俺の妹がこんなに可愛い訳がない 5
伏見つかさ
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第一章
妹がいなくなってから一月が経《た》った。
だけど、それで俺《おれ》の生活に何か影響が出たかというと、そんなことはない。
これまでだって、俺と妹の間に接点ができるのは、ときおり妹が切り出してくる『人生相談』とやらを受けているときだけだったんだからな。
それ以外では、基本的に会話をしないし、目も合わせないという関係が続いていた。
妹が家にいようと、いなかろうと、変わり映《ば》えなんてしやしねーのさ。
――っつか、本心から言うがな。
妙な騒動に巻き込まれなくなって、せいせいしたってのが本音なんだよ。
むしろいいことだらけだぜ。もうリビング占領されることもねーし、友達呼ばれて追い出されることもねーし、自分の部屋にいるときだって、となりの部屋に気を遣《つか》って、でかい音立てないようにしなくてもよくなったしな。
へっ、そりゃ、マジで最後の人生相談だったってのは、拍子《ひょうし》抜けしたし……まあ、最後の最後で、ちょっとは可愛いところもあるかな〜なあんて思ったりもしたけどよ。
やっぱりそんなことはなかったね。
あんにゃろう。結局、俺には一言も言わねーで行っちまいやがって。
――じゃあね、兄貴。[#「――じゃあね、兄貴。」はゴシック体]
フン、勝手にしやがれっつーのな。そんな感じで俺は、一月ばかりせいせいした毎日を送っていたのだが。
こっちはこっちで、ちょっとした事件が起こっていた。
新学期初日のことだ。
「――おはようございます、先輩」
そいつは、振り返ってそう言った。
気持ち得意げに、少しだけ頬《ほお》を赤らめて、肩をきゅっと硬くして。
複雑な心境が入り交じっているのが、その仕草《しぐさ》から、俺には読み取れた。
見慣《みな》れたゴスロリファッションではなく、我が校の女子制服に身を包んだそいつは、
「……お……おまえ……。……く、黒猫《くろねこ》、か?」
「……ふ、ふん、なんて顔をしているの?」
つっかえつつも、あざけるように囁《ささや》く彼女。その言い草を聞いて、やっと確信が持てた。
間違いなく黒猫本人だった。妹のオタク友達で、俺にとっても大切な友人。
彼女はこちらに完全に向き直り、真新しい制服の胸にそっと手を当てた。
「……私がここにいるのが、そんなに意外?」
「そんなことは――いや」
俺は軽くかぶりを振ってから「ああ」と、首肯《しゅこう》した。
「意外だったよ。え、ってことは、オマエ……まさかウチに入学したのか?」
「ええ」
黒猫は満足げにうなずいたが、はっと何かに気付いたように表情を引き締《し》める。
「――でも、別にあなたがいるからというわけではなくて」
「そりゃそうだろうけどよ」
そんな当たり前のこと、いちいち断らんでも分かってるって。
「家が近所だとは聞いちゃいたけど、同じ学校に入学してくるなんて思わなかったんだって。つか、そうならそうと言っとけっての。びっくりするだろうが」
「……勝手でしょう、そんなの。私が同じ学校に入学したからといって、あなたに何の関係があるというの?」
「いやあそりゃ……やっぱ、嬉《うれ》しいじゃんか」
「――――」
むぐ、と口をつぐむ黒猫。意表《いひょう》を衝《つ》かれたように目を大きくした彼女は、すぐさま取り繕《つくろ》うように無表情へと戻《もど》る。
しかしなるほどな。
この前『あと二か月したら呼び方を変える』と言ってたのって、こういう意味だったのか。
兄さん≠ゥら先輩≠ノ、変わったわけだ。
俺は自然と笑《え》みを浮かべていた。実は自覚があるのだが、なんでか俺って、こいつに対しては異様に素直《すなお》になってしまう。向こうが素直じゃないぶん、こっちがそうなっちまうのかもな。
「……ま、ひとつよろしく頼むぜ、後輩。ハハ、制服姿も新鮮でいいじゃねーか」
「……よろしくお願いします、先輩」
囁《ささや》くような声で会釈《えしゃく》し、つん、と前に向き直り、そのままさっさと早足で歩いていってしまう。莫迦《ばか》じゃないの………という捨て台詞《ぜりふ》が、幽《かす》かに漏《も》れ聞こえた。
なーんだあいつ、急に不機嫌《ふきげん》になりやがって。黒猫の、無表情に隠された感情の機微《きび》を多少は読み取れるようになってきた俺であるが、いまのはちょっと分からなかった。
「入学式で緊張してんのかな?」
俺は黒猫のあとを追いかけようとした。しかし、そこで背中から声をかけられた。
「きょーちゃん、きょーちゃんってばあ」
「ん……お、おお」
俺のとなりに並んだのは、麻奈実《まなみ》だった。
田村《たむら》麻奈実。俺の幼馴染《おさななじみ》みで同級生の、眼鏡をかけた地味めの女。
「すまんすまん、おまえのことを忘れていたぜ」
「もーっ」
ぽかんと鞄《かばん》で俺の足を叩《たた》いてくる麻奈実。
いまの一幕を解説するとだな。いつものようにこいつと一緒《いっしょ》に登校中、制服姿の黒猫を見かけた俺は、ついつい麻奈実を置き去りにして駆《か》け寄ってしまったという場面だったのだ。
たぶん麻奈実は、俺と黒猫が会話を始めてしまったので、気を遣って待っていてくれたのだろう。
「いま話してた娘《こ》って、新入生だよね? 知り合いなの?」
「まあな」
「仲いいんだ?」
「おう」
少なくとも俺はそう思っている 相手もそう思ってくれていると信じたい。
「簡単に説明すると、桐乃と俺の、共通の友達ってとこだな。一見無愛想に見えるけど、すげーいいやつなんだぜ」
「そうなんだ」
ふにゃっとした微笑《ほほえ》みを浮かべる麻奈実。この顔を見ると、本当に安心する。
「そのうち紹介してやるよ」
「うん」
麻奈実はこくんとうなずいて、さりげなく聞いてきた。
「……ところであの娘、なんて名前なの?」
「黒猫」
「ふぇっ?」
首をかしげる麻奈実。頭上に疑問符が浮かんでいる。
「黒猫さん? えっと、それって名字? それとも下の名前?」
ああ、そっかそっか。いつものくせでそのまま伝えてしまったけど、黒猫≠ニいうのはハンドルネームなんだっけ。黒猫とだけ言ったって、そりゃ分かんねえよな。
俺がなかなか答えないでいたものだから、麻奈実は勝手に妙な妄想《もうそう》をふくらませている。
「う〜〜ん……くろ・ねこさん? く・ろねこさん? くろね・こさん?」
分けんな。
「ぜんぶ違げぇよ。悪い。いま言った黒猫≠チてのは、ハンドルネームだった。ほら、前におまえが教えてくれたじゃんか。SNSで友達作れば――ってさ。アレで知り合ったんだよ」
「あ、あっ、それでなんだ〜」
得心《とくしん》したように手を合わせる麻奈実。
「確かに、いんたーねっとで知り合った友達って、はんどるねーむで呼び合うから、お互いの本名を知らない場合が多いっていうよね」
「そういうこった」
「じゃあ、黒猫さんの本名……きょうちゃんも知らないの?」
「……うム」
軽い気持ちで口にしたのだろう麻奈実の台詞は、思いのほか俺の心に響いていた。
そうなんだよな……。
黒猫にしろ、沙織《さおり》にしろ、仲のいい友達だと思っているけど。
俺は、あいつらのことを実はなんにも知らない。本名も、住所も、学校もだ。沙織の本名等については宅配便の差出人名義から推測がついているのだが、確認をとったわけではない。そういうのは詮索《せんさく》しないのがルールなんだろうし、あえてこっちから聞くこともなかった。
けれど黒猫がこうして俺と同じ学校に入学してきた以上、事情は変わってくる。
インターネットで知り合い、ずっと匿名《とくめい》で付き合ってきた友達は、今日から同じ学校に通う後輩になった。それって、多少なりとも、いままでとは違う関係になるってことなんじゃねーかな。考え過ぎかもしれないが、ほのかな期待を抱いてしまう。
ああいや、別に色恋|云々《うんぬん》とかじゃなくてさ。
学外の友達が一緒の学校に入ってきたら、わくわくするだろ?
これから楽しくなりそうだな――素直にそう思えてくるんだよ。
「ううむ……」
俺は黒猫が歩き去っていった方角を見やり、誰にともなく呟《つぶや》いた。
「黒猫の本名……なんていうんだろうな」
「五更瑠璃《ごこうるり》」
黒猫は視線をわずかにそらして、ぽつりと呟いた。
「……それが人間としての私の名前」
「ごこう?」
「数字の五に、夜が更《ふ》けるの更、と、書くわ」
五更瑠璃。
ふむ……五更瑠璃、ね。
フッ……。
やったぜ。
黒猫の本名ゲット!
さすが俺! いともあっさり聞き出すことができたぜ!
「……気味悪いわね。なにをニヤニヤしているの?」
「気にするなって。にしても、なんだか慣れないな。いままでずーっと黒猫で通してきたもんだから」
「……でしょうね。私も妙な気分よ、まさかあなたにこちらの名前≠ナ呼ばれることがあるなんて、思わなかったから。学外ではいままでどおり黒猫≠ニ呼べばいいわ」
「そうだな、そうさせてもらう」
俺は深く頷《うなず》き――――
「…………ところでさ、なんでおまえら俺の部屋にいんの?」
さっきからずーっと突っ込みたいのを我慢していた件について聞いてみた。
ちなみにいまは入学式当日の放課後。場所はもちろん俺の部屋である。
「ハッハッハ! 京介氏、いまさら何をおっしゃる! そーいうことは部屋に入った瞬間、まず最初に聞くものですぞ? たっぷり雑談してからおもむろに聞くというのは、いったいどういうギャグでござる?」
「あまりにも驚きすぎて、心が落ち着くまで突っ込めなかったんだよ!? さあ――て聞くぞ? いま聞くぞ? 沙織てめえ俺の部屋にシート敷いて、いったい何やってやがんだっ!」
「むろん、ガンプラを仮組《かりぐ》みしておりました」
「…………」
むろんじゃねーよ。いかん……ビキビキとこめかみの血管が浮き上がるのを感じる。俺が機嫌《きげん》を損《そこ》ねたことを察したのか、沙織はきりっと姿勢を正し、こう言い直した。
「むろん、サザビーを仮組みしておりました」
「ガンブラの種類が知りたくて不機嫌になったわけじゃねーよ!」
なんでおまえはときおり日本語が不自由になるの?
この女は、沙織・バジーナという。
ぐるぐる眼鏡にオタクファッションの彼女もまた、桐乃と俺の共通の友達だ。
改めて解説しよう。俺が自分の部屋に帰ってきたら、スデにこの状況だった。
制服姿の黒猫が、ベッドの上に寝ころんで漫画雑誌を読んでいて。
沙織は床にシートを敷いて、ガンプラを弄《いじ》くっていたのである。
俺はあまりのことに突っ込めず、呆然《ぼうぜん》と立ち尽《つ》くしたよ。
で――何かを言おうと口を開いたのだが、動揺していたこともあってか、出てきた台詞は、学校にいる間中ずーっと考えていた黒猫の本名を問うものだったのだ。
そんで、さっきのやり取りに繋《つな》がるつーわけ。
「ふ――っ」
俺は入り口に立ちつくしたまま目頭《めがしら》をもみ、それからもう一度、分かりやすーく俺の抱いている疑問を伝えてやった。
「で? もっかい聞くけどよ。なんでおまえらは、勝手に俺の部屋に上がり込んで、しかもまるで自分の部屋であるかのよーに馴染《なじ》んでるんだ?」
「……っふ。いちいちそんなささいなことを気にしていたら、器の小ささが知れるわよ。そんなことより、客が来ているのだからお茶でも出したらどう?」
「気が付かなくてすみませんねえ!」
器量が小さい男で悪かったな! つうかおまえ人のベッドで寝ころぶなよ!
とまあ黒猫はすげなく無体《むたい》な台詞を吐《は》きやがったのだが、沙織がしれっと補足した。
「そろそろ京介氏が寂《さび》しがっているだろうから、様子を見に行きましょうと黒猫氏に誘われたのですよ。ねえ瑠璃ちゃん?」
「ありもしない事実をねつ造するのはやめて頂戴《ちょうだい》。なにが瑠璃ちゃんよ。殺されたいの?」
「くっくっく……瑠璃ちゃんは照れ屋さんですなあ。わざわざ今日を選んだのは、制服姿を京介氏に見せたかったからではなかったのですか?」
「ば、莫迦《ばか》じゃないの? 違うわよ。制服姿なんて、朝会ったときにも見せたし……」
「ふむ? ふうーむ? とすると……ははあ、そういうことですか」
沙織は、見透かしたように黒猫の顔を覗《のぞ》き込む。
「そのとき、京介氏に制服姿を褒《ほ》められたのでしょう? そうですなあ、『そういうカッコも新鮮でいい』とか、そんな感じでしょうか? で――黒猫氏はそっけない返事をしたものの、内心嬉しくなってしまい、ついついこうして京介氏にもう一度見せに来てしまったと。……ふっふ、図星《ずぼし》でしょう? 図星ですな? でなければ黒猫氏がトレードマークのゴスロリファッションを突然やめる理由がありませぬもの」
むふふー、といやらしく笑う沙織。確かに俺は黒猫の制服を朝会ったときに褒めたし、そっけない返事がかえってきたけれども、それはさすがに考えすぎだろう。
実際黒猫もすぐに否定した。寝ころんだ体勢から、ぐいっと身体を起こし、
「……違うと言っているでしょう。家に帰るのが面倒《めんどう》だっただけよ」
ぷいっとそっぽを向いてしまう。
ホラ、不機嫌になっちゃった。
しかしなるほど、そういうことだったのか。黒猫にもどうやら妹がいるみたいだし、二人とも根は優しいやつらだから、桐乃――妹がいなくなったせいで、俺が寂しがっているだろうと心配してくれたんだ。で、ウチのお袋に言って俺の部屋に上げてもらったってわけか。
ふむ、でもおまえら、見当外れの心配だったぜ。
俺はうざい妹がいなくなって、せいせいしてるってのによ。
けど、その気持ちはすっげーありがたいし、嬉しいよ。
俺が得心してうなずくと、黒猫があからさまに嫌そうな顔で眉《まゆ》をひそめた。
「こっちはこっちで勝手に納得しているし……やっていられないわ」
ベッドの上で体育座りになった黒猫は、膝《ひざ》に顔を埋めてしまう。
一方、床で作業をしていた沙織は、鮮やかな赤色のプラモデルを掲《かか》げ持ち、片目をつむって何やら検分していたのだが、やがて、ふぅっと自分の作品に息を吹きかけた。
「まあ、ひとまずこんなところでしょうか」
トン、と、プラモを直立させた沙織は、口元をω《こんなふう》にして、快活な笑みを向けてくる。
「京介氏、たとえきりりん氏がいなくとも、我らの友情に変わりはござらん。違いますか?」
「――ハ、」
つられたのか、俺もついつい噴《ふ》き出しちまった。
「違いねえやな」
言うまでもねえさ。
俺はおまえらのことが、大好きだよ。
こうして新学期そうそう俺の部屋には、女子高生二人が上がり込んでいるってわけだ。
客観的に見れば、うらやまれる状況かもしれない。実際のところ、沙織はこんな図体《ずうたい》だし、黒猫は黒猫で毒を吐いてばかりなので、色気のある展開にはなりゃしねえわけだがな。
桐乃がいなくなっちまったことで、今日みたいに、これからはこの三人で集まる機会が増えてくるのだろう。それも悪くはない。
俺は椅子に逆向きに腰掛け、床にあぐらをかいてプラモを眺《なが》めている沙織と、ベッドの上で体育座りになっている黒猫を交互に見やる。さてどうしたもんかな……と、思案していたのだ。
そこでふと俺は、黒猫が俺の股《また》のあたりを見ていることに気が付いた。
「黒猫……おまえどこ見てんの?」
「そこ」
黒猫が指さしたのは、俺の股の間、机の下あたりだ。
いったん席を立って該当《がいとう》箇所《かしょ》を覗《のぞ》き込むと、はたしてそこにはエロゲーの箱が置かれていた。
『妹×妹〜しすこんラブすとーりぃ〜』という、妹を持つ兄貴の部屋に、断じてあってはならないタイトルだ。
「見覚えがあるタイトルね」
「ああ……これな。言っておくが、俺が買ったもんじゃないぞ。桐乃からもらったヤツだよ、ほら、おまえらがメイド服着て俺を慰《なぐさ》めてくれたときの……」
「ああ――あのときのプレゼントでござるか。ハハハ、懐《なつ》かしいですなあ」
沙織がケラケラと笑う。
黒猫が無表情で呟いた。
「……クリアしたの?」
「いや、まだ一回もやってない。あいつノーパソ向こうに持っていっちまったし……勝手にデスクトップを使うわけにもいかんしな」
そう、だから俺はあれ以降、エロゲーを一回も起動していない。もともとオタク趣味とは縁遠かった俺である。もらったもんだしとりあえずやってみっかとは思うものの、新しく自分のパソコンを買ってまでプレイする気にはなれなかったのだ。
「そういうことでしたらお任せアレ。古くなったパソコンでよろしければ差し上げますぞ」
「いや、いいって。俺、パソコン、そんな使わねーしさ」
「フフフまあまあ、そうおっしゃらず、助けると思ってもらってくだされ京介氏。パソコンは処分するにも手間がかかってしまうのですよ。受け取っていただければありがたいでござる」
「そ、そうか? じゃあ、お言葉に甘えて……いただくよ」
「はいでござる! ではのちほど配送いたしますので、今度一緒にセッティングしましょう」
「おう、さんきゅ」
礼を言って、桐乃がくれたエロゲーの箱を眺める。口元に自然と笑みを浮かべていた。
桐乃がいなくなってしまっても、俺には、あいつが残したオタク友達がいる。
オタク趣味が俺の中から消えてしまうことはなさそうだった。
「にしても……あの野郎、おまえらにすら何にも言わずに行っちまうなんてな」
「ふん、SNSの日記に簡単な事情が書かれていたけれど……それだけよ。その後も特別、何か言われたり、連絡が来たりということは、なかったわね」
「同じく」
と、黒猫に続いて沙織がうなずく。
「ってことは、なに? 桐乃のやつ、あれから一切おまえらと連絡取ってねえの?」
「そうよ」「然様《さよう》でござる」
はあ? なーにやってんだ、あいつ。
「ふ――む。そうなのか……」
ん……まあ、実は薄々そうじゃねえかと思ってたけどな。
だってあいつ、親友のあやせにさえ、なんにも言わずに向こう行っちまったみたいなんだよ。
本当に、親父とお袋以外の誰にも打ち明けずに留学しちまった。
でもってその後、こっちにいる人間との連絡を、一切絶ってしまっているのだ。
正直なところ、俺には妹の考えていることが、まったく分からない。
俺は長い長い息を吐いた。
「ったく、薄情《はくじょう》なやつだなァ〜。あいつの代わりにゃなんないだろうけど、俺が謝《あやま》っとくわ。ごめんな、いままでさんざん世話になっておいてよ……」
「……別に構わないわ。ふん、ネットで知り合った友達なんて、しょせんこんなものなのよ。そろそろあの女にも飽《あ》きてきたところだったし、自分からいなくなってくれてせいせいしたわ」
かわいそうに黒猫は、思いっきりいじけている。
彼女に捨てられた直後の男みてえな言い草だった。
そして一方、沙織は黒猫とは対照的な態度を見せた。
「正直なところを言わせてもらえれば……拙者《せっしゃ》、怒っているのでござる」
むにゅっと下唇を押し上げて、腕を組む沙織。さながら桐乃のようなポーズである。
「そ、そうなのか」
俺は非常に驚いた。沙織が怒っているところなんて、初めて見たからだ。そんなわけはないのだろうが、いままでこの女には喜怒哀楽《きどあいらく》のうち、喜と楽しかないもんだという錯覚《さっかく》さえあった。そう思ってしまうくらい、いつも上機嫌にからからと笑っているやつだったのに――
沙織は、いつもとは微妙に違う声色で言う。
「もちろん、きりりん氏の向上心には感服いたしますし、海外留学の有効性についても理解しているつもりです。さほど珍しい話でもありませんし、実は拙者の親しい学友にも、きりりん氏と同様、留学して遠くに行ってしまった方がいらっしゃいますから、事情は分かるのです。ですが――いえ、だからこそ、というべきでしょうか? 理性では納得できていても、感情ではとうてい納得できませんわでござる」
こほんと咳払《せきばら》いを一つして、
「わ――拙者は、きりりん氏のことを友達だと思っておりましたし、きりりん氏もそう思ってくださっているだろうと信じておりました。ですから余計に、何も相談してもらえなかったのが悔《くや》しいし、哀《かな》しいし、なにより親しい友達がいなくなってしまって、とても辛いです。もう一緒に遊べなくなってしまったのかと思うと寂しくて……どうしていいか、分かりません」
「沙織……」
「その上メールも電話もいただけないし、日記はずっと更新されないし、メッセにもtwitterにも現れないし……段々と腹が立ってきまして。……誰も彼も、自分勝手にいなくなってしまうのですから、そのくらいの無礼は許してくれてもいいと思いませんか?」
「………」
俺は言葉に詰《つ》まってしまった。こいつが、桐乃のことを、そんなふうに想っていてくれたなんてな。そうだよな。せっかく仲良くなって、心を開いてくれたと思っていたのに、何も言わずにいなくなられちまったら、裏切られたような気分になっちまうよな。
俺は沙織のことを、狭量《きょうりょう》なやつだとは思わなかった。
相手に親愛の情を抱いていたからこそ、憤《いきどお》りを感じることもあるし。
上手くいえないが、こいつも喜怒哀楽のある人間で、なにより女の子だったんだよな。
俺は改めて、黒猫と沙織のことを、好ましく思ったよ。
「よし」
俺はパンと柏手《かしわで》を打った。
「じゃあ、今日はもうあんなやつほっといて、三人で遊ぼうぜ。でもっておまえら、SNSの日記にそのこと書けよ。あとで桐乃が読んだら、悔しがるぜ、きっと」
「……ふ、それはいい考えね」
「了解したでござる。では、何をして遊びましょうか――」
返事をしてくれた二人の顔には、明るさが戻っていた。
やれやれ。兄貴はともかく、こんなにいい友達を放っぽって、俺の妹は本当に何をやってやがんだか。知り合いと一切連絡を取らないって、そんだけの理由があるんだろうなあ?
俺は心の中だけで、深い深いため息を吐《つ》くのであった。
――とまあ、最近の俺の日常はこんな感じだ。
オタク友達がいて、自分の部屋にはエロゲーがあって、妹がいなくなった。一年前とはずいぶん変わってしまったが、これはこれで悪くない。
かつて非日常だったものたちは、いつのまにやら、当たり前にそこにあるものになっていた。
これはこれで、俺が常に望み続けてきた、ごく普通の、穏やかな毎日だ。
だとすれば。
後輩ができて、年をひとつ重ねて、季節が巡って――
いま俺の前に広がっている新しい景色も、いずれ当たり前にそこにある、ごく普通の日常へと変わっていくのだろう。そして――そうなっていく過程の日々は、これまでと同じように、もしかしたらこれまで以上に、きっと楽しいものに違いないのだ。
「ざまあみやがれ」
誰にともなく、そう吐き捨てた。
新学期二日目。放課後を告げる鐘《かね》が鳴り響き、教室が喧噪《けんそう》に包まれる。
と、いつものように麻奈実が小走りで俺の席へとやってきた。
「きょうちゃん、帰ろう?」
「おう」
運のいいことに、こいつとは今年も同じクラスになることができた。まあ別のクラスになったらなったで、ホームルーム終わってからいまのやり取りまでの間が、ちっとばかし遅くなるだけではあるけどよ。
学年が一つ上がって、クラス替えがあって、周りの面子《めんつ》はだいぶ変わっているのに、麻奈実がいるだけで去年とたいして変わらないような気がしてくるから不思議なもんだ。
「はっ、新鮮味がねえよなあ……」
「? なにが?」
「なんでもねー」
俺は鞄を背負うように持ち、席を立つ。廊下に出たところで切り出した。
「なあ麻奈実、今日、ちょっと寄るとこあんだけどさ」
「いいよ〜、どこ?」
「一年の教室」
「あ、もしかして黒猫さんのところ?」
「ああ、紹介するっつったろ? 行こうぜ」
「うんっ」
早足で歩き始めた俺を、麻奈実がぱたぱたと追いかけてくる。
まったくいつもどおりの光景だ。階段を下りて、一年生のクラスへと向かう。
「ところでさ。きょうちゃん」
少し歩いたところで、麻奈実は実にいやな話題を振ってきた。
「まだ桐乃ちゃんと連絡取れないの?」
「ああ。俺は別にどうでもいいんだけどよ。あいつの友達が心配してっからさ。――で、昨夜電話してみたんだけど、ヤッパ出ねえ。メールも一通だけ出してみたけど、いまだに返事が来やしねえ」
考えてみりゃ当たり前か。沙織や黒猫のメールにも返事しねえってのに、俺のメールにだけ返事をしてくるわけがねえ。本当に何やってんだかな、あのバカ。
俺の話を聞いていた麻奈実は、しょんぼりとうなだれた。
「……そっかあ。じゃあ、寂しいね」
「はあ? 別に?」
「……もう。素直じゃないんだからあ。電話、ちょくちょくかけてみるつもりなんでしょ?」
「なわけあるか。そこまでして話したくねーよ」
吐き捨てて足を速める。
一年生の廊下を、階段に向かって足早に歩いていく女生徒の後ろ姿を見とがめた。
「あっ………きょうちゃん、あれって」
「うむ」
俺たちは階段を下りていくそいつの背中を追いかけた。トロい麻奈実を置き去りにして走り、下駄箱《げたばこ》で追いつく。俺は靴《くつ》を履《は》きかえようとしていたそいつに声をかける。
「こらこら、なんで帰ろうとしてんだおまえは」
「………………」
片手に外履《そとば》きを持った体勢で、そいつ――黒猫がこちらを振り向く。
いつもよりさらに無表情。いまの俺でさえ、感情が読めない。
人を寄せ付けない雰囲気《ふんいき》にやや気圧《けお》されながらも、俺は当然の疑問を投げかけた。
「今日はホームルーム終わったらそっちの教室行くから、待っててくれってメール送ったろ」
黒猫の返答は、すげないものだった。
「そうだったかしら。記憶にないわね」
「……お、おい……」
な、なんだよ。最近は……昨日だって、わりと仲良くやれてたと思ったのに。
おまえ、学校だとずいぶんそっけなくないか?
そこで麻奈実が追いついてきた。
「……はあ、はあ……きょうちゃ〜ん、待ってよ〜……」
肩を上下させて呼吸を整えた麻奈実は、顔を上げるや、俺と黒猫の間に横たわる微妙な空気を感じ取ったらしい。
「……あれ? どうかしたの?」
数秒の沈黙。その最中、黒猫の視線は、麻奈実と俺の顔を、行ったり来たりしていた。
やがてぽつりと口を開く。
「……先輩、こちらは?」
「お、おう。実はこいつを、おまえに紹介しようと思ってな」
「田村麻奈実です。よろしくね――えっと、黒猫さん。それとも五更さんって呼んだ方がいい?」
麻奈実がこれ以上ないほど友好的に自己紹介をした。ふにゃっと柔らかな微笑みだ。
対して黒猫は、まさに魔王《まおう》とでも遭遇《そうぐう》してしまったかのような感じに、戦慄《せんりつ》の表情を浮かべている。
「クッ、出たわね……ベルフェゴール……」
「??? ベるふぇ?」
もちろん麻奈実に黒猫の台詞の意味など分かるわけもなく、我が眼鏡の幼馴染みはくるっと背後を振り向いた。
すまんな麻奈実。
残念ながらおまえの後ろにベルフェゴールさんがいるわけじゃあないんだ。
いま黒猫が口にしたベルフェゴールっつーのは、黒猫が描いた漫画に登場する、マナミという麻奈実をモデルにしたのであろうキャラの正体たる悪魔《あくま》のことである。
超分かりにくいよ。
黒猫の描いた漫画といえば――
麻奈実と会ったこともない黒猫が、なぜに麻奈実のパーソナリティを知っていたのだろう。
そういや聞いてなかったな。まあいい、とりあえず現状をどうにかしよう。
「おい黒猫、正気に戻れ。現実に帰ってこい。ここはおまえの作品世界じゃあないぞ?」
「……分かっているわ、そんなこと」
当然のように言いやがるが、こいつに限ってはこの台詞、実にアヤシイもんである。
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かつて桐乃は、さんざん邪気眼《じゃきがん》だの厨二病《ちゅうにびょう》だのメアリ・スーだのと黒猫のことをけなしていたが、ようするにこいつは創作の設定にのめり込みすぎるタイプの人間なのだろう。
――二次元と三次元を一緒にすんな。
というのは我が妹の台詞であるが、桐乃が二次元三次元を別物なのだときちんと認識し、その上で、二次元三次元をそれぞれ愛しているのに対し、黒猫はそのあたりの境界がどうにも曖昧《あいまい》な気がする。
だから彼女はときにアニメの設定を、まるで現実にあるもののように振る舞うのかもしれない。それが必ずしも悪いことだとは思わないが――危なっかしくて、心配ではある。
黒猫が、俺と麻奈実の顔をチラチラ交互に眺めている。
麻奈実が再び黒猫に向かって微笑みかけた。気を取り直したように、もう一度繰り返す。
「初めまして、田村麻奈実です」
それでようやく黒猫も覚悟を決めたらしく、渋々とお辞儀《じぎ》をした。
「………………初めまして」
「うん、こちらこそ」
お辞儀|返《がえ》し。
相手の奇妙な言動なんか初めから聞かなかったかのように、麻奈実はにこやかに受け容れる。
やや微妙だった雰囲気がほぐれ、穏やかな空気が周囲に満ちた。
ところがそこで黒猫が、思いがけない行動に出る。
「じゃあ、私はこれで……」
「待て待て待て待て――なんでしれっと帰ろうとしてんだよ後輩」
俺は、その場から立ち去ろうとした黒猫の襟《えり》を、背後からつかんで止めた。
「……ごめんなさい先輩。残念ながら、今日はバイトがあるので失礼します」
「前に、木曜日は絶対にバイト入れないって言ってなかったか?」
「…………今日はマスケラの放映日だから早く帰らないと」
「マスケラは二期の十二話で完結して、もう続きは放映しねーんだろ?」
「打ち切られたみたいな言い方はやめろ!」
「うおっ!?」
なんでそこでマジ切れよ! 口調《くちょう》まで変貌《へんぼう》してんじゃねーか!? 誰だおまえ!?
おまえの語尾《ヽヽ》に!≠ェ付いたのなんて初めてじゃないか!?
どうやらアニオタの逆鱗《げきりん》に触れてしまったらしい。おっかねえなあ。
「わ、悪かった。マスケラは続きがまだ制作されていないだけなんだよな? な〜」
「……分かればいいのよ。覚えておきなさい、ファンはまだ誰も諦《あきら》めてはいないわ」
そうですか。
でもさ、なんでそんな、ウソついてまで帰りたがるんだよ。まだ用件も言ってねーのに。
別に無理に引き留めるつもりはないんだけど、気になるだろ。
麻奈実はかわいい後輩に興味しんしんらしく、親しげに話しかけた。
「えっと、黒猫さんって呼べばいい?」
「……好きにすれば」
「うん。じゃあ、黒猫さん。学校はどう? まだ緊張してる?」
「……普通よ」
「そっかっ。お家はこの近くにあるの?」
「言う必要はないわね」
噛《か》み合わねえ会話である。
どんなにそっけなくされても、懲《こ》りずにニコニコ話しかける麻奈実と、どんなに気さくに話しかけられても、無表情で斬《き》り捨てていく黒猫。
なんだこの既視感《きしかん》。
確か……前にも、こんなことが……あった、ような……。
あー……。思い出した。
「……おい、黒猫……おい、ちょっと耳貸せ」
「……? なによ……?」
俺は、渋々と近寄ってきた黒猫の小さな耳に口を寄せる。
そばできょとんとしている麻奈実の顔を、ちらっと一瞥《いちべつ》してから、
「えっと、もしかしておまえ……まさかとは思うけど……………麻奈実のこと嫌いなの?」
「……………………………………………………別に」
桐乃と同じ台詞を言いやがった。
なにこれどういうこと? おまえと麻奈実との間に、接点なんてなんもねーじゃねーか。
そもそもおまえらは初対面だろうが。なんで好感度マイナスからスタートすんだよ。
「……ははあ、さては桐乃か? 桐乃になんか言われたんだろ、麻奈実のこと。だから漫画にも登場させられたわけだ」
黒猫の返答は、「……ふん」だった。否定しないってことは、そうなんだな?
そうだとみなす。
「……あのなあ。おまえが桐乃のこと大好きなのはもう重々に承知しているけども。あいつの言うこと鵜呑《うのみ》みにすんなよ。こうして直接会ったんだから、自分の目で見て判断しろ」
「……別に、嫌いじゃないと言っているでしょう」
黒猫は小さな声でぼやく。しかし俺には本心から言っているようには見えなかった。
やはり、俺の推測は的を射ていたのだろうか。つまり黒猫が麻奈実を嫌っていたのは、桐乃に何か吹き込まれたからで、だからさっき麻奈実を紹介してやろうとしたらさっさと逃げ帰ろうとしやがったんだ。
でも、分っかんねーな。
黒猫が桐乃に何を言い含められていたんだとしても、さっきの麻奈実の友好的な態度を目《ま》の当たりにすれば、それが間違いだってすぐに分かりそうなもんなのに。
なんでいまだにこいつは、麻奈実に対して壁を作っているのだろう。
俺にとって麻奈実は、付き合いの長い幼馴染みだし。
黒猫は、俺の大切な友達で、かわいいかわいい後輩だ。
せっかく同じ学校に通うことになったんだ。
できればこの二人にも、仲良くなってもらいたいのだが……。
もちろんこんなのは、俺の独りよがりな願望だから、強制はできないんだけどよ。
「……分かったわよ」
「え?」
黒猫は「ふぅ」と、肩をすくめ、
「分かった、と、言ったのよ先輩。なにか、私に用があるのでしょう? 気が進まなくて気が進まなくて仕様がないけれど――付き合うわ、なんでも。だから、そんなに哀れっぽい顔をするのはやめて頂戴《ちょうだい》。気が滅入《めい》って仕方がないわ」
哀れっぽい顔って。
ホントおまえは、桐乃に負けず劣らず、隙《すき》あらば毒吐くなあ。
しかしいまの……かなり分かりにくいが……俺が言った『麻奈実のことを自分の目で見て判断しろ』って台詞についての、返事ってことで、いいんだよな。
察するに、俺が困ってしまったのを見て、気遣《きづか》ってくれたのだろう。
麻奈実に負けず劣らず、お人好しなのである、黒猫は。
「それに、ここであなたと口論していても無駄《むだ》な時間を喰うだけでしょうしね。用があるならさっさと済ませましょう」
「や、もう目的は半分くらい達成されてんだよ。俺、麻奈実をおまえに紹介しようと思ってたんだからさ。えーと……そうだな」
せっかくだから一緒に帰ろう。そう言おうとしたところで、階段の方から黒猫を呼ぶ声が聞こえてきた。
「五更さ――ん」
ぱたぱたと階段を下りてきたのは、一年生の女の子たちだ(上履《うわば》きの色で学年が分かる)。
きっと黒猫のクラスメイトだろう。そのうちの一人が、快活な声で言う。
「今日、これからヒマ? みんなでカラオケ行くことになったんだけど、よかったら――」
「……ヒマじゃないわね」
ばっさり。感情のこもらぬ声で斬り捨てる黒猫。これはダメだろ。知り合って間もないクラスメイトに対して取っていい態度じゃない。本当に用事があるのだとしてもだ。
素早くフォローしたのは麻奈実だった。下級生たちに向けて手を合わせ、片目をつむる。
「ごめんね〜、わたしたちが先に誘っちゃったんだ」
「えっと、先輩たちが?」
「うん。だから、また今度……ね?」
「はい、分かりました。そういうことでしたら、しょうがないです。じゃあ五更さん、また明日、学校でね?」
「…………」
手を振って去っていくクラスメイトたちに、黒猫は無言の視線を送るばかりだった。
そんな無愛想きわまりない後輩に、ちょっと気まずそうな笑みを向ける麻奈実。
「……余計なお世話……だったかな?」
「…………」
黒猫は依然《いぜん》として無言のまま、俺と麻奈実の顔を交互に見上げる。少々の間を開けてから、ふるふると首を横に振った。かなり回りくどいが、ようするに『ありがとう』という意味である。俺は麻奈実に通訳してやろうと思ったのだが、
「そっか。なら、よかった」
その必要はなかったようだ。こいつは基本的に、面倒見のいいお人好しだからだ。
様子をうかがっていると、俺が言うべき台詞まで、麻奈実に奪われてしまった。
「じゃ、せっかくだから一緒に帰ろっか?」
「……勝手にして頂戴」
靴を履き替えた黒猫は、一人さっさと歩いていってしまう。
黒猫と麻奈実の初対面は、こんな感じで――。
まあ、そう悪くないんじゃないかと、俺は思った。
そういうわけで俺たちは、三人で下校することにした。依然として黒猫の麻奈実への態度は硬い。麻奈実もそれを察しているようで、むりに話しかけたりはせず、少しずつ歩みよる方針を固めたらしい。自然と黒猫を、俺と麻奈実が挟《はさ》む形で歩くことになった。
……しかし黒猫のやつ、こんな性格でちゃんとクラスの連中とうち解けられてんのかな?
さっきのやり取りを見たところ、かなーり疑わしい。いまはまだ友好的な感じだったけど、あんなやり方してたら、いずれ避けられるようになっちゃうよなあ。
校舎を出ると、見慣れない光景が広がっていた。校舎から校門前までの間、グラウンドの隅っこに二つ三つの机を並べた集まりがポツポツある。
「なんだありゃ?」
「部活動の勧誘《かんゆう》だよ。ほら〜、去年もあったじゃない?」
「ああ、もうそんな時期か」
この学校では一学期が始まると、体育館で新入生に部活を紹介する行事があって、
その行事が終わった翌日から、各部活動の連中が、一斉に新入生を勧誘し始めるのだ。
まだ放課後になったばかりだから、下校しようとしているやつらの数は少ない。
勧誘部員たちの活動が本格化するのは、もう少しあとだろう。
一番手前の勧誘グループを、通り過ぎぎわにちらりと見ると、文芸部の連中だった。
二つ机をくっつけて、前から『文芸部』とマジックで書いた紙を垂れ下げている。
でもって机の上には、お手製のパンフレットが置かれていた。
「ふーん」
ここでコミケのサークルスペースを連想してしまった俺は、相当オタクに毒されているな。
「あのー、文芸部に入りませんか?」
という勧誘を、すげなく「ごめん。俺、三年なんで――」とすり抜ける。
前方を見れば、文芸部の他にもこういった勧誘をやっている部活があった。どの部も有望な新入部員を獲得せんと頑張《がんば》っているってわけだ。ずっと帰宅部の俺たちにゃあ関係ないが。
「そういや黒猫、おまえ部活は?」
「……入らないわ。他にやることがたくさんあるし……」
「確か、バイトやってるんだっけ?」
「ええ、まあね」
「へぇ……なんのあるばいとをやってるの?」
麻奈実が話に加わってくると、黒猫は途端にそっぽを向いた。
「…………別に、なんでもいいでしょう」
「そ、そっか」
すげなく振られた麻奈実は、にこやかに答え、それからちょっと涙目《なみだめ》になって俺を見つめてきた。『どうしよう〜 きょうちゃあ〜ん』という意味である。
俺は幼馴染みが見せるこの表情が大好きでしょうがないので、いつもなら二言三言|意地悪《いじわる》を言ってやる場面ではあるのだが、いまは黒猫がいるので自重《じちょう》。
あせんなって。ゆっくり仲良くなるしかねえだろ、という意味を込めて肩をすくめた。
「……うん」
こくんとうなずく麻奈実。
そんな、腐《くさ》れ縁《えん》の幼馴染み間でしか通じないコンタクトを取っていると、新たな登場人物が現れ声をかけてきた。
「よう――田村《たむら》さん、高坂《こうさか》、いま帰り?」
「赤城《あかぎ》」「赤城くん」
俺たちは声の主に振り向いた。そこにいたのは、ビブスを着込んだ男子サッカー部員。
赤城|浩平《こうへい》。ちなみにこいつも俺と同じクラスである。
「うん、いま、帰るところなんだ〜」
「そっか」
麻奈実に向けて、爽《さわ》やかに微笑む赤城。今日も無駄《むだ》にイケメンだ。チッ、気に喰わん。
俺はよっぽどホモゲー買ってた件についてバラしてやろうかと思ったのだが、こいつとはエロゲーなんて買ってないよ同盟を結んでいる手前やめておいてやろう。
代わりに、麻奈実に向かって何やら喋《しゃべ》りかけようとしていた赤城を邪魔《じゃま》するような形で割り込んでやった。
「なにおまえ、もう部活始まってんの?」
「む、まあな。勧誘だよ勧誘」
あ、そっか。こいつも勧誘組なのね。サッカー部の。じゃあさっさとどっか行けよ。
「ふぅん。で、どーよ、首尾は」
「あんまよくねえ。って、誰、この娘?」
赤城は、黒猫をみとめるや、軽く驚いていた。俺と麻奈実の取り合わせに、普段はいない人物が混じっていたからだろうか。
対して黒猫は、赤城の顔をチラリと見上げはしたものの、言葉をかわす意志はないらしく、すぐにそっぽを向いてしまった。麻奈実に対するのと似たような態度である。
……やはりというか、人見知りするやつなのかもしれない。初めて会ったオフ会のときも桐乃と一緒になって孤立していたし、俺や沙織とも、うち解けるまでに時間がかかっていた。
だとしたら、黒猫が麻奈実のことを嫌いだってのは、やっぱり俺の勘違《かんちが》いかもな。
「新入生だよ。実は前々から知り合いでな、一緒に帰るとこなんだ」
黒猫がなにも喋ろうとしないので、俺が代わりに答えてやった。
すると赤城は、なんだか含みありげに、
「へえ。知り合いねえ。どういう知り合いなんだかな」
黒猫を一瞥《いちべつ》し、それから麻奈実の顔を見た。……なにが言いたいんだてめえ。
麻奈実にも意味が分からないようで、きょとんと首をかしげるばかりだ。
「? どうかしたの? 赤城くん」
「ああいや、なんでもないよ、田村さん。ただ高坂の野郎が、かわいい女の子を二人も連れて歩いてるもんだから、ずりいなあってさ」
「カッ、なに言っとんだおまえは」
俺は呆《あき》れ果ててため息すら出てこなかったのだが、単細胞な麻奈実は、あからさまなお世辞《せじ》でも嬉しかったらしい。片手を頬《ほお》に当てて照れていた。
「やだ、も〜。赤城くんったら……。ねぇきょうちゃん聞いた? かわいい女の子を連れててずるいって〜。わ、わたしも入ってるってことだよねっ」
「はん、知らネーよ」
俺は鼻で嗤《わら》ってやった。口元をイヤそ〜に歪《ゆが》め、じろりと赤城を睨《にら》んでやる。
「おいこら、サボってんじゃねーぞサッカー部。さっさと勧誘に戻りゃがれ。トロトロしてっとこの前買ってたゲームのタイトルばらすかんな」
「一瞬にして不機嫌になりやがって。……分かりやすいヤツだなあ」
「なんのことだよ」
相当|険悪《けんあく》な口調で言ったのだが……しかし赤城、意外にもこれをスルー。
「さあな。あと高坂、俺、サボってるわけじゃねーぞ。部長に許可もらってきたんだよ。ちっと妹と会う約束しててな」
「妹ォ?」
「そう、妹。おまえこの辺で見なかった? 俺の妹。新入生なんだけどさ」
「アホか。オメーの妹の顔なんざ知らねーよ」
当然の突っ込みを入れてやると、赤城は驚くべき台詞を言いはなった。
「大丈夫だ、世界で一番かわいいから見れば分かる」
「…………………………」
俺は思いきり引いてしまった。
し、真性の兄バカだコイツ……! 心底本気で言ってる顔だぜコレ……!
実はこの前アキバの深夜販売で会ったときから、薄々そうじゃねーかと思ってたんだよ。
だってコイツ、妹に頼まれたからって、わざわざ深夜の秋葉原までホモゲー買いに行っちゃうんだぜ? しかも女の子ばっかの列に並んで。
尋常《じんじょう》じゃないよ。絶対やばいって。
いやまあ俺も人のことは言えないけども! 俺も妹に頼まれて妹もののエロゲー二本買って、痛チャリこいで32キロぶっ飛ばして家に帰ったけども!
客観的に見て、どっちがより変態かといやあ――――……………………俺か。
ま、まあ俺のことは措《お》いといてさ。
赤城のやつは本当に変態だな! けしからん!
「赤城くんの妹さんって、そんなにかわいいんだ!」
「まあね。眼鏡かけててさ、すらっとした感じで。ちょっと田村さんに似てるよ」
麻奈実とちょっと似てるのに、世界一かわいいの?
赤城、おまえの審美眼《しんびがん》はいったいどうなっているのだ?
麻奈実のどこがすらっとしているのか、言えるもんなら言ってみやがれ。
ハァ。やれやれ、シスコンってのはつくづく病気だな――。
なんて恥ずかしいやつなんだ。妹がいるくせに妹が好きとか、気持ち悪いにもほどがある。
信じられねえぜ。全身がかゆくって、これ以上話してられん。
あと黒猫がスタスタ先に歩いていっちゃったから、さっさと追いかけねーといかんしな。
「どっちにしろ、そんな美少女なんざ見てねえよ。じゃあな」
「あっ、おい……」
俺は、ひらりと片手を振って踵《きびす》を返す。そのまま赤城を無視して黒猫を追う。
ケッ。
おまえの妹なんぞより、外見だけなら俺の妹の方がかわいいっつーの。
俺は麻奈実と一緒に黒猫を追いかけた。
すると、スタスタ早足で前を歩いていた黒猫が、突然ピタリと立ち止まった。俺は黒猫に追いつき、となりに並ぶや、声をかけた。
「悪いな。待っててくれたのか?」
「…………」
返答なし。
コレだよ……。ほんとおっかしいよな……最近は仲良くやれてたはずなのに。
なんで学校だと、初めて会ったころみたいな態度になっちゃうんだコイツは。
で? こいつは何で立ち止まったんだ? なんかどっか見てるようだけど。
黒猫の視線をなぞると、はたしてそこにあったのは、ゲーム研究会の勧誘グループだった。
「ゲーム研究会ねえ」
こんな部活あったんだ。
なるほど。ゲーム好きの黒猫のことだ、興味を惹《ひ》かれて立ち止まったのだろう。
ゲーム研究会のスペースは、机が六つくっつけてあり、その上にノートパソコンが三台おいてあった。でもって各ノートパソコンではゲームが起動しており、道行く人々が自由にプレイできるようになっている。
客寄せのパフォーマンスってところかな。そのへんでサッカー部がリフティングしてたり、吹奏楽《すいそうがく》部が楽器を演奏していたりするのと同じようなもんだ。
「どうぞ、よかったらワンプレイやっていってください」
俺たちがジロジロ眺めていたからだろう、ゲー研の部員だろう男子生徒が声をかけてきた。黒髪童顔の――見覚えがないので、二年生だろうか。
ディスプレイに目を落とすと、そこではシューティングゲームのデモムービーが流れていた。
いわゆる縦スクロールシューティング(俺だってこのくらいの用語は知っている)というやつだな。自機は女の子の形をしていて、ときおり会話イベントが挿入《そうにゅう》される形式らしい。
「このゲームって、もしかして部活動で作ったやつ?」
「そうですよ」
やっぱりな。市販品にしては、キャラクターの絵が下手くそだと思った。
「同人ゲームってやつか」
「ですね。こういうの作ってイベントに参加したりするのが、僕たちの主な活動なんです。ま、部費使って遊んでいるように見えちゃうかもですけど、ホラ、こういうのもブンカ活動の一環ってコトでひとつ」
あはは、と悪戯《いたずら》っぽく笑い、
「こうやってゲーム置いておくと客寄せになりますし、実際プレイしてもらえれば、僕らのことを分かってもらうのにはいいかなって」
などと人当たりのいい笑顔で説明してくれる。
ところで、俺が同人ゲームという単語を口にした瞬間、ゲー研部員がぴくりと反応した気がするんだが、同類だと思われたのだろうか。実際当たらずとも遠からずなんだけどさ。
「……ふん、いわゆる弾幕《だんまく》STGね。客寄せにしては、難易度が高い気がするけれど?」
ふと気付けば、黒猫がディスプレイで流れているデモプレイを至近距離で覗《のぞ》き込んでいた。
こいつは凄腕《すごうで》のゲーマーだし、そういえば同人ゲーム作りたいとか言ってたもんな。
「お、見て分かりますか。いやそれ、本当はウチの部長が入部テスト用に作ったやつなんですよね――。それがクリアできんようなやつはイランとか言って。けど実際のところ、そんなこと言ってられないじゃないですか。コアゲーマーなんて学校に何人もいやしないんですから、えり好みしてたら部員なんて集まりません」
はは、と頭をかくゲー研部員。
「なのでデモプレイはひどい難易度になってますけど、イージーモードもありますから、気軽にやってみてください」
「………あ、いえ、私は……」
コントローラーを差し出された黒猫は、しかしそれを受け取ろうとしなかった。
校舎の方を見たり、校門の方を見たり、コントローラーを見たり――何やら迷っている様子。
? こいつ、さっき早く帰りたいようなこと言ってたけど……。
俺が怪訝《けげん》に思っていると、麻奈実が黒猫を優しく促《うなが》した。
「黒猫さん、せっかくだし、やってみたら?」
「……でも……」
しかめっ面でゲーム画面を見る黒猫。どうやら凄《すご》くやってみたいらしい。縁日で、金魚すくいがやりたいのに、お小遣《こづか》いが足りない子供のよーな、実に未練《みれん》ありげなまなざしだ。
余裕がなくなっているせいか、麻奈実に対してまで素《す》の反応を返しちゃっている。
しかし早く帰りたいというのもウソではなさそうだ。バイト以外で、なんか用があるのかもな。で、迷っちゃってるってところか。やれやれ、メンドくさいやつだ。
「さっさとクリアしちゃえばいいんじゃないか? そんなに時間かけなくても、楽勝だろう? おまえならさ」
やや挑発《ちょうはつ》するように促してやると、ようやく黒猫は行動の指針を固めたらしい。
「……仕方ないわね」
こくりとうなずいて、コントローラーを受け取り、ディスプレイ前の椅子に腰掛けた。
ゲーム研究会部長作・入部テスト用弾幕STG『滅義怒羅怨《めぎどらおん》』。
「……えらいタイトルセンスだなおい」
「……お恥ずかしい限りです」
恐縮するゲー研部員。どうやらこのセンスはゲー研部長の独断っぽいな。
「じゃあ……始めるわね」
難易度選択。
黒猫が選んだのはもちろんイージーモードではなく、超難易度のハードモード。
「あ……いいんですか? それ、ほんとに難しいですよ?」
「問題ないわ」
あっさりと答え、ゲームスタート。
さて。黒猫がゲームをクリアするまで、しばらく得たねばならないだろう。麻奈実とだべりながら時間を潰《つぶ》すことにする。
「きょうちゃん、黒猫さんって、げーむ得意なの?」
「超|上手《うま》い。ま、見てな……たぶんクリアするぜ、これ」
「いやあ無理だと思いますよ……? 実は作った本人もクリアできてなかったですし」
オイ。
入部テスト用のゲームなのに、ゲー研部長本人がクリアできなかったってどういうこった。
あらゆる意味で破綻《はたん》してんじゃねーか。
「なあ。そういうのって、クソゲーって言うんじゃないの?」
「ははは……いやその、先輩、難易度が高いからって|=《イコール》クソゲーって決めつけるのはよくないですよ。コンボイの謎《なぞ》とかスペランカーだって、ある程度やり込んでそれなりの腕になれば、かなり遊べるゲームになりますし――って早!? もう一面クリアしたんですか!?」
ディスプレイでは、超大型の敵が、ばばばばばばばという轟音《ごうおん》とともに炎に飲み込まれていくところだった。ちょっと目を離したスキに、もう最初の面をクリアしてしまったらしい。
「密着してゼロ距離で撃ち続ければこんなものでしょう。驚くほどのことではないわ」
あっさりと答える黒猫。
「……それと、難易度が高い=クソゲーではないというのは私も同感よ。ただしこのゲームは、|嫌な感じに難易度が高い《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》から、正真正銘《しょうしんしょうめい》のクソゲーだと思うわ。高難易度の良ゲーというのは、往々にして死がモチベーションに繋《つな》がるものよ。ウィザードリィしかり、デモンズソウルしかりね。……対してこの、制作者の性格の悪さばかりがにじみ出てくるようなクソ弾幕《だんまく》からは、理不尽《りふじん》な苛立《いらだ》ちと不快感しか覚えないわ」
こんなことを言ってるくせに、一機も死んでないところはさすがである。
「で、ですよね。……一度発射されたらステージクリアまで延々と自機にまとわりついてくる上にボムでも消せない低速ホーミング弾とか、自機のスピードが強制的に三倍になる上操作が上下左右反転するステージとか、ただひたすらうざいだけですよね。ファミコンソフトじゃねーんですから、そういう突拍子《とっぴょうし》もない仕様やめましょうよって僕も言ったんですが……ってすいすいクリアしてるし。……よく死なないですね」
ゲー研部員も、黒猫の腕前にびっくりしているようだ。
そうして数分が経って、段々と待っているのにも飽《あ》きてきたころ。
黒猫のプレイを見ていたゲー研部員が、ため息をついて感心し始めた。
「はあ〜…………ううん、しっかし、今年は凄い新入生が次々と来るなあ……」
「というと、他にもゲーム上手いやつが来たのか?」
「ええ、実はさっきもあっさりハードモードをクリアしちゃった娘がいたんですよ」
「その娘はゲー研に?」
「ええ、なんとか説得して入ってもらえました」
へえ。意外なところに凄腕《すごうで》ゲーマーがいたもんだな。黒猫と同じ一年生か。
「ゲーマー同士、おまえと気が合うんじゃないか?」
「どうかしらね」
嫌そうな返事が来た。なんか今日は不機嫌だなあ。
と、そこで黒猫が、かたりとコントローラーを置いた。
「最終ステージまでクリアしたわ」
「嘘《うそ》!?」
仰天《ぎょうてん》して立ち上がるゲー研部員。
そんなリアクションが出るほどの難易度だったってことなんだろうが、
「いくら何でも驚きすぎじゃないか? 他にもクリアしたやついるんだろう?」
「い、いや……そうなんですけど……」
「なんだよ?」
ゲー研部員は唖然《あぜん》と顎《あご》を落っことしたまま、ぽつりとこう呟《つぶ》いた。
「は……ハイスコアが出てるんです。ついさっき大幅に更新されたばかりなのに……」
「それって凄いの?」
「凄いなんでもんじゃありませんよ! ちょ、あのっ、君――」
思いきり動揺しながらも、ゲー研部員は黒猫に向かって手を伸ばした。しかし黒猫は、さらりとその手をかわしてしまう。
「ふん。最初から最後まで、徹頭徹尾《てっとうてつび》クソゲーだったわ。制作者に死ねって伝えておいて頂戴」
強烈な毒を吐いて、くるりと俺の顔を振り仰ぐ黒猫。
「……さ、早く帰りましょう?」
「そ、そうだな。よし、行こうぜ、麻奈実」
「うん」
「んじゃ、そういうことで。悪いな」
手を伸ばしたままの体勢で固まっている部員にそう告げて、俺たちはその場をあとにする。
「あのっ……また、日を改めて会いに行きますから――」
そんな声が、背から聞こえてきた。
彼は黒猫をゲー研に勧誘することを、諦《あきら》めたわけではないようだ。
しかし黒猫は振り返ることもなく、前だけを見据えて歩いていく。
「…………」
俺はそのかたくなさに奇妙な感触を抱きつつ、その背を追って歩き始めた。
こうして始まった、桐乃のいない新たな日々。
戻ってきた、平穏で、少しだけ退屈な毎日。
しかし――
妹がおらずとも、騒動の火種は、このときすでに燻《くすぶ》り始めていたのである。
俺の、すぐそばで。
[#挿絵(img/oim05_0056.jpg)]
[#挿絵(img/oim05_0057.jpg)]
第二章
さて時が流れるのは早いもので、五月になった。俺の近況はといえば、まあ、相変わらずだ。とりたてて何があった、ということもない。
ある日は部屋で受験勉強にせいを出し、またある日は田村屋に顔を出して店の手伝いをし。
またまたある日は、沙織や黒猫と会ってだべったり、図書館で麻奈実に勉強を教えてもらったり。ついこの間は、沙織からもらったパソコンを一日かけてセッティングしたりしたな。
もちろんとなりの部屋からうるさいお喋《しゃべ》りが聞こえてくることもなくなったし、無理矢理エロゲーをやらされるようなこともないし、イベントに連れてけって騒がれることもない。
平々凡々、穏やかな毎日さ。
ただし、いつもどおりボケーっと空を見上げながら、『悪くねえ』と呟《つぶや》けるほど問題のない日々ではなかった。
桐乃のやつは相変わらず連絡寄越さなくて、沙織や黒猫に心配をかけっぱなしだしよ。
ん、まあそれはどーでもいいんだが。
もう一個、ちっと気になるっつーか……どうしたもんかなってことが、あってさ。
なにかっつーとだな……。
「ふぅ〜〜〜〜………………」
俺は教室の机に頬杖《ほおづえ》をついて、聞いた方がうんざりしちまうようなため息を吐《つ》いた。
いまは授業中。世界史の教師が黒板を埋め尽くす勢いで板書しやがるので、誰も彼もがノートを取るのに必死である。もう腕が疲れちったよ。
さあて、ちょっと休憩《きゅうけい》して目の保養でもしようかね。
という俺と同じ思考に到達したやつは結構多いようで、窓際席に座っている男子連中は、一人の例外もなく窓から校庭を見下ろしていた。一年生の女子が、体育の授業をやっているのだ。男子中高生ならば分かっていただけると思うが、気を緩めると一時間など一瞬で消し飛んでしまうので注意が必要である。
もっとも俺が眺《なが》めていたのは、不特定多数の女子たちの体操服姿なんかじゃない。
俺がジッと見ていたのは、体操服姿でへそをチラチラ露出しながら体操をしている黒猫の姿なんだ。勘違いされてしまいそうなので言っておくが、べつによこしまな気持ちのみで眺めていたわけじゃないんだぞ。
一年生たちは、二人組みになって準備体操をしているのだが、そんな中、一組だけ先生と組んで体操をしている女生徒がいる。
「………………あっちゃ〜」
誰あろう、黒猫である。
他の生徒二人組のように相手とお喋りをしたりすることもなく、いつもの無表情で、淡々とプログラムをこなしている黒猫。そんなあいつを眺めていると、
「…………あ〜〜〜も〜〜〜……なーにやってんだ、あいつはよォ〜〜〜」
もどかしい想いがこみ上げてきて、胸が苦しくなってくる。
陽光を拒絶《きょぜつ》しているかのような真っ白なふとももも、俺の気分を晴れさせてはくれなかった。
俺に懸念《けねん》を抱かせているのは、この一幕《ひとまく》に限ったことじゃない。
休み時間、移動教室で廊下を歩いているところを見かけたときも、黒猫は友達グループとは混じらず一人きりで歩いていたし。
麻奈実や俺と一緒に下校しているときも、クラスメイトから声をかけられるようなことが、まったくなくなった。一月前は、わりとそういう光景を見かけていたのにだ。
ぶっちゃけしょうがねえよな。付き合い悪いわ、しかも断り方がいちいちつっけんどんだわ。
おそらく休み時間とかも、いつもの調子で無表情|無愛想《ぶあいそう》を貫《つらぬ》いていたんだろうしさ。
そりゃあ嫌われるよ。自業自得《じごうじとく》だっつうの。
人付き合い下手なのは知ってるけど、もうちょっとどうにかならんのかね?
「どーよ新しいクラスは? 友達できた?」
「……ふん、あなたには関係のないことよ」
ある日の放課後。どストレートに聞いてみたら、予想どおりの台詞《せりふ》が返ってきた。
これは黒猫語研究の第一人者である俺に翻訳させれば「友達? できるわけないでしょうが。不快なことを聞いてこないで頂戴」という意味である。……不憫《ふびん》なやつ。
ベッドの上で枕を抱き、ぷいっとそっぽを向いてしまう黒猫。
ちなみにここは俺の部屋で、黒猫の他に沙織もいる。あれからこやつらは、ときおり俺んちにやってくるようになったのだった。沙織はいつもどおりの格好で、黒猫は制服姿。
俺の中で、だんだん黒猫のイメージが、ゴスロリから制服に変わってきた。
兄さん≠ゥら先輩≠ヨと、呼び方が変わったように。
「無関係ってことはないだろう。だっておまえ、この前だって――クラスメイトの誘い断ってウチ来たりしてたじゃんか。そんなことやってっから友達できねーんだよ」
「……ふっ、おあいにくさま。この私には、あんな連中に付き合っている時間はないのよ。そんなことをやっているから嫌われる? おおいに結構な話だわ。私だって嫌いよ」
「おまえなあ……」
やれやれ。強がりっつーか、自分で自分が強がっていることを認めてない感じだな、こりゃ。
本当はクラスになじめなくて寂しいくせによ。
ところが床に座って黒猫の台詞を聞いていた沙織は、「うふふ」と含み笑いを漏《も》らした。
「な、なんだよその嫌らしい笑顔は……」
「ふっふふ……いやいやいやいや。京介氏は実に鈍いですなあ……黒猫氏はつまりこうおっしゃりたいのですよ――『……クラスメイトと遊ぶより、あなたと一緒にいたいわ』」
「――――!?」
うっお、声マネ上手《うま》いなこいつ。
ほんとに黒猫がそう言ったように聞こえて、一瞬どきっとしちゃったじゃねぇか。
ばふっ! ベッドの上から、俺の頭に枕が投げつけられた。
「へ、変な解釈をしないで頂戴……」
「俺はなんも言ってねえって!」
あっちに投げろあっちに。
「でも勘違《かんちが》いしたのでしょう。そんなに顔を不細工に歪《ゆが》めて喜んで――いやらしい」
「俺は元からこんな顔だよ。悪かったな」
――なんて、冗談はさておき。
「話を戻すけど、やっぱよくねーだろ、いまの状況は」
「……っふ……何が問題なのかしら? 私はあえて自分から孤立した状況を作っているというのに。もしも組織≠フ人間が私を狙《ねら》ってきたときのことを考えると、みだりに親しい人間を作るわけにはいかないの」
「ウソつけ」
「……京介氏、ばっさり行きましたな」
だって明らかにウソじゃんよ。その理屈だと俺らと仲良くしているのはどうなるんだっつの。
黒猫は、目をわずかに細め、幽《かす》かに表情を歪めた。
「ウソじゃないわ。それに、人間風情に気を遣《つか》って、空気を読んで、こざかしく立ち回るのはそもそも性《しょう》に合わないのよ」
本当か? 空気を読んで、気を遣って、俺を励ましてくれたやつの台詞とは思えないな。
俺の意図を察したのか、黒猫は今度こそ完全に、不機嫌さを露わにした。
「……やれやれ。押しつけがましい話よね。『おまえ友達いないんだろ? 俺がなんとかしてやるよ』だなんて。余計なお世話という言葉を、あなたは学ぶべきだわ」
「むう……」
心中を言い当てられてしまった。
確かに、余計なお世話っちゃ、余計なお世話だよな。本人が強がりにせよ『これでいい』って言っているもんを『駄目《だめ》だ直せ』ってのは、独善《どくぜん》的に過ぎる。
ところが俺たちのやり取りを聞いていた沙織は、再び口元をω《こんなふう》にして微笑《ほほえ》む。
「ふっふふ……いやいやいやいや。黒猫氏は実に鈍いですなあ……京介氏はつまりこうおっしゃりたいのですよ――『かわいい後輩に、いっちょカッコいいところを見せたいぜ。バシッと悩みを解決してやって、エッチなお礼をしてもらっちゃうもんね』」
「したり顔でなんつー翻訳をしやがる! おまえは俺をそんな目で見ていたのか!?」
「……ばかな……京介氏、まさか下心がなかったのですか?」
「いやいや、後輩を思いやる台詞に下心がなかったという理由で、そこまで驚かれていることが俺にはショックだよ……」
まあこれも沙織流の冗談なんだろうけどさ。
あと黒猫、身の危険を感じたような表情で後退《あとずさ》りすんな。
「……あ、あなた……私に何をさせるつもりだったの……?」
「だから下心なんてないって! 毛布で脚を隠すな! 俺はおまえのパンツをチラ見したりしてないよ!」
「京介氏、なにゆえその位置からパンツが見えることをご存知なのです?」
「おまえはいま最低最悪の突っ込みをしたぞ!」
くそ、なんでこいつ、こんなときだけ切れ味鋭いんだよ。見えそうなことを指摘しただけで実際に見たわけじゃないっつーの。俺は半ば投げやり気味になって言い捨てる。
「はいはいはいはい――認めりゃいいんだろ? 認めりゃあさ。下心、ちょっとはありました! 先輩とか呼ばれて、嬉しくってさ。なんかこう、ここで悩みの一つでも解決してやって――もうちっと仲よくなれたらいいよなぁ〜って、正直、そういう計算がなかったとは言わないよ。でも、心配だったのも、なんとかしてやりてーって思ったのも本当で、それはウソじゃないんだぜ?」
ふん、とそっぽを向く。ちらっと二人の方を見ると、沙織はうんうんと悟《さと》ったような顔で微笑んでおり、黒猫はベッドの上でむすっと膝にあごをのせていた。
「うふふ、京介氏が吹っきれたときの態度、拙者、嫌いじゃないですぞ?」
「……よくもまあ、恥ずかしげもなく、本人を目の前にしてそういう台詞が言えるわね……。『下心があります』って、その宣言自体、セクハラではないのかしら……」
ぼそぼそ呟《つぶや》きながら、黒猫の頬が紅潮《こうちょう》していく。
最近分かったことだが、こいつは単に照れ屋なだけでなく、極度の恥ずかしがり屋でもある。
自分似のゲームキャラがハダカになりそうになっただけで、取り乱して金縛《かなしば》りになるくらいだから、相当なもんだろう。
エロ同人とか描いてるくせになあ。そういや誰かさんも、エロゲーマーのくせに、俺がエロサイト巡回してたくらいのことで阿修羅《あしゅら》になっていたっけな。
女ってのは分からん。
「と――も――か――く――だ。そーゆうわけだから、今日はその件で会議な」
意味は薄いが、あえて曖昧《あいまい》にぼかして言った。
黒猫の立場になって考えてみれば、友達同士の集まりで『自分がクラスで孤立している件についてどう対処すれば良いか』なんて会議が行われているのは気まずいだろう。
『余計なお世話よ』とも言いたくなるわな。
実際黒猫はかなり露骨《ろこつ》に嫌そうな顔をしていた。下心があるなんて言ったが、これじゃあ問題を解決してやったところで、好感度が上がったりはせんだろう。
そしてそれで構わないのだ。これは俺の独善でやろうとしていることなんだから。
嫌がられているくらいでちょうどいい。
と、そこで沙織が指を一本立てた。
「では、僭越《せんえつ》ながら、拙者から一つご提案というか……アイデアがあります」
「ほう、聞こうか」
「部活動に入ってみるというのはいかがでしょう? 拙者、コミュを開設してみてよく分かったのですが、同じ趣味なり活動なりを共有している人同士なら、やはり仲良くなりやすいと思うのです。そもそも拙者たちも、そうやって知り合ったわけですし」
「……なるほどな」
十ヶ月前、桐乃に同じ趣味の友達を作ってやろうとして、俺はSNSのコミュニティ『オタクっ娘あつまれー』に所属してみることをあいつに勧めたんだっけ。
沙織の案も、ようするに同じことだろう。黒猫の趣味に合うオタク系の部活に入って、同好の士を見つけたらどうかってこったな。
「……悪くないかもな」
黒猫は桐乃と違って、ことさらオタク趣味を隠しているってわけでもないんだし。
「この案、どうだ? 黒猫」
「……あなたが考えていること、想像が付くわ。例の、ゲーム研究会を連想したのでしょう?」
「まあな」
ご名答である。黒猫は何故かあいつらの勧誘を断り続けているようだったが、逆にあれだけ熱心に誘ってくるってことは、それだけ入部したらちやほやしてくれるってことじゃないか? まあゲー研って男|所帯《じょたい》な印象あるし、かわいい女ゲーマーが欲しいのかもしんないけど。
いや待て、それは問題だな。桐乃も以前、男のオタクが怖いって言ってたし……。
「……俺も入ってやろうか?」
「……いったいどういう思考をたどれば、そういう台詞が出てくるのかしらね」
ふと気付けば、黒猫が呆れ果てたような目で俺を見ていた。
「いや、部員が男ばっかだったりしたら、おまえ、心細いだろうよ」
「親バカなお父さんみたいですな」
沙織がブツと噴《ふ》き出した。
うるせえな、ほっとけ。
「あなたと一緒なら、私が安心できるとでも思ったの? ずいぶんと思い上がったものね。自分が、この私に好かれているという自信でもあるのかしら。厭《いや》だわ、気持ち悪い。見くびらないで頂戴」
「そう言われると言葉もないがな。この前さ、おまえと一緒に出版社に乗り込んだじゃんか」
「……それがなに?」
「おまえが居てくれて、心強いなって思ったんだよ、あんとき。………だから、逆のケースで……俺みたいなのでも、一緒にくっついて行ったら、少しはマシだろって……まあなんだ、悪かったよ」
口べたな台詞と共に詫《わ》びる。
「ふん」
黒猫は勢いよくそっぽを向いた。
「だいたいあなた、受験生じゃないの?」
「いや、そうなんだけどさ……」
「ふふふ。黒猫氏、ともかく一度見学に行ってみてはいかがです? それで気に入らなかったのであれば、入らなければいいだけのことですし」
と、沙織もフォローしてくれた。
さすがに上手いな。いい感じに妥協点《だきょうてん》を提示してくれた。
「…………」
黒猫はベッドの上で黙然《もくぜん》と考え込んでいたようだったが、やがて嫣然《えんぜん》と俺を睥睨《へいげい》してきた。
「……分かったわ。これ以上話を続けられるのもうんざりだし、一度だけ行ってあげる。その代わり、当然あなたもついてくるのよ? ………その………私のことが、心配なのでしょう?」
「了解」
俺は一も二もなく頷《うなず》いたよ。
二人が帰ったあと一時間くらいして、沙織から電話があった。
「どうした? 珍しいな、おまえが俺に電話してくるなんて」
『そういえばそうですな。いやなに、黒猫氏のことでちょっと』
「なんだ?」
『黒猫氏が、以前からずっと部活動の勧誘を断り続けていた理由についてでござる。あくまで拙者の想像なのですが……クラスメイトの誘いを断っていたのと同じ理由なのではと』
「……どういうことだよ」
『黒猫氏は、拙者たちと一緒にいる時間が減るのを嫌ったのかもしれないということです。彼女はアルバイトをしたり、創作活動をしたり……聞いてはおりませんが、他にも放課後に何か用事があることが多いようです。きっとこれ以上用事を増やしてしまうと、拙者たちと遊ぶ時間を削《けず》るしかないのですよ。だから――』
「部活には入らないし、クラスメイトに対しても付き合い悪いっつーのか?」
『もちろん人付き合いがあまりお上手でないという理由もあったでしょう。しかし、いみじくも京介氏が言っておりましたな? 「無関係ってことはない」と。……まさにそのとおりだったのではないかと思うのです。拙者たちとの関係を大切にしてくださった結果、クラスでの孤立を招いてしまった部分もあったのかもしれません』
「そっか……」
俺はしみじみと息を吐いた。
「あいつさ、桐乃がいなくなってから……家に来る回数、増えたよな」
『そのお気持ちは、分かるつもりです。拙者も――同じですから。いままで拙者たちは、きりりん氏と、黒猫氏と、京介氏と……そして拙者の四人で一かたまりになっておりました。それがいつの間にか、自然な形になっていて、楽しく騒がしく日々を過ごしていた。なのに……一人、かけてしまって……それで、怖くなってしまったのです。このままわたしたちの関係が崩《くず》れて、なくなってしまうのではないか、と』
沙織は自らの心境を語り、黒猫も同じ気持ちではないかと言っているのだ。
こいつ、そんなふうに思っていたのか……。だから、桐乃がいなくなってからも、俺のところにちょくちょく来てくれていて……。
だけどこいつ……前々から思ってたんだけど、どうしてこんなに黒猫の気持ちを察することができるんだろうな。ちょっとした違和感があった。だってこの言い草はまるで――
「おまえさ。その、友達、多いんじゃないのか?」
『……そうでもありません。そうでもないのですよ、京介氏。もちろんコミュのメンバーたちは大切な友人ですし、仲間でもあります。オフ会で盛り上がったり、チャットで楽しくお喋《しゃべ》りしたり――とても上手くやっています。ですが、リアルでちょくちょく会って遊んだり、個人的な悩みごとを相談してもらったり……そういった深い付き合いをしているのは、拙者にとってきりりん氏や京介氏や、黒猫氏だけなのです』
普段のこいつからは絶対に出てこないような、自嘲《じちょう》めいた口調だった。
『友達というのは、永遠にそばにいてくれるものではありません。卒業、留学、喧嘩《けんか》、事故、転校、病気、誤解、甘え、楽観……ちょっとしたきっかけで、いなくなってしまうものです。それを、わたしはよく知っています。だからなのでしょうね。こんなにも不安で、怖いのは』
謎に包まれていた沙織の内面を、このとき、かいま見た気がした。
ちょっとだけ、分かった気がする。だからこんなに優しいんだ、こいつは。
ずっと続くものではないからこそ、友達がそばにいてくれる間は、できる限りのことをしてあげたい。一緒にいることができる時間を、幸福を、大切にしたい。
そんなふうに考えているのかもしれない。
快活なムードメーカーであるこいつも、脆《もろ》く儚《はかな》げなこいつも、どちらも同じ人間なのだ。
それを、改めて実感した。
『京介氏。黒猫氏のこと、くれぐれもよろしくお願いします。拙者にできることがあるのなら、いつでも遠慮なく頼ってくだされ。そうしていただけると、拙者も嬉しい』
「――ああ、任せろ」
俺は力強く応えてやった。
こんなにやる気になったのは、しばらくぶりだったよ。
ゲーム研究会の部室は、部室棟の二階にある。部室棟というのは、名前のとおり文芸部やら吹奏楽部《すいそうがくぶ》やら文化系の部室が並んでいる建物のことだ。
「ここか」
俺たちは二階廊下の突き当たり付近で立ち止まり、扉のプレートを見上げた。
プレートには、ゲーム研究会とある。
「さあて……行くか?」
確認すると、黒猫はこくんとうなずいた。
ガラッ。
中に入ると、異様な光景が目に飛び込んできた。なんと表現すればいいのだろう……。
そうだなあ……まず目に入ったのは、床をのたうつ黒い配線群。いわゆるタコ足配線というやつだ。
長机を幾《いく》つもくっつけて大きなテーブルにしてある。それが、三つくらいあるのかな?
机の上にはディスプレイや、さまざまなゲーム機、ノートパソコンなどが並んでいる。
デスクトップパソコンの本体は、スペースを有効利用するためか、机の下に置いてあるようだ。春だというのに冷房がかかっていて、パソコンから出ているのだろう熱気と相殺《そうさい》しあって、暑いのか寒いのかよく分からん空気を漂《ただよ》わせていた。
部屋にいる部員は、四〜五名。全員男だ。彼らはそれぞれキーボードやマウスやコントローラーを操作して、思い思いの作業に興じていたが、手前にいた何名かは俺たちが入ってきたことに気付いたようで、こちらに視線を送っていた。一番手前に座っていた男子生徒が、バッと立ち上がって寄ってきた。
「どうも、お待ちしてました」
「ああ」
黒猫が喋らないので、俺が代わりに応えた。
以前、校庭で勧誘活動をしていたやつだ。俺は部活見学を申し込むにあたって、こいつに声をかけておいたのだった。
「改めまして、二年の真壁《まかべ》です」
「三年の高坂だ。こっちは一年の五更」
俺の紹介に合わせて、黒猫がぺこりと会釈《えしゃく》する。
「今日はよろしく頼むよ」
「こちらこそ」
真壁くんは、なかなか礼儀正しいやつだ。やや童顔で、いかにも真面目そうな雰囲気《ふんいき》である。オタクっぽいといえばオタクっぽいが、こいつみたいなやつなら、黒猫も怖がらなくていいんじゃないかと思う。
「お礼を言わせてください、高坂先輩。五更さんを説得して連れてきてくださって、本当にありがとうございました」
「礼なんていいって。ここに来たのはあくまでこいつの意志だし、まだ入部するって決めたわけでもないしな」
「それでも。僕たちの活動に興味を持ってくださっただけで嬉しいです。じゃあ、さっそく部長を紹介しますね」
「あれ、おまえがゲー研の部長じゃないの?」
二年だし、こんなにしっかりしているやつは珍しいから、てっきりそうだと思っていたんだが。どうやら部長は別にいるらしい。
「あはは、僕はそんな、下っ端《ぱ》ですから。ええと、こちらです」
真壁くんは俺たちを先導して、部室の奥に向かった。奥に向かうにつれて、雑然とした感じがどんどん強まっていく。しかもエロゲーの箱とかフィギュアとかが、普通に机の上に置いてあったりする。これだけでもゲー研の部長ってのが、相当なオタクだと想像が付く。
しかも山積みになっているエロゲーの一番上にあるやつ。
「……『おにぱん』じゃねぇか」
で、こっちのフィギュアは、ヒロインの『ファナ』か……。
「え? なにかおっしゃいましたか?」
「いや、なにも……」
俺ってやつは、なんで真性オタクのゲー研部長と同じゲームをプレイ済みなのだ。やばいな。いつの間にか、引き返せない場所まで来てしまっているのかもしれん。
「部長。高坂さんと五更さんがいらっしゃいました」
真壁くんが、部室の最深部で立ち止まり、声をかけた。
何やら猫背《ねこぜ》で作業中だったらしい相手は、のっそりと身体を起こし、
「おう、ご苦労」
真壁くんにねぎらいの言葉をかけて、こちらを振り向いた。
……この人、どっかで見たことあるよーな気がすんな。
俺は目を細めて部長の顔を凝視《ぎょうし》した。真っ黒な髪の毛、眼鏡をかけていて、痩《や》せていて……。何だっけなあ……絶対どっかで……。思い出せそうで思い出せん。彼は俺たちにあいさつをする。
「三年の三浦《みうら》だ。ゲーム研究会の部長をやってい――」
俺の顔を見とがめるや、部長の台詞が途中で止まった。
怪訝《けげん》な顔で眉《まゆ》をひそめ――次の瞬間、ハッと目を見開く。
[#挿絵(img/oim05_0076.jpg)]
「あ! お、オマエーどっかで見たような気がすると思ったら!」
「え?」
「エロゲの深夜販売んとき、オレのファナたん号を貸してやったヤツじゃねーか!?」
「ああ――ッ!!」
アンタ、あのときの! オタジャケットの人か!
どうりで! 俺と同じゲーム持ってるわけだ! 思い出したよ! そういやこんな顔だったっけ! つうか学生……同級生だったのかよ!? こんな老け顔の高校生が存在していいの!?
俺と部長がお互いに指差しあって驚いていると、黒猫が汚物《おぶつ》を見る目で聞いてきた。
「…………お知り合い?」
「え? いや、知り合いっつーか!!」
なんと説明したらいいものやら。俺が言葉を選んでいたら、部長が「なにスッとぼけよーとしてんだコラっ!」と凄《すご》んできた。
「チャリンコ返せよてめエ!」
「ぎゃ――っ! すいませんッ!!」
バシン! 俺は両手を合わせて謝罪した。
「俺、あのあと何度かアキバの駅まで返しに戻ったんすけど! 全然会えなくて……!」
「あ、そーなん?」
部長の態度から急速に怒りの色が消えた。彼は後頭部をぼりぼり掻《か》きながら、
「いやまあ、なんだ、返そうとしてくれてたんならいい。よく分かんねーけど、妹さんが大変だったんだろ? フハッ! そういやあんときゃオレも、カッコつけるのに夢中で住所も名前も言わなかったしな! そら返せなくたってしょーがねーや!」
「……本当に申し訳ない」
俺は恐縮《きょうしゅく》して何度も頭を下げた。
うう、罪悪感で胸が苦しい。
絶対返しますって宣言しておいてこのザマだったわけだからな……。最悪だろ、俺。
部長は、さながら嫁にやった娘を心配するような口調で言う。
「いいっつってんだろ。……それよりよ、オレのファナたん号は……元気にしてるか? 風邪とかひいたりしてないか?」
「安心してください。ウチのガレージに、ビニルシートをかぶせて置いてありますから」
隣町の自転車屋まで運んで、ちゃんとメンテもしてもらったよ。大切な預《あず》かり物だからな。想像してみるがいいぜ。自転車屋のお姉さんに、痛チャリを渡す俺の勇姿を。
「よっし、じゃあ今日取りに行くわ」
「了解っス」
俺と部長の会話を、他の部員たちがチラチラ気にしている。
「え〜〜〜〜と…………部長。高坂先輩とはどういう?」
部員たちを代表して、真壁くんが問うてきた。
深夜販売で会ったオタジャケットの人=ゲー研部長は、すっと立ち上がるや、俺の肩を馴《な》れ馴れしく抱いて、八重歯《やえば》を剥《む》き出しにして笑った。
「何を隠そう、オレらは同じ女を愛した兄弟ともいうべき仲でなあ!」
「誤解を招く言い方はやめてくれ!?」
黒猫の俺を見る目がどんどん冷たくなっていくだろ!
真壁くんが半眼で部長を睨《ね》め付け、頬《ほお》を引きつらせた。
「大丈夫ですよ高坂先輩。部長の言動がトチ狂ってるのはいつものことですし。もう僕ら分かってますから。要するにエロゲーの話なんですよね? 高坂先輩と部長は、同じ二次元美少女を愛しちゃってる仲間であると、つまりそういうことなんでしょう?」
「違う! 肝心なところの誤解が解けてない!」
下手に話が通じちゃっている分、余計タチが悪いなこいつ。
「あれっ、抱き枕とか集めてる同好の士じゃないんですか? 仲間というから、てっきり高坂先輩も部長みたいに二次元キャラとマジ恋愛してるのかと」
「俺は普通に三次元の女の子が好きだよ!」
人になに言わせてんだてめえ! そして学校ん中でなに言ってんだよ俺!
そんな俺を、黒猫は氷点下の視線で射抜いていた。
「……気持ち悪い話はそのへんにしておいて頂戴。耳障《みみざ》りよ。簡潔に説明なさい。結局どういう知り合いなの?」
「この前、エロゲーの深夜販売に並んだときに知り合ったんだよ」
しょうがなく事実だけを述べた。黒猫ならば『どうせ妹に頼まれたんだな』と察してくれるはずだ。ていうか察してお願い。
俺の説明に、部長が「そうそう」と同意する。
「あーそうだ、会ったらこれ絶対聞こうと思ってたんだケドよ。結局あのあとどうなったんだ? 不治の病に侵された妹さんに、無事エロゲーを届けられたんか?」
「あんたの中ではそういう設定になってたんすね……」
「……不治の病の妹にエロゲーを届けるって……いったいなんの話をしているんです?」
真壁くんの氷の突っ込みに、どう返していいのか分からない。
確かに俺の妹は、『妹|萌《も》え』という不治の病に侵されていると言えないこともないけれど。
俺と部長の会話を傍《はた》から聞いてたら、意味不明すぎる。
まあ深夜販売んとき、詳しいことなんも言わなかったもんなあ俺。
「ええっと……なんというか説明するのが難しいんですけど……無事、届けられましたよ。三浦さん、改めてお礼をさせてください。あのときは、ありがとうございました」
俺が頭を下げると、部長は「いーよいーよ」と手を振った。
彼はケラケラ人なつっこく笑いながら、俺の肩をばんばん叩《たた》く。
「まあとにかく、高坂………だっけ? こいつとオレは、超仲良しってわけ」
「名前も知らなかったのに超仲良しなんですか? まあいいですけど……」
真壁くんの台詞には、いちいち諦観《ていかん》がこもっている。
こんなやり取りを、いままでに何度も何度も繰り返してきているのだろう。
「そうだ高坂先輩。きっと疑問に思っているでしょうから説明しますけど、この人何回か留年してますから。老け顔なのはそのせいです」
なるほどそうだったのか。
ボケと突っ込みのみならず解説までこなせるとは、なんて優秀な進行役なんだ真壁くん。
「くら真壁、勝手に人の経歴を暴露すんじゃねえよ。照れるじゃねーか」
「照れなくていいですから、恥じ入ってさっさと卒業してください。僕が一年のときからすで部長やってましたよね。さすがにもう飽《あ》きたでしょう?」
「毎回思うんだが、オメーの突っ込みには潤《うるお》いというものがねえな。高坂を見習え高坂を」
部長はようやく俺の肩から手を離し、腕を組んでからからと笑った。
実によく笑う人だ。しかも会ってすぐだってのに、俺のことは呼び捨てになっているし。
「期待の新人に加えて、まさか兄弟とまで再会できるとはな。まったく今日はいい日だぜ」
「俺も会えてよかったっすよ」
これは僥倖《ぎょうこう》かもしれない。
ゲー研部長の三浦さんは、俺の恩人で、見てのとおり変人ではあるが――
とてもいい人だ。俺の見る目≠信じるならば、だが。
かわいい後輩の預け先としては、とりあえず信頼が置ける。
「…………」
肝心の黒猫は、さっきからずっと、超冷たい視線を俺と部長に向け続けているけども。
「な、なんだよ?」
「……別に……。私が知らないうちに、ずいぶんオタクになっていたのね、先輩」
返す言薬もなかった。一年前の俺がいまの俺を見たら、どう思うだろう。とても同じ自分だとは信じてくれまいな。
「さあ――てっと」
部長は盛大にのびをしてから、くい、と眼鏡を指で押し上げた。
「ゲーム研究会にようこそ。歓迎するぜ、お二人さん」
俺たちは部長からゲーム研究会の活動内容について説明を受けることになった。
「え――っと……どっから始めたもんかな。真壁、おまえどこまで喋《しゃべ》ったの?」
「同人ゲームを作って、イベントに参加したりしてるって、その程度は」
「そっかそっか。ちなみに同人とか、イベントとかって、二人とも分かるクチ?」
そう聞かれたので、俺は「分かりますよ、一応は」と黒猫のぶんまで答えた。
「行ったことは?」
「俺は一度だけ。こいつは何度も参加してるみたいっす」
「じゃあそのへんの説明はスッ飛ばしてオッケーだな。話が早くていい感じだぜ。えーと、オレらのメイン活動は同人ゲーム作りで、まあ名目上は文化活動ってコトになってる」
部長は周囲を見渡して、
「で、ゲーム制作なんだけど、毎回全員で作ってるわけじゃねーんだ。ていうか、幽霊部員が結構多くて、毎日来ているのはオレらの他に、そこにいるやつらくらいのもんでな」
「「ういーっす」」
と、部室の片隅でPC作業をしていた二人組のデブが、俺たちに向かって手を挙げた。
部長は俺たちに視線を戻し、
「今度、部員が全員集まる新歓会《しんかんかい》ってのがあっからさ、そんときにちゃんと紹介するよ」
「うす」
幽霊部員が多いっつーと、結構いい加減な部活なのかね。
真壁くんが俺の心を読んだように、補足説明をしてくれた。
「自由というか、ゆるめの部活なんです。ただ、いい加減というわけではなくて、それぞれ各自で自分の作りたいゲームを作ったり、勉強したりと頑張っているんですよ」
「別にエロゲーやっててもいいよ。なあ真壁?」
「部長、空気読んでくださいよ。僕がゲー研のいいところを知ってもらおうとしているのに、台無しじゃないですか。あと部室でエロゲーをやるのは禁止だといつも言っているでしょう。なんでわざわざ外でやる必要があるんですか。家でやってください家で」
「野暮《やぼ》なことを聞くなよ真壁。……愛する女とは、いつでも一緒にいたいものだろう? 自慢じゃないが、オレは休み時間の教室でもプレイしているぞ」
相変わらずクレイジーな人である。同じクラスじゃなくてよかった。
「カッコよく言っても気持ち悪さは軽減できてませんよ部長。女の子もいるんですから自重してください」
「あーうるせえ。オメーはオレのおかんかっての」
このやり取りを見ただけでも、部長と真壁くんの部内での位置づけが分かろうというものだ。
「つーか飾ったって仕方ねーだろ。誰が見てもオレらの部活はいい加減だよ。ちゃんと実状知ってもらって、そんで納得して入ってもらわなきゃ意味ねーだろ? なあ?」
「……そうかも知れませんが、それにしたって言い方というものがあるんです。ええと……高坂先輩、部長はあんなことを言っていますが、ちゃんと真面目にゲーム作りをしている人もいるんですよ? もちろんゲームの話をしたいだけの人や、たまにしか来ない人もいますけど」
「うん、なんか、ずいぶん軽いノリだってのは分かったよ。ただしそんな中でも、頑張って活動しているやつはいると」
「はい」
「ってことはさ……俺、三年で受験なんだけど、幽霊部員っていうか、たまに顔を出させてもらうような感じでもいいのか?」
「大歓迎です。打算的な話をさせてもらいますと、幽霊部員でも部費の足しにはなりますから」
そういうことなら、もし黒猫がこの部に入るようなことになったらそれでいこう。
俺は、さっきからずっと黙っている黒猫に向かって言った。
「だってよ」
「…………」
黒猫はしばし、考え込むように俯《うつむ》いたり、部員たちの様子を眺めたりしていたが、やがて部長の顔を見上げて呟《つぶや》いた。
「じゃあ………それほど熱心にゲーム作りをしているわけではないのかしら?」
「そんなことはないッ! 少なくともオレは、全力でゲームを作っているぞ」
部長はぐいっと胸を張った。その言葉にウソはなさそうだ。
黒猫は感情のこもらない声で質問を続ける。
「……制作ジャンルは? やはりSTG?」
「いいや、何でも作るよ」
「制作環境は?」
「たいていのモンは揃《そろ》っているはずだ。機材とソフトと――あと本な、専門書の類《たぐい》。あの棚にある本は全部、部員なら自由に持ち出しオッケー」
『持ち出しオッケー』というフレーズに、黒猫がぴくっと反応した。
「……部費でまかなえる額ではないんじゃないの?」
「そりゃそうだ。自腹で買ったんだよ。ほら、やっぱ中高生くらいの年齢だとさ。数千円する専門書を気軽に買えるほどの金はねーし、フォトショップみてーに高価なソフトは、触りたくても触れないやつらたくさんいるだろ。オレもそうだったし」
自分も中高生のくせに、大人みたいなことをいう部長だった。
実年齢は幾つなんだろうこの人。
「いや、ほんとにやる気あるやつは、自分でバイトしたりして制作環境整えるんだろうけどさ。勉強すんのにも金がかかるってのは、もどかしいよな。オレ、一年のとき引っ越しのバイトやりながら考えたのよ。こんな七面倒くせーことせんでも、部室に行けば制作環境がバシッと揃ってて、ゲーム作りたい、勉強したいっつー仲間もいて――そういう部活があったらいーのになって」
部長は八重歯を見せて「ヒッヒッ」と不気味に笑いながら、実に簡単そうにこう言った。
「で、作ってみた」
「………………そう」
黒猫は再び黙り込んでしまう。ゆっくりと、部屋にある機材類や、本棚などを見回しているようだ。
黒猫が、ゲー研の由来を聞いてどう思ったのかは知らない。
だが、言いたいことなら大体分かるつもりなので、代わりに言ってやることにした。
「こいつ、ゲーム制作に興味があるんですよ」
「ほう。で、何ができるんだ? スクリプトは打てるのか? イラストは描けるか? 曲は作れるのか? 他に何もできないからって、シナリオが書きたいなんて言うんじゃあるまいな?」
ぺらぺらペら――と、よく分からない単語を並べてくる部長。
黒猫はあっさりとこう答えた。
「……ひととおりは」
「ひととおりって…………全部できるってことか?」
「……そのできる≠ニいうのが、どれくらいのレベルを指しているのかは知らないけれど……少なくとも、ツールの使い方からいちいち教えてもらう必要はないわね」
やや弱気な口調の黒猫ではあったが、部長は「はぁ〜〜」と感心したように吐息《といき》した。
「おいおい真壁よ。掘り出しもんじゃねーの、この娘《こ》?」
「だから言ったでしょう? 期待の新人ですよ、って」
真壁くんは誇らしそうだ。喜んでいるところ悪いんだが、一言|釘《くぎ》を刺させてもらおう。
「まだ入るとは言ってないっすよ、こいつ」
黒猫は、そのへんにあった専門書を取って、ぺらぺらめくっている。
そんな彼女に問いかけた。
「……どうする? それほど厳しく拘束《こうそく》される部じゃないみたいだし……。ためしに、入ってみるか?」
「……ここには、私の持っていない機材やソフトも揃っているようだし。ある程度勝手にやれるようだし。家で一人でやるより、少しはマシかもしれないわね。……創作に割いていた時間を、多少こっちに割り振ってみるのも悪くないかも……」
おお、と部長と真壁くんが、顔を見合わせて表情をほころばせる。
俺は内心、「くくっ」と笑ってしまう。なぜなら、このあと黒猫が取るであろう態度に予想が付いてしまったからだ。
「喜ばないで頂戴《ちょうだい》。役に立たないと分かったらすぐにやめるわ。……私はヒマではないのよ」
ほうら、照れ隠しがきた。
そういうわけで、俺と黒猫は、週に二回ほどゲー研の部室に顔を出すことになった。
黒猫はなんだか忙しいらしいし、俺は俺で受験生なので、過に二回くらいが精一杯だったのだ。そうそう、部活に入るに際し、黒猫に同じ趣味の友達を見つけてやるという本命の目的があったわけだが。正直どうなることやらという感じである。
あの部、ぱっと見女の子がいなかったのだ。やっぱさ、せっかく友達作るなら同性で、同級生――理想をいえばクラスメイトが望ましいと思うんだよ。だってじゃないと、黒猫はずーっと体育の二人組みであぶれ続けるわけじゃん? そういうのがイヤで、俺は動いてんだからさ。
部室から出て、廊下を歩きながら、それとなく黒猫に聞いてみた。
「同じクラスのやつとかいた?」
「……さあ? クラスメイトの顔なんて、いちいち覚えていないもの」
これである。そりゃ友達できないよ。
……しょうがねえな。いつもの作戦≠ナいくか。
いつもの作戦≠チて何かって? そりゃ、アレですよ――他力本願《たりきほんがん》作戦。
俺の脳裏にはすでに、今回の件で頼るべき相手の顔が、明瞭《めいりょう》に浮かび上がっていた。
で、翌日の昼休み。俺はさっそくそいつ≠ノ会いに、二年生の教室まで赴《おもむ》いた。
「え? うちの一年生部員に、女子がいるかどうか……ですか?」
「おう。おまえなら把握《はあく》してるだろ?」
そう。俺が頼ってみようと考えたのは、ゲー研の部員である真壁くんである。
彼は首をかしげて質問を投げてきた。
「なんでそんなこと聞くんです? ナンパでもするつもりですか? かわいい彼女がいるんでしょうに」
「は? 彼女?」
「五更さんのことですよ。違うんですか?」
意外な台詞だったので、俺は一瞬答えに躊躇《ちゅうちょ》してしまった。
「いや……違うけど。え、そう見えたか?」
「はい」
見えたらしい。そっか。そう、見えちゃうのか……。ふーん。
「まあいいや。なんでこんなこと聞くのかっつーとさ」
「分かります。周りが男ばかりでは、五更さん、さすがに居づらいですよね」
しかし話が早いやつだな。助かるけどよ。
「そういうことでしたら、一年生に赤城《あかぎ》さんという女の子がいますよ」
「…………あ、あかぎ?」
「はい。赤城|瀬菜《せな》さんという、眼鏡をかけた子です。先日、五更さんの他にもゲーム上手《うま》い新入生がいた――っていう話をしたと思うんですけど、その子が赤城さんです。……あれ? どうかしましたか?」
「いや……なんでもない」
むう……聞き覚えのある名字だな。
「その娘って、俺たちが部室に行ったときもいた?」
「いえ、いませんでしたね」
「ふうん。で、他にはいないのか? 同じクラスじゃなくても、一年生の女子でさ」
「いないですね。やっぱり女の子は漫研の方に行ってしまうみたいで、なかなか……」
「そっか」
じゃあ、なんとしても、その聞き覚えのある名字の子と黒猫を、上手いことくっつけねーとならんわけだ。
「ちなみにどんな娘なんだ?」
「赤城さんですか? そうですねえ……なんというか、パッと見、とてもオタクっぽくない娘です」
「ふーん。でもさ、その、結局……オタクなんだろ? そもそもゲームが上手いって理由で、おまえが勧誘してきたんだからさ」
「ええ――そのはずなんですけどねえ」
真壁くんは苦笑している。
「彼女、ゲームの腕前は凄《すご》いんですけど、全然ゲームの話とかしないんですよ。部室でも、ひたすら専門書やパソコンとにらめっこしている感じで……僕自身彼女と話したことはあまりないんです。……なんで入ってくれたのかなって、いまさらながら不思議なんですよね」
「付き合い悪い娘なのか?」
「うーん。ほら、ウチ他に女の子がほとんどいませんし。だから話しにくいってのもあるんじゃないですかね」
「ああ、そういうことか。男所帯に女の子が混じったら、そりゃ、大変だよなあ……」
「そうなんですよ。ですから、五更さんに入ってもらえたのは本当に僥倖《ぎょうこう》だったんです。二年にも女の子はいるんですけど、ほとんど来てくれないものですから」
なるほど。真壁くんが、必死になって黒猫を勧誘していた理由が少し分かった気がする。
単純に部に凄腕《すごうで》ゲーマーの女の子が欲しいというだけでなく、部で孤立しがちな後輩を、なんとかしてあげたい。そんな想いがあったのかもしれない。
だとしたら。俺たちの目的は、一致しているのかもしれないな。
「その赤城って娘にしても、五更にしても、部内に女友達ができるのはいいことだよな」
「はい、もちろんです」
状況確認終了。俺たちは対面したまま、しばし黙考《もっこう》した。
やがて真壁くんが、ぽんと拳《こぶし》で掌《てのひら》を叩《たた》いた。
「そうだ。それなら、こういうのはどうです?」
「ん?」
「新歓会ってご存知ですか?」
「なんか部長が、そんなよーなこと言ってたな」
「このくらいの時機になると、各部活で新入生を歓迎するパーティみたいなものを開くんです。うちでも今週末にやる手はずになってます。で、そのときに五更さんと赤城さんで近い席に座ってもらえば、話が弾んで一気に仲良くなれるんじゃありませんか?」
たぶんなれない。真壁くんは、黒猫のコミュニケーション能力を買いかぶりすぎている。
その案を採用するなら、近くでフォローしてやる必要があるだろう。
「そうだな……。いいアイデアだと思う」
「じゃあ、それでいきましょうか」
「ああ。いや、悪いな。会ったばかりなのにこんな相談しちまってさ」
「構いませんよ。かわいい後輩たちのためですからね」
真壁くんは柔らかく微笑んだ。
やれやれ。どうにも俺の周りには、頼りになる年下が多いらしい。
その日の放課後、俺はいつものように麻奈実と連れだって下校しようとしていた。ちなみに黒猫とは別に待ち合わせをしているわけではなく、途中で会ったら一緒に帰る程度の関係。
あいつはたいてい早く帰ろうとしているので、ホームルームが終わったらすぐに下駄箱に直行すれば、会える可能性が高いのだった。
ってなわけで、今日も下駄箱に向かって急ぎ階段を下りていると、一階と二階の中間にあたる踊り場で黒猫と鉢合《はちあ》わせになった。しかし彼女は、帰ろうとしていたわけではないらしい。
ムスリと無表情で、箒《ほうき》を使っていた。
「あ、おまえ今日掃除当番なの?」
「………そうよ」
ちらりとこちらに一瞥《いちべつ》を向ける黒猫。その間も手は止めず、さっさっと踊り場を掃《は》いている。
なかなか手際が良いのは、家で日常的に掃除をしているからだろうか。
「他の階段掃除の人たちは?」
麻奈実が首をかしげて聞いた。
ところが黒猫は質問が聞こえなかったみたいに無視し、作業を続けている。
……ふーん。俺はしばし考えを巡らせ、麻奈実に向かって言った。
「ちっと待ってろ」
俺は階段を下りて廊下を直進、校舎に二つあるもう一方の階段へと向かった。
その階段を一番上までのぼり、廊下を直進、元の階段へ。
階段を下りて、麻奈実と黒猫がいる元の場所へと戻ってきた。
……やっぱり、俺の思ったとおりだ。
「突然どうしたの? きょうちゃん?」
「なんでもねー、行こうぜ」
俺は麻奈実を引き連れて、てきぱきと掃除をこなす黒猫を置いて、その場を後にした。
十分に距離を取ってから、改めて切り出す。
「なあ麻奈実」
「うん」
一年生の階段掃除≠フ担当区域は、黒猫が掃除をしているこの階段と、廊下の向こう側にあるもう一方の階段の二つ。
「いま、向こうの階段も見てきたんだけどさ。誰もいなかったよ」
「そっか」
それだけで察したのだろう、麻奈実の表情が憂《うれ》いを帯びた。
他の掃除当番の連中は、黒猫一人に掃除を任せて、みんな帰ってしまったらしい。
別に珍しいことじゃないし、いじめってほど深刻なもんでもないだろう。
単にめんどくせーからサボったのかもしんねーし、仮に悪意があってやったのだとしでも、いつもいつも早く帰ってしまう付き合いの悪いクラスメイトに、ちょっとだけ意地悪《いじわる》をしてやろう――ってなところだろうな。いつか人非人《にんぴにん》が俺に仕掛けてきた『エロCG&エロ本即死トラップ』と比べれば、かわい過ぎるくらいの悪戯《いたずら》だ。
てか繰り返しになるけど、入学直後の大事な時機に、ずっと付き合い悪くしていた黒猫も悪いのだから、自業自得な部分もある。同情の余地はない。ないのだが――
「はい、きょうちゃん。箒とちり取り持ってきたよ」
「き、気が利くな」
たまに……俺の心はこいつに筒抜《つつぬ》けなんじゃねえかと思うときがあるよ。
黒猫が掃除をしているのとは逆の階段を、二人がかりで掃除する。
あらかた片付いて、踊り場のゴミを集めていたところに、黒猫がやってきた。
彼女は俺たちを見つけるや、目を一瞬大きく見開き、そして、キッと目付きを険しくした。
「…………何をやっているの、あなたは」
「見てのとおり、階段掃除」
俺はしれっと答えながら、ちりとりのゴミを、麻奈実が広げたゴミ袋にざあっと捨てる。
そんななんでもない態度が気に障《さわ》ったらしい。黒猫の口調がより厳しいものになった。
「…………気に入らないわね。哀れんでいるつもり?」
「なんのことだ?」
「とぼけないで。私が一人で掃除しているのを見かねて、それでこんなことをしたのでしょう? 余計なお世話よ。言われなければ分からないの?」
そう言うと思ったから、こっちの階段から掃除を始めたのである。
「そりゃ悪かった。でも、もう掃除しちまったしなあ。ま、今日のところは許してくれよ」
「……っ」
ぎり、と下唇を噛みしめる黒猫。プライドの高いこいつのことだ、こういう形で親切を受けるのはイヤなもんだろう。だが俺たちは、イヤがられることが分かっていて、親切の押し売りをしているのだ。沙織ならもっと上手いこと、相手を怒らせずにやれるんだろうが、俺にはこんなやり方しかできない。そこは申し訳ないと思うよ。
でも……まさか、ここまで怒るとは思わなかったな。
「お礼なんて言わないわよ」
「もちろんだ。これは俺たちが勝手にやったことだからな」
そこで黒猫の両目がきゅっと細くなった。微妙な間があってから、彼女は重い声を紡《つむ》ぐ。
「私のことが心配なのはウソじゃない――以前、あなたそう言ってたわね?」
「おう。ウソじゃないぞ」
「あらそう。……ええ、分かっているわ。ウソではない、ウソではない、|ウソではない《ヽヽヽヽヽヽ》のでしようね。でも……その気持ちがどこから来ているのか、考えたことはあるのかしら? それとも……気付いているのに気付いていないふりをしているの?」
何を言いたいのだろう、こいつは。
俺は奇妙な迫力に圧され、彼女を見つめることしかできなかった。
「……これは言わないでおいてあげようと思っていたのだけれど、たびたびこんなことがあると迷惑だから、この際教えてあげるわ」
階段の上から、俺を倣然《ごうぜん》と見下して、真っ直ぐに指を指す。
「あなたが私に構うのは、いままで世話を焼いていた妹がいなくなってしまったからよ。私が年下で、女で、悩みを抱えていそうだから。|自分を頼ってくれそうだから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、気になっている。ただそれだけ」
黒猫は、そこでくるりと踵《きびす》を返し――
「私はあなたの妹の代用品ではないわ。莫迦《ばか》にしないで頂戴」
そう言い捨てて去っていった。
そして土曜日。新歓会とやらの日がやってきた。
俺は授業が終わるや、黒猫を教室まで迎えに行った。先日あんな別れ方をしてしまったから、もしかしたら新歓会に来ないかもしれないと思ったからだ。
そう。あれから数日、俺は黒猫と一度も顔を合わせていなかった。
……妹の代用品ではない、ね。
アイツの好きそうな、いかにも漫画のキャラクターが言いそうな台詞ではある。
しかし、正直――ぐさりと来た。ぐさりと来て、しまった。
ってことは……図星《ずぼし》だったのだろうか。俺は、いなくなってしまった妹の代わりに、黒猫を妹に|見立てて《ヽヽヽヽ》、世話を焼きたがっていたというのだろうか。
入学して最初の数ヶ月っていうのは、今後の学校生活を決める大事な時機だと俺は思う。
所属する部活を決めたり、所属する友達グループが決まってきたり、そういった学校(あるいはクラス)内での自分の立ち位置を定める期間だからだ。
この時機の立ち回り≠失敗してしまうと、とたんに学校生活は厳しいものになってくる。学校というのは、大人が考えているほど甘い場所ではない。いや、甘い部分もあるしそちらが多数を占めるのだろうが、ひどくシビアな部分も、子供にしか見えない形で存在するのだ。
いままでことなかれでやってきたこの俺も、小中高と学校に通い続けてきたわけだから、そのあたりのことは身をもってわきまえていた。
だからこそ俺は、かわいい後輩の身を案じていたのだ。嘘偽《うそいつわ》りなく本心から。
しかしそれだけか? 本当にそれだけか?
違うだろうな。
俺がこんなにも黒猫にお節介を焼きたくてたまらないのは――
本人が望んでもいないってのに、『どうにかしてやりたい』と思ってしまうのは――
たぶん。
一人でぽつんと寂しそうにしている黒猫の姿が、いつかの誰《だれ》かとだぶったからだ。
いまはいないそいつのことを、あのときどうにかしてやれたことが……。
いまも心に残っている。頼られて嬉しくて、でもいまはそんなこともなくなって。
だから。……だとしたら。
「………………は、しょぼすぎんだろ、俺」
……しかも、見透《みすか》かされてんじゃねーってのな。
我ながらかっこ悪い。だが、それでも俺がやることは変わらない。
ダッセー動機が見つかったところで、あいつのことを『どうにかしてやりたい』という気持ちが萎《な》えるわけではないし、沙織との約束もある。
俺はアイツに、任せろと請《う》け負《お》った。気持ちの整理はつかないが『やるべきこと』は分かる。
自分自身が『やりたいこと』も自覚している。
「なら、やるっきゃねーよな」
独りごちて、意識を現実へと引き戻す。目の前には一年一組の教室がある。
すでにホームルームは終わっており、帰宅している生徒もいるようだ。さっさと帰っちまってたらどうしよう……と不安になりながら、さりげなく教室の中を覗き込んだ。
いない。
「あっちゃ……」
掌で額を叩《たた》く。こりゃ悠長《ゆうちょう》にしてらんねえ。走って追いかけねーと。
勢いよく踵《きびす》を返した瞬間――
「おわっ!?」
俺はビックリ仰天《ぎょうてん》して飛び上がりそうになった。振り返ったらいきなり目の前に、黒猫がいたからだ。いつもの無表情で、至近距離から俺を見上げている。
「……一年生の教室をコソコソ覗《のぞ》き見るなんて、不審者《ふしんしゃ》さながらの振る舞いね」
「うっ……」
まだ怒っているのだろうか。いつも毒々しいもんだから、判別できん……。
「えーと……」
どう声をかけよう。きちんと詫《わ》びて、新歓会に誘うために、色々台詞を考えてきたのだが、本人を目《ま》の当たりにしたらそんなもんどっか行っちまったし……。俺があれこれ言葉をさまよわせていると、黒猫は無言で俺に背を向けた。首だけで振り返り、冷たい流し目を送ってくる。
「ふん、さっさとなさいな」
早足で歩いていってしまう黒猫。俺はその後ろを、頬《ほお》をかきながら追いかけた。
どうやら新歓会の会場に向かっているようだ。
少しは仲良くなれたと自惚《うぬぼ》れていたが、いま――黒猫が何を考えているのか、俺のことをどう思っているのか、その心を見透かすことは叶《かな》わない。
新歓会の会場は、機材類で狭苦しい部室ではなく、学校側の許可を取って視聴覚室を使わせてもらうらしい。それほどかしこまったものではなく、菓子類や飲み物などを用意して、飲み食いしながら騒ごうというものだ。高校生の部活動なら、まあこんなもんだろう。
『こんなもんだろう』という感想には、拍子抜けしたという意味が含まれている。
しかしそれは普段俺が、沙織が主催する派手な会合に参加しているせいだな。
普通≠フ感覚がずれてしまっていたわけだ。
俺は、こちらを置き去りにする勢いで進む黒猫に追いつき、声をかける。
「あーその……正直安心してる。新歓会に行くの、おまえに嫌がられるんじゃないかと思ってたからさ」
「ええ……それはもう、とてもとても気が進まないわ。パーティだなんて、気が進まないにもほどがあるというものよ」
前を向いたまま、こちらと視線を合わせずに言う黒猫。
俺はやや怯《ひる》み、『じゃあなんで、嫌な会合に参加しようとしているのか』――そう聞こうとした。しかし先にこう言われてしまう。
「あの部室にある制作環境が……ね。アルバイトをして買うより、部に入って使わせてもらった方がてっとり早いと思ったのよ。だから少しばかり嫌な思いをしても、ここは合わせておこうと思ったの。他意《たい》はないわ」
「……さいですか」
半分は、本心からの台詞だろう。
しかし、それだけではない――『他意はある』のだと俺は信じている。
『ふうーむ……黒猫氏は、別に、それほど怒っていないと思いますぞ。|その状況で《ヽヽヽヽヽ》、黒猫氏の立場になって考えてみれば、憎まれ口の一つくらい出てくるのが必定《ひつじょう》というもの。大丈夫、きちんと謝れば、許してくれますよ』
先日の出来事を、沙織に相談した際に、返ってきた言葉である。
『黒猫の立場になって考えてみて』も俺にはよく分からなかったし、沙織も教えてくれはしなかったが、ようするに――黒猫に限らず女の子の態度には、常に『他意がある』。
そういうものなのだろう。
「…………」
黒猫は扉の前にたどり着くやピタリと立ち止まり、無表情で俺に命じた。
「先に入って」
「はいよ」
俺は、一歩下がった黒猫と入れ替わるようにして扉の前に立ち、開く。
教室の中には、すでに部員たちが集まっていて、パーティの準備を始めていた。準備といってもたいした労働ではなく、長机を円卓《えんたく》のように並べたり、コップに飲み物を入れて配ったりするくらいだ。俺たちは会釈《えしゃく》をして入り、遅ればせながらそれを手伝う。
新歓会というだけあって、この前いなかった顔ぶれも目に付く。
幽霊部員も参加しているのだ。
ほどなく準備が終わり、皆がおもいおもいの席に着く。
俺が空席の多い一角に座ると、そのとなりに、スッと黒猫が腰を下ろした。
「…………なによ」
「いや、なんでも……」
黒猫は人見知りするやつなので、気まずい状況とはいえ知り合いである俺のとなりに座ってくれるという計算があったわけだが……。さて、肝心の瀬菜《せな》ちゃんとやらはどこだ?
きょろきょろとあたりを見回すと、それらしい眼鏡の女の子がいた。
背はやや高め。細身なのにやたらと胸が大きくて、大人っぽい色気を醸《かも》し出している。
ヘアスタイル自体は学生らしいフォーマルなものなのだが、赤みがかった髪色をしているため、ずいぶんとカジュアルな印象を受ける。染めているわけではなく、たぶん地毛《じげ》だろう。
眼鏡のデザインもなんというか今風だ。率直《そっちょく》に言って、かなり垢抜《あかぬ》けている娘だった。
ただしムスッと口をつぐんでおり、『あたし不機嫌です』と顔に太字で書いてある。
どこに座ろうかいまだ決めかねている様子の彼女に、真壁くんが気さくに声をかける。
「赤城さん、このあたり空いてますよ」
「……ああ」
瀬菜はちらりとこちらを一瞥し――
「そうですね。そこが一番マシかな」
ハンカチで椅子を払ってから、俺と真壁くんの間の席に座った。
つまり、左からぐるりと順番に、黒猫・俺・瀬菜・真壁くん・デブ・部長・デブ以下略という席順。
はからずも挟《はさ》まれちまったな。好都合といえば好都合か。この二人の仲を取り持とうと思ったら、この席はベストポジションだ。正直なところ自信なんてないが、やるだけやってみるさ。
「そろそろ席も決まったようですし――始めましょうか」
真壁くんが皆を見回して言った。同意の声がチラホラ上がり、静かになる。
「では部長、乾杯の音頭《おんど》を」
「あいよ。今年もよろしく、楽しくやろうぜ――乾杯」
乾杯――ごく簡潔な音頭に合わせ、皆が紙コップを掲《かか》げる。
新歓会が始まるや、教室内に喧噪《けんそう》が満ちた。
俺は部員たちを見渡す。彼らは当然、皆ゲーム好きのオタクたちなんだろうが、コミケやコスプレ会場などでオタクを見慣れている俺からすれば、別段それらしくは見えなかった。
当たり前の話で、みな一様に年が若いし、制服を着ているせいだろう。
ただし、そこかしこで交わされている会話はオタクそのものだった。ゲーム好きが集まって、好き勝手|喋《しゃべ》っているという感じだ。
そして、黒猫はといえば。
「………………」
じっと黙したまま、食べ物に手を付けるでもなく、前を向いていた。
こいつ……本当にこういう雰囲気苦手なんだな。パーティという単語を聞いたときから、懸念《けねん》はしてたんだけどよ。ただこれは今回のことに限らないんだけど、人がたくさん集まるトコ苦手なのに、|こいつ懲りずに出席はする《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》んだよな。だから、絶対に自分からは言わないだろうけど……黒猫は人付き合いが下手くそなだけで、人と仲良くなりたくないわけじゃねーんだよ。
その証拠に、黒猫は、友達になった桐乃のことをとても大切にしてくれていたし、いなくなったときは本気で寂しがってくれていた。無感情に見えて、情の深いやつなのだ。
「さて……」
どうしたもんかな。
俺は右隣の瀬菜に目を向けた。この娘がどんな為人《ひととなり》をしているにせよ、黒猫が周囲を拒絶する雰囲気を発散しちまっている以上、話しかけてもくれんだろ。俺からアプローチをかけて誘導してやらねばなるまい。
「えーと……初めまして、俺は三年の高坂」
「どーも、一年の赤城です」
「そ、そか」
間近で見て、改めて真壁くんの言ってたことが分かった。
確かにオタクっぽくないな、この娘。垢抜《あかぬ》けていて――でも、桐乃や桐乃の友達みたいなタイプともまた違う。
見た目はともかく、エロゲー的な分類をするなら、まさしく『委員長キャラ』だ。
ほんわか真面目系ではなく、才色兼備《さいしょくけんび》で隙《すき》のない『鉄壁《てっぺき》の委員長』って感じ。
「なにか?」
「いや、なんか、あんまり楽しそうじゃないから。機嫌悪いのかな……って」
「元からこういう顔なんです」
「あ、あそう」
やりづれえなあ。
俺が困った顔になると、それを見た瀬菜は少々気まずそうに頬をかいた。黒猫のように無表情なやつではないらしい。
「ああその、多少不機嫌なのは確かです。あたし、この部活苦手なんですよ」
「そりゃまたどうして?」
「うーんと。むさい男ばかりで不潔なのが一つ。部員たちが変てこなゲームばっかり作っていたり、お喋りばかりしていたりでいい加減なのが二つ。平気で部室にアダルトゲームやフィギュアを持ち込んだりして常識がないのが三つです」
初対面の相手に向かって、指折り不満をぶちまける瀬菜。しかし言っていることは至極《しごく》正しい。こんなふうに言われちゃったら、ゲー研の誰も何も言い返せないだろう。
「じゃあなんでこの部に入ったんだ?」
当然俺はそう聞いた。おそらく真壁くんに勧誘されたんだろうが、嫌なら断りゃいいだけじゃねえか。気が弱くてそう言えない――わけないわな、もっとキツい台詞、たったいま口にしてたしよ。瀬菜はこう答えた。
「プログラミングの勉強がしたかったからです」
「ぷろぐらみんぐ?」
どっかのお婆ちゃんみたいに聞い返すと、瀬菜は『ゲー研のくせにそんなことも知らないんですか?』とでも言いたげに、むっと下唇《したくちびる》を押し上げた。
「部長が作ったというあのふざけたSTG、内容はともかく造りは本格的でしたから、どうやって造ったのかなって聞いてみたんです。そしたらどうも、音楽にしろグラフィックにしろ、かなり高価なソフトや機材を使っているそうじゃないですか。で、興味を持って、部の見学に行ったんですよ」
瀬菜はそのときのことを回想したのか、一瞬だけ、はにかんだ。
「そしたら、部の設備が思いの外よかったので……。信じられないくらい散らかってましたけどね。多少の不都合を加味しても、入部する価値はあると判断したんです」
黒猫と似たようなことを言っている。この娘もどうやら、部長が自腹で買い集めたというゲー研の設備が目当てで部に入ったらしい。
黒猫はまず間違いなく照れ隠しのためにそういう名目を使っているわけだが。
はたして瀬菜はどうだろう。
あのゲームをクリアしたってことは、ゲーマーではあるんだよな。
見た目も言動もオタクっぽくはないけどさ。
「それと、あたし、我慢《がまん》ならないんですよねー」
「なにが?」
「|きちんとしていないことが《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、です」
力のこもった声だった。彼女は指折り数えながら、
「部屋が散らかってたり、汚れてたりするのとか。授業中に騒いでいる人とか、宿題をやってこない人とか、掃除をさぼる人とか、空気読めない人とか、ゴミの日を守らない人とか、不潔な人とか、ハメ技を使う人とか、|チーター《ヽヽヽヽ》とか――そういう規範《きはん》から外《はず》れているものすべてが、あたしはキライなんですよ」
聞き憤れない言葉が一部混ざっていたようだが。
ははあ……見た目どおり、神経質な委員長タイプなんだな。
真面目っつーか、もはや潔癖症《けっぺきしょう》といってもいい。
「……しっかりしてるんだな」
「どーも。ですから、我慢ならないんですよ。この部の人たちって、いい加減じゃないですか。せっかくゲー研に入ったのに、まともに活動している人なんてほんの一握りだし、部室は汚いし。部長なんて絶対オフロ入ってないし」
彼女はコップをハンカチで包み込むようにして持ち、コーラを一口飲んだ。
それから、ひどく沈鬱《ちんうつ》な口調で言った。
「とても放っておけませんってば」
ふむ。ようするにこの娘、神経質な委員長タイプであるのみならず、世話焼き女房タイプでもあるわけか。きちんとしていないものを見ると『あたしがなんとかしないと……』そう思ってしまうのだろう。しちめんどくせえ女である。
絶対こいつ、小学生のころ『男子ちゃんと掃除しなさいよ』とか言ってた人だろ。
「なんです? 人の顔を、じろじろ見て」
「あ、いや」
さすがに正直に言うわけにもいかない。俺はとっさにこうごまかした。
「あんまりオタクっぽくないよな、と思って。なんつーか、ゲーム研究会ってイメージじゃない。生徒会にでも入ってそうな雰囲気だ」
「そーですか」
瀬菜は俺から視線を外し、まんざらでもなさそうに、くい、と指で眼鏡を押し上げた。
「そう言っていただけると安心しますね。同類だとは、思われたくありませんから」
この台詞に少々ムッとしてしまった俺は、すでにオタク側の人間なんだろうな。
そしてよく似た台詞を、以前聞いたことがある。なんのことはない、俺の妹からだ。
だから俺はこう聞いた。
「ゲー研に入ってることとか、周りのやつらは知ってんの?」
「別に隠してはいませんよ? 自分から好んで言いふらそうとは思いませんけど。……まあ、あたしの場合、知られたところで影響は微々《びび》たるものでしょうけど」
「そうなのか?」
なんだその自信は。
「ゲー研に入ってるってだけで、オタクっぽく見られちゃうんじゃねえの?」
「そうでもないですって。『なんでゲー研に入ったの?』って聞かれたら、プログラミングの勉強がしたいからってちゃんと言えば分かってもらえますし。それに、同類とは思われたくないなんて言いましたけど、それはあくまであたし自身の感情の問題であって、世間体《せけんてい》だけを気にするなら、そこまでオタク認定されるのを恐れることはありません」
「そりゃ意外な台詞だな」
オタク嫌いの潔癖症かと思ったら、そうでもないのか? なにやら複雑そうだけど。
とりあえず――|いまの失言は覚えておこう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
瀬菜菜は「んんー」と考え込むようにして、幾分明るい声で言う。
「たとえばー、最近アニメとかで『オタク趣味を隠してる女の子』がよく出てきますけど、ああいうのって大げさに描いてるだけです。実際のところ、ゲームやアニメを愛好しているという理由で迫害《はくがい》されるようなことはほとんど有り得ません。アニメ映画とか、みんな普通に行く時代ですしね」
オタク趣味は、意外と受け容れられているのだから、そんな必死になって隠さなくても……という話だろうか。そう言われるとそうかもしれない。俺のクラスでも、オタクっぽくない連中がエ|バ《ヽ》ンゲリオンの話などをしていたりする。しかしなあ。
「エロゲーとか同人誌はやばいだろ」
「そりゃそーですよ」
半眼《はんがん》で呆《あき》れられた。
「だからー、程度が重要なんですってば。自分が好きなものは好きでよくて、でも、TPOをわきまえることとか、空気を読むこととか、大切だと思います。とっても」
桐乃と似たようなこと言う。あいつが学校でオタク趣味を隠していたのは、まさにそういう理由からだろう。瀬菜は桐乃ほどオタク趣味を隠しているわけではないが、程度をわきまえて開帳《かいちょう》している。境界線を設定して、それ以上は見せないようにしているわけだ。
なるほど中高生のオタクとしては、模範的な態度かもしれないな。
相手によって自分を使い分ける。こざかしいとは思わなかった。人間関係の摩擦《まさつ》を軽減するために、みんな少なからず似たようなことをやっているのだから。
「あたしが思うに、オタクはオタクだから避けられるんじゃないんですよ。その人に、人を不快にさせる原因があるから、避けられたり迫害されたりするんです。そう、たとえば――」
彼女はさらにこう続けた――俺の向こう側にいる人物を明らかに意識しながら。
「|ところ構わず痛々しい言動を振りまくような人って《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|最悪ですよね《ヽヽヽヽヽヽ》」
「………………」
聞こえたのだろうに、黒猫は微動だにせず前を見据《みす》えたままだ。
く、空気が重い。
あれ……? まさか俺……まずったか? もしかして――もしかしてもしかして。もしかすると。
「いちいち周囲の顔をうかがって生きている小物が、何か言ったようね?」
「……あー五更さん、いたんですかー。影が薄すぎて気付きませんでしたー」
「誰のことかしら? 真名で呼んで頂戴、真名で」
「相変わらず何を言っているのか分かりません。何が真名ですかくだらない。ねぇ五更さん、真面目にやってくださいって、あたしに何度同じ台詞を言わせるつもりなんです?」
「フッ、我が真名は黒猫。偽りの名で呼ばれようとこの魂に響きはしないわ」
「……呆れ果てて言葉もありませんね」
こ、こいつらって……。
「おまえら知り合いなのか?」
俺は首を高速で振りながら聞いた。すると――
「……ふん、クラスで一番うざったい女よ」
「……あたしのクラスで一番の問題児です」
という答えが返ってきた。お互いに相手をイヤ〜な感じに睨《にら》み付けている。……なんてこった。黒猫と同じ一年生だとは聞いちゃいたけど――
おい真鍋くん、どういうことだよ? そういう意図を込めた視線を向けると彼もこんな事態は想定していなかったようで、オロオロと困惑《こんわく》していた。肝心なときに頼りにならねえ。
と、とりあえず止めねーと。
俺は沙織さながらに、二人の口論に割り込んでいった。ややびびりながら、
「や、やめろっての。喧嘩《けんか》すんなよ」
「ふん、喧嘩なんてしていないわ」
「えーそーですとも。これは一方的な注意であって、喧嘩なんかじゃありませんー」
バチバチと火花を散らしている、邪気眼《じゃきがん》少女VS堅物《かたぶつ》委員長の構図。
あれまあ、という感じである。どうしたもんかな。
なんか共通の話題でも振ってやりゃ違うんだろうが、そんなもんを俺に求められても困る。
そこで俺の窮状《きゅうじょう》を察してくれたのか、真壁くんが話に加わってきた。
「五更さん、赤城さんも。せっかく同じ部に入ったんですから、仲良くしましょうよ」
「……先輩方には申し訳ないですけど、はっきり言わせてもらいますと、同じ部に入ったいまだからこそ言っているんです。だってこの人、クラスですごく評判悪いんですよ。言動はおかしいし、クラスの娘たちが遊びに誘っても付き合い悪いし、愛想も悪いし――こんなダメ人間見たことないですあたし。昼休みになるといつも教室から出て行くのは、きっとトイレでご飯を食べてるからだよねって――そんな噂《うわさ》まであります」
もうやめてあげて!? 聞いてる俺が泣きそう!
「……ふうん、あらそう。ようするに同じ部に入られて迷惑だというのね? なら、いますぐやめてあげるわ。あなたと同じ部活だなんて、こちらから願い下げよ」
がた、と席を立ちかける黒猫(ちょっと涙目)。
「おいおい待て待て待てって――」
俺は慌てて黒猫の肩を押さえ制した。
「落ち着けっての」
「そーですよ五更さん。何を勘違《かんちが》いしたのか知りませんけど、あたしがいつ『迷惑《めいわく》だ』なんて言いました?」
は? いやおまえ、いったい何を言うつもり――
瀬菜は腰に手を当て、堂々とした表情で俺の向こう側――黒猫の顔を見据えた。
「ふっふ、同じ部に入ったいまこそ、あなたを更生させるチャンスなんです。ですからー、どちらかといえば、やめてもらっては困るんですよね」
しん、と場に静寂《せいじゃく》が満ちた。十秒ほど経ってから、黒猫がぼそりと呟《つぶや》いた。
「……そんなことしてくれって、誰が頼んだの?」
「強いて言えば、あたしがあたしに頼みました。言っておきますけど、これは善意でも親切でもありませんから。あたしはあなたみたいな人が大嫌いで我慢ならないんです。ですからこれは、あたしが気に入らない事柄《ことがら》を修正しようとしているだけなんですよ」
かなり自分勝手なことを言っているが、俺はこいつのことを絶対に責められない。
動機こそ異なるが、結局俺は、こいつと同じことを黒猫に対ししようとしているのだから。
「――――」
一触即発の、張りつめた空気。会話の止まった、無音の空間。それを打ち破ったのは、
ぷぅ〜〜う。[#「ぷぅ〜〜う。」は太字]
というきわめて下品な音である。皆は一斉に音の出どころに目をやった。
「おう悪りい! オナラしちゃった!」
部長は快活に掌《てのひら》を立てて詫《わ》びる。
「さ、最悪!」
瀬菜は両目を><[#「><」は縦中横]《ばってん》にして、部長を射殺さんばかりに睨《にら》んだ。
ところが一方で、いつもなら真っ先に冷たい突っ込みを入れるであろう真壁くんが、何も行動を起こしていない。
もしかすると、いまのはあの人なりに喧嘩の仲裁《ちゅうさい》をしてくれたってこと……なのかもな。
くさいけど。
ガラッ。真壁くんは、窓を開けながら瀬菜に話しかける。
「しかし困りましたね。二人には共通点が多いから、話が弾んですぐに仲良くなると思ってたのになあ」
「共通点? あたしと、五更さんの間にですか?」
「ええ、二人とも、ゲームが凄く上手いんですよ。タイプこそ違いますけど、僕の見たところ|だいたい同じくらいの腕《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ですね」
真壁くんの言葉に、瀬菜と黒猫がお互いの顔をうさんくさそうに見る。瀬菜はどうだか知らないが、黒猫が考えていることは分かる――『同じくらいの腕前? この私と?』
「……真壁先輩? 五更さんが、あたしと同じくらいゲーム上手いっていうんですか?」
「はい。赤城さんの先読みも凄かったですけど、五更さんの反応速度も、そりゃもう『松戸ブラックキャット』バリの神業で……」
「絶対言い過ぎです、それ」
厳しく断言する瀬菜。
「そうですか?」
「高校生なんかと一緒にしたら、『あの人』に失礼ですよ。真壁先輩は、|五更さんに気を遣って《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》おおげさに言ったんでしょうけど、そういうのよくないと思います」
「うーん……はは、ごめんなさい。ほんとうに真面目ですね、赤城さんは」
どうやら瀬菜は、そのなんとかというゲーマーのことを尊敬しているらしい。
なのに自分の嫌っている相手への比喩《ひゆ》として使われたものだから、怒ったのだろう。
「………………」
黒猫はそんなやり取りを、無表情で眺《なが》めていた。
しかしなんだな。この二人の間にある共通の話題は、やはりゲーム関連か。ゲーム研究会なんだから当たり前だけど、この辺をとっかかりにして何とかできねーもんか。
別に喧嘩になるのは、それほど悪いことじゃないと思うのよ。桐乃と黒猫も初対面のときは――っつーか、ことあるごとに口論になってたし、それでもなんだかんだ言って一緒に遊んで仲良くしていた。それは、桐乃も黒猫も、お互いに、自分の思いを包み隠さずぶつけられる相手を欲していたからだろう。
で、今回の場合はどうかというと。黒猫は桐乃がいなくなって、喧嘩相手を失ってしまっている状態。一方瀬菜は、堅物な性格上、黒猫の態度が気に食わなくて仕方なく、なんとか更生させようとしている状態。
相性というか、噛み合わせとしては悪くないんじゃねえかなあ。
結局この新歓会では、黒猫と瀬菜の仲を近づけることはできなかった。こうなると、黒猫をゲー研に入部させるという作戦自体が間違いだったんじゃないかとも思えてくるが、そう判断するのはまだ早いよな。過ちを認めるのは、できることをすべてやってからだ。
新歓会はすでに終わり、俺たちは教室の後片付けをしている。
瀬菜が膨らんだゴミ袋を片手に、部員たちに指示を飛ばしていた。
「さささ、先輩方はごみを捨てて来てくださいねー。終わったら先に帰ってくださって結構ですよ。あとはあたしがバッチリやっておきますから」
ぱん、と、ふくよかな胸を叩《たた》く瀬菜。
後片付けを買って出て、先輩たちには先に帰ってもらう――後輩としては殊勝な態度なのかもしれないが、俺には、休日居間で寝ころんでいる亭主を、掃除の邪魔だからと蹴《け》っ飛ばして追い出す主婦にしか見えない。
「悪りーな赤城。いちおうオレが責任者だから、最後まで残らんといかんのよ」
そう言ったのは部長である。瀬菜は箒を彼に差し出した。
「じゃ、手伝ってくださいね」
「あいよ」
と、箒を受け取る部長。次いで瀬菜は、くるりと俺の方を見て、
「ほらほらー、高坂先輩? 何をぼおっと突っ立っているんです? 教室に残っているのなら、少しは働いたらどうですか?」
「お、おう。すまんすまん」
ほんと仕切るなこいつ。俺は慌《あわて》てて命令に従いながら、
――好都合かもな。
そう考えた。いま教室に残っているのは、俺、部長、黒猫、真壁くん、瀬菜の五人。
個人的に信頼がおける面子《めんつ》ばかりだ。
この状況なら、俺が用意しておいた切り札≠燻gいやすい。
「どーせ忙しいんでしょうから、五更さんは帰ってもいいんですよ?」
「……今日は忙しい日ではないのよ。勝手でしょう」
瀬菜と黒猫。二人の間に漂う空気は重く暗い。
かつて……黒猫と桐乃は初対面で意気投合《ヽヽヽヽ》していたが、それはあいつらがお互い本音でぶつかり合い、分かり合ったからだろう。もちろん赤城瀬菜は高坂桐乃ではない。ないが、桐乃と黒猫が親交を深めていったやり方は、『黒猫がオタク友達を作るためのサンプルケース』としていまだ有効だろうと思うのだ。
で、だ。過去の成功例を持ち出すにあたって、やっぱりここで問題となるのは、瀬菜が桐乃ではないという点――桐乃と違って、黒猫に対して心を開く気がないという点である。
ようするに、ありのままの自分をさらけ出していないのだ。
……このままではどうにもならん。
状況を動かすためにはなんらかのテコ入れが必要だろう。
「うーん……一応、試してみたい策はあるっちゃあるんだよな」
そう上手くいくとは思えないが、どうせこのままでは埒《らち》があかないのだ。
やるだけやってみるとしようか。
さて。……なんかドキドキするな。|あのときを《ヽヽヽヽヽ》――思い出しちまう。
俺は掃除をしながら瀬菜に近づき、意を決して、さりげなく話しかけた。
「なあ……おまえってさ」
「なんですか?」
「さっきはプログラミングの勉強をするためにゲー研に入ったって言ってたけど、ゲームをするのは好きじゃないのか?」
「そんなことはありませんけど……好きですよ? 普通に」
「だよな。好きじやなかったら、そんなにゲームが上手いわけがないもんな」
「む、まわりくどいですね。何が言いたいんです?」
さすがに気付いたか。俺は後頭部をかき、視線を微妙に瀬菜から外しつつ言う。
「おまえさっき、友達に『なんでゲー研に入ったの?』って聞かれたら、プログラミングの勉強をするためって答えるって、言ってたよな?」
「ええ、それがどうかしました?」
「なんとなくその文脈《ぶんみゃく》だと、プログラミングの勉強|云々《うんぬん》ってのが建前っぽく聞こえてさ」
ちら、と目を覗き込む。
「違うか?」
瀬菜は下唇をちょっと噛み、しばし考え込んでいる様子だったが、やがて「はあっ」とため息を吐《つ》いた。
「あーあ、失言しちゃったみたいですね、あたし。まあいいです。言い辛かっただけで、特に隠すことでもないですし。白状しますよ……確かにそれ、半分は建前です」
「半分?」
どういう意味だ?
「………その、将来……ゲームデザイナーになりたいんですよ、私」
「ゲームデザイナーって、ゲームを作る人のことか?」
「はい。ええと、その、できれば大手のゲーム会社に就職したいなと」
「そのためにプログラミングの勉強をしてるわけだ」
「……ま、そーゆうことですかね!」
ぷいっと俺から視線を外す瀬菜。自分の夢を語るのが、恥ずかしい年頃なんだろうな。
気持ちは分かる。俺もそうだし。俺は微笑ましい思いで頷いた。
「そっか。じゃあ……ハハ、ゲームが好きってのも『普通に』、じゃねえよな」
「そーですね。認めます、ゲーム大好きです。やるのも、作るのも」
何を言わせるんですか、と照れてしまう。その仕草はとてもかわいらしいものだった。
俺は次にこう聞いた。
「ホモゲ部ってやったことある?」
[#本文より3段階大きな文字]「あれ神ゲーですよね!!」
………………………………。
…………………………………………やはりかよ。
「――い、いまのはナシでお願いします![#この行は小さな文字]」
「い、いやもう聞いたから。この両耳ではっきりと」
「あぐぅ……」
初登場以来、初めて動揺するところを見せた瀬菜。いちおう説明しておくと、いまの台詞は、俺の級友である赤城浩平が以前言っていた『妹が腐女子《ふじょし》』『妹が一年生にいて、眼鏡をかけている』という情報から推測したものだ。顔立ちも兄貴と似ているし、髪の色も同じだし、そうだろうなと思っちゃいたんだが……。どうやらビンゴらしい。
「……な、何を言っているんですか突然? お、おお、おっしゃる意味が分かりませんね」
さすがというべきか、瀬菜は一呼吸である程度落ち着きを取り戻したのだが、鉄壁の委員長がさらした隙《すき》を、ずっと反撃の機をうかがっていた|そいつ《ヽヽヽ》が見逃すはずもない。
それはもう嬉しそうに、身体を揺らしながら近寄っていった。
「……あらあら、意外だわ。真面目な委員長さんに、そんな御趣味があったなんて?」
「人の話を聞いてください五更さん。あたしにそんな趣味はありませんってば」
「じゃあ、なぜ動揺したの? どうしてあんな台詞をククク……図星《ずぼし》を衝《つ》かれたからなのでしょう?」
「いいえ。違うと言っているでしょう。……人の不幸をそうやって楽しんで……ずいぶん性格がお悪いんですねー、五更さんて」
嫌味を返した瀬菜だったが、相手が悪い。
「嬉しいわ。お褒《ほ》めの言葉を有り難う」
ほら、こいつは自覚的にやってるんだからさ。
「……ぐぬぅ」
忌々《いまいま》しげな視線で、俺と黒猫を交互に見やる瀬菜。『どうしてこの男が、あたしの秘密を知っているのか』――そう訝《いぶか》っているに違いない。
いやあ、おまえの兄貴が聞いてもねえのに妹の御趣味をべらべら喋《しゃべ》ってなあ。
とは言えんし、ここは黙秘でとおそう。
黒猫はにやにやと、本当にイヤな感じの薄笑《うすえ》みを浮かべている。
こいつはこいつで、『さて、どう嘲弄《ちょうろう》してやろうかしら』とでも考えているのだろう。
自分で煽《あお》っておいてなんだが、素敵な性格をしているやつである。
……にしても。まさかこんなことになろうとは。罪悪感で胸が痛いぜ。
そりゃ、状況を変えようと思ってやったことではあるんだが――
あんなデカい声で叫ぶと誰が思うよ?
黒猫はぺろりと舌で唇をしめらせて、瀬菜の耳元で悪魔の呪文《じゅもん》を囁《ささや》き始めた。
「私はそれほどこの業界に詳しくないのだけれど、最近はマスケラが流行っているそうね?」
「……ふ、ふっ。……ま、マスケラ? 業界? なんのことです?」
「ケルベロスやアシュタロス、ルシファー、真夜《しんや》といった美男子キャラたちの存在。ダークで耽美《たんび》な世界観。魔王と下僕というBLと親和性の高い設定。男同士が融合≠オて誕生する主人公、そしてなにより真夜とルシファーの愛憎入り交じった奇妙な関係が、腐った脳を直撃して、放映終了してからも少しずつ広まっていったそうだけど?」
「だからなんのことです? 分かりませんね。いい加減にしてください」
「…っふ……とぼけなくてもいいのよ? あなたも真夜×ルシファーのカップリング妄想《もうそう》で悶《もだ》えていたクチなのでしょう?」
[#本文より5段階大きな文字]「愚か者!」
クワッ! 両目を全開に見開いて怒鳴《どな》る瀬菜。
「マスケラならルシ真の健気攻《けなげぜ》め×ツンデレ受けが鉄板でしょうが! よりにもよってそのカップリングを逆にする? ――はっ、有り得ませんね。そんなことをしたらキャラがゆがんでしまいます。知ったような口を叩《たた》いておいて、なんにも分かっていないんですね。即刻地獄にも堕ちるべきです。この――|にわかが《ヽヽヽヽ》!」
な、なんだこの女!? 冷静に否定してたと思ったら、いきなりプッツンしたぞ!?
なに? いまの会話のどこが腐女子の逆鱗《げきりん》に触れていたの?
助けを求めるように周囲を見渡すと、部長や真鍋くんもこっちを見てポカーンとしている。
瀬菜に怒鳴りつけられた黒猫は、ニヤリと口角をつり上げた。
「もちろん分かっているわ。そのカップリングに限っては、左右を逆にするなど有り得ないと。ただ――マヌケは見つかったようね?」
「……っ!?」
ハッと口元を押さえる瀬菜。
「フッ」
不適な笑みで瀬菜を見据える黒猫は、『語るに落ちたな』とでも言いたげな表情であるが、俺にはこいつらが何を喋っているのかサッパリ分からない。
桐乃と黒猫のアニオタトークよりもさらに意味不明である。
タームがいちいち暗号のようだ。まるで、|わざと分かりにくくしている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ようにさえ聞こえた。
「はッ、謀《はか》りましたねぇ……っ!」
「なんのことかしら? はあ……しかしまいったわね。こんな特殊な御趣味をお持ちのくせに、あんな偉そうな口を叩いていたなんて。|きちんとしていない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》? 人のこと言えるのあなた?」
「言えますゥ! あたしはあなたと違って、自分の趣味がおおっぴらにするようなものではないって分かってるんですから! えぇえぇぇそうですとも! どーせあたしはホモがスキですよ! 腐ってますよ! でもちゃんと隠して生きているんだからいいじゃないですか!」
開き直りゃがった。おまえここが一応学校だということを忘れてんじゃあるまいな?
クールな装いなどどこへやら、ふんふん鼻息を噴き出して興奮している瀬菜。
黒猫は無表情で問いかける。
「……あらそう。超腐っている赤城さんは、テニミュみたいな半生《はんなま》もいけるクチなのかしら」
「余裕でいけます[#「余裕でいけます」は太字]。自慢じゃないけど守備範囲超広いですよあたし。生モノだろうと二次元だろうと無機物だろうと、あたしの琴線《きんせん》に触れさえすれば、脳内補完して妄想が可能です。極端な話フォークとスプーンさえあればプリミティブな愛の形は表現できるのです」
「素晴らしい信念だわ。……じゃあ、もしかしてリアル男子でも妄想したりするの?」
「ふッ、何を隠そう、昨夜は真壁先輩がゲー研の部員たちに輪姦《りんかん》される夢を見ました」
病気だこいつ。
腐女子の世界にも多少は通じ、おちょくるために自ら瀬菜の失言を誘発させていた黒猫でさえ、いまの台詞には引きまくっている。目を見開き、顔に冷や汗の粒を貼り付けていた。
「……クッ、計算外よ……ま、まさか、これほどの邪悪《じゃあく》を内に秘めていただなんて……」
黒猫も、相手がこれほどの異常者だとは思わなかったんだろう。
こいつ潔癖《けっぺき》なんじゃなかったのかよ。フォークとスプーンでいったい何をどうするの?
[#挿絵(img/oim05_0129.jpg)]
遠巻きに二人の口論を眺めていた部長も、戦慄《せんりつ》の表情で言ったものだ。
「お、おい真壁……オマエは我が部に恐るべき変態を引き込んでいたぞ」
「……………(゚д゚)[#「(゚д゚)」は縦中横]」
真壁くんは答えず、茫然自失《ぼうぜんじしつ》のていで固まっている。
そして、大興奮で妄想を吐き出していた瀬菜は、ある瞬間、「ハッ」と正気に立ち返り――
[#ここからゴシック体]
「イヤああああああああああああああああああああああああああああん!!!???」
[#ここでゴシック体終わり]
この世の絶望をすべて引き受けたような顔色で、頭を抱えて絶叫《ぜっきょう》した。
これが漫画だったなら、間違いなく眼鏡がぐるぐる渦巻きになっていたことだろう。
「げほっげほっげほっげほっ……!」
のどを押さえてむせかえる瀬菜。
彼女は涙を一杯目に溜《た》めて、真っ赤な顔で真壁くんの前に立ち、勢いよく弁明を始めた。
「ち、違うんです真壁先輩! こ――これは何かの間違いっていうか!」
「………………」
真鍋くんは何も答えられず、※[#絵文字(img/130.jpg)]《こんなかんじ》で魂の抜け殻《がら》と化している。瀬菜はそんな彼の肩をつかみ、ガクガク揺すりながら、
「ひい! ご、ごめんなさい! ほんとごめんなさい真壁先輩! 絶対部長とデキてるよねとか妄想しててごめんなさい! だってあたし、真壁先輩の丁寧口調《ていねいくちょう》突っ込みがツンデレにしか見えなくて! 萌《も》え萌えでその! ぶ、部長がずっと卒業しないのも、愛する人と別れたくないからなのかなって!」
「お、おいやめろ! 真壁くんが失神しそうになってるだろ!? 部の先輩にこれ以上深刻なトラウマを植え付けるんじゃない!」
「!? ま、またあたし気持ち悪い台詞口走りましたか!?」
「それはもう!」
「や、やあっ! あ、あたしったら! つ、次からは部長×高坂先輩にしておきますね!」
「わざとやってんのかテメェ! それ以上妄想を続けるとこの場で泣くぞ! 俺が!」
俺は涙目で懇願《こんがん》した。
……真壁くんが抜け殻になるわけだよ! 自分で体験してみてよく分かった。この際ハッキリ言わせてもらうが、腐女子の妄想のネタにされるというのは、メチヤクチャ気色悪い。
「頼むからもうカンベンして! お願いだから!」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛! またやっちゃった! い、いっそ殺せ! 殺せえ――」
顔面を両手で覆《おお》い、ぶるんぶるんかぶりを振り、殺して殺してと呪詛《じゅそ》を吐き出す瀬菜。
この事態を招いた責任の一端は、俺にあるわけだが……。
も、もうどうにもならん。恐ろしい……これが腐女子というやつなのか……?
こいつだけが飛び抜けて変態なのだと信じたいが……。どちらにせよ、俺は赤城のやつを尊敬せねばならんな。おまえは偉いよ。こんな妹がいたら、俺は自殺するかもしれん。
そ、そうだ赤城! この事態をどうにかできるのはアイツしかいない!
俺は咄嗟《とっさ》に携帯《けいたい》を取り出し、瀬菜の兄貴に助けを求めた。
……トゥルルルル……トゥルルルル……ガチャ。
『どうした高坂? なんか用か? 俺いま隣町の学校まで練習試合に行く途中なんだけど』
「おまえの妹が発狂したんだけどどうしたらいい」
『「瀬菜ちゃんカワイイよ。瀬菜ちゃんは悪くないよ」と落ち着くまで慰め続けろ』
「よく分かったオマエも病気なんだな」
んなことできるかっ!
妹も妹なら、兄貴も兄貴だよ!
「……じゃあ、いまからおまえの妹に代わるから、なんとかなだめてくれ」
『よし任せろ!』
赤城の力強い了承を取り付けた俺は、頭を押さえてかぶりを降り続けている瀬菜にそっと近づき、携帯を差し出した。ちょうど猛獣に餌《えさ》を与えるような仕草《しぐさ》でだ。
「は、ほら、おまえの兄貴から電話だぞー……」
「う、うう……?」
兄という単語を聞いたとたん、発狂していた瀬菜はやや落ち着きを取り戻した。
彼女は眼鏡を外してぐすぐすと目をこすりながら、携帯を受け取る。それを耳に当て、
「……お、お兄ちゃん?」
と、呟《つぶや》いた。
……お兄ちゃん、ね。
境遇こそ似ちゃいるが、どうやら俺たちとは、ずいぶん違う兄妹らしいな。
「……うん……うん……そうなの……部活の……新歓会で……そう……」
瀬菜は、しゃくり上げながら、兄に事情を説明しているようだ。その声は、相手を完全に信頼しきっていて―――― 何故か、ずきりと心が痛んだ。こいつにとって兄貴は、しっかり者の仮面を脱ぎ捨てて、子供っぽい自分をさらけ出して甘えることのできる相手……なんだろうよ。
「……うん、そうする。……ありがとう、ごめんね、お兄ちゃん。試合、がんばって」
最後にそう告げて電話を切り、瀬菜は俺に携帯を返してくれた。
「……その、お恥ずかしいところを……」
「いや、そんなことは……」
ないとは言えん。………まあとりあえず、落ち着いたようでよかったぜ。
瀬菜はすうはあと深呼吸し、それから意を決したように顔を上げた。
「あの……高坂先輩? お兄ちゃんと……仲いいんですか?」
「まあな。ずっと同じクラスでさ、わりとよくつるんでるよ」
「そうなんですか……ふぅん」
それがどうした――と聞く暇《ひま》もなく、瀬菜は俯《うつむ》いて、「うへへ」と不気味に微笑んだ。
「オイ! おまえいま、何を妄想しやがった!? 世にもおぞましい光景じゃあるまいな!」
もうイヤだこんな後輩!
そんな一幕《ひとまく》が終わったあとで――。
浩平お兄ちゃんによる説得?が功を奏し、正気に戻った瀬菜は、顔を耳まで真っ赤にして、改めて皆に詫《わ》びた。
「……すみませんでした。あたし、その、興奮すると暴走しちゃう悪癖《あくへき》があって」
心底後悔しているのだろう、その口調は沈鬱《ちんうつ》だった。
悪いことしちまったなって、俺も反省してるよ。
「分かってるよ。こっちこそ、|ひっかけて《ヽヽヽヽヽ》悪かった。絶対にこのことは口外しないと約束する」
「……僕も、約束します」
「オレはなんも聞いてねえ」
真壁くんと部長の二人も、快く俺に同調してくれた。俺はちらりと黒猫を見て、
「おまえもだぞ」
「……はいはい。分かったわ」
いかにも渋々といった様子だが、俺が念を押さなくたってこいつは言わないだろう。
さて……波瀾万丈《はらんばんじょう》の新歓会は、こうしてひとまず一件落着したわけだが。
黒猫の友達作りの状況は、依然《いぜん》として芳《かんば》しくない。
なにせテコ入れしてみたら、お目当ての相手が変態だったのだ。
この件については、まだまだ、根気強く考えていかねばならないだろう。
片付けが終わり、やや微妙な空気のまま解散となる。俺は黒猫と並んで下校する。
俺たちの間に会話はない。ひたすら無言で歩いていく。
俺はさっきの瀬菜と黒猫とのやり取りを思い返していた。
腐女子としての、とんでもない本性をかいま見せた瀬菜。
しかし彼女は、すぐに正気に立ち戻り、自分の行いを恥じて後悔していた。
激しい口論にこそなっちゃいたが、桐乃と黒猫が出会ったあのときとは違い|意気投合《ヽヽヽヽ》したというような感じはしない。やはり黒猫にとって桐乃は特別相性がいい相手だったのだろう。
似たシチュエーションを用意してやったからといって、同じように上手く行くわけもない。
そう、当たり前の話ではある。……赤城瀬菜は、高坂桐乃じゃねえんだよな。
俺にとって黒猫が妹の代わりにならないのと同様、黒猫にとって瀬菜はいなくなった親友の代わりにはなりえないのだ。そこを勘違いしちゃいけない。そこをはき違えてしまうと、相手に対してとても失礼なことになる。先日、黒猫が俺に対して怒ったように。
誰も誰かの代わり≠ノなどなれはしないのだ。
俺はとなりを歩く黒猫に、そっと囁《ささや》いた。
「……悪かったな」
「……なんのことかしら」
黒猫の返答はひどくそっけない。こうしてとなりにいてくれはするものの、やはり、許してくれたわけではないのだろう。
俺は素直に認めることにした。あいにく口べたで上手く言えないが――なるべく率直に、誠意を込めて、言葉を紡《つむ》ぐ。
「認める。妹がいなくなって、俺は寂しかったらしい」
「そう」
いまなら分かる。口では強がっていても、自分では気付いていなくても、内心は寂しくてたまらなかったのだろう。だからかつて兄さん≠ニ呼んでくれた、|妹のような友達《ヽヽヽヽヽヽヽ》を代わりに据《す》えた。黒猫を妹に見立て、色々と世話を焼いてやって、そうやって寂しさを紛らわせて――。
情けない話だよ。妹が大嫌い――その気持ちはいまも変わらない。
だけどどんなに嫌いでも……いや、嫌いだったからこそ、かな。
いざいなくなられてしまったときの衝撃は大きかった……んだろうな。
俺は、「はあ……」と、大きく息を吐いた。
「あんな妹でも、いなくなったら寂しいもんなんだな」
「そうね」
それで一旦《いったん》、会話が止まった。俺の囁きにも、黒猫の呟《つぶや》きにも、それぞれ言葉にならない想いがあって――きっと同じことを考えていた。
俺と黒猫の桐乃への思いは、よく似たものだったから。
俺たちは、お互い目も合わせずに、小声で呟き合う。
「俺は……さ。|おまえ《ヽヽヽ》のことが心配だ。これからもお節介《せっかい》を焼くよ」
「勝手にしたら? もう諦めたわ」
「ひとつ聞くけど、兄さん≠チて呼ぶのをやめたのは、桐乃の代わりに見られるのがイヤだったからか?」
「違うわ。そもそも、そう呼ぶのをやめると予告したとき、あなたの妹はまだ日本にいたでしょう」
そういえばそうだった。
「じゃあどうして呼び方を変えたんだ?」
「意味なんてないわ。強いていえば……」
「強いていえば?」
「気が変わったからよ」
黒猫はそれ以上何も言わなかった。
[#挿絵(img/oim05_0139.jpg)]
[#挿絵(img/oim05_0140.jpg)]
第三章
「一年生二人には、共同でゲームを一本作ってもらう」
新歓会の翌日、唐突に部長がそんなことを言い出した。
ときは放課後、ゲー研の部室である。
部長の言葉を受けた黒猫と瀬菜は、ちらりとお互い相手を見て、
「なんで私(あたし)が……」
声を揃《そろ》えて、さっそく不満を口にした。依然としてこの二人、仲が悪いままだ。
ちなみに瀬菜のご乱心は、皆、なかったことのように振る舞っている。
「代々そういう決まりなんだよ」
「……三浦部長? それ、いま決めたでしょう」「……ウソ吐《つ》かないで頂戴《ちょうだい》」
瀬菜と黒猫が突っ込んだ。なんで女ってのは、人を糾弾《きゅうだん》するときに限って結束するのだろう。
「まあウソだけどよ」
あっさり認める部長。そうだよな。ゲー研って、わりといい加減な部活だったはずだもんな。
そんな厳しめのしきたりがあるわきゃねー。
部長は、こほんと咳払《せきばら》いをして、
「けど、やってもらうぜ。理由は二つ、新入部員の実力を見るためと、新入部員同士のチームワークを育むためだ。特に後者。おまえらの場合、スキルは問題なさそうなんだけど、いかかんせん喧嘩してばっかなのが困る。オレとしては、まずそのへんをなんとかしたいわけよ」
「でも……」
「確かにオレらはお気楽でいい加減な部活かもしんねー。でもさあ、そんな部活の中で、おまえらは、本気でゲームを作りたいんだろ?」
唇を尖《とが》らせた瀬菜に、部長は優しく言い聞かせる。
「ゲーム制作は共同作業だ。分かるな?」
「……分かります」「……ふん」
渋々と頷く瀬菜。黒猫も腕を組んでそっぽを向いていたが、異存はないようだ。
おお……。すげえ、この二人を説得しちまったぞ、この人。
理詰めの説得が功を奏した、というよりは、黒猫と瀬菜の『目的』を、彼は実感としてよく理解しているのだろう。新歓会でも言っていたよな。
誰もがゲームの勉強をすることができて、誰もが仲間とともにゲーム制作に励むことができる場所。部長はそんな部活動を作りたかったのだ、と。
「来月、ネットでゲームコンテストがあるの知ってんだろ?『かおすくりえいと』って、わりと有名なやつ。おまえらには、そいつにエントリーしてもらうつもりだ」
「そんなに気負わなくても大丈夫ですよ。僕たち、基本的には手出ししませんけど、何か分からないことがあったら、できる範囲で教えますから」
真壁くんが微笑《ほほえ》む。下級生のプレッシャーを和《やわ》らげようとしているのだろう。
部長が「さて」と、まとめに入る。
「ってわけで――二人とも、週明けに作りたいゲームの企画書を持ってきてくれ。そうだなあ、いままで部活中に一人で途中まで制作してたやつがあんだろ? 別にそれでもいいぜ」
「あたしも五更さんも、別々のゲームを作ってたと思うんですが……」
「両方作るわけにゃいかん。二人の企画を、週明けの部活で発表してもらって、五更と赤城、どちらの企画を採用するのか、多数決で決める」
「……そーですか。この部活のメンバーで……多数決」
瀬菜はちらりと部員たちを見渡した、いま出席しているのは俺を合わせて七名だ。
「いいです。それで構いません」
「……私も、異存《いぞん》ないわ」
二人は多数決での勝負に納得したらしい。
考えがあったので、俺は挙手《きょしゅ》した。
「部長」
「どうした、高坂」
「そのコンテスト用のゲームとやら、俺も手伝っていいっすか。つっても、雑用くれーしかできないっすけども。ホラ、俺も一応、新入部員でしょ?」
「んー」
部長は、無精髭《ぶしょうひげ》の残った顎《あご》をさすり、チラリと俺の顔を見た。次いで、ニヤリと含みありげに口元をつりあげ、八重歯を剥《む》き出しにして笑《え》む。
「いいぜ。やってみろよ、兄弟。そうだな、おまえがこの二人の監督役を引き受けてくれりゃーありがたい」
部活が終わったあと、俺は駅前の本屋に向かった。
ゲーム制作に参加すると言ってしまった以上、門外漢《もんがいかん》なりにやれることはやっておきたい。
どの程度の効果があるもんかは知らないが、ゲーム作りの解説本の一冊や二冊くらいは読んでおくべきじゃねーかと思ったのさ。部室にある本は、専門的なものが多くて理解できそうになかったので、もっと簡単な――入門書みたいなもんがありゃいいんだけど。
あーもう俺って、なんて後輩思いの先輩なのだろう。この努力が実って、かわいい後輩たちから慕《した》われちゃったりなんかしてな……へっへっへ。
「この辺かなぁ〜っと」
ニヤニヤ店内をうろつきながら、目的の本がありそうな棚を見つける。
と――そこで、見覚えのある顔と出くわした。
「赤城じゃんか」
「ひええっ!? あ、こ――高坂先輩?」
俺が声をかけた途端《とたん》、ぴくぴくっと背筋を震わせて飛び上がったのは、瀬菜だった。
こいつも学校帰りなのか、制服姿だ。
クラスメイトの赤城と紛らわしいが、下の名前で呼びつけるわけにもいかないので、心の中では瀬菜=A口に出して呼ぶときは赤城≠ニ使い分けることにする。
「え? えっ? えっ? な――なにしてるんですかっ、こんなところでっ」
俺が本屋にいるのがおかしいのかよ。まあ、あんまり似合わない場所ではあるけどさ。
「いや、ゲーム作りの入門書とか、ないかなって」
「そ、そーですかっ」
「ちょうどいいや、おまえ、なんかオススメのがあったら教えてくれねえ?」
「はぁっ……ふぅっ……」
瀬菜は目をぱちくりしながら呼吸を整え、ようやく落ち着いたようだった。
「いいですよー。そうですねえ……このあたりなんか、初心者でも分かりやすく書いてあってオススメですけど」
瀬菜はほとんど迷わずに、棚差《たなざ》しされていた本を手に取った。
「ただ易しい本って、深く切り込んだことは何も書いてありませんから、実際の制作ではあんまり役に立ちませんけども」
「構わないよ」
俺は瀬菜から受け取った本をパラパラめくり、内容が自分の求めているものと一致していることを確認した。
「いきなり専門書読んだってサッパリだからな。俺にはこれで十分だ」
「そーですか。ところで、先輩、どういう風の吹き回しなんです?」
「なにがだ?」
「だって高坂先輩が興味あるのは、五更さんであって、ゲーム作りじゃないですよね」
おやおや。こいつも変な風に勘違いしているようだな。
そんなんじゃねーって。ゲーム制作を通じておまえらの絆《きずな》を深めようっつーのがたぶん部長の思惑《おもわく》なんだけどさ。そいつに乗ってやるのはいいが、ほっとくとろくなことにならんからな。
俺が付いていてやんねーといかんのよ。
「ゲーム作りにだって、ちっとは興味あるよ。でもって俺も制作メンバーの一員なんだから、おまえらが頑張ろうってときに、一人だけなんにもしないわけにはいかねーさ」
「そんな付け焼き刃じゃー、制作の邪魔《じゃま》にしかならないと思いますよ?」
ぐさっ。
「は、ハッキリ言ってくれんじゃん」
「お気に障《さわ》りました?」
「いいや」
こんなもんでお気に障ってたら、脳の血管がいまごろプツンと切れてるよ。
この間まで、ウチにはもっとひでえ台詞を吐く人非人《にんぴにん》が住んでいたからな。
「むしろ助かる。そか、そっか。付け焼き刃じゃあ………何の役にも立たないか」
俺は顎に手を添えて、頷いた。
「そんじゃあ……俺にできることを、探すしかねーな」
「…………高坂先輩って、わりと責任感あるんですね。意外です」
「意外でもなんでもない。流されやすいだけだって」
「そーですか」
この『そーですか』ってのは、瀬菜の口癖みたいだな。唇を尖らせて、ちょっとスネた感じに言うところが、愛嬌《あいきょう》ってかわいいと思う。言われてイラッとするときもあるけどね。
「ところで、おまえもゲーム作りの本を買いに?」
「えっ? ち、違いますよ?」
何故かうろたえる瀬菜。じゃあ何をしに来たんだ? とは聞くまでもなかった。
彼女が手に持っている文庫本が、見るからに|BLもの《ヽヽヽヽ》だったからだ。
「……な、なんですかっ、その顔は」
かあっと頬《ほお》を赤らめて、本を後ろ手に隠してしまう。妹もののエロゲーを楽しそうに見せびらかしてくる我が妹とは、大違いの反応だ。それが、なんとなく新鮮だった。
「ん? いや、やっぱ好きなんだなって、そういう本」
「…………悪かったですね」
真っ赤に恥じらったまま、俯《うつむ》いてしまう瀬菜。
「悪くないって。別にその本、18禁ってわけでもないんだろ? そこまで恥ずかしがって隠すようなもんでもないと思うけどな」
「や、やっぱり高坂先輩って、ホモ肯定派なんですか!?」
「おまえはよっぽど俺をホモにしたいんだな! 俺は正真正銘《しょうしんしょうめい》ノンケだよ!」
「えー」
残念そうな顔すんな。俺がジト目で睨《ね》め付けると、瀬菜は口元に手を当て、「あっ……またやっちゃった」と自らの所行《しょぎょう》を悔《く》いていた。
「ごめんなさい……なんだか高坂先輩を見ていると……その……どうしてもみだらな妄想《もうそう》が膨《ふく》らんでしまって……」
台詞だけ聞きゃあ、一風変わったエッチな愛の告白に聞こえなくもねーんだが。
『あなたを見ていると、ついついBL妄想しちゃうの※[#ハート白、unicode2661]』なんてことを告白されても、まったくもって嬉しくない。
「……ま、まあいいよ」
「え? いいんですかっ?」
「やっぱよくない!」
目えキラキラ輝かせやがって! 超ド級に病気だなこいつ。
「うぅ……ぬか喜びさせるなんて……ひどいです、せんばい」
「…………」
困ったな。下手に返事ができん。あと初登場時からキャラ変わりすぎだ。誰だおまえは。
「あ、あのさあ」
「はい?」
「ちっと聞くけども。腐女子ってのは、みんな――そんな感じなのか? なんつーか……自分の趣味について、弱気っつーか、卑屈《ひくつ》っつーかさ。おまえなんか特に、普段はあれだけ強気なのに、なんでこの件に関してだけはそんなに自信なさそうなんだよ?」
「こ、こっち来てください……」
「え? お、おいっ……」
瀬菜はとつぜん俺の裾《すそ》を引っ張って、本屋の隅まで引っ張っていく。
彼女は、ぎゅむ、と、俺を壁際に押しつけるようにして、きょろきょろと人気がないことを確認。慌《あわ》てた小声で言った。
「ちょっと……こんな場所で『腐女子』とか言わないでくださいよ……」
「……す、すまん。軽率《けいそつ》だった」
素直に詫《わ》びる俺。正直でっかい胸が密着していて、それどころじゃねえ。早急に違うことを考えて気を散らさないと、変な気分になってしまいそうだ。
しかし本当に卑屈なんだな。そこまで気にするか?
サンプルケースが少ないので、これは俺の勘違いかもしれないのだが……。
腐女子≠ニそれ以外のオタク≠フ違いって、このあたりにあるような気がする。
たとえば桐乃は、世間体を気にしてオタク趣味を秘密にしてはいたけども、オタク趣味自体は肯定《こうてい》していたし、『これがあたしなの』と胸を張っていた。
対して瀬菜はオタク趣味≠ノついてはわりと肯定的で、それほど必死に隠すようなものではないと言っていたが腐女子趣味≠ノついては、かたくなに秘め隠し、恥じらっている。
「教えてあげましょう。腐女子という言葉は、そもそも自重《じちょう》と自嘲《じちょう》から生まれたんですよ、高坂せんばい」
瀬菜は、指を一本立てて、まるで弟にでも言い聞かせるような調子で語り始めた。
「あたしたちの使う単語が一見暗号のようになっているのも、サイト運営に当たって伏《ふ》せ字の文化が根付いているのも、純真な一般人の方が、間違ってあたしたちの領域に入り込まないようにという配慮からなんです。感性の違うマジョリティ層から迫害《はくがい》を受けないための自己防衛でもあります」
長台詞《ながぜりふ》を喋《しゃべ》っているうちに熱が入ってきたのか、瀬菜はさらに顔を近づけて――身体を密着させてくる。これでちょっと前まで中学生だったというのだから恐ろしい話だ。
「高坂先輩? あたしの話、聞いてます?」
「お? おう……」
この体勢を、長く続けるとまずい。しかしやめろとも言いにくい。色んな意味で。
「これはあくまであたし個人の考えなんですけど――腐女子の文化って、個人の価値観を大切にすることで成り立っていると思うんですよね。それゆえに合わない≠烽フは合わない≠ニ、早々に見切りを付けて遠ざけてしまうっていうか。高坂先輩には分かってもらえない感覚だと思いますが、たとえ親友であろうとも、|価値観が会わなければ敵《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ですから」
分かんねー。ぜんっぜん分かんねー。おっぱいおっぱい。
「その『価値観が合わない』ってのは、具体的にどういう?」
「分かりやすい例を挙げるなら、主にカップルの攻め受けの問題です」
「よけい分からなくなったぞ!?」
「え? 高坂せんばい……? もしかしてBL用語が分からないんですか?」
「意外そうに言うんじゃねえ! 俺はBLに一切興味などないよ!」
「えー。……うーん、だとしたら、ちょっと分かりにくいかもしれません。ええと、腐女子って、文化的に鎖国しているというか……価値観が|かち合わない《ヽヽヽヽヽヽ》シーンでのみ自分を出すようにしている人が多いんですよ。『あなたの萌《も》えは他人の萎《な》え』『だからきちんと棲《す》み分けしましょう』ってね。きちんと実践《じっせん》できているかどうかはともかく、あたしもそうですし。腐女子同士であっても合わない≠ニきは合わない≠オ、その場合、いとも簡単に憤怒《ふんぬ》の塊《かたまり》になることが自分で分かってますから、自重しないとやっていけないってわきまえてるんですよね」
なんとなく分かった。
新観会のとき唐突《とうとつ》にプッツンしたのはそれか。憤怒の塊≠ニはまた、言い得て妙である。
あんとき黒猫は、腐女子のそういう性質を利用して、瀬菜を|ひっかけた《ヽヽヽヽヽ》ってわけね。
もっとも、瀬菜の大爆発は、腐女子の性質を理解している黒猫にとっても、意外だったようだがな。腐女子の性質ねえ……。彼女たちは、自嘲し、自重するのだという。
「ようするに――恥じらい≠ェ腐女子の文化ってわけなのか?」
「……そういうことに、なりますかね」
なんとなく、納得しきっていないような瀬菜だった。まあ、ちょっと聞きかじっただけの俺が、本質を衝《つ》くような台詞を言えるわけもねーか。
「ですから――最近のライトノベルに見られるような、空気を読まずに性癖《せいへき》剥《む》き出しの腐女子キャラ≠ヘ、男性作家によってデフォルメされたまがいものなんですよ。もちろんそれって面白くするためのデフォルメなので、悪いってわけじゃないんですけど……複雑な気分ではありますよね。フィクション作品を読んだだけで『腐女子ってこういうものなんだ』って決めつけられちゃうのは、なんかヤです」
ちょっと待て。その理屈だと、おまえもまがいものなんじゃねーの? 一連の話を聞いた限りだと、おまえって、腐女子の中でも相当|際《きわ》だった変態のよーな気がするんだが。
「自分たちのことを、もっと、ちゃんと知って欲しいってこと?」
「知らなくていいです。ほっといて欲しいです」
そうなのか。とことん卑屈である。瀬菜は弱気な口調で、
「そりゃあ……あたしたちは変態じゃないんだよって、自信持って胸を張ることはできないですけど……実際、あんまりおおっぴらにできる趣味だとは思いませんし………。でも、そういうの自分で分かってますから。現実の腐女子って、もうちょっと空気を読むと思うんですよ」
「……そっか」
新歓会でも似たようなことを言っていたな。
空気を読むことが大切だと考えていて、自分の変態性を自重し自嘲しながらも――どうしても妄想が止められない。興奮するとついつい趣味を露出してしまう。ド変態と化してしまう。
瀬菜の懊悩《おうのう》は、このあたりに根幹があるのかもしれないな。
……腐女子談義をしたことによって、多少話も盛り上がってきた。本題を切り出すにはいいタイミングだろう。本題って何かって? ってか、せっかくこうして会えたんだからさ。
これって、瀬菜を攻略≠キるチャンスだと思うんだよね。エロゲーでたとえるなら、ヒロイン固有イベントに入ったようなもんだ。
学外で偶然出会うところからして、それっぽい。ゲームにもよるが、あと十五回くらい会えば、Hシーンに持ち込めるはずだ。
「……、高坂せんばい? あたし、いまなんだか一瞬身の危険を感じたんですけど……」
「気のせいだ」
いかんな。俺もたいがいオタク趣味に毒されている。
それこそ腐女子じゃないが、自重しなければ。
さてと……何について話したもんかな。
「あのさあ、おまえって……」
「なんですか?」
[#ここからゴシック体]
1.兄貴と仲いいの?
2.ゲームコンテストに参加することになった件については、どう思ってるんだ?
3.実はさっきから、おっぱいが当たってんだけど。
[#ここでゴシック体終わり]
「兄貴と仲いいの?」
「ええ〜? 超悪いですよ!」
「そうなの? でもおまえの兄貴は、ずいぶんシスコンみたいじゃん?」
「そうなんですよ〜! きもいったらないんですよね!」
おいおい。なんだこの態度は、どっかで見たことあるぞ?
「いやいや赤城ちゃん。仮にもお兄ちゃんのことを、悪く言うのはよくないぜ?」
「高坂先輩、いやに兄の肩を持ちますねえ………………そ、そっか、やっぱり愛してるんだ……」
「愛してねえよ!」
小声で喋ってても丸聞こえなんだよ! ぜんぜん自重できてないじゃん!?
「つーかおまえ、新歓会んときは、『ありがとう、ごめんね、お兄ちゃん。試合がんばって』ってな感じだったじゃん?」
「ぎゃ――ッ! 忘れてくださいッ!」
真っ赤になって、俺の襟元《えりもと》を締《し》めてくる瀬菜。
ハハハ、やっぱウチの妹とは違って、ブラコンなんじゃん。素直じゃねえなあ。
じゃあ次は、『2』を聞いてみるかな。
「ゲームコンテストに参加することになった件については、どう思ってるんだ?」
「どうって……うーん、ここだけの話ですけど……結構楽しんでるってのが、本音です」
「そりゃまたどうして? 五更とは、そりが合わねえんだろ?」
瀬菜はパァッと表情を輝かせた。
「だってチャンスじゃないですか。プレゼンで勝てば、『あたしのゲーム』を『あたし主導』で作ることになるんですよ? あたしの実力を見せつけるにはうってつけのシチュエーションですし、首尾《しゅび》良くゲームを完成させて、コンテストで入賞できれば――」
「できれば?」
「五更さんも、自信が付くでしょう? 『ああ……こんな私でも、赤城さまの言うとおりにすれば、人と協調して、何かを創り上げることができるのね……。ありがとう、あいらぶゆー、あなたのおかげで目が覚めたわ』とまあ、そんな感じですか?」
えっへっへ、と肩を揺らして笑う瀬菜。なんという押しつけがましい女だ……。
頭悪いんじゃねえのかこのアマ。そんな上手くいくわけねーだろ。
黒猫があいらぶゆーなんて言うか。仕切り屋のしっかり者と思いきや、やっぱり根っこはガキっぽい。しかしまあ、決して悪いやつではないんだろう。
そういや、そもそもこいつは、黒猫のことを更生させようとしていたんだっけ。
黒猫と瀬菜。こいつらの相性自体はそう悪くない。なにしろ趣味が近いし、好きなアニメは同じだし、話自体は――あるいは桐乃以上に――噛み合うのだ。瀬菜の秘密が暴露されたことによって、新歓会以前より、ぐっと心の距離も近くなっているはず。あと一押しだと思うんだよな。
今回のゲームコンテストで、二人の仲が、上手いこと行けばいいんだけど。
「どーせ先輩は、五更さんの味方をするんでしょうけど。負けませんからね、あたし」
「自信がありそうだな」
「とーぜんです」
ハハ。わくわくしているというのは、いまの瀬菜みたいな状態をいうんだな。
見ているこっちの方が、テンション上がってくるぜ。
初対面が初対面だったから、この娘のことは、正直苦手に思っていたんだが……。
なんだよ、いい娘じゃんか。
眼鏡もかけてるしな。
俺は瀬菜と一緒にレジへと向かった。
その途中、新刊コーナーに平積みされていたとあるハードカバーに、目が吸い付けられる。
タイトルは、『妹空2』。俺の妹・桐乃が書いたケータイ小説『妹空』の続編である。
……もう出てたんだな、これ。
ふぅ、と自然とため息が漏《も》れる。妹空といやあ、ケータイ小説の取材に付き合わされて、クリスマスに妹と一緒に渋谷に行って……あんときゃ大変だったよなあ。
おもにラブホとか、ラブホとか。あとラブホとかな。
「どうかしましたかせんばい? あ、その本――続編出てたんですね!」
「知ってんのか?」
「あたしこの本大嫌いなんですよ」
一瞬、誰に向かって言ってんだコラ? と思ったが。
そうだよな。俺の妹が書いた本だなんて、こいつが知るわけねーもんな。
俺は内心ムッとしたのを顔に出さないようにして、「なんでキライなんだ?」と聞いた。
「主人公の性格があまりにも酷《ひど》くって――読んでて腹が立ってしょうがなかったんです。世間では賛否両論みたいですけど、あたしには何が面白いのかさっぱり分かりませんでした」
「そ、そっか」
なにせ主人公のモデルが桐乃だしな。そういう感想が出るのも、分かる気はする。
「でも売れてるんですよね、これ」
「そうなのか?」
「ええ、あたしには分かりませんでしたけど、この本を面白いと感じる人がたくさんいて――なにより宣伝の仕方が凄《すご》く上手《うま》いですから」
瀬菜は平積みされている妹空2を一冊手にとって、帯の部分を指さし、俺に見せてきた。
「現役女子中学生作家が描く|真実の愛《トゥルーラブ》・第二弾――とまあ、ホントかどうか知りませんけど、この本って女子中学生が書いたということになってまして」
いや、それがホントなんだよ。
「インターネットやテレビでも、作者の理乃《りな》先生が中学生であることをピックアップした宣伝を、かなりあざとくやってるんですよね。顔出しはしてないんですけど、制服姿の写真を掲載《けいさい》したり、インタビューをしたり、本の発売前にネットで本文を公開して口コミを誘発させたり――もう色々。あたしが読んで面白くなかったからってだけじゃなくて、客観的に見てもこの本がヒットしたのは作者の実力だけじゃないと思いま――……高坂先輩?」
「ん?」
「どーしたんですか? ぼーっとしちゃって……」
「なんでもないよ」
ちょっと、感傷《かんしょう》にひたっちまってただけだ。
妹のバカがさあ、友達みんなが心配してるってのに、ひとっつも連絡寄越さなくてよ。
便りがないのは元気な証拠《しょうこ》とは言うけどさ、それにしたって限度があるだろう。
あー…………ったく…………いまごろ何やってんのかな…………………あいつ。
pipipipipipipi…………
「連絡きたあ――!?」
「ひゃっ!? な、なんですかイキナリ! 大声出さないでくださいよ!」
瀬菜の抗議も耳に入らず、俺は携帯にかぶりつく勢いで着信を確認した。
そこに表示されていた名前は――
「ごめんなさいね。呼び出したりして」
「構いませんよ。こっちも、ちょっとうかがいたいことがあったんで」
俺に電話をしてきたのは、桐乃ではなく、フェイトさんだった。
伊織《いおり》・F《フェイト》・刹那《せつな》。パンツスーツに身を包んだ細身の女性。
この人とは以前、桐乃のケータイ小説盗作事件のときにやり合った。
結局事件は大事にはならず、彼女も警察のお世話になることはなかった。
フェイトさんから電話がかかってきたあと、瀬菜と別れた俺は、ちょうどいま、待ち合わせ場所であるカフェに到着したという場面だ。
「どこで俺の電話番号を?」
「以前、桐乃ちゃんが教えてくれたのよ」
桐乃がねえ……どんな話の流れで、俺のケータイ番号教えたんだか。想像もつかねーな。
そういや……ある意味、桐乃が留学したのって、この人のせいなんだよな。
この人が桐乃に目を付けなければ、あいつは留学費用を捻出することはできなかったんだから。だからなんだっつーわけじゃねーけどさ。別にこんなことでもなきゃあ、会いたくもねー人ではある。彼女の向かいに腰を下ろすと、相手はこう切り出してきた。
「高坂くんって呼べばいい? それとも、京介くん?」
「どっちでも揃わないっすよ、フェ――」
おっと。そういえばフェイトって呼ぶと怒るんだっけ、この人。
しかし彼女は以前のようにいきり立つこともなく、「……っふ……」と、投げやりに苦笑するばかりだった。
「もういいわよ、なんでも。キミの好きに呼べばいいわ」
「はあ、すんません。じゃあフェイトさんで」
遠慮《えんりょ》なく頭の中で呼び慣れた名前で呼ばせてもらうことにする。
「ええと、何か、俺に話があるってことでしたけど……」
しかしこの人、なんだか雰囲気変わったな。上手くいえないが、つんけんしたところが薄れて柔らかい印象になっている。口調も若干《じゃっかん》変わっているような気が――。
「うん。それについては、食事をしながら話そうか。もちろん今日は僕の奢《おご》りだ。さ、京介くん。好きなものを頼んでくれ」
「な、なんで僕っ娘《こ》っぽい話し方なんです?」
戦慄《せんりつ》の表情で聞くと、フェイトさんは目を丸くして口元を押さえた。
「あ、ごめんなさい。なんだか最近、昔の口調がぽろっと出ちゃうことがよくあって――。こんなこと、ここ数年はなかったんだけど。……キミたちの影響かもね?」
キミたちのっつーか、黒猫の影響だよな、たぶん。
フェイトさんはかつての自分≠ニそっくりな黒猫の姿を目《ま》の当たりにし、本音をぶつけあったことで――変わったのだろう。変わったっつーか、|戻った《ヽヽヽ》っつーか。
にしても二×歳の女性が僕≠ヘやべえだろ!
大丈夫かなこの人? ちゃんと社会でやっていけてんのかな?
「えっと――フェイトさん。最近どうですか?」
「私の近況? そうねえ……そろそろ貯金が尽きかけていて、本気で焦《あせ》っているわ」
「ダメじゃないすか!?」
「自慢じゃないけど超ダメよ私。一人暮らしで頼れる身内もいないし、派遣の仕事は去年クビになっちゃったし。最後のチャンスだと思って、就活《しゅうかつ》せずにずっと小説書いてたら、お金なくなっちゃってさ。――――ろくにご飯も食べられないわ。ここの支払いもア●ムマスターカードのリボ払いを使うしかないのよ」
笑いごとじゃねえ。つうかまったく笑えねえ。ワナビって大変なんだな。
フェイトさんはふくらみのない胸を張って、何故《なぜ》か得意げに言った。
「何を隠そう、私の年収は五三万です」
「絶望するしかねえ!」
なんとフェイトさんは、派遣切りにあって貧困にあえいでいた。
もはやワーキングプアどころじゃなかった。
驚きの事実である。
俺はテーブルのボタンを押して、店員さんを呼んだ。
「いや俺、金払いますから! なんか食べてくださいよ! 奢りとかとんでもないっす!」
「………そ、そお? っふ、悪いわね。なんか、おねだりしちゃったみたいで」
おねだりしてたよアンタは! ほぼ脅迫《きょうはく》に近い勢いで!
あんな話聞かされたら、あんたに金払わせるわけに行くか!
やってきた店員さんに、注文を伝え――話を再開する。
「ほんとにごめん」
「もういいですって。――で? 結局なんの話があったんすか?」
「あなたの妹さん――という設定の、娘《こ》。いたでしょう?」
「黒猫のことすか」
「ええ、そう」
そっか。俺と黒猫が本当の兄妹じゃないことを、もう知ってるんだっけ、この人。
「彼女にね、お礼を、伝えておいてほしいの」
「お礼?」
「ええ、お礼よ。お詫《わ》びではなく、お礼。桐乃ちゃんにはもう直接言ったけど――あの娘には、まだだから」
俺は黙って、話の続きを聞いた。
「あのとき、あの娘が私に言ったこと――考えたの。甘っちょろくて、苦々《にがにが》しくて――とても、懐《なつ》かしくて。なんていうかね、吹っきれたのよ、色々と」
「色々、ですか」
「うん、色々」
にこりと笑うフェイトさん。具体的な内容については、教えてくれるつもりはなさそうだが――その表情は晴れやかで、憑《つ》き物が落ちたかのようだった。
だから俺は、つられるように笑っていた。
「連絡先を教えますよ。俺から言うより、直接言ってやってください」
「……そうよねっ……ん、そうする」
目をつむって頷《うなず》く。
その仕草《しぐわ》は年相応の大人びたもので、不覚にも少々どぎまぎしてしまった。
「どうかした?」
「や、なんでも……」
ふう、危ねえ危ねえ。この人が眼鏡をかけていたら、やばかったぜ。
しばしの沈黙を挟《はさ》んで、フェイトさんの方から話題を変えてきた。
「そういえば、キミの妹さん――桐乃ちゃん、留学しちゃったわね」
「なんであんたが知ってんすか」
「実は、桐乃ちゃんの強い希望で、妹空と妹空2の編集作業には私も参加したのよ。その関係でね、何度か会って話したの。あの娘、いきなり『留学します』って簡単に言うから、びっくりしちゃった」
「桐乃の希望?」
意味が分からない。この人は桐乃のケータイ小説を盗作しようとした人だぞ? どうして桐乃がこの人を編集作業に参加させようなんて言い出すんだよ。
「私だって信じられなかったわよ。でも桐乃ちゃん、『あたしがこれを書けたのは、伊織さんのアドバイスがあったからなんです。読者に面白いものを届けるためにも、最後まで一緒《いっしょ》にやって欲しいです。というか熊谷さんと二人で打ち合わせするのがすごくイヤです』――って言ってくれてね。どれだけ甘いのよって思ったわ」
「――――」
いや。桐乃は、ぜんぜん甘くなんてない。
特に『仕事』が絡んだときは。
情《じょう》に流されて、役立たずの人間をチームに加えるようなことは絶対にない。
だからきっとあいつは本当に、より面白いものを作るためには、フェイトさんの力が必要だと考えていたのだろうし、実際彼女にはそれだけの能力があるのだろう。
もしかしたら彼女を告発《こくはつ》せずにおいたのも、『より面白いものを作るため』だったのかもしれない。
そもそも大ヒットを記録した『妹空』の企画は、フェイトさんが思いつき、立ち上げ、桐乃を誘って組み立てたものなのだから。
彼女自身に文章を書く能力がなかったのだとしても、その事実は変わるまい。
そしてこの俺が、いまここにいる理由も――彼女の能力をあてにしてのことだった。
「熊谷さんに強く勧められて、雷撃文庫編集部の中途採用試験を、今度受けることになったの」
「……へえ」
「私なんかが、とは思うのだけどね。あんなことをしてしまったわけだし……ワナビ崩《くず》れの編集者なんか、作家さんの方だっていやでしょうし………そもそもあんまり向いてないと思うし」
ぽつりぽつりと内心を吐露《とろ》するフェイトさん。
「でも……そうね……このままじゃ餓死《がし》しちゃうから……」
それでも最後には、無理矢理に笑顔を作ってこう言った。
「やるだけやってみるつもりよ。私に、できることを」
「そうですか」
社会人ってのは、大人ってのは、かっこいいもんだな。俺は素直にそう思ったよ。
「そういえば京介くん。なにか私に聞きたいことがあるんじゃなかったの?」
「あ、そうそう。実は俺、いま部活でゲームを作ることになってて――」
中略。
「――というわけで、その一年生二人をどうにか仲良くしたいんですよ。で、ゲーム制作を一緒にやって、コンテストに入賞するような成果を上げることができたら、いい思い出になるし、うち解けるきっかけにもなるんじゃねえかなって思うわけです」
さっき瀬菜が言ってたのと、基本的には同じアイデアだ。あの話を聞いた直後は、この女バカじゃなかろうかとも思ったが、よくよく考えてみると理《り》には適《か》っている。
力を合わせて何かに挑《いど》むというのは、絆《きずな》を深めるにはいいシチュエーションだろう。
それで勝利できたなら、なおさらだ。だから――
「俺は二人がコンテストで入賞できるよう、力になってやりたいんですよ」
この人は、桐乃が認めるくらいには、実績のあるヒットメーカーだ。
小説とゲームじゃ畑違いではあるが、何か秘策《ひさく》を授《さず》けてくれるかもしれない。
「そういうことなら、一応、少しは話せることもあるかもね」
「ホントですか!」
「そ、そんなに期待されても困るけど……私、ゲームのことはよく分からないし。えっと、ほんとに、当たり前のことしか言えないわよ?」
「ぜんぜん構わないっす。お願いします」
「そう。じゃあ……エントリーするジャンルを意識してみたらどうかしら?」
「ジャンル!?」
「う、うん、その『かおすくりえいと』ってコンテストは、ジャンルごとに入賞作品が選出されるわけでしょう? だったら、エントリーするジャンルによって、入賞するための難易度がもしかしたら変わってくるのかもしれない。コンテストの過去データを徹底的に調べて、勝機の高い狙《ねら》い目≠フジャンルや、ウケるゲームの傾向なんかを探してみたらどう?」
「なるほど――分かりました! たしか『かおすくりえいと』のサイトにそういう過去のデータが載ってるページがあったと思うんで、それ、あとで調べてみますよ!」
いいことを聞いた。ふっふ、なんだかテンション上がってきたぜ。
「そ、そう。ちょっとはお役に立てたかしら?」
「もちろんです。明日部活で提案してみますよ。ようするにこういうことっすよね。エントリーするジャンルを意識して――」
「――エロゲー作ろうぜ!」
翌日の部活にて、俺はさっそく素晴らしいアイデアを発表した。
「はあ!? ちょ! 狂ったんですか高坂先輩! 唐突に妄言《もうげん》吐かないでくださいよ!」
瀬菜が超《ちょう》反応で叫んだ。俺は憤《いきどお》る彼女に向かってクールな流し目を送り、
「ふ、まあ、慌《あわ》てるなって。いま説明してやるからよ」
「どんな説明が来ても納得できそうにないんですが……」
「聞けって。俺たちが提出しようとしているゲームコンテスト『かおすくりえいと』は、RPGとかSTGといったジャンル毎に入選作品が決まる形式だ。当然ジャンル毎に参加者の数は違ってくる。人気があって入選しにくいジャンルと人気がなくて入選しやすいジャンルとがあるわけだ」
「なるほど、オリンピックでマイナー競技の方が金メダルを獲りやすいのと同じ理屈ですか」
「ワナビが応募者の少ない新人賞を狙って投稿《とうこう》するようなもんだ」
「ひ、比喩《ひゆ》がやばいですよ!?」
そうなの? 俺はフェイトさんが喋《しゃべ》ったとおりに言っただけなんだけど。
「とにかく、ジャンル毎に倍率が違うわけだから、当然狙い目≠フジャンルってもんが出てくるわけだ」
「……ええ。で? つ、つまり、その……狙い目のジャンルというのが?」
「そう! 18禁アダルトゲームなんだよ!」
フッ。俺はイカした笑みとともに、瀬菜の顔にビシリと指を突きつけた。
もう察してくれていると思うが、完全にスイッチ入ってノリノリになっている俺だった。
瀬菜はがたっと席を立って、ビッと指を突きつけ返してくる。
「だからって、どーして高校の部活でエロゲー作ろうとかいう発想が出てくるんですか!? 実はバカだったんですねせんぱいって!?」
「えっ? 超合理的なアイデアじゃね!?」
「ちょ、自信満々ですよこの人は 誰か何とか言ってあげてください!」
賛同意見を求めて振り返る瀬菜。しかしそこにいた部長は満面の笑みで、
「さすがだ兄弟! その発想はなかったわ!」
「こっちにもバカいたあ――!! こ、この部活って変態しかいないんですかね!?」
いやどう考えても、おまえが一番の異常者だろうと突っ込みかけて気付く。
いまの台詞、さりげなく自分も数に入っている……!
「ま、真壁先輩! 真壁先輩なら分かってくれますよね! あたしが何を問題にしているのか……!」
真壁くんの両肩をつかみ、すげー勢いでガクガク揺する瀬菜。真壁くんは迷惑《めいわく》そうな顔で、
「え、ええ、まあ」
「ホ〜ラ、聞きましたかバカども! これが常識人の御意見です! さささ、真壁先輩、言ってやってくださいよ!」
「高坂先輩のアイデアですけど。18禁ジャンルが狙い目で、しかもジャンル変更にともなう弊害《へいがい》も少ないというのは分かるんです。五更さんのゲームにしろ、赤城さんのゲームにしろ、Hシーンを追加すれば、それはもう18禁ジャンルになるわけですし、すでに制作進行中だったものはそのまま使えます」ただ、と彼は一拍《いっぱく》おいて、
「どちらにせよ、女の子たちにHシーンを書いてもらうことになりますよね?」
「おう、そうだな」
俺はしれっと肯定《こうてい》した。
「変態!! 変態!! 変態!!」
顔を真っ赤にして俺を糾弾《きゅうだん》してくる瀬菜。興奮のあまり、眼鏡が真っ白に曇っている。
「お、落ち着けって」
「これが落ち着いていられますか……! こ、後輩の女子になんて羞恥《しゅうち》プレイをさせようとしているんです! せくはらですっ! いいえ、ぱわはらですっ!」
「失敬なこと言うなよ! セクハラじゃねえって! た、たとえばさ! 俺がおまえに男同士のHシーン書いてくれって頼んだら、喜んで書くだろ?」
「それはもう! 張りきって書きま――じゃなくって! な、なに言わせてんですか!?」
ノリのいいやつである。
「あ、あたしの話はいいんですよあたしの話は!」
瀬菜はそばに座っている黒猫に振り向き、
「っていうか、五更さんだってイヤでしょ! このパワハラ男に言ってやってください! いつものように『呪《のろ》い殺すわよ』と痛い台詞を!」
ぶち切れる瀬菜の剣幕《けんまく》を見て、段々と正気を取り戻して行く俺。
……イケると思ったんだけどなあ。うーむ、やっぱダメか……。
ところが。
先ほどからずっと黙っていた黒猫が見せた態度は、俺や瀬菜の思惑《おもわく》とはかけ離れていて――
「…………先輩が、その、やれっていうなら……」
それこそ瀬菜の言うとおり『呪い殺すわよ』とでも言い出すかと思いきや。
瞳《ひとみ》を潤《うる》ませ、顔を耳まで紅潮《こうちょう》させている黒猫は、こちらと絶対に視線を合わせないようにしながら、ぽつぽつと呟《つぶや》き始めた。
「……いま作っているゲームになら、無理なく盛り込めそうだし……やってもいいわ」
「ご、五更さん……正気ですか?」
「……シーンを追加するだけで……勝率が上がるのなら……」
恥《は》じらいながらも達観《たっかん》した意見を言う黒猫に、瀬菜はちょっと引き気味だった。
「そりゃそうかもしれませんけど……」
「ただ私、男の人のそういうシーンを、描いたことがないから……。ちゃんと描けるかどうか、やってみないことには分からないけど」
そうか。そういえばいままで黒猫が描いたHシーンというのは、すべて女同士のものだった。
やる気はあるけど自信はないのかもしれないな。俺は真摯《しんし》な口調で言ってやったさ。
「そういうことなら……俺もできる範囲で手伝うよ」
「……え? 手伝うって、なにを、」
はたと言い差した黒猫は、ばんっ! と、机を叩《たた》いて立ち上がった。
「み、身の程を知りなさい莫迦《ばか》……な、何故この私がそんな……人間|風情《ふぜい》に……破廉恥《はれんち》なことをすると思うの……」
「お、オマエ! どんなとんでもない誤解してんだよ! そういう意味じゃないっての!」
俺はただ、おまえの書いたHシーンとやらを読んで、男エロゲーマーとしての感想を言ってやろうとしただけですよ! 『ふひひ作画資料を提供してやるよ』とか、そういうエロ同人みたいな企《たくら》みは断じてないですから!
目の前には、両|拳《こぶし》を堅く握りしめ、目をぎゅーっとつむっておかんむりの黒猫。
「絶対に却下よ。有り得ないわ」
そして俺の右隣には、眼鏡を曇らせて説教待機中の瀬菜がいて――
「これからはセクハラ先輩と呼んであげますね?」
氷のように冷たい微笑みを、俺の胸に突き刺した。
そんな戯言《ざれごと》はさておき――
黒猫と瀬菜による発表会当日の昼休み。俺はいつものように麻奈実と一緒に図書室で勉強をしていた。窓際の静かな席に向かい合って座り、ノートを広げる。最近の俺は、昼飯を食う時間も惜《お》しい状況である。こうして付き合ってくれている麻奈実には感謝してもしきれない。
「サンキューな、麻奈実」
「え? ええっ? どしたの〜……とつぜん……」
「なんだ、俺が礼を言ったらおかしいかよ」
「ううん、ううん……そんなことない、けど」
麻奈実は俺の対面で、てへへとはにかんだ。
「きょうちゃん……前から優しかったけど、最近もっと優しくなったなあって、思ったの」
「何言ってんだ、ばーか」
でも、そうかもな。
俺は周囲の人たちに助けられて生きている。それは前々から自覚していたことではあったが――いつしか慣れて、『当たり前のこと』だと思うようになっていた。
俺をむしばんでいた『怠惰《たいだ》』というのは、そういうことでもある。
もう少し、俺は俺をどうにかしなければならない。
そう思えるようになったのは――認めるのはしゃくだが――いまはいない誰かさんのおかげだろう。麻奈実のことが嫌いだったあいつにとっては、やはりしゃくな結果かもしれないが。
「ところで、きょうちゃん」
「ん?」
「さっきから一年生の娘たちが、ちらちらこっちを見てるみたいなんだけど……」
言われてみれば、そうだな。やたらと視線を感じるし、ぐるりと周囲を見回すとこちら――というか、俺のことをジロジロ見ている女の子たちがいる。でもって俺と目が合うと、慌《あわ》てたように「きゃ〜」とどっかに行ってしまう。
「フッ、俺がカッコいいから見とれてたんだな、きっと」
「それはないと思うなあ」
「おい」
いまの一言、地味《じみ》〜に傷ついたんすけど。
半目《はんめ》で睨《にら》んでやると、麻奈実は首をかしげて、不思議そうにこう言った。
「だって、あの娘たち、きょうちゃんのこと見て、『せくはら先輩』がどうのって話をしてたよ?」
「へ、へぇ〜……い、いったいなんのことっスかね〜……?」
畜生《ちくしょう》! 瀬菜のやつ! 言いふらしやがったな!
これでおあいこだから、文句を言うわけにもいかんが……。くっそお〜〜ッ。
ああ……。これでもう、俺がかわいい後輩から告白されるイベントが発生することは、今後絶対になくなっちまったんだなあ……。
もともとそんな可能性は限りなく低かったんだけど、切ねえ……。
勉強をはじめて少したったころ、ふと窓の下を見た。
人気のない校舎裏に、寂しくベンチが点在している。
「……あ」
ベンチに、見知った顔が座っていた。黒猫が、一人で弁当を食っていたのだ。
……なんというベタな。
しかし、だからこそ胸に迫る光景であった。昼休み、一緒にお弁当を食べる相手がいなくて――のみならず教室にも居辛《いづら》くて……。一人ぼっちで寂しいのを悟《さと》られるのも嫌で。
仕方ないので人気のない校舎裏で、お弁当を食べているのだ。あいつは。
「どうしたの? きょうちゃん」
「……なんでもないよ」
麻奈実にアレを見せたくはなかったのだが、願いむなしく麻奈実はかわいそうすぎる光景を目撃してしまった。俺と同じように「……あ」と、気まずい声を漏《も》らす。
なんと言っていいか分からず言葉をさまよわせ、麻奈実は結局ぽつりとこう呟《つぶや》いた。
「……えと……かわいいお弁当だね」
特に意味のない台詞だったのだろうが、よくみりゃ黒猫、結構|凄《すご》い弁当を食っていた。
なにが凄いって……あれ『メルル弁当』だよな……。
桐乃が好きだったアニメ『星くず☆うぃっちメルル』の弁当箱、そして、おかずでメルルが描いてある。手の込んだ見た目はともかく、栄養価の低そうな手作り弁当だった。
あんなんで腹がふくれんのかよ、
「…………しかしなんだってあいつ、メルル弁当なんか食べてんだろう?」
あんなに嫌いだ嫌いだって言っていて、それで桐乃と喧嘩ばかりしていたはずなのに。
いつの間に宗旨替《しゅうしが》えしたんだ?
……気付けば、黒猫の食事風景を凝視《ぎょうし》してしまっていた。
おっと、いかんいかん。こんなとこ、あいつだって見られたくないわな。
俺はぶんぶんとかぶりをふって、ベンチの磁力から視線を引き戻した。
すると、対面に座っていた麻奈実が、腕をぐてっと伸ばして机に突っ伏していた。
いつも姿勢を正しているこいつにしては、らしくない様子だった。
「……なんでしょんぼりしちゃってんの? おまえ」
「……ん? なんでもないよ?」
「うそつけ。なんでもないことあるか」
じろりとジト目で問いただすと、
「……うー」
麻奈実は眼鏡の奥でつぶらな瞳《ひとみ》を潤《うる》ませた。追及をかわしきれないと諦《あきら》めたのか、はぁっと切ないため息をついて、ぼそっとこぼす。
「心配させちゃって、ごめんね? いまちょっと……自己|嫌悪《けんお》中だったんだ」
「……少し休憩《きゅうけい》にすっか。そんで? 自己嫌悪って?」
「……ごめん、秘密」
珍しいこともあったもんだ。まさかこいつの口から『秘密』なんて台詞が出てくるとは。
内心驚いたので、からかうような口調で聞いてみた。
「は、なんだおまえ、俺にも言えないようなことで悩んでんの?」
「…………きょうちゃんだから、言えないんだもん」
「なに?」
「…………なんでもない」
悄然《しょうぜん》と俺から視線を外す麻奈実。重傷だな、こりゃ。とても放っておけん。
俺は、ペンを持っていない方の手で頭をがりがり掻《か》き、
「あのさ、じゃあ、分かった。悩みの内容は言わんでいい。その代わり、俺にして欲しいことを言え。俺にできることなら、なんだってやってやるから。ちなみに『ない』ってのはナシな? 気になって逆に落ち着かん。俺に勉強に戻って欲しかったら、何か頼め、ホラ」
思いの丈《たけ》をぶちまけた。こっ恥ずかしいことに、かなり必死っぽい言い方になっちまったよ。
しかし恥ずかしい思いをした甲斐《かい》はあったらしい。麻奈実の顔に、ほのかな笑みが戻った。
「……うん、ありがと。……えっと、ほんとに、なんでもいい?」
「おう。男に二言《にごん》はねえ。どんとこい」
「……じゃあねぇ……えへへ」
麻奈実は身体を起こし、目の前で指を組んで、はにかんだ。かあ、と頬《ほお》を赤らめて、
「きょうちゃんの好きな女の子のタイプ、教えて欲しいな」
「は、はあ〜」
とつぜん何を言っとるんだ、こいつ。むう……普段ならチョップしてうやむやにする場面なんだが……適当に答えて逃げられる雰囲気じゃねぇな、こりゃ。
「俺の……好みのタイプを言えばいいんだな?」
「……うん……教えて欲しい、です」
男に二言はねえって言っちまったし、仕方ない。胸を張って言ってやろうじゃねーか。
「俺はあやせみたいな見た目が好みだ」
「あ、あやせちゃん!? む、むりむりむりむり! いくら何でも|あやせちゃんはむり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》だから!」
「そんな全力で否定すんなよ! 俺だって無理だって分かってるっつの! あいつにメチャクチャ嫌われてるもん俺! でも、おまえが好みのタイプ正直に言えって言ったんじゃん!」
なにこの仕打ち。麻奈実さんひどくね?
涙目になった俺を見た麻奈実は、慌てた様子で掌《てのひら》をぶんぶん振った。
「ち、違うよ! そ、そそそ、そういう意味じゃなくて……! はあっ、そっかあ……きょうちゃん、あやせちゃんみたいな娘が好みなんだね……」
「いや、見た目の話な? 性格の好みはまた違うよ」
幾《いく》ら超かわいくたって、あんな隙《すき》あらば通報しようとしてくるよーな女と付き合えるか。
「み、見た目? じゃ、じゃあ……性格の、好みは?」
「やっぱおまえみたいな感じかなあ」
正直に答えた。そう誓ったからな。すると麻奈笑は自分の顔を指さして目を見張った。
「わ、わたしっ?」
「そうだよ。なんだかんだ言って、女の中では、おまえが一番仲いいしな。付き合い長くて気心知れてるし、気い遣《つか》わんでいいし、一緒にいて楽なんだわ。……こういうのって、好みの性格って言わねえのか?」
なんで俺は公共の施設でこんなこっ恥ずかしい台詞を口に出してんだ。
「そっかあ……わたしみたいな……ふーん、そうなんだ……」
「……いいからよ。そろそろ休憩終わりにしようぜ」
もう二度と言わねーぞ。
「オイ一年ども。今回、オレもコンテストにエントリーすっから覚悟しとけよ?」
放課後。さてこれから企画発表会《プレゼンテーション》を始めようという場面で部長が言った。
「また面倒なことをのたまい始めましたね」
真壁くんがため息を吐《つ》いた。次いで、瀬菜が不思議そうな顔で問う。
「部長もコンテストに出るんですか? あたしたちとは別に?」
「そーだ。フッ、胸を貸してやるから、全力でかかってくるがいい」
ということらしい。この人のことだから、後輩を煽《あお》っているうちに、自分でも参加したくなったのだろう。そんな部長に、真壁くんは半目《はんめ》を向けて、
「ジャンルが同じじゃないと直接対決はできませんよ部長。で……どんなゲームでエントリーするつもりなんです?」
「滅義怒羅怨《めぎどらおん》U。前回、オレが入部テスト用に作ったSTGの続編」
「クソゲー決定じゃないですか」
「っ、作ってみなくちゃ分かんね――だろ!?」
「いやいや、紀元前からの歴史を振り返ってみても、クソゲーの続編がクソゲーじゃなかったためしなんてありませんし」
「分ッかんね――よ!? ドラクエ2みてーに進化すッかもよ!?」
「チーターマン2のように進化しますよ絶対」
「テメーの突っ込みはキッい上にニコ厨《ちゅう》にしか伝わんね――んだよ!! クソ! 誰かこいつに何とか言ってやってくれ!」
部長は汗だくになって周囲を見回すものの、彼の主張に同意してくれる部員は皆無《かいむ》だった。
「カッ、ひッでえなオイ――! オレの何が悪いっつーんだ! 分かったよ! 他にも制作中のゲームはある! もっと面白い企画持ってくりゃいいんだろ?」
たぶんよくない。真壁くんが指摘している問題点というのは、そういうことではなく――
「部長、部長が理想とする究極の神ゲーを、頭の中に思い描いてください」
「? こーか?」
「それがすでにクソゲーなんですよ」
「!? お、おま……! なんっ……てことを言いやがる……」
真壁くん容赦《ようしゃ》ねえな! めちゃくちゃバッサリやりゃがった!
「とにかく。出るなら出るでいいですけど、後輩たちの邪魔《じゃま》だけはしないでくださいね」
「ちぇっ、信用ねーな。まーいーや。じゃあさっそく――プレゼンを始めてくれ」
部長が言うと、真っ先に瀬菜が立ち上がった。
「まずはあたしの企画からですね。皆さん、こちらのスクリーンを御覧《ごらん》ください」
よくとおる良い声だ。
彼女は予《あらかじ》め用意してあったらしいプロジェクターを起動し、ホワイトスクリーンにゲーム資料を映し出した。瀬菜がマウスをクリックするたびに、画面がキャラクターのラフイラストやストーリーの概要《がいよう》、ゲームのコンセプトなどに切り替わっていく
デブの二人組が、ぱちぱちと拍手しながら、口笛を吹いている。もうすっかり瀬菜のファンと化しているようだった。もっとも瀬菜の方は、眉《まゆ》をひそめて迷惑そうな顔。
あいつら二人は、絶対瀬菜の企画に票を入れるだろうな……。ちと黒猫には不利な状況だ。
さて、瀬菜の企画――。
|登場人物が男しかいない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のが気になるが、どうやら見たところ、中世ファンタジーもののRPGらしい。部長が軽く目を見張った。
「おまえ、イラスト描けるんだ」
「下手くそですけどね。イラストあった方が分かりやすいかと思いまして」
十分上手いと思うけどな。
この娘もまた、黒猫と同様マルチなやつのようだった。ゲーム会社に就職したいというだけのことはある。瀬菜は自信満々に、己の企画をぶちあげる。
「ふっ――あたしがやりたいのは、ダンジョン探索RPGです!」
「というと……ウィザードリイ≠竍世界|樹《じゅ》の迷宮《めいきゅう》≠ンたいな感じですか?」
真壁くんが聞いた。瀬菜はニヤリと笑みを浮かべて、快活な返事をする。
「はい! ドラクエやFFと比べて、元祖から変化の少ないウィズが、なぜいまだにゲーマーたちに根強い人気を誇っているのかというと、ウィズにはRPGの原始的《プリミティブ》な面白さがたくさん詰まっているからだと思うんです」
彼女は、机に片手を着いて身を乗り出し、指をぴんと一本立てて力説する。
「すなわち|分身の作成《キャラメイク》、|死と紙一重のスリルある冒険《ロールプレイ》、|宝探し《レアハント》――それらは一部MO、MMOの楽しさにも通ずるもので――たとえばモンスターハンターなどはそれらを上手く取り入れて成功していますよね」
「……あなたのRPG論はどうでもいいのよ。そのプリミティブな面白さとやらを、具体的にどうやって実装するのか、それを聞かせていただきたいわ?」
黒猫が嫌味《いやみ》な口調《くちょう》で割り込んだ。
しかし瀬菜は、「よくぞ聞いてくれた!」とでも言いたげに胸を張った。
うむ、おっぱいデケーな。
「ごもっとも。では、このゲームのコンセプトを開帳《かいちょう》しましょう」
瀬菜はマウスをクリックし、スクリーンに映る画面を切り替えた。
「あたしが作りたいのは、ゲームバランスとテンポに特化したRPGなんです。昨今の商業RPGに見られるような豪華《ごうか》なムービーや広大なフィールドマップは、同人ではどうあがいても実装できません。しかしイマドキのRPGに失われつつあるものに目を向ければ、そこに活路は見えてきます。敵の強さ・出現率・ドロップアイテム・行動パターン・獲得経験値・魔法の強さ・宿屋の値段・装備アイテム・回復アイテムの入手しやすさ等々――そういったゲームバランスを上手に調整すれば、スリルあるギリギリの戦闘が演出できますし、新しい装備アイテムを入手したときの嬉しさや、それらを装備して戦ったときの自分が強くなったという実感≠より鮮烈《せんれつ》に提供することができるのです。大事なのは自分自身が冒険している感覚=Bそういった楽しさを十全に享受《きょうじゅ》していただけるよう、ゲームシステムのすべてを構築します」
「そのあたりは世界樹の迷宮≠ェ実装して、据え置き機よりも性能が劣る携帯ゲームでも面白いRPGが作れることを実証したわね」
「そうです! もちろんそれだけではキャッチーさに欠けますから、今風のライトなイラストとストーリーを採用して|フック《ヽヽヽ》にします。手にとってプレイしてもらうためにはパッと見の面白さ≠おろそかにするわけにはいきませんからね」
ふーん、よく分かんねーけど色々考えてんだな。
そこで真壁くんが発言した。
「ゲームバランスを重視したRPGが面白いというのは分かります。でも、制作期間がネックになりませんか? 丁寧《ていねい》に作り込めば作り込むほど、そのぶん時間がかかるわけですから」
「いーえ、問題ありませんよ真壁先輩。ダンジョン探索RPGなら、町のマップは一つしか要《い》りませんし、フィールドマップも必要ありません。もちろんあった方がいいですけど、武器防具アイテムの画像も必ずしも必要ではないですよね。元祖ウィズを思い出してください。あれでも十分――というか、超面白いでしょう? さっき今風のライトなイラストを採用するって言いましたけど、効果的に使えばそれほど枚数は要りません。極端な話、絵を一切使わずテキストとプログラムだけでも面白いRPGは作れるんですから。しかもそうやって色々なものをカットすることによって、テンポが向上します。さくさく進むゲームって、ストレスフリーで良くないですか?」
「そうは言うがな。ゲームのバランス調整って、言うほど簡単じゃねーぞ?」
部長が懸念《けねん》を伝えてきた。しかし瀬菜は不敵に笑って、親指でぐっと自分の顔を指した。
「フフフ、自慢じゃありませんが、そういう細かい調整は、大ッ得意です。あたし、大手ゲームメーカーのスタッフよりも上手く調整する自信がありますよ」
「そりゃまた大きく出たな……どんだけ自信家だよ」
「疑うのなら、いまからゲームサンプルを資料と一緒に配りますから、あとで確認してみてください。いまのところグラフィックはあたしの下手くそなイラストだし、ダンジョンの階層は5Fまでしかないですけど、絶対に面白いですから。ついでに言えば、|バグはない《ヽヽヽヽヽ》です。とまあ、あたし一人でもこのくらいはできちゃうわけですから、真壁先輩が心配している制作期間の問題は、ぜんぜん気にすることないと思いますよ?」
「ふーん」
部長は顎《あご》を触《さわ》りながら首をひねり、
「悪くないんじゃねーかな。おまえらは、どう思う?」
皆に問いかけた。最初に反応したのは真壁くんだ。
「面白そうですね。僕なんかは小学生の頃――学校の昼休みに、自由帳にマスを描いて、サイコロ代わりの鉛筆を転がしていたクチですから。赤城さんのお話には、なんとなく同意できます」
「自作TRPGな。あるある、オレもやってたわ」
……そういや俺も、似たような遊び、やったことあるな。
友達の中に、そういう自由帳に書いた自作ゲームを作ってくるやつがいてさ。自分たちでメチヤクチャな設定を考えて、サイコロを転がして――
お喋りしながら、体力の目盛りを、消しゴムと鉛筆で増減させたりして遊んでいた。
|役割を演ずる遊技《ロールプレイング》の|原始的《プリミティブ》な面白さってのは、あるいは|ああいうの《ヽヽヽヽヽ》のことを言うのかもな。
「うふっ、これはもうあたしの企画で決まりですかね!」
瀬菜がはにかむ。
彼女の言葉どおり、あちこちで瀬菜の企画への肯定的な感想があがっていた。
このまま企画が決定してしまいそうな勢いだ。
「次は五更さんの企画ですね」
真壁くんが黒猫に話題を振った。
しかし聞こえたのだろうに、黒猫はなんの反応もせず、座ったままだ。
「おい、おまえの番だってよ」
「…………わ、分かっているわ」
どうも緊張しているらしい。持ち込みに行ったときみたいに、がちがちになっている。
黒猫はマリオネットのように固い挙動《きょどう》で立ち上がった。
「……で、では……その……私の企画をお見せするわ。……さっさとプロジェクターからどいて頂戴」
「はいはい、せいぜい頑張ってくださいね!」
苛立《いらだ》たしげに瀬菜を押しのけるや、黒猫はホワイトボードに資料を映した。さらにバッグから分厚い資料の束を取り出して、皆に配布する。
「……なんですか、この分厚い紙束《かみたば》……」
「……設定資料に決まっているでしょう」
……やはりか。
こいつゲーム作りでも、この辺ぜんぜん変わらんのだな。
さっき瀬菜が配った資料と比べて、厚さが五倍以上あるじゃんか。
黒猫は皆に資料が行き渡ったことを確認するや、小さな声でぼそぼそと喋《しゃべ》り始めた。
「…………私がやりたいのは、ノベルゲームよ」
「ほう、わりとオーソドックスなところをついてきたな」
部長が無難《ぶなん》な相槌《あいづち》を打つ。一方真壁くんは例のごとく、制作期間を気にしているようで、
「分量としてはどれくらいを考えていますか〜」
「……プレイ時間五時間程度のシナリオを三ルートかしらね」
「三ルート、ですか。……共通ルートがあるにしたって、結構な作業量になりますよね」
「正直きついな。分量減らした方がいいんじゃねえのか?」
「ですね。制作期間もそう長くないわけですし、今回は完成させることを優先して、選択肢なしの一ルート形式とかにしておいた方が無難だとは思います」
そんな二人の会話に続いて、幾つかの否定意見が上がった。
そのたびに、黒猫は「……あ、それは」などと何かを喋りかけるのだが、結局言えず黙り込んでしまう。質問相手と資料の間で視線を往復させて、何かを訴えかけようとはするのだが、言葉にしなければ伝わらない。完全に縮こまっている。台詞が上手く出てこないんだな。
だめだこりゃ。まったくプレゼンになってねーよ。
ったく。なんでこいつは肝心なときに限って、桐乃と喧嘩しているときみてーに、べらべら喋れんのだ。
「ちょっと待ってくれ」
仕方ないので、助け船を出すことにした。
「制作期間については、たぶん何とかなる。そうだろ?」
黒猫に向かって発言を促《うなが》すと、彼女はようやくまともな台詞を口にした。
「……ええ、私の作業量を多めにしてもらって構わないわ」
「そうは言うがな、一人の作業量には限界ってもんがあるぞ?」
と、部長。一応幾つもゲームを完成させてきている人だから、その台詞には説得力があった。
だが、俺は知っている。黒猫はかなりの早さで漫画を描けたはずだし、小説にしたって幾つも完成させてきているのだから、そうそうペース配分を誤るようなことはない。
だから俺は、さながら自分のことのように胸を張った。
「――言ってやれ。おまえがどの程度の作業量を受け持てるのか」
「……テキストならだいたい一時間6キロバイトずつ書けるわ」
俺には一時間6キロバイトとか言われてもさっぱりだが、結構|凄《すご》いのだろうか?
「……それなら確かに、シナリオに関しては問題なさそうですね」
真壁くんが感心しているところを見ると、凄いらしい。俺はさらに畳みかける。
「俺が調べたところによるとノベルゲームって、人気があって細かくジャンル分けされているから、エントリー作品数が分散されて、『かおすくりえいと』の中でも狙い目≠フジャンルになっているみたいでさ。五更の企画を選ぶのは、勝ちに行くって目的にも合致してるんじゃないか?」
「……さっきからなんなの。……私を、支援しているつもり?」
「ばか。客観的な意見ってやつだよ」
俺はみんなに向きなおり、黒猫の肩にぽんと手を置いた。
「こいつ、漫画も描けるんだぜ。しかも描くのが速いし、絵も上手い」
「……な、なんであなたが得意げに言うの……」
おまえがろくにプレゼンしねーから、俺が代わりに自慢してんだろ。
「ウソは言ってないつもりだ」
「……たいしたことないわよ、私なんて」
プレゼン中に照れ照れになるなよ。もっと自己主張しろって。いつもみたいにさあ。
そんなやり取りを眺めていた部長が、顎を触りながら聞いてきた。
「確かスクリプトも打てるんだよな?」
「…ええ」
「はっはは、すげえすけえ。時間さえありゃ一人で全部作れるんじゃねーの?」
部長は上機嫌だ。
黒猫は俯《うつむ》き、陰鬱《いんうつ》な口調で返事をする。
「もとより一人で全部作るつもりで勉強していたものだから……あと、あまり買いかぶらないちようだいで頂戴。言っておくけれど、すべての作業をひととおりできるというだけであって、ひとつひとつの仕事の熟練度《じゅくれんど》には自信がないわ」
「言ったろ。ゲームってのは、チームで作るもんだ。一人でぜんぶ抱え込むことはねえよ」
部長は八重歯を見せて微笑んだ。
「だとさ」
俺は黒猫に微笑みかけた。すると彼女は指先を落ち着きなく動かしながらそっぽを向いた。
「…………ふん」
「一応、話を聞いた限りでは、期間には間に合いそうですけどね!」
瀬菜が口を挟んできた。スネた感じに唇を尖らせている。
「果たして面白いものになりますかねー。だってホラ、この設定、まだぜんぶ目を通したわけじゃありませんが――率直に言ってかなり偏《かたよ》ってますよね」
「……あなたの企画だって、男キャラしかいなかったじゃない」
うむ、超偏ってたな。
「う、うるさいですねっ! いまはあたしの企画の話してるんじゃないでしょ! とにかくこういう暗くて重苦しくてごちゃごちゃした設定って、明らかに売れ線から外れてませんか? というか専門用語が多くてわけが分かりません。もう少しライトユーザーを意識して、|軽い《ヽヽ》お話にした方がウケると思うんですけど」
「そうでしょうね」
意外にも――黒猫はあっさりと首肯《しゅこう》した。
「でしょう? だったら、」
「|でもこれがやりたいの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
ニヤリと唇を片側だけつり上げる黒猫。きわめて邪悪な、彼女らしい笑み。
ぞくりと背筋に悪寒を覚えた。この感覚には覚えがある。これは――
「以前、ある友達に私の書いた小説を読んでもらったことがあるのだけど」
……それって。
「『あんたの書いているのは、所詮《しょせん》自己満足のオナニー小説でしかないよねー』というようなことを言われたわ」
「的確なアドバイスじゃないですか? もう少しユーザーのことを考えろってことでしょう?」
「これはまた別のときのことだけど。同じ人に、『バカに教えてあげるケド、一番大切なのは、作者自身がやりたいものを全力で楽しんで作ることなの。そうじゃなきゃ、面白いものなんて作れるわけないでしょ? プッ、それがクリエイターのあるべき姿なんじゃないのー?』と言われたこともあるわ」
「ず、ずいぶん勘《かん》にさわる喋り方をする友達なんですね」
まったくだ。誰だよ、俺の後輩に、そんなでかいクチを叩《たた》いてくれたやつは。
「でもまあ、言っていることは間違ってませんよね」
「そうね。クリエイターは『独りよがりにならずユーザーのことを考えるべき』で、『作者自身がやりたいものを楽しんで作るべき』で、『それがクリエイターのあるべき姿』なのでしょう。まったく正しい意見だと思うわ。反吐《へど》が出るくらいに」
お、おい。おまえまた……。
「そういうのって、自分がやりたいものを楽しんで書くと、微調整をするだけで売れ線のものができ上がる人の素敵《すてき》な言い草でしょう。じゃあ、自分がやりたいものを楽しんで書くと、売れ線から盛大に乖離《かいり》していってしまう人はいったいどうすればいいのかしらね? 自分を殺してユーザーの好みに合わせれば媚《こ》びている=A好きなものを作れば自己満足=A永遠に『あるべき姿』とやらにはたどり着けないわけだけど」
「いやそんなこと、あたしに言われても困るんですけど」
まったくである。しかし黒猫が喋りかけている相手は、瀬菜ではないのだろう。
黒猫はいま、瀬菜の向こう側に、かつて自分にそういう台詞を吐いた相手を見据えている。
「私はね、そうやって楽しそうにものを作っている連中が、心底大嫌いなのよ。恨《うら》めしくて悔《くや》しくて仕様がないわ。いっそひねり殺してやりたいくらいにね」
「…それは逆恨《さかうら》みでは……」
「だからなに?」
「だからなにって……」
「ふん、別に、本当に殺したりはしないわ。……|そういう《ヽヽヽヽ》人たちの作るものは、本当に素晴らしくて――私も含めて、待っている人たちがたくさんいるのだから。勝手な逆恨みで、無下《むげ》にしていいものじゃない。……でも。それでも……目にものを見せてやりたい、とは思うでしょう? こちらにだって、意地があるのだから」
黒猫はさも楽しい思い出を回想しているかのように、くすくすと含み笑った。
「考えたのよ……。どうやったらあいつらに、|一泡ふかせてやれる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のか。どう立ち回ったら、見下《みくだ》してごめんなさいと、この私の足下に跪《ひざまず》かせてやれるのか」
俺はこんなに捻《ひね》くれた人格をしているやつを、他に見たことがない。
しかし何故だろうな。ろくでもない言い草が、黒猫の場合、微笑《ほほえ》ましく思えてしまうのは。
俺は、笑いを堪《こら》えながら聞いたものだ。
「で? 結論は?」
「私たちにできるのは、できる限り理想の状態に近づけるよう、常に葛藤《かっとう》しながらバランスを取っていくか。もしくは――――いっそ開き直るか」
「開き直る?」
「そう。『あるべき姿』なんて知ったことかと開き直ってしまうのよ。そうすればもう、葛藤なんてすることもないでしょう? 独りよがりの自己満足? オナニー作品? 知ったことじゃないわね。言いたいやつらには幾らでも言わせておけばいいのよ。私は私がやりたいものをやりたいようにやらせてもらうわ。畢竟《ひっきょう》、私にとって同人というフィールドは、自己満足趣味百パーセントの作品を叩きつける場なの。オナニー作品がつまらないというのなら、超凄いオナニーを見せつけてやるだけのことよ」
「とんでもない台詞を口走っているぞおまえ?」
「………………」
勢い込んで喋り続けていた黒猫は、俺の一言で一瞬正気に立ち返り、耳まで真っ赤になったが――それでもなお、自分の台詞をこう締めた。
「――それが私が作りたい企画のコンセプト。勝手な言い分だとは重々承知しているから、ボツにするならどうぞ遠慮《えんりょ》なくして頂戴」
しん、と静寂《せいじゃく》が場に満ちる。
いままで黒猫が喋り続けていたぶん、その沈黙が息苦しい。
「よっし!――――二人とも、いいプレゼンだったぜ。お疲れ様!」
「部長、すぐに多数決を始めますか?」
真壁くんの問いに、部長は三本指を立てて、
「いいや、三十分後だ。せっかく二人が用意してくれたんだ。資料やサンプルを軽く確認してから判断しょうぜ」
「そうですね。では――三十分後に評決《ひょうけつ》を採《と》ります」
両者の資料をこれから確認するわけだが、依然として黒猫の旗色は悪い。
だって黒猫の書いた設定資料は、相変わらず分厚くて超読みにくいだろうし。
瀬菜の資料には、サンプルゲームまで付いていて、なにやら本格的だもん。
……こりゃ、ダメかもな……。
三十分後――。
ついに、黒猫と瀬菜、どちらの企画が選ばれるのか、決まるときがきた。
部長が皆を見回して、声を張り上げる。
「んじゃまず――赤城の企画が良いと思うやつ、手を挙げろ」
………………………………。
…………………………。
………………。
誰も手を挙げない。瀬菜の信奉者であるデブの二人組も含め――○票。
「な………」
さすがの瀬菜も、この結果には絶句《ぜっく》した。がたっと音を立てて立ち上がったのはいいが、状況が把握《はあく》できず、固まっている。
「じゃ次、五更の企画が良いと思うやつ、手を挙げろ」
今度は全員が手を挙げた。俺、部長、真壁くん、+デブの二人組で――五票。
「――ふむ、一年生が共同で作るゲームは、五更の企画に決まりだな」
ドンッ!
「ちょっと待ってください! どーいうことですかこれは!」
ようやく硬直が解けたP名が、机を叩いて叫んだ。部長は気まずそうに頬《ほお》をかいて、
「どういうこともなにも、見てのとおりだぜ」
「お、おかしいじゃないですか! こんなの! そりゃ、そりゃ――あたしだって五更さんのプレゼンには凄い気迫《きはく》を感じましたよ? 感じましたけど――○票って……あ、あたしの企画が、五更さんの企画よりも、そこまで劣ってるっていうんですか!?」
ふんふん鼻息も荒く、憤《いきどお》る瀬菜。なまじ自信があったぶん、この結果に納得できないんだろうな。気付いていないのだ――彼女の企画に存在する、致命的《ちめいてき》な欠陥《けっかん》に。
黒猫はジッと黙したまま瞑目《めいもく》し、瀬菜の凝視を甘んじて受け続けている。
そして――俺を含めた他の部員たちは、一斉に部長へと、すがるような眼差しを向けた。
みんなの視線に気引いた部長は『ちょ! お、オレが言うの?』という感じに、自分の顔を指さす。みんなが一斉に、『よろしく』という意味で頷いた。
郁長は「ぐぬぅ」と恨めしげにうめいてから、瀬菜へと真摯《しんし》な声を投げかける。
「……ええっとな、赤城……おまえのプレゼンは、すっげー良かった」
「……お世辞《せじ》はけっこーです」
「お世辞じゃねえ。オレはあのとき、おまえが作るゲームをマジでやってみてえと思ったよ。もしも今回多数決で負けたとしても、そのうち絶対に完成させてもらおうって、そう考えてた。ぶっちゃけな、三十分前の時点で多数決を採ったら、おまえが勝ってたと思う」
同感だ。
黒猫のプレゼンには強い熱意こそあったが――本人が言っていたとおり、独りよがりな部分が多く見受けられた。一方瀬菜のプレゼンには、素人目から見ての話ではあるが、よくまとまっていて、隙《すき》らしい隙が見あたらなかったと思う。かなり面白そうだという感触もあった。
しかしそれでもなお、皆は黒猫の企画を推したのだ。何故か。
「あの三十分で、意見が変わったってこと、ですか……? あたしが配ったサンプルや、資料に、なにか問題があったとでも? そんな、ウソです。何度も見直したし、絶対完璧だったはずなのに――」
「そうか。分からないか。それじゃあしょうがねーな。ハッキリと、何が悪かったのか、見せてやろう」
部長はノートパソコンを机上に載せて、スタンバイから復帰させた。マシンで起動しているのは、瀬菜が作った『サンプルゲーム』のワンシーンだ。瀬菜直筆のイラストで、いわく『|最低限必要なイベントシーン《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》』とやらのCGが描かれている。
画面を瀬菜から見えるよう、くるりと回転させた部長は、おもくろに言った。
「たとえば……瀬菜ちゃんよ……このシーンはどういうこった?」
「は? どういうことって――回復の泉でパーティが乱交しているイベントですけど?」
テキストを読めば分かるでしょ? みたいな軽〜い口調で言う瀬菜。
もちろんパーティメンバーは、全員男≠ナある。
「この斧戦士《ウォリアー》のオシリにモンクが■を■■している構図とか、超良くないですか!? あとこっちのサムライ×死霊術師《ネクロマンサー》もあたし的に超萌えシチュでっ! 磊落《らいらく》な益荒男《ますらお》といかにも病弱そうな美形との絡みがたまんないというか、見てくださいコレ! マサムネブレードの柄《つか》で■■■■■ですよ! これもォ絶対あとで五更さんにイラスト化してもらおうと思ってまして!」
「変態!! 変態!! 変態!!」
俺はいつかの仕返しとばかりに、顔を真っ赤にして瀬菜を糾弾した。
「てんめえ〜〜ッ! 人のことさんざん変態だのセクハラ先輩だのとなじっておいて……! 今風《いまふう》のライトなイラストとストーリーを採用? どの口でそんな妄言をのたまいやがる! ディープどころじゃねーよコレ! 特濃《とくのう》だよ! おまえが作ろうとしているのはロープレじやねェ! ガチホモゲーだ!」
「何を言っているんですか高坂先輩。あたしが作ろうとしているのは、ガチホモRPGです」
「似たようなもんだろ!?」
「全然違いますゥ〜! ちなみに主人公パーティのモデルは先輩方です!」
「そうだと思ってたよ! このケツに『肉便器』って刺青《タトウ》彫《ほ》ってあるのが俺なんだろ!」
「えっへっへ」
得意げにニヤけんなー!
はあ、はあ、はあ、はあ……。一気に喋ったせいで、息が苦しい。涙目で吐き捨てたよ。
「お、おまえのことはこれからセクハラ後輩と呼ぶからな!」
仮にも女の子に対して、ここまでキモいという感想を抱いたのは、生まれて初めてだった。
こいつもたぶん、テンション上がってスイッチ入ると、正常な判断が利かなくなってしまうクチなんだろう。俺と似たニオイを感じるぜ。にしても作ってる途中で正気に戻れよな!
「おまえってやつは……先輩の男子になんて羞恥《しゅうち》プレイを強要してんだ! 幾らよくできているつつったって、こんな不愉快なゲームなんか作らせてたまるか!」
「あ、あたしの芸術作品《アート》が……不愉快ですって!?」
いつかの俺みたいなことを言いやがって……。頭をかかえたくなるよもう。
俺はいまこそ、あやせの心情を理解した。これは無理。生理的に無理。まず男同士が絡み合うのからして吐き気がするし、そいつらが俺らをモデルにしているとなりゃなおさらだ。
しかも全員八頭身の美形にしやがって。部長とか、眼鏡しか面影が残ってねーじゃねえか。
「悪いがそのとおりだ。だからおまえの企画には、男性票が一つも入らなかった。残念だったな、諦《あきら》めろ」
「……くっ……そ、そんなあ!!」
ぐすっ、と目に涙を浮かべる瀬菜。こんな企画を出してきておいてなんだが、自信作だったんだもんな。悔しいだろう、そりゃあ。
「じゃあ……あたしの企画はボツで、五更さんのあんな独りよがりな企画を……一緒に作れって……そう言うんですか?」
俺は瀬菜がかわいそうになってきて、これ以上言葉を重ねて責め立てることができなかった。
代わりに、部長が言った。
「そうだ。五更の企画を二人で完成させろ。部長命令だ」
「……………………」
ぎりぎりと歯を食いしばる瀬菜。
部長は珍しく真剣な顔つきで、彼女を睨み付けた。
「……いやだってんなら、もう来なくてもいいんだぜ? どうするよ、おい?」
「う……く……うぅ……っ……お」
「お?」
[#本文より5段階大きな文字]「お兄ちゃんに言いつけてやるんだから!」
きぃ――――――――――ん、という耳鳴りが治まったときには、すでに瀬菜は、部室から走り去っていくところだった。
あいつ……クールな性格を装っているけど、興奮すると、まるっきりガキだな!
真壁くんが席を立って瀬菜を追おうとする。が、「やめとけ真壁」と部長が止めた。
「ゲーム作りは共同作業だ。なのに、部のルールを破って逃げたんだ。『勝手なことを言っている』『筋が通ってねえ』って、それはあいつが一番よく分かってるだろうよ。けど、それでも納得できないし、ハラが立ってこれ以上冷静に話なんかできるわけねえ。だから出て行ったんだろ」
瀬菜には瀬菜の作りたいものがあった。その想いは、黒猫に劣らぬものだったはずだ。
そう簡単に折り合いが付けられるわけもないわな。
「……いいんですか、部長?」
「フッ、オレが見込んだ女だぜ? 帰ってくるさ、見違えるほどに成長してな……」
この人はホント、切羽詰《せっぱつ》まった状況だとカッコいい台詞を吐くな。
ずっと黙って成り行きを見守っていた黒猫が、ここで初めて口を開いた。
「……出て行ったものは仕方ないわね。この際、私一人でもやるわ。ゲームを完成させて、コンテストに入賞すれば、それで文句はないでしょう?」
いいわけねーだろ。ゲーム制作は共同作業だっつってたじゃねーか。
いつしよ一緒に作らなくちゃ、意味がねえ。
そんな台詞を、わざわざ言う必要はなかった。
なぜなら。
「……………………」
黒猫はとても、不愉快そうな顔をしていたからだ。
翌日から、瀬菜は部活に来なくなってしまった。
真壁くんが説得に向かったのだが、『もう行きません』と言われてしまったそうだ。
きっとその理由は、プレゼンで負けたから、だけじゃないんだろうな。
たまに忘れそうになるが………あいつは腐女子趣味を、もの凄く恥じて、隠していたのだ。
あの場にいた全員にバレちゃったもんな。しかも自分から得意げに語る形で。……正気に立ち返ったあとで死にたくなったことだろうよ。
何食わぬ顔で部活に出てくるのは、さすがにキツイか。
俺は俺で、兄貴の方の赤城にも相談してみたのだが、機嫌が悪くてろくに口も利いてくれないらしい。
どうにもならない状況が続いていた。
黒猫に友達を作ってやるという、俺の目的は頓挫《とんざ》しつつあるが……。
結局のところ、できることをやるしかない。自分勝手に、途中でゲーム作りをやめるわけにはいかなかった。
数日後。俺は、珍しく黒猫と二人で、学校から自宅へと帰ってきた。
「お邪魔します……」
制服姿の黒猫は、玄関で靴を脱ぎ、バカ丁寧《ていねい》に向きを揃《そろ》えている。いつもどおりのことではあるのだが、妙《みょう》に動きがゆっくりしていた。
それが終わると今度は廊下側に向き直り、硬い表情で、気配を探るようにきょろきょろ瞳を動かし始めた。
「いや、誰もいねーぞ?」
「……そう。二人きり、というわけね……」
ぱちぱち、と瞬きをして、きゅっと二の腕をつかむ。そして、玄関から動こうとしない。
挙動不審《きょどうふしん》である。俺は頬を掻《か》きながら問うてみた。
「…………おまえ、なんか緊張してないか?」
「別に緊張なんてしてないわ」
いや、してるだろ。この家に上がるのなんて、もう何度目か分からないくらいなんだから、緊張することなんてないと思うのだが。
あ、いや、そうじゃねえな。いままでとは状況がちげーか。
桐乃の友達としてじゃなく、俺の友達として家に上がるようになったのはわりと最近のことだし、それに――この家で二人きりになるのって、そういや初めてだもんな。
家の中に、他の誰もいないという意味で、だ。
そうかそうか。普段はそれほど意識しないが、コイツも一応、女の子だったんだよな。
じゃあ、こういうときは俺が気を遣ってやらないと。
「………………」
って、俺まで緊張してきちまった……。久しぶりだな、この気まずい沈黙……。
「ま、まあとにかく。上がれよ」
「……ええ」
なるべく爽《さわ》やかに聞こえるよう促《うなが》すと、ようやく黒猫は重い足を動かし始めた。
それでも挙動不審さはまるで衰《おとろ》えず、ちょこちょこ小さな歩幅で歩くのが、小動物っぽくておかしかった。
「……じゃあ、さっそく始めましょうか」
部屋に着くや、飲み物を出してやる暇さえなく、黒猫が切り出した。
そう、説明が遅れたが、黒猫がここに来たのは、俺の家で一緒に作業をするためだった。
補足をするなら、土曜日で部活がなかったし、麻奈実は麻奈実で用があるそうで、勉強会も開催《かいさい》されなかったのだ。勘違いしないでよね。わざわざこいつと二人っきりになるために、家に呼んだんじゃないんだからね。
「おう――って、俺は何をすればいいんだ? そういや聞いてなかったけどさ」
「デバッグよ」
「デバッグ?」
「ええ。そのPCで、私が作ったゲームをプレイしてもらうわ。といっても、まだ半分もできていないけど――とりあえず、完成しているところまで、繰り返し繰り返しプレイして、出るであろう不具合を、見つけて欲しいの」
「ふぅん……それくらいなら、俺にもできそうだな」
「単純作業――辛い作業になると思うわ。ただ、これは私一人ではできないことだから……」
「分かってる。任せろよ」
「……うん。お願いするわ。それと……」
黒猫はすっと俯《うつむ》いて、
「ゲーム自体の感想も、ね」
恥ずかしそうに呟《つぶや》いた。
俺はさっそく、デスクトップPC(この前沙織と一緒に組んだやつな)に、黒猫の作った未完成のゲームをインストールし、机に座ってデバッグ作業を始めた。
一方黒猫は、ノーパソをベッドの上――枕のあたりに置いて、そのままうつぶせに寝転がっている。こいつが俺の部屋で作業をするときの、お決まりのポーズだった (この体勢が、一番集中できるのだそうだ)。もっとも普段は沙織が一緒なので、二人きりのときにこのポーズをされるのは、これが初めてだ。
無防備なやつである。それだけ俺が信用されているということなんだろうが、正直言って気になってしょうがない。
「ねぇ」
「え!?」
ちょうどそんなことを考えていたときに声をかけられたものだから、素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を上げてしまった。
「……ちょっといいかしら。こっちに来てくれる?」
「なんだよ」
椅子から立ち上がって、黒猫のそばまで寄っていく。
油断すると、真っ白なふとももの裏側に目がいってしまいそうになる。
黒猫は寝転んだ体勢のまま、ちらりと俺を顧《かえり》みて、
「この前相談していたあのシーン……ちょっと動きを付けてみたの。見てくれるかしら」
「いいけど。じゃ、ノーパソ貸してくれるか」
「ダメよ。集中力が切れるから。あなたがディスプレイが見える位置に移動なさい」
そう言って黒猫は、体勢を変えないまま少しズレて、ベッドの脇《わき》にスペースを作った。
「ちょ、おまえのとなりに寝転べってこと!?」
「遠慮しなくていいわ。あなたのベッドでしょう」
「そんなこと言ってんじゃねえよ!」
密室でとなりに寝てなんて言われたら、誘惑されているのかと勘違いしてしまいそうになるだろうが。もちろんそんなわけないんだろうけどさ。
証拠に、黒猫は、俺の狼狽《ろうばい》をまるで理解していない様子できょとんとした。
「? なにを躊躇《ちゅうちょ》しているの?」
「何って、おまえ……」
ってか、さっきまで緊張してたくせに、寝転んだらいきなりリラックスしやがって……。
俺が逡巡《しゅんじゅん》するのを見た黒猫は、むっと不機嫌な口調になった。
「……妹と並んで18禁アダルトゲームをプレイすることはできるくせに、私と普通のノベルゲームをプレイすることはできないなんて、どういう了見《りょうけん》なのかしらね」
「な、なぜ俺がもっとも秘密にしたい記憶ナンバー1のエピソードを知っている!」
「あなたの妹と最後に話したときに――――聞いたから」
そっか。
あの野郎の、仕業か。黒猫への最後の電話……あのあとに、したんだな。
くつそ、余計なこと、言いやがって。友達との最後の会話に、俺の話って……。
他に幾《いく》らでも話すこと、あるだろうによ。
桐乃の話題になったことで、ぷつんと会話がとぎれた。もしかしたら俺は、少し消沈《しょうちん》していたかもしれない。そんなとき、ふと黒猫がこう言った。珍しく笑顔を浮かべて、
「兄さん=A一緒にゲームをやりましょう?」
「ばか。俺の妹は、そんな台詞吐かねえよ」
やれやれ。俺は諦観《ていかん》のため息をついて、ベッドのすぐ脇に座り込んだ。ぐっと身体を乗り出して、ディスプレイを覗き込む体勢だ。すぐそばに黒猫の顔があるわけだが、もう、年下の女の子にどぎまぎすることもない。だってこいつ、桐乃と同じなんだもん。
俺のことを、男として認識していないのだ。そんな相手に、俺だって欲情しやしないよ。
「あのさあ。相手が俺だからまだいいけど、あんまり男を勘違いさせるようなことはしない方がいいぞ?」
[#挿絵(img/oim05_0211.jpg)]
暗くなりかけた雰囲気が、こうして和《やわ》らいできたことだし――
ちょっと怒らせる意味も込めて、からかってやるか。
「それともなに? おまえ、俺のこと好きなの?」
「好きよ」
「は!?」
ビックリして振り向いたよ。
黒猫は無表情でディスプレイを見つめたまま、ゆっくりと小さな唇を動かした。
「好きよ!! あなたの妹が、あなたのことを好きなくらいには」
「…………そりゃどーも」
つまり眼中になしと。そういうオチね………びっくりして損したぜ。
「で? ……どうかしら?」
「……ストーリーが……暗い……読んでて落ち込んでくる……」
「『|もっとも美しい木乃伊《ロザリア・ロンバルド》』と『黄泉津大神《イザナミ》』をモティーフにした、『死体に恋をした少年』のお話よ。少年は毎晩悪夢を通じて死者の国へと赴《おもむ》き、迷宮《めいきゅう》で想《おも》い人の魂《たましい》を探すの」
「ううむ……設定説明が象徴的すぎて理解できねえ」
「そう。じゃあ、あなたにも理解できるよう書き直しましょう」
「ずいぶんと素直だな。いいのか? 俺はこういうの、素人《しろうと》で――よく分からないんだぞ?」
「構わないわ。だからこそ、あなたに見せたのだから」
「ならこの超エグいバッドエンドも、どうにかしてくれ。俺がユーザーだったら泣くぞ」
「そこは私がどうしてもやりたいところだから、直すことはできないわ」
「……そうかい」
「ええ。それに、そのバッドエンドは選択|肢《し》によって回避できるから」
「3ルートあるんだっけ? じゃあ、中にはハッどーエンドもあるんだよな?」
「ないわ」
「ないの!?」
当然のように言いやがる。びっくりだよもう。
で――お互い自分の作業へと戻る。
淡々と時は進んでいった。同じ部屋にいるのにほとんど口を利くこともなく、それぞれの作業をこなしていく。不快でも、退屈でもない。かといって安らぐわけでもない。
なんとも形容のしがたい、奇妙な時間だった。
二、三時間作業をすると、デバッグ作業とやらにも多少は慣れてきた。
といっても、基本的には延々と同じシーンを繰り返しプレイし、いきなり止まったり、変な文章が表示されたりといったバグらしきものを見つけたら黒猫に報告するという、単純作業だ。
……なんかゲーム作りって、延々と似たようなことばかりやって、単調っつーか、地味っつーか。きっついなあ。
ていうか、俺って、ほんとに役に立ってんのかな? あやしいもんである。
俺にこんな作業をやらせているのは、黒猫の気遣いみたいなものなのかもしれなかった。
そんな卑屈なことを考えていたら、ベッドに腰掛けて休憩していた彼女が、ふとこう聞いてきた。
「………ねぇ、先輩?」
「ん?」
「先輩≠ニ、兄さん=Bどちらの呼び方が……好き?」
「なんでそんなことを聞くんだ?」
「いいから。答えて頂戴」
「うーん……。そうだな …」
[#ここからゴシック体]
1.先輩≠フ方が好き。
2.兄さん≠フ方が好き。
[#ここでゴシック体終わり]
……いや、これ、どう考えても……こう言うしかねーだろ。
「先輩≠ナいいよ。兄さん≠ネんて、兄妹でもねーのに、おかしいだろ、やっぱさ」
「……そう」
黒猫はくすくすと邪悪な含み笑いをこぼしながら、にやぁ〜と、三日月型に口元を歪めた。
機嫌がいいときの笑い方だ。いまの質問に|どんな意味《ヽヽヽヽヽ》があったのかは知らんが、俺の答えに満足したらしい。
「そうね……じゃあ、今後二人きりのときは、あなたのことを兄さん≠ニ呼ぶわ」
「なんで俺の希望と逆の呼び方すんの!?」
「フッ、その方が面白いからよ」
「なんつー嫌な女だ!」
くそっ、初めからそういうつもりだったんだな……!
俺はあぐらをかき直した。黒猫はにやにやと俺を嘲笑《ちょうしょう》しながら、ベッドに片手を着き、脚を組む。それから黒いソックスを穿《は》いた足をすぅっと差し出してきた。甘えるような声で囁《ささや》く
「ねぇ、兄さん? なんだか疲れてしまったわ。足をもんで頂戴?」
「バカ言ってんじゃねえ! なに? おまえは兄妹という単語にどういうイメージ持ってんの?」
「あら? この家では、兄は妹の下僕《げぼく》なのでしょう?」
「断じて違う!」
と、思いたい!
黒猫は目をつむって口元を手で隠しながら、背中を揺らして笑っていた。
こんなに楽しそうなこいつを見るのはこれで二度目……いや……初めて、か。
だとしたら……ふん、まあ、なんだ。バカにされた甲斐《かい》があったってもんよ。
こいつはもっと、笑った方がいい。
俺と黒猫によるゲーム制作は、着々と進行していった。
今日も今日とて放課後になると、俺の部屋で、二人きりで作業をする。俺は机に座っており、黒猫はベッドにうつぶせに寝転んでPCに向かっている体勢。
「なあ……黒猫?」
「なにかしら――、兄さん=v
「…………。最近、俺ん家で作業する回数が、増えてないか? 今日は平日なんだからさ、部室でだって作業できただろうに」
「……迷惑?」
「そういうわけじゃないが」
「そう。ならいいじゃない」
そうなんだけどな……。最近、我が家で『長男が下級生の女の子をよく部屋に連れ込んでいる』という噂《うわさ》がまことしやかに囁《ささや》かれているんだよ。お袋なんかは、俺と麻奈実が付き合っているとばかり思っているので、視線が冷たいこと冷たいこと。浮気者は死ね、みたいなね?
「ところで……最近、なんで沙織は来ないんだ?」
「さあ? 忙しいのではないかしら?」
こいつ、友達と疎遠《そえん》になっているというのに、まったく心配してなさそうなのは何故だろう。
正直俺は、沙織と会えなくて超寂しいんだけど。今度電話してみようかな。
他人の大切さは、その人がいなくなって、初めて分かる――とはいうが。
思ったより俺って、沙織のことが好きだったみたいだ。そして俺って、思ったより、寂しがり屋みてーだな。
「そういえばあなた、最近、私にばかり構っていていいの? 田村先輩は?」
「……あいつはあいつで、最近妙に付き合い悪いんだよな……」
いや、もちろん慣習となっている勉強会は、ずっと続けているし、いつかのようにおかしな様子も見受けられないので、それほど気にしちゃいないのだが。不可解ではある。
そんなこんなで最近は、黒猫とばかり一緒にいる俺だった。
「ちなみにおまえのゲームって、そろそろ完成じゃないか?」
「そうね。シナリオもCGも完成しているし、音楽はフリー素材を使うから……あとはシーンをつなぎ合わせて、完成よ。早ければ数日中に完成するわ。期限までは一週間ちょっとあるし、なんとか間に合いそうね」
「はは、やったじゃん」
瀬菜との関係が悪化したままであることにはあえて触れず、寿《ことほ》いだ。
ところが――そう上手くはいかなかった。
最後の仕上げとして、バラバラだったシーンをつなぎ合わせてみたところ、ゲームがまともに動かなくなってしまったのだ。それまで普通にプレイできていたところも、途中で画面が止まってしまったり、ゲームが強制的に終了してしまったり。さらには選択肢分岐で、本来とは違うルートに進んでしまったり、同じ選択肢を選んでも毎回違うルートに進んでしまったりといった不可解な現象が多発するようになった。
「……おかしいわね」
黒猫もさすがに慌てた様子で、無表情ながらも必死でキーを叩き続けて修正作業をしていた。
「……すまん、俺がちゃんとチェックできていなかったのかもしれねえ」
「……ふん、あなたのせいじゃないわ。そもそも専門的なチェックを任せていたわけではないし……あなたには、最初から何も期待していないから」
そうだったんだ。やっぱり。
でも、口に出して言うことないんじゃないスか?
「バグが出たのは私のミスよ。私の責任を――持っていかないで」
その言葉は、ひどく切実で、そして、誠実なものだった。
昼休みの部室。
「……これは、ちょっと、厳しいですね」
どうやっても直せなかったので真壁くんに見せてみたところ、芳《かんば》しくない答えが返ってきた。
「……直せないのか?」
「……直せます。ただ……どこがどういうふうにおかしいのか、そこから調べていかないといけないので、時間がかかるんです」
「……どのくらい?」
「そうですね……部長に手伝ってもらったとしても……やっぱりあと一週間じゃムリです。コンテストには……ちょっと間に合いません」
「………………」
マジかよ……。そりゃあ〜〜〜〜きっついなあ……。
「……五更さんが、ゲーム作りの勉強をしていたというのは聞きましたけど、実際に作るのは初めてだったんですよね?」
「ああ」
黒猫が応えないので、俺が代わりに応えた。
「なら、十分ですよ。初めての制作で、こんなにボリュームのあるゲームを作るなんて凄いです」
「おう、そうだな。おまえは、一人きりでよく頑張ったよ。オレはもともと、共同作業でやってぎりぎり間に合うスケジュールを組んだつもりだったのに。ここまでやるとは思わなかった」
部長もそう褒《ほ》めてくれている(俺が無視されてるけど)。
そのとおりだ。おまえはよく頑張った。
無理なものは仕方ない。諦《あきら》めるしかない。畢竟《ひっきょう》、人間には、できることしかできないのだ。
十七年間で、俺が身に染みて思い知ったことの一つである。
「なあ……黒猫……」
俺は、気落ちしているだろう後輩を、そっと優しく呼ばわった。すると、黒猫が呟《つぶや》いた。
「いま私のゲームには、すぐには直せないバグがたくさんあって、このままではコンテストには間に合わない。そういうことよね?」
「うむ、そういうことだぜ?」
部長が頷《うなず》く。
黒猫は目を伏せ、しばし考え込んでいたが、やがて――
きゅっ、と、上履《うわば》きの音を立てて踵《きびす》を返した。
「お、おい。どこ行く――」
黒猫は答えず、振り返りもせず、そのまま部室の外に、早足で歩いて行ってしまう。
一瞬見えた彼女の表情は、固く下唇を噛みしめていて……。
静かな決意を、両の瞳に燃やしていた。
俺は黒猫のあとを追った。前を行く黒猫は、俺が付いてきていることに気が付いているのかいないのか、振り返ることもなくかなりの早足で進んでいく。
止めるつもりはなかったが、普通に追いつけない。なんとかかんとか付いていく。
ほどなくして、たどり着いたのは一年生の教室――黒猫が所属しているクラスだ。
……どういうつもりだ、黒猫のやつ。何を考えているのか、さっぱり分からない。
俺という上級生が現れたからか、一年生の廊下はざわめいている。好奇の視線が身に刺さるようだ。いつかのように睨《にら》み付けて散らすわけにもいかない。
ガラッと勢いよく扉を開けて、黒猫が休み時間の教室に入っていく。
彼女は彼女で、かなりの注目を浴びている。普段は孤立し、皆から離れて昼食を摂《と》っているようなやつが――慌ただしく戻ってきたのだ。何事かという風情《ふぜい》だった。
黒猫は真っ直ぐに、とある席へと向かった。その先にいるのは、誰あろう瀬菜である。
潔癖症《けっぺきしょう》でブラコンで、|きちんとしていないものが許せない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》――隠れ腐女子。
いま、あいつは、自分のことをどう思っているのだろうか。
所詮《しょせん》他人の俺には分からないが、想像することならできる。
なにせ、きちんとしていないことにかけて、俺の右に出るものはいない。
苛《いら》ついているはずだろう、自分自身に。
自ら定めたルールから、逸脱《いつだつ》している矛盾《むじゅん》に、怒りを覚えているはずだ。
プレゼンが思惑《おもわく》どおりにいかなかったこと。
部のルールに従わず、その場から逃げ出してしまったこと。
そのままへそを曲げて、自分の過ちを認めることが、いまだにできていないこと。
決して珍しいことじゃない。俺なんぞが責められることでもない。
俺だって、似たようなモンだから。
いや、誰だって、似たような葛藤《かっとう》を抱えて生きている。
黒猫が近寄ってくるのを見た瀬菜は、サッと青ざめて唇を噛んだ。
「……何事ですか、五更さん。みんなお昼ご飯食べてるのに、騒々しいですよ」
「赤城さん。お願い、あなたの力を貸して頂戴」
何を言われるのかと身構えていた瀬菜は、目を見開いて、「えっ?」と、固まってしまう。
「……ど、どういうことですか?」
「私が制作中のゲームに、バグが出たの。このままじゃ、コンテストの期限に、間に合わなくなってしまうわ」
「……それで?」
「あなたなら、直せるでしょう」
「どうして、そう、思うんですか」
「あなたのプレゼンを聞いて、あなたのゲームを、やったからよ。あなたの作ったゲームサンプルは、高速処理のために複雑なプログラムが使われていたのに、バグがなかった。あんなこと、私にはできない。部の、誰にだってできやしない。あなたが協力してくれれば、ゲームを完成させることができる」
「だから――あたしに力を貸せと?」
「そう」
断言され――瀬菜は難しい顔で黙り込んでしまう。俺も、口を挟《はさ》める雰囲気ではなかった。
緊張して、のどがカラカラに渇いてくる。
教室のざわめきは段々と強まっていく。きっと黒猫は、クラスでは無口なキャラで通っていたのだろうし、こんなに饒舌《じょうぜつ》なところを見るのは、みんな初めてなのだろう。
しかしその喧騒《けんそう》は、次の瞬間静まりかえった。
黒猫が、ぺこりと頭を下げたのだ。
「お願い、|私と一緒にゲームを作って《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
プライド高くて、恥ずかしがり屋で、素直じゃない――あの黒猫が、だ。
その場の誰もが絶句《ぜっく》していた。無理もない。俺だって驚いている。見間違いじゃないかと何度も瞬きを繰り返したくらいだ。
黒猫は、拳《こぶし》をぎりぎりと握りしめ、足を細かく震わせていた。
よっぽど悔しいんだろうな。こんな衆目《しゅうもく》の面前で、こんなことをするなんて、こいつにとっては生まれて初めてなんだろうし。
それでもこいつは、誠意を込めて、ちゃんと人に頭を下げることができるのだ。
ハッと困惑から立ち返った瀬菜は、黒猫の手をつかんで引っ張った。
「……ちょっと……こっちに来てください……!」
瀬菜は黒猫を引きずるようにして、こちらに向かってずんずんと突進してくる。
俺は慌《あわ》ててよけたが、どん、と軽くぶつかってしまう。
「っと、」
振り返ると、瀬菜は黒猫を連れて教室から出て行くところだった。本屋で会ったとき、俺に対してそうしたように、人気のない場所に連れて行くつもりなのだろう。
話をするために。
すぐさま俺も彼女たちを追った。
「まったく、人目を考えてくださいよ……! ……信じられない」
瀬菜が黒猫を連れて行った先は、校舎裏だった。
以前黒猫が、一人でぽつんと弁当を食っていた場所だ。
「……どうしてそこまでするんですか? あんな、大勢の前で頭を下げて――」
瀬菜が苛立たしげに黒猫に詰め寄った。かつて俺にそうしたように、壁と胸で相手をサンドイッチするように押しつける体勢だ。彼女は黒猫の手首を握っているのだが、相当力がこもっているように見受けられた。
「それにあたしには、関係ないでしょう? ……風紀委員にもスカウトされてるし、もうあんないい加減な部活、辞めるつもりだったんですよ」
拒絶《きょぜつ》の台詞を聞いた黒猫は、腕を振って、ぱしんと拘束を切る。
鼻と鼻がくっつくほどに顔を近づけて、強烈な視線を放つ。
「……私は、どうしても、ゲームを完成させたいの。そしてできることなら、コンテストで入賞したい」
「そんなことは分かってます! あたしが聞いてるのは、どうしてそこまでするのか、です! なんですか? あなた、コンテストで入賞しないと死ぬ呪いでもかかってるんですかね! どうにもあなたのその態度を見ていると、そうとしか思えないんですけど?」
怒りを吐き出す彼女自身が、一番苦しそうだった。
黒猫は瀬菜の嫌味《いやみ》に対し、「近いわ」と返した。
「一度自分が始めたことは、最後までやり遂げる。目標を高く掲げ、全力を尽くす。誰かさんを見習って、私はそうすると決めたのよ。そうしないと、私は、ずっと負け犬で――穢《けが》らわしい怨念《おんねん》を抱えたまま、悠久《ゆうきゅう》の時をさまよい続けなければならない。そんな無様は、私のプライドが許さないの」
「……何を……言ってるんです?」
「いまは遠くに行ってしまった、大嫌いな友達の話よ」
誰のことなのかなんて、言うまでもない。
本当、この後輩は俺とそっくりの思考をする。
同じ相手に影響されて、同じように一歩を踏み出し――そうしていま、ここにいる。
「それってもしかして……プレゼンであなたが言ってた、一泡吹かせてやりたい相手?」
「……ええ、そうよ……足下に跪《ひざまず》かせて、靴を舐《な》めさせてやりたいの。そのためには、みっともなくても無様《ぶざま》でも、最後まで全力で足掻《あが》かなくては」
嫣然《えんぜん》と薄笑《うすえ》みを浮かべる黒猫。
彼女は獲物を前にした猫のように、ぺろりと舌で唇をしめらせた。
「まったく……。私をこんな気持ちにさせるなんて……。奴《やつ》にはしかるべき報いを受けさせなければならない。勝ち逃げなんて許さないわ。次に会ったとき、必ずほえ面《づら》をかかせてやる」
桐乃が帰ってきたとき、胸を張って会えるように。
自分を研鑽《けんさん》して、高めておかなければならない。
俺にはそう聞こえたよ。
「だから――」
黒猫は瀬菜を真っ直ぐに見据えた。
カラコンなんて付けていないのに――その瞳は赤く、禍々《まがまが》しく光って見えた。
「どうか私に協力して頂戴、赤城瀬菜。これで足りないというなら、土下座でもなんでもするから」
「五更さん、あなた……」
瀬菜は困惑した様子で黒猫を見つめた。
「どうしてさっきから、あたしを一言も責めないんです? 自分で言うのもなんですけど、あたしって最悪じゃないですか。プレゼンで負けたのに、あなたの企画が気に入らないからって、逃げ出して――そのうえあなたに先に頭を下げられて……」
「どちらが悪いとか、どちらが先に謝るとか、そんなことより、もっと大事なことがあるわ。大切なのは、私があなたと一緒にゲームを作りたいということ」
さらりと出てきたのは、きっとこいつの本心だった。誰かさんには負けたくない、必ずゲームを完成させたい、諦めたくない。そんな一心から出てきた言葉だったのだろうが――
そこに瀬菜を利用しようという打算は、一切なかった。
追いつめられたからこそぽろりとこぼれた、素直な気持ち。
きっと瀬菜にも伝わった。
「仲間というのは、なかなかどうして凄いものよ。自分だけじゃできないことでも、二人なら――三人なら――できるかもしれない。一人じゃ心細くて足を踏み出せないときでも、二人なら勇気を出せることもある。頑張っても頑張っても報われなくて、なまじ努力を重ねているぶん見返りを期待して……それでも結果が付いてこなくて……頑張ったぶんだけ裏目に出て……辛くて泣いてしまいそうなときでも……支えてくれる人がいれば耐えられるって、分かった。なんでもない一言だけで……報われるって、分かった。……うん、そう……そうね――」
黒猫は、注視していなければ見逃してしまっていたほど一瞬だけ、くすっと、何かを懐かしむように微笑んだ。
「仲間がいれば、私はまだまだ頑張れるのよ。最近分かったことだけど」
だから、一緒にゲームを作りましょう。
ちょっぴり照れた、けれど真剣な表情で、黒猫は言った。
きっと一年前のこいつからは、こんな台詞は間違っても出てこなかっただろうよ。
この一年で変わったのは――俺だけじゃなかった。
そうして瀬菜は――
「……そーですか」
肩を落として脱力した。黒猫から受け取った言葉を、全身に染《し》みこませているかのように。
あはは、と力なく笑って、
「それで? ゲームデータは、部室ですか?」
「あら、手伝ってくれるの?」
「手伝いませんよ」
「一緒に、作るんでしょ?」
……俺ってやつは、なんて思い違いをしていたんだろう。
なんて思い上がったことを考えていたんだろう。
『友達を作るために、協力してやらないと』だなんて。
いまとなっては、顔から火が出るほど恥ずかしい。
俺の助けなんて、最初から、誰も必要としていなかったのだ。自分の不要さを知らしめられて、こんな感想を抱くのもアレだけど――
俺は、とても嬉しかった。
それから半月ほどのことを、簡潔にまとめよう。
ゲー研に戻った瀬菜は、あっという間にバグを直してしまった。真壁くんや黒猫に大声で指示を飛ばして、次々に不具合を潰《つぶ》していき――コンテストには間に合わないと断言された修正を、たった二日で終えてしまった。
さらに瀬菜は、いままでの分を取り戻すかのように、ゲーム制作に深く踏み込んできた。黒猫と意見をぶつけ合い、ときには怒鳴《どな》り合い、罵《ののし》り合いながら、ゲームをブラッシュアップしていく。打ち合わせというやつだ。以前出版社で見た『打ち合わせ』とは、かなり違っていた。
無理もない。あのときの打ち合わせは、相手こそプロではあったけれども、一方的にダメ出しをされるばかりで『一緒に作品作りをする』という感じではなかったから。
そういう意味では、黒猫と瀬菜が行った『自分が考えた「このゲームを面白くするアイデア」』を叩《たた》きつけ合うやり取りこそが、真の意味での『打ち合わせ』なのかもしれなかった。
そんな打ち合わせの結果、なんと最終的に、ジャンルまで変わってしまった。
黒猫も納得した上で、RPG要素が付け加えられたのだ。
タイトルは『強欲《ごうよく》の迷宮《めいきゅう》』(『七つの大罪シリーズ』二作目)。
黒猫の書いたシナリオテキストを、瀬菜の作っていたRPGのシステムに載《の》せる形である。
いみじくも二人の作品は、どちらも『迷宮』を舞台にしたゲームだったから、もともと相性は良かったのだろう。
――最初からそうしておけよ! と、部員の誰もが思ったろうが、賢明《けんめい》なことに誰も口には出さなかった。
締め切りまで残りわずかという段階で、ジャンル変更に伴う大作業が加わったものだから、当然締め切り間際《まぎわ》ではひどい有様になった。最終的には、瀬菜の部屋に泊まり込みで作業をしたらしい(もちろん俺も手伝いに行こうとしたのだが、治平お兄ちゃんが悪鬼《あっき》と化して俺を家から排除《はいじょ》した。ひでえ話である)。
誇張《こちょう》なく、鬼気《きき》迫るというか、命懸《いのちが》けという単語がふさわしい光景だったよ。
クリエイターたちがよく使う『修羅場《しゅらば》』というのは、まさにああいうのを言うんだろうな。
自分自身を罰し、痛めつけているかのような凄まじさ。
しかしそこには、確実に『楽しさ』と呼べるものがあったと思う。
いや、マゾ的な意味じゃなくてさ。スポーツ――体育会系の部活の『楽しさ』と、たぶん似たようなもんだ。なんつーのかな、サッカーにしろ、野球にしろ、陸上にしろ、辛く苦しい練習を積み重ねて技術を磨《みが》き、試合に出て、その成果を発揮《はっき》するわけだろ。
ゲーム作りと、なんも違わねーような気がするんだよね。
――ゲームが完成した当日、こんなやり取りが交わされた。
「ホントに時速6キロバイトで書き続けられるんですね。あたし、絶対ウソだと思ってましたよ」
「あなたこそ……よくもまあこの短期間で、あれだけ大量のバグを潰せるものね。なにかこつがあるのかしら?」
「基本的にはカンですね」
「カン?」
「はい。なんというか……うまく言えないんですけども。あたし、ゲームをやっていると、|きちんとしていない部分が視える《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》んですよね。だからデバッグとか、ゲームバランスの調整とか、誤字脱字の添削《てんさく》とか、すっごく得意なんですよ。ようするにデジタルデータを俯瞰《ふかん》して、|なんとなく不愉快な部分《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》をピックアップすればいいだけのことなので」
黒猫と瀬菜の話を聞いていた真壁くんが、そこではっとした。
「……あの。僕と赤城さんが初めて会ったとき、初見のボスの安地《あんち》や弱点をガンガン見破ってたのって、もしかして?」
「あ、はい、それも同じことなんです。モノがデジタルデータでさえあるのなら、あたしに崩《くず》せないガードはないですよ。たぶん」
ふふん、と得意げにおっぱいを揺らす瀬菜。どうやら本当のことを言っているらしい。
なに? ゲーマーってみんなこういう超能力みたいなことできんの?
黒猫が何故か興奮した様子で問う。
「もしかして……その能力≠ヘ……眼鏡を外すと、つ、強くなったりするのかしら?」
「なんで知ってるんです?」
「……な……デジタル版直死《ちょくし》の魔眼《まがん》≠ナすって……? ま、まさか実在していたなんて……」
黒猫は目を見開いておののき、たたらを踏んだ。
「…光栄に思いなさい。今後あなたのことは、敬意を込めて魔眼遣《まがんづか》い≠ニ呼ばせていただくわ」
「厨二病《ちゅうにびょう》全開の二つ名付けられましたかあたし!?」
黒猫と瀬菜は、ゲーム作りを通じて、お互いの実力を認め合ったようだった。
ほらな……こういうのって、まるでスポーツみたいだろう!?
でもって、肝心の結果。俺たちの創作の成果が、どうなったかというと――。
入賞こそできなかったが、『かおすくりえいと』の掲示板で、かなりの話題になった。
クソゲーって意味でだけど。
部室にて――
「イヤああああああああああああああああ! 晒《さら》しスレが立ってるううううううううううう! ひどい! この人たちって、人間の心がないんですかね!」
「……騒々しいわね。ネットから批判を探してきて発狂するのはやめて頂戴。だいたい、そのスレで叩かれているのはほとんど私のシナリオでしょう。どうしてあなたが気にするの?」
「あ、あったり前じゃないですか! |あたしたちのゲーム《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が批判されているんですよ! どの部分が叩かれているとか、そんなの関係ないですから!」
「私がやりたいことをやった結果、ユーザーに受け容れられなかった。責任は私にあるわ」
「そんなこと言ったら、あたしのシステムだって、別に褒《ほ》められてませんよ! 言い換えれば、『叩かれてすらいない』わけです! そもそも修羅場ったのはあたしのせいですし! というかー、そうやって一人で責任持って行くの、やめてくれません? こういうのって、喜ぶ権利も、悔しがる権利も、制作に参加したみんなにあるはずです。違いますかね?」
「……ご高説有り難う。じゃあ存分に悔しがって頂戴。その代わり、近隣の部室から苦情が来たら、対応よろしくね」
「お言葉に甘えてそうさせてもらいますぅ〜! キー悔しいっ! キァ〜むっかつく! っていうか、五更さんはよく平気でいられますね? こんなクソミソに書かれてるのに」
ディスプレイを指でぶすぶすブッ壊す勢いで突っつきながら、不機嫌な声を出す瀬菜。
黒猫はそんな戦友を、ちらりと横目で睨《ね》め付けて、興味なさげに囁《ささや》いた。
「……私は、もう、慣れてるから」
慣れているから、『とりあえず表に出しはしない』と、続くのだろう。
悔しくないわけじゃ、ない。
そうだよな。おまえ、いままでさんざん……熊谷《くまがい》さんにボロクソ言われたり、桐乃に全力でバカにされたりしてきてるんだもんな。
黒猫と瀬菜の批判に対する反応の差は、本人の性格以上に、これまでの経験が反映されているように思えた。
「ねー高坂先輩。聞いてくださいますー?」
「お、おう……なんだ?」
目がこえーよ瀬菜ちゃん。いや、いいけどさ。今日はとことん、愚痴《ぐち》を聞いてやろう。
何の役にも立っていなくたって――俺だって、悔しいもん。
「あたしいままで、批判に対して感情的になるのって、時間を割いてプレイしてくれたユーザーへの感謝が足りない、そんなことしてる暇があるなら反省しろって思ってたんですよ。ネットの無責任な意見に惑《まど》わされて怒るなんて、煽《あおり》り耐性《たいせい》の低いバカのやることだよねーって考えてました。でも、自分の関わった作品をこうやってネットで批判されてみて、思い直しました。無責任な意見に惑わされない泰然《たいぜん》とした態度? ネットリテラシー? ハッ――クソ喰らえですよそんなもん!! 腹が立つものは腹が立つんですよド畜生が!![#「クソ喰らえですよそんなもん!! 腹が立つものは腹が立つんですよド畜生が!!」はゴシック体]」
ばんっ、とキーボードをぶっ叩く瀬菜。
「お、落ち着け……女の子がクソとか畜生とか言うのはね? ほら? 色々とまずいしね?」
「知ったこっちゃないですよ! こ、こいつら絶対殺してやる! 絶対に絶対に殺してやる! 晒しスレに軽い気持ちで書き込んでいる悪趣味な連中も、得意|面《づら》してブログに取り上げているやつらも、すべて同罪ッ!! くき、きい〜ッ! 覚えてなさいよ豚《ぶた》どもが! こっそりマイミクになって、オフ会で殺してやるんだから!!」
バンバンバンバンすげー勢いでキーボードを叩きつける瀬菜。
「おいやめろって! キーボード壊れちゃう!」
「だって! だって……ぐすっ……ひぃん」
よっぽど悔しかったんだな?
まさか俺らのゲームを批判しているやつらも、たった数行の批判文章|ひとつひとつに対して《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、スタッフが『絶対殺す! てめえら殺しに行く!』と並々ならぬ殺意を燃やしているなんて、思いもよるまい。
「絶対みんなそう思ってますよ! あたしだけじゃないですよ!」
「そんなことないって!」
俺はすべてのクリエーターさんたちの名誉のために、必死になって瀬菜を宥《なだ》めた。
PCで自分の作業をしていた黒猫も、うんざりしたように呟《つぶや》いた。
「ていうかあなたね……ゲームの批判記事を検索するのやめたら?」
「そ、そんなこと言ったって、どうしても検索しちゃうんですよ〜〜〜〜っ! しかもあたし検索にひっかからない批判もぜんぶ発見しちゃうんです! そういうの得意だから! くうう……こ、このどうにもならない感! い、いい、いったいどうやって鎮《しず》めれば!」
「次のゲームを作りましょう。今度は、誰もが度肝《どぎも》を抜かれるような、面白いゲームを」
ディスプレイから目を離さず、キーを叩くスどードを一切緩めず、黒猫は言った。
「批判してきた人間をひとりひとり殺していくよりも、その方が、ずっとすっきりするわ」
「……口だけは達者――いえ、前向きですね、五更さんて」
「ふん、他にやりようがないだけよ。……ところでどうかしら、私たちを|こけ《ヽヽ》にした連中に、目にものを見せてやれる企画があるのだけど。あなたも乗る?」
「とーぜんです。次はあたしが最初から最後まで参加するんですから――絶対すっげーの作ってやりますよ! とりあず主人公は『ギアーズ・オブ・ウォー』みたいなイカすマッチョメンです!」
「却下《きゃっか》」
そんな部室でのやり取りこそが――
黒猫が自ら獲得した、部活動の成果だった。
これだけ一生懸命頑張って、たった一人の仲間ができただけ。
黒猫も、瀬菜も、自分の成果に不満たらたらで、一つも満足してないだろう。
どんなに褒《ほ》めてやったところで素直には受け取ってもらえまい。
だから俺は、心の中だけで言ってやったよ。
たいしたもんだ、ってな。
[#挿絵(img/oim05_0238.jpg)]
第四章
とある日の放課後。俺がいつものように麻奈実と一緒に、下駄箱へと向かっている途中、
いつかと同じ階段の踊り場で、掃除をしている黒猫と出くわした。
「よう」
「…………」
俺は気さくに片手を上げて挨拶《あいさつ》をしたのだが、黒猫はちらりと俺を一瞥《いちべつ》したのみで、すぐに視線をそらして階段を掃《は》き始めてしまう。
相変わらず、他の掃除当番の姿はない。
「またな」
俺は苦笑して、その場を後にする。
階段を下りきったあたりで、麻奈実が不思議そうに聞いてきた。
「きょうちゃん、今日は、手伝ってあげなくてもいいの?」
「いいんだ」
そいつはもう、俺たちの仕事じゃないし俺はグラウンドの水場に視線を向け、モップを水で濡《ぬ》らしている、とある女子生徒を一瞥《いちべつ》した。彼女は絞り終えたモップをバケツに入れて打ち、こちらに向かって歩いてくる。そして俺に気付くや、訝《いぶか》るように声をかけてきた。
「……なにかあたしに用ですか? 高坂先輩」
「いいや、掃除、がんばれよ」
そう、俺の出る幕なんてない。
俺は一抹《いちまつ》の寂しさと、温かな満足感とともに、その場を後にしたのである。
「…………そっかあ。そんなことがあったんだ」
「ああ。ほんと、俺なんかがお節介《せっかい》焼くことなかったんだよな。こっちがなんにもしてねーうちに、あいつら、自分で何とかしちまうんだから」
俺は下駄箱へと向かって歩きながら、麻奈実にことの顛末《てんまつ》を話してやった。
「でも、徒労《とろう》だったとは思ってないんでしょ?」
「まあな」
その理由は――たぶん。俺が『あいつのために何かしてやること』を目的としていたわけじゃないからなんだろうな。あいつに友達ができて、もっと学校が楽しくなってくれれば、それでいい。俺の手柄《てがら》じゃなくてもいい。心から、そう思えていたからだろう。
だっせえ動機を自覚して、変わったものがあるとするなら。
そのあたりの、心の持ちようだったのかもしれない。
「ともあれ……お疲れ様、きょうちゃん」
ふんわりとした、柔らかな微笑《ほほえ》み。
麻奈実の台詞で、俺の中でかちりと一区切りが付くのが分かった。
「おう、はは、なんか、すっきりしたよ」
「ふふ、じゃあ、中間テストの自信は?」
「超楽勝。おかげさまでな」
「へへ〜、どういたしましてっ」
二人並んでだべりながら、ゆっくりと門へと向かって歩いていく。
とうに花の散った桜並木には、わずかに花びらが落ちている。
もう春の装いも薄くなって、空気は夏の気配を漂わせていた。
そんなときだ――俺の尻《しり》で、ケータイに着信が入り、ぶるぶると震えはじめたのは。
「っと悪い、メールだ」
一言断り、携帯のメール画面を確認すると、二件のメッセージが届いていた。
一件目は黒猫からで、件名はなく、本文も短く一言、『三時半に校舎裏で待つ』とだけ書かれている。まるで果たし状のようなメールだった。
「…………なんかしたかな、俺」
後輩から突然こんなメールが来たら、びびっちまうぞ。ってか用あんなら、さっき会ったとき言やいいのに。首をかしげながらも、二件目のメッセージを確認する。
そこに表示されていたのは――
「き、桐乃から!」
「えっ? ホントに?」
「あ、ああ。タイトル『Re:連絡しろ』って、俺が出したメールに返信してきたみてえ……」
なんだあいつ。いまごろ返信してきやがって! 遅せーっつの!
……ふん、どーせ、向こうでも新記録出した――とか。かわいい女の子と友達になった、とか……か、彼氏ができた……とか。そういう、しゃくにさわる自慢話が書いてあるに違いないんだけどな。でも、黒猫も沙織もあやせも、桐乃のことを心配してたし――だから、元気なことさえ分かるなら、まあ、それはそれでいいか。みんな、安心するだろうしな。
「ほら、きょうちゃん、めーる、開いてみたら?」
「ん? んん……そ、そうだな。まあ、別に? 返信とかする気ねーけど? 見るだけ見てみっかなぁ〜」
かちっ、とボタンを強く押し込む。どきどきと心臓が高鳴る。
しかし妹から返って来たメールの文面は、俺の予想を裏切るもので……。
アンタに預けたあたしのコレクション せんぶ 捨てて[#「アンタに預けたあたしのコレクション せんぶ 捨てて」はゴシック体]
そう、一文《いちぶん》だけ、書かれていた。
「……………………………………」
俺は妹から返ってきたメールを呆然と見つめ、困惑していた。
アンタに預けたあたしのコレクション せんぶ 捨てて――[#「アンタに預けたあたしのコレクション せんぶ 捨てて――」はゴシック体]
「捨ててって……どういうことだ?」
『捨てろ』というのは、つまり、『ゴミに出せ』って意味?
いや、それはない。絶対に、ない。
「なんかの暗喩《あんゆ》か?」
考えても分からない。俺に、メールの文面を紙面どおりに受け取るという選択肢はなかった。一瞬だけ脳裏《のうり》をよぎったが、すぐに却下《きゃっか》した。だって、有り得ないから。
あいつがどれだけ、あのコレクションを大切にしていたのか……妹を除けば、世界で一番、俺がよく知っている。その俺が断言するぜ。あいつが『自分のコレクションを全部捨てろ』だなんて、俺に言うわけがない。わけがないし、そんなこと、考えたくもなかった。
あの押し入れのコレクションの中には、俺や、あやせや、沙織や、黒猫が、一緒になって贈ってやった『EXメルルスペシャルフィギュア』も含まれている。
俺や黒猫と一緒に観た『星くず☆うぃっちメルル』のDVDボックスも、含まれている。
あいつから人生相談を受けるきっかけになった、『妹と恋しよっ♪』も――
ぜんぶ、ぜんぶ、含まれているのだ。
それを――捨てろ、なんてさ。言うわけがないだろう?
「きょうちゃん、顔色が………悪いよ?」
「――――いや、なんでも……チッ」
俺は不思議そうにしている麻奈実を半ば無視し、とっさに妹に電話をかけていた。
出ない。十回鳴らしても、二十回鳴らしても――桐乃が声を聞かせてくれることはない。
「だめだな、こりゃ……」
クソ! なにが『捨てといて』だ! 人を心配させといて、他に言うことあんだろうが!
……違う方法を使おう。とにかくなんとかして、このメールが何かの間違いだということを証明したかった。どうせ間違いだと確信しちゃあいる。しちゃあいるが――
はっきりさせないと、落ち着かない。あまりにも、あんまりな文面だからな。
「…………あやせに聞いてみっか」
それがいいだろう。桐乃が、親友のあやせよりも先に、俺なんぞに連絡してくるってことはないだろうし、あやせなら、桐乃のことを何か知ってるかもしれない。
それに――なんだかんだ言って俺って、あやせのこと結構好きだしな。
俺ってあいつにめっぽう嫌われてるもんだから、何の用事もなしに電話をかけるのが憚《はばか》られていたのだ。考えようによっては、こいつはいい名目ができたかもしれん。
「うし、うっし……」
テンション上がってきた。待ってろよラブリーマイエンジェルあやせたん。
いま行くぜ!
精神的な緊急避難というか、現実逃避というか、いったん心を落ち着け整理するという意味もあったのだろう。
俺は、かつてあやせ本人から数えてもらった番号に、ノリノリで電話をかけた。
ところが――
おかけになった電話番号への通話は、お客さまのご希望によりおつなぎできません――[#「おかけになった電話番号への通話は、お客さまのご希望によりおつなぎできません――」はゴシック体]
おかけになった電話番号への通話は、お客さまのご希望によりおつなぎできません――[#「おかけになった電話番号への通話は、お客さまのご希望によりおつなぎできません――」はゴシック体]
ガチャッ、ツー、ツー、ツー、ツー……[#「ガチヤッ、ツー、ツー、ツー、ツー……」はゴシック体]
「ご希望によりって、着信拒否っスか!?」
俺は泣いた。真っ白に力|尽《つ》き、さめざめと泣いた。
おおおおおお……………義信拒否されたときのメッセージなんて、初めて聞いた……。
世界の絶望を一身に引き受けたかのように、その場でがっくりと膝をつく。
「……お、終わった。……へっ、へへ……終わっちまったよ……何もかもな……」
ひ、ひっでえ……こんな残酷な結末が、この世にあっていいの?
テンション上がってたぶん、超ダメージでかいんだけど? もう立ち直れねえっスよ。
そんな俺の異常行動を眺めていた麻奈実が、腫《は》れ物にさわるような感じで聞いてきた。
「きょ、きょうちゃん……? もしかして、その、あやせちゃんと連絡取りたいの?」
「え?」
鼻水まみれの顔をあげると、麻奈実が自分の携帯を取り出して、俺に見せてきた。
あれっ、こいつって、普段携帯持ち歩かないんじゃなかったっけ? 生意気にも、現代の文明に適応してきたのだろうか。つーか、この話の流れって。
「なに? どういうこと?」
「えっとね……わたし、あやせちゃんと電話番号交換してるから……」
「ちょ! お、オマエいつの間にあやせと仲良くなってんの!?」
「えへへ……ちょっとね〜」
ちょっとね、じゃねぇよ! な、なにこの組み合わせ……予想外すぎんだろう……。
いったい麻奈実とあやせとの間に、どんな仲良くなれる要素が?
つうか具体的にどのくらいの仲なの? 正月に会ったくらいじゃねえの?
お婆ちゃんと女子中学生との間に、共通の話題があるとも思えんのだが……。
うーむ。分からん。電話番号なんか交換して、なに話してるんだろうな、こいつら。
まあ……俺だって沙織やら黒猫やら、新しい友達を作っているわけだから、こいつが誰と仲良くなろうが知ったこっちゃないんだけどさ……なんだろう……なんか、寂しいような……イラっとするような……。って、あやせに嫉妬《しっと》してどうすんだ俺は! アホか!
「いや、まあ、じゃあ、頼む」
「うん、おっけい」
麻奈実は自分のらくらくホンを耳に当て、電話に出た相手と一言二言《ひとことふたこと》会話を交わしてから、
「はい」と、俺に渡してきた。俺はそれを受け取って、電話をかわる。
「……も、もしもし?」
『――お久しぶりですね、お兄さん』
うお、ほんとにあやせだ! マイエンジェルあやせたんだ!
「久しぶりじゃねぇよ! なんで着信拒否なんてすんの!? 俺がなんかした!?」
いや、確かに去年の夏コミの一件で『なんか』はしたけども! でも逆にいえば、あれ以降、着信拒否されるようなことは――――チョットしかしてないじゃん!
『え? いまごろ気付いたんですか? 半年以上前からずっと着拒《ちゃくきょ》してますけど』
「マジかよ!」
そういや俺、あやせとはずっとメールでしか連絡取ってなかったなあ!
実は夏からずっと着信拒否されていたなんて……。うう……知りたくなかった……。
『……なんですか? もしかしてそんなことを言うために、わざわざお姉さんに頼んでまで、私に電話してきたんですか? だとしたら凄く迷惑なので、やめて欲しいです』
心が砕けてしまいそうだ! 女子中学生にこんなこと言われて、泣かないやつっているの?
俺はこいつと出会ってから、エロゲーでは必ず黒髪ロングのキャラから攻略しているくらいなのに、まるで変態のように扱われていることが心外でならない。俺の清廉潔白《せいれんけっぱく》な心根《こころね》を、どうにかして伝えられないもんだろうか。
まあ、誤解を解くわけにもいかねーから、仕方ないっちゃないんだけどさ。
「違げーよ。ちっとおまえに聞きたいことがあってさ」
『聞きたいこと?』
「おう。妹のこと――なんだけどさ」
その台詞の効果はてきめんだった。
「桐乃の……こと、ですか」
俺との会話に対するあやせの真剣度が、ぐぐっと上がったのが、電話越しにも分かったよ。
「ああ。あれから――おまえんとこに、桐乃から連絡とか入ってるか?」
あやせとは、桐乃が留学しちまった直後に、一度だけ会って話をしたことがある。
そのとき彼女は、桐乃からは何も聞いていない。連絡もないと辛そうに語ってくれた。
数ヶ月が経って……その後の状況はどうなっているのだろうか?
『……ないです。あれから一度も……。私からは、何度もメールしてるんですけど………。ぜんぜん返事……こなく、て』
最後の方は、ほとんど涙声になっていた。
『お兄さん……私……桐乃に、嫌われちゃったんですかね……』
「んなわけねーだろ!」
つい、電話越しに大声を上げてしまった。紛《まぎ》らわしいことをする桐乃も桐乃だが、他ならぬあやせに、そんな台詞を口にしてもらいたくはなかった。
「……あいつがおまえと喧嘩《けんか》しちまって、どんだけ辛そうにしていたのか……。俺はよく知ってるよ。そんなあいつが、おまえのことを嫌いになるわけがない。つかさ、そんなの、俺なんかが言わなくたって……おまえが一番分かってることだろうが」
『……そう、ですよね……。ごめんなさい』
「いや、こっちこそ、悪かった……怒鳴っちまって」
なんてこった。
桐乃のやつ――あれから一度も、あやせにさえ、連絡を取ってなかったなんて……。
だとすると、あのメールは、どういうことになるんだ? 俺にだけ、一通だけ、連絡をして来て――その内谷が、『コレクションをぜんぶ捨てて』ってのは……。
冗談? 悪ふざけ? それならまだいい、連絡が付いたら、そのときに『ふざけんじゃねえ!』って言ってやれば、それで済む話だ。
しかし冗談や悪ふざけで、親友にさえ連絡を取らなくなっちまうってのは……。
どうすればいい? 俺は、どうすりゃいいんだ?
『お兄さん? あの、桐乃が、どうかしたんですか? もしかして、事故、とか――』
「いや、何にもないよ、安心しろ」
俺はあやせに勘づかれないよう、できる限り気さくな声でごまかした。……言えるわけねーよな、こんなこと。
「俺んとこにもぜんぜん連絡なくて……さすがに心配になっちまってよ。そんで、おまえに電話したんだ」
『そうですか……。お兄さんのところにも、連絡、ないですか……。……私……桐乃が私たちに連絡してこないのって、よっぽどの理由があると思うんです』
「うん」
俺もそう思う。それがなんなのかは分からないが、あいつが、大好きなあやせや黒猫と連結を取らなくなるなんて、おかしいもんな。
『でも……それでも……桐乃が私たちに連絡して来ることがあるとしたら……お兄さんのところだと思うんです。そのときは……』
あやせは言い差した言葉を一旦止めて、思いやりのこもった優しい声で続けた。
『そのときは、どうか、桐乃の力になってあげてください』
「……分かった」
………………………………。
……どうやって、だよ。
あやせとの通話を終えたあと、俺は麻奈実と別れ、黒猫との待ち合わせ場所に向かった。
しかし頭の中は桐乃からのメールの件でいっぱいだった。
自然と歩みは遅くなり、やがて俺の足は、完全に止まってしまう。
携帯を取り出し、桐乃から送られてきたメールを、再び眺める。
俺は、桐乃が連絡してくるとしたら、あやせにだと考えていた。
しかし彼女は、まったく同じことを、俺に対して思っていたわけだ。
桐乃が連絡して来ることがあるとしたら……きっとお兄さんのところだと思うんです。[#「桐乃が連絡して来ることがあるとしたら……きっとお兄さんのところだと思うんです。」はゴシック体]
バカいえ。なんでそうなるのか、さっぱり分からねーぞ。確かに俺は、あいつから秘密の人生相談を何度も請け負ってきた。けれどもそれは、他に適当な相手がいないからで、俺が秘密をぶちまけて嫌われちまっても間題のない相手だからで――
――違うよな。
分かってる。他ならぬ俺が、この口で言ったことだ。俺があやせに怒鳴った台詞は、そのまま俺へと返ってくる。俺が、一番、よく分かっていることだった。
何しろ、この耳で聞いた。すっごく感謝してると――その台詞を、しっかりと心に刻みつけた。忘れもしないさ。
鈍い俺でも、そこまでストレートに言われりゃあ。
さすがに、自分がどれだけ誤った認識であいつを観ていたのか、気付くよ。
パタンと携帯を折りたたみ、俺は再び歩き出す。
メールで指定されたとおり三時半に校舎裏へ行くと、制服姿の黒猫が待っていた。掃除が終わったあとも、学校に残っていたんだろう。彼女は、いつか一人でメルル弁当を食っていたベンチに腰掛けている。
俺の姿に気付くと、黒猫はそっと立ち上がる。聞こえるか聞こえないかくらいの小声で、
「……あ……あのっ……」
そう言いかけたものの、俺の顔を見るや、なにかに気付いたように「……あ……」と、口を開けた。それから思案するように眉をひそめ――低い声で言う。
「――ひどい顔をしているわね」
「……そうか?」
「ええ。まるで、この世の終わりでも見てきたようよ」
それはもう。桐乃とあやせから、ダブルパンチを受けたばかりだからな。
「……ふん。どうも――そんな有様では、私の用件は果たせなさそうね。いいわ、何があったのか、言ってごらんなさい。特別に聞いてあげるから」
黒猫が言い差した用件≠ニいうのが気になったが――
「実は、桐乃から、妙なメールが届いてよ――」
……そうだな。この際、こいつに聞いてもらうのも、いいかもしれない。
桐乃の親友というなら、こいつだって、あやせに負けないくらい、そうなのだから。
黒猫は、俺が事情を説明する間、黙って聞いていた。
「……って、わけだ」
瞑目《めいもく》していた黒猫が、ゆっくりと目を開く。
「――で? あなたは、どうしていま、こんなところでぐずぐずしているの?」
話を聞き終えた彼女が、開口一番口にした台詞がこれだった。
「え?」
「どうしてこんなところで、私なんかの呼び出しに応えているのか。そう聞いたのよ?」
黒猫は、静かに怒っていた。苛立《いらだ》っていて、侮蔑《ぶべつ》していて、そして悔《くや》しがっているようだった。忌々《いまいま》しい、悔しいと呪詛《じゅそ》を吐き出していた、いつかと同じくらいに。
「いや、しかし、こんな短いメールくらいで――」
「『こんな短いメールくらいで』、十二分に分かるでしょう。あなたの妹が、|こんなメールを送ってくるような状況に陥っている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということが。それともあなたの妹は、冗談や酔狂《すいきょう》でこんなことを言うのかしら? 付き合いの浅い私にさえ、自明のことだと思うけど?」
あんたに預けたあたしのコレクション ぜんぶ捨てて[#「あんたに預けたあたしのコレクション ぜんぶ捨てて」はゴシック体]
言うわけねえだろ。分かってるよ、そんなこと――
「でもよ、あいつはいま、アメリカにいて――」
「それがなに? たいした問題ではないでしょう。魔界に帰ったわけでなし、地獄に堕《お》ちたわけでなし。ただ連絡が取れないだけ。いる場所が分かっていて、行く方法があって、心配する気持ちを自覚していて――あとはなにが足りないと?」
黒猫は下唇を、ぎりつと噛みしめた。
それから、うっそりと、地獄の底から響いてくるような暗く重い声を出す。
「あなたは本当に、本当に本当に本当に――――どうしようもない最低の|へたれ《ヽヽヽ》だわ、先輩。愚図《ぐず》でノロマで察しが悪くて、スケベで莫迦《ばか》で怠惰《たいだ》でクズで――そのくせ妙に優しくて。妹同様|性質《タチ》が悪い。よく似た兄妹よ、まったくね」
返す言葉もなかった。
罵倒《ばとう》が止まり、静寂が場に満ちる。黒猫と一緒に過ごすようになってから、何度となく経験した、沈黙。こいつに限って、沈黙は無意味じゃない。沈黙という名のコミュニケーションだ。
俺たちは無言で見つめあったまま、しばしの時を過ごした。やがて……。
「報告しておくことがあるわ」
ぽつりと黒猫が呟《つぶや》いた。いままでの話の流れからすると、不自然な台詞だったから、俺は「えっ?」と、当惑した声を出してしまった。
「色々と、改善されたから。……クラスのこと、とか、色々。だから……一応、報告」
ぽつり、ぽつり、と歯切れ悪く台詞を紡《つむ》ぐ。相変わらず喋るのが苦手なんだな。こんな遠回しなやり方では、普通、相手には何も伝わらない。でも、俺には分かる。こうして呼び出された理由にも、察しが付いた。こいつは俺に、礼を言っているつもりなんだろう。だから、台詞だけ聞けばおかしな会話の流れかもしれないが、こう返した。
「……いや、俺は、たいしたことしてねーよ」
「確かに何の役にも立たなかったわね」
肯定《こうてい》しやがった!? そこは『そんなことないわよ』って否定してくれるとこじやねえの!?
「でも、私は嬉しかった」
「…………」
「……妹の代わりじゃなく、おまえのことが心配だと言ってもらえて、嬉しかったわ」
黒猫は、喋りながら、俯《うつむ》いてしまう。
ちょ、ちょっと……こいつ……なに言ってんだよ……。
「兄さん≠ナはなく、先輩≠フ方がいいと言ってもらえて、嬉しかったわ」
緊張しているのか、スカートの前で組んだ手が、震えていた。
「同じ部活に入ってくれて、クラスで孤立しているのを心配してくれて、プレゼンのフォローをしてくれて、田村先輩との時間を削ってまで――一緒にいてくれて」
「私は、とても、嬉しかった」
――死ぬかと思った。唖然《あぜん》と顎《あご》が落っこちた。
普段あんなに捻《ひね》くれているやつに、
こんな顔で微笑まれて、こんなふうに礼を言われたら――誰だってこうなるよ。
あまりにもびっくりしすぎて、混乱していた。
どんな反応をしていいのか、分からなくて、なんとかかんとかこう口にした。
「そっ、か」
まともに息ができなかったよ。瞬《まばた》きするのさえ忘れていた。
そのくらいに、黒猫の顔から、目が離せなかったんだ。
「あなたと私は、同じくらいひねくれていると思うのだけど」
「え?」
「私は、こうして素直に言ったわ。で――|あなたはどうするの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》?」
「――――」
ああ、そっか。
こいつ、俺に、『こうやればいいのよ』と、お手本を見せてくれたのか。
本当にこいつは――……なんていうか。危うく惚《ほ》れてしまいそうだ。
俺はくらりと酩酊《めいてい》した脳髄《のうずい》で、ごく当たり前のことを、ごく当たり前のように――決めた。
「桐乃に、会ってくるよ」
「………そう」
黒猫は、満足そうに目を伏《ふ》せて、優しい声でそう言ってくれた。
またしても、会話がとぎれる。
そういや以前は、こうなるのが気まずかったっけ。
いまはもう、そうでもない。
「私の報告は以上よ」
「そうか」
俺はぐっと拳を握りしめ、踵《きびす》を返した。
「じゃあ、行ってくる」
その背に「ちょっと待って」と声をかけられた。たたっ、と、駆け寄ってくる足音。
振り返ると――
[#挿絵(img/oim05_0258.jpg)]
頬に、柔らかな感触。
幽《かす》かな甘い匂《にお》いを残し、真っ赤に染まった黒猫の顔が、離れていく。
「……な……な……」
にを、しやがる……。声がかすれて、口から出てこないうちにかき消える。
どうい……どういうつもりだ!?
黒猫は、俺の内心の問いを表情だけで察し、答えた。
「……呪い≠諱Bあなたが途中でへたれたら、死ぬ呪い。私の願いを果たすまで解呪《かいじゅ》≠キることは叶《かな》わない……。可哀相《かわいそう》に、このままではあなた、全身から血を噴き出して、のたうち回りながら死んで行くわ」
黒猫は、かあ〜っと耳まで赤面しながらも、「……っふ」と邪悪きわまりない微笑を浮かべ、
「分かったら、早く私の前から消えなさい。今度は自分の妹に、お節介を焼いてくることね」
思いっきり背中を押して、空の彼方へと送り出してくれた。
成田空港から飛び立った便は、ようやく上昇をやめたようだった。恐怖のあまり、前の座席に半ばしがみつくようにしていた俺は、ふぅ〜と息を吐きながら、ゆっくりと顔を上げた。
指で、頬をなぞるように触れる。
そこにはいまだ柔らかな感触が、熱さとともに残っており――
「……確かに、呪いだな、こりゃ」
あいつがどういうつもりでこんなことをしたのか、俺には判断がつかない。
俺の勇気を奮《ふる》い立たせ、背中を押すためだったのか。
大好きな桐乃の、助けになりたかったのか。
ちょっとした悪戯心が働いたのか――それとも。
いまは措《お》こう。それはすべてが終わって、日本に帰ってから、改めて考えればいい。
なんにせよ、俺はあいつに、さらに大きな借りを作ってしまったようだった。
おかげで俺は、いまこうしてここにいる。なんと驚け、あれから数時間しか経っていない。
あのあと家に帰ると、|なぜか親父がいた《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ので、桐乃のことを相談してみたんだよ。
[#本文より5段階大きな文字]『よし! 行ってこい!』
親父はおおいに乗り気だった。
自分の部屋からトランクケースを持ってきて、ドンッと勢いよく押しつけできた。
『必要なものはすべてその中に入っている。遠慮なく持って行け』
なんですでに旅行の準備が万全だったのか。なんで親父が夕方なのに家にいたのか。そんなこと聞けるわけなかったし、聞く必要もなかった。
『――京介。すべておまえに付せる。頼むぞ』
力強いその言葉と一緒に、有り難く頂戴しておいたよ。
俺は現地の空港に着くや、親父にもらった地図を広げた。
海外旅行は二度目(中学の修学旅行がハワイだったのサ)だが、正直言って、桐乃が住んでいるところまで、たどり着く自信がない。
息巻いて飛んできたくせに情けないって? ばか言ってんじゃねーぞ! 言葉もろくに通じない、土地|勘《かん》もない、買い物ひとつするのにも大わらわなんだ。
びびるに決まってんだろうが! くっ、も、もしこれで、荷物をひったくられでもしたら……おお怖い、考えたくもねーな。最悪の場合、親父に教えてもらった『寮《りょう》』とやらに電話して桐乃を呼び出してもらい――迎えに来てもらうしかない!
それだけは……それだけは避けたかった。妹を心配してやってきたのに、妹に助けてもらうとか、情けないとかそういう問題じゃないもの。兄としての尊厳が砕け散ってしまう。
幸い、そんな心配は杞憂《きゆう》に終わった。親父から託された旅行グッズは、用意|周到《しゅうとう》にもほどがある代物だったからだ。旅行ガイドブックにクリップでメモ等が大量に貼り付けられており、空港から目的地までどうやって行けばいいのか――交通手段、地図、金、その際必要な会話マニュアル等――なにからなにまで完備されていた。
「さすが親父! 下準備パネェな!」
親父は海外旅行が大嫌いで、いままで行ったことなかったってのにな。
娘に会いに行くために――調べたわけだ。親父らしい。そう思ったよ。
俺は親父のメモに従って、ロサンゼルス国際空港からタクシーに乗り込んだ。
いかにも瀬菜が好きそうな黒人の運ちゃんに、親父メモの該当《がいとう》ページ(住所が英語で書かれたもの)を見せると、うんうん分かったような仕草で頷《うなず》いてくれた。
なに言ってんのか分からんが『オーケーボーイ、任せろ』みたいな感じだった。
大丈夫かな、このまま人気の少ないところに連れて行かれて殺されたりしないかな……。
誰かさんのせいで、たくましい男性に恐怖感を覚える俺であった。
やくたいもない不安を抱きつつ、車窓からロサンゼルスの町並みを眺める。
海だ。反対側には綺麗《きれい》な山が、どーんとそびえている。
時差はおよそ十七時間。気候は暖かく、俺の体感では日本とあんまり変わらない。
というか、自由の国アメリカなんて言うから、さぞかし日本とは違うんだろうなと気張っていたら、意外とそうでもないんだな。来たばっかりだからそう思うのかもしんないけど、海外っぽいところって言ったら、道路が広いのと、車が右側走るのと、外人がいっぱいそのへんを歩いているくらいのもんである。
正直いって、初めてアキバに行ったときの方が、びっくりしたね。
ロスじゃあ、メイドさんがチラシ配ってたりしないもんな。
俺の不安をよそに、車の旅は快適だった。どのくらい快適かというと、千葉の寂《さび》れた町並みを走っているかのように快適だった。渋滞《じゅうたい》なんてしそうにない。
運ちゃん赤信号でも右折するので、俺も初めはいちいちビクビクしたもんだが、どうやらそういう交通ルールらしい。よくは知らん。
フリーウェイをしばらく走って――目的地に到着したときには、夕方になっていた。
「寮《りょう》っつーか、家だな」
白い、二階建ての木造住宅だ。新築なのか、目立った汚れもなく、ぴかぴかしていた。
しかも、かなり広い。外にはバーベキューの道具みたいなものもあり、本当にキャンプ場みたいだった。てっきりアパートみたいなのを想像していた俺は、ちょっと当惑《とうわく》したよ。
こういう家が、幾つかあるんだろう。
インターホンを鳴らし、しばらく待つ。
しっかし……さすがアメリカというべきか、でかくて豪勢《ごうせい》な家である。
派手《はで》好きなあいつにゃあ、わりと似合ってるのかもな。
そんなことを考えていると、家のドアが開き、見知った顔が現れた。
その光景は、予想していたものだったはずなのに、心臓がぎゅっと締め付けられるような感覚がしたよ。
軽く深呼吸して、笑顔を作る。緊張してたもんだから、ちっと引きつったかもしれん。
「よ、久しぶり」
「……なんで……あんたが……ここにいんの……」
それが数ヶ月ぶりに聞いた妹の声だった。おお、驚いてる驚いてる。
「あのなあ……俺がおまえに会いに来ちゃ、おかしいか?」
「お、おかしいっての」
そんなハッキリ言わんでも。つか俺、妹から、どんだけ薄情《はくじょう》もんと思われてんだよ……。
……ちぇっ。俺は口をへの字にしてムスっとした。
親父から聞いた件について、確認してみる。
「最近、体調|崩《くず》しがちなんだってな、おまえ」
「……たいしたことないって、こんなの。風邪みたいなもんだし」
「もう二ヶ月もそうだって、聞いたぞ。親父も心配してた」
ほっといたら、自分で娘に会いに行きそうな勢いだったもんな。
「……そっか。……お父さんが……」
桐乃は悄然《しょうぜん》と俯《うつむ》いた。ぱさりと前髪が垂れる。
……髪の毛、伸びたな。
以前こいつがインフルエンザで寝込んでたときと、似たような印象を受けた。
動きやすい部屋着を着ているところを見ると、もしかしたらこいつ、いまも寝ていたのかもしれないな。心なし顔色が悪いし、最後に会ったときと比べて、やつれているような気がする。元々モデルやってて細いくせに……これ以上|痩《や》せちまってどうするんだよ。
「親父だけじゃねえ。あやせも、黒猫も、沙織も――めちゃくちゃ心配してたんだぜ? なんだっておまえ、連絡してやらねえんだよ?」
「……………チッ。あんたには、関係ないでしょ」
桐乃は髪をかき上げ、下唇を噛んだ。
久しぶりに聞いた拒絶の言葉。チッ、という聞き慣れた舌打ち。
懐《なつ》かしかったよ。この超イラッとする感覚も含めて、懐かしかった。
桐乃はたいそう不機嫌に俺を睨《ね》め付け、さらに憎まれ口を叩《たた》いた。
「……つか……あんたさあ、なにしに来たわけ?」
よくぞ聞いてくれたってところかな。
「ちょっと待ってろ」
俺はおもむろにトランクを開けて荷物をあさり、透明なプラスティックのDVDケースを取り出した。手に持って見せてやると、桐乃は「あっ」と目を見張った。
「それって……あたしがアンタにあげた……」
「ああ」
俺が見せてやったDVDは、以前妹から贈られた『妹×妹〜しすこんラブすとーりぃ〜』のゲームディスク。俺はさながら三浦部長のように、ニィッと八重歯を見せ付け、
「俺はここに、エロゲーをやりにきたんだ」
[#挿絵(img/oim05_0266.jpg)]
数分後――
「……意味分かんない……。超意味分かんない……。どうしてあたし、アメリカに留学してたはずなのに、あんたと並んでエロゲーやってんだろ……」
寮内にある桐乃の部屋。
サイドテーブルにノーパソを置き、ベッドに並んで腰掛ける俺たちの姿があった。
件の『しすしす』をプレイ中だ。
ちょうどオープニングイベントが終わり、本編に入ったところである。
桐乃は仏頂面《ぶっちょうづら》でむくれているが……。
まるで、こいつが日本を発ったあの日を再現するかような光景だった。
「おまえが『分かった、やる』って言ったからだろ?」
「あんたが外でエロゲーエロゲー騒ぐから、あの場はそう言うしかなかったの! どんだけデリカシーないのよアンタ! 誰かに聞かれたらマジでやばいんだってば!」
そういやアメリカって、日本よりエロゲーに厳しいんだっけ?
「そりゃ悪かった」
「チッ、ほんとに分かってんの? つぅかあ、なんであんたがこうもかたくなに、あたしとエロゲーをやりたがるのか、その理由をまだ聞いてないんだケド?」
「まあいいじやん。細かいこと気にすんなよ」
「あんた自分の吐いた台詞理解できてる? 妹と一緒にエロゲーをプレイしたいがためにアメリカまで飛んで来ておいて、そんでもって『細かいこと気にすんな』とか言ってんだよ?」
細かくないっスよね。客観的に見たら変態っスよね。
でも、本当の理由言ったら怒るじゃん、おまえ。だから言えねえんだよ。
「……はあ……マジ意味分かんないし」
とか言って、別に嫌がってないんだよなこいつ。心配したほど体調も悪くないみたいだし、おおむねいい感じにことが進んでいる。………や、こと≠チつっても別に、たいそうな考えがあるわけじゃねーんだけどもさ。
「なに見てんの?」
苛立《いらだ》たしげに舌を打つ桐乃。俺はククッと含み笑いをかみ殺しながら、部屋を見渡した。
真っ先に目に入るのは、二段ベッド。どうやら二人部屋らしい。桐乃の話によると、この寮――というか家には、こういった部屋が幾つかあり、約十名ほどの女の子たちが共同生活を営んでいるそうだ。もちろん全員世界中から集められた、同年代の陸上エリートたちだ。
しかしいま、この家には、俺と桐乃の二人しかいない。俺を寮に入れるにあたって、桐乃が学校側に許可を求めたところ、先生が『仲睦《なかむつ》まじい兄妹の再会』に配慮して、便宜《べんぎ》を図ってくれたのだそうだ。現在練習に出ているルームメイトには、別に部屋を用意するので、今夜一晩くらいは兄妹水入らずで過ごしたらどうかという有り難い申し出だった。
「ま、ラッキーだったよな、実際」
「…………二人きりだからって、変なことしないでよね」
「するか!」
かわいい後輩ならともかく、生意気な妹に『二人きり』を意識されると、ただひたすらうざったい。自意識過剰なんだよアホ! 妹に手え出すわけねーだろっつの!
「…ふん、あっそ」
ぷいっと不機嫌にそっぽを向いてしまう桐乃。一秒後、ちらっと視線を俺に向けて、
「そのわりには妹と一夜を過ごせると知って、喜んでたみたいじゃ〜ん? あーきもいきもい。うひー、このぶんだとあんたさー、あたしがこっち来てるスキに、あたしの部屋とか下着とか漁《あさ》ってんじゃないのー? くんかくんかしてんじゃないのー?」
「し〜ね〜え〜っつ〜の」
イラッ。イライラッ。会って数分しか経ってねえのに、日本に帰りたくなってきたぞ!
「大人しく見てろよ」
俺はむすっと口をへの字にし、乱暴に左クリック。こうして喋《しゃべ》っているうちにも、ディスプレイでは妹たちとのドキドキ学園生活は着々と進行していく。会話しながらエロゲーをするスキルを、これまでの経験で、俺は獲得していた。役には立つが、誰にも自慢できないスキルだった。
ところでこれやってたら、ちょっと気になったんだけどさ、
「おまえ、ルームメイトいたら、エロゲーできなくね?」
「そうなの!」
「うおっ!?」
もの凄い食いつきようだった。桐乃は俺の胸元をぐいっとつかんで、半泣きで訴えた。
「さすがにあたしも純粋な年下の娘の前でエロゲーやることはできなくてさあ! せっかくクリアしてないエロゲーをしこたまノーパソにインストールして、みごと税関の目をくぐり抜けてアメリカに持ち込んだってのに! ぜんっぜんできないの! うう……こ、このあたしが積みゲーをしてしまうなんて……! 悔しい……!」
歯をぎりぎり食い縛って、拳《こぶし》を堅く握りしめる桐乃。お、おまえ……!
まさかとは思ってたけど、ほんとに米国にエロゲー持ち込んでたのかよ!
「ハッ、笑いたきゃ笑えば!?」
「笑えねえよ!」
マジやべえって! バレて捕まったらニュースになるんじゃねえのコレ?
まあ俺も人のことは言えないけどね。
「だ、だが、よく我慢して踏みとどまったな……そこは褒《ほ》めてやろう」
「うん……親がいないときを見計らって、こっそりHビデオ観る男の子の気持ちが、この国に来てよく分かった」
「結局やってんのかよ!」
知らねえぞバレても! お兄ちゃんもさすがに、外国まで駆けつけて、『これは俺のゲームなんだよ!』って庇《かば》ってやることはできないんだからな?
「で……そろそろ最初の選択肢だけど……」
画面には二人のヒロインが並んでおり、主人公に向かって『どちらのお弁当が美味しかったか』と詰め寄っているシーンだった。、主人公は『どっちも美味しいよ』と無難な返事をしたのだが、もちろんそんな答えが許されるはずもなく――『どっちか選んでよ!』というわけだ。
[#ここからゴシック体]
1.……意外にも、りんこのお弁当の方が美味しかったぞ。
2.……もちろん、みやびのお弁当の方が美味しかったぞ。
[#ここでゴシック体終わり]
「あんたはどーせ、黒髪ロングの『みやびちゃん』から攻略するんでしょ?」
妹にエロゲーの攻略傾向を把握されている兄って……。死にたくなるな、オィ。
「……ふ、ふっ。オマエ、なに人の好みを知り尽くしてるみたいなこと言っちゃってんの? 違うっつーの。今回は……そうだな。いまちょうど画面の右側で、『バカ兄貴!』とか口走ってる生意気そうな妹。こいつのルートからやる」
「えっ? りんこルート? ……いまからやるの?」
桐乃は何故か、異様に狼狽《ろうばい》して、
「ちょ! りんこりんシナリオはダメだって!」
「あ? なんで?」
「な、なんでも!」
「なんだそりゃ? つかおまえこのゲームのこと『あたしだと思って大切にしろ』とか言ってたじゃん。なのになんで『やっちゃダメなルート』とかあるわけ?」
「だから! あの……その……と――とにかくダメなの! てか普通ああ言ってプレゼントしたら、あたしがいなくなって寂しいなーとか想いながら自分の部屋でやるもんでしょ!? ――なんで向こうでやらずにわざわざアメリカまで持ってきてあたしと一緒にやろうとしてんのよ!? 想定外にもほどがあるんですケド!」
なんでおまえはキレてんのよ!? どーしてりんこりんシナリオとやらをプレイするのに、そんな限定されたシチュエーションが必要なんすか? 意味分からんぞ。
「ま、まあ……やるなっつーなら、やんねえけどよ」
ほんとは黒髪ロングの方が好きだしな。俺は2番の『……もちろん、みやびのお弁当の方が美味しかったぞ[#「……もちろん、みやびのお弁当の方が美味しかったぞ」はゴシック体]』を選択する。もうこの辺、手慣《てな》れたもんである。
『しすしす』はオーソドックスなADVで、『りんこ』と『みやび』、二人の妹がメインヒロインとしてクローズアップされた、いわゆるダブルヒロインものというやつだ。二人の実妹との三角関係を描くという、とってもクレイジーなシナリオが特徴。こんなにキワモノっぽいのに、大手ゲームレビュー投稿サイト『エロゲー批評空間』などでは『屈指の名作泣きゲー』として高い評価を得ているのだという。相変わらず俺の生きている世界は、何かがおかしい。
プレイしているうちに、段々とお互い口数が減っていき――数時間ほどが経つ。
そうして、物語も中盤を越えたころ、桐乃がぽつりと呟《つぶや》いた。
「ねぇ……あんたは?」
「……『あんたは?』って、なにが?」
「だからー………みんなあたしのこと心配してたっつってたじゃん? ……あんたは?」
「心配してたに決まってんだろ」
当たり前のこと聞いてんじゃねえ。じゃなかったら、こんなとこ来るか。
目も合わさずにそう答えた。
「……ふうん」
再び会話が止まる。ベッドに並んで腰掛けたまま、俺たちはゲームをプレイする。
BGMと、キャラボイス、そしてカチ、カチ、というクリック音だけが部屋に響く。
今度は俺が、ぽつりと聞いた。
「おまえさ」
「……なに?」
「俺に会えなくて、寂しかったか?」
「ばかじゃん? なわけないでしょ……」
「そっか、俺は寂しかったぞ」
「……えっ?」
「あんだよ?」
「ベ、べつに…………ふぅん……そっか。……あたしがいなくて、寂しかったんだ、あんた」
「おうよ。超寂しくて、黒猫に叱《しか》られちまったよ。妹の代わりにすんなってさ」
「シスコン」
「ほっとけ」
ぽつぽつと短い会話を挟みながら、ゲームを進める。カチ、カチ、カチ、カチ……。規則正しいクリック音。
「……そういえば、さ。あの|黒いの《ヽヽヽ》、あんたと同じ学校行ったらしいじゃん」
「ああ。おまえが麻奈実のこと変なふうに吹き込んだせいで、たいへんだったんだぞ」
俺は、黒猫と一緒にゲーム作りをした話を、桐乃にしてやった。
桐乃はそれを、黙って聞いていた。
「……ふーん。やっぱりねー……あいつ、人付き合い下手そうだし、どーせ学校じゃ|ぼっち《ヽヽヽ》なんだろーなって思ってた。そんで、あんたがお節介焼いて……友達作ってあげて……」
「俺は何にもしてないよ。あいつらが勝手に仲良くなっただけだ」
「あっそ」
「友達盗られたみたいで、妬《や》いちゃうか?」
「ぜんぜん? チッ、つーかあ、しょせんネットの友達なんて、そんなもんだし。そろそろあの女にも飽《あ》きてきたところだったから、押しつける相手が出てきてちょうどよかったっつーの」
二人して同じようなこと言ってんなこいつら。
「そんなこと言うなよ。あいつ、おまえが何も言わずにいなくなってさ。そりゃもう落ち込んでたんだぜ?」
「あいつ、が?」
「ああ」
大きく頷く。
「本当は……あいつ、おまえと一緒に、ゲーム作りたかったんだと思うぜ?」
「ふぅん」
桐乃はぐすっと、鼻を一度鳴らした。ベッドの上で体育座りになり、膝に顔を埋める。
長い髪が、ぱさりと流れ落ちた。
友達に、会いたい。声を聞きたい。一緒に遊びたい――そう言っているように見えたよ。
そう。そう思わないわけがないのだ。桐乃は友達のことが――大好きなんだから。
なのにどうして、いままで連絡をしなかったのか。
「俺らが作ったゲーム、持ってきたからよ。あとで一緒にやろうぜ」
「……べつにいいけど」
またしても、会話がとぎれる。気まずい沈黙ではなかった。なんというか……麻奈実と並んでいるときのような、ぬるま湯のような空気に近い。実の妹相手にこんな比喩《ひゆ》を使うのは、おかしいかもしれないが、まるで家族と一緒にいるかのような――暖かい時間だった。
「あたし今日コーチに練習禁止って言われててさ……こっちはやれるっつってんのに、ぜんぜん取り合ってくんなくて。……ちょっとへこんでたんだけど」
桐乃は俺がプレイしている『しすしす』の画面を、慈愛の眼差《まなざし》しで眺めた。
「エロゲーやってたら、なんか、元気出できたよ」
「……そりゃよかったな」
……ものすげえ台詞。
「あんたのさっきの言い草はマジ変態だったけど。久しぶりに思いっきり好きなことできるわけだからさ……けっこう嬉しかったりするんだよね」
好きなこと=エロゲー、と、ここまでハッキリ言える女子中学生も珍しい。こいつは当然『しすしす』をもうコンプリート済みなんだろうに、二周目でもこうやって楽しめるんだから……よっぽど好きなんだろうな。そりゃそうか。あんときも、自信満々で俺に渡してきやがったんだよな。なんにせよ――こんなアホらしい台詞、心の中でも言いたかないが――
エロゲー持ってきて、本当によかった。
頃合いだと思ったよ。俺は軽く息を吐き――本当に聞きたかったことを、聞いた。
シナリオを進めるクリックは止めず、ディスプレイを見つめたまま、
「あのメール……どういうことだ?」
「…………書いたとおりの、意味じゃん」
「おまえから預かったコレクション、ぜんぶ捨てろって?」
「……そ、そう」
「本当にいいのか?」
妹の顔を見て、念を押すように問うと、桐乃は俺から目をそらした。
「……いいって……言ってるでしょ」
「『EXメルルスペシャルフィギュア』も『星くず☆うぃっちメルルDVDボックス』も、『妹と恋しょっ♪』も、『マスケラDVDボックス』も、『スカトロ*シスターズ』も『おにぱん』も『カス妹』も……おまえが行っちまう前に俺に見せてくれた、秘密のコレクションも……全部捨てちまって、本当にいいのか?」
アホみたいな台詞だが、真剣に聞いた。
こいつの本心を、見極めなければならないと思ったからな。
「……うん」
桐乃の頬《ほお》に、一筋の涙が伝った。
それなのに――
「捨てておいて、ぜんぶ」
なるほどな。
本当に、本気――だったのかよ。
「理由は?」
「……そうでもしないと、あたしの中から、甘えが消えないから」
「甘え?」
「そう……」
桐乃はぽつぽつと、事情を語り始めた。
「あたしの実力じゃ、世界中から集まってきた陸上強化選手の中では通用しないって、最初から分かってた。そもそも経験を積んで成長するために、留学プログラムに参加したわけだしね。いきなり最初から上手くいくわけないって、そんなの分かってた……だから、ここに来るとき、自分に縛《しば》りをかけたの」
「縛り?」
「うん。ここに来ている強化選手の誰かに、公式のタイムアタックで一勝すること。それまで日本の友達とは連絡を取らないっていう、縛り」
「――――」
それでか。それで誰にも言わずに、海外に行っちまったわけか、こいつ。
「設定したときは、全力で頑張ればぎりぎりなんとかなる――ちょうどいい高さの目標だって、思った。きっと心配するだろうなって、悪いなって思ったけど、だからこそ『勝てばいい』って『みんなとまた話せるようになるためにも勝つんだ』って……がんばれると、思ったの。すぐに勝って、事情を話して、謝れると、思ってた。でも………」
その先は、涙声になってしまって聞こえなかった。聞かなくても分かったよ。
勝てなかったんだな、おまえ…… こっちに来てからまだ、一勝もできてない。
「おまえ……日本ではあんなに結果出してたのに……」
だから、あやせにも、黒猫にも、連絡できなかった。
「別に、こういう情けない状況って、わりと慣れっこだから……あたしはへーキなんだけどさ」
へへ、と自嘲《じちょう》するように笑って、しかし空《から》元気を出すには及ばず、小さな声になってしまう。
「みんなには、申し訳ないなって……思ってるよ」
桐乃は、悔しくても、苦しくても、自分で決めたルールに縛られて、誰にも泣き言を漏《も》らせなかったし、誰にも助けを求められなかった。
日本にいたときのように、アニメやゲームに一時的に逃避することさえも、難しかった。
唯一連絡できたのが――|友達ではない《ヽヽヽヽヽヽ》兄貴にだけ。しかもそこで何を要求するのかと思いきや、ふがいない自分へのペナルティだ。どこまでストイックにできているのか、こいつは。
「……バカ野郎」
よく分かった。ようするにこいつにあるのは、|断固たる決意《デターミネーション》のみなのだ。
すべてを完璧にこなしているかに見える桐乃は、精神的に、決して強いやつじゃない。
むしろ本質は、未熟《みじゅく》で脆《もろ》い。辛いことがあれば普通に凹《へこ》む。
あやせに絶交されて、泣いていたあのときのように。
携帯小説を盗作されて、泣いていたあのときのように。
自分の趣味を親に否定されて、泣いていたあのときのように、だ。
なのに――貢任感と決意だけが異様に強い。
なにがなんでもやってやる、という気迫。桐乃はそれだけを武器に、いままで突き進んできたのだろうが、それがいま、通用しなくなっている。逆効果になってしまっている。まるで、硬く冷たい鉄の壁に、力の限り、何度も何度も体当たりしているように。
きわめて果敢《かかん》で、苛烈《かれつ》で、愚直《ぐちょく》で。けれどそびえ立つ壁は、あまりにも分厚く堅牢《けんろう》だった。
そりゃあ体調だって崩すだろうよ。
――来てよかった。手遅れになる前に、間に合って、よかった。
俺は、一時中断していたゲームを再開した。妹から目をそらし、ディスプレイを凝視する。
こいつは俺に、泣き顔なんか見せたくないだろうから。
桐乃がぐすぐすと泣きべそをかいているわきで、淡々とクリックを押し続ける。
画面で展開されているのは、みやびルートのクライマックスシーン。
余命|幾《いく》ばくもない妹・みやびから、ずっと秘め隠していた恋心を告げられる……
そんな切ない場面だった。正直、物語としてはありきたりで、俺の好みからは外れているのに。なのにどうしてか、胸に迫るものがあった。
繊細《せんさい》なピアノの旋律《せんりつ》が、ノートパソコンのスピーカーから流れ出す。
俺はクリックする指を止め――
「一緒に帰ろうぜ」
「……え?」
バッ! 桐乃は勢いよく俺に振り向いたようだった。
「なんでそうなんの? ぜんぶ捨ててって、言ってんじゃん!」
「捨てないよ」
俺は画面を見据えたまま、そう答えた。
「なんで――」
「約束しただろ。おまえが帰ってくるまで、護《まも》ってやるって。だから、捨てない。たとえおまえの頼みでもだ」
「で、でも……あたし……まだ」
ここでなにもやっていない。なにも成していない。そう言いたいんだろうな。
俺は、桐乃を日本に連れて帰ろうと思う。いまここで、妹がずっとずっと大事に抱きかかえてきた『|断固たる決意《デターミネーション》』を、へし折ってでも。それは残酷なことかもしれない。俺の独りよがりな押しつけかも知れない。それでも俺は、そうしたいのだ。
黒猫が孤立していたのを、どうしても放置しておけなかったように。
今度は自分の妹に、俺の独善《どくぜん》で、お節介《せっかい》を焼いてやりたいのだ。
「あたし、は……あんなに息巻いて、みんなにでかい口|叩《たた》いて……スポーツ留学したのに。……半年もしないうちに、やっぱりダメだったって、日本に逃げ帰れって……?」
桐乃はうつむき、わなわなと身体を震わせている。
キッと顔を上げて叫んだ。
「できるわけないでしょッ! そんな情けないこと! あたしを誰だと思ってんの!?」
「おまえは俺の妹だ!」
俺もまた、妹の顔を間近で直視し、叫び返した。
「……っ……い、意味分からないこと言って……」
「おまえは俺の妹だ! 心配して何が悪い! 体調悪いんだろ? 辛いんだろ? 友達と喋ったり、遊んだり、してえんだろ? だったら日本に戻って来いよ!」
「できないよ! だってあたし、ここで一番年下の娘にも、タイムで負けっ放しなんだから! こんなザマで、いままであたしが勝ってきた人たちに、なんて言って謝ればいいわけ!」
「謝んなくていいよそんなもん。誇り高いのはいい。責任感が強いのもいい。だけどおまえのはいくら何でも行き過ぎだ」
「行き過ぎじゃない! そのくらいしないと、あたしは勝って来られなかったんだから! あんたなんかに何が分かんの!? あたしがいままで……どんな気持ちで陸上やってきたのか……」
ガンッ! 桐乃が壁を拳《こぶし》で殴《なぐ》りつけた。痛みに一瞬顔をしかめ――それから、絞《しぼ》り出すような涙声で言い放った。
「あんたなんかには、絶対に、分からない」
「そうかもな」
認める。ずっと妹のことを無視し、いないものとして扱ってきたこの俺に、いまさらこいつに説教できるような筋合いはない。
「でもよ。いまここで踏ん張って、意地張って、アメリカに残ってさ……それで勝てるようになるのか? 体調|崩《くず》しがちで、今日だってコーチに練習休めって言われたんだろ? そんな周りが見えてない状況で、おまえが敵《かな》わないような連中に、追いつけるのか?」
「そんなの関係ない。あたしは絶対に勝たなくちゃならないの。だから勝つ。それだけ」
むちゃくちゃな理屈だった。精神論にもほどがある。
こいつは昔、足が遅かったらしい。いまにして思う。もしかしたら――桐乃は、陸上の才能に、それほど恵まれているわけではないのかもしれないと。
才能が不足しているぶん、いま見せたような気合と根性で、並みいるライバルたちを蹴散《けち》らして来たのかもしれない。
実力以上の力を発揮《はっき》せしめる、ストイックきわまりない心構《スタンス》え。
それが高坂桐乃の速さの秘密だったのだ。
常時アクセル全開で走っているようなもんだ。曲がりきれるカーブが続いているうちはいいが、急角度のカーブが目前に迫っても、絶対にクラッシュすると分かっていても、桐乃はブレーキを踏むことができない。そうしないと、勝てないから。
「出直せばいいじゃんか。おまえは焦《あせ》りすぎだ。いったん帰って、体調戻して、実力付けて。それからもう一度勝負すりゃいいじゃねーか? なあ? それじゃダメなのかよ!」
「くどい! あたしは絶対帰らない!」
もう、何を言っても無駄《むだ》だろう。俺の言葉は届かない。
それでも、ここでへたれるわけにはいかなかった。黒猫から受けた呪《のろ》いが、諦《あきら》めることを許さなかった。全身から血を噴《ふ》き出して、のたうち回って死にたくはねえからな。
いまこそ俺は、あいつを見習って――なりふり構わず、素直になろう。
「この……!」
「え、きゃっ」
文句なんか聞いてやらない。
俺は妹の肩を両手でつかんで、正面から目を合わせ――
「おまえがいないと寂しいんだよ!」
懇願《こんがん》した。
「……っな」
身体をこわばらせる桐乃に、本心を思いきりぶつけて頼み込んだ。
「色々もっともらしいこと言ったけどさ! 結局それなんだよ! おまえの都合なんか知ったこっちゃねえ! 黒猫とかあやせのことも、ぶっちゃけオマケみたいなもんなんだ! 俺はおまえがいないと寂しくてイヤだから、連れ戻しに来た! それだけだ! 文句あっか!」
ギシギシとベッドが音を立てて軋《きし》んでいた。
ぐすっ、と、鼻をすする。情けないことに、マジ泣き入っていた。
やばいな。本当にどうかしてる。どんだけ寂しがり屋なんだよ、俺。
さすがの桐乃も呆れ果てたのか、目を見開いたまま固まっていた。
「……あ、あんた……」
「……一緒に帰ろうぜ。じゃないと俺、死ぬかもしれない」
困ったことに、本心だ。
どうしようもねえな、俺。っっ……と、どうしようもねえな……。
けれどもそれが、自分勝手で飾らない、俺自身の気持ちだった。
怠《なま》けもんの兄貴から、頑張りすぎて潰《つぶ》れかけている妹へ贈る、精一杯の言葉だった。
「おまえはもう、頑張らなくてもいい。凄くなくてもいい。俺のことが嫌いでもいい。周りの目なんか気にすんなって。こんなに一生懸命やってるおまえに、文句を垂れるようなやつがいたら、俺がぶっ飛ばしてやるからさ」
我ながら自分勝手なもんだ。いま、俺は、桐乃の足を引っ張っている。海外で頑張っている妹をそそのかして、挫折《ざせつ》させようとしている。
俺は妹に――幸せでいて欲しい。俺の目の届くところで、幸せでいて欲しい。エゴ丸出しでみっともねえけどよ。兄貴ってのはたぶん、みんなこんなもんだぜ。
「……バカ兄貴」
またそう呼んだな。
おまえにそう呼ばれるのって、実は、そんなに悪い気分じゃないんだ。
絶対言ってやらねえけど。
「帰ったら、また一緒にアキバに行こうぜ。もちろん沙織や黒猫も一緒だ。八月になれば夏コミだってある。黒猫がサークル参加するなら、おまえが売り子やるってのはどうだ。またぞろ沙織の紹介で有名サークルに挨拶《あいさつ》回りに行ったりさ。俺はどっさり荷物持たされるだろうけど、そのくらいは我慢してやるさ。だから――――」
「……あんたの言いたいことは、分かった」
「すまん」
「謝んないでよ、ウザいから。ってか、肩痛いし。いつまで妹の肩つかんでんの?」
桐乃はもう泣いていなかった。いつもどおりに悪態を吐《つ》いて、不敵に笑みを浮かべていた。
両肩をつかんでいた俺の手を振り払って、立ち上がる。
「……あたし、いまからちょっと行くトコあるから」
数日後――。俺は桐乃とともに、成田空港へと降り立った。
長い通路をまるでアリの行列のように進んでいく。
結局――桐乃は帰国することになった。留学は中止。思ったよりもずっとすんなりと手続きは終わった。強化選手の集まるプログラムだけあって、脱落者も多いらしい。だからだろう。
妹が『|断固たる決意《デターミネーション》』を手折《たお》ってまで、帰国を決めた理由は、結局のところ分からない。
俺の説得が功《こう》を奏《そう》したのか、それともまた別の理由があったのか。
どちらにせよ桐乃はこの件について、責任を他者に負わせることはしないだろう。いつものように『あんたのせいだからね!』とは、言ってくれまい。
こいつはそういうやつだからだ。俺の隣を歩く顔は、しれっと涼やかなものではあったが――それが本心でないことくらいは、俺でなくとも察しが付く。
「親父が車で迎えに来るってよ」
「そう」
手荷物を受け取り、税関検査を受ける。ゲートをくぐり抜けたところで、俺たちのもとへ走ってくる人物がいた。彼女は、はあはあと息を切らして、肩を上下させていた。
――黒猫だ。
彼女のこんな姿を見たのは、初めてだった。桐乃はといえば、きょとんと目を見張っていた。声が上手く出てこないのだろう。何度か口をぱくぱくさせて、
「…………あんた……」
「……久し……ぶり」
黒猫は、苦しそうに呼吸しながら、無表情で呟《つぶや》いた。いつもの――俺にとってはしばらくぶりに見る――漆黒《しっこく》の、ゴスロリファッション。彼女に搭乗《とうじょう》する飛行機と到着時間を教えたのは、もちろん俺だ。桐乃と黒猫が、数ヶ月ぶりの再会を果たした瞬間だった。
「……は……はっ……なにあんた……い、息切らしちゃってんの? あたしに早く会いたくて、バス停から走って来ちゃったわけ?」
「……莫迦《ばか》言わないで……はぁ……はぁ……数ヶ月ぶりに……会って……まず初めに言う、台詞《せりふ》が、それ? ……相変わらず、礼儀のなっていない……女ね……」
大丈夫かよこいつ。めっちゃハーハー言ってんじゃねーか。ちっと体力なさすぎだろ。どっから走って来たんだよ。桐乃は桐乃で、迎えに来てもらって超嬉《ちょううれ》しいくせに憎まれ口|叩《たた》くし。
「ったく――相変わらずだな、おまえら」
俺は含み笑いで、二人の対面を見守った。
「ば、ばーか。引きこもりオタクのくせに、無理すんなっての」
桐乃は、ぷるぷる笑顔になりかける頬《ほお》を必死で引き締めるようにして、黒猫のそばに寄っていく
「ほら、水」
と、飲みかけのペットボトルを渡してやる。黒猫はそれを、ごくごくと飲み干して、「はあっ」と一息。「……余計なことを……」などとのたまう。そして――――
黒猫は桐乃の至近距離《しきんきょり》で、顔を赤らめ、ぼそっと呟《つぶや》いた。
「おかえり……なさい」
「……うん……ただいま」
桐乃もまた、照れくさそうな微笑みを返した。
ひねくれ者同士が、この一瞬だけ――素直になったのだ。
二度とは見られない貴重な光景を、俺はしっかりと目に焼き付けた。
二人はその後、とりとめのない話をした。
黒猫が作ったゲームのことで罵《ののし》り合ったり、大はしゃぎで夏コミの計画を立てたり、自分がいなくて寂しかっただろうとお互い相手に言わせようとしたり――。
まるで一緒《いっしょ》にいられなかった時間を取り戻すようなやり取り。
一年前に、アキバのマックで喧嘩《けんか》をしていたあのときと、よく似ていたよ。
「……っふ。それであなたは、負けっ放しで逃げ帰ってきたというわけ。――いいザマね?」
「チッ、ばーか。誰に口利いてんの? もっと練習して、今度こそ、あそこにいたやつら全員ぶち抜くに決まってんでしょ」
「あら……ぜんぜん歯が立たなかったのに、勝ち目があるのかしら?」
「ふっふっふっふ……」
桐乃はおもむろに、iPhone を取り出した。何やら操作をし、俺と黒猫に見せつけてくる。
それは、インターネットのニュース記事のようだった。トラックを駆《か》ける女の子の写真が掲載《けいさい》されている。艶《つや》やかな褐色肌《かっしょくはだ》の女の子だ。髪型はポニーテイル。背はそれほど高くないが、すらりと足が長い。しなやかなサラブレッドの風情。英語なので、記事の内容を読むことはできないが、なにかの大会で優勝した――とか、そんな感じだろうか。
「これは?」
黒猫が聞いた。桐乃はちょっと得意げに、iPhone の両面を指さした。
「リア・ハグリィちゃん。たぶん世界で一番足が速い小学生、同年代の女子の中ではね。……向こうでルームメイトだったの、あたしと」
「ということは……あなたよりも速い?」
「いまのあたしじゃあ、とても敵《かな》わない。超かわいくて、すっごく若くて、世界規模で見てもかなりの実力者。業界のアイドルってワケ。フッ、そりゃあニュースにもなるよね」
自嘲《じちょう》する桐乃。こいつでも、こんな顔をすることがあるんだな。
「――――でも、一回だけ、勝ったことあるんだよ、この娘に」
桐乃はがらりと明るい声で、胸を張った。ウソを言っている様子はなかった。俺の妹は、勝負事においてウソは言わない。無駄《むだ》にプライド高いからな。
「へえ……一回だけ、勝ったの?」
「まあね。ちょっと不意打ちみたいな感じだったけど」
「でも、勝ったのね」
「…………うん」
「そう。なら、いいわ」
黒猫は満足そうに頷《うなず》いた。
よかった。あなたは、負けっ放しで、無様《ぶざま》に逃げ帰ってきたわけじゃない。
そう言っているように、俺には見えたよ。
実際こいつは、世界の壁に、一矢《いっし》報《むく》いて帰ってきたのだ。何にも成さずに――桐乃はそう自嘲するが、そんなことはないだろうよ。
「ちなみに――」
黒猫は、ニヤリと口端をつり上げて問うた。
「……いったいそれは、|いつのことかしら《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》?」
「んぐっ」
桐乃は、何故か言葉につまり――
「ひ、秘密」
照れたように顔を赤くし、そっぽを向いてしまう。
黒猫はすべてを分かっているかのような表情で、にやりと笑う。
「そう。たまたま絶好調だったときに、勝負をしたというわけね」
「あんたって、ほんっと、嫌味《いやみ》だよね」
「……っふ……どういう意味かしら? はっきり具体的に言ってくれないと分からないわ?」
「知らないっての!」
桐乃は再び、プイッと黒猫から視線をそらし、
そこで俺に気付いたようで、一瞬だけ、目を大きくした。でもって――
んべっ、と、舌を出してくる。
……なんだってんだよ。
俺にはさっぱり意味が分からず、一人ぽつんと当惑するばかりだった。
まあいいや。
俺は、「こほん」と咳払《せきばら》いをし、数ヶ月ぶりに日本の大地を踏みしめた妹に向かって、こう言ってやった。
「おかえり、桐乃」
[#挿絵(img/oim05_0294.jpg)]
あとがき *本書の内容に触れておりますので本編未読の方はご注意ください。
伏見つかさです。本書を手にとっていただいて、ありがとうございました。
今巻は、既刊と比べてかなり毛色の変わった話になりよしたが、いかがでしたでしょうか。
私にとっては、いままでで一番苦戦した巻でした。なんとか無事に発売することができて、非常にホッとしております(毎回似たようなことを言っていますね。ごめんなさい。でも本当なんですよ)。もっと安定して本を出せるようにならなければ……!
この場を借りて、取材に協力してくださった皆様にお礼を申し上げます。諸事情ありましてここでお名前を書くことはできませんが、この本を完成させることができたのは皆様のおかげです。
そして、ファンレターをくださった方々へ。
三重県のI東さま(桐乃の水着イラストすっごく良いです。妹さん、大切にしてあげてくださいね)、埼玉県の海娜さま(かんざき先生が緑色の生物な件については、私にもよく分かりません)、愛知県のA日奈さま(こちらこそ、ありがとうございました)、神奈川県のN川さま(超同意です! それと最近はすらっとしたスレンダーなヒロインが好きです)、K西さま(腐女子妹のリアルなエピソードをありがとうございました)、東京都のK本さま(心強い応援で、気合入りましたよ!)、T田さま(これからも京介は頑張ります!)、がちゃぴんのみどりさま(すごく遅れてしまいましたが……誕生日おめでとう!)、岡山県のO田さま(実は京介もそう思っていたみたいですね)、北海道のS村さま(ちゃんと届いてますよ!)、福島県のK田さま(びっくりしていただけたようで嬉しいです)、長野県のHさま(そんなきっかけがあったんですね。谷川先生に感謝!)、千葉県のM子さま(めっちゃ近所ですね。あとオタ覚醒《かくせい》おめでとうございます!)、岐阜県のT永さま(私がこれまで読んだ中でも一、二を争う気合を感じたお手紙でした! すごい!)、鹿児島県のT岡さま(らき☆すたスゲー)、静岡県のK林さま(桐乃と似てる女の子って、いるんだな〜と思いました)。
本当にありがとうございました。たいへん励みになっております。
メール・メッセージ等で感想をくださった方も、ありがとうございました。お返事できず申しわけありません。すべて嬉しく読んでおります。
次の巻は、今回書くことのできなかったネタをたくさんつぎ込んだ、コメディ重視のお話にする予定です。ご期待ください。
[#地付き]二〇〇九年十一月 伏見つかさ