俺の妹がこんなに可愛いわけがない 3
伏見つかさ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)高坂《こうさか》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一番|華《はな》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)犯人[#「犯人」に傍点]
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底本データ
一頁17行 一行42文字 段組1段
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俺《おれ》の妹《いもうと》がこんなに可愛《かわい》いわけがない 3
俺の妹・桐乃《きりの》が、どうやら創作活動に目覚めたらしい。ところが、桐乃の書いた小説(ケータイ小説?)とやらは、同じく同人で小説を書いている黒猫《くろねこ》にとって理解しがたいものらしく、案の定、口論になっちまった。その上、何を間違ったのか、桐乃が好き勝手書いたケータイ小説がネット上で話題を呼んで、出版社からオファーが来たっていうんだから、俺はただただ驚くしかない。
というわけで、何事にも全力な桐乃が今回発動した人生相談≠ノよって、俺は、よりにもよって妹と、クリスマスの渋谷の街に繰り出す羽目になっちまった――!? って桐乃! さすがにその場所は兄妹で入っちゃマズイだろ!!
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伏見《ふしみ》つかさ
これが人生最後に出す本かもしれない。そう思いながら書き続けていたら、本シリーズも三冊目になりました。有り難いことに四冊目も書かせていただけるそうです。このチャンスを活かすべく、背水の陣を敷いて臨みますので、どうかもう少々お付き合いください。
【電撃文庫作品】
十三番目のアリス
十三番目のアリス 2
十三番目のアリス 3
十三番目のアリス 4
俺の妹がこんなに可愛いわけがない
俺の妹がこんなに可愛いわけがない 2
俺の妹がこんなに可愛いわけがない 3
イラスト:かんざきひろ
イラストレーター兼アニメーター。1978年生まれ。本業の傍ら、海外でレコードをリリースするなど音楽活動もこなす何でも屋状態の変な緑色の生物。
HP http://nekomimi.tabgraphics.under.jp/
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c o n t e n t s
第一章 p11
第二章 p69
第三章 p115
第四章 p199
九月。妹からとんでもない人生《じんせい》相談を受けたあの日から、三ヶ月が経《た》っていた。
あのとき安請《やすう》け合いしちまったばかりに、ここ数ヶ月というもの俺《おれ》の身の回りには、思い返すだけで胃《い》が痛くなる出来事《できごと》が、いくつもいくつも起こった。
妹に同じ趣味《しゅみ》の友達を作らせようと世話《せわ》を焼いたり。趣味の会合に同行させられたり。
夏の想《おも》い出《で》作りのために、俺には縁《えん》のない場所に連れて行かされたり。
秘密《ひみつ》がバレそうになるたびに、奮闘《ふんとう》してやったり――。
大っキレーな妹なんぞのためになぁ……自分でも、ガラでもねーって思うよ。
だがまぁ、しょうがなかった。
誰《だれ》に強制《きょうせい》されたわけでもない。その時々で、俺は、そうしたかったんだから。
俺はあいつと、ここ数ヶ月で、多くの会話をかわした。
いままで知ろうともしなかった妹の姿を、本音《ほんね》を、たくさん見てきた。
だけどな、それで俺たちの冷めた関係が変わったかというと、そんなわけもない。
むしろ悪化《あっか》しているくらいなんだよ。詳しくは、言わないけどな。
俺は相変わらず妹のことが大キレーだし、どうでもいいと思っているし。
あいつはあいつで、俺のことをいままで以上に軽蔑《けいべつ》し、嫌悪《けんお》しているんだ。
でもって、その上で『人生相談』という名目《めいもく》を持ち出しては、無理《むり》難題《なんだい》を押しつけてくる。
――たまったもんじゃねーっての。
それが俺・高坂《こうさか》京介《きょうすけ》の近況《きんきょう》を表わす、もっとも適切な感想だろうぜ。
リビングに入ると、件《くだん》の妹が電話をしているところだった。
いつもの定《てい》位置・ソファに深く腰掛《こしか》け、ぴっちりしたジーンズを穿《は》いて、脚《あし》を組んでいる。
袖《そで》で掌《てのひら》が隠《かく》れてしまうほどぶかぶかのシャツは、きっとそういうファッションなんだろう。
まったくもって、何を着ても似合《にあ》うヤツである。自然とそう思ってしまう自分が忌々《いまいま》しい。
で、そんな器量《きりょう》よしの妹は、携帯《けいたい》に向かって、なにやら楽しそうに笑いかけていた。
「えー? ウッソー? なにそれぇ〜、じゃあ結局、カレシ振っちゃった系《けい》? へーそーなんだぁ〜、あはは、ありえなーい」
ライトブラウンに染《そ》めた髪《かみ》の毛、両|耳《みみ》にはピアス、長くのばした爪《つめ》には艶《あで》やかにマニキュアを塗っている。すっぴんでも十分目を惹《ひ》くだろう端正《たんせい》な顔を、入念《にゅうねん》なメイクでさらに磨《みが》き上げている。中学生には見えないくらい大人《おとな》びた雰囲気《ふんいき》。
背がすらっと高く、しかし出るところはきっちり出ている――。
このめちゃくちゃ垢抜《あかぬ》けた女が、俺の妹・高坂|桐乃《きりの》。
一四|歳《さい》の女子中学生だ。ティーン誌とやらでモデル活動をやっていたり、陸上部のエースだったり、学力テストで県《けん》五位だったりする、凡庸《ぼんよう》な兄貴《あにき》とは大違《おおちが》いの凄《すご》いヤツだ。
だが、こいつには、とんでもない秘密《ひみつ》の趣味《しゅみ》があった。とうてい信じられない、知った自分の正気を疑ってしまうほどカッ飛んだやつさ。
何かっていうとだな……えーと、非常に言い辛《づら》いんだが……。
俺《おれ》の妹は、18禁《きん》美少女ゲーム、いわゆるエロゲーを愛しているのだ。
特に『妹もの』と呼ばれるジャンルが好きで好きでたまらなく、そういったアイテムを本棚《ほんだな》の後ろにある隠《かく》し収納《しゅうのう》スペースに蒐集《しゅうしゅう》している。
他《ほか》にも、子供向けアニメのDVDボックスやら、何やら……
初めて桐乃《きりの》のコレクションを見せられたときは、目《め》ん玉《たま》飛び出るかと思ったもんさ。
何度《なんど》説明してもウソみたいな話だが……いま言った諸々《もろもろ》は、すべて事実なんだよな……。
「うん……うん……じゃ、また明日《あした》ねぇ〜」
語尾《ごび》を上げた猫《ねこ》なで声で、電話を切る妹。
……本性《ほんしょう》を知っている俺としては、気色《きしょく》悪いことこの上ない。
俺は冷蔵庫《れいぞうこ》に飲み物を取りに行きたいのだが、我《わ》が家《や》のリビングはキッチン・ダイニングと一緒《いっしょ》になっているので、そこまでたどり着くためには、桐乃の目の前を通らなければならない。俺は妹とできる限り関わり合いになりたくないので、リビングの入口で躇躇《ちゅうちょ》してしまっていた。
……なにやってんだよって思うかい? ……はぁ……この心理が理解できるのは、めちゃくちゃ感じ悪い妹を持つ兄貴《あにき》だけだろうな……。
と、そこでピピピと着信音《ちゃくしんおん》。電話を切って早々、妹のケータイにメールが届いたらしい。
女子中学生ってのは、せわしないもんだ。息つく暇《ひま》もなさそうだな。
「うげっ」
桐乃はメールを読んだ瞬間《しゅんかん》、ひどい顔でうめいた。次いで、不機嫌《ふきげん》に舌打《したう》ちを連射《れんしゃ》しながらケータイを操作《そうさ》、受話器を耳に当てる。どうやらメールの相手に電話をかけたらしい。
「……ちょっと! このぐるぐる眼鏡《めがね》ッ! マジで!? 死んでよ!? 信っっじらんない! ヤだっつったじゃん!」
相《あい》っ変《か》わらず、えらい勢いで毒吐《どくは》いてんなあ……。
(妹には表《おもて》の顔と裏《うら》の顔があって、相手によって使い分けているのだが、表情や喋《しゃべ》り方で『どちらの友達』と話しているのか、最近なんとなく分かるようになってきた)
この遠慮《えんりょ》のない喋り方と『ぐるぐる眼鏡』という単語から推測《すいそく》すると、いま電話をしている相手は、沙織《さおり》≠ニいう『裏の友達』だろう。
「っ……分かったわよ! 何度も言われなくたって分かってんの! でもその代わりアンタ、いつものキモオタっぽいカッコやめてよね! ぶっちゃけメーワクだから!」
そんな妹の険悪《けんあく》な声を聞きながら、意を決した俺は、こっそりとソファのわきを通り、冷蔵庫へと向かう。缶コーヒーを取りして、口に含む。
「…………にが」
エスプレッソを飲み干《ほ》し、俺《おれ》が再びソファの前を通りかかったところで、桐乃《きりの》は電話を切る。
「※[#「あ」に濁点]〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜もォ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
奇声《きせい》を上げて、頭を抱えてしまった。……なんだぁ〜……?
「…………うるっせーな。なに怒ってんの、オマエ」
よせばいいのに、俺は、妹に声をかけてしまった。
「は?」
……なんつー目で睨《にら》むんだよ。はいはい、『アンタには関係ないでしょ?』ですよね。
「……チッ、なんでもねーよ」
ゴミを見るような視線だけで察した俺は、そそくさとその場をあとにしようとした。
情《なさ》けねえって思われるかもしれないが、これが暗黙《あんもく》のルールを破ったもんへの報《むく》いなのさ。
向こうから人生《じんせい》相談を持ち掛けてこない限り、お互いに無視《むし》し合うっつー、兄妹のルールな。
これは数ヶ月|前《まえ》にできたばかりのルールだが……こういった家族|間《かん》における『暗黙のルール』ってさ、内容は違うかもしんないけど、どこの家庭にだってあるもんじゃねぇかと思う。
他人《たにん》同士が一緒《いっしょ》に暮らそうってんだから、上手《うま》く折り合いをつけてやっていくための規則なりなんなりが、あって当然じゃねぇのかな。
ま、俺たち兄妹の場合は、そん中でも、特別な部類《ぶるい》なんだろうけど。
と、
「ねぇ」
俺が退室しようとノブを掴《つか》んだ瞬間《しゅんかん》、狙《ねら》い澄《す》ましたようなタイミングで、声がかかった。
「……あんだよ?」
「ちょっとこっち来て」
ソファに座って脚《あし》を組んだまま、くいくいっと指で俺を招く桐乃。
なんともむかつく仕草《しぐさ》である。三|歳《さい》年上の兄貴《あにき》にする態度じゃないだろこれ。
「早く」
「……へーへー」
急《せ》かされた俺は、渋々《しぶしぶ》と妹の指示《しじ》に従った。俺も妹も、イライラを隠《かく》そうともしていない。
「で、なんだ?」
「ハァ? 自分で聞いたくせに、なにネボケたこと言ってんの?」
見下《みさ》げ果《は》てたとばかりに表情を歪《ゆが》める桐乃。
「あたしが怒ってる理由、教えて欲しいんでしょ? ホラ、そこ座って」
ぴ、と床を指差《ゆびさ》す。……これだ。なんだその『説教《せっきょう》してやるから正座《せいざ》』みたいな言《い》い草《ぐさ》。
そこまでしておまえが怒ってる理由なんぞ、聞きたくねーっての。ざけんなよ?
クソ、いい加減《かげん》ビシッと一言いってやらねーとな……。俺は決然《けつぜん》と口を開いた。
「足くずしてもいいっすかね?」
桐乃《きりの》は、口元《くちもと》をへの字にしながら、語り始めた。
「あたし昨日《きのう》さあ……またあいつら[#「あいつら」に傍点]と遊んであげてたのね。誘《さそ》われたから、仕方なく」
『あいつら』というのは、ほぼ間違《まちが》いなく、桐乃のオタク友達である沙織《さおり》≠ニ黒猫《くろねこ》≠フことだろう。SNSのオフ会で知り合ったオタク友達と、最近《さいきん》桐乃はよく遊んでいるのである。
沙織≠ニ黒猫≠ヘ、どちらもハンドルネーム。
簡単《かんたん》に紹介すると、
沙織は、背が180センチ以上あって、藤原《ふじわら》紀香《のりか》と同じスリーサイズ。ファッションセンスと口調《くちょう》はキモオタそのもの。いつもでっかいぐるぐる眼鏡《めがね》で素顔《すがお》を隠《かく》している。
面倒見《めんどうみ》がよく、桐乃が所属《しょぞく》しているオタクコミュニティのリーダーをやっていて、俺《おれ》たち兄妹はいつも世話《せわ》になっているのだ。さっき桐乃が電話していた相手もこいつ。
黒猫は、無《む》表情で無《ぶ》愛想《あいそ》、そのうえ毒舌《どくぜつ》という大変《たいへん》付き合いにくいヤツで、桐乃とはよくアニメやゲームの話題で口論《こうろん》をしている。前髪《まえがみ》を揃《そろ》えた黒の長髪《ちょうはつ》。肌《はだ》は真《ま》っ白《しろ》。いつもゴスロリっぽい服を着ていて、桐乃とはまた違う雰囲気《ふんいき》の美人だ。桐乃いわく『邪気眼電波女《じやきがんでんぱおんな》』。
まぁ、二人ともそれぞれ変テコなやつだ。
で、そんなオタク友達と、桐乃は秋葉原《あきはばら》の電気|街口《がいぐち》で待ち合わせをしていたのだという。
「したらあの黒い[#「黒い」に傍点]の、約束の時間に五分も遅れてきて――」
短気《たんき》なやつだな。五分くらいのことで、そこまでイライラしなくてもいいだろうに……。
などと思っていたら、桐乃は驚くべき台詞《せりふ》を追加した。
「あたしが一時間も前から待ってやってるのにさあ! ありえなくない!?」
一時間|前《まえ》だぁ!? ど、どんだけ楽しみにしてたんだオマエ……初デートのエピソードかよ。
普段《ふだん》のおまえだったら、平気で遅れて行くだろうにさ。
「えーと……まさか怒ってた理由って、それなのか?」
「それもあるけど! それからさあ――」
全員が揃《そろ》ってから、桐乃たちはウインドウショッピングを楽しむためにヨドバシカメラに入っていったらしい。(このあたり、辛《かろ》うじて女の子らしい行動と……言えねーか)
ケータイ見たり、パソコン見たり、ゲーム売り場のでかいテレビで垂《た》れ流しになっている、デモムービー(スーパーなんとか大戦とかいうゲームのものらしい)を眺《なが》めたり――ひとくさり店内をぶらついてから、みんなで新作のガシャポンをやったんだそうだ。
ガシャポンて。なんとも懐《なつ》かしい響《ひび》きだな。俺も好きだったよ、小学生のころだけど。
「あたしだけ全然シークレット出ないのよ! ありえなくない!?」
「……まさか怒ってた理由って、それじゃないよな?」
「違うって。つか出るまでやったしぃ〜。フン、読モなめんなっつーの」
……渋谷系《しぶやけい》ファッションでバシッと決めたティーン誌モデル様が、百円|玉《だま》大量に握り締めて、ガシャポンやりまくってたんすか? アキバのヨドバシで? ……異様《いよう》な絵面《えづら》だなオイ。
簡単《かんたん》に捕足《ほそく》しておくと、桐乃《きりの》はモデル仕事のギャラがあるので、趣味《しゅみ》に使う資金には困っていないのだった。『読モなめんな』ってのは、そういう意味の発言だろう。
てなわけで、カネにあかせて首尾《しゅび》良くシークレットとやらを手に入れた桐乃は、次に沙織《さおり》の案内で『スターケバブ』という店に行って、ケバブサンドという代物《しろもの》を食べた。
「気のいい外人《がいじん》さんが店員やってて――アキバの名物《めいぶつ》なんだってさ」
「……ふーん」
……で? いつになったら『怒ってた理由』が出てくんの? いつまで俺《おれ》は、妹の秋葉原《あきはばら》散策《さんさく》レポートを聞いてなきゃなんないんですかねえ? ていうかおまえ、話すの下手《へた》すぎだろ! なんでことの初めっから順番に喋《しゃべ》ってんだよ! 待ち合わせのエピソードとか、ガシャポンとか、全部いらんだろうが。カットしろカット。
もちろん妹|様《さま》にそんな恐れおおいことは言えないので、俺はその後も、メッセサンオーだの、ソフマップだのを巡ったり、ゲームの予約をしたりする話を聞かされた。
前回、アキバ巡りに付き合わされたときも疑問に思ったのだが、どうしてオタクというのは、ゲーム屋→ゲーム屋→ゲーム屋→ゲーム屋という巡回《じゅんかい》コースを選ぶのだ?
服屋じゃねーんだから、売ってるもんはどの店も同じじゃないの? それにさあ……
「……なんでわざわざアキバのゲーム屋で予約する必要があんの? 地元で買えば?」
「お店によって、それぞれ違う予約|特典《とくてん》が付くのよバカ。テレカとかァ」
もの凄《すご》い侮蔑《ぶべつ》が籠《こも》った『バカ』だった。そんな剣幕《けんまく》で言わんでも……。
ちなみに、何故《なぜ》オタク友達と連れだって予約しに行くのかというと、あとで予約特典を交換(トレードというらしい)するためなんだとか。たとえば三人が、ゲームを二作品、メッセサンオーとソフマップとあきばお〜の三|店舗《てんぽ》で予約|購入《こうにゅう》すると、一作品に付き三種類の予約特典が手に入る。それを後々、仲間|内《うち》で相談の上、分配《ぶんぱい》するという寸法だ。
……俺としては、色々《いろいろ》あるもんだ、としか言いようがない。
好きなゲームのグッズは、そこまでしても集めたいってことなんだろうな。
中にはオークションで買い揃《そろ》えるやつもいるらしいし、トレードで済ましている桐乃は、まだまだ普通の域《いき》なのかもしれない。さっきも少し言ったが、俺の妹は、集めたゲームやグッズを、本棚《ほんだな》の裏《うら》にある隠《かく》し収納《しゅうのう》スペースにしまっている。俺は先日、その一端《いったん》を垣間見《かいまみ》たのだが……とても親にはお見せできない、とんでもないラインナップだった。収納スペースの奥底《おくそこ》には、俺がまだ見ぬ、さらなる驚異《きょうい》が眠っているのだという。恐ろしい話だな。
桐乃の話は、依然《いぜん》として続いている。
「そんで――いい加減《かげん》疲れたから、ミスドでダベろうみたいな話になって――」
俺もいい加減疲れたから、そろそろ本題《ほんだい》に入ってくんねーかな。
うんざりした気分で聞いていると、桐乃はようやく核心《かくしん》っぽいことを言った。
「そこでさ、黒いのと口論《こうろん》になったの。あいつがメルルのこと『しょせんお子様アニメね』とかいってバカにするから」
またかよ。何度目っスかその理由で喧嘩《けんか》すんの! よく飽《あ》きねえなおまえら!
ちなみに捕足《ほそく》しておくと、桐乃《きりの》と黒猫《くろねこ》はそれぞれ、
『星くず☆うぃっちメルル』、『maschera〜堕天《だてん》した獣《けもの》の慟哭《どうこく》〜』というアニメの熱狂《ねつきょう》的なファンであり、その両《りょう》作品の放映《ほうえい》時間が被《かぶ》っていたこともあって、対立しているのだった。
「そしたらあたしだって、キレるしかないワケじゃん? 言ってやったのよ――『あんたが面白《おもしろ》いっていうから、マスケラのDVD買って観《み》たけど、恥《は》ずかしい厨二《ちゅうに》台詞《せりふ》とかテンプレ邪気眼《じゃきがん》設定とか俺《おれ》TUEEEEEEが鼻について全然《ぜんぜん》楽しめなかった』ってさ」
俺にはまず、おまえが何を言っているのかが分からねえよ。日本語なんだろうなそれは。
……まあとりあえず、おまえが作品をけなしたいがために、わざわざDVDを買って、目を通したってのは分かった。
口《くち》喧嘩で勝つために、そこまですんのかよ。執念《しゅうねん》だなもはや。
……いや、友達[#「友達」に傍点]と共通の話題を作りたかったって理由も、あったと俺は踏んでるけどな。
「つかァ、アイツはアイツで、『……っふ……メルルごときに使うお小遣《こづか》いは一銭《いっせん》たりともありはしないわ』とか言ってDVD観てないし。あたしはマスケラ全巻《ぜんかん》買ったってのにさァ〜。沙織《さおり》からTV録画したやつをPSPで見せてもらったらしいけど――そんなもん真のメルルじゃないっつの! PSPのちっこい画面であの作画の素晴《すば》らしさがちゃんと伝わるわけないでしょッ! DVD版を大《だい》画面で観なさいよ! ねえ! 聞いてんのこのクソ猫!」
「ぐぇ……!? バッ――お、俺の首を絞《し》めてどうする! 人違《ひとちが》いだっつの!」
ハァ……ハァ……殺すつもりか! 俺は妹の手を振り払うや、喉《のど》を押さえて息を荒げた。
ふん……しかし……よーやく分かったぜ。自分は相手にすすめられたアニメDVDを、全巻揃《ぜんかんそろ》えて視聴《しちょう》したのに、相手がそうしなかったもんだから、怒ってんだなこいつ。
おまえみたいに金が有り余ってる中学生ばっかじゃねーっての。そんくらい分かれよ。
エキサイトするあまり兄を絞殺《こうさつ》しかけた桐乃は、額《ひたい》に手を当てて大きく息を吐《は》く。
「フゥ……そんでね。そうやってあたしらがやり合ってたら、あのぐるぐる眼鏡《めがね》が止めんのよ。『まぁまぁ……お二人《ふたり》とも、落ち着いてくだされ』とか言って」
それもいつもの展開だな。オタクコミュニティのリーダーでもある沙織は、とても寛容《かんよう》かつ気配《きくば》りのできるやつで、毎回《まいかい》毎回、桐乃と黒猫の間に入って、緩衝材《かんしょうざい》になってくれているのだ。
桐乃の話を聞いてみると、そのあと、こんなやり取りが続いたらしい。
『ふむふむ、どうにも……お二人の言い分をうかがいますと……黒猫|氏《し》もきりりん氏も、お互《たが》いが好きなアニメを、「つまらないもの」だと決めてかかっているように思えますな。もちろんどんな作品でも、人によって好き嫌《きら》いは出てきます。しかしお二人の場合、それ以前の問題として、作品への先入観《せんにゅうかん》や偏見《へんけん》が先に立って、楽しむことを阻害《そがい》しているのでは? つまらないと思って観《み》れば、なんでもつまらなく感じるものですよ。ですから――』
沙織《さおり》は、ぽんと拍手《かしわで》を打って、
『近いうちに、メルルとマスケラの鑑賞会《かんしょうかい》を開くというのはいかがでしょうかなっ』
お互《たが》いが好きな作品について、先入観や偏見を取り除き、相互《そうご》理解を深めるために。
お互いが納得《なっとく》できるきちんとした環境《かんきょう》で、お互いに解説《かいせつ》など加えながら、ともにアニメを観ようではありませんか――という企画《きかく》らしい。
『しかるのちに、改めて作品について論議《ろんぎ》なさるがよろしかろう」
とまぁこれが、沙織の下《くだ》した『お裁《さば》き』である。
……まーたえらくオタクっぽい発想だな。たかがアニメで、そこまでするか、普通。
……するからオタクなんだろうな。たかがは禁句《きんく》、分かってるさ。
で、沙織は次いで、こう提案した。
『せっかくだから、きりりん氏《し》のお宅でやりたいのですが』
『はぁ!? なんでウチなの!?』
ちなみに『きりりん』というのは、桐乃《きりの》のハンドルネームである。猛烈《もうれつ》に似合《にあ》わん。
桐乃の反発に、沙織と黒猫《くろねこ》はそれぞれこう応《こた》えた。
『いえ……拙者《せっしゃ》の部屋《へや》は皆が集まるには遠いですし』
『……どうせ私の家には、DVDを再生できる大《だい》画面テレビなんてないわよ。それに家には妹がいるから、穢《けが》らわしいキモオタやスイーツ(笑)を連れて行くわけにはいかないの』
この黒猫もさあ……いちいち人の神経《しんけい》を逆《さか》なでするようなこと言うよなぁ〜。
スイーツってのはよく分からんけど、まさか桐乃とマトモに口《くち》喧嘩《げんか》できるやつがいるなんて、世界ってのは広いもんだぜ。……んでまあ、当然そんなんで桐乃は納得《なっとく》しないわな。
『うちだって親いるし! あんたらみたいのに来られたらメーワクだってば!』
『あら? ここしばらく、木曜日は習い事で親がいなくなるから、リビングでアニメ見《み》放題《ほうだい》だってさっき自分で言ってたじゃない』
『くっ……そんなことばっか耳|聡《ざと》く覚えてんのねアンタは……』
そう。俺《おれ》に秘密がバレてしまってから、桐乃は親がいないときに、リビングのでかいテレビでアニメを観るようになった。前々から、家に誰《だれ》もいないときはそうしていたらしいが。
大画面でメルルを観ろ! とか自分で言ってたわけで、桐乃は『ぐぬぅ』と追い詰められた。
『拙者も黒猫|氏《し》も、親愛《しんあい》なるきりりん氏のお宅を是非《ぜひ》とも拝見《はいけん》したいのですよ。……最高の環境で鑑賞会を開くためにも、ご検討いただけませんか? ……そうそう、もしよろしければそのときお土産《みやげ》として、きりりん氏が欲しがっていたコミック版メルル一巻のサイン本をお持ちしますぞ?』
そう沙織からも穏《おだ》やかに説得《せっとく》されて、
『っ……か、勝手《かって》にすれば!』
押し切られてしまったのだそうである。餌《えさ》に釣《つ》られたんだろうな。
「――――――ってわけ」
桐乃《きりの》の話を聞き終えた俺《おれ》は、「ふーん……」とすげない返事を漏《も》らした、
だってカンケーねぇし。それに俺にとってはさ、『妹の友達が家に遊びに来る』なんて、別に騒《さわ》ぐほどのことじゃねーだろうよ。どうせ次の木曜日は、出かけるから俺|家《いえ》にいないし。
……そっか……あいつら、ウチに来んのか……。うーむ、まーた桐乃と黒猫《くろねこ》が揃《そろ》ったら、盛大《せいだい》に喧嘩《けんか》になるんだろうなー、なんて、ちょっぴり心配な点はあったんだけど。
ま、沙織《さおり》も来るんだから、大丈夫《だいじょうぶ》だろ。
ってな感じで、気楽《きらく》に考えていたんだよ。
木曜日。祝日《しゅくじつ》で学校が休みだったので、その日、俺は幼馴染《おさななじ》みと一緒に過《す》ごした。
駅前の本屋まで参考書を見に行って、帰りに公園で飯《めし》を食って、幼馴染みの家でおやつを食べて、ゆっくりだべって――という、ごく普通の一日だ。
目を惹《ひ》くような事件なんてなにもない、眠くなるような、退屈《たいくつ》で穏《おだ》やかな一時。
俺が望むのは、そんな凡庸《ぼんよう》な毎日が、何事もなく続いていくことである。
これは個人的な意見なんだが、『幸せ』ってのは、いまの自分や周囲の環境を、自分自身[#「自分自身」に傍点]が『これで良し』と素直に肯定《こうてい》できる瞬間[#「瞬間」に傍点]のことじゃねーかと思う。
そういう意味では、高坂《こうさか》京介《きょうすけ》の人生は、わりといいセンいっている。
どうだ羨《うらや》ましいだろうと胸を張れる。凡庸で、普通で、穏やかで、退屈で、だからこそ幸せな、余生《よせい》を過ごすような日々。そう、俺の人生は『これで良し」だ。
――もちろん俺の妹は、毎回《まいかい》毎回、そんな普通を叩《たた》き壊《こわ》してくれやがるのだが。
そしてこの日もそうなった。午後三時。幼馴染みと別れた俺は、ぼけっと空を眺《なが》めながら、あくびしいしい帰途《きと》を歩いていく。
――さーて。漫画《まんが》でも読んで、昼寝《ひるね》でもして、夕飯まで時間|潰《つぶ》すかな。
そんなことを考えながら家に帰ると、玄関《げんかん》に見慣《みな》れない靴《くつ》があるのを見付けた。
ちっこくて、ひらひらした飾りが付いた、黒い靴。どう見ても桐乃の趣味《しゅみ》じゃない。
「ん……ああ」
そういえば今日は、我《わ》が家《や》で『アニメ鑑賞会《かんしょうかい》』とやらがある日なんだっけ。
桐乃のオタク友達が、家に遊びに来ているのだ。
俺は階段を上り、自分の部屋《へや》に荷物を置いた。手を洗って、うがいをして、それからジュースでも飲むかと、冷蔵庫《れいぞうこ》のあるリビング方面に足を向ける。
「…………ずいぶんと、静かだな」
……おかしくないか? あいつらのことだから、ぜってーギャーギャーワイワイうるさく騒いでいるもんだとばかり思ってたんだ……が……。
扉《とびら》を開けると、部屋《へや》の中は暗かった。カーテンが閉め切られているらしい。
……ここにいないってことは、桐乃《きりの》の部屋で遊んでんのかな。
電気を点《つ》ける。ぱち、ぱち、と明滅《めいめつ》する灯《あか》り。蛍光灯《けいこうとう》が切れかけているのかもしれない。
ふーん。そのうち買い換え、ない、と――
「うっお!」
ビクッ! 俺《おれ》は灯りが完全に点いた瞬間《しゅんかん》、飛び跳ねそうになった。
何故《なぜ》なら目の前のソファに、全身|黒尽《くろず》くめの女が悠然《ゆうぜん》と腰掛《こしか》けていることに気付いたからだ。まるで玉座《ぎょくざ》に坐《ざ》す女王のように。透徹《とうてつ》した氷の眼差《まなざ》しで俺を見据《みす》えている。
絶句《ぜっく》して固まっている俺に向かって、ニヤリと笑う。
「……っふ……よくぞここまでたどり着いたものね……褒《ほ》めてあげるわ」
「ここは俺の家だ」
咄嗟《とっさ》に突っ込んでしまった。なんだその、悪の親玉《おやだま》みてーな台詞《せりふ》と態度は。
このゴスロリ女は、黒猫《くろねこ》。桐乃のオタク友達、兼《けん》、喧嘩《けんか》友達――だと俺は思っている。
で。
どうして家に遊びに来ていたはずのこいつが、真《ま》っ暗《くら》なリビングに、一人きりでいたのだろう。俺《おれ》は最初に問うべきことを、ここでようやっと聞いた。
「……何やってんのおまえ?」
「…………別に、何も」
ふいっとそっぽを向いてしまう。何を考えているのかまったく分からないが、なんとなく落ち込んでいるようにも見える。
リビングがしんと静まりかえった。実に気まずい。
や、だって、黙《だま》り込んじゃった妹の友達と二人きりなんだぜ? どうしろってんだよ。
「何も……って……はぁ……」
――相《あい》っ変《か》わらず、やりにくい女だなァ……。
友達ん家《ち》来たら、家主《やぬし》の兄貴《あにき》に挨拶《あいさつ》くらいしたらどうっすか?
俺はこの異様《いよう》な状況|下《か》で、どうしたいいか判断が付かず……とりあえずざぁっとカーテンを開けて、部屋《へや》の中を明るくした。夕方の陽光が、室内の薄闇《うすやみ》を駆逐《くちく》する。
振り返ると、黒猫《くろねこ》が両目をキュッときつくつむっていた。さっきまでのクールな雰囲気《ふんいき》は、根刮《ねこそ》ぎ消え失せている。ちょうど子猫《こねこ》の額《ひたい》をつついてやったときのような反応だ。
「……すまん、まぶしかったか?」
「……太陽の光は、苦手《にがて》だわ」
吸血鬼《きゅうけつき》かおまえは。もしかすると、またぞろアニメの台詞《せりふ》を真似《まね》ているのかもしれん。
「まぁいい、遠慮《えんりょ》なくくつろいで……るかすでに」
適当な言葉でお茶を濁《にご》してはみるものの、どうしたもんかな……。
とりあえず、このよく分からん事態《じたい》を把握《はあく》するべく、俺は聞いてみた。
「ところで桐乃《きりの》はどうした?」
「……部屋よ」
……ふむ。じゃあ、
「沙織《さおり》は? 桐乃の部屋にいるのか?」
「来ていないわ」
「え?」
来てないの?
「そりゃまたどうして?」
「……急用《きゅうよう》で、欠席だそうよ。わざわざ昨日《きのう》、私の家まで来て『申し訳ないっ。突然《とつぜん》遠出《とおで》しなければならない用事ができましたので、きりりん氏《し》に渡しておいてくだされ』――と、これを置いていったわ」
黒猫が取りだしたのは『星くず☆うぃっちメルル』の漫画本《まんがぼん》である。この間《あいだ》桐乃が言っていた、サイン本とやらだろう。急用ってのがなんなのかは分からむいが、律儀《りちぎ》なやつだな。
「渡しておいて頂戴《ちょうだい》、これ」
「……分かった」
黒猫《くろねこ》からサイン本を受け取りながら、俺《おれ》は考える。
沙織《さおり》は急用で、欠席。ふぅ……ん、そうなのか……。
……む……なんか、嫌《いや》な予感がする。待てよ、待て、待て。てことは……。
「今日《きょう》は、おまえと、桐乃《きりの》だけってこと?」
「…………そう…………」
なんか……分かってきた……。だって、その……つまりアレだろ?
沙織が来てないってことは……今日のアニメ鑑賞会《かんしょうかい》って、桐乃と黒猫が、二人きりで遊ぶイベントと化してるってことだろ?
無茶《むちゃ》だってそれはどう考えても……! 呉越同舟《ごえつどうしゅう》どころの話じゃねえだろ!
この二人が揃《そろ》って、喧嘩《けんか》にならないことの方が珍《めずら》しいんだぜ? 上手《うま》くいくわけがねー。
なるほど……! なるほどなるほどなるほど。よーく分かった! 全部|分《わ》かったぜ!
「それでね?」
「……喧嘩になったんだな、桐乃と」
「……ふん、分かっているじゃない。そういうことよ」
俺たちは向かい合ったまま、黙然《もくぜん》と口を閉ざした。つまり、こういうことである。
黒猫は、アニメ鑑賞会のために、この家に遊びに来た。しかし、普段《ふだん》、桐乃と黒猫の喧嘩を調停《ちょうてい》してくれている沙織が、急用《きゅうよう》で来られなくなってしまった。
そうして図らずも二人きりで遊ぶことになってしまった桐乃と黒猫は――
いつものように、大《おお》喧嘩をしてしまったのだろう。で、誰《だれ》も仲裁《ちゅうさい》しなかった結果……
桐乃はフテ腐《くさ》れて、自分の部屋《へや》に閉じこもっちまって。
黒猫は、真《ま》っ暗《くら》むリビングで黄昏《たそが》れていた、と。
これは俺の想像《そうぞう》だが、たぶん大体《だいたい》合ってるはずだ。……ったく、どーしてこうなるかね。
せっかく友達と遊んでるんだからさあ、もっと上手《うま》くやろうとは思わんのかこやつらは。
「…………ふむ」
ただこの状況には、注視《ちゅうし》すべきところがあるな。
自宅で喧嘩になったにも関わらず、桐乃は黒猫を、家から追い出さなかったという点。
沙織が来ないと知っていたにも関わらず、黒猫はこの家にやって来て、いまも帰らず留まっているという点。
どうだろう? 勘《かん》ぐりすぎだろうか? 俺は違うと思う。なぜかって言うとだな、俺は、何度かイベントやら何やらに付き合わされて、桐乃と黒猫のやり取りをそばで見ているんだよ。
だから――
「くだらないことを考えているようね?」
「そ、そんなことはないぞ?」
引きつった笑《え》みで否定する俺《おれ》。……わりと鋭いな、こいつ。
――まぁ、何にせよ。俺にゃあカンケーねえ話ではあるよな。
こんなクソ重《お》めぇ空気の家に、いつまでもいられっかよ。帰ってきたばかりでなんだが、ゲーセンにでも行って暇潰《ひまつぶ》すか――。
そんなことを考えた、まさにそのときだ。
はかったようなタイミングで、俺の尻《しり》で携帯《けいたい》がバイブレーションを始めた。
「……む」
メールだ。この時点で嫌《いや》な予感がしたのだが……案《あん》の定《じょう》、沙織《さおり》からだった。
――京介氏《きょうすけし》。あとは頼んだでおじゃる。[#「――京介氏《きょうすけし》。あとは頼んだでおじゃる。」は太字]
……………。……………………。……………………。
俺は、携帯の液晶《えきしょう》を死んだ魚の瞳《ひとみ》で見つめながら、
「…………マジでおじゃるか、沙織氏……」
げんなりと呟《つぶや》いたのである。
「……あら、いきなり麻呂《まろ》になっちゃって……。気でも狂った?」
「……なんでもねぇよ」
そのへんにあった週刊|漫画《まんが》をパラパラ読んで、まるで自分ちのようにくつろいでいる黒猫《くろねこ》に向かって、俺は憮然《ぶぜん》と返事をした。
さーて、どうしたもんかね……。
俺は、この状況をどうにかするために、頭を回転させる。うっちゃって遊びに行くという選択《せんたく》はなかった。何故《なぜ》なら沙織には、ここ数ヶ月でかなりの借りを作っているのだ。
恩人《おんじん》といってもいい。あいつの頼みなら――断れないよな。なんとかしてやらんと。
……こんにゃろめ。こんな見ていたよーなタイミングでメール寄越《よこ》しやがって……。
察《さっ》しのいい沙織のことだ。自分が急用《きゅうよう》で来られなくなったという段階で、この状況は予想できていたはずだろう。そこであいつは、ありがたいことに、俺を頼って、自分の役目を託《たく》してくれたわけだ。大袈裟《おおげさ》かもしれんが、俺は、そう思う。……やれやれ。
――仕方ねえな。アニメ鑑賞会《かんしょうかい》とやらの仕切り、頼まれてやるよ。
そうだな……えーと、まずは……黒猫と桐乃《きりの》、両方と話して、喧嘩しちまった理由と言い分を聞いてやって、なんとか宥《なだ》めて――一緒《いっしょ》にアニメを観《み》るところまで持っていく。でもってそこでまた喧嘩になるだろうから、それも宥めて。
二人がちゃんと楽しんで、より仲を深められるように……取りはからう、と。
沙織の代わりに、俺が、二人の緩衝材《かんしょうざい》になってやるのだ。
「……考えただけで胃《い》が痛くなってきたな」
アイツ、こんなこと、いつもやってんのかよ……。しかも| ω 《こーんな》ツラして、へらへら笑いながらさ……。ふー、いなくなって初めて、その人の価値《かち》が本当に分かるっていうけど……。
ありがたい話なんだよな、実際。俺《おれ》は改めて、妹と友達でいてくれる沙織《さおり》に感謝した。
「…………何が痛いですって?」
「なんでもねえよ」
さて、やるか。俺は気を取り直し、行動を開始した。まずは目の前にいるこいつからだな。
「……ところでおまえさ、その、今日《きょう》は……桐乃《きりの》となんで喧嘩《けんか》したんだ? やっぱアニメ、」
「違うわ」
黒猫《くろねこ》が無《む》感情に口を挟《はさ》んだ。しかし次の言葉に繋《つな》がらず「……」と、黙《だま》り込んでしまう。
辛抱《しんぼう》強く待っていると、やがて黒猫は、「はぁ」と含みありげなため息をついた。
「……私だってね。別に喧嘩したくてここに来たわけじゃないのよ。……沙織がいないのなら、いないなりに、考えて動くというものだわ。だから、アニメを観《み》に来ておいてなんだけど、つとめてアニメの話はしないようにしていたの。たぶん……向こうもね」
「……そっ、か」
「……文句《もんく》でもある?」
「あ、あるわけないだろ」
文句はないが、びっくりはした。
……でも、そうだよな、友達の家に、遊びに来てんだもんな。わざわざ喧嘩になるような話題を選んだりは、しないか。
「じゃあ、なんで喧嘩になったんだ?」
「ケータイ小説よ」
黒猫は忌々《いまいま》しげに吐《は》き捨てた。
……ケータイ小説って……なんだっけ? えーと……女の子の間で流行《はや》っている、ケータイで書いたり読んだりする、小説みたいなもののことだよな。ちょっと違うかもしれんが、だいたい合っていると思う。確か最近、本になったり、映画になったりもしてたよな。
「その、ケータイ小説がどうしたってんだよ?」
「『ふふん、あたしケータイ小説書いてみたのよ。確かアンタも漫画《まんが》とか小説とか、創《つく》ってたでしょ。ちょっとあたしの読んでみる? ま、傑作《けっさく》だと思うんだけどねぇ〜』」
「なるほど」
実にそっくりなモノマネだった。『ふふん』のカンに障《さわ》る感じとか、| 魂 入《たましいはい》ってる。
しッかし桐乃がケータイ小説をねぇ……。気味《きみ》悪いくらい似合《にあ》うな。イマドキの女子っぽい。
で、妙《みょう》に自信ありげだけど……たぶん初めて書いたんだろ?
「つまんなかったの?」
「殺したくなったわ」
そこまでなんだ!? いったいどんな内容だったんだ! 逆に気になる!
そりゃ、つまんない小説とか漫画《まんが》読んだら、ムカつくって心理は分かるけど……。
殺したくなるほどのものって、相当じゃねえの?
俺《おれ》の表清からそんな心理を見て取ったのか、黒猫《くろねこ》は無《む》表情で説明を始めた。
「まず主人公が作者ソックリで、一人称《いちにんしょう》が『あたし』」
「殺してえ!」
すでにこの時点で、どんなに高尚《こうしょう》な内容だろうと、俺の評価《ひょうか》は定まったね!
「そ、それだけじゃないわ……。二文字《ふたもじ》とか三文字しか書いてないうちに平気で改行《かいぎょう》するし、その場の気分で改ページしてるし、顔《かお》文字や記号|類《るい》が句読点《くとうてん》より多いし、そもそも句読点がほとんどないし、一人称と三人称が混在してて読みづらいし、視点《してん》切り替えとカットバック使いまくりだし、一人称|部分《ぶぶん》は本人ソックリの口語体《こうごたい》だし、内容の半分は自画自賛《じがじさん》で構成されているし、作者と登場人物がメタ会話を始めたりして……挙《あ》げ句《く》の果てに、」
淡々《たんたん》と喋《しゃべ》っていた黒猫は、そこで一拍タメて、
「明らかに私をモデルにしたであろうクロネコというゴスロリ女が、レイプされて死んだわ」
「ひでえ――!!」
悪意《あくい》たっぷりじゃねぇか! そんなもん友達に見せたら、そりゃ怒るし喧嘩《けんか》にもなるわ!
「……いや、ホントにゴメンな?」
黒猫はこくりと頷《うなず》いて、再び黙《だま》り込んでしまう。
このままでは間が持たない。俺は必死で話題を繋《つな》げた。
「……で、でもおまえ、本当に創作《そうさく》については詳しいんだな。漫画も描いてるって話だし……」
「……それほどでも……ないけれど。……私なんて、素人《しろうと》に毛が生《は》えたようなものよ」
ちら、と視線を寄越《よこ》す黒猫。よし、脈有《みゃくあ》りだ。がんばれ俺……!
「いや、たいしたもんだって。俺だったら妹が書いたケータイ小説読んだって、どこがどう悪いとか、説明できねえもん。作法《さほう》……っていうか、正当なやり方を知ってるからこそ、言える台詞《せりふ》だろ、いまの。さすがに目の付けどころが違うな!」
「……ふん。少し勘違《かんちが》いされてしまったようね」
黒猫は、完全に俺に向き直った。どうやら俺の振った話題に、食い付いてくれたらしい。
「漫画にしろ小説にしろ、創作物の作り方に『完全な正解』というのは有り得ないわ。擬音《ぎおん》がたくさんあろうが、改行がたくさんあろうが、絵文字や顔文字を使おうが、何をどういうふうに創ろうとも[#「何をどういうふうに創ろうとも」に傍点]、それらは決して間違《まちが》いと言い切っていいものじゃない――と、私は思う。ケータイ小説というのは、特に、新しく出てきたものだしね」
玄人《くろうと》ぶって、従来の作法どおりに創《つく》るのが正しいとは限らないわ、と続ける。
「先人《せんじん》たちが延々《えんえん》と研磨《けんま》してきたご大層《たいそう》な作法《マナー》だとか、最新の流行物《トレンド》だとか、人気《にんき》を獲得《かくとく》するためのあざとい戦略《ストラテジー》だとか、そういったものは確かにあるし、それらを取り入れることは、それはそれで『正解』の一つ。間違ってない。でも、だからといって、それ以外のやり方を全《ぜん》否定してしまうのは違うでしょう。作法《マナー》作法と上から目線《めせん》でのたまうのは、玄人面《くろうとづら》した口だけ莫迦《ばか》の言《い》い草《ぐさ》よ。具体的なことを書かずになんでもかんでも『gdgd』だの『センス・オブ・ワンダー云々《うんぬん》』だのとほざく糞《くそ》どもと同レベルの存在だわ。どうして[#「どうして」に傍点]、何のために創るのか[#「何のために創るのか」に傍点]、それは一人一人|違《ちが》っていて当然で、百人いれば一億|通《とお》り以上の創《テ》り|た《ー》い物《マ》があって――だから、絶対的に正しい作法なんてものはどこにもないというのにね。ふん、いかにも素人《アマチュア》な結論《けつろん》になってしまうけれど……仕事でやってるわけじゃなし、好きに作ればいいのよ、創作《こんなの》は」
こいつも桐乃《きりの》と同じで、自分のフィールドでは饒舌《じょうぜつ》になるヤツなのだった。
しッかしこの攻撃《こうげき》的な言動《げんどう》……。よっぽどイライラしてたんだろうな。
「さっき私が憎悪《ぞうお》とともに並べ立てた諸々《もろもろ》は、あくまで『私の好みではない』というだけの話。その点は勘違《かんちが》いして欲しくないわ」
「……そっか」
さっぱり分からん。
だが、黒猫《くろねこ》は俺《おれ》に色々《いろいろ》と愚痴《ぐち》ったおかげで、すっきりしたらしい。
さっきまでの落ち込んだ雰囲気《ふんいき》が、薄れている。まずはよし……と。で、お次は……
「まあ……それはそれとして。ジュースとか、菓子《かし》用意してくるよ……ちっと待ってな」
「……なんで私、女の子の家に遊びに来たのに、その兄と遊んでいるのかしら……」
「……俺にも分かんねえ」
なんで休日だってのに、妹の友達のご機嫌《きげん》取ってるんだろうな、俺。
俺はリビングを出るや、階段を上っていった。
菓子を用意するためではなく、妹と話をするためである。
「桐乃《きりの》……おーい。いるんだろ、開けろって」
リビングにいる黒猫に聞こえないよう、やや小声《こごえ》でノックする。
しばらくノックを続けていると、勢いよく扉《とびら》が開いた。まるで、俺の顔面を撃《う》ち抜《ぬ》かんばかりの攻撃的な開け方だったが、いい加減《かげん》もう見切《みき》った。バシ、と片手で受け止める。
すると桐乃は、『チッ外《はず》したか……』みたいな顔で舌打《したう》ちし、
「…………なに?」
「なにじゃねーよ。おまえ、友達ほっぽって何やってんの?」
「エロゲー。あたしのトゥルー妹たちのブログ読んでるとこ」
「……!!![#「!!!」、底本では3つ並び]」
ど、堂々と答えてんじゃねぇ! も〜いい加減、おにいちゃんは頭痛いっスわ!
「……なにそのブサイク面《づら》。文句《もんく》でもあんの?」
「あるよ!? 友達|家《いえ》に呼んでおいて、家主《やぬし》が一人でゲームやってるとか有り得ないだろ!」
「……は? じゃあ二人で一緒《いっしょ》にエロゲーやれっての? へー、さすが変態《へんたい》の発想は違うなぁ」
「こ、このアマ……」
ぎゃ――っ、むっかつく! だいたいテメエ……二人で一緒にエロゲーやんのが変態の発想だと? 言ってくれんじゃねえか……俺《おれ》、三ヶ月くらい前に、妹に一緒にエロゲーやれって命令された記憶《きおく》があるんですけどねえ!
いつもながら自分のことを棚《たな》に上げすぎだろこの変態が!
くっ……いかん、落ち着け――。これから人を仲直りさせようってのに、俺|自身《じしん》が妹と喧嘩《けんか》してどうする。ぎりぎりと歯を食い縛《しば》りながらも、怒りを胸の奥に押し込める。
「……桐乃《きりの》さん……お友達|来《き》てるんすから、相手してあげた方がいいと思うっすよ……?」
「うざっ」
桐乃は嫌《いや》そうに眼《め》を細めた。さらに問答《もんどう》無用《むよう》で扉《とびら》を閉めようとする。
こ、この……!
俺は身体《からだ》ごと扉に挟まることによって、それを阻止《そし》――メキッ!
「痛ってえ!」
思いっきり閉めやがって! 俺の行動|見《み》えたんだから、閉める勢い弱めるだろ普通!
いま逆に加速したよね!?
「うえっ、なんかキモい感触《かんしょく》したっ」
カエル踏《ふ》んじゃったみたいな感想だな! 兄を潰《つぶ》しておいて!
なんで毎回《まいかい》毎回、自ら妹と会話しようとすっと、こんなに苦労しなくちゃなんねーんだよ! クソッ! おかしいだろ……!
とにかく、身体を張った甲斐《かい》あって、妹の退路《たいろ》をふさぐことができた。非常に情《なさ》けない体勢じゃああるが、話をすることはできそうだ。まずは、黒猫《くろねこ》と喧嘩になった理由について、桐乃の言い分を聞いてみよう。
「……お、おまえなあ……せっかく友達が家に来てるんだから、仲良くしろよ。喧嘩すんなよ」
なんで俺は、こんなにも当たり前の台詞《せりふ》を、繰り返し妹に言って聞かせてんだろうな。
「……そ、その体勢のまま説得《せっとく》に入る普通……?」
扉に挟まっている兄に向かって、珍《めずら》しく感心《かんしん》したような声を出す桐乃。
だが感心するなら、俺を挟む圧力を弱めてはくれませんか……? 桐乃は俺の願いを聞き届けてはくれなかったが、返答だけはしてくれた。
「……別にあんなの、友達じゃないしぃ――喧嘩になったのだって、あっちが原因だしぃ〜」
「ウソつけ。おまえの書いたケータイ小説に、自分|似《に》のキャラが出てきて、レイプされて死んだって言ってたぞ黒猫は。明らかにおまえが悪いじゃねーかよ」
「はあ!? なに言ってんのアイツ! ぜんぜん違うし!」
「な、なにが違うってんだよ……」
桐乃《きりの》は俺《おれ》の質問には答えず、扉《とびら》から手を放し、部屋《へや》の奥へと入っていった。
ぐいぐい押し潰《つぶ》されている状況から解放された俺は、「?」と頭に疑問|符《ふ》を浮かべる。
部屋の中から、桐乃がくいくいっと俺を指で招いた。
「入って」
「お、おう……」
相変わらず、妹の部屋に入るときは腰が引け気味《ぎみ》になってしまう俺だった。
全体的に赤いカラーリングの、すっきりとした部屋。妙《みょう》に甘ったるいにおいがする。
ベッドやパソコンデスク、本棚《ほんだな》……等々《などなど》、それほど奇抜《きばつ》なものはない。友達を迎えるためなのか、部屋の中央には折《お》り畳《たた》み式テーブルが展開されていて、その上に、一台のケータイと、黒っぽい本が何冊か置かれていた。
桐乃はどすんとベッドに腰掛《こしか》け、黒い本を指差《ゆびさ》した。
「それ、ちょっと読んでみ」
「な、なんだよ……これ。これが……いまの話と、どう関係あるって……?」
妹に命じられたとおり、俺は、黒い本を手にとって、パラパラと捲《めく》ってみた。ちなみに表紙は、絵画|調《ちょう》で描《えが》かれたゴスロリ少女のイラストで、タイトルは洒落《しゃれ》た英字の筆記体である。
そして中身は……
「……漫画《まんが》、と……小……説……?」
「あとやたら分厚《ぶあつ》い設定|資料《しりょう》ね」
「……なんなんだこれ?」
「同人誌《どうじんし》。黒猫《くろねこ》が創《つく》ったマスケラの二次|創作《そうさく》もの」
桐乃は忌々《いまいま》しげに言い捨てて、への字口《じぐち》になった。
同人誌というのは、適当に説明すると自腹《じばら》で作る本のことで、イベントとかで売ったり買ったりするもんだ。で、二次創作ってのは、既存《きそん》のアニメや漫画などの設定やキャラクターを使っている創作|物《ぶつ》のこと。このへんは、オフ会に連れて行かれたときに、さんざん説明されたから、俺もちょっとは知っていた。
「で……この同人誌がどうしたってんだよ?」
「『……っふ……じゃあ、私がこの明らかに駄作《ださく》の香りがするケータイ小説を読んであげている間、あなたはこれを読んでいてもいいわよ。マスケラは全話《ぜんわ》視聴《しちょう》したんでしょう?』」
「なるほど」
実にソックリなモノマネだった。『……っふ』っていう見下《みくだ》した嗤《わら》いとか、| 魂 入《たましいはい》ってる。
しッかし、黒猫が創った同人誌かあ……あいつ、桐乃と趣味《しゅみ》合わないみたいだからなぁ……。
「つまんなかったの?」
「ブッ殺そうかと思った」
そこまでなんだ!? ってか、さっき黒猫と似《に》たようなやり取りしたぞ俺!
「ど、どんな話なんだ?」
「……チッ、いわゆる逆行《ぎゃっこう》もの≠諱Bさらに主人|公《こう》がかなり|U−1《ユーイチ》%ってる」
「なにその暗号《あんごう》?」
逆行もの≠チてのは、なんとなく字面《じづら》で意味が伝わってくるが、U−1≠チてのはまったく分からない。格闘《かくとう》大会的なものっすか?
俺《おれ》の疑問を汲《く》み取ってくれたのか、桐乃《きりの》は不機嫌《ふきげん》顔で説明してくれた。
「逆行もの≠熈U−1≠焉A二次|創作《そうさく》界隈《かいわい》で使われてる用語。逆行もの≠チてのは、字面どおり『主人|公《こう》が過去にタイムスリップする』話ね。エヴァンゲリオンでたとえると、最終回|後《ご》の世界から、碇《いかり》シンジが、一話の時間|軸《じく》まで『記憶《きおく》や経験を保持《ほじ》したまま』タイムスリップして、使徒《しと》との戦いをやり直していく――というような筋《すじ》の話を、逆行もの≠チていうの。特に『記憶や経験を保持したまま』ってのがキモで、だから作者や、主人公が、好き勝手《かって》に歴史を変えられるわけ。二次創作の作者が、本編《ほんぺん》の設定を下敷《したじ》きにした上で、本編とはまったく違ったストーリーを作っていけるってこと」
「ふーん」
エバ[#「バ」に傍点]ンゲリオンって言われても、観《み》てないんだよね、俺。
ただまあ、主人公がもの凄《すご》く優遇《ゆうぐう》された状況から物語がスタートする『本編とはまったく違う話』だってのは、分かった。
「で、U−1≠チてのは、主人公にごてごて設定を追加《ついか》して、すっごく万能《ばんのう》で、最強のキャラにしちゃうこと。魔王《まおう》の血と能力を受け継いでいるが普段《ふだん》は封印《ふういん》されているとか、微笑《ほほえ》んだだけで異性《いせい》を虜《とりこ》にしちゃうけど本人には自覚がないとか、本気《ほんき》出すと背から熾天使《してんし》の羽根が生《は》えるとか、Sランク相当の異能《いのう》者なんだけど申請《しんせい》してないからBランクとか――有名なエロゲーの二次創作で、そういうのが流行《はや》った時期があって、その作品の主人公の名前をもじって、U−1≠チて呼ぶようになったんだってさ。同じような意味でスパシン≠チてのもある」
「わ、分かりにくい……」
しかし詳しいなあおまえも! 中学生のくせに、先が思いやられるよ!
「で……つまり、黒猫《くろねこ》の描いた同人誌《どうじんし》が、その逆行もの≠ナU−1≠セと」
「そう。マスケラ第一期のラスボス|夜 魔 の 女 王《クイーン・オブ・ナイトメア》≠ェ、本編の主人公漆黒《しっこく》≠ノやられたあと、その記憶を保持したまま第一話の時間軸まで逆行≠オて、本編で死んじゃった女キャラの屍《しかばね》に取り愚《つ》いて、普通の少女として漆黒≠ノ近付く――ってのが導入《どうにゅう》」
「む……つまり……本編とは違って、ラスボスが主人公になってるわけだ」
「うん。あの黒いの、よく|夜 魔 の 女 王《クイーン・オブ・ナイトメア》≠フコスプレしてるし、明らかに自分が描いた作品の主人公に自己|投影《とうえい》してるでしょ。もうこの時点で痛くて痛くて、鳥肌《とりはだ》もん……おえっ」
おまえその台詞《せりふ》、本人に向かって言っただろ。そりゃ喧嘩《けんか》にもなるわ。
やっぱりおまえが悪いよ。
「……で、なんでそれで『ブッ殺そうかと思った』になるんだ? 絵だって……やったらあごが尖《とが》ってるのが気になるけど……結構上手《けっこううま》いと思うし……内容もいまの話を聞いた限りじゃ、わりと面白《おもしろ》そうなんだけど」
「ハァ……あんたさー、あらすじ聞いて、絵ェぱら見したくらいで、なに知ったような口きいちゃってるワケ? この同人誌《どうじんし》のやばいところは、そんな上っ面《つら》にはないんだって」
「……というと?」
「パッと見て分かんない? 全ページ通して、すっごい読みにくいのよこの本」
桐乃《きりの》は端的《たんてき》に呟《つぶや》いた。小説のページを指差《ゆびさ》して、
「見なさいよこの黒々としたページ。九割|以上《いじょう》文字で埋《う》まってんじゃん。もっと改行《かいぎょう》しろっての! しかもいちいち難解《なんかい》な漢字《かんじ》とか言い回し使うしさー、知りたくもない設定とかごたくばっかつらつら間に挟むしさー、読む人のこと全然《ぜんぜん》考えてないのよコイツ。特に戦闘《せんとう》シーン! 読み辛《づら》いったら! つかさ、例えば爆発《ばくはつ》したら、ドカーン! って書けばよくない? 擬音《ぎおん》ってんだっけ? 誰《だれ》が読んでも一発で分かるんだから。あと攻撃《こうげき》するときはちゃんとウオーとか掛け声書いて、ダメージ喰らったらギャーみたいに悲鳴を書いてさあ! その方が絶対《ぜったい》分かりやすいし、読みやすいし、みんな読むでしょ? あたしに言わせてもらえば、こいつの書く小説は自己《じこ》満足にすぎないんだよねー」
俺《おれ》は小説全然|読《よ》まないから、そんなこと言われても分からねーよ。
だがおまえの喋《しゃべ》り方はスゲーむかつく。
ていうか、それは、あくまで桐乃流『ケータイ小説の書き方』だろうが。ジャンルとか媒体《ばいたい》が変わったら、たぶん有効な作法《さほう》だって変わるだろうし、そもそも客《きゃく》商売でやってるわけじゃないんだから、自己|満足《まんぞく》優先《ゆうせん》でいいじゃねえかよ。
「しかもこの同人誌、設定|資料集《しりょうしゅう》が二百ページくらい別冊《べっさつ》で付いてくんのよ。コレを先に読んで、原作にも出てこないオリジナル専門《せんもん》用語を全部|理解《りかい》しておかないと、本編《ほんぺん》ストーリーが半分も分からないし、専門用語|自体《じたい》もことごとく厨臭《ちゅうくさ》いし――神魔絶滅衝って! 読めないっつーの! しかもコレにカタカナでオサレっぽいルビが付くからね! なんかヘンなドイツ語で! ……あと、何より気に食わないのは……」
桐乃は思い切り歯を食い縛《しば》り、一拍タメてから吐《は》き捨てた。
「明らかにあたしをモデルにしたであろうオリキャラが、魅惑《チャーム》≠フ魔術《まじゅつ》をかけられて、主人|公《こう》の性《せい》奴隷《どれい》にされているところ」
「それはおまえキレていいよ!?」
数秒|前《まえ》まで、喧嘩《けんか》したのは桐乃が悪いと思ってたけど、一気に擁護《ようご》する気が失せたわ!
人様《ひとさま》の妹に何してくれてんだあのゴスロリ! 喧嘩の原因、両方にあんじゃねーか!
つうかおまえら、お互《たが》いに似《に》たようなことしてんのな!
お互いに自分の作品に相手出して、ひどい目に遭《あ》わせたり。
お互《たが》いの作品を読み合って、上から目線《めせん》でけなし合ったり。
でもって喧嘩《けんか》になって、スネちまって――いまに至ると。
「………………はぁ」
しかし桐乃《きりの》、おまえさあ……
「……そのメチャクチャ分厚《ぶあつ》い設定|資料《しりょう》……まさか全部|読《よ》んだのか?」
「は? 当然でしょ[#「当然でしょ」に傍点]、なに言ってんの[#「なに言ってんの」に傍点]? じゃなきゃ文句言えないじゃん[#「じゃなきゃ文句言えないじゃん」に傍点]」
とまぁ、こういうワケだ。どうだい? 眉《まゆ》をひそめたくもなるだろう?
どんだけ仲良しなんだよ。
ここに沙織《さおり》がいたなら、きっと腹を抱えて爆笑《ばくしょう》していただろうぜ。
ったく、メンドくせえやつらだなあ……。
ともあれこれでこいつらの言い分は分かった。第二段階クリアってとこだな。
さーて、お次はこの状況から、アニメ鑑賞会《かんしょうかい》まで持っていきゃいいんだろ?
どこまでできるか分からんが、やるだけやってみるさ。
あと、これだけは言っておく。
女子《じょし》中学生がいきなり性《せい》奴隷《どれい》とか口走《くちばし》るんじゃねえ! 次は絶対|止《と》めるからな!
俺《おれ》は菓子《かし》とジュースの載った盆《ぼん》を持って、リビングへと入る。
すると黒猫《くろねこ》は、ソファに腰掛《こしか》けて、ゆったりとくつろいでいた。いつも桐乃が座っている場所なので、なんだか妙《みょう》な気分だった。まるで妹に話しかけるような気分で、俺は言った。
「……待たせたな」
「……待ちくたびれたわ。ジュースとお菓子用意するのに、どれだけ時間|掛《か》かってるの?」
桐乃のティーン誌に視線《しせん》を落としたまま、ボソッと文句《もんく》を言う黒猫。
……なんでおまえ、人《ひと》ん家《ち》でそんなに態度でかいの? やっぱ似《に》てるよ誰《だれ》かさんと。
内心《ないしん》そんなことを考えつつ、テーブルの上に菓子やジュースを並べていく。
……さて、始めるか。
俺はテーブルの上に、ポンと、DVDケースを置いた。
「これを用意すんのに手間取《てまど》ってな……」
「これって……」
DVDケースを見て、黒猫の瞳《ひとみ》がきゅっと細くなった。
俺が持ってきたDVDが『星くず☆うぃっちメルル』の第一巻だったからだ。
「なんのつもり?」
「……おまえと一緒《いっしょ》に観《み》ようと思って、借りてきたんだ。――大《だい》画面で観てみようぜ。真のメルルとやらをさ」
俺は半《なか》ば諦《あきら》めたような口調《くちょう》で言った。
すると黒猫《くろねこ》は、まったく表情を変えず、視線だけで俺《おれ》を流し見る。
「…………あなた、このアニメを観《み》たことは?」
「ないよ。ってか、アニメ自体まったく観ない。でもまあ、桐乃《きりの》が面白《おもしろ》い面白いって言ってるのは聞いてたし、前々から興味《きょうみ》はあってな……だから、色々《いろいろ》と解説してくれると助かる」
しばしの沈黙《ちんもく》……。やがて黒猫は、そっとメルルのDVDケースを手に取り、意味深《いみしん》にためつすがめつしてから、俺に向かってケースを差し出した。
「はい」
「……おう」
俺はDVDケースを受け取るや、テレビの前まで歩いていって、セットした。
DVDを収めたディスクトレイが引っ込んでいき――テレビ画面がパッと明るくなる。
メニュー画面が表示《ひょうじ》されたのだ。特典《とくてん》映像《えいぞう》だとか、声優《せいゆう》インタビューといったコンテンツを無視《むし》し、『最初から』を選択して、コントローラーのボタンを押す。
すると、妙《みょう》に扇情《せんじょう》的な衣服を纏《まと》ったピンク髪《がみ》の女の子が、画面|端《はし》からトコトコ歩いてきた。
画面中央で、くるりんっ♪ と回る。そして杖《つえ》(槍《やり》?)を掲《かか》げ、甲高《かんだか》いロリボイスで叫ぶ。
[#ここから「まるもじPOP体」太字]
『星くず☆うぃっちメルルっ♪ はっじまっるよぉ――っ♪』
[#ここまで「まるもじPOP体」太字]
い、いかん、思いのほか恥《は》ずかしいぞコレ……! 俺は、顔が熱くなってくるのを感じた。
だが言い出しっぺである俺が『やっぱやめね?』と言うわけにはいかない。
ぎゅっと歯を食い縛《しば》って、防御《ぼうぎょ》の態勢を取る。
しかし次の瞬間《しゅんかん》、そんな防御など紙のように打ち砕《くだ》く展開が、俺を待ち受けていた。
画面が切り替わり、草原に立ち尽くす少女が映し出される。メルルとよく似《に》ているが、ごく普通の服装をしている。赤いランドセルを背負っているので、たぶん小学生だろう。
女の子は目をつむり、祈るように手を組んでいる。カメラアングルが、女の子を中心としてゆっくり回り始める。女の子の手元《てもと》から、パァァ――ッとピンク色の光と星くずが溢《あふ》れ出し、ここでミュージックがスタート。
光に包《くる》まれ、くるくる回る女の子。その衣服が、パシン、パシンと、一つずつ順番に消えていく。まずは上着、スカート、キャミソール、ショーツ――
「やばくねこれ!? こんなもんテレビで流していいの!?」
「これはDVD版だから問題ないけれど……確か当時、ほとんどの地方では修正が入って、大量のリボンと☆がヒロインの裸身《らしん》を隠《かく》していたそうよ。ニコニコ動画《どうが》に、テレビ愛知版《あいちばん》の無《む》修正|変身《へんしん》シーンがいっぱいアップされて祭りになったのを記憶《きおく》しているわ」
「…………」
額《ひたい》に噴《ふ》き出してきた冷や汗《あせ》をぬぐう。
なんで小学生のストリップを、妹の友達と一緒《いっしょ》に眺《なが》めなくちゃならんのだ……。
俺《おれ》は助けを求めるように、リビングの扉《とびら》を見やる。
が――その扉が開く様子《ようす》はまったくなかった。
……くそ、まだか……。あの野郎《やろう》、さっさと来いっての……。
俺が眉《まゆ》をひそめている間にも、ミュージックのテンションはどんどん上がっていき――
そして『星くず☆うぃっちメルル』のタイトルがでかでかと表示《ひょうじ》された。
その瞬間《しゅんかん》、黒猫《くろねこ》がボソッと呟《つぶや》く。
「……私がこのアニメを好きになれない理由その一……」
[#ここから「まるもじPOP体」太字]
めーるめるめるめるめるめるめ〜 めーるめるめるめるめるめるめ〜
宇宙にきらめ〜く 流れ星〜☆ まじーかる じぇーっとで、てーきをー撃《う》つ〜
魔法《まほう》のくにから地球のために 落ちて 流れーて こーんにちは〜
星くずうぃっちメルル〜♪
[#ここまで「まるもじPOP体」太字]
「主題歌《しゅだいか》が電波ソング」
「ぐ……う……っ……」
俺は自分の顔が青ざめるのを自覚《じかく》していた。確かにこれは……キツイ……。
オタクとか、一般人《いっぱんじん》とか、たぶん関係ない。だって黒猫も辛《つら》そうだし。
「ふぅ〜……さて、ゲームでもやるか? 桐乃《きりの》の部屋にあるだろうから――」
俺がコントローラーに手をのばすと、その手首をつかまれた。
「……真のメルルを体験するのでしょう? この程度の差恥《しゅうち》には耐えないと……」
「う、うう……」
誰《だれ》だよメルル観《み》ようなんて言ったの!
俺は主人|公《こう》・赤星《あかぼし》める(メルル)を演じる声優『星野《ほしの》くらら』さんが歌う主題歌『めてお☆いんぱくと』を聴《き》きながら、猛烈《もうれつ》な蓋恥と後悔《こうかい》に耐えていた。
[#ここから「まるもじPOP体」太字]
しゅ〜てぃんぐすた〜♪ しゅ〜てぃんぐすた〜♪ あなたの胸に飛び込んで行くの
いん石よりも(キラッ☆)きょだいなぱわーで(キラッ☆)
あなたのハートをねらい撃《う》つの だ・か・ら♪ わたしの全力♪ 全開《ぜんかい》魔法《まほう》♪
逃げずに ちゃんと受け止めてよね〜※[#中白ハートマーク]
[#ここまで「まるもじPOP体」太字]
「オイいまこのガキ、サビの部分を歌いながら、敵を極太《ごくぶと》レーザーで消し飛ばしたぞ」
「……要約《ようやく》すると『いまから全力《ぜんりょく》全開魔法を零《ゼロ》距離《きょり》でお見舞《みま》いしてやるから、逃げるんじゃねえぞ』という歌詞《かし》になるわね。ぶっそうなアニメだわ」
黒猫《くろねこ》の解説によると『メテオインパクト』というのは、メルルの必殺技《ひっさつわざ》らしい。
空中で敵に向かってきりもみ突撃《とつげき》し、杖《つえ》の先端《せんたん》で心臓《しんぞう》を串刺《くしざ》しに。
そのまま高速で低空《ていくう》飛行、敵を串刺しにしたまま、ガリガリ地面に擦《こす》りつけてやる。
しかる後《のち》に再び天高《てんたか》く上昇、杖を敵ごとジャイアントスイングの要領《ようりょう》でぐるぐる振り回し、その遠心力《えんしんりょく》を利用して大地へと叩《たた》き付ける。止《とど》めに、『いっけえー! めておいんぱくとぉー!』の掛け声とともに、真下《ました》へ向かって極太《ごくぶと》レーザーを発射《はっしゃ》。
「その一連《いちれん》の連続|攻撃《こうげき》を、無邪気《むじゃき》に笑いながらやるのよこの主人|公《こう》。……お子様アニメの皮を被《かぶ》ってそういうおぞましいことをやるのは、どうかと思うわ」
……まあ、下手《へた》な少年|漫画《まんが》よりえぐい必殺技ではあるな。オープニングで戦ってたライバルキャラの女の子、たぶん粉々《こなごな》になっちゃったし。
「だいたい最近、ロリとエロばかりを前面に押し出して売るような作品が、アニメに限らず多すぎるのよ。需要《じゅよう》が多いところを狙《ねら》っていくのは妥当《だとう》なやり方だとは思うけれど、コレみたいに露骨《ろこつ》すぎるとさすがに引くわ。なにが『前代未聞《ぜんだいみもん》のDVD売上を達成《たっせい》』よ。私の感性で言わせてもらえれば、こんな低俗《ていぞく》な駄作《ださく》ばかりが売れていく状況を嘆《なげ》かざるを得ないわね。大衆《たいしゅう》はもっと審美眼《しんびがん》を養《やしな》うべきだわ」
俺《おれ》が何も言えず黙《だま》っていると、
「ほんっと分かってないねアンタ!」
バンッと扉《とびら》を蹴破《けやぶ》る勢いで、誰《だれ》かが入ってきた。
「き、桐乃《きりの》……」
俺は驚《おどろ》いたふりをしながら、内心《ないしん》ではホッとしていた。
よ、よしなんとか上手《うま》く行った……。
実はさっき、桐乃からメルルを借りたときに、こう言ってやったんだよ。『沙織《さおり》のお土産《みやげ》がリビングにあるから、それだけでも受け取りに来いよ』ってな。
頑固《がんこ》きわまりねーあいつのことだ。まともに説得《せっとく》したって絶対|素直《すなお》に降りてきやしねえ。
それは分かってた。だけど、俺と黒猫が、あいつの愛するメルルを観《み》て、メルルの話をしていれば、我漫《がまん》できなくなって乱入《らんにゅう》してくるんじゃねぇかと思ったのさ。
――案《あん》の定《じょう》だぜ。見ろよこの剣幕《けんまく》。
「メルルのテーマは『友情』なの! マスケラのDVDが売れなかったからって、おぞましいとかテキトーなこと言わないで! ハッ、なーにが審美眼? えっらそ〜に、近視眼《きんしがん》の間違《まちが》いじゃないの? さっきのケータイ小説じゃないけどさ、自分に面白《おもしろ》さが理解できないからってなんでもかんでも駄作|認定《にんてい》しちゃうのがアンタの言う審美眼(笑)ってワケ? バーカ、メルルに込められた脚本家《きゃくほんか》のメッセージすら読み取れないクセに通《つう》ぶんな。つかクソ猫アンタPSPの画面でどこまで観たの? せめて一期のラストまでは観たんでしょうね!?」
「あなたいまさら何しに来たの? お呼びじゃないのよ」
「うるさい! 飲み物|取《と》りに来たら聞き捨てならないこと言ってんのが聞こえただけ! ――で!? どうなの!?」
のしのし早足で迫ってくる桐乃《きりの》。そんな闖入者《ちんにゅうしゃ》を、黒猫《くろねこ》は冷たい瞳《ひとみ》で流し見た。
「六話の途中《とちゅう》まで」
「ちょ、なんでそこで観《み》んのやめてんの!? かなりいいとこじゃん!」
「Aパートで、魔星物《イーブルスター》に寄生《きせい》されてダークウィッチ化した親友を、Bパートでメルルが容赦《ようしゃ》なく蒸発《じょうはつ》させたでしょう。メテオインパクトで。一応義理《いちおうぎり》だから一期の最後までは観てあげようと思っていたのだけれど、さすがにアレはないわ。アレのどこか『友情』を描いたストーリー? もしよかったらご教授《きょうじゅ》していただけないかしら」
「はァ? あんたいったい何を観てたの? あの場面ではああするしかなかったんじゃん。そうしないと地球が滅《ほろ》んじゃうし、そしたらやっぱ、あるちゃん死んじゃうし」
「だからって、笑いながら『いっけぇー! めておいんぱくとぉー!」は有り得ないでしょう親友に対して。生粋《きっすい》のサイコキラーよあの女は」
「大丈夫《だいじょうぶ》! あのあとちゃんと蘇生《そせい》させたから! メルルが戦闘《せんとう》前に張る「まじかるフィールド』の中では、死んだ人や壊《こわ》れたものは、すべてあとで直すことができるって設定があんの!」
「なにそのぱくりくさい設定。……百歩譲《ひゃっぽゆず》ってその魔法《まほう》があったから、あの場面ではアレが一番いい判断だったという点は認めるとしても、躊躇《ちゅうちょ》したり泣いたりする描写《びょうしゃ》がいっさいないというのはどうなの? 魔法を使った副《ふく》作用で、殺人|衝動《しょうどう》にでも突き動かされていたの?」
「うるっさいなー細かいところをぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ……いいじゃん結果的に助けられたんだから! あるちゃんだって最後『ありがとうメルル! 助けてくれたのね!』って言ってたし!」
「だから、しょせんお子様アニメだと言っているの。描写がまったく足りてなくて、展開に納得《なっとく》ができないのよ」
「あっそ頭|固《かた》いねーアンタ。……でも、これだけは聞かせて。新《しん》必殺技《ひっさつわざ》をぶっ放すトコは、神作画《かみさくが》でぐりんぐりん動いて超《ちょう》カッコよかったっしょ? ねぇ?」
「ぶっ放したのは親友|相手《あいて》にだけどね」
「だーかーらー!」
このアニオタども……ほんっっと、うるせぇなあ――!?
いい加減《かげん》うんざりしてきた俺《おれ》の目前で、桐乃と黒猫は、いつものように喧々囂々《けんけんごうごう》の口論《こうろん》を繰り広げている。
ふと、黒猫がコントローラーを手に取り、テレビで流れていた映像《えいぞう》を一時|停止《ていし》させた。
「ふん……小さい画面じゃ神作画の素晴《すば》らしさは伝わらないのでしょう? そんなに言うのなら、実際に観てみようじゃない。さっさと持ってきなさいよ六話が収録《しゅうろく》されているDVDを」
喧嘩腰《けんかごし》に言われたもんだから、売り言葉に買い言葉というやつである。
「あ、言った? 言ったね? いいよ――すぐ持ってきたげる」
桐乃《きりの》は黒猫《くろねこ》の顔にビシリと指を突き付け、
「――はッ、ほえ面《づら》かかせてやるかんね!」
そんな捨て台詞《ぜりふ》を残して階段を駆《か》け上っていった。
子供かよ。
だが、やれやれ……気を抜くのは早いが、この分なら、なんとかアニメ鑑賞会《かんしょうかい》には持ち込めそうだな。俺《おれ》は妹が去っていった扉《とびら》に向かって、フ〜とため息を吐《つ》くのであった。
結局――そのあとメルルの六話を観《み》たところで、タイムアップ。鑑賞会が始まってから三十分しか経《た》っていないが、仕方《しかた》ない。俺がもう少し早く帰って来てりゃあ良かったんだけど。
五時になった途端《とたん》、黒猫が『もう帰るわ』と言い出したのだ。なんでそんな小学生みたいな時間に帰るのかといえば、理由は聞くまでもなくて。
木曜の五時半は、メルルとマスケラが放映《ほうえい》される時間だからだ。
ちなみに、メルルを観ている間、ず〜〜〜〜〜っと、例の調子で、桐乃と黒猫は口論《こうろん》をしていたよ。俺は俺で、そんな仲悪いんだか良いんだかよく分からん二人組を、宥《なだ》めたり、すかしたり、褒《ほ》めたり、ひっぱたかれたり、蹴《け》っ飛ばされたり、罵倒《ばとう》されたりして――どうにかこうにか場を維持《いじ》し続けた。桐乃と黒猫の間に立って、緩衝材《かんしょうざい》の役割を果たしたんだ。
……いままでのやり取りから察してくれるとは思うが、これがまた、大変でなあ……。
いつもニコニコしながらこれをやっている沙織《さおり》のことを、マジで尊敬《そんけい》する。だってさあ、桐乃が二人いるようなもんなんだぜ? ありえねえって。正直、三十分で終わって助かったよ。
「……じゃあ、これは借りていくわね」
高坂家《こうさかけ》の玄関《げんかん》で、帰る直前の黒猫が、紙袋《かみぶくろ》を掲《かか》げて言った。紙袋の中身は、時間がなくて観切れなかった『星くず☆うぃっちメルル』のDVDだ。
桐乃は、腕を組んで、勝ち誇ったように返事をする。
「ふふん、ようやくアンタもメルルの面白《おもしろ》さが分かったみたいね」
「莫迦《ばか》言わないで頂戴《ちょうだい》。確かに戦闘《せんとう》シーンの作画《さくが》は一部|神《かみ》がかっているし、TV版であった作画|崩《くず》れがほぼすべてDVD版で修正されている点は、評価《ひょうか》せざるを得ない。――だけどシナリオが糞《くそ》な件について意見を曲げるつもりはないわ。……フッ、せいぜい、義理《ぎり》で最後まで観てやってもいいくらいの価値《かち》ね」
「アンタも意地《いじ》っぱりだよねー、素直に面白かったから続き観たいって言えばいいのに」
人のこと言えんのかよおまえ……。俺はジト目で見つめてしまう。
気を取り直し、黒猫に向かって言った。
「……今日《きょう》は桐乃と遊んでくれて、ありがとな」
肩の力を抜いて、口《くち》の端《は》を持ち上げる。
「またいつでも来い。次はアニメ鑑賞会《かんしょうかい》、ちゃんとやろうぜ」
黒猫《くろねこ》は、じっと俺《おれ》の眼《め》を覗《のぞ》き込んだ。
「……とんだ物好《ものず》きもいたものだわ。いい機会だから聞いておくけれど、あなた、どうしてあんなに邪険《じゃけん》にされてまで、妹の世話《せわ》を焼いているの?」
なんでだろうなぁ……俺にも分からん、最初は成り行きで……いや、いまだって成り行きなんだけど……それだけじゃない、んだろうな。断じて認めたくはねーけど。
俺にはやはり、こう言うことしかできない。
「……悪い、俺にも、よく分かんねーよ」
「…………シスコン?」
「それだけは違う!」
なんつーことを言いやがる! なわけねーだろっての!
全力で否定すると、アキレス腱《けん》をつま先で蹴《け》っ飛ばされた。
「いッ――なにすんだテメエ!?」
怒鳴《どな》りながら振り向くと、桐乃《きりの》が侮蔑《ぶべつ》の眼差《まなざ》しを俺に向けていた。
「……キモ」
……なんだってんだよ……! シスコンって台詞《せりふ》が気に入らなかったのは分かるけど、言ったのは俺じゃないし、ちゃんと否定しただろうが。いきなり蹴っぽってんじゃねえよ……。
やられるがままの俺を見て、黒猫が一言。
「……マゾ?」
「それも違う!」
と、思う!
「……じゃあなに?」
首を傾《かし》げる黒猫。なんでかしらんが、この話題にずいぶんとご執心《しゅうしん》らしい。ちゃんと納得《なっとく》のいく答えを聞くまでは、追及《ついきゅう》をやめてくれそうになかった。
仕方《しかた》ねーなあ……。
俺は頭をぼりぼり掻《か》きむしって、この何とも言えないものを形にしようと試みる。
さんざん言葉をさまよわせた末……出てきたのは、実に陳腐《ちんぷ》な台詞だった。
「…………兄妹だからじゃ、ねぇの?」
俺はふいっと視線を外し、自分のこめかみを叩《たた》いた。
顔の熱さをごまかすように、舌打《したう》ちをする。ダメだこりゃ。自分で言っておいてなんだけど、理由になってねーよ。黒猫だって納得しちゃくれないだろう……そう思ったのだが。
「…………そう。分かった」
黒猫は、こくりと小さく頷《うなず》いた。
こちらの胸にじんわりと染《し》みいるような、柔らかな口調《くちょう》。
「……いいお兄《にい》さんね。とても羨《うらや》ましいわ」
桐乃《きりの》に向かって囁《ささや》く。いつもなら『なにそれ、嫌味《いやみ》?』とでも返すところなのに、桐乃は腕《うで》を組んだままムスっとしているばかりだ。無言《むごん》のやりとりが、二人の間で交わされているようでもあった。俺はよく分からないまま、静観《せいかん》しているしかない。
しばし無言の時間がすぎ……
やがて桐乃が、「フンっ」と尊大《そんだい》に鼻を鳴らした。黒猫《くろねこ》をすがめ見て、
「へー……なに? あんた、こういうのが好みなの? 趣味《しゅみ》悪っ」
「……………………」
言われた黒猫は、静止《せいし》したまま、両目だけを真《ま》ん丸《まる》に見開いた。
「悪いこと言わないから、やめといた方がいいよ。だってこいつ、ブス専《せん》だし」
「てめえいま何つった!? 誰《だれ》のことだそれは! 答えようによっちゃ妹でもブッ飛ばすぞ!」
「はいはいまたムキになると。ごっめんねぇ〜」
バカにしたように肩をすくめる桐乃。こっの……! 幾ら何でもこの態度はないだろ!
俺《おれ》は文句《もんく》を言ってやろうとしたのだが、その前に桐乃が黒猫に向かってあごをしゃくった。
「こんなんでいいなら、幾らでもあげる。つか、キモいから持って帰ってくんない」
「こっ……の……」
俺が拳《こぶし》を怒りで震《ふる》わせている横で、黒猫は無《む》表情に俺たちを眺《なが》めている。
「……ブス専……」
ぼそっと呟《つぶや》き、
「…………ふぅん」
冷めた得心《とくしん》を漏《も》らす。それから黒猫は、桐乃をキツい眼差《まなざ》しで見据《みす》えた。
「――ハ、くだらない勘違《かんちが》いをしないで頂戴《ちょうだい》。……私だって、こんな男、まるで好みじゃないわ。ええまったく、悪い冗談《じょうだん》にもほどがあるというものよ。この私がネコ耳も付いていないような男に惹《ひ》かれるわけがないでしょう?――バカにしないでくれないかしら? こんな……男……ぜんぜん美形《びけい》じゃないし、すごく地味《じみ》だし、出世《しゅつせ》が望めそうにない顔つきをしているし……私の理想からは一億|光年《こうねん》かけ離れているの。……はん、こっちから願い下げよ」
ひでえ……そこまで言わんでも……。
黒猫は、ひとくさり俺への罵署雑言《ばりぞうごん》を撒《ま》き散らすや、勢いよく踵《きびす》を返した。
そのまま早足で去っていく。俺はその背に向かって、ため息をついた。
「…………はぁ」
真白な肌《はだ》、日本|人形《にんぎょう》のような黒い髪《かみ》。カラコン入れた赤い瞳《ひとみ》に、艶《つや》っぽい泣きぼくろ。
ひらひらフリルのゴシックロリータ。
趣味《しゅみ》はコスプレアニメゲームに同人誌《どうじんし》作り。無《む》感情|無《ぶ》愛想《あいそ》の上、口を開けば毒舌《どくぜつ》ばかり。
とんでもなく付き合いにくい、めんどくさい女だよ。
だけどな。
「――また来るわ」
たまに可愛《かわい》いところもある。
「はいよ」
聞こえるか聞こえないかの微妙《びみょう》な声で応《こた》え、俺《おれ》は玄関《げんかん》へと振り返る。
そこでは、妹が、依然《いぜん》として腕を組んでおり――
んべっと舌《した》をのばしていた。
「ハロウィン?」
十月の半《なか》ば、とある金曜日の放課|後《ご》。
いつものように麻奈実《まなみ》と下校《げこう》していた俺《おれ》は、学校帰りに田村屋《たむらや》に寄っていくことになった。
田村屋というのは町内にある和菓子屋《わがしや》で、麻奈実の実家《じっか》でもある。
いまはそこに向かって、二人並んで歩いている最中《さいちゅう》というわけだ。
「うん、はろうぃん。明日《あした》からうちで『ふぇあ』を始めるんだ」
麻奈実は例のごとく、微妙《びみょう》におかしな発音で言った。
こいつは精神的にお婆《ばあ》ちゃんなので、横《よこ》文字が苦手《にがて》なのだ。
「へえ……」
ハロウィンねぇ……。
つまり駅前のデパートみたいに、田村家でもハロウィンのフェアをやるって話らしい。
「和菓子屋なのに、ハロウィン? ……どんなんだよ」
「あ、ばかにして〜。ちゃんとはろうぃん用のお菓子も作ったんだから。実は、今日《きょう》きょうちゃんを呼んだのはね、その試食《ししょく》をしてもらおうと思って」
「ふーん」
「へへ……ちょ〜っと凄《すご》いから、期待しててね」
もう何度目かになるが、一応《いちおう》紹介《しょうかい》しておこう。このほわほわトボけた雰囲気《ふんいき》の女は、田村麻奈実といって、俺の幼馴染《おさななじ》みだ。眼鏡《めがね》をかけた垢抜《あかぬ》けない風貌《ふうぼう》、高くも低くもない背丈《せたけ》、学力は上《じょう》の下《げ》といったところ。
やや天然《てんねん》っぽいところを除けば、概《おおむ》ね普通といっていい。見た目も性格も、ちょうど俺の妹とは正《せい》反対なやつで、そのせいか昔からウマがあった。疎遠《そえん》になることもなく、恋人《こいびと》関係に発展するでもなく、ガキのころから変わらない腐《くさ》れ縁《えん》が、高校生になったいまでも続いている。
地味《じみ》で凡庸《ぼんよう》な俺の人生に、特筆《とくひつ》すべきところがあるとすれば、この幼馴染みとの得難《えがた》い関係こそがそれだろう。
ふん、まあ……スゲエ妹がいるってのも、特筆すべきところっちゃ、そうかもしれんけど。
雑談《ざつだん》しながら歩いていると、ほどなく田村屋が見えてきた。
田村屋は、古式蒼然《こしきそうぜん》とした和風の建物だ。日光《にっこう》江戸村《えどむら》に並んでいても、それほど違和感《いわかん》はないと思う。
「なるほど、ハロウィンだな」
俺はいったん足を止め、いつもとは違う店の様子《ようす》を眺《なが》めた。店頭《てんとう》にジャック・オ・ランタン(かぼちゃのオバケ)やゴーストの飾《かざ》りがたくさんつり下げられている。
黒とオレンジのコントラスト。和洋《わよう》折衷《せっちゅう》、といったところだろうか。
立派《りっぱ》な木彫《きぼ》りの看板《かんばん》には、達筆《たっぴつ》で『たむらや』と掘られている。この看板だけなら老舗《しにせ》と遜色《そんしょく》ないのだが、そばに『田村屋ハロウィンフェア、明日から開催《かいさい》!』というデパートみたいな垂《た》れ幕《まく》が下がっていると、妙《みょう》にミスマッチでシュールだった。
少々|心配《しんぱい》になってきたので、率直《そっちょく》に聞いてみる。
「……客くるの、これで?」
「く、くるよぉ〜〜、きっとっ。開催《かいさい》初日にはいべんともやるしっ」
「イベントって?」
「近所の小学生を呼んで、お菓子《かし》作りの実演《じつえん》をしたり、飴《あめ》を配ったり、店員さんがお化《ば》けの仮装《かそう》をしたりするんだよ」
仮装ねえ……。
先日《せんじつ》知ったばかりのコスプレという単語《たんご》が浮かんできたが、かぶりを振って打ち消す。
「店員っつったって……おまえん家《ち》のおばさんとおじさんだろ?」
素朴《そぼく》で微笑《ほほえ》ましい光景が想像《そうぞう》できるが、いくら何でも地味《じみ》すぎる絵面《えづら》だろ。集めるのも小学生だって話だし、販促《はんそく》としてはいかがなもんだろうな。
「ううん、明日《あした》は家族みんなでお店の手伝いをするの。だからわたしも、お化けの仮装をするんだ。ま、魔女《まじょ》の……」
「魔女ぉ!?」
俺《おれ》はついつい、ぷっと噴《ふ》き出してしまった。
だってこいつが魔女って……全然イメージ違うだろ。地味で眼鏡《めがね》な麻奈実《まなみ》の魔女ルックなんて……もの凄《すご》く魔法《まほう》を失敗しそうな情《なさ》けないイメージしかわかないぜ。
そういえば『星くず☆うぃっちメルル』にも似たような、地味で眼鏡な魔法少女とやらが登場するのだが(髪《かみ》の毛はピンク)、妹いわく『かわいそうに、いつもこの娘《こ》のキャラグッズだけ売れ残ってて、他のレギュラーメンバーと抱き合わせにされてるのよ……うう』とのことらしい。麻奈実もまさしくそんなイメージである。
くつくつと笑《え》みを漏《も》らしていると、麻奈実が「もうっ」と恥《は》じらいながら怒り始めた。
「ひどーい……そんなに笑わないでよ〜……そ、それに、なんか、変な想像してない〜?」
「してねーって」
カバンでぽかぽか叩《たた》かれながら、勝手口《かってぐち》へと回り込む。中に入って、いつものようにお茶の間に向かったのだが、襖《ふすま》を開いた瞬間《しゅんかん》、空気が凍り付いた。
「うお……っ!?」「ふぇぇっ……!?」
俺と麻奈実は、お茶の間の入り口で、一瞬《いっしゅん》立ちすくんでしまう。
畳《たたみ》の上に、麻奈実の爺《じい》ちゃんがうつぶせに倒れていたからだ。
「おじーちゃんっ!」
麻奈実の叫びで、俺も正気に立ち返った。あわてて駆《か》け寄り、
くそっ! こういうときって、どうすりゃいいんだっけ……!
とにかく声をかけてみる。
「爺《じい》ちゃん、大丈夫《だいじょうぶ》か!? おいっ!」
返事がない。しかも、ふれた肌《はだ》がひどく冷たかった。
ぞくっと背筋《せすじ》に悪寒《おかん》が走る。一瞬《いっしゅん》だけ躊躇《ちゅうちょ》して、うろ覚えのやり方で脈をとってみた。
……よく分からない。少なくとも自分の脈をとったときのような、どくどくした感触《かんしょく》は……ない。爺ちゃんの躯《からだ》は完全に脱力《だつりょく》していて、骸骨《がいこつ》みたいにがりがりなのに、重く感じた。
「ま、麻奈実《まなみ》、救急車《きゅうきゅうしゃ》! 救急車を呼べ!」
「う、うん! わ、分かった……!」
転びそうになりながらも駆《か》けだしていく麻奈実。
まさか遊びにきた先でこんなことになるなんて――。日常のもろさを実感しながら、俺《おれ》は爺ちゃんの躯を抱き起こす。瞬間《しゅんかん》、自分の口から「っ」という悲鳴の出来損《できそこ》ないが漏《も》れた。
あらわになった爺ちゃんの顔が、土気色《つちけいろ》に変色し、白目《しろめ》を剥《む》いていたからだ。
「……爺ちゃん……」
恐ろしさよりも哀《かな》しさが勝って、俺の瞳《ひとみ》に涙が浮かんだ。背後に気配《けはい》を感じ、振り返ると、麻奈実の婆《ばあ》ちゃんが立っていた。
「あら、きょうちゃん〜。いらっしゃい」
麻奈実によく似《に》た柔らかい笑顔《えがお》だ。
「婆ちゃん……! 爺ちゃんが……!」
半泣《はんな》きで訴《うった》えると、婆ちゃんは爺ちゃんの死体をのぞき込むようにして、
「あらまあ」と言った。
あ、あらまあ? な、なんすかその軽い反応は! そんな場合じゃないでしょ!?
「死んだふりですねえ」
「ええぇぇぇぇぇえ!?」
ババッ! バッバッ!
俺は目を見張《みは》って、婆ちゃんと爺ちゃんの死体の間で、視線を高速で往復《おうふく》させる。
死んだふりって……いやでも、これ……完全に死んでるだろ。
「本当に? こ、こんなに身体《からだ》冷たいのにっすか?」
「ええ。この人、さっきまでお店の冷蔵庫《れいぞうこ》に全裸《ぜんら》でこもっていたから、ついにくるべきときがきたのかと思っていたんですけどねえ……ふぅ、こんなイタズラをするためだったなんて……」
困ったお爺さんですね、と微笑《ほほえ》む。
だが俺はまだ納得《なっとく》できていなかった。
「で、でも、脈がなかったし!」
「もともと脈が弱いんですよ、この人」
「し、しかし! ……だとするとこの死体みたいな臭《にお》いは……いったい」
「それは加齢臭《かれいしゅう》というものです。きょうちゃん、よく思い出してみて? うちのお爺《じい》さんはいつもこの臭《にお》いですよ?」
「……っ、確かに!? いやでもっ」
俺《おれ》が一向《いっこう》に納得《なっとく》しないのを見かねたのか、婆《ばあ》ちゃんは頬《ほお》に片手を当て、困った顔をした。
「じゃあ、証拠《しょうこ》を見せますね」
そう言って、爺ちゃんの耳元に口を寄せる。
「お爺さん、お爺さん、早く起きないと、髪《かみ》の毛を一本ずつ抜《ぬ》いていきますよ?」
「おぉぉおぉぉぅ!」
「うわああああああああああ!」
反応は劇的《げきてき》だった。爺ちゃんはまさしく『生き返った』ように飛び起きた。いきなり死体が跳ね起きたもんだから、俺もびっくり仰天《ぎょうてん》して叫んじまった。
「おっかねえ鬼婆《おにばばあ》だな! わしの残り少ない髪の毛|様《さま》になにをするつもりじゃ!」
白目《しろめ》を剥《む》いたままで叫ぶ爺ちゃん。
ほ、ほんとに生きてた……。
何をするつもりじゃはこっちの台詞《せりふ》だ! 心臓《しんぞう》止まるかと思ったっつーの!
婆ちゃんは、爺ちゃんの言い分には耳を貸さず、俺の顔を見て「ほらね?」と片眼《かため》をつむって見せた。
次いで爺ちゃんも、白目を剥いたままの顔面を、グルンと俺の方へと向けた。怖いって!
爺ちゃんは快活《かいかつ》に片手をあげて、
「きょうちゃん、はっぴーはろうぃん! とりっく・おあ……なんじゃっけ?」
「知らねえよ! 脳味噌腐《のうみそくさ》ってんのかジジィ!?」
つい、思いっきり突っ込んでしまう俺であった。
「よ、よかったぁ……はぁ……おじいちゃんが生きてて……」
麻奈実《まなみ》はお茶の間に戻ってくるなり、何度目かの同じ台詞を言って、胸をなで下ろす。
あのあと俺は、救急車《きゅうきゅうしゃ》を呼びに行ってしまった麻奈実を追いかけて、事情を説明した。
それでいま、お茶の間に戻ってきたところ、というわけだ。
「いや〜すまんすまん、じーちゃん、ちょっと真《しん》に迫《せま》りすぎちゃった※[#中白ハートマーク]」
てへっ、と舌《した》を出す爺ちゃん。殴《なぐ》りたいのを堪《こら》えるのが大変だったぜ。
ったく、孫《まご》を泣かせてんじゃねーよ。
「で……爺ちゃん、なんで死んだふりなんてしてたんだ?」
「え? うん、あれな? 明日《あした》に備えて、ハロウィンの仮装《かそう》の練習をしてたんじゃよ。フッフ……凄《すご》かったじゃろ? わしのゾンビ」
「凄かったっつーか、シャレになってなかったから」
店内であんな生々《なまなま》しい死体の真似《まね》したら、間違《まちが》いなく警察と救急車《きゅうきゅうしゃ》を呼ぶ客が出るよ! しかもそのあと生き返るわけだろ? せっかく呼んだガキどもがショック死しかねん。
だいたいからして、食い物屋でゾンビはないわ。
「とりあえず、あれを店の出し物にすんのは無理《むり》があると思いますよ」
「……むう、そうかのう?」
しきりに残念そうにしている爺《じい》ちゃん。チラッ。となりの婆《ばあ》ちゃんに『どう思う?』みたいな視線を送るものの、「きょうちゃんの言うとおりですねえ」とばっさり斬《き》り捨てられて、しょんぼりしてしまう。やがて部屋の隅《すみ》っこにゴロリと寝転《ねころ》がり、
「……あっそう、そうかい。ふぅーん。いいよ別に? へっ、どォ〜せわしなんか……」
と、スネてしまった。子供みたいなジジィである。そこで婆ちゃんがくすくすと笑って、
「きょうちゃん、慰《なぐさ》めたりしないでくださいね? 下手《へた》に構うと調子に乗りますから、この人」
「了解《りょうかい》っス」
普段《ふだん》は優しいのに、爺ちゃんにだけは厳《きび》しい婆ちゃんであった。
そんな祖父母《そふぼ》のやり取りを、麻奈実《まなみ》は「あ、あはは……」と苦笑《くしょう》して眺《なが》めていたが、やがて何かを思いついたように立ち上がった。
「そうだ。きょうちゃん、さっそくはろうぃんのお菓子《かし》持ってくるね?」
「おう」
「……ふふ、じゃあ、あたしもお手伝いしましようかね……」
麻奈実と婆ちゃんが部屋《へや》から出て行くと、それを横目《よこめ》でチラ見していた爺ちゃんがのそりと起きあがって、恨《うら》めしげに一言《ひとこと》。
「へ! きょうちゃんはババアにゃモテるよなァ!」
「嬉《うれ》しくないっスよ!?」
「カカカ!」
とまあ……愛嬌《あいきょう》のある爺ちゃんである。ガキのころからずっと世話《せわ》になっている……というよりは友達のように仲良くしてくれるこの人のことが、俺は、わりと好きだった。
婆ちゃんともども、いつまでも長生きして欲しいと思うよ。
と、そんなやり取りをしていると、新たな人物が部屋に入ってきた。
「おっ! あんちゃん来てたんだ!」
「おう、来てたぜ」
俺はそいつに向かって、片手をあげて挨拶《あいさつ》した。麻奈実の弟のロック≠ナある。
ロックというのは、この間、こいつが調子こいて名乗《なの》ちゃった恥《は》ずかしい二つ名であり、魂《たましい》の名前である。
二ヶ月くらいずっとそう呼んでいたら、俺もこいつもその名前に慣れてきてしまって、そのまま定着してしまったという次第《しだい》。学校でもそうだとしたら、さすがにかわいそうな気もする。
「……なんだ。その……がんばれよ?」
「出会い頭《がしら》に同情された!? っしゃ! なんだかよく分かんねーけど頑張《がんば》るよあんちゃん!」
五厘刈《ごりんが》りの坊主頭《ぼうずあたま》に、小さな背丈《せたけ》。拡声器《かくせいき》を使ってるみたいに馬鹿《ばか》でかい声。
昔っから、俺《おれ》のことを『あんちゃん』と呼んでは慕《した》ってくる……まあ、こっちにとっても、弟みたいなもんではある。
「ところでおまえ、なに持ってんの?」
俺はロックが携《たずさ》えている楽器《がっき》を指さした。『なに』というのは、どうしてそんな楽器を持っているのか、という意味だ。ロックはこう答えた。
「これ? へっへー、明日《あした》のイベントで演奏《えんそう》すんだよ! ま、なに? ミュージック担当《たんとう》、みたいな? よーするにハロウィンを、このおれの生ライブで盛り上げよーって寸法《すんぽう》なわけさ! おれのソウルを聴《き》けぇ――ってな! はっはー、カッチョいいべ?」
べべべん、と、携えた楽器をかき鳴らすロック。
おれのソウルを聴けって言われてもなァ……カッチョいいかどうかはともかくさ。
俺は、こいつが登場した瞬間《しゅんかん》からずっと疑問に思っていたことを聞いてみた。
「……でも、おまえが持ってるの三味線《しゃみせん》だよね?」
「……フッ、さすがあんちゃん、的確《てきかく》な突っ込みだな」
ロックは遠い目をして、自嘲《じちょう》するような吐息《といき》を漏《も》らした。それから半泣《はんな》きで訴える。
「あんちゃんだからぶっちゃけるけど――おれ金ないからギターなんか買えないんだってば! で! なんでもいいから楽器やりたいんだよォー! って親父《おやじ》に土下座《どげざ》して頼んだのね。そしたら、婆《ばあ》ちゃんが三味線やってるから教えてもらえって言われた」
それでこのザマというわけらしい。非常に中学生らしい理由だった。つーか親父さんも親父さんで、楽器ならなんでもいいって言われたからって、幾らなんでも三味線はねえだろ。
そう言われて、オーケイ分かったおれは三味線を練習するゼ! となってしまうロックも大概凄《たいがいすご》いけどな。変な親子だぜまったく。この家には天然《てんねん》しか住んでねえのかよ。
俺は、にやにやしながら聞いてみた。
「で? 弾《ひ》けるようになったの? ちょいと演《や》ってみてくれよ」
「おうよ! ――聞いておどろけ!」
しゃきーん。そんな音が聞こえてきそうな素早《すばや》さで三味線を構えるロック。よっぽど練習したんだろう。まるで本物のギタリストのようにキマったポーズであった。
べべん[#「べべん」に傍点]。べんべんべんべんべんべん[#「べんべんべんべんべんべん」に傍点]……
きりりとした表情で、三味線を弾いていくロック。実にシュールな絵面《えづら》である。
お、おお……すげえ。ちゃんと曲になっている……! 俺には三味線の曲の知識なんてかけらもないが、決してでたらめに弾いているわけではなく、きちんと意識的に音をかき鳴らしているのだということだけは分かった。
どこか平安《へいあん》時代を思わせる、もの哀《がな》しくも優しい、郷愁《きょうしゅう》を誘《さそ》う曲だ。
いずこからか、笛《ふえ》の音が聞こえてきそうな……。
確かにこれなら、和菓子屋《わがしや》で弾《ひ》くにはふさわしい音色《ねいろ》だろう。
ぜんぜんハロウィンっぽくはないけどな。
「フッ、どうよあんちゃん! ジョン・フルシアンテみたいだろー?」
「琵琶《びわ》法師《ほうし》みてーだな」
「ちょ、爺《じい》ちゃんと同じこと言いやがった!? マジ傷つくんだけど!」
ウソ、爺ちゃんと同じ突っ込みをしちゃったの俺《おれ》? マジ傷つくんだけど。
まあこいつが弾いてるのは三味線《しゃみせん》だけど……マルコメ坊主《ぼうず》にしか見えないんだよなあ。
「ちぇっ、これだから感性《かんせい》の古い老人《ろうじん》どもはさあ――若いソウルを理解できないから困るゼ!」
べべんべんべんべん[#「べべんべんべんべん」に傍点]……ロックが趣《おもむき》のある演奏《えんそう》を再開したところで、
「お待たせ〜」
気の抜《ぬ》けた声とともに、麻奈実《まなみ》と婆《ばあ》ちゃんが戻ってきた。
二人とも菓子や茶が載《の》った盆《ぼん》を持っている。
いまお茶の間には、俺、麻奈実、爺ちゃん、婆ちゃん、ロックの五人が揃《そろ》っているわけだ。
ちなみに俺がこの家に遊びに来たときは、大体このメンバーで茶を飲んだり、菓子食ったり、だべったりする。
麻奈実と婆ちゃんが、卓袱台《ちゃぶだい》に茶と菓子を並べていく。
今日《きょう》はハロウィンのお菓子らしいが……はたして。
「お。こりゃ凝《こ》ってるな」
「えへへ、でしょ〜」
ふにゃっと相好《そうごう》を崩した麻奈実に、俺は頷《うなず》いた。
卓袱台の上に並んだ菓子には、いくつか種類があるのだが……どれもハロウィンをイメージした和菓子である。たとえばこの、一口サイズのジャック・オ・ランタン。これは練切餡《ねりきりあん》っていう色の付いたあんこでできている和菓子だ。名前は知らなくても、たぶんみんなも食べたことがあるはずだろう。腕のいい和菓子|職人《しょくにん》なら、この練切飴でなんでも作れてしまうので、飾《かざ》り菓子によく使われているからな。………ちなみにこれは体験|談《だん》だが、めちゃくちゃ作るのが難しい。へらやカタで形を整えたりするのもそうだが、そもそも練切餡|自体《じたい》を作るのが素人《しろうと》には難関《なんかん》なのだ。見習《みなら》いレベルの俺からすれば、餡練《あんねり》の奥義《おうぎ》といっても過言《かごん》ではない。
少々|解説《かいせつ》に熱が入ってしまったぜ……フッ、俺も桐乃《きりの》のことは言えないな。
「きょうちゃん、ど、どうぞっ……食べてみて?」
「おう、じゃ、遠慮《えんりょ》なく……」
練切|製《せい》ジャック・オ・ランタンを一つつまんで、口に放り入れる。
「うめーっ!」
「ほんとっ!?」
パァァ……と表情を輝かせ、胸の前で手を合わせる麻奈実《まなみ》。
俺《おれ》は茶を一口|飲《の》んでから、
「マジマジ! ってか中身カボチャ餡《あん》だろこれ! 芸細《げいこま》けぇよ! あとなんだ? 種《たね》?」
「うん……かぼちゃの種」
「頭の飾《かざ》りが種なのか。すげーっ」
俺は本気で感心した。
しかもこのジャック・オ・ランタン、ひとつひとつ表情が違っている。手作りならではの味があった。他《ほか》にも、色とりどりのゴースト、魔女《まじょ》、コウモリ、黒猫《くろねこ》……等々《などなど》。
どれも小さくてかわいらしいので、田村屋《たむらや》のメイン客層《きゃくそう》である若い女性客にはウケがいいだろう。なるほど手が込んでいるし、よく考えられていると思う。
俺は、麻奈実の顔を覗《のぞ》き込んで聞いた。
「これおまえが作ったの?」
「え、えっ……なんで?」
いや、だって、さっきからずっと感想|気《き》にしてるし……。
俺に真《ま》っ先《ささ》にコレ食わせようとしてたしさ。それに、ウマイって褒《ほ》めたら、凄《すご》く喜んだろう、おまえ。顔面の筋肉ふにゃふにゃにしてさあ。誰《だれ》だって分かるよ。
麻奈実はしばらく、恥《は》ずかしそうにもじもじと迷っていたようだったが、
やがて、こくんと頷《うなず》いた。
「……うん。わたしが作ったの。よかった……気に入ってもらえて」
「…………おう」
妙《みょう》にこっ恥ずかしくなってきて、なにやら俺までもじもじし始めてしまう。こういうところが桐乃《きりの》に言わせりゃ、きもいってことなんだろうが……。しょうがねーだろ……。
そんな俺たちを眺《なが》めていた爺《じい》ちゃんが、カボチャ餡のどらやきをパクつきながら言った。
「おまえらさっさと結婚しろよ」
「げほっ……!?」
茶を噴《ふ》きそうになる俺。
「お、おじーちゃんっ!」
麻奈実も、珍《めずら》しく大声を張り上げたのだが、周りの面子《めんつ》は一向《いっこう》に動じない。
「お爺さんもたまにはいいことをおっしゃいますわねえ」
婆《ばあ》ちゃんは、ほくほくと微笑《ほほえ》んで、茶をすすっている。
困ったもので、この二人は、隙《すき》あらば俺と麻奈実をくっつけようとするのだ。もう何年も前からのことなので、最近では動じることもなくなっていたのだが……。
こうやって不意打《ふいう》ちされると、さすがに反応してしまう。
……ま、まったく……。この雰囲気《ふんいき》は苦手《にがて》なんだよな……。
麻奈実《まなみ》も俺《おれ》と同じ気持ちだったらしく、お茶の間から退散《たいさん》することを決めたらしい。
「もぉぅ……! 二人とも知らないっ。きょ、きょうちゃん……わたしの部屋《へや》、いこっ」
「あ、ああ」
俺は、返事をして立ち上がる。「ひゅーひゅー」という爺《じい》ちゃんが楽しげに囃《はや》し立てる声を背後に受けながら、麻奈実の後ろに続いて部屋を出る。
少し廊下を歩き、狭く急な階段を上っていく。足を踏み出すたびにぎしぎし軋《きし》むこの階段が、俺は嫌《きら》いではない。なんでだろうな……この音を聞いていると、妙《みょう》に安心するんだよ。
そして階段を上ってすぐの襖《ふすま》が、麻奈実の部屋だ。
「ちょ、ちょっと待っててね……」
「はいよ」
麻奈実は襖をちょっぴり開けて、そこに身体《からだ》を滑《すべ》り込ませた。
軽く部屋の片付けをするつもりなのだろう。出しっぱなしのエロ本を片付けたり――ってのは俺の場合だが、麻奈実は麻奈実で、見られたくない代物《しろもの》があるのかもしれない。
まさか桐乃《きりの》みてーに、凄《すさ》まじいもんを隠《かく》し持っていたりはしないだろうけど。
しかし…………そういえば、麻奈実の部屋に入るのも、実は久しぶりだよな。
だからといって、別にドキドキしたりはしやしねえのだが。
と、そこで襖が開き、麻奈実が顔を出す。
「ど、どうぞっ」
「じゃ……お邪魔《じゃま》します、と」
俺は麻奈実の部屋に、足を踏み入れた。
い草《ぐさ》と線香《せんこう》の香りがただよう、畳敷《たたみじ》きの六|畳間《じょうま》。室内だけでなく、廊下|側《がわ》にも大きな窓があるので、日当たりは最高。眩《まばゆ》いくらいの陽光が差し込んでいて、身も心も温まりそう。
同じ女の子の部屋でも、妹の部屋とはまるで趣《おもむき》が違う。なんというか――非常にそのまんまな表現になってしまうのだが――『お婆《ばあ》ちゃんの部屋』という単語《たんご》でイメージしていただければ、おおむね近いものになるんじゃないかと思う。
家具は少なく、基本的にがらんとしている。タンスが幾《いく》つかと、三面鏡《さんめんきょう》(ハイカラにいうとドレッサーのことな)と、卓袱台《ちゃぶだい》と――そのくらいしかない。部屋のすみに、ぬいぐるみやカラフルなクッションが並んでいるのが、辛《かろ》うじて女の子らしい要素といえるかもしれない。
ただ、何の用途《ようと》に使うのか分からないツボとか、掛《か》け軸《じく》型のカレンダーとか、額《がく》に入った浮世絵《うきよえ》っぽいものとかの印象《いんしょう》が強くて、ただただババくさい。
「……あんまり変わってねえな」
「……そんなにじろじろ見ないで〜……恥《は》ずかしいからぁ」
このツボだの掛《か》け軸《じく》だののどこに恥《は》じらう要素があるんだよ。
女心は分からねえ……。
俺《おれ》は適当に腰《こし》を下ろし、両足を思い切り伸ばして、くつろぐ体勢になった。
拳《こぶし》二つ分くらい離れたとなりに、麻奈実《まなみ》も座る。なぜか妙《みょう》に焦ったような口調《くちょう》で、
「え、えっと、どうしよっか?」
「寝る」
「ええっ!?」
やたらとびっくりする麻奈実。
「ね、寝るって……!?」
? なに驚いてんだよ。
「最近|夜更《よふ》かし気味《ぎみ》でさぁ……ふぁ……ちっと寝ころんだりして、ゆっくりしたいんだよ。せっかくこっちに来てる間くらいはな」
「あ、あ〜。………………はぁ」
何らかの勘違《かんちが》いをしていた様子《ようす》の麻奈実は、それが解消《かいしょう》された途端《とたん》、なぜかホッとしたような感じでため息を吐《つ》く。だからなんだってんだよ。よく分からん女だな……。
俺は仰向《あおむ》けにひっくりかえって、
「ちなみに参考書は学校に置いてきたから、絶対に勉強はせんぞ」
「そうじゃなくって……もう」
しばらくジト〜と俺を睨《ね》め付けていた麻奈実だったが……やがて、くすっと微笑《びしょう》を漏《も》らした。
「そうだね……ゆっくりしよっか」
「……おう」
そういうわけで――
俺たちは、ゆっくりすることにした。他《ほか》のやつらはどうだか知らないが、俺たちにとって『ゆっくりする』というのは、完全に額面《がくめん》どおりの意味である。
「あ、そうだ……お茶|飲《の》む?」
「んー」
お茶を飲んだり。
「………………」
「………」
ひたすらぼ〜〜っとしたり。
「…………ふぁ」
あくびをしたり。
「そういやさ。おまえ、ハロウィンの準備とか、あるんじゃねーの?」
「あるけど……お店|閉《し》めてからだよ?」
「ふーん」
「今夜は、家族みんなでがんばるの」
「じゃ、手伝うわ」
「ほんとに? すごい助かるかも……力仕事《ちからしごと》多いし。最近お爺《じい》ちゃん腰痛めちゃってて大変そうだし……。でも……いいの? 疲れてるんでしょ?」
「いいから言ってんだろ。遠慮《えんりょ》すんなって」
「ありがとう――じゃあ、ばいと代ってわけじゃないけど、夕ご飯《はん》は食べていってね」
なんでもない話をしたり。
別段《べつだん》なにをするでもなく、自然|体《たい》で時をすごす。
「…………………………」
これでも来年は受験生だ。無駄《むだ》な時間の使い方だとは思うよ。だけど同時に、その無駄が大切なんじゃねえかとも、思う。余分《よぶん》なところにこそ価値《かち》があるってのが、俺《おれ》の人生観《じんせいかん》だ。
いまにして思えば、俺のそういう考え方が、オタクどもの生き様《ざま》に共感《きょうかん》したのかもしれない。
ゲームにしろ、マンガにしろ、アニメにしろ。どんなに追求したところで、社会に役立つようなもんじゃない。大事な時間を無為《むい》に削《けず》ってしまう、生産性のない遊び[#「遊び」に傍点]だ。
だが、だからこそ、そこには変換《へんかん》の利かない価値があって、多くの人々を熱中させているわけだ。そうバカにしたもんじゃあ、ない。
「きょうちゃん……なに考えてるの?」
「別に? なんでもねーよ」
「ふーん?」
ふわりと力の抜《ぬ》けた正座《せいざ》で、こぽこぽとお茶を注《つ》ぐ麻奈実《まなみ》。
その横顔《よこがお》を、俺はなんとはなしに眺《なが》めていた。
「あ、茶柱《ちゃばしら》が立ったよ」
「そりゃすごい」
本当にな。
バカにしたもんじゃ、ねえって。
数時間|後《ご》――。
田村家《たむらけ》の女性|陣《じん》が夕食の準備をしている間、俺はロックと一緒《いっしょ》に、店の後《あと》片付けや明日《あした》の準備を手伝うことになった。店内の清掃が一段落《いちだんらく》し、残る仕事はあと一つだけ。
「くお……重……!」
トラックの荷台から、材料を、店の裏手《うらて》にある離れの冷蔵室《れいぞうしつ》に運び入れる作業だ。
和菓子屋《わがしや》でバイトをしたことがあるやつなら分かると思うのだが、業務《ぎょうむ》用の袋《ふくろ》はどれもこれもやたらと重い
……こりゃ、明日《あした》は腕《うで》が筋肉|痛《つう》になるかもな。
手伝いたいという俺《おれ》の申し出を、麻奈実《まなみ》の親父《おやじ》さんは快く了承《りょうしょう》してくれた。というか、俺を見た瞬間《しゅんかん》『ラッキー♪』みたいな顔をしたので、こちらから言い出さなくとも手伝わされたような気もする。このおっちゃんは昔から俺のことを、いつもいつも遠慮《えんりょ》なくこきつかってくれるのだ。ま、別にいーけどさ。その方がこっちも気ィ遣《つか》わなくてすむし。
「これでラスト……っと……ふぅ」
首にかけたタオルで汗《あせ》をぬぐう。冷蔵室《れいぞうしつ》の中にいるので白い息が出る。
冷蔵室から庭に出たところで、エプロン姿の麻奈実が待っていた。
「お疲れさま、きょうちゃん」
「おーう……いや〜マジ疲れたぁー」
正直に言うと、麻奈実は「あははっ」と笑って、
「今日《きょう》はきょうちゃんがいてくれて助かっちゃった。本当にありがとう……。ご飯《はん》、頑張《がんば》って作ったから、いっぱい食べてね」
「ああ」
「先に食べる? それともお風呂先《ふろさき》にする?」
「せっかく作ってくれたんだから、先に飯《めし》食うよ。えっと、ていうか、風呂って?」
「うん……その……お父《とう》さんたちがね? きょうちゃん、せっかくだから、今日は泊まっていってって……。お、お父さんが、だからね!」
「そんなにお父さんを強調《きょうちょう》せんでも……分かったって」
桐乃《きりの》じゃないけど、こいつもたまに、よく分からん態度を取りやがるよな……。
俺はノータイムで返答する。
「じゃ、泊まってくわ」
「えっ……い、いいのっ?」
「いいのって……そりゃ、いいよ。親には電話しとくし……どうせ明日は休みだしな」
だいたい自分から言い出したことだろうが。当たり前のように同意すると、麻奈実はかなり盛大《せいだい》に破顔《はがん》した。描写《びょうしゃ》するのが憚《はばか》られてしまうほど表情をゆるめている。
「へへ……嬉《うれ》しいなぁ。すっごく久しぶりだね、きょうちゃんが家に泊まっていくのなんて」
「そういやそうだな。昔はよく、お互《たが》いの家《いえ》行き来してたもんだけど……いつの間にかしなくなってたよな。なんでだっけ?」
「え? なんでって……なんでだろ?」
顔を見合わせてしまう俺たち。改めて考えてみると、理由なんて出てこない。
……そういうもんなのかもしれないな。関係の変化ってのは、大概《たいがい》そんなもんなのだ。
「うーん。もしかして……きょうちゃんも、もう高校生でお年頃《としごろ》だから、女の子の家に泊まりにいくのに緊張《きんちょう》しちゃうのかなぁ」
親戚《しんせき》のおばさんのような言《い》い草《ぐさ》である。単語《たんご》のセレクトにまったく若さを感じねーぞ。
「なんでおまえん家《ち》に泊まり行くのに、いまさら緊張しなくちゃなんねーの?」
「えー? しないの〜?」
「しねーよ」
なんでちょっぴり不満そうなんだ。
「むしろ、自分の家よりゆっくりできるくらいだよ」
なにしろ妹がいねーからな、と、心の中で付け加える。
さっきまで不満そうにしていた麻奈実《まなみ》は、俺《おれ》の台詞《せりふ》を聞くや、くるりと態度を翻《ひるがえ》して、
「……そっか」と微笑《ほほえ》んだ。
「あんだよ……なんか言いたいことでもあんの?」
「ううん……? そっちの方がいいかなぁって、思っただけ」
幼馴染《おさななじ》みの言動《げんどう》は、やはり、よく分からなかった。
麻奈実とお茶の間に向かう途中《とちゅう》、廊下で風呂《ふろ》上がりの爺《じい》ちゃんと出くわした。
「お勤めご苦労! 褒美《ほうび》に麻奈実と一緒《いっしょ》に風呂に入る権利をやる!」
あんたもうるせえ。タオル一丁《いっちょう》で孫《まご》のそばを徘徊《はいかい》すんな。
「ご、ごめんね……きょうちゃん。もう……みんなったら……」
「や、別に。いつものことだしな。ぜんぜん気にしてねーよ」
すげなく流すと、なぜか麻奈実はややスネ気味《ぎみ》に、
「……ふーん、ぜんぜん気にしてないんだ……?」と、唇《くちびる》をとがらせていた。
で――特に何事もなく食事が終わって。
いまは皆、めいめいに食休みをしている。
テレビではバラエティ番組をやっていて、お笑い芸人《げいにん》が何かネタを披露《ひろう》するたびに、ロックがげらげら手を叩《たた》いて笑っている。笑いの沸点《ふってん》が低いやつなのだ。
こういう客ばかりなら、芸人も仕事をしていて楽しいだろうな。
となりでテレビを観《み》ている俺《おれ》としては、ちょっと黙《だま》れと後頭部《こうとうぶ》をはたきたくなるが。
ロックがうるさくて音が聞こえないので、テレビを観る気がなくなってきた俺は、ふと横《よこ》っ面《つら》に視線を感じた。
「?」
その方向に振り向くと、どうやらこちらを見ていたらしい麻奈実と、ちょうど目があった。
テーブルを挟んで、見つめ合う形である。
「…………じー」
擬態語《ぎたいご》を口に出しながら、なにか言いたげな眼差《まなざ》しを送ってくる麻奈実。
「……な、なんすか?」
俺《おれ》はやや怯《ひる》んで問うた。
しかし麻奈実《まなみ》は『分かってるでしょ』とばかりに、無言《むごん》の姿勢《しせい》を崩《くず》さない。
「……じぃーっ」
「………………」
にらめっこの体勢になる俺たち。先に目を逸《そ》らした方が、負け。
しかし俺は、こういった勝負|事《ごと》では勝ったためしがないのである。
「……………………くっ」
あっというまに耐えされなくなって、目を逸らす。でもって、敗北|宣言《せんげん》。
最初から分かっちゃいたのだ、こいつが俺に、なにを言わせようとしていたのかは。
えーと……たぶんおまえさあ。……昼間、ハロウィンのお菓子《かし》を褒《ほ》めてやったもんだから……それで……また期待してるんだろ?
「あー……さっきのメシだけど……。美味《うま》かったよ」
「えへへ……ありがと。嬉《うれ》しいな」
自分で言わせたくせに、麻奈実は、眼鏡《めがね》の奥の瞳《ひとみ》を幸せそうに細めている。
俺としては、照れ臭いことこの上ない。そしてなんとも忌々《いまいま》しいことに、どうやら麻奈実は、こうやって俺を恥《は》ずかしがらせるのが、楽しくて仕方《しかた》がないらしいのだ。
まあ、俺は俺で、麻奈実を困らせるのが楽しくて仕方がないという性癖《せいへき》を持っているので、人のことばかり言えないのだが……。
「そ、そういや、そろそろ親父《おやじ》さん風呂《ふろ》上がるころじゃないか?」
「んー、そうだね」
ごまかすように話をそらすと、麻奈実は部屋《へや》の時計を見上げて、唇《くちびる》に指を当てた。
相変わらず、綺麗《きれい》な正座《せいざ》をするやつである。ちょっと見惚《みと》れてしまうほどだ。
顔は十人|並《な》みなのだが、こういったところが好ましいと思う。
「次《つぎ》入る?」
「俺は最後でいいよ」
家人《かじん》の前に入るのも悪いしな。
「わたしは、きょうちゃんのあとでいいよ?」
そう言って風呂をすすめてくる麻奈実。
「や、おまえが先《さき》入れって」
「いまさら遠慮《えんりょ》しないでよ〜。きょうちゃんこそ、どうぞ、先入って、入って」
そんなやり取りが何度か繰り返されて……
やがて麻奈実は、ふと何かを思いついたようだった。
ぽんと小さく拍手《かしわで》を打って、
「じゃあ、さ」
「……な、なんだよ?」
すっと身を乗り出して、顔を寄せてくる麻奈実《まなみ》。悪戯《いたずら》っぽい表情で、そっと耳打《みみう》ちしてくる。
「……やっぱり一緒《いっしょ》に入る?」
「……!?」
恥《は》ずかしがらせるための策略《さくりゃく》――冗談《じょうだん》だと分かっちゃいる!
だが俺《おれ》は、不覚にもかなり動揺《どうよう》してしまった。
「ぐぬ……」
下唇《したくちびる》を噛《か》みしめて動悸《どうき》を抑えていると、うつぶせに寝ころんでテレビの漫才《まんざい》を眺《なが》めていたロックが、ふと首だけで振り返った。笑いの余韻《よいん》をにやにや顔に貼《は》り付けたまま、
「なーなーっ。二人でなんのナイショ話してんのー?」
「うっせ! テレビ観《み》てろオマエは!」
「あははっ。きょうちゃん、顔、真《ま》っ赤《か》」
「くっ……!」
すげえ悔《くや》しかった。くそ、麻奈実のくせに……調子に乗りやがって!……。
こいつさあ、自分ちだと妙《みょう》に強気になるんだよな! 内弁慶《うちべんけい》麻奈実って呼んでやろうかい。
ケッ、おまえの旦那《だんな》になるやつは、結婚したあとでその事実を知って、毎日《まいにち》毎日|照《て》れくさい台詞《せりふ》で言葉|責《ぜ》めされるんだろうよ。旦那《だんな》が差恥《しゅうち》で悶死《もんし》しても知らんからな。
ふん……この俺《おれ》を、いままでの俺だと思うなよォ? 俺はこの数ヶ月で、妹や、妹の友達と接して、タチの悪い病気を伝染《でんせん》させられているんだ。貴様《きさま》は知らんだろう、追い詰められたバカが見せる、究極《きゅうきょく》の力をなァ……! さぁ、聞くがいい……!
「よォ――し、じゃあ一緒《いっしょ》に入るか!」
「は、はぇぇっ――!?」
決死の反撃《はんげき》の甲斐《かい》あって、勝ち誇っていた麻奈実《まなみ》の顔が、一瞬《いっしゅん》にして茹《ゆ》で上がった。
「ほ――、ほんきっ?」
「超《ちょう》本気だぜ! 自分で誘ったくせに、いまさらイヤとは言うまいな!」
勢いよく立ち上がり、拳《こぶし》を握り締めて宣言《せんげん》する俺。
それを見ていたロックも、たいそう盛り上がった。
「うおお! あんちゃんカッケ――!? それでこそ漢《おとこ》だよな!」
そうだろう、そうだろう。おまえなら分かってくれると思っていたぜ。アホだから。
漢の中の漢と化した俺は、二人分のバスタオルと着替えを脇《わき》に抱え、さらに言い放った。
「ほら! 麻奈実! さっさと行こうぜ! 俺たちの風呂場《ふろば》へさあ! 俺のハイパー兵器を見せてやるよ!」
勢いが付くと止まらなくなるのは、最近の俺が抱えている致命《ちめい》的な悪癖《あくへき》ではなかろうか。
「わ、わ……」
麻奈実は両目を真《ま》ん丸《まる》に見開き、顔を真《ま》っ赤《か》にし、両手をばたばたさせている。
ふっ……ざまあみやがれ。これで少しは懲《こ》りただろう。
しかしいくら何でもやりすぎたかもしれんな。ちょっぴり恥《は》ずかしくなってきた俺は、やや赤面しながら、そろそろ冗談《じょうだん》だってことを伝えようとしたのだが……。
そのとき、ぴくぴくと痙攣《けいれん》していた麻奈実の唇《くちびる》が、明確な意思を持って動き始め
「お、おばーちゃん! どうしようっ、きょうちゃん、わたしと一緒にお風呂入りたいって!?」
「お婆《ばあ》ちゃんに報告してんじゃねえ――!?」
正気に立ち返ったあとで死ぬかと思ったが、結局、親父《おやじ》さんの次には、俺が風呂に入ることになった。一応念《いちおうねん》を押しておくが、もちろん一人で、である。
田村家《たむらけ》の風呂場は、湯船《ゆぶね》と洗い場があるごく普通の作りだ。
湯船には菖蒲《しょうぶ》が浮かんでいる。菖蒲の節句《せっく》はとうに過ぎたが、この家では入浴|剤《ざい》を入れる感覚で、色んなものを湯船にぶち込む習慣《しゅうかん》があるのだ。
だからこの家で暮らしていると、自然とそういったものには詳しくなる。
というわけで、菖蒲|湯《ゆ》である。高価な菖蒲|根《こん》を使った、腰痛《ようつう》や神経|痛《つう》に効能《こうのう》のあるお湯だ。
……その効能は……ちょいと俺には早いと思うんだが……。
ふぅむ……いいにおいがして、それだけでも身体《からだ》によさそうではあるな。
爽快《そうかい》な香気《こうき》と、けぶる湯煙《ゆけむり》。
悪くねえ。
狭苦《せまくる》しい一般|家庭《かてい》の風呂場《ふろば》ではあるが、風情《ふぜい》があると感じる。
手早く頭と身体を洗い、シャワーで泡《あわ》を落とす。
それからようやく、楽しみにしていた菖蒲湯《しょうぶゆ》に足を突っ込み――
「熱《あ》ッちい!」
そ、そうだった……。忘れていたぜ。
ここん家《ち》の風呂は常に湯船《ゆぶね》が熱湯《ねっとう》と化しているんだよな。これだから昔の人はよォ……。
内心《ないしん》で悪態《あくたい》を吐《つ》くものの、あとから入るお婆《ばあ》ちゃんたち[#「たち」に傍点]のことを考えると、ここで水を入れて湯船を冷ましてしまうのも憚《はばか》られる。……しょうがねえ、我慢《がまん》して入るか。
「ッ〜〜〜ちィ〜〜〜!」
肩まで一気に湯に浸《つ》かり、目をきつくつむる。すると、びりびりと肌《はだ》を焼いていた熱さが少しずつ和《やわ》らいでいき、次第《しだい》にじんわりとした快さに変わっていく。
「ふぃ〜……」
身体《からだ》の芯《しん》まで温まる。ぬるめの湯にゆっくりと浸かるのもいいが、熱い湯も、これはこれで悪くない。俺《おれ》は湯船の縁《ふち》に後頭部《こうとうぶ》を乗せて、ほう、と息を吐《は》いた。
「さぁて……明日《あした》はどうすっかな」
麻奈実《まなみ》はハロウィンイベントとやらの手伝いをするっつってたし……。俺もそうすっかな。
いちおう最後まで見届《みとど》けてーし。
どんな地味《じみ》魔女《まじょ》ができあがることやら、ちっと楽しみだしな。
それに俺は、この店の手伝いをするのが、それほど嫌《きら》いじゃない。なんつーのかな、汗水垂《あせみずた》らして働くのが、どうにも俺の性《しょう》に合っているらしくてさ。仕事が終わって、こうして熱い湯船に浸かっていると、何物にも代え難《がた》い満足感があるわけだ。……ふん、地味で悪かったな。
にしても、今週の週末は、なかなか悪くないものになりそうじゃんか。
「……忌々《いまいま》しい誰《だれ》かさんと、顔を合わさずにすむしな」
自然と笑《え》みが漏《も》れてきてしまう。
そのまま気持ちよく湯船に浸かっていると……
かさかさっ……しゅるり、という衣擦《きぬず》れの音が聞こえた。
ん? 脱衣所《だついじょ》に誰《だれ》かいんのか?
湯煙と磨《す》リガラス越しに、シルエットが見える。服を脱いでいる……ような仕草《しぐさ》……。
………………え? な、えぇっ……?
「ちょ、ま、まさかアイツほんとに……!」
がたがたがたっ。俺は動揺《どうよう》しつつも、脱衣所を凝視《ぎょうし》してしまう。
バカじゃないのかあいつ!? もしかしてあんな冗談《じょうだん》本気にしちゃったのか!?
うわあ……どうすんだよ。え、エロゲーだったらイベントCGになっちゃうだろこれ……!
湯船《ゆぶね》の縁《ふち》を強くつかむ俺《おれ》。別にわくわくなんてしてないからね。
と、とりあえずタオルを腰《こし》に巻いておこう!
とっさの気遣《きづか》いを行動に移していると、ついに脱衣所《だついじょ》の扉《とびら》が開かれた。
ガラッ。
「チーッス! あんちゃんおれが背中|流《なが》してやんよ!」
「てめえかよ!?」
俺は闖入者《ちんにゅうしゃ》に洗面|器《き》を投げ付けた。かぽーん、と、マルコメ坊主《ぼうず》にヒットする。
「あ痛ァー!」
洗面器を喰らってのけぞったのは、言うまでもなくロックである。
はっ、そうだろうよ。そうだろうよ。こんなオチだろうと思ってたぜ……!
「ッ……ざけんじゃねえ! オマ……オマ……な、何したか分かってんのか!」
「あ、あんちゃんなんでいきなり半泣きでマジギレしてんだよ!?」
知るかっ!
風呂《ふろ》から上がり、再びお茶の間でくつろいでいると、婆《ばあ》ちゃんが寄ってきてこう言った。
「きょうちゃん、いつもの部屋《へや》にお布団敷《ふとんし》いておきましたからね」
「あ、どもっす」
いつもの部屋ってのは、俺が泊まりにきたときに毎回使わせてもらっている部屋のことである。サービスいいなあ。置いておいてくれれば、自分で敷くのに。
家の婆ちゃんは二人とも亡《な》くなっているので、この人に優しくされると、妙《みょう》にあったかい気持ちになるんだよな………。
「にしても、もうそんな時間か……」
時計を見上げると、そろそろ十時になろうというところだ。店をやっているせいもあって、田村家《たむらけ》の皆さんは就寝《しゅうしん》が早い。俺もそろそろ自分の部屋に引っ込むべきだろう。
「俺、そろそろ寝るわ」
「あ、じゃあ、わたしも部屋に戻ろうかな……」
俺にならって、麻奈実《まなみ》も立ち上がった。ちなみに俺もこいつも、パジャマに着替えている。
(俺が着ているのは、親父《おやじ》さんのものらしい)。ついさっき風呂から出てきたばかりの麻奈実は眼鏡《めがね》をかけておらず、髪《かみ》がまだ少し濡《ぬ》れていた。
「えへへ……寝る直前まで一緒《いっしょ》にいるのなんて、いつぶりだろうね?」
「……さあてな。四年ぶりくらいじゃないか?」
廊下を歩きながら、話す。麻奈実を先頭《せんとう》に、階段を上っていく。
「……おまえ足取り危ういぞ? 大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「ん、うん……お風呂《ふろ》上がりで、めがねかけてないから……」
「ふーん、あっそ」
危ねーな、こけたとき支えてやれるよう気をつけながら、二階へとたどり着く。
一番|手前《てまえ》の襖《ふすま》が、麻奈実《まなみ》の部屋《へや》。俺《おれ》の部屋は三番目だ。
「じゃ……おやすみなさい」
「……おう、お休み」
俺は部屋に入っていく麻奈実を見送り、自分の部屋の襖を開ける。
がらっ。
「げっ……」
途端《とたん》、息を呑んでしまう。そこには婆《ばあ》ちゃんが敷《し》いてくれた布団《ふとん》があった。ただし、二組。
ぴったり並んで敷かれているペア布団。いわゆる夫婦《めおと》布団というやつだ。
な、なんだこりゃ!? いったい……!
「どうしたの?」
「え!?」
振り返ると麻奈実がすぐ背後にいた。
「な、なんでおまえがここにいんだよ!?」
「そ、そんなに驚《おどろ》かなくても……。なんかね、わたしのお布団がなくなってて……どうしようかなって廊下に出たら、きょうちゃんが固まってたから……。えっと、中になにかあるの?」
「見るな! 部屋の中を見るんじゃない!」
制止《せいし》の声も間に合わず、硬直《こうちょく》している俺の後ろから、麻奈実も室内を覗《のぞ》き込んだ。
「……ええぇっ!?」
で、固まる。はわ、はわ、と身体《からだ》をケイレンさせながら、ペア布団を指差《ゆびさ》し、
「なにあれ! あ、あれって、わたしのお布団……だよね!?」
「……そう……だろう、な」
重々《おもおも》しく頷《うなず》く俺。すると麻奈実はでかい声で、
「きょうちゃんが敷いたの!? わたしと並んで寝るために!?」
「ち、ちちちち違《ちげ》ぇ――よ!? なに言ってんすか!? ば、ばっかじゃないの!? 誰《だれ》がそんな……妙《みょう》な勘違《かんちが》いしないでよねっ!」
動揺《どうよう》のあまり、言動《げんどう》があやしくなってくる俺たち。つい数分前の出来事《できごと》さえ忘れて、
「で、でもでも! こんなにぴったりっくっついて! 新婚《しんこん》夫婦《ふうふ》みたいにっ!」
「と、とにかく落ち着け! お、おおお落ち着いて状況をブンセキするんだ! うんそう、これはアレだ、俺の仕業《しわざ》に違いない……!」
「きょうちゃん落ち着いて! なにか色々《いろいろ》噛《か》み合ってないよ!」
「くっ……! まさかおまえに突っ込み返しをされる日がこようとは……!」
ていうか。
落ち着いて考えなくとも、婆《ばあ》ちゃんが敷《し》いたに決まっていた。
…………。あのババァ〜〜……。な、なーにが『敷いておきましたからね』だっ! 親切そうなツラで、余計《よけい》なことしやがって……!
「……ハァ。とりあえず、布団戻《ふとんもど》すか」
「え? 戻すの?」
「戻すに決まってんだろ!? なんだその意外《いがい》そうなツラは!」
「わたしは別に……このままでも……いいけど……」
「戻すからな」
不穏《ふおん》な台詞《せりふ》をぴしゃりと斬《き》り捨て、俺《おれ》は麻奈実《まなみ》の布団を持ち上げようとした。
ところがそこで、背後から「ぐふぉっ……!」という苦悶《くもん》の叫び声があがった。
「な、なんだぁ――!?」
振り返ると、爺《じい》ちゃんが廊下でうずくまり、心臓《しんぞう》を押さえていた。
「ふ、布団が……布団が……」などと呟《つぶや》いている。
麻奈実が慌《あわ》ててそばに駆《か》け寄った。
「おじーちゃん! 大丈夫《だいじょうぶ》!?」
「あ、ああ……大丈夫じゃ。心配はいらん。……きょうちゃんが布団を運びだそうとしているのを見たせい[#「せい」に傍点]で、戦時中《せんじちゅう》のトラウマが刺激《しげき》されて、狭心症《きょうしんしょう》の発作《ほっさ》が起こっただけじゃから」
「……………………」
なにそのピンポイントな原因。ふざけてんの? いったい戦時中になにがあったんだよ。
つうかジジィ、隠《かく》れて見てただろ。でなきゃこんなにちょうどよく登場できるはずがねえ。
やっぱアンタもグルか。
爺ちゃんは仰々《ぎょうぎょう》しい面構《つらがま》えで言った。
「その布団を並べて敷かないと、かぼちゃの祟《たた》りでわしが死ぬよ?」
テキトーなことばっか言いやがって……。
俺は半眼《はんがん》で爺ちゃんを一瞥《いちべつ》し、再び布団を持ち上げてみた。
「うぐぅっ!? ぎょえぇええええええッ……!?」
…………。布団をその場に落としてみる。
「……はあ、はあ、はあ、はあ……い、いまのは危なかったぜ。危うく死ぬところじゃった。三途《さんず》の川《かわ》の対岸《たいがん》で、ばーさんが手招きしているのが見えたぞい」
「……婆ちゃん、下でテレビ観《み》てたじゃないっすか」
わざとらしいにもほどがあるぞジジィ。俺は、こめかみに血管が浮かび上がるのを自覚《じかく》しながら、再度《さいど》布団を持ち上げてみる。するとやはり爺ちゃんは心臓を鷲《わし》づかみにし、
「ごあああああああああッ……! フォォォォォ――――!?」
「だあああああああああああああっ! 分かった! 分ーかったからいい加減《かげん》にしろ!」
「げほっげほっ……ほんとに?」
上目遣《うわめづか》いになるんじゃない! いちいち麻奈実《まなみ》と仕草《しぐさ》が同じだからムカつくよこの老人!
俺《おれ》は呆《あき》れかえりながらも、頷《うなず》くしかなかった。いかにもバレバレな演技だが、何度もいまの演技をさせると、年寄《としよ》りがマジで死にそうだからな。
「ああ、ああ……ここで寝ればいいんだろ? 別になんてこたねーよ。……なぁ?」
麻奈実に同意を求めると、ふんわりとした微笑《ほほえ》みが返ってきた。
「うん、わたしはいいよ……きょうちゃんさえよければ」
なんというか……それこそなんてことない反応だ。
ま、まあ、そう答えるのは分かっていたんだが……
なぁ麻奈実。その無《む》防備すぎる態度、俺|以外《いがい》の男にやったら絶対|勘違《かんちが》いされるからな。
そんなわけで。結局《けっきょく》、俺は麻奈実と同じ部屋で、並んで眠ることになってしまった。
もちろん布団《ふとん》はぐいっと引き離して、夫婦《めおと》布団ではなくしてあるぞ。
「なんだか……子供のころみたいだね……?」
「……そういや、ここん家《ち》泊《と》まりに来たときは、いつもこうやって並んで寝てたよな、俺ら」
「うん……まさかこの歳《とし》になって、一緒《いっしょ》に寝ることになるなんて……思わなかったけど」
俺たちは寝ころんだまま、顔を見合わせて苦笑《くしょう》しあう。
好意《こうい》的に解釈《かいしゃく》すれば、婆《ばあ》ちゃんは、いつもどおりに布団を敷《し》いただけなのかもしれなかった。
ジジィの方は、疑う余地《よち》なく有罪《ゆうざい》だけどな。
ま、なんてことはない。他《ほか》の女だったらシャレにならないくらい問題があるが、なんといっても相手が麻奈実だからな。そう、家族みたいな感覚だから……緊張《きんちょう》したり、意識したりする必要なんて、ぜんぜんないんだよ。本当だぞ?
「……さっさと寝るわ。おやすみ」
「ん……おやすみなさい、きょうちゃん」
電気を消して、目をつむる。静寂《せいじゃく》の中に、時計の音だけが規則的に響《ひび》く。
一分、十分……もっと経《た》っただろうか。時間の経過《けいか》が分からなくなってきたころ、
「……きょうちゃん。まだ……起きてる?」
ぽつりと麻奈実がつぶやいた。
「…………起きてるぞ」
そう返すと、しばしの沈黙《ちんもく》があって……
「……あの……一緒《いっしょ》の大学、行けるといいね?」
おいおい。なんでいま、それを言う必要があるんだか……。ははっ。
俺《おれ》はついつい噴《ふ》き出しそうになってしまうのをなんとか我慢《がまん》して、
「……そうだな」
と、答えた。
いま言う必要とか、意味とか、そういうのは……別にいい。そう、思った。
だから俺も、ぽつりと、意味のないことを言う。
「高校卒業して、そんで、同じ大学|通《かよ》うようになったらさ……どうなるんだろうな」
漠然《ばくぜん》とした質問だった。だがそれは同時に、俺が常日頃《つねひごろ》、考え続けていることでもあった。
別に答えを期待していたワケじゃない。別段《べつだん》、意味のある台詞《せりふ》じゃなかったから。
麻奈実《まなみ》は「んー……」としばし考え込んでいたが、
「たぶん……あんまり変わらないと思うよ?」
返ってきたのは、悪く言えば適当で、曖昧《あいまい》で……のんびりとした、こいつらしい答え。
それはきっと、俺が望んでいた答えでもあった。
「そうかもな」
そう言われると、そうかもしれないと思えてくる。高校卒業して、大学に入学して、色々《いろいろ》な物が変わっていって。それでも、変わらないものもたくさんある。
「……は、なんか大学卒業するときも、おまえ、同じこと言いそうだな」
苦笑《くしょう》が漏《も》れた。チラリととなりを見ると、麻奈実は目をぱちくりしていたが、やがて微笑《ほほえ》み返してくる。
「ん……そうだね。……ずっと、同じことを言うんじゃないかな」
いつの未来を想像《そうぞう》しているのか……その口調《くちょう》は柔《やわ》らかい。
何故《なぜ》かその言葉が、強く印象《いんしょう》に残った。心強いとも思った。
…………。
俺たちは再び黙《だま》り込む。しばし続いた心地《ここち》のいい沈黙《ちんもく》を破り、麻奈実が先に口を開いた。
「……昔はこうやってよく、お互《たが》いの家に行き来したり、泊まったり……してたよね?」
「……?」
さっきも似《に》たような会話をした気がする。
「でも最近はぜんぜん……えっと、だから……その……」
なに言いづらそうにしてんだこいつ?
麻奈実はしばらく言葉をさまよわせていたようだったが、やがて、
「……ごめんね。なんでもないや」
と、毛布を口元《くちもと》まで上げてしまう。
俺はその様子《ようす》を見つめていて…
「じゃ、今度は家くるか?」
ふと、そう言ってみた。麻奈実がここ数年、俺の家に来ていなかったことを思い出したのだ。
女ってのは、して欲しいことがあっても、そうとは言わない生き物で――。そいつを俺《おれ》は、最近|身《み》をもって思い知らされていた。どっかの誰《だれ》かさんのせいでな。
だからこれは、いままでの俺からはどうやっても出てこない台詞《せりふ》だった。
今度は家に来るか? ――俺にそう問われた麻奈実《まなみ》は、とても意外《いがい》そうに、目をくるんと大きくして、ぱちぱちとさせた。次いで口元《くちもと》を毛布で隠《かく》したまま、こくりと頷《うなず》く。
「えっと、うん。……行ってみたい、な」
その表情は布団《ふとん》で隠《かく》れて見えない。
けれどふにゃりと細められた目元だけで、俺には十分だった。
言いたいことを言えずにいた、引っ込み思案《じあん》な幼馴染《おさななじ》みから、この嬉《うれ》しそうな態度を引き出せたのは、誰かさんのおかげだった。その点だけは、感謝してやらんこともない。
「あっそ。んじゃ……そのうち、な」
そうして夜は、至極《しごく》まったりと更《ふ》けていった。
ちなみに断じて言っておくが、並んで寝たからって、おまえらの期待するよーなことは、別になんにもなかったぞ。残念だったな。
十二月二十四日。仲むつまじい恋人たちが、愛を囁《ささや》き合う夜。クリスマスイブ。
そんな夜に俺《おれ》は――妹とラブホテルにやってきていた。
「…………じゃ、シャワー浴びてくるから。……絶対|覗《のぞ》かないでよね」
「誰《だれ》が覗くか。ほら、いーからさっさと入ってこいっての」
「ふん」
鼻《はな》を鳴らして、シャワールームへと消えていく桐乃《きりの》。
俺もまた「……ふん」と鼻を鳴らし、どすんとダブルベッドに腰《こし》を下ろした。
「……………………はあ……っ」
荒い息をつき、落ち着かない気分で周囲を見回す。
八|畳《じょう》ほどの狭い部屋《へや》だ。面積の半分《はんぶん》以上を、大きなダブルベッドに占有《せんゆう》されている。
天井《てんじょう》の照明はついているが、それでもかなり薄暗《うすぐら》い。
「……」
ぱちん。枕元《まくらもと》のスイッチを入れると、ベッドの真上《まうえ》あたりの照明がついて、多少《たしょう》明るくなった。完全に明るくはならない。
ジャーッという、シャワーの音。ふんわりと漂《ただよ》ってくる、石鹸《せっけん》の香り。
桐乃は気付いていないようだが……シャワーを浴びている女の子のシルエットが、磨《す》りガラス越しにぼんやり透《す》けて見えるようになっている。照明といい、磨りガラスといい、淫靡《いんび》な雰囲気《ふんいき》を盛り上げるための仕様なのだろう。
「……っ」
バッ。俺は磨りガラスの秘密《ひみつ》に気付くや、高速で視線をそらした。
自分の意志とは裏腹《うらはら》に、俺の足は貧乏《びんぼう》揺すりをし始める。
「…………………………………………なに緊張《きんちょう》してんだ俺」
やばいだろ。やばいだろこれは。なあ、なあ、落ち着けよ京介《きょうすけ》、相手は妹だぞ?
「分かってる……分かってるが……」
貧乏揺すりが激《はげ》しくなる。顔面の熱がどんどん上昇していくのが分かる。
手持ちぶさたに耐えきれず、気を紛《まぎ》らわせるものを探す。
枕元にリモコンを発見。電源ボタンを押すと、部屋の隅《すみ》で液晶《えきしょう》テレビが起動《きどう》した。
ところが――
「ちょ、やべ……!」
急いでテレビの電源をオフにする。なんでエロビデオが流れんだよ!
慌《あわ》ててバッとシャワールームを見るが、幸い中の桐乃には聞こえなかったらしい。
ふぅ……と、胸をなで下ろす。妹がシャワー浴びてる間、AV見てたなんてことになったら、何を言われるか分かったもんじゃない。危なかった……。
にしても…………そう、ここは、そういうことをするためのホテルなんだよな。
で、俺《おれ》は何故《なぜ》か妹と――
「っぁ〜〜〜〜〜〜どうすりゃいいんだよォ……」
俺は、胸をかきむしって懊悩《おうのう》した。心臓《しんぞう》がばっくんばっくんいっている。
まさか、妹とこんなところに来る羽目《はめ》になるなんて……。
ずっと続いているシャワーの音と、漏《も》れてくる湯煙《ゆけむり》。そして甘ったるい石鹸《せっけん》の香り――。
「………………………………なんだってこんなことに……」
それを説明するには、時をずいぶんさかのぼることになる――。
十二月に入ってすぐのこと。
例のごとく、俺は妹の部屋《へや》でパソコンゲームの対戦《たいせん》相手をさせられていた。
『真妹大殲《しんいもうとたいせん》シスカリプス』という3D格闘《かくとう》ゲームだ。ちなみに俺も桐乃《きりの》も、別々のパソコンでゲームを動かしている。桐乃はデスクトップ、俺はノートパソコンを使って、オンライン対戦をしているというわけだ。だから実は、同じ部屋でゲームをする必要なんかないのだが――
「ノーパソ持ち出し禁止。ネットでエロサイト検索《けんさく》するから」
そんなこと言われちゃあ否応《いやおう》もない。もういい加減《かげん》忘れてくれてもよさそうなもんなのにな。ま、まあそれはそれとして……対戦|中《ちゅう》、ふとこんなことを言われたんだ。
「……あのさー……また……あるんだけど」
といいつつ、空中から連続|攻撃《こうげき》を叩《たた》き込んでくる桐乃。桐乃が操《あやつ》る女キャラ(魔法《まほう》少女妹)が、光のリングをいくつも放出して、俺の使用キャラを動けないよう一時的に拘束《こうそく》する。
「あ? なんだっ――ちょ、話しかけながら奇襲《きしゅう》かけてくんな!?」
「は? 油断《ゆだん》するのが悪いんでしょ? ――あ、死んだ死んだ、弱《よ》っわー」
俺のキャラをド派手《はで》な必殺技《ひっさつわざ》で消し炭《ずみ》に変え、にやにや笑いを浮かべる桐乃。
「おまえ|超 強《ちょうつよ》い隠《かく》しキャラばっか使うのやめろよ!」
「使えるもん使って何が悪いっての?」
うっわー、いるよなこういう自分|勝手《かって》なへ理屈《りくつ》こねて、グーセンで嫌《きら》われるヤツ。
桐乃はひとくさり俺の腕前《うでまえ》にけちをつけてから、思い出したように言う。
「そんで……さっきの話なんだけどォ」
「だからなんだよ?」
はっきり言えっての。
「……人生《じんせい》相談が、あるの」
「……ッ」
き、きたあ〜〜〜〜………。俺が内心《ないしん》で腰《こし》を抜かしてしまうのを、誰《だれ》が責められるだろう。
この台詞《せりふ》から始まった騒動《そうどう》で、俺が何度こっ酷《ぴど》い目に遭《あ》ったことやら……。
「…………なんだか、教えて欲しい?」
そう見えるのなら、眼科《がんか》に行くべきだな。これから相談しようってヤツの台詞《せりふ》かそれが。
大体《だいたい》んだよその『ぷくく』みたいな含み笑い。気持ち悪ぃ。
俺《おれ》はもの凄《すご》く気が進まなかったのだが、
……『教えて欲しい』って答えないと、間違《まちが》いなくこいつ怒るよな……。
「……はぁ、言ってみろよ」
「なにそのふざけた態度。教えて欲しいんなら、もっとちゃんと礼を尽くしなさいよ」
「んだよそのふざけた態度!? 相談に乗って欲しいんなら、てめーこそもっとちゃんと礼を尽くせや! いい加減《かげん》にしろ!」
チッ……俺はこれみよがしに舌打《したう》ちをして、
「ちなみに礼を尽くせって、具体的に何をさせるつもりなんだ?」
「土下座《どげざ》」
「なんで相談に乗ってやる方が土下座しなきゃなんねーんだよ!?」
もはや意味|分《わ》からんだろ! おまえの相談|事《ごと》ってのは、神の託宣《たくせん》かっつーの。
「早く土下座しなさいよ」
「するかっ!」
俺はむかついてしばらく黙《だま》っていたのだが、どうやら桐乃《きりの》は『今回の相談事』とやらを喋《しゃべ》りたくて仕方なかったらしく、俺の土下座を待たずしてこう言った。
「しょーがないなぁ…………今回だけは特別に教えてあげる。感謝して聞きなさいよね」
なんつー尊大《そんだい》な言《い》い草《ぐさ》なんだ……。俺は渋《しぶ》い顔で妹が語る『人生《じんせい》相談』を聞き始めた。
どうせ今回も、ロクなことになりゃしねーんだろうな〜と思いながら……。
「なに? いまなんつったオマエ?」
「だからぁ〜、あたしの書いたケータイ小説が本になるの!」
……………………。
なぁ? ある日《ひ》妹が、突然こんな妄言《もうげん》を言い始めたら、あんた、どうする?
俺は眉《まゆ》をひそめて、にやにや笑いが抑えされないといった様子《ようす》の桐乃を見つめた。
「あ、その顔……あんた信じてないでしょ」
「まぁな」
おまえの書いたレイプ小説が、どうまかり間違ったら一般|流通《りゅうつう》に乗るんだよ。黒猫《くろねこ》の話じゃ、文法もクソもあったもんじゃなかったって話だし……。
よく知らないけど、本になるってそんなに簡単《かんたん》なもんじゃないだろ。
「まいったなァ〜、あたしくらいの才能を持っているとさーあ? ときにはこういうコトも起こっちゃうんだよね〜」
はいはい。うざいうざい。
どう考えても妄言《もうげん》なのだが……ただ一抹《いちまつ》の不安は、俺《おれ》の妹は、無根拠《むこんきょ》にこういう話を始めるやつじゃねーんだよな。
実際、俺に信じてもらえなかったにも関わらず、桐乃《きりの》は余裕《よゆう》の態度を崩《くず》さなかった。
見下《みくだ》すように腕《うで》を組み、物分《ものわ》かり悪いなあコイツ、みたいな顔である。
「どうしてそうなったか……教えて欲しいでしょ」
別に教えて欲しかないけど、聞かないと怒りますよね。
「そうだな……教えてくれ」
「えぇ〜んっ? しょーがないなぁ〜」
桐乃は携帯《けいたい》を取り出して、タタタタタとキーを操作《そうさ》。その後、得意《とくい》げに携帯を手渡してくる。
「ほら、このサイト見てみ?」
「お、おう……?」
そのケータイサイトは『けーたいi倶楽部《くらぶ》』という名前らしかった。サイトの一番|目立《めだ》つところに、でかでかとそのタイトルが表示《ひょうじ》されている。全体的にカラフルでファンシーなデザイン。タイトルの下に、色々《いろいろ》なメニューが並んでいる……んだが。
やべえなあ。攻略《こうりゃく》 wiki を初めて見たときもそうだったんだけど、ごちゃごちゃ選ぶもんがたくさんあると、どうしていいか分からん。ケータイで天気|予報《よほう》見るのとはわけが違うな。
「ふん、どう? 分かった?」
「全然だな。どこを見ればいいんだ?」
「はああ? ちょ、貸して!」
桐乃は俺が持っているケータイ画面をわきから覗《のぞ》き込むや、身体《からだ》を俺にぐいぐい押しつけるようにしてケータイを操作する。
「……お、おい、あんま密着《みっちゃく》すんな」
腕と腕がくっついてんだよ。それに甘ったるい匂《にお》いがして、気になるだろうが……。
シスコンとかじゃなくて、こういうのは肉親《にくしん》とか関係ないんだってば。
……あれ? そんな思考《しこう》は、数ヶ月|前《まえ》までの俺にはなかったことに気付く。
そこで桐乃が腹《はら》を肘《ひじ》でこづいてきた。そのせいでたったいま浮かびあがった疑問は、心の奥底《おくそこ》に再び沈んでいってしまう。
「ここ! この図書館ってリンクを押して……!」
「こ、この出版|情報《じょうほう》ってやつ?」
「違う。その下。月間《げっかん》ランキングんとこ」
「――これか」
該当《がいとう》箇所《かしょ》にカーソルを合わせてもらって、ようやく桐乃の見せたいところが分かった。
ていうか、こんなもん携帯ただ渡されたって分かるわきゃねーだろっての。アホか。
「それ、このサイトに投稿《とうこう》されたケータイ小説の、月間人気ランキング」
「? トウコウ?」
俺《おれ》が首をひねっていると、桐乃《きりの》は苛立《いらだ》たしげに口元《くちもと》をゆがめた。
「はぁ……あんたさあ。そもそもこのサイトがなんなのかも分かってないでしょ……」
確かにそうだけど、なんでそれでおまえに呆《あき》れられなきゃなんねーの?
むっかつくなー!
「……そこから説明するしかないか。……めんどくさ」
物憂《ものう》げに髪《かみ》をかき上げる。仕草《しぐさ》がいちいち色っぽくて決まっていやがる。
チッ……別に聞きたくねーよ。
聞くけどさ。中途《ちゅうと》半端《はんぱ》なとこで中断《ちゅうだん》されても、それはそれでイライラするし。
そんで――
桐乃の説明によると、この『けーたいi倶楽部《くらぶ》』というのは、『携帯《けいたい》から自分のホームページを簡単に作ることができるサイト』のことらしい。そうして作った自分のホームページでは、日記を書いて公開したり、掲示板《けいじばん》を置いて他《ほか》の人たちと交流したりといったことができる。
「……この前おまえが登録《とうろく》した、SNSみてーなもんか?」
「そんなよーなもんかな。だいぶ似《に》てる。つか、ブログサイトとか、SNSとか、色々《いろいろ》名前|付《つ》いてるけどォ、そのへんの違いってかなり曖昧《あいまい》なんだよねー」
「ふーん」
例のごとく、よく分からんのに適当な返事をする俺。
「最初はそれぞれ『機能《きのう》』に独自性《どくじせい》があったりしてたんだけど、最近じゃブログサイトにもSNS機能があったりするし。Web 拍手《はくしゅ》とか Twitter みたいな人気《にんき》サービスもすぐにあちこちでぱくられちゃうし、も〜ごちゃごちゃで、ぶっちゃけどれもあんま変わんない。とりあえずユーメーどころ使っときゃいいんじゃねー、みたいな?」
とにかくぅ〜、と桐乃は語尾《ごび》を上げつつ話を区切って、
「この『けーたいi倶楽部』には、ケータイ小説を書いたり、投稿《とうこう》したりする機能があんの」
『NOVEL機能』といって、このサイトのメインらしい。作ったホームページに自作ケータイ小説を載《の》せたり、そのケータイ小説をサイトの企画《きかく》に投稿して人気|投票《とうひょう》をしたりするんだとか。
桐乃がさっき言っていた『月間《げっかん》人気ランキング』とやらがそれなんだろう。
「で――。特に人気のあるケータイ小説は、『けーたいi倶楽部』が本にしてくれるってワケ」
「へえ〜……」
初めて知った。ニュースで見たことはあったけど、実際はそうなってんのか。
ケータイ小説って、プロの作家が書いてるわけじゃねーんだな。
まあ書籍化《しょせきか》されたケータイ小説なら、本になった時点で金もらっているわけだから、プロ作家ってことになるのかもしれないけどさ。このへんの定義《ていぎ》はよく分からない。
うがった見方《みかた》をすると、この『けーたいi倶楽部《くらぶ》』って会社は『自分のケータイ小説が本になるかも?』って餌《えさ》をちらつかせて、素人《しろうと》さんを釣《つ》ってるわけだ。うまいやり方だなぁ……。
ふぅむ……。段々《だんだん》話がつながってきたぞ……。だ、だが……しかし……。
「す、すると、おまえの書いたケータイ小説が……?」
「そう! 先月のランキング一位になってさあ!」
「マジで!? あのレイプ小説がか!?」
「マジマジ! エヘッ、凄《すご》いっしょー♪」
きゃ〜〜、と、黄色い声を上げる桐乃《きりの》。両頬《りょうほお》に手を添《そ》えて、いやんいやんと恥《は》じらっている。
猫《ねこ》をかぶっているときの様子《ようす》に似《に》ているが、いまは完全に素《す》でやっているようだった。
俺《おれ》の前でこんなに無防備《むぼうび》にはしゃぐなんて……よっぽど嬉《うれ》しいんだろうな。
つい俺が口走っちゃった『レイプ小説』って台詞《せりふ》も、ぜんぜん気にならねーみたいだし。
しっかしまー、あの[#「あの」に傍点]ケータイ小説を気に入る読者ってのも、いるんだな。
びっくりだぜ。……この話を黒猫《くろねこ》が聞いたら、ショック死するかもな。だってあんなにボロクソに貶《けな》してた小説が、大人気《だいにんき》で書籍化《しょせきか》だなんてよ……。いままでの価値観《かちかん》が崩壊《ほうかい》しかねん。
まあ俺は、桐乃の書いたケータイ小説、読んでないんだけどね。
妹が考えた物語なんて、まったく読む気になれん。あの殺したくなる概要《がいよう》を聞いたあとじゃあなおさらな。にしても、
「……初めて書いた小説が本になるって、とんでもねえことじゃねえの……?」
「え? え〜? あたしそういうの詳しくないし、よく知んないけどぉ〜、そうなんじゃーん? んまー、それだけあたしの才能がずば抜《ぬ》けてたってことだよね! 投稿《とうこう》期間ばっか長くて頭でっかちなボンクラワナビどもには、ご愁傷《しゅうしょう》さまって感じだけどぉ〜〜♪」
うぜーっ。今日の桐乃は、いつもにも増してウザかった。
あとで聞いた話だと、『ワナビ』ってのは、クリエイター(この場合は小説家)志望《しぼう》の人を指す用語で、主になりたくてもなれない連中《れんちゅう》を椰楡《やゆ》にするときに使うらしい。小説家志望でない俺でさえムカつくくらいなのだから、桐乃の言動《げんどう》をワナビとやらが聞いたら、ブッ殺したくなるかもしれないな。この前の黒猫みたいにさ。
ちなみにワナビの語源《ごげん》は英語、wanna be≠略《りゃく》したもので、「〇〇になりたい=〇〇志望者」という意味がこもっているんだと。
「しかしよくまあ、アレを本にしようなんて奇特《きとく》な人がいたもんだな」
「ん? ああ違う違う。書籍化って言っても、いつもとはちょっと違くて……」
「あん?」
「今回ランキング一位取ったやつを出版してくれるわけじゃないんだってさ」
「どういうことだ?」
「あんたちょっとお菓子《かし》とジュース用意して」
「かけらも文脈《ぶんみゃく》がつながってねえ!」
流れぶった切って命令すんな!
そしてどうして俺《おれ》は、文句《もんく》も言わず冷蔵庫《れいぞうこ》に向かって歩いているのだろう?
いつもの定《てい》位置・リビングのソファに腰掛《こしか》けた妹は、俺が用意してやったコーラを飲み飲み話し始めた。
「さっきも言ったけど、どうやって本になるのかって言うと――」
桐乃《きりの》によると『けーたいi倶楽部《くらぶ》』の月間《げっかん》ランキングで一位を取ったからといって、即《そく》出版してくれるというケースはまずないらしい。
それだけの実績《じっせき》では『書籍化《しょせきか》するほどの人気《にんき》がある』とは認められない。
書籍化してもらうための条件は、月間ランキングではなく――
「だいたい|P V《ページビュー》数、百万《ひゃくまん》以上くらいが書籍化の目安かなー」
「ページビュー数?」
「そのケータイ小説が読まれた数のこと」
「ふ、ふーん……って、じゃあ百万|人《にん》以上に読まれないと駄目《だめ》ってことかよ!?」
「さすがにそこまでいかないって。同じ人が二回読んでもビュー数|増《ふ》えるしね。ようするにインターネットのアクセスカウンターみたいなもんと考えて。ケータイ小説のページ全体[#「ページ全体」に傍点]で百万ヒットってこと」
つまり百ページのケータイ小説を最後まで読んでもらえたら、百ビューってわけか。
ってことは百万ビューってのは『百万人に読まれた』じゃなくて『百万回[#「回」に傍点]読まれた』ことを意味する数字なんだな。
「――それでも途方《とほう》もない数字だろ、百万つったらさ。だって百ページあったとして、最後まで読んでくれるとは限らないわけじゃん? つまんなかったら、そこで読むのやめるだろうし」
「まあそーね。本当に人気があるケータイ小説だと、三ヶ月くらいで百万ビュー越えたりするケド。そんで、そのくらい行ってたらそこで初めて『けーたいi倶楽部』から連絡《れんらく》が来たりするわけ。もちろん百万ビュー越えたケータイ小説が、全部《ぜんぶ》書籍化されるわけじゃないけどね」
ふうん。ようするにサイト運営《うんえい》会社が『売れる』と判断《はんだん》しねーと、幾《いく》らビュー数|稼《かせ》いでも本にはならないってことか。向こうも商売だしな、当たり前の話なんだろうけど……。
「ハードル高《た》けぇなあ――」
妹がいきなり本を出すみたいな話を持ってきたもんだから勘違《かんちが》いしてたぜ。
『ケータイ小説なら、誰《だれ》でも簡単《かんたん》に本を出せる』というわけじゃねーのな。
や、まぁ、さすがにそれは本を出している人たちに失礼な話か。
「……これはこれで、険《けわ》しい道のりなんだな」
「うん」
「ちなみにおまえのケータイ小説って、ビュー数いくつあるんだ?」
「三十五万ビューくらい。投稿《とうこう》してから一ヶ月で」
「はあ――」
すげえな。そのペースなら三ヶ月で百万《ひゃくまん》いくかも……。
「でも、いまはまだ百万ビューにはぜんぜん足りてないじゃん」
「でしょ。だからあたしも、この話が来たときはびっくりしたんだよね……へへ」
などと桐乃《きりの》はニヤニヤしている。俺《おれ》の用意したクッキーをパクつきながら、
「昨日《きのう》、編集者《へんしゅうしゃ》って人からメールがきてさ。あたしのケータイ小説、読んでくれたんだって」
「へえ……? でもさあ桐乃……いくら何でも話がうますぎないかそれ?」
ていうかそもそも編集者って何? 出版社に勤めてる人ってことくらいしか知らないぜ。
「そうかもね」
喜びに水を差すようなことを言った俺に怒るかと思いきや、桐乃はわりと冷静に物事《ものごと》を捉《とら》えているようだった。
「直接|会《あ》って詳しいこと話したいって言われてて……」
「そいつ男? 女?」
「たぶん男だと思うケド?」
「たとえば編集者ってのがウソっぱちでさ。なんか変なやつだったら、危ねえんじゃねえか?」
世の編集者さんたちにゃ悪いけど、その職業、名前からして怪《あや》しげな印象《いんしょう》あるんだよな。
それにケータイ小説って、女子《じょし》中高生が書いているイメージあるし、『おまえのケータイ小説を本にしてやるよ?』ってのは十分|魅力的《みりょくてき》な餌《えさ》になるから、編集者を騙《かた》ったナンパってのも……あり得るかもしれねえ。俺が渋《しぶ》い顔で腕《うで》を組むと、桐乃が顔を覗《のぞ》き込んできた。
「……へー、なに? あたしのこと心配なんだ?」
「ば、バカ言え。誰《だれ》がおめーなんか……」
俺がそっぽを向くと、桐乃は妙《みょう》に楽しそうに笑い出す。
「きゃはは――ま、あんたってシスコンだからねー。あーきもいきもい」
「違うっつってんだろうが! いい加減《かげん》にしろ!」
クソ、何度そのネタでからかうつもりだよ……。
「……ぷっ」
桐乃は、意地《いじ》クソ悪い表情で俺をあざ笑い、
「はいはい、そーいうことにしておいてあげる。で、どうすんの? あんたが一緒《いっしょ》に来たいってんなら、当日|連《つ》れてってあげてもいーけどー?」
「………………くっ」
なるほどな。今回の人生《じんせい》相談ってのは、これか……。つまり自分一人で編集者《へんしゅうしゃ》と名乗《なの》る男と会うのが怖いから、俺《おれ》に一緒《いっしょ》に付いてきて欲しいんだろうよ、こいつは。
はぁ……素直《すなお》にそう頼んでくりゃあ、俺だって鬼《おに》じゃねえから、しょうがねえ俺も行ってやるよって返事もできんだけどな。この態度はねーわ。ここで『行く』なんつったら、俺が妹のことが心配で、自発的にそうしてるみたいじゃねーかよ!
誰《だれ》が行くかそんなもん! ばっかじゃねーの? もっと頼み方ってもんがあんだろうが?
俺は反撃《はんげき》とばかりに意地《いじ》クソ悪く聞いてみた。
「……ふん。ちなみに、俺が行かねーっつったら、どうすんのおまえ?」
「一人で行く」
「バカ、お袋《ふくろ》と行けよ!」
「やだ。お母《かあ》さん口軽《くちかる》いから、絶対お父《とう》さんにバラされる。あたしがこっそりモデルやってたのもあっという間にバラしたし」
そうか……。あのババア口軽いもんなァ。つうかおまえなんかまだいいよ。俺なんか、初めて買ったエロ本の詳細《しょうさい》、ご近所にバラされたんだぜ? 小学校からの帰り道、お隣《となり》の奥さんとくっ喋《しゃべ》ってたお袋の右手に、Cream六月号を発見したときの俺の気持ちが分かるかね?
まあいい。そんなトラウマはどうでもいいんだ。
「ってことはオマエ、ケータイ小説書いてること、親父《おやじ》とお袋には秘密《ひみつ》にしたいわけか?」
「だって……たぶんお父さんに反対されるし……」
そりゃそうだろうけど。
「本《ほん》出すんなら、きっと金が絡《から》むし、親に秘密にしとくわけにゃいかんだろ」
「分かってるけど……それならそれで、ぎりぎりまで秘密にしておきたい」
どうやら桐乃《きりの》は、書籍化《しょせきか》が本決《ほんぎ》まりになってから、編集者と一緒に親に話を通すという腹づもりらしい。外堀《そとぼり》を埋《う》めて、協力者を得て、それから説得《せっとく》しようってのはなるほど有効な策《さく》かもしれんな。このへん手慣れているふしがあるのは、モデル活動を親に認めさせたという過去の経験からだろう。
「だから、お母さんには話せない。あんたが来ないなら、一人で行く」
「……あっそ」
勝手《かって》にしろよ……と言いかけた俺であったが、ふと妹を一人で行かせた場合のことを想像《そうぞう》してしまった、
こいつ見てくれだけはかわいいからな……。東京なんて人の多いところいったらナンパされたりするかもしんねーし。その編集者とやらが悪いやつだったりしたら、いくらしっかりしてるっつっても中学生|一人《ひとり》じゃ抵抗《ていこう》するのにも限界があるだろうしなぁ。
別に心配しているわけじゃないが、こうして直接|聞《き》かされると気になってくる。
チッ……しょうがねえな。
「……分かった。俺《おれ》が一緒《いっしょ》に行ってやるよ」
「は? なにその不本意《ふほんい》そうな顔。ちゃんとお願いしないと連れてってやんないよ?」
「連れてってくださいお願いします!」
もうやけくそだ! ったく――これじゃシスコンって言われても、もう反論《はんろん》できねえな!
そんなつもりじゃねえってのによ。
というわけで、あっというまに日曜日。
俺は妹と、新宿《しんじゅく》にある出版社にやってきた。新宿|駅《えき》の西口から出て、徒歩《とほ》で都庁《とちょう》方面へと向かい、新宿中央|公園《こうえん》を時計|回《まわ》りにぐるりと半周《はんしゅう》。そんな感じで到着したのは、黒光《くろびか》りした背の高いビルディングだ。どうやら件《くだん》の出版社は、このビルに入っているらしい。
……しかしでっけービルばっかあるトコだな、新宿ってのは。人はやたらと多いし、駅はぐちゃぐちゃ複雑《ふくざつ》だしよー。地下|迷宮《めいきゅう》かよって突っ込みたくなるわ。
俺は携帯《けいたい》の時計を確認し、ふぅ、と一息《ひといき》。
「時間ぎりぎりだけど、なんとか間に合ったな」
「ふん、迷わなきゃもっと余裕《よゆう》持って着いたのに。これじゃ化粧《けしょう》直す暇《ひま》もないじゃん。どうしてくれんの?」
今日の桐乃《きりの》は、普段《ふだん》よりもかなり大人《おとな》びた格好《かっこう》をしていた。いや……普段からこいつは大人っぽい格好をしちゃいるのだが、今回はそのベクトルが違うというか……。
黄土色《おうどいろ》のパンツスーツといい、嫌味《いやみ》のない薄《うす》化粧といい、いかにも社会|人《じん》っぽい、フォーマルでおしゃれなファッションだった。
「……初めて来たんだから、いっさい迷わずに着けるわけねーだろ」
だいたいこの地図も悪いよ。駅から徒歩8分って……どんだけ早足《はやあし》で歩いて計測《けいそく》したの?
駅ん中で迷ったせいもあって、15分以上かかったっての。
俺は出版社の公式サイトから印刷した地図に、内心《ないしん》で愚痴《ぐち》るのであった。
「で、待ち合わせはここのロビーなんだっけ?」
「うん……ロビーに四時半って言ってた。…………あんたはこの辺で待ってて」
「……ん? 一緒に付いていかなくていいのか?」
「バーカ。せっかくフォーマルファッションで決めてきたのに、あんたみたいなダサ男がとなりにいたら台無《だしな》しじゃん。絶対付いてこないで」
……でも、そもそも一人で会うのが怖いから、俺をここまで連れて来たんじゃねーの?
俺の疑念《ぎねん》が伝わったのかどうかはしらないが、桐乃は「……」と口元《くちもと》を引き結んでしばらく押し黙《だま》り、やがて口を開いた。
「付いてこなくていいけど…………近くにいて。で、空《から》メール送ったらすぐ来て」
「あいよ、了解《りょうかい》」
ま、言うとおりにしてやるさ。
「じゃ、行ってくる」
「――おう、行ってこい」
桐乃《きりの》は軽く片手を上げて、ロビーに入っていった。自動ドアが開閉《かいへい》する。
俺《おれ》は邪魔《じゃま》にならないよう脇《わき》の柱《はしら》の方にどいて、入り口のそばで待つことにする。桐乃からのSOSが入るかもしれないので、ケータイを手に持ったままでだ。
――うーん。俺、来た意味あったのか……? そんなことを考えていると、入っていったばかりの桐乃が、スーツを着た細身《ほそみ》の男と並んで出てきた。
「っと」
別にやましいことがあるわけじゃないのに、柱の陰に身を隠《かく》してしまったぜ。
そこでケータイがぶるぶるとバイブレーション。
「!」
すわSOS信号かと身構《みがま》えたものの、そうではなかった。
『場所|変《か》える。付いてこい』
「………………へいへい」
よくまー普通に行動しながらメール打てるなぁオマエ。俺にはとうてい真似《まね》できん。
ふーん。しかし、編集部《へんしゅうぶ》で話をするんじゃないんだな。
俺は歩いていく桐乃たちの後ろを、少し離れて尾行《びこう》していく。すぐそばの交差点を渡り、南へ向かってしばし進んだところで、桐乃たちは喫茶店《きっさてん》に入っていった。
「さて、どうすっかな……」
俺も入った方がいいんだろうか。迷ったところで再びケータイがバイブレーション。
「っ! フゥ……連絡《れんらく》メールか」
やれやれ、あいつが別れ際に変な命令をしていくもんだから、メールが着信するたびにビクッとしちやうよ。なんかアブねーことになったんじゃないかってさ……。
で、えーと、なになに?『そこで待ってろ』? はいはい……と。
「ふ――」
夕日を振り仰いでため息を一つ。それから俺は、一時間ちょいも喫茶店の入り口|付近《ふきん》で立ちつくすことになったのである。
日も落ちて、あたりがすっかり暗くなったころ、喫茶店から桐乃が一人で出てきた。
満足そうにニヤニヤしている。首尾良《しゅびよ》くことが進んだようだな。
俺は片手を上げて妹を出迎える。
「よう、お疲れ」
「……あれ? まだいたんだ、あんた」
「ははっ、こいつめ〜、素《す》でとんでもねえことを言いやがったな?」
まだいたんだ、あんた。
まだいたんだ、あんたって!
ひッでえ……! こ、この世に、これほどまでにひどい台詞《せりふ》があっていいのか……!?
せっかくの休日つぶして、新宿《しんじゅく》くんだりまで付いてきてやって、いつSOSがくるかと身構《みがま》えながら一時間以上ここで待ってた兄貴《あにき》に向かって! この仕打ち!
「あんたなんで涙目《なみだめ》になってんの? はーん、そんなにあたしが心配だったわけぇ?」
「それだけは金輪際《こんりんざい》ねえよ! 誰《だれ》がてめーなんぞの心配するかっ!」
突き放すように言い捨てて、踵《きびす》を返す。そのまま桐乃《きりの》を置き去りにする形で数歩《すうほ》歩き……
……さあてちっとは反省してっかな?
ちらっと後ろを振り返ると、
「おまえなに一人でタクシー乗って帰ろうとしてんだよ!?」
「え? いまタクシー代もらっちゃったから」
きょとんと返事してんじゃねえ! そういうことじゃなくて、なんでもの凄《すご》く自然に俺《おれ》を置いて行こうとしてんのかって――もういいや。言うだけ無駄《むだ》だなてめえには。
つーかこの辺、やたらとタクシー通ってんのな。それだけ利用|客《きゃく》が多いってことなんだろうが……。おかげさまで、危うく振り返ったら妹が消えているというホラー体験をしそうになっちゃったよ。
一悶着《ひともんちゃく》あったものの、俺と桐乃はタクシーで駅に向かった。
目的|地《ち》に着くまでの間、後部《こうぶ》座席で会話をする。
「で? どうだったんだ?」
例の編集者《へんしゅうしゃ》って、信用できそうなやつだったのか?
聞くと、桐乃は勢い込んでこう言った。
「着眼点《ちゃくがんてん》がいいって言われちゃった! あと、いまどきの女の子っぽさがよく出てるって! だから読者の共感《きょうかん》を得られるんだろうねって――すっごい褒《ほ》められた!」
「……そっか」
そういう意味で聞いたんじゃなかったんだが……。ま、いっか。この様子《ようす》からすっと、少なくとも危ない野郎《やろう》じゃなかったみたいだしな。とはいえ、一応《いちおう》、確認《かくにん》のためにこう聞いてみた。
「どんな人だった?」
「んーとね」
桐乃は下唇《したくちびる》を指で触《さわ》りながら考えて、
「かなり真面目《まじめ》そうな人だったかな。なんていうか、エリートビジネスマン? そんな感じ。人当たりもすごくよかった。そうそう、編集部のこととか色々《いろいろ》質問してみたんだけど、よどみなく答えてくれたし――なによりあたしのケータイ小説について、具体的に批評《ひひょう》してくれたしね。あんたが心配してるようなことはぜんぜんなかったよ」
「…………」
別に心配はしてないがな。ふん、あっそう、本物《ほんもの》だったの。そりゃよかったね。
ま、確かにきっちりしてそうな人ではあったな。ほとんど後《うし》ろ姿《すがた》しか見てないけど、ぱりっとしたスーツ着て、いかにもできる社会|人《じん》って感じだった。
「へへ……わりと美形《びけい》だったしね」
美形はカンケーねえだろ。これだから女ってのは……。顔で人を判断してんじゃねーよ。
俺《おれ》がむすっと押し黙《だま》ると、桐乃《きりの》は「なに怒ってんの?」とか…言いながら、
「ほら、こんなのもらった」
さっきの人の名刺《めいし》を差し出してきた。俺はそれを受け取って、ためつすがめつ検分《けんぶん》する。
メディアスキー・ワークス第二|編集部《へんしゅうぶ》モバイル書籍課《しょせきか》、熊谷《くまがい》龍之介《りゅうのすけ》、とある。
名前の下には出版社の電話番号が書かれており、その下におそらく編集者|個人《こじん》の携帯《けいたい》番号とメールアドレスだろうものがボールペンで書かれていた。『←基本こちらで』と注釈《ちゅうしゃく》されているので、連絡《れんらく》を取りたいときはこっちによろしくってことなんだろうな。
「熊谷さん――ねぇ」
「あたしモデルの仕事で出版社の人から名刺もらったりするんだけど、やっぱこんなんだったよ?」
「別に偽物《にせもの》だなんて言ってねーよ。……そんで? 書籍化の件は――なんだって?」
妹の自慢気《じまんげ》な口調《くちょう》が気にくわなかったので、話を切り替える。
と、桐乃は別段《べつだん》気にした風《ふう》もなく、
「それそれ、それなんだけどさあ。――やっぱ新作《しんさく》を書いて欲しいって。いま色々《いろいろ》話してきたんだけど、いまのままだと『読者の目線《めせん》が足りない』ってアドバイスもらったの。だから、もう少し対象《たいしょう》読者《どくしゃ》を絞《しぼ》って? ちゃんと意識した話を書いた方が人気《にんき》出るっていうのね? で、いいのが仕上がったら、それを本にしようだってさ」
「…………おまえ、その話、受けるつもりなの?」
この時点で、俺は幾《いく》つかの懸念《けねん》を抱いていた。
「うん。せっかくだから、やってみるつもり」
この様子《ようす》からすっと、言っても無駄《むだ》な気がするけど……一応釘《いちおうくぎ》だけ刺《さ》しておくか。
「おまえが決めることだから、あんま口出しできねーし……そのやる気に水を差しちゃうようでアレだけどよ。……そんなことやってるヒマあんのか、おまえ?」
俺の妹は、陸上部のエースであり、ティーン誌で活躍《かつやく》中のモデルであり、県で有数《ゆうすう》の成績を誇る優等生《ゆうとうせい》であり、ついでに最近コミケデビューを果たしたオタクでもある。
だから、そんなことやってるヒマあんのかってのは、そういう意味だ。
この前、例のごとくお袋《ふくろ》がおまえの自慢《じまん》話をしてたんだが、そのとき色々《いろいろ》聞いたんだよ。
……部活も仕事もすこぶる順調《じゅんちょう》で、それらが重なる年末は特に忙《いそが》しいんだろう? おまえ。
この前|秋葉原《あきはばら》で予約したゲームの発売日だって、年末だって言ってたじゃねーか。おまえのことだから、絶対それもクリアするんだろ? ったく、この妹《バカ》、現時点《げんじてん》でもすでに、どこから時間を捻出《ねんしゅつ》してんのか計り知れないところがあるくらいだってのに……。ここにさらにケータイ小説が加わるってのは……どうなんだ?
「まあねー、結構《けっこう》忙しくなりそうだけどー」
俺《おれ》の指摘《してき》は、桐乃《きりの》自身も懸念《けねん》していたことだったのだろう。腕《うで》を組んで、下唇《したくちびる》を押し上げて、考え込むようなポーズになった。片掌《かたて》を広げ「あれと、これと、それと……」などと指折《ゆびお》り数えながらブツブツ呟《つぶや》く。しかしそれも長くは続かず、あっさりと言い放つ。
「ま、なんとかなんでしょ。あたしを誰《だれ》だと思ってんの?」
「そうかよ――。じゃ、勝手《かって》にすりゃいいんじゃね?」
俺は、投げやりに言い捨てた。どこか誇らしい気持ちになったのは、気のせいだろうけど。
「あんたなんかに言われなくたって、勝手にするっての。そうそう。近いうち、取材《しゅざい》のために渋谷《しぶや》行くから。あんたも付いてきなさいよ。今日《きょう》は何の役にも立たなかったんだから」
はいはい。もはや怒る気にもならんな。あれもこれも、言うだけ無駄《むだ》ってやつだ。
一度言い出したら聞きやしねえ。
もう煮るなり焼くなり好きにしてくれよ。
そして時はすぎ――あっという間に、十二月二十四日。
いつものように俺は、麻奈実《まなみ》と一緒《いっしょ》に登校路《とうこうろ》を歩いていた。
「ねえ、ねえ、きょうちゃん。……今日……暇《ひま》?」
「あん?」
すげなくとなりに視線をやると、ふわふわとした微笑《ほほえ》みがそこに。
「今夜ね、うちでくりすますのお祝いをやるんだ。お赤飯《せきはん》とか、けーきとか、作って……。だから、よかったら……今年も……」
「パス。今日、先約《せんやく》があんだよ」
「が――んっ」
口を真四角《ましかく》にしてショックを受ける麻奈実。
どさっと鞄《かばん》を落っことし、がくがく顎《あご》を震わせながら、
「せ、せせせ先約ってなにっ?」
「どうしたよ、そんなに血相《けっそう》変えて……」
「か、変えてないよ? 変えてないもんっ」
変えてるだろうが、いつも以上にあわ食ってるだろ。
「……ね、ねぇ……先約《せんやく》って………………誰《だれ》と?」
か細い声で聞かれた俺《おれ》は、むっつりと押し黙《だま》った。
言おうか言うまいか数秒|迷《まよ》い……結局《けっきょく》、ぷいっとそっぽを向いて吐《は》き捨てる。
「おまえにゃカンケーねー」
「ふぇぇ……ぅぅ〜〜」
しょんぼりしてんじゃねーよ、ったく。
言えるわきゃねーだろうが、クリスマスイブに――
「――妹と渋谷《しぶや》に行くなんてよ……」
「なんか言った?」
「なんでもねーよ」
妹の険悪《けんあく》な問いかけに、すげなく答える俺。
そう、先約ってのは、桐乃《きりの》と渋谷にケータイ小説の取材《しゅざい》に行くことだったのさ。
駅|構内《こうない》から出るや、109をのぞむスクランブル交差点《こうさてん》方面へと進む。スピーカー付きのワゴンから垂《た》れ流される、神がどうのこうの――という声がうっとうしい。
空は夕焼けに染《そ》まり、じきに夜になるだろう。そうしたら街を飾《かざ》るイルミネーションが、もっと綺麗《きれい》に見えるようになるのかもな。
今日《きょう》もモデルファッション全開の桐乃は、まさに自分の土俵《どひょう》に戻ってきたという感じで、完璧《かんぺき》に周囲の雰囲気《ふんいき》と一体化している。ここは桐乃みたいのがたくさんいるエリアなのだ。
駅前の人混《ひとご》みはアキバやコミケを連想《れんそう》させるが、歩く人たちの服装や顔がぜんぜん違っていた。みんなやたらとおしゃれな人ばかりで――美男《びなん》美女《びじょ》とすれ違う確率《かくりつ》が目に見えて多い。
俺の妹が、飛び抜《ぬ》けて目立たないくらい。
むう……それなりに決めてきた自分の服装が、粗末《そまつ》に思えてくるな……。
「チッ、なんでわざわざイブに来たのかって思ってるでしょ? あたしだって嫌《いや》に決まってるじゃん。だけどこれから書こうと思ってるケータイ小説で、イブのシーンがたくさんあるから、締め切りの関係もあって、今日じゃなきゃダメだったの。断腸《だんちょう》の思いで、あやせの誘い断ってまでっ。本当ならあやせの事務所が主催《しゅさい》するクリスマスパーティに行くはずだったんだからっ」
べらべらべらべらまくしたてる桐乃。
なんつー恩着《おんき》せがましい言《い》い草《ぐさ》なんだ。俺だってなあ、予定がなけりゃ例年《れいねん》通り、田村《たむら》さん家《ち》のクリスマスパーティに顔出すはずだったんだよ。
それを曲げてついてきてやったんだから、てめーこそ感謝しやがれ。
「ねぇ、人の話|聞《き》いてんの? いまあたしが言ったこと、ホントに分かったァ?」
「ハイハイハイハイハイハイハイハイ――よーく分かりましたよ」
「――ハ、うぬぼれないでよねキモいから」
「分かったっつったろうが! 人の話聞いてんのかよ!?」
桐乃《きりの》といいあやせといい、黒猫《くろねこ》といい沙織《さおり》といい――どうして女子《じょし》中学生ってのは人の話を聞かねーんだろうな。どっかの地味《じみ》眼鏡《めがね》を見習えよクソっ!
「――で? 取材《しゅざい》って何すんの?」
取材って言葉は分かるけど、何すんのかさっぱり分からねえ。
こんなふうにぶらぶら歩いてるだけなら、俺《おれ》きた意味なくねー? そんな思いを視線に込めて妹を見ると、桐乃はなにやら手帳を覗《のぞ》き込んでブツブツ呟《つぶや》いていた。
「桐乃?」
「――聞いてるって。いままとめてんだから黙《だま》ってて。――っと、まずはァ……」
どうやら桐乃が眺《なが》めている手帳には、これから書くケータイ小説の概要《がいよう》(プロットというらしい)が書かれているようだ。
桐乃は手帳と渋谷《しぶや》の町を交互《こうご》に見やり、前方の交差点《こうさてん》を指さした。ドラマなんかでよく見かける、有名な交差点だ。ちょうど信号が青になって、大量の人間が行き交《か》っていた。
「最初はあそこから」
「渋谷のスクランブル交差点ねえ――」
桐乃の書く話がどんなものなのかは知らないが、こいつらしい舞台ではあるな。
「ちなみにスクランブル交差点で、なにすんの?」
「順番《じゅんばん》にプロローグから行く。主人公の女子中学生が、イブに彼氏《かれし》とデートしてるシーン」
「は?」
「だからー、あたしたち二人で、主人公たちと同じ行動をシミュレートしてみようってわけ。実際に体験したことのほうが、リアルに書けるから」
「なるほど、取材ってのはこういうことか。おまえが主人公|役《やく》で、俺が彼氏の役ってわけね」
「不本意《ふほんい》だけどそういうこと」
ようやく俺を連れてきた理由が分かったぜ。俺は小説なんて書いたこたないけど、百聞《ひゃくぶん》は一見《いっけん》にしかずって言うしな……。そういうことなら、まぁ、協力してやらんこともないよ。
しかしこいつ、やるとなったらホンット、とことんやるヤツなんだよな……。
クリスマスを潰《つぶ》してまでなあ……。よくやんぜまったく。
陸上にしろ、勉強にしろ、モデル活動にしろ、エロゲーにしろ――
そして、ケータイ小説にしろ、だ。
「オーケイオーケイ。よっしンじゃまずなにするよ? て、手でも繋《つな》いで渡ってみるか……?」
「そーね、とりあえずそのへんのダンプに礫《ひ》かれてみてよ」
「しょっぱなから彼氏|挽肉《ひきにく》かよ!」
どんなスプラッタ小説!?
「人《ひと》聞き悪いなァ。グロい表現やめてくんない? 読者に衝撃《しょうげき》を与えるために、ショッキングな悲劇《ひげき》から始まるってのはラブストーリーの定石《じょうせき》でしょ?」
「知ったような台詞吐《せりふは》きやがって……ぜってーやんねえからな!」
「えー? はぁ……いきなりわがまま言わないでよ。あたしのプロットどおりやれっつってんの。そこは実際にやってみてくんないと、リアルな情報が得られないしぃ」
「だからって、いきなり挽肉《ひきにく》になった彼氏《かれし》の末路《まつろ》をシミュレートさせてどうすんの!? 兄貴《あにき》の肉片《にくへん》からどんな情報を読み取るつもりなんだよ!」
俺《おれ》の叫びを受けた桐乃《きりの》は、警察に協力するサイコメトラーのように片手を掲《かか》げ、
「犯人の手がかりとか?」
「犯人はおまえだ!」
てか、その流れだと、おまえの新作マジでプロローグで彼氏死ぬのかよ。ずいぶんとまあ、重そうな話っすね……。
「あのね、言っとくけど、ケータイ小説の読者はこういうのを求めてんだよ?」
ホントかよ……。なんだそのもの凄《すご》い自信は、いったいどっから沸《わ》いてくるわけ?
俺にゃあホラー小説の序章《じょしょう》に見えるけどなぁ……。
「しょーがない。取材|始《はじ》まったばっかでリタイヤされても困るしね。ここは写真|撮《と》ったりするだけでいっか」
言いつつ、交差点《こうさてん》をケータイカメラでぱしゃぱしゃ撮影《さつえい》している桐乃。
お、わりと本格的っぽいじゃん。
「ここはおっけ。次《つぎ》行くよ」
続いて俺たちは、109へとやってきた。入り口にはコンサートのステージが設営《せつえい》されていて、今夜はクリスマスイブなんだなと思い出す。
知らないやつらのために一応《いちおう》説明すると、109ってのは渋谷《しぶや》にある、若者に人気《にんき》のある女物《おんなもの》の服屋《ふくや》がたくさん入った建物のことさ。
かくいう俺も、いま桐乃に教えてもらったんだけどな。
敷地《しきち》面積はそんなに広くないものの、地下2F〜地上8Fまであって、中には当然《とうぜん》渋谷|系《けい》の女の子たちが大量に詰《つ》まっている。俺も初めて入ったんだが、中に入った瞬間《しゅんかん》の『俺、この店に存在していていいの?』という場違《ばちが》い感が凄い。早く出ていけみたいな視線を感じるのは、気のせいだろうか。だって外よりもさらに美人|遭遇率《そうぐうりつ》が跳ね上がるんだぜ。芸能人《げいのうじん》一歩|手前《てまえ》みたいな細っこい女やら、ケバい女やらが、ぞろぞろその辺を歩いているというのは、それなりに壮観《そうかん》ではあった。そうそう。妙《みょう》に甘ったるい匂《にお》いがするので、なにかと思ったら、妹の部屋と同じ匂いがするんだな。
「とりあえず、先に上のぼって服|見《み》るから」
「はいはい」
よし、と覚悟《かくご》を決めて一歩を踏み出す。そうして俺《おれ》らは、服を眺《なが》めながら上へ上へとエスカレーターでのぼっていった。
「しかしすっげえ服ばっかだな……。このマネキンがはいてるエロいスケスケミニスカートとか、誰《だれ》がはくんだよ」
他《ほか》にもマリリン・モンローが着てるよーな服やら、歌《うた》番組の衣装《いしょう》みたいのやら、よっぽど美人じゃなきゃ恥《は》ずかしくて着られないような服が普通に売っている。実際、芸能人《げいのうじん》とかもこの店で服《ふく》買《か》ったりしてるのかもな。
「いちいち感想|呟《つぶや》かなくていいからね? 黙《だま》ってればカッペだってことはバレないんだからさー、もうあんた一人で千葉《ちば》に帰れば?」
「おまえだって住んでるとこ一緒《いっしょ》だろ! 千葉にお住まいの皆さんにあやまれ!」
で――さらにエスカレーターで上にのぼっていくと、今度はかわいい系《けい》の服が売っているフロアに着いた。このフロアに売っている服はやや子供っぽいので、普通の女の子が着ていてもおかしくはない。値段《ねだん》もせいぜい五千円|程度《ていど》で手頃《てごろ》である。ふむ……。
「あんたなにマネキンじろじろ見てんの? もしかして、買うつもり? それ」
「いや……こういう店の服は、どれも麻奈実《まなみ》にゃ似合《にあ》わんだろう……ってな」
「ふん、そうでもないでしょ。特にこのフロアの服ならそんなに派手《はで》系じゃないし」
いつも麻奈実をけなしてばかりの桐乃《きりの》が、珍《めずら》しく擁護《ようご》するようなことを言った。おそらくファッションについては、こいつなりの持論《じろん》があって、だからその点については自然と率直《そっちょく》な意見が出てくるんだろう。いまさらになってしまうが、実は俺も内心《ないしん》では、このフロアの服なら麻奈実でも着られるかも……なんて思っていたのだ、
しかし桐乃は、俺が見ていたマネキンの腰《こし》にふれて、人の悪い薄笑《うすえ》みを浮かべる。
「でもさー、このへんの服、どれも腰|回《まわ》り結構《けっこう》細いよ? 大丈夫《だいじょうぶ》?」
「たぶん無理《むり》だ……」
あいつ毎年、秋口から冬の終わりにかけて、その……腰回りがお太りになられるから。
「だよねーっ。きゃははー和菓子《わがし》ばっか食べてッから、ジミコデラックスになんのよ!」
「ひ、人の見てくれをバカにするんじゃない! おまえだってモデルのくせにマル顔だよねって言われたらムカつくだろ!」
ぱーん!! 爆笑《ばくしょう》から一転《いってん》、悪鬼《あっき》の形相《ぎょうそう》で平手打《ひらてう》ちをぶっぱなす桐乃。
「痛ッてえ!?」
そ、そうか……やっぱそれ、気にしてたんだな……。
店内を8Fまで一通《ひととお》り巡り終えた俺たちは、今度は地下へとやってきた。
地下1Fを素通《すどお》りして、地下2Fへ。
「そういやここって、ぐるぐる回るだけで取材《しゅざい》になってんの?」
「まあねー、でもここからが本番だから」
のしのしと桐乃《きりの》が俺《おれ》を導いたのは、地下2Fのアクセサリーショップ『SAMANTHA McBEE』。ピアスやら指輪《ゆびわ》やらのアクセサリーが、きらびやかに展示されている。幾《いく》つか手に取ってみると、2000円〜3000円くらいのものも数多く、やはりお手頃《てごろ》な価格である。若者の街だけあって、109ってのは意外《いがい》と安くていいものを取りそろえているのかもな。
「で? ここではどんなシーンを取材するんだ?」
「彼氏《かれし》とデートしてるシーン」
ぼそっと無《ぶ》愛想《あいそ》に呟《つぶや》く桐乃。
「彼氏って……さっき挽肉《ひきにく》にならなかったっけ?」
「アレとは違う彼氏に決まってんじゃん。ちなみに元《もと》カレが死んでから、一ヶ月|後《ご》って設定」
ふーん……ふぅ〜ん。一ヶ月後ねえ。
「なにその顔? なんか言いたいことでもあんの?」
「いや……元カレが死んだのに、早々に新しい男|作《つく》ってんだな……と思って」
しかも中学生だろこの女。どんだけビッチよ。
「んなのフツーでしょ? 問題ある?」
「あるだろう。読んだ人の反感《はんかん》買うんじゃねえの? 少なくとも俺はやだぜ、こんな薄情《はくじょう》な主人|公《こう》」
「分かってないなあ。それは男の考え方でしょ。少なくともあたしだったら、薄情っていうより、頑張《がんば》って立ち直ろうとしてるって取るよ」
「そんなもんかね」
俺はそれ以上、この件について何も言わなかった。女子《じょし》中学生の感性《かんせい》は、所詮《しょせん》俺なんぞには理解できないからだ。桐乃が作る話なんだから、好きにやればいいとも思う。
「じゃ、そういうわけでアクセ買ってよ」
「は? な、なに? ……なんだって?」
唐突《とうとつ》に言われた台詞《せりふ》が耳を疑うものだったので問い返すと、桐乃はチッと舌打《したう》ちをした。
「ここ、彼氏にアクセ買ってもらうシーンだから、アンタあたしにアクセ買って」
「……!!」
聞いたかオイ!? なんだよその論弁《きべん》はよお! ま、まさか……取材にかこつけて俺からむしり取るつもりじゃあるまいな。
チラ、と妹の顔色《かおいろ》をうかがうと、桐乃はバカにしたようなツラで鼻を鳴らした。
「あっれー? なに? まさかそんな甲斐性《かいしょう》もないワケぇ? 信じらんない、ホンット予定|狂《くる》うんだけどォ……」
好き勝手《かって》言いやがって……。
傍《はた》から見りゃ、いまの俺《おれ》は、イブにプレゼントも買ってやれねえ貧乏男《びんぼうおとこ》じゃねえか。
ううう……周囲の目が厳《きび》しいよー。針《はり》のむしろってやつだぜ……。
「……どれ買えばいいんだよ……」
仕方なくそう言うと、
「実はこの前《まえ》来たとき、もう選んであってさぁ……クリスマス限定のシルバーリング&アクセサリーセットが欲しいのよ。これ、ちょーかわいくな〜い?」
桐乃《きりの》はすでにブツを見繕《みつくろ》っていたらしく、ノータイムでショーケースを指さした。
む……まああれくらいならなんとか……。ここ、わりと安いし……。
「くっ……へーへー、すいませーん」
俺は嫌々《いやいや》女の店員さんを呼ぶ。しかし、すぐさまうかつな行動を後悔《こうかい》することになった。
なぜなら値札《ねふだ》の字がちっこいせいで、金額を一桁《ひとけた》見間違《みまちが》えていたからだ。
さ、三万!? 三千円じゃないの!?
フッ………。俺はきわめてカッコいい表情で額《ひたい》の冷《ひ》や汗《あせ》をぬぐい、
「お兄《にい》ちゃん一万八千円しか持ってないや。桐乃ちゃん、ちょっと金貸《かねか》してくんない?」
振り返ると妹が消えていた。
ちょ、あの野郎《やろう》! 台詞《せりふ》の途中《とちゅう》で勘《かん》づいて逃げやがったな!
「大変お待たせいたしました〜。お客様、そちら彼女さんへのプレゼントにおすすめですよ〜」
「いやァ〜、ヤッパなんでもなかったッス! ハハハ!」
俺は寄ってきた店員さんを卑屈《ひくつ》な笑《え》みで迎え、そそくさとその場を後《あと》にした。
「も――ッ、信っっじらんない! なんでお金足りないの!? 有り得なくない!?」
「うるせえ! 元はといえばてめえがバカ高いもん買わせようとすっからだろうが!」
俺と桐乃は109を出たところで口論《こうろん》になっていた。
行き交《か》う人混《ひとご》みから、ときおりくすくす笑いが聞こえてくるのは、気のせいだと思いたい。
「はぁ……ったく……どうしてくれんのよ? 恥《は》ずかしくてもうあのショップ近づけないじゃん。結局《けっきょく》『彼氏《かれし》にアクセサリーを買ってもらう』取材《しゅざい》はできなかったしぃ……」
唇《くちびる》をとがらせてスネてしまう桐乃。その仕草《しぐさ》はやたらとかわいかったが、だまされてはいけない。内心《ないしん》じゃ小憎《こにく》らしい悪態《あくたい》を吐《つ》いているに違いねーんだからな。ケッ。
「落ち着いて考えろよ。そもそも俺は普通の高校生なんだから、そんな何万も持ち歩いてるわけがねえだろ? その彼氏だってそうなんじゃねーの?」
「違いますぅ。この人はもう社会|人《じん》で、お金|一杯《いっぱい》持ってんのー。フン、あんたみたいな貧乏ダサ夫《お》を彼氏にしたら、読者がその時点で読むのやめちゃうからね」
そこまで言うかよ実の兄貴《あにき》に。俺は嫌味《いやみ》ったらしく反撃《はんげき》を試みる。
「あっそ。そーですか。そりゃ悪かった……ってちょっと待てコラ」
「なに?」
「社会|人《じん》のくせに女子《じょし》中学生と付き合ってんのかよその彼氏《かれし》!?」
「そーだけど? ちなみにベンチャー企業《きぎょう》の若《わか》社長って設定ね」
間違《まちが》いなくロリコンじゃねーか! ぜってーろくでもねーってそいつ!
よっぽどそう叫びたかったが、話にケチを付けると妹がキレそうなので、やや遠回《とおまわ》しに懸念《けねん》を伝えてみる。
「女子中学生の彼氏が社会人って設定は……やっぱちょっとやばいだろ」
「ばーか、こんなのフツーだって。わりとよくある設定じゃん」
マジで? そういうもん? うーん……悪いがおまえの普通ってのはいちいち俺《おれ》にゃ理解できねーよ。最近の少女|漫画《まんが》が過激《かげき》だってのは、どっかで聞いたことあるけどさ……。
俺の表情から心配をくみ取ったのだろう、桐乃《きりの》は自分の考えについて解説してくれた。
「バカに教えてあげるけど。あたしたちくらいの女の子って、年上《としうえ》の彼氏ができるって展開に弱いんだよね。だって同じ学校の男って、ガキばっかなんだもん。あんな連中《れんちゅう》と付き合うくらいなら動物園の猿《さる》と付き合った方がマシだっての」
「……………………」
もしかして俺も、同じクラスの女子に、そう思われてんの……?
マジかよ……やなこと聞いたな……。
「あたしの場合、恋愛|対象《たいしょう》になるのはせいぜい高二《こうに》くらいからね。それ以下はマジ有り得ない」
「……あっそ」
俺は重々《おもおも》しくため息をついた。
こいつに惚《ほ》れているだろう同じ学校の男子たちに、同情《どうじょう》してしまったのだ。
だがまあ確かに同《どう》年代の男には、この女の相手は荷が重いだろうな。
いや年上を含めたって、たいして事情は変わらんか。
こいつと付き合える男がいるとしたら、仏《ほとけ》のように人が好《い》い野郎《やろう》か、ド|M《エム》だけだぜ。
「にしても、どうしよっかな……。あんたのせいでマルキューのショップでアクセ買ってもらうシーン書けなくなっちゃったし……」
桐乃はブツブツ呟《つぶや》きながら、手帳にボールペンで書き込みをしている。話の展開に、変更《へんこう》を加えるつもりなのかもしれない。
「あ、そっか。いまと同じ展開……彼氏がお金|持《も》ってなかったってシーンにすればいいんだ」
「するってーと、財布《さいふ》でも落としちゃったっつー展開?」
「そんなベタなことしないって。いまのシーンは、別の貧乏《びんぼう》彼氏とのデートイベントで使うの」
「貧乏な……別の彼氏……だと……? ロリコン若社長はどこいったのよ?」
やべ、びっくりしてつい脳内《のうない》ニックネームで呼んじゃったよ。悪《わり》い悪い。
ロリコン若《わか》社長の末路《まつろ》について、桐乃《きりの》はこう言った。
「奥さんと会社に中学生との不倫《ふりん》がばれて破滅《はめつ》しちゃった」
「不倫だったんかよ!」
ロリコン最低だな! もはや殺されても文句《もんく》言えんだろそれ!?
「で――さんざん修羅場《しゅらば》ったあげく、彼氏は愛する奥さんの元に帰っちゃうワケ。手ひどく捨てられた主人|公《こう》は、すっごく傷ついて……もう男なんか信じないって……なるの。……うう、かわいそうっしょ?」
ぜんぜん? 主人公の自業自得《じごうじとく》じゃん。むしろこの騒動《そうどう》で一番かわいそうなのは相手の奥さんだろ。奥さん人がよすぎるよ。許しちゃ駄目《だめ》だって。みのもんたもきっとそう言うぜ。
夫が中学生と不倫してたら、慰謝料《いしゃりょう》ふんだくって離婚《りこん》するのが普通でしょうに。
俺《おれ》の心は冷《ひ》え冷《び》えとしていたが、桐乃は気付かず解説を続ける。
「でね? 傷ついた主人公はね? 自暴自棄《じぼうじき》になって売春《ばいしゅん》グループに入っちゃうの。援助《えんじょ》交際《こうさい》」
「クソビッチだなァ〜」
我慢《がまん》できず本音《ほんね》を漏《も》らしてしまった俺を、誰《だれ》が責められるだろうか。
なんだその腐《くさ》れ展開は! そんなクソ女の主人公に好感《こうかん》が持てるわけねーだろ!
「あんたいまなんてった!?」
「何でもないッス!」
キバを剥《む》いて睨《にら》み付けてきた妹に向かって、ごまかし笑いを浮かべる俺。おー怖《こ》ぇ怖ぇ……。
桐乃は「ならいいけど」とジト目になり、こう宣言した。
「ってわけでぇ、次のシーンからは新しい彼氏《かれし》になるから」
「とっかえひっかえだな……ち、ちなみに、この彼氏も死んだり破滅したりすんの?」
「しーなーいって。最後までこの彼氏|一筋《ひとすじ》。なんたって今回のテーマは『純愛《じゅんあい》』だからね」
「……じゅ、純愛?」
なに言ってんだコイツ? 俺はしきりに首をひねって混乱した。
「そう、純愛!」
自信|満々《まんまん》に胸を張る桐乃。自分が吐《は》いた台詞《せりふ》に、何の疑問も抱いていない。
よくよく聞いてみると、どうやらこいつの中では、彼氏を取《と》っ替《か》えひっかえしたり、不倫したり、売春したりしても、最終的に愛する彼氏と添《そ》い遂《と》げれば、それで『純愛』になってしまうらしい。そういうのがケータイ小説の主流っつーか……女子《じょし》中学生の標準《ひょうじゅん》的な考え方だとは思いたくないが……。ど、どう思う?
『濁愛《だくあい》』の間違《まちが》いじゃないの?
109での取材《しゅざい》を終えた俺たちは、渋谷《しぶや》センター街へと入っていった。
さくらやのあたりに差し掛かったところで桐乃《きりの》が言った。
「そこ、あたしの行きつけのショップなのよ。シルバーアクセとか、安い割にセンスいいの揃《そろ》ってるから、高校生が中学生の彼女にプレゼントするにはちょうどいいカンジ」
「……おまえ、あくまで俺《おれ》にアクセサリー買わせるつもりなのか……」
「あったり前でしょ? 今回の貧乏《びんぼう》彼氏《かれし》はあまりお金は持ってないんだけど、そのぶん凄《すご》く気がつく人でセンスもいいの。だから『高いの買えなくてごめんな』って言って、主人|公《こう》を行きつけのショップに連れてってくれるワケ。ねえ、ねえ、カッコいいと思わない?」
自分が考えた彼氏の設定を、自慢《じまん》げに喋々《ちょうちょう》する桐乃。
俺は内心《ないしん》いらつきながらも、妹の望む台詞《せりふ》を言ってやった。なるべく優しい声で、
「高いの買えなくてごめんな」
「うざっ!」
「なんでだよ!? 理不尽《りふじん》すぎるだろその態度!」
せっかく恥《は》ずかしいのを我慢《がまん》して言ってやったのに!
俺の叫びを受けた桐乃は、もの凄《すご》く嫌《いや》そうに顔をゆがめて、
「……あんたが言うとなぜかキモいんだよね。……なんでだろ……?」
不思議《ふしぎ》そうな顔すんな! どんだけ追い打ちしたら気が済むんだ!
しかも結局《けっきょく》なんだかんだ文句《もんく》つけられながらも、俺、一万円のピアス買わされたしな!
ショップを出るとあたりはもう暗くなっていた。真冬《まふゆ》だけあって、夜になるとすげえ寒い。
すれ違った人が吐《は》く息が、マスクの上からでも白く変わっているのが印象的《いんしょうてき》だった。
俺たちは、センター街を真《ま》っ直《す》ぐ進んでいく。
適当な角《かど》を左折《させつ》するとすぐに大通《おおどお》りに出る。向かって右手に向かってしばらく歩くと、やがてドンキホーテや東急《とうきゅう》が見えてくる。桐乃が前方を指さした。
「次のシーンは、あそこ。ホントはかなり後半のシーンなんだけど……せっかく通りかかったからいま取材《しゅざい》しとく」
「へいへい。お次は何をやればいいんだ?」
「まずあたしが東急に向かって走るでしょ?」
「おう」
「で、赤《あか》信号だから、当然|車《くるま》があたしに向かって突っ込んでくるでしょ?」
「お、おう……」
「そしたらアンタ、あたしをかばって代わりに礫《ひ》かれて」
「おまえの彼氏よく車に礫かれるなあ!」
「別にほんとに礫かれなくてもいいし。ちゃんとあたしを突き飛ばして護《まも》ったあと、華麗《かれい》に飛び退《の》いて車をかわしてもいいよ?」
「やんねえよそんなアクロバット!」
「ちなみにそれで記憶《きおく》喪失《そうしつ》になるから」
「ケータイ小説にありがちな展開テンコ盛りっすね!」
そこまで徹底《てってい》してると、逆に斬新《ざんしん》かもしれんな!
突っ込みを連発《れんぱつ》したせいで息切れしていると、桐乃《きりの》が肩をすくめてため息をついた。
「ハァ……さっきからわがままばっかり……ホントに協力する気あんの?」
「協力する気はあるが死ぬ気はねえ。……あのさ、そもそもコレどういう話なんだ? 本当にこんなシーンが必要なのか? ちょっとその手帳|見《み》せてみろよ」
「……別にいいケド」
自分の考えた話を俺《おれ》に見せるのが恥《は》ずかしいのか、桐乃は少々|頬《ほお》を染《そ》めていた。
俺は手帳を受け取って、数ページに渡って書き込まれているプロットとやらを眺《なが》めてみた。
「えーと、なになに?」
[#ここから太字]
●キャラクター設定
主人|公《こう》(名前はリノ。中一。普通にかわいい系《けい》。←あたしの半分くらいのかわいさ)
[#ここまで太字]
あたしの半分くらいって! なんという自画自賛《じがじさん》メモ……さ、作者|自身《じしん》のかわいさを基準にして、キャラ設定が作られている……だと……? そ、それに……。
「リノって……まさかおまえ、自分の名前をもじって主人公の名前にしてんの?」
「悪い? ある程度《ていど》感情|移入《いにゅう》した方が書きやすいから、そうしたんだけど?」
「悪かないけど、おまえさあ、このまえ黒猫《くろねこ》の同人誌《どうじんし》読んで『主人公に自己|投影《とうえい》してキモ』みたいなこと言ってたじゃねえか。これじゃ人のこと言えんだろが」
「あたしがやる分にはいいの」
悪びれもしねえ! こういうやつだよ、ウチの妹は!
主人公・リノとやらのキャラ設定はさらにこう続いていた。
[#ここから太字]
(すっごく純情《じゅんじょう》な性格。恋愛をとても大切にしていて、傷つきやすい。超《ちょう》かわいい妹がいる)
[#ここまで太字]
あれっ、こいつってクソビッチじゃなかったっけ? あれで純情?
ったく、本当にこいつとは感覚が合わねえぜ……。
あと超かわいい妹がいるってところ、作者の趣味《しゅみ》丸出《まるだ》しですよね。
[#ここから太字]
(妹の名前は「しおりちゃん」)
[#ここまで太字]
しかも元ネタがエロゲーじゃねーか。
[#ここから太字]
彼氏《かれし》1(名前はテツ。いきなりダンプに礫《ひ》かれて死ぬ。ちょっと乱暴《らんぼう》だけど、たまーに優しくなる系。*女の子と付き合うのが初めてだから、扱いに慣れてない。←かわいくない?)
彼氏2(名前はカズ。三十二|歳《さい》。ベンチャー企業《きぎょう》の若《わか》社長。実は妻子《さいし》持ち。会社と奥さんに不倫《ふりん》がバレて、主人公を捨てる。社会的には破滅《はめつ》。自殺させる? エッチが凄《すご》くうまい系。スポーツ萌《も》え系。主人公とは遊びで付き合ってるんだけど、たまに本気になりそうになる。大人《おとな》の男ってカンジで、そういう男を振り回す主人|公《こう》ってカッコよくない?)
[#ここまで太字]
たまに本気になりそうになる[#「たまに本気になりそうになる」は太字]←ここロリコンとしか思えない。
にしても、付き合った彼氏《かれし》が次々|死《し》んでいくなこの主人公。さげまんどころの話じゃねえぞ。
[#ここから太字]
彼氏3(名前はトシ。最後くっつく人。超イケメン。家はお金持ちだけど、親の金は使いたくないから貧乏《びんぼう》。高二。メンズノンノで読モやってる系《けい》←バイト代はバンド活動でなくなる。バンドでボーカルやってる系。ギターも弾《ひ》ける系。金髪《きんぱつ》。成績は学年トップ。サッカー部の主将《しゅしょう》もやってる系)
[#ここまで太字]
気に食わねえ――。んだよこの男版《おとこばん》桐乃《きりの》みてーな野郎《やろう》。
[#ここから太字]
凄《すご》く優しくて心配|性《しょう》。主人公のことが大好きなんだけど、なかなか認めようとしない。
何事にも一生|懸命《けんめい》で、どんなに苦しいときも諦《あきら》めない。
[#ここまで太字]
「…………」
俺《おれ》は眉《まゆ》をひそめながら、記述《きじゅつ》の先を読んでいく。キャラクター設定に続いて、物語のあらすじが箇条書《かじょうが》きで書かれている。プロローグで彼氏がダンプで轢《ひ》かれたり、ロリコン若《わか》社長にひっかかって捨てられたり、自暴自棄《じぼうじき》になってエンコーしたり……まぁ、さっき取材《しゅざい》したとおりのものだ。で、その先はどうなるのかというと、すっかりやさぐれちまった主人公・リノに、新しい出会いがある。トシとやらだな。そいつはとても優しく、カッコよく、|超完璧《ちょうかんぺき》な野郎であり、リノがエンコーをやっているのを叱《しか》ってやめさせたり、色々世話《いろいろせわ》を焼いてやったりする。
当然リノは男|不信《ふしん》になっているので、当初は中々《なかなか》信用しようとしない。むしろきついことばっかわめいて遠ざけようとする。だってのにトシとやらは、辛抱《しんぼう》強く付き合ってくれるわけだ。元彼《もとかれ》がことごとく死んだり破滅《はめつ》したりしたせいで、リノは疫病神《やくびょうがみ》みたいに噂《うわさ》されているんだが、そんなことはまったく気にしない。親身《しんみ》になって相談に乗ってくれたり、噂を流している奴《やつ》らのところに乗り込んで、自分の代わりに本気で怒ってくれたりする。
――バカか。こんな女に都合《つごう》のいい男がいてたまるか。
つうかこのあらすじを読んでると、なんだか無性《むしょう》にイライラする。どうしてだろうな?
ちなみにその後のあらすじは、こんなふうに続く。いい加減《かげん》翻訳《ほんやく》するのが疲れてきたので、プロットの文章をそのまま記述しよう。
[#ここから太字]
ついに閉ざしていた心を開き、トシと付き合うようになったリノは、援助《えんじょ》交際《こうさい》をやめて、真面目《まじめ》になる。
ところがそんなある日、トシが車に轢かれて記憶《きおく》喪失《そうしつ》になってしまう。
リノをかばったせいでそうなったのに、トシはまたリノのことを好きになってくれる。
大事な記憶をなくしたまま、二人の物語は続く。
ところがそんなある日、リノがレイプされてしまう。それでもトシはリノのことを好きでいてくれて、なぐさめて、支えてくれる。
ところがそんなある日、トシが白血病《はっけつびょう》になってしまう。リノはトシが入院してしまったせいで、とてもさびしくなってしまい、浮気《うわき》してしまう。(←トシの親友が誘ってきた。ずっとリノのことが好きで、トシがこんなことになって、自分の方が幸せにしてあげられると思った。←三角《さんかく》関係でドラマを作る)
[#ここまで太字]
………………ひでえ話である。実にひでえ話である。最後まで読むのが辛《つら》くなってきたぜ。
どんだけトシは過酷《かこく》な運命を背負ってんだよ。
[#ここから太字]
親友の裏切《うらぎ》りを知ったトシは、自分から身を引こうとする。が、リノはやっぱりトシのことが好きなので、病気でもいいからそばにいたいと言う。リノに裏切られたトシの親友は、その日の夜、バイクで暴走《ぼうそう》して死ぬ。
[#ここまで太字]
「なあ桐乃《きりの》、ちなみにタイトルとか決まってんの?」
「まだ決まってないけど『妹』って字は絶対|入《い》れたい」
「妹なんて設定だけであらすじに微塵《みじん》も登場してなかったじゃねーかよ!」
「これから超《ちょう》重要キャラとして出すの!」
あっそう。ったく、タイトルなんざ『災《わざわ》いを呼ぶ少女』とかでいいだろもう。
明らかに死と不幸を引き寄せてるよこのリノさんは。登場《とうじょう》人物はどいつもこいつもいちいちその場の感情にまかせて刹那《せつな》的な行動を取りやがるしよー。
はぁ……この分じゃどんなバッドエンドが待っていることやら………。
[#ここから太字]
泣きくれるリノとトシ。二人は残り少ない時間を、最期《さいご》まで一緒《いっしょ》に過ごすことに。
[#ここまで太字]
で? 彼氏《かれし》死んでおしまい? ちょっとそれは、いくら何でも救いが――
[#ここから太字]
最終的には、愛の力で色々《いろいろ》病気とかを吹っ飛ばしてハッピーエンド。
[#ここまで太字]
「なんでやねん」
ずっこけそうになったよ!
「は? あたしの練り込まれたプロットに文句《もんく》でも?」
「ばっ……文句っつーか、最後の一行《いちぎょう》! 百歩譲《ひゃっぽゆず》ってそれまでのストーリーは見ないふりをするとしても、幾らなんでもこのラストはありえねえって! 絶対めんどくさくなって途中《とちゅう》で放り出しただろこれ! ちゃんと最後まで考えろや!」
「考えてますぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜! あんた何にも分かってないね、最近の読者ってのはねー、基本的にはハッピーエンドを望んでんのよ!」
「だからってコレは……! 素人《しろうと》の俺《おれ》でもやばいって分かるぞ!?」
「絶対|大丈夫《だいじょうぶ》! プロット段階だからそう思うだけ。文章になれば違和感《いわかん》なくなるって! だってこういうラストは名作エロゲーにもいっぱいあるし! かわいそうなヒロインが死んじゃったと見せかけて、ピカッと光って生き返る系《けい》は、泣き系エロゲの鉄板《てっぱん》パターンなの! あたしはそのテクを、ケータイ小説に応用しようってわけ! 分かったァ?」
「………………」
ほんッッッッッと! この自信はどっから沸《わ》いてくるのかね! もう好きにしろよ!
黒猫《くろねこ》がブッ殺したいって言ってた気持ち、実によく分かってきたわ!
そんな口論《こうろん》を繰り広げながらも俺《おれ》たちは歩き続けており、東急《とうきゅう》のわきを通り、丸山町《まるやまちょう》方面へと進んでいく。大通りから路地《ろじ》へと入ると、周囲の様子《ようす》がだんだんと怪《あや》しくなってくる。
具体的には、その辺の壁やシヤッターにスプレーで卑猥《ひわい》な落書《わくが》きが描かれていたり、いかがわしいホテルを多く見かけるようになってきた。……どこに向かってんだろうな。
とそのとき、前方から『整理《せいり》番号B100番までの方、順番《じゅんばん》に中へとお進みくださーい』という声が聞こえてきた。見ればずらーっと長い行列《ぎょうれつ》がいくつもできている。
一瞬《いっしゅん》コミケを連想《れんそう》したが、渋谷《しぶや》の街でそんなもんをやっているわけがない。
どうやら前方の行列は、ライブハウスのものらしかった。
なるほど、次の取材先《しゅざいさき》は……あそこか。
「……オーケイ、このプロットがいちおう最後まで考えて作られてるってのは……分かった」
でもさ……あと一つだけいいか? これだけはどうも気になってさ。
「……桐乃《きりの》……この男……トシ? こいつさあ」
「なに?」
「なんでこんなクソ女に、ここまでしてやんの?」
マゾとしか思えねーぞ。
「そりゃ……」
桐乃は即答《そくとう》しようとして、何故《なぜ》か寸前《すんぜん》でやめたようだった。もごもごと言葉をさまよわせ、しばらく考え込んでいたようだったが……やがてむすっとした顔でこう言った。
「……好きだから、じゃん?」
「ケッ」
くっさ。なに言っちゃってんだか。
丸山町方面を進んでいた俺たちは、取材の一環《いっかん》としてライブハウスに顔を出し、『SHIVA』とかいう人気《にんき》ロックバンドのライブを観《み》た。なんでもトシやその親友がやっているバンドのモデルにしようとしている人たちらしくて、桐乃は一生|懸命《けんめい》ライブを目に焼き付けていたようだった。これがもーうるせえことうるせえこと。俺にはまったく合わない場所だったね。
夏コミでも思ったけど、もう二度と来たくない。めちゃくちゃつかれたよ。
ふぅ……ま、桐乃がわざわざイブに俺を誘ったのは、このバンドのクリスマスライブを観るためでもあったのかもしれないな。
そんな感じで、ここまではわりと順調《じゅんちょう》に進んでいた。俺は妹に振り回されて心底《しんそこ》へとへとになっちゃいたが、逆にだからこそ、いくら何でもこれ以上|酷《ひど》いことは起きないだろうとたかをくくっていたのさ。夏コミの帰り道にあやせと会っちまったことや、桐乃《きりの》の趣味《しゅみ》が親バレしちまったときの教訓《きょうくん》を、すっかり忘れてな。
もちろんそんなのは無|根拠《こんきょ》な楽観《らっかん》にすぎなくて――
このすぐあと、ド肝《ぎも》を抜《ぬ》かれる驚《おどろ》きのイベントが俺《おれ》を待っていたのである。
ライブが終わり、外に出たところで。
「よし」
と何かを思いついたらしい桐乃が、向かいのコンビニへと駆《か》けていった。
「……なんだ、あいつ?」
ポケットに手を突っ込んで様子《ようす》を眺《なが》めていると、妹はコンビニから水の入ったでかいバケツを抱えて戻ってきた。よいしょ、よいしょ、とゆっくりとこちらに歩いてくる。
どうやら店員から借りてきたバケツらしいが……。
「おい桐乃……そんなもんどうするつもりだ?」
そのへんに水まくわけでもないだろうし……。
「ま、まさかそいつを、俺にぶっかけるつもりじゃあるまいな?」
「んなわけないでしょ」
そ、そっか、そうだよな……さすがのこいつも、そこまで無体《むたい》な真似《まね》はしねーか。
ふぅ……と、少し安心した直後。
ばしゃーんという水音が鳴り響《ひび》いた。
「んな――」
水音の正体は――
「――なにやってんだオマエ!!」
俺は、あまりのことに目を剥《む》いて叫んだ。
目前には、ずぶ濡《ぬ》れになった妹の姿。べしゃっと顔に張り付いた髪《かみ》の毛、そしてじっとりとしめった衣服のあちこちから、ボタボタと冷水《れいすい》が滴《したた》っていた。見るも無惨《むざん》な有様《ありさま》だ。
いまの水音は、桐乃がバケツの水を自ら引っ被《かぶ》った音だったのだ。
「……っ」
びしょ濡れになった桐乃は、俺の言葉や周囲の視線なんかまったく関係ないとばかりに、ライブハウスの壁面《へきめん》まで歩き、そこでぺたんと座り込んだ。
「……っ……はぁ………はぁ……」
体育|座《ずわ》りになって、腕《うで》で身体《からだ》を抱きしめ、がたがたとふるえている桐乃。吐《は》く息は真《ま》っ白《しろ》だ。
十二月の寒空《さむぞら》だ。日も落ちて、気温もずいぶん下がっている。
水だってスゲー冷たいだろうし……!
ライブハウスから出てきた客たちも皆、桐乃の突然《とつぜん》の奇行《きこう》に立ちすくんでいる。
意味が分からん! なにがしたいんだこいつは!?
完全に思考《しこう》が混乱してしまったが、俺《おれ》が躊躇《ちゅうちょ》していたのは一瞬《いっしゅん》だった。
「お、大バカ野郎《やろう》! いまタオル買ってくっから、」
「まだいい」
「ああん!?」
振り向いた俺はイラだちを隠《かく》そうともせずにキバを剥《む》いた。
もちろん妹の奇行《きこう》に驚《おどろ》いちゃいたが、それよりもまず怒りが先に立っていたのだ。
どんな理由があったのか知らないが、兄貴《あにき》の目の前でくだんねーことしてんじゃねえ。
しかもこのバカ妹が、ブルブル震えながらした返事ときたら――びびるぜ?
「……ま、まだ、主人|公《こう》の気持ち分かってないから……もうちょっと待って」
「ざッけんな! アホか!」
俺は反射的に怒鳴《どな》りつけていた。妹の言っている言葉の意味が、いまだにさっぱり理解できなかったからだ。なに? なんだって……? 主人公の気持ち分かってない……?
「なんの話だよ? っオマ……まさかこれも取材《しゅざい》だってのか?」
全身びしょびしょになって、そんなに寒そうに震えてさあ! 意味わかんねーよ! 息だってそんなに白いし……やめてくれよそういうの! 見てらんねえんだよ! ったく――
「……イブに、リノが雨でびしょ濡《ぬ》れになって、絶対《ぜったい》来ないって分かってる元彼《もとかれ》を待ってるシーンがあるから……だから……その取材……」
「うるせえ! ほら! いいからこれ着てろ!」
俺《おれ》は自分が着ていたジャケットを脱いで、座り込んでいる妹に無理矢理羽織《むりやりはお》らせた。
次いでぐるりと周囲に睨《にら》みをきかせて、野次馬《やじうま》を追っ払う。幸い怒った俺の剣幕《けんまく》は、野次馬を牽制《けんせい》するだけの効果があったようで、桐乃《きりの》に注《そそ》がれていた奇異《きい》の視線と嘲笑《ちょうしょう》がやや減った。
「あとタオルか……ええと――」
コンビニに駆《か》け込んで、速攻でタオルを買って戻ってくる。
で――黙《だま》って俯《うつむ》いたまま座り込んでいる妹の頭におっかぶせ、乱暴《らんぼう》に拭《ふ》いてやった。
「ちょ、ちょっと……へんなとこ触《さわ》らないでよ……!」
「身体《からだ》拭いてやってんだろ!?」
こんなときにまで減《へ》らず口叩《ぐちたた》いてんじゃねえよ。
にしても……どうすっかな。濡《ぬ》れた服は思った以上に体温を奪っちまうもんだし、こいつこのままじゃ風邪《かぜ》ひいちまう……。近くに銭湯《せんとう》でもねえもんか――。
盛大《せいだい》にうろたえながら善後策《ぜんごさく》を練っていると、桐乃が俺の服の裾《そで》をひっぱった。
顔色|真《ま》っ青《さお》で訴える。
「さ、寒い……」
「当たり前だ!」
自分で水ひっかぶっといていまさら何言ってんだバ――カ! どアホ!
ほんっっと後先《あとさき》考えねえやつだなてめえは! いくら真剣《しんけん》だっつっても限度があるだろ!
せっかくめかし込んできた服|台無《だいな》しにしてまでさあ……。
「リノとトシが初めて会うシーン……。雨でびしょぬれになって座り込んでいたリノを……ライブハウスから出てきたトシが見つけて……ってふうにしたら、面白《おもしろ》いって思ったの……」
「…………チッ」
俺にさんざんダンプに礫《ひ》かれろだの記憶《きおく》喪失《そうしつ》になれだのむちゃくちゃ言ってたけど……
あれぜんぶ本気《ほんき》で言ってやがったんだな、こいつ。
こうして身体《からだ》張って、自分|自身《じしん》でもむちゃくちゃやってんだもんな。
そこまでとことん追求《ついきゅう》できんのは、そりゃ、たいしたもんなのかもしんねえけど――。
悪いが俺にはサッパリ理解できん。ドン引きされんのもしょうがねえっちゅう話だよ。
だって正直、気持ち悪いもんなあ。そう思うだろう?
「ね、ねえ……?」
「あん? いまどうすっか考えるからちっと待《ま》――何?」
「つ、次の取材《しゅざい》は…………あそこ」
「こ、この期《ご》に及んでまだんなこと……」
桐乃が固い声でいずこかを指さしたので、俺はあきれ果てながらも示された先に目をやり、
「んなっ、なっ、な……!?」
あまりのことに、舌《した》を噛《か》んでしまう。桐乃《きりの》が示した青い建物を見上げ、盛大《せいだい》に動揺《どうよう》する。
そう――分かるやつには分かると思うが、このあたりってのはいわゆるラブホ街なのさ。
「ば、バカじゃないのかおまえ! なんで兄妹であんなとこ入らなくちゃなんねーんだよ!」
「で、でかい声で兄妹とか言うなっ! ……くちゅっ! 雨でずぶ濡《ぬ》れになったリノをトシが見つけたあとは、一緒《いっしょ》にラブホ行くシーンになるのが自然ってもんでしょ。だ、だから、それに、他《ほか》にシャワー浴びられるとこないし……くちゅっ!」
「ぐぬぬぬぬ…………! ぁ、ぁ、ああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん!」
来るんじゃなかった! 妹と渋谷《しぶや》なんか来るんじゃなかった!
ってなわけで――。冒頭《ぼうとう》のアレとつながってくるわけだ。俺がラブホのベッドに腰掛《こしか》けて、妹がシャワー浴びてるのを待っている理由、分かってくれたかい? ちなみにイブの夜だからか、どこのラブホも満室でさー、部屋《へや》取るのにすげえ苦労したよ。
「はぁ……ったく……まいったぜ……」
どんだけ取材《しゅざい》に気合《きあ》い入れてんだよ。こうして落ち着いて考えてみるとやっぱ異常《いじょう》だよな。
それにちょっと待って欲しい。あいつが書こうとしてるケータイ小説の中で主人|公《こう》はさあ、シャワー浴びた後……まさか何もしないでチェックアウトする……わけないよな……?
シミュレーションって……その……。な、何をどこまでやるの?
「……………………うあ」
ぎゃああああああああああああああああああああ!
気色《きしょく》悪い想像《そうぞう》をしちまったよォ〜。最悪だくそっ……。なわけねーだろっての! アホか!
ジャーッという水音を聞きながら、俺《おれ》は何とも言えない居心地《いごこち》の悪さを感じていた。
いつまでシャワー浴びてんだよ! さっさと出てこいバカ野郎《やろう》!
と、そこでピピピと着信音《ちゃくしんおん》。ケツに入れていたケータイがバイブレーションを始めた。
「うおっと」
びっくりした。誰《だれ》からだ? 液晶《えきしょう》を見ると『田村麻奈実《たむらまなみ》』と表示《ひょうじ》されている。
気分《きぶん》悪くてしようがなかった俺は、救いの手がきたとばかりに電話に出た。
「へーい。どうした?」
『あ、きょうちゃん? よかったぁ、出てくれて……』
「あれ? その言《い》い草《ぐさ》からすっと、もしかしておまえ、何度か電話くれたの?」
『う、うん……ごめんね、しつこくて』
「構わねーよ、こっちこそ気づかなくて悪かったな。で?」
『う、うんっ……その……』
変なやつ。なんで俺に対して緊張《きんちょう》してんだ?
「なに?」
『え、えっと……ね? きょうちゃん……今日《きょう》学校で言ってた用事って……終わった?』
「いや……まだだけど」
妹と渋谷《しぶや》に来てるなんて、やっぱ言いにくいよなあ。なので煮《に》え切らない返事をすると、麻奈実《まなみ》は『…………そっかっ』と返事をしてこう続けた。
『……何時ごろ……帰ってくるの?』
「分かんねーけど、九時半までには戻る予定」
親父《おやじ》とお袋《ふくろ》は、二人でどっか出かけるって言ってたからな。いまにして考えてみれば、お袋が親父を誘ってクリスマスデートに行ったってことなんだろうし、そもそも桐乃《きりの》が取材《しゅざい》の日を今日に決めたのだって、門限《もんげん》を破っても大丈夫《だいじょうぶ》な日が今日しかなかったからに違いない。
でなきゃ、大嫌《だいきら》いな兄貴《あにき》と一緒《いっしょ》に、クリスマスイブを過ごそうなんて思わないだろう。
『ふ、ふうん……』
「なんだよ?」
『け、けーき……きょうちゃんのぶんも、作ったからっ。もしよかったら……用事が終わった帰りに……家によってくれると……うれしいな……』
段々《だんだん》と声が小さくなっていく。
「そっか、じゃあ余裕《よゆう》があったらよるわ」
『うんっ、ありがとう』
なんでおまえが礼を言うんだ? 逆じゃね?
麻奈実は「え、えとっ」と何度か躊躇《ちゅうちょ》してから、こう聞いてきた。
『きょ、きょうちゃん……もしかしていま……お、お、女の子といたり……する?』
「………………」
ああそうか。妙《みょう》な誤解《ごかい》が発生してない? ってか気付くの遅《おせ》えよ俺《おれ》! さっきから麻奈実の……様子《ようす》がおかしいのはそれが原因か! うおおやべぇ――。……な、なんて答えりゃいいんだ? まさか、いや〜実はいま妹と渋谷のラブホに来ててなあ、とか事実そのままを言うわけにもいかんしよ――。んなことしたら、事情を説明する前に、さらにとんでもない誤解が発生するだろうし。ふうむ……困ったな。
『な、なんで黙《だま》ってるの……?』
おっとと。黙ってたら黙ってたで、勝手《かって》に妙《みょう》な早合点《はやがてん》を始めそうだなこいつ……。
しょうがねえ。俺は誤解される要素《ようそ》を抜《ぬ》いた上で、真実を話すことにした。
「いや、妹と一緒《いっしょ》なんだ」
『妹さん――桐乃ちゃん?』
「そう」
『じゃ、じゃあ今夜は桐乃ちゃんと、くりすますでーとなの?』
その言い方、スゲー嫌《いや》なんだけど。考えてみりゃ、やってることは同じだよな。
「デートっつーか、まあ、買い物したり、ライブ見たり。そんなんだよ」
『だから、でーとだよね、それ?』
うるせえ。違うんだよそれでも。
『でも、分かったっ。そういうことなら、今日《きょう》は桐乃《きりの》ちゃんをたんと楽しませてあげてね』
麻奈実《まなみ》は上手《うま》く納得《なっとく》してくれたようだった。俺《おれ》はホッと息をつきー
ガラッ。
「ふ――。シャワー浴びたらやっとさっぱりしたァ。あったかー。ねぇラブホのバスルームってライトがレインボーに光んだね! あたし初めて知ったんだけど!」
バカ桐乃! 最悪のタイミングでなんて台詞《せりふ》を!
『……きょ、きょきょきょきょうちゃん……? 桐乃ちゃんとどこにいるの……?』
「おおっと電波がおかしくなったァ――!?」
ピッ。通話を切って電源を落とす。
はあ、はあ、はあ、はあ……。冷《ひ》や汗《あせ》だらだらかいて、ごくりと生唾《なまつば》を飲み込んだ。
やっべ勘《かん》づかれたかな……。いま完全にいいとこ衝《つ》いてたっぽいよねアイツ……。
言《い》い訳《わけ》思いつかなくて、とっさに切っちまったけどさぁ……。
「はあ〜〜」
気が重《お》めぇ〜ッ。どうやってたったいま発生したであろう誤解《ごかい》を解けばいいんだ……!
やばいだろ。いくら何でも。クリスマスイブに実妹《じつまい》とラブホに来てる兄貴《あにき》って何よ?
しかも実は誤解ですらないしな! くそぉぉぉぉ……!
俺が頭を抱えて懊悩《おうのう》していると、桐乃から声をかけられた。
「……なーに? 誰《だれ》と電話してたの?」
「うッせえ! 全部おまえのせいだからな! どうしてくれんだよ! 幼馴染《おさななじ》みに、とんでもねえ誤解されちゃったじゃねーか! もうおしまいだよクソッ!」
「どうしてくれんだよって……なに言ってんのかよく分かんないけど――」
桐乃は石鹸《せっけん》の匂《にお》いを漂《ただよ》わせながら、
「とりあえずクィックロードして違う選択肢《せんたくし》選んでみれば?」
「エロゲーの話じゃねえよ!」
くっ、そうできればどんなにいいか……!
って。
「な、なんつー格好《かっこう》しとるんだおまえは……」
俯《うつむ》いて泣きそうになっていた俺は、顔を上げた途端《とたん》、固まってしまう。何故《なぜ》なら目に飛び込んできた桐乃が、あられもないバスローブ姿《すがた》だったからだ。
「き……キモっ。いやらしい目で見んな。しょうがないでしょ服乾《ふくかわ》いてないんだから。あんたもボサッとしてないで早くドライヤーとかであたしの服乾かしてよ」
「あーそーね。気がつかなくて悪かったですよ」
俺《おれ》はさっきまで桐乃《きりの》が使っていたドライヤーで、濡《ぬ》れた服を乾かし始めた。
なんでこんな罵倒《ばとう》されながら、妹のキャミソール乾かしてんだろ俺。
「ふんっ。もしかして妹のバスローブ姿に欲情《よくじょう》したんじゃないのー? これだからシスコンはさーあ。あーやだやだきもいきもい」
「その台詞《せりふ》、おまえにだけは言われたくねえ!」
二重の意味で!
俺の突っ込みに耳を貸さず、ぷいっとそっぽを向いてしまう桐乃。次いで妹は、バスローブ姿のままで室内をうろつき始めた。その辺の棚《たな》を開閉したり、机上《きじょう》のパンフレットをパラ見したり……でもって片手にケータイを持って、ちまちま弄《いじ》くっている。時折《ときおり》携帯《けいたい》カメラのシャッター音がするので、写《しゃ》メを撮《と》っているようだ。
「な、何やってんだ?」
「取材《しゅざい》メモとってんの」
こんなときまで取材かよ……。次の取材はここだって……あれもマジだったのか。
ほんと徹底《てってい》的だな……。傍《はた》から見てると気持ち悪ぃぞその熱意は。
桐乃は部屋《へや》をうろつきメモを取る作業を続けながら、備え付けのパンフレットを開いた。
「新作の筋《すじ》なんだけどさー、売春《ばいしゅん》とかのシーンも必要っぽいっつったじゃん?」
「………あ、ああ。――で?」
「ちょっとこの『デリヘル』っての呼んでみてくんない? 取材したいから」
「ブッ飛ばすそテメエ!!」
クソッ。俺の妹は、常にこっちの予想の遙か斜め上をいきやがるぜ……!
もちろん呼ばなかったからね?
それから――ラブホを出た俺たちは、夜の町並みを、駅に向かって歩いていった。
今日《きょう》一日を振り返る。
渋谷《しぶや》のショップにしろ、ライブハウスにしろ、ラブホにしろ――
イマドキの女子《じょし》中学生が考える『クリスマスのデート』ってのは、おおむねこんな感じなのかもな。いちいちむちゃくちゃな取材をやらされそうになるのが難点《なんてん》ではあるが、斬新《ざんしん》な体験ではある。普段《ふだん》こんな場所には絶対|行《い》かないからな。
「今日行ったコース、ちゃんと覚えてた方がいいよ。いつか使うかもしんないでしょ。どーせあんたが自分で考えたら、死ぬほどださいデートコースになるに決まってるんだから。たとえば地元《じもと》のデパートとかさー」
「………………」
すごいね。俺がとった去年のクリスマスの行動、どうして知ってるの?
「イブのディナーでケ●タッキーに連れて行く男は死ぬべき」
「学生は金がねえんだよ! 勘弁《かんべん》してやってくれ!」
いいじゃんケ●タッキーでもさあ! むしろ定番《ていばん》だろうが! そうだよねみんな!?
そんな感じで――色々《いろいろ》トラブルはあったけど、今夜の桐乃《きりの》はむちゃくちゃイキイキしていた。
まるで秋葉原《あきはばら》に行ったあのときのようにだ。つまりさ……こういうことなんじゃねぇかな。
渋谷《しぶや》を巡って服やらピアスやら見て回るのも。
秋葉原を巡ってゲームやら同人誌《どうじんし》やら見て回るのも。
どっちも[#「どっちも」に傍点]好きなんだろう、こいつは。
毎回言ってるもんな……どっちが欠けても、あたしがあたしじゃなくなるの、ってさ。
「取材《しゅざい》は上手《うま》くいったかよ?」
ライトアップされた町並みを歩きながら、俺《おれ》はふと聞いた。
すぐとなりから、答えが返ってくる。
「まーね、そこそこ。とりあえず、イブつぶした甲斐《かい》はあったかな」
「そうかい」
そりゃよかったな。
「なーにぃ? ……きもいんですけど?」
「へっ、なんでもねー」
ただ、俺|自身《じしん》も予想|外《がい》だったんだが。
あんまりあっという間に時間が経《た》っちまったもんだから――
これって……なんなんだろうなって。
妹と二人で遊びに行くことなんざ、いままでなかったから……
こういうのも、悪くねーって……思った、とか? ……いや、いやいやいやいや。
はっ、ガラでもねー。なわけねーだろっての。こんなに理不尽《りふじん》な扱い受けてて、悪くねーなんてさあ、それこそド|M《エム》の言《い》い草《ぐさ》じゃねえかよ。
そんなこんなで、俺たちの取材は終わりを告げた。帰りの電車で、となりに座った妹はぶつぶつと呟《つぶや》きながら考え事に没頭《ぼっとう》しているようだった。さっそくケータイ小説の案を練っているのかもしれないな。
こんなんでよかったのかねえ。俺にゃあよう分からんぜ。
でもって翌日《よくじつ》はクリスマス。さっそく桐乃はケータイ小説を書き始めていたようだ。
そうして――終業式《しゅうぎょうしき》が終わり、冬休みに入っていった。
大《おお》晦日《みそか》が過ぎ、年が明けて。元日《がんじつ》の朝。
階段を下りたところでお袋《ふくろ》と遭遇《そうぐう》したので、さっそく新年のあいさつをしてみる。
「おっす、あけましておめでとうお袋――。お年玉《としだま》ちょーだい」
「なんで息子《むすこ》にお年玉《としだま》あげなくちゃいけないの?」
そういう制度じゃねえのかよ。冷てーなあ。当然のように言いやがって……。
ま、分かってたけど。高坂家《こうさかけ》では、長男《ちょうなん》がお年玉をもらえるのは小学生までなのだった。
ずるいよな。桐乃《きりの》はいまだにもらってるってのに……。愛情の差を感じちゃうぜ。
「そんなことよりあんた、今日|麻奈美《まなみ》ちゃんと初詣《はつもうで》に行くんでしょう? 時間|大丈夫《だいじょうぶ》なの?」
「余裕《よゆう》余裕」
ひらひら片手を振って、お袋《ふくろ》の脇《わき》をすり抜《ぬ》けようとすると、後ろから手首を掴《つか》まれた。
「ちょっと待ちなさいよー、まだ聞きたいことがあるんだってば」
「んだよ?」
「あれよ。あれあれ」
お袋はリビングの扉《とびら》をちょっぴり開いて中を示した。そこには例のごとくソファに座った桐乃《きりの》が、一生|懸命《けんめい》ケータイを弄《いじ》くっている姿《すがた》。
「あの子さー、最近、暇《ひま》さえあればケータイ弄ってるみたいなのよー。何やってるか、あんた、知らない?」
「さあな」
悪いがあいつがケータイ小説書いてるってのは、お袋にはまだ秘密《ひみつ》なんだよ。
俺《おれ》がすっとぼけると、お袋は「うーん」と心配そうに頬《ほお》に手を添《そ》えた。
「あの子、年末すっごい忙《いそが》しいって、前にあんたにも言ったじゃない? 学校は冬休みだけど、陸上の練習とか、モデルのお仕事とかがたくさんあって……。あんたと違って自慢《じまん》の娘《むすめ》なのはいいんだけど、せめて家にいるときくらいゆっくりすればいいのにねえ……。なんだか寝不足《ねぶそく》みたいだし、お母《かあ》さんが聞いても教えてくれないし……この前なんか、お風呂《ふろ》でもケータイ弄ってたのよ! びっくりしちゃってもう――」
そう。あの取材《しゅざい》デートが終わってから桐乃は、家の中では常にケータイを片手に持ち歩くようになった。リビング、廊下、階段――ちょっとした時間にもタタタタタと打鍵《だけん》している姿を、最近よく見かける。大《おお》晦日《みそか》までそんな感じだったもんだから、もしかしたらと思ってたけど、やっぱり風呂の中でもケータイ小説書いてたんだな。
「しかもあの子、結構《けっこう》前から風邪《かぜ》ひいてるみたいなのよぉ。今朝《けさ》もまだ熱っぽくて……」
「え……マジで?」
「まじよ。まじまじ。だから心配してんの。なにを頑張《がんば》ってるのかしらないけどさー、自分の身体《からだ》が一番|大事《だいじ》なのよ。なのに幾《いく》ら言ってものれんに腕押《うでお》し。はーまったくあの頑固《がんこ》なところ、誰《だれ》に似《に》たのかしらねえ」
っあ〜〜〜。あのバカ。思いっきり心当たりあるよ。冬の寒空《さむそら》で、あんなふうに水かぶったりするから……。言わんこっちゃねえ。
目をこらして、リビングの中をのぞき見る。よく見りや、すげえ辛《つら》そうじゃねえか、あいつ。顔赤《かおあか》いし、息荒《いきあら》いし……。たまに咳《せ》き込んだりしてるしよ……。絶対|無理《むり》してるだろ。
あん? 別に心配しているわけじゃないぜ? 取材《しゅざい》に付き合ったっつっても、俺《おれ》にはカンケーねえ世界の話だからな。妹が何をしてようが、知ったこっちゃねーさ。
ただその、あれだ。お袋《ふくろ》も言ってたけど、あいつ、陸上部の練習とか、モデル活動とか、エロゲーとか、他《ほか》にも色々《いろいろ》やることあるわけじゃんか。
『ま、なんとかなんでしょ。あたしを誰《だれ》だと思ってんの?』
そんなこと言ってやがったけどな……。すでになんとかなってねーんじゃねーの?
おまえの場合、根性《こんじょう》入ってるから余計《よけい》にアレなんだ……。アレってのは、心配するって意味じゃないよ?
「京介《きょうすけ》……ほんとに知らないの?」
「知らねーってマジで。つーか、最近ずっとアイツとは一言《ひとこと》も喋《しゃべ》ってねえんだって。お袋だって知ってるだろうが」
「んー、そういえばそーね。あんたらせっかくちょっとは仲良くなったかな〜って思ってたのに、なに? また喧嘩《けんか》しちゃったの?」
「……ほっとけ」
ようするに、俺はもう用済《ようず》みなのさ。この前|受《う》けた人生《じんせい》相談は、新宿《しんじゅく》に一緒《いっしょ》に行ってやって、渋谷《しぶや》に一緒に出かけてやって、もう終わってるんだ。
そう。もう兄貴《あにき》の出る幕は終わって、あとはあいつ自身の問題なのさ。
いま俺たち兄妹の関係は、去年の夏休みの後半、桐乃《きりの》が忙殺《ぼうさつ》されていたころのようになっている。つまりまったく会話がなくて、相談|事《ごと》も持ちかけられない、互《たが》いに無視《むし》し合う間柄《あいだがら》。
それはそれでありがたいってもんさ。おかげで冬コミとやらに連れ出されることもなく、ゆっくり正月を過ごせるわけだし。久方ぶりに平穏《へいおん》な休日を満喫《まんきつ》できるぜ。
「…………は、せいせいするってもんだ」
熱っぽい顔でケータイを打ち続ける妹を眺《なが》めながら、
――ったく、ほどほどにしとけよな。
俺は心の中でぼそりと呟《つぶや》いた。
「けーたい小説? へえ――。桐乃ちゃん、すっごいね」
「どうだかな。――ま、がんばってるみてーだぜ? 親にはまだ知られたくないらしいから、秘密《ひみつ》にしといてくれよな」
「うん、分かった」
初詣《はつもうで》に行く途中《とちゅう》、俺は麻奈実《まなみ》と並んで歩きながら、妹の話をしていた。
ケータイ小説を書いていることについては、妹も(親《おや》以外には)特に隠《かく》し立てするつもりはないようなので、俺も遠慮《えんりょ》なく幼馴染《おさななじ》みとの雑談《ざつだん》のネタにさせてもらったという次第《しだい》さ。
別段《べつだん》ブームってわけでもねーし、自慢《じまん》できるほど特別なもんでもねえ、かといって、書いてて恥《は》ずかしいようなもんでもねえ。
桐乃《きりの》いわく、女子《じょし》中学生のケータイ小説への認識《にんしき》ってのは、そういうもんなんだってよ。
映画になったり、漫画《まんが》になったり、めちゃくちゃ流行《はや》ってるイメージあったんだけどな。
そうでもないらしい。漢字二文字《かんじふたもじ》のアレとか、ディープなんたらとか、ごく少数の爆発《ばくはつ》的なヒット作が、一時的なケータイ小説バブルを作っていただけなんだとか。
ま、あくまで雑談は雑談。俺にはカンケーねえ世界の話である。
話が一区切《ひとくぎ》りしたところで、麻奈実《まなみ》がおずおずと切り出した。
「きょうちゃん……この格好《かっこう》……どうかなあ?」
麻奈実は正月らしく、淡《あわ》い紫色《むらさきいろ》の着物を着ていた。きわめてババくさいセンスなんだが、
「おまえはホント和服《わふく》が似合《にあ》うよな――」
こればかりはいつも感心するぜ。それほど美人ではないはずなのに、いつもより魅力《みりょく》が三倍増くらいになっている。
「……そ、そうかなっ?」
「おう。もういっそずっとその格好してれば?」
「え、えぇ〜っ」
まんざらでもないのか、麻奈実は幸せそうに恥《は》じらっていた。
そんな様子《ようす》に苦笑《くしょう》して、俺はほどけかけてきたマフラーを結び直す。このマフラーは、クリスマスイブの夜に麻奈実からもらったものだ。取材《しゅざい》の帰り、麻奈実ん家《ち》に寄ったときに渡されたってわけ。
マフラーを巻いた俺《おれ》を見やって「おそろいだね〜」などとはにかむ麻奈実。
ケッ。吐《は》き捨てた俺は、ザンザン早足《はやあし》で幼馴染《おさななじ》みを置き去りにした。
麻奈実が着物|姿《すがた》なのに巻いているチェックのマフラーは、やはりクリスマスイブの夜に、俺がくれてやったものだ。桐乃と109に行ったとき、麻奈実へのプレゼントとして買ったんだよ。そしたらとんでもねー偶然が起こったのさ。聞いて驚け、俺が買ってきたマフラーと麻奈実が縫《ぬ》ってくれたマフラーは、ほとんど同じ色と柄だったのだ。おおこっ恥《ぱ》ずかしい、強制ペアルックじゃねーか。こんなつもりじゃなかったのによー。
むりやり和服に合わせて巻いてきやがって……。おそろいのマフラー巻いて並んで歩いてたら、バカップルにしか見えねーっての。知り合いに会ったらどうしてくれんだよ、ったく。
「ま、待ってよ〜」
後ろに置き去りにしてやった麻奈実が、ぱたぱた小走《こばし》りで追いついてきた。俺はさらに加速して逃げてやろうと思ったのだが、そこでふと足が止まった。
「ど、どしたの?」
「いや……あれ」
半眼《はんがん》で前方を指さす。川縁《かわべり》に、スモーク張りのワゴン車が何台か止まっていた。どこかで見たような車だと思ったら、果たしてそのとおりで、車内から着物|姿《すがた》の女の子が三〜四人、ぞろっと降りてきた。
「あれ、また何かの撮影《さつえい》かなあ……。ほら、半年くらい前に公園でさ」
「みてーだな。あの格好《かっこう》からすっと、そこの神社《じんじゃ》でやるんじゃねえの」
「なるほどぉ……あ、あれ……あやせちゃんじゃない?」
「うげっ!?」
俺《おれ》はその名前に超《ちょう》反応し、びくーんと背筋《せすじ》を突《つ》っ張《ぱ》らせた。
眉間《みけん》にしわを寄せてきょろきょろすると――いた。いやがった。青い着物|着《き》て、髪結《かみゆ》わいて、相変わらずとんでもねえ美人っぷりを発揮《はっき》している黒髪《くろかみ》の女――。
新垣《あらがき》あやせ。桐乃《きりの》の親友で、クラスメイトで、モデル仲間でもある中学生。
詳細《しょうさい》は省くが、俺はこいつを大《だい》の苦手《にがて》としていた。天敵《てんてき》といってもいい。
だってあの女、俺のことを『妹を愛するシスコン変態《へんたい》兄貴《あにき》』で、かつ『妹もののエロゲーや同人誌《どうじんし》ばかりを収集《しゅうしゅう》する偏執《へんしつ》的なオタク』だと思ってんだよ。
しかも会って二言目《ふたことめ》にはブチ殺しますよだの、通報《つうほう》がどうのだの言うし……。
とにかく顔を合わせたくない。幸いあっちはまだ俺たちに気づいていないようだし、ここはこっそりと逃げ――
「あやせちゃ〜ん」
「て、手《て》ェ振《ふ》って呼ぶんじゃない!?」
「あれ? なんで? きょうちゃんあの娘《こ》と仲よかったよね……?」
それは! あの哀《かな》しい事件が起こる前の話な? あぁぁぁあぁぁぁとかいってる間に気づかれちゃった! 早足《はやあし》でこっちくるよおい……。
「や、お姉《ねえ》さん、お久しぶりですね! あけましておめでとうございます!」
「う、うん……あけましておめでとう。ほんとに久しぶり……半年ぶりくらいかな?」
あやせが放つあまりの美人オーラに、目がくらんだように気圧《けお》されている地味子《じみこ》。
なら呼ぶなや。俺が恨《うら》みがましいジト目で麻奈実《まなみ》を見ていると、あやせから含みありげな挨拶《あいさつ》をされた。
「お兄《にい》さんも、お久しぶりですね! あけましておめでとうございます! 桐乃とは、最近どうです? あはは、ちゃんと仲良くしてますか?」
快活《かいかつ》な笑顔の裏には『答えによってはブチ殺します』という意図《いと》が隠《かく》されているに違いない。
「お、おう……ぼちぼち、な」
びびりつつ曖昧《あいまい》に答えると、麻奈実が気を利かせて、
「あはっ、なに言ってるのきょうちゃん。桐乃ちゃんとは、最近すっごく仲いいみたいじゃない? ほら、くりすますのときだって――」
よ、よよよ、余計《よけい》なこと言ってんじゃねえ!
「クリスマスっ? へーっ、それは聞き捨てなりませんねっ。詳しく聞きたいです!」
笑顔が怖《こ》ぇえよ! しかも目が笑ってねぇし!
「うん。くりすますにね、でーとしたり、一緒《いっしょ》に『らぶほたる』っていう名前のお風呂屋《ふろや》さんに行ったりしたんだって」
「……※[#「え」に濁点]、クリスマスにお風呂屋さんですか?」
どういうチョイスですかあなた、みたいな視線で俺《おれ》を見つめてくるあやせ。
うるせえな! 妹とラブホ行ったなんて麻奈実《まなみ》に言えんだろうが! だからそうやってこまかしたんだよ! 分かってる! 言《い》い訳《わけ》にしたって苦しいと思うよ!
「ま、まあいいじゃん。しかしよく似合《にあ》ってるなあその着物! さすがモデル! ハハハ!」
むりやりうやむやにしようとしたら、
「……………………」
いやな沈黙《ちんもく》が返ってきた。視線が冷てぇなあ……おそらくこいつ、桐乃《きりの》にイブの誘《さそ》い断られたこと、まだ根に持ってやがんだな。
「まぁいいです。そうそう、お兄《にい》さん、それより桐乃のことなんですけど……あんなに具合悪《ぐあいわる》そうなのに――」
「ああ分かってる。言うだけ無駄《むだ》だろ、ありゃ」
「――ですけどね。はぁ……やっぱりお兄《にい》さんでも無理《むり》ですか」
「……それはこっちの台詞《せりふ》だ。やっぱりおまえでも無理《むり》だったか」
あやせと俺《おれ》の間で、暗黙《あんもく》の了解《りょうかい》を伴ったやり取りがなされる。
取り残された麻奈実《まなみ》だけが「?」と首をひねっていた。
このあやせの態度を見ると、どうやら桐乃《きりの》のやつ……外でも同じらしいな。
なんのことかって? 決まっているだろう。例の、ケータイ小説のことだよ。
「無理ですねー。この程度《ていど》の風邪《かぜ》なら仕事に影響《えいきょう》ないし、穴開《あなあ》けるわけには絶対いかないからって……。もちろん仕事の姿勢《しせい》としては尊敬《そんけい》できますし、撮影《さつえい》中、具合悪《ぐあいわる》いそぶりをかけらも見せないのは凄《すご》いんですけど。無理しているのが明らかで……止めてもぜんぜん聞かないし。……本当、すごく心配です」
目を伏せて喋《しゃべ》っていたあやせは、俺を上目遣《うわめづか》いに見上げ、悔《くや》しそうに下唇《したくちびる》を押し上げた。
「……どうか、家でも気をつけてあげてくださいね」
「分かった。ありがとうな」
俺の妹は、たとえどんな理由があったとしても、それで自分のやるべきことをおろそかにするようなやつじゃない。それは前回の騒動《そうどう》で、俺が身にしみて思い知ったことだった。
なんつーの? 何事にも手抜《てぬ》きしねーんだよ、あいつは。そういうとこ、要領悪《ようりょうわる》いっつーかさ。めんどくせー女なんだって。しかも頑固《がんこ》きわまりねーし。
一度こうと決めたら誰《だれ》が何言っても無駄《むだ》だから、ほっとくしかないんだけど……。
バカ野郎《やろう》が。友達にまで心配かけてんじゃねーよ。
桐乃のケータイ小説が完成したのは、冬休みが終わってほどなくのことだ。クリスマスの取材《しゅざい》が終わってから、だいたい二十日くらいだろうか。それが書く早さとして、速いのか遅いのかはもちろん俺にゃあ分からない。でも、ものすごく気合《きあい》入ったもんに仕上がってるのは、読むまでもなく分かった。
読まなくたって――――――これを見りゃあ、なぁ?
「………………ぐー」
桐乃はリビングの机《つくえ》に突っ伏して、ケータイを握りしめたまま眠りこけていた。
机やその周りには、空《から》になった栄養ドリンクの瓶《びん》がごろごろ転がっている。
しかもすっぴんになった妹の顔は、たいへんひどい有様《ありさま》で、本当にこれでモデル仕事なんてできてんのかよというものだった。
だって、すんげーくまとかできてんだぜ? やばいだろ絶対……。
まあ、あやせに聞いたところによるとモデル仕事はこれ以降しばらくないらしいし、だからこそこのザマを自分に許しているのだろうが。それでも、あの桐乃が、そんな姿《すがた》を俺に見せてしまうほど一杯《いっぱい》一杯になっているのは非常にまれなことであった。というか初めてのことだった。
「…………ふん、まあ、なんだな」
よく頑張《がんば》ったよ、おまえはさ。
俺《おれ》は妹の背に毛布をかけてやりながら、こっそりと独《ひと》りごちた。
ケータイ小説の原稿《げんこう》が完成してから一週間がすぎ、忌々《いまいま》しい始業式《しぎょうしき》の朝がきた。
さんざん無理《むり》を重ねた桐乃《きりの》は、案《あん》の定《じょう》、風邪《かぜ》が悪化《あっか》して寝込《ねこ》んじまったらしい。らしいというのは、熱出《ねつだ》して寝込んでいる妹は、飯《めし》を食うときまで自分の部屋《へや》に引きこもっていて、俺《おれ》と顔を合わせる機会《きかい》なんかないからだ。
俺が朝飯を食っている最中《さいちゅう》、お袋《ふくろ》が落ち込んだ様子《ようす》で話しかけてきた。
「京介《きょうすけ》ぇ〜。あの子、まだたっぷり熱があるのに、学校行くって聞かないのよ〜」
「…………どーせ部活があるからとか、仕事がどーのとかごねてんだろ」
「そうそう、そうなのよー。は〜、ぜんぜん言うこと聞かなくってねー、いまお父《とう》さんに説得《せっとく》してもらってるとこ」
やっぱりか。あのバカ、こういうのをして自業自得《じごうじとく》だっつーんだよ。
まあ、根性《こんじょう》で風邪をいますぐ治せるわけじゃなし、親父《おやじ》に説教《せっきょう》されりゃさすがに今日《きょう》は大人《おとな》しく休むだろうけど。
チッ。あいつ、明日《あした》も明後日《あさって》も、熱が引くまで『学校行く』ってごねるんだろうな。
やれやれとしか言いようがない。
「心配だから今日、病院行かせてみるつもり。最近、インフルエンザが流行《はや》ってるみたいだしね」
「あっそ」
俺は味噌汁《みそしる》をずずっとすすり、
「……せーぜー俺に感染《うつ》さないよう気をつけて欲しいもんだぜ」
「ハァ、どーしてあんたはそう薄情《はくじょう》なのよ。――お兄《にい》ちゃんでしょう?」
「けっ、知ったこっちゃねーっつの」
バカじゃねえの? 心配したら病気が治んのかよ。
学校から帰ってきた俺は、お袋から、桐乃がやはりインフルエンザだったことを聞いた。『ああそうかい』というのが俺の正直な気持ちである。他《ほか》に何を思えってんだ。
常よりも入念《にゅうねん》に手洗いうがいを済ませたあと、二階へと上った俺は、
「…………」
何度か逡巡《しゅんじゅん》してから、妹の部屋をノックした。寝てるかもしれないので、やや控《ひか》えめにだ。
何の反応もない。やっぱ寝てんのかな……。俺は頬《ほお》をかきかき踵《きびす》を返そうとしたのだが、そこでガチャ、と扉《とびら》が開かれた。
いつもなら勢いよく俺の顔面を狙ってくる扉も、今日ばかりは元気がない。
少しだけ開いた扉の隙間《すきま》から、パジャマ姿の桐乃がこちらを見つめていた。
「……なに?」
……どうしよう、何も考えてなかった。なんで妹の部屋をノックなんてしたんだろう、俺。別に、用なんかなんもねーのにさ。…………っ……と……その……。
「…………いや。……ヨーグルト、食う?」
ふと片手に提《さ》げていたビニール袋《ぶくろ》を掲《かか》げる。帰り道、コンビニで買ってきたものだった。
「……うん、たべる」
桐乃《きりの》は熱っぽい顔でこくりとうなずき、コンビニの袋を受け取った。異様《いよう》に素直なのは、憎《にく》まれ口を叩《たた》く気力もないからだろう。皮肉《ひにく》な話だが、インフルエンザにかかっているときの妹は、喋《しゃべ》らないので常よりかわいい。ヨーグルトくらいくれてやっても惜《お》しくないくらいにはな。
「薬飲《くすりの》んだのか?」
「……のんでない」
「……さっさと飲めよ」
と――そこで、桐乃の左手に、ケータイが握られていることに気付く。
「……なにケータイ弄《いじ》ってんだよ」
もしかしてこいつ、この期《ご》に及んでまだ小説のこと考えたり、書いたりしてるんじゃねーだろうな……。
「アホか。大人《おとな》しく寝てろって」
「…………」
ちょっと叱《しか》った程度《ていど》なのに、落ち込んだように俯《うつむ》いてしまう桐乃。
熱出《ねつだ》して苦しいにしても……これは……いくら何でもしょんぼりしすぎのような気もした。
それにほんの少しだが、頬《ほお》に涙のあとのようなものを見つけてしまったのだ。
「……どうかしたのか?」
「……なんでもない」
ウソだな、こりゃ。あんまり兄貴《あにき》をバカにしてもらっちゃ困るぜ? そのくらいのことは態度を見てりゃ分かんだよ。第一落ち着いて考えてみりゃー、責任感とプロ意識の塊《かたまり》みてーなこいつが、せっかく学校休んだってのに、全力で病気を治そうとしないわけがない[#「全力で病気を治そうとしないわけがない」に傍点]。
「なんでもなくはねーだろバカ。――なんか心配|事《ごと》でもあんなら言ってみ。で、話したらさっさと寝ろ。早く治して部活やら仕事に出てーんだろうがよ」
ぶっきらぼうに言い放つと、桐乃《きりの》はきょとんと目を大きくした。
「……どうしたの……あんた。珍《めずら》しく優しいじゃん」
「ハッ。さっさと治ってもらわねーと、俺《おれ》に伝染《うつ》るだろうが」
俺としては憎《にく》まれ口を叩《たた》いてやったつもりだったのだが、
桐乃は小さく「ぷっ」と噴《ふ》き出した。
「ばかじゃん。……ふん、まあいいや、入って。あんたごときじゃ、どうにもならないとは思うけど。……聞きたいなら、話してあげる」
「へーへー」
これでインフルエンザにかかったりしたら、まさしく自業自得《じごうじとく》だな、俺も。
俺を部屋《へや》に招き入れた桐乃は、ベッドに座って、手に持ったケータイを渡してきた。
「これ」
「な、なんだよ……」
いきなりずいっと差し出されたのでひるんでしまう。受け取って画面を見てみると、液晶《えきしょう》に映っていたのは『けーたいi倶楽部《くらぶ》』のトップページだった。でかでかと表示《ひょうじ》されている広告には、こんなあおり文句《もんく》が書かれている。
『ケータイ小説の超《ちょう》大型|新人《しんじん》、ハードカバーでときめき☆デビュー! メディアスキー・ワークスより発売決定! けーたいi倶楽部のホームページで、なんと全文|先行《せんこう》公開中!』
どうやら今度、『けーたいi倶楽部』から刊行されるハードカバーの内容が、販促《はんそく》の一環《いっかん》として、ネット上で最初から最後まで全部|読《よ》めるようになっているらしい。
『超大型新人』という強気の触れ込みといい、よっぽど自信がある作品ってことだよな。
ってことは、それって――
「もしかしてこの大型《おおがた》新人っておまえのこと!? すげーっ、マジかよ!?」
「…………」
桐乃は答えなかった。俺からケータイを奪い取り、何度か咳《せ》き込みながら操作《そうさ》し、返してくる。画面を見ると、大型新人とやらが書いたケータイ小説のページに飛んでいた。
タイトルは『妹空《まいそら》」。
「実に分かりやすいなあオイ!」
本文に目を通すまでもなく分かる。桐乃《きりの》の書いたケータイ小説に間違《まちが》いなかった。
桐乃が必死こいて完成させたケータイ小説が、大々《だいだい》的に脚光《きゃっこう》を浴びているのだ。
『妹空』というタイトルの下には『この作品のレビューを見る」というボタンがあり、それを押すと、『妹空』への感想がずらーっと大量に表示《ひょうじ》された。
『いい話!』『泣ける』『二人の純愛《じゅんあい》が見どころ』『等身大《とうしんだい》の女の子に好感《こうかん》』
――等々《などなど》、公開して間もないってのに、すでに百件《ひゃっけん》以上もある。しかも、どれも好意《こうい》的な感想ばかりだ。感想の文面を見たところ、特に若い女性|層《そう》から強い支持を受けていることがうかがえる。
……凄《すご》いじゃねえか。
口にこそ出さなかったが、そう思った。トシとリノの関係が、作者の想定《そうてい》通り『純愛』だと受け入れられているあたりに釈然《しゃくぜん》としないものを感じはするのだが……。
取材《しゅざい》に付き合ったり、一生|懸命《けんめい》ケータイ小説を書いている妹の姿を見ている身としては、感慨深《かんがいぶか》いものがある。こいつにこんな才能もあったなんて……。
……は。んだよ、まーた差《さ》ァ付《つ》けられちまったな。どんだけ兄を置いていくつもりなんだか、この妹|様《さま》はよ……。悔《くや》しいやら、情《なさ》けないやら……落ち込むよ、俺《おれ》は。
自虐《じぎゃく》と祝福《しゅくふく》の混じった笑《え》みを浮かべようとして、気付いた。
「じゃあ、なんでそんな辛気《しんき》くさいツラしてんだ……? おまえ」
おかしいだろう。せっかく頑張《がんば》って書いたケータイ小説が、ちゃんと受け容《い》れられて、でっかく宣伝されて、今度《こんど》本になるんだぜ? 嬉《うれ》しくないわけがないだろうが――普通なら。
「……てるの」
「あ? なんだって?」
「あたしじゃない人が、書いたことになってるの!」
桐乃は血を吐《は》くように叫び、そのまま「げほっ……げほっ」と咳《せ》き込んだ。
「お、おい……大丈夫《だいじょうぶ》かよ?」
あんまり苦しそうなので背をさすってやろうとしたら、バシッと手で払われれる。
相変わらず酷《ひど》く咳き込んでいるので、腹を立てるどころじゃない。
「おまえじゃない人が書いたことになってるって?」
「げほっ……はぁ……はぁ……だ、だから、これ書いたのあたしなのに、ぜんぜん知らないペンネームのやつが、作者|名《めい》になってんの」
見れば確かに、タイトルのすぐ下に『著者《ちょしゃ》・理乃《りの》』とある。妹空の主人公・リノと同じ名前である。ケータイ小説によくあるパターンで『これは作者|本人《ほんにん》が実際に経験したことである』という体裁《ていさい》になっているのだろう。
「主人|公《こう》と同じ名前にした方が売れるから、ペンネームを勝手《かって》に付けられたってことか?」
「違う! そういうことじゃなくて……!」
げほげほ辛《つら》そうに咳《せ》き込みながら、妹は、そのくらいのことならこんなに騒《さわ》がないと言った。
「原稿《げんこう》保存《ほぞん》してたサイトのパスワード向こうに送ってから、ぜんぜん連絡《れんらく》がなくなっちゃって……名刺《めいし》に書いてあった携帯《けいたい》番号にかけても、ずっと留守電《るすでん》で……メール送っても返信こないし……そしたら、いつの間にかこんなページができてて……」
原稿保存してたサイト? ……ああそうか。ケータイ小説ってのは、書いた文章をブログみたいに『登録《とうろく》したケータイサイトの自分のページに保存する』んだっけな。
「なにか行き違いがあったとか……そういう事情があるんじゃないのか? 俺《おれ》が編集部《へんしゅうぶ》に電話して聞いてやろうか?」
「もう聞いたっての! あたしが書いたのに、連絡ないし、どういうことなのって――でもぜんぜん相手にされなかった! 言《い》い分《ぶん》聞いてはくれたけど、よくあるクレームみたいな感じで対応されて――担当《たんとう》編集にも代わってもらえなかった。それに、あたしが原稿データを保存してた「けーたいi倶楽部《くらぶ》』のサイトが、パスワードの設定|勝手《かって》に変えられてログインできなくなっちゃってんだよ!?」
「とすると……」
あまり考えたくない展開だ。しかし仮に、いま思いついた方向性で合っている[#「いま思いついた方向性で合っている」に傍点]のであれば、決定的な台詞《せりふ》を妹の口から、言わせるのは、あまりにも酷《こく》なように思えた。
だから俺は、やや時期|尚早《しょうそう》だとは分かっていながら、こう言った。
「盗作《とうさく》されたってことか? この前|新宿《しんじゅく》で会った編集者が、おまえの書いたケータイ小説を、そのまま別の人が書いたってことにして、発表したって――そういうことなのか?」
「…………だと思う。……てか、そうとしか思えない」
桐乃《きりの》はベッドに腰掛《こしか》けたまま、苦しげに呟《つぶや》いた。
顔は熱で赤くなり、瞳《ひとみ》は辛《つら》そうに潤《うる》んでいる。よりにもよってインフルエンザで倒れているときに、こんなトラブルが起こるなんてな……まさに泣《な》きっ面《つら》に蜂《はち》ってやつだ。
「で……どうするつもりなんだ、おまえ。このまま泣き寝入《ねい》りするつもりはないんだろう?」
「なにもしない」
妹の返事は意外《いがい》なものだった。
「……勘違《かんちが》いしないでよ。いまのはあくまで、あんたが話せっていうから言っただけ。あたしは今回のトラブル、何も対処《たいしょ》する気、ないから。つーか別に、こんなことで悩んでないし」
「――なんでだ?」
それはウソだろ。あんなに頑張《がんば》ったのに、ぜんぶ無駄《むだ》になっちまいそうになってんだぞ?
超々《ちょうちょう》負けず嫌《ぎら》いなおまえがさあ、悔《くや》しくないわけないじゃねーかよ。
「なんで?」
桐乃《きりの》はせせら嗤《わら》うように鼻を鳴らす。
「決まってんでしょ。あたしがいまやんなきゃいけないのは、一生|懸命《けんめい》病気|治《なお》して、一日でも早く仕事と部活に復帰《ふっき》することなの。仮に騙《だま》されたからってさー、結局《けっきょく》それで迷惑《めいわく》こうむってるのはあたしだけなわけじゃん? だったら、そんなくだらない件に構ってるヒマないの。いまはそれどころじゃない。他《ほか》にもっと大事なことがあるんだから」
世界すべてを見下《みくだ》すような、尊大《そんだい》な口調《くちょう》。俺《おれ》にはそれが、とても空々《そらぞら》しく聞こえた。
げほっ……げほっ……と、少し咳《せ》き込んでから、続ける。
「……そりゃ、いいように利用されたのはムカツクし、あのカマ野郎《やろう》ブッ殺してやりたいとは思うけどねー。でもそれも全部、あたしの輝かしい才能の証明ってことじゃん? あたしの書くものにそれだけの価値《かち》があるからこそ、盗もうなんて思ったんだろうし? フン、盗まれたんなら、もっかい書けばいいだけのことでしょ。今度はもっと凄《すご》いのをね」
桐乃はいつものように腕《うで》を組み、軽く笑い飛ばした。
「それに……それにケータイ小説なんて、しょせん遊びみたいなもんだったんだから……。両立してたつもりなのに、あたし、結局《けっきょく》倒れちゃって、みんなに迷惑《めいわく》かけて……目が覚めたっていうか。もう絶対こんなことがないようにしないとって、思うし。逆に、ちょうどよかった」
これで涙の痕《あと》が残ってなけりゃあ、格好《かっこう》いい台詞《せりふ》だったんだけどな。
「だから……ほっといて。さっさと出てってよ」
おまえは本当、ウソを吐《つ》くのが下手《へた》なヤツだよ。
俺の妹は、確かに凄いやつだ。色々《いろいろ》な才能《さいのう》があるし、相応《そうおう》の努力もするし、一度《いちど》始めたことに対しては、気持ち悪いくらいの熱意を発揮《はっき》する。その結果、こいつの思い通りにならないことなんて、何もないんじゃないかとさえ思う。だが、弱点《じゃくてん》がないわけじゃない。
こいつは想定外《そうていがい》のトラブルにすこぶる弱いのだ。自分の想像《そうぞう》が及ぶ範囲《はんい》の困難《こんなん》に対しては用意|周到《しゅうとう》に準備を整えるし、覚悟《かくご》を決めてもいる。しかし死角《しかく》からの攻撃《こうげき》というか、迎撃《げいげき》準備を整えていない問題に対しては一転《いってん》、どうすればいいのか分からなくなってしまうのだろう。
そんな妹の弱点を、俺は、親父《おやじ》やあやせとのトラブルで、よーくわきまえていた。
なんだかんだ言っても、こいつは十四|歳《さい》の中学生なんだよな。
幾ら才能があって凄いっつったってさ、そこを忘れちゃいけねえよ。
俺は、こいつの兄貴《あにき》なんだから。
「フ――」
……さて、どうすっかな……。
妹の話を聞いた俺は、桐乃の部屋《へや》から出てすぐのところで、下唇《したくちびる》を噛《か》んで考え込んだ。
いや、考え込むというのはちょっと違うか。どうすっかなと心の声を出しちゃいたものの、これから俺《おれ》がどう行動するかについては、とっくにハラが決まっているのだ。
ただスゲー悩んじゃいた。自分がこうもハラを決めている理由について、どうにも納得《なっとく》がいっていなかったからだ。
だって俺、妹が嫌《きら》いなんだよ。すげえ嫌いなはずなんだよ。
繰り返しになるが――そこは断じて、間違いないんだ。
そもそもあいつから人生《じんせい》相談を受けることになったのだって、さっさと妹との会話を終わらせたいがために口走《くちばし》った、投げやりな台詞《せりふ》が原因だったんだしさ。親父《おやじ》とのごたごたにしろ、あやせとの騒動《そうどう》にしろ、あいつを助けるために俺が奔走《ほんそう》したのはイレギュラーみたいなもんで。一度始めた『人生相談』に、ケジメをつけるためにやっただけのことで――。だからあいつ自身が『なにもしない』と決めていて、俺に相談を持ちかけているわけでもない以上、前回と同様《どうよう》この件は俺にとってまったく関係のない話のはずなんだ。むしろ糞《くそ》生意気《なまいき》な妹の鼻《はな》っ柱《ぱしら》が折れたところが見られて、スカッとするシーンのはずじゃねーのかよ。
「くっそ……ワケ分かんねー……」
このもやもやは、いまに始まったことじゃない。最近の俺が抱え込んでいる、ドでかい悩みだった。冷め切っていた妹との関係。妹の秘密《ひみつ》を知って、適当にあしらうためだけに人生相談を受けて――変わっていった関係。いまも変わり続けている、微妙《びみょう》な距離感《きょりかん》。無《む》関心ではなくなりつつある、妹の存在。
これは、なんだ。自分の胸のうちを覗《のぞ》き込もうとしても、そこにはぐちゃぐちゃしたものが渦巻《うずま》いているばかりでどうにもならない。どうしようもない。
ムカムカして、イライラして、気持ちが悪くて……。
ああ、ムカつくなあ畜生《ちくしょう》。どうすりゃいいんだよ。すっきりしねえな。
チッ、どうすんだよこれ。同じ立場のやつがいたらぜひとも聞いてみたいぜ。
なんでこんなに、あんな妹のことで嫌《いや》な気分になんなきゃなんねーんだ?
まさか妹が大嫌《だいきら》いってのは、間違《まちが》いで。本当は――
「ぎゃーっ! ぜってー違《ち》げえって!」
そう本心《ほんしん》からの悲鳴を上げながら。俺は病気で動けない妹に代わって、本来あいつが自分でやるであろうこと[#「自分でやるであろうこと」に傍点]を始めるのであった。
まあとはいっても、俺にできるのは頼りになるヤツらに相談するくらいなんだけどね。
「よくぞ打ち明けてくださいました京介氏《きょうすけし》! 拙者《せっしゃ》に何ができるかは未知数《みちすう》ですが、全力で協力させていただきますぞ――っ!」
俺の対面《たいめん》で、沙織《さおり》が大仰《おおぎょう》な仕草《しぐさ》でそう言ってくれた。例のごとく、ぐるぐる眼鏡《めがね》&裾《すそ》をズボンに入れたネルシャツという、オタク全開のファッションである。
「……話は大体《だいたい》分かったわ、……あのレイプ小説がそんなことになっていたなんて…………正直、信じがたい話だけれど。その嫌《いや》そうな話しぶりをみると、本当のことなんでしょうね」
次いで沙織《さおり》のとなりに座っている黒猫《くろねこ》が、アイスコーヒーをすすりながら呟《つぶや》いた。
俺《おれ》たちがいるのは、松戸駅《まつどえき》付近のマックである。二人に桐乃《きりの》のことで相談がある旨《むね》をメールで送ると、ちょうど今週|末《すえ》、沙織と黒猫の二人でシスカリの全国大会|予選《よせん》に行く予定があるから、その日《ひ》集まろうということになったのだ。この付近にある『東京ガリバー』というゲーセンで行われたというシスカリ全国大会予選は、すでに終わっていて、黒猫は膝《ひざ》の上に載《の》せたバッグに予選|通過《つうか》を証明《しょうめい》するでかいバッジ(ゲーム中に登場する重要アイテムと同じデザイン。ホログラム加工された『|真 妹《トゥルー・いもうと》』という字が刻印《こくいん》されている)を付けていた。
この黒|尽《ず》くめのゴスロリ女は、ゲームが鬼強《おにつよ》いのだ。
そういやあのゲームって、秋にアーケード版が出たんだっけ。まだやってねえや、俺。
人前《ひとまえ》でアレをやるのは、どうにも恥《は》ずかしくてなあ。この前も赤城《あかぎ》と地元《じもと》のゲーセンに行ったんだけどさ。あのアイドルを育てるなんちゃらマスターだの、なんとかアカデミーとかいうクイズゲームだの、ああいうのを堂々《どうどう》とゲーセンでやれちゃうのって何なの? 慣《な》れとかそういうので克服《こくふく》できるもんなの? 俺にはよく分からねえよ。
ところで黒猫がバッグにつけているバッジにはプレイヤーの名前が刻《きざ》まれているのだが、
千葉地区《ちばちく》代表『松戸ブラックキャット様』というのはリングネーム的な何かだろうか?
「……ふん、なるほど、だから冬コミにも来なかったというわけ……」
「京介氏《きょうすけし》。実はその件で、黒猫氏は、きりりん氏のことをずっと心配していたのですよ。風邪《かぜ》を引いたらしいけど、こんなに長引《ながび》くなんて大丈夫《だいじょうぶ》なのかしらと、それはもう寂《さび》しそうに――」
「――ハ、勝手《かって》に脚色《きゃくしょく》しないで頂戴《ちょうだい》。別に心配していたわけじゃないわよ。ただ、今回はサークル申し込みが受かったから、私のサークルで、コスプレをして売り子でもさせようと思っていたの。この前の貸しを返してもらうためにね。……なのに、風邪|引《ひ》いて来られないなんて言うから。なんて間が悪い女なのかしらと、嘲笑《あざわら》っていただけ……」
「そっか……」
こいつ、桐乃と一緒《いっしょ》に冬のイベントに参加したかったんだな……。で、色々《いろいろ》と計画|練《ね》ってくれていて……それなのに桐乃が来られなかったから、寂しい思いをしたんだろう。
「ごめんな。……それと、さんきゅな」
「……どうしてあなたに謝られたり、お礼を言われたりするのか、分からないわ」
黒猫は不機嫌《ふきげん》にそっぽを向いた。何故《なぜ》かこいつは、こっちが褒《ほ》めたり礼を言ったりすると、こういう態度を取る。間違いなく照れくさくてそうしてしまうのだろうと思うのだが、桐乃あたりに言わせるとそうではなく、
『あー、違う違う。あの黒いの[#「黒いの」に傍点]がよく陥《おちい》るアレは、ツンデレとかじゃなくて、ルサンチマン発動《はつどう》してんのよ。ひねくれたキモオタって、自分をあたしみたいな勝ち組に肯定《こうてい》されると、なんかムカつくらしくてさーあ? あーやだやだ、下等《かとう》生物の嫉妬《しっと》ってキモいよねー』とのことだ。
その理屈《りくつ》はさっぱり分からないが、そういうものらしい。だとしてもひどい言《い》い草《ぐさ》である。
「……勝ち組|気取《きど》りの勘違《かんちが》いスイーツ女と会わずにすんで、年末《ねんまつ》はせいせいしていたわよ」
俺《おれ》はやはり照れ屋なだけに思えるのだが。たったいまこいつを褒《ほ》めたこの俺は、勝ち組なんかじゃないわけだしな。
黒猫《くろねこ》の台詞《せりふ》を聞いた沙織《さおり》も、俺と同様《どうよう》の結論《けつろん》にいたったようである。
「ハッハッハ、何をおっしゃいますか黒猫|氏《し》、せいせいしたなどと心にもないことを。このこのっ、彼氏《かれし》がいない黒猫氏は、きりりん氏と会えなくてさぞかし寂《さび》しい年末を過ごしたのだろうと拙者《せっしゃ》、心を痛めておったのですよ?」
「……でかぶつの分際《ぶんざい》で言ってくれるじゃない。ふん、あなただって、見るからに喪女《もおんな》のくせに。悔《くや》しかったらクリスマスに何をやっていたか白状《はくじょう》して御覧《ごらん》なさいよ」
「拙者でござるか? ええと確か去年のクリスマスは、ガブスレイに色を塗ったり、Xbox Live のアバターを作成《さくせい》したりしておりましたなあ。フッ……アバターがあまりにも拙者そっくりにできたもので、嬉《うれ》しくなってSNSに画像《がぞう》をあげたり、Twitter で自慢《じまん》したりしてましたぞ」
あまりにも哀《かな》しいクリスマスを過ごしていやがった……。
「はて? というかそのときネットで話していた相手が、黒猫氏だったような気が……」
「……そ、そういえば、そうだったわね……」
自分で振った話題で、盛大《せいだい》に自爆《じばく》している黒猫だった。相手をバカにするつもりで『クリスマスなにやってたの?』って聞いたのに『おまえと話してた』って返されちゃ世話《せわ》がねえ。
松戸《まつど》ブラックキャットもとい黒猫は、取《と》り繕《つくろ》うように、こほんとかわいく咳払《せきばら》いをする。
「話を戻して……その『妹空《まいそら》』とかいうナメくさったタイトルのケータイ小説が、盗作《とうさく》の被害《ひがい》に遭《あ》ったかもしれないということだけど……もう少し詳しい話を聞かせてもらいたいわ」
「おまえも……協力して……くれるのか?」
「……呆《あき》れたものね。脳《のう》はご無事《ぶじ》? 興味《きょうみ》本位《ほんい》に決まっているでしょう。どうしてこの私が、人間|風情《ふぜい》の尻《しり》ぬぐいをしてやらなければならないの。そんな妄言《もうげん》は、二度と口にしないで頂戴《ちょうだい》」
フゥ、と可憐《かれん》な仕草《しぐさ》でため息を吐《つ》く黒猫。
「……そっか」
沙織といい、黒猫といい、桐乃《きりの》のピンチに、本人《ほんにん》から頼まれたわけでもねえのに、こうやって集まってくれてさ、話|聞《き》いてくれて……。いかん、ちょっと泣きそうだ。
「……いいやつだよな〜、おまえも」
「……あなたにだけは、言われたくない台詞ね。人の話をどれだけ都合《つごう》良く解釈《かいしゃく》したのよこのマゾ犬は」
もの凄《すご》く不愉快《ふゆかい》そうに、むすっと吐《は》き捨てる黒猫。初めて会ったときは、なんて無《ぶ》愛想《あいそ》な女だろうと思ったもんだが……そうじゃないんだよな、たぶん、根っこではさ。
「ふふ、まったくですな」
俺《おれ》の言動《げんどう》を聞いていた沙織《さおり》も、口元《くちもとこ》を| ω 《こんなふう》にして笑いながら口を挟んできた。
「そういえば、きりりん氏抜《しぬ》きで京介氏《きょうすけし》とお会いするのはこれが初めてでしたか。……いい機会だから聞いておこうと思うのですが、初めてお会いしたオフ会のときといい、去年の夏コミといい……どうしてそんなに甲斐甲斐《かいがい》しく妹さんの世話《せわ》を焼くのです? 少なくとも……表面上は迷惑《めいわく》きわまりないといった体《てい》ですのに」
この台詞《せりふ》。この前の黒猫《くろねこ》に続いて、沙織にまで言われちまったな。
しかし相変わらず答えにくい問いではある。なにせ俺自身も自問自答《じもんじとう》し続けていて、いまだにすっきりとした答えが出ていないんだから。
俺が考え込むようにしていると、沙織がぐっとこちらに身を乗り出してきた。
「……やはりお二人は、ただならぬ仲なのでしょうか?」
「ただならぬ仲ってなんだよ!? 断じて違《ちげ》ぇ! 妙《みょう》な勘《かん》ぐりをするんじゃない!」
しかも『やはり』って言ったな! キサマ俺たちをずっとそんな目で見てやがったのか……! これだからエロゲーマーは! なんでもかんでも、すーぐ近親《きんしん》相姦《そうかん》に結びつけやがる!
全力で否定すると、沙織は「む」と下唇《したくちびる》を押し上げ、次いで戦慄《せんりつ》するような表情で、
「違うとおっしゃる? で、では、京介氏は……いわゆるド|M《エム》という性癖《せいへき》の」
「さらに違え――!?」
なんでオタクどもの思考《しこう》パターンってこう似《こ》たり寄ったりなの? もうヤダこいつら!
頭をばりばりかきむしっている俺に、フォローを入れてくれたのは、以外《いがい》にも黒猫だった。
「……別に、珍《めずら》しい話でもないでしょう。妹のことが心配でたまらなかったり、つい過保護《かほご》に世話を焼いてあげたくなったり……そういうのは、好き嫌《きら》いを超越《ちょうえつ》した、また別の感情だもの」
あるいはそれは、自身にも妹がいるという彼女だからこそ、言えた台詞なのかもしれない。
「……妹って、そういうものでしょう? ……こればかりはどうしようもないわ。手間《てま》がかかるわりに何の見返りもくれなくて――気まぐれな猫を飼っているようなものだもの」
そう締《し》めて、目を伏せる。きっと黒猫は、自分と妹のことを連想《れんそう》しながら喋《しゃべ》ているのだろう。その口調《くちょう》は夏コミで同人《どうじん》活動について語っているときと同じくらい流暢《りゅうちょう》で、そして優しかった。
沙織も、あったかい温泉に浸《つ》かっているような表情で聞いていた。
「ふむ……黒猫氏は、よい姉君《あねぎみ》なのでしょうな」
「……そうでもないわよ。毎日いじめてやってるわ」
嗜虐《しぎゃく》的にせせら笑う黒猫を見ていて、俺も救われた気持ちになる。相変わらず胸のもやもやは取れてくれないが、それでもいいのだと肯定《こうてい》されたような気がした。
兄妹の関係。桐乃《きりの》との関係。俺の好きなように、マイペースでやっていけばいいのだと。
諭《さと》されたような気がした。
「よし……じゃあ、いっちょやるか!」
ぱん! と掌《てのひら》に拳《こぶし》を叩《たた》き込む。
沙織《さおり》は笑顔で親指《おやゆび》を立て、黒猫《くろねこ》は無《む》表情で肩をすくめた。
沙織と黒猫。相談《そうだん》相手にこの二人を選んだのは、桐乃《きりの》の裏《うら》の顔をよく知っていて、桐乃のことを大切に思ってくれているやつらだからだ。
桐乃の世間体《せけんてい》のこともあるし、相談相手は慎重《しんちょう》に選ばなきゃならない。その点こいつらなら、創作《そうさく》関係にも詳しそうだし、うってつけだった。本当にありがたいと思っているよ。
ところで実は、いま述べた要件《ようけん》を満たす人物なら、他《ほか》にもいる。
親父《おやじ》とあやせだ。この二人を味方につけられれば、強力|無比《むひ》な助《すけ》っ人《と》として、それこそ一騎当千《いっきとうせん》の大《だい》活躍をしてくれることだろう。しかしその、この二人はさあ……桐乃のことをもの凄《すご》く大事に思ってくれているし、相談すれば真剣《しんけん》に話を聞いて、手助けをしてくれるに違いないっちゃないんだが……。相談相手としては、それぞれドでかい問題がある二人なのだ。
……分かるだろう? 容易《ようい》に力を借りるわけにはいかねーんだよ。
まず――親父にゃ絶対|反対《はんたい》されるからって理由で、ケータイ小説を本にしようって話はまだ内緒《ないしょ》にしてるわけだろ。なのに桐乃のやつは、無理《むり》したせいで体調《たいちょう》くずして、インフルエンザでぶっ倒れちまった。ただでさえ特別に許可《きょか》してもらっているモデル仕事やら部活やらに支障《ししょう》がでてるわけで……。いまの状況で親父に頼るのは筋違《すじちが》いだし、そこを曲げて頼るなら、解決したあとでまたオタク趣味《しゅみ》の是非《ぜひ》について蒸《む》し返される覚悟《かくご》をしなくちゃならない。
そしてあやせとは、つい先日|話《はな》す機会があってな……。(桐乃がインフルエンザでぶっ倒れた件について、俺《おれ》に電話がかかってきたのだ。あれほど言ったのにって、何故《なぜ》か俺が|超 説教《ちょうせっきょう》されたっつーの)。で、そのあとでこんなことを言っていた。
『桐乃の仕事への姿勢《しせい》は、みんなから凄《すご》く評価《ひょうか》されていますし、だからちょっとくらい病気で休んだからって、ホントどうってことないんですけど。……でも桐乃のことだから、自分のせいで仕事に穴《あな》開けちゃったって、落ち込むに決まってるじゃないですか』
だからあやせは、所属《しょぞく》する事務所や雑誌とも相談して、桐乃が年明《としあ》けにやるはずだったモデルの仕事を、代わりに引き受けてくれたのだそうだ。自分がやるのが一番、桐乃が感じる負《お》い目《め》が少なくなるだろうから、とのことである。
『ですから、わたし、お見舞《みま》いには行きません』
「分かってるよ。感染《うつ》ったら桐乃の代わりができねえからだろ。――なんつーか、その」
『あ、お礼は言わないでくださいね? 私が勝手《かって》に、やりたくてやってるだけなんですから』
あやせはあやせで、自分にしかできない方法で桐乃の窮地《きゅうち》に動いてくれている。
おせっかい焼きは、俺たちだけじやねーんだよ。
あっちはあっちにお任せして、こっちはこっちで、やることやるさ。
ってなわけで。
俺《おれ》は沙織《さおり》と黒猫《くろねこ》にドリンクのお代わりとポテトを奢《おご》ってやり、改めてケータイ小説が盗作《とうさく》されたかもしれない件について詳細《しょうさい》を話して聞かせた。
「ふむふむ……」
「ふうん……」
沙織も黒猫も、それぞれ神妙《しんみょう》な表情で聞いてくれている。
「――ってわけでさ。この状況がどういうことなのか、どうにか確認《かくにん》したいんだよ……。俺としては、やっぱ、例の『熊谷《くまがい》龍之介《りゅうのすけ》』って編集者《へんしゅうしゃ》が怪《あや》しいと思うんだが」
「ふうむ。おっしゃることは分かりますが……」
沙織は重い声で、自分の考えをまとめながら話してくれているようだ。
「一介《いっかい》の会社員が、そんなリスキーな行為《こうい》に手を出すでしょうか? いくらきりりん氏《し》のケータイ小説に『売れる』という確信を持っていたとしても、盗作が公《おおやけ》になったときは、自分の立場が危うくなるわけですから」
「……それに編集者が犯人だとしたら、原稿《げんこう》を盗む理由がよく分からないわ。わざわざ盗作するまでもなく、作者|本人《ほんにん》を売り出せばいいだけの話なんだから。……むしろその方が、『現役《げんえき》モデルの美少女《びしょうじょ》中学生|作家《さっか》デビュー』云々《うんぬん》のあおり文句《もんく》で売り出しやすいはずだし、顔《かお》出しでインタビューしたり、安上がりで効果的な宣伝ができるんじゃないかしら?」
それはそうだな。
「しかしなあ。だからといって、この件にあの編集者が関わってないってのは考えにくいだろ」
「京介氏《きょうすけし》、件《くだん》の名刺《めいし》をお持ちでしたら、見せていただけますか?」
「おう。これだ」
沙織の提案を受けて、例の編集者から入手《にゅうしゅ》した名刺を取り出す。
名刺には、メディアスキー・ワークス第二編集部モバイル書籍課《しょせきか》、熊谷龍之介とある。
テーブルの中央に置くと、二人が身を乗り出してまじまじと眺《なが》め始めた。
「……ふうん、このモバイル書籍課というところが、けーたいi倶楽部《くらぶ》を運営してるってことかしらね?」
「実は拙者《せっしゃ》もこの出版社の名刺を見たことがあるのですが……本物《ほんもの》の名刺に見えますな。とても偽造《ぎぞう》には見えませぬ。たとえよくできた偽物《にせもの》だとしても、本物を知悉《ちしつ》していないと作れますまい」
桐乃《きりの》と似たようなことを言う沙織。続いて黒猫が口を開く。
「そもそもこの熊谷という編集者は、本当に編集部に存在しているの?」
「ああ、それは俺|自身《じしん》が電話して受付の人に確認《かくにん》したから間違《まちが》いない。――イタズラ電話|扱《あつか》いされたけどな」
「又聞《またぎ》きになりますが、編集部には、自分の作品を盗作されたというクレームが毎年|何件《なんけん》もくるのだそうです。もちろんほとんどの場合は、思いこみや言いがかりなのでしょうが――編集部《へんしゅうぶ》はそういったクレームを何件も何件も聞き続けているわけですから。……今回もそのケースだと思われてしまったのかもしれませんな……」
狼《おおかみ》少年の理屈《りくつ》だよなあ。確かに数百件の言いがかりの中から、たった一件の真実を見抜《みぬ》いてくれって言うのも、難儀《なんぎ》な話なのかもしれねえ。
黒猫《くろねこ》が名刺《めいし》を手にとって、目をすがめた。
「……編集部の連絡先《れんらくさき》の下に、ボールペンで携帯《けいたい》番号とメールアドレスが書かれているわね」
「? なんか気になるのか? 外出とかが多いから、気を遣《つか》って連絡が付きやすい直通《ちょくつう》の携帯番号やらメルアドを教えてくれたってことだろう」
「……だからどれだけ人が好《い》いのよあなたは。少しは人を疑いなさい。編集部に電話されたら困るから、こっちに電話しろという意図《いと》が隠《かく》されているとは考えられないの? ただ、そうね……いま沙織《さおり》が言っていたことも考えると……思うに、やはり、この「名刺|自体《じたい》は本物』なんじゃないかしら」
「というと?」
「きりりん氏《し》が新宿《しんじゅく》で会ったのは、熊谷《くまがい》氏の名前と職業を騙《かた》った偽物《にせもの》ではないか――そういうことですかな? 黒猫氏」
「ええ」
黒猫はうなずいた。
「……あのカマ野郎《やろう》が、編集者|本人《ほんにん》じゃなかったって?」
「私はそう思うわ」
「だけど――これは本人が出してきた名刺だぞ。それに待ち合わせ場所だって、出版社だったんだぜ?」
「……莫迦《ばか》ね。そんなのどちらも出版社に勤める編集者だという証拠《しょうこ》にはならないわよ。だって待ち合わせをしたのは、出版社のロビー[#「ロビー」に傍点]なのでしょう? 実際に打ち合わせをしたのは、近所の喫茶店だったと言ったじゃない。鍵《かぎ》がかかっているわけじゃなし、部外《ぶがい》者だって出版社のロビーを待ち合わせ場所にするくらいはできるわ。そして自分が編集者だという信憑《しんぴょう》性を確実なものにするために、本物の編集者から手に入れた名刺を自分のものだと偽《いつわ》って渡す――。わりとポピュラーな詐欺《さぎ》の手口《てぐち》じゃないかしら?」
「……詐欺?」
「……ええ、編集者を騙って作家|志望者《しぼうしゃ》に近づき、『あなたの書いた本を出版しませんか?』と持ちかけて契約|金《きん》を払わせ、そのままドロンする『自費《じひ》出版詐欺』というものがあるのだけど……それとちょっと似ていない?」
「だが桐乃《きりの》は、金を取られたわけじゃないぞ」
「そうですな。騙《だま》し取られたのは原稿《げんこう》だけで、別人《べつじん》が書いたものとしてではありますが、正規《せいき》の出版社から本が出るわけですから。確かに手口《てぐち》は似《に》ていますが、自費《じひ》出版|詐欺《さぎ》とは違いますな。そしてその『違う点』こそが重要なポイントではなかろうかと拙者《せっしゃ》は考えます」
思慮深《しりょぶか》い口調《くちょう》で語る沙織《さおり》。
「その熊谷氏《くまがいし》を騙《かた》る何者かは、出版社と何らかのつながりを持っている人ではないかと。そうでなければその人の手に渡った原稿《げんこう》が出版されるなどということはありえませんし、熊谷氏の名刺《めいし》を入手することもできますまい」
沙織はケータイ取り出し、画面を皆が見えるように差し出した。
そこには件《くだん》の『妹空《まいそら》』の紹介ページが表示《ひょうじ》されている。
「あくまで推測《すいそく》ではありますが、この『理乃《りの》』という人が、きりりん氏の原稿を盗作《とうさく》した犯人ではないかと。その人がどんな立場の方なのかは分かりませんが、とにかく出版社に顔の利く人であると。まず初めに、きりりん氏の書いたケータイ小説が投稿《とうこう》サイトで人気《にんき》を博《はく》していたという状況があって、それに目を付けた理乃氏は、本物《ほんもの》の熊谷氏の名刺を利用し、編集者を騙り、きりりん氏に近づいた。きりりん氏から原稿を受け取った理乃氏は、それを編集部に『自分が書いたものとして』持ち込んで、首尾良《しゅびよ》く企画《きかく》を通すことに成功した――という流れはいかがでしょう?」
「……私にはどうしても、その、犯人が? あのレイプ小説に目を付けたという点が不可解《ふかかい》に感じられるわ。なんだってアレを読んで『これは売れる』という結論《けつろん》にいたったのかしら……」
解《げ》せないわね――と、黒猫は何度も首をひねっていた。
「あのケータイ小説、月間《げっかん》ランキング一位取って、投稿して一ヶ月で三十五万ビュー行ってたらしいしな。桐乃《きりの》が今後も人気の出るケータイ小説を書くって見込みは、素人目《しろうとめ》にもあったんじゃないのか?」
「……それが分からないと言っているの。ああいうクソみたいなケータイ小説を好んで読む読者|層《そう》って、私には魔界《まかい》の住人に思えるわ」
それは言い過ぎだろ。
黒猫は、桐乃への対抗《たいこう》意識や嫉妬《しっと》のみならず、ケータイ小説|全般《ぜんぱん》について悪印象《あくいんしょう》を持っているようだ。テーブル中央に置かれていたケータイを手に取り、『妹空』のプロローグ(テツがダンプに礫《ひ》かれて挽肉《ひきにく》になっちまうシーン。相変わらず改行《かいぎょう》たっぷりの文章だ)を表示させてから、画面を冷然《れいぜん》とすがめ見る。
「……ふん、見なさいよこの一ページ目から大炸裂《だいさくれつ》している糞《くそ》っぷりを。ダンプと人間が衝突《しょうとつ》したというのに『バコーン』なんて音が出るわけないでしょうが。まったく……チラ見しているだけで作者の得意げな笑顔が浮かんできて、どんどんケータイを潰《つぶ》したくなってくるわ」
「く、黒猫氏!? それ、拙者のケータイ!」
ぎりぎりとケータイを握りしめる黒猫に、沙織が慌《あわ》てて声をかけた。
黒猫はチッと舌打《したう》ちをして、ケータイをテーブルに戻す。
「……まあ、これほどまでの駄文《だぶん》を、臆面《おくめん》もなく本にして売ってしまうような連中《れんちゅう》もいるわけだし? 編集者《へんしゅうしゃ》にしろ読者にしろ、まともな審美眼《しんびがん》なんて持ち合わぜてはいないのでしょうね」
……なんでこいつは、これほどまでに編集者を敵視《てきし》しているんだ?
過去になんかあったの?
そこで沙織《さおり》が、「まあまあ」と、やや宥《なだ》めるように言った。
「なんにせよ、理乃氏《りのし》というのは、売れそうなものを見抜《みぬ》く目と、本物《ほんもの》の編集者|顔負《かおま》けの指導《しどう》能力を持っている人ではあるのでしょうな。きりりん氏と実際に打ち合わせをして、アドバイスをして、きちんと納得《なっとく》させているわけですから。そして実際に企画を通してもいる。……素人《しろうと》判断《はんだん》ではありますが……『妹空《まいそら》』の企画からは大ヒットの予兆《よちょう》を感じますぞ」
「まあな。打ち合わせが終わったら、桐乃《きりの》もすっかり信頼しちまってた。あいつ、舞い上がっちゃいたけど、直接|会《あ》うまでは話を鵜呑《うの》みにしているわけでもなかったのにさ」
「――ハ、正直ざまあみろと言ってやりたいわ。どうせこんなことだろうと思っていたわよ。……私が先月、この件で何十時間|自慢話《じまんばなし》を聞かされたか、教えてあげましょうか?」
……やっぱりっつーか。桐乃が黒猫《くろねこ》に、自慢してないわけがねーとは思ってたんだよ……。
沙織が興味深《きょうみぶか》そうに聞いた。
「やはは、そういえばお二人はSNSでもネットバトルを繰り広げていましたなぁ。直接|対決《たいけつ》は、メッセか何かで?」
「『きゃはは――あんたはそんなんだから、いつまでもワナビ卒業できないのよ! せいぜいあたしを見習いなさいよね! あ、無理《むり》か! 才能《さいのう》が足りないから!』――スカイプで一晩《ひとばん》中コレよ。……あの恨《うら》みは決して忘れはしないわ」
「……いや、その、悪かったな」
怨念《おんねん》のたっぷりこもった赤い瞳《ひとみ》に見据《みす》えられて、俺《おれ》は恐縮《きょうしゅく》するしかなかった。
そしてそんな体験を経《へ》てなお、ここに来て、桐乃のために協力してくれる黒猫は、相当のお人好しなんだろうとも思った。
とまあそんな感じで、俺たちの勝手《かって》な推測《すいそく》ではあるにせよ、段々《だんだん》と犯人|像《ぞう》が絞《しぼ》れてきた。
しかし、今後の具体案《ぐたいあん》については、なかなか結論がでなかった。
「何がどうなってるかの全体像は、なんとなく見えてきたけど……どうすりゃいいんだろうな、実際。桐乃の書いたケータイ小説を、ちゃんと桐乃が書いたモンだと認めさせられりゃ、それが一番いいってのは分かるんだが……」
「……それは、かなり難しいでしょうね」
「ああ、証拠《しょうこ》がねえからな」
「原稿《げんこう》の元データは――」
「保存《ほぞん》してたサイトとやらが、向こうに乗っ取られちまったんだと。パスワードを教えた途端《とたん》、パスワード変えられちまって、自分のページなのに入れなくなっちゃったとか、なんとか」
だから、あのケータイ小説を桐乃《きりの》が書いたという物証《ぶっしょう》はもうないのだ。
黒猫《くろねこ》が諦《あきら》めきれないといった調子《ちょうし》で言った。
「原稿《げんこう》データ、パソコンとかに残ってないの? バックアップとか……」
「黒猫|氏《し》、バックアップデータをきりりん氏が残していたとしても、あまり状況は変わらないと思いますぞ。――すでに全《ぜん》文章がWEB上で公開されてしまっているのですから。仮に、これが原稿の元データだと突きつけたところで、WEBで公開|中《ちゅう》のものをコピーしたんだろうと言われたら反論のしようがありませぬ」
「……ふうん。宣伝の一環《いっかん》と見せかけて、保険をかけたつもりかしら。……わりと向こうも色々《いろいろ》考えているのかもしれないわね」
先手《せんて》先手を打たれている。俺《おれ》たちの推測《すいそく》が正しいとしたら、狡猾《こうかつ》な相手だった。
その場にしばしの沈黙《ちんもく》が降りた。俺も含めて三者《さんしゃ》三様《さんよう》、放置しすぎて冷たくなったポテトを食べたり、ドリンクをすすったりしながら、各自《かくじ》の考えをまとめているようだ。
初めに考えを述べたのは沙織《さおり》だった。
「編集部《へんしゅうぶ》に事情を説明して、きりりん氏の著作《ちょさく》であることを認めてもらう――結局のところ、それしかないように思います。もちろんさきほど京介氏《きょうすけし》が述べてくださったように、電話ごしに訴《うった》えたところでよくあるクレームとして処理されてしまいますから。それを避《さ》けるためには、この『妹空《まいそら》』の企画《きかく》関係者と、直接コンタクトを取る必要があるでしょうな」
「……ふん、分かり切った意見を有《あ》り難《がと》う。――で? なんの変哲《へんてつ》もない中高生である私たちが、どうやって編集部の人間と接触《せっしょく》するというのかしら?」
「……一応《いちおう》、コネがないこともないのです」
「ほ、本当か?」
俺は驚《おどろ》いて問い返した。そういえば、さっき出版社の名刺《めいし》を見たことがあるって言ってやがったな、こいつ……。俺は人として当然の好奇心《こうきしん》を発揮《はっき》して、コネの詳細《しょうさい》について聞こうとしたのだが――。話を切り出した当人の表情を見て、思いとどまった。
沙織は、少し困ったように頬《ほお》をかいている。なんだか言い辛《づら》そうだ。
「……ええ。ただ、それほど強力なコネというわけでもありませんから……。『あの作品は盗作《とうさく》だからどうにかしろ』というように直接お願いするわけにはいきません。あくまで何かしらの理由をつけて、出版社のどなたかとアポイントを取り付ける……残念《ざんねん》ながら、それが精一杯《せいいっぱい》ですな。……熊谷氏《くまがいし》は第二編集部のモバイル書籍《しょせき》課に所属《しょぞく》しているそうですが、拙者《せっしゃ》のコネではそこまで詳細《しょうさい》な条件|設定《せってい》でアポイントを取ることは難しいかと……その、編集部に、直接の知り合いがいるわけではありませんから……」
「――いや、十分だ。ありがとうな、沙織。おまえは本当に頼りになるやつだよ」
俺は本心《ほんしん》から礼を述べた。いまさら俺が言うのもなんだが、そこまで世話《せわ》になるのも悪い気がする。本人としても、あまり使いたいコネではないみたいだし……。
深々と頭を下げると、「いや〜ははは……よしてくだされ、照れるではありませぬか」と両手を前に突き出して制止《せいし》された。
恐縮《きょうしゅく》するように後頭部《こうとうぶ》をさすっていた沙織《さおり》は、急に、初めて聞く真面目《まじめ》な声を出した。
「……そう言っていただけるのなら、沙織・バジーナをやっている甲斐《かい》がありました」
「……あん?」
「はっはっは、いやなに、こちらの話でござる」
そういうことらしいので、俺《おれ》はあえて流すことにした。
「さて。会う約束を取り付けるところまではできるとして、そこからどうするかだな」
「……それについては私に考えがあるわ。まあ、どんと任せて頂戴《ちょうだい》な。……クックック、上手《うま》くいけば、一度ならず二度三度と編集部《へんしゅうぶ》に行く理由ができるから……」
ブルルッ……。その台詞《せりふ》を聞いて、俺は背筋《せすじ》に何とも言えない悪寒《おかん》を感じた。黒猫《くろねこ》の不気味《ぶきみ》な薄笑《うすえ》みが、妹がエロゲーの箱を手渡してくるときのそれと酷似《こくじ》していたからだ。
二日後の夕方。俺は黒猫と二人で、再び新宿《しんじゅく》の出版社を訪れていた。
沙織は来ていない。その理由については、沙織がコネで出版社とアポイントを取ってくれたことに関係があるようだったが、話し辛《づら》そうだったので聞かなかった。
聞く必要もないと思った。
「……四階の第二編集部ってとこに行きゃいいんだよな……」
「…………」
返事がない、ただの黒猫のようだ。
……まあ、なんというか。やっぱり基本的には無口《むくち》なやつなのだった。ちなみに前回ここに来たとき、桐乃《きりの》は編集者と会うからといってフォーマルなスーツ姿で決めていたが、黒猫はいつもと同じ、黒|尽《ず》くめのゴスロリファッションである。
……コイツ他《ほか》に服《ふく》持《も》ってねえのかよ。間違《まちが》っても女の子に言う台詞《せりふ》ではないので、口には出さないし、似《に》たようなデザインの別の服なのかもしれないが……。
なんかエロゲーのキャラみたいだな。あいつらいつも同じ私服《しふく》を着ているよね。
そんなバカなことを考えながら、俺たちはロビーを進み、エレベーターで四階に上がった。
エレベーターを出ると、左右に通路が延びていて、すぐ正面に電話が置かれていた。
どうやら、来客はここから編集部に内線《ないせん》をかけろってことらしい。
俺は、電話の置かれていたデスクにあったリストを見ながら内線をかけた。
『はい、雷撃文庫編集|課《か》です』
「あ。えーと、五時に約束いたしました高坂《こうさか》です」
『かしこまりました。少々お待ちくださいませ』
「あ、すんません、第二編集部ってここのことっすか?」
『はい、然様《さよう》でございますよ。メディアスキー・ワークス第二|編集部《へんしゅうぶ》、雷撃文庫編集|課《か》です」
じゃあ、ここのモバイル書籍《しょせき》課ってとこに、熊谷《くまがい》龍之介《りゅうのすけ》って編集者は所属《しょぞく》してるってことか。
つまり俺《おれ》らは、同じ部署《ぶしょ》まで、なんとかやって来られたってわけだな。
電話を置くと、ほどなく左手|奥《おく》の扉《とびら》が開き、眼鏡《めがね》の男性が姿を現した。どうやら、わざわざ迎えに来てくれたらしい。男性の後ろに続いて、まるでホテルのように豪華《ごうか》な通路を歩いていく。男性が出てきた一番奥の扉をくぐると、そこはだだっ広いオフィスになっていた。
「失礼しまーす……と」
……ここが編集部か。物珍《ものめずら》しいので、遠慮《えんりょ》なくきょろきょろと見渡す。率直《そっちょく》に言って雑然《ざつぜん》としたところである。掃除は行き届いているし、備品類《びひんるい》はどれもぴかぴかではあるのだが、とにかく物が多い。そのへんの床に段ボールがたくさん置かれていたり、美《び》少女キャラクターのポスターや人形が飾《かざ》られていたりする。実にオタくさいオフィスであった。いい年こいてこんな場所で働かなきゃならんとは、仕事とはいえ編集者ってのは大変なんだな。
「どうぞ、こちらのブースでお待ちください」
「どもども……」
オフィス入り口から向かって左手に、パーテーションで区切られた一角《いっかく》があり、そこには四人がけのデスクがあった。ここで本作りの打ち合わせをしたりするのだろうか……。
俺と黒猫《くろねこ》は、案内|役《やく》の人に勧められたとおり、三つあるブースのうち一番|手前《てまえ》に座った。
上着を脱いで、鞄《かばん》を置いて、用意されたお茶を一口《ひとくち》飲んで――
「ふ――っ」
ようやく一息《ひといき》。
「いやァ、緊張《きんちょう》するわ……就職《しゅうしょく》活動ってこんな感じなのかもなー」
ってな感じで軽くとなりに声をかけると、
「………………」
黒猫はキョンシーみたいな顔色で両目を見開いていた。額《ひたい》に冷《ひ》や汗《あせ》をかきまくっている。
「……お、おい、黒猫。落ち着け。大丈夫《だいじょうぶ》かおまえ?」
「……問題ないわ」
問題あるよ。口から魂《たましい》が抜け出そうなツラしてんじゃねーか。
おまえが提案した作戦だろうによ。
「…………ま、俺なんぞより、おまえの方が緊張してて当然か。すまんな、色々《いろいろ》と」
「……問題ないと言っているじゃない。謝らないで頂戴《ちょうだい》」
黒猫は半眼《はんがん》になって、茶を一口すすった。
「だいたい、こんなのはあくまで編集部の人間と接触《せっしょく》する『名目《めいもく》』にすぎないのだから、緊張する理由なんてひとつもないわ」
黒猫は無《む》感情を装《よそお》って呟《つぶや》いたが、やはり強がっているように聞こえた。
そう、もうここで明かしてしまうが、俺《おれ》たちは今日《きょう》、作品の『持ち込み』にきているのだ。
持ち込みというのは、たとえば自分の作った小説なり漫画《まんが》なりを編集部《へんしゅうぶ》に持って行って、この作品を使ってやってくれとアピールすることだ。作品を読んだ編集者に使い物になるかどうかを判断してもらって、場合によっては出版するためのアドバイスをもらったり、別の編集部を紹介してもらったりする。もちろん使い物にならなければ罵倒《ばとう》されたり、無碍《むげ》に追い払われたり、プッと嗤《わら》われたりする――のだそうだ。
持ち込みなんてしたこともないくせに、黒猫《くろねこ》がそう言っていた。
オフィス内は想像《そうぞう》していたよりも騒《さわ》がしくなかった。(おっかない編集長が部下を怒鳴《どな》り散らしたり、編集者が必死になって、電話で原稿《げんこう》の催促《さいそく》をしたりするイメージがあったのだ)しかし、ときおり電話で作家と打ち合わせをしているような声が聞こえてきたりもする。
このオフィスのどこかに、モバイル書籍課《しょせきか》とやらもあるのだろうか……。
沙織《さおり》のコネがあるとはいえ、何かしらの『名目《めいもく》』がないと、オフィスに入ることすらできない。俺たちは作品の『持ち込み』をすることによって、首尾良《しゅびよ》く内部に潜入《せんにゅう》したわけだ。
ようするに偵察《ていさつ》である。もう一度、分かりやすく説明しよう。
俺たちが通されたのは「第二編集部、雷撃文庫編集課』。
『熊谷《くまがい》龍之介《りゅうのすけ》』が所属《しょぞく》しているのは、『第二編集部、モバイル書籍課』。
この二つは、同じ編集部に所属している別の課で、俺たちが用があるのは後者である。
黒猫の書いた作品のジャンルを考えると、持ち込みは雷撃文庫とやらが合っているらしく、その名目で、『雷撃文庫編集課』まで沙織につなげてもらったというわけだ。あわよくばこれから会う編集者に、モバイル書籍課の『熊谷龍之介』との面談《めんだん》を取り付けてもらえないかと考えているのだが……。
あまり何度も使える手ではないので、緊張《きんちょう》もひとしおだった。
「そういえばおまえ、手ぶらみたいだけど、持ち込み用の作品は?」
「……もう郵送《ゆうそう》してあるわ。今回は小説の持ち込みなのだから、当日《とうじつ》持ってきて読んでもらうというわけにもいかないでしょう」
あーなるほど、そういやそうだな。
「ちなみに送った作品って……」
「……この前、あなたの家に黒い装丁《そうてい》の同人誌《どうじんし》を持って行ったでしょう? ――あれよ」
「…………………………あ、あれなのか……」
「なに?」
「いや……」
あの……桐乃《きりの》がクソミソにけなしていた同人誌を……プロの編集者に読ませたのか?
だ、大丈夫《だいじょうぶ》か……な? あと心配は、まだあって……。
「……なあ、一応《いちおう》言っておくけど。相手は仕事で会ってくれるわけだから。友達|同士《どうし》のノリで話すのはやめとけよ?」
おまえ、桐乃《きりの》と負けず劣らず毒吐《どくは》くからなあ。
「……っふ……言われずとも分かっているわ」
黒猫《くろねこ》はおもむろに片手で顔を覆《おお》い、その手をバサァッと真横《まよこ》に薙《な》いだ。
すると――赤かった彼女の瞳《ひとみ》が、黒に変色《へんしょく》している。
「…………擬態《ぎたい》完了。……このような人格《じんかく》と口調《くちょう》でよろしいでしょうか?」
なんだ、その、交渉《こうしょう》に適した人格に変わりましたよ? みたいな態度。
一瞬《いっしゅん》にしてカラーコンタクト外しただけじやねーか。器用《きよう》なやつだなあ。
「本当に分かってんのか……?」
それを確認《かくにん》する時間はもうなかった。新たな人物がブースに入ってきたからだ。
白いタオルを海賊巻《かいぞくま》きにした男性だ。暖かそうなフリースのパーカーを着ていて、会杜員というよりは、楽屋裏《がくやうら》の大《おお》道具さんという感じだった。
「いや〜、ごめんごめん! 君たちの担当をするはずだった編集《へんしゅう》が、まだ出社してなくて! たいへん申《もう》し訳《わけ》ないんだけど、あと十五分くらい待っててもらえるかな?」
「……はあ、構わないっすよ?」
「そう? いや、本当ごめんね! 待ってる間、そのへんにある雑誌とか読んでていいから!」
登場するなり、謝ってばかりである。ずいぶんと腰《こし》が低い人のようだった。
そして雑誌|読《よ》んで待ってろとか言ってたくせに、なれなれしく対面《たいめん》に座る。
「どーも。ぼくはヘンクツ、これでも編集|者《しゃ》のはしくれさ」
「はあ。ヘンクツさん……っすか?」
「はっはー、ヘンな名前でしょ。うちの編集|部《ぶ》では、編集|一人《ひとり》一人に愛称《あいしょう》っていうか、ニックネームがあって、その名前で呼び合う決まりなんだよ」
特撮《とくさつ》に出てくる悪の秘密《ひみつ》結社《けっしゃ》みたいな決まりだな。よし、この会社には絶対|就職《しゅうしょく》しねえ。
「ところで君たち、妙《みょう》なコネ持ってるね……。ウチでは本来、素人《しろうと》さんの持ち込みはやってなくてさ。セミプロとか、プロの人の持ち込みが、たまーにあるくらいなんだ。送ってくれた作品自体も二次|創作《そうさく》の同人誌《どうじんし》だしさ、今回みたいなのは正直かなり異例《いれい》なんだよ?」
「はあ」
さっきから、俺《おれ》、『はあ』しか言ってねえな。ってか、この人も読んでくれたんだ。
「まああの会社にはウチも関連グッズとかでお世話《せわ》になってるからね――。ほら、そのへんにあるのとかもそうだし」
ヘンクツさんは、片手でぐるりと『そのへん』を示した。
そのへんって言われても……どれがそうなのか、よく分からんな。ヘンクツさんとしては『あの会社』とやらについて、俺たちが事前《じぜん》知識を持っているという前提《ぜんてい》で喋《しゃべ》っているはずなので、分かりにくいのは当然《とうぜん》っちゃ当然なのだが……。
ともあれ俺《おれ》は、『あの会社』とやらについて問い返さなかった。何故《なぜ》って、沙織《さおり》は自分が持っているコネについて、あまり喋《しゃべ》りたくなさそうにしていたからだ。
黒猫《くろねこ》も何も聞かなかった。というか、ヘンクツさんが登場して以降、こいつは一言《ひとこと》も喋っちゃいないけどな。
「で、だからとりあえず読むだけ読んで、会うだけ会ってみるかってことになったんだけど」
いま、さらっとぶっちゃけたよねこの人。
「あくまでぼく個人としては、うん、面白《おもしろ》かったかな。今回|送《おく》ってもらったのは、マスケラの二次|創作《そうさく》で、いわゆる逆行《ぎゃっこう》もの≠チてやつだよね。ぼくもマスケラかなり好きで、逆行もの≠ニかオリ設定≠ニいった二次創作小説のお約束≠ノついてもわりと詳しいから、その分|補正《ほせい》がかかってることは否定しないけどね。オリジナルの用語がかなり多くて、難解《なんかい》になっちゃってるところはあったかも。ぼくなんかは設定|資料《しりょう》読むのぜんぜん苦じゃないけど、そうじゃない人の方が多いってことは、覚えておいたほうがいい」
「おお……」
おい、やったじゃん黒猫。なんか長々とうざったい台詞《せりふ》が付いてたけど、プロの編集者《へんしゅうしゃ》が読んで面白かったってよ。
チラッと顔を窺《うかが》うと、黒猫は無《む》表情のままで頬《ほお》を染《そ》めていた。まんざらでもないのかもしれない。もちろん今回の訪問は『妹空《まいそら》』の関係者、特に熊谷《くまがい》龍之介《りゅうのすけ》とかいう編集者とコンタクトを取ることが主な目的で、作品の持ち込みはあくまで『名目《めいもく》』でしかないのだが。
これで黒猫の作ったもんが評価《ひょうか》されたなら、それはそれでいいことだよな。
「あ、そうそう、君たちね――。どんな人が来るか聞かされてなかったんで、若くてびっくりしたよ、それに、二人で来るとも思ってなかった」
「はあ」
「えっと、二人で書いてるってこと? 送ってくれた同人誌《どうじんし》も、漫画《まんが》と小説が載《の》ってたし……。片方が原作|担当《たんとう》とか?」
「いや、」
俺は単なる付き添いで――。そう言おうとしたら、先んじて黒猫が口を開いた。
「そうです。兄妹で一緒《いっしょ》に書いてます」
「へぇ、そうなんだ」
「ちょ……!? オマ、」
仰天《ぎょうてん》して声を上げかけた俺の口を、黒猫が片手を突き出してふさぐ。
無《む》感情な黒瞳《こくどう》で、俺の顔を真《ま》っ直《す》ぐ見上げ、
「そうですよね――兄さん[#「兄さん」に傍点]?」
「………………!?」
そういう設定だったのかよ! 聞いてねえぞオイ!
俺《おれ》は恨《うら》みがましい視線で黒猫《くろねこ》を見据《みす》えたが、もう言ってしまったものは取り返しがつかない。
どうあっても、このまま押し通すしかなさそうだった。俺は正面に向き直り、
「そうです。二人で書いてるっす」
「分担《ぶんたん》はどんな感じ?」
どんな感じって言われても……。全部《ぜんぶ》黒猫が書いてるわけで、なんと答えたらいいもんだか。
頭をかいて躊躇《ちゅうちょ》していると、黒猫がしれっと言った。
「兄《にい》さんが設定を考えてくれたんです。たとえば、必殺技《ひっさつわざ》の名前とか……」
「とすると、この――神魔絶滅衝≠ニか?」
「はい。渾身《こんしん》の出来だと言ってました」
言ってねえ! おまえそれ自己|評価《ひょうか》だろ!
黒猫は、俺をちらっと流し見て、
「実際に漫画《まんが》や小説を書いているのは私ですけど、兄さんの作ってくれた設定|資料《しりょう》は、創作《そうさく》になくてはならないものでした。なので、二人で書いているという言い方をしたんです」
くそ! こいつ、手柄《てがら》を譲《ゆず》ってやったわよみたいな顔しやがって……。余計《よけい》なお世話《せわ》すぎる!
つうとなに? 俺があの分厚《ぶあつ》い設定資料を書いたことになったわけ? ぜんぜん読んでないけど、あれって桐乃《きりの》が魔導書《まどうしょ》(笑)だの黒《くろ》歴史ノートだのボロクソ言ってた本だろ?
なんだかなあ……。
「うーん……神魔絶滅衝は、ちょっとどうかと思うよ?」
ホラあ! 編集者《へんしゅうしゃ》に困った顔されちゃった!
ソフトに駄目出《だめだ》しされた黒猫は、不快そうに眉《まゆ》をひそめた。言葉|遣《づか》いだけは取り繕《つくろ》って問う。
「……では、ヘンクツさんなら、この魔《ま》奥義《おうぎ》にどんな名前をつけるんですか?」
「そうだねえ……」
ヘンクツさんは、腕《うで》を組んで数秒考え込み――
「真魔滅殺波とかどうだろう」
………たいして変わんなくね?
い、いや、スマン。あくまで素人《しろうと》の感想なので、実際のところは分からないが……。
その後しばらく黒猫と編集者の間で(どうにも大差《たいさ》ないように思える)ネーミングについてのやりとりが行われていた。あまりにも不毛《ふもう》(あくまで俺の感覚ではだ)なので、もう一人の編集者とやらが来る前に、『妹空《まいそら》』について探りを入れようとはするのだが、肝心《かんじん》の黒猫がヘンクツさんとの話に没頭《ぼっとう》してしまっていて、口を挟む隙《すき》がなかなかない。
と、そこで一瞬《いっしゅん》会話が止まったので、俺は強引《ごういん》に割り込む形で、とりあえず適当な話題をふってみた。
「あの、俺たちの相手をしてくださる編集者さんって、どんな方なんすか?」
「え? あ、ああ……編集部では『ぷーりん』って呼ばれてる人」
「ずいぶんかわいい名前すね」
たぶん女性|編集者《へんしゅうしゃ》さんなんだろうな。俺《おれ》は、ぽっちゃり系《けい》のOLさん(巨乳《きょにゅう》)を連想《れんそう》した。
「そう思うでしょ。ははは、それが大《おお》間違《まちが》いなんだな。実物《じつぶつ》見たら、きっとびっくりするよ?」
「はあ」
「……どうびっくりするんですか?」
黒猫《くろねこ》が首をかしげる。
「ふっふ、それがねー」
ヘンクツさんは、まるで怪談《かいだん》でも始めるかのように指を立てて、がらりと低い声で言う。
同時にその背後に、人影《ひとかげ》が現れ――
「豪鬼《ごうき》にそっくりなんだよ」
「……遅くなりました。ぷーりんです、よろしく」
重厚《じゅうこう》な声で自己|紹介《しょうかい》をした。素晴《すば》らしいタイミングで当人《とうにん》登場である。
失言《しつげん》を聞かれてしまったヘンクツさんは、「おわっ!」と半《なか》ば飛び跳ねるようにして振り返り、高速で頭を下げた。
「ごめんなさい! 後ろにいたとは思わなかった!?」
「……いえ、よく言われますから」
かなり年配《ねんぱい》の男性だった。白い髪《かみ》が頭上で炎《ほのお》のように波打《なみう》っている。
ヘンクツさんが言っていたとおり、カプコンの格《かく》グーに出てくる隠《かく》しキャラによく似《に》ていた。俺でも知ってる有名キャラだな。
落ちくぼんだ眼窩《がんか》、顔面に刻《きざ》まれた厳《いか》めしい皺《しわ》、色黒《いろぐろ》な肌《はだ》。しかし豪鬼とは違い、ひどく痩《や》せている。病的に痩せていて、なのに眼光《がんこう》だけは鋭いので、まさに鬼気迫《ききせま》る迫力《はくりょく》だった。
俺の親父《おやじ》もまるで極道《ごくどう》のような面構《つらがま》えをしているが、この人の場合、たいへん失礼な言《い》い草《ぐさ》になってしまうが――人間を超越《ちょうえつ》したまがまがしい雰囲気《ふんいき》を全身からかもし出している。
率直《そっちょく》にいって、俺は殺意《さつい》の波動《はどう》というやつを感じていた。
なのに名前が、ぷーりん。ぷーりんである。……どうしたものか。誰《だれ》だよ、よりにもよってこの人に、こんなかわいい名前付けたの、まさか自分で考えたんじゃねえよな。
「……ども、高坂《こうさか》です。よろしくお願いします」
「……よろしくお願いします」
俺も黒猫も、かわいらしい名前をした魔人《まじん》の登場に若干《じゃっかん》引き気味《ぎみ》ではあったが、とりあえず無難《ぶなん》に挨拶《あいさつ》をする。
するとやはりぷーりんさん、地獄《じごく》の底から響《ひび》いてくるような重い声で、「……はい」と頷《うなず》く。
ぷーりんさんが席に着くのと入れ替わりで、ヘンクツさんが立ち上がった。
「じゃ、ぼくはこのへんで仕事に戻ります。……頑張《がんば》ってね〜」
激励《げきれい》の言葉を残し、そそくさと去っていく。
え? マジすか? あとはこの――ぷ、ぷーりんさんと話せって? ちょっと待ってよ! 見捨《みす》てないでくださいよ! 生《い》け賛《にえ》の祭壇《さいだん》に置き去りにされたような気分なんすけど!?
「……なにか(ギロリ)」
「いえっ!(ビクゥッ)」
目が合った瞬間《しゅんかん》、目をそらしてしまう俺《おれ》。うあ、コレやっベーんじゃねーか? この明らかに無口《むくち》で気難《きむずか》しそうな人相手にして、『妹空《まいそら》』やら『熊谷《くまがい》龍之介《りゅうのすけ》』の情報を引き出す?
無理《むり》くせぇ〜〜〜〜〜〜。やっちまった! これなら人の好《よ》さそうなヘンクツさんがいるうちに話ふっといた方がよっぽど楽だったろ。クソ、どうしよう……。
横を向いて悩んでいたら、今度は黒猫《くろねこ》と目があった。たぶん俺と同じ理由で横向《よこむ》いてたんだなこいつも。さすがの黒猫も、ぷーりんさんの視線をまともに受け止めるのはきついらしい。
「……やるしかないわね」
まるで自分に言い聞かせるように呟《つぶや》いた黒猫は、意を決したように前に向き直り、おずおずと切り出した。
「……あの、先日|送《おく》った私の同人誌《どうじんし》、読んでくださったんでしょうか?」
「……読みました。設定資料も」
ぷーりんさんの台詞《せりふ》はことごとく端的《たんてき》だ。黒猫は黒猫で陰気《いんき》な声で喋《しゃべ》るヤツなので、この二人の会話は聞いていてまったく明るい気分になれない。ブースから黒いオーラが漂《ただよ》っているのが見えるようだ。この場合、マイナスとマイナスを掛けてもプラスにはならんのだな。
「コピーした原稿《げんこう》と、設定資料です」
どさっ。ぷーりんさんは、机上《きじょう》にA4の紙束《かみたば》を積み上げた。かなり分厚《ぶあつ》いものが三束《さんたば》、それぞれクリップで留められている。
……俺の分もあるのか。……読んでねーんだよなあ、これ。
自分に配られた紙束を見下ろし、少々|気《き》まずい思いをする。いまさらだけど予習として、読んでおくくらいしておけばよかった。
ぷーりんさんは机上にあったメモを読んでいる。さっきヘンクツさんが書き込みをしていたものだ。
「兄妹で書いている……。メインで執筆《しっぴつ》をされているのは妹さんの方で、ペンネームは『黒猫』。……間違《まちが》いないですか」
「……はい」
「黒猫さんは、小説|家《か》を目指しているのですか。いただいた同人誌には、漫画《まんが》も載《の》っていましたが」
ぷーりんさんは、最初から俺を眼中《がんちゅう》に入れず、黒猫だけを見据《みす》えて聞いた。
プロの目からすれば、俺がお飾り≠セということなんかお見通しなのかもしれない。
「…………私は」
黒猫《くろねこ》は、きゅっとスカートの裾《すそ》をつかんで俯《うつむ》いた。
ややつたない口調《くちょう》ながらも、自分の気持ちを訴《うった》える。
「……お話を作るのも、絵を描くのも好きなんです。できることならどちらも仕事にしたいくらい好きで……でも、今日《きょう》は小説の持ち込みにきました」
「分かりました。では、弊社《へいしゃ》でデビューするのが当面の目標《もくひょう》ということでよろしいですか」
「はい」
「はい。……では、そのような認識《にんしき》でお話しさせていただきます」
ひたすら淡々《たんたん》と会話が進んでいく。まるで病院の問診《もんしん》か何かのようだ。
「新人|賞《しょう》の応募歴《おうぼれき》を教えてください」
「御社《おんしゃ》の新人賞には、毎年応募しています」
「投稿歴《とうこうれき》は何年ですか。他《ほか》の新人賞には応募していませんか」
「投稿歴は三年です。御社の他には、MFとSDの新人賞に毎年《まいとし》応募していますが、どれも最終|選考《せんこう》まで残ったことはありません」
「……そうですか。若いのに、凄《すご》いですね」
「……いえ、ありがとうございます」
………………………居心地悪《いごこちわる》。
なんだろうこの重苦《おもくる》しい雰囲気《ふんいき》。ヘンクツさん、戻ってきてくんねえかな。
いたたまれなくなってきた俺《おれ》は、周囲を見渡した。ブース同士はパーテーションで区切られているし、キャビネットと段ボールで壁が作られていて、オフィスの様子《ようす》はうかがえない。
俺たちがいる場所は、オフィスの中央に位置しているのに、個室のようになっているのだ。
話す相手が強面《こわもて》だからか、取調室《とりしらべしつ》のような閉塞感《へいそくかん》があった。
「その若さで毎年応募している方は、珍《めずら》しいです。なにか、特別な志望|動機《どうき》があるのですか」
「……先ほど言ったとおり、お話を作るのが好きというのもありますが……正直に言うと、お金が欲しいというのもあります。いまやっているアルバイトより、本の印税《いんぜい》の方が収入がずっといいですし、上手《うま》くデビューできたら家にまとまったお金を入れられますから」
黒猫の志望動機は、俺にとっても初めて聞くものだった。夏コミのときにこっそりバイトをしているという話は聞いちゃいたが……もしかしたら、あまり裕福《ゆうふく》な家庭ではないのかもしれないな。学校行って、バイトして、趣味《しゅみ》もがんばって……か。桐乃《きりの》といいこいつといい、俺の周りには偉《え》れー年下《としした》ばっかが集まったもんだ。年上《としうえ》として、見習わなくちゃならんと思うよ。
「……不純《ふじゅん》な動機でしょうか?」
心配そうな声で問われたぷーりんさんは、むすっと黙《だま》り込み……やがて、
「いいえ」
とだけ、言った。どうにもこのぷーりんさん、登場してからずっと怒っているようである。
ヘンクツさんが『豪鬼《ごうき》にそっくり』なんて言ったからだろうか。余計《よけい》なことしやがって。
重苦しい嫌《いや》な雰囲気《ふんいき》のまま会話が続き……ついに『持ち込み』の本題《ほんだい》にたどり着いた。
「えー……読ませてもらった原稿《げんこう》についてですが」
どくん……。黒猫《くろねこ》の心臓《しんぞう》の音が聞こえた気がした。
「使い物になりません」
ぷーりんさんは、これ以上ないほど率直《そっちょく》に斬《き》り捨てた。
「当たり前の話ですが、あなたは新人|賞《しょう》を通過《つうか》したわけではないのですから、使い物になるわけがない。そもそも、僕があなたと会ってお話ししている理由は、あくまでお世話《せわ》になってる先方に、よろしく頼まれたからです。厳《きび》しい言い方になりますが、コネがあるからといって特別|扱《あつか》いをしてもらえると思うのは間違《まちが》いですよ。でなければ、弊社《へいしゃ》の新人賞に応募してくれている方々への礼を失《しっ》することにもなる」
「…………分かります。本日《ほんじつ》は無理《むり》を聞いていただいて、申《もう》し訳《わけ》なく思っています」
小さな声で詫《わ》びる黒猫。俺《おれ》はその台詞《せりふ》を聞いていて、胃《い》がきりきりと軋《きし》むのを感じた。
だって黒猫は、俺の頼みで、桐乃《きりの》のために、ここに来てくれているのだ。
ぷーりんさんがコネで無理矢理《むりやり》アポイントを取ってきた黒猫に反感を持つのは分かるが、その責めは本来《ほんらい》俺が受けるべきもののはずだ。しかしそれをこの場で言うわけにはいかなかった。
それこそ、黒猫の行為《こうい》を無駄《むだ》にしてしまうかもしれないからだ。
「コネでお会いするのはこれで最後です。次回からはきちんと新人賞に原稿を送ってください。他《ほか》の方と、同じように。……では、内容についてですが……」
「…………はい」
「……キャラクター同士《どうし》の会話には、かなり面白《おもしろ》い部分もありました。特に、このキリノというマスケラ本編にはいないオリジナルキャラがよいです……。僕も読んでいて、キリノたんにはあはあしました。……萌《も》え萌えです、はい」
このジジィぶっ飛ばすぞ。いい年こいて何が萌え萌えだこの野郎《やろう》。このツラと声で何を言うかと思いきや……それが仕事だってのは分かるけどな? そいつはウチの妹をモデルにしたキャラなんですよ。クソ、なんか忘れてんなと思ってたらそれだったのかよ。性《せい》奴隷《どれい》になるシーンがあるんだっけ? 黒猫てめえんなもん持ち込みに使うなや。
「……私は、そのキャラ、あまり好きではないんですが……」
「……そうですか。残念《ざんねん》です。逆に僕は、キリノたん以外のキャラは、痛々しいと思いました。色々《いろいろ》な設定を詰《つ》め込みすぎだと思います。設定を練るのは決して悪いことではないのですが、あなたには使いこなせていないようですね。構成《こうせい》が複雑な上に描写《びょうしゃ》が濃すぎて、悪い意味で典型《てんけい》的なワナビ小説になっていますし……このレベルの原稿では、二次|選考《せんこう》を通過するかどうかも怪《あや》しい。二次|創作《そうさく》小説だということを差し引いてもひどい出来です。とても商業|作品《さくひん》として販売できるレベルにはいたっていません」
淡々《たんたん》と紡《つむ》がれる酷評《こくひょう》に、黒猫の表情は常よりもさらに青白くなっていった。
最初こそ、編集者《へんしゅうしゃ》の指摘《してき》に「でも、そこを直してしまったら……」とか「それは違うんです……」とか「……|闇の力《ダークフォース》≠ニいうのは、私|独自《どくじ》の世界|観《かん》に関わる重大な設定なので……」なんていちいち反論《はんろん》していたのだが、「そう思っているのはあなただけで、読者にとっては重大でもなんでもない、読みづらくなるだけの設定ですね」だの「文章で自己《じこ》表現をするのは大変|結構《けっこう》ですが、もっと先にやるべきことがあるのでは?」といった厳《きび》しい論理《ろんり》で叩《たた》きつぶされるので、段々《だんだん》と反論する力もなくなっていく。
「……全体的な指摘はそんなところです。続いて細かい部分ですが……まず一ページ目から順番に指摘をさせていただきますので、お手元《てもと》のコピーの該当《がいとう》ページを御覧《ごらん》ください」
今度は、同人誌《どうじんし》の一ページ一ページ、文章の一文《いちぶん》一文に対して、延々と細かい酷評《こくひょう》を展開していくぷーりんさん。彼が参照《さんしょう》している原稿《げんこう》のコピーは、めくるページめくるページ、どこもかしこも赤ペンで真《ま》っ赤《か》っかになっている。
ま、まさかあの膨大《ぼうだい》な書き込みすべてが、黒猫《くろねこ》の小説の『悪いところ』だとでもいうのだろうか。だとしたら、それ全部を指摘するまでこの話は終わらない……?
永遠《えいえん》とも思える駄目出《だめだ》しにさらされる時間が続く。経験|豊富《ほうふ》なプロの編集者から、一方的に指導《しどう》を受ける立場である黒猫と俺《おれ》は、ただひたすら堪《こら》えるしかなかった。
……十分が過ぎ、二十分が過ぎ。
……一時間がすぎ………………三時間がすぎ……やがて。
じっと俯《うつむ》いて酷評を聞いていた黒猫は、俺の知る限り初めて、悔《くや》しげに表情をゆがめた。
「…………………………ひっ、……っぅ……ぇっ」
「人様《ひとさま》の妹|泣《な》かせてんじゃねぇよテメエ! 他《ほか》に言いようないのかよ!? 幾《いく》らなんでもひどいだろいまの! 相手は中学生の女の子ですよ!?」
黒猫の嗚咽《おえつ》を聞いた瞬間《しゅんかん》、俺はカッとなって――半《なか》ば無《む》意識で叫んでしまっていた。
しかも勢いよく立ち上がり、机《つくえ》を強くぶっ叩《たた》いてだ。
「………………」
しかし俺に怒鳴《どな》られたぷーりんさんは、まるで動じていなかった。机を叩いてしまったことによってこぼれたお茶を、無言《むごん》で拭《ふ》きはじめた。
その姿を見ていて、ハッと我に返る。大声を出したもんだから、何が起こったのかと注目を集めてしまったのだろう。周囲はざわついていて、他のブースで打ち合わせをしていた人たちがそれとなく様子《ようす》を見に来ていた。
ひどく惨《みじ》めな気分だった。同じ気分を黒猫にまで味わわせてしまったのかと思うと、申《もう》し訳《わけ》なくて消えてしまいたかった。
「……っ」
ああクソ本当に――――まるでガキの態度だな、俺《おれ》。恥《は》ずかしいぜ。仕事で話してくれている相手に、なんて無礼《ぶれい》なことをしてんだろう。もう少し言い方があるだろうとは思うが、悪いものを悪いと言わないでどうすんだって話だよな。なあなあでアドバイスなんてできねーんだから。相手は学校の先生でも親父《おやじ》でもない。この人は対等な仕事《しごと》相手として、俺たちに仕事のやり方を教えてくれている。真剣《しんけん》に、真摯《しんし》に、じっと黙《だま》って聞くのが当然ってもんだ。
……だけどさあ、怒鳴《どな》らずにいられっかよ!
自分が好きで作ったもんを『使いものにならない』なんてバッサリ斬《き》り捨てられたら、相手の言い分が正しいと分かっていたって、苦しいに決まってるじゃねえか。
黒猫《こいつ》だって桐乃《きりの》と同じだ。クソ分厚《ぶあつ》い資料いっぱいの設定|練《ね》り込んで、このキャラクターならどんな台詞喋《せりふしゃべ》るだろうって想像《そうぞう》したりしてさ、きっと一生|懸命《けんめい》書いたもんなんだろうよ。
それを――
「兄《にい》さん」
憤懲《ふんまん》やるかたない俺をいさめたのは、黒猫《くろねこ》の優しい声だった。自分の妹のことを話していたときと同じ、穏《おだ》やかな口調《くちょう》だ。立ち上がった俺の服の裾《すそ》を、ちょんとつまんで引っ張っている。
座って、ということらしい。
黒猫はごしごしと袖《そで》で涙をぬぐってから、潤《うる》んだ瞳《ひとみ》のままで俺を見上げた。
「……大丈夫《だいじょうぶ》よ。……怒ってくれて、有《あ》り難《がと》う」
「…………そ、そうか」
その泣き顔に、目を奪われる。……そ、そういやこいつも美人だったんだっけ。普段《ふだん》まったく意識してないから、忘れてた。半泣《はんな》きになっている黒猫があまりにもかわいかったので、こんな状況だというのに変なことを考えてしまった。――しかし女の子の泣き顔を見てドキドキしている俺は、ちょっと性癖《せいへき》に問題ありかもしれんな。しかも相手は中学生だってのに。
「……すみませんでした。兄さんは妹[#「妹」に傍点]のこととなると、頭がおかしくなっちゃうんです」
「その……俺も、すみませんでした。いきなり怒鳴ったりして……」
お、おい。頭がおかしくなっちゃうはないだろう……。そう思いながらも、黒猫にならって頭を下げる。
「……いえ、気にしていませんから」
幸いぷーりんさんは、許してくれた。というか、ビクともしていなかった。
「少し、休憩《きゅうけい》にしましょうか」
……ぷーりんさんは、何の感情も読み取れない声で言って、席を立った。濡《ぬ》れたハンカチを片手に持っているので、それを始末《しまつ》しにいったのかもしれない。
「…………あの、ごめんなさい」
黒猫が、いままでに聞いたこともないくらい落ち込んだ声で呟《つぶや》いた。こいつのこんなに素直な態度を見たのも、これが初めてだった。
「……私のせいで、余計《よけい》に、熊谷《くまがい》龍之介《りゅうのすけ》について、聞き出しにくくなってしまって……」
「いや、こっちこそ……な。俺《おれ》の頼みでこんなことになっちまって……ごめん」
俺たちは、お互《たが》いに謝り合った。こんなときでもなければ出てこない、本心《ほんしん》からの言葉。
不思議《ふしぎ》な感覚だった。たいして話したこともない間柄《あいだがら》なのに、妙《みょう》に気持ちが通じ合っているような。なんなんだろうな、この仲間《なかま》意識みたいなものは。
気恥《きは》ずかしいような、気まずいような……そんな沈黙《ちんもく》がしばし続き。
やがて、ぷーりんさんが戻ってきた。何故《なぜ》かお盆《ぼん》を持っている。
「どうぞ」
端的《たんてき》にそれだけ言って、新しいお茶とプリンをデスクにならべていく。
「食べてください」
「……はあ」
なんだ……この人。何がしたいんだ……。怒ってるんじゃ……なかったのか?
いぶかる俺たちの目前で、ぷーりんさんは悠然《ゆうぜん》と席に着いた。相変わらず魔人《まじん》めいた形相《ぎょうそう》のまま、スプーンでプリンをひとすくいして口に運ぶ。ぱくり、もぐもぐ、ごくん。
……うむ、と頷《うなず》いて、
「プリンおいしいです。元気、出ますよ」
…………あれ? 俺は黒猫《くろねこ》と顔を見合わせた。もしかして、この人……。
「……俺たちを、元気づけようと?」
「……あまり喋《しゃべ》るのが得意ではないので……。すみません」
ニヤリ――。おぞましい薄笑《うすえ》みを浮かべるぷーりんさん。直視《ちょくし》したら子供が失神《しっしん》しそうな形相なのだが……きっと、直前の台詞《せりふ》通りの解釈《かいしゃく》でいいんだろう。
そう。この人、批評《ひひょう》がもの凄《すご》く厳《きび》しいし、見てくれもめっぽう怖いけど、そんなに悪い人じゃない。悪い人なんかじゃなくて――
「はは……もしかして……プリンが好きだから、ぷーりんさんなんすか?」
「……ええ、まあ。プリンはおっぱいに似《に》ていますから」
――ただの変態《へんたい》ジジィか。
ぷーりんさんは、プリンがのっている皿をトントン指で叩《たた》き、プリンがぷるぷる揺れる様《さま》を満足げに眺《なが》めている。
「……こうしていると、気持ちが安らぎませんか? 弊社《へいしゃ》では社長の方針で、お皿を十秒に五回ずつ叩きながらプリンを食べることを推奨《すいしょう》しているのですよ」
これが俺たちをリラックスさせるための方便《ほうべん》でないとしたら、この会社はマジでやばいな。
[#ここから文字サイズを小さく]「……に、兄《にい》さん……マジキチよ、マジキチ……」
「……しっ、聞こえたらどうする……」[#ここまで文字サイズが小さい]
俺と黒猫は、眼前で行われているカルト宗教じみた変態|儀式《ぎしき》をチラ見しながら囁《ささや》き合った。
正直ドン引きしてしまったが……あくまで結果だけをみれば、あれほど重苦《おもくる》しかった空気が、さっきよりもずいぶんマシになっている。だから……口べたなぷーりんさんなりの、思いやりだと思うことにした。というか、そう信じたい。
俺たちよりもずいぶん時間をかけて、ゆっくりとプリンを味わったぷーりんさんは「……ごちそうさまでした」と手を合わせる。
「では、先ほどの続きをする前に、少しだけ今後のお話をしましよう」
「……今後のお話……ですか?」
黒猫《くろねこ》が身構《みがま》えるのが分かった。今度は何を言われるのだろうと、不安になっているのだろう。
「はい、今後……つまり、次の作品についてです」
「え……? 次?」
黒猫が目を見張って問い返す。
「あの……使い物にならなくて、コネで会うのはこれで最後なんじゃ……」
「はい。この原稿《げんこう》を読ませてもらった限りでは、あなたの担当編集《たんとうへんしゅう》になることはできかねます。先ほども言いましたが、どうしても弊社《へいしゃ》でデビューしたいのでしたら、原稿は新人|賞《しょう》に出してください。コネなど使わず、正規《せいき》の手続きで、です。そうでなければ、ずる[#「ずる」に傍点]になりますから」
「……はい、分かります」
さっきと同じやりとり――と思いきゃ、ぷーりんさんは「……でも」と続けた。
「また原稿を持ってきてくださるのは、歓迎《かんげい》しますよ。あくまでこちらはアドバイスをするだけ[#「アドバイスをするだけ」に傍点]で、それ以上のお手伝いはいたしませんし、受け取った原稿を出版することもいたしません。それでもよければ……いえ、それ以前に、今日《きょう》のことで懲《こ》りていなければ、ですが」
もう一度|酷評《こくひょう》される覚悟《かくご》があるのなら、また来てください。
そういうことなんだろうな。
黒猫は――すぅ、と一度|深呼吸《しんこきゅう》をしてから、「……はい」と頷《うなず》いた。
「……また、よろしくお願いします」
「……はい、こちらこそ。ただ現状、かなり控えめに申し上げて、お話にならないレベルですので、過剰《かじょう》な期待はしないでください。僕からのお願いになりますが、くれぐれも編集に認めてもらったと勘違《かんちが》いをして、学業その他《ほか》をおろそかにすることがないよう。無事にデビューを果たすことができる方は決して多くありませんし、これは僕が担当している作家さんの話ですが――担当が付いてからデビューまでに十年かかった方もいらっしゃいます。そしてそれだけの時間と労力を費《つい》やしてデビューしたとしても、売れなければすぐに消えてしまう……。どうか、御《ご》自分の人生を大切にしてください」
念《ねん》を押すように夢のない台詞《せりふ》を繰り返し、最後には頭まで下げてくる。
……これ、ようするにさ……。
「……私が御社《おんしゃ》でデビューできる見込みは薄い、という意味ですか?」
「はい、そのとおりです」
『はい』って言ったよこのジイさん! いま泣かしたばっかなのに! どうやらこのジジィの辞書《じしょ》には『オブラートに包む』という概念《がいねん》は載《の》ってねえな。
「ただ……僕が言いたかったことはそれだけではなくて。上手《うま》く言えるか分かりませんが……その、黒猫《くろねこ》さんのようないわゆるワナビの方は、デビューをまず第一に考えているように思います。もちろんそれで正しいのです。ですが、僕たちから言わせてもらいますと、デビューがそもそもスタートなんです。ゴールではないです」
一息。
「デビューしてからは、アマチュア時代の時間の過《す》ごし方とは異なります。締《し》め切りという概念が発生し、つねに知識《ちしき》やネタを放出して物語を創造《そうぞう》していかねばならず、知識やネタのインプットをする暇《ひま》がないのに書き続けなければならない時期が続くこともあります。そんなときに頼りになるのが、自身が歩いてきた経験そのものです。もしも遠回《とおまわ》りしたとしても……たとえば他《ほか》にやりたいことが見つかって、そちらの道に進もうとも、そういった経験は決して無駄《むだ》にはなりません。これは極端《きょくたん》な話で、作家|志望《しぼう》の方には怒られてしまう言《い》い草《ぐさ》かもしれませんが――他の仕事を定年|退職《たいしょく》してから、豊富な人生《じんせい》経験を生かして作家デビューする。そんなやり方でも、決して遅くはないと思いますよ」
確かに極端《きょくたん》な例だと思った。さすがに爺《じい》さんだけあって、悠長《ゆうちょう》なことを言う。
いまなりたいって言ってんのに、四十年|後《ご》の話するからなあ。あとさっきからずーっと思っていたが、この人、話が説教《せっきょう》くさい上にクソ長《な》げーんだ。でも、本心《ほんしん》から俺《おれ》たちのことを思いやって、真剣《しんけん》に言ってくれているのは伝わってきたよ。決して仕事だからって理由で、説教してくれているわけじゃないってこともな。まあムカつくもんはムカつくし、このジジィいますぐ心臓麻痺《しんぞうまひ》で死なねえかなとも思うけど……信頼してもいいとは、思う。
ぷーりんさんは、黒猫の目を見て言う。
「僕が今した話……あなたに作家の夢を諦《あきら》めさせるための、建前《たてまえ》だと思いましたか?」
「はい、『悪いことは言わないから、他の仕事やった方がいいよ。才能《さいのう》ないし』、と、上から目線《めせん》で説教されているみたいで不快でした」
『はい』って言ったよこのアマも!? しかも上から目線で不快ってオイ! 確かに俺もちょっとそう思ったけど、それは言っちゃダメだろ! なんでオマエはそう誰彼《だれかれ》構わず攻撃《こうげき》的な台詞《せりふ》を吐《は》くんだよ! さっきまで稼働《かどう》していた交渉《こうしょう》用の人格《じんかく》はどうしたんだ!? 死んだの!?
「はっはは、上から目線で不快ですか」
黒猫の空気を読まない発言を聞いたぷーりんさんは、そこで初めて声を上げて笑った。
すんげえ怖いんだけど。さすがに怒ったのかな……。
「――いや、申《もう》し訳《わけ》ない。確かに説教くさかった。この見てくれと歳《とし》では、中々そうはっきりと指摘《してき》してくれる方はおりませんから、自分では気付きにくくて」
「そうでしょうね」
黒猫《くろねこ》の毒《どく》が止まんねえ。完全に人格が戻っていやがるなこいつ。
「ええ。まあ、その、説教《せっきょう》ついでに上から目線《めせん》で結論《けつろん》を申し上げます。――黒猫さんは、ワナビという今≠どうか大切にしてください。今後|弊社《へいしゃ》でデビューするにせよ、しないにせよ、それでお金を稼《かせ》げるようになりたいとまで思えるものがあるのはいいことです。あなたの場合、他《ほか》にも同じくらいやりたいことがあるようですしね。まだお若いのですし、色々《いろいろ》な経験を積んで、色々なものを見て、人生を楽しんでください。それが良い作家に近づく早道《はやみち》だと思いますよ。いまは焦らなくてもいい。御《ご》自分の将来なのですから、ゆっくりと考えてください」
「……ご高説《こうせつ》ありがとうございました。せいぜい頑張《がんば》らせていただきます」
超嫌味《ちょういやみ》っすね。らしくなってきやがったのはいいが、俺《おれ》の胃《い》が大ピンチだからね。
「はい、せいぜい頑張ってください。年寄《としよ》りの言うことは素直に聞いておくものです」
ぷーりんさんも負けずに言い返し、そこで、
「では、これを。僕のメールアドレスと携帯《けいたい》番号です。連絡先《れんらくさき》はこちらまでお願いいたします」
と、懐《ふところ》から名刺《めいし》を取り出した。それを受け取った黒猫が、目を剥《む》いて固まる。
「に、兄さん、これ――」
「ど、どうした?」
黒猫の妙《みょう》な様子《ようす》に、俺はいぶかりながらも名刺の文面を眺《なが》めた。
メディアスキー・ワークス第二|編集部《へんしゅうぶ》、雷撃文庫編集課
「え……? ちょっ……こ、この名前――」
バッ! バッ! 俺は混乱しながら、眼前《がんぜん》の編集者と名刺とを交互《こうご》に見る。
「……すみません、混乱させてしまいましたか」
するとぷーりんさんは、俺たちが驚いている埋由を勘違《かんちが》いしたらしく――
「……改めまして。ぷーりんこと、熊谷《くまがい》龍之介《りゅうのすけ》と申します。……どうぞよろしく」
『名乗った名前[#「名乗った名前」に傍点]』と『名刺の名前[#「名刺の名前」に傍点]』が違う[#「が違う」に傍点]件について、その解答を示した。
数日後。俺たちはメディアスキー・ワークスの会議室にいた。ビルの五階、つまり第二編集部の真上《まうえ》である。中央の長机《ながつくえ》を囲うように設置されたソファー。部屋《へや》の隅《すみ》に置かれた観葉《かんよう》植物が、申《もう》し訳《わけ》程度に室内を彩《いろど》っている。簡素《かんそ》な応接室といった印象《いんしょう》だ。ぷーりんさんによれば、多人数《たにんずう》で打ち合わせをしたり、雑誌のインタビューを行ったりする部屋なのだという。
五階の廊下には、こんな会議室が、さながらカラオケボックスのようにいくつも並んでいた。
俺たちがいるのは、そんな会議室のうちの一つだ。この場にいるのは俺と黒猫の二人だけ、ソファーに並んで腰掛《こしか》けて、来るべき時を待っている。
防音がしっかりしているせいか、室内はしんと静まりかえっている。耳が痛くなるほどだ。
「なあ、おまえまで来ることはなかったんだぞ?」
「……兄《にい》さん。これで三度目よ、その台詞《せりふ》」
黒猫《くろねこ》は前を向いたまま、こちらに一瞥《いちべつ》も向けずに言った。……いまは他《ほか》に誰《だれ》もいないというのに、律儀《りちぎ》に『兄さん』と呼ぶんだな。妹にもそんなふうに呼ばれたことがないので、呼ばれるたびにくすぐったいような気分になるんだが……。
「乗りかかった船というやつよ。ここまで付き合わせておいて、最後の最後だけのけ者にするつもり?」
「そういうわけじゃないが……」
「それに私も、私があれほどまでに不愉快《ふゆかい》な思いをする原因を作ったやつが憎《にく》いもの。引導《いんどう》を渡す瞬間《しゅんかん》を、この目で鑑賞《かんしょう》したいわ。……少しくらい蹴《け》っても構《かま》わないでしょう?」
「構うよ。やめとけって」
色濃《いろこ》い疲労と怨念《おんねん》のこもった恨《うら》み節《ぶし》だった。
やっぱこいつ、編集者《へんしゅうしゃ》に四時間|以上《いじょう》もぶっ続けで酷評《こくひょう》されたの、まだ堪《こた》えてんだな。
あの打ち合わせはなあ。そばで聞いてただけの俺《おれ》でさえ、いまだに耳にこびりついているくらいだし、当日の夜は夢にまで出た。編集者ってのはみんなあんなふうに、キツい打ち合わせをするもんなんだろうか。
ここが駄目《だめ》ですね、ここも直した方がいいでしょうね、あとここもよくないですね――。
ゴチャゴチャうるせえ〜〜ッ。バーカ! 跡形《あとかた》も残らねーっつうの! チックショー! じゃーもーアンタが書きゃいいんじゃないですかねぇ――って原稿《げんこう》顔面にブン投げたくなるよな。
やんないけども。
まー、文句《もんく》言われない仕事なんかそうそうありゃしないんだろうけどさ。
警察官《けいさつかん》も、和菓子屋《わがしや》も、作家も、たぶんそこはおんなじだ。
――まだ少し時間があるので、いまの状況について説明しよう。
ぷーりんさんは、俺たちが探していた『熊谷《くまがい》龍之介《りゅうのすけ》』本人だった。
幸いっつーか、黒猫がさんざん毒《どく》を吐《は》いたあとだったので、俺はぷーりんさんに、率直《そっちょく》に事情を説明することにした。編集|部《ぶ》を訪れた、もう一つの理由についてだ。
持参《じさん》した『熊谷龍之介の名刺《めいし》』を見せると、ぷーりんさん改め熊谷さんは、確かに自分が使っている名刺に間違《まちが》いないと認めた。雷撃文庫編集|課《か》とモバイル書籍課《しょせきか》、二種類の名刺を使い分けているのだそうだ。よくよく話を聞いてみると、『モバイル書籍課』というのは、対外《たいがい》的なイメージを考慮《こうりょ》して作られた課で、働いているスタッフは、雷撃文庫編集課とまったく変わらないのだそうだ。同じ場所にあって、同じ編集者たちが仕事をしている。
分かりにくいだろうから、この際、熊谷さんの台詞をそのまま引用《いんよう》してしまうが――
『いわゆる大人《おとな》の事情というか、いってみればイメージ戦略《せんりゃく》の一環《いっかん》ですね。ケータイ小説がメインターゲットとするのは若い女性ですから、萌《も》え萌えしたところが見えにくいようにしようということなんです。だから雷撃文庫と同じ人員で回してはいるのですけれど、違う課ですよ、という名目《めいもく》にしてあるんです。公式ホームページにもお互《たが》いの名前はいっさい載《の》せていません。名刺《めいし》を使い分けているのも、そういった理由でして……紛《まぎ》らわしくてすみません』
ということらしい。沙織《さおり》のコネでつなげてもらった雷撃文庫|編集課《へんしゅうか》の編集者から、なんとかモバイル書籍《しょせき》課に所属《しょぞく》している『熊谷《くまがい》龍之介《りゅうのすけ》』へ繋《つな》がるパイプラインを見いだせないかという、今回の潜入《せんにゅう》作戦だったわけだが……なんのことはない、会った本人が『熊谷龍之介』だったのだ。しかも俺《おれ》たちが編集部で会った『熊谷龍之介』は、あのエリート然《ぜん》としたスーツ姿《すがた》の男とは似《に》ても似つかない強面爺《こわもてじい》さんだったときた。
桐乃《きりの》が会った熊谷龍之介は、偽物《にせもの》かもしれない。そう推理《すいり》をしてきた俺たちも、この事実にはびびったね。
『ところで、この名刺はどこで?』
『えっと、その前にうかがいたいんスけど……』
俺はさっそく本来の目的である『妹空《まいそら》』の話を振った。ただもうみなさん十二分に分かってくれているとは思うが、俺はチキンなんである。いきなり『盗作《とうさく》』なんて話は切り出せず、まずは作者の『理乃《りの》』について聞くにとどまった。
『ああ、理乃先生ですか? 実は先ほどお話しした、十年聞|頑張《がんば》ってデビューした方というのが、理乃先生なんですよ。最近ケータイ小説向けに作風《さくふう》を変えてから、まるで別人《べつじん》のように面白《おもしろ》い作品を書くようになりまして――。正直、この方に、こういうものを書く才能《さいのう》があったとはと感心しているところなんです。ショックでもあります。何年も担当《たんとう》していてこの才能に気付かなかったのですから、理乃先生がデビューに時間がかかったのは僕が無能《むのう》なせいだったなと。……本当に……驚くやら悔《くや》しいやらで……いやはや、これは編集者としての勘《かん》ですが、人気《にんき》出ますよアレは』
熊谷さんは自信ありげに熱く語った。長いつきあいだった担当作家が華々《はなばな》しくデビューしようとしていることを、心から喜んでいるようでもあった。
もう決まりだな、と思ったよ。『理乃』が盗作の首謀者《しゅぼうしゃ》で間違いない。
『理乃先生が、どうかしましたか?』
『……はあ、まあ、実は――』
――っと、そろそろ時間だ。回想《かいそう》はここまでにして、続きはおいおい説明していこう。
会議室の扉《とびら》が開き、熊谷さんが姿を現わした。その後ろから、もう一人入ってくる。
その人は、ソファーに座っていた俺たちを認めるや、ぱちくりと瞬《またた》きした。
「――あれ?」
性別《せいべつ》の分かりにくい、よくとおる声だった。紺色《こんいろ》のパンツスーツにネクタイをした、ショートカットの女性[#「女性」に傍点]である。理知《りち》的な美女だ。左目の下に泣きぼくろがある。歳《とし》は二十代|中盤《ちゅうばん》ってとこか。女にしてはかなり背が高く、まったくといっていいほど胸がない。化粧《けしょう》をぬぐってイヤリングを外したら、美形《びけい》の男と間違《まちが》えそうだ。いまは女の格好《かっこう》をしているので、社長|秘書《ひしょ》といったおもむきだった。
「ねえ熊谷《くまがい》さん、今日《きょう》って『妹空《まいそら》』二巻の打ち合わせじゃなかったんです? あ、もしかして部屋《へや》間違《まちが》えちゃいました?」
「いえ、こちらで合っていますよ。紹介《しょうかい》します、こちらは高坂《こうさか》さんと黒猫《くろねこ》さんです。フェイトちゃんに大事なお話があるそうでして」
ふぇ、フェイトちゃん?
「ちょっと熊谷さん、フェイトちゃんはもうやめてくださいってばー。いまは『理乃《りの》』ってペンネームがあるんですから、今後はそう呼んでくださいって言ったじゃないですか」
……こいつが『理乃』らしい。よくもまあぬけぬけと、その名前で呼んでくれなんて言えるもんだな。よりにもよって俺《おれ》の目の前でよ……。俺は、いまだ寝込《ねこ》んだままの妹の姿《すがた》を思い出してしまい、はらわたが煮えくりかえるほどむかむかしていた。
とはいえ、まだこの段階で怒りを露《あら》わにするわけにもいかない。
感情をおさえ、その場で立って挨拶《あいさつ》をした。
「ども、初めまして」
「……はじめまして」
となりで黒猫も、同じようにした。フェイトちゃんと呼ばれた女性(もう『理乃』とは呼びたくない)も、不可解《ふかかい》そうな顔をしつつ挨拶を返してくる。
「はあ、どうも……初めまして。理乃です。……えっと? 熊谷さん?」
「まあまあ。とにかく座って、お二人の話を聞いてあげてください」
「……構《かま》いませんけど。あ、そうか、取材《しゅざい》か何かなんですね。インタビューはちょっと前に受けたばかりだから……なんでしょう? WEB版を見てくれたファンとの対談《たいだん》とか?」
この状況を、彼女はそう解釈《かいしゃく》したらしい。すっかり上機嫌《じょうきげん》になって、俺たちの対面《たいめん》に座った。ちなみに熊谷さんは、入り口のそばに突っ立って、殺意《さつい》の波動《はどう》をまき散らしている。
「じゃ、よろしくお願いしますー。お二人はご兄妹なんですか? かわいい妹さんですね?」
「……はあ、まあ、そうっすね」
この余裕面《よゆうづら》を、熊谷さんと約束した時間|内《ない》に打ち砕《くだ》いてやることができるだろうか。一応《いちおう》、策は練ってきてあるのだが……完全な決め手になるかというと、そこまでのものではない。桐乃《きりの》の小説を取り戻すことができるかどうかは、俺たちの立ち回りにかかっている。
まず最初の一手《いって》は、黒猫が打った。
「……ひとつ聞いてもいいでしょうか」
「はい! なんでしょうか?」
快活《かいかつ》な声で返す彼女。どうやらファンサービスモードに入ったらしい。
黒猫《くろねこ》が口を開く。いったいどこから攻めるのかと思いきや――
「フェイトちゃんとは何ですか?」
そこからかよ。……俺《おれ》も気になってたけどさ。
ひく、ひくっ。女は、もの凄《すご》く渋《しぶ》い顔になった。慌《あわ》てて表情を取り繕《つくろ》うものの、あからさまに引きつった笑顔である。どうやら答えにくい質問だったらしい。ざまあみやがれ。
「……わたしのミドルネームです。フルネームが、伊織《いおり》・|F《フェイト》・刹那《せつな》で……」
「……というと、前のペンネームですか[#「前のペンネームですか」に傍点]?」
っと、牽制《けんせい》を一発|入《い》れてきたな、黒猫のやつ。さて、これで相手はどう返してくるか……。
「ほ、本名《ほんみょう》ですっ」
――なん……だと……?
「……いま、なんと?」
「伊織・F・刹那というのが、本名だと言いましたっ……! 悪かったですねっ! よく言われるんですよアニメやライトノベルみたいな名前ですねって! しょうがないじゃないですかっ、両親がそういうふうに名付けちゃったんだから……! クォーターなんですっ! わたしも恥《は》ずかしいと思ってて……も、もういいでしょ!」
「…………かっこいい名前だと思いますけどね……」
おまえそれ本気で言ってるだろ。羨《うらや》ましそうな顔すんじゃねえよ。
黒猫は目をキラキラ輝かせ、頬《ほお》を紅《あか》く染《そ》め、むふうと鼻息《はないき》がでそうなくらい息を荒くしていた。伊織・F・刹那という名前が、よっぽどこいつの琴線《きんせん》に触れたらしい。
「……フェイトちゃんって呼んでもいいですか?」
「イヤですっ! あ、あなた人の話聞いてたの!?」
相手をナチュラルにムカつかせるの、本当うまいよなこいつ。別に挑発《ちょうはつ》しようとしているわけじゃなくて、素《す》でやっているくさいし。ま、ちょっとスッとしたからいいか。
いいぞ、もっとやれ。
「もう――さっき熊谷《くまがい》さんにも言いましたけど、わたしのことは『理乃《りの》』と呼んでくださいよ。その名前で本を出すことになったんですから」
「そりゃだめっすよ。あんたを『理乃』って呼ぶわけにはいかない」
牽制してばかりいても仕方がない、そろそろ頃合《ころあ》いだろう。俺はフェイトに言ってやった。
「あんたは『妹空《まいそら》』の作者じゃないからだ」
「……は? いきなりなにを?」
当惑《とうわく》した様子《ようす》で首をかしげるフェイト。不意《ふい》を衝《つ》いてやったはずなのに、動揺《どうよう》した様子は見られない。完全にすっとぼけている。くそう、俺の言い方が下手《へた》くそだったからか……。
役に立たないわねとばかりに、黒猫が「ふん」と鼻を鳴らした。私が代わるから引っ込んでなさいみたいな雰囲気《ふんいき》でフェイトに向き直り、開口《かいこう》一番いつものを吐《は》いた。
「……とぼけないで頂戴《ちょうだい》この糞虫《くそむし》が。見下げ果てたものね、下等《かとう》生物の分際《ぶんざい》で。この期《ご》に及んでまだこの私を苛立《いらだ》たせるつもりだというの?」
黒猫《くろねこ》さん、アンタいきなりハンパねえな!
そんな、呪詛《じゅそ》を唱《とな》えるよーな口調《くちょう》で糞虫て!? 俺《おれ》だったら泣くわ!
「ちょ、ちょっとオマエは黙《だま》ってろ」
黒猫としては普通に喋《しゃべ》っているつもりなんだろうし、俺はこいつの毒舌《どくぜつ》に慣れてるから『また始まったよ』としか思わないが……。見ろよ相手のツラ! 言葉のトゲが鋭すぎて、逆に痛みに気付かないみたいな顔してるじゃねえか!
「な……なんですって?」
「い、いや、だから……アンタが『妹空《まいそら》』の盗作《とうさく》を、ね?」
我《われ》ながらなんという弱気な問い詰《つ》め方。つくづく俺は探偵《たんてい》にゃ向いてねえな。
「く――熊谷《くまがい》さん! なんですこの失礼な人たちは! 人を盗作|犯《はん》呼ばわりして――!」
俺たちを指差《ゆびさ》しながら、勢いよく立ち上がるフェイト。激《はげ》しい剣幕《けんまく》で熊谷さんを怒鳴《どな》りつけると、SPのように佇立《ちょりつ》していた彼は、いつもの落ち着いた口調《くちょう》で答えた。
「……そのお二人によると、『妹空』を書いたのはお二人の妹さんで、あなたはその原稿《げんこう》を騙《だま》し取って自分のものにしたんだそうです。僕の名刺《めいし》を使って編集者《へんしゅうしゃ》になりすましたのだとも言っていました」
熊谷さんは、フェイトの携帯《けいたい》番号とメールアドレスが追記《ついき》された例の名刺を取り出して、机上《きじょう》に置いた。フェイトは名刺を一瞥《いちべつ》し、再び熊谷さんを見た。
「まさか、そんなよくあるクレームを信じちゃったわけじゃないですよね?」
「……結論《けつろん》はさておき、僕の名刺は本物のようですよ。記入されている連絡先《れんらくさき》も、フェイトちゃんのものと同じです。もちろんこんなものはどうにでもなる。どうにでもなりますが……それでも、僕たちが普段《ふだん》対応しているクレームとは、レベルの違う問題ではあります。ですから、こうしてフェイトちゃんをこの場にお呼びしたんです」
「そんな! 熊谷さん、わたしを疑ってるんですか!?」
フェイトは懇願《こんがん》するように叫んだ。もしも熊谷さんが、完全に担当《たんとう》作家の無罪《むざい》を信じ切っているのなら、俺たちがここで待っていることをあらかじめ伝えるはず。そう考えたのだろう。
長年《ながねん》一緒《いっしょ》に頑張《がんば》ってきた担当編集が、自分のことを疑っているかもしれない。
この悲痛《ひつう》な叫びも、演技《えんぎ》ではないんだろうな。敵とはいえ、少し同情《どうじょう》してしまう。
「いえ、俺たちが、熊谷さんに無理《むり》に頼んだんですよ。初めの三十分だけはフェイトさんと俺たちだけで話させてください。フェイトさんには今日《きょう》のことを秘密《ひみつ》にした上で呼んでくださいってね」
「フェイトって呼ぶなって言ってるでしょ!」
よっぽどイヤなんだな。実におっかない声と形相《ぎょうそう》だったが、俺《おれ》はそれほどひるまなかった。
熊谷《くまがい》さんは無《む》表情のままで言う。
「……僕は、はっきりさせたいだけです。個人的な希望を述べさせていただくと、盗作《とうさく》なんてものは彼らの妄言《もうげん》であって欲しい。それなら何も問題はない。きっちりとフェイトちゃんの無実《むじつ》を証明して、彼らには厳重《げんじゅう》注意をした上で編集部《へんしゅうぶ》への出入り禁止を申し渡せばすむ話です。いつも言っているでしょう。僕は常にあなたの味方です、担当《たんとう》編集なのですから」
これが彼の本心なのだろう。俺たちから事情を聞いて、幾《いく》つかの証拠《しょうこ》を見せられて、いまの状況をセッティングしてくれた熊谷さんではあったが……決して俺たちの味方ではない。長い間|面倒《めんどう》を見てきた担当作家と、数日|前《まえ》に会ったばかりの俺たちとでは、信用の度合《どあ》いが違う。当たり前の話だった。
「……分かりました、熊谷さんがそうおっしゃるなら……仕方ありません。このふざけた茶番《ちゃばん》に付き合いますよ」
担当編集の言葉を聞いたフェイトは、落ち着きを取り戻したようだ。
「あなたたちの話を聞きましよう。――ええと、なんですか? わたしが、盗作|犯《はん》だとか? さっさと終わらせたいので核心《かくしん》からいきますが。証拠はあるんでしょうね」
チッ……さっそく来たな、定番《ていばん》のこの台詞《せりふ》。
こいつは桐乃《きりの》が登録《とうろく》していた投稿《とうこう》サイトを乗っ取り、保存《ほぞん》してあった原稿《げんこう》データを確保した上で、『妹空《まいそら》』の全《ぜん》文書をWEB公開した。
このことによって、桐乃が『妹空』の作者である物証《ぶっしょう》を消し去ってしまったわけだ。
狡猾《こうかつ》な手管《てくだ》だった。
「言っておきますけどわたしはそんなことはやってませんし、『妹空』はわたしが書いたわたしの作品ですよ。それを違うと言うからには、あなた、自分の主張が間違《まちが》っていたときに責任が取れるんでしょうね」
「く……」
まだ諦《あきら》めるには早すぎる。そう、すべての証拠が消えてしまったわけじゃない。俺が目的のブツを出すべく鞄《かばん》をあさっていると、フェイトが黒猫《くろねこ》に向かって目をすがめた。
「ところでそっちのあなた。ねえ、あなた何なの? さっきからわたしに対してずいぶんな口の利きようだけど、そんな態度が許されるとでも思ってるわけ?」
「莫迦《ばか》ね。盗作犯に敬意《けいい》を払う必要なんてないでしょう? 十年間も芽《め》が出なかった廃《ハイ》ワナビ風情《ふぜい》が、ずいぶんと調子にのっちゃってまあ。人様《ひとさま》の書いたクソ駄文《だぶん》を盗んで、それでいっぱしの作家|気取《きど》り? なんて無惨《むざん》なのかしら。正直あなた、存在している価値《かち》あるの?」
「ふざけないで答えなさい! 証拠があるの!? ないの!? どっちよ!」
「――ハ、語るに落ちたわね愚物《ぐぶつ》が。その穢《けが》らわしい口からどんな色の塵《ごみ》を吐《は》き出すのかと思いきや、よりにもよって『証拠はあるのか』ですって? ……クックックックッ……そんなありがちな悪役《あくやく》台詞《せりふ》を吐《は》いてしまっては、もはや自分が犯人だと半《なか》ば認めてしまったようなものねぇククク……終末《しゅうまつ》の刻《とき》は近い……さあ、我《わ》が腕《うで》の中で息絶《いきた》えるがいいわ……」
どこの魔王様《まおうさま》だよおまえは。アレフガルドに帰れボケナス。
どっちがより悪役っぽい台詞を吐いているかという勝負なら、間違いなく黒猫《くろねこ》に軍配《ぐんばい》があがるだろう言《い》い草《ぐさ》だった。
おまえ当初の目的っつーか、桐乃《きりの》のことを忘れているんじゃあるまいな。
幾《いく》ら怒鳴《どな》られてもビクともしない黒猫の尊大《そんだい》な態度に、フェイトは面食《めんく》らって困惑《こんわく》しているようだ。しかし――ある一瞬《いっしゅん》を境《さかい》として、ガラリと雰囲気《ふんいき》が切り替わる。
「……黒猫さん……だったかしら? これは本心《ほんしん》からの忠告《ちゅうこく》だけれど。その痛々しい言動《げんどう》、即刻《そっこく》改めた方が身のためよ。いずれ過去の自分を殺したくなるから」
醒《さ》めきった声色《こわいろ》だった。ひどく忌々《いまいま》しいものを見たような表情でもある。
盗作《とうさく》疑惑《ぎわく》について反論《はんろん》しているときとは別人のようだ。大人《おとな》が子供に言い聞かせているような真摯《しんし》さと、過去の自分に向けて話しているような親身《しんみ》さを感じた。
「――余計《よけい》なお世話《せわ》よ」
黒猫は珍《めずら》しく表情をあらわにしている。見たくもないものを無理矢理《むりやり》見せつけられたような、覗《のぞ》き込んだ鏡《かがみ》に醜《みにく》く年老《としお》いた自分が映っていたかのような表情。
しかしそんな表情は一秒も続かず、すぐに嘲《あざけ》るような表情が取って代わった。
冷ややかな流し目で俺《おれ》を一瞥《いちべつ》し、嫣然《えんぜん》とあごをしゃくる。
「……教えてあげなさいなワトソンくん。証拠《しょうこ》をすべて隠滅《いんめつ》できたと勘違《かんちが》いしている無能《むのう》な犯人に、私たちの黙示録《アポカリプス》を見せつけてやるのよ」
「誰《だれ》がワトソンくんだこの野郎《やろう》」
やれやれ……ようやく本題《ほんだい》に入れるな。俺はやや緊張《きんちょう》をそがれながらも、邪気眼《じゃきがん》探偵殿《たんていどの》の命《めい》に従い、黙示録《アポカリプス》もとい証拠|品《ひん》を取り出した。桐乃のケータイと、手帳である。
「……まさか原稿《げんこう》データが残っているとでも? だとしてもそんなの――」
「自分で見てみろ、ほら。俺の妹が『妹空《まいそら》』を書いたっていう証拠だよ」
俺はフェイトに、ケータイと手帳を渡してやった。この手帳には、桐乃が妹空を書くために作ったプロットや取材《しゅざい》メモが書かれている。クリスマスイブの日、俺と渋谷《しぶや》に行って――109を見て回ったり、アクセサリーショップで買い物をしたり、ライブを観《み》たり、いきなり水を引《ひ》っ被《かぶ》って震えたり、シャワーを浴びるためにやむなくラブホに入って、ついでに中を取材したり――。あのときの体験が綴《つづ》られていた。
それは、桐乃が『妹空』の作者であることの証拠だ。
ちなみにこの二つは、熊谷《くまがい》さんにもすでに見せてある。これでフェイトが手帳を破いたりケータイを壊《こわ》したりしたら、自分で盗作を認めるようなものだ。そのくらいのことは、こいつにも分かっているはずだった。やがて、手帳をパラ見していたフェイトが眉《まゆ》をひそめた。
証拠《しょうこ》を突きつけられて焦っているのかと思いきや、手帳のすみっこを指さして、
「なんですこの変なイラスト。――……目付きの悪いやらない夫《お》ですか?」
「見ろっつったのはそこじゃねえ!? 真《ま》ん中《なか》見ろ真ん中の文章! そのらくがきっぽいのは……たぶん、俺《おれ》を描いた絵だよ」
いやその、どうやら桐乃《きりの》はあの取材《しゅざい》中、俺が怒ったり、困ったり、泣きそうになったりする様子《ようす》をイラストに起こしていたらしいんだ。わきに感想メモをそえてな。
まあ、正直、変と言われても反論《はんろん》できないド下手《へた》くそな絵ではあった。
でもってその脇《わき》には、
[#ここから「まるもじPOP体」太字「ギャル文字風に小文字多用」]
↑ァクセ買うお金が足りなくて、情《なさ》けなく店員さんに謝ってるバカの図(^o^)[#「(^o^)」は横書き]
←「お金なくてごめんな」だって! ゲラゲラ! きもいっつーの(笑)
↓ピァス買ゎせた。バカに選ばせょぅとしたのに、センスなさすぎて超時間かかったょ(^^;)[#「(^^;)」は横書き]
←ビチョ濡《ぬ》れになったぁたしを見てキレるバカ(>_<)[#「(>_<)」は横書き] どんだけシスコンだよこいつWWWWW
↓妹のバスローブ姿《すがた》でハァハァするバカ。ゃ〜〜〜、きりりん貞操《ていそう》の危機《きき》!?
[#ここまで「まるもじPOP体」太字]
ッァ――――! 殺してぇ〜〜! 思い出しただけでブッ殺してぇ〜〜〜〜〜ッ!
またこの読みにくい丸《まる》文字がイラつくんだよな! もうね? 一言一句《いちごんいっく》がカンに障《さわ》んの!
つーか! なんで証拠|品《ひん》を突きつけた俺が、こんな辛《つら》い気持ちにならなきゃならんのだ!
見せたかったのはあくまでプロットと取材メモであって、桐乃の描いた俺のイラストじゃねえんだよ!
「……いま渡したのは、どっちもあいつが『妹空《まいそら》』を書くために取材して、集めたもんだよ。そっちのケータイには、イブに撮《と》った写《しゃ》メが入ってる」
「………………」
フェイトは黙《だま》りこくったまま、桐乃が『妹空』を書くために使った資料を確認《かくにん》していた。
「……ふん。こんなものが、証拠になるとでも?」
「ま、まあな」
「ぜんぶ目を通しましたけど――。うーん、確かによくできてます。いかにも中学生が作った稚拙《ちせつ》な資料って感じです。あー、はい、はい、なるほどねー。これを見たら、あなたの妹さんこそが『妹空』を書いた作者だと信じてしまうのも分かります。あは、見るからにシスコンそうですもんね、あなたたち」
フェイトはにっこりと微笑《ほほえ》んで、桐乃のケータイと手帳をこっちに放り捨てた。
「――で? それがどうかしたんですか?」
「な……」
「うん。妹さんが『妹空』を読んで作った、妄想《もうそう》資料ですね、それ」
ぬけぬけと言い放つフェイト、俺はカッと頭に血が上るのを感じたが――
「ごはッ……」
脇腹《わきばら》に肘鉄《ひじてつ》を喰らって動けなくなる。俺《おれ》の動きを察知《さっち》した黒猫《くろねこ》が、先回りして釘《くぎ》を刺《さ》したのだ。熊谷《くまがい》さんを怒鳴《どな》りつけてしまった件で、俺の行動パターンは読まれているらしかった。
行動|不能《ふのう》に陥《おちい》った俺に代わり、黒猫が冷静な声で指摘《してき》した。
「――写《しゃ》メの日付はどう説明するの? どれもイブの渋谷《しぶや》で撮《と》った写真よ、それ」
「さあ? 携帯《けいたい》のことはよく知らないんですけど、デジタルデータなんて幾《いく》らでも偽造《ぎぞう》できるんじゃないですか? あーもしくは偶然《ぐうぜん》とか」
「偶然ですって……?」
「はい。あ、これわりといいセン行ってるんじゃないです? そう、妹さんはきっと偶然イブの渋谷でいくつも写メを撮って保存《ほぞん》してたんですよー。で、『妹空《まいそら》』の舞台が、自分が撮った写真と同じだってことに気付いて、それで『あたしが妹空の作者なんだよ!』って言い出したんです。そしたらホラ、かわいい妹の言うことじゃないですか。バカなあなたはすっかり信じ込んじゃって、人の迷惑《めいわく》も顧《かえり》みず、わざわざ新宿《しんじゅく》の出版社まで殴《なぐ》り込みに来たと。あっはっはー、バカ丸出しですねえ、あー恥《は》ずかしい」
そこでフェイトは、思い切り見下《みくだ》した態度で黒猫を嘲弄《ちょうろう》した。
「やれやれ、厨房《ちゅうぼう》のガキはこれだから困りますよ。大人《おとな》に迷惑ですから、子供の妄想《もうそう》は自分のお部屋《へや》で幾《いく》らでもやってくださいね」
「――――――」
黒猫の瞳《ひとみ》から光彩《こうさい》が消え失せた。おまけにさっきまで黒かったはずの瞳が、いつのまにやら紅《あか》くなっている。
[#ここから「印影体」太字]
「鬱欟檳檻樞歿汪楴搓槃榜棆棕椈楾揩[#「鬱欟檳檻樞歿汪楴搓槃榜棆棕椈楾揩」に傍点][#「揩」、判読難]攬棗※[#「攬棗※」に傍点][#「手へん+俊のつくり」、読みは「シュン」、Unicode6358]樸檢殀[#「樸檢殀」に傍点]――……」
[#ここまで「印影体」太字]
「唱《とな》えるのスタァーップ! なんだかよく分からんが静まれ! 正気に戻れ!」
突然《とつぜん》立ち上がって意味|分《わ》からん呪文《じゅもん》を唱え始めた黒猫を、俺は羽交《はが》い締《じ》めにして止めた。
ちっとも冷静じゃないじゃねーかよオマエ! びっくりして怒り吹っ飛んだわ!
しかも力|強《つ》ぇし! これが噂《うわさ》のプラシーボなんとかってやつか!?
「放して兄さん、その女を殺せないわ」
「ぶっそうなこと言ってんじゃねえ!」
俺は黒猫の身体《からだ》を必死で押さえつけながら、フェイトを怒鳴《どな》りつける。
「アンタもいい加減《かげん》なこと言うな! 俺らの妹はそんなにかわいくねぇ――んだよ! もしもウチの妹がそんな妄言《もうげん》口走《くちばし》ったら、シバいて黙《だま》らせるわ!」
実際にはたぶん無理《むり》だけど、そのくらいの突っ込みは入れるってぇの――心の中でな!
「……いい加減にするのはそっちでしょう……もうたくさんです。痛々しいのよあなたたち」
俺たちのやり取りを、何故《なぜ》か苦悶《くもん》するような表情ですがめ見ていたフェイトは、軽蔑《けいべつ》のまなざしで告げた。
「とにかく……言いたいことがもうないなら、話はこれで終わりです。そろそろ三十分たちますし、これ以上付き合いきれません。いいですよね、熊谷《くまがい》さん?」
「……そうですね」
熊谷さんは、無《む》感情に頷《うなず》いた。さっきも言ったとおり、いまフェイトに見せた証拠品《しょうこひん》は、すでに熊谷さんにも見せてある。そのときも同じ台詞《せりふ》を言われたのだ――これだけでは足りません、ってな。基本的に、熊谷さんはあっちの味方なのだ。このジャッジは仕方《しかた》ないと言えよう。
だが――
「まだ証拠はあるぜ。決定的なもんがな」
俺《おれ》はハッタリを利かせながら、最後の切り札を取り出した。
A4用紙の束《たば》である。
「高坂《こうさか》さん、それは……?」
「『妹空《まいそら》』の続編[#「続編」に傍点]ですよ熊谷さん。俺の妹が書いたね」
いや、まったく。こいつを見たときは驚いたぜ。
俺たちは盗作《とうさく》問題を解決するべく動いていたわけだが、それを桐乃《きりの》には秘密《ひみつ》にしていた、
だから証拠品ひとつ持ち出すにしたって一《ひと》苦労だった。いつぞやの誰《だれ》かさんみてーに、兄妹の部屋《へや》に忍《しの》び込んでなあ。あいつが飯食《めしく》いに降りていったのを見計《みはか》らって、こそこそ家捜《やさが》ししたんだぜ。他《ほか》のタイミングだとあいつ部屋で寝込《ねこ》んでるし、鍵《かぎ》だってかかってるしな。……まあ、バレたら俺の人生はおしまいだし、妹のためだという大義名分《たいぎめいぶん》があったにせよ、差恥《しゅうち》と罪悪感《ざいあくかん》で死にそうだった。
いったい何やってんだろう、俺……ってな。
だが、その甲斐《かい》はあった。妹の手帳を拝借《はいしゃく》して確認《かくにん》しているとき、『妹空』の続編《ぞくへん》の走り書きやら何やらがあったので、もっとよく探したらさ、もう一冊《いっさつ》手帳が出てきたんだよ。
で、その中に『仕事|用《よう》』と『自分用』、二種類のパスワードがメモしてあるのを見つけた。どちらも『けーたいi倶楽部《くらぶ》』にログインするためのパスワードだった。しかし『仕事用のページ』には『パスワードが違います』というエラーが出て入れなかった。
つまり『仕事用』ってのは、『妹空』を保存《ほぞん》していたページのことで、フェイトに乗っ取られちまったっていう例のページのことなんだろう。
そして一方『自分用』ってページには何があったかっていうと、黒猫《くろねこ》がレイプ小説と呼んでいた件《くだん》のケータイ小説や、『妹空アナザーサイド妹|視点《してん》』っていうタイトルのケータイ小説が保存されていた。後者を読んでみると、妹空の物語を主人|公《こう》の妹・しおり視点で描いたものだった。ある意味《いみ》続編といってもいいだろう。あのとき桐乃が妹のことを超《ちょう》重要キャラだと言ってたのは本当だったのだ。
まとめるとこういうことだ。
桐乃は『仕事用』と『自分用』のページを分けて登録《とうろく》していて、妹空を保存していた『仕事用』のページを、フェイトに盗まれてしまった。
しかし『自分用』のページは残っており、そこに『妹空《まいそら》』の続編《ぞくへん》というか、別バージョンが保存《ほぞん》されていたのだ。
まあ、俺《おれ》も、なんでこんなもんがあるんだ? って首をひねったよ。桐乃《きりの》が偽熊谷《にせくまがい》さんに書けって指示《しじ》されていたのは、リノが主人|公《こう》の話だけのはずだったしな。だったら書籍化《しょせきか》される当てもない小説の続きなんざ、書いたってしょうがねえだろう――。俺なんかはそう思うのだが……。
そんな単純なもんじゃねーのかもな。書きたいから書いたってのは、間違《まちが》いないんだろうが。
ともあれ――。
「さっきフェ――刹那《せつな》さんが、言ってましたよね。今日《きょう》は『妹空』二巻の打ち合わせじゃなかったんですか、って。……ってことはあれだ。刹那さんの書いた『妹空』の続編がすでにあって、熊谷さんはそれをもう読んでいるってことですよね」
「はい、そうです」
熊谷さんは端的《たんてき》に答えた。フェイトが青ざめて牙《きば》を剥《む》く。
「そ、それがどうしたっていうのよ」
「だから――この二つを読み比べてみればいいって言ってるんですよ。どちらが偽物《にせもの》で、どちらが本物《ほんもの》なのか、それではっきりするんじゃねえかと思うんですが。違いますかね」
「面白《おもしろ》い方が本物だって言うの!? そんなの主観《しゅかん》的な意見でしかないわ! そんなんで本物偽物を判断できるわけが――」
「へえ、つまり自信がないわけだ?」
俺はあえて挑発《ちょうはつ》するように言った。桐乃や黒猫《くろねこ》の口調《くちょう》をお手本《てほん》にしてな。
「……なんですって?」
「聞こえなかったってんなら、何度でも言いますよ――。十年以上も作家|修業《しゅぎょう》を続けて、このたびめでたくプロデビューを果たす理乃《りの》先生が、そのへんの妄想《もうそう》女子《じょし》中学生の書いたケータイ小説に、勝つ自信がないってのかよ」
これはかなりの賭《か》けだった。そもそも挑発に乗ってこないかもしれないし、こいつが書いた『妹空』の続編が、桐乃が書いたそれよりも面白かったら、すべてがご破算《はさん》になっちまう。
ただ、俺は思うんだよ。小説のことなんざサッパリ分からねえ素人《しろうと》だけども。
あいつの作った、どうにも好きになれねえキャラクターたちにしろ、お安い悲劇《ひげき》とご都合《つごう》主義|満載《まんさい》のストーリーにしろ、リノやらトシやらがくっ喋《ちゃべ》るお花畑な台詞《せりふ》にしろ――。
桐乃の中から生まれた、あいつだけのもんだってな。あいつが一生|懸命《けんめい》考えて、大嫌《だいきら》いな兄貴《あにき》を連れ出してまで取材《しゅざい》して、きっといままで生きてきた経験も反映させて。
部活やらモデル仕事やらの合間に書いて書いて書いて――。そうやって、ようやっとできたもんなんだ。だからこそ世の女どもに受け容《い》れられて、人気《にんき》が出ていたんだろうよ。
だからな。
「本物が偽物《にせもの》に負けるわけがない。俺《おれ》はそう信じてますよ」
そうして決着《けっちゃく》の時が来た。
桐乃《きりの》が書いた原稿《げんこう》と、フェイトが書いた原稿。両方を何度も何度も読み返していた熊谷《くまがい》さんは、バサリと原稿を机《つくえ》におくや、やおら大きな息をついた。
「ふ――――――」
目をつむり、長考《ちょうこう》する。獰悪《どうあく》な顔をさらにまがまがしく引き締め、瘴気《しょうき》のような吐息《といき》を漏《も》らす。それから長い長い長い長い沈黙《ちんもく》があって……やがて重々《おもおも》しく口を開いた。
「ではお伝えします」
二つある原稿のうち、ひとつを手に取り、机の中央に押しやる。
「こちらの方がとても面白《おもしろ》かったです」
俺が渡した方……つまり、桐乃が書いた原稿だった。
「…………ってことは」
「はい。僕は、こちらが本物《ほんもの》だと思いました」
「……本当ですか!?」
うおおっ、さすがプロの編集者《へんしゅうしゃ》! すげえな! こんな、いきなり押しかけてきた俺たちの作品と自分の担当《たんとう》作家の作品を平等《びょうどう》に見てくれて……。ちゃんと本物を見抜《みぬ》いてくれたよ! やるじゃん熊谷さん!『実はこの人|無能《むのう》なんじゃないの?』なんて疑っててゴメン! 俺は思わずガッツポーズ。この高揚感《こうようかん》を共有《きょうゆう》しようととなりを見たが、その甲斐《かい》なく、黒猫《くろねこ》は相変《あいか》わらずの無《む》表情で熊谷さんを見つめていた。
「そんな……」
フェイトは信じられないといった体《てい》で顔色をなくしていたが、正気を取り戻した途端《とたん》、熊谷さんにつかみかかった。
「あ――あんたわたしの担当編集でしょ!? 自分が何言《なにい》ってるのか分かってるの!?」
「はい、もちろん。これは、非常に深刻な問題です。僕も上司《じょうし》に報告したあとで、自分の進退《しんたい》を考えなくてはいけない」
「な……!?」
思いがけない熊谷さんの台詞《せりふ》に、いきり立っていたフェイトが言葉をなくす。
担当作家が問題を起こしたら、その責《せき》は担当編集にも行くってことなんだろう。
そして熊谷さんは、それもやむなしと覚悟《かくご》した上で、桐乃の書いたものを『本物だ』と断じてくれているのだ。俺だったら、同じ立場になったとして、こうも毅然《きぜん》とした態度が取れるだろうか。気に喰わないところもある爺《じい》さんだけど、仕事に対しては真摯《しんし》で誠実《せいじつ》な人なんだよな。
「これが僕の最後の仕事になるかもしれませんね」
熊谷さんはちょっと笑ってから、先日《せんじつ》黒猫の原稿を『使い物にならない』と斬《き》り捨てたときのように、淡々《たんたん》と無慈悲《むじひ》に語り始めた。
「……フェイトちゃんが送ってくれた原稿《げんこう》は、文章のくせや台詞《せりふ》の言い回しこそ『理乃《りの》』そっくりではありますが……逆に言えばそれだけです。表面|上《じょう》をコピーしただけで、肝心要《かんじんかなめ》の部分はまるで別物《べつもの》です。一巻で感じた登場|人物《じんぶつ》の天真欄漫《てんしんらんまん》さであるとか、奇想天外《きそうてんがい》な展開であるとか、僕が『妹空《まいそら》』に感じていたドキドキワクワクが、この原稿には見あたらない。ようするに面白《おもしろ》くありません。これでは到底《とうてい》、『理乃』の書いた文章だとは思えませんし、ほぼ間違《まちが》いなく人気《にんき》を博《はく》すであろう『妹空』の続編《ぞくへん》として売り出せるわけがない。今回のことがなかったとしても、書き直し――ないし、企画《きかく》の練り直しをする必要があると思いました」
「…………っ」
相変《あいか》わらずこのジイさんは容赦《ようしゃ》ねえな。
もうちょっと言い方ってもんがあるんじゃねえかと思うんだが。
これは理乃の文章ではない。こんなものを売り出せるわけがない。辛辣《しんらつ》な酷評《こくひょう》を受けたフェイトは、先日の黒猫《くろねこ》とまったく同じ様子《ようす》で、力なくうなだれている。
熊谷《くまがい》さんは、桐乃《きりの》が書いた原稿を手に取った。
「一方こちらは、間違いなく『理乃』の文章ですね。率直《そっちょく》に言って面白いです。一巻よりもさらにハチャメチャで、少々|好《す》き勝手《かって》に書きすぎている部分はありますが、むしろそれがいい。特にこのラストがよいです。Kanon の真琴《まこと》たんシナリオに匹敵《ひってき》する感動的なクライマックスに、僕のハートも滅殺《めっさつ》です。『妹空』を面白く読んでくださった方に、自信を持って送り出せます」
一転《いってん》、桐乃のケータイ小説をベタ褒《ほ》めする。
この人が、こうも手放しで原稿を褒めるのを、俺《おれ》は初めて見た。それだけの力が、桐乃の書いた原稿にあったのだろうと気分がさらに昂揚《こうよう》し――しかし同時に、いつかどこかで感じたようなもやもや[#「もやもや」に傍点]が、俺の胸に再び渦巻《うずま》いた。自然と唇《くちびる》を噛《か》みしめていた。
作戦が上手《うま》くいっているのに――どうしてか、俺は無性《むしょう》に悔《くや》しかったのだ。
もちろん俺なんぞより、何百倍《なんびゃくばい》も悔しいだろう人が、目の前にいる。
「……そうですか。わたしの書いた話……面白くない、ですか」
フェイトだ。彼女はこの数十秒ですっかり老《ふ》け込んでいた。すべての精気《せいき》を放出し尽《つ》くしてしまったようにだ。
打ちのめされた彼女は、しかし、盗作《とうさく》を素直に認めるだろうか。いみじくもフェイト自身が言っていたように熊谷さんの『本物《ほんもの》認定《にんてい》』は、あくまで主観《しゅかん》的な意見でしかないのだ。
開き直ってスッとぼけられたら、話がこじれて泥沼《どろぬま》になる可能性が高い。
そして俺の手元《てもと》には、もう切り札がなにも残されていない――。
微妙《びみょう》な沈黙《ちんもく》がしばし続き、やがて、うなだれていたフェイトがぼんやりとした薄笑《うすえ》みを浮かべた。異様《いよう》に穏《おだ》やかな口調《くちょう》で、ぽつりと呟《つぶや》く。
「……ああ、思い出しました。『率直に言って面白いです』……初めて私の作品を褒めてくださったときも、そうおっしゃいましたよね」
「そうでしたね」
懐《なつ》かしそうに頷《うなず》く熊谷《くまがい》さん。
「……中学三年生のときかな。ここの新人|賞《しょう》――当時は雷撃ゲーム大賞って呼ばれてたんですけど――それに出した小説が最終|選考《せんこう》まで残って、電話がかかってきて……御茶《おちゃ》の水《みず》にあった編集部《へんしゅうぶ》に呼ばれて……」
小説の新人賞というのは入選《にゅうせん》した作品を本にするパターンが多いのだが、選外《せんがい》になった作品でも、編集者の立候補《りっこうほ》によって担当《たんとう》が付くケースもある。拾い上げ、というらしい。
「……懐かしいな。あのときは、四時間くらい延々と酷評《こくひょう》されて。凄《すご》く落ち込みました」
黒猫《くろねこ》が息を呑むのが分かった。フェイトの話が、まるで数日前の俺《おれ》たちのようだったからだ。
「あはは……いま思い返すと恥《は》ずかしくて死にそうになるんですけど……そのときのわたしが書いてたのって、当時そんな言葉はなかったんですけど――厨二病《ちゅうにびょう》丸出《まるだ》しの邪気眼《じゃきがん》小説だったんですよね。それが最高に面白《おもしろ》いと思っていて……自信|満々《まんまん》で……。わたし自身も、痛々しい言動《げんどう》ばかりしてました」
そこでフェイトは、哀《かな》しげな瞳《ひとみ》で黒猫を見据《みす》えた。
「そうそう、当時のわたし、凄《すご》くあなたに似《に》てますよ。喋《しゃべ》り方から、服装から……。ホラ、偶然《ぐうぜん》ですけどほくろの位置まで一緒《いっしょ》。……だから、さっきあなたの言動を見て、ついついイラっとしてあたっちゃったんです。……ねえ、あなた友達|一人《ひとり》もいないでしょう。クラスでは孤立《こりつ》してますよね。自分が特別な存在で、他《ほか》の下等《かとう》生物とは違うって信じてる。周りを見下《みくだ》して、自分の無能《むのう》と孤独《こどく》を他人のせいにして、物語の世界に逃避《とうひ》している。『――ああ、いまこの教室がテロリストに襲《おそ》われたなら、自分に隠《かく》された闇《やみ》の力が覚醒《かくせい》して、襲撃《しゅうげき》者を皆殺《みなごろ》しにして、クラスの蒙昧《もうまい》どもを助けてやって』――授業中、うつろな瞳で頬杖《ほおづえ》をつきながら、そんなことを考えていませんか?」
「………………………………………………」
黒猫は答えなかった。瞳を一瞬《いっしゅん》大きくしただけで、すぐにいつもの無《む》表情に戻った。
黒猫が小説家|志望《しぼう》だなんて一言も言ってないのに――まるで自分のことのように言いやがる。いや、実際、この女は自分の話をしているだけなんだろうな。
「……いまはそんな話、関係ねえだろうが」
代わりに俺《おれ》が言ってやったが、フェイトはまるで堪《こた》えていなかった。
「――とにかく、経験者から言わせてもらいますと、そんな妄想《もうそう》からは一刻《いっこく》も早く卒業するべきですよ。現実はそんなに甘くありません。どんなに必死に努力しても、かなわない夢はあります。どうにもならないことはたくさんあります。――いまの私のこのザマが、何よりの証拠《しょうこ》じゃないですか」
「だから、いまはそんな――」
俺《おれ》がイラつきながら同じ言葉を繰り返そうとすると、さらにその上から言葉をかぶせてくる。
「分かってますよ、『理乃《りの》』のケータイ小説の話でしょう? あは、笑っちゃいますよね、十年間|毎日《まいにち》毎日寝る間も惜《お》しんで書き続けたわたしの小説がつまらなくて? 数ヶ月前に遊び半分で書き始めたガキの、文章|作法《さほう》すらめちゃくちゃなケータイ小説が面白《おもしろ》い? 将来|有望《ゆうぼう》な新人? ヒット作の予兆《よちょう》がある? ――ハ、……なんですか、それ。こんな……っ、こんなことがあっていいんですか!? おかしいでしょうそんなのッ!」
「この……ッ!」
いちいち人の神経《しんけい》を逆撫《さかな》でしてくる言動《げんどう》を聞いていられなくなった俺は、何とか黙《だま》らせてやろうと声を張り上げようとして
「――――ええ、まったく同感だわ」
割り込んできた声を聞いて絶句《ぜっく》した。反射的に振り返る。
悲痛《ひつう》な怒声《どせい》に、同意をもって応《こた》えたのは、黒猫《くろねこ》だった。
異様《いよう》に低く、奈落《ならく》の底から響《ひび》いてくるような――怨嗟《えんさ》の声。
「私の書いた小説があんなにクソミソに貶《けな》されたというのに、どうしてあんなゴミクズみたいなケータイ小説がもてはやされるのかしら。まったく解《げ》せないわ。私がもっとも忌《い》み嫌《きら》う種類の代物《しろもの》が世間《せけん》で認められているのに、私の書いたものは、ぜんぜん駄目《だめ》だなんて。自己|満足《まんぞく》で使い物にならないってどういうこと? 好《す》き勝手《かって》に書いているのはあっちだって同じじゃない。どうして私だけ全《ぜん》否定されるわけ?」
淡々《たんたん》と、淡々と、いつものように無《む》感情な声色《こわいろ》で喋《しゃべ》り続ける黒猫。しかしその台詞《せりふ》には不可視《ふかし》の圧力があった。フェイトの怒声と同質《どうしつ》の、暗い情念《じょうねん》がこもっていた。
「お、おおお、おい! おいおいおい! おまえイキナリなに言ってんだよ!」
あまりにも想定外《そうていがい》の展開に、思わず突っ込みを入れてしまう。
せっかく決定的な証拠《しょうこ》を突きつけてやったんだぜ? あとは八《や》つ当《あ》たり気味《ぎみ》に動機《どうき》を吐露《とろ》するばかりになった犯人を追いつめて、決定|打《だ》を叩《たた》きつける場面じゃなかったのかよ。
あとちょっとだったじやねえか!
だってのに、なんでここでオマエがそんなこと言うわけ?
と――混乱しているのは俺ばかりではなかったらしい、フェイトもまた目を丸くしている。
さっきまで自分を罵倒《ばとう》していたはずの相手が、唐突《とうとつ》に豹変《ひょうへん》して擁護《ようご》を始めたのだから当然だ。
「……あ、あなた、何を言っているの?」
「フッ、気持ちは分かると言っているのよ。あなたほどじゃないけれど、私だって三年間、指南書《しなんしょ》を読んで、小説作法サイトで勉強して、投稿《とうこう》して、交流して……自分が良いと思うものを書き続けてきたのだもの。……悔《くや》しいに決まっているでしょう。ああ悔しい、悔しい、悔しいわ。羨《うらや》ましくてねたましい。あんなものを楽しそうに書いて得意気《とくいげ》な顔をしている作者も、あんなものを読んで面白《おもしろ》い素晴《すば》らしいと褒《ほ》めそやす編集者《へんしゅうしゃ》も、みんなみんな死ねばいいのに。――つまりそういうことでしょう?」
「…………そ、そこまでは……」
「ウソ吐《つ》かないで頂戴《ちょうだい》。認めなさいよ潔《いさぎよ》く。ざまあみろクソ作者、熊谷《くまがい》死ねって思っているのでしょう? この期《ご》に及んで何を躊躇《ちゅうちょ》しているの?」
煽《あお》ってんじゃねえよ! さてはおまえ本気で言ってやがるな!?
「――ハ、だいたいあの女は、初めて会ったときから気に入らなかったのよ。いちいち意見が合わないし、口を開けば自慢話《じまんばなし》ばかりだし、私のことを常に見下《みくだ》してくるし――。その上、たった数ヶ月前に書き始めた下手《へた》くそなケータイ小説が書籍化《しょせきか》ですって? 莫迦《ばか》にしないで頂戴、そんな理不尽《りふじん》があってたまるもんですか」
「お、おまえはどっちの味方なんだ!? 桐乃《きりの》のケータイ小説を取り戻すのに、協力してくれるんじゃなかったのかよ!」
聞いていられなくなって俺《おれ》は叫んだ。すると黒猫《くろねこ》は鼻で嗤《わら》った。
「どっちの味方ですって? 莫迦じゃないのあなた。初めから興味《きょうみ》本位《ほんい》だと言ったはずよ。どうしてこの私が、人間|風情《ふぜい》の尻《しり》ぬぐいをしてやらなければならないの」
それは照《て》れ隠《かく》しじゃなかったのかよ……!
「ふん、あなただって他人のことを言えるの? なんで妹ばかり[#「なんで妹ばかり」に傍点]、そう思ったことがないとは言わせないわよ」
「そ、それは……いまはそんな話、関係ねえだろう!」
「関係ない? ハ、知ったこっちゃないわね。私はいつだって喋《しゃべ》りたいことを喋るだけよ」
「かっこよく言っても駄目《だめ》なもんは駄目!」
桐乃《きりの》かおまえは! 妹と喋ってるような気になってきたわ!
犯人|放置《ほうち》で、代わりにオマエがラスボスとして君臨《くんりん》してどうすんだよ!
自分の役柄《やくがら》を奪《うば》われたフェイトが呆然《ぼうぜん》としてんじゃねーか!?
ったく! こいつの暴走《ぼうそう》はさておき――まあ、その……黒猫が、フェイトの気持ちをよく分かるってのは、本当なんだろうな。
こつこつ積み上げてきたものを、あとから始めたヤツにあっさりと追い抜《ぬ》かれる悔《くや》しさ。
努力が報《むく》われなかったときの惨《みじ》めさ。自分の価値観《かちかん》に合わないものばかりをもてはやす世間《せけん》。
努力が正当に報われる誰《だれ》か。好きなものを好きなように行って、認められる誰か。
どうにもならない。ままならない現実――。
確かにそういうのは、他人事《ひとごと》じゃあない。俺だって似《に》たようなもんだ。
俺は、こいつらの気持ちなんざ分からない。分かるなんて言う資格《しかく》もない。
でも、凡庸《ぼんよう》な自分とは大違《おおちが》いの妹が、こっちがいくら頑張《がんば》っても絶対|勝《か》てない妹が、毎日《まいにち》毎日すぐそばにいる惨《みじ》めさは分かる。勝てない相手と比較《ひかく》され続ける悔《くや》しさと、その状況をどうしようもないという、どうにもならないあの感覚は理解できる。
なんで妹ばかり[#「なんで妹ばかり」に傍点]。
――あ、それだ。
そこで不意《ふい》に気付いちまった。
なんてこった、これだ。これだったんだ。
このきったねー嫉妬心《しっとしん》が、俺《おれ》の胸で渦巻《うずま》いていたもやもや[#「もやもや」に傍点]の正体《しょうたい》なんだよ。
今回の盗作《とうさく》問題で、桐乃《きりの》の努力が無駄《むだ》になりかけたとき、正直《しょうじき》俺は、すごく気分がスッとしたんだ。でも、そのあと晦《くや》しそうな妹の顔を見て――
「――いい気味《きみ》だわ。調子に乗って、さんざん私を莫迦《ばか》にしてくれた報《むく》いよ」
いままで俺は、『なんでアイツばかりに才能《さいのう》があって、なんでもかんでも上手《うま》くいくんだ』――そんな嫉妬から妹のことを嫌《きら》ってた部分があったと思う。最近は特にそうだ。妹との距離が縮《ちぢ》まって、アイツの凄《すご》さを改めて見せつけられていたから――。
ったく、なんて情《なさ》けない兄貴《あにき》だろうな、
あのとき、桐乃が泣きそうなツラで強がってんの見て、自分が恥《は》ずかしくなっちまってよ。
だから俺、あんなにイライラして……どうにかしなくちゃいけねえ、あいつの頑張《がんば》りを無駄《むだ》にしちゃいけねえって、思ったんだろうな。
そしてもしかしたら、さっきから桐乃へ暗い感情を吐《は》き出し続けている黒猫《くろねこ》も――。
「……あの女がどうなろうと、私の知ったことじゃない。助けるなんて冗談《じょうだん》じゃないわ。もっと苦しめばいいのよ、あんな女」
こいつの台詞《せりふ》はすべて本心からのもの[#「すべて本心からのもの」に傍点]でありながら、ウソと強がりと言《い》い訳《わけ》ばかりでできている。まるで誰《だれ》かさんを見ているようだ。ガラじゃねえ、カンケーねえとのたまいながら、じゃあおまえは何をやっているんだと問われれば、何も言い返せないか、より苦しい言い訳にし終始《しゅうし》するしかない。
「ああ気に入らない。気に入らない。寝ても醒《さ》めても気に入らないわ。この世のすべてが気にいらない。いっそ爆弾《ばくだん》でも落ちてきて、何もかもを滅《ほろ》ぼしてくれないかしら」
そのイラだちは俺もよく知っている。そのままならなさ[#「ままならなさ」に傍点]は誰もがよく知っている。
そう、俺たちがここでこうしているのは、桐乃のためなんかじゃない。自分のためだ。
このどうしようもない感情を、どうにもならないなりにどうにかしようとしているだけだ。
だからこの件が首尾良《しゅびよ》く解決できたとしても、絶対に妹から感謝なんてされたくない。黒猫だってそう言うはずだ。桐乃をどう思っているかという問いに対して――俺と黒猫は、きっと同じ意味で、同じ答えを返すだろう。
あんなやつ、大《だい》大大大大大大っっっっ嫌《きら》いだってな! だけど――
「だけどね[#「だけどね」に傍点]、それはそれよ[#「それはそれよ」に傍点]」
そのとおりだ。こいつがどんな気持ちでこの台詞《せりふ》を言っているのか、本当のところは分からない。だけどそうなんだ。理屈《りくつ》じゃねーんだ、確かに俺《おれ》は妹が嫌いだよ。大嫌いだ。美人で多才なスゲエ妹なんざ、そばにいるだけで比べられるし、負けた気分になるし、当人にゃあバカにされて見下《みくだ》されて――。
だけどそれでも俺は、こう叫ぶしかない。兄貴《あにき》だからな。
「なあ、聞いてくれ――刹那《せつな》さん!」
「……!?」
いきなり話を向けられたフェイトが、びくりと身体《からだ》を震わせる。
構《かま》わず俺は、大声を張り上げた。
「あんたが盗んだそれは、俺の妹が一生|懸命《けんめい》書いたもんなんだよ! すげえ頑張《がんば》って書いたもんなんだよっ! 大嫌いな兄貴と一緒《いっしょ》に取材《しゅざい》して、熱があるってのにぶっ倒れるまでケータイ弄《いじ》って、俺なんかよりもずっとずっと頑張ってた。だからいい結果が出たんだ。それを見てもいねえくせに――なにもしてないのに上手《うま》くいっているみたいなこと言うんじゃねえよ!」
それは、いままでの俺に向けた台詞だった。自分とは大違《おおちが》いの妹に嫉妬《しっと》して、あいつは特別だからと諦《あきら》めて、桐乃《きりの》の頑張りを見ようともしていなかった自分への怒りだった。
「あんたがどれだけスゲエ努力をしてきたのか――それ俺には分からねえよ。だけど、それであいつの頑張りをなかったことにするんじゃねえ! 俺の妹を舐《な》めるな!」
いきなり叫び始めた俺の剣幕《けんまく》に、そこでようやく周囲が追いついてきた。
「……この莫迦《ばか》。人が話している最中《さいちゅう》に、割り込んで来ないで頂戴《ちょうだい》」
「……あなたに何が分かるっていうの?」
黒猫《くろねこ》とフェイトが、引っ込んでいうとばかりに睨《にら》んでくる。
しかし! そこで俺は逆ギレした!
「だから分からねえっつってんだろうが! 聞けよ! いいか!? いいか? こん中で一番ダメなのはこの俺だ! 一番|情《なさ》けねえのもこの俺だ! おまえらの気持ちなんかサッパリ分からねーけど、それだけは間違《まちが》いねえよ! だって俺、おまえらと比べたらぜんぜん努力してねえもん! 頑張ってねえもん! あんなにスゲえ妹がそばにいるのに、仲良くすることも見習《みなら》うこともできてねえ! それと比べたらおまえら頑張ってんじゃん!」
本心《ほんしん》から言ってやりたい台詞が、いつの間にか口から飛び出していた。
「マジで尊敬《そんけい》する! たいしたもんじゃねえかよ! 大好きだぜ! ホントすげーって!」
「――んな」「……っ」
対面《たいめん》のフェイトが目を見開いた。俺《おれ》のとなりで黒猫《くろねこ》が息を呑んだ気配《けはい》がした。
何か余計《よけい》なことを口走《くちばし》ったかもしれないが、いまの俺には気にする余裕《よゆう》なんてない。
歯を食いしばり、拳《こぶし》を握りしめ、絞《しぼ》るようにして声を出す。
「だから――結果がでねーとか、どうにもなんねえとか、確かにそうなんだろうけどあんま言うなよ! そんな自分を卑下《ひげ》してどうすんだよ! つーか、おまえらよりも頑張《がんば》ってない俺の立場はどうなるんだ!? 死ねってことか!? そうなんだなチクショウ! ……うぅ」
「……兄《にい》さん、支離滅裂《しりめつれつ》な台詞《せりふ》を吐《は》いている自覚はある? あとなんで泣いてるの?」
「うるせえな! おまえらが俺をいじめるからだろうが! いいから返せよ! それは妹の大事なモンなんだ! お願いだから返してくれ! 何でもするから、あいつが頑張った成果を取らないでくれ。おまえら全員の頑張り[#「おまえら全員の頑張り」に傍点]を無駄《むだ》にさせないでくれ! クソ、上手《うま》く言えねえけど……なに言ってんのか分かんねーかもしんねーけど――頼むよッ!」
俺は机《つくえ》に頭を叩《たた》きつける勢いで頼んだ、脇目《わきめ》もふらず、必死で懇願《こんがん》した。
「……あなた……」
俺の激しくも無様《ぶざま》な剣幕《けんまく》を見て、フェイトが目を見張っている。とんだシスコンだと思われているんだろうな。そうじゃねえってのに。絶対に絶対にそうじゃねえってのに。
「……本当、みっともないわね、兄さんは……やれやれ」
そんな俺を、黒猫は唾棄《だき》するように嘲《あざけ》って、フェイトに向かって告げた。
「……私からもお願いするわ。自分の書いた物語が、本になって、たくさんの人に読んでもらえる――。それがどれだけ心|躍《おど》ることなのか、どれだけ素敵《すてき》なことなのか、誰《だれ》よりも良く知っているのはあなたでしょう?」
訴えかけるその口調《くちょう》は、つい数十秒|前《まえ》まで嫉妬《しっと》と憎悪《ぞうお》にまみれていたやつの台詞《せりふ》とは思えなかった。優しくて、穏《おだ》やかで……真摯《しんし》な想《おも》いにあふれていた。
「お願いだから返して頂戴《ちょうだい》。……それ[#「それ」に傍点]はね、私たち[#「私たち」に傍点]の努力が報《むく》われないからといって、どんなに悔《くや》しくてねたましくて気に喰わないからといって、どうにかしていいものではないのよ。私のことは幾《いく》らでも好きに言うがいいわ、だけど、自分がいままでやってきたことを冒涜《ぼうとく》するのはやめて頂戴。でないと………………本当に呪《のろ》い殺すわよ」
それがこいつなりの結論《けつろん》なのだろう。なんだよ……俺《おれ》が割り込まなくても、こうやってきちんと説得してくれるつもりだったんじゃねえか。俺が言いたかったことを、俺なんかよりもずっと上手《うま》く伝えてくれるつもりだったんじゃねえか。ったく……あれだけ知ったことじゃねえだの、いい気味《きみ》だの言ってたくせに……支離滅裂《しりめつれつ》なのはお互《たが》い様《さま》じゃねえかよ……ぐすっ。
もう完全に泣きが入ってしまっている俺である。もう駄目《だめ》だ。きっとまた正気に返ったら、恥《は》ずかしくて情《なさ》けなくて死にたくなるんだろう。
そんな俺からの情けない哀願《あいがん》と、黒猫《くろねこ》からの真摯な懇願《こんがん》と――その二つを間近《まぢか》で見届《みとど》けたフェイトは、息を呑み……やがて、諦《あきら》めたように息を吐《は》いた。
「……どいつもこいつも……好《す》き勝手《かって》に言いたいことだけ言ってくれちゃって……、これだからガキはイヤなんですよ。理乃《りの》のケータイ小説の台詞が支離滅裂な理由、身をもって思い知りました。あなたたちみたいなのをモデルにしてたら、そりゃあああ[#「ああ」に傍点]なりますよね――」
肩の荷を下ろしたようにふっきれた声で言う。
「……いまならわたしも『妹空《まいそら》』を書ける気がするわ。本物の理乃みたいにね」
それは事実|上《じょう》の敗北|宣言《せんげん》だった。
いままで以上に勢い任せで、論旨《ろんし》も結論《けつろん》もぐちゃめちゃな嘆願《たんがん》。
それでもなにか、伝わるものがあったのだと信じたい。
「……ふっ、ていうかあなたたち、妹さんのことが嫌《きら》いなんじゃないの?」
この人にゃあ、その辺《へん》意味が分からないようだ。無理《むり》もねえよな。
兄貴だからしょうがない[#「兄貴だからしょうがない」に傍点]。その理屈《りくつ》にもなっていない言《い》い訳《わけ》は、自分にも分からない諸々《もろもろ》を、無理矢理《むりやり》納得《なっとく》させるための方便《ほうべん》でしかないからだ。大嫌《だいきら》いなのに、それは間違《まちが》いないはずなのに、それでもこうするしかない。このどうにもならない衝動《しょうどう》は、俺と、俺と似《に》た立場になったことのあるヤツにしか、きっと分からない。
そして――
「……ふん」
俺が顔を上げるよりも一足早く、黒猫が答えを返した。
「自慢《じまん》じゃないけどね。私は友達少ないのよ」
その表情を見逃《みのが》したのは。一生の不覚《ふかく》だったろう。
それから――そうだな、事件の顛末《てんまつ》について言っておこうか。
伊織《いおり》・|F《フェイト》・刹那《せつな》は、盗作《とうさく》の事実を素直に認めた、えーといまだになんと呼びゃいいのか判断に困るが――とりあえずいままでどおりフェイト、フェイトさんと呼んでおこう。
彼女が桐乃《きりの》の作品を盗作《とうさく》しようなんて考えたのは、『けーたいi倶楽部《くらぶ》』に投稿《とうこう》されていた桐乃のケータイ小説を読んで、感銘《かんめい》を受けたからなんだそうだ。
『……あれだけ貶《けな》しておいて何を言うのかと思われるでしょうけどね。面白《おもしろ》かったのよ、凄《すご》く。もちろん文章は全然|上手《うま》くないし、文法《ぶんぽう》から何からめちゃくちゃだし……それこそ数年|前《まえ》のわたしが読んだら「殺したくなる」ような代物《しろもの》なんだけど。だけど、心から楽しんで書いてるんだろうなっていうのが伝わってきたわ。「さあ見なさい。これが私なんだ」って、堂々《どうどう》と、面と向かって叫ばれているような気がした。でもそれって、十年前のわたしも、そうだったはずなのよ。初めて小説を書いたときは、わたしだって似《に》たようなことを思って、きっと笑いながら書いていた。ああしようこうしようって、どきどきわくわくしながら。そのときのことを思い出して――なんだか無性《むしょう》に悔《くや》しいような、バカらしいような気分になって……』
ふと魔《ま》が差してしまったのだそうだ。
『……申《もう》し訳《わけ》ないと思っているわ。どうかしてた。しょせん「理乃《りの》」でないわたしが、同じものを作れるわけがない。――そんなの、初めから分かっていたはずなのにね』
『……その台詞《せりふ》は、あいつに直接|言《い》ってやってください』
『ええ……そうね』
熊谷《くまがい》さんも、俺《おれ》たちに頭を下げた。
『僕からもお詫《わ》びします。誠《まこと》に申し訳ありませんでした。本物の「理乃」先生にも、改めてお詫びにうかがいます』
そのあとで、こんなことも言っていた。
『ケータイ小説の特に面白いところというのは、フェイトちゃんが感じたというまさにそれ[#「それ」に傍点]なのかもしれません。僕が思うに、『その人にしか創《つく》れないもの』というのは一人《ひとり》一人必ずあって、それ[#「それ」に傍点]には多くの人に感銘を与える力がある。ケータイ小説のみならず、同人誌《どうじんし》や同人ゲーム、WEB小説、それにニコニコ動画《どうが》や pixiv に投稿されているような作品|群《ぐん》を含めてもいい。――そういったアマチュア作品|全般《ぜんぱん》には、作者|固有《こゆう》の『創りたいもの』が、剥《む》き出しのまま転がっていることが多い。商業|作品《さくひん》として研磨《けんま》されると消滅《しょうめつ》してしまう類《たぐい》の面白さがそのまま残されている。まさしくケータイ小説のように、アマチュア的な良さが活かされた商品を創ろう[#「アマチュア的な良さが活かされた商品を創ろう」に傍点]――そういうビジネスモデルが成り立っていることこそが、ときにアマチュアがプロを凌駕《りょうが》しうることの証明ではないでしょうか。もちろん中には技術的に稚拙《ちせつ》なものが含まれていることは否定しませんが――だからといって玉石混淆《ぎょくせきこんこう》なものを一緒《いっしょ》くたにして否定するのは愚《おろ》かなことです』
『一方でフェイトちゃんと黒猫《くろねこ》さん。お二人の作品は、弊社《へいしゃ》の商品としては魅力《みりょく》にとぼしく、まったく使い物になりません。おそらく今後もそうでしょう。しかし、あなた方の「創《つく》りたいもの」にもまた、多くの人に感銘《かんめい》を与える素晴《すば》らしい可能性があると信じています。ようするにこういうことです』
底意地《そこいじ》悪くニヤリと笑《え》んで、
『――せいぜい頑張ってください[#「せいぜい頑張ってください」に傍点]』
いつかと同じその台詞《せりふ》に、黒猫はもの凄《すご》い嫌味《いやみ》を返していたが――彼女の瞳《ひとみ》には、そのうちこのジジィを見返してやろうというポジティブな炎《ほのお》が燃えていたよ。
そして――
フェイトさんは、その日のうちに桐乃《きりの》と連絡《れんらく》を取り、桐乃のインフルエンザが回復するのを待ってから、熊谷《くまがい》さんと一緒《いっしょ》に謝りに行ったらしい。事件の経緯《けいい》と顛末《てんまつ》をあるがままに話して(むろん俺《おれ》や黒猫《くろねこ》が関わった部分については秘密《ひみつ》にしてもらった)頭を下げた。
桐乃は「あー、えっと、別にいいケド。ぶっちゃけもうあんまり気にしてないしぃ」みたいなことを言って、あっさりと二人を許したんだと。俺は『なんだあの野郎《やろう》、泣くほど悔《くや》しかったんだろうによ』って思ったが、いやはや、俺の妹ってのはさ、どうも俺や黒猫や沙織《さおり》以外には優しいみたいなんだよ。外面《そとづら》だけはいいっつーか。まあ、だからこそ本性《ほんしょう》があんななのに近所でも評判《ひょうばん》の娘《むすめ》さんなんだろうけど。理不尽《りふじん》な話だぜまったく。
ちなみにこの話は、フェイトさんと桐乃の二人から、別々に聞いた。
「あんた、なんか、気にしてたみたいだったからさーあ。いちお、報告」
「別に気にしてねーよ。ふん、じゃ、無事《ぶじ》に本出るんだな、おまえの名前で」
「うん、まあでもめんどくさいからペンネームは『理乃《りの》』のままにした。熊谷さんも、その方が売れるっていうしね。ん〜、でもねー」
「あんだよ」
「べっつにぃ……はぁ〜〜、なぁんか……釈然《しゃくぜん》としないだけぇ。だって、あたしが寝込んでる間に、勝手《かって》に解決しちゃってたみたいじゃ〜ん。そりゃ、何もしないつもりではあったんだケド……」
「は、なんだそりゃ。楽で良かったじゃねーかよ」
妹のぼやきを、俺は複雑な心境《しんきょう》で聞いていた。
……あっと、これはあんまり言いたかないんだが。俺と桐乃との関係は、相変《あいか》わらずだ。
今回の事件に関わったせいで色々《いろいろ》と気付くことはあったにせよ。そんなの全部いまさらだ。理由が分かったところで、俺《おれ》が妹のことを大嫌《だいきら》いなのは今後も変わりゃしねえわけだし――
「……いままで悪かったな、桐乃《きりの》」
「? なに言っちゃってんの?」
なんでもねえよ。
二月になった。あれから半月ちょい、桐乃はインフルエンザでぶっ倒れていたのを取り戻すかのように部活や仕事に精《せい》を出していたようだ。ケータイを必死こいて弄《いじ》くっている様子《ようす》をさっぱり見なくなったので、その件について聞いたみたら、こんな回答《かいとう》が返ってきた。
「あー、あれね。もうやめた」
二巻の企画《きかく》までは引き受けるけれど、それ以降の作家|活動《かつどう》はしないらしい。すでに二巻の原稿《げんこう》は書き上がっているわけで、もうほとんどやることはないのだそうだ。
前回の騒動《そうどう》で、俺は『本を出版する』ということが、人によってはもの凄《すご》い大事だという認識《にんしき》になっていたので、かなり動揺《どうよう》した。だって……十年間打ち込んで、それでも本を出せない人がいるんだぜ? そんな……あっさりと権利を捨てていいもんじゃねえだろう?
黒猫《くろねこ》はこの話を、知っているんだろうか?
諸々《もろもろ》の疑問や感想が浮かんだが、桐乃の決意は固いようだった。『理乃《りの》』に期待してくれていた熊谷《くまがい》さんや、読者に申《もう》し訳《わけ》ないとも言っていた。そのへんプロ意識というか、義理堅《ぎりがた》いやつではあるのだ。
「でもいま、あたし、他《ほか》にどうしてもやりたいことがあるからさあ。優先度《ゆうせんど》からいって、ケータイ小説をやめるしかないってわけ、この前|無理《むり》して倒れたのも、反省してるし」
「やりたいこと? 新作のエロゲーじゃねえだろうな」
「そ、それもあるけど!」
だよなあ! おまえ! あたしエロゲーやりたいから、もう本の続きは書かないよって――そんなこと言ったら世の小説家|志望者《しぼうしゃ》さんたちに呪殺《じゅさつ》されんぞ!? ったく、これだから才能《さいのう》有り余ってるやつはムカつくよな。スゲエ成果を上げてんのに、それをポイッと捨てて次に行っちまうんだから。こつこつやってる側からしたら、やってらんねーとしか言えねえぜ。
「あんた失礼なこと考えてるでしょ! それだけじゃないっての!」
「じゃあなに?」
「ハァ? なんであんたに教えてやんなきゃなんないワケ?」
あっそう! じゃあもう聞かねえよ!
というやり取りがあったのはおいといて、ところで今日《きょう》は久方ぶりに、桐乃のオタク友達が高坂家《こうさかけ》に集結《しゅうけつ》していた。
そういや沙織《さおり》については、ウチに来るのは初めてだな。
つーか久方ぶりなんて言葉を使ったけど、桐乃と黒猫と沙織(あとオマケで俺)が一堂《いちどう》に会するのは、ほんと数ヶ月ぶりじゃないか? まあ同じ学校に通っているわけでもないんだから、こんなもんなのかもしんねえけどさ。色々《いろいろ》と騒動《そうどう》が重なって、疎遠《そえん》になってたのは間違《まちが》いない。
するってーと今日《きょう》の集まりは、離ればなれになってた友達との再会パーティみたいな意味もあるのかもな。なんて微笑《ほほえ》ましく思っていたのだが
「つーかそもそも今日はこの前のアニメ鑑賞会《かんしょうかい》の続きだったんじゃないの!? だったら前回|途中《とちゅう》で終わったメルルの続きを観《み》るってのが当然のなりゆきってモンでしょ!? なのにシスカリやりたいとか! なんでわざわざあたしの家に呼んでまで、アンタの得意|分野《ぶんや》で遊んでやらなくちゃなんないワケ? ねえ、聞いてんのクソ猫《ねこ》!」
「ハッ、ホストが客をもてなすのは当然でしょう? だいたいせっかくの休日をわざわざ潰《つぶ》して来てあげているというのに、家主《やぬし》が自分のやりたい遊びばかりを押しつけてくるというのは、いったいどういう了見《りょうけん》なのかしらね。――手《て》土産《みやげ》まで持ってきてあげたというのに」
――集まって早々これだもんなあ。積もる話とかあるんじゃないの? なんで顔合わせてっとすぐ喧嘩《けんか》おっ始めるんだよ。それともなにか、この口論《こうろん》はこいつらなりの親愛の表現なわけ?
ちなみに一応《いちおう》説明しておくと、ここは我《わ》が家《や》のリビングである。俺《おれ》が例のごとく菓子《かし》とジュースを用意してキッチンから戻ってくると、すでにこの戦いが始まっていたのだ。
ジュースひっくり返されそうで、うかつにテーブルに近寄《ちかよ》れねえよ。
「……あんたの手土産ってのはまさかコレのこと?」
桐乃《きりの》はこめかみで血管をビキビキさせながら、A4の紙束《かみたば》を取り出した。
鷹揚《おうよう》に腕《うで》を組んで頷《うなず》く黒猫《くろねこ》。超嫌味《ちょういやみ》ったらしく言う。
「ええ、そうよ。感謝なさい、『妹空《まいそら》』のネット書評を、この私が検索《けんさく》して大量に集めてきてあげたの。世間《せけん》の評判《ひょうばん》が気になっているでしょう? 作者の理乃《りの》先生としては」
「ふーんあっそう! それで『妹空』をボロクソ書いているネット書評ばかりを厳選《げんせん》して印刷して作者のこのあたしに見せに来たってわけ!? どんだけ性格|悪《わる》いのよアンタ!」
「……心外《しんがい》ね。これは友情の証《あかし》なのよ。下手《へた》くそな文章でも許してくれる心の広ぉい読者に、ちょっともてはやされているからって、あまり調子に乗らない方がいいわよという優しい忠告《ちゅうこく》」
「余計《よけい》なお世話《せわ》だってーの! なあにが忠告よ偉《えら》そうに。はっはーん、あんた結局|悔《くや》しいだけでしょ! 嫉妬《しっと》ワナビ乙《おつ》ぅ〜ッ!」
桐乃は乙乙乙! と連呼《れんこ》しながら、黒猫を全力で嘲弄《ちょうろう》し始めた。
「キャハハハ! キャ――ハハハ! ひぃ〜っひっひっ!」
踊《おど》るようなステップで、パンパンパンパン拍手《かしわで》を叩《たた》く。相手の顔を覗《のぞ》き込んで、
「ねぇ、いまどんな気持ち? ねぇねぇ、あとから小説|書《か》き始めたあたしに先にデビューされて、いまどんな気持ち? 悔しかったら自分もデビューしてみれば? そんな子供じみた嫌がらせでしか鬱憤《うっぷん》を晴らせないなんて、あんたクリエイターとして恥《は》ずかしくないのぉ〜?」
「……ぎぐがががががががが……」
黒猫《くろねこ》が人様《ひとさま》にお見せできない顔になっている。コイツ、どんな気持ちなんだろうなあ……。
桐乃《きりの》のケータイ小説を護《まも》るために、黒猫はあんなにも色々《いろいろ》してくれたってのに。
同人誌《どうじんし》を編集者《へんしゅうしゃ》に酷評《こくひょう》されて、フェイトさんと激《はげ》しく口論《こうろん》して、醜《みにく》い嫉妬心《しっとしん》をさらけ出して、それでもなお『それはそれよ』と脇《わき》に置いて、桐乃《きりの》の作品が正当に扱われることを願ってくれたのだ。そのあげくが、助けた相手からの『嫉妬ワナビ乙《おつ》!』という罵倒《ばとう》だけなのだとしたら、それはあんまりな仕打ちではなかろうか。
――いや、違うか。
俺《おれ》も黒猫も、胸に渦巻《うずま》く嫉妬心をどうにかするために動いていただけで、それは決して桐乃のためなんかじゃない。ここで感謝の言葉を期待する方が筋違《すじちが》いってもんだ。
兄貴《あにき》だからしょうがねえ。友達だからしょうがねえ。言《い》い訳《わけ》かもしれねーけど、決して言い訳だけってわけじゃない。口にしなくとも、俺も黒猫も分かってるんだ。
そうさ。この件に関しては、これでいい[#「これでいい」に傍点]。
ハッ、第一さあ、ことの真相《しんそう》を桐乃に知られたりしたら、恥《は》ずかしくて自害《じがい》するしかないじゃねえか。俺も黒猫も今回の秘密《ひみつ》は、断固《だんこ》として墓まで持って行くだろうよ。
今回の件で得たものといえば、まあ、こいつとの奇妙《きみょう》な仲間|意識《いしき》くらいか。
俺と黒猫が抱く桐乃への想《おも》いは、きっとよく似《に》ているんだ。
高坂《こうさか》桐乃、被害者の会。嫉妬と羨望《せんぼう》に支配され、それでも強がる小物《こもの》たちの集《つど》い。
それが俺らだ。――ったく調子こきやがって、この可愛《かわい》くない妹めっ。
ムカついてしょうがねえぜ。俺も会長[#「会長」に傍点]を見習って、嫌味《いやみ》を言ってやるとするか!
「おいおい桐乃、てめーは作家サマだろ? 自分の本を読んでくださった読者サマによー、そんな偉《えら》そうな口利《くちき》いていいと思ってんの? こっちゃオメーの本に貴重《きちょう》な時間を費やしてやってんだぞ? ええ? 読者のご意見は黙《だま》って謹聴《きんちょう》するのが筋《すじ》ってもんだろうが?」
「ばぁぁぁ〜〜〜〜っかじゃぁあ〜〜〜〜〜〜〜ん?」
妹からこんなにも心のこもったお言葉をいただいたことは、これまでなかったよ。
性格|悪《わる》いのはあくまでこいつ個人の問題であって、作家|全員《ぜんいん》がこんなんじゃないんだと信じたいところである。
とんでもなく強烈《きょうれつ》な『ばぁっかじゃーん?』を俺にぶちかましてくれた桐乃は、ふと何かに気がついたようで、紙束《かみたば》の一番|上《うえ》に来ているページをマジマジと見つめ始めた。
「……ていうかこの書評《しょひょう》サイトのURL、あんたのSNSプロフィールページで見た覚えあんだけど……」
[#2段階大きい文字]「私のサイトよ」[#「「私のサイトよ」」は太字]
「……んな……!?」
驚愕《きょうがく》と怒りのあまり、( ゚Д゚)[#「( ゚Д゚)」は横書き]←みたいな表情で固まっている桐乃。引きつったように顔面の筋肉《きんにく》をひくひくさせて、
「こ、コっここ……こ、」
「鶏《にわとり》の真似《まね》がよくお似合《にあ》いね?」
「殺す! ぶ、ブッ殺すっ! あ、アンタ、あああアンタ……!」
「き――きりりん氏《し》! 落ち着いてくだされ! その重そうな灰皿を装備《そうび》してどうするおつもりか!?」
止めようと走りかけた俺《おれ》よりも先に、沙織《さおり》が桐乃《きりの》を羽交《はが》い締《じ》めにした。
ところが拘束《こうそく》された桐乃を見た黒猫《くろねこ》が、火に油をどばどば注《そそ》ぎ始める。
「――ハ、さすがケータイ小説の作家先生、語彙《ごい》が貧弱《ひんじゃく》ね」
「キョェェェェェェェェッ!? お――覚えてなさいよアンタ! いい!? アンタのその糞《くそ》ブログ、そのうち絶対|炎上《えんじょう》させてやるかんね!」
「……っふ、面白《おもしろ》いじゃない。クックック……楽しみにしているわ。テキストサイト全盛期《ぜんせいき》を直視《ちょくし》し続けてきた我《わ》が力、その身をもって思い知らせてあげましょう……」
「あーあー相変《あいか》わらず邪気眼《じゃきがん》くさいねー! そんなんだからブログの米欄《コメらん》までキモい書き込みで埋《う》まんのよ! つーか、今日《きょう》もまたおんなじよーなゴスロリ着ちゃってさあ、あんたは Digital Cute のエロゲキャラかっつーの!」
「な……なんですって? ま、またしても、い、いい言ってはならないことを言ってしまったようね……このマル顔モデルが。いい機会だから言わせてもらうけれど、中学生の分際《ぶんざい》で化粧《けしょう》がケバいのよあなた。あまりそばに寄らないで頂戴《ちょうだい》、ビッチくさい香水臭《こうすいしゅう》がわたしの服に移っちゃうじゃない」
「うっさい! たまには違う服《ふく》着ろっつってんのよ!」
それから十分近く、二人はえんえんと程度の低い罵《ののし》り合いを繰り広げた。
とりあえず沙織《さおり》に話を聞いてみると、どうやら喧嘩《けんか》の発端《ほったん》は、『まず何をして遊ぶか』という件で意見が衝突《しょうとつ》したところから始まったらしい。
小学校低学年の喧嘩の原因じゃねえか。中二と中三のする会話じゃねえだろまったく。
俺《おれ》は聞いているだけで疲労してきたのだが、何故《なぜ》か沙織は妙《みょう》に嬉《うれ》しそうだ。きっとこいつは、しばらくぶりにこのメンバーで集まれたことを、素直に喜んでくれているのだろう。
でもって喜びってのは伝染《でんせん》する。俺は分かっていながら聞いてみた。
「……なあ、なに笑ってんだ?」
「いえ、初めて皆さんにお会いしたときのことを思い出しておりまして……あれからもう、半年以上|経《た》つのですなあ……いやはや、時が過ぎるのは早いものです」
「まあな」
確かに早い。早いし、この半年ちょっとで俺もずいぶん変わったと思う。よくも悪くも。
妹の落としたDVDケースを拾わなければ――いま、ここでこいつらと一緒《いっしょ》にいることはなかったんだろうな……なんて、そんなことも思う。いまや俺にとって、黒猫《くろねこ》や沙織は『妹の友達』なんかじゃない……俺|自身《じしん》の友達で……大切な存在だ。会った回数はそんなに多くないんだが、こういうのは回数じゃねえ。違うかな。ハハ、ガラじゃねえか、んな台詞《せりふ》は。
――と、人がしんみりとした気分に浸《ひた》っていたところで、黒猫と口《くち》喧嘩をしていたはずの桐乃《きりの》が口を挟んできた。
「なに? なんの話?」
「きりりん氏《し》。はっは、いやなに、まず何をして遊ぶか――せっかくだから『初めてお会いしたときと同じやり方』で決めませんか、という話をしていたのですよ」
「どういうこと?」
沙織の切り出した話題に、黒猫が問い返す。俺にはすぐにピンときたね。
「アレだろ――なんか、順番に――言ってくやつだろ」
「さすが京介氏《きょうすけし》、話が早い。あのときは自己|紹介《しょうかい》をする人に順番で質問をしていく――そういうゲームでしたな」
ゲームだったのか、あれ。
桐乃が得心《とくしん》したように頷《うなず》いた。
「ああ、アレね」
「……懐《なつ》かしいわね。ククク、初めて会ったときのあなたったら、借りてきた子猫《こねこ》のように縮こまっちゃって……」
「なっ……」
黒猫《くろねこ》に当時のことを指摘《してき》されて、真《ま》っ赤《か》になる桐乃《きりの》。
「あ、あんただって似たようなもんだったでしょ!」
「まあまあ……ハハハ、懐《なつ》かしいですな。そのあとお二人が、アニメの話で意気《いき》投合《とうごう》して……」
「――莫迦《ばか》言わないで。誰《だれ》がこんな女と……」「意気投合なんてしてないっての!」
声をそろえて否定する二人。そうそう、そうだったな。メルルとマスケラの話で意見が衝突《しょうとつ》して、あんときも喧嘩《けんか》になったんだ。最初っからそんな感じだったんだよなこいつら。そういう意味じゃ、ぜんぜん変わってねえ。思い出すと笑えてくる。
……っと、なんだ、こりゃ? もしかしてコレ、いわゆる思い出|話《ばなし》ってやつか? おお、だとしたらすげえ話だ。まさか俺《おれ》と妹の間に、いまさら思い出なんてもんができるとは。
へっ、別に嬉《うれ》しかないけどな。
至近《しきん》距離で睨《にら》み合っていた桐乃と黒猫を、沙織《さおり》がずずいと引き離した。喧嘩の矛先《ほこさき》を違う方向に向けさせるべく、一気阿成《いっきかせい》にまくしたてる。
「つまり今回は『お題《だい》』に対して一番|面白《おもしろ》いことを言った人が、『何をして遊ぶか決める』ということでござる。ではさっそく今回のお題は、『最近あった思いがけない出来事《できごと》』でいきましょうぞ。前回と同じ順番で――黒猫|氏《し》からどうぞ!」
「……相変《あいか》わらず勝手《かって》に仕切ってくれるわね」
初めて会ったあのときと、同じ台詞《せりふ》を口にする黒猫。しかしこいつも、こう言いながらまんざらでもないのだろう。さらに続いた台詞もまた、あのときと同じものだった。
「まあいいわ。……ふん、『最近あった思いがけない出来事』だったわね……それなら……」
黒猫は無《む》表情で思案《しあん》していたが、やがて桐乃を見つめながら、淡々《たんたん》とした口調《くちょう》で呟《つぶや》いた。
「あなたのお兄《にい》さんに『大好き』って告白されたわ」
「ゲフンゲフンゲフンゲフン……!」
盛大《せいだい》にむせた。――黒猫! て、テメエ!? んなななななななに言い出して……!?
確かにそう言ったけど、あんときのアレは[#「あんときのアレは」に傍点]……! その……!
クソッ! むせかえるあまり、言《い》い訳《わけ》がきちんと台詞にできやしねえ!
とかやってる間に、沙織が身を乗り出してきて、でかい声を張り上げた。
「ほほうほうほうほうほうほうほう――それはいったいどういうアレなのですかなっ! ぜひとも詳細《しょうさい》をうかがいたいですぞ!」
「……悪いけれど、それは教えられないわね。二人だけの秘密《ひみつ》だから。――ねえ、兄さん?」
「すでに『兄さん』と呼ばせている!? エロゲ脳《のう》にもほどがありますぞ京介氏《きょうすけし》!」
「違《ちげ》えええええええええ――ッつの! 沙織てめえ! 分かってからかってやがるな!」
「むろんでござる」
この野郎《やろう》〜ッ! てめえら二人とも覚えてろよ!? 俺は悔《くや》しさのあまり拳《こぶし》を震わせた。
トドメとばかりに、ただひとりこの冗談《じょうだん》に乗って来なかった桐乃《きりの》が、軽蔑《けいべつ》のまなざしでこちらを見ていた。
「…………キモ」
超不機嫌《ちょうふきげん》だった。おそらく俺《おれ》と黒猫《くろねこ》が仲良くしているのが、気にくわなかったんだろう。
ホラ、俺に『友達を取られる』とでも思っちゃったんだろうな。それが分かってりゃ、微笑《ほほえ》ましくも思えるさ。ともあれ黒猫の回答は、桐乃にゃ不評《ふひょう》だったらしい。優勝《ゆうしょう》が遠のいたな。
沙織《さおり》は「ではお次はきりりん氏《し》の番で――」と振ったのだが、ご機嫌|斜《なな》めになってしまった桐乃は「まだ考え中……」と言ってそっぽを向いてしまう。仕方なく沙織は、重苦《おもくる》しい雰囲気《ふんいき》を吹っ飛ばすような明るい声を出した。
「では、拙者《せっしゃ》のターンということで! ええと、そうですなあ……『最近あった思いがけない出来事《できごと》』……うーん、何かありましたかなあ」
自分で決めた『お題《だい》』なのに考えてなかったのかよ。まあこいつらしいけど。
やがて沙織は、ポンと手を叩《たた》き、すげえ発言をぶちかました。
「この格好《かっこう》でお見合いに出席したら、相手が卒倒《そっとう》したでござるの巻」
なんてかわいそうなことをするんだ! もうどこから突っ込んでいいのか分からんくらい突っ込みどころ満載《まんさい》だが、そもそもそれはおまえにとっての『最近あった思いがけない出来事』じゃねえだろ。お見合い相手にとっての『最近あったトラウマになる出来事』ですよね。
「「「失格」」」
声がハモった。沙織|以外《いがい》の全員が、同じ結論《けつろん》を導き出したのだった。
「うーん、我《われ》ながら自信があったのですが……まあ仕方ありませんな。では改めて、きりりん氏のターンですぞ? もう思いつかれましたかなっ?」
「んー、そーね。あんまりたいしたことじゃないけど、思いついたっちゃ思いついたかな。……『最近あった思いがけない出来事』でしょ? それなら……」
そして桐乃は、自分でも自信なさげに言葉をさまよわせ――
「妹ものだと思って『鬼畜《きちく》兄貴《あにき》』っていうゲーム買ったら、ホモゲーだったことかな」
はいはい、優勝優勝。
なんてひどい会話なんだ……。もうこいつらと『お題』ゲームなんて、二度とやらねえ。
とまぁずーっとそんな感じで、久方ぶりのオタク集会は終わった。数ヶ月くらいのブランクじゃ、あいつらの関係はさっぱり変わらない。それがすこし嬉《うれ》しかったよ。
桐乃と一緒《いっしょ》に玄関《げんかん》で友達を見送った俺は、家に入るやすぐに自分の部屋《へや》へと戻り、勉強をしていた。……いや、なんつーか、その。俺も頑張《がんば》らなくっちゃなー、なんて、思ってさ。
そのまましばらく勉強を続けて……
「……ふう。ノドかわいたな」
慣れないことをすると疲れてしょうがない。顔でも洗って、水飲んで、もうひとがんばりするか。そう考えた俺《おれ》は一旦部屋《いったんへや》を出て、階段を下りていく。
と――
「っと」
階段を下りてすぐ、玄関《げんかん》付近で、私服《しふく》の妹とぶつかった。実はこの位置、お互《たが》いにとって死角《しかく》になるので、接触《せっしょく》事故が多発《たはつ》するポイントなのだ。
どん。俺の左肩《ひだりかた》が桐乃《きりの》の胸にぶつかるような形で、軽く衝突《しょうとつ》。衝撃《しょうげき》自体はたいしたことがなかったのだが、その拍子《ひょうし》に妹のバッグが手から離れ、床《ゆか》に中身《なかみ》をぶちまけた。
「あっ……」
「お、悪《わり》い」
俺は素直に詫《わ》びて、床に散らばった化粧品等《けしょうひんなど》の諸々《もろもろ》に手を伸ばそうとしたのだが……そこでびくっと身体《からだ》を硬直《こうちょく》させてしまった。……な、なんかこの展開、前にもあったような……。
「いーから、さわんないで」
妹は、いつかと同じ台詞《せりふ》を吐《は》いた。直前で手を出すの躊躇《ちゅうちょ》したので、以前のように平手《ひらて》で払われることはなかったが――。
……ちっ。ほらな、俺たちの関係なんざ、結局《けっきょく》こんなもんなんだよ。
ちくりと胸に針《はり》を刺《さ》されたような気分で、妹が化粧品|類《るい》を拾い集める様子《ようす》を眺《なが》める。
化粧品をバッグに詰《つ》め直した桐乃は、じろりと兄をねめつけてからパンプスを履《は》き、
「……あのさー」
「人生《じんせい》相談、次で最後だから」
あっさりと告げて、バタンと強く扉《とびら》を閉めた。
……いま、なんつった、あいつ?
俺はしばらく玄関に立ちつくし、妹の出て行った扉を見つめていた。
[#改ページ]
あとがき *本書の内容に触れておりますので本編|未読《みどく》の方はご注意ください。
伏見《ふしみ》つかさです。本書を手にとっていただいて、ありがとうございました。
このあとがきが人目《ひとめ》に触れているということは、無事に三巻が発売されたということですね。
今回は二巻以上に改稿《かいこう》改稿の連続で、まともに入稿《にゅうこう》することさえできず、入稿したあとにも色々悶着《いろいろもんちゃく》があったりと、いままさに肝《きも》を冷やしているところです。企画《きかく》進行に携《たずさ》わった関係者の皆様には、この場を借りてお詫《わ》び申し上げます。ご迷惑《めいわく》をおかけしました。
さて、シリーズ三巻目となります本書はいかがでしたでしょうか?
少しでも面白《おもしろ》いと思っていただけたなら、ほっと安心いたします。
本書を書くにあたって様々《さまざま》な方にお世話《せわ》になりました。まずはケータイ小説の取材《しゅざい》に協力してくださった皆様、たいへん参考になりました。フィクションであるとはいえ、お世話になっておきながら、作中の登場|人物《じんぶつ》にケータイ小説を貶《けな》すような台詞《せりふ》を言わせてしまい申《もう》し訳《わけ》ありませんでした。
イラストレーターのかんざきひろさん。今回も素晴《すば》らしい挿絵《さしえ》をありがとうございました。
担当編集《たんとうへんしゅう》の三木《みき》さん、小原《こばら》さん。お二人《ふたり》には、今回も強大なご支援を賜《たまわ》りまして、特に編集部のシーンについての諸々《もろもろ》でお力|添《ぞ》えをいただきました。このあたりはお二人と何度も意見が衝突《しょうとつ》したり、諸《しょ》事情から修止を余儀《よぎ》なくされたり、各《かく》方面への配慮《はいりょ》を加えることになったりと、改稿における焦点《しょうてん》となったのですが、お二人はお忙《いそが》しい中、度重《たびかさ》なる改稿に最後までお付き合いくださいました。本当に感謝しています。おかげさまで私も途中《とちゅう》で投げ出すことなく、最善《さいぜん》を尽くすことができました。一巻、二巻のあとがきでも『本書は私一人の力で書き上げたものではなく、イラストレーターさんを含めた四人で作り上げた作品です』と書きましたが、その点では今回もまったく変わりありません。
本編|後半《こうはん》で編集者のキャラクターが登場しましたが、彼の台詞の一部は、本職《ほんしょく》である三木さんが考えてくださいました。諸事情ありまして幾《いく》つかのファクターについては言及《げんきゅう》を避けていますし、フィクション要素を加えもしましたが、それはそれで、中学生の作家|志望者《しぼうしゃ》への台詞としてはリアルではないかと思います。
最後に次巻《じかん》の話を。四巻では、本シリーズのターニングポイントとなるエピソードが展開されます。既刊《きかん》よりもシリアスパートをぐっと減らし、代わりにコメディに注力した短編集《たんぺんしゅう》のような形になるはず。コスプレ会場を舞台にした加奈子《かなこ》とあやせの話、麻奈実《まなみ》が久《ひさ》しぶりに高坂家《こうさかけ》を訪《おとず》れる話――等々《などなど》。これはあくまで予定なので変わるかもしれませんが、これまでに勉強してきた成果を発揮《はっき》して、皆さんを笑わせてみようと思います。
ご期待ください。
[#地付き]二〇〇九年二月 伏見つかさ