妖魔夜行 魔獣めざめる
伏見健二/高井信/山本弘
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)黒焔《こくえん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)荒唐|無稽《むけい》なストーリー
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(例)[#改ページ]
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目 次
第一話 半妖怪のチェイス 伏見健二
第二話 歪《ゆが》んだ愛情 高井 信
第三話 魔獣めざめる 山本 弘
妖怪ファイル
あとがき 伏見健二
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Take-1――――――――
命が生まれてくるところは、みんな暗い。
そうは思いませんか? だって、お母さんのお腹の中に明かりってありませんものね。
暗いと眠くなりませんか? 夢を見たくなりませんか? 暗いところで眠っているうちに、さまざまな夢の中で命って育つのかもしれません。だってほら、寝る子は育っって言うじゃありませんか。
夢は、命を育てる糧。すべてを孕《はら》む種子。
暗闇《くらやみ》の中から、さまざまな命が産まれてきます。暗いところから出てきたからと言っても、闇に満ちた存在だとは限りません。輝きにあふれたものもあります。
さて、ここに二つの命が生まれでました。
ひとつは闇。
どこまでものびる道路の果てによどんだ、怒りとか恨みとかいった暗闇から走ってくる暗い命です。
もうひとつは輝き。
ほんの小さな片隅の、人と人とのやりとりの隙間《すきま》にある小さな影からころがりでてきた、暖かな命です。
どちらの命も夢を見ています。じゃらじゃらと鳴る、お金の夢を。
たくさんの人間たちが、夢見ているもの。煮えたぎる欲望の沼、しんと冷え切った氷の国、けれど同時にささやかなぬくもりをもたらすこともでき、涼しい風を吹かせることだってできる。
彼らは、どちらもそこから生まれたのでした。
けれど、たどった道は別。
では、闇に沈んだ命と、輝いた命がすれちがった顛末《てんまつ》をみなさんにお話しすることにしましょう……。
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第一話 半妖怪のチェイス 伏見健二
1.美容院〈セーラ〉
2.深夜の帰路
3.妖怪タクシー
4.闇夜《やみよ》の疾走
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1 美容院 <セーラ>
神谷《かみや》聖良《せいら》こと妖怪《ようかい》・毛羽毛現《けうけげん》は最近ためいきが多くなった。
やわらかに流れ下る髪は濡《ぬ》れた鳥羽《からすば》の色。常ならば、そのつややかなきらめきはヘアケアに訪れる来客の羨望《せんぼう》と嫉妬《しっと》すらもかき立てる。
髪は女の命と言うが、彼女のそれはまさに命ある髪なのだ。感情を映し出してときに緩やかにうねり、ときにこわばって逆立つ。必要とあれば黒槍《くろやり》となって敵を突き通す剣呑《けんのん》な武器にもなる。
だが、早春の夕焼けに照らし出される今日の髪は、力なく垂れ下がってノースリーブの肩から豊かな胸へとこぼれ落ちていた。
(枝毛……できてるわ)
毛先をもてあそびながら、みじめにためいきをつく聖良である。
心労なのだ。
「ねえ、」
……それもささやかな心労。
「ねえ、堂花《どうか》ちゃん」
彼女に名を呼ばれた少女――堂花は、先ほどから一心不乱にキャッシュレジスターに取り組んでいる。あたふたと帳簿をめくり、キーを叩《たた》くたびに、おかっぱに近いショートカットの上につけられた赤いリボンが揺れる。
「堂花ちゃん、もういいから」
語気をあらくしたつもりはなかった。だが聖良の呆《あき》れ声はいささかの険を帯びて響いたようだ。
「ごめんなさい……店長さん」
ふッ、と絞められるウサギのような哀れな声を出した後、丸い双眼の端にわずかに涙を浮かべて堂花が振り向いた。緊張に身を震わし、叱《しか》られる予感に四肢をこわばらす。
「合わないんです」
それもそうでしょうよ、と神谷聖良は心の中で呻《うめ》く。
堂花はおびえた表情で、聖良にレジスター内の残高を納めた金庫と帳簿とを差しだした。心なしか手さげ金庫が軽くなっているような気がする。
「ごめん……なさい」
「いいから」
こんなやりとりを幾度繰り返したろう。いや、数えるのは難しくない。彼女がこの美容院 <セーラ> の事務補助のアルバイトを始めるようになってから、毎日のことなのだから。
苦い表情で金庫を開き、数枚の紙幣を封筒に入れた。
「うまくいかなくとも、ハキハキしてなくちゃダメなのよ」
「は、はい」
「愛想いいだけじゃ、いまどき仕事になんないんだから」
そんな小言のひとつも言いたくなる。
「はいこれ、今月のお給金ね。ごくろうさまでした」
ことに月末の決算は頭が痛い。盗人に追い銭という言葉がふと頭に浮かんだ。
「わあ、ありがとうございます」
先ほどの恐縮ぶりは、少女の表情からはもうきれいに拭《ぬぐ》い去られている。堂花は嬉《うれ》しげに白い封筒を受け取り、その場で熱心に数え始めた。
「ええと、お釣りは……」
「……ぴったり入っていますから」
聖良はこめかみを押さえると、堂花の肩をぐっと押して店から送りだした。
本当に、これだけきちょうめんに数えるのに、どうして間違えるのだろう?
「お釣り妖怪《ようかい》?」
霧香にそう紹介されたとき、神谷聖良は耳を疑った。
一月《ひとつき》程前のこと。
まだ開店を待つBAR <うさぎの穴> の昼下がりに彼女は初めて堂花と出会った。
「それがふさわしい呼び名なのか判らないけれど……なにしろどのような文書にも書籍にも取り上げられたことはないのだから」
聖良にとってちょっと苦手なこの神秘的美女は、唇をほんのわずかにほころばせながら、一人の少女の背中をそっと押したのだ。
地味な少女であった。既製品のブラウスはクリーム色で、いまどき見ないようなエンジ色のスカートとコーディネイトされている。ショルダーバッグにとりつけられた招き猫のキーホルダーが愛らしい。
少女……堂花は恥じらいながら、こくりと首を傾けて挨拶《あいさつ》した。
「ちょっと!」
ぐっと霧香の袖《そで》を引っ張って抗議を囁《ささや》く。絹仕立てのブラウスが、小さなきしみ音を上げた。
「急に店で使ってくれっていわれたって困りますわ。どんな子なんです? いったいどこから拾ってきたんです!」
ときにせっかちになる。悪い癖とは判っているのだが、これも女性達の髪への想いから生まれた妖怪である毛羽毛現の特徴の一つであった。
「何か買い物をするとするわね?」
「はあ?」
不意に語り出した霧香に気を呑《の》まれる。
「千円札で八百六十円の買い物をすると、お釣りはいくらかしら?」
「ひっかけ問題なの? 消費税が入ると……」
「ごめんなさい、税はいいの」
ちょっとむっとした聖良を霧香は微笑《ほほえ》んで慰めた。
「百と四十円ですか?」
「よくできました。じゃあ、堂花ちゃんは?」
怪訝《けげん》な表情の聖良を放っておき、霧香は不安げに二人の美女の背を見つめていた少女に振り向く。
「え、えと……」
ちょっと考えた後、堂花はにっこり微笑んで柔らかな唇を開いた。
「ありがとーございます、お釣りは百六十円です」
ちょっとの沈黙。
ご丁寧に小さな指をちょんとそろえ……お釣りを差し出すかのように……堂花は頭を下げたのだ。
その次の日から――。
聖良が美容師として腕をふるっている間、堂花は予約を受け付けるための電話番と、会計を務めている。
お釣り妖怪・堂花は、およそ最弱にして無能な妖怪であった。その能力はお釣りを間違えること……それだけ。
霧香は言った。人間の商取引が始まってこのかた「お釣りを余分に貰《もら》ってしまったというちょっとした幸運」あるいは「間違えられたという怒り」そして「余分に貰ったお釣りを返して、己の善良さを確認する喜び」、それらは妖怪を生みだすのに十分なのだと。
堂花はそんな想いの中から生まれた。
それはあまりに小さな力であるために、誰にも見つからずに暮らしてきたのだ。
ちょっとのお釣りを間違うなんて、かわいいもんじゃない? と言う霧香の言葉にはこの可憐《かれん》な少女の表情を見ながらでは逆らうことができなかった。
屈託のない笑い声、可憐な表情。いずれをとっても申し分のない店番である。その功あって老若男女を問わず、客足も増しているようだ。
しかし……だ。
「……霧香さんのうそつき」
美容院 <セーラ> を閉ざし、手さげ金庫のキャッシュを再計算しながら、聖良はぼやいた。
あの釣りを間違えるということさえなければ、問題はないのだが。
<まあ、そうぐちるなよ、毛羽毛現>
奇妙にくぐもった声が戸口からした。振り向いた聖良の顔を見上げたのは、白黒まだらの太った猫である。
<いい子じゃん>
少し前から聖良のところに住み着いている半妖怪である。古来より海に千年、山に千年住んだ生き物は妖怪に経上《へあ》がることができるというが、猫は六年も生きると妖の気を帯びはじめるという。
<人と人の善意の狭間《はざま》に生まれた妖怪なのさ。それって大事なことだよ>
毛繕いをしながら、ぶち猫は言う。
「かばうくらいなら、見張っててよ」
聖良はためいきをつきながら、ぶち猫のために皿に牛乳を注いだ。
「でもね、ものには限度ってものが……」
こめかみをズキズキさせながら、聖良は決算金額を帳簿に赤ボールペンで記入した。
牛乳をなめ終えたぶち猫はその膝《ひざ》によじのぼって帳簿をのぞき込んでいる。こうしていると温かな聖良の胸が背にあたって気持ちいい。
<ニャるほど、こりゃあ桁《けた》が違うね?>
十円や二十円の計算違いは問題ない。
「なぜあの子は、五千円札を受け取ったお釣りに一万円札を二枚も渡すのはおかしいって気づかないのかしら!」
良心的な客なら、すぐに間違いに気づいて返すだろう。しかし世の中、そういう善良な市民ばかりではないのだ。
その釣りを受け取った青年は一瞬、顔をこわばらせたのち、笑みを繕いながら逃げるように帰って行ったのだ。もう店に来ることはないだろう。
あいつ、夜道で会ったら覚えておきなさいよ、と心に誓う。
<あれで妖力《ようりょく》のひとつだからねえ>
ぶち猫などは奇妙に感心してしまうのだが、聖良のほうは冗談ではすまされない。なれなれしく胸に頭を埋めているぶち猫を床に払い落とした。
「このまま続いたら、半年と持たずにお店は破産だわ……あんたのエサ代も馬鹿にならないのよ」
2 深夜の帰路
堂花は機嫌が良かった。
もちろん、この娘が不機嫌なときなどそう多くはない。
貰《もら》ったばかりの給料で、渋谷《しぶや》のショッピングを楽しんだ後なのだ。若者の街と呼ばれるこの地の喧噪《けんそう》は、もとより堂花の好むものである。
BAR <うさぎの穴> の片隅である。
今夜も今夜とて、青ざめた表情の人間の来客が妖怪に関する悩みを、龍族の水波《みなみ》流《りゅう》や、化け狸のマスターに聞いてもらっているのだが、堂花には全く関係のない話だ。
古ピアノの裏が彼女の定席。
それにもたれてまどろむ堂花の存在に、客は気づかない場合が多い。
「それは……の仕業だな」
緊張した会話が堂花の耳に入るが、すぐに風のように抜けていってしまう。
彼女のからだに留まるのは、静かな演奏と、快い振動だけだ。演奏者もなしに音を奏でるこのピアノは、堂花が来るとすぐにそれを察していつもの曲で迎える。
軽く、高音のストリングを叩《たた》く曲。テンポの良いメロディは、笠置シヅ子の <買い物ブギ> だったか? しかし現代の深夜に響くその音色は、形容しがたいはかなさと、物悲しさを感じさせる。
だが、堂花はそんなことは知らない。曲の名も知らない。ただこのもの言わぬピアノが大好きなのだ。
<うさぎの穴> に来て、マスターにショウガを煮込んだ甘酒をつくってもらうと、そのマグカップをちょんとピアノの上に置いて曲に聴き入る。
だから黒いピアノのプレート上には、堂花のこぼした甘酒の粕《かす》がこびりついているのだが、ずっと拭《ふ》き取られないところをみると、ピアノの方でもこの可憐な聴き手の存在を誇りに思っているらしかった。
「堂花ちゃん?」
ぐったりと肩を落とした人間の客が帰って行くと、マスターはためらいがちに彼女に声をかけた。
「終電が終わっちゃうよ?」
時刻は十二時に近い。
夜型が多い妖怪の中にいると、つい時刻に鈍感になってしまう。そんな中で堂花は昼の世界の住人なのだ。
しかし、今夜ばかりは、ついピアノと堂花の時の流れを邪魔したくなかったのだ。それで長居をさせてしまった。
「聖良が心配するだろうから、さ」
「きゃう」
堂花はディズニーの腕時計を見ると、小さな悲鳴をあげた。
BAR <うさぎの穴> のある渋谷から、美容院 <セーラ> のある吉祥寺《きちじょうじ》までは、京王《けいおう》井《い》の頭《かしら》線で一本である。所要時間は急行で三十分にも満たない。
その安堵《あんど》感が、つい呑気《のんき》さとなったのだ。
「聖良さんにおこられちゃいますね」
あたふたと買い物袋を抱えると、またでいいからと断るマスターに甘酒代を押しつけた。支払をずさんにできないのは(!)彼女に言わせれば性分なのだ。
「ええと、二十円、多いです」
手のひらに置かれたお釣りを眺めた後、堂花はマスターにそれだけ選りわけて返した。
「あ、ごめんよ」
なるほどと受け取るマスター。小銭の間違いを起こさせるのはお釣り妖怪の妖力である。妖怪に対してすらそれは例外ではない。
カウンターからそれを見ていた濡《ぬ》れ女《おんな》・未亜子《みあこ》がくすりと笑った。堂花は間違えて渡された釣りを必ず返す。自らの能力を自分の利益に使うことができないのは、いかにもこの子らしかった。
「帰んの、堂花ちゃん? 送っていこうか?」
ようやく一件かたづけて背伸びをしている烏天狗《からすてんぐ》・八環《やたまき》と流が声をかけたが、首をふる。
「渋谷駅まで、女の子ひとりじゃ、あぶないからさ……」
「だいじょうぶです。ごちそうさまでした」
慌ただしく飛び出した堂花はその言葉を最後まで聞いてはいない。
見送った常連客は苦笑した。
「大丈夫だよ、彼女だって妖怪のはしくれなんだからさ」
流の背をポンと叩いたのは八環である。
「そう見えないけどな」
笑いあう一同は、その後に待ち受ける事件を予想だにしていなかったのだ……。
渋谷発、零時二十七分。
この電車に飛び乗った堂花は息をあえがせていた。
(ほんとに終電、逃しちゃうとこだった)
胸がどきどきしているのは、一生懸命走ったからだ。ふりまわしたせいで、ショッピングの袋も破れそうになっている。
終電近くとあっても、渋谷発の夜の電車はどれも混んでいる。ことに明大前で乗換える多摩方面の電車に接続するのはこの列車が最後になるのだ。
(ぎゅうう……)
通勤ラッシュもかくや、という混み具合に、さすがに堂花も閉口した。酒の匂《にお》い、若い汗の匂い、溶けかけた化粧の匂いで車内はむせかえるようになっている。
先ほどまでの快い時の流れが嘘《うそ》のようだ、と堂花は思う。なんとも情けなく罪深い気分になり、涙《なみだ》がじわっとにじんだ。
(せめて、遅れるって電話、聖良さんにしとけばよかった)
しかし電話をかけていたならば、この電車には間に合わなかっただろう。
もちろん、時間がきわどくなってしまった原因には、切符販売機から出てくるお釣りを立ち止まって真顔で三度も数えなおしていたということにもある。いまどきそんなことをするのは、機械を信用していないお年寄りと彼女くらいのものであろう。
しゅんとした堂花であったが、明大前を過ぎ、ようやく車内が空《す》いてくるとちょっとほっとした。店番をするときは別だが、元来が気弱である。知らない人にぎゅうぎゅうと押されていて落ちつくわけがない。
こんな深夜の電車に途中から乗り込んでくる者はいない。誰もが疲れた表情で、あるいは酔いにふらつきながら帰路につく。永福《えいふく》町から堂花も座ることができた。
終点である吉祥寺を待たずして、客は次々と電車を降りていった。
「次はぁ、終点、富士見ヶ丘〜」
「あれ……」
堂花は目をぱちくりとした。
市内アナウンスは、繰り返しそう告げたのだ。
慌ててドアの上に張られた路線図を見る。富士見ヶ丘というのは途中駅。久我山《くがやま》、三鷹台《みたかだい》、井の頭公園、吉祥寺とつながるはずだ。
あと四駅。
なのに電車は止まり、客達が降りてゆく。
「いえ、それはよろしいんですけど」
神谷聖良は絡み付く濡れ髪をうるさそうによけながら、電話に向かっていた。相手は <うさぎの穴> のマスター。堂花の帰宅が遅れたことを叱《しか》らないで欲しい、との電話であった。
「あの子、ちゃんと終電に間に合ったのかしら?」
ほら、という聖良の仕草を理解して、ぶち猫がタオルをくわえてきた。風呂上がりである。濡れた黒髪を揉《も》むようにして水を拭き取る。
「いえ……ね、今日は休日だから、終電が早いんですの」
いつもは吉祥寺行きの終電になっている二十七分が、富士見ケ丘止まりになる。聖良も幾度か経験した失敗であった。
この駅の西側に井の頭線の車両庫があるためだ。ゆえに上りも下りも、終電はすべて富士見ヶ丘止まりになる。
ちょっと長い散歩を覚悟するなら、神田上水沿いを歩いて吉祥寺に帰ることもできる。
しかしそれにせよ、決して安全な道ではないことは良く知っている。太宰《だざい》治《おさむ》の幽霊とか、人面犬の噂《うわさ》は恐れずとも、殺人事件があったことは記憶に新しい。
もちろんタクシーを拾うしかない。だが女の子ひとりで深夜のタクシーに乗るということは、まだまだ気軽にしていいことではないのも事実であった。
ぶち猫は心配そうに、聖良の足元から去らなかった。チン、と音を立てて電話を置いた聖良の表情もまた、固いものとなっていた。
虫の知らせ、というものがある。帰宅の遅い堂花に、聖良もぶち猫もそわそわした気分になっていたのだ。入浴と洗髪もくつろいでのことではない。いかな場合にも対応するための、滋養の補給だ。
「迎えに行くことにするわ。あとはお願い」
ちょうど、電話が鳴った。
つい反射的に二人で手を出すが、当然ながらぶち猫の手には届かずに聖良が出た。
「もしもし……堂花ちゃん」
3 妖怪タクシー
井《い》の頭《かしら》線のいずれもがそうであるが、富士見ヶ丘は小さな駅である。
同じ私鉄でも、西武《せいぶ》線のように必ず駅ビルにショッピングセンターがあり、バスターミナルがついているというものではない。杉並の昔ながらの商店街と、閑静な住宅地、そして武蔵野《むさしの》の木立が残っているのみだ。
駅を降りた堂花が目にしたのは、百メートルくらい離れたところにあるコンビニエンスストアの明かりだけだった。ここはすでに眠った街なのだ。
「えっと……タクシーで、帰ります、大丈夫」
電話の向こうに語りながら、堂花はやきもきとしていた。終電乗り遅れの客を相手にするため、駅前の狭い道にはタクシーがひしめきあっていた。
しかしそれも次々と客を乗せ、駅を離れて行く。
「迎えにゆくから、そこにいなさい?」
そう言う聖良の言葉もうわの空であった。公衆電話の順番待ちにも手間取ったのだ。早く行かないと、タクシーがなくなってしまう。そうしたらこの知らない駅で立ち往生なのだ。
寂蓼《せきりょう》が背筋に忍び寄ってくる。
「お嬢ちゃん、乗らないの?」
ついに最後の一台となったタクシーの運転手が、せっかちに呼びかけた。
「すぐ来ないと行っちゃうよ」
「は、はいっ」
慌てて電話ボックスから飛び出す。
「堂花、堂花ちゃん!」
彼女を呼ぶ声が、ぶらさがった受話器から叫んでいる。
しかし黄色のタクシーは堂花を乗せると、ドアを閉めきる時間ももったいないというように紫の排気ガスを残して走り出していた……。
ざわっ。
ぶち猫の毛が総毛立った。
電話の向こうから聞こえたタクシーのエンジン音、そしてタイヤのきしみに反応したのだ。
「堂花ちゃん!」
瞬時、神谷聖良もただならぬ気配を察した。
妖怪《ようかい》・毛羽毛現。
その能力の一つである状況感知は、一本の髪を媒体にして相手の状況を察するという敏感なものであるが、堂花ほどに身近な存在であれば、媒体なしでも十分に鋭敏になれる。
何か悪意に満ちたもの。そんなものの中に彼女が取り込まれたことを察知したのだ。
<あいつ……か!>
ぶち猫が、いつにない緊張に身をこわばらせている。その姿の彼には、肥満体の老猫というよりは野生の豹《ひょう》の猛々《たけだけ》しさが感じられた。
じっと耳を澄まし、受話器の向こうから伝わってくる車の音を聞き取っているのだ。
「なに?」
気が急《せ》くのをなんとか抑えながら、聖良は訊《たず》ねた。
<タクシーさ>
ぶち猫が低い声で、そう言った。
「きゃっ!」
急発進に、堂花は息がとまりそうになった。買い物の袋から、小物が車内に散乱してしまう。
「どちらまで?」
ルームミラーでこちらをすかし見る運転手の表情は、下げた運転帽に隠れて見えなかった。ただ低く冷笑的な声が、震え上がらせるような威圧力を持っていた。
「あの……」
幾度か、息を呑《の》み込みながら堂花は言った。
「吉祥寺《きちじょうじ》まで……お願いしたいんですけど」
「けっ!」
急に声を荒げた運転手に、堂花はびっくりした。何か具合が悪くてせき込んだのかとすら思ったのだ。
「そんなに近いのにタクシーに乗られちゃ、商売にならないんだよなァ!」
「え……」
びくっと身を震わす堂花。二人っきりの車内である。なのに運転手はまるで通りの向こうに叫ぶかのような声を出す。
「ご、ごめんなさい」
「まあ、こっちも商売ですからねエ。嫌とは言えないんですけどねエ。ナンバー覚えて、訴えたりするトチくるった客とか、いるでしょ。迷惑だってんだよなあ」
「そ、そんなことしません」
消え入りそうな声で応じる堂花は、すっかりおびえてしまっていた。運転手が大きな声で叫ぶたびに、粗悪なラーメンででも腹を満たしたのだろうか、胃液で変質したネギと豚の脂身の匂いが異臭を放つ。
「だからねえ、ネームプレート、伏せちゃうことにしてんですよ。そうすれば訴えたり、陸運局に電話かけてきたり、できないでしょ?」
運転手は下卑《げび》た笑いを浮かべながら、助手席の前に立てられたプレートを倒した。無理な姿勢である。
グオッ。
堂花は押し殺した悲鳴をあげながら、縮こまった。そのはずみでハンドルがぐっと廻り、あやうく対向車に飛び込みそうになったのだ。すれ違う風圧でタクシーは揺れた。
「ちぇっ、なにやってんでえ」
忙しくコラムシフトを操作しながら、運転手は悪態を吐いた。
なんと粗悪なタクシーに乗り合わせてしまったものか。
だが、堂花にはそう感じることはできなかった。何か自分が運転手を怒らせることをしてしまったからに違いない、と信じてしまったのだ。
(早く降りたい)
震えながらそう思う堂花である。
「あの……井の頭通りを行くか、人見街道から入って、南吉祥寺に」
「嬢ちゃんはうるさいな、道のことはプロにまかせなよ。着けばいいんだろ!」
「は、はい……ごめんなさい」
ピッ……ピッ……。
タクシーメーターが、音を立てる。
そのカウントは奇妙に早くはなかったか? しかしおびえた堂花にはそれが判らなかった。
「カミカゼタクシー……ずいぶんと懐かしい言葉ですこと」
乾きかけの髪を乱暴に結い上げると、聖良は革ジャケットに袖《そで》を通した。表情が険しくなっている。戦闘態勢の顔だ。
こうするとファッショナブルな美女のイメージから一転して猛々しくも中性的な印象になる。
ギュッと胸のジッパーを上げた。
「昔は客が多くて、運転手が居丈高になっていたんだがね。今は逆にタクシーの余剰になって、これまたかえって利益だけを求めるマナーの悪い流しタクシーが増えたんだよ」
暗闇《くらやみ》に潜む話し相手は、教授こと土屋《つちや》野呂介《のろすけ》、その本性は化け土竜《もぐら》である。吉祥寺の南にある某大学で教鞭《きょうべん》をとっているが、近所ということもあって聖良とも親しくしている。地中では神出鬼没、猫の手も借りたい今の聖良にはありがたい助力であった。
「そこで奴《やつ》ら、邪悪なタクシー妖怪も復活したというわけだな」
だが、これは唯一の助力でもあった。
吉祥寺そして井の頭公園は妖怪の多い地として知られている。しかしそれは逆に荒事を好まぬ妖怪の安息の地となっていることの証《あかし》でもあった。
例えば井の頭池に潜む赤舌。
美少女の危機ともなれば、その怠惰な態度も変わろうというものであるが、相手が疾走するタクシー妖怪とあれば、役に立つまい。
「どんな力があるんですの?」
自転車の前カゴにぶち猫を持ち上げながら、彼女は緊張した面持で訊《たず》ねた。
<交通ルール無視、料金のごまかし、粗暴な言葉、忘れ物の横領、そして女性客へのセクハラから暴行まで。タクシーにまつわるありとあらゆる悪逆を体現する奴さ>
ぶち猫が数え上げるたびに、聖良の表情が固くなってゆく。
<オイラの仲間……猫達の天敵でもある。今月に入ってもう四匹もはねられたんだぜ>
その意味では仇《かたき》と言えるね、と仏頂面でぶち猫は続けた。だがその気楽そうな表情の下には怒りと憎しみが渦巻いているのだ。それを露《あらわ》にすることは、いたずらに聖良を不安にさせることにしかならない。
(猫のくせに、気をつかっちゃって)
むろん、それが判らない聖良ではない。ぐいっとその頭を撫《な》でてから、自転車を漕《こ》ぎだした。
「絶対に奴を止めますわ!」
少なくともスクーターの免許ぐらいはとっておくんだった……そう悔やみながらも、今夜はこの婦人用自転車に頼るしかない。
重い猫を入れたバスケットがペダルを踏み込む度に左右に揺れる。ひどくぶざまな漕ぎぶりであったが、悲愴《ひそう》な勇気と共にある聖良とぶち猫にはなりふり構う余裕はなかった。
「ちくしょう、俺《おれ》のドジだぜ」
吐き捨てた煙草を床で踏み消しながら、八環が叫んだ。BAR <うさぎの穴> では決してすることのない無作法であった。それだけ彼が動揺しているということを示す。
聖良からの電話をうけて <うさぎの穴> もまた臨戦態勢に入った。マスターが沈痛な表情で、堂花の拉致《らち》を伝えたのだ。
「家まで、送っていってやりゃ良かった」
八環の思いと同じものを、他のメンバーも抱いている。人より優れた力を持っているがゆえに、弱き仲間を守れなかったという苦しみは数倍にもなるのだ。
リン……。
BARの喧噪《けんそう》を沈めるかのように、鈴の音が鳴った。スツールから濡《ぬ》れ女・未亜子が静かに立ち上がったのだ。
「…………」
一同は息を呑《の》んだ。この超然としたふうの美女が立ち上がることは滅多《めった》にない。 <うさぎの穴> ネットワークで最強とも呼ばれるその力、片鱗《へんりん》なりとも振るうことを抑制しているかのような未亜子なのだ。
「人見街道を西進しているわ。不安げだけど、まだ、大丈夫」
雲外鏡《うんがいきょう》・霧香の声が、それを止めるかのように背にかけられた。極めて強力な感知能力である。
「ええ、私にも感じられる」
未亜子も呟《つぶや》くように言った。
流と八環がドアを蹴《け》って飛び出していった。
4 闇夜《やみよ》の疾走!
「うおっ……と」
最初にタクシーを発見したのは教授であった。夜の井の頭街道を疾走する黄色いタクシー。
一目でそれと判る、古めかしい形をしている。丸みを帯びた車体のモデルは、あるいは日本車ではないのかもしれない。
そしてただならぬ邪気がその周りを取りまいている。妖怪《ようかい》どうしでなくとも、ちょっと敏感な人間なら気づくだろう。
「止まりたまえ!」
鋭い思念は宣戦布告であった。教授程に温厚な性格であっても、かくも邪気を振りまく相手には怒りも感じる。
止まらぬとあらば、妖術[地斬波《ちざんは》]で一瞬にして四輪すべてを切り裂き、タクシーをただの鉄カゴにしてしまうつもりである。
カッ。
タクシー妖怪の返答は、激しい光の渦であった。ハロゲンランプから浴びせられたまぶしい光が、サングラス越しに教授の弱い目を襲ったのだ。
ただの光ではない。妖術である。
「うおっ」
とっさに透過能力を働かせた教授の体は、地中に吸い込まれるようにして消えた。
強力な力を持つ妖怪は、それに見合った弱点もまた持ち合わせる。反射的に逃げてしまった己の身を呪《のろ》わしく思う化け土竜であった。
「やられてしまいましたよ……聖良さん……」
「く、くふっ、くっくっく」
運転手の勝利の笑いの意味は、堂花には判らなかった。彼女は新たなる問題に直面していたため、教授の必死の制止にも気づかなかったのである。
「あの……」
なけなしの勇気を振り絞って、運転手に声をかける。料金カウンターが、すでに二万円を突破して回ってゆくことに気づいたのだ。
「これ、料金、ですよね?」
消え入りそうな声で、そう訊《たず》ねる。富士見ヶ丘から吉祥寺《きちじょうじ》への距離はせいぜい五キロ。道はまっすぐではないにしても、タクシー料金にして、五千円を超えることはないだろうと思っていた。
「なに、なんか文句あんの?」
運転手の態度は、ますます居丈高なものになっていた。堂花が気弱な少女であるということで、増長の一途をたどっているのだ。
「でも、ちょっと高い……」
「あんた、夜遊びした帰りに、タクシー代値切ろうっての? 高校生? 学校に報告してもいーんだよ? ブルセラとかテレクラとかでたんまり儲《もう》けてんだろ?」
「いえ……違うんです」
堂花には昨今の略語はさっぱり判らなかったが、運転帽の下から向けられた好色の瞳《ひとみ》だけは、敏感に感じとった。
震え上がる。
「まだ、ですか?」
もう、一時間近くも走っている。それは永劫《えいごう》の時に感じられた。
八環と流を乗せたお化けワーゲンは、渋谷《しぶや》から吉祥寺へと可能な限りの速度で疾走していた。
性能の上での最高時速は五百キロを超す。もっともその速度では都内の交通事情では事故を起こすだろう。
だが、それもさっきまでのことである。環状八号線で事故でもあったのか、高井戸を前にして渋滞に巻き込まれて身動きがとれなくなってしまったのだ。
「なあ」
運転席に座っている流がつぶやいた。
「ひょっとするとひょっとするかもしれませんね」
「判っている」
助手席の八環は、狭いワーゲンの中でさっきから長い足をもてあましていたが、ルーフを上げるとぐっと身を乗りだした。
「妖気くせえな」
すでにその場が一つの結界と化していることに、八環は気づいた。妖怪タクシーの力が、敵意あって近づこうとするものを渋滞に巻き込んでいるのである。
「お前は脱落だ。こっちは飛んで行く」
「ま、待ってくださいよ!」
流の答を待たず、八環はワーゲンの屋根から大きくジャンプした。そのまま本性である烏天狗《からすてんぐ》へと化身して、疾風のように舞う。
「あちゃ……」
流は額に手を当てた。後ろの車のカップルが、今の化身を目の当たりにして、驚愕《きょうがく》に口を開けている様子がバックミラーでも見えたのだ。説明のしようがない。もう少し目立たずにやって欲しいものだと思う。
「ちぇっ、貸しにしときますよ」
苛立《いらだ》たしげにワーゲンのハンドルを叩《たた》く。
八環ほどでないにせよ、流も飛行能力を持っている。今すぐにでも彼の後を追って飛び出したかったが、ワーゲンを無人にしたら、今度こそ後ろのカップルが卒倒するに違いない。
一方、懸命に自転車を漕《こ》いでいる神谷聖良である。
「あなた、ずいぶん重いわ」
バスケットの中のぶち猫は、走りながらも仏頂面で周囲を見渡し、ときに野良猫を見つけては、にゃあにゃあと猫の言葉で命令を叫んでいる。
しかしそれがどれだけ役に立つのかは聖良には疑問であった。確実なのはバスケットの中のこの猫がひどく重いというだけだ。
「見つけてもどうやって止めるの?」
タクシー妖怪に詳しいんじゃなかったら、すぐにでも放り出してやりたい。そんな思いにかられながらも聖良は訊《たず》ねた。
<堂花ちゃんがはっきりと言えればいいんだけどね>
「…………?」
考え深げなその言葉に、聖良は聞き返した。
息をあえがせながら、横断歩道の赤信号に止まる。
<タクシー妖怪は、基本的にお客さんに逆らえないんだ。でも気弱なところを見せると、どんどん増長する>
タクシーに関する伝説や苦渋のたぐいは、妖怪を生み出す力としては馬鹿にならない程大きい。それだけにタクシー妖怪は敵に回しては圧倒的に強力な存在と化しているのだ。
外から止めることは極めて困難。
しかし、そんなタクシー妖怪も、タクシーとしての本質からは逃れることはできない。教授がまぶしい光に弱いように、聖良が髪を痛める薬品に弱いように。
だが、堂花の気弱なところは、少なくとも妖怪としての本質的弱点ではないのだ。
「堂花が頑張るしかないということね?」
<たぶんね。まあ、助力をしてあげることはできると思うけどさ>
先輩ぶった猫の言葉は、こんな緊迫した状況でなければ失笑ものだった。
だが、そんな堂花が自分の弱点と向き合っているとは、いかな毛羽毛現でも感じとることはできなかった。
(あ……)
揺れる車内で、堂花は財布の中の所持金を数えていた。
所持金、三万と五千三百二十円。対するタクシーメーターは二万と三千六十円。
(なんで、こんなにお金ないんだろ)
涙《なみだ》がぶわっとあふれそうになって、堂花は鼻をすすり上げた。
今月の給金すべてが財布に入っていたはずだ。確かに買い物はしたが、どう考えてももう二万円はあってもいいはずだ。
堂花は気づかない。また彼女の妖力であるお釣り間違いが働いているのだ。流れ者が多い渋谷の屋台や露店商に正直さを要求するのも難しい。間違えて差し出された高額紙幣をありがたく受け取ったのだろう。
あたふたとポケットをさぐり、小銭をかき集める。 <うさぎの穴> のマスターがくれたお釣り、切符を買ったお釣り。
「……公衆電話のお釣り、忘れてきちゃった」
ふと、それに気がつく。
慌てて受話器を放り出してきたので、十円玉の戻りを受け取り損ねたのだ。急に心細くなって、うつむいた瞳からぽたぽたと泪がスカートに染みを作る。
(けっこう持ってるじゃねえか)
金を数える様子を見ていた運転手はほくそえんだ。それと共にメーターがくるりと回る。このタクシーそのものが妖怪《ようかい》であるがゆえだ。
二万五千円……三万円。
持ち金すべてを奪うつもりである。
もし払えないと言えば、そのまま本当に泣致《らち》して風俗にでも売り飛ばしてしまえばいい。そうやって泣きじゃくる娘たちが幾人もこの邪悪な妖怪の毒牙《どくが》にかかっていた。
(この娘も安くなかろうな)
ルームミラーで、小刻みに体を震わせる少女をのぞき見る。
タクシーでの誘拐は足がつきにくいのだ。相手に合わせて、善良な運転手を演じる時もあれば、粗暴な運転手となることもある。そして真に邪悪な犯罪タクシーになることもできる。
それがタクシー妖怪であった。
「逃すかよ」
八環はその悪意に引かれるように疾走する妖怪タクシーを発見した。天空からまっすぐに降下する。
烏天狗としての彼の鋭い眼力には、後部座席で気弱に泣きじゃくる堂花の姿が映っていた。
(どう料理してやるか?)
耳元で轟々《ごうごう》と音が鳴っているのを快く感じる。強敵に向き合うときの緊張感を感じているのだ。
ヒュッ!
まるで指揮台からオーケストラを導くかのような、優雅な仕草で右手を振り降ろす。疾風がそのまま刃となって空間を切り裂き、眼下のタクシーへ襲いかかった。
次の瞬間、パァンと音を立てて、タクシーのヘッドライトが一つ、砕け散った。妖力を放射するのがこのライトと見ての狙《ねら》い澄ました攻撃であった。
彼のつむじ風の威力でも、重さ二トン近くのタクシーを止めることは不可能だ。風の刃で鋼鉄のボディを傷つけることも難しい。
「貴様のような外道は、スクラップ置き場が似合いだぜ!」
もう一つのライトも砕かれた。さすがの妖怪タクシーもこれではたまるまい。
だが……。
「うぐっ!」
奇怪な臭気が鼻をつき、八環の三半規管を狂わせた。汚れた空気が喉《のど》を焼く。
(排ガスか!……)
慢心して近づきすぎたか? 愛煙家の八環も、烏天狗でいるときは汚れた空気にめっぽう弱い。本来は清浄な山岳地帯の奥深くに住む一族であるからだ。
(くそっ、弱点はおさえてあるってわけかい)
あえぎながら、街路樹のポプラに突っ込むようにして止まった。意識が遠くなる。
無灯火で過ぎ去るタクシーのタイヤのきしみが彼をあざ笑うかのように感じられた。
息を吸い込む小さな音が、奇妙な沈黙の垂れ込めていた車内に響いた。
「どうしたね、お客さん?」
無情なタクシーメーターは、ついに三万五千円を数えたのだ。
「あ、あのっ……」
堂花の表情が蒼白《そうはく》になる。涙でくもった眼をこする。さっきは確かに二万円台だったではなかったか。
「止めて、くだ……」
ポケットすべてをひっくりかえしたが、もうお金はない。タクシーメーターが次のカウントをしたら、お釣りどころではない。料金を払うことはできなくなってしまうのだ。
「もうすぐ吉祥寺《きちじょうじ》だよ」
彼女の声が聞こえたのか、否か。運転手は楽しげな声でそう告げた。
「見つけましたわ!」
神谷聖良はようやく妖怪タクシーを発見した。こちらに向けて疾走してくる黄色のタクシー、まさに妖怪タクシーに間違いない。
時折、激しい衝突音が夜を震わす。無灯火で突っ走ってくるタクシーの周りには、交通事故が連続して巻き起こっているのだ。
(堂花!)
その存在が強く感じられる。おびえ、泣きじゃくっている可憐《かれん》な少女。彼女の救出を待っている無力な小妖怪。
ちょうど吉祥寺東のガード下である。深夜だというのに酔客が絶えない。妖力を使うのにためらいはあるが、あるいは酔った上での夢だとでも思ってくれるかもしれない。
「ええい、ままよ」
くるっと自転車を回転させる。いくらなんでも自転車では追いつけない。額の汗が、夜の街路灯を浴びてプリズム色に光った。
<どうすんのさ>
バスケットから放り出されそうになったぶち猫は抗議の声を上げた。
「あいつを捕えるのよ。とりあえずはね」
ばっと髪留めが飛んだ。
妖力を帯びた彼女の髪が解放されたのだ。足元に届かんとする長い髪。それがさらに伸びて、今まさに自転車を追い越そうとしたタクシーに絡みついた!
ぎしっ。
髪が、きしんだ。
<うひゃっ、やる〜>
黒髪の幾束かは切れたが、意外な頑丈さで耐え、そのままタクシーの後ろに自転車をひきずる格好になった。
その昔、長く伸ばした女性の髪は、奈良の大仏建立のためにも使われたという。ことに日本女性の髪は、絹糸よりも弾力豊かで切れ難《にく》いという。
「堂花ちゃん!」
苦しみに耐えながら、聖良が叫ぶ。
しかしタクシーの中の堂花は気づかない。妖気と鋼鉄に覆われたタクシーの中は、時速五十キロの監獄なのだ。
毛羽毛現の妖力をもってすれば、タクシーをそのままカーブから崖《がけ》に放り出したり、T字路のつきあたりに突っ込ませることも不可能ではない。だが、そうすれば中にいる堂花をも傷つけてしまう。
「くっ」
震動が来るたびに、髪が断ち切られてゆく。このままの膠着《こうちゃく》状態では、いずれタクシーに逃げられてしまう。
<今度はオイラの番だね>
タッ。
その時、ぶち猫が容姿に似合わぬ身軽さで聖良の髪を渡り、タクシーの屋根へと取り付いた。
「見直したわ」
耐えきれず、聖良がタクシーを放す。猫を乗せたまま、妖怪タクシーは勢いを弱めずに吉祥寺の南側、丸井デパートの前を通過していった。
「吉祥寺、過ぎたわ。ねえ……」
堂花は今や、このタクシーの中に巣くう悪意をはっきりと認識していた。じっと凝視していた料金カウンターが今は微動だにしない。
「いいんだよ」
くるり、と振り向いた運転手の顔を、堂花は今やはっきりと見た。死霊のようなシニカルな笑みを浮かべた中年男。
「どこまでも一緒に行きましょう、ねえ、お嬢さん」
「ひ……」
前も見ずに、ハンドルに手を添えただけで運転している。妖怪……そんな生気に満ちた者ではない。死霊と邪意とが具現化したかのような、疲れきった顔がそこにあったのだ。
(ああっ)
視線に射すくめられたかのように、堂花は動けなくなってしまった。止めて欲しい、お金はちゃんと払います、そんな頭の中で繰り返した言葉が、候の奥で空回りしている。
<そうはいかねえッ>
爪《つめ》でひっかく音。
<眼をさませ、堂花よおッ!>
キ、キィギキィィギイィ……!
まるで古いスリガラスを引っかいたかのような嫌な音が、車内に響いた。
「…………!」
背筋が震え上がるかのような金切り音である。普通、自動車の強靱《きょうじん》なフロントグラスは、いかに猫の爪とはいえこのような音は出ない。半妖怪《はんようかい》・ぶち猫の、ささやかな妖力であった。
「ぶち猫っ!」
フロントグラスにしっかとはりついた猫の姿を見て、堂花は叫んだ。声が、出たのだ。
「こいつっ!」
運転手が怒声と共にハンドルを切った。新しいタコ焼き屋の先の交差点を、北方面へと急カーブを切る。
<お、落ちるう〜>
情けない声でぶち猫はうめいた。屋根からはとうに投げ出されて、いまは堂花の座る後部座席のガラスになんとかはりついているという状況である。
「ど、どうすればいいの、わたし!」
<決まってるだろ。タクシーを止めさせてくれよォ>
救出に来たのだかなんなのかはもうよく判らない。取り付いたはいいが、そのあとどうすれば良いのかはぶち猫にも策はないのだ。
すべては堂花の勇気次第。
<早くそう言え、堂花ァ!>
その気弱きを乗り越えるか否かの、己の戦いがあるのみだ。
「と、止め……」
「うるッせえな、静かに乗っててくれないと、運転の邪魔になるんですけどねエ」
どすの利いた声で、運転手がすごんだ。そのままハンドルを切り、ぶち猫をガードレールにこすりつけようとする!
<オイラ、し、死んじゃうだろオっ!>
「止めて、くださいっ」
ついに堂花が叫んだ。
耳元で、大きな声で。
「止めてくださいってば!」
「う……」
タクシーが止まった。
威圧して思い通りにすることはできても、絶対に客のはっきりとした言葉にさからうことはできない。それがタクシー運転手の特性であり、タクシー妖怪もまたそうであった。
だが、憎しみに満ちた瞳《ひとみ》で見返す運転手は、もう一つの保険を持っていた。
「払ってくれよ、きっちりとな。払えないんなら客じゃあねえからな……ひっつかまえて遊廓《ゆうかく》に売り飛ばしてでも払ってもらう」
タクシーメーターはまるでスロットマシンのように回っていた。
九十九万、九千九百、九十九……。
堂花は涙をいっぱいにためながら、たたきつけるようにして財布を運転手に渡す。
さながら毛羽毛現のように昂奮《こうふん》で髪が揺れ、リボンがその上で踊っていた。高まった妖力が、髪を巻き上げてスパークしているのだ。気弱な最弱妖怪と呼ばれる彼女でも、その力を圧倒的なものとして行使することがある……。
「お釣り、いりませんから!」
「おう」
喜びの力。
タクシー妖怪の持つ力が邪悪のそれであるならば、堂花の持つ力は商取引の喜びそのものの力だ。
いかなる者もその力に刃向かうことはできない。堂花本人ですらそうなのだ。
妖怪タクシーは、口にしたこともない礼の言葉を呟《つぶや》いた。儲《もう》けたという喜びが彼を支配し、財布の中の金額を確かめることもなく受け取ったのだ。
その一瞬の間隙《かんげき》に、呪縛《じゅばく》が解けた。
釣りはいらない。
その言葉に喜ばぬタクシー運転手はいない。妖怪タクシーもまたその本能から逃れることは、できないのだ。
ドアを開けて転がり出る。タクシー妖怪はすぐに走り去った。降りた客のことなど、すでに頭の内にないのだろうか。
「ぶち猫っ」
堂花にぎゅっと抱きしめられたぶち猫は、苦しみと喜びにもがいた。
終わってみればほんの小さな冒険である。半妖怪達の追跡劇。
「あいつ、許さんぜ」
なんとか髪を整えた聖良の前に、八環が舞い降りた。すぐに人間の姿に戻る。
「お金もね、取り返してきてくださると嬉《うれ》しいですわ」
社会勉強になったから安いもんだ、などと言うつもりはない。苦笑いしながら聖良がつけくわえた。
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Take-2――――――――
小さな子供たちも、暗闇の中で夢を見ます。
いえ、見なければなりません。夢こそ、命を育てる糧なのですから。
子供たちは、しばしば夢の中だけの友達を作ります。それは目に早見ない誰かだったり、あるいはおもちゃたちであったりするのです、が。
ごくごくまれに、その友達は暗闇で見る夢の中から、明るい光のもとにあらわれることがあります。
目に見えない友達が形を得て、おもちゃたちが動きだす。
子供た語思いが注がれて、新たな命になる。
そう、妖怪の誕生です。
思いが生みだす新たな命。それが妖怪なのです。
生まれ出た命は、いつまでも親の下によりそっているわけにはいきません。妖怪たちだって同じことです。
やがて巣立つ新たな命。けれど、たった一人では存在を続けていくことができません。やがて彼らは、闇と影の世界に帰ります。
その世界にくまなくはりめぐらされた、妖怪たちのネッ子供たちの思いから生まれたひとりの妖怪が、ここにいます。
彼を生んだのは、愛。無償の愛情でした。
そして、彼は同様に生まれた仲間たちに出会い、まっとぅな命として生活できるようになったのです。
彼もまた、いつしか助けられる側から助ける側になりつっぁりました。ゆがそんな彼が、歪んだ思いから生みだされ、まだ光を知らず闇をさまよう命と出会ったとき。
少女の夢の中で、はたして何が起こるのでしょうフ・新たな命を定着させることができるのでしょうか〜もしかすると、それはするべきことではないのかもしれませんが……。
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第二話 歪《ゆが》んだ愛情 高井 信
1.恐怖の夜
2.〈クレーンハウス〉その1
3.連夜の悪夢
4.〈クレーンハウス〉その2
5.テディベア
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プロローグ
真夜中――
「……ん?」
太田美代子は奇妙な感覚に目覚めた。何か小さな生き物が彼女の布団にはいりこんでいる……。そんな、不思議な違和感だった。
心当たりがないわけではなかった。美代子の家では猫を飼っていて、たまにその猫がベッドに乗ってくることはある。
(でも、変ね)
彼女は思った。部屋のドアは閉めてあり、いくら小さな猫とはいえ、部屋にはいりこむ隙間《すきま》はないはず。それに、飼い猫のクロは布団に潜るのを嫌うのだ。
「気のせいかしら……」
首を傾げつつも薄目を開け、自分の足元に目をやる。その瞬間、
「ひいっ」
彼女は引き攣《つ》ったような悲鳴を漏らした。
錯覚ではなかった。
確かに、足元のあたりの掛け布団がもっこりとした形に膨らんでいる。それも、ひとつではなかった。膨らみは十個近くもある。
(ま、まさか……)
彼女の脳裡《のうり》に浮かんだのは、クロの出産だった。クロは、これまでに何度も家のなかで子猫を産んでいる。ベッドの上での出産も、ないとは言い切れない。
しかし、
(そんなはずはないわ)
彼女は即座に否定した。クロとは昨晩も遊んだが、腹は膨れていなかったのだ。
思い切って掛け布団を撥ねのけてみる。
「え……?」
彼女は呆気《あっけ》にとられた声を発した。
膨らみの正体――それは、小さなぬいぐるみたちだったのである。
(どうしてこんなところにぬいぐるみが……?)
首を傾げつつ、手近なぬいぐるみに手を伸ばす。
ここまではよかった。だが、彼女の手がぬいぐるみに触れた瞬間、
「きゃっ!!」
美代子は思わず悲鳴を上げた。そのぬいぐるみが突然、カッと目を見開き、ギロッと彼女を睨《にら》みつけた――いや、そんな気がしたのである。
(ま、まさか……)
彼女はブルブルと首を横に振った。
ぬいぐるみが睨むなんて、そんなことがあるわけがない。寝惚《ねぼ》けているのか、あるいは目の錯覚か。
(いいわ。確かめてやる)
彼女はゴクッと生唾《なまつば》を呑《の》みこんだ。再度ぬいぐるみに手を伸ばしてみる。
恐るべきことが起こったのは、その次の瞬間だった。彼女の手が触れる寸前、いきなりぬいぐるみは立ち上がり、彼女の手を撥ねのけたのだ。
「きゃああああああ!!」
彼女は大声で叫んだ。矢も盾もたまらず立ち上がり、勢いよくベッドから跳び降りる。
その勢いのまま部屋のドアまで走ったところで、彼女はひと息ついた。ドアを前にして、
「はあ、はあ」
方で大きく息をし、心を落ち着かせる。
(ぬいぐるみが動くわけがない。まだあたし、寝惚けてるのよ)
意を決し、うしろを振り返った彼女だったが、その瞬間、またもや、
「きゃああああああ!!」
大きな悲鳴を発し、すくみ上がった。
ベッドの上だけではない。床にも大量のぬいぐるみが立ち並び、モゾモゾと動いていたのだ。
小さい物は十センチ、大きくても一メートルに満たないぬいぐるみたちが、彼女を上目遣いに睨んでいる。
「な、なんなのよ、これは!?」
美代子は呆然《ぼうぜん》とぬいぐるみたちを眺めた。もちろん、ぬいぐるみが突然部屋に湧《わ》き出てきたわけではない。彼女は幼いころからぬいぐるみ蒐《あつ》めを趣味にしていて、今や部屋には数百のぬいぐるみが飾られているのである。
今、彼女を睨みつけているぬいぐるみは、明らかに彼女自身が蒐めたものだった。しかし、おとなしく飾られているからぬいぐるみなのであって、こうして勝手に動き出してしまえば、もはやそれは彼女が愛するぬいぐるみではない。
と。突然!
ぬいぐるみたちは、まるで誰かが号令を発したかのように、一斉に彼女に襲いかかってきた。
大きく跳ねて美代子に体当たりするやつもいれば、その小さな拳《こぶし》で彼女を殴りつけるやつもいる。
幼いころ寝食をともにしたテディベア――身長一メートル近い熊のぬいぐるみすら例外ではなかった。その(ぬいぐるみにしては)大きな手で、ボンボンと彼女にパンチを見舞う。
「テディちゃん、やめてええ」
美代子は必死の思いでノブに手を伸ばした。だが、鍵《かぎ》は掛かっていないにもかかわらず、ドアはビクともしない。
「パパーッ! ママーッ! 助けてええええ」
声を限りに助けを求めるが、両親が眠っている部屋に届いた様子はなかった。
さらには、
「和幸ーっ。起きてよお」
と隣の部屋で寝ているはずの弟の名を叫ぶが、これまた起きた気配はない。
ぬいぐるみたちの攻撃は容赦なかった。体当たり攻撃はもちろんのこと、泣き叫ぶ美代子の口に手を突っ込むやつがいるかと思えば、細長い蛇のぬいぐるみなどは、パジャマの裾《すそ》から潜りこみ、ザワザワと彼女の素肌を這《は》いずり回っている。
両腕をブンブンと振り回し、足でぬいぐるみを蹴散《けち》らす美代子。だが、無駄な抵抗だった。
「もうやめてっ。あたしが何をしたって言うのよお」
美代子は駆け出し、ベッドに跳び乗った。ベッドの上に陣取る数十個のぬいぐるみを叩《たた》き落とし、布団を頭から被《かぶ》る。こうしていれば、少しは恐怖が和らぐと考えたからだ。
ぬいぐるみたちの執拗《しつよう》な攻撃は止まらなかった。むろんぬいぐるみのやることだから、一体から受けるダメージはさほどではないのだが、少ないダメージも重なると大きなダメージになるし、それに何より、精神的なダメージが大きい。
美代子は布団のなかでガクガク震えることしかできなかった。
「やめて……。や、め、て……」
徐々に声が小さくなっていく。
と。
突如として、彼女を強烈な睡魔が襲った。急激に意識が遠のいていく。
ほどなくして、彼女は深い眠りについたのだった……。
太田美代子。十七歳。
都内の某私立高校に通う平凡な女子高生である。
子どものころから美代子はぬいぐるみが好きだった。誕生日だクリスマスだと言っては、プレゼントにぬいぐるみをねだる。
そんな彼女だから、ゲームセンター(最近ではアミューズメント・パークなどという呼び方もあるようだが)にクレーンゲーム機が登場し、マシンのなかにぬいぐるみが並んでいるのを見たときには狂喜した。何しろ、百円玉ひとつで大好きなぬいぐるみが手にはいる(かもしれない)のだ。
クレーンゲーム機のなかには、それこそ膨大な数のぬいぐるみが詰めこまれていた。可愛《かわい》らしい熊や犬のぬいぐるみから、大好きなアニメやゲームのキャラクターを型取った物まで……。
しかも、そのほとんどはゲームセンターの景品用に特別に作られた物――いわゆる非売品である。
彼女はそれらのぬいぐるみが全部欲しいと思ったが、欲しいぬいぐるみを全部手に入れようとすれば、とんでもない量の百円玉をゲーム機に投入しなければならない。当然のことながら、(当時中学生だった)彼女が自由にできる金は少なかった。
何とか無駄遣いを減らし、ぬいぐるみ欲しさにゲームセンターに通う毎日。
それこそ大量の百円玉をクレーンゲーム機に注ぎこむ。だが、なかなか思うようにぬいぐるみを手に入れることはできなかった。たった一個の欲しいぬいぐるみを手に入れるのに、千円以上も注ぎこんだこともあるし、それでも結局手にはいらなかったことも多い。なぜなら、彼女はドン臭かったからである。
(アルバイトをしていれば、ぬいぐるみが簡単に手にはいるかもしれないわ)
高校に入学した彼女は、迷わずゲームセンターでアルバイトをすることに決めた。 <クレーンハウス> ――店内に十五台設置されているマシンのすべてがクレーンゲーム機という、クレーンゲームの専門店である。
美代子の考えは、半分は当たっていたが、残り半分は間違っていた。
ぬいぐるみ――特にキャラクター物のぬいぐるみの寿命は短い。まあ二ヵ月といったところだろうか。人気がなくなると、すぐに新作のぬいぐるみと入れ替えられる。(人気のない物に至っては、一ヵ月足らずで店頭から消えてしまうこともある)
人気を失ったぬいぐるみは、ほとんど価値がなくなり、店長に言えば気楽にくれたりするが、人気のあるうちは、たとえ従業員といえど、勝手に私物化することは許されない。
特に、稀少《きしょう》アイテム――いわゆるレア物の管理は厳しかった。
クレーンゲームのぬいぐるみは、ひとつのシリーズにつき、おおむね五種類から十種類の製品が作られている。百個で一セットだが、ぬいぐるみは同じ割合で(たとえは五種類なら二十個ずつ)はいっているわけではない。特に人気のある物は多くはいっているし、逆にマニアだけが喜びそうな物は少なくなっているのだ。
なかには百個のうち三個とか五個しかはいっていない物もあり、そういったレア物はマニアの間で取り合いになっていると聞く。
彼女は特にレア物コレクターというわけではなかったが、蒐め始めると、やはりすべての種類が欲しくなる。
うまい具合に新しいぬいぐるみと入れ替えるときまでレア物が残っていてくれればいいが、そうそう彼女の都合のいいようにはいかなかった。レア物の人気は凄《すご》く、いつの間にかなくなっているのである。
それと、これはアルバイトを始めてから知ったのだが、基本的に景品用のぬいぐるみは再生産されることはなく、いったんなくなってしまったら、もう二度と入荷することはないのだ。
ほどなくして彼女は、ただ残るのを期待して待っていても、レア物が手にはいる可能性は低いと悟った。
確実にシリーズの全種類を揃《そろ》えるためには、どうすればいいか。……考えた彼女は、ゲームセンターの従業員という立場を目いっぱい利用することにした。
数少ないレア物はクレーンがギリギリで届かない位置に配置する。このギリギリというのが罠《わな》で、たいていの人は一度は確かめてみるから、店の売り上げも伸びる。
あるいは、レア物の周囲だけ、ぬいぐるみを密集させておく。ぎゅうぎゅう詰めこんでしまえば、そう簡単に引き抜くことはできないのだ。
むろん彼女は高校生だから、一日じゅう店にいるわけにはいかないが、それでもかなりの効果はあった。
彼女が姑息《こそく》な手段を弄《ろう》するようになって以来、レア物が残る確率は格段に上がった。
ぬいぐるみの入れ替えをするときに、
「店長。このシリーズ、一種類ずつもらってもいいですか?」
彼女が言うと、
「ああ、いいよ」
店長は快く応《こた》えてくれた。レア物であろうと、入れ替えのときならば、店長も文句は言わない。どうせ、ほかのゲームセンターに(格安の値段で)売るくらいの使い途《みち》しかないのだ。
アルバイトを始めて一年あまり、みるみる彼女のコレクションは膨れ上がっていった。
かくして、現在――
彼女の部屋は、さながらぬいぐるみ倉庫と化したというわけである。ちゃんと数えたことはないが、数百個、いや、千個以上あるかもしれない。
もちろん、小さいころから蒐《あつ》め続けた市販のぬいぐるみもたくさんあるが、それ以上に多いのが景品用ぬいぐるみだった。いくつかは自らの手でクレーンゲームで取った物だが、ほとんどは店からもらってきた物だ。
最近ではクレーンゲーム機の景品も様変わりし、スリッパやTシャツ、あるいは文房具、CD、帽子など、ぬいぐるみ以外の景品も多くなったが、彼女はそれらには興味はなかった。彼女の目的は、あくまでぬいぐるみだけなのだ。
数え切れないくらいのぬいぐるみに囲まれて、彼女は本当に心豊かな日々を過ごしていた。
しかし……。
2 <クレーンハウス> その1
翌朝――
美代子は不快な気分で目覚めた。背中がびっしょりと汗で濡《ぬ》れている。
朦朧《もうろう》とした意識のなかで、
(恐ろしい夢だったわ)
彼女は思った。
大きく伸びをし、上体を起こそうとする。何気なく周囲を眺めた、その途端、
「ひっ」
彼女は短い悲鳴を上げた。
彼女の目に、床一面に散らかされているぬいぐるみたちが飛びこんできたのだ。
(そ、そんな……。ひょっとして、あれは夢じゃなくて現実に起こったこと……?)
一瞬そんな考えが脳裡《のうり》をよぎったが、すぐに、
(いえいえ、そんなはずはないわ)
彼女は首をブンブンと横に振った。
自分が愛してやまないぬいぐるみ。そのぬいぐるみが集団で襲ってくる。――確かにリアルで、とても夢とは思えない迫力に満ちていたが、あんなことが現実に起こるわけがない。夢に決まっているのである。
からだに傷跡でも残っていれば、夢ではなく現実だったと結論づけられようが、幸か不幸か、彼女のからだには、ぬいぐるみに暴行(?)を受けたという痕跡《こんせき》は全く残っていなかった。
(いったい誰がこんなことを……)
呆然《ぼうぜん》とぬいぐるみを見つめる。
しばらく経って、彼女は恐るおそるぬいぐるみに手を伸ばした。ツンツンとっついてみる。
当たり前のことだが、ぬいぐるみはピクリとも動かなかった。
(そうよね。動くわけがないわよね)
ウンウンと頷《うなず》いた彼女は、冷静に事態を考え始めた。
ぬいぐるみが勝手に動いたのではないとすれば、誰かがぬいぐるみを床に撒《ま》き散らしたことになる。
彼女は両親と小学校一年の弟と一緒に暮らしているが、両親が無断で彼女の部屋に(しかも、夜中に)はいるとは考えられなかった。となると、一番怪しいのは幼い弟ということになる。
(和幸の仕業ね)
美代子は早速弟の部屋に向かった。弟はまだぐっすりと眠っていたが、起きるのを待つような心理状態ではない。寝ている弟を叩《たた》き起こし、
「和幸。変なイタズラはやめてよねっ」
ずばりと言い放つ。だが、弟は、
「ぼく、何もしてないよ」
ブンブン首を横に振った。
「嘘《うそ》ついても駄目よっ」
厳しい口調で言っても、
「ホントだよ。知らないもん」
弟は頑として譲らない。
「とにかく、今度あんなことをしたら、許さないからねっ」
美代子は言い、いったん自分の部屋に戻ることにした。弟の仕業に違いないと確信してはいても、証拠があるわけではないのだ。
部屋に戻った彼女は、ぬいぐるみを片づけながら考えを巡らした。
(でも、ひょっとしたら、本当に和幸はやってないのかもしれないわ。あたしが夢遊病で、夜中に暴れ回って……)
ま、その可能性も考えられないわけではないが、どうも釈然としなかった。これまで、そういう指摘を受けたことは一度もないのだ。
(やっぱり和幸のイタズラよね。いいわ。今日からドアに鍵《かぎ》を掛けて寝よっと)
ぬいぐるみを所定の位置に片づけ終えた彼女は、洗面所へと向かった。
正午過ぎになって、美代子はアルバイト先の <クレーンハウス> へ向かった。学校がある日は夕方からしか働けないが、今は夏休みだから、午後一時から九時まで働くことにしているのである。
「おはようございまーす」
明るい声で挨拶《あいさつ》をし、従業員控え室にはいる。
美代子の顔を見るや、
「美代子ちゃん。新しいぬいぐるみがはいったよ。入れ替え、お願いね」
店長が言った。
クレーンゲームのぬいぐるみは一見いいかげんに積まれているように見えるが、その実、店ごとのポリシーによって、いろいろと特徴的な積まれ方をしている。どうぞ取ってくれと言わんばかりに高く積み上げてある店もあれば、かなりのテクニックを駆使しなければ取れないように置いてある店もある。
ここ <クレーンハウス> では、三ヵ月ほど前から、ぬいぐるみの入れ替え(あるいは追加)作業はすべて美代子に任されていた。と言うのも、実は彼女、実際にクレーンを操作してぬいぐるみを取るのは苦手だが、ぬいぐるみを微妙なポイント(簡単に取れそうでいて、よほどの達人でもない限り、一回では絶対に取れない場所)に配置する術に長《た》けているからである。
クレーンの可動範囲、アームの開く大きさ、掴《つか》む力……それらを総合的に判断した上で、ぬいぐるみの配置を決定する。パチンコ台の釘《くぎ》を調整する釘師みたいなものと考えていただければいいだろうか。
従業員の制服に着替えた彼女は、早速新作のぬいぐるみが置かれている場所に向かった。
問屋から届いていたのほ、超人気のスーパーファミコンRPG『ドラゴン・キングダム』シリーズの第五弾だった。メイン・キャラクターのボイドを筆頭に、ランス、カイラム、ミ−シャ、マーナの五種類。
元のゲームが抜群の人気を誇っているだけに、それを型取ったぬいぐるみシリーズも絶大な人気があり、これまでの四シリーズもそれぞれ半年以上にわたって客の人気を集め続けた。キャラクター物の寿命としては異例の長さと言えるだろう。
「へえ。『ドラゴン・キングダム』の新作が出たんだ。いいなあ」
さも愛《いと》おしげに手に取りながら、一種類ずつ入念にチェックしていく。
(そう言えば、第三弾は大変だったのよね)
ふと彼女は思い出した。
今回の第五弾には、五種類全部が二十個ずつはいっていてレア物はないが、第三弾には、とんでもないレア物が紛れこんでいたのだ。
その名はマーナ。なんと! マーナのぬいぐるみは百個セットのなかに一個しかはいっていなかったのである。 <クレーンハウス> では『ドラゴン・キングダム』シリーズ第三弾を合計十五セット仕入れたが、それでもマーナのぬいぐるみは十五個しかない。まさに、レア物ちゅうの超レア物!
今やメイン・キャラクターと肩を並べるほどの人気を勝ち得、今回の第五弾にもはいっているが、実はマーナはゲームのなかでは、ほんの脇役のキャラクターに過ぎなかった。第三弾にマーナのぬいぐるみを入れたのは、ぬいぐるみ製作者の冗談だろう。
ま、それはともかく、マーナのぬいぐるみが超レア物だという噂《うわさ》はすぐに広まり、 <クレーンハウス> にも多くの『ドラゴン・キングダム』ファンが集まった。
もちろん、皆の狙《ねら》いはマーナである。ゲーム中では大した人気を得ることはできなかったが、ぬいぐるみの稀少《きしょう》価値がマーナの人気を高めるという皮肉な現象が起こってしまったようだった。(噂によると、本家スーパーファミコン版の『ダーク・キングダム』シリーズ最新作では、マーナが主役クラスの活躍をすると言う)多くのチャレンジャーがマーナのぬいぐるみに挑み、敗れていった。しかしそれでも、着実にマーナの数は減っていく。
(早く第四弾が出ないかしら。出たら第三弾と入れ替えられるのに……)
だが、彼女の思惑通りにはいかず、第四弾が届いても第三弾はお払い箱にならなかった。まだまだ人気が高かったからである。
さりげなく、
「ねえ、そろそろ『ドラゴン・キングダム』の古いやつ、新しいぬいぐるみと入れ替えましょうか」
と言っても、
「いや、まだ人気がありそうだからな」
なかなか店長はOKサインを出さない。
そのころには巷《ちまた》のゲームセンターでは、マーナの姿を見ることはほとんどなくなっていた。
おそらくこの店に残っているのが、このあたりでは唯一のマーナのぬいぐるみだろう。
どこで噂を聞きつけたのか、明らかにマーナ狙いと思われる若者たちが <クレーンハウス> に出入りするようになる。
残っているマーナは、あと一個だけ。
(これを取られてしまったら……)
美代子は本気で焦った。それまで以上に真剣に、マーナのぬいぐるみを配置する場所に留意する。あまりあからさまに取れない場所に置くと、
「あれ、もう少し取りやすい場所に移動させてよ」
などと注文する客もいるからだ。
(早く入れ替えるように言ってくれないかしら)
ヤキモキする毎日が続く。
「『ドラゴン・キングダム』の古いやつ、新しいのと入れ替えようか」
と、ようやく店長が言ってくれたのは、昨日のことだった。
『ドラゴン・キングダム』と肩を並べる人気シリーズ、テレビ・アニメの『美少女サクセス・ロード』の新作ぬいぐるみ八点セットが問屋から届き、マシンの数が足りなくなったのである。
美代子の祈りが通じたのか、最後に一個だけ残ったマーナは、何度もクレーンに引っ掛けられて、特にプラスチック製の目などは傷だらけになりながらも、まだ何とかマシンのなかに残っていた。
どれだけ多くの若者がこのマーナに挑み、そして無念の涙を流したことか。おそらくこのマーナだけで、一万円以上の収益を上げたことだろう。
だが、そんなことは美代子にとっては、どうでもよいことだった。要は、自分の手にはいればいいのである。
「はい、店長。わかりました」
嬉々《きき》として答え、素早くぬいぐるみを入れ替える。例によって、
「古いぬいぐるみ、一個ずつもらっていいですか?」
「ああ、いいとも。好きなのを持ってってくれ」
と店長。
かくして。
ついに彼女はマーナのぬいぐるみを家に持ち帰ることができたのである。むろん、彼女が必死に守り通した結果であった。
3 連夜の悪夢
その夜――
ぬいぐるみに襲われる夢(?)を見た翌日である。
(マーナを持ち帰った夜に、ぬいぐるみに襲われる夢を見るなんて……。ほかのぬいぐるみを邪険にした報いかしら)
根拠もなく、美代子は反省した。
確かに昨晩は、念願のマーナを手に入れた嬉しさで、夜遅くまで『ドラゴン・キングダム』シリーズのぬいぐるみだけを眺めて過ごした。はっきり言って、少なくとも昨晩に限っては、ほかのぬいぐるみのことなど眼中になかったのだ。
思い返してみれば、幼いころ、あれほど仲のよかったテディベアのぬいぐるみにも、ここのところずいぶん冷たくしている。
「みんな。ごめんね」
ぬいぐるみに頭を下げた美代子は、部屋のドアに近づいた。ノブをガチャガチャ回し、鍵《かぎ》が掛かっているのを確認する。
(これで誰も部屋にははいれないわ)
満足の笑みを浮かべ、美代子はベッドに潜りこんだ。
昨日のような恐ろしい夢は二度と見ることはないだろうと思っていた。ところが……。
夜中の二時すぎ。
美代子は胸の上に圧迫感を感じ、目覚めた。
「う、うーん。クロなの……」
目を瞑《つぶ》ったまま胸のあたりに手を伸ばす。
今晩はちゃんとドアに鍵を掛けてあり、猫がはいってくるわけがないのだが、寝惚《ねぼ》けた頭では、そんな当たり前のことにも気づかなかった。
だが、寝惚けていられるのも、伸ばした手が胸の上の物体に触れるまでだった。
その物体に手が触れた途端、彼女は全身にゾワッと鳥肌が立つのを感じた。
「うわっ」
驚きの声を発し、ガバと起き上がる。
そう。お察しの通り、それはぬいぐるみだった。もらってきて間もないマーナのぬいぐるみ。
それがいつの間にか、彼女の胸の上に乗っかっていたのである。
「ど、どうしてこんなところにマーナのぬいぐるみが……」
呆然《ぼうぜん》と呟《つぶや》く。
ただ単にぬいぐるみが胸に乗っていただけなら、これほど驚くことはなかっただろうが、昨晩の件がある。彼女の脳裡《のうり》には、昨日の悪夢がまざまざと甦《よみがえ》っていた。
(まさか、またぬいぐるみが動き出して……)
背筋に冷たいものが走る。まだ夏休みの最中だというのに、まるでこの部屋だけ真冬になったように感じられた。
(でも、棚から落ちてきたのかもしれないし、そうビクビクすることはないわ。そうよ。何かの拍子で、棚から落ちたのよ)
そう考えた彼女は、マーナのぬいぐるみを抱き上げ、立ち上がった。所定の位置に戻すべく、棚に歩を進める。
と。その瞬間だった。いきなり、
「あなた、ひどい人ね」
マーナが口を開いた。比喩《ひゆ》的な表現ではない。本当にマーナの口が上下に開き、声を発したのだ。
「マ、マーナ……?」
驚きのあまり手の力が緩む。
その拍子にマーナは手から滑り落ち、カーペットに落下した。
人間型のぬいぐるみは総じて安定が悪い。普通なら倒れてしまうところだが、マーナのぬいぐるみはしっかりと直立している。
マーナはじっと美代子の顔を見つめた。プラスチックに描かれただけの黒い目玉が、まるで生きているように動く。
「マ、マーナ……。ど、どうして……?」
目を大きく見開く美代子を無視し、
「みんな。目覚めるのよ」
マーナは大きく両腕を上に挙げた。
部屋のなかが妙にざわめき出したのは、その瞬間だった。
その理由はすぐにわかった。なんと、部屋じゅうのぬいぐるみが一斉に動き出したのである。
椅子《いす》に坐《すわ》らせておいた巨大なゴリラのぬいぐるみは椅子から立ち上がり、棚に飾っておいた小さなぬいぐるみたちは棚から跳び降り……。整然と行進し、マーナの立っている場所を中心に集合する。
マーナを取り囲むように立っているのは、『ドラゴン・キングダム』のキャラクターたちだった。主人公のボイドを先頭に、ランス、カイラム、ミーシャ、ロンダル、バウマン……。いかにも人気RPGのキャラクターらしく、皆りりしい姿をしている。
「ど、どうしてぬいぐるみが……。あたし、また悪い夢を見ているのかしら……」
美代子が呆然と呟くと、
「違うわ」
マーナは答えた。口許《くちもと》がニヤリと歪《ゆが》む。とてもぬいぐるみとは思えない、まるで人間のような表情だ。
「なぜ? なぜなの? あたしはあなたたちが大好きで、それこそ目に入れても痛くないほど可愛《かわい》がっているのに……」
必死の表情で訴えかける美代子に、
「大好き? じょ、冗談じゃないわ。あなたの邪《よこしま》な愛情が、どれだけあたしたちを苦しめていることか。特に、人気者たちはそうだわ。あなたのせいで、毎日毎日、本当に辛《つら》い目に遭ってきたのよっ」
マーナが冷たく応じた途端、部屋じゅうのぬいぐるみたちがどよめき、手を打ち鳴らした。
拍手をしているつもりだろうが、ぬいぐるみの悲しさ、ポフポフとしか音はしない。
「あたしのせい?」
美代子には、マーナの言っていることがさっぱりわからなかった。自分のせいでぬいぐるみが苦しむなんて、信じられない。
「いったいどういうことなのよ? はっきり説明してよっ」
美代子が言うが、マーナは答えなかった。
「あたしたちの恨み、思い知れっ」
マーナが大声で言うと、ぬいぐるみたちはざわざわと動き出した。愛らしい表情を浮かべたぬいぐるみなど、一個もない。皆、不気味に口許を歪め、憎しみに満ちた表情で美代子に迫ってくる。
「かかれっ」
マーナの号令で、ぬいぐるみたちは一斉に美代子に襲いかかってきた。
まさに、昨晩の悪夢の再現だった。
逃げようにもドアは開かない。助けを呼んでも誰も来ない。布団を頭から被《かぶ》り、ガタガタ震えて耐えることしかできなかった。
そして。
昨晩と同じく、いつしか美代子は意識を失っていたのである。
翌朝もまた、美代子が目覚めると、床一面にぬいぐるみが散乱していた。
ドアの鍵は掛かったまま。
(まさか、誰かが窓から侵入して……)
窓の鍵を確認するが、こちらもこじ開けられた様子はなかった。
外部からの侵入者の仕業ではない。とすると、ぬいぐるみを散らかしたのは、いったい誰……?
常識的に考えれば、犯人は自分以外には考えられない。美代子は夢遊病なのだろうか。それとも……。
そのとき、ふと美代子は、
(あ、マーナは?)
と思いついた。きょろきょろと室内を見回す。
探すまでもなく、マーナのぬいぐるみはすぐに見つかった。ほかのぬいぐるみたちと同様に、床に転がっている。
美代子はそのそばにしゃがみこみ、マーナのぬいぐるみを見つめた。夢で見せた憎々しげな表情はなく、にっこりと笑みを浮かべている。
「まさか、あなたがあたしを恨んでるなんてこと、ないわよね」
話しかけるが、反応はない。
(当たり前よね)
ホッと安堵《あんど》の息をついた美代子は、ベッドの縁に腰を下ろした。
<クレーンハウス> のバイトは午後からで、時間はいくらでもある。
美代子は床一面のぬいぐるみを眺めながら、思考を巡らし始めた。
外部からの侵入者の仕業ではないことはわかっているが、だからと言って、自分が夢遊病患者だなんて考えたくはない。
(じゃあ、いったいどうしてぬいぐるみが床に落ちているの?)
自問する美代子。
大きな地震に気づかないほど、ぐっすり寝ていた? いやいや、そんなことはあり得ない。
夜中にネズミが暴れ回った? いやいや、このあたりでネズミを見たなんて話は聞かない。
両親に相談してみようかとも考えたが、すぐに思い直した。
「そんな気持ちの悪い物、捨ててしまいなさい」
と言われるのがオチだろう。あるいは、無理やり病院に連れていかれるかもしれない。
(そんなの、絶対に嫌だわ)
美代子はブルッと身震いをした。彼女は病院が大嫌いなのである。
そんなこんなで、時間だけが無為に過ぎていく。
結局、解決策らしい解決策も見つからないままに、バイトに出掛ける時刻になってしまった。
(ま、いっか)
彼女は思い、立ち上がった。
さほど取り乱していない自分が意外だったが、よく考えてみると、目覚めたらぬいぐるみが散らかされていたというだけで、自分自身には何も被害は及ぼされていない。ぬいぐるみに襲われたのが夢だったとすれば、そう深刻に考えることはないのである。
(とにかく、この子だけは連れていきましょ。あたしがいない間に、またほかのぬいぐるみを煽動して、悪いことをするかもしれない)
意味もなくそう考えた美代子は、マーナのぬいぐるみを抱き上げ、部屋を出た。
いつもより遅い朝食を摂り、 <クレーンハウス> へ向かう……。
4 <クレーンハウス> その2
久万野三太は愛情に飢えていた。
ふだんは人間の姿をして、保育園で保父をしているが、実は三太は妖怪《ようかい》であった。
可愛いテディベア(熊のぬいぐるみ)に宿った妖怪。いわゆる付喪神《つくもがみ》――物に対する思いこみから生まれる妖怪である。
ぬいぐるみ妖怪である三太には、大きな弱点があった。定期的に子ども(あるいは、子どもの心を持った大人)から愛情を示してもらえないと、どんどんからだが衰弱していき、しまいには死んでしまうのだ。
保父という仕事柄、ふだんは子どもの愛情には事欠かないのだが、夏、冬、春の長い休みの間は別だった。
ことに夏休みは、長期間にわたって保育園を休む子どもが多く、一時的に園を閉めることがある。
ちょうど今は休園の真っ最中。愛情の枯渇期にはいった三太は、愛情を求めて街なかをさまよい歩いていた。
と。
三太は心地よい波動を感じて立ち止まった。ちょうど美代子がバイトをしている <クレーンハウス> の前だ。
看板を見上げた三太は、
(なるほど。クレーンゲームの専門店か。ここなら、ぬいぐるみ好きの子どもたちが集まっているだろうな)
ウンウンと頷《うなず》いた。早速人目につかないところでぬいぐるみの姿に戻り着ぐるみ人形くらいのサイズに身長を伸ばす。
テディベア姿の三太が店に足を踏み入れると、子どもたちがわらわらと近づいてきた。久しぶりに、溢《あふ》れんばかりの愛情を浴び、心地よい満足感に浸る三太。
そのとき、
「あら? テディベアの着ぐるみ人形ね。可愛いわ」
と言う声が三太の耳に飛びこんできた。何となく胸騒ぎを覚え、声の聞こえてきた方向に視線を向ける。
明るい笑顔の女子高生だった。笑みを浮かべながら、嬉《うれ》しそうに三太に近づいてくる。
それだけなら大歓迎だ。だが、彼女が手に持っているぬいぐるみを見た途端、三太は全身に緊張が走るのを感じた。
(明らかにあのぬいぐるみ、邪悪なエネルギーを発している)
言うまでもなく、女子高生の正体は太田美代子で、彼女が持っているのはマーナのぬいぐるみである。
一瞬にしてぬいぐるみの正体を見抜いた三太は、しかし同時に、
(あんなに可愛いのに心が歪《ゆが》んでるなんて、何とかして助けてあげたいな)
とも思った。三太は心優しい妖怪なのだ。
(どうしようか……)
三太が考えあぐねていると、そこに、
「美代子ちゃん。早く着替えて。今日は飛び入りのお客さんもあって、大忙しなんだ」
という店長の声が割りこんできた。
「はーい」
明るい返事を返した美代子、
「じゃあ、クマさん。またあとでね」
と三太にウインクをし、従業員控え室へと向かう。
飛び入りのお客さんとは、三太のことだった。店長は三太を、何かの催しに出演している着ぐるみ人形が、そのついでに <クレーンハウス> に顔を出してくれたのだと思っていた。ま、理由などどうでもいい。店が流行《はや》れば、それで店長はご機嫌なのだ。
去っていく美代子の背中を見ながら、三太は心穏やかではいられなかった。あのぬいぐるみは、紛《まご》うことなく妖怪(それも歪んだ心を持つ)なのである。
(しばらくはあの娘から目を離すわけにはいかないな)
そう思った三太は、子どもたちの波が去るのを待って、こっそりと <クレーンハウス> を出たのだった。
制服に着替え、従業員控え室から出てきた美代子は、
「あら?」
と声を上げた。店内をキョロキョロ見回し、
「さっきのクマさん、どこ行ったのかしら?」
と首を傾げる。
だが、いつまでもそんなことに構っている余裕はなかった。三太のお蔭《かげ》で客はふだんの二倍近くはいっている。客が多いということは、それだけぬいぐるみの追加も頻繁に行なわなければならないということなのである。
彼女が忙しく店内を歩き回っていると、つと店長が近づいてきた。
「美代子ちゃん、今晩、残業してくれないかな?」
言いにくそうに言う。
「え?」
問い返す美代子に、
「実は今晩、どうしても抜けられない集まりがあってね、九時には店を出なくちゃならないんだ。美代子ちゃんさえよければ、最後までいて、あと始末をしてくれるとありがたいんだけど……」
店長は答えた。
「お願いっ」
と両手を顔の前に合わせる。
店の終業時刻は午後十一時。当然のことながら、深夜に及ぶアルバイトは校則で禁じられているが、いつも世話になっている店長に頼まれては、無下に断わることもできなかった。
しばらく考えた末、
「わかりました」
美代子が答えると、
「よかった。時給、はずむよっ」
店長は喜色満面に言ったのだった。
5 テディベア
午後九時――
私服に着替えた店長が従業員控え室から出てきた。
「じゃあ、悪いけど、あとのこと、よろしく頼むね」
美代子に向かって頭を下げる。
「ええ、わかりました」
美代子が答えると、
「ほんとは行きたくないんだけどなあ」
口では言いつつ顔には満面の笑みを浮かべて、店長は店を出ていった。
その後も多くの客が出入りし、美代子は忙しく働いていたが、十時を回ったあたりから徐々に客の数が減り始め、十一時を過ぎるころにはひとりも客がいなくなった。
美代子の心に邪《よこしま》な考えが浮かんだのは、誰もいない店内を巡回しているときだった。
(あのぬいぐるみって、あとひとつしかないのよね)
クレーンゲーム機に収められたモーリンのぬいぐるみを見ながら思う。
モーリンというのは、『ドラゴン・キングダム』と並ぶもうひとつの人気シリーズ『美少女サクセス・ロード』のキャラクターで、翼が生えた猫のような姿をしている。その可愛《かわい》らしい外見で人気は高く、マーナほどではないが、ぜひとも手に入れておきたいレア物のひとつだった。
店の物に手をつけるなんて、それまで考えもしなかったことだが、いったん邪な考えが浮かんでしまうと、欲しくてたまらなくなる。
(誰も見ていないし、いっか)
心を決めた彼女は、それでももう一度店内を見回し、誰もいないのを確認してから、モーリンのはいっているマシンの扉を開けた。
マシンの隅に置かれている目的のぬいぐるみに、そーっと手を伸ばす。
あと少しで手が届く、と思った次の瞬間だった。
「きゃっ」
彼女は悲鳴を上げ、思わず手を引っ込めた。
なんと! いきなりモーリンのぬいぐるみが動き出し、彼女の指を咬《か》んだのである。フェルトの歯しか持っていないぬいぐるみのことゆえ、痛くはなかったが、精神的なショックは大きかった。
「…………?」
自分の指とモーリンのぬいぐるみを交互に見つめる。
と。
「ひいっ」
彼女はまたもや悲鳴を上げた。
そのマシンにはいっていたぬいぐるみが、一斉に彼女の方に顔を向けたのだ。と同時に、店内のイルミネーションが点滅し始める。
「な、何よ、何なのよお……」
彼女は尻餅《しりもち》をつき、あわあわとあとずさった。
「ゆ、夢じゃなかったのね……」
呆然《ぼうぜん》と呟《つぶや》く。自分の目で見ていることでありながら、信じられなかった。
そのとき背後から、
「その通りよ」
と言う声が聞こえてきた。聞き憶《おぼ》えのある声。そう、夢のなかで聞いた声だ。
(まさか……)
嫌な予感が背筋を走る。
振り返った美代子の目に映ったのは、やはりマーナのぬいぐるみだった。彼女の一メートルほどうしろに、憎々しげな顔をして立っている。
「ど、どういうつもりなのよ……」
決死の形相で問う美代子を無視し、
「このときを待っていたのよ」
マーナは残忍な笑みを浮かべて言った。続けて、
「舞台は完璧《かんぺき》だわ」
と言い、
「さあ、みんな。立ち上がるのよ」
と両腕を高く差し上げる。
一段とイルミネーションの点滅が激しくなり、店内にあった十五のマシンすべての扉が開いた。なかから大量のぬいぐるみが飛び出し、続々とマーナのもとへ集結し始める。
「来ないで。来ないで。来ないでええええ!!」
絶叫、絶叫、また絶叫! ほとんど美代子は生きた心地がしなかった。
「もう、駄目……」
がっくりと崩れ落ちそうになる。
そのとき!
「やめろ。やめるんだああ」
大声で叫びながら、一体の巨大なテディベアのぬいぐるみが店内に乱入してきた。美代子が倒れている場所に向かって、一直線に進んでくる。
むろん、その正体は三太だった。
三太は引き上げた振りをしてマーナを安心させておき、実は店の外でずっと店内を探っていたのだ。素早く店内の異変を察知し、それで慌てて飛びこんできたというわけである。
美代子の倒れている場所に到着した三太、
「大丈夫かい?」
優しく手を差し伸べる。
「テ、テディちゃん。助けに来てくれたのね」
美代子はやっとの思いでそれだけを言い、気を失った。彼女の危機を救いに来た三太の姿を見て、自分が幼いころに可愛がっていたテディベアと思いこんだのだろう。
美代子が気絶したと知り、三太はマーナに向き直った。
「こんなことはやめるのです」
静かな、それでいて固い決意に満ちた口調で言う。
三太が出現するまで、さも愉快そうに美代子を眺めていたマーナだったが、今やその表情は一転して険しくなっていた。
「何よ。同じぬいぐるみのくせに、人間の肩を持つの!?」
怒りに燃える目で乱入者を睨《にら》みつける。
「あたしたちは、ただ子どもが愛してくれれば、それだけでいい。なのに、あの女のせいで、あたしたちは怨念《おんねん》の視線で見つめられることが多くなってしまった。あの女、絶対に許すことはできないわ」
マーナの言葉を聞き、
「なるほど。そういうことだったのですね」
三太は静かに頷《うなず》いた。
もともと人形やぬいぐるみには人々の想い=\―主に愛情が込められているものだが、景品用ぬいぐるみの場合は、いささか事情が違っていた。
景品用ぬいぐるみにも、もちろん愛情が注がれることもあろうが、それは欲しがっている人の手に渡ってからの話で、そうなるまでは全く違う。景品用ぬいぐるみに注がれるのは、人間の欲望――物欲とか独占欲のみ。マーナのような稀少《きしょう》アイテムともなると、特にコレクターたちの欲望が注がれる度合いは、ほかのぬいぐるみの比ではない。
「くそーっ。もうちょっとで取れるのになあ」
「いったいいくら使わせれば気が済むんだ、この馬鹿ぬいぐるみ!」
どれだけ多くの人々がマーナに向かって呪《のろ》いの言葉を投げつけたことか。
マーナは、そういうコレクターたちの想い=\―いや、怨念≠ェ生んだ妖怪《ようかい》なのである。
「あなたの気持ちはわかります。でも、その考えは間違っています」
三太が言うと、
「何だって!?」
マーナの眉《まゆ》が吊《つ》り上がった。
「あたしたちの邪魔をするやつは許せない。みんな、あいつをやっつけておしまいっ」
と号令を下す。
マーナの指示に従い、ぬいぐるみがわらわらと三太に迫ってきた。その数、数百か、数千か。
「仕方がないですね」
呆《あき》れたような口調で言い、三太は全身に力を込めた。八十センチほどだった身長がみるみる伸び、二メートルを越える巨大テディベアになる。
ひとたび巨大化してしまえば、たとえ一万個のぬいぐるみに襲われようと、痛くも痒《かゆ》くもなかった。まるで蟻に群がられている象のようなもの。軽く手足を動かすだけで、数十個のぬいぐるみを吹っ飛ばすことができる。
手下の惨状を見るに見かねたのか、
「くそっ」
マーナほ両腕をグルグル回しながら、三太に向かって突進してきた。
「おっと」
マーナを優しく抱き止めた三太。
「無駄ですよ」
笑みを浮かべ、諭すような口調で言う。
それでもマーナは、
「離せええ」
しばらくの間ジタバタと悪あがきをしていたが、どう暴れても無駄だと知ると、おとなしくなった。同時に、ほかのぬいぐるみの動きもピタリと止まる。
「どうして人間の味方をする?」
三太を睨みつけて言うマーナに、
「人間はぼくたちぬいぐるみの友だちだからですよ」
三太は迷わずに答えた。
「友だち? 自分の欲望だけのために生きているこの女が、友だちだって?」
「そうです。大人になってもぬいぐるみを愛する心を持っている、大切な友だちですよ」
「だったら、なぜ」
マーナは言いかけ、ここで言葉を呑《の》みこんだ。ややあって、
「あたしだって、愛が欲しい。なのに、あたしに注がれるのは、怨念、罵倒《ばとう》、憎しみ……。その原因を作ったのは、あの女なのよ」
唇を噛《か》み締めて言う。明らかに、マーナは動揺していた。それを見て、
「彼女だって、好きこのんであんなことをしたのではないのですよ。ぬいぐるみを愛するがゆえ、それゆえに、あなたたちをほかの誰にも渡したくなかったのです」
優しい口調で言った三太は、
「よかったら、ぼくと一緒に保育園に行きませんか。子どもたちは可愛いですよお。それに、ぬいぐるみをこよなく愛しています」
ニコリと笑みを浮かべた。
「あ、あたしたちを、愛している……」
呟《つぶやく》くように言い、目を伏せたマーナ。心のうちに沸き起こる葛藤《かっとう》と闘っている様子が、手に取るようにわかった。
怨念だけを背負って生まれてきた妖怪が、今、本来の姿に戻ろうとしているのだ。ここは下手に口出しせず、マーナが心の整理をつけるのを待つべきだろう。
店内は静寂が支配していた。いつの間にか、イルミネーションの点滅も止まっている。
待つことしばし、
「ええ、わかったわ」
マーナはコクリと頷いた。
「あたしを保育園へ連れてって。あたしも愛が欲しい」
訴えるような目で言う。
「もちろんですよ。さあ、一緒に」
三太が踊るような仕草で手を差し伸ばすと、マーナはその手を強く握り締めた。
マーナもまた、愛に飢えたかわいそうな妖怪なのであった……。
三太とマーナが <クレーンハウス> を去って、小一時間が過ぎ去ったころ――
ようやく美代子は意識を取り戻した。店内に散乱しているぬいぐるみを目のあたりにし、いっときは呆然《ぼうぜん》としたものの、すぐに笑みを浮かべる。
(ぬいぐるみを独占しようなんて、あたし、間違ってたわ。マーナはそのことを教えるために現われたのかもしれない)
美代子は思った。さらに、
(テディちゃん、ありがとう。あなたのお蔭《かげ》で助かったわ)
と家の方に向かって頭を下げる。
「さ。早く片づけて、お家《うち》に帰りましょ。みんなが待ってるわ」
美代子はひとり言のように言い、元気よく立ち上がった。
もちろん、「みんな」とは家族のことではない。彼女が愛してやまないぬいぐるみたちのことである。
美代子のぬいぐるみに対する想い≠ヘ、すっかり子どものころに戻っていた。純粋に愛するだけの散在として、ぬいぐるみに接していたあのころに……。
あるいは、三太の優しさが美代子に通じたのかもしれなかった。
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Take-3――――――――
夢には、いいものもあれば、悪いものもあります。
長く眠らなければならないのなら、できるかぎりいい夢を見たいものですね。
閉ざされて、どこにいくこともない暗闇、眠るしかない闇の中で見る夢。
それは、命をゆっくりと変質させていきます。
良い夢は、良き命に。
悪夢は、悪しき命に。
けれど、生まれる前に見ていた夢はともかく、一度命を授かってから見る夢は、目覚めていたときに出会ったさまざまな出来事に影響を受けるもの。
良い夢も悪い夢も、その命がすごした時間が作りあげるのです。
すごしてきた時は、その命だけのものではありません。
いくつものかかわりから作りだされたものです。
暗闇の中から生まれ出るとき、それは自らが選んだ形になっているでしょうか? もしかすると、誰かに無理やり選ばされた形なのかもしれません。正しい決断をしようにも、知るべきことを知らされぬこともあり、あえて目を閉ざすことすらするかもしれないのですから。
もしも、見ているのが良い夢ならば、それはずっと闇にたゆたっていることが幸せなのかもしれない、ということならば誰でもが考えます。
けれど、もしかすると、悪い夢を見ている者こそ、永劫《えいごう》に眠りにつかせておくべきなのかもしれません。なぜなら、目覚めとともに悪夢はその者だけのものでは、なくなってしまうからです。
逆に良い夢を見ているものこそ、起こしてそれを現実にしてもらうべきかもしれません。
良い夢なのか、悪い夢なのか、それは慎重に見極めなければならないでしょう。
夢見ているものにとっては良い夢でも、目覚めとともに悪夢に変わるかもしれないのですから……。
[#ここで字下げ終わり]
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第三話 魔獣めざめる 山本 弘
プロローグ
1.地底からの音
2.ゆらめく街の灯
3.新宿パニック
4.シ号兵器
5.時に忘れられた者たち
6.苦い再会
7.攻撃目標
8.大洋の巨城
9.〈エンタープライズ〉炎上
10.最後の一撃
エピローグ
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プロローグ
[#ここから1字下げ]
作戦任務第六七号
日付 一九四五年四月一三日
コード名 パーディションNo.1
爆撃目標 東京―陸軍|造兵廠《ぞうへいしょう》地域
参加部隊 第七三航空団(サイパン・アイレイ飛行場)
第三一三航空団(テニアン北飛行場)
第三一四航空団(グアム北飛行場)
出撃爆撃機数 B―29 三四八機
平均爆弾搭載量 第七三航空団 一万六八八七ポンド(約七・六トン)
第三一三航空団 一万五一二五ポンド(約六・八トン)
第三一四航空団 九四〇九ポンド(約四・二トン)
目標上空時間 四月一三日二二時五七分〜一四日二時二九分
攻撃高度 五五〇〇〜二万五〇〇〇フィート
目標上空の天候 晴れ、火災から立ちのぼる煙を除いて射程無限
敵機の迎撃 中程度、攻撃回数八五、敵機六機撃墜、二機撃破
対空砲火 重砲と中口径、貧弱ないし激烈
爆撃機数 三二八機が目標へ投下、四機が臨時目標に投下、一六機が無投下
損失機数 七機(六機が未確認の理由で行方《ゆくえ》不明、一機が帰途不時着水)
爆撃成果 甚大、二億九六〇〇万平方フィート(約二七・五平方キロ)を破壊
[#地付き](米軍資料より)
[#ここで字下げ終わり]
この夜の空襲は、参加機数、爆弾搭載量ともに、三月一〇日深夜のいわゆる「東京大空襲」を上回る規模で、現在の中野区・新宿区・豊島区・北区・文京区・荒川区の広範囲の地域が消失し、数十万人が家を失った。
それでも、九万人以上が死亡した三月一〇日の大空襲に比べると、被災面積が三分の二で済み、死亡者も比較的少なかったのは、二つの理由がある。そのひとつは、三月一〇日の悲劇を教訓として、東京都民に火災に対する備えができていたこと。もうひとつは、焼夷弾《しょういだん》の他に通常爆弾が多数使用されたことである。
着地と同時に発火してナパーム(ゼリー状ガソリン)をまき散らす焼夷弾は、燃えやすい日本の木造家屋には絶大な威力を発揮した。だがこの時期、名古屋や阪神地区の爆撃に焼夷弾が多数使用されたため、米軍の保有していた焼夷弾に一時的に不足が生じており、この作戦では余っていた通常爆弾が併用されたのだ。
B―29爆撃機に搭載されたM66型二〇〇〇ポンド通常爆弾のひとつは、戸山ヶ原南西、現在の新宿区百人町にあった陸軍科学研究所の敷地に投下された。軍関係施設の破壊を狙《ねら》ったその爆弾は、しかし地上の建造物には命中せず、近くの野原に落下した。秒速数百メートルの猛スピードで落ちてきた重量一トンの鉄の塊は、地面に激突して深くめりこみ、〇・〇一秒後、遅発弾頭に点火して大爆発を起こした。その爆発は直径十数メートルのクレーターを生じただけでなく、大地を深く揺さぶり、地下深くに隠されていたコンクリートの構造物を、紙の箱のように押し潰《つぶ》した。
翌日、爆撃の跡を調査した軍関係者は、地下施設が完全に破壊され、数百トンの土砂とコンクリート片に埋もれているのを発見し、深い絶望にかられた。彼らの数か月におよぶ努力と試行錯誤、そしてこの悪化した戦局を一変できるかもしれないというかすかな希望は、たった一発の爆弾によって粉砕されたのだ。
彼らはやむなく、簡潔な報告を出した。
「生存者なし。施設復旧不可能。シ号兵器計画続行は断念せざるを得ずと判断す」
関係者の何人かは、貴重なサンプルを断片でもいいから回収したいと希望した。だが、その願いは聞き入れられなかった。そのためには埋もれた施設を掘り起こさねばならず、膨大な労力を必要とする。戦局は逼迫《ひっぱく》しており、誰も彼もが忙しかった。人手も機材も足りなかった。わざわざ多大な手間をかけて、失敗に終わった計画の残骸《ざんがい》を回収する余裕など、もはやその頃の日本陸軍にありはしなかった。
それに、計画にたずさわった者の中には、口には出さなかったものの、計画が挫折《ざせつ》したことに安堵《あんど》している者もいた。それは本来、人間が手を出すべき領域ではなかったのだ、と彼らは感じていた――たとえそれによって日本が戦争に勝てたとしても。
こうして破壊された地下施設は放棄され、そこで研究されていた忌まわしいもの[#「もの」に傍点]のことも、記録から抹消された。
やがて戦争は終わった。一面の焼け野原にバラックが建ち並び、それはほどなく近代的なビルや小ぎれいな住宅に取って替わった。旧陸軍の軍用地だった戸山ヶ原にも住宅開発の手が伸びた。草原と雑木林の広がるなだらかな丘陵地帯に、野火のように家が押し寄せ、あっという間に埋め尽くした。
そして半世紀が過ぎた。
現在、戦前の広々とした戸山ヶ原の面影は、大久保町にある戸山公国の片隅にかろうじてうかがえるにすぎない。ここにあった旧陸軍の射撃演習場のカマボコ型の建物も、とうの昔に消滅している。JR山手線の線路の西側、陸軍科学研究所があった場所には、社会保険中央総合病院が建っている。
病院のすぐ東側、山手線の線路に沿って、二五階建ての堂々とした高層マンション三棟と、東京グローブ座が並んでいる。複合施設「西戸山タワーホームズ」である。戦時中はここも野原で、中学生らがよく軍事教練を行なっていたのだが、そこに暮らす人々の大半は戦後生まれであり、この土地にそのような過去があったことなど知りはしない。
ましてや、その足の下に眠るもの[#「もの」に傍点]のことなど……。
1 地底からの音
がらがら、と何かが崩れる音がした。森宗《もりむね》拓哉《たくや》はびっくりして、読みふけっていた音楽雑誌から顔を上げた。
パイプ椅子《いす》から立ち上がり、アルミサッシの窓の外に広がる闇《やみ》に目をやる。この小さなプレハブ小屋からは、工事現場の大半が見渡せる。今は午後八時五分前。作業員はすべて帰宅しており、現場に残っているのは拓哉ただ一人のはずだった。
もっとも、窓から見ただけでは、本当に自分の他に誰もいないとは断言できない。人が隠れられる場所はいくらでもあるからだ。眠っているパワーショベルの向こう側、積み上げられた土砂の山の背後、建築資材を覆っている青いビニールシートの裏側……。
そして、あの深い穴の底。
がらがら……また同じ音がした。石か何かが崩れ落ちる音のようだ。かなり大きい。明らかに穴の方から聞こえてくる。
一時間前の見回りで穴の横を通りかかった時のことを思い出し、拓哉は背筋に軽い冷気が走るのを覚えた。工事現場の中央に掘られた巨大な長方形の穴は、彼の暮らしている二階建てのアパートがすっぽり入るほどの大きさがあり、まるで巨人の棺を埋める墓穴のように思われた。夕方に見た時はたいして不気味にも思わなかったが、あたりがすっかり暗くなって、穴の底の闇が濃くなると、何とも表現できない不吉な雰囲気が感じられた――そんな感覚は不安が生んだ錯覚だと、自分に言い聞かせてはいるのだが。
がら……がらがら……音は断続的に続いている。自然に崩れているというより、誰かが瓦礫《がれき》を取りのける作業をしているような感じだ。
だが、こんな時間に誰が?
浮浪者か、あるいはニュースを聞きつけたマニアかもしれない。不安にかられながらも、確かめる必要があるな、と拓哉は思った。誰かが工事現場に侵入して何かを壊すか盗むかいているのだとしたら、それを見逃したら自分の責任になってしまう。たかがバイトとはいえ、せっかくの高給の仕事をクビになるのは嫌だった。どっちみち、一時間ごとに見回りをする規則になっているのだ。
拓哉はしぶしぶ、椅子にかけておいた支給品のジャンパーを取り上げると、胸に <アタリ警備保障> と縫い取りのある青い制服の上から羽織った。金髪に染めた頭に安全用のヘルメットをかぶり、プレハブ小屋の外に出る。
晩秋の夜の空気は冷たかった。吐く息が白い。拓哉はジャンパーの衿《えり》をかき寄せると、何となく東の方を見上げた。
工事現場に張りめぐらされたフェンスの向こう、今にも雨が降り出しそうな灰色の空を背景に、西戸山タワーホームズが力強くそびえ立っている。このあたりでは最も高い建造物だ。その窓には暖かく幸福そうな明かりが輝いており、一家|団欒《だんらん》の笑い声さえ聞こえてくるような錯覚にとらわれる。
マッチ売りの少女の心境になり、拓哉は少し憂鬱《ゆううつ》になった。今日は金曜日、他の若者は新宿や渋谷で遊びに興じているというのに、何の因果で、自分はこんな淋《さび》しい場所で夜間警備などやっているのか。
「……しょうがねえか。バンドのためだもんな」
拓哉はそう言って自分を慰めた。意気込んで髪を金髪に染めたはいいが、まだ楽器もろくに買い揃《そろ》えられない貧乏バンドだ。夢とやる気だけが先行していて、音をまともに出せるかどうかさえまだ分からない。プロデビューなど夢のまた夢である。
とは言うものの、彼も仲間たちも本気だった。シンセサイザーを買うという大きな目標がなければ、高給を謳《うた》った求人広告につられて、自分に不似合いなこんな職場になど飛びこみはしなかっただろう。
拓哉は長身で、バスケット選手のような体格をしているため、スポーツも万能だろうとよく誤解される。面接の時には「少林寺|拳法《けんぽう》を少しやっていました」と嘘《うそ》をつき、カンフー映画を見て覚えたポーズをやってみせ、試験官の目をごまかしたのである。実際には見かけによらず気弱で、腕力にもまったく自信がなかった。
もっとも、彼を採用した警備会社や、警備を依頼した建築会社の方でも、この若者の腕を信用しているわけではなかった。工事現場の夜間の見張りなど、現金輸送や宝石店の警備などに比べればたいして危険はなく、腕力や経験を必要とする仕事ではない。ここのところ工事現場から機材が盗まれる事件が頻発しているので、とりあえず体格の良さそうな男さえ置いておけば泥棒が入りにくいだろうという、ただそれだけの理由で配置されているにすぎない。早い話、拓哉には案山子《かかし》と同じぐらいの効果しか期待されていないのだ。
彼は気を取り直し、穴に向かってぶらぶらと歩きはじめた。
「……ふぇにゅあふゅーちゃ、はぼるびんしゃたーど」
歩きながら好きなロックの一節を小声で口ずさむ。孤独をまぎらわせるためたけではない。誰か侵入者がいるなら、声を聞いて逃げ出すだろうと思ったからだ。自分の仕事は盗難を防ぐことだけであって、不審者と顔を合わせずに済むなら、それに越したことはない。
「ざらいてぃんゆあはーてぃず、しやーいにん……」
彼は懐中電灯の光の輪をあちこちに振り回しながら、可能なかぎりゆっくりと、穴の方に近づいていった。
またも瓦礫の崩れる音が響いた。その音の大きさに、拓哉はぎょっとして歌うのをやめ、穴の縁で立ち止まった。
深い穴の底に懐中電灯の光を向け、おそるおそる様子をうかがう。彼の立っている位置から地下三階の深さがある穴の底まで、板と丸太を組み合わせて造られた斜路が続いている。底にはじゅくじゅくと水が滲《にじ》み出しており、あちこちから古い土台や壁の一部が古代の遺跡のように露出している。コンクリート片も無数に散乱していた。
穴の反対側の一画には、かつて地下道の一部だったものが土の壁から姿を現わし、ぽっかりと黒い口を開けている。もっとも、入れるのは入口から数メートルまでで、その先は天井が崩れ落ち、茶色く変色した瓦礫の山が通路をふさいでいた。
かつては数軒の店舗が並んでいたこの土地には、タワーホームズと肩を並べる高層マンションが建つ予定だった。地下は三階まで駐車場になる。高層建築物であるだけに地震対策にも万全の注意が払われ、そのため、ビルの基礎を埋めこむための穴も、通常のビルを建てる場合の二倍の深さまで掘り進む必要があった。
昨日の昼間、思わぬトラブルがあって工事は中断した。地下一〇メートルのところで、戦時中のものと思われる古いコンクリートの構造物が出現したのだ。大きな地下通路網の一部らしく、すっかり崩れてしまっていたが、その思わぬ規模に作業員たちは困惑した。基礎工事を行なうためには、錆《さ》びた鉄骨やコンクリートをすべて撤去しなくてはならず、かなりの手間がかかりそうだった。
知らせを受けて文部省や建設省の役人が調査にやって来た。戦時中にはこの近くに陸軍の研究所があったことから、その関連施設だろうと考えられたが、記録は残っておらず、みんな首をひねるばかりだった。
拓哉が不安を覚えたのは、中学生の頃にニュースで見た話を思い出したからだ。一九八九年六月、ここから一キロほど離れた戸山町の陸軍軍医学校跡で、工事中に数十体の人骨が発見されるという奇怪な事件があった。当初は空襲の被災者かと思われたが、衣服や所持品の残骸が見当たらないこと、骨に人為的な加工の跡が見られることなどから、疑惑が広がった。医学用の標本としても数が多すぎる。
悪名高い陸軍七三一部隊と関係があるのではないか、という説も流れた。七三一部隊の残酷な生体実験の犠牲となった中国人の骨が、研究のために本国に送られたのではないかというのだ。七三一部隊の創設者である石井四郎軍医中将は、陸軍軍医学校の防疫研究所の主幹でもあったから、これは根拠のない憶測とは言えなかった。
だが、骨の出所の調査を求める声を、政府はなぜか黙殺した。結局、この事件の真相はうやむやのままである。
拓哉はごくりと唾《つば》を飲みこんだ。JRの線路を隔て、一キロも離れているとはいえ、ここも旧陸軍施設の一部だったことは間違いない。どんなものが埋まっているか分かったものではないのだ。霊や呪《のろ》いなどというものは信じなかったが、人骨が埋まっているかもしれない場所の上に立っていると考えるのは、やはり気持ちのいいものではない。
例の地下道の中の様子はここからは見えないが、懐中電灯の光が届く範囲には異状は見られなかった。だが、瓦礫《がれき》の崩れる音はさっきから断続的に続いている。不安定な積み方をされた瓦礫が崩れているだけだろう、と無理に思いこもうとした。あるいは野良犬か何かが迷いこんだのか……。
犬が瓦礫をあさって人骨を掘り出している光景をうっかり思い浮かべてしまい、拓哉は自分の過剰な想像力を呪った。
穴の底に降りるのは気が進まなかった。だが、いちおう義務として確認しておかねばなるまい。何か異状が起きているのに見過ごしたなら、後で責任問題になるかもしれないからだ。拓哉は大きく深呼吸すると、心の中に巣食う不安を押し殺しつつ、懐中電灯を握り締め、穴の底に通じる斜路を慎重に下っていった。
「……えぶりしんぐすとらいんぐ、とぅぶれーきゅあまいん……」
自分が平静であるかのように見せかけようと、彼は声を張り上げて歌った――だが、その声が震えているのは、寒さのせいだけではなかった。
「……ばっぜあずぼいす、いふゆーるじゃすてぃあいっと……」
瓦礫の下から逃れ出ようともがいていると、奇妙な歌が耳に飛びこんできた。黒焔《こくえん》は手を止め、闇の中でそれに耳を傾けた。
「……せいんぐ、いっつらすたい、らすぶれいす……」
おかしな歌だった。ブルースともジャズともまったく違う、聞いたこともない妙ちくりんなメロディだ。目覚めたばかりでまだ頭がぼんやりしていたので、その歌詩が英語だと理解するのに、少し時間がかかった。
英語? なぜ英語なのだ? 黒焔の頭に疑惑が渦を巻いた。敵性語の歌が禁止されてもう何年にもなる。ましてや陸軍の軍用地の中で英語の歌を歌う者などいるはずがない。もしかしたら……もしかしたら……。
声の主はこちらに近づいてくるようだ。一度はやり過ごそうかと思った黒焔だったが、すでに体の一部が露出していることもあり、身を隠すのは無理だと判断した。こうなったら体の自由を取り戻すのが先決だ。彼は再度、床に踏ん張った前脚に力をこめ、ゆっくりと上半身を起こしはじめた。
油圧ジャッキが重量物を持ち上げるように、全身にのしかかったコンクリートの重みに対抗して、じわじわと体が持ち上がってゆく。鉄よりも堅い筋肉が、限界を越えた荷重に悲鳴をあげた。人間ならゼリーのように潰《つぶ》されているはずのすさまじい重量に、黒焔の強靭《きょうじん》な体は耐えていた。上半身が起き上がるにつれ、がらがらと音を立てて、コンクリートの塊が少しずつ体の表面からふるい落とされてゆく。
「……ふあいていんふぉーざとぅるーす、ゆーのーあらい……」
何という不愉快な歌だ! 耳慣れない歌詩とメロディに黒焔は苛立った。そして、その怒りをバネに変え、全身にいっそうの力をこめた。
がらがらとすさまじい音が響き渡り、上半身を覆っていたコンクリートの山が崩れ落ちた。全身にのしかかっていた重圧が嘘のように消え去る。成し遂げた重労働の反動で、どっと疲労が押し寄せてくる。
その時、懐中電灯が彼を照らし出した。
穴の底に降り立ち、地下道に向けて懐中電灯を照らした拓哉が見たのは、悪夢のような奇怪な光景だった。瓦礫の山がまるで焼けた餅《もち》のように膨張したかと思うと、大きく崩れ落ちたのだ。その中で、何か黒く大きなものがうごめいていた。
犬? いや、犬であるはずがない。それはどう控え目に見ても、人間よりひと回り大きな生き物だった。そいつはごろごろとうなり声をあげながら、自由になった前脚を瓦礫の山に踏ん張り、まだ瓦礫の下敷になっている下半身を引きずり出そうともがいていた。拓哉は驚きと恐怖のあまり思考が麻痺《まひ》し、その光景から目が離せなかった。
やがて、そいつは下半身を瓦礫の下から引き抜いた。自由の身となったそいつは、黒い毛皮にからみついたコンクリート片を払い落としながら、懐中電灯の光の中に、のっそりとその全身を現わした。
拓哉は悲鳴をあげ、湿った地面に尻《しり》餅をついた。
長らく闇に閉ざされていた目には、懐中電灯の光はまばゆすぎた。逆光で目がくらみ、黒焔はその男の顔を見ることができなかった。だが、恐怖にかすれた悲鳴と、じたばたと後ずさる足音ははっきりと聞こえた。
男が懐中電灯を取り落とすと、黒焔の視力は回復した。斜路を這《は》うように逃げ昇ってゆく長身の男の後ろ姿が見えた。慌てたあまり、ヘルメットを落としてしまっている。その下から現われた髪の色は――
金髪!
「毛唐《けとう》が!」
そう叫ぶと、黒焔は地面を蹴《け》って風のように跳躍した。
ひと飛びで穴の外に飛び出すと、ようやく斜路を昇りきったばかりの男の後ろに降り立った。
男は気配を感じて振り返ろうとしたが、黒焔はその余裕を与えなかった。金髪の頭部めがけ、怒りをこめて前脚を振り下ろす……。
……一切の音が途絶え、工事現場を沈黙が支配した。
黒焔はゆっくりと後脚で立ち上がった。前脚が生温かいものでぐっしょりと濡れている。その不快な感触が、爆発的な熱狂を急速に冷まし、怒りに我を忘れていた彼に正常な判断力を取り戻させた。
彼の足許《あしもと》で、男の体は奇妙な格好にねじれ、地面に突っ伏していた。黒焔は不思議そうに自分の前脚を見下ろした。美しい黒い毛皮には、真っ赤な液体と豆腐のような灰色の組織の断片がへばりつき、金色の髪がからみついていた。黒焔はうなり声をあげて不快感を表現すると、手を振ってそれを払い落とした。
深い疲労を覚えながら、顔を上げてあたりに目をやった。地上の様相が一変しているのに困惑した。陸軍研究所の建物はどこへ行ったのだろう? 戸山ヶ原のクヌギの林は? それに、この囲いや奇妙な機械は何だ?
夜空にそびえ立つ三つのビルディングを目にした時、黒焔は夢でも見ているのかと思った。それは関東大震災で崩れ去った浅草の十二階の二倍の高さがあった。ニューヨークの摩天楼は写真で見たことがあるが、そんなものが東京に建っているなどとは、想像もできないことだった。どうやらずいぶん長く眠っていたらしい。どれぐらい時間が経過したかを示す手がかりはないかと、黒焔はすがる思いであたりを見回した。
近くに新聞が落ちていた。昼間、誰かが落としていったものだろう。彼はそれを前脚の爪《つめ》でつまみ上げた。
一瞬、自分の頭がどうかなったのかと思った。横書きの見出しの文字が、彼の慣れ親しんだ方向とは逆――右から左へではなく、左から右へ書かれていたからだ。文字もずいぶん変わっているし、そこに書かれている言葉にしても、「インターネット」「HIV訴訟」「雇用均等法」など、彼の知らないものばかりだった。
しかし、本当の衝撃は、新聞の欄外にある発行年月日を目にした時に訪れた。
「平成!?」彼はうなった。「平成とは何だ!? 昭和はどうなった? 陛下は――天皇陛下はどうなさったのだ!?」
黒焔は混乱しながらも、元号の横に印刷してある西暦を読み上げた。
「せん、きゅうひゃく、きゅうじゅう……」
彼の爪の間から、新聞がふわりと落ちた。
「五〇年以上……」黒焔は言葉に出し、その事実をかみ締めた「五〇年以上も、俺《おれ》は眠っていたのか……」
戦争はどうなったのか?――いや、考えるまでもない。陸軍研究所が跡形もなく取り壊され、金髪の外人がこんなところをうろつき、意味不明の横文字が新聞に氾濫《はんらん》しているのだ。結論はひとつしかない。
日本は負けたのだ――黒焔は深い衝撃を受けた。何もかも手後れだ。自分がやったこと、やろうとしたことは、すべて無駄に終わってしまったのだ。
日本のために戦う。戦争に勝つ。ただそのためだけに歯を食いしばり、幾多の苦しみに耐えてきた黒焔にとって、それはあまりにも残酷な知らせだった。世界から光が消えたように感じられた。しばらくの問、頭が麻痺し、何も考えられなかった。これから何をすればいいのか、どこへ行けばいいのか……。
彼を正気に返したのは、全身を苛《さいな》む疲労と空腹だった。無理もない。半世紀以上も眠っていて、目覚めたばかりなのだ。力が不足している。
そう、力だ――彼は気を取り直した。これからどこへ行き、何をするにせよ、とりあえず力を補充しなければならない。それが先決だ。
彼は再び跳躍した。幸い、空を飛ぶ力は失われていなかった。工事現場のフェンスを軽く飛び越え、通りの向かいに建つ高層マンションの壁面にふわりと着地する。そして垂直の壁面に爪をかけ、屋上をめざして素早く駆け上がった。高い場所から東京を見渡せば、これからの行動の指針の手がかりがつかめるかもしれないと思ったのだ。
マンションの屋上に立った黒焔は、地上がどこもかしこも人工の光で満ちあふれていることに驚いた。灯下管制の敷かれていた戦争中には考えられないことだった。いや、戦争前でさえ、東京の夜がこんなに明るかったことはない。
一面の焼け野原になった町が復興し、元通りの繁栄を取り戻すのに、ほんの数年しかかからない――明暦《めいれき》の大火や関東大震災を記憶している黒焔にとって、それは決して意外な事実ではなかった。だが、半世紀の空白はあまりにも大きすぎる。眼下に広がる、きらびやかな光あふれる東京は、彼の知っている東京とはあまりにも違っていた。彼はあらためて時代に置き忘れられたことを実感し、孤独と疎外感を噛《か》みしめた。
広々とした野原も、雑木林も消えてしまった。射撃演習場の特徴あるカマボコ型の建物も見当たらない。ここがかつての戸山ヶ原である証拠は、眼下を走っている線路だけだった。おそらく国鉄の山手線に違いない――線路がずいぶん増えてはいるが。
空気の冷たさからすると、今は冬のようだ。雷は望めない。となると、どこかで人工の電気を補給するしかあるまい。
黒焔はそう判断すると、高層マンションの屋上から線路めがけて跳躍した。線路には降りず、架線の上でふわりと静止する。
そして、黒い影のような姿になって疾走しはじめた。山手線の架線に沿って南へ――新宿方面へ向かって。
2 ゆらめく街の灯
「お誕生日おめでとう!」
陽気な声とともに、テーブルの上で四つのグラスが触れ合い、ちんと鳴った。二つは生ビール、ひとつはウーロン茶、ひとつはコーラだ。
「ありがと」
水波《みなみ》美涼《みすず》はそう言って上品に微笑《ほほえ》むと、ビールの入ったグラスを、ぐいっとあおった。咽喉をぐびぐびと動かし、ひと息もつかずに飲み干してゆく。
「……すごい」
摩耶《まや》はコーラのストローに口をつけるのも忘れて、目の前の美しい女性の豪快な飲みっぷりに感嘆していた。ビールの一気飲みなど下品な行為だと思っていたが、その偏見は打ち砕かれた。美涼の飲み方は実におおらかで堂々としており、見事に決まっている。同性の目から見てもかっこいい。
「ふはーっ!」
八秒ジャストでグラスを空にすると、美涼は口の端についた泡をぬぐい、地上の幸福を一身に集めたような満面の笑顔を浮かべた。
「うーん、最高! 今日は素敵な誕生日だったわ!」
ここは新宿歌舞伎町一丁目、ビルの五階にある居酒屋だ。窓の外には色とりどりのネオンが輝いている。金曜の夜とあって、テーブルはどこも勤め帰りのサラリーマンやOLで満席で、ビール瓶や料理の載った盆を持った店員が忙しく歩き回っていた。店内には演歌のBGMが流れ、楽しげな話し声やグラスの触れ合う音が満ちあふれていて、何とも騒々しい。だが、それは心落ち着く騒々しさだった。
「どう? この店を選んで正解だったろ、母さん?」
美涼の隣に座っていた流が得意そうに言う。彼も母親に遅れること三秒でビールを飲み干していた。
「まあね。なかなか雰囲気いい店じゃない。よく来るの?」
「ああ、コンパとかで何回かね――ここ、純米酒もいけるんだぜ」
「ほんと? 注文してみようかしら」
「えーっ、いいなあ」
ウーロン茶を飲んでいたかなたが羨《うらや》ましがった。八環《やたまき》や有月《ありつき》ほどではないが、彼女も日本酒は好きな方だ。 <うさぎの穴> ではよく店の酒を飲むことがあるが、あからさまに未成年というこの外見では、他の店ではおおっぴらに酒は飲めない。
「ドジったなあ。店に入る前に、年配の女の人に化けとくんだった……」
「別に遠慮しなくてもいいんじゃない?」美涼がいたずらっはく微笑む。「店員さんだって、誰がお酒を飲んでるかなんて、いちいちチェックなんかしてないわよ」
「そう? えへへ、じゃ、ちょっとだけ」
そう言ってかなたは、いそいそとメニューを覗《のぞ》きこみ、酒の名前を物色しはじめた。
「ほんと、今日はあんたにしちゃ珍しく上出来ね、流。見直したわ」
母のひっかかる言い方に、流はむくれた。
「何だよ、『あんたにしちゃ珍しく』って。せっかくおごってやってんだから、もうちょっと感謝してくれたっていいだろ?」
「そういう押しつけがましい言い方は減点ね。女の子に嫌われるわよ」
「ちぇっ!」
今日は美涼の誕生日。母が新作映画を見たがっているのを知った流は、たまには親孝行をと思い立ったのだ。にぎやかな方がいいだろうと、摩耶とかなたも誘い、四人で夕方から新宿に出て映画を見た。その後、少し遅めの夕食をかねて、居酒屋でささやかな誕生パーティとしゃれこんだのである。
「ま、確かに、こういうところで誕生日を祝うってのもしゃれてるわよね」かなたがフォローする。「バースデイ・ケーキなんて平凡だしさ」
「だろ? だいたい、バースデイ・ケーキなんて買ったら、ローソク何本立てなきゃいけないか――いてっ!」
流は鼻を押さえた。美涼がいきなりぶん殴ったのだ。ビンタならまだしも、げんこつ、それも力いっぱいである。摩耶は目を丸くした。
「ひと言多いのよ、あんたは」
美涼はそう言うと、はっと摩耶の視線に気がつき、笑ってごまかした。
「ああ、気にしないで、いつもこうなんだから」
「いつも……?」
「そうなんだよ」鼻の頭をさすりながら、流がぼやく。「家でもいつもこう。子供の頃からずっとだぜ。ちょっと楯《たて》突いたり、うっかり『おばん』とか言おうものなら――うぐっ!」
流はみぞおちを押さえ、顔をしかめる。今度は美涼の肘《ひじ》打ちが飛んだのだ。
「……こう来るんだよな」
「殴りたくて殴ってるんじゃないのよ」美涼は慌てて弁明した。「この子ってば、人間離れして頑丈だから、ビンタぐらいのおしおきじゃ感じないんだもの。ちょっと叱《しか》りつけるのでも、げんこつとか蹴《け》りが主流になっちゃうの」
「いたずらした時のおしおきなんか、こんなもんじゃなかったぜ。ほとんどSM、猟奇倒錯の世界。幼児虐待だよ、あれ」
「虐待だなんて――普通の子供ならそうでしょうけどね、あんた、普通の子供なら一〇回ぐらい死んでるような折檻《せっかん》でもピンピンしてるじゃない」
流の幼年時代がどんなだったか、摩耶はあまり想像したくなかった。
やがて料理が運ばれてきた。摩耶は料理に箸《はし》をつける合間に、何となく店内を見回していた。こういう店にはあまり入ったことがないので、最初はとまどったものの、今では雰囲気に馴染《なじ》んでいた。最近は人が集まって楽しそうに騒いでいるのを見るのが好きだった。以前は大勢の人が集まる場所に恐怖を覚え、渋谷に一人で行くのにさえ勇気を必要としたほどだったことを考えれば、ずいぶん変わったものだと自分でも思う。
こうしている間にも、地球のあちこちで、数知れない悲劇や苦しみが展開されているに違いない――だが、その一方、こうして大勢の人たちがささやかな幸福を満喫しているのを見ていると、この世界も捨てたものではないと思えてくる。
こんなことを考えてしまうのも、さっき見た映画の影響だろう。それは日中合作の大作映画で、中国残留日本人孤児の半生を、実話を元に描いたドラマだった。よくある話だと思いつつも摩耶は感動して泣いてしまった。
「あのう……」
「何?」
訊《たず》ねるべきかどうか迷ってから、摩耶は思いきって言った。
「今日の映画、いかがでした? お母さんの目から見て……」
「体験者としての感想? うーん……」美涼は少し考えてから答えた。「役者がみんな血色いいわよねえ。私たちの時代には、あんな健康そうな子供なんかいなかったわ。服だってずいぶんきれいだし……」
「いえ、あの、そういうんじゃなくて――」
「摩耶ちゃんが言いたいのはさ」流が彼女の言葉を引き取った。「そういうディテールの問題じゃなく、もっとかんじんのこと――ストーリーのことだよ」
「まあ、それなりにリアルに仕上がってたんじゃない? ただ、つまらなくはなかったけど、ちょっと平凡だったわね。意外性に欠けるというか……」
「しかたないだろ。実話なんだから」
「だって、私はもっといろんな体験したわよ」
「母さんは特別!」
「だったらさ」かなたが身を乗り出した。「美涼さんの半生を映画化したらどうかな? 意外性たっぷりよ。笑いあり、涙あり、恋あり、アクションあり……」
「よせよ」流は顔をしかめた。「母さんの生涯を映画化したら、感動の名作どころか、特撮スペクタクル超大作になっちまうよ」
「あら、いいわねえ」と美涼。「スピルバーグさんに売りこもうかしら」
「母さん!?」
「分かってるわよ。冗談の通じない子ね」
美涼は明るく笑った。彼女がどんな波乱万丈の人生を送ってきたか、摩耶は流から聞かされたことがある。
美涼はいわゆる中国残留日本人孤児だった。生まれは東京だが、太平洋戦争が勃発する直前、両親に手を引かれ、満蒙開拓団の一員として大陸に渡った。だが終戦直前、ソ連軍の侵攻がきっかけとなった混乱の中で、八〇〇人以上の開拓団は暴徒や賊の襲撃によりほぼ全滅した。美涼も両親を殺され、開拓団の生き残りともはぐれて、天涯孤独の身となったのだ。
その後、孤児でありながら力強く生きていた美涼は、ある事件がきっかけで、崑崙《クンルン》山中に棲《す》む龍族の王・威星《ウェイシン》に拾われ、育てられた。やがて美しく成長した彼女は、威星と愛し合うようになり、彼の妻となった。二十年前に流が生まれた時、彼女は日本に帰りたいと希望した。子供を人間社会で育てたいという理由もあったのだが、龍王の後継者争いが何やらキナ臭い雰囲気になってきたのを察知したせいもあった。そんな面倒なものに巻きこまれるのはまっぴらだった。
その話がすべて事実だとすれば(疑う理由などないのだが)、美涼の年齢はどう計算しても還暦を越えているはずである。だが、外見はどう見ても三〇代だ。流の顔と比べてみると、確かに血縁であることは分かるが、とても親子には見えない。
妖怪《ようかい》とはいっても、龍族ともなると、ほとんど神に近い能力を持つ。龍族としてはまだ赤ん坊同然で、しかも半分人間の血を引いている流でさえ、人間をはるかに超越した力を持っていることからも、それは推察できる。彼らはもって生まれた能力の他に、長い生涯の中で、人間の知らない数多くの不思議な秘法を会得している。人間の老化を遅らせることなど、造作もないことなのだろう。
人間でありながら龍の国で育ち、龍王の妻となった女性――こんな珍しい体験をした人間は、歴史上、そう多くいるものではない。
「大変な人生を歩んで来られたんですね」
摩耶がしみじみとそう言うと、美涼は微笑《ほほえ》んだ。
「そう言うけどね、摩耶ちゃん。あなただって人のことは言えないわよ」
「私……ですか?」
「そうよ。すごく珍しい人生を歩んでるじゃない」
「そんな。私は――」
平凡な高校生です、と言おうとして、摩耶は言葉に詰まった。夢魔を操る能力を持ち、妖怪たちと知り合いの女の子が、「平凡」であるわけがない。それに、高校を中退してしまったから、もう「高校生」でもないのだ。
「……ええ、そうかもしれません」
「その年で家を飛び出たんでしょ? 偉いわねえ」
「でも、まだかなたたちに迷惑かけっぱなしで……」
母と決定的に対立し、ほとんど身ひとつで家を飛び出した摩耶は、かなたの家に転がりこんでいた。だが、かなたたちの親切にいつまでも甘えようとは思っていない。今、スーパーでレジ打ちのバイトをして、金を貯めている。敷金や家具を買う金が貯まったら、安いアパートにでも引っ越すつもりだ。
自分にこんな大胆な生き方ができるとは、ほんの一年ほど前には想像もしていなかったことだった。
「まあ、つらいこともいっぱいあるだろうけど、負けちゃだめよ。いちばん良くないのは、試しもしないで『自分にはできない』って思うこと。そんなことないのよ。人間はその気になれば、いくらでもしぶとくなれるものなんだから」
「……はい」
摩耶はうなずいた。豊富な体験に裏打ちされているだけに、美涼のアドバイスには説得力があった。
そう、美涼さんの人生に比べれば、私は恵まれすぎている。もっとがんばらなくちゃ――摩耶は自分の心にそう刻みつけながら、コーラのストローに口をつけた。
「ところで、摩耶ちゃん。流とはもうしたの?」
いきなりの質問に、摩耶は思いっきりむせた。流も慌てる。
「母さん! 摩耶ちゃんはそんな子じゃないよ!」
「彼女がそんな子じゃなくても、あんたはそんな子でしょうが」
「あのなあ……」
「まったく、そういうとこは父親の血を引いてるのよね」美涼は摩耶に向き直った。「知ってる? 龍族は昔から多淫《たいん》で有名なのよ。人間の女と交わる話なんてザラ。龍馬って言って、馬との混血だって作っちゃうんだから」
「いくら何でも、俺は馬とはしないぞ!」
「あ、あ、あ、あの、私……」
摩耶が顔を真っ赤にして、どう答えるべきか迷っていた時――一瞬、明かりが消え、店内が真っ暗になった。すぐに回復したものの、電圧が低下しているのか、蛍光灯は薄暗く、ちらちらとまたたいている。客たちはざわめいた。
「何? 停電?」
「それにしちゃ妙ね……」
窓の外に目をやった美涼がつぶやく。
異常が起きているのはこのビルだけではなかった。靖国《やすくに》通りに面したすべてのビルで、ネオンがモールス信号のように点滅し、窓の灯がちらついていた。
JR新宿駅から北へ伸びた総武線と中央線は、隣の新大久保駅の手前で大きく西にカーブし、山手線と分かれる。その分岐点、二本の高架にはさまれた鋭角三角形の狭い土地に、あまり目立たない建物がある。「注意! 高圧電流」と書かれたブロック塀とフェンスに囲まれ、内部の様子をうかがい知ることはできない。
ここが東京電力新宿変電所――発電所から送られてきた高圧電流を変圧し、新宿駅周辺地域に供給している施設である。
異変が続いたのほほんの一分ほどで、宿直の職員が駆けつけた時には、もうおさまっていた。窓を壊して誰かが侵入した形跡があったが、トランスにも電線にも異常は見られない。電圧低下の原因はまったく不明だった。
後になって、計器の記録を調べた技術者たちは、異変の間も電力消費が落ちていないのを知って首をひねった。新宿駅とその周辺の広い地域で、総計何十万キロワットもの電力低下が生じたにもかかわらず、データは電流が流れ続けたことを示しているのだ。単純な漏電とは考えられない。そんなに大量の高圧電流が電線の外に流れたのだとしたら、何かを溶かすか燃やすかした痕跡《こんせき》があるはずだ。
いったい、膨大な電力はどこへ消えたのだろう?
3 新宿パニック
黒焔は新宿駅東口 <マイシティ> の屋上に立ち、地上の様子を見下ろして、新宿の変貌《へんぼう》ぶりに困惑していた。
けばけばしいネオンや照明に彩られたビルが建ち並んでおり、見覚えのある建物はひとつもない。何度かシネマを見たことがある武蔵野館もなくなっている。新宿通りを走っていた都電の線路も見当たらない。終点の駅があったはずの場所には、 <STUDIO ALTA> と書かれたのっぺりしたビルが建ち、その壁面には総天然色のシネマが投影されていた(だが、映写機はどこにあるのだろう?)。夜遅い時間帯のはずなのに、派手な服で飾り立てた男女が何百人も徘徊《はいかい》している。
駅の西の方を見ると、広大な浄水場があった地域には、三〇階を越える高層ビルが十いくつも建ち並んでいる。どれも墓石を思わせる無機的な形をしていて、情緒のかけらも感じられなかった。
だが、何よりも黒焔を苛立《いらだ》たせたのは、どっちを向いても横文字や意味不明のカタカナが氾濫《はんらん》していることだった。
<CITIZEN> <住友VISA> <OLYMPUS> <an> <アコム> <NOVA> <JCB> <ソフィサラ> <PIONEER> <EPSON> ……中には <ODAKYU> や <YOKOGAWA> のように、明らかに日本語であるはずの名前まで、わざわざローマ字で表記しているものもある。
地上に充満する騒音に混じって、どこからか英語の歌も聞こえてくる。彼には馴染《なじ》みのないメロディだった。
日本は負けたのだ――その事実が、あらためて黒焔の心に重くのしかかってきた。確かに日本は復興し、繁栄している。だが、日本独自の文化はまったく失われてしまった。ネオンや看板の文字は、日本語より英語の方が多い。着物を着て歩いている人間も一人もいない。彼が愛した街並みはすべて消え去り、悪趣味なビルに取って替わられている。
ALTAと書かれたビルの壁面のシネマに、いきなり若い娘の裸同然の姿が堂々と映し出されたので、黒焔は仰天した。あきれるほど小さな洋風下着だけを身に着け、恥ずかしそうな様子も見せずに、にこにこと微笑んでいる。どうやら下着の宣伝らしい。明らかに日本人女性なのだが、会社の名前は日本語ではなかった。さらに驚いたのは、地上の人々がそれを見ても何の動揺も示さず、たいして注目もしていないということだった。
戦争前にもエロを売り物にしたショーはあったことはあったが、それらは場末でこっそり上演されていたもので、駅前で堂々と見せるなどということは絶対に考えられなかった。彼の時代であったなら、こんな猥褻《わいせつ》な映像が公衆の前で上映されたら、大騒ぎになり、抗議の怒号が飛び交ったことだろう――だが、現代の日本人にとっては、それは退屈な日常の一場面でしかないらしい。
よく見れば、地上にたむろしている群衆の中には、若い男女が恥ずかしげもなくぴったり体をくっつけて歩いている姿もちらほら見受けられた。これもまた、黒焔には信じがたい道徳の乱れだったが、人々は慣れっこになっているらしく、誰も注目していない。
日本人の倫理や道徳は、ここまで低下してしまったのか? 日本女性の慎ましさはどこへ行ったのだ?
「咲子……」
黒焔は脳裏にふと浮かんだ名前をつぶやいた。それは彼が長い生涯の中で出会った数多い人間の娘の一人だった。
最後に会った時、まだ十八歳だった。着物姿が似合う、しとやかな娘だった。日本舞踊を習っており、彼の前で踊ってみせてくれたこともある。長い黒髪が美しかった。「大和|撫子《なでしこ》」という言葉は彼女のためにあるようなものだった。
自分のような大妖怪が、年端もいかない人間の小娘に惚《ほ》れるなど、自分でもおかしいことだと思った。だが、彼が咲子に抱いていた感情は、男女間の愛というよりは、子供を慈しむ保護者のそれだった。この娘を守りたい、不幸にしたくないと強く願った。そして、日本中にいる咲子のような子供たちを死なせたくないと思った。彼が仲間の反対を押しきり、陸軍に志願したのも、それが動機のひとつだった。
だが、咲子はもういない。最後に会ったのは昭和二〇年の二月のことだ。その翌月、彼女はあの憎むべきB―29の大空襲で命を落としたのだ。
そう、ここにはもう咲子はいない――今の日本にいるのは、派手な服を着て、男とべたべたとくっつき、人前に平気で肌をさらす、ふしだらな女たちばかりだ。彼が守ろうとした日本の文化は、美徳は、魂は、英米人に踏みにじられてしまったのだ……。
黒焔の苛立ちの思いは、しかし、地上を歩いている人々には届かなかった。誰もがこの狂った世相に疑問を持たず、満足しているようだった。その断絶がいっそう黒焔を苛立たせた。戦争に負けたのは、今さらしかたのないことだ。敗北し、鎖につながれ、うちひしがれた日本人の姿なら、まだ納得できる――だが、彼の目に入る範囲では、日本人の誰も彼もが幸福そうに見えた。
しだいに怒りがこみあげてきた。日本人を征服し、骨抜きにしてしまった英米人に対してだけではなく、誇りを失い、慎みを失い、腐りきった豚になり下がった日本人たちに対しても腹が立った。
英語に囲まれ、西洋の服を着て、笑いながら歩いている連中め! 退廃した文化にどっぷり漬かって満足している豚どもめ! お前らは何の疑問も抱かないのか? 先祖に対して恥ずかしくないのか? 五〇年前、お前らの親や祖父たちが勇ましく戦ったのは、いったい何のためだったのだ!? こんな下品でけばけばしい街を創るためだったのか!?
「……思い知らせてやる」黒焔は憎悪をこめてつぶやいた。「その浮かれた頭に、冷や水をぶっかけてやる」
彼は駅前で最も目立つ建物を標的に選んだ。 <さくらや> という大きなネオンを掲げたビルだ。 <マイシティ> の屋上を蹴《け》って跳躍し、ひらりと東口広場を飛び越えると、ネオンの上に静かに降り立つ。地上を歩く人間たちは、みんな地上のことに夢中で、空を横切った黒い影を目にした者はいなかった。
「まだあの力は使えるかな……」
変電所で力をたっぷり補給したものの、半世紀も眠っていたのだから、妖力が錆《さ》びついている可能性もあった。黒焔は精神集中し、慎重に力を高めていった……。
<さくらや> のネオンがまたたきはじめた。さっきの電力低下によるまたたきとは違い、ストロボのように激しく発光している。だが、地上の通行人の多くは、まだその異変に気づいていなかった。
いける! 黒焔は手ごたえに自信を持った。妖力はまったく衰えていない。これなら地上に混乱を巻き起こすのに充分だ。
彼は体内に封じこめられていた膨大なパワーを解放した。黒焔を中心として、強烈な電磁効果の場がぐんぐん拡大しはじめる。地上の車が、周辺のビルが、膨張する目に見えない泡に音もなく飲みこまれていった。
通りの向かい側の住友銀行ビルや富士銀行ビルも、電磁効果に巻きこまれた。ビルの中では照明が明滅していた。パソコンのモニターが乱れたかと思うと、システムがダウンし、残業してデータを整理していた銀行員が悲鳴をあげた。
地上を走る車の中では、まずカーナビの画面が乱れ、カーラジオが異常なノイズを発しはじめた。続いてバッテリーからの電流に乱れが生じ、エンジンがノッキングを起こした。新宿通りを走っていた車が次々に急停止し、いくつかの小さな追突事故が同時に起こった。交差点の信号灯も意味もなく明滅を繰り返している。
ようやく人々は異変が起きていることに気づき、不安の目であたりを見回しはじめた。今や新宿駅東口に面したビルのすべてが電磁効果に巻きこまれ、照明がまたたいたり、ネオンがフラッシュしたりしていた。化粧品のCMを映していた <ALTA> の壁面の大型テレビも乱れた。モデルの顔が歪《ゆが》み、流れ、明滅する。
電磁効果は新宿駅東改札口にも及んでいた。狂った自動券売機がスロットマシンのように釣り銭を吐き出し、駅員を慌てさせた。
裏通りでも状況は同じだった。ゲームセンターでは、すべての筐体《きょうたい》がいっせいに奇怪な音を発しはじめ、モニターが激しく乱れた。体感レーシング・ゲームをやっていた青年は、激しく揺れるシートから放り出された。歩きながら携帯電話をかけていた男は、がりがりという強烈なノイズに、驚いて電話を放り出した。
地下も黒焔の怒りのパワーから逃れられなかった。地下道では照明が激しく明滅し、気の小さいOLが悲鳴をあげた。営団丸の内線の車輌《しゃりょう》も、新宿駅と新宿三丁目駅の間で異常電流が流れ、緊急停止した。
今や <さくらや> を中心とした半径約一二〇メートルの地域が、黒焔の放射する力場にすっぽりと飲みこまれていた。その内部では電気を用いたすべての機械が狂っていた。半世紀前と比べて、人間の生活が電気に依存する割合は桁《けた》違いに多くなっており、その被害も甚大なものだった。
流たちが歌舞伎町で食事を終え、柳通りを南下して新宿駅東口交差点にやって来たのは、その騒ぎの真っ最中だった。
「どうなってんの、これ!?」
かなたが驚きの声をあげ、あたりを見回す。すべてのビルで照明が激しく明滅し、まるで東口全体が巨大なディスコと化したかのように、光と闇《やみ》がランダムに交替していた。その中を事情の分からない群衆が右往左往している。
過電流に耐えかね、あちこちのビルでネオン管が破裂しはじめた。きらびやかな火花が飛び散り、ガラスの破片が地上に降りそそぐ。ビルの近くにいた通行人は悲鳴をあげて逃げまどった。地下道の入口では、地下から出てきた人たちと、地下に逃げこもうとする人たちがぶつかり合い、乱闘に似た騒ぎが起きた。混乱の中で、一人が足を踏みはずし、たちまち数十人が将棋倒しになって階段を転げ落ちた。
流たちの目の前で、青い放電が <さくらや> のネオンを上から下へ駆け抜けたかと思うと、ひときわ大きな爆発が起きた。 <く> の字がはずれ、激しく火花を発しながら地上に落ちてくる。ブーメラン型の巨大なネオン管は、追突されて停止していたタクシーの上に落下し、フロントガラスを破って運転席を貫通した。運転手はひと足早く外に出ていたので、危うく難を逃れた。
女の悲鳴、誰かが怒鳴る声、車のクラクション、ネオン管が破裂する音……新宿駅東口はパニックに陥っていた。流たちも逃げまどう人々にもみくちゃにされていた。離れ離れにならないよう、懸命に手をつないでいる。
「流さん、あれ!」
摩耶が流の肩を叩《たた》き、 <さくらや> の屋上を指差した。
「どうした?」
「あの上……何か変なものが!」
流は目を細めた。 <さくらや> のネオンは今や二文字が欠けて <らや> になり、派手なスパークをあげ続けている。その上に、何か黒いものがうごめいているのが見えた。犬か猫のように見えたが、それにしては大きすぎる。
「あいつのしわざか!?」
「流!」
美涼が叫ぶ。その短い言葉の抑揚の中に、明確な指示が含まれていた――あなたの力でこの騒ぎを鎮めなさい、と。
「分かってるって、母さん」流はあせってあたりを見回した。「どこか人気《ひとけ》のない路地に行って……って、新宿にそんなとこはないか」
都会では、誰にも見られずに変身できる場所を探すのは難しい。昔のスーパーマンは電話ボックスで着替えていたが、最近の透明な電話ボックスではそうもいかない。
「花園神社!」かなたが叫ぶ。「あのあたりなら、人気は少ない!」
「それだ!」
流たちは逃げる群衆の流れに乗って逆戻りし、新宿五丁目にある花園神社を目指した。
地上の愚かな騒ぎを見下ろし、黒焔は溜飲《りゅういん》を下げていた。
このぐらい痛めつけてやれば充分だろう。日本人たちも思い知ったことだろう。一見きらびやかな文明が、いかにもろく、薄っぺらなものであるかを。自分たちの繁栄が、あやふやな土台の上に築かれた空虚なものにすぎないことを――それは電気の力を乱しただけで簡単に崩壊してしまうのだ。
日本人すべてに対する苛立ちが消えたわけではなかった。だが、一時的な怒りはとりあえず解消できた。今夜はこれぐらいにしておいてやろう。
彼が立ち去ろうとしたその時――
「まて!」
黒焔は振り返った。彼の背後、新宿高野本店ビルの上に、金色をした全長四メートルほどの龍が浮かんでいた。
「な……何だお前は!?」
そう叫んだのは、呼び止めた流の方だった。振り返った獣の姿が、あまりにも異様で、想像を越えていたからだ。
身長は人間と大差なく、前脚が二本、後脚が四本で、ギリシャ神話のケンタウロスのように直立していた。頭から尾の先まで、全身が真っ黒な毛に覆われている。まるで闇が実体化したような純粋の黒だ。頭部は狼を思わせる凶悪さで、眼光は鋭く、大きく裂けた口からは猪のような長い湾曲した牙《きば》が生えている。首筋から生えているたてがみは、黒い炎のようだった。前足の指には水かきがあり、爪《つめ》は水晶の針のようだ。尻尾《しっぽ》は三本で、長さは二メートル近くあり、女の髪を連想させた。
だが、流をたじろがせたのはそんなことではなかった。その獣の胸には、灰色をした異様な機械がくっついていたのだ。カメラの望遠レンズを思わせる円筒形の装置で、大きな黒いレンズがはめこまれており、周囲には真空管やコンデンサやトランスらしきものがごてごてと接続されている。それは獣の胸に埋没し、体の一部と化しているように見えた。装置からは太いケーブルが何本も伸びており、獣の手足に蔦のようにからみついている。ケーブルの先端は黒い毛皮に飲みこまれて見えない。
「何だ、だと?」黒焔は眼を細めた。「俺のことを知らんのか?」
「ああ、知らないね」流は気を取り直して言った。
「若造が!」
黒焔はせせら笑った。龍族は前に見たことがあるが、大きさからするとこいつはまだ生まれたばかりの子供だ。そんなものは恐れるに足りない。
「とにかく、こんなことはすぐにやめろ!」流は苛立って怒鳴った。「何の目的かは知らないが、罪もない人間を傷つけるな!」
「罪もない、だと? はっ!」黒焔は吐き捨てるように言った。「罪がないものか! お前らも、この腐りきった日本人どもも、みんな同罪だ!」
「はあ?」
「お前たちは日本を見捨てたんだ」黒焔は回想した。「腰抜けの非国民どもめが! 誰ひとりとして俺の言うことに耳を傾けなかった。俺のやることに反対し、B―29が日本を焼け野原にするのを黙って見ていた――その結果がこれだ! この退廃した今の日本だ! こうなったことにはお前たちに責任があるんだぞ!」
黒い獣の言うことは、流にはさっぱり理解できなかった。ただ、こいつが何か狂信的な情熱に突き動かされていることだけは察せられた。
だが、話をゆっくり聴いてやっている余裕などない。こうしている今も、地上では混乱が広がり、傷つく人間が増えているのだから。
「とにかく、やめろ! 今すぐに!」
「俺に指図をするな! 若造のくせに!」
「やめるんだ! さもないと――」
「さもないと? 何だ?」
「こうだ!」
流は口から電撃を放った。いきなり焼き殺すつもりはなかったので、パワーは抑えた。相手をしびれさせて動きを止めようとしたのだ。それでも普通の人間なら感電死するのに充分な電圧だったはずだ。
電撃は正確に獣の胴体に命中した。
流は目をみはった。電撃はまったく影響も与えなかった。まるでブラックホールに吸いこまれるように、獣の黒い毛皮に吸収されたのだ。
流はむきになって、今度は最大出力で電撃を放った。結果は同じだった。稲妻は毛皮に吸収され、火花ひとつはじけず、毛の一本も焦がせなかった。
「それで雷のつもりか?」
黒焔は挑発するように鼻で笑った。流はすっかり頭にきて、今度はがむしゃらに体当たりしようとした。黒焔はふわりと浮き上がり、その攻撃を冷静にかわした。空中で両者の位置が入れ替わった。
「本物の雷というのはな――」
黒焔は流を斜め上方から見下ろし、胸のレンズから紫色の光を放った。それはサーチライトのようなビームとなり、 <ヨドバシカメラ> の看板の上に浮かんでいる流を照らす。流は一瞬、目がくらんだ。
「こうやるんだ!」
黒焔は前脚を差し伸べ、胸から発する紫色のビームの中に手を突っこんだ。
次の瞬間、ビームは灼熱《しゃくねつ》の光の柱に変わった!
「うわあああ!」
流は悲鳴をあげた。必死によけたものの、すぐ近くを通過したビームが放射する熱で、右半身を焼かれてしまった。
耳をつんざく雷鳴が轟《とどろ》いた。斜め下方に向けて発射されたビームは、流の体をかすめ、 <ヨドバシカメラ> の看板を一撃で粉砕して、 <マイシティ> の壁面に突き刺さった。厚いコンクリートの壁と床をいくつもぶち抜き、ピルを半分以上も貫通する。 <マイシティ> 内の電気回線がすべてショートし、照明がいっせいに消えた。
「く……」
流はバランスを失い、高野本店ビルの屋上に落下した。全身を苛《さいな》む苦痛に身をよじる。ビームがかすめただけで、ひどい火傷《やけど》を負っていた。
苦痛に逆らい、どうにか目を開けた。ビームはすでに途絶えていたが、ビームの道筋に沿って、空気が残像のように青く発光していた。空気中の分子がまだイオン化しているのだ。直撃を受けた <マイシティ> の壁面には、人間がくぐり抜けられるほどの穴が開き、その周囲では小さな静電気の火花がぱちぱちと踊っていた。
流はビームの破壊力のすさまじさに愕然《がくぜん》となった。逃げようとしたが、痛みのために身体の自由が利かず、身をよじってもがくばかりだった。あんなものの直撃を受けたら、妖怪でもひとたまりもない……。
だが、黒焔にはとどめを刺すつもりはなかった。日本人にせよ、日本の妖怪たちにせよ、怒りにまかせて無意味に虐殺するのは本意ではない。ただ、繁栄に酔いしれている者たちに警告を与えたかっただけなのだ。
「これはお前たちの責任だ! よく肝に銘じておけ!」
そう言い捨てると、彼は流に背を向け、南に向かって飛び去った。
「流さん、だいじょうぶですか?」
入れ替わりに摩耶が飛んできた。黒い夢魔に抱きかかえられている。近づくのは危険だと流に言われ、伊勢丹の屋上から戦いを見守っていたのだ。
「ちくしょう、惨敗だ……いてててて」
流は人間の姿に戻ると、脇腹を押さえた。右の胸から右大腿《だいたい》部にかけて、無残な火傷を負っていた。腕や顔にも赤い痕《あと》が残っているし、髪の毛も焦げている。
「あ……」
摩耶は初めて間近で見る男性の裸体にどぎまぎした。だが、すぐにそんなことでためらっている場合ではないと思い直した。肩を貸して立ち上がらせる。
二人は高野本店ビルの屋上から地上を見下ろした。黒焔がいなくなると同時に電磁効果もおさまっていたが、混乱はまだ続いている。壊れた車のクラクションが鳴り続け、負傷して動けない人たちが助けを求めていた。
<マイシティ> の方で騒ぎが起きていた。ビルのあちこちから同時に火の手が上がっている。鉄骨や電気回線に瞬間的に大電流が流れ、高熱を発したせいだった。誰かが「消防車! 消防車!」と叫んでいる。
「飛べますか?」
「いや……ちょっと無理みたいだ」流の息は苦しそうだ。
「分かりました。 <うさぎの穴> まで運びます」
「ごめん……」
摩耶は夢魔に右腕で流を抱き上げさせると、自分は夢魔の左腕にしがみついた。ガーゴイルを連想させる夢魔は、二人分の体重を軽々と持ち上げると、巨大なコウモリのような翼をはばたかせて夜空に舞い上がった。
パトカーや消防車のサイレンの音が、遠くから響いていた。
「こりゃまたひどくやられたもんだな」
流の傷を見て、 <うさぎの穴> のマスター、井神《いかみ》松五郎《まつごろう》は感嘆の声をあげた。ハーフとはいえ、龍族にたった一撃でここまでのダメージを与えられるのは、ただ者ではない。彼の長い経験の中でも、そんな妖怪は思い当たるふしがなかった。
「 <海賊の名誉> 亭に連絡して、麟《りん》ちゃんを呼ぼうか?」
各務《かがみ》麟は若い麒麟《きりん》の娘で、傷を治療する力を持っている。秋葉原にある別の妖怪ネットワーク、 <海賊の名誉> 亭の一員である。
「すまない……そうしてくれ……」流は苦しそうにうめいた。「自然治癒を待つのは、ちょっとつらい……」
摩耶はソファに流を寝かせながら、不安を隠せなかった。負けず嫌いの流が弱音を吐くのだから、よほどひどい痛みなのだろう。
「ああ、それと、おふくろに……」
「それなら心配いらんよ」松五郎は流の言葉をさえぎった。「さっき、かなたから電話があった。JR新宿駅は混乱してるから、地下鉄で回り道して帰るそうだ」
「そうか……よかった」
店の隅でつけっ放しになっていたテレビが、新宿駅東口の惨状を伝えていた。
「……消防車八台が出動し、 <マイシティ> に発生した火災は、先ほど午後一〇時二五分、鎮火しました」レポーターの口調はひどく興奮している。「負傷者の数はまだ正確には分かっていませんが、少なくとも二〇〇人以上にのぼると思われます。今のところ死者は出ていない模様ですが、出火原因、その他については……」
松五郎は <海賊の名誉> 亭に電話して用件を伝えると、カウンターの向こうから流に声をかけた。
「何か飲むか?」
「ああ……オンザロックを一杯」
「流さん!?」
摩耶がびっくりして声をあげる。こんなひどい怪我《けが》を負っているのだ。酒を飲むなど非常識だ。だが、流は笑って言った。
「だいじょうぶ……俺たちの身体は人間とは違うんだから……酒を飲めば痛みがまぎれていいんだよ」
「そうですか……?」
妖怪の生理学など知らない摩耶は、その言葉を信じるしかなかった。
「それにしても、相手はどんな奴だったんだ?」
オンザロックを造りながら松五郎が訊《たず》ねる。
「ああ……初めて見る奴だったな」
「黒い狼みたいな姿でした」喋《しゃべ》るのが苦しそうな流に代わって、摩耶が答えた。「全身が真っ黒で……翼がないのに空を飛んでました。前脚が二本で後脚が四本。尻尾が三本あって、口から大きな牙が――」
かちゃん。
グラスの砕ける音に驚いて摩耶は振り返った。カウンターの中の松五郎は、造りかけのオンザロックを取り落とし、茫然《ぼうぜん》と立ちすくんでいる。
「マスター……?」
「……奴だ」松五郎は蒼白《そうはく》な表情でつぶやいた。「黒焔だ……あいつが戻ってきた」
4 シ号兵器
渋谷《しぶや》区・松濤《しょうとう》町――
若者のメッカ・渋谷の中心から、徒歩でほんの数分の距離にあるこの町は、東京でも名高い高級住宅地である。面積二〇〇坪を越えるお屋敷がざらに立ち並んでおり、雰囲気も「ここが同じ渋谷か」と驚くほど閑静である。元は江戸時代の大名屋敷や庭園だったものが、明治になって払い下げられたもので、そこの住人たちも、いわゆる「名家」「旧家」と呼ばれる人たちが多い。
「じゃ、行ってくるよ」
厚生省官僚の矢田貝《やたがい》昭一《しょういち》は、いつものように朝刊にひと通り目を通すと、妻の紀美子にそう告げ、朝食の席から立ち上がった。運転手がすでに自家用のリムジンをガレージから出し、玄関前に回している頃だ。
「ああ、あなた」紀美子が呼び止める。「昨夜、お帰りが遅かったんで言い忘れてたんですけど……」
「ん、何だ?」
紀美子は声をひそめた。「お爺《じい》様がまた――」
「ん? 爺さん、また何かやらかしたか?」
「新聞社に抗議の電話をかけたらしいんですよ。『わしの投書を載せんとはけしからん』とか言って……」
「やれやれ、またか」
昭一は顔をしかめた。
彼の祖父・矢田貝|重光《しげみつ》は、今年で八九歳。将棋やゲートボールのようなありきたりの趣味には見向きもせず、近所づき合いもせずに、ほとんど毎日、原稿用紙に向かってペンを走らせている。熱心に新聞に投書するかたわら、発表するあてもない随筆や回想録を書き貯めているらしい。数年前、昭一がワープロをプレゼントしたことがあったが、「機械で書いた文章には魂がこもらない」と言って、手を触れようともしなかった。
重光はいつも何かに腹を立てている。テレビは「見ると馬鹿になる」と言って、NHKのニュース以外は見ようとしないが、新聞は(朝日以外の)三紙を欠かさず読んでおり、何か腹の立つ記事を見つけては、読者欄に投書する。時には一月に一〇通以上も投書することがある。
だが、それほどたくさん送っているにもかかわらず、彼の投書が採用されることはめったにない。「南京大虐殺はでっちあげだ」とか「コメ不足はアメリカの陰謀だ」とか「阪神大震災は地震兵器による攻撃だ」とか「ヘア・ヌードによって大衆は洗脳されている」などと主張する投書を、まともな新聞社が取り上げるはずもない。自分の考えが正論だと思っている頑固な老人には、それがいっそう苛立《いらだ》たしいのだ。
「昭和の化石だからなあ」昭一はため息をついた。「爺さんの頭の中じゃ、いまだに大本営発表が鳴り響いてるんだ」
「どうしましょう?」
「どうするったって……放っておけばいいさ。あれが爺さんの唯一の趣味なんだから」
「でも、そのうち何か問題を起こすんじゃないかって、心配で……」
妻の不安を、昭一は笑い飛ばした。
「もうじき九〇の爺さんに何ができるっていうんだ? 昔は陸軍中佐だったかしらんが、今じゃただの老いぼれだ。どうせ先は長くない。せいぜい自由にさせとけばいいんだ」
曇天続きだった昨日とは打って変わって、今朝は晩秋とは思えない暖かさだった。重光は南に向いた縁側に座り、赤鉛筆片手に新聞を読んでいた。広い庭には陽光が降りそそぎ、松の枝の上では雀がさえずっている。
「ええい、要らんニュースばかり載せおって」
重光はぶつぶつぼやきながら、しわだらけの細い指で新聞をめくっていた。身体はまだ健康だが、このところ老眼が進行し、小さい活字を読むのが苦痛になっている。だが、何十年も続けてきた日課を欠かすわけにはいかない。
しかし、今朝の朝刊各紙は、昨夜、新宿で起きた「異常電磁気現象」(マスコミはそう命名していた)に関する報道ばかりで、彼の読みたいニュースは片隅に追いやられていた。けばけばしい歓楽街になってしまった新宿が燃え尽きようが、そこにたむろする軽薄な若者や外人が何人死のうが、重光にはたいした問題ではなかった。それよりも、日本をめぐる最新の世界情勢の方が、彼にとってははるかに関心のある出来事だった。
彼がここ数日、注目していたのは、日本海で行なわれた米韓合同軍事演習のニュースである。米第七艦隊が参加したこの大演習は、政治評論家の一致した見解によれば、最近またもキナ臭くなってきた朝鮮半島の情勢を牽制《けんせい》するのが目的だという。
だが、ただの光と影が「心霊写真」に見える人間がいるのと同じく、重光の被害妄想的な思考回路は、新聞報道の裏に隠された意図を読み取っていた――アメリカと韓国はいずれ合同で日本に武力侵攻する気に違いない、今回の演習はその予行なのだ、というわけだ。彼はこの説を新聞に投書したが、もちろん採用されなかった。
さらに彼を苛立たせているのほ、演習終了後、米海軍の原子力空母 <エンタープライズ> が十数年ぶりに日本を訪れる予定になっていることだった。寄港地は横須賀、名目は「乗員の保養」である。だが、これまで <エンタープライズ> の寄港地は、横須賀では首都に近すぎて混乱が大きいという理由で、佐世保が選ばれていたのだ。それが今回、わざわざ横須賀が選ばれたのは、重光に言わせれば「日本人の神経を逆撫《さかな》でする行為」だった。この国辱ともいえる事態に、なぜか騒ごうとしない日本のマスコミが、重光には腹立たしかった。
重光の推論に根拠がないわけではない。アメリカは対中国戦略の一環として、日本の核武装化を望んでいると言われる。核搭載が明白な米軍艦船の度重なる寄港によって、すでに日本人の「核アレルギー」は薄れかけており、非核三原則も形骸《けいがい》化している。おそらく今回の <エンタープライズ> 寄港の裏には、この機会に核持ちこみを既成事実として確立し、非核三原則を破棄に追いこもうという意図があるのだろう。
実際、日本人の核問題に対する関心が薄れているのは確かだ。横須賀では反核団体による寄港反対のデモが行なわれているが、単に行進しながらシュプレヒコールをあげるだけで、羊の群れのようにおとなしいものだ。
一九六八年に初めて <エンタープライズ> が佐世保に来た時のことを、重光は苦々しく思い出していた。寄港阻止を叫ぶ過激派の学生デモ隊が機動隊と衝突し、角材とジュラルミンの盾がぶつかり合い、石と催涙弾が、火炎ビンと放水が飛び交って、内戦さながらの騒ぎとなった。その模様がテレビで中継され、日本中を騒然とさせたものだ。当時はアカ≠フ学生たちを憎んでいた重光も、今となっては彼らの気概を懐かしく思っていた。
半世紀前には、多くの若者が英米を相手に勇敢に戦い、散っていった。四半世紀前には、やはり多くの若者が、アメリカの帝国主義に対して無謀とも言える戦いを挑んでいた――だが、今はどうだ? 現代の若者は遊ぶことしか頭にない。ロックやセックスやTVゲームにうつつを抜かし、日本の名誉が汚されようとしているこの重大な事態に、立ち上がろうとする者は誰もいない。
六〇年代に暴れ回った過激派学生たちも、今はもうみんな中年のサラリーマンだろう。会社や官庁のシステムに組みこまれ、体制に飼い慣らされているに違いない。巨大な体制に牙《きば》を剥《む》こうなどと思う日本人は、もうどこにもいはしない……。
そんな思索にふけっていた時――
「矢田貝中佐」
その声に重光は顔をあげた。「中佐」などと呼ばれるのは戦友会の時ぐらいのもので、普段はそんな呼び方をする者はいない。
「……誰だ?」
「やはり中佐でしたか」
松の木の背後から、三〇歳ぐらいの男がふらりと現われた。グレーの背広を着ているが、サイズが合っておらず、ちぐはぐな印象を受ける。だが、その狼のような鋭い顔つきに、重光はただならぬものを感じた。
「顔はすっかり変わられたが、匂《にお》いは昔のままですね」男は楽しそうに言った。「それに、赤鉛筆で印をつけながら新聞を読む癖――昔とちっとも変わらない」
重光は目を細め、記憶をたどった。この男には確かに会ったことがある。ずっと以前、どこかで……。
「黒焔です。覚えておいでですか」
その瞬間、半世紀の時を超えて、重光の脳裏に記憶がどっとよみがえった。
「黒焔……黒焔なのか?」
「そうです」
黒焔はそう言うと、姿勢を正し、敬礼した。
「お久しぶりです。矢田貝中佐」
土曜日の午後――
民放では昨夜の新宿の怪事件を扱った特別番組が組まれていた。二三五人の重軽傷者を出したあの不可解な現象に関して、建築、防災、電気、気象などの専門家が、それぞれの立場からコメントしていた。中でも熱心に「科学的な」説明を行なっているのは、某私立大学の理工学部の教授である。
「これは電磁波のしわざですね」教授はきっぱりと断言した。「非常に強力な電磁波です」
「と言いますと?」
キャスターが合いの手を入れると、教授はここぞとばかりに喋《しゃべ》りまくった。
「私、以前に大阪で同じような事例を調査したことがあるんですが、ある工場で、あらゆる電気製品――電話やらテレビやらパソコンやらが次々に故障するという事件があったんですね。しまいには火事が起きて、その工場は焼け落ちてしまいました。ポルターガイストだなんていう非科学的なことを言う者もおりましたが、私どもの調査によれは、これは異常な電磁波が原因でした。これははっきりしています。
今回の事件も、規模はかなり違いますが、異常な電磁波が原因と考えて間違いありません。ご存じの通り、新宿駅東口はビルに囲まれた閉鎖された空間ですから、閉じこめられた電磁波が共振作用を起こしたと考えられます」
「ははあ、なるほど」
教授の説明に、キャスターはもっともらしい表情でうなずいたが、実のところ、よく分かっていない様子だった。
「事件の少し前に、新宿駅一帯で異常な電力低下があったそうなんですが、何か関係があるんでしょうか?」
「そうですね。偶然とは思えませんから、何らかの前兆現象だったと考えられます」
「目撃者の証言によれば、巨大な稲妻というか、レーザー光線のようなものが走って、ビルの壁に穴を開けたそうですが、これはどうお考えになりますか?」
「これも電磁波による異常現象ですね。球電の一種でしょう。ビル内のすべての電気回路が焼き切れていたことも、大きな電流が流れたことを証明しています」
教授の口調は自信にあふれていた。
「やれやれ。人間ってのは変わらないな」
つけっ放しになっていた店内のテレビを見ながら、八環は苦笑した。
「『光の屈折』だとか、『真空の渦』だとか、『集団幻覚』だとか、『プラズマ』だとか、もっともらしい科学用語を使えは説明になると思ってるんだからな。『電磁波による異常現象』だって? 何の説明にもなってやしないじゃないか!」
「でも、あの程度の説明で大衆が納得しますかねえ?」大樹が首を傾げる。
「するわよ」未亜子が静かな口調で、しかし、きっぱりと言った。「これまでもずっとそうだったもの。大衆が求めてるのは科学的な真実なんかじゃない。自分を安心させてくれる説明なのよ。たとえ理屈に合わない説明でも、偉い学者先生が『これが真実だ』と言ってくれれば、それで充分なのよ」
「そんなもんですかねえ……」
「人間は自分に都合のいいものしか目に入らないものよ――まあ、そのおかげで私たちの存在もバレずに済んでるんだけど」
「まったくだ」八環はそう言うと、苛立《いらだ》たしげにタバコを灰皿に押しつけ、もみ消した。「しかし、こんな騒ぎを起こしやがって、黒焔の奴、いったいどこに行きやがったんだ?」
松五郎から緊急連絡を受け、昨夜から <うさぎの穴> のメンバーの大半が動いていた。霧香、聖良、孝太郎、野呂介らは、おのおのの能力や人脈を生かして、手分けして東京一帯を探し回り、姿を消した黒焔の足取りを追っている。 <海賊の名誉> 亭をはじめ、東京近郊の他のネットワークも協力してくれていた。
他の者は非常事態に備えて店に集まり、報告が届くのを待っていた。かなた、八環、未亜子、大樹、蔦矢、それに摩耶の姿もある。流だけはまだ傷が癒えていないので、蒲田にある自宅で待機していた。
黒焔が姿を消してすでに一五時間。今のところ手がかりはまったくない。黒焔が立ち寄りそうな場所――戦前に彼が暮らしていた場所や、古くからの建物が残っている場所を中心に調べているのだが、彼が現われたという形跡はなかった。
「ねえ、黒焔っていう人、このお店の場所、知ってるんですか?」
蔦矢が基本的な疑問を発する。松五郎はかぶりを振った。
「知るわけがないよ。この店ができたのも戦後だ。終戦の頃はこのあたり一帯も焼け野原だったからねえ」
「それに、奴は俺たちに顔を合わせたくないだろう」八環が苦々しげに言う。
「ああ」松五郎は暗い表情でうなずいた。「あいつが流に言った台詞からも、それは分かる。あいつは今でも私らを許していないんだ……」
「ねえ、黒焔っていったい誰なの?」話についていけなくて、かなたは苛立っていた。「どうしてそんなに父さんたちを嫌ってるわけ?」
松五郎は少しためらった。八環や未亜子と視線を交わし、何か無言で了解し合ってから、おもむろに口を開く。
「前に話したことがあるな。私ら妖怪《ようかい》には不文律がある、ということを」
「不文律?」と摩耶。
「仲間内で決まっていること――言うならば掟《おきて》≠セな。人間同士の争いには干渉してはいけない、ということだ」
「昔はそんな掟はなかった」八環が注釈を加える。「たとえは元寇《げんこう》の時には、天狗《てんぐ》一族が結集して大嵐を起こして、蒙古《もうこ》の船を沈めた。戦国時代にも、妖怪が人間の争いに手を貸した例がいくつもある」
「そう。昔はそんなこともあった」松五郎はうなずいた。「だから私らは、だんだんと気がついていったんだ。人間同士の争いに手を貸すのは愚かなことだと――戦争には正義も悪もない。どちらの大将が勝とうと、結果にたいして変わりはない。いつも犠牲になるのは名もない民衆だ……」
「それに、相手方の軍にも妖怪がついたら、いっそう悲惨なことになるわ」と未亜子。「妖怪同士が争うことになるのよ。そんなの馬鹿げてると思わない? 人間の欲望や領土争いの道具に利用されるなんて!」
摩耶は無言でうなずいた。人間より長生きしているだけあって、妖怪たちは人間よりもずっと賢明だ。
「何度か間違いを繰り返した挙げ句、江戸時代の中頃には、私らの問に自然に不文律ができあがっていた」松五郎は解説を続けた。「人間同士の争いには手を貸さない。どんなに悲惨であろうと、情に負けてどちらかの軍に加担してはいけない。人間の問題は人間自身に解決させるべきだ……ということだ。
だから日清、日露、日中といった戦争にも、私らは手を貸さなかった。太平洋戦争が激しくなって、B―29が日本のあちこちに爆弾を落としはじめても、私らはじっと耐えていた。愛していた街が焼かれ、罪もない子供までもが戦争の犠牲になって死んでゆくのを見るのは、そりゃあつらかったさ。だが、それは初めての光景というわけじゃない。長い歴史の中で、何度も何度も目にしてきた光景だった……」
松五郎は言葉を切り、弱々しく苦笑した。
「……いや、そんな風に割り切れたかというと、嘘《うそ》だな。本当を言えば、私だってB―29が憎かったさ。毎日のようにやって来ては、何万発という焼夷弾《しょういだん》を落としていった――私の好きだった街が燃えてゆくのを見るのは、悔しかったし、悲しかった。あれほど自分の無力が呪《のろ》わしかったことはないよ。
だが、B―29を何機か落とせたとしても、それでどうなるというんだ? そんなもので戦況は変えられない。日本人はみんなデタラメだらけの大本営発表を信じさせられていて、日本はまだ勝てるんだ、神風が吹くんだという幻想にすがりついていた。だが、私らはそんな話に騙されなかった。
日本はじきに負ける――それは私らの目には明らかだった。負けるなら早く負けてくれ。一刻も早く降伏を宣言して、焼け跡で苦しんでいる人たちを楽にさせてやってくれ……私は毎日、そればかりを願っていたよ」
「だが、黒焔は違った」と八環。
「ああ、黒焔だけは違った」松五郎は遠い目をした。「あいつは私らの中でも、日本を愛する心がひときわ強かった。あいつは私たちの態度をなじったよ。『こんなに日本人が苦しんでいるのに、お前たちは何もせずに日和見を決めこんでいるだけなのか? お前たちには日本を愛する心はないのか? アメリカが憎くないのか?』……」
松五郎は言葉を切り、ふーっと大きなため息をついた。
「……止めようと説得したが、無駄だった。あいつは陸軍に入った」
「陸軍に!?」大樹が眼鏡の奥で目を丸くする。「妖怪《ようかい》がですか?」
「そうだ――市ヶ谷の、今は自衛隊の駐屯地になっている場所に、当時は大本営陸軍部があった。あいつはそこへ出かけていって、自分の正体を明かしたんだ。そして、自分の力を戦争に役立てることはできないかと持ちかけた。昭和二〇年の一月のことだ……」
「それで?」
松五郎は肩をすくめた。「後のことはよく分からん。その後、戸山ヶ原にあった陸軍研究所の地下施設に移されて、研究されていたらしい。だが、四月にそこに爆弾が落ち、地下施設は破壊され、あいつは二度と姿を現わすことはなかった……」
松五郎はそこで唐突に話を終えた。八環や未亜子も沈黙した。彼らにとって、それは思い出すのがつらい出来事だったのだろう。テレビの中で自説を喋《しゃべ》りまくっている大学教授の声だけが、店内にしらじらしく響いている。
重苦しい沈黙を破ったのは摩耶だった。
「じゃあ……じゃあ、黒焔さんは何十年も地面の下で生き埋めになってたんですか?」
「生き埋め、というのは違うな」松五郎が訂正する。「私らの仲間が爆撃の後を調べて、黒焔の妖力《ようりょく》の気配が完全に消えていたのを確認した――黒焔は間違いなく死んでいたんだ」
「だったら――」
「私らは人間とは違うんだ。人の想いから生まれた存在だからね。一度死んでも、それで終わりというわけじゃない。この世に人の想いが満ちているかぎり、また生き返ってくることができる――何十年もかかるがね」
「……いじん[#「いじん」に傍点]のようにですか?」
「そうだ」
「でも、雷獣は日本各地にいるんでしょう?」蔦矢は慎重派だった。「よく似た他の雷獣という可能性は考えられませんか?」
「いや、それはないな」八環は断言した。「雷獣の姿は地方によって様々なんだ。猫のようなやつ、カワウソのようなやつ、猿のようなやつ……体毛の色にしても、焦茶色だとか、灰色だとか、金色だとか、白黒のまだらだとか、一匹ごとにみんな違う。摩耶ちゃんの証言に当てはまるのは、黒焔しかいない」
「それにしても不思議なのは、流くんがやられたっていう破壊光線ね」未亜子は顎《あご》に手を当てて考えこんだ。「電気を操ったり、雷を起こすのは分かるけど、雷獣は光線なんか使えるはずがないわ」
それは松五郎も疑問に思っていたことだった。流の傷を見ても、例の光線の威力が、黒焔が本来持っている放電能力より何倍も強力であることが推測できる。
「摩耶ちゃん、黒焔が使ったのは本当に光線だったのかね? 雷じゃなく?」
「ええ」摩耶は記憶をよみがえらせた。「私が見たのは遠くからでしたけど、確かにアニメに出てくるビーム砲みたいに見えました」
「でも、 <マイシティ> の被害を見ると、落雷にやられたように見えるけどな」大樹が疑わしげに言う。
「いいえ。雷みたいにジグザグじゃありませんでした。定規で引いたみたいに一直線で、太さは……たぶん三〇センチか、もっとあったかもしれません」
「色は?」
「紫がかった白です。カメラのストロボみたいな」
「もしかしたら、胸に埋めこんであったという機械が関係あるのかもしれんな」八環は振り返って大樹を見た。「こういうのはお前の方が詳しいだろう? 確か旧日本軍は殺人光線の研究もしてたんじゃなかったか?」
「ええ、けっこう有名な話ですよ」
「殺人光線って、レーザー?」とかなた。
「違う違う」大樹は手を振った。「レーザーが発明されたのは一九六〇年だよ。日本軍が研究していたのは、マグネトロンから放射されるマイクロ波を放物面鏡で反射して、敵に照射するっていうやつだ――要するに電子レンジの原理だな」
「それ、どれぐらいの威力だったの?」
「実験では、ネズミを焼き殺すのに一分かかったって言われてる」
「あれまあ」
「それに、マイクロ波は肉眼では見えない。摩耶ちゃんが見たのは違う兵器だろう」
殺人光線だけではない。戦時中、日本軍はほとんど苦しまぎれとも言うべき新兵器・珍兵器をいくつも研究していた。
広島県の大久野島には毒ガス工場があり、大量の毒ガス兵器が製造されていた。クシャミ性の「赤一号」(ジフェニールシアンアルシン)、びらん性の「黄一号」(イペリット)、「黄二号」(ルイサイト)、窒息性の「茶一号」(サイローム)……終戦時には日本軍は二〇〇〇トンを越える毒ガスを保有していたが、幸い、一度も実戦で使用されることはなかった。
全長一〇メートル、重量一〇〇トンを越える超重量戦車「大イ車」も試作された。だが試験走行では、あまりの重さのために車体が地面に沈み、ろくに旋回もできないありさまで、おまけにキャタピラの転輪が脱落するという事故が続出、試験は中止された。結局、一台だけ造られたこの巨大戦車は、実用に向かないと判断され、解体された。
「ふ号」兵器、いわゆる風船爆弾というのもあった。和紙をコンニャク糊《のり》で貼《は》り合わせた気球に爆弾を吊《つ》るし、気流に乗せてアメリカ本土を爆撃しようという計画である。終戦近くに約九〇〇〇個が空に放たれたが、モンタナ州の森林に山火事を起こしたのと、オレゴン州に落下した一個がピクニックに来ていた女性一人と子供五人を殺したのが、確認されている戦果のすべてである。
ロケットエンジンで飛行する無線誘導ミサイルも開発されていた。昭和二〇年二月に伊豆の近海で行なわれた「イ号一型乙」誘導弾の発射実験では、実験機が故障で針路をそれ、熱海市の旅館に突入、女中二人と客二人を殺し、旅館を全焼した。
原爆もひそかに計画されていた。だが、核反応に必要な同位元素ウラン235を濃縮する技術が当時の日本にはなく、未完成に終わった。
他にも、リモコンで操縦されて敵のトーチカや鉄条網に突入して自爆する小型無人戦車「い号」、電気の力で弾丸を発射する大砲(現在で言うリニアガン)「と号」、敵の目をくらませる強力なサーチライト「き号」などの案もあったが、いずれも机上のプランで終わっている。その一方、レーダーやVT信管など、地味ではあるが戦局に大きな影響を与える技術の開発が遅れており、それが連合軍に大敗を喫する原因となった。
「そう言えば……」大樹は、ぽんと手を叩《たた》いた。「思い出した。確か紫外線兵器ってのも陸軍で研究してたはずだ。本で読んだことがある」
「紫外線?」とかなた。「あの日焼けする紫外線?」
「うん。強力な紫外線サーチライトを放電装置と組み合わせるんだ。空気ってのは、普通は電気の不導体なんだけど、強力な紫外線を当てると、空気がイオン化して電気が流れやすくなる。空気中に電気の通り道ができるわけだな。それを利用すれば、遠く離れた相手を高圧電流で焼き殺すことができる……」
「そんなこと可能なの?」
「原理的にはね――もっとも、兵器として使うとなると、戦場でそんな高圧電源をどうやって確保するのか、っていう問題があった。発電所を運んで歩くわけにはいかないからね。で、結局、実用にはならなかったらしい」
「ということは」八環が身を乗り出した。「コンパクトな高圧電源さえあれば、紫外線兵器は可能ということだな?」
「そうですね。摩耶ちゃんが見たビームも、それで説明がつきます。まず紫外線で空気を直線状にイオン化して、そこに電気を流せば、ビームのように一直線に放電が起こります。電気抵抗が小さくなるから、放電の威力は何倍にもなるし、射程距離も延びるでしょう……」
一同は黙りこんだ。パズルのピースがぴたりと合った。旧日本陸軍は黒焔を紫外線兵器と組み合わせ、強力な兵器に仕立て上げたのだ……。
その時、カウンターの奥にあったファックス機が、ジーッという音を立てて、紙を吐き出しはじめた。松五郎がそれを覗《のぞ》きこむ。
「文ちゃんからだ」彼は一同に告げた。「当時の陸軍研究所に勤務していた人間――黒焔と関わっていた可能性のある者のリストだ。ほとんどは亡くなっているが、まだ存命の者も何人かいるな」
「いいところに目をつけた」八環がにやりと笑う。「黒焔が俺たちとの再会を望んでいない以上、人間の知り合いを頼ることは、充分に考えられるからな」
「住所はどう?」未亜子が訊《たず》ねた。「住所が変わってるんじゃ、黒焔も彼らを捜し出しようがないわ」
「文ちゃんのことだ。その点、ぬかりはないよ」松五郎はリストに目を通して言った。「一人だけ、戦前から住所が変わっていない者がいる。この渋谷だ」
5 時に忘れられた者たち
その日、重光は自分の書斎に閉じこもり、トイレと食事の時以外は出てこようとしなかった。彼の偏屈な態度はいつものことなので、孫夫婦も使用人もたいして疑問に思いはしなかった。彼が書斎に訪問者を隠しているなどとは、思いもしなかった。
重光が選んでくれた本に、黒焔は半日をかけて目を通した。百科事典、歴史年表、図鑑、写真集、評論集、研究書、雑誌、新聞記事を集めたスクラップブック……斜め読みではあったが、この半世紀の日本の歴史がおおよそ理解できた。
日本の現状を説明するため、重光は週刊誌も何誌か見せた。どの雑誌にも、陰毛まで堂々と見せた裸の女の写真が載っていたので、黒焔は仰天した。戦前には考えられないことだった。日本人の道徳観念は、堕ちるところまで堕ちたらしい。
「どうだ、感想は?」
夕食から戻ってきた重光が訊ねた。黒焔は深刻な表情で写真集をめくっている。特に彼の目を惹《ひ》いたのは、原爆投下直後の広島の写真だった。
「恐ろしいものですね、この原子爆弾というやつは。たった一発で何十万人という人間が死ぬとは……」
「そうだ。アメリカはそれを二発も日本に落とした。恐ろしい原爆症で、犠牲者はいまだに苦しんでおる」
「ひどい話だ!」黒焔は憤慨した。「私には理解できません。そんな虐殺行為をやった国を、なぜ日本人は憎まないのですか? なぜアメリカを友人のように扱い、アメリカのくだらん文化をありがたく受け入れているのですか?」
「洗脳されておるのだよ」
「せんのう?」
それが戦後生まれた言葉だったのを思い出し、重光は言い直した。
「偽りの情報を吹きこまれ、誤った思想に染められているのだ。やつらが日本を占領して真っ先にやったことは、歴史を書き換えることだった。日本軍が大陸で虐殺行為を行なったと、嘘《うそ》八百をでっちあげ、本や新聞で広めたんだ。日本のやったことはすべて間違っていた、アメリカは正義を貫いた――この半世紀、学校でも子供たちはそう教えられてきた。思想統制だ。だから今では、それに疑問を抱く者はほとんどおらん」
「恐ろしいことですね」
黒焔はその歪《ゆが》んだ説明を信じて疑わなかった。重光の言葉は、彼が新宿で目にした現代の日本人たちの姿を、的確に説明しているように思われたからだ。
「東京裁判によって、日本はアジアを一方的に侵略した悪の国家に仕立て上げられた」重光は一方的に喋《しゃべ》り続けた。「今でもアジア諸国から、日本人は悪人扱いされている。恩知らずどもが! わしら日本人が、八紘一宇《はっこういちう》の理想の下、あいつらを西欧の植民地支配から解放してやったというのに、それをまったく理解しておらんのだ!」
黒焔はうなずきながら神妙に聞いていた。重光の言う「西欧の植民地支配からの解放」というのは、「アジア全土を日本の植民地にすること」と同義語なのだが、そんな単純な矛盾にさえ、二人は気がついていなかった。国家によって偽りの思想を吹きこまれたのは自分たちの側ではないのか、という認識は、まったく頭に浮かばなかった。
昭和二〇年以来、思考が停止しているという点で、この二人はそっくりだった。
それから一時間あまり、重光は水を得た魚のように喋り続けた。自分の意見をまともに聞いてくれる者に会うのは久しぶりだった。彼は日頃から不満に思っていたことを残らず黒焔にぶちまけた。
アジア各国からの日本非難の声。大国アメリカからの横暴きわまる経済的圧力。それに対し、情けなくもひたすら土下座を繰り返してきた歴代の日本政府首脳。学校教育の荒廃。性風俗の乱れ。パソコンやゲームに夢中になっている子供たち。それを放任し、愛国心を教えようとしない教師や親たち……。
「無念です」巣焔は自分の罪であるかのように頭を下げた。「私が戦っていれば、こんな屈辱的な事態は避けられたかもしれないのに……」
「いや、お前の責任ではない。あの爆弾だ。あのたった一発の爆弾で、日本の運命は決まってしまった……」
重光は苦渋に満ちた表情で過去を回想した。
昭和一九年一一月、米軍の日本本土爆撃が開始された。最初は東京に、続いて名古屋に、サイパンからB―29爆撃機の編隊が飛来し、大量の爆弾を投下して、軍需工場やその周辺の住宅地を破壊していった。
B―29の飛来する高度は二万フィートから三万フィートという超高空であり、当時、日本が配備していた八八式野戦高射砲では、弾丸がそこまで届かなかった。日本側の戦闘機もその高度まで到達するのは困難で、たとえ到達できたとしても、口径の小さい機関銃ではB―29の巨体になかなか有効なダメージを与えられなかった。日本軍のパイロットはやむなくB―29に体当たり攻撃をかけた。
特に熾烈《しれつ》をきわめた攻防戦は、昭和二〇年一月二七日午後の、いわゆる「銀座空襲」である。本来は中島飛行機武蔵製作所が爆撃目標だったのだが、東京全体に厚い雲がかかっていたため、市街地への無差別爆撃に変更されたのだ。日本側は陸海軍合わせて三五〇機の戦闘機を出動させ、侵入してきた七六機のB―29を迎え撃った。
黒焔は雲の中に隠れて、その戦いの一部始終を眺めていた。おびただしい爆弾が雲を貫いて落下し、有楽町や銀座|界隈《かいわい》を破壊してゆくのを、なすすべもなく見下ろしていた。はるか上空で、日本陸軍の戦闘機 <飛燕> が果敢に体当たり攻撃をかけるのも見た。撃墜されたB―29も何機かあったが、その何倍もの数の日本機が撃墜された。
黒焔は悔しかった。雷獣である彼は、空を飛び、雷を放つ能力を持っている。だが、日本軍の飛行機と同様、そんなに高くは飛べなかった。また、電撃の射程距離もせいぜい数十メートルで、高空を飛ぶB―29には届かなかった。たとえその能力があったとしても、妖怪《ようかい》の不文律が、人間の争いに介入することを禁止していた……。
だが、戦闘機に乗った若者たちが祖国を守るために命を散らしている姿を見ていると、いても立ってもいられなくなった。妖怪の不文律が何だ!? 愛する国を、愛する人々を守りたいという想いに、人間も妖怪も変わりがあるはずがない。
地上に降り立ち、破壊された有楽町駅付近の惨状を目にした時、その考えは堅い決意に変わった。例壊した建物、爆発で大きくえぐられた道路、散乱した人間の手足、瓦礫《がれき》の中で親を求めて泣き叫ぶ幼児……。
こんなものを見るのは、もうたくさんだった。人々が苦しんでいるのを黙って見過ごすことなど、彼にはできなかった。とりわけ咲子が――自分の愛している娘がそんな目に遭うのを、何としてでも食い止めたかった。
翌二八日、黒焔は大本営陸軍部に姿を現わし、居合わせた軍首脳の前で正体を明かして、自分の力をお国のために役立ててくれないかと申し出た。軍人たちは驚いたものの、すぐに黒焔の価値を理解し、彼の身柄を戸山ヶ原の陸軍科学研究所に移送して、その能力を徹底的に調査するよう命じた。もちろん、すべては極秘である。
雷獣の放電能力に感銘した技術者の一人が、研究中の紫外線兵器との組み合わせを提案した。黒焔に紫外線投射装置を持たせれば、強力な殺人光線兵器となる、というのだ。この案はただちに承認され、「シ号」の暗号名で研究が開始された。この計画の研究主任に任命されたのが、矢田貝重光技術中佐だった。
だが、計画は最初から問題が山積みだった。単純に黒焔の身体に電源ケーブルを接続すればいいというものではなかった。黒焔の放つ電流はあまりにもアンペア数が高すぎるうえ不安定なので、投射装置の大型ランプがすぐに焼き切れた。ただちにフィラメントが特別製のものと交換されたが、今度はランプのガラスが高熱で膨張して割れた。どうにか新しいランプが製作され、実験が再開されたが、今度は変圧器が火を噴いた。変圧器の改良が完成すると、今度は制御装置の真空管が吹き飛んだ……。
失敗も多かったものの、陸軍の技術者たちはすこぶる優秀だったと言っていいだろう。計画の開始からわずか五週間で、実用に耐え得る紫外線投射装置を完成させたのだから。
それが真価を発揮する機会は、すぐにやって来た。三月一〇日の東京大空襲である。
黒焔は知るはずもなかったが、この夜の爆撃は、日本側にとってだけではなく、爆撃機に乗っていたアメリカ軍兵士にとっても残酷なものであった。第二〇爆撃軍司令官のカーティス・E・ルメイ少将は、従来の高高度からの爆撃が正確さに欠けることに不満を抱き、五〇〇〇から八〇〇〇フィートの低高度で爆撃するよう命じたのだ。これは取りも直さず、日本軍の高射砲や戦闘機の猛攻の中を飛べということだ。この作戦が発表されたとたん、兵士の間からいっせいにブーイングが起こったという。さらにルメイは、B―29からすべての対空機銃を下ろさせ、完全な無防備にした。機の重量を軽くし、一個でも多くの爆弾を積むためだ。この夜の爆撃に参加した兵士たちの中には、ルメイの狂気を非難する者や、死刑を宣告されたと感じて絶望する者も多くいた。
その夜は月のない闇夜《やみよ》だった。アメリカ軍兵士にとっては幸運なことに、そして日本人には不運なことに、当時の日本軍はアメリカのレーダーの性能を過小評価していた。夜間爆撃は月の光を頼りに行なわれるから、闇夜の爆撃はないと考えられていたのだ。結果的に、この夜の爆撃は日本側にとってはほとんど不意打ちとなり、警戒警報の発令が遅れた。戦闘機による迎撃は一月二七日の空襲とは比べものにならないほど貧弱で、死を覚悟していたB―29の乗員たちを拍子抜けさせた。爆撃が開始され、大火災が発生して大量の煙が空を覆うと、高射砲は目標を見失った。
黒焔は早く飛び立ちたくてうずうずしていたが、矢田貝中佐はそれを止めた。正式な命令なしに出撃するのは軍規違反になるからだ。だが、軍司令部は完全な混乱状態に陥っていて、科学研究所からの再三の要請は無視された。結局、秘密兵器「シ号」に出撃命令が下ったのは、爆撃が開始されて二時間以上経った午前二時過ぎだった。
その頃には、東京の空に渦巻く大量の煙は、地上の猛火に照らされ、毒々しい赤に染まっていた。煙の合間を縫って、サーチライトが慌ただしく夜空を動き回り、必死に目標を探し求めていた。その混乱の中では、人間大の黒い獣が円筒形の装置を抱えて空を飛び回る姿は、誰にも目撃されなかった。黒焔は煙にまぎれてB―29に接近すると、大幅に威力と射程距離を増した電撃を放った。巨大な爆撃機はジュラルミンの翼を吹き飛ばされ、あるいは胴体を切断されて、次々に墜落していった。
黒焔が東京の空で活躍できたのは、ほんの短い時間だった。またも紫外線投射装置のランプが焼き切れたため、退却を余儀なくされたのだ。だが、その二〇分ほどの間に、彼は六機のB―29を撃墜していた。
しかし、一夜明けて、黒焔は自分の無力さを痛感した――彼の活躍はほとんど焼け石に水だったのだ。発進した三二五機のB―29のうち、針路を間違えず、撃墜もされずに東京上空に到達できた二七九機は、総計三六万発以上の焼夷弾《しょういだん》を投下していた。現在の江東《こうとう》区・墨田《すみだ》区・台東《たいとう》区の大半と、荒川区・江戸川区・中央区・千代田区・文京区の一部が焼失した。帝都防空本部情報によれば、死者八万三〇七〇人、重軽傷者二万三〇六二人、家を失った者八八万九二一三人……。
犠牲者の中には、彼が守りたいと願った娘、咲子も含まれていた。
黒焔にとっては完全な敗北だった――だが、矢田貝中佐は彼の活躍を評価した。一人で一日に六機もの爆撃機を撃墜できたパイロットなど、他にはいない。それに、この出撃は思いがけない副次効果をもたらした。
黒焔が持ち帰った紫外線投射装置を修理していた技術者は、装置に奇怪な変化が生じているのに気づいた。触れてもいないのに、電源ケーブルが触手のようにぴくぴく動いた。電源を入れていないのに真空管が明滅し、装置全体に奇妙なぬくもりが感じられた。台の上に置いておくと、装置全体ががたがたと揺れた……。
まるで生きているかのように。
黒焔にはすぐにその現象の見当がついた。付喪神《つくもがみ》――人間の愛着が染みこんだ器物が妖怪《ようかい》化する現象だ。普通は妖怪化するまで数十年、短くても数年はかかるもので、こんな早く起きるのは珍しい。おそらく、戦局を打開する新兵器の出現を切望する日本人すべての想いが、この装置に結集したのだろう。軍がひそかに「殺人光線」「怪力線」を開発しているという噂《うわさ》は、当時の庶民に広く信じられていた。その誤った期待が形を得たとしても不思議はない。
それを知った矢田貝中佐は、奇想天外な案を思いついた。付喪神と化した紫外線投射装置を黒焔と合体させてはどうか、というのだ。
紫外線投射装置は妖怪としてはまだ生まれたばかりで、赤ん坊ほどの知能も、自分の意志も持たない。それを黒焔の身体に埋めこみ、同化させれば、黒焔の意志によって制御できるようになるのではないか。紫外線投射装置がすぐ壊れてしまう最大の原因は、黒焔の発する電流との同調がうまくいかないことだ。装置が黒焔の身体の一部となったら、その欠点は克服できるのではないか……?
その残酷とも言える提案を、黒焔はあっさり受け入れた。憎悪が彼を突き動かしていた。咲子をはじめ、罪もない何万人もの人間を殺した者たちに、何としてでも報復したかった、そのためには、より完壁《かんペき》な兵器になる必要があった。
手術は三月三〇日、陸軍科学研究所の地下秘密施設で行なわれた。黒焔の胸が切り開かれ、そこに妖怪化した紫外線投射装置が埋めこまれたのだ。さしもの大妖怪にとっても、それはすさまじい苦痛を伴う試練だった。彼は何日も激痛にのたうち回り、うめき、もがいた。付喪神は他の妖怪の中に取りこまれることに拒否反応を示した。黒焔はそれを意志の力で抑えこもうと、全身全霊を振り絞り、戦った。
そしてついに、黒焔は試練に耐え抜いた。紫外線投射装置は彼の胸の組織に完全に融合し、身体の一部となった。装置の制御も容易になった。数千万ボルトの高圧電流を数百メートルの距離まで投射することが可能になったのだ。極秘裡に行なわれた実験では、厚さ三〇センチのコンクリート壁が一撃で粉砕された。
完壁な妖怪兵器「シ号」の完成である。
だが、度重なるB―29の爆撃に対して、軍首脳部は「シ号」に出撃許可を出さなかった。迫り来る本土決戦に備えて、虎の子の秘密兵器を温存しようという方針が決定されたのだ。三月一〇日の大空襲の際には誰にも目撃されなかったが、今後もB―29の前に堂々と「シ号」が現われて放電攻撃を行なったなら、いずれその存在はアメリカ側に知られてしまうだろう。そうなると対処法を立てられてしまう危険がある。敵に最大の効果を与えるためには、本土決戦の日まで敵の目に触れないようにするのが一番だ……。
しかし、そうした説明がうわべだけのものであることに、矢田貝中佐はとっくに気がついていた。「シ号」の威力が明らかになるにつれて、上層部の間にその使用に躊躇《ちゅうちょ》する意見が広まっていたのだ。いくら日本が苦戦しているとはいえ、妖怪などという怪しげなものの力を借りることは、人間の尊厳に関わる問題である。彼らはそのことで恐れ、迷い、意見が対立していた。そして結局、「シ号」をなるべく使わず、最後の切札として温存すると決めたのだ――矢田貝に言わせれば、愚かな決断だ。
黒焔は不満だったが、命令には従うしかなかった。B―29はそれから何度も東京上空に飛来したが、彼は出動することなく、防空壕を兼ねた地下研究施設に閉じこめられ、退屈な実験や検査に明け暮れた。
そして四月一三日の夜、運命の二〇〇〇ポンド爆弾が彼の頭上で炸裂《さくれつ》し、当直だった二人の技術者もろとも、地下施設を破壊したのだ……。
「私は戦いたかったのです」黒焔は唇を噛《か》んだ。「司令部の命令さえあれは、ただちに飛び立って、日本の空からB―29を蹴散《けち》らしてやることもできたのに……」
「まったくその通りだ」
重光は深くうなずいた。それはこの半世紀、彼がずっと後悔していたことだった。あの夜、黒焔がB―29迎撃のために出撃してさえいれば、爆弾にやられることもなく、歴史は別の方向に動いていたはずだった。
上層部が打ち出した「本土決戦に備えて温存」という方針は、純粋に戦略的に見ても、明らかに間違っていた。黒焔の言う通り、彼を自由に飛び回らせ、侵入しているB―29を片っぱしから叩き落とすべきだったのだ。そうすれば米軍は警戒して日本の空に近づかなくなり、原爆投下もなかったかもしれない。
「わしもお前の活躍が見てみたかった」彼はしみじみと言った。「臆病《おくびょう》な上層部の連中の命令に反してでも、お前を出撃させてやるべきだった……」
「もうよしましょう。後悔しても遅すぎる。時間を元に戻すことなどできません」
その時、重光のしょぼくれた眼に、ある輝きが宿った。
「いや、まだ遅くはないかもしれんぞ、黒焔」
「というと?」
「確かに日本は降伏し、多くの日本人は英米に魂を売り渡した。だがここに、まだ魂を売り渡していない者がいる。戦うことをやめていない者がいる――それを天下に知らしめることができるとは思わんか?」
「どうやって?」
「それはだな……」
重光は数日前の新聞を広げ、赤鉛筆で囲んだ記事を見せながら、自分の案を説明した。黒焔はその大胆な発想に耳を傾けた。
「確かにそれは……」黒焔は考えこんだ。「できないでもありませんが……」
「お前にならできる。いや、お前にしかできんのだ、黒焔」
重光は枯れ枝のような腕を差し伸べ、黒焔の手をつかんだ。
「わしはこの半世紀、この時を夢見てきた。屈辱を晴らしてやる日を。中途半端に終わったあの戦争に決着をつける日を。日本の文化、日本の美、日本の魂……そうしたものすべてを踏みにじった憎き英米に、ひと泡吹かせてやる日を……」
重光は興奮のあまり涙を流し、手は震えていた。
「お前なら……お前ならわしの悔しさを理解してくれるだろう? お前ならできる。お前にはその力があるんだ。やってくれまいか?」
黒焔はすこしためらってから答えた。
「ひと晩だけ考えさせてください――どうせ、それが来るのは明後日でしょう?」
6 苦い再会
その夜――
黒焔はこっそりと矢田貝邸を出ると、真夜中の松濤町をぶらぶらと歩いた。どこかに行くあてがあるわけではなく、単に考えをまとめるための散歩だった。重光の提案の意味を、もっとよく検討してみたかった。
足の向くままに歩き続けると、住宅街の真ん中に取り残された離れ小島のような、淋《さび》しい場所に出た。
松濤鍋島公園――さほど広い空間ではないが、小さな池や散歩道があり、ささやかな自然が生き残っていた。昼間は近所の主婦や子供たちの憩いの場となっているが、今は真夜中なので人影はない。周囲にそそり立つ高い樹々が、渋谷のビル街の明かりをさえぎり、公園を周辺から隔絶した神秘的な空間に保っている。ブランコや滑り台などの遊具も点在しているが、景観を壊すほどではない。街灯の光を浴びて、無人の遊具が静かにたたずむ光景は、むしろ幻想的とさえ言えた。
「……まだこんな場所が残ってたのか」
黒焔は公園の中を見渡し、感慨深げにつぶやいた。
すると――
「けっこう残ってるもんだよ」
背後からの聞き覚えのある声に、黒焔はぎくりとして振り返った。とっさに身をかがめて警戒の姿勢を取る。
「確かにこの街は変わった――だが、変わっていないものもある。渋谷駅前のハチ公の銅像は、今でも待ち合わせの名所だ。お前といっしょにコーヒーを飲みながらクラシックを聴いた道玄坂の <ライオン> だって、まだあるんだぞ」
樹々の作り出す影の中から、痩《や》せた初老の男がゆっくりと進み出て、街灯の光の下に姿を現わした。
「貴様か……」
「久しぶりだな、黒焔。いや――」松五郎は言い直した。「お前にとっては、ついこの間、別れたばかりなんだな」
黒焔は憎悪に顔を歪《ゆが》めた。「貴様と話すことなどない」
「いや、聞いてくれ、黒焔――」
「話すことなんかないと言っただろう」黒焔は声を張り上げた。「変わっていないだと! 笑わせるな! 俺《おれ》は新宿も見た。渋谷も見た。新聞や雑誌も読んだ――日本人がどんなに変わってしまったか、ありありと見たんだ!」
「それは――」
「日本人は堕落した! 大和男児の勇敢さも、大和|撫子《なでしこ》の慎み深さも、みんなどこかへ行ってしまった! 戦うことを忘れた軽薄な男どもと、恥知らずな尻軽の女どもばかりになってしまった! 西洋の文化に身も心も毒されて、腐れきってるんだ」
彼は松五郎に指を突きつけた。
「それもこれも、貴様らのせいだ! 貴様らが俺のように、日本を守るために立ち上がっていたなら、こんなことにはならなかったんだ!」
松五郎はうつむき、悲しそうに目を伏せた。
「お前に話しても分からんかもしれん――だが、聞いてくれ。半世紀の眠りから醒《さ》めたお前の目から見れば、今の日本は腐りきっているかもしれん。しかしな、今のこんな日本を愛している者も大勢いるんだ。この私だって……」
「はっ!」
黒焔は露骨に侮蔑《ぶべつ》の視線を向けた。
「今はいい時代なんだ」松五郎は辛抱強く言った。「赤紙一枚で若者が召集されることもない。空から焼夷弾《しょういだん》が落ちてくることもない。子供が飢えに苦しむこともない……日本人は戦うことを忘れたんじゃない。戦う必要がなくなったんだ。昔のように必死にならなくても生きていけるんだ」
「その代わりに何を失った?――誇りだ! 人間としての尊厳だ! お前がどう弁護しようと、雑誌に裸の写真が氾濫《はんらん》しているような時代は、俺には狂っているようにしか見えん!」
黒焔は拳を握り締め、怒りに肩を震わせた。
「俺たちは戦うべきだったんだ! 俺たちが戦っていれば、日本は勝っていた! こんな狂った時代にならずに済んだんだ!」
「……それが本当に正しいことだと思うか?」
「何?」
「日本が勝っていれば、正しい時代が来たと思うか?」
「当たり前じゃないか!」
松五郎はかぶりを振った。「私にはそうは思えん。日本が正しい国だとはな――知っているか? 日本軍が中国でどんなひどいことをしたか。陸軍七三一部隊は大勢の中国人を生体実験の材料にした。細菌の実験台にしたり、生きたまま解剖したりしたんだ」
「そんなのは嘘《うそ》だ! 敵の宣伝だ!」
「誰からそう聞かされた? あの矢田貝という老人からか?」
黒焔は返答に詰まった。
「確かに、今の日本の政治家の中にさえ、そう信じている者がいる。幻想にしがみつき、現実を認めようとしない者がな――だが、いくら目をそむけようと、事実は事実なんだ。日本軍の蛮行については、中国人だけじゃなく、元日本兵の証言もたくさんある。現地調達≠ニ称して略奪を働いたり、女性を暴行したり、捕虜を拷問にかけ、虐殺したり……ありとあらゆる蛮行を行なったんだ。中国だけじゃない。朝鮮半島や台湾、アジアの各地で、日本人は現地の人たちを苦しめたんだ」
「日本は悪の国だというのか!?」黒焔は食ってかかった。「だから原爆を落とされて当然だというのか!?」
「そんなことは言っていない。B―29の空襲も、原爆投下も、七三一部隊や南京虐殺に負けず劣らずの蛮行だ。アメリカは日本に原爆を落とし、ベトナムに枯葉剤を撒《ま》いた。ソ連は自国の国民を何千万人も粛清した。ドイツ人はガス室でユダヤ人を虐殺し、ユダヤ人はパレスチナ人を迫害し、パレスチナ人はその報復に無差別テロを仕掛ける……」
松五郎は言葉を詰まらせた。あまり一気に喋《しゃべ》ってしまうと、悲しすぎて涙が出てしまいそうだったからだ。
「……私が言いたいのはな、正しい国家だの、正しい民族だの、そんなものはありはしないってことだ。あの戦争では日本は原爆を落とされ、連合国が勝った。お前の言う通り、それは正しいことじゃないのかもしれん。だが、日本が勝っていたとしても、やはり正しいこととは言えん。どちらが勝とうが、戦争に正しい勝利なんてものはありはしない[#「戦争に正しい勝利なんてものはありはしない」に傍点]――戦争そのものが間違っているんだからな」
黒焔はしばらく無言で、その言葉の意味を噛《か》みしめていた。
「……俺にどうしろと言うんだ?」
「忘れるんだ、過去のことは。この現実を受け入れろ。確かに今の時代は正常じゃないかもしれん。だが、それを言うなら、今まで正しい時代なんてものはなかったんだ。我々はそれぞれの時代の中で生きてゆくしかないんだ――そうだろう?」
だが、黒焔は強くかぶりを振り、松五郎の言葉を振り払った。
「だめだ――俺には受け入れられん! こんな時代は!」
「黒焔――」
「あの大空襲は、お前には大昔の出来事でも、俺にはついこの前のことだ。B―29が空を覆い、何万という人間が炎の中で死んでいったあの夜のことは、俺には忘れることはできん! 許すことはできないんだ! 俺が憎しみを忘れてしまったら、あの人間たちの死はどうなる? あまりにも空しすぎるじゃないか!?」
「考え直せ、黒焔――」
「止めるな! 俺は俺の生き方で生きる! 俺一人でも戦争を続ける!」
そう言うなり、黒焔は変身した。全身が闇《やみ》のように黒く染まったかと思うと、一瞬にして膨張し、六本脚の黒い野獣の姿に変貌《へんぼう》する。黒焔の真の姿を知っている松五郎も、胸に埋めこまれた異様な機械を目にしてたじろいだ。
「隠れている連中、出て来い!」黒焔は周囲の茂みに向かって呼びかけた。「数に頼るしかないのか? この卑怯《ひきょう》者ども!」
黒焔の鋭敏な感覚をごまかすことはできない。松五郎が説得している間に、八環たちがひそかにこの公園を包囲していたことは、彼はとっくに気づいていた。
「出てこないのなら――」
黒焔の胸の紫外線投射装置がうなりをあげ、紫色に輝きはじめた。
「やめろ!」
松五郎は止めたが、間に合わなかった。雷鳴とともにビームがほとばしる。
強烈な破壊力を秘めた高圧電流は、まばゆい光の柱となって、一本の樹の幹に突き刺さった。樹がばっと炎上する。間一髪、蔦矢が悲鳴をあげて転がり出た。植物の妖怪《ようかい》である彼は、火には極端に弱いのだ。
黒焔はビームを池の向こう側に向けた。そこに隠れていたのは、うわばみの有月成巳だ。彼はとっさに池の水を操って、自分の前に水の壁を立て、攻撃をふせいだ。ビームは盛り上がった池の水に命中し、すさまじい水蒸気を発した。
突然、黒焔のすぐ横に、アーノルド・シュワルツェネッガー演じるターミネーターが出現した。映画マニアの蜃《しん》(蛤の妖怪)、朧孝太郎の生み出した幻影だ。
シュワルツェネッガーがたくましい腕で黒焔に殴りかかる。強烈なパンチを受け、黒焔はよろめいた。もちろん幻覚の生み出した痛みだから、本当に怪我をするわけではない。あわよくば黒焔を気絶させ、無傷で取り押さえようと考えたのだ。
だが、何百年も生きてきた黒焔は、こんな単純なトリックにはひっかからない。即座に幻影だと見破ると、それを操っている者を求めて、ビームを四方に乱射しはじめた。松五郎はとっさに地面に伏せる。
静かだった夜の公園は、一転して、閃光《せんこう》と轟音《ごうおん》の地獄と化した。闇を貫いて続けざまにほとばしる灼熱《しゃくねつ》のビームは、次々に茂みを焼き払い、樹を炎上させた。立て札が一撃で粉砕された。ゴミ箱が爆発し、新聞紙の紙吹雪が舞い散った。街灯に放電が走り、蛍光灯が火を噴いた。ビームがブランコの鎖をなぎ払うと、鎖は瞬時に自熟し、溶け落ちた。
「やめろーっ、黒焔!!」
松五郎の懸命の叫びも、轟音にかき消されて届かない。
黒焔の足許の地面が割れ、太い根が飛び出して、全身にからみついた。植物を操る蔦矢の妖術《ようじゅつ》だ。だが、黒焔は怪力であっさりそれを振り払う。
有月は誘眠の術をかけて黒焔を眠らせようと試みていた。だが、妖怪仲間でもとりわけ強い意志を持つ黒焔には、術も効果がない。
はばたきの音に気がついて空を見上げた黒焔は、大きな鳥のようなものが急降下してくるのを見た。鴉天狗《からすてんぐ》の姿を現わした八環だ。彼は背中の翼をはばたかせ、強風を巻き起こした。風を叩きつけて黒焔を転倒させようとしたのだ。だが、黒焔はその風を逆用し、吹き飛ばされながら、宙に舞い上がった。
空中で体勢を立て直した黒焔は、八環に向かってビームを放った。八環はとっさに自分の前に強烈な風の流れを作り、電気の通り道を乱した。直進してきたビームは八環の直前でねじ曲がり、いくつもの小さな放電に枝分かれした。それでも完全には防ぎきれず、分岐した放電の一本が翼を焦がした。
「ちっ、だめか!」
八環はつむじ風の壁で身を守りながら後退した。黒焔のビームはあまりにも強力すぎる。直撃をくらえば、彼でさえ命が危ない。
だが、黒焔もこれ以上、昔の仲間とやり合うつもりはなかった。ぐんぐんと高度を上げ、星空に小さくなってゆく。
「見てろよ! 誰にも俺は止められんぞ!」
それが彼の捨て台詞だった。
八環は追わなかった。悔しいが、飛行速度では黒焔の方が二倍も勝っている。それに、たとえ追いつけたとしても、あの強力なビームに太刀打ちする手段はない。
複雑な心境で、彼は地上を見下ろした。松濤公園は炎上していた。ビームの直撃を受けた数本の樹が、キャンプファイヤーのように盛大に燃え上がっている。炎は早くも近くの民家に燃え移りそうな勢いだ。有月は池の水を操って消そうとしているが、間に合いそうにない。
「撤退するぞ!」
八環は地上の仲間たちに呼びかけた。人間が集まってきたら面倒なことになる。
「黒焔、なぜ分からんのだ……」
夜空に消えてゆく黒焔を見上げ、松五郎は茫然《ぼうぜん》とつぶやいた。長年の友人、気心の知れた仲間のはずだったのに、今の二人の間には、夜の闇よりも深い断絶が横たわっていた。
半世紀の時の断絶が。
「マスター、早く!」
「あ、ああ……」
蔦矢にせかされ、松五郎はしぶしぶその場を後にした。
夜の松濤町に消防車のサイレンが響き渡っていた。
7 攻撃目標
翌日――
「というわけでさ、父さんたち、黒焔さんを取り逃がしちゃったってわけ」
ここは蒲田にある流の自宅。古い2LDKのアパートだ。かなた、摩耶、大樹の三人が、昼から見舞いに訪れていた。
もっとも、流の傷は麟が丸一日かけて治療したおかげで、自由に歩き回れるほどに回復しており、生活に何の支障もない。ベッドに横たわっている痛々しい姿を想像していた摩耶は、拍子抜けしてしまった――と同時に、眼鏡を取ると美人だと評判の麟がずっと付き添っていたと聞いて、ちょっぴり嫉妬《しっと》も覚えていた。
「黒焔さんの足取りは依然不明――いちおう、その矢田貝っていう人の家も監視してるらしいけど、わざわざ舞い戻るほどドジでもないだろうしね」
「そうかあ……あいつにそんな過去がねえ……」
かなたの話を聞き終えた流は、テーブルに肘《ひじ》をつき、放心したようにつぶやいた。いつもは短気でお祭り好きな性格なのに、今日はやけにおとなしい。
「どうしたんだ?」大樹が不審に思って訊《たず》ねた。「何か考えごとか?」
「あ? ああ、ちょっとね……」
流は少し気まずそうな様子で、不器用に苦笑した。彼のこんな表情を見るのは、摩耶は初めてだった。
「……ちょっと、あいつに同情しちまってさ」
「同情?」
「いや、感情移入って言うべきかな――想像してみたんだ。もし、俺があいつと同じ立場に立たされたら……どこかの国の飛行機が飛んできて、この街に爆弾を落としはじめたら、俺、黙って見ているなんてできないな。大勢の人が死んでくのを、ただ見ているだけなんて、とても耐えられない。不文律なんかくそくらえだ。戦うと思うな、やっぱり」
彼は振り返り、隣の部屋に呼びかけた。
「なあ、母さん。俺の考え、間違ってる?」
「そうねえ」台所でリンゴの皮を剥《む》いていた美涼は、振り向きもせずに答えた。「ま、基本的には間違ってないわね」
「だろ?」
「じゃあ、父さんたちが間違ってたってこと?」かなたが首を傾げる。
「いいえ。松五郎さんたちの考えも正しいと思うわ」
「だったら――」
「学校のテストじゃないのよ。正解がひとつしかないわけじゃないわ。互いに矛盾していても、それぞれが正義、それぞれが正解なのよ」
「でも、どれかを選ばなくちゃいけないわけだろ?」
「そうよ。この世に生きているかぎり、みんなおのおの、自分の責任で、どれかの正解を選ばなくちゃいけないの。それが人生ってものよ」
「うーん、難しいなあ」
美涼は剥き終わったリンゴを皿に盛って、居間に入ってきた。かなたたちは「いただきまーす」と言ってそれをぱくつく。
「私の両親は終戦の時、中国人の暴徒に殺されたわ」美涼はさらりと言った。「それはもちろん、許されないことよ――でも、両親にまったく何の罪もなかったかと言えば、嘘《うそ》になるわね。満蒙《まんもう》開拓[#「開拓」に傍点]団なんて称していたけど、未開の荒野を開拓してたわけじゃない。現地の人が耕していた畑を強引に取り上げて、自分たちの土地にしてしまったんですもの。恨みを買うのは当然かもしれない」
「誰もそれに反対しなかったの?」かなたが素朴な疑問を発する。「日本人の中に、誰か一人ぐらい、『こんなことするのは間違ってる』って言う人はいなかったの?」
「無理ね」美涼はきっぱりと言った。「周囲の人間がみんな揃《そろ》って間違ったことをしている時に、一人だけ正しいことを言うのは、ものすごく勇気が要ることよ。そんな勇気のある人は、まずいないわ」
「赤信号、みんなで渡ればこわくない……か」と大樹。
「そう。日本人はみんな揃って赤信号を渡り、車にはねられた――それがあの戦争なのよ」
美涼の言葉に、四人は黙りこんだ。しばらくは黙々とリンゴを食べ続けたが、話題が重すぎたせいか、味があまりよく分からなかった。
「あら、ごめんなさい。食事中にする話じゃなかったわね」
「ううん、そんなことないよ」かなたが慌てて打ち消した。「それに、昔の話でしょ? これからはもう、そんな時代は来ないよ。日本人はいっぺんひどい目に遭って懲りてるんだし、昔と同じ間違いはしないよ」
「そうかな?」大樹は疑わしそうに言う。「日本人は懲りてないと思うよ」
「どういうこと?」
「ここ何年か、どんな小説が売れてるか知ってる?」
「小説?」
「架空戦記――主に太平洋戦争を題材にして、ああしていれば日本は勝っていた、こんなすごい兵器があれば日本は勝っていた……ってなことを書いた小説だよ。もう何十タイトルも出てるんだぜ」
「ああ、本屋さんでよく見かけるけど……あれって面白いの?」
「僕も全部読んだわけじゃないけど、確かによく書けてる作品も多いよ。箸《はし》にも棒にもかからない駄作も多いけどね――ただ、どの作品にも共通して言えるのは、日本の軍人がすごく有能に描かれてるってことだ。民間人虐殺とか、従軍慰安婦とか、インパール作戦とか、旧日本軍の恥部になってる事件は、まず扱われないな」
「それが売れてるのか?」と流。
「一時期ほどのブームじゃないけど、今でも根強い人気があるよ。若者からサラリーマンまで、読者層はかなり幅広いらしい」
かなたは首を傾げた。「何でそんな小説が売れるのかなあ?」
「そりゃもちろん、そういう話を読みたい人間が多いからさ。今の歴史は間違ってる、日本は太平洋戦争で勝つべきだった、旧日本軍は本当は人道的で有能だった……つて信じたい人たちがさ」
摩耶ははっとした。「ひょっとして――」
「何?」
「ひょっとして、それって黒焔さんと関係あるんじゃないでしょうか?」
「黒焔と?」
「松五郎さんは言ってましたよね? 人の想いがあるから妖怪《ようかい》は復活するって――もしかしたら、大勢の日本人がそう望んだから、黒焔さんは復活したんじゃないでしょうか? いじん[#「いじん」に傍点]が復活したように……」
大樹は何度もうなずいた。「考えられるな――あの手の小説には、戦局を一変させる奇想天外な新兵器がよく出てくる。そういうものがあれば良かったと願う人の心が集まって、黒焔を復活させる力になったとしても不思議じゃない」
「だって――だって、今さら新兵器なんか出てきたって、何になるのさ!?」かなたの声は興奮のあまりうわずっていた。「戦争はもうずっと前に終わったんだよ!? 日本とアメリカはもう戦争なんかしてないんだよ!?」
「そうとはかぎらないさ」大樹は冷静に言った。「太平洋戦争の少し前にも、『日米もし戦わば』ってなタイトルの架空戦争小説がたくさん出版されたそうだ。今の日本の状況は、それに似てる」
かなたは息を飲んだ。「じゃあ、日本とアメリカはまた戦争するってこと?」
「誰も望まなければ、戦争なんか起きないさ。でも――」
大樹はちょっと言葉を切ってから、冷酷な口調でつけ加えた。
「大勢の人間がそれを望んだなら、戦争は起きる」
同じ時刻――
「おお、戻ってきたか、黒焔」
庭先に現われた男の姿を見て、重光はおやつをもらった子供のように、無邪気に顔をほころばせた。いそいそと茶を淹れ、菓子を差し出す。
「どうだ、例の件、決心はついたのか?」
「いえ、まだ迷っています」
男の自信なさそうな口調に、重光は眉《まゆ》をひそめた。
「何をためらうことがある? お前も言ったではないか。この半世紀の屈辱を晴らしたい、憎きアメリカにひと泡吹かせてやりたいと」
そう言ったのは黒焔ではなく重光自身だったが、こんな老人に正確な記憶力を求めるのは無理というものだろう。
「はい。そうは思ったのですが……」
「何だ? 何か心配か?」
「はい。何しろ重大な問題ですから、もう少し考えてみたいのです」
「いかんいかん!」重光は慌てて言った。「それでは遅すぎる。見ろ! あれが入港するのは明日なのだぞ。作戦を決行するのは港に近づく前――今夜しかない!」
そう言って重光は、新聞の切り抜きを男に突きつけた。それを見た男は、驚愕《きようがく》の表情を隠せなかった。慌てて重光の手から記事を奪い取り、目を通す。
それは米空母 <エンタープライズ> の横須賀寄港を報じた記事だった。「核搭載の疑惑濃厚」という部分に赤鉛筆で傍線が引いてある。
「核……!?」
「そうだ。 <エンタープライズ> は核を搭載している。それを奪い取って、アメリカの都市に落としてやるのだ」重光は唇を歪《ゆが》めて笑った。「たくさんは要らん。二発あれは充分だ。広島と長崎の報復――それでこそ正義が為されたことになる!」
その瞬間、男の表情が見る見る怒りに歪んだ。
「貴様という奴は!」
男は新聞記事を丸めて投げ捨てると、興奮して重光に飛びかかった。縁側に押し倒された重光は、驚きのあまり声も出なかった。男の姿は一瞬で変貌《へんぼう》していた。黒焔ではない――茶色い毛に覆われた体長一メートルぐらいの四足獣だ。
「く……!?」
「何ということをした!」松五郎は歯を剥《む》き出して怒鳴った。「あいつを――黒焔をそそのかして、そんな恐ろしい罪を犯させるつもりだったのか!? 貴様の時代錯誤な復讐心《ふくしゅうしん》のために、あいつを……!」
殺される――と、重光は思った。野獣の牙《きば》はすぐ目の前に迫っていた。恐怖のあまり身動きすらできない……。
だが、松五郎はかろうじて怒りを抑え、牙を収めた。老人の体から離れ、庭にひょいと飛び降りる。重光はぜいぜい息を切らせながら、上半身を起こした。
「殺しはしない」松五郎は冷たく言い放った。「死にかけの老人など手にかけても、後味が悪いだけだ――それに、私はお前と違って、ずっと昔に悟ったんだ。報復は何も生みはしないということをな」
最後にちらっと侮蔑《ぶべつ》の視線を投げかけると、松五郎は身をひるがえして駆けだした。庭の隅で高く跳躍し、塀を飛び越えて姿を消す。
重光は茫然《ぼうぜん》とそれを見送った。縁側に座ったまま、三分以上も震えが止まらなかった。下半身が濡《ぬ》れていることに気がついたのは、かなり経ってからだった――恐怖のあまり失禁していたのだ。
「 <エンタープライズ> ぅ!?」
松五郎から電話で知らせを受けた流は、驚きの声をあげた。摩耶たちがびっくりして振り返る。流は送話口を押さえ、説明した。
「黒焔の目的が分かった。横須賀に近づく <エンタープライズ> を襲うつもりらしい」
「まさか!?」とかなた。
「何のために?」と大樹。
「核爆弾を奪って、アメリカの都市に投下するんだそうだ」
摩耶たちは驚きのあまり絶句した。その間に、流は残りの用件を聞き終えていた。
「分かった。急いで行く。じゃ」
電話を切ると、彼は摩耶たちに向き直った。
「黒焔は今夜、海上で <エンタープライズ> を襲うつもりらしい。今、東京周辺の他のネットワークにも連絡を取って、空を飛べる者を総動員してる。何としてでも、奴を洋上で阻止しないと、大変なことになる」
流はそう言いながら、急ぎ足で玄関に向かった。ハンガーに掛けてあった安物のスタジャンに腕を通す。
「これからすぐに横須賀に行く。そこでみんなと落ち合うことになってる」
「待って!」摩耶が慌てて追いかけてくる。「私も行きます!」
「無理だよ。危険すぎる」流はスニーカーを履きながら答えた。
「でも、一人でも手が多い方がいいんでしょ? だったら私も……」
「あのねえ、摩耶ちゃん――」
「行きます!」
摩耶は決然と言った。
流はため息をついた。この内気で気弱そうな少女が、心の奥に炎のような情熱と堅い意志を秘めていること、いったん何かを決心したならどんな説得も効果がないことは、以前の事件で証明済みだ。
「分かった――でも、自分の身は自分で守れよ。今回ばかりは、君をかばってやる余裕はなさそうだから」
「はい!」
摩耶は嬉《うれ》しそうに靴を履きはじめた。
「流……」
美涼がさすがに心配そうに声をかける。相手は一度、流に重傷を負わせている。今度は命が危ないかもしれないのだ。
「分かってるって、母さん」流は戸口で振り返り、にっこり微笑んだ。「必ず帰るから、朝食、用意しといてよ」
8 大洋の巨城
アメリカ海軍第七艦隊空母CVN―65 <エンタープライズ> ――一九六一年に就航した世界初の原子力空母である。
全長は三三一・六メートル。これは東京タワーを横倒しにした長さにほぼ等しい。最大幅七六・八メートルの巨大な飛行甲板は、五五〇〇坪の広さがあり、アメリカン・フットボールのフィールドが二面取れて、さらに余る。
乗員は三三〇〇人。航空機要員は二三〇〇人。ちょっとした団地に匹敵する人口だ。艦内には、病院や食堂はもちろん、売店、歯科医院、理髪店、礼拝堂もあり、まさに浮かぶ都市だ。一日に消費される食パン一二〇〇個、野菜二・九トン、肉二・五トン……。
搭載機は、F―14A <トムキャット> 戦闘機、F/A―18 <ホーネット> 戦闘攻撃機、A―6E <イントルーダー> 攻撃機、S―3A <バイキング> 対潜|哨戒機《しょうかいき》、E―2C <ホークアイ> 早期警戒機、EA―6 <プラウラー> 電子戦機など、計八〇機。その他にも、SH―3H <シーキング> 対潜へリコプター六機も積まれている。たとえば <ホーネット> 一機だけでも、かつてのB―29を上回る量の爆弾を搭載できるのだから、その破壊力のすさまじさは想像がつこうというものだ。その気になれば、この <エンタープライズ> 一艦だけで、半世紀前の東京大空襲を再現できるのだ。
もちろん、広島と長崎の悲劇も再現できる。
核を搭載しているのは <エンタープライズ> だけではない。日本の政治家はいまだに「アメリカ側から『核を搭載している』という正式の通告がない以上、核は搭載されていないものと信じる」などととぼけたことを言っているが、米軍の艦艇が日本に寄港する前に、わざわざ核を下ろしたりしないことは、軍事関係者の常識である。非核三原則が守られていると信じている者は、よほどのお人好しだけだろう。
九万トンの巨体に動力を供給するのは、八機のウェスティングハウス社製加圧水型原子炉だ。蒸気タービンによって駆動する四軸の巨大なスクリューにより、最高速力六〇キロ以上で海上を突き進む。
今、 <エンタープライズ> は護衛艦を伴い、烏島の西三〇〇キロの海上を、巡航速力で北上していた。現在の時刻は午後七時。明日の朝には東京湾に到着し、何の支障もなければ午前一〇時頃に横須賀に入港する予定だ。
すでに陽は沈んでおり、空には一面の星がまたたいていた。灯火をともした鋼鉄の巨艦は、そのくさび型の艦首で暗い海面を断ち割り、膨大な量の海水を力まかせに押しのけて、しずしずと前進している。その後方には長い航跡が延びており、南西の空に浮かぶ三日月の光を反射して、金色にきらめいていた。
空母自身には攻撃力はほとんどないが、常に対潜哨戒機と早期警戒機がパトロール飛行を行なっているし、艦の両側には二隻の巡洋艦が随行して、がっちり守りを固めている。海面下には二隻のロサンゼルス級攻撃型原潜がひそんでいるし、駆逐艦、補給艦も後に続いている。
多くの護衛を引き連れて夜の海を進む <エンタープライズ> は、大海の覇者と呼ぶにふさわしい存在だった。
早めの夕食を済ませ、副長のエドワード・マーコウィッツ中佐が航海艦橋《ナヴィゲーティング・ブリッジ》に上がってくると、艦長のロナルド・E・クーザック大佐は、ブリッジの隅にある自分の席に座り、今日、厚木基地経由で届いたばかりの雑誌に読みふけっていた。
艦長席には、大小四つのモニター、パソコンのキーボード、艦内電話、スピーカーなどが並び、艦内の状況を常に把握できる。 <エンタープライズ> が海上にある間、クーザックは一日の大半をこの席で過ごしている。ブリッジの近くには艦長の専用室もあるのだが、そこに帰るのは眠る時だけだ。艦長としての責任もあるのだが、飛行甲板を一望に見下ろせるこの席が、お気に入りなのも事実だった。
まだ四〇代前半のこのハンサムな新任艦長は、少し子供っぽいところがあり、真面目一辺倒のマーコウィッツとは好対照だった。副長としてのキャリアの長い年配のマーコウィッツは、我が子に接するような温かい目で艦長を補佐している。
「艦長」
マーコウィッツ副長は敬礼を省略して艦長に近づいた。艦長席の天井は極端に低く、かがまないと頭をぶつけてしまうのだ。軍艦の中ではスペースは徹底的に節約される。艦長席とて例外ではない。
「発艦作業は順調に進んでいます。あと三〇分で終了予定です」
クーザック艦長は時計に目をやった。「一九三〇か――ということは、二一〇〇までには全機、厚木に到着するな」
「はい。周辺住民に文句を言われずに済みそうです」
現在、艦の前部にある第一・第二カタパルトでは、搭載機の発艦作業が連続して行なわれていた。搭載機のメンテナンスは艦内格納庫でも行なわれるが、地上の基地ほどの信頼性はないし、オーバーホールなどの大掛かりな整備作業も無理である。そこで、空母がどこかの港に入る際には、近くの基地に搭載機の一部を移して、地上でメンテナンスを行なわせるのが通例だった。この場合は当然、厚木基地ということになる。
「周辺住民と言えば、抗議行動はどうなってる?」
「今日も環境保護団体の小規模なデモがあったようですが、おとなしいものですよ。明朝は漁民の海上デモが予定されていますが、自衛隊と海上保安庁が仕切ってくれますから、まあ、たいした混乱にはならないでしょう」
「うん。何のトラブルもなしに済んで欲しいものだな」
そのささやかな願いが、わずか数分後に打ち砕かれる運命にあるとは、クーザック艦長は知るよしもなかった。
「ところで、これを見たか? A―12がいよいよヴェールを脱いだらしいぞ」
艦長は嬉《うれ》しそうな様子で、 <アヴィエーション・ウィーク> 誌の読みかけのページを見せた。三角形をしたステルス機の飛行風景を撮影した写真が載っている。
A―12 <アヴェンジャー> は、海軍の次期攻撃機として、ジェネラル・ダイナミックス社とマクダネル・ダグラス社で共同開発が進められてきた新型機だ。正式配備されることになれは、当然、 <エンタープライズ> にも搭載されることになるだろうから、マーコウィッツとしても無関心ではいられない。
「全幅七〇フィートですか」マーコウィッツは機のスペックに注目した。「ふむ。大きいですな。翼を折り畳んでも三五フィート……これはかなりスペースを食いますなあ」
「ああ。 <イントルーダー> の一・五倍は必要だろう。搭載機数が大幅に減ることになる。それに見合った性能があればいいんだが……」
「しかし、五、六年前に発表された想像図とは、あまり似てませんな」
「まあ、最初に発表される想像図が実物と違うのは、いつものことだ――ステルス戦闘機のプラモデルが発売された時の騒ぎを覚えてるか? F―117Aが、まだF―19と呼ばれてた頃のやつだ」
「ああ、あれですか」
一九八六年、「アメリカがひそかに開発しているステルス戦闘機F―19」と称するキットが、あるプラモデル・メーカーから発売された。それは極秘ルートから漏洩《ろうえい》した実物の設計図を基にしていると噂《うわさ》された。その機体はSR―71を思わせる未来的なデザインで、全体が曲線で構成され、主翼も丸みを帯び、コクピットの左右に小さな先尾翼《カナード》があった。いかにも説得力のある形をしていたので、多くの人間がこれを本物と信じた。
ところが、その二年後、本物のF―117A戦闘機が姿を現わした時、世界中の軍事マニアは腰を抜かした。それはあの「F―19」のプラモデルとは似ても似つかない代物だった。全体が直線で構成され、先尾翼もなく、SR―71に似たところは少しもなかった。世界中が見事に騙《だま》されたのだ。
だが、それはプラモデル・メーカーの単なるいたずらだったとは思えない。というのも、後で判明したことだが、そのプラモデルの形は、F―117Aの初期の案のひとつにきわめて近かったのだ。やはり何らかの機密漏洩があったのは間違いない。
「今から思えば、あれは東側向けのディスインフォメーション(敵をあざむく誤情報)だったんだろうなあ」クーザック艦長はつぶやいた。「わざと間違った機密を洩《も》らし、敵を混乱させたわけだ」
「旧ソ連の技術陣は、アメリカの物真似が得意でしたからな」マーコウィッツは大きくうなずいた。「戦闘機も、スペースシャトルも、みんなアメリカのものにそっくりだった」
「ああ。おそらく、あのプラモデルと同じ形の試作機を作ろうとして、ずいぶん金と労力を無駄にしたことだろうよ」
そう言ってクーザックはくすくす笑った。マーコウィッツもつられて微笑んだが、すぐに真顔に戻った。
「しかし、そのソ連も、今やない……」彼はどこか寂しげな表情で、雑誌に載っている最新鋭機の写真に目を落とした。「この機もはたして議会が予算を認めるかどうか――冷戦が終わってからこっち、軍事関係の予算は締めつけがきびしいですからな」
「ああ、確かに前途多難ではあるな」クーザックの口調は楽天的だった。「だが、議員連中だって分かるはずだ。新兵器は常に作り続ける必要があるってことを」
「そうでしょうか?」
海軍に在籍して三〇年以上、ベトナム戦争以降、数多くの兵器の変遷を見てきたマーコウィッツには、これ以上の兵器の性能向上が可能だとは思えなかった。
「今以上に進歩した兵器とはどんなものなのか、私には想像がつきませんな」
「だが、作る必要はある」クーザックはきっぱりと言った。「この世から戦争がなくなることは決してない。いつかまた、大きな戦争は必ず起こる――その時に備えて、我々は常に世界最強の軍隊であらねばならないんだよ」
夜でも目立つ黄色のベストを着たカタパルト士官《オフィサー》が、戦隊ものの名乗りのシーンを思わせる大げさなジェスチャーで、ライトスティックを振り回し、発艦のサインを出した。甲板横のキャットウォークに待機していたカタパルト要員が、コントロール・パネルの発射ボタンを押す。
ごおっ!
第二カタパルトが轟音《ごうおん》を立てた。高圧蒸気によって駆動するシャトル・アッセンブリーが、二〇トンの重量があるF/A―18 <ホーネット> を牽引《けんいん》して、レールに沿って時速二五〇キロで疾走する。レールの隙間《すきま》から激しく蒸気が噴き出した。空中に射ち出された <ホーネット> は、一瞬、ふわりと沈みこんだものの、すぐに夜空へ舞い上がった。
右隣の第一カタパルトでは、すでに次の <ホーネット> がスタンバイしていた。操舵《そうだ》装置などの点検がすべて終わると、前輪の射出バーが下ろされ、シャトル・アッセンブリーにひっかけられた。カタパルト近くにあるステーション内にいる要員が、機の重量、蒸気圧、外気温、風速や風向などの情報を細かくチェックしている。
甲板上には他にも二機の <ホーネット> が、発艦の順番を待っていた。一機はすでに空いた第二カタパルトに向かって地上滑走《タキシング》を開始している。他にもまだ四機、三〇分以内に発艦の予定で、甲板の下にある格納庫から、艦の右舷《うげん》にある大型エレベーターに載せられて、順次、甲板上に上げられている。
カタパルト上で発進を待つ <ホーネット> の後方にある甲板が、油圧ジャッキに支えられて起き上がり、壁となった。ジェット噴射から甲板要員や他の機を守るためのジェット・ブラスト・ディフレクターだ。
あとは発進のサインを出すばかり――という時になって、カタパルト士官のデヴィッド・ベッカーの耳に「発艦作業を一時中止せよ」という声が飛びこんできた。ヘルメットの両側についたヘッドホン、通称ミッキーマウス≠ゥらだ。
「なぜだ!?」
ベッカーはジェットエンジンの爆音に負けないよう、マイクに向かって声を張り上げた。すぐに航空管制所《プリ・フライ》から返答が届いた。
「さっき発艦したS―3Aが、航法用電子機器《アビオニクス》の不調を訴えて戻ってきた。緊急着艦する」
「りょーかい」
ベッカーはすぐに納得した。着艦と発艦を同時に行なうことは可能だが、今の状況では発艦を特に急ぐわけではないのだから、万一の場合に備えて、着艦を優先するのは当然だ。ほんの数分、ロスするだけだから、スケジュールに支障はない。
ベッカーはカタパルト上で待機しているパイロットに、「待て」「パワー落とせ」のサインを出した。パイロットは「了解」のサインを出す。
双発の対潜|哨戒機《しょうかいき》S―3A <バイキング> が、爆音を立ててベッカーの頭上を通過した。いったん高度二四〇メートルで空母を追い越してから、ぐるりと左回りに一周して戻ってきて、空母の右斜め後方からアプローチするのが、着艦の手順なのだ。 <バイキング> は夜空に翼端灯を明滅させながら、速度を落として左に旋回する。昼間であったなら、脚を下ろしているのが見えたはずだ。
手持ちぶさたになったベッカーは、ぶらぶらと右舷の方に歩いていった。甲板要員はお互いに無駄口を叩《たた》くこともできない孤独な作業だ。航行中の空母の飛行甲板の上では、常に風の音やジェットの排気音が轟《とどろ》いているため、声はほとんど届かない。身振りでサインを送るか、通信機に頼るしかないのだ。
甲板の端にはキャットウォークがあり、海面上に突き出た狭い通路の上で、コントロール・パネルを操作する要員が待機している。吹きすさぶ冷たい風の中で、誰もが寒そうに背を丸めていた。その向こうには、一九七九年の改修によって増設された張り出しがあり、四角い大きな箱が円柱に支えられて立っている。この艦の数少ない武装のひとつ、対空ミサイル <シースパロー> のランチャーだ。
海上に目を向けると、右舷に艦影が見えた。タイコンデロガ級ミサイル巡洋艦、いわゆるイージス艦だ。強力なレーダーと多数の対空ミサイルを装備し、 <エンタープライズ> に接近するあらゆる敵を感知し、撃墜する、頼もしい存在だ……。
「ん?」
ベッカーは目を凝らした。イージス艦と本艦の間を、何か黒いものが飛んでいるのが見えたのだ。月の光が暗くて見えにくいが、確かに波間すれすれをこの <エンタープライズ> に並んで飛んでいる。
飛行機か?――いや、違う。飛行機なら見慣れている。シルエットを見ただけで機種は判別できる。あれはまるで……。
そう、信じられないことだが、六本の脚を持った獣のように見える。
「プリ・フライ!」ベッカーはマイクに向かって呼びかけた。「本艦の右舷、五〇〇フィートに友軍機はいるか!?」
「何だって?」
ベッカーは一語ずつ区切って繰り返した。「本艦の・右舷・五〇〇フィートに・友軍機は・いるか?」
「いや、いない」プリ・フライからの返事はそっけなかった。「レーダーに映ってるのは、本艦を発艦して厚木に向かってる機と、二機の哨戒機、それにアプローチ中のS―3Aだけだ。それがどうかしたか?」
当然の返事だった。だいたい、友軍機ならライトを点けているはずだ。
「右舷五〇〇フィートに飛行物体がいるぞ! 海面すれすれだ!」
「まさか。レーダーには何も――」
「だったら、窓から見てみろ!」
そう言ってからベッカーは、馬鹿なことを言ったと思った。プリ・フライは艦の右舷中央に立つブリッジの左側、飛行甲板を見下ろす位置にあるのだ。搭載機の発着を管制する部署なのだから当然である。その窓からは艦の右側を見ることはできない。
「CIC(戦闘情報管制センター)に問い合わせろ!」ベッカーは苛立《いらだ》った。「本艦の右舷に何か飛んでるんだ! 本当だ!」
十数秒して、返答が戻ってきた。「CICも何もキャッチしていない」
「だったら連中にも窓の外を見ろと言え!」
ベッカーは興奮して怒鳴った。CICは艦の奥深くにある。もちろん窓はない。
その時、ベッカーは見た――黒い飛行物体が身をよじるようにして反転し、艦の後方に向かうのを。
艦の後方からは、今まさに、 <バイキング> がアプローチに入りつつあった。
(やれやれ、ついてないぜ)
操縦スティックを握るパイロットのダリル・ブラックマン中尉は、心の中でぼやいていた。
他の多くの乗員と同じく、彼も狭苦しくて女気のない艦内の生活に飽き飽きしていた。二週間に及ぶハードな演習を終え、ようやく <エンタープライズ> をおさらばし、固い地面に降りられると思っていたのに、機器の不調でまた舞い戻るはめになるとは……。
もっとも、そんなに悲観したものでもない。どっちみち、明日の朝には <エンタープライズ> は横須賀港に入る。地面に立つのが半日遅れるだけのことだ……。
<バイキング> は最後の旋回を終え、 <エンタープライズ> の右斜め後方から、グライド・スロープと呼ばれる目に見えないコースに沿って接近しつつあった。艦の後部にある誘導灯が頼もしく輝いている。
他の空母と同じく、 <エンタープライズ> の着艦デッキは、進行方向に対してやや左に傾いている。ここに右斜め後方からアプローチして、機体の尾部についているフックを、甲板上に張られたワイヤーにひっかけ、停止するのだ。
着艦デッキの左側で、横一列に並んだ赤いランプ群が点滅した。フレネル・レンズ光学着艦システム、通称ミートボール≠セ。ランプの間にある箱型のフレネル・レンズからの黄色い光が、機が適切なグライド・スロープに乗っているかどうかを教えてくれる。これを見ながら機を操縦すればいいのだ。夜間の着艦には、通常、レーダーによる誘導も用いられるが、電子機器に不調が見られる今の状態では、あまり信頼できない。ミートボール≠頼りに、自分の目で着艦するしかない。
ブラックマンは機体をわずかに右に傾けていた。 <エンタープライズ> もまた前進しているから、それを追いかけながら右後方から接近するには、常に機体を右に横滑りさせている必要があるのだ。もちろん、高度なテクニックを要求されるが、これができなければ海軍のパイロットにはなれない。空母への着艦をもう何百回もこなしているブラックマンにとっては、車の車庫入れと同じくらいたやすいことだった。
彼の注意は今、ミートボール≠ノのみ集中していた―― <エンタープライズ> の右舷からこちらに向かってくる小さな黒い飛行物体になど、気がつくはずがなかった。
機は最終アプローチに入った。進入角は三・五度、速度は一二五ノット(二三〇キロ)、機首仰角は八度……どんぴしゃりだ。
着艦デッキが大きく迫る。緊張の一瞬だ。空母の甲板上ではいつも乱気流が吹き荒れており、近づくと機体が激しく揺れる。それをコントロールしつつ、時速二三〇キロでタッチダウンしながら、四本あるワイヤーのどれかにフックをひっかけるのだから、まさに曲芸だ。全神経を集中しなくてはできない。
着艦五秒前。ブラックマンはスロットルをマキシマムまで押し出した。二基のエンジンの轟音《ごうおん》がひときわ高くなる。着艦に失敗し、緊急上昇する場合に備えて、あらかじめエンジンのパワーを上げておく必要があるのだ。
視界いっぱいに <エンタープライズ> の黒い巨体が広がった……。
その時、機の右側で強烈な紫色の閃光《せんこう》がひらめき、ブラックマンの眼を射た。次の瞬間、大音響とともに機体は激しく揺れた。何が起こったのか、ブラックマンも他の三名の乗員も理解できなかった。
右側のターボファンジェットが、ビームの直撃を受けて爆発したのだ。
右主翼が根元からちぎれて吹き飛んだ。そのあおりを受け、機体は左に九〇度傾いた。大きく下がった左の翼端が、空母の甲板の端にひっかかった。
重量一八トンの <バイキング> は、風車のように回転し、着艦デッキの上を転がり回った。最初の一回転でコクピットがぐしゃりと潰《つぶ》れ、乗員は即死した。二回転目で甲板上の着艦ワイヤーをひっかけ、四本ともひきちぎった。三回転目で大きく跳ね上がって、残っていた左翼を下にして甲板に激突し、ようやく止まった。その衝撃で、すでにフルパワーに達していた左エンジンが爆発した。甲板上に立っていたLSO(着艦信号士官)は、吹っ飛んできた車輪を慌ててよけた。
その炎は機体に積まれていた航空燃料に引火し、三度目の、さらに大きな爆発を惹《ひ》き起こした。炎が高く夜空を焦がし、甲板上を明るく照らし出した。
9 <エンタープライズ> 炎上
「聞いたか!?」
「はい!」
爆発が起きて十数秒後、流と摩耶はその爆発音を耳にした。
二人は <エンタープライズ> の北東四キロの海上を飛行していた。摩耶は夢魔を変形させ、鎧《よろい》のように全身にまとって、背中の翼で飛んでいる。以前、女悪魔と戦った時に身につけた方法だった。
水平線上に火の手が上がるのが見えた。炎をバックに、 <エンタープライズ> のブリッジのシルエットが浮かび上がる。
「ちくしょう、もうやりやがったのか!?」
流は歯噛《はが》みした。黒焔が <エンタープライズ> を襲うのは、たぶん真夜中だろうと踏んでいた。だから手分けしてその周辺を飛行し、黒焔が近づかないように見張っていたのだ。こんなに早く行動を起こすとは予想外だ。
「行きます!」
摩耶は速度を上げ、流を追い抜いた。
「ちょ……ちょっと待った!」
流は慌てて身をくねらせる。しかし、飛行速度ではとうてい夢魔にかなわない。以前、夢魔は彼女を抱えて時速一八〇キロで飛行したことがあるのだ。
「一人じゃだめだ、摩耶ちゃん!」
「でも、あの人を早く止めないと……あれ以上、罪を犯させちゃいけません!」
そう言うなり、摩耶は翼を力強くはばたかせ、ダッシュした。ぐんぐん速度が上がり、流を引き離してゆく。
「摩耶ちゃーん!」
流は絶叫した。だが、水平線上に炎上する船に向かって飛んでゆく彼女の姿は、急速に小さくなり、見えなくなった。
「DAC! 被害状況を知らせろ! DAC!」
クーザック艦長は艦内電話のマイクをつかみ、絶叫していた。だが、スピーカーから流れるのは耳ざわりなノイズばかりだ。チャンネルを切り替え、あちこちの部署を呼び出してみたが、どれも同じだった。
「くそっ!」
彼は受話器を叩《たた》きつけた。 <バイキング> が爆発した直後から、艦内電話はノイズだらけになっていた。一階下の戦闘艦橋《シグナル・ブリッジ》とさえつながらないのだ。
異常なのは電話だけではない。ブリッジ内のすべてのモニターは乱れ、計器は狂い、スピーカーはノイズを発し、照明は不規則に明滅している。スタッフはパニックに陥っていた。こんな異常な事態に対処する方法は、どのマニュアルにも載っていない。
「何てことだ……」
クーザックは艦長席から身を乗り出し、着艦デッキで炎上を続けている <バイキング> の残骸《ざんがい》を、絶望的な心境で見下ろした。茶色のライフトベストとヘルメットを着用した消火要員や、白いベストを着た救急要員が右往左往しているのが見えるが、まだ消火作業はほとんど進んでいない。
<エンタープライズ> の長い歴史上、甲板上で大規模な火災が発生するのは、これで二度目である。一度目は一九六九年一月に起こった。発艦を待っていたF―41 <ファントム> 戦闘機のロケット弾が暴発し、僚機に命中したのだ。猛火は並んでいた艦載機に次々と燃え移り、最終的に艦載機一八機が破壊され、二八人が死亡する惨事となった。
だが、今回の事故はそれを上回るものになるかもしれなかった。
そしてここにも、苛立《いらだ》っている男がいた。
「ちくしょう! プリ・フライ! 何で応答しない!」
ベッカーはマイクに向かって声を涸《か》らして叫んでいた。だが、ヘッドホンからはがりがりという不愉快な音しか聞こえない。
彼の位置からは一〇〇メートルほど離れた甲板中央では、 <バイキング> がまだ派手に炎上していた。ようやく本格的な消火作業がはじまったところだ。ディーゼル・エンジンで動く消防用トラックが駆けつけ、天井のノズルから泡沫消火液を噴射する一方、救急要員が負傷者を運んでいる。甲板上の人間の目は、みんなそちらに集中していた。
「おい!」
ベッカーはキャットウォークに飛び降りた。パネルの近くにいた若いカタパルト要員の胸ぐらをひっつかみ、激しく揺さぶる。
「お前もあれを見たろ!?」
若者はどぎまぎしている。「え? 何です?」
「あの黒い怪物だ! あいつが格納庫に入ってゆくのを見たろ!?」
「何のことです? 怪物?」
「ちっ!」
ベッカーは若者を突き放した。
彼は見たのだ。あの黒い飛行物体がビームを発射し、 <バイキング> を撃墜するのを――それだけではない。甲板上の人間の視線が大惨事に集中している間に、野獣のような黒い怪物は右舷《うげん》から低空で接近してきて、第一カタパルトのすぐ右後方にある格納庫の開口部から艦内に入ったのだ。
<エンタープライズ> の格納庫の開口部は、右舷に三箇所、左舷に二箇所あり、その外側には吹きさらしの大型エレベーターが設計されている。このエレベーターに載せて、艦載機を飛行甲板へ運び上げるのだ。普段はエレベーターは飛行甲板の高さに上がっていて、格納庫の入口は二重のスライディング・ドアで閉ざされているが、今はちょうど艦載機を運び出す作業の最中だったため、エレベーターは下に降りており、格納庫の入口は露出していた。怪物はそこから艦内に侵入したのだ。
怪物が <バイキング> を撃ち落としたのは陽動だったのだ――飛行甲板上にいる者でそれに気づいたのは、ベッカーだけだった。
<エンタープライズ> の第一格納庫は、飛行甲板より二層下にあって、三層分吹き抜けの高さがある。長さ一二〇メートル、幅三〇メートルもあり、駐車場として用いたなら二〇〇台以上収容できるだろう。四〇機以上の戦闘機を格納することが可能だが、現在は一五機の <ホーネット> 、九機の <イントルーダー> が、翼を折り畳んで並んでいた。
また、ここは艦載機の整備や点検を行なう場所でもあり、タイヤ、バッテリー、増設燃料タンク、電子装備などの交換部品も用意されている。夜間でも常に数十人の整備員が作業を行なっていた。
その広い第一格納庫を、黒焔はわずか一分足らずで制圧した。
もちろん、燃料タンクをはじめとする爆発物がごろごろしている場所でビームを乱射するほど、彼も無謀ではない。開口部から飛びこんでくるなり、ライオンのような咆哮《ほうこう》をあげ、壁や天井に向けて、出力を落としたビームを威嚇に何発か撃ったのだ。たったそれだけで、整備員たちは悲鳴をあげ、逃げまどい、通路や隣の部屋への出口に殺到した。
黒焔はそこを冷静に狙《ねら》い撃った。
手早く殺戮《さつりく》を終えると、黒焔はあらためて格納庫の中を見回した。あたりには強いオゾンの匂《にお》いに混じって、肉の焦げる匂いがたちこめていた。どの出口の前にも、真っ暗に焦げた死体が積み重なり、ぶすぶすと煙をあげている。まるでマネキン人形のように現実感が無く、ほんの十数秒前まで生きて動いていたものとは、とても思えない。
黒焔は衝撃も受けず、何の哀れみも覚えなかった。同じような死体は東京大空襲で見慣れていた――あの夜にはこの何千倍もの数の日本人が焼け死んだのだ。アメリカ人がその報いを受けるのは当然だ、と彼は思った。
幸運にも逃げのびた者も何人かいたようだ。だが、艦内の電気系統はすべて狂わせているから、艦内電話で非常事態を通報することもできまい。それに、ブリッジにいる指揮官たちの注意は、甲板上の火災に集中しているはずだ。彼らが格納庫の異変に気づいて押し寄せて来るまで、数分の余裕があるだろう。
その間に任務を済ませなくてはならない。
格納庫の隅に、まだ生きている者が一人だけいた。整備員のバズ・メルマンだ。まだ少年と言えるほど若い男で、戦闘機の着陸脚にしがみつき、目を丸く見開いて、がたがた震えている。現実離れした恐ろしい光景を目撃したため、なかば精神に異常をきたし、動くこともできないのだ。
黒焔は彼におもむろに歩み寄った。メルマンは「ひいっ」と叫んで、手にしたスパナを投げつけたが、黒焔には当たらなかった。
メルマンは赤ん坊のように床を這《は》い、こそこそ逃げ出そうとした。黒焔は鋭い爪《つめ》でその衿首《えりくび》をつかみ、強引に立ち上がらせた。以前に習ったことのある初歩の英語を思い出し、耳元にささやきかける。
「うぇあ・いず・あとみっく・ぼむ(原爆はどこだ?)」
「だめです!」
息を切らせて階段を駆け上がってきた士官が報告した。
「見て回った範囲では、どこも状況は同じです。戦闘艦橋、CIC、通信室、飛行甲板……どこもかしこも、電子機器がすべて狂ってます!」
「全部か?」
マーコウィッツ副長は驚いて問い返した。
「はい。コンピュータ、レーダー、通信機、モニター……全部です。エレベーターも動きません。連絡が混乱しているので、緊急要員が集まらず、消火作業もはかどっていません」
「新手の電子妨害《ジャミング》かな?」
「それも不明です。対電子戦システムも完全に麻痺《まひ》してますので」
「どうします、艦長?」
マーコウィッツは振り返り、クーザック艦長の指示を求めた。艦長は窓に寄りかかり、苦悩している。こうした大事故が発生した場合には、DAC(損害対策指揮補佐)という専門の士官が中心となって、ダメージ・コントロール班を指揮することになっている。だが、命令系統が寸断している今の状況では、それも困難だ……。
「 <ベインブリッジ> は何をやってる!? こっちの火災は見えてるはずだろう!?」
クーザックは窓の外に目をやり、 <エンタープライズ> の左舷《さげん》に随行している原子力巡洋艦を恨めしそうに見つめた。
副長は肩をすくめる。「向こうもこちらの状況が分からないのではないでしょうか。連絡を取ろうにも、発光信号も使えない状態ですので」
「異変はこの艦だけか?」
「おそらくは――見たところ、クリスマス・ツリーのように点滅しているのは本艦だけで、他の艦は電気系統には異状がないように見えます」
電気系統――その何気ない言葉に、クーザックは不吉な響きを感じた。
「……待てよ!」
彼ははっとして振り返り、副長を見た。
「原子炉はどうなんだ!? あれを制御しているのもコンピュータだぞ!」
マーコウィッツの表情は蒼白《そうはく》になった。
彼らの四〇メートル下、 <エンタープライズ> の最下層では、まさにクーザックの危惧《きぐ》した事態が進行していた。
機関長のアルバート・ケルシー中佐は、恐怖におびえた目で、赤いランプがでたらめに明滅するコントロール・パネルを見つめていた。長年のつき合いである八基の加圧水型原子炉は、今や完全に彼の手を離れ、暴走していた。機関制御室内にはいくつもの警報ブザーが同時に鳴り響いており、すさまじい騒々しさだ。
「だめです! まったくコントロールできません!」
必死にボタンやスイッチ類を操作しながら、技術士官が泣きそうな声を出す。
「ECCS(緊急炉心冷却装置)は?」
「作動しません!」
「手動操作は!?」
「やってますが、反応ありません!」
「汚染はどうだ?」
「分かりません。放射線カウンターはでたらめな数字を表示してます」
「どうなってるんだ!」ケルシー中佐は灰色の髪の毛をかきむしった。「いったい上で何があった!? ブリッジはなぜ応答しない!? 核攻撃でもあったのか!?」
混乱の極致にある機関制御室に、ケルシーの命令で防護服を着て原子炉の様子を見てきた部下が駆け戻ってきた。
「制御棒が動いてます!」
「上がってるのか? 下がってるのか?」
「両方です」男の声はうわずっていた。「メリーゴーランドみたいに、上がったり、下がったり……規則性はありません」
ケルシー中佐は戦慄《せんりつ》した。制御棒が下がる分には問題はない。原子炉が停止するだけだ。だが、制御棒が上がれば……。
核反応が急速に進行し、炉心温度が上昇する。それがある限界を超えたら、制御棒はもはや熱で変形して動かなくなり、制御の利かなくなった炉心温度は限りなく上昇を続ける。原子炉容器内を循環している一次冷却水が沸騰を開始する。燃料棒被覆管のジルコニウム合金が水蒸気と反応して、大量の水素が発生する。やがて爆発が起き、原子炉容器を内側から破壊して、大量の放射線同位元素を空中と海中にまき散らす……。
もちろん、原子炉にはそうした最悪の事態を回避するため、安全システムが何重にも設けられている――だが、今やそれがすべて機能しなくなっているのだ。
現在の炉心温度を知る方法はない。温度計のメーターもすべて狂っているからだ。だが、いっさいの安全システムが麻痺したまま、このまま制御棒が人間の手を離れて不気味なダンスを続ければ、間違いなく最悪のアクシデントに発展する――いや、すでにそうなりかけているとしても不思議はない。
それなのに、ブリッジに連絡が取れないので、警報を発することさえできないのだ。たとえ警報が出せたとしても、短時間ですべての乗員が退去するのは不可能だ。五六〇〇人の乗員の生命は、今や風前の灯だった。
黒焔は自分のやっていることを理解していなかった。彼には原子炉に関する知識はなく、ましてや「チェルノブイリ」などという単語は聞いたことがなかった。八基の原子炉が日本近海でメルトダウンを起こせば、風と海流に乗って、チェルノブイリ事故に匹敵する放射能が日本を直撃するなどとは、想像もできなかった。
「神よ……」
ケルシー中佐は茫然《ぼうぜん》とつぶやいた。今や神に祈る以外、彼にできることはなかった。
ベッカーは格納庫の開口部がストロボのように何度も光るのを目にした。中で何かが起きているのだ。キャットウォークの手すりから身を乗り出し、飛行甲板の下を覗《のぞ》きこむ。だが、この位置からでは格納庫の中の様子は分からない。
「くそっ!」
あきらめて顔を上げた時、彼は見た――もうひとつの黒い飛行物体が、北西方向から超低空で弾丸のように突っこんでくるのを。
そいつは空母に激突する直前、背中の翼を開いて減速した。そのまま一直線に格納庫に飛びこんでゆく。その瞬間、ベッカーはその姿を脳裏に焼きつけた。
「おお……」
熱心なクリスチャンでもないのに、ベッカーは反射的に十字を切っていた。彼が目撃したのは、人型で、全身が真っ黒で、コウモリのような翼を持ち、二本の角のある生物――いわゆる悪魔≠サのものだったからだ。
10 最後の一撃
黒焔はメルマンの首根っこをつかんだまま道案内させ、階段を降りていった。閉鎖されてい扉を焼き切った。途中で何度か、じゃまな兵士に出くわしたが、即座に焼き殺した。
やがてたどり着いたのは、 <エンタープライズ> の前部、格納庫よりさらに二階下の層にある弾薬庫区画だった。艦載機用の爆弾やミサイルは、万一の事故の際に被害を最小限にするため、艦の前部と後部に分散されて貯蔵されているのだ。
「ここか……?」
黒焔は室内を見渡し、不審に思った。広くて細長い部屋で、高い天井にはレールが縦横に走り、重量物の運搬に用いる動力ホイストがぶら下がっている。部屋の中央を貫いて、長いローラー式のコンベアが配置され、その奥には扉のないエレベーターがあった。工場のような雰囲気だった。
確かに爆弾はあった――だが、思ったよりずっと少ない。ラックに載せられた細長いやつが十数個だけだ。
「ここが本当に弾薬庫なのか!?」彼はメルマンの体を揺さぶった。「これが原爆なのか!?」
メルマンは恐怖のあまり泣きながら、早口の英語でまくしたてた。弾薬庫はひとつではなく、誘爆を防ぐためにいくつもの部屋に分かれていること。平常時には爆弾は信管をはずされ、解体された状態で貯蔵されていること。ここは飛行甲板に運び上げる前に爆弾を組み立てる部屋であること。核爆弾はさらに下の階層に貯蔵されているが、厳重に封鎖されていて、自分は近づいたこともないこと……だが、その混乱した早口の説明は、黒焔の英語力をはるかに越えていた。
「ちっ!」
黒焔は苛立《いらだ》って、部屋の隅にメルマンを投げ捨てた。青年は爆弾運搬用のスキッドの角で頭を打ち、気絶した。
黒焔はラックに載った爆弾に歩み寄った。彼が知っている爆弾とはずいぶん形が違っており、鉛筆のように細長い。片腕で抱え上げられるほどの大きさだ。これが原爆だろうか? 彼には判断できなかった。
だが、艦内はあまりにも広く、探し回るのには時間がかかりそうだった。迷った末、彼は爆弾のうちの二つを持ち上げ、両脇に抱えこんだ。たとえ原爆でなくても、アメリカに落とすこと自体に意義があると思った。
彼は知らなかったが、それは核でもなく、爆弾でもなかった――戦闘機に搭載されるAIM―7E <スパロー> 空対空ミサイルなのだ。
「やめてください!」
若い女の声に、黒焔は驚いて振り返った。部屋の入口に、まるで彼の記憶の中から抜け出たかのような、長い黒髪の娘が立っていた。
(咲子……!?)
その錯覚を、黒焔はすぐに振り払った。この娘は咲子に似ていない――咲子がこんなところにいるはずがない。
だが、その錯覚は黒焔を一瞬たじろがせるには充分だった。
「……もうこれ以上、罪を重ねないでください」摩耶は眼に涙を浮かべて訴えた。「もう……もうこれ以上、誰も殺さないでください……」
黒焔の足取りをたどるのは簡単だった。彼が進んだ道に沿って、ビームに焼き切られた扉や、焦げた壁や、焼死体が散乱していたからだ。この部屋まで来る途中、彼女は黒焔の行為のすべて目にしていた――黒焦げになった何十体という死体を。
「罪……だと?」
「そうです! あなたにとっては敵かもしれないけど、みんな、家族やお友達や恋人がいるんです! 家ではいいお父さんだったり、優しいお兄さんだったりするんです! それを……あなたは……」
摩耶は声を詰まらせ、しゃくり上げた。
「……そんな権利、ありません……あなたがどんなにつらい思いをしたとしても、どんなに悲しかったとしても、他人を不幸にする権利なんて、あなたにはありません……」
その言葉は黒焔の心に冷水を浴びせかけた。一瞬、自分のやっていることに対する正常な理解がよみがえり、罪悪感で頭の芯《しん》がしびれた。
だが、彼の胸で燃えさかる憎悪を消すには、それでは不充分だった。
「……そこをどけ」
黒焔は低い声でそう言うと、ミサイルを抱えて、一歩進み出た。摩耶は両腕を広げ、けなげに立ちふさがる。
「嫌です!」
「何!?」
「行くんなら、まず私を殺してください!」
その言葉に、黒焔は銃弾を胸に受けたようなショックを覚え、立ち止まった。言い返そうにも、言葉が出てこない。
「できないんですか? そんなことないでしょう?」摩耶ほ涙声で追い打ちをかける。「あなたが爆弾を落としたら、たくさんの子供も死ぬんですよ? あなたはたくさんの人を殺すんですよ! それなのに、どうして今ここで、私一人を殺せないんですか!?」
「摩耶ちゃんの言う通り!」
彼女の背後から、金色の龍が現われた。
「流さん……」
「また貴様か!」
「ああ、また俺《おれ》だよ」
流は憎たらしそうに口の端を歪《ゆが》めた。すっと彼女の腰の横をすり抜けると、黒焔の前に進み出る。
「摩耶ちゃん。早く、その人を外へ」
「は、はい……」
摩耶は頭から血を流して倒れているメルマンに駆け寄った。肩をつかみ、部屋の外に引きずってゆく。相手が交替してくれて、黒焔は内心、ほっとしていた。娘を殺すのには抵抗があるが、この龍の若造なら遠慮は要らない。
「この前、俺にやられたのを、もう忘れたか?」
「忘れちゃいないさ」と流。「正直言って、あんなに痛かったのは初めてだ」
「なら、邪魔をするな。前は許してやったが、今度は本気だ」
「そうは行かないね。俺だって本気さ」
そう言いながら、流はじりじりと距離を詰める――妖術《ようじゅつ》を用いる間合いを測っているだけではなく、摩耶が安全圏まで離れる時間を稼いでいるのだ。
「確かに、お前の事情を聞いて、同情したこともあったさ――だが、今は違う。今のお前は許せない!」
「何だと?」
「俺のおふくろは日本人だ」流の口調はいつになく真剣だった。「満蒙《まんもう》開拓団の一員として、小さい頃に中国に渡った。ところが終戦の直前にソ連軍が国境を越えて攻めて来た。関東軍は慌てて撤退した。開拓団の人たちを置き去りにして撤退したんだ――分かるか? 民間人を守るべき軍隊が、民間人よりも先に逃げたんだぞ! それがお前の愛した大日本帝国の正体さ。おかげで開拓団の人たちは、ソ連や中国人の暴徒に襲われて、ほとんど全滅した……」
黒焔は沈黙した。言うべき言葉が見つからない。
「……おふくろはいつも言っている。罪のない人間を犠牲にするような正義≠ヘ最低だ、ってな。俺もそう思う」流は怒りに燃える眼で黒焔をにらみつけた。「お前にどんな大義名分があろうが、どんな恨みがあろうが、関係のない女子供の上に爆弾を落とすのは間違ってる。そんなのは正義≠ナも復讐《ふくしゅう》≠ナもない――ただの八つ当たりだ!」
「利いた風なことを!」
黒焔は叫んだ。胸の紫外線投射装置が光を放つ。
だが、流の妖術が発動する方が一瞬早かった。また電撃が来るだろうと、たかをくくっていた黒焔は、完全に意表を突かれた。かっと開いた流の口からほとばしったのは、すさまじい勢いの水流だったのだ。
「うおおおおおっ!?」
滝のような水流の直撃を受け、黒焔は絶叫した。床に爪《つめ》を立て、懸命に踏みとどまろうとする。だが、水の勢いはあまりにも強かった。爪でがりがりと床をひっかきながら、押し流されてゆく。
ついに黒焔は部屋の端まで流され、なおも後生大事にミサイルを抱えたまま、兵装昇降用エレベーターに押しこめられた。それは六層上の飛行甲板まで直通になっており、甲板上で待機している艦載機に爆弾やミサイルを運ぶためのものだ。
狭いエレベーターに押しこめられ、黒焔は身動きが取れずもがいていた。その隙《すき》を突いて、流は激流攻撃を中止し、電撃に切り替えた。だが、目標は黒焔自身ではない――彼の抱えているミサイルだ。
流の放つ電撃を浴びて、 <スパロー> の安全装置がショートし、暴発した。
爆音が艦を震わせた。
「何だ!?」
驚いて振り返ったベッカーは、第一・第二カタパルトの間にある兵装昇降用エレベーターのハッチが吹き飛び、宙高く舞い上がるのを見た。暴発した <スパロー> がエレベーター・シャフトを垂直に上昇して、ハッチを裏側から直撃したのだ。もちろん彼はそんなことは知るよしもない。
ベッカーやカタパルト要員たちが驚いて見つめていると、もうもうと白煙をあげるシャフトの中から、黒い毛皮に覆われた怪物がのっそりと這《は》い出してきた。その姿を見て、ベッカーはもう一度、十字を切った。
怪物は傷ついていた――毛皮の半分はひどく焼け焦げ、煙をあげている。狼を思わせる顔面も醜く焼けただれ、赤い肉が露出していた。胸に取り付けられた奇怪な装置は、パチパチと火花を発している。後脚の一本が吹き飛んでおり、歩くのが苦しそうだりた。
暴発した二発の <スパロー> は、黒焔に二重のダメージを与えていた。垂直に飛び出した一発は、高温の噴射ガスをまともに彼の顔面に浴びせかけた。一瞬遅れて暴発したもう一発は、至近距離で爆発し、破片と爆風を彼に叩きつけた。彼は悲鳴をあげ、激痛から逃れようと、夢中でシャフトを駆け昇ったのだ。
重傷を負い、視力もほとんど失っていたが、黒焔はまだ生きていた。カタパルト上で待機したままの <ホーネット> の横を通り過ぎ、脚をひきずりながら、ぎくしゃくと艦首の方に歩いてゆく。キャットウォークに隠れてそれを見つめるベッカーは、恐怖を覚えながらも、怪物の生命力のすさまじさに感嘆せざるを得なかった。
甲板上をよろめき歩く黒い野獣の姿は、まだ燃え続けている <バイキング> の炎に照らし出されて、ブリッジにいるクーザック艦長らにもはっきりと見えていた。
「いったい何だ、あれは……?」
双眼鏡を覗《のぞ》いたクーザックは呆然《ぼうぜん》とつぶやいた。隣にいるマーコウィッツ副長もかぶりを振る。あんなものは悪夢の中でしか見たことがなかった。
驚きのあまり、彼らはまだ気がついていなかった――ブリッジ内の照明がでたらめな点滅をやめ、モニターの映像が回復したことに。
艦全体を覆っていた電気系統の異常現象は、嘘《うそ》のように消滅していた。
「直ったぞ!」
ケルシー機関長は歓声をあげた。突然、原子炉が正常な機能を回復したのだ。狂っていた計器も正しい数値を表示する。ただちに安全装置が作動し、上がりすぎた制御棒を正しい位置に押し戻してゆく。
第三原子炉の炉心温度の数値を見て、ケルシーはひやりとした。安全限界を越え、レッド・ゾーンぎりぎりまで迫っていたのだ。あと数分遅かったら、確実にメルトダウンが起きていただろう。
コントロール・パネルを埋めつくしていた赤いランプは、ひとつ、またひとつと着実に消えていった。
「艦長、あっちにも!」
副長が右舷を指差した。クーザックは驚いて視線を転じる。
第一格納庫の開口部から、別の二匹の怪物が飛び出してきたかと思うと、このブリッジと同じ高さまで上昇した。一匹はヨーロッパの寺院の装飾にあるガーゴイル像のように見える。もう一匹は――馬鹿馬鹿しいが、中国風のドラゴンそのものだ。
信じられない話だった――だが、現に目の前にいる以上、あの怪物どもがこの騒ぎを起こしたとしか考えようがない。
「艦長!」マイクをつかんでいた士官が怒鳴った。「艦内通話が回復しました!」
クーザックは振り返り、ただちに命令を下した。
「バルカン・ファランクスを使え! あいつらを撃ち落とすんだ!」
ブリッジのすぐ外、右舷から張り出した台の上に設置された装置が、不気味に回転しはじめた。上半分は薬のカプセルのような形をしており、その下から金属の管を束ねたようなものが、にょっきりと突き出ている。
CIWS(近接戦闘システム)バルカン・ファランクス―― <シースパロー> と並ぶ、空母防衛の要である。二〇ミリ機関砲六門を束ねたもので、毎分三〇〇〇発の弾丸を発射し、正確無比な射撃によって、接近する敵機やミサイルを撃ち落とす。弾丸を一点に集中することにより、二〇ミリ弾でありながら、その破壊力は三〇ミリ以上に匹敵する。厚さ数センチの鋼鉄を貫通する威力があるのだ。もしも人間を撃てば、わずか一秒で五〇発の弾丸を浴び、ばらばらに四散することだろう。
それが自分たちを狙《ねら》っているとは、摩耶たちはまったく気がついてなかった。
甲板上を五〇メートルほど歩いたところで、黒焔は立ち止まった。全身の痛みに耐えながら、よろよろと振り返る。まだかろうじて使える左の眼で、遠くにそびえ立つブリッジを憎悪をこめてにらみつけた。照明の回復した窓の中で、ゴミのような小さな人影がうごめいているのが見える。
自分があまり長くないのは分かっていた。全身を苛《さいな》む激痛は拷問のようで、意識がしだいにぼんやりしてくる。空を飛ぶ力も残っていない。
だが、このままでは死ねない。死にたくない――大空襲の炎の中で燃え尽きていった親しい人々の顔が、彼の脳裏をよぎった。彼らのために何かをしてやらなければ、彼らの悲劇は無駄になってしまうではないか。半世紀の時を越えて自分がよみがえったことに、何の意味もないというのは、あまりにも空しすぎるではないか。一人でも多くの敵を道連れにする――それしか思い浮かばなかった。幸い、紫外線投射装置はまだかろうじて使えそうだ。わずかに残った気力を振り絞れば、もう一発ぐらい撃つことはできるだろう。
黒焔は覚悟を決めた。吹きすさぶ風を背に受け、ブリッジの方を向いてすっくと立つ。残った三本の脚をしっかり甲板に踏ん張り、姿勢を安定させた。失敗は許されない。この一発で決めてやる……。
彼は体内の電力を胸の一点に集中しはじめた。紫外線投射装置がうなりをあげ、電気の通り道となる紫色のサーチライトが空に伸びる。
それは正確にブリッジの窓を照らし、クーザックらの目をくらませた。
「やめてーっ!」
黒焔がブリッジを狙《ねら》い撃とうとしているのに気がつき、摩耶は絶叫した。だが、その声は風と火災の轟音《ごうおん》にじゃまされ、黒焔には届かない。たとえ届いたとしても、彼はやめはしなかっただろう。
「だめだ!」
流は絶望した。彼らの位置から黒焔まで、ゆうに一〇〇メートルは離れている。タックルするのは無理だし、電撃も届かない。ビームの発射を食い止める方法はない……。
「ブリッジをやる気か!?」
黒い野獣からブリッジまで伸びた紫色のサーチライトを見て、ベッカーは戦慄《せんりつ》した。彼は怪物がビームを放って <バイキング> を撃墜する瞬間を見ていたので、その光が意味するものを直観で悟っていた。
食い止める方法はないのか? だが、甲板要員は武器など携帯していない。信号ピストルぐらいならあるが、そんなものは役に立ちそうにない……。
その時、彼は気がついた――怪物が立っているのは第一カタパルトのレールの上だ!
ほんの数分の一秒の間に、ベッカーは頭の中でそのアイデアの検討を済ませていた。緊急事態が発生したために、すでに <ホーネット> のパイロットはエンジンを切って機から降りている。射出バーはまだシャトル・アッセンブリーにひっかかったままだ。他にはええと、自分の年収一〇〇〇年分に相当する高価な兵器をふいにすることになるが、ま、謝れば許してもらえるだろう……。
彼はカタパルト要員を押しのけてコントロール・パネルに飛びつき、発射ボタンに拳を叩《たた》きつけた。
ごおっ!
七〇気圧の高圧蒸気の力がピストンを押し出し、シャトル・アッセンブリーがカタパルト上を疾走する。それに牽引《けんいん》されて、全長一七メートル、二〇トンの重量があるチタン合金製の凶器が、黒焔に真正面からぶつかっていった。衰弱した黒焔には、時速二〇〇キロ以上で体当たりしてくる戦闘機をよける余裕などなかった。
黒焔がビームを放つのと、レーダー・アンテナを収めた <ホーネット> の円錐《えんすい》形の機首が彼の顔面を直撃するのほ、ほとんど同時だった。ビームは <ホーネット> の右脇腹にある空気取入口に飛びこみ、右エンジンを貫通する。次の瞬間、黒焔の体は戦闘機の前脚にひっかけられ、ぐしゃりと潰《つぶ》れた。
一秒後、 <ホーネット> は海上に飛び出した。エンジンを切っているので浮上力はない。前脚に黒焔の体をひっかけたまま、右エンジンから鮮やかな炎を噴きながら、浅い放物線を描いて夜の海面にダイブする。
大きな水しぶきが上がった直後、胴体内の燃料タンクに火が燃え移り、大爆発が起きた。オレンジ色の炎が海面を染める。
「ああっ……!」摩耶は顔を覆った。
爆発によって、 <ホーネット> の機体は原形をとどめないほど破壊されていた。たちまち海水が機内を満たし、水の四倍も重いチタン合金の機体は、見えない手で海中にひきずりこまれるかのように、波の下に没してゆく。前進してきた <エンタープライズ> の巨体が、その上を何事もなかったかのように通り過ぎていった。
黒焔の姿は、もうどこにも見えない。
摩耶はすすり泣いた。誰も悪くなんかない。黒焔は最後まで自分の正義を貫いた。自分や流は、やはり自分の信じるもののために彼を阻止した。空母の人たちは身を守るために彼を殺した――誰もみんな、自分が正しいと信じることをやったまでのことだ。
それなのに、なぜ――みんながみんな、正しいことをしたいと望んでいるのに、なぜ、殺し合ってしまうのだろう……?
「……行こう」
流は優しくうながした。摩耶は立ち去りがたく、何度も何度も振り返りながら、その場を後にした。
「なぜ撃たない!? 奴らが行ってしまうぞ!」
寄り添うように夜空に去ってゆく二匹の怪物を見ながら、クーザック艦長は苛立《いらだ》っていた。マイクをひっつかみ、怒鳴りつける。
「どうした、CIC!? 何をやっている! 早くバルカンで撃て!」
「いえ、それが……」CICの士官が申し訳なさそうに答える。「目標がレーダーに映ってないんです」
クーザックはぽかんとなった。「レーダーに……映らないだと?」
「はい。本艦の周囲には、哨戒機《しょうかいき》以外は何も……」
「そんな馬鹿な!? まだちゃんと肉眼で見えてるんだぞ!」
「しかし、事実です。対空レーダーも、射撃管制レーダーも、航空管制レーダーも、まったく反応ありません」
バルカン・ファランクスはレーダー・システムと連動しており、コンピュータで計算されて自動的に発射される。 <シースパロー> にしても同様で、まず目標をレーダーで捉《とら》えないことには話にならない。レーダーに映らない目標を攻撃することはできないのだ。
「信じられん……」
北の水平線にしだいに小さくなってゆく二匹の怪物を、なすすべもなく見送りながら、クーザックは呆然《ほうぜん》とつぶやいた。
エピローグ
翌日――
<エンタープライズ> は横須賀寄港を急遽《きゅうきょ》中止し、針路を九〇度変更して、ハワイの海軍ドックへ向かっていた。公式発表では、甲板上で重大な爆発事故が発生したため、その修理に向かうことになっていた。
だがこの発表は、早くも日本のマスコミや自衛隊関係者、軍事評論家らの疑惑を招いていた。事故の損傷を修理するなら、わざわざ遠く離れたハワイまで戻らなくても、それこそ目と鼻の先の横須賀のドックに入港すればいいことだ。日本のドックでは修理できない、何かの事情があるのではないのか?
原子炉が事故を起こしたのではないか、という推測が、早くも一部の関係者の間でささやかれていた。米海軍のスポークスマンはそれを否定したが、ひとたび播《ま》かれた疑惑の種は、容易にはもみ消せない――実際、原子炉は危うくメルトダウンしかけたのだから、その推測も間違いとは言えないのだが。
「原子炉事故か……確かに真実を覆い隠すにはいい口実だな」
被害の報告を目に通しながら、クーザック艦長は大きくため息をついた。確かに「何もありませんでした」でごまかせる規模の事件ではない。残骸《ざんがい》は片付けられたが、甲板上には <バイキング> の爆発の痕《あと》がはっきり残っているし、死者三九名、重軽傷者二八名を数えているのだ。六九年の事故を上回る、 <エンタープライズ> 史上最悪の悲劇である。
「わざと否定してみせるのもうまい手だ。下手に『実は原子炉事故でした』などとごまかそうとしたら、かえって裏に何かあるんじゃないかと勘繰られる。原子炉事故を起こしたが、それを隠している……と思わせれば、その裏にさらに別の真実がひそんでいるなどと、誰も思わないだろう。そう思わないかね、副長?」
「しかし、こんな大きな事件です。目撃した兵士全員に口止めしたとしても、どこからか必ず洩《も》れるのではないでしょうか?」
マーコウィッツは常識的な意見を述べた。だがクーザックは、ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「人間は自分の信じたいものを信じるものだ――『 <エンタープライズ> が怪物に襲われた』などという荒唐|無稽《むけい》なストーリーなど、誰も信じたがりはしない。それよりは『アメリカ海軍が原子炉事故を隠している』というストーリーの方が、いかにも一般大衆が信じたくなる話じゃないか」
「それがお気に召さないわけで?」
「当たり前だ。私の経歴に重大な汚点がついたんだぞ! これから一生、『原子炉事故を隠した艦長』という汚名を背負うことになるんだからな」
「お察しします」
「それだけならまだいい――私が腹を立てているのはこれだよ!」
クーザックが差し出したのは、昨夜遅く、米国防総省《ぺンタゴン》から衛星通信による暗号文で届いた極秘の通達書だ。難解な軍隊用語がずらずら並び、政治的な言い回しが多用されているが、内容は簡潔――「誰にも喋《しゃべ》るな」だ。
「しかし、当然の指示でしょう?」とマーコウィッツ。「あんな事件が公になったら、それこそ大変なパニックですからな」
「私が言っているのはそんなことじゃない」クーザックはいらいらしていた。「いいかね、想像してみたまえ。もし君がペンタゴンの高官で、ある夜、『 <エンタープライズ> が怪物に襲われました』という馬鹿げた知らせを受けたとする。どう反応する?」
マーコウィッツは肩をすくめた。「まず、今日が四月一日かどうか確認するでしょうな」
「あるいは通信を送った者の精神状態を疑うか。何にしても、すぐには信じないはずだ。たとえ信じたとしても、次にはこう考える。『その怪物とはいったい何だ? もっと詳しいことが知りたい』……ところがどうだ!」
クーザックは通達書を指でとんとんと叩《たた》いた。
「この文章からはそんな様子が微塵《みじん》も読み取れない。驚いている様子も、疑っている様子も、まったく感じられない。冷静そのものだ。おまけに、怪物に関する詳しい情報を求めもせず、ただ一方的に『喋るな』と言っている……」
ようやくマーコウィッツは、艦長の言いたいことが理解できた。
「つまり、ペンタゴンはすでにあの怪物の存在を知っていると……?」
「ああ。おそらくずっと前からな。こんな事態が起きることを予想していたのかもしれん。それだけじゃない。もっと大きな裏があると思う」
「というと?」
「君は聞いたことがあるかね? 米政府が宇宙人と密約を交わしているとか、エリア51でUFOが製造されている、とかいった話を」
話題の突然の飛躍に、マーコウィッツは苦笑した。「まさか、そんな――」
「誤解しないでくれ。私だってそんなヨタ話は信じちゃいない」クーザックはあっさり打ち消した。「ただ、そういうことを書いた本を前に読んだことはある。それによると、そうした噂《うわさ》の発信源は、元軍人だとか、空軍の情報部員らしいんだ。だからそういう情報は信用できる、と著者は言ってるわけだが、どう考えてもそれは逆だ。情報部員が本物の国家機密をマスコミに洩《も》らしたりしたら、処罰されなければおかしい。つまり、明らかに意図的に仕組まれた漏洩《ろうえい》だと考えるしかない」
「ディスインフォメーションですか……」マーコウィッツはうなった。「なるほど、妙な匂《にお》いがぷんぷんしますな」
「だろう? ステルス機の件を思い出してみたまえ。機密を守る手段としては、『ステルス機など作っていません』と言い張るのは、明らかに下手くそだ。そんなのは誰も信じない。それよりも、大衆が信じそうな偽の情報をわざと漏洩する方がいい。真実には少し近いけれども、見当はずれな情報だ。信じやすい者は、もちろんその話を信じる。疑い深い者は、逆にそんな話はまったく信じない――いずれにせよ、大衆の目は真相からそらされるわけだ……」
「ということは……?」
「そうだ」クーザックは大きくうなずいた。「アメリカは異星人と密約を交わしてなどいない。UFOを開発してもいない――しかし、異星人でない何か[#「異星人でない何か」に傍点]と密約を交わし、UFOでない何か[#「UFOでない何か」に傍点]を開発している。私はそう思う」
マーコウィッツにもその重大さがだんだん理解できてきた。空を飛び、レーダーに映らず、恐ろしい破壊力を持ち、たった一匹で巨大な空母の機能を麻痺《まひ》させることのできる生物――もしその能力が利用できれば、その軍事的価値は計り知れない。ペンタゴンがそれに注目しないはずはないのだ。
「あいつらが何者なのか、私には分からん。ペンタゴンがどこまで関与してるのかも――だが、これだけは確実に言える。第一次大戦で飛行機が、第二次大戦では原爆が、戦争の様相を塗り替えたように、次の戦争ではきっと、我々の想像を超えた画期的な兵器が登場して、戦争の様相を一変させるだろう……」
クーザックは窓の外に広がる大海原を眺め、感慨深くつぶやいた。
「次の戦争では、我々はお払い箱かもしれんなあ……」
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参考資料
笹間良彦『図説 日本未確認生物事典』(柏美術出版)
小橋良夫『太平洋戦争 日本の秘密兵器陸軍編』(池田書店)
小山仁示・訳『米軍資料 日本空襲の全容』(東方出版)
E・バーレット・カー『戦略東京大空爆』(光人社)
中国帰還者連絡会・編『新編 三光』(光文社)
坂本明『大図解 世界の空母』(グリーンアロー出版社)
野原茂『(図解)世界の軍用機史A』(グリーンアロー出版社)
世界の傑作機No.26『ブラック・プロジェクト 米空軍の見えない航空機計画』(文林堂)
『メカニックマガジン』八三年六月号(KKワールドフォトプレス)
新潮社・編『江戸東京物語 山の手編』(新潮社)
別冊宝島『帝都東京』(宝島社)
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妖怪ファイル
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[金井堂花(お釣り妖怪)]
人間の姿:おかっぱ頭の地味な印象の女の子。
本来の姿:動く小銭の山。
特殊能力:お釣りを間違える。
職業:美容院 <セーラ> のレジ係。
経歴:お釣りを間違った(間違えられた)ときの怒りや喜び、悔しさや楽しさから生まれた。
好きなもの:買い物。
弱点:ほとんど妖力もなく妖術も使えない。支払いをずさんにできない。
[妖怪カミカゼタクシー]
人間の姿:粗暴な中年運転手。
本来の姿:死霊のような運転手を乗せた、黄色のタクシー。
特殊能力:ヘッドライトから閃光《せんこう》を浴びせる。猛毒の排気ガスを噴出する。客をとじこめる。
職業:悪徳タクシー。
経歴:客に不快な思いをさせられた運転手の怨念や、金さえ儲かればいいという運転手の欲望から生まれた。一時衰退したが、最近復活した。
好きなもの:客をいびること。
弱点:客のはっきりした言葉に逆らえない。料金を受け取ってしまうと客を解放しなければならない。
[久万野三太(テディベアの付喪神《つくもがみ》)]
人間の姿:愛敬のある大柄な髭《ひげ》の青年。
本来の姿:巨大なテディベアのぬいぐるみ。
特殊能力:巨大な爪と怪力で敵を粉砕する。
職業:保育園の保父。
経歴:古いテディベアのぬいぐるみに愛情が注がれて意識を持つようになった。
好きなもの:子供たちと遊ぶこと。
弱点:子供に愛してもらえないと栄養が乏しくなって死んでしまう。水に濡れると、体が重くて動けなくなる。
[マーナ]
人間の姿:なし。
本来の姿:コンピューターRPGのお姫さまキャラクターの、クレーンゲームの景品用ぬいぐるみ。
特殊能力:ぬいぐるみを自由自在に動かす。
職業:なし。
経歴:ぬいぐるみ(彼女自身)が欲しいというコレクターの願望によって命を授かった。
好きなもの:愛情を注いでもらうこと。
弱点:強度はふつうのぬいぐるみと大差ない。
[シ号兵器(黒焔《こくえん》)]
人間の姿:三〇歳ぐらいの眼光の鋭い男。
本来の姿:前脚二本、後脚四本の黒い獣。胸に紫外線投射装置が埋めこまれている。
特殊能力:高圧電流ビームを放つ。電気を操る。電撃を吸収する。空を飛ぶ。
職業:なし。
経歴:太平洋戦争末期、雷獣が旧日本陸軍の技術者の手で紫外線投射装置と融合され、妖怪兵器「シ号」として生まれ変わった。米軍の爆撃によって地下に埋もれていたが、半世紀ぶりに復活。
好きなもの:日本の文化。
弱点:電気を補充しないと妖術が使えない。
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あとがき
[#地付き]伏見 健二
こんばんは。
今回のあとがきには私、グループSNEならぬ、東京のゲームデザイナー集団「FEAR」の伏見健二が御邪魔しております。
この例を見るように、この小説は複数の作家によって一つの物語世界が作り上げられてゆくシェアード・ワールド小説。都会の片隅に生きる「妖怪《ようかい》」たちのサスペンスフルな冒険やハートフルなコミュニケーションを描いた作品集です。拙作の載っているあとがきで書くのもなんなのですが、とても快い雰囲気の物語が多く、いつもコンプRPGで発表される新作を楽しみにしているんです。
そして作品数を増すたびに、妖魔夜行ワールドの存在感や肌合いは増してゆくように思えます。水野良、山本弘、清松みゆき、友野詳、高井信……そして次々と。日頃、様々な方向性の作品を打ち出している力のある書き手が時折ここへ集っては、まったく異なった自分や、まさに自分らしい自分を発揮している様は、まさに妖怪の集うBARのようではありませんか。
とても、豊かな感じです。
末席なりとも一緒に集ってみたいと、思わせるなにかがあるわけです。
この妖魔夜行のワールドはテーブルトークRPG 「GURPS妖魔夜行」でもサポートされています。ゲームとしてもとても面白《おもしろ》いので、興味のある方はぜひ御一読を。
さて、多くの物語において事件の発端となるBAR <うさぎの穴> は渋谷《しぶや》道玄坂《どうげんざか》一丁目に存在しています。「半妖怪のチェイス」もそうですが、渋谷や吉祥寺《きちじょうじ》には多くの妖怪さん達が住んでいるようです。物語を楽しむ上でも、ぜひ一度訪ねていただきたい場所です。
僕にとっては、この地のいずれもが思い出深い土地なので、また一段と妖魔夜行への思い入れというものが募ります。作家や漫画家が多く住んでいるということから舞台になりやすい場所ですが、それだけではない不思議な吸引力がここにはあるようです。
渋谷のハチ公口を出て、人混みに巻き込まれながら歩くと道玄坂に突入します。複雑にからみあう路地や派手なディスプレイ、そして行き交うファッショナブルな人々に目をとられ、何度訪れても絶対に迷います(おいおい)。しかし、うろうろ歩くのも面白いわけで、他にはない喧燥《けんそう》を楽しむことができます。
でも渋谷の街を歩いていると、やはり自分が妖魔夜行の妖怪になったような気分がします。知らない人々に囲まれて、ちょっとうしろめたく浮いているような気分。それはこの街のコミュニケーション特性が、そもそも異邦者であることを前提にするようなところがあるからなのでしょうか。
残念ながら僕はBAR <うさぎの穴> はまだ発見してはいません。道玄坂のBARって、ちょっと敷居が高いのですよね。高いんじゃないかな、とか、常連用なんだろうな、とか余計な気ばかり回してしまって……。でも、それだからこそ不安げにここに来る人の気分は判るような気がします。
いつも衣類はここで買うのですが、食事に関してはまだいい店を見つけていません。安い店はちょっと忙《せわ》しげで味も落ち、旨《うま》い店はちょっと高い気がします……いつもショッピングの後はおなかを空《す》かせながら、家のある久我山《くがやま》か吉祥寺へと戻ってきてしまうのです。
一方、吉祥寺のほうが僕にとってはホームグラウンドと呼べる街です。さまざまな作品で悪魔召喚儀式などに使われているかわいそうな井之頭公園(笑)も、妖魔夜行においては妖怪赤舌が穏やかに住んでいる場所、とのみされていて一安心ですね。「真夜中の翼」のヒロインの摩耶さんの家もここにあります。
吉祥寺|界隈《かいわい》は、一生で一度は住んでみてもらいたい場所です。渋谷のちょっとつっぱった緊張感はここにはなく、普段着でのびのびと生活を楽しめる空間です。いくつか妖魔夜行スポットも紹介したいのですが、時間に限りのある方は駅ビル北口の <大戸屋> の定食だけでも食べていってください。吉祥寺という街がどういう街なのか、ぱくっと食べた一口で判ります。
渋谷で事件に首をつっこんで、吉祥寺ではなんとなく安らぐ、という妖怪達の生活の構図はまさにツボにはまっていて、いい感じです。
最近、僕が見つけた最高の贅沢《ぜいたく》は、この吉祥寺の某所にある古びたBARで、大きなグラスに鼻まで突っ込みながら、シングル二千円くらいのブランデーをちびちびとなめることです。つまみはフルーツ盛り合わせ。香りを楽しむには、これだけが良。お代わりは一回だけ。
これが、このうえなく幸福な時間です。
そんなときは、場所は違いますが妖怪達が <うさぎの穴> の隅っこでたたずんでいる時のなんとも言えない安心感はこんなものなんだろうなあ、と感じます。時間と場所が、自分のために与えられているのだ、と感じる瞬間って、実は日常の中でもそうあることではないのですよね。そして、それを感じることこそ、幸福と呼べるのでしょう。
話が少々脱線ぎみですが、この安心感、親密感こそが、妖魔夜行シリーズの魅力と言えるのではないでしょうか。この小説は、いつもあの不思議な、でも見慣れた空間へと読者を連れていってくれます。もちろん、それは「恐怖小説《ホラー》」としての本筋から逸脱することなく、常に新奇な刺激を与えてくれるという約束でもあります。それは宵闇《よいやみ》の柔らかさに包まれた、恐怖と安堵《あんど》のリフレイン……。
だから僕は、妖魔夜行の新作をいつも楽しみに待っているのです。
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<初出>
第一話 半妖怪のチェイス 伏見健二
「コンプRPG」95年4月号
第二話 歪《ゆが》んだ愛情 高井 信
「コンプRPG」94年10月号
第三話 魔獣めざめる 山本 弘
書き下ろし
ブリッジ 友野 詳
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底本
角川スニーカー文庫
シェアード・ワールド・ノベルズ
妖魔夜行《ようまやこう》 魔獣《まじゅう》めざめる
平成八年六月一日 初版発行
著者――伏見《ふしみ》健二《けんじ》/高井《たかい》信《しん》/山本《やまもと》弘《ひろし》