俺の妹がこんなに可愛いわけがない 4
伏見つかさ
俺《おれ》・高坂京介《こうさかきょうすけ》の語る妹の話をここまで辛抱《しんぼう》強く聞いてくれた人たちには、もういい加減《かげん》分かってもらえたころだと思う。
俺の妹・高坂|桐乃《きりの》の性格がいかに悪く、いかに理不尽《りふじん》な存在で、いかにムカつくやつであるのかということをだ。
そしてこの俺が、どれだけ強く妹を嫌っているのかも、そろそろ実感してくれただろうと信じたい。
少し前までは、勘違《かんちがい》いしている人もいたかもしれない。
俺が妹を、大嫌《だいきらい》いだの自分にゃカンケーねえだのと言いながらも、いざ妹が窮地《きゅうち》に陥《おちい》ったなら、一転《いってん》して態度を翻《ひるがえ》して、なんとかしてやろうってかけずり回るもんだから――
実はシスコンなんじゃねーのって、勘違いされても仕方ない。
でも、違うんだ。そうじゃねーんだよ。
あんなに色々《いろいろ》才能があって、生まれつき見た目もいい妹がいつもいつもそばにいたら、不出来な兄が嫉妬《しっと》しないわけがないだろう。気に食わないに決まってるじゃねーか。
この間、桐乃がインフルエンザでぶっ倒れて、同時に盗作《とうさく》騒動《そうどう》に見舞《みま》われたときのことを思い返してみて欲しい。
あの事件を通して俺は、かつてあいつを無視して、できる限り見ないようにしていた理由の一端《いったん》を改めて思い知らされた。
スゲーよくある、みっともねえ理由さ。情《なさけ》けない言《い》い訳《わけ》さ。
でも、ありきたりなモンだからこそ、そう簡単にこの気持ちは変わらない。
人生ってのは、基本的にままならないし、どうにもならないことはどうにもならない。
そんなもんは、十七年も生きてりゃあガキにだって分かることだ。漫画《まんが》みたいにうまくはいかない。十年間|修行《しゅぎょう》しても、叶《かな》わない夢はある。どれだけ努力しても、あとからあっさり追いぬ抜かれることなんて、本当によくあるエピソードに過ぎない。
だから凡人《ぼんじん》たるこの俺は、才能あふれる可愛《かわい》い妹のことが、どうしようもなく大嫌いだ。
あんなイヤなヤツ、いつか挫折《ざせつ》して、鼻《はな》っ柱《ぱしら》ぶち折《おれ》れちまえばいい――。
常々《つねづね》俺はそう願っているし、もしも俺と少しでも共感《きょうかん》してくれる人がいたなら、同じ気持になってくれたかもしれない。あいつの外見《がいけん》の可愛さに騙《だま》されず、ようやく俺と同じ目線《めせん》で妹を見てくれるようになった人も、中にはいるだろう。
あの盗作事件のとき、俺は心の底から思っていた。ざまあみろ、いい気味《きみ》だってな。
けれど――けれど。
結局はあの有様《ありさま》さ。見ただろう? 俺の無様《ぶざま》な泣きっツラと、悔《くや》しさに打ち震える黒猫《くろねこ》の姿《すがた》と、調子こいて俺たちを嘲弄《ちょうろう》する、|俺たちが護った忌々しい桐乃《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の高笑《たかわら》いを。
どうしようもなかった。俺たちには、他のやりようなんてなかった。
いままでも、そしてこれからも、ずっと変わらずどうしようもない。
俺はあいつの、兄貴なんだよ。
二月も半《なか》ばを過ぎたその日、俺は自分の部屋《へや》で一人|孤独《こどく》に勉強をしていた。受験を来年に控《ひか》えた高校二年生としては、珍《めずら》しくもない光景だろう。
「……あー……だりー……」
机に向かってから一時間しか経《た》っていないのに、すでにかったるさは最高潮《さいこうちょう》に達している。
ちよっと休んで漫画《まんが》読もうかなとか、インターネットでお気に入りサイトを巡回《じゅんかい》しようかなとか、脳内《のうない》には様々《さまざま》な雑念《ざつねん》が渦巻《うずま》いている。数ヶ月前の俺ならば、すでにその誘惑《ゆうわく》に乗っていただろう。しかし――
「しゃーねー、あと一時間はやるか」
かぶりをふって、再びノートに向き合う。シャーペンを強く握り直す。
自慢《じまん》するつもりはない。こんなの誰《だれ》だって普通にできていることで、たんにいままでの俺が度《ど》を超した怠《まな》け者だったってだけなんだから。
普通が一番、凡庸《ぼんよう》な生活でも構《かま》わないっつってもさ、それはだらだら生きてていいって意味じゃあない。いままでの俺は自分の主義《しゅぎ》主張を都合《つごう》良く解釈《かいしゃく》して、怠ける言《い》い訳《わけ》にしてたのかもしれねえ。そーいうのよくなかったな。
ってなわけで、ちっと反省して――ガラにもなく頑張《がんば》ろうとか思っちゃってるわけですよ。
この些細な変化はきっと、妹や、ここ数ヶ月で知り合った人たちの影響だった。
そう、ことの始まりは去年《きょねん》の六月。大嫌《だいきらい》いな妹・桐乃《きりの》の秘密《ひみつ》の趣味《しゅみ》を、偶然《ぐうぜん》かいま見ちまったあのときから始まった。
仲が冷えきっていた妹からの人生《じんせい》相談。オフ会での沙織《さおり》や黒猫《くろねこ》との出会い。
桐乃の趣味を否定する親父との対決。夏のイベント・コミックマーケットへの初参加。
妹の親友・あやせとの対決。
そしてつい先日に解決したばかりの、ケータイ小説を巡る一悶着《ひともんちゃく》――。
たった八ヶ月の間に、本当に色々《いろいろ》なことがあった。十七年間の人生の中でも、こんなに濃密《のうみつ》な時間を過ごしたことはこれまでなかったよ。いい意味でも、悪い意味でも、人《ひと》一人の価値観《かちかん》を変えてしまうには十分すぎるほどだ。
ガラじゃねえ、もうたくさんだ――。そう本心《ほんしん》から思いつつも、怒濤《どとう》のように日常を浸食《しんしょく》する『普通じゃない日々』に、少なからぬ愛着《あいちゃく》と楽しさを感じ始めていたのも事実である。
人生相談と称《しょう》してさまざまな無理難題《むりなんだい》を押しつけてくる妹。そんな体験をとおし、はからずも以前とは少しだけ変わった自分。お互い強烈《きょうれつ》に嫌い合っていながらも、確実に変わり統けている妹との関係。新しい友達――。
……やれやれ、これからもこんな日々が続くのかねえ。
そう諦《あきらめ》めと期待の入り混じった心持ちでいた。そんなある日、妹は唐突《とうとつ》に言ったのだ。
――人生《じんせい》相談、次で最後だから。
あれから数日が経《た》っていた。しかし肝心《かんじん》の相談|内容《ないよう》について、そのあと妹は何も言ってこず――俺《おれ》もだんだんと、あれは聞き間違いだったのかもなあなんて思い始めていた。
あんな殊勝《しゅしょう》な台詞《せりふ》をあの妹が言うわけねーし。ただ、まあ、なんだ。頭の隅《すみ》にこびりついちゃいたのさ、ノドに刺さった小骨《こぼね》みてーにな。
最後の人生相談って――――なんだろうな?
勉強に一《ひと》区切りを付けた俺は、飲み物を取りに行くために、一階へと向かった。我が家のキッチンへ行くにはリビングを通る必要があるのだが、扉《とびら》を開けた途端《とたん》、目を見張ってしまった。そこには妹の他に、見覚《みおぼ》えのある女の子たちがいたからだ。
どうやら妹の同級生が、遊びに来ていたらしい。
「……チッ」
俺の姿《すがた》を見た途端《とたん》、不機嫌《ふきげん》に舌打《したうち》ちをしたのは、茶髪《ちゃぱつ》にピアスの垢抜《あかぬ》けた女。
俺の妹・高坂桐乃《こうさかきりの》である。相変わらず洒落《しゃれ》た服を着て、例のごとくソファに深々と腰掛《こしか》けている。
「あ、お兄《にい》さん! こんにちはーっ」
快活《かいかつ》な挨拶《あいさつ》を返してくれたのは、妹の親友で級友でモデル仲間でもある黒髪《くろかみ》の美少女・新垣《あらがき》あやせ。妹と同じ中学二年生のはずだが、こちらはずいぶんと落ち着いた雰囲気《ふんいき》だ。
ちなみに俺の天敵《てんてき》でもある。なぜなら、この友好《ゆうこう》的な態度は彼女の演技《えんぎ》であり、本心《ほんしん》では『寄って来ないでください変態《へんたい》。ブチ殺しますよ』と思っていやがるに違いないからだ。
そして――
「………………プッ……クスクス……えーっとぉ〜、こんにちわぁ……ぷっ」
人の顔を見た途端《とたん》、嫌《いや》な感じに含み笑いをしてくれたあのメスガキは、来栖加奈子《くるすかなこ》。
小さな身体《からだ》にぺったんこな胸、髪《かみ》の毛をツインテールにした、パッと見《み》小学生みたいな女だ。フリフリの付いたミニスカートの下にレギンスを穿《は》いている。全体的にかわいらしい系統《けいとう》の服装だ。そんな加奈子はあやせと並んでソファに座っている。
そうそう、あのガキを見ていると、なにやら妙《みょう》〜な既視感《きしかん》がするんだよな。なんだろう?
「クスクス、桐乃のお兄さん、なんかこっち見てるよぉ〜? うざぁ〜」
こ、このガキャ……聞こえるように言いやがって……。
相変わらずテメーは桐乃に負けず劣らず性格|悪《わり》ぃな!
俺はこの気分悪い空間から一刻《いっこく》も早く消え去りたかったのだが、一度|足《あし》を踏み入れてしまった以上Uターンするわけにもいかない。つーか、なんでこいつらに遠慮《えんりょ》して引き返さなくちゃならんのだ。俺は断固として飲み物を取りに行くぞ。
「……いらっしゃい」
仕方なく無難《ぶなん》に挨拶《あいさつ》をして、そそくさと通り抜けた。ったくガキどもがよー、ウチに集まるんじゃねーよ。ヤダヤダ! もうヤダあの雰囲気《ふんいき》! なにあのクラスの勝ち組グループの輪に紛れ込んじゃったよーな居心地《いごこち》の悪さ。帰りは、勝手口《かってぐち》の方通って部屋《へや》に戻ろうかな。
と――そんなふうに考えてしまう俺って情《なさ》けねーかな? いいや、似たような立場にある兄貴《あにき》諸君《しょくん》ならば、きっとこの気持ちを分かってくれるはずだぜ。
全身にどっと重い疲労《ひろう》を感じながら、冷蔵庫《れいぞうこ》を開けてミネラルウォーターを取り出す。
グラスに注《つ》いで飲んでいる間、リビングからきゃびきゃぴした女どもの話し声が、聞きたくもねーのに聞こえてきた。
「へ? あたしがいま欲しいもの? なんであやせがそんなこと知りたがるの?」
「えっ? ええと……ちょっと、参考までにね。軽い気持ちで答えてくれればいいからさ」
「なんか桐乃《きりの》、陸上の大会でいいとこまで行ったらしーじゃん? そのお祝いしようってわけ。んでぇ、プレゼント何がいいかなって話」
「ちょ、ちょっと加奈子《かなこ》! なんであっさりバラしちゃうのっ!?」
「え〜? だってメンドイしぃ〜、こんなもん直接|本人《ほんにん》に聞けばよくねー?」
この言い草《ぐさ》からすると、加奈子は本当に、桐乃へのプレゼントなんかどーでもいいと思ってるんだろうな。いいのかおまえの友達|関係《かんけい》、そんな本音《ほんね》全開で。
言っておくが、ウチの妹のキレやすさはマジぱねーぞ。
ところがそれを聞いた桐乃は、いつもの猫かぶり声で答えた。
「あはは、いいよいいよ、プレゼントなんて。気持ちだけで十分」
そうだった。こいつは学校の友達に対しては異様《いよう》に気を遣《つか》うやつなんだっけ。
それ見たことかとばかりに、加奈子はケラケラと笑った。
「ホラねぇ〜、聞いたでしょあやせ〜、いらないって言ってんじゃん桐乃もさあ。ぶっちゃけ加奈子、欲しい服とかあるからぁ、無駄金《むだがね》使いたくないし〜。そのへんの神社《じんじゃ》で玉砂利《たまじゃり》でも拾って持って行きゃいぎぎぎぎぎ! |あにふんほあやふぇ《何すんのあやせ》!?」
突然《とつぜん》の奇声《きせい》に向き直ると、あやせが笑顔《えがお》で加奈子の口を指でグイグイ広げていた。
「やだもう加奈子ったら冗談《じょうだん》ばっかり。あはは、そんな寂しいこと言わないでよ〜。――……|わたしたち友達でしょ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》?」
「……!?(こくこくこくこく!)」
涙目で頷《うなず》く加奈子。「|はらりれろ《放してよ》! |はらつまららいれ《鼻つままないで》!」身をよじっていやがっている。
桐乃が慌《あわ》てて止めに入った。
「ちょ、ちょっとあやせ……やりすぎだってば!」
「え? そう?」
パッと加奈子《かなこ》を解放するあやせ。
加奈子は拘束《こうそく》から逃れるや、ババッとあやせから飛び退《の》き、加害者《かがいしゃ》を指さしていきり立った。
「こ、殺すつもりか、てめ――――――っ!」
「やだな、加奈子。友達にそんなひどいことするわけないじゃない?」
怖《こわ》っ! なんであの女の台詞《せりふ》はいちいち含みありげなんだよ!
「ま、まあまあ二人とも落ち着いて……ね? あたしへのプレゼントなんて、ほんと何でもいいからさ。それより違う話しよ〜よ。あ〜そうそう、このピアス見てよホラ。結構《けっこう》前に渋谷《しぶや》のいつものトコで買ったんだけど〜、わりと良くない?」
桐乃が仲裁《ちゅうさい》役になっているところなんて、初めて見たな。前回、友達が家にきたときも大人《おとな》しかったし……もしかしたら学校ではこんな感じなのかもな、こいつ。
オタク友達と一緒《いっしょ》にいるときとは違って、何重《なんじゅう》にも猫かぶっちゃいるんだろうが――
こっちはこっちで、楽しそうではあったよ。
「お兄《にい》さん、ご相談があります」
あやせの口からそんな台詞が飛び出したのは、その日の夕方、桐乃の友達が帰っていったすぐあとのことだった。俺《おれ》の携帯《けいたい》にあやせからの呼び出しメールが入ったのさ。
いったい何の用だってんだ? ま、まさか、また児童《じどう》ポルノがどうのこうのとかで責められのかな……ううッ。――なんて、いぶかりながらも指示《しじ》に従って近くの公園に向かうと、あやせが待っていて、開口《かいこう》一番いまの台詞という次第《しだい》である。
「……相談? おまえが? 俺に?」
「はい」
あやせは神妙《しんみょう》な表情で頷《うなず》いた。こいつとは以前、妹の趣味《しゅみ》の件で一悶着《ひともんちゃく》あって、それ以降《いこう》俺のことを『近親相姦《きんしんそうかん》上等《じょうとう》の変態《へんたい》鬼畜《きちく》兄貴《あにき》』だと思い込んでいるのだ。ゆえあって誤解を解くわけにもいかないので、できる限り顔を合わせたくない相手だった。向こうだって同じだろう――とばかり思っていたのだが……。
ていうか相談って……その単語、やっぱり桐乃から聞いたのか? 言っとくけどそれ、俺を都合《つごう》良く動かすための合い言葉じゃないからね?
なんて思うものの、綺麗《きれい》な見た目にそぐわず超頑固《ちょうがんこ》なあやせが、大嫌《だいきらい》いな上に他人の俺にわざわざお願いしてくるなんて、いったい何事だろうと気にはなった。
でもまあたぶんこれだろうってのはあってさ。
「もしかして桐乃へのプレゼントのことか?」
「話が早くて助かります。実は……桐乃に何をあげたら一番|喜《よろこ》んでくれるのか、分からなくて」
「……そう言われてもな。桐乃が言ってた『何でもいい』って台詞、ありゃウソじゃないと思うぜ。おまえが選んだもんなら、なんだって喜んで受け取るだろうよ」
「それは――そうなんですけど……」
煮《に》えきらない態度で俯《うつむ》いてしまうあやせ。言いたいことがあるのに、迷っている――そんな様子《ようす》だった。とりあえず俺は、自分の意見を伝える。
「それにだ。どうしてそれを俺に聞く? 女子《じょし》中学生がもらって嬉《うれ》しいもんなんて、俺には分からないぜ。おまえの方がよっぽど詳しいだろうに」
「だって……それじゃ、一番欲しいものじゃ……ないから」
「? なんだって?」
ぼそぼそ声が聞き取れなかったので問い返すと、今度はでかい返事がきた。
「桐乃《きりの》は|自分の趣味のもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》をもらった方が嬉《うれ》しいんじゃないかって思ったんです! だからお兄《にい》さんに聞いたんです!」
うお……えれー剣幕《けんまく》だな。桐乃の趣味《しゅみ》って……まさか。
「お、おまえ……桐乃のオタク趣味を認めてないんじゃなかったのか?」
「み、認めてませんよ! 認めてませんけど……でも、お祝いですから……特別っていうか。どうせプレゼントするなら、一番喜んでくれるものにしたいですし……それに、あれから桐乃とも少しずつアニメとか……あまりいかがわしくないものについては、話したりしてまして」
「へぇ」
女子中学生|特有《とくゆう》の生理的|嫌悪感《けんおかん》からオタクを拒絶《きょぜつ》していたあやせ。しかし彼女は、我が家の親父《おやじ》がそうであったように、桐乃の趣味に、少しずつ歩み寄ろうとしてくれているようだ。
家族ならともかく、そこまでしてくれる友達はなかなかいない。有り難《がた》いことだと思ったよ。
「でもまだやっぱり、どうしても駄目《だめ》で……この前も、ちょっと喧嘩《けんか》しちゃって」
「ど、どんなことで?」
「『ねんどろいど』っていう人形? のコレクションを見せてもらったときのことなんですけど……その、素朴《そぼく》な疑問として『これって集めてどうするの?』って聞いたら、桐乃、不機嫌《ふきげん》になっちゃったんです。ムスッとして、それからしばらく話しかけてもあまり応えてくれなくて……わたし、泣きそうでした」
「――あー…………」
そんなもん集めてどうすんの? オタクに言っちゃいけない台詞《せりふ》ベスト3に入るな、それ。だがそれで親友と口聞かなくなるくらい怒るって、ウチの妹も、大人《おとな》げない野郎《やろう》だな。
「ですから、今回のプレゼントで挽回《ばんかい》したいっていうか……仲直りの意味も込めて、あえて桐乃の趣味のものを贈ってあげたいと思いまして。アニメキャラのぬいぐるみとか、それこそ『ねんどろいど』とか、そういうのならまだ『いいかな』って思いますし……お兄さんのご意見もうかがって、それからどうするべきか考えようって……だから……」
「……そっか」
こいつは依然《いぜん》としてオタク趣味を認めたわけじゃない。けど、桐乃へのお祝いとして、一番喜んでもらえるプレゼントをあげたいと心底《しんそこ》から思ってくれていて……。だからその矛盾《むじゅん》に悩みながらも、こうして軽蔑《けいべつ》している俺に相談してきたんだ。
まいったぜ、こりゃ。無下《むげ》にできねーよな、こんなふうに頼まれちゃあさ。
「――分かった。あいつが喜びそうなプレゼント、調べてみるよ」
「本当ですか? あ――ありがとうございます!」
その嬉《うれ》しそうな笑顔《えがお》は、初めて会ったときと同じ、見惚《みと》れるほどかわいらしいものだった。
この笑顔のためなら、妹から欲しいものを聞き出すくらいお安いご用ってもんさ。
「……プッ。あんたさー、さてはあたしに、なんかプレゼントでもするつもりなんじゃないの〜? うっぇ〜、キモぉ〜」
――ごめん無理《むり》だったわ。
帰って早々リビングで、ソファに座ってる桐乃《きりの》に話しかけ『いま欲しいもの』を遠回《とおまわ》しに探ってみたのだが、あっさり見透《みす》かされて御覧《ごらん》の台詞《せりふ》が返ってきたよ。
しかも俺が率先《そっせん》して桐乃にプレゼントしたいってことになってるし。
ありえない勘違《かんちが》いしてんじゃねーよ。それに……
「なに言ってんだテメー。クリスマスイブにゃ人にピアス買わせたくせによ……」
「ハッ、あれはあくまで取材の一環《いっかん》だからノーカンなの」
はいはい、そーですか。なんだオマエ、兄を嘲弄《ちょうろう》してたと思ったら、今度はいきなり機嫌《きげん》悪くなりやがって。
桐乃はこっちの質問に答えもしねーで、話を変えてきやがった。
「つーかアンタさ、最近あたしが家にヒト連れてくるたびに色目《いろめ》使ってるよね。アレ、マジやめてくんない? キモいっつーか、失礼だし、あたしもメーワクだからさ」
「色目!? 何のことだよ!」
思いがけない言葉に仰天《ぎょうてん》して否定すると、桐乃はブチキレながら立ち上がった。
「とぼけんなっ! この前あやせをガン見してデレデレしてたし……今日だって加奈子《かなこ》のことやらしい目で見てたじゃん!」
「失敬《しっけい》なこと言うんじゃねえ! あやせはともかく、なんだってあんなチンチクリンをヘンな目で見なきゃならんのだ! ただ単に、あのクソガキ誰《だれ》かに似てんなって思ってただけだよ」
「ふん! どーだかァ! アタシには色目使ってるよーに見えるケドね!」
「だから誤解《ごかい》だっつってんだろ!? んだよイチイチ……! てめえは俺の彼女かっつーの!」
「なっ……」
桐乃は目を見張《みは》って動揺《どうよう》したが、一瞬《いしゅん》ののち、さらに怒りを倍増《ばいぞう》させて反撃《はんげき》してきた。
「ブッ殺すよ! いまの台詞、いままでで三番目くらいにキモかったっ!」
「痛ッてえな!? ひっぱたいてから言う台詞じゃねえだろうそれ! つうか人の話を聞けよ! 誤解だっての!」
「どこがァ!? あの|黒いの《ヽヽヽ》にだって、『兄《にい》さん』とか呼ばせて、鼻の下|伸《の》ばしてるくせに! アンタがシスコンなのは重々|承知《しょうち》してたけどさあ、アレはほんとやめて! 吐《は》き気がするほどキモいから!」
「いや、いやいやいやいや! アレは……! お、俺《おれ》が呼ばせてるわけじゃねえよ!」
説明しよう。桐乃《きりの》が言う『黒いの』とは、こいつのオタク友達である黒猫《くろねこ》(ハンドルネーム)≠ニいう女のことだ。黒ずくめのゴスロリ服ばかりを着ているやつで、桐乃といつも喧嘩《けんか》している。
俺は最近、黒猫と一緒《いっしょ》にとある事件の解決に乗り出したことがあって、出版社への潜入《せんにゅう》捜査《そうさ》をする際に『兄妹』という偽《いつわ》りの関係を設定したのだ。それ以降、事件が解決してからも、黒猫は俺のことを何故か『兄さん』と呼び続けている。
ま、どうせからかわれているだけなんだろうけどな。
俺もあいつに『兄さん』と呼ばれるのは、別に悪い気はしない。妹のようなもの――とまではさすがに行かないが、事件を通してあいつの内面に触れてしまったせいか、以前よりも親近感《しんきんかん》を抱《いだ》いているのは事実だ。そしてどうやら桐乃は、それがもの凄《すご》く気に食わないらしい。
「ねえ……なんなのアレ? 妹プレイ? お金でも払ってんの?」
「金なんか払ってねえし妹プレイでもねえ!」
実妹《じつまい》の目前《もくぜん》で妹の友達に金|払《はら》って妹プレイって、どんな勇者《ゆうしゃ》だよ俺は!
おまえは実の兄貴《あにき》をそんな高レベルの変態《へんたい》だと思っていたのか……!
「黒猫はもう俺の友達でもあるんだから、仲良くしたっていいだろうが! おまえなんぞに文句《もんく》言われる筋合《すじあい》いはねえよ!」
「そーだねぇっ! 勝手《かって》にすればァ?」
スタスタスタスタ――バタン! 桐乃は早足でリビングから出て行ってしまった。
くそう。こんな有様《ありさま》じゃあ、到底、あいつの欲しいもんなんて聞き出せそうにねえな……。
「……っふ……それで喧嘩してしまって、聞き出せなかったというわけ……。本当に不器用《ぶきよう》ね、兄さんは」
「ほっとけ。あとその、『兄さん』っての、いつまで続けるつもりなんだ……?」
「あら、厭《いや》なの?」
「別にそういうわけじゃないけどな……。俺とおまえが仲良くしてると、桐乃が不機嫌《ふきげん》になるんだよ」
絶対|認《みと》めやしないだろうけど、大事な友達を俺に取られるとでも思ってんだろうよ。
「……ふぅん。いいじゃない、不機嫌にさせておけば。いい気味《きみ》だわ」
「おいおい。一緒に暮らしている俺の身にもなってくれ」
「安心して、あと二ヶ月もしたら呼び方を変えるから」
「……なんだそりゃ。二ヶ月後になんかあんのか?」
黒猫《くろねこ》は俺《おれ》の問いに答えず、ふふっと意味深《いみしん》に微笑《ほほえ》むばかりだった。
その表情を見て、俺は少し驚《おどろ》いた。まさか俺に向かって、こんなふうに自然に笑いかけてくるとは思わなかったからだ。初めて会ったころと比べれば、こいつも少しは心を開いてくれたのかもしれないな。まあ……なんだ。それこそ|黒猫に懐かれた《ヽヽヽヽヽヽヽ》ような気分だった。
俺たちが対面《たいめん》しているのは、総武線《そうぶせん》沿線《えんせん》の某駅構内《ぼうえきこうない》にあるカフェだ。
桐乃《きりの》に何をあげれば一番|喜《よろこ》んでもらえるのか。
本人に聞いても埒《らち》があかなかったので、桐乃のオタク友達に意見を求めてみたところ、直接会って作戦《さくせん》会議をしようということになったのだった。
「……そろそろ時間になるけれど、いまメールがあって、沙織《さおり》は少し遅れるそうよ」
「そうか。あいつ、わりといつも忙しそうだよな。……普段《ふだん》どんな生活してんだろ」
沙織のことを、俺は『仲の良い友達』だと思っているが、彼女の私生活《しせいかつ》を、俺はいまだに何も知らなかった。目の前にいる黒猫にしても同じことだ。
『兄《にい》さん』なんて親しげに呼ばれちゃいても、こいつの本名《ほんみょう》さえ、俺は知らない。
ネット特有《とくゆう》の匿名性《とくめいせい》っつーの? 仲が良いはずなのに、相手のことを実は何も知らない。そういう状況がわりと当たり前にあるんだよ。なんだかおかしな話だよな。
謎《なぞ》に包まれた沙織の私生活について、黒猫はこう発言した。
「……出版社にコネがあったり、あの歳《とし》でお見合《みあい》いをしていたりするところを見ると……」
「やっばそう思うか?」
「ええ。ただね、人には触れてもらいたくない部分があるものよ」
黒猫が言わんとするところは分かる。沙織が自分から言ってこないのだから、勘《かん》ぐるなってことだろう。
「……おまえってさあ、実はいいやつだよな」
「……何よ突然《とつぜん》。莫迦《ばか》じゃないの? この前も言ったでしょう、あなたは他人の言動を良い方に解釈《かいしゃく》しすぎなのよ。いまの台詞《せりふ》だって、たんに無用《むよう》のトラブルを招きたくないから釘《くぎ》を刺しただけであって他意《たい》はないわ。勘違《かんちがい》いしないで頂戴《ちょうだい》。いつだってね、私は私の都合で、私の喋《しゃべ》りたいことを喋りたいように喋っているだけよ」
「そうかい」
こいつはホント、ちょっと褒《ほ》めるとすぐにこうだ。
いくら照れくさいからって、そんなに一生|懸命《けんめい》言い訳《わけ》せんでもなあ。
「……その顔は、まったく分かっていないようね……」
黒猫は苛立《いらだ》たしげにそっぽを向いて、アイスコーヒーに刺さったストローを吸った。
それからしばらく沈黙《ちんもく》が続いた。俺も、きっと黒猫も、何を話していいのか分からなかったからだ。同人誌《どうじんし》のことだとか、桐乃《きりの》のことだとか、話すネタはたくさんある気がするが、どうにも切り出しにくかった。相変わらず、こいつと二人きりになるとこうなってしまう。
……はあ。相手が麻奈実《まなみ》なら、こうはならんのだがな……。
もしも対面《たいめん》に座っているのがアイツなら、話題がとぎれたって別に気まずく思うことなんかないだろう。黒猫《くろねこ》の台詞《せりふ》じゃないが、喋《しゃべ》りたいときに喋りたいことを喋りたいだけ喋ればいい。
しかしいま俺《おれ》の対面に座っているのは、気心《きごころ》知れた幼馴染《おさななじ》みではなく、知り合って一年にも満たない年下《としした》の女の子だった。同じようにいくわけもない。
「あの……」「あのな……」
二人|同時《どうじ》に口を開いてしまい、
「……あ」「……む」
両者ともに口をつぐむ。
「……なによ。なにか、言おうとしたんじゃないの?」
「おまえこそ、何か言いかけてたろうが」
…………………………。
………………。
そして再び沈黙《ちんもく》。
お互いに視線を合わせないよう、明後日《あさって》の方向を向いて黙《だま》り込んでいる俺らだった。
……ぎゃー…………いたたまれねえ〜〜ッ。くそー……なんだよ、これ……。
俺が落ち着かない気分でうなじを掻《か》いていると、黒猫が俯《う》いたままぽつりと呟《つぶや》いた。
「あの……」
今度は、台詞《せりふ》がぶつかるようなことはなかった。
「この前の――……ことなのだけど」
「この前?」
「……ええ、その……帰り道、電車の中でのことよ」
「ああ、あのときか」
得心《とくしん》した。たぶん黒猫が言っているのは、新宿《しんじゅく》の出版社に潜入《せんにゅう》するために『持ち込み』に行った――その帰りのことだろう。あんとき俺、電車の中で、編集者《へんしゅうしゃ》に酷評《こくひょう》されて落ち込んでいるこいつを元気づけようと色々言った気がする。
「いまさらになってしまうけれど……いちおう、お礼を言っておくわ」
「あー、いいっていいって。気にすんな。たいしたこっちゃねえよ」
そもそもどんな台詞を言ったのかさえ覚えてねーし。
「つーか礼を。言うのは俺の方だろ。そもそもあんときのおまえは、俺の頼みで動いてくれていたんだからな。恩《おん》に着られても逆に困る」
「……ふん、そういうわけにもいかないのよ。きっちり受け取ってもらわないと困るわ」
黒猫《くろねこ》は、ごほんと軽く咳払《せきばらい》いをしてから無《む》表情でこう言った。
「あのときはありがとう」
「……はいよ。こちらこそ、ありがとうな」
「……」
こくん、と頷《うなず》く黒猫。
彼女はちょっと迷ったように言葉をさまよわせ、俺と目を合わせぬままに呟《つぶや》いた。
「あの……また、もしも、編集部《へんしゅうぶ》に持ち込みに行くようなことがあったら……一緒《いっしょ》に行く?」
「……言っておくが、俺は何の役にも立たないぜ?」
「知ってるわ、そんなこと」
編集部に一緒に行った俺には、彼女の意図《いと》が少し分かる。大人《おとな》ばかりの仕事場に、中学生が乗り込んで対等《たいとう》にやり合おうっていうんだから、やっぱり一人で行くのは心細《こころぼそ》いよな。
俺は快く首肯《しゅこう》した。
「分かった。今後ともよろしくな」
「……うん」
その返答は、いつもより素直な響《ひび》きがあった。
既視感《きしかん》を覚えたよ。以前、同じようなことがあった。だからこそ俺は迷うこともなく、彼女の力になってやりたいと思えたんだ。
かつての俺なら、ガラじゃねえとか、メンドくせえとかぼやいていたかもしれないな。
そのへん、確かに変わっているのだろう、俺は。誰《だれ》のおかげとは言わねーけど。
「ちなみに、もう次の持ち込み用の作品とかできてんの?」
「……いえ、まだ何を創《つく》るかも決めていないわ。たくさんやってみたいことがあって……次は小説ではなくて、漫画《まんが》か、ゲームにしようとは思っているのだけど。持ち込みではなくて、まずは同人で発表してみるつもりで……」
「へえ……じゃあ俺の出番はしばらくなさそうだな?」
あえてがっかりしたニュアンスをにおわせて聞いてみると、黒猫は陰鬱《いんうつ》な口調《くちょう》で語り始めた。
「いままで私は、ゲームにしろ、音楽にしろ、イラストにしろ、漫画にしろ、小説にしろ――すべて独学《どくがく》で、自分ひとりの力で、自分の思うとおりに、やっていたの。……それが私にとって一番良いやり方だと考えていた。もちろん、それで上手くいっていた部分もあったし、それなりに成果もでていたのだけれど……最近、少し考え方を改めたのよ」
それは、先日《せんじつ》持ち込みに行った経験からだろうか。確かにそれもあるのだろう。
ただこのあと続いた台詞《せりふ》を聞いて、それだけではないと分かった。
「……たまには、誰かと一緒に、創作をするのも、悪くないかもしれない。上手くいくかは分からないけれど…………そう、思ったの」
こいつには、いまや同じ趣味《しゅみ》を持つ友達がいる。
一緒《いっしょ》にやろう――そう声をかけられる相手がいるのだ。
その中には、きっと俺《おれ》も含まれているはずだった。
だから俺は、自分からは切り出しにくくてハッキリと言葉に出して誘《さそ》えないでいる照れ屋な友達に、こう言ってやった。
「きっと楽しいよな、そういうの。気の合う友達と一緒に、やればさ」
「そうかもしれないわね」
顔を上げた黒猫《くろねこ》は、ほとんど表情を変えなかったが、どことなく嬉《うれ》しそうだったよ。
と――気まずい雰囲気《ふんいき》が薄れ、黒猫との会話が若干《じゃっかん》ながらも盛り上がり始めたころ。
「いやァ〜〜、たいへんお待たせしましたお二人ともっ!」
沙織《さおり》がブンブン手を振りながら、俺たちの席へと近づいてきた。
「おう」
俺も片手を挙げて応えてやった。会話《かいわ》を中断した黒猫も、半眼《はんがん》で沙織を見やった。
何度めかになるが、沙織についても紹介《しょうかい》しておこう。
沙織≠ニいうのはハンドルネームで、典型的《てんけいてき》なオタクファッションに、ぐるぐる眼鏡《めがね》をかけた女だ。背が180センチ以上あって、変てこな喋《しゃべ》り方をするのが特徴《とくちょう》。
なにかと面倒見《めんどうみ》のいい、俺や桐乃《きりの》の得難《えがた》い友人である。
私生活なんか知らなくたって、それはなんにも変わりゃしねえ。
彼女は登場するなりテンション全開《ぜんかい》で声を張り上げた。
「ではさっそく、出発いたしましょう! フフフこの付近に、入口がお化け屋敷っぽくなっている面白いゲームセンターがありましてな。まずはそちらに向かいましようぞ。外にタクシーを待たせておりますので、目的地に向かいがてら詳細《しょうさい》についてはお話しするとして――」
「……ちょっとあなたそれ、自分が遊びたいだけじゃないでしょうね? ゲームセンターなんかでプレゼントの作戦《さくせん》会議ができるとでもいうの? 私だってヒマじゃないのよ。付き合っていられないわ」
黒猫が不機嫌《ふきげん》に突っ込んだ。沙織がきょとんと首をかしげる。
「いえちょうどそこのクレーンゲームに、きりりん氏《し》が好きそうなぬいぐるみがありまして。きっとアレなら喜んでいただけると思うのですが。――どうしました黒猫氏、ご機嫌ななめなご様子《ようす》ですな?」
「…………なんでもないわよ」
駅をあとにした俺たちは、沙織の提案《ていあん》に乗る形で、ゲームセンターやアニメショップなどを巡っていた。桐乃が欲しがりそうな(かつあやせが桐乃にあげるプレゼントとして納得《なっとく》しそうな)、グッズ類《るい》を見繕《みつくろう》うためにだ。
「ぱっと思いつくものですと――そうですなあ。いまクレーンゲームで取ったメルルのぬいぐるみですとか もしくはきりりん氏《し》がお好きなエロゲーのビジュアルファンブックですとか……あるいはレアな同人誌《どうじんし》などはいかがでしょうか?」
「……うーむ」
せっかく考えてくれた沙織には悪いが、一部あやせがブチキレそうなものが混じっている上に、『桐乃が一番喜びそうなもの』というオーダーからは微妙《びみょう》に外れている気がする。
「……いまひとつピンとこねえな」
「然様《さよう》でござるか。ふうむ……お店で売っているものだと、きりりん氏はたいてい自分で買ってしまいますからなあ……。確実に持っていないだろうものから選ぶとなると中々《なかなか》難《むずか》しい」
「……ふん、いま沙織が言った中でならメルルのぬいぐるみが一番|無難《ぶなん》ね。市販されていないし、あの女の趣味《しゅみ》にも合致《がっち》しているし、18禁《きん》でもないのだから」
「だが、『一番喜ぶ』かっつーと、怪《あや》しいもんだと思うぜ?」
ちなみに現在|俺《おれ》たちは、ファーストフードで買ったソフトクリームを喰いながら、街をぶらついている。チョコ味のソフトクリームをたいらげた沙織が、ぺろりと唇《くちびる》を舐《な》めた。
「それはそれとして。せっかくですから、候補《こうほ》の中で選外《せんがい》になったものからも幾《いく》つか選んで、拙者《せっしゃ》たちからのプレゼントにするというのはいかがでしょう。『陸上大会のお祝い』はご学友とやられるのでしょうから、拙者らは『ケータイ小説|出版《しゅっぱん》』のお祝いパーティを開こうという企画《きかく》を考えておりまして。フッフッフッ……実は、前々から黒猫《くろねこ》氏とも話していたのですよ。まあ、ですから、このたびの『プレゼント作戦《さくせん》会議』はちょうどよかったのですな」
「おまえってやつは……」
俺は、沙織と黒猫の顔をゆっくりと見回して、感謝の意を伝えた。
「ホントいちいち気が利くよな……いや、ありがとうよ」
「……ふん。別に私は何もしてないわよ。毎度《まいど》のとおり、お節介《せっかい》な沙織が勝手《かって》に話を進めているだけで……」
黒猫が鼻を鳴らしてそう言った。
とうの沙織は「ニンニン」とおどけるように笑う。
「以前も申し上げましたが、拙者がお節介を焼いているのは、拙者|自身《じしん》の都合《つごう》なのですよ。好きで勝手にやっていることなのですから、礼には及びませぬ」
「はいよ。そんじゃあ俺は俺の都合で、勝手に有り難く思っておくさ」
「ハハハ、やれやれ。京介氏《きょうすけし》のお人好《ひとよ》しっぶりは、筋金入《すじがねい》りのご様子《ようす》ですな」
「……私に言わせてもらえれば、二人とも処置《しょちなし》なしよ」
俺の左側では、黒猫が俺と沙織を半眼《はんがん》ですがめ見ていた。
しかし沙織は、口元を| ω 《こんなふう》にして、にへら〜と笑みを浮かべる。
「おやおや、常々《つねづね》あれほどきりりん氏のケータイ小説を貶《けな》しておきながら、拙者らと一緒《いっしょ》になってお祝いのプレゼントを選んでいる黒猫氏には、言われたくない台詞《せりふ》ですなあ――フフフ」
「……あんな駄作《ださく》の人気はどうせ長続きしないのだから、いまくらいは喜ばせておいてもいいと思っただけよ。その方があとでより落ち込むだろうしね。いい気味《きみ》だわ」
最近|憎《にく》まれ口を叩《たた》く黒猫《くろねこ》の姿が、かわいくてしょうがない。ついつい頬《ほお》がゆるんでしまう。自分では本心《ほんしん》から言っているつもりなのだろうが、こいつの場合、それだけではないんだよな。
そういったことが分かってくると、黒猫のキツい言動《げんどう》も、好ましく思えてくるから不思議《ふしぎ》なんだ。もしも桐乃《きりの》が同じ台詞《せりふ》喋《しゃべ》ってたら、俺、きっとムカついてしょうがねえってのに。
「そういうわけですから――京介氏《きょうすけし》、今日はあやせ殿《どの》のプレゼントだけでなく、拙者《せっしゃ》らがきりりん氏にあげるプレゼントも一緒《いっしょ》に選ぶつもりで考えてくだされ」
「オーケイ、分かったぜ。ってなわけで桐乃へのプレゼントの話に戻るけど――なかなかいいのが見つからないな。――どうするよ?」
「ふむむ……やはりメルルのぬいぐるみでは駄目《だめ》ですか」
「いままでの中では一番だとは思うけど――もっといいのがあるような気がするんだよな。ピンとこねえっつーか。……せっかく選んでくれたのに、すまんな」
「いえいえ、そのお気持ちは拙者にも分かりますぞ。大切な妹君《いもうとぎみ》への贈り物となれば、人づてに渡すとはいえ慎重《しんちょう》になってしまうものですからなあ。うむうむ」
うむうむじゃねえよ。そんなんじゃねえってば。
俺が渋《しぶい》い顔で下唇《したくちびる》を押し上げると、黒猫が会話に加わってきた。
「……ようはそのぬいぐるみの上位互換《じょういごかん》があればいいわけでしょう? 市販《しはん》されていないもので、あの女が欲しがりそうで、18禁でもなく、しかもそれなりに入手困難《にゅうしゅこんなん》で価値《かち》のあるもの」
「まあそういうことだが……。そんな都合《つごう》のいい代物《しろもの》があるのか?」
「…………」
すぅっ。黒猫は答えず、無言《むごん》で前方を指さした。彼女が示したのは、いま俺たちが向かっていた、アニメショップの入り口だ。
自動|扉《とびら》の両脇《りょうわき》には、でっかいポスターがいくつも貼《は》られており――
「!? こ、こりゃあ……」
黒猫が指し示したポスターに書かれていた『告知《こくち》』を目撃《もくげき》した俺は、瞠目《どうもく》して驚いた。
た、確かに! これならいけるかも……!
「……え、ええと、もう一度言ってくださいますか?」
「桐乃は『星くず☆うぃっちメルル』っていうアニメの大ファンなんだ」
黒猫や沙織と会った翌日《よくじつ》、俺は再びあやせと対面《たいめん》していた。我が家のそばの路上《ろじょう》である。
「それは分かりました。お兄さんが持ってきてくれたDVDのパッケージを見たところ、それほどいかがわしいものではないようですね」
あやせは『星くず☆うぃっちメルル』のDVDケースを眺《ながめ》めて頷《うなず》いた。
……変身《へんしん》シーンでは、小学生ヒロインが全裸《ぜんら》になることは黙《だま》っていた方がよさそうだな。
「ああ、だから、メルルの『非売品《ひばいひん》フィギュア』でどうかと思うんだ。それをプレゼントしたら一番喜ぶと思うぜ。なかなか手に入らなくて、好きな人にとっては価値《かち》のある代物《しろもの》らしい」
「はあ、わたしにはちょっとそういうの分かりませんけど、お兄《にい》さんがそう言うなら……そうなんでしょうね」
哀《かな》しいことに、俺《おれ》はあやせに超《ちょう》ド級のオタクだと思われているのだ。
それゆえのこの台詞《せりふ》である。
「で……ど、どうだ?」
「はい。このアニメのグッズなら……オッケーです」
「そ、そうか」
「ただ、その非売品フィギュアとやらの入手《にゅうしゅ》方法について、よく聞こえなかったので。もう一度言ってみてください」
「うむ、分かった。俺が言ってるのは、『メルルEXモード』とやらのフィギュアで、有名な原型師《げんけいし》が手がけた世界で一つしかない特別製《とくべつせい》らしい。このアニメの大ファンである桐乃なら、のどから手が出るほど欲しがるはずだ。もちろん普通の方法では手に入らなくてだな――」
俺は、おそるおそる言った。
「星くず☆うぃっちメルルコスプレ大会の優勝|賞品《しょうひん》なんだよね」
「…………わたし|出場《で》ろと?」
あやせの瞳《ひとみ》から光彩《こうさい》が消え失せた。わなわなと肩を震《ふる》わせてうつむいている。
「あ、いや、だっておまえモデルだし……美人だし……こんなのようはミスコンみてーなもんだろ? 優勝だって十分狙えると……思うんすけど……その、あやせさん? 怒ってらっしゃいます……か?」
「あッ――当たり前じゃないですか! こんなヒモみたいな恥ずかしい服を着てステージに上れるわけがないでしょう!? ブチ殺されたいんですかこの変態《へんたい》! 通報《つうほう》しますよ!」
「お、落ち着け! 最後まで聞けって! なにもこのキャラのコスプレしなくちゃいけねーってわけでもねえよ! だいたいおまえがメルルの衣装《いしょう》着たって、エロいだけで似ないだろ!?」
それはそれで凄《すご》く見たいし、魅力《みりょく》的ではあるのだろうが、優勝できるとは思えない。
これでも一応《いちおう》あやせにアドバイスをするにあたって、この大会のことは調べてあるんだよ。
アニメのDVDメーカーが公式に主催《しゅさい》するきわめて本気|度《ど》の高いコスプレ大会で、以前にも一度|開催《かいさい》されている。そのときの優勝者は、メルルの親友でありライバルでもある魔法少女『アルファ・オメガ』のコスプレをした外人の女の子だった。
「見ろよこの雑誌。これが前回の優勝者の写真だ。おまえがメルルのエロい服を着て、いくら悩殺《のうさつ》パフォーマンスを頑張《がんば》ったところで、コレに勝てるか?」
「そもそも悩殺パフォーマンスなんてやりませんっ! 何を想像《そうぞう》してるんですかいやらしい!」
「し、失敬《しっけい》なことを言うんじゃない! 単なるシミュレーションだっての!」
「同じですよばかっ! エッチ! ま、まったく……本当にいかがわしいんですから……!」
あやせは顔を真《ま》っ赤《か》にして俺《おれ》を罵倒《ばとう》しながらも、雑誌を受け取って該当《がいとう》ページを見てくれた。
「……ああ、このキャラクターの真似《まね》をしてるわけですか……。確かに似てますね」
「そうだろう?」
初めて知ったが、外人のコスプレイヤーというのは素人目《しろうとめ》から見てもハンパじゃない。本物よりも本物らしい、まさにTV画面からキャラクターが抜け出して実体化《じったいか》したかのような、もの凄《すご》い完成|度《ど》だった。こいつが今回の大会にも出てくるんだとしたら、恐ろしい強敵《きょうてき》になるだろう。
「だが、勝ち目がまったくないわけじゃない。素材《そざい》の美人|度《ど》でいえばおまえの方が上だと思うし、なんといってもこっちはプロのモデルだ。衣装《いしょう》を魅《み》せるノウハウだってあるだろう。コスチュームの選択|次第《しだい》では、外人だろうが十分に打倒《だとう》できるさ。で――首尾《しゅび》良く優勝できれば、桐乃《きりの》へのプレゼントも手に入るってわけだ」
「……なるほど。分かりました。その言い草《ぐさ》からすると、わたしに似ているキャラがいるんですね? ではうかがいましょう、お兄《にい》さん、わたしが着るべきコスチュームというのは?」
「うむ、これだ」
俺はあやせに雑誌を返してもらい、パラパラとめくってから再び見せてやった。
「ダークウィッチ『タナトス・エロス』EX《エクスタシー》モード。ちなみにEXモードってのは、いわゆる大人形態で、十数|歳分《さいぶん》成長してパワーアップする魔法《まほう》のことだ。タナトスってのはこのアニメのラスボスでな、女の胎児《たいじ》に寄生《きせい》して操《あやつ》ってるから、十四歳の姿《すがた》をして、」
「ほば全裸《ぜんら》じゃないですか死ねェェエェェェエェェェェェェエェェ――!」
ラスボスそっくりの形相《ぎょうそう》で、俺の顔面にハイキックを炸裂《さくれつ》させるあやせ。俺は無様《ぶざま》にひっくりかえり、しかし鼻を手で押さえながら言い返した。
「ぐっ……き、聞いたところによるとだな、審査|員《いん》が男のオタクどもだからエロは絶対|強《つ》えーんだよ! しかもタナトスは人気投票で一位のキャラなんだぜ!? 調査によるとEXモードってのは、衣装がエロくなる代わりに年齢《ねんれい》が上がるもんだからファンの間では『ババア化』と呼ばれて賛否《さんぴ》両論《りょうろん》なんだが、このタナトスはEXモードでありながら、ややロリという最強設定がオタクに大ウケ、」
「うるさい黙《だま》れ死ねッ! どれだけわたしにエッチな服を着せたいんですか!? まさか桐乃にもそんなことをしてるんじゃないでしょうね! 通報《つうほう》! 通報しますからねもう!」
「いくらなんでもそこまでの変態《へんたい》じゃねえっ!? 妹にエロいコスプレさせて悦《よろ》んでるとか、そんな兄貴《あにき》がいたら他ならぬ俺がブチ殺すよ!」
「鼻血《はなじ》出しながらそんな台詞《せりふ》言っても説得力《せっとくりょく》ありませんっ!」
「おまえがカオ蹴《け》っ飛ばしたんだおまえが!」
なんだこの会話!? ど〜して俺《おれ》が妹の友達とこんなしょーもない口論《こうろん》を繰り広げなくちゃならんのだ! 俺はただ、あやせがEXタナトスのコスプレをしたら、さぞかしエロくて人気が出るだろうとだな、別に俺が見たいとかじゃなくて、あくまで親切|心《しん》から提案《ていあん》してやっただけなのに……! 世の中間違ってるよ!
「と――とにかくっ! わたし、絶対こんないやらしい服|着《き》ませんからね!」
「……じゃあ桐乃《きりの》へのプレゼントはどうするんだよ? 他にも一応《いちおう》候補《こうほ》はあるが、それじゃあ『桐乃が一番|欲《ほ》しがりそうなもの』とはいえなくなるぜ?」
「ぐっ……」
そこを衝《つ》かれると弱いのだろう。あやせは追いつめられたような表情になった。
片手で身体《からだ》を抱くようにして頬《ほお》を染め、悔《くや》しげに下唇《したくちびる》を噛《か》む。
「……くぅ…………こ、この変態《へんたい》……っ」
この女……っ! なんで脅迫《きょうはく》されているみたいな態度なんだよ!?
い、いや違うぞ? あやせにエロいコスプレをさせるために必死こいて説得《せっとく》しているように見えてしまうかもしれないが、そうじゃないんだ。俺の本心は、あくまで桐乃とあやせの友情を尊重するところにあるんだからね? 本当だ、ウソじゃない。
「さあ、どうする? 俺は言うべきことは言った。あとはおまえが決めることだ」
「…………よ、ようは、このコスプレ大会で優勝できればいいんでしょう?」
「あん?」
追いつめられたあやせが発したのは、意外《いがい》な台詞《せりふ》だった。
「優勝して……賞品が手に入るなら……わたしがこんな服を着なくたって、いいはずです」
「そりゃそうだけど……。他のキャラの衣装《いしょう》じゃ、この外人《がいじん》には勝てないだろ。見た目が綺麗《きれい》なだけじゃ駄目《だめ》なんだからさ」
「いいえ、勝てます」
断言《だんげん》するあやせ。な、なんだこの自信は……? 目が据《す》わってて怖《こわ》いんすけど。
あやせは俺《おれ》から視線《しせん》を外し、斜め下を見ながら語り始めた。
「ようするにコスプレ大会というのは、コンセプト付きのミスコンテストのことでしょう。女の子と衣装《いしょう》との調和《ちょうわ》であるとか、いかにコンセプトにそぐう美しさであるかとか――そういったものを競《きそ》う勝負。つまりこの『アルファ・オメガ』さんにそっくりな女の子よりも、『かわいくて似ている』コスプレをすれば勝てるわけです。――ですよね?」
「そのとおりだが……そんなことが可能なのか?」
言っとくけど、おまえに一番|似《に》てるのは間違いなくEXタナトスだぞ?
あやせは手に持っていた『星くず☆うぃっちメルル』のDVD一巻を、俺に返してきた。さらにさっきからずっと片手に握っている携帯《けいたい》を操作《そうさ》し、とある写《しゃ》メを俺に見せてくる。
「……わたしに考えがあります。これを見てください」
「!? こ、こりゃあ……」
DVDケースと写メ。あやせの示した二つを見比べた俺は、瞠目《どうもく》して驚《おど》いた。
た、確かに! これなら勝てるかもしれねえ……!
あっというまにコスプレ大会の当日がやってきた。
黒猫《くろねこ》や沙織《さおり》の力を借りてコスプレ衣装を用意した俺は、大きなドラムバッグにそれらを入れて、あやせとの待ち合わせ場所に持ってきた。
いま俺がいるのは、秋葉原《あきはばら》UDXにある、ドでかい街頭《がいとう》ディスプレイの真下《ました》あたり。
ちなみにあやせの指示《しじ》で髪型《かみがた》をオールバックに変え、さらにスーツを着て、サングラスを掛けている。一見しただけでは、俺とは分からないはずだ。
この変装《へんそう》にどんな意味があるのかというと――おっと、来たな。
「お待たせしました! こちらわたしの同級生で、来栖加奈子《くるすかなこ》さんです!」
「初めましてぇ〜♪ 来栖加奈子でえす※[#ハート白、unicode2661] かなかなって呼んでくださいネ♪」
あやせに連れられてやってきて、俺の目前でブリッコ全開の自己|紹介《しょうかい》をしてくれたのは、誰《だれ》あろう桐乃のクラスメイトのクソガキ・来栖加奈子だった。
相変わらず髪《かみ》の毛をツインテールにしていて、ちょうどクリスマスの109で見てきたような子供っぽい(しかしおしゃれな)服を着ている。
「初めまして……かなかな……ちゃん。俺《おれ》は新垣《あらがき》さんのマネージャーをやっている赤城浩平《あかぎこうへい》です。その、別にそんなかしこまることないっすよ? マネージャーっつっても新人なもんで、新垣さんの付き人みたいなもんですから、気楽《きらく》に接してくれても大丈夫《だいじょうぶ》」
これ以上ブリッコを続けられても気持ち悪いしな。
いつバレるかいつバレるかとびびりながら偽名《ぎめい》を名乗ると、幸い加奈子《かなこ》は、俺の正体《しょうたい》にかけらも気付く様子《ようす》はなかった。携帯《けいたい》をいじくりながら言い捨てた。
「なーんだ、プロデューサーとかじゃねーのかよ。じゃー楽にしーよおっと。あーあ、こび売ってソンしたぁ。つーか、かなかなとか慣れ慣れしく呼ばないでくんね〜? キメぇし」
「すいませんね……来栖さん」
こ、このガキ……。
あやせの言ったとおりだな。こいつにとっちゃ俺なんざ路傍《ろぼう》の石ころみたいなもんなわけで、見てくれにせよ声にせよ、ろくに覚えちゃいないのだろう。
さて、このへんであやせが考案《こうあん》した『作戦』について説明しておこう。
自分がEXタナトスのコスプレをして大会に出場するという策については断固《だんこ》拒否《きょひ》したあやせであったが、彼女が示した代案は、自分よりも優勝の可能性が高い『素材《そざい》』がいるから、その人を説得《せっとく》してコスプレ大会に出場させようというものだった。
詳細《しょうさい》を聞いて、もの凄《すごく》く納得《なっとく》したよ。ああそうかとスッキリした。だってさ――
「んなことよりさぁ。加奈子がこのミスコンで優勝したらぁ、事務所の社長に口利いてくれるって話なんだけどお〜、アレってマジぃ?」
誰《だれ》に似てんのかと思ったらこいつ、めちゃくちゃメルルにそっくりなんだよ!
性格が悪すぎて気付かなかった……。顔といい体格といい、見れば見るほどよく似ている。確かにこいつにメルルの服を着せてコスプレ大会に出場させたら、優勝|間違《まちが》いなしだろうよ。
あんときゃ写メとDVDパッケージのメルルを見比べて、びっくりしたもん。
だけどここで問題となるのは、このクソガキにどうやってコスプレ大会への出場を納得《なっとく》してもらうのか、だ。加奈子は当然オタクなんかじゃないだろうし、桐乃《きりの》がオタクだということは秘密《ひみつ》にしているわけだから、正直に、桐乃へのプレゼントを手に入れるためだという理由を伝えるわけにもいかない。どのみちそんな『どーでもいいこと』のために、恥ずかしい真似《まね》をしてくれるような友達がいのあるヤツでもない。正攻法《せいこうほう》ではまず無理《むり》だと思った。あやせは光彩《こうさい》の消えた瞳《ひとみ》で言ったものだ。
『ミスコンということにして連れてきますよ。で、優勝したらモデルに推薦《すいせん》してあげるって言えば、加奈子モデルやりたがってたし、たぶん乗ってきます。実をいうと、もともと加奈子のことは事務所の社長に紹介《しょうかい》するつもりだったので一石二鳥《いっせきにちょう》です』
『でもそれ……コスプレ衣装《いしょう》を渡した時点でバレてキレられるんじゃないか?』
『その辺の調整《ちょうせい》はわたしに任せてください。もしも上手くいかなかったときのために、一応、タナトスの衣装《いしょう》も用意してください』
加奈子《かなこ》に逃げられたときは、自分が出場するってことなんだろう。もの凄《すごい》い執念《しゅうねん》だな。
『桐乃が一番喜ぶプレゼント――絶対に手に入れてみせます。どんなことをしてでもね』
先日、そんなやり取りがあって――いまに至るというわけだ。
若干《じゃっかん》うさんくさそうにしている加奈子に向かって、あやせはにっこりと微笑んだ。
「大丈夫《だいじょうぶ》だよ加奈子。実はもう社長には話してあるし、加奈子の写真も見せてあるんだ。あとはこの大会で優勝すれば、実績《じっせき》もできるし、このミスコン関連ですぐに雑誌の仕事が決まると思う」
その仕事って、明らかにアキバ系《けい》の雑誌ですよね。おまえはもう詐欺師《さぎし》になれよ。
「ほんと? でもぉ、加奈子ってホラ、ロリ系じゃん? モデルって、ちっちゃくてかわいい娘《こ》より、でかいブスの方が優遇《ゆうぐう》されるイメージあるんだけど……」
こいつはこいつで行間《ぎょうかん》に悪意《あくい》をにじませてやがるし……。(本音では『でかいブス』という台詞《せりふ》の前に『テメーみてーな』を付けたいのだろう)女子《じょし》中高生の会話って、どうしてこうドロドロしてるんだろうな。聞いてるだけで胃が痛くなってきた……。
「あはは、そんなの、仕事によるって。それに加奈子なら絶対ミスコン優勝できると思ったから、今回だって、こうして声かけたんだよ?」
「えぇ〜、そーぉ〜?」
あやせのおべんちゃらに、まんざらでもなさそうな加奈子。この辺も桐乃に似てるなこいつ。この笑顔が、数分|後《あと》にどうなっていることやら……。あやせはパンと手を合わせて、
「さっそく衣装合わせ、しよっか!」
で――恐怖《きょうふ》のお着替えタイムがやってきたわけだが……。加奈子はコスプレ会場の更衣室《こうしつ》ではなく、あやせが呼んだワゴン車の中で着替えることになった。いま俺たちがいるのは、秋葉原UDXの裏手にある搬入口《はんにゅうぐち》だ。いつも仕事中のあやせが乗っているワゴン車が駐《と》まっている。
「ゴメンね狭くて。でも加奈子もこれからは仕事でこういう更衣室|代《が》わりの車とか使うし、雰囲気になれておいた方がいいと思うんだ」
「うヘー、こういうところで着替えたりするんだぁ……」
スモーク張りのワゴン車を前にして、感心した声を出す加奈子。
実際にモデルさんたちがこういうワゴンの中で着替えていたりするのかはともかく、加奈子を一般の更衣室から隔離《かくり》したのは、間違いなく作戦の都合《つごう》だろう。
参加者のコスプレイヤーさんたちを見たら、一発でおかしいってバレちまうし、そうなったとき加奈子がキレて暴《あば》れるかもしれない。罪悪感《ざいあく》で胸が痛むが、妥当《だとう》なやり口ではある。
「じゃ、加奈子、さっそく入って。着替えはわたしも手伝うから。今日《きょう》着てもらう衣装はちょっと特殊で、一人で着るのは難しいんだ」
「うーい。うへへ、なんかいーカンジじゃぁ〜ん、映画みたいでぇ」
こいつ、バカだなあ〜……。少しは怪《あや》しむとかしろよ。
車の外に俺《おれ》を残し、二人はワゴン車へと入っていった。
ガチャッと扉《とびら》が閉まり――中から声だけが聞こえてくる。
「はい加奈子《かなこ》〜。さぁて、脱ぎ脱ぎしましょうね〜」
あやせは妙《みょう》に楽しそうだ。この女の、こんなに浮かれている声をいままで聞いたことがない。
「ひゃ、ちょっと胸さわんないでよ〜」
「ごめ〜ん、手が滑《すべ》っちゃった。あ、また滑っちゃった。きゃー、またまた滑っちゃった!」
「も、もぅ! ……ていうか、車ん中|暗《くら》いから、どこ触られるか分かんなくて……うひっ!」
「アハ、加奈子ってばくすぐったがりなんだから〜」
このスモーク張りのガラスの向こう側で、何が行われているというのだろうか……。
やがてガチャリと扉が開いた。
そこから出てきたのは、上機嫌《じょうきげん》のあやせと、もうひとり。
……やっべえ! やっべえ――
車から出てきた加奈子を見て、俺はごくりと生唾《なまつば》を飲み込んでしまう。メルルそっくりの加奈子がそこにいたからだ。
もはやコスプレというより、本物《ほんもの》といった方がしっくりくる出来だった。
とはいえ、なんだかぐったりしているのが気になる。オイオイあやせ、おまえ着替えさせるのにかこつけて、なにをやってたんだよ……。もしかして一番いかがわしくて変態《へんたい》なのは、おまえなのでは……?
「うへあー」
出てきた途端《とたん》、その場でウンコ座《ずわ》りになる加奈子。へろへろになっていて仕方ないっちゃないんだろうが、メルルのファンが見たら卒倒《そっとう》しそうなポーズである。
一方あやせはワゴン車のドライバーに向けて、片手を挙げた。
「あ、もういいですよー。行っちゃってくださーい」
ぶろろろろろろ――っと、ワゴン車は走り去っていった。
加奈子の着替えを載《の》せたままで。
「……………………た、退路《たいろ》を断ちやがった」
ぼそりと呟《つぶや》く俺。……うわあ……。あやせの行動にはいちいち抜かりがなくて頼りになるんだが、段々《だんだん》と怖《こわ》くなってきたのは俺だけだろうか。つーかよくこんな女と対決したよな、俺。
「さて! さっそく会場に向かいましょーっ!」
あやせは何かをやり遂《と》げた笑顔《えがお》で振り返り、コスプレ会場があるUDXの上り階段を指さした。そこで加奈子も、そのへんに駐《と》まっていたセダンのドアミラーを見て、自分のあられもない格好《かっこう》に気付いたらしい。
「のああっ、なんじゃこりゃ――――――っ!」
いみじくも『星くず☆うぃっちメルル』第一話の、主人公が初めて魔法《まほう》少女に変身《へんしん》したシーンとまったく同じ反応をした。ウンコ座《ずわ》りの体勢から、飛び上がってビックリ仰天《ぎょうてん》。脇を剥《む》き出しにしたポーズで、きょろきょろ自分の格好を眺《なが》め回している。
魔法少女に変身した級友《きゅうゆう》に、あやせはしれっと言った。
「うん。よく似合《にあ》ってるよ、加奈子《かなこ》」
「は!? に、ににに、にあ、にあ、にあ……」
「ん? にあ?」
「似合ってるじゃないっちぇら! むぐ……!?」
噛《か》んだらしい。
涙目《なみだめ》で再びしゃがみ込み、歯形の付いた舌をべろーんと出して、「うひー、うひー」とやっている加奈子。
そんな無惨《むざん》な様子《ようす》を眺めていたあやせは、微笑《ほほえ》ましげな顔で、俺《おれ》の方に振り向いた。
「ふ、ふふ……どうです? かわいいでしよう?」
「ああ、そうだな」
バカな娘《こ》ほどかわいいという言葉を思い出したよ。普段《ふだん》小憎《こにく》らしい態度をしているもんだから、こいつがバカ丸出《まるだ》しでかわいそうな目に遭《あ》っていると、もっといじめたくなってくる。
「ぐぬ……」
加奈子は気を取り直し、キッとあやせを睨《にら》み付けた。ウンコ座りのままだが。
「あによこの服っ! さみーさみーと思ってたら、まるっきりヒモじゃんよコレぇっ! しかもなんか、ガキの観《み》るアニメみてーなカッコだしよォ――どゆこと!?」
「まあまあ、落ち着いてよ加奈子。あんまり怒るとまた舌噛《したか》んじゃうよ?」
依然《いぜん》として、あやせは微笑みを浮かべている。
「ごめん、言うの忘れてた。今回《こんかい》加奈子が出場するミスコンって、実はコスプレ大会なんだ」
「こす……なに? なんだっけそれ、アネキから聞いたことある……ええと、ええと……」
「アニメとかゲームのキャラクターのまねっこを競うミスコンのこと? かな?」
コスプレ大会には男も出るから、ちょっと違うな。ともあれ、あやせのそんな適当な説明を聞いた加奈子は、予想どおりブチキレた。勢いよく立ち上がりながら叫ぶ。
「んで加奈子がんなくだんねーもんに|出場《で》なきゃなんねーわけぇ!? ぜぇってぇ嫌《ヤ》なんですケドぉ〜〜〜〜〜〜〜!」
ところがこんな激《はげ》しい剣幕《けんまく》でキレられているにも関《かか》わらず、あやせはビクともしていない。
「そっかあ。うーん、困ったなあ」
「は? 困ったなあ? 清楚《せいそ》ぶってんじゃねーよブス! チッ、いーから加奈子の服! もっかい着替えッから! 早くしてくんね〜?」
「え? 加奈子《かなこ》の服なら、いまごろ首都高《しゅとこう》に乗ったころだよ?」
「なにィ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!?」
バッと振り返った加奈子は、愕然《がくぜん》と叫んだ。
どうやら、いまようやくワゴンが消えていることに気付いたらしい。
おせーよ。やはりか。やはりアホの子なのか。
「っは! ハメたなこんにゃろーっ!?」
「てヘへ」
こつんと側頭部《そくとうぶ》を拳《こぶし》で叩《たた》き、ぺろりと舌を出すあやせ。
「え、えっと……どうしよっか? 加奈子……そのカッコのまま電車で帰る?」
脅迫《きょうはく》以外のなにものでもねえ!
かわいいポーズでひでえこと言ってんじゃねーよ! おまえホントおっかないわ!
ったく……桐乃《きりの》のためとなると容赦《ようしゃ》ないどころの話じゃねえなこいつ。
「ぐぬ……ううッ……」
あやせの光彩《こうさい》の消えた瞳《ひとみ》を直視《ちょくし》した加奈子は、『や、やベーっ、この女まじで言ってね?』みたいな表情になった。マジで言っているはずだから諦《あきら》めた方がいいと思う。
膠着《こうちゃく》状態がしばし続き、やがてあやせが攻め手を変えてきた。
「あのね、加奈子? 恥《は》ずかしいのは分かるけど、これも立派《りっぱ》なモデルの仕事なんだよ?」
「は? こんな服着てコスプレ大会とかゆーのに出場することがァ?」
「そう。事務所の先輩《せんぱい》だって、コンパニオンのお仕事で特別な衣装《いしょう》着て――モーターショーとか、そういうイベントで活躍してるし。今回だって、それと同じ! しかも外国からの参加者もいるインターナショナルな大会なんだから! そこで華々《はなばな》しくデビユーを飾《かざ》ったら、きっと加奈子のキャリアになるよ!」
「そ、そうかなァ……?」
アホな加奈子は納得《なっとく》しかけているようだが、モーターショーとコスプレ大会じゃだいぶ違くね? いや、お姉ちゃんが際どい格好《かっこう》するところは、コスプレっぽいっちゃぽいけども。
「そうだよ! しかもこれは加奈子にしかできない仕事なの! わたしじゃ絶対に外人の参加者には勝てない! でも加奈子ならきっと勝てる! 優勝できる! なぜなら、スッゴクかわいいから!」
「そ、そお……? 加奈子って、そんな、かわいい? うヘへ、まぁ、知ってたケド……」
「うんうんッ、すっごいかわいいってば! 加奈子のかわいさには誰《だれ》も太刀打《たちう》ちできないよ! ねっねっ? そうですよねっ?」
そこであやせが俺《おれ》に話を振ってきたので、こっちもテキトーに調子を合わせた。
「まじパネェっス! ちょーえろかわいい! コスプレAVに出られるよもう!」
「死ねェ!」グザッ「がッ……」俺《おれ》のノドに肘《ひじ》打《う》ちをぶちかまして黙《だま》らせたあやせは、ノドを押さえてのたうち回る俺をよそに、再び加奈子《かなこ》に褒《ほ》めちぎりを開始。
「ホラこの杖《つえ》持って! うわぁ〜、やっぱりすっごいかわいいよ加奈子〜! もうほんと優勝間違いなしだねっ!」
「え〜〜、しようがねーなぁ……。うひっ、そんなに言うなら……で、出てやんよ〜?」
どうやら説得《せっとく》に成功したらしい……。
俺は地面に膝《ひざ》をつき、ノドを押さえてゲホゲホ咳《せき》き込みながら、
このアホ娘《むすめ》、そのうちこの調子でヘンな勧誘《かんゆう》に引っかからなきゃいいけどな……。
なんて妙《みょう》な心配をするのであった。
「星くず☆うぃっちメルルっ! はっじまるよぉ―――――――っ♪」
WOOAOOOOOOOOOOOOOOOOOOO! HOAAAAAAAAAAAA! メルル――ッ! KUKU、くららちゃあ――――ん! HYAAAAAAAAAAA!
主人公メルルを演じる人気|声優《せいゆう》・星野《ほしの》くららさんがマイクに向かって宣言《せんげん》すると、凄《すさ》まじい大歓声《だいかんせい》とともに、『星くず☆うぃっちメルル』コスプレ大会が始まった。
「――すっげー人気だな……」
「ううっ……なんですかこの異様《いよう》な空間は……わたし、頭がくらくらしてきました……」
俺とあやせは場の空気に圧倒《あっとう》されながら、小声をかわしあった。俺はコミケ会場のアレを体験|済《ず》みだから少しは慣《な》れているのだが、オタクイベントに初《はつ》参加するあやせは非常に辛そうだ。
「だ、大丈夫《だいじょうぶ》か……? 少し離れて、休むか?」
「大丈夫です。……あそこまでゴリ押ししたんですから、ちゃんと最後まで見届《みとど》けないと、加奈子に失礼ですし」
「……そっか」
あやせは顔色《かおいろ》を青くしながらも、気丈《きじょう》に振る舞っていた。
空は快晴。秋葉原《あきはばら》UDXに設《しつら》えたステージは、にぎやかに飾り立てられている。きらびやかな☆型の電飾《でんしょく》や、『第二回 星くず☆うぃっちメルル公式《オフィシャル》コスプレ大会』と書かれた横断幕《おうだんまく》などだ。ギャラリーの数は軽く百名を超えるだろう。
「その……これって子供向けのアニメですよね? なんで成人《せいじん》男性がいっぱいいるんです?」
「なんでって言われても……」
それを聞かれるとツラい。自信を持ってこの問いに回答《かいとう》できる猛者《もさ》がどれだけいるだろう?
「お、多くの層に受け容れられている作品だからじゃないっすか?」
「……そうですか……」
彼女が疑問に思ったとおり、ギャラリーのほとんどは哀《かな》しいかな成人男性であり、いわゆる大きなお友達――筋金《すじがね》入りのオタクたちだ。見れば分かるよ。みんな同じ格好《かっこう》(メルルの顔がプリントアウトされたピンクの半纏《はんてん》)をしているし、一糸乱《いっしみだ》れぬ整然とした挙動《きょどう》で、色とりどのペンライトを振り回している。まるで軍隊《ぐんたい》か狂信者《きょうしんしゃ》の群れといった有様だった。
ていうかおまえらいくら何でもハシャギ過ぎだろ!? ノリについていけない観客が、後ろの方でポカーンとしちゃってるじゃねーか! なにこの温度|差《さ》!?
「みんな! ありがとぉ〜〜っ♪」
愛想《あいそう》良《よ》く手を振って声援に応えるくららさん。彼女がこの熱狂《ねっきょう》の元凶《げんきょう》であることは疑う余地《よち》がない。白い帽子《ぼうし》にタートルネックのセーター。黒のスカートにブーツ。派手なところの見あたらない落ち着いた服装《ふくそう》だ。しかし何故《なぜ》か周囲の喧噪《けんそう》に負けない存在|感《かん》があった。こうしてステージ上で喋《しゃべ》っているだけで、こちらまで楽しくなってくる。彼女と会いたくてここに来ているファンの気持ちも、少し分かるよ。
「さぁて皆さん♪ 待ちに待った『第二回 星くず☆うぃっちメルル公式《オフィシャル》コスプレ大会』の日がやってまいりましたね〜! 今年もかわいい女の子たちが――なんと総勢《そうぜい》二十三名! メルルキャラになりきって大《だい》登場します! 楽しみですねえ〜〜っ♪ そうそう、司会は今年も私、星野《ほしの》くららが務めさせていただきますっ。よろしくお願いしまぁ〜す」
WOOAAAAAAAAAAAAAAA! Piii〜〜! Piii〜〜!
KURARA! HIHIHIHI! KURARA! HIHIHIHI!
それにしてもオタクの皆さん、ノリノリである。合同《ごうどう》合宿で振り付けの特訓でも積んできたとしか思えない、完全なるシンクロ挙動《きょどう》。恐るべき練度《れんど》であった。
「……………………」
あやせは、そんなオタクの皆さんをドン引きして眺《なが》めていたのだが……やがてその視線《しせん》が、ある一点で止まり、凍り付いた。
「ど、どうした?」
「お兄《にい》さん。あ、あれ……見てください」
あやせの視線をトレースした俺は、あまりのことに「げっ!?」とうめいた。
なぜならそこには――
「ひゃほー! く・ら・ら! く・ら・ら! ハイハイハイハイ!」
大はしゃぎでペンライトを振り乱す、我が妹の姿《すがた》があったからだ。ピンクの半纏を羽織《はお》り、もう片方の手にはメルルの団扇《うちわ》を持って――完全にオタク集団になじみきっている。
オタ全開な親友の姿を直視《ちょくし》してしまったあやせは、亡霊《ぼうれい》でも目撃《もくげき》したような声で呟《つぶや》いた。
「……あ、あ、あれって、桐乃《きりの》です……よね? わたしの見間違《みまちが》いじゃないですよね?」
「うん、そうだね」
自然と優しい声で答えていた。妹のあの姿は、俺の目から見てもどうかと思う。
つーかそうだよなあ! 俺らはあいつの欲しいもんを求めてこのイベントにやってきたわけなんだから、桐乃がこの場所にいたってなんの不思議《ふしぎ》もないんだよ! むしろ本人がフィギュア欲しさにコスプレ大会に出場してなかっただけ僥倖《ぎょうこう》と考えるべき!
アブねえ――だってこれニアミスだぜ?
加奈子《かなこ》と桐乃《きりの》が選手|控《ひか》え室でバッタリとか、シャレにもならん展開になるとこだった……!
せっかくここまでお膳立《ぜんだて》てを整えたってのに、そいつはいかにもマズいよな。
俺《おれ》がふーと胸をなで下ろすと、となりで、あやせも動揺《どうよう》と安心の混ざったような息をついた。
「じ、自分で参加しなくてよかった……あのいやらしいコスプレを桐乃に見られりしたら、死ぬところでした、わたし」
「……大喜びしそうだけどな、あいつ」
「なにかおっしゃいました?」
「い、いや、なんでも……」
適当にごまかしていると、そこでくららさんがビシリと天空《てんくう》を指さした。
「みなさぁーん♪ 私の背後にででぇ〜んとあります、おっきな画面をごらんくださぁ〜い! じゃーんっ、これが今大会の優勝|賞品《しょうひん》、兼、トロフィーとなります『EXメルル・スペシャルフイギュア』でぇ〜すっ♪ 世界でたった一つしかない超激《ちょうげき》レアグッズなんですよっ! わぁ、すっごぉ〜い!」
AAAAAAA――! AAAALaLaLaie!!!
画面にEXメルルフィギュアが大写《おおうつ》しにされるや、オタクたちがマケドニア兵《へい》のごときかけ声を張り上げた。
「はあああああEXメルルきたキタきたあ――! ちょー欲し――――ッ! ちくしょおおおおおおおおおおおおおおおお! あたしに似てるキャラさえいればなあ――――!?」
そして桐乃《きりの》も大興奮《だいこうふん》。やはり勝機《しょうき》さえあれば、自分で出場するつもりだったんだなオマエ。
あー危なかった。俺はあやせに振り向いて、
「ほらなあやせ、どうやら俺たちのプレゼント選択は間違ってなかったようだぜ?」
「……そうですね」
敬愛《けいあい》する親友が、人形|欲《ほ》しさのあまり本気で悔《くや》しがっている姿《すがた》を目撃《もくげき》してしまったのだから、まあ、仕方あるまい。
……さあてと。
「俺、桐乃にちょっと釘刺《くぎさ》してくるわ。あの野郎《やろう》、誰《だれ》も知り合いが見てねーと思って、大はしゃぎしてんだろうからさ」
人混《ひとご》みの中を一歩|踏《ふ》み出す。ここで桐乃を見つけちまった以上、ほっとくわけにもいかないからだ。もうすぐ加奈子がステージの上にあがるわけで、そうなったとき、桐乃があの調子で騒いでいだら、加奈子に気付かれてしまう可能性《かのうせい》がある。
「ここからは一旦《いったん》別《べつ》行動にしようぜ。おまえと俺が一緒《いっしょ》のとこ見られたら、説明が面倒《めんどう》だろ」
「……ですね。じゃあ、大会が終わったあと、さっきと同じ場所で合流《ごうりゅう》ということで」
「おう」
「これ、桐乃《きりの》に」
あやせは被《かぶ》っていた帽子《ぼうし》を脱いで、俺《おれ》に手渡してきた、これで桐乃を変装《へんそう》させろってことなんだろう。俺はありがたく受け取って、あやせと別れた。
ステージ上では、くららさんがコスプレ大会のルール説明をしている。
「私を含めた五名の審査員《しんさいん》とぉ、みなさんの投票でぇ、優勝者が決まりまーす! こちらにございますカッコイイ機械で、皆さんの声援《せいえん》のボリュームを測りまして――その音量《おんりょう》に応じて得点が最高五十点まで出ます。審査員の持ち点は一人十点なので、合計《ごうけい》百点|満点《まんてん》とゆーわけで〜す! みんな、分かったかなぁ〜〜〜?」
ハ――――イ! 従順《じゅうじゅん》なお返事をするオタクたち。幼稚園《ようちえん》のガキそのものである。
俺はそんな彼らの密集《みっしゅう》地帯を、少しずつ少しずつ進んでいく。
「いいお返事ですねっ♪ コスプレイヤーさんには、一人三分のアピールタイムが与えられまぁす。その間なら、なにをしてもオッケーで〜す。おしゃべりをしてもいいですし、歌を歌ってもいいですし、踊りを踊ってもぜんぜんオッケー! ばーんと盛り上げちやってくださいっ♪ ヨロシクぅ!」
いえ――いっ! オタクたちと一緒《いっしょ》になって、大声を張り上げている桐乃。
まさかこのオタ丸出《まるだし》しな姿《すがた》を親友に見られているとは、こいつも思っちゃいないだろう。あとで後悔《こうかい》するがいい。
――で、そんな楽しげな妹の様子《ようす》は見えるのだが、なかなかそこまでたどり着けない。
くそう、コミケといい今回といい混み過ぎだろ。
どーしてオタクってのはこーいちいち密集しやがるんだ。
俺がぐずぐずしている間にも、大会は進行していく。
「それではさっそくエントリーナンバー一ばんっ♪ はるばる英国《イギリス》から参加してくださいました、ブリジットちゃんでぇす!」
おおおおおおおおおおおおおおおお――っ!
優勝|候補《こうほ》の登場に、会場が沸《わ》き立つ。ブリジットちゃんは見事なブロンドヘアーの白人で、彼女が扮《ふん》する魔法《まほう》少女『アルファ・オメガ』と同じ年齢《ねんれい》――つまり十|歳《さい》の女の子だ。
「ブリジットちゃんは前回の優勝者でして――前回|同様《どうよう》、あるちゃんのコスプレで参加してくれてまーす! きゃわいいですねえ〜〜〜〜〜っ! それに、あるちゃんソックリ!」
くららさんが紹介《しょうかい》してくれたとおり、ブリジットちゃんの服装《ふくそう》は、『あるちゃん』こと『アルファ・オメガ』が着ているものと同じである。メルルの衣装《いしょう》がピンクを基調《きちょう》としている一方、全体的に黒っぽいデザインの衣装だ。黒いマントを羽織《はお》り、黄金色《こがねいろ》に輝く長剣《ちょうけん》を持っている。
ブリジットちゃんの子供ながらにクールで大人《おとな》びた表情や、ストレートのブロンドヘアーにとてもよく合う衣装であった。素人目《しろうとめ》にも凄《すご》いと分かるぜ。なるほど前回の優勝者――生で見ると、やはり圧巻《あっかん》だ。
ステージ中央に進み出たブリジットちゃんは、『よろしくお願いします』といったような前置きはいっさい行わず、いきなりパフォーマンスを始めた。
「みよっ! わがけんぎっ!」
流暢《りゅうちょう》な日本語で叫ぶや、堂《どう》に入った動作《どうさ》で剣を構える。ぶんっ! 片手で刃《やいば》を真《ま》っ直《す》ぐ突出す、実際には有り得ない派手《はで》な構えである。だが、愛らしくてその上かっこいい。
その体勢で一秒|静止《せいし》し、全度は真横《まよこ》に剣をなぎ払う。まるで飛来《ひらい》した敵弾《てきだん》を刃で斬《き》り払ったかのようにだ。さらに踊るような足さばきでバックステップ、架空《かくう》の敵と切り結ぶブリジットちゃん。
ぶんっ! ぶんぶんっ! ぶおんっ! 華麗《かれい》な剣技《けんぎ》はその速度をどんどんと上げていく。
「はっ! はッ! ていやぁっ!」
ブリジットちゃんは、ぐっ! と小さな身体《からだ》をかがませて|敵の刺突をかわす《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》や、そのまま斬り上げて|相手の剣をはじき飛ばした《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。そして思いきり足を踏み出し――
「たぁぁぁぁあぁぁぁぁっ!」
その瞬間《しゅんかん》、返す刃で斬り伏せられる敵の姿《すがた》が、はっきりと見えた。
会場にいた全員がそうだったのだろう。場は一旦《いったん》、しんと静まりかえり、
UWAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA――――!
堰《せき》を切ったように歓声と拍手の嵐《あらし》が巻き起《お》こった。俺も脱帽《だつぼう》するしかなかったよ。キャラにそっくりなだけかと思ったら、とんでもない。たいしたパフォーマンスだった。
こりゃ、加奈子《かなこ》でも勝てねえかもな。気付けば俺も足を止め、ぱちぱちと拍手を送っていた。
俺のすぐ目前《もくぜん》では桐乃も、バンバン手を叩《たた》いて興奮《こうふん》してにた。
「っきゃ――――っ! リアルあるちゃんSUGEEEEEEEEEEEEEEEEE! かっこいいいいいいい! 萌《も》え! 萌え萌え! 家に持って帰って妹にしたいよぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
「……おいコラ、いい加減《かげん》にしろバカもん」
俺は見ていられなくなって、ばふっと妹の頭に帽子《ぼうし》を被《かぶ》せてやった。
「むぐっ……!? ち、痴漢《ちかん》!?」
「痛ってえ!」
振り返りざまに足潰《あしつぶ》してきやがった!
「ちょ、マジ痛……お、おおおまえってやつは! 毎回! 毎回! 確認《かくにん》もしねえで……! 俺だよ俺!」
「は!? 何言っちゃってんの痴漢のくせに!」
「痴漢じゃねえっ! くそ! 自分の兄貴《あにき》くらい声で分かれっての!」
激痛《げきつう》に脂汗《あぶらあせ》を流しながらサングラスを取ると、ようやく桐乃は俺の正体《しょうたい》に気が付いたらしい。目をまん丸に見開いて驚いている。
「な、なんでアンタがここに!?」
「……色々《いろいろ》事情があってな。そのうち説明してやるから、いまは聞くな」
「はあ?」
「いいからよ。悪いこと言わないからいまはコレで顔隠《かおかく》しておけ。学校の友達に、バレたくねーんだろうが?」
「だ、誰《だれ》か来てんのここにっ?」
桐乃はギュッと帽子《ぼうし》を目深《まぶか》に被《かぶ》り、周囲をきょろきょろ見回した。こいつはあやせとの一件で、学校の友達にオタク趣味《しゅみ》がバレることを、さらに恐れるようになっているのだ。
「詳しくは言えんが、参加者の中におまえの知り合いが混じってる」
「……あとで説明してもらうかんね」
俺《おれ》と桐乃がひそひそ話をしている最中《さいちゅう》、電光《でんこう》掲示板《けいじばん》にブリジットちゃんの得点が表示《ひょうじ》されつつあった。某《ぼう》仮装《かそう》大賞のものによく似た、ゲージ式の掲示板である。
でゅ、でゅでゅでゅ、でゅでゅっでゅでゅでゅでゅでゅでゅ――――そんな背中がむずがゆくなるよーな効果|音《おん》とともに、ゲージの目盛《めもり》りが増えていく。会場の面々《めんめん》は、その様子《ようす》を固唾《かたず》を呑《の》んで見守っている。やがて、バァァァ――ン! とドラがかき鳴らされ、くららさんが得点を読み上げた。
「九十九てぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん! 惜しい〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜! でもすごいっ! ほぼ満点です! 審査員《しんさいん》方のごにょごにょな配慮《はいりょ》とか考えると、実質《じっしつ》満点っ! これはいきなり決まってしまったかも〜〜〜っ!」
ごにょごにょな配慮って……。いや、分かるけどさ。言うなよな、そーゆうの。
そんな感じでコスプレ大会は順調《じゅんちょう》に進行していった。
ブリジットちゃんの優勝|候補《こうほ》にふさわしいパフォーマンスで、いきなり場のテンションは最高潮《さいこうちょう》に達していた。後続のコスプレイヤーたちも、さすがにこういうイベントに参加しようというだけあって、かわいい女の子ばかりだ。オタクどもも桐乃も大喜びである。小学生コスプレイヤーも結構いて、俺は妹と並んで微笑《ほほえ》ましくステージを眺めていた。
そうそう、参加者の中には、パフォーマンスタイムに、自分が勤めるメイド喫茶の宣伝《せんでん》をする人や、コスプレ写真集の告知《こくち》などをする人たちもいた。
――ヘー……こういうのもアリなんだな。
そうして出場者のうち二十名ばかりのパフォーマンスが終わった。しかしいまだにブリジットちゃんを超える高得点は出ておらず、場のテンションもやや落ち着いてきたようだ。
帽子を目深に被って変装《へんそう》中の桐乃が、俺に向かって聞いた。
「ねぇ……あたしの知り合いって、誰なの? もう出てきた?」
「いや、まだだ……。俺が説明するまでもなく、出てくりゃ分かるはずだが……」
しかし、どうにもこうにも不安がつのる。加奈子《かなこ》のやつ、いくらメルルに似てるっつっても、さっきみたいなクソガキっぷりじゃ、逆にメルルファンを怒らせるだけじゃねえのか……?
ふーむ。こりゃ優勝は順当《じゅんとう》にブリジットちゃんで決まりかな……。
俺が懸念《けねん》していたところ、ねらい澄《す》ましたかのようなタイミングで、くららさんがそいつを呼んだ。
『エントリーナンバーにじゅういち番っ! かなかなちゃんどうぞ〜〜〜〜〜〜っ♪』
「はあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜いっ♪」
メルルそっくりの甘ったるい声色《こわいろ》で、返事がかえってきた。まるでくららさんが自分で自分に返事をしたかのようだ。「――ん〜? んんっ?」呼びかけたくららさん自身も、目をぱちくりして驚いている。
そして『かなかなちゃん』が登場するや、会場の全員が、さらに仰天《ぎょうてん》することになった。
ステージに現れたコスプレイヤーがあまりにもメルルそっくりだったというのもあるが、ステージ中央までとことこ歩いてきた彼女が発した第一声が、さらに驚愕《きょうがく》に拍車《はくしゃ》をかけた。
「星くず☆うぃっちメルルっ! はっじまるよぉ――――――っ♪」
軽やかに杖《つえ》をかざし、くるりんっ♪ と回転するメルル(加奈子)。その仕草《しぐさ》と台詞《せりふ》は、毎回アニメ本編《ほんぺん》が始まる直前(歌の前)に挿入《そうにゅう》される映像《えいぞう》とまったく同じものであった。星野くららさんがイベント開始時にやってくれたパフォーマンスと同じものでもある。
さらにここでミュージックスタート、『星くず☆うぃっちメルル』のOP曲である、『めてお☆いんぱくと』がスピーカーから流れ始める。メルル(加奈子)はイントロに合わせてステップを開始、いつの間にか片手にマイクを握っており、曲の節目《ふしめ》でウインクをぱちり。
アイドルさながらの振り付けだった。そして――
[#ここから「まるもじPOP体」太字]
めーるめるめるめるめるめるめ〜 めーるめるめるめるめるめるめ〜
宇宙にきらめ〜く流れ星から☆ まじーかるじぇーっとで、てーきをー撃《う》つ〜
魔法《まほう》のくにから地球のために 落ちて 流れーて こーんにちは〜
星くずうぃっちメルル〜♪
[#ここで「まるもじPOP体」太字終わり]
「なんだコイツめちゃくちゃ歌|上手《うめ》え――――!?」
俺はみんなが抱いたであろう感想を、全力で叫んだ。
いやおかしいだろ!? なんでコイツがメルルのオープニングテーマを歌えんだよ!
しかも堂に入った振り付けまでつけて! 実はアニオタだったのか!? いや、さっきの様子《ようす》を見る限りじゃコスプレもしらなかったみたいだし、メルルの衣装も分かってないようだった。
じゃ、じゃあいったい、これはどういうことなんだあ〜〜?
[#ここから「まるもじPOP体」太字]
しゅ〜てくんぐすた〜♪しゅ〜てくんぐすた〜♪あなたの胸に飛び込んで行くの
いん石よりも(キラッ☆)きょだいなぱわ〜で(キラッ☆)
あなたのハートをねらい撃《う》つの だ・か・ら♪わたしの全力♪全開《ぜんかい》魔法《まほう》♪
逃げずに ちゃんと受け止めてよね〜※[#ハート白、unicode2661]
[#ここで「まるもじPOP体」太字終わり]
メルル(加奈子)は、サビに合わせて杖《つえ》を上に放り投げ、その場で自らもくるりとターンした。同時にクルクル縦《たて》回転しながら落ちてくる杖をパシリとキャッチ&ウインク。
もはや何も言えない。俺《おれ》は信じがたい光景を瞳《ひとみ》に映し、ただひたすら呆然《ぼうぜん》としていた。代わりにいままで惚《ほう》けていたギャラリーたちが、一斉に正気に返り――
「うおおおおおおおお!! スゲええええええええええ!」「メルル最《さい》っっ高《こう》ォ――――っ!」「かなかなちゃんカワイイよ! ろりカワイイよ!」「オウフ! オウオウフ! め、めめめ、メルルがついに三次元に降臨《こうりん》なされたでござるるるる!」「ヒヤッハア!」
大《だい》歓声が巻き起こった。ブリジットちゃんのときと同等かそれ以上。
桐乃《きりの》もフンフン鼻息《はないき》を荒くして絶賛《ぜっさん》していた。ステージを指差《ゆびさ》し、
「かわいいいいいいいいいいいいいいいい! なにアレなにアレ!? CG!? CGなの!? 質量《しつりょう》のある立体|映像《えいぞう》をイリュージョンあたりが開発したの!?」
落ち着けよ。
「ヤバ、鼻血《はなぢ》でてきた!」
ティッシュで鼻を押さえ、ふがふがやっている桐乃《きりの》。――興奮《こうふん》しすぎだって! いまのおまえ、仮にも女の子としてどうなんだよ? 鏡見《かがみみ》ろ鏡!
「みんな、ありがとぉ――――っ♪」
一方ステージ上では、一曲歌い終えた加奈子《かなこ》が満ち足りた笑顔《えがお》で杖《つえ》を掲《かか》げていた。
額《ひたい》に健康的な汗をきらめかせ、頬《ほお》を真《ま》っ赤《か》に紅潮《こうちょう》させて、いまにも「えへ、うへへ、えヘへへヘへぇ〜」と笑い出しそうな表情である。おそらくコイツ、人に褒《ほ》められたり讃《たた》えられたりするのが超《ちょう》大好きなんだろう。露出癖《ろしゅつへき》というか……ようするに目立ちたがり屋なんだよ。
意外《いがい》と加奈子って、アキバ系《けい》のアイドルとかに向いているのかもしれないな。
そして桐乃は、真っ赤に染まったティッシュを片手に、不思議《ふしぎ》そうに問う。
「……あたしの知り合いって、いつ出てくんの?」
いい加減《かげん》おまえは、毎日《まいにち》学校で会ってる友達に興奮しているということに気付けって。
こうして『第二回 星くず☆うぃっちメルル公式《オフィシャル》コスプレ大会』の優勝者は、見事《みごと》百点|満点《まんてん》を獲得したかなかなちゃんこと来栖《くるす》加奈子に決定した。
表彰式《ひょうしょうしき》で、くららさんから優勝|賞品《しょうひん》、兼《けん》、トロフィーである『EXメルル・スペシャルフィギュア』を手渡された加奈子は、二位のブリジットちゃんと固い握手を交わしていた。
両者とも満面《まんめん》の笑《え》み。相手の健闘《けんとう》を讃え合う爽《さわ》やかな一幕。
メルルのテーマは『友情』らしいが、本編《ほんぺん》のメルルとアルファも、こんな感じなのかもしれないな。
桐乃を言いくるめて先に帰らせた俺《おれ》は、あやせと無事に合流を果たした。
「ホラね、わたしの言ったとおりでした」
「ああ、そうだな。たいしたもんだった、あいつ。ただ似てるからってだけで、あんな作戦を立てたわけじゃなかったんだな」
俺が加奈子を素直に認めると、あやせはふふっと口元に手を添《そ》えて微笑《ほほえ》んだ。
「あはは、そうでしょう? 加奈子ってば、凄《すご》いんですから!」
こんなに上機嫌《じょうきげん》な表情を見るのは、初めて会ったとき以来だった。こいつは自分の友達が、本当に自慢《じまん》なんだなぁ。だからこそ桐乃の趣味《しゅみ》がバレたときは、あんなに怒ってたんだろうけど……こんなに他人を信頼できる純粋《じゅんすい》な娘《こ》は、やっぱ珍《めずら》しいよな。
「わたし、加奈子の着替えを取りに行きますから、先に行っていてください」
「おう」
再びあやせと別れ、何やら微笑《ほほえ》ましい気分で、加奈子《かなこ》が待つ優勝者|控《ひか》え室へと向かう。
いや、あの野郎見直したよ。まさかあんなすげー特技《とくぎ》を持っていたなんてな。
俺《おれ》は優勝者を祝福《しゅくふく》するべく、控え室の扉《とびら》を開けた。がちゃっ。
そこで俺が見たものは――
「※[#「あ」に濁点]〜〜〜〜やってらんねェ〜〜〜〜〜〜〜ッ。んだよ、あのキモオタどもはよオ〜〜。なぁにが、かなかなちゃんカワイイよ、メルル萌《も》えーだっての。付き合ってらんねーよジッサイ」
ウンコ座りでタバコをふかす、メルルの姿であった。
……絶句《ぜっく》。俺は大口《おおぐち》を開けて固まった。
おま、おまえ……おまえなあ――――俺の感動を返せ!
タバコなんて吸いやがって! ぜんっぶ台無《だいな》しだよ!
さっきの爽《さわ》やかな笑顔《えがお》は何だったの?
グレたメルルの前には、アルファの衣装《いしょう》を着たままのブリジットちゃんが立っていた。さっきの勇ましい演舞《えんぶ》がウソのようにオドオドした様子である。
「か、かなかなちゃん……あの……そんなことをいっちゃ……だめじゃない? みんな、せっかくおうえんしてくれたのに……」
「あァ? おまえ、ばっかじゃねぇぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜の?」
ぶはぁーと、ブリジットちゃんに煙《けむり》をぶっかける加奈子。
「けほっ、けほっ……ふ、ふぇ……」
ブリジットちゃんの瞳《ひとみ》から、ぶわわっと涙があふれ――
「びえええええええええええ! メルルがダークウィッチになっちやったよぉ〜〜っ!?」
実に子供らしい泣き言を叫びながら、部屋を飛び出していった。
その光景を見た加奈子が、醒《さ》めた瞳で一言。
「くそガキうぜー」
「クソガキはおまえだ!」
俺はさすがに怒鳴《どな》ったね。
「おー、あやせのマネージャーじゃん。なんか用?」
「なんか用じゃねえ! な、なんてことしてんだコラッ! いい加減《かげん》にしろ! つかタバコ吸ってんじゃねえ!」
「は? どこに目えつけてんの? タバコチョコだしぃ〜〜〜〜」
「そんなタバコチョコがあるかっ! ケムリ出てんじゃねーか!?」
「ソーデスネー」
駄目《だめ》だコイツ。桐乃《きりの》がかわいく思えるほどのクソガキだ。
「ホラ、それ寄越《よこ》せ」
タバコを奪《うば》い取り、そばにあった灰皿に押しつけた。
「あっ、んだよドロボー。つーかぁ、なんで加奈子《かなこ》にだけ言うわけ? おかしくね? さっきくららちゃんだって吸ってたっつーの。あっちにも説教《せっきょう》しろっつーの」
「うるせえ! 人は人! 自分は自分だろうが! 子供のくせにタバコ吸うんじゃねーよ!」
「はぁ〜〜い。――んなことより、どーよ、加奈子の初ステージ」
悪びれもしねえなこいつ。俺《おれ》は頭をばりばり掻《か》きむしったが、向こうが話を振ってきたので、気になっていたことを聞いてみた。
「……おまえ、なんであんな歌うたえるんだよ? このアニメのこと、ぜんぜん知らないんじゃなかったのか?」
「ああ、アレね」
加奈子はふーと、肺に残った最後のケムリを吐き出してから、得意げにニヤけた。
「加奈子、アイドルのオーディションとかフツーに受けてるし、カラオケとか毎日行って練習してるからさー。あんな単純な歌、一度聞きゃ、らくしょーで歌えんだよねー。スゴクね?」
「ああ、凄《すげ》ぇな」
性格は最悪《さいあく》だけどな。……そういや会場の至るところで、メルルのオープニング映像《えいぞう》が流れてたりしたなあ。つーと、こいつはそれを見て、歌詞《かし》を覚えたってことか?
「じゃあ踊りは? あんな踊りは、会場で流れてる映像でもなかったろ?」
「アドリブぅ。加奈子さー、ダンスのレッスンもフツーに受けてるから、知ってる曲の振り付けをアレンジしてみたってわけ。即席《そくせき》にしちゃ、なかなかサマになってたっしょ?」
「…………」
アレが、即席ででっち上げたアドリブだっただと? いや、ほんと、なんつーか……。
桐乃《きりの》の友達ってのは、つくづくとんでもねえのが揃《そろ》っていやがるんだな。
いまのところ全員|性格《せいかく》がアレなのが玉《たま》に瑕《きず》だけども。
「おまえさ……その……」
「あによ?」
「ステージであんなに楽しそうにしてたのは……ありゃ、ウソか? 全部|演技《えんぎ》で――本心《ほんしん》では観客をバカにしてたのか?」
「んー? そーだなァ」
加奈子はしばし考え込むようなそぶりを見せてから、すげなく答えた。
「楽しかったよー? 加奈子、カワイイって褒《ほ》められるの好きだし。あたしが歌って踊って、そんで、それ見た奴《やつ》らが喜んでんのとかさ、気分いーし。えーとなに? 萌《も》え萌えーとか、ばかみてーって思うけど、んーでも……加奈子のこと、ガチで崇拝《すうはい》してる感じがして、そこはちょっとかわいかったかな」
イヒヒ、と笑う。
「……そうかよ」
そんなクソガキの笑顔を見ていて……。
やっぱコイツ、アイドルとかに向いてんのかもな、なんて思う。
そのためにゃ、歌やら踊りやらよりも、まずは禁煙《きんえん》しなくちゃならんのだろうけど。
「ホラ、そのタバコ、箱も寄越《よこ》せ。しれっと二本目|取《と》り出そうとしてんじゃねえ」
「ヘーヘー……うっぜーなあ」
ちなみにこのあと、警官《けいかん》を連れたブリジットちゃんが戻ってきて、加奈子《かなこ》はメルルのコスプレをしたまま万世橋《まんせいばし》警察署《けいさつしょ》へと補導《ほどう》されていった。
俺《おれ》はその様子《ようす》を、EXメルル・スペシャルフィギュアを片手に見送ったのだが……その後、『秋葉原UDXで魔法少女がドナドナ』なんて見出しで、ちょっとしたニュースになってしまったのだという。
警察でしぼられて、親に叱《しか》られて、あやせにシバかれて――強制《きょうせい》的に禁煙を余儀《よぎ》なくされたらしいのだが、それはまた、別の話である。
全国の兄貴《あにき》諸君《しょくん》は、『緊急回避《きんきゅうかいひ》ボタン』なる代物《しろもの》をご存じだろうか。
緊急回避――その名が示すとおり、突如《とつじょ》迫り来る重大な危機《きき》を、ボタンを押し込むことによって、瞬時《しゅんじ》に回避せしめる魔法《まほう》のような機能《きのう》である。
ぶっちゃけると、一部の18禁《きん》アダルトゲームに実装《じっそう》されているモンなんだけどね。
桐乃《きりの》から押しつけられたエロゲーの取扱《とりあつかい》説明書の中に、『緊急回避ボタン』の記述《きじゅつ》を発見したとき、俺は思わず目を皿のようにして熟読《じゅくどく》したものだ。
鍵のかからない部屋でエロゲーをやらねばならない男子高校生にとって、この『緊急回避』という機能は、あまりにも魅力的《みりょく》ではあるまいか。実際に役立つ場面も多々あった。
たとえばついさっきも――。俺がエロゲー(繰り返すが妹から押しつけられたものだ)を部屋でやっていたところ、お袋《ふくろ》がいきなり扉《とびら》を開けて入ってきた。
「京介《きょうすけ》ぇ〜、買い物行くのめんどくさいから、あんた代わりに行ってきてぇ〜」
「うおっとぁー!」
このババアは何度ノックしろと訴《うった》えても聞いちゃくれないのである。
しかし同じ過《あやま》ちを何度も繰り返すほど俺はバカじゃない。
巧妙《こうみょう》に背でディスプレイを隠《かく》しつつ、緊急回避ボタン(Esc キー)を押し込んだ。
かちっ。
するとあら不思議《ふしぎ》、大股《おおまた》おっぴろげていた女の子の画像《がぞう》が一瞬《いっしゅん》にして消え失せ、代わりに毒《どく》にも薬にもならない青空の画像に切り替わったではないか!
っかあー…チョー感動したね! この機能を開発したメーカーさんは神っ!
「あ〜ら〜? あんたまた妹のパソコン借りてエロサイト見てたの?」
「ハハハなにを言っとるのかね母上《ははうえ》! 見ろよこの爽《さわ》やかな画像をさあ! この画面のどこにいかがわしいものがあると? ――ってかエロサイト見てた件、なんでお袋が知ってんだよ!」
桐乃の野郎《やろう》! さてはチクリやがったな!? 人の恥《はず》ずかしい秘密《ひみつ》をよ〜ッ。
「カ●ビアンコムカ●ビアンコムカ●ビアンコム――よく分かんないけどこんな感じで魔法《まほう》の呪文《じゅもん》を唱《とな》えると、あんたなんでも言うこと聞いてくれるらしいじゃない? 行ってきてよ、買い物」
「ハッ! 喜んで行ってまいりまっす!」
どうよ見たかい? ばっちり緊急回避できてただろう?
ははっ…………もうヤダこの家! 帰る! 俺もう田村《たむら》さん家《ち》に帰る!
俺は半泣《はんな》きで玄関《げんかん》を飛び出した。
そんで俺はこうして近所のスーパーに向かっているっつーわけだ。かわいそうだろう?
そろそろ日も落ちようという時間だが、店内は夕食の買い出しに来ているオバサンたちでにぎわっていた。
「さっさと済ませて帰るか……」
俺《おれ》はスーパー入り口で買い物かごを引っ掴《つか》むや、やや猫背《ねこぜ》になって店の奥に足を進める。
と――そこで、意外《いがい》な人物に出くわした。
「あれ? きようちゃん?」
「お、おお……麻奈実《まなみ》じゃんか」
眼鏡《めがね》をかけた地味《じみ》めの女、こいつは田村《たむら》麻奈実といって、俺の幼馴染《おさななじ》みである。
「もしかしてきょうちゃんも、夕ご飯《はん》のお買い物? ふうん……こんなところで会うなんて珍《めずら》しいね。じゃあ、せっかくだし一緒《いっしょ》に回ろうよ」
なんの裏表《うらおもて》もない笑顔《えがお》で言われだもんだから、ふて腐《くさ》れていた俺もすっかり機嫌《きげん》をなおして「そうすっか」と快諾《かいだく》した、いや〜、奇遇《きぐう》ってのはこういうことを言うんだな。
高坂家《こうさかけ》では何故《なぜ》か冷遇《れいぐう》されているような気がする俺であるが、麻奈実を初めとする田村家の皆さんには非常によくしてもらっている。むしろ田村家こそが俺の真《しん》の家族だといっても過言《かごん》ではなかろう。俺たちは二人並んでだべりながら、生鮮《せいせん》食品コーナーへと向かう。
「きょうちゃん家《ち》は、夕ご飯、なに食べるの?」
「えーとだな」
俺はお袋《ふくろ》から預かったメモを取り出した。
「じゃがいも、にんじん、たまねぎ、カレールウ……うっお……またカレーかよ。ウチのお袋は、まじカレーばっか作るんだよなぁ。せめておまえの半分くらいのレパートリーとウデがありゃいいんだけど……」
「へっ? え、えぇーっ、わ、わたし、そんなに料理うまくないってば……」
「謙遜《けんそん》すんなって」
珍しく俺は本音《ほんね》で褒《ほ》めた。
「この前泊まりにいったときに喰ったのは、スゲー美味《うま》かったし、菓子だって作るの上手《じょうず》だろうおまえ。ウチのお袋なんか、おやつねだると平気で煮干《にぼ》しとか出してくるよ?」
「あ、あはは……じゃ、じゃあまた今度、ご飯つくるね?」
「そりゃいいな」
実にどうでもいい会話である。だけど俺にとっては、こういう時間こそが貴重《きちょう》なもんなのだ。
他人からしたらつまらなく感じるのかもしれないけどな。
「あ、そうだ。ねえねえ、きょうちゃん。この前といえばさ」
「あん?」
「きょうちゃんがうちに泊まりに来てくれた日……夜、一緒《いっしょ》に寝たじゃない?」
「バッ……! ご、誤解《ごかい》されるような台詞《せりふ》言うんじゃねえ!」
ありゃ一緒《いっしょ》の部屋で並んで寝ただけだろ!? おまえ世間《せけん》ってのは狭《せまい》いんだからな? そのへんでご近所のオバナンが聞き耳立ててたら、井戸端《いどばた》会議のネタにされちゃうじゃねえか。
「あはは、ごめんごめん。で――あのときさ」
嬉《うれ》しそうに喋《しゃべ》ってまあ。本当に悪いと思ってんのかな。まあいいけど。
麻奈実《まなみ》は続けてこう言った。
「今度きょうちゃん家《ち》に呼んでくれるって、約束したじゃない? ……覚えてる?」
「忘れてた。そういやしたな、んな約束」
「もう……やっぱり忘れてたんだ。ぷんぷん」
相変わらず擬態語《ぎたいご》を口にしながら頬《ほお》をふくらませる麻奈実。
俺《おれ》は苦笑《くしょう》して肩をすくめた。
「じゃ、次の休みとか、どうだ?」
「ほんとっ?」
「おお、実はちょうどその日|親《おや》がいなくてさ、メシどうしようかなって思ってたとこなんだ。家にきて作ってくれよ」
「……ふ、ふぅん……。そういうことなら……その日に、お邪魔《じゃま》しよっかな」
「決まりだ」
よっしゃ! これで親がいなくてもまともなメシが食えるぜ!
「えっへへぇ……なにか食べたいものあるっ? なんでも作ってあげる」
「別になんでもいいよ」
おまえが作るもんならな。
そんな感じでこの日は終わった。
でもって数日|後《ご》。日曜日の朝である。
約束通り、俺は数年ぶりに麻奈実をつれて自宅までやってきた、スーパーで待ち合わせて買い物をしてきたので、俺たちは二人ともビニール袋《ぶくろ》を提《さ》げている。
「〜〜♪」
ここまでの道すがら、麻奈実はずーっと浮かれていた。
たとえば唐突《とうとつ》に「ふふー」と不審《ふしん》な含み笑いをしてみたり、
「ねぇ、ねぇ、ほんとにお土産《みやげ》……ウチのお饅頭《まんじゅう》でよかったのかなあ〜?」
同じ質問を何度も繰り返したり。妙《みょう》に挙動不審《きょどうふしん》である。
俺は「はぁ……」と、呆《あき》れ混じりの苦笑を漏《も》らす。
「なんでもいいっつってんだろ。そもそもいらねーってんなもんよー。俺がおまえん家に行くとき、毎回《まいかい》土産持っていってるかよ」
「でもお、やっぱり、久しぶりだしさ……えヘへ」
「だいたい、今日は親二人とも家にいねえよ。だから気ィ遣《つか》うだけ無駄《むだ》だっての」
「ん……そ、そっか。そだよねっ。おじさんも、おばさんも、お出かけしてるんだよね……」
そんなやり取りをしているうちに、玄関《げんかん》に到着。
「よし、あがれよ」
「お、お邪魔《じゃま》しまぁ〜す」
と、俺たちが靴を脱いで玄関に上がったところで――
桐乃《きりの》とばったり出くわした。
「え……」
「あ……」
リビングから出てきた桐乃と、玄関に上がったばかりの麻奈実《まなみ》の目が、ぴたりと合う。
両者ともぽかんと口を開けて、目をまん丸にしている。
うぁぁあぁぁぁぁぁ! 忘れてた! こいつがいたんだっけ! 親がいなくても!
俺はサッと青ざめた。一瞬の間があってから、
「……ッ!?」
桐乃の表情ががらりと切り替わった。両目《りょうめ》がクワッとつり上がり、鋭い視線が俺たちを射抜《いぬ》く。普段《ふだん》のゴミを見るような視線《しせん》とはまるで違っていた。エロサイトを見たことがバレちまって、阿修羅《あしゅら》と化していたあのときとも違っていた。
なんというか――親の仇《かたき》でも見るような態度である。
ぎしりと一度、歯ぎしりしたようだった。
ほんの数秒のうちに、我が家の玄関が異様《いよう》に居心地《いごこち》の悪い空間と化した。
「……き、桐乃……?」
なんだこの……感じ悪い態度……。なんで登場するなりメチャクチャ不機嫌《ふきげん》なんだよ。
あ、そうか、こいつ麻奈実のこと嫌《きらい》いなんだっけ? や、違うか。俺がデレデレしてんのが気にくわないとか、なんとか、んなこと言ってたんだよな確か……。
ともあれマズイぜ……。どう見ても友好《ゆうこうてき》的な態度じゃねぇし……。
ま、まさかこんな形で、麻奈実と桐乃が顔を合わせることになろうとは……。
ど、どうなるんだコレ……? 俺は自分が招いてしまった展開に恐れをなしたが、
「あ、桐乃ちゃん。こんにちは〜」
一方、空気を読めない麻奈実は、ぱたぱた手をふり、とても友好的にあいさつをした。
「久しぶりだね。わたしのこと、覚えてる? 昔はよく……」
「覚えてませんけどォ。どちら様ですかァ?」
バサッ。そんな音が聞こえてきそうなほど、一方的に切り捨てる桐乃。
一応|敬語《けいご》を使っちゃいるが、これはひどい。兄が連れてきた客に対して、最悪《さいあく》の態度だった。
ところが麻奈実《まなみ》は、やはり、一向にダメージを受けた様子《ようす》がない。にっこり笑顔《えがお》のまま、
「そっかあ……残念。でも仕方ないよね、もうずっと長いこと会ってなかったんだし。じゃ、改めまして――田村《たむら》麻奈実です。よろしくね?」
「えー? なァんでそんなコトしなくちゃなんないんですかぁ〜」
この野郎《やろう》! 学級|崩壊《ほうかい》しているクラスのホームルームみたいな台詞《せりふ》を吐きやがって……!
俺は兄貴として、妹のこの態度に怒る権利があるはずだ。
「おい桐乃《きりの》――てめえ、いい加減《かげん》にしとけよ……?」
「は? いい加減にしとくのはそっちでしょ?」
ぐいっ! 桐乃は俺の襟首を引っ張った。
「ちょっと顔|貸《か》して」
「ぐえ。んだ……お、おいっ」
俺は、妹に引っ張られるがまま、麻奈実から引き離され、リビングの中に引きずりこまれてしまう。ぐいぐいぐい――バタン! 桐乃の手により勢いよくリビングの扉《とびら》が閉まる。妹は俺の襟首を思い切りつかんだまま、麻奈実のいる玄関《げんかん》の方をチラチラ気にしている。
顔をそばに寄せて、小声《こごえ》で恫喝《どうかつ》してきた。
「ど、どういうことっ!? な、なんであの女がウチに来てるワケ!?」
「……いや……俺が呼んだから……だけど……」
「はああ!? 聞いてないんですケド!」
「そりゃ……言ってねーし」
「チッ! ちょっとやめてよ! いますぐ追い出して!」
「そんなわけにいくか。ちょ、落ち着けって――」
俺は妹の勢いを押し止めるように片手を突き出し距離を取る。
「なんだってんだよ。……なに? やっぱおまえ、麻奈実が嫌《きら》いなの?」
「……べつにィ……!」
俺の襟首を引っつかんだまま、むすっと呟《つぶや》く桐乃。含みがあるのは明らかだったが、そもそも接点の少ない桐乃と麻奈実の間に、不仲《ふなか》になる理由なんてひとつもないはずだ。
桐乃はチッと舌打《したう》ちして、さらに強く俺を睨《にら》み付けた。
「とにかく気に入らないっつってんのっ! アンタさあ、なに親いない日|狙《ねら》って女|連《つ》れ込んでんの? 信っっじらんない……ちょうキモいんですけどぉ〜」
「べ、別に狙《ねら》ったワケじゃねーよ!」
いや狙ったっちゃ狙ったけど、それはメシを作ってもらおうとだな! おまえが言わんとしているような、そういう意味じゃ断じてないんだって!
「だいたいもしそうだとしても、おまえにゃカンケーねえだろが。自分だって友達|呼《よ》んでるくせによ。文句《もんく》言う筋合いねーだろ?」
当然の主張をすると、桐乃《きりの》はかぁっとさらに顔を紅潮《こうちょう》させた。
「ハァ〜 じや、じゃあアタシが彼氏《かれし》連れ込んでリビングで、エ――エッチしててもいいってのアンタは!」
「なんでそうなるんだよ! 俺《おれ》たちゃんなことしてねーし、それとこれとは全然《ぜんぜん》別もんだろうが!」
それに彼氏なんていないだろてめえには! 勢いで変なこと口走《くちばし》ってんじゃねえよ!
くっそムカツクなあ……!
「ともかく。いまさら追い出すなんて出来るわけねーだろ。なにが気に入らねえのかしらないが、アイツと顔合わせんのがイヤならおまえが出てけ」
「アンタなにしれっとあたしまで追い出そうとしてんのよ!?」
「ご、誤解《ごかい》だっての!」
だーかーらー、なーに言ってんだこいつは、さっきからよ……。クソ、まいったぜ……。
ところで俺たちの醜《みにく》い兄妹|喧嘩《げんか》は、玄関《げんかん》まで聞こえていたらしい。
かちゃり。リビングの扉《とびら》が控《ひか》えめに開いて、麻奈実が顔を覗《のぞ》かせた。心配そうな声で言う。
「あ、あのぉ……? 二人とも……けんか、しないで〜……?」
「………………」「……………………」
俺と桐乃は、そろって麻奈実の顔を見て――ぷいっと同時に顔をそらした。
「…………チッ、うざっ」
またしても舌打《したう》ちする桐乃。非常にイラつく態度である。
この野郎《やろう》いい加減《かげん》にしろ。ビシッと言ってやる!
「おまえなあ――」
ところが俺が口を開いたところで、先んじて麻奈実が動いた。桐乃に向かって、ぺこりっと頭を下げる。凄《すご》く姿勢《しせい》がいいやつなので、綺麗《きれい》なお辞儀《じぎ》だった。
「ごめんねっ。桐乃ちゃん、とつぜん来ちゃって」
「…………」
じろり。そんな擬音《ぎおん》が聞こえてきそうなほど露骨《ろこつ》に、桐乃は麻奈実を睨《にら》み付けた。
しかし麻奈実は毅然《きぜん》とした態度で、友好《ゆうこう》的に話しかける。
「えっと、わたし、ご飯《はん》作ったりしにきただけなんだっ。その――今日って、きょうちゃんのお母さんがいなくて大変って聞いたから……。だから今日だけ代わりにわたしが、家事とかやらせてもらおうかなって思っただけなの」
「……ふーん」
対して桐乃は例のごとく腕を組み、小間使《こまづか》いを睥睨《へいげい》する性悪《しょうわる》奥様《おくさま》のような態度である。
なんだこの構図《こうず》。
すげえしっくり来るんだけど。こいつら前世《ぜんせ》で主従《しゅじゅう》関係だったんじゃねえの?
「……桐乃ちゃん…………だめかな?」
「ハ、家事《かじ》ねえ……どうしよっかな……」
麻奈実の方が年上で、目上で、しかも来客《らいきゃく》であるはずなのに、桐乃の身長と態度がでかいせいでまったくそうは見えない。端《はた》から眺《なが》めていると、完全に桐乃が麻奈実の生殺与奪《せいさつよだつ》の権利を握っているかのようであった。桐乃はバサァッと尊大《そんだい》に茶髪《ちゃぱつ》をかき上げ、意地悪《いじわる》な声を出す。
「そんじゃさア、ご飯《はん》の前に、まずはリビング掃除してよ」
「――お、オマエなに人の客に向かって超偉《ちょうえら》そうに命令してんだよ!?」
女|同士《どうし》の会話への介入《かいにゅう》を躊躇《ちゅうちょ》していた俺《おれ》だったが、この言い草《ぐさ》には突っ込んだね。
ところが麻奈実は、たいそう喜んでご主人|様《さま》にこう返事をした。
「ん、任せてくださいっ」
「………………」
髪《かみ》をかき上げた見下《みくだ》しボーズのまま、『あれっ?』という表情で固まっている桐乃。
怒って何か言い返してくると思ったのに、あっさり了承《りょうしょう》されちゃったもんだから、拍子|抜《ぬ》けしてしまったのだろう。
「じゃ、冷蔵庫《れいぞうこ》借りますねっ」
麻奈実は玄関《げんかん》からビニール袋《ぶくろ》を持ってきて、よいしょ、よいしょと運んでいく。
「…………」
そんな様子《ようす》を依然《いぜん》として無言《むごん》のまま眺めていた桐乃は、次いで、憮然《ぶぜん》としたまなざしで俺を見た。恐らく『……な、なんなのこの女?』という意味だろう。気持ちは分かる。
……いや、こういうやつなんだよ……。
俺が妹と無言《むごん》の対話《たいわ》をしていると、いつの間にか麻奈実が、三角巾《さんかくきん》に雑巾《ぞうきん》という掃除のオバサンみたいな格好《かっこう》になって戻ってきた。
でもって、さっそくてきぱきと作業を始める。先にものを片付けてから、ハタキをかけて、エアコンのフィルターを掃除して、家具を拭いて――とまあ、実に円滑《えんかつ》な動きである。
やおら麻奈実は、桐乃がいつも座っているソファの足下《あしもと》あたりを見て、
「あっ、たいへん……絨毯《じゅうたん》にこーひーがこぼれちゃってるみたい。すぐ落としますねっ」
「あ、それ……。くっ……」
桐乃の眉間《みけん》にピクピクッとシワが寄った。――なるほど、コーヒーこぼしたのはおまえか。
いちおう拭《ぬぐ》ってはいるようだが、絨毯に汚《よご》れが残ってしまっている。
「そ、そんなの、どーせ拭いたって取れませんケドぉ……」
「大丈夫《だいじょうぶ》っ、取れますよっ」
麻奈実は、雑巾を汚れの上に載《の》せ、その上から掃除機を当てていく。
すると絨毯に残っていた汚れが、綺麗《きれい》に取れてしまった。
「ほらねっ?」
「……な、なんで。あたしがやっても、全然《ぜんぜん》落ちなかったのに……」
「じゅーすとか、こーひーを絨毯《じゅうたん》にこぼしちゃったときは、こういうふうに掃除機を当てて、ぎゅーってすると落ちやすいんです」
お婆《ばあ》ちゃんの知恵袋《ちえぶくろ》というか、伊藤家《いとうけ》の食卓みたいなやつである。
ちょっとした生活の裏技《うらわざ》を披露《ひろう》して、桐乃《きりの》が付けた汚れをサッと取り去ってくれた麻奈実《まなみ》であるが、桐乃は感謝するどころか、さらに不機嫌《ふきげん》になって腕を組んだ。
「フン、えっらそーに……。……いつもいつも……! いちいち当てつけっぽいんですケドぉ! むかつく……!」
吐き捨ててから踵《きびす》を返し、リビングから出て行ってしまう。
……なんだあいつ。むかつくのはそっちだろうが。
ってなわけで桐乃は部屋を出て行き、残された俺と麻奈実は一緒になって掃除の続きを始めることになった。なんだってあんな妹の言うこと聞かなきゃならんのだ――とは思うのだが、とうの麻奈実がやる気になってしまっているし、そもそも掃除もする予定だったのだからという麻奈実からの説得《せっとく》もあって、俺は渋々《しぶしぶ》と納得《なっとく》したのさ。
「よしっ、おわりだね〜」
「……だな」
一時間――多少|雑然《ざつぜん》としていた我が家のリビングは、見違《みちが》えるほど綺麗《きれい》になっていた。
別に普段《ふだん》お袋《ふくろ》が掃除の手を抜いているわけではないのだろうが、麻奈実が過剰《かじょう》にはりきって掃除した結果、いつもよりも格段《かくだん》に整頓《せいとん》されている。
床に物が置かれていない状態だと、こんなに広々と感じるもんなんだな。
「すっきりしたじゃんか」
「ん、ん〜……勝手《かって》が分からなかったから、あんまりすみずみまでできなかったけど……」
なんで自分の仕事ぶりにちょっと不満がありそうなんだよ。
あんだけ手際《てぎわ》よくやってたくせに。こんだけ片付けりゃ十分だろ。
「お疲れさん。助かったぜ。――さてと、一休《ひとやす》みして茶でも飲むか?」
「うんっ。えへへ……」
俺が褒《ほ》めてやると、麻奈実は照れ笑いを浮かべながらそばに寄ってきた。
「あ、わたしがいれよっか?」
「いいよ、座ってろ。たまにゃ俺がいれてやるよ」
「そ、そお……? う、うんっ」
とてとてとソファへと戻っていく。実に従順《じゅうじゅん》な態度である。さすがにそんなわけはないのだろうが、俺がどんなひどい命令をしても、喜んでやってくれそうな雰囲気《ふんいき》さえあった。
……ったく。
幼馴染みの無防備《むぼうび》な態度に苦笑しつつ、キッチンで二人分のお茶を入れてリビングへと戻る。
と、麻奈実がソファに座り、胸の前で手を合わせたポーズで待っていた。
「きょうちゃんのいれてくれたお茶かあ……楽しみ」
「……なにを大げさな」
「そんなことないよ〜、こんなご褒美《ほうび》がもらえるなら、お掃除がんばった甲斐《かい》があった」
麻奈実は、俺がテーブルに置いたお茶を一口《ひとくち》飲んで、
「ホラ、おいしい。……疲れとか、みんな消えちゃった」
「へいへい。あんがとよ」
俺《おれ》はあきれ顔で再び苦笑《くしょう》。幼馴染みの対面《たいめん》に座り、自分のお茶を一口すする。
ずずっ……。
「はん、別に、ふつーの味だけどなあ」
高坂家《こうさかけ》のリビングが、いつの間にか田村《たむら》家のお茶の間のような雰囲気《ふんいき》に包まれていた。
麻奈実がいて、お茶があって、のんびりとした雑談《ざつだん》をして――。
そう、これが俺が望む日常ってやつさ。
だが、そんな緩やかなひとときは、扉《とびら》を開けて入ってた闖入者《ちんにゅうしゃ》によって、たやすくぶち壊《こわ》されてしまう。
ガチャツ! リビングに入ってきたのは桐乃だった。桐乃はそのままキッチンの方へと数歩歩き、ちらっとこちらを一瞥《いちべつ》して、
「……ジュース飲みに来ただけだから」
「あっそう」
聞いてねーよそんなこと。勝手《かって》に取って、勝手に出ていきゃいいだろ?
「フン」
鼻を鳴らして冷蔵庫《れいぞうこ》へと向かう桐乃。俺はその背に向けて「ケッ」と舌を出す。
再びイヤ〜な空気がリビングに満ちる。
どうしてこう、この妹は、俺の安息《あんそく》をいちいち壊しにくるのかね? 大人《おとな》しく部屋《へや》にいろよ。
しかしどうにも麻奈実は桐乃と仲良くしたいらしく、よせばいいのに話しかけた。
「いまね、掃除が終わって、一休みしてるところなんだ。桐乃ちゃんも、一緒《いっしょ》にどう?」
「………………」
ガン無視《むし》である。振り返りもしねえ。とんでもない感じ悪さだった。
桐乃は冷蔵庫を開けっ放しにして、500ミリリットルペットボトルの紅茶《こうちゃ》を飲んでいる。
ごくごくごくっ――バタン(冷蔵庫を閉める音)
紅茶を一気《いっき》に飲み終えた桐乃は、スタスタ俺たちの目前を横切《よこぎ》っていき、ふと足を止めた。
「あ、掃除終わったんだぁ〜。へぇ〜え」
いま気付いたみたいな言い草《ぐさ》である。次いで桐乃《きりの》は、おもむろにそのへんの戸棚《とだな》に近付いて、すうっと指を這《は》わせた。ふうっ、とその指に息を吹きかけて、
「なにコレぇ? ホコリ残ってるんだけど?」
「どこの小姑《こじゅうと》!?」
つい突っ込んでしまう俺。
「はわわ、ご、ごめんなさい……すぐにやり直します……!」
「麻奈実! おまえも乗らなくていいから!」
俺の制止も聞かず、麻奈実は大慌《おおあわて》てで戸棚《とだな》を拭《ふ》き始めてしまう。
さながら『シンデレラ』の一幕《ひとまく》のよーなシーンが、俺の眼前《がんぜん》で展開されていた。
「それと! 張り切って掃除してくれんのはいいんだケドさー、こんなにビシッと片付けちゃったら、どこに何があんのかもう二度と分かんないじゃん。部外《ぶがい》者のくせに余計《よけい》なことしないでよ。一見《いっけん》散らかってるように見えたのかもしんないけど、あたし、自分の物のある場所ぜんぶ把握《はあく》してたんだから」
お片付けができない子供が、お母《かあ》さんによく言う台詞《せりふ》その一つすね。
つーか、おまえが掃除しろって命令したんだろうが。なのに勝手《かって》に掃除するなってどういうこった。おまえ麻奈実にいちゃもん付けたいだけだろそれ。
将来こいつは、絶対その調子で嫁《よめ》いびりするに違いないね。
「ねえ〜、ソファの脇に分かりやすく積んでおいたファッション誌はぁ〜? 勝手にどこやっちゃったわけぇ〜!?」
「こ、ここにありますっ」
戸棚を拭いていた麻奈実は、とてとてテレビ台まで移動して、ガラス戸を開けた。
テレビ台のガラス戸の中には、雑誌|類《るい》がバックナンバー毎に整然と並べられている。
「こっちがファッション誌で……こっちが漫画《まんが》雑誌で……」
ところでなんで麻奈実は、さっきから年下《としした》相手に敬語《けいご》になっちゃってんの?
余計《よけい》に小間使《こまづか》いにしか見えないだろうが。
「……あるんならいいケド。……でもっ、このテレビ台の棚って、本並べるようなスペースあったっけぇ? 出した中身《なかみ》ィ、まさか勝手に捨てたの? ――チッ、何様《なにさま》? あーあ、あたしのペディキュア高かったのになァ〜。アレパッと見《み》中身入ってないよーに見えたかもしんないケド、全然まだ使えたのにィ〜」
「す、捨ててませんっ。ぺできゅあ、りもこんと一緒《いっしょ》にここに片付けておきましたっ」
びくっと怯《おび》えながら、テレビの脇を指し示す麻奈実。小物《こもの》入れに、テレビやエアコンのリモコンやら、ペディキュアやらが、整頓《せいとん》されて並べられている。紙製《かみせい》の小物入れには細長いスリットが開いていて、収納物《しゅうのうぶつ》が何なのか、どこにあるのか、一目《ひとめ》で分かるように工夫《くふう》されていた。
なるほどこれは便利かもな。
「へーえ……」
便利な小物入《こものい》れを、感心《かんしん》したようにジロジロすがめ見ている桐乃《きりの》。いちゃもんを付けたくてしょうがないので、一生|懸命《けんめい》文句《もんく》の付け所を探しているのだろう。
しかしうまい文句が思いつかなかったらしく、その口から出てきたのは安直な台詞。
「……こんな小物入れ、ウチにあったっけ?」
「ティッシュの空箱《あきばこ》で作りましたっ」
「貧乏《びんぼう》くさっ!」
ごめんな麻奈実《まなみ》、俺《おれ》もそう思った。
しかし現状、麻奈実が片付ける前よりずっと、どこに何があるのか分かりやすいし、効率《こうりつ》的に整頓《せいとん》されて、部屋がすっきりしている。俺は胸を張って言ってやったよ。
「――文句は終わりか?」
「ぐっ……」
「ハハハッ! そんなら、さっさと行っちまえよ。用は済んだろうが」
ソファに深々と腰掛《こしか》けて、しっしっと手を振ってやる。
「――」
桐乃は一瞬《いっしゅん》、目を見開いて絶句《ぜっく》し、それからギリギリと音が聞こえてきそうなほど露骨《ろこつ》に歯ぎしりした。視線で俺と麻奈実を射殺《いころ》さんばかりの形相《ぎょうそう》だ。
「……な、なんだよ」
いくら何でも、そこまでキレることないだろうが。
「……覚えてなさいよ……! もうどうなっても知らないから……!」
バタンッ! 桐乃は怨嗟《えんさ》の台詞を吐き出して、リビングから出て行ってしまった。
ドンドンドンドンドンドン! イラつきながら階段を上る音が聞こえてくる。
「……な、なんだ……あいつ……」
分ッかんねえ〜〜〜〜〜。なんで、どんどん機嫌《きげん》が悪くなっていくんだよ。
再び桐乃がリビングを出て行ったあと――麻奈実と桐乃の間で板挟《いたばさ》みになっていた俺は、疲労|困憊《こんぱい》の体《てい》でソファに身体《からだ》を沈ませた。
「ふう……」
んだこりゃ……。なんだって友達家に呼んだくれーで、こんな気《き》苦労をしなくちゃならんのだ。意味が分からん。妹VS幼馴染《おさななじみ》み。ギャルゲーだったら、定番《ていばん》の嫉妬《しっと》イベントってところなんだろーが、桐乃と麻奈実じゃそんなテンプレートには当てはまりっこない。
つーか、当てはまっちゃったら困るけどな、ハハハ。
ったく――やれやれだぜ。桐乃の真意《しんい》はいまだによく分からんが、ともあれもう二度とこの二人は会わせちゃならんな。身をもって実感したぞ。
「はぁ……もう腹へっちまった。なぁ麻奈実、そろそろメシ作ってくれ」
「うんっ。いいよ〜、任《まか》せてっ」
麻奈実は自分の胸を叩《たた》いて立ち上がった。たたっとキッチンに駆《か》け寄り、手慣《てな》れた仕草《しぐさ》でエプロンをつける。まるきり主婦そのものといった感じだ。
「じゃ、キッチン借りるねー」
振り返ってにこっと微笑む。見るものすべてに温かな郷愁《きょうしゅう》を抱《いだ》かせる、ほんわかとした雰囲気《ふんいき》。数秒前まで漂《ただよ》っていた疲労感は、それで根こそぎ消し飛んでしまう。
「はいよ、好きに使ってくれ」
麻奈実は「うんっ」と元気よくうなずき、料理を始めた。「ふんふーん♪」なんて鼻歌《はなうた》など口ずさみながら、ジャーッと水で野菜を洗ったり、とんとん包丁《ほうちょう》を使ったり。
「手際《てぎわ》いいなあ……おまえ」
「え、えー? そお?」
てきぱき楽しそうに働く幼馴染《おさななじ》みの尻《しり》を、俺はソファに座って眺《なが》めていた。
いきなりトラブっちまったけど、呼んでよかったな。
麻奈実が我が家のキッチンに立つところなんて、初めて見るはずなのに、どうしてかとても見慣《みな》れたもののように思えた。女子《じょし》高生でありながら、こうまで台所が似合う女を、俺は他に知らない。しばらくすると、段々《だんだん》といい匂《にお》いが漂ってきた。田村さん家《ち》のみそ汁≠フ香りだ。
「や、やんも〜……きょうちゃんったら、さっきからこっち見て、どうしたのー?」
「いやァ、ババくせーなぁって」
「ひ、ひどっ!?  わたしが期待したのはそんな言葉じゃないのにぃっ!」
ははは。……ああ、いいよな、こういうの。
じんわりと、満ち足りた想いが胸に満ちる。
きっと俺は、麻奈実みたいなお母《かあ》さんが欲しかったんだろう。
で――およそ三十分ほどで、昼飯《ひるめし》が完成した。
「できましたぁ〜〜〜。お待たせ〜、きょうちゃん」
エプロン姿《すがた》の麻奈実が、料理を運んでくる。
俺は「お疲れさん」と言って、食卓から立ち上がった。食器や料理を並べるのを手伝ってやろうかと思ったのだ。
「あ、座ってて、座っててっ」
「いーからよ、ほら」
とまあ、そんな感じで、二人して食事の準備を整える。
その最中《さいちゅう》、麻奈実が時計を見上げてこう言った。
「……桐乃ちゃん、降りてきてくれるかなぁ……」
このお人好《ひとよ》しめ。
あれだけ文句《もんく》言われたってのに、当たり前のように桐乃《きりの》のぶんまでメシ作ったのかよ。
しかしまさしく意地悪《いじわる》な姑《しゅうとめ》に気を遣《つか》う嫁《よめ》のような台詞《せりふ》である。
時計の針はちょうど十二時を指している。昼飯を食べるにはちょうどいい頃合《ころあい》いだろう。
「構《かま》わねーよ。桐乃なんかほっといて俺《おれ》たちだけで喰おうぜ」
「だ、だめだよぉ〜、そんなのっ」
麻奈実《まなみ》は納得《なっとく》してくれそうにない。そう言うだろうと思ったけどさ。
……いやでいやで仕方がないが、ここはやはり、俺が俗《ぞく》にいう『板狭《いたばさ》み夫』の役割を買って出て、理不尽に怒ってばかりの小姑《こじゅうと》を宥《なだ》めて来なきゃならんのだろう。
「しょうがねえ。ちょっくら呼んでくる」
「お願いね、さっきみたいに喧嘩《けんか》しちゃ駄目《だめ》だよ〜?」
「俺もそうしたいところだがな……」
どうなることやら。俺は麻奈実から心配されながら、リビングを出た。
階段を上り、妹の部屋へと向かう。
こんこん。
「おい桐乃――オマエ朝飯《あさめし》喰ってないだろ? オマエの昼飯も、麻奈実が作ったってよ。どうする? 下降りて一緒に喰うか?」
扉に向かって呼びかけると、わりとすぐに扉が開いて、桐乃が顔を覗《のぞ》かせた。
「ご飯《はん》? あー、うん、はいはい、電話終わったら行くからって言っといて」
「お、おお……分かった」
なんだ、思ったよりあっさりだな……。もっとごねるかと思ったのに。相変わらず不機嫌《ふきげん》そうじゃああるが、さっきよりはずいぶんとマシになっているような気がする。
「おまえ、機嫌|直《なお》ったの?」
「ふん、別にぃ」
直ってるな。この三十分で落ち着いたってことか? なんとまあ珍《めずら》しい。
……まあさっきのアレは、明らかに桐乃が悪かったし、その辺こいつも反省したのかもな。
このときの俺は、妹の機嫌が上向いた理由を、好意《こうい》的に解釈《かいしゃく》していたのである。
そんなわけないって、ちょっと考えりゃ分かりそうなもんなのに。
それはそれとして。
リビングに降りてきた桐乃は、機嫌を直しちゃいたものの、先ほどの態度を詫《わ》びるでもなく、無言《むごん》で食卓についた。
「はい、桐乃ちゃん。口に合うか分からないけど、どうぞっ」
「別に……あ、ご飯少なめで」
普段《ふだん》家族とメシを喰うときも、こいつはこんな感じである。テレビも観《み》ず、会話もせず、ひすら黙々《もくもく》と食べるやつなのだ。お袋《ふくろ》に話しかけられればちゃんと返すんだけど、それ以外は食事中まったく喋《しゃべ》らない。そのへん親父《おやじ》にそっくりなんだよな。
「えっと……このくらい?」
「……もっと減らして……半分くらいで」
「え〜っ? こんなにちょっとでいいの?」
「だっておかずのカロリーがチョー高そうだから、そんなに食べらんないし。全部《ぜんぶ》食べたら太っちゃう」
「そ、そっかっ……」
ちらっと自分の腹を眺《なが》める麻奈実《まなみ》。うむ、太い太い。例年《れいねん》のとおりなら、秋頃《あきごろ》から冬にかけて我が幼馴染《おさななじ》みのウエストはややふとましくなられるのであった。プラス七センチくらい?
いや、つーか気にすんなよ。桐乃《きりの》と比べるのがまず間違ってるんだって。
それに今日のおかずが高カロリーなのは、俺《おれ》の好きなものばかりをメニューに選んでくれたからだろ?
「はぁ〜」
自分の太さを自覚してため息を吐《つ》く地味《じみ》眼鏡《めがね》を見た俺は、ついつい含み笑いを漏《も》らしてしまったが――。モデルみたいにガリガリなやつより、ちょっとくらい太くたってきちんと食べるやつの方が、俺は好きだね。口に出して言うつもりはないけどよ。
しっかしこいつら、噛《か》み合わねえ会話だな。仲がいいとか悪いとか、それ以前の問題として、桐乃と麻奈実は相性《あいしょう》が悪そうだ。価値観《かちかん》やら性格やら、何から何まで違うもんなあ。
「じゃ、じゃ〜気を取り直してっ。いただきます、しよっか」
「おう、いただきます」
「……いただきます」
微妙《びみょう》に気まずい雰囲気《ふんいき》のままで食事が始まった。
食卓に並んでいるのは、トンカツ、キャベツ、トマトが盛りつけられた皿が人数分《にんずうぶん》。
こうや豆腐《どうふ》とひじきの煮付《につけ》け。漬《つ》け物が少々。ワカメと油揚《あぶらあ》げの入ったみそ汁。
ややカロリーがお高めなのを除けば、珍《めずら》しくも何ともない献立《こんだて》だが――
「ん、うめぇ」
俺はサクサクのトンカツを一口《ひとくち》食べるや、本心《ほんしん》から褒《ほ》めた。返事を待たずに二口三口。
普通に美味《うま》い。店で出すような味ではないが、毎日|喰《く》うならこっちのがいいかもしれん。
「ほんとっ。……よかったぁ」
麻奈実はホッと胸をなで下ろしている。桐乃の感想も気にしているようだったが、残念ながら桐乃は黙々と箸《はし》を動かしているだけで、料理の感想については一言《ひとこと》もない。
いつものことではあるし、ここで感想を促《うなが》すとまた喧嘩《けんか》になりそうなので、俺は何も言えずにいた。
「このトンカツ、肉の他にタマネギとシソが入ってて、二度|揚《あ》げしてあるんだよな」
「うん。きょうちゃん、前にこれ好きだって言ってくれたから……」
「そうだっけか。ハハ、まあ美味《おいし》いし、好きだけど」
そんな感じに食事は進み、やがて俺がお代わりのみそ汁を飲み干《ほ》したところで……
かた、と、桐乃《きりの》が食器を綺麗《きれい》に並べた。どこかムスッとした表情で、麻奈実の方を向き、
「ごちそうさまでした。どれもおいしかったです」
「え? うんっ……あ、ありがとう……」
「じゃ、あたしはこれで」
すっと音もなく席を立ち、ぺこっと会釈《えしゃく》し、リビングを出て行ってしまう。
その背を呆然《ぼうぜん》と見送っていた麻奈実は、桐乃の姿《すがた》が見えなくなってから、説明を求めるような瞳《ひとみ》で俺の方を向いた。
「美味かったってよ」
俺は肩をすくめるしかない。桐乃は、こういうところでウソがつけないやつなのだ。
いま麻奈実の料理を褒《ほ》めたのは、本心からだろう。
「ふはぁ…………」
俺の意図《いと》が伝わったようで、麻奈実は脱力《だつりょく》して、ゆるゆるの微笑《ほほえ》みを浮かべた。大きく息をついて、胸をなで下ろしている。
「……なんだか、すごく緊張《きんちょう》しちゃった」
まったくだ。小姑《こじゅうと》による嫁入《よめいり》り試験かっつーのな。
ていうかその場合、これは合格なのか、不《ふ》合格なのか。
ふと浮かんだ超《ちょう》どうでもいい思考《しこう》に、自分で笑っちまったよ。
そのままリビングでテレビを観《み》ながら食休みをしていると、食器を洗い終えた麻奈実が戻ってきた。俺のとなりにちょこんと座り、もじもじしている。
「どうした麻奈実? トイレならリビング出て、真《ま》っ直《す》ぐ行ってから右だぞ?」
「と、といれじゃないもんっ! きょうちゃんったら、でりかしーなさすぎっ!」
「そりゃ悪かった。で? じゃあなんだよ」
「その……きょ、きょうちゃんの部屋《へや》……見たいなぁ……なぁんて…………だめ?」
「あ? そりゃ構《かま》わんが……たいしたもんはねーぞ?」
「やった※[#ハート白、unicode2661]」
ぱん、と両|掌《て》を合わせて、嬉《うれ》しそうにする麻奈実。
とまぁそんなわけで、俺は麻奈実を自分の部屋に招くことになった。
リビングを出て、一緒《いっしょ》に階段を上っていく。
二階に上ってすぐ左手が、俺の部屋。階段を一段一段|踏《ふ》みしめながら、ふと思う。
……女の子を自分の部屋に上げるのはこれが初めてだな……。まぁ、女の子といっても、麻奈実なわけだが……それでも、昨日《きのう》のうちに部屋《へや》を片付《かたづ》けておいてよかったと思う。
ベッドの下に隠《かく》してあるエロ本は、ダンボールに入れた上で厳重《げんじゅう》にガムテープを貼ってあるし……。騒動《そうどう》の元凶《げんきょう》たる桐乃も、自分の部屋に引っ込んじまった。
これで俺《おれ》たちの邪魔《じゃま》をするものは、なにもないってわけだ。
「ここが俺の部屋な。……ま、入ってくれ」
がちゃり。ノブを回して扉《とびら》を開けると、真正面《ましょうめん》にある机の上に目線《めせん》がいき――
くぁWせdrftgyふじこlp;@:
んなっ……!
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
俺は大絶叫《だいぜっきょう》しながら学習|机《づくえ》までダッシュし、ノートパソコンのディスプレイを抱きかかえて麻奈実の視界《しかい》から隠《かく》した。これ以上ないほど必死《ひっし》の形相《ぎょうそう》でだ。
……なんでまた、こんな異常な行動を取ったのかって?
エロゲーのHシーンが映ってたからだよ! ノーパソのディスプレイに!
しかも――しかも『妹もの』だぜチクショウ!
嘘《うそ》……だろ……? ど、どどど……どうして桐乃のノートパソコンが俺の部屋にあるっ。
なぜだ……なぜこんなことに……ッ!
落ち着け――落ち着いて考えるんだ京介《きょうすけ》! どうしてこんな状況に陥《おちい》ったのか? いったい誰《だれ》が俺の部屋に、こんな即死《そくし》モンのトラップを仕掛《しか》けていきやがったのか?
いやいやいやいや! 考えるまでもねえーよ! いまこの家には俺と麻奈実と、あと一人しかいねえんだからさあ! クソッ、クソクソッ! |桐乃のヤツめ《ヽヽヽヽヽ》!
不機嫌《ふきげん》にリビングを出て行ったのに、あっさり機嫌が良くなってたのって、まさかこの即死トラップを仕掛けてスッキリしたからだったのか!?
なんでこんなことすんの!? ひどすぎる!
こ、殺す……あ、あああ、あいつ、あとでぜってー殺す……! ううッ……。
「ど、どうしたの……きょうちゃん……?」
冷《ひ》や汗《あせ》だらだらで振り返ると、部屋の入り口のあたりで麻奈実がこちらを窺《うかが》っていた。
俺の突然の奇行《きこう》に、ぽかんと口を開けている。
ど、どうしたのって言われましても……。
こ、この……俺の腕に隠すように抱かれている、M字|開脚《かいきゃく》で局部《きょくぶ》モザイクなロリ妹を、なんと説明すればいいものやら……。
「な、なんでもないっスよ?」
「……なんでもないって……言われても」
ですよね。
「いやっ! なんでもないんだってほんとに! いまのはちょっと……叫びながら走りたい衝動《しょうどう》に襲《おそ》われただけでな?」
なんで俺《おれ》の言い訳《わけ》っていつもこんなに苦しいんだろうね?
しかしマズイな……。これはマズイ。なにがマズイって、麻奈実《まなみ》にコレを目撃《もくげき》されたとき、自分が踏切《ふみきり》に飛び込まないという自信がまったくないところがマズイ……。死ぬ。マジで死ぬ。
「……ハァ〜……ハァ〜……ハァ〜……ハァ〜〜……」
俺は全身全霊《ぜんしんぜんれい》をもって打開策を検討《けんとう》した。少ない脳味噌《のうみそ》をフル回転させて案を捻《ひね》り出す。
エロゲCGをノートパソコンごと抱《だ》きかかえることによって隠《かく》している俺。
そして背後で呆然《ぼうぜん》としている麻奈実。この絶体絶命《ぜったいぜつめい》の状況から、どうやって生還《せいかん》するか。
なにか……なにかいいアイデアはないか? 思いつかなければ死ぬぞ? 頑張《がんば》れ! 頑張れ京介《きょうすけ》っ……うおおおおおおおおおおおおお……はぁぁぁぁぁぁぁぁッ!
「きょ、きょうちゃん……?」
麻奈実が心配そうな眼差《まなざ》しで、部屋の入り口から、ゆっくりとこちらに近付いてくる。
もうあまり時間は残されていない。……だがっ。
ピコーン! 頭上で、そんな音が聞こえた気がしたね。
「……待て! そうだよ……! これは……なんとかなるんじゃないか?」
追い詰《つ》められた俺は、キーボードの隅《すみ》っこにある『Esc キー』を凝視《ぎょうし》した。
そう――『緊急回避《きんきゅうかいひ》ボタン[#「緊急回避ボタン」はゴシック体][#「緊急回避ボタン」は二倍角の文字]』である!
画面《がめん》一杯《いっぱい》に表示されている自殺もんのエロ画像を、一瞬《いっしゅん》にして無害《むがい》きわまりない画像へと切り替えるスーパー機能《きのう》、乗用車におけるエアバッグ、あるいは戦闘機《せんとうき》における脱出装置《だっしゅつそうち》に等しい存在。ユーザーの希望を十全《じゅうぜん》に反映させた企業《きぎょう》努力の結晶《けっしょう》である。
幸いにして、現在ノーパソで起動《きどう》しているエロゲー『CO2』にも、同様《どうよう》の緊急回避システムが搭載《とうさい》されていたはずだ。
ああっ。いま俺はメーカーさんの良心《りょうしん》に、惜《お》しみない称賛《しょうさん》の念を贈《おく》りたい!
というわけで――
ぱちっ。俺はぎりぎりのタイミングで『緊急回避ボタン』を押し込むことに成功した。
「ふぅ〜〜」
抱きかかえるようにして隠《かく》していたディスプレイから身体《からだ》を離す。手の甲《こう》で額《ひたい》を拭《ぬぐ》う。
こ、これでOK……っ。もはやディスプレイは、毒《どく》にも薬にもならないどうでもいい画像に切り替わっているはずだ。俺は胸をなで下ろしつつ振り返る。
「ハハ、驚かせて悪かったな!」
だが俺が爽《さわや》やかな笑顔《えがお》を向けた先では――
「わ、わわ……すごい」
麻奈実《まなみ》が、高坂京介《こうさかきょうすけ》秘蔵《ひぞう》のエロ本を開いて眺めていた。
「ちょ……!? どっから出したんすかその本!」
ババババッ! 高速で部屋を見回すと、ベッドの下に隠《かく》していたはずのコレクションたちが、すべて床に無造作に投げ出されていた。部屋に入ったときは、ディスプレイばかりに目がいっていて気付かなかったが……んななっ。なんという……。さ、さてはコレも!
ひでえことをしやがるあの妹――! もはや悪魔《あくま》の所行《しょぎょう》だろコレ……!
「ぼ、没収《ぼしゅう》っ……!」
「あっ……」
俺は麻奈実がしゃがみ込んで読んでいたエロ本を取り上げるや、床をゴキブリのように這《は》いずってコレクションをかき集めた。がさがさがさっ。まさに神のごとき素早《すばや》さだったね。
呆然《ぼうぜん》としていた麻奈実が、かあっと赤面《せきめん》して一言。
「……めがねの娘《こ》ばっかりだった」
「それは違うんだよォォォォォ!」
違わないけど違うの! も、もう泣いてもいいすか!?
半泣《はんな》きで作業を続行し、なんとかコレクションを段ボールに詰める。なんてこった……。初めて部屋に入れた女の子に、秘蔵《ひぞう》のコレクションを見られてしまうとは……。
しかも中でも、もっとも見られてはいけない部類《ぶるい》の本を……。
んだよこのトラップルーム! もう死にたい! ……ぐすっ。だ、だがこれでもう、逆に恐れるものはないな。この部屋《へや》には、いま見られちまったもの以上にやばい代物《しろもの》はないからだ。
ないよね? ふと麻奈実の方に目をやると……
「…………………………じぃ」
「ま、麻奈実さん……今度はどこを見てらっしゃるの……?」
俺はみるみるわき上がってきた嫌《いや》な予感《よかん》に浸食《しんしょく》され、妙《みょう》な言葉|遣《づ》いになっていた。
だって麻奈実、なんか青ざめてるし……。
ハアハア嫌な予感に息を荒げながらも、麻奈実の視線《しせん》をたどると、その先には|無害な画像に切り替わったはず《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のパソコン画面があった。
「なん……らるれ!?[#「らるれ!?」は二倍角の文字]」
錯乱《さくらん》した悲鳴を上げる俺。
緊急回避《きんきゅうかいひ》ボタンを押したことによって切り替わった画面。
そこに映っていたのは――
スク水|姿《すがた》のロリっ娘《こ》が、悩殺《のうさつ》ポーズでプレイヤーを誘惑《ゆうわく》しているという『緊急回避画面』であった。でかいフォントで台詞《せりふ》が表示《ひょうじ》されている。
[#ここから「まるもじPOP体」太字]
『おにいちゃんはねー、妹にしかよくじょ〜しない、変態《へんたい》さんなんだよぉ〜〜』
[#ここで「まるもじPOP体」太字終わり]
「緊急回避できてねえ!? なんだこの画面!!」
「……きょ、きょうちゃん……これ……って?」
ちょっ、どういうことだよ!? なんで!? この前は緊急回避できてたじゃん! どうしてこんな画面が出てくるわけ? 確かに『緊急回避画面』には幾《いく》つかの種類があるって取説《とりせつ》にも書いてあったけど――まさかっ。
「スタッフの茶目《ちゃめ》っ気《け》とかで、緊急回避ボタンを押すと、何分の一かの確率《かくりつ》でエロ画像《がぞう》が出現するように仕組まれてたってことか!?」
だとしたら……ふ、ふざけるなよこのクソゲーが……っ!
誰《だれ》だ! こんな悪辣《あくらつ》な罠《わな》を考えた社員は!
貴様《きさま》らは軽いオチャメのつもりだったのかもしれんがなァ……この緊急回避ボタンに命を預けている男たちがいるということを顧《かえり》みたことはないのかよ!
なあ! どうなんだメーカーさんよぉ!?
グスッ……だ、だって……い、幾ら何でもこりゃあねえだろう?
ひでえよ……。純真《じゅんしん》な男子《だんし》高校生の信頼を裏切りゃがって……。
「きょうちゃん……よくじよ〜ってなに? おふろのこと?」
それは浴場《よくじょう》な!
クッ! いまはメーカーに怨念《おんねん》を送っている場合ではない!
慌《あわ》てて麻奈実の表情を再度《さいど》うかがうと、眼鏡《めがね》の幼馴染《おさななじ》みは、くりんと目を丸くした驚《おどろ》きの表情で、エッチなCGをジッと見つめていた。
「う、うう……」
この状況下で、俺《おれ》にどんな言い訳《わ》ができるだろう。何かを言わなくちゃ始まらないのだが、すぐに思いつけるわけもない。しかもいまさらなにを言っても手遅《ておく》れな気もする。
うああああああああ! ついに俺にも、このイベントが……!
ずっと恐れていたことが現実に……っ!
夏休み――友達にオタバレしかかっていたときの桐乃《きりの》は、ハンパなくテンパっていたが、もうアレをバカにできんな。当事者《とうじしゃ》になってみると、なるほどコレはやべえ。どうしていいか分からん。心臓《しんぞう》がバクバク鳴って、時間の進みがひどく遅く感じられる。
だらだら脂汗《あぶらあせ》を垂らしながら、幼馴染みの顔を見つめることしかできなかった。
「え、えぇ〜と…………」
麻奈実はしばし、何とも言えない微妙《びみょう》な声色《こわいろ》で、赤面《せきめん》しつつ言いよどんでいたが……
「……そっかあ」
やがて、ほんわかと慈愛《じあい》の微笑《ほほえ》みを浮かべた。
そっかあ。
そっかあって何!
何に対してどんな納得《なっとく》をしたんだおまえは! 知りたいけど聞きたくねえ――!?
………………。
まあ。俺は確信しちゃいたんだよ。俺と麻奈実の関係は、こんなことでどうにかなっちまうほどヤワなもんじゃないってな。
俺の愛する平穏《へいおん》な日常は、これしきの爆弾《ヽヽ》で崩れたりはしない。
だから――もちろん麻奈実は、俺の部屋で、眼鏡っ娘《こ》のエロ本やら、エッチな妹のCGを見てしまったくらいのことで、ブチキレたり、誰《だれ》かさんみたいに『もう話しかけないでくださいね』みたいなことを言ってきたりは、しない。
しないのだが。しなかったのだが……。このとき、どんな台詞《せりふ》が返ってきたのか――
俺は今後ずっと、おそらくは一生、忘れることはないだろう。
「……えっと……きょうちゃん……その……」
麻奈実はディスプレイと俺の顔を交互《こうご》に眺《ながめ》め、菩薩《ぼさつ》のような微笑みでもじもじと恥《は》じらいながら……こう言った。
「……これからは、おにぃちゃんって呼んだ方がいい?」
俺はその場で号泣《ごうきゅう》したよ。
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【オタクっ娘《こ》ほのぼのチャット壱号《いちごう》】
参加者 ■沙織《さおり》(管理人)
■きりりん@メルル三期《さんき》決定(゚∀゚)[#「(゚∀゚)」は縦中横、以下同様]
■†千葉の堕天聖黒猫《だてんせいくろねこ》†
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†千葉の堕天聖黒猫†[#「†千葉の堕天聖黒猫†」はゴシック体]   :だから読み方が違うと言っているじゃない。何度《なんど》説明すれば理解できるのかしらねこの原人《げんじん》は。千葉と書いて、せんよう≠ニ読むの。つまり千枚《せんまい》の葉が優雅に舞い散る様子《ようす》を表わして……
きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)[#「きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)」はゴシック体]:チバとしか読めないからwww千葉《チバ》の堕天聖(笑)www
†千葉の堕天聖黒猫†[#「†千葉の堕天聖黒猫†」はゴシック体]   :……そ、それ以上|愚弄《ぐろう》すると、後悔《こうかい》することになるわよ。
沙織(管理人)[#「沙織(管理人)」はゴシック体]      :まあまあ。お二人とも落ち着いてくださいな。それよりも、きりりんさんにうかがいたいのですけれど……
きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)[#「きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)」はゴシック体]:んー?
沙織(管理人)[#「沙織(管理人)」はゴシック体]      :ええと……きりりんさん、いったいあれはどういうことですの?
きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)[#「きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)」はゴシック体]:は? アレってなに?
沙織(管理人)[#「沙織(管理人)」はゴシック体]      :決まっているじゃありませんの……京介《きょうすけ》お兄《にい》様のことですわ。
きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)[#「きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)」はゴシック体]:???
沙織(管理人)[#「沙織(管理人)」はゴシック体]      :も、もう、とぼけて。先日わたくしたちがきりりんさんのお家に遊びにいったときのことですわ。
きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)[#「きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)」はゴシック体]:……あー、アレね。はいはいはいはい。ったくありえないよねー。一人でへこまれたら、こっちまでテンションさがるっつーの(#゚Д゚)[#「(#゚Д゚)」は縦中横]
†千葉の堕天聖黒猫†[#「†千葉の堕天聖黒猫†」はゴシック体]   :……ふん、確かに、ずいぶんとまあ盛大《せいだい》に落ち込んでいたようね。……話しかけてもろくに返事もしないし。もとから濁《にご》った眼《め》をした男だとは思っていたけれど、さらに輪をかけて眼が死んでいたわ。レイプ目よあれは。
沙織(管理人)[#「沙織(管理人)」はゴシック体]      :いつもわたくしたちに気を遣《つか》って、明るく楽しく突っ込みを入れてくださる京介お兄様が、あんなふうになるなんて……。いったい――何があったんですの?
きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)[#「きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)」はゴシック体]:ひひひ、それがさ〜あw たいしたこっちゃないんだけどぉ……。
[#ここで字下げ終わり]
〜〜省略《しょうりゃく》〜〜
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沙織(管理人)[#「沙織(管理人)」はゴシック体]      :……ま、まあまあ……きりりんさん。そ、それはかなりやりすぎですわ。
きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)[#「きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)」はゴシック体]:え〜? あたしのせいじゃないってばw ゲームを起動させといたのと、エロ本部屋にぶちまけたのはあたしだけど、最後のはあいつの自業自得《じごうじとく》だしw つか緊急回避《きんきゅうかいひ》ボタン押して自爆《じばく》とかwwwwねーよwwっうぇwww
†千葉の堕天聖黒猫†[#「†千葉の堕天聖黒猫†」はゴシック体]   :不快だから、語尾《ごび》に草を生やすのをやめて頂戴。そしてそもそもそこまで入念《にゅうねん》に罠《わな》を仕掛《しか》けたなら、どこからどう見てもあなたのせいでしょう。
きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)[#「きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)」はゴシック体]:――は!? ちょっとなに責任|転嫁《てんか》してるわけ!? 罠|仕掛《しかけ》けて地味眼鏡《じみめがね》追い出しちゃいなさいよって煽《あお》ったのはアンタじゃん! 電話でさあ!
沙織(管理人)[#「沙織(管理人)」はゴシック体]      :ちょっと! 黒猫さんが考えた罠だったんですの!?
†千葉の堕天聖黒猫†[#「†千葉の堕天聖黒猫†」はゴシック体]   :……ふ、ふん。まさか本当に実行するなんて思わなかったのよ……。
きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)[#「きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)」はゴシック体]:言い訳《わけ》すんなバーカ! ぜんっぶあんたのせいだかんね! どうしてくれんのよこの始末《しまつ》! あの陰鬱《いんうつ》な生き物と同じ屋根の下で過ごしてんのよあたし!
†千葉の堕天聖黒猫†[#「†千葉の堕天聖黒猫†」はゴシック体]   :ど、どさくさに紛《まぎ》れて全《ぜん》責任をなすりつけないで頂戴。 『不愉快《ふゆかい》な地味|女《おんな》が家に来たんだけど、ムカついてしょーがないんだよね〜』って話|振《ふ》ってきたのはあなたじゃない。百歩|譲《ゆず》って私にも責任の一端《いったん》があるとしても、せいぜい20パーセントというところよ。実行|犯《はん》の方が罪は遥《はる》かに重いのだと自覚しなさい。
きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)[#「きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)」はゴシック体]:なにそれェ! テキトーなこと言ってんじゃないっての! アンタのせいでしょアンタのさあ!
†千葉の堕天聖黒猫†[#「†千葉の堕天聖黒猫†」はゴシック体]   :適当なのはそっちでしょうが。ふん、あなたのせいよあなたの。
きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)[#「きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)」はゴシック体]:違いますゥ〜〜〜。地味女とアンタのせいですゥ〜〜。
沙織(管理人)[#「沙織(管理人)」はゴシック体]      :(#^ω^)[#(#^ω^)」は縦中横]
†千葉の堕天聖黒猫†[#「†千葉の堕天聖黒猫†」はゴシック体]   :↑あ、あら……もしかして……怒ったの?
きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)[#「きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)」はゴシック体]: うえ!? マジで?
沙織(管理人)[#「沙織(管理人)」はゴシック体]      :お、お二人とも! いつもあんなにお世話《せわ》になっている京介お兄様に、なんてひどい仕打ちをしてるんですのっ! ありえませんわっ!
きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)[#「きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)」はゴシック体]:つーかアンタお嬢《じょう》口調《くちょう》だと、びみょーに説教《せっきょう》くさいよねー。
†千葉の堕天聖黒猫†[#「†千葉の堕天聖黒猫†」はゴシック体]   :きっとネット上では高貴《こうき》な『お嬢さまキャラ』を演じているということなのでしょう。口調のみならず微妙《びみょう》に性格を変えているのは意図《いと》的なものね。フッ、よくやるわ。
沙織(管理人)[#「沙織(管理人)」はゴシック体]      :わ、わたくしのことはどうでもよろしいじゃありませんの……。そんなことよりもっ。京介お兄様があまりにもおいたわしくて……。なんとか元気づけて差し上げたいですわ。きりりんさん、黒猫さん、お二人にも協力してもらいますわよっ。というか、率先《そっせん》してやってもらいますわっ!
きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)[#「きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)」はゴシック体]:な、なんであたしがそんなこと……。
沙織(管理人)[#「沙織(管理人)」はゴシック体]      :おとぼけにならないで? きりりんさんなら、わたくしなどが言わずとも分かっているはずですわよ、だいたい最近の貴女《あなた》ときたら……まあ、お気持ちは分からなくもありませんけれどね。
きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)[#「きりりん@メルル三期決定(゚∀゚)」はゴシック体]:チッ、悟《さと》ったよーな口利いちゃってくれんじゃん。…………で? なにすりゃいいのよ?
†千葉の堕天聖黒猫†[#「†千葉の堕天聖黒猫†」はゴシック体]   :やれやれ……仕方ないわね。
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その日、俺《おれ》は沙織《さおり》にメールで呼び出され、秋葉原《あきはばら》に来ていた。
「……ったく、なんだってんだよ。こんなところまで人を呼び出しやがって……」
指定《してい》の場所へ向かって電気|街《がい》を歩きながら、不機嫌《ふきげん》にぼやく。
「……だめだ……俺はもうだめだ……」
気分は依然《いぜん》として最悪《さいあく》。三月の町並みを照らすまばゆい太陽さえもが、俺を嘲笑《あざわら》っているように思えてくる。常より深い猫背《ねこぜ》になって、ポケットに両手を突っ込んで、足取り重くよたよた歩く。なんで俺がこんなザマになっているのかといえば、先日|桐乃《きりの》が仕掛《しかけ》けた罠《わな》によって、幼馴染《おさななじ》みにエロゲーを見られてしまったあの事件が、まだあとを引いているのであった。
……うう、もう死にてえ。
いや、別に麻奈実《まなみ》に嫌われちゃったとか、そーゆう深刻《しんこく》な事態《じたい》じゃあないんだ。
むしろ麻奈実は気を遣《つか》ってくれているのか、あれ以降、まったくその件には触れてこない。
それが辛《つら》いんだってばよ! 分かるだろう? このどうにもならない感。
ああーっ、一生ことあるごとに思い返しては、せつない後悔《こうかい》で胸が痛むんだろうな……。
ともかく俺が負った心の傷は、一週間やそこらで癒《い》やされるようなもんじゃねーんだよ。
今日だって、沙織がどうしても『きりりん氏のケータイ小説|発売《はつばい》記念パーティ』に来てくだされって熱心に頼むから、しょうがなくここまで出張ってきたんだぜ?
ホラ、このまえ沙織たちと一緒《いっしょ》に、桐乃へのプレゼントを買いに行ったじゃんか。
あれを渡すんだってさ。
アホらしい。本当なら、もう一歩たりとも部屋《へや》から出たくないくらいなのに、なんでよりにもよって、あの悪魔《あくま》のことを祝ってやらなくちゃならねーんだ。
けど、けどよ……。他でもない沙織の頼みだからなァ〜……。
あいつには常日頃《つねひごろ》世話《せわ》になりまくっているわけで、返せるときに恩を返しておかないと俺の気が済まない。
だから俺がここに来ているのは、桐乃のためなんかじゃなく、沙織のためだ。
絶対に勘違《かんちが》いするんじゃないぞ。
「……っと、ここか?」
ふと足をとめ、俺が見上げたのはなんの変哲《へんてつ》もないビルだ。
強いていえば、ちょっとアヤシイ感じがする。
ビルには幾《いく》つか看板《かんばん》がかかっていて、そのうちのひとつに『三階・レンタルルーム@あきば』と書かれていた、携帯《けいたい》で沙織からのメールと照合《しょうごう》してみたが、俺が呼び出されたのはこの場所に間違いないようだった。
「レンタルルームねえ……なんのことやら」
あとから聞いた話になるが、カラオケボックスみたいな感じで部屋や機材《きざい》を貸してくれるサービスで、ちょっとした会議とかに使うんだってよ。
エレベーターで上へ。三階に到着し、エレベーターのドアがぷしゅーと開く。すぐ右手に受付|窓口《まどぐち》があり、左手に延びている通路には幾《いく》つかの扉《とびら》があった。
なるほど、扉の一つ一つがレンタルルームってわけね。
カラオケボックスよろしくまずは受付で部屋番《へやばん》を聞くのだろうが、そんなことをしなくても俺の目的地はすぐに分かった。一番|手前《てまえ》の扉のわきに、ちょうど冠婚葬祭《かんこんそうさい》の会場のような案内|看板《かんばん》が置かれていたからだ。えっと、ホラ、分かるか? 『なんとかパーティ会場』とか、そんなのさ。
そんな感じで、こう書かれていた。
『高坂京介《こうさかきょうすけ》専属《せんぞく》ハーレムご一行《いっこう》さまパーティ会場』
ハッハッハ! 誰だよ高坂京介って〜。
専属ハーレム? ばっかじゃねーのコイツ。変態《へんたい》かよ。こっ恥《ぱ》ずかしいやつだなあ。
「俺のフルネームだよくっそお〜〜〜〜〜!?」
誰だッ! こんな公衆《こうしゅう》の場で、俺の名を辱《はずかし》めている不届《ふとど》きものは!
――たぶん沙織《さおり》だろうなァ。桐乃《きりの》も黒猫《くろねこ》も『ハーレム』なんて単語は死んでも使わねーだろうし。きっと他の二人が知らないところで、独断《どくだん》で書きやがったに違いない。
むぅぅ〜……あいつにゃさんざん世話《せわ》になってるから、あんまりこういうことは言いたかないんだが――人が落ち込んでるときになんてことしてくれんだボケッ! 泣くぞ! 俺が!
「はい、高坂京介さまですね。301番のお部屋になります」
「……ういっす」
俺は受付のお姉さんに力なく頷《うなず》いて、『高坂京介専属ハーレムご一行さまパーティ会場』と書かれた看板の脇に立った。目前《もくぜん》の扉には何故《なぜ》か、他の扉にはない鈴《すず》がくっついていた。明らかに即席《そくせき》で付けたと分かる、不《ふ》自然な形でだ。
んん……? この鈴って……。ぞくっと奇妙《きみょう》な既視感《きしかん》を覚えながら扉を開く。
からん。かららん――。
「お帰りなさいませでござる! ご主人様!」
エプロンドレスを着たメイドさんが、二人並んで俺を出迎えた。
俺は見なかったことにして扉を閉めた。
「……………………な、なんだいまのは……?」
両手で扉を固く押さえつけながら、呟《つぶや》く。い――いま片方デカイのいたよね!? 俺の見間違《みまちが》いじゃないよね!? メイ……ド……? あんなガタイのいいメイドさんがいていいの?
ちょ、ちょちょ、ちょっと待ってくれ。脳《のう》が事態《じたい》を整理できてないから。い、いや……自分が見たものを信じたくないというか……その……。
「……っ……し、知ってる顔が、有り得ない服《ふく》着て立ってたよーな」
ごくっ……。生唾《なまつば》を飲み込む。額《ひたい》の汗をぬぐう。
すうはあと深呼吸してから、恐る恐る、再び扉《とびら》を開ける。
からん。かららん――
「お帰りなさいませ! ごしゅじ――ってやってらんないっての!」
扉を開けた瞬間《しゅんかん》、ご主人様(俺《おれ》)の出迎えに現れた茶髪《ちゃぱつ》のメイドさん(でかくない方)が、唐突《とうとつ》にプッツンした。ズバーン! と、ヘッドドレスを床に叩《たた》きつけて気炎《きえん》を吐《は》く。
「なんっでこのアタシが、メイドのコスプレしてお出迎えしなくちゃなんないのよ!?」
「き――きりりん氏! まあまあまあまあ抑えて抑えて! 練習では平気だったのに、どうして本番《ほんばん》では阿修羅《あしゅら》になってしまうのですか!?」
さっき一瞬《いっしゅん》見えたドでかいメイドさんは、やはり沙織だったらしい。メイド服を着ちゃいるのだが、ぐるぐる眼鏡《めがね》だけはそのままである。
一方、茶髪のメイドさんに扮《ふん》している桐乃は、俺がご主人様だったら〇.一秒でクビにするよーな態度の悪さで、兄の顔面を指さした。
「相手が目の前にいるのといないのとじゃ全然|違《ちが》うっつーの! コスプレ自体は興味《きょうみ》あったし楽しいケド、こいつにへりくだって頭下げるとか、アタシの尊厳《そんげん》が耐えらんないし!」
いや、事態《じたい》はよく分からんけど。そんなこと言ったら俺の尊厳はどうなるんだよ。
もう跡形《あとかた》もないですよね?
「……お、おまえら……これは……どういう……?」
俺は理解|不能《ふのう》の展開に面食《めんく》らいながらも、辛《かろ》うじてそれだけ呟《つぶや》いた。
しかし桐乃も沙織も、俺を放置して言い合いを続けていて、一向に答えてくれない。
俺はきょろきょろとあたりを見回した。白を基調《きちょう》としたごくシンプルな部屋《へや》だ。
だいたい広さは十二〜三|畳《じょう》ってところか。白いオフィステーブルと、オフィスチェア、ホワイトボードなどがあり、32インチの液晶《えきしょう》モニタが二つ、パソコンと繋《つな》がっている。テーブルの上には、誰《だれ》かの私物《しぶつ》であろうPSPが何台か。
……これだけを見たならば、なるほどこの会議室っぽいところでゲームでもやって遊ぼうって集まりなんだなと得心《とくしん》しただろう。
しかしなぜにメイド服? そこが解せねえ。
ケータイ小説|発売《はつばい》記念のパーティーじゃなかったのか?
俺が頭上に疑問|符《ふ》をいくつも浮かべていると、桐乃との言い合いを一旦切り上げた沙織が、『おっとまずい』といった具合に、微妙《びみょう》に慌《あわ》てて話しかけてきた。
「いやハハ、なに、余興《よきょう》の一環《いっかん》でござるよ。このレンタルルームではコスプレ衣装《いしょう》の貸し出しサービスなどもやっておりまして。さて、いかがでしたでしょうか、拙者《せっしゃ》のメイド服|姿《すがた》は? かわいい?」
こんなにガタイのいいメイドさんがいてたまるかっ。
よっぽどそう言ってやりたかったが、ぎりぎりのところで踏みとどまる。うむ、世話《せわ》になっている相手に本当のこと言っちゃいかんよな。
「……か、かわいい……のでは?」
「ほほうっ、萌《も》えましたかな?」
「それはない」
いかん否定してしまった! こいつが『してやったり!』みたいな顔で言うもんだからつい!
自分のメイド姿を《すがた》、真顔《まがお》で『ない』と返されてしまった沙織《さおり》は、例のごとく口元《くちもと》を| ω 《こんなふう》にし、うつむきがちに呟《つぶや》いた。
「にょろーん」
残念だったな。元ネタが分からないから、反応しようがねーぞ。
当惑《とうわく》する俺《おれ》をよそに、沙織はぶつぶつと何事かを呟いている。
「……ふう〜む、あまり喜んではいただけなかったご様子《ようす》。……おかしいですなあ、京介氏《きょうすけ》は眼鏡《めがね》っ娘《こ》フェチだと聞いておりましたのに」
「何故《なぜ》おまえがそんなことを知っている!?」
さ、さては兄の秘密《ひみつ》を漏《も》らしやがったな桐乃ォ――!?
ぎんっ! と容疑者《ようぎしゃ》の顔を睨《にらみ》み付けると、我が妹は『しんねーよバァカ』みたいな感じに肩をすくめた。くそぉぉ……おまえはどこまで俺の世間体《せけんてい》をおとしめるつもりなんだっ。
い、いや、違うんだよ! 俺が集めたコレクションに眼鏡かけた女の子が多いのは、たまたまっつーか! 気付いたらそうなってたっつーか!
とにかくそういう性癖《せいへき》じゃないんだって!
そう沙織に弁明《べんめい》しようとしたら、
「フッフッフ……やはり京介氏が眼鏡フェチだというタレ込みは正確だったようですな……。しかし――だとするとこれはいったいどういうことなのでしょうか? 京介氏|的《てき》に、いまの拙者《せっしゃ》はストライクゾーンど真ん中のハズですが?」
「萌えねえ――っつってんだろうが! いまのオマよは脳天狙《のうてんねら》いのデッドボールだ! ……だいたいだなァ……オマエがかけているのは眼鏡などではない! ぐるぐる眼鏡だッ! この二つは全然|違《ちが》うもんなんだよ! 分かったかこの野郎《やろう》!」
「…………京介氏の眼鏡への熱意《ねつい》はよく分かりました」
気付けば沙織が引いてしまっていた。なんでだろう? なんかおかしいこと言ったかな俺?
まあ確かに、ちょっと言い過ぎたかもな。せっかく好意《こうい》で出迎えてくれたんだろうに。
俺はポリポリと頬《ほう》を掻《か》きながら、フォローの台詞《せりふ》を述べることにした。
「……いや、とにかくさ。驚《おどろ》かそうって意図《いと》は伝わってきたけどよ。喜ぶってのは……なにせ妹が混じってるし……」
いま沙織にも言ったけど、オタクがよくいう『萌《も》え』みたいな喜びは断じてない。
俺の回答《かいとう》を聞いた沙織は、口元《くちもと》を| ω 《こんなふう》にして、
「ふむむ……なるほど、もう少しエッチな衣装《いしょう》の方がよかったとおっしゃる?」
「よくねえ! なんだいまの『なるほど』ってのは!? 妹|属性《ぞくせい》の人じゃねえっつってんだろ!」
きょとんと首をかしげやがって! 相変わらず日本語が通じないやつだ!
俺が沙織に全力|突《つ》っ込みをかましていたら、いつぞやのよーに、桐乃がアキレス腱《けん》を蹴《け》っ飛ばしてきた。どかっ。
「痛っ……!? また……おまえってやつは……くぅぅ……なんなんだよ!?」
涙目《なみだめ》で振り返ると、すぐさま妹が、至近《しきん》距離からメンチ切ってくる。
「うっさい! 黙《だま》って聞いてりゃ、さっきからなにその態度! せっかくこのアタシが、こ、ここまでしてやったってのに――いったい何がフマンなわけ!?」
「分かんねえの!?」
「ぜっんぜん? ……ばっかみたい、一人で怒っちゃってさ……。本当なら、こんなカッコ撮影《さつえい》でだってしないのに……」
ふんっ。メイド姿《すがた》の桐乃は、腕を組んでそっぽを向いた。
茶髪《ちゃぱつ》にピアスにメイド服という。明らかにミスマッチな格好《かっこう》の妹であるが、元の素材《そざい》が良いからか妙《みょう》に似合っている。認めたくはないが、見た目だけなら非常にかわいい。
メイドに扮《ふん》した妹の姿を、俺は複雑《ふくざく》な心境《しんきょう》で眺《なが》めていたのだが、そこで、そっぽを向いていた桐乃が冷たい流し目で睨《にら》んできた。
「………………キモ、なに見てんの?」
見せるためにその服着たんじゃねえの!? 自分で着ておいてその台詞《せりふ》は何事だこいつ。
ったく……本当になんなんだよ? 桐乃のケータイ小説発売記念パーティだからってんで、俺はここに来たってのに……。何故《なぜ》かおまえらはメイド服着て出迎えてくるわ、それでこっちが微妙《びみょう》な反応すりゃ今度は怒《おこ》り始めるわ……。理不尽《りふじん》にもほどがあるぞ。
つーか、こいつら絶対|何《なに》か隠《かく》してるだろ? だって明らかにおかしいもん。
「……むう」
だが、それがなんだか分からない。
少なくともこのパーティは、名目《めいもく》どおりのものではなさそうだった。
……警戒《けいかい》せねばなるまい、こやつら、いったい何を企《たくら》んでいやがる……。
俺は注意深く周囲を見回した。と――そこで気付く。
桐乃と沙織と――。
一人、足りない。
「あれ? 黒猫《くろねこ》は? きてねーの?」
「ああ、黒猫氏なら――」
ぐるぐる眼鏡のメイドさんは、ぐるりと背後を振り返り、部屋の隅っこを指さした。そこには――
「あ」
「…………」
カーテンの裏に隠《かく》れて、ネコ耳メイドが、ちょこんと顔を覗《のぞ》かせていた。
「違うのよ」
黒猫は、開口《かいこう》一番そう言った。覚悟《かくご》を決めたようにゴクリとつばを飲み込み、おずおずとカーテンの裏から進み出てきて――最初の台詞《せりふ》がこれである。
「………………」
俺は何を言っていいか分からず、目前《もくぜん》で恥《は》ずかしそうにむっつりしているネコ耳メイドを見つめた。白いエプロンドレスは他と同じだが、本物そっくりの黒いネコ耳とシッポが生えている。……めちゃくちゃ似合《にあ》っているのだが、コメントに困るな。
しかたないので無《む》表情で黙《だま》っていた。
すると俺の無表情を、あっちが勝手《かって》に解釈《かいしゃく》したらしい。黒猫はふいっとそっぽを向いて、
「……違うと言っているじゃない」
んなこと言われてもな。
俺には何が違うのかさえ分からなかったが、機嫌《きげん》を損《そこ》ねてしまったらしい。
またしても気まずい沈黙《ちんもく》に包まれかけたとき、沙織がフォローに入ってくれた。
「いやいや黒猫氏! そんなに恥ずかしがらずとも、お似合いですのに! 京介氏《きょうすけ》もそう思いますでしょう?」
「お、おお。……似合ってるんじゃないか?」
「……ふん、お世辞《せじ》は結構《けっこ》よ」
さらにふいっとそっぽを向く黒猫。もうほとんど後ろを向いてしまっている。
ネコ耳がぴこぴこと震え、おしりでシッポがくねくねしていた。
……う、動く……? ……最近のコスチュームってすげえな、リアル過ぎるぞ。
桐乃《きりの》も俺と似たようなことを思ったようで、となりで目を見張っていた。
「……悔《くや》しいけど……か、かわいいじゃない」
この様子《ようす》だと、シッポや耳が動くことをいま知ったらしい。
うちの妹はファッションに一家言《いっかげん》あるやつなので、見てくれや服装については嘘《うそ》がつけない。
いつも喧嘩《けんか》ばかりしている相手のことも、このときばかりは素直に褒《ほ》めた。
「ねえちょっと教えてくんない? そのネコ耳とシッポ、どこに売ってんの? ここの貸衣装《かしいしょう》にはなかったよねそれ」
「……これは自前《じまえ》よ」
「自作《じさく》!? マジで!?」
「……(こくん)」
ほんの少しだけ険《けん》をゆるめて頷《うなず》く黒猫。彼女は桐乃が本気で驚いているのが内心《ないしん》嬉《うれ》しかったのか、コスプレについての話を少しだけしてくれた。コスプレで使う衣装《いしょう》を用意する方法は大きく分けて、『自分で買う』『レンタルする』『自作する』の三つあり、一番|敷居《しきい》が低いのはレンタルなのだという。
購入《こうにゅう》するほどの金はかからないし、自作するほどのスキルも必要ないからだ。
「……でも、自分で作れるのなら、その方が費用が抑えられるケースが多いわね。工夫《くふう》すれば材料|費《ひ》なんて、それほどかからないしね。もちろん凝《こ》ったものを作ろうと思ったら、それなりのお金はかかってしまうけれど」
「……へえ。あんたって、わりと凄《すご》いよね」
ひねくれてる桐乃が、ここまで黒猫を認める発言をするのは珍《めず》しい。しかしこいつにしても、素直に賞賛《しょうさん》するしかなかったのだろう。だって凄いもんな。
ゲームも超上手《ちょううま》かったし――めちゃくちゃ器用《きよう》なんだろう、黒猫は。
しかしこいつは、褒《ほ》められると照れ隠《かく》しで怒る傾向があるので、いつものように、桐乃に向かって悪態《あくたい》を吐《つ》きはじめた。黒いシッポと耳をくねくねぴくぴく動かしながら、
「……毎回毎回……遠回しな自画自賛《じがじさん》はやめて頂戴《ちょうだい》と言っているじゃない(ぴくぴく)。……ふん、どうせ暗《あん》に自分の方が凄いと言いたいのでしょう?(くねっくねっ)」
「……くぅ……やっば……! このコス、やっば……! くやしい……こんなやつに……!」
桐乃は口元《くちもと》を手で隠《かく》し、なんらかの衝動《しょうどう》を堪《た》えているようだ。そのせいか、普段《ふだん》なら絶対に口にしないような台詞《せりふ》を再び漏《も》らした。
「ね……ねぇ、今度、あたしにも作ってよ、そのネコ耳とシッポ」
「……む、」
桐乃に詰め寄られた黒猫は、いつもと違う相手の感触《かんしょく》に当惑《とうわく》しているようだ。大きなネコ目をぱちくりとさせて、やや仰《の》け反《ぞ》り気味《ぎみ》になっている。
「……ん」
そこで黒猫は、何故《なぜ》かちらっと俺に目線《めせん》を寄越《よこ》した。
よく分からないが、『あなたの妹がうざいから何とかして頂戴』って意味か? たぶんそうだな、他に理由がないもん。
俺は肩をすくめて言ってやった。
「はは、作ってやれば?」
「……材料|費《ひ》、払いなさいよ」
手を合わせて『お願い』してくる桐乃と視線《しせん》を合わせず、渋々と呟《つぶや》く黒猫。
そんな俺たちのやり取りを、一人|無言《むごん》で眺《なが》めていた沙織《さおり》は――なぜ何故か、にやにやと微笑んでいた。
ってなわけで、レンタルルームに集ったオタク三人|衆《しゅう》+俺。
計四名がテーブルについていた。ちなみに女連中《おんなれんちゅう》はいまだにメイド服を着たままである。
出オチで終わったんだから、もう脱ぎゃいいのに。
そろいもそろってこんなカッコして――パーティとはいえやりすぎだろ。
座り順は適当で、チェアのキャスターを転がして、臨機応変《りんきおうへん》に移動しているという感じ。
テーブルには32インチのディスプレイが二つ載《の》っていて、ゲーム機やパソコンと繋《つな》がるようになっていた。
「ここはオフ会の二次会などで、よく使う場所でしてな。電源を取れますし、パソコンやゲームなどもできますし、カラオケボックスなどよりも使い勝手《がって》がいいのですよ、ニンニン」
沙織がこのレンタルルームについて解説してくれた。俺は「ふうん」と相槌《あいづち》を打ってから、根本的な疑問を他の三人に向けて投げてみた。
「で――…………えっと、このあとどうすんの? なんか、桐乃のお祝いパーティなのに、俺が主賓《しゅひん》みてーになってんだけど」
「……気のせいよ」
「……ばかじゃん」
と、黒猫と桐乃からは適当な返事。沙織の顔をうかがってみるも、いつものように分かりやくすい説明が返ってこない。やはり何かを隠《かく》しているようだ。
沙織が話を変えるかのように言った。
「とりあえず|拙者のターン《ヽヽヽヽヽ》は終わりなので――次は黒猫|氏《し》の番ですな」
沙織に話を振られた黒猫が、こくんと無言《むごん》で頷《うなず》く。しかし俺には意味が分からない。
「なんだそりゃ? なんの順番《じゅんばん》だよ?」
「フフフ、例の『お題《だい》ゲーム』の応用でござるよ京介氏《きょうすけ》。パーティの余興《よきょう》だと言ったではありませんか。つまり順番に一人ずつ、|きりりん氏《ヽヽヽヽヽ》のために用意してきた出し物を披露《ひろう》するというわけですな」
「なるほどな。しかし、そんな話聞いてなかったから、出し物なんざ用意してないぞ、俺」
「ハハ、構いませんよ。なにせ、京介氏はリアクションだけで十分|面白《おもしろ》い出し物になっておりますから」
おい、どういう意味だそれは。
「いちいちうるさいなー。いいじゃん、細かいことはさー」
「きりりん氏のおっしゃるとおりですな。パーティの余興なのですから、明るく楽しくみんなで騒げればそれでよいのですよ」
「ふん」
俺は鼻を鳴らした。正直、そんな気分じゃないんだが――
「おまえがそう言うなら、そうさせてもらうさ」
苦笑《くしょう》をかみ殺しながら肩をすくめる。もとよりそのつもりだったのだ。
いかに俺が桐乃にむかついていようが、主催者《しゅさいしゃ》の面目《めんもく》をつぶすような真似《まね》はしないよ。
当面《とうめん》俺がやるべきことは――おまえらの用意した出し物とやらを眺《なが》めて、楽しく雑談《ざつだん》に参加すること。っていうか、他にやれることなんかないしな。オーケイ、了解《りょうかい》したぜ。
できるかどうかは分からんが、善処《ぜんしょ》するさ。
「話はまとまったかしら?」
出し物とやらを準備していた黒猫《くろねこ》が、小さな声で言った。皆がうなずくと、彼女は机上《きじょう》のPCマウスを操作《そうさ》し、何らかのソフトを起動させる。
「私の出し物は……これよ」
デイスプレイに映し出されたのは、漫画《まんが》の表紙《ひょうし》のようなイラストだ。
制服|姿《すがた》の女の子が、ムスッとした顔で腕を組んで立っており――その後ろから、へたれっぽい顔の男がひょこっと顔を出しているという構図《こうず》。
タイトルは、『ベルフェゴールの呪縛《じゅばく》』とある。
「……今日のために、私が描いた漫画よ。プレゼンテーション形式で御覧《ごらん》あれ」
どうやらこれは、黒猫が桐乃のために描いてくれた漫画らしい。こいつの絵は以前に一度見せてもらったことがあるが、あれから練習を重ねたのか、素人目《しろうとめ》にも分かるほど、明らかに絵が上達《じょうたつ》していた。作風《さくふう》を変えたのか、あごがあんまりトガってなくて、むしろまるまるっとしたかわいらしい絵柄《えがら》になっているのが印象的《いんしょうてき》だった。まるでアニメのような感じだ。
「……短《たん》期間のうちに、えらい絵がうまくなってるな」
「……ありがとう。そう言ってもらえると、少し安心するわ」
ふぅ、と、胸をなで下ろす黒猫。いまの台詞《せりふ》は、本心からのものだったらしい。
先日《せんじつ》自分で口にしたとおり、漫画を頑張《がんば》って練習しているのだろう。その成果が、この上達したイラストってわけだ。そもそもこいつゲーム超上手《ちょううま》いし、自分でコスプレ衣装《いしょう》作ったりしてて器用《きよう》だもんな。小説よりも、漫画の方が向いているのかもしれない。
このぶんなら、熊谷《くまがや》さんを見返してやれる日が、わりと遠からず来るような気がした。
実にいいことだ。とてもいいことだと思うのだが、
「……それはいいんだケド」
俺の心の声を、代わりに口に出してくれたのは、ムスッとした表情で腕を組んでいる桐乃だ。
恐らく俺と同じことを感じたのだろう、感情を伴わない声で呟《つぶや》いた。
「一つ聞いていい?」
「どうぞ?」
「…………このキャラ、あたしにそっくりじゃない?」
「………………そしてこっちの幸薄《さちうす》そうな男は、どことなく俺に似てるな」
「はっはっは――これは凄《すご》い! 確かに、きりりん氏と京介氏《きょうすけ》にそっくりですな!」
桐乃に続いて、俺と沙織が指摘《してき》する。指摘を受けた黒猫は、こくんと頷《うなず》き、
「……ふふ、本人から太鼓判《たいこばん》が出たなら、少し自信を待ってもいいのかしら」
珍《めずら》しいことに――――微笑《びしょう》した。その微笑《ほほえ》みは、普段の無表情とのギャップもあって、たいへん目を惹《ひ》くかわいらしいものだったのだが――
「やっぱあたしがモデルだったのっ!」「やっぱ俺がモデルだったのかよ!?」
それどころではない。桐乃と同時に突っ込んだよ。
「ど、どういうつもりよ……アンタ」
「どういうつもりもなにも」
桐乃に睨《に》まれた黒猫は、微塵《みじん》も動じず肩をすくめた。
「見てのとおりよ。あなたのために、あなたをモデルにした漫画《まんが》を描いてきてあげたの。――何か問題が?」
「……ないケド。なーんかヤな予感がするんだよね〜」
奇遇《きぐう》だな桐乃。俺もだ。
「あら、読みもせず予感で批判《ひはん》するなんて、理乃《りの》先生らしくないと思うわ? 『きちんと最後まで目を通さなければ、その作品を批判する資格《しかく》はない』――そんなたいそうなご託《たく》を並べていたのは、果たしてどなただったかしら?」
「……くっ」
理乃先生こと桐乃が歯がみする。
そう、どんなにイヤな予感がしようとも、桐乃はこの時点で黒猫の漫画にけちをつけることはできない。そのへん首尾一貫《しゅびいっかん》するというか、融通《ゆうずう》が利かないやつなのだった。
ぐぎぎぎ……と悔《くや》しさを噛《か》みしめながらも、我が妹は、こう答えるしかない。
「……続けなさいよ」
「……っふ、有り難《がと》う」
してやったりとばかりに嘲笑《ちょうしょう》する黒猫。その邪悪《じゃあく》な笑《え》みに、さらに俺の不安が増大《ぞうだい》していく。
「――では、出し物を始めましょう」
かちっ。ディスプレイに表示《ひょうじ》されていた絵が切り替わり、漫画がスタートした。
一番はじめの大きなコマは、桐乃そっくりの女の子が、ソファに深々と腰掛《こしか》けて、ファッシヨン誌《し》を眺《なが》めているシーンだ。
黒猫《くろねこ》があらすじを読み上げていく。
「あたしキリノ。マル顔のくせに、読モもやってる超絶美少女中学生(自称《じしょう》)」
「ブッ殺されたいのアンタ!」
「まあまあまあまあ! きりりん氏! おさえておさえて!」
「だってコイツが! 名誉毀損《めいよきそん》じゃないのコレ!」
「いやいや! これはきりりん氏ではなく、あくまでキリノという漫画《まんが》の登場|人物《じんぶつ》のことでござる! そっくりでも別人なのですから、割り切って考えねばっ! そ、それに、くくっ……まだ始まったばかりではありませんか! お楽しみはこれからですぞ!」
そうやって桐乃を羽交《はが》い締《じ》めにして押さえる沙織は、しかしニヤニヤしていた。たぶんこいつは単純に、面白そうだから早く続きが読みたいのだろう。くそう、他人事《ひとごと》だと思いやがって。
「誰かコイツに教えてやって! マル顔はステータスなんだよってさあ!」
そんなバカな理屈《りくつ》があるか。
「……フッ、続きを再開しましょうか」
黒猫が陰気《いんき》な声で、プロローグの台詞《せりふ》などを読み上げていく。
まだ始まったばかりだが――どうもこの漫画『ベルフェゴールの呪縛《じゅばく》』は、冒頭《ぼうとう》に登場した桐乃そっくりの女の子『キリノ』の視点《してん》で語られる物語っぽいな。モノローグが多用されているから、主人公キリノがそのとき何を感じたのか、どう思ったのかがよく分かる。
反面、他の登場人物の心情《しんじょう》は、いまのところキリノの目を通して見た表面的な部分しか描かれていない。ううむ……基本的にこの主人公、相手の言動《げんどう》を悪い方に悪い方に解釈《かいしゃく》しやがるので、見ていてやきもきしてしまうな。バカ、そうじゃねーよと突っ込みたくなる。
具体的な内容については、少々長くなるので、要約《ようやく》しよう。
キリノにはキョウスケという三歳|違《ちが》いの兄がいる。けれど二人の仲は冷えきっていて、お互いに無関心を決め込んでいる。家の中で顔を合わせても、会話なんてないし、目を合わせることすらない、ときおり口を開いてみれば、出てくるのは刺々《とげとげ》しい言葉ばかり。
温かみのかけらもない、冷戦《れいせん》状態の兄妹――。
「……なあ、この設定」
「……なに? これはあくまで漫画の話よ?」
そう言われてしまっては、黙《だま》るしかない。桐乃ではないが、最後まで見てから批判《ひはん》しろというのは、俺としても筋が通っていると思うからだ。
だが、この初期《しょき》設定はなあ……。嫌《いや》でも俺と桐乃を連想《れんそう》しちまうじゃねえか。
まさかこれって、『黒猫から見た桐乃|像《ぞう》』を描いた漫画だったりする……のか?
ま、まあいい。要約を続けよう。ええと、どこからだっけ? そうそう、兄妹の仲が冷えきっているってとこからだな。
しかしキリノには、誰にも打ち明けられない秘密《ひみつ》があった。
――たとえば、キョウスケが入浴しているときのこと。兄が浴室に入っていったのを確認したキリノは、素早く脱衣所《だついじょ》に潜《もぐり》り込み、洗濯《せんたく》かごから一枚の衣類を手に取った。
「……はあはあはあはあ。これがアニキのぱんつ……ゴクリ……くんくんくん」
「「ちょっと待てェ――い!?」」
俺と桐乃が同時に絶叫《ぜっきょう》。
台詞《せりふ》の読み上げを中断《ちゅうだん》された黒猫は、しれっと目線《めせん》を俺らによこす。
「なあに?」
「いやいやいやいや! ちょ、ちょっと待ってくれ、な?」
俺は黒猫を掌《て》で制止しながら、額《ひたい》にびっしり汗を掻《か》いて、妹の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「……お……おまえ……まさか……お、俺のぱんつを?」
「嗅《か》いでないっ! あ、あああ、あくまで漫画の話でしょこれはっ!」
「なら言い淀《よど》むなよ! なんか怖《こわ》いだろが!」
ど、どうやら俺が考えた『この漫画は黒猫から見た桐乃|像《ぞう》を描《えが》いたもの』という予測は大外《おおはず》れのようだな! つーか頼むから大外れであってください!
「つかクソ猫あんたねえ! いくら漫画だってったって、やっていいことと悪いことが!」
「……そんなにムキになってどうしたの? あくまでフィクションを描いたつもりだったのだけれど、そんな態度を見せられてしまうと、偶然《ぐうぜん》私の漫画が真実を暴《あば》いてしまったのかと勘《かん》ぐってしまうわ?」
「こ、こ、この…………くっ……続けなさいよ……!」
怒鳴《どな》り合い以外の口喧嘩《くちげんか》はホント弱ぇなコイツ。たやすく丸め込まれてんじゃねーか。
「まったくもう。いちいち口を挟まないで頂戴《ちょうだい》。中断《ちゅうだん》しながらでは、漫画の面白さが伝わらないわ」
かち、とページが繰《く》られ、漫画の続きが読み上げられる。
とにかく、この漫画に登場するキリノは、現実とは違って、超《ちょう》ブラコンという設定らしい。
表面上は嫌っているフリをしているが、内心《ないしん》では兄にラブラブなのだった。
実に気持ち悪い設定だ。正直|勘弁《かんべん》して欲しい。
――兄のぱんつをじっくりと堪能《たんのう》したキリノは、脱衣所から退避《たいひ》し、今度は階段を上っていく。向かう先は兄の部屋《へや》だ。兄の部屋には鍵《かぎ》がかからないので、キリノは自由に出入りすることができるのだった。
「できるのだったじゃねえ! 設定がリアル過ぎんぞオイ! 俺の部屋に鍵がかからないことを何故《なぜ》知ってる!?」
「取材《しゅざい》の成果よ」
「そういやこの前ウチに遊びに来てたなあオマエ! ってことは、まさかあのとき我が家の間取《まど》りや仕様《しよう》を把握《はあく》しやがったのか!?」
「っふ、当然よ、邪眼《じゃがん》の力を舐《な》めないで頂戴《ちょうだい》」
ろくでもねえ〜〜〜スキルだなァ〜。なにが邪眼だこの野郎《やろう》。
ま、まあ鍵《かぎ》がかからねーくらいのこと、知られたって別に構いやしないけどさ。プライバシーを侵害されたってほどじゃないから、気にすまい。
「……続けてくれ」
「……はいはい」
でもってカチッと次のページへ。
キリノがケツをエロティックに突き出して、兄のベッドの下をごそごそあさっている。そこから出てきたのは、なんとキョウスケ秘蔵のエロ本コレクションだ。
「……チッ、なんで眼鏡《めがね》っ娘《こ》ものの本ばかりなのよ……妹ものにしとけっつーの」
そこでキリノ――ではなく桐乃が、ディスプレイを隠《かく》すように立ちふさがって叫ぶ。
「い、言ってないかんね! こんなこと!」
「それ以前に、なんで俺のエロ本の隠《かく》し場所を黒猫が知ってんだよ!?」
「え? あたしが教えたからだけど?」
「ってことは勝手《かって》に人の部屋《へや》入ってベッドの下あさったのかオマエは!」
「ちょ、なにえん罪《ざい》かけようとしてんのっ!? お母《か》さんから聞いたんだってば!」
「情報|漏洩《ろうえい》の元凶《げんきょう》はお袋《ふくろ》かよ!」
ぬあああああ! 我が家の女どもときたら、どいつもこいつもよォーッ……!
分かったよ! 隠し場所を変えればいいんだろ!? くそ、覚えてろ!
絶対《ぜったい》分からん隠し場所を開拓《かいたく》してやるかんな!
ぎゃあぎゃあ騒がしく言い合いをする俺と桐乃。
そんな争いが一区切りしたところで、黒猫がやれやれとばかりに呟《つぶや》いた。
「……続けてもいいかしら?」
「……勝手にしろ」
黒猫に向かって吐《は》き捨てる俺。段々と諦《あきら》めがついてきたので、この漫画《まんが》の続きで何が起ころうとも、突っ込まないことに決めたのだ。もしも黒猫が、知るはずのないことを知っていたり、キリノが変態的《へんたい》な奇行に及んだりしても、もう何も言わん。言わんぞ!
桐乃もおそらく似たような心境《しんきょう》でいるようで、机に頬杖《ほおづえ》をついてムスッとしていた。
漫画の続きは、こんな感じだ。
――隠れブラコンのキリノには、天敵《てんてき》とでもいうべき存在がいる。
キョウスケの幼馴染《おさななじ》み・マナミであった。
マナミは、表面上、地味《じみ》な見てくれをした人畜無害《じんちくむがい》な女の子なのだが、実は悪魔《あくま》ベルフェゴールの転生体《てんせいたい》であり、キョウスケの魂《たましい》を堕落《だらく》させようとしている。なぜならキョウスケは、かつて天界《てんかい》を追放された堕天使《だてんし》ルシファーの、無自覚なる転生体《てんせいたい》であったからだ――云々《うんぬん》。
なんという超《ちょう》展開!
「……くっ……ぐぐぐ……」
いかん。我慢《がまん》の限界が、早くも……! 突っ込むな京介……耐えろ……!
顔面《がめん》全体を引きつらせている俺のわきでは、
「くはぁ〜……くはぁ〜……ぐぬ、あが、ぎいいいい……」
桐乃が下唇《したくちびる》を噛《か》みしめ、目を血走《ちばし》らせて破壊衝動《はかいしょうどう》に耐えていた。
こいつはこいつで、ブラコン設定と邪気眼《じゃきがん》設定にイラついているらしい。
「……ククク。そろそろクライマックスよ」
そのあとストーリーはさらに明後日《あさって》の方向への展開を見せ――キリノはキョウスケへの愛を神に見込まれ、聖天使黒猫から|聖なる槍《ロンギヌス》を授《さず》かり、|悪魔の化身《デモンズ・アバター》マナミの最終決戦《ハルマゲドン》へと臨《のぞ》む。
――もうワケ分からん。
キリノの|聖なる槍《ロンギヌス》に追い詰められたマナミは、弟を生《い》け贄《にえ》に捧《ささ》げ、最後の賭《かけ》に打って出る。
瞬間《しゅんかん》、名状《めいじょう》しがたい冒涜《ぼうとく》的な魔力がマナミの全身から暴風《ぼうふう》のごとく吹き荒れ、人類《じんるい》世界を忌《い》まわしき混沌《カオス》に書き換えた。
清浄《せいじょう》な大気は猛毒《もうどく》の瘴気《しょうき》に、豊穣《ほうじょう》の大地は粘着質《ねんちゃく》の肉へと変貌《へんぼう》したのだ。
それはまさしく、おぞましき地獄《じごく》の再現に他ならない。
さすがのキリノも戦慄《せんりつ》を禁じ得ず、絶望|的《てき》な呟《つぶや》きを口にした。
「………そんな………地味子《ベルフェゴール》が堕天《フォールダウン》≠引き起こしたというのか……?」
「続く」
「続くじゃねえ! ここまで風呂敷《ふろしき》広げておいてなんだそれは!」
「どーせ風呂敷|畳《たた》めなかったから放り出したんでしょ! しかもなんかマスケラとか既存《きそん》作品のネタが色々混じってるし! だからアンタはワナビ卒業《そつぎょう》できないんだっての!」
「ふん、単純に時間が足りなかっただけよ。岸辺露伴《きしべろはん》じゃあるまいし、漫画《まんが》というのはね、一日二日でそんなにたくさん描けるものではないの」
でも、と黒猫は頬《ほお》をちょっぴり赤らめて、
「……そんなに続きを切望《せつぼう》してもらえて、嬉《うれ》しいわ」
俺と桐乃は、脱力《だつりょく》してその場に崩《くず》れ落ちたのだった。
……ちなみに沙織は、爆笑《ばくしょう》のしすぎで苦しくなってしまったらしく、さっきからずっとその辺に転がってもだえていた。
ったく、沙織のメイドといい、黒猫の漫画といい……。
お、おまえらは何? まさか順番《じゅんばん》に、俺に精神的|苦痛《くつう》を味合わせる出し物をしているの?
場が明らかに盛り下がった途端《とたん》、ようやく復活《ふっかつ》した沙織が大声を張り上げた。
「さあーて盛り上がってまいりましたところで! 本日のメインイベントっ! きりりん氏、どうぞっ!」
本日のメインイベント? 桐乃の出し物とやらがか?
俺はちらりと妹の顔を見やったが、しかし妹は、ムスッと黙りこくったまま反応しない。
「……………………」
どうやら、黒猫の出し物でイライラしていて、出し物どころじゃないらしいな。
ったく、せっかく盛り上げようとしている沙織の気遣いを無駄にするなよな。
まあでも、一応《いちおう》今日はこいつが主賓《しゅひん》なんだし、そんなに目くじら立てんでもいいだろ。
俺はそう思ったのだが、
「………………えーと……き、きりりん氏? メインイベントの……お時間ですぞー?」
「……ふて腐《くさ》れている場合じゃないでしょうが。さっさとしなさいこのウスノロ」
何故《なぜ》か沙織と黒猫は、どうしても桐乃に『出し物』をやらせたいらしい。
「チッ……うっさいな。分かってるっての」
二人に促《うなが》された桐乃は、渋々《しぶしぶ》と足下《あしもと》に置かれていたバッグに手を入れ……そこで、ちらりと俺を一瞥《いちべつ》した。きわめて不機嫌《ふきげん》そうな、眉間《みけん》にシワを寄せた表情でだ。
「〜〜〜〜〜〜ッ」
桐乃はブルブルっとかぶりをふって、
「――パス!」
ふいっとそっぽを向いて吐《は》き捨てた。おいおい、そんだけ前振《まえぶ》りをしておいて結局パスするのかよ。よっぽど用意してきた出し物とやらを披露《ひろう》するのに気が進まんのだな。意味が分からん。自分で用意したもんだろうに。そう思うだろう?
「……この大莫迦《おおばか》。あなた、いったい何のためにここに存在しているの?」
手厳《てきび》しく吐き捨てる黒猫。こいつはこいつで、主賓が出し物をしなかったくらいでひどい言い草《ぐさ》である。パーティなんだから、嫌っている相手とはいえちゃんと祝ってやれよ。
「まあまあ、黒猫氏。きりりん氏が恥《は》ずかしがる気持ちも汲《く》んで差し上げませんと」
と、沙織が黒猫を窘《たしな》める。
……恥ずかしがる気持ちだと? さっきのメインイベントがどうのこうのっつー単語も合わせて考えると、どうやらこいつら、桐乃の出し物の内容を知ってるらしいな。
なんで俺にだけ秘密《ひみつ》にすんだよ。のけ者か?
俺が抱いたささいな疑問を吹き飛ばすように、沙織が明るい声で提案《ていあん》した。
「ハハ、ということですので。メインイベントの前に、もう一巡《いちじゅん》いたしましょうか」
「……仕方《しかた》ないわね」
黒猫も渋々《しぶしぶ》と同意する。
「では、再び拙者《せっしゃ》のターンですな」
沙織はこほんと咳払《せきばら》いをして、すっくと立ち上がった。
今度はどんな『出し物』をするつもりなのだろうか。
「京介氏、ちょっとそこに寝そべっていただけますかな?」
「いいけどよ……なにをするつもりだ?」
「むふふ……拙者がぁ、京介氏にぃ、誠心誠意《せいしんせいい》ぃ、ご奉仕《ほうし》をぉ、させていただこうかとぉ〜」
「気色《きしょく》悪い声を出すんじゃねえ。って、ご、ご奉仕……だと?」
数々のエロゲーを攻略《こうりゃく》してきた俺にとって、もはや『ご奉仕』という単語からは妙《みょう》に淫靡《いんび》なひび響きを感じ取れてしまうのだが、相手がこのバカでかいぐるぐる眼鏡《めがね》だと思うと、エロティックな気分にもなれない。ご奉仕……ご奉仕ねえ。なんだかなぁ……。
俺は何をされるのかとビビリながらも、その場にうつぶせになった。
「……こ、こうか?」
「ばっちりでござる。――しからば」
そんな声が聞こえた次の瞬間《しゅんかん》、背中にグリッと圧迫感《あっぱくかん》があり――
ぐりぐりぐりつ!
「あいたた!? な、なんで踏むの!?」
「メイドさんの足踏《あしぶ》みサービスでござる。こうやってメイド服を着て、背中をフミフミするわけですな」
「サービスー!? ウソつけ! 拷問《ごうもん》の間違いじゃないの!? ぐっ……重い重い重い重い! オマ、超重《ちょうおも》いって! ギブ! ギブギブギブギブ!」
「ややっ、乙女《おとめ》に向かって失敬《しっけい》な。むうう、いかな京介氏といえども、聞き逃せませぬぞ」
ぐりっ!
「ごあっ――いいから降りろって! 背骨《せぼね》がメキメキいってんだろうが!」
「おお、いい音してますな」
ようやく降りてくれたらしく、背にかかる超重圧《ちょうじゅうあつ》が消え失せる。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
「さて――――拙者の極楽《ごくらく》マッサージ、ご堪能《たんのう》いただけましたかな?」
「……ま……おまえな……」
死ぬかと思ったわ! 違う意味で極楽|送《おく》りにされるところだぜ。
俺は息を整えながらも上《じょう》半身を起こし、文句《もんく》を吐《は》き捨てる。
「なにが……ご奉仕だ……。メイドさんに背中踏まれるサービスとか、どこの世界に……」
「秋葉原《あきはばら》にいっぱいありますぞ?」
「マジすか!?」
その返事は予想だにしなかった! どうやら俺は秋葉原を舐《な》めていたようだぜ!
ともあれ俺の剣幕《けんまく》を目の当たりにした沙織は、ようやく俺が苦痛《くつう》を訴えていたことを理解したらしく、思案顔《しあん》になった。
「むむむ……どうやらあまり楽しんではいただけなかったご様子《ようす》」
「っふ……やはりその程度の嗜虐《しぎゃく》では、彼のマゾヒズムは満足できないのよ」
黒猫は靴《くつ》の踵《ヒール》をカカッと踏みならし、その鋭利《えいり》さを強調した。
「……なら、私が踏んであげましょうか? ほうら、仰向《あおむ》けになって御覧《ごらん》なさい?」
それはもはやマッサージですらねえ! 特殊《とくしゅ》な風俗《ふうぞく》サービスの類《たぐい》っすよね!
仰向けって、どこを踏むつもりなんだこの女……!
大体そんな体勢になったらパンツ見えるぞおまえ。
ったく、桐乃といい、黒猫といい、沙織といい――いい加減《かげん》にしてくんねえかな!
落ち込んでるときくらい、そっとしといてくれよ!
俺が半《なかば》ばいじけているわきで、沙織が黒猫に向かって言った。
「次は、再び黒猫|氏《し》のターンですぞ?」
「……と、言われてもね。まさか二巡《にじゅん》するなんて思っていなかったから……出し物なんてもうないわよ」
黒猫は椅子《いす》の上で膝《ひざ》を抱え、ちょこんと体育|座《ずわ》りのようなポーズになっている。
考え事のポーズだろうか。珍《めず》しくミニスカートを穿《は》いているので、目のやり場に困るな。
沙織は黒猫の答えを予想していたようで、自信ありげにでかい胸を張った。
「ふっふっふ……こんなこともあろうかと、実は拙者《せっしゃ》この日のために、発売したばかりの人気ゲームソフトと秘密兵器《ひみつへいき》を持ってきたのです」
「「新作《しんさく》ゲームソフトと、秘密兵器?」」
俺と桐乃が揃《そろ》って疑問を口にした。チェアの上で体育座りになっている黒猫も、興味《きょうみ》を惹《ひ》かれたのか、ちらっと沙織の方を見る。
それら良感触《りょうかんしょく》の反応を確認《かくにん》した沙織は、うむうむと鷹揚《おうよう》に頷《うなず》いて、
「然様《さよう》」
テーブルの上のマウスを操作《そうさ》しダブルクリック。ゲームアプリケーションを起動《きどう》させた。どうやらすでにインストール済みらしい。
つーか、このゲームの起動|画面《がめん》に見覚えがあるんだけど。
「これって『シスカリ』だよな。PC版の」
俺はディスプレイを指さした。そこには『真妹大殲《しんいもうとたいせん》シスカリプス』という見慣《みな》れたタイトルが表示されている。去年の夏あたりに桐乃がはまっていた、18禁《きん》の3Dアクションゲームだ。
「新作ゲームじゃなかったのか?」
「ええ、新作ですぞ? タイトルのわきをよく御覧《ごらん》くださいでござるよ京介氏」
「んん? あ、ホントだ」
よく見たらタイトルが『真妹大殲《しんいもうとたいせん》シスカリプスα《アルファ》』になってるな。
「むふふ、いわゆるアペンドディスクというものでござる。シスカリがインストールされているPCにこのディスクを読み込ませることによって、新たな機能《きのう》が追加されるというわけです」
「……よく分からん……」
俺が首をひねっているわきでは、桐乃がうんうん頷《うなず》いており、
「よーするに『真三國無双《しんさんごくむそう》』と『真三國無双|猛将伝《もうしょうでん》』の違いみたいなもんでしょ? つかそれ『シスカリα』かあ! もう出てたんだ!? お正月あたりからずっと色々あわただしくて情報|見落《みお》としてた! くそー、このあたしとしたことが……不覚《ふかく》……!」
「フフフ、どうやらきりりん氏《し》も興味《きょうみ》しんしんのご様子《ようす》ですな――。持ってきた甲斐《かい》がありましたぞ。本日は、アーケード版シスカリの世界大会|上位《じょうい》入賞者であらせられる黒猫氏もいらっしゃることですし! その超絶《ちょうぜつ》プレイングを『出し物』として見せていただこうかと!」。
「それは……構わないけれど」
「おおっ、そういえばそんな話もあったな」
そうそう、そうだった。黒猫は『シスカリ』の達人《たつじん》なんだよな。以前もその神がかった腕前《うでまえ》を駆使《くし》して、桐乃の思い出|作《づく》りに協力してくれたのだ。
「黒猫おまえ、世界大会で入賞してたのかよ! すげえじゃんか!」
「……ええ、まあね。結局《けっきょく》優勝はできなかったけれど」
「これはお世辞《せじ》とかじゃなくて本心からの疑問なんだが――俺、おまえがあのゲームで負けるところがちょっと想像《そうぞう》できん。相手はそんなに強いやつだったのか?」
「もちろんよ。人間ごときの反応|速度《そくど》で、よくやるというか……。まさか、あそこまでこちらの動きについてこられるやつがいるとは思わなかったわ。……フッ、人間の中にも、ときには壁を超えた§A中《れんちゅう》が顕《あらわ》れるということかしら……。世界大会で優勝しようと思ったら、今後はこの私もメタゲームを戦略《せんりゃく》に取り入れるしかなさそうだわ。できる限りゲーム中|最弱《さいじゃく》キャラを使うという私の美学《びがく》には反するけれど」
よく分からんが、ようするに世界大会の出場者は超強《ちょうつよ》かったってことらしい。
俺の呆《ほう》けた顔を見た沙織が、口元《くちもと》を| ω 《こんなふう》にして笑った。
「ハハ、シューティングでも格《かく》ゲーでも、全国大会クラスのゲーマーさんはほとんど超人ですからなぁ〜。ほら、有名どころだとウメハラ氏とか」
実名《じつめい》出されても凄腕《すごうで》ゲーマーの名前なんて知らないっすよ。
「ところでさー、シスカリαって無印《むじるし》と何が変わったの? あと秘密兵器ってなに?」
「慌《あわ》てない慌てない――でござるよきりりん氏。順番《じゅんばん》に説明いたしましょう。シスカリαでは、アーケード版で好評だったシステムが追加されておりまして、ゲームセンターのように既成《きせい》キャラでの対戦も可能です。わざわざキャラメイクをせずとも、通常の格闘《かくとう》ゲームと同様《どうよう》手軽《てがる》に遊べるというわけですな。むろん従来どおりカスタムキャラを使った対戦も充実しております」
「なるほどねー、アーケードとPC版が一緒《いっしょ》に入ってる感じなんだ。あとは? 変更点《へんこうてん》ってそれだけ?」
「いいえ――むしろ今からいう方がメインですぞ。なにかというと、無印《むじるし》であった妹メイキングシステム≠ェさらにパワーアップしたのでござる。使用できるパーツや衣服が大幅に増えたほか、顔、髪《かみ》、肌《はだ》、身長、体型、バストサイズ、声、モーション――等々《などなど》、非常に細やかかつ簡単に設定できるのです」
「……えっと、よーするに、なにができんの?」
一息《ひといき》に説明されて、困っている様子《ようす》の桐乃。
沙織は指を一本立てて、非常に分かりやすい例を挙げてくれた。
「たとえば、メルルそっくりのキャラクターを作って戦わせたり、ストーリーモードを進めて攻略《こうりゃく》したりといったことができますな」
「マジで!?」
もの凄《すご》い食いつきだった。
「マジでござる。ちなみに秘密兵器《ひみつへいき》というのは――まあ、口で説明するよりも見てもらった方が早いですな。ウフフ、こちらを御覧《ごらん》くだされ」
沙織はマウスをさらに操作《そうさ》し、対戦《たいせん》モードを選択した。キャラクターデータを読み込むと、沙織の自作|妹《キャラ》が画面に大写《おおうつ》しになった、背景は緑色《みどりいろ》のワイヤーフレームだ。
「あっ!」
表示《ひょうじ》されたキャラクターを見て、沙織|以外《いがい》の皆が目を見張《みは》った。
「あ、あたしにそっくりじゃん!? ちょっと! あんたもなの!」
「ハハハ、皆、考えることは一緒ですな。黒猫氏は漫画《まんが》、拙者はゲームできりりん氏|似《に》のキャラを作っていたとは」
快活《かいかつ》に笑う沙織。
桐乃も『仕方ないやつだなー』といったふうに苦笑《くしょう》している。どうやら、別に嫌《いや》がっているわけではないらしい。むしろ嬉《うれ》しそうだ。
「あたしそっくりのキャラを――シスカリで使えんの?」
「もちろんでござる。この kiririn は、きりりん氏をモデルにして拙者が作り上げたカスタム妹――見よっ!」
かちっ。沙織がpreview<Rマンドを選択すると、ウインドウが脇《わき》に畳《たた》まれて、キャラクター(kiririn)がよく見えるようになった。ミニスカ制服姿《せいふくすがた》の kiririn は、レバーナチュラル(何も操作していない状態)では、尊大《そんだい》に腕を組んだポーズをしている。
たったいま桐乃も言っていたが――俺の妹そっくりであった。
こりゃすげえ。
「フッフッ……驚《おどろ》くのはまだ早いですぞー」
かちゃかちゃかちゃっ。沙織がPCに接統されたコントローラーを操作《そうさ》すると、当然それに合わせて kiririn が、パンチやキック、ジャンプといった行動をする。でもって、
『――はぁ? キモ! ばっかじゃないの!? 死ねっシスコン!』
「フハハハハハア――! このカスタム妹にはきりりん氏の声を設定してあるのですよ! まぁ、きちんとした環境《かんきょう》で保存《ほぞん》したわけではありませんから音質《おんしつ》悪いのですが――いかがですかな京介《きょうすけ》氏!」
最悪です。桐乃そっくりのゲームキャラが、桐乃そっくりの声で罵倒《ばとう》しながら襲《おそ》いかかってくるとか怖《こわ》すぎだろ。ってか俺に聞くなよな。褒《ほ》めても貶《けな》しても現実の妹から、『――はぁ? キモ! ばっかじゃないの!? 死ねっシスコン!』って罵倒されるんだからさあ俺が。
見てろよ〜?
「凄《すご》いんじゃないか? よくできてるよ、こりゃ。なあ、桐乃?」
「はぁ? 妹そっくりのキャラに萌《も》えるとかキモすぎなんですケドぉ〜」
ほらね? つか、どうしろってんだよ! こんなもんエロゲーでたとえると、選択肢《せんたくし》どれ選んでも好感度《こうかんど》下がるみたいなもんじゃねーか!
「でも沙織、これホント凄いね――アンタに制服姿《せいふくすがた》なんて一回しか見せてないのに、ばっちりウチの制服になってるし……マニキュアの色とかまで同じじゃん」
「実はそのあたりは自作 mod を使っています。ハハ、拙者《せっしゃ》、こういった作業は得意《とくい》でしてな。さっそくこのキャラを使って、対戦《たいせん》してみますか?」
「うんっ、やるやる!」
こくこく素直に頷《うなず》く桐乃。こっち方面のこととなると、無邪気な子供そのものだ。
そんな顔を見ていると、どうにもこうにも、こいつのことを憎みきれない……。
いい傾向ではあった。なにせ今日は、こいつを祝うパーティなんだしさ。
桐乃が楽しんでくれなきゃ、やる意味がない。
はぁ〜〜ったく、つくづく人が好いな、俺も。
沙織の頼みとはいえ、こんなにもムカっ腹を立てている相手を、祝ってやろうなんてよ。
俺は後頭部《こうとうぶ》を掻《か》きながら、はしゃぐ桐乃に目をやった。
「は、早くやりたい!」
桐乃に急《せか》かされた沙織が「かしこまりました」と頷いて、コントローラーを渡す。
「操作《そうさ》方法と必殺技《ひっさつわざ》は、きりりん氏の持ちキャラとほば同じに設定してあります。kiririn は手足が長いですから、少々|感触《かんしょく》は違うかもしれませんが」
「そこは仕方ないよね〜、あたしの美脚《びきゃく》が長いせいなんだから! あ、対戦モードだと最初からレベル50になってんだ?」
「ええ、キャラを作成した直後から、友達と対等に遊べるようにという配慮《はいりょ》なのでしょうな。ちなみにレベルを調整してハンディキャップを付けることも可能です。――どうです? 黒猫氏のキャラも作ってありますので、お二人で対戦《たいせん》してみては?」
話を振られた黒猫が、椅子《いす》の上で体育|座《ずわ》りのポーズを取ったまま、沙織に向き直った。
「あら、それも私そっくりのキャラなのかしら? それで――『出し物』、の代わりとして、ハンディキャップを付けて戦えと?」
「然様《さよう》でござる」
沙織は嬉《うれ》しげに首肯《しゅこう》した。
桐乃は「ふん、面白いじゃ〜ん」と鼻を鳴らす。
いや、いくらハンデ付けられるからって腕の差がありすぎだろ。
そもそもハンデを付けて対戦って、プライドの高い桐乃的にはアリなの?
とか思っていたら、案《あん》の定《じょう》桐乃は妙《みょう》なことを言い出した。
「その代わり、アンタはレベル1でやりなさいよ」
こいつはひどい。ようするに、ハンデ付けられるのもイヤだし、勝ち目のない戦いをするのもイヤなので、いっそ勝負|自体《じたい》は台無《だいなし》しにして、自分|似《に》のキャラが黒猫似のキャラをぶちのめすところを観賞《かんしょう》して楽しもう――。とまあそんなところだろう。
ウチの妹が考えそうなことである。
いかに黒猫とはいえ、レベルに49も差があれば勝機《しょうき》などなくなるはずだが、彼女はあっさりと了承《りょうしょう》した。
「……いいわよ。それでやりましょう。代わりにステージの選択権《せんたくけん》はいただくわね。1ラウンド勝負で、タイムオーバーでライフが同じだった場合は、サドンデスモードに自動|移行《いこう》する設定でいいかしら?」
「いいケド……じゃ、それで――」
あまりにも素直に了承されてしまい、桐乃はいぶかっているようだったが――
とにもかくにも、対戦がスタートした。黒猫が選択したステージは、闘技場《とうぎじょう》=B逃げる場所のない狭いコロセウムで戦うステージだ。
二つ並んだディスプレイに、それぞれ桐乃そっくりの女子《じょし》中学生|妹《いもうと》kiririn≠ニ、黒猫そっくりのゴスロリ妹kuroneko≠フ背中が映っている。
さん……にー……いち……
ふぁいとーっ!
凛々《りり》しいロリボイスが戦闘開始《せんとうかいし》を告げ――両者が一気に間合《まあい》いを詰める。
この時点ですでにレベル差による影響《えいきょう》は歴然《れきぜん》としていた。キャラクターの移動速度《いどうそくど》が、バルログとザンギエフくらい違うのだ。もちろん kiririn の方が速い。しかもこれだけのレベル差があれば、kiririn は kironeko のライフをガードの上からでも一撃《いちげき》で削り切れる。
逆に kuroneko はたとえ六十秒、タイムアップまで休まず攻撃《こうげき》を加えても、kiririn のライフをほとんど減らすことはできないはずだ。
どうしたって勝負にならない。しかし――
「……こっの……! 大人《おとな》しく当たりなさいよウスノロ……!」
「あらあら、どうしたのかしら。無様《ぶざま》なものね?」
黒猫が操《あやつ》る kuroneko は、レベル1の鈍重《どんじゅう》な移動スピードにも関わらず、ゆらりゆらりと kiririn の猛攻《もうこう》をしのいでいる。攻撃を完全に見切り、最小限《さいしょうげん》の動きのみでかわしているのだ。
「くっ……なら、これでどうっ!?」
桐乃はゲージを消費して、超必殺技《ちょうひっさつわざ》を起動《きどう》した。稲妻《いなずま》を纏《まと》い相手に向かって突進《とっしん》しながら、超《ちょう》高速の連続|蹴《け》りを繰り出す kiririn。
動きの遅い kuroneko に、これを回避《かいひ》することは不可能《ふかのう》だ。
圧倒《あっとう》的なレベル差をかさに、ガードの上から削《けず》り殺すハラに違いなかった。我が妹ながら、実にダーティなやり口である。
「――ハ、そう来ると思ったわ」
黒猫は椅子《いす》の上に体育|座《ずわ》りしたまま、コントローラーを両|膝《ひざ》で挟むようにして持った。
そうして十指《じゅっし》をすべてフリーにした彼女は、キーボードを叩《たたく》くようなやり方でボタンを連打《れんだ》。
カタカタカタカタッ――ガガガガガガッ――
コマンドの入力|音《おん》が、途中《とちゅう》で激《はげ》しい打撃音《だげきおん》に取って代わった。kiririn の連続蹴りが、kuroneko の矮躯《わいく》に叩《たた》き込まれたのだ。
「……残念」
「なっ――」
それでも kuroneko のライフは、一ドットも減少していない。
よく画面を見れば、ゴスロリ衣装《いしょう》に身を包んだ kuroneko は、片手の指を一本立てて、|その指で連続蹴りをすべて弾いていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
パリング≠ニいうスキルだ。相手の攻撃《こうげき》ひとつひとつに対し、絶妙《ぜつみょう》のタイミングでコマンドを入力することによって、どんな攻撃だろうがノーダメージで弾《はじ》くことができる。本来は大ぶりのテレフォンパンチに合わせるのがせいぜいの、超高等《ちょうこうとう》スキルなのだが――黒猫はそれを、視認《しにん》することさえ困難《こんなん》な連統蹴りのひとつひとつに対して行っている……んだよな?
信じられんが。
「ふはぁ〜……有名な神《かみ》プレイ動画《どうが》みたいですな?」
沙織も、ぽかんとしている。
なんつーか、凄《すご》すぎて逆に呆《あき》れた。おまえ、どんだけやり込んだんだよ? そしてこいつでも優勝できないって、そこはどんな世界なんだよ。
画面では、ようやく連続蹴りが止まり、kiririn の全身を覆《おお》っていた稲妻が消え失せたとこうだった。
「くっ……汚《き》ったないことして! そんなのナシだっての!」
「……汚《きたな》いのはいまのあなたの形相《ぎょうそう》でしょう? たかがゲームでそこまで熱くなって、恥《は》ずかしくないのかしらね」
「うるさいうるさいうるさい! 大人《おとな》しくジッとしてなさいよ、んもォ〜〜〜ッ」
鼻息《はないき》をフンフン噴《ふ》き出して、荒々《あらあら》しくコントローラーを操作《そうさ》する桐乃。すべてのゲージを消費し尽くした kiririn は、格段《かくだん》に攻撃|速度《そくど》を落としながらも、諦《あきら》め悪く単発の蹴りを放ち続けている。もちろんそんな雑な攻撃が通用するはずもなく、ことごとくかわされるか弾《はじ》かれてしまう。きりきり舞いというのは、まさにこういうのをして言うのだろう。きりりんだけに。
いま、うまいこと言ったよね、俺。褒《ほ》めてもいいよ。
「……ッチ! チッチッ! くぬっ、くぬっ……!」
これ以上ないほどイライラしながら闇雲《やみくも》に攻撃《こうげき》を仕掛《しか》ける桐乃。
「……クックックックックッ……。世界とは悲劇《ひげき》なのか……いま、あなたの魂《ソウル》が試されようとしているのよ……」
それを嘲笑《あざわら》うかのよーに延々とパリングし統ける黒猫――そんな攻防《こうぼう》がしばし続いた。
開幕《かいまく》から依然《いぜん》として両者のライフは満《まん》タンのままだ。
黒猫は桐乃の攻撃を完全に防ぎきってはいるものの、何故《なぜ》か一向《いっこう》に反撃《はんげき》に移る様子《ようす》はない。
確かにレベル1の低い攻撃|力《りょく》では、レベル50のキャラに攻撃を当ててもほとんどダメージは通らない。だが、かといって反撃をしない理由にはならないはずだ。
そんな俺の疑問をよそに、刻一刻《こくいっこく》と時が過ぎていき、
やがて試合|開始《かいし》から六十秒が経過《けいか》――タイムアップ。
本来ならライフが多い方が勝者となるわけだが、しかし両者共にライフは満タン。
この場合、特別ルールが適用《てきよう》される。
「……フフフフ……特等席《とくとうせき》で見るがいいわ。終わりの始まりを……」
「あ、ああっ!?」
画面を見て、桐乃が叫ぶ。kiririn と kuroneko のライフゲージが、一瞬《いっしゅん》にしてゼロ付近にまで激減したからだ。
「あら、何をおどろいているの? ……初めに言ったでしょう。タイムアップになったらサドンデスに移行すると。……つまり今後は、レベル差に関係なく、先に攻撃を当てた方の勝ちということね。さあ、さあ――これで条件は互角《ごかく》になったわ。ククク……ここまで勝負を長引《ながび》かせてしまった時点で、あなたの負けよ」
「くっ……」
桐乃が悔《くや》しげに歯ぎしりする。
観戦《かんせん》していた沙織《さおり》が「ほほう」と感心《かんしん》した声を出した。次いで、俺に向かって首をかしげる。
「はて? わざわざサドンデスにせずとも、あらかじめ一撃《いちげき》当てておけば、タイムオーバーで判定《はんてい》勝利できたはずですのに。黒猫氏は、どうしてそうしなかったのでしょう?」
「演出だろ。派手《はで》に桐乃をやっつけてやりたいんだろうぜ、KOでさ」
沙織の疑問に答えてやった。たぶん間違いないだろ。だってさ、
「ククク……クァハハ……クックックック……」
黒猫が浮かべているあの悪そ〜な薄《うす》ら笑いを見ろよ。ゲームを愉しんでやがるなあ。
ところで黒猫が口にした『あなたの負けよ』という台詞《せりふ》を聞いて、俺《おれ》は、ふと気付いてしまった。何かって? いや、っていうかこのゲームって、みんな忘れてるみたいだけど――
18禁のエロゲーじゃん?
「――ところでさ。負けた方のキャラって、服が破れてハダカになるんじゃなかったっけ?」
「「――――――、あ」」
黒猫がピタリと笑うのをやめて、コントローラーを落っことした。
桐乃も画面から目を離し、愕然《がくぜん》とした顔で振り返った。
やはりか。やはり、おまえら気付いてなかったんだな……この勝負に負ければ、自分そっくりのキャラがハダカに剥《む》かれて、Hな目に遭《あ》ってしまうってよ……。
そう、もとよりこれは|そういう《ヽヽヽヽ》勝負だったのだ。
脱衣《だつい》麻雀《マージャン》ならぬ、|バーチャル《ヽヽヽヽヽ》脱衣|格闘《かくとう》とでもいおうか。
そして、そんな破廉恥《はれんち》きわまりないシチュエーションを作り上げた元凶《げんきょう》はといえば、
「ハハハ、そういえばそうですなあ」
分かってなかったらしい。こいつ……天然《てんねん》でトラブルを呼び込んでいやがった…………!
「いやあ〜、すっかり失念しておりましたぞ。アーケード版のシスカリでは、やられても服が破れなくなっていたものですから、そちらの仕様《しよう》に慣れきってしまって」
桐乃や黒猫もそうなんだろうな。だから、アーケード版をいっさいやってない俺だけが、服が破れてハダカになる件について、思い至ることができたってワケだ。
沙織は、たら〜りと汗を一筋《ひとすじ》流した。
「……これは参《まい》りましたな。――拙者《せっしゃ》、どちらのキャラもすみずみまで精巧《せいこう》に造り込んでしまいましたぞ。スリーサイズまで完全|再現《さいげん》して」
そいつはやばいな。この勝負に負けたら、その精巧に造り込んだのが見えちゃうわけだろ?
絶句する俺の目前で、沙織はエッヘンとばかりに胸を張った。
「正直、自信作《じしんさく》でござる!」
「んなこと自信|満々《まんまん》に言うなっ! こっの……! 余計《よけい》なことしてくれちゃってェ〜〜〜ッ」
思いっきり突っ込んだ桐乃だったが、言われた沙織はのんびりとした声で、
「おやおや、きりりん氏、画面を見ませんと」
「……っ!」
ハッと気付いて画面へと視線を向ける桐乃。
桐乃がさらした致命的《ちめいてき》な隙《すき》に、黒猫は――
「……あ、あ、あっ、あっ……」
動揺《どうよう》しすぎだろオマエ!? まだコントローラー拾えてなかったのかよ!?
ガクガク手が震えてんじゃねーか。しかも口元《くちもと》引《ひ》きつってるわ、顔は真《ま》っ赤《か》だわ……。
「おい黒猫――やばいぞ。うろたえてる場合じゃないって」
「…………そ、そんなこと言ったって……無理《むり》……」
……よっぽど恥《は》ずかしいんだな。
やはりゲームとはいえ、自分そっくりのキャラがハダカに剥《む》かれるのは耐え難《がた》いらしい。たまに忘れてしまいそうになるが、桐乃も黒猫も、まだ中学生の女の子なんだよな。
そこで桐乃が声を荒げた。
「ちょっとそこのシスコン! あんた誰《だれ》の味方《みかた》!? そんっなに妹のハダカが見たいわけ!?」
「ばっ、ち、ちげーっての!」
誤解《ごかい》を呼ぶようなことを言うんじゃねえ!
……し、しかし言われてみれば、黒猫を応援《おうえん》したところで俺が享受《きょうじゅ》するメリットなんか一つもないな。妹そっくりなキャラのHシーンなんか見たくないし。
「よォ――し桐乃! やっちまえ! いまのうちだ!」
「このド痴漢《ちかん》がッ!」
ガチンッ! 桐乃がブン回したコントローラーが、俺の鼻《はな》っ柱《ぱしら》に直撃《ちょくげき》した。
「っが……ってホンット、俺がなに喋《しゃべ》っても怒るなテメエは!」
「当ッたり前でしょ! あーもォ、せっかくのチャンスが……! あとで覚えてなさいよ!」
コントローラーを握り直した桐乃は、慌《あわ》てて kiririn を特攻《とっこう》させた。
こいつはこいつで、黒猫ほどではないが動揺しているらしく、とにかく一撃《いちげき》入れればOKだってのにわざわざ大ぶりの攻撃《こうげき》を繰り出した。
「あ…………だめ……や……」
絶体絶命《ぜったいぜつめい》の窮地《きゅうち》にいたっても、依然《いぜん》として黒猫の精神は回復しない。
ようやくコントローラーを拾ったものの、目を一杯《いっぱい》に大きく見開いて、眼前《がんぜん》に迫った敗北を見つめるばかりだ。その姿があまりにも不憫《ふびん》だったからだろう。とっさに俺は叫んでいた。
「こ――この際なんでもいいからボタン押せっ!」
「!」
カチャカチャッ! 俺の声が届いたのか、黒猫はまるで初心者《しょしんしゃ》さながらにコントローラーをデタラメに操作《そうさ》する。おそらくは、これで何かしらの攻撃が出るはずだった。
決着《けっちゃく》が着くまで、もう一秒もない。敗者は勝者へのご褒美《ほうび》として、そのつややかな裸身をさらす辱《はずか》めを受けることになる。それは果たして桐乃か、それとも黒猫か――次の一瞬《いっしゅん》で勝負が決まる。kiririn の後ろ回し蹴《げ》りと kuroneko が伸ばした腕が交差し――
KO! の宣言《せんげん》と同時に、ばがんっ! 衝撃《しょうげき》が俺の顔面を襲《おそ》った。
「痛づっ!? んなっ……!?」
目の前が暗転《あんてん》するほどの激痛《げきつう》。おかげでどちらが勝ったのかも分からない。
顔をしかめながらも辛《かろ》うじて片目を開けると、そこには椅子《いす》を担《かつ》いだ桐乃と黒猫の姿があった。俺は額《ひた》を片手で押さえ、顔面蒼白《がんめんそうはく》になって問うてみる。
「……な、なんのつもりっすか? ま、まさかその椅子で、俺を……」
「――ジャスト一分、悪夢《ユメ》は見れたかしら?」
黒猫はよく分からん台詞《せりふ》を呟《つぶや》きながら、椅子を振り上げた。
そして桐乃は、椅子をそこらに投げ捨て、代わりに腰をひねって力をタメている。さながらそれは、さっき目撃《もくげき》した kiririn の超必殺技《ちょうひっさつわざ》準備モーションのようで――
俺は自分の運命を察したよ。
「死ねっシスコンッー!」
KO! そんな幻聴《げんちょう》が聞こえた気がしたぜ。
数分|後《ご》――俺は椅子に座って、沙織から怪我《けが》の手当てを受けていた。
「っ痛たたた……」
「……すぐ終わりますゆえ、もうちょっとだけ我慢《がまん》して欲しいでござる」
沙織が心配そうな声で、患部《かんぶ》に薬をしみ込ませた脱脂綿《だっしめん》を当ててくれる。彼女が使っている救急《きゅうきゅう》セットは、受付から借りてきたものだ。
「くそ……いくら何でもひどいだろ。どうして俺がこんな目に遭《あ》わなくちゃならんのだ……」
……例の件で超凹《ちょうへこ》んでて、気を抜くと泣いちゃいそうだってのによう……。
俺のぼやきを聞きとがめた沙織は、落ち込んだ口調《くちょう》になってしまう。
「申《もう》し訳《わけ》ござらん京介氏、拙者《せっしゃ》が余計《よけい》なものを持ってきたばかりに……」
「いや、まあ、そうだけどさ。別におまえはそんなに悪くないよ」
俺は沙織に本心《ほんしん》を告げた。ムスッとした顔で、桐乃と黒猫の方を一瞥《いちべつ》し、
「悪いのは、直接|危害《きがい》を加えてきたあいつらだろ」
涙目《なみだめ》で治療《ちりょう》を受けている俺の目の前では、桐乃と黒猫が険悪《けんあく》な雰囲気《ふんいき》で何らかの言い合いを繰り広げていた。どうやら普段《ふだん》の痴話《ちわ》喧嘩《げんか》とは、幾分《いくぶん》様子《ようす》が違っているようだが……話の内容をろくに聞いちゃいなかったので何とも言えない。ムカついて、それどころじゃなかったのだ。
「その、お二人とも、恥《は》ずかしがり屋な上に意地《いじ》っぱりですから……どうか許してあげて欲しいでござるよ」
「そうは言うがな」
せめて一言《ひとこと》くらい詫《わ》びの言葉があったっていいもんだ。
「――そもそもあなたが……」
「ちょ、アンタのせいでしょ!」
「いいえ、初めから素直に出し物を披露《ひろう》していればこんなことには……」
なんなんだあいつらは。怪我《けが》させた相手を放っぽって、いがみ合いやがって。
「――おい、おまえら。ちょっとこっち来い」
俺は目を細めて桐乃たちを呼ばわった。するといがみ合っていた二人は、俺の顔を顧《かえり》みて、それぞれ違う反応を見せた。
黒猫《くろねこ》は、無《む》表情のままで俯《うつむ》いて、どことなくしょんぼりしている。
一方桐乃は、妙に複雑そうな面持《おもも》ちで眉間《みけん》にシワを寄せている。
「来いって」
感情を込めず再び呼ばわると、両者とも、とりあえず俺の言うことを聞くことにしたらしく、とぼとぼと並んで歩いてきた。座っている俺のすぐ目前《もくぜん》で止まり、
「……なによ」
桐乃がふて腐《くさ》れた顔で呟《つぶや》いた。黒猫は「……」と、うつろな瞳《ひとみ》で黙《だま》り込んでいる。
俺は黒猫を一瞥《いちべつ》してから、妹のむくれ顔を振り仰いだ。
……チッ どうしたもんかな、俺は目頭《めがしら》をもんで思案《しあん》した。
正直|怒鳴《どな》ってやりたいが、ここが祝いの席で、こいつが主賓《しゅひん》であることを、俺は忘れちゃいなかった。たださすがに何も言わずに済ますわけにもいかん。きちんと謝れとまでは要求しないが、これ以上俺に危害を加えないで欲しい。せめてほっといてくれと言ってやりたかった。
今日の主賓はあくまで桐乃であって、俺はオマケみたいなもんなんだからさ。
「――あのな?」
「な、なに?」
緊張《きんちょう》したように身をすくませる桐乃。
「俺はさ、おまえのおかげで、この間からずっと落ち込んでんだよ」
「…………」
「でも、今日はおまえのお祝いだって聞いたからさ、こうしてここに来たし、日頃《ひごろ》の恨《うら》みはひとまずわきに置いて、祝ってやんなきゃなーって思ってたんだ」
「……うん」
「なのになんでおまえらは、俺をさらに落ち込ませるようなことばっかするわけ?」
「…………それは、誤解《ごかい》よ」
それまで黙《だま》っていた黒猫がぽつりと呟いた。しかし俺には納得《なっとく》できない。
「そうか? それにしては、おかしいことばかりだと思うがな。初めから気になってたんだよ。なにやら俺に内緒《ないしょ》にしていることがあるみたいじゃねえか。それに、出し物とやらのたびに俺は嫌《いや》な思いするし、主賓《しゅひん》の桐乃まで出し物をやるっつー話だしよお。つうか、そもそもなんで出し物をやることを俺だけが知らされてないんだよ。主賓に隠《かく》し事をするってんなら分かるけど、これじゃあ意味が分からんし、怪《あや》しすぎるだろうが。ちゃんと説明するか、もしくはもう少しお手柔《おてやわ》らかにしてくれって。このままじゃ素直に楽しめねえぞ」
「……そういうつもりではなかったの」
さらに弱々しい声になる黒猫。普段《ふだん》の俺なら、この時点で気を遣《つか》った態度も取れたのだろうが、このときはそこまで配慮《はいりょ》できていなかった。疑問を解消《かいしょう》することを優先《ゆうせん》した。
「じゃあ、そろそろ事情を聞かせてくれよ」
「ちょっと、いい加減《かげん》にしときなさいよアンタ」
そこで桐乃が口を挟んできた。自分の仕打《しうち》ちを棚《たな》に上げて、険悪《けんあく》な声を出す。
「ネチネチネチネチ……人の友達《ヽヽ》にいちゃもんつけて楽しいワケ? しかも相手は年下《としした》の女の子だってのにさ …………かっこ悪《ワル》」
「んだと?」
例のごとく、このときの俺は、桐乃が|なんで《ヽヽヽ》怒り始めたのか察することができなかったものだから、かちんときて、売り言葉に買い言葉をぶつけてしまった。
「いま、なんつったてめぇ」
「年下の女の子相手にムキになっちゃってかっこ悪っつったの! この前だって! なによーそんなに怒っちゃってさあ! 信っっじらんない! いいじゃん《ヽヽヽヽヽ》、あのくらい《ヽヽヽヽヽ》!」
いいじゃん、あのくらい、だと?
なら……おまえは、夏、あやせに同人誌《どうじんし》を見られてしまった直後の自分に――
『いいじゃん、あのくらい』なんて言葉をかけられるのか?
「い、妹にちょっとイタズラされたくらいで、なに根に持っちゃってんの? べ、別にあの女に嫌われちゃったわけじゃ、ないんでしょ? ……そんなの……たいしたこと……ないじゃん」
俺の表情を見てひるんだのか、最後の方は舌《した》が回らなくなっていたようだったが、そんなのはどうでもよかった。言ってはならないことを言いやがったのだ、こいつは。
「いい加減《かげん》にしろ」
俺は怒りを込めてそう言った。これまでのようななれ合いが混じったものでなく――本気で、だ。
「沙織にゃ悪いけどな。――帰るわ、おまえらだけで遊んでろ」
そう。沙織に免じて、できる限り我慢《がまん》するつもりだったのだが。
もう限界だ。
「やってられるか。俺なんかいてもいなくてもいいだろう」
冷たく吐《は》き捨てて、踵《きびす》を返す。
「…………あ……」
桐乃が何かを呟《つぶ》きかけたようだったが無視《むし》する。
このまま部屋《へや》を出て、家に帰ってしまうつもりだった。
いくら何でも、俺がこんな目に遭《め》う、意味が分からなかったからだ。確かに俺は、沙織や黒猫のことを友達だと思っている。いくら気に食わないとはいえ、桐乃は妹さ。
だからといって、何をされても怒らないってわけじゃないんだ。友達だからこそ、兄妹だからこそ、納得《なっとく》できないし、見知らぬ他人にされるよりムカつくことだってある。
そうだろう?
「……京介氏、聞いてくだされ」
沙織が扉《とびら》までの道をふさぐようにして、回り込んできた。さすがに一瞬《いっしゅん》足が止まる。
こいつがこんなにせっぱ詰まった声を出したのは、知る限り初めてだし、驚《おどろ》いたから。
次いで黒猫が沙織のとなりに並び、俺を見上げた。躊躇《ちゅうちょ》するように、ごくりとのどを鳴らし、意を決したように口を開く。
「……その、実はね、」
「――待って」
そこで桐乃まで割り込んできて、黒猫の台詞《せりふ》を途中《とちゅう》で止めた。
「……あたしが……やるから……ここからは、あたしが言う……」
そのときの妹の表情は、なんとも形容しがたい。
もの凄《すご》く悔《くや》しそうでもあり、どこか落ち込んでいるようでもあった。
怒っているようでもあり、何らかの決意を秘《ひ》めているようでもあった。
そして桐乃は、紙袋《かみぶくろ》を片手に持っていた。中身《なかみ》は見えない。
「どけ」
俺は不機嫌《ふきげん》な声を出した。にくたらしい妹の顔を見て、怒りがさらにふつふつとわき上がってきたからだ。
「ふん。なによ……その態度……」
険悪《けんあく》な空気が周囲に満ちる。俺と桐乃の視線の間で、不可視《ふかし》の火花《ひばな》が弾《はじ》けて消える。
「きりりん氏!」
「……分かっているわよね」
沙織と黒猫がそれぞれ、桐乃に向けて何らかの意志を投げかけた。
「分かってるっ! やればいいんでしょ! やれば!」
桐乃は、頭を大きく上下させながら叫んだ。それから茶髪《ちゃぱつ》を乱暴に掻《か》きむしった。
「※[#「あ」に濁点]〜〜〜もぉ〜〜〜〜〜! なんっ……でこうなっちゃうのよ……!」
ぎりぎり下唇《したくちびる》を噛みしめてから、思いきり眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ――
「――ほ、ホラ、 コレっ!」
いっそ殴《なぐ》りつけるような勢いで、紙袋《かみぶくろ》を突き出してきた。
「…………あ?」
俺は、鼻面《はなづら》に突きつけられた紙袋をより目で見つめながら、素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を出してしまう。すると桐乃は、怒りのためか顔を真《ま》っ赤《か》に紅潮《こうちょう》させて、
「っだ、だからァ! あげるっつってんのっ! あんたにっ!」
「だから! 意味が分からねえよ!」
本心《ほんしん》がそのまま口から出てきた。だっておかしいだろ。なんでこんなふうにキレまくっている妹が、本気で怒っている俺に物を渡してくるんだよ。受け取れねえって、こんなの。
「※[#「あ」に濁点]ああああああああああ察し悪いぃぃぃぃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ! あ――イライラするイライラするっ。バッカじゃないの!? そんなのプレゼントに決まってんでしょ!」
「……プレ……ゼント? おまえが、俺に?」
「そ、そうっ」
そこで桐乃は、深々《ふかぶか》と頭を下げた。
「この前はごめんなさいっ!」
「――――」
俺は目を丸くして、絶句《ぜっく》。
桐乃は頭を下げたまま、再び紙袋を差し出してくる。
俺は半《なかば》ば無《む》意識でプレゼントを受け取っていた。
すると桐乃は、ちらりと一瞬《いっしゅん》だけ俺と目を合わせて、ぽつりと呟《つぶ》いた。
「……いつも、ありがとう」
――あまりのことに、頭が真《ま》っ白《しろ》になっていた。
もしかしたら何秒か、気絶《きぜつ》していたかもしれない。
桐乃は俯《うつむ》いて、俺の言葉を待っているようだ。
しかしいまの俺に、返事なんてできるわけがない。何も言えずにいると、心配になったのか妹は再び顔を上げた。虚勢《きょせい》を張るかのように下唇《したくちびる》を押し上げ、あごに梅干しを作っている。
数秒の間があり、それからおずおずと問うてきた。
「あの……聞こえた?」
「あ、ああ。――聞こえた」
実のところを言えば、この瞬間の俺は、耳で聞いた台詞《せりふ》をうまく認識《にんしき》できずにいた。
あまりにも想定外《そうていがい》だったものだから、事態《じたい》を理解するのに時間がかかっていたのだ。
こんな言葉、いままで聞いたことあったっけ?
「……あ、あっそ……なら、いいケド」
俺の返答を聞いた桐乃は、ほぉっ……と安心したように長い息を吐《は》き出した。次いで心臓《しんぞう》に手を当て、頬《ほお》を紅潮《こうちょう》させたまま、荒い息を吐いている。
その、まるで重大な告白《こくはく》をした直後の女の子みたいな態度を前にして、俺は妙《みょう》に気恥《きは》ずかしくなってしまい、顔が熱くなってくるのを感じていた。
「――京介氏。実はこのパーティは、落ち込んだ京介氏を元気づけるために企画《きかく》したものだったのでござる。それと、きりりん氏が京介氏にお詫《わ》びをするきっかけを作るための場でもありました。……いやはや、きちんとおもてなしをして楽しんでいただくつもりであったのに、逆に嫌《いや》がらせのようになってしまうとは……力|及《およ》ばず、申《もう》し訳《わけ》ありませんでした」
「ごめんなさい」
沙織と黒猫が、並んでぺこりとお辞儀《じぎ》をした。
「…………そういうことだったのか……」
呆然《ぼうぜん》と事態《じたい》を咀嚼《そしゃく》する。ふと見れば、桐乃が顔を紅《あか》くしたままムスッとしていた。
「あの……これまであんまし言わなかったけどさ。どーせ言わなきゃ分かんないだろうから、このさい言っとくね」
「な、なんだよ……?」
桐乃はもどかしそうに言葉をさまよわせながら、少しずつ台詞《せりふ》を紡《つむ》いでいく。
「あんたがあたしにいままで色々《いろいろ》してくれたこと、すっごい、感謝してるから。アンタがいなかったら、あたし一人じゃ、絶対《ぜったい》お父《とう》さんのこと説得《せっとく》できなかったし……あやせとも仲直りできなかったし……」
沙織と黒猫を順番《じゅんばん》に眺《なが》め、思いっきり照れくさそうに言う。
「こいつらとも、会えなかった。ずっと、一人でもやもやして、誰《だれ》ともゲームとかアニメとかの話、できなくて、どうにもならなくて……どうなってたか分かんない」
「……うん」
「だから、その、えっと――――そ、そういうことなの!」
ぷいっとそっぽを向いてしまう。こいつは……本当に、喋《しゃべ》るのが下手《へた》くそなやつだ。でも、分かったよ。
スゲエ、伝わった。
ぱちぱちと控《ひか》えめな拍手が聞こえてくる。
沙織と黒猫が手を叩《たた》いて祝福してくれていた。沙織も、黒猫まで微笑んでいて――よかったね、と、そう二人から言われているように思えた。
事態《じたい》を了解《りょうかい》したいまも、信じられない。
ははっ……あの桐乃が、まさかこの俺に――プレゼントだなんて、な。
夢みたいだ。
「……ぐすっ」
ばっか野郎《やろう》……。不器用《ぶきよう》な真似《まね》、しゃがって……!
「あ――アンタなに泣いてんの!?」
「……バカ……! 泣いてねえよ!」
「ちょ、ちょっとやめてよそういうの! せ、青春ドラマじゃないんだから! つか、そんな泣くほどのこと!?」
桐乃が何かわめいているが、目頭《めがしら》が熱くてよく聞こえない。
腕で顔を隠《かく》し、嗚咽《おえつ》を漏《も》らすのでせいいっぱいだった。
まったくよう。情《なさ》けない兄貴《あにき》だぜ、俺ってやつは。
そんな一幕《ひとまく》が終わり――皆が席に着いてからも、俺は涙目《なみだめ》のままだった。
「いやほんと引くから! マジでキモいって!」
「……やはは、いいではありませんかきりりん氏。それだけ京介氏が、感激《かんげき》してくれたということでしょう?」
「……かもしんないけどォ。いくらなんでも、プレゼントごときでマジ泣きとかなくない?」
「……いまのあなたの顔も、人のことは言《い》えないと思うけれど? ――フッ、お兄さんの目がろくに見えない様子《ようす》で幸いだったわね?」
「……うっさい」
――俺はいままで、桐乃を助けるために色々なことをしてきた。
オタク友達を作るために協力してやったり。親父《おやじ》からオタクグッズを護《まも》るために必死こいたり。あやせの誤解《ごかい》を解くために奔走《ほんそう》したり。ケータイ小説の盗作騒動《とうさくそうどう》を解決するために出版社に乗り込んだりな。
けれどもそれはどれも桐乃のためなんかじゃなくて、ぜんぶ、自分のために俺の都合《つごう》で勝手《かって》にやっていたことなんだ。どんなに妹がかわいくなかろうと、ムカつこうと、その才能に嫉妬《しっと》していようとも……兄貴《あにき》だからしょうがない。どうしようもなく当然のことだった。
だから、感謝なんていらないし、されたくもない。
これでいいんだ――そう思っていた。それはいまも変わらない。変わらないはずだ。
なのに……どうしてか涙がにじんでくる。
汚《きた》ねぇよ……不意打《ふいう》ちしやがって……。
ああ、もう認める。俺は――妹にありがとうって言われて、感謝されてさ……。
嬉《うれ》しいんだ。
泣いちまうほどにな。
「…………さんきゅな、桐乃。オマエからもらったコレ……大切にするぜ」
「はいはい。てか、まだ開けてもいないのに、何言ってんの?」
妹からはすげない返事。しかしそんなのはもう気にならない。こいつの気持ちは、こうして形になって俺の手にあるんだから。
「そうだな。じゃあ、いま、開けてもいいか?」
「か、勝手にすれば?」
「……おうよ」
いまだ涙のにじむ視界《しかい》を服の袖《それ》でこすり、俺ば護《まも》るように抱きしめていた紙袋《かみぶくろ》の封《ふう》を切った。
そっと中身を取り出す。ゆっくりと、丁寧《ていねい》に、丁寧に、包装紙《ほうそうし》をはいでいく。
これは妹が、俺にくれたという事実が大切なのであって、別に中身《なかみ》なんて何でも構わない。
何が出てこようと、きっと俺は嬉しいし、たぶん泣く。
ごそごそっ。そうして包装紙の中から出てきたのは――
『妹《シスター》×妹《シスター》〜しすこんラブすとーりぃ〜』というタイトルのエロゲーだった。
「……………………………………………………えっと……なにこれ?」
ぽつりと呟《つぶや》く俺。見間違《みまちが》いかと思い何度か瞬《まばた》きしてみたが、目の前にあるブツが消えてなくなるようなことはない。眼球《がんきゅう》を高速|移動《いどう》させて沙織や黒猫の様子《ようす》を窺《うかが》うと、二人ともポカーンとしていた。どうやら彼女たちにとっても、この展開は予想外《よそうがい》らしい。
ちらっと妹の顔にピントを合わせると、スゴク嬉しそうな笑顔がそこに。
「それマジ神《かみ》ゲーだからやった方がいいよ!」
「おまえってやつは……ツ!」
俺の感激に、なんというオチをつけてくれやがる!
いや、確かに大事なのは気持ちであって、中身《なかみ》なんて何でもいいっつったよ!
だ、だが……この感動のシチュエーションで……プレゼントの包装《ほうそう》からエロゲーが出てくるなんて誰《だれ》が思う……! 俺は戦慄《せんりつ》のあまり、それ以上言葉を発することさえできなかった。
でもな……
「ヘへ……それをあたしだと思って、大事にしなさいよね!」
照れくさそうに鼻の下をいじる妹の顔を眺《なが》めているうちに、段々《だんだん》と力が抜けてきた。
なぜなら、妹の表情には、いつものようにおちょくる気持ちなんて、かけらも見あたらなかったからだ。まったく、あきれ果ててしまう。こいつはこの台詞《せりふ》を、本心《ほんしん》から言っているのだ。
妹もののエロゲーを、自分だと思って大事にしろ、だってよ!
「へっ……ヘヘへ」
俺も釣《つ》られて笑っちまった。あんまりアホらしくて、もう笑うしかなかった。
――意外《いがい》と、これが一番こいつらしい感謝の印《しるし》なのかもな。
「なに? なに笑ってんの? はーん、そんなに嬉《うれ》しかったワケぇ?」
「ああ、まーな。くっくつくっ……」
「――ありがとよ、桐乃」
ばふっと頭の上に、手をのせてやる。
きょとんと目をぱちくりさせる桐乃。
きっと数秒あとには、怒って罵倒《ばとう》されるのだろうし――
妹からの贈《おく》り物は、あろうことか、妹もののエロゲーだったときた。
まったくこれ以上ないほどにバカらしくてアホらしい、思い出しても苦笑《くしょう》するしかないような、つくづく俺たちらしいシチュエーションだ。
けれどもいまこの一瞬《いっしゅん》だけは――
普通の兄妹みたいに見えたかもな。
秋葉原《あきはばら》でのどたばたパーティが終わってから数日が経《た》ったが、あれから俺《おれ》と妹の関係は、なにやら奇妙《きみょう》な感じになっていた。
俺に対して素直に詫《わ》び、
いままでありがとう、と心のこもった贈《おく》り物(エロゲーだったけど)までくれた桐乃《きりの》。
これが何かの物語だったなら、あの|イベント《ヽヽヽヽ》以降、ツンツンしていた妹が急激にデレデレし始めて、兄貴《あにき》=主人公に対して親愛《しんあい》の情《じょう》を向けてくるというのが鉄板《てっぱん》だ。
それが『妹もの』なら特にそうだろう。アトリエかぐやのゲームだったら、もうあの晩Hシーンに突入してても不思議《ふしぎ》じゃない。むしろ当然の定石《じょうせき》として、差分《さぶん》CG回収《かいしゅう》用のセーブデータを作っておく場面だったさ(我ながらなんてオタクっぽい比喩《ひゆ》だろう)。
ともあれ、現実はエロゲーのようにはいかんのだ。人生ってのは、人間ってのは、そう単純なものじゃない。ゲームのようにイベントをクリアすれば好感度《こうかんど》が上がるってわけでもないし、好感度が一定|数値《すうち》を超えたら、それでカチリと関係が切り替わるようなもんでもない。
あのあとだって、頭にのせてやっていた手を案《あん》の定《じょう》パチンとやられたし、帰りの電車では一言も口を利かなかったし、呼び方が『あんた』から『お兄《にい》ちゃん』に変わるようなこともなかった。っていうか、ハハ……桐乃に『お兄ちゃん』なんて呼ばれたら、俺は死ぬけどな。
そう――。
あのパーティを通じて、妹から感謝の気持ちを受け取って、少しは分かり合えたと思っていたが、実際のところ俺たちの関係は|それほど《ヽヽヽヽ》変わらなかった。
奇妙な感じになっちゃいたが、根本的なところは変わらなかった。
なぜなら、あれほど素直に礼を尽くされてなお、俺は相変わらず桐乃のことが大嫌《だいきら》いだからだ。その理由の一端《いったん》については、これまで何度も繰り返してきたから言うまでもないな。
なにをしても好感度なんて上がらない。俺は妹のムカつく態度について、そんな比喩を使ったことがあったが、なんのことはない、俺だってそうなのだ。人のことは言えないのさ。
でかいマイナスに多少のプラスが加わったところで、マイナスはマイナスのまま。
ようするにそういうこったろうよ。
負の蓄積《ちくせき》があまりにも大きすぎて、|いまさらあの程度のことで《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》好きにはなれない。
ハッ、あったりめーだろうが? 俺がいままであのバカにどんな目に遭《あ》わされ続けてきたか、そんでアイツがそのときどきでどんなハラ立つ態度を取ってくれやがったのか……そのほんのひとかけらを、俺と一緒《いっしょ》に見てきたはずだ。……あ? それだけじゃないだろうって?
チッ……それは、まあ、そうかもな。分かってるっつーの、そんなこと。
だから、なんだ、その……あいつは俺の妹だし、ごくごくまれに可愛《かわい》いトコもあるしよ。
たま〜に人生《じんせい》相談をされるくらいなら……まあ、いままでどおり、世話《せわ》をやいてやらんこともねーよ。……ちゃんと感謝してるみてーだしさ……ヘへ……。
ごほんっ。――ってなもんだ。文句《もんく》あっか。
ケッ、もしも俺たちの関係が、これ以上、目に見えて変わるようなことがあるとしたら。それはきっと、九ヶ月前のアレに匹敵《ひってき》するほどの――
超特大《ちょうとくだい》の地雷《じらい》を踏む必要があるんだろうぜ。そんな日は来ねえよ。
……でも、あんときも、そう思ってたんだっけ。
ときは三月。俺が高校二年生でいられるのも、あと一月ばかり。
そんな休日の朝のこと――。
「ふあ……あ……」
朝食を摂《と》るべく、あくびをかみ殺しながら階段を下りていると、桐乃と出くわした。
いつかのようにリビングの扉《とびら》付近で、肩がぶつかりそうになったのだ。
「っと……」
俺はぎりぎりで踏みとどまったのだが、軽く肩が触れてしまった。いつもなら辛辣《しんらつ》な罵倒《ばとう》が飛んでくるシチュエーションだ。ぐっと歯を食いしばって身構《みがま》えたのだが、
「あ、おはよ」
なんてごく普通の挨拶《あいさつ》が返って来たもんだから、拍子抜《ひょうしぬけ》けさ。
「お、おう……」
目を見張りながらも道を譲《ゆず》ってやると、桐乃は、「さんきゅー」といい自然な礼の言葉を残して、リビングに入っていく。
……いや、何事かと思ったよ。だってアイツが俺に礼を言うなんて……
しかもこの前に引き続いて二回目じゃねえか。ど、どういう風の吹き回しだ、いったい。
北の方から核ミサイルでも降ってくるんじゃねーだろな。
俺はとつぜん素直になった妹の態度に面くらってしまっていた。
いや、昨日《きのう》まではこうじゃなかったはずなんだよ。フツーに、話しかけても、ぷいっとそっぽ向いて早足でどっか行っちゃうよーな感じで……。あれえ……?
そして、俺が抱いた妹への不審《ふしん》な印象《いんしょう》は、ますます強まっていくことになる。
食卓にて、家族そろって朝飯《あさめし》を囲んでいるとき――
「はい、お父《とう》さん、お母《かあ》さん」
桐乃がご飯《はん》をよそって、家族一人一人に渡していく。親父《おやじ》やお袋《ふくろ》は、それをさも当然のように受け取って、「ありがとう、桐乃」「……うむ、いただこう」なんて|微笑んで《ヽヽヽヽ》いる。
「………………ごくっ」
とんでもない違和感《いわかん》に、思わずのどを鳴らす俺。
これが田村《たむら》さん家《ち》の食卓の光景ならば話は分かる。しかしながら、我が高坂家《こうさか》でこんな空恐《そらおそ》ろしい光景を見たのは、生まれて初めてのことだった。
つうか、巌《いわお》のようなツラで微笑《ほほえ》む親父《おやじ》が、非っ常〜に気色《きしょく》悪いんだが。
俺がおののいていると、いつの間にか目の前に茶碗《ちゃわん》が差し出されていた。
「どしたの? ぼーっとしちやって。はい、アンタの分」
「うえっ? うお、おおおおう……さ、サンキュウ……」
受け取る手がブルブル震えていたのは、言うまでもなかろう。
ど、毒《どく》でも入っているんじゃあるまいな……?
桐乃によそってもらったご飯《はん》をためつすがめつしてみる俺。しかしみずみずしく炊《たけ》けた米からは、うまそうな匂《うま》いが湯気《ゆげ》と共に漂《ただよ》ってくるばかりである。
おかしなことは、さらに続いた。
「昨日《きのう》はありがとね、お母《かあ》さん、お父《とう》さん」
「あー、いいのいいの。こっちも楽しかったし、ねえ、お父さん?」
「む……ああ、そうだな。休みを取った甲斐《かい》があったというものだ」
「……なんの話してるんだ?」
食卓で分からない会話が展開されていたので、俺はそう聞いてみたんだ。
そしたらお袋《ふくろ》が教えてくれたのさ。
「あー、昨日ね、桐乃のお仕事を見学しに行ったの。お父さんと二人で」
「…………は? お、親父と二人で? 桐乃の仕事を……見学に?」
いや、それ、ありえないだろ?
だって、親父は桐乃がやってるモデルの仕事を(少なくとも表面上は)快く思っていないはずで……だからたとえお袋に誘われたって、首を縦に振るはずがない。
しかし親父は、例の超《ちょう》気色悪う〜い微笑みを浮かべて、
「……ふ、なかなか悪くなかったぞ、京介。いい目の保養《ほよう》になった」
「やだも〜、お父さん。なんかスケベ親父みたいじゃ〜ん」
一人娘《ひとりむすめ》に半笑《はんわら》いで叱《しか》られてしまった親父は、たいへん傷ついたような顔になった。
「い、いや……そういうつもりでは言ったわけでは……その、とにかくだ、この目で見て、安心した。俺にはよく分からないが、きちんと自分の仕事をしていたな。立派《りっぱ》だったぞ、うむ」
と――強引《ごういん》に威厳《いげん》を取り繕《つくろ》ったのだが、そこでお袋が意地悪《いじわる》くニヤけた。
「ふっふー、桐乃桐乃、お父さんね、写真撮ろうとして不審者《ふしんしゃ》と間違えられたのよ〜?」
「え〜っ、ウソぉ、やだぁ〜」
「がっ……よ、余計《よけい》なことを……! だいたいおまえがすぐ来て説明すればあんなことにはならなかったのだ……!」
「え〜? だぁって恥《は》ずかしいもの〜、『ち、違う、これは、娘を……! か、母さん! どこにいる!? 来てくれ……っ!』」
「真似《まね》するんじゃないッ!?」
――なんだこの状況――
おかしい、明らかにおかしい。い、いったいこの家に何が起こっている……?
もしかしてこれって夢?
だからこんな……俺の家族がみんな妙《みょう》ちきりんなことになっちまってんのか?
「どうしたのよ京介――」
「ど、どうした、京介」
お袋と親父が怪訝《けげん》そうに俺を見る。俺は再び生唾《なまつば》を飲み込み、意を決して聞いた。
「……ほ、本物の親父《おやじ》か?」
ぬッと親父の手が伸びて――
バチンッ! 強烈《きょうれつ》なデコピンが俺を襲《おそ》い、暗転《あんてん》した眼前《がんぜん》に☆が飛ぶ。
眉間《みけん》に孔《あな》が開くかと思ったね!
「痛ッ……てえーッ!?」
「ばかものが。くだらんことを言うな」
デコを押さえて涙目《なみだめ》になっている俺に向かって、親父が憮然《ぶぜん》と吐《は》き捨てた。
その言い草《ぐさ》は、いつもの親父だった。
「……ゆ、夢じゃない。……本物か……」
「あら京介〜、頭|大丈夫《だいじょうぶ》? 病院|行《い》く?」
「く……お袋、違う意味で言ってんだろそれ……」
そんないつも通りのやりとりを――
「……ぷっ、ばーか」
なんて、桐乃は面白そうに眺《なが》めている。普段《ふだん》のこいつらしからぬ、侮蔑《ぶべつ》の色のない視線《しせん》でだ。
妹の様子と、家族の妹への態度だけが、いつも通りではなかった。
メシを食い終わり、部屋《へや》に戻ってほどなく。
こんこん、と、扉《とびら》がノックされた。読んでいた参考書《さんこうしょ》を裏返しに置いて、出てみると、そこには桐乃が立っていた。スカートのあたりで手を組んで、なにやらためらっているようだ。口には出さなかったが、おしっこを我慢《がまん》しているようなポーズだと思った。
「……どうした?」
「話があんだけど……あたしの部屋、来てくんない?」
その頼み方は、やはり、いつもより優しかった。妹の部屋に呼ばれて行く。このシチュエーションを、あれから何度|繰《く》り返しただろう。初めて妹の部屋に入って……例の人生《じんせい》相談を受けたのが、去年の六月ごろだから……。
もう九ヶ月も経ってるのか。
――ついに来たのか。最後の人生相談ってやつが。
俺は前を歩く桐乃の背中を眺《なが》めながら、なんとも言い難《がた》い感慨《かんがい》を覚えていた。
ずいぶん遠いところまで来た……。依然《いぜん》として同じ家にいるってのに、そんなことさえ思う。
たぶんこれは、心の距離の問題なんだな。九ヶ月|前《まえ》の俺と、今の俺とでは、精神的に立っている場所が違う――そういうことなんだろう。上手《うま》く言えないが。
やがて俺たちは、桐乃の部屋《へや》の前に立った。
「入って」
「あいよ」
これも何度|繰《く》り返されたか分からない、恒例《こうれい》のやり取り。妹の部屋からは、相変《あいか》わらず甘い匂《にお》いがする。衣替《ころもが》えをしたのか印象《いんしょう》が様《さま》変わりしていた。カーテンの色が赤からピンクに変わっている他、全体的に物が減《へ》って、すっきりしている。
「なんか、綺麗《きれい》になってんな、部屋」
「そう?」
すげない答えが返ってくる。桐乃は猫《ねこ》の座布団《ざぶとん》を指さした。
「座って」
「おう」
俺は遠慮《えんりょ》なくあぐらをかいた。以前は、この猫座布団にケツを乗せるたびに妹に不愉快《ふゆかい》そうな顔をされたもんだが、もういい加減《かげん》慣れてきたのか諦《あきら》めたのか、いまはそういうこともない。
「で……話ってのはなんだ? 前に言ってた『最後の人生《じんせい》相談』ってやつか?」
ベッドに座っている桐乃は、すぐに返事をしなかった。
数秒《すうびょう》言葉をさまよわせてからこう言った。
「……そうといえば、そうかな」
「……?」
煮《に》え切らない返事である。
「まあいいや。言ってみ」
「……ちょ、」
俺のすげない言い方が気に障《さわ》ったのか、桐乃はムッと何かを言いかけて、しかしぎりぎりでやめたようだった。
「……なんでもない。……フ――――ええっとね……」
桐乃は再び言葉をさまよわせている。なんだ? そんなに言い辛《づら》いことなのかよ……。
まあ、今日のおまえ、様子《ようす》がおかしいとはいえ殊勝《しゅしょう》だしよ。俺にできることなら――
「エロゲー買ってきて欲しいんだよね」
「しれっとムチャ言ってんじゃねえ!?」
神妙《しんみょう》なツラして何を言うかと思ったら! またそれか! やっぱり桐乃は桐乃だったな!
いままでの頼み事よりもずっとシンプルだけど、それゆえ素直にこう言える――イヤだ!
「てか、まさかそれが『最後の人生《じんせい》相談』なのかよ?」
「……まぁ、ね」
なんだそりゃ。
「なによ、その顔……拍子抜《ひょうしぬ》けしたみたいにさ」
「いや……最後の人生相談にしちゃ、軽いっつーか、なんつーか」
「いいじゃん。簡単でしょ?」
「そうでもねえよ」
ぽんぽんと会話が進んだせいで、俺《おれ》の抱《いだ》いた違和感《いわかん》は置き去りにされてしまう。
「おまえなあ、俺は十七|歳《さい》なんだぞ?」
「それがどうかしたの」
「ど、どうかしたのじゃねーよ。十八歳|以上《いじょう》じゃねーと、18禁《きん》のゲームは買えねーだろっつってんだ。常識《じょうしき》で考えろよな……ったく」
と――そこで俺は、根本的な疑問を抱いてしまった。
「桐乃……聞くけどおまえ、いままでどうやってエロゲー買ってたんだ?」
いくら何でも店では買えないだろうし。通販《つうはん》にしたって、色々《いろいろ》問題があるんじゃ……。桐乃はあっさりとこう答えた。
「秘密《ひみつ》。色々やりよーはあんのよ。でも、そんなの聞きたくないでしょ、アンタ」
「まあな。興味《きょうみ》もねーし。でも、それならいままでどおりのやり方とやらで買えばいいんじゃねーの? 何も俺に、わざわざ買いに行かせることはあるめーよ」
「あるから言ってんでしょ。…………これ見て」
桐乃が指さした先には、デスクトップパソコンのディスプレイがある。そこではブラウザが起動《きどう》しており、とあるゲームショップの公式ホームページが表示《ひょうじ》されていた。
[#ここからゴシック体]
お知らせ・六日午前〇時より、秋葉原《あきはばら》本店にて新作ゲームの深夜《しんや》販売やっちゃいます!
ありす+《プラス》からは大人気妹めいかぁEXシリーズ≠フ最新作がなんと一挙《いっきょ》二本|同時《どうじ》発売!?
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発売日の午前〇時より販売|開始《かいし》です! エッチな新作ゲームを、他のお店よりも一足《ひとあし》早く手に入れて遊びたい方は、ぜひともいらしてください!
[#ここでゴシック体終わり]
「……ってわけ。で――『おにぱん』と『カス妹』、深夜《しんや》販売に並んで買ってきて欲しいの」
なんという略称《りゃくしょう》。
『3Dカスタム妹《いもうと》』ってのは、『シスカリ』みてーに自分好みの妹をカスタムするゲームなんだろうと推察《すいさつ》できるのだが、『おにーちゃんのぱんつなんか、ぜったい盗《ぬす》んでないんだからねっ!!』の方は、まったくタイトルから内容が想像《そうぞう》できん。
妹を操作して、兄貴に見つからないようパンツを盗むゲームなんですかね。
……………………………………。
「ん? どうかした?」
「い、いや、なんでもない」
空恐《そらおそ》ろしくて、心の声にすらしたくないよ。
「ふーん?」
「で……えーと……なんだっけ? 深夜販売?」
「そう、深夜販売。発売日の午前〇時から特別にお店を開けて、新作ゲームを売ってくれんの」
「――それに並べって? なんでまた? 深夜に並ばなくちゃならんほど品薄《しなうす》なのか?」
「別に品薄ってわけじゃないし、発売日ならフツーに買えると思う」
「じゃあなんで俺に頼むんだ? 学校終わってから買いに行くなりすりゃいいじゃねえか」
「一秒でも早くやりたいからに決まってんでしょ」
即答《そくとう》が返ってきた。桐乃は、ぐいっと偉そうに胸を張って、
「あたしの予定では前日の夕方に寝ておいて、アンタがブツを買って戻ってきてから、朝までプレイして一ルートくらいは終わらせるつもり」
「おまえってやつは、筋金《すじがね》入りのオタクだなア〜……そこまでやるか?」
「ふっ……やるよ。当然でしょ?」
死地《しち》へと向かう益荒男《ますらお》のような台詞《せりふ》である。|断固たる決意《デタミネーション》とは、まさにこのことだろう。
「しかし、エロゲーを俺が買いに行くにしても……幾つか問題があるぞ」
「は? どんなのよ?」
「まずひとつは、門限《もんげん》だな」
我が家の門限は基本的には六時半で、七時の夕食時に食卓に着いていないと飯抜《めしぬ》きにされるという決まりだ。まあ親父《おやじ》は仕事柄《しごとがら》帰りが遅くなることもままあるし、高校生の俺なら、電話|連絡《れんらく》さえきちんと入れれば門限|破《やぶ》りをとがめられることは少ない。この前のように麻奈実《まなみ》の家に泊《と》まるからとか言い訳《わけ》すれば、門限|後《ご》に外出することは可能だろう。しかし――
「深夜販売ってのは午前〇時からアキバでやるんだろ? ってことは、家に帰り着くころには一時過ぎちゃうじゃねえかよ。どんな名目《めいもく》で家|抜《ぬ》け出すにしても、そんな時間に帰ってきたら親父すげえ怒るぞ。しかもエロゲー買いに行ってきたなんてバレた日にゃあ……」
おお怖《こわ》。考えたくもないな。
「そこはあたしがなんとかする。家の前に着いたらあたしの携帯《けいたい》に電話して。そしたらあたし、お父さんたちがまだ起きてるかどうか確認《かくにん》して、起きてるようなら陽動《ようどう》かけるから」
そういやこの前、新宿《しんじゅく》行くとき桐乃と携帯アドレス交換《こうかん》したっけな。
……しっかし、まさかこの妹とアドレス交換をすることになろうとは。
一年前の俺たちからはつくづく考えられん。
「おまえが親父《おやじ》を引きつけている間に、家に入れって? そんなに上手《うま》くいくかあ?」
「大丈夫《だいじょうぶ》大丈夫。で? 問題ってのはまだあんの?」
ひらひらと手を振る妹に嘆息《たんそく》しながら、俺はこう答えた。
「……当然ながら、俺はエロゲー買ったことがないんだけどよ。深夜《しんや》販売とやらに並んで、普通に買えるもんなのか? 繰り返すが十七歳なんだぜ俺は」
「分かんない、けど……でも……。どーしても早くやりたいの」
なんでそんな必死なのよ。
これだからオタクってやつは理解できん。
「ねぇ〜、これで最後だから……お願い」
は〜〜〜〜っ、でもまあ、どう考えてもこいつを深夜販売とやらに並ばせるわけにはいかないし……。いままでのトラブルと比べればたいしたことないってのも、事実だ。
「……わーったよ。買ってくりゃいいんだろ?」
「ほんとっ?」
「おお、男に二言《にごん》はねえ」
おーおー、嬉《うれ》しそーな顔しやがってまあ。
あーあ。俺もつくづく甘いっつーか、情《なさ》けないよな。
こんなふうに妹から手を合わせて『お願い』されたくれーでよ……。簡単に了承《りょうしょう》しちゃうどころか、嬉しそうな反応《はんのう》見て、こっちまで喜んじゃってんだから。
目を輝かせていた桐乃は、今度はにやりと口角《こうかく》をつり上げて、毅然《きぜん》とした声を張り上げた。
「――貴様《きさま》にひとつ、重大な任務《にんむ》を託《たく》したいっ」
まるで軍隊《ぐんたい》の上官《じょうかん》のように胸を張り、腰に片手を添《そ》え、びしっと俺を指さして、
「美姫《びき》を守って単機敵中突破《たんきてきちゅうとっぱ》、三十二キロ。やれるかね?」
「美姫ってエロゲーのことっスか?」
嫌《いや》な比喩《ひゆ》だな。元ネタがなんの台詞《せりふ》なのかは知らんけども。
まあいい。俺はだるそーにうなずいた。
「へいへい……了解《りょうかい》了解、と」
にしても……最後の人生相談にしちゃ、やっば、簡単というか……軽い頼み事だよな。
難しい方がいいとは言わないけど。
……最後だってのに、こんなんでいいのか?
ってなわけで、その日の深夜、俺はクラスメイトの赤城宅《あかぎたく》に泊まりに行くという名目《めいもく》で家を抜け出し、秋葉原《あきはばら》駅へとやってきた。なんだか最近よく来るよなあ、ここ。
ちなみに言い訳《わけ》に使った赤城|浩平《こうへい》ってのは、サッカー部に所属《しょぞく》していて、まあ一応《いちおう》友達と言ってやってもいいくらいにはつるんでいる。
練習がない日には、よく一緒《いっしょ》にゲーセン行ったりしてな。いかにもサッカーやってますみたいな、なかなか爽《さわ》やかなやつなのだった。ルックスもイケメンだ。
『すまん赤城、今夜さあ、何も聞かず、俺がおまえの家に泊まっているってことにしておいてくれねえ?』
と頼んでみたところ、『おお、いいぜいいぜ。――田村《たむら》さんとうまいことやれよ』なんて軽く請け負ってくれた。なにやら勘違《かんちが》いが発生しているようだったがな。
やたらとお節介《せっかい》な上、よく人をおちょくってくるというムカつく一面《いちめん》はあるものの、いいやつではあるのさ。たぶん。
深夜の秋葉原駅には初めて来たが、思ったよりも混雑《こんざつ》している。
俺は、改札《かいさつ》に吸い込まれていくサラリーマンたちの流れに逆《さから》らうようにして歩いていく。
「……さみーな、オイ」
駅の改札を出た途端《とたん》、冷風《れいふう》が吹き付けてきた。俺は思わずコートのポケットに両手を突っ込み、裾《すそ》を合わせて震える。時刻は午後十一時。電気|街《がい》のシャッターは軒並《のきなみ》み閉まっており、街灯《がいとう》や一部の電飾《でんしょく》だけが闇《やみ》を彩《いろど》っていた。その光景が余計《よけい》に寒々《さむざむ》しい。
「小雨《こさめ》まで降ってやがる……」
あまりにも寒いと思ったぜ。真《ま》っ暗《くら》な空を振り仰《あお》ぐと、霧状《きりじょう》の雨滴《うてき》が顔の体温を奪《うば》っていくのが分かった。あいにく、傘《かさ》は持ってきていない。
「大降《おおぶ》りにならなきゃいいが」
駅|構内《こうない》を出て、目的のゲーム屋へと向かう。
道のりは短い。駅を出てから数分もかからなかった。
俺が店に到着したときには、すでにかなりの人数がシャッターの前で並んでいた。
五十人くらいはいるんじゃねえかな、これ。
しかも結構《けっこう》な割合で女の子が混じっているのに驚いた。
どんなゲームを買うつもりなんだか知らないが……。
まさかこいつら全員桐乃の同類《どうるい》かよ。ご苦労なこった。よくやんぜまったく。
などと思いながら、最後尾《さいこうび》へと並ぶ。
店のシャッターは閉まっていて、午前○時から深夜《しんや》販売を開始する旨《むね》の案内|看板《かんばん》が立っていた。
各社から発売されるゲームタイトルのリストが、シヤッターに貼《は》られている。
「…………」
それにしても俺のちよっと前に並んでいる人……すげえジャケットを着ていやがるな。
なにせ背中に、恐らく今夜《こんや》発売するエロゲーに登場するんであろう美少女キャラクターが、でかでかとプリントアウトされている。
まさかこの人、この格好《かっこう》で電車に乗ってきたんじゃあるまいな……。そうだとしたら、なかなかに熱い魂《たましい》を持つ漢《おとこ》じゃねえか。嫌《きら》いじゃないぜ、そういうの。
絶対|真似《まね》しないけどね。
しかし、ここにいるのは、やはりそのくらいのモチベーションがある人たちなんだろうな。
だって、わざわざ深夜《しんや》販売に並ばなくたって、明日(具体的にはおよそ十一時間後)になればどこの店でも普通に買えるわけだし、仕事や学校で忙しいってんなら通販《つうはん》という手もある。
ようするにこいつら、みんな桐乃と同じハラなのさ。
わざわざ秋葉原くんだりまで出張《でば》って、このクソ寒い中|並《なら》んでまで――
一秒でも早く、新作ゲームで遊びたい。どうしても十時間ちょっとが我慢《がまん》できない。
つまりはそういうことなんだろう。……執念《しゅうねん》だな、もはや。
その気持ちは、正直、理解できないが……。
それだけ楽しみにしてくれているんなら、ゲームを作った人たちもスゲエ嬉《うれ》しいだろうな。
自分たちが一生|懸命《けんめい》作ったゲームをさ、こうして心待《こころま》ちにしてくれてるわけなんだから。
そういうのって、有り難《がた》いもんだよな。
この間、出版社で、物を作る人たちと会ったからだろうか。俺はそんな風《ふう》に思ったよ。
しばし並んで待つこと数分。開店までにはまだまだ時間がある。
正直ヒマだ。文庫|本《ぼん》でも持ってくりゃあよかったかな。手持ちぶさただったので、意味もなくラジオ会館のあたりに目をやると、そこにもの凄《すごい》い自転車《ヽヽヽ》を発見してしまった。
見るからに高価《こうか》そうなロードレーサータイプ。でもって聞いて驚《おどろ》け――
後輪《こうりん》のホイールにエロゲーキャラが描いてあるんだよ!?
スポークのところが円盤型《えんばんがた》になっている車輪《しゃりん》。ああいうのって、ディスクホイールっつうんだっけ?
そこ一面に微笑《ほほえ》む美《び》少女が描かれているさまは、色々《いろいろ》な意味でインパクトがあった。
目が点になっちまったよ。恥《は》ずかしいとかそういう問題だけじゃなくて、あんな高価そうな自転車に躊躇《ちゅうちょ》無くアレほどの改造《かいぞう》を施《ほど》してしまう神経《しんけい》がやばい。オーナーさん正気じゃねえ。
「…………すっげ!」
ごくっ……アレに乗って来たヤツが、この行列《ぎょうれつ》のどこかにいるというのか……?
よし、あまり考えないようにしよう。
ぶるぶるっ。俺はかぶりを振って、別のものに意識を向けようと試みた。途端《とたん》、強い冷風《れいふう》が吹き付けてくる。俺は両手を裾《すそ》の中にひっこめて、「おお寒っ」とぼやく。
……マジ寒いな。
列に並んでいる誰《だれ》もが、その気持ちを共有《きょうゆ》していた。
気温が冷たいし、駅に向かって通り過ぎていくサラリーマンがたちが、俺たちにチラッと向けてくる視線《しせん》も冷たい。口さがないOLさんたちなんか、「寒いのに何やってるのコレ……!」「深夜《しんや》販売! 深夜販売!」「へぇ〜、コレが噂《うわさ》の……」なんて指さしてきやがる。
あげくの果てに外人《がいじん》さんのグループが、戦慄《せんりつ》の色を隠《かく》さない表情で何やら囁《ささや》き合っている。
よく聞き取れないが、こんな感じ。
「ホ、ホホ、ホワッツ?」
「……*〉?*ヘイ、ルック! ……シンヤハンバイ……ヘンタイゲーム」
「……オォウ……ホゥホウホォウ……オークレイジィ……」
まったく! 同じ秋葉原《あきはばら》の人間なんだから、もうちょっと温かい対応《たいおう》があっていいもんだ!
くそっ。アキバの人たちから見ても、いまの俺たちは奇異《きい》に映ってしまうらしいな。
「……あーあ」
早く店開かねえかな……。さっさと買って帰りたいぜ……。
携帯《けいたい》で時間を確認《かくにん》してみるも、まだまだ十二時までは三十分以上ある。
「ふう……」
俺はけだるげにシャッターにもたれ、白い息を吐き出した。
ここで俺は、思いがけない人物と遭遇《そうぐう》することになる。
「あの〜…………深夜販売の列最後尾《れつさいこうび》って、ここですか?」
「ええ、そうっすよ――」
気軽《きがる》に答えて振り返ると、
「「うげっ!?」」
俺とそいつが、同時に驚愕《きょうがく》の声をあげた。
「んなっ……な」
身体《からだ》をびくっとこわばらせて、目をぐりんと大きくして、お互いに相手を見る。背丈《せたけ》は俺とそう変わらない。わずかに垂《た》れ気味《ぎみ》の目に二重《ふたえ》まぶた、栗色《くりいろ》の短髪《たんぱつ》が特徴《とくちょう》。夜間でも目立つ、オレンジ色のダウンジャケットを羽織っている。
目前《もくぜん》にいるのは、さっき俺が電話で頼み事をした相手――
「あ、赤城《あかぎ》?」
赤城|浩平《こうへい》に間違いなかった。
「こ、高坂《こうさか》……か……?」
赤城は警戒《けいかい》の色を表情にありありと浮かべている。きっと俺も同様《どうよう》だろう。
なぜならいまここに並んでいるということは………………分かるだろう?
ようするに、ビデオ屋の18禁《きん》コーナーで、クラスメイトとばったり出くわしてしまったような気まずさ。ううう……ぎぎぎぎ……。あぁぁ……どうしよう……。
つっか、なんでこんな似つかわしくないとこにいやがんだこいつ!
「な、なんで……いんだよ?」
「おまえこそ……」
俺も赤城《あかぎ》も、明らかに察していながら、それを認めたくなくて……
「いやァ〜…………ハハ、しっかし、寒いよなァ、高坂クン」
「……ま、まったくっスねエ〜〜〜赤城クン。……ハハハ」
きわめて白々《しらじら》しい態度を取る俺たち。
「……………………………………」
「…………………………………………………………」
そして急に黙《だま》り込む。
ゴクリ…………どうしたもんかな……これ……。
た、たぶんこいつも、目的は俺と同じなんだろうけど……。
と――そこで俺は、あることに気付いた。沈黙《ちんもく》から一転《いってん》、勢い込んでしゃべり出す。
「てか赤城! さっき俺、おまえん家《ち》に泊まってることにしてくれって頼んだじゃねーか! 爽《さわ》やかに請《うけ》け負っておいて、なんでテメーはエロゲーの深夜《しんや》販売に並んでんだ!」
「う、うっせえぞ高坂! 人にはなあ『優先《ゆうせん》順位』ってもんが存在するんだよ!」
「と、友達よりもエロゲーを優先しやがったのかこのオタク野郎《やろう》!」
「くっ……それには深いわけがっ! だ、ダイジョーブだって、もしウチにおまえん家《ち》から電話かかってきたら、妹が上手く言うからさ! ちゃんと頼んどいたから抜かりはねえよ! っつか高坂おまえだって俺のこと言えんだろうが! 田村さんと親に内緒でどっか行くんだろうと思ったからこそ口裏合《くちうらあ》わせてやろうと思ったのによ! なんでよりにもよってアキバにエロゲー買いに来てんだよ! もはや呆《あき》れ果てて言葉もないわ!」
「ぐぅぅ……それには深いわけがだなあ!」
牽制《けんせい》しあっている状況から一転《いってん》、列の最後尾でぎゃあぎゃあと口論《こうろん》を始める俺たち。
なんで俺、友達とエロゲーのことで喧嘩《けんか》してんだろ。
前に並んでるオタジャケットの人が、振り返ってこっちチラチラ見てるし。
落ち着いて考えると、めちゃくちゃ恥《は》ずかしいんだけど。
「深いわけだあ? なんだよ高坂、言ってみろよ」
「…………む……ぐ」
言えるわけがない。まさか妹に頼まれて『おにぃちゃんのぱんつなんとか』とかいうエロゲーを買いに来たなんてよ……。そもそも信じてもらえないだろこんな妄言《もうげん》。
俺はとっさに質問に質問で返した。
「お、俺のことはいいじゃねえか。おまえの理由ってのは何だよ? 聞かせろよ」
「…………ぐうう」
苦しげに言葉に詰まる赤城。クソ寒いのに、額《ひたい》に汗を掻《か》いている。
きっと俺も、似たような表情をしていることだろう。
「「…………」」
お互いににらみ合うこと数十秒。どちらともなく口を開く。
「……ど、どうやら、お互い、言いにくい事情があるようだな……」
「……そ、そのようだな……」
「……な、なあ高坂《こうさか》。提案《ていあん》なんだが……俺たちがここで会ったの、なかったことにしないか?」
「さっすが赤城! 素晴《すばら》らしい提案っすね! そうしようそうしよう。俺もおまえも、秋葉原なんかにゃ行かなかったし、深夜《しんや》販売にも並ばなかった!」
「もちろんエロゲーなんか買わなかった!」
「友情は見返りを――」
「――求めない!」
がしっ。固い握手《あくしゅ》をかわす俺たち。
熱い友情が確かにそこにあった。
ちょうどそのとき、ガララ――とシヤッターが半分|開《ひら》き、シャッターをくぐって店員さんが出てきた。片手にメガホンを持っている。
「おっ、そろそろかねえ、親友」
「いいや、まだ時間にゃ早いぜ、親友」
依然《いぜん》として握手をしたまま、店員さんの告知《こくち》を聞く。
『えー、ただいまより列を作りま――す! ゲームの予約をしている方は、タイトルごとにこちらに列を作ってくださ――い』
どうやら予約しているやつは、先に買えるらしい。俺(桐乃)は予約してないのだが
「高坂、俺、予約してんだけど。おまえは?」
「いや、してねえ」
おまえエロゲー予約してたんかい。赤城のことは爽《さわ》やかなやつだと思っていたんだが、どうやら色々《いろいろ》と知られざる一面があったようだな……。
しかしこいつ、どんなゲームを買うつもりなんだろう。
やっぱ妹もの?
けど、こいつ妹いるらしいしな……。もしもそのくせ妹もののエロゲーをすすんで買い求めようとしているのだとしたら、妹さんが不憫《ふびん》すぎる。兄貴《あにき》の風上《かざかみ》にもおけない変態《へんたい》だ。
盟約《めいやく》を交わした手前《てまえ》、『どのゲームを買うんだ?』とは聞けないので、俺は、今日発売されるゲームタイトルを思い出しながらもどかしい気持ちでいた。
そこで店員さんが、とあるエロゲーの箱を掲《かか》げながら、メガホンで声を張り上げた。
『「ホモゲ部」を予約済みの方――こちらに列を作ってくださ――い!』
「あっ、はーい(←赤城)」
「……ひいッ!?」
バシッ! 俺は人生《じんせい》最大の悪寒《おかん》とともに、固く握手《あくしゅ》を交わしていた元《ヽ》親友の手を振り払った。
なぜなら店員が持っているエロゲーの箱に描かれているのは、マッチョな男同士《おとこどうし》が、固く抱き合っているイラスト。しかも、どこか俺に似ている気もする。
ブルブルブルッ! あまりのおぞましさに、全身の震えが止まらない。
「あ、赤城……お、おおおおおおまえ……! アレは……その……い、いわゆる、ガチホモゲーというやつ、では……?」
「こッ、高《こう》ォォォ坂《さか》! おまえはいま重大な誤解《ごかい》をしているぞ!?」
「……い、いや、知らなかったんだ。ま、まさかおまえが……そんな特殊《とくしゅ》な御趣味《ごしゅみ》をお持ちだったとは……」
「ち、違《ち》げーって! 聞けよ! 俺たち親友だろ! さあ高坂、俺の目を見て!」
「おまえ真面目《まじめ》な顔でなに言ってやがるっ!」
やだこの人! まじキモいんですけど! 桐乃《きりの》の気持ちがいま凄《すご》い分かった!
「こ、このホモ野郎《やろう》が! お――俺に近づくんじゃない……! 残念っ……俺にそんなご趣味はございませんっ……」
「ちょ、高坂! たったいま誓《ちか》ったばかりの友情はどうした!?」
「ホモと友情を誓った覚えはねえよ!」
「ホモじゃねえっつってんだろ!」
「じゃあなんでホモゲー予約してんだよ!? なんだあのイラストとタイトル! どう見ても真《ま》っクロじゃねえか!」
「っ確かに俺が買おうとしていたのはホモゲーだ! しかも耽美系《たんびけい》ですらないガチなやつだよ! それは認めよう! だがっ、それには事情があるんだ!」
追い込まれた赤城は、さっき言い淀《よど》んでいた事情とやらを話す気になったらしい。
「実は――」
「じ、実は?」
「あのホモゲーは、妹に買ってきて欲しいと頼まれたものなんだ!」
「ふうん……妹さんになあ――」
それじゃあ仕方な、
「――ってそんなわけあるか! もっとマシな言《い》い訳《わけ》をしやがれっ!」
俺はビシッと指を突きつけて、赤城に突っ込みを入れた。
「おまえの妹は確かまだ中学生だろうが! どこの世界に! 兄貴にエロゲーを買いに行かせるような妹が―――――――――――――」
……………………。
「……まあ、ときには、いるかもしれないな」
「オイ! 何故《なぜ》とつぜん納得《なっとく》しやがった!?」
「……いや、疑って悪かったよ。そうだよな……この世にはときに、常識《じょうしき》では計り知れない出来事が起こるもんなんだよな……」
俺はしみじみと呟《つぶや》いた。なんのことはない。俺だって妹の命令で、エロゲーを買いに来ているのだ。たとえいまのが赤城の言い訳だろうと、それをウソだろうとは責められないぜ。
あと普段《ふだん》つるんでいるダチがホモだなんて、俺は信じたくない。うん、信じない信じない。
「で、赤城……その……おまえの妹さんが……えーと……ホモゲーやるの?」
「ああ、がんがんやる」
がんがんやるんだ……。
まあ、がんがんエロゲーやる妹がいるんだから、がんがんホモゲーやる妹がいたって、別に不思議《ふしぎ》じゃないよな。俺はホモゲーの列に並んでいる女性の皆さんを達観《たっかん》した面持《おもも》ちで眺《なが》めるのであった。
なるほどな……深夜《しんや》販売に集まった面子《めんつ》に女の子の割合が多かったのは、こういう理由があったのか。ええっと、
「そういうの……BLってんだっけ?」
「いや、なんつったらいいのか……。ソフトなもんからハードなもんまで色々《いろいろ》種類があって、」
「分かった説明せんでいい!」
ホモゲーの解説なんか聞きたくねえよ。色々あるんだね! はい終了!
「――ともかく。ウチの妹は、いわゆる腐女子《ふじょし》というやつなんだ」
「婦女子《ふじょし》」
「……いや、たぶんその顔は分かってないだろう高坂。腐女子だ。婦人の『婦』ではなく、腐《くさ》るという字を使う。腐った女子と書いて、腐女子。実のところ俺も、やつらの生態のすべてを把握《はあく》しているわけじゃないがな――二次元三次元を間わず、|主に人間の《ヽヽヽヽヽ》男|同士《どうし》の恋愛《れんあい》や、性的《せいてき》な関係を妄想《もうそう》し、悶《もだえ》え愉《たの》しまずにはいられないという忌《いま》まわしい業《ごう》に支配された女性たちのことを指す。……分かるか?」
赤城は真剣《しんけん》な表情と口調《くちょう》で、慎重《しんちょう》に|言葉を選びながら《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》説明してくれた。
どうやらいまのは、大事なところらしい。正直ちんぷんかんぷんである。
あとおまえ、妹の特殊《とくしゅ》な御趣味《ごしゅみ》をそんなべらべら他人に喋《しゃべ》っちゃっていいの?
まあ|そっち《ヽヽヽ》の事情は|こっち《ヽヽヽ》とは違うんだろうし――理不尽《りふじん》な妹について、話を聞いてくれる人に思いっきり愚痴《ぐち》りたいって気持ちも凄《すご》くよく分かる。だから何も言わずに聞いてやるよ。
「すまん。よく分からんが……腐女子《ふじょし》、だっけ? なんでまた、そんなふうに呼ぶんだ?」
「|腐っているからだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
即答《そくとう》する赤城《あかぎ》。主語を用いずに断じられたその台詞《せりふ》にはしかし、有無《うむ》を言わせぬ説得力《せっとくりょく》があり、問答無用《もんどうむよう》の圧力と、どうしようもないほどの慚愧《ざんき》の念が感じられた。
だから俺としても『で、何が腐ってんの? 脳《のう》?』なんて聞けるわけがない。
こう返事をするしかなかったよ。
「そういうものなのか……」
「そういうものなんだ。分かってくれたか」
「いや、分かんねえけど」
ずるっと赤城がずっこけた。体勢を立て直すや、妄執《もうしゅう》さえ感じる勢いで詰め寄ってくる。
「ようするにホモが好きなんだよ! アニメキャラ同士《どうし》のカップリングとか! ミュージカルとか! 大《だい》ッ好《す》きなんだよ! テニプリの石田銀《いしだぎん》を愛しているんだよッ!」
「主語を省略《しょうりゃく》して叫んでんじゃねェ!?」
傍《そば》で聞いてる人たちの中では、おまえ自身が石田銀を好きすぎて、秋葉原の中心で愛を叫んでしまったことになってるぞ。
「……なあ高坂、どうして俺は、腐女子のみなさんから拍手を受けているのだろう? イケメンだから?」
「知ったことか」
アホめ。
「話を戻すぞ。んで……そんな腐女子の妹のために、浩平《こうへい》お兄ちゃんは、わざわざ秋葉原の深夜《しんや》販売に並んで、ホモゲーを買おうとしてる、と」
「そう責めてくれるなよ、高坂。――色々《いろいろ》あるんだ、こっちにも」
ゆるりとかぶりを振る赤城。
俺は強い共感《きょうかん》とともにうなずいた。
「……そうかい」
いや、分かるぜ、その気持ち。まったく同感だ。色々あるんだよ、こっちにも。
「……? さっきからいやにあっさりと納得《なっとく》しやがるな。正直、おまえに話したって、絶対《ぜったい》信じないだろうと思ってたんだが」
「ま、まあな」
しっかし驚《おどろ》いたぜ。
まさか、俺と似たような境遇《きょうぐう》に立たされている兄貴《あにき》が他にもいたとはな……。
しかもこんな身近《みぢか》に。
「おい高坂、言っておくが、いま俺が説明したのはぜんぶ妹から聞いた知識だからな。決して俺|自身《じしん》がホモなわけじゃないんだからな?」
「分かったっての。何度も弁明《べんめい》してっと余計《よけい》に怪《あや》しくなってくンぞオイ。――いいから俺のことなんざ放っておいて、さっさと向こうの列に並べって。店員さんがこっち見て待ってるじゃねえか」
こいつとは、いつかハラを割って語り合う日がくるかもしれない。
そんな気がした。
「じゃ、俺、予約の列に行くわ」
「おう」
片手を上げて、級友を見送る。赤城は、ニッと爽《さわ》やかな笑顔《えがお》を見せてから、俺に背を向けた。
たたっと小走《こばし》りで駆《か》けていき、ホモゲーの列に並ぶ赤城。
他に並んでいるのは、おそらく腐女子《ふじょし》の皆さんばかりなので、もの凄《すご》く目立つ。
というか、ホモゲーの列に並んでいる女の子たちは、たぶん赤城をガチホモだと思っている。
不憫《ふびん》なヤツ……。
なんて眺《なが》めていたら、列の最後尾《さいこうび》にたどり着いた赤城が、俺を振り返って、片手を挙げた。
「高坂! じゃあ、明日《あした》、学校でな!」
「ぐっ……!」
い、いかん。俺が、彼氏《かれし》だと、思われている……っ!
だってそうだろ!? 腐女子の皆さんが揃《そろ》って口元《くちもと》を押さえ「……きゃ〜BL! BLよ!」ってやっているもん。
嗚呼《ああ》……闇夜《やみよ》に降りしきる小雨《こさめ》が、まるで俺の心のようだ……。
哀《かなしい》しい誤解《ごかい》を解く機会もなく、ホモゲーを求める者どもの列は、隔離《かくり》されていった。
それからしばらく時間が経《た》って、十二時十分前になる。そのころになると、俺のうしろにもずいぶん人が増えていた。実に百人以上いやがる。も、物好《ものず》きどもめ……。
改めてこの国はおかしいよ。今夜《こんや》発売するゲームタイトルを鑑《かんがみ》みると、さらにそう思えてくる。『カス妹《いも》』だの『ホモゲ部』だの、いくら何でもホモゲーと妹ゲーの需要《じゅよう》が多すぎるだろ。
店から少し離れたところには、何やらカメラマンらしき人たちが撮影《さつえい》の準備をしていて、そのうちばしゃばしゃ俺たちの写真を撮《と》りはじめた。
――こんな、オタクが並んでるところ撮ってどうするんだろう?
このとき俺は、そんなふうに軽い疑問を抱いていた。
ちなみに後々《のちのち》――深夜販売に並ぶ自分の写真が、ボカシを入れられて『深夜販売に並ぶ歴戦《れきせん》の猛者《もさ》たち』『闇夜を切り裂《さ》き疾走《しっそう》する痛チャリ』みたいな注釈《ちゅうしゃく》付きで、個人サイト等に掲載《けいさい》されているところを発見してしまい、たいそう凹むことになるのだが、まあ、いまは関係のない話だ。
そこで店員さんが、再びメガホンで告知《こくち》を始めた。
「まもなく販売を開始しますので、もう少々お待ちくださ――い! なお、秋葉原駅の終電は総武線《そうぶせん》・千葉《ちば》・津田沼《つだぬま》方面行《ほうめんゆ》きが十二時三十二分、三鷹《みたか》方面行きが十二時三十八分です。続いて山手線《やまのて》ですが――」
という具合に、終電の時刻をアナウンスしてくれている。
今夜はかなり大勢《おうぜい》が並んでいるし、下手《へた》したら帰れなくなってしまう人もいるかもしれないので、店側がそのへん配慮《はいりょ》してくれているのだろう。
「――以上、電車でお帰りになられる方はお気をつけくださいませ――」
このときは、終電なんてそれほど深く考えなかった。
「お?」
顔を店に向けると、ガラララ――と、シャッターが開いていくところだった。
周囲は寒く真っ暗《くら》で、店内はとても明るく暖かい。
だからシャッターが開き、店内がつまびらかになるさまは、なかなかに壮観《そうかん》だ。
パァァーッとまばゆい光があふれるその光景は、どこか極楽浄土《ごくらくじょうど》を連想《れんそう》させる。
おお、という声が、どこからともなく聞こえてきた。
光に目が慣れると、そこには平積《ひらづ》みされたエロゲーの山が。
オタクにとっては、ある意味で天国のような景色なんだろうな。
店内を覗《のぞ》き込む。開放されているのは、一階|部分《ぶぶん》のみ。入り口|付近《ふきん》に新作エロゲーの山があり、店内を時計回りにぐるりと周回《しゅうかい》する形で行列《ぎょうれつ》ができている。
レジを済ませたら、そのまますぐ店外に出られるよう導線《どうせん》が作られているのだ。
店員さんが、再び俺たちの前で声を張り上げた。
「では、深夜販売を開始しま――す! 前の方から順番《じゅんばん》に、十名様ずつ、店内へどうぞ――」
なーるほど。集まった人数が多すぎるので、客たちを一斉《いっせい》に入店《にゅうてん》させることはできないってわけね。パニックになっちまうからな。
数名ずつ入店を区切って、買物客を定期的に入れ替えていくというこの方式は、店側の対応として理にかなっている。だが……
「…………まいったな、こりゃ」
いかんせん時間がかかるのが問題だ。
いいから早くしろよ。電車なくなっちゃうじゃねえか。
仕方ないことだと分かっちゃいても、そう愚痴《ぐち》りたくなってくる。
予約している人たちが全員《ぜんいん》買い終わるまで待たなくてはいけないのも、焦燥《しょうそう》の原因だ。
もう少し早く並べばよかったな。こんなに混むモンだと知っていれば……。
あとの祭りというやつである。
夏コミんときの教訓《きょうくん》を生かせてない俺だった。オタクイベントのときは、地元《じもと》住民に迷惑《めいわく》をかけないレベルで、なるべく早く並ぶ。次からはそうするとしよう。
ざわざわざわ――。
喧噪《けんそう》がひときわ大きくなり、ようやく俺が入店《にゅうてん》する順番が来た。
俺はちらりと携帯《けいたい》の時計を見る。
――確か、終電が十二時三十分ちょいくらいだったっけな?
「……いかん、ギリギリだ」
もたもたしていたら終電がなくなってしまう! さっさと買って帰らないと!
俺の目前《もくぜん》ではみるみるうちにエロゲーの山が減《へ》っていっている。すげえ勢いだ。
一時間|前《まえ》から並んでたってのに、油断《ゆだん》したら目的のブツが買えなくなりかねんぞ。
よっし! 行くぜ!
「ええっと……ぱんつ、ぱんつ……おにぃちゃんのぱんつ――これか!」
俺は人混《ひとご》みを掻《か》きわけ、必死でエロゲーの山から、『おにぃちゃんのぱんつなんとか』と『3Dカスタム妹』のパッケージをつかみ取った。どちらも残りわずかだった。
「やばかったア……買えてよかった……」
ひとまず胸をなで下ろした俺だったが……
胸中《きょうちゅう》の心配が的中《てきちゅう》し、目的のブツを買って改札《かいさつ》についたときには、最後の電車が行ってしまったあとだった。レジを済ませたあと、すぐさま駅までダッシュしたのだが、ギリギリで間に合わなかったのだ。
「っあ〜〜……くそっ」
秋葉原駅の改札口前で、力なくうなだれる俺。
暗い夜空からは、依然《いぜん》として冷たい小雨《こさめ》が降り注《そそ》いでおり、こうしている間にも着々と俺の体温を奪《うば》い去ってゆく。
「…………どうすっかな……」
歩いて帰るのは論外《ろんがい》だし、タクシーで帰れる距離でもない。
かといって、始発までここでぼーっと突っ立っていたら凍死《とうし》してしまいそうだ。
俺は完全に途方《とほう》に暮れてしまった。
どっ、とその辺の柱に背をくっつけてもたれる。ポケットから携帯を取り出した。
新作ゲームを楽しみに待っている妹に、今夜は帰れない旨《むね》を伝えなくちゃと思ったからだ。
チラリと片手に持つ紙袋《かみぶくろ》に目をやった。
――気が重かったよ。すっげー申《もう》し訳《わけ》なかったさ。
「桐乃……あんなに楽しみにしてたのにな」
だが、どうしようもない。結局のところ、いつだって俺は、何もできやしないのだ。
最近|教《おし》えてもらったばかりの、妹の携帯《けいたい》番号。
かつての自分が、かたくなに『知りたくもない』と拒否していたそれを複雑な心境《しんきょう》ですがめ見て――……押した次の瞬間《しゅんかん》、
『――買えた!? いまどこ!? もしかして家のそばきてんの!?』
なんとワンコールで繋《つな》がった。
そわそわした、そして、嬉《うれ》しそうに弾《はず》んだ声が受話器から聞こえてくる。
……ああ……こいつ……
待ちきれなくて、ずっと俺からの電話を待ってたんだな。
かわいい娘と約束した授業|参観《さんかん》に急な仕事で行けなくなってしまった父親というのは、こんな気持ちだろうか。
「…………すまん。いま、アキバの駅にいるんだが……」
ふ――、と、重々しい息を吐《は》いてから、覚悟《かくご》を決めて切り出す。
「――終電、なくなっちまった」
『え? なに? どういうこと? いつ、帰ってくんの?』
「頼まれてたゲームは買えたんだが、ゲーム屋がすげえ混んでてさ……店《みせ》出たらもう終電がなくなっちまってて、悪いな、しょうがねえから今夜はファミレスかどっかで時間つぶして、始発で帰るよ」
『……うそ……それじゃ、今夜は……アンタ、帰ってこないってこと?』
「ああ。悪いな。一応、ゲームは買えたから……」
『……えぇ……そんなぁ……』
弱々しい、哀《かな》しげな声を漏《も》らす桐乃。
あれほど弾んだ声を出していたやつと同一人物《どういつじんぶつ》だなんて、とても信じられない。
聞いているこっちも、胸が張り裂《さ》けそうになったよ、ゲームごときで、とは思わなかった。
こいつは、ゲームだろうとなんだろうと、いつだって本気なんだ。
喜ぶときも、怒るときも、楽しむときも、哀しむときも――全力を尽くすのさ。
俺には理解できないが、こいつにとっては、こんなに哀しい声を出すほどのことだったんだろうよ。
『……あの…………どうしても……無理《むり》かな? なんとか、せめて朝までに、帰って来られない?』
諦《あきら》めの悪いやつだ。終電がなくなったって言ってるじゃねえか。
たった十数時間じゃねえか。そのくらい待てよ。つうか自分で買えよ。人に行かせんな――
――とは、思わなかった。ぜんぜん。
なぜだろうな。いつもの俺だったら、そう口に出して言っていたはずなのに。
たかがエロゲー。たかが十数時間。
どうしても『たかが』なんて台詞《せりふ》を、口にすることができなかった。
してはいけないような気がした。
ずいぶん後になってから、考えてみたのだが。
このときの俺は、せっぱ詰《つ》まった妹の口調《くちょう》から、無意識のうちに隠《かく》された何かを読み取っていたのかもしれない。|せめて朝までに《ヽヽヽヽヽヽヽ》帰らねばならない理由も。
でなければこのあと俺が取った行動に、俺が抱いた感情に、説明がつかないのだ。
どうあれ、このとき俺が口にしたのは、諦《あきら》めの悪い妹を窘《たしな》める台詞ではなかった。
「――なんとかする」
『……え? なんとかって、どうす――』
「フン、いいからよ。もうちっと起きて待ってろ! どうにかして帰っから!」
ピッ、と通話を切って、携帯《けいたい》の電源を落とす。
「さあて――」
どうやって掃ろうか。正直なところ、考えなんて何もなかった。ただ、どうしても早く帰らなくちゃならねーっていう使命感《しめいかん》みたいなものが、俺の中で燃えていた。
たかがエロゲーを、発売日よりもちょっぴり早く、大嫌《だいきら》いな妹に届けるって
たった、それだけのことのためだってのにな。
はっは……我ながら、よく分からん精神《せいしん》構造をしているもんだ。
「よ、っと」
俺はもたれていた柱から身体《からだ》を起こし、諦めていた気持ちを切り替えた。
まずは状況を確認《かくにん》する。現在|時刻《じこく》は十二時四十八分、財布《さいふ》の中には、あまり現金《げんきん》が残っていない。キャッシュカードもない。車を持っている知り合いなんているわけもない。
うーん……そうだな。とりあえず、終電に乗りそびれた人たちに片《かた》っ端《ぱし》から声をかけて、家が同じ方向なら、一緒《いっしょ》にタクシーで帰ってくれませんかって頼んでみるか。
もしくは、俺と似たような状況になっているかもしれない赤城《あかぎ》と連絡を取って、事情を説明して協力してもらう、とか。ともあれ、動くなら早いほうがいい。
どうにか家に帰る算段《さんだん》を頭の中で組み立てながら、駅を出て大通《おおどお》りに向かう。
そこで|それ《ヽヽ》を見つけた。
――自転車だ。
ラジオ会館の前に停められているそれを見て、
アレだ――アレがあれば、家に帰れる。
俺はとっさにそう考えた。もちろん|これは問題のあるプラン《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》だ。
見知らぬ他人に頼み込んで、たいした金も持ってねーのにタクシーに相乗《あいの》りさせてもらうよりはまだマシかもしれないが、普段《ふだん》なら候補《こうほ》にも上げないような愚策《ぐさく》ではある。
だが、関係なかった。エロゲーを妹に届けるという崇高《すうこう》な使命を掲《かか》げ、断固《だんこ》たる決意を固め、それ以外のすべてに視野狭窄《しやきょうさく》になっていた俺は、脳裏《のうり》に展開されているプランが抱えている諸々《もろもろ》の欠陥《けっかん》を、いったんすべて無視《むし》した。
かつて黒猫が指摘《してき》したように、またしても俺は、妹のせいで頭がおかしくなっていたのだ。
このとき俺の|スイッチ《ヽヽヽヽ》は、通常よりもずいぶん軽くなってしまっていたのだが、
その理由に、いまはまだ至れない。
俺は――
その|エロゲーキャラがでかでかと描かれた自転車《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》に走りより、まさにいま乗って帰ろうとしているオーナーに向かって叫んだ。
「すいません! そのチャリ俺に貸してください!」
「は!?」
というオーナーさんの反応も、無理《むり》からぬものだったろう。
俺だっていきなり見知らぬ他人に、『おまえの自転車|貸《か》してくれ!』なんて言われたら、同じ対応《はんのう》をするよ。しかもロードレーサータイプのカスタムバイクなのだからなおさらだろう。
そもそも自転車貸しちゃったら、自分が家に帰る手段を失っちまうわけだし、どう考えても問題|外《がい》だ。
しかし――俺は諦《あきら》めなかった!
うさんくさそうに眉《まゆ》をひそめた相手に向かって、手を合わせて拝《おが》み倒す。
「お願いします! 緊急事態《きんきゅうじたい》なんです! 必ずあとで返しますから!」
「じょ、冗談《じょうだん》じゃないっ……」
当然の返事だった。こんなに高価《こうか》な代物《しろもの》を見知らぬ他人に貸せるわけが――
「オレは一刻《いっこく》も早く帰って、いま買ったゲームをやらねばならねーんだ。貸せるか!」
そっちかよ。
脊髄《せきずい》反射で脳内《のうない》突っ込みを入れてしまった俺であるが、おかげでそこで初めて相手の姿《すがた》を認識《にんしき》する余裕《よゆう》ができた。がりがりの痩身《そうしん》、のっぺりとした黒髪《くろかみ》、野暮《やぼ》ったい黒縁眼鏡《くろぶちめがね》をかけている。二十代|前半《ぜんぱん》とおぼしき男性だ。失礼を承知《しょうち》で言わせてもらえれば『痩《や》せ形オタク』と聞いてまず連想《れんそう》する貧相《ひんそう》なイメージとよく似ていた。
そして――よく見たら彼の着ているジャケットには、チャリに描かれているものと同じ美少女キャラがプリントされていた。
って、さっき俺の前に並んでた人じゃねえか! ど、|どおりで《ヽヽヽヽ》、筋金《すじがね》入《はい》ってるわけだ。
「ん? あんた――確か、オレの後ろに並んでたやかましいホモ……」
そこで相手も俺のことに気が付いたらしい、あれだけ長時|一緒《いっしょ》に並《なら》んでいたんだ、姿形《なり》を多少覚えられていたとしても不思議《ふしぎ》ではなかった。
だが、だからといって事態《じたい》が好転《こうてん》するわけでもない。
「くっ……」
俺は自分にできる限りの誠意《せいい》を示すべく、その場に両|膝《ひざ》をついた。小雨《こさめ》で濡《ぬ》れた、ひやりと冷たいアスファルトの上にだ。
「お、おい……何を……」
決まっている。もう毎度《まいど》毎度の恒例《こうれい》になっちまって、自分でもそのマンネリさ加減《かげん》にうんざりしてしまうが――まあ、しょうがない。俺は桐乃から頼まれたゲームを片手で抱き、もう片手を地面に付け、頭を下げて懇願《こんがん》した。
「どお――かお願いします! 家で妹が待ってるんです! 妹のために、どうしてもそのチャリが必要なんです! 絶対っ……必ず返します! 俺にできることならあとで何でもします! だから――」
「……はぁっ。……もういい、やめろ」
最後まで言い終える前に、腕を引っ張られた。痩身《そうしん》からは考えられないほどの力強さで、強引《ごういん》に立ち上がらされる。反射的に彼の顔を見ると、依然として眉《まゆ》をひそめ、困った顔をしていた。面倒《めんどう》なことになった――そんな表情。
「フ――――。よく分からないが、のっぴきならない事情があるんだな? それにアンタの妹が関わっている?」
「は、はい!」
「じゃあ、構《かま》わない」
「え?」
一瞬《いしゅん》、相手が何を言ったのか理解できなくて、間抜《まぬ》けな声を出してしまった。
「構わない、と、言った」
彼は、愛《い》おしげな手つきで愛車《あいしゃ》のサドルをなでた。それから、ひらりと片手をひるがえし、パンッ! とサドルを叩いた。
「こいつを貸してやる。遠慮《えんりょ》なく乗っていけ」
「い、いいんすか!?」
自分で頼んでおきながら、信じられなかった。
この人、見知らぬ他人でしかない俺を、どうしてこんなに簡単に信用してくれたんだ――
その疑問を察したのか、彼は、俺の片手に視線を向けた。
「あ〜〜、なんだ……その紙袋《かみぶくろ》の中身《なかみ》が、いま、ちらっと見えた」
低く真摯《しんし》な声色《こわいろ》で言う。
「何を隠《かく》そう、オレも同じゲームを買った。vol.1 からずっと買い続け、今回も長いこと楽しみにしていた大好きなシリーズだ。ファンなら誰《だれ》もがそうだろうが、愛しているといってもいい。この日のために、バイトを辞める覚悟《かくご》で休みを取った。定期《ていき》預金を解約《かいやく》して、ファナたんのチャリとジャケットもオーダーメイドした。発売日にはこうして深夜販売に並び、買ったあとは断固《だんこ》として携帯《けいたい》の電源を切り、一秒たりとも無駄《むだ》にはせず、たとえ世界が終わろうとも最後の一時まで命を懸《か》けて愉《たの》しむつもりだった。だから……オレは信じているのさ。このゲームが好きなヤツに、断じて悪いヤツはいないってな。そっちの事情は知らないが、オレたちは同志《どうし》だ。水くさいことを言うなって」
不器用《ぶきよう》に微笑《ほほえ》む口元から、ちらりと八重歯《やえば》が覗《のぞ》いていた。
「……行けよ、兄弟。おまえにも、命を懸けてやらねばならんことがあるのだろう?」
「……あんたは、どうするんだ?」
「気にしなくていい。想定外《そうていがい》の事態《じたい》だが――それならそれでやりようはある」
彼は車道《しゃどう》にドシンとあぐらをかき、リュックサックからA4サイズのノートパソコンと外付けバッテリーを取り出した。それらをあぐらの上に載《の》せて、おもむろに起動《きどう》させる。
「|ここでやるさ《ヽヽヽヽヽ》」
え――――――
「何を驚《おどろ》くことがある。言っただろう、一秒たりとも無駄にするつもりはないと。ふっ、何一《なにひと》つ問題ないな。外でたしなむエロゲーというのもまた、|おつ《ヽヽ》なものであろうよ」
やりようはあるって、家に帰る方法とかじゃないんすね!?
すげえ。間違いない、こいつはオタクの中のオタクだ。
熱く萌《も》える魂《たましい》を持つ、真の漢《おとこ》だ。
会ったばかりの人間に、ここまで敬意《けいい》を抱いたのは、本当に久しぶりのことだった。
「すまん、ありがとう。いつか必ず、この礼はする」
「フン、何をグズグズしている。早く行け……行くんだっ」
彼はすでに俺を見ていなかった。凍り付きそうな闇夜《やみよ》のただ中、たった一人|背《せ》を向けて座り、エロゲーのインストール作業に没頭《ぼっとう》していた。
さながら宿命《しゅくめい》の好敵手《ライバル》と対峙《たいじ》しているかのように。
「………………」
俺は、名前も知らない彼に向けて無言《むごん》で一礼《いちれい》し、サドルにまたがる。
足を踏み出す前に、もう一度だけ振り返った。
そこにいるのは、あぐらをかいて、猫背《ねこぜ》になって、奇異《きい》の視線《しせん》などものともせずにエンターキーを叩《たた》き続ける漢《オタク》の姿《すがた》。
痩《や》せこけた背《ジャケット》には、彼の愛する少女が微笑《ほほえ》んでいる。
どこか、誇らしげに。
「……よし」
俺は白い息を吐《は》き出してから走り出した。
三十二キロの果てで待つ、妹のもとへ。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁ――――」
全力でペダルをこぎ続けること二時間半、俺はようやく家の前まで戻ってきた。道中《どうちゅう》掻《か》きまくった汗《あせ》が蒸発して、全身から白い湯気《ゆげ》が立ち上っているのが分かる。
暑いというよりは熱い。肩を上下させて、十秒ほど休憩《きゅうけい》する。
「ふう――――よっし!」
気合《きあい》一発、携帯《けいたい》を取り出して妹の番号にかけた。
もしも親父《おやじ》が起きていたら、まずいことになるからだ。
『……あんた、なんでずっと電源切ってんの……! つか、どうやって帰ってくるつもり……』
「家の前にいる」
『えっ?』
「友達に超すげーチャリ借りてぶっ飛ばしてきたんだ。――親父、まだ起きてるか?」
『…………ちょ、ちょっと待って……』
携帯越しに、がたたっ、と物音が聞こえてくる。どうやら部屋を出て、確認《かくにん》しに行ったらしい。『……寝てる……みたい……いま、鍵《かぎ》開《あ》けるね』
俺の目前《もくぜん》で扉《とびら》が開き、パジャマ姿の妹が姿を現わした。
「よう」
「……ん」
桐乃は妙《みょう》に神妙《しんみょう》なツラで頷《うなず》き、俺を家の中に招き入れた。
「……す、すごい汗《あせ》じゃん。……はい、タオル……」
「ん、ああ。さんきゅ」
差し出されたタオルで顔を拭《ぬぐ》う。
「あんたの着替えとか持ってくるから……シャワー浴びてきなよ」
「そ、そうだな」
俺は赤城宅に泊まっていることになっているので、シャワーを浴びるのは音が出るしまずいかとも思ったのだが、さすがにこのままってわけにもいかない。できるだけ手早く、こっそりと浴びることにする。でもってさっさと身体《からだ》を拭《ふ》き、新しい服に着替えた。
それから脱いだ服やら靴《くつ》やらタオルやらを持って、妹と一緒《いっしょ》にそうっと階段を上っていく。
親父《おやじ》たちの寝室は一階にある。物音を立てて起こしてしまうわけにはいかない。
二階に到着。俺の前を歩いていた桐乃は、自分の部屋《へや》の前で振り返り、口元《くちもと》に人差《ひとさし》し指を当てたポーズで手招《てまね》きした。
どうやら、桐乃の部屋で入手《にゅうしゅ》したブツの取引を行うつもりらしい。
俺は無言《むごん》で頷《うなず》き、妹の部屋へと入っていった。統いて桐乃が入り、扉を閉める。
そこでようやく俺たちは「「ふぅ〜」」と一息《ひといき》を吐《つ》いた。
妹の部屋には、友達が来たとき用のテーブルが出されており、その上でノートパソコンが起動《きどう》していた。デスクトップがあるくせに、なんでノーパソ動かしてるんだろうな?
ふと覚えたどーでもいい疑問は置いておいて、俺は妹にエロゲーを二本|渡《わた》してやった。
「ほら、これ。頼まれてたもんな」
「うん……あ、ありがと…………ごめんね、その、無理《むり》言って」
「はっ、別にいいよーって、なんだオマエ!? あ、頭でも打ったのか?」
――ありがとう――ごめんね――
どちらも俺の妹の口からは、そう簡単に出てくるような台詞《せりふ》じゃない。
ここ九ヶ月ばかりで、多少は妹と話すようになった俺であるが、その間、妹からこんな殊勝《しゅしょう》な言葉を聞いた記憶《きおく》は五回にも満たない。この前のアレといい、今日のコレといい、いったい俺の妹に、何が起こったというのだろうか。実は偽物《にせもの》なんじゃないだろうか。
そんな発想が生まれてしまうくらいには不可解《ふかかい》だった。
そう。俺の妹が、こんなに――
「……なに言ってんの。ばかじゃん」
返ってきた台詞《せりふ》は、罵倒《ばとう》ともいえないほど軽い罵倒《ばとう》。
いままでさんざんキモいだの死ねだのと言われ統けてきた俺は、面食《めんくら》らってしまう。
もの足りないような気さえする。
「ほ……ほんとにどうしたんだよ……? いつもの威勢《いせい》はどこにいっちまったんだ? また何か悩みでも抱えてんのか?」
「あのさあ……」
桐乃は腰に手を当て、苛立《いらだ》たしげに表情を歪《ゆが》めた。
「その態度、いい加減《かげん》ウザいんだけど? ――あ、あたしがあんたにお礼言ったり、謝ったりすんのが、そんなにおかしいってわけ!?」
「おかしいよ!」
天地《てんち》がひっくり返るほどおかしいって! 普段《ふだん》の自分の態度を顧《かえり》みてみやがれ!
俺が素直な感想を口にすると、桐乃はへの字口《じぐち》になってムスッとした。
「む……」それからふいっとそっぽを向いて、「あ、あっそ! チッ……なによ……」
どすんと不機嫌《ふきげん》にベッドに腰を下ろす。
そうそう、こうやって多少《たしょう》不機嫌になってる方が、俺の妹らしいって。
「…………」
桐乃は憮然《ぶぜん》としたまま、膝《ひざ》の上にエロゲーの箱を載《の》せ、箱についているビニールをびりびりはがしている。やがてその作業が終わり、でかいエロゲーの箱をぱかりと開けた。
「あはっ」
中身《なかみ》を見たとたん、パァッと無邪気《むじゃき》な笑《え》みをこぼす。
まるでプレゼントの箱を開けた子供のような反応だった。次いで桐乃は箱から取説《とりせつ》と、クリアケースに入っているゲームディスクを取り出した。それらを両手にひとつずつ持って、にやにやむふふとイラストを眺《なが》めている。
「くう〜……やっぱいいなあ……へへ……さっそくインスコし〜よおっと」
桐乃はテーブルの前にちょこんと座った。テーブルにはノートパソコンが置かれている。
「〜♪」
桐乃は鼻歌《はなうた》まじりにノートパソコンにディスクをセットした。なんでデスクトップじゃなくて、こっちにインストールしてんだろう。まあいいけど。
「……やれやれ」
本当、新しいおもちゃを買ってもらったガキそのものだな。
かわいく微笑《ほほえ》ましい光景だ。わざわざ秋葉原《あきはばら》くんだりまで出張《でば》って、深夜《しんや》販売に並んで、|あの《ヽヽ》チャリンコで三十二キロぶっ飛ばして帰ってきた甲斐《かい》があった。
部屋《へや》の時計を見上げれば、もう午前三時すぎだ。
俺は踵《きびす》を返し、扉《とびら》に向かって一歩を踏み出した。
「じゃ、俺はもう寝るわ。明日《あした》も学校あるしよ。おまえも、徹夜《てつや》でゲームすんのはいいけど、学校|遅《おく》れんなよ」
「………………」
ゲームのインストール作業に夢中《むちゅう》になっているのか、返事がなかった。
桐乃は俺に背を向けている。そのため妹の表情はこちらから見えない。
「おい? 桐乃、聞いてんのか?」
「えっ? あ、あ――うん、聞いてるケド……」
テキトーな返事しやがって……。おまえ明らかにエロゲーに気が向いてて、他のことがおろそかになっちまってんだろ。
まあ、気持ちはちょっと分かるけどな。俺は、ゲームなんてほとんどやって来なかったけどさ。楽しみにしてたCD買って、ビニール剥《む》いてるときのワクワク感には覚えがある。
「まあいいや。――じゃな」
「――あ、ま、待って」
「あん?」
ドアノブに手をかけたところで呼び止められて、俺は振り返った。
すると、妹は唇《くちびる》をにゅ〜っとすぼめるようにして、ノートパソコンに片手を置く。
どうやらインストールが終わったようで、ディスプレイには『おにぃちゃんのぱんつ〜』を起動《きどう》するためのウインドウが開いている。
「――一緒《いっしょ》に……やらない? 久しぶりに、さ」
「………………………………」
やるわけねえ。妹と一緒に妹ゲーなんて、できるわけねーだろ。何度同じこと言わせんだよ。
それに俺はいま、メチャクチャ疲れてるし、眠いんだよ。
しかも俺、いま家にいないことになってるわけだから、朝早く起きて、親が起きる前に家出なきゃならんのだぞ? そう言おうとしたはずなのに――
「……だめ?」
「……じゃ、じゃあ……ちょっとだけな?」
なぜかそう言っていた。
おかしいな。
桐乃に負けず劣らず、今夜の俺は、ほんとにおかしいぞ……?
ってなわけで、久方ぶりに、俺は妹と一緒にエロゲーをやる羽目《はめ》になっちまった。
ちなみに、ノートパソコンが置かれたテーブルの前に、並んで座るという体勢だ。
さっき俺が抱いた『なんでノーパソが起動してるんだ?』という疑問の答えが、これだろう。
わざわざデスクトップではなく、ノートパソコンにゲームをインストールした理由。
つまりこいつは、はなっから俺と一緒《いっしょ》に、この体勢でゲームをやるつもりだった、ってことだ。長時間|二人《ふたり》でゲームをやろうと思ったら、自然とこの体勢にならざるを得ない、のだが……。
「お、おい……あんまくっついてくんなよ」
「しょうがないでしょ! こうしないとあたし画面《がめん》見えないし!」
ぐぬぬ……。
なんでこんな夜中に、妹と密着《みっちゃく》して妹もののエロゲーをプレイせにゃならんのだ……。
……まさか、俺の状況を、羨《うらや》ましいなんて思うやつはいるまいな?
冗談《じょうだん》じゃねえぞ。エロシーンになったときこっ恥《ぱ》ずかしいってのもあるけどさ、なによりプレイ中にチンチンが硬くなっちゃったら、俺はどうすりゃいいわけ?
ばかっ、勘違《かんちが》いしないでよねっ! これはジーパンのシワなんだから! とでも言えと?
オイそこ、誰《だれ》だ笑ったやつは? こっちゃ切実《せつじつ》なんだっつーの!
あー……くそ……妹から妙《みょう》にいい匂《にお》いがする。
まさか寝る前だってのに、香水《こうすい》でも付けてんのかな。
「アンタ顔|赤《あか》くない?」
「ふ、風呂《ふろ》上がりだからじゃねえの?」
フゥ〜……。ようし……その調子だ……静まれ……っ……俺の海綿体《リバイアサン》……。
忌《い》まわしき異能力《いのうりょく》を隠《かく》している主人公の気持ちが、少し分かったかもしれない。
さ、さ〜て。このあたりで、俺が秋葉原の深夜販売で買ってきた、妹もの18禁《きん》ゲーム『おにぃちゃんのぱんつなんか、ぜったい盗《ぬす》んでないんだからねっ!!』について、簡単な解説を入れておこうと思う。
このゲームはかつて桐乃がハマっていた『妹と恋しよっ♪』と同じ『妹めいかぁEX』シリーズの最新作《さいしんさく》である。ようするに続編《ぞくへん》みたいなもんだ。
ゲームシステムは、『妹と恋しよっ♪』と同様《どうよう》オーソドックスなADV《アドベンチャー・ゲーム》である。
「でね、いままでの『妹めいかめEXシリーズ』と違うのは、攻略対象《こうりゃくたいしょう》になる妹が一人しかいないってトコなの」
「ふ、ふーん、つーと……1ルートしかねえってこと?」
例のごとく、桐乃は無邪気な笑顔でエロゲーの解説をしてくれる。
「違う違う。ヒロインは一人しかいないけど、そのぶん色んなルートがあるんだって! 最初からぜんぶのルートに行けるわけじゃなくって、クリアする毎《ごと》に選択肢《せんたくし》が増えて、新しいエンディングが見られるようになるって、まあよくある形式。一つ一つのシナリオはわりと短くて、繰り返しプレイが前提《ぜんてい》になってるあたりは、YU-NO≠フA.D.M.S℃翌トるかな。まだやってないから分かんないケド、もしかしたらループ物なのかも。あとシナリオ中メタルギア≠ンたいな潜入《せんにゅう》ミニゲームがあって、クリアすると新しいアイテムがもらえて、トゥルーエンドへのフラグになるとかなんとか」
ぺらぺらぺらぺらーよく喋る《しゃべる》やつだ。……ったく……。
改めて思い知らされるよ。
こいつは本当に、こういうゲームが好きで、こういう話をするのが好きなんだな。
俺にとっては、どれもどうでもいい話なのだが、聞くのは別に嫌《いや》じゃなかった。
桐乃とオタク話をしているときだけは、普通の兄妹のような関係になれるから……かもしれないな。休戦地帯《きゅうせんちたい》っつーかさ、特別な時間なのだろう。俺にとっても、桐乃にとっても。
しかしいまだに分からないこともある。どうして俺なのか、ってとこだ。
九ヶ月前の桐乃なら、話は分かる。あのころのコイツには、エロゲーの話をするような相手なんて一人もいなかったんだから。大嫌《だいき》いな兄貴《あにき》だろうと、貴重《きちょう》な話し相手だったわけだ。
だが、いまは違う。いまは――黒猫がいる。沙織もいる。
条件付きじゃああるが……あやせだって、いる。
桐乃には、自分の趣味《しゅみ》を包み隠《かく》さずさらけ出すことができる、大切な友達ができたんだ。
だからエロゲーの話をしたいんだったら、友達とすればいい。
俺は用済《ようず》みのはずだ。
だってのにこいつは、いまだに俺に人生《じんせい》相談を持ちかけてくる。一緒《いっしょ》にゲームをやろうと、誘《さそ》ってくる。
もしかしたら。
本当にもしかしたらの話だが――――
[#ここからゴシック体]
ありがとね、兄貴。
あ……兄貴のコト、好きだし……
――なんて冒うとでも思ったア? なに慌《あわ》てちゃってんの? キモいんだよシスコン。
……いつも、ありがと。
[#ここでゴシック体終わり]
自分で思っているよりも、俺は、妹に嫌《きら》われてないのかもしれない。
ずっとお互い嫌い合っているとばかり思っていたのは、俺だけで。
いつのまにか冷戦《れいせん》は終わっていたのかもしれない。
そのまま、ぎゃあぎゃあとプレイし続けて――最初のエンディングを見終わったときには、もう空が白んでくる頃合《ころあ》いだった。ちなみにHシーンでは案《あん》の定《じょう》、大変気まずい思いをしたのだが、ちょっと横を見たら桐乃は普通にテキストに没頭《ぼっとう》していた。前に自分で言ってたとおり、Hなシーンどうこうはあんまり気にしないやつなんだろう。俺は凄《すご》い気になったけどね。
「ふあ……あ……」
超《ちょう》ねむい。あーあ……この分だと、徹夜《てつや》だな、こりゃ。
ふと横目《よこめ》で妹の顔をチラ見してみたら、感動のあまり瞳《ひとみ》を潤《うる》ませていた。
「うう……なにこのエンディング……哀《かな》しすぎるんですケド……」
「まあ初《しょ》っぱなから幸せなエンド見せるわけにゃいかねえんじゃねえの? 次のシナリオも読んでもらわなくちゃならん都合《つごう》もあるし」
「信じっらんない……。なんでそんな平気《へいき》な顔ができんの?」
赤くなった目を何度も瞬《まばた》かせながら、俺を批難《ひなん》してくる桐乃。
俺としては、なんでそんなに感情|移入《いにゅう》ができるのかが分からん。
そんなに面白かったか? これ。
いや、そもそも俺、妹ゲームとか無理《むり》だから、公平《こうへい》な目では見らんねーけどさ。
「つーか別にこいつらさあ、死に別れたわけでもあるめーし。電話でもすりゃよくね?」
「っバカ! バカ! ほんっとバカ! なんっにも分かってない!」
「……な、なんだよ。そんな……怒ることねーだろが」
バカバカすげえ剣幕《けんまく》で怒るもんだから、俺は身体《からだ》をすくませておののいた。
桐乃は何度か「……っ」と逡巡《しゅんじゅん》してから、絞《しぼり》り出すような声を出した。
「三日で死にそうになってたくせに。情《なさ》っけなーいカオで、『じゃあ、どうすりゃいいんだ、俺?』とか言っちゃってたくせに」
「ぐ……っ……」
それを言われると何も言い返せない! ちなみに忘れているやつもいるだろうから補足《ほそく》しておくと、いまのは麻奈実《まなみ》と三日間会わずにいただけで泣き入っちゃった俺への嫌味な。
確かにありゃあ『電話でもすりゃよくね?』ですむ問題じゃない。
「そうだな。そう考えると、こりゃ、哀しいエンドだよ。よく分かった。訂正する」
「………………分かればいいの」
たいそう不機嫌《ふきげん》に、そう呟《つぶや》く桐乃。
いまのやり取りで、気まずい空気が部屋に漂《ただよ》っている。
――まあ、頃合《ころあ》いか。
俺はカーテンの隙間《すきま》から漏《も》れ出る光を意識しながら、すっと立ち上がった。
「……じゃ、一区切りしたし、部屋戻ってあと二十分くらい寝るわ。そんくらいなら、親《おや》起《お》きる前に出られんだろ」
「ちょ、ちょっと待って!」
妹が慌《あわ》てて呼び止めてきたので、俺はいぶかりながらも桐乃を見下ろした。
「んだよ? まだ何かあんのか?」
「じ、人生相談! 人生相談があるの……っ!」
ついさっき最後の人生相談を終えたはずの俺に、妹が言い放った台詞《せりふ》。
九ヶ月前と同じ言葉は、九ヶ月前とよく似た展開へと繋《つな》がっていく、のだが……。
人生相談があるの――。そんな台詞で呼び止められた俺は、あきれ果てて息を吐《は》く。
「いや、おまえ……ついさっき最後の人生相談ってんで、エロゲー買ってきてやったじゃねえか俺」
「それで終わりだなんて、誰《だれ》が言ったのよ」
「そりゃ……構《かま》わねーけどな?」
俺が聞きたいのは、おまえの最後の人生相談は、いったい何回あんのかってことだ。最後とか言ってさー、この分だと、今後もいままでとまったく変わらない状況が続くんじゃねーの? これが最後の最後! これが本当の最後だから! とか言っちゃったりしてな。
ハア……まあいい。まあいい。まあいいよ。
こんなこったろうと思ってたんだ。なにせ兄妹で、ずっと一緒《いっしょ》に暮らしてんだからな。
そう簡単に、妹から逃れられるとは考えてねーよ。
俺は、苦笑《くしょう》をかみ殺しながら、桐乃を促《うなが》した。
「おら、何だ。言ってみ」
「…………うん」
桐乃は神妙《しんみょう》な顔で頷《うなず》き、立ち上がった。本棚《ほんだな》の前まで歩いていって、縁《ふち》をつかむ。
見れば、本棚の中身《なかみ》はずいぶんと少なくなっていた。いちいち隠《かくし》し収納《しゅうのう》を開けるのに、本がたくさん入っていたら邪魔《じゃま》だから、どっか別のところに移したのかもしれないな。
そう、この光景を見るのは数ヶ月ぶりになるが――
桐乃は、本棚をズラし、エロゲーその他オタクグッズが隠《かく》されている隠し収納スペースを出現させた。
本棚をズラすと、その後ろから襖《ふすま》が出てくるのだ。
がらりと襖を開ければ、そこには無数のオタクグッズが。
以前見せてもらったときよりも、さらに増えているようだった。
……買いすぎだろ。
俺は眉《まゆ》をひそめて、エロゲーやらアニメDVDやらの山を見回した――が、そこでとあるものに気が付いた。
「お……これって」
「あ、うん、それ、この前もらったやつ」
俺の言葉に反応し、桐乃が手に取ったのは、EXメルルスペシャルフィギュアだ。
「あやせから聞いたけど、これ、あんたらが選んでくれたんだってね」
「……まあな」
「マジな話、超嬉《ちょううれ》しかったから」
へへ、と笑う桐乃。
ケッ、なに言ってんだ、いまさらよ。
俺は照れくさくなってしまい、「……そうかよ」と小さな声で返すのがせいいっぱい。
「あいつらにも、お礼言っといてよ」
「んなの、自分で言やいいだろ。きっと喜ぶぜ、二人とも」
「そお? ん、そーだね」
桐乃はフィギュアを元あった場所に戻し、胸に手を当て、すうはあと深《しん》呼吸。
その仕草《しぐさ》に、俺は軽い既視感《きしかん》を抱いた。俺に初めて自分の趣味《しゅみ》を打ち明けようとしていたときも、桐乃は確かこんなふうにしていたんだ。
「……もうあれから結構《けっこう》経《た》つけどさ」
俺に背を向けていた桐乃は、そこでくるっと振り返って、明るい笑顔《えがお》を見せた。
「あんときのこと、覚えてる?」
「おう。まーな。おまえが『絶対バカにしない?』って聞いてきて、んで、俺が『絶対バカにしねえつったろ』って超《ちょう》クールに答えたんだよな」
「うん……。で、さ〜 そのあと――あたし、言ったじゃん?」
「ん?」
なんか言ったっけ? 俺が首をかしげたのを見た桐乃は、ぎゅっと拳《こぶし》を握りしめ、
「ほ〜ら〜、言ったじゃ〜ん。『今日はこれ以上見せられない』ってさあ」
「あ、ああ。確か『この奥にあるのは、ちょっと恥《は》ずかしいヤツだから』とかなんとか、言ってたなおまえ」
まだ信用したわけじゃないから、いまはこれが限界、とも言っていた。
それを聞いた当時の俺は、『いま見せられたものよりも、まさかさらに上があるってのか?』と戦慄《せんりつ》したもんだ。だって、『妹と恋しよっ♪』を得意げに見せびらかせるこいつが、恥ずかしがって躊躇《ちゅうちょ》してしまうようなものなんて、想像《そうぞう》できねえって。
「その、さ。あんた、ちゃんと秘密《ひみつ》にしてくれたし……バカにしなかったし……色々《いろいろ》協力してくれたから……」
え……ええっと、なんだ? この話の流れって、もしかして――
「……ちょっと恥ずかしいケド……見せてあげる」
見たくねえ〜〜〜〜〜!
……危なく口にするところだったぜ。我ながらよく我慢《がまん》したもんだ。
妹が秘密《ひみつ》にしていた、恥《は》ずかしいもの。
そりゃ気にはなるけどさあ。どんなとんでもねーもんが飛び出てくるか、分かったもんじゃねえっての。俺はチキンなんだよ。好奇心《こうきしん》よりも未知《みち》への恐怖《きょうふ》が勝っちゃうの。分かる?
でも、見ないわけにゃいかねーんだろうな。それが人生《じんせい》相談とやらのキモなんだろうし。
「なんだ、つうと、俺を信用した……って、ことか?」
聞くと、桐乃はこくんとうなずいた。
「うん……そろそろ……いいかなあーって」
「……ふうん」
なんだろうね、このまるで俺が桐乃の秘密を見たがっていたような言い草。
だから別に見たくないっての。
「じゃ、い、行くよ……」
桐乃は緊張《きんちょう》した声で、襖《ふすま》を|いつもとは逆側《ヽヽヽヽヽヽヽ》に開いた。
がら……
ぽとっ。
「……ん? なんか……落ちたぞ……?」
俺はつまびらかになった禁忌《きんき》の地を見る前に、転がり落ちたブツを何気なく拾う。
だが俺は失念《しつねん》していた。ここに封印《ふういん》されているものどもはすべて、あの妹が、『現《げん》時点では見せられない』と判断《はんだん》し、開帳《かいちょう》を保留《ほりゅう》していたほどのブツだということをだ。
「※[#「あ」に濁点]っ、それ」
桐乃が躊躇《ちゅうちょ》するような声を出す。けれど時はすでに遅く、俺はパッケージイラストとゲームタイトルをすでに認識《にんしき》してしまっていたのである。
下半身《かはんしん》をまるだしにした、かわいらしい妹キャラが、こちらにおしりを突き出しているイラストで――
タイトルは、『スカトロ*シスターズ』と書いてある。
おお……クレイジー。
俺は無《む》表情のままパチパチと数度まばたきし、目頭《めがしら》を指でもんでから、再度、妹の顔とパッケージを交互《こうご》に眺《なが》める。しかるのち、神妙《しんみょう》に呟《つぶ》いた。
「………………おまえ……………………う、ウンコ喰うの?」
「なわけないでしょッ!?」
「ぶ!!」
痛恨《つうこん》の一撃《いちげき》が俺の顔面《がんめん》を打ち抜いた。首がもげそうになるほどの平手打ちだ。
でもって桐乃はハァハァ息を荒げたまま、
「んなっ、ななな、なんってこと……よりにもよって、なんっってこと聞くのよ! ――最《さい》っっ低《てい》!」
「だ、だってよ!」
じゃあなんでこんな代物《しろもの》があるんですかね!? 『スカトロ*シスターズ』ってコレ明らかに超《ちょう》マニアックな性癖《せいへき》に特化《とっか》したエロゲーじゃねえか! こんな物的|証拠《しょうこ》がここに存在する時点で、俺が眼鏡《めがね》フェチじゃないですよって言うくらい説得力《せっとくりょく》がねえぞ。
そりゃあ恥《は》ずかしくて見せらんねえわけだよ。まさかこれほどの爆弾《ばくだん》が出てくるとはな。
「だから違うんだってば!」
言葉にするまでもなく俺の言い分を察したのか、桐乃は弁明《べんめい》を開始。
「こ、コレは……コレはね? ちょ、聞いて! 大事な話だから! ちゃんと説明するから!」
超《ちょう》必死である。顔面|耳《みみ》まで真《ま》っ赤《か》になって、両手をブンブン振り回して、つばを飛ばすくらいの勢いで口を動かす。
「し、知らなかったの! その……トロってのが何なのか!? で! んでね! 超|好《す》きな絵師《えし》さんが担当《たんとう》してたから、それで、その人のために買ったら! 買って、パッケージの裏見《うらみ》たら! |おまる《ヽヽヽ》が……!」
「……も、もういいよせ! それ以上|喋《しゃべ》るんじゃない! なっ? なっ?」
「よくないっ! ぜんぜん分かってないでしょアンタ! ねえ! あたしの尊厳《そんげん》とかイメージがかかってるんだから、ちゃんと聞いて納得《なっとく》しなさいよっ!」
いまさらおまえのイメージはこれ以上|悪化《あっか》しねえよ!
エロゲーやりまくってる時点で、女子《じょし》中学生としては完全アウトですから!
「わ、分かったって! 御趣味《ごしゅみ》の品物じゃないんだろ? オッケーだってそれで!」
「ホントにちゃんと納得して言ってんのそれ? 口先だけじゃない?」
疑《うたぐ》り深ぇなアー。気持ちは分かるし、俺が同じ立場だったら同じようにするだろうけども。
「わーかったっつってんだろ? ようするにイラストに釣られて買っちまったけど、思ってたのとぜんぜん違ってたから、ゲーム自体はやってねーってことだろ?」
「と、とりあえず全《ぜん》クリだけはしたよ?」
「やってんじゃねえか!?」
そこはウソでも『うん』ってうなずいておけよ! それで話は終わったのに!
おまえってやつはどうしてそう咄嗟《とっさ》のウソがつけんのだ。
「だって、買ったのにやらないとか、そんなの失礼じゃん! い、言っとくけど、まったく理解できない世界だったから! 何も目覚めるものとか、なかったからね! あとなんでここに置いておいたのかっていうと、イラストレーターさんのファンだったから捨てるの忍《しの》びないし、中古《ちゅうこ》ショップに売ったりするのもキライなの。だからここに封印《ふういん》してたの。――分かった!?」
「……わ、分かった」
「……ほんとにほんと?」
「本当に本当。絶対の絶対だ。いや、おまえはたいしたヤツだよ。マジでそう思う」
いくら自分の信念《しんねん》だからって、俺には、スカトロゲームをプレイして、しかも全《ぜん》クリするような勇気と気力はない。我が妹ながら狂って、もとい尊敬《そんけい》に値する行為だった。
「そ、そう。じゃ、とりあえず話進めて、いい?」
「お、お話。そうだな……。よ、よし、次に行こう」
危険な話題をさっさと切り替えるための発言だったわけだが、俺は自分の発言の意味を分かっていなかった。
『次に行こう』ってのは、つまり、次の禁断《きんだん》コレクションを見るという……意味で……。
「うん。どっちかっていうと、これから見せる方が本題だから……」
なにその文脈《ぶんみゃく》。解釈《かいしゃく》のしようによっては、『スカトロ*シスターズ〜? フッ、やつは我ら封印《ふういん》されしグッズの中でも一番の小物《こもの》』という意味にも聞こえるんだが。
……ま、まさか、な。
俺はゴクリとつばを飲み込み、桐乃がパンドラの箱ならぬダンボールを引っ張り出すのを眺《なが》めていた。桐乃がダンボールを、どん、と部屋の中央に置く。
「……先に聞くけど、それ、何が入ってるんだ?」
「ん、色々《いろいろ》……」
こっちがビビりまくっているのを分かっていないのか、桐乃は実にあっさりと禁断の箱のふたを開けた。どくんっ、と心臓《しんぞう》が高鳴《たかな》るのが分かったよ。もちろん嫌《いや》な意味でな。
で――肝心《かんじん》の中身《なかみ》なんだが。とりあえずぱっと見た感じでは、やばそうなものはなかった。
同人誌《どうじんし》やらなにやらが積み重なっていて、その脇《わき》にアニメイラストのついた紙袋《かみぶくろ》やら、エロゲーの箱やらが置かれている。でもって積み重なった本類の一番上に、ipod がちょこんと載《の》っかっているのが目に付いた。
「思ったより、普通……」
|いや《ヽヽ》
違うな。断じて違う。俺の妹のコレクションが、普通などであるはずがない。
いいか、京介。最悪《さいあく》の想像《そうぞう》をしてみるんだ。桐乃はこれから、オマエが考え得る限り最悪のブツを見せてくると考えろ。いいか? オーケイ? よし……想定《そうてい》したな?
じゃあ、俺の結論《けつろん》を言おう。
桐乃は想定した最悪よりも、さらに数段階《すうだんかい》ぶっ飛んだ代物《しろもの》を出してくるはずだ。
十四年|間《かん》兄妹やってる俺が言うんだから間違いない。
たとえばホラ、見ろよ……。あの同人誌、一番上のヤツ……。さっき見たものに似てないか? 表紙で抱き合っているキャラ……どっちも男に見えないか? 確認《かくにん》する勇気はないが。いや。
「…………ゴク」
しかも同人誌《どうじんし》が積み重なった下には、妙《みょうに》に重厚《じゅうこう》な……でかい本が積まれているだろう?
アルバムっぽいの。
アレは、やばいにおいがする……。なんだろう。ホモ、スカトロときたら……あとは……?
純真《じゅんしん》な男子《だんし》高校生の健全《けんぜん》な知識では、想像すら及ばない。
ダメだ……。ド本命だろうアルバムっぽい本については恐ろしくて聞けない。
しょうがねえので、まずは様子見《ようすみ》として違うブツについて聞くことにする。
「あの、さ」
「な、なによ……」
「桐乃……聞くが、あの ipod には、何が入っている……?」
音楽なら、まだマシかと思ったのだ。
「へっ? あ、アレ?」
しかし ipod の中身《なかみ》について問われた桐乃は、目をぱちくりとさせてうろたえている。
自分で引っ張り出しておいて、この態度……。
相当に危険な楽曲《がくきょく》が入っているに違いない。
「し、知りたい?」
「い、いや……別、に……」
「そ、そうっ……ふうん」
……ホッとしている……だと……? クッ、やはり……!
俺はどんどん怖くなってきた。だってこのダンボールに入っているブツすべてが、スカトロ*シスターズに匹敵《ひってき》する暗黒《あんこく》物質なんだろう?
無理《むり》だって。絶対《ぜったい》無理だって。俺のキャパシティを超えちゃってるよ。
いまの俺なら、ギニュー特戦隊《とくせんたい》と遭遇《そうぐう》してしまったZ戦士《せんし》の気持ちが分かる。
桐乃はさらにダンボールに手を突っ込んで――
「で、でね! 次はこのアルバムなんだけど…………」
ギャーツ!
「ちょ、ちょっと待て!」
よりにもよって一番やばそうなのじゃねえか! 勘弁《かんべん》してくれって!
「だいたい分かったから! 説明はいいよいまは! とりあえず今日はこんくらいにしとこう? そう今度、今度見せてもらうからよ! 俺、もう眠いしさ? なっ?」
ロードレーサーを借りたときに匹敵《ひってき》するほど必死に頼んださ。このアルバムの中身を見たら、何かが終わってしまう気がする。確信《かくしん》に近い予感《よかん》が、俺の思考を支配していた。
「…………う、うん」
桐乃は何故《なぜ》かしょんぼりと俯《うつむ》き、しかしすぐさま気を取り直したようだった。
今度はエロゲーの箱?を、ずずいと差し出してきた。
「じゃあ、せめてコレだけは見て!」
「コレだけは……って……」
『ラブりぃ※[#ハート白、unicode2661]しすたぁえんじぇる』とやらを俺に見せて、どうしようというんだこいつは。
このときの俺の表情は、さぞかし不可解《ふかかい》そうだったことだろう。
「……分かったよ」
なんだか知らんが、そこまで言うなら見ないわけにもいかんだろ。
俺が同意するのを確認《かくにん》した桐乃は、
「ん」
と微妙《びみょう》な感じに頷《うつむ》き、自分で見せたがってたくせに何故《なぜ》かムスッとした顔になった。
そうして『ラブりぃ※[#ハート白、unicode2661]しすたぁえんじぇる』の箱を開く。
中から出てきたのは、ゲームディスクと取扱《とりあつかい》説明|書《しょ》ではなかった。えっと、なんつったらいいかな……クッキーの缶あるじゃん? 四角いの。――そういう感じの缶《かん》が入ってた。キャライラストがふたに描かれてるやつ。
「あれ? これってエロゲーの箱じゃねえの?」
「違う。これは『しすたぁえんじぇる』のグッズが入ってた箱で、中身《なかみ》は別のトコに飾ってあんの。さっき見たでしょ? EXめるちゃんのフィギュアのとなりにあったやつ」
んなこと言われても覚えてないよ。色々《いろいろ》人形があったような気はするけど。
「ようするにグッズの空箱に、違うモンを入れて使ってんの?」
使用|済《ず》みのクッキーの箱を、小物《こもの》入れ代わりに使うみてーにさ。
「そ、そう。……じゃ、行くよ」
かぱっ。桐乃がわりと勢いよく缶のふたを開けたものだから、俺は瞬間《しゅんかん》身構《みがま》えた。
しかし、『スカトロ*シスターズ』に匹敵《ひってき》するほどの暗黒《あんこく》物質が出てくるだろうと思っていたそこからは、まるきり想定外《そうていがい》の代物《しろもの》が出てきたのであった。
幾つか種類があるが、まず手に取ったのは、
「……なんだ……コレ……通信簿《ヽヽヽ》?」
「うん、あたしの、小学校のころの通信簿《つうしんぼ》」
なんでこんなもんが入ってるんだ? 視線《しせん》で問うと、中身を見ろと促《うな》されたので、そのとおりにしてみる。
「こん中に入ってんのはね。あたしが陸上|始《はじ》めた理由」
「……………………」
俺は、妹の話を聞きながら、妹の通信簿を、一年生のものから順番《じゅんばん》に眺《なが》めていく。
桐乃が言わんとしている部分には、わりとすぐに気が付いた。一年生から三年生の間、桐乃の体育の成績は『がんばりましょう』になっていたからだ。その他の教科についても、ごく普通の成績だった。俺は桐乃の成績なんて、どうせ全教科《ぜんきょうか》『とてもよくできましだ』だとばかり思っていたものだから、この事実には驚《おどろ》いた。
「昔はさ、足遅《あしおそ》かったんだよね、あたし。でも……そのころ、超《ちょう》……っ、ムカつくことがあって……そんで、走る練習|始《はじ》めたの」
ちら、と俺の顔を見る桐乃。
子供のころ、足が遅いのをバカにされたとか、足が遅いせいで嫌《いや》な思いをしたとか……そういうこと、だろうか。
俺は、妹が四年生のころの通信簿《つうしんぼ》に目を落とす。
ここでもやはり『がんばりましょう』だった。
しかし以降、五年生で『よくできました』、六年生で『とてもよくできました』と一段階ずつ成績が上がっていく。
練習の成果が出てきたのだ。
同様に、体育|以外《いがい》の成績も徐々《じょじょ》に上がっていっているのが目に付いた。
「こっちもそう。運動会の徒競走《ときょうそう》でもらったワッペン」
桐乃が示したのは、6位と書かれたワッペンだ。
6位、6位、5位、4位、3位、2位――と、やはり徐々に順位を上げている。
「こういうのあたしのイメージじゃないしぃ、超カッコ悪いから、いままで他人に言ったことがないんだケドさー。落ち込んだときとか、スランプになったときとか、この缶《かん》の中身《なかみ》見てると、すっごいムカついてきて……そんで、ナメんなバカって気になってくんだよね……」
初志《しょし》を思い出す。悔《くや》しさをばねにする。そういうことなんだろう。
もしかしたらそれは、あのとき黒猫《くろねこ》が漏《も》らしていた怨念《おんねん》と、よく似たものかもしれない。
――ナメんなバカ――
陸上部のスター、高坂桐乃が抱く初志は、周囲が抱くイメージよりも、ずっと泥臭《どろくさ》くて、ガキっぽくて、ごく普通の、人間らしいものだったのかもしれない。
「すっげえな」
「え?」
つい漏らしてしまった俺の呟《つぶや》きに、桐乃がはっと顔を上げた。
俺と妹の、目が合う。
なんと言っていいか分からない。素直に褒《ほ》めるのもなんかシャクだが、感心《かんしん》したのは事実なもんでさ。俺はしばし言葉をさまよわせ、
「いま、おまえと足で勝負したら、もう勝てねえな」
結局、ありきたりでつまらない台詞《せりふ》を吐《は》いた
すると桐乃は、一瞬《いっしゅん》、きょとんと目を丸くし、そして快活《かいかつ》に笑んだ。
「ハッ――あったりまえでしょ? あたしを誰《だれ》だと思ってんの?」
自信に充ち満ちた態度で胸を張る。
そこには運動|音痴《おんち》だったころの面影《おもかげ》はもうどこにもない。一番初めの動機《どうき》がなんであったにせよ、こいつは六年以上の時を費やし、いまや自らの力で、確たる自信を得た。
自分が凡人《ぼんじん》だからこそ、とんでもねえことだと素直に思う。ああ、こいつには確かに、『あたしを誰だと思ってんの?』とふんぞりかえる資格《しかく》があるぜ。
俺が常に望み、胸を張って享受《きょうじゅ》し続けてきた穏やかな日常。
いまさらそれを否定するつもりはない。断じて、ない。
だが、そこに一分《いちぶ》の欺瞞《ぎまん》もなかったかと言えばウソになるだろう。幼馴染《おさななじ》みやその家族の優しさに甘《あま》えて、自分の怠惰《たいだ》の言い訳《わけ》にしていた部分も、確かにあったのだと思う。
それに気付かせてくれたのは桐乃だ。その点だけは、こいつに感謝しなければならないな。
まあ、俺の『今後の方針』についてはさておき。
妹がどうして俺にこんなものを見せてきたのかは分からない。
桐乃は『陸上を始めた理由』を大切に仕舞《しまい》い、しっかりとふたをしめる。
「ふうっ……さてと」
次いでダンボールと、収納《しゅうのう》スペースのコレクションを腕で示し、真摯《しんし》な声で切り出す。
「あのさ。……これ――全部……あたしの大切なものだから」
「知ってるよ」
何をいまさら。
だからこそ、俺は、親父《おやじ》からおまえのコレクションを護《まも》ったんだし。
おまえの気持ちを尊重《そんちょう》して、あやせと対決したりしたんだぜ? 桐乃は、かなり悩みながら言葉を選んでいるようだ。
「最初に……言ったじゃん? あたしのコレクション護るのに、協力するって」
「ああ」
「これからも……だからね」
「たりめーだ、アホ」
さっきから何言ってんだよ。あんなに苦労して護ったのに、いまさらやめるわけねーだろ。
シャクだもん。人生《じんせい》相談が終わっても、そんくらいはアフターケアしてやるさ。
どーせ最後の人生相談ってのは、これから何度もあるんだろうけどよ。
「俺は、おまえの兄貴だしな。ま、しょーがねえ」
「そっか。そだよね」
「そういうこった。やれやれ、難儀《なんぎ》なもんだぜ」
俺はニッと笑みを浮かべる。
「で? 最後の人生相談とやら――今回は、これで終わりか?」
「うん」
なんだそりゃ? エロゲー買いに行かされて、一緒《いっしょ》にゲームやらされて、禁断《きんだん》のコレクションの一部を見せられて――
最後の人生《じんせい》相談は、最初の人生相談と良く似ていて、しかし先が続かなかった。
俺は桐乃から初めて人生相談を持ちかけられたとき、妹の態度から『趣味《しゅみ》を分かち合える相手がいない』『友達が欲しい』という、相談の本質《ほんしつ》を看破《かんぱ》し、そのために奔走《ほんそう》することができた。けれども今回は、相談の本質がいまだにつかみきれていなかった。
だからかもしれない。なんだか消化《しょうか》不良のような気がするのだ。
まるで……選択肢を間違えてしまったような。
……アルバムくらい見てやりゃよかったかな。このぶんなら、そんな変なもんじゃなかったのかもしんねーし。ま、いっか。
「俺、なんもしてねーぞ? こんなんでよかったのか?」
「うん……大丈夫《だいじょうぶ》」
なのにこいつは、とても満足そうにしている。
親父《おやじ》からコレクションを護《まもり》りきったあのときや、あやせと仲直りできたあのときと、同じ顔をしている。今回、俺は、たいしたことをしてやってねーはずなのにだ。
分かんねーな。俺は、自分でも知らないうちに、妹に何かをしてやっていたのだろうか。
さっきからうなずいてばかりの桐乃は、俺と微妙《びみょう》な距離を保ったまま立ち、微笑《ほほえ》んでいる。
「なんか、すっきりした」
にひひ、という悪戯《いたずら》っぽい笑《え》みが、妙《みょう》に懐《なつ》かしい。
……そうだ、もっと小さいころのこいつは、こうやって笑うやつだったっけ。
「そうかい」
俺は今度こそ踵《きびす》を返し、片手を振って退室《たいしつ》した。
「んじゃ。おやすみ」
「うん――」
扉《とびら》を閉める直前、背に声が投げかけられた。
「じゃあね、兄貴《あにき》」
そうして俺の妹はいなくなった。
[#改ページ]
その日の放課後《ほうかご》、学校から帰宅《きたく》した俺は、自分の部屋で受験《じゅけん》勉強にいそしんで――
「ぐー」
なかった。
ここんところ、わりと夜遅くまで起きていることが多かったもんだから、ついついうとうとして、机に突《つ》っ伏《ぷ》して眠ってしまったのだった。
とはいえ完全に意識がトンでいたのは、ほんの数分ってとこだろう。
目を覚ました俺は、「ハッ!」と顔を上げて「……あ、ああ……そっか……」などと自分でもよく分からないことを呟《つぶや》く。
「ふあ……あ……っと、もう一がんばりすっか……な」
妙《みょう》な夢を見た気がする。ず――っと昔の……子供のころの夢だ。
起きた瞬間《しゅんかん》は辛《かろ》うじて覚えていた夢の内容も、意識がハッキリしていくに従って、思い出せなくなっていってしまう。
「……ん」
ただ、なんとなく。
胸のあたりに、郷愁《きょうしゅう》のような切なく温かなものが残留《ざんりゅう》していた。
のどが渇《かわ》いたので、いつものようにリビングへと向かった。その途中《とちゅう》、玄関《げんかん》の扉が開き、買い物帰りだろうお袋《ふくろ》が帰ってきた。
「ただいまぁ〜。……あらら? どうしたの京介、玄関《げんかん》まで出迎えにきてくれちゃって?」
「別に、偶然《ぐうぜん》だっての。ほら、買い物袋《ものぶくろ》、持ってやるよ」
冷蔵庫《れいぞうこ》まで袋を持って行き、冷蔵庫に食べ物を入れる。
その最中《さいちゅう》、何の気なしに聞いてみた。
「そういや桐乃は? 帰ってきてねえみたいだけど。今日って部活《ぶかつ》とか仕事ある日だっけ?」
お袋の返答は、
「はあ? なに言ってんの?」
だった。
なに言ってんの? はそっちだろうが。俺だってそんなん別に知りたくもねーけど、親との会話の一環《いっかん》としてだな……。へっ、もういいよ。
そのときは、それで終わった。
ところが門限《もんげん》を過ぎても、桐乃は帰って来ていないようだった。
家の決まりはきっちりと守るあいつのことだ、親に連絡くらいはしているのだろうが。
プライベートな遊びで、いたずらに門限を破るようなやつじゃあないから、きっと、また仕事か部活|関連《かんれん》だろうな。まあ、別に心配しているわけじゃないが。
夕食のときに、もう一度|何気《なにげ》なく、本当に何気なくだ、聞いてみたんだ。
「桐乃は? また合宿?」
「おまえ……何を言っとるんだ?」
親父《おやじ》は意外《いがい》そうな顔をした。
「なんのことだよ?」
「……む、そうか。桐乃は、おまえには自分から言うと言っていたのだがな」
「だから、なんのこと?」
「桐乃はもういない」
「は?」
「今日、アメリカに発《た》った。有名な陸上のコーチから指導《しどう》を受けるために、高校に入学するまで海外で暮らす」
「な、なんだよ、それ……」
親父は、ふん、と鼻を鳴らし、
「前回の合宿のおり、スカウトに来ていた海外のコーチが目をかけてくださって、やる気があるならいつでも来いと誘《さそ》われたのだそうだ。現地の言語《げんご》に慣れ親しみ、海外の試合をこなした経験は、桐乃の将来にとって必ず有益《ゆうえき》だからと抜かしたそうだ。……実に気に喰わん、ふざけた話だとは思わんか」
「…………」
「そういうのは、せめて中学を卒業してからでいいだろうと俺はずっと反対していたのだ。高校生からの奨学金《しょうがくきん》制度や留学《りゅうがく》プログラムについて、陸上部の顧問《こもん》とも何度か会って話をした。だが、こと学生スポーツに関しては、一年の遅れが恐ろしいほどのハンディキャップになる、のだそうだ。同時にいまは、桐乃にとってのチャンスでもあるとも聞いた」
親父《おやじ》は憮然《ぶぜん》とした表情で、きわめて淡々《たんたん》と喋《しゃべ》っている。
まるで、怒《いか》りを圧《お》し殺《ころ》しているかのように。だから俺は、途中で口を挟めなかった。
「桐乃|本人《ほんにん》からも、自分がどこまでやれるのか、できることは全部やっておきたいと熱心に説得《せっとく》された。当然奨学金や留学プログラムに頼らずに行くわけだから、金がかかる。一年間で五百万円だ。|俺は払わんと言った《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。冗談《じょうだん》ではないと思ったからな。いくらやりたいことがあるといって、十四|歳《さい》の娘をそんな、目の届かないところにやれるものか。何かあっても、すぐに飛んで行ける距離ではないし……言葉だってろくに通じんのに」
親父、落ち込みすぎだろ。
「……でもさ。結局、許可した、んだろ?」
「ふん、アレの頑固《がんこ》さは筋金《すじがね》入りだ。何しろそんな金は絶対に払わんと言ってやったら、五百万円入った通帳《つうちょう》を突きつけられたぞ。モデル仕事の報酬《ほうしゅう》と、本の印税《いんぜい》を合わせたものだから使ってくれ、これで文句《もんく》はないでしょうなどと抜かしてな。……それで俺に何が言える?……何を言っても無駄《むだ》だろうが」
そのとおりだ。あいつが一度決めたら、もう何を言っても聞きはしない。
「……そっか」
桐乃はもう、この家にはいないんだな。
なんとなく、納得《なっとく》した。なんとなく、な。
「そういうことだ」
親父はそこで話を切り上げて、黙々《もくもく》と飯《めし》を食い始めた。この人が一番、娘がいなくなってしまうのを寂しく思っているのだろう。
だから、それ以上、詳細《しょうさい》を聞こうとは思わなかった。
それに人づてに何を聞いたって、そんなの理解できるわけがない。
なにしろずっと本人を目の前にしていたのに、何一つ気付かなかったんだからな、俺は。
印税の使い道。桐乃がケータイ小説をやめてまで、やりたかったこと。
不可解《ふかかい》だった最近の態度。そして――|最後の人生相談とは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|何だったのか《ヽヽヽヽヽヽ》。
俺には消化不良《しょうかふりょう》に思えたのに、あれほど満足げに笑っていたのは、何故《なぜ》だったのか。
どうして俺に、何も言わずに行ってしまったのか。
ぜんぶいまさらだった。考えたくもない。
自分で勝手《かって》に決めて、どんどん先に行ってしまう。
いつだってそうだった。そんなの、分かりきってたことだったのにな。
腹は立たなかった。それほど驚《おどろ》きもしなかった。やはり俺は、心のどこかでこうなることが分かっていたのかもしれない。
味もそっけもない夕飯《ゆうめし》を食い終わり、部屋《へや》に戻る途中《とちゅう》。
俺はふと魔が差して、妹の部屋を開けた。
鍵《かぎ》はかかっていなかった。電気が点《つ》いていなくて、暗い。
この前入ったときと同じだ。すっきりと片づいている。
ずいぶんと本が少なくなった本棚《ほんだな》。
誰《だれ》もいないベッド。
置き去りにされた、デスクトップパソコン。
もうこの部屋に招かれて、無理矢理《むりやり》エロゲーをやらされるようなことは、なくなるわけだ。
「……フン、せいせいしたぜ」
誰もいない部屋に向かって、呟《つぶや》く。
自分の部屋に戻って、ドスンとベッドに倒れ込んだ。
仰向《あおむ》けの体勢から、ごろりと寝返りをうつ。
視線《しせん》の先には壁があった。薄くて、でかい声を出したら向こうに筒《つつ》抜けになってしまうこの壁を、いつも俺は、ちっとばかし不便《ふべん》だと感じていた。
けれど、もう、そんなことを気にする必要はないし、向こう側からやかましい音楽やらお喋《しゃべ》りやらが漏《も》れ聞こえてくるようなこともない。夜中に勝手に入って来られて、寝てるところにのっかられるようなこともない。うざったい友達を家に連れてこられるようなこともない。
本当にせいせいした。これでようやく、俺の日常に平和が戻ってきたのだ。
最後の人生《じんせい》相談は、本当に、最後だった。
そして――これから俺は、どうなる?
今度こそ俺は妹から解放されて、もはや非日常を体験することもなくなり、いままさに考えているように、本当に九ヶ月前のような平穏《へいおん》な日常に戻れるのだろうか。
そうはならない気がした。前言《ぜんげん》を否定してしまう形になるし、上手《うま》く言えないが、それは少し違う気がした。
なぜなら俺が妹から預かったものは、本棚の裏に隠《かく》されている秘密《ひみつ》のコレクションだけではないからだ。形のあるものばかりではないからだ。
たとえばそれは、妹が俺に語ったオタク知識のことだ。
たとえばそれは、俺が妹とともに体験した、さまざまな出来事の記憶《きおく》のことだ。
たとえばそれは、俺が妹を通じて知り合った、新しい友人たちのことだ。
それらは桐乃がいなくなってしまっても、消えてなくなりはしない。
いまも俺の元に、残っている。
かつて非日常だったものは、いまや俺の新しい日常に組み込まれて、切り離すことの出来ないものになってしまった。だからこそ桐乃は、あのとき満足げにうなずいたのだろう。
『うん……大丈夫《だいじょうぶ》』ってな。
ようするに――
最後の人生《じんせい》相談は、いまもまだ続いている。
これからもずっと、続いていくのだ。
まったくあいつは、最後の最後まで可愛《かわい》くない妹だったよ。
せいぜい向こうでがんばりやがれ、ばかやろう。
[#改ページ]
俺《おれ》の名前は高坂京介《こうさかきょうすけ》。近所の高校に通う十八|歳《さい》。
自分でいうのもなんだが、ごく平凡《へいぼん》な男子《だんし》高校生である。所属《しょぞく》している部活《ぶかつ》はないし、趣味《しゅみ》だって特筆《とくひつ》するようなもんはない。そりゃ流行のエロゲーくらいはやるし、同人誌だってそれなりには買うけど、趣味といえるほどのもんじゃないな。
放課後《ほうかご》はだいたい友達と町をぶらつきながらだべったり、幼馴染《おさなじ》みと勉強したり、さっさと家に帰って受験の準備をしたり。
ときにはまぁ……イベントに行ったりもする。
だいたい普通の高校生ってのはそんなもんだろう? 笑ってしまう話だが、誰《だれ》もが自分を『普通』だと思っていて、自分と違うものを恐れたり、拒絶《きょぜつ》したりする。
普通っていうのはようするに、周りと足並《あしな》み揃《そろ》えて、地に足つけて生きるってことで。
それさえできているのなら、どんなに周囲や自分が変わろうとも『普通』は『普通』さ。
なんにもびびるこたあないんだろうよ。
季節は春。登校路《とうこうろ》の並木道《なみきみち》には桜が咲き乱れている。俺はまた一つ学年が上がり、三年生になっに。
新入生だろう女の子たちが、真新しい制服《せいふく》に身を包み、希望と緊張《きんちょう》を抱えて坂道《さかみち》を上っていく。俺にもあんな頃《ころ》があったのだろうか。
桐乃もあっちで、同じような顔をしているのだろうか。
「どうかしたの、きょうちゃん?」
「いいや、なんでもねーよ」
幼馴染《おさななじ》みにそう答え、鞄《かばん》を無造作《むぞうさ》に背負う。
「――ね、今年も同じクラスになれたらいいね?」
「ああ、そーだな」
麻奈実《まなみ》は元気よく「うんっ」と頷《うなず》き、しかしそのあと「あれ?」という顔になった。
「んだよ?」
「んふふ……きょうちゃんって、最近なんか、ちょっと変わったよね?」
「ほーお、どういうふうに?」
「えっと、ね。……前よりも、もっと優しくなった」
「ハ、」
ぺしっと額《ひたい》にチョップを入れてやる。
「勝手《かって》に言ってろ」
「う、うう〜……やっぱり、おにぃちゃんって呼ばなきゃダメなのぉ〜?」
「それだけは許してください!」
――そいつの後《うしろ》ろ姿《すがた》を見かけたのは、ちょうどそんな話をしていたときだった。
前を歩く、制服《せいふく》姿の新入生。その後ろ姿に、もの凄《すご》く見覚えがあった。
俺は、その背を早足で追いかけ、人違《ひとちが》いだったときのことなんか考えもせずに、そいつの顔を覗《のぞ》き込んだ。
「……あら」
そこにいたのは――
「おはようございます、先輩《ヽヽ》」
あとがき *本編の内容について触れておりますのでご注意ください。
伏見《ふしみ》つかさです。『俺《おれ》の妹《いもうと》がこんなに可愛《かわい》いわけがない』四巻を手にとっていただきまして、ありがとうございます。前回のあとがきで予告したとおり、今回は既刊《きかん》よりもコメディパートの比重《ひじゅう》を増してお届けしました。
いかがでしたでしょうか。一《いっ》箇所でも笑っていただけたシーンがあったなら、嬉《うれ》しいです。
各章について少しだけ。
【一章】
二巻、三巻で出番《でばん》が削《けず》られてしまったキャラクターを再《さい》登場させたいなと考えた話です。
カットされて収録《しゅうろく》が保留《ほりゅう》になっているエピソードや、回収《かいしゅう》すべき伏線《ふくせん》はまだまだ山ほどあるので、いずれ何らかの形でリベンジしたいです。
【二章】
もともとは三巻二章に組み込まれていたエピソードです。シリアスシーンが含まれたバージヨンもあったのですが、今巻《こんかん》ではカットしました。
桐乃《きりの》と麻奈実《まなみ》の初遭遇《はつそうぐう》シーンを、基本設定《きほんせってい》を変えずにコミカルなシーンに差し替えるのに、かなり悩んだのを覚えています。
【三章】
三章後半から、既刊とは違う桐乃の姿が描かれます。この変化については、非常にさじ加減《かげん》が難しく、出版されるまでに何度も書き直すことになりました。根気《こんき》強く付き合って助言《じょげん》をしてくださった編集のお二人には、感謝の言葉もありません。すでに性格が固まっているキャラに、普段とは違う態度を取らせるというのは難しいものですね。
ところで三章および四章では、ゲームタイトルがいくつも登場します。編集の小原《こばら》さん、三木《みき》さんが、エロゲーの名前をはりきってたくさん考えてくださいました。
【四章】
エロゲー買いに行ったらサイトに写真が掲載《けいさい》されちゃった件は、私が実際に体験した出来事です。深夜《しんや》販売の列に並んで本を読んでいる私の姿《すがた》がバッチリ映っていました。
フィーナ姫のジャケットを着ていた方、痛チャリのオーナーさん、勝手《かって》にふざけたネタのモチーフにしてしまってごめんなさい。
そして、ファンレターをくださった方々へ。
東京都のがちゃぴんのみどりさま(感想のみならず、京介・桐乃|宛《あて》のメッセージ、さらにイラストまで! 凄《すご》い! この前、小学生からファンレターもらったんだぜって自慢《じまん》しました)、埼玉県《さいたまけん》のK嶋さま(丁寧《ていねい》なご指摘《してき》大感謝です。参考にさせていただきます)、福岡《ふくおか》県のN嶋さま(今年もよろしくお願いします――って、遅いですねすみません)、岡山県《おかやまけん》のO田さま(かわいらしいイラストですね。サインが私より上手だ!)、鹿児島《かごしま》県のあかりさま(オタクな中学生で、しかも妹という桐乃みたいな方からお手紙をいただくなんて、びっくりです。お兄ちゃん、二十一|歳《さい》なんですね。まだ全然若いですよ。おじさんじゃないですよ)、鳥取《とっとり》県のH城さま(二十八歳にもなって印税《いんぜい》をラノベやゲームにつぎ込んでいる作家もいるから大丈夫《だいじょうぶ》ですよ!)、奈良《なら》県のO田さま(読みやすかったなら、よかったです。桐乃はツンデレとはちょっと違うかも)。
その他、メールで感想をくださった方、mixi からメッセージを送ってくださった方。
皆様からいただいたお手紙は、いつも大きな励《はげ》みになっています。
なかなかお返事できなくてごめんなさい。
早いもので、本シリーズも次で五巻となります。私にとっては、未《み》体験の領域《りょういき》です。こんなに長いシリーズになるなんて、思っておりませんでした。
ここまで来ることができたのは、編集のお二人、イラストレーターさま、そして何より読んでくださった皆様のおかげです。応援してくださった方々のおかげです。
同じ言葉を何度も繰り返すことになってしまいますが、本当に感謝しております。
ありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いいたします。
【お知らせ@】
本書に付属《ふぞく》しておりますアンケート葉書《はがき》が、今回、特別|製《せい》になっております。
このアンケートの結果によって、今後のストーリー展開が変わるという企画でして、ひらたくいえば『読者投票|型《がた》のルート分岐《ぶんき》シナリオ』ということになるのでしょうか。
アンケートに答えてくださった方には、抽選《ちゅうせん》でサイン本やオリジナルグッズが当たりますので、どしどしご応募《こうぼ》くださいませ。
【お知らせA】
この度《たび》『俺《おれ》の妹がこんなに可愛《かわい》いわけがない』の公式サイトがオープンしました。左記のURLからアクセスしてみてください。
http://oreimo.dengeki.com/
[#地付き]二〇〇九年六月 伏見《ふしみ》つかさ