将校たちだった。計画どおり近衛師団を動かすために、師団参謀の説得にやって来たのだ。参謀室には作戦命令の文書があり、古賀に脅迫まがいの説得がはじまった。
「陸軍の指導者は、大御心だからこれに従うだけだと言っているが、しかし降伏することは果たして大御心に添うものかどうか……。しかも宣言受諾は天皇のうえに新たな力が加えられることだ」
古賀は迷った。しかし悩んだあげく、彼は印をついたという。
十四日夜から十五日朝にかけて、天皇のポツダム宣言受諾の玉音放送用録音盤奪取を企図して、師団司令部、陸軍省軍務局の中堅将校が行動にでた。しかし彼らが考えたように東部方面軍の決起もなく、近衛師団参謀の命令書も連隊長に見破られ、陸軍内部に波及することなくあっけなく挫折した。
――この事件から五年後、東條家にかつての参謀本部の一軍人が秘かに手記『追憶の記録』を届けたという。そこには、古賀の遺言が記されてあった。この軍人は八月十四日夜に宿直として大本営にいたのだが、事件が起こるや侍従武官と大本営との連絡役をつとめ、決起将校の動静をこまかに見ていた。手記はつぎのような内容だった。(原文は古賀の遺児が所蔵)
「……御守衛隊本部の裏手の堤防上に登った。(古賀参謀は)振り返って静かな口調で『実は私は昨日用賀の父のところに行きました。父からは軍人はどんなことがあっても陛下のご命令どおりに動くべきものだぞと懇々と申されました。私もそのようにきっと致します、御安心下さいと答えて司令部に帰って参ったのであります(この間の事実関係は、手記の執筆者の記憶が少々ちがっている―保阪)。帰ってみると軍務課の課員との間の書類ができていて、師団命令が起案されていました。そこに私の連帯印だけがしてないのです。先輩参謀が連帯しているのに私だけがしないということはどうしても出来なかった。父の言にも背き悪かったと後悔いたしております。私に出来る責任の取り方はいかなることでも致しますが、この私の本当の心持を機会がありましたなら、私の妻に伝えて下さい』と語られた。涙が出ている。私も共に泣いた」
手記によれば、これが十五日の午前六時だったという。すでにクーデター計画は動いていた。失敗を願いながら、決起に加わっていた古賀は、自己の信条と裏腹の行動にでていて、その亀裂の深さに悩んでいたことになる。このとき彼は二十八歳だった。
十五日朝のラジオ放送は、全国民に、重大な発表があるから正午のラジオ放送をきくよう呼びかけた。
正午まえ、東條家の十畳間にあるラジオのまえに家族は座った。軍服を着て正座した東條の後ろにカツが座り、四人の娘とひとりの孫、それに女中、護衛の兵隊と、いまは東條の私設護 衛でもある元警官の畠山重人が一団となった。やがて天皇の声が流れた。その声は数分で消え、アナウンサーが〈敗戦〉にいたる経過をたんたんと説明しはじめた。すすり泣きが洩れた。はじめそれは護衛の警官や憲兵から起こり、そして家人に広がった。
東條はうつむいていた。五日まえに終戦を知っていたとはいえ、現実になると、すこしばかり落胆した。このあと東條はどんな行動をとったか。『文藝春秋』(昭和三十九年六月号)に『戦後の道は遠かった――東條家・嵐の中の二十年』と題してカツが書いている。「御詔勅をきいて、主人が、『終戦までは一死御奉公。これからは陛下のご命令で生き抜いて再建の御奉公。御奉公の方向が違っただけで意義は少しも違わない』と家族のものに教えさとした……」──。
もしこれを東條の本音とするなら、何と無責任かといわれても仕方あるまい。政治指導者としての自身の責任は、どうなるのであろうか。天皇に従うと称して、その実、天皇に一切の責任を押しつける意図を、彼は意識しないまでも、もっていたということになるではないか。
一時間後、近衛師団参謀長から東條のもとに電話があった。古賀が自殺したことを、この電話は告げていた。
「覚悟しておけ……秀正は自殺したらしい」
と、彼は次女に伝えた。
このとき東條は、古賀がクーデター計画に関与したとは思っていない。敗戦を認めることができない将校が、肉体の消滅をもって意思表示をしたと受けとめていた。古賀の遺体は、顔だけみえるようになっていて、全身は包帯でつつまれていた。師団の貴賓室で割腹し、咽喉に拳銃を打ちこみ絶命したという報告を、その死体は裏づけていた。自らの肉体を射た拳銃は、形見として東條のもとに届けられた。
遺体に付き添ってきた参謀のひとりが、前夜からの不穏な動きに加わり、その責任をとって自決したと遠慮がちに告げた瞬間、東條は応接間のソファに座りこんでしまった。彼の目は焦点を失なっていた。しばらくして彼は、「ご迷惑おかけしました」と参謀に丁重に詫びたが、これ以後、東條は人間としての古賀に言及することはあっても、軍人として語ることはなかったという。大権干犯はどうしても容認できなかったのである。その夜の仮葬儀は奇妙な静けさの伴ったものであった。
十五日夜から十六日、十七日、十八日と、東條のもとには来訪者が相次いだ。陸海軍の将校、民間右翼、学生たちで、彼らは激情を叩きつけるように、東條に申し出た。ある将校は、「宮城を枕にもう一戦交えなければなりません。本土防衛はいま整ったばかりです」といい、「決戦内閣をつくって最後まで闘いぬきましょう」という官僚もいた。
しかし彼らは、東條のすげない返事にあって帰っていくだけだった。
「大命を拝した以上は、大御心に沿ってご奉公しなければならない。天子様を離れては日本では力がでない。それが日本人というものだ。この際は心を新たにして国内の一致団結が必要だ」
血気にはやる軍人には、つぎのように言うこともあった。説得力をもったか否かは別にして、たしかに瞬間的なことばの美しさはあった。
「若い者が忍びがたい現状について血の気が多くなるのも当たりまえだ。その気持はわからぬでもないが、大命を拝したあとは、過去のゆきがかりを離れて天子様の大御心にそわなければ ならない。武装解除をされる武人の心情は察するにあまりある。心根があっての剣、そして銃だ。たとえ武装はなくなっても心の武装は永久に失なわない。自分の心の武装は決して解除されない」
また激情的なこれらの声とは別に、東條を弾劾する声が起こることを彼は予想していた。二十日前後からは、東條家に宛てて、自決を勧めたり殺してやる式の脅迫状が届くようになり、それはまたたくうちに山となった。彼はのちに巣鴨拘置所にいる折りに、ある人物に、イタリアのムッソリーニのように私刑にあうことを恐れたと告白したが、そういう空気はたしかにふくれあがっていた。
二十日近くなって、東條家の回りを十数人の憲兵が護衛した。表向きそれは、不穏な計画をもって訪ねてくる軍人を追い払うことにあったが、実際には東條自身へのテロを警戒してのものであったろう。東條もそれを感じたのか、応接間にとじこもったまま外に出ようとはしなかった。そして思いついたように、廊下の下に掘られている防空壕を砂土で埋めた。アメリカ軍が日本に来れば、当然この家にも訪ねてくるだろうが、そのとき自宅の防空壕を発見されるのは屈辱的であった。彼としては、泰然自若として彼らと応対したかったのである。
彼が熱中したもうひとつの作業は、陸大時代から綴っていたメモやノートを焼き捨てることだった。そのなかには歴史的な資料になるものが多く、とくに陸相、首相在任中の執務メモは一個人の備忘録ではなく、日本の歴史を継承していく重要な資料になるはずだった。それもすべて庭で焼却した。煙は三日間もつづき、四十年近い彼の膨大なメモ帖は、あっけなく灰になっていった。東條の目を盗んで家族が二、三冊ぬきとったのが残されただけだったが、そのメモ帖を本書では参考にしている。
またメモ帖だけでなく、交友録もこのとき焼かれた。「こちらから会うことはない。会いに来る者だけが本当の知人なんだ」と東條はカツに洩らしたりしたが、このふたつの仕事を終えたあと、東條は家族を集めてつぎのような心がまえを話した。
「自分は開戦時の首相だから、想像もできぬほどの波も襲ってこよう。自分は充分対応できるが、家族にはそれを被らせたくない。それにポツダム宣言には、戦争責任者の処罰も唱っている。自分はそれも甘受しよう。あるいはアメリカに連れていかれるかもしれぬ。それも覚悟のうえだ。そのときは堂々と出頭して意見を述べるつもりだ。おまえたちも東條の娘として苦労することもあろうが、前を向いて歩いてくれ……」
そして彼は、つぎのことばをなんどもくり返した。
「東條英機の功罪は、百年後の史家の判断を待つ。そこでわかってもらえるだろう。それを信じている……」
近衛も、また近親者にこれと同じことばを洩らしていた。つまるところ、日本の指導者たちが頼るべき世界は、百年後という抽象の世界でしかなかったのだ。
東條の自殺未遂
戦後初の内閣となった東久邇内閣のもとで、陸軍省は終戦業務を行なう行政組織になったが、その具体的方向はすこしも明らかではなかった。占領軍がどのような態度をとるのかをつかみかねていたからだ。
八月十五日を境に、政治、軍事の中枢にいた人物の自決が相次ぎ、たとえば東條内閣の文相橋田邦彦や軍事参議官篠塚義男などが、開戦の責任をとって自決した。陸相阿南惟幾は十五日未明に自決した。将官の自決は十数人に及んだ。
そして、そういったことが報じられるたびに、東條の自決も当然だという空気が生まれていった。外地から帰還した佐官クラスの将校が、敗戦の責任をとって自決するように勧めたこともある。しかし東條は、「死ぬことより生きることのほうが辛い。もうすこし考えさせてくれ」と答えている。実際、そのことばどおり、東條はこの期には死ぬつもりはなかった。
かつての側近で、最初に東條家を訪れ面倒をみたのは、秘書官だった広橋真光である。内務省の官吏にもどっていた彼は、東條の相談相手となった。東條家の刀剣や賜物の隠匿を指示し、家族の疎開も助言した。東條をとり囲む情勢が悪化しているのを知っていたからだ。
広橋は、『秘書官日記』につぎのように書いている。
「大詔を拝した上の大将の御気持はさっぱりしてゐる。最後の御奉公をなし、敵の出様如何によっては進退を決することとし、国家の為になる様に天子様の御徳を傷つけない様に機に応ずる決意ははっきりしてゐる。それ故家の心配をなくすこととし、次男以下分家することとし、次男は分家、三男は長女の養子とし、三女、四女だけを家族とし、九州の勝子夫人の郷里に帰されることとなった。東京には勝子夫人と二人きりで敵の出様を待たれることになった」
八月二十七日、東條は四人の娘を九州・田川のカツの実家に送った。家には憲兵と警官、それにカツと手伝いの女性がのこった。身軽になった東條は、これを機に胸中の一部を洩らすようになった。このころ盛んに報じられているドイツのニュールンベルク裁判を意識し、かつてのドイツ政府の要人が、連合軍の検事に糾弾され身を縮めているという記事を読むたびに、東條の不安は昂まっていき、つぎのようなことばをしばしば吐いた。
「戦争責任者というなら、自分が一身に引き受けて国家のために最後の御奉公をする。連合軍は戦争犯罪人というが、こんなことばはまったく受けいれられない」
しかし〈国家のために御奉公する〉ということは、具体的にどういうことだったろうか。それを八月の終わりから九月の初めにかけて、彼自身も決めかねていた。ポツダム宣言にあるとおり、戦争責任者の処罰が自分自身を対象にしていることは疑っていなかったが、それにどう応じるかは充分につかんでいなかった。
目前には、彼の意思で行なえる〈自決〉という責任のとり方がある。肉親からもこの声があがった。九月にはいってすぐ、次男が家族と一緒に訪ねてきて、「ともに自決を……」と詰めよったことがある。そのとき東條は、つぎのように言って制した。
「わしのことはわしに任せておけ。おまえたち若い者は、これからの日本の建設に必要なのだ。死んではいかん。もしそれでも……というなら三年待て。その間に考えが変わらないなら死んでいい」
「三年待て」ということばには、実は、自決を拒否する意味があった。次男と前後して三男も帰ってきた。陸軍士官学校に在学中のこの青年は、敗戦によって生きる支えを失ない、終日声を挙げて泣いた。遅れをとった青年の泣き声は口惜しさに満ちていた。「これからは日本建設のためにご奉公するのだ」と、東條はこの青年を慰めた。次男、三男の自失は、当時の日本の平均的な青年のそれと同じだった。東條はそれを必死に慰撫するのが役割でもあるかのように、慰めつづけた。
八月三十日、マッカーサーがパイプをくゆらせて厚木飛行場に降り、九月二日には東京湾上に停泊中のミズリー号で降伏の調印式が行なわれた。降伏文書の調印によって、連合軍最高司令官による日本の占領、管理が開始され、天皇と日本国政府の権限は、この文書の枠内でのみ機能することが許されることになった。最高司令官つまりマッカーサーの間接的統治国家となったのである。
東條は、連合軍がどのような対応策をとるのか不安気に見守った。敵の出様如何――をさらに具体的に考えなければならなかったが、東條が考えている〈敵の出様〉というのは、つまるところ、かつて首相にあった者にたいする態度という意味のようであった。無礼で傲慢であれば、それに抗するというのである。彼が考えているプライドとは、そういうことであった。そしてムッソリーニの逆さ吊り死体が写真で報じられると、「醜悪な死体にはなりたくない」と、死後のことを気にする口ぶりにもなった。
マッカーサーの日本統治が報じられてから、東條家には庶民の怒りの投書はいっそう増えた。「おまえのために息子は死んだ」「切腹して国民に詫びろ」「早く自決しろ」――そういう投書を東條は気にした。とくに東條を恐れさせたのは、戦争未亡人の、「おまえには三人の息子がいてひとりも戦死しなかったではないか」という文面だった。長男は満州国の警官、次男は航空機の専門家だったため徴兵されなかったのに……と、東條は弱々しくつぶやいた。
もっとも戦時中にもこうした噂が囁かれた。東條はそれを気にして兵務局に「長男を徴兵しろ」と催促したという。この長男は東條にことごとく反撥し、終戦時にも「いまだかつて親父のおかげで役だったことはない。終戦後は東條の子だ、孫だ、といじめられた。何の因果で東條の子供などに生まれてきたのだろう」とぐちったという。その長男を東條もまた敬遠しつづけた。長男のなかに当時の日本人の冷たい視線を見ていたからだろうか。
連合軍は横浜に仮庁舎を置くと、日本統治の具体策を実施したが、日本側の公使鈴木九萬の著しているところでは、総司令部は日本人が考えている以上に戦犯問題を重視していることが判った。アメリカ国内の世論を静めるためにもそれは必要な事項だったというのである。総司令部が九月上旬に戦争責任者数十名を逮捕するかもしれないという噂を耳にした鈴木は、それを東久邇内閣の重光外相に伝えた。重光は総司令部に、占領政策や戦犯逮捕などは日本政府を通じて行なって欲しいと要望した。
重光のルートで、この情報は東條にも伝えられた。東條の名前がリストの最初にあるようなので了承しておくように……というのであった。来るべき時がきたと、東條は受けとめた。そして新たに、東條の胸中に葛藤が起こった。自らの名で布告した『戦陣訓』の一節「俘虜ノ辱メヲ受ケズ潔ク死ヲ選ブ」に、彼自身が拘束されはじめたのである。
九月五日ごろから十日までの間、東條の胸中は揺れ動いた。『戦陣訓』のとおり自決するか、それとも戦争責任者として潔く連合軍の裁きを受けるか。彼はどちらにも決しかねていた。だが連合軍が刑事犯を連行するような扱いをするときは、抵抗か自決を考えた。それは彼自身の面子と小心さが生みだした結論でもあった。かつて石原莞爾、尾崎行雄、中野正剛、そして重臣たちに傲慢な態度をとったのも、その面子と小心さのゆえであったが、彼はいまもその性格に振りまわされていた。すでに彼は、裁判で天皇に責任がないことを陳述できるのは自分しかいない、という考えを放棄しつつあった。
彼は秘かに遺書を書いた。人を介し徳富蘇峰に添削を頼み、机にしまいこんだ。遺書は「英米諸国人ニ告グ」(四百字)、「日本同胞国民諸君」(四百八十字)、「日本青年諸君ニ告グ」(四百字)の三通で、戦争責任はアメリカにあること、日本は神国であり不滅であること、という彼の考えが凝縮されていた。
つけ加えれば、この遺書は、のちにUPのホーブライト記者によって昭和二十七年の『中央公論』誌上で公表された。法学者の戒能通孝はこの誌上で、「東條的無責任論の内容は、彼が結果を言わずして『正理公道は我に存し』と力説するだけで、国民に命令し、『青年諸君』に教訓するがごとき心境を、敗戦後にいたるまでなお持ちつづけていることに十分以上に現れている」と批判している。それが当時の日本人の平均的な考えだった。
遺書とともに東條は、もうひとつ彼らしい周到な用意をした。隣家の医師をたずね、心臓の位置を確かめて、そこに墨で○印をつけた。そしてそれを、風呂にはいるたびに書きかえた。
〈東條が自決を覚悟している〉
どういうルートか不明だが、このことは陸軍省にも伝わった。むろんそこには、東條ほどの地位にいたなら自決すべきだという意味もこめられていた。いや歓迎の声さえあった。しかし省部の要職にある者は、この噂を不吉なものと受けとめた。天皇を免責するためにはこの男を殺してはならぬ、という共通の理解があったからだ。九月十日、下村定陸相が陸相官邸の貴賓室に東條を呼び、自決を思いとどまるよう説得したのもこのためだった。
「軍事裁判は戦争責任の所在を追及することになりましょうが、そうなればそれを語れるのはあなたしかいない。いやあなたがいなければ審理もきわめて不利なものになる」
東條の返事は曖昧だった。下村には、東條が態度を決めかねていると映った。そこで下村は切り札をだした。それが東條の弱味であることを知っていたのだ。
「万一、累を陛下に及ぼし奉るような事態にでもなったら、それこそ申し訳ないではありませんか」
東條は絶句し、しばらく考え込んだあげくに答えた。
「君の言うことはわかる。しかし、自分にはもうひとつ理由がある。それは戦陣訓だ。捕虜になるより潔く死を選べと自分は言ってきた。それが気持のうえで大きな位置を占めている」
しかし下村は、とにかく自決してはならないと説いた。天皇のためにあなたの命は必要なんだという論旨だったが、それに東條は充足感を覚え、「考え直してもいい」と答えて自宅に戻った。
この日、自宅にアメリカ人記者二人が初めて取材に訪れた。彼らは陸軍省の自動車から降りた東條を取り囲んだ。「敗軍の将、兵を語らずです」と東條は口をつぐんだが、しかし彼らは執拗につきまとい、あげくの果てに庭に椅子を持ちだして即席の記者会見を強要した。
彼ら新聞記者たちは、この二、三日中に総司令部が戦争責任者の逮捕にのりだすかもしれないという情報を握っていた。それに新聞記者の間では、マッカーサーがこの問題に積極的ではないとの不満があり、日本の戦争責任者の素顔を世界に知らせて、戦争責任者追及を行なわせようという含みももっていた。
「開戦の責任者は誰であると思うか――」
「諸君は勝利者であり、いまは諸君がその責任者を決めることができる。だがこれから五百年、千年を経たとき、歴史家はちがった判定を下すかもしれない……」
「あなたはアメリカで天皇の次によく知られた男だ」
「それはいい意味でですか、それとも悪い意味でですか……」
ときに記者たちは笑い、東條も笑った。こういう問答をくり返しているうちに、記者たちは「日本のヒトラー」「東洋のナポレオン」と考えていた先入観と異なる印象を受けたらしく、その印象を「あるときは鋼鉄のような冷たさ、あるときは心からの笑い、というように気分を変化させながら語った」と世界中に流した。アメリカ入記者たちも、東條に好感をもったというニュアンスを記事の中に盛りこんでいた。
しかしこれは、東條には名誉なことではなかった。開戦の責任を問われたなら、東條もルーズベルトのように自ら信じている不動の信念を卒直に語り、彼としては日本の立場を強調しなければならないはずだった。彼の書斎兼応接間の机の中には遺書があり、そこには戦争責任はルーズベルトにあるとも書かれていたが、そのことも彼の口からは出なかった。肩書きが外れたいま、彼は驚くほど小心で気弱な人間として、敵国の新聞記者のまえに立ちすくんでいるだけだったのだ。
翌十一日、いつものように午前五時に起きた東條は、応接間で書き物をしたり、新聞を熱心に読んだりの生活にはいった。昨日のアメリカ人記者の訪問や下村陸相からの呼びだしは、連合軍からのなんらかの動きの前触れのように思われ、それが東條を緊張させていた。
午前十時すぎ、ふたりの訪問者があった。赤柴八重蔵と小野打寛である。赤柴は本土防衛にあたる第五十三軍司令官で終戦を迎えた。小野打はフィンランド公使館駐在武官だったが、戦争末期に帰任し、そのころフィンランドがソ連に敗退したときの模様を東條に講じたことがあった。庭に椅子をもちだして三人は雑談にふけった。このときの模様を、昭和五十二年五月に赤柴はつぎのように証言している。
「語ることはもっぱら古賀君のことで、戦争のことはふれぬようにした。それがこのころの私たちの礼儀でした。私自身は陸士幹事をしていて古賀君とは師弟の間柄でもあったから、とくに東條さんと会話を交しましたが、この日の東條さんの表情にはかつての陸軍大臣のころの凄味がなくなっていて、悟りの境地にはいっているような和やかさがありました。古賀君の話をしているときも、涙を浮かべていた。正午が近づくと私たちは椅子を立ちました。当時は食事時間に他人の家を離れるのが礼儀でしたから……」
東條は門までふたりを送ったが、その時、細い道に三台のジープが駐車していて、そこに数人のアメリカ人記者らしい男が乗りこんでいるのを認めた。送る側も送られる側も、これが何を意味しているのか容易にわかった。
応接間に戻ると、東條は、この家の三人の住人を集めた。カツと女中には、かねてからの打ち合わせどおり親戚の家に行くよう命じ、東條自身は護衛の畠山重人とふたりでこの家にとじこもる準備をはじめた。東條は応接間に入り、畠山は家のすべてに鍵をかけて、奥の居間で事態の変化を待った。
午後一時すぎになると、ジープがつぎつぎと横づけされた。新聞記者と、銃を肩にしたMP三十人あまりが東條家の回りを徘徊し、ある者は邸内に入りこんで、ガラス戸越しに室内を覗きこんだ。
〈なぜ何も言ってこないのだろう〉
東條は首をひねった。彼は連合軍が逮捕に来たと思ったが、それよりも前に射殺されてしまうかもしれぬと恐れた。そのまえに自殺しようと心を決めた節がある。それで応接間を死に場所にふさわしいように最後の点検をした。長年つかっていた机、椅子、書類棚。ソファの後ろには等身大に近い肖像画があり、机には彼の心の拠り所である大東亜会議の写真を飾った。そして応接セットのテーブルに遺言状を置き、二挺の拳銃と短剣一刀を並べた。それから部屋の隅に大将の肩章と六個の勲章の略綬をつけた軍服をたたみ、その脇に軍刀三刀を立てた。それが帝国軍人の最後を見守る舞台装置であった。
動きがはじまったのは午後四時近くになってからである。二台の高級将校用のジープが玄関前に横づけになると、数人のMPが降り、これまで監視をしていた兵隊を指揮して玄関と応接間周辺をとりまいた。MP隊長ポール・クラウス中佐が玄関をノックした。と同時に、邸をとりまいていたアメリカ兵が一斉に銃をかまえた。彼らも銃撃戦を覚悟したのである。
ノックの音をきくと、東條は女婿の古賀の形見の拳銃をテーブルにのせた。たぶん彼は、軍服を最後の衣裳としたかったにちがいない。そうしておいて彼は、半袖開襟シャツにカーキ色の乗馬ズボンという服装で応接間の窓をあけ、「拘引の証明書をもっているか」とたずねた。するとMPのひとりが書類を見せたので、東條は「いま玄関の戸をあけさせよう」と言って窓を閉め、鍵をかけた。軍服に着がえる時間はなかった。のちに東條が巣鴨拘置所で語ったところでは、このあと彼はソファに座り、左手に拳銃を握り、○印の個所をシャツ越しに確かめて古賀の拳銃を発射させた。しかし彼が左利きだったことと、発射の瞬間に拳銃がもちあがったことで、弾丸は心臓から外れた。
一発の銃声はアメリカ兵たちを驚かせた。彼らは、東條とその護衛たちが絶望的な戦いを挑んできたと考えた。すぐに応射し、何発もの弾丸を家に射ちこんだ。しかし邸内からの応射はない。幾人かが玄関を破り、拳銃を手に応接間のドアを壊しにかかった。興奮した英語が応接間のなかに投げこまれた。
このときカツは、隣家の庭で農婦を装いながら様子をうかがっていた。邸内から一発の銃声が響き、それに応じてMPの乱射があり、あとは喧騒が自宅を支配しているのを知って覚悟をきめた。軍人らしい死に方であって欲しい……と合掌し、夫はそのように死んでいったであろうと確信して、彼女は庭から離れた。高台の道を降りていくと、あちこちにジープがとまり、待機しているMPが無線にとびついているのが眼についた。ジープのなかに機関銃が無造作に積みこまれてあり、もしもの場合にはアメリカ兵は射ちあいを覚悟していたのだと思った。それが夫への〈対応〉だったのかと、彼女は不快の念を押さえることはできなかった。
しかし、このとき、カツには夫に殉じるつもりはまったくなかった。その意味では、日本的な情緒をふりきったところにこの夫婦は立っていたのだった。
[#改ページ]
「戦争全責任ノ前ニ立ツコト」
民主主義への感嘆
数人のMPは応接間にかけこんだとき、アームチェアによりかかり、頭を垂れ、呼吸を荒らげている、かつての敵国の首相を見た。応接間のドアと対峙するように、彼のソファはあり、この元首相はまだ拳銃を手ににぎりしめ、侵人者にひき金をひくかのような意思をみせていた。隊長のポール・クラウス中佐が、「射つのはやめろ」と叫ぶと、その手から拳銃が落ちた。
その瞬間から、この応接間はひとりの病人が置かれた手術室とかわらなくなった。「医師を呼べ」と英語で叫ぶ者、東條の脈をとる者、手際よく包帯をとりだす者……。
この一連の光景を目撃した日本人が、たったひとりだけいる。朝日新聞出版局記者の長谷川幸雄であった。彼がここにいたのは、まったく偶然だった。外人記者に頼まれ、東條家に案内してきたところで、この事件にであった。彼は、クラウス中佐につづいて応接間にもぐりこんだ。記者特有の目で、すばやく室内を見わたした。質素な部屋だった。日本刀と軍刀が部屋の隅に置かれているのがわびしく映る。つぎに彼は、東條の傍にいき、かつて権勢をきわめた男の表情を見つめた。
皮膚は蒼白く、顔は汗でぬれ、血が湧き水のように胸部から吹きだして床に落ちている。死が迫っているように見える。東條の手は、脈をとろうとする者の手をなんども払いのけていた。
アメリカ人記者が、「東條が何かつぶやいている」と長谷川の肘をついた。長谷川は東條の口に耳をあててみた。
長谷川幸雄はそのときの状況を語る。「小さな声で聞きとりにくかったが、しきりに何かをくり返していた。それが、『一発で死にたかった』ということばだと気づいたので、私も反復するように『一発で死にたかった』とどなった。するとやはり彼も軍人のせいか、この応答が気にいったのか、とぎれとぎれに十五分ほど話しつづけた。私は新聞記者として東條という軍人が好きではなかったが、この現場に立ち会ったことに妙な因縁を覚えたものです」――。
長谷川はこのときの顛末を『文藝春秋』(昭和三十一年八月号)に「東條ハラキリ目撃記」として発表しているが、それによると東條の語ったのはつぎのようなことばだったという。
「一発で死にたかった。時間を要したことを遺憾に思う。……大東亜戦争は正しき戦いであった。国民と大東亜民族にはまことに気の毒である」「法廷に立ち戦勝者のまえに裁判を受けるのは希望するところではない。むしろ歴史の正常な批判に俟つ。切腹は考えたが、ともすれば間違いがある」「天皇陛下萬歳。身は死しても護国の鬼となって最期をとげたい」――。
東條のこのことばは、長谷川のスクープとして世界に流れた。だが机の中の遺言を押収した総司令部は、「遺言の内容は裁判を拒否するので自決するというものだった」と簡単に発表しただけである。
東條家の応接間には、近くの荏原病院の医師が呼びだされた。この医師は「もう手遅れだ」といって診療に熱心にならなかった。本人が死ぬ覚悟でいる以上、その意思を尊重しようという心算だった。しかし連合軍は、「東條を死なせてはならぬ」という考えをもっていた。報告を受けたマッカーサーはすぐに医師を派遣して、自らの厳命を徹底させるようのぞんだ。彼は東京裁判の主役に東條を据えようと考えていたからである。
もっともこの期、マッカーサーは東條とその閣僚を捕虜虐待などの罪でB級戦犯とし、アメリカ独自で裁判を行なうべきだと執拗に本国に要請していた。が、この要請は拒否されている(「米国公立文書館文書」による)。
アメリカ人医師が駈けつけ応急処置をしたうえで、東條は、横浜・本牧にあるアメリカ陸軍の仮設病院に運ばれた。小学校の講堂を改造した病室には医師と看護婦がつきっきりで看病し、十一日深夜になると東條の様態は、弾丸が第六、第七肋骨の間をぬけ心臓からわずかに離れていたので致命傷にならないことがわかった。東條が流動食を拒んでいることも明らかにされたが、アメリカ兵の血が輸血され、身体は回復に向かっているとも発表された。
翌日からの新聞、ラジオは、東條の自決未遂を冷たい筆致で伝えた。そこには、やはりこのころに自殺した杉山元夫妻の見事な割腹自殺と比べて、「武士としての心がまえがない」「芝居であろう」と嘲笑、無視、愚弄があった。東條の周辺にいた者は、東條が日頃から「退き際と死に際が大事だ」と豪語するのを耳にしていただけに、この不徹底さは彼自身の意思の弱さにあると受け止め、行動の規範をもたぬ人間に共通の失態だとした。木戸幸一はこの自決未遂を日記に書かず、衆議院の事務局長だった大木操は『大木日記』に「未遂とは何事か」と書き、細川護貞に至っては「日本の面子をつぶした。こんな小心者に指導されていたとは……」となじった。マッカーサーのもとには「東條に死刑を」という感情の束が山となって積まれた。
近親者の家で身を細めながらこのニュースを聞いたカツは、周囲にいる者が東條に短刀を渡して死なせて欲しいと願った。自決未遂は彼女にも不満だったのだ。武士の情があるならそうしてほしいと願ったと、のちに話している。その不満を抱えて、彼女は九州の実家に帰った。
……つけ加えれば、いまだに東條英機はMPに射たれたと信じている者がいる。理由は簡単だ。軍人は自決の方法を日ごろから教えこまれていたし、本当に死ぬ気ならこめかみに射てば即死のはずだというのだ。東條ともあろう人が、最後に見苦しい自決未遂などするわけがないというのだ。だが結論は、この人たちは、いまだに東條英機を幻想のなかでとらえているにすぎない。東條は確かに自ら命を絶とうとし、それに失敗したのである。
東條の自決未遂は、日本政府を驚かせた。政府に通告なしにいきなりMPが逮捕に行くというのは困るということで、重光外相は総司令部と交渉し、今後は日本政府をつうじて身柄を拘束することを認めさせた。このとき連合軍は、三十九名の逮捕を考えていたのである。
戦争責任者の身柄拘束という面からも、東條の自決は新たな局面のなかで受けとめられた。強引な逮捕をつづけると、日本人は自決でそれにこたえるという教訓になったのだ。
東條の病室を最初に訪ねた日本人は、外務省の鈴木九萬だった。彼が政府の代表として見舞いに来たことを告げると、東條は、「自分はもう生きながらえる考えはない。……アイケルバーガー中将(第八軍司令官)が、自ら病院に来て、かゆいところに手の届くような手厚い待遇をしてくれて感謝に堪えない」と言った。その日から、十月七日に傷が癒え大森にある収容所に移されるまでの間に、鈴木は数回東條を訪問したが、東條の言動はしだいに変化したと証言している。二回目の訪問では、「死ぬのはやめにした。法廷で所信を述べ戦争責任をとりたい」と東條はいい、自分にたいする日本政府の無関心な態度にも不満を洩らした。かわって「アメリカの将校は徳操が高い」とか「わが陸軍からは誰も見舞いにこない」とまで、彼は洩らすようになっていた。
ここには、状況のなかで容易に思考を変質させてしまう東條独特の無定見さがあった。思想や世界観がないゆえに、ただ状況に反応するだけだったのだ。
アメリカにたいする素朴な共鳴は、大森の収容所に移っても彼の口から語られた。この収容所には、東條自決のあと拘束された三十二名の指導者たちがすでに居住していた。東條が戻ってきてもしばらくの間、かつての指導者たちは最高権力者≠ノ冷たい視線を向け、東條もまたその輪に入っていこうとしなかった。一足先に収容されていた橋本欣五郎は、そういう東條の姿を「病ゐえて東條元総理入所す、歩行たしかならず物のあはれを覚ゆ」と自らの歌集に記している。
この収容所には、占領直後、総司令部の命令に叛いたとして、現役の官僚、軍人も懲罰の意味で収容されていた。敗戦時に参謀本部総務課長だった大佐榊原|主計《かずえ》もそうしたひとりだったが、彼が支那派遣軍時代に赤松の親友だったことを知ると、東條はもっぱら彼を話し相手とした。
このときの会話をメモしていた榊原は、巧妙に収容所からそのメモをもちだしたが、そこには東條の反省が刻まれていた。統帥権独立は結果的に誤りであり、これによって軍内の下剋上の思想がはびこったといい、それが陸軍の横暴につながったと自省している。さらに彼は、アメリカのデモクラシーについて感に耐えぬような意見を洩らしていた。
「治療を受けるあいだつき添ってくれたアメリカのMPは立派だった。社会の動きにもそれなりの見識をもっていた。教育程度も高いからだろうが、国民に知らせ、自覚をもたせ、これを掌握すれば力となる。アメリカのデモクラシーはこの点にあったのだ」
将来は、日本もこの方向への改善が必要なのだと思うとつけ足している。それを|敷衍《ふえん》して彼は、日米交渉にも反省を洩らした。
「日米両国はともに虚心坦懐に東亜安定の基礎確立のために、直接交渉して、和平の途を勇敢に講じてみるべきではなかったか」
指導者のこうした初歩的な自省の言を公表するには、当時はあまりにも波紋が大きすぎた。榊原が東條の諒解を得てもちだしたこのメモを公表したのは、実に二十九年後の昭和四十九年だった。東條のあまりにも素朴な自省は、開戦時の首相の言としては不謹慎すぎるからである。この程度の認識もなしに戦争に突入したとすれば、それはかなり由々しき問題と受けとめられてもしかたがなかったと、関係者は恐れたのだ。
大森収容所は戦時中の捕虜取容所だった建物で、皮肉なことに、日本の指導者たちはここに捕われの身となった。しかし彼らの生活はそれほど不自由だったわけではなく、昼は自由に鉄条網の中を歩くことが許された。
その折りに、かつての指導者たちはそこかしこで輪をつくり、談論するのが常だった。東條はそれらの輪に加わらず、ひとりで本を読んでいた。ほかの収容者も東條に話しかけようとはしなかった。東條が孤立しているのは、だれの眼にも明らかだったのである。
差し入れは自由だったので、東條の長女が九州から上京し、親戚に身を寄せ、差し入れにかよった。新聞、雑誌、それに日用品、衣類、ときには東條の好きな里芋の煮つけが届けられた。その差し入れを頒つことから、東條とかつての軍人との交流がすこしずつ再開した。政治家や官僚よりも、やはり軍人との交友がはじまったのである。「差し入れを我に頒ちて東條は|自《おの》を慰む態度なりけり」――橋本欣五郎はそう日記に書いている。
収容所には十月、十一月と、ぞくぞく戦争責任者がはいってきた。十二月二日には各界の指導者五十九名に逮捕命令がだされ、六日には木戸幸一、近衛文麿ら九名にも出頭命令がだされた。出頭前夜、近衛は自殺したが、日本の指導者層は、総司令部が宮中グループを含め天皇の近くまで逮捕者を増やしていくことに衝撃を深めた。
総司令部は、最終的には千五百名以上の逮捕になるとにおわせた。そこで大森収容所は手狭なので、巣鴨にある刑務所を改良して新たに戦犯収容所とし、ここにA、B、C級戦犯を移すことを決めた。移送は十二月八日、真珠湾攻撃の日が選ばれた。
連合軍総司令部はこの種の厭がらせを好み、とくに東條には徹底して侮蔑的な態度をとった。
たとえば東條の部屋は四四号室だった。指紋を採取した時間は午後二時二十分。四年まえのこの日のワシントン時間に、駐米大使野村と来栖が最後通牒をハルに渡した時間であった。東條は歯の治療をしたが、技工士はその入れ歯に、「リメンバー・パール・ハーヴァー」の頭文字「R・P・H」の刻印を押した。食物を噛むたびに、「R・P・H」は上下に動き、東條の生命はこの刻印によって保証される皮肉をこめていたのだ。むろん東條はこのことを知らない。
巣鴨拘置所は連合軍によって改造され、暖房施設を整え、採光をとりやすいようにガラス窓をふやし蛍光灯をつかうなどして、環境が整備された。そのため世間では「巣鴨ホテル」といわれたほどだった。しかし収容者への取り扱いは過酷だった。アメリカ人記者がしばしばこの拘置所を訪問し、待遇が良すぎると本国に打電したこともあって、その扱いから親切と思いやりは消えていった。この拘置所の運営はアメリカ軍に任されているため、他の連合国への配慮からも不祥事を恐れたことがそれに輪をかけた。いわば戦争犯罪者として扱われることになったのである。
差し入れの検査は厳重になった。毒物が混入されていないか調べられた。用便も監視された。東條の部屋は六〇ワットの裸電球が終日灯されていて、三十分ごとにMPが入ってきては毛布をかぶっている東條をつつき、反応を確かめた。家族からの手紙は写真撮影されて渡された。東條は、敵国の首相としてMPたちの人気の的であったが、それは悪名高き指導者の備品、石鹸、歯ブラシ、手拭いが記念品として盗まれることで証明された。
持ち物検査、衣類検査がしばしば行なわれ、毒物の所持が調べられた。そのたびにかつての指導者たちは、若いMPに老いた裸体をさらさねばならなかった。また収容者たちには日記をつけることが許された。そこで東條は、人生のほとんどをそうしてきたように、毎夕その日のできごとを書いた。
……いま私の手元に、彼の自筆の日記(昭和二十年十二月から翌年十月まで)がある。彼はこの拘置所で、この十カ月間だけメモを書きつづけたが、その内容は身辺雑記にすぎない。日記の第一頁に「自戒」と題して四つの心がまえが書いてあるが、それは彼自身が拘置所での言動の規範とすることを誓った内容だ。その内容は八月十五日以後、曲折してきた彼の心理もやっとひとつの方向を見出し、そこにむかって歩みはじめたことを物語っていた。東條は〈東條英機〉に戻ったのである。
「一、戦争全責任ノ前ニ立ツコト殊ニ聖上陛下ニ責任ノ帰セサルコトニ就テハ全能ヲ盡シ又他ノ閣僚其他ノ者ノ責任ヲ極力軽減スルコトニ努力スルコト。二、死生ヲ超越シ事ニ当ルコト、平素ノ言行斯キ始メテ世人ニ信ヲ受ク、死ハ生ノ完成タルコトヲ忘ルルナ。三、欧米人ノ前ニ堂々タレ、毫末モ退嬰ノ気分アル可ラス。四、裁判ヲ通シ東亜国民ニ対スル欧米人ノ専横、東亜国民ノ窮状帝国ノ之レニ対スル義心ヲ世界ニ明ニスル好機ナルコトヲ忘ルルナ、裁判ノ内容ノ如キハ|開《ママ》スル処にアラズ。」
東條調書の内幕
巣鴨拘置所に移ってから、東條はまた人と接しなくなった。食事どき、同じ棟の収容者と皿と茶碗をもって一列に並び、それにスープやパンがのせられると、そのままひとりで監房に帰った。午後には散歩の時間があり、列をつくって庭を歩くのであったが、なぜか東條は列を離れてひとりで歩いた。土肥原賢二や嶋田繁太郎が掛け声をだして歩いているのとは対照的に、無言で歩きまわった。
運動が終わると談笑の輪ができるが、彼はそれにも加わらず、かつての仲間から外れて、煙草を吸いながら長女の差し人れの書物、とくに夏目漱石の著作集を読みふけった。彼の人生で文学作品に目をとおすのは初めてのことで、それも文学好きの長女の勧めによるものだった。
雨の日、収容者は娯楽室でカルタやトランプ、将棋に興じた。この部屋に東條が顔をだすと、気まずい空気になるのが常で、それでも東條は、対局を遠慮深そうに見ていった。自らの内閣の書記官長星野直樹に勧められても、めったに加わらなかった。そして夜、彼は性来の几帳面さで、ノートにその日のできごとを綴った。そこには娘への思慕が露骨に綴られていた。次女、三女、四女が、〈東條英機〉という固有名詞が憎悪のなかにある時代に、苦痛を味わっているのではないかと案じた。娘たちに宛てての手紙には、「逆境の中で幸せを感じるように……」という文面が必ず挿入された。彼の自作の歌がいくつも日記には書かれている。
父なくも淋しく行くな吾が子等よ
亦来ん春を母と待つらむ
此の世をは仮寝の宿と思へとも
親子一世と誰がさだ見けん
娘への思いだけでなく、父英教も彼の思い出のなかによみがえった。
父逝き幾年経ぬる此の年を
思ふて地下になんじ見るらん
神去りし父を思ふてためらふは
如何にと問はば何と答へん
彼の日記帖には、新聞に報じられた記事への感想も書かれている。書くことによって彼の感情は整理された節もあった。
「十二月十七日(月)晴」には、つぎの記述がある。
「一、本日始メテ米軍某下士官ノ好意ニ依『トランク』一個丈下附セラル、幸ニ内ニ日本服、洋服一着、短袴、靴下、同カバー。煙草若干アリ、略ホ希望シタルモノヲ発見ス、何トナク家族ノ精神ガ宿テ居ル様ナ気カセリ、之レ丈アレハ当所ノ生活モ大体不自由ナカラン
二、本日ヨリ外部ヨリノ通信、新聞、雑誌ノ入手ヲ禁止セラル、家族ノ情況ヲ知ルヲ得サルハ困ルモ※シカタナシ、但シ家族ヘノ発信ハ尚ホ従来ノ如シト
三、聞ク処ニ依レハ近衛公昨十六日自殺逝去セリト、余トシテハ其ノ心中ヲ解シ得寧ロ死ヲ全フセルコト羨望ニ不堪」
また翌十八日には、つぎのように書いている。
「本日ヨリ炊事分配掃除等軽キ労務ヲ課スル由ト昨日指示アリシカ本日朝食分配ニ当リ余ヨリ手始ニ之ニ当ル、人員ニ応シ適当ニ過不足ナク分ケルコトハ一ノ技術ニテ『コーヒー』分配ニ当リシカ最初手加減シタルニ最後ニ余リヲ生セリ」
このように日記には、彼自身の戦争責任論からコーヒーの分配にいたるまで、緻密な性格をあらわすような記述で満ちている。ものの見方すべてを平面的に捉える東條の性格がここに集約されていた。
巣鴨拘置所に移ってまもなく、極東国際軍事裁判所検察局の検事が、ここの一室で収容者たちの取り調べをはじめた。彼らは、複雑な日本の政治形態の研究と尋問を平行して進めたが、東條を尋問したのは、アイルランド出身のジョン・W・フィヘリーだった。
十二月二十一日、フィヘリーは東條を初めて尋問している。このとき彼は、「あなたは回想録を書くか」とたずねているが、東條は「そのつもりはない」と答えた。検察局は東條に回想録を書かせ、それを裁判の資料として利用したいと考えていたのだ。
検察局は、対日理事国十一カ国の三十八名の検事によって構成されていた。そのチーフはアメリカのジョセフ・B・キーナンで、彼は十二月から有楽町の一角にあるビルに本部をかまえて活動をはじめた。しかしキーナンはなかなか日本の政治形態をのみこめなかった。そこで日本側から、政治の中枢にいた者を彼らの側に引きつける必要性を感じはじめた。
一月十四日から、収容者たちへの本格的で執拗な尋問がはじまった。この日の東條の日記には、「取調開始」とあり、その内容を「1、八絃一宇と侵略、2、満州事変、支那事変の発端、3、九カ国条約不戦条約との関係、4、田中大将の上奏」と書きのこした。尋問は昭和初期からはじまったのである。世間では新しい時代が躍動しはじめているとき、尋問室はいまいちど、日本の侵略の歴史の点検にはいっていた。
この年一月一日に天皇は神格否定宣言を発し、一月四日にはGHQは軍国主義者の官公職からの追放を明らかにし、国家主義的傾向のある二十七団体に解散を命じた。しかし年を越してしばらく新聞閲読が禁止となっていたため、東條はそうした動きを知らずに「天寿! 萬歳ト国家ノ幸寧ヲ祈ル」と、この年を迎えていた。
「取調開始」の日、彼が何を感じたかは書いていない。しかしフィヘリーの質問の順序を辿っていけば、彼がもっとも重視していたのは「田中大将の上奏」であったことが判ったであろう。
これは、ふつう『田中メモランダム』といわれているもので、昭和三年九月に汎太平洋会議が京都で開かれた際に、中国代表が、当時の首相田中義一が天皇へ上奏した文章だとして、討議するよう求めた資料である。そこでは、ヨーロッパから帰朝した田中が、日本は満州を勢力下におさめ、さらに蒙古を掌中に入れてシベリアに進出すべきだと説いたとされていた。しかしこのとき、中国側のもちだしたこの資料は偽物であったので、当時の有田八郎外務次官らが中国側を説得して会議にもちだすのを阻んだが、中国側はすでに英文に訳してイギリス、アメリカなどに配布し終えていた。そのため、この文章はその後も、日本を批判する際にしばしばもちだされていたのだった。
そしていま、検察局もこのメモに関心を示し、日本がすでに昭和に入ってから中国への武力進出を企図していたことへの例証として、これを示した。
この質問に東條はどう答えたか。彼の日記は明らかにしていない。
フィヘリーの東條尋問は、二世の通訳が間に入って行なわれたが、たとえばつぎのような問答が交された。
「あなたが首相、陸相になる以前の歴代内閣の政策にたいし、当時の首相としてこれを是認するのか、それとも否認するのか」
「帝国の制度として、前内閣の政策については、その責任者がそれぞれあるだろう。私としては是認しうるものもあれば、是認しえないものもある」
「太平洋戦争は不戦条約違反ではないか。満州事変、支那事変にしてもそうである。これを事変と称するのは、不戦条約の拘束を受けないようにする意思が、日本政府にはあったのではないか」
「そうではない。大東亜戦争は英米側の挑戦により帝国の生存が脅かされた点に原因がある。従って自衛権の当然の発動である。なんら条約の拘束を受けるものではない。満州事変、支那事変は支那側の不正行為に共に発するもので、これもまた自衛行為なので拘束は受けない」
二月の十回近くに及ぶ尋問で、フィヘリーがもっとも熱心にたずねたのは、『田中メモランダム』に次いで真珠湾攻撃である。日本の奇襲攻撃の責任を、東條に負わせようという露骨な意図があった。つぎのようなやりとりが交されている。
「最後通牒の交付が遅延したことを明確に知っていたのか」
「当時は正しく交付せられたと考えていた。ところが終戦後、そうでなかったことを最近の新聞をとおしてはじめてこれを知った。しかし私は責任をとらないというのではない。その責任は充分とるつもりである」
「野村大使から遅れたことをまったくきかなかったのか」
「当初は確実に定められたとおり渡したと思っていた。ところが外務省や海軍の話をきいて必ずしもそうでないらしいと思った。しかし野村大使一行が交換船で帰ってきて、報告を受けたときには、やはり確実に手渡されたのだと思った。ところが終戦後、政府の新聞発表を見て時間的な経過を知ったのだ」
フィヘリーは不満そうに東條の答弁を聞いた。もし東條の言うことが事実なら、東條への情報回路はきわめて曖昧だったことになる。東條はそれほど弱い立場だったのか。フィヘリーは首をひねった。ふたりの間に思惑のちがいが交錯しながら尋問はつづき、御前会議の模様、第二次・第三次近衛内閣での近衛との意見対立と、質問は徐々に本質に関わる部分にさしかかった。
三月五日には、つぎのようなやりとりがあった。
「天皇は暴力の使用、あるいは自己の意見を他に押しつけることをしないように、日頃からいっていたというが、この点はどうか」
「陛下の平和愛好のお考えの強いこと、そして事を行なうのに協調、中庸を尊ばれることはよく承知していた」
「では大東亜建設に暴力を使用したというのは、天皇の意に反したではないか」
「われわれは陛下の平和ご愛好の精神をよく理解し、これを体して政治にあたるべきと考えていた。戦争は英米が帝国の生命を脅かしたから発したのだ。本来、大東亜建設は暴力で行なおうとするのではなかった。しかし戦争開始後は、戦争に勝つことを目標にした。それが東亜から英米を追いだし、東亜の民族を幸福にすると思ったからである」
この尋問内容は、すべて『東條メモ』からの引用である。そこにこめられている東條の思惑を割り引いても、その回答には一本の芯がとおっている。
十二月八日の日記に綴った「自戒」を守り、彼は天皇の権限を問われる質問がだされると、頑くなに自らの責任にひきもどした回答をつづけた。彼はすでに気持のうえでは諦観をもち、宗教書を読みはじめ頭の中に〈別な世界〉を構築しはじめていたのだが、天皇に責任をもたせないように回答することそれ自体に新たな陶酔をもち、それを〈別な世界〉と現実との掛け橋にしていた。
二月中旬から再び新聞の差し入れは認められていたのだが、三月二十三日の欄にはつぎのようにあり、ときに彼の気持が揺れ動いているのを裏づけている。「本間中将(雅晴)ノ死刑確定『マ』司令官ヨリ其ノ執行ヲ命シタリト、同中将ニ対シ愛惜ノ情ニ不堪ス、漱石ノ左ノ句ヲ想出ス。風に聞けいずれが先に散る木の葉」――。
三月中旬にはフィヘリーの質問は、大東亜省の設置、東亜共栄圏建設、インド独立援助に及んだ。それと他の収容者の発言のなかから、東條に関する部分の感想をも求めた。「他の収容者たちは、東條は閣議で武力に訴えてでも政策を実行すべきだと強硬に主張したと証言しているが、それは事実か」。これにどう答えたか、東條は何も書いていない。しかしこの質問のあった日、彼は医務室から薬をもらって飲んでいる。かつての閣僚の裏切りに、相当の衝撃を受けたためであろう。
三月下旬になると、国務と統帥のやりとりにはいった。統帥権独立の定義がふたりの間で応酬されたが、最後にフィヘリーは、同情の意を込めてたずねている。
「するといわゆる統帥権独立というのは、国政の運用上の障害になるだろうとは、総理になるまえは考えたことがなかったのか」
「総理になってみて国政全体の責任を負うようになってから痛感した。それが第一点。もう一点は、私はもともと政治家ではなくて軍人であり、それゆえに軍人の立場で統帥権の独立を必要なるものと考えてきた。この点はいまもかわりはない。ただしその調整については困難を感ずるに及び三省すべき点を見出している」
そう答えたときの東條には、大日本帝国憲法がもっていた最大の欠陥〈統帥権独立〉にたいする苛立たしさがあったろう。巣鴨拘置所での東條の発言には、しきりにこの部分がくり返されているからだ。
そのあと三国同盟、国家総動員体制にふれてから、四月にはいると捕虜虐待の事実が示された。日中戦争からはじまる捕虜への虐待、虐殺の事実がつぎつぎに示され、その責任が誰にあるのかとつきつけられた。その事実のまえに、東條は頭をかかえ考えこむだけで、一言もなかった。かろうじて、軍人勅諭や戦陣訓の精神はそれを容認するものでなかった、となんどもつぶやいた。
フィヘリーも東條自身の困惑を見て、捕虜虐待の事実を知らなかったのだろうと認めた。ちょうどこのころ、新聞は「ぼけたか東條、重要記憶を喪失」と大きく報じたが、このニュースソースは検事局からではないとフィヘリーは東條を慰め、外務省からだとにおわせた。フィヘリーは、当時の日本社会では、官民あげて東條への憎悪がかきたてられていることを断片的に語ったが、そこには、東條はむしろ拘置所にいるほうが身の安全だというニュアンスもこめられていた。もっとも東條は、このニュアンスを理解しなかった。彼は、国民が自分をどう思っているかよりも、もっぱら自らの心理のなかに閉じこもっていたのである。
もし東條が、拘置所ではなく自宅にいたなら、彼はたぶん殺害されていただろう。実際のところ、東條への憎しみは昭和二十一年の春にはピークに達していたのである。ラジオ番組「真相はこうだ」が、これまで伏せられていた戦前、戦時下の事実を半ば誇大に、軍人が悪者で、その頂点に東條がいたといったかたちで放送した。東條役を演じた声優には脅迫状が束になって届き、そのために配役はしばしば変わらなければならなかった。
人民裁判を模した戦犯糾弾大会が日比谷で開かれ、かつての指導者の名前がつぎつぎに読みあげられた。むろん東條とカツの名は先頭にあった。
玉川・用賀の東條家には、厭がらせがつづいていた。東條の自決未遂のあとしばらくは、この家は無人であった。それをよいことに空巣がはいり、備品は消えた。一大学生は、街で、アメリカ兵に〈東條家見学コース〉を案内するといってここにつれこみ、観光料をせしめたが、観光団が帰るたびに東條家の家具調度品は失なわれた。敵国の首相の品を記念品にもっていくのである。しかも厭がらせを目的にこの家に侵入した者は、調度品を壊すことで憂さを晴らした。
三月にはいってカツと三男だけが東京に戻ったが、この家は住める状態にはなかった。かつての部下がこの家に交互に泊まりこんで、不意の闖入者から守ることになった。部下の中核は中国戦線から戻った赤松貞雄で、彼は土井という変名をつかい東條を支える人を求めて歩いたが、彼の東條援助要請にこたえたのは、代議士津雲国利、静岡新聞社長大石光之助、右翼活動家三浦義一ら数人で、彼らが経済援助を申し出たにすぎなかった。東條は長女からこういった経過を聞いても無関心で、もっぱら家族の安泰を願って懸念を洩らすだけだった。
四月上旬、五十一回に及んだフィヘリーの尋問のあと、二十二日になって、ソ連の検事から対ソ戦の作戦と方針、それに三国同盟を克明に質され、それですべての尋問は終わった。東條はこの日、長女の依頼で揮毫したが、彼はその心中をあらわすように、「則天無私」とだけ綴った。夏目漱石の「則天去私」をもじったのである。
「天に則り私を無にする――それが自分の心境だ」
そのとき長女に洩らしている。そこには世間での自分への悪感情を考えまいとする気持がこもっていた。彼は少しずつ、己れの役割を理解していったのである。
被告としての東條
敗戦から初の天皇誕生日を迎えると、収容者たちは広間に集まって宮城に最敬礼し、「君が代」を斉唱して聖寿萬歳を三唱した。天皇が人間宣言を発し、彼らが支えていた神格化は否定されている。しかし収容所のなかでは、そのことはタブーになっていた。
この日の夕食を終えたあと、収容者の中から二十八名が一室に集まるよう命じられた。その二十八名とはつぎの人物だった。
〔陸軍軍人〕荒木貞夫、土肥原賢二、橋本欣五郎、畑俊六、板垣征四郎、本村兵太郎、小磯国昭、松井石根、南次郎、武藤章、大島浩、佐藤賢了、鈴木貞一、東條英機、梅津美治郎、〔海軍軍人〕永野修身、岡敬純、嶋田繁太郎、〔外交官〕広田弘毅、重光葵、白鳥敏夫、東郷茂徳、〔官僚〕星野直樹、賀屋興宣、松岡洋右、〔内大臣〕木戸幸一、〔重臣〕平沼騏一郎、〔民間右翼〕大川周明
彼らがいま軍服や背広に代わって身につけているのは汚れた囚人服だった。一室に集められて、それぞれ何カ月ぶりかの対面であることに気づいたが、初めのうち互いの囚人服を見て固い表情であった。が、やがて東條には、武藤や佐藤がなつかしげに話しかけてきた。しかしすぐに、彼らはMPに制され整列させられた。そして将校のつぎのことばを聞かされた。
「極東国際軍事裁判所検察局は、このたび貴下等をA級戦争犯罪人として起訴することに決定し、ここに命によって起訴状を各自に手交する」
ひとりずつ日本文と英文の部厚い起訴状が渡された。なかには学生が卒業証書を受けとるような姿勢で頭を下げる者もあった。
「本起訴状の言及せる期間(昭和三年から二十年までの十八年間)に於て、日本の対内対外政策は、犯罪的軍閥に依り支配せられ且指導せられたり」ではじまる起訴状は、二十八名の被告が軍閥そのものか、あるいは軍閥の共同謀議に加わった者ばかりと決めつけ、さらに五十五項目の訴因をあげて、各被告の責任によって三十項目から四十項目で起訴するとあった。
東條は五十項目で起訴されていた。張鼓峰事件(訴因二十五)、ノモンハン事変(同三十五)、南京事件(同四十五)、広東攻撃(同四十六)、漢口攻撃(同四十七)の五項目では責任は問われていない。つまり昭和十二、十三年のソ連、中国での戦闘をのぞいて、すべての訴因が被に抵触しているというのである。
独房に戻って起訴状を読んだ東條は、〈検事側の意図は露骨であり、反論の多い起訴状だ〉と思った。たぶん検事側は、国務と統帥を充分理解していないにちがいない。武藤章や佐藤賢了がここにいるのなら、開戦時の参謀本部次長田辺盛武、作戦部長田中新一も巣鴨拘置所にいなければならない。それに日本の陸軍内部をすこしでも知っていれば、陸軍次官の木村兵太郎は、政策決定にはいささかも関与していないことが見ぬけるはずだった。
こういう疑念は、起訴状を読む者すべてが気づくはずであった。
起訴状から統帥部門の責任者が免責されているのは、大統領のもとに一切の権限が集中しているアメリカの政治形態を、そのまま日本に当てはめてみているからにちがいなかった。しかも中堅幕僚が起訴された裏に、開戦時の陸軍省兵務局長田中隆吉を協力者としてかかえることに成功したキーナンの作戦があった。
田中は私怨がらみで、起訴名簿の作成に手を貸したのである。彼はすでにこのとき、軍閥を批判すると称して新聞記者に口述筆記させた著作を相次いで刊行し、陸軍の内部告発者として人気を集めていた。
キーナンが田中に注目したのは、昭和十七年九月に東條と衝突して予備役になったこと、武藤に個人的反感をもっていたことの二点だった。半ば恫喝で田中を検察側証人に仕立てあげたキーナンは、田中を含めて日本人指導者の無節操と無定見にあきれていた。彼らは疑心暗鬼になり、責任をなすりあっているだけなのだ。キーナンは田中を利用しつつも、彼に心を許さなかったが、のちに述懐しているように、ふたりの被告だけは評価した。「広田と東條。彼らふたりは徒らに弁明しない。つまり死を覚悟しているのだ。しかも質問しない限り決して答えようとしない」――。このふたりを起訴状どおりに裁けるかどうか、キーナンはいささか不安だったのである。
東京裁判が、市ケ谷台にある旧陸軍省の建物ではじまったのは、昭和二十一年五月三日からである。法廷には五十カ国の新聞記者、カメラマンがつめかけた。世界注視の法廷だった。法廷の正面に判事団席、右側に検事団席、左側に弁護人席。判事団席と向かいあって被告席。それを取り囲むように貴賓席、記者席があり、二階は傍聴人席となっていた。暗かった講堂にはシャンデリアが架設され、床にはじゅうたんが敷かれていた。いわば芝居の舞台のような装置に満ちていた。
二十八名の被告が法廷にはいったのは、午前十一時十五分だった。彼らはあまりの明るさに目をしばたき、ゆっくりと指定された席に座った。カメラマンのフラッシュは東條を狙っていた。前列中央に座った東條の右隣りに南次郎、左隣りが岡敬純、うしろに大川周明が座ったが、東條に向けられるフラッシュに彼らはまぶしそうに視線を伏せていた。東條はこの日の人気者だった。前年九月の自殺未遂以来、公式にははじめて姿を見せたのである。JOAKの「真相はこうだ」と題するラジオ放送は、「東條大将は狂言自殺をはかったのですか」という国民の問に、「大将は本当に死ぬつもりでいたのです。ただそれがうまくいかなかったというにすぎません」と嘲笑気味に国民に伝えていた。その嘲笑が、いま東條の姿を射たのである。
重光葵の『巣鴨日記』には、いくぶん皮肉的に、「東條大将は常に人気を呼び、出発前已に写真班のねらふ所となる。バス陸軍省建物に到着するや、米日新聞写真班の猛襲撃を受く」とある。
被告が着席すると、ウエッブ裁判長が開廷のことばを述べた。そのあとキーナンが検事を裁判官に紹介した。そして休憩になった。午後二時半から再開され、検事団の起訴状が読みあげられたが、まもなく異様な光景が演じられた。東條のうしろに座っている大川は、パジャマ姿で出廷し、合掌をつづけていたのだが、彼は平手で東條の頭を叩いたのだ。東條は不快気にふりむいたが、大川の挙動に精神のバランスが崩れているのをみてとったのか、無視した。すると大川は再び東條の頭を叩いたのである。大川は法廷から連れだされていった。そして彼はこの日以後、二度と出廷しなかった。
それにしても、あれほどの権力者が頭を叩かれるというのは、格好の話題であった。東條を揶揄するニュースが世界をかけめぐった。しかし東條の日記には、この不快なできごとは一行も書かれていない。
五月六日、罪状認否が行なわれる。東條は他の被告と同様に、「訴因全部に対し……わたくしは無罪を申し立てます」と答えた。東條独特の高い声、「わ…た…く…し…は」という具合にひっぱるような調子だったと、新聞は伝えている。このあと弁護団団長清瀬一郎とキーナンの間で、法廷の合法性をめぐって応酬があった。
清瀬は言った。「日本はポツダム宣言という条件によって降伏したのであり、連合国もこれを守らねばならぬ。法廷は平和に対する罪、人道に対する罪については裁く権限はない。第二に大東亜戦争前はここでは裁くことはできぬ。第三は日本はタイ国との間に戦争状態はなかった。これらを勘案していくなら、訴因のいくつかは明らかに消去することができる」
キーナンが即座に反論した。「日本の降伏は無条件なものである。……特別宣言、降伏文書は明確に連合軍司令官が降伏条件を有効ならしめるために彼が適当と思うことをする権限をもっていると述べているではないか」
結局、弁護側の動議は却下され、六月二十四日から検事側の論告がはじまった。
こうしたやりとりの間、被告席のかつての指導者たちは、さまざまな態度をとった。
なにやらスケッチする者、腕を組み黙想する者、まったく関心がない様子で隣席の者と談笑する者。そういうなかで、東條の姿は傍聴席の目を奪った。どんな小さなことでも聞きもらすまいと、ときに耳に手をあて、休むことなくメモを書きとっているからだ。このメモがあまりにも克明なので、のちに清瀬は、「あなたは道をまちがえましたな。軍人になるより法律家になったほうがよかったようだ」と言ったが、たしかに法廷は、几帳面な彼の性格をよみがえらせたのである。
記者席では律義な東條の姿に失笑がもれたが、そのうち「東條は決して傍聴席をふりむかない」といわれるようになった。他の被告は法廷にはいるや傍聴席に肉親を捜し求め、そして手を振る。が、東條は、どんなときにも傍聴席を見ようとしない。つねに前を向いているだけだった。死を覚悟しているのだから情緒的な感情は失なわれているのだろうとか、国民の憎悪の目が恐ろしいのだろうとの声もあった。だがいずれもあたっていない。
状況が設定されると、がむしゃらに努力する生来の性格があらわれていたのだ。それに被告席に座っている者は老齢である。結審まで体力がつづくかどうかわからない。松岡は杖にすがって歩いているし、永野も梅津も元気がない。東條の日記には「松岡ノ病気余リ良カラス、長クナカルヘシト、又大川ノ病気モ精神分裂症ト決定シ之レ亦良カラサル由、気ノ毒ナリ」とあり、心身ともに健康な自分が率先して反論しなければ、という気負いにあふれてもいたのである。
「一切の責任は私にあるということにして欲しいが、検事側の言い分にも納得できぬ点もあり、それには私が逐一反論したい」
巣鴨拘置所の面会室で金網越しに向かいあった清瀬に、東條は頼みこんだ。しかし、そういう論理は裁判では通用しないことをきかされて、彼はしぶしぶと自説をひきさげた。こういう 東條の言い方のなかには屈折した権力者意識があり、あえて殉教者になることで何らかの政治的取り引きをして、裁判を形骸化できると見とおしたと説く論者もいる。
清瀬と東條は、戦時下では特別の交友はなかった。革新倶楽部の代議士だった清瀬は、むしろ陸軍とは距離を置いていた。しかし東京裁判の法廷が開廷されることになると、清瀬は弁護団の一員に入り、とくに陸軍関係の被告の弁護人となった。その後、各被告とその家族がつぎつぎ新たに弁護人を指定して、清瀬の弁護人届けをとり下げていくのだが、東條の弁護を引き受ける者はいないままだった。それでそのまま、清瀬が東條の弁護人になったのである。
その後開廷してまもなく、アメリカ人弁護人を選任してもいいことになり、総司令部から何人かが紹介されてきたが、東條はこれを拒んだ。そこで清瀬が東條を説得すると、東條は「自衛戦争であり、天皇には一切の責任がなく、この戦争は東亜民族の解放戦争であることを認めてくれるのが条件だ」と注文をだした。それを受けいれたのがジョージ・ブルーウェットだった。
この陽気なアメリカ人弁護士は、東條の申し出にうなずき、「その線に沿って弁護はつづけよう。でも刑の軽減はできないでしょうね」とはっきり言ったが、「それはこちらも望んでいませんよ」という東條の答が気にいったといって、彼は握手を求めた。こうして東條の弁護は、清瀬が主任弁護人、それをブルーウェットが補佐するという布陣になった。
キーナンの論告がつづいている間、ふたりの弁護人と東條の間には、つぎのような打ち合わせが行なわれた。
「検事側は、満州事変からにしぼって具体的に追及してくるようだ。そこであなたの考え方をいまいちど確かめておきたい……」
「いやあ私のほうでも文章にまとめてあなたに提出しますよ。すこしずつ書いてはあなたに渡して、それで口供書のようなものをつくりたい。これまで検事の尋問を受けて、彼らの認識もわかりましたから」
「この裁判を全部で十六幕ぐらいの芝居にたとえると、あなたの出番は大体十幕ていどです。前半、中間、後半とあるうちの後半の冒頭というところですから、じっくり弁論の内容を吟味したほうがいい」
「そうしますと時間はまだたっぷりある。赤松や井本らがなにかと自分のために骨を折ってくれているのも家族からきいているが、先生のほうでも不明な点は彼らにたずねてみてください」――
その赤松貞雄や井本熊男は、麹町の清瀬の事務所に泊まりこみ、東條の弁護資料作成に努力していた。これは相当の資金を要する仕事だった。ふたりは東條内閣時代の閣僚や側近の間を走り回って資金カンパを求めた。だが東條の名前をだしただけで顔をそむける者が多く、彼らは改めて人の世の移りかわりを知らされていた。
キーナンの冒頭論告についで各国の検事団は、日本の政策の侵略性を俎上にのせた。証人が数多く呼ばれ、多くの資料が提出された。満州国皇帝溥儀、アメリカ人宣教師ペギーが日本軍国主義を罵倒した。軍国主義教育が施され、軍部がいかに学問に関与したか、報道機関がいかに政府の宣伝機関だったかということが証人の口からつぶさに語られた。国民にはじめて知らされる事実も多かった。三月事件、十月事件がそうである。
国民の怒りの対象は〈陸軍〉と〈東條英機〉に凝縮された。憎悪、怨嗟、罵倒が彼に投げつけられた。ウエッブ裁判長の裁判の進め方もそれを意識していた。それが東條には不満で、彼は日記に「普通ノ裁判ノ如キ頭ニテナスハ遺憾ナリ」と書いて憂さを晴らした。
七月五日、法廷にはざわめきが起こった。身体を丸め、伏し目がちに証人席に座ったのは田中隆吉だった。彼は、満州国は日本の傀儡であったと断言し、被告と満州国の関係を真偽とりまぜて証言した。そして東條については、つぎのように語った。
「当時、東條中将が満州国の参謀長になってから、開発五カ年計画が急速に進んだ。それに匪賊は一万以下となり、治安は安定し、満州国の政治、経済、国防は急速に発展をとげた。むろん満州国の人事は、東條参謀長の承諾を受けることなく決定はできなかったほどだった」
田中の証言は三日間にわたってつづき、実は有能な官吏こそ悪質な植民地主義者であったと糾弾したのである。東條は、かつての自分の忠実な部下、甘言と追従で自分にとりいった軍人、兵務局長にまで据えたのに裏切った田中に対して、「恩知らずな奴め」と、法廷の休憩時間に何度もつぶやいた。そしてこの日の日記には、太字で「田中証言真ニ論外」と書きなぐった。
しかし東條の田中への怒りは、あまりにも利己的だった。彼の能力を評価してその地位に就けたのではなく、東條のまえでは面をあげることができぬほどのこの男を利用しようと、その職に就けたのである。田中への怒りは、そういう人物を重用した自らの無能を間接的に認めていることだった。
田中の証言は東條だけでなく、被告たちを驚かせた。重光は日記に、「田中隆吉少将証言台に立ち、センセーションを起す」と書き、「証人が被告の席を指さして、犯人は彼なりと云ふも浅まし」と書いている。
のちに東條は、拘置所の運動場で佐藤賢了に、「田中と富永恭二(注・彼は第十四航空軍司令官であったにもかかわらず戦線を離脱した)は見損なった」と洩らして怒りを隠さなかったという。
七月末には、南京虐殺が法廷に出された。証人が洩らす事実は、聞く者に戦慄を与えた。強姦、殺人、放火、略奪。あまりの凄じさに法廷は静まりかえった。被告たちは顔を伏せ、なかには身震いする者もあった。東條はメモをとる手を止め、視線を天井に向け一点を凝視していた。「醜態耳を蔽はしむ」「其の叙述残酷を極む。嗚呼聖戦」、これが重光の日記の文字だった。しかしこのころの東條の日記には、日常雑事が書かれているだけである。が、明らかに彼には動揺があり、彼の日記は断続的になっていった。
南京虐殺についで、九月、十月には捕虜虐待もしばしばもちだされた。そのたびに被告たちは面を伏せたが、このころから東條は、法廷の推移からみて死刑になることを覚悟した節がある。彼が綴っていた身辺雑記は、十月初めを最後にペンがとまった。そういう〈私〉の時間の余裕がないことに気づいていったからであろう。
法廷のない日、拘置所では午後から運動の時間があったが、そういうときも東條は巻煙草のホルダーを手から離さず、素足に下駄をはき、ポケットに片手をいれて歩きまわった。それは彼の心理的葛藤をよくあらわしていた。その姿をもじって、被告たちの間では「寺小僧」と仇名をつけられた。また彼は談笑の渦に入ると、「早くやってもらいたいくらいだ」と首筋をさすって、他の被告たちに覚悟の深さをあらわしもした。
口供書の冒頭
法廷のある日、被告は午前六時半には起き、軽い食事をとり、それから拘置所の入り口に勢揃いして市ケ谷行きのバスに乗る。巣鴨から目白をとおり市ケ谷に行った。法廷で暴露される事実のなかには良心の苦しみを責めることが多かったが、被告たちはふたつの面で、この法廷のある日を楽しみにするようになった。
ひとつは、とにかく法廷に行くまでのバスの中から、復興していく街を見ることができることだった。それが単調な拘置所生活にかわる刺激となった。そしてもうひとつは、法廷の建物の右側にある控室で、家族との面会ができることだった。ケンワージー憲兵隊長は控室の応接室に家族をいれ、直接被告たちと面談させたのである。だから被告の家族は裁判の傍聴ではなく、休憩時間の対面を期待して法廷にやってくるようになった。
九月にはいって東條は、カツと長女にこの控室で面談した。東條は「自分は元気だから安心しろ」と言い、福岡から東京の女学校に転校した二人の娘が厭がらせを受けていないか心配しつづけた。そしてカツから、次女の子供が「おじいちゃん」といえるようになったと聞いて喜び、三女(十六歳)と四女(十四歳)が苦学して女学校に通っているときいて涙を流した。
この面談は、新聞記者の知るところとなり、カツと長女はひんぱんには市ケ谷には通えなくなった。ふたりにとって新聞記者は恐ろしい存在で、会ったこともないのに会見記がのったり、話したことばは曲解されて報道されるのが常だったからだ。東條の家族のことばは、すべて詫びる意味をもたされた。人びとの気持がそれで軽減されるなら、それは天が与えた運命だといいつつ、しかしそこには感情の限界もあったのだ。
法廷での論戦は、三国同盟、日米交渉、そして太平洋戦争へと進んだ。東條の尋問調書は、しばしば起訴状にも盛りこまれていたが、検事側は一体に軍部に責任を転嫁するためにその調書を利用した。
十一月にはいると日米交渉の経緯が洗われ、法廷は緊迫した。検事側は、太平洋戦争が被告たちによってどのように計画されたかを立証するために、広範囲な証人と資料をもちだした。とくにアメリカの検事は、共同謀議を裏づけようと「長年に亘り計画的に企図した」に見合う事実を選択して示した。スチムソン、グルー、ハルの口供書も提出されたが、いずれも日本の侵略史を綴り、ハルのはとくに日本陸軍の好戦性を批判していた。
東條は、共同謀議は荒唐無稽だとして、四点の反論をメモ用紙に書いている。「我国ニハ戦争開始ノタメノ計画又ハ陰謀ヲ目的トスル秘密結社ナルモノナシ、戦争ハ当局カ開始スルコトヲ決断スルコトニ依リ開始セラルモノニシテ此ノ点我国ト独逸トノ間ニ基本的ノ相違ナリ」という、あまり意味のとおらぬ一項もあった。
法廷には年末も年始もなかった。しいて年の暮れと思わせたのは、昭和二十一年の最後の法廷だというので、被告全員が法廷の玄関で記念撮影したことと、翌日の朝食に雑煮が出て元日を思わせたにすぎなかった。
年を越して五日、軍令部総長だった永野修身が肺炎で急死した。前年の六月に松岡洋右が死亡しているので、二十八名のうち二名が欠け、ひとり(大川周明)が入院したままだった。
一月二十四日、二百日にわたった検事側の論告は終わった。第一幕の幕はおりたのである。
ついで二十七日から弁護団の弁論にはいった。法廷の違法性を衝き公訴却下の動議、被告の釈放を求める動議が相次いで提出されたが、いずれも却下された。二月二十四日、弁護団を代表して清瀬一郎が、一般問題、満州及び満州国、中華民国、ソ連邦、太平洋戦争に関する五つの部門から三時間にわたる冒頭弁論を行ない、日本の歴史は一貫して自存自衛だったことを強調した。
たとえば彼は、共同謀議などなかったことを、「元来被告等は年齢も相違すれば、境遇も相違いたしまするし、ある者は外交官、他の者は著述家でありまして、その全部が特殊の目的をもって会合する機会をもったことはありませぬ。……陰謀団を作って、かかる手段(武力行動)によって全世界、東亜、太平洋とか印度洋とか、支那、満州を制覇するために|共同謀議《コンスピラシー》したという事実はありませぬ」といい、太平洋戦争の原因については、「その第一は経済的な圧迫でありました。その第二はわが国が死活の争いをしておる相手方蒋介石政権への援助であります。その第三はアメリカ、イギリス及び蘭印が中国と提携してわが国の周辺に包囲的体形をとることでありました」と、陸軍軍人の考え方をそのままなぞった。
この陳述の間、被告席の空気は微妙だった。東條は誰の目にも喜色にあふれているように見え、ロイドメガネをライトに照らして天井の一点を凝視していた。日本の政策に侵略性はなかったという段になると、笑顔が洩れ、合点がいったときの癖である顎をひいてうなずくポーズをとった。そしてメモ帖に鉛筆を走らせ、一言一句逃すまいと手を動かした。
しかし重光葵、広田弘毅、東郷茂徳ら外務省出身の被告は眉をひそめた。彼らは満州事変以来の戦争政策に反対か消極的で、それを押さえるべく努力をしたのであり、清瀬の弁論のなかにそれが含まれていないのはおかしいというのであった。
清瀬は陳述のあと記者団に、「この陳述をとおして日本精神の正しさを裁判長や全世界の人びとに納得してもらいたい。それはわれわれの義務である」といったが、外国では反感が、日本国内では反感と共鳴が錯綜した。
このあと被告側からの反証証拠が出され、証人も数多く出廷した。二月下旬から八月までの半年間、弁護団はあらゆる証人を集めてきて証言させようと試みた。軍人、官僚、学者、一般の庶民が証言台に立った。しかしほとんどが被告の周囲にいた者で、仲間うちのかばいあいをするため、弁護人の意図に反して、信憑性に欠けると受けとめられた。法廷が弛緩状態になるほど、追従だけの無味乾燥な証言さえあった。
日中戦争、ソ連、三国同盟と証言がつづき、昭和二十二年八月に入ってから、太平洋戦争への反証に人った。この段階まで進むと、東條は異常なほど張り切り、清瀬につぎのようなことばさえ吐いた。
「太平洋戦争以外の戦争で裁くのはおかしい。わが国は太平洋戦争で降伏したのであって、満州事変、張鼓峰事件、ノモンハン事件、さらにタイ、ポルトガル、仏領インドシナの戦争犯罪は該当しないのではないか」
清瀬はあわててたしなめた。東條の張り切りは、清瀬にも重荷だったのだ。しかも東條は、一般弁論の最後に証人台に立ちたいといいだすに及んで、清瀬は東條にブレーキをかけはじめた。もし東條が証人台に立てば、被告間に亀裂が生まれることが予想された。東條は国家弁護にこだわっているが、外務省出身の被告たちは個人弁護をのぞんでいるからだ。すでに法廷では、陸軍省と外務省、海軍省と外務省、参謀本部と陸軍省の対立が生まれていた。真珠湾攻撃は騙し討ちでなく、電報解読に手間どったためだと弁護団側はもっていきたいのに、外務省は 軍令部が電報発信を意図的に遅らせたからだと主張して対立したのは、その典型だった。
これ以上対立を深めないために、東條に全被告を代表する弁論の場を与えてはならぬというのが、清瀬の考えであった。清瀬は東條の弁護人でありながら、その実、制禦役を果たさなければならないと自覚していた。
東條は一般弁論に立つのはあきらめたが、その分、口供書の執筆にいっそう熱をこめた。口供書をもって検事団の全訴因に反論を加えようというのである。彼はなんども口供書の前文を書いては消していたが、結局その初めは、「余ハ曩ニ終戦後自決ヲ決意セル及其後ノ心境ニツキ弁明ノ機会ヲ得タルヲ感謝ス」とするつもりでいた。つづいて、辛酸をなめたにもかかわらず敗戦になり、「三千年」の歴史を汚したのは「恐レ多キコトナカラ常ニ平和ヲ愛好セラルル陛下ノ御責任ニモアラズ、又政府ノ指導ノ下ニ愛国ノ熱誠ニ燃エ、挙国一体、犠牲ニ耐へ活動セル国民ノ罪ニモアラズ又余ノ指導ノ下ニ立テル同僚各位ノ責ニモアラズ、一ニ開戦当時ノ最高責任者タリシ余ノ全責任ニ帰ス」ということばを中心に据えようとしていた。全文にあふれた自虐さは、むしろ戦時下の絶頂さにつうじるニュアンスがこもっているかのようであった。
一般弁論から個人反証に移ったのは、法廷から夏姿が消えたころだった。九月十一日、ABC順に荒木貞夫からはじまったが、法廷は久し振りに緊張し、各被告が起訴された事実にどのような証人、証拠をくりだして反論するかに関心は集まった。もっともこの九月十一日だけは、荒木よりも東條のほうに記者席、傍聴席の目がそそがれた。この日の朝日新聞が、コラム欄ですでに東條の戒名は決まっていると報じたからで、それは東條が死を覚悟していることの裏づけと理解されたからである。
しかし東條は、いつものように傍聴席には目を向けず、正面か天井に視線を投げるかメモをとるかしていた。東條の憔悴を見ようという好奇の目は裏切られた。
荒木につづき土肥原賢二、橋本欣五郎、畑俊六と進んだ。用紙不足で二頁建ての朝刊はしだいに関心を失なっていき、よほどの衝撃的事実でもない限り裁判を記事にしなかった。しかし法廷に詰めている記者の間では、個人反証にはいってから被告たちの態度が微妙に分かれていくことが噂になった。朝日新聞法廷記者団がのちにまとめた著作では、被告の三つのタイプが分析されている。
(一)自分の生涯に道徳的な信念をもっていて、それを法廷で吐露し、責任もまた甘受するタイプ。荒木貞夫、松井石根、嶋田繁太郎、橋本欣五郎、岡敬純らがそうだった。(二)日本の政策と自己の信念を合致させ、検察側と対立しつづけた被告。板垣征四郎、武藤章、そして東條もそうだった。(三)は一切を弁護人に任せて、自らは意欲を示さないタイプ。責任感を洩らすだけの広田弘毅、裁判に関心を示さない平沼騏一郎、法廷作戦上発言する必要なしとする重光葵。運命を甘受するだけという南次郎がこのグループに属した。そのほか星野直樹、賀屋興宣、木村兵太郎、白鳥敏夫、佐藤賢了、木戸幸一はまったく独自の立場をとり、それぞれの人生観にもとづいて弁護を行なった。なかには責任逃れに終始する者もあった。しかし彼らに共通している自覚があった。
このころの日本の社会情勢は、連合軍の占領政策が非軍事化と民主化に集中していたこともあって、日本に初の社会党政権が誕生していた。四月二十五日の衆議院議員選挙では、社会党百四十三名、自由党百三十一名、民主党百二十六名の勢力分布となり、片山哲が吉田茂内閣にかわって組閣を行なっていたのである。しかも五月三日には武力放棄を謳った新憲法が施行され、天皇は象徴として国事行為を行なうだけになった。こういう情勢に、被告たちは無縁であった。彼らは新聞を読むたびに日本が「左傾化」していることを知って仲間うちで憂えたが、しかしそのことに気をつかうよりも、目先の法廷でのやりとりに己れの生の燃焼をはからねばならぬことを自覚していたのである。
東條に関していえば、彼はまったく社会情勢の推移に関心をもたなかった。そのことよりも、巣鴨拘置所と市ケ谷法廷の二つの世界にしか、彼の存在理由がないことを知っていたかのようである。
個人弁護が板垣部門を終わり、賀屋部門に入ろうとするころ、キーナンがアメリカ人記者に向けて、天皇には戦争責任がないと発言した。このニュースが世界各国に打電され、それがまた日本にはねかえってきた。日本の新聞は一面で大きくこのニュースを扱った。キーナンはつぎのように言ったのである。
「天皇および主要実業家を戦犯として裁判にかけるべきとの意見もあったが、長期にわたる調査の結果、これらの議論には正当な理由がないことがはっきりした」
むろんこれは、キーナンの意図的な発言だった。法廷がはじまってからキーナンはしばしばアメリカに帰り、本国政府と打ち合わせをつづけていた。ニュールンベルク裁判と東京裁判に矛盾が生じないようにすることと、アメリカ政府が太平洋戦争後の米ソ冷戦構造下で日本を傘下に置くことを企図しての打ち合わせだった。アメリカ政府は天皇を法廷にひきだしたり、その責任を問うのは日本国民を刺激するという方針をマッカーサーに伝え、キーナンにもその方向に法廷をもっていくべきことを要請した。キーナンはその方針に沿って忠実に動いた。
彼自身とアメリカの最大の関心は、天皇を免責して新たに象徴という地位に置き、それを利用して日本統治を容易にするという国務省の知日派グループの意向を現実化することであったのだ。
しかしオーストラリア人の裁判長ウエッブは、その見解と異なる立場に立っていた。「終戦を決定、実行した天皇は、開戦にあたっても同じ役割をはたせたのではないか。とすれば天皇の戦争責任は免れない」と考え、天皇の責任を法廷で論じる機会を狙っていた。この考えは、イギリス、フランス、ソ連の判事にも共通のものだったが、キーナンはそれを制する必要を感じていた。それが、アメリカ人記者に向けての巧妙な発言となったのである。しかもこの発言の時期は、賀屋のあとにはじまる木戸幸一と東條英機を意識したものだった。キーナンの真意は、木戸と東條に戦争責任を負わせたいと意図していたのだ。ふたりの責任のなかに、天皇の責任を盛りこませてしまおうというのである。
この記事を新聞で読んだとき、皮肉なことに東條の心は和んだ。彼はこの発言を一言一句メモ帖に筆写し、週に一度許されている外部への手紙には、「これで安心して裁判に望める」と書いて家族に送った。すでにこのころ、法廷に提出する口供書はつくりあげていた。なんどかの書き直しでまとめたものだったが、そこでは〈天皇には責任はない〉という表現が執拗にくり返されていた。
私の手元には、東條が口供書をまとめるまでに書き綴ったメモ類があるが、それにはつぎのようなことばが氾濫している。「光輝アル三千年ノ歴史ヲ汚シタルコトハ開戦当時ノ最高責任者トシテ其ノ責任ヲ痛感スル処ナリ」「而シテ終戦ニ当リ喚発セラレタル大詔ヲ拝シ又敗戦ノ次第ヲ 御神霊ニ御奉答被遊ルル至尊ノ御胸中ヲ拝察シ奉リ カツテ屡々玉音ニ接スル光栄ヲ担ヘル余トシテ真ニ恐懼身ノ置ク所ヲ知ラサリキ」――。
この文脈に流れている感情こそが、キーナンの〈政治〉と邂逅するものだった。
重光葵の観察によれば、キーナン発言のあと、東條はめだって笑顔を出すことが多くなったとある。そして重光の日記には、つぎのような記述があった。
「キーナンが、木戸に対する反対訊問で、開戦当時の木戸と東條との関係を追及して着席して東條を見上げた。その質問応答が終った時に東條は何か可笑しくて笑った。キーナンが之を見付けて両者の顔は向き合ったが、互にニコニコ笑った。之が解顔と云ふことである」
ふたりとも自らの回路が相手の回路と出会ったのを知ったのである。首席検事と被告の解顔――裁判はそれを現実に変えていくための舞台にすぎないことを、彼らは心底で理解していたといいうる。
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象徴としての死
キーナン検事の焦り
木戸幸一は経歴が示すように、几帳面で平凡な官僚である。昭和六年から二十年十二月まで、彼は一日も欠かさず日記をつけた。官僚特有の生真面目さのためである。法廷に提出されたこの日記は、天皇が誰に会ったか、誰が政治の中枢にいたかを克明に示した。
天皇の責任を問う立場にいたイギリスのアーサー・コミンズ・カー検事は、この日記をもとに木戸に訊問をはじめた。彼が問題にしたのは、ルーズベルトの親電の取り扱いをめぐって、天皇に和平の意思があったか否かを確認しようという点にあった。
この訊問が進むのを恐れたキーナンは、カーに代って、強引に検事席に座って木戸を訊問しはじめた。誰が見ても不自然な法廷だった。しかも木戸の弁論のなかに天皇への責任につながる部分が浮かびあがると、質問を保留して、「一晩考えるように……」と謎をかけた。こうなると法廷に立ちあうすべての人びとが、連合国が〈天皇を裁かず〉という立場にあることを知らされた。法廷は複雑な思惑で動きはじめたのである。
キーナンは、マッカーサーに命じられたとおり強引な法廷戦術をとる一方で、裏でも必死に画策をはじめた。彼の懸念は、さしあたり東條がどのような発言をするかにあった。重光のいう解顔の意味を東條は知っているか――その不安が昂じて清瀬に面会を求め、東條の弁護内容をさぐった。そして東條の口供書が、一切は自らの責任にあると断言しているときくと安堵し、法廷でもそのとおり発言することを願った。
だが彼は、もう一歩確とした保証が欲しかった。それは検事らしい性格のためでもあったろうし、彼自身の栄達の意味もあった。そこで彼は、米内光政をつうじて東條の気持を確かめようとはかった。米内は、東條の弁護人助手である塩原時三郎に、天皇へ迷惑をかけぬように証言させよと伝えると約束した。キーナンはその約束を、なんども頷きながら聞いた。
木戸幸一、嶋田繁太郎、白鳥敏夫と個人反証がつづくころ、東條は口供書の原稿を、法廷控室で清瀬に渡しつづけた。清瀬はそれを事務所にもって帰り、赤松貞雄と共に点検し、こんどは英文にするために丸の内ホテルに仮り住まいしている外務省翻訳課の課員に届けた。それが連日くり返された。この仕事が終わりに近づいたころ、東條は塩原から米内の依頼をきいた。むろん東條は、これがキーナンの依頼だとは知らない。
「米内は判ってくれぬのか。自分が恥を忍んでこうして生きているのは、お上に責任を押しつけぬ、そのためだけなのだ。それが判ってくれぬのか」
そう言って東條は怒り、その無念さを家族への手紙のなかで何度もくり返した。
東郷の個人反証も終わりに近づくと、また法廷は緊張してきた。東條がいよいよ検事団に反証するということが、世界各国の注目を集めたのである。新聞記者は清瀬に東條の心境を執拗に聞き、「人に迷惑はかけない。証人はいらぬ。自分ひとりで証言する」と意気ごんでいる東條のことばをひきだし、それをかなりのスペースで報じた。その報道は東條自身の気持も昂揚させた。
ところが東條の個人反証のはじまる二日前、塩原が東條をたずねてきて、「天皇に責任を押しつけぬように配慮した模擬問答をしたい」と申し出た。東條は不満気にそれに応じたが、その後も拘置所の面会室で、塩原が検事役になって何度も模擬応答がくり返された。
「開戦の決定は天皇が命令したのか」
「ちがう。天皇の命令ではない」
「では開戦の決定はおまえが決めたのか」
「そのとおり」
「そのとおり≠ニいうのではまずい。一人でひき受けるのはいいが、一人だけ悪者になるのはよくない」
塩原はその言い回しに注意した。開戦についても、「内閣や軍部の最高機関が開戦のやむなきを決した」「天皇は、そうかといわれた」という答弁のほうがいいとも打ち合わせをした。 塩原は、まるでこの答弁を行なうために弁護人の末端に名を列ねたかのようであった。
東條とのリハーサルが成功したことは、すぐに米内に伝えられ、そこからキーナンに連絡がいった。
十二月二十六日の午後から、東條の個人反証がはじまった。この日は父英教の命日である。その因縁に彼は身をふるわせていた。数日前のカツとの面会で、自分の弁護をはじめる日はたぶん二十六日だろうから、明治神宮と靖国神社に参拝してきて欲しいと依頼していたのだが、期せずして父の命日の参拝にもなったと彼は喜んだ。
午後の法廷は超満員だった。午後二時半、ブルーウェットが「これより東條部門にはいり、清瀬弁護人が冒頭陳述を行ないます」と宣言した。清瀬は弁護の大綱を、東條自らが証人となって他の証人をわずらわせないこと、その口供書は、日本が計画的に英米蘭に対し戦争を進めたわけではないこと、など七つのポイントに分かれていると述べた。基調は国家弁護に立脚しているのだと示唆したのである。ついでブルーウェットが東條口供書を読みはじめた。一週間前に刷りあがった口供書は五万字もあり、タイプでも二百二十頁あった。それが三十日午後までの四回の法廷で読みつづけられた。
この日、東條はさっぱりした国民服に着替え、証人席に座ってブルーウエットの朗読に何度もうなずき、聞いていた。それをカメラマンが執拗に追った。
東條口供書はタイプされ、検事団、記者団に配布された。そして二十七日、二十八日と日本の新聞やアメリカの通信社にその内容が紹介され、批評の対象となった。
「天皇に責任なし、あくまで自衛戦℃蜥」」、朝日新聞は一面のトップでこう伝えたが、これがもっとも口供書の内容を的確にあらわしていた。しかしこの論理内容を受け入れる土壌は、当時の日本にはなかった。むしろ、いまもっとも否定されなければならぬ事実として国民のまえに示され、反面教師の役割を担わされる宿命にあった。
朝日新聞の社説のしめくくりは、「……平和な民主的な国民として再起するには、過去のわが軍閥が惹起した戦争が、如何に世界平和に大きな罪悪を流したかという自覚が、個人個人の胸に銘記されなければならない。東條口供書はこのためにのみ読まるべきである」とあった。
外国の新聞は「強盗論理の主張」「血に狂った愛国主義」と酷評し、ニューヨーク・タイムスは、東條の論法でいけば、中国も朝鮮も台湾も攻撃したことのない哀れな日本が、ハル長官の強硬通告により真珠湾を攻撃しなければならなくなったことになると批判した。それは連合国各国の平均的な意見でもあった。
しかし東條自身は、こうした批判にさほど動じなかった。日本の新聞が口供書を大きく報じたことに満足していたし、海外の評判も自衛権について批判するのならさして恐しくはないと考えていた。天皇の責任が蒸しかえされなければ、あとはどんな批判も平気だと彼は他の被告たちに言った。
十二月三十日午後二時半、口供書の朗読は終わった。このあとわずかな休憩時間があったが、その際、東條は塩原と最後の打ち合わせをした。リハーサルどおりの証言をすることを確認したのだ。そして求められるままに「古道新照色」という意味深い揮毫をした。
再開された法廷では、各被告の弁護人が自らが引き受けている被告の責任を軽減するために、東條から有利な発言をひきだそうと尋問をはじめた。ところが東條は、彼らの期待以上の答弁をした。星野直樹の弁護人には、書記官長というのは助手のようなもので、大事なことは私ひとりでやったといい、嶋田の弁護人には、嶋田は必ずしも私の政策の積極的な支持者ではなかったと平静に弁明した。しかし質問が天皇にふれると東條は興奮を隠さず、木戸の弁護人ローガンから大命降下時の天皇のことばの意味を問われ、改めて近衛内閣時の及川海相との考え方の違いを指摘されるや、彼は激昂した。
「私には、陛下のお気持は、ようく(カをこめて)解っております。日米交渉を成立させたいという御気持は、ようッく(再び力をこめて)解っております。私は陛下の御気持を正しく解釈していると思います」
声はいっそう高い調子になり、水を飲む手もふるえた。天皇の真意を理解しているのは自分だけであり、自分の理解こそもっとも正しいのだと発言し、だから他人の理解を追認するような質問には耐えられないとにおわせたのだ。
もっともこういう東條の性格を懸念している者はいた。〈私だけが理解する天皇〉であっては、無意識に天皇へ責任を押しつけることになる。政治性に欠ける人物であり、自らの発言が政治的にどのような波紋を与えるかより、自らの発言が自らを充足させうるかどうかという尺度だけしかもっていないこの男――。そこに思い至るとキーナンは、この男がリハーサルどおり演じるか否か、再び不安になってきた。そしてその不安は適中した。
十二月三十一日、午前中の訊問でローガンが、「天皇の平和の希望に反して、木戸が行動したり進言したりしたことがあるのか」という質問を東條にぶつけた。
じつはこの質問には深い意味があった。つまり木戸の言動は、すべて天皇の意思ではないかというのである。これに対して東條は、つぎのように答えた。
「そういう事例はない。日本国の臣民が陛下のご意思に反して、あれこれすることはありえない。よもや日本の文官においてをや……」
東條はあっさりとローガンの詐術にはまったのである。法廷はざわついた。ウエッブ裁判長が「ただいまの回答には大きな意味があります」と強調した。記者席にも驚きの声が洩れ、日本の行動はすべて天皇の意志のもとに行なわれたと、すぐさま世界に打電した。
キーナンは蒼白になった。休憩に入ると、これで天皇を訴追する条件ができたと検事団のなかからも報告が届き、彼の表情はますます蒼くなった。日本人秘書山崎晴一に向かってキーナンは、この発言を取り消させるために対策をたてなければならぬといい、「田中隆吉を呼べ」とわめいた。リハーサルが失敗したことに、キーナンは舌打ちしつづけたのである。
午後からの法廷でキーナンは、自身で東條への挑発的な質問をくり返した。まるで〈日本の戦争責任はおまえさんひとりが負うべきだ〉といわんばかりの質問内容で、法廷にいる者は、主席検事としてのプライドから東條に高飛車に出ているのだろうと受けとめたほどだった。
「被告東條、私はあなたに対し大将とは呼びません。日本にはすでに陸軍はないからです。……いったいあなたの証言というか、議論というか、過去三、四日にわたって証言台に立ち、あなたの弁護人をつうじて述べた宣誓口供書の目的は、あなたが自分の無罪を主張し、それを明白にせんとする意図であったのか、それとも日本の国民に向かってかつての帝国主義、軍国主義を宣伝する意図のもとに行なわれたのか、いずれなのか」
この質問にはブルーウェット弁護人が異議を申し立て、ウエッブ裁判長もそれを認めた。キーナンの焦立ちと東條の困惑で、この日の法廷は終わったが、一見、キーナンの質問に東條が見事に反駁したかのように見えた。事情を知らない者は、東條の論のまえに裁く側が生彩を欠いていると得意になった。だが実は、キーナンは天皇の責任にふれる質問を避け、ひたすらこの日の法廷の終わるのを待っていたのだ。まったく彼にとっては憂鬱な昭和二十二年の大晦日であった。
東條の個人反証
小石川にある旧華族の豪邸に主席検事キーナンは住んでいた。田中隆吉がこの邸に呼びだされたのは、元日の夜だった。のちに彼自身が書いている手記によれば、このときキーナンはつぎのようにいったという。
「昨日の法廷での東條の答は、天皇が有罪であることを証拠だてるものだ。法廷の終了後にはソ連のゴルンスキー検事が、天皇を直ちに裁判に付すべしと強硬な要求をだしている。私はクリスマスの日に、高松宮をここに呼んで、たぶん天皇は無罪になるであろうと天皇に告げるようにいったばかりだ。これではマッカーサー元帥の意思に反し、私の意思にも反するから、あなたはすぐに東條に面会してこの答弁を取り消してもらいたい」
田中は手記のなかで、その後の行動をつぎのように説明している。「そこで私は二日に裁判所におもむき、東條被告に面会して、その旨を申し入れた。しかし東條は頑として応じなかった。『あの事は、自分の皇室に対する信念であるから、取消すわけにいかん』というのであった」――。田中はあっさりと書いているが、このとき東條は田中の話にまったく耳を傾けず、「裏切者が何をいうか」と口走り、田中の口から天皇ということばがでるたびに憎々しげに見つめたと、のちに佐藤賢了は東條の家族に語っている。
田中とキーナンの秘書山崎は、宮内大臣だった松平恒雄をたずねてキーナンの苦悩を伝えた。そこで松平は、木戸幸一の息子で、木戸の弁護も引き受けている弁護士木戸孝彦に東條説得を依頼することにした。それを受けて木戸は一月五日の休憩時間に東條を訪ね前言を取り消すように頼みこんだが、はじめは渋っていた東條もキーナンの意向や天皇有罪論に傾斜している検事の多いのを知って、結局受けいれた。
もっともこのへんの事情は、田中や木戸の資料によるもので、東條自身は自分の発言がなぜ咎められねばならないかを自覚してはいなかった。田中隆吉はこの顛末を、自分の手柄話として得意気にキーナンに報告している。
一月六日の法廷で、キーナンははじめから鋭い質問をした。東條の発言がうまくいくのを確認していたからだ。二日、五日の訊問は、さして重要でもない事実を確かめたり矛盾だらけの質問をしていて、キーナンは予想外に不勉強だという記者席の声にキーナン自身がいささかうんざりしていたのだが、その印象を破るかのように、キーナンのこの日の質問は鋭く日本の政治機構の中枢をつきはじめたのである。その部分のやりとりは、『キーナン検事と東條被告』という書によればつぎのとおりである。
「さて一九四一年すなわち昭和十六年の十二月当時において、戦争を遂行するという問題に関しまして、日本天皇の立場及びあなた自身の立場の問題、この二人の立場の関係の問題、あなたはすでに法廷に対して、日本天皇は平和を愛する人であるということを、前もってあなた方に知らしめてあったということを申しました。これは正しいですね」
「もちろん正しいです」
「そしてまたさらに、二、三日前にあなたは、日本臣民たるものは何人たりとも、天皇の命令に従わないというようなことを考えるものはないということを言いましたが、それも正しいですか」
「それは私の国民としての感情を申し上げておったのです。責任問題とは別です。天皇の御責任とは別の問題」
「しかしあなたは実際合衆国、英国及びオランダに対して戦争をしたのではありませんか」
「私の内閣において戦争を決意しました」
「その戦争を行なわなければならないというのは――行なえというのは裕仁天皇の意思でありましたか」
「意思と反しましたか知れませんが、とにかく私の進言――統帥部その他責任者の進言によって、しぶしぶ御同意になったというのが事実でしょう。しかして平和の御愛好の御精神は、最後の一瞬に至るまで陛下は御希望をもっておられました。なお戦争になってからにおいてもしかりです。その御意思の明確になっておりますのは、昭和十六年十二月八日の御詔勅の中に、明確にその文句が付け加えられております。しかもそれは陛下の御希望によって、政府の責任において入れた言葉です。それはまことにやむを得ざるものなり、朕の意思にあらざるなりというふうな御意味の御言葉があります」
この言質を得ると、キーナンは「ハルノート」についての質問に移った。彼はさして重要でもない文句をひいてきては東條と応答した。自らが天皇を説き伏せ戦争にもっていったということが、東條の口からはっきり語られた以上、キーナンの質問はまた尻すぼみとなったのである。彼はもういつ質問を打ちきってもよかったのだ。
一月七日、東條の弁論が終わるにあたって、判事団を代表してウエッブ裁判長がいくつかの疑問を質したが、そのなかにはつぎのような質問があった。
「証人以外の何人が天皇に対し、米国並びに英国に対して宣戦するようにということを進言したか――」
この質問に一瞬東條はたじろいだが、慎重に答えなければという思いを確認して、彼はことばを選ぶように答えはじめた。この慎重さは聞く者に不審な感じを起こさせたが、そこに作為的な意味があったからかもしれない。
「……日本が開戦に決定したのは、連絡会議、御前会議ならびに重臣会議、軍事参議官会議で慎重審議した結果、自衛上やむを得ず戦争しなければならぬ、こういう結論に達したのである。そこで最後の決定について、陛下に直接お目にかかって申しあげたのは私と両総長であった。私と両総長は、日本の自存を全うするため、平たくいうならば、生きるためにはもう戦争しか道はありませんということを申し上げた。しかして御嘉納をいただいたのです。……」
ウエッブはそれ以上追及しなかった。天皇を法廷にひきだすのは不可能と知ったからである。それを裏づけるように、この日の訊問のあとウエッブとキーナンは秘かにマッカーサーに呼ばれ、東條証言で明らかなように天皇に責任はない、したがって天皇を起訴しないと告げられた。ウエッブは苦虫をかみつぶした表情なのに、キーナンは喜色を隠さず、そのことばになんども頷いた。
いっぽう東條も、訊問の結果に充足感を味わっていた。胸中のわだかまりを吐きだしたし、天皇に責任がかからぬように応答もできたし、巣鴨に帰るバスの指定席、二列目の内側に座っても、笑みを浮かべていたほどだった。
新聞記者の執拗な求めで、清瀬をつうじて、「靖国神社の祭霊と戦火をこうむられた方々の心になって述べたつもりです。もし希望が許されるなら二つの望みがあった。この戦争は三十年まえにさかのぼって論じられるべきだ。相手の政府も審理の対象とすべきと思う」と答えたが、彼の本音はまったくここに尽きていた。
肩軽し これで通すか 閻魔大王
この日の日記に、彼は俳句とも川柳ともつかぬ句を書きこんでいるが、「この日で自分の役目は終わった」と、以後、彼は毎日何首もの歌を詠みつづけた。
東條が退場したあとの法廷は、また弛緩状態にもどった。東條のあとは梅津美治郎の反証に入り、ついで法廷に提出された資料の正当性をめぐって検事と弁護人の応酬がつづいた。老いた被告たちのなかには、緊張が解けたためか、居眠りをする者もめだった。
とはいえ、法廷に出てくるのが苦痛だったのではない。法廷の控室は、昭和二十三年にはいってからケンワージーの処置に批判が集まって金網が張られるようになっていたが、それでも家族に会える楽しみは残されていた。それに巣鴨拘置所の監視が厳しくなっていた。検事論告のはじまるときに不祥事が起きてはと、毒薬の所持を神経質なまでに調べると称して口腔、耳、陰茎、肛門と徹底的に検査されるのである。弁護人との直接の書類のやりとりも禁じられた。しかし法廷に出てきている間は、そういう苦痛から免れることができた。
巣鴨拘置所のアメリカ人将校には緊張が支配し、東條の部屋だけは数名の将校が終日監視した。
二月十九日からはじまった検事の論告は、各被告の責任を罵倒のことばで羅列していった。三月三日からは弁護側がこの論告を反駁した。各被告の弁護人は、それぞれの訴因に真っ向からくいさがった。東條だけは自ら弁論に立ち、大東亜政策は世界平和の政策であり、大東亜宣言は大西洋宣言と相並ぶものだといい、日本に軍閥が存在した事実はなかったと、語気を強めて言った。重光は日記に「死を前にして戦ふ勇者の風あり」と書いている。
四月十六日、法廷は一切の審理を終え、判決言い渡しの日まで休廷が宣言された。安堵と落胆の被告を乗せ、雨のなかを巣鴨に帰ったバスは、いつもの正面玄関ではなく裏側の入口に止まった。それは拘置所の生活がさらに厳しくなる予兆だった。被告たちは素裸にされ、レントゲン検査や肛門検査を受け、これまでとは異なって奥の第一棟の二階に移された。部屋の割り当てもかわった。中央に東條、そして木戸、嶋田、東郷とつづいた。東條から遠のくに従い、要職から遠かった者だったので、神経質な被告は刑期の重さの順だろうと噂した。
この日以後の監視は、中央に収容されている被告にはいっそう厳しくなった。東條に好感をもたぬアメリカ人将校のなかには、毛布をかぶっている東條を苛立たしげに蹴る者すらいた。法廷での東條の弁論に好感をもたぬ兵士もいて、彼らは東條に侮蔑のこもった態度で接することにより、憂さを晴らした。
「こんな扱いを受けるなら、早く首をしめてもらいたいものだ」と東條は重光につぶやいている。自尊心を傷つけられる日々に、彼の怒りは内向していった。
巣鴨拘置所の運営にあたっているのはアメリカ軍であったが、もしこの期にA級戦犯の被告が自殺すれば、それはアメリカが他の十カ国から責任を問われることを意味する。しかも彼らには苦い経験があった。前年十月にニュールンベルク裁判で死刑の判決を受けたゲーリングは、監視の隙をついてカプセル入りの青酸カリを飲んで自殺した。肛門や靴の下に隠してもちつづけていたのである。これが教訓となった。それに彼らは、日本人は自殺を美化する民族だと考えていたから、監視もまた脅迫観念に裏打ちされていた。煙草は与えてもマッチを与えない。一週間に一度か二度の中庭の散歩も、中央に板を並べ、そこを歩き回るだけに限った。板から外れると注意を与えるのは、釘やガラスを拾って凶器にされるからという配慮のためだった。
被告たちは、自らの生死を定める判決言い渡しの日をさまざまに噂した。五月下旬には七月ごろ、六月にはいると八月以後だろうと、根拠もないままに脅えつづけた。七月中旬になると、十一月だろうと拘置所のアメリカ人将校が洩らしたことばを、そのまま信じたりした。
彼らの楽しみは、一日に一時間ほど許される相互訪問と、家族との月一回の四十五分間の面会であった。家族の面会をだれもが月のはじめに指定するので、面会室はごった返したが、面会日が終わると、あとは手紙の交換だけが家族とのきずなだった。被告は週に一回しか手紙をだせぬのだが、外部からの手紙はなんどでも許されていたので、被告の家族のなかには毎日手紙を書いた者もいた。
東條家では四人の娘がしばしば手紙を書いた。日常生活、将来の抱負、そして父親への思慕がその主な内容だったが、東條からはきわめて現実的な手紙が届いた。遠回しに自分の死んだあとの家族の生活を案じ、娘には「自活の道を選ぶように……」「これからは英語が必要な時代だから英語を勉強するように……」といったことである。それは東條の気持の底に、アメリカを見る好意的な眼が育ったことを裏づけていた。
また一日一時間ほど許される相互訪問は、陸軍を中心とするグループと外務省を中心とするグループに分かれ、東條を訪ねてくるのは、かつての部下の武藤章や佐藤賢了が多かった。ここで彼らがどのような話をしたかは、資料がないのではっきりしない。だが裁判の進行や内容に不満を語りあっただろうし、予想される刑期を噂したであろう。東條に関していえば、新聞で報じられる政治情勢には、あまり関心をもたなかったと考えられる。死刑を覚悟している東條は、巣鴨拘置所は未来を見つめる場ではなく、過去をふり返り、幽冥界への旅立ちの場であったからだ。このころから東條は、急激に宗教的な目ざめをもちはじめていたのである。
デス・バイ・ハンギング
巣鴨拘置所教戒師花山信勝は、四十代半ばの仏教徒であり、東大文学部の教授であった。彼は、東條が初めて仏間に顔を見せた日のことをはっきり覚えている。東條のメモによるなら、この日は昭和二十一年三月十六日の土曜日である。「帝大文学部教授花山博士ノ法話ヲ聞ク」とあり、東條のほうは特別の感慨は綴っていない。
「この日、私が仏間に入っていくと、東條さんは最前列にロイドメガネをかけ囚人服を着て座っていました。やはりかつての指導者ですから、集まったBC級の戦犯の人たちもちらりちらりと東條さんをうかがっていましたね。しかしその視線は特別の意味があるのではなく、東條さんとはどんな人なのかという興味の視線でした。私の法話をうなずきながら聞いていましたが、それを見たとき私は真面目に聞いてくれる、法はわかってくれそうな人だという印象をもちました。最初のその印象は最後までかわりませんでした」
学徒出陣にあたって東條が東大に講演にきたとき、教授仲間では、特別の才能をもった人物ではない、平凡な軍人だと話し合ったが、仏間での東條は、その先入観が誤りではないかと思われるほど悠々としていたと、花山はいま証言している。
その後東條は、法廷に時間を割かれたのと、口供書の草稿をまとめるために仏間に顔を出すことはなかったが、しかし昭和二十三年の春を過ぎてからは、しばしば仏間に顔をだした。花山が初めて見たときの悠然とした姿がそこにあった。そして六月を過ぎると東條は、仏教書を差し入れてもらいたいといい、『正信偈講讃』や花山の著作『白道に生きて』を熱心に読んだ。
仏教書を精読するにつれ、東條は花山に心を開いた。
「私の母も小倉の寺の出なんです。子どものころには、母に教えられて手を合わせることもありましたよ」
そう語る東條の口ぶりには、政治への関心はなかった。自らの家族への思いと、死を超越するだけの世界を求めているにすぎないと花山は思った。権勢を誇った指導者も、彼のまえでは悩めるひとりの人間でしかない。そういう人間の素朴な姿を、東條はありのままにあらわしていると、花山には思えたのである。
判決言い渡しが近づくにつれ、花山は新たな危惧をもった。二十五人の被告たちが動揺し精神状態を混乱させたとあっては、宗教家の彼自身の恥辱であり、しいては世界各国の嘲笑を浴びることになりかねないと思ったのだ。連合軍総司令部が、八月二日から判決文の翻訳にあたるアメリカ人九名、日本人二十六名が芝のハットリハウスで翻訳作業に入ると発表したとき、花山は極刑が予想される被告に集中的に法話を講じなければならないと考えたが、とくに東條には宗教的な境地に入って判決を受けて欲しいと願った。そうさせることが彼の役割であることを強く自覚したのだった。
花山が教戒師を志願したのは、同僚教授から、連合軍が巣鴨拘置所の死刑囚に対する仏教憎を捜していると聞いていたためだった。三十代か四十代であること、特定の宗派に関係なくあらゆる宗教の教義を理解していること、英語に堪能なこと――の三条件が必要で、むろん戦争に加担した宗教家は除かれるという。条件のすべてが花山のために用意されていた。
被は躊躇なく教戒師になろうと決めた。巣鴨拘置所に履歴書をもって訪ねた日、所長のハーディ大佐とキリスト教教戒師クレーメンス中尉は、収容戦犯の九割は仏教徒であるので日本政府に人選を求めても誰も推薦してこないと不満を示していた。そしてアメリカ留学の経験もあり、アメリカ人の宗教心を評価している花山は、すぐにでも巣鴨に通ってくるように頼まれたが、教戒師の存在を軽視する日本政府の態度に、改めて花山は赤面した。明治以来、宗教政策をもってなかった日本の積年の弊があらわれていると思えたのである。
国家に従属させられた宗教は、国民を慰撫するだけのものでしかなかったのだ。A級戦犯たちは宗教を凌辱し、その意味を知ろうともせず弾圧しつづけたのだから、死を目前にした人間として相応に宗教からの復讐を存分に受けるべきでもあった。彼らが発狂するのなら、それはそれでいい。とり乱すのならそれでもいい。それがその人間の軌跡を象徴する。花山は意識していなかっただろうが、花山が被告たちを宗教的な境地に達するように説教しようと考えれば考えるほど、皮肉なことに、日本仏教が万感の想いを込めて復讐していく構図ができあがっていくのである。A級戦犯たちは自らの精神世界を人生の終焉で再構築しなければならなくなったのである。
八月下旬、A級戦犯二十五名だけを集めての法話が仏間でもたれた。花山が法僧衣をまとって入室すると、二十五名は私語も交さず座っていて、疲労の濃い視線を投げてきた。彼らは判決を気に病んで脅えているのである。読経からはじまり、B級、C級の戦犯の話、そして仏法僧の求道的な生活について花山は話した。黙想している者、考えごとをしている者、無表情の者、熱心に聞いている者。じっと花山の目を見つづける東條は熱心なひとりだった。
法話が終わると、東條は「申し訳ないですが、吉川英治の『親鸞』を差し入れてもらえませんか」と申しこんできた。『親鸞』を読みたい――それは彼の中に苦悩が定着しはじめていることを物語っている。花山には歓迎すべき状態だった。花山の手元にこの本が戻ってきたとき、東條を筆頭に十五名のサインがあったが、東條が彼らに勧めて読ませたようでもあった。署名の文字は、被告たちの精神が生死の間を揺れ動き、中途半端な状態から抜けだしたいという焦りの中にあるようにみえた。
判決宣告の日はいっこうに明らかにならなかった。ハットリハウスの翻訳作業が遅れているらしく、九月が過ぎ、十月に入っても法廷再開の徴候はない。時間を経るにつれ、拘置所の警戒だけは厳重になっていったが、それも被告の神経を疲れさせた。彼らを癒すため花山は法話の回数をふやすことを所長に提案し、それを認めさせた。
十月に入ってからは、法話は週に二回ほどのペースでつづけられた。十月下旬の法話で花山は、つぎのように説いた。「最後の瞬間まで生命を惜しんで、与えられた限りの時間を利用し、いうべきことをいい、書くべきことを書いて大往生をとげることこそ、すなわち永遠に生きる道である。……一身は死んでも、その精神は永遠に生きる」――。
すると被告たちは、これまでと異なった反応を示した。法話が終わると仏間から退出するだけだったのに、この日は全員が仏壇のまえに進みでて、合掌してから退出したのである。とくに東條は大仰なまでに合掌をつづけ、仏壇のまえを離れなかった。花山の法話が彼の精神世界へかなりの勢いで入りこんでいったのだ。
十一月四日、法廷が再開された。この日の新聞記事は「被告は心の準備をしている」という花山の談話を掲載した。確かに被告たちは、従来の市ケ谷行きとは異なった感慨をもっていた。重光はその日記に、「途上処々菊の満開を見る。路傍の光景前と変りなきも気自ら新なるものあり」と書いているほどだ。午前九時半からウエッブ裁判長が判決の朗読に入ったが、被告たちは自らの名前が出てくるたびにレシーバーを押さえ、その意味を確かめようとした。
ウエッブの朗読は、この日は五分の一ほど終えた段階で閉廷になった。「本裁判所の設立及び審理」から「太平洋戦争」「起訴状の訴因についての認定」「判決」など十項目からなる判決文は、千二百十二頁に及ぶ膨大なものだったのである。五日、八日、九日、十日と朗読はつづいたが、日を経るにつれ、被告たちは絶望感を味わっていった。日本の侵略政策が世界平和に罪業を与えたという論を基調に、日本陸軍を軸に政府がその共謀者となっていったと捉え、その過程で各被告がどのようにその政策を支え実行してきたかを論難していたからだ。検察側の論告を全面的に採用していたのである。
六日と七日は法廷は休みだったが、独房を相互訪問した被告たちは、陸軍の関係者への極刑を声をひそめて予想した。東條の死刑を疑う者はなく、そのためか東條の部屋を訪れた者はなかった。東條もまた部屋に閉じこもったままだった。拘置所のMPは、陸軍の被告のなかでも木村兵太郎、佐藤賢了らは開戦時の一幕僚で、さして実権をもたなかったから刑は軽いだろうといい、外務省出身の広田弘毅、東郷茂徳、重光葵らはさらにそれより軽いのではないかと、気休めのことばを吐いた。が、それは被告たちの精神状態を柔らげはしなかった。七日午後の散歩では誰もが黙々と定められた板の上を歩くだけであった。東條だけが立ちどまって空を仰ぎつぶやいた。
「青空を見るのもこれが見おさめかなあ……」
しかしそのことばに、相槌を打つ者はいなかった。
ウエッブ裁判長の朗読は十一日いっぱいで終わった。この日の休憩時間には特別に家族との面会が許された。被告の家族が大挙して法廷控室にやってきて、金網越しに会話を交した。無罪を信じている被告の対面は明るく、極刑を覚悟している面会には涙があった。
東條にはカツと四女が面会した。東條は「第一点は裁判が順調にいき、天皇陛下にご迷惑をおかけしなかったこと、第二点は健康で生きてこれたこと、第三点は巣鴨で宗教に触れたことを嬉しく思っている」といい、さらにつぎのようにつけ加えた。
「アメリカに連れて行かれ、そこで処刑されると思ったが、とにかく日本で処刑されるようなのでよかったと思う。それにアメリカの手によって処刑されるのは望外の喜びでもある……」
ここには、軍人として敵国に処刑されるのは喜びであり、指導者としてはムッソリーニのような死に方をしなくてすむのはよかったという含みがあった。東條の声は調子が高く、「処刑」ということばがでるたびに周囲の目は一斉に東條に走った。
法廷が終わったあとの帰りのバスは沈痛だった。平均年齢が六十代後半に達する被告たちは、明日の判決に不安を感じながら、しかしこの不安定な生活に結着がつくのを喜びとも恐れともつかぬ複雑な想いで待つことになった。この日のウエッブの判決文は、東條内閣の成立を共同謀議の総仕上げととらえ、東條が開戦の決意をしたことがくり返し強調された。そして捕虜虐待の事実が執拗に批判されていた。それは東條の極刑を予想させたが、その他の被告にはどのような判決が下るのかは窺わせはしなかった。それが彼らには不安だったのだ。
バスが巣鴨に着くと、その不安はいっそう深まった。自室の壁、布団、毛布そして石鹸にいたるまで、すべてが新しいものにとりかえられていた。私物の書籍もノートも新聞も持ち去られていて、最低限の生を充足するものしか置かれてなかった。この夜、ある独房からは奇声があがり、嗚咽が洩れたともいう。
十一月十二日は朝から陽射しの強い日だった。市ケ谷台の坂をあがった法廷の玄関口には、裁判の判決を直接目で確かめようとする者が並んでいた。傍聴人の七割は学生で、彼らは自らの価値観を逆転させることになったこの戦争の結着を見届けておこうというのであった。
傍聴席は被告の家族で埋まり、一日も欠かさず傍聴に来た広田弘毅の娘も、松井石根の妻も武藤章の妻もいた。東條の次男と三男もはじめて傍聴席にすわっていた。記者席には東京裁判のはじまった日と同じように各国の記者が顔を見せていた。
午前中の法廷では、判決文の最後の部分が朗読された。昼の休憩時間、応接室の控室で被告と家族の面会が許されたが、どの家族も被告の顔を見つめて泣いていた。東條は、妻とふたりの娘が泣き崩れるのを、他の被告と同じように困惑したように見つめるだけだった。
午後一時半からの法廷では、ウエッブ裁判長が各被告の判決文を朗読したが、「侵略戦争を遂行する共同謀議は最高度の犯罪」「共同謀議の参加者、加担者は有罪」と二十五名の被告全員を有罪と決めつけていった。松井石根と重光葵をのぞいては、全員が共同謀議に加わったとも断じた。午後三時半、判決文の朗読は終わり、被告は控室に戻された。あとはひとりずつABC順に呼びだされて判決を言い渡される。
最初に荒木貞夫が控室からMPに連れていかれた。彼は数分で戻ってきたが、そのまま控室の隅の椅子に座らされ、護衛のMPがその傍に立った。彼の表情はいつもと変らなかった。ついで土肥原賢二が連れだされたが、彼は一度控室に戻ると、つき添っていたMPが入り口近くにある外套掛けから土肥原のオーバーをとり、それを着せるようにして隣室に連れていった。室内の者は容易にその意味を理解した。死刑の者は別室に移されるのだ。
橋本、畑、平沼は控室の隅に護衛のMPに守られるように座った。しかし広田は別室に消えた。そして星野直樹が呼ばれたのだが、彼は、東條のもとに行って挨拶した。東條の番頭役は両手を膝に、ふかぶかと頭を下げつづけたのである。
「ながながお世話になりました。お別れですね」
「君までこんな所に連れてきてしまって相すまぬ」
星野は控室に残る側だった。そのあと板垣、松井、武藤、木村が控室から消えていった。東郷が戻ってきて、東條の番となった。しかし彼が二度とこの部屋に戻らぬだろうということは、誰もが知っていた。背筋を伸ばした東條は、日頃とかわりなく、彼らの視野から消えた。東條は両手を後ろに組み、ゆっくりと法廷にはいった。四十人近いカメラマンが一斉に立ちあがり、東條を追いかけた。
東條は席に着くとヘッドホーンをあて、首を軽く左に曲げて天井を見あげた。ウエッブが「|絞 首 刑《デス・バイ・ハンギング》」と叫んだ。東條は軽くうなずき、表情を和らげた。そしてホーンをはずすと、顔をあげて傍聴席に目を走らせた。最初にして最後の傍聴席への視線だった。二階の一隅に次男と三男を見出したのか、そこで視線を止めたが、二、三度うなずくと法廷から消えていった。その瞬間、法廷には形容のつかないどよめきが起こった。
身体の具合が悪くて出廷できない賀屋、白鳥、梅津は、欠席のまま終身刑を言い渡された。全員の刑の宣告が終わると、再び法廷に喧騒が起きた。それが二年六カ月の終幕のベルであった。その空気にうながされたようにウエッブ裁判長が最後の台詞を吐いた。
「これをもって極東国際軍事裁判所を閉廷する」
昭和二十三年十一月十二日午後四時十二分、報復に満ちた儀式の終焉であった。
宗教的境地への到達
七人が欠けた控室には安堵の空気があったが、絞首刑を宣告された七人の部屋もまたそうであった。梅津の弁護人だったブレークニーは、弁護の力が足りなかったことを詫びるためこの部屋にはいったが、彼らが特別に興奮した様子もなく、車座になって談笑していることに驚いた。しかもブレークニーを認めると、東條が七人を代表して、と前置きして、「アメリカ人弁護士の尽力に感謝します」と頭を下げたのである。つづいて清瀬もこの部屋にはいったが、そのとき東條は、つぎのように言った。
「この裁判で天皇陛下にご迷惑がかからないことが明白になり非常に安心した。戦争責任は自分が全責任を負うつもりだったが、当時の閣僚諸君にまで迷惑がおよんでまことに相すまないと思っている……」
清瀬は、東條がこの判決に満足していることを知った。実際、東條は悲嘆にくれてもいなかったし、憎悪ももっていなかった。他の六人はどうあれ、彼にとっては死を当然のものと覚悟していたことを確認したにすぎなかったのだ。
七人は特別に用意されたバスで巣鴨に帰った。この日から彼らの監房は、第一棟三階の七号室から十三号室となった。二階の被告たちは第三棟に移されたので、この棟の住人は七人だけになった。処刑の日までに自殺されてはかなわぬということで、監視はいっそう厳重になった。殺す日まで殺させぬという奇妙な時間を共有することになったのである。それでも翌日から午後と夜の二回、わずかの時間ならMPの監視つきで相互訪問が許された。東條が最初にしたことは、木村と武藤の房をたずね、詫びることだった。
「まきぞえにしてすまん。君らが死刑になるとは思わなかった」
このことばに彼らは、裁判所が陸軍省で共同謀議が練られたと邪推して、陸相、次官、軍務局長をその張本人に仕立てあげたのだろうと言って、東條をなぐさめた。しかし、ひとしきりそうした話がつづいたあとは、あまりそのことにはふれなくなり、花山の差し入れた仏教書を読み、自省する時間を大切にするようになった。
死刑宣告を受けた者が、自らの肉体を大義の代償としてさしだす心境になっていく徴候であった。それは自らの死を歴史の中に位置づけたい、つまり殉教者でありたいと願う気持の昂まりが招いた儀式であったというべきかもしれない。
この判決が宣告されるまでに判事団の間ではどのような葛藤があったのか、そのことに触れておかねばならない。つまりこの裁判は〈アメリカの、アメリカによる、アメリカのための〉裁判であったからだ。
ところで、死刑囚たちが殉教者たらんという精神状態におちこんでいくのを恐れていたのは、実は判事団の側にもあった。ウエッブは「天皇が免責になったうえに東條を死刑にするのは、いわば君主のために臣下が死ぬという点だけが強調されかねない」といって、死刑囚が死んでも組織は温存されたままであり、新たな復讐しか生まれないと強調した。この裁判には勝者の復讐の論理があり、それには|生贄《いけにえ》が必要で、その生贄は敗者の目で見れば〈殉教者〉として定着し、再び果てしない憎悪がはじまるというのであった。だがこの意見は抹殺された。
しかしウエッブは、自身の意見と、オランダ、インド、フランス、フィリッピンの少数意見を法廷記録のなかに書き込むことだけは認めさせた。その結果、法廷記録が弁護側に回ってきたときから、少数意見も少しずつ世間に知られることになった。
少数意見はさまざまであった。多数意見よりも強硬なフィリッピンのハラニーヨ判事もいれば、オランダのローリング判事やフランスのベルナール判事のように裁判所の適法性に疑問を投げかけ、法廷がマッカーサーの道具ではなかったか、それに裁判内容もあまりに恣意的な証拠提出が行なわれたと批判して、返す刀で天皇の免責にも批判を加えているものもあった。検事側提出の資料三千二百八十点のなかには、資料の名に値しないものさえあったから、この論は説得力をもっていた。だがこういう声は、すべてアメリカの意向によって無視された。
いっぽうでインドのパル判事の判決書があった。日本文訳千二百十九頁の判決書は、それらの意見とも異なっていた。戦争がいつ国際法上の犯罪とされたのか、個人責任はどこまで問えるのかを軸にして、法廷のあり方、裁判技術、日本近代史を分析して、格調高い字句を並べての戦争不可避論を詳しく訴えていた。「……執念深い報復の追跡を長びかせるために、正義の名に訴えることは許されるべきではない。世界は真に、寛大な雅量と理解ある慈悲心とを必要としている」。彼もまた〈生贄〉をつくってはならぬといい、戦勝国の度量を要求していた。
このパル判決書は人類普遍の原則に満ちていたが、しかし、日本の実情については正確に理解していない面もあった。「輿論は非常に活発だった。社会はその意思を効果的にするための手段を少しも奪われていなかった」「彼らは終始輿論に服し、戦時中においてさえも輿論は真実にかつ活発に役割をはたしたのである」――多くの資料を読破し、多くの証人とも会ったとパルは言ったが、資料はすべて公刊されたもの、証人は時代の指導者とあっては、時代状況を見失うのも当たりまえだった。彼は日本の世論が閉鎖されていた面をまったく見ていなかったのだ。したがってパル判決書は、本人の意思とは別にひとつの生き物として動いていく危険性があった。それはいまに至るも消えていない。いや逆にその危険性は巧妙に悪用されているとさえいえる。
パル判決書は、弁護人をとおして七人の戦犯にも伝えられた。むろん七人とも喜色を浮かべ、自らの意思が充分理解されているといった。とくに東條は、「いつかこの論が世界に認められることになりましょう。私はそのための礎です」とくり返した。皮肉にもパル判決書は、東條の死に新たな〈殉教者〉として肉付けを行なうことにもなったのである。
花山信勝が、拘置所側からの諒解をとって七人に個別に会ったのは、判決宣告から五日後の十一月十七日午後だった。最後に仏間にはいって来た東條は、アメリカ軍の作業服を着せられ、三人の将校の付き添いを受けていたが、その左手は将校の右手と手錠でつながっていた。それまでの六人はふたりの将校だけだったのに、東條だけは特別扱いだった。
花山が家族からの伝言を一言ずつかみしめるように伝えると、東條は右手をあげ、諒解の合い図をした。その手に数珠がはめられていた。そしてポケットからメモをとりだし、家族に伝えてほしいといって、終生かわることのない彼の特徴ある声で、箇条書きどおり読みあげた。
「ひとおーつー」彼は長く声をはりあげた。
「ひとつ、健康状態至極良好なること、また精神状態も平静であること。ふたつ、花山先生の教導を受けていること。三つ、次男に花山先生が最後を見届けてくれるのを感謝すること。四つ、判決後第一信を出したが到着したかどうか。五つ、十六日に面会許可願をだせとのことであったからカツと四人の娘の名をだしておいた。これは数に制限があったからである。六つ、過日の判決には財産没収の言い渡しはなし、したがって唯一の財産である用賀の家は引きつづき使用し得べし」――。
花山は、この元首相の神経の細かさを改めて感じた。
「このほかに、死刑にあたっての感慨を文章にしたので、受け取って欲しい」
そういって東條が手渡した書面には、「花山師ニ述ブル要件」と題して四項目が書かれてあった。
「唯責ヲ一身ニ負ヒ得ズ僚友多数重罪ニ処セラレタルコトヲ心苦シク思フ、本裁判上累ヲ陛下ニ及ボスコトナカリシハセメテモノコトナリ」「唯敗戦及ビ戦渦ニ泣ク同胞ニ思ヒヲ馳スルトキ刑死スルモ其ノ責ノ償ヒ得ザルヲ歎ゼズレバアラズ」「裁判判決ソノモノニ就キテハ此ノ際言ヲ避ケタシ何レ冷静ナル世界識者ノ批判ニヨリ日本ノ真意ノアリシ処ヲ諒解セラルル時代モアラン」「ケダシ之等ノ者(戦死、戦傷死者、戦災者等及ビ其遺家族)ハ赤誠国ニ殉ジ国ニ盡セルモノニシテ戦争ニ対シテ罪アリトセバソレハ吾々指導者ノ罪ニシテ彼等ニハ毫末モ罪ナキ……」
そのほかに、捕虜虐待のような皇軍兵士の行為も最終的には自らの責任であり、巣鴨に収容されているB級、C級の戦犯とその家族にも配慮を加えてもらいたいと彼は訴えて、末尾には「今ヤ刑死セントスルニ臨ミ心残ナル苦衷ヲ訴フ/英機」と署名してあった。
しかし東條のこの訴えが、国民に受けいれられる時代でないことを花山は知っていた。が、何らかのかたちで公表すると約束すると、東條は安堵の色を浮かべて急に饒舌になった。
東條のこの遺書は、〈花山〉に代表される宗教世界の勝利と大日本帝国指導者の無惨な敗北を意味している。もし彼らが不動の信念をもって大日本帝国の帰趨を担ったというのなら、安易に宗教的境地に遺するべきではなかったはずだ。最後の瞬間まで矜持をもって抵抗≠オ、死刑の宣告を受けたにしても、たとえばつぎのようなことばを叫ぶべきであった。
〈私の刑死は、私の国家が他の国家に挑んだ理念の敗北を意味しない。これは歴史の断面における負の清算でしかない。私を裁いた君らも、いつかまた裁かれることになるだろう〉――
彼らに誇りがあるならば、こういうことばを残していくべきだったのだ。〈私〉に戻っての死は、大日本帝国への冒涜であったといえるかもしれない。
いまや東條は、政治、軍事から離れて宗教の世界を徘徊しているだけであった。だからこそ彼は、政治、軍事にはことばをもつべきではなかったのだ。宗教の境地を理解したといった瞬間から、彼はひとりの臆病な死刑囚になってしまったといえた。
たとえば彼は、花山から借りた経典のなかに「信」という字が十三回つかわれているといったが、そのことは東條が〈十三階段〉を意識しているように花山には受けとれたのだった。ふたりの会話は奈良の大仏にも及んだ。大仏のもとに無限の世界があるという花山の言にうなずいて、東條は何気なくつぶやいた。
「地球上の帝王などは実に小さなものですなあ」
この会話は、その後、東條周辺の人びとの間で問題になった。天皇に忠誠を誓っていたはずの東條が、それを放棄したのではないかというのである。結局、花山が「これは宗教上のことばで、仏にたいしては大ならずという意味です。天皇陛下の地位を軽く見る意味では毛頭ありません」と釈明して落ち着いたが、家族や側近には、宗教への傾斜を深めている東條が、残されたわずかの時間に自らの軌跡を否定するのではないかという恐れとなって、花山との間に微妙な亀裂を生む因になっていったのである。
十一月二十日に、家族との面会が特別に許された。判決宣告のあとすぐに処刑されるという噂が流れていたので、カツと四人の娘はこれが最後の面会になるだろうと考えていた。再審申し立ては前日までだったし、一部の被告の弁護士がそれを申請したが、東條は事実関係の誤りを訂正する申し立てに同意しただけであったからだ。
この日の面会では、家族は東條に〈帝王論〉を確かめようと考えていた。しかし実際に対面するとそれを忘れてしまい、泣くだけであった。むしろ東條のほうが、お国の再建のために力を投げだすようにと、家族たちを励ましつづけた。そして、この年の春からつくっていた和歌二百首とは別に、次の四首を辞世の歌としたいと言って朗じた。
君思ふ心いかでか変るべき
千代に守らむ魂となりても
時に遇はで散るよ吉野の山桜
延文陵下之恨しのびて
統くものを信じて散りしをのこらに
なんと答へむ言の葉もな志
国民の痛む心を偲びては
散りても足らぬ我か思ひかな
この四首は判決宣告後に詠ったもののようであった。
「自分の心境はこの歌のとおりだ。幸せに暮らせよ」
彼はそういってから、MPにひきたてられて獄舎に消えていった。
――この面会の数日後、新聞はきわめて簡単に、十一カ国の対日理事会が開かれ、再審要求に応じようというインドとオランダの意見を却下し、判決は公式に支持されたと伝えた。併せてマッカーサーが、十一月中に死刑を執行するよう命じたともつけ加えていた。
〈私〉への沈潜
この記事は花山を緊張させた。彼は、巣鴨拘置所の将校たちの勤務配置や処刑場の設営をそれとなく追ってみて、処刑が二十九日の月曜日に照準が合わされていることに気づいた。
この日、花山はモーニングをもって拘置所の門をくぐった。そして仏間に二人ずつ呼び、執行をそれとなくにおわせることにした。東條と武藤を仏間に招いたのは午後二時だった。武藤は東條に遠慮しているようで、東條の後ろに座って花山の話を聞いていた。
ふたりは死後の希望を語った。東條は「眼鏡、入れ歯、数珠を家族に渡して欲しい」と言い、武藤は遺髪を家族に渡してほしいと花山に託した。しかし夕方になって花山は、MPから今日は帰ってもいいと命じられた。処刑中止という意味だった。
花山が巣鴨から池袋に出て、西武線に乗りかえようとしたとき、新聞記者が彼を取り囲んだ。「今日は執行の日ではなかったんですね」。彼が自宅に帰るときは死刑執行がない。新聞記者はそれを目安にしていたのであったが、そのとき新聞記者の蔭で東條の娘が涙をふいているのを、花山は認めた。
翌三十日、マッカーサーは刑の執行を延期すると発表した。その理由は明らかにしなかったが、東京裁判のアメリカ人弁護人がアメリカに帰るや、連邦最高裁判所に「連合軍最高司令官の命令で設けられた極東国際軍事裁判所はアメリカの立法府によって設置されたのではない」と異議申し立てをしたのである。この審理がつづく間は執行は行なわないというアメリカ政府の意向が、マッカーサー声明の裏にあった。
申し立ては、十二月六日になって受理された。だが七人の家族はそういう事情は知らなかった。あと三週間は処刑はない――それだけが救いだった。しかしその間に事態の急変があるかもしれない、救いはたちまち不安と交錯した。一方、七人の処刑囚はこれを喜ばなかった。彼らの精神状態は極限にまで昂まっていたからだ。延期をきかされた東條は、手をふりあげて、「早くやって欲しい。こんな状態はもうたくさんだ」と大声をあげた。
十二月の面会日は七人とも一日を希望したが、七人もその家族も、この日が最後の面会になることを疑っていなかった。しかしその割りに涙はなく、たんたんとした対面がつづいた。東條にはカツと四人の娘が会いに来たが、そこで交されたのは信仰の話ばかりだった。翌二日に花山が東條と対話したとき、東條は「昨日は娘たちと信仰の話をゆっくりしましたが、若い者は神仏の区別をはっきり理解できないんですね。妻はわかってくれましたが……」と言った。そして、「ずるずると執行が延びるのは厭なんですが、これも考え方の問題ですね」と、感情を制しながら自らの生死を何の抵抗もなく話した。
「私は感謝しているんです。仏様がまだ信心が足らぬといっているのでしょう。『正信偈』とともに『三部経』も読んでいるんですが、これはなんべん読んでもいい。政治家も人生を考えるうえで読んでおくべきですね。……結局、欲、欲ですね。国の欲が戦争になる。欲の解決のため釈迦がでてきて説いたわけです。巣鴨に入ってから、はじめて、このことを発見しました」。
東條の表情からは闘争心が消えていた。緊張したときにぴくぴく痙攣する癖はなくなって、笑顔だけが浮かんでいたのだ。もう新聞も読んでいないらしく、社会情勢にはまったく関心を示していなかった。自らの内面にひたすら沈潜していたのだ。「先生、自分の遺書には二つあります。ひとつは公事、もうひとつは家族へのものです」と前置きして、彼は書きかけている遺書の内容を洩らすのが楽しみでもあるかのように話しつづけた。
「いろいろ考えましたが、私のような幸せ者はいないと思いました。ひとつは高位高官を全うしたこと、ふたつにはいまこうして宗教の信仰をもったこと、三つにはなんでも自由にものがいえることです。まもなく死ぬのですから、なにはばかることなくいえることです。そんなわけでなんでもいえる立場なので、軍事上のこともつけ加えて書いています。公事に関する遺言浄書はあなた宛てにしておきましたが、清瀬君とブルーウェット君と三人で読んでください。できればこれを識者の参考にしていただきたく思います。家族への遺言は、葬式のこと、家事のことを示し、とくに信仰に関することは充分書いておきました」
宗教家として花山は、東條のなかで煩悩が最後の闘いをしていることを見ぬいた。東條の価値観はまだ古い時代のままであったが、それが否定されたいま、彼はしきりに新しい使命感をさがしているのであった。そして十二月半ばの面会で、東條が「こんな歌をつくりました」といって和歌を朗じたとき、花山は東條の胸中の闘いをさらに確認することができた。
今ははや心にかかる雲もなし
心ゆたかに西へぞ急ぐ
目を閉じて朗じる東條の表情には、宗教の世界に入りこんだ人間に特有の喜悦があったが、そのあとに彼がつぶやいたのはつぎのことばだった。
「人間は無常に死んでいく生物ですねえ……」
直截なことばだった。直截であるがゆえに胸中は混乱していたのだ。七人の死刑囚のうち短期間に急激に信仰上の境地へ傾斜したのは東條英機だと、アメリカのチャップリンもいったが、それはむしろ、使命感をさがす彼の意思の力が強いことをものがたっていた。花山の立場からすれば、「こんな歌がつぎつぎと口をついてでてくるんです」といって朗じる土肥原賢二のほうが、より一歩魂の世界へ入りこんでいるように映っていた。
十二月二十一日午後十時すぎ、七人の死刑囚は、チャプレン・オフィスに二人一組ずつ呼びだされた。房から出るときはいつもそうであるように、彼らは護衛の将校と手錠でつながっていた。オフィスの中央に拘置所長ハンドワーク大佐がいて、左に副官、右に通訳がいた。マッカーサーからの通知書だと前置きして、ハンドワークは「マッカーサー元帥によって刑の執行が命じられ、それを本人に伝達する。右執行は一九四八年十二月二十三日午前零時一分に行なわれる」と事務的に伝えた。
この日早朝、本国政府からマッカーサーのもとに届いた通知書は、連邦最高裁法廷が申し立てを却下し、東京法廷の合法性を追認したという内容だった。事態は旧に復した。マッカーサーは対日理事会を招集して、死刑執行確認のためにアメリカ、オーストラリア、ソ連、中国の代表が立ち会うことを求めた。それがすぐに巣鴨拘置所での通達となったのである。
通訳が訳していく間、東條は一語ずつうなずいていた。訳が終わると左手をあげ「OK、OK」といったが、それには感謝の意がこもっているようにきこえた。ハンドワークが「なにか願い出はないか」とたずねると、東條はすこし考えこんだ。それまでの六人は「とくにない」と答えていただけに、その動作はこの部屋にいる者に奇異な感を与えた。
しばらくして東條は、「あとわずかの時間だから大きな気持で監視してもらいたい」と、監視の将校の侮辱的な態度に不満を述べた。それから「日本食をいちど食べてみたい。一回ぐらいは飲みたい心境ですなあ」と言ったが、彼がこのとき本当に言いたかったことはそうしたことではなかったらしく、身をひきしめてつぎのことばを口早に訴えた。
「所長、とくにあなたにお願いしたいが、BC級の収容者の家族は非常に気の毒である。これらの人たちが生活していけるように便宜をはかってもらいたい。たとえば賃金をドルより円に換算して家族に送るということも考えて欲しい」
アメリカでは受刑者の労働は罰の構成要因であって、賃金は払われない。だから東條の提案はこの場ではだれにも理解されなかった。逆に東條の申し出は、彼らに軽侮の念を与えた。「東條というのはつまらぬことを言う。まるでスクールボーイのようなことを言っている」。立ち会っていた副官はよほど腹をたてたらしく、のちに花山にそれをくりかえした。
「閣下は自分が戦争責任者だと考えるにつけ、戦争犠牲者の家族のことも気にしているのです」
花山の答に副官はしきりに首をひねった。指導者ならもっと大きなことを言えないのかというのである。東條の性格は彼らには理解できまいと、花山は思った。
十二月二十二日は、花山にはその人生でもっとも時間的にも精神的にも多忙な日となった。彼は朝から仏間に座っていた。土肥原、広田と、ABC順に一時間ずつ面談をつづけることになったからである。午後になって東條が入ってきたとき、彼の疲労は頂点に達していた。
「いまは心が洗われるような心境です」
一方的に東條は言い、遺品を花山に託したあと、自分の最後の様子を家族に伝えて欲しい、刑の執行後は次男が明治神宮、靖国神社に自分の代表として参拝して欲しいと頼んだ。そのあとまた和歌を朗じた。
「われ往くも またこの土地にかへりこむ 国に報ゆることの足らなば……選相回向の歌です。いつかまた仏様になって帰ってくるつもりです」
花山はメモをとりつづけた。この人も信仰をもてばよかったのに──そんな感慨を、彼は感じつつあった。
「私の父の命日は十二月二十六日でした」
突然、東條は話題を変えた。
「妻の父の命日は十二月二十九日でした。そしてこんど自分が二十三日に執行を受ければ三日おきに命日がくることになります。これも因縁というものでしょうね」
そう言ったとたんに、心に句がうかんだらしく、目を閉じて朗じた。彼も句が自然に口をついてでてくるようになったのだ。
父の命日や 呼ぶ声近し 暮るる秋
花山はあわててそれを筆記したが、東條は、「ただいまは自分が死んでいくのにもっともよい時期だと思います」と再び話を変え、つづいて「一に国民への謝罪、二に日本再建の捨て石になる、三に陛下に累を及ぼさず安心して死んでいける、四に絞首刑で死ねること、五に自分の身体はすでに老化している、六に金銭上の不名誉な疑いが晴れた、七は一瞬のうちに死ねる、終身刑だったら一生煩悩につきまとわれそうだ」と箇条書きふうにのべたてた。
「八番目はいちばん大切なことですが、弥陀の浄土に信仰によって往生させていただけること――この八つのためです」
花山は忙しくメモをとった。視線をあげると東條がじっとメモをとる彼の手を見つめていた。こうして一時間の面会時間は終わり、東條は仏前に合掌して退出しかかったが、このときなにげない様子で聞いた。
「刑場はどこですかね」
七人のなかで刑場の位置をきいたのは東條だけだった。彼は第一棟から百メートルほど中庭寄り、表門に近い刑場を窓ごしにしばらく見つめ退出していったが、なにからなにまで知っておきたいという彼の性格をあらわしているように、花山には思えた。
午後五時、七人の独房に夕食がはこばれた。米飯に味噌汁、焼魚、肉というのが最後の献立てだった。東條の望んだ日本酒はなかった。
そして午後七時からまた個人面会がはじまった。独房のなかに何枚もの毛布を重ねて席がつくられ、そこに被告が座る。傍にMPが立つ。鉄の扉を開けたままにしておいて、外側に椅子があり、そこに花山が座る、やはりMPが彼の隣りにも立った。最終段階での不祥事を恐れて、手の届くところでは会わせないのだ。
広田、松井、武藤と面談し、東條の房に移ったときは午後九時半になっていた。彼は二十枚ほどの罫紙を渡そうとしたが、MPはそれを阻み、司令部で検討ののち渡すといった。そこで東條が罫紙の内容を読み、花山がメモをとることになった。
十二月にはいってから書きはじめたという遺書は、東條自身の政治的な自省のことばで満ちていたが、しかしそれは、むろんこの時代に即応する発想ではない。そのことを知りつつも、しかし彼の生を支える芯というのはその自省にあると、彼は考えこみたかったにちがいない。十二項目にわかれた「公事用の遺書」には矛盾した部分もあったが、しいて時代とかみあった一節をさがせば、つぎのような点であった。
「日本は米国の指導に基き、その武力を全面的に抛棄した。これは賢明なことであった。但し世界全国家が全面的に武力を除却するならばそれでよい。然らざれば、盗人が跋扈することとなろう。私は戦争を根絶するためには慾心を人間から取り去らねばならぬと思う」「最後に軍事的問題について一言する。我国従来の統帥権は間違っていた。あれでは陸海空軍一本の行動はとれない。兵役制については、徴兵制度がよいか傭兵制がよいかは、よく考えなければならない」……
なぜ統帥権が間違いなのか、どこがどう間違っていたのか、自らの考えはどうなのか、そうしたことには触れずに統帥権が誤りだと指摘するだけではあまりにも傍観者すぎたが、しかし東條には、これ以上の深い追求をするゆとりは失なわれていたにちがいなかった。
花山は、東條につづいて板垣、木村、土肥原と面会を終えた。そのあと彼は、モーニングの上に法衣をまとい、第一棟の一階一号室に駈けつけた。そこが仮りの仏間であった。
花山が水を入れたコップ七つとブドウ酒のコップ七つを準備してまもなく、土肥原、松井、武藤、東條が二階から降りてきた。午後十一時四十分だった。四人の姿を見た花山は絶句した。彼らの姿はあまりにも異様だったからだ。両手に手錠がかけられ、その手錠は両股と結ばれ固定してあった。正装して死にたいという彼らの望みはかなえられず、アメリカ軍の作業衣のままで、背中と肩のところにはプリズンの略である「P」の字が刷りこんである。それが彼らの最後の衣裳だった。靴はアメリカ陸軍の兵隊たちが履いている編みあげ靴、両足には鎖がついていた。彼らの誇りは一顧だにされていない。
両側に立つ将校は、いつもとちがって身体の大きな者にかわっていた。連合軍の警戒が厳重なのは、ニュールンベルクでの教訓のためである。処刑場にカメラマンをいれて処刑の様子を撮影させたために、被告は興奮状態になり、あばれる姿がそのまま世界に報じられた。これは死者への冒涜であるとして花山は総司令部に訴えていたが、巣鴨ではカメラマンを入れないことになった。しかし七人が錯乱状態になって暴れることを想定し、がんじがらめにすることだけは忘れていなかった。四人には暴れる徴候はなかった。
仮りの仏間での最後の儀式が行なわれた。花山が線香に火をつけ四人に渡し、四人はそれを香炉にいれた。辞世の句を書いてもらおうと用意していた筆と硯をさしだし、せめて名前だけでもと花山が言うと、四人は動かぬ右手に筆を握り、土肥原、松井、東條、武藤の順で署名した。
つぎに花山はブドウ酒のコップを手にして、四人の口にあてた。アメリカ人将校の差し入れのブドウ酒だった。彼らはぐいぐい飲んだ。「うまいなあ」東條だけが声を発した。花山が『三誓偈』の一部を読経した。
護衛の将校が処刑場にむかうよう促した。そのとき誰いうともなく、「萬歳を……」ということになり、武藤が「東條さんに」と名ざしした。すると東條は「松井さんに」と答えた。松井は彼の先輩にあたる。松井が音頭をとり「天皇陛下萬歳」を三唱した。ついで「大日本帝国萬歳」を三唱した。両手を下げたままの萬歳だった。
このころ「萬歳」は、アメリカ人が嫌うというので、あまり聞かれることばではない。しかし四人の将軍は、アメリカ人のまえで三唱できたことに充足を覚えたようであった。大日本帝国の「大」も「帝国」も消滅したのに、彼らは死の瞬間まで大日本帝国でしかものを考えられないことに、花山はいささかの異和感をもった。
萬歳三唱のあと四人は、両隣りの兵士に「ご苦労さん、ありがとう」と言った。それから花山の手を握り、期せずして同じことばを吐いた。
「先生、いろいろお世話になりました。どうか国民の皆さんによろしく。家族もよろしく導いてください。先生もお身体をお大事に……」
入口の扉が開いた。将校が先導し、そのあとを花山とアメリカ人教戒師が並び、土肥原、松井、東條、武藤とつづいた。そしてその後ろにさらに数人の将校がつづいた。「南無阿弥陀仏」と花山が唱えると、四人は唱和した。花山は空を見た。星が無数に散っている夜で、それはいかにも彼らの葬送にふさわしく思えた。
処刑場の窓からは電灯の光が洩れていた。が、厚手のカーテンがかかっていて内部は窺えなかった。ドアが開いたが、花山と教戒師の入場は許されない。だが室内には明るいライトがあり、四つの階段が中央にできあがっているのが垣間みえた。四人はもういちど花山の手を握った。東條は数珠をはずし、花山に渡した。そして身をかがめるようにして処刑場にはいっていった。
そのあと花山と教戒師は、いま来た道を戻った。つぎの組の準備をしなければならなかったからだ。三、四十メートルほど歩きかけて星空をみた。そのとき処刑場からガタンという音がきこえた。反射的に時計を見た。午前零時一分だった。
板垣、広田、木村も同じような儀式を終え、たんたんと刑場に消えていった。
総司令部の発表では、四人の死亡時間は午前零時七分から十三分までと分かれているが、それは六分間から十分間、彼らが仮死状態にあったことを意味している。
そのあと花山は、処刑場内部へ招じられた。七人は七つの寝棺に横たわっていた。彼はひとりずつに念仏をとなえ、回向をつづけたが、どの顔にも苦痛はなかった。平常心そのままに死に就いた七人に、花山自身は感銘にも似た気持を味わった。
しかし、彼らは思想家でも政治家でもなく、明治からの近代日本が生んだ小心で脈絡のない官僚にすぎないことが、死の直前に至ってはからずも露呈したのだった。
彼ら七人は処刑場ではどのような態度をとったか。アメリカ側の立会人だったマッカーサーの補佐官ウイリアム・シーボルトは、自著『マッカーサーとともに』のなかで、彼らは低い声で祈りを唱えていたと書いている。死の寸前まで「南無阿弥陀仏」と言っていたのである。
〈東條英機〉の再度の死
午前二時五分、拘置所から二台のトラックがフルスピードで西へ向けて走り去った。七つの棺を横浜の市営久保山火葬場へ運ぶためだった。連合軍総司令部報道部は、午前一時にすでに処刑が行なわれたことを簡単に発表したが、午前四時の臨時ニュースでは詳しくその内容を伝えた。東條家では前夜から仏壇のまえで家族と赤松貞雄、広橋真光らが供養をつづけていたが、この臨時ニュースではじめて処刑を知った。
仏壇には東條の戒名「光寿無量院釈英機」が掲げられていた。生前に花山信勝が与えたもので、東條も了承していた。光は智恵、寿は命を意味するものだが、智恵と命は無量ということをあらわし、釈というのは釈尊の教えを受けた者の意味である。
二十三日明け方から、かつての部下や弁護人が東條家を訪れ焼香していった。夕方になって、他の遺族を回ってきた花山が東條家に駈けつけた。疲労と興奮で、彼は震えていた。それが東條の最後を語るのにはふさわしく、集まっている者の悲嘆に拍車をかけた。嗚咽や号泣がその部屋を支配した。花山も涙を浮かべて東條の最期を報告し、そして遺書を伝えていった。
「閣下は言っておられました。裁判に就ては、清瀬君の献身的御努力に対し深く感謝している。またブルーウェット君の好意にも感謝している。清瀬君には日本の立場より御尽力を願い、ブルーウェット君には弁護士の義務として充分に御尽力を蒙り、家庭のことまでも世話になった。花山先生には人生問題に就ての理解も教えられ、真如の世界をみることができたし、仏縁をつなぐことができました。家族は精神的打撃は大きいだろうが、仏の慈悲をいただき、天寿を全うするように……。仏道は、結局、最後は御法名と『歎異抄』第一章だけで充分尽きるものだと教えられました」――。
処刑の翌日、連合軍総司令部はA級戦犯容疑者十九名の釈放を発表し、以後は軍事裁判を中止すると約束した。
その十九名とは、安倍源基、安藤紀三郎、天羽英二、青木一男、後藤文夫、本多熊太郎、石原広一郎、岩村通世、岸信介、児玉誉士夫、葛生能久、西尾寿造、大川周明、笹川良一、須磨弥吉郎、多田駿、高橋三吉、谷正之、寺島健である。
多田と本多は獄中で病死しているので十七名が巣鴨拘置所から出所した。彼らの出所はそれほど大きく取りあげられたわけではなかったが、彼らの社会復帰が先の七人の処刑と交換に行なわれたものであることに違いはなかった。彼らのなかには連合軍総司令部との間で、戦後日本の政治面で親米路線を受け継ぐと誓った者すらいたというし、東條と陸軍に一切の責任を押しつける発言をして自らを免罪にしたり、東條との部分的な対立をあたかも全体の対立であるかのように粉飾してその政治的立場を補完した者もあった。人間性の疑われるみにくい責任転嫁だった。
新聞もラジオも七人の処刑を伝えたが、そのことによって軍国主義が一掃されたかのようなとりあげ方であった。憎悪と侮蔑で七人を謗れば自己証明ができるかのような無節操な論もあった。彼ら七人を謗ることが一切を免罪するかのような意図的論調は、無反省で無自覚な国民心理を培養するだけであった。やがて七人のなかの東條だけが〈普通名詞〉に転化していったのは、その培養の結果といえた。
東條英機の名誉も基本的人権も踏みつけであった。
ひとつの例をあげれば、ある有力な新聞が二十四日の朝刊に「幼児の心持つ東條――満足し死の旅に、夜通し祈った勝子夫人」と題してセンセーショナルに報じた記事が指摘できる。それは「この日勝子夫人は一切の面会をさけ独り静かに冥福を祈っていたが、特に本社記者に次のような談話を発表した」と前置きして、東條はすでに幼児の心境になっていたとか、これからの時代に東條の遺族として負けずに生きていこうとか書かれていたが、この記事を書いた婦人記者松田某は、その日の夕方、この新聞をもって謝罪にかけつけたという。また彼女は、判決宣告の翌日にも東條夫人の手記として、「主人の精神的な命は敗戦と同時に終わりました。今は肉体的生命の有無は問題ではありません。主人として死は願うところでしょうし、私共家族といたしましても主人の願うところはつまり家族の願うところであり……」といったような記事を捏造していた。この日も訂正を求める家族に、「男性に伍していくには、こういうことでスクープする以外にないんです」と得手勝手をいいつつ、問題を大きくしないように懇願して帰っていったという。
この種の記事がいたるところで見られた。東條と舞踊家某との情事、連日の豪遊といった根拠もない話が氾濫し、外地のある捕虜収容所では、思想改造の手っとりばやい方法として、東條が酒色と金銭を目的に日本人民を欺いていたと、彼を卑劣な無頼漢にしたてあげた。
昭和二十三年十二月二十九日。処刑から一週間を経た師走の一日、東條家を自由党の大麻唯男が訪ねている。彼は大政翼賛会の幹部で、東條の意を受けて議会を動かした議員だった。仏前に合掌したあと、彼は声をひそめて言った。そのとき東條家で綴ったメモが残っている。
大麻唯男氏来訪談
吉田首相「東條ノ事ヲ聞キタシ」(大麻氏ニ)ト言フ、僕賞メル。吉田「悪口ハ聞イタガ賞メルノヲ聞イタコトナシ、ソレヲ聞キタカツタ」ト。大麻「何故」。吉田「陛下ガ私ニ斯ク言ハレタ『東條ハ真直ナ人間デアル、某(或先輩ノ名ナルモ御想像ニマカスト大麻氏言フ)ハ|贋物《ママ》デアル』ト。此言葉ヲ聞イテ、東條氏ノコトヲモツトヨク聞キ度イト思ツタ」ト。依テ色々御話セリ。
むろん天皇は、東條をどうみていたかを直接語ったことはない。しかし大命降下、首相在任時の実態から推測すると、東條を決して軽く見ていたとはいえない。一説では、絞首刑の判決が下された日、天皇は執務室で目に涙をためていたともいわれている。それが家族には救いのように思えたのだ。
ところで処刑後まもなく、総司令部は、七人の死体は他のBC級死刑囚と同じように、|荼毘《だび》に附されたあとその灰は太平洋に撒き散らされるだろうと発表した。この発表は予想されたことだった。十一月下旬、東條カツはブルーウェットとともに総司令部に赴き、マッカーサー宛てに遺体を返して欲しいという嘆願書を提出したが、それは無視されたらしく返事はなかった。また処刑当日、花山は総司令部の将校に遺灰返還を要求したが、このときも「日本側に戻すとすぐに神社をつくって英雄扱いするから困る」といわれ、その点にアメリカ政府が神経質になっているのをうかがい知ることができたという。
したがって遺灰がどのように処理されたかは明らかでないが、東京湾に米軍機によって撒かれたという説が有力だ。だが遺灰の一部は秘かに掘り起こされていた。東京裁判の弁護士のひとり三文字正平と横浜の興禅寺住職市川伊雄、それに久保山火葬場場長飛田美善の三人が、処刑の翌日、焼却場を掘り起こし遺灰を集め、それを静岡県熱海市伊豆山にある興亜観音に秘匿したという。興亜観音は松井石根が音頭をとって建てたもので、中国人への贖罪をあらわしたものである。
昭和二十七年四月、講和条約が発効して日本が独立国≠ニなると、この遺灰は遺族にも少量ずつ分けられた。その後昭和三十四年九月、伊豆に「七士の碑」が建てられた。碑にはかつての首相吉田茂が署名し、裏には死の直前に署名した七人の名が刻まれているが、ここを管理している住職の話では、ここには参拝する者もいるかわりに、いまも定期的に七人を恨む無署名の脅迫状が届くという。
昭和三十五年には、やはり東京裁判の弁護士だった三文字正平、林逸郎、清瀬一郎らによって愛知県幡豆町の三ケ根山国定公園の尖端に「殉国七士の碑」が建てられ、遺灰の一部はここにも移された。この地は一方に知多半島、一方に三河湾をのぞみ、太平洋に撒き散らされた灰を呼び戻すという意味がこめられている。これにも吉田茂が尽力した。
昭和五十三年の秋、彼ら七人は秘かに靖国神社に合祀された。この事実は昭和五十四年にはいって初めて明らかにされたが、国民感情はこの期にきていっそう二分された形になってきている。一連の動きをとおして、彼ら七人はまた時代にふり回されることになったといいうるだろう。いや着実にそんな時代が近づいているといってもいい。
東條英機が一軍人として生きたならば、彼はアッツ島で、ガダルカナル島で、サイパン島で、硫黄島で、沖縄で、広島・長崎で、そして本土爆撃で死んでいった三百万人の一人として死をむかえるはずだった。あるいは彼自身もそれを希望していただろう。
だが結局、彼は処刑まで待たなければならなかった。軍人であり政治家であったがゆえの当然の帰結であった。それは東條にとっても不幸なことであったが、東條を指導者として仰いだ国民にとっては、それ以上の不幸な事態だったといえる。
昭和二十三年十二月二十三日午前零時一分、東條は六十四歳の生を閉じた。しかし、いつの日か〈東條英機〉はもういちど死ぬであろう。彼に象徴される時代とその理念が次代によってのりこえられるときにこそ、〈彼〉はほんとうに死ぬのだ。
東條英機をねんごろに葬るのは、つまり功罪をつきつけて葬るのは、次代の者に与えられた権利と義務である。しかし、それがいつか、そのためにどれほどの時間を要するのか……むろん私にも確かめることができないし、それは私の時代でもありえないだろう。
[#地付き]〈東條英機と天皇の時代 了〉
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参考文献資料
●東條英機伝
伊藤峻一郎『至誠・鉄の人、東條英機伝』(天祐書房・昭和十七年) 小田俊与『戦ふ東條首相』(博文館・昭和十八年) 篁東陽『世界の英傑 東條英機』(皇道世界維新研究所・昭和十八年) 佐藤賢了『東條英機と大東亜戦争』(文藝春秋新社・昭和三十五年) ロバート・J・C・ビュートー/木下秀夫訳『東條英機』上・下(時事通信社・昭和三十六年) 秋定鶴造『東條英機』(経済往来社・昭和四十二年)東條英機伝記刊行会編『東條英機』(芙蓉書房・昭和四十九年)
●日記・伝記・回顧録・個人全集
岡田啓介述『岡田啓介回顧録』(毎日新聞社)若槻礼次郎『古風庵回顧録』(読売新聞社)重光葵『巣鴨日記』(文藝春秋新社)小磯国昭『葛山鴻爪』(丸の内出版会)矢部貞治『近衛文麿』(読売新聞社)参謀本部編『杉山メモ』上・下(原書房) 宇垣一成『宇垣日記』(みすず書房)荒木貞夫『風雪五十年』(芙蓉書房)原敬『原敬日記』(みすず書房) ロバート・シャーウッド/村上光彦訳『ルーズヴェルトとホプキンズ』(みすず書房)ジョセフ・C・グルー/石川欣一訳『滞日十年』(毎日新聞社) 『失はれし政治(近衛文麿公の手記)』(朝日新聞社) 細川護貞『情報天皇に達せず』上・下(磯部書房) 塩原時三郎『東條メモ――かくて天皇は救はれた』(東京ハンドブック社)藤田尚徳『侍従長の回想』(講談社) 木戸幸一『木戸幸一日記』『木戸幸一関係文書』(東大出版会) 東久邇稔彦『東久邇日記』(徳間書店) 有馬頼寧『七十年の回想』(創元社) 種村佐孝『大本営機密日誌』(ダイヤモンド社) 東郷茂徳『東郷茂徳外交手記――時代の一面』(原書房)毎日新聞社図書編集部編『太平洋戦争秘史――米戦時指導者の回想』(毎日新聞社) コーデル・ハル『ハル回顧録』(朝日新聞社) 村田省蔵『比島日記』(原書房) 佐藤賢了『大東亜戦争回顧録』(徳間書店) 津久井龍雄『私の昭和史』(創元社) 永田刊行会編『秘録永田鉄山』(芙蓉書房) 板垣刊行会編『秘録板垣征四郎』(芙蓉書房) 梅津美治郎刊行会編『最後の参謀総長梅津美治郎』(芙蓉書房) 河辺虎四郎『市ケ谷台から市ケ谷台へ』(時事通信社)高木清寿『東亜の父石原莞爾』(金剛書院) 塚本誠『或る情報将校の記録』(中央公論事業出版)東久邇稔彦『一皇族の戦争日記』(日本週報社) 松前重義『二等兵記』(東海大学出版会) 正木ひろし『近きより』(弘文堂) 前田米蔵伝記刊行会編『前田米蔵伝』(前田米蔵伝記刊行会) マーク・ゲイン『ニッポン日記』(筑摩書房) 石原莞爾全集刊行会編『石原莞爾全集』(石原莞爾全集刊行会) 高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』(光人社) 遠藤三郎『日中十五年戦争と私』(日中書林)藤原銀次郎述『藤原銀次郎回顧八十年』(講談社) 西春彦『回想の日本外交』(岩波新書)大木操『大木日記』(朝日新聞社) 松岡洋右伝記刊行会編『松岡洋右(その人と生涯)』(講談社)牛島辰熊伝刊行会編『志士牛島辰熊伝』(私家版) 大谷敬二郎『憲兵――自伝的回想』(新人物往来社) 山田風太郎『戦中派不戦日記』(講談社) 岡義武『山県有朋』(岩波新書) 岡義武『近衛文麿』(岩波新書) 今村均『私記一軍人六十年の哀歓』(芙蓉書房) 実松譲『新版米内光政』(光人社) 星野直樹『時代と自分』(ダイヤモンド社) 佐藤賢了『佐藤賢了の証言』(芙蓉書房) 矢次一夫『昭和動乱私史』上・中・下(経済往来社) 武藤富男『社説三十年――わが戦後史』 (キリスト新聞社) 片倉衷『戦陣随録』(経済往来社) J・ボッター/江崎伸夫訳『マレーの虎(山下奉文の生涯)』(恒文社) 平沼騏一郎回顧録編纂委員会編『平沼騏一郎回顧録』(学陽書房)
●日本陸軍(史)・軍人関係
鵜崎鷺城『陸軍の五大閥』(軍事研究社・大正四年) 東條英教『陸軍応用例』(兵事雑誌社・明治四十一年) 帝国飛行協会編『航空年鑑』(帝国飛行協会・昭和十四年)『陸軍成規類聚』(大正五年) 陸軍士官学校編『陸軍士官学校写真帖』(明治四十四年) 今村文英『陸軍幼年学校の生活』(青年図書出版・昭和十八年)永島不二男『国防の先覚者物語』(若い人社・昭和十八年) 桑木宗明『陸軍五十年史』(鱒樽書房・昭和十八年) 和田亀治『陸軍魂』(東水社・昭和十七年) 帝国在郷軍人会編『帝国在郷軍人会三十年史』(帝国在郷軍人会本部・昭和十九年)竹田敏彦『日本陸軍名将伝』(室戸書房・昭和十八年) 下村定『八・一五事件』(弘文堂) 日本近代史料研究会編『日本陸海軍の制度・組織・人事』(東大出版会)谷寿夫『機密日露戦史』(原書房)高橋正衛『昭和の軍閥』(中公新書)『統帥綱領』(建帛社)伊藤正徳『軍閥興亡史』(文藝春秋社)伊藤正徳『帝国陸軍の最後』(文藝春秋社) 中村菊男編『日本陸軍秘史』(番町書房) 大谷敬二郎『軍閥』(図書出版社) 今西英造『昭和陸軍派閥抗争史』(伝統と現代社) 馬場健『軍閥暗闘秘史』(協同出版社) 松下芳男『日本軍制と政治』(くろしお出版) 松下芳男『近代日本軍人伝』(柏書房)『追悼録』(陸士第二十四期生会) 飯塚浩二『日本の軍隊』(東大協同組合出版部) 高山信武『参謀本部作戦課』(芙蓉書房)畠山清行『東京兵団』上・下(光風社書店)高宮太平『昭和の将帥』(図書出版社)全国憲友会連合会編纂委員会編『日本憲兵正史』(全国憲友会連合会本部)
●太平洋戦争関係
陸軍省報道部編『大東亜戦争』(陸軍省・昭和十六年)大東亜戦争年史編纂室編『大東亜戦争第一年』(昭和十八年)同盟通信政経部編『必勝の大道』(同盟通信社・昭和十八年)朝日新聞社編『米公文書に見る対日謀略をあばく米国への判決』(朝日新聞社・昭和十八年)朝日新聞社調査部編『大東亜戦争展望』一〜七(朝日新聞社・昭和十七〜十九年) 内務省編『昭和十七年全国に対する侍従御差遣と銃後国民の感激の状況』(内務省・昭和十七年) 大川正士『大東亜建設史(世界は日本の大戦果をどう見たか)』(三崎書房・昭和十七年) 大日本言論報国会編『世界観の戦ひ』(同盟通信社出版部・昭和十八年) 米国戦略爆撃調査団編『証言記録太平洋戦争史』一〜五(日本出版共同)伊藤正徳『人物太平洋戦争』(文藝春秋社) 外務省編『終戦史録』(新聞月鑑社) 高木惣吉『太平洋海戦史』(岩波新書) 林克次郎『太平洋戦争日誌(米国側発表)』(共同出版社)日本外交学会編『太平洋戦争原因論』(新聞月鑑社)『太平洋戦争への道』一〜七・別巻(朝日新聞社)大鷹正次郎『奇襲か謀略か』(時事通信社)歴史学研究会編『太平洋戦争史』(東洋経済新報社) 石川信吾『真珠湾までの経緯』(時事通信社) 史料調査会編『太平洋戦争と富岡定俊』(軍事研究社) 田中隆吉『日本の敗因を衝く』(静和堂) 田中新一『大戦突入の真相』(元々社)服部卓四郎『大東亜戦争全史』(原書房) 奥村房夫『日米交渉と太平洋戦争』(前野書店) 重光葵『昭和の動乱』上・下(中央公論社) 読売新聞社編『昭和史の天皇』一〜三〇(読売新聞社)参謀本部編『敗戦の記録』(原書房) 妹尾正彦『日本商船隊の崩壊』(損害保険事業所) ウインストン・チャーチル/毎日新聞翻訳委員会訳『日本の勝利と悲劇』(毎日新聞社) 児島襄『太平洋戦争』上・下(中央公論社) ウィリアム・クレイブ/浦松佐美太郎訳『大日本帝国の崩壊』(河出書房)長文連『敗戦秘史――戦争責任覚え書』(自由書房) 中野五郎『かくて玉砕せり』(日本弘報社) 口バート・A・シオポールド/中野五郎訳『真珠湾の審判』(講談社) 防衛庁戦史室編『大本営陸軍部・大東亜戦争開戦経緯』(朝雲新聞社)宇垣纒『戦藻録』(原書房) 新名丈夫編『海軍戦争検討会議記録』(毎日新聞社) 富岡定俊『開戦と終戦』(毎日新聞社) 松村透逸『大本営発表』(日本週報社)富永謙吾『大本営発表の真相史』(自由国民社)保科善四郎『大東亜戦争秘史』(原書房)林三郎『太平洋戦争陸戦概史』(岩波新書)伊藤正徳・富岡定俊・稲田正純『実録太平洋戦争』一〜七(中央公論社)
●昭和史関係
『現代史資料』一〜四五(みすず書房)安藤良雄編著『昭和政治経済史への証言』(毎日新聞社)明石博隆・松浦総三編『昭和特高弾圧史(庶民にたいする弾圧)』(太平出版社) ねずまさし『天皇と昭和史』上・下(三一書房) 黒田秀俊『昭和言論史への証言』(弘文堂) 中谷武世『戦時議会史』(民族と政治社) 田中申一『日本戦争経済秘史』(田中申一日本戦争経済秘史刊行会)高宮太平『順逆の日本史』(原書房)富田健治『敗戦日本の内側』(古今書院)池田純久『日本の曲り角』(千城出版)星野直樹『満州国概史』(ダイヤモンド社)藤本弘道『踊らした者――大本営報道秘史』(北信書房)満州帝国政府編『満州建国十年史』(原書房) ハーバート・ファイス/赤羽竜夫訳『ニッポン占領秘史』(読売新聞社)田中隆吉『日本軍閥暗闘史』(静和堂)野村正男『平和宣言第一章』(日南書房)花山信勝『平和の発見』(朝日新聞社)作田高太郎『天皇と木戸』(平凡社)岩淵辰雄『現代日本の政治論』(東洋経済新報社) 馬場恒吾『近衛内閣史論――戦争開始の真相』(高山書院) 金沢誠編著『華族』(講談社) 来栖三郎『日米外交秘話』(創元社) 山本勝之助『日本を亡ぼしたもの』(評論社) 平泉澄『日本の悲劇と理想』(原書房)大森実『戦後秘史――禁じられた政治』(講談社)藤樫準ニ『天皇とともに五十年』(毎日新聞社)
●極東国際軍事裁判関係
朝日新聞法廷記者団編『東京裁判』上・下(東京裁判刊行会) 東京裁判研究会編『共同研究・パール判決書』(東京裁判研究会・昭和四十一年)児島襄『東京裁判』上・下(中央公論社)近藤書店出版部編『キーナン検事と東條被告(極東国際軍事裁判法廷に於ける一問一答全文)』(近藤書店)林克郎『闘魂――橋本欣五郎』(私家版)清瀬一郎『秘録東京裁判』(読売新聞社)菅原裕『東京裁判の正体』(時事通信社) 滝川政次郎『東京裁判を裁く』(東和社)
●その他の関係文献
岩手県編『岩手県史』(昭和三十八年) 『南部史要(全)』(明治四十四年)『日本地理年鑑』(国勢社・昭和十七年) 盛岡市編『盛岡市史』(昭和二十五年) 衆議院編『議会制度七十年史』『七十八帝国議会衆議院委員会議録』ほか戦時議会、委員会議事録 徳富蘇峰『日本を知れ』(東京日日新聞社・昭和十六年) 吉野山荘『郷土を出でし岩手の人々』(野山荘)連合国最高司令部民間情報教育局編『真相箱』(コスモ出版社)春原昭彦『日本新聞通史』(現代ジャーナリズム出版会)『日本外交史の諸問題』1(日本国際政治学会) 三宅正一『激動期の日本社会運動史』(現代評論社) 松浦総三『占領下の言論弾圧』(現代ジャーナリズム出版会) 三神良三『丸の内夜話』(新文明社) エリ・エヌ・フタコフ/ソビエト外交研究会訳『日ソ外交関係史』(西田書店) 石原莞爾研究会編『石原莞爾はこう語った』(石原莞爾研究所) 米国務省編『大戦の記録(独外務省の機密文書より)』(読売新聞社) 大串兎代夫『臣民の道精講・戦陣訓精講』(欧文社・昭和十七年)千葉京樹『南部藩能楽史』(盛岡宝生会) 大宅壮一編『日本のいちばん長い日(運命の八月十五日)』(文藝春秋新社) 山本有三『濁流』(毎日新聞社)
●雑誌資料
加藤周一「東條将軍の狂言」(『文藝春秋』昭和二十三年四月号) 中野三郎「首相東條英機伝」(『日本』昭和十六年十二月号) 阿部真之助「東條英機伝」(『文藝春秋』昭和二十七年十二月号)長谷川幸雄「東條ハラキリ目撃記」(『文藝春秋』昭和三十一年八月号)星野直樹「憲兵司令官東條英機」(『人物読本』昭和三十年六月号)高宮太平「東條対天皇」(『文藝春秋』昭和三十一年十月号)「天高く大将は肥ゆ」(『朝日グラフ』昭和二十年十一月十一日号)「東條元首相の横顔」(『労働文化』昭和二十九年二月号) 小島謙太郎「独裁者東條英機の暗殺計画」(『人物往来』昭和三十二年一月号) 塩原時三郎「東條英機の死刑――悪夢の記録」(『日本週報』昭和三十一年八月号) 東條勝子「東條家嵐の二十年」(『文藝春秋』昭和三十九年六月号) 平野素邦「初めてあかす東條家の終戦から処刑の日まで」(『現代』昭和四十四年九月号) 佐藤賢了「東條英機と東京裁判」(『民族と政治』昭和四十五年一月号) 青野季吉「東京裁判を目にいれる」(『前進』昭和二十三年二月号)高松棟一郎「東條、裁きの脚光にたつ」(『サンデー毎日』昭和二十三年一月二十五日号)柳井恒夫・ファーネス・清瀬一郎「東京裁判の舞台裏(座談会)」(『文藝春秋』昭和二十七年五月号)荒畑寒村「帝国主義・日本の断罪」(『前進』昭和二十三年十二月号)B・ブレイクニー「戦犯裁判と世界平和」(『改造』昭和二十九年十二月号)田中隆吉「かくて天皇は無罪となった」(『文藝春秋』昭和四十年八月号)横田喜三郎「東京裁判にみる国際的反省」(『中央公論』昭和二十三年九月号) 鈴木貞一「東京裁判への疑問」(『経済往来』昭和三十五年一月号) 田々宮英太郎「東條英機のロヤリズム」(『経済往来』昭和三十八年二月号)
●その他の雑誌・新聞資料
〔筆者名・タイトルは略〕『歴史と人物』(昭和四十七年六月号、四十八年四月号、四十八年八月号、五十三年八月号、五十四年八月号)『日本の告白』(昭和二十八年臨時増刊号) 『日本の悲劇』(昭和二十七年臨時増刊号)『偕行』(昭和三十四年二月号、四十七年一月号ほか)『丸』(昭和三十五年一月号、五十年二月号ほか)『新聞研究』(昭和三十二年七月号、五十年一月〜三月号)『中央公論』(昭和十三年七月号) 『文藝春秋』(昭和十三年七月号、二十七年五月号、四十年八月号)『サンデー毎日』(昭和二十七年中秋特別号)『政経指針』(昭和三十年七月号)『Collier's』(昭和二十五年五号、六号)『予算』(昭和三十一年四月号)『日本春秋』(昭和五十一年六月号、七月号)『人物往来』(昭和三十一年十二月号)『日本週報』(昭和三十四年臨時増刊号)『中央公論』(昭和二十二年十二月号、二十七年五月号、三十一年一月号、四十年八月号)『アサヒグラフ』(昭和二十年十二月十七日号、二十三年一月二十八日号、二十三年十二月一日号)『流動』(昭和五十年一月号)「東京朝日新聞」「東京日日新聞」(昭和十三年十二月〜二十三年十二月分)
●未発表史料
『東條メモ』(昭和十八年、十九年首相在任時の東條の手帖)『東條口供書の下書きメモ』(巣鴨拘置所で書きあげたもの)『東條日記』(昭和二十年十二月八日から二十一年十月十五日まで、巣鴨拘置所で綴った日記)=以上東條英機の未発表資料 赤松貞雄・広橋真光・鹿岡円平『秘書官日記』泉可畏翁『東條将軍資料』佐々木清『佐々木清手記』谷田勇『日本陸軍の派閥と其の抗争』
●取材対象者
〔アイウエオ順〕 赤松貞雄 赤柴八重蔵 石井秋穂 泉可畏翁 今西英造 今沢栄三郎 井本熊男 牛島辰熊 遠藤三郎 大谷敬二郎 岡忠男 岡部長章 金子智一 川島虎之輔 木戸幸一 佐々木清 実松譲 鈴木貞一 瀬能醇一 高木清寿 竹下正彦 谷田勇 東條カツほか東條家関係者 中谷武世 中野雅夫 西春彦 長谷川幸雄 塙三郎 原四郎 林秀澄 花山信勝 春原昭彦 広橋真光 松崎陽 三国直福 三宅正一 美作太郎 武藤富男 山田玉哉 藪本正義 吉田仁作 岩手県立図書館 国会図書館憲政資料室 大宅文庫
このほか取材対象者としては、かつての東條英機の側近や当時要職にあった人たち二十人近くの匿名希望者も含まれている。
文献資料も、執筆の際に直接参考にしなかったものは省略した。また原則として、戦前、戦時に刊行された文献に限ってのみ刊行年を記すこととした。
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あ と が き
東條英機は、個性のない凡庸な帝国軍人の域を出ず、政治家として思想も理念も定見もなかったという論は、戦後多くの論者が指摘するところだ。こうした平凡な人物が、あの難局の指導にあたらねばならなかったところに、日本の悲劇はあった、とこの論者たちはつづける。
だがはたしてそうか。
この論者たちに欠落しているのは、東條を生みだした歴史的土壌に目をつぶっていることである。あたかも東條を徒花のように咲いた指導者として片づけることで、他の指導者の経綸やその政策に目を伏せる。本書でなんどもくり返したが、東條は、〈大日本帝国という御輿〉をかついだ最終走者なのだ。最終走者は、所詮、前走者の投影であり、しいては近代日本の制度的矛盾を映す〈鏡〉であった。その点を、私はいまいちどつよく訴えておきたい。
さて筆を止めるにあたって、まだいくつか書き足りぬ点があるようにも思う。東條にまつわる挿話のいくつかは、充分裏づけがとれぬので削らねばならなかった。上巻上梓後、東條に関する史料があると連絡を寄こした人もいる。あれやこれや気にかかることがあるにしても、私の意図はかなりの部分網羅していると考え、ひとまず筆を置く。
五年余、私は、東條英機を追い求めたが、その間さまざまなことに出会った。何の肩書きもコネも紹介もないがゆえに、取材は困難をきわめた。関係者を捜し求め、取材申し込みの手紙をだしても、なしのつぶてということもあった。しかしなんどかの手紙交換のあとに、やっと取材に応じてくれる人たちがふえていった。そしてすこしずつ東條の実像に近づいていくことができた。
別記の取材対象者には、改めて感謝の意を表明したい。このうちのいくにんかの人びとには、なんども面談させてもらい、当時の様相を教示していただいた。延べ六十時間も割いてくれた人もいる。このほか匿名を条件に、取材に応じてくれた人たちの好意を、私は忘れていない。そうした協力がなければ、とうてい本書を書きあげることはできなかった。
取材対象者のなかには、その後、幽明界を異にした人びともいる。心からご冥福をお祈りしたい。
もとより私と基本的な認識が異なるのを前提に、取材に応じてくれた人たちの度量にも感謝を捧げておきたい。
本書刊行までに、いくつかの不快な出来事もあった。そうした壁をのりこえて、とにかく出版にこぎつけることができたのは、伝統と現代社の巌浩、大野雅夫、林利幸、村野薫の四氏の激励と助言があったからだ。幾重にも謝意を表したい。
最後に私的なことをつけ加えたい。私が、東條英機を書こうと思い、その資料リストをつくり、東條の年譜をつくるという基礎作業をはじめたころ、私の長女は幼稚園を卒園し、小学校に入学するころだった。その長女が、今春六年生になる。本書の最後の仕事である〈人名索引〉を編むときに、長女も一部分を協力してくれた。うたた時間の流れを感じつつ、この世代は私の時代をどのように受けとめるのか、しばし感慨に捉われた。
昭和五十五年一月九日 早暁
[#地付き]保 阪 正 康
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文庫版のためのあとがき
本書を|著《あら》わしてから八年の時間が流れている。その間、東條英機という指導者に依然として関心をもちつづけ、多くの旧軍人や官僚、それに東條家の関係者にも話を聞きつづけてきた。新しい事実――たとえば、東條はサイパン失陥直前にはしきりに新型兵器(原子爆弾のことだが)に関心をもちつづけていたこと、マッカーサーは東條をA級戦犯で裁いた場合、死刑の判決がでなかったら困るというので米軍独自のB級戦犯で裁こうとしたこと、そのマッカーサーのもとに多数の日本人から投書が届いたが、いまそれを読むと大半は東條に対する|怨嗟《えんさ》であること、戦後すぐに私と同じ世代の東條家の孫たちが学校や地域社会からいかに不当な屈辱を受けたか、などいくつかのことがわかった。
だが、本書の記述の趣旨や骨組をかえるほどのことではなかった。
したがって本書の内容は単行本として刊行したときのままである。基本的には、私の東條像はかわっていないし、「まえがき」で述べている問題意識はより深く沈澱している。
本書刊行時に、私は意外な事実に驚いた。東條英機という指導者は日本でもさることながら、欧米でひときわ関心がもたれているようであった。アメリカのコーネル大をはじめいくつかの大学図書館が本書を購入したうえで、東條について次の世代はどう考えているかというアンケート用紙も送ってきた。さらに西ドイツのジャーナリストの取材を受け、東條英機をどう受けとめているか、詳細に尋ねられた。
したがって本書は、私にとってももっとも愛着のある書である。その書が、今回、文藝春秋から文庫版として刊行されることになり、新たに多くの読者の目にふれることになった。私にとってこれ以上の喜びはない。
改めて本書を読んで、軍人の階級、日時、戦闘状況等々の誤りを見いだした。その点で先達の秦郁彦氏や半藤一利氏に貴重なご指摘を戴き、たいへんにお世話になった。文庫版にあたっては訂正を行った。記して感謝の意を表したい。また文庫版刊行までに、出版局の藤沢隆志氏、そして『文藝春秋』編集部の浅見雅男氏にお世話になった。両氏にも謝意を表したい。
いま明らかにするが、実は東條カツ夫人には膨大な時間、取材に応じてもらった。カツ夫人は、夫東條英機と歴史上の東條英機との間に明確な線を引いていた。本書の視点はカツ夫人には納得しがたかったろうが、それを許容する度量はもっていたように思う。昭和五十七年五月二十九日、カツ夫人は眠るがごとく生を終えた。九十一歳であった。ご冥福を祈りたい。
もうひとつ私的な感想をつけ加えたい。本書の「あとがき」で記した長女が、いまは短大の二年生になっている。「東條英機なんか知らないよ」という世代である。長女を含めて、そういう世代の人たちに本書を読んでもらえたら望外の喜びである。
昭和六十三年十月
[#地付き]保 阪 正 康
単行本 昭和五十四年十二月(上巻)
昭和五十五年一月(下巻)伝統と現代社刊
〈底 本〉文春文庫 昭和六十三年十二月十日刊