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保阪正康
東條英機と天皇の時代
上巻──軍内抗争から開戦前夜まで
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ま え が き
〈なぜ東條英機を書くのか〉――この五年間、私はしばしば自らに問うた。
東條英機という人物を、私は、戦後民主主義のもつ概念(自由とか平和とかヒューマニズムといったものだが……)の対極で捉えていた。昭和二十年代、私は小学校、中学校教育を受けたのだが、そのとき〈東條英機〉は前時代を否定する象徴として、私の目の前にあった。学校教育でそうあっただけではない。当時の社会情勢においても、東條はそのような位置づけをされていたと思う。
正直に告白すれば、私の潜在心理には嘔吐感の伴なった人物として、〈東條英機〉が存在しているのを隠そうとは思わない。いやそれは、私の前後の世代に共通のものではないかとも思う。
しかし、日本近代史に関心をもち、多くの資料、文献を読み、当時の関係者に話をきくにつれ、実は、東條英機をこうした生理的感覚の範疇にとどめておくのは、戦後日本の政治状況の本質的な局面や、そこから生じる課題を隠蔽しておくための効果的な手段ではなかったかと、私は考えるようになった。
東條英機と陸軍中枢をスケープ・ゴートにすることによって、極東国際軍事裁判の論理は一貫しているし、その判決文の断面は戦後民主主義の土台をもなしてきた。私は、民主主義のイデーが現実の社会から乖離していくのを自覚するたびに、極東国際軍事裁判と連結した戦後民主主義の詐術と作為と、そしてその脆弱さをはっきりと意識するようになった。
当時東條英機に抗したことが、なぜ戦後の一時期、指導者たりうる効果的な条件のひとつになったのか。アメリカを中心とする連合国は、「デス・バイ・ハンギング」と、東條英機と大日本帝国を断罪したが、はたして彼らに断罪するだけの歴史的役割が与えられていただろうか。
ひるがえってここから、私はふたつの問題をひきだしてきた。
ひとつは、東條英機と陸軍中枢だけが、昭和前史における全き否定的存在なのか否かという問題である。それともうひとつは、東條英機の指導者としての資質や性向を、巧みに近代の政治・軍事形態の負の局面に重ね合わせることによって、問題の本質が歪曲されていないかという点である。
東條英機を悪罵する論者も、肯定の側に立つ論者も、意図的と思われるほど、しばしば論理が類似しているのは驚くべきことだ。そのことは近代日本の政治・軍事形態が、制度的に明確さを欠いていたことをものがたっている。統帥権という、だれも理解しえない魔物の存在などその例だ。
具体的にいえば、昭和十九年二月に、東條が首相・陸相のほかに参謀総長を兼ねた状況は、「東條が権力欲に憑かれて独裁体制を布いた」という側面と、「大日本帝国憲法を現実的に運用して、東條は国務と統帥の一体化をはかった」という側面の、ふたつの論で比較できる。実際このふたつの論は、基本的には異なっているのに、論理構造だけは表裏のように類似しているのである。
東條英機をとにかくいちど解剖する必要を感じるのは、この段階にとどまっていてはいけないと思うからだ。そして東條英機を〈普通名詞〉から〈固有名詞〉に戻し、そこで東條の性格と東條がなしたことを明確に区分しておくことが、ふたつの問題をみるうえでの前提になる。東條英機は、歴史的には山県有朋や伊藤博文がつくりだした大日本帝国の〈拡大された矛盾の清算人〉であったと思う。誰かがどこかの地点で、清算人になる宿命をもっていたのだ。そのことを踏まえつつ、東條英機の性格が権力者としての立場にどう反映し、時代の様相をどのように変えたのかを検証していきたいと思った。
構成は、第一章から第四章に分かれている。第一章を「東條英機と彼をつくった時代」、第二章、第三章は「東條英機と彼がつくった時代」、そして第四章には「東條英機と彼を捨てた時代」の意味をもたせて執筆した。
このうち上巻には、第一章と第二章を収録している。大日本帝国の勃興は、そのまま東條英機の成長と軌を一にしている。そこを踏まえたうえで、東條が陸軍内部の抗争を経て最高指導者となり、日米開戦にゆきつくまでの軌跡を追った。開戦前夜、首相官邸別館でひとり号泣する場面で筆をとめた。
さらに下巻には、つづく第三章、第四章を収めた。大日本帝国は東條英機そのものとなり、戦時指導者としての東條の特質が時代をつくり、やがて敗戦となって大日本帝国が崩壊していくまでの過程である。それは東條英機の終焉でもあったが、彼がのこした最後のつぶやきは何であったのか、彼の刑死は何を意味したのかを、着実に辿ってみた。いうまでもなく上下巻とも、東條と天皇の関係が基軸になっている。
もういちど冒頭の〈なぜ東條英機を書くのか〉に戻る――
私は、東條英機を知る多くの時代共有者に会って取材を進めてきたが、実は彼らからも、なんどもこの質問を受けた。東條英機などしらべても何の意味もないというニュアンスが、言外にあった。要職にある人物が、「東條を語ることはわれわれの恥部を語ることにもなる」と本音を洩らしもした。
そういうとき、時代共有者にとっては東條を語りたくないだろうが、しかし私は、もういちど語りたいのだ、と答えるのが常だった。東條英機をあますところなく語りつくすことこそ戦後日本の軌跡を再検討する必須要因になるはずだと、私は答えつづけた。
「東條という人物は、実は、なにひとつ語られていないのではないですか」
そのうち、私はそう答えるようになった。実際、調べれば調べるほどそう思ったのである。
本書では、東條について語られている〈事実〉をひとつずつ点検した。その過程で、東條が在任時に書きのこしたメモ、日記、さらに巣鴨拘置所での所感を綴った「東條日記」、秘書官、副官が書きとどめていたメモ類など、新しい資料も少なからず発見した。
そしてこれらの資料の分析をつうじて、私は、昭和前史の〈基礎資料〉と称するもののなかに、東條英機について語られている部分のいくつかが、虚偽ないし誇張に満ちていることに気づいた。あるいは戦後になって改めて手をいれたと考えても不思議ではない〈資料〉さえあるように見受けられた。はなはだしいのは東條を罵倒するのに急なあまり、歴史的経過を歪めている著作さえあった。
東條を擁護する資料のなかにも、こういった例はみられる。意図的な事実の改変、職務権限を無視して行なった東條の専横的言動などには口をつぐんでいるのだ。また東條擁護論者がその論のなかで、東條英機は常に〈承詔必謹〉であったと強調すればするほど(それもいささか誇張なのだが……)、東條が無思想、無定見だったと間接的に語ることになっているのは皮肉なことだ。その結果、この論者たちがもっとも嫌う〈天皇の責任〉を彼ら自身が逆説的に証明≠キることにさえなっているのだ。
〈なぜ東條英機を書くのか〉──という私自身の問いにたいする私自身の回答は、戦後民主主義は虚妄や不毛であったと思いたくない私自身の願望と、この理念を徹底的に貫徹する以外にないという私自身の信念を土台にしていると答える以外にない。
[#地付き]著 者 識
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上巻──軍内抗争から開戦前夜まで
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目 次
ま え が き
第一章 忠実なる信奉者
父親の遺産
[#この行5字下げ]霜夜の影法師/父・英教の経歴/長閥への抵抗/日露戦争出征/山県有朋の思惑/陸軍大学校合格
軍人としての自立
[#この行5字下げ]「成規類集」の捕虜/山下奉文との交友/バーデンバーデンの密約/宇垣軍縮への抵抗/「一夕会」の誕生
勇む高級将校
[#この行5字下げ]第一連隊長時代/就職斡旋委員会/三月事件のあと/満州事変の収拾/皇道派との対立/第二十四旅団長へ/永田軍務局長斬殺
逆風での闘い
[#この行5字下げ]東條を葬れ=^二・二六事件への対応/出されなかった辞職願い/東條兵団の裏側で……/果断な関東軍参謀長/屈辱からの脱出
第二章 落魄、そして昇龍
実践者の呪い
[#この行5字下げ]参謀次長との衝突/不在証明の日々/水商売≠ヘこりごりだ/松岡洋右外相との蜜月/拙劣な省部のアメリカ観/石原莞爾との相剋
透視力なき集団
[#この行5字下げ]日米交渉・誤解の始まり/松岡構想の崩壊/独軍のソ連侵攻/ジリ貧論の台頭
「あなたとはもう話せない」
[#この行5字下げ]幻だった日米首脳会談/聖慮に震える御前会議/破れた近衛の期待/「支那撤兵」が鍵に……/東條内閣の誕生
号泣する首相
[#この行5字下げ]白熱する連絡会議/「乙案」をめぐる論争/独裁への傾斜/沸騰する対米強硬世論/日米開戦への恐怖
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東條英機と天皇の時代(上)
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第一章 忠実なる信奉者
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父親の遺産
霜夜の影法師
巣鴨拘置所は、明治二十年に警視庁巣鴨監獄支署としてつくられた。
東京府武蔵国巣鴨村向ケ原にあったため、近在の農民には、通称「向ケ原監獄」といわれた。この通称には、とくべつの意味がこもっていた。自由民権運動の闘士や各地の不平士族の反乱を指揮した首謀者たちが、この監獄には収容されていたのだが、看守に雇われた農民は、これら確信犯のゆるぎない言動に打たれ、すぐにその職を離れた。そしてそれを語り伝えた。
昭和にはいっても、いくにんかの大物の政治犯がここで服役した。大本教の|出口王仁三郎《でぐちおにさぶろう》、帝人事件の河合良成、企画院事件の赤化♀ッ僚たち、「戦時宰相論」で東條英機と衝突した東方同志会の中野正剛。――巣鴨拘置所は、歴史の葛藤の局面を背負っていたのだ。
はじめレンガづくりだった拘置所も、昭和十二年五月には、コンクリート建て三階の近代的な建物にかわった。つけ加えれば、戦災に耐えたのもまだ新築して八年足らずだったからである。三万平方メートルの敷地内の建物は、周囲が焼け野原になったにもかかわらず、ほとんど無傷で残ったのである。
占領軍は、日本に進駐するやすぐにここに注目し、接収した。名称も|巣鴨《スガモ》プリズンとかえた。二千名近い戦争犯罪人容疑者を収容するのに、ここはあらゆる利点をそなえていたのが接収の理由だった。昭和二十年十二月、占領軍はこの拘置所内部の照明、採光、壁の色、間取りを、彼らの好みにあわせてつくりかえ、A級、B級、C級の戦争犯罪人容疑者を収容していった。以来、昭和三十三年までこの拘置所は接収状態にあった。
東側にある表門をはいり、監房沿いに歩いて二百メートルほど進み、それから左折して五十メートル行くと本館の建物がある。収容者に「仏間」といわれたその部屋は、本館の二階にあった。占領軍に接収されるまでは、職員の会議室として利用されていて、正面に二尺四方の演壇があり、あとは粗末な長椅子が二列に五つずつ並んでいる殺風景な部屋だった。
仏間といわれるようになったのは、教戒師の花山信勝があらわれてからである。東大で宗教学を講じ、自らも僧侶である花山は、占領軍の意を受けて、この部屋で法話をはじめた。殺気だっている戦犯容疑者の気持をなだめるために、彼は、仏壇や仏式の小道具をもちこみ、宗教的な嗅いを発散させた。
やがて仏間は法話だけの部屋ではなくなった。BC級の戦犯容疑者の裁判がはじまり、死刑を宣告された若い収容者が、この部屋で花山に別れを告げ十三階段を昇っていくことになった。その儀式が重なるにつれ、部屋の空気は血なまぐさくなった。
昭和二十三年十二月十日午前九時半、この部屋にふたりのアメリカ人将校につきそわれて、東條英機がはいってきた。仏壇のまえの椅子にすわっていた花山は、三メートルほどはなれた椅子に腰をおろした東條と視線を合わせ、いつもそうするように軽く頭を下げた。前月十二日に、市ヶ谷の極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷で死刑の判決を受けて以来、五回目の面談である。回を重ねるにつれ東條が仏教への傾斜を深め、信仰の昂まりをあらわすことばを吐くことに、花山は充足感を味わっていた。
この日も東條は「仏教を知ってよかった」といった。それから一方的に信仰の奥儀を語りつづけた。
饒舌に疲れがきた。沈黙があった。そのあと東條は声を落とし、ゆっくりとつぎのようなことばを吐いた。
「私の家の墓碑面にひとつの句が刻んであります。我ながら すごし霜夜の 影法師……という句です。私の父が、東條家の墓碑を建てるときに、盛岡の曾祖父の墓碑から写してきたといっていました。曾祖父英政がつくった歌で、祖父も大事にしていたときいています」
「………」
「私は最近までこの句に何の関心もなかった。ところが死が近づいたいま、この句の意味がなにやら判りかけてきたんです」
なにがどのように判りかけたのか、東條は言わなかった。花山もたずねなかった。面談の時間が切れたからである。この日から二週間後、東條は処刑された。
……昭和五十年十月のある一日、私は、東京の郊外・東久留米にある花山信勝の家をたずねた。東條英機の取材をはじめるにあたり、東條の最後を看た花山から話をきくことにしたのである。ひととおり話が終わったあと、花山は、「我ながら すごし霜夜の 影法師」と口ずさんだ。しばしばこの句を思いだすというのである。
「東條さんはなにがわかったのでしょうね」
花山は言った。表情に心のこりがあった。
東條はなにをいわんとしたのか。
霜夜に長く伸びる影法師。それは自らの身体を何倍にも拡大する。だがそれは虚像、月光に照らされた虚像にすぎない。拡大されればされるほど虚像は大きくなる。もし私に推測が許されるなら、東條英機は、曾祖父英政、祖父英俊、父|英教《ひでのり》の軌跡が、この句に象徴されていると感得したにちがいない。江戸の能楽師として嘱望されていたが、南部藩に招かれ、志半ばで逝った曾祖父。藩主の失脚で能楽師の地位を奪われ、維新でもろくも崩れた東條家の悲哀を味わった祖父。家から脱け出て独力で日本陸軍の要職に就いたが、長閥によって追いだされた父。彼らの共通点は、己れの実力と支援者の力で成功者の|範疇《はんちゆう》に入りかけたとき、時代の波を受けて崩壊したことだ。それは月光が照らしていた影法師が、月が雲に隠れた瞬間、消え失せるのに似ていた。
父の意思を継ぎ、軍人として生き、やがて軍事と政治を動かす最高位に就いたが、そのとき自らは実は日本陸軍七十年の矛盾の清算人の役割を担わされていたと、東條は思い至ったにちがいない。死をまぢかにして、彼は自らの実像を知ったにちがいない。人生のほとんどが影法師のようであったと悟ったにちがいない。
私はこれから東條英機と彼の生きた時代をいくぶん批判的に語りつづけていく。そのために東條英機の曾祖父とその時代の様相から筆を起こしていきたい。昭和前史でもっとも汚名を浴びている指導者、そして彼を生んだ状況は、ひとり彼の責任に帰するわけでもなく、近代日本の矛盾が集約化されたものであり、その細部をうかがうことなしに〈東條英機〉を分析するのは、依然としてこれまでの東條英機論を踏襲することになると思えるからである。
父・英教の経歴
東條英機の家系は、能楽の春藤流宗家に辿りつく。
ワキ方春藤流の祖・春藤六郎次郎の四代目六右衛門の三男権七が宝生流座付本ワキ方下懸り宗家として独立した。三代将軍家光の時代である。権七から数えて三代目からは宝生姓を名のり、以後、長子には「英」をいれた名がつけられ、ある年齢に達すると新之丞を襲名した。五代目新之丞(寛政四年没)は|英蕃《ひでしげ》、六代目新之丞(寛政十年没)は英孝という名をもっていた。
七代目新之丞は、寛政十年に襲名したが、それまでは英勝と名のっていた。
また権七のつぎの代からは、長子以外の男子は東條姓を名のって能楽に精進するも、別に生計を立てるも自在となった。
天保三年一月、能楽の隆盛に熱心な南部藩から、七代目新之丞のもとに南部宝生を興したいという申し出があった。南部藩では、かねてから宝生流に関心をもち、家臣の子弟を江戸に送って入門させていたし、能楽師へも応分の扶持を行なっていた。このときの藩主第三十八代南部利済は、とくに能楽師|招聘《しようへい》に熱心だったのである。「計画の壮大華美なるを喜べり。熱い|奢侈《しやし》に流れ、近臣諫むるも却って説教されてやむを常とす」(『南部藩史』)とあるように、利済の性格は華美と剛直が柱だったのである。そのうえに藩の財政は豊かだった。
新之丞は、次弟東條錠之助を南部藩に推挙し、「御家来同様被仰付置候処永く被召出旨被仰出」と伝え、あわせて「兄新之丞申出候趣も有之に付向後苗字改宝生為相名乗可申旨被仰出」と申し出た。こうして宗家相続者だけに許される宝生姓を、南部藩においてのみ名のることが許された。
天保三年の夏、宝生流の能楽師の一団が、錠之助を先頭に江戸から盛岡に着いた。能楽師の立場は、家臣に匹敵するほどの南部藩だから、錠之助にも百六十石が与えられ、家臣の立場が保証された。彼は藩内の有力者やその子弟に、能楽の指導を行なった。
錠之助には後継ぎがいなかった。そこでひとり娘に、南部藩士野村政矩の三男を迎えた。この三男に英俊の名を与え、能楽を教えこんだ。南部藩に来て十四年後の弘化三年十二月、錠之助は病死した。そのあとを英俊が二代目宝生錠之助を継いだが、彼はこのころには能楽師として自立できる腕前をもっていた。
南部宝生は順調に藩内での実力をもったが、一方で能楽師を異常に優遇する利済の立場は、嘉永末期から安政にかけて弱まった。財政悪化も省みず奢侈にふけっているというのである。
家臣は利済の長子利義を盛りたて、利済に退陣を迫った。学問への造詣も深く、水戸藩の水戸烈公に嘱望されている利義に、家臣の信頼は傾き、利済は孤立していった。しかも利義を支持するがわに江戸の儒学者東條一堂がいた。南部藩の家臣の子弟は、江戸で一堂の門をくぐり、東條学を学ぶ不文律があった。家臣の多くは、一堂からの助言と保身で利義のがわに立った。利済は東條学を弾圧することでそれに応えた。
嘉永六年、藩内の農民二万数千名による一揆が起こったのを機に、幕府は利済に謹慎を命じた。合わせて利済の二子利剛が藩主になることを認めた。喧嘩両成敗であった。利剛は利済の路線を捨て、利義の政策を採った。東條学の復興をはかり、一堂の門弟を優遇し、同時に「鳴者普請ノ一切ヲ遠慮スル」と布告して、能楽の自粛も求めた。財政建て直しのために華美な風潮を絶つことにしたのだ。能楽師は失職し、江戸に帰った。だが英俊は能楽師を辞めても、家臣の子息であったのが幸いして、この変革のなかでも家臣として仕えることができた。そのうえ安政三年八月には、
「芸姓宝生を止め、本姓を東條と改めるように……」
と、利剛から命じられた。
この事実は、明治三十三年に英俊が自ら著わした書きもの(『家系――東條氏』)のなかで語られている。実際にこのとおりであったとするなら、利剛が命じた裏に、ふたつの根拠が考えられる。ひとつは能楽から離れたのだから、旧来の慣習であった東條姓に戻すようにという意味である。もうひとつが、自身東條学に傾倒していた利剛が、失職した能楽師の幾人かに東條姓を名のらせ、東條学の奥儀を究めさせようとしたのではないかというのである。
とにかく英俊は、東條学の熱心な信奉者となった。「盡忠報国ノ至誠ヲ諭サムト欲スル者ハ忠ノ観念ヲ明徴ニシナケレバナラヌ」という訓えを己れのものとする忠君思想に富む士族へと変貌したのである。
英俊夫婦には、安政二年十一月に長男が生まれた。英教と名づけられたこの児は、生まれながらにして、父親の忠君思想と一徹さを受け継ぐ運命にあったといえる。東條姓を名のってまもなく生まれたとあって、東條学の真髄がまるで子守歌のように彼の耳に囁かれたからだ。
慶応四年四月、南部藩は仙台藩、米沢藩と奥羽越列藩同盟を結び、会津藩を支援し、官軍に対抗した。官軍の切り崩しと会津城の落城で、東北一帯は官軍の支配下に入ったが、南部藩は最後まで抵抗し、降伏したときは明治元年に入っていた。不器用で融通のきかぬこの藩は、報復として十三万石に減封された。
東條英俊は家臣の地位を失なった。盛岡の一角に、能楽伝授の看板を掲げ、あわせて東條学の塾も開いた。だが生活は楽ではなかった。英俊の下には弟二人、妹四人がいた。落魄の身にある英俊のもとを、長子英教が離れたのは廃藩置県の翌々年明治六年である。十八歳になった青年は、東京での新しい生活に賭けるべきものを見出そうと旅立ったのだ。時代はこういう青年の野望を満たす節目にあった。
彼が辿りついたのは、創設されてまもない陸軍教導団歩兵科である。東京・青山にあった教導団は、東京兵学寮内に設けられた下士官の養成機関だった。
明治初期から中期にかけて、日本陸軍の指導者養成は、四分野で行なわれた。武士階級出身者を登用したのがそのひとつで、山県有朋、大山巌、西郷従道、川上操六、桂太郎らがそうである。ついで大村益次郎が創設した兵学校・兵学寮。ここからは児玉源太郎らが輩出している。陸軍士官学校は明治八年に設立され、大迫尚道、木越安綱、上原勇作、伊地知幸介らが送りだされた。明治中期以後はこの士官学校卒業生が主流となる。この三分野にたいし、陸軍教導団はいくぶん格が低く見られていた。下士官養成を狙いとしていたためで、官軍の軍事力整備の一環にすぎない扱いを受けていた。ここには下級武士の子弟や栄達をつかむのに特別の縁をもたない青年たちが集まった。
英教は、教導団で一年半の教育を受けた。卒業するや一等軍曹として熊本鎮台歩兵第二十六大隊付を命じられた。官軍の威令が充分に浸透していない九州の一角に、教導団出身の下士官がぞくぞくと送りこまれたが、英教の転属もそうであった。まもなく西南の役が起こった。英教はわずかの兵を率いて植木・田原の激戦に身を投じた。その指揮が認められ、官軍の勝利となるや少尉に任じられて、小倉の歩兵第十四連隊に移った。移って五カ月後、連隊の脇にあった万徳寺の住職に、いつも軍学書を開いている努力を見込まれ、その娘徳永チトセと結婚した。英教は二十五歳、チトセ十九歳である。
小倉での勤務十カ月で、英教は東京に呼び戻され、陸軍省に勤務(陸軍戸山学校教官)した。西南の役で功を認められた下級将校三百名余、さらにそのなかから能力を認められて陸軍省勤務を命じられたのは数名だった。この数名が陸軍の要職にはいりこむ資格を握ったのである。盛岡から東京に出て八年目であった。明治十三年一月には参謀本部勤務となった。
数名の中で先頭を走っているのは東條英教だと衆目に認められるときがきた。明治十五年に陸軍大学校が設立されたときである。
陸軍大学校は、次代の高級指揮官に必要とされる軍事教育を施すのを目的とした。山県有朋、桂太郎ら陸軍の首脳は、軍内の優秀な将校十四名を選抜し、第一期生として入学を命じたが、十三名は陸軍士官学校の卒業生であるのに、ただひとり東條英教だけが教導団出身者として選ばれた。山県や桂は、英教の軍人としての才能に卓越したものがあると判断したのである。
陸大に入学してからの英教は、ひたすら勉強に明け暮れた。
〈士官学校卒業生には負けられぬ〉
下士官からのたたきあげである英教は、意地になって勉強した。その勉強ぶりが徹底していたため、同僚の反感を買ったと当時の軍事研究誌は伝えている。のちに英教は、「協調性がない」「部下の信望がなかった」と陸軍内部で人物批評をされるが、もしそうした点があったとするなら、十八歳で単身上京し、己れの実力だけで道を拓いていった人物にありがちな、果敢さと偏狭さが一体となった性向をもちあわせていたためであろう。
明治十八年十二月、英教は陸軍大学を最優秀の成績で卒業した。同じ第一期生の山口圭蔵、仙波太郎とともに恩賜の望遠鏡を受賞した。戦術戦史観にすぐれ、戦場での作戦用兵に携わるのに最適という証書も受けた。陸大第一期生、卒業時の成績一番、しかも軍人としての能力最優秀(参謀職務適任証書第一号)――これらは日本陸軍が存在する限り、「不滅の金字塔」として彼のものとなった。そのことはまぎれもなく将来の陸軍幹部になることを裏づけるものだった。実際に彼は、卒業と同時に陸軍大学教官の辞令を受けとった。このとき英教は三十歳だった。
だが彼の私生活は恵まれているとはいえなかった。
結婚してまもなくの明治十三年四月に長男英夫が生まれたが、一歳にならぬうちに病死した。明治十五年には二男英実が、やはり誕生日をむかえぬうちに死んだ。チトセの乳房に化粧品の鉛毒が付着していたためという。
明治十七年七月三十日、三男が生まれた。英教夫婦は医師の忠告をいれ里子にだした。丈夫に育つのを見届けてから、英機と名づけて役所に届けた。そのため英機は、戸籍上では五カ月後の十二月三十日が誕生日となった。
英機の誕生時は英夫や英実よりは身体も小さく弱々しかったが、手元にひきとってからは英教夫婦は気をつかいながら育てた。長男、二男を失ない神経質になっていたチトセは、英機にあらゆる期待を寄せて育てた。当時、将校の家では女中を置くのがふつうだったが、自らの手で養育するといい、他人にはけっして抱かせなかった。良い環境を求めて軍人や官僚の住む四谷区左門町に移り住んだ。
英機が元気に育つと医師が確約し、英教も少壮の陸大教官としての地歩が固まると、彼は盛岡にいる英俊夫婦を東京に呼び寄せた。それが盛岡を出るときの、彼の願いであった。
長閥への抵抗
陸大教官としての英教の能力には非凡なものがあったらしい。日本陸軍にドイツ陸軍の戦術教授のために、明治十八年三月に赴任したメッケル少佐が、教官室で隣りに座っている英教に注目したのである。普仏戦争での兵士動員、命令と服務、戦闘形態からドイツの歩兵操典、果ては教練の方法と、英教の質問を浴びながら、メッケルはこの将校に軍制の理想的な姿としてドイツ参謀本部の形態を説明した。
メッケルの赴任は日本陸軍がドイツ陸軍を模倣することを意味していた。近衛師団兵士が勲功への不満で起こした竹橋事件、それに驚いた陸軍卿山県有朋は、明治十一年に軍人|訓誡《くんかい》を配布した。そして明治十五年には陸軍卿大山巌が軍人勅諭を訓示したが、これもドイツ陸軍の軍事綱領を下敷きにしたものだった。この勅諭の忠節の一項「世論ニ惑ハス、政治ニ拘ラス、只一途ニ己ガ本分ノ忠節ヲ守リ」は、軍人が政治に関与するのは刑罰を伴う犯罪行為としているドイツ陸軍の模倣だった。
建軍当時のフランス陸軍の影響は急速に失なわれていった。
「軍制を担当するのは陸軍省、作戦用兵は参謀本部、そして軍人の教育を受け持つのは教育総監部、軍隊の組織はこの三位一体でなければならぬ」
さらにメッケルはそう強調し、山県有朋を説得した。山県もこれには異論はなかった。すでに陸軍次官桂太郎、参謀本部次長川上操六に軍令と軍政の分離を研究するよう命じていた。桂と川上はそろってドイツに研究にでかけ、明治十八年に帰国してからは、参謀本部の改革を進めていたが、メッケルの言をいれて明治二十二年には参謀本部条例の改正も行なった。これによって、軍令の責任者である参謀総長は天皇のみに直結することになり、軍の作戦用兵には政治の側が|容喙《ようかい》できぬ形態ができあがった。これに四年遅れて海軍軍令部条例ができ、軍令部長も天皇直属となった。
明治二十一年三月、メッケルは三年間の日本滞在を終え帰国した。陸軍首脳は日を置かずに陸大第一期生の恩賜組――東條英教、井口省吾のふたりに、さらに知識の研鑽を積むようにドイツ留学を命じた。メッケルの示咬によるものだった。
四谷の自宅に妻と三男の英機と、つづいて生まれた長女初枝、それに英俊夫婦をのこし、彼は勇んで横浜からドイツにむかった。
家庭への不安をもちながらも、しかし新しい軍事知識の吸収に心は震えたと、のちに彼は英機に述懐したという。
陸大第一期生三人が、ベルリンでどのような研究をしたかを判断する資料はない。軍医として一足先にベルリンにきていた森鴎外と交流があったともいうが、それも明らかでない。森の滞独日記には、彼らの名前はでてこない。
だが東條英教は、ドイツ陸軍の戦術を徹底的に研究しつくしたといい、ドイツ参謀本部勤務になっていたメッケルが、
「もうドイツには学ぶものがない」
と太鼓判を押したとの言い伝えが、明治時代の陸軍内部では語り継がれている。しかしそのいっぽうで、英教は、ベルリンでその人生でもっとも象徴的なことも行なっていたのである。
――山県有朋がベルリンを訪れたのは、明治二十二年の九月。内務大臣として、ヨーロッパ各国の地方行政制度視察のため、十一カ国に及ぶヨーロッパ旅行の最後にベルリンに立ち寄ったのである。
日本最初の陸軍卿、それに参謀総長を歴任した山県は、軍人にとっては大先輩である。それだけではない。長閥の頭領として、明治政府を牛耳っている。当然のこととして、英教は井口省吾とともに、ホテルにこの大先輩をたずねた。だが彼らは、山県に甘言を弄するために行ったのではなかった。
「陸軍の人事がはなはだ公正を欠いているように考えます。とくに閣下の出身地である山口県人を、ことあるごとに重用されているのは、陸軍の近代化を阻害するものです」
ふたりは語気鋭く、山県につめよった。
井口省吾は静岡県出身であった。ふたりの少壮の軍人には、長閥優先を公然と唱えるこの大先輩が日本陸軍の近代化を阻む元兇に思えたのだ。このときふたりの話に山県はとくに反論はしなかった。山県はいちどや二度の接触では心を開く人物ではなかった。五十歳代の山県からみれば、三十代のふたりの言に声を荒らげるなど幼稚に思えたにちがいない。しかし腹の中は煮えかえる思いであったろう。以来、彼は「東條英教」と「井口省吾」の名前を仇敵であるかのように周囲には洩らしたからだ。そういう粘着質な性格こそ、権力の座に到達した彼の最大の武器であることを、ふたりは知らなかった。
帰国してまもない明治二十二年十二月、山県は第一次内閣を組閣する。翌二十三年には陸軍大将に推され、政治家、軍人として最高位の地位に就いた。「一介の武弁」を口癖にしながら、しかし彼の権力はあらゆる面に及んだ。まもなくベルリンにいる英教と井口に、本国帰還の命令が伝えられた。かわって陸大第一期生の恩賜組である仙波太郎がベルリンにむかった。英教の厳しい難詰が、山県の逆鱗にふれたということができる。
東京に戻った英教の軍内の地位は不安定なものとなった。山県が威令を誇る限り栄達は望めない。それでも英教は、かろうじて陸大教官を兼ね参謀本部にとどまることができた。参謀本部次長川上操六が呼びいれたためだった。精神論や意気込みをふりまわすだけの軍人を嫌う川上は、知識の豊富な軍人を重用し、山県や桂らの長閥優先を無視した。英教がドイツで学んできた軍事知識は、参謀本部が必要としている、というのが川上の英教重用の理由であった。だが軍中央に残ったものの、英教には悔しさがのこっただろうことは想像に難くない。
その悔しさは家庭に向けられた。厳しい父親として、英機のまえに立ち、帝国軍人としての誇りをそそぎこもうとした。
英機は父親のベルリン滞在中の明治二十三年九月に、四谷小学校に入学した。ところが英数が帰ってからの初めての新学期に学習院初等科三年に編入した。初等科の本院は四谷区三年町にあり、通学には便利だったが、それは社会的権威を求めての転校であった。チトセが英教を説き伏せ、英数がまた自らの挫折の結果としてそれを受け入れたと想像される。
明治十七年に宮内省直轄になった学習院には、上流階級の子弟が多く、通学は人力車、昼には女中が炊きたての弁当を届けた。が、英機は弁当をもち、人力車にも乗らずに通学した。軍人として育てるためには甘えは許さぬというのであった。まもなく四谷から西大久保に家を移したが、やはり人力車に乗るのは許されなかった。
小学校時代の東條英機は負けずぎらいのきかん気の少年だった。自宅周辺ではガキ大将だった。当時は対校喧嘩が盛んで、近くの小学校と初等科が喧嘩をすれば、この小柄な少年は数人の相手方にむかっていった。いくぶんの弁護を試みるなら、気性の激しさと反抗は彼自身の意思表示といえた。軍人としての心がまえを説く父親、つぎつぎ生まれた弟妹の世話に明け暮れる母親、溺愛するだけの祖父母、こうしたなかで自己主張するとすれば、喧嘩という素朴な手段しかなかったのかもしれない。加えて学習院の贅沢なふんい気と自らの身とを比べての落差もあっただろう。
現在、学習院にのこっている成績簿では、四十名の同級生のうち、彼の成績は三十番台である。明治二十六年五月一日の成績順では二十五番、英機の学年では細川護立が一番、武者小路実篤が五番である。
明治三十一年九月、英機は城北尋常中学校(のち府立四中)に入学した。この中学は、毎年多くの生徒を東京陸軍幼年学校に入学させているからである。一年生の課程を終え、幼年学校の受験資格を得ると、英機はすぐさま受験、合格した。むろん英数の喜色は頂点にたっした。こうして十四歳で陸軍にはいり、そこの空気しか知らずに人生の大半を過ごすことになる。
陸軍幼年学校は、日清戦争後の軍備拡張の一環として、東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本と、かつての鎮台所在地に設立された。六カ所の幼年学校は定員五十名、総数三百名。二年間はそれぞれの地で学び、三年目だけは東京で教育される。この三年目だけを中央幼年学校と称する。中央幼年学校を卒業すると連隊に配属され、その連隊名を背負って陸軍士官学校に入学する。士官学校の修業年限は二年間、卒業後は連隊に戻る。そのとき彼らは二十歳で少尉になっている。徴兵で入隊した新兵と年齢は同じ、しかし身分の上では大きな開きができている。
さて地方幼年学校といえども軍隊内の組織である。日常生活は規律によって動く。朝五時半の起床、夜九時の消燈まで学課、教練がつづき、就寝もシャツとズボン下をつけたまま、いったん事があれば軍人はすべてを投げだして死地に赴かねばならぬと教えこまれる。おまえたちの命は大日本帝国の天皇陛下に捧げたものと、徹底して教育される。軍人勅諭の復唱が執拗に求められる。
幼年学校では、土曜日と日曜日は自宅に帰ることが許された。
東條家では、英俊が孫の幼年学校の制服姿を待ち、五人の弟妹も誇るべき兄の姿を認めてまとわりついた。そして英教が、敬礼の仕方、動作を点検して息子の一挙手一役足に目を細めた。夕食のあとは、自室に英機をつれていき、世界地図を広げ、日清戦争後の情勢を説明した。ヨーロッパは日本より格段に進んでいる。これらの国に伍していくのはそれなりの覚悟が必要だと説き、英機の意欲を刺激する。視野の広い軍人に育てあげようとする父親の英才教育だった。
このころ英教は参謀本部の第四部長である。第四部は戦史や戦術の研究部門で、陸軍中枢から外れていたが、英教はこの地位を好んでいた。彼の能力は軍事政策や政治との調整よりも机上で戦術を研究し、戦史を記述するのに適していたからだ。すでに彼は「ドイツ陸軍野外勤務令」を日本語訳し、ドイツ陸軍の作戦を紹介していた。陸大教官兼任になってからは、これらの資料を講義用につかい、次代の指揮官養成に意欲を燃やしていた。
彼は川上操六直系を自認していた。そこには山県の東條嫌いを川上が盾になって防いでくれているという恩義もあったが、川上の性格や理念に打たれたという面もあった。明治二十七年の日清戦争では、英教は大本営参謀として、広島で陸軍上席参謀の川上を補佐した。そこでいっそう傾倒していった。
「三国干渉は世界情勢から見て止むを得ぬ。日本は自重して軍備拡張をはかるのが得策だ。いまは六個師団が必要だ」
日清戦争後の日本の軍備を、川上はそう英教に語った。「アジアはヨーロッパ列強の横暴に一致して当たらねば……」と、この期の軍人には珍しい東亜思想も披瀝していた。執務態度も迅速を尊び、部下の問いには即座に決断を下し、事務の停滞を嫌った。
土曜日と日曜日には自宅に戻ってくる英機に、英教は川上操六の人間性を語り、彼の思想を説いた。それがどのていど英機に理解されたかはわからない。しかし東條英機の胸に、川上操六の名前がしみついたのは確かだった。後年、東條英機は、首相、陸相、内相を兼任し、あらゆる書類に目をとおすが、そうしたときも書類のひとつずつに、それを見た日時、即決した日時を書きこんだ。それを秘書に問われたとき、
「実は、父が川上操六将軍から常々そうすべきであると教えられたという話を、幼ないころによく聞かされた。それをずっと守っている」
と答えた。東條が首相になってまもなく、東條内閣の顧問的存在であった徳富蘇峰が『陸軍大将川上操六』の執筆にはいったのも、あるいは東條の意を汲んだためかもしれない。
明治三十二年五月、川上操六は参謀総長在任中に五十三歳で病死した。英教の立場は微妙になった。軍内にとどまれるか否かの瀬戸際まで追い込まれた。川上の死後、彼は心を許した友人につぶやいている。
「腹背に敵の攻撃を受けた。なに、今さら恐れるものか。負けやしない」
そのつぶやきは、英機にも吐かれた。父親の側に理があるのに、しかし、その父親が不遇なのはどういうことか。憎いのは長閥の連中だ……英教が後ろ盾を失ない、軍内での要職から外されていくのに符節して、英機の心理に微妙な変化が起こった。
このころのことだが、英機の長閥憎悪がいかに激しかったかを物語る挿話がある。東京幼年学校に寺内正毅陸相が来て講演したことがある。講堂に集められた幼年学校生徒の前列で、英機は寺内の話を聞いたが、その内容よりも「これが父親をいじめている張本人か」と、講演の間、にらみつづけたと母親のチトセに語ったことがあるという。
英教は、露骨にエリート街道から外された。
参謀本部部長から姫路の歩兵第八旅団長に転属になったのは、明治三十四年五月である。考えられない人事の一例として、軍内では噂された。
「山県閣下に直言した士だ。人格も高潔であるが、それがかえって災いした。しかも頭がよく何事も理論どおりに行なわなければ承知せぬ性格は大人物ではない」
それが当時の軍内での英教の人物評であった。英教に好意をもつ将校もまた、それを認めて忠告をくり返したが、「持って生まれた性格は変えられぬ」と一蹴されるのが常だった。
日露戦争出征
折りから第四次伊藤内閣が倒れ、桂太郎内閣が誕生した。桂太郎は自他ともに認める山県有朋直系で、世上、この内閣は「小山県内閣」と噂された。事実、山県の息のかかった軍人、官吏が閣僚の椅子を占めた。
陸軍内部も山県色が強まった。長閥優先が露骨になり、出身地閥と血縁閥が横行した。寺内正毅陸相は、山県、桂、児玉源太郎を支えに長州出身者以外を冷遇し、反山県色の井口省吾、秋山|好古《よしふる》らの中堅将校を軍中央の要職から遠ざけた。それでも彼らは陸大教官や清国駐屯軍参謀長だったが、東條のような経歴で旅団長に格下げされた将校はいなかった。
「山口県閥こそが陸軍人事の不明朗さの根源である。この是正なくして帝国の真の姿はない」
姫路に単身赴任した英教は、ときおり帰京しては、英機にそう語った。その恨みを自らのものとしながら、英機は軍人として育っていったのである。
明治三十五年九月、英機は中央幼年学校に入学した。十八歳であった。
明治三十三年の北清事変以来、陸軍内部の教育は非常時体制となる。中央幼年学校も、明日にでも戦場に立てるような教育を行なった。実弾射撃や演習を中心に、指揮官としての兵学がたたきこまれた。緊張した空気が生徒を奮いたたせた。
東條英機の東京幼年学校での成績は、それほどよくなかった。いや下位のほうだったという。だが、六つの地方幼年学校の生徒が集められて教育される中央幼年学校に入ると、生来の負けず嫌いな性格も手伝って、急速に成績を上昇させた。彼は好成績を得る秘訣を知ったのだ。教科書をそらんじるほど暗記してしまうのである。すると充分な点数が獲得でき、順位があがるのだ。
彼はこの教訓を自らのものとした。手本をなんども読み、暗記してしまえばいいのだ。努力とはそのことを意味する。人間の差異は暗記する努力の時間をもつか否かにある。彼はこの考えを終生の友とした。四十年後、首相になったときに、秘書官に正直に告白している。
「幼年学校時代に、いちど習ったところを徹底的に暗記してみた。すると成績はあがった。努力とはそういうものだと思った」
明治三十七年二月、日露戦争が起こる。
清国に影響力を強めようという両国の思惑と利害の衝突だった。しかも戦場となった満州とその沿岸は、両国にとっての「生命線」であった。日本政府はこの二、三年前から軍事衝突を想定していたが、国力の差は歴然で、当時の指導者は、よほどの|僥倖《ぎようこう》がない限り、日本が勝利を得るなどとは考えていなかった。対露開戦を決めた御前会議で、山県有朋は「日本陸軍はこの戦争に全力を捧げるが、万一敗戦となった場合は軍人は生きてはいけない。そのときは貴下の力に待つほかない」と言って、伊藤博文の手を握ったといわれているほどだ。
劣勢を自覚している山県は参謀総長として、直接、作戦にたずさわり、参謀総長だった大山巌を満州軍総司令官として送った。開戦から二カ月は、日本もロシアも朝鮮や満州に兵員や戦備をそろえるだけで、大規模な衝突はなかった。〈満を持す〉という状態がつづいたが、この間に日本陸軍は人事から機構、教育すべてを戦時体制に変えた。
この状態のなかで、東條英機は中央幼年学校を卒業し、陸軍士官学校に入学した。第十七期生三百六十三名が同級生だった。本来なら中央幼年学校卒業生は、陸軍士官学校の入学までに六カ月間の隊付勤務が義務づけられているが、戦時下とあって、それも中止になった。教育内容も一段と厳しくなり、土曜日、日曜日も返上して軍事訓練にあてられた。正規の学課よりも軍事訓練に重点が置かれ、それは速成的な軍人を生みだすことを意味した。ロシアとの戦闘が視野に入ったとき、山県や桂太郎は、中堅から下級の将校が極端に不足しているのに気づき、速成であろうととにかく将校の数をふやさねばならぬと決めていたのである。
結果的に実用第一主義が第十七期生の特徴となった。その半面で彼らは、他の期の生徒と共通の特徴も受け継いだ。選良意識がそれである。たとえば三百六十三名のうち六十三名は幼年学校以外の出身者、つまり一般の中学校を卒業したものであったが、彼らは幼年学校出身者によって軽侮された。
幼年学校卒業生は中学卒業生を「D(デー)」と呼んだ。駄馬のDである。自分たちのことは「カデー」と言った。フランス語で幼年学校生徒の意味である。士官学校ではよく集団の殴りあいがあったが、それも幼年学校出身者と一般中学の卒業生の対立からであった。
このころの幼年学校生の鼻持ちならぬエピソードが、作家山中峯太郎の著書『陸軍反逆児』に紹介されている。彼は陸軍幼年学校、陸軍士官学校を卒業して将校になったが、家庭の事情で青年期に軍籍を離れた。
幼年学校、士官学校でも新任の教官や区隊長が赴任してくると、Dかカデーかが生徒の関心事となり、Dとわかるととたんに反抗的になり、言うことをきかなくなる。あるとき士官学校の区隊長にDが来た。食事のとき、ある生徒がこの区隊長の飯びつのフタを杓子で殴りつけて開かないようにした。区隊長が入って来て、飯びつのフタを開けようとするが、それが開かずに困っているのを見て、生徒の中から笑い声が起こった。
すると区隊長は笑い声の起こった付近に駆け寄り、机の上にあがり、ひとりの生徒をなんども殴りつけた。
「姓名を言え」
「東條英機であります」
「何を笑ったか、言え」
「おかしかったから笑ったのであります」
「何を」
と区隊長はどなり、ますます怒って殴りつけた。山中は「なお激しく殴りつける区隊長を、東條さんは不動の姿勢をとったきり、にらみ返している。かしこまって殴られながら、区隊長よりも強烈な不屈な目をしていた」と書いている。東條だけが笑ったのではあるまい。しかし、ひときわ目立ったのでもあろう。それにしても区隊長といえば年齢は五、六歳上でしかない。彼らの屈辱を思いやることなく、殴られながらにらみ返すこの幼年学校出身者には優越意識があったと山中は書いている。
第十七期生は、二年間の修業年限を十カ月に短縮され、明治三十八年三月、陸軍士官学校から送りだされた。本来の士官学校教育や軍事的基礎能力養成よりも、速成の訓練と精神論が卒業証書で、「何事も不言実行、まず要領をつかむことだ。そして勇気、元気を第一に……」という教官や生徒隊長のことばが、二十歳になったばかりの尉官に受け継がれた。
士官学校卒業時の東條英機の成績は、現在、偕行社にのこっている成績名簿(『第十七期生歩兵科生徒人名』)では、「予科六十七番、後期十番」とある。当初は上の下グループだったが、卒業時には十番で上の上グループにはいっていた。これも彼独特の努力の賜だったと、陸相時代に秘書官に告白している。
卒業するや、新設されたばかりの第十五師団歩兵五十九連隊付に配属された。この師団は満州に守備隊として出征した。だが日露戦争は奉天会戦で結着がつき、日本軍の奉天占領後は、海戦と外交交渉が日露戦争の局面になっていて、陸軍には役割はなかった。二カ月後、終戦になり彼は戦わぬ将校として満州から東京に戻った。これが彼の軍人としてのスタートであった。
いっぽう日露戦争は、英教には終着地としてあった。
彼は第十師団第八旅団長として満州にわたった。師団長は川村景明。戊辰戦争、西南の役、日清戦争と従軍した軍人である。第十師団は大孤山から岫巌に進み、そのあと第四軍の傘下にはいり、遼陽、沙河と戦闘をつづけた。川村の指揮で作戦は成功したが、やがて川村師団長と東條旅団長が戦場での作戦用兵をめぐって衝突した。その結果、東條英教は致命的な評価を受けることになった。真相は明らかにされず、その評価だけが陸軍内部に定着し、「彼は兵学者ではあるが、軍人ではなかった」ということばで執拗に語り継がれていく。では英教の失敗≠ニは何か。
大正二年の軍内では、彼の失態はつぎのように語られていた。
「東條少将はわが陸軍の戦略戦術の一大権威であります。有益な著述もあり兵学者としては稀に見る偉材でしたが、日露戦争の際に一旅団長として第一線にあったところ、師団長からロシア軍に退却のきざしがあるので、第一線旅団は夜襲をもって当面の敵を撃滅すべく命令を受けました。すると東條旅団長は敵陣地は強固であり、その優勢な敵状、その他から見て夜襲の決行は徒らに損耗を招くのみで得策ではないと、再三の督促にもかかわらず決行しなかったのであります。翌朝、すでに前面の敵は退却してその陣地に敵の影すらなく、別な師団がその敵陣地を突破して遠く敵の背後に進出して、川村師団長の面目は丸つぶれになり、これがために東條少将は失脚したと聞いております」
これは、第十五師団長井口省吾が、副官中山健に「君は東條についていかなる評判を聞いているか」とたずねたときの答である。中山は陸士十六期生、東條英機より一期先輩である。ところが大正末期から昭和の初めにかけては、陸軍内部でつぎのように噂された。
「第四軍が鴨緑江、第二軍が岫巌にあって、共に太鼓山をめざして進軍した。そのとき東條旅団長はこのふたつの師団の間を守備するよう、川村師団長から命じられた。ところがその範囲が広かったため、東條旅団長は防禦範囲は八キロしかできぬと教科書どおりのことを答えた。こうした融通のなさに、川村師団長は怒り、大本営に、東條を内地に送り返せと要望したのです。このため東條英教は、指揮官として実戦での指揮能力が不足といわれ、私たちもこれでは、彼は長閥の犠牲とはいえない、軍人として失格だと聞かされてきました」
昭和初期に陸大教官をしていた陸士二十七期生の谷田勇の証言である。
ほかに、「ある酒好きの師団長を面罵したため」とか「脚気で第一線の指揮をとれなくなった」「長州出身の部下が足をひっぱった」という噂がある。語られる噂のうちどれが真相かはわからない。しかしいずれの噂も強弱の差こそあれ、東條英教が自らの兵学哲学に反する命令を受け、それに服従しなかったことだけは共通している。英教が担っていた栄誉が日本陸軍の軍人として最高位のものであったがゆえに、失態もまた増幅して流布されたとみられる。
日露戦争がまだ激しい最中の明治三十七年九月、英教は日本に呼び戻された。第八旅団長として、姫路で悶々とした日を送った。軍人でありながら戦時体制での要職からはずれ、留守部隊の教育にあたるという軍務である。そして終戦後初の人事異動(明治四十年十一月)で、予備役に編入された。
「実兵指揮能力不足」
それが軍を離れたときの理由とされた。
予備役編入の前日に、一日だけの名誉中将に任ぜられた。せめてもの恩情だった。山県有朋にしても、その程度の許容の幅はあった。
東京に戻り、西大久保の自宅にこもった英教は、終日、戦術戦史の書き物に熱中した。まだ五十四歳、同期生は現役で活躍している。それだけに怨念は深く、山県系幕僚の戦術戦史を批判する筆致は鋭かった。
彼のもとにしばしば井口省吾が慰めにきた。
「君の無念は、私が必ず晴らしてみせる」
陸大第一期生であり、ともにドイツにわたった井口は、英教にそう言いつづけた。山県に諫言しながら、英教だけが不利益を受けていることに彼の苦衷は深かった。英教の書く原稿のなかに、日本陸軍をドイツ陸軍並みにするには長閥専横の打破こそ急務だと激した文脈が流れているのを知っているのは、井口省吾だけであった。
山県有朋の思惑
英教が予備役に追いこまれたときの人事異動の一カ月後に、英機は中尉になり、近衛歩兵三連隊に配属されていた。零落と昇龍。二十二歳になったばかりの青年将校は、失意の父を見て長閥の頭領たちに不快を隠さない将校として緒についた。
しかし彼はそれを口にはしなかった。そういう慎重さは充分にもちあわせていた。
彼は、表面上は寡黙で温和な青年にみえた。家庭では、いくぶんヒステリー気味の母チトセの感情を損なわないよう気を配る息子でもあった。
いっぽう近歩三連隊での彼の軍人生活も、模範的な青年将校であろうと努める日々だった。近衛師団は宮城を守護する師団、将校には充足感を与える部隊であったから、東條英機には充実した日々が保証された。しかも彼の天皇への忠誠は一段と深まった。東條学に因んでの東條姓の由来に感服する素地に、権威と威信をもつ師団の将校としての自負が加わった。
しかしだからといって、これが東條英機だけの性格だったのではない。明治十五年、明治天皇が軍人に下した勅諭(正確には「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」)は、日本陸軍こそが天皇の恩顧を受け、軍人は国民の選民だと解釈するのが真の意味だと青年将校は教えられていた。「朕は汝等を股肱と頼み、汝等は朕を頭首と仰きてそ其親は特に深かるへき……」という一節は、東條の世代の将校がもっとも愛誦した節でもあった。
次代の軍人に天皇を現人神と教育しながら、山県有朋や桂太郎ら陸軍指導者の天皇観は醒めていた。山県は軍人勅諭公布の張本人でありながら、彼の天皇観は国家統治の一機関と見る合理性に裏打ちされていた。彼には天皇が国民支配のもっとも都合のいい存在と映っていた。むろん陸軍指導者たちのこうした思惑は、軍内での教育ではいささかもふれられなかった。彼らは自らの指導能力を確固とするために、そういう危険な側面を決してうかがわせはしなかった。いつの日か、彼らに教育を受けたつぎの世代が、この亀裂の犠牲者になるはずだった。
日露戦争での不安定な勝利が、山県有朋には不安に映っていた。日露の講和条件に不満な国民は暴動まがいの行動を起こして、政府を震撼させた。それにロシアは依然、日本にとっての軍事的脅威であった。国の内外に不安な材料が山積みしているのを見て、山県は、国防方針を明確にして、ロシアに対応できる軍事国家をつくろうと私案をまとめた。明治四十年四月に天皇によって裁可された「帝国国防方針」は、そういう山県の熱意を土台にして、つぎの点が明記されていた。
(一)市陸軍はロシア、海軍はアメリカを仮想敵国とする。
(二)国防所要兵力は陸軍平時二十五個師団、戦時五十個師団、海軍は五十万トンとする。
(三)対米作戦は海軍、対露作戦は陸海軍の共同作戦とする。
この三方針にもとづいて戦争内容まで想定していた。対露戦争は、ハルビン会戦を主戦とし、沿海州と樺太で副次的作戦を行なう。海軍を主体とする対米戦争は南方諸島を核に、小笠原列島を最前線としてアメリカ艦隊を迎撃するというのである。
この国防方針は、本来なら政治と外交の協力を得て決定しなければならなかった。しかし天皇の裁可を得るまえに、一切の具体案を山県と陸軍が決めてしまい、政治・外交の責任者には事後承認を求めただけだった。彼らはふたつの面で、陸軍の意思こそあらゆる集団の意思より優先されるべきだと信じていた。
ひとつは天皇と陸軍の密着であった。軍人勅諭にみられる天皇との直結は、彼らが政治指導者を|恫喝《どうかつ》するときの有力な武器だったし、明治憲法第十一条の天皇の統帥大権の条項は「統帥権独立」として法的な根拠にもなっていると考えた。そのうえ日露戦争の局部的とはいえ軍事的勝利は、国民の興奮を陸軍の側にひき寄せていた。その支援を背景に政治を凌駕できると、山県らは考えたのである。これ以後、陸軍の政治介入が明白になった。
そして明治四十四年八月に成立した第二次西園寺内閣の陸相上原勇作によって演じられた内閣倒閣の動きは、陸軍が実際に内閣の生殺与奪の鍵を握っていることをいっそう明らかにした。上原は西園寺に、「帝国国防方針」を根拠に二個師団の増設を要求した。仮想敵国ロンアに抗するため、平時十九個師団を一気に二十五個師団に増強したいというのであった。しかし西園寺は予算難を理由にこれを無視した。すると山県は上原に辞表を出すよう命じた。そうしておいて後任の陸相を推薦しなかった。西園寺内閣は瓦解した。後任陸軍大臣を推薦しないというこの宝刀こそ、陸軍の政治介入の武器であるのを裏づけたのである。
陸軍大臣に現役の軍人をというのは、日清戦争当時は当然のことであった。しかし明治三十年代に入ると政党の力も伸び、議会政治が定着して、専門化する大臣職に軍人の行政能力では足りず、文官の就任も予想されるほどになった。
明治三十三年の山県内閣時代に、桂太郎陸相と山本権兵衛海相が、「陸海軍大臣は現役の大将、中将、次官は現役の中将、少将をもってあてる」という勅令を発した。さりげなく盛りこまれた〈現役の〉という字句が、日本近代史の鍵を握るとは、彼らも考えなかった。このときは、退役した軍人や軍内への影響をもたない軍人が、政党の力を背に陸軍大臣に就任したらどうなるか。山県に反旗を翻した谷干城や三浦梧楼、そして東條英教のような軍人が、政治家の意向をいれて陸軍大臣に座ったら、陸軍の発言力は骨抜きになると恐れた山県と桂が、山本を説き、〈現役の〉ということばを入れることに成功したにすぎなかったのである。
のちに大正六年六月、山県自身が著わした『山県元帥意見書』は、明治四十二、三年当時の山県の焦慮を物語っている。「……我国陸軍戦闘能力ヲ増加スルノ必要ヲ陳述セリ然レトモ世ノ政論者多クハ国防充実ノ急ヲ覚ラス愉安苟息ヲ希フニ専ラニシテ軍備ノ拡張ヲ以テ不必要ナリトシ当局ノ苦心亦終ニ天下ニ認メラルルニ至ラス……」――そのために考えだされたのが、陸軍大臣「現役武官制」であった。
話を戻そう。西園寺内閣が倒れたあと、第三次桂太郎内閣が誕生した。高杉晋作の奇兵隊から戊辰戦争を経てドイツに留学、その後は山県のロボットに徹した桂は、このとき政治的力量を失なっていた。議会と海軍の抵抗で組閣さえできなかった。海相に擬せられた斎藤実は、軍備強化と海軍の意向が受けいれられぬ限り就任しないと主張した。桂はそれを受けいれ、ようやく組閣に成功した。陸軍と政党との対立に結着がつくと、こんどは陸軍と海軍が拮抗するという情勢はすでにこの時代からはじまっていたのである。
近衛歩兵三連隊に籍を置く英機は、むろん指導者間の相克など知る由もなかったし、三十数年後、この期の矛盾が彼にふりかかってくるとは露ほども考えてはいなかった。宮中の一角にある近衛師団に、営内居住をしながらひたすら軍務にはげんでいた。
このころ中尉の中から優秀な者が選ばれ、陸軍士官学校の教練班長として、週に三回、士官学校生徒の指導にあたる内規があった。五、六年後輩の軍人の卵に、直接、身体をぶつけあって兄弟のような感情をもたせよというのが教官たちの意図だった。英機は陸士二十四期生の第一中隊第一区隊長として、指導にあたることになったが、はじめ彼は「神経質でとっつきの悪い中尉」と受けとられた。痩せ身で近眼、それにかん高い声。要旨を説くだけで無駄なことはいわない。その無愛想さが生徒には気味悪く映った。
さらにそういう印象に拍車がかかったのは、教練の指導中にひとつの行動からつぎの行動に移るのにどの程度の時間がかかるか、懐中時計をだしてはかったからだ。その時間が縮まるたびに、彼の目は笑った。
「集合から番号までは十秒以内に終えるように……」
英機の要求は秒単位だった。
それでもこういう先輩将校を慕う生徒は少なからずいた。休日の西大久保の自宅には生徒が訪ねてきた。並みはずれた勤皇精神讃歌がくり返され、それは十六、七歳の生徒には耳ざわりのいいことばだった。――二十四期生で英機の区隊にいた赤柴八重蔵は、あるとき東條とつぎのような会話を交したことを覚えている。
「赤柴、おまえは東京に来たときに、軍人として最初に顔をだすのはどこか、知っているか」
「警備司令部に顔をだします」
将校は旅行や業務で他所へ行くと、その地の司令部に顔をだし、当地に来た報告をしなければならぬと義務づけられている。東京では、近衛師団、第一師団を統轄する東京衛戌総督府に出頭する。
「それは違う。東京は違うんだぞ。まず最初に宮中に行って記帳しなければならん。宮中に行くのが、軍人の真の姿なのだ」
そこまで断言する区隊長はいなかったので、赤柴は東條の勤皇精神を見習わなければ……と思った。この種の挿話はすぐに広がり、第二区隊、第三区隊からも、東條の家を訪れる者がふえた。沼田多稼蔵(陸軍中将)、北野憲造(陸軍中将)、綾部橘樹(陸軍中将)、そして甘粕正彦らがそうであった。なかでも第二区隊の甘粕は、しばしば東條のもとを訪れた。十年余ののち、無政府主義者大杉栄虐殺の下手人として裁かれる甘粕は、藤堂藩の出身で、勤皇精神だけは並外れていて、それだけに英機とは気が合った。ふたりの会話は、天皇への忠誠を誓う根比べのようなやりとりだったという。もっともそれが深まれば深まるほど、天皇は実在を離れた観念の世界の抽象的概念に拡散してしまうのだが、彼らの年代ではそれを知ることはできなかった。
生徒たちとの会話で、英機は、天皇への帰依を競いあうだけではなかった。昇進や出世話にも、彼らの関心はあった。陸軍大将になるのは、軍人を志した者の共通の夢であったし、少なくとも師団長になって兵隊を動かすのは、彼らのエリート意識をくすぐる将来の特権でもあった。が、そうなるには陸軍大学校を卒業しなければならなかった。
陸軍大学校受験には、二年間の隊付勤務と連隊長の推薦が必要だった。英機はその資格を得る時期に達していた。いや教練班長を命じられる裏には、陸軍大学校受験のために準備をせよという意味があった。連隊長には、部下をひとりでも多く陸軍大学校に入学させることで自らの考課点をあげるという慣例があるので、そういう便宜をはかって尻をたたくのが常だった。
だが英機は陸大受験を生徒に問われると、曖昧につぎのように答えた。
「陸大を出ようが出まいがたいした問題ではない。要は帝国軍人としての心がまえがしっかりしているかどうかだ」
出世の欲望と栄達を軽侮する気持が同居している生徒たちに、この答は失望と畏敬を与えた。しかし彼らには、こう答える東條の胸中を正確につかむことはできなかった。英機には軍内の抗争に破れた父親の姿が重苦しくのしかかっていた。それをみれば自らは連隊長どまりであろうと覚悟していた。この期、陸軍内部の英教の評判はかなり悪化していたことを、彼も知らされていたのである。
英教の生活は市井の軍事評論家であった。彼の原稿は戦術戦史の専門出版社、軍事研究社から相次いで出版され、明治四十年から二、三年の間に、それは十冊にも及んだ。そういう著作の序には「在野のひとりとして戦術研究をつづけたい」とあったが、その実、内容は日露戦争の戦場での大本営の指揮に批判的な字句で埋まっていた。そのことは山県直系の軍人を正面から批判することを意味し、彼の敵はいっそう憎悪を深め、味方にはさらに頼もしさを与えることになった。
英教の妥協のない孤独な戦いは、英機にいい影響を与えない。英機に面と向かって父親批判をする将校さえいたのである。当然、彼は消極的に目だたぬようふるまった。それがいっそう英教には不満で、挫折した志を息子に託しているのに、当の息子が陸大受験に及び腰であるのは無念なことだった。執拗に説得し、結局、陸大を卒業しなければ、自らの意思を貫けぬということばで英機に陸大受験を認めさせた。
が、英機はそのためにとりたてて勉強したわけではない。明治四十一年十一月の陸大入試は、資格があるから受験しただけだった。初審の筆記試験には、ほぼ二千人が受験し、初審で百人にしぼられ、再審の口頭試問で五十人が選抜された。このとき英機は初審にさえパスしなかった。第十七期生の前田利為(陸軍大将)、篠塚義男(陸軍中将・軍事参議官)のように資格を得るや一年目で合格した者もあったことは彼を口惜しがらせた。このふたりには、東條が劣等感をもったのは記憶されるべきである。とくに幼年学校、士官学校、陸軍大学校を最優秀の成績で卒業した篠塚にたいしては、東條が要職に就いたのちもライバル意識をちらつかせた。これは彼の劣等感の裏返しとみることができる。
いちど失敗してから、彼は真剣になった。父英教のたび重なる説得と生来の負けず嫌いの性格がむきだしになった。連隊から帰ると、入試課目である戦術、兵法、戦史などに取り組むようになった。それは英教を喜ばせ、息子が真剣に陸大受験に意欲を見せるようになったと、井口省吾に宛てて手紙をだしているほどである。
陸軍大学校合格
陸軍士官学校を卒業した将校の結婚は、厳しく調査される。まず結婚相手を陸軍省人事局に届けなければならない。憲兵隊が相手の女性のすべてを調べ、そのうえで陸軍大臣の許可が出る。
調査の主眼は、危険思想の持ち主ではないか、係累に不穏思想の犯罪人がいないか、実家の経済状態は安定しているか、という点にある。国体破壊をもくろむ社会主義者が将校に危険思想をふきこむのを恐れ、結婚相手の実家が貧しければ、夫の戦死で未亡人の生活が後ろ指をさされるものになるのを恐れていたのである。結局、将校の結婚相手は限られてしまう。功なり名をとげた将官が、自分の目にかけた将校に娘を嫁がせることが多く、また将校の中にも好んでそういう安易な道を選ぶ者が多かった。姻戚に連なって栄達をという将校は、「納豆」と呼ばれ軽蔑され、ときに仲間うちで鉄拳制裁を受けた。
近衛歩兵第三連隊に籍を置く中尉、そして父親は長閥ににらまれているとはいえ、東條英機にもいくつかの縁談はあったといわれる。なかには「納豆」に類するものもあったといわれているが、彼は結婚を栄達の手段にはしなかった。
母方の縁戚に連なる日本女子大学国文科の女子大生、福岡県田川村の伊藤万太郎の長女伊藤カツを、その相手に選んだ。万太郎はいわゆる地方の素封家で、森林や田地をもち、地元の村長からのちに県会議員になった人物。娘の東京遊学を認めるほど進んだ考えをもっていた。カツは小倉高女時代、英機の母チトセの実家の寺に一年半ほど下宿して通学していたが、東京に来てからも東條英教に保証人になってもらった縁もあって、しばしば東條家に出入りした。結婚はごく自然にきまった。憲兵隊はカツの人物や家庭環境にそくざに結婚を認めた。
二十六歳の中尉と二十歳の女子大生、時代の先端をいくかに見える夫婦が、こうして明治四十二年四月十一日に誕生した。カツの実家では、日本女子大を卒業して国語教師の資格をとるよう勧め、初めのうちカツは、西大久保から目白の女子大まで歩いてかよったが、やがて家事と弟妹の世話で通学を断念しなければならなかった。
「自分はやはり陸大にはいりたい。だが今年は準備不足なので受験しない。不合格になれば連隊に迷惑がかかる。来年も無理だろうから二年先を目標にがんばりたい。協力してくれ」
英機はそういい、カツは自らの向学心をこのことばに賭けることになった。
英機はいちど目標をきめると、一途なまでにそれを守った。受験勉強の日程をつくり、それに忠実に従った。個々の受験課目にどれだけの時間を割くか、どの程度まで記憶するか、そのうえで一日に学習すべき時間を算出し、年間の総学習時間を計算する。それを一センチ四方の方眼紙に克明に書きこみ、一日に消化しなければならぬ時間と実際に消化した時間を書きこんでいく。
この日程を守る夫の姿に、カツの信頼は高まった。
だからといってふたりの新婚生活は、いつも向学心に満ちていたわけではない。なにしろ東條家は大家族だった。三代十六人。英俊と英教夫婦、そして英機の弟妹がいた。家事や老人、弟妹の世話は英機夫婦の肩にかかった。姑のチトセは働き者であったが、気性が激しく、気にいらぬことがあるとカツをどなりつけた。その衝突のなかで、英機は困惑気にカツをかばった。
チトセとの折り合いがわるくなると、ふたりは新しい住居を求めて越した。
「将来のある軍人としての体面を保ち、それにふさわしい家に住むように……」
とそのたびに英教はいい、若い夫婦は俸給三十三円三十三銭(手取り二十八円)のうち十三円を家賃に割き、一軒家を借りた。それが陸軍中将の子弟の社会的体面というものであった。四谷坂町、霞町と越したのも、その言を受けいれたからだった。結婚二年目に長男が生まれたが、それは四谷坂町に住んでいるときだった。
英機の陸大受験の準備は、こうした環境のなかでつづいた。しだいにカツのほうが陸大合格に熱心になった。
ある著作(畠山清行『東京兵団』)につぎのようなエピソードが紹介されている。ご用聞きや付近の人に、「主人をいつか陸軍大臣にしてみせる」といい、がむしゃらに育児や洗濯に熱中するカツの姿は有名だった。陸軍大臣といえば当時の最高位であるから、いささか荒唐無稽な話と受けとられたが、三十二年後実際に東條が陸軍大臣になると、この話はむし返されて出世話の色づけに利用された。
もっとも、現在、カツにいわせるとそんなことばを吐くほどの余裕はなく、毎日洗濯、炊事、育児に熱中していたと反駁している。
英機が、心底で姑の嫁いびりに不快感をもっていたことが、はからずも陸軍次官就任時に明らかになる。目をかけた部下の家庭をたずね、釘をさしたのである。
「彼は、あなたたちにとって大切な息子であり柱とすべき夫でありましょう。むろん私にとっても大切な部下です。その部下が心おきなく仕事ができるように、嫁と姑の問題は起こさないでいただきたい」
家庭不和が、軍務に影響を与えることを懸念していたらしく、のちに陸軍大臣になったときは、部課長を集めて、
「家庭での悩み事は自分に相談にくるように……」
と呼びかけているほどだ。
軍隊というのは、平時には武勲をたてることはできない。そこで関心事となるのは、栄達の要因になるさまざまな行事の成果や演習の結果である。それが戦闘に代置されるものであった。
師団長、連隊長は、自らの部隊がいかに訓練されているかに関心をもった。陸軍大演習という〈模擬戦争〉の際に、他の部隊より行軍、作戦行動がすぐれているか否かに、心を傾けた。さらに彼らの考課点をあげるのは、部下の少尉、中尉のなかから優秀な者をさがしだし、陸軍大学校に入学させることだった。そうすれば、いずれは自らの地位を守りぬいてくれるかもしれないのである。
そのため陸大合格の可能性がある者には、日常の勤務をさせずに受験勉強に専念させた。
英機が、明治四十五年四月の筆記試験に合格したのも、こうした配慮が実ったものであった。再審の十二月まで、彼はほとんど受験勉強のみに時間をつかったといっていい。数名の教官からつぎつぎに浴びせられる質問に応える訓練を、終日積んだ。そして合格した。父英教から教わった戦術論が随所に含まれているのに、合格が許可になったのは、井口省吾が明治三十九年から五年のあいだ陸軍大学校長だったときに、長閥系の教官を追いはらったためだといわれる。東條に試問を与えた教官は、むしろ英教を尊敬していたという。
大正元年十二月、東條は六十一名の合格者とともに、陸軍大学校に入学した。同期生には磯谷廉介(十六期生)、今村均(十九期生)、本間雅晴(十九期生)がいた。十七期生からは九人の合格者がいた。
英機の陸大入学を喜んだのは、父英教であった。後継者として、やっと地歩を固めてくれたのだ。彼は、軍内の要職にいるかつての知己に、息子に目をかけてくれるよう手紙を書いた。このころ、彼は心臓脚気が悪化し、小田原海岸にある貸別荘で治療に専念し、暇をみては近在の子どもに謡いを教えていた。そういう平凡な生活に、息子の陸大合格は最大の贈り物となったのである。
彼は、庭に出てそれまで書き綴っていた陸軍中枢を批判するメモを燃やした。
「これを公開したら、英機の気持に水をかけることになる。それではあいつがかわいそうだ」
張りつめていた糸が切れたように、英教は老いていった。床に伏すことが多くなり、やがて終日布団のなかから動かなくなった。
なんどか井口省吾が見舞いにきた。このとき井口は第十五師団長だった。長閥出身者をけっして側近に寄せつけないこの軍人も、陸軍内部では孤立気味であった。
「在職中に受けた種々の誤解はなんとしても晴らしたいと考えているだろう。自分が釈明するから安心せよ、安心して療養するがいいぞ」
友人のこの心づかいに、英教は涙を流して喜んだ。それからまもなく英教は逝った。大正二年十二月二十六日、五十九歳だった。死顔には無念が宿っていたと、当時の雑誌は伝えている。
死者との約束を守らなければならぬ、井口はそう言い、「英教擁護」の手記を書きはじめた。そこでは山県有朋を頂点とする長閥の専横を完膚なきまで罵倒していた。彼の副官たちは余りにも激越な調子に驚き、発表を差し控えるよう進言したが、井口はひるまず、その一文を軍事新報社の大正三年春季号に掲載させた。
私はこの雑誌を捜したが、いまどこにも保存されていない。古い軍人によると、その内容は、長閥横行の犠牲者は十指を数え、東條英教はその犠牲者だといたみ、さらに陸軍の私物化を許してはならないと、強い調子でなじったものだという。長閥を批判することは、そのまま陸軍首脳への造反といわれる時代に、井口の覚悟をきめた内容は、省部の将校に驚きを与えた。
井口の立場はさらに不利になった。この二年後、彼も予備役に追い込まれたのである。当時の陸軍内部を語る刊行物には「参謀総長の資質の待ち主である……」と、彼は絶讃されているが、長閥に抗した軍人として名をのこしたにすぎなかった。
東條英機が陸軍の中枢に入るにつれ、周囲で川上操六、井口省吾の名前が出るたびに、「このふたりこそ長閥の横行を許さなかった尊敬できる先人だ」と言った。このとき東條の脳裏に、父英教の像が浮かんでいたであろうことは容易に想像できる。
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軍人としての自立
「成規類集」の捕虜
東條英機には五人の弟妹がいた。三人の弟と二人の妹。二人の妹は国鉄社員と士官学校卒業の軍人に嫁いでいた。三人の弟は、大学を卒業したばかりの技術者と中学生、十九歳ちがいの末弟はまだ小学生だった。
英数の死のあと、東條家は西大久保の家を売り、その金と英教ののこした資産でチトセが子どもを育てることになった。英機夫婦は改めて別居して側面からチトセや弟たちの面倒をみることになった。
東條が弟たちに接するときの態度は厳格であったらしく、次妹の息子山田玉哉(のち陸軍省兵務局将校)によれば、向上心が足りないと判断したときは出入り差し止めにしたという。そういう気むずかしさを嫌って、英機に近づかなかった弟もいると言っている。
英機夫婦の生活は、このころけっして楽ではなかった。月にいちど一円の金をはたいて肉を買い、長男と二男で食卓を囲むのが楽しみという質素な生活だった。首相になってから、「自分の大尉時代は精神的、経済的にも苦しかった。それで机に向かって勉強ばかりしたが、そのときだけ気が紛れた」と秘書に述懐したことがある。
東條英機の六十五年の人生で、この期がもっとも自制が要求されたときであろう。
彼は、陸大から帰ると、教科書を離さなかった。それは独創的な研究を意味する勉強ではなく、与えられた枠組を忠実に記憶する勉強法といえた。
陸大教育は戦場での状況判断と処理に重点があったが、その内容は日露戦争下の戦場を対象にしていた。授業の進め方は、教官が問題を出し、日時を区切って研究結果を提出するよう求める方法だった。ところが学生のなかには、教官より独創的な回答を考えつく者もあった。しかし教官の考え方に合わせるよう強圧的に命じられた。それでも陸大三年になれば、学生たちは軍人としての信念を固め、独自の戦術を研究し発表する者がふえた。それを教官は押さえることができなかった。
ところが東條はそういう側には立たなかった。彼は教官の考えに忠実に従った。たとえ父英教の軍事戦略に逆いていても、教授される内容を自らの考えとした。名実ともに父英教への別離だった。陸大教育の欠陥は、それゆえ東條の欠陥ともなったのである。
太平洋戦争後、陸大教育の欠陥は無数に指摘されている。的確なのもあれば、まるで見当外れのものもある。だが戦場教育はあったが、一般教育はなかったという指摘は誰もがいう。歴史、数学、統計、哲学といった講座もあったが、授業時間は少なく、国際公法、国法学は卒業間際にお義理で習うようなものだった。陸大卒業者の成績優秀者六人には恩賜の軍刀が与えられ、軍刀組として栄達の要因になるが、それは旧来の戦場教育の忠実な継承者であるにすぎないことを意味していた。
東條と同期で軍刀組だった今村均は、戦後『私記・一軍人六十年の哀歓』を著わしたが、そのなかで、「陸大教育はいかにして軍、師団を運営し、敵に勝つかの統帥研究を第一義」としたために、いくつかの弊害を生んだと告白している。自己絶対化¥ォ校の輩出、場当たりかけひき研究に終始、昭和に入っては陸大教官の亜流意識。これらが暗に指しているのは、東條英機だという論者もいる。自己絶対化然り、かけひき研究然りというのだ。
だがそれは酷というものだろう。東京裁判の直前に、東條はかつての部下、佐藤賢了につぎのようなことばを洩らし、今村と同じような反省をしているからだ。
「陸軍大学教育の欠陥は幕僚道の精神教育がなされなかったことだ。単に作戦、用兵の戦術教育にすぎなかった……」
もっとも東條自身は、昭和十九年に入ってからは陸軍大学生に訓示するのを好み、その内容は、「皇軍は隠忍、戦力を蓄え今やまさに好機を捕捉して断乎敵の戦力を撃破し以て其の戦争継続意思を徹底的に粉砕せん……」と精神論を説きつづけたのだが……。
大正四年十二月、東條は陸軍大学を卒業した。六十人中十一位の成績で、軍刀組にははいらなかった。卒業と同時に、近衛歩兵第三連隊の中隊長に配属となる。陸軍での〈楽しみな職務〉は、尉官時代の中隊長、佐官時代の連隊長といわれ、直接多くの兵隊を指揮できるからという理由のためだが、東條中隊長は、その楽しみを味わえなかった。なぜなら半年間の中隊長生活では、百五十名の兵隊のすべてとつながりをもつには至らなかったからだ。ついで陸軍省副官に転じた。大正五年八月である。
本来なら参謀本部に配属される予定であった。卒業生の配属先は在学時の成績、本人の希望、適性を勘案しながら決定される。東條自身は英教の影響があって参謀本部を希望した。軍人なら、まず参謀本部へというのは当然のコースであった。実際、陸大二十七期生の〈上の下〉グループは、ほとんど参謀本部へ配属されていて、東條もまたそれを望んだであろうことは容易に想像できる。それなのになぜ陸軍省に転属になったか。それをさぐっていくと、父英教の存在に気づいてくる。配属が決まるまえ、陸軍省高級副官和田亀治大佐に、東條は呼びだされている。和田は陸士六期、陸大十五期生、教導団出身のためか東條英教を尊敬している軍人だった。彼は英教の晩年に同情を寄せていた。副官室に英機を招じ入れると、和田は「これは忠告だ」と前置きして言った。
「参謀本部を希望しているようだが、君の父上のこともあるからあそこにはいかぬほうがいい。君はあそこではいじめぬかれるだろう。まだまだ君の父上に反感をもっている者が多いからだ」
東條英教の子息として冷遇されるだろうという忠告に、東條はうなずいた。参謀本部の部長以上は山県や桂、寺内らの息のかかった将校で占められているし、英教を語る参謀本部将校の口ぶりには、軍人としての能力に懸念を示す枕詞がつくのも知っていたからだ。
「君はわたしの所に来い。陸軍省の副官になったらどうか。そのほうがいい」
こうして東條は陸軍省の副官になった。
陸軍省副官は陸軍大臣の補佐をする。とはいっても副官は六人もいて、東條はその末端につらなったにすぎない。高級副官の和田の命令によって動くだけだった。書類の整理、電話連絡、雑事万端をする。三宅坂の陸軍省官房に籍はあるが、政策の中枢を知ることなどなかったし、陸軍と政党の対立の実相からも無縁であった。まして陸軍大臣と会話を交わすことなどない。当時の陸軍大臣は大島健一中将で、長州出身ではないが、山県に近づいてその信を買い栄達したといわれる軍人だ。つけ加えれば大島の長男浩は東條と陸大の同期生であり、太平洋戦争前のドイツ大使を勤めた軍人外交官である。
陸軍省副官としての東條は、事務的職務にも向く性格があることを周囲に示した。
陸軍省には建軍以来の関係法規、条例、慣行、内規を文書化した厚さ二十センチほどの「成規類集」という書類綴じがある。「憲法・皇室」からはじまり「官制」「兵役」「賞典」「服務」と十七項に分類されていて、軍人の職務、生活の一切がこの書類を軸に回転する。陸軍省官房にはこれに精通した文官がいて、日常業務は彼らの手によって進む。軍人は文官に仕事をまかせたまま、気楽に日々を送ればよかった。それに軍人には、机に座っての執務は苦手であった。いやむしろ軽蔑する気風さえあった。陸軍省副官などは二年もすれば転勤になる職場であり、「成規類集」を覚えたところでさしたる効用はない。ところが東條はこの風潮に不満をもった。
文官に教えを求め、その指示で執務を進めるのも不愉快だったのだ。そこで彼は、執務中は「成規類集」の頁をめくり、主要な部分は頭にいれた。書類の記載要領、冠婚葬祭のしきたり、陸軍の命令服従の方法、連隊長、中隊長の職務、そういうこまごました内容を頭にたたきこんだ。暗記は、彼の「努力」の代名詞である。
それ以後、文官が「成規類集」をタテに注文をつけると、東條は、
「だが第三類の第二章、第六条にはこう書いている。だから自分の意見は正しい」
と反論した。文官は東條を敬遠し、幕僚の間では生真面目さ、一途さが半ば羨望、半ば軽蔑で語られた。しかも新しい慣行はメモにまとめ、それを書類風に綴じたので、律義さはいっそう省部に広まった。まずあるがままの事実をそのまま認めてしまうのが、彼の性格の主要な部分であることを裏づけた。
「あの東條英教中将の息子だから……」
英教が教科書どおりことを運ぶのを尊んだと同様に、その息子もまた法令どおりであらねば気の済まぬタイプのようだ、やはり血は争えないと噂された。しかしそういう陰口に、東條はまったく関心を示さなかった。父親のことがもちだされると、不快な表情を悟られまいとするかのようであった。
山下奉文との交友
当時の日本陸軍には、昭和に入っての日本陸軍の硬直性を示す徴候がいくつもあらわれていた。たとえば省部の将校は、他部課の将校が起案した計画案に単純に賛意を示さなかった。必ずひと言不満をぶつけ、その計画案を練り直しさせた。そうすることでそれぞれの存在を誇示した。それに階級が一段階でもちがうと、上級の者が、必要以上に威圧の風を吹かせた。それが上級者の権威だと思いこんでいた。
東條も、このふたつの空気を身につけていった。そしてそれを役職が上昇するたびに忠実に継承した。和田亀治大佐は、部内では「かみなり」と仇名されていて、下級者に事務能力の欠如が見えると顔色をかえてどなるので、中堅将校には敬遠されていた。事務の正確さを尊び、「成規類集」を忠実に守りぬく和田にとって、東條の執務態度は他部課の批判を許さぬだけに満足感を覚えさせた。彼は、東條を他の将校より重用した。
だが家に帰っても「成規類集」のことだけを考える将校は、陸軍以外の世界については無知だった。彼の努力は目前の職務に熱心に向けられ、与えられた枠内での熱っぽさだけが最大の武器となった。しかも彼は、自分の生きている組織こそ、この国の優秀な一団の生息地であり、この国の浮沈を握っている場所だと信じていた。軍人を志望せず技術者の道を選んだ次弟に、軍人勅諭だけは覚えていたほうがいいといって、「国家ヲ保護シ国権ヲ維持スルハ兵力ニ在レバ兵力ノ消長ハ是国運ノ盛衰ナルコトヲ弁へ……己ガ本分ノ忠節ヲ守リ……」と、東條家の居間でなぞらせたのもこのころだった。
律義な中堅将校の自己研鑽、軍人優位を信じる者の偏狭ともいえる自己鍛練であった。
大正時代――政党と軍部の確執の時代だった。
大正二年、護憲運動で窮地に立った桂内閣にかわって、海軍と政友会に基盤を置く山本権兵衛内閣が成立。この内閣に、政党側からは執拗に「陸海軍大臣は現役の大、中将に限る」という一項の〈現役の〉という文字を削るよう働きかけがあった。これがある限り政党内閣は陸軍に生殺を握られるという懸念からだった。結局、政党の要求と世論と、加えてこの内閣の内相原敬の主張が実り、この一項は、削除された。このとき原は、将来は軍部大臣武官制の撤廃まで想定していた。
むろん陸海軍は異を唱えた。参謀総長長谷川好道は二回にわたって天皇に拝謁し、この決定の変更を迫った。軍事費の削減、国防方針の混迷、軍事の政治への従属という一連の図式がなんとしても我慢できなかったのである。だが天皇は軍部の意向を無視した。
山本内閣は海軍軍人の収賄事件(シーメンス事件)で倒れ、大正三年四月には大隈重信を首班とする第二次大隈内閣が成立した。陸軍の二個師団増設を認めることで誕生したこの内閣は、反軍部を唱える大隈の意に反し、山県を中心とする陸軍長老にふり回された。しかも五カ月後には折りからの第一次世界大戦に日英同盟の制約で、ドイツに宣戦布告しなければならなくなり、山県ら陸軍首脳の唱える「世界無比の大戦に参戦する以上、内争を事として外侮を忘るるときではない。挙国一致内閣の成立こそ急務だ」という圧力であっけなく倒れた。ついで大正五年十月には寺内正毅内閣が誕生した。ここに官僚と軍人主導の内閣を指す挙国一致内閣という曖昧な慣習がはじまった。それも彼らこそが天皇に忠誠を誓う集団であると自負しているためだった。
山県も寺内も参謀次長田中義一も、第一次世界大戦を勢力拡張の具としてつかったが、日常の陸軍の業務に戦争の影響はなかった。ドイツの領有していた青島を攻撃し占領しても、それは陸軍内部を興奮させる出来事ではなかった。日英同盟のよしみで連合国側に立っているだけで、心情的にはドイツに傾く空気が省部にはあった。大正三年八月の参戦通告と同時に、ドイツとの関係は切れ、それは大正十年二月までの六年六カ月にわたってつづくのだが、親ドイツの空気は消えなかった。
とくに大正七年春に、西部戦線でドイツが大攻撃に出ると、参謀本部には「ドイツももうひと押しだ」という声があがった。そのドイツが五カ月で総退却し、休戦条約に調印すると失望の声さえ洩れた。
〈なぜドイツは負けたのか〉
かわってそういう声が起こり、ドイツ敗北の研究に着手する者がふえた。それは、ドイツ陸軍を模倣している日本陸軍の欠陥の洗いだしになるからだった。青年将校のなかでも熱心な勉強家は、ドイツの情報を集めはじめた。さらに関心を深めた者は、この大戦の途次に起こったロシア革命に目を移し、レーニンのソビエト政府の研究をはじめた。日本がアメリカとともにシベリア出兵を決めると、青年将校の関心は一層この社会主義国に移った。依然として日本の仮想敵国はロシアであることにかわりはないからだ。
大正八年七月、陸軍省高級副官室に呼ばれた東條は、「独乙国駐在」を命じられた。和田の後任の松木直亮は、明治末期に三年間ほどドイツに駐在していただけに、ことのほか喜んで辞令を渡した。
「君と参謀本部の山下奉文大尉の二人が送られる。ますスイスのベルンに行き、ヨーロッパを見て回るがいい。ベルリンの大使館が再開されたら、すぐにそちらに移ることになっている」
〈ドイツ駐在〉は東條が待ち望んでいた辞令だった。陸大を卒業した者のうち上位グループ、ふつうは十人から十五人が三年間の外国勤務を命じられる。それぞれ専攻語学によってドイツ、ロシア、フランス、そしてイギリス、アメリカなどに送られる。ドイツ留学者は他の国への留学者より栄達の機会が多く、しかも第一次世界大戦のためここに送られる者はこの数年途絶えていた。ドイツとの国交再開をまえにして、ドイツ駐在を命じられたのは中堅将校のひとりとして嘱望されていることをものがたっていた。
また、この裏に陸大幹事に転じた和田亀治の強力な推薦があった。だからこの辞令は、父親の遺産ともいえた。
ドイツ留学を命じられるなり、カツと三人の子どもを田川村に帰すことにした。ふたりはドイツ留学の間の生活をこまごまとしたところまできめた。そういう几帳面さが、この夫婦に共通する性格だった。……陸軍省からの俸給百三十円、これが陸軍省からカツのもとに送られてくると、そのうちの五十円は東京のチトセのもとに送り、のこりの八十円でカツと三人の子どもが生活する。手紙は一週間にいちどは投函する。
ふたりは確かにそういう生活をした。カツは倹約して夫の留守に三千円の預金をし、東條はカツの父親からもらった餞別三千円を軍服の裏にぬいつけて出国したが、そのままつかわずに帰国した。合わせて六千円で世田谷の太子堂に家を建てる。ドイツ風のすきま風がはいらないようにした、二階建てのしゃれた建物である。
東條と山下奉文は、大正八年九月下旬、横浜港からスイスに向かった。四十日間ほどかけて、ヨーロッパに着いた。
二人が荷物をといたベルンの公使館には、陸軍の将校がかなり集まっていた。ドイツ大使館の再開を待つ将校、それに陸軍省、参謀本部の青年将校がヨーロッパ出張でやってきてはこのベルンに滞在する。いわば梁山泊の感さえあった。東條や山下が着いてまもなく、梅津美治郎が駐在武官として赴任してきた。陸士十五期で東條の二期先輩にあたるこの軍人は、大正二年から一年間ドイツ駐在を経て、第一次世界大戦勃発後はデンマークに移り、そこで戦局の様相を研究していた。彼の再度の赴任は、軍中央が本格的にドイツ敗戦の分析に力をいれようとする意図のあらわれだった。
東條と山下には、さしあたり特別の任務はなかった。
「ヨーロッパを見てくるがいい」
梅津の命令で、東條と山下、それに待機中の笠井平十郎(十五期)、河辺正三(十九期)らはスイス、オーストリア、そしてドイツとヨーロッパの中央部を見て回った。彼らは陸軍幼年学校以来学んできたドイツ語が通じたといっては喜び、どこの国でも労働者の街頭デモが盛んなのを、驚きの目をもってながめた。この旅行で東條と山下の親交は深まった。年齢は東條が一年上だが、ほぼ同じような経歴のふたりは、性格のうえでも似たものをもっていた。用心深さ、神経質、そして緻密な性格。異国でふたりはお互いにその性格を確かめた。のちに東條はその性格のうち神経質と緻密さが表面にでて、山下は大胆であるかのようにふるまい、そこからふたりの亀裂ははじまったのである。
行く先々でふたりはカメラを向けあったらしく、現在のこっている写真には、まだ痩せ身の東條と、すでに太りはじめた山下が笑顔を見せ、あるいは緊張に顔を硬直させて写っている。ヨーロッパの都市の一角で、あるいはホテルのロビーで、ふたりは笑っている。
つけ加えれば、このときベルンの日本公使館の一等書記官は佐藤尚武、その下の三等書記官は東郷茂徳だった。ベルンの公使館では、彼ら若い軍人と外交官は談論したであろうが、それを裏づける資料、記録はまったく現存していない。東條と東郷が、その二十年後、出身集団の利害をぶつけあうことを予想させるエピソードは見当たらない。
一年半ほど後に、共和制に移行したドイツとの国交も回復し、ベルリンの日本大使館は再開された。東條も山下もここに移った。
ドイツ帝国は崩壊し、ベルリンは喧騒と混乱の中にあった。ベルサイユ条約で国境も曖昧で経済も混乱し、ときに左右両翼の政党が示威行動をつづけていた。庶民の生活はその日暮らしであった。そのなかで東條は、彼なりの見方でこの情勢をとらえようと、カメラをかついでボン、ハンブルグとドイツ国内を回った。ドイツがフランスと対峙した西部戦線も克明に見て回った。国内旅行を終えると、梅津につれられ、ドイツ陸軍省や参謀本部をたずねては、ドイツ軍将校と意見の交換もした。
「ドイツ参謀本部はさすがに立派だ。こんな状態なのに、きびきびした執務ぶりで、再興をはかっている。彼らは立ったまま執務をとっている。……」
ドイツ陸軍の将校が、敗戦にもめげずに、陸軍再興に動いているのを感心した眼で見た。それに比べてベルリン市民のデモやストライキは、国家観念のない軽薄の輩の騒動と映った。共和制への反撥のためだった。それはこの地を訪れた軍人のもっとも平均的な印象であった。
〈この敗戦は、ドイツ帝国の軍隊が敗けたからではない。国民の厭戦気分こそが敗戦のひき金になったのだ〉──それが彼らの解釈と結語であった。東條もまたそうだった。
ドイツ敗戦のきっかけとなったのは西部戦線ではあったが、その分析もこの視点から捉えられた。ドイツ参謀本部の命令、示達は適確なのに、個々の戦闘部隊はそれを忠実に守れなかったというのが彼らの結論で、戦闘部隊の戦意喪失は国民の厭戦気分に端を発すると理解した。東條もまたその結論を終生変えなかった。彼が首相になったときに、それは具体的なかたちをもってあらわれてきたのである。
バーデンバーデンの密約
大正十年秋、ベルリンの大使館にひとりの軍人が立ち寄った。岡村寧次、陸士十六期、陸大二十五期の中堅将校だった。歩兵十四連隊付の肩書でヨーロッパ出張を命じられ、ベルリンに来たのである。中国での駐在を終え、とくに目的もなく「ヨーロッパを見てこい」と送りだされた旅行だった。軍内要職に進む者に必須のヨーロッパ見聞旅行であった。
岡村はある計画をもっていた。モスクワに駐在している小畑敏四郎、やはりスイス公使館付武官の肩書でスイス、フランス、ドイツを回っている永田鉄山、それに岡村の三人は同期生の縁でドイツのバーデンバーデンで会い、密約を交わしていた。日本陸軍改革のために手を携えて起ちあがろうとの意思のもとに三つの目標を定めていた。その密約に、ベルリンにいる東條も加えさせようというのが彼らの肚づもりだった。
「どうだ、貴様もわれわれの意思に同意せんか」
岡村は東條のアパートで熱心に口説いた。
「長州閥を解消し人事を刷新するのが第一点、つぎに統帥を国務から明確に分離し、政治の側から軍の増師には一切口出しを許さぬようにすること、そして国家総動員体制の確立が第三点だ」
いずれも東條には共鳴できる目標だった。
岡村によれば、永田も小畑も先人の愚行に眉をひそめ、「長州出身というだけでなぜ重用されるのか」と、三人は名前を挙げて人事の不公正を確かめあったという。こうした先人たちに新しい時代に対応できる感覚があるというのか。いまや戦術戦史もドイツの天才的軍人ルーデンドルフの説く総力戦体制の時代になっている。戦争は軍人だけのものではない。国家のあらゆる部門を戦争完遂に向けなければならない。それがドイツでの教訓ではないか。日清、日露を戦った軍の長老にこれがわかるというのか。岡村の言は激しいものだった。
「新たに閥をつくるというのではない。それではせっかくの長閥打倒も意味がなくなってしまう。さしあたりは、永田が国家総力戦の文書をまとめて局長に具申している。われわれはそれを支えなければならぬ」
その意見にも東條は賛成であった。
「岡村さん、実は、私も同じことを考えていました。まったく異論はありません。ぜひ同志に加えてください。相結んで協力していきたいと思います」
「よし、それでは永田と小畑にも貴様の意思を伝えておこう」
東條の強い調子に、岡村は意を強くした。この男の父親を見れば、密約に加わるのは当然だと思っていたのが、はからずも当たったからである。しばらく話が途切れたあと、東條はつぎのように述懐した。
「岡村さんは支那に留学されて羨ましい。ドイツに来てわかったのですが、日本の将来は支那問題にかかっています。支那を抜きに日本は考えられません」
〈日本は地理的にヨーロッパの国と争う機会はあり得ない。日本の敵はロシアと支那だ。なかんずく支那が中心になるのでは……〉
そういう東條の意気ごみが顔にあらわれていたと、戦後(『偕行』昭和三十四年二月号)になって、岡村は述懐している。
東條英機という若い将校が次代の軍人としての自覚をもってまもなくの大正十一年二月、山県有朋は八十五歳の生涯を終えた。三年まえには、寺内正毅が没し、ここで長閥の威力は一気に衰えた。山県の跡を継ぐ田中義一にその力はなかった。田中を支える筈の長閥の軍長老は「長州の三奸」「長州の三馬鹿」と謗られ、軽侮の対象とされていた。
長閥衰退は、山県系の人物ではあるが、長閥をひき継ぐだけの力がない枢府議長清浦|奎吾《けいご》が組閣した大正十三年一月に決定的になった。田中義一は軍長老として、岡山県出身の宇垣一成を陸相に推したが、宇垣には長閥建て直しの意思も義理もなく、むしろそれを押さえるのに力を貸した。かつては陸大の答案用紙に「長州出身者」と書けば合格するとまでいわれた風評は、ここにきて完全に消えた。こうして反動が来た。
大正末期になると、陸大教官には長州出身者は採用されなくなった。しかも陸大教官の間には暗黙の諒解もできあがった。〈長州出身の陸大受験者は初審はよくても再審で落とす〉――長閥横行は長閥退治へと極端に動くことになったのだ。
出身地閥を是正すると称して、こんどは、成績至上主義が陸軍の主流となった。成績優秀者を要職に抜擢するという名分がこのシステムを支えた。しかしこれも新たな弊害「点取り虫の万能社会」を生む危険性があった。昭和の日本陸軍はみごとにこれを証明してみせたのである。陸大出身者のうち成績優秀とされた上位三分の一グループが、省部の要職を占め、特権的な機構をつくり、それ以外の軍人を排斥した。陸大を卒業しない隊付将校は、このグループを〈軍閥〉として憎悪し攻撃した。長閥と反長閥の図式が内容を変えただけで、構造はそのまま陸軍内部にのこったのである。
三十歳前後の三年間の成績が、あらゆる力量のバロメーターとなる不思議な集団になってしまったのだ。
大正十一年十一月、東條は、三年余の駐在員の生活を終え、サンフランシスコ経由の客船で帰国した。
陸軍大学兵学教官がつぎの辞令であった。
九州から家族を呼び寄せ、彼は家庭の平穏のなかにどっぷりと浸った。陸大教官は一日置きに出勤すればいい。初めのうち、彼は長男と次男を、三年間の空いた時間を埋めあわせるかのように愛しんだ。そういう子ぼんのうなところが、彼の性格にはあった。
ときには省部の友人たちを訪ねて意見を交換した。訪ねる相手は、岡村寧次や永田鉄山であった。永田は教育総監部、岡村は参謀本部の将校になっていた。勤務が終わると、永田の家に集まって、バーデンバーデンの密約をどのように具体化するかを話しあうときもあったが、この期、彼らの関心は長閥排斥がすでに現実となりつつあることにあった。だからいっそう反長閥感情の持続を誓いあっていた。
永田や岡村に連れられてくる軍人が、すこしでも長閥擁護論をぶとうものなら、東條は露骨に不快な表情をあらわした。そのためにつぎのような噂さえ撒かれた。
大正十二年秋の陸大三十七期生の入学試験に、はじめて東條は立ち会っている。このとき初審をパスした中に十七人の山口県出身者がいた。百人のうち十七人。ところが再審で選抜された五十人のなかに山口県出身者はひとりもいなかった。表向きは十七人の口頭試問が悪かったからとなったが、その実、長閥締めだしの陸大教官の策動があったとされた。強硬にこの策動を実行したのは東條英機少佐だとしばらくの間いわれた。父英教と長閥の確執からいって、それはあたかも事実のように喧伝されていった。
昭和にはいって、東條が陸軍省に勤務している折りのことだが、省部の山口県出身の将校と話すときに、東條は初めから興奮気味だったと証言する者もいる。父親の無念を想うとき、感情が高まってくるのを押さえられなかったのだろうというのである。東條が要職に就いていくにつれ、「東條で人事は大丈夫か」と軍上層部は懸念をもったと、この証言はつづく。
感情家東條の一面は、彼の講義ぶりにもあらわれた。「戦史」の担当教官として、彼が力をいれたのは、ドイツで実際に見てきた西部戦線の分析で、ドイツ、フランス両陸軍の戦略展開の短所を検討する授業だった。「ドイツのシュリーフェン元帥の敵殲滅作戦は、最大限の機動力をもってベルギーを突破しフランス軍の弱点を大きく包囲し、これを追いこみ……」と論じる根幹には、〈ドイツは戦闘に負けたが、統帥は最後まで政治からの容喙を許さなかった〉という東條の信念があった。
ところがこの信念は、戦史研究の教官としてはむしろ先入観にとらわれすぎているのではないか、と質問した学生がいた。また東條の意見は、ドイツの著作を引用しているだけだと反駁し、フランスの将軍の書を読みあげる学生もいた。すると東條の顔面は紅潮し、一段と声をはりあげて抗弁した。それははからずも東條の研究態度のもろさをあらわすものと受けとめられ、彼はドイツの軍事教育と作戦戦術を無批判に許容していると噂された。
それを充全に物語るエピソードもあった。彼の講義では、フランスの地名はすべてドイツ語読みだった。フランスの「モー」という地名は、ミヤックスといい、たとえ学生が笑ってもその発音を変えなかった。「強情っぱりだ」「あそこまでドイツかぶれしているんだなあ」――そんな声が、学生の間で尊敬とも軽蔑ともつかぬ調子でささやかれた。
年に二回の彼の試験は、いつもドイツ軍の作戦を克明に論じる問題に決まっていた。逡巡にみちた回答は即座に落第点となった。まず決断することが第一義で、それに理由が付記されていることが必要だった。理由が正当でも決断が遅れていれば、減点されるのが東條の採点法だった。
宇垣軍縮への抵抗
陸大では月にいちど、学生と教官の親睦を兼ねた立食パーティが開かれる。学生と教官といっても、同じエリート集団内のことだから、一年先、二年先には上官として仕えることになるかもしれない。だからこのパーティは学生にも教官にも思惑がからんだ。
教官は自らを盛りたてるのに値する学生をさがし、学生は将来の陸軍指導者への道を歩みそうな教官に媚態を示す。事実、学生の間には「マグ」ということばがあった。マグネット(磁石)の略である。栄達を極めそうな教官を見つけ、そこににじり寄っていく。その有様を指すことばである。
東條は一部の学生のマグの対象となった。佐藤賢了、有末精三、富永恭次らがそうで、立食パーティでは、彼らが東條の周囲にはりついた。なかでも東條にもっとも親近感を示したのは佐藤賢了で、彼は足繁く東條家にも通った。講義の内容を確かめにきたり、故郷の金沢の土産だといってつぐみを届けたりした。親しみをもって近づいてくる者に、東條はすぐに胸を開いた。
格別マグになるつもりはない学生は、東條に主にドイツ陸軍の実態をたずねるために訪れた。すると東條は、書斎に並んでいるドイツから持ち帰った書物をぬきとり、克明に説明をつづけた。東條がドイツからもち帰った軍事関係の書物は、つごう七百冊ほどあり、ドイツ陸軍のことはすべて東條の書斎でわかった。のちに陸大教官を離れるとき、これを陸大の図書館に贈ったという。
丹前姿で背を丸め、父英教の形見のパイプをくゆらしながら、書物を開き熱心に説明する図はたしかに学生を魅きつけもした。マグであろうがなかろうが、来訪者を歓迎する東條家は、学生には評判がよかったのだ。
〈ビンボー少尉にヤリクリ中尉、ヤットコ大尉〉といわれた時代だ。家計は豊かでない。長女、次女と相次いで生まれ、大正十四年には三男が生まれている。前年に中佐になっているとはいえ、俸給はそれほど高くない。そういう苦しい家計を割き、家庭料理を味わわせてくれるというのも、評判のよさに拍車をかけていた。
ほころびた丹前姿で、学生たちを食卓に誘う東條の姿には、人情味あふれる所作があった。食卓では、世事にあまり関心を示さず、しかしひとたび陸軍内部に話が及ぶと、弁舌はなめらかになった。話が興に入ると、「一生懸命公務に励んでいれば、天皇陛下がちゃんとしてくれるよ」と言い、さらに、
「軍人というのは、その身を二十四時間、お上に捧げたものだ。食事も娯楽も勉強も、すべてお上に捧げる身を鍛えるためにあるのだ。それを忘れちゃならん」
と、ひとりうなずくのである。そのあと声をひそめて、つぎのことばをつけ加えるのだ。
「だがな地方人はそうではない。おまえの女房にしてもそうではない。二十四時間のうちせいぜい五分か十分、お上を想うだけだ。軍人だけはちがう……」
カツが傍にいるときは、遠慮気味に話したという。
東條英機に批判的な著作や人物の証言には、東條家では東條の妻が東條と学生の傍にいて、いつも話を聞いているというのがある(高宮太平『昭和の将帥』など)。どこの将校の家庭でも、妻は挨拶と食事を運ぶ程度で、あとは顔を見せないのに、東條家は違っているというのである。
「妻に男の仕事の激しさを教えこむのだ」
と東條は弁解したそうだが、その実、恐妻家のためだろうと、それらの著作と証言はいう。さらにこの空気を嫌う者は近づかなかったと補足する。
いまカツに聞くと、当時は子どもの世話に忙殺され、とてもそんな余裕はなかったと憤然と話している。
しかし、とにかく東條のテリトリーにはいる者には、徹底した面倒見のよさが発揮された。一例をあげる。関東大震災直後、アナキスト大杉栄を虐殺したとされている甘粕正彦にひそかに手をさしのべていたのは、東條と甘粕の同期生たちだった。
「甘粕が自殺を考えているそうだ。拘置所で絶食している。すぐに諫めてこい」
東條は区隊長時代の部下を呼び、甘粕の説得に赴かせたこともある。甘粕もまた、終生その厚情に頭を下げつづけたという。
フランスの軍隊に〈尉官は友人、佐官は競争相手、将官は敵〉という言葉がある。位があがるにつれ、同期生や同年代の将校の関係が変質していくのを皮肉ったものだ。
これは日本陸軍にもあてはまる。当時、陸大の教官には小畑敏四郎のほかに石原莞爾、谷寿夫、酒井鎬次ら、東條と同年代の佐官級の者が多かった。石原、谷、酒井らは学生に人気はあったが、それはどのような軍事上の知識も一応は彼らのフィルターをとおしてかみくだき、学生に教えこむからだった。彼らは東條英教の流れを汲み、戦術、戦史優位論を唱える教官といえた。これらの教官は第一次世界大戦の教訓として、総力戦ということばを学生たちに教えこんだ。戦争時に国家の体制は、根本から改革しなければならぬといい、それこそが、近代国家への道であると説いていた。
ところがこの種の軍人と東條の関係は、一面でライバル、一面で同志だった。石原や酒井らは、東條の精神論は陳腐で、あれでは客観性を尊ぶ戦術の教官は勤まらないと言ったし、東條は彼らを人間的に毛嫌いした。だがこのころは対立は表面化せず、十数年先までもちこされた。そして軍長老の派閥争いに抗するため、便宜的に連携を強めた。三十代の中堅将校には、大局では次代を考え共同歩調をとったほうが得策だったのである。
共同歩調が具体化したのは、永田、岡村、小畑、それに東條が音頭をとって、陸士十五期から二十期までの将校二十人を集め、東京・渋谷にあるフランス料理店「双葉亭」で定期的に会合し、バーデンバーデンの密約を実現しようと呼びかけてからである。双葉会と名づけられたこの会合には、山岡重厚、河本大作、黒木親慶、磯谷廉介、酒井鎬次、谷寿夫ら、陸軍省、参謀本部、教育総監部で高級課員や課長の地位にある者、師団では連隊長クラスが自己の思惑を秘めて集まったのである。
彼らは、いずれライバルになることを自覚していたかどうかは判らない。だが結局は、いくにんかは互いに憎悪の関係になった。
当時の陸軍内部を俯瞰すればふたつの派閥があった。
長閥、反長閥が解消し、新たに陸相宇垣一成のもとに参じる将校と、一方で上原勇作を頂点とし、一部の陸大閥と佐賀閥が合体した派閥が生まれ、ここに武藤信義、荒木貞夫、真崎甚三郎がいた。双葉会のメンバーのうち永田、小畑、岡村には、彼らから執拗に誘いがかかった。しかし東條にはとくに誘いはかからなかった。
「いつも手帖をとりだしてメモをとっている男で、事務能力はもっているかもしれぬが、大局はもたぬ男だ」と、のちに宇垣が喝破したように、東條はふたつの派閥からは、さして重視されていなかった。指導部にははいりえぬが、中堅将校として無難に仕事を処理するタイプだというのが、当時の東條の評価だった。
大正十五年三月、東條は陸軍省軍務局軍事課高級課員に転じた。軍事課というのは、軍内と軍外の政治的立場の接点に立つ課で、軍内への命令下達、対政府との軍事予算獲得の折衝など幅広い業務を担当する。高級課員は課長代理にあたるポストで、実務の中心を担う職階だった。だが東條に政治的な遠大な構想力が期待された節はない。陸軍大臣宇垣一成、軍務局長畑英太郎、軍事課長林桂らは、事務能力が秀れているこの中堅将校に、軍内の伝達事項を円滑に行なわせしめるだけでいいと考えたにすぎなかった。
東條が高級課員に就任したころの世相は、軍人には愉快ではなかった。軍人を軽視する風潮があった。演習帰りの軍人は、市民の不快な視線に出会った。軍人には嫁ぐな、と娘たちは言われた。第一次大戦後の軍縮ムードが日本にも押し寄せてきたためである。それに関東大震災の復旧を第一義とする国策に、陸軍といえども逆らえず、軍事予算は大幅に削られた。「新規の兵器開発や装備の改善に予算をさくなら、国民生活の向上を……」という政党の声もあった。
大正十一年のワシントン条約で建艦競争に歯どめをかけられた海軍につづき、陸軍も徹底した軍備縮小時代にはいった。仮想敵国ソ連の国力は落ちている。ソ達についで陸軍の仮想敵国となったアメリカも、軍縮の道を歩んでいる。したがって日本もそれほどの軍備は必要ではないという圧力が、陸軍にはのしかかってきたのである。大正十四年には四個師団が廃止、三万七千人が軍籍をはなれた。士官学校の定員は八百人から三百人に減った。「宇垣軍縮」といわれているのはこのことをさしている。軍内には宇垣の冷酷さを謗る声があがった。しかし宇垣はそれを無視した。
ところが東條は、双葉会での会合で宇垣軍縮に批判的な見解を吐いていた。
「宇垣軍縮は、本来なら統帥権として独立しているはずの師団編成を政治の側からの圧迫で認めたものだ。これは軍令の基本にかかわるものじゃないか」
宇垣の処置を冷酷だと怒るのではなく、政治が軍令を従属させたというのが、双葉会の会員たちの疑問であって、むろん東條もそう考えていた。彼ら中堅将校は、自らの時代にはこういう屈辱は受けいれまいとの諒解を確かめあった。政治優位を認めぬというのである。
この宇垣軍縮はかなり怨嗟を生み、失職した軍人のなかには、まるで放浪者のような生活に落ち込んだ者もあった。陸軍省に届く怨嗟の声は、軍事課が受け止めねばならなかったが、東條はここで軍備縮小を容認した軍首脳と政党政治への忿懣を秘かに高めた。彼の周囲の失職した軍人には職を捜し、その子弟には陸士時代の同期生、旧加賀藩の前田利為を訪ねて前田奨学金を受けられるように配慮した。しかしそういう行為は、彼の周囲にいるわずかの人間についてだけであり、彼の充足感は刺激されるとしても問題の本質的な解決にはならないことにいらだっていた。
確かに彼には充足感≠味わう癖があり、何かにつけて。正論≠吐くのだった。そしてそれゆえに彼は敬遠された。集団内部の正論や原則論は、先に口にしたほうが強いからである。人間的に幅が狭い、原則論ばかりでは人の上に立てんと謗られた。だが、彼はそういう蔭口を気にしなかった。正論を吐き、本来ありうべき状態を〈絶対〉と考えると、彼は自信のかたまりとなってふるまった。自らの行動を制禦するのは下僚や同僚将校の蔭口ではなく、ただひとつ軍人勅諭であった。勅諭に即しているかどうか、彼の自省はその点にあり、朝夕の彼の勅諭の復誦は儀式だった。
いま私の手元に、すり切れた「軍隊手牒」がある。晩年に、いつも東條がもちつづけていたものだ。彼には重要な個所には傍線を引く癖がある。勅語の冒頭は「我国の軍隊は世々|天皇の統卒し給ふ所《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》にそある」だが、ここに傍線がひかれ、念入りに「天皇の統卒し給ふ所」には点が打たれている。
「|夫《それ》兵馬の大権は朕か|統《す》ふる所なれは其司々をこそ臣下には任すなれ|其大綱は朕親之を攬り《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》肯て臣下に委ぬへきものにあらす」「朕は汝等軍人の大元帥なるそ」「朕は汝等を|股肱《ここう》と頼み汝等は朕を頭首と仰きて其親は特に深かる」「朕と一心になりて力を国家の保護に盡さは」
これらの一節に太い線がひかれている。いずれも東條の思い入れの激しい個所にちがいない。
「一夕会」の誕生
双葉会の会合が終わっても、東條は、永田鉄山の見識を受け止めようと、彼の傍を離れなかった。後年、東條は、
「自分の人生で尊敬すべき先輩であり、友人であったのは永田鉄山さんだけだ。あの人こそ私の師である」
と公言し、永田を終生「さん」づけでよんだ。永田の前にでたときの東條は、正座を崩さないほどの尊敬ぶりを示していたと、双葉会の会員は証言している。
ある日の会合のあと、永田は東條に、
「おれのあとにきてくれないか。すこし国家総動員体制を研究して欲しい」
と誘った。「おれのあと」というのは、陸軍省整備局動員課長のポストだった。永田がつくったポストでもある。大正末期の陸大教官時代に、永田は、国家総動員機関設置準備委員会をつくるように軍首脳に働きかけた。省部の一部局に、国家総動員体制を本格的に研究する部門を置こうというのが、彼の考えだった。これが認められ、整備局ができ、動員、統制の二課が置かれた。初代動員課長には永田が座っていたのである。
さらに永田の意を受けた陸軍は、内閣に資源局をつくらせた。戦争がはじまったときの態勢、すなわち精神動員から文教、鉄道、通信、商業をどのように戦時体制に組織化すればいいかを研究し、管轄の各省の意見をまとめる作業を、この局で練りあげようというのだ。永田が、東條に向かって国家総動員体制を研究しろというのは、整備局と資源局の業務を学んでおくようにということだった。東條には、この面の知識が欠落していると、永田は見ぬいたのである。
昭和三年三月、東條は陸軍省整備局動員課長に座った。翌年八月までの一年五カ月間の在任期間だったから、これといった仕事はしなかったが、永田の残したプランに目をとおし、持ち前の律義さで国家総動員体制の文献を読みあさり、朱線をひいては彼のメモに書き写した。永田のもとを訪ねて疑問点を質すのも、しばしばだった。
このころ双葉会に集まった中堅将校の関心は、対外政策なかんずく満蒙の権益保護にあった。日露戦争で獲得したこの地方でも、大正に入ってから排日運動が活発になり、その活発さに比例して、日本の権益が危機に瀕しているとの認識が軍人の間には強まった。この地区を武力発動によって中国から分離させねばならぬという直截な論が、彼らの間ではくり返し発言された。
整備局動員課長に座ってまもなくの双葉会の会合で、東條は若い将校と、日本の戦争相手はどこかを議論している。その席で将校たちの、満蒙は日本の生存に不可欠だという論にうなずき、東條はつぎのように言った。
「国軍の戦争準備は対露戦争を主体として、第一期目標を満蒙に完全なる政治的勢力を確立する主旨のもとに行なうを要する。ただし、本戦争経過中に米国の参戦を顧慮し、守勢的準備を必要とする。この間、対支戦争準備はたいした顧慮を要しない。単に資源獲得を目途とすべきである。その理由は、将来の戦争は生存戦争となるであろうし、米国にとっては生存するためにはアメリカ大陸だけで充分のはずだからだ」
すると少佐のひとりがたずねた。
「完全なる政治的勢力を確立するとは、つまり満蒙を占領するということですか」
東條は躊躇なくうなずいた。そして東條の論が支持され、満蒙に日本の政治的勢力を確立する、つまり|傀儡《かいらい》政権をつくるというのが双葉会の総意となったが、これは当時の国策よりも一歩進んだものであった。これが東條の「負」のはじまりだった。
当時の日本の満蒙政策は、昭和二年六月の東方会議での決定に沿っていた。田中義一政友会内閣が、陸海軍、外務省、それに政党代表を集めてのこの会議で、「満州を分離せよ」と迫る陸軍に抗する外務省との間で激論が交され、「日本の権益が犯された場合は国力を発動する」との意思表示でどうにかまとまった決定だった。が、満蒙を特殊地域化したいとの思惑は、陸軍指導者の間には根強くあった。双葉会はこの思惑を越えたところにいた。
昭和三年に入って、蒋介石の北伐に抗し地方軍閥の張作霖政権を守るとの意思を秘め、日本は山東出兵を二度にわたって行ない、国民革命軍と衝突し、一方的な武力攻勢で多くの中国人を殺傷した。かえって反日運動に火をつけた。山東出兵には居留民保護との名目はあったが、外交上の交渉もなしに日本のつごうで一方的に軍隊を駐屯する行為は、民族意識の昂揚している中国人には、屈辱感を与えるのに充分だったのである。
関東軍は、反日傾向の強まっている張作霖を下野させ、満蒙に日本の意を受けた政権を樹立し、その政権を支那中央政府から分離独立させようと計画していた。山東出兵を利用して、錦州、山海関方面まで軍隊を派遣しようとさえ考えていた。そのための出動要請を執拗に参謀本部に求めたが、参謀本部は最後の決断を出しかねていた。その折りのこと、つまり昭和三年六月四日の未明、奉天に着く寸前の張作霖の乗った列車が爆破された。関東軍参謀河本大作とその一派が行なった謀略行動であった。にもかかわらず、蒋介石の国民革命軍は南苑、北京、天津に入り、北伐は成功した。河本の謀略でも南軍の力は押さえられなかったのである。
河本大作は双葉会の会員だった。彼は大正十五年三月から関東軍参謀の地位にあったが、東京にでてくるたびに双葉会の会合に出席していた。彼は会合に出席するたびに、「蒋介石軍は日本の満蒙政策を妨害する。それに支那での侮日抗日行動は許せぬ。満蒙を押さえている張作霖は日本の意を理解していない」と発言した。そういう素地があったからこそ、東條の意見で双葉会の総意はまとまったともいえた。
〈張作霖爆死〉に、田中内閣は表向き、「日本は関係ない」と言った。しかし日本の軍人による行動だというのは、またたくまに世界に知られた。天皇に会った田中自身、日本の軍人が関係しているとほのめかしているのだ。が、田中が上奏から帰るたびに、首相官邸には陸軍の指導者たちが待ち受けていて、上奏内容を取り消すよう詰め寄った。再び田中は天皇のまえに出た。
「前言と違うではないか」
天皇に詰問され、田中はことばを失ない辞職した。
陸軍省首脳部は、河本大作を行政処分に付したが、むしろ彼は英雄的な存在となった。休職というかたちで東京に戻った彼は、堂々と省部の将校に会い、双葉会の会合にも出席している。陸軍省で河本と会った東條は、「一身を犠牲にされ、お国へ奉公せんとするお気持はよく存じております」と手を握ったと、目撃者のひとりは証言している。双葉会の会員たちは、河本の行為とその後の行政処分についてつぎのように考えた。〈方法はよくないかもしれないが、その意とするところは汲まねばならぬ。問題は、陸軍内部へ政府が口をはさむことだ。とくに統帥部への口出しは許されぬ〉――。
河本大作処分は軍内部の問題であり、それを政府が要求するのは言語道断だ。軍への干渉、統帥への侵犯行為である。そう考える双葉会の将校たちは、河本の行為が天皇の大権に反するとの一事を忘れていた。河本の大権干犯を容認しつつ、軍内部への批判を許さぬというきわめて虫のいい考えだった。が、彼らはその論理を貫きとおすだけの力を、陸軍はもっていると過信したのである。
〈河本につづけ〉の声は、省部の三十代(陸士二十期から三十期)の将校にも広まった。張作霖爆死を満蒙解決の決め手にと考える将校は、「国策を研究する」との名目でしばしば会合を開くようになった。ここに集まったのは石原莞爾、村上啓作、根本博、沼田多稼蔵、土橋勇逸、武藤章ら陸士二十二期生から二十六、七期生で、彼らはこの会合を「無名会」と称した。そして無名会の有力会員に、「われわれと共に研究しよう」と半ば強圧的に働きかけたのが、永田鉄山と東條だった。
昭和四年五月十九日、双葉会と無名会が合体して「一夕会」という組織ができた。
初会合で一夕会は三つの方針を決めた。(一)陸軍の人事を刷新し諸政策を強力に進める、(二)満蒙問題の解決に重点を置く、(三)荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍を盛りたてる――。宇垣系、上原系と争っている人事抗争に歯止めをかけ、荒木、真崎、林ら人望のある将軍の時代にぬり変えるというのが、彼らの願望だった。三人の将軍を盛りたてるのは、三人とも長州とは関係がなく、長州に好感をもっていなかったからである。
当面の政策としては、満蒙分離計画を政治的、軍事的に進めるというのが、彼らの結節点となった。また満蒙分離計画を政治的に進めるために、外務官僚との接触を深めることも決めた。もっとも、接触といっても、陸軍が行なう軍事的行動を容認し、あわせてその正当性≠外国世論に納得させるために、つまり陸軍の尻ぬぐいをさせるために、手なずけておこうという程度の意味しかなかった。
ところで双葉会と無名会の会員には、世代の相違からくる肌合いのちがいもあった。初会合の席で、土橋は東條と永田にたずねている。
「長州出身者を極端にいじめるのはゆきすぎではないでしょうか」
陸士二十四期の土橋は、長閥衰退の時代しか知らない。だから双葉会の会員の長閥憎悪には合点がいかない。それをそのまま口にした。すると東條は激して答えた。
「長州人にはどれだけの人材がいじめられたと思うか。憎んでも憎みきれない長州人などご免こうむる」
東條の激昂は、永田が必死に鎮めなければならぬほどのものだった。
「君の意見ももっともだ。だがいまは過渡期として止むを得ない事情がある。しばらくは時間が必要なんだ」
東條の激怒は、無名会の会員たちには印象的な光景としてのこったが、「しばらくは時間が必要だ」という永田のことぼは、出席者にもさまざまな面で理解できる合い言葉だった。無名会の一会員の日記には、一夕会は非合法手段やクーデターで軍内を制するのではなく、時間で軍内を制すると書かれている。それは正論だった。時間が経てば、彼らの時代になるからだった。
琴線を刺激されると、東條の感情はすぐに顔にあらわれた。軍内の地位が低いときは、不快な連中とは交際する必要はなかった。しかし階級もあがり交際の幅が広がるにつれ、性格の地肌が浮かんでくる。一般社会では、そういうタイプはあまり幅広い交友をもてぬことが多いが、東條にもそれが当てはまる。彼が胸襟を開いた相手はさほど多くない。そのかわりいちど信じると、その面倒をどこまでも見るし、家族の世話もする。その段階では彼の目は客観性を失ない、軍内で問題視されている人物を斬り捨てることもできずに、なんども機会を与えて重用し、必要以上に軍内の反感を買うことにもつながる。
東條の対人関係は、「君子の交わりは淡きこと水の如し」の対極にあった。帰依し、帰依される関係を、なにより好んだ。
このころまでは、東條人脈というものの徴候もなかった。「東條さんのために……」という部下や同僚はまったくといっていいほどいなかった。
ところが昭和四年八月に、第一師団第一連隊長になってから、東條人脈ができあがる。四十五歳、そろそろ陸軍を動かす地位に登っていた東條は、あるいはそのことを意識しはじめていたのかもしれない。この師団は陸軍のエリート師団、師団長が真崎甚三郎、第三連隊長には畏敬する永田鉄山がいる。真崎は軍の長老として、彼らが押し立てようとしていた人物だ。東條に真崎や永田とうまく関係をもち、栄達をはかろうという心算がなかったとはいえなかったろう。そのために優秀な将校を傘下におくことを考えたとしても不思議ではない。
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勇む高級将校
第一連隊長時代
麻布の六本本に第一師団歩兵第一連隊はあった。
建軍以来、この第一連隊は、陸軍の歴史をそのまま背負いこんでいた。日清、日露両戦争を「武勲」で飾ったタテ八十センチ、ヨコ一メートルの連隊旗は、すでに旗ではない。一枚のぼろきれと化している。それが天皇への忠誠の累積であり、配属されてくる将校の感情を刺激する象徴だった。
その連隊旗を背に、東條はよく部下に訓示した。
部下といっても中隊長、大隊長で、陸士を卒業して配属されてきた将校たちである。東條よりは二十歳ほど若い。彼らへの訓示は、連隊に誇りをもつこと、兵士への心づかいの二点だった。ときに将校室の広間に掲げられている書道家小原録一の書いた「努力即権威」を引用して、努力をすれば必ず認められる、いつか相応の地位に就けるだろうと説くこともあった。
「兵隊は不安をもって入隊してくる。君らは父としての慈愛で接し、古年兵には兄として接するよう命じること。それと入隊してくる者の家庭環境、本人の仕事、能力はすべて覚えてしまうことだ。入隊してくるその日までに中隊の新兵の名前は覚えておけ。なぜそうするか、兵隊は生まれた日はちがっても死ぬときは一緒だからだ。共に三途の川をわたっていく仲間だからだ」――。
中隊長は一斉にうなずく。彼らは、東條が建て前で論じているのではないことを知っている。連隊長として赴任した日、東條はやはり彼らを集めて訓示したが、その際、私語を交した将校を名ざしで注意した。
「右から三番目、私語はいかん」
というのが普通だったので、彼らは度胆をぬかれた。やがてこれが東條流人事管理の要諦であると知った。
連隊長を命じられると、東條は克明に身上調書を調べあげ、将校の顔、名前、性格、家庭環境、それに陸士時代の成績まですべて暗記してしまった。第一連隊には九中隊、そのほかいくつかの併設部隊があり、兵隊の総数は千人で、将校は数十人いる。この数十人のすべてを頭に刻んで、第一連隊に乗りこんできたのである。
連隊では、年一回軍旗祭が開かれる。連隊が誕生した日である。このとき翌年の入隊予定者が父兄とともに招待される。この一カ月ほど前から、中隊長は日々の訓練を終えたあと、一室に集められる。そこで身上書を穴のあくほど見て、自分の部下になる七十人の経歴を覚えさせられる。中隊長はなんども東條の質問を浴びる。
「山田という兵隊について言ってみろ」
「はい。山田道夫、福生で農業を営んでいます。家庭には母と妹がいて、学歴は高等小学校卒です。特技は力仕事です」
こういう会話がくり返される。軍旗祭の当日、入隊予定者が兵営にくると、すでに顔を覚えている中隊長が駈け寄り、名前を呼び、軍隊生活をかみくだいて説明する。父兄には、東條が「大切なご子息をお預りするのですから、とことんまで面倒を見ます」と約束する。当然のように、父兄も入隊予定者も軍隊への親近感をもつ。
入隊予定者には一家の主柱もいる。彼が入隊すれば家庭は困窮する。そこで入隊前に、中隊長を役場に行かせ生活保護の申請をして、彼の不安を解消する。それが重なり、兵士たちは「東條連隊長」と讃える……。しかも古年兵の初年兵への制裁や中隊長の傍若無人なふるまいは、第一連隊に限って許さなかった。つまり東條は、「成規類集」に書かれている建て前を本音のところにひき寄せ、そのとおりに実行したのである。
そういう東條の才能が、師団長の真崎甚三郎に認められた。東條のような部下をもつことは、真崎にとっても指導能力が評価されることなのである。連隊長や中隊長の能力が秀れているか否かは、将校個人を見る必要はない。彼らの指揮する部隊の教育や訓練をみればいい。兵隊の動きが理にかなっていれば、それは将校の指導能力がすぐれていると考課される。東條自身、首相になってから観兵式にでるたび、「|頭《かしら》右をするときはわからぬが、休め≠フ位置についたときの態度で、訓練のゆき届いた部隊かどうかがわかる」と言っていた。真崎は来訪者に「東條連隊長の訓練を見ていったらどうか」とか「わしの部下に偉い奴がいるよ」と目を細めて自慢した。
真崎と永田、東條の蜜月時代であった。省部の宇垣系の軍人の圧力で、上原直系の真崎が孤立し免官になるとの噂が飛ぶと、ふたりは留任運動を行なったほどだった。しかしやがて東條は、豪気に見える真崎の挙動が、実は政治的野心を満たすためのものではないか、と疑うようになった。きっかけは些細なことだった。
師団長官舎は連隊の中にあるのだが、真崎は、自宅応接間に青年将校を呼び、彼らの気焔をたきつけていることが耳に人ったのだ。「おまえのところの連隊長は馬鹿だぞ。あんな奴の言うことを聞かんでいい」とか「おまえたち若い奴のほうが時代をよく知っている。思うとおりやってみろ」とおだてあげる。これが重なると、連隊長や大隊長を軽侮する空気が生まれる。いわゆる下剋上である。とはいえ真崎は、永田や東條の中傷はしなかった。彼らを秘蔵っ子と思っていたからだ。
こういう真崎の表裏の態度に不信を抱き、しだいに東條は真崎に距離を置くようになった。
東條の自宅にも、中隊長クラスの青年将校が遊びに来た。そういうとき生まれたばかりの三女を抱きながら、丹前姿で酒の相手をした。が、東條自身は一定の量で盃を止めた。意思の強さを試すかのように、自分で決めた量以上は、どんなに誘われても飲まなかった。酒よりも煙草を手にして話を聞いた。
そのうち東條の家を訪れる第一連隊の将校の顔ぶれが決まった。赤松貞雄、香田清貞、鈴木嘉一、石黒貞蔵、石丸貴、西久、加藤隆、臼田完三。彼らには、おとなしく真面目で、職務に熱心という共通の性格があった。
このなかには、加藤隆、鈴木嘉一という異なるタイプがいた。陸大受験準備の加藤隆はひときわ寡黙な将校で、誰にもまして勤皇精神に溢れていた。東條は彼を気にいり、念入りに軍事上の知識を教え込んだ。やがて彼が陸大に進むと、加藤を長女の伴侶にと周囲が勧めたという。しかし彼は、陸大二年の時(昭和十年八月)演習で肋膜炎になり、あっけなく死んだ。そのときの東條の落胆ぶりは、まるで最愛の息子を失なったときに見せるそれであった。加藤の墓前で号泣したという。
鈴木は加藤とちがって豪胆であった。東條のまえにでても臆することなく、言いたいことを言って、東條を怒らせた。だが逆にその臆するところのない態度が、東條は気にいった。鈴木の私生活は順調とはいえず、ときとして家庭には波風が立った。
「自分の家庭もまとめられぬ者が、なぜ部下を掌握できるか」
東條は怒り、鈴木を東條家の二軒先に下宿させ、その生活を監視した。「そこまで監視されてはたまらん」と言いながらも、鈴木は東條家に出入りした。
自宅を訪れる青年将校は、実は、それとなく東條に試されていた。それにパスした者が、加藤や鈴木のように遇されるのである。
ほかに、東條の試験にパスした者に、赤松貞雄がいた。陸士三十四期、連隊勤務六年の彼は、東條が赴任してきたときは、教育主任補助官であった。はじめて東條のもとに書類を届けたとき、東條は言った。
「貴様の職務は何だ」
「教育主任の補助言です」
「こういう大事な書類は、教育主任が、直接もってくるのが当然ではないか」
そしてつけ加えた。
「幹部候補生の教育の目的は何か、この書類の骨子は何か、言ってみろ」
赤松がどうにか答えると、書類を置いていくことを許した。のちにそれが第一関門突破だったことを知った。パスしない者は、いちど書類を戻されるのが通例になっていたからである。そこをたずねられると、東條は、慣れあいで仕事をしたり、ダラ幹になるのを防ごうとしているのだと答えた。東條は、赤松が自宅へ訪ねてくるのを喜び、仕事の話だけでなく、人生訓も語った。ときに散歩につれだし、陸大受験を勧めた。
「陸大を卒業しておくと、自分の思う仕事ができる。自分の適性に合うポストで思いきり仕事ができるぞ」
陸大を卒業すれば思いきって仕事ができる、つまり職務権限が大きくなる。軍人としてこれほどやりがいのある仕事があろうか。それが東條の意見だった。はからずも父英教の言と符節していた。さらに赤松には、心の底に潜んでいる考えも洩らした。
「あいつはメモばかりとっている、といわれているのも知っているさ。わしは決して頭がいいほうではない。永田さんは生まれながらの天才だが、わしはあの人の半分にも及ばない。だから努力して軍務をこなしていかなければならん。覚えも悪いから、メモをとっておかなければ忘れてしまう。……」
たしかに将校の間では、東條はメモ魔として恐れられていた。彼はいつも二冊のメモをもっていて、その一冊には毎日の出来事を記入し、他の一冊は一週間ごとに点検して重要事項を書きこむためのものだった。連隊長室の書棚には、テーマごとのメモ帖があり、誰がいつどこで何を話したかが克明にファイルされていた。
初めの報告と異なった報告をすると、
「貴様のいうのは、この前の報告とちがうではないか」
と気色ばんだ。そのとき、その場をとりつくろう者は評価を落とした。前回の報告を考えてみたらいろいろ欠陥があり、やはりこちらのほうがすぐれていると思った、あるいは命がけで考えた結果、この結論に達したという言い方をすると怒りは鎮まった。もっとも、その癖を見ぬいた者は、容易に東條を籠絡した。「連隊長に起案を認めさせるなら演技力が必要だ」との蔭口もささやかれた。
東條の几帳面さを嫌う将校も多かったが、彼らは書類をもっていくにも連隊長室への入室を敬遠し、赤松や加藤、鈴木に同行してくれるよう頼んだ。東條のまえで一挙手一投足に神経をつかい、連隊長室を出るなり、深呼吸して筋肉を緩めるのが常だった。
就職斡旋委員会
戦いの義がどうあろうとも、兵隊が戦場で命を捨てようと決意するのは、日常接する上司の人間性による。「あの連隊長のためなら……」とか「あの師団長のためなら……」というのが最後のバネになる。その伝でいくと、東條はたしかにふつうの兵隊には慕われた。その理由は、兵隊に接するときは将校に接するときと異なっていたからで、気軽に兵隊の部屋にはいり、健康状態を確かめ、食事への不満をたずね、そして訓練が厳しくないか、ひとりずつたずねるからだった。そういう連隊長は少なかった。兵隊たちは、東條に親近感を示した。
連隊長室に軍医や炊事班長が呼ばれるのもしばしばだった。
「親から預かった子供たちだ。怪我をさせて返すわけにはいかない」
第一連隊の軍医松崎陽は、慶応大学医学部を卒業したばかりであった。彼は、寒い日、暑い日、季節の変り目、そのたびに連隊長室に呼びつけられ、兵隊の健康状態を確かめる質問を浴びせられた。市内出身の兵隊に比べ、郡部出身の兵隊は免疫ができてないので、二年目には肺結核になる可能性が高い、と松崎が言えば、東條は早期発見のためレントゲン導入を即決することもあった。
ある夜遅く、松崎は医務室での業務を終えて自室に戻るとき、ごみ箱をあけている東條の姿を見た。部下に見つからぬよう、こっそりつぎつぎとごみ箱を覗いていた。
「連隊長殿、何をされているんですか」
と松崎が声をかけると、東條はふりかえって苦笑した。照れたような笑いだった。
「どうも解せんことがある」
と首をひねった。東條の言うところでは、炊事班長から、兵隊は喜んで食事を食べ、膳に残すような者はいないと報告を受けているが、それが疑問だというのだ。それでごみ箱を見て回っているというのである。松崎は、東條とともにごみ箱を見て回った。すると残飯がかなりの量捨ててあった。
炊事兵は手数のかからない副食を食卓にのせる。残すと叱られるので、兵隊はこっそりとごみ箱に捨ててしまう。食器に残飯はない。兵隊は食べてしまったとして、炊事係の責任は問われない。東條はそのからくりに気づいたのだ。炊事班長を呼びつけると、
「ごみ箱は無言の抗議だ。明日から献立を考え直せ」
と叱り、そしてつけ加えた。
「この連隊の兵隊の健康を担っているのは貴様たちだ。体力がつくか否かは貴様たちの腕しだいだ。消化がよくておいしく喜んで食べられるものをつくってやれ」
その後も、献立がマンネリになりそうな時期に、東條のごみ箱視察が秘かにはじまった。
連隊には年に二回大演習がある。その折りも東條の性格は顕わになった。兵隊の体力差が異なるから、行軍にもハンディをつけるように中隊長に命令する。そのとき、彼はつぎのように言うのだ。「除隊した兵士たちは、いつか兵営生活を思いだすときがあろう。すると、行軍に落伍したという一事は苦い思い出として一生つきまとう」――。軍隊生活がまるで兵隊の全生涯を規定するかのように、彼は考えていたのである。
演習当日、体力の弱い兵隊たちは、麻布の第一連隊から習志野の練兵場までの街道で行軍を待ち受け、さらに肉体的なハンディのある者は、練兵場の近くで待っていた。練兵場の入り口には東條がいて、落伍者のない行軍に目を細めた。練兵場から第一連隊に帰る際には、兵隊たちは広場に集められ軍装検査を受ける。将校が兵隊の背のうを調べていく。たまたま、かんかん照りの日だった。すると、東條は中隊長を呼んで注意した。
「なぜ背のうを兵隊の傍に置いておくのだ。背のうは木陰に置いておけばよいではないか。見てみろ、背のうは直射日光を受けている。あそこには朝早くからつめた飯がはいっている。あれをかついでかんかん照りのなかを歩いていくんだ」
こういう細かい配慮は、将校にはいくぶん戸惑いであったが、兵隊には人情味あふれる連隊長というイメージで伝わった。たしかにこのころの東條には、そのイメージがふさわしかった。
昭和四年、五年といえば、金融恐慌に端を発し失業者が増大し、農村は疲弊していた時代だった。二年の兵役を終え除隊する兵隊の多くは、明日からの職の心配をしなければならなかった。そこで東條は、第一連隊の中に、「就職斡旋委員会」をつくった。働く場所のない兵隊の職場をさがしまわるのが、この委員会の役目だった。委員には中隊長、大隊長が命じられた。委員といっても、実際は会社回りをすることだった。どこも従業員を解雇しているときに、新たに採用してくれと頭を下げて歩くのが、その仕事だった。
「小使いでもいい。掃除夫でもいい。うちの兵隊をつかってくれないか」
将校は頭を下げて回った。こうして、とにかく除隊日までには全員の職場をさがした。
半面でこの委員会の運動は、将校の社会的な関心を広げることにもなった。彼らのほとんどは陸軍幼年学校、陸軍士官学校出身者で、終生、陸軍の中でしか生活しない。そういう将校が、会社回りをするうちに、自分たちのまったく知らない社会の断面に触れるのである。
将校集会所では、社会情勢への関心を強める会話が多くなった。彼らの怒りは直截に政治家へ向かった。
「農村は困窮し、都市では失業者がふえているのに、政党は何をやっているのか。私利私欲のために動き回っているだけではないか」
それが彼らの共通の意見だった。新聞を開けば、疑獄事件があった。私鉄買収で議員の献金横領が報じられている。財閥の略奪にも似た横暴に、将校の正義感が燃えあがる。将校集会所での彼らの憤激は高まるいっぽうだった。のちに二・二六事件に加担する中隊長の栗原安秀や香田清貞はとくにその怒りを語った。怒りは非合法活動へ傾斜する契機となった。
だが、将校たちの怒りを耳にすると東條は、
「全生活を天皇に捧げている軍人は、天皇が統轄する軍隊の中で考え行動しなければならぬ」
となだめるような言い方をした。つまり若い将校時代には、社会に目を開く必要はないというのである。
言外に、陸軍内部で一夕会系の軍人が主導権をとるようになれば、彼ら青年将校の怒りの元兇である政党の退廃は許さないとの意味があった。天皇に全生活を捧げた軍人とちがって、地方人は自らの利害得失や打算で動く、いわばその精神には邪悪なものがある。それが東條の言いたい点であった。だが青年将校には、東條の意見は微温に映った。
青年将校たちは、将校集会所でふたつの現象を怒りつづけた。経済恐慌と昭和五年のロンドン軍縮条約の調印。しかもこのふたつの根はひとつだった。つまり前者は政党政治の失態と腐敗であり、後者は政治の側からの統帥権干犯という事態であった。ロンドン軍縮条約は海軍の問題であるにしても、統帥権干犯という点では、陸軍の青年将校にも承服しがたいというのであった。
大正十一年のワシントン会議の期限切れを延長するとの狙いで開かれたロンドン軍縮会議(昭和五年)には、前首相若槻礼次郎が全権となり、財部彪海相も随員として出席し、現地の裁量で調印にもちこんだ、この案は、条約の期限五年間、巡洋艦の日米比率六九・七五%、潜水艦は双方五万二千トンという内容だった。
調印前後から、海軍の装備は遅れると焦る軍令部と、条約締結もやむを得ないとする海軍省の間に対立が起こった。俗に海軍省を条約派、軍令部を艦隊派というが、軍令部長加藤寛治と次長末次信正は、声を大にして、この案は受けいれられぬと主張した。全権団が現地で一方的に調印するのは「統帥権干犯」だと決めつけた。憲法十二条には「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」とあるが、この条文は、国務上の輔弼機関である国務大臣と軍令上の補佐機関の参謀総長、軍令部長が対等に天皇に助言する立場にあると陸軍は主張する。政府は、この条項は軍政の範囲内にあり、国務大臣の職務だと主張してきた歴史的対立が、条約派と艦隊派の底流にあった。
海軍部内の亀裂が深まったが、東郷平八郎らの長老が乗りだし、加藤、末次、財部の三人が喧嘩両成敗で辞任することで、表面上は落着した。が、まもなく浜口雄幸首相が右翼青年の凶弾に倒れた。その背景にこの一件がからんでいた。
一連の動きは、陸軍の青年将校を刺激した。東條連隊長の周囲でも、威勢のいい将校が政府攻撃を口にした。だが東條は、彼らに迎合的な時局認識の発言を決してしなかったが、自宅では心を許した青年将校に、問われれば答えるというかたちで慎重に答えた。
「軍令部のほうが正しいだろうな。現地で勝手に案を想定してそれでまとめるというのは、やはり統帥権干犯ということになるだろう」
しかし国家改造運動の必要性を公然と叫ぶ青年将校のなかには、民間の思想家や活動家と連携を強める者もあった。彼らが、北一輝の意を受けて動く西田税と交流を深めると、東條は神経質に注意をくり返した。
「軍人は軍隊以外の集会や会合にでてはならん。北一輝、大川周明、西田税らの煽動にのってはいかん」
東條は、将校集会所を覗き、将校の言動を確認した。東條家に顔を見せる回数が減ると、それとなく同僚の将校に質した。
「最近、香田と栗原が出歩いているか」
とたずね、外出が多いことを知ると眉をひそめた。だが彼らを説得する有効なことばを、東條はもっていなかった。
「赤松。香田にわしの所に顔をだすように言っておけ」
赤松にそう命じるだけだった。軍人勅諭と連隊長としての情がらみで、彼らの行動を抑制しようというのであった。東條が、機関銃中隊の中隊長香田清貞を評価していたのも、彼が寡黙で真面目に軍務に励み、そして直情肌なところを気に入っていたからで、それゆえ香田を国家改造運動からひき離さなければ……と焦っていた。
香田とは別に、社会主義運動に関心をもつ将校もいた。休日に労働組合の講演を聞きに行ってもよいかと、彼らは東條の許可をもらいに来る。すると東條は、集会に出てはいかんが、本を読むのはいいと言って、憲兵隊が押収したその種の著作物を借りてきて、将校に貸した。そのかわりに読後感を書いてもってこいと念を押した。それは「こういう不忠な思想は撲滅しなければなりません」という答を待ち受けているとの意味があった。事実、将校たちは、予期したとおりの感想文を書いてきた。
しかし東條は、軍外の思想家と結託する青年将校や社会主義運動に傾斜しかかっている将校の運動を、大局ではそれほど問題にしてはいなかったといえる。そんな運動が国家的規模になることなど、実態を知るにつれ信じなくなった。彼の警戒心は、軍内の佐官、尉官級の将校が結集した新しい組織の実態とその動向に移っていったのである。
ロンドン軍縮条約が枢密院で批准されたころ、すなわち昭和五年十月、「桜会」が誕生した。日ごろから「腐敗堕落した議会政治を改革するために、早急にやらねばならぬことは革命である」と豪語する参謀本部ロシア班長橋本欣五郎が中心になった組織で、綱領の第一項には、結社の目的として、国家改造のために武力行使も辞せずと唱っていた。さらに趣意書の一節には「……明治維新以来、隆々として発達し来りし国運は今や衰頽に向かわんとし、吾人をして痛憤憂愁措く能わざらしむるものあり」ともあった。会員は「中佐以下国家改造に関心を有し私心なき者」に限ると明記されていた。
桜会には、根本博、土橋勇逸、武藤章、富永恭次ら無名会の会員も加わった。だが彼らはまもなく脱会している。一夕会の会合で、東條が熱っぽく説いたためだ。
「クーデターを起こそうというような連中と共に集まってはいかん。過激な行動は断固排撃し、あくまでも合法的手段に頼るべきだ。もうすこし待て。そうすれば永田さんを中心としたわれわれの時代になる。すべてはそこからはじまる」
そのあとを継いで、永田と岡村が口をはさんだ。
「国事は心配せんでいい。軽挙妄動は慎しんで軍務に専念しろ」
そのことばで勇む会員も、彼らの側に戻った。もうすこしの時間を辛抱することで多くのものが得られるとあれば、焦ることはないというのであった。
三月事件のあと
桜会結成の背景には、省部の血気にはやる将校への焦慮があった。
満蒙を武力によって中国から分離し、合わせて国内改造を進め、軍部独裁国家をつくろうと主張する桜会の主導者橋本欣五郎の訴えは、こういう将校の焦慮を政治エネルギーに変えようというものだった。橋本は、陸大卒業後、トルコ大使前付武官となり、トルコ革命を見て刺激を受けていた。彼は同志を集めるにあたって、つぎのようなことばを吐いた。
「革命はロシア革命のように、本来なら大流血をもって過去の不正を清算しなければならないのだ。ところが日本には皇室問題もあって、国民は流血を許さない。それに日本国民は上からの指示で動く習性がある。それゆえわが国の革命戦は、陸軍中心の速戦即決のクーデター方式にならざるを得ない」
これが、トルコ革命の中心人物だったケマル・パシャと親交をもったという橋本の革命観だった。将校のなかにはこの意見に共鳴する者が多かったのである。実際、桜会は、昭和六年三月にクーデターの実行寸前までに行動を煮つめていった。
なぜこのクーデター(三月事件)が未遂に終わったのか。それを見るまえに、当時の陸軍内部には世代によって区分される四つのグループがあったことを銘記しておかねばならない。(一)は軍事参議官宇垣一成、軍務局長小磯国昭、陸軍次官杉山元、参謀次長二宮治重ら陸士十期から十五期までのグループ。すでに陸軍省を動かし、陸軍省の政策決定に携わっている将官たちである。(二)は永田鉄山、板垣征四郎、岡村寧次、東條英機から石原莞爾、武藤章ら一夕会系の将校で、十六期から二十四、五期までの軍人を含む。彼らは最終的な政策決定の権限をもっていないが、実際には陸軍を動かす将校として政策の立案に携わりつつあった。(三)は桜会に結集した二十二、三期から三十二、三期の将校たちで、彼らはまだ班長クラスだが、実務上の役割は大きいにしても、軍内での政治的力量は弱かった。(四)が三十二、三期から四十期までの陸大受験前、あるいは陸大在学中の青年将校だった。中隊長で百名近い部下をもっているために、部下をつうじて農業恐慌やそれに伴う国民の生活苦を知っている。それゆえ議会政治を崩壊させ、天皇に直結する皇道政治を主張していた。
つけ加えれば、大川周明は(一)と(三)のグループと連携し、北一輝と西田税は(四)の思想的黒幕だった。
(一)は政治家、官僚と桔抗しながら陸軍独裁政権の夢を追っていた。そのために(三)のグループの計画を利用する意図をもっていた。(二)は(一)の政治的放縦性を批判的に牽制しつつ、(三)や(四)の非合法活動を恐れていた。(三)は(一)を利用しつつ、(四)の青年将校がもっている手足を欲しがっていた。昭和六年当時、陸軍内部では、この四つのグループが思惑を秘めて動いていた。
三月事件は、(一)と(三)のグループの便宜的野合だった。宇垣や小磯、杉山らは、政友会の幣原協調外交排撃と内政の失態による政局不安に乗じて宇垣擁立に動いた。この折りに橋本、長勇ら桜会メンバーのクーデター計画がもちこまれたのである。有頂天になった宇垣は、当時の日記に「今や政党も官僚も元老も大衆の信用を失し権威を堕して居る。中心権威者の実力は消失しつつある」と書き、「|匡救《きようきゆう》の大任それ余を煩わすに至る如く感ぜられる」と自らの権力欲充足のために将校の計画に加担したと広言している。
のちに桜会の会員である田中清の書いた手記(『田中メモ』)によれば、昭和六年初めに橋本ら桜会の会員と宇垣、杉山、二官治重参謀次長、小磯らが国内改造の方法について協議したあと、クーデターの内容を右翼から大川周明、清水行之助、左翼からは亀井貫一郎、赤松克麿らの労働団体や農民組合が参加し、双方から三千名が街頭に出て市民一万名を動員し騒乱状態をつくり、乗じて小磯軍務局長が第一師団に出動を命じ、首相以下全員を辞職させると決めていたという。亀井や赤松らは、そのために陸軍の機密費を密かに受けとっていた。
このクーデター失敗の理由は各様に言われているが、宇垣が変心したためとされている。民政党内部に宇垣擁立の声が高まっていると判断した宇垣は、計画の中止を小磯に命じ、そのため瓦解したというのである。計画はうやむやになったが、当事者たちの責任は問われなかった。本来処罰する側の者が謀議に加担していたからである。そして一連の動きのなかで、この計画に一切関わりをもたなかった一夕会系の将校は無傷のままのこった。非合法活動を謗る資格を得たのである。だが東條の盟友永田鉄山だけは、微妙な立場に追いこまれた。
当時、彼は軍事課長で、小磯の直属の部下だった。この計画が進んでいる折り、彼は満蒙に出張し、関東軍の板垣征四郎、石原莞爾の両参謀から、武力解決の方向が示唆されていた。帰るなり補任課長の岡村寧次から、クーデター計画があるようだと聞かされ、永田は小磯や杉山のもとにとんでいき、クーデター中止を訴えた。桜会の方針は危険だというのであった。ところが逆に、小磯から軍隊出動計画を練るよう命じられた。
「非合法活動には反対です」
と確認したうえで、命令どおり軍隊の動員計画を書いて渡した。それがのちに反永田の皇道派将校から攻撃される口実になろうとは知る由もなかった。
永田と岡村は、大川をたずね説得し、その足で杉山や小磯を訪れては中止を求めた。彼らの努力が実ったわけではないが、計画が中止になったとき、一夕会の双葉会系のメンバーは、秘かに会合を開き喝采を叫んだのである。この会合で、東條はひたすら「天皇の軍隊を無断で動かすのはもってのほかだ」と居丈高になり、陸軍首脳部の危険な政策を批判した。
省部でのクーデター計画は、まもなく師団長にも洩れた。第一師団に動員命令が下る予定だったと知った真崎師団長は激怒し、
「無産政党と手を組んで事を起こすとは何事か。天皇の軍隊を勝手に無断で動かすなどはもってのほかだ」
とどなった。師団長室に呼ばれた東條も、むろん大きくうなずいた。
クーデター未遂事件のあと、一夕会系の将校は(三)と(四)のグループを厳重に監視した。軍上層部の保身を怒った桜会の会員が、青年将校に照準を定め同志獲得にのりだしてきたからである。東條は、とくに神経質になった。
東條の休日は、将校の来宅ではじまった。「おやじ」と呼ばれ、親身になって相談にのった。そういう話し合いの中で、東條はすばやく将校の動向をつかんだ。家庭がうまくいっていない者、家族に病気がある者、国家改造運動に熱心な者。数十人の将校の悩みをすばやく彼のファイルにたたきこんだ。
将校の家族が病気になると、たとえ真夜中でも車を走らせ病院に運んだ。第一連隊の兵隊が実家の困窮を訴えてくると、休日にはその家をたずね援助した。たしかに彼は、自らの周囲には模範的な人物としてあった。東條夫人カツによれば、「東條は、年賀状は上の人に出すくらいなら下の方々に出すといって、決して自分より上の役職の人々には出しませんでした」という――。
もっとも、東條は兵隊に接するときは骨肉の情を訴えたが、彼自身の肉親や係累に接するときは厳しい感情をもっていた。近いがゆえの期待過重、それがあった。五人の弟妹のなかでも、東條の目から見ると、努力していないように見えたり、東條の生き方と反している者には冷淡な態度をとった。長男にも厳しくのぞんだ。文学や芸術に関心をもち、軍事に関心を示さないのが東條には不満だったらしく、長男もかたぐるしい父親を避けた。府立四中を中退し、日本郵船に勤務して船に乗る生活を選んだのも、そうした父親への反撥であったと、東條の甥山田玉哉は証言している。
東條は息子には厳しく、娘には甘かった。息子たちはカツの実家に送り、福岡高校に入学させた。しかし娘は手元に置いた。男子は早い機会に独立したほうがいい、女子はいずれ家を出るのだから、それまで家に置くというのであった。連隊から戻り、丹前に着替え食卓に座ると、娘の学校での話に目を細めた。一杯の晩酌を飲み、一膳の御飯を食べるという夕食。盃に書かれた「酔心」の「心」という文字のはねあがったところまで、酒をつがせての娘との語らい。そのとき、東條の表情は和んだ。そこに平凡な父親の像があった。
満州事変の収拾
ときに食卓に隣家の主人が座った。
参謀本部欧米課長渡久雄で、陸士の同期生だった。しかも城北中でも同期生で、東條は中学一年で幼年学校に転じたが、渡は、城北中を卒業して士官学校に入学してきた。昭和十四年一月に渡は病死するが、のちに巣鴨拘置所で東條は、「自分は二人の良き友人と先輩をもった。永田さんと渡だ」と述懐した。
渡も一夕会の会員だったから、ふたりの会話はもっぱら軍内の抗争と情勢打開のメドのない満蒙問題への不満だった。張学良が国民政府側に傾斜し、排日反日に走っている以上、日本軍は武力制圧あるのみという点で、ふたりの考えは一致した。だがそのためにどのような対応をとるかとなれば、ふたりの会話は止まった。さしあたり名案はない。関東軍の参謀たちが不穏な動きを見せているとの情報がしきりに入ってくるが、非合法活動を容認しない一夕会の会員としてそれは不快に響く。
「満蒙分離ののろしが近い将来に何らかのかたちで出てくるかもしれん」
それがしばしばの会食の結論だった。
昭和六年七月下旬、真崎に呼ばれた東條は、「省部に戻って編成動員の仕事をしてみろ」といわれ、八月一日付で参謀本部総務部編成動員課長に転じた。この人事は自分の尽力だというニュアンスが、真崎の口ぶりにはこもっていた。連隊長、課長級の人事は、旅団長、師団長と省部の部局長で人選を行ない、陸相と人事局長が最終的に決定する。だから東條が編成動員課長という、いわば陸軍の作戦用兵の要を握る職に据えられたのは、師団長の真崎の力に負ったとしても不思議ではない。それにこのときの総務部長は、梅津美治郎だった。当然その推挙もあったろう。かつてベルンで公使館の駐在武官をしていたときに、ともに働いている。梅津は軍内の政治的動きには批判的で、三月事件にも一切関係をもたなかった。東條の推挙者の発言は重味があった。
東條自身、このポスト就任に内心快哉を叫んだ。軍人として統帥部の編成動員課という部署は働きがいのある職場だ。憲法のあらゆる権限を超越して存在する統帥部、天皇にのみ直結する統帥部、その統帥部の課長に就任するというのは、陸軍省ばかりを歩いてきた彼には光栄であった。それにこのころは軍備の整備の遅れが目立ち、山梨軍縮・宇垣軍縮による遅れをとり戻さなければならないとされ、彼に課せられた役割は大きかった。
課長になるなり、東條は国本社の例会に出席した。官僚や財界人、軍人らで構成される国本社に顔をだすのは永田の勧めだが、彼らとの間に連携が必要なのは、国家総動員体制確立の布石、すなわち顔つなぎが必要なためだった。
「満州分離は時の流れでしょう」
という意見が国本社の主流になっているのを知ると、東條は、急速に武力発動に関心を示すようになった。陸軍内部だけでなく、公式の会議でも堂々とそういうことばが吐かれる時代になっていることに、彼の驚きはあった。連隊長時代には気づかぬほど、世論は燃えていたのだ。のちに東京裁判で、満蒙分離は日本の総意だったと彼は豪語するが、このときの驚きが伏線であった。
満州の不穏な動きは、八月にはいるといっそう昂まった。参謀本部から中国奥地をさぐるために派遣された中村震太郎大尉が、※[#「さんずい+兆」、unicode6d2e]南地方の抵抗組織に殺害されるや、関東軍は実力で調査にのりだしたいと打電してきたが、軍中央は拒否した。しかし現地の外務当局からは関東軍の暴走懸念が報告されてきた。一切極秘にされていたが、このころ、関東軍参謀たちは張作霖爆死事件に範をとり、何らかの事件をでっちあげ、一夜で奉天を占領し、列国の干渉がはいらぬうちに迅速に満蒙各地を占領するような謀略を練っていた。
その謀略を参謀本部第一部長建川美次も知っていた。関東軍の不穏な動きを押さえるために、南陸相の親書をもって関東軍の説得に行くよう命じられたのは、皮肉なことに建川自身であった。
「閣下は本当になだめ役として行かれるおつもりですか」
とたずねた部下に、建川は曖昧に笑うだけだった。
建川が満州に入り、奉天で関東軍の参謀との歓迎会に出席していたその夜、つまり九月十八日、柳条湖での満鉄線路爆破に端を発する、いわゆる満州事変が起こった。関東軍参謀石原莞爾が中心になっての謀略だった。予定どおり関東軍は兵を動かし、満州内部にはいった。これも実際には大権干犯だった。独断で兵を動かしたからである。
若槻内閣は不拡大方針を決めた。しかし現地軍は一顧だにしなかった。それどころか朝鮮軍もかねてからの密約どおり、二十一日に満州に入った。軍中央の思惑などまったく無視していた。ところがこうなると軍中央の態度も曖昧になり、関東軍が吉林にまで進むと、陸軍三長官会議を開き増援を決めてしまった。閣議で猛反対を受け、陸相南次郎は立場を失なった。南と参謀総長金谷範三は、責任をとろうと辞意を表明したが、これを省部の将校は認めなかった。
「満州での排日行動、既得権侵害の現状にあたっては、全面的に関東軍を支持して、この際一挙に満州問題は解決すべきだ」
というのだった。主に一夕会の将校によって、その意見は主張された。彼らの得手勝手な政治性がここにきて暴かれた。
満州事変が起こってから、参謀本部は一挙に忙しくなった。現地軍への命令示達を行なわなければならないからである。それに国家の意思を決定するのに陸軍の力は大きく、省部の将校一人ひとりの考え方も問われることになった。東條に限っていえば、これまでの考えや軌跡を追うと、この事変に反対しなければならなかった。軍隊の配備や行動が、天皇の|允裁《いんさい》もなしに勝手に動いているのは許されぬはずだった。でなければ「大権干犯」を容認したことになる。ところが東條はそのような意思を示さなかった。
東條の行為は、参謀本部作戦課長今村均らとともに陸相宛に意見具申書を提出しただけであった。それは〈政界の雲行き等にかかわらず国家的問題は執拗に所信を八方に披瀝すべき〉だというものであった。執拗に所信を披瀝すべしというのは、事変以前に起案されていた「満州問題解決方策の大綱」の〈関東軍に自重を促すが、それでも排日行動が強まれば軍事行動を認める〉という内容を、公然と主張せよという意味であった。
だが政党との対峙した関係のなかで、ひとまず事変不拡大、現地解決の線で軍内をまとめ、この事変を小規模な武力衝突で終わらせ、閣議決定の「不拡大方針」を一時的には認めようという側に、省部の大勢は傾いた。この際一挙に満州国をつくろうという一派との間に小さな衝突があった。閣議決定を守ろうというのが梅津や今村、永田、東條らであり、拡大派は建川や橋本など桜会の会員たちだった。
拡大派は隊付将校、それに民間右翼をひきいれ動きはじめた。
十月にはいってまもなく、東條の家に陸大の初審に合格したばかりの赤松貞雄が訪ねてきた。「相談がある」といって赤松が話した内容は、東條には予想されたものだった。
――赤松の自宅に、士官学校時代の同級生西田税が訪れ、「おい赤松、ある会合にちょっと出てくれ。おまえに歩一(歩兵第一連隊)の代表ということで出席してもらいたい」、それだけ言うと西田は帰った。西田から同志扱いを受けたことのない赤松は驚いた。
会合に出るまえ、赤松は、改めて軍人勅諭を読んだと東條に言った。「迷いがあったら軍人勅諭を読め」、東條のそのことばを忠実に守っていると報告した。歩一の傍のレストラン龍土軒には、赤松の見知らぬ軍人が集まっていた。赤松の姿を認めると、「おい、歩一はどのくらい動くか」と声をかけた。
「どのくらいといいますと……」
「兵隊がどの程度でてくるか、ということだ」
「いやそれはわかりません。連隊旗をだせば全員動きましょうが、連隊旗がなければ一人も動きませんよ」
やがてまとめ役が大声で言った。
「では歩一は出動したあと、日比谷公園で休憩していてください」
赤松はたじろぎ、あわてて質問した。
「ちょっと待ってください。これは何のことですか」
万座が静まりかえった。あきれたように赤松を見る眼があった。
「赤松、おまえ何も知らないのか」
「はい、知りません」
主宰者らしい将校がどなった。
「今日の会合は中止。後日改めてまた打ち合わせだ」
第一連隊に戻って、赤松は同僚の将校にたずねたが、誰も教えてくれない。
そこで東條をたずねてきたというのだ。
「連中が何を考えているのか、それは自分も知っている。だが非合法のごときは自分のもっとも排するところだ。歩一に帰ったら、若い者に軽挙妄動はつつしむように言っておけ。……安心して軍務に励み、お国に奉公するよう伝えておけ」
東條のことばは、赤松の口から同僚の将校に伝えられた。だがそれは、いまや陸軍内部の青年将校の間では死語に近かった。それほど不穏な動きは高まっていたのだ。
満州事変拡大派の将校橋本欣五郎と桜会の会員、青年将校、それに西田税の傘下になる民間右翼――彼らのクーデター計画は、十月二十一日前後と予定されていた。参加兵力百二十人、機関銃や爆弾を用いて大臣、政党首脳、元老、財界人を殺害し、荒木貞夫を主班とする軍人内閣をつくるというのである。内相には橋本が、外相には建川が擬せられていた。
だがこの計画は、たちまちのうちに陸軍の中堅将校に洩れた。東條が赤松の話を聞いているころ、やはり参謀本部作戦課長今村均のもとに、桜会の会員が密告してきていたのだ。密告者は、憲兵隊が首謀者を早急に逮捕するよう訴えていた。東條は今村や永田、岡村とともに秘かに対応策を練った。
「密告ではわれわれ四人とも反動分子として殺害するとの一項が含まれているそうです」
今村は言い、憲兵隊がすぐにでも逮捕しなければ大変なことになると強く言った。桜会の会員が一夕会の有力者を憎悪しているのも明らかになった。
「いかなる理由があろうとも非合法活動は断固討伐すべきだ。軍の威信を守るためにも武力による政権奪取など許されん」
と怒る東條のことばに、永田も岡村も異論はない。だが東條の激昂ぶりとは別に、永田はこんどは杉山陸軍次官、小磯軍務局長から非合法活動に反対との言質をとっていた。そこに東條と永田の性格の違いがあった。
四人の将校は、陸軍の首脳部に善後策を講じるよう訴えた。十月十五日の夕刻、陸相官邸の応接間で南次郎陸相、杉山、小磯、参謀本部からは二宮、梅津、建川、教育総監部から荒木貞夫、それに東條、今村、渡ら課長クラスも末席に列なった。今村が経過を報告したあと、永田が口火を切った。
「非合法活動には断固制圧があるのみです。すぐに憲兵隊を動かさねばなりません」
杉山、小磯、東條、今村が賛成した。しかし桜会に同情的な建川が弁護した。
「彼らはまだ何もしていない。密告者の言で動くのでは軍の信用はどうなるか。単なる弾圧的処置では国家国軍を危機に陥れることになる」
荒木も同調した。論議は堂々めぐりをつづけたが、東條は、一貫してこの席から憲兵隊に命令を下すよう南陸相に訴えた。荒木が中断を求め、直接橋本のもとに説得にいくことを申しでた。そしてまもなく計画中止を受けいれたと伝えてきた。だが今村のもとには〈計画中止は偽りなり〉のメモが桜会会員から届いた。どちらの意見を採るか。会議は再開されたが、東條は、「結局、この件は陸軍大臣と参謀総長、教育総監の三人の権限に及ぶ問題かと存じます。やはり陸軍大臣に御決定いただくのが筋かと思います」
と言って決断を促した。ここに及んで南陸相は「即刻身柄拘束」の断を下した。憲兵隊司令官がすぐに電話に飛びついた。
こうして橋本欣五郎、長勇、田中弥、小原重孝、馬奈木敬信、和知鷹二、影佐禎昭ら二十四人が憲兵隊に拘束された。クーデター計画は消え、桜会は瓦解し、人事異動によって会員は省部から追われた。
前述したように(一)のグループは、この事件の経過で(二)にひきずられ、(三)は消えた。省部の非合法活動グループは勢力を失ない、かわって軍内合法改革派が一気に力を得た。それは一夕会系幕僚の時代の到来だった。するとこんどは、(二)のグループにたいして、国家改造運動に積極的なグループからの憎悪が深まった。
関東軍、朝鮮軍、そして各師団の参謀、師団長のなかにも、非合法活動禁止に名を借りて中央優先を貫こうとする将校に恨みをもつ者がふえた。たとえば橋本ら桜会の会員の拘束を怒った関東軍が、満州の独立をはかり独立軍として行動をはじめるという憲兵情報が乱れとび、それは東條や永田の耳にも入った。この情報には、関東軍参謀の間に永田や岡村、東條らへの反感があることが付記されていたのである。
皇道派との対立
桜会が瓦解したあと、青年将校が頼りにしたのは、昭和六年十二月の犬養毅内閣のもとで陸相に座った荒木貞夫と第一師団長真崎甚三郎だった。彼らは青年将校には話せる相手だった。なにより荒木は精神主義者であり、好んで「皇軍」「皇国」ということばをつかい、「大御心に添って軍の統一をはからなければならぬ」と説いた。そういう精神論は、青年将校の心の琴線に触れた。少、中尉すら自宅に出入りさせ、酒食を共にする性格はさらに人気を集めた。
ところが荒木の精神論は、東條にも魅力的に映っていた。「荒木さんでなければだめだ。あの人こそ陸軍の指導者にふさわしい」と省部にふれ回り、それが目立ったので、東條の荒木への傾斜がひととき有名になった。揮毫を求められると、「神武不殺」か「努力即権威」と東條は書いたが、皇道、皇国をふりまわすだけで、なにひとつ定見をもっていない荒木と共通する意味がそこにはあった。東條の熱っぽさと対照的に、荒木を精神論をふり回すだけの旧式の軍人とみて軽侮したのが、永田や岡村である。
「精神論で戦争に勝てると思っているのか。軍人はもっと地に足のついた発言をすべきだ」
彼らは公然とそう言った。軍内でもっとも優秀な幕僚と折り紙つきの永田のこういう態度に、荒木は不満を隠そうとせず、
「永田もわしの所にもっと来てくれればいいのだが……」
と、秘書の前田正実に愚痴った。
陸相に就任しての初の人事で、荒木は、宇垣系と目されていた二宮、建川、小磯、杉山を省部から追った。上原の後押しで陸相に座った彼は、かわって山岡重厚を軍務局長に、柳川平助を次官に、小畑敏四郎を作戦部長に据えた。荒木に重用された将校は、荒木の唱える皇道をもじって皇道派といわれた。
昭和七年三月の人事では、永田鉄山を参謀本部第二部長に、小畑敏四郎を第三部長に就けた。岡村を関東軍参謀副長に回し、後任の作戦課長には鈴木率道を座らせた。鈴木は陸士二十二期で、異例の抜擢といわれた。東條は編成動員課長から動かなかった。荒木の思惑が幕僚の困惑を生む人事図だった。そして参謀次長には真崎が座って、ここに荒木・真崎時代が現出した。
尉官で親友、佐官で競争相手、将官で敵対関係――というフランス陸軍の格言に沿っていうなら、荒木人事の裏側には、激しい反目があった。かつて志を共にした永田鉄山と小畑敏四郎の間では、考え方の相違や競争意識が昂じ、顔を合わせても視線をそらすほどの険悪なものになっていた。二人の間に入って困惑した岡村は、荒木をたずね、小畑と永田を同じ地に勤務させないでくれと頼んだが、荒木は無視し、参謀本部部長の職に就けた。懸念したまま岡村は関東軍に赴任した。
やはりふたりの間に対立が起こった。満州国建国(昭和七年三月一日)をテコに、一気に対ソ戦準備にかかろうとする小畑、対ソ自重論の永田。荒木側近を自認し参謀本部に出勤するまえに陸相官邸に顔をだして荒木のご機嫌をとる小畑、荒木の精神論を嘲笑しそれに追随する将校を敬遠する永田。ふたりの対立は抜きがたいものになった。東條の立場は微妙だった。永田に兄事しながら、彼自身は、精神主義者の荒木には敬服している。とはいえ永田と小畑の対立では、躊躇なく永田の側に立った。
小畑の茶坊主ぶりに怒りをもっただけではない。昭和七年初めに、作戦課長だった小畑が、秘かに荒木に頼んで満州への二個師団派遣を立案して、それを事後承諾のかたちで東條に諒解を求めてきたことを許さなかったのである。このとき東條は自らの権限が無視されたと激怒し、小畑の室に駈け込み、胸倉をつかまんばかりに、「貴様ひとりで戦争する気か」とどなった。それがふたりの亀裂だった。
小畑も、荒木の耳に東條の直情的な性格を誇大に伝えた。会議の席などで、荒木はそれとなく東條に注意した。が、東條は不快気に聞き流した。そのたびに荒木や真崎に反撥を強めた。「青年将校が増長し幹部のいうことをきかなくなっているのは、両大将がそれを煽っているからだ」。師団長たちのそんな不満が、永田や東條らにも伝わってくるようになった。
事実、荒木、真崎は青年将校に「貴様ら若い者はいいのう。軍内の大掃除をしてもらわにゃ」といい、青年将校が民間右翼と接するのを黙認した。それだけではない。真崎は裏では青年将校の活動を激励していた。
真崎大将には私心がありすぎる――東條はそう言って、参謀次長室に入っていった。当時陸大生だった赤松貞雄は、そういう東條を見たことがある。
「ふつうの人なら黙認することでも、東條さんは直言に行くのです。閣下、青年将校を甘やかすようなことをしてはなりません。それでは示しがつきませんと言うので、真崎さんにすれば、なんだ、この野郎、俺がせっかく目をかけているのに生意気な奴だ≠ニなったと思います。しだいに真崎さんは東條さんを敬遠するようになり、東條さんも真崎さんは野心家すぎる≠ニ、私などにもしばしば洩らしました」
第一師団長時代の永田、東條という有能な部下が、言いなりにならぬことに不満だったのだろう。|狷介《けんかい》な真崎は、ふたりに憎悪に近い感情をもつに至るのである。
昭和七年五月十五日、海軍の士官と陸軍士官学校生徒、それに農民が加わっての犬養毅首相暗殺事件が起こる。いわゆる五・一五事件である。これを機に陸軍は、かつて山県や桂らが唱えた挙国一致内閣をもちだし、政党政治の排撃を訴えた。元老西園寺公望は、天皇の政党政治擁護の意思を守ろうと奔走し、海軍の長老斎藤実を首相にと奉答した。五月二十六日、斎藤内閣が誕生、陸相には荒木貞夫が留任したため、政党や識者の間からは、「責任者が責任をとらぬのではしめしがつかない」という声があがった。
陸軍の幕僚たちは、軍外に向かっては荒木擁立で一致したが、軍内の亀裂は深まった。
荒木、真崎につながる軍人と、永田系の軍人の確執が日ごとに深まっていった。もっとも、永田系の軍人といっても、それほどめだつ者がいるわけでなく、もっぱら東條が矢面に立った。皇道派の将校に、気にいらないことを言われると、すぐに顔色を変えてくいついていった。そういう東條は、格好の相手だったのだ。
「時を待て、じっくりかまえて待て」
永田はしばしば東條を説得したが、そのときはうなずいても、小畑や鈴木率道とむかい合うと衝突した。作戦課長鈴木とは業務上のことで罵り合いの喧嘩をくり返し、あげくのはてに廊下ですれちがってもそっぽを向きあう関係になった。永田自身は、柳川や山岡と意見の対立があっても論争はしない。無用な摩擦は好まず、平穏に業務を勤めている。が、胸中では闘志が燃えていた。
このころ陸軍省詰めだった朝日新聞記者高宮太平の著わした『昭和の将帥』には、「東條というのはどうしようもない奴だ」と軍務局長室で山岡重厚が言えば、階下の編成動員課長室では、東條が「あんな奴に負けてたまるか。今に見ていろ」と天井を仰いで罵るほどの関係だったと書かれている。
鈴木、小畑、山岡、真崎らは、人事権をもつ荒木に、東條を省部から追いだすよう執拗に働きかけ、結局、荒木もそれを受けいれた。荒木の秘蔵っ于である小畑が、
「永田はわれわれで押さえているのに、東條にはどうしてそんなに甘いのか」
と詰めよったのが決め手になったという。
昭和八年三月十八日に少将に昇進したその日に、東條は参謀本部付を命じられた。そして五カ月後の八月には、兵器本廠付兼軍事調査委員長となった。いずれもさしたる仕事はなく、つぎの配属を待機していろというのである。このあからさまの処遇に、要職から一歩一歩遠ざけられ、やがて予備役に編入されるのだろうと、軍内では噂された。荒木や真崎に嫌われたら、省部から追われるといわれた時代だから、東條の地位もこれまでと衆目は一致した。
彼の人生で、落日をかこつ日々が流れた時代である。仕事を奪われた東條は、ぼんやりと机にすわり、内心は不満で燃えていた。父英教が味わった屈辱を、甘受しなければならぬ皮肉な巡り合わせを感じていたにちがいない。しかし自らの不利な地位を脱れるために、軍上層部に改めてとりいったりしなかったのは、直情な性格をもつ者にみられる融通のなさとも見られたが、この期にあえて媚態を示さなかったことが、のちの彼の有力な武器となったのである。
十一月には軍事調査部長を命じられた。ここも四カ月ほどで、昭和九年三月には陸軍士官学校幹事になる。幹事というのは副校長のことである。八月にはいると、久留米の歩兵第二十四旅団長の辞令を渡された。
陸軍では三月、八月、十一月が異動、昇級の月である。ふつうは一年から二年を平均として勤務するが、一年間に、五カ所もたらい回しにされた東條の人事は、皇道派からの報復人事の典型だった。しかも東條の配属されたポストには、必ず真崎や小畑の息のかかった軍人が送りこまれ、東條を監視するか、東條と衝突するように配慮がされていた。失点を与え、予備役に追いこもうというのであった。東條もまたそれをよく知っていた。
軍事調査部長、士官学校幹事、歩兵第二十四旅団長。その間、東條は自棄になって過ごしたわけではない。あるいは政治的にまったく手を打たなかったわけでもない。軍事調査部長時代には、ふたつの「敵」に挑みつづけた。
ひとつは、東條と肌あいの合わない皇道派将校満井佐吉(陸士二十六期)との闘いである。直情肌の満井は、上司の東條になにかと食い下った。直截な衝突は、ひととき省部でも有名となった。もうひとつの「敵」は、東條に適性とは思えぬ仕事を与えて失墜を狙う皇道派将校からの厭がらせだった。この軍事調査部は、陸軍省の正規の組織図にははいっていない。新聞班と調査班があり、新聞の切り抜きをして調査レポートをまとめるのが仕事であった。だが東條の赴任からまもなく、この組織は改組になり、軍事調査部として新聞記者と接する公的な広報機関となった。東條がこういう仕事に向いていないのは、誰にも容易に理解できた。
ふたつの「敵」との闘いは、結局、ひとつに勝ってひとつに負けた。勝ったのは満井との闘いで、東條はこの将校を部下として、自らの思うように使いこなすのに成功した。が、広報関係の仕事は、彼の努力だけでは勝てぬ相手だった。東條が就任してまもなく、陸海軍当局は「軍民離間声明」を発表し、政党の軍部批判に反論を試みたが、この文案は軍事調査部の起案だった。東條はこの仕事からはずされた。それに新聞記者と親交を結ぶのも不得手だった。軍人勅諭に忠実であろうとし、軍人こそがこの国の指導者だとにおわす彼のことばに、新聞記者が反撥したためという。あるいは苦虫を噛みつぶしたような東條の表情を、敬遠したからともいう。
この職務に携わっているとき、東條は内心では不快の塊となっていた。が、それを表情にあらわすまいとした。昭和九年正月の東條家には、軍内での将来の地位が見えたとして来訪者は減った。この期の東條は、父英教と同じようなかたちで陸軍を去ることを覚悟したと、のちに首相になってから秘書に告白している。
第二十四旅団長へ
だが東條には、英教になかった僥倖がついて回った。
昭和九年一月、荒木は肺炎をこじらせ陸相を辞した。参謀総長閑院宮は、後任に教育総監の林銑十郎を推した。林は金沢出身、陸士八期で凡庸な軍人である。
閑院宮はフランスに留学し、現地で陸大を卒業、フランス陸軍の騎兵中尉を経験している。日露戦争では騎兵第一旅団長、その後近衛師団長、軍事参議官などを経て、昭和六年から参謀総長の職にあった。陸軍の最長老、そのうえ皇族とあって天皇の信任も厚く、影響力は大きかった。その閑院宮が、真崎を推す声に反いて林を選んだのも、真崎の陰気な性格と人事の不公正を嫌ったからだった。真崎は宮中筋にはまったく人気がなかったのである。彼は無念のまま林のあとの教育総監に転じた。
林は荒木、真崎とそれに抗する永田、東條ら一夕会系の軍人との間に立ち、派閥争いに距離を置いていた軍人だった。彼は陸相になってまもなく、東條を官邸に呼んだ。実力第一主義で異動が行なわれるべきと考え、とくに部内で冷や飯組といわれている者を呼んでは、意見を聞いたのである。
「軍務局長は永田少将以外にありません。永田少将の識見、実力は、その職務をこなす唯一の人物です」
東條は他の人事には意見を述べず、永田を軍務局長に……とくり返した。
「君はどうするかね」
「とりたてて希望はありません。どのポストであろうと刻苦奮励軍務に励むことにかわりありません」
すると林は、
「君も永田を助けてくれなくては困る」
とつけ足した。林は軍務局長に永田を、それを補佐するポストに東條を就けるつもりだとにおわせた。しかしこうした人事が荒木、真崎人脈の省部では抵抗が多いと言って、しばらく時間が必要かもしれぬとも洩らした。
林は一夕会系将校の意見を聞いたあと、真崎に会い、永田軍務局長案を打診した。が、賛意は得られない。しかし林の決意が堅いとみた真崎は、
「では永田の軍務局長は認めるとして、東條は士官学校幹事というのはどうか」
と申しでた。この裏には、山岡重厚が、東條を士官学校幹事に送りこんでしまえと、真崎に働きかけていたという事情がある。士官学校には真崎、山岡の息のかかった人物が多いし、ここに送りこめばその動きを止めることができるというのである。永田と東條の組み合わせで、皇道派は息の根をとめられるという危惧が、彼らの間にはあったからだ。
結局、林はそれを受けいれた。東條は士官学校幹事の辞令を受けたとき、林にニヤリと笑った。このとき林も笑い返したという。ふたりとも裏の事情を知っていたのだ。そして東條は、閑職にのりこんでいった。市ケ谷の陸軍士官学校に行くと、さっそく動きはじめた。陸軍士官学校の中隊長は、無天組(非陸大卒)の軍人が占め、これを暗黙の諒解としている内規があったのだが、それをこわした。
「まだ元気のいい学生を教えるのだから、中隊長も若くなければ真の軍人は育たない」
といって、陸大を卒業した省部の将校や陸大を卒業したばかりの尉官を呼んで、そのポストに就けた。たとえば参謀本部にいた辻政信もその一人だった。東條の言い分は正論だったので、公然と批判されなかったが、真崎に近い無天組には既得権侵害と映り、反東條の空気がかもしだされた。周囲が真崎、山岡系ばかりなので、その防衛策として、こうしたかたちで自分の周囲を固めた東條の思惑に対する反撥だった。
士官学校教官から教育総監の真崎に、反東條の空気が伝わった。すると真崎は東條を呼びつけ、〈皇軍将校養成〉という士官学校教育論をとうとうと述べた。
「閣下、私はそのとおり実行しているはずですが……」
と東條はその意見をはねつけた。
真崎の|焦《いら》だちは深まり、林につめよって、東條を久留米の第二十四旅団長として飛ばすよう訴え、認めさせた。真崎の出身地佐賀、荒木が長い間赴任していて親荒木の空気が強い熊本、その近くに置けば東條の力も軍中央に及ぶまいという配慮だった。
赴任のまえ、永田は東條に言った。
「しばらく地方へ行って、風当たりの強いのを冷やしてきたほうがいい。もうすこしの時間を待て」
永田のそのことばに励まされながら、東條は久留米にむかった。たらい回しにされる苦痛に耐えているのも永田の後押しがあるからだ、と充分自覚しての都落ちだった。昭和九年八月のことである。
久留米の第二十四旅団の佐々木清大尉は、軍中央から半ば左遷のかたちでやってくる旅団長に同情を覚えた。東條旅団長の副官を命じられるや、彼のもとには、陸士時代の同期生や先輩から、東條についての評判をたっぷりと知らせる手紙が届いたのである。それを読むにつれ、皇道派を自称し、国家改造運動に熱中している彼にとって、東條とは厄介な旅団長だ、というイメージが広がった。〈厄介な〉というのは、国家改造運動に理解のないという意味である。
しかも軍中央にいる親友の満井佐吉からは、東條の行状について時折り連絡が欲しいと依頼も寄せられていた。そして満井の手紙には、「新旅団長は革新気分あるも従来少壮将校の気勢には本当に理解なかりし人、大兄も今後十分に理解されるまでは御用心、十分に御自重を祈る」(昭九・八・五付書簡)、「永田閣下は穏健中正、新旅団長東條少将とは尤も親密一体と見て可」(昭九・八・二十五付書簡)とあった。その字句を頭にたたきこんだ佐々木は、東條の赴任を待った。
ふたりは初め硬い関係にあった。
東條は副官としての佐々木に信頼を置かなかった。佐々木も距離を置いて仕えた。副官というのは秘書のようなものだから、硬い関係は不自然でもあった。そのうちに佐々木の方が東條に傾いた。朝から夜まで行動を共にし、昼食はお互いに家から持参の弁当を広げて食べるのだから、親密さが深まるのも時間の問題だったかもしれない。弁当をつついているとき、時局の話もでたが、東條はなかなか心の内を明かさなかった。
「五・一五事件の被告の家がこのへんにあるのですが、あの事件のあとしばらくは投石がつづいたりしました。相当恨みを買ったんです。閣下はあの事件をどう思われますか」
「若い士官候補生がああいうことをするのは、ひとえに上司がだらしないからだ。部下の掌握もできんようでは上司の資格はない」
その種の会話がなんども交わされた。折りから国家改造運動はいっそう昂まっていた。陸軍パンフレット配布、天皇機関説攻撃、国体明徴運動と、軍部の攻勢はつづいていて、佐々木もまた九州の同志と連絡をとり運動を進めていた。それを東條は見て見ぬふりをした。
「わしも君も幕末だったらとうに斬殺されているよ。わしなんかもう何年もまえに死んでいるにちがいない」
佐々木は、軍中央の動きを知らなかったが、東條自身敵が多いのを自覚していると思った。それを裏づける出来事が、昭和九年の秋に起こった。
陸相を退き軍事参議官に就任していた荒木貞夫が、久留米を訪れた。名目は防空演習視察だったが、実際は東條に引導を渡しにきたと噂された。佐々木に向かって、「因果を含めに来たのだ。予備役編入もまちがいない」と囁く皇道派将校もいた。久留米駅前の旅館の一室で、荒木と東條は長時間話しあったが、隣室で待っていた佐々木は、ふたりの話し合いの空気が深刻ではなく、むしろ心を許した関係ではないかと思えるほど笑い声がきこえてくるので、その噂が根拠がないことを知った。
――ふたりは何を話したのだろうか。荒木は、東條の真崎への感情を和らげるように説き、皇軍一本化に協力せよといったのではないか。東條は、下剋上の風潮が陸軍を曲げ、それが私欲で動く集団に堕落させた因であり、これを是正しなければならぬと答えたのではないか。あるいは皇軍意識に燃えるふたりは、じっくり話しあってみて、まったく同じ体質をもっていることを確認し、協力して軍内改革にあたることを誓ったのかもしれない。
いやあるいは、もっと生々しい話をしたのかもしれない。つぎのような説もある。
秦真次憲兵隊司令官は、荒木、真崎に反対する将校の行動をすべて調べあげていたが、とくに東條は秦に嫌われていたので、憲兵の監視をいつも受けていた。それを荒木に訴えたのかもしれない。
「憲兵を私物化しているのではないか」
荒木は、それをやめさせようと約束したとも考えられる。秦は荒木直系で、荒木の言には抗しない軍人だから、それは容易なことだった。
佐々木は、しだいに東條を白眼視する軍人や在郷軍人と距離をもった。東條を謗る空気が強いのに反感をもったことと、東條の言には裏がないことに感服したのだ。東條が在郷軍入会の集会に呼ばれるたびに、佐々木の同情は深まった。親荒木、親真崎の九州各地で東條は仇敵と受けとられていたし、東條が登壇するたびにあくびやささやきが意識的に洩れるのである。苦虫をかみつぶした表情で、東條は講演をつづけるのが慣例だった。
この期、東條の軍内の地位が不安定なのはデマの多さにもあらわれた。さまざまなデマが飛び、そのなかにはいまだにつづいているものもある。毎日夕刻に、永田宛ての手紙を副官に投函させたというのがそれである。その内容が、小畑敏四郎、山岡重厚、それに鈴木率道ら皇道派将校への復讐を誓ったもので、東條はそれほど執念深く彼らを恨んでいたというのである。権威ある昭和軍閥解明の書にも、この挿話は引用されている。実際のところ、こういう偏執な性格をもっていたなら、東條はきわめて異常なタイプということになる。この噂はそこを狙ったのであろう。
第二十四旅団の旅団長の日常は、佐々木ともう一人の副官一之瀬寿が面倒をみた。手紙類や書類を取り継ぐのは、佐々木の役割だった。佐々木によると、東條はメモ帖を開く癖はあったが、手紙を書いたことはまったくないという。それは旅団内部でもよく知られていたことだったが、にもかかわらずこうした挿話がつくられたのは、東京で東條を憎んでいる皇道派将校の茶飲み話で、永田との親密さを示す挿話として意図的につくりあげられたということができる。それが語り継がれるうちに増幅されたのであろう。
むしろ東條には、南次郎、梅津美治郎、小磯国昭らから手紙が届いたといい、その内容も気を落とさずにしっかりやれというものだったと、佐々木は証言している。東條は手紙を広げ、ひとり頷いていたという。
が、軍中央からの厭がらせが、執拗に東條を襲ったのは事実で、減点を見つけて予備役に追いこもうという企ては露骨だった。
師団ではしばしば旅団対抗の図上演習が行なわれるが、そういうとき相手方には易しい問題が、東條には酷な問題が与えられた。当時陸軍では上陸作戦は研究されていなかったのに、東條の旅団には毎回このテーマが回ってきた。ときに東條の敵側にあたる旅団長には、参謀本部から適切な戦闘方法が示唆されていて、東條旅団に勝つように仕組まれている場合もあった。
図上演習のテーマが与えられると、東條はそれを寸断し、小さな研究課題に区分して、将校に、
「おまえは第一次大戦の西部戦線を調べろ。おまえはナポレオンの師団の動き、おまえは古戦史、日露戦争は……」
というふうに割りふった。第二十四旅団の中隊長らは二カ月間、与えられたテーマを調べ、自ら結論をだし、東條に提出した。それを組み合わせて大状況をつくりあげるのが、東條の図上演習の進め方だった。
陸大を卒業したばかりの井本熊男が、第十二師団の中隊長として帰任したのは昭和九年十一月だが、久留米に着き東條に挨拶に行くなり、
「おまえも上陸作戦を研究してみろ。これは旅団の少佐以上で研究しているテーマだ」
といって、時間と資料をたっぷりと与えられ、筑紫平野を海岸線に擬しての上陸作戦の基本戦略を検討させられた。彼には興味のあるテーマだった。
「陸大をもう一年つづけているような心境です」
井本のそういうことばに、東條は笑ってこたえたが、もとより図上演習がもっている真の意味を将校に語ったりはしなかった。図上演習では、東條の旅団が、相手方の旅団長の性格の裏をかいての作戦で攻めぬくケースが多かった。東條追い落としの計画は、そのつど失敗に終わった。そしてつぎの図上演習では、以前よりさらに難しいテーマが、東條の旅団には与えられた。
永田軍務局長斬殺
昭和十年四月、東條のもとに辻政信がたずねてきた。陸軍士官学校幹事時代に、参謀本部から中隊長にひきぬいた将校だった。辻は、三月の異動で第一師団第二連隊に転じることになり、その間の休暇をぬって久留米まで来たのである。
いささか激しやすいタイプのこの軍人が、なぜ東條をたずねてきたのかは、現在では判らない。しかしそれは容易にひとつの推測を浮かびあがらせる。
前年十一月に、いわゆる士官学校事件が起こっている。辻が、士官学校生徒を青年将校の村中孝次、磯部浅一のもとに出入りさせ、彼ら青年将校が不穏な非合法計画を練っていると摘発した事件である。この計画を、辻は、参謀本部の片倉衷少佐や憲兵隊の塚本誠大尉らと共に陸軍次官に訴え、鎮圧を要求した。その結果、村中と磯部は拘禁され、取り調べを受けた。ふたりは国家改造運動に熱心な皇道派の将校だったから、これは永田の指し金であると騒いだ。辻も片倉も永田に近かったから、これも説得力があった。のちに真崎が著わした『備忘録』には、永田一派の策略であったときめつけている。むろん東條も、この策略の一部を担っていたとの意味が含まれている。
東條がこの策略に加わっていたか否かは明確ではない。が、士官学校内に根強い皇道派の人脈を神経質な目で見ていたのは事実だし、生徒が外部の勢力と接するのを嫌い、辻にも相当厳しい目で監視するように命じたことも想像に難くない。辻はひときわ功名心に駈られている軍人だ。彼が東條や永田に忠勤を励んで、事件をでっちあげたこともありえないことではない。
昭和十年に入るや、村中、磯部は停職、士官学校生徒五人が退学処分となった。すると村中と磯部は、辻と片倉を|誣告罪《ぶこくざい》で告訴し、軍法会議で却下されるや「粛軍ニ関スル意見書」を書き、軍法会議の柳川平助議長に送り、三月事件、十月事件の経緯をこと細かに明らかにして、陸軍士官学校事件も、永田一派が教育総監の真崎を失脚させようと仕組んだものだと訴えた。これも無視された。すると皇道派将校はいっそうその活動を強めていった。
辻は一連の動きを、東條に克明に語りつづけたにちがいない。
「非合法活動にうつつをぬかすような輩には、厳しい制裁が必要だ」
辻を帰したあと、珍しく、東條は家族に軍内の動きを話した。口調には怒りがあった。
皇道派将校に連なる将校の革新運動は、東條の周囲でも高まった。折りから問題になっていた天皇機関説問題をテコに、皇道派将校が在郷軍人会を動かし、東條のもとにも決議文を届けさせた。東條はそれを机の中にしまいこんだ。だがまもなく容認できぬ事態が起こった。東條のもとに、永田から連絡が入ったのである。
「おまえのもとに佐々木という副官がいるはずだが、この男を代表とする皇道義盟なる組織から美濃部排撃に陸軍は決起せよ、という電報が軍務局長宛てに届いている。調査して厳罰に処するように……」
東條は衝撃を受けた。兄事する永田に、部下の監督不行届きを責められたのである。佐々木を呼びつけると、三日間の謹慎処分を命じてどなりつけた。「……本来なら首切りものだ。勝手にこんな真似をされては軍の統制はとれん。それにしてもなぜわしに相談しないのか」。やがて東條は、情をからめての叱責をする。おまえも子供が多くて大変だろう、陸軍を予備役になったらどうするのか。執拗なそのことばに佐々木は涙を流し、以後この種の行動はとらないと誓約する。
これを機に、東條は佐々木を信頼する部下のひとりに組み入れた。それ以後、少しでも皇道派に近い意見を吐くと、有無を言わせず軍人勅諭を誦じさせる。その回数が減るにつれ、東條に評価される深みが増した。そうなってから東條は、軍中央の激しい派閥争いを佐々木に語るようになった。自らの信頼する部下たちが、省部の要職で皇道派将校と対峙している状況を語り、この闘いには負けられぬと勇んだ考えを洩らしはじめたのである。
このころ、すなわち昭和十年七月、軍中央では新たな権力闘争が起こっていた。林陸相と真崎が人事をめぐって応酬していた。
「こんどの人事異動は、私の手で行ないたい。ついてはこの際、君も現役を退いてもらえないか」
顔色のかわった真崎を無視して、林はことばを足した。林も内心ではふるえていた。
「部内の総意なのだ。君が派閥の中心となって統制を乱しているのが、その理由だ」
「それはおかしいではないか。天皇のこの軍隊は部内の総意で動くのか」
林のもとには人事局長今井清、陸軍次官柳川平助の作成した案が届いている。それとは別に永田や参謀次長杉山元が加わっての人事構想もできあがっている。ふたつの案とも山岡重厚、小畑敏四郎、山下奉文、鈴木率道ら荒木、真崎系の将校を省部から外すのを眼目としている。この事情を知った真崎は激しく抵抗した。三回にわたる話し合いでも、林の決意は動かない。すると真崎は、「こんな筋のとおらない人事を強行すれば何が起こるかわからない」と脅した。軍の最高人事は陸軍大臣、参謀総長、教育総監の三長官で決めるという内規があるではないか。それに陛下の教育総監として仕えている以上、私の意見を無視するのは統帥権干犯ではないか――真崎はくり返した。この意見を林は退けた。
青年将校は真崎に加担した。彼らは「天皇の大権を侵すのは、永田と林だ」と軍内にふれ回り、林は永田のロボットだから、元兇は永田であると公言した。
七月十五日、真崎の罷免が決まり、皇道派の重鎮は軍中央から消えた。青年将校の怒りは頂点に達し、永田の周囲では、テロの危険があるから外遊でもしたらどうかという声があがった。
八月の人事異動は大幅なものになるだろうとの噂が撒かれた。皇道派の将校たちが省部から消えるというのは、衆目の見るところだった。この噂を耳にした東條は上機嫌だった。永田が言っていた「その時」がきたのである。事実、東條は八月一日付で第十二師団司令部付となり、次の勤務地が決まるまで待機していろという辞令を受けとった。永田から東京に呼び寄せるとの連絡もはいった。
八月十二日。東條はまもなく去る予定の久留米の師団本部を出て、佐賀市の東方地域を車で回っていた。現地を見て、図上作戦を検証するためだった。東條のもっとも信頼する部下となった井本熊男が、隣りにつき添っていた。佐賀の市内を走りぬけ、市外にでようとするとき、号外売りが呼び鈴を鳴らして走っているのに出会った。
「井本、ちょっと買ってこい」
車を止め、井本は号外売りを呼び止めた。「永田陸軍省軍務局長刺殺さる」という大きな文字があった。号外に目を走らせた東條は、読み終わるや、ふっと溜息をついただけで、なにも言わなかった。車は反転して旅団司令部に戻った。
司令部に入って東條が最初に洩らしたのは、「これから東京に行く」ということばだった。司令部の将校たちは腕をつかんだ。そして、いま上京すれば閣下も殺されます、と説得した。東條の表情は生気を失ない、能面のようであった。結局、執拗な説得に負け、彼は上京するのをあきらめたが、旅団司令部の通信室にこもり、東京から伝わってくる情報に聞きいった。第四十一連隊の相沢三郎という皇道派の中佐が、永田殺害は「天誅」と信じて行なったと伝わってくると、東條は「この男は気違いだろう」といい、「誰が背後にいるのか」とどなった。
その夜、東條は自宅の仏壇で夜を徹して合掌した。瞑目し、涙を流し、そしてまた仏前にむかった。数日して、彼は仏壇に永田の位牌をつくった。兄事していた永田の残虐な死は、皇道派にたいする彼の感情を憎悪にまで昂めることになった。
事件から二週間ほどして、東條は、関東憲兵隊司令官として赴くよう内命を受けた。林は永田が斬殺されたことに衝撃を受け、「永田を殺したのは俺かもしれん」と自失してつぶやき、「東條を東京に呼ぶのは永田の二の舞になりかねない」と恐れて、満州に送ることにしたのだ。だが軍内では「東條もとうとう憲兵司令部に追われたか。失点を待たれているのだなあ」と囁かれた。たしかに憲兵畑は、東條のようなコースを歩んできた軍人が就任するポストではなかったのだ。いま後ろ盾を失なった東條が、軍内の主流から完全にはずされたということは、誰の目にも明らかだった。
内命を受けたあと、東條は事務手続きのため秘かに上京した。その前日、赤松貞雄に電話して、偕行社に部屋をとっておくよう頼んだ。偕行社にあらわれた東條は、赤松の予約した部屋に入ると、すぐに風呂敷包みから軍服をとりだし着替えた。永田鉄山の血染めの軍服であった。東京駅に降りるや永田の家をたずね、遺族を励まし、遺品として軍服をもらい受けてきたというのだ。それを着て彼は合掌した。「永田さんの仇は、いつかわしがとってやる」、赤松にそう誓った。
もっともこの説には異論もあり、東條は永田の軍服を遺品としてもらいうけてなく、だから血ぞめの軍服など着なかったという。永田の死後、新聞記者から「軍務局長には東條が……という声もある」といわれ、「そうなれば永田さんの血で汚れた部屋で執務をとる」と東條が答えたのが曲解され、流布したというのである。
赤松につづいてこの一室にはいったのは、軍務局軍事課高級課員の武藤章だった。永田に私淑し、永田と同様、軍内では切れ者としてとおっていた。皇道派を憎むことでは、人後に落ちぬ将校だった。相沢を糾弾する陸軍省の発表文には、「凶行の動機は……永田中将に関する誤れる巷説を盲信したる結果なるが如し」とあったが、これを起草したのが武藤だった。「誤れる巷説とは何だ!」と、皇道派将校の怒りもかっていた。
「赤松、ちょっと席をはずしてくれ」
一時間、東條と武藤は話し合っていた。事件当日、軍事課にいて事件の一部始終を見ていた武藤は、その様相を詳しく東條に報告したのである。斬殺の様子、省部の将校の動向。相沢に包帯をして、暗に激励した局長がいたことを、武藤は伝えた。誰が敵で誰が味方なのかが、はっきりと東條の胸に焼きついた。そして、長年の友人である山下奉文が好意的に相沢の弁護をしたときくと、彼を侮蔑することばを吐いた。
――斬殺される前夜、永田は林宛ての上申書の下書きをつくっていた。そこには人事の不公正の例として「東條左遷」を挙げている。さらに「統制確立ノ方策」として、「正シク強キ意味ト過去ノ歪曲人事ヲ改ムル為、東ノ起用」とある。東とは東條のこと、永田は東條とのコンビを画策していたのである。しかもそれが結果的に永田の遺言となった。のちに東條が赤松に語ったところでは、武藤とともに永田の遺志を継いでいくのを誓ったという。そしてふたりは、つぎのような結論に達し、これを守りぬくことを確かめあった。
「たとえ気違いであろうとも、白昼、省部のなかで一中佐が軍務局長を殺害するというのは言語道断、建軍以来の軍紀が踏みにじられたも同じだ。徹底的に粛軍をやりぬかなければならない。それはわれわれの手で行なう以外にない」
それからしばらくの間、東條は、考えこむポーズを見せた。満州に向かう車中でもしきりに考えこんでいた。
すでに職に就いている長男、東京帝大に進んでいる次男、それに福岡中学在学中の三男をのぞいて、四人の娘を伴って東條が新京に着いたのは、昭和十年十月十日だった。
「十、十、十、ずいぶん覚えやすい日ですね」
とカツがいうと、
「そうか、今日は十月十日か」
所在なさそうに、東條はつぶやいた。
満州にはいってからずっと付き添ってきた関東軍の参謀が、車に荷物を積みながら駅前の建物のひとつずつを東條に説明した。田中隆吉と名のったその参謀は、親切ではあるけれど、軍人には珍しく多弁な男だった。田中の多弁にいささか辟易しているのを、東條は隠そうとはしなかった。
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逆風での闘い
東條を葬れ
東條の四十年近い軍人生活で、憲兵畑だけは無縁であった。彼は、赴任して三週間ほど、もっぱら憲兵隊の職務内容の把握につとめた。総務部長藤江恵輔から報告を聞き、それをメモにとり、頭にたたきこんだ。初めての仕事に取り組むとき、彼の対応はたいていそういう方法をとった。輪郭をつかんだとき、彼が最初に洩らしたのはつぎのことばだったという。
「陸軍省や参謀本部に集まってくる連中はやはり優秀なんだなあ。あまり知らない世界にはいってみて、それがよくわかった。憲兵ときたら、鈍重そのものだし、なんども同じことを指示しなければ理解しない。それに帝国軍人としての自覚にも欠ける。もういちど初めから鍛え直さなくちゃならん」
軍内での憲兵の地位は低く見られていた。〈憲兵は軍人ではない〉という声もあった。屈辱がさらに彼らの意欲を屈折させていた。むろん憲兵のなかにも、憲兵は鈍重でいいのであり、家の便器が茶の間や床の間にあっては困るのと同様に、陽の当たらぬ所にあるべきだという意見もあった。だが東條はそういう意見を無視した。帝国軍人の任務は、与えられた職務を全う することにあるというのだ。憲兵が職務に忠実であれば、どういう状況が生まれるか、それは東條には別の問題だった。
赴任してまもなくの昭和十年暮れ、東條は満州の憲兵隊員に向け「職務を全うせよ」の訓示を発したが、そのとき自らの顔写真を、訓示の刷り物に貼った。東條の顔写真は、全満州の憲兵分駐所の壁に貼られた。それは自らの意思徹底を顔写真を見せることで、いっそう現実味をもたせようとする彼なりの配慮であった。この訓示に度肝をぬかれた関東憲兵隊司令部の憲兵たちは、やがて東條が好んで訓示を行なうことに気づいた。訓示は、憲兵もまた帝国軍人である、矜持を持て、そして反日抗日運動の撲滅を……とつづいた。
精神面のテコ入れだけでなく、組織も一変させた。
当時、関東憲兵隊司令官は、関東局警務部長も兼任し、満州の全警察権を一手に握っていた。それに満州国民政部と鉄道警護隊を統制する権限も部分的にもっていた。東條の前任者たち、橋本虎之助(のち陸軍次官、近衛師団長)や田代皖一郎、岩佐禄郎らは、この組織図を曖昧なままにしておいた。あまり明確化すると、満州が日本の傀儡国家であることを告白することになるからだ。ところが東條は、これに我慢がならなかった。日本領事館警察、関東局警察の人事、予算すべてを関東憲兵隊の指揮下におかねばならぬと言った。
「抗日運動を押さえるには軍警一本化こそ望ましい」
東條の主張に、関東軍の参謀が唱和した。だが関東局も領事館も抵抗した。すると東條は抜け道を考えた。憲兵の本来の業務は、軍人直属の監督取り締まり、軍の安全を保持防衛する任務である。だがそれを広義に解釈すれば、その活動は民間人にも及ぶ。前任者たちは、それを知りつつ消極的だった。ところが東條は、
「憲兵隊は軍だけでなく、関東軍、満州国の治安を、前面に立って守らなくてはならぬ、あらゆる命令は関東憲兵隊司令官から発せられる」
と決め、一方的に民間行動の監視も行なうよう命じた。それまで錯綜していた機構も強引に一元化した。まもなく満州国内で、東條の名前が畏敬と恐怖をもって語られるようになった。満州国の日本人官吏、関東軍参謀からは頼もしい実行肌の司令官として畏敬の目。逆に満鉄や協和会、そして本土で社会主義運動に挫折して満州に新天地を求めた知識人からは、恐怖の代名詞。彼らは、東條を秩序に名を借りた強圧の張本人と怖れた。
中国人からはむろん憎まれた。
新京の関東軍司令部の隣りにある関東憲兵隊司令部、その敷地の一角にある司令官官舎の周囲は、抗日分子からのテロを警戒する防備が施された。日が経つにつれ、防備は厳重になった。東條の政策がさらに反中国になったからだ。娘たちの登校には秘かに護衛がついた。
「憲兵隊司令官といえば土匪には恨まれている。おまえたちが誘拐されても身代金は払わんぞ。いちど取引きに応じれば奴らはつけあがる。だから気をつけろ」
娘たちはそう聞かされていた。
〈匪賊討伐〉と称して、満州国の奥地にまで憲兵隊員を動員し、ときに自ら馬に乗り、匪賊を追い求めた。新京市内の壁には〈東條を葬れ〉と書かれた。それを見た東條は一笑に付し、さらに、闘争心を燃やして抗日中国人を摘発した。――昭和十七年に刊行された東條を語る伝記には、そうした東條の執務ぶりが皮肉にも輝ける経歴として、大仰に紹介されている。
熱心な匪賊狩りとともに、東條が力をいれたのは、関東軍に反感をもつ団体や民間人のリストアップである。憲兵隊員は、内地からの社会主義運動の要視察人や国家改造運動に熱心な者を調べるだけでなく、いささかでも皇道派に共鳴する傾向がある軍人、民間人をリストに加えた。当時、関東軍の青年将校には皇道派系の将校が多かった。十月事件のシンパは、東京から千数百キロ離れた地に勤務させるという内規のため、朝鮮、台湾、満州に数多く赴任してきていたのである。
昭和十一年一月には、リストアップされた軍人、民間人が四千名近くになった。関東軍第四課(情報・謀略担当)の参謀田中隆吉と、東條が呼び寄せた辻政信が、この作業に熱心に協力した。まもなくそれが役立つときがきた。
昭和十一年二月二十六日。関東軍司令部に軍中央から「軍隊の一部で暴動が起こった」という電報がはいった。断片的なニュースだったが、関東軍の首脳は反乱と見なし、満州国への波及を防ぐことを決めた。関東軍参謀長板垣征四郎は青年将校の動きに批判的だったし、関東軍司令官南次郎は、板垣に輪をかけて、彼らを冷たく見ていたからである。南は、田中隆吉に鎮圧命令を書くよう命じた。
田中は起案書に、事件の余波を防ぐために、〈満州国の一切の措置は関東憲兵隊司令官名で行なう〉との一項をさりげなく含ませた。意味するところは、満州国の不穏分子をこの際徹底的に追いだすということである。それを東條の責任において行なわせるというのである。かねてから東條のもとに出入りしていた田中が、一朝事があればと、東條に示唆されていたかもしれぬといわれるほど、巧みに盛りこまれた一項であった。この命令書に南司令官は署名した。
東京はこのときまだ混乱のなかにあった。表だった事件は午前七時にはじまった。陸相官邸では川島義之陸相にむかい、かつての東條の部下香田清貞が青年将校を代表して決起趣意書を読みあげた。「我カ神州タル所以ハ万世一神タル天皇陛下御統帥ノ下ニ挙国一体生成化育ヲ遂ケ遂ニ八紘一宇ヲ全フスルノ国体ニ存ス……」――。つづいて陸軍士官学校事件で免官になった村中孝次が、七項目の要望を読みあげた。
その一節には「南大将、宇垣朝鮮総督、小磯中将、建川中将ハ軍ノ統帥破壊ノ元兇ナルヲ以テ速ニ之ヲ逮捕スルコト」とあり、南の名前があがっているのは十月事件弾圧の張本人と目されていたからだった。宇垣、小磯、建川は、桜会を支えて三月事件を画策したその経緯が権力志向だというのである。「根本博大佐、武藤章中佐、片倉衷少佐ハ軍中央部ニ在リテ軍閥的行動ヲ為シ……」と、三人の将校を軍中央から除くようにも訴えていた。片倉は士官学校事件でっちあげの張本人、根本は十月事件の際に今村課長に密告以来、軍中央での裏切りが目立ち、武藤は永田の直系で皇道派追い落としの中心人物であるというのだ。
決起した将校の要望は私怨がらみのものだった。
川島と彼らの応酬がつづいている間、真崎が官邸にやって来た。胸に勲一等の副章をつけ、上奏にでものぞむかのような服装をしていた。なぜそのような特別の服装をしていたか。彼は青年将校の意を受けて真崎首班の実現を信じていたと、のちに推測された。「こうなったら仕方ないじゃないか」、真崎は川島に、彼らの要望を受け入れるよう促したのが、その証拠とされている。
事件が起こって以来、真崎は、彼につながる人脈と連絡をとり、青年将校ののぞむ軍部内閣を画策し、軍中央の要人を説得した。彼は決起者の側に賭けたのである。が、天皇は決起を耳にして以来、一貫して事件鎮圧を望んだ。「暴徒を鎮圧せよ」といい、「馬を用意せよ」と自ら鎮圧に出かける意思表示さえ示した。
天皇の意思が陸軍内部に伝わると、将校の間に動揺が起こった。逆に〈断固討伐〉を唱えていた参謀本部の石原莞爾、陸軍省の武藤章らは意を強くした。二十七日午前二時五十分には、戒厳司令部が設置され、軍中央は鎮圧の方向に進んだ。
この日、東條は軍警一体化視察のため、満州国北部にいた。東京での暴動発生が伝えられると、すぐに新京に戻った。彼の机には関東軍の命令が届いていた。それが、東條に全権を与えているのを知ると、中枢の将校に、
「統帥の下にある将兵と、不法にも横断的結成をして統帥の尊厳を崩そうとする不純分子をすべて逮捕せよ」
と命じた。最重要ランクの危険人物数百名の身柄を拘束するという荒っぽい措置に、板垣参謀長は躊躇を隠さなかった。しかも東條の届けた名簿には、板垣の息のかかった軍人がかなり含まれていたのである。
「統帥の尊厳を破壊しようとする分子は、たとえ閣下のお知りあいであろうと拘禁せねばなりません。拘禁したあとに調べ直して、東京と連携をとっている様子がなければ釈放すればよろしいのです」
板垣はしぶしぶ受け入れた。このときのことを、のちに東條は統制派将校池田純久に、「永田さんの仇うちのつもりだった。胸がすっとした」と告白している。
二月二十六日夕刻から二十七日の朝にかけて、東京との連絡を断つという理由で、皇道派将校は兵営に軟禁され、民間人は関東憲兵隊司令部地下の監房に拘束された。が、この措置は東條には危険な賭けでもあった。情報が錯綜して、反乱者が官軍になるかもしれないと躊躇した師団長や司令官が多いなかで、東條と仙台の第二師団長梅津美治郎だけは、手際よく弾圧の意思表示をした。それがのちに彼らの勲章になった。
しかし東條は、表向きの入電とは別に、秘かに省部の人脈をつかって電話や電報で自宅に連絡を入れさせていたのである。天皇が不快の念を示している、青年将校は荒木、真崎の意を受けている、そんな情報が武藤や赤松、佐藤賢了から仔細に届いていた。その情報をもとに、彼はこの反乱を大胆に鎮圧した。
二月二十九日、事件は一段落した。東條は武藤や佐藤の情報から真崎、荒木を元兇と判断した。かつての部下香田清貞、栗原安秀が連座したのも、真崎や荒木の甘言に踊ったからだときめつけた。「彼らを踊らせた責任の一切は、大権干犯の方向に導いた上司にある。私はそれを許さない」と東條は叫んだ。軍事調査部長山下奉文も青年将校を煽った一人と判断すると、彼にいっそう冷たい眼を向けた。そして人事権をもつようになってからも、彼を軍中央に近づけなかった。のちに、山下との感情的な対立を解こうと仲介に立とうとする者があると、「山下はお上に信がないはずだ」と断わり、「二・二六事件の責任はあいつにもある」と言った。
昭和十一年七月十二日の午前、叛乱軍将校が処刑される時間、東條は仏前で合掌した。香田や栗原、そして安藤輝三らの霊に、彼らを死に追いやった陸軍首脳を省部から追い払うことを誓っていたのであろう。
二・二六事件への対応
二・二六事件は、東條の人生を大きく変えた。軍人で終わるはずの彼の経歴は、この事件によって書き変えられたといっても過言ではない。
三月九日、外相の広田弘毅に組閣の大命が下る。陸相には、かつての長閥の領袖寺内正毅の長男寿一が就いた。大将であり無党派の軍人というのが買われたのである。就任の翌日、寺内は天皇に呼ばれ厳命された。
「近来陸軍ニ於テ屡々不祥ナル事件ヲ繰リ返シ遂ニ今回ノ如キ大事ヲ惹キ起スニ至リタルハ実ニ勅諭ニ違背シ我国ノ歴史ヲ汚スモノニシテ憂慮ニ堪ヘサル所テアル 就テハ深ク之カ原因ヲ探究シ此際部内ノ禍根ヲ一掃シ将士相一致シテ各々其本務ニ専心シ再ヒカカル失態ナキヲ期セヨ」
天皇の意を受けた寺内は、粛軍を声明し、軍内改革にのりだした。まず人事に手をつけた。不祥事件の責任という名目で、真崎甚三郎、南次郎、林銑十郎、本庄繁、荒木貞夫らを含む七人の大将を現役から退かせた。ついで三月事件、十月事件当時の関係者から皇道派将校に同情的な将校まで、総勢三千人に及ぶ粛軍人事を、三月と八月の人事異動で行なった。その結果、軍内に残ったのは、派閥闘争に関心を示さず、いかなる非合法活動にも加担も共鳴もしたことのない忠実な軍人だけとなった。人材の払底は歴然としてきた。そこで寺内と陸軍次官梅津美治郎は、いくつかの事実に目をつぶった。大権干犯の源である満州事変の関係者たち、板垣征四郎、石原莞爾らを予備役にしなかった。建国の既成事実に負けたのだ。
粛軍人事に手をつけたあと、寺内と梅津はもうひとつ巧妙な手を打った。事件の反省と称して、軍人の政治干与を戒めるため、陸軍大臣のみが政府に働きかけることにすると発表した。
「せっかく予備役にした軍人が、政党その他の政治勢力に推されて陸軍大臣に任命されたのでは、進行中の粛軍が意味をなさなくなる」と、寺内と梅津は言い、そのための歯止めとして、陸軍大臣は現役の大将、中将に限らず予備役でもかまわないという内規から、「予備役」をはずし「現役に限る」という方針に変え、それを勅令で公布した。
かつて原敬が内務大臣として「現役」を削るのに成功したが、それをさりげなく旧来の方法に戻したのである。この重要な事実は、議会でもあっさりと承認された。
陸軍大臣のみが政治的意思の窓口という考えは、軍内の機構改革を行なうことで補完された。軍務局に新たに軍務課が設けられ、政治的発言をする陸軍大臣の補佐機関として活動することになった。結局、この二つの改革こそ、陸軍を一層〈政治的集団〉へ転換させる鍵となった。青年将校のエネルギーは雲散霧消したが、その事実は巧みに政治的領域に組みこまれたのである。
昭和十二年一月、この改革は効果をあらわした。第七十議会で政友会浜田国松が、反軍的な質問をしたとして寺内と腹切り問答の応酬になったが、怒った寺内は解散を主張し、広田内閣を倒した。元老西園寺公望は次期首班に宇垣一成を擬したが、陸軍は陸相を推さなかった。そのため宇垣内閣は流産した。陸軍が陸相を推さなかったのは、大正末期の宇垣軍縮、二月事件の変心で宇垣株が下落して、結局宇垣は〈現役の大将、中将〉を陸相に据えることはできなかったからだ。
これ以後、この一項は軍部の拒否権として機能することになったのである。
二・二六事件後の一連の改革は、結果的に東條のような軍人を範とするものとなった。軍務に忠実、命令と服従をかたくなに守り正論を吐く軍人。妥協や調和を排し、直情さで事態に対する軍人。そういう軍人こそが生きのこれる偏狭な集団と化した。しかも東條には、もうひとつ僥倖があった。陸軍の序列でいえば、東條は数十番に位置していたのが、粛軍人事によって一気に十番台にくりあがってきたのである。
近い将来、東條が陸軍の有力な地位に就くのは、目ざとい将校には容易に想像できた。東條の周囲を関東軍参謀や関東憲兵隊幹部が徘徊しはじめ、「閣下は優秀ですから……」と追従で囲んだ。もっとも、その追従に東條は気色ばむのが常だった。「閣下は天才型でなく、努力型ですな」ということばだと表情を和ませ、ひとしきり努力型の弁をまくしたてた。そういう東條の性格を見ぬき、巧妙に動く者もあった。東條人脈にはそのタイプも多かったのである。
たとえば東條がこの期に着目したのは、関東憲兵隊にいた四方諒二少佐、奉天憲兵隊長加藤泊次郎中佐のふたりだが、彼らは東條の命令を忠実に、ときに期待以上に消化したという。もっとも、その仕事ぶりは東條の性格を見ぬいた面もあると、部内では噂された。
東條のもとには軍外の来訪者も多かった。協和会総務部長甘粕正彦は、しばしば彼を訪れ自らの人脈を東條に紹介した。そのいっぽうで東條も、甘粕を頼みにした。粛軍人事で予備役に追いこまれた軍人のなかにも、東條を頼って満州に職を求めて来る者があり、彼らを甘粕の縁で協和会に送りこまねばならなかったからだ。第二十四旅団長時代の副官佐々木清もそのひとりで、彼も、「困ったことがあったら何でも相談に来い。だがこんどはお国の方針に叛いてはならんぞ」といわれ、協和会の職員になって、東條人脈の一員に加わった。
昭和十一年の一年間で、関東憲兵隊の評価はかなり高まった。この年に関東軍は抗日中国人十三万人を三万人に減少させたと、新聞にも大きく報道され、それは憲兵隊の輝かしい戦果だと讃えられた。この実際の意味は、関東軍が十万人を殺害、捕虜、帰順させたということである。このことによって東條憲兵隊司令官の名前は、有能な司令官として一気に軍内に知れわたった。
昭和十一年十二月、東條は中将に進級した。五十二歳である。父英教がわずか一日しか受けなかった名誉を、彼は、陸軍の指導者への一里塚として自らのものとした。その充足感が、「中将になったのだからもう思いのこすことはない」という家族へのことばにもなった。
昭和十二年三月、陸軍は大幅な異動を行なった。この人事は陸相杉山元と陸軍次官梅津美治郎が中心になって行なったもので、東條は関東軍参謀長に任命された。杉山も梅津も、東條を評価していたし、いずれは軍中央に戻す伏線としての人事だった。
参謀長という職務は司令官を補佐するのが本来の任務だが、実際は関東軍の権限の一切に関りをもつ要職である。しかも司令官は植田謙吉、参謀副長今村均、ふたりとも温和な性格で、東條の直情的な性格とは対象的だ。
「こんどの参謀長はうるさいぞ。うかつな報告をするとどなりあげるし、おまけに気むずかし屋だ」
東條の赴任が決まると、関東軍内部にはいくぶん敬遠気味の噂が撒かれた。参謀長副官泉可畏翁は緊張気味に、うるさ型の参謀長就任を待ち受けた。彼は、この職にあって岡村寧次、板垣征四郎に仕え、こんどの東條で三代の参謀長に仕えることになる。――いま熊本市に住む泉はつぎのように証言する。
「関東軍の部下から見て怖い順序は東條、岡村、板垣で、カミソリ東條、俊敏岡村、大人板垣といわれた。逆に親しまれたのは、板垣、岡村、東條の順になるかと思います。東條さんは煙たがられました。また中国人から見て怖い順序といえば、板垣、東條、岡村の順になります。岡村さんは支那通のうえに知己も多く対話しやすい人ですが、板垣さんは中国側の情報を見ても、虎といわれて恐れられていました。東條さんはこの中間です」
東條が赴任してきて命じた最初の仕事は、参謀長室にメモ帖を入れるケースをつくることだった。このケースには日時別、テーマ別のメモ帖を入れておくというのである。泉は、噂どおりの上官だと緊張した。
だが一週間もたたぬうちに、泉は東條の性格と執務の癖を見ぬいた。この上官は何より決断を尊ぶのである。
「対策にはいくつかの方法があるかと存じますが、なかでも甲乙丙の三点が妥当かと思います。しかし甲は時期尚早、乙は欠点が多く、それゆえ丙を実行すべきと考えます」
こういう報告を、東條は受けつけなかった。
「なぜ丙がいいのか。丙しかないというおまえの決断を信念をもって報告しろ。あれはだめ、これはだめ、というのは軍人の社会じゃつうじないんだ」
顔面を紅潮させてどなった。そのたびに眉間の筋がぴくぴくと動いた。そして要領を得ない将校が帰ったあとは、泉に信念の一端を披瀝した。
「自分の決断に自信をもたぬ軍人は、戦場では何の役にもたたぬ。下僚は自分の決断を語るだけでいい。それを採用するか否かは上官の職務権限である」
さらに泉は、もう一面の性格に気づいた。それは甲論乙駁を好まないということである。会議では上官の下僚への伝達、下僚の上官への参考意見の許容範囲内での発言のみを許した。また泉には、東條は部下の全生活を掌握したいという大それた考えをもっていて、それではじめて自分への忠誠心を信じるような性格だと思えた。
出されなかった辞職願い
参謀長に就任してからの一カ月間、東條は満州国要人、日本人官吏を参謀長室に招き、建国五年目を迎えた満州の様子を熱心に学んだ。この時期、昭和十一年夏に立案された満州経済開発五カ年計画の円滑な実施が、満州国官吏の主要な職務になっていた。そのことは、建国当時の石原莞爾、板垣征四郎らが企画した独立国家の野望を捨て、この計画を実現して満州国を日本の植民地、後方基地に変質させるという国策を採用したことを意味した。
東條に課せられた職務のひとつに、重工業化促進のため、本土資本の導入があった。折りから鮎川義介の日産資本導入をめぐって論議がつづいていて、関東軍参謀は日産資本を導入し一気に後方基地化しようとしていた。東條は、この導入により満鉄資本が先細り、満州経済が混乱するのを恐れた。そこで松岡洋右総裁や満鉄社員の抵抗やサボタージュを防ぐために、満州国総務長官星野直樹と産業部次長岸信介を呼び、松岡を説得するよう頼んだ。その結果、満鉄は日産資本の導入を認めた。これにより五カ年計画が軌道にのった。
一般に喧伝されている〈二キ三スケ〉の時代は、このときからはじまった。
東條の熱心な実務掌握が深まるたびに、これまでの参謀長は、与えられている大きな権限を放置していたのではないかと忿懣をもつに至った。それは関東軍に与えられている「内面指導権」である。実は、東條以前の歴代の参謀長は、植民地統治の切り札といえるこの権限を、表向きにしたくなかったのである。そういう政治的配慮を、岡村寧次、板垣征四郎も心得ていた。が、東條にはそういう余裕はなかった。
彼はこの権限をフルにつかい、星野や岸に法案をつくらせ、それを布告して満州支配の鍵とした。〈満州は法律万能の時代になった〉と民間人からはささやかれた。満州を理想郷にと叫んでいた協和会員の間では、「東京からやってきた官吏どもがやたらに法律をつくって、満人を困らせている。日本の法律をそのまま直訳して、道徳が厳しい満人社会にあてはめている」と不満の声があがった。のちの東條と石原の対立は、「法匪が幅をきかすのは東條が内面指導権を乱用しているからだ」という石原の不満に端を発している。
東條が参謀長に就任したころ、すなわち昭和十二年二月、陸軍内部の満州派の将校が林銑十郎内閣を成立させていた。この中心は、参謀本部第一部長石原莞爾で、彼はかつての無産政党議員浅原健三を動かし、政界上層部に林内閣を打診し、それを最終的に元老西園寺公望に納得させた。が、林内閣は、成立からわずか四カ月で倒れた。陸軍が総力を挙げて支えなかったからである。
この政変は、満州国自立を希望する一派が、満州国を日本の後方基地にしようとはかる一派との権力闘争に敗北したことを意味していた。陸軍首脳は、石原の唱える〈帝国の対支強圧的態度を改める〉路線を捨てた。林に代わって登場したのは、近衛文麿である。西園寺公望が、四十八歳の若さと公卿出身という毛並みの良さ、それに中正な政治姿勢に賭けたのだ。近衛登場は世間にも好感をもたれたし、それは陸軍の将校をも喜ばせた。
陸相杉山元、陸軍次官には梅津美治郎が留任した。省部で「ボヤゲン」と仇名されていた杉山よりも、実際は、梅津陸相と噂された。梅津は、満州国を日本の後方基地化すると唱える一派の代表だった。東條は、梅津が要職に座った人事に満足感を味わい、この感情を文書にのこしている。近衛内閣誕生から五日後、東條は梅津宛てに極秘電報を打っているのだ。〈対ソ作戦準備の観点から、軍事力が許すのなら南京作戦で一撃を加え、日本の背後を脅かす中国の出足をくじいておこう〉という内容だった。むろん梅津は無視した。彼もそこまでの冒険主義者ではなかった。
この電報は、東條の職務権限を越える内容でもあった。参謀本部第一部(作戦)の幕僚への干渉だった。
六月十九日、カンチャーズ島沖でソ連軍と満州国軍の間に衝突が起こった。もともと国境は密林、山岳、河川で曖昧だったし、この曖昧さのなかにカンチャーズ島があった。この衝突を知ると、東條はすかさず軍中央に電報を打った。すると軍中央からは現状保持(不拡大)に努めよとの訓電がはいった。関東軍は一個師団を送った。軍中央は外務省や海軍と協議して、この地帯で軍事行動を起こす必要はないと、第二次訓電を打ってきた。石原が軍内に根回ししたのである。ところが現地軍はこの訓電を無視した。一方的に砲撃を浴びせソ連軍の砲艦を沈めた。だがモスクワでの外交交渉で、ソ連は撤退を約束し、関東軍が原駐地に戻り、事態は収まった。
だがこれは政治的には大きな意味があった。のちに参謀本部作戦部員西村敏雄が、この一カ月後の支那事変の伏線として、モスクワの腰の弱さを知ったことがあげられると告白している。〈ソ連は日本の対支攻勢に干渉するだけの力がない〉と日本陸軍は自己過信したのである。
ところで一連の事件は、東條を矛盾のなかに追いこんだ。参謀本部の中止命令があったにもかかわらず現地軍が発砲したのは、理由の如何を問わず統帥権干犯だからである。統帥を金科玉条とする東條にとって、こういう事態は、陸軍から身を退かなければならぬほど重要なことであった。でなければ、彼は、他人には大権干犯を責めるが、自らにはそういう責任感さえないことを証明することになる。七月にはいっての一日、東條は自宅に戻るなり、家族に、荷物をまとめて引越しの準備をしろと命じた。そしてカツを応接間に呼ぶと言った。
「考えてみれば、中将にもしてくれたし、この日まで陸軍は本当によく自分の面倒を見てくれた。思いのこすことはない。軍人は退きどきと死に際が大事だ。これは幼年学校以来、軍隊しか知らない俺の信念だ。しかも下剋上をやかましくいっている俺が大権干犯とあっては、しめしがつかない。正道に身を処して範を示したい」
この際、軍籍から離れるというのである。しかしこんどの事件で責任をとるといっても、植田関東軍司令官は受理する筈がない。なにか正当な理由がないか、と東條は首をひねり、軍医の判断できぬ病気を求めて医学書を開いた。「脳神経衰弱という病気はどうかな」、そういう診断書を軍医に書かせるといったが、「うちには嫁入り前の娘が四人もいるんです。結婚するときに差し支えるのではありませんか」とカツが反論すると、「そうか」とうなずき、また首をひねった。
ところがその三日後、蘆溝橋で日本軍と中国軍が衝突した。日中戦争の勃発である。
関東軍は忙しくなった。司令部から帰った東條は、喜色を浮かべてカツに言った。
「辞めるわけにはいかなくなった。これからはさらにお国に奉公するよ」
その夜、荷物は解かれた。
東條の辞職願いが、日中戦争でうやむやになったように、カンチャーズ島事件も日中戦争の陰で忘れられた。関東軍司令官、参謀長、参謀副長にいたるまで秘かに覚悟した責任問題は、それぞれの胸の中に痛みとしてのこったではあろうが、あっさりと混乱の中に埋没した。そのかわりに彼らは、この機とばかりに、この戦争に力をそそいだ。関東軍の強硬態度の背景には、こういう事情があったのだ。
蘆溝橋の衝突から十時間後、関東軍は「多大の関心と重大な決意を保持しつつ厳に本事件の成行を注視する」という声明を発表、呼応して東條の命を受けた関東軍参謀田中隆吉、辻政信が支那派遣軍に駈けつけ、「うしろには関東軍がついている」と戦線拡大を訴えた。さらに参謀副長今村均が東京に送られた。関東軍首脳の総意である「この際、一気に支那をたたけ」という強硬意見を軍中央に進言する使命が与えられていた。
東條兵団の裏側で……
蘆溝橋での日中衝突が、どちら側の一発で起こったかはさして問題ではない。衝突の起こりうる素地があったのだ。第一報が軍中央にはいったとき、その見解はふたつに分かれた。「厄介なことが起こった」というつぶやき。「愉快なことが起こった」という歓声。前者は陸軍省軍務課長柴山兼四郎に代表され、後者は参謀本部作戦課長武藤章に象徴された。が、相反するふたつの見解に共通しているのは、これは予想外の衝突ではないということだった。
「いま日支が闘っては、満州国の育成、日支の経済提携、軍備の充実、生産拡充などいっさいの国防政策も国内革新も崩れる。ボヤで消さなければならぬ」
これが自重論の見解。中国との戦争は泥沼化が必定であり、対ソ戦作戦準備にも遅れをとるというのである。
「国民党と共産党は合作して抗日戦線の統一をはかっている。徹底抗戦を叫んでいるのでボヤでは消せない。抗日は侮日となり、北支から日本軍を追いだし満州国を放棄させようとしてくるにちがいない」
強行論の共通の意見である。支那などとるに足らぬ、日本軍がその気になれば容易に制圧できる、いまがその機会だ、そのあとで対ソ戦準備を完整すればいい、と彼らは考えたのである。
蘆溝橋での衝突からしばらくの間は、自重論が主流を占め、現地でも停戦協定が成立した。だが近衛内閣の方針は揺れ、陸軍内部の強行論をいれ北支事変と称し増派を決めるかと思えば、不拡大のための平和交渉も行なうというはっきりしない態度をとった。その本心は、この際中国をたたいておこう、しかしあまり拡大するのはやめておこうという点にあった。近衛に圧力をかけたのは、武藤や陸軍省軍事課長田中新一らの中堅将校で、彼らは自重論の参謀本部作戦部長石原莞爾の下で公然とサボタージュに出て、石原の統率力を疑わせるような行動をとった。そして省部の会議で強硬論を撒きちらした。
強硬論者を喜ばせたのは、関東軍の態度だった。関東軍は中国内部への軍隊派遣を要請してきたし、|察哈爾《チヤハル》に中国軍が入ってくるのは満州国の脅威だとして、軍中央の許可もなく一支隊を送りこみ、虚構の上積みをつづけていた。中国では蒋介石と毛沢東との間で国共合作がなり、満州国でも抗日中国人の抵抗がはじまり、八月中旬になると中ソ不可侵条約が結ばれ、関東軍はさらに強硬論の根拠を見出した。連日開かれる会議で、東條は檄を飛ばした。
「この事変の主要目的は三点に集約できる。第一が排日政策の刷新、第二は共産勢力にたいする防備、第三は北支の経済開発である。この三点の完遂なくして帝国の安全はない」
目標決定後は実行あるのみとばかりに関東軍独自に「対時局処理要綱」をまとめた。武力発動の徹底化で南京政府の膺懲、北上中央軍の撃滅など五つの方針を掲げ、いずれは「地方政権を樹立し接満地域の明朗化を図り対蘇作戦準備の為に一正面の安全を確保するを以て第一義」と明記し、そのために「尠くも察哈爾、河北、山東各省の地域を粛正自立せしむ」というのであった。対ソ戦準備のために、この支那事変を利用して、北支地域に傀儡政権樹立を想定していた。前年暮れに内蒙に傀儡政権をつくろうとして失敗した綏遠事変から、いささかの教訓も学んでいなかったのである。
関東軍の察哈爾作戦申し入れを、参謀本部は諒解した。事態の進展につれ、閣議では広田外相が不拡大を、賀屋蔵相が財政面からの事変拡大困難を訴えるようになったが、いまや関東軍を押さえるのはむずかしく、強行論に与する以外にはなくなっていた。
察哈爾作戦は、昭和十二年八月からはじまった。作戦開始のまえ、東條は星野をたずね、「われわれは軍人だから武力制圧はできる。だがそれ以後は判らん。教えていただきたい」と申し出て、占領地の財政経済政策の心がまえを学んだ。のちに首相になってから、東條は周囲の者に述懐している。「軍人というのはまったく財政など知らんものだと思った。星野の話を聞いて、銀行を押さえるというのも兵隊が占領するだけではだめで、帳簿を押さえ、金の流れを止める。それが本当の占領ということだとはじめて判った」。
察哈爾作戦は、東條には初めての実戦指揮だった。十三歳から五十四歳のこのときまで、彼は実戦をいちども経験していなかったのである。この作戦の計画は、関東軍作戦参謀綾部橘樹が作成したが、東條は自ら東條兵団を編制して指揮にあたった。
本多旅団(一個師団)、篠原旅団(二個師団)、酒井旅団(機械化旅団)、堤支隊(独立守備隊)を集めての混成部隊が東條兵団だった。八月十九日、東條は先頭に立って、満州から中国領土に入り、張北から張家口に進んだ。ここには三万五千人の中国守備隊がいて、東條兵団数千人と対峙した。中国守備隊の一中隊を堤支隊が包囲し、それを中国軍が再包囲した。再包囲の網を、張北方面から東條が陣頭指揮する本多、篠原、酒井の三旅団で逆包囲するというのが、作戦の骨子だった。三万五千人を数千人では包囲できないから、堤支隊の玉砕を覚悟した作戦だった。しかし機械化旅団の激しい攻勢で中国兵は士気を失ない退却し、八月下旬、東條兵団は張家口を占領した。
このあと満州国境沿いに平寧線を西に進み、九月十三日には大同、二十四日には集寧、十月十四日には綏遠、十七日には包頭まで進んだ。一連の作戦は「関東軍の稲妻作戦」として、軍中央からも評価を受けた。東條兵団の占領地域には、すぐに特務機関がはいった。政治工作を進め、傀儡政権を成立させ既成事実で軍中央に認知を迫るというその計画は、参謀本部の意を得たものではなかったが、やはり最終的には軍中央の意向と合致することを、東條は知っていた。
「現地人の統制監視をせよ。経済的基盤は敵方に与えるな」
相次ぐ命令を占領地の特務機関に送るいっぽうで、占領地の資源を早急に企業化するよう、梅津次官宛てに執拗に電報を打った。当初参謀本部は、関東軍は対ソ戦に備えるためのものとし、中国内部にはいることを、いくぶん警戒の目で見ていた。しかしソ連が牽制の動きもせず、東條の果敢な行動で北支の治安が守られていくにつれ、しだいにその働きを称讃するようになった。陸軍次官梅津は、ささいなことでも軍中央の指示を仰ぎ、それが認められると、たちまちのうちに実行してしまう東條の手腕を高く評価した。
「関東軍の武勲は東條参謀長の力だ」
そういう声が軍内に満ちていくと、東條は自らの作戦を自慢気に解説した。
「とにかく恐れずに突撃していくこと、そうすれば敵も気迫にのまれる。こちらが四分六分で不利だと思ったときは五分五分で、五分五分と思ったときは、六分四分でこちらに分がある。戦争というのはそういうものだ」
だが東條の指揮に危惧をもった関東軍参謀もいた。古い突撃型の戦闘観念をもち、張家口の戦闘でも、中国兵が一歩後退し態勢を整える戦略をとっただけなのに、それを退却としか捉えられぬ狭量さが、東條参謀長にはあるというのだった。
副官の泉にむかって、そういう注意をこっそりと伝えた参謀もいたのである。
そして東條の軍中央での評価をあげた察哈爾作戦には、実は、隠された部分があった。それを東條は知っていた。が、それを公言しなかったし、その事実を知っている関東軍参謀のいくにんかも、そのことを決して洩らさなかった。それは東條の指揮能力にかかわることだったからである。だからそれは、いまに至るも明らかにされていない。華々しい作戦として、東條兵団の戦闘力が称讃された裏に、人間的ドラマがあったのだ。
張家口での戦闘で、中国兵を包囲する東條兵団数千人は無勢だった。ふつうの指揮官ならもうすこし旅団数を増やすか、あるいは傷のつかぬ方法で収拾を講じるはずだった。東條もむろんそれを考えた。そこでこの一帯の守備にあたっている支隊に出撃の命令を下した。だがその支隊は動かなかった。支隊を指揮する将校は、かつて尉官時代に東條とともに働いたことがある。彼にとって、東條は虫の好かぬタイプであり、この作戦にも東條自身の功名心のために兵隊を犠牲にする危険性があると考えた。攻撃に加わるだけの戦備が整っていない、援軍に行く途中に中国兵の強力な部隊がある、それを表向きの理由として、その将校は東條の命令を拒否した。
作戦行動が終わったあと、この将校を難詰した東條は、その理由をもちだされると、それ以上は追及できなかった。しかし彼の怒りは止まず、その将校を見せしめと称してさらに前線に追いやった。そういう非情さが、東條の性格の一部であるのを知って、改めて彼を恐れる空気が、わずかずつだが醸成された。
東條が、一部の将校にしか人望がなく、多くの将校はつかず離れずの態度をとった裏に、報復にも似た人事を行なうことがあった。彼は自らの意に叛いた者には、上官の権限を利用してこたえた。もっとも東條を慕った将校にいわせれば、その事実を、「東條さんは信賞必罰に徹する人だった」という言い方をするのではあるが……。
支隊を指揮していた将校を前線に追いやったときに、東條は、父英教を思いだしたのではなかろうか。英教もこの将校のように抗弁したではないか。皮肉なことに、東條は、父親が行なった構図が、そのままのかたちではねかえってきたのを自覚しなければならなかったのだ。
半面、兵隊に接するときの東條は、慈愛に満ちた上官として慕われた。それは利害関係のからまぬ関係だからともいえた。戦場の強姦、略奪は、当の兵隊と上官が罰せられた。置時計一個を盗んだ兵隊が「皇軍の名誉を傷つけた」として軍法会議にかけられた。非戦闘員への悪質な暴行を憎むよりも、皇軍の名誉が基軸になった。
東條兵団の進撃が電撃的であったために、後方の補給がついていけず、粟飯ばかりがつづいた。しかし東條もまた兵隊とともに、そういう食事をつづけた。本来当たりまえのことなのに、日本陸軍では部下思いの参謀長として語られた。もし東條が師団長か参謀長で軍籍を離れたならば、これらはすべて彼の人間性を語り継ぐ挿話としてのこり、「部下思いの将官」の根拠たりうる事実になるはずだった。
果断な関東軍参謀長
参謀本部第一部長石原莞爾が、関東軍参謀副長として赴任してきたのは、昭和十二年九月のことだった。東條が張家口を攻略し、平寧線沿いに進撃をつづけていたときである。石原が軍中央を離れたのは、対支自重論の敗北を意味していた。強行論が挨拶がわりの軍内で、参謀次長多田駿とともに、
「日本は支那と戦争する気がないことを明らかにし、華北の治安維持のために敵を掃討したにすぎない旨を世界に公表して兵を退いてしまおう」
と主張したが、強行論の側には、暴論としかうつらなかった。
その石原が東條の部下に――誰もが厭がらせ人事と考えた。〈東條に石原を監視させよう〉、杉山や梅津の考えが露骨にみえたからだ。「私は陛下の軍人である。いずれの任に赴くとも絶対に左遷ではない」、いきりたつ石原系の将校にそう言い、満州国生みの親を自認しつつ、「二度と中央に復帰せず、支那事変に反対」を誓って東條のまえに出て行くと公言した。
石原をむかえての、初の関東軍部課長会議で、東條は言った。
「この際参謀長と参謀副長との職務権限を明確にしておくが、石原参謀副長には作戦、兵站関係業務の参謀長の補佐役に専念してもらう。満州国関係の業務は参謀長の専管事項として、私が自ら処理することにしたい」
このことばの意味を、参謀たちは容易に理解した。満州国内部への干渉を許さない、内面指導権は参謀長のものだと宣言しておき、石原の動きを封じようというのである。このことばを、石原は平然と聞き流した。
石原が戻ってきた――。参謀副長室には連日、協和会系の民間人や将校が訪れた。「満州国は建国時の清新さを失ない日本の植民地になってしまった、それは法匪どもの仕業ですよ、何でも禁止にして満州を日本の属国にしてしまおうというつもりらしい」。そんな話が、石原の耳にはいった。〈東條という男はどうにもならん〉と石原が考えても、不思議ではなかった。
参謀副長室に出入りする民間人を見て、東條は眉をしかめた。地方人が雑音をいれては軍紀は弛緩する――。が、それを直接石原には言わなかった。いや言えなかった。満州国で石原のもっている力は、東條を及び腰にするのに充分だった。逆に、石原は東條のもとに顔をだして、諫める口調で言い放った。
「世に先んじて兵を起こした関東軍は、世に先んじて矛をおさめるべきだ。いまの満州国には関東軍横暴の声がみなぎっているではないか。それに満州国を本来の建国精神に戻すために内面指導権は協和会に戻したほうがいい」
「そういう意見は一応聞いておくが、満州国の指導は私の権限である。これに口をはさんでもらいたくない」
感情的に応酬するのが東條の常だった。ふたりの関係はしだいに一触即発の空気になっていった。
東條は、石原の視線を外すようになった。石原も東條を冷笑した。ふたりは口をきかなくなった。子供じみたこの対立は、関東軍だけではなく軍中央にも知れ渡った。困ったのは部下である。書類の決裁を求めるのに頭を痛めた。書類は順序として副長の石原に回る。そのとき石原は書類に手をいれ、細かい指示をすることがあった。こんどは部下が、それを東條のもとにもっていくのだが、すると東條は、石原の直した部分を消しゴムで丁寧に消して、原案どおりに戻す。
「参謀長と参謀副長の命令のどちらが大事だと思っているのか」
石原の指示は、必ず撤回された。東條の副官泉可畏翁は、ふたりの上司の間で困惑を味わいつづけた。書類をもった部下が、泉のところに来て、「聞きしにまさる有様だね」と、つぶやいて帰っていくのも再々だった。
石原の東條批判は、内面指導権を己れの特権として、満州国の些事に口をはさみすぎるという根源的なところに落ち着いた。
「内面指導権乱用は軍人が政治に干与することである。これでは外からは軍人の信義を疑われ、内部では軍の不統一をきたす恐れがある。だからこそ軍人勅諭は、軍人の政治干与を禁止しているのだ。それに軍人には辞表を出す自由がない。軍人は政治家のように、失敗すればその責任をとって辞表をだして勝手にやめることができない。だから慎重でなければいかん」
石原の批判に怒った東條は、部課長会議を招集して、石原の言に反論した。石原はその間、そっぽを向いて顔をしかめていた。
「関東軍の諸部隊は絶対に関東軍司令官の命令に従う。一毫といえどもこれに反するのは許さない。関東軍の参謀は、参謀長の指揮命令に従う。いささかもこれに背反するのは許さない」
石原は、関東軍司令官植田謙吉に協和会を中心に満州国の建国精神に戻れという意見書を提出した。そして植田につめよった。
「軍人が政治をやるなら軍職をやめて丸腰になってやれというのです。いまの日本の政治を動揺せしめ、成長してきた満州の発展を阻害し混乱せしめているのは、軍人の政治干与にこそあるのではないですか」
植田は東條に加担し、内面指導権を放棄するわけにはいかぬと、意見書を黙殺した。それが石原をいっそう不満にさせた。ふたりの対立はしだいにその周囲に広がった。協和会系の民間人は東條を罵倒し、その個人生活をとりあげて嘲笑した。東條の妻はでしゃばりで亭主をふりまわしている、あれは東美齢だと噂した。逆に東條のもとには憲兵が出入りして、「閣下、石原副長周辺の人物は気をつけたほうがよいと存じます」と対立をあおった。
対立が深まるにつれ、東條は石原の実力を恐れた。四期先輩といっても、理論家として、戦術家としての能力は石原のほうが上だというのが、衆目のみるところだったからである。東條に優位な点があるとするなら、直接の上司であるということしかない。東條は憲兵情報を集めて、石原追い落としの機を狙いはじめた。
このころ関東軍の視察にやってきた参謀本部の将校遠藤三郎は、秘かにふたりの対立の実態を見てくるよう命令されていた。遠藤は、二人の関係がぬきさしならぬところまで進んでいるのを見ぬき、東京に戻ると、ふたりを早急に離さなければ軍務が停滞すると、参謀次長の多田駿に報告した。
石原との抗争の一面で、東條は依然として軍中央に電報を打ちつづけた。関東軍の方針を具申するだけでなく、陸軍の方針にまで広がる内容だった。それらの方針は、すべて東條独自の案だった。もし石原がその電報を読んだら、激怒するにちがいない内容ばかりだった。
東條の具申は、軍中央が日中戦争の武力制圧を確信していき、それに基づいた政策を決定していく先駆的役割を果たした。昭和十二年十一月の「時局処理ニ関スル関東軍参謀長上申」はその典型だった。この上申では四点を要望していたが、そのなかには「長期抵抗ニ陥ルコトヲ顧慮スルモ容共、抗日、排満ヲ国是方策トセル蒋政権其他之ニ類似ノ軍閥政権者トハ絶対ニ提携セサルコト」といって、「新中央政権ノ成立ノ機転ヲ促進シ其成熟スルヤ機ヲ見テ日、満ヲ以テ先ツ之ヲ承認シ独伊等ヲ誘導シ承認セシム」と訴えていた。蒋介石と絶縁し傀儡政権を樹立せしめよというのだった。軍中央が意思決定する一カ月まえに、ここまでの意見を具申していたのである。この電報は梅津を喜ばせ、多田の眉をひそめさせた。
察哈爾作戦の成功、蒙古に三つの自治政府を成立させたという自負、自らの経験を日本の政策全般にまで普遍させてしまうという錯誤のなかに、カンチャーズ島事件からはじまる彼の焦慮があった。
十二月に入って、東條のもとに中国側の無線傍受を担当している無線班から、「日本政府が蒋介石政府との間で和平を検討しているようです」という連絡がはいった。東條は怒り、すぐに蒋介石排斥の強い電報を軍中央に打った。
たしかに日本政府は和平工作を進めていた。十六個師団、八十万近い日本軍が中国の主要都市を占領している。国内態勢も企画院が新設されたし、十一月下旬の大本営令改正により、宮中に大本営も設置された。軍事的には日本は有利にあるという背景のもとに、ドイツ駐日大使ディルクセンから広田外相に和平の打診があった。ドイツとしては、蒋介石政府に軍事顧問を送る一方で、日本とは防共協定を結んでいるため、日中和解こそ望ましいという事情があったのである。日本への打診とともに、中国側には駐支大使トラウトマンが働きかけ、和平工作応諾の諒解をとっていた。
ところが日本では、政府と軍部の一部にしか知られていなかった和平工作が、省部の将校に洩れてしまった。なぜ洩れたかは明らかでないが、関東軍から洩れたとする説が強い。すると省部の中堅将校は、「首都南京を失なった国民政府はいまや地方軍閥にすぎぬ」と怒り、日本側の和平条件を敗戦講和の条件に変えてしまった。
十二月二十六日に、ドイツ大使をつうじて国民政府に伝えた四条件は(一)満州国の承認、(二)容共抗日満政策の放棄、日満両国の防共政策に協力、(三)内蒙に防共自治政府を樹立、(四)内蒙、華北、華中の一定地域を日本軍が必要期間確保する――という、まことに得手勝手な条件だった。しかも四条件受諾なら和平交渉は続行、拒否なら新政府を樹立し、その政府と国交調整すると伝えた。
ここまでいわれたら、蒋介石も戦う以外に方法がない。
蒋介石に四条件を伝達しつつも、陸軍は武力での結着を欲していた。昭和十三年一月十五日の大本営政府連絡会議では、事変不拡大派の多田参謀次長が「事態収拾のため交渉続行」を唱えたが、杉山陸相、広田外相が陸軍の意を受け交渉打ち切りを言い、近衛も結局それに同調した。そして翌十六日、日本政府は一方的に「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立、発展を期待し、是と両国国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす」という声明を発表した。のちに近衛自身、この声明はまったく誤りだったと認めるが、このときは「対手にせず」というのは「否認」よりも強い意味をもつ、断固たる意思のあらわれであると言い切った。
トラウトマン工作中止は、関東軍の参謀を喜ばせた。東條はいっそう占領地視察に力をいれた。自らつくった庭園が、きれいに手入れしてあるか否かを確かめるような、細かい視察だった。
東條の考課が高い部隊は、細部に配慮がいき届いているのが条件だった。ソ満国境の無線傍受部隊を視察したとき、機密書類が手際よく整理されているのに感心し、さらに施設の傍に防火用水が置かれているのを見て、東條は上機嫌になったものだ。実際、防火用水があったとしても、どのていど役立つかは疑問だったが、「そういう細かい心がけがいい」と讃め、副官に「この部隊長の実家へ参謀長名で激励の手紙をだすように……」と命じた。〈あなたの家庭の協力が模範的な皇軍兵士を生んでいる〉という参謀長直々の署名のある手紙に、家族は喜ばぬ筈はないというのが、東條の自信だった。
中国との戦争に、長期的にはどのような結着をつけるか、このころ陸軍省と参謀本部は論議を重ねていた。陸軍省の積極策に抗して、参謀本部の多田参謀次長、作戦課長河辺虎四郎、戦争指導班堀場一雄は消極策を訴え、堀場の提案した「日中戦争三段階論」――第一期作戦休止、第二期大軍事作戦展開、第三期対ソ対支戦争に備える軍事力増強――を根拠に論陣を張った。だが結局、ソ連を気にするあまり、支那に消極的なのは戦力を重点に指向すべき原則に反するという積極策がとおり、陸軍省軍務局軍事課高級課員稲田正純が参謀本部作戦課長に転じて早期作戦計画を起案し、この案に基づいて対中国作戦を展開することになった。
昭和十三年三月、徐州、漢口、広東と作戦行動は一段と中国の奥深くはいった。しかし、この作戦を支える〈消極的な対応では結着がつかない。兵員も戦備も消耗するだけだ。シベリア出兵の二の舞はたまらぬ〉という考えは、毛沢東に指揮された中国共産党の戦略を裏づける反面教師となった。
このころ毛沢東は、つぎのように言っていたのだ。「中国の国土は膨大である。たとえ日本が中国の人口一億ないし二億を占める地域を占領しても、われわれはまだ戦争に破れたとはいえない。われわれはまだ日本と戦争するだけの非常に大きな力をのこしており、日本は全戦争期間をつうじて、つねに、その背後で防禦戦をおこなわなければならない。中国経済の不統一、不均等は、抗日戦争にとってはかえって有利である」。結果はまさにそのとおりになった。
関東軍参謀長室の壁には中国地図が掲げてあった。ここに日本軍の進出を示す日章旗が乱舞した。三月下旬、漢口陥落、南京には中華民国維新政府樹立、日章旗は一段と地図上に輝いた。この参謀長室に、週一回、満州国総務庁長官星野直樹や関東局、大使館、満鉄などの幹部が集まり、東條の戦況報告を聞いた。「わが皇軍は目下破竹の進撃をつづけ、こうしてお話している間にもわが皇軍兵士は前線で闘っているのであります」――東條はそのことばが気に入ってしばしばくり返した。
満州国を牛耳っている日本人官僚は、星野直樹を筆頭に関東軍と二人三脚を組んでいた。知と武を組み合わせての巧妙な植民地支配だった。
二月には満州国議会で国家総動員法を制定した。経済、産業、教育は戦時体制に再編成するというこの法案は、満州開発五カ年計画も手直しして、日本の戦時体制への資源供給を眼目とすると謳い、鉄、石炭などの迅速な生産拡大を狙っていた。そのための満州国重工業開発会社が設立された。官僚たちの思うがままの満州であった。
彼ら官僚と東條の目には、満州が順調に戦時体制に移行しているのに、東京では国家総動員法ひとつ議会でとおすことができないでいるのは、陸軍指導者の怠慢とさえ映った。だから東京に出張する参謀には、省部を激励してくるよう命じられた。
国家総動員法は議会で総反撃を受け、「これほどの権限が政府の命令で行なえるというのは憲法違反ではないか」と、政友会も民政党も反対していた。国防目的を達成するために、国内の人的物的資源を統制するとして、被服、食料、医療品から航空機、車輛、そして燃料、さらに通信、教育、情報、国民徴用、経営、新聞から労働条件にまで統制が及ぶと謳い、違反すれば重罰を加えるというのでは、議会人は容易に認めることができなかった。法案の運用によっては、実質的に戒厳令にもなると批判した。戦争を国是とし、軍人を選民とする乱暴な法案だった。
大正時代、永田、岡村、小畑、それに東條を加えての「バーデンバーデンの密約」にあったように、国家総動員は近代戦争の不可決な要因と考える世代の将校が、まちがいなく陸軍中央の指導者に列する時代になっていたのである。
陸軍は強力にこの成立に動き、議会で法案説明にあたった軍務局国内班長佐藤賢了は、議員にむかって「黙れ!」とどなったが、それも軍内の焦慮をあらわすことばと受けとめられた。結局、法律の運用を憲法の範囲内で……と近衛首相は約束して、やっと議会を通過し、四月一日から公布された。
「これで日満一体の態勢ができた」
法案成立を知った東條は、心を許した参謀たち、田中隆吉、辻政信、服部卓四郎、富永恭次を食卓に呼び、日満共同防衛の徹底充実で時局の要請にこたえなければならぬと言い、「速やかな支那殲滅」を訴えた。
屈辱からの脱出
早期殲滅作戦を唱う軍中央は、北支那方面軍(寺内寿一司令官)、中支那方面軍(松井石根司令官)に新たな行動を命じた。日本軍は中国軍を求めて奥地にはいった。しかし総退却作戦の中国軍を殲滅することはできなかった。五月十九日、徐州全域を占領。だがそれは戦闘に勝って戦争に負ける一里塚でしかなかった。
外に日中戦争、内に国家総動員法、新党運動。近衛首相は健康がすぐれぬこともあって、辞意を洩らすようになった。そこには彼の性格の弱さもあった。日本軍が中国の奥深く入るにつれ、それを国政の責任者として制禦できぬ焦だちもあって、辞意はしだいに固くなった。が、そのたびに元老西園寺公望に慰められ、なんとか態勢を整え首相官邸にはいった。そして辞意を翻すかわりに内閣改造を考え、強硬論を吐く杉山元と広田弘毅の更迭を決意した。近衛の不満は、とくに杉山に向かい、軍内の強硬派を代弁するだけで定見がないことに憤りを感じ、この杉山を動かしている陸軍次官梅津をも替えて、陸軍省のゴリ押しに歯止めをかけたいと考えた。
近衛が想定した次期陸相は、第五師団長として徐州で指揮をとっている板垣征四郎だった。天皇が皇道派系の人物を避けるよう望んでいたことと、日中戦争早期解決論者であることが、近衛の期待に合致した。
近衛は杉山に辞意を働きかけた。しかし杉山は辞めるとはいわない。そこで近衛は天皇に自らの意を伝えた。板垣で日中戦争を処理したい……。天皇はそれを参謀総長閑院宮に伝えた。天皇は陸軍と杉山陸相に、不信の気持を強くもっていた。満州事変以来の相次ぐ大権干犯という陸軍の体質を信用しなかったのと、上奏内容の不備を質されると口ごもり、しかも日中戦争は二、三カ月で片づけるといいながら、一向に解決の方向を上奏してこない杉山の態度に不満だったのだ。
天皇と近衛の意思を知った杉山と梅津は、板垣陸相では対支作戦は中止になるかもしれぬ――と恐れた。しかも陸軍は新たに漢口、広東作戦を検討している。これらの作戦は、陸軍省が消極的な参謀本部の腰をたたいて進めているのだ。ふたりの結論は躊躇なく、「陸軍省の方針を忠実に守りぬく人物を次官に据えて板垣を牽制しなければならぬ」という点に落ち着いた。それには誰がふさわしいか。梅津の答は明らかだった。梅津の挙げた名前に、杉山も異論はなかった。こうして東條英機が陸軍次官に予定された。杉山は、近衛が次期陸相を天皇に上奏するよりも先に、次官には関東軍参謀長東條英機中将を据えたいと、上奏した。こういう例は憲政史上はじめてのことであった。天皇はとまどい、西園寺公望もあきれた。それほど杉山と梅津は焦慮していたのである。
「東條というのはどういう軍人か」
東條を知らなかった近衛は、さまざまなルートで人物像をさぐった。「真面目で実直な男だ。軍紀を尊ぶ平凡な軍人。板垣のようなヌーボーとした男には、緻密で事務処理に長けているああいう男がいいだろう」、そういう評判だけが届いた。近衛も制しやすそうにみえるこの軍人に、異存はなかった。むろん東條が、梅津や多田宛てに打っている極秘電報の内容を知る由もない。東條に固執する梅津の真意が、軍内強硬派、日中戦争早期殲滅派の総意を代弁する人物として推してきた背景を見ぬく眼は、彼にはなかった。こうして近衛と東條――ふたりの男の出会いは、錯誤からはじまったのである。
そして不幸なことに、この錯誤は、近衛と東條の人間的なものだけでなく、日本の〈政治〉と〈軍事〉のさらに大きな亀裂のきっかけになったのである。
足繁くソ連の国境視察にでかけている東條に、陸軍次官就任が伝えられたとき、彼の表情は一瞬曇った。泉にはそれが不思議に思えた。
「俺たちは水商売の教育は受けていない。陸軍士官学校以来、戦争以外は教わっていない」
水商売≠ニいうのは、政治家の世界をさすことばだった。軍人は決断を尊び、あとは猛進し、それを達成するだけだ。ところが政治の世界はどうか。人気とり、迎合、妥協。そんなふやけた世界は男の生きる世界か。それは水商売ではないか。
「だが命令とあれば仕方がないな」
東條は溜息をついた。実際、このころ東條は、師団長どまりで予備役になるだろうと、周囲に洩らしていたのである。
新京に戻った東條は、関東軍の将校や満州国の日本人官吏から祝福を受けたが、その期待がどのようなものかは、充分に知っていた。
いま東條転出の記念撮影の写真を見ると、五十人近い将校が彼を中心に威儀を正して座っている。送別にこれほどの将校が並んだ写真はない。彼らの期待が、板垣よりも東條の側にあったことを充分に物語る光景である。さらに仔細に見ると、全員が正面を向いているのに、東條はわずかだが右を向いて座っている。東條の左隣り、植田司令官の隣りには参謀副長石原莞爾がいる。そのためであろうか。
赴任の日が近づくと、東條はなにやら必死に計算をはじめ、それを書き終えると副官にわたした。機密費の精算書だった。機密費の使途は明らかにする慣例はないのに、克明に使途が書いてあった。残金が添えられ、一円という端数まで返還されたが、この事実は、しばらくは関東軍の中でも、さまざまなニュアンスをこめて語り継がれた。
東條のためにひと言弁護しておけば、彼は金銭には淡白だった。石原系の軍人や協和会会員の、「東條は機密費をばらまいて、御用ジャーナリストを育て手柄話を書かせた」という批判は、必ずしも当たっていない。
参謀長のなかには、御用ジャーナリストや浪人に機密費をばらまいて、私兵化≠オ、裏側にも権力構造をつくった者もいるが、東條は、そういう方面にはあまり流用しなかったという。
この期、東條には関東軍から六千万円の機密費がでていたし、陸軍省からも年間二千万円が届いていた。八千万円という莫大な機密費のほとんどは手つかずだった。甘粕をつうじて、協和会のなかに親関東軍の人脈をつくるため機密費が流れたのと、中国人の情報屋に定期的にわたされただけだという。
新京にある日本人経営者(出版業)にも機密費はわたったようだが、それはジャーナリストを懐柔するほどの額ではなかったともいわれている。
東條の参謀長時代、浪人の間で東條の評判が悪かったのもこのためである、と説明する関東軍将校もいる。東條の皇軍意識から見れば、浪人などは砂糖にむらがる蟻≠フように見えたというのである。
昭和十三年五月下旬、東條は家族をつれて新京駅から満鉄の特急「あじあ号」にのりこんだ。三年まえの十月十日、一人の参謀の出迎えを受けて降りたった駅。いまそこには、ホームにまで溢れる人波があった。関東軍将校、兵隊、憲兵、満州国官吏、協和会役員、会員、国防婦人会会員……。
これは、軍中央から追われ、久留米に、そして予備役編人もまぢかといわれながら関東憲兵隊司令官、参謀長に、そのつど陸軍の政策を忠実に実行してよみがえった軍人の新しい場への旅立ちだった。そしてこの送別の人波は、〈東條がつくられた時代〉から〈東條がつくる時代〉への転回点に立ち会った証人ともいえた。
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第二章 落魄、そして昇龍
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実践者の呪い
参謀次長との衝突
省部の政策決定の一員に加わったという意識が、東條の気負いとなった。三軒茶屋の自宅に、午前七時すぎに陸軍省差し回しの自動車が迎えに来るが、一日と十五日の二日間、この車はいつもとコースを変え、明治神宮に参拝するのを習慣とした。また朝六時に起きると布団に正座し、宮城に向かって軍人勅諭の一節を唱するのを日課とした。
いずれも東條の人生で新しくはじまった習慣だった。
「雑念を追い払って政策立案にあたりたい。心の中に一点の曇りもない無心さで机に座りたい」
というのが、ふたつの行為の裏づけだった。自らの肉体は無私の生物、軍人勅諭が宿った表現体。それが彼の意識だった。むろんこの僭越な意識を支える背景があった。彼にはあまりにも制約がありすぎたのだ。梅津との事務引き継ぎの際に、陸軍次官の役割について、「板垣を越えるつもりで……」と確認を求められている。軍内では、「梅津さんは東條さんの大恩人だ」という意識的な噂が撒かれた。暗に杉山、梅津路線を東條が継いでいくという意味がこめられている。
陸軍大臣と陸軍次官。職務権限が明文化されていないので、その関係は微妙だった。陸軍大臣と陸軍省軍務局長が直結し、陸軍次官は名目だけというときもあれば、陸軍次官のほうが陸軍大臣をふりまわす時代もあった。そのちがいはこの職に就く軍人の性格とふたりの力関係によって異なった。梅津の時代には、彼があらゆる書類に目をとおし、それを杉山に回した。彼は次官に政治的な力量を与えたのである。
陸軍次官の役割を、梅津が東條に申し送ったとき、〈次官が陸相をリードするように……〉との意を含んでいた。東條もそれを守ろうとした。だがまもなく、東條は参謀次長多田駿と対立した。背景には日中戦争拡大論と不拡大論の衝突、参謀本部と関東軍の対立があったが、きっかけはむしろ人間的な側面からはじまった。多田と板垣は、伊達藩と南部藩と同じ東北出身のよしみもあり私生活でも親しかった。それに満州建国の功労者の板垣と、多田の思想は近い。だから参謀本部と陸軍省の打ち合わせは、多田が直接大臣室に行って、「おい板垣」という具合に話をつけた。これが東條には不快だった。
参謀次長は陸軍次官に話をとおし、しかるのちに次官が大臣に決裁を求めるのが常道ではないかというのである。実際は参謀総長が閑院宮なので、参謀次長が陸相と対等であるというふうに省部では受けとめられていた。東條の強い抗議に、板垣は「わかった。わかった」というだけて、いっこうに改めなかった。すると東條はますます意固地になって詰め寄った。板垣はその抗議にとりあわなかった。東條は完全に浮きあがった。もともとふたりは、同じ南部藩の出身、板垣の曾祖父はあの南部騒動のとき、南部利済に抗した漢学者であったし、それにふたりとも尉官時代は一夕会の有力なメンバーであった。
「次官になって困ったことは、おれ、貴様の関係だったのにこれからは大臣と呼ばれなければならんことだ」
と東條は言ったほどだ。が、性格はまったく異なった。板垣は机に向かって事務をとるのが嫌いなタイプ、東條は書類を暗記してしまうタイプ。規則にこだわらない板垣に規則万能の東條。そのうえ板垣は軍中央の生活を知らないので、閣議でも他の閣僚の要望を気軽に引き受けて戻ってくる。それをまた東條が抗議するという光景がくり返された。
東條と板垣・多田連合軍の対立は省部でも有名になっていった。
一日という時間は、対立の深まりでしかなかった。しかも多田は陸士十五期、満州国軍最高顧問、支那駐屯軍司令官から参謀次長に転じた軍人で、その経歴から判るように石原を評価し、東條を嫌っていた。岩手県人会の集まりに出席した東條に、「君自身は県人じゃないではないか。それなのに顔をだすのはおかしい」と後日多田が皮肉ると、東條は顔色を変えてつめより、周囲の者に止められたほどだった。
陸相板垣征四郎の事務能力欠如は閣議でもうとんじられた。いちど引き受けても、次の閣議で平気でそれを取り消したし、陸軍への反対論には耳を傾けなかった。
例は無数にあった。強いてひとつを指摘するなら、七月に起こった張鼓峰事件が挙げられる。ソ連機の満州国侵入に、軍中央は強硬策を考え、それを受けて板垣は天皇に応急動員下令を上奏した。天皇が賛成しないので、板垣は気を落とし、閣議で辞意を洩らした。が、軍中央が消極論にかわると平然とそれを閣議で報告した。
近衛は愛想をつかし、天皇に「板垣はぼんくらな男です」と告げた。しかしこのぼんくらな男を陸軍制御のために利用しようと、彼は考えるようになった。彼は「蒋介石を相手にせず」の声明を撤回し、昭和十三年以内に支那事変解決を……と考え、外相宇垣一成とはかって、陸軍説得に力を入れようと考え直したのだ。そのためには板垣が御しやすいと思い直した。近衛のブレーン集団である昭和研究会の会員を板垣のもとに送り、日中戦争の早期解決を訴えた。軍事作戦から政治解決をという説得に、板垣の感情は揺れた。
こういう板垣の態度は、東條の気に障った。そのたびに大臣執務室に入っては釘をさした。
「近衛周辺の学者や評論家と称する連中が、陸軍省をとおさないで陸軍に近づいてくる。これでは政治が統帥を犯すことになる。彼らは軍を分裂させようと策動しているではないか」
「わしは奴らにふり回されてはいないぞ」
「しかし彼らは陸軍の方針についてなにかと口出ししはじめている。いまは陸軍も力があるからいいが、もし陸軍が弱体化するならば統帥は完全に政治に従属してしまう」
そういうときの東條の口ぶりには、陸軍の意思は陸軍次官や軍務局軍務課の意思、陸軍大臣とはその意思を代弁すればいいのだという、つごうのいい言い分がこもっていた。
当時の陸軍省の意思とは、日中戦争を処理しつつ、国家総力戦にそなえ軍備拡充をはかり、対ソ戦と南方での対英米戦に備えるということだった。英米に備えるというのは、日本は中国から英米資本をしめだしているわけだから、いつか衝突があるかもしれないと考えたからである。省部ではこの意思はあらゆる会議で確認された。九月の在郷軍人会総会で、東條はこの構想を、〈支那事変解決のため北方でソ連と、南方で英米との戦争を決意しなければならぬ〉という強いことばで演説した。新聞が大きく報じ、陸軍は支那事変だけでなく、ソ連や英米とも戦争をはじめるつもりかと騒ぎだした。
板垣は困惑した。東條の発言が陸軍省の意思と思われては困るからだ。あわてて部内で会議を開いたが、そこに東條を呼ばなかった。彼は友人の立ち場を捨て、この軍人の軽卒さを罵った。〈あの男は爆弾のようなものだ。自説に固執しそれを他人に強要するだけだ。しかも妥協を嫌う偏屈な男だ〉、板垣と多田は露骨に東條を敬遠しはじめた。
十一月に入って、参謀本部と陸軍省の将校は、「(昭和)十三年秋季以降の戦争指導に関する一般方針」の打ち合わせにはいったが、参謀本部戦争指導班長堀場一雄が事変解決のために蒋介石の立場を曖昧にしておこうというと、東條は「蒋介石を直ちに下野させると明文化しなければいかん」とどなり、多田・板垣に連なる将校を憤激させた。実際のところ、東條の怒声は自らの精神的不安を充足させはしたが、周辺の人間には狭量さを見せつけるだけだった。
さらに板垣や多田を憤激させたのは、東條の石原莞爾への敵愾心と、彼を陸軍から追い払おうとする執拗さだった。関東軍参謀副長石原莞爾は、持病が悪化して東京に戻り、茨城の大洗海岸で療養することになったが、これが届けをださずに無断であると、東條は難癖をつけた。実際は、植田関東軍司令官に届を出したにもかかわらず、こうした嫌がらせをするのは、関東憲兵隊に石原の動向をさぐらせている東條の謀略だと、石原系の軍人や民間人は怒った。無断療養では軍紀が保たれぬ、と迫る東條に音を上げ、板垣は、石原を舞鶴の要塞司令官に転勤を命じた。東條の後ろに、日満一体を唱える関東軍参謀の支援があり、満州国自立を叫ぶ石原を追い払いたいという総意を、東條は代弁していたのでもある。
板垣も多田も、東條を支える司令官や参謀と派閥抗争をするほど、性格は強くはなかったのである。
近衛はここに及んで、東條への懸念をもった。閣議で態度を変える板垣の背景に、直情的な次官がいる、杉山が梅津の傀儡であったように板垣も東條のロボットだったのだ――そう気づいたとき、近衛は東條を警戒しはじめた。彼とその周辺にいる知識人が、東條を|蛇蝎《だかつ》のように嫌い、東條も彼らを軽侮する素地がこうしてできあがっていったのである。
不在証明の日々
昭和十三年十二月。池田成彬蔵相が、軍需工場に民間資本を導入するため株式の配当制限を行なわないと発言した。経済人からみれば、資本とは本来そういうものだという冷徹な計算があった。するとすぐさま東條が、
「軍需工場の利益は、ただちに生産設備の拡張に回されるべきだ」
と反論して、池田発言を否定した。東條発言は閣議で問題になった。「次官が経済政策にまで口ばしをいれる権限があるのか」「資本導入をはかろうとする蔵相の弁を否定して、陸軍は何をするのか」――。こういう詰問に、経済知識にうとい板垣は顔をあげられなかった。
閣議で騒がれても、東條はこの発言の意味を自覚していなかった。軍需工場での資本の利益は、そのままつぎの生産設備に回すべきという理解があるだけで、資本が利潤を求めて投下されるという経済原則を理解しなかった。この東條発言は、新聞班長佐藤賢了の受け売りだったのだ。参謀本部でさえ政治との関係を円滑にと心がけている時期だったので、無用の摩擦を起こす東條発言を怒った。ここにきて東條は孤立した。
「こうなっては君もこの職にはとどまれまい。自重してほかに移ってもらおうと思うがどうか」
板垣にそう言われると、東條は、自分を辞めさせるなら、多田次長も辞めさせるべきだと反論した。その理由として、職階を無視した執務態度は軍紀の綱正に反したという筋のとおらぬ申し開きをした。自らの退陣とひきかえに、省部から日中戦争拡大の妨害者を排除しようという魂胆だった。東條を後押しする将校のほうが省部には多かったために、板垣は渋々それを受け入れ、昭和十三年十二月、東條は航空総監兼航空本部長に、多田を第三軍司令官へと移した。だが航空本部は陸軍省の建物の中にあったが、多田は満州に転じたので、省部への影響力を失なうことになった。東條の目論見は成功した。
政策決定集団の一員としての彼の能力は、わずか六カ月で失格の烙印を押されたが、彼の置き土産は省部の将校を喜ばせるに充分だった。彼への期待はむしろ昂まったのである。
航空本部は、航空兵の養成と高級指揮官の教育を行なう部門だったが、例によって、東條は陸軍省隣りにあるバラック建ての二階の総監室で、熱心に航空戦略の学習をはじめた。が、このポストはそれほど多忙ではなかった。さしあたりは全国にある航空兵養成の実情を知り、航空専門将校の報告に耳を傾けるていどだった。
何年ぶりかで、彼は家庭生活に戻った。子供たちと語らいの場をもった。東條の次妹の長男で、当時陸軍士官学校の区隊長だった山田玉哉は、そのときの東條の生活をつぎのように話している。
「例によって、私にはしっかり軍務に励んでいるか≠ニいいつづけましたが、それでもこの時期はのんびりしていて、次男や私とよく話をしました。次男は帝大を卒業した航空機設計の専門家でしたが、滑走路がいらない飛行機はつくれんのか、こんな狭い日本だからそんな飛行機があればいい≠ニ東條はいって、だから素人は困ります≠ネどと反論されていた。でもその後、ヘリコプターが利用されるようになって、私なんか、なるほどなあ……と思ったりしましたね。東條はもともと飛行機に乗るのが好きではなかったが、出張には率先して飛行機を利用して、パイロットを喜ばせたともいわれていました」
ときに無聊をかこつ東條のもとに、省部の将校が遊びに来ることもあった。新聞班長から情報部長になった佐藤賢了と、政治情勢を語ることもあったが、東條は、政治の世界には疲れたというのが口癖であった。
当時の政治状況を俯瞰しておくなら、日本は依然として対中国戦争のあがきのなかにいた。国共合作の狭間にいる国民党副主席汪精衛をかつぎだしての傀儡政府をもくろむ陸軍諜報機関の動きが進み、政治工作は成功しつつあるように見えた。だがこういう流れに、近衛は厭気を感じた。彼は自らの指導力が陸軍には通じないのを自覚したが、彼自身の状況にたいする曖昧な態度も原因のひとつであることを充分自覚していなかった。
西園寺公望や文相木戸幸一の説得をふりきり、彼は、昭和十四年一月に辞任した。近衛の投げやりな態度は、九十歳の西園寺を失望させ、「近衛は総理になってから何を統治していたのか。どういうつもりなのだろう。陛下にもまことに申し訳ない」と側近に嘆いた。近衛の後任に、枢密院議長平沼騏一郎が内大臣湯浅倉平によって推されたが、皇道派将校や国本社系の官僚に支持の厚い平沼は、昭和七、八年には西園寺にファシストとして嫌われていたのである。平沼の登場は、西園寺が怒りすら失なっていることを物語っていた。
平沼が取り組まねばならなかったのは、日独防共協定の取り扱いだった。広田内閣時代に結ばれたこの協定には秘密付属協定があって、日独両国の一方がソ連から攻撃を受けた場合、他方がソ連の負担を軽くするような一切の措置を講じないことを定めていた。ところがドイツは、同盟の対象を英仏にも拡大するよう望んでいた。呼応して陸軍中央と民間右翼は蒋介石政府への諸外国の支持を奪うために、防共協定を同盟へ拡大すべきだと主張した。だが海相米内光政、海軍次官山本五十六を中心とする海軍省、財界、それに重臣たちは、ドイツヘの傾斜は米英を刺激するだけであり、当面は米英との協調が必要だと言って、防共協定を新たな軍事同盟へと変質させることに反対した。
東條が航空総監時代の、昭和十四年春から夏にかけて、対独提携論者と対英米協調論者の勢力が拮抗して対立の芽を養っていたのである。
日本の航空事情を頭に入れた東條は、当時の航空戦略の主流の考えの中に自らを置いた。この頃ふたつの考えがあって、ひとつは将来の戦争は空軍の質量によって決せられるので、爆撃機主体の航空政策をとるべきだという意見。もうひとつは、戦争の主体はやはり地上戦であり、航空部隊はその補充にすぎないとの考え方だった。陸軍首脳の考え方は後者にあった。むろん東條もそれに与した。第一次世界大戦での航空機主体の戦争内容を知識として知っている陸軍首脳は、現実には日露戦争時の戦争形態からぬけだすことはできなかったのである。現実に中国大陸での局部的な軍事的勝利をみて、白兵主義に全幅の信頼を置いていたのでもある。ところがこの戦法に決定的な打撃を与える事件が、昭和十四年夏に起こった。ノモンハン事件である。
ノモンハン付近の国境線は、日本と満州国はハルハ河と主張していたが、ソ連と蒙古はノモンハンとみなしていたため、しばしばこぜりあいがあった。五月十二日の蒙古軍と日本軍の衝突のあと、日満ソ蒙は兵力増強をつづけ、六月から九月にかけて二次にわたり戦闘が行なわれたが、日本軍は完膚なきまでにたたきのめされ、戦死者行方不明者八千三百名、戦傷戦病を含めると一万七千人もの兵隊が戦力から脱落した。この戦闘の結果、「ソ連地上兵力の主戦力である砲兵、戦車の火力、装甲装備は日本軍とは段違いに強力であること」が明らかになったし、航空兵力も当初は日中戦争の経験を積んだ日本空軍が優勢だったが、そのうちソ連空軍は速力、火力での優位を利用して戦力を向上して猛爆撃を加えてきた。
参謀本部は「ノモンハン事件研究委員会」を設けて敗因を検討したが、抜本的な装備には手をつけず、あるていどの火力装備補強で当面の欠陥をカバーすることにした。歩兵の白兵主義という戦術を一掃する機会であったのに、それを捨てる勇気はなかったのだ。
ノモンハン事件は植田関東軍司令官、磯谷廉介参謀長の消極論に対して、参謀の辻政信、服部卓四郎らが強硬論を唱え、参謀本部を説得して進めたものだった。圧倒的なソ連軍の航空機と戦備のまえに、無暴な作戦を進め、あまつさえ敗戦の因を現地の連隊長に押しつけ、自殺を強要するという、これらの幕僚の無責任さはその後の日本軍の退廃の予兆だった。しかも植田と磯谷は予備役に編入されて責任はとったのに、辻も服部も閑職に追われただけで、のちに東條によって重用されたのは、東條人事の専横さを裏づけるものとして汚点になった。
ノモンハン事件にみられた航空戦略を、東條もやはり重視しなかった。彼は依然として、航空戦は地上戦の補完とみるだけで、ノモンハン敗退も〈精神力が足らん〉という省部の将校の論に与した。とはいえ、ノモンハン事件は東條には不在証明になった。彼が参謀長だったら、このとき予備役に追いこまれたにちがいなかったからだ。
政治情勢も東條に味方した。ノモンハン事件がソ連軍の勝利にあるとき(八月)、突然ドイツとソ連が不可侵条約を結んだ。まったく予測できなかったヒトラーとスターリンの握手に、平沼首相は絶句し内閣を投げだした。陸軍は狼狽し日独防共協定を楯にドイツに抗議したが、一笑にふされた。日本国内でこれを喜んだのが英米協調論者だった。西園寺と湯浅は、この機に親英米派の力を盛りたて陸軍を牽制しようと、次期内閣に前蔵相で、三井資本の池田成彬を考えた。しかし近衛は、「軍部がホゾをかんでいるとき、池田氏では刺激が強すぎる」と反対して、陸軍の主張する阿部信行に同調した。
昭和十四年八月三十日、阿部内閣が成立し、陸相には畑俊六大将が座った。阿部はすでに予備役であったが、陸軍の中堅将校が彼を推したのは、圧力をかけやすいと踏んだからだった。
内閣成立二日後、ドイツがポーランドに侵入し、イギリス、フランスとの戦闘状態にはいった。阿部内閣はこの戦争に不介入、日本は独自に対支戦争解決に全力をつくすと発表した。
こうした政治情勢がつづいている間、東條は政治的意思表示をする必要のない地位にいた。それが彼の運命を左右したのである。ノモンハン事件、独ソ不可侵条約、そしてヨーロッパでの戦争。このひとつにでも意見を公表していれば政治的な失脚まちがいなしと思われるほど、東條は感情に満ちた意見の持ち主だったからだ。彼は独ソ不可侵条約を知ったとき激怒し、ヒトラーを罵った。道義や信義のない男、まったくああいう下士官あがりは何をするかわからん、自分が見たドイツはこんな国ではなかった、とぐちった。だがそれを聞いたのは、彼の周囲にいる者だけだった。
水商売≠ヘこりごりだ
阿部内閣は政党の支持もなく、人気も沸かないとあって、陸軍もすぐに見放した。十月に入ると、陸軍省軍務局長に就任した武藤章が、近衛をたずねて、再度首相の座に就くよう懇願した。ドイツの優勢に呼応して、日本も支那事変に結着をつけ、東亜共栄圏の建設に立ち上がろうというのが説得のことばだった。
昭和十五年が明けてまもなく、阿部内閣は倒れた。元老西園寺公望のあとを継いで首相推挙の任にあたる内大臣湯浅倉平は、松平恒雄宮内大臣、海軍の長老で重臣の岡田啓介らの協力を仰ぎ、米内光政を推挙した。米内と平沼内閣の外相時代に防共協定強化に反対した有田八郎に、対英米協調外交を採らせようというのが湯浅の期待であり、天皇の意思だった。
陸軍の将校は、米内推挙に憤激したが、背景に天皇の意思があると知って黙した。畑を留任させ、陸軍次官に阿南惟幾を据え、米内内閣を見守ることにした。
昭和十五年一月二十六日、米内内閣誕生から十日後、日米通商航海条約が失効した。日中戦争に不快を示すアメリカからの痛撃だった。これによって、日本の経済活動が揺らぐのは政治の中枢にいる者なら誰でも知っていた。くず鉄禁輸は日本の鉄鋼業に打撃を与えるし、石油が止められれば日本は動けなくなる。アメリカ批判は一気に高まり、陸軍と親軍派議員はこれを巧みに米内批判にからませた。
支那事変を解決させ、国力を建て直さなければ、日本は国際的にも軍事的にも孤立するとの恐れが陸軍の間にも起こってきて、参謀本部の将校の中には、中国から兵力撤退をはかり、八十五万人から五十万人に、数年先には三十万人に縮小しようと訴える将校もいた。だが直進するだけの陸軍内部にあって、そういう将校の声は無視された。威勢のいい強硬論を吐いていれば左遷されることはないというのが、当時の陸軍の風潮だった。ゴリ押しは国内だけでなく、中国との政治工作にもあった。重慶を脱出した汪精衛に、新政府樹立のための要求をつきつけたが、その要求に汪は驚き返事を渋った。この新政権で政治顧問を約束されている日本陸軍の将校には、〈傀儡政府の指導者にしてやる〉式の考え方があったからだ。
昭和十五年の春、日本は国内でも国外でも、相手の立場を認めぬ強硬論だけが勝利をおさめる悲しい国に変貌していた。
航空総監に就任してから半年後、東條は陸軍省、参謀本部との打ち合わせで、自らに課す目的をつくった。ヨーロッパでの戦争をみると、航空機生産がドイツの勝利に貢献していることが判ったので、日本の航空機生産を飛躍的に増大させなければならぬという目的だった。
国家総動員法の発動で産業再編成を行なっているが、それはまだ時間を要すると判断すると、東條は満州国で日本の航空機生産を満たそうと考え、新京に飛び、関東軍参謀副長遠藤三郎にこの計画をもちかけた。
「航空機の増強は目下の急務であるが、日本国内では議会の承認を得なければならない。満州では掣肘はないだろうから、こちらでつくってもらいたい。名目は満州国の航空部隊にすればいい」
この申し出は、遠藤や参謀長の飯村穣を驚かせた。満州国を植民地のように考えている東條の本音が、はからずもあらわれたと受けとったのである。
昭和十五年五月から六月にかけて、日本の国策が陸軍主導になる出来事が起こった。前年九月に一週間でポーランドを消滅させたドイツ軍は、この年四月にデンマーク、ノルウェーを席捲し、五月にはいってからはフランス、ベルギー、オランダに攻撃をかけ、ついで英仏軍をダンケルクに追いつめ、五月十四日にはパリを占領した。日本全体に興奮が沸いた。英米本位の世界秩序は崩壊寸前にあり、世界の歴史は現状固定から現状打破へ進んでいるという主張は、ドイヅ軍の進撃のまえに説得力をもった。勢いこんで東亜新秩序や東亜ブロックの構想が語られた。
対独提携を唱える陸軍省軍務局の将校たちは、この情勢を見て〈支那事変完遂〉のス口ーガンを〈南進〉へと巧妙に変えた。そして支那事変完遂を妨害するのは、蒋介石を支える英米の北部インドシナとビルマの補給ルートがあるからだといい、アジアの英仏の植民地にアメリカがとってかわるかもしれないと発言した。それが東亜新秩序構想の有力な裏づけとなった。
こうした声に刺激され、新党運動と国民運動再編成の気運が盛りあがってきた。めまぐるしくかわる内閣――実は陸軍が陰で糸をひいているのだが――にかわり挙国一致体制が必要だとの声が高まり、戦時経済体制を確立し、国内政治には強力な新体制が必要となった。米内が親独を土台にした新体制の方向へ舵とりをしないと怒った陸軍は、米内倒閣を画策した。軍長老の寺内寿一と杉山元を近衛のもとに送り、「現政府は時局認識に欠ける。これが陸軍の一致した見解です」と出馬を促した。
一年半まえに厭気がさして退いた近衛は、挙国一致体制の新党づくりを考えていると公言していたのだが、その基盤ができれば再び首相の座に就く意思をもっていた。彼は周囲に相談し、決意を堅めていった。いちどは陸軍に失望した彼は、いままた幻想のなかにはいりこんでいた。
呼応するかのように、陸軍省の将校たちは、畑に辞表を提出せよとつめよった。畑の辞任のあとに後任陸相を推さなければ米内内閣は倒れる――陸軍大臣現役武官制が存分に威力を発揮するのだ。阿南次官、武藤軍務局長、岩畔豪雄軍事課長、参謀本部の沢田茂次長、富永恭次第一部長、土橋勇逸第二部長ら省部の将校たちは、秘かに後任陸相の打ち合わせをしたが、海軍、宮中、議会の陸軍批判に抗しきれる個性の強い人物という点で一致し、期せずして〈東條英機〉の名があがってきた。
阿南次官の使者として軍事小説を書いている作家山中峯太郎が、東條説得に出向いた。山中は阿南の一期後輩の陸士十九期生で、陸大卒業後身体をこわしたのと私生活の理由で軍籍を離れたが、蔭に回っての連絡役を勤めたりしていた。戦後、山中が著わした『陸軍反逆児』には、このときの摸様がくわしく書かれているが、それによれば、東條は「水商売はもうこりごりだ」と頑固に抵抗したとある。が、二回目の説得で承諾したと、山中は言っている。東條の内諾を得てから、陸軍の将校たちは畑に辞表を提出させた。
米内は畑に理由を質した。米内自身が著した『米内内閣倒壊の事情』には、「倒閣の策動の中心が陸軍部内にあったことは公然の秘密であり、畑陸相が辞意を決した理由を説明できなかったのも陸軍部内から強要された証左と見られる」とある。陸軍内部の親独派の策動は米内を怒らせ、反陸軍の感情をいっそう深めさせた。これがのちに重要な意味をもってくる。
昭和十五年七月十七日、近衛は第二次近衛内閣を組閣する。
近衛が組閣を終えないうちに、陸軍はかつての陸軍次官のときと同じように東條陸相だけを単独上奏して、天皇に注意された。東條の就任のときに限って行なわれた異例の方法は、実は、東條が陸軍の切り札のような存在だったからだ。七月十九日の午前から午後にかけ、阿南と武藤は陸軍の現況報告と新政策への要望を、東條に克明に伝えた。非政治的立場にいた彼は、政策の中枢を知らされていなかったので、律義にメモをとった。
山中の説得と富永、土橋らの秘かな口説き文句「見渡すところ陸軍には閣下以外にこの難局を乗りきれる者はいない」を受けいれた東條は、陸相就任の興奮よりも、いかに陸軍の政策を代弁するかで緊張していたのである。彼の綴ったメモは、のちに巣鴨拘置所で整理されたが、骨子はつぎのように書かれてあった。
「一、速カニ第三国ノ援蒋行為ヲ禁絶トスル対支施策ヲ強化シ支那事変ノ解決
一、 第三国ト開戦ニ至ラサル限度ニ於テ南方問題ノ解決、之レガタメノ施策
対米粛然タル態度ノ保持・独伊トノ政治結束強化・対ソ国交ノ飛躍的調整・援蒋禁絶・対蘭外交強化・重要資源獲得・国内戦時態勢ノ刷新」
松岡洋右外相との蜜月
近衛の私邸は杉並の住宅街にあった。それは荻外荘と呼ばれていた。近衛は、内閣を発足させるまえに政府の中枢である外相、陸相、海相を私邸に呼んで、自らの政府が、どういう政策を進めるかの打ち合わせをすることにした。外相松岡洋右、陸相東條英機、海相吉田善吾は、七月十九日の午後三時にこの荻外荘に集まった。
カーネーションが飾ってある応接間の小さなテーブルを囲んだ四人は、初めは軽い世間話に興じていたが、やがてそれぞれの見解を小出しに論じはじめた。かつて自らの政府が何をなすべきかを曖昧にしていたので、状況に立ち遅れたという教訓が、近衛にはあり、それだけにこんどの内閣は自らの手でリードしていこうという決意があった。
彼の構想は日中戦争の処理とヨーロッパ大戦の世界情勢への機敏な対応を柱にするということだった。そのために松岡洋右を外相に据えて、外交対策を一新しようという心算だった。ところが「矮小な連中がへっぴり腰で何ができるか」といきまく松岡には、野心家、虚言癖の烙印が宮中や重臣の周辺にあり、それが障害となった。湯浅の跡を継いだ内大臣木戸幸一に、天皇は、松岡外相で大丈夫かと不満を洩らしていた。だが近衛は松岡起用に自信があると言いきって、この不満を押しのけた。
この前日、すなわち十八日に近衛と松岡は会っている。英米と対抗するために日独伊枢軸強化と日ソ不可侵条約締結を平行して進めるべきだという松岡の外交政策は、近衛を喜ばせ、それがはからずも陸軍の将校の計画と合致するのを知った。というのは近衛が首相受諾を決意したとき、武藤が、軍事課長岩畔豪雄が核になってまとめ海軍の諒解もとったという『時局処理要綱』をもって訪れたが、その骨子にあるのは、枢軸強化と対ソ関係調整が柱だったのである。近衛は、この裏に松岡と武藤の密接な連絡があるのを知らなかったが、武藤の要綱と松岡の発言をみて、〈日ソ関係是正のためにドイツの影響力を期待する〉という諒解が政策集団にはあると感得した。アジア、ヨーロッパをつなぐ日独伊とソ連の四国のゆるやかな連合で英米に対抗するというのは、もっとも現実的な政策だと近衛は考えた。
そうはいっても、この四国間がうまく機能するかどうかに、一抹の不安もあった。同盟を結んだからといって、相手国が日本のために行動してくれると限らないのは、独ソ不可侵条約をみても予想できた。そのためにどのような政治姿勢が望まれているのか、近衛は充分判っていなかった。彼は、松岡と東條をうまくつかいこなそうとだけ考えていた。
荻外荘会談は、近衛の発言によって進んだ。戦時経済政策の強化確立、援蒋ルート切断などは異論なく決まった。論議の対象となったのは、「独伊との政治的結束強化」という一項だった。
「枢軸強化に異論はないが、しかし同盟というほどのものであってはならない」
吉田は不安気になんども言った。海軍内部で対英米協調論者としてとおっている吉田には、これを受けいれることはできなかった。しかし近衛、東條、松岡には共通の基盤があるのに、吉田だけは何の根回しもなく孤立気味であった。論議が堂々めぐりをはじめると、松岡は言質をとるような意味をもたせていってのけた。
「外交を遂行するにあたって外交の一元化をはからねばならぬゆえ、一切は自分に任せて欲しい」
吉田は松岡の気迫に圧されて黙った。しかし東條は大きくうなずいた。〈当事者が権限をもつべきで、他の者は口をはさむのは不要だ〉、それが彼の持論だったからである。結局、この四者会談は近衛、松岡のペースで進み、東條はうなずくだけで、吉田は困惑気に口をつぐむだけだった。会議の終わったあと、近衛は、「とにかく完全に根本では一致した」と記者団に語り、東條も自宅に駈けつけた記者に、「外交、国防などの大綱に関しては、意見の一致をみた」と言った。そして近衛や松岡の意気ごんだ態度に好感をもったことを、記者たちに隠そうとはしなかった。
陸相東條英機が省内に行なった大臣訓示は、異例の内容だった。「政治的発言は陸軍大臣だけが行ない、いかなる将校の発言も許さぬ」「健兵対策の再検討」の二点で、次官に留任した阿南や武藤軍務局長が、「健兵対策などは局長や課長クラスが言えばいいことだ」と言っても、かたくなにこの一項の挿入を主張した。
「いかにも東條らしい挨拶だ」
省部では噂された。鷹揚に構えることの多かった陸軍大臣のなかで、神経質さが目立つ軍人の登場と受け止められたのである。だが神経質さだけではなく、まもなく大胆なこともやってのけた。政治的発言をする者を許さぬと約束したのを逆手にとって、政治的発言をしがちなタイプを人事異動で省部から追い払った。ある将校が、東條の執務室に入ったとき、組織図を広げて赤鉛筆をもち、人事を楽しそうに動かしているのを目撃したが、これが「こんどの大臣は人事をいじるのを面白がっている」という噂となって省部に広がり、自らの息のかかった人物だけを重用する大胆な陸相だと目された。
秘書官に、東條の信頼するヨーロッパの視察から帰ったばかりの少佐赤松貞雄を据え、軍事課長には真田穣一郎を就けた。徐々にはじまる東條人脈のさきがけだった。
陸軍の長老たち、宇垣一成、寺内寿一、南次郎らは、阿南や武藤を呼んでは、「この陸相はソリの合わぬ者を遠ざけるという、生来身についた癖がある。放っておくと人事で失敗するからよく監視しろ」と命じていた。その後、この懸念は石原莞爾、多田駿の扱いをみても充分裏づけられた。
内閣が発足するなり、近衛は連日閣議を開き、荻外荘の四者会談に沿って国策の方向を決めた。七月二十六日には『基本国策要綱』を採決したが、ここには「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ将来スルコトヲ以テ根本トシ先ヅ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニアリ」との根本方針のもとに、新政治体制、日満支三国の自主経済による国防経済など五項目が盛られていた。さらに翌二十七日には大本営政府連絡会議を開き「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理案」を決定した。「帝国ハ世界情勢ノ変局ニ対処シ、内外ノ情勢ヲ改善シ、速カニ支那事変ノ解決ヲ促進スルト共ニ好機ヲ捕捉シ対南方問題ヲ解決ス」「支那事変ノ処理未ダ終ラザル場合ニ於テ対南方施策ヲ重点トスル態勢転換ニ関シテハ内外諸般ノ情勢ヲ考慮シコレヲ定ム」――すなわち、ここに、支那事変完遂、南方武力進出を明確化したのである。一連の方針は、武藤が近衛に示した『時局処理要綱』を骨子としていて、ヒトラーの電撃作戦に幻惑されたバスに乗り遅れるな≠ニいう陸軍ペースの反映だった。
こうして内閣成立から一週間後には、国内と国外の政策要綱が決定したのである。しかし自立を自覚した近衛は、大局では武藤の巧妙な政治手腕の中で踊ったにすぎなかった。
ふたつの国策が決まったあと、東條は陸軍省の自動車で明治神宮と靖国神社を回った。英霊を慰め、この国策に沿っていっそう挺身するのを約束するためだった。参拝する彼の周囲には新聞記者やカメラマンがつきまとった。彼は新聞記者に威勢よく答えた。
「時あたかもドイツ軍は対仏決定的勝利をおさめている。このときに帝国も不動の国策を決めたのは心強い。あとはこれを忠実に実行すること、それが自分に課せられた任務だと思う」
電撃的な陸相の弁と讃えられ、このことばは大きく新聞に掲載された。新聞での東條の表情は謹厳だったから、そのことばは国民に厚い信頼感を点火することとなった。いや国民だけではなかった。省部の将校や二百五十万の陸軍の軍人にも、頼もしい大臣と評された。大臣訓示の中で東條は、「論議久しきに亘って決せず、ために方針明示の機会を逸し、或は上司の既に決裁した事項をなお論議して実行を躊躇するが如きは速やかに一掃を要する病根である」と言ったが、そのことばどおり、閣議でも即決を要求し、「国策の基準は決まっているのだから、イエスかノーか即答できるはずだ」とつめより、板垣や畑のように閣僚から反論されて黙ってしまうことはなかった。それこそ省部の将校の信頼に値する性格であった。
こういう東條の態度に松岡も好感をもった。彼も決断こそ何にもまさる政策と考えていたからだ。東條もまた閣議で松岡と接するたびに、「松岡というのは自説を曲げない信念のある男だ」と、秘書の赤松に言った。ふたりの蜜月時代だった。
松岡は自らの外交政策を実行するために、外務省の人事を大幅にいれかえ、枢軸寄りの陣をしいた。そして対独枢軸強化策検討と称して、陸海軍、外務省の事務当局に対独交渉の基本方針を練らせた。
ところがこの過程で海軍との間に亀裂が生まれた。海相吉田善吾、航空本部長井上成美、連合艦隊司令長官の山本五十六ら海軍主流は対独警戒心が強く、松岡と対立し、海軍軍令部の中堅将校の対独派にも同調しなかった。この対立に吉田は疲労を深め、結局辞任した。
八月末になって、松岡はこれまでの対独交渉の草案を独断で変え、その案を三国同盟交渉のため特使スターマーを派遣したいというドイツからの申し入れへの対応を決める四相会議で一方的に示した。近衛と東條はすぐに賛成したが、吉田に代わって出席した海相及川古志郎は、本心は三国同盟に反対だったが、原則的に同意すると、しぶしぶ答えざるを得なかった。
松岡は巧妙な政治家だった。就任まもないときの対独交渉の草案は『時局処理要綱』にある「武力行使ニ当リテハ戦争対手ヲ極力英国ニノミ局限スルニ努ム」と英国だけにしぼっていたのに、この四相会議に提出した草案では一挙に対米軍事同盟に変えてしまっていた。ドイツは、第一次近衛、平沼内閣時代にも英仏をも対象とする防共協定強化、つまり軍事同盟締結を望んでいたが、松岡は、それにみごとなまでに答えてみせたのである。
四相会議で認めたこの草案は、御前会議でも、対米戦争につながるのではないかと質問された。だが、松岡は「日米戦争を阻止するには毅然たる態度をもって臨む以外にない」と応じた。ドイツの仲介によって日ソ関係を調整し、日独伊ソ四国協商ができれば対米抑制の効果を発揮するだろうというのが、松岡の遠大な構想だったのである。
この段階では、近衛や東條でさえ、松岡にふり回されて事態は進んでいるかに見えた。さすがに近衛は海軍の曖昧な態度に不満をもち、海軍次官豊田副武に秘かに質すと、その答は「海軍の本音は反対。だが強硬に反対するのは国内情勢が許さない。そこでやむなく賛成する」というものだった。近衛はこれにあきれた。
だが松岡とドイツ特使スターマーの折衝がつづき、海軍をなだめるため対米戦自動参戦三項を骨抜きにする付属文書をつけ、閣議、御前会議を経て、九月二十五日に三国同盟の条約調印にこぎつけた。松岡外相に反感をもつ外務省の長老たちは、この条約の危険性を鋭く指摘していた。前外相有田八郎は、支那事変解決、日ソ国交調整、南方への政治的・経済的進出、英米からの軍事的・経済的圧迫の軽減、アメリカの対日戦争阻止と、日本に有利にみえるところに〈魔の誘惑〉があると言った。
この三国同盟に平行し、松岡は英米と蒋介石政府との提携分断政策も進めた。援蒋ルートは西北、ビルマ、仏印、沿岸コースの四つがあり、これを切断するために国際会議で強硬策に訴えたいが、国際連盟を脱退していてその機会がない。そこでドイツが英仏を追いつめて余力を失なっているのを背景に、松岡はフランス大使アンリーと北部仏印進駐の協定を結び、援蒋ルート切断のため日本軍は仏印進駐にふみきるが、「フランスは極東の経済的政治的分野における日本国の優越的利益を認める」と約束させた。九月二十三日、実際の進駐にあたり、現地の日本軍は無断で兵隊を動かしフランス軍と小規模な戦闘を起こした。参謀本部第一部長富永恭次、作戦課長岡田重一が現地に行き、フランス軍に強圧的につめよったために起こったこの戦闘は、日本軍の統帥の乱れをあらわす象徴的な事件であった。
この大権干犯に東條は怒り、富永を満州の公主嶺学校付、岡田を北支那方面軍参謀に飛ばした。現地軍の参謀佐藤賢了には咎めだてしなかった。「大権干犯に厳罰を下す陸相だ」と軍内では噂されたが、その陰で、佐藤を呼びつけ「泣いて|馬謖《ばしよく》を斬らねばならぬこともある」と洩らして、登用の機会を与えることを約束していた。事実、半年後には省部に呼んでいるのだ。
拙劣な省部のアメリカ観
九月二十七日、日独伊軍事同盟がベルリンでヒトラー首相、チアノ伊外相、来栖大使の三人によって調印された。東京では松岡外相主催の祝賀会が外相官邸で開かれた。東條は阿南、武藤と共に出席して、参会者と共に萬歳を叫んだ。しかも仏印の援蒋ルート遮断も成功しているとあって、東條は上機嫌だった。すべては『時局処理要綱』に基づいて順調に回転している。松岡と東條の笑顔は、この祝賀会の主役だった。
だがこの調印から一カ月後、彼らの構想は瓦解した。もっとも、そのことを彼らは知らなかった。当時の世界の指導者は、松岡や東條には想像もできぬ論理と利害で動いていたが、彼らはそういう冷徹な回転軸を見ぬく政治性はなかった。せいぜい日本国内で道義や信義を説くのが関の山だった。
まずヒトラーとスターリンの間が険悪化した。ソ連外相モロトフがベルリンを訪れたのは、同盟締結一カ月後だった。ヒトラーとリッベントロップ外相は日独伊ソ四国の勢力圏設定と四国協商案を提案した。日本もイタリアも同意した案に、もしモ口トフが同意すれば、条約草案が提出され、署名される手筈になっていた。ところがモロトフはこれに即答しなかった。逆に独ソ両国間の意見不一致の問題をとりあげた。モロトフの帰国後、スターリンは駐ソ・ドイツ大使に回答して、四国協商案を締結する前提にいくつかの要求の承認を求めた。ヒトラーは憤激し、従来の考えを捨て、対ソ戦争を決意した。ソ連を一撃で片づけ、日本に対するソ連の圧力を取りのぞき、日本の戦略的立場を強化し、日本軍を南進させ、アメリカに太平洋と大西洋の双方から戦争の脅威をつきつけることに考えをかえたのである。
もしこのときヒトラーの冷徹な計算を知ったら、東條は衝撃を受けたにちがいない。
さらに彼らは大きな誤りをおかした。三国同盟を承認する御前会議で、対米関係悪化を指摘された松岡は、「アメリカが硬化していっそう険悪な状態となるか、それとも冷静反省するかの公算は半々とみられる」と答えたが、回答は歴然としていた。アメリカは示威を感じてひるむどころか、一転して強い態度に出る徴候が駐在武官や通信社のニュースから伝わってきた。アメリカ世論は中国の抗日運動に同情をもち、ドイツよりも日本を敵視する閣僚がいるのをにおわせてきた。アメリカ政府も重慶政府を同盟国と見做し、いっそうの援助増大を決意した。それは東條や松岡、近衛の想像を越えていた。
陸相官邸執務室にはしばしば軍務局長武藤章が来て、事態に対処する陸軍の態度決定を打ち合わせた。前年九月以来この職にある武藤は、情勢を把握するのにとまどっている東條の有力なアドバイザーだった。もっともそのために、東條は武藤にふり回されているという風評もあった。その武藤は、三国同盟がいつになっても有効な決め手になる可能性がないことを、東條に訴えるようになった。支那事変完遂への道は遠く、対ソ国交調整も進まないし、アメリカはいっこうに日本の予想したようにひるみはしない。
ちょうどこのころ『時局処理要綱』の「対南方武力行使」をめぐって、陸海軍事務当局はひとつの想定に熱っぽい意見をたたかわせていた。「武力行使」の相手は英国、オランダを予想し、「英国のみに局限するに努む」としていたが、はたしてそれが可能か否か。陸軍当局も、そして武藤も東條も、
「対米戦争は避けるべきだ。英米を離して考えるのは可能ではないか」
といい、軍事計画についても「そのためにフィリッピンやグアムは作戦計画からははずすべきだ。どちらもアメリカの影響下にあるから刺激することになる」と考えた。だがそれは日本側の願望にすぎず、英米が不可分でないなどとは露ほども考えられないというのが、海軍省や外務省の考えだった。ここに陸軍の英米可分論と海軍の英米不可分論の対立が生まれ、それが南方武力進出止むなしとする陸軍と、それを危険視する海軍との分岐点になったのである。
海軍の言い分には根拠があった。昭和十五年十一月に行なわれた海軍軍令部と連合艦隊の図上演習は、蘭印作戦から対英米戦を検討したが、ここでは「米国の戦備が余程遅れ、又英国の対独作戦が著しく不利ならざる限り蘭印作戦に着手すれば早期対米開戦必至となり、英国は追随し、結局蘭印作戦半端に於て対蘭、米、英数カ国作戦に発展するの算極めて大なる故に、少くとも其覚悟と充分なる戦備とを以てするに非ざれば、南方作戦に着手すべからず」という結論がひきだされた。これを山本五十六連合艦隊司令長官が軍令部総長に進言し、及川海相にも伝えたので、海軍は全軍をあげ英米不可分論で統一されることになった。
東條と武藤は、海軍のこの方針を聞かされて納得せざるを得なかった。軍務局の将校が『支那事変処理要綱』の打ち合わせで、陸軍省原案の「支那事変ヲ解決スルタメ好機ヲ捕捉シテ武力ヲ行使シ、南方問題ヲ解決ス」に海軍省が強硬に反対していると伝えてきたとき、東條は、武力行使の字句削除に応じた。海軍の英米不可分論の勢いはそれほど強かったのである。
十一月三日の御前会議で決定した『支那事変処理要綱』は世界戦略のなかで支那事変の解決をはかろうとするもので、まだ三国同盟に依存する色彩で満ちていた。それはつぎのようなものであった。「英米の援蒋ルートを武力で断ち(ドイツのヨー口ッパでの制圧を予想)、対ソ国交を調整(松岡の日独伊ソ四国協商に期待)し、政戦両略(武力と汪精衛政府承認)のあらゆる手段で重慶政府の屈伏を待つ。そのために中国では長期大持久戦(なるべく小さな規模で長期持久、支那方面軍の減少)をとり、大東亜新秩序建設のために国防力の充実(対ソ戦の充実)をはかる」――あらゆる目標が有機的に結びついているが、その根幹にあるはずの政治プログラムも軍事作戦計画も杜撰で、実際にはどのような方向に進むか曖昧だった。
南方武力進出に積極的な陸軍は、対米戦争の可能性もあるといわれて、はじめてアメリカの研究にはいった。それほどアメリカについての専門家はいなかったのである。東條の書棚にもアメリカを語る著作が並んだが、それらの書物の内容は雑駁そのもので、歴史が浅く個人主義がはびこり国民のまとまりがないと書いてあるていどの書物だった。人口は世界の総人口の八%、世界総生産額の小麦二二%、石炭四三%、銅五三%、鋼鉄六〇%、石油七二%を占め、国家経済の悩みは生産過剰にあるということを知識で知っていても、それを戦力化する能力に欠けている国民とも記されてあった。
昭和十五年十一月、東條と武藤は陸軍省戦備課長岡田菊三郎を呼んで、日米戦力比の資料をつくるように命じた。二カ月後、「南方処理ノ一想定ニ基ク帝国物的国力判定」と題して東條の元に届いた。「帝国ノ物的国力ハ対米英長期戦ノ遂行ニ対シ不安アルヲ免レナイ」ではじまる報告書は、対英米戦争後三年目から物量が減少し、船舶問題は重大化、石炭搬出の減少で全生産がマヒ、軽工業資源の窮迫が予想されるとあった。すべてに絶望的な数字が並んでいた。
「これは数字だけであり、皇軍の士気、規律を考えればいちがいに敗戦というわけではありません」
岡田は渋い表情の東條につけ加えた。
「むろんそのとおりだ。アメリカには国の芯がない。それに比べれば帝国には三千年に及ぶ国体がある」
東條は、この報告書を省部の上層部にしか知らせなかった。戦力比だけを見て、政策の決定を躊躇するのを恐れたのである。部課長会議では、岡田の口から戦力比には差があるとしても、戦場が太平洋であり、補給、日本軍の士気、戦闘力、作戦を個別に検討すると、日本軍が優勢だから充分互角に戦えるだろうという楽観的な内容が伝達された。
この報告書に目をとおしたところ、東條は人事異動を行ない、佐藤賢了を軍務課長に抜擢した。情実人事と噂されもしたが、就任前に「君はアメリカを研究していたはずだ。君のアメリカ観を教えて欲しい」と言って、この人事が対アメリカ研究の一環であると打ち明けた。この告白に佐藤は感激した。
だが東條は人をまちがった。佐藤は先鋭的な南進論者であり、対米強硬派であったからだ。そして陸大卒業後、三年ほど駐在武官を経験した佐藤のアメリカ観は主観色が濃く、「一貫して日本を圧迫しつづける傲慢な国家、日本の発展に水をさす道義の通じない野卑な国家」といい、さらに「あの国は世論の国というが、この世論というのが曲者で、金で動く連中がでっちあげたものです」という内容であった。それにこの国は史上にのこる戦争というものを経験していない。兵隊への教育ときたら日本とは雲泥の差で、彼らは酒とダンスに興じ、軍人としての心がまえをもっていない。国家への忠誠心など、ひとかけらもない。「他民族の寄せ集めの国家だから、まとまりのつかぬ支那のようなものですな」――
短兵急なそういう報告に、東條は全面的にうなずいたわけではなかったが、しかしそういう意見は彼の不安を鎮静させる役割はあった。それが証拠に、東條のアメリカ観は徐々に戦力軽視の方向にむかいはじめたからである。やはり耳ざわりのいいことばに、彼の考えも傾いていくのであった。
石原莞爾との相剋
陸相として東條は、私生活は潔癖であろうとした。三軒茶屋の家が狭くなったので、玉川用賀に新築することになり、その間、家族も官邸に移り住んだ。建築資材が配給制だったが、陸相ということで特別の配慮を受けぬように大工に命じながら、すこしずつ建てていった。そのため一年余りの工事日数がかかった。官邸の私室では、カツが東條の下着をつくろい、靴下につぎ布をあてた。東條もそれを気にせず履いたが、出張の折りに旅館の女中がそれを見つけ、東條ファンになることもあった。
だが、東條についての挿話には増幅されたものが多い。「豪邸に住んでいる」「酒色に溺れている」と、庶民に憎悪されるように偽造された挿話が氾濫したのも、東條が反論しなかったためにひとり歩きをしたのである。が、そうはいっても、個々の事実は虚構でも、こういう挿話の背後にひそむ大衆の不満の構造は見抜かなければならなかった。
潔癖であろうとする律義さは、対人関係にもあらわれた。中堅将校や青年将校との私的交際を絶ったのも、かつての荒木陸相と青年将校のような傍若な関係を警戒したからだった。かわって官邸には各界の有力者がたずねてきた。代議士や実業家のなかで、陸軍へ顔つなぎをしようという者が訪れては、耳ざわりのいいことばを彼の周囲で吐いた。それには東條もとまどった。
新体制運動に呼応して、政党が競って解党し、陸軍の力を借り政治的発言を高めようとの魂胆があるからだった。軍務局長武藤章が「陸軍に迎合してくる輩にはツバでも吐きかけたくなる」と、近衛内閣の書記官長富田健治にぐちるほど、東條詣ではつづいた。
新体制運動は政党解党、一国一党へと武藤の強力な音頭で転換していったが、この転換があまりにも急激だったので、右翼陣営や貴族院からは「アカ」の噂が流され、近衛暗殺との声も起こった。こうした情勢に近衛は神経質になり、武藤に向かって、「一国一党を言うのでは私は辞職する」とつめよった。それを東條と武藤はなだめた。十月に大政翼賛会が発足したが、「綱領は大政翼賛の臣道実践である」という近衛のことばどおり、性格の定まらぬ曖昧な集団であった。いかにも中途半端な近衛の性格を反映していた。のちに大政翼賛会の性格が議会で問われたとき、東條は助け舟をだし、「翼賛会の信条は軍の信条と合致する。ゆえにこれを支持する」と強引な理由でつっぱねた。
東條を中心とする陸軍の将校と近衛との関係では、内閣発足後しばらくは円滑に、その後は東條が近衛の優柔さを助ける場面が再々あった。その背景には、近衛のようなヌエ的な存在を前面に押したてて利用したほうが、陸軍の政策が中和されるという判断があった。もっとも、近衛も東條を巧みに利用した。近衛は企画院総裁星野直樹の大胆な性格をあまり好んでいなかったし、近衛のブレーンたちの「近衛内閣の経済閣僚は弱すぎる」という評をいれて更迭をはかろうとしたのだが、近衛も富田も、直接それを星野には伝えられない。
秘書官の赤松貞雄は、つぎのように証言している。
「富田書記官長がこっそり東條さんを呼んで、君は満州時代から星野君とは親しいのだから、君から伝えてくれと頼んだのです。初めは、東條さんもお門違いだと断わりましたが、根負けして結局引き受けました。人にやめろというのはいいづらいと言いながら、星野さんを官邸に呼んで説得したんです。すると星野さんは、実にあっさりと、それじゃあやめましょうと身を退いた。それを東條さんは感心していました。あいつには悪いことをした、実にきれいにやめた、あのひきぎわは立派だ、なんの恨みもいわずにいい男だ、といっていましたね。それに反し近衛さんは出身が出身だから、俗事は厭かもしれないが、それにしても、自らの責任を回避するのは卑怯だと怒っていました」
すなわちそれが、東條内閣組閣時に、東條が星野を書記官長に据えた理由だというのだ。また東條が、辞めさせるべきと思った閣僚には自ら直接いい含めるようになったのも、このときの不快感が遠因であったともいう。
それにしても、近衛のこうした態度は、東條の軽蔑を買った……。あまり他人の批評をしない東條が近衛に関しては、ときどき不満を洩らしたというのも、こうしたことが重なったためである。ふたりの人間的な肌合いの相違が、すこしずつ露呈してきたのだ。
昭和十六年に入っての、省部での東條の訓示は「本年こそ非常時中の超非常時」という意気ごんだものだった。この年に国策転換をして支那事変完遂を期するというのであった。気負いはすぐにあらわれ、一月八日には陸軍大臣東條英機名で、「戦陣訓」を発表した。本来は、中国各地で戦っている日本兵の士気高揚のための文書として、教育総監部でつくったものだが、一読して気にいった東條は、これを皇軍の精神修養訓にせよといって陸軍大臣名で公表させたのである。
冒頭には「本訓ヲ戦陣道徳昂揚ノ資ニ供スベシ」とあって、「夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の真髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる処なり」ではじまり、「本訓其の一」から「其の三」まで克明に皇軍の優位性を説いていた。これは、東條の威令が陸軍内部に届きつつあったときで、師団長のなかには兵隊に暗記させるよう命じる者もあったし、「戦陣訓レビュー」なるものまでつくって、東條に媚態を示す者もいた。
ところがこの戦陣訓に、京都の第十六師団長に転じていた石原莞爾がかみついた。「師団将兵はこんなもの読むべからず」とはねつけたのである。「東條は己れを何と心得ているのか。どこまで増長するのか。なりあがりの中将ではないか。それが上元帥の宮殿下をはじめ、総司令官以下に対して精神教育の訓戒をなすとは、天皇統率の本義を蹂躙した不敵きわまる奴である」
東條の命令によって石原を監視している京都憲兵隊が、これを東條に報告した。東條は身体を震わせて怒り、「石原を予備役にする」と言いだした。
これ以前にも東條は、石原を予備役に追いこもうと東京憲兵隊特高課長大谷敬二郎に命じ、石原の盟友で東亜連盟の指導者のひとりである浅原健三(かつての無産政党代議士)を「アカ」に仕立て上げ、その責任で石原を失脚させるよう画策していた。大谷の言によれば、浅原はアカではないとの報告をなんども伝え、それで東條はあきらめたという。東久邇宮も阿南に会って、石原の能力を引きだすように言ったが、阿南は「大臣はどうしてもその言い分をきかない。あいつはだめだと一顧だにしない」とさじを投げていた。東條の石原憎悪は深く、東亜連盟を厳重に監視させ、ここに政界、財界、学界、マスコミの有力者が近づくと憲兵をつかって脅した。
石原がいっこうに「戦陣訓」批判をやめず、「東條は統帥権干犯の不忠者だ」と公言するに至ると、東條は強硬に、「石原を予備役編入にせよ」と阿南に命じた。温厚な阿南が大臣室で東條と激論するのを見た将校の話では、顔面を紅潮させながら、阿南は必死に諫めたという。
「石原将軍を予備役にというのは、陸軍自体の損失です。あのような有能な人を予備役に追いこめば、徒らに摩擦が起きるだけではありませんか」
しかし東條はその意見を一蹴した。
昭和十六年三月、石原は予備役に編入された。第十六師団司令部では、東條の意を|慮《おもんぱか》って送別会も開かれなかった。石原系の軍人は、東條への恨みを潜在化させた。これが四年後の東條暗殺未遂事件の遠因にもなったが、それだけではない、軍内の将校に、自らの思うとおりに何でもやりかねない陸相として理解されることになった。明らかに東條は、政治的敗北を喫したのである。
東條の石原への異常ともいうべき敵愾心は、政治的軍事的対立という側面だけでは充分説明できない。なかには「肌があわない」とか「虫が好かない」といった人間的な気質のちがいに、理由を求める論者がいる。しかし、いずれも説得力をもっているとはいえない。
ここで東條の父英教を思い起こせばいい。英教と石原莞爾には、何と多くの共通項があることか。ふたりはその時代の戦術、戦史のかなりレベルの高いところにいた軍人である。たぶん彼らは、あまり成績のよくない融通のきかない、そして独創性に欠ける将校を軽侮する念もつよくもっていた。ふたりの軌跡を追うと、性格的に共通の面も多い。宗教的な直情さ、歯に衣を着せぬ正直さ、自らの兵学に対する絶対的自信、協調より相手を完膚なきまでに論破する戦闘的気質――。
東條英教は、山県有朋とその輩下の将校によって陸軍を追われた。石原莞爾は、東條英機の思いつめた精神状態と憲兵隊を動かしての策略によって追われた。東條英機の潜在心理のなかに、父英教にたいする屈折した思いがあって、それが石原への敵愾心になったのではなかろうか。石原の背後に、父英教への〈軽侮〉をみていたといってもいいのではないか。
つけ加える。石原莞爾のほかに東條が嫌った軍人、多田駿、山下奉文、本間雅晴、西尾寿造、谷寿夫、酒井鎬次らには、英教につうじる非政治的軍人の原型がある。一方、東條の側には、帝国陸軍の陽の当たる道を歩いてきた長閥系軍人の悪しき政治主義がある。
昭和十五年十二月、昭和十六年一月、三月の人事で、東條は露骨に省部の要職に側近をもってきた。石原を予備役に追った阿南は、次官は長いからという理由で、自ら東條のもとを離れて第十一軍司令官に転じた。東條に愛想づがしをしたのだ。このポストに木村兵太郎が座った。東條のいうがままに動き、自らの意見の吐けぬ男だった。憲兵隊を直轄する兵務局長に田中隆吉、人事局長には富永恭次を据え、憲兵と人事を、東條の視線を凝視できぬ茶坊主で埋めた。軍内と軍外の政治折衝、それに政策決定の要職である軍務局にも、息のかかった将校を送りこんだ。こうなって東條が自立できる人脈図ができあがったのである。
陸相就任から九カ月、昭和十六年四月になって、東條は自らの手足をやっと獲得した。かつての同志一夕会系の将校は省部からは姿を消した。やはりライバルは膝下に置きたくなかったのである。こうして陸軍省は、偏狭な東條人脈の集団と化した。
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透視力なき集団
日米交渉・誤解の始まり
これより先、昭和十五年の暮れ、ふたりのアメリカ人神父ドラウトとウォルシュが秘かに来日し、日米国交調整の可能性をさぐり朝野を打診してまわった。彼らに応じたのが大蔵省の元官僚井川忠雄で、彼は神父との会見を近衛や松岡に伝えた。しかしふたりは、真意不明と警戒を解かなかった。そこで井川は旧知の軍事課長岩畔豪雄を説き、武藤のもとに神父をつれていった。武藤も彼らを信用しなかった。が、東條に報告する際に「この工作に乗ってみたらどうでしょうか。うまくいけばこれに越したことはない」とつけ加えた。武藤の言にうなずいた東條は、岩畔を前面に立て、側面からふたりの神父との交渉を見守ることにした。
ドラウトとウォルシュは帰国して、三選されたばかりのルーズベルト大統領とハル国務長官に会って、交渉の内容を示した。ルーズベルトもハルも交渉がうまくいく可能性は少ないと考えたようだが、一応は受けいれたと井川に伝えてきた。そこで井川は、渡米して交渉案づくりを進めることになった。
このような進展に松岡は不快の念を隠さず、井川をいかがわしき人物と批判した。閣議で井川の渡米費用を問題にして、「渡米費用を陸軍から支出するのは怪しからんではないか」と東條につめよった。すると東條も「陸軍は支出していない。岩畔が各方面に働きかけて集めたにすぎない」と応酬し、険悪な雰囲気になった。東條と松岡の意思が疎遠になる一段階だった。
民間の外交交渉は、そのつど武藤から東條に報告された。三月になって駐米大使野村吉三郎が、日米交渉では支那との関係が問題になるだろうから、専門家を派遣して欲しいと陸軍省に伝えてきたのを機に、東條は岩畔を、米国出張という名目でワシントンに送り、井川と野村を補佐するよう命じた。
東條はこの日米交渉にそれほど期待していたわけではない。岩畔を送ったこと自体に、東條の真意はあった。東條は軍事課長の椅子に二年間座っていた岩畔を、さほど重用していなかった。独断専行、スタンドプレイ好きの性格。それ以上に東條が嫌ったのは、岩畔のひんぱんな赤坂通いだった。職務柄とはいえ、彼の赤坂通いは有名で、岩畔自身、それが東條ににらまれたと戦後になって洩らしていたほどだ。アメリカとの交渉の斥候に、こうした性格をもつ岩畔がふさわしいと、東條も武藤も考えたのである。その考えはアメリカヘの軽視があったといわれても仕方がなかった。
渡米前に岩畔は国内の各層に挨拶に歩き、ほとんどが日米和解を望んでいるのに驚いた。アメリカ大使館を訪れ、駐日大使グルーにも挨拶した。グルーはハルに「岩畔大佐は青年将校グループの最も重要な指導者の一人であり、また東條陸相の完全な信任を受けている」と報告したが、アメリカ大使館の電報は兵務局ですべて傍受していて、この電報は、東條をいささか複雑にさせた。
いっぽう当時のアメリカを俯瞰すると、ルーズベルトは三国同盟に不快で、日本の南方政策はドイツ、イタリアの政策に呼応していると考えていた。ヨーロッパ戦線にアメリカを参戦させたくないドイツが、そのため太平洋で日本に軍事作戦を起こさせる、そしてアメリカを牽制する、日本の南方政策とはそういう流れに沿っているではないかというのだった。日米交渉のはじまる前、ルーズベルトは、野村にそれを明言していた。
「日本の南進政策はときに緩急あるも、ほとんど国策として決定しているようにみえる。わが国のイギリス援助はわが国独自の意思だが、日本は三国同盟があり、それに拘束されていて真に独立国とはいえない。ドイツ、イタリアにふりまわされている」
この懸念を、野村も日本の指導者も無視した。
さらにルーズベルトは、国務長官、陸軍長官、海軍長官を呼び、これまでの戦略を分析し、もし日本とドイツが攻撃を加えてきたら、それに対抗できる軍備を完備するのに、アメリカはまだ八カ月は要するとの結論のもとに、軍事・経済面の早急な対応策を命じていた。そして大統領のもとに、陸海軍の軍令、軍政も一元化されているアメリカの指導者として、つぎのような指示も与えた。
「日本とドイツのアメリカ同時攻撃は、いまは五分の一ていどだが、いずれ頂点に達しよう。この事態に対抗するためレインボー計画があるが、事態発生に際しては、なおレインボー計画の実行には数カ月の準備が必要といった非現実的な考えは捨て、現有力でもって直ちに行ないうる手段をとる現実的態度が必要である……太平洋では防衛的態度をとり、ハワイに艦隊基地を置く。さしあたりフィリッピンのアジア艦隊は強化しない」
これを踏まえたうえで、日米交渉の権限を、国務長官コーデル・ハルに委ねることにし、しばらくは日本の動きを見守ろうと決めた。重慶政府からは、日米交渉は無意味だとの蒋介石の電報が届いていたし、駐米大使宋子文(蒋介石の義兄)の強い働きかけもひとまず受けいれたからである。
昭和十六年四月十八日午前、三宅坂の陸軍省軍務局の部屋は喜色にあふれた。
軍務課長佐藤賢了は、武藤軍務局長に呼ばれ、野村から送られてきた日米諒解案を手渡されたが、彼はこれを読んだときの驚きを、のちにつぎのように書いた。「それは困惑したというよりは、若い娘が豪華なファッションでも見たような、そしてまた眉にツバでもつけたいように変に交錯した気持だった」――。佐藤も武藤も、日米交渉を担当することになった軍務課高級課員石井秋穂も、日米諒解案の内容に興奮し、そして東條のもとに飛んできた。
この諒解案は、岩畔、井川とドラウトの三人がお互いの問題点を煮つめて試案をつくり、それをハルが手直ししてできあがったと日本には伝えられてきた。この案では「(一)日米両国ノ抱懐スル国際観念並ニ国家観念」から「(七)太平洋ノ政治的安定ニ関スル両国政府ノ方針」までの七点で合意に達したといっていたが、中心はアメリカが満州国を承認し、支那事変解決の仲介をするというところにあった。しかも末尾では、日米の代表者の会談をホノルルで開き、近衛とルーズベルトが膝を交えて話し合ってもいいとさえいっていた。
東條は、信頼する軍務局の将校たちからこの案の説明を受けるなり、目を細めて、「アメリカの提案は支那事変処理が根本第一義であり、したがってこの機会を外してはならぬ。断じて利用しなければならぬ」と言った。ところが喜色のあと東條は、この裏に策略があるのではないかと疑った。あるいはアメリカが軍事的に不意打ちをくらわせるのではないかとも考えた。あまりにも日本に有利な条件ばかりだったからだ。
「アメリカは本当にここまで譲歩しているのかね。大丈夫かな」
と首をひねった。だが彼は思考の底で、不幸なことに、つぎのように考えてしまったのである。〈日本が強くでればアメリカは譲歩する。これも三国同盟のためだ〉――錯覚のはじまりだった。錯覚といえば、日米諒解案自体が錯誤のなかにあった。実際は、岩畔、井川とドラウトの三人の私案で、アメリカが正式に認めたものではなかった。もっともハルは、目をとおしてはいたが、これは日米の民間人の私案にすぎないと判断したといい、戦後執筆した回顧録では「各項の大部分はみな熱烈な日本の帝国主義者たちが要求しているものであった」と書いている。
なぜこういう錯誤が生まれたのか。岩畔と井川は、この私案作成にアメリカ政府の高官がかかわり、ハルにも閲読させたのだから、アメリカ案と呼んでもかまわないとご都合主義で解釈したのかもしれない。あるいは岩畔は、自分たちのつくったものだといえば、日本政府のだれひとり相手にしないのを承知していて、アメリカ案と偽り、近衛と東條にこれを認めさせようと図ったのかもしれない。もしそういう思惑があったとすれば、それは成功した。近衛もまたこの電報に喜び、日米交渉に期待をつなぐことになったからである。
いや実は、錯誤はまだあった。野村もまた要点をぼかしていたのだ。というのは、四月十六日に野村はハルと会談したが、このときハルは、日米政府がこの諒解案に賛成し、日本政府が野村に対して、これをアメリカ政府に提出するよう訓令するなら、この諒解案を交渉の基礎にしてもいいと言った。そして、自分はこの案に同意できる政策もあれば、修正、抹殺、拒否すべき政策もあるとつけ加えた。しかしハルは、その前提として「四原則」の受諾が必要だと語っていた。この四原則とは、(一)あらゆる国家の領土と主権の尊重、(二)他国の内政不干渉、(三)通商上の機会均等を含む平等原則の支持、(四)平和的手段以外に現状の太平洋を変更しない――である。この抽象的なハル四原則をふりかざして迫れば、満州事変以来の日本の政策と正面から衝突する。アメリカは外交的に巧みな布石を打ったのである。野村は、東京に諒解案は伝えたが、ハル四原則は伝えなかった。東京に示せば反感をかい、交渉が頓座しかねないとみたからである。
一カ月後に、野村がこの四原則を日本政府ににおわせたが、そのときもアメリカがこれを交渉の前提としているのを依然として伏せたままだった。岩畔も、この四原則をハルの要請であることを伏せて、あたかもふたりの神父が望んでいる案文だと曲げて報告していたのである。
さらにアメリカも意識的に日本が錯誤する外交手段をつかった。このとき、アメリカは対英援助を強化し、日本との戦いを回避しなければならなかった。差し迫って四月下旬に英国向けの援助物資を運ぶ輸送船団に、アメリカの軍艦、航空機の護衛をつけることを決めていたから、米独間の衝突も予想され、日本の参戦はくいとめたいと考えた。日本との交渉はその意味でも必要だった。
東條はむろんそのことを知らない。四月十八日午後の陸軍省軍務局での打ち合わせでは、アメリカ側がもちだしてきた諒解案を土台にしつつ、日米交渉の方向をつぎの三点にしぼった。(一)米国は援蒋政策を捨て日支和平の仲介をする、(二)日米両国は欧州戦争には参戦しない、なるべくなら両国協力してその調停を行なう、(三)米国は対日経済圧迫を解除する――。アメリカ側の弱味につけこもうとの意図が露骨にあらわれていた。打ち合わせが終わったあと、軍務局長室で、武藤は「それにしても虫のいい言い分だなあ」とつぶやいたほどだった。
この日午後八時からは、大本営政府連絡会議が開かれ、この諒解案の取り扱いが検討された。会議の空気はなごやかで、東條と武藤の笑顔が目立ったと、出席者はのちに証言している。東條は得意気に発言をつづけ、「この案ではじめるのは結構だが、ドイツとの信義から三国同盟に抵触しないようにすべきだ」とか「アメリカと対峙する軍事的余裕はいまはない」と出席者たちに具体的に説明した。すぐに野村に「原則上同意」の電報を打とうという声もあがった。しかし外交責任者の署名なしにそれはできないということになり、ヨーロッパ訪問中の松岡外相の帰国を待つことになった。
「松岡もこの諒解案には目を細めるにちがいない」
東條は軍務課の下僚に自信満々に言っていた。いや、連絡会議に出席した者すべてに共通の感想だった。
松岡構想の崩壊
松岡洋右が日本を出発したのは三月十二日だった。独伊ソ三国の首脳と会い、対ソ交渉の停滞を打開したいと考える彼は、ドイツを利用しようという肚をもって旅立った。ヒトラー、ムッソリーニと会い、そしてモスクワでスターリンと話しあい、日ソ中立条約を結んだ。彼の思惑は寸分の隙もなく成功した。彼は大連に着いたが、そこで近衛からの連絡を受け、四月二十二日夕刻、立川飛行場に戻ってきた。そこには近衛が一人で迎えに来ていた。松岡の激情的な性格を知っている近衛は、腫物にさわるようにおずおずと彼を迎えた。
宮中では大本営政府連絡会議が、松岡の出席を待ち受けていた。自動車の中で、大橋忠一外務次官から日米諒解案の報告をきいた松岡は、「アメリカの常套手段に乗せられて喜ぶとは馬鹿だ」と不機嫌になった。連絡会議に出席した彼は、一カ月以上に及ぶ外遊を自己宣伝をまじえてまくしたてた。ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンとの会見の様子、それに日ソ中立条約調印のいきさつ。その口がいつ閉じるのか、出席者は長広舌に憤慨しながらも待った。やっと話が途切れたときを見はからって、近衛が、日米諒解案に政府も統帥部も賛成なので、その旨アメリカに伝えて欲しいと発言した。すると松岡は興奮して、「野村大使の対米国交調整はどうも私の考えと違う。この案も米国は悪意が七分で善意は三分だ。とにかくいまは自分は疲れているから二週間ぐらい静かに考えさせて欲しい」とはねつけ、退席してしまった。日米諒解案に反対の間接的な意思表示だった。
出席者たちはあきれ返り、東條はのちに、このときの松岡の態度に愛想づかしをしたと秘書に語っている。が、連絡会議はつづき、「外相はああいうが交渉を促進しよう」と申し合わせたのである。
このあと二週間、松岡は私邸にこもったきりで、外務省職員を呼びつけて執務を進めた。陸海軍の軍務局長、それに近衛自身がなんども松岡の私邸に足を運び、説得をつづけた。「一日も早く諒解案を検討しようではありませんか」「野村大使に訓電を出しましょう」。が、松岡はうなずかなかった。そして本音を明かさなかった。それまで比較的近衛と調子を合わせていたのに、この件に関してはまったく耳を傾けなかった。「松岡をヨーロッパにやったのは失敗だった」と近衛はぐちり、まるで自分はヒトラーやスターリンと並ぶ大政治家ででもあるかのようにふるまうと、不快気に洩らした。
近衛と東條の机には、野村や岩畔からの電報が山積みになった。早く返事をくれという催促である。岩畔の電報はしだいに性急さが増し、アメリカ政界では、ルーズベルトが反日派の要人を遠ざけているという楽観的な見通しも伝わってきた。その楽観を、東條も武藤も額面どおりに受けとらなかったが、それでもいまは逃すべき機会ではないと考えつづけた。
四月下旬、松岡はヒトラーの対英威圧行動に呼応して、東西から攻撃をかけるべく、シンガポール攻撃をすべきだと発言した。明らかにヒトラーの示唆によるものだった。ヒトラーはこのころ対英侵攻作戦を武力一本槍から威嚇と恫喝をも加えた戦略に変えていた。というのは、英国上空の航空戦も海上援英ルート切断もドイツに分がないうえ、アメリカは西大西洋でドイツ潜水艦の哨戒、追跡をして英国海空軍に通報していたし、その数カ月前からは五十隻余の駆逐艦を英国に送り、船団護送の能力を飛躍的に増大させていたからである。この状況を破るため、ヒトラーは三国同盟を有力な武器として利用することにし、日本にシンガポールを攻撃させ、英国に降伏を呼びかけるつもりだった。すでにソ連への侵攻を考えている時期だったが、ソ連は短期間に制圧できると信じていて、これに日本を加えるつもりはなかった。松岡にはヒトラーのシンガポール攻撃という説得は、快く響いたのであった。
もっとも松岡にも思惑があった。イタリア、ドイツと回っているうちに、独ソ関係の悪化を知ったし、ドイツの指導者のひとりは対ソ戦をこっそり洩らした。が、松岡はこれを信じなかった。ヒトラーがソ連と戦うというのに、日本にシンガポール攻撃を勧めるはずはないと考えたのである。もし独ソ戦勃発になれば松岡の戦略は一気に瓦解する。
スターリンはルーズベルトやチャーチルから独ソ戦を伝えられていたが、彼も信じなかった。その根拠のひとつとして、松岡の熱心な中立条約締結への意気ごみを考えていた。もしヒトラーがソ連に侵入してくるのなら、松岡にその意思を伝えたであろうし、松岡がヒトラーの嫌う中立条約を結ぼうとするはずはないというのだった。このようにヒトラーとスターリンには、松岡はキャッチボールのような存在にすぎなかった。
四月二十五日、東條は近衛に呼ばれて首相官邸執務室に入った。そこには及川海相もいた。近衛は、ふたりに、松岡のシンガポール攻撃発言にどのように対処するかの意見を求めたいと言った。及川はとりあうべきでないと言い、それに東條も同調した。
「これは軍事上の問題であって文官が口だしすることではない。それにこういうことを簡単に言ってはいけない。軍事的準備も攻撃のための基地も必要なんだ」
と、東條はつけ加えた。近衛もその意見に諒解を示した。
「現在は支那事変処理が根本義で、アメリカの提案も日本側のこの要望に沿っている。だからこの機を逃すべきではない。ヒトラーにふり回されたら、すべて台なしになってしまう」
という東條の見解に、近衛も及川も諒解を示したので、これが政治、軍事指導者の結論となった。松岡の言動に愛想づがしをし、その不遜な態度を怒る限りにおいて、三人の意見は一致した。ひとたび松岡の話題から外れると、微妙な食違いがてきるのだが、それはこのときは隠されていた。
五月三日の大本営政府連絡会議に、松岡はやっと出席した。彼はいきなり私案を提出した。この二週間、自宅でまとめた構想であった。支那事変処理に役立ち、三国同盟に抵触せず、国際信義を破らざること――の三点を中心に、日米両国による英独調停条項の明記、支那事変の和平条約公表を差し控えること、武力南進せぬという日本の確信を削除することなどが盛りこまれてあった。第二次近衛内閣発足時の国策基準に注意を払いながら、しかも日米諒解案の曖昧な部分を拾いだす内容だった。
この案の説明で、会議はまた松岡の独壇場となった。出席者に異議をさしはさむ余地を与えなかった。昨日まで日米諒解案に賛成していた者はたちまち腰くだけとなって、松岡案にうなずきはじめた。みごとな豹変ぶり。これはどうしたことだろうか。松岡の説得が巧みだったためか。それもあろう。三国同盟の要である第三条の参戦義務〈アメリカの対独参戦は自動的に日本が対米戦争となる〉を骨抜きにしている日米諒解案を受けいれるのでは、ドイツの勝利に乗じるだけの便乗主義者ではないかという松岡の言にひるんだのでもある。
が、実際は近衛も東條も、松岡に抗するだけの経綸をもっていなかったのだ。日中戦争解決にアメリカを利用するという身勝手な思いに憑かれていただけで、そこを三国同盟の重みによってアメリカに抗しようと松岡に指摘されると、とたんに弱くなった。三国同盟を結んでアメリカと敵対し、その舌の根もかわかぬうちにアメリカと平和共存しようとするのは虫がよすぎるという外務省長老の懸念を、松岡は逆説的に証明してみせたのだ。三日につづいて八日にも連絡会議が開かれたが、松岡の弁舌は出席者の心をさらにつかんでいった。
八日の夕刻、陸相執務室で東條と武藤は苦い思いで会話を交していた。……まったく松岡の言動は不遜だが、彼の説得にも一理ある。日本は信義を守る国として、三国同盟を守りぬき、それを忠実に履行することで世界に範を示さなければならない。もし日本がこれを反古にしたら、世界から信義を守らぬ国と糾弾されかねない。
「アメリカが対独参戦した場合、日本はどのような態度をとるべきか、これを詳細に検討してみなければならん。軍事的に確認しなければならん」
東條の言に武藤はうなずき、軍務課高級課員石井秋穂に検討を命じた。二日ほどして石井の報告が届いたが、現在の日本軍事力からみて三国同盟第三条に拘泥することなく、当分は情勢を傍観しているほうがいいとの内容だった。これには武藤も東條も同感だった。三国同盟の精神に反するが、現実には簡単にアメリカと武力衝突するわけにはいかぬというのが、彼らの考えだったのである。
五月十二日になって、松岡の修正案が野村に送られた。外務省が野村に宛てて送った電報の控えは軍務局軍務課に届き、それから佐藤賢了、武藤章そして東條に回ってくることになっているが、松岡は三国同盟に関して「第三条ニ規定セラルル場合ニ於テ発動セラルルモノナルコト勿論ナルコトヲ闡明ス」と訴え、日中戦争については「米国大統領ハ……日本政府ノ善隣友好ノ政策ニ信頼シ、直チニ蒋政権ニ対シ平和ノ勧告ヲナスベキ……」としていた。その高飛車な内容に、東條は感服と不安を感じていたのである。
この修正案は野村からハルに手渡されたが、ハルはそれを受け流した。のちに彼がまとめた回顧録には、「この提案からは希望の光はまったく浮かんでこない。日本は自分の利益ばかりを主張している」とあるが、彼はこのとき、日本は太平洋の人口と富の九〇%を支配しようとしていると思ったと言っている。
そのように、ハル個人にとっては絶望的な提案だったが、国務長官としては、交渉打ち切りは考えなかった。三国同盟から日本を脱けさせる機会がすこしでもあるのなら、その窓口を閉じてしまうのは賢明ではない。日本をドイツからひきはなせるなら、ドイツには打撃になるであろうし、英国には援軍となると考えた。
それに交渉の切り札は彼らが握っていた。アメリカの諜報機関は、日本の大使館と東京の外務省をつなぐ電報を傍受し、その解読に成功していた。「マジック」と呼ばれるこの電報は、アメリカ政府と陸海軍の指導者十人に回されていた。東京から送られてきた修正案の中心的な提唱者は外務大臣の松岡洋右であるのを、ハルは「マジック」で知っていたし、三国同盟の頑強な信奉者である松岡を、当面の危険分子とみなし、いつか要職から外させようと考えていた。
ハルが松岡に不快の念をもったころ、日本国内でも松岡への不満は頂点に達していた。修正案を上奏したときに、松岡は、「アメリカ参戦の場合、日本はドイツ、イタリアの側に立たなければなりません」といったが、天皇はこれに不満で、内大臣木戸幸一にそれを洩らした。それが近衛にも伝わってきた。連絡会議や閣議での松岡の長広舌は一段と激しくなり、偏見と独断が自在に闊歩しているという感があった。東條や及川に、南方に武力行使せよというかと思えば、重慶工作はどうなっているのかと、松岡は詰めよった。
東條は激して反論した。「外相の意見はすべていま進めようとしている日米交渉を壊そうとするものばかりでないか」。省部に帰っても東條の興奮はおさまらなかった。「松岡は独走しすぎる。その心情はわかるが、ああいう態度ではまとまるものもまとまらなくなる」。近衛もいまや苦い反省のなかにあった。組閣時の周囲の反対を思いだしていた。それでも閣議が終わるたびに、日米交渉を進めたらどうかというのだが、松岡は一蹴した。
「軍首脳部は弱腰すぎる。ドイツ、イタリアに不義理を重ねて日米交渉を成功させようとしているようだが、そんな弱腰ではだめだ。アメリカは参戦に決まっているからいくら交渉しても駄目だ」
激するあまり、松岡の目は近衛をにらみつけていた。
「松岡を更迭しろ」――近衛の周囲で声があがった。ところが近衛は、厭気がさしていて、自ら身を退くといいだした。それが彼の性格だった。彼はいつもそうだった。内大臣木戸幸一がそのたびに慰めた。
「内閣が総辞職する必要はない。松岡を退めさせるといい」
気をとり直して、近衛は執務室にはいっていった。そういう近衛を東條が慰め、アメリカとの交渉に全力を尽くそうと訴えた。意固地な松岡、優柔な近衛に比べ、東條はまだ性格が曖昧にされていて、円味があると思われていたときである。なにしろこのころの東條は、強硬に自説をふり回し、それを相手に認めさせるという気負いが薄れているように見られていたのだ。むろん松岡という憎まれ役がいたからである。
当時の様子を秘書官赤松貞雄はつぎのように証言している。
「東條さんもほとほと松岡さんには手を焼いた。しかし近衛さんもだらしがないと思っていたようだ。近衛さんのほうが東條さんを頼ってくることが多く、近衛が厭気をだしている≠ニいう情報がはいってくると、それでも官邸に行って励ました。東條さんを陸相として、はじめはお手並拝見と冷やかにみていた陸軍の長老も、しだいに東條さんの実力を評価していったんです。何しろ、東條さんは省部をきちっと引き締めましたし、着実に連絡会議のまとめ役になっていましたから……」
東條は、しばしば省部の将校を集めて訓示をしたが、そこでは「与えられた仕事は必ず中間報告をせよ」とか「決断を急ぎ、それを確信をもって報告せよ」とくり返し、それを服務の心がまえとするよう厳命した。畑、板垣陸相時代の軍務局が陸相をふり回した時代にかわって、東條が陸軍をコントロールする時代にはいったのである。しかも人事を自らの信頼する部下で固めたので、東條の威令はいっそう浸透することにもなった。部下のなかには兵務局長田中隆吉のように、武藤にライバル意識をもち、東條の腰巾着として積極的にふるまう者もでてきた。彼は信頼する憲兵に命じて、要人の電話盗聴、小型カメラをつかっての写真撮影などを行ない、それを得意気に東條のもとに届けて忠勤に励んだ。もし東條が均衡のとれた指導者であったら、こうした田中の処置をそくざに中止させただろうが、彼はむしろ、この情報に興味をもちすぎてしまった。陸相官邸の執務室に座っていて、近衛や木戸、そして議会の有力者が何を考え、誰に会い、どのような話をしているのかがわかるとあれば、必要以上に関心を示してしまうのも無理はなかった。
昭和十六年五月、東條は軍事調査部を大臣直属の機関に改め、他の者が命令を下せないようにした。この組織を正規の組織図からはずし、実態を不明にして陸軍以外の政策集団の動きを把握する機関に変えた。そのうえで部長に武藤の言をいれて、武藤と同期で親交もあり、かつての一夕会系の将校でもある三国直福を据えた。長い間、陸軍省の新聞班にいたことのある三国は、新聞記者や情報屋とは親しいつきあいをしていたので、ひとたびこの組織が機能しはじめると、近衛の動きや海軍、そして外務省などの動きが克明にはいってきはじめた。いずれも新聞記者がもちこんでくる的確な情報だった。
この種の情報には、松岡の悪評が多かった。彼の外務省内の立場は堅固とはいえず、「児戯に類する無軌道外交」と批判する英米協調論者の声が多いという情報も入手した。長老の幣原喜重郎や有田八郎らがその代表で、松岡の得意な様子は事象を単純に見ているからで、各国の指導者は松岡に手玉にとられるほど単純ではないといっているというのであった。
東條は、実際には、松岡が自説に固執し、その性格をむきだしにすればするほど彼の孤立感が深まる事態を知った。そして孤立感がいっそう進んだらしく、松岡は奇妙な行動をとりはじめた。外務次官大橋忠一や外務省の局長クラスの官僚が、秘かに松岡の使者として東條のもとにやって来て、翌日の閣議で発言する内容を話していったり、極秘の情報を伝えていったりするようになったのだ。
東條と陸軍の政治的地位を、松岡は自らの陣営にひきつけようと画策しはじめたのである。
独軍のソ連侵攻
陸軍省の実力者となり、閣議でも重みのある発言をするようになっても、あるいは近衛や松岡にそれなりに遇されるようになっても、東條自身は充足感を味わったわけではなかった。彼がもっとも気にしているのは、天皇との関係だった。
陸相になってはじめての上奏で、「身体のふるえがとまらなかった」と、赤松貞雄に述懐したとおり、東條の上奏はいつまでもその緊張ぶりのなかでつづいていた。彼も他の陸軍の将校と同じように、天皇が陸軍を信用していないのを知っていた。しかも三国同盟には賛成でない様子を示しているともきかされていた。英国流の教育を受けた天皇は、独伊の側に好意をもっていないのは公然の秘密だったのである。
天皇が陸軍を嫌っているのは、そのほかにも理由があると噂されていた。これまでの陸相や参謀総長の杉山元が、天皇のまえで、前回と異なったことをいい、あるいはちぐはぐな言い訳をし、ときに質問されても答えることができず、「次回に詳細をご報告いたします」と退出して、あわてて部下に説明を求めることもあったからだ。ところが東條は、メモをとり克明に整理することでほとんどを暗記し、天皇のどんな質問にもこたえた。それが細部にまで及んだ。前任者の態度とはまったく異なっていた。面接試験に答える生徒の図であるにしても、東條の上泰態度には、天皇の疑問にこたえ、不安をなくする、それこそが政務を輔弼する自らの責任だとかたく信じている節があった。それが天皇の信頼を得た理由だと、省部では信じられた。
「われわれは人格である。しかしお上は神格である」
上奏のあと、きまって東條は赤松にそう言った。
「今日はお上にやりこめられた」
ときには宮中からの帰りの車の中でつぶやき、子供のように頬を染めた。
松岡の自信がぐらついたのは、六月五日、六日に、大島駐独大使から届いた電報によってであった。大島の電報は、独ソ戦開始必至を告げる内容であった。彼はヒトラーに体よくあしらわれたのを自覚しなければならなかった。日独伊の同盟にソ連を加えるという構想が崩壊するのを知らされた。
この電報は近衛や東條をも驚かせた。東條と軍中央の将校たちは、その可能性を信じつつも、〈ヒトラーは本当にソ連に進出するつもりなのだろうか〉と首をひねった。もしこれが事実なら何と大胆な決断をするものだろうと誰もが思った。しかしもしこれが事実となったとき、どのような対応をすべきか、陸軍省も参謀本部も検討にはいった。彼らは甘い夢の中にいるのではなかった。
この検討のとき、将校たちのなかにはある先入観があった。大島の電報には、独ソ戦開始後二、三カ月の間にドイツはソ連を制圧するだろうというヒトラーとリッベントロップの話が盛りこまれていたからだ。これに刺激されたのか、参謀本部は、数カ月を経ずしてドイツの勝利に終わるだろうといい、つぎのようなソ連の国力弱体化の数字を指摘したのである。「独ソ戦の作戦限度を二、三カ月と設定し、レニングラード、モスクワ、ハリコフ、ドンバス、バクーを喪失せるものとせば、ソ連国力上の喪失は次の如しと判断せらる。電力の五分の三、石炭五分の三、石油四分の三、穀物七分の二、人口四分の三」――」
これに反し陸軍省はそれほど楽観はしていなかった。ソ連の国力と人的資源、それに強力な政治体制を見れば、その抵抗は長期化し、ドイツは、ちょうど日本が支那で困惑しているのとまったく同じ状態になるだろうと考えた。安易にドイツの勝利を信じたわけではなかった。
しかし参謀本部にも陸軍省にも、共通の認識はあった。南進政策を棚上げしても、ソ連攻撃を考慮してもいいという点だった。たとえ緒戦は傍観していても、その後ドイツ有利が定着したならソ連攻撃に踏み切ろうとの方針を採用したいというのが、政策起案の将校の判断となった。陸軍省の方針は、東條にも届いたが、東條もこれに異議はなかった。それに東條は、大島の電報を読んでも独ソ戦を信じているわけではなかった。
このときの海軍内部の様子はどうであったか。〈独ソ戦可能性あり〉の電報に、海軍の指導者たちは、陸軍が支那事変も処理せずにまた北方でソ連と対峙することになったら……と恐れた。むろんここにはふたつの意味があった。陸軍の暴走を恐れる気持と、この戦いによって戦略物資を陸軍にもっていかれるという不安。そうすれば海軍の戦備はまた遅れてしまう。それにこのころ海軍内部、とくに軍令部の中堅幕僚のなかには、〈対米戦争やむなし〉の声もあった。アメリカが英国、オランダと手を結び、軍事網を強化しつつある様相を感じるにつれ、日本は南方進出で自給自足体制を確立することが先決であり、そのため対米戦争は不可避という論理であった。海軍内部に微妙な亀裂が生まれていたのである。
こういう日本の政策集団の亀裂を見ぬいたかのように、アメリカが巧妙な提案をしてきたのは六月二十一日(ワシントン時間)である。この日、ハル国務長官ははじめてアメリ力側の対日政策を野村に提示した。三国同盟、武力南進、中国駐兵の三点について厳しい原則論を展開し、それに加えて重大な口上書がつけてあった。「……不幸にして政府の有力なる地位にある日本の指導者中には、国家社会主義の独逸及びその征服政策の支持を要望する進路に対しぬきさしならざる誓約を与え居るものあること及び……」、ハルの口上書が誰を指しているのかは明らかだった。
ハルが野村にアメリカ側の案を手渡して九時間後、ドイツはソ連に進撃した。すでにこの事実をつかんでいたアメリカは、この戦いによって局面はかわり、国際情勢は根本的にくずれると判断して、松岡の枢軸依存外交へ揺さぶりをかけてきたのである。
ルーズベルトは、ドイツ軍のまえにソ連軍は崩れるだろうが、それには二、三カ月を要し、この期間はドイツ軍がソ連に専念することになろうと推測した。そしてその間に危険を除かなければならない、対日交渉はその二、三カ月間に解決すべき問題であると考え、ハルの提案もそこを計算していた。
独ソ戦の報が入ったとき、東條はちょうど官邸執務室にいた。「独軍、ソ連に進撃」というニュースを通信社からとり寄せて点検したあと、彼は武藤や佐藤ら軍務局の将校たちを呼んだ。このころから東條を支える五人の将校がはっきりしたが、武藤、佐藤に軍事課長真田穣一郎、軍事課高級課員西浦進、軍務課高級課員石井秋穂、彼らがブレーンであった。戦局の推移、国内の動向、それにどのような対応をするか、五人で打ち合わせをした。その結果、当分は見守るだけでとくに新しい行動をとらぬことを決めた。対ソ攻撃、南方進出も様子を見たあとで慎重に対応することにしたのである。
このあと、東條のもとに企画院総裁鈴木貞一が駈けつけ、近衛の伝言を伝えた。「ドイツが同盟国の日本に相談することなくやったのだから、この機会に三国同盟の破棄をしたらどうか」。たしかにそのとおりであった。
突然、独ソ不可侵条約を結び、いままた一方的に反古にしているのだ。信用せよといっても一方的すぎる。だが東條はつぎのように答えて、鈴木を追い返した。
「そういう信義を欠くことはできぬ」
この回答は、東條の自己満足でしかなかった。
二十三日、二十四日。国内では独ソ戦に伴うさまざまな波紋が起こったが、それはすべて東條の耳にはいってきた。二十二日の夜、松岡が誰にもはからず単独で天皇の前にでて「独ソ開戦した今日、日本もドイツ、イタリアとともにソ連を討つべきだ」といい、天皇から近衛に相談しろと注意されているという報告がはいった。
だが東條を驚かせたのは、二十四日に届いた野村からの電報であった。この電報は、日米諒解案が私的提案であったというのである。「話がちがう」と、彼は電報を読むなりつぶやいた。日米諒解案をアメリカの公式提案と思いちがいしていたのを、この電報ははっきりと教えたのである。いまや諒解案にあった甘い感触はどこにも見当たらなかった。
「アメリカの対日外交は謀略ではないか」
東條は、武藤や佐藤、石井を呼んで確かめた。彼らも困惑していた。しかしそれにしても、彼らには取り組まねばならぬ問題が多かった。だが松岡への同情だけはあった。「松岡が怒っているのも当然です。日本の内閣改造を要求するなど言語道断、これでは属国扱いだ」と佐藤は興奮したが、東條は「松岡が怒るのは同情できる」とだけ言って、松岡の強硬な態度と野村への姑息な訓電が、結局日米交渉を袋小路に追いこんだのだと考え、なんらかの譲歩によって対米交渉をつづけるのはやむを得ないと決断したのである。軍務課の石井秋穂は、当時、東條のそのようなことばを直接きいている。
事態が錯綜するにつれ、陸軍の最高指導者の一挙手一役足は何かの理念に基づいて動かなければならなかった。東條にはどんな理念があっただろうか。結論をいえば、彼も他の陸軍指導者がそうであったように、なにひとつ理念はなかった。しかし状況に対応する姿勢はあった。東條の有能な部下で、彼の政策を立案した石井秋穂は、このころ東條の部下として服務の心がまえをつぎのように据えていたと証言している。
「支那事変処理に当たってみると、米英の経済妨害で思い切った解決策はとれない。しかも世界は地域的ブロック経済の方向にむかいつつある。日本としては南方の資源、とくに蘭印の石油を充分に入手できる態勢を固めなければならぬ。ヨーロッパ戦線でのドイツ軍の勝利、そしてソ達への進撃を見るに及んで、これは好機だ、国の死活にかかわるほどの大戦争にならない限度において少々強硬策を用いてもこれを達成すべきだ。それが陸軍省将校の私の考えでした」
石井の言は陸軍省将校に共通の考えで、それはひらたくいえば、「支那事変完遂のため、この際、南方に出て見て資源補給と援蒋ルートを切断する。英米経済ブロックからの脱出という意味でもそれは必要だ」という考えで、とくに陸軍省の南方進出論者佐藤賢了の影響下にあった思考形態だった。
さて独ソ戦開始、アメリカからの回答文という情勢は、一年前に近衛、松岡、東條、吉田の四相でまとめた国策の方向と、それを承認した近衛内閣の国策基準との間にズレが生じたことを裏づけた。そこで新たに連絡会議で国策の方向を決定することになった。このときの出席者たちは、これまでの経緯にとらわれず、さまざまな考えをもっていた。軍令部は自給自足体制を唱えて南進論を言い、そのために「対英米戦ヲ辞セス」といった。参謀本部の将校は、伝統的な日本の戦略に戻って即時対ソ開戦論、陸軍省は南進論をいい、海軍省の態度は不鮮明だった。そして松岡は、対ソ一撃論を唱えるかと思えば、英米との衝突やむなしと発言したりする。
連絡会議での松岡発言は、神がかり的で、出席者の誰もが辟易した。南進論を唱える軍令部総長永野修身や東條に向かって、「我輩の予言は適中する。南部仏印に進駐すれば石油、ゴム、スズなどは入手困難となる。英雄は頭を転向する。我輩は先般南進論を述べたるも、今後は北方に転向する」といったりした。出席者たちは、あきれながら彼の顔を見ていた。このとき東條が唱えた南進論には、本来の陸軍省を代弁する立場からのものもあるが、松岡の意見を押えるための牽制という意味ももっていた。
連絡会議と前後して、東條のもとには、参謀本部の将校が北進論を掲げて説得に来た。対ソ論はかつての皇道派将校の間に強く、荒木貞夫も東條のもとを訪ねてきた。つけ加えれば、そういうとき東條がやわらかい応対をしていれば、軍内での反感も広まらなかっただろうが、東條の姿勢は〈軍内の様子も知らないくせに……〉という態度で一蹴してしまうのが常だった。
参謀本部の将校や連絡会議での松岡の北進論にたいする反論は、つぎのようなものだった。
「たしかにドイツとともにソ連を攻撃するのは、対ソ戦を玉条にしてきた日本の必然的な道であろう。だが問題がないわけではない。日本陸軍の四十九個師団のうち二十七個師団をもって支那事変を戦っているのだから、対ソ戦を行なうとすれば、この師団を減らしてソ連にふりむけなければならん。支那事変を途中でやめるわけにはいかん。これにたいして南進論は、それほどの師団を必要としない。日本の自給自足を優先させるには、資源の豊富な地域を押える道を選ぶべきだろう」
陸軍省の政策立案の筆をとる将校には、このあとに、東條の「南方進出というのは、単に南方へ進出するというのではない。大東亜共栄圏の確立、これが大切なのだ。これを必ず起案のなかに入れるように……」ということばがつづく。石井秋穂には、「おい、大東亜共栄圏を忘れるな」ということばが、執拗に吐かれていたのである。
ジリ貧論の台頭
国策決定の最高機関は御前会議である。もっとも御前会議の討議は、陸軍、海軍、政府、外交当局によって討議されつくして案をつくり、それを大本営政府連絡会議が承認して、御前会議で追認するのである。現在、『杉山メモ』によって会議の模様を知ることができるが、この書の行間をたどると、連絡会議も御前会議も「字句いじり」で労力の大半を費していたとみることができる。
昭和十六年七月二日の御前会議は、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を決定した。全文八百字余だが、内容は重大だった。南方進出の態勢強化のため「対英米戦ヲ辞セス」とあり、北方には「帝国ノ為有利ニ進展セハ武カヲ行使シテ北方問題ヲ解決」と唱えていたが、南進論と北進論の面子をたてた中途半端な案であり、その字句の解釈も多様だった。
この会議の終わったあとの東條は、参謀本部と陸軍省のどちらの言い分もほどよく盛りこまれていると上機嫌だった。だがはね返りはすぐにきた。参謀本部第一部長田中新一は対ソ開戦論の強硬な信奉者だが、御前会議の数日後、東條のもとにきて「対ソ威圧のため関東軍増派を認められたい」と言ってきたのだ。東條のこの時点での考えからいえば拒否しなければならなかった。だが御前会議の決定を楯に迫られると、断わりきれなかった。結局、東條はこれを認めた。内地軍二個師団、朝鮮方面軍二個師団、それに作戦資材の満州集結案は、杉山参謀総長から上奏され、|允裁《いんさい》を受けた。このとき、天皇は軍事的な危惧を洩らした。
「動員はこの際やむをえないものとして認める。ただし北にも支那にも仏印にも、八方に手をだしているが、結局重点がなくなりはせぬか。この点は将来よく注意せよ。また従来陸軍はとかく手を出したがるから、このたびはとくに注意して謀略をやらぬようにせよ」
杉山からこの話をきいたあと、東條は神経質に関東軍の動向に注意した。すると案の定、動員が一段落してから、梅津関東軍司令官から、敵機が来たら独断侵攻もありうるがと打診してきた。参謀総長の杉山と東條はあわてて返電した。「関東軍は満州の国境内で反撃を止めるのを原則とする」――かつての東條の強硬電報は、梅津には苦い思い出として回想されてきたにちがいなかった。〈聖慮には叛いてならぬ〉それを彼はいいつづけ、天皇が嫌っている松岡への態度も、新たにその枠で考えることになった。
アメリカとの外交交渉を主題とする連絡会議では、松岡は相かわらずの興奮状態にあった。
「ハルの無礼な声明を拒否、即時対米交渉の打ち切りを行なうべきだ」。だが誰も同意しなかった。松岡をもてあまし敬遠しているのが明らかだった。三国同盟の締結以来、シンガポールの奇襲攻撃を説き、やがて即時対ソ開戦論に転換した。その間の大風呂敷をひろげ、外交はおれにしかわからぬという態度、しかもヒトラーやスターリンには軽くいなされた外交手腕。彼には確かな分析力も進むべき方向を見定める眼もない。そして何より彼には天皇の信任がなかった……。
七月十五日、松岡が欠席した閣議のあと、近衛は平沼騏一郎内相、及川海相、それに東條を呼びとめ、松岡の罷免をそれとなくもちだした。東條にも異論はない。それどころか内相と海相を制して言ったほどだ。
「これまでなんとか協調していきたいと努力してみた。だがもう限界にきている。こうなったら総辞職か外相更迭しかない」
近衛は喜び、アメリカの要求を受けいれたように見えぬように、形式だけの総辞職をしようと言った。松岡にさとられぬような秘密行動で、近衛の総辞職劇は進み、予定どおり重臣会議で近衛が推され、第三次近衛内閣が誕生した。七月十八日である。外相には海軍出身の豊田貞次郎が座り、東條は陸相としてとどまった。
このときの松岡の悔しさを示す挿話がある。
第三次近衛内閣が発足してまもなく、陸相官邸にひとりの訪問者があった。「松岡の代理の者です」といって東條に会うと、一通の書簡を「松岡が泣いて書いたものです」と預けて立ち去った。巻紙に墨書した書簡。その長さは十五メートルに及んだ。
書簡に目をとおした東條は、そこに、松岡の怨みを感じた。文面の前半には近衛への難詰があった。「小官は御承知の通りの性格にて人を寧ろ善解せんと勤むる者故、多くの情報あるに不拘昨夕までは例の公爵逃出しの病出でたり、さるにても恰も此時とは如何にも困った事也位に考え居たり」「即ち今回突然の挙は予め企まれたる小官逐出しのクーデターなりと言う事明瞭となれり。実に情なし。而もそれは驚くべき迷なり」――。松岡の近衛不信もまた深かった。近衛の人間性だけでなく、その政治姿勢も強く批判されていた。
さらに「三国同盟締結、独伊の外相との提携」は、よほど肚をすえて行なわなければならぬことだといい、胡魔化しや弁明外交はもはや効果なしといった。「大東亜共栄圏は此儘にては夢なり、英米と結びて大東亜圏は愚か支那問題すら解決出来るか」と糾弾した。だが松岡の書簡には肝心なことが欠けていた。それを東條が知った様子はない。欠けていたのは、では日本はこれからどういう外交を行なうべきかが明らかにされていないことだった。このような助言ができなかったのは、松岡外交が、完全に崩壊したことを意味していた。
東條はこの書簡を、誰にも見せず、また語らなかった。しかしカツにだけひとこと言い添え、「歴史的に貴重だから残しておくよう」と手渡した。
「松岡も気の毒な男だ……」
東條は心を許した部下にポツリとつぶやいている。
松岡も気の毒な男――その述懐はたしかに東條には本音であったろう。……当初、松岡は外交構想をもっていた。この構想に賛意を示した近衛は、周辺の反対を押し切ってまで外相に据えた。そして彼の構想ははじめ円滑だった。日独伊ソの四国連合、それによって英国と重慶政府に打撃を与え、アメリカに対しても軍事・経済面で均衡状態を維持でき、それで世界戦争の抑止力になると信じた。
実は近衛も東條も、松岡構想に賛意を示しつつ、三国同盟は四国同盟の一里塚と諒解していた。ところが日ソ中立条約は本来の構想からはみでた一里塚だったのだ。そして独ソ開戦。この前日に四国同盟の推進者の罷免を、アメリカが要求してきている。松岡はサンドバッグのように叩かれ、その政治的役割を終えた。
近衛と東條、それに及川らが松岡を閣外へ放逐したのは当然の結果といえた。
松岡は十三歳のときアメリカ遊学にでかけ、二十二歳でオレゴン州立大学で法律を学んだこともあって、〈アメリカのことは自分がよく知っている〉という自信をもっていた。彼のアメリカ観は、一言でいえば「目には目を、歯には歯を」で、アメリカ人とは、たとえ暴力をつかっても抗していくことで、かえって友人になれるというのであった。それが彼のアメリカ観につながっていた。
だが結果的に、松岡はそのアメリカから、いま手ひどいしっぺ返しと屈辱を受けたのである。
松岡を追いだしただけの第三次近衛内閣が最初に取り組んだのは、南方問題の処理だった。七月二日の御前会議決定「南方進出の歩を進め、これがため対英米戦争を辞せず」に沿って、フランスのヴィシー政権との間で仏印共同防衛の交渉をはじめていたが、これが成功し、七月二十九日にダルラン仏外相と加藤友松大使との間で議定書が交された。日本軍の平和進駐は決まった。この年春から東京で進めていた日仏経済交渉で、経済協定をまとめたにもかかわらず米や生ゴムなどの輸入もとどこおりがちだったのが、この進駐によって必要量は確保されることになった。しかも新たに南方資源も手に入れることができることになったのである。
しかし、日本の南方進出が予想される段になって、アメリカは神経をとがらせた。野村大使の電報は、ルーズベルトが日本への石油禁輸をにおわせたと伝えてきた。
「世論に、私は日本に石油を与えるのは太平洋平和のために必要だと説得してきた。だが日本が仏印に進駐すると、わたしの根拠は失なわれてしまう。わが国にしてもスズやゴムの入手が困難になり、フィリッピンの安全も脅かされるとあっては、石油の輸出はとうてい無理だ」
その警告を、陸海軍の指導者は真実味のあるものとして受け止めなかった。むしろここで退いてはアメリカの属国だと思われると、短絡的な発想をもった。そしてひるみがちの近衛首相と豊田外相をリードした。のちに近衛は、南方進出には賛成ではなかったが、軍部との摩擦を懸念してやむをえず同意したと弁明している。
「もし本気で全面禁輸とするなら、日本との戦争決意を固めたことになる。そこまでは踏みきらぬだろう」
それが野村の電報を見た陸海軍の指導者たちの感想だった。むろん東條もそのひとりだった。
七月二十五日、日本は南部仏印の進駐を発表した。すると、アメリ力と英国は、翌二十六日、国内の日本資産の凍結を命じた。オランダもこれにつづいた。さらに英国は日英、日印、日緬の通商条約破棄を伝えてきた。蘭印当局も日本資産凍結、対日輸出入制限、石油協定の停止を発表した。
このときになっても、陸海軍の将校は〈石油禁輸〉に及ぶことはないだろうと考えた。なぜならそのことは、アメリカが日本との戦争を決意する意思表示になるはずだと一方的な根拠を理由にした。二十八日からの三日間、日本軍は南部仏印に進駐した。
ところが応酬のパンチはすぐに返ってきて、ホワイトハウスは対日石油輸出の全面停止を発表した。原棉と食料を除いては全面的に通商を不許可とするとつけ加えた。このとき日本の石油貯蔵量は四、二七〇万バーレル。当時の消費量からみると、一年半が限度であった。しかも石油の供給先はアメリカが八○%、のこりはボルネオと蘭印。アメリカから供給がストップすれば、日本の立場は一挙に奈落の底に落ちこむ。
この発表があった夜、東條は秘かに近衛の私邸に呼ばれた。近衛は衝撃のためか沈痛な表情を崩さなかった。アメリカの処置に何らかの前向きの措置をとるつもりだと彼はいい、日本は仏印以上に進駐するつもりはなく、支那事変解決後は撤兵し、フィリッピンの中立も保証してアメリカの怒りを鎮静する方向で打診してみようと打ちあけた。だが東條は、その提案のなかに受けいれられるものもあれば受けいれられないものもあると反論し、連絡会議にはかるまえにもうすこし情勢を見て検討したいと答えた。
しかしその答は甘かった。実際に石油が全面禁輸になると、〈アメリカは日本を包囲して存亡を絶とうとしている。座して石油の絶えるのを待つか。それとも貯蔵量のあるうちに活路を求めるか〉の単刀直入な問いが、陸海軍の中堅将校によって発せられるようになったのである。海軍は石油を何よりも重視していたが、ここにきてジリ貧論が一挙に台頭し、機先を制して開戦もやむなしの声が高まった。海軍を頼りにしていた近衛首相は、ますます表情を堅くするだけだった。強硬論は海軍だけではない。陸軍でもこの状態をみて、七月二日の南方施策要綱を作文で終わらせては意味がないと、「対英米戦ヲ辞セス」の字句を具体化しようとする将校があらわれた。
東條のもとに、御前会議の決定に沿って、開戦もまたやむなしの文書をもって駈けつけてきたのは、軍務課高級課員石井秋穂だった。彼は、この案を省部の将校に見せて説明をつづけたが、〈対米戦争〉という現実のまえに誰も明確に同意はしなかったので、いきなり東條に届けたのだ。
私の取材に応じた石井は、「正しい史実を後世に遺したい」と前置きし、つぎのように当時の状況を証言した。
「蘭印の油を入手できる態勢をとることは日本の急務でした。南部仏印進駐に踏み切ったものの資産凍結にぶつかり、自存自衛という目的で開戦を考えました。それは七月二日の御前会議の当然の帰結でした。直接的なこの発想が、相手に格好の言い分を与えたという指摘は、戦後判明した資料により認めざるを得ません」
ところが東條は、石井の案を押し戻した。「これはあくまでも陸軍内部のことだ。閣議にとおすことはできない。石油の全面禁輸を受けたからといってすぐに戦争というわけにはいかぬ。閣議や連絡会議はそこまではいっていない」。しかし状況を的確に把握し、御前会議の決定を真に理解している者がここまで考えるのは当然だと、東條はつけ加えるのを忘れなかった。遠回しに、御前会議決定が、それぞれの集団を代表する出席者にいかようにも解釈されるという事実を認めたのである。
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「あなたとはもう話せない」
幻だった日米首脳会談
八月五日、東條と及川海相は、近衛から官邸執務室に呼ばれた。ふたりをまえに、近衛は言った。
「このまま野村に、ハルを相手に交渉をつづけさせても進展の見込みはない。またアメリカ側の要求をあるていど呑まねばならないが、そのためには、私が直接交渉にのりださなければならないと思う」
東條と及川は、近衛の焦燥を知った。実際のところ、近衛は、戦争に著しく傾斜しつつある陸海軍の動向に悩んでいた。軍令部総長永野修身は、上奏した折りに、「むしろこの際、打ってでるしかなしとの考えが適当かと存じます。勝敗は日本海海戦のごとき大勝は勿論、勝ち得るや否やも覚束ないのでありますが……」といったというし、ジリ貪論が参謀本部にも沸騰しているという報告も受けていた。海軍内部の日米交渉に積極的なグループの存在は、近衛のもっとも頼りにするところだったが、彼らがジリ貧論のまえに声を弱めつつあることに、近衛はいっそうの不安をかきたてられた。そして、彼が最後ののぞみとして思いついたのは、ルーズベルトと直接話し合うことだった。四月に届いた日米諒解案の末尾には「日米両国代表者間の会談をホノルルにおいて開催する」と謳っていたではなかったか。このとき井川忠雄から送られた手紙にも、「大統領の希望として、日本側は是非閣下の御出馬を得て」とあったではないか。
「大乗的立場に立って交渉するが、話し合いをつけることに急なあまり、媚態や屈服とは受けとられぬようにするつもりだ」
東條も及川も即答しなかった。が、及川は乗り気であった。東條は、胸中ではその成否に疑問をもったが、それをいわずに、後刻、書類で返答すると伝えた。近衛は「ぜひ賛成してほしい」とふたりにくり返した。
陸軍省に戻ると東條は、武藤と佐藤、石井を集めて、近衛の申し出を検討した。三国同盟との兼ねあいからいって適当ではない。だが近衛の前向きな態度は評価すべきだ。しかしルーズベルトと話し合ったからといってすぐに懸案が片づくわけではない。そんな意見がくり返されたあと、東條が直接筆をとって回答をまとめた。その末尾には「(ルーズベルトが)依然現在とりつつある政策を続行せんとする場合には、断乎対米一戦の決意を以て之に臨まるるに於ては、敢て異論を唱うるの限りに非ず」と書いた。ハル長官以下との会見なら不同意、たとえ会談が終わっても辞任せず対米戦争の陣頭に立つ決意を固める、の二点を付言として書き加えた。八月五日夜、東條はこれを近衛に届けた。
この回答を確かめたあと、近衛は首脳会談案を内大臣木戸幸一に伝え、それから天皇に上奏した。このとき東條と及川に語ったよりも強い決意で報告したが、天皇も速やかに行なえと賛成し、木戸も日本の国力の現状から見て、日清戦争後のように「臥薪嘗胆」の策をとるよりほかにないといい、十年計画で人造石油工業の発達をはかり、対米戦争を回避しなければならぬと言った。
近衛と豊田からの訓電によって、八月七日、野村はハルに首脳会談の新提案を示した。ところがハルは、この申し出にあまり関心を示さなかった。折りから、アメリカにとっては、もっとも重要な英国との首脳会談が開かれようとしていたのである。むろん日本側はまったく知らなかった。
ルーズベルトとチャーチルは、米英両国の共同戦線結成を目標に、ニューファンドランド沖の軍艦上で八月九日から十四日まで秘かに会談をつづけた。彼らはソ連を陣営にひきいれることで一致し、日本とは当面摩擦を起こさないよう努めることで合意した。しかし日本のこれ以上の武力進出には警告をだすことを決めた。最後通牒にも等しい警告をだしておけば、日本はタイや蘭印に進出することはあるまいと考えたのだ。
この会談を終えたあと、チャーチルは下院で演説し、大西洋会談の報告を行なった。そこにはつぎの一節があった。「日本は中国の五億の住民を侵害し苦しめている。日本軍は無益な行動のために広大な中国をうろつきまわり、中国国民を虐殺し、国土を荒らし、こうした行動を支那事変≠ニ呼んでいる。いまや日本はその貪欲な手を中国の南方地域にのばしている。日本はみじめなヴィシー・フランス政府から仏印をひったくった。日本はタイをおどし、英国と豪州の間の連結点であるシンガポールを脅迫し、米国の保護下にあるフィリッピンをも脅している」――
ルーズベルトとチャーチルは、アメリカの軍備が整いしだい、日本にたいして仏印、中国からの撤兵を押しつけると予想される意味をもつ演説であった。そのために必要なのは、時間であった。いっぽうワシントンに戻ったルーズベルトは、十七日になって野村を招き、米英首脳会談でとり決めた対日警告書を渡した。日本が武力的威嚇をつづけるなら「合衆国政府ハ時ヲ移サス……必要ト認ムル一切ノ手段ヲ講スル」と明言した。しかし近衛との首脳会談については、もうすこし詳しいステートメントが欲しいと言った。警告書を手渡すという割りには、ルーズベルトの口ぶりは首脳会談に乗り気のニュアンスだった。その態度を見て、野村は、会談成功の印象をもった。その印象を近衛に伝えた。
この電報を受けとった近衛は喜び、いっそう首脳会談に期待を掛けた。連絡会議でも積極的に発言をくり返した。陸海軍当局に随行団の人選も内々に行なわせた。近衛は、仏印、中国からの撤兵を受けいれ、会議の場から直接天皇の裁可を仰ぐつもりでいたのだ。
こうした近衛の甘い見とおしに抗するかのように、陸海軍の事務当局はもっと現実的な対応策を考えていた。彼らは、七月二日の御前会議で決定した『帝国国策要綱』は、実際に南方進出を行ない、米英蘭の経済封鎖に出あってみると、事態に対応できる政策骨子でないことに気づいていた。
「対英米戦ヲ辞セス」という字句を受け、海軍の幕僚たちによって激しい案がたたき台としてだされたのは、八月半ばのことであった。この案『帝国国策遂行要領』は、陸海軍の部局長、すなわち陸軍省武藤章軍務局長、参謀本部田中新一第一部長、海軍省岡敬純軍務局最、軍令部福留繁第一部長によって検討された。田中は強硬に戦争決意を訴え、岡はたとえ日米交渉が失敗してもすぐに開戦にもっていくべきでないと言った。武藤と福留がその中間に立った。海軍省が練ってきた案のなかに「対米英蘭戦ヲ決意シテ」とあったが、討論の中で「対米英蘭戦決意ノ下ニ」と直したいと武藤が言うと、岡がすかさず「対米英蘭戦争ヲ辞セザル決意ノ下ニ」と訂正するよう求めた。たしかにすこしずつニュアンスは異なるが、字句を直しても底流にあるべき基本的な構図には手をつけないのだから意思はいっこうに統一されなかった。
彼らは戦争準備を完整するという点では一致した。もし戦争をするなら、日米海軍戦力比や石油禁輸から二カ月以内ということで、十一月上旬が有利だという点でも一致した。それ以後だと季節風による軍事的悪影響もあるからだった。こうして陸海軍の政策決定中枢の四人の将校は、八月三十日になって、やっと「要領」をまとめた。それはつぎのような内容だった。
「一、帝国ハ自存自衛ヲ全ウスル為、対米(英、蘭)戦争ヲ辞セザル決意ノ下ニ、概ネ十月下旬ヲ目途トシテ戦争準備ヲ完整ス 二、帝国ハ右ニ併行シテ、米、英ニ対シ外交ノ手段ヲ尽シテ帝国ノ要求貫徹ニ努ム 三、前号外交交渉ニ伴イ十月上旬頃ニ至ルモ尚我要求ヲ貫徹シ得ザル場合ニ於テハ、直チニ対米(英、蘭)開戦ヲ決意ス」
この国策案は「別紙」として、「最少限度ノ要求事項」も掲げている。
「一、米英ハ帝国ノ支那事変処理ニ容喙シ又ハ之ヲ妨害セザルコト 二、米英ハ極東ニ於テ帝国ノ国防ヲ脅威スルガ如キ行為ニ出デザルコト 三、米英ハ帝国ノ所要物資獲得ニ協力スルコト」
そしてこれらの要求が応諾されたとき、日本側が「約諾シ得ル限度」としてつぎの点をあげた。
「一、帝国ハ仏印ヲ基地トシテ支那ヲ除ク其ノ近接地域ニ武力進出ヲナサザルコト 二、帝国ハ公正ナル極東平和解決後仏領印度支那ヨリ撤兵スル用意アルコト 三、帝国ハ比島ノ中立ヲ保障スル用意アルコト」
これが日本の政策決定の土台となる考えだった。陸海軍の考えは、すなわち日本の国策となる時代だったから、あとは連絡会議と御前会議で事務的に承認されればよいだけだった。近衛の意思など問題ではなかった。
八月三十日、近衛は野村から届いた二通の電報に目をとおした。〈明と暗〉に色分けできる電報であった。
〈明〉は、野村が近衛のメッセージ(「惟フニ日米両国間ノ関係カ今日ノ如ク悪化シタル原因ハ、主トシテ両国政府間ニ意思ノ疎通ヲ欠キ、相互ニ疑惑ヲ重ネタル」)を渡したときのルーズベルトの反応だった。ルーズベルトは機嫌よく、近衛首相との会談はハワイよりもアラスカがいいと言ったと報告していた。近衛は首脳会談への期待をさらに高めた。
もう一通は、ゆううつな電報だった。ルーズベルトと会ったその日の夜(ワシントン時間二十八日)に、野村はハルに会ったが、それを報告してきたものだ。ハルは無愛想に、首脳会談を開くまえに事務レベルの予備交渉を開かねばならないというのである。まるでルーズベルトとハルは、硬軟をつかい分けているかのように見えた。
しかし近衛は、ハルの発言よりもルーズベルトの機嫌のいい口ぶりに期待を掛けた。それが自分の役割だと信じた。首相退任後、彼が著わした手記では、「おそらくこの時が日米の一番近寄った時であったかもしれない」と告白している。
東條は、近衛ほど楽観主義者ではなかった。近衛がルーズベルトとの会談にうつつをぬかしているのを、本心では苦々しく思っていたが、それを表だっては咎めなかった。天皇もそこに期待をかけているのを知っていたからである。だからこそ、この会談をつぶそうと画策する軍務課の青年将校を、見せしめのため台湾派遣軍参謀に飛ばしたりもした。
八月三十日、近衛が読んだ二通の電報を、東條もまた陸相官邸の執務室で読んだ。その感想を東條は洩らしはしなかったが、後年佐藤賢了が書きのこしたつぎのことばと同じであったにちがいない。
「アメリカは間抜けだわい。無条件に会えば万事かれらの都合どおりにいくのに……」
聖慮に震える御前会議
アメリカ側の最終的な回答を期待する近衛、陸海軍の「要領」採択をはかる東條、近衛に同調する豊田、「要領」に同意はしているものの消極的な及川。各人の思惑を秘めて九月三日、大本営政府連絡会議が開かれた。初めに統帥部の責任者永野と杉山が「要領」を説明した。アメリカは、戦争準備の時間稼ぎのため会談をひきのばしていると批判した。近衛は戦争へ近づくことになるこの「要領」にはなんの意見も述べなかった。出席者にも不審な感じを起こさせるほどだった。
もし彼が首相としての責任感をもっているなら、「要領」のもつ危険性には不満を述べるべきであった。彼の沈黙は、海軍の決心は本意でないと楽観視していて、土壇場になれば海軍が戦争回避に動くと考えていたのであろう。
この会議では近衛にかわって及川がねばった。閣議でもあまり自分の考えを明らかにしない彼が、珍しく条文の字句にくいついた。まず「要領」案の第三項に「我要求ヲ貫徹シ得ザル場合」とあるのを、「我要求貫徹シ得ル目途ナキ場合」と修正させた。〈目途ナキ〉という語がはいっていれば、〈十月上旬〉にいまいちど〈目途があるのかないのか〉を論じることが約束されるからである。
このとき海軍省は、日米交渉決裂、即時開戦を考えていなかった。及川は日本海軍の戦力がアメリカ軍と対抗できるとは思っていない。それに及川に限ったことではないが、海軍の指導者は、アメリカとの確執が支那事変に端を発しているのであり、これは陸軍の不手際の結果だと考えていた。その尻ぬぐいをするのは不快であったが、石油禁輸の中でジリ貧になるのはもっと辛いことだというジレンマのなかにいた。陸海軍事務当局の会談での岡軍務局長のねばり、そして及川海相の発言はその流れのなかにあった。
しかし「要領」は、ほぼ原案どおり決まった。この決定は近衛から木戸に伝えられたが、一読して木戸は目をむいた。彼の懸念は、時間を決めて日米交渉にワクをはめようとしていることだった。「自分としては日米交渉に全力をつくす以外にない」、近衛は弱々しく答えるだけだった。天皇もまた「要領」を見て驚いた。戦争準備が前段にあり、外交交渉が後段にあるのはおかしい、と近衛に言った。順序は軽重をあらわすものでない、と近衛は答えた。しかし天皇は納得せず、杉山と永野を呼び、
「統帥部は外交に重点を置く趣旨と解するがそのとおりでいいか」
と確認を求めた。「そのとおりであります」。ふたりは口をそろえて答えた。
八月三十日の電報を見てからの近衛は、天皇や木戸にも不審がられるほどの取り乱しようだった。彼は首脳会談の成否にばかり気持がいっていたのだ。のちに彼が書いたところでは、この連絡会議での決定が対米英開戦に直結するということを知らなかった、それほど重大な決定だとは思わなかったと、正直に告白している。
近衛だけではない。豊田外相もまたその会議をやり過ごした。十月に入ってから、ふたりが東條から責められたとき、豊田はつぎのように言ったのだ。
「そう言うなよ。実は、あれは(陸海軍の事務当局案)三日の午前中にざっと目をとおしただけだったんだ」
豊田もまた、この程度の関心しかもっていなかったのである。それゆえ東條との亀裂を深めたのであったが、東條は、ふたりの態度は御前会議を愚弄している、国務大臣として輔弼の責任を果たしていない、という正論で声高に批判しはじめた。
九月六日の午前十時、この年になって三回目の御前会議が宮中で開かれた。近衛の司会ではじまり、永野、杉山が「要領」を説明し、つづいて枢密院議長原嘉道が、「この案は外交よりも戦争のほうに傾いている」と質問した。政府を代表して及川海相が答えた。だが統帥部が答えずにいると、突然、天皇が発言した。「統帥部がなんら答えないのは甚だ遺憾である」――そう言うと懐から用紙をとりだし読みあげた。
四方の海 皆|同胞《はらから》と思ふ世に
など波風の 立ち騒ぐらむ
そしてつけ加えた。
「朕はこの御製を拝誦して大帝の平和愛好の精神を紹述せんと努めている」
しばらく出席者は沈黙の中にあった。永野が立ち、「統帥部に対するお咎めは恐懼に堪えませぬ。……(統帥部としても)外交を主とし、万やむを得ぬ場合戦争に訴うるという趣旨に変わりはございません」と述べた。御前会議では決して発言しない天皇があえて発言を求め、しかも明治天皇の御製まで詠んだという事態に、彼らは緊張した。だが結局、「要領」は原案のまま承認された。天皇の意思を確認しながら、とにかく採択されたのである。天皇は、これにも不満だったらしく、会議が終わったあとも不機嫌で、木戸を呼び、統帥部に外交工作に協力するように……と注文をだした。
このとき、東條も天皇の意思を知って衝撃を受けた。御前会議が終わって陸軍省に戻った東條は、興奮を隠さなかった。軍務局の将校を大臣室に集めると、会議の様子をくわしく伝えた。
「聖慮は和平を希求しておられる。こうなった以上、何としても日米交渉を成功させなければならぬ」と執拗にくり返し、将校たちに興奮の一端を理解するよう呼びかけたのである。この日をきっかけに、東條は軍務局長の武藤と長時間、大臣執務室で話し合った。ふたりは何を話し合ったのか、武藤も御前会議から戻ってきたときは、「聖慮を尊重して外交に熱心に取り組まねばならぬ」と言ってから、つぎに「このままの情勢では戦争になる。天子様がこれは仕方がない、やむを得ないと御納得のいくまで外交に力をいれなければならなくなった」ときわめて示唆に富む考えを洩らした。
彼が東條と話し合ったのは、たぶんこの考えを説明したのであろう。その後の東條の軌跡は、武藤の言を忠実になぞっているように見える。たとえば十一日に、東條は陸軍の「対米戦争準備」の状況を上奏した。そのときも天皇に、「御前会議の際の発言によって戦争を避けたい。自分の意向は陸相には明らかになったものと諒解する」と確認を求められたが、「思し召しを十分体して交渉妥結に極力努力いたします」と、彼は答えていた。
このころから東條は、不器用にではあるが、日米交渉に情熱を傾けて近衛の補佐役をつとめようと努力しはじめたのである。彼には思想や理念がなく、天皇の一言によって容易にその方向を変えた。
こういう東條の態度は統帥部には不快だった。とくに参謀本部の作戦、情報、兵站に関わる担当者たちは上下をあげて日米交渉に反感をもっていたから、九月六日の決定に盛られている「十月上旬」という時期を、半ば期待しながら待ち受けることになった。そういう突き上げは、陸軍省にも伝わってきた。表面は外交に熱を入れるように言うが、その実、統帥部への共感を隠そうとはしない中堅将校がふえたのだ。そういう将校からは、東條は生ぬるい大臣と受け止められた。参謀本部戦争指導班の中堅将校種村佐孝大佐が書き綴っている『大本営機密日誌』の九月十二日、十三日には、「(強硬論にたいし)大臣の態度くさし。局長に至っては言語|同《ママ》断なり」と、東條と武藤が開戦論を弱めつつあるのを批判しているのである。
そのうえ統帥部は、別の生物として動きはじめていた。十日には、天皇の「外交がまとまればひくように……」との注文を受けながら、動員下令をだしている。そして二十日には、統帥部の作戦担当者たちは〈開戦日を十一月十六日〉と想定して、十月十五日までに外交上の結着をつけて欲しいと要求しはじめている。
が、省部の意思統一をはかる会議では、統帥部の強硬な態度を押さえようと、東條は杉山につめよっている。「初めにうかがいますが、統帥部は政府の日米交渉をまとめるという方向に協力するつもりなのですか。それともぶち壊すつもりなのですか。そこをはっきりしてください」。杉山が「妨害するつもりはありません」と答えると、東條は満足そうにうなずいた。それは単に気休めのことばにすぎないことを、東條は充分理解していなかった。
破れた近衛の期待
首脳会談の可能性が薄れたとき、近衛は「アメリカ政府内部は国務省的意見が支配的になったからだ」と考えたが、アメリカ政府内部も、日米交渉そのものを「時間かせぎ」に利用するとしつつも、政策のアウトラインだけは決めつつあった。国務省極東部対日主任バレンタインはルーズベルトに語っている。「九月六日の提案(近衛・ルーズベルト会談再考を求めた日本側の提案)に対して、……我が政府の態度を明らかにすると同時に、その態度の通告は友好的論調をもってし、今後の論議のための門戸を開放し、かつ論議の終止に対する責任は日本に負わせることに努める」――交渉打ち切りの責任を日本にかぶせるようにという進言だった。さらにルーズベルトのもとには、陸海軍長官から、ソ連とドイツの戦闘状態を分析すれば、最終的にはソ連が勝利するかもしれないという報告が届いていた。ソ連の抵抗が根強く、ドイツは敗退するだろうというのであった。
九月中旬になると、ハルは、首脳会談を提唱してきたときの日本側の弱気な態度とその後の変化を改めて指摘し、そのうえで会談にはいるまえに、日本側に当初の四原則をもちだしたほうがいいと申し出てきた。ルーズベルトもその意見に賛成した。駐日大使グルーは「近衛は孤立しながらもよくやっている」と報告してきたが、その裏づけとして近衛の秘書牛場信彦が、「とにかく大統領に会えばうまくいく」と譲歩をにおわせてきているという事実を伝えてきていた。が、ルーズベルトもハルも無視した。
彼らには、日本が依然として状況を把握できずに曲折しているのは喜ばしいことだった。時間かせぎができるからである。ソ連に物心両面の援助を与えてドイツと対峙しているのに、日本と構えるのはしばらくは得策ではないとの判断があった。だからこそハルは、野村に会うたびに交渉のネックは三国同盟よりも「支那撤兵」にあるといって、原則的な話をむしかえしていたのであった。
日本の政治指導者たちは、アメリカの意図をすこしも見ぬけなかった。九月六日以後、外交に力をいれるということで、新たにアメリカ側に提案する案が検討されたが、この主導権を握ったのは、当然なことに海軍省と外務省だった。九月二十日の大本営政府連絡会議は、日本側の案を決定したが、その内容は、(一)仏印を基地としてその近接地域に武力進出は行なわない、(二)ヨーロッパの戦争へのアメリカ参戦後の日本の態度は自主的に行なう(三国同盟にはとらわれないこと)、(三)日支間正常化後は日本は撤兵する、(四)支那でのアメリカの経済行動は保証する――というものだった。
この日本側提案に、ハルは野村に回答を寄せたが(十月二日)、日本側の提案は三国同盟への態度が曖昧、支那からの撤兵期限が明確でないと、素っ気ない答であった。そして改めて四原則を掲げ、日本側はこれに制限と例外を設けていると批判したあとで、「もしこの印象が正しいとするなら、両国首脳がかかる状況の下に会見しても、その目的に貢献し得ると感ぜられるるや如何」と述べて、首脳会談を正式に拒否した。野村は近衛に宛てた電報のなかで、懸案はやはり支那撤兵で、それが解決されると事態は進展すると伝えた。
その意見に近衛は同意した。もっともこの野村からの報告を読んだ東條は、日米交渉が絶望的なことを知った。近衛はこのとき、どんな案でも受けいれてアメリカとの戦争は避けなければならぬと覚悟していた。そこで秘かに及川海相に相談したが、及川は、「絶対避戦というだけでは陸軍は説得できぬ。アメリカ案を鵜呑みにするぐらいの覚悟をもって進めば、海軍も援助するし陸軍もついてくるだろう」と甘い見とおしを語ったが、近衛も「それなら安心した。自分もそう思う」と言って、海軍との共同歩調をはかる意思をあらわした。
〈陸相と膝つきあわせて、もういちど話し合わねばならぬ〉
近衛がそう決心したのは、アメリカ側の冷たい回答を見て、及川と会ったあとである。ふたりの話し合いは十月五日の日曜日に、近衛の私邸で行なわれた。
この日、東條は秘書の赤松貞雄のカバンに資料をつめこませて、自動車で荻窪に向かった。このころ東條はほとんどの資料を記憶していた。日米交渉の電報も日時単位でそらんじてみた。官邸での深夜までの執務は、そのことに費されているのを、赤松は知っていた。一時間ほどして、東條と近衛は連れだって応接間からでてきた。東條の表情はいつもとかわりなく、近衛に見送られても表情をかえなかった。赤松は、どういう会話を交したのか、それとなくたずねてみた。それもまた秘書の役目で、東條の洩らすことばを軍務課の将校に伝えなければならなかったからだ。が、東條は答えなかった。近衛家の応接間の置き物を賞めただけだった。
東條と近衛は何を話したか。東條はこのときの模様を誰にも話さなかった。のちに近衛が著わした『近衛手記』を参考にして考えると、大要はつぎのような会話が交されたと推測することができる――。
「アメリカの態度はすでに明瞭である。四条件の無条件実行、三国同盟離脱、駐兵拒否というのでは日本は譲れない」
かなり強い調子で、東條が言う。
「そうは思わない。このなかで問題になっているのは駐兵が焦点で、あとは話し合いがつくように思う。そこで撤兵を一応引き受けて、しかも資源保護の名目で若干駐兵するようにしてはどうか……」
「それはいけない。それでは謀略だ」
「慎重にやりたい。そういう方向は考えられないか」
近衛は、御前会議の決定もあるが、アメリカの態度は必ずしも遅延策とは思えぬというのだが、それは東條には御前会議の決定を反古にするものだと映った。
「御前会議は形式的ではないはずだ」
必死に東條も防戦した。そしてふたりは曖昧なまま結論をもたずに分かれた。
東條・近衛会談が行なわれたころ、陸軍省と参謀本部の部課長会議、海軍省と軍令部の部課長会議がそれぞれ開かれていた。陸軍側の会議では、佐藤賢了と田中新一が「外交交渉は成算なし。速やかに開戦決意の御前会議を奏請する」と譲らず、ハル四原則の無条件承認、三国同盟の脱退、支那からの撤兵というアメリカ案では交渉にならぬといいつづけた。この意見に岡本清福参謀本部第二部長が同調し、武藤と真田も結局うなずいた。
この結論は、近衛との会談を終えて戻ってきた東條にも伝えられた。が、東條は別に苦情は言っていない。日米交渉にもう期待はかけられないという結論は、東條とも一致するからだった。だがそれは聖慮に反する……そのギャップをどう埋めるか、そこに東條の苦悩はあった。
いっぽう海軍側の結論は、対米戦避戦派の岡軍務局長らの意見がとおって、「日米交渉はまだ交渉の余地がある。時期の遷延、条件の緩和についてはさらに検討する」とまとめた。近衛と一体の方向にあった。
翌六日、陸海軍合同の部課長会議が開かれ、陸軍と海軍の幕僚の対立が鮮明になった。陸軍側は、これまでの永野軍令部総長の一貫した主戦的な発言は何を根拠としていたのかという点と、九月六日の御前会議の決定を勝手に変更するのか、という二点で海軍側を批判した。これにたいして海軍側では、対米英戦に勝利の公算がないのを知っている将校が、「南方戦争では船舶の損耗は開戦の一年目に一四〇万トンと予想される。これでは勝ち目がない」と応じた。会談は決裂した。が、問題点は浮きぼりになった。九月六日の御前会議で定めた十月中旬がまぢかである以上、対立点は一刻も早く整理されねばならぬ段階であったのだ。
こうして東條は、国策の方向に明確な決断を下さねばならぬと考えるに至ったのである。
この期、近衛、木戸、陸軍、海軍の間は錯綜しているかに見えるが、要は九月六日の御前会議の決定をどう考えるかに尽きた。決定を守るとなれば、日米交渉をどう捉えるかにつづく。日米交渉には成否があるのか、しかも十月中旬までにまとまる可能性があるのかという疑問に結ばれていく。
これを思考構造からみれば、大状況から小状況に下りてくる考えと、逆に上がっていく考え方(日米交渉のネックは何か、それをどう克服するか。克服すれば十月中旬までにまとまるとなり、それは日米交渉の妥結になると捉える)に分かれた。陸軍と海軍の一部、そして東條と近衛の対立は、大状況から小状況に下りてくるか、それとも小状況から大状況に上がっていくかの違いでもあった。大状況から下りていけば主戦論に、小状況から大状況に上がっていけば避戦論に落ちつく奇妙な論理構造があった。それが日本の政策決定集団の断面であり、字句いじりの理由だった。
大状況(建て前)派と小状況(本音)派の論理は、近衛・東條会談、陸海軍の部課長会議をみても交錯しない。だから十月二日以後、政策決定集団の論議は不毛の論理を組み合わせようとするエネルギーの浪費だった。その浪費に疲れた東條は、ここにきて御前会議決定を反古にするのなら、輔弼の任が果たせないから辞職すると、自らの周囲に言いだした。陸軍の将校たちは、それを各政策集団に洩らしはじめた。〈なぜ九月六日案を認めたのか、なぜ撤回を申し入れなかったのか〉その論をふり回し、あげくの果てに辞職をいいだすと、たとえ陸軍に理があっても、周囲には恫喝に映った。それが陸軍の常套手段だったからだ。
これまでの負債が、束になって東條にふりかかってくる徴候がこうして生まれた。
「支那撤兵」が鍵に……
九月六日の御前会議決定を順守しようとする陸軍は、主戦派ということばで語られた。とくに東條は主戦派の頭領扱いをされた。それは彼の意思を代弁するものではなかったが、その印象はしだいに政策集団の間に広まった。及川海相も豊田外相も、九月六日の決定は統帥部のゴリ押しによるもので、その反古を画策し、そのために鈴木貞一企画院総裁をたずね、「数字の上から戦争をできぬと言って欲しい」と懇願した。彼らは、「戦争をできぬ」ということばを、陸軍を代表する東條にむかって誰が言うか、互いに責任を押しつけあっていた。
十月七日の午前中、東條は及川と話し合った。東條の論に及川は逃げ腰で、追いつめられた及川は海軍内部の好戦的な言をぐちり、「内密の話にしてもらいたい」とさえいった。東條は及川と話し合ったあと、さらに閣議でも自説を開陳し、そのあと近衛とも不毛の話し合いをつづけた。近衛は八月の地点にふり戻した論をいいだし、それが東條をいっそう不愉快にさせた。会話の最後には感情的なことばがやりとりされた。
「軍人はとにかく戦争をたやすく考えるようだ」
「……軍人は戦争をたやすく考えるといわれるが、国家存亡の場合には目をつぶって飛びおりることもやらねばならない」
近衛の曖昧な態度、その場かぎりの辻褄合わせは、東條にはいまや忿懣の対象でしかなかった。もともと東條も、海軍が戦争に勝算がないといえば再度検討しなければと考えているのに、及川からはその言がきかれないのに苛立っていた。ただひたすら九月六日の決定をくつがえすことに逃げこむ近衛や豊田、及川の態度に、憎悪に近い感情をもつようになった。
たしかに近衛も及川も、国家意思を決定する重大な段階に部分的に責任を感じているだけで、大局からは身を避けるというきわめて巧妙な態度をとった。そういう態度のなかで、東條と陸軍は頑迷な集団として政策決定集団から孤立し、責任を負わされる役割をもたされた。
だが東條や陸軍のいうように、「御前会議」は金科玉条だったか。制度上からは確かにそうであった。重要な決定がくだされるのは、表面上は天皇臨席のもとで開かれる御前会議だった。しかしこれとて、天皇のまえでそれぞれが脚本どおりに演じる儀式にすぎなかった。
当時、どこの国でも外交と軍事の責任者には抗争、対立があった。だが、最終的には政治上の最高指導者が選択を行ない、国策の方向を決定した。ところが日本では首相の権限は極度に制限されていた。
作戦のいっさいの権限は、参謀総長と軍令部総長が握っている。政治の側の最高指導者はこれに容喙できない。それどころか情報さえ知らされない。しかし参謀総長と軍令部総長の権限にも制限があった。彼らは用兵の全権を握っていたが、編成、装備、兵力量を管轄しているのは陸軍大臣と海軍大臣だった。その区分が曖昧で、どちらか一方が他方を統制する仕組みとはなっていなかった。それでも陸軍省と参謀本部のあいだの意見の衝突、海軍省と軍令部のあいだの相克は、それぞれ同じ集団内部のもめごとだったから、適当な妥協が可能であった。しかし陸軍と海軍のあいだの主張の対立は、歴史的な対抗意識と利害が絡むだけ複雑であった。
こういう併立する機関の上に立つのが、天皇だった。天皇は「君臨スレドモ統治セズ」の教育を受けていた。国策の最高決定は、大本営政府連絡会議、御前会議であっても天皇にも首相にも決定権がなく、しかも多数決で決定するというわけでもないという理解しがたい構図ができあがっていた。議案を徹底的に検討するよりも反対論を押さえることに重点が置かれ、決定の内容よりも不透明な意見の一致が喜ばれるのであった。この会議での首相の任務といえば、出席者を納得させることより、波風をたてずになんとかまとめる能力が必要とされることであった。他国にはない政治形態だった。
国策の決定とは、字句いじりの取り引きにすぎず、最大公約数的な妥協によって、無味乾燥な作文ができあがることであった。その曖昧さをとりのぞくのは、実は、事態の進展であった。これが戦時下ではいっそう明確になるのである。
十月十日のことである。東條のもとに、軍事調査部長三国直福が情報をもちこんだ。「木戸を中心とする宮中、近衛首相、外務省、海軍の連合軍で陸軍を包囲し、アメリカの提案を呑ませるべく圧力をかける」というものだった。三国はこれを陸軍省詰めの新聞記者から聞かされたといい、それが事実か否かは不明とつけ加えた。
「こんどはおれの番か。おれを辞めさせようったって簡単じゃないぞ。おれは松岡ではない。松岡の二の舞になどなるものか」
その情報を耳にするや、東條はどなった。もし三国情報が、陸軍内部の主戦論者が挑発を意図して流したとの推理を働かせるなら、それはまぎれもなく成功したといえる。東條の感情は近衛や豊田らに激しい憤りとなって噴出し、押さえていた地肌があらわれ、これ以後感情的な会話を交わすようになったからだ。
十二日は日曜日、そして近衛の五十回目の誕生日だった。荻窪の私邸に、近衛は東條、及川、豊田、鈴木貞一企画院総裁を招き、午後二時から日米交渉に関する最後の話し合いを行なった。
「日米交渉は妥結の余地はある。支那の駐兵問題で日本側が何らかの譲歩を考えればいいのだが……」
と豊田は東條をあてこするように言い、近衛も同調した。アメリカは日本の提案を充分に理解していないようだと近衛は弱々しく言った。及川も補足する。
「いまや和戦を決すべき重大な岐路に到達した。もし交渉をつづけるとするならば、多少の譲歩をしてもあくまで交渉を成立させるようにすべきである。和戦いずれかは総理に一任する」
海軍内部での及川の立ち場は微妙だった。彼は、米内光政ら海軍の長老から陸軍の方針に巻きこまれるなと忠告を受けていた。それだけではない。この荻窪での会談の前夜、及川の自宅には秘かに富田健治書記官長と岡敬純軍務局長がたずねてきて、海相として近衛の意思を補完するために〈戦争回避、交渉継続〉の言を吐くようにと説いていた。このとき及川は約束している。「明日の会談では外交交渉を継続するかどうかは総理大臣の決定に委すということを表明しますから、それで近衛公は交渉継続ということに裁断してもらいたいと思います」
いま豊田、近衛の意向に添って、東條に抗する発言を及川は吐いた。
東條は、外交交渉がまとまる確信をもっているのか、と近衛と豊田につめよった。
「……納得できる確信があるなら戦争準備はやめる。確信をもたなければ総理が決断しても同意はできない。現実に作戦を進めているので、これをやめて外交だけやることは大問題だ。少なくとも陸軍としては大問題だ。充分なる確信がなければ困る」
鈴木は発言せず、豊田、近衛がもっぱら日米交渉継続論を東條に吐き、ときに及川が同調し、また東條が反論を加えた。堂々めぐりの論がつづいた。やがて、十月中旬までに交渉妥結の可能性があるのか否かが、彼らの焦点になった。
「陸軍が駐兵を固守するならば交渉の余地はまったくない。しかしすこしでも譲るとなればないこともない」
豊田は東條に言う。すかさず東條が反論する。
「駐兵だけは陸軍の生命であって絶対に譲れない。では改めてきくが、九月六日の御前会議のときはこの件をどう考えていたのか」
このとき豊田が、無責任な答をしたのである。
「そう言わないでくれ。あれは軽率だった。実は、そのまえの連絡会議の三時間ばかり前に案文を受け取ったのでよく検討する暇がなかったから……」
この言を聞いたとき、東條は顔色を変えた。場が急に険悪になった。
「そんなことでは困る。重責を担ってやったのだ」
御前会議で決定した国策をいまになって軽率だったとは何事か。輔弼の任をどのように考えているのか。それでは総辞職しなければならないことになる……。
「いまどちらかと言われるなら、外交でやるといわざるを得ない。戦争に私は自信がない。自信がある人でおやりなさい」
近衛がつっぱねると、東條は怒気をこめ反駁した。
「これは意外だ。戦争に自信がないとは何ですか。それは国策遂行要領を決定するときに論じる問題でしょう。いまになって不謹慎ではないか……」
荻外荘会談は四時間つづいた。しかし結論は出ず、四人は複雑な思いで近衛の私邸をでた。東條は、会談をつうじて近衛、豊田、そして及川の間に意思統一ができていると受けとめた。三国情報が裏づけられたと信じた。それが彼の神経を逆撫でした。さらに豊田がいみじくも洩らしたように、彼らは、御前会議の決定をもういちど再検討しようとしているのを知った。東條がもっとも不快に思ったのもこの点だった。いちど下した決断は、いかなる状況になろうとも変更を加えてはならぬという陸軍軍人の思想形態は、まぎれもなく孤立の状態にあった。本来なら自省が生まれるべきだが、彼に沸いてくるのは敵意むきだしの憎悪感だけだった。その感情で近衛邸の門を出た。
のちに彼は巣鴨拘置所で『東條日記』を書くが、近衛と豊田の主張する「支那撤兵」に反対したのは、支那事変勃発の因は支那各地の「組織的排日侮日ノ不法行為」にあるとし、この原因が除かれない限り、支那事変はなんどでもくり返されると弁解した。そして「撤兵」は「……国軍ノ士気ヲ阻喪シ、加之米国ノ主張スル事変ノ原因カ帝国ノ侵略ニ因ルコトヲ承認スル結果トナル、当時陸軍統帥部及出先軍ニ於テ此ノ点ニ関シ上下挙テ強硬ニツキ保証ナキ撤兵ノ如キハ一顧ヲモ与ヘサル空気ナリ」と言った。たしかに撤兵拒否は陸軍の総意といえた。支那方面軍からは、こうした提案を受けいれるのであれば、「我々はこれまで何のために戦ってきたのか」との電報が、東條のもとに届いていたほどである。
陸軍が「支那撤兵」で歴史的に負目をもったとすれば、海軍が背負いこんだ歴史的ミステークは、「和戦は総理一任」という及川の発言だった。近衛に結論を任せるというのでは海軍の主体性はどこにいったのか、と語り継がれることになったのだ。
私が取材で会った七十代、八十代の陸軍の旧軍人たちは、一様に「あのとき荻外荘で及川さんが戦争に自信がないといったら、あの戦争は起こらなかった」と言う。戦後一時期、陸軍の旧軍人たちの間でこれが定説化されたようだ。だが果たしてそうか。この論をよく吟味すると、海軍の軍人が「陸軍が支那撤兵で譲っていたら……」という程度にしか意味をもっていないことがわかる。しかし問題は、こうした局部的なものではなく、構造的な図式にあったのだ。その点検なしに及川を責めることはできない。さらにこの論は、陸軍の海軍への責任転嫁の節もある。そして海軍は近衛に判断を委ね、近衛は陸軍に責任を預け三つ巴になっていたことがわかってくる。
ところでこの時期、海軍の真意はどこにあるのかと、陸軍省の将校は海軍省の幕僚を打診しつづけた。武藤は岡に、海軍が戦争を欲しないのなら、公式にそう言って欲しいと言い、そうすれば陸軍内部も説得できると申し入れた。すると岡は、「戦争を欲しないとは言えない。総理一任が精一杯だ」と拒んだ。軍務課長佐藤賢了は、やはり海軍省軍務局軍務課長石川信吾に、本意を教えて欲しいと言ったが、答を得られなかった。
こうしたあげくに陸軍省の将校は、海軍省の曖昧な態度にきわめて意地の悪い見方をするようになった。
ひとつは物資配分の兼ねあいにあるという点だった。物資配分は陸海軍の間で、その存在をかけて奪いあいをしたが、もし海軍がこの戦争に消極的であれば物資は陸軍に回り、海軍の面子は潰れる。そのことが海軍の首脳部には耐えられないのだろうし、部内からも批判される。
さらに彼らは、海軍が国民の反感を恐れたと理解した。統制された情報のもとで、国民の多くは偏狭なナショナリズムに熱狂し、アメリカと戦うべきだという論に与していた。こうした国民の「関心」のなかで、海軍が態度を明確にすることは反国民的動きととられ、怨嗟が起こり、それが軍内にはね返り、海軍軍人の士気が減退することになりかねない。すでに昭和十五年十一月から、海軍は太平洋での戦闘にそなえて出師準備を発動している。艦隊は作戦準備を進めているのだ。海軍の避戦はその艦隊にも届き、士気が一挙に崩壊することにつながる。
及川の困惑は一切の不安の凝縮であり、それゆえに彼は明確な意思表示ができないのだと陸軍の将校は考えた。現実にその予測は的を射ていたのである。
十四日になって、近衛と東條の対立は一段と厳しくなり、近衛は「支那撤兵」を懇願したが、「撤兵とは退却。譲歩し、譲歩し、譲歩しつくす、それが外交というものか。それは降伏というのです」と、東條ははねつけた。閣議では、御前会議決定の履行を迫る東條の弁で満ち、閣僚は声もなく彼を見つめていた。東條は〈松岡〉になっていた。彼はこのままでは事態打開ができないと知り、根本からの政策転換をはかる必要があると考えた。東條はつぎのように考えたのである。
〈九月六日の決定を無視するのは、御前会議の列席者に一律に責任がある。この大手術は臣下の者にはできないから、東久邇宮を煩わすのがいいと思う〉
この日の夕刻、東條は鈴木貞一を官邸に呼び、近衛への伝言を頼んだ。もともと鈴木は予備役編入後、国務大臣に就任したほどの政治志向の強い軍人で、そこを見込んで近衛とのパイプ役にしたのである。このとき東條が言ったのは、もう近衛と会っても感情的になるだけなので、話を進展させることはできぬという内容だった。いまは強力に東久邇宮推挙を求めるというのであった。
伝言を依頼すると、彼はすぐに荷物をまとめるよう家族に命じ、まだ充分建っていない玉川用賀の自宅に、目立たぬよう荷物を運べ――と命じて、暗闇にまぎれて裏口から運ばせた。この職を離れて、また省部の一将校に戻りたいというのが、彼の本音だった。
東條の伝言を聞いた近衛は、自らも辞職の意思を固めていたので、翌十五日に、天皇に情勢を報告し、あわせて東條が東久邇内閣を進言していると自らの退陣をほのめかした。これにたいして天皇は、皇族が政治の前面に立つのは避けなければならぬと言い、とくにいまのような戦争になりそうなときは皇族が内閣を組閣するのはどうかと思うと答えた。そのあと近衛は、東久邇宮にも会い、首班を受けたら……と申し入れた。東久邇宮は考慮してみると言ったあと、日米交渉に賛成の陸相を据えて第四次近衛内閣を組閣してはどうかと逆提案した。だが陸軍は、東條のもとに統制がとれていて、日米交渉に賛意を示している者がいないのを、近衛は知っていた。
そういう近衛の動きが、断片的に東條の耳にもはいってきた。彼は陸相官邸で、近衛のお手並み拝見とばかりにその動きを皮肉気味に見守っていた。
東條内閣の誕生
十六日の午前中、東條に企画院総裁鈴木貞一から連絡がはいった。天皇が東久邇宮内閣に反対しているというのであった。鈴木は木戸からこの情報をつかんで知らせてきたのである。午後になって、東條は木戸のもとに飛んでいった。東久邇宮内閣でなければ……とねばった。が、木戸は天皇の意思が固いと言って拒んだ。ここでふたりは意見の交換をしたが、『木戸幸一関係文書』によれば、九月六日の決定は再検討すべき点があること、陸海軍の一致が必要であること、の二点を東條に説いたとある。木戸は東條との話し合いを終えてみると意外に打開の途があると判断し、すぐに近衛に電話をした。しかしそのとき近衛は閣僚の辞表をまとめはじめていた。ここで歯車のひとつが崩れた。
東條は近衛の求めに応じ辞表を提出し、官邸を去るつもりで軍務局の将校たちと残務整理を話し合っていた。そこに奇妙な情報が入ってきた。〈次期内閣は東條内閣かもしれぬ〉――三国機関からの情報だった。新聞記者が宮中筋から耳にいれたとされていたが、しかしその荒唐無稽さに東條も軍務局の将校も笑いとばした。東條は、ますます東久邇宮内閣でなければならぬといい、木村兵太郎次官を東久邇宮のもとに送り、首班受諾を説かせた。いっぽうで佐藤を陸軍出身の重臣阿部信行、林銑十郎の自宅に送り、次期首班決定の重臣会議で東久邇宮内閣を……と伝えさせた。このとき林は海軍に籍を置く皇族で前軍令部総長の伏見宮か天皇の弟宮で海軍中佐の高松宮がいいのではないかと答えている。
十月十七日、この日は金曜日だった。東條は軍務局の将校を集め、どういう内閣ができても陸軍には天皇から支那撤兵の優諚があると考え、それに対する回答として上奏文をつくるように命じた。東條は、武藤や佐藤、石井らと〈あまり陸軍の主張を通すな。部内を押さえて組閣に協力せよ〉という聖慮が伝えられるだろうと予測していたのである。
「天子様がこうだとおっしゃったら、自分はそれまでだ。天子様には決して理屈は言わない」
東條はそう広言していた。結局は支那撤兵を受けいれ、アメリカとの交渉をまとめることになるかもしれないと覚悟していた。陸軍としては慙愧に耐えないが、しかし天皇からの命令とあれば仕方がなかった。
次期首班に誰が座るのか、東條も武藤もそして佐藤も、軍務局の将校たちも落ち着かぬ様子で、午後からの重臣会議の終わるのを待っていた。陸相官邸の芝生に椅子をもちだして、彼らは雑談にふけりながら、まもなく発表されるであろう東久邇宮内閣か、それに近い皇族内閣を想定し、誰を陸相に推挙するかを話し合った。二・二六事件以後、陸軍の政治的意思を担うことになった陸軍省軍務局の将校は、陸相を推すだけでなく、希望する閣僚名簿まで用意するのが慣例であった。この日午前中に、その名簿が武藤の机の上には用意されていた。東條はこの名簿を見ていなかったが、それが自らにつきつけられる名簿になろうとは知る由もなかった。
午後一時すぎから、宮中では、重臣会議が開かれていた。木戸が倒閣にいたる経緯を説明し、そのあと次期首班についての検討にはいった。若槻礼次郎が宇垣一成を推し、林銑十郎は皇族内閣とするなら海軍関係の皇族がいいと言った。発言が止まるのを見定めて、木戸が強力に東條を推した。
「この際必要なのは陸海軍の一致をはかることと九月六日の御前会議の再検討を必要とするのだから、東條陸相に大命を降下してはどうか。ただしその場合でも東條陸相は現役で陸相を兼任することとして、陸軍を押さえてもらう」
重臣会議は重苦しい空気になった。木戸ののこした『木戸幸一関係文書』によれば、かれの主張は、東條なら九月六日以後の情勢を逐一知りぬいていること、それに陸軍の動きを押さえることが可能であるが、若槻が推す宇垣では陸軍を押さえることはできぬというのであった。
東條の名前があがったとき、重臣のなかにも反撥する者はあった。若槻は外国への影響が芳しくないといい、枢密院議長原嘉道は、木戸の考えている旨をよく東條に伝えるならば……と注文をつけた。広田弘毅、阿部信行、林銑十郎は賛成し、近衛も岡田啓介も強いて反対はしなかった。午後四時すぎ、木戸は天皇に会い、東條に大命降下するように決まったと告げた。午後四時半、宮内省の職員が陸相官邸の秘書官に電話して、東條陸相の参内を要請した。
赤松貞雄から参内の伝言を聞いた東條は、顔をしかめ、日米交渉の資料と支那撤兵に異議申し立てをする上奏文を鞄につめこみ、自動車に乗った。「相当厳しいお叱りがあるのだろう」、彼は不安気に赤松に洩らしている。しかし宮中で、東條の予想は裏切られた。
「卿に内閣組織を命ず。憲法の条規を遵守するよう。時局極めて重大なる事態に直面せるものと思う。この際陸海軍はその協力を一層密にすることに留意せよ。なお後刻、海軍大臣を召しこの旨を話すつもりだ」
天皇は、視線を伏せている東條にそういって大命降下を告げた。この瞬間、東條は足がふるえて、なにがなんだかわからなくなったと赤松に述懐した。のちに東條自身が綴った記録には、「然ルニ突然組閣ノ大命ヲ拝シ全ク予想セサリシ処ニシテ茫然タリ」とある。天皇から大命を受けたあと、木戸の部屋で、改めて東條と及川に聖旨が伝えられた。
「……尚、国策の大本を決定せられますに就ては、九月六日の御前会議にとらわれることなく、内外の情勢をさらに広く深く検討し、慎重なる考究を加うることを要すとの思召しであります」
白紙還元で、改めて国策を練り直せというのである。控室に戻ってきた東條は、興奮のため下を向いているだけだった。よほど衝撃的な叱責を浴びたにちがいないと、赤松は思った。自動車に乗っても無言だった。自動車が走りだすと、明治神宮に行くように言い、また口を結んだ。赤松は「どうかされましたか」とおそるおそるたずねた。すると東條は震える声で大命降下を受けたことを告げた。こんどは赤松のほうがことばを失った。明治神宮、そして東郷神社、靖国神社と自動車を回しながら、東條は「このうえは神様の御加護により組閣の準備をするほかなしと考えて、このように参拝している」といって長時間参拝した。
このころ陸軍省にも、「東條に大命降下」の報がはいっていた。武藤、佐藤をはじめとする将校は、その意をはかりかね、天皇は戦争の決意をしたのかと緊張した。そういう緊張とは別に、政策決定集団の中枢になっている陸軍に組閣の命が下ったことは、彼らにいくぶんの充足感を与えたことも否定できなかった。
東條に大命が降下されたのは、内大臣木戸幸一の推挙によるというのが事実として語り継がれてきた。木戸自身は当時も、そして戦後もそう語ってきた。昭和五十一年十一月、身体の具合がよくないとの理由のため、私はある仲介者を経て、木戸に質問項目を渡した。木戸は丁寧に答えてくれたが、東條推挙の理由は各種の書物に伝えられているのと同様に、つぎのように答えた。
「あの期に陸軍を押さえるとすれば、東條しかいない。宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。なにしろ現役でもない。東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりもぬきんでているし、聖意を実行する偉材であることにかわりはなかった。では東條内閣はどういう内閣かといえば、つまり優諚を実行する内閣であらねばならなかった」
あのときから三十数年経ても、木戸のことばには変化はない。だが大胆な推測をするなら、東條首班は天皇の意思ではなかったか。東條は当時の他の輔弼者に比べて、信頼に足る条件をいくつももっていたのではないか。
東條はその場しのぎの上奏はしなかった。それまでの輔弼者が結果だけを、しかもときには杜撰と思われるほどの内容を上奏していたのに、東條は結果に至るプロセスも報告した。むろん天皇は、プロセスを知っても口をはさむわけにはいかない。東條は自らの上奏方法を「天子様にご安心いただく」ということで部下に説明した。が、これは天皇の信頼感を得るなによりの良策だった。
天皇は陸軍を信頼していない。その信頼できぬ集団の中でもっとも信頼できる輔弼者を見つけたのだ。それが東條英機だった……。そういう東條だからこそ、天皇の意に沿って和平を模索すると、宮中周辺が考えても不思議ではなかった。
天皇と木戸の間で、いつ東條推挙が話し合われたのか。十月十六日の午後四時、木戸は天皇に会い、情勢を報告している。ここでどのような話し合いが行なわれたかは判らない。しかし東條と話し合い、それから天皇と会っているのだ。そしてこのときから、木戸は東條内閣の画策をはじめた。午後五時、木戸のもとには近衛が内閣の辞表を提出に来たが、そのとき、ふたりの間で何らかの打ち合わせがあったと推測される。帰りの自動車に乗り合わせた女婿の細川護貞は、そのときの近衛の様子を、自著『茶・花・史』に書いている。近衛はつぎのように言ったというのだ。
「非常な名案がでた。それは木戸が、戦争をするという東條にたいして戦争をしないということを約束させ、内閣を組織させることにしたのだ。これは名案だろう」
すると細川が、「それはおかしいのではないですか」と反駁すると、近衛は珍しく激した声で言った。
「それはお前の書生論だ」
木戸と近衛は、すでにこの段階で東條首班を決定していたのだ。そこには天皇の意志があった。午後五時半から十五分間、「後継内閣に関し御下問を拝す」と『木戸幸一日記』にあるのはそれを裏づけている。
翌日の重臣会議の模様を、岡田啓介はのちに回顧して、木戸の一人芝居で東條推挙は決まったと意味ありげに書いている。さらに木戸の日記を分析すれば、なぜあれほど東條推挙についての弁解と詳しい報告が書かれているのかという疑問がわくが、ここで推測を進めれば、天皇と木戸は東條という駒をつかって危険な賭けに出たということができる。その期待どおり、東條は一気に和平の道を摸索しはじめた。賭けは成功するかに見えたのである。天皇は、東條内閣が発足してまもなく、意味ありげに木戸につぶやいている。
「虎穴に入らずんば虎児を得ずだね」
話を戻そう。陸相官邸に戻った東條は、放心状態で、頬はけいれんしていた。貴賓室に軍務局の有力な将校、武藤、佐藤、石井らと木村次官、それに富永人事局長を集め、天皇と木戸から伝えられた内容を反芻した。「天子様が……」となんどもいい、日米交渉に全力を尽くすと自戒のことばを吐いた。それはこれまでの彼らの路線をあっさりと放棄することだったが、その不正常さを東條は理解しなかった。報告が一段落したあと、武藤が陸軍の希望する閣僚名簿を手渡そうとした。が、東條は受けとらなかった。
「本日より陸軍の代表者ではない。従って公正妥当な人選をしなければならぬ」
陸軍にふり回されるのを拒む宣言だった。東條は、国策を百八十度転回させるのだから、それに伴う摩擦を覚悟していた。そのために内相に座り、司法権を押さえるのは自らの役割と考えていた。木戸から要請された陸相と内相は、彼の内閣を支えるため、彼自身が握らなければならぬと決断していたのである。
ひとときの放心が去ると、東條は、すぐに行動を開始した。まず軍務課高級課員石井秋穂に、九月六日の御前会議決定を反古にし、国策再検討のための項目案をつくるよう命じた。ついで、参謀総長杉山元と教育総監山田乙三を官邸に呼び、首相になっても現役のまま陸相としてとどまりたいと申し出て承認させた。現役でなければ陸相にはなれないという、現役武官大臣制に沿っての発言であった。と同時に現役軍人のまま首相に就任することも、勅令に反することだったので、それも手直ししなければならなかった。
東條はこのとき中将だった。ところが海相に就任する人物は大将であろうから、「東條中将の下に入るのは実際上も具合が悪く、総理としての貫禄からも大将なるを良とする」と、人事局長の富永は追従し、大将進級を三長官会議にはかった。ところが中将在任五カ年以上が大将への条件だったが、東條はそれに一カ月欠けていることが判った。しかしそれも特例で認めることになった。
このようにして、いくつもの特例がつくられた。そのことは東條の立場が複雑だったことを物語る。この複雑さこそ、東條の負い目になり、あらゆる方面に心配りをしなければならぬ因につながった。
そのあと、東條は貴賓室にとじこもって大臣候補者をつぎつぎと呼びだした。書記官長には躊躇なく星野直樹を当てた。関東軍参謀長時代からの交際と近衛内閣時代に詰め腹を切らせた負い目のためだった。武藤が提出していた名簿には、このポストに新官僚の岸信介があげられていたのだが、東條はそれを無視した。司法・岩村通世、文部・橋田邦彦、農林・井野碩哉、厚生・小泉親彦、企画院総裁・鈴木貞一は留任で、商工に岸信介、逓信・鉄道には寺島健が座った。が、これらの閣僚はそれほど内閣の性格を問われない。陸相、海相、外相、それに蔵相が新内閣のカラーをあらわす。
「外相は玄人でなければならん。とくにこの期には熟達の者でなければ……」
と、東條は外務省長老の東郷茂徳に白羽の矢を立てた。東郷は、最近の様子は知らないので……と初めは躊躇したが、執拗な説得に、「日米協調に全力を尽くし、いくつかの懸案事項では譲歩しなければならぬ。合理的基礎のうえに交渉が成立するよう努力するというなら入閣してもよい」と申し出た。東條も異論はなかった。
蔵相は賀屋興宣である。彼は陸軍と関係の深い北支那開発株式会社の総裁だった。賀屋はこんどの倒閣が東條の頑迷な主戦論にあるという巷間の噂をきいていたのに、官邸では東條がまったく反対のことを言うのに驚いた。「できるだけ日米交渉をまとめる方向にもっていき、戦争にならぬよう努力するつもりなので協力して欲しい」。それで彼も入閣することになった。
海相は難航した。当初、海軍では呉鎮守府司令長官豊田副武を推してきた。豊田は陸軍嫌いて有名だった。東條も、「陸軍は彼の声を聞くのも厭だ」と断わった。
ついで推されてきたのは、横須賀鎮守府司令官の嶋田繁太郎だった。「日米戦うべからず」との主張に与しているし、それに温厚な性格と政治色のなさ、しかも軍令部畑育ちというので海軍内部から推されてきたのである。もっとも初めは、及川の説得を受けた嶋田も断わっている。しかし永野修身が口説き、東條が面談して説いた。それで嶋田は、陸海軍の協調、治安維持を条件に入閣した。しかし十八日の午後になると、東條を訪問し、入閣の条件として海軍の意向である「海軍軍備戦備の急速な充実」「外交交渉の敏速」の優先を求めた。東條はそれを受けいれなければならなかった。
こうして陸軍と海軍の表面的な合体ができた。
十八日夕刻、閣僚名簿が発表になった。街に号外が走った。近衛内閣の倒閣を電撃的幕切れと報じた新聞は、「生まれよ、強い内閣」と期待を寄せていたので、この内閣には成立当初から強力さを発揮することを望む筆調があった。〈断定詞をつかう指導者の登場〉が期待されていたのだ。
また東條を紹介する記事には、明治二十二年の大日本帝国憲法発布からこのときまで、現役の軍人が首相になったのは山県有朋、桂太郎、寺内正毅に継いで東條が四人目であり、その東條には、先達三人に優るとも劣らぬ軍人としてのプロフィルが与えられていた。そして、まさに決断こそが要求されているとあがめたて、東條を救国の英雄であるかのように語って、「鉄血」「鉄の人」という形容詞を乱発する新聞もあった。
一方で政界内部には、この内閣は、事務官内閣とか満州内閣、あるいは東條が側近ばかり集めてつくった小粒内閣と評する声があった。東條を讃える新聞をつくっている裏側で、つまり新聞記者の間でもそういう声はあった。さらに陸軍内部にも、そのような皮肉な声があった。むろん反東條系の将校の中傷であった。
だが問題は、日本の国策の流れを追う限り、〈東條内閣誕生〉こそ日本の意思表示、と受けとられる危険性があったことである。陸軍内部にさえそういう見方はあり、参謀本部戦争指導班の『大本営機密戦争日誌』には、「遂ニサイハ投セラレタルカ」と開戦を喜ぶ記述さえあった。東久邇宮は、「……私は東條に組閣の大命が降下したことに失望し、国家の前途に不安を感じる」と日記に書いた。
しかし日本国内だけならまだいい。アメリカ政府の要人は、日本が戦争を決意したと考え、太平洋艦隊を警戒配置につかせたほどだった。ハルは、その回顧録に「東條は典型的な日本軍人で、見識の狭い直進的な、一本気の人物であった。彼は頑固で我意が強く、賢明とはいえないが勤勉でいくらか迫力のある人物」と書いている。もっとも、駐日大使グルーの報告によって、この内閣は近衛路線を継ぎ、日米交渉に尽力すると知るや、ハルは警戒を解いている。だが、政治的に、この内閣を利用することだけは忘れなかった。
自らの内閣がさまざまに受けとられている様子は、軍務課の将校によって東條にも伝えられた。〈軍人は世間の評価を気にしてはいけない〉といわれているのを守って、東條はその報告をあまり重視しなかった。しかし日を経るうちに、官邸に殺到する激励の手紙の数がふえていくことに衝撃を受けた。日中戦争から五年目、耐乏生活に倦いた国民感情は強力なカタルシスを求めていたが、それが東條に殺到したのである。その凄じさに、東條は恐怖を感じた。国民も軍人も民間右翼も、東條に期待しているのは、対米強硬態度、その果ての対米戦争であった。激励文とはそういう内容で満ちていた。それがこれまでの東條の帰結だったからである。
しかしこの内閣には、国策をひき戻す役割が与えられている。政策が実行に移されると、反動は大きいはずだ。東條は幻影に脅え、内相就任を内心で当然のように思った。特高をつかって国民のエネルギーのはねあがりを監視することが何より必要だと、いっそう確信した。「もし日米交渉が成功したらどうなるだろう。軍内外に不穏な動きが起こるだろう。二・二六事件に匹敵するほどのものになるかもしれん。それはいかなることがあっても阻止したい」と、東條は軍務局の将校たちになんども洩らしていたのである。
十九日、親任式が行なわれたあと、初閣議が開かれ、「この内閣は内患外憂の折り、ひとつに堅確なる実行を期したい。二つ目に日米外交交渉の促進、そして最後に治安維持に全力を投入する……」と、東條は熱を込めて言った。「治安維持」の意味は、外交交渉に熱を入れるのを軟弱外交と批判して策動があるだろうが、それを防止することだとつけ加えた。
閣議を終えたあと、東條は嶋田、賀屋、東郷、それに鈴木の四人を呼びとめ、国策再検討の項目案を手渡した。
「九月六日の決定を白紙にするために、これをそれぞれの省庁で詳細に検討されたい。その後に連絡会議を開き、徹底的に煮つめるようにしたい」
この項目案は軍務課の石井秋穂がつくったもので、国策再検討のためにいま懸案になっている問題を解体し、改めて十一項目に分けたものだった。
十一項目のうち八項目は戦争に踏みきった場合を想定し、のこりの三項目は和平の場合の日本の状態を考えたものだった。ここには欧州戦争の見透し、対米英蘭戦争の初期の作戦的見透し、国内の主要物資の需給状況、開戦時期はどの時点がいいのか、などの項目が並んでいた。
たとえば第十項には「対米交渉ヲ続行シテ九月六日御前会議決定ノ我最小限度要求ヲ至短時間内ニ貫徹シ得ル見込アリヤ。我最小限度要求ヲ如何ナル程度ニ緩和セバ妥協ノ見込アリヤ。右ハ帝国トシテ許容シ得ルヤ」とあった。日米交渉の打開工作につき、改めて条件を検討してみようというのである。新たに条件緩和の方向を見出せないか、それも検討してみようというのである。ここに東條の期待は集約されていた。統帥部が作戦準備にはいっていて、対米交渉打ち切りをのぞんでいるのを知りつつも、それに抗するには、この項目を楯に新たな方向を固めることだということを、彼は充分自覚していた。
嶋田も賀屋も東郷も、この項目を徹底して論じたあとならば、〈戦争か平和か〉の結論をだすことを納得するにちがいないと、東條はひたすら考えていたのである。
東條が、聖慮に耳を傾けるポーズをとって、その実はじめから日米開戦の道を歩むつもりだったという論者がいる。実際、東條内閣成立から五十日後には戦争状態にはいったのだから、結果からみれば、たしかにその指摘はあたっている。
しかし東條は、組閣時には聖慮に答えようと必死だった。九月六日の御前会議の決定を、紙クズ箱にいれたくて仕方なかった。だがそのことは、アメリカヘの憎悪感を押さえることを意味しなかった。天皇の前では聖慮に答えようと思い、連絡会議ではアメリカヘの軍事行動の誘惑にかられるという背反の中で、彼は動いていたのである。
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号泣する首相
白熱する連絡会議
首相官邸ができたのは昭和三年である。東條は十代目の住人として、ここに住むことになった。
官邸には本館と別館があった。三階建ての本館は、閣議室、会議室、執務室、それに職員用の部屋もあり、首相はここにいて一切の事務をとることができた。裏門に近い別館は、通称日本間といわれ、私邸にあてられた。五・一五事件の際に、犬養毅首相が襲われたのも、日本間の食堂である。
日本間の二階には応接室、それに執務室、洋風の寝室があり、家族の住む部屋も二室ほどあった。一階には秘書官の執務室と会議室があった。東條は、この日本間にカツと三女、四女のふたりの娘とともにはいった。陸相官邸から自宅に戻った荷物は、ふたたび官邸に運ばれた。女学校に通う次女は、以前のまま陸相官邸に住むことになった。
首相になってからの東條は、家族との語らいの時を失なった。多忙でありすぎたからである。家族に代わって東條と行動を共にするようになったのは三人の秘書官だった。陸相秘書官から首相秘書官になった赤松貞雄、海軍省軍務局から推されてきた|鹿岡《かのおか》円平、内務省からの広橋真光。広橋は群馬県教育課長から、星野に呼びだされ、首相秘書官となった。伯爵家の出で、妻が梨本宮の娘だったので、彼の役割は宮中や皇族関係の窓口の意味でもあった。鹿岡が四十一歳、赤松四十歳、そして広橋は三十九歳で、東條とは十七、八歳の開きがあった。この三人が執務室で東條を補佐し、食事時には食卓を囲むことになったが、まもなく彼らの間には家族的ふんい気ができた。東條は彼らに自らの性格をあますところなく見せ、苦衷を訴えた。彼ら三人は交互に、そういう東條の言をメモ帖に筆記した。そのメモは『秘書官日記』として、いまも広橋真光や赤松貞雄の手元にある。
このメモ帖をひもとくと、首相になってまもない東條の、揺れる心の動きがわかる。「白紙還元といっても法的な規制はない。だから表面上でごまかせるという者もいるが、自分はそういう態度はとらない。三千年の歴史をもつ国体はそんな法律など越えているのだ。自分にたいする信頼には答えなければならない」「支那事変の英霊には申し訳ないが、だからと言って、日米戦争が起これば多くの将兵を犠牲にすることになる。それを考えると悩んでしまう」――。会話の端々には、心を許した者にだけみせる苦悩があった。
項目再検討の連絡会議は、十月二十三日からはじまった。十八日からこの日まで、海軍省、外務省、大蔵省、企画院が、東條の手渡した再検討項目案をもとに討議をつづけ、それぞれ草案をもって出席してきた。出席者には、ふたつの流れがあった。日米交渉妥結の方向に会議が進むのを願う外相、蔵相。逆に九月六日の御前会議の決定どおりに国策をもっていきたい統帥部――。会議は連日つづいた。ところが会議が進むにつれ、統帥部の怒りが高まっていった。
〈いまさら国策検討などというのではなまぬるい。一応は協力するが、しかしそれも外相、蔵相を説得するためだ〉
杉山も永野も、統帥部のそういう強硬意見に後押しされて出席している。東條をはじめ嶋田や東郷がどのような心算なのか、会議の内容が判るにつれ、彼らは真意が判らなくなったのだ。東條が本気で国策再検討を考えているとは思いたくなかった。ところがその東條が露骨に統帥部を牽制する発言をする。杉山から報告をきく参謀本部の将校たちはしだいに疑念をもちはじめた。連絡会議が回を重ねるにつれ、公然と謗る声が部内を覆った。
「東條はどうするつもりなんだ。総理になってすっかり怖気づいたか」
東條の陸相兼任を解き、主戦論者を陸相に据え、参謀本部の見解をもっと強く打ちださねばならぬ――中堅将校は言った。杉山のもとに駈けつけて「東條内閣はつぶさなければならん」と大声をはりあげる者もあった。それを杉山が辛うじて押さえた。
連絡会議は十一項目をひとつずつ論じていき、二十七日になって第五項の「主要物資ノ需給見込如何」が俎上にのぼった。ここで海軍省は、石油は二年間の自給が可能で、それ以後は南方での油の取得量が爾後の供給関係を決定すると言った。それでも戦争三年目の事態は予測できぬと発言した。陸軍は航空機用揮発油を南方から取得しても十一月開戦で三十カ月、三月の開戦では二十一カ月しかもたぬと報告した。需給関係は楽観できないのが、東郷や賀屋にも明らかとなった。
では石油にかわる人造石油はどうか。二十八日にはそれが論じられた。だが人造石油はまだ試験的な段階で、工場建設に必要とされる鋼材調達は、軍需に圧迫されて困難だという見透しが企画院によって具体的な数字で説明された。たとえ人造石油産業に転換できたとしても、海軍の軍備は大幅に遅れてしまうと、海軍省兵備局長保科善四郎は発言した。
討論が煮つまるにつれ、最終的に国策がどのように落ち着くのか、出席者の困惑は深まった。アメリカから石油禁輸の処置を受けて以来、日本の現状は苦境であり、ジリ貧である。が、だからといって戦争で解決するというのは短絡すぎる……。どのような方法で現状を打開すべきなのか、それぞれが自分の方向に結論をもっていこうと必死になった。
会議の終わるたびに、東條は武藤と打ち合わせて、陸軍省の態度を確かめた。ときに佐藤賢了、真田穣一郎、石井秋穂の軍務局の将校も官邸に呼び、彼らの意見に耳を傾けた。東條は、日米交渉に全力を尽くすが、その一方で作戦準備も進めるという考えを採り、この方向で陸軍省を統一したいと、彼らに言った。そのために統帥部の強い態度にどう対応するか、頭をひねった。杉山や永野は開戦論にこだわり、そこから動こうとせず、東郷や賀屋に強圧的な発言をくり返すばかりで、これがつづけば東條内閣の基盤も危くなるという危惧もあった。武藤は「白紙還元の方向で努力するには参謀本部の強硬派、田中新一部長を更迭しなければならない。そのために私も身を退く」と東條に人事での相撃ちを申し出た。
だが東條は統帥部の人事に手をつけなかった。本来ならこの案を受けいれるべきだった。しかし田中更迭で参謀本部がいっそう態度を硬化させるうえに、新たに就任した者が事情に精通するまでかなりの時間を要するのが不安だった。それに日米交渉をまとめるには武藤の政治力が必要だと、東條は考えていた。武藤は東條に向かって、「万人が納得するほどの手段を尽くしてアメリカに受け入れられなかったら戦争になるかもしれない。でもそのときは国民は奮起してついてきてくれるでしょう。一方、日米交渉が成功して支那事変解決となったら国民からは感謝されます」と言ったが、東條もその意見に異存はなかったのである。
こうして陸軍省の中枢である東條と武藤が日米交渉に本気で取り組んでいるという噂が陸軍内部に広がると、公然とテロがささやかれだした。「天誅を加えると公言する者がいる」と憲兵隊は情報をもってきたので、軍務局長室には終日護衛の憲兵がついた。東條もまた数人の護衛が身辺を守った。
東條に白紙還元の枠をつけて推挙したのが内大臣木戸幸一だという事実は、広く政策集団や民間右翼にも知れわたった。木戸襲撃という噂も流れ、二十名近い護衛が彼の周囲を警戒する事態になった。木戸も東條も、一面では自らのこれまでの幻影に脅えているともいえた。
十月二十九日、再検討項目の要である第十項が討議の対象になった。この項目が外交交渉を左右する当面の核であるのは、すでに出席者たちは知っていた。
この朝、東條は会議のまえに、東京中央市場を視察した。前々日の新聞で、総動員体制下での新機構というふれこみで東京中央市場が発足したが、かえって一般家庭に魚類が回らなくなったと報じられたのを見て、急遽思いついたのである。市場に乗りこむや、関係者を難詰した。首相がここまで出ていかねばならぬのかという疑問は、彼には通用しなかった。むしろこうした態度は「魚河岸へ首相の奇襲」と賞讃の文字をもって報じられ、東條の得意さかげんに輪をかけることになった。
連絡会議の冒頭にこの話が披露された。出席者の表情は和んだが、和戦の岐路にある会議の内容を柔らげるものとはならなかった。議題は、まず「日米交渉ノ見込如何」からはじまった。四月からの交渉経緯を見るに、現在では妥結の可能性はないという点で、全員の考えは一致した。つぎにアメリカの提案を受けいれた場合、日本はどうなるかが論じられた。東郷をのぞいて、全員が三等国になるだろうと判断した。彼らにとって、日本が三等国になるのは先人の業績を汚すものとして唾棄すべき意見だった。では日本側はどこまで条件を下げられるのかが、つぎに論じられた。――「我最小限度要求ヲ如何ナル程度ニ緩和セハ妥協ノ見込アリヤ」。三国同盟離脱、ハル四原則の承認、支那の通商無差別待遇、仏印からの撤兵、それに支那からの撤兵。これらのなかで、最大の懸案は〈支那撤兵〉ということで会議の空気はかたまった。しかし出席者は、東郷をのぞいていずれも支那駐兵を濃淡の差はあれ主張した。支那事変は、いまや否定しがたい重みとなって彼らの意見を支えた。
杉山は駐兵を期限付きとする案を示されると、これでは支那事変の成果を喪失せしめ、陸軍の士気も阻喪せしめると譲らなかった。嶋田も、いかなる場合の撤兵にも応じがたいと説き、賀屋でさえ駐兵は在支企業擁護のために必要だと言った。あまつさえ彼は頭を殴る真似をしながら、「駐兵しなかったら日本人は頭を殴られ、とても支那にはおれない」と断言した。東條も支那撤兵反対のニュアンスを含んだ発言をした。「この問題は慎重に考慮しなければならない」。東郷はこの発言で孤立しているのを自覚しなければならなかった。
支那駐兵か撤兵か――杉山とそれに抗する東郷の論議は果てしなかった。やがて例によって妥協の産物として、「期限付駐兵」がもちだされた。九十九年、五十年、二十五年、そして五年。まるで商談のように期限が根拠もなく論じられた。杉山は九十九年をいい、東郷は短かければ短かいほどいいと言った。東條が二十五年では……と間にはいった。東郷は、アメリカはたとえ十年であっても受諾しないだろうと胸中でつぶやいていた。
中国にたいするこの無神経な論議こそ、中国人に怨恨と悲劇を呼び起こすものであることに、彼らは無自覚だった。
この日、東條は官邸の執務室で夜おそくまで思考を煮つめた。会議で国策決定の土台になる懸案事項を論議しつくしたかが、彼の不安だった。だが二十三日から六回にわたってつづいた連絡会議のメモを見ているうち、彼はすべての論議は終わっていると自らを納得させた。石油供給の現況、日米交渉の反省、すべてが論じられているではないか……そこで彼はそろそろ結論をださねばならぬことに気づき、選択すべき三つの項目を練りあげた。全面的にアメリカに屈伏しての和平か、それとも状況打開策として戦争に頼るか、そしてもうひとつは、外交と作戦を併立させるというこれまでの進め方を踏襲していくか、その三つしか選択肢はないと考えた。彼はメモ帖の整理をつづけながら、それをなんども確認した。
海軍省、外務省、大蔵省、それに統帥部はこの案のうちどれを選択するか、それを東條は窺った。統帥部の態度は容易に判る。外務省、大蔵省も推測できる。ところが対米英戦の主役である海軍がどのような態度をとるか、それが東條には判らなかった。連絡会議でも、嶋田海相は、「資材を、予算を」というだけで、本心はなかなか言わないのである。東條は、なぜ海軍が胸襟を開かないのか、考えを整理しているうちに、憤りにも似た感情をもちはじめた。
皮肉なことに、このころ嶋田海相も、そろそろ明確な態度を表明しなければならぬことを自覚していた。大臣室にとじこもって、彼は『決心』と題した文書を書きあげ、自らの心算を整理していた。
「一、極力外交交渉ヲ促進スルト同時ニ作戦準備ヲ進ム 一、外交交渉ノ妥結確実トナラハ作戦準備ヲ止ム 一、大義名分ヲ明確ニ国民ニ知ラシメ全国民ノ敵愾心ヲ高メ挙国一致難局打開ニ進マシムル如ク外交及内政ヲ指導ス」
彼は、この『決心』を海軍首脳に披瀝し、この方針を連絡会議の結論としたいと申しでた。
連絡会議では、本来なら企画院の数字が論議の軸になるはずだった。賀屋蔵相、東郷外相ら消極論の側に立つ閣僚は、数字だけを頼りに統帥部に抗していこうというのだから、必死に企画院の資料を頼りにした。しかし企画院の数字は、必ずしも妥当性のあるものではなかった。関係省庁から資料をださせ、平行して陸海軍からも物資の要求の数字が出て、それを比べながら配分量を決めていくのが企画院の本来の作業順序だったが、陸海軍の圧力のまえに、企画院が試算する基礎数字は曖昧で、正確な数字とはいえなかった。これが東郷と賀屋には不快だった。そこで彼らは執拗に基礎数字を要求し、やっと連絡会議の途中に数字がでてきたのである。
十月三十日の会議で、企画院から根拠のある数字が報告された。しかしこのころになると出席者の関心は驚くほど薄れていた。八日間の会議はこれで終わり、出席者の間に疲労をねぎらう声があがったが、それを打ち破るように杉山と永野が、この席で戦争か外交かの結論をださなければならぬと詰め寄った。戦機はこの一カ月以内にしかないというのである。だが賀屋は「一日考えさせてくれ」といい、東郷は「頭を整理したい」といって、時間の猶予を求めた。強行論と延期論が白熱しているのを制するように、東條が発言した。
「十一月一日には徹夜をしてでも決定すべきである。三案に分けて研究してみたらどうか」と言って、三案を示した。第一案は「戦争セズ、臥薪嘗胆ス」、第二案が「直ニ開戦ヲ決意シテ作戦準備ヲ進メ戦争ニヨリ解決ス」、第三案は「戦争決意ノ下ニ作戦準備ト外交ヲ併行スル、外交ヲ成功セシムル様ニヤッテミル」――。
この案をもち帰り、最終的に態度を決めて十一月一日には徹夜になっても方針を明確にしようという結論で、この日の会議は終わった。こうして十月三十一日という一日の空白の日がつくられたのである。
この一日こそが〈戦争か和平か〉を決断する一瞬となったのである。
「乙案」をめぐる論争
十月三十一日、この日は東條には多忙な一日となった。彼の日程は早朝からはじまった。
午前八時半すぎに官邸の執務室に、軍務課高級課員石井秋穂が、私案をもってたずねてきた。東條内閣の陸軍の政策は、この中佐によって起案されるのだが、彼は外交交渉を十二月上旬で打ち切るという期限を示して統帥部を納得させ、外交交渉に精力をそそぐというのはどうか、と私案を示した。下僚としては越権行為だったが、東條は黙ってきいていた。「参謀本部はこの案でも生ぬるいといっています」と石井は補足するように言った。いわれるまでもなく東條も参謀本部を説得しなければならぬと思っていた。彼らは第二案であろうが、すこしでも第三案に近づかせなければならない――。
石井の去ったあと、東條は、腹心の佐藤賢了を参謀本部に出向かせた。しかし参謀本部では部長会議を開いていて、すでに「即時対米交渉ハ偽装外交トス」と決めていた。むしろ陸軍省のなかでも主戦論の側に立つ佐藤が、逆に彼らに説得されて、東條のもとに戻ってきた。佐藤をどなりあげる東條の声は震えた。
東條のもとには、海相の嶋田もたずねてきた。彼は、海軍側が普通鋼材、特殊鋼材の生産量の七〇%を取得したいと申し出た。「それが海軍の決断の前提になります」とつけ足した。海軍のこの態度は何を意味するのか、東條は真意をはかりかねた。陸軍省軍務局の将校たちは、海軍は自らの集団の利害だけで動くのかと憤慨し、東條のもとにも批判がましい繰り言をぶつけてきた。だが東條はそれに同調せず、海軍の言い分を飲もうと決断した。その決断の裏で、もしかすると海軍は要求したとおりの物資が得られないという理由を挙げて避戦の口実を陸軍と東條に押しつけるのではないかと疑ったからだ。海軍の連中なら、それくらいはやりかねないと思っていた。
十一月一日午前七時半、東條は首相官邸に杉山を呼び、統帥部を第二案から第三案に変えさせようと最後の説得を試みた。杉山が拒否すると、東條は怒り、「統帥部が自信あるならやりなさい」と恨みがましい口調で言った。このことばが参謀本部将校の知るところとなり、「大臣変節」という雑言が連絡会議に向かう東條の背中に投げられた。
午前九時から大本営政府連絡会議ははじまった。国策の最高決定が行なわれるとあって、出席者たちは曖昧な妥協を排そうと意気ごんでいた。が、会議のはじめは微妙なものだった。嶋田が鋼材問題を切りだしたからである。出席者はいぶかった。
「鉄をもらえば決心するのか」
と杉山はいらだち、嶋田はうなずいた。このやりとりが六時間もつづいた。そのあとで統帥部は、即時開戦論をもちだした。これに東條、嶋田、東郷、賀屋、鈴木の閣僚は反対した。即時開戦論を受けいれるなら二十三日からつづいている連絡会議がまったく意味をなさなくなる。そういう思いがけぬ提案、虚々実々の駈けひきが会議の前半を支配した。
休憩のあとに第一案が検討された。東郷と賀屋が永野にくいついた。こんな案は問題にならぬと永野は言い、「戦機はいまであって、あとには来ない」と断言した。第二案にはいっても彼らの論争はつづいた。東條も嶋田も口をはさまなかったが、ふたりとも賀屋、東郷の側で論議を見守っているのを、出席者はすでに知っていた。だが、統帥部は強い姿勢を崩さず、東條は焦り、接点をさぐりだそうとした。東條はいまや連絡会議のブローカーのような存在であるのを自覚しなければならなかった。
第二案と第三案が同じ土俵にあがった。そこでも東郷、賀屋と統帥部の論争はつづいた。
「国運を決するのだから、何とか最後の交渉をしたい。外交を胡魔化してやれというのはあまりにもひどい。|乃公《だいこう》にはそんなことはできない」
東郷の言に軍令部次長伊藤整一がそくざに反論する。
「海軍としては、十一月二十日までは外交をやってもいい」
軍令部は、連合艦隊に十一月二十一日以降作戦行動開始のため作戦予定地への出動を命じる手筈になっているというのだ。参謀次長の塚田攻も伊藤に呼応した。
「陸軍は十一月十三日までならいいが、それ以上なら困る」
「なぜ十一月十三日が限界なのか」
「作戦準備とは作戦行動そのものだ。外交交渉打ち切りの時期は作戦準備のなかで作戦行動とみなすべきだ。この限界が十三日だ」
塚田は激して答え、この内容を詮索することは統帥を乱すことになると脅した。統帥部にいる者は、ここに逃げこんでしまえば、政治の側からは容喙できないことを知っている。だが東郷は、交渉が成功したら戦争準備を中止することを要求し、その意見を東條も後押しした。統帥部が「大権干犯」の囲いに逃げこむのを、とにかく防がなければ会議は決裂してしまうのが目にみえているからだった。
期限付きの外交を渋っていた東郷も、統帥部に押され、しだいに期限を先に延ばすことに焦点をもっていかねばならなくなった。東條もそれに加担し、期限を延ばすための論陣をはった。参謀本部が一歩ずつ譲り、十一月三十日までと言った。すると東條はさらに押した。「十二月一日にはならぬか。一日でもよいから長く外交をやることはできぬか」、塚田は憤激に耐えぬ表情で「絶対にいけない。十一月三十日以上は絶対にいけない」とくり返した。「十一月三十日の何時までか。夜の十二時まではいいだろう」。嶋田が助け舟をだし、塚田も「それでは……」と、しぶしぶ十二時までと妥協した。
幹は崩れ、末節が面子をかけて応酬されているのである。日時を区切りながら、その実、両者とも根拠は曖昧だった。なぜ十二月一日なのかを、誰ひとり深く確かめようとしない。このようなやりとりのあとに結論ができあがった。それはつぎのように明記された。
「(イ)戦争ヲ決意スル。(ロ)戦争発起ハ十二月初頭トスル。(ハ)外交ハ十二月一日雰時マデトシ、コレマデニ外交成功セバ戦争発起ヲ中止ス」
ついで日米交渉にはどのような案をもってのぞむかが討議された。それは十月三十日に開かれた会議ですでに決まっていて、単なる確認事項として会議は終わるはずだった。これが「甲案」である。ところが、突然、東郷はこの案の補足として、外務省独自の案を提出した。いわゆる「乙案」といわれているものであるが、これは元外相幣原喜重郎の意を受けてつくられたもので、元駐英大使吉田茂がグルーに打診したところ感触があったとして、東郷のもとに届けられた案である。この案なら、アメリカとの間に妥結の余地があるというのが外務当局の判断だった。つまり外務省の最後の切り札でもあった。
乙案は三項目と二つの備考から成っていた。それは、太平洋地域で日米両国は武力発動をしない、蘭領印度支那では物資の獲得を相互に保障する、アメリカは年百万屯の航空機用揮発油の対日供給を確約するというもので、二つの備考のひとつには、南部仏印進駐を北部仏印にまで撤退するとあった。つまり骨子は、南部仏印進駐前の状態に日本もアメリカも戻すという点にあった。
東郷の説明が終わるか終わらぬうちに、杉山と塚田が声を荒らげた。南部仏印からの撤兵は国防的見地から認められぬと激昂し、会議は急に緊張したものになった。それは東條にも同様だった。この案を事前に聞いていなかったので、彼には東郷の背信と映った。
杉山と塚田が東郷と議論をつづけている間、東條はことばを失なっていた。だが冷静になると、東條の政治的立場はいまや東郷の側に立たなければならないことに思い至るのだ。
東郷は辞職をにおわせた。逆に統帥部の出席者は、開戦に反対の外相なんかとりかえてもいい、とささやき、しだいに両者の対立は感情的となった。議長役の武藤が休憩を要求し、会議の空気に水をさした。
「外相のいう方向でまとめるべきではないか。彼らがああいうのだから、そのとおり外交交渉をさせてみるべきだ」
別室に杉山と塚田を招きいれ、東條と武藤は口説いた。杉山は東條をにらみつけた。塚田は忿懣をそのまま表情にあらわし、東郷の示した案は連絡会議の一切を否定するものだと罵倒した。東條も武藤も、それに抗する意見をもっていなかった。なんとか決裂を防ぎ、国家意思を一本化することが最大の目的であり、そのためにあらゆる異例を許容しなければならなかった。武藤が杉山にむかって、もしこれがまとまらなければ政変が起き、新内閣で再び初めからやり直さなければならない、と半ば懇願とも脅しともつかぬことばで説いた。それで杉山と塚田はやっと譲歩することになった。
再び会議が開かれた。こんどは統帥部が攻勢に回った。塚田は乙案の条文の変更を迫り、アメリカは日本に航空機用揮発油を供給するという第三項目を、「日米両国は通商関係を資産凍結前の状態に戻す」と直し、南部仏印には目をとじ、アメリカの資産凍結だけを改めさせるように主張した。そして新たに第四項目として、「アメリカは日支両国の和平に関する努力に支障を与えない」と明記するようにいい、それを認めさせた。しかしこうすることで東郷の案は完全に骨抜きとなったのである。
「これでは日本に利益があるだけで、アメリカが受けいれるはずがない……」
と東郷は渋り、不満を隠さなかった。だがここで妥協する以外に、会議は終わりそうもなかった。
こうして十一月二日にはいったばかりの午前一時、十六時間に及ぶ連絡会議は終わった。陸相官邸に戻った東條は、連絡会議がひとつの結論をだしたことに満足を隠さなかった。この内容でアメリカがどのような態度にでるか、はたして交渉がまとまるのかどうかを案ずるより、とにかく連絡会議が終わったという安堵感が彼の不安を消した。陸相の執務室で待ち受けていた将校たちに、
「一応の結論はでた。十二月一日まで外交にあたる。むろん戦争準備も進める。外交と作戦の二本立て、これで進める」
と上機嫌に報告した。だが冷静に結論を分析すれば、大勢は九月六日の御前会議を踏襲しただけで、細部が日本側の譲歩になっているにすぎなかった。〈これでまとまらなければ仕方がない〉――わずかなその譲歩に、東條は期待をつなぐだけだった。
独裁への傾斜
十一月二日夕刻、東條、杉山、永野の三人は、この日の未明に終えた連絡会議の内容を天皇に報告した。
上奏にはいくつかのしきたりがあった。そのひとつに、天皇の目を見ないという慣例がある。視線をあわせることは、恐れおおいというのであったが、視線を合わさないことで、それぞれの意を|忖度《そんたく》できぬという長所もある。そこではことばだけが、生きた事実としてお互いに承認されるのである。
だがこの日の上奏は、ことばだけでなく、もうひとつ別なかたちの意思表示があった。連絡会議の内容を報告しながら、東條が泣きだしたのである。東條の涙には、天皇が白紙還元を望んでいたのに、それに充分応えられぬという意味があった。九月六日の御前会議の決定に近い内容であるのに気づき、天皇にむかって話をつづけながら、東條は耐えられなくなったのだ。天皇の前で涙を流す首相は、東條以外になかったであろうが、このことは、杉山や永野を驚かせた。
参謀本部に戻った杉山は、東條の涙が天皇との間に感情の交流があるためのように思い、下僚にむかって感に耐えぬようにつぶやいた。「東條はいつお上にあれほどの信任を得たのだろうか」。この事実は省部にまたたくまに広まった。
官邸に帰っても、東條はしばらくは放心状態にあった。そこに佐藤賢了が来て、乙案を認めたことで陸軍の中に〈東條変節〉の声が高まっているといい、日本もここまで譲歩したのだから堂々と開戦の主張ができると慰めた。それが主戦派将校たちの素朴な感想だった。
「誤解してはいかん。乙案は開戦の口実ではない。この案でなんとか妥結をはかりたいと神かけて祈っているのだ。それがわからんのか」
東條はどなりつけ、佐藤を追いだした。胸中は揺れていたのである。
このころアメリカ政府は、日本の動きを注意深く見守っていた。東條への警戒を解いたとはいえ、「東條は近衛と違って、交渉が成功しなければ行動にでる用意をしているにちがいない」というのが、ハルやルーズベルトの予測だった。十一月三日にはグルーから「日本は日米交渉に失敗したら、全国民がハラキリの覚悟で、のるかそるかの一大事をしでかすかもしれない」という報告が届き、ハルやルーズベルトを驚かせた。
ハルの机に積まれるマジック(傍受電報)は、しだいに日本のヒステリックな声で満ち、東郷から野村に宛てた五日付けの電報は、日本の国策の選択肢がいっそう狭まっていることを示した。「ついに傍受電報に交渉の期限が明記されるに至った。東郷は野村につぎのように述べた。『……この協定調印に対するすべての準備を今月二十五日までに完了することが必要である』――。日本はすでに十一月二十五日までにわが方が日本の要求に応じない場合には、米国との戦争も辞さないと決めているのだ」。のちにハルは回顧録にこのように書いている。
ホワイトハウスの閣議では、ハルがこうした日本側の焦りを具体的に報告し、「情勢は重大だ。われわれはいつどこに日本の軍事攻撃が加えられるかわからないから常に警戒していなければならない」と結ぶと、閣僚たちは、極東の日本が本気で開戦の決意をもっているのを、改めて自覚した。彼らは日本がそれほどまでの感情でいるのを知らなかった。そして日本がどのような態度にでてこようとも、いまや交渉成立はありえず、のこされた道は〈戦争〉しかないと理解した。
十一月五日。連絡会議の決定を追認する御前会議が開かれた。
政治の側、統帥の側、それぞれが、戦争によって状況を開くのも仕方がないという含みの発言をつづけた。会議の最後に、東條が数分間、政府と統帥部を代表して意見を述べた。これまでの経過をふり返り、もういちど日米交渉に全力をそそぐと約束し、「外交には若干は見込みがある。そもそも日米交渉に米国がのったのは、(1)作戦準備未完、(2)国内体制の強化未完、(3)国防資源の不足などの弱点があったためだ。米国は経済封鎖をすれば日本は降伏するだろうと考えたが、日本が決意したと認めれば、その時期こそ外交手段を打つべきと考えるだろう。それだけがのこされた方法である。長期戦の場合にはたしかに困難でこの点での不安はある。しかし米国のなすがままにしておいても、二年後に軍事上の油がなくなる。船は動かず南西太平洋の防備強化、米艦隊の増加、支那事変未完等に思いを及ぼせば思半に過ぐることが多い」と言った。
この演説原稿は、前日、官邸で東條自身がまとめたものだが、これは彼の胸中そのものだった。日本が戦争決意をしていると知れば、アメリカは譲歩するだろうという考え。国内では説得材料になっても、はたしてアメリカがどう受けとめるか、そこまで思考を煮つめる余裕は、東條にはむろんなかった。つけ加えれば、東條がこの原稿を書いているとき、外務省顧問来栖三郎の訪問を受けている。来栖は東郷の命令で、ワシントンに行って野村大使を補佐することになったのである。このとき東條は、まとめていた原稿の内容を、来栖に説明した。
「今回の使命が困難なことは認めるが、米国はみだりに戦争は望んでいないと思う。第一が両洋作戦の準備が不充分であり、第二に世論は参戦を支持していない。そして第三がゴム・スズなど重要物資の手当が不充分だからだ。交渉成功三分、失敗七分とみられるが、くれぐれも妥結のために努力してもらいたい」
「………」
「交渉の障害になっているのは三点、だがもっとも難関は支那からの撤兵だ。これだけはどうしても譲歩できない。もしそんなことをしようものなら、私は靖国神社のほうを向いては寝られない」
「昨日来、外務省で事情を聴取し、いままた総理の話を間いて、卒直に申し上げれば、いささか交渉成立を楽観視しているように思う。万が一戦争になればどうなるのだろうか」
「緒戦では決して負けない」
戦後、来栖が著わした著作には、この会話のあと、「(東條は)それ以上のことは黙して語ろうとはしなかった。私としてもこれ以上追及して、強気一本に出られて、自分の手を詰めることを避けて方面をかえた」とある。こうして東條は、自らの意見を御前会議で明らかにする一方で、来栖をつうじて野村への伝言も託した。彼は、政策集団の指導者たちを自らの所信で動かしたいと思っていたが、ひとまずその第一段階は終わったのである。しかも十一月十六日を目標に、臨時議会も召集している。そこでこの一カ月の状態を部分的に国民に知らせておけばいいと考えていた。
首相という地位に就いてから、彼は自らの意思によって自在に各政策集団を機能させたいと思った。いや責任を負わされている以上、それは当然なことと考えていた。皇国の帰趨は自らの存在にかかっていることを強く意識することは、自らの所信をくまなく国家のすみずみまで貫徹することだった。こう思い至ったとき、彼はその胸中をつぎのようなことばであらわした。
「近衛には悪いことをした。陸相として力の足りなかったのは反省している。首相になってみてそれがよくわかったよ」
わずか一カ月ほど前の近衛との対立を思いだして、苦渋を交じえながら秘書に語ったのである。
沸騰する対米強硬世論
十一月六日以後、外交と作戦が御前会議の字句どおり動きはじめた。つまり〈戦争か平和か〉というぎりぎりの選択を迫られることになったのだ。
統帥部は、武力発動を十二月上旬に定め、「陸海軍ハ作戦準備ヲ完整ス」に沿って、作戦準備を一段階高めた。杉山参謀総長は、南方軍、支那派遣軍各総司令官に南方作戦準備の実施を進める大陸令を発した。陸軍だけではない。軍令部は、山本五十六連合艦隊司令長官に、第一段作戦の初期として南雲忠一第一航空艦隊司令長官を指揮官とする機動部隊など七部隊を|単冠湾《ひとかつぷわん》(|択捉《えとろふ》島)に集結させるよう命じた。
外交はどうだったか。連絡会議で決まった甲案が野村に伝えられ、すぐにハルに届けられた。東郷は外相に就任してから、それまでの日米交渉の経緯を示す電報を読んで、日本が一方的な条件を示すだけでアメリカからはなんの条件も示されていないのに不満をもった。それは松岡、豊田と、外交交渉の経験の浅い外相の不手際と判断した。そこで東郷は、できるだけ相手に手の内を見せずに交渉することにした。そのことは野村や来栖にも外交方針を曖昧にしておくことを意味した。野村には甲案をハルに手渡し、交渉期限は十一月二十五日だからアメリカ側の考えをなるべく早くひきだして交渉を急ぐよう命じたのである。マジックはその機微を見ぬけなかった。
東郷と野村の往復電報は、すべて陸軍省軍務課の日米関係担当者石井秋穂から、東條のもとに届けられる。そういう東郷の電報を読むたびに、東條は外交官生活三十年という東郷の経験に敬意を表した。突然、乙案を提案した東郷の態度に割り切れぬ感情をもちながら、いまはこの有能な外相に頼らねばならぬ時期だと、東條は考えつづけた。
国民は国策が着々と動いていることなど知らない。だがアメリ力にたいする国民の憎悪は高まった。新聞、雑誌、書物、そしてニュース映画。そこで描かれたアメリカは、個人主義、金権万能主義、エロティシズムの氾濫する国であり、アメリカ陸軍の士気は弛緩し、軍隊の体裁をなさぬ国として扱われていた。そしてこのアメリ力が、ABCD(アメリカ、イギリス、支那、オランダ)包囲陣の音頭をとり、日本を苦しめ、生存を脅そうとしているのだとあった。東京朝日新聞が「見よ米反日の数々/帝国に確信あり/今ぞ一億国民団結せよ」と檄をとばした。反米的記事の隣りに、ドイツ軍の猛攻で、ソ連の降伏も時間の問題という記事が飾ってある。スターリンは弱音を吐いているとあった。
外電のニュースの蔭に、戦時色に溢れた国内ニュースがあった。隣り組の防空演習を伝える記事。「勝つための納税奉公」「我慢せよ寒い冬=v、そんな活字が目を射た。首相官邸にも手紙類が殺到した。「何をしているのか」「米英撃滅」「対日包囲陣撃破」。手紙は秘書たちが目をとおすが、東條は決して手紙を見なかった。「どうせ弱虫東條と書いてあるのだろう」という東條の予想は当たっていた。
十六日から五日間の予定で、第七十七臨時帝国議会が始まった。東條内閣以前は武藤や軍務課内政班の将校が代議士工作にのりだし、議会を親軍的な方向にもっていかねばならなかったが、この議会に限っては、そういう工作は必要なかった。議会のほうが燃えていたからだ。
議会二日目、東條は施政演説を行なった。自ら筆をとった原稿を読んだ。「外交交渉に全力を投入する」といい、「外交三原則」を明らかにしたが、この三原則――(1)第三国は支那事変完遂を妨害せず、(2)日本を囲んでいる国家の軍事的経済的圧迫解除、(3)欧州戦争の東亜波及の防止――にもとづいて政策遂行にあたると約束した。
東郷も外交演説を行なって、日米交渉妥結は決して不可能ではないと強調した。政府の演説の端々には自制した意味あいがあったが、議会内の空気は、それを軟弱と謗るほど激しいものだった。全会一致で可決された東條内閣を激励する「国策遂行ニ関スル決議案」には、「世界ノ動乱愈々拡大ス。敵性諸国ハ帝国ノ真意ヲ曲解シ、其ノ言動倍々激越ヲ加フ。隠忍度アリ、自重限アリ……」との一節があった。さらにこの提案説明に立った政友会島田俊雄は、日米開戦を勧めるかのような口ぶりで、「国民がいかに押し詰められた気分になって、どうしてもこの重圧を押し除けて天日を見なければ止まないとの気持になっているのを政府は知っているのか――」と吼えた。なんども拍手がかぶさった。
予算委員会では、「戦争が起こった際の国防は大丈夫か」と東條は責められ、「万全であります」と答えるたびに歓声があがった。こうした議会の様子が新聞で報じられると、官邸にはさらに手紙がふえた。連判状、血書。民間右翼や在郷軍入会の動員によるものもあれば、平凡な庶民からの「米英撃滅」を謳ったものもあった。それは六間四方の書棚を埋め、総数で三千通にものぼった。日中戦争以来の不満が過熱したもので、このエネルギーは、東條には不安を与えるほどであった。
世論や議会がこれほど沸いているのに、交渉が妥結すればそれは鎮静化するだろうか、と東條は考えた。本来なら燃えあがる国民感情を抑制する権限が彼には与えられている。首相、内相という職能は言論統制の責任者であったからだ。しかし東條はその職能を行使しなかった。国民のエネルギーを対米英戦に向かって爆発するように仕向けながら、実際その段になると、こんどはそれを恐れるだけだった。日本陸軍で培養された彼は、状況をつくる立場にありながら、その責任を放置し、状況から期待感のみを汲みとり、それを自らの士気を鼓舞する手段としていたのである。このころ開かれた臨時地方長官会議での「聖戦必勝の信念で国難打開へ総進撃」とぶちあげる彼の姿は、そのことを存分にものがたっていた。
実際、表面上の彼の言動には、日米交渉が妥結すれば自らの政策を百八十度転回しなければならぬという不安感があるようには、見受けられなかった。それは彼の陣営にいる将校たちにさえ懸念を与えていた。参謀本部戦争指導班の『大本営機密戦争日誌』にも、「総理、例によって訓示せるも、当班馬耳東風なり。総理、強硬訓示は可なるも妥結せば如何にするや。もう芝居はたくさんなり」と、いささかうんざりした気持が吐露されていた。
野村大使が東京に伝えてくる甲案にたいするアメリカ側の反応は、あまりいい内容ではなかった。とはいえ交渉のポイントは明らかになってきた。十一月に入ってから、ハルは支那撤兵にふれなくなり、かわって三国同盟を重視するかのような口ぶりにかわったというのである。甲案への返答を迫る野村に、三国同盟死文化を要求してくる。十一月十五日付の電報がそうである。
こういうアメリカ側の態度に、東條はとまどい、「交渉をまとめなければならんが、しかしどうもアメリカという国の外交技術は狷介だ。自分にはわからない」とぐちった。このことばを受けて、赤松貞雄は、東條を外務省顧問で知英米派である幣原喜重郎に会わせて、アメリカ外交の真髄をきかせようと画策した。だがこれは新聞記者や政治家の間に洩れ、沙汰止みになった。幣原に会っただけで「軟弱外交」への転換と噂されることを恐れたのだ。「軟弱」という形容詞は、軍人にとってはもっとも唾棄すべき形容句だったのである。
いくぶん歴史上の皮肉をこめていうなら、東條がアメリカ外交を狷介というとき、ルーズベルトもハルも、日本外交をそう捉えていた。外交交渉で熱心に和平を模索しているというのに、議会では戦争止むなしの決議をしたり、政治の最高指導者が日米戦争必至の強硬発言を公開の席で論じるのは「二枚舌」だと考えていたのだ。
ルーズベルトもハルも巧妙だった。対日戦争警戒を説くとき、それは国務次官や陸軍長官と打ち合わせて彼らに発言させ、最高指導者は公開の席では決して言質を与えぬようにしていた。これに反して、東條は無邪気に強気の発言をすることが、ワシントンにいる野村や来栖に激励を与えると考えていたのである。この相違は、その後もさまざまなかたちであらわれた。アメリカの指導者は、対日警戒の根拠に太平洋に日本海軍がどのていど配備されているかの数字を裏づけとしたが、東條や大本営政府連絡会議の出席者は、己れの価値観に埋没し、己れの行動だけを道義にかなっていると信じることがあらゆる事態認識の根拠だった。だからこそ状況を透視しなければならぬ段階で、実体のない抽象の世界に逃げこむか、被害者意識で判断するかを通弊とした。
十一月十五日、連絡会議は「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」を決定した。ここに並ぶ字句には、不確かな世界に逃げこんだ指導者の曖昧な姿勢が露骨にあらわれていた。二つの方針と七つの要領があり、方針には、極東の米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立するとともに、蒋介石政権の屈服を促進し、ドイツ、イタリアと提携してイギリスの屈服をはかる、そのうえでアメリカの継戦意思を喪失せしむるとあった。この方針を補完するために、七つの要領が書き加えられていた。そこにはイギリスの軍事力を過小評価し、ドイツに全幅の信頼を置き、アメリカ国民の抗戦意欲を軽視し、中国の抗日運動は政戦略の手段をもって屈服を促すという、根拠のない字句の羅列があった。願望と期待だけが現実の政策の根拠となっていたのである。
十一月二十日、野村と来栖は、ハルをたずねて乙案を示した。アメリカ側から甲案の回答は寄せられていないが、受諾の可能性はないと判断した東郷外相は、乙案提出を命じたのである。
ところが乙案を示されると、ルーズベルトとハルも急に顔をこわばらせた。彼らはこの内容を「マジック」で知っていたので、日本が最後通牒を迫る段階にはいったと確信したのだ。ハルは回顧録に書いている。「日本の提案は途方もないものであった。……私はあまり強い反応を見せて、日本側に交渉打ち切りの口実を与えるようになってはいけないと思った」――。ハルもルーズベルトも、回答を保留したり、日本側の提案を拒否したりすれば、日本の軍部がそれを口実に開戦にふみきるかもしれないと恐れた。そのあげくに彼らが選んだのは、日本をあやすために、国務省のスタッフに命じて六カ月間の暫定協定案をつくることだった。そうすれば事態にブレーキがかかると考えた。その草案は、国務省のスタッフが短時間のあいだに作成したが、そこにはアメリカの対日輸出禁止の解除、日本はインドシナ、満州、南方へ軍隊を送らない、アメリカが欧州の戦争に介入しても日本は三国同盟を適用しない、アメリカは日中会談を斡旋する、といった項目が含まれていた。
一方、乙案提示後のワシントンからの電報は、日米交渉に期待を賭けるグループを興奮させた。東郷は執務室で朗報を待っていたし、陸軍省軍務局の将校武藤章や石井秋穂は、その期待を隠さぬことばを吐いていた。野村の電報は、軍務局将校の手から東條に届いたが、東條もまた期待を隠さなかった。
しかしその電報をよく読むと、不安な徴候もあった。ハルは乙案の第四項に不満をもっていると野村に語ったが、そのときつぎのように言ったというのだ。「……独逸ノ止マル所ヲ知ラザル武力拡張政策ニ対抗シテ、一面英国ヲ援ケ一面蒋介石ヲ助クルニ在リ。従テ日本ノ政策ガ確然ト平和政策ニ向ヒ居ルコトガ明確ニ了解セラルルニ至ラザル限リ、援蒋政策ヲ変更スルコト困難ナルベキ……」。アメリカの援蒋政策が根深いものであることを、東條もまた知らねばならなかった。
十一月三十日という外交期限には一週間あまりの時間しかのこされていないが、この期間に日米交渉が妥結するとは、東條も考えたわけではない。「乙案での妥結はむずかしいなあ」と、秘書たちに洩らしたのもそのためだった。そのつぶやきは、この電報と前後して東條の手元に届いた「対米英戦開戦名目骨子案」第三次案への関心につながった。
事務当局がまとめたこの案には、〈東亜新秩序で東亜の平和を築くこと、英米は一貫してそれを妨害しつづけてきたこと、帝国は耐え忍び平和的解決に努力してきたが、いまや根源的な対立となり帝国の前途はきわめて危いこと〉という字句が並んでいたが、日米交渉の挫折はそのままこの案が国策になることだと、彼は充分自覚していた。とはいえ、この段階で「開戦名目骨子案」が主役になることは、まだ東條の胸中にかすかな抵抗感があった。
日米開戦への恐怖
ハルと国務省スタッフがまとめた二つの案、すなわち「暫定協定案」と十カ条から成る「平和解決要綱」が最終的に成文化されたのは二十二日である。「暫定協定案」には、両国が平和宣言を発し、太平洋地域で武力行使せず、日本は南部仏印から撤退し、仏印駐留の全兵力を二万五千名に制限するとあり、これを日本側が受けいれれば対日禁輸緩和を認めるとあった。
ハルは、この案を英・蘭・中国・濠州の大使に説明した。事態が進展すれば相談すると約束していたからだ。
しかし蒋介石は、駐米大使からこの報告を受けるや失望の色を濃くした。日本の「乙案」、アメリカの「暫定協定案」、それは彼のもっとも恐れている日米戦争回避の可能性を示していたからだ。〈断じて潰さなければならぬ〉――彼は外交部長宋子文と駐米大使胡適にたいして、ハルや国務省首脳、陸海軍有力者を説得するよう命じ、彼自身もチャーチルに「われわれの四年以上の抗戦もついに無益に終わるだろう」「わが軍の士気は崩壊しよう」「わが国をいけにえにして日本に譲歩するのか」と訴えた。
この電報を読んだチャーチルは、蒋介石が同盟から離脱するのではないかと懸念した。チャーチルはハルから示された案を受けとったとき、日米戦争勃発になればイギリスだけで対独戦を戦わねばならぬのではないかと不安に思ったのだが、蒋介石の電報を読んでからは、蒋介石の自棄的な行動が心配になったのだ。インドをはじめアジアに植民地をもつ英国としては、アジア人のアジアという日本の宣伝を裏づけてしまうのを恐れて、中国をつねに陣営に引きいれておかねばならないと考えていた。彼はルーズベルトに宛てて、「われわれは明らかにこれ以上の戦争を望んではいない。われわれは一点だけを心配している。……われわれは中国について心配している。もし中国が崩壊したならば、われわれの共通の危険は非常に大きくなる」と警告した。このメッセージが、国務省に届いたのは十一月二十六日の早朝だった。ところがこれが、実際にルーズベルトに大きな影響を与えることになったのである。
メッセージが届く三時間まえ、ワシントンでは最高軍事会議が開かれ、日本の最終期限をひとまず延長させるため「暫定協定案」の提案を検討していた。会議に集う者は、それが事態の本格的解決にならないことも知っていた。会議は難航したが、ルーズベルトが「日本人は無警告に奇襲をかけることで名高いから、もしかすると十二月一日ごろに攻撃されることもありうる」と発言してから、出席者たちは、この奇襲こそが救いになると気づいた。戦争反対の声や孤立主義に傾く世論を燃えあがらせるには、第一弾を日本に発射させるべきだというのである。対独戦に参加するためにも対日戦は必要だという暗黙の諒解がそれに輪をかけ、「暫定協定案」より「平和解決要綱」を示したほうが、日本に第一弾を投じさせることになるかもしれないという誘惑が彼らを虜にした。しかし最終的な結論をださぬまま、会議は休会となっていた。
この休会の間にルーズベルトはチャーチルの電報を読み、すぐ宋子文と胡適に会って蒋介石の要望を丹念に聞いた。またハルも陸海軍の責任者に会い、日本からの攻撃に反撃できるかを確かめた。そのあとルーズベルトとハルは長時間話し合い、この際事態を延ばす途を採らず、日本に第一弾を投じさせる途を選択することにした。
十一月二十六日午後五時、ハルは野村と来栖を呼び、「平和解決要綱」を手渡した。いわゆる「ハルノート」である。国務省の応接間にはいるまえ、ハルは陸軍長官スチムソンと海軍長官ノックスに、「まもなく日米間の主役は交代するだろう」と事態が政治から軍事に移ることを予言した。そして事態はそのとおりに動きはじめたのである。
野村と来栖は、「ハルノート」を読んでいくにつれ、身を震わせた。十カ条の項目のどれもが、半年にわたる日米交渉の経緯を無視していたからだ。とくに第三項と第四項に、ふたりの怒りは深かった。そこにはつぎのように書かれていたのである。
「三 日本国政府は支那及び印度支那より一切の陸海軍兵力及び警察力を撤収すべし
四 米国政府及び日本政府は臨時に首都を重慶に置ける中華民国国民政府以外の支那におけるいかなる政府もしくは政権をも軍事的、政治的及び経済的に支持せざるべし」
これでは日本の努力は少しも認められていない。ふたりはハルを恨みがましい目で見つめ、細部にわたって質した。彼らはそのときの状況を、つぎのように東京に伝えた(「マジック」で解読されたのが以下の文章である)。
「(本使は)(三)と(四)はできない相談であり、(四)の重慶政権の承認については、米国が同政権を見殺しにできないというのと全く同様に、われわれとしては南京政府を見殺しにすることはできない、と述べた。ハルは、こう答えた。『(三)の撤兵は交渉によって行なわれるものである。われわれは必ずしも即時実現を要求しているわけではない。南京政府に関しては、米国の有する情報によれば、中国を一体として統治する能力がない』。本使はこれに対し、その議論は過去において数多くの政府が興亡した長い中国の歴史を無視したものである、と反論した」
あわただしく大使館に戻った二人は、駐在武官や館員に経過を報告した。駐在武官磯田三郎は、「アメリカは乙案を拒否、長文の強硬姿勢を伝えてきた」と参謀本部にフラッシュを送り、野村も要旨を外務省に打電した。
東京はこの一通の電報で揺れた。参謀本部には喜色が流れ、『大本営機密戦争日誌』には「天佑トモ言フベシ、之ニテ帝国ノ開戦決意ハ踏切リ容易ニナレリ、芽出度々々々」と記され、いまや主戦派の最大の援軍は、皮肉にもアメリカ政府の指導者ルーズベルトとハルであることを隠さなかった。
東條のもとには陸軍省軍務課から電報が回ってきた。一読するや、彼はすぐに将校を呼び集めた。軍務局長武藤章、軍務課長佐藤賢了、軍事課長真田穣一郎、それに軍務課高級課員石井秋穂が、東條の机をとり囲んだ。
「どうもアメリカ側の回答には進展がないらしい。支那における日本軍の全面撤兵、汪国民政府の否認、三国同盟離脱要求にも等しき案とあっては問題にならない。のこされた道は御前会議の決定どおり戦争しかない。もう今日からは戦争準備の仕事になっていくだろう。そのつもりでお国に奉公してもらいたい」
乙案が無視された以上、〈戦争に訴える〉という既定方針に沿う以外になかった。東條の決断は直線的だった。武藤が「どうもペテンにかかったようだなあ」とつぶやいたが、たとえペテンであろうとも日本はもう退けないという点で、彼らの胸中は固まっていた。ルーズベルトやハルが予想したように、陸軍の政策決定にあたる彼らは、第一弾を投じるための道を躊躇なく歩みはじめることになったのだ。
二十七日になって、「ハルノート」の全容が東條の机に届いたが、東條の感情はかなり激したものになった。のちに東京裁判で、キーナン検事から「ハルノート」の電文を示され、「これを見たことがあるか」と質問されると、東條は大声で「これはもう一生涯忘れません」とどなった。そして、この文書こそ「すべてのきっかけとなった」と吐きすてるように言った。
「もしハルノートを受諾すれば、帝国はどうなるのか」――首相官邸の執務室で、彼は項目を書き列ねたが、それはつぎのような文面になった。〈帝国は一時の小康を得よう。だがそれでは英米に死命を制されることになるだけで、小康というのも重症患者にモルヒネを射つていどの意味しかない。英米の意思で死命を絶たれることになる。また中国大陸からの後退は、支那の不法行為を増大することになり、帝国の威信は失墜する。貿易は後退し国民生活は不振になる。三国同盟離脱に至っては帝国の行動が功利主義に出るものとの印象を世界に与え、「義」を重視してきた帝国の態度に汚点をのこす〉――
だが東條にとってもっとも屈辱的だったのは、先人の指導者たちがつくりあげた輝かしいと考えている業績を、自らの時代に瓦解させてしまうことだった。それを自らの時代に、しかも自らの責任で行なうのは、彼には耐えられなかった。それは東條だけに限ったことではない。二十八日になるとその傾向はいっそう明らかになった。この日の閣議で、東郷外相から「ハルノート」の全容が紹介されると、閣僚の全員が激昂し開戦もやむを得ないと言ったのである。まるでこれを待ち望んでいたかのようにである。十月下旬の連絡会議で消極論の側であった賀屋でさえ、「これでは日本に屈服を強いるものだ」と言い、「支那事変にあれだけの努力をしてきたのがまったく水泡に帰する」と声を荒らげ、日本の国家的威信が一挙に下落するという論に与したのである。
二十九日には政府と重臣の懇談会が宮中で開かれた。
「開戦を決意するまえに重臣の意向を確かめるように」と天皇は東條に示唆したからである。天皇は指導的立場にいる者の意見を広範囲に聞くべきだと考えていたのだ。もっともその意見に東條は反撥している。「……重臣には責任なく、この重大問題を責任のない者をいれて審議決定することは適当でないと思います。この無責任なる者が参加して愈々帝国が立ち上がるとなれば、責任ある者の責任が軽くなるようなことにもなります」
この発言にあるように、東條にとっては、重臣は無責任な発言で政府の足をひっぱる厄介な存在でしかないと映っていた。それに日米交渉の経緯を重臣に知らせなかったのも、彼らを首相失格者と考える東條の反撥のあらわれだった。東條や陸軍省の将校は、重臣を官僚街道を平凡に歩いた連中の最後の名誉職にすぎず、それゆえ難局に身命を賭していく度量などないと考えていたのだ。彼らがいずれ辿りつく道であるのに、それには目を伏せての驕りであった。
七人の重臣のうち、広田弘毅、林銑十郎、阿部信行は「開戦やむなし」に与した。はからずも東條推挙に熱心な重臣たちだった。若槻礼次郎、岡田啓介、光内光政は現状のまま忍苦する論を吐いた。若槻は「物資面で不安はある」と言い、岡田は「アメリカと戦端を開けば半年は勝ったということになろうが、その後は不安だ」と強調した。とくに岡田は天皇への上奏でも、「政府の説明を聞けば聞くほど私にはアメリカとの戦争は憂慮に耐えない」と言ったが、東條はその詰問に顔面を紅潮させて、戦争には自信があると強弁した。岡田への憎悪はこのときからはじまった。そしてそれが二年九カ月後の岡田との衝突の伏線になっていった。もっとも私が取材したある将校は、東條の岡田嫌いは、「二・二六事件の生きのこりめ!」という陸軍内部の屈折した感情を受け継いでいたからだと証言している。
重臣懇談会につづいて、この年十回目の大本営政府連絡会議が開かれたが、ここでは喜色にあふれた統帥部ペースで議事は進んだ。「ハルノート」は最後通牒であり日本は受諾できない、しかも関係国と連絡してその諒解のうえに成り立っている、アメリカはすでに対日戦争の決意をしている、という認識で一致した。杉山元と永野修身は、今後の外交は偽装外交に徹しろと要求し、「開戦日はいつか。それを知らなければ外交はできない」とたずねた東郷に、「それでは言おう。八日だ。まだ余裕があるから、戦に勝つようつごうのいいように外交をやってくれ」と応じた。政治の側にいる東郷の敗北を示す光景だった。
連絡会議の認識を、正式な国策としたのは十二月一日午後二時から二時間にわたって開かれた御前会議だった。昭和にはいって八回目、この年にはいって五回目の御前会議、その空気は十日以内に予想される開戦に緊張し、それを和らげるために「ハルノート」への怒りがかきたてられた。まず東條が政治の最高責任者として、アメリカが一方的譲歩を要求したので、もう外交では主張がとおらないといい、日支事変がつづいている折り大戦争に突入するのは恐懼にたえないと言ってから、最後につぎのように結んだ。
「しかしながら熟々考えまするに、我が戦力はいまやむしろ支那事変まえに比しはるかに向上し、陸海将兵の士気愈々旺盛、国内の結束ますます固くして、挙国一体、一死奉公、以て国難突破を期すべきは私の確信として疑わぬ所でございます」――
東條のもっとも好む抽象的な慣用句が並んでいた。
つづいて統帥部を代表して永野修身が、作戦準備にはいささかの不安もないと断言し、「肇国以来の困難に際会致しまして、陸海軍作戦部隊の全将兵は士気きわめて旺盛でありまして、一死奉公の念に燃え、大命一下勇躍大任に赴かんとしつつあります」とことばを結んだ。これを受けて内相としての東條が、治安状況を説いた。その要旨はつぎの一節にあった。
「一般の労働者、農民等の部層におきましては……近来統制の強化に依りまして生活上に尠からぬ影響を受けております中小商工業者方面におきましてすら、今日の我国の立場を充分に理解致しましてその士気は相当旺盛なるものがあり、政府が明瞭なる指標の下に強硬政策を遂行致しますことを要望する向きが多いようでございます。しかしながら多数の国民の一部にはこの際できるだけ戦争を回避すべきであるというふうな考えの者もなしとしないのでありまするが、これらの者も米国が我国の正当なる立場を理解し経済封鎖を解除して、対日圧迫の政策を放棄するというようなことがありませぬ限り、我国の南進政策断行は当然のことであって、これがため日米衝突というような事態に立ちいたりますこともまたやむを得ないことであると決意しているようでございます」
そして戦争を開始したあとは、「共産主義者、不逞朝鮮人、一部宗教上の要注意人物の反戦運動」は厳重に取り締まると断じ、流言蜚語にも目を光らせ、人心安定のうえからも世論指導には留意すると言った。
厳しい取り締まりということばが、なんども東條の口から洩れた。はからずも政治家東條の国民観を見せつけることになった。彼はときおり秘書に、「大衆というのは灰色である。指導者は大衆より一歩だけ前にでて、白といえば白、黒といえば黒だと思ってついてきてくれるものだ」と語ったが、それは東條連隊長時代に新兵に接したときの構図を原型にするものだった。
内相東條の報告は御前会議でも了承された。ついで賀屋蔵相、井野碩哉農相が、戦時下財政と食料の見とおしを語った。国民の忍苦努力に期待し、南方地域占領後は現地で自活することが望ましく、そのために一般の現地民衆にも耐乏を要求することになろう。だが「現地住民は文化も低く、かつ天産比較的豊富なるをもって」民生維持は支那より楽であろう――とふたりは言った。
これらの報告に枢密院議長原嘉道が質問をはじめた。原の質問には、天皇に代わって実態を把握するという意味があった。このとき天皇は戦争の推移に不安をもっていたようで、前日には高松宮が、できれば海軍は戦争を避けたいと申し出てきたことを確認するために、嶋田と永野を呼んで確かめていた。ふたりは「艦隊の訓練はゆき届き、山本五十六連合艦隊司令長官は充分の自信を有しており、人も物も共に充分の準備を整え大命降下を待ち受けております」と答えたのである。だが天皇にはまだ不安があった。
それを補なうかのように、原の質問は、対米戦争の軍事力の差異をくわしく追及した。永野は「米の兵力は大西洋四、太平洋六となっておりますが、近来活動しているのは英国であります」といって、印度洋の英国軍事力の数字を披瀝した。しかし統帥郎は御前会議で詳細に報告する義務はなかった。永野の報告は不透明で具体的な数字に欠けていた。政治の側の出席者は、そこから事態をつかまなければならなかった。だがそれを口にはさもうとすれば、〈大権干犯〉ということばが必ず返ってくることを知っていた。
御前会議はこうして終わったが、東條は最後に発言を求め、「私より一言申し述べたいと存じます。今や皇国は隆替の関頭に立っているのであります。聖慮を拝察し奉り、只々恐懼の極みでありまして、臣等の責任の今日より大なるはなきことを痛感する次第であります。……挙国一体必勝の確信を持し、あくまでも全力を傾倒して速やかに戦争目的を完遂し、誓って聖慮を安んじ奉らんことを期する次第であります」と言った。その間、出席者は顔を伏せて身を震わせた。そのあと「十一月五日決定ノ『帝国国策遂行要領』ニ基ク対米交渉ハ遂ニ成立スルニ至ラス、帝国ハ米英蘭ニ対シ開戦ス」を採択し、出席者十六人が署名した。東條英機、東郷茂徳、賀屋興宣、嶋田繁太郎、岩村通世、橋田邦彦、井野碩哉、岸信介、寺島健、小泉親彦、鈴木貞一、杉山元、田辺盛武、永野修身、伊藤整一、原嘉道の十六人だった。
この会議が終了すると同時に、参謀総長杉山元は、南方軍総司令官寺内寿一あてに、開戦日は十二月八日、この日を期して進攻作戦を開始するように命じた。軍令部総長永野修身は山本五十六連合艦隊司令長官に「新高山登レ一二〇八」と発した。十二月八日午前零時より予定どおり作戦行動を開始するとの意味である。
東條に与えられたのは、この作戦活動を支えるための国内政治の確立、つまり戦争体制の速やかな確立であった。それが彼の役割だったのである。
十二月一日から二日、三日、東條は三人の秘書官と、しきりに天皇の気持を推しはかる会話をつづけた。「この際、戦争に突入しなければならぬとの結論に、天子様はご不満であろう」とか「われわれはいくら努力をしても人格にすぎないが、天子様は神格でいらっしゃる。天子様の神格のご立派さにはいつも頭が下がる――こういうことばには、東條の不安と焦慮の深いことがあらわれていた。それゆえに天皇にすがろうとする気持があった。しかし側近にそういう脆さを見せることはあっても、閣僚や陸軍省、参謀本部の将校らには苦悩のそぶりさえ見せなかった。杉山や永野には、いかにも自信にあふれているようなポーズをとった。むろん負けず嫌いの性格のためでもあったが、最高指導者の躊躇はそのまま帝国の躊躇につながるという気負いのためでもあった。
もし東條が冷徹な現実主義者なら、目前に迫った戦争を自己の威信を賭して挑む対象とみたであろう。ヒトラーのようにである。あるいは七千万人国民の運命を握っている責任を感じたならば、どこで戦火を鎮めるかを周囲に熱心に説いたにちがいない。いやこの戦争が歴史上でどのような位置にあるかを考えたなら、いくぶんの含羞をもったであろう。だが彼がそうした透視をもった形跡はない。それは鈍磨のためではない。
彼はひたすら逃げた。〈天皇親政〉という抽象の世界に逃げこみ、そのあげくに「私の肉体は天皇の意思を受けた表現体である」と自らを励ます小心な指導者の域からぬけだすことはできなかったのだ。開戦後、彼は内情視察と称して国内を歩きまわり、「天子様のお気持をひとりでも多くの国民に伝えたい。自分がその役目を果たすのだ」と言いつづけたのは、そのあらわれだった。
十二月六日の連絡会議は、宣戦詔書を採択した。「天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス」ではじまる詔書は、十一月中旬に陸軍省軍務局の将校によって練られたが、それを東條は徳富蘇峰に推敲させ、そのうえで天皇にもなんども見せていた。日清戦争、日露戦争、そして第一次大戦(対独戦)につづく四回目の宣戦詔書だった。前の三回は「大日本帝国皇帝」とあったが、四回目は「大日本帝国天皇」となっていた。さらに文中の一句「今ヤ不幸ニシテ米英両国ト|釁端《きんたん》ヲ開クニ至ル 洵ニ已ムヲ得サルモノアリ 豈朕カ志ナラムヤ」というのも天皇の意を受けて挿入したものだし、当初の原案には「皇道ノ大義ヲ中外ニ宣揚セムコトヲ期ス」とあったのを、やはり天皇の意を受け「帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス」と直した。そこに天皇の深慮があると、東條は感服しつづけた。
この宣戦詔書採択により、公式の手続きはすべて終わった。あとは二日後の開戦を待つだけとなり、東條を追いかける仕事はなくなった。すると〈東條〉という人間の地肌が急にあらわれてきたのである。もっともそれは、これまで家族しか知らぬ事実として伏せられてきた。
通称日本間といわれる首相官邸別館、その二階にある執務室は、十二月にはいってからはなかなか灯が消えなかった。壁をへだてた家族用の部屋にはカツとまだ女学生のふたりの娘が寝ていたが、書類をめくる音、東條の歩き回る音がよく聞こえ、それは事態が重大な時期に達していることを教えた。六日の深夜から七日にかけ、カツとふたりの娘は隣室からの泣き声をきいた。押し殺していた声が徐々に高まり、号泣にかわった。カツは布団から身を起こし、廊下の扉をあけ寝室を覗いた。するとそこには、いままで見たことのない夫の姿があった。夫は布団に正座して泣いていた。いつも自信にあふれ弱味を見せまいとする東條が、涙をぬぐおうともせず泣いていたのである。カツとふたりの娘には、夫や父の権威が崩れたように思われ、自室に戻ってそのことに泣いた。
東條はなぜ泣いたのだろうか。むろんそのことを彼は誰にも洩らしはしなかった。しかしその涙は容易に想像できた。公式の手続きを終えたこの日、彼は改めて責任の重さに恐怖感をもったのだ。二千六百年の国体を背負っての責任の重さ。昂じて彼はアメリカを憎いと思った。日本の「正当な言い分」を不当に愚弄するアメリカを憎いと思った。軍人の闘争心を支えるのは、敵にたいする憎悪と国家への忠誠心だが、いま彼の闘争心は一点にむかって集中し、やがて忠誠への求心作用となってはね返ってきていた。その渦のなかで東條の思考は混乱し、とくに大命降下の際に白紙還元の条件がついていたのに、それを全うできなかったことに思い至ると、彼は自省を失ない、泣く以外になかった。それは負債だった。期待にこたえられなかったこれまでの五十日間、そしてこれからの長期戦争は、彼にとって負債を清算する戦いとなるはずだった。
また東條の号泣は、山県有朋、桂太郎ら彼の先人たちが築きのこした矛盾の清算人の涙といえた。統帥権という抽象的で、無責任な機構が生みだした残滓を清算する宿命をもった首相の、誰かがいつかこの室で流さなければならぬ涙だった。そしてこの宿命を担ったのが、大日本帝国憲法発布以来、二十七人目の首相である東條英機だった。しかも皮肉なことに清算人としての登場を促したのは、陸相だった彼自身の軌跡のなかにあった。忠実な信奉者は無作為の謀叛人であるといえた。
東條の号泣はいっそう激しくなった。まさに慟哭というものだった。慟哭は自省を生まず、より激しい戦闘心を生んだ。そしてその戦闘心が、彼の理解ある友人として、しばらくの間、共に歩みをつづけることになった。
いまや時代は、悲しい指導者の掌中で踊りはじめた。
[#地付き]〈東條英機と天皇の時代(上) 了〉
〈底 本〉文春文庫 昭和六十三年十二月十日刊