サイレンの哀歌が聞こえる
伏見健二
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)熱核破壊《ニュークリア・ブラスト》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|死の大気《デッドリー・エア》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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目次
プロローグ
第一章 忌まわしき廃城
第二章 ゾーフィタスの魂
第三章 鎮まらぬ墓宮
第四章 呪詛の森
第五章 雄山羊の神殿
第六章 コズミック・フォージ
エピローグ
あとがき・解説
[#改ページ]
プロローグ
[#ここから2字下げ]
水面。
冷ややかな水が満ちている。
一滴の雫《しずく》がこぼれ、水面に真円の弧を刻んだ。なめらかに、広がる。
……どこまでも、どこまでも。
だが、雫の落ちたところは清水は鈍く曇っていた。
赤黒いくもりが雲のように水面を濁らせる。
雫が一滴の血液であったからだ。
刹那、女性の裸身が深淵から滑るように浮かび上がった。
白い肌に濡れた金髪がまとわりつく。
うなるような音
耳障りではなかったが、骨髄を共鳴させ、脳髄を痺れさせる和音が響く。
息継ぎもせずに、嘲るような高音の独唱が始まる
[#ここで字下げ終わり]
我らはサイレン
海の姉妹
我等歌う哀しみの歌
そよ風を越えて
[#ここから2字下げ]
半開きにした紅い唇から、狂おしいしらべが紡がれて行く。
水面はさざめくことすらも許されなかった。
[#ここで字下げ終わり]
たとえ心に愛ありとても
我等を解き放つは狂気
悪夢へ誘わん男たちを
その優しき祈り聞かせて
[#ここから2字下げ]
瞳は伏せられる。
長い指先が水を掻いた。
[#ここで字下げ終わり]
逃れ出るは唯一
サイレンの哀歌を知る者
恐ろしき時
我等ののどより踊り出る
死の定めから逃れん
[#ここから2字下げ]
伴奏は無音である。
無音の時、時刻の流れのみが伴奏である。
[#ここで字下げ終わり]
我らを舞い上がらせるは狂気
いざ! サイレン生ける者を誘わん
海の上なる死へ……
[#ここから2字下げ]
……そこまでで、美しい裸女の哀歌は止まった。
むせび哭きが喉から洩れる。
冷えきった水面を渡る風が金の髪をあおり、幾筋かの髪に顔が隠れた。
死者の川
その名にふさわしく、水面には生命の影は感じられなかった。
サイレン、美しき死の司の他にはなにも。
[#ここで字下げ終わり]
我らを……解き放つは狂気……
[#ここから2字下げ]
むせび哭きに途切れながらもサイレンが詠う。
[#ここで字下げ終わり]
すぐに狂気が我らを解き放ち、
今、起きたことは忘れ去られるでしょう……
[#ここから2字下げ]
彼女の身体が静かに再び身を凍らせる水へと沈んでゆく。
そして記憶は夢のように流れて去った。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
第一章 忌まわしき廃城
1 扉の前
そこを吹き抜ける風は、吐き気を催させるような忌まわしい臭気を宿していた。
重苦しく口を閉ざした六人は、できればその風を吸い込まずにいたいと思っているかのようだった。
いや、臭気とは言えないかもしれない。
ナベシマは神経質そうに鼻をひくつかせた。すっきりと伸びたヒゲが、少し垂れる。
ロウルフの鋭敏な嗅覚に比べてみれば、猫妖精《フェルプール》の嗅覚などはいくらか見劣りするのだが、それでも人間族などよりも数段も鋭敏であることは言うまでもない。しかしこの城が発散する異様な感覚は猫妖精の敏感な嗅覚にではなく、長年とぎ澄まされた侍としてのセンスに刺激を与えるものであった。
警告である。
狂おしいまでの災厄の予感が、彼の毛並みを逆立たせる。
「良いか? ナベシマ」
澄んだ瞳が、穏やかに彼を見上げた。宥《なだ》めるような静かな声。
吹き抜ける風に少年の金髪が緩やかに揺れていた。
「……仰せのままに、卿」
小さな咳払いの後で、ナベシマはそう答えた。ロード・グレナヴァン・アーミンガム。年若い主君は、いまだ成年を迎えない十四歳の少年である。その身に降りかかった悲劇を考えるとき、ナベシマは背筋を正さざるを得ない。武者震いと共に怯懦《きょうだ》を払った。
いかに逆境にあったとて、二君には仕えぬ。いくばくかでも主君の苦しみを担い、なろうことなれば一命を持って主君を守る……それでこそ侍の生き方というものだ。そしてこの少年はその忠誠に応えるだけの器を持った君主であると、ナベシマは信じて疑わなかった。
少年の姿は、凶風をも払うかのような清廉さをまとっていた。銀鎧が金髪碧眼によく映える。白い肌と美しい顔立ちは、まさに王者の相と言えた。
もちろん、長い放浪の旅の末である。よく観察するならば鎧には鈍い錆荒《しょうこう》がふいていたし、肌はつつましい食事と長い放浪徒労の日焼けで荒れている。金髪は跳ねかかる泥雫に汚され、幼い身体は不相応な重い鐘で痛められていた。
だが、どんなに痛々しく汚されても、決して失われない気高さというものがある。
少年は若いながらにそれを有している人間であった。
「グレナヴァン卿、ここより先は私も道を知りません」
陰気な声にナベシマの甘美な感慨は打ち破られた。声を発したのはロウブを目深にかぶった錬金術師《アルケミスト》である。暗い衣にチラチラと光るものは、スパンコールの装飾か、あるいは忌まわしい由来の魔法器具であるのか……?
彼はぶっきらぼうに先頭を歩き、一行を導いていた。
「ありがとう。貴方はここでよろしいです」
少年は錬金術師に礼を言った。身分を考えれば礼を述べるとは格別ともいえる扱いである。だが男はわずかに首をすくめただけでそれに応え、構わずに先頭を歩む。その反応にナベシマはわずかに気色ばんだ。
一行六人のうち人間種族であるのは、僅《わず》かに少年君主グレナヴァンと錬金術師……名をユークリーブという…の二人のみであった。
その後には彼、猫妖精《フェルプール》の侍が音もなくしなやかな歩みを続ける。故先王より幼主グレナヴァンの生育にあたっての武術師範を任じられた浪人であり、そして今では彼を守るただ一人の武人となってしまった。
そして次には銀髪も美しいエルフのヴァルキリイが続く。名をブリュンフラウと名乗るが、その詳しい素性については明かそうとしてはいなかった。
緩やかにまとった彼女のマントの下には、鋼の鎧がそのたおやかな肢体を守っており、ときおり重いヒールが石畳にカツカツと音を立てていた。ナベシマとしてみればその甲高い音か必要以上に魔物達の注意を引くのではないかと危惧《きぐ》がないでもないのだが、彼女の余裕ある表情は変わることなく、謎めいた微笑みに常に包まれていた。
そしてナベシマと同様にグレナヴァンの臣下であるところの寡黙な龍人族《ドラコン》の老魔術師バルルシャナ、最後にその頭上で落ちかなげに緩やかな上下飛行を繰り返している小さなフェアリイの少女ラックシードの二人が続く。
「城郭への案内は頼んだが、これから後は案内料金は出ぬよ、ユークリーブどの」
老魔術師の喉の奥からかすれるようなしゃがれ声が洩れた。人間とは根本的に声帯の構造が異なるドラコンの喉は息をつくごとにシュウシュウというかすれ音を漏らしている。龍の血を持つ彼らの種族は酸のブレスを吐くことができると言われるが、老バルルシャナはその珍奇な大業を見せたことはなかった。卓越した技術を持つ魔術師や野生を隠し持つ龍人というよりは、グレナヴァンに仕える気の良い爺やという印象のみが目立った。
「百有余年にも渡り眠り続けた城郭に眠る幾多の知識、そして伝説の財宝……ここで帰るなどという惜しいことはできるわけがないわ。そうよね?」
エルフが冷笑するような調子でユークリーブに言った。体重をまったく感じさせない足どりでグレナヴァンの傍らに進み、錬金術師に後位置へ下がるように仕草する。肩に垂れるサラサラの銀髪が風に流れた。少年を護るように、長身の上体を僅かに傾ける。優しく瞳を伏せた。
かつてはエルフは珍しい種族ではなかったが、現在に至ってはその種族としての地位を人間の勢力拡張に大きく譲っている。蛮人化した森《ウッド》エルフならともかく、彼女のような真性のエルフはそう見られるものではなかった。
「でなければ貴方のような臆病なヒューマンが「災厄の王の城」へ赴くはずもないわよね」
これは見下した態度ではない……正直であるからだ。北地のエルフ、まさに生粋《きっすい》のヴァルキリイであるブリュンフラウの瞳に映るものは人の心の輝きそのものであるのやもしれない。
「そうですね。魅力を否定できません。あなたもそのクチですか、ブリュンフラウ?」
ユークリーブは冷笑に屈辱を感じるでもなく、しごく淡々と受け流した。
そして無遠慮に美しいエルフを眺める。その白い肌、緑蒼の瞳、すべらかな首筋から緑のスカーフに隠された胸元へ……。その清楚な美しさは見る者に感動にも似た敬慕を誘うものであったが錬金術師には通用しないようであった。ユークリーブの瞳には貪欲な情気すらもない。もの珍しげな視線、純粋な好奇心のなせる観察である。
錬金術師の視線に気がつくと、ナベシマは苛立たしげな焦燥感にとりつかれた。同種の人間ユークリーブとグレナヴァンの間に何故にこのような違いがあるものなのか? グレナヴァンの人を魅了してやまない何らかの力……あるいは霊光であるやもしれぬ……に比べ、ユークリーブのまとうそれはなにかしら不安定であり、絶えず人を苛立たせるようなものがあった。
言うなればユークリーブは徳薄いのだ。
「私は……」
ブリュンフラウが不快げに眉をひそめた。
彼女は何かを言いかけたが、奇怪な金属音に身じろぎして、やめる。
シュリ、シュリ、シュリ……
城塞がまるで誘いかけるように、一行の前にその固く閉ざされた扉を開き始めたのだ。削りだした堆積石のブロックを丁寧に組み上げた通路、その奥でゆっくりと古びた鉄の扉が開いてゆく。
その奥にあるのは、ほのかな燐光《りんこう》を帯びた闇の世界だ。
フェアリイのラックシードが興奮に息を呑んだ。そして高い声でまくしたてる。けたたましい羽音と共に、空気中に燐光のようなものが放散された。
「あっ、ねっ、なにかしたの、グレナヴァン? ほら、ねっ、とびらが!」
「いや、自動装置じゃな」
バルルシャナが落ちつかせるような穏やかな口調で語りかける。
「一定人数の人を感知して開くのじゃろうて……おそらくは魔法でさえありゃせんよ」
「なるほど、少人数のパーティ……ですか」
ユークリーブが皮肉げに声を出した。ここに来たのは初めてではない。彼自身、幾度かこの扉を開こうと試みたことがあったのだ。城郭への探査行を試みる者達は多い。しかしこの城の扉までの道のりはすでに十分に危険であり、重装備の冒険者達であったとしても容易にたどり着けるものではないのだ。もちろん、このような危険な地には狂気じみた商魂を発揮する武器店や寺院であっても支店を出すことなどありえなかった。
(考えてみれば単純なことだ……我ながら、いささか凝りすぎたものよ)
密かにロウブの奥で自嘲の笑いを浮かべる。
「6、とはいささか不吉な人数やもしれませんが」
ユークリーブとしてはこれはしごく上機嫌な軽口であった。しかし一行は表情をゆるめるではなく、蓋を開いた地獄の釜を見るような面もちで闇を見すかそうとしていた。
最初に歩み始めたのグレナヴァンであった。
「危険になったら無理をせずにいつでも引き返すということにしよう。状況を見て焦らずにすれば良い」
「そのとおりです、若さま」
グレナヴァンの沈着な言葉にバルルシャナは満足げにうなずいた。
「いつでも引き返せる心づもり、それこそが冒険者の心得の第一と語られています。いにしえの英雄達に曰く、地図作りは命をつなぐ糸、魔法の切れ目は命の切れ目、そして目的達成には百度でも出直せ、と」
笑みを浮かべるにはいささか硬質な顔皮であろう。しかし龍人族《ドラコン》の黒い瞳の持つ愛敬に、息を詰めていた一行はほっと緊張を解いた。
城郭の表門としては、異常なまでの警戒ぶりである。道は狭く、そして長い。ホールまでは幾重もの堅牢な扉があった。
城の構造とは、城主の精神態度そのものを映し出す鏡であると言われる。かつて、ある狂王は高い城壁で一国そのものと言える広大な街をまるごと覆った。ある王は冥府にも届かんという地下迷宮を居城とした。とある王はその居城の門戸を市民に開き、他の王は幾つもの封印と魔獣の放牧で自らを守らんとした。であるならば、この荒れた城塞の構造は? そして領主は……?
「変に厳重すぎると思わない?」
ブリュンフラウが不機嫌そうに目を細めながら、いぶかしげな声を出した。その言葉は一行の考えを代表している。一行は無口に、そして足早になった。
シュリ、シュリ……
シュリ、シュリ……
幾つもの扉が擦れるようにして開く音が狭い通路に狂おしく響く。次々と開く扉が一行をいざなう。
その音に隠れて進行する異常に最初に気づいたのはナベシマであった。
「……後ろの扉を!」
いつもは落ちついた彼としては珍しく慌てた叫びである。振り向いた彼が見たもの、それは次々と閉まって行く後ろの扉であったのだ。
慌てたナベシマが、そしてグレナヴァン、バルルシャナが扉に飛びついたが、状況は絶望的であった。一つの格子戸を押さえたところで、その先の格子戸はすでに閉ざされていたのだ。
もし、事態が手に負えないほど悲惨であったなら、いつでも引き返してきて城外に逃げられる。その保証が音を立てて閉ざされて行くのを背後に聞きながら、一行はとりあえずは前に進むより他にすべきことはなかった。
幼主君を見るバルルシャナの表情が沈痛である。
「どうやらそうもゆかなくなったようですな」
ユークリーブが醒めた目でバルルシャナを見やった。
格王戸は頑丈である。
ラックシードはまるでこの城全体が意志を持って一行を呑み込んだように感じた。まるで壁が歓喜にざわめいたかのような……。
(あたしなら、あのこうしどのすきまからでも、かえれるんだけどな)
おびえながら、そうつぶやく。しかしラックシードは一行を離れてなお、帰る先などはあるわけがなかった。
フェアリイは身を震わせてグレナヴァンのマントの襟にもぐり込んだ。城は死に閉ざされていたわけではない。耳を澄ますなら、暗がりの彼方からは忌まわしい生き物達の気配が、廊下の奥からは闇の秩序に生きる者達の息づかいが聞こえてきていた。
[#改ページ]
2 城の探索
ヴィチチッ、ヴヴチッ!
植物も断末魔の悲鳴を上げるものなのだろうか? しかしそののたくる蔓草《つるくさ》が上げている音は、刈り取られる生命の憎悪に満ちた悲鳴としか形容しえなかった。ブリュンフラウが愛用の長槍を突き込んだとき、その蔓草は確かに悲鳴を……上げた。
「卿、お下がりを!」
老魔術師の骨ばった指先に、空間を凍てつかせるような白弾がともった。
すいと身を引いたグレナヴァンの傍らをチリングタッチの氷閃がきらめき、そしてダイヤモンドダストのきらめきを残して蔓草を凍てつかせた。
だが、複雑に絡み合った蔓草のすべてが凍り付いたわけではない。その幾筋かがくねり、重い鎧によろめいたグレナヴァンの小柄な身体へと伸びる。戦い慣れぬ少年の肌を触手がかすめ、棘《とげ》が紅《あか》い筋を作った。少年は呻きも漏らさずに、気丈な瞳と共に両手で長剣《ロングソード》を振るって触手を凪いだ。
「あっ、あぶないよっ、グレナヴァン!」
ラックシードがいささか遅きに失する警告を上げたが、これは愛敬のうちであろう。グレナヴァンは唇に僅《わず》かな失笑を浮かべると襲いかかり覆いかぶさろうとする触手から転がり逃げる。彼女は先ほどから眠りの呪文を呼び起こすというリュートをしきりにいじっているのだが、その効果は本人が主張するほどには上がっていないようである。ナベシマに言わせるならば「邪魔にならぬよう遊んでいる程度ならよかろう」というところだ。
錬金術師《アルケミスト》の複雑な呪文行程が終了したのは次の瞬間である。ユークリーブは無言で両指をすいと突きだした。空気の層が引きつれて、毒性を持つ煙が肉食蔓をいぶした。くすぶるようにまとわりつく毒気に肉食蔓は身悶えし、よじった。再びあの耳障りなきしみ音が洩れる。
グレナヴァンの安全に気を使ったブリュンフラウがわずかに遅れた。毒煙に触れた鎧の表面が鈍くくもり、彼女は忌々しげに小さく舌打ちをする。
「!」
間髪を入れず、無音のかけ声と共にナベシマが野太刀を振り降ろす。
その鋭い一閃が閉幕の合図となった。切っ先は凍てついた蔓草を容易に凪ぎ払い、震える根は無力な余韻の喘動《ぜんどう》でしかなかった。
「大丈夫? グレナヴァン、」
ブリュンフラウが気遣かわしげに少年に癒しの手を伸ばした。グレナヴァンは軽く首を振って彼女を押し止め、清潔な布で傷口を拭う。ヒールウーンズの呪文を唱えるまでもなかった。
切り裂かれた球根から鼻を刺す臭気を放つ消化液がゆっくりと床に広がっていった。バルルシャナはやわらかなサンダルでそれを踏みつけぬようにと気づかわしげに避けて歩く。
昔はこの部屋も豪奢《ごうしゃ》な布織りの絨毯で覆われていたのだろう。小さな昆虫達は満悦そうにそこを寝床にし、やわらかな肌合いと、そしてかじり喰らう食糧として、長きに渡ってこの楽園を堪能したようだ。
現在はそれは止め鋲《びょう》の痕跡でしか判断できない。むき出しになった石の廊下や階段の隅に溜まった塵は、それら怠惰な生き物達の糞芥《ふんかい》そして小さな亡骸のかけらであろうか。
塵はじっとりと湿気に濡れて、あるいは乾き、石畳の上の層となってささやかな歴史を刻んでゆくのだろう。
玄関ホール、客間、会議室、ホール、調理場、配膳室、そして朽ち果てた謁見《えっけん》の玉座。
宝箱に入ったアミュレットや薬瓶らしきものも見つけたが、それを試してみる気にはなれなかった。悪意が風となって刻まれたこの城で、安易に薬などを口に入れることははばかられるのも当然だ。いかなる悪意ある冗談の贄《にえ》にされるやもしれない。
小さな一室は取り引きにでも使われていたのだろうか。砕け散ったインク瓶と黒々とした染みが何かしら忌まわしいものを感じさせる。崩れた書記机の引き出しのなかから、グレナヴァンは注意深く古びた羊皮紙の一部を取りだした。
牧師、およびその愛人を召喚、娘レベッカの売り渡し代金として金貨百枚を支払う
残った文字はそう読み取れた。恥知らずな人身売買の記録である。
「レベッカ?」
「王が養女と称して幼い妾を囲い込んだという噂が残っておりますな。王は毎夜のように少女の部屋を訪れたが、嫉妬深い妃もついにはその現場を押さえることはできなかったそうで……くく、」
ユークリーブの含み笑いが疲れたグレナヴァンの耳を刺した。聖職者の不義の子、そしてこのような人身売買とて邪悪な王の治世には日常茶飯事であったのだろう。
「ね、グレナヴァン、このこはやすいねえ? グレナヴァンがあたしをかってくれたときは、もっと、ずーっと、たかかったよねえ? ね?」
彼の心情を察しないラックシードがしごく上機嫌にグレナヴァンにまとわりついた。
グレナヴァンはそのメモを勢い良く引き裂いた。脆《もろ》く古い羊皮紙は容易にちぎれ、あたりを埋め尽くす塵芥《じんかい》のなかに混じっていった。
「次へ行こう」
短く、そうつぶやぐ。
「疲れたのではない? グレナヴァン」
ブリュンフラウが気遣いの声をかける。グレナヴァンは黙っていた。
広い城は歩むだけで一行のスタミナを吸い尽くす。そうでなくとも時折遭遇するコウモリやラット、あるいは奇怪な肉食植物のたぐいにはなかなかに悩まされることとなった。少年のみならず、辛抱づよい猫侍や老魔術師の表情にも疲れの色は見えていた。
「何のために何もない部屋なのに鍵ばかりかかっているのかしら」
ブリュンフラウは幾度となくそういうため息をついたものだ。もちろん、かつては貴族が行き来したであろう部屋を放浪盗賊風情にのさばらせないようにするというのが目的なのではあろう。しかしすでにかつての装飾は城主の誇らしい歴史とともに塵芥の中に朽ち果てていったのだ。
くだらない労力を閉じた扉への自棄じみた体当たりや鍵開けに消費し、ようやく開いたところにしつこいネズミとの戦いに応じねばならないというのは精神的にもこたえるものとなっていた。いくつか重要そうな扉も見受けられたのだが、入り口の格子戸に等しく決して開かず、いかなる試みも受け付けずにその向こうの秘められた謎を護っていたのである。
これは彼女が過剰な不平屋というわけではない。耳の良いブリュンフラウにとって、キーキーと鳴く巨大ネズミや吸血コウモリの相手をするのは他の者達が考える以上の苦痛であったのである。
幾つもの部屋を探っても、有益な情報も遺品も見つからなかった。見つけたものはわずかに一つ、古ぼけたビーグル犬のぬいぐるみぐらいなものである。この無法と暴力に満ちた廃虚の中で、とぼけた黒い瞳の犬のぬいぐるみはあまりにも不釣り合いで、しばしの間の失笑に疲労を軽減させるという重要な効果を発揮するアイテムとなった。現在はなかば自棄じみたユーモアと共にラックシードの背中に背負われている。
そう、そんな探索行に一番に生き生きとしていたのが彼女であった。小柄で器用な指を持つフェアリイは自分の才能の中に鍵開けの能力を見いだし、喜々として鍵開けに挑戦していた。しかしそのラックシードすらも数刻前から疲労する飛行をやめ、短い足で懸命に歩いてついてきていた。
「ねえ、もっとゆっくりあるこうよ……」
泣きそうな声でそっと訴える。
疲れたグレナヴァンの背中にとまるのは、さすがに遠慮があったのである。かといってラックシードにとってみればナベシマもブリュンフラウも近寄り難いところのある存在であった。老バルルシャナも気の毒だし、ユークリーブときた日にはこちらからお断りだ。
「では、休みましょうか? グレナヴァン卿」
ユークリーブの静かな言葉はいくらかの嘲笑を帯びていたように一行には感じられた。見せかけの優しさが一行の心を逆なでする。
錬金術師《アルケミスト》と魔術師《メイジ》は共に重い装備から無縁であるのだが、老齢のバルルシャナに対してユークリーブは三十歳かそこらの男盛りであり十分な余力があるはずだが、錬金術師の複雑な呪文発動課程を理由に余分な荷物運搬を断っていた。
ブリュンフラウの視線が不快げにユークリーブに注がれる。彼女はその暗色のロウブの下には十分な筋肉を有した健康な肉体があることが判っていた。ひそやかななりを演じていても、わずかな立ち振る舞いで判るものなのである。
「いや、」
グレナヴァンは沈んだ声で応じた。
「城の上階を見てからにしたい」
そこには王の居室があるはずなのだ。グレナヴァンとしてみれば、いささか無理をしてでもその存在を確かめておきたかった。
荒れた城郭のあちこちには、魔法のものであろう灯明が揺らぎ、小刻みに震えながら辺りを照らし出している。
(いつからともっているのだろう?)
疲れた瞳が、あやうげなゆらめきに引きつけられてゆく……。
すべての窓を封じられた廃城には陽光の営みは届かず、単調な探索は永劫に続くとすら思われた。
城の歴史は幾百の昔にもさかのぼる。
かつてはこのアラムの地は王国群でも最も力あるロードによって治められる誇り高い地であった。いにしえの王は異民族を平定し、その強力な力を背景として幾つもの聖戦を戦い抜いた。アラムの君主は最も神に近い聖王と讃えられ、その隆盛は歓呼と富に彩られていた。
しかし、いつからかその地は忌まわしい不浄の地へと堕落していったのだ。
「百と二十年ほど昔のことになる。この城には最も邪悪な領主と妃が住んでおったのだ……
これは夢か……?
いつしか、疲れきったグレナヴァンは身を横たえていた。語られる物語が夢うつつに混じりあう。
「恐怖におびえる領民達、じゃが最後には忌まわしきもののみがその領地に巣くうようになったのはいつからのことじゃろうか? 奇怪な儀式の噂が流れ、王が神秘の技を磨いているという噂は王国群に身震いするような他の噂と共に流れていった……
「ほかのうわさって?」
「そんなことは知らん。ともかく王はその不浄な軍団をもって、王国群に離反、大規模な侵攻を行ったのじゃ。わしが生まれるもっと前、そうさな……グレナヴァンさまの5代前にあたるヒブラ聖武王の時代にあたるかの?」
「グレナヴァンの、おじいちゃんの、おじいちゃん?」
「ええと、あっとるかな? ……コホン、そんなことはどうでもよろしい……
あれはバルルシャナとラックシードの声だ。
小さなフェアリイの小さな脳味噌に、なんとか物語を教え込もうと龍人族の老魔術師は苦心している。一方のラックシードは好奇心一杯で訊ねるものの、時折むら気に例の犬のぬいぐるみなどをもてあそんでいる。
その様は実にコミカルな対照であり、壁ぎわに立って警戒しているナベシマがくすりと笑い声を漏らした。
物語は続く……
やわらかな暖かさが、再びグレナヴァンを眠りの壁へと引き込んでいった。
(柔らかく、温かい……
(誰かが僕の髪を梳《と》いている。流れ落ちる長髪が僕の首筋をくすぐる。
(ここは……母のひざ?
「ともかくその時代に邪悪なる王の欲望は頂点に達していた。そう、「災厄の王」と呼ばれるようになったのもこの頃であろう…欲望は尽きることなく、王とその右腕である邪悪な魔術師は共に手をたずさえ、想像するだに恐ろしい魔術の戦いを始めたのじゃ。
「王と魔術師……ゾーフィタス! その名に災いあれ!……彼らは自分達以外の邪悪な者達を次々と滅ぼす戦いに乗りだした。レルムの内のみならず外へ! そしていくつかの次元の壁を牛耳る戦いが行われたのだ!
「ぎゅーじるってなに?」
「そんなことは本題とは関係ないわい! ともあれ、そんな戦いの中で、彼らはとある異教の邪神を打ち破り、その舌からコズミック・フォージの存在を知るに至ったんじゃ……
無意識へと落ちてゆくグレナヴァンの耳には、もう声は届かなかった。
だが、一つのキーワードが彼を優しい忘却の雲に包み込まれるのを阻んでいた。
コズミック・フォージ、
またはザ・スクリプター。
いや、そのような名称はこのアーティファクトの力を伝えるのはあまりにも卑小すぎた。
言うなればコズミックフォージはスタティックな平衝宇宙に最初に生まれた空間のよじれ、そのものと言えるだろう。無きモノと有るモノとの境には何があるのか? 常命の者にはその問いに応えることはあまりにも難しい。望むものがかく有るようになる……その秘密の力こそがコズミックフォージの力なのだ。
小さな宇宙炉はそれを手にするものに、新たな真実を広大な宇宙に書き込む力を与えるのだ。
人は何を求めるのだろう?
無限の命、無限の富、無限の力……
あるいは、権力、愛、怨恨《えんこん》、和……
あるいは……
「お前なら、何を願うのだ?」
「……!」
耳元にそう囁かれたように思い、グレナヴァンはビクリと身を震わせて目を覚ました。
「きゃ、」
汗をかいて身を起こした彼にあやうく踏みつぶされそうになったラックシードが慌てて待避する。
あまりにもリアルな幻想の声。あざけるような声の主は、彼が知っている男の声にも聞こえた。あるいはコズミックフォージの知恵ゆえに非情な災厄の王になぶり殺しにされた異教の魔神の思念が城に巣くっていたのかもしれない。
「グレナヴァン?」
ブランケットにくるまって横座りしたブリュンフラウが心配そうに彼を見上げる。
鎧甲をはずし、眠る彼を守り抱いていたのだ。グレナヴァンはその包み込むような眼差しに苦痛を感じた。子を見るような慈愛を注がれることには、抵抗がある。ついと視線をそらした。
「ここは?」
ため息じみた息と共にそり言葉を出し、立ち上がる。
しかし、その間いが無意味であることは一同の沈黙からすぐに察知することができた。歳月による崩壊がどんなに進んでいようと、この部屋の豪華さは喪われてはいなかったのだ。
壁は豪奢《ごうしゃ》なフレスコ画で飾られており、染みだしたガラス質が色調を濁らせながらもメディウムの蛋白を狙う虫どもから偉大な芸術を守りとおしていた。ブリュンフラウがもたれるベットの支柱は太古ロマニウムの荘厳な神殿のそれを連想させる細工であり、彼女の気高い銀髪を女神のそれに見まがうばかりに引き立てていた。
王の居室である。この部屋といくつかの続き部屋によって構成されていた。
「あなたが眠っている間に、少し調べておきましたよ」
ちょうど歩み寄って来たユークリーブがあいかわらずの醒めた口調で語りかけた。数冊の本の残骸をバラバラと放り出す。埃にまみれたロウブを少し誇りを傷つけられたような顔ではたいた。
「これらはくだらぬ蔵書のたぐいですな。オカルティズムも幾つかありますが、市井で入手できる程度の子ども騙しにすぎませんよ、呪文書も同様。強いて意義あると言いましたら、キャベツの料理法ぐらいのものでして……いやこれがなかなかに面白い、」
「成果がなかったというわけだな?」
渋い声でナベシマが口をはさんだ。ユークリーブがかぶりを振り、ロウブの内側から一冊の本を取りだした。
「これは城主の日記と思われます。このなかにはこの城で起こった事件のすべて、そして我々が求める例のアーティファクトの所在についての情報があるのです」
ユークリーブの言葉に一行の鋭い視線が集まった。案内人として一行に加わったこの錬金術師がコズミック・フォージを求めているということを、グレナヴァン達は知らなかったのだ。もちろん考えれば判ろうものであった。誰しもこのような秘宝の存在を知ればその魅力には抗し難いものがあるだろう。コズミック・フォージの伝説はあまり知られていないとはいえ、魔術師、そして秘宝を扱う錬金術師にとってはあまりに高名な伝説であったのである。
百年もの間、多くの者がこの秘宝の獲得に挑戦してきた。しかしそれを為し得た者はいない。ゆえに今ではコズミックフォージの伝説はあまりにも法外で限りなくホラ話に近いものであると片づける者の方が多数派となっている。その不確実な情報を元に高リスクの冒険に乗り出す者はいない。伝説のウィザードの地下墓所を探すとか、滅びた強欲寺院のため込んだ隠し財宝を探し出す方がまだましというものだ。
ゆえに現実主義的な性格の代表格とも思えたユークリーブがコズミックフォージを求めているということには、誰も思いが及ばなかったのだ。しばしの不愉快な沈黙が周囲を支配した。
「で、何か判ったのかの?」
バルルシャナがかすれる咳払いの後に、そう尋ねた。
「駄目ですね、複雑な暗号によって記述されています。王の指輪か何か……一般的な暗号解読指輪ですよ。個性的なパターンで開けられた穴を通して字を読んでゆくというものです。指輪は見あたりませんでした。おそらく王の墓所に共に葬られたのでしょう」
肩をすくめながらユークリーブが話す。実のところ、この発見の興奮が彼をふだんよりは饒舌な男にさせているようだ。一行はその言葉に落胆と、そして少しの安堵を感じて肩を降ろした。
「まずは王の墓を見つけることが必要でしょうな」
ユークリーブはそう言うと、ひょいと日記を再び自分のロウブのポケットにしまってしまった。一同はその情報に気をとられ、それには気づかない。注意深い猫侍の目を除いては。
(まあ、良い……奴が私物化するつもりでも、必要であれば奪い取ることも容易だ)
ナベシマはそう自分に言い聞かせた。ユークリーブは彼の視線に気がつき、ゆとりのある眼差しを返した。
「それから鍵を見つけました……雄羊の鍵……そう銘うってあります。おそらくは下層にあった開かない扉の鍵の一つなのでしょう」
「それが閉じた入り口の格子戸を開ける鍵であってくれたらの」
バルルシャナが苦々しい口調でそう言った。老魔術師にとって年若い主君の辛そうな様は見るに忍びなかったのだ。
「おや? バルルシャナ老はこの探索行を止めたいとおっしゃられる?」
ユークリーブは芝居じみた仕草でそう言った。「少々の疲労で目的を失われても困りますな。伝説のコズミック・フォージ、その力さえあれば幼御主君の奪われた玉座を奪還することも容易でしょうに?」
錬金術師の瞳はそのあふれるような野心で妖しげに輝いていた。その言葉にバルルシャナとナベシマの二人が身を強ばらせる。
「奪われた玉座?」
ブリュンフラウがわずかに眉をひそめ、首をかしげてグレナヴァンを見上げる。彼女はつい先頃より同行した身である。グレナヴァンへの敬愛こそ高いものの、その目的も過去も詮索しようとはしなかった。だがさすがに穏やかではない話題に興味を引かれた面もちである。
一瞬の緊迫した沈黙が一座を支配した。
「……そのような埒《らち》もない噂をどこで仕入れたのだ?」
ナベシマの言葉は落ちついていたが、その言葉は抜き身の愛刀に等しい鋭さと冷たさを宿している。
「そなた、もしや新王の手の者ではあるまいな」
「……よさないか、ナベシマ」
制止の声をかけたのはグレナヴァン、その本人であった。疲れた表情で髪をかき分けながら臣下をたしなめる。
ブリュンフラウは少年の中にひどく老いたなにかを感じた。
アンバランスな少年である。年若い小さな身体に、多くの人間達が一生かかっても貸せられることのないような苦労を凝縮して背負い込んでしまっているのだ。それは深く刻まれ、少年が少年たるべき何かを奪い去り、そして決して癒されることがない。
ブリュンフラウはいとおしい哀れみの衝動に駆られて、グレナヴァンの背から緩やかに抱きしめた。
少年は逆らいもせず、また甘えもせずに年上の女性の抱擁《ほうよう》を甘受していた。
ユークリーブがごく目立たない仕草で肩をすくめる。骨ばった長い指にもてあそばれる金色の鍵がチャリチャリと軽い金属音を奏でた。
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3 祭壇
祭壇は隠されていた。
しかし、半ば公然と邪悪な礼拝が行われていたのだろう。その部屋は城郭の中に大きなスペースを占有しており、なおかつ豪奢《ごうしゃ》な細工の施されたバルコニーで飾られていたのである。
生け贄《にえ》を清める泉、血で汚れた恐ろしげな道具を洗う泉。そして部屋の隅にはおぞましい祭具や奇怪にねじくれた道具が散らかっていた。それらに鋏《はさ》まれた塵芥《じんかい》のなかにわずかに判別できるものは、切りとられた耳軟骨のかけらか? ナベシマですら身震いを禁じえなかった。
「よほど機械仕掛がお好きなようじゃな」
バルルシャナは嫌悪感を隠さずにそう言い捨てた。一同がその部屋に入ったとたん、まるで威圧するかのように巨大にそそり立つ石作りの祭壇がせり上がってきたのである。
それはさながら悪夢のよう。
磨き上げられた邪教の御神体は黒くぬめぬめと光り、あきらかにそれと判る赤黒い染みで彩られていた。まとわりつくように捧げられたテラコッタ群は儀式の様を忌むべきリアリティを伴って率直に伝える。荒々しい書体で刻みつけられたルーン文字を老魔術師は読むことができたが、それを自らの口から伝える気にはならなかった。
「く……、」
ブリュンフラウは像を見るだけで、そのぬるりとした感触が素肌に触れたような感じがした。おぞましい感覚に全身に震えが走った。
それは半ば本能的な反射的行為である。彼女の長槍《スピア》が一閃し、像に突き立てられた。潔癖なヴァルキリイの嫌悪感は電撃のようにそれを襲ったのである。常ならぬ渾身《こんしん》の力をまっすぐから込めた、激しい一撃であった。
「何を!」
慌てたユークリーブの制止の声が届くはずもない。
切っ先は鋭く像を突き、石と鋼鉄の突き当たる激しい火花を薄暗い部屋中に散らした。そして像は鋭い砕片となって砕かれ、広く破片をまき散らす。
「あうっ、」
彼女の唇から苦痛の呻《うめ》きが洩れた。腕の痺れに愛槍を取り落とす。そしてゆっくりとくずおれた。唇から一筋の血が滴る。
槍は折れこそしなかったが、その矛先は激しい衝突に半ば熔け歪《ゆが》んでいた。鍛え上げられた鋼鉄がである。
「なんと無謀なことをするのだ」
あきれながら彼女を助け起こしたのはナベシマである。しかし彼女はその手を払い拒んだ。黙って起きあがる。
「浅慮《あさはか》な行動は慎んで頂きたいですね、ヴァルキリィ。貴女の行動で貴重な手がかりが失われたり、取り返しのつかないことになるやもしれないのですよ」
ユークリーブは早口でそう言うと、急いでこぼたれた石像と祭壇を調べる。ブリュンフラウは石像に触って調べている彼に対して眉をしかめた。不快な表情で視線をそらし、指先を震わせながら口元をぬぐう。彼女にしてみればこのような汚らわしいものに直に触れることのできる神経は理解できない。
「わしはとがめる気にはならんよ。こんな忌まわしいものが存在するのを認めたくはない」
バルルシャナも心情は同様だ。そう言って彼女をかばう。同意を求めるようにグレナヴァンに視線を向けるが、少年はただ沈痛な眼差しをじっと石像に向けているだけであり、その表情は老魔術師としても図りかねるものだった。その肩にスイとフェアリイが舞い降り、不安げにすがりつく。
(ヒトは……違うのかの?)
ふとした不安がその頚をよぎった。
「災厄の王」のような悪魔崇拝者達は、不快なことながら決して少ない存在ではなかったが、そのほとんどすべてが人間種族であるということが指摘される。エルフ、ドワーフ、ノーム、ホビットといった独立文化種族や、あるいは彼のようなドラコンやナベシマのようなフェルプール、そしてロウルフ、ムークといった新来・希少種族に至るまで、悪魔崇拝をしてまで分不相応な何かを手にいれようとは思わないものである。フェアリイについてはもとより言うまでもない。
単純に短命ゆえの野心とは言えない何かがそこには感じられた。
ヒトの争いの中に長く身を置いてきた老魔術師は、悲しい疲労を感じていた。しかしそんな人間達の中で若き主君グレナヴァンだけは違うのだと信じたいバルルシャナであった。
傍らではブリュンフラウが潰れた槍を拾い上げ、ため息と共に投げ捨てた。もう使いものにはならない。その様を見ていたナベシマがたばさんでいた二の太刀を無言でさしあげ、彼女に投げやる。ヴァルキリイはそれを空中で器用に受け取った。
「かたじけない、借り受ける」
すらりとぬき放ち、侍にしか使いこなせない東洋刀でないことを確認した後にすばやい仕草で剣の礼を返した。軽い演武をしてみせるブリュンフラウは棒状武器のみならずスォードの技にも慣れ親しんでいることを実証している。まさに死の乙女ヴァルキリイといったところか……ナベシマが賛嘆の息を漏らした。
剣はごく使いやすいショートソードである。長槍程の威力は期待できないが、彼女が予備に持つ投げナイフを振り回すよりは効果を期待できる。おそらくはグレナヴァンのために持ち歩いている予備武器なのだろう。
「ここに操作盤があります……何かのスイッチのようだ」
しきりに調べていたユークリーブが失望と期待の合い混ざった声でそう告げた。他にはなにも目欲しいものは見つからなかったのだろう。興味を引かれたバルルシャナが歩み寄った。
「炎の宝珠、山羊の頭、魔法の杖……」
シンボルを一つ一つ、触れてみる。
「なるほど、確かに何かのスイッチのようじゃな。頻繁に使われていたとみえる」
「一種の金庫かもしれぬな……しかし操作する手がかりはなし、と」
ユークリーブが苛立たしげにカチカチとシンボルを押した。試しに一つのパターン、そしてまた違うパターンで試してみる。
「3シンボルの組み合わせ6通りを試してみれば作動するじゃろう?」
「一度づつ押すということであればたやすいが……その期待は裏切られたようだ」
素早い仕草で試してみたユークリーブであるが、操作盤は反応を見せなかった。鍵開け作業に興味を引かれて、ラックシードがふらふらと飛んで近寄る。
「あたし、やってあげようか?」
もったいぶった自信と共にそう申し出たラックシードであったが、錬金術師はうるさそうにちょっと見やっただけだった。バルルシャナは首をすくめる。
「針金を突っ込む鍵開けではないからのう。お嬢ちゃんでも手にあまるじゃろうて」
「でもね、でもね、」
ラックシードは真顔で反論する。
「カチッとおすでしょ、そうするとただしければあたしのはねがピキッとするのよ。つぎにね、おすでしょ? そうするとちがったらシュンとするんだけど、あってたらまたビキッとするの。もっともシュンとするのはきっとかぎじゃなくてあたしなのよ」
「なるほど、フェアリイの鋭敏な振動感知ですか」
ユークリーブが興味を引かれたように振り向いた。シンボルから離れ、ラックシードのために場所を開けた。
「えへへ」
フェアリイの少女はしごく満悦げに頬を緩めながら作業にかかった。
そう時間も経たない。カチリという解除の音に一同は息を呑んだ。
「……やった!」
しかしフェアリイの歓声は祝福で迎えられることはなかった。
悲鳴を上げる間もなく、ユークリーブとバルルシャナの二人が足元に開いた穴に呑まれたのである。
きわめて傾斜のきついシュートが暗闇の中に続き、滑り落ちる摩擦音と転落した二人の悲鳴が僅《わず》かに聞こえた。グレナヴァンが慌てて駆け寄るが、穴の前でブリュンフラウに抱き止められる。
「バルルシャナっ!」
グレナヴァンの叫びが深い穴の底へと忠実な家臣を追って行く。
「なりません、危険です」
ナベシマが沈痛な表情で主君を宥める。
「バルルシャナを見捨てよというのか!」
少年が厳しい表情で見上げる。
ラックシードは制御盤の前でただオロオロとしていた。苦し紛れにカチカチとシンボルをいじってみるが、もとより落下した二人が戻るわけもない。
猫侍はしばしの逡巡《しゅんじゅん》の後に、穴を見た。
「おそらくは悪質な罠ではありますまい……なんらかの通路かと」
「ならは彼を追う」
「なりませぬ」
ナベシマは厳しくそう言った後に、ブリュンフラウを見た。
「おぬしは女子ながら武芸に秀で、憂いなく主君をお預けできる方と見た。拙者が二人を追うゆえにグレナヴァン卿を守り、ここにて帰還を待っていただきたい。これまでのところ、城の魔物どもはたちが悪いとはいえ拙者やそなたが相手にできぬほどの力量はないと見える」
ブリュンフラウはうなづく。
「殿下、しばしの間お待ちを。必ずやバルルシャナ殿と錬金術師を無事に連れて帰りますゆえ」
ナベシマは安心させるように口元に笑みを浮かべた。
「判った……無理はせぬよう」
グレナヴァンは暗い表情でそう言った。ナベシマは一礼すると身を翻《ひるがえ》していさぎよく穴に身を投じた。
闇の中に素早く滑り下りるその姿は、すぐに判別できなくなった。
「彼のことです。心配はいらないわ」
ブリュンフラウはそう言った。その言葉は確信に満ちている。実際に、彼女はさして心配してはいないのだ。
侍とヴァルキリイ。肩をならべて戦っていればおのずと互いの力量が判る達人同士である。ましてや先に落ちて行った二人も高位の魔法術者達である。どちらかと言えば少年とフェアリイを守る彼女の方が心配されるべきであったかもしれない。
「ごめん……ね、グレナヴァン」
ラックシードが見るも哀れにしょげて舞い降りた。
「構わない。悔やむ必要はないよ、ラックシード」
そう微笑みかけるグレナヴァンであったが、その言葉は気休めじみていた。
6人のパーティは3人づつに分割された。そして戦力は半減以下である。
そしてグレナヴァン達はさておき、未知の落とし穴へと消えて行った3人の前にどんな危険があるものなのか、それは予測しえないことであった。
「だが、素直にじっと待っているつもりもない」
ちょっと肩をすくめると少年はくるりとブリュンフラウに振り向いた。勢い余って前髪が揺れる。
「我々でできるところの探索をすませていよう。まだ城は広大だ」
ブリュンフラウはいまさらながらに賛嘆の息をついた。この少年、決して臣下に護られているばかりではなく、充分な勇気と行動力を有している。慎重な猫侍であれば止めるところてあろうが、ヴァルキリイとすれば彼の決然とした行動は止めるに忍びなかった。
「死の乙女との二人旅をする勇気があって?」
このような気易いからかいの言葉の一つもかけたくなる。
彼女なりに、そんな少年がいとおしいのだ。
「3にんだよ、3にん」
ラックシードがグレナヴァンの肩鎧にしがみつき、ぶんぶんと首を振った。
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4 狂気
暗い城郭の廃虚に鎧の靴音が静かに響き渡ってゆく。
銀髪をなびかせる長身の麗人とフェアリイの少女を引き連れた年若い少年がゆく。
その美しい組み合わせのもたらす効果を明らかに一行は失念していたようだ。
「いったい、どこにこんなに人がいたのかしら」
ブリュンフラウが苦笑しつつ剣の血糊を拭い捨てる。一方のグレナヴァンはいささか憮然《ぶぜん》とした表情で、切り捨てられた盗賊達を黙って見おろしていた。城の地下層の探索に取り組んでから、ここに住み着いているらしい荒くれ男達の襲撃を多く受けるようになっていた。
地下層に降りたのは初めてではない。あきらかに一行を組みし易しと見ての襲撃である。しかしもちろんのことながら安っぽい威嚇におびえる一行でもなく、盗賊風情にヴァルキリイの太刀筋を崩せるわけもなかった。
「姐さんが魅力的すぎるんよ」
下品なふくみ笑いと共に中年男の声がブリュンフラウの背にいきなり浴びせられた。
「……!」
振り向きざまにヴァルキリイの剣先が声の主へと伸ばされる。
「おっと、危ないものはしまうこったな。あんたが追い剥ぎじゃないんならな」
この部屋にあるものと言えば、部屋中に散らばっている寝台の破片のみであると思っていた。そのがらくたの間から浮浪者じみた男がゆっくりと身を起こした。立ち上がりながら、パンパンとズボンの埃を払う。片手に剣を持っていたが、ブリュンフラウの厳しい視線を感じてそそくさと鞘《さや》に納め、愛想よく手の平をかかげた。
「ヒュー! こんなキレイな姐さんはめったにお目にかかるもんじゃないからな。馬鹿なやつらがあんた身体を狙ったって不思議じゃないさ……俺は眺めるだけで満足する主義なんだがな。マティーのイモリ野郎や、角の方々に献上しても結構な額になるぜ、ホント」
男の視線がブリュンフラウの身体をなめるように這い回る。彼女には、じゅるり、という舌なめずりの音が聞こえたように感じられた。
「あなたは何者なのです?」
不快げな表情のブリュンフラウに代わり、グレナヴァンがそう尋ねる。
「俺はクイークエグ。これでもまっとうな商人なんだぜ? 武器屋、情報屋として一流よ」
中年男はそう言い、黄色い歯をむき出して笑った。
「何故かマーフィって呼ばれることもあるんだが、俺はその意味がわかんねえ。あんた判るかい?」
「行きましょう、グレナヴァン卿。このような奴の相手をしても時間の無駄よ」
ブリュンフラウは辛抱強い方ではない。剣をその頭に振り降ろした方が早いというものだ。
「ねえ、やりとか、つるぎとか、かわなくていいの?」
ごく素朴に提案したラックシードは、ブリュンフラウに激しくにらみつけられてたじろいだ。彼女としてみればその理由は判らない。びっくりしてグレナヴァンの髪に避難する。
「もちろんいい武器が揃ってるぜ。しかし姐さんにはとっておきのやつを譲ってやってもいい。胸鎧の一種なんだが、最近に盗賊野郎の一人が王妃の部屋から見つけだしたという逸品で……」
クイークエグはごそごそと箱をかき回しはじめた。
「何故、このようなところに盗賊達が多く集まってるのです?」
グレナヴァンは情報収集をしようと決めたようだ。なにしろ、この城に入ってから初めて見つけたまっとうに話ができる相手である。もちろんブリュンフラウもその価値が判らないわけではない。半ばあきらめ顔で傍らの残骸の上に腰を下ろした。
「何故って……あんたらは何故ここにいるわけよ?」
「我々は……」
グレナヴァンがくちごもる。クイークエダはその様を見て笑った。
「へへ、お宝さんに惹《ひ》かれてだろ? もっともここいらに住み着く盗賊や海賊どもは、俺やあんたらのようなまっとうな宝探し屋じゃあない。ほとんどが角の方々に物資や奴隷を運んでくるっていう闇の商人どもさ。谷水の水路がこの場所を縦横無尽につなげ、海から奴らの汚ねえ船を乗り付けることができるってわけさ」
クイークエグは得意げに話を続けた。
「俺は宝あさりをしながら海賊どもに酒や武器を仕入れてやっている。情報通としてちっとは名も上げてる。結構長くいるが、もっとも「船乗りの酒場」の親分のマティーにゃかなわねえかな」
「マティー船長?」
グレナヴァンが身を乗りだした。情報の獲得は急務である。いつまでもだらだらとした城の探索を続けていられるわけではないのだ。少しでもコズミック・フォージの手がかりを入手したかった。
「へへへ、情報が欲しいって顔をしているぜ。そうさな、若きロード様と美人のヴァルキリイ…さしずめ若きバッカス神がお忍びで忠実なる武装乙女を伴って「巫子の聖槍」を取り戻しに来たっていう様子じゃねえか、」
クイークエグのその言葉に、ブリュンフラウがまるで雷光のように立ち上がった。次の瞬間には闇商人の胸ぐらを掴み、ギリギリと締め上げていた。
「ひっ、何を!」
「お前、巫子の聖槍を知っているの?」
その言葉が緊張によってかえって冷えきっている。ラックシードはその剣幕の恐ろしさに慌てて飛びすさった。
「……ラ、ランス、ブリゲルトのメーナッドランスのことか、ア、アウ」
「どこにある!」
「し、知らない、離してくれ!」
余裕を持ってしゃべっていたクイークエダであったが、さすがにその言葉は悲鳴のようになった。
「きゃっ!」
「やめないか、ブリュンフラウ!」
ヴァルキリイは半ば自分を失っているかのように怒りの表情で闇商人を締め上げていた。その顔が紫色に欝血《うっけつ》してゆく……。ラックシードが悲鳴をあげ、さすがにグレナヴァンが制止の声をかけた。
「む……」
ブリュンフラウがその声に、恥いったように手を離した。闇商人がドスンと腰を落とし、荒い息をついた。
「申し訳ない、クイークエグ殿……」
グレナヴァンが急に荒立った事態に当惑しながらも謝罪する。
「へ、へへっ、まあいいさね。なあ兄さん、一つ取引をしようじゃあねえか」
そんな少年を見て、クイークエグは胸をさすりながらも小ずるい笑みを浮かべた。
「俺はある男の隠した宝を探している。だがどうしてもそいつの口を割ることができねえ。そいつを聞き出してくれりゃあ、マティーに引き合わせてやってもいいがな? なにしろマティーはあれでいてなかなか気むずかしいイモリ野郎よ。「船乗りの酒場」は会員制で、俺の紹介がなくっちゃあ入れないからな。それに奴なら巫子の聖槍について何か知っているかもしれねえしな、なあ姐さん?」
いまだに強張った表情で彼を見おろしているブリュンフラウにちらりと目をやる。
「宝のありかを聞いたら、我々がそれを横取りするとは考えないのですか?」
グレナヴァンのその言葉に少しぎくりとした後で、闇商人は哄笑《こうしょう》した。
「ひゃははは、なかなかしっかりしたボウヤだぜ。だが、あんたは嘘はつかねえだろ。ケチな宝漁りから獲物を横取りするようなことはしないよなあ? おたくが探してんのは巫子の聖槍なんだろ。こっちはそれに興味ねえ」
クイークエグとしてみれば、いかにも育ちが良いだけと見えた少年にこのような油断ならない機知が隠されていたということに気押されるものがあったであろう。それを自ずから笑う。
「まずは話しは汚らしい海の男から始まるんだ。そいつはまあ海賊船の船長だな。七つの海を駆けめぐり、ありとあらゆる冒涜《ぼうとく》的行為を為した奴だ。教会の聖杯に痰唾《たんつば》を吐いたなんてえ逸話はまだかわいいほうよ。しかし悪いことはできないもんだねえ、」
クイークエグはクスクスと嫌らしい含み笑いを交えながら話を続ける。
「ついにそのボロ船の命運が尽きる時がきた。事情は知らねえんだがともかく船は沈み、船長はその積んでいた宝をどこかに隠した。そうして船長と水先案内人のル・モンテスだけが生き残り、この城にたどり着いたんだが、奴はどうあっても宝の隠し場所を吐かねえ。ついにはマティーが奴をいじめ殺しちまった。一方のル・モンテスは狂乱し、尖塔《せんとう》の一つに閉じ込もって出てこない。まあそういうわけだ」
グレナヴァンは不快感を顔に出さないように注意していたが、闇商人の話が終わると深くため息をついた。そして首をふる。城の探索を初めて以来、堕落と冒涜の影とは御馴染みになっている。いまさら驚くには値しない。
「そのル・モンテスという狂人から話を聞き出せば良いというわけね」
ブリュンフラウがそう言って立ち上がる。話を早く打ち切りたいのだ。
「ああ、哀れむべきかな、狂えるフランス人よ。……この美人の姐さんはなかなかに尋問のプロだぜ」
クイークエグはそう言ってひときわ高い笑い声を上げ、ガラクタ箱から選びだした黒革の鞭を彼女に差し出す。
「これはさっきのと一緒に、王妃の部屋から発見されたものさ。胸ぐら掴むよりはちっと優雅だと思わねえかな。あんたにお似合いだぜ。こっちなら俺だって、ぜひもう一度……」
「これをもらうわ」
その言葉を遮《さえぎ》り、ヴァルキリイは傍らに立てかけられていた大きなハルバードを手に取った。実用には耐えるものの、本来は装飾用ではないかと思われるその重い斧槍を片手で易々と扱う。刃身は錆《さ》び付いていたが、彼女がポーチから取りだした剣砥石で一撫ですると、露を噴きそうな銀色の輝きがまるで魔法のように宿った。
「おいくら?」
細身からは想像し得ないその強腕に驚嘆する闇商人を静かに見おろす。
「へ、へへ…姐さん、お近づきのしるしに百と三十五金貨で結構でござんすよ」
ブリュンフラウの姿はさしずめ死刑執行人。勇者をヴァルハラへ導く死の乙女というよりはプルトス・メイデン…冥界の案内処女の姿の方がより近い。クイークエグはさすがに額に冷や汗をにじませながら、口元をひきつらせた。
グレナヴァンは闇商人に背を向け、そして苦笑を浮かべた。クイークエグも伊達ではない。百三十五金貨という値段は、一枚たりとも妥協なくハルバートの標準売価そのものなのだ。
尖塔《せんとう》である。
大きく張り出した見張り用のテラスから、湿気を帯びた強風が悪意と共に吹き付けていた。吹き飛ばされそうになったフェアリイの身体をグレナヴァンがマントで優しく包んだ。
見おろす景色は闇と霧におおわれてなかなか判別しがたい。天空には暗い雲がたちこめ、久しぶりに見る空だというのに時間が判別しがたかった。時はまるで彼らが廃城の門をくぐったときから静かに停滞しているかのようだった。さもなければ、この城こそはこの世の理《ことわり》に対する嘲笑と冒涜の存在であるがゆえに、時そのものからも見放された場所なのであろうか。
3人はしばしの間、風に耐えながら周囲の景色を眺めていた。
北方には広大な森が半ば霧にその身を隠しながら広がっているのが見えた。
東方には陰湿で邪悪なものどもの温床となっている沼地が広がっている。
南方にはわずかばかりの平地と荒れ果てた農耕地、そしてこのアラムの天然の要害、青き山並みが見える。
西方には休火山である険しい鉱山と、火を噴く裂け谷から立ちのぼる白煙が見えていた。
「あの裂け谷には行ったことがあるわ」
沈黙を破り、ブリュンフラウがつぶやくようにそう言った。
グレナヴァンがいぶかしげに彼女に目を向ける。風に激しくあおられる銀の髪を片手で押さえながら、ヴァルキリイは少年を見おろしていた。
「私が何者であるか、尋ねようとしないのね」
少年は黙っている。
「祭壇といい、闇商人といい、失態を見せてばかりね。私が短絡的な激発女に見えるでしょう?」
「そ、そんなことないよ。ラックシードはね、ただブリュンがうっかりして、あたしのことをふんずけたりしないかなあって、そうおもってグレナヴァンのところにひなんしただけなのよ」
少年は口を開いて何かを言いかけたが、ラックシードがけたたましく言い立てる言葉に止められた。
「あ、でも、べつにブリュンがわるいんじゃなくて、ただあたしがちっちゃいからなんだけど、」
ラックシードが一生懸命に説明する。ブリュンフラウとグレナヴァンはその様子にくすりと笑った。
心なしか、風がやわらいだように感じた。
ブリュンフラウとグレナヴァンの初めての出会いもまた、このようにやわらかな風の中であったように想い出される。見捨てられた領土アラムへの道を辿る5人の一行の前に、銀の髪を風になぶらせながら長身のエルフが姿を現したのだ。
目的地を確認すると即座に同行を申し出た彼女に、ナベシマやバルルシャナは当然ながら疑惑と警戒の目を向けた。そしてブリュンフラウもまた、男達との間には必要最小限なだけの距離を保って接していたのであるが、いつしか少年の心には強く引きつけられていったのである。
真性のヴァルキリイは人を愛することを許されてはいない。
本来は彼女達は勇者の記録人であり、死者を悼《いた》むことはあっても生者を愛しはしないのだ。
そのはずだった。
「あなたが何者でも構わない」
グレナヴァンは石の壁枠に頬杖をつき、遠くを挑めながら言った。
「あなたの示す潔癖さも好ましいと思う。目的を遂げようとする姿勢もまた」
ヴァルキリイは少年に歩み寄った。図らずも風に流された銀の髪が少年の頬を撫でた。
「あなたが僕を守ってくれるというそのことに感謝したい。この先、目的を違えるのであればいつ去ってくれても構わない。しかしあなたが僕の傍らにいる限り、僕はそれに感謝する」
若きロードは顔を上げる。わずかに寂しげで、そして穏やかないたわりの表情。
「グレナヴァン卿……」
ブリュンフラウは顔を寄せ、そっと口づけした。紅い唇が、肌に触れる。少年は黙って身を任せていた。
「たとえウォルタンの不興を買おうとも、あなたに忠誠を誓おう」
そして唇が唇をとらえた。ヴァルキリイは伏せた睫《まつげ》を震わせ、わずかな呻きをもらした。
(……わあ)
はさまれた形になったラックシードはひどくうろたえた。
その時、右の方でドアを荒々しく閉ざす音がした。ブリュンフラウは素早く身を翻《ひるがえ》す。
「ル・モンテス?」
ヴァルキリイは重い木づくりのドアを叩いた。中からはひどく緊張した荒々しい息づかいと、懸命にドアを押さえている気配が伝わってきた。
「どっかいっちまえ!」
「なに?」
「わしはどっかいっちまえと言っているんだ! お前さんがたが誰であろうとわしは出てゆかん。わ、わしを動かすことはできんぞ!」
ひどく緊張した声である。乾いた喉から絞り出される声は、裂けて血が噴きそうな悲嘆と狂乱を宿していた。
「興奮させては駄目だ」
グレナヴァンがブリュンフラウを止める。
「あなたに害は及ぼさない。話が聞きたいだけだ。礼もしよう」
「騙されるものか! お前はそう言ってわしの愛するスヌープチェリを連れ去った。汚らわしい船長の宝なぞは災厄の王にでも喰われろ! だがスヌープチェリが戻らんかぎり、わしはここを動かんぞ!」
グレナヴァンとブリュンフラウは顔を見合わせた。
「スヌープチェリ?」
「恋人か誰かのようね」
やれやれと二人は肩を落とした。探索行は難航しそうである。スヌープチェリとやらがどれほどの美人であったにせよ、このような城郭のなかで無事にいるとは思えなかったのである。
「ル・モンテス! スヌープチェリとは誰なんだ?」
半ば絶望しながらもグレナヴァンが尋ねる。
「どっかいっちまえ! わしはどっかいっちまえと言っているんだ!」
戻ってきたのは先ほどの狂乱の言葉の繰り返しにすぎなかった。
「グレナヴァン卿、やむを得ないわ、扉を破壊しましょうか?」
ブリュンフラウがあきらめ顔でハルバードを抱え上げた。
「あの、」
ラックシードがおずおずと声をかける。
「危ないからさがりなさい、ラックシード」
「あたし、すぬーぷちぇりをしってるよ」
「え?」
驚いたブリュンフラウの前に、フェアリイはあの古ぼけたビーグル犬のぬいぐるみを突きだした。愛敬のある黒い瞳がエルフの蒼緑の瞳をのぞき込む。ブリュンフラウは笑いそうになった。
「ラックシード、ふざけている場合じゃなくてよ」
「ちがうよお、ほらここに、このこのなまえがかいてあるよ」
ちぎれかけた胸のネームプレート、確かにそこには「スヌープチェリ」の名前が読めた。ブリュンフラウは驚きとあきれの表情と共にぬいぐるみをラックシードの手から取り上げた。フェアリイはみじめそうな表情と共に、遠慮がちな小さな声で「みつけたのはあたしのだから、あたしのだもん」などと抗議している。
「ル・モンテス、スヌープチェリを見つけたわよ、ここを開けなさい」
ブリュンフラウのその声は、いささか疲れと共に邪険になる。
「どっかへいっちまえ! もう騙されないぞ」
「スヌープチェリを持ってきたのよ!」
「どっかへいっちまえ!」
厚い扉ごしで、苛立ちをともなって怒鳴り合いになる。ヴァルキリイの喉も涸《か》れそうだ。
「言い方が悪いようだね。頼むよ、ラックシード」
グレナヴァンが首をすくめ、困った表情と共に犬のぬいぐるみをラックシードに渡した。フェアリイはしばしの間、未練ありげにぬいぐるみを抱きすくめていたが、あきらめたようだ。
「すぬーぷちぇりだよう。かえってきたよう、わんわん」
やけぎみになって、ぬいぐるみをふり動かしながらそう扉に呼びかける。だが、その効果は劇的であった。激しい勢いで扉が開き背が高い老人が飛び出してきて、逃げ遅れたフェアリイごとぬいぐるみを抱きしめたのだ。
「わああっ!」
「スヌープチェリ! ついに我が手にもどったのう!」
老人はビーグル犬のぬいぐるみを舐《な》めんばかりに頬ずりした。ブリュンフラウが思わず一歩、後じさる。
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5 船長
「き、き、霧、霧だ。霧が我々の進路を隠してしまった。船長は怒り、わしからスヌープチェリを奪い去った。ああ、汚らわしい男がスヌープチェリの耳を引きちぎろうとしたんだ。ス、スヌープチェリい、もう離さないぞ、わしの愛しいスヌープチェリ!」
ル・モンテスから話を聞き出すのはひどく手間のかかる作業であった。しかしグレナヴァンは狂人の紡ぎ出す言葉の一節一節をうなづきながら丁寧に聞き取っていた。
「あたしがスヌープチェリを、でっかなねずみからたすけだしたんだからねっ!」
「黙っていなさい、ラックシード」
ラックシードが口をはさむと、ただでさえ解りにくい狂人の言葉がさらに混迷する。ブリュンフラウは慌ててフェアリイをたしなめた。ラックシードは不機嫌な顔で、もぐもぐとカマンベールを頬張っている。ル・モンテスがささやかな礼代わりとしてふるまってくれたものだ。
「船はどうなったのです? 水先案内人、」
グレナヴァンは絶えず静かな口調と穏やかな表情で話を続けさせる。
「霧の向こう、船は難破した。地下の川だ。死者の川を越えて呪詛《じゅそ》の森へ進め! いや、難破したのではない、引き裂かれたのだ。輝く光が舞い降りて……我々の船を引き裂いた……」
混乱した話は続いていた。すでに老人の瞳には現実ではなくおそろしい記憶が映っているのであろう。無意識でぬいぐるみを抱きしめ、震えながら記憶を語って行く。
「……船長は宝を持って脱出しろと命令した。わしはスヌープチェリを抱きしめてその後へ続いた。ああ、だが奴は私の背を蹴りつけたのだ……なんと不遜《ふそん》な男だろう。奴は自分にふりかかった災難に激怒し、船の守りである神聖な祭壇を叩き壊し、神体の木片があたりに散らばった……
「それは辛い行軍だった。一人が倒れるごとに、残されたものへ貸せられる宝の重荷が増えていった。そしてモーガンが死んだ……モーガンはいい奴だった。船長はモーガンが死んだのはネズミの肉に当たったせいだと言っていたが、そうじゃあない。船長が祭壇を叩き壊したから、祟りが下ったのだ。ああ、スヌープチェリ! お前だけは守ってみせるぞ、おおお……
「ゴルモンも死んだ、ロスコウは喰われた……みんな船長のせいなんだ。祭壇さえあれば角の方々からも身を守ることができた。だが船長はそれを蹴り壊したんだ……うっ、おうう!」
暗い恐怖に彩られた話は続いた。紡ぎ出される記憶がル・モンテスの心を耐えがたい恐怖に蝕《むしば》んでいる。まるで雑巾を絞るかのような冷たく汚れた汗が男の顔を流れ下り、噛みしめた唇から滴る血液と混じって、床に染みをつくった。グレナヴァンはその痛ましさに眉をひそめた。手をその肩に伸ばすが、触れるのははばかられた。あまりの恐ろしい体験がこの老人の心を狂わせたのだ。
「角の方々というのは悪魔崇拝者達のことね」
ブリュンフラウが少年の耳に囁く。「今だに闇のなかで勢力を有しているようね」
「ジャイアントマウンテンだ!」
急にル・モンテスは目を見開き、そう叫んだ。
「我々はジャイアントマウンテンに宝を埋めた……だが、あの汚らわしい男はわしを殺そうとしたんだ! 本当だ、だからわしは逃げた。ジャイアントマウンテンから、そしてあの双子の巨人から……」
老人の目が恐怖と狂気の光を宿し、がっとブリュンフラウに手を伸ばした。胸甲に触れようとした脂じみた指を、ヴァルキリイは軽く払いのけた。
「ジャイアントマウンテン。行きましょう、グレナヴァン卿。用事はもう済んだわ」
ル・モンテスはなおも恐怖の体験の口述を続けていた。少年の表情に憐憫《れんびん》と逡巡《しゅんじゅん》がちらりと浮かぶ。だが、ブリュンフラウの視線に押されるようにグレナヴァンはその小部屋を後にした。もちろんフェアリイも慌ててチーズを放り出し、後を追う。
忌まわしい業に手を染めた者達が受け取るのは、最後はすべからくこのような惨めな老いざまである。
ヴァルキリイはそのような悪人達の末路を長い命の道のりの中で眺めてきた。ゆえに彼女は、ル・モンテスに哀れみを催すグレナヴァンの気持ちは判らないではなかったが、自分自身がそのような心の痛みを有することはなかった。
「人の役にたたぬ人生などはなんの意味もない」
この気高く自己犠牲的な格言がいつしか、
「役に立たない者は生きる権利がない」
という意味に置き換えられてゆくという例は決して少ないものではないのだ。厳格な法治王や禁欲的な宗教団体にありがちなことである。そして北地のヴァルキリイもまたしかり。
ヴァルキリイに同情という感情がないわけではない。しかし彼女達はこのような価値観に生きることをより強く思い、常に英雄達を貴び、その者達を守り続ける存在である。その基準は常に高いため……敗残の者達に哀れみを示すことにはいささか疎いということも理解が及ぶ。
ゆえにブリュンフラウは、宝の隠し場所を知ったときのクイークエグの跳ね上がらんばかりの喜びも醒めた表情で眺めていた。強欲な闇商人がジャイアントマウンテンの宝を手にするならそれも良い。しかしブリュンフラウは余分な注意をつけ加えるほどの親切を持ってはいなかったし、たとえこの男がル・モンテスの悪夢のクライマックスを彩った巨人族の兄弟にかじられようとも心を痛めるような同情心は有してはいなかったのである。
そして闇商人がその返礼に一向に与えたのは約束と過不足なく、ごく短い合い言葉、その一つだけであった。
「スケルトンクルー、」
クイークエグの根城の反対側、「船長のねぐら」という看板のかかった扉にグレナヴァンがその合い言葉を囁くと煤《すす》汚れた顔の小男が好奇心むき出しの目で扉を開き、一向を誘い入れた。
室内を一瞥《いちべつ》した後に、ブリュンフラウは不用意な行動を後悔した。
そこは小汚い部屋であった。ヤニ多い煙草か、あるいはもっと惑溺性と副作用を持った何かの煙が立ちこめる部屋は見通しがきかないくらいである。部屋の中央には鉄格子に囲まれた小さな牢が造りつけになっていたが、その中は見てとれなかった。たちこめる煙の臭気と、男どものむせるような不潔な体臭が部屋にこもっている。狭そうに幾つも並んだテーブルの回りには、エールの瓶や煮立てたビールのマグを持った荒くれ男どもがたむろしていた。
ブリュンフラウの歴戦の女戦士としての視線が、男達の数と腰の武器の具合、そして戦闘に差し支えるか否かの酔い具合を素早く見定める。その結果はいささか絶望的であり、男どもを切り崩して主君を守りきる自信は無かった。問題は質ではなく数である。バルルシャナやユークリーブといった魔法使いや、片翼を守る猫侍がいるならともかく、彼女とて単身でこれだけの数の殺到に対する自信はなかった。ラックシードの行動は比較的に賢明である。フェアリイは早くもグレナヴァンの背にかじりついて隠れていたのだ。
異質な客の不意の入来に、酒場が一瞬静まり返った。
こそどろ、追い剥ぎ、山賊、海賊、密輸入、暗殺者、その他大勢。ありとあらゆる悪行に手を染める男どもは煙の向こうの銀の鎧美女の出現に酔眼をしきりにこする。
しかし、次の瞬間にはあっさりと沈黙は打ち破られ、ありとあらゆる下卑た歓声がエルフの美しい立ち姿に投げかけられた。飢えた情欲の熱気が銀髪を吹き煽《あお》らんばかりに殺到した。当然ながらこのような場所において女性の登場はちょっとした事件であろうことは想像に難くない。
しかし、グレナヴァンの澄んだ声がその荒れた空気を貫く。
「マティーとはどなたか?」
その言葉と共に、冷えたざわめきが熱気に代わる。
男達の視線がおそるおそる一点へと集まった。
そこには、酔った一匹のイモリが鎮座していた。そう、その男はドラコンやリザードマンとはまた違った別個の種族に見えた。その座にはいずこかから奪ってきたのか、幾人かの褐色の肌の裸女がかしづいている。いずれも何らかの麻薬を投与されているのだろう。少女とも言えるような年齢の女達はどろんとした意識の無い瞳をしている。緩やかに身体をくねらせながら、粘液を帯びたイモリの肌を丹念になめていた。
グレナヴァンと視線が合うと、イモリは酒杯を片手にしたまま、ゆっくりと座から立ち上がった。放り出された裸女が、あっ、と声を上げた。
「マティー船長とお呼びするのだぁ、小僧っ子ぅ」
イモリは自らそう宣言した。声はわずかにかすれ、風鳴っている。
「俺にその女を献上しにきたのかぁ? それとも俺に挑戦しにきたのかぁ?」
立ち上がったイモリはなかなかの長身で強壮な存在である。龍族や蜥蜴《とかげ》人のそれよりもさらに腕力にあふれ、耐久力と生命力、そして恐らくは強力な再生力が感じられた。ブリュンフラウはハルバードを握る手に思わず力が入った。おそらくは弾力に富んだマティーの肌は斧槍の一撃を緩やかに受け止め、そのダメージを最小限に押さえることだろう。
「先でないのは確実だから、どちらかと言えば後なのだろう」
グレナヴァンのその挑戦的な言葉に、ブリュンフラウはびっくりして少年の横顔を見た。若きロードは気押されてはいない。決然とした視線でマティーのやぶにらみの瞳を見返していた。
(や、やめなよう、グレナヴァン……)
彼のマントに下に隠れるラックシードが不安げに身じろぎした。他人ごとではない。
「……面白い小僧だぁ」
マティーはそう言うとのっぺりとした口を緩めた。おそらくは笑ったのだろう。口元から透明な唾液が糸を引いて滴り落ちた。マティーの口調はどちらかと言えば冗談めかしているようなコミカルなイントネーションがあった。しかしその口調は耳にした者でなければ決してその意味を理解できはしない。そこに秘められた幾重もの威圧の空気、王者めいた貫禄、そして冷血生物らしい異質な何かを。
「なあ、お坊ちゃん、相手が判ってんのかなあー、んー?」
傍らの男が嘲笑《ちょうしょう》と共に、酒臭い息をグレナヴァンに吹き付ける。
「マティー船長はここの城主さまよ。マティー船長に逆らっちゃあ、この城じゃあ生きてはいけないんだぜ?」
「余計な口をぅはさむなぁ」
マティーの静かな声が男に投げかけられた。男ははっとした表情でへこへこと頭を下げ、下がって行く。
「うすのろ、新入りは勝負に勝たない限り仲間に入れねえんだあ」
巨大なイモリは悪質なジョークの雰囲気を込めてそう宣言した。
「俺と勝負するかぁ? 方法はお馴染みの決闘、もう一つはもっと文化的なやつ、そうょ、飲み比べよぅ!」
その言葉に歓声があがった。男達は陰惨な娯楽だけを荒れすさんだ人生の楽しみにしている。彼らの脳裏にはすでに少年が引き裂かれ、美しいエルフが欲望に満ちたイモリの贄《にえ》とされる空想が渦巻いているのだろう。グレナヴァンの噛みしめられた奥歯がキリッという音を立てた。本来は短慮な性格ではないのだ。無用な戦いは招かないにこしたことはない。しかし、悪党達におべっか使いや余分な敬意を払ってまで……いうなれば尊厳を譲り渡してまで事を為そうとはしない彼である。
「その申し出、私が受けるわ」
少年の肩をそっと押さえながら、ブリュンフラウが前に出た。ひやかしの歓声が上がる。
「飲みの方にしましょう」
マティー一人を斬り伏せる自信はないではない。その頑健さに攻めあぐね、苦戦させられるかもしれないが相手の動きを見切り、攻撃を受け流す自信はあった。しかし一度血潮を見たなれば、荒くれ男達はただでは収まるまい。であれば飲み比べの方を選ぶ。酒精《アルコール》などは彼女の身体にさしたる影響を及ぼすものではない。勝利への見込みは少なからずあった。
「女と飲むのも悪くねえぞう」
マティーの顔は至極上磯嫌であるようだ。片手に持っていた酒杯をヴァルキリイに投げやった。
酒杯に残っていた酒が飛沫《しぶき》となって飛び散る。ブリュンフラウが酒杯を長い指で器用に受け止めたとき、その飛沫の幾滴かが彼女の顔に跳ねかかった。ツンとした匂いが鼻をつく。
「一杯目だあ。哀れな災厄の王に乾杯!」
マティー船長が合図をすると、痩せたホビットの給仕が進み出て、彼の手に酒杯を渡した。船長はその杯をさもうまそうに干した。給仕はブリュンフラウの手の中の杯にも酒を注ぎ込んだ。
「一杯、五十金貨になっておりますです、はい」
ちゃっかりしているものだと苦笑しながら、グレナヴァンが金貨を払う。酒一杯の値段としてみれば恐ろしく高価である。しかしあるいはこの城においてはこの価格が標準価であるのやもしれない。
(……む、)
いざ、酒を飲み干す段になってブリュンフラウはいささかたじろいだ。杯から立ち上る刺激臭は単にきついアルコールによるもののみではあるまい。想像だにし得ない程の劣悪な醸造酒であるのか、あるいは毒薬そのものであるのかもしれない。男達は彼女の口元を見守っている……どうするか?
(ままよ、)
ヴァルキリイは意を決して酒杯を呷《あお》った。想像以上に深い酒杯は、ちょっとした小さな酒瓶ほどの容量があるかと思えた。震える指で、酒杯を支える。
「けふっ、くっ」
せき込む。身を折って嘔吐に耐えると、男達からひやかしと笑いのざわめきが起こった。もっとも、その中にはこれほどの悪酒を一息に飲み下した彼女への賛嘆に近い表情もある。
「大丈夫か? ブリュンフラウ!」
グレナヴァンが心配して彼女の肩を支える。ブリュンフラウの白い顔がさらに蒼白になっていた。強いアルコールだというのは無論のこと、奇怪な臭気とおぞましい味覚に彼女の身体の方が拒否反応を起こしたのである。続いていた迷宮探索行によっていささか不健康な肉体状態にあるということも否《いな》めない。
回復の呪文だけを頼りに飲食を欠かして長期間の探索を強行していたのだ。生命そのものの維持には問題はないとしても消化器官への深刻な影響は存在している。まったくの空の内蔵に悪酒を注ぎ込んだのであれば…いかに超人的なヴァルキリイとてただで済むものではない。
悪酒が流れ下る。ブリュンフラウは胃が焼きぬかれるかのような苦痛を感じた。
「ハーハーハー、」
上機嫌のマティー船長はブリュンフラウを見おろして奇妙な声で笑った。
「まだ飲んだ気がしねえぜ。おめえ、なんか顔が青くなってねえか、兄弟《きょうでえ》」
エルフは幾たびか大きく息をつき、こみ上げる嘔吐に耐えた。
「……もう一杯いただくわ」
ブリュンフラウが首を振って立ち上がる。決然と差し出した酒杯にホビットが注ぎ入れる。
「二杯目といきましょう。北天の酒神に乾杯、」
騒ぎが大きくなった。ブリュンフラウにとってはすでにグレナヴァンを護るための挑戦というだけではなく、ヴァルキリイとしての意地をも賭けた我慢になりつつあったのだ。
「……レベッカ、牧師とその隠された愛人の間に産まれた不浄の子は、王と王妃に買い取られました。それは王のより忌まわしい計画のために必要であったと言われます。清らかな少女は生け贄として異界の邪神を召還しようという試みのために買われたです。しかし王は少女が美しく咲き誇る花のように成長するに伴って溺愛し、嫉妬深い妃の目を盗んで若き娘へと成長した彼女の部屋を訪れるようになったのです」
ブリュンフラウは美しく流れるようなその声と、背中の疝痛《せんつう》で目を覚ました。
冷たい鉄の感触が身体を冷えきらせていた。いつ鎧を脱ぎ捨てたのかは記憶にない。羽織っていたはずのマントを下敷きに、いささか無様な姿勢で鉄格子にもたれかかっていた。同じく傍らにはだらしなく身を崩したイモリ、酔いつぶれたマティー船長が荒い寝息を立てている。
探すまでもなく、すぐ近くに彼女を守るように座しているグレナヴァンの背が見えた。彼はマティー船長のお抱えらしいフェルプールの吟遊詩人に話を聞いているところだった。彼女はふと猫侍ナベシマが懐かしくなった。
吟遊詩人は穏やかながらも迫真の語り口調で観衆の心をを引き込んでいる。周囲の荒くれ男達も酒も博打《ばくち》も忘れてそのおぞましい城の奇談に息をのみながら熱心に耳を懐けており、ブリュンフラウのあられもない酔態と寝姿に好色の目を向けるような雰囲気ではなかった。
彼女の無謀なまでの試みも無駄には終わらず、どうやら今の所は流血の事態も避けて「船長のねぐら」にとけ込めたようであった。とはいっても飲み比べそのものに関してはどのような展開とどのような結果を迎えたものなのか、確かな記憶もなかった。
「んっ……」
身を動かすと戻った血流がジンジンと腕を痺れさせる。苦痛の呻《うめ》きを漏らし、素肌がむき出しになった肩を押さえた。そのとき、振り向いて視野をかすめたものに戦慄が走った。
鉄格子に囲まれた小さな小さな牢。
その中に苦悶の表情もあらわな船乗りのミイラが陳列されていたのである。ブリュンフラウは反射的に鉄格子から飛び退いた。このミイラの恨めしげな表情に見守られながら昏倒《こんとう》していたとは…。おそらくはル・モンテスの語る忌まわしき海賊船長、マティーに虐め殺されたというその姿に他ならない。マティー達はこの男が衰弱するのを見物しながら宴会をし、死後はその遺体が朽ち果ててゆくのを酒の肴にしていたのだろう。嘔吐の発作が再び喉をついた。
「邪悪な魔術師ゾーフィタスはまた、王妃の隠された愛人であったとも伝えられています。王妃はおそらく彼にこうそそのかしたのでしょう。……わらわを愛するならば、あの王を殺してたもれ、復讐じゃ、あの小娘へも復讐を為すのじゃ! そして運命の筆記具の力を得て永遠に愛し合おうぞ、」
それをよそに話は続いている。吟遊詩人の迫真の演技に男どもは背筋をぞっとさせた。
「俺はゾーフィタスを知っているぞぉ、けっ、呪われた魔術師め、俺はみたんだぁ」
マティーは酔眼をなんとか見開き、口元を歪めながらうわごとのように口をはさんだ。
「坑道だぁ。災厄の王の富を支えたかつての大坑道の奥。今は誰も通うもののない忌まわしい場所だぁ」
「ゾーフィタスが?」
あいかわらず間延びした口調である。グレナヴァンは驚愕《きょうがく》と猜疑《さいぎ》の入り交じった表情でマティーを見やった。
「奴の魂はそこへ封じ込められてる……おそろしく硬質なダイヤモンドの結界だぁ」
「誰がそこに封じ込めたのです?」
マティー船長はふと我にかえったように目をパチクリした。居心地悪そうに、太い尻尾をくるりと巻いた。
「……俺は……知らねえぞぉ」
そう短く言うと再び面倒臭そうに目を閉ざす。
ブリュンフラウにはマティーがたぬき寝入りを決め込んだということが見てとれた。酔いから来る睡魔が彼を支配したのではない……その表情には語ることへの恐怖のようなものが感じられたのだ。あきらかにマティー船長はゾーフィタスの話を口にしたことを後悔しているように見えた。
「邪悪な魔術師の封じられた魂?」
グレナヴァンは視線を宙にさまよわせた。
この城で起こった事件の真実が少しつつベールをはがされてゆく。そしてそのすべての真実を手に入れたとき、伝説のコズミック・フォージの行方、その最大の謎へと導かれるはずであった。
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第二章 ゾーフィタスの魂
6 坑道
鍛え上げられた野太刀が赤蟻どもを斬り裂く度に、甘酸っぱい体液が散った。
しなやかな猫侍の戦う様は、まるで東洋の淫蕩《いんとう》な舞踊のそれにように、なめらかで優雅であった。
一太刀、二太刀。銀がきらめくたびに巨大蟻《ジャイアントアント》の足節が確実に切り飛ばされてゆく。
キュィ、キュィ。
死の舞いに命を奪われる蟻がきしむような鳴き声を立てる。
「我々は蟻の巣を引き当ててしまったのかもしれませんな」
通路に敷き詰められてゆく赤蟻の死骸を見わたしながら、ユークリーブがあきれたような声を出した。
「不平を言うヒマがあれば、そなたの自慢の大気系呪文でも唱えることじゃな。侍どののスタミナも尽きるぞ」
その傍らには龍人の老魔術師バルルシャナが息を切らせながらスリングに石弾を挟み込んでいた。とうの昔に呪文は尽きていた。魔術師が投げ出すスリングの攻撃などはたかが知れているが、無いよりは数段ましであろう。前衛では猫侍ナベシマがひとり黙々と赤蟻の攻撃を斬り払っていた。
(グレナヴァン卿の元へ戻るまでは、どうあっても野垂れ死ぬことなどできぬ!)
その決意が、太刀筋を数段と凄みのあるものにしていた。また一匹、蟻を斬りさばく。
あのシュートを滑り降りて後、三人は幾つものやっかいな難関に遭遇していた。城の地下階よりさらに下、そこには広大かつ複雑な地下迷宮が広がっていたのである。休憩所どころか泉すら無く、三人は暗い地下の空間を長くさまよっていた。もっともナベシマとしてみれば、危険な城の中に残してきた幼い主君を思えば休息を取るゆとりなどあろうはずがない。スタミナも魔力も回復させる余裕もなく、ひたすら先へと進むのだった。
(素性も判らぬヴァルキリイに主君を任すとは……我は判断を誤ったか?)
焦燥が自分の選択への後悔を招く。あのときのブリュンフラウの静かな面立ちが思い起こされる。白くなめらかな肌。銀色に流れ下る髪。深い想いを宿すかのような蒼緑の瞳。
(チッ!)
自責が身を焦がした。あのエルフの美しさに心がとらわれたのか?
陰湿な長虫《ワーム》、死霊ども、そして凶暴なドワーフ部族やこのような多数の赤蟻。城への近道とおぼしき扉には厳重な施錠があり、ラックシードのような盗賊の技能を持たない三人はひどい回り道を余儀なくされたのである。そしてここは城の地下からつながっていた長い坑道。かつて城の生産力の主たるものはこの鉱脈開発にあったのだろう。現在はその価値があるにせよ尽きたにせよ、掘り出す者があるはずもなく廃坑と化していた。ナベシマらにとってみれば複雑に掘り進められたがゆえに迷宮と化した坑道がうらめしいばかりである。
どれほど歩めば城の回廊に戻れるのか、どれほど戦えば外への道を切り開くことができるのか。
たとえその道が皆無であり、険しい岩肌をよじ登っていったん外界へ出た後に、再び城の門をくぐることになろうとも、彼らには他の選択はなかったのだ。
(たとえバルルシャナ殿を捨てることになったとしても、主君の側を離れるべきではなかったのではないか…)
猫侍にもそのような想いがよぎるときもある。ましてや老魔術師が心を痛めないはずもなかった。
「ナベシマどの、頭を下げられよ」
後方からユークリーブの声がかかる。振り向いたその瞬間に、彼をかすめて灼熱の魔術が打ち出されて行った。火炎爆弾《ファイアーボム》の呪文である。瞬時、蟻の赤光りする節足甲殻がさらに赤く輝く。次の瞬間、それは蟻どもの群れの中で炸裂し、数多くを瞬時になぎ倒した。
煽《あお》る熱風が猫侍の逆立った毛をチリチリと焼いた。爆裂の直撃に蒸散した蟻の体液が白く霧状になり、なんとも不快な、ねばくさい臭気で狭い坑道を満たした。
「何を!」
自らをも焼かれそうになったナベシマは瞬時、怒りを破裂させそうになった。バルルシャナとの剣と呪文のコンビネーションは、長い流浪《るろう》のなかで実にうまく相互を補うことができるようになっていた。しかし錬金術師《アルケミト》の呪文は魔術師のそれとはまったく異質なものである。無言で紡ぎ出される呪文には間合いの取りようがない。それは猫侍にとってみれば闇夜に敵に背を取られたと同様の深刻な不快感を与えた。
「大丈夫でしたか、侍どの?」
ナベシマの怒りをユークリーブは完璧な表情で受け流した。気づかわしげに寄せられた眉根とあやすような口調で応える。しかし猫侍はその仮面の下に嘲《あざけ》りがあるのを感じとった。
「ぬ……」
苦しげな表情でその怒りをしまいこむ。
焦燥に駆られた心の底を、美しいエルフにまつわる彼の苛立ちを見すかされたような気がしたのである。再び敵に向きなおり、爆炎を浴びてなお生き残った幸運な蟻どもに引導を渡してゆく。
「ユークリーブどの、そなたにあのような強力な攻撃呪文があったとはの、」
バルルシャナが複雑な表情で錬金術師を見やった。おそらくは最大魔力集中度であったであろう呪文をかけた後でなお、この人間の錬金術師の息に乱れはなかった。バルルシャナの知る限り、火炎爆弾の呪文は攻撃呪文としては効率の悪い部類に入る。本職の魔術攻撃者である魔術師達がその習得リストに入れてはいない呪文、つまりは残り物の呪文なのである。
しかし老魔術師はこの呪文は魔術師用の火炎嵐や熱核破壊の呪文には破壊力こそ及ばないものの、かなり確実な効果を期待できるシュアな呪文であると知っていた。昔かたぎの魔術師の中には、この呪文に関する知識を回収するために錬金術師の基礎修行を積むという例もあるのだ。
「いや、老魔術師には及びません。いささか己に過ぎた無理をしてしまいました」
ユークリーブはそう言って肩をすくめてみせる。彼はこれまでは効果的な補助魔法を小出しに投入することで前列を単独で守るナベシマを助けていた。魔力を温存していたのだと言うことはた易いのだが……。
(見た目ほど若くはないのやもしれんて、)
あり得る話である。錬金術師は本来は魔術ではなく様々な魔法工芸品《マジックアイテム》や錬金現象を研究する者達である。その中に人間種族はそう多いわけではない。たいていは洞窟ノームなどが長命にものをいわせて長々と魔法工芸品を分析したり、開発したりするのである。人間種族で錬金術師を名乗るものは、世間に受けが良いためにその名前を使用しているだけのインチキであったり、魔術師《メイジ》や霊術者《サイオニック》であったりするのだ。なにしろ彼らが老化を引き戻すポーションを開発したなどいう話は眉唾ものながら良く噂が走る。短命な人間の王族はそのような話には一も二もなくすがりつくのだから。
ユークリーブは彼の盗み見る視線を知ってか知らずか余裕ある表情で、蟻の残りを斬り進むナベシマの後へと早足で追って行った。
だが次の刹那、ナベシマがユークリーブの漏らした苦痛の声で振り向くことになる。
巻き起こる殺気に背筋の毛が逆立った。
先の呪文攻撃の余韻で一同には明らかに油断があった。先行しすぎたナベシマと後方の魔法使い達の間に、黒い影が舞い降りたのである。振り向いたナベシマの瞳にユークリーブの首筋に短剣を突き立てた黒い影が映った。
チキッ、チキッ、と軽い音を立ててさらに黒い影が出現する。囲まれた!
「忍者、か?」
猫侍のその声は悲鳴じみていた。全身に走る緊張に総毛立つ。複雑な坑道そして先ほどの呪文の衝撃と巻き起こった土煙とにまぎれ、この者達の待ち伏せに気がつかなかったのだ。そして出現するのが低知能の動物ばかりだということに勝手に安心と慢心が生じていたのであった。
(日頃の拙者であれば、このような稚拙《ちせつ》な待ち伏せなど気づいておったであろうにな!)
たちまちの混乱に敵の数さえも掴めない。
(……なんとぶざまな!)
内心が痛恨の叫びを上げる。刀圧で霧煙をさばき、フェルプールならではの鋭い水平面跳躍でユークリーブの傍らにつける。錬金術師に短剣を突き立てた敵は飛びすさって間合いを取った。ユークリーブは突き刺さった短剣もそのままに、どうと倒れる。
「う、」
ユークリーブが唇から血を垂らして苦悶した。
「卑怯なり、」
ナベシマはカッと口を開いて敵を見据えた。紅い口の中に虎のような鋭い牙歯が覗く。
「ヒョオウ、」
まるで風切る音を口まねする子供のようなかけ声と共に、一人が襲いかかってきた。軽い身のこなしでナベシマのいささか強引な一の太刀をかいくぐる。繰り出される鋭い蹴りが猫侍の肩口を捕らえ、よろめいた。だが、その蹴りは真の忍者のそれのような切り込まれるような余韻も、割り砕かれるような重みもなかった。
「己ら、忍者とは言えぬなっ」
肩から腕へと痺れが走るが、愛刀は取り落とさなかった。すかさず襲いかかった短刀を鯉口《こいくち》で払い、勢いでもたれかかる身体を膝で蹴り上げる! 東方武術を学ぶのは忍者だけではない。
「ゲ、ゲエえ」
黒衣の暗殺者《アサシン》はつぶされた胃から粘液を吐いた。苦痛に伸ばしたその首に野太刀が一閃した。
きれいな切り口ではねられた首が血圧で吹き飛ぶ。
「いずこの手の者じゃ!」
バルルシャナが彼の元に駆け寄り、そう叫んだ。老魔術師は暗殺者が主君グレナヴァンに害意を持つ者の手勢ではなかろうかと危惧《きぐ》したのだ。王都を放逐寸前で離れてもなお、死の危険が執拗にグレナヴァンへと降りかかっていた。このように暗殺者や忍者の襲撃を受けることも幾たびかあったである。宿泊した宿が夜半に焼き討ちにあうという事件も数度。からくも主従三人は生き延びて来たものの、その襲撃の前に巻き添えをくった者達は数知れなかった。
猫侍は瞳に虎の威圧を宿したまま、野太刀の血糊を振り払うと青眼に構える。
しかしその問いに帰ってきたのは暗殺者達の狂気じみた眼差しだけであった。
ナベシマはブルリと背筋に震えが走った。これは暗殺のプロフェッショナルの視線ではない。自らの滅びをも恐れない狂信者の目付きである。
「バルルシャナ老、奴ら問答無用とみましたぞ」
乾いた口の中を湿す。
「……お、おそらくは悪魔崇拝者の、残党でしょう」
ナベシマに応えたのはバルルシャナではなくユークリーブであった。
「奴らは、まだこの一帯に勢力を……保って、いる」
苦しげに、突き立った短剣を引き抜いて立ち上がる。
「ふっ、動脈は、それてくれたようですね……我ながら悪運の強いことだ」
自嘲ぎみに笑うが、引き抜くと共に血潮が多量にこぼれた。立ち上がるだけの力はない。震える手でザックの中の回復《ヒール》ポーションを探る。
「済まぬ、ユークリーブどの、」
ナベシマが振り向いて辛そうに悔いる。
「……目を……離すんじゃない!」
ユークリーブが珍しく怒りの声を上げた。ナベシマの視線がそれた一瞬、暗殺者《アサシン》の一人が勢い良く襲いかかったのだ。
侍が太刀を合わせるよりも早く錬金術師の手が素早く動き、きらめくものが放たれた。さきほどの短剣、自らの血に濡れた短剣である。次の瞬間にはそれは避ける間もなく、襲いかかった暗殺者の眉間を割って脳髄に突き込まれていた。
「……返したぞ」
残虐なまでの怒りのこもった声でそう言い捨てる。勢いがついたままに暗殺者の身体はナベシマの足元に転がり込んだ。即死であった。
(なんと、速い!)
バルルシャナはまたも錬金術師ユークリーブの表に出さぬ能力に驚かされることとなった。投げた短剣が心臓や首筋に刺さるというのはまだしも、脳蓋《のうがい》を割り貫くというのはせいぜい辻講談の世界の話である。忍者の技としても今だ見たことはない。
さすがに消耗したのだろう。ユークリーブは蒼ざめた顔に汗を流し、坑道の壁にどっかと身体をもたれさせた。
それを発端として激しい戦いの火蓋が切って落とされた。
一人、二人、三人、四人、五人……。
「邪教の暗殺者に大志を閉ざされてなろうものか!」
猫侍が上方から振り下ろされる短刀を太刀でなぎ払うと、その間隙を狙って第二の刺客が低い位置から剣を繰り出してくる。ナベシマは素早く引き抜いた腰の脇差しで剣勢を流した。擦れ合う鋼鉄が上げる耳障りな音に火花が震える。見物人がいないのが惜しいほどの剣技であった。
暗殺者達が舞い散る落ち葉のようにナベシマとバルルシャナへと襲いかかる。ナベシマは流麗な太刀さばきで敵を斬り伏せてゆくが、やはり多勢に無勢である。幾度かはバルルシャナが老体自ら杖を振るって自分とユークリーブを守る必要があった。
戦いは永劫に続いたかとも思われた。いつしか愛刀の切れ味が粘る血糊に鈍り、暗殺者の衣服に絡む。返り血が猫妖精《フェルプール》の毛皮に跳ねついて凄絶な形相にしている。しかし妄念に取り付かれた幽鬼のように、侍は刀を振るい続けた。暗殺者達は自らの劣勢が明らかになってなお引こうとはしなかったのだ。
そのような状態の彼が、いまだ晴れない土煙の中に新たに出現した鎧姿の二人の武人を敵と誤認したのは無理からぬことではあった。
「新手か!」
絶望的な叫びと共に、猫侍は疲労|困憊《こんぱい》して倒れ伏しそうな身体に鞭討ち、襲いかかった。パルルシャナ老の方はと言えばすでにスタミナが尽きて倒れ込んでしまっている。
だが、その太刀が傍らから素早く進み出た第二の戦士にはじき返される。逆に重い一撃が白銀の光となって襲いかかり、剣を交えた瞬間に彼の愛刀は激しい金属音と共に手の中からはじき飛ばされた。疲れきった腕が激しい衝撃に耐えられずにガクガクと震えた。
「うぬっ!」
ナベシマはその神速ぶりに瞠目した。敵の武器は斧槍《ハルバード》である。侍に言わせれば斧槍などは威圧と断頭の他にはおよそ役に立たない歪んだ権力指向の産物である。だが痩せ型の戦士からかくも重く、かくも速い一撃が繰り出されたことに驚かされたのだ。かすむ目で愛刀の行方を追うが……届かない!
次の瞬間、ふたたび白光となって振り下ろされた斧槍の影に死を確信した……絶望感。
だが斧槍は猫侍の肩口でピタリと静止し、冷えた刃風だけが彼の前か凪いだ。
「ナベシマどの、血迷うたか。何故に御主君に刀を向ける?」
詰問が斧槍の戦士の唇から発せられた。
ブリュンフラウである。その声にはわずかにいたずらっぽい調子があった。
彼女達はマティー船長の酒場を出た後、坑道に封じられているという邪悪の魔術師ゾーフィタスを求めて探索を再開していたのだ。
ようやくの再会に、張りつめていた空気が緩む。
「グレナヴァン……殿……?」
猫侍はカクリと膝を地につく。忠実なる臣下に襲われかけた主君は、あの優しい笑みで彼を見おろしていた。
「安全な場所でお待ちくださるようにと……申したではありませんか」
「ふふ、説得力のない状況だな、ナベシマ」
グレナヴァンは猫侍の説教じみた言葉に思わず笑いを浮かべてしまった。グレナヴァンの方はナベシマらとの再会についてはさして心配してはいかなかったのだ。彼の愛刀を拾い上げる。
「よく頑張ってくれた、もう少し早く来れれば良かったのだが、」
光を斬り裂かんばかりに冴え渡り、鋭利であったはずの野太刀は所々が刃こぼれを起こしていた。本来、東洋刀は二人を斬れば刃は砕けると言われるほどの繊細な武器である。もちろんそれは誇張であり、ナベシマの愛刀は幾度も鍛え上げられた硬質かつしなやかな名刀である。だがさすがに刀の傷み具合が戦いの激しさと持ち手の疲労を感じさせた。
グレナヴァンのマントの下からフェアリイがおずおずと顔を出した。ラックシードは落とし穴の一件を少し気に病んでいたのである。忘れっぽさが種族特徴として上げられるフェアリイではあるが、彼女は見た目程にお気楽なわけではないのだ。倒れ伏しているバルルシャナとユークリーブの二人の姿に顔色を変え、慌ててポーチから城で見つけた回復の護符を取りだした。
「ブリュンフラウ、手当を、」
グレナヴァンがこの惨状に眉をひそめて指示する。僧侶系の治癒呪文を持つのはロードのグレナヴァンとヴァルキリイのブリュンフラウ。ユークリーブはかなり広範囲で呪文数を使いこなすことはできるが、その呪文体系はこと回復に関しては二人に及ばない。これまではパーティ戦力の高さによりさして治癒呪文の必要性を感じてはいなかっただけに、この状態は予想になかったのだ。結果としてこの組み合わせの分割が配慮の低いものであったと言えるだろう。
ナベシマにも奮戦の中で負わされた傷が本人も気づかぬ所にいくつも負わされていた。ブリュンフラウが傷口を確かめ、僧侶呪文でその傷を癒してゆく。奇跡的な効果を見せる封傷の呪文であっても、傷口を丁寧に洗浄していないことには跡が醜く残るものだ。傷口に残る汚れや鉄片などが急速な治癒に取り込まれてしまうのである。
「グレナヴァン卿を守り、安全な場所で待つようにと固く頼んだであろうに、」
身を任せるナベシマの言葉はいささか言い訳じみている。
「見守る必要があるのはあなたのほうではなくて?」
ブリュンフラウがくすりと笑う。ヴァルキリイの指先が触れると傷の痛みが消え、肌には暖かな安堵感がともった。ナベシマはその身の近さにいささかどぎまぎしながら、ブリュンフラウの奇妙な女らしさを感じていた。慣れない婦女の匂いが靄《もや》のように猫侍を包む。
(銀と氷でできているかと思ったものだが……)
固くこわばった緊張が氷解してゆき、安堵を感じている自分を奇妙に思った。
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7 封魂
再会した六人は、ようやく安らかな休息を取っていた。坑道の奥深く、暗闇に囲まれた小さな一室があった。
一同はそこで思い思いの格好で身を休めている。
「ダークゾーン」と呼ばれる闇は一歩先どころか自分の手のひらも見通せぬ真の暗黒である。松明どころか魔法の光でさえ道を照らすことはできない。そこを歩むときは闇そのものが肌にまとわりつくような感覚があった。そこには己の存在認識そのものを揺るがしかねない漆黒の吸収の体験がある。石壁を伝う手を、一歩踏み出した足元を、そして仲間どうし絡めあった指先で自分の存在を確かめる他はなかった。
ダークゾーンが生じるのは人の心の暗闇の具現化によるものだと語る霊術者もいる。しかし闇によって切り放された小部屋こそが、一同にとってようやくくつろげる場所となったことに、ナベシマは一種の皮肉と一種の真実を感じざるを得なかった。
この部屋にある湧き水には癒しの効果があるようだ。ナベシマは石壁に身体をもたれかけながら、その癒しの水を浸した手ぬぐいを目の上に当てていた。冷ややかに染み渡る水が疲労を吸い取ってゆくかのようだ…。清水が荒れた傷口に沁みてヒリヒリする感触がかえって快い。
「……」
じっと動かずにいた猫侍が寝入っていると思ったのだろう。ブリュンフラウが静かに歩み寄って手ぬぐいを洗い替えた。新たな冷たさが肌の疲労を鎮めてゆく……。
ナベシマはその静けさがいとおしく思えて感謝の言葉をかけなかった。
この静けさ、このやすらぎが続くものであれば……。
「しかしそう長く休んでもおれませんよ、猫侍、」
ユークリーブがナベシマに声をかけ、そして立ち上がった。
「探索を続行することにしましょう」
「魔法力の回復は大丈夫ですか?」
グレナヴァンがきづかわしげに尋ねる言葉にユークリーブはうなづいた。
「この泉には精神力を回復させる効果もあるようですね。水筒にでも入れて持ってゆきたいぐらいですが…おそらくその効力はすぐに気散してしまいそうです」
「そのとおり、この老いた身にも往年の力が戻ってきたようじゃの」
バルルシャナがごく上機嫌な言葉で応じた。一同が笑みをこぼす。
「しかし、侍どのの疲労が?」
ブリュンフラウが眉をひそめ、声を押さえ気味にそう言った。
ナベシマはその言葉が終わる前に黙って立ち上がった。軽く伸びをし、安心させるようにヴァルキリイにうなづいてみせる。
「えー、もうちょっとやすんでこーよう」
ラックシードがいささか不満げに言った。
魔術師ゾーフィタス。
その名はさしたる著名なものではない。その知名度と名声へのこだわりは王家に仕える「表世界」の魔術師と邪悪な「裏の」魔術師とは明らかに違ったものがある。裏世界の魔術師は名前を為すことには実に慎重である。名が一定水準に広まるとその名を捨て、また別の名によって己の技を深めてゆく。捨てられた人格は、ある時は死を装われ、ある時は正義に尽くす冒険者にその身を滅ぼされたとする。
魔術師を真に見分ける者は、その名ではなく行為によって見分けるのだ。単に冷気呪文を愛用する魔術師、灼熱呪文を愛用する魔術師といった単純な差ではない。素人の理解を越えた識別であるが、それほどまでに魔術師というものは千差万別、個人差の激しいものである。
ゾーフィタスも例にもれずそのような魔術師の一人であった。いかにも造語じみたその名前が以前の由来を隠しとおしている。Wと呼ばれる伝説のウィザードの再来であるという話すらも囁かれたが、確認できる真実は一つであった。彼がいずこかから現れ、そして災厄の王の同盟者となったということである。
忘れるべきではないのは、ゾーフィタスが王宮魔術師ではなく対等な同盟者であったということだ。この邪悪なコンビは互いの力を最大限に用いあった。王はゾーフィタスの魔術がもたらす偉大なパワーを己の覇業に存分に生かし、ゾーフィタスは王が持つ権力と精力とが生み出す圧倒的なパワーを存分に享受したのだ。王はゾーフィタスの力を用いることで敵城を瞬時にガレキの山に化すことも、おぞましい疾病で敵国民を狂い死にさせることもできた。そしてゾーフィタスは自分の魔術探求に必要な環境……それは高価なテンジクネズミであったり、初々しく美しい処女の肉体であったりしたのだろう……を何の制限もなく獲得することができたのだ。
かくて二人の協力は長く続き、災厄の王のアラム領を恐ろしくも強大な国家へと進歩させたのだ。
「あなたとゾーフィタス、どの程度の力の差があるものなのです?」
バルルシャナから邪悪な魔術師についての話を聞かされた後、ユークリーブはそう率直に尋ねた。
「この老いた身と、そのような強力な魔術師を比べることなどできんよ」
老魔術師はそう言って首をすくめた。ユークリーブが不機嫌な顔をする。
「謙譲の美徳を発揮するときではありませんよ、バルルシャナ老。あなたも王国群の偉大なる統王に仕えた賢者の一人でしょうに……そのあなたが赤子のようにあしらわれるというなら御主君に撤退を進言すべきでしょうな」
ユークリーブが故意に挑戦的な言葉を吐いた。名のあがったグレナヴァンが振り向き、興味深げにバルルシャナの顔を見る。
「……確かに、あの者の足元にも及ばないとは言うまいが」
老魔術師の表情が苦渋に満ちる。
「ゾーフィタスは本来はネクロマンシー、つまり死霊術の分野において名を馳《は》せた天才であったと聞いている。そしてその能力の特筆すべきところは次元の壁をも打ち破って事を為すという超越的な魔力と……それを支えるだけの自滅的に無謀なまでの意志力じゃよ。一般の召還術者《サモナー》であっても次元の壁を斬り裂く術は知っている。しかしその壁を自らが越えて行こうという思い……勇気と言ってもよかろう、それを持っているものはおるまい」
そう言いながらもバルルシャナは、ゾーフィタスに匹敵するだけの無謀な意志力を持っているやもしれない人物に思い当たった。他ならぬ眼前の錬金術師、ユークリーブである。
(この人間は第二のゾーフィタスにもなろうて……)
それだけの才覚を彼の中に見いだすことができるバルルシャナであった。
「ゆえに、あやつの能力と特殊な知識のすべてを推し量ることはできん。そうとしか言えんよ」
「それだけの魔術師……ぜひ会ってみたいものですよ」
ユークリーブの表情に浮かんだのは冷笑じみた好奇心と野望であった。老魔術師は先程の想いを確信した。
「あなた、腕に自信がありそうね」
ブリュンフラウが振り向いて笑った。ごくけれんみのない苦笑である。
「しかし話によるとその魔術師も封じられた魂という状態だとか。戦わずに済むのはありがたいことではなくて?」
「おや、異なことを。ヴァルキリイは戦いの乙女、実に惜しい体験を逃したと思われないのですか?」
ユークリーブは不平を言った。グレナヴァンはその声を背で聞いて、まるで玩具を取り上げられた子供のようだな、と思った。こっそりと失笑する。
「私に言わせれば魔術師の戦いなんかは戦いの内に入らない。そんな陰険な魔術師と戦うなんてごめんだわ」
ブリュンフラウは魔法戦闘は一方的な虐殺掃討手段でしかないと語る。それに対してユークリーブは魔術師の戦いの知的な駆け引きの妙を言い立てる。
「あたしはどっちもたいへんだから、やだなあ」
ラックシードがつまらなそうに口をはさんだ。彼女は先頭を飛んで進みながら、曲がりくねった複雑な坑道の構造をメモに点き留めながら進んでいる。ちいさなエンピツを握り持ち、目も上げずにマッピングを進めている。グレナヴァンから彼女に命じられた重大な任務であるのだ。フェアリイにしてみれば、このメモの出来不出来がパーティの命を左右するという気負いがある。
「いたっ!」
そのラックシードが何か見えない壁に突き当たって悲鳴を上げた。
「封印の壁か!」
即座にユークリーブが反応して歩み寄る。慌てたその足が落ちたフェアリイを踏みつけそうになり、ナベシマが慌てて彼女を救い上げた。
坑道が一つの広い部屋へと続いている。そして部屋への入り口は透明な障壁によって遮《さえぎ》られていた。
「ガラス……ではないな、恐ろしく硬質な何か、さながらダイヤモンドのようだ」
ユークリーブがその表面にそっと指を這わせ、畏敬に打たれたように言った。その部屋の中央には一つの白骨が崩れ落ちていた。グレナヴァンが興味深げに近寄り、おそるおそる障壁の表面を剣の柄で叩いてみる。
キン!
鋭い音が跳ね返り、微細なさざめきが透明な境界面に震え伝わった。
その振動に呼応したように、障壁の内部で変化が起こる。
その深奥でなにかが揺らめき、そして煙のように立ち上った。それは渦巻き、膨らみ…。
「ゾーフィタス……か?」
グレナヴァンが乾いた声を漏らす。
霊気は揺れうごめく一人の老人の姿になっていた。それはこれまで一行が見たこともないような奇怪な表情を浮かべて苦しげに揺らめいていた。それは悔恨、焦燥、嫌悪、慈愛、安らぎ、怨恨…ありとあらゆる想いの純粋な表現が渦巻く姿であったのだ。
「あの白骨が邪悪な魔術師の末路というわけね」
ブリュンフラウが霊気の動きに目を奪われながら、ごくりと唾を呑み込んだ。
「封じられた魂…なんと哀れなものじゃよ」
バルルシャナが呻くように言った。
「このままこの魂は解放されることもなく永遠の時の中を責め苦に会っているのだろう。もっとも天国だの地獄だのということは蒙昧《もうまい》な農民向けの教義に過ぎないが…語られる地獄の苦しみよりもなお、忘却と安らぎを許されない永遠の生とはむごいものじゃて」
「あれは、ゆうれいなの?」
ラックシードがナベシマの肩から水槽の魚でも見るかのようにそれを眺めている。先ほどの衝突によって羽根の一枚を無惨に破り割り、悲しげにそれを手で押さえていた。フェアリイがよく直面する事故ではあるが、再生するまでにはいささか不便を強いられることになる。
「幽霊のたぐいとは違うが、似たようなところもある。幽霊とは人の魂が邪悪な魔力によって捕らわれて仮の生命形態を得た状態じゃが、これはただ物理的に障壁によって封じられているのだよ。無力なこの霊気には幽霊が持つような攻撃力や魔力はひとかけらたりとも残されてはおるまい」
一行の会話が届くこともなかろう。しかし透明な壁の無効の魂は苦悶のうちに揺らめくだけだった。グレナヴァンはその姿にコハクに閉じこめられた昆虫の姿を思い出していた。いささか嗜虐《しぎゃく》的な心をくすぐるそのような宝石類は王国の貴婦人達に特に好まれたものだ。
「障壁を砕けないものか?」
少年はそう言った。同様に錬金術師も大きくうなずく。もっともこちらは少年君主が示したような憐憫《れんびん》に捕らわれたのではなく、このまま眺めただけで引き返すつもりはさらさらなかったということだ。
「ゾーフィタス……失望させてくれる。魔法の失敗が起こったのか、はたまた自分が呼びだした異界の魔神の怒りをかったのもであるのか?」
ユークリーブとしては圧倒的魔力を行使して一行を滅ぼす可能性があるにせよ、コズミックフォージの秘密を知る魔術師にはぜひ会いまみえたいと熱望していたのだ。
「見るところこれは物理的な結晶体。であれば砕けぬ障壁などありますまい」
ナベシマがラックシードを降ろし、そう言って進み出た。表面にそっと触れてみる。
「なにやら先人が試みた跡であるのか、表面にはわずかながら傷がついております」
確かに障壁には傷があった。おそらくはこれを巨大な宝石原石とでも見た盗賊が削りだしを試みたものだろう。
「そう、ノミのようなもので、時間をかけて四方から傷をつけてゆけば砕くことも無理なことではないな」
「錬金術師どのは意外に悠長でおられる、」
ユークリーブの言葉をナベシマは一笑に伏した。すらりと愛刀を抜き放つ。
「東洋刀の細刃では砕くに向かないでしょう。これを使っては?」
ブリュンフラウが傍らからハルバートを差し出したが、猫侍は首を振った。
「我はいまだ気を込めた刀にて斬れぬものが、他の物で斬れるとは存ぜぬ」
しばし、静かに精神集中をする。
そして気合いと共に、ナベシマは刀を振り降ろした。
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8 残怨
振り降ろされた銀光が幾万の輝きを呼んだ。
ナベシマが刀を振り降ろしたその瞬間、障壁は一瞬の赤熱の閃光を発した後に細片となって砕け散ったのだ。その光景はさながら極北のダイヤモンドダストのようだ。ブリュンフラウはその美しさに惹《ひ》きつけられる瞳を慌てて閉ざし、素早くマントを翻《ひるがえ》して砕け散ったガラス片からグレナヴァンの身体をかばった。
しかし予想していたように、鏡い破片に一行が傷つけられることはなかった。
それはまるで光の構成要素に戻ったかのように、一瞬の閃光となって消え去ったようだ。
ただナベシマが苦痛の声をあげて身を折り、膝をついた。その手から半ば熔け崩れた愛刀が転がり落ちる。
「ナベシマ!」
グレナヴァンが声をかけたが、次の瞬間に起こった異変に身を凍らせた。封じ込められていた霊気、ゾーフィタスがさながら在りし日の姿のごとく実体化して光の爆心から立っていたのである。
「……ついに自由だ」
いにしえの魔術師はそうつぶやいた。
一同の身体に戦慄と緊張とが走る。邪悪な魔術師ゾーフィタス、その姿が伝説のままに立ち上がったのだ。
(復活したのか? ゾーフィタス、)
ブリュンフラウが油断無く身構えた。わずかにまびさしを下げ、ヴァルキリイの最大警戒の戦闘姿勢を取る。緊張が気となって流れ下り、風も無く銀髪が揺らぎ流れた。
(いや、違う……これは単なる無力な霊体に過ぎない)
ユークリーブはそう合点して額の冷や汗をぬぐった。白骨はいまだに魔術師の足元に残っている。封じられていた時が流れ始め、それがゆっくりと朽ち崩れていっているのに気がついた。
「……お前のことは知らぬ。しかし、すべてが始まったときより、お前が来るということだけはわかっておった」
ゾーフィタスは慎重に言葉を選んでいるようだ。ユークリーブはその幻像が浮かべる沈痛な表情と穏やかな表情とに違和感と疑念を感じた。
「お前は魔術師ゾーフィタスなのか? 邪悪をもってうたわれた魔術師は……」
「……わしに残された時間は少ない、」
ゾーフィタスは沈痛な言葉で錬金術師の性急な問いを封じ込めた。その重さにさすがのユークリーブも気押されて固唾をのむ。
「……見てのとおり、わしの身体は遠き昔に滅び去った。こうしてここに留まれるのも、昔のわしの力があってこその話。しかし、それももはやつえいようとしておるゆえ、大事なこと、お前の探索の足がかりとなることだけを話そう」
グレナヴァンはこの意外な展開に身を強ばらせて聞き入っていた。邪悪な魔術師ゾーフィタス。その伝説は血と恐怖と死と背徳に彩られている。その伝説の存在と、目も前だ立った悔恨と沈痛とに満ちた老いた魔術師の姿とはどう見ても合い入れないものなのだ。
「感謝します、ゾーフィタス」
半ば反射的な言葉が口をつくのみだ。
(じゃーくなんて、うそよねー。まるで、さむいよるのセント・ベテルギウスみたい)
ラックシードの連想はしごく率直なものであった。フェアリイは子供に玩具を配るという冬の聖者の姿を思い浮かべている。
「……ひとつの真理じゃ。お前、そしてお前の後に従う者達への警告とするがよい」
ゾーフィタスはそう言った。そして自らの骨が散り、霊気が四散してしまうまでの間を語った。
それは長く戦慄すべき物語であった。
百二十年前、伝説のとおりにゾーフィタスはついに万能のアイテムであるザ・スクリプター、偉大なるコズミック・フォージを手にした。
幾つもの多層次元を越えて深遠たる境地にたどり着き、世界のすべてを書き記したという真理の場所に究極のアーティファクトを見たのである。そして王とゾーフィタスは偉大な者達≠フ目を盗んで、それを持ち出すことについに成功したのだ。
しかし、その伝説の筆記具が何の抑止手段もなしに存在していたわけではない。コズミックフォージは世界の中心であるサークル≠ニ呼ばれる神聖なフィールドの中でのみ用いられるようにとの厳格な呪いの力を宿していたのだ。もしもサークル≠フ外でザ・スクリプターが用いられたのであれば、まさにそれによって書き記したことを自らへの災いとして受けることになると定められていたのである。
王、王妃、そしてゾーフィタスの弟子であった軽薄なミスタパパス。
彼は淫乱な王妃に気にいられようと、自分の身体を彼女好みの「さっそうと」そして「かっよ良い」姿に変わることを望んだ。さらには王に不義が見つからないようにと望んだのだ。しかしコズミックフォージはその願いを残酷な形でかなえた。軽薄な弟子は一匹の蛇へと姿を変えられたのだ。悪魔崇拝者の王妃は倒錯的な欲望をその蛇に感じたのは事実である。
そのように災厄は幾人もの人間を呑み込んでいった。
さしものゾーフィタスもその呪いに畏怖《いふ》を感じざるを得なかったのだ。
しかし、強大な力への渇望は災厄への恐怖をも上回っていた。パワー……それに魅入られた者は決してそれに飽くことがない。ゾーフィタスはその呪いの存在を知ってなお、コズミックフォージの力を行使する術を思考した。災厄の運命を越えて、その偉大な力を手に入れるという野望に挑んだのだ。
「……わしは……いや、かつてゾーフィタスであったわしは、ゾーフィタスが宇宙のすべての摂理を知り、それによって恐ろしい破滅の宿命から逃れる術を学べるように、とかのペンを持って書き記したのじゃ」
ゾーフィタスの霊気はそう語った。その表情が辛そうに歪む。
「して、その首尾は?」
ユークリーブが自分を押さえられないでそう尋ねた。緊張に声がかすれている。話の進行と共に、ユークリーブも彼なりにコズミック・フォージの災厄より逃れる命題を考え始めていたのだ。その方法の一つが、まさにゾーフィタスが言った知識の獲得であった。
しかしゾーフィタスは首を振った。
「たしかに、わしはすべてに関するあらゆる知識を手にいれた。そしてそれゆえに、わしは単独固有の存在でいることを許されなくなってしまったのだ……ゾーフィタスは引き裂かれた!」
それは混乱のパラドックスであった。その中に邪悪な魔法使いゾーフィタスは取り込まれ、自滅する運命を辿ったのである。知恵を求める魔術師らしい陥穿《かんせん》であった。
「知識」とは、知ることを前提とした情報の形態である。すべての者が知る情報は「知識」と定義することはできない。ゆえに「知識」は知る者と知らぬ者とが存在して始めて「知識」と言うことができるのだ。さらにすべての情報を絶対的に持つ者は、自らの中でその条件を満たさねばならないパラドックスに陥る。
「知識でないもの」を知ることができない者は、「知識であるもの」を知ることができないからなのだ。
常識的にはありえない状態である。しかしコズミック・フォージの偉大な力はその願いをかなえ、そしてゾーフィタスこそは、そのパラドックスによって引き裂かれる者となったのである。
「存在とはなにか? それは非存在とは違うものだ。世界のすべてのものは、相反する存在がなければならない性質から決して逃れることはできない。有が存在するのは無が存在するからだ。光が存在するのは闇が存在するゆえだ。そして善と悪もまた等しい」
ゾーフィタスの言葉はいささか認知論を論ずる哲学者じみていた。
「わしはすべてを取り込むことは許されなかった。いや、許されたがゆえに別の代償を貸せられたのだ。かつてのゾーフィタスは滅び去った! そしてゾーフィタスは二つに分かたれた。わしが知ることは彼の者は知らない。気をつけるのじゃ! わしの心に善がある。それと共にあの者には悪があるのじゃろう。わしが引き裂かれた狂気に悩むように、あの者もまた引き裂かれた狂気に悩むことだろう。なぜなら我々は決して完全な存在ではなくなったからだ」
悪のゾーフィタス!
誰もがその言葉に身震いをせずにはいられなかった。かつての邪悪な魔術師ゾーフィタスはその鋭利な知性と策謀というたがを失い、狂乱の中にその純粋な邪悪さと強力な魔術を行使するようになったのだ。他にどのようなことが起こったのかはまだ一行には明かではない。しかしその事実のみで、かつて退廃的ながらも強力な権力を維持していたアラム領がこのような陰湿な滅びに身を任せる廃虚と化してしまったということは想像に難くはないというものだ。
「その悪のゾーフィタスがあなたを封じたのじゃな?」
バルルシャナの指摘にゾーフィタスはうなづいた。悪のゾーフィタスはアラム領を滅ぼしたのみではない。この怪物と罪人の城の深くでいまだに活動を続けているというのは一行の上に重くのしかかる恐怖であった。
「わしはコズミックフォージの行方を知らない。なぜならかの者がそれを知っているからだ。だがわしがお前達が来ることを知っていたゆえに、あの者はそれを知らないだろう。しかし、わしがお前達を助けたように、かの者はお前達を苦しめることじゃろう。お前達は行き、そしてかの者からペンを見つけださねばなるまい」
この事実通告にこれからの戦いが激化するであろうことが予測できた。おそらくはナベシマ一行を襲った暗殺者達は悪のゾーフィタスが封印監視のために派遣していたグループなのだろう。
「呪いが存続するのはまさに百と二十年。子や孫も死に果て、その者が忘れ去られるという時間に至るまでだ。そしてその時間と共にお前達が来て、そしてすべてを終結に導くのだ」
それは因縁じみた予言である。しかしあるいはそれは罪を犯した側の勝利に終わるかもしれないのだ。百二十年の雌伏《しふく》の後、再び邪悪なゾーフィタス、あるいはどこで何をしているかも知れぬものの災厄の王や邪悪な王妃が再び動き始めるかもしれない。すべてを知る者とはいえ、予知者ではないのだ。
しかしグレナヴァンはことさらに善なるゾーフィタスの前にその結末の可能性を叩きつけるつもりはなかった。なぜならこの魔術師の遺骨が見るそばから崩れてゆくことに、彼は目を引かれていたからだ。おそらくはその形が失われると共にゾーフィタスの魂は消え去ってゆくのだろう。
「気づいたか……これでわしは自由となる。自らの犯した悪行の数々よりの忘却を得られるのだ。分かたれた悪のゾーフィタスは私≠ナはないが、かつての邪悪な魔術師ゾーフィタスが私自身であることは事実なのだ」
ゾーフィタスの表情は悲しくもやわらいでいた。
「最後に頼みをしたい。かつての邪悪なゾーフィタスの犯した行為の後かたづけをな。哀れな娘レベッカ、アラムの忌まわしき姫君の両親であった牧師とその愛人が尖塔《せんとう》に閉じこめられて呪われた永遠の世を歩んでいる。かつてゾーフィタスは彼らを永遠の命という命題の実験台として用いたのだよ。私の罪によって苦しめられた者の遺灰を回収し、死者の島へと届けてはくれまいか…。死者の川への道は、私が設けた炎と岩の守護者の魂であるルビーによって開かれる……」
その声は消え入りそうになっていた。しかしヴァルキリイはやり場の無い怒りに身を震えさせていた。かつての邪悪なゾーフィタスがもたらした様々な被害と悲惨な出来事、それは現在に至るまでも尾を引いているのだ。私は引き裂かれました、私は善の方の分身です、と言われたからと言っても感情的に納得できるものではない。
「神があなたを迎えると思って?」
しかしゾーフィタスはそんなブリュンフラウの鋭い視線に弱々しい笑みを返す。
「恨みも感じよう……だが私は贖罪《しょくざい》を済ませた……この百と二十年の間の悔恨の時間を…」
ゆるやかな光が魔術師の幻像を捕らえた。
そしてエクトプラズムのフラクタルなきらめきと共にそれは空気の中にとけ込んでゆく。
一行は黙ってそれを見送った。
邪悪な魔術師ゾーフィタス。
かつてはその名を王国群にとどろかせた彼の痕跡は床に散らばる埃のような遺灰しかなかった。
グレナヴァンは静かにそれを指先で集め、瓶に納めた。その灰中にスペードの形の柄のついた鍵が見つかった。
ためいきにわずかに灰が散らされた。
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9 迷魂
「さながら三つの願いのパラドックス≠フようじゃな」
坑道の長い道のりを一行は言葉も少なく戻って行く。バルルシャナがふとそうつぶやいた。グレナヴァンが目で問いかける。
「ある所に古代の精霊を呼び覚まし、解放の代わりに3つの願いをかなえるという報酬を得た男がいたのじゃ。ラックシード、おまえなら何を頼むかね?」
「あたし? ええと、」
ラックシードは自分の顔を指さしてキョトンとした。羽根が失われた後は飛行することもできずにナベシマの肩にちょこんと座っている。落ちないようにと彼の耳やヒゲをつかむので猫侍はいささか迷惑そうだ。
「おまえさんでも迷うじやろうな。だが欲深い男は浅知恵を発揮し、すばらしい願いを思いついた。つまり3つ目の願いを、あと3つの願いをかなえてくれ、という願いにしたのだ」
「あたまいいねえ、ラックもそれにしよう」
ラックシードが機嫌良く破顔した。しかしバルルシャナはそれに首を振る。
「精霊はそれを承諾した。しかし素直に数えて4つめの願いをかなえることはできないのは言うまでもない。しかしかなえなければ3つめの願いをかなえていないことになる。ここにパラドックスが、解決不可能な矛盾が生じるのじゃよ」
「その男はどうなったのだ?」
背に話を聞いていたグレナヴァンが興味深げに振り返って尋ねた。
「精霊はどちらにも動けなくなってしまったのですじゃ。もちろん男が願いを取り消すことも、その場から立ち去ることもできなくなったのは言うまでもないことですな。精霊には無限の命があるももの、人間はそうはゆきませなんだ。男がその場で死に、そして砂漠の砂に混じって朽ち果てるまで精霊は待ち続け、ついには男が消滅してしまったのを確認するとつまらなそうに大空へ去っていったそうですじゃ」
グレナヴァンは憐憫《れんびん》の表情で肩をすくめると再び先へと足を早めた。
一方、ユークリーブは先ほどから黙って、何事かをじっと考えているようだった。
「分にふさわしくない欲を抱くから、報いが下るのよ」
ブリュンフラウの言葉は多分に錬金術師に釘を刺すような響きをもっていた。
「だが、」
ナベシマが何かいいかけたが、口をつぐんでしまった。
それから後はしばしの沈黙が続いた。
ゾーフィタスの遺言を果たすという作業にはいささか多く時間が費やされた。
スペードの鍵は固く封じられていた尖塔《せんとう》への道を開き、一向の前には城の構造の新たな局面、真に隠されていた深き闇の一面がその姿を現したのである。
「レベッカ。愛らしい名前だけれど何故かまがまがしいものを感じるのは何故かしら」
冷えきった階段を辿りながら、ブリュンフラウがつぶやいた。
「その生まれ、その育ち、そしてその末路を聞けば無理もなかろうて」
バルルシャナが応じる。グレナヴァンがふと目を伏せた。牧師とその愛人の間に誕生したという望まれざる娘。彼女は野心に満ちた王の養女として引き取られ、そして成長した後は背徳的な役柄を貸せられることになったと伝説は語る。彼としてはバルルシャナのような嫌悪を感じるより先に、この見も知らぬ娘に哀れみを感じていた。
「百と二十年の歳月の中で、すべては消え去り、そしてすべての者が忘却の中で罪を許されるべきだったんだ」
そうつぶやく。
「すでに骨片に至るまで朽ち果てたであろう哀れな少女のことなど、詮索する気にはなれない」
ナベシマは歩みを早める主君の後を追いながら、奇妙な違和感を感じていた。
再会を果たして後、この少年の姿が一回り大きくなったように見えるのだ。
(御苦労がグレナヴァン殿下を育てたのか?)
感心するように首を傾げる。彼はすでに臣下に守られる寂しげな少年ではなく、文字どおりに一行の先頭を歩む存在になっていると言えるだろう。
そして、長きに渡って固く封印されていた扉が開かれた。開く前にグレナヴァンは手甲に包んだ手で重い扉をゴツゴツと叩いた。なにか思い切りをつけなくては開く意志がでない、そういう仕草である。
第一の遭遇は朽ち果てた死体だった。
いや、正確にはそうは言えまい。その朽ちかけた死体は臭気もすさまじく、一行に襲って来たのだ。ゾンビである。どろどろと溶けかけた肉片をまき散らしながらうつろな目付きで襲いかかる。
「どっちだと思います、殿下?」
ユークリーブが皮肉めいた口調でグレナヴァンに言った。彼の滞気呪文が動く死者に効を奏するわけもない。また短剣を投げるのも気が進まなかったのだ。この腐れた肌に潜り込んだ短剣などは拾い上げる気にもなれないだろうから。よって錬金術師は扉脇まで下げる方を選んだ。
「……女性の方らしい」
グレナヴァンが歯を噛みしめながらそう言った。
部屋には崩れかけたベットがあった。彼はその上に寝かされた小さなぬいぐるみを目はしにとらえたのだ。それは黒髪の少女を摸した粗末な人形。
「……レエ、ヴェッッカア」
苦しげに唸りを上げるゾンビがそう言っているように思えた。まるで侵入者達からその人形を守ろうとしているかのように。奪われた愛児?
しかしその動きはあまりにも緩やかなものであった。数合も刃を交える余裕もない。轟然《ごうぜん》と空を切って襲いかかったブリュンフラウのハルバードがすべてを断ち切った。かつては色香にあふれた風体であったであろう牧師の愛人の身体は、まるで丸太のように切り分けられたのだ。
「永遠に生きるという実験だと……これが、こんな哀れな生き物が、」
グレナヴァンが吐き捨てるように言う。
「無限に動き続ける肉体ですな。百と二十年という歳月はゾンビの肉さえ朽ち果てさせ、スケルトンの骨をも脆《もろ》く崩れるものですが」
ユークリーブが語り、バルルシャナが続ける。
「さすがはゾーフィタスの実験の産物じゃな…ただの単純なゾンビではないようじゃわい」
老魔術師が小さな呪文と共に発した火炎が倒れたゾソビを包んでいった。
その身体は死してなお蠢《うごめ》いて、忌まわしい生の中に再生しようとしていたのだ。炎がその身体を清めていく。
「さ、部屋から出ることにしよう」
言われるまでもなく焼かれる遺体の臭気が鼻を刺していた。一同は無言で部屋を後にする。
おそらくは回った火が小さな幼女の人形をも共に送ってくれるのだろう。
不愉快な煙が目に沁みる。
第二の尖塔《せんとう》での遭遇はさらに凄惨なものとなった。
その扉を開いたとき、巻き起こった疾風にラックシードが吹き飛ばされそうになる。破れた羽根がパリパリと音を立てた。
「騒霊《ポルターガイスト》か?」
大気の中に雷鳴のようなものが走る。青白く輝くエクトプラズムであろうか。バルルシャナが魔除けの印文を切った。奇怪な光は部屋の中央に集まり、老い疲れた顔の片鱗がうかがえる。
ギュ、ギュ、ギュウウウ。
耳障りな音が頭を揺さぶった。蠢きと悲しみ。音ではないかもしれない…それは精神に直接反響する何かだ。
(アニー、君かい?)
(見えないんだ、アニー)
狂おしげな思考が一同の心に流れ込んだ。それはまるで狂乱の奔流のように心を満たし、悲哀であふれさせる。
「邪悪なゾーフィタスの生みだしたもう一つの永遠の生命が、これなのね」
ブリュンフラウがしかめ顔でつぶやいた。
(アニー、覚えてないのかい?)
(私が誰なのか……覚えていないのかい?)
聖職者には禁じられた背徳を犯し、隠された愛人との間に望まれぬ子レベッカを生みだした牧師の霊気に他ならない。その精神は解放と忘却の中にとけ込むことを許されずに、こうして一室に閉じこめられたまま、永劫の時をたゆたい続けるのだ。
「少なくとも、ゾーフィタスの半身はかつて邪悪な自己がこの男に与えたと同様のことを、自らへの贖罪《しょくざい》として受けることになったのだ」
ナベシマが静かにそう言った。鋭い剣撃を霊体へと突き出す。しかしその切っ先は空を切ったのみであった。
(私は……誰なんだろう……)
(私は……)
魂の独白は永劫永遠に続いている。時の流れも、剣勢もそれを閉ざすことはできなかったのだ。
「成仏呪法《ディスペル》を試してみよう」
グレナヴァンがそう言い、剣を収めてなめらかな聖紋を空に描いた。やわらかな声でアンデッド退散のための呪文を浪々と唱え出す。
(いや、覚えているぞ……! アニー、愛しいアニー)
(ああ、アニー、私たちは道を誤った!)
静かな振動が心を揺るがすようだ。しかし呪唱は効果を発揮せず、罪を犯した聖職者の魂は未だに永遠の悔恨のなかに捕らわれていた。少年は失望に肩を落とす。
昔と違って、僧侶のアンデッド退散の能力はきわめて劣るようになっている。いわば副業として僧侶呪文の知識があるロードやヴァルキリイはもちろんのこと、本業の僧侶や司祭であってもままならないようになっているのだ。かつての力ある時代の僧侶達は、現在のように呪文の力を借りなくても敬虔な祈りの力だけで不死者を安らぎへと戻したものだ。
「還魂神が魔術師Wに滅ぼされた後はのう……」
バルルシャナの言葉は苦笑じみている。
(私たちの娘! この娘をどこかに隠さなければ!)
牧師の霊体は変わらず、苦悩に身を震わせている。
(その娘は悪魔なのだ!)
「レベッカのことを言っているのか? これはこれで興味深い体験であると言えそうですが」
ユークリーブがいつもながらの冷笑を浮かべる。
「襲っても来ませんしね。なんか我々の役に立つことをつぶやいてくれるのではないですか?」
「僕はそんな気にはなれない」
グレナヴァンが錬金術師に不快そうな表情を向けた。
「おや、神に背いた聖職者に宗教的道徳心ですか? 私に言わせれば世界というのはいくつかの法則といくつかの物質のみで成り立っているものであり、神の存在する必要もないのですがね。言わせてもらえば魂とは肉体に依存する小さなきらめきであり、その代用である魔法が切れれば天国ではなく空中に四散するもんなんですよ」
錬金術師は肩をすくめた。彼らは世界の仕組みを解きあかそうという者達である。僧侶の技をもまた研究思考の対象にはしているのだが、彼ら自身が信心深い存在であるという例は聞いたことがなかった。
グレナヴァンは首を振ったが、反論はしなかった。
魂が苦しげに蠢《うごめ》く。彼はおずおずとそれに手を差し伸べたが、わずかな抵抗感と共に手は霊気の中を泳いだ。
「下がっていて……送魂の角笛を使ってみるわ」
ブリュンフラウが厳しい顔で、自分の荷物の中から白い角笛を取りだした。静かに息を吹き込む。
ヴォ、オオオオ……。
(光だ……光が私の元に還ってきた)
荘厳な音が部屋に響きわたると共に、霊気がゆるやかに溶け始めた。
(行くよ、いまそこへ行くよ、アニー……)
そしてすべてが消え去った後には僅かな灰と憐憫《れんびん》だけが残った。
「あのひと、かみさまのところへゆけたのかしらねえ」
ラックシードが寂しそうな声で、そう言った。
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10 死河
グレナヴァンの手元には2つの遺灰を収めた壷があった。
一つは邪悪な魔術師ゾーフィタスの分かたれた善なる一身。そしてもう一つは牧師とその愛人の双方の遺体をいくらなりとかき集めたものであった。
「死者の河、死者の島」
若いロードはつぶやく。明らかにされた痛ましい悲劇が少年の心を悲しみに沈ませていた。
「おそらくはかつてル・モンテスが行き来したようなこの谷の複雑な地下水路の一流なんだろう」
一行は目指す扉とおぼしきものを既に発見していた。どんな試みにも決して開くことの無かったその扉の中央にはおよそ実物大のどくろのレリーフがあった。その両眼はうつろに抜けている。おそらくはそこへ二つのルビーをはめこむことによって扉が開くのであろう。
「ゾーフィタスは自らが作った守護者の魂によってこの扉が封じられているといておりました。あの強力な魔術師が守護者を用意したとあれば、おそらくはなかなかの強敵かと」
ナベシマが渋い顔をする。戦いに向かう志気こそ鈍るものではないのだが、彼の愛刀は善なるゾーフィタスを封じ込めた結界を打ち砕いた時に失われてしまったのだ。ブリュンフラウが皮肉にもかつて彼から借り受けたショートソードを返すことになったが、ナベシマは脇差しを補助に徒手空拳で戦うほうを選んだ。
(このひとはニンジャの修行もしたのかしら?)
ブリュンフラウなどはそんな感銘を受けたが、それは彼の猫妖精《フェルプール》としてのしなやかさが本来発揮する技であるのだろう。そしてそんな彼の素早い攻撃法が良く敵に致命傷を負わせたのだ。しかしナベシマ自身は不本意であることこのうえない。
「強力な守護者の魂……少なくともその手間の一つは省略できることになりそうですな」
ユークリーブが複雑な長衣をさぐり、ややもったいぶって一つの宝石を出した。手の平に載せてグレナヴァンに差し出す。
黒い宝玉だ。だがグレナヴァンはそれが真の漆黒ではなく、暗く、あまりにも暗い赤であることに気がついた。ルビーの持つ華やかな色鮮やかさと透明度がそこにはない。まるで乾燥させた兎の心臓、あるいは赤く乾き始めた眼球を連想させる。
それを目にしたとき、ヴァルキリイの眉がピクリと動いた。
「これが守護者の魂のルビーなのか?」
ナベシマが疑わしげに尋ねた。ユークリーブがうなづく。
グレナヴァンがその手の中から宝玉を受け取ったとき、それは僅《わず》かに震えるようなきらめきを放ったように感じられた。心なしか受け取った手の平が温かく感じられる。ルビーはまだ生きているのだ。
「きわめて貴重なものじゃよ……」
バルルシャナの言葉は僅かに震えていた。それはこれを作りだした強力な魔術師に対する畏怖である。実際、このような宝玉はきわめて有効な魔法材料として魔術師の間で高価に取引されるものとなっている。このようなものは希に滅ぼされたデーモンどもの遺体の中から発見させることがあるが、常命の魔術師でこれだけのものを創造したという者は伝説のなかにしかない例であった。
「これだけの心魂を持った守護者を滅ぼすのは容易ならざることじゃて……そなたがやったのか? またこのような貴重な宝玉を持っているのであれば、これを売り払っただけで生涯の間ずっと、困らぬだけの贅沢な暮らしが楽しめるであろうに」
ユークリーブはその問いには黙っていた。彼がこの地に来たのは一度ではない。幾つもの方向から滅んだ城領の謎を明らかにするための、辛く激しい冒険行を繰り広げているのだ。ある時は魔物に満ちた大森林を越えて。またある時は切り立った岩肌から鉱山へ。
この魂のルビーはそんな冒険行で得た最も有望な宝であった。ドワーフの一軍を雇い入れての探索行の末に出くわした岩の守護者との戦いは、彼の半生の中でもっとも危険な戦いであった。しかしこのルビーある限り、ユークリーブは長く不毛な探索行の中でも邪悪な魔術師ゾーフィタスとコズミックフォージの伝説の真実性を疑わずに戦い抜くことができたのだ。戦いの中でドワーフが全滅し、彼自身も傷ついた肉体と疲労した精神でよろめくように岩肌を這い帰りながらも、若き錬金術師の心の中には希望と野望が熱く渦巻いていたことを覚えている。
ルビーを魔術師達に売り払って得ることのできる財産は一領の主となれるだけの資力を越えて余りある。しかしユークリーブはその力に魅入られた。紅い宝玉は蠢《うごめ》くたびに、偉大な力への道を囁きかけるようだった。
「この心魂は第一の守護者、岩神のもののようね」
ブリュンフラウがつぶやくように言った。ユークリーブはしばしの物思いから醒めさせられた。驚きの表情でヴァルキリイの横顔を見やる。
「邪悪な魔術師は岩神と炎神の二柱の守護者を創造したとのこと……」
「ヴァルキリイ、何故に御存知か?」
錬金術師が怪訝そうに彼女に振り向いた。
ブリュンフラウはその視線を受け止めずに、黙って胸元に手を入れるとビロウドの御守袋を取りだした。そして中から一個の宝玉を掴み出す。そう、ユークリーブの持っていたものと同様のルビーである。
「あなたが?」
ユークリーブの問いはわずかに詰問じみていた。奇妙なことながら穏やかならぬ気分があったのは否めない。彼にとってはあの苦しい戦いの記憶は半ば甘美なものとなっていたのだ。それに対して第二の守護者が女戦士の細腕によってたやすくしとめられたということであれば……。しかしブリュンフラウは物憂げに首を振った。
「炎の守護者、マウ・ムー・ムーを滅ぼしたのは私ではないわ」
感慨深く宝玉を見やる。ブリュンフラウのそれはユークリーブのそれとは異なり、鮮やかでなめらかな表面をしていた。彼女によって磨かれたものだろう。しかしそれは更に妖しく深い血の色をきらめかせていた。
その横顔と伏せた瞳には錬金術師にしてもなお、声をかけづらい深い沈黙があった。しばしの後にその唇が重く言葉を紡ぎ出す。
「かつて一人のヴァルキリイがいたわ。そして彼女は北地、真性のヴァルキリイの聖地において最も美しく、最も聡明で、もっとも力があった」
ブリュンフラウの表情に浮かぶのは、畏敬、親愛、悲哀……? 自分の出自と目的については口を閉ざしていた彼女の言葉に一行は固唾をのんで聞き入っている。
「彼女はかつてはヴァルキリイの聖地の一つであったアラムの地に異教が浸透しているのを聞き、教化のために舞い降りた。この地には<巫子の聖槍>が勇敢な女族アマズールに託されていたの。しかしアマズールは邪悪な異教に侵され、魔術師が創造した炎の守護者を神として崇めていた」
「ゆえにそのヴァルキリイは守護者を滅ぼし、魂のルビーを持ち帰ったと?」
ブリュンフラウの言葉は重苦しい。グレナヴァンが静かにそう言葉をつないだ。
「そう。しかし彼女は戻らなかったわ。ルビーを持ち帰った後に、第二の秘宝つまり伝説のコズミックフォージの噂を耳にし、その存在を確かめるために再び旅立ったの」
彼女はそこまでで言葉を切った。話は終わり、といいたげな風情でグレナヴァンに宝玉を渡す。
「何故に北地のヴァルキリイがコズミックフォージを求めるのです?」
ユークリーブがくいさがって詰問する。エルフは彼に怒りを帯びた厳しい視線を向けた。
「ヒトが己の欲望のままにそのような偉大すぎる力を持ったとして、何を為し得ることができるというの?」
「悠久を生きる北地のヴァルキリイは様々な偉大なアーティファクトの管理者でもあったな」
老魔術師が二人の激しさを宥めるように声をかけた。真性のヴァルキリイは人の世を生きた英雄達の伝説を書留め、そしてその遺品を大事に保管している。その中には様々な伝説の宝物があった。
英雄達はその生前の偉功によって正当に宝物を獲得してゆく。しかしその死後にろくな能力しか持たない者が、それら分に過ぎた偉大な武具や魔法の物品を相続してしまうということはあるのだ。そして力と欲に取り付かれ、恐ろしい事件を巻き起こすことが少なくはない。ゆえに彼女達ヴァルキリイは常に英雄達を見守り、その死に際してはその遺体と遺品を空駆ける騎馬に載せて北地に連れ去るのだ。
「なるほど、貴女が我々と同行しているのはそのような理由によるものなのか」
ユークリーブが顔を憎悪に歪めて言い捨てた。
「貴女は我々が偉大なスクリプターを手にしたときは、その背中に短剣を突き立て、コズミックフォージを持ち去るつもりというわけだ。ははは、その時は哀れな我々の遺体をもヴァルハラの永久氷の中に飾ってくれるのですかね?」
ヴァルキリイは黙っている。一同の視線が様々な想いと共に、立ち尽くすブリュンフラウに突き刺さる。ナベシマが主君を彼女から守るように、身じろぎした。
「私がその秘宝を手にしたら、貴女は迷わず背後からその大きな斧槍《ハルバード》で私の首をはねることでしょうね。どうやら私は貴女には嫌われているようですから。さあ、他の者だったらどうしますか? 貴女が愛し始めているらしい少年君主であったらどうします? その首をもはねますか?」
手厳しい弾劾に彼女の身体がビクリと震えた。落ちついた老魔術師も緊張を隠しきれない。
猫侍の背筋の毛がぞわりと逆立った。だが、その動揺が主君の命の危険に対するものであるのか、美しいエルフの少年への愛情の告発にあるのか、ナベシマは自分で判別できなかった。うろたえるように主君の顔を見やる。
しかし、少年君主はいつもどおりの哀しみを帯びた優しげな表情で立ち尽くすヴァルキリイを見守っていた。
(……なんと、抱擁力のある表情なのだ)
ナベシマはその表情に瞠目した。一瞬、ヴァルキリイの方が途方にくれて泣きじゃくる少女であり、グレナヴァンの方がそんな彼女を優しく守る成人した男性であるかのような、奇妙な誤視があった。
(……グレナヴァン卿)
これまでも少年が歳に似合わない器量の持ち主であることを感じる機会はあった。しかし今初めて、ナベシマは彼が保護すべき対象ではなく、こと精神的に関しては猫侍の守護を離れた君主としての資格を身につけていることに気がついたのである。
その想いを裏付けるように、グレナヴァンが実に威厳をも感じさせるような仕草で、錬金術師《アルケミスト》とヴァルキリイの間に割って入った。軽く手を上げてユークリーブを制する。
「結論は時と状況が定めるもの。前に進まなければ内紛を行う必要性もないでしょうに」
優雅な口調である。その声は淡泊でありながらいくらかのユーモアと優しさを宿しており、ユークリーブもその怒りを収めざるを得なかった。
「そのとおりじゃな。とりあえずはコズミックフォージの元へ辿り着かない限りは何も始まらんし、それには御両人の武勇と魔術が頼もしいものじゃからな」
緩んだ緊張に感謝するようにバルルシャナが声をかける。グレナヴァンはそれにうなづき、二つの宝玉をそっとどくろの両眼にはめ込んだ。
一瞬、その両眼が光を宿した。ラックシードが震え上がる。彼女ににはそれがこの上なく邪悪な笑みに見えたのだ。そのどくろが一行を死の道へ誘いかけるようにあでやかな微笑みを浮かべたように思えたのだ。不安げに身をちぢみあがらせてナベシマの首筋の毛皮に顔を埋める。
そしてどくろはきれいに二つに割れ、扉が観音開きにゆっくりと開いた。
グレナヴァンが厳粛な面もちで足を進める。その後ろを黙ったままのブリュンフラウが、そして明らかに身を離してユークリーブが後に従った。
「ナベシマよ、なんと我らの主君はご立派になられたものよのう」
老魔術師がこぼれる笑みに顔を歪めてナベシマに囁きかける。
「グレナヴァンは、ずっとまえから、かっこいいよう」
ラックシードが異論を唱える。彼女はひょいと肩から降りてグレナヴァンの後を追った。それに続こうとするナベシマの肩を老魔術師は押さえ、耳に密やかに囁く。
「しかし、いかに災いがあったとしても、殿下の御帰還と正当な地位への復位を成し遂げるには、コズミックフォージの力が必要じゃろう。そのために災いでこの身が滅びるとも、覚悟はできておる」
「バルルシャナ老……」
「ゆえにそなたはあのヴァルキリイと錬金術師からよく目を離さずにいてくれい。あの二人も魔法の筆記具を狙っている様子。我らの本懐を忘れてはなるまいぞ」
短い密談に他の者が気づいた気配はなかった。猫侍は強ばった表情のまま軽くうなづく。
河のざわめきが耳をくすぐり、淀んだ磯香が鼻についた。
石畳に波が寄せかかり、濁った余韻を空気に残していた。暗くて水を見通すことはできないが、まさに冥土の河と呼称されるだけの重苦しい雰囲気を有していた。
ブリュンフラウが黙って送魂の角笛を取り出し、吹き鳴らした。その朗々とした音色は川面を荘厳に渡り、暗闇の深奥まで届いてゆく。
ざわ、ざわ、ざわ……。
しばしの後に、河霧の向こうから何者かが漕ぎ寄せてくるのに気がついた。
黒衣の人物が死の河の流れに竿をさし、細長い河船を操って寄せてくる。グレナヴァンが骨壷を支え持ち、一歩前に進み出た。
「私の名はカロン。死の河の船頭をしている……遺灰をお持ちのようだね」
黒衣の人物は抑揚のない口調でそう言った。ナベシマやユークリーブが緊張に身構えているのに頓着するようすはない。グレナヴァンはそのフードの下に蒼褪《あおざ》めた骸骨の浮かぶ顔を見た。
「カロン? まさに神話の中の三途の河スチュクスの渡し守の名だな」
ユークリーブが眉をひそめ、そう言う。
「真の名などとうに忘れた……何故に私がこうしているのかもわからない。しかし永劫の時の中を竿さすのが私の勤めであるゆえに」
少年はカロンに哀れみを感じた。その物腰には礼節が感じられる。おそらくこの男はかつてはしかるべき地位の騎士かなにかであっただろう。城にまつわるなんらかの事件が彼をここに、この勤めの為に縛ったのだ。
「死者の島にこの遺灰を収めるようにと……善なるゾーフィタスに依頼されました」
グレナヴァンが壷を差し出すとカロンはそれを止め、首を振った。
「すまないが、それはあなた達が死者の島へ運はねばならない。あるべき場所へ…そしてその地であなたがたは定められし者と出会うことになろう。永劫の昔にすべてを著述するペンによって、そう定められたがゆえに」
宿命。
その見えざる手の存在を語られる度に、グレナヴァンの瞳は暗くなる。
定めの力が、業と因果の力が、災厄の王にまつわるこの事件を絡み付く糸で縛り上げている。そして、おそらくそのすべてを紡ぎ出すのは魔法の筆記具、コズミックフォージの力なのである。人は宿命を越えて何かを為すことができるのだろうか? 宿命を変える力があるのはこの魔法の筆記具にのみ与えられた特権なのだろうか。
カロンは渡し船を岸から漕ぎ出した。
(あるいはこれは大いなる罠ではなかろうか?)
猫侍は船のゆらめきと共に心も揺さぶられるようであった。
「ねえ、ねえ、ナベシマはねこだから、みずはきらいでしょう?」
ラックシードがそんな彼を見上げて得意げた指摘した。ナベシマは意外な指摘に目をパチクリとし、失笑した。あるいはそれは事実であるやもしれない。であれば余分な怯懦《きょうだ》や疑心暗鬼に心を支配されないことだ。視線を上げるとヴァルキリイの姿が目に入った。先頭に座り、水先を見通そうとしている彼女の銀髪が風になびいている。
「あれは何です?」
グレナヴァンが耳を澄ましカロンに尋ねた。水音に混じり、何か音楽のようなものが聞こえてくる。
「水のニンフ、サイレンの歌声よ」
ブリュンフラウが視線を動かさずに言った。紅い唇から静かな声が洩れる。
「サイレンは永遠を嘆きながら歌い続けるわ。狂気と、愛と、哀しみの歌を、永遠に歌うのよ」
耳の良い彼女にはその歌声はすでに届いていたのだ。愛情に身を落とし、子を産んで処女性を失ったヴァルキリイは仲間の元を去らねはならぬが、そんな失墜したヴァルキリイがサイレンになるという伝説がある。
彼女はただ黙って波間に目を向けていた。
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第三章 鎮まらぬ墓宮
11 冥闇
死者の島とは水没した城郭であった。
言うなれば遺跡だ。数千年を経たであろうその城郭は水の流れに削られながらも偉容を誇っていたのである。
「時は偉大なり」
バルルシャナはそう感嘆をせずにはいられなかった。アラム領の歴史については彼はかなりを知っていたが、この遺跡は明らかにこの王国の起こる前の太古のものである。それがこの地の地下に眠っていたとは、驚かされる先に畏怖を感じてしまう。
一行はカロンの船を降り、死者の島へと進んだ。
「おこうくさいよ」
ラックシードが泣き声のように言った。彼女が指摘するまでもなく墓宮遺跡の中には、むせかえるような香の匂いが立ちこめていた。しかし、かといって墓参する者があるわけでもなさそうである。ある種の魔力、あるいは操られた死者による一つの生態系、一つの社会がそこには形作られているのであろう。
白い岩を組みあわせた壁には無限の数に見えるろうそくが並べられ、薄暗いながらも墓宮を照らしていた。
だが、そこには静けさが支配していた。少なくともそれは一行にとってはありがたいことであった。その静けさは城にあったような混迷として奇妙な生命感とはまったく違ったものだったのである。ナベシマはその静けさをいとおしむようにそっと歩んでいた。この地もまた邪悪に支配されているのであろうが、その静寂の中には少なくとも荘厳な死者への畏敬があった。
「死界に墜ちてなお、己の権勢によって死者を操っているのでしょう、グロテスクな思考だ」
ユークリーブは不快そうに眉をひそめ、そういった。彼のゾーフィタスへの敵愾《てきがい》心は強く育っているようだ。
「いずれにせよ……まずはこの遺骨を静かな所に安置したい」
グレナヴァンはそう言って骨壷を見おろした。
「ここで良いでしょう」
バルルシャナがそれを受け取り、墓宮のメインホールに設けられた祭壇に供え置いた。悪魔崇拝者の祭壇ではなく、昔からの墓官の第一祭壇である。邪悪に住む者達も畏敬があるのだろう、ここには決して手を出さないようである。
「この大墓宮の中には災厄の王の墓所もあるはずですね。それを探し出すことが我々の目的の一つですから」
ユークリーブは無神論者を自称するだけあり、周囲に頓着せずに早くも探索を開始していた。バルルシャナが一声かけようとしたが、グレナヴァンが黙って制止する。祈りはあくまで祈りにすぎない。魂は静寂と無へ帰還するだけだ。彼に強要するのはまったく意味がないことである。
そして敬虔に手を合わせる。グレナヴァンは静かに祈りのことばをつぶやいた。
善なるゾーフィタスの魂へのやすらぎと罪からの忘却を願い、想いを馳せる。
香の匂いがひときわ強く鼻をついた。
ここは墓宮。彼岸と接する幻冥の地である。彼は死の闇の力を強く感じた。
ゆらめくような感覚がある。
気がつくとグレナヴァンは一人で暗闇を歩んでいた。
(また、幻夢に引き込まれたか……)
記憶が断絶し、主観がもうろうとしている。墓所にかけられた魔術に呑み込まれたか、あるいは焚かれた香がいぶされた麻薬であったのか。
そうでなくとも、この探索行の疲労が彼の心をあやうげな状態にしていることが考えられる。先に城の探索行の中で倒れた後にはずっと睡眠の休みをもとらずにいたのだ。封じられたこの世界、どれほどの時が経過しているのかも感じとれなかった。
(少し……休みを取るのも良いかもしれない)
グレナヴァンはためいきをつくと剣にもたれ、そこへ座り込んだ。
(幻夢の中で眠るとは……ふふ、皮肉なことだな)
わずかにまどろんだようなつもりがあった。
しかし、それが床を踏みならす金属音に破られる。鎧の擦れ合う音、剣の引きずられる音。
瞳を開けると漆黒の鎧に身を包んだ騎士が立っていた。
(まさか……父上……?)
グレナヴァンはそう感じた。王国群の頂点に立つ偉大なる君主、しかし悲運にも早くに病逝《びょうせい》した父王が彼の前に現れたように感じたのだ。
しかし次の瞬間、黒鎧の騎士は右手の剣をグレナヴァンに向かって振り降ろす!
(ぐうっ、クッ)
少年の喉から苦痛の呻きと血痰が吐きだされた。すざまじい威力である。その剣は容易に彼の鎧を打ち割り、肉を切り裂いたのだ。グレナヴァンは確かにその剣先がむき出しの鎖骨と擦りあう不快な振動を感じた。
(何故に僕を殺そうとするのです、父王!)
鞘走らせた剣をなんとか第二撃に打ち合わせ、受け流そうとする。しかしその腕がジンジンと痺《しび》れた。騎士のおそるべき腕力である。そして剣もまた、見たこともないような名剣であった。かつてカシナートという名剣を目にしたことがあるが、その威力をも上回っている。あるいは伝説上のウォルタンの剣に匹敵する業物かもしれない。少年は震えた。
(何故、我を殺したのじゃ)
面防の下で騎士が憎悪と苦悶の声を上げた。二度、三度。振り降ろされる度にそれを受け流すグレナヴァンの剣が悲鳴を上げた。
(違う……僕が殺したんじゃない…あなたを殺したのは兄王子達だ!)
流れ下る汗がほとばしる血と混じり合い、肌を伝って流れ下る。
(何故、我を殺したのじゃ)
(違う!)
ひときわ鋭い一撃が、疲れきったグレナヴァンの身体に撮り降ろされた。
「ううっ!」
少年は泣き声のような悲鳴を上げた。黒騎士の薙《な》ぎ払った剣先は打ち割られた鎧の箇所を再び捕らえ、今度は彼の身体に深々と分け入ったのだ。
ゴ、ギギッツ……。
骨が割り折られた。筋繊維が引きちぎられ、激しく血がほとばしる。
少年の右腕が落とされた。
切り落とされたのだ。固く剣を振ったままのその手は、剣の重みで落ちた。
驚愕《きょうがく》に開いた瞳は濁っている。苦痛を感じないのが不思議であった。その非現実感に取り込まれている。
(ぼ、僕の手が……)
グレナヴァンは怯え震えながら、しゃがみこんで左手でそれを拾った。
(治癒呪文……しなくちゃ……早く、早く……)
拾い上げたそれは、ただの温かい肉でしかなかった。失血に身体が痙攣《けいれん》する。
(違う、これは、僕の…腕じゃ、ない)
「……ウッ!」
激しい衝撃が襲った。しゃがんだ彼の背に黒騎士が剣を叩きつけたのだ。それはグレナヴァンの鎧を打ち破る程ではなかったが、激しい衝撃がグレナヴァンの額を石床に叩きつけ、肉がはじけて血が散った。
(早く……腕、つけなきゃ、殺されちゃうよ……父上に、殺されちゃう)
わななきながら必死に呪文を唱える。肩に押し当てた腕の組織が再生融合し、砕かれた骨が形を為し始めると、先程までは感じなかった苦痛が蘇ってきた。
「う、うっ、うああ」
子供のような泣き声が、耐えながらも喉をつく。その間も黒騎士は彼の背に剣を叩きつけていた。
(殺してやる、お前も、父上のように!)
(兄上?)
恐怖とともに振り仰いだグレナヴァンは、黒騎士に兄王子の面影を見た。この上なく非情で、呵責《かしゃく》ない長兄。
(兄上ェェ!)
恐怖、嫌悪、そして憎悪。
しかし、右腕は動いた。ろくにつながっていない筋組織はきしみと苦痛を上げたが、激情と共に右手は動き、剣を黒騎士に突き立てたのである。
「オオオオオッ」
黒騎士はその身をガクガクと震えさせた。突き立った剣からは血|飛沫《しぶき》は上がらない。死者を斬ったときのような重苦しい鈍さだけが伝わってきた。
「お前は、」
グレナヴァンは血の混じった唾を吐き捨てながら立ち上がった。彼自身が産みだした幻夢だ。この黒騎士は父でもなければ異母兄でもない。災厄の王と邪悪なるゾーフィタスが配置した墓宮の守護者であろう。
「おのれ!」
彼は半ば逆上していた。傍らに誰かがいる時は決して浮かべることのない表情である。剣を黒騎士の腹から引き抜いた。そして激しく打ちかかる。
「どこ……みんなどこへいったの……」
ラックシードが一人でとぼとぼと墓宮の中を歩んでいる。すでに方向を失い、手に持ったマッピング用ノートとちびたエンピツとが痛々しい。ぐいと泣きべそに湿った鼻を拭った。
ホールの祭壇の前で、死者達の為に祈りを捧げたことまでは覚えている。しかしラックシードが目を開けるとそこにはもう誰もいなかった。ポツンと一人取り残されてしまったことにあせりと恐怖を感じたフェアリイはやみくもに墓宮の中に進んだのであるが、当然のことながら自分の道を失ってしまったのである。
「ひどいよう、」
流れ落ちる涙を拭う。墓宮は彼女にとってあまりにも広大であった。その広さに寂蓼《せきりょう》が満ちる。
ふわりとした香の匂いが鼻をつく。
「ブリュン?」
そう思ったのはその香りが墓場めいた陰鬱なものではなく、ごく艶やかな女性の匂いであったからだ。ラックシードはその香に誘われるように歩み、一つの玄室に辿り着いた。
その中には美しい女性が一人、棺にもたれかかって座っていた。
胸元もあらわな服に艶やかな白い肌、そしてわずかに波打って流れ下る黒髪。年の頃は三十代、あるいは四十歳過ぎにも見える。決して若くはないが成熟した色香が全身からあふれ出ていた。淫蕩《いんとう》なのだ。
「こちらに近こう寄れ、そしてここで待つのじゃ」
ラックシードはその声に震え上がった。残虐なのではない。しかし何か人を害さないではおかないような危険な感覚があった。そしてその瞳の色。鋭い光を宿し、同情の温かさがないそれは蛇の眼そのものである。
「そなたの連れはここへ来る。それは百と二十年の前より定められていたことじゃ。あの悪魔の娘と災厄の王を滅ぼし、わらわの復讐を為すためにじゃ」
美女はあでやかに笑った。
ラックシードは一つに事実に想いいたった。彼女、この目の前の美女こそがアラムの地を恐怖に陥れた三人のうちの一人、魔女と評される王妃の霊体に他ならないのだ。夫とその幼い愛人への憎悪に自分の身をしばり、その魂はここの留まり続けている。
「ここに来るのじゃ」
小さなフェアリイは震え上がりながらもその命令を拒むことはできなかった。
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12 聖槍と妖刀
グレナヴァンが戦っていたそのとき、ブリュンフラウもまた単身で自らの宿命と出会っていた。
「……ブリゲルト姉?」
彼女がその名を呼ぶと、相手は昔と変わらぬ美しい笑みを返した。
そこはひとつの玄室であった。決してそこも、重苦しくすえた死臭から免れてはいない。その中に美しいヴァルキリイが一人、しどけなく座っていた。柔らかな毛皮のソファに座り、長いランスにもたれている。
「ブリュンフラウ、」
相手は彼女の名を呼んだ。長い耳がわずかに揺れる。
「ああ……そんな……」
不覚にも涙がとめどなくこぼれ落ちる。意外な再会の喜びと哀しみに。
相手はブリュンフラウと同様に美しく、そして華麗であった。暗色の長い髪が、彼女の輝く銀の髪に対照的である。しかし対照的なのはそれだけではなかった。
相手の美しい顔立ちには悦楽の表情が浮かんでいた。固い鎧に身を包んだブリュンフラウと対照的にその美女の形の良い両の乳房はさらけ出され、そこには南洋系の美少女が数名、自他の境のない淫蕩な愛撫を繰り広げていたのである。濡れた桃色の唇から呻きが洩れる。
ブリュンフラウの危惧は真実となった。伝説のヴァルキリイ、ブリゲルト。ウォルタンの寵娘にして最高位の薔薇の巫子は淫蕩な堕落の道へと失墜していたのだ。
「なんということを……」
ブリュンフラウは唇を震わせた。哀しみにわななきながら膝をつき、哀願する。
「ブリゲルト姉、北地へ帰りましょう……どうか、」
しかし、ブリゲルトはくすくすと白痴めいた笑いを浮かべながら彼女に手を差し伸べた。まるでブリュンフラウの言葉が耳に入らぬかの風情である。細やかな身をもたげると長い髪が肩口から前にゆらりとこぼれた。
「帰ることに何の意味があるの…王はわたくしに快楽の素晴らしさを教えたわ…」
「ウォルタンのヴァルキリイが人間ごときの魔術に魅了されるとは、なんたる恥を行ったのです」
その詰問にも伝説のヴァルキリイは正気に戻るでもなく、うつろな表情に笑みを浮かべている。
「……そう、あなたにもじきわかるわ……」
彼女は悩ましげな声をついた。両の乳房を自分の手で支え上げ、震えるように腰を揺すった。ブリュンフラウは自分の身体がもみしだかれているような戦慄を覚えた。
(もう、ブリゲルト姉ではない)
ブリュンフラウはそう確信し、涙を呑んだ。その首筋には紅い跡が残っていた。たちの悪い淫魔に首筋を吸われた跡だろう。かつては最も美しく、最も聡明で、最も強力であったヴァルキリイはすでに見る影もなかった。いや、その美しさだけは何倍にもなって花開いているがゆえに痛々しいことこのうえなかったのだ。清楚な氷花の美しさではない。淫媚な空気を宿してやまないあでやかな蘭花のそれを想わせる。
「後免、」
鋭い声を共にブリュンフラウの斧槍《ハルバード》が一閃し、ブリゲルトにかしつく美少女の一人に斬りつけられた。柔らかな肉体は容易に斬りさばかれる。想像の通り、鈍い手ごたえがあっただけで血潮は吹き出ない。死者を操る魔力で支えられているだけの動く人形にすぎないのだ。
「ああっつ」
切り落とされた美少女の上体が、余韻のままに官能的な息をついた。
「ブリゲルト姉……外道に堕ちたとあらば死の乙女の裁きのままに制裁を加えねばなりません」
挑戦的に斧槍を突きつける。しかし心底で彼女を支配しているのは裁きの正義ではない。堕落した同族へのこのうえない嫌悪であった。
「……わたくしと戦って勝つことはできなくてよ、ブリュンフラウ」
ブリゲルトは斬りさばかれた少女の下半身を驚愕《きょうがく》の表情で見おろしていたが、楽しみを中断された憎悪に形相を歪め、悪鬼のような表情で彼女をねめつけた。
「試してみますか、」
その静かな言葉がきっかけになった。ブリゲルトの身体がなめらかに跳ね上がり飛びすさると、次の瞬間にはその手に傍らの長いランスを伸べ支えていた。往年の身のこなしは決して衰えてはいない。
「ブリュンフラウ、これがなんだかお判りね?」
問われるまでもなかった。なめらかに磨き上げられた美しい銀の曲線。まさに巫子の聖槍である。鋭く研ぎ上げられた切っ先は針ほどにも尖っているようだ。そして刃の片面は剣のように細い刃になっており、突くばかりではなくナギナタのように横に薙ぎ払うことによっても効果を上げる。
「それをお渡しください、ブリゲルト」
ブリュンフラウは刃を食いしばって言った。しかし失墜したヴァルキリイはその言葉に首を振り、なめらかな曲線にねっとりと濡れた指先を這わせる。暗い瞳が妖しく光った。
「巫子の聖槍は処女の血を吸わせることで幾倍にも力を増したわ。まさに聖槍の所持者は無敵、」
ブリゲルトはうっとりとした表情を浮かべた。
「偉大な聖具を汚すとは……許しがたい!」
逆鱗と共にブリュンフラウが襲いかかった。
振り降ろされたハルバードの一撃を、余裕の表情で目を伏せたまま、巫子の聖槍の切っ先で受け止めた。
キュ、イイイイン。
一瞬のアーク、そして長い反響がランスを震わせる。その反響音こそが硬質でありながらしなやかな巫子の聖槍の非凡な材質を物語るものだった。その長さは2ヤードを軽く越えるだろう。騎馬槍としても長い部類に入る。しかし、あくまで軽く、あくまで鋭い。反してブリュンフラウの斧槍の方はジンと重く痺れる鋼鉄の余韻を残す。
「多くの名のある武具がそうであるように、このメーナッドランスも一つの魂を持った生き物なのよ」
ブリゲルトの言葉はかつてのまま、年下を教え諭す調子が残っていた。
「災厄の王に異教化されたアマズル族は百年もの間、この槍を聖器として血贄を捧げたわ。その祭壇ではこのうえなく淫蕩な秘儀が繰り広げられた。その中でいつしか聖槍も血を好み、少女達の苦悶と悦楽を楽しむようになったわ……聖槍は堕落したのよ」
ブリゲルトは槍をしごくように撫で、むき出しになった自分の乳房に押し当てた。細かに震える。
「判るかしら?……ランスは悦んでいるわ」
ブリュンフラウの歯がギリッと鳴った。伝説のランスと粗造の斧槍《ハルバード》では勝負は見えている。一方の防護をとれば、彼女の銀の鎧とランスの与える再生治癒の能力も拮抗《きっこう》を保っている。重い鎧に身をまとわないぶん、ブリゲルトの方が有利ですらある。では、どうするか?
(己の力を信じるほかない)
ブリュンフラウは覚悟を決めて戦闘姿勢をとった。それに応じてブリゲルトも戦闘姿勢をとる。
「貴方に武芸を教えたのは私ではなくって?」
ブリゲルトが嘲笑に唇を歪めた。半ば不死者に近い真性のヴァルキリイは年齢による衰えというものと無縁である。長く生きて経験を積んだ者の技量を追い越すには、同年までの経験を積まねばらならいと言われる。そしてブリゲルトこそは広くその能力を讃えられた最強のヴァルキリイであったのだ。
「ソールよ、雷鳴を!」
ブリュンフラウの指先からきらめきが放たれた。不意の呪文攻撃である。激しい稲妻が渦巻き、黒髪のヴァルキリイの裸身に襲いかかった。
「ぬうっ、」
ブリゲルトがランスの空圧でそれに応じ、雷鳴をはねのける。しかしいくつかは守りを越え、ブリゲルトの肌を引き裂いた。散った血飛沫が強力な電磁に触れて蒸散する。赤黒い飛沫《しぶき》が床に焼き付いた。悲鳴があがる。はねのけられた稲妻の多くはかしづいていた少女達に襲いかかったのだ。激しい電撃にくぐつの眼球が突出する。
ブリュンフラウはブリゲルトが雷電ごときでひるまぬことは予想していた。間合いをつめるための手段の一つに過ぎない。稲妻の余韻で乱れる大気の中を銀のヴァルキリイが突出する。
しかし黒のヴァルキリイもまた間髪を入れずに必殺の突出をかけていた。
振り降ろした斧槍の下をしなやかな身体はかいくぐり、ランスが銀の鎧を突き貫いたのだ。
(くっ……、さすがに、強い、)
達人の勝負は一瞬で定まる。ましてや完全攻撃型のランスの戦いであるならば。であるならば確かに彼女の敗北であった。真性のヴァルキリイの馬上試合であれば一瞬の後に彼女の身体は空駆ける馬から放り出され、墜死したことだろう。ブリゲルトの表情には残虐なまでの満悦が浮かんでいた。放り出された斧槍を踏み折る。
ブリュンフラウは苦痛に顔を歪めながらも肉体をえぐる槍を押さえた。ランスは突き込まれたままギリギリと蠢《うごめ》き、彼女の肉を引き裂きながら致命的な場所、心臓を突き破ろうと動いていた。
(……だが、これは試合じゃない)
いさぎよい観念とは無縁になっている自分に自嘲の表情が浮かんだ。ヴァルキリイは英雄に従う者。自分よりも強力な者には盲従しなければならない定めがある。しかし彼女もまた、一つの価値観から失墜したのだ。
ぐぶっつ。
肉のかきまわされる嫌な音が鳴った。
ブリゲルトがランスを引き抜いたのだ。血がはぜる。強力な守備力を誇る銀の鎧に細かなひびが走った。
苦痛が身体を支配する。だが、苦痛は……苦痛は意志の力で抑え込むこともできる。
「あなたは死なないわ……王はあなたにも命を与えてくれる……」
黒のヴァルキリイが濁った瞳で彼女を見おろしていた。静かに宣告する。
「あなたも堕ちたのよ」
武器、武器は……。
ブリュンフラウは目を見開きながら痙攣《けいれん》する腕で武器を探った。冷たい感触があった。砕けた鎧の背にとりつけていた剣。グレナヴァンを守るべく、猫侍が委ねてくれたショートソード。
グレナヴァン!
吐息が洩れる。ブリュンフラウは自分の心がいかに深く、その少年への愛情にとらえられているかを自覚した。確かに自分は失墜したのだ。しかしそれはブリゲルトが陥ったようなものではない。
揺れ動く、脆く、哀れな少年。年上の女性が抱く、保護したいという優しい母性的愛情。しかし現在に至り、グレナヴァンは保護の対象ではなく、ブリュンフラウをすら包み込む寛容な精神を明かにした。彼女自身がこの少年を心の拠り所とし始めていることに気づいたのだ。肉体を守るだけでなく、精神を守る力。
黒のヴァルキリイはその悟りめいた転換の一瞬を知覚できなかっただろう。愛情はまた憎悪をも幾倍にも増幅する。ゆえに公正なヴァルキリイには愛情すらも許されていない。しかしこの瞬間に彼女はその境を越えたのだ。
激しい憎悪。
銀のヴァルキリイは業と情を負う鬼神となって、黒のヴァルキリイに襲いかかった。身体にまとう発気がまるで燃えさかる炎のようだ。打ち合う鋼が火花の残像を残し、幾度となく目をくらませる。
「げふっつ」
ブリゲルトの鼻と耳からおびただしい血漿《けっしょう》があふれ出した。幾合かの後、ブリュンフラウの剣がその唇を裂いて突き込まれたのだ。ギリギリと音を立てて喉へと刺し下る。
「いつかあなたに追いつきたいと思っていた。でもあなたから墜ちてくるとは」
もとより喉を切り裂かれたブリゲルトが答えられるわけもない。その瞳だけが、何かを言いたげにギロギロと動いている。絶命するまでの長い時間、二人はそのままの姿勢で目を合わせていた。
やがてその瞳が濁り始める。その残忍さもまた、業と情がもたらす激しい憎悪ゆえであった。今の彼女にとっては愛し慕う少年の元へ行くのを阻む者であれば、たとえそれが大神ウォルタンであったとしても倒すべき敵となったことだろう。
「汚された巫子の聖槍……お前も私とともに修羅の道を歩むのよ」
ブリュンフラウはブリゲルトが取り落としたメーナッドランスを拾い上げた。白く細い指がそれを掴んだとき、ランスは血への期待の震えたように感じられた。
聖槍はまるで手の一部のように軽かった。それはこの地における最強の武器であり、絶対的な力だ。
その切っ先が倒れ伏したブリゲルトのむき出しの胸から心臓へと突き込まれた時、ひときわ強く治癒の力が彼女に流れ込み、刺し貫かれた傷跡を跡もなく癒した。
侍の求めるべき道にはいくつか種類がある。
第一は忠道。己の主君に仕えて忠義と道義の元にその身を守ることだ。
第二は倫道。人倫の実践者であることを自分に課し、公民の範たるべく歩むことだ。
第三は武道。最高の武芸者たるべきことを目標とし、己の腕を磨き続けることである。
しかし、ナベシマの心にはわずかの曇りが生じていた。
君主グレナヴァンを守ることこそが彼の存在理由であり使命のすべてであった。グレナヴァンがその地位を負われてよりはそれは報酬の約束されない使命であったが、彼の心にはこれまで迷いが生じることはなかった。しかし最近では、少年グレナヴァンがすでに彼の守りを越えてしまったのではないかという感覚があった。
すでに精神的には真の君主としての魅力と意志力、判断力を有している。肉体的には無論のことナベシマに及ぶべくもないだろうが、最近ではその傍らには常に華麗にして勇猛なブリュンフラウが影のように控えているのだ。
その存在が二重に彼の心を揺らがせる。
侍として婦女子に心を奪われ、ましてやそれゆえに主君に妬みにも似た気持ちを抱くというのは許されざることであった。明らかに君臣の道を逸することこの上ない。猫侍は己の中のその弱さに愕然としていたのだ。
その迷いが剣の迷いにそのままつながっている。
ナベシマは一人の侍と剣を向け合っていた。グレナヴァンが黒騎士と戦い、ブリュンフラウがブリゲルトと死闘を繰り広げていたのと同刻である。
「そなた、忍者でござるな」
古めかしい甲冑《かっちゅう》に身を包んだその侍は言った。大九汰隼人《ダイクタ・ハヤト》と名乗る。
「ぬ、」
ナベシマは恥辱に身をよじらせる思いがした。侍たる者、愛刀を失ったとは言えないからだ。右手の脇差しを逆手に持ち、左手は手甲を立てながらカラテのように構える。
「参られよ」
侍は静かにすり足でにじり寄った。きらりと光ったその刀が複雑な刃紋を浮き立たせる。ナベシマは背筋がぞわりとした。そして己の目を疑う。刃紋が織りなす妖刀の相……緊張に喉が涸れる。
「その刀……」
「お気づかれたか、さもあらん、この剣こそが村正にござる」
武の道を究めようとする侍が恋こがれる伝説の妖刀である。その威力は未熟な侍であっても一振りにして巨人を切り伏せ、悪魔の胴をも斬り貫くことができるという。
(欲しい!)
ナベシマは妖刀のきらめきに目を奪われた。武を求める侍であれば、村正を求めぬ者があるだろうか。村正の伝説に惹かれて侍への転職を図る戦士もいる程である。その名刀が眼前にあるのである。
「振り返りてはいくとせ、災厄の王に破れながらも長く死身の恥をさらしてきたのは村正の継承者を待ち続けてとのことに他ならぬ。されども優れた侍はいまだ我が元へ至らず。貴公も忍者風情とは惜しい」
隼人の顔には奇妙な哀しみがあった。
「拙者が侍にあらずと!」
ナベシマがあせった声をあげる。
「拙者はさきの覇王に子息指南役を仰せつかった身にござる。西北の武門に師事し、佐録八巻と三島|禄然《ろくぜん》二刀流の免許皆伝を受けた者であるぞ。故あって愛刀を失うも侍には相違ござらぬ」
「は、」
古の侍は口元を歪めて笑った。彼の身体から張りつめた戦意が消え、軽蔑がとって代わった。
「さても大言を吐くものよ。長き不死生ありとても、小人にかかわりあう暇は持たぬ」
大九汰隼人《ダイクタ・ハヤト》は軽蔑の表情と共に刀を鞘《さや》に納め、ナベシマに背を向けた。
「待たれよ、お手合わせを請い願う! 己が剣を見て判っていただこう」
「村正を血濡らすにも及ばぬ。とく去られよ」
その言葉に恥辱が怒りとなってナベシマを支配した。あまりにも暗い激怒である。
(うぬっ、)
たとえ相手の剣が妖刀村正であったとて、彼には自分の技量と勝利への自信があったのだ。
目の前には相手の背があった。無防備な背である。
侍には禁がある。そして禁があってこその侍であった。
彼はその禁を踏みにじった。
「うおっ、」
獣じみたかけ声をかけたのは、その卑劣な攻撃に誇り高い古の侍が気づき、剣を返してくれぬかとの期待から来たものであろうか。しかし隼人が怨恨に満ちた顔を返したのはナベシマの脇差しが背から心臓へと深々と突き立てられた後であった。
ぐぶっ。
こぼれだした血潮が脇差しを伝って彼の手を濡らした。
「ぬう、哀れな小人よ……そなたは村正に……魂までのまれるであろうぞ」
大九汰隼人は苦悶の声を絞り出す。
「主君を殺め、愛する者の血もすするという村正を……そなたのような小人に御することができようか」
「黙られよ!」
ナベシマは侍の腰から妖刀村正を奪い、突き飛ばした。隼人はよろよろと崩れおれる。
(村正よ……このような墓宮より出て、我が手にあって広き地の戦いに乗りだしたほうがよかろう)
すらりと抜きはなった刃はさえぎえとした冷風をまとっていた。その柄は官能的なまでに手の中に馴染んだ。
「村正が我を選んだのだ」
ナベシマはよろめき立とうとする侍にそう言った。鞘を投げ捨て、両の手でしっかりと妖刀の柄を持つ。
気合いとともに振り降ろすと、すざまじい剣圧が生じて古の侍の身体を脆くも吹き飛ばした。その肉体は多分に村正の妖力で支えられているところがあったのであろう。その四肢は崩れるように破壊されて壁に染み着く赤いものとなった。
村正の所持者は、必ずやその村正に命を奪われることになるという宿命が語られる。そしてこの侍もまたその宿命の贄となったのだ。妖刀は先の持ち主の魂を啜《すす》って満足げに唸った。
(……甘えじみた忠道が何ほどのものぞ)
先ほどまでの逡巡《しゅんじゅん》が嘘のような満足感がナベシマを支配していた。
「我は……侍の中の侍となった、というわけだな」
手のなかの妖刀が小刻みに震えた。
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13 王妃
静かな時間が墓宮の中を過ぎていった。
王妃の霊体は静かにその時を待ちつづけていた。
その横顔は美しく、かつ邪悪な静けさを宿していた。ラックシードは部屋の隅に身をこごめてそれを見守りながら身震いを禁じえなかった。
「まずはひとり釆おったわ」
王妃が満悦げな吐息をもらした。それと呼応するように、玄室のなかによろめくように人影が入ってきた。
「あ、ユークリーブ、」
ラックシードな泣き出しそうな声を上げながら駆け寄った。常日頃は相性の悪い錬金術師《アルケミスト》であったが、邪悪な王妃の前ではその姿は旧来の友のようにありがたいものであったのだ。
「なるほど、あんたの力というわけか……」
ユークリーブは泣き顔のフェアリイに構わずに王妃を見据えた。彼はこの女性の素性を一目で看破することができたようだ。疲労にやつれた風情であるが、油断なく身構える。
「ほう、見るところあんたの肉体は滅びている。その足元にある棺にはかつては壮麗を誇った美しい肉体が骸骨と化しているのだろうな。だが災厄の王の遺骸は墓にはなかった。どういうことだ」
無遠慮な言葉に王妃の眉がひそめられる。
「そなたにはどうやら、わらわの幻術もそうは通じるものではなかったようじゃな。このフェアリイ並みに単純なのか、それとも……」
「この手の術はなにもあんたやゾーフィタスの専売特許じゃないのさ。確かに少しはクラクラさせられたが、」
ユークリーブの表情が王妃のそれにも増して邪悪に歪む。彼は他の者が幻術に導かれるがままに王妃の用意したそれぞれの試練に立ち向かっているのを知っていた。しかし彼はその影響力に抵抗し、己の意志力のままにこの広大な墓宮を探索していたのだ。
「ガキの頃から人には騙され続けてきた。ちょっとぐらいじゃ騙されないように免疫がついてきたのさ」
つぶやくように語るユークリーブの表情を、ラックシードは奇異なものをみるかのように見守っていた。この錬金術師が他人に本心を見せることはなかったように思われる。しかし今、仲間から離れて、この強力な霊体の前にあるユークリーブには常日頃の斜に構えたところや余計な遠慮が存在してはいなかった。
「ふ、わらわはそなたが気に入ったぞ」
ユークリーブの姿に邪悪な王妃が破顔した。
「抜け目の無い男よ、かつてわらわの愛人であった二人の男……現在は憎くもわらわを滅ぼしてなお生き続ける貴奴《きゃつ》らに似ておるわ。その魅力的であった時代、かつての権勢揺るがぬ頃に」
「とすると、邪悪なるゾーフィタスの半身だけではなく、災厄の王も生き続けているというのか」
半ば予想していた現実であった。ユークリーブは表情を不敵に歪める。
「そして……悪魔の娘、レベッカも!」
すかさず王妃は憎悪に満ちた声を続けた。ゆらりとその身体がユークリーブに歩み寄る。
「怨恨の心は強いようだな、王妃よ。王があなたを捨てたゆえか?」
ユークリーブは会心の笑みを浮かべた。災厄の王とゾーフィタス……その力に対抗できるものはかつて三角の勢力構成の一角を為した王妃の力を得る他はない。そう判断していた。
「そうだ、王はわらわを捨てた!」
激情に青白い輝きに構成されていた王妃の霊体が赤熱の光を宿し始めた。
「美しく、かつ強力な僧王であった王妃、そのわらわを恥辱にのたうちまわらせたのだ! 小娘、小娘め!」
その身体を在りし日のように飾っていた幻影の身体が赤光の中に溶け消え始める。渦巻く霊体、おぞましい怨恨の幽霊へと姿が変わり、渦を巻きながらユークリーブの身体に近づいた。
ガアアアー、ルルルウ、
渦巻く気勢が嘆きのようなきしみ音をたてている。さしもの錬金術師《アルケミスト》も眉をひそめながら緊張に息を呑んだ。ラックシードが震えて彼のロウブの裾にしがみつく。
「あ、あぶないよユークリーブ、ねえ、にげようよ、」
フェアリイの言葉にも、錬金術師は一筋の汗を垂らしながらも不敵に笑みをみせた。
(お前はその復讐のために、わらわの代行を為すために現れたのだ)
さきほどまでの艶やかで柔らかな音声ではない。純粋な霊気による魂を揺るがすような意志の伝達だ。
「そうだ、あなたの復讐を成し遂げてやろう」
ユークリーブはうなずいた。
その声を合図にするように、王妃の霊気は怒濤《どとう》のような流れとともに錬金術師の身体を包み込んだ。
「ムッ、」
息がつまるような思いがした。
(知えがよい、ここ、暗黒の城で巻き起こった邪悪なる災いの物語を聞かせよう。お前の骨身を凍らせ、鼓動を荒立たせるような物語となろう……)
霊体の散らすアークのなかに、強力な怨恨の意志に捕らわれた記憶の断片が流れてくる。
ある記憶は王と王妃の、刺激的で背徳的ながらも幸福な日々。
ある記憶はゾーフィタスと王との出会い。
ある記憶は陰惨なまでの覇道と魔道の戦いの歴史。
渦巻くような記憶の幻視に足元をすくわれて行く。
夢に取り込まれたかのようだ。
女王の瞳に映った様々の事件、それが圧縮された情報力となってフラッシュバックしてゆく。
「こわい、こわいよ、ユークリーブ!」
ラックシードが瞳を見開き、真っ青な顔で身体を震わせていた。
「己を意識しつづけろ。自己と他己との境界線を強く意識し続けるのだ。必要であれば己の肌に苦痛を刻み込め」
錬金術師は飛び行く情報の渦に瞳を激しく動かしたまま、ロウブを翻《ひるがえ》してフェアリイの体を包み込んだ。
「あ、」
ラックシードはロウブの中の意外な温かさに身をこごめた。
(グレナヴァンみたいな……においがする)
奇妙な認識である。
その間にも女王の記憶は渦となって荒れ狂っていた。
「真の力とは王冠にあらず。支配することなり、」
黒衣に身を包んだ威丈夫が立っている。彫りの深い顔立ちには物憂げな表情を浮かべ、そう一言だけ言った。
傍らには壮麗な美女が肩をそびやかしている。女王その人だ。
巨大にして、ある種の優美さを持った寺院である。
そのテラスに二人は立ち、寺院を囲んでひざまずいている領民を見おろした。
(あれが城北の呪詛の森に建立された角の寺院、異界より来たる邪神どもを崇める場所じゃ。かつては神を崇めた王は、信仰と慈愛の結束を捨て、この力と恐怖によって民を意のままにする術を選んだのだ)
女王の声が耳元で囁く。
(弱き者、臆病な者は一も二もなく彼に媚びへつらい、ひざまづいた。権力の魅力はやがて彼を支配し、彼を狂わせ始めたのじゃ)
奇怪の印紋が床に描かれている。たちこめる香の煙に見すかすこともできない。
やがて一人の魔術師が進み出て、複雑な儀式を施行した。
轟音、閃光、悲鳴、嗚咽、恐怖……。
異界からの魔が出現する。
そして荒れ狂う一時が過ぎ、魔法陣の中には白痴化した裸女が血にまみれながら横たわっている。
「王よ、この女の胎内には悪魔の子が宿されましたぞ」
魔術師が歯をむき出して笑みを見せる。王は乾いた顔でうなづいた。
「その女を戻し、牧師の元で育てさせるのだ。真の父親が手を出さぬようにな」
(あれがレベッカの受胎というわけか)
ユークリーブもさすがに陰惨な光景に眉をひそめる。
(そのとおり、悪魔の娘に災いあれ! 王は自らの強力な助力者であり、後継者である者を誕生させようとしたのじゃ。そしてわらわを遠ざけるようになった……)
女王の思念には苦渋があった。
(牧師の愛人の中の子は育ち、やがて十三歳の時に城に呼び戻された。王とレベッカとは破廉恥《はれんち》にして淫猥な契約を為したのであろう。さらに王とゾーフィタスは娘を囮にして真なる父、異界の王を陥計によって滅ぼした。かくして王と女はその父の力をも奪い、さらには忌まわしきペンの真実をも手にいれたのじゃ……)
「わらわが子を為さぬゆえに遠ざけるのか、」
血潮を宿した声で女王が吐き捨てる。
「さもなくば、わらわの力はもう要せぬと言うのか、悪魔の娘の力を手に入れたがゆえに」
しかし、それを背で聞く王が振り向くことはなかった。
少女が歩んでいる。幸福そうな少女。
柔らかな白いレースのドレスに飾られたその身体はすがすがしく清楚なものだが、何か魔の出自を思わせるようなところがあった。
例えばあどけない表情に似合わずに淫を含んだ瞳。
例えば年齢にしては大人びた早熟な体の線。
その傍らには王がいる。王の瞳にはかつての虚無的な何かは見られず、ただ少女の姿が映し出されていた。
少女の靴が足元を這っていた芋虫を踏みつぶした。刺激的な体液の匂いが広がる。
(娘の外見に騙されてはならぬ! その内面は悪魔そのものであるのだから。娘は己の出自を知ると、真実に近くあった育ての親、牧師とその愛人を殺させた。そしてわらわもまた、あの女に殺されたのじゃ!)
王妃の幻影は激情と共に、自分のドレスの胸元を引き裂いた。
たわわな二つの乳房、そのちょうど谷間に細身のナイフが深々と突き刺さっている。
女王はそれをゆっくりと引き抜いた。
激しくほとばしる血があたりを染め上げ、すべてを赤に満ちさせてゆく。
(いやああっ、)
ラックシードは自分の顔にその血が跳ねかかると、悲鳴と共に気を失った。ユークリーブががっくりと垂れたその頭を抱き支え、揺する。
(幽霊の見せる幻像だ。必要以上に恐れるな!)
王妃は自嘲じみた笑いを浮かべるとナイフを落とした。
(それはわらわがコズミックフォージを奪い、あの悪魔の娘の死を願って書いた時に起こった。その効が発揮されるよりも早く、レベッカの力がわらわへ襲いかかり、命を奪ったのじゃ。わらわは死に、お前が指摘したように我が美しき肉体は冷たい骸と化し、あのゾーフィタスにも及ぶ叡知と魔力は散ってしまったのじゃ。されど王はコズミックフォージの力によって不死を願い、人ならざる身となって今でも闇の世界の中に君臨しつづけている。そして悪魔の娘たるレベッカも変わることなくその傍らに!)
王妃の話は終わった。
ユークリーブは再び自分が元の玄室に戻っていることに気がついた。長い話が消耗を招いたのだろうか、女王の魂は現在は力無いゆらめきとして棺の上に漂っているだけだ。
「して、我々は何をすればいいのですか、女王よ」
後ろからの静かな声に、ユークリーブは振り向いた。少年君主、グレナヴァンが立っていた。
部屋の中には再び一同が会していた。それぞれが少しつつ違った様子で。
中央に立つグレナヴァンは、以前とはまったく違った漆黒《しっこく》の鎧を身につけている。肩背に吊るした長剣《ロングソード》も以前のものとは異なるようだ。鎧のサイズによってか、その体は一回り背が高く、少し大人びて見える。先までの幻夢を共有していたのだろう。沈欝な表情で女王の魂に語りかけた。
その後ろには銀のヴァルキリイ、ブリュンフラウが介添《かいぞ》え人といった風体で静かに護り立っていた。片手に持つ長槍《ランス》は、伝説に聞く巫子の聖槍であろうことは錬金術師《アルケミスト》にはすぐに判別できた。一方の鎧の方は激しい戦いの痕に鈍く曇り、所々に痛々しいひび割れや貫通孔が残っていた。しかし傷の痛みに苦しむ様子はない。心身共に充実した安定感があった。
老魔術師バルルシャナは対照的に、ひどく体を痛めたらしく後ろでしゃがみこんでいた。老齢がさすがにその体を蝕み始めたのだろうか、ぜいぜいという苦しげな息をついている。魔術師単身での戦いが、老身を普通以上に消耗させていたのだ。
そして最後、壁ぎわには猫侍ナベシマが腕組みをしながら背をもたれていた。ユークリーブの視線に対して、いささか挑戦的と言えるほどの眼差しを向けたのだが、それは今回に始まったことでもなく、錬金術師はさして気にとめなかった。
あとは彼の腕の中のフェアリイを加え、六人全員が合流したことになる。
(お前達は奴らを葬りさるのじゃ! 奴らはお前達を欺こうとするだろう。だがその言葉に耳をかしてはならぬ。奴らと戦うために役に立つ品をやろう。聖なる品、奴らの攻撃から身を護る品じゃ)
散りかけた霊がそう語ると、そこに聖紋を型どった銀のペンダントと一つの鍵が出現した。グレナヴァンが進み出てそれを拾い上げる。
「過ちは正しましょう。ですから貴方も憎悪に捕らわれずに昇天なされますよう」
グレナヴァンの優しげな言葉であったが、王妃の魂はいまだに怨恨に捕らわれたままにみじろぎした。
(その鍵を用い、かの娘の寝所へと進むのじゃ。それはこの墓宮の中にある。わらわを嘲り、王と幼い愛人が乳繰りあうその汚らわしい場所を奇襲し、葬り去るがよい! かの者達が滅びて初めて我が心は休まり、永遠の静けさの中にこの身をゆだねることができるであろう)
王妃の霊気はいまだに怒れるプラズマとなって蠢き続けていた。ユークリーブが合図をするとグレナヴァンがうなづく。一行は黙ったままその玄室を後にした。
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14 少女
子の塚・アラムの娘・暗黒のプリンセス。
皮肉げにそう題された玄室には、これまでとはうって変わった雰囲気が満ちていた。
まずは真新しい香水の香り。ライラックの清冽《せいれつ》な香りが漂っていた。
そして部屋の中央にはやわらかなクッションが敷き詰められた黒い棺が置かれていた。当然ながらそこに無惨な遺体が横たわっていたわけではない。女性らしい柔らかな羽毛のベットである。部屋の調度は適度の豪華さと趣味の良いブラックユーモアによって演出されていた。
「……あのヒトがあなたたちが来るって言っていたわ」
部屋の隅から物憂げな声が投げかけられ、一同は緊張の色も隠せずにそちらを注視した。
そこに彼女がたたずんでいた。
幻視行で見た面影もそのままの少女レベッカ。百と二十年の間もその姿は変わることなく、魔のもたらした力ゆえの生命力によって生き続けてきたのだ。
顔立ちはなめらかな曲線で構成されている。鼻先がやや高く尖っている他は、十代の少女のみが持つ愛くるしい魅力そのままであった。肌は白いが、それは蒼ざめる程の病的な白さになっていた。闇の世界で生きるがゆえのことだけではあるまい。影となるところは僅かに緑がかった色へと変調してゆき、少女の出自の異常さを忘れさせない。髪は濡れて黒く光っていた。つややかに太い髪質らしく、印象深い動きを持って額から流れる。しかしそれは肩に届く前にすっぱりと切りそろえられており、惜しむべきことではあった。
「あのヒト、あなたたちが私を殺しにくるだろうって、」
レベッカは悲しげにその身をよじった。羽織った黒いロウブの下には下着もつけていないようだ。真実はどうかしれないが、一同はシャワー中に不意に訪問してしまったときのような居心地の悪い感覚を禁じえなかった。確かに幼さと魔女じみた色気。それが奇妙に混合しているのである。むき出しの足が扇情的ではあった。体は健やかに伸びて、身長はグレナヴァンのそれよりもわずかに高い。
「あなたがレベッカですね?」
グレナヴァンは苦しげにそう言った。王妃がレべッカの外見に惑わされてはならないと強調したのは記憶に古くない。しかしこの戦意のない素手の少女をむげに切り捨てられる程に、グレナヴァンは怨恨があるわけでも非情なわけでもなかったのだ。
「グレナヴァン、油断しては駄目よ、」
ブリュンフラウがきつい声で口をはさんだ。グレナヴァンの柔らかな態度が、転じて一同に再び緊張と警戒心を喚起させる効果を上げたのだ。それにヴァルキリイはただでさえ自分の性的魅力を武器として使おうとする者には嫌悪を抱かないではおれないのだ。
「わたしを殺すの?」
レベッカはグレナヴァンの問いにうなづいた後に、奇妙に落ちついた哀しみと共にそう尋ねた。あるいはそれは確認であったのかもしれない。決して甘えるような調子で命を請い願ったわけではないのだ。しかしナベシマとブリュンフラウはその言葉に警戒し、それぞれに新たに得た強力な武具を握りしめた。
「いや……」
グレナヴァンは逡巡した。城内であの書き付け、彼女の売り渡しの記録を見たときから、彼の中にはこのレベッカという見も知らぬ少女への同情が芽生えていたのだ。それは彼自身の経験、王権に操られる人生の苦しさという共有要素から来るものであったのだろう。グレナヴァンもまだナーバスな少年に過ぎないのだ。
ユークリーブとしても、その様を見ながらうかつには手が出せないでいた。確かにレベッカは最終的には倒さねばならない対象であることに変わりはなく、彼にはこのような悪魔の子へのエセ人道じみた同情があるわけでもないのだ。しかし今だコズミックフォージの行方は掴めてはいない。不用意にレベッカの命を絶つことによってその至高の宝への道を閉ざすことにもなりかねないのだ。
「なら……一緒に来て」
一同の反応に安堵したわけでもなく、警戒したわけでもない。レベッカはあいも変わらないあいまいな表情を浮かべたまま、身を翻すともう一つの細い通路へと足を進めた。ゆるやかな足どりで進む。混迷しながらも、一行はそれに続くより他になかった。
通路は暗く、静かな一室に続いていた。さきの部屋よりも広い。
その中央にひとりの人物が立っていた。レベッカがやわらかな安堵の表情を浮かべて、その腕に寄り添う。
「お会いでさて光栄だ。今世の英雄達よ」
闇に立つ人物はそう語った。
その声を聞くと、ナベシマの毛が本能的警戒によって逆立った。これまでにない程の心底からの警戒である。決して合い入れない強力な敵。命のやりとりをするであろう宿敵。
「災厄の王!」
さすがは両翼を為す武人である。ブリュンフラウも状況を合点して短かな悲鳴を発した。
余りにも不意で、あまりにも早い遭遇であった。一同の誰もがこの人物の出現を予想することができなかったのだ。この廃城の闇を今なお統べる闇の君主。百と二十年の時を不死の獲得によって生き続ける背徳の王。その人物が目のまえに立っているのである。
闇の中に紅い双眼が点った。災厄の王が閉じていた瞳を開いたのだ。
一同に恐怖とわななきが走った。グレナヴァンも、ユークリーブとてその例外ではない。全身に震えが走り、体が強ばった。
「ぬうっ!」
ナベシマが苦しげな声を上げる。単純に体が強ばったわけではない。一瞬の動揺の隙をつかれて災厄の王の魔力に呪縛されたのだ。気づいたときにはもう遅く、指一本の感覚に至るまでが石に封じ込められたように消え去っていた。その悲痛な声だけを最後に、声を出そうにも苦しげな呻きしか唸り立てることはできなかった。
(不覚!)
瞳だけをギョロギョロと動かす。この種の呪縛の力を持つモンスターは決して少ないわけではない。しかし充分に強力な意志力を持っていればその呪縛に捕らえられることはないはずだった。この不死王の力がいかに強大であったとて、抵抗がまったくできないわけでもなかろう。少女の招きに不用意すぎたのだ。
「きみ達はまだ子供だ……きみは生き物の限界、きみ達の限られた世界を遥かに超えた事柄に関あろうとしているのだよ」
災厄の王はあの物憂げな表情のまま、あの王妃の幻視行の中で見た表情のままに、ゆっくりと歩み寄ってくる。
その姿が洩れ来る光の中に明らかになった。
黒衣に包まれた長身の力強い印象、広い胸と硬く張った肩は昔の姿のままである。秀でた額に目が暗く隠れている。しかし明らかに王はかつての勢力的な覇王とは異なる風采となっていた。すでに陽光を浴びて剣を振るう暴王ではなく、闇に生きる陰湿な恐怖の支配者となっているのだ。広い額には奇怪な斑点が浮かび、肌は死体のように白っぽく褪めている。表情は乏しく、ただ紅い瞳だけが圧力的なまでに印象を残す。
「己の分を超えた業を為そうとするのは勇敢ではない。身の程知らずの愚かな井蛙にすぎぬよ。すでに我らが宿命を超える者であることを証明してやろう」
災厄の王はゆっくりと歩み寄って来た。真の王者らしい優雅にして自信に満ちた足運びである。
「直情な正義感と慈愛に満ちた少年君主と、己の欲望に忠実な錬金術師……お前が幾度となく我が領をうろついていたことは知っていたよ」
王は余裕のある笑みを浮かべながら、一行の一人一人の顔を確かめてゆく。
「主君に忠実な龍族の老魔術師と、己の腕を磨くのに熱心な猫妖精《フェルプール》の侍、おや、フェアリイもいたのか」
災厄の王はここではじめてラックシードの存在に気づいたようだ。ラックシードだけは王の呪縛の影響を受けてはいなかった。しかしあまりにも小さなフェアリイはこの状況においてはただただ、その場で震えることしかできなかった。
「う……」
何ができるわけでもない。闇の王が近づくと、ラックシードはただそこにペタリと座り込んで震えながらいやいやをした。失禁してもおかしくはない恐怖ぶりであった。ユークリーブとナベシマが舌を鳴らす。過剰な期待をするのは酷な話であるが、何しろ体が自由なのは彼女のみであったのだ。
「ふふ、このフェアリイは自分の立場が判っているよ。我が前においてはか弱き者達はただただ震え、許しを請う他にはないのだ」
王の哄笑が部屋に響いた。グレナヴァンはその笑いの中に一つの真実を見つけた。善なるゾーフィタスの言った言葉、一行は百二十年の災厄を終了させる予言された者達であると。ゆえにさすがの災厄の壬の中にもその予言ゆえの恐怖が存在しているのだ。しかし彼はここに及んで自らに害を与え、愛娘レベッカと自分の不死生を閉ざす可能性のある者を手の内に封じ込むことができた。これを喜ばずにはおれようか。
「あとは北地の真性のヴァルキリイ……美しいものだ。私はかのブリゲルトに勝るとも劣らない貴重な宝を手に入れたというわけだな」
「……!」
ブリュンフラウの目が逆鱗に紅く染まった。王の手が動けない彼女の銀髪を長い爪で撫で梳いたのだ。
「ちょうど私は喉が乾いていてね、どれ……一口頂くことにしよう」
背筋を震わせるような緊張と恐怖と共に、ブリュンフラウには不死の理由が合点いった。災厄の王は彼女の背に回ると首筋に冷たい息を吐きかけたのだ。口をあけると白い二本の牙がのぞいた。バンパイアロード!
「ウウッ、」
身をよじって逃れようとするが、当然ながら身の自由は効かない。災厄の王はほくそえみながら歯を彼女の首筋に立てた。鋼鉄の鎧が首筋を護るが、その上から無遠慮に歯を立てる。
ゴリッ、ゴリッ……ギッ。
鋭い牙が鋼鉄を噛み割ってゆく。信じられない硬度である。それと共に両の手が鉤爪となった指先を胸甲にかけた。幾度となく続いた戦い、そして先の黒のヴァルキリイ、ブリゲルトとの戦いにおいて胸甲の強度はずいぶんと脆くなっている。こちらはさして抵抗することもできずに握り砕かれ、王の指先はヴァルキリイの胸に喰い入って血を滲ませた。バラバラと鎧の破片が砕け落ちる。
ぐじゅつ。
「ああっ、」
肌が裂かれる音と苦しげな吐息とが重なった。災厄の王の牙がブリュンフラウの白い首筋に突き込まれたのである。たちまちほとばしる鮮やかな液体を舌で舐め取った。その刹那、苦痛ではなく背筋を震わせるような官能がヴァルキリイの肉体を襲った。
(ブリゲルト姉はこうして失墜したのだわ……)
黒のヴァルキリイの首筋に残った二つの斑点の理由が判る。彼女の体は呪縛からは解放されていた。しかし失血のふらつきと、わき起こる奇妙な感覚によって、ブリュンフラウは体を動かすことができなかった。王の両の手が強く双胸を掴んでいることも意識する。ぐったりと体の力が抜けてゆく。
「ああ……」
ブリュンフラウの呻きはまさに官能の吐息に他ならなかった。
(おのれ!)
ナベシマの心を目の前が暗くなるような激しい怒りが襲っていた。清らかなヴァルキリイが死への吸血をされながら快楽の呻きを上げている。その事実が沈着な侍をバーサーカーじみた無我への怒りへと駆り立てていた。
猫侍の内部で何かが弾ける。それと共に体を支配していた呪縛が打ち消された。
「おのれ、許さぬぞ!」
圧倒的に絶大な、そして脅威的な意志力である。彼は一動作の元に村正を鞘走らせた。妖刀が王の瞳よりもなお妖しい光を宿す。
「ヴァルキリイを離せ」
青眼に構えて威嚇する。王は猫侍を見やると、彼女の首筋から口を離した。紅い筋がつうと首筋から露になった胸元へと流れ下る。
ぽとり、と操り人形のようにブリュンフラウの体が床に投げ出された。災厄の王がその手を離したのだ。哀れなヴァルキリイは床の上でまだわずかに苦しみ悶え、体を小刻みに痙攣させている。
「死なすほど吸うこともあるまい……」
王は満足げな笑みを浮かべて紅くなった唇をなめた。
「許さぬ!」
逆鱗と共にナベシマが村正を振った。太刀筋が届いたわけではない。しかし鋭い切り口が王の肩口から胸板へと生じた。おそるべき剣圧である。まるで太古の国において唯一の血統においてしか用いることができなかったという魔術じみた剣技をナベシマは披露してみせたのだ。
村正の威力と言うのは簡単だ。しかしその鋭い切り口は確実に制御された気術によってのみ完成される達人の技である。これまで折れかけた刀という好ましからぬコンディションでの戦いを強いられてきたナベシマの真の実力の片鱗を見せるのに充分であった。
「ほう、」
災厄の王は不快げに切りつけられた傷跡を見やった。黒衣が見事に断ち切られている。しかし、その傷口から血潮はこぼれず、ダメージや苦痛を受けたという様子はない。不死者ならではの恐ろしい無効化能力と再生能力であろう。妖刀村正の力でさえ王を滅ぼすのに足りないのだ。
「なんだと!」
驚愕したのはナベシマの方である。怯んだその瞬間、脇で控えでいたレベッカの静かな表情に怒りが点った。
「ごほっ、」
猫侍が急に奇妙な悲鳴を上げた。喉を押さえ、悶え苦しみ始める。
(「|死の大気《デッドリー・エア》」……おそるべき窒息呪文だ)
ユークリーブは猫侍が七転八倒して苦しむ様を見て、背筋が凍った。彼も精通している大気系呪文の中でも最も強力なものである。効果が絶大なのも当然ながら、実に相手に苦しみを与える効果を持つものであった。当然ながらレベッカはただの少女ではない。悪魔の娘の魔力は伊達ではないのだ。
猫侍は眼球を半ば飛び出させ、紫色の舌を垂らしながら転げ回る。グレナヴァンも、バルルシャナも、彼が悶え苦しむ様をただ見守るしかなかった。侍が呪文の力に耐えることを祈るのみだ。
「次は勇敢な少年の味を試してみることにしよう。血筋の良い少年のそれは若い女にも増して濃厚であろうて」
災厄の王は傍らで起こっている事件にも構わずに、こんどはグレナヴァンの前に身をかがめた。
「くっ、」
顎を支え起こされるままに、何もできない。鎧の首当てを外す冷たい指先を、そして首にかかる吐息を、ついには自分の肌を喰い破る牙を感じながら、彼は無念さに瞳を閉じていた。首筋を強く吸い、血潮を呑み下す。
吸血という行為にはこの上ない嫌悪があった。彼が学んできた聖書では血を不可侵にして神聖なる命の境として、無駄に流すのを禁じる他にも動物の血液ですら食用にすることが禁じられていた。血液を飲むという行為、 他人の命を吸って生きるという行為は人のあるべき秩序からの逸脱も甚《はなは》だしい。
「ああっ、」
グレナヴァンの喉から苦痛の息が洩れる。
「うっ、」
次の瞬間、災厄の王が苦痛の声を上げてのけぞった。口に含んだグレナヴァンの血液を吐き散らす。
「ペ、ペッ……これは何だ。わ、私に一服盛るとは」
よろめく王をレベッカが抱き支えた。王の額から焦げるような煙が上っている。そこには醜く聖紋の焼き印が浮かび上がっていたのである。
(王妃の霊体が渡してくれた聖紋のペンダント……)
グレナヴァンは気が遠くなりつつも、ペンダントが熱を帯びていることを感じていた。
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第四章 呪詛の森
15 記憶
無形ながらもその存在が信じられ続けている魂とは、固有記憶そのものであると語った哲学者は誰であったか。
他の誰もが持たない固有情報。共有する集合無意識分野を超えて存在するもの、それが魂の本質である。
例えば動物には魂が存在しているだろうか、という問いがある。ケージの中に捕らわれて一生を終えるブロイラーには魂が存在しているとは言えまい。しかし長く愛玩され、そしてその恩義を決して忘れなかった忠犬には確かに魂が存在しているのだ。その存在をすべての者が忘れ去るまでは。
命とは、いかに輝きを持って濃密に生き抜いたかが価値判断とされるものだ。
無為に長く生きるよりも、激しい一生を過ごして自己の存在を流れ行く時流のなかに焼き付け、固有の記憶を書き付けて去ることが命の為す貴重なものであろう。その長短は問題ではない。
魂の価値。
人……単に人間種族に限らずに生きとし生ける存在すべては、その魂の価値、自己存在の確認を輝かせるためにその人生を費やす。
ある者は優れた芸術家となって作品を後の世に残そうとする。またある者は新たな技術や知識をつけ加えてから去る。そして多くの凡百の者達でさえも、子を慈しみ育て、そして自分の血脈が後の世へまで伝えられるようにとの願いをこめているのだ。
しかし、己の存在を輝かせるのに捕らわれすぎる者達も現れる。
そんな者は戦いと血と恐怖という手段を用いて、自らの名を暴力的なまでに刻み込むことによって、自己の命を永遠に忘れ去られないようにするのだ。
我が名を記憶に刻み込め、恐怖と共に書に残せ。
敬愛を、憎しみを、感謝を、怨恨を、お前の魂に刻み込め。
彼らは己の命の失われる日を超えてなお、人々の記憶の中に君臨しようとするのだ。
己の存在。
それは他者によってはじめて知覚されるものであろうからだ。かのゾーフィタスの精神が絶対の叡知《えいち》を求めたがゆえに二つに分かたれたように、存在の確認は他者がいてはじめて成立するものであるからだ。
グレナヴァンは瞳を閉じたまま涙を流していた。
哀れな権力者達。その寂蓼《せきりょう》が多くの哀しみを招き起こす。
そのような者達は、ごく簡単なもので癒されるはずなのに。
たとえば一人の優しい女性の愛情。
復讐の炎に身を焦がす王妃の悪霊の影響力が、彼の心の隅に残っているのだろうか。
幻像が記憶と混じり合い、再び揺れ動く感情の物語を演出していた。
少年は夢を見る。
記憶の苦しさに息をあえがせ、恐怖に瞳を震わせながら。
黒の騎士が身をもたげる。
グレナヴァンはさきの激しい戦いの記憶に身を怯ませた。
しかし、黒の騎士が面貌を外したとき、そこには父王の顔があった。壮年の威丈夫である。百万王土の王国群を統べる覇王。その面影には荘厳な威厳と共に個人の哀しみがあった。
「グレナヴァンよ」
父の声が髭のなかから震え出た。
「儂《わし》はそなたの母をこよなく愛した。儂はこれ以上の愛し方は知らぬと言える程に、そなたの母を愛したのだ。他の妃の誰よりも、後宮の女官の誰よりも、そなたの母を愛したのだ」
父の手が少年の肩に重く置かれる。彼は苦痛に身をよじったが、何も言うことはできなかった。
「しかし、お前を産むとともにあの女は死んだ。お前がその手であの女の腹を引き裂いたのだ」
父王の手がぶるぶると震える。
(父上、僕を殺すの?)
少年は恐怖におびえた。
「初産であった……若すぎたのだ。腰の細い女であった。儂は、もしもそなたの母の命を救うことができるのであればその胎内に剣を突き刺し、そなたの幼き体を切り裂いてバラバラの肉片にすることに何の躊躇も感じなかったであろう」
ギリッと音が鳴った。それは噛みしめた父王の奥歯の音であったのだろうが、グレナヴァンにとっては肩の骨が父によって砕かれたように思えた。小さな悲鳴を洩らす。
「あの女の面影がある。お前が娘であればさぞや美しき姫に育ったことであろう」
大きな手が顎にかけられ、仰向かせた。グレナヴァンは体を強ばらせる。しかし仰ぎ見た父王の瞳の中に大粒の涙がたまっているのを見て驚いた。
「いや、あるいはそれは悲しすぎるやもしれぬ。健やかに育てよ……そなたはあの女が儂に残してくれた唯一のものであるのだから」
安堵と疲労に気が遠くなる。そしてそれとともに父への憐憫と恐怖があった。
哀しみの渦。それが少年の心を縛った。そして混乱と恐怖。混迷。
そしてある日、老魔術師が彼にささやいた。
「グレナヴァン殿、王がお倒れになったら世継ぎはあなたなのですぞ」
少年は予想外の言葉への驚愕と共に、忠実な龍族《ドラコン》の魔術師の顔を見つめた。
「僕は長子ではない。兄達が王国群の覇王を継ぐであろう?」
バルルシャナが付近に油断のない警戒を向けながら、耳元に囁く。
「王が御母堂を深く愛しておられたことは公然の事実ゆえにあなた様に王権をお譲りになるという線が濃厚ですぞ。異母兄の王子方がそれに対し、強い不満を抱いたというのも知れ渡っております」
老魔術師はほとんど聞き取れぬほどの声で彼の耳に囁く。
「……この度の王の御病気も、兄王子のどなたかが毒を盛ったという噂がありますぞ。兄王子達と王陛下の仲はまさに険悪、有り得ぬ話ではありますまい」
「まさか、滅多なことを!」
「お声が大きうございますぞ、殿下。かくなる状況においては王子のお命を狙うものとて現れて不思議ではありますまい。今夜より武芸師範ナベシマ殿に王子の不寝番を行っていただきまする。どうぞお気をつけを、」
それだけ言うと魔術師はすいと下がる。少年は慌てて彼のあとを追った。
「バルルシャナ、その噂が事実であるにせよ僕は王位などは望まぬ。そう父上に申し上げてくる」
その言葉に老魔術師は硬質な肌をきしませて表情を歪めた。
「謙譲の美徳を見せる時ではございませんぞ。仁ある君主がその地位に就くのは臣民の願い。兄王子の誰が貴方程の器量をもっておりましょうや? このバルルシャナは老体に鞭打ってかく殿下をお育て申し上げたのでございますぞ」
「しかし、」
少年は老魔術師の剣幕にたじろいだ。
「更に申しますれば、この件には王子のお命そのものがかかっていると言っても過言ではないのですぞ。もしも兄王子のいずれかが王権を継ぐことになれば、その最初の目標は旧王の寵愛を受けていたグレナヴァン殿の存在を消し去ることに向けられるに相違ありません」
そしてその日はそう遠くなく到来したのだ。
グレナヴァンはいまだ若かった。
若すぎたゆえにその力を奪われたのか、若すぎたがゆえにその命を拾い留めることができたのか、それはどちらとも言えぬであろう。
少年は呆然と父王の葬列を見守る。かくも偉大な君主が倒れる日があろうとは。
遠大な葬列のなかでは、グレナヴァンは混じり合う無個性な喪服の一つに過ぎなかった。
(僕は母を殺し、そして父をも死に至らしめたのだ……)
呆然としながら、グレナヴァンはその恐怖と戦っていた。
兄王子の一人一人と出会う度に、侮蔑と軽視と嫌悪の表情が降りかかってきた。その度に、この異母兄弟との水面下の抗争が父王の命を縮めたのだという意識が強まる。
(……寵愛を受ける王子が幼いうちに、決着をつけるのだ)
(……グレナヴァンが成人せぬうちに王の命を奪え)
(……さもなくばこの幼い弟にすべてを奪われる)
(……殺される前に、殺すのだ!)
憎悪と恐怖。強い愛情は必ずや強い憎しみをどこかに呼び起こす。
グレナヴァンは恐怖に心を閉ざした。
そして王位は兄王子へと移った。
グレナヴァンは一つの所領を相続し、その地を治める公爵位を得ることが決定した。未成年の男子に与えられる地位としては破格のものである。しかし彼が次王になると予想していた者は少なくはなかったのだ。
失望が確かにあったが、グレナヴァンが公爵位を得るということでキナ臭い王宮の抗争が終蔦するのを喜ぶ者は少なくはなかった。もたらされた安定に支持者が再び彼の元に集まった。商人は大量の賄賂を積み上げ、仕官を申し込む騎士達も少なくはなかった。彼がまだ年若いというのに縁談の話を持ち込んでくる貴族すらも少なくはなかったのである。痛々しく着飾った幼い少女達が彼の館に連れてこられるようになった。
しかし、その安定も長くは続かなかったのである。
公爵領選定のその時、グレナヴァンの引き当てたくじは彼がアラム領を相続するということを示したのだ。
「インチキであろう!」
バルルシャナが血を吐くように叫んだ言葉が、静まった聖堂の中に響いていったことが、グレナヴァンの耳にいまだに染みついている。
非難された選定官は困惑の色を隠せなかった。確かにアラム領はかつて王国群のなかでも素晴らしい隆盛を誇った地であり、空位であることもあって公爵領選定のくじの中に入っていてもおかしくはない。しかしそれが書類上のことに過ぎないことは、誰もが知っていたのである。恐ろしい怪物と異教が治める土地。古の陰惨な伝説が幾つも眠る暗黒の土地。
それが悪意ある陥計であったのか、悲劇的な運命がもたらしたものであったのかはグレナヴァンには判らなかった。しかし兄王子が会心の笑みと共にグレナヴァンを送りだしたことは事実であった。そして支持者達が次々と彼らの元を去っていったということも。
わずかの臣下のみを引き連れて王都を離れる彼らの姿は敗北の夜逃げと映っても仕方がなかっただろう。
苦しい逃亡が始まった。
恐怖、それに追い立てられるように前へと進む。立ち止まったならば死の手が追いついてくる。
彼に対する過剰な畏れを抱く者達から暗殺の試みが幾つも降りかかってきた。
あるときは食事に毒が盛られており、毒味役の若い侍女が顔を紫に腫れ上がらせて苦しみ悶えた。愛情をもって少年主君に接していた娘の顔が、グールのように歪み崩れ始める。ナベシマが彼女の心臓を一突きにし、楽にさせてやる他はなかった。
あるときは彼に宿を提供した気の良い農家が放火された。主臣一行はかろうじて脱出したものの、農夫家族は生きながらに炎に包まれた。野生味あふれる自家製のビールが好きだった農夫の体は松明のように燃えたのだ。
またあるときは暗殺者が聖職者に変装して襲いかかってきた。立ち寄った小さな教会において、慈愛に満ちた尼僧がかいがいしく湯で彼の足を拭っていたその次の瞬間、胸元に隠された毒針が鋭く少年の肌に突き立てられたのだ。俊敏なナベシマの対応に一命こそ取りとめたものの、その傷は現在も紫色の痣《あざ》として残っている。後に暗殺者の死骸を始末しようとしたとき、カタコンベからは本来の主人であろう老司祭の陰惨な遺体が見つかった。
主従には休むいとまは無かった。少年は襲い来る哀しみに静かに耐え、臣下はいつの日か苦渋が報いられ、主君が本来あるべき姿に返り咲く日を夢見た。
グレナヴァンさまを王に。
グレナヴァンさまを王に。
その言葉を呪文のように繰り返し唱えながら、無念にも死んでいった者達の数は多いのだ。
少年は常に死の影と共にあった。
(わたしを殺すの?)
耳を打つ言葉にグレナヴァンはぎくりと身を震わした。
(わたしを殺すの?)
哀しみを達観した少女の表情が目に焼き付いている。レベッカの声だ。
あの戦いが過ぎた今でなお、少女への同情が彼の中に揺らめいていた。そしてあの時、瞳を見合わせた彼とレベッカの間には確かに何か通じるものがあったのだ。それは形容できないなにか。互いへの憐憫にも似たもの。
深い同情と同族意識である。ゆえにグレナヴァンはその時に剣を振るうことができなかった。
(ワタシ ヲ コロスノ?)
(チチウエ、ボク ヲ コロスノ?)
その言葉は、かつてグレナヴァンが心の奥でつぶやいた言葉に似ていた。そこにあるのは恐怖と共に安らぎへの憧れがある。グレナヴァンの瞳から累々と涙がこぼれた。
レベッカ。
悪魔の娘である。野望と欲望の中で、あまりに大きな力を持って産まれたが故に、その罪ならざる定めに従わざるを得なかった永遠の少女。
グレナヴァンはいまだに深い迷いの中にあり、伝説のアーティファクトに関する真実は見えては来なかった。すでに彼の中にはこの伝説の筆記具《スクリプター》を得たいという願望は存在していなかった。そんなものはもとより無かったのかもしれない。しかし今の彼は百と二十年の昔に起こった事件の真実の姿、その真実に触れたいがゆえに前へ進み続けるのだった。
(もしもレベッカに許しと平安が与えられるのであれば、)
少年は嘆息と共にゆるやかな思考を辿る。
そのときには必ずや、彼自身にまつわる陰惨な事件より逃れる術も発見されるに違いなかった。
レベッカが存在してしまったという、その事実そのものの原罪。
そして、グレナヴァンが誕生してしまったという、その事実そのものの原罪。
善なるゾーフィタスはすべての終焉を予言した。ゆえに彼はその罪よりの解放の時を見たかったのだ。
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16 脱出
湿っぽい地下牢の中に六人は閉じこめられていた。
あの屈辱的敗北の後、呪縛に意識を奪われたままに一行はここに連れてこられたのだ。
「おそらくは災厄の王の本拠である角の寺院の地下でしょう。呪詛の森の中です」
ユークリーブが醒めた口調で言った。その言葉にナベシマが舌打ちする。
「落ちついたものだな、錬金術師どの。このような場所に封じられて後、どうなるかも判らぬというのに」
猫侍が怒りに身を震わすのも理解できることである。一行の武器は奪われることもなくまとめて放り込まれていたのだ。早速ほくそえんで村正を鞘走らせたナベシマであったが、最高の刀の破壊力ですら牢を護る鉄格子に対してはその効果を発揮しなかったのだ。いかなる呪文的強化が為されているのか、村正は鋭い金属音を立てただけで弾き返された。まあ、渾身の攻撃であっても歯こぼれひとつしていないのはさすがは妖刀である。
(村正でも斬れぬとは!)
ナベシマは目の前が暗くなるような怒りを味わった。この魔剣を手にしてよりこのかた、その威力を振るったのはわずかに瀕死の侍に対してのみという味気なさである。災厄の王もまた妖刀の攻撃に対して致命傷を与えられず、猫侍には村正の能力を真に試す機会がまだ与えられていなかった。
「やむを得ませんね。私はあなたのように王の呪縛をはねのけるほどの意志力を持ってはいなかったのですから。さすがは一流の侍です」
ユークリーブがナベシマの焦燥に肩をすくめる。その言葉自体は邪念無いものであったが、ナベシマはレベッカに窒息呪文を喰らって昏倒したという恥辱を思いだした。
(この男の血を村正に吸わせてやろうか)
そんな暴力的な思いに捕らわれるのは、あるいは彼の心に村正の妖力が浸透しつつあったせいかもしれない。もちろん今の時点では暗い衝動の域に留まっており、実行に移すほどに狂気に魅入られているわけではなかった。
状況が絶望的であることに変わりはなかった。バルルシャナは老体が疲労困憊に達しているらしく昏睡状態にあり、災厄の王の吸血を被ったブリュンフラウは青い顔をしながらグレナヴァンにもたれかかっていた。瞳を虚ろに開き、ときどき襲う悪寒に身を震わせている。砕かれた鎧の代わりに、その身体にはグレナヴァンのマントが巻き付けられていた。一方のグレナヴァンは吸血自体はさしてダメージとはならなかったものの、先程までの悪夢の余韻に額に汗を澄ませていた。
「ごめん……ね、あたし、」
部屋の隅でしゃがみこんでいたラックシードが悔恨に漂えながら言った。
「あたし、ひとりだけうごけたのに……なにもできなかった、」
「フェアリイの微々たる力で災厄の壬を倒せるなどとは思ってはおらぬ、気にする必要はない」
猫侍は苛立ちのままに、とげとげしい言葉を投げた。グレナヴァンがたしなめるような表情で顔を上げたが、ナベシマはそれに気づかない。
「ごめん……」
ラックシードは涙をボロボロとこぼしながら謝った。あるいはあの時、一行は全滅したかもしれなかった。そのような取り返しのつかない状況になりかねなかったあの時、彼女は何もできはしなかったのだ。
(おとしあなのときもそうだった。あたし、あしでまといになってばかり……)
悪魔崇拝者の祭壇の落とし穴を作動したときも、彼女の行為によってナベシマは死にかけることとなったのだ。二度までも一同を危険に陥らせたという自責が、小さなフェアリイの心をつぶしそうにしている。災厄の王の件に関しては彼女になんら罪があったわけではないのだが、ブリュンフラウの、そしてグレナヴァンの吸血をただ呆然と見守るしかなかったというのが結果である。
「うう……」
ブリュンフラウが苦しげな息をついて、胸を波打たせる。
「大丈夫かい、ブリュン……」
グレナヴァンが眉を曇らせてヴァルキリイの額を濡らす汗を拭った。汗に濡れた前髪が絡みつく。
「ええ、大丈夫……、」
ブリュンフラウは弱々しい笑みを見せて身を起こした。治癒の力を求めて巫子の聖槍へと指を這わせる。暖かな力が指先から伝わってきた。毒気に強ばった体の隅々に染み渡ってゆく。震える息が喉から洩れた。
首筋の咬み傷は封じていたものの、そこには赤紫の傷跡が痛々しく残っていた。指先でそっと探るとずきずきする重苦しい痛みが沸き起こる。それはまた敗北の辛い痛みである。
(くっ、このままブリゲルト姉のように毒気を注ぎ込まれて淫道に落ちて行くのか、)
確かに災厄の王に襲われた時、官能の狂おしい快楽を感じたのは否めなかった。それはヴァルキリイにとっては心を蝕《むしば》む毒気である。快楽と愛情。それはきわめて近い位置にありながらも相反する性質を発揮しかねないものである。強い快楽は強い愛情すらも塗り込めてしまう諸刃の剣である。胸の深奥が重苦しくうずいていた。
「ナベシマどの、頼みを聞いて欲しい、」
ブリュンフラウは垂れかかる前髪を払いのけると真剣な眼差しで言った。
「うむ?」
猫侍が眉をひそめ、彼女を見やる。ヴァルキリイは大きく息をついた後に語った。
「もしも……もしも私が災厄の王の魅了の力に取り込まれ、操られて御主君に槍先を向けるようなことがあれば、あなたの剣で私を殺して欲しい。死してなお操られることなどないように完璧に……」
しばしの沈黙が一座を支配した。
「ブリュンフラウ、」
耐えるような声でグレナヴァンが声を宥め声をかける。しかし気高いヴァルキリイは、目を閉じたまま黙って首を振った。
「承知つかまつった」
猫侍は押し殺した声でそう言った。
「ナベシマ!」
グレナヴァンが怒気をあげる。しかしナベシマは主君の声には構わずにヴァルキリイの前に進み出た。妖刀村正をなめらかに鞘走らせる。空中に自刃の残像が描かれた。
「感謝するわ」
ブリュンフラウはその妖しい輝きに安堵の笑みを向けた。侍は村正の切っ先を彼女に向けてまっすぐに伸ばす。
グレナヴァンには妖刀が確かに意識を持って獲物として彼女を意識し、その匂いを記憶したように感じた。
「されど、今はその時にはあらず」
ナベシマはそう言いおくと村正を一閃させた後に鞘に納めた。一瞬だけ妖刀が惜しそうに震えたように見える。彼自身もまた、この美しいヴァルキリイを愛しているのか、あるいは斬り裂きたいのか己の本心が判らなかった。
「茶番はそのへんにしておきましょう」
軽蔑の視線と共に黙っていたユークリーブが口をはさんだ。
「さて、現状を確認するなれば我々は敵地の虜囚ということになります。現在は我々は生かされているものの、この後にどのような運命が待ち受けているかは想像に難いことではありませんな」
「死以上の恐れることはない。そして拙者は死の恐怖にも耐えうる」
ナベシマは暗い表情のままにそう言った。再び一行から離れた壁際に座する。
「そうですかな? あるいはヴァルキリイどのは、侍どのに他の頼みをすべきであったかもしれませんよ。例えば身を汚されて悪魔どもへの生け贄にされる前に殺してくれ、とか。あるいは第二のレベッカの母となる光栄を得ることになるやもしれませんしね」
緊張が走った。ナベシマが村正を掴む手に力を込める。
「ユークリーブどの。このような状況です。必要以上に互いの心を痛めさせ、内部対立を招くような言葉は慎みください。それに僕はまだ災厄の王との戦いをあきらめたわけではない」
猫侍が怒りの声を上げる前に、グレナヴァンが強い調子で言う。その表情には暗い深刻さと共に、強い決意とたじろがぬ意志力があった。
「なるほどグレナヴァン卿は賢明でおられる」
錬金術師はニヤリと笑みを見せた。
「かくいう私も決して戦いをあきらめたわけではないのですよ」
ブリュンフラウは二人の人間男性を見比べて弱々しい笑みを浮かべた。闇を歩んできた錬金術師と覇王の血を引く王子。対極であるかに思えた二つの存在が今、重なって見える。それは人間らしい美徳の共通点がこの逆境にあって真に発揮されてきたゆえのことであろう。困難にあっても決して簡単にはあきらめない精神。どんな苦境からも起死回生できるのだという奇妙な自信と希望。
エルフ達はそれは人間の能力発揮の不安定さと状況確認の低さから起因する不確定要素の誤差値にすぎないと語る。しかしブリュンフラウは今、この男達の諦めの悪さが愛しく思えるのだった。
「いかような術があるのか、教えていただきたいものじゃの、」
いつから目覚めていたものか、バルルシャナが錬金術師に暗く沈んだ声をかけた。苦しげに背をくの字に曲げている。眼光は絶望ゆえか弱々しいものとなっていた。彼がすでに寿命と言えるような老境にさしかかっていたのを思い出させる。
「よもや善なるゾーフィタスの予言、それだけを信じておられるのかの?」
苦渋に満ちたその声はすべての希望を失った老人の声に他ならなかった。グレナヴァンがその傍らに歩み寄り、いたわるように老いた肩を支えた。
「災厄の王は、自分達が宿命を超える者であると語った。であるならば、我々もまた宿命を超えうると答えたい。すでに予言や呪縛が問題なのではない。あやうげな予言に己の希望を委ねるほどに楽天家なわけではないよ」
少年君主の声には力があった。
「どんな状況でも己の力で変えてみせる。そして我々はすべての悲劇に幕を降ろすのだ」
その騒動の中、ラックシードは一つの希望を見いだしていた。
彼女の破れかけた羽根がわずかな振動を感知して揺れ震えたのだ。かつてはその羽根は美しく軽やかに宙をはばたき、人々の珍重と愛玩の対象となったものだ。それが今は激しい冒険の中で破れ乱れて、振動感知の役目しか果たしてはいない。だが、悲しいとは思わなかった。
(かぜかしら? どこからか、かぜがふいてきているわ)
そしてフェアリイは牢の隅にあいた小さな亀裂を発見した。この牢の管理者はよもやフェアリイを中に入れるとは思ってもいなかったに違いない。彼女であれば這い出ることが可能であった。
(ここから、でれる!)
フェアリイの小さな胸は発見の喜びに震えた。しかしすぐに冷めた哀しみがとって代わった。この隙間から一行が這い出るわけにはいかない。ここから逃れ出ることができるのは、彼女一人だけなのだ。
(あたしだけ、にげる……)
その思いが頭をよぎったことは否定できない。単身で災厄から逃れようというわけではない。ただナベシマ達、彼女が失態ゆえに苦しみの中に放り込んでしまった者達と共にいることが耐え難かったゆえにだ。
しかし、グレナヴァンや一行を見捨てるということは考えられることではなかった。
しかしまた、ラックシードがこの穴を発見したとてそれは一行に有益となる情報ではなかった。フェアリイが一人だけで脱出したからといって何になるだろう。
フェアリイが邪悪な神殿の中をさまよって牢の鍵を見つけだし一行を解放することができるだろうか? それは講談の世界ではよくある筋ではあったが、牢の前には鎧で身を固めた邪教の騎士達が警備を固めている。
あるいははるかに離れた人里まで一行を危機を伝えにゆくか? それ自体は不可能でないにせよ、依頼を聞いても動く者はいないだろう。フェアリイ一人の言葉に王軍が動くわけもなく、再び珍重品として捕らえられて売られるのがおちであろう。
いっそのこと、災厄の王へ単身で奇襲をかけるか?
フェアリイの少女は小さな頭で一生懸命に考える。
(それでも、ともかく、ゆこう、)
ラックシードはこちらには気づかないでいる仲間達に別れの眼差しを向けると、頭を低くして穴を這い進んでいった。少なくとも一つのことだけは事実だと彼女は思った。たとえラックシードが使命を成し遂げられずに倒れて帰ってくることができなくても、一行には失うものは何もないのだ。
小うるさく足手まといのフェアリイがいなくなっても、一行は気がつくことすらないかもしれない。
(もしかしたら、さよならね、グレナヴァン)
ラックシードはこぼれ落ちそうになった涙をぐいと拭うと、決然と先を進んだ。
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17 同胞
呪詛の森の中を小さなフェアリイがさまよい歩く。
小川が流れる湿地帯の中を細い獣道が続いていた。ねじくれた灌木が彼女の目には不気味なものに映った。
援助の当てがあったわけではない。しかし邪教の神殿への再侵入は困難なものだった。
シュル、シュル、シュル……
湿地帯ならではの忌むべき怪物がそこには闊歩していた。ラックシードは葉影に隠れ、震えながら湿地の住人をやり過ごす。半身が蛇の生物がのたくりながら通りすぎていった。
全身を緊張にこわばらせ、周囲の音に臆病なまでに注意を払わないことにはそんな怪物に出くわしてしまう。当然ながら現在のラックシードには怪物達に対抗する術などはなかった。僅かに魔法を帯びた楽器をその身に持っているが、そんなものはろくの役に立たないことがすでに確かめられている。ブリュンフラウ、ナベシマ、そしてグレナヴァン。今の彼女には小さなその身を護ってくれる心強い味方は存在してはいない。
「う、うっ……」
己の存在の小ささを感じるとき、悲痛なまでの嗚咽《おえつ》が洩れた。自由に空中を舞い飛ぶことができるならずいぶんと違ったであろう。しかし小さな足で踏みしめる森の道は長く、千里の道のりにも感じられた。目的地があるわけではないのだ。足が疲労で棒のように動かなくなるまで、そしてその身が暗い森の腐葉土の一部となるまで、歩き続ける他に何もない。
奇妙にねじくれた石のアーチがあった。ラックシードはそこを駆け抜ける。
アハハハハハ、
幻聴のような軽やかな笑い声が耳を打った。おびえの表情も色濃く、辺りを見回す。
視野を何かがスイと横切った。
ラックシードはじりじりとあとじさる。現在の彼女は小さな不安感のかたまりであった。
アハハハハ、
再び、きらめきのようなものが走った。ホタル?
ラックシードはその動きを目で追った。しかし極めて早く飛び抜けて行ったその正体を見定めることはできなかった。虫、あるいは鳥であろうか? 鋭い軌跡に大気が乱れ、破れた羽根があおられた。よろめく。
「あなたは、だれ」
不安と共に呼びかける。
「あなたは、だれ」
問いが交錯する。
そこに、金の鱗粉を持ったフェアリイがいた……。
「あ、」
ラックシードは目を疑った。始めて見る同族の姿であった。
思い出せば彼女の記憶はあやうげなものであった。初めての自意識の目覚めというのがすでに人の社会の中、小さな鳥かごの中であったように思われる。グレナヴァンに買い上げられた後はもちろんのこと鳥かごからは解放されたのだが、それにしたところで大自然の生活も同族の存在も知りはしなかったのだ。野外を旅するのはこの探索行が最初である。当然ながら同族に出会ったことなどはない。
「ハイ、」
フェアリイがラックシードにいたずらっぽく笑いかけた。彼女が人間社会の中にあったらしく小さな布織りの軽い衣装を身につけているのに比べ、この呪詛の森のフェアリイは僅かに紫がかった織毛に全身を覆われており、裸身をさらしている。
「え……」
その出現は彼女にとって唐突すぎる出会いであった。幾度となく同族と共に暮らすことを夢見たことはある。しかし思い浮かべることすらもできなかったその存在が、この恐怖に彩られた森の深奥、原始のままの野生のなかに群生するフェアリイ社会を存在させていたとは……。
くすくす笑いが周囲を交錯した。光がいくつも視野を横切る。その数は幾百もあるようであった。そのすべてがフェアリイ達の宿す輝さであるのだろうか。
(フェアリイのすむばしょなんだわ、ここは、あたしのふるさとなの?)
ラックシードは呆然と光を目で追った。あんなに素早く飛べるものなのか……そんな感想だけがあった。
「ねえ、たすけて、」
彼女は素早く飛び回る光に懸命に呼びかけた。ともかく彼女には現在は仲間達を助け出すための助力が必要であった。それはあるいはアドバイスだけでもいい。あるいは彼女の恐怖をなだめてくれるだけでも良いのだ。
傷んだ翼を広げ、同族の元へと飛び立とうとするが、十分な力がない。よろめき飛ぶが、羽はきしんで苦痛と共に墜落しかかる。
「へんなひとだわ、」
「へんなフェアリイ、」
いたずらっぽい笑いが彼女を囲んだ。これら野生のフェアリイ達の反応はより精霊的で、フェアリイ本来の姿に他ならなかった。自由で活発な心。対するラックシードは人間達とのふれあいのなかでより人間に近い心を持つようになっていたのだろう。いかに彼女がお気楽で考えなしであると言っても、野生のフェアリイ達の罪のない無知さに及ぶものではなかった。
「できるものなら助けましょう? 他の精霊達がそうするように」
ひときわ明るい光が出現した。
「わたしはセイレン! フェアリイの女王よ」
不安に包まれるラックシードにとってはその小さな女王は女神にも等しく感じられた。
アハハハハ
アハハハハ
舞い飛ぶ光と笑い声、その中にあってラックシードは現実感を失っていった。
フェアリイ達はすべてその外見が彼女と同じような少女の姿であった。女王といっても幼児じみた童顔である。
「ここはわたしのふるさとなの?」
「知らないわ」
「フェアリイはここにしかすんでいないの?」
「知らないわ」
ラックシードの問いに、フェアリイの女王を名乗る彼女は首を振る。
「でもあなたはここで暮らすの。なぜならここは魔法の森。フェアリイのための聖地なのだから」
「え?」
セイレンの寛容な言葉に、ラックシードは我を忘れそうになった。他のフェアリイが歓迎の意志と共に笑いさざめいている。
「いっしょにとびましょう、ねえ」
数人のフェアリイが彼女にスイと飛び寄った。まるでトンボのような素早い動きである。ラックシードは羨望と恥辱を感じた。
「でも、あたし、とべない……はねがこわれてしまったの」
「羽根なら直してあげる。あなたも素早く飛べるわ」
アハハハ
アハハハ
「でも、だって、それに、」
ラックシードは混乱の声を上げた。それは彼女にとってあまりに魅力的な誘いであった。彼女を支配しつづけた孤独感、それがセイレンの微笑みによって溶け消えてゆくようであった。同族の存在しないという哀しみは彼女が成年に近づくたびに強くなっていたのだ。それは例えばグレナヴァンの包み込むような優しさによってやわらげられるものであったが、決して本質的な解決になるものではなかった。
その優しさはあくまで保護と友情の域を出ないものである。ラックシードがいかに望んだとて、フェアリイと他の種族の間には対等の愛情が存在できようはずもなかった。そう、彼女もいつまでも少女ではない。
(ブリュンは、あのとき、グレナヴァンとくちづけしたわ、でもあたし、)
そんな脈絡のない記憶が蘇って彼女を混迷させた。
フェアリイの女王が小さな指でラックシードの羽根をなぞり、裂けつぶれた葉脈を丁寧に伸ばして行く。
(ああ、フェアリイのゆびだわ……)
彼女はそんな単純な感想に涙が出そうになる感慨を感じた。小さく繊細なその手当によって、うずくように残っていた苦痛が消えて行く。セイレンの手当は実に手慣れたものであった。ちいさすぎるフェアリイの手当はフェアリイにしか行うことができない。そんな単純な原則を彼女は心に沁みるように確認していた。
「あなたはとてもきれいな指をしているから、スイレンの蜜を集めるのがとっても上手なはずよ」
フェアリイらしい突飛な会話である。ラックシードは返答に戸惑った。
「それにそろそろ最初の卵を産む歳だわ、」
「卵?」
混乱と共に、フェアリイ達の生活の中に取り込まれて行く自分を感じる。それは決して悪い感覚ではなかった。
アハハハハ
アハハハハ
さざまく笑いの中に取り込まれて行く……しかしラックシードはその目的を忘れることができなかった。今ごろも邪教の神殿の牢の中では彼女の愛する者達が死への危険に向かっているのだ。
(もしも、あたしがのろのろしていて、グレナヴァンがしんじゃったら……)
その恐ろしい仮定が彼女の身体を焦燥に苛む。
「ねえ、とじこめられてるの、あたしだけちっちゃいからでることができたの、」
ラックシードはセイレンにそう言い立てた。
「じゃーくなおうが、みんなをころしてしまう、」
それは泣き声になった。要領を得ない語りであったが、フェアリイ同士ではそれで充分に何かが通じたようであった。幾人ものフェアリイ達が泣きじゃくる彼女の肌に触れて宥める。
「赤いマッシュルーム、これは少しの間だけ誰でもフェアリイのように身体を小さくすることができるの」
その間にフェアリイの女王は籠に入ったマッシュルームを持ってこさせた。ラックシードは感謝歓喜してそれを受け取る。野生のフェアリイ達は薬草や魔法の効果のある植物を探す名人であるのだ。
「デルファイ、神託所をおたずねなさい。そこで助けが得られるの、そこできっと待ち続けているの」
フェアリイの女王は走り去るラックシードの背にそう呼びかけた。
「神託所は暗闇の中、闇の力が迷いに沈む……」
唱和が続いた。ラックシードが舞い上がる。治療された翼によって再び自由に大気のなかを飛べる。
神殿の前で、ラックシードは一度だけ名残惜しそうに森の方を振り向いた。
もしも一向の脱出を果たしたら、再びあのフェアリイ達の元へ戻り、そしてフェアリイとしての穏やかな生活へととけ込むことにしようか……彼女はそう想う。
しかし、ラックシードは首を振った。どのようなことがあろうとも、グレナヴァンの傍らにいるということを決意したのだ。彼にとってはラックシードは小さなペットにすぎないかもしれないが、彼女にしてみれば少年に忠誠を捧げるナベシマやバルルシャナとまったく同様の気持ちを自分に課しているのである。
すべてが終わったなら、再びこの地へ、同族の元へ帰ってくるのも良いかも知れない。きっとフェアリイ達はその持ち前の寛容さと無邪気さで彼女を迎え入れてくれることだろう。ラックシードは微笑みを浮かべた。
しかしまた彼女は自分が決してその地へは戻らないということを予感していた。
手に持った赤いマッシュルーム。
ラックシードはその籠を両手で支え持って、再び牢へとつながる裂け目をくぐって行った。
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18 霊地
それは一瞬だけのアヴァンチュールである。しかしその僅かなひとときを時は許さずに、ただひたすらに裂け目を駆け抜けることに費やすしかなかった。
フェアリイの女王がくれた赤いマッシュルームは確かに劇的な効果を発揮した。一同はその装備ごと、魔法の力によって縮小されたのだ。そう、ちょうどフェアリイの体の大きさと相ふさわしいくらいに。
ラックシードはせつなさに胸が苦しくなるのを感じていた。手の届くところにグレナヴァンがいる。幾度か夢を見たように、自分にふさわしい大きさになった彼がいるのだ。肩に乗るのではなく、また抱えて持ち上げられるのではなく、対等の立場でゆるやかに抱き合うことのできるひとときの許し。
しかし、ラックシードはうるむ目を拭って駆けた。その背を目に焼き付けながら。……今は一瞬の躊躇も許されないのだ。マッシュルームの効果はごく限定された時間しか持つものではない。細い裂け目を抜ける途中で体が元のサイズに戻ったのであれば、絞り出しソーセージのような惨状を呈するということは恐ろしいながらも明確な予想となる。グレナヴァンが、そしてラックシードが、次いでよろめくバルルシャナを支えるブリュンフラウとナベシマ、しんがりにユークリーブが進む。
そして無情の時は過ぎ去った。裂け目を通りぬけるか否かというときに、一同は再び元の大きさに戻り始める。ただ一人、ラックシードだけを残して。
「あ……」
ラックは哀しみと共にグレナヴァンに手を伸ばす。
「急いであの木立に! この体のサイズでは邪教徒達に見つかる」
グレナヴァンが声をかけ、遅れがちになるラックシードの手を握り、引いた。
(ああ……)
ラックシードはその感触を惜しんだ。グレナヴァンの手がみるみるうちに元の大きさに戻って行くのが感じられる。最初は対等に、次に妹と兄のように、そしてついには人間とフェアリイの関係へ。離れゆくその寂蓼。
「ありがとうラックシード。お手柄ね」
絶対絶命の危機からの脱出が安堵として一行に広がる。ブリュンフラウが体験の興奮に息をはずませながら、フェアリイにそう語りかける。ラックシードは顔を上げずに黙ってうなづいた。ヴァルキリイはそれには気づかずにグレナヴァンになにやら笑顔で話しかけていた。
ナベシマはいまだに疲労困憊にあるバルルシャナの様子を見ている。ブリュンフラウの方はなんとか体力を回復したのに比べ、老魔術師はやはりその年齢ゆえかなかなか復調に至らないようである。
ユークリーブがラックシードに歩み寄って軽く誉め言葉を伝えた。
「ねえ、ユーク」
ラックシードは気が緩んだようにしゃくりあげながら顔を上げた。
「もしもユークが、おっきくなれるじゅもんかなにかをみつけたら、あたしにかけてね」
しかし錬金術師は表情を変えずに、フェアリイを見おろすだけだった。
「お前はあるべくして小さく産まれたのだ。死するときまでそのままでいる方が、おまえの幸福だ」
冷めた声でそう言い捨てて、くるりと背を向ける。
「現に今もお前にしかできないやり方で我々を救ってくれただろう」
「……ありがとう、ユーク」
そういいながらもラックシードの喉からはまだ嗚咽が洩れていた。
|呪詛の森《エンチャンテッド・フォレスト》。それはいまだに自然が強力な力を保ち続ける野生の土地であった。農耕地化されたアラム領荘園が災厄の王の堕落と共に荒野にもおぼしき状態に至ってしまったのにひきかえ、この地は太古よりのままにその自然の力、土俗的な魔力、そして畏怖すべきほどの触れ難さをそのままに維持してきたようだ。邪教の王でさえ、その力をすべて制御することはできなかったようである。
しかしまた、これらの「地力」が角の神殿へと力を与えているのも事実のようだ。邪教の砦は野生の荒らぶる力をその基部から根のよう吸い上げて、そのものが一つの邪悪な生物のように蠢《うごめ》いているかに思えたのである。
グレナヴァンは樹間にかいま見える神殿を眺め見ていた。暗い雲を背負い、神殿は彼らを嘲笑しているように感じられる。
彼らの脱出はすぐにでも牢見回りに発見され、追跡隊が編成されたはずだ。一行は素早く神殿の側を離れ、この森のなか、小さな石造りの聖祠にその身を移したのである。
「脱出する方法を考えていたその直後には、潜入の手段を考えねばならぬとは皮肉なことですな」
ユークリーブが彼に声をかけた。グレナヴァンは深い物思いから覚まされる。
「コズミックフォージは災厄の王の手中。それを諦めたわけではないのでしょう?」
「すでにそれだけが目標なのではないです」
少年は錬金術師の皮肉げな問いに真面目な表情でそう答え、身軽な身のこなしで、上っていた祠《ほこら》の屋根から飛び降りた。
「ユークリーブどのはフォージの安全な使用法をすでに思いついたのですか?」
錬金術師は苦笑と共に肩をすくめる。グレナヴァンは答を期待もせずに祠の中に入った。そのような困難な命題を容易に解決できるはずもなかった。また答を出していたところで、それをグレナヴァンに教えるユークリーブではないだろうことは重々承知していたのだ。
もしも災厄の王を倒したら? コズミックフォージを手に入れたら? 彼は先にブリュンフラウを弾劾したユークリーブの言葉を思い返していた。苦難に立ち向かうにあたって六人は協調して進んでいる。そしてそのような冒険の中で、互いへの評価や信頼、奇妙な友情や家族意識のようなものが育ってきていることも感じられた。しかしそれはあくまで暫定的な状況に過ぎず、個々の人間が目指すものはまるで異なっているのだ。すべての終末にたどり着いた時、グレナヴァンは自分がどのような選択をすべきなのか判らなかった。
かつて太古の時代においては、冒険者パーティは善と悪と中立というごく単純な三項分類たよって様々な戒律に縛られていたそうだ。
(さしずめブリュンフラウが善で、ユークリーブが悪の属性《アライメント》というところだろうか?)
わずかな苦笑と共に、グレナヴァンはそのように思った。思いきりの良いほどの簡略さに愛しさすらも感じられる。しかしその基準で考えたとき、彼自身がどちらの属性に分類されるのであろうかと迷わざるをえなかった。彼は自分の心のなかにユークリーブのそれと同調するような暗い部分が存在しているのを知っていたのだ。
「ラックシード、フェアリイの女王は闇の先の神託所に尋ねよと言ったのだね?」
祠に入り、そう呼びかける。ラックシードはこくりとうなづいた。
中はさしたる広さはない。傍らにはバルルシャナが横たえられ、清水に浸された手ぬぐいをそっと当てられている。ブリュンフラウがかいがいしくその世話を焼いていた。反対側の壁にはナベシマが愛刀を支え持ちながら瞑想し、足元にラックシードがちょこんと座っている。
祠の奥には砂岩を削りだしたらしい粗末な聖堂が置かれ、その前にはこの祠の主であったらしい修道僧が拝礼したままミイラ化していた。その遺体には死者の痛ましさはなく、死してなお信仰に身を捧げることの貴さを伝えようとするかのような気高い彫像となっていた。一行は動かして葬ることもはばかられたのだ。
「邪悪なるものと立ち向かおうとしているのは私たちだけではないわ」
ブリュンフラウが静かにそう語る。修道僧はいったい何を求めてこの土俗異教と悪魔崇拝の地へと足を踏み入れたのであろうか。調査であろうか、教化であろうか、あるいは邪悪なる者を滅ぼそうという悲痛な覚悟があったものなのであろうか。
「時が惜しい。神託所を探しに出ようと思っているんだ」
グレナヴァンは修道僧に拝礼し、顔を上げてそう言った。
「私も同行するわ、」
ブリュンフラウが即座に応じた。しかし少年君主は首を振る。
「ブリュンにはバルルシャナの様子を見ていてもらいたい。ナベシマ、同行して欲しい」
「主命とあらば、喜んで御同道いたす」
猫侍はゆっくりと瞳を開き、グレナヴァンにうなずいた。
静かな道が続いている。
あるいはナベシマの発散する気が魔物どもを追い払っているのではなかろうかと思われた。
細やかに流れる小川の流れに道は入り組み、さながら迷路のように同じ場所を歩んでいるかとの疑いすらも感じられた。
「ナベシマ、バルルシャナの様態をどう思う?」
黙っていたグレナヴァンが耐えるような口調で猫侍に尋ねた。ナベシマは答に迷う。
「……拙者はことを取り繕ってしゃべるのが苦手でありますゆえに、」
少年の肩にはわずかな苛立たしさが宿っていた。
「主従の道などはなんの徳になろう。多くの者達が僕のために命を落としていった。あの気の良い老魔術師もその宿命に殉じざるを得ないというのか?」
ナベシマは黙り込むしかなかった。彼もバルルシャナの元に近づいてくる死神の存在を感じとっていた。ことさらに気の動きには敏感な侍である。それを見まごうはずもなかった。死神の足音はなんの言い訳もなしにヒタヒタと老魔術師に近づいて来ていたのだ。
あの墓宮の中で分かたれたとき、互いにその身に何が起こっていたのかを尋ねるのは何故かはばかられていた。ナベシマにしても自分が得た剣が妖刀ムラマサであると公式に公言したわけではない。またグレナヴァンもブリュンフラウも、自分一人が出くわした事件については然して語らず、他者を詮索することもなかった。ゆえにバルルシャナの身に何が降りかかったのか、どんな敵に直面したのかも謎のままであった。あるいは単にこれまでの過労の蓄積が老魔術師を蝕んでいたのかもしれず、または老いそのものの力がついにバルルシャナを取り込み始めたのかもしれなかった。
主従の道のなんたるか。
ナベシマですらもその命題に答える術を持ってはいなかった。
(たとえ何があろうと、我は命を落とすまい)
その執着が猫侍のなかにも沸き起こってゆくのを、彼自身は止めることができなかった。それは妖刀がその柄から伝える力への野望や覇道への欲求という妖しげな誘いのみではない。ナベシマの侍としての逡巡が新たな見地を育て始めていたのかもしれない。
「バルルシャナ老が命を落とすことになろうと、それは自ら選んだ道でありますゆえ、いかに主君といえども手を伸ばすことのできぬ選択ではありますまいか」
奇妙な答が口をついて出る。いささか非情にも感じられる答ともなろう。しかしナベシマにはそう語るしかなかった。
(かつては我は「それはグレナヴァンどのが命を捧げて惜しくはない主君でありますゆえ」と答えたであろう)
それに気づいてナベシマは愕然とする。決してこの少年への敬愛や忠誠が失われているわけではないはずなのだが、なにかがすっかり根底から変わってしまった。そしてそれは再び取り戻すことのできぬものなのだろう。
「僕のために死ぬ必要などない」
グレナヴァンの表情には奇妙な安堵があった。
すべてが失われ、もはや旧に復する可能性など存在してはいないということに彼は心のゆとりすらも感じる。
もう彼はコズミックフォージを手にするつもりはなかった。
ゆえにグレナヴァンが強力な力と共に王都に戻る可能性はもはやなく、よってナベシマが王側将軍になる可能性も、バルルシャナが筆頭王宮魔術師になる可能性も存在していない。
失われたのは、おそらくはくだらないものなのだ。形のないもの。手にはいるはずもないものへの希望。
グレナヴァンにはそれが判っていた。
猫侍が居心地悪そうにみじろぎした。実体となっている闇が森に蠢いていた。ダークゾーンである。
「ユークリーブはどこへいったのかしら」
ブリュンフラウがふと気づいてラックシードに尋ねた。しばらく前から錬金術師の姿は見えなくなっていた。
「しらないよ、」
ラックシードは首を振る。いささか無愛想になるのは先ほどの脱出の際の出来事がわずかながらに心の傷として残っているゆえであろう。グレナヴァンとナベシマ、そしてユークリーブも去った今、このヴァルキリイと一緒に老魔術師を見守っているのはいささか気詰まりなことであった。
「そう、」
ヴァルキリイがいぶかしげに首を傾げる。あの災厄の王との戦いの後、彼女の鎧には胸甲とそれにつながる胴鎧がなく、無骨なガントレッドとレッグアーマーだけという奇妙な格好になっていた。もちろんランスを主体とした戦いにおいて、胸甲はさほどの意味もなさない.さすがに矢を射かけられたら閉口するしかないが、ブリュンフラウはさして不便を感じてはいなかった。
大きな変化が生じたのは、おそらくはある種の扇情的な色気であろう。エルフ女性にしてはやわらかにふくらんだ胸のラインがあらわになっている姿は、かつての彼女よりも数段の女らしさを発揮することになったのは当然である。もっとも現在それを眺めることができるのは老いたドラコンと小さなフェアリイのみ。ラックシードの中に恨めしげな嫉妬を生じさせるのみであった。
バルルシャナがせき込みながら起きあがる。ブリュンフラウがその背を支えた。
「ご無理なさらぬよう、御老体」
しかしバルルシャナはわずかにヒュウヒュウと喘音を上げながら、ヴァルキリイの瞳をじっとみつめた。
「……そなた、やはりコズミック・フォージを北地に持ち帰るのか?」
ブリュンフラウはその問いに息を呑んだ。老魔術師の表情には真摯《しんし》な懇願と悲痛さがあったのだ。
「判らない……わ」
じりと気押されるように答える。
「私はすでにウォルタンに忠誠を誓うヴァルキリイではなくグレナヴァン卿に忠誠を誓う身。大義を捨てて人の子を愛してしまったこの身をヴァルハラの門は拒むことでしょう」
素直な答を語りながら瞳を伏せる。ラックシードが悲しげに身じろぎした。
バルルシャナは深く息をついて、再び疲れたようにその身を壁にもたれさせる。
「そなたはエルフでグレナヴァン卿は人間。それも純粋のエルフと純粋の人間種であろう。おそらくはその間に子は為せまいぞ。所詮は異種族、正室になることも望めぬ」
今だ成人までの年月を多く残したグレナヴァンが聞けば失笑するしかない会話であったが、バルルシャナはエルフが愛すると言ったのであればその奥にはどれほどの思いの深さがあるのか知っていた。エルフはよほど特殊な例でないかぎり、一生の内に一人しか配偶者を選べない種族なのである。
異種族|混血《ハーフ》は下世話な噂話に上ることこそ多いが、実例としては極めて希なものである。ことに人間とエルフの間にはその容姿が似ているということもあって恋愛が生じやすいのであるが、その本質はまったく異なる生物同士であるという現実を突きつけられることになるのだ。エルフであれば、例えば容姿こそ違うものの猫妖精などのほうがよほど生理的に似た存在なのである。
「判っているわ」
ブリュンフラウは悲しげに息を切った。
「でもとりあえずはその傍らにいたい。そして彼を護る存在でいれればそれで……」
「そのグレナヴァンどののためのコズミックフォージの効能なのじゃ」
バルルシャナは激情に駆られるように彼女の腕をぐいとつかんだ。
「この一命を捨てても、グレナヴァンどのに再び幸福な日々を! そのためにはコズミックフォージの力が必要 なのじゃ。災厄はわしのみが償いをするゆえ、どうか……どうか判ってくれい」
「……わかったわ、」
ブリュンフラウはその勢いに気押されるようにうなづいた。
闇の中のサンクチュアリ。
ダークゾーンを越えたとき、そこには清らかな庭園があった。白い御影石の建物、神託所であった。
「闇が渦巻いているようだ」
ナベシマがつぶやいた。まるでダークゾーンはじりじりと神託所を取り囲み、闇の中に取り込もうとしているかのようであった。まるで聖所を取り囲み、塗りつぶし、怨念の中に取り込んでしまおうとする。そしてその存在を忘却の彼方に放逐しようとしているかのようだ。
(闇が、)
うずまく要素がナベシマの足元へと渦巻いて寄ろうとしている。その冷ややかな感触に毛皮が逆立った。
(闇どもが村正の存在を感じとっているのだろうか)
暗黒の構成要素が、まるで妖刀の存在に気づいたかのように渦を巻いていた。空気の中を暗黒の飛沫《しぶき》である黒点が泳ぎ、愛しげに村正にまとわりつく。
(うぬっ、)
闇がヒタヒタと彼の毛皮の中にもぐり込み始めていた。
グレナヴァンはナベシマの挙動に気がついていない。ひとり神託所に足を踏み入れた。
「アラムの紋章がここにある。この神託所もまた墓宮のようにい太古のアラム領の隆盛を伝える遺跡に違いない」
静けさがあった。武人好みの無駄のない装飾の施された祭壇がある。
岩盤に彫りつけられた代々のアラムの王名。そして、そこに揺らめく霊気があった。
「亡霊《ワイト》か……」
グレナヴァンは一瞬だけ身構えたが、その霊気から邪気が感じられないのを見てとって体を緩めた。
亡霊は振り向いて笑みを浮かべたようであった。それは霧でしかなかったのだが、グレナヴァンには確かにそう感じられたのだ。亡霊が岩盤を指し示す。その最後、災厄の王の名を示したその下に、グレナヴァン・アーミンガム……彼の名があった。
「ここはアラムの王のための聖地であるのか」
グレナヴァンは霊気に哀れみを感じた。おそらくこれは代々のアラム領王の魂のかけらに相違ない。ここは戴冠のための聖地。この霊体は次王の到来を待ち続けていたのだろうが、災厄の王は百数十年に渡る不義の戴冠期を続け、歴々と連なってきたこの由緒ある聖地を冒涜したのだ。
霊体が静かに杖を支え持ち、そしてグレナヴァンに渡した。
「アラムの王杖……」
グレナヴァンには本能的にその杖の由来を悟ることができた。皮肉にも彼の手に委ねられることになったこの地の支配権。確かに彼は正当な支配者なのである。丁重な礼をもってそれを受領する。
ひとりきりの静かな戴冠であった。石段を静かに辿り、王のために設けられた庭園へ歩み出る。
「皆のところへ戻る」
少年王の呼びかけた声に猫侍は振り向き、奇妙に虚ろな表情でうなづいた。
ナベシマの歩みは静やかであった。物思いに沈んでいたグレナヴァンはそれに気がつかなかった。
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第五章 雄山羊の神殿
19 魔道
邪教の神殿に近づく五人連れがあった。そのすべてが黒いロウブを頭からかぶり、ねじくれた羊を型どった奇怪なマスクをつけている。中の一人だけがやわらかな白衣をまとってレースを顔にかぶり、夢遊病者のように手を引かれて歩いていた。
「おお、よくぞ参られた兄弟達。今宵の儀式のために生け贄をお連れとみうけたが?」
三角の顔覆いをつけた邪教の僧官が喜びの表情と共に固い門を押し開ける。
「……おお、まことに結構。上等の処女であると見受けられる」
僧官は上機嫌に拝礼して一行を迎え、すれちがいざまにさも偶然という仕草を装ってレースに触れた。上等のレースが滑り落ち、その下から豪奢《ごうしゃ》な金髪と白い肌が現れた。麻薬でも盛られているのだろうか? うつむいたままに紅い唇から僅かな呻きをもらす。柔らかな肌を持つ少女であった。
「なんと素晴らしい、師もお喜びになられるでしょう。正面の道へとお進みください」
少女を連れた四人は僧官に拝礼し、しずしずと先に進んだ。
人のいない回廊へと進むと、一行のなかからくすくす笑いが洩れる。
「上等の処女と言っていましたね。これは名誉なことで」
マスクが、がばり、という音を立てて外された。下から現れたのは押さえきれぬ笑みをたたえた錬金術師ユークリーブである。続いてナベシマ、バルルシャナ、ブリュンフラウがマスクを外した。ヴァルキリイに至ってはさも嫌そうにマスクを投げ捨てる。
「そう名誉にも感じないよ」
憮然として答えたのはその少女……扮装したグレナヴァンである。ハンサムな少年は、唇に紅を引いただけでそのまま美少女としても通用することが証明された。胸元のふくらみがごそごそと動き、這い出してきた。
「あたし、わらわないように、ひっしだったのよ」
ラックシードは息をつくとおかしげに笑った。
変装しての侵入とはあまりにも古典的な手段であったが、とりあえずは切り抜けることができた。邪教神殿の構造はかなり複雑で、隠された潜入路を推測することもできなかったのである。ゆえに一行は闇ルートよりの巡礼者を装って潜入を図ることにしたのだ。数日の綿密な観察によってこのような手段での侵入が比較的に簡単であること、また神殿にいる人員自体はさして多数ではないことが見てとれたのだ。信徒の数はおそらく百人程度といったところであろうか。ナベシマなどは最悪の場合、正面から斬り込んでもなんとか災厄の王の前に到達してみせると豪語した。
「しかし、この侵入路にはおそらく帰り道はない。我々の目的を達成し、根本からこの闇の存在を一掃するまでは帰路はないと御覚悟いただきたい」
出発前にグレナヴァンはそう言った。邪悪なるゾーフィタス、そして災厄の王を滅ぼすこと。それによってすべての収拾はつくはずであった。
(そして必要とあらは悪魔の娘、レベッカも……)
彼は自分にそう言い聞かせる。再び情に押し流されてためらうことは許されなかった。最後の戦い、すべての悲劇を終結させるための戦いの始まりである。
「生け贄の祭壇か……」
先頭をゆくナベシマがそうつぶやき、鼻をひくつかせた。
広いホールの先は油煙の沸き立つ谷間となっていた。深みから熱気が立ち上り、ゴボゴボという煮え音が聞こえている。向こう側までは十メートルほどにもなるだろうか。
「生け贄という上等なものではなく、突き落とすための処刑台といった様子じゃて」
バルルシャナが辛そうな口調で言った。おそらくは領民達が魔の生き物達に力を与えるべく、多量の虐殺に遭ったのであろう。権力による強制力において為される残忍な虐殺。それは邪教ならずとも幾多の例がある。バルルシャナは長い人生のなかでそのような悲惨な状況を忘れがたいほどに見てきていた。そんな事件が起こったときには、その現場にはやはりなにか苦痛と悲しみのようなものが刻み込まれるのだ。龍族《ドラゴン》の老人は聖職者ではなかったが、そのような霊気の存在を感じとることができた。
「おお、まだ儀式が準臓できておりませんで、」
その淵で作業をしていた三人ほどの僧官が寄ってきた。
「この先は師と王の間になっておりますゆえ、階下の回廊にてしばしお待ちになりますよう」
ナベシマが黙って行動に出た。いきなりそのうちの一人を突き飛ばしたのだ。
その僧官には自分の身に起こったことを理解する瞬間さえ与えられなかっただろう。俊敏な猫妖精によって突き飛ばされたその男は、悲鳴を上げる間もなく煮えさかる油の谷へと転落していった。
「な、なにを!」
残りの邪教徒も同様の目にあった。確かに問答無用で非情な行動ではあったが、それに異論をはさむものはいなかった。この者達は罪のない者をこのような目にあわせてきたゆえにである。
ブリュンフラウが長槍《ランス》で一凪ぎすると、男の半身が生き別れとなる。メーナッドランスの恐るべき威力であった。通常のランスは突くのみの攻撃方法であるが、巫子の聖槍の研ぎ上げられた片刃面は本来の意図ではないながらも剣のそれほどにすさまじい威力を発揮するのだ。刃には丁寧に麻布が巻き付けられていたのだが、一瞬の衝撃はたやすく布を破って刃身を現した。
もうひとりは素早く抜き放たれた村正の贄となった。居合いである。マントを払いのける一瞬をも惜しんだ素早い剣撃は、一刀のもとに僧官を血祭にあげた。頭巾ごと頭頂から切り降ろされた男は朱に染まって倒れ伏す。
ナベシマのマントが抜き放つ際の剣勢でざっくりと切り裂かれていた。
どちらも畏怖すべきほどの達人技であった。双者共に扮装のためのマントを脱ぎ捨て、遺骸にかぶせる。・
「いやしかし、準備が済んでいなかったことは事実のようで、谷間は渡れませんな。どうします?」
ユークリーブは鮮やかな剣技にも興味を引かれたふうもなく、しげしげと辺りを調べている。
「いや、大丈夫だ」
グレナヴァンが錬金術師を押さえ、マントの下からアラムの王杖を出して差し伸べた。なにやら力場のようなものが出現し、架け橋となる。少年は臆することなくそこへ足を伸ばした。
一瞬、見る者が息を呑む。ブリュンフラウなどはあやういところで叫び声を押さえ込んだ。しかし大丈夫と判ると一行は急いでグレナヴァンの後を追った。途中で消えられでもしたら冗談では済まない。
「ラックはねえ、とんでいけるからいいでしょ」
ブリュンフラウの頭上をラックシードがささやかな優越に胸を反らしながら飛んで行った。フェアリイの女王に癒してもらった羽根はすでに完全な状態となっていたのだ。ヴァルキリイは苦笑する。
しかし、次の瞬間に一行の前に人影が実体化した。
紅いロウブに身を包み、たくえわえた髭と青く隈の浮かんだ眼差し。
二つに分かたれた魔術師の邪悪なる半身……ゾーフィタス。
「……なるほど、さすがに似ている」
第一の言葉を発したのはユークリーブである。彼もその体に震えが走るのを止めることはできなかった。錬金術師は一目で相手が漲《みなぎ》らせている圧倒的な魔力を感じたのである。他の者達も宿敵のその唐突な登場に身を強ばらせた。しかしその軽口がいささかなりとも一行の強ばった体をほぐす効果を発揮する。
「なんと、」
魔術師ゾーフィタスは奇妙に顔を歪め、そして焦るような声を出した。手に持っていた幾つかの祭器をガラガラと投げ出す。
「お前達がここにいるとは。お前達がここにくるとは。なんのためか。ああ、侵入者、侵入者だ」
グレナヴァンは善なるゾーフィタスの言葉を思い出した。邪悪なゾーフィタスは不完全な状態にある。そしてその叡智と知略は常に不完全な半分の状態であった。善なるゾーフィタスはここで一行が邪悪なゾーフィタスと対面することを知っていた。しかし邪悪なるゾーフィタスはそれゆえにそれを知ることはできなかったのである。
狂気と混迷。あるいはそこにつけいる隙はあるまいか。
ゾーフィタスの呼びかけに僧官や魔の騎士が集まってくる。しかしその間の池の谷間が援軍を阻む。
「邪悪なるゾーフィタス、その罪ゆえに滅ぶべし。アラムの王杖にかけて宣言する」
グレナヴァンは決然とゾーフィタスを指さし、マントを払うと長剣を抜き放った。いまだにその容姿は美少女の面影を残したまま。奇妙な光景ではあったが失笑する余裕のある者はいなかった。
他の者も同様である。ナベシマが村正を青眼に構え、ブリュンフラウがヴァルキリイの戦闘姿勢を取る。ラックシードでさえ口をひきしめて短剣を握りしめた。バルルシャナは呪唱を開始し、ユークリーブも複雑な呪文行程を開始する。いかに強力な魔術師といっても所詮は単身。一対一と考えるならば怯懦を禁じ得ない。しかし総勢六人の仲間と共にあることを常に忘れてはならない。
「おお、なんと無謀な者達なのだ」
ゾーフィタスは一行の思考を読みとったようである。円を描くように手を伸ばすと背後の空間に歪みが生じた。
メリッ、メリッ。
奇怪な音が流れる。空間が引き裂かれている音であった。
「いかん、召喚呪文じゃ、」
バルルシャナが叫んだ。ゾーフィタスの召喚呪文には定評がある。驚愕が彼自身の呪文動作の妨げにもなった。いかようにも対抗する手段はない。空間の裂け目が異界に通じ、そこから赤紫の腕がせりだしてきた。
ユークリーブがあきれたように短く口笛を吹いた。
「……グレーターデーモン」
太った腹。虚ろな瞳、ねじくれ巻かれた両角。
一体ではない。総勢八体の巨大な悪魔が押し合うように裂け目から現れた。
「面白い。悪魔ども相手に腕試しといこう」
猫侍がほくそえんで北極座位に切っ先を構えた。村正が妖しく光る。
「古の村正の使い手はこのグレーターデーモンどもを封じ込めて多量に養殖し、夜な夜なその血潮を剣に吸わせたという。そして自らもその剣術の奥義を究める修行としたとのこと。拙者もその故事に倣うことにいたそう」
猫侍の身体が高々と宙に舞った。これまでは狭い回廊ゆえに発揮することのできなかった恐ろしいまでの跳躍力であった。彼の真価が存分に発揮された戦いぶりである。大きく振りかぶって赤紫の悪魔に振り降ろす。巨体はいささか鈍重であった。いぶかしげに上を見上げたその瞬間に、触れた村正の切っ先が顔面を割り進んだ。
剣はまるで焼きプディングを切り裂くかのように魔物の肉体を切った。
ウオオオオオッ。
青緑の体液がまき散らされ、悪魔が吼える。その強度を誇る異界の肉体も妖刀の威力に抗することができない。
「さすがは妖刀ムラマサ」
ブリュンフラウは襲い来るデーモンどもから呪唱者を守りながら感嘆の言葉をもらした。
「しかしいかに切ったとて、元凶である召喚者ゾーフィタスを断たねば意味がありませんね」
ユークリーブがナベシマの捨て身とも見える果敢な攻撃に首をすくめた。
その言葉に答えるようにバルルシャナが呪唱を完成させた。戦いに熱中していたはずのナベシマですら思わず振り向いたほどの強力な魔力がその指先からほとばしる。
火炎系の最高呪文、熱核破壊《ニュークリア・ブラスト》であった。
目をくらませる閃光がゾーフィタスを襲い、次の瞬間に異次元の絶対猛熱が弾けた。
次の瞬間に爆音ならぬ振動の暴風が起こり、神殿の漆喰画を軒並み震え刺した。
「やったか?」
グレナヴァンが目に涙を滲ませながら爆心を見た。不注意にも閃光の一瞬に目をひきつけられたのだ。彼にはゾーフィタスの傍らにいたグレーターデーモンが熱されたトウモロコシのように内側からはじけとぶ瞬間が見えていた。ましてや、か弱い魔術師が無事であろうはずもない。
後方で戦いの様子を見ていた信徒達にどよめきが起こった。生き残りのデーモン達も行動を戸惑う。
(年寄りめ、とんでもない隠し玉を持っていたものよ)
ユークリーブは背筋に冷や汗が伝わるのを感じていた。核撃の爆発が彼のフードを飛ばし、骨ばった顔立ちがあらわになっている。しかしさすがに最強呪文の放出は老魔術師の精魂を使い果たすものだったのだろう。バルルシャナは肩で息をしていた。
ブリュンフラウの尖《とが》った耳がピクリと動き、その表情に緊張が走った。
「IXIJITH―COLLOT―TAGTH……」
猛熱の余韻、揺れる陽炎の中に、魔術師は立っていたのだ。
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20 犠牲
死を越えて闇に君臨する偉大なる魔術師にして邪教の高僧、ゾーフィタス。
その唇が酷薄に歪められ、死道へ誘う呪文を朗々と唱えてゆく。
「沈黙を!」
瞬時にヴァルキリイが反応して封呪の呪文を投げかけた。しかしゾーフィタスの言葉は止む様子がない。
「魔法障壁か!」
バルルシャナが無念の言葉を吐いた。当然ながら考えられることではあった。ことさらに呪文によって魔法障壁を形造らなくても、その身につけた魔法工芸品、あるいはこの神殿の力場そのものが、この邪悪なる魔法の大家を魔法攻撃から護っているのだ。そして肉体的攻撃からは屈強なデーモンのボディガードが護る。
身を強ばらせたその瞬間、|七色の光弾《プリズミック・ミサイル》が降り注いだ。それはまるで至高の魔術師に楯突いたことを罰するかのようにバルルシャナのみに襲いかかった。
「ウムッ、」
老魔術師はガクリと膝をついた。喉をあえがせる。呪文は迅速に効果を顕した。四肢が強ばって動かない。
「バルルシャナ!」
グレナヴァンが彼をかばおうと駆け寄る暇もなく、次は両翼のグレーターデーモンが口を大きく開き、火炎の嵐を吹きつける。グレナヴァンは長剣《ロングソード》を襲い来る火炎に対して半ば本能的にかざした。
ヴフォオオオ……。
猛炎が一行をなめる。マントが燃えくすぶった。
しかしその火圧はいささかなりとも弱められたものであった。グレナヴァンの新たに手にしたこの長剣には強力な対火属性が備わっているようだ。彼の背にひしとしがみついていたラックシードはおかげで再び羽根を失う危険から回避することができた。
「我に手向かうことの無謀さを知ったであろうか」
ゾーフィタスが笑みをたたえてそう語る。善なるゾーフィタスに老齢の賢明さがあったとしたなら、この邪悪な半身にあるのは少年じみた得意げで挑戦的な姿勢である。その行動には奇矯さと共にある種のユーモアが存在しているのが奇妙なことであった。
ユークリーブがギリッと歯を鳴らした。呪文が封じられたのは大きな痛手である。さらにはバルルシャナは動きまでも封じられてしまった。グレーターデーモン達との戦いはまずまずの線を行っているが、そのさなかに魔術師よりの強刀な呪文が次々と降り注ぐとあればじりじりと追いつめられてゆくであろうことは火を見るよりも明かであった。
「くっ、」
デーモンの鈎爪にグレナヴァンがはじき飛ばされた。左手に持っていた楯が宙を舞う。小さな丸楯は油の煮えたつ谷間へと転がり落ちていった。
あるいは絶対絶命の状況か? ナベシマとブリュンフラウは共に肩を並べて奮戦を続けていたが、悪魔の肉壁に護られたその向こうでゾーフィタスが再び呪唱を開始した。
一行は顔を強ばらせた。
(あれは……熱核撃、)
バルルシャナにはその呪文が何であるかを即時に判別することができた。忘れようもない特殊なその響きは、最強呪文に他ならない。
(もはやここまでか?)
老魔術師にはもう震えることすらもできなかった。その四肢は石のように強張り、逃れることも、呪文を唱えることもできなかった。せめて魔法障壁、あるいは防護呪文を唱えておきたいものであるが……。口をパクパクと動かすがこわばった喉からは複雑な呪文発声を行うことはできなかった。瞳だけをギョロギョロと動かす。
じきに、原初の炎が一行を焼き付くし、煮え盛る油の谷よりもなお確実に滅ぼし尽くすことだろう。そしてすべての希望は塵と化し、僅かな抵抗の記録は誰も語ることがないのだ。
(……儂《わし》はもうずいぶん長く生きたからの、)
その観念が魔術師の心を満たす。しかし、その思いはまた心の奥底にあった激しい想いをも蘇らせる引き金となった。……年若い主君グレナヴァンの存在である。
(うぬっ、グレナヴァンどのには指一本触れさせんぞ!)
老人の心の中に長らく高ぶることのなかった激情、猛り狂う怒りの衝撃がこみあげてきた。少年は老魔術師にとって、その存在意義のすべてともなった。彼は忠誠を誓う主君であり、愛弟子であり、さらには愛しい孫のような存在ですらあった。妻子を持つことのなかった老龍族にとっては王より授けられた幼子のみがその生きる目的であったのである。
(グレナヴァンどの、この老体の一命をもってお守りいたしまずぞ!)
グアアッ。
熱い塊が喉にこみ上げる。
老魔術師の身体が波打った。大きく口を開くと、老い衰えたながらも確かに龍の面影を残す牙が見えた。
ブレスである。
単にただのドラコンが吐き出す酸唾程度ではない。まるでその老体が巨龍に変化したかという錯覚を起こさせるような強烈なドラゴンブレスがその口から放射されたのである。
「なんだとオッ、」
ゾーフィタスの顔が驚愕に歪んだ。
ちょうどその指先から放出された熱核撃の呪文が強烈なブレスの圧力に吹き戻されたのである。
彼の身体を護る魔法障壁《スクリーン》によってかろうじて光熱ははじき返されたが、付き従うグレーターデーモン達が歪んだ熱気のなかに呑み込まれ、悲鳴をあげるいとまもなく滅びていった。
「味なことをっ、おおっ?」
その瞬間ゾーフィタスの赤のロウブが、その色よりなお明るい紅蓮《ぐれん》の炎を発した。
激しい酸とそれが大気と反応して起こるプラズマ状のきらめきがゾーフィタスの身体を焼き焦がしていた。
「ウオオオオッツ!」
獣じみた絶叫が起こる。ゾーフィタスの魔法障壁は激しい魔法の炎を遮断することはできたが、バルルシャナのブレスから自分の身を護ることはできなかったのだ。それは本来はこの界の王種族として君臨していた龍族の野生の怒り。怒涛となった威力の前には魔法障壁の結界などは破れ傘ほどの防御力も発揮するものではなかった。
一行は畏怖すらも感じてその光景を見守っていた。ブレスは止まっていたが、邪悪な魔術師は黒ずんで、ぶすぶすとくすぶる煙を上げる肉体と化していた。かつてこの血を災厄に巻き込んだおそるべき魔術師はついに滅び去ったのだ。
「あ、ああ……」
しばし呆然と滅びた魔術師を見つめていたグレナヴァンであったが、後ろから聞こえたその声、ラックシードの洩らす悲しみの嗚咽に振り向いた。
「御老体らしい最後と誉め讃えるべきであろう、貴い犠牲であった」
ナベシマがそっとつぶやき、村正を鞘に収めて手を合わせた。チン、という音が静寂に響いた。
「バルルシャナ?」
グレナヴァンはそこに見えたものをなかなか信じることはできなかった。
それはまるで気高い彫像であった。膝をつき、まるで懺悔するかのような悲しげな眼差し。しかし開いた口はその吐きだしたブレスの凄さまじさに熔け崩れてしまっている。
おそらくはゾーフィタスを滅ぼしたブレスはバルルシャナのすべてのスタミナをたたきつけたものではなく、その命すらも力に換えたものであったのだ。半龍人の老魔術師は絶命していた。
「バルルシャナ?」
おずおずと問いかける。老魔術師にとって少年が愛孫も同然であったように、彼にとっても長い間、この老魔術師のみが頼るすべてであったのだ。彼にとってバルルシャナはある点では親を越える存在であった。
「だめだよ、グレナヴァン……おじいちゃんはしんじゃったのよ……」
歩み寄ろうとする少年の前にフェアリイがスイと寄り、顔の前で滞空しながら懸命に言った。その顔からは、小さな身体のどこにこれほどの水分があったのだろうと思わせる程の大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「そこをどいてくれ……」
「だめっ、」
手を伸ばすグレナヴァンをラックシードが懸命に押さえる。
「よく見せてやるんだ、ラックシード」
ユークリーブが鋭い声をかける。
「だって……」
「死から目をそらしているな。死人の顔をよく瞳に刻み込んでおけ。お前のために生き、お前のために死んだ奴の顔だ。……そして、決して癒されることのない悲痛と憎悪と怨恨と共に生きてゆけ」
「なんてことを、」
ブリュンフラウの顔が怒りに染まった。巫子の聖槍を握りしめ、錬金術師に詰め寄る。しかしユークリーブはこれまで浮かべたことのないような冷たい表情を彼女に向けた。
「……そうやって生きて行くのが人間というものだ。これまで人を心底愛することもなく、常に傍観者であり続けてきた上品なヴァルキリイさんになど判らぬものだろうよ」
ユークリーブの表情には怒りと共に深い悲しみがあった。ヴァルキリイをして黙らせてしまうほどの何かが。
老魔術師の遺骸を眺めるグレナヴァンには、涙は浮かんではこなかった。
ただ呆然として静かに遺体と時を共有する。
しかし、その背後で、ずりっ、ずりっという引きずるような音がした。
不気味なことにも黒い遺骸となったゾーフィタスの身体が再び立ち上がろうとしていたのだ。
「……そんな……信じられない、わしは死んだんだ……」
黒焦げのむくろはまだくすぶる煙を上げていた。声を発することができようはずもない。それは霊気そのものの語る怨恨の独白である。
「どうして……わしを殺したりする、なんでだ、なんのため……」
「コズミック・フォージを用いてあなたが為した悪行の数々を精算するためよ」
ブリュンフラウは息を震わせ、憎悪と嫌悪感にわななきながら魔術師の遺骸に答えた。
「は、コズミック・フォージだと?……あの腐れペンのためにわしを殺したのか?」
邪悪な魔術師の遺骸はさも信じられぬ、というように身震いした。その身体がボロボロと崩れる。
グレナヴァンの瞳に激しい怒りが点った。激情の叫びと共に剣を引き抜き、死に損ないのその身体に激しく剣を振り降ろした。さしたる手ごたえもなしに、老いさらばえた邪悪な魔術師の身体は二つに切り離された。しかし、ゾーフィタスの残留思念はなおも語り続ける。
「……それが理由じゃと、ならばわしは教えてやらん、教えてやらんぞ、コズミックフォージがなんたるかを!」
「黙れ、黙れッ!」
激情のままにグレナヴァンが幾度となく剣を振り降ろす。魔術師の首を切り砕かれながらもその独白をやめようとはしなかった。
「……お前達はコズミックフォージを手にいれることなどできん、わしの助けがない者には絶対に手にいれることができんのだ。……それはお前さんがたが自分の目に見える世界、その限界の向こうを見通すことがてきんからだ。ゆえにお前達は三歩先にあろうとも、決してそれに追いつくことはできん」
魔術師のむくろはすでに完全に生命活動を終えていた。しかしそのうつろな瞳はじっと何かを見据えているようであった。まるで空間の果て、時間の果て、認識の浸透と人間の知覚そのものの進化に限界を定めている境界の果てを見通すかのように。
ユークリーブがグレナヴァンを押しやって進み出る。魔術師に憎悪と憐憫と幾らかの嫉妬と抱きながら、呪文を発動させて完膚無きまでにその遺骸を破壊しつくした。それと共に長きに渡って狂気と共にあった邪悪な魂も油煙のなかに散ったようだ。
(俺は、それを越えてみせる)
錬金術師は暗い表情で散り広がる火の粉を見据えた。
魔術師ゾーフィタス。罪を犯した存在のうち、一つは善悪両体共に完璧に滅び去った。そして残りは災厄の王、その人の番である。
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21 邪王
老魔術師バルルシャナの犠牲と共に、一行は神殿の中を駆け上った。
複雑な転移通路と部屋ごとに控えた魔族や邪教の僧侶……。しかしグレナヴァンはその過程でどのような戦いがあったのかを思い出すことはできなかった。目も眩むような悲しみに荒れる心と共に、少年はひたすら剣を振るい続けていたのだ。
それはまるで狂戦士のような無謀なまでの戦いぶりであったやもしれない。しかし少年君主の剣は使い手の混沌とした心にあってもその鋭い切れ味を失わず、かえって激情を受け止めるように剣勢を増して行った。そしてナベシマの村正、ブリュンフラウの巫子の聖槍も激しい怒りと復讐の戦いにあって、存分にその真価を発揮してのである。
「おそらくはこの先が王の居室」
ユークリーブが口元に笑みを浮かべて言った。紅の絨毯《じゅうたん》の敷かれた渡り廊下の先に、ひときわ壮麗な装飾のなされた部屋があった。
「ようやく辿り着いたのだな」
ナベシマが応じた。その足の下に倒したばかりの異界の層の死骸を踏みつぶす。羊の形の頭がはじけ、むせるような血液の匂いが辺りに広がった。
(ウウッ、)
官能にも似た戦慄が脊髄を走り、ナベシマは身を震わせた。彼は己の中に高ぶる血潮を感じないではおれなかった。血が伝える狂おしいまでの闘争と狩猟の本能である。しなやかな毛並みの奥に隠された虎の血が騒ぐのだ。
長きにわたる友であったバルルシャナを失った怒りと悲しみも決して少なくはない。しかしより強い感情は、再び強敵とまみえることの期待感であった。さきの戦いにおいてはナベシマの振り降ろした村正は異界の力を得た災厄の王には通用しなかった。一度はそのことに絶望を感じた猫侍であったが、現在に至って彼自身の能力が実に充実し、村正の威力そのものも増しているように感じられるのだ。
村正は異界の魔物どもを切り裂くたびに凄絶な光を宿し、さらに妖気を増してゆく。そして村正のまとう妖しげな霧風がナベシマの剣技そのものを高めてゆくのだ。
(まさに妖刀……この太刀を手にいれただけでも、この探索行は無駄でないと言えよう)
彼にとってはすでにコズミックフォージの伝説などは一文の価値も無いものであった。彼はただ、最も強力な敵である災厄の王と、悪魔の娘レベッカの邪血を妖刀に吸わせることのみを切望していたのである。
「戦意・気合いは充実しているわ」
ブリュンフラウはナベシマの思いにも気づかず、殺気をあふれさせたその姿を頼もしげに見やった。グレナヴァンもそれにうなづく。
「でも、みんな……」
ラックシードは不安そうな顔で何かを言いかけたが、首を振って言葉を止めた。
「……がんばってね」
半ば自分に言い聞かせるような口調である。しかしフェアリイの表情は悲しげに曇ったままであった。グレナヴァンの背に身を寄せ、その柔らかな金髪の匂いをくんくんと嗅ぐ。
「なんだい、ラックシード?」
グレナヴァンが宥め励ますように、その小さな頭をそっと撫でる。
「ううん、なんでもない……」
フェアリイは目を閉じ、その指先にいとおしげに頬ずりをした。
ブリュンフラウがゆっくりと扉を押し開けた。
暗い部屋である。
明かり一つ用意されてはいなかった。
一行が足を踏み入れると、部庭は真の闇となった。
「ふう……」
静かな部屋に吐息が聞こえた。暗闇の中で、彼らの肌が僅かに蛍光を宿しているのが判る。
「ついにここまで辿り着いたか……」
悲しげなつぶやきを漏らしたのは、玉座に腰を降ろした災厄の王であった。白い肌と紅い目とが闇に浮かぶ。その声には諦めのような調子があった。
闇に目が慣れるにしたがい、その僅かな光によって様子が判別できてくる。
玉座の傍らには、やはり悪魔の娘レベッカがしどけなくかしづいていた。さきに出会った時の少女らしい様子はなく、僅かに緑がかった裸身を闇にさらしている。以前は服に隠れていたために気づかなかったが、その背筋にはまさに悪魔のそれに等しい黒い皮翼が鋭く生えていた。
(レベッカ……)
彼女とグレナヴァンの視線が一瞬だけ交錯する。少年はためらいを払い、王妃の亡霊が彼に委ねた聖紋のペンダントをぎゅっと握りしめた。この哀れな少女の出自に彼女自身の罪がないのは理解している。しかし決して相入れることのない道を行く者とは……戦って存在の強さを競い合う他はないのだ。
「さて、君達とは再会したいと思っていたのだよ……一別以来ね」
災厄の王はゆっくりとその長身を玉座から立ち伸ばした。骨ばった指先を額に当てている……グレナヴァンはそこに聖紋が焼き印のように浮きでているのに気がついた。聖紋のペンダントを装備している彼の血を吸ったときの跡に他ならない。
「それは光栄至極である。拙者もそなたに受けた借りを返そうと思っていたのだ」
ナベシマが王を睨みつけて威嚇するように歯を剥いた。鋭い虎の牙がのぞく。
「それは結構……さて、そろそろおざなりの御挨拶は切り上げて話の核心に入ろうではないか。君達は私を滅ぼそうと思っている。しかるに私は死にたくはない……ということはだ、」
緊迫した場を感じとったか、レベッカがゆらりと立ち上がった。その表情には静かな哀しみの他には何もない。まるで災厄の王を守り包むかのような仕草で傍らに寄った。呼応するようにブリュンフラウが、じり、とグレナヴァンを護るように一歩進み出る。
「我々のどちらかが死なねばならぬということだ」
災厄の王は決然とそう言った。戦いを開始する合図であった。
その次の瞬間、紅い瞳が妖しげに輝いた。あのとき、一同を呪縛した奇怪な眼光である。
(あっ……)
ブリュンフラウの身体の内側を何かがぞわり、と走った。妖しげな感覚に四肢がよろめく。
「いいや、効かぬぞッ!」
猫侍が突出した。フェルプールの鋭い瞬発力で災厄の王の間合いに飛び込み、そして腰の村正に手を伸ばす。
チッ。
刀身と鞘が当たる小さな音と火花。そして次の瞬間には村正は王の身体をざっくりと斬り渡り、高々と天向けて差し上げられていた。
「……ウムムウウ」
多量の液体が飛び散った。その身体を支えるために処女の肉体から奪っていた血液が、どっとこぼれたのだ。
「邪王よ、さきに剣圧をしのいだからといって愚かしくも油断があろう。魔の血をたっぷりと吸った妖刀村正は異界の組織も切り開くことができるのだ」
言い捨てると再び跳躍して太刀を引く。一閃で返り血を払うと、妖刀は再び鮮やかな光を闇に散らした。
災厄の王が大きくよろめき、レベッカがそれを支える。
「ふう……」
ヴァルキリイの喉から吐息がもれた……危ういところであった。ナベシマの剣撃によって王の呪縛力からかろうじて逃れることができたのだ。確かに王の力自体も弱まっている。おそらくはグレナヴァンを襲った時に負ったダメージが見た目以上に深刻なものであったのだろう。
(しかし、わたしは……)
彼女は杖のようにランスで身体を支えると深く息をついた。忘れかけていた恐怖と疑惑が蘇ってくる。失墜したヴァルキリイとの戦いの記憶。たしかに王の眼光に捕らえられた一瞬、淫媚なわななきにこの身が蝕まれていたのだ。王に首筋を吸われたときに血管へと流し込まれた毒気が全身に満ち、ざわめく……そんな感覚である。
(あのブリゲルト姉のようになる……!)
その恐怖に全身がわなないた。
「何故に二の太刀で王の首をはね落とさなかったのか!」
満悦げに妖刀をかざすナベシマにユークリーブが怒声をあげた。彼はとっさにゆるやかなロウブの袖を眼前にかざすことで王の凝視の魔力を逃れることができたらしい。紫のロウブは少なからず魔力を防ぐ力があるようだ。その中からラックシードがぴょこりと顔を出して心配そうにあたりを見る。ちなみにグレナヴァンはあのペンダントの持つ守護力が働いたようだ。
「これは仇敵との真の戦いである。不意を討つことになんの価値があろうか」
ナベシマが誇らしげに語る答はそれであった。侍流の奇妙な価値観であった。ユークリーブは唾棄したが確かに猫侍の強さ、眼光をもはねのける精神力の高さは認めざるを得なかった。
「確かに王の力は以前より弱っている。倒せぬではないぞ」
グレナヴァンが取りなすように声をかける。彼も長剣《ロングソード》を抜き放った。ブリュンフラウも身の震えを払い、巫子の聖槍を構えた。
「小僧どもが!」
王の表情が怒りに歪んだ。怒りが端正な威厳を残していたその表情を悪鬼《オーガ》のそれに変えてゆく。口を大きく開くと牙が長く伸びた。鋭く突き出す指先はまるで東洋武術の鉄爪のようにとがっていた。
キンッ!
畏るべき硬度である。突きかかったブリュンフラウの電撃のような攻撃をその手が受け流し、もう一方の爪がグレナヴァンの振り降ろした剣を受け止めた。擦れ合う鋼鉄と爪が耳障りなきしみ音を上げる。
「ユーク、あたしは、あたしは!」
素早い呪文動作に入ったユークリーブのロウブをラックシードが引っ張った。錬金術師は舌打ちして呪文誘導を中断し、苛立たしげにロウブの内側からガラスの小片をさぐり出してフェアリイに渡した。
「なに、これ?」
フェアリイは少しの失望と共にそのキラキラ光る鋭い小片をかざした。
「小さくとも真実の岩の破片だ。不死者どもを滅ぼすのに充分な霊力を有している……さあ、どいていろ」
ユークリーブは素早い呪文動作を再開した。剣撃の離れた一瞬に、あの火炎爆弾の呪文を打ち込む。
激しい爆風がまきおこり、ブリュンフラウの銀髪が激しく吹き散らされた。熱風に焼かれてチリチリと音を立てる毛皮に、ナベシマが嫌な記憶を思い返し、不快げに錬金術師に振り向いた。
火系呪文領域の魔力はどうせ他に使い道もない。最高強度でかけたのだが、さして効果を期待したものではなかった。ユークリーブは肩をすくめ、爆心から立ち上がる災厄の王とレベッカを見守った。
「ウウ……」
レベッカがわずかに苦痛の声を上げていた。爆風に翼の一部が破り抜かれていたのだ。
「こざかしいわ、」
愛娘の苦しみに、災厄の王が逆鱗に震えた。さすがに不死の身体と違って衣服は爆風に耐えるものではなく、ある種のダンディさがあった黒衣は失われていた。しかし身体が一回り大きくなったような印象すらある。肌はやはり病的な青白さのままだったが、かつて大地を駆け巡った覇王の堂々とした体躯は失われてはいなかった。太い筋肉が皮膚の下で力強くうごめき、半ば怪物と変わった両の腕へと血管が脈動していた。
怒りが冷静な王を暴虐の怪物に変えた。闇の巨王が身体を力強く反らせる。
「うっ、」
見おろされたブリュンフラウがたじろいだ。圧力に翻弄されるようによろめき倒れる。
「お前達は我が闇の威光の前に屈服せねはならぬ。我らは共に運命の手を越えて、共に君臨し続けるのだ」
巨王の宣言の前にナベシマが立ちはだかった。
「その威光など我が妖刀の輝きの前にひれ伏すことになろう。そなたの時代は終わったのでござる」
しかし、災厄の王は猫侍の挑戦的な言葉を一笑に付した。
「そんなに強敵が欲しければお前のためによりふさわしい相手を与えてやろう。お前の中の闇と光が戦い、そのせめぎあいがお前の魂に眠る血の飢えと嗜虐を満足させるのだ」
巨王は鋭くとがった爪で、指さす。
ランスにすがって立ち上がろうとするヴァルキリイの目は狂気で濁っていた……。
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22 苦戦
ブリュンフラウの意識は自濁した靄《もや》のなかにどっぷりと漬かっていた。
その脳裏にはただ濃密なマーブル状の混乱が彩なしている。
(ううッ……)
僅かに残る意識が、その靄からの出口を探す。
(グレナヴァン……グレナヴァ……ア……)
ねっとりとした、からみつくものが、彼女の視野を塞いだ。こみ上げる熱さに汗が滲み、息が苦しくなる。
やがて覆いかぶさってきたハレーションが、ブリュンフラウを無意識の闇に突き落としていった。
そして敗北感すらも、心地よい闇の誘いのなかに溶けていった。
ヴァルキリイの埋没してゆく理性とは関係なく、その優れた戦士としての肉体は刺激された本能に操られて、侍と向き合っていた。味方であるはずのナベシマをヴァルキリイの本能的知覚が敵として捕らえているのだ。
「ぬうっ、」
ナベシマの毛皮が汗に濡れた。猫妖精《フェルプール》としては珍しいことである。
村正を青眼に構えながら、魂の抜けたヴァルキリイの挙動を見守る。その耳には味方からの呼びかけはまったく届いてはいなかった。虚ろな瞳には常日頃の彼女の魅力的な輝きは見られない。
(なんと、隙のないことだ)
猫侍は初めてこのヴァルキリイと敵対関係にあって相手の恐るべき実力に瞠目した。ナベシマの剣術がその素早さを生かした先手必殺のものであるのに対し、ヴァルキリイの戦闘姿勢は相手の動きを見守った攻守両方に完璧なものであった。洗練された姿勢はいかなる攻撃の第一攻にも対処できる上に、無駄のある動きに対しては瞬時に完全攻撃姿勢へと移行して必殺の槍先を敵に叩き込むことができる。うかつな攻めができるものではない。
ナベシマは共に戦っていて、この女性の強さに感心することはしきりであったが、敵に回した今は背筋に冷たいものが走るのを押さえられなかった。ブリュンフラウとナベシマ……どちらが強力な使い手であるのか、その答は彼自身にも判らなかったのである。
「だめっ、たたかっちゃだめっ」
ラックシードが悲痛に叫んだ。フェアリイの少女は鈍感なわけではない。二人の強力な武芸者の間に凝縮されつつある恐ろしい殺気を感じとっていたのである。
「……離れておれっ」
ナベシマが緊迫した声を短く発した。
「さあ、どうするかね、侍どの。そなたが愛する女を殺すことができるか? 妖刀村正はそのヴァルキリイの血を欲しくて震えておるぞ」
災厄の王が残忍に嘲笑した。ナベシマは視界が血に染まるような激怒に身を震えさせた。可能であれば災厄の王を斬りさばき、この恥辱を血をもってそそぎたい。しかし一歩でも動けば、いや一瞬でも気を他に逃せば、銀のヴァルキリイは確実にその槍先を彼の心臓に叩き込むことができるだろう。
「おのれっ、」
グレナヴァンが怒りと共に災厄の王へと切りかかった。王を護ろうと瞬風のようにレベッカが割り込み、振り上げた彼の剣を持つ手首を、ガッと掴んだ。
「……どけっ、レベッカ!」
グレナヴァンの叫びに緑肌の美少女は静かに首を振った。細やかな腕に意外と思われる力が宿っている。押さえつけるのみならず、鋭い指先がギリギリと彼の腕に食い込んでいた。破られた手甲から紅い血潮が流れ下る。少年の喉から押し殺した悲鳴が洩れた。
「ユーク、なんとかしてっ」
ラックシードが惨状に震えながらユークリーブのロウブを掴んだ。
「判っている」
錬金術師はうなづいたが、さすがに苦戦状態に顔色が青ざめていた。素早く結印し、ブリュンフラウに向かって睡眠《すいみん》の呪文を投げかける。ヴァルキリイが敵に回らなければ、勝利はまだあきらめるべきものではない。
しかし、ブリュンフラウにはその呪文はなんら効果を現さなかった。確かに呪文は彼女の身体を捕らえていた。だがすでに催眠状態にある肉体にはその呪文は効果を示さないのであろう。であれば魅了などの呪文も同様。ヴァルキリイを無力化させる試みは無駄に終わった。
(ちっ、やむをえん……いや、あるいは好都合であったやもしれんな)
ユークリーブは舌打ちすると素早く呪文を切り換えた。
「な、なにするのっ」
豹変して邪悪に歪んだユークリーブの表情にラックシードがおびえた。複雑な呪文過程と強力な魔力の集中、そして呪文が放たれた。
(死の大気……!)
かつてレベッカからその攻撃を体験したナベシマには、それ強力無比な致死呪文であることがすぐに判った。発生した死の大気がヴァルキリイを包み込む。
「アア、アアア……」
その唇が震え、絶望的な苦悶の悲鳴が絞り出された。胸を押さえ、身を折って悶え苦しむ。この呪文がもたらす苦痛はこの世のものではないのだ。ブリュンフラウの身体が耐えるか……?
「彼女の精神には意識がない。肉体が苛まれようとも精神は苦痛を感じないはずだ」
ユークリーブが静かに言った。ラックシードは呆然と苦しむヴァルキリイを見守っていた。グレナヴァンの方はレベッカとの格闘が続いており、目の端でこの惨劇を目撃したがどうすることもできなかった。
「……余計な真似をしないでいただこう」
猫侍が身を震わせながらユークリーブを睨みつけた。錬金術師は冷たい視線でそれに応じる。
「であれば、あなたに何ができたというのだ。愛する女が斬れるのか? あるいはヴァルキリイに大事な御主君を殺させるのか? ほう、そちらの方が侍どのには都合が良いのかもしれぬな。美しいヴァルキリイがグレナヴァンどのに忠誠のみならず、女としての愛も捧げているのは公然の事実。妖刀に魅入られ、主君を殺してその女を奪うのか?」
痛烈な弾劾であった。ナベシマが身を震わせる。
(……こいつは我が心を覗く!)
怒りが燃え上がった。彼の心の暗い部分では常にブリュンフラウへの想いがくすぶりつづけていた。それが時には若すぎる主君への嫉妬となって揺らいだことも事実である。
「ははは、とんだ痴話喧嘩よな。侍よ、望むならばこの女をお前のものとすることもできるぞ」
災厄の王が哄笑と共に彼の心の闇へと囁く。
ナベシマがブリュンフラウに抱いている感情は、決して美しいその容姿への欲望ではなかった。それは彼女の潔癖で真摯な姿勢、厳しさと慈愛、武力と知恵とが実に得難いバランスで拮抗しているその内面そのものであったのだ。確かにそれは愛情であった……だが決して情欲ではない。
しかし、いつからか彼のなかの闇がくすぶりはじめていた。焦燥が、嫉妬が、ナベシマの中で蠢いていたのだ。
死の大気に包まれて、ブリュンフラウの肉体が苦しげに身悶える。それはまた確かに妖しげな感覚を刺激するものでもあった。眉根が苦しげに寄せられ、伏せた睫は小刻みに動く。紅い唇はあえぎ声を漏らし、胸甲のない両胸は豊かにふくらんで揺れていた。長い足をよじる。
「……黙りおれ、外道が」
だがナベシマは迷いを払うように首を振り、そう叫ぶと村正を振り降ろした。鋭く風が鳴り、剣圧がヴァルキリイを包む死の空気を払った。ブリュンフラウがやっと得られた新鮮な空気に胸をあえがせる。
「……ブリュンフラウ殿はたしかに正気を失ったときは死によってその身を止めることを求めた。しかしそれは拙者への依頼であって、そなたではない」
ヴァルキリイはよろよろと立ち上がる。そして再びランスを構えた。
「馬鹿な……あるいはそなたが敗れるかも知れぬぞ」
災厄の王はあきれ声で言った。
「村正を持った侍が女子に敗れたとあらば、なんでこの身を生かしておれようか」
あるいはブリュンフラウに剣技で敗れるのであれば、自分は決してこの女性を愛することはできないだろうとナベシマは知っていた。古めかしい男性主義……しかしそれこそが侍の美学を支えているものであった。
「いざ、」
短いかけ声と共に、戦いが始まった。互いの攻撃動作はまったく同じ瞬間に繰り出された。
長い腕を存分に生かしてランスを繰り出す銀のヴァルキリイ。
俊敏に間合いを詰めて村正を振り降ろす猫侍。
「ああっ」
ラックシードがこの衝突に思わず目を閉ざした。しかし衝突のその瞬間はきらめくような閃光に彩られ、達人の戦いに見入っていた者の目を焼いた。ランスの鋭い切っ先と村正の細い刃身。髪の毛さえも切り分けられるその薄さが寸分の差もない一点で衝突したのだ。
すぐに武器を引き、次の二撃に控える。
ブリュンフラウは棒術のように武器を引いた勢いをそのままに、ランスの柄の方を繰りだした。淀みない動きの流れはまるで舞踊のようだ。しかしナベシマはその動きを読んでいた。軽やかに跳ね上がって一撃を交わし、ヴァルキリイの肩口へと剣を降ろした。
互いに無傷で終わる戦いではないのは覚悟していた。この強力無比なヴァルキリイの動きを止めるには四肢を切り放すくらいの覚悟は必要であろう。猫侍はなんの躊躇も無しに、ブリュンフラウの利き腕を切り落とそうとしたのだ。
しかし、その攻撃が文字どおり肩透かしとなる。ヴァルキリイは身を沈ませてその攻撃を逃れたのだ。僅かに村正の切っ先が肩当てをはじき飛ばし、長い銀髪の幾筋かを切り散らした。ブリュンフラウの身体が軽やかに回転する。思いきり良くランスから離した左手が着地の瞬間の猫侍の身体を突き飛ばした。
「うっ、」
ナベシマの瞳が驚愕に見開かれる。もんどりうって倒れ込んだ。
彼の戦い方が柔軟にして強力な瞬発力を生かした点停止と鋭角の戦い方であるとするならば、ヴァルキリイのそれはなめらかな弧を描く無理の無い重心移動の戦い方である。重い鎧を身につけた者ならではの戦いであった。しかし多くの鎧武道が腕力に頼る剣術であるのに比べ、ヴァルキリイのあの優雅な戦い方は身のこなしから始める方法論であった。さらにブリュンフラウは胴鎧を捨てたことによって、その円弧は猫侍のそれに匹敵する程に小回りのきくものとなっている。
「ゲフッ」
ナベシマが血を吐いた。おそるべきはその身のこなしが防御的なもののみではなく、一瞬にして恐ろしい攻撃の直線へと移行することだ。驚愕が彼の動きを遅くしたのか、防御姿勢に移る間もなくその胴を刺し貫いたのだ。充分に重さと早さの乗った攻撃であった。ランスは容易に着物の下の胴鎧を貫き、侍の身体を床に縫い止めた。
「わあっ、ナベシマっ!」
ラックシードが叫んだ。しかしナベシマは苦痛を耐えて槍先を押さえると村正を鋭く振るった。ヴァルキリイはかろうじてその切っ先を避けたが、この至近距離から村正がまとった剣圧を避けることはできなかった。
「……ごほっ」
ランスと剣という戦いにおいて、自分の武器が無効化される近すぎる間合いに攻め込みながら、攻撃が必殺のものとはならなかったというのは致命的であった。柔らかな肌が鮮血を吹いた。形の良い胸がゆがみ、はじけたのがあまりにも痛々しかった。鎖骨が砕け肋骨の数本がきしんだ。せき込んだ唇から唾液と混じった血が垂れる。
「ブリュンフラウ、」
ナベシマは村正を取り落とし、よろめいたブリュンフラウの身体を抱き止めた。
「うっ……」
ブリュンフラウの瞳のなかに光が戻った……ようだ。
その瞬間、爆発の煙が二人を包み込んだ。
「ああああっ」
床が砕ける。ブリュンフラウの悲鳴が尾を引いて墜落していった。ナベシマが崩れゆく石片に呑み込まれながら、必死で彼女に手を伸ばしていた。
「どうやら両者の戦いは互角であったようですな」
災厄の王が不機嫌な表情でそう言った。その手からほとばしった強力な魔力が床を砕いたのだ。
グレナヴァンは怒りもあらわにレベッカの身を振り払い、彼の無二の臣下を奪い去った邪悪な君主を睨んだ。
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23 天生
居丈高に立つ災厄の王、そしてその傍らに添い立つレベッカ。
悲劇に身を振るわせながら剣をかざすグレナヴァンと、静かにたたずむユークリーブ。
そしてラックシードは滞空しながら二人の落ちて行った床の穴をのぞき込んだが、いまだに晴れない煙に下を見通すことはできなかった。
「そして我らは宿命の手から逃れるのだ」
災厄の王が押さえきれぬ笑みに牙をむきながら宣言した。レベッカをそっと抱き寄せる。
「……宿命などは知ったことではない」
グレナヴァンが怒りに身を振るわせながら言った。
「だが、人の道を越え、自然の摂理に反し、すべてを支配しようとする傲慢は正されねばならない」
「いや、コズミックフォージを手にした者にはそれが許されるのだ」
王はそう言いきった。緊迫した空気に肌がざわめく。
ひとときの沈黙、その静けさの中にバサッという音が鳴った。ユークリーブがロウブのホックな仰ぎ、まとわりつく長衣を肩にかきさばいたのだ。その下からは細い身体を包む黒いボディスーツが見える。
「欲深き錬金術師よ……お前の面影はかつてのゾーフィタスのそれを思い出させる。知識の探求に尽くした野心家の魔術師、二つに引き裂かれて奇矯さに蝕まれる前は、あの男と我は実に良い友であった」
王は優しげにユークリーブに手を差し伸べた。
「そしてゾーフィタスが滅びた今となって、我はそなたのような助力者を求めている。共に永遠を支配するのだ」
「だめっ、ユークリーブ、」
ラックシードが悲鳴を上げた。この絶望的状況にあって、災厄の王の申し出は断れぬものであるのみならず実に好条件であると言えよう。フェアリイは錬金術師がこの申し出を呑まぬはずがないと思っていた。
「ふ、敗者にかしつく馬鹿はいない」
それがユークリーブの答であった。グレナヴァンが息を呑む。顔を上げた錬金術師の表情には追いつめられたという恐怖感は存在してはいなかった。そこには傲慢なまでの余裕とコズミックフォージの強大な力への最終関門に来たという満足感があったのである。それは哄笑となった。
「貴方を滅ぼせば万能のコズミックフォージと共に闇の力を統べるに充分な魔界の支持が手に入る。なにゆえに吸血鬼《ヴァンパイア》風情の助力に生命を費やさねはならぬか。覇王たるものが魔界の白痴どもの機嫌をとるのに骨身を削り、その身を醜い闇の生き物に変えるとは……なんと恥を知らぬことよ」
「ぬうっ、己の立場が判らぬと見えるなっ、」
王の表情に逆鱗が宿った。強力な両腕が伸び、錬金術師の華奢《きゃしゃ》な肩をがっきと掴んだ。鋭い爪が首筋に当てられ紅い筋を残す。
「己に迫った死の影を感じるのだな。我の爪ひとつでそなたの肌は破られ、命の血潮が散るぞ」
その脅迫にもユークリーブは動ぜずに薄ら笑いを浮かべていた。
そして激しく砕けるガラスの音、断末魔の叫び声。
グレナヴァンは何が起こったのかを理解することはできなかった。錬金術師の華奢な体の前で、災厄の王が身を折って苦しみ悶えているのだ。
「死の影を感じるべきなのは……闇の王よ、貴方ではないのか?」
こんどはその指先はゆっくりと動いた。ロウブの下のかくしからガラス瓶を取り出し、それを勢い良く王の背に叩きつける。ガラスが鮮やかな音と共に砕けて一瞬清涼な匂いが流れるが、すぐにそれが不死の肉の溶け崩れる異臭に変わる。
「猫侍もヴァルキリイも、ここまで我が体を守り抜いてくれたことで充分にその役を果たしたのだ。もとより貴方との戦いに助力など期待はしておらぬ。貴方のような真の不死者を滅ぼすことができるのは、強力な剣の達人でも攻撃的な魔術師でもない。圧倒的な神の加護を得た僧侶であるか、我のような錬金術師のみなのだ」
ラックシードは合点がいった。最初の災厄の王との遭遇の後、ユークリーブは静かにこの不死者を滅ぼす策を練っていたのだ。あの呪詛の森の聖祠からしばしの間を姿を消していたのも、彼なりの逆襲の手段を捜し求めていたからに相違無い。
僧侶はその加護力で不死者を滅ぼすことができるが、錬金術師はそれと違い、魔法工芸品や様々な物質組成の知識に通じている。様々な法則、様々な作用、様々な反応……それらの研究には多くの者が疑いを見せるが、それらがもたらす強力な力の有効性は、現在実際に災厄の王が焼き焦がされていることによって疑う余地のないものである。あるいは魔術の時代の後にくるのは錬金術の時代であろうか。
「ウォオ、ノ、レエ……」
王の喉が不気味に鳴った。溶け焦がされる蒸気をまといながら立ち上がる。鋭い爪の攻撃が錬金術師をないだ。
「わ、我を侮るべからず。このようなものなど……このようなものなど……」
怒りに目を剥いたその顔皮がずるり、と剥がれ落ちた。すえた匂いの液体がこぼれる。
不死者が滅びるそのとき、あるいは人が死を迎えるよりもなお激しい恐怖と絶望に苛まれるのかもしれない。災厄の王はこの世のものならぬ形相で錬金術師の体を引き裂いた。
「うっ、」
ユークリーブとてただの無力な魔法術師《スペルキャスター》ではないが、傲烈な肉弾戦を繰り広げるのにはおのずと限界がある。その身を素早くかわすが、幾筋かの深い傷を負った。
「滅べ、災厄の王!」
グレナヴァンがその背を襲う。一太刀、二太刀と長剣《ロングソード》が叩きつけられ、巨王の体が振動した。
「だめっ、」
「レベッカ、どけっ!」
援護するレベッカが火球を投げつける。しかしグレナヴァンは飛来する呪文力を剣でなぎ払った。すざまじい閃光が生じ、切りさばかれた魔力が部屋中を明るく照らし出す。それは醜く傷ついた災厄の王の肉体、引き裂かれたレベッカの翼を鮮やかに照らし出した。不死者達も無傷ではないのだ。
「グウオッツ」
その戦いの背後でさらに激しい苦痛の声が上がった。ユークリーブが再びあの素早い動作と共に木彫りのナイフを取り出し、王の体に突き立てたのだ。単なる木製品が劇的な効果を現すさまは実に奇異であった。しかし木の刃はまるで火箸でバターを切るかのように、不死の巨王の体を切り開いたのだ。
「これはかつて不遜なる船長が蹴り壊したという聖壇の破片より削り出したものだ。ふふ、確かにその加護力は伊達ではないようだ」
錬金術師は深い傷を負いながらも、残忍なまでの満悦の表情をたたえていた。
「おのれ、貴様ごときに我が永遠生を絶たれてたまるものか……」
災厄の王の肌が、魔力を失っていっているのか? それはまるで地獄の蛆虫がのたくるように原形質へと溶け戻りつつあったのだ。異界の肉体、それがまやかしの表皮を脱ぎ捨てて蠢き始める。王の危機に、レベッカが悲鳴を上げた。悪魔の翼を広げて高く跳ね上がる。
ビチッ、ビチッ……。
これは無理な飛行機動に、傷ついた翼が上げる悲鳴のきしみだ。しかしレベッカは己の身が砕けるのも辞せず、錬金術師への激しい攻撃を仕掛けた。空中から呪唱を開始する。
「<|死の大気《デッドリー・エア》>は我には通用せぬぞ!」
ユークリーブが吼《ほ》えた。ロウブを翻《ひるがえ》して素早く呪文起動し、大気浄化によってレベッカの呪文の威力を容易に消し去ってしまう。その次の瞬間から即座に反撃の呪文結印に入った。互いに大気系呪文が得意な者同士である。まさに合い挟んだ大気を渦巻かせるような呪文の応酬であった。
滞空していたラックシードは慌ててその戦場から待避した。彼女にはこの戦いがどのようなバランスによって動いているのかは判らなかった。唯一の現実は、グレナヴァンもユークリーブも現実に傷ついており、そして戦いが終わるまでにはさらに多くの傷と苦痛を負うことになるであろうということだった。
(いやだよ、もう!)
ラックシードは心の中でそう叫んでいた。小さなフェアリイの力では何も変わりはしないのだ。そしてここには互いに合い入れない者同士の憎悪と殺意が渦巻き、双方を死に赴かせる陰惨な戦いが続いている。
バルルシャナは命を落とした……そしてナベシマ、ブリュンフラウも!
その様子はまるで死者の力が生者を呼んでいるかのようだった。ゾーフィタスが、牧師とその愛人が、王妃が、そしてこの城の事件によって命を奪われていった者達の怨恨が戦いを呼んでいるかのようであった。その力が王とレベッカを滅ぼすために動きだし、彼女の二人の仲間の操って生命を削る戦いに挑ませる……。それは死者の生者への妬みであるのか?
「我は、運命の手より逃れてみせる……」
肌が溶け崩れた災厄の王は、まさに幽鬼のようであった。グレナヴァンがその勢いにたじろぐ。生命ではなく妄執が王の体を動かしているのだ……その動きに少年はかつて戦った牧師の愛人の姿を連想した。王は真の意味での永遠の命を決して得ることはできなかった。すでにその精神は淀んだ墓臭のように朽ちているのだ。
「……レベッカと共に永遠を生きるのだ」
グレナヴァンにはその王の妄執が理解できなかった。哀れな少女レベッカ。王と彼女との間には、必ずしも王妃が嫉妬と共に指摘したようなどろどろとした愛欲の姿は感じとれなかったのだ。互いの間にあるのは、優しげな相互保護といたわりあいではなかろうか。まるでグレナヴァンとブリュンフラウのそれのようなイノセントな友愛が二者の間に存在しているような、そんな印象を受けていたのだ。
そう、……そうでなければレベッカのあの穏やかな静けき表情、悪魔の出自ながらも奇妙に澄んだ瞳の意味を説明できるはずもなかった。
「……我がもとに、屈するのだ」
一瞬の同情と逡巡がグレナヴァンを死地に導いた。災厄の王の巨体が少年にのしかかり、勢い良く押し倒した。
「ううっ、」
苦痛の涙が洩れた。溶けかけた肌がグレナヴァンに触れ、なんとも言えない不快感を与えた。動きがとれない。
「ウオウウ……」
王が動物のような呻きをあげながら、少年の首筋に再びその牙をうずめた。
グレナヴァンの身体を襲ったのは決してさきの戦いに体験したような官能めいた危うげな脱力感ではなかった。それは命の灯火を再び燃やそうとする堕落したケダモノの暴挙のもたらす苦痛であった。精気が吸われる感覚に四肢が震えた。神経に埋め込まれた毒が全身を痺れされる。
「あ、ああう……」
弱々しい苦痛をあげ、少年は身をよじったが、すでに巨体をはねのけるような力は発揮できない。
(グレナヴァン!)
ラックシードはその瞬間、確かに少年の苦痛を共有した。そして、理解した。
自分がどのような道を歩んできたのか、何故にフェアリイの郷に留まることがなかったのかを。フェアリイの人生は人間のそれよりもなお短いのだ。その限られた時のなかで、自分の生きた証をいかにして輝かせることができるのか。
そして小さなフェアリイは怯懦を越え、その方策によって生き続けることを選んだ。
(グレナヴァン!)
時はスローモーションのように流れていった。
その静かな時の中、ラックシードの半透明の翼が空を斬り裂いて進んだ。
真実の岩。ユークリーブが渡した小さなガラスの小片のようなそれが、背後から災厄の王の心臓を刺し貫いた。
王にとっては小さなフェアリイの動きなどはまったくの盲点であった。
次の瞬間には許されざる背徳によって蓄えられた血液が、すべてその体内で沸騰する。
轟音。
そして巨王の死。
レベッカが悲鳴を上げる。
怒りと絶望、そして悲しみと共に遅すぎた呪文を放射する。
巻き起こった火炎にフェアリイの小さな体がのみこまれる。
(ああ……)
彼女にとっては、やっと再生した羽根が焼かれることは、その小さな命が吹き消されることよりもなお哀しいことであった。
一つの伝説、暴力と背徳、そして幾多の悲劇に彩られた狂王の伝説が終焉した。グレナヴァンは自分の上にのしかかっている巨体が霧のように蒸散してゆくのを愕然としながら見守っていた。レベッカがその身体に取りすがって涙をこぼしていた。悪魔の瞳に涙はない……不幸な出自のこの少女は確かに異形でありながらも人間の魂を持っているのである。
やがて王の遺体はわずかな残片のみを残して失われ、レベッカは少年の胸の上で泣いていた。グレナヴァンはその黒い髪におずおずと手を伸ばし、慰めるようにそっと撫でた。
「グレナヴァン卿、お立ちなさい……」
ユークリーブが激しい戦いの疲労もあらわに歩み寄る。
「すべて……終わったな」
そしてこの二人しか残らなかった。少年は身を起こして嘆息した。
「いいや、まだ終わってはいない」
ユークリーブは平坦な口調でそう語ると、彼の手の前へカラリとあの聖木のナイフを投げだした。
「それでこの悪魔の娘の命を断つのです。産まれるべきではなかった者……その過ちは正されるべきなのです。この界には彼女の居場所はない……」
グレナヴァンは苦痛の表情を浮かべて聖木のナイフを拾い上げた。一命を断つ力があるにしては、あまりにも軽すぎる武器であった。吐き捨てるように嘆息する。
「馬鹿な……僕にはできない」
「すべてが終わった今、彼女もそれを望んでいることでしょう」
錬金術師のその言葉に答えるように、レベッカは悲嘆にくれるその身を起こした。そして、その聖木のナイフを誘うように胸を差し出す。穏やかな鼓動に胸元が息づくのが判った。
「レベッカ……」
「あのヒトは私の恩人であり保護者であったわ。私の出自がどんなに呪わしいものであったにせよ、この奇怪な容姿と力への迫害から救ってくれたのはあのヒトだったの……」
レベッカは瞳を伏せたまま静かに語る。
「そのとき初めて、私にもあのヒトにも平穏な日々が訪れたの。互いにいるだけで良かった。そうして私たちは互いの孤独を癒すことができたわ。……でも王妃、愛の無い邪悪な女は私を嫉妬した。だから彼女がコズミックフォージによって<悪魔の娘>の死を願ったとき、まさに悪魔的な彼女の上にその力が下ったとしても不思議ではないわ」
いかにすれば真に価値ある人生を生きたと言えるのだろうか? その存在確立の上での最大の敵は孤独に他ならない。いかにその版土を広げたとしても王には心の安らぎは与えられなかったのだ。壬は孤児であり、不妊者であった。王妃との愛のない結婚は彼に何ももたらしはしなかったのだ。しかし、それが本来は謀略に満ちた力への探訪の手段であったにせよ、養女レベッカを得た時から災厄の王の中に何かが変わったのだ。
王はコズミックフォージの力によって、レベッカと共に永遠を生きることを望んだ。もう互いに孤独に耐えることはできなかったがゆえに。
「さあ、私はもう行かなくてはならないわ、そして他の場所で……」
レベッカは静かな微笑みを浮かべた。だがグレナヴァンにはレベッカの心臓を刺し貫くことはできなかった。彼女の出自の不幸が死によってしか解き放たれることのないものであったならば、それは悲しすぎるではないか。
ジジッ。
グレナヴァンの胸元で何かが轟いた。
「聖紋……」
驚いて触れるとそれはひどい熱さを宿していた。力が渦巻き、煽《あお》られるようにレベッカがのけぞった。
(復讐、復讐じゃあ……)
底響きするような唸り声、王妃の亡霊の声がした。
次の瞬間、まさに荒れ狂う王妃の霊体そのものが聖紋のペンダントから勢い良く滑りだした。
「うっ、」
レベッカが悲鳴をあげる。そして次の瞬間には少女の腹部がごっそりと失われていた。激しい霊力がその身体を貫いたのだ。
(悪魔の娘が滅びた……かくして我が復讐は成し遂げられたのじゃ……)
王妃の霊気は高らかに勝利の哄笑を上げ、激しく部屋中を巡った。
「去れ、邪霊めっ!」
聖紋の力は神の加護力ではなかった。それこそが王妃の強力な怨念の力であったのである。怒りと共にグレナヴァンが成仏呪法を唱えると、王妃の霊気は歓喜しながら四散していった。
「レベッカ、レベッカ!」
永遠の少女の身体は冷たくなってゆく。少年の胸にもたれかかった顔にはわずかな微笑みが浮かべられていたのがなおさらに哀れであった。
かくてすべては終わった。
グレナヴァンはこみあげる慟哭《どうこく》に歯を食いしばって耐えた。
床にブリュンフラウの荷物から落ちたらしい送魂の角笛が落ちていた。少年はそれを拾い上げ、吹き鳴らす。悲しげな角笛《ホルン》の音は心を震えさせながら、主を失った邪教の神殿に響きわたっていった。
その音色はあるいは呪詛の森まで、あるいは廃城まで届いたかもしれない。
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第六章 コズミックフォージ
24 終局
そこには緊迫した静けさがあった。
あの戦いのあった広間からさらに奥に進んだところに、「コズミックフォージの社」と彫りつけられている扉があった。グレナヴァンとユークリーブがその前で立ち尽くしている。
「どきたまえ、」
錬金術師の声には嘲りがあった。グレナヴァンは悲しげに首を振り、扉の前に立ちはだかっていた。
これはすでに予測された対立であった。かつてのブリュンフラウを焦点とするコズミックフォージの管理が話題になったときは先送りされた問題であったが、ついには災厄の王を倒してコズミックフォージを手に入れるのみとなったのだ。
この万能の筆記具《スクリプター》を求めて彼らはやってきた。バルルシャナはグレナヴァンを再びふさわしい権力の座につけるために。ブリュンフラウはこのペンを人の触れない永久氷の宝物庫に回収するために。そしてユークリーブは己の権勢を得るために長い時間を探索に費やしてきたのだ。
しかし、今はここには二人しか残っていない。バルルシャナはグレナヴァンを護ってゾーフィタスを滅ぼすと共に命を落とし、ブリュンフラウは災厄の王に意志を奪われた上に下階に転落していったらしく生死は不明だ。そしてグレナヴァンはこの究極の宝を手にすることを望んではいなかった。コズミックフォージを望む者は、今となってはユークリーブ一人なのである。
「あなたはこのペンのもたらす災厄、それが産みだした悲劇を見て何も学ばなかったのですか?」
グレナヴァンは悲しげに言った。彼はこの長い旅の中で、本当にこのシニカルな錬金術師の中にある人間性と強力な意志力を理解し、仲間意識や友情に留まらない想いを抱いていたのだが、この点に関して譲る気持ちはなかった。
「ふ、」
ユークリーブはあきれ顔で少年を見おろした。
「ふむ、グレナヴァン卿、私がこのペンを入手したとしても、決して先の者達のような災厄を生みだしはしないということを信じていただけませんか?」
「……僕には信じれない」
グレナヴァンは悲しげに首を振った。
「これは人が手を出してはならないものなんだ。災厄の王が何を手にいれたというのだ? 己の魔性にすら呑み込まれるという哀れな永遠生ではなかったか? ゾーフィタスに至っては語るまでもない」
「しかし、私はこの秘宝《アーティファクト》を入手するために多くのものをなげうってきたのだ」
ユークリーブの表情にはグレナヴァンが察し得ない程深いものがあった。
「決してこれをあきらめることはできない……」
「僕は……あなたと剣を交えてでもそれを阻止せねばならない」
グレナヴァンは目を細めると剣に手を伸ばした。
その様子にユークリーブが哄笑した。
「面白い! あなたはこの秘宝を護るために、あなたに何の害意もない私を斬ることができるというのか、」
そして無害を強調するように大きく手を開いてみせる。グレナヴァンが唇を咬んだ。
皮肉な判断は、いささか少年の荷には重いものであった。コズミックフォージを護るために、そしてそのもたらす災厄を再び起こさないようにするには、この錬金術師の命を奪うしか術はなかった。彼には決してユークリーブがその考えを変えることがないのが判っていた。
あるいはコズミックフォージを彼に委ねるか? しかしグレナヴァンはこの錬金術師が心の奥底に人間らしい心を保ちこそすれ、無慈悲な支配や暴力的行動にためらいを持つような人物ではないのは判っていた。そして錬金術師の野望は必ずや再びこの界を災厄に巻き込むような大事件に発展してゆくだろう。
「ユークリーブ……」
グレナヴァンは苦しげにつぶやき、長剣《ロングソード》の鞘を払った。災厄の王がそうであったように、死よりもなお苦しい道というものもある。錬金術師がその野心のままに墜ちて行くとすれば、あるいは現在彼の手で滅ぼしておいたほうが幸福であるのやもしれない。
「私と戦うのか?」
少年はうなずいた。苦しい選択であった。
「面白い、」
錬金術師の表情には歓喜すらもあった。それは父が子を見るような、あるいは兄が弟を見るような、そんなまなざしですらあったのだ。
「王者たるもの、そうでなければならぬ。己の情に破れ、自己の信じる大局を見失うことがあってはなるまい。それは仁道とは言わぬ。己の弱さへの甘えなのだ……といっても、戦いに手加減はしない」
気合いと共にグレナヴァンがユークリーブに斬り込んだ。
鋭い太刀さばきである。少年の武術はこの長い探索行の間に本当に強力なものとなっていた。しかし錬金術師は素早く抜いた短剣《ダガー》によってその勢いを逃した。火花が散る。そして短剣はまとわりつくようにグレナヴァンの長剣を伝い、胸元に飛び込んだ。素早く身を引く。
(ぬっ、)
後ろめたさや悲しみが戦闘の緊張感に変わっていった。グレナヴァンはまだユークリーブがどれほどの使い手であるのか見たことはなかったのだ。その素早い動き、無駄のない身のこなしは、あるいはこの男は忍者としての修行を積んだのではないかと疑わせるものすらあった。珍しいことではない。錬金術と忍術は比較的近い関係にあるのだ。
「剣の動きに無駄がある……いまだにナベシマ殿には及びませんな」
ユークリーブが余裕の笑みを見せた。グレナヴァンは恥辱に目前が暗くなるのを感じていた。鎧に身を包んだロードと軽装の錬金術師。その勝負の結果は火を見るよりも明かなはずであった。しかし彼は一度、剣を交えただけで相手の並々ならぬ能力を感じとったのだ。
「はあっ、」
その気合いは己の中の迷いを払おうとするものである。少年の額が汗に濡れた。あるいはこの錬金術師が最も強力な最後の敵となったのかもしれないと想う。
幾たびか剣を激しく組み合わせた。そして幾たびか互いの肌を斬り裂いた。
「いいぞ、良い顔をしている……ふふ、人の命を奪おうと覚悟した男の顔だ」
ユークリーブの顔にも疲労と汗とが浮かんでいた。そして満悦な表情も。
「だが、ここで私も大志を断たれるわけにはいかない。コズミックフォージを手にするのだ!」.
「世界をすべて手中にしたところで、それが何になるのだ!」
権力などなんの意味もない。もっと大事なものは他にあるとグレナヴァンは幼少よりの生活で痛感していた。この探索行の中で、一度はその大事なものを手にいれたように想う。しかし今はそれも失い、さらには最後の一片までもが失われようとしていた。
「わたしが求めるものは、」
ユークリーブは身を翻すと長い指先で呪文発動のための紋を空中に描いた。
それは優美な動きであった。しかし明確な死へのいざないの舞踊でもある。グレナヴァンは身をこわばらせる。錬金術師の呪文の強力さは良く知っていた。
「そんなくだらない卑小なものではないっ」
そして放たれた。
鷹力は邪気に満ちた大気となってグレナヴァンを襲った。どこにこのような魔力が残っていたのか、少年はユークリーブの力に賛嘆すらも感じながら、苦痛に剣を取り落とした。敗北の絶望感。
そしてぐったりと床に倒れ伏す。少年の中にはもう力は残っていなかった。
(殺すなら……殺すがいい。僕もあなたを殺そうとしたのだ)
涙が頬をつうと伝い落ちる。
結果が同じであれば、苦しみに身を投げる意味など、どこにもなかったかもしれない。
「グレナヴァン卿……あなたを殺すまい」
ユークリーブのその声は奇妙な優しさがあった。
「敗北にその身を焦がし、苦しみの業を背負って王になるが良い。宿命とは言うまいが、それがあなたの器であるのなら、必ずやその道にたどり着くことができるだろう」
「ユーク……リーブ……」
グレナヴァンの耳にはその声は届いてはいなかった。苦痛にかすむ視界を確かに保とうと必死で瞳を開きながら、錬金術師の足に手を伸ばす。
苦痛の絶叫が洩れる。伸ばされたその手を、ユークリーブが無慈悲に踏みつけたのだ。
「ふふ、そう、憎悪と怨恨とをその身の中に育てるのだ……それが目標を達成するための大きな原動力、あるいは健しさや愛情の原動刀にもなるのだから。そしていつの日か、我が前に立ちはだかるも面白い」
ユークリーブは身を翻し、そして床の上で這い苦しむ少年にもう振り向くことはなかった。
災厄の王の身が滅び去ったときに残った残骸の中から、指輪を拾いあげる。懐から取り出した王の日記にそれをかざし、速読すると最後の扉を開くための合い言葉を読みとった。
「ふふ……そうなのか、災厄の王よ。永遠をおびえ続けた哀れな男よ、」
錬金術師の口元に、あの薄ら笑いが戻っていた。そして扉へ|合い言葉《パスワード》を囁く。
扉が開いた。
「ユ、ユークリーブ……」
輝きに満ちた部屋に入って行く錬金術師を、グレナヴァンの悲痛な声だけが追って行った。
コズミックフォージへ。しかし扉は閉められ、少年はそこで何が起こったのかを知ることはできなかった。
苦痛と敗北感が身を苛み、やがて無意識の暗闇が彼を包んでいったのである。
「コズミックフォージ……」
ユークリーブは光の中に静かに浮かんだそれに感慨深い吐息をもらした。
黄色い光が祭壇の内側からほとばしっていた。そしてその中央に、柔らかな光をまとったものが浮かんでいた。
それはなんの変哲もない鉄筆にも見えた。太い軸を持った古びた鉄筆である。
しかしその表面には彼でさえ見たことのない異界のルーン文字が刻まれていた。
「ついに我はこの万能の力を手にしたのだ」
静かにそうつぶやき、手を伸ばす。
光のカーテンにわずかに指先がチリチリする違和感を感じたが、ユークリーブは構わなかった。
指が触れる……。
永遠にも感じられるひととき。
それを一つの言葉がさえぎった。
(……それは私がもらっておこう)
輝く人影が目の前に出現した。なめらかな指先が何のためらいも無しに魔法のペンを掴み取る。
「なっ、何者だ!」
ユークリーブが混乱と恐怖の声を上げた。謎の人物は彼に振り向き、僅かに笑いを浮かべたようであった。
その身体が輝く光となってふくらむ。
「……お前が何者であろうと!」
ユークリーブは叫ぶと腕を伸ばし、コズミックフォージを奪い返そうとした。
「うぬっ、」
腕が輝きに溶けるように失われてゆく。圧倒的な魔力であった。
「コズミッックフォージ!」
錬金術師は悲痛な叫びを上げた。人影が発した輝きの中にそれは呑まれていったのだ。
「あきらめぬ!」
彼の喉から絶叫がほとばしる。魔力を高め、そこに到達しようとする。
脳を揺さぶるような衝撃と狂音。
輝きのなかにその身体が溶け消えていった。
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エピローグ
静かな水面に、きしむ漕ぎ音だけが響いていった。
黒衣の渡し守カロンである。
ひとつ、ふたつ、みっつ……その足元にはいくつかの灰壺があった。
水面が僅かに振動する。
サイレンのしらべが遠く、あの切々とした哀歌を歌っていた。
カロンは黙ったまま船を進める。
暗闇の中、ブリュンフラウは鼻をくすぐる血の匂いに目を覚ました。
そして柔らかな感触を感じる。
「ナベシマ?」
おずおずとそう尋ねた。猫侍の、鼻を鳴らすような肯定が戻ってくる。
猫妖精の毛皮に彼女の素肌が触れている。
柔らかな感覚が身に溜まった疲労を解きほぐしてゆく。
「怪我をしているの?」
「いや、」
ナベシマは静かに答えた。
「もうお前の槍が癒してくれた」
再び静かな時が流れた。暗闇の中、ナベシマの毛皮の胸に身体を預けているのは快かった。
吐息が洩れる。
「終わったの?」
その問いに猫侍がわずかにみじろぎする。
「……終わったらしい」
ナベシマはそう答えた。
「どうなったの?」
「……わからぬ」
それは予期していた答であった。ブリュンフラウの睫を滲んだ涙が濡らした。
「そう、」
彼女はあの少年と永遠に別たれたとは思っていない。再び、必ずや出会うだろう。
(グレナヴァン……)
ブリュンフラウは涙をナベシマの毛皮でぬぐった。
猫侍が苦しげにみじろぎした。
サイレンの声は近くなっていた。
水のさざめく音がカロンには感じられる。
ゆっくりと胸に入れていた手を出した。
骨ばった手のひら、そこには羽根を失ったフェアリイの少女が抱かれていた。
少年の身体が、ビクリと動いた。
「ユーク…リーブ……」
唇から言葉が洩れる。
身を震わせながら立ち上がる。
ふらつく足に倒れかかった。剣を杖にして身を支える。
そして錬金術師が去っていった部屋の奥、あのコズミックフォージの社《やしろ》へとよろめき進んだ。
「ううっ……」
洩れる苦痛の吐息を押し殺す。
しかし、そこには何も無かった。寒々としている。
コズミックフォージが鎮座していたその小部屋にはその姿どころか、もう輝きの片鱗もない。
「ユークリーブ……」
再び、少年は呟いた。あの自信に満ちた錬金術師の姿はどこにも見えなかった。
怒りにも似た感情が彼を支配していた。
「いつか、あなたに……追いつくんだ」
そう叫び、剣を祭壇に叩きつける。
散った破片がバラバラと降り注ぎ、少年の頬を叩いた。
サイレン。
美しい死の歌い手が水中から上体を立たせていた。カロンは船を止める。
「どこへ行かれるのか?」
美しい声、その問いにカロンは一礼して答える。
「死者達のやすらぎの場所へ……」
「であるならば、その少女にはそこはふさわしくはない」
サイレンは死の手に抱かれたラックシードを指さした。
「われわれが預かろう」
「かたじけない」
死を運ぶ手から死を歌う者の手にゆだねられた時、その身体が震えた。まるで悲しみにおびえるように。
サイレンは宥めるようにそっとフェアリイの身体を揺すり、胸に抱いた。
再び、歌が始まった。
[#地付き]<ENDE>
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あとがき
ウィズフリークの中には「BCFは絶対に認めないぜ、あれはウィザードリイじゃない」という人達がいます。僕も海外ゲーム情報でBCFの画面を見たとき、正直言ってげんなりとさせられたのを覚えています。派手な色調に踊る敵達。ゲームシステムは変更され、あのボルタック商店もカント寺院もない!
BCFはウィザードリイの偉大な先入観と戦わざるを得なかったかわいそうなゲームと言えます。おそらくはあのウィズTの魅力に取り付かれたファンにとっては憎しみの対象にすらなったのでしょう。
しかしこのゲームがウィザードリイの名を冠されていなかったとしても、必ずやBCFは人々に愛され、まさにこのヒットを生み出したであろうことを疑いません。
高速アクセスで手軽にプレイできるROMゲームへの移植も望みますが、この凄惨なシナリオはちょっと家庭向きではないかな? 執筆するのにちょっと苦労しました(笑)。
しかし城門前に20人くらいのベースキャンプがあって、荷物の預かりやメンバーの交代ができても罰はあたるまいになあ。…あ、これは単なる余分な愚痴なのですが。
僕はテーブルトークRPGのデザインが本業ですから、その要素が濃厚に入ったBCFは実に肌に合うゲームであり、すぐにそのリアリティのある世界観に熱中しました。世界から伝わってくる濃厚な生活臭……これは最近の海外ゲームの大きなムーブメントと言えそうですね。デザイナーのブラッドリーも大のRPGファンであるとか。ぜひあって話をしてみたい人物です。今は続編の「クルセイダーズ・オブ・ダークサーバント」の完成が実に楽しみで、やはりIBM―PCを購入してしまおうかな、と真剣に悩み始めてします。
そのゲームの魅力をどれだけ伝えることができるか……? このウィザードリィノベルシリーズは名作「隣り合わせの灰と青春」から始まって実に秀作揃いですから、これはなかなかのプレッシャーとなりました。さて、どのような出来になりましたことやら。御感想をお待ちしています。
まさに執筆中、この春に父が急逝したりと大変な時期ではありました(文体が殺伐としているところもありまして…へへへ、ごめんなさい)。しかしなんとか周囲の人々の助力によって完成にこぎ着けることができました。温かく見守りくださった担当の井上氏、無二の相棒であるイラストレイターの相沢女史、そして多くの友人達に感謝を捧げたいと思います。
そして大のゲームフリークであった父にも。ファミコン版ウィザードリイのバックアップロムの中には、まだ父の残したキャラクター連が生きています。
[#地付き]平成四年 初夏 伏見 健二
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解説
ベイン・オブ・ザ・コスミック・フォージ
〜ウィザードリィ新世代の夜明け〜
[#地付き]健部伸明/怪兵隊
いまさらにここに書く必要もないことかもしれないが、ベイン・オブ・ザ・コズミック・フォージ(以下BCFと省略)は、カルト的なパソコンRPG『ウィザードリィ』の第6弾として登場した。ぼくもまだ学生だったころ、ウィザードリィに、はまったひとりである。
ぼくにとってウィザードリィというゲームの魅力のひとつは、主人公であるキャラクターたちのストーリーがこちら側にまかされていることだった。
ぼくはキャラクターを作り名前をつけるだけでは飽き足らず、こいつはうるさいジジィの魔法使い、こいつは女だけど男まさりの戦士、なんて勝手に性別も決めダンジョンの階段を降りていく彼らの姿を思い浮かべながらゲームをやった。やがて、善のパーティと悪のパーティを作って、このキャラは実の兄弟だとか、仲が悪いとか設定し、何度も生き返るワードナを倒すために迷宮に行くのかも考えた。そしてどんどん自分のストーリーはふくらんでいったのだ。
ベニー松山の『隣り合わせの灰と青春』や、石垣環のコミックスを読んだときには感動した。ウィザードリィという舞台で、それぞれがすばらしい物語を作り上げていたからだ。ゲームのなかに自分のストーリーを作って楽しんでいる人は、ほかにもいたというわけだ。
もっともいまから考えれば、こういう楽しみ方はロールプレイング・ゲームの本質であるといってもよいかもしれない。世界でもっとも古く、もっともおもしろいパソコンRPGのひとつウィザードリィにとってはあたりまえのことなのかもしれない。
時は移りBCFが発売された。ウィザードリィ・シリーズの第6弾というよりは、新たなウィザードリィの始まりであるといったほうがよい。
正直言ってぼくは最初なかなかやる気がしなかった。「だってこれはウィザードリィじゃないじゃん」と思ってたのだ。だがやっているうちに、再びゲームの世界に没入してしまった。
システムはまったく違う。種族、クラス、魔法、どれをとっても、かつてのウィザードリィの面影はない。冒険の舞台も迷宮の中だけでなく、山や森にひろがった。数多くの人物が登場し、120年前から続く、コズミック・フォージの謎ははげしく深い。けれどもストーリーはやはりプレイヤーにまかされている。
たくさんのNPCが登場し、さまざまなことをキャラクターたちに語る。なかにはまったく反対のことを言うやつもいる。だれに共感し、誰を信じたらいいのか、目の前の敵を憎むべきなのか、プレイヤーは決して真実そのものをつかむことはできない。あちこちで得る手掛かりも、キャラクターの目に映ることだけしかわからず、あとはキャラクターの身になって想像し、道を選ぶだけのだ。
このゲームはマルチエンディングである。選択によって違う結果をえられると、あきらかに失敗とわかる終わり方もあるが、それ以外はどれが一番よいのかというと難しい。それぞれが、真実の一側面を見せてくれるにすぎない。つまりBCFは、われわれに物語の舞台をあたえてくれているわけだ。だからこの小説は、伏見健二がその舞台を使って作り上げたストーリーなのである。もしあなたがパソコン版のBCFをまだ解いていないとしても大丈夫である。
そして今からパソコンにむかったとしても、必ず自分だけのストーリーが楽しめるはずだ。
すでにパソコン版を解いている人も、この小説で、きっとまったく違った切り口のBCFの真実を発見できるに違いない。存分転楽しんで欲しい。
最後にひとこと。BCFは序章にすぎない。アメリカではさっそく第2弾『クルセイダーズ・オブ・ダーク・サヴァント』がすでに発売されている。ちょっと見る機会があったがとりあえず、BCFの100倍きれいなグラフィックだった。非常に楽しみだ。
伏見先生これもまた小説化してくださいよ。期待してますから。
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底本
JICC出版局
サイレンの哀歌《あいか》が聞《き》こえる 小説 新・ウィザードリィ ベイン・オブ・ザ・コズミック・フォージ
1992年9月5日 初版
著者――伏見《ふしみ》健二《けんじ》