俺の妹がこんなに可愛いわけがない 2
伏見つかさ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)高坂《こうさか》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一番|華《はな》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)犯人[#「犯人」に傍点]
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底本データ
一頁17行 一行42文字 段組1段
[#改ページ]
俺《おれ》の妹《いもうと》がこんなに可愛《かわい》いわけがない 2
冷戦関係にあった妹・桐乃《きりの》からとんでもない秘密をカミングアウトされ、ガラにもなく相談に乗ってやる。――という思い出したくもない出来事からしばらく経つが、俺たち兄弟の冷えた関係は変りゃしなかった。ところが人生相談≠ヘまだ続くらしく、「エロゲー速攻クリアしろ」だの「不快にさせた責任をとりなさい」(どうしろと?)だの見下し態度全開で言ってくるからマジで勘弁して欲しい。誰だこんな女を「可愛い」なんて言う奴は? でまあ今回俺に下った指令は「夏の想い出」作り(?)。どうも都内某所で開催される、なんたらとかいう祭りに連れてけってことらしいんだが……。
[#改ページ]
伏見《ふしみ》つかさ
感想のおたより、すべて嬉しく読ませてもらっています。面白かったの一言にどれだけ救われているか分かりません。世辞も誇張もなく、真の意味で、作家を続けていられるのは皆様のおかげです。より良い作品をお届けできるよう、奢らず弛まず精進いたします。
【電撃文庫作品】
十三番目のアリス
十三番目のアリス 2
十三番目のアリス 3
十三番目のアリス 4
俺の妹がこんなに可愛いわけがない
俺の妹がこんなに可愛いわけがない 2
イラスト:かんざきひろ
イラストレーター兼アニメーター。1978年生まれ。本業の傍ら、海外でレコードをリリースするなど音楽活動もこなす何でも屋状態の変な緑色の生物。
HP http://nekomimi.tabgraphics.under.jp/
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c o n t e n t s
第一章 p11
第二章 p91
第三章 p179
第四章 p263
[#改ページ]
季節は夏。期末テストを間近《まぢか》に控えた、とある七月の土曜日。
その日の俺は、我《わ》が家《や》で唯一《ゆいいつ》クーラーのない部屋(すなわち俺《おれ》の部屋のことだ)に朝から引きこもり、必死の――というより苦悶《くもん》に近い形相《ぎょうそう》で机に向かっていた。
「く……ぐぬ……」
高校二年生らしく、テスト勉強のため……ではもちろんなく。
「ぐぬ……ぬ……」
新作エロゲータイトル『真妹大殲《しんいもうとたいせん》シスカリプス』を攻略《こうりゃく》していたのだ。
「……くっ!」
カチャカチャカチャッ!
ノートパソコンにUSB接続されたコントローラーを、激しく操作する俺。
ディスプレイでは奇抜《きばつ》な衣装に身を包んだ女の子が二人、盛大《せいだい》に跳ね回りながら戦いを繰り広げている。蹴《け》りや拳《こぶし》を放ったり、杖《つえ》や銃器《じゅうき》を振り回したり、ときには煌《きら》びやかな発光《はっこう》とともにゲージを消費し、画面《がめん》全体に触手《しょくしゅ》攻撃を見舞《みま》ったり、時間を止めたり、数万人の妹を召喚《しょうかん》したり――とまぁそんな具合《ぐあい》だ。
『真妹大殲シスカリプス』――ファンの間ではすでに『シスカリ』という略称《りゃくしょう》が定着している――は、いままで俺がプレイしてきた|ADV《アドベンチャーゲーム》とは趣《おもむき》を異にしている。
テキストを読み進め、選択|肢《し》を選び、妹《ヒロイン》とのイベントを積み重ねて攻略していく――そういった要素もあるにはあるのだが、『シスカリ』のメインは、なんといっても育成パートとバトルパート。スタート時に選択した妹キャラを育成《カスタム》し、パラメータを上げ、必殺技《ひっさつわざ》を習得《しゅうとく》し、ゲーム途中《とちゅう》に挿入《そうにゅう》される女の子同士の3Dバトルに勝利していくというのが、この『シスカリ』のゲームシステムだ。ちなみにネットに繋《つな》げばオンライン対戦《たいせん》もできる。
すでに数万人が参加し、シスカリのサーバーは大盛況《だいせいきょう》なのだそうだ。世も末《すえ》だな。
と――
「あっ!」
俺が操作していた電撃《でんげき》使いの妹が、敵の妹が放った触手攻撃をまともに喰らい、画面|端《はし》まで吹き飛ばされた。体力ゲージがあっという間にゼロになり、服が破れて弾《はじ》け飛ぶ。
ばしーん! うあー、うあー、うあー、うあー……(←エコー)
ゲームオーバー。服が破れた自キャラが、敵の黒マント女に見下ろされている。
[#ここから太字]
『いえにかえるんだな。おまえにも、おにぃちゃんがいるのだろう』
[#ここまで太字]
「チクショ〜ッ、またコイツに負けたよっ! いくらなんでも強すぎだろ? 勝てるかこんなもん!」
妙《みょう》にムカつく勝利|台詞《ぜりふ》をフルボイスで聞かされた俺は、コントローラーを放り出し、机をバンバン叩《たた》いて悔《くや》しがった。そして、
「はっ」
はたと正気に立ち返る。催眠術《さいみんじゅつ》から解《と》き放たれたような気分で頭を抱える。
――お、俺《おれ》はいったい、何をやっとるんだ……
休日の朝っぱらから、部屋に閉じこもって妹もののエロゲーに熱中《ねつちゅう》している十七|歳《さい》。
それが俺・高坂京介《こうさかきょうすけ》の現在の姿《すがた》であった。いや、いやいや。違うんだって。これは違うの。
俺はごく普通の男子高校生なのであって、別にオタクとかじゃないんだからな。
妹がいるのに、こんなふうに妹もののエロゲーばっかやってるのには、ふかーいわけがあるんだよ。なにを隠《かく》そう、これは俺の持ち物じゃなくて……妹のもんなんだ。
妹に、むりやり『やれ』と脅《おど》されて、仕方なくエロゲーをプレイしているんだよ、俺は。
……ウソじゃないぞ。とうてい信じられないような話だが、俺の妹は、妹もののエロゲーを愛し、子供向けアニメを好んで視聴《しちょう》する、とんでもない女なのだ。
そう――。あの運命の日。
あいつがひた隠していた秘密《ひみつ》の趣味《しゅみ》を、俺は、偶然《ぐうぜん》垣間《かいま》見た。
そしてそれがきっかけとなって、ずっと長いこと冷めた関係を保ってきた妹から、人生《じんせい》相談を受けることになったんだ。
ビックリ仰天《ぎょうてん》の趣味を見せられたり、さんざん罵倒《ばとう》されたり、むりやりエロゲーやらされたり、オフ会に連れて行かれたり、アキバを引き摺《ず》り回されたり――
空回《からまわ》りばっかだったけどな。ともかくそうやって、お互いほとんど口も利かない関係だった俺たちは、たった数《すう》週間で、数十年|分《ぶん》以上の会話をした。
それまで知ろうともしなかった妹のことや、偏見《へんけん》を持っていたオタクたちについて、ほんのちょっぴりくれーは、分かった気もする。
まぁ、そんでもって俺は、一段落《ひとだんらく》ついたと思ったんだ。
妹にゃ本音《ほんね》で喋《しゃべ》れるオタク友達ができたし、親バレっつー最大のピンチも乗り切った。
親父《おやじ》もお袋《ふくろ》も、あれからこの件についてはいっさい触《ふ》れてこず、表層《ひょうそう》だけを見れば桐乃《きりの》の趣味《しゅみ》がバレる以前の状態に戻っている。あのとき親父は、俺に『もう勝手《かって》にしろ』と怒鳴《どな》った。
仮にあれが勢《いきお》いで口にしてしまったものだとしても、親父は一度|口《くち》にしたことは守る人だ。
いまさらごちゃごちゃ蒸《む》し返してくるようなことは、まずないだろう。
それが六月ごろの話だから、もうあれから一ヶ月ほどが経《た》っている。
つまりはそういうこと。
妹の趣味をおびやかすようなものは、もうこの家にはないってわけさ。
思いのほか長く続いた、高坂京介の人生相談室も、今度こそ店じまい。
ようやく面倒《めんどう》くせえ諸々《もろもろ》から解放されて、妹とは再びドライな関係に戻って、いままでどおり、のんびりまったり安穏《あんのん》とした生活を送っていける。と――
そう、思ったんだけどなあ。
「はぁ……」
なぜか俺《おれ》は、あれからも、何度か妹に呼び止められ『人生《じんせい》相談』という名目《めいもく》で無理|難題《なんだい》を押しつけられるという日々を送っていた。
つい先日も、この『シスカリ』を強引《ごういん》に押しつけられ『いいから、速攻《そっこう》でクリアして。絶対だかんね』みたいなことを言われたのだ。意味が分からない。
それで諾々《だくだく》と従っちまう俺も、情《なさ》けないっちゃ情けないんだが……
「っあ――やめだやめだ! やってられっか!」
もうダメだ。限界《げんかい》だ。妹を持つ身でありながら妹もののエロゲーをプレイするという重圧《じゅうあつ》がどれほどのもんなのか、想像《そうぞう》できるか? 実際に妹がいる兄貴《あにき》諸君《しょくん》ならば、分かってくれるかもしれないが――なんかも〜段々《だんだん》とやるせない気持ちになってくるんだよ。
俺は席を立つや、乱暴《らんぼう》な足取りでベッドにダイブ。
ぼふん。無《む》気力に部屋を見回す。机、本棚《ほんだな》、クローゼット――必要にして十分なだけの家具が揃《そろ》った六|畳間《じょうま》。壁に貼《は》られた和風《わふう》のカレンダーは、七月を示している。
我ながら無《む》個性な部屋《へや》だと思うが、それでいい凡庸《ぼんよう》万歳《ばんざい》。ビバ、普通の人生だ。
それが俺の性《しょう》にあった、ゆるーい生き方なのさ。
とまぁそんなわけで、ガラでもねえ行動は中断《ちゅうだん》しよう。
「……さーて、茶でも飲むかな」
俺はエキサイトして渇《かわ》いてしまった喉《のど》をうるおすべく部屋を出た。
我《わ》が家《や》は二階建ての一軒家《いっけんや》で、俺と妹の部屋は二階にある。階段を下りていくと、右手に玄関《げんかん》が見えてくる。左手にはリビングへの扉《とびら》。
リビングに入ると、件《くだん》の妹が電話をしているところだった。
いつもの定《てい》位置・ソファに深く腰掛《こしか》け、超短《ちょうみじか》い短パンで足を組んでいる。太ももを見せつけるようにしたラフな服装だが、別に妹の色っぽい姿を見たって、どうってことはない。
いくら見てくれが良かろうと、妹はそういう対象《たいしょう》にはなりゃしねえのである。
でまぁ、そんな大胆《だいたん》な格好《かっこう》で電話していやがる妹は、携帯《けいたい》に向かって、何やら楽しそうにけらけら笑いを振りまいていた。どうやら学校の友達と電話をしているらしい。
「あははっ。そうなんだぁ〜? うん、うん……」
相《あい》っ変《か》わらず、すげえ猫かぶりだな……。
(妹には表《おもて》の顔と裏《うら》の顔があって、相手によって使い分けているのだが、表情や喋《しゃべ》り方で『どちらの友達』と話しているのか、最近なんとなく分かるようになってきた)
ライトブラウンに染《そ》めた髪《かみ》の毛、両|耳《みみ》にはピアス、長くのばした爪《つめ》には艶《つや》やかにマニキュアを塗っている。すっぴんでも十分|目《め》を惹《ひ》くだろう端正《たんせい》な顔を、入念《にゅうねん》なメイクでさらに磨《みが》き上げている。中学生には見えないくらい大人《おとな》びた雰囲気《ふんいき》。
背がすらっと高く、しかし出るところはきっちり出ている――。
このめちゃくちゃ垢抜《あかぬ》けた女が、俺の妹・高坂《こうさか》桐乃《きりの》。
現在一四|歳《さい》。近所の中学校に通っている女子中学生だ。ティーン誌とやらでモデル活動をやっていたり、陸上部のエースだったり、学力テストで県《けん》五位だったりするミュータントみたいなヤツである凡人《ぼんじん》の兄貴《あにき》としては、|忌々《いまいま》しいことこの上ない。
「分かった。じゃ、待ってるから〜※[#中白ハートマーク]」
そんなスーパー妹の猫《ねこ》なで声を聞きながら、俺《おれ》はソファのわきをとおり、冷蔵庫《れいぞうこ》からキンキンに冷えた麦茶《むぎちゃ》を取り出す。グラスに注《つ》いで飲み干《ほ》すと、
「ふぅ……」
涼《すず》やかなのど越しがたまらない。やっぱ夏はこれに限るなあ。
さて用は済《す》んだ。こんな場所からは、さっさと退散《たいさん》するとしよう。
俺は熟達《じゅくたつ》の泥棒《どろぼう》のごとき足捌《あしさば》きで、リビングの隅《すみ》っこをコソコソ歩いていく。
が、そんな努力もむなしく、ドアノブを掴《つか》んだ瞬間《しゅんかん》に声をかけられた。
「ねぇ」
めちゃくちゃ冷淡《れいたん》な声で一言。
「……あんだよ?」
俺は振り返りもせずに、嫌《いや》そうな返事をする。
ほらな? 俺たちの関係は、ろくなもんじゃねーのさ。
桐乃《きりの》は嫌悪感《けんおかん》丸出《まるだ》しの口調《くちょう》で、気怠《けだる》げに呟《つぶや》く。
「やった?」
「……は? ……何が?」
「だからー、やったかっつってんの。この前貸《まえか》してあげたやつ……全部|言《い》わなきゃ分かんないワケ? どうしてそんなに低脳《ていのう》なの?」
なぁおい信じられるか? これが妹の、兄貴への言《い》い草《ぐさ》んだぜ? それは明らかに貴族《きぞく》が下男《げなん》に接するときの態度だろ。俺は首だけで振り返り、苛立《いらだ》たしげに吐《は》き捨てる。
「あーやったやった。ちょーどいまやってたところだよ」
「え? なに……? 休日の朝から、部屋《へや》に閉じこもってエロゲーをやってたわけ?」
「おまえがやれっつったんだろうが!? 蔑《さげす》んだような目で見てんじゃねえよ! そこは褒《ほ》めるところだろ!」
「あんたエロゲーマーの鑑《かがみ》ね」
「嬉《うれ》しくねえ――!?」
分かっておちょくってんだな? そうなんだなこの野郎《やろう》!
くぁ――っ! こ、この、この女だきゃあ……ほんっっとかわいくねえ!
この間、ちらっと見せたあの笑顔《えがお》は、やっぱり俺の見間違《みまちが》いだったのかもな!
俺の妹が、あんなに|可愛《かわい》いわけがねえし。
クラッ。い、いかん、ムカついて|目眩《めまい》してきた……。
ふらふらしている俺《おれ》に向かって、桐乃《きりの》はテーブルに頬杖《ほおづえ》をついた体勢で言った。
「で? もうキャンペーンモード、一回くらいはクリアしたの?」
「いや……まだ……だけど……」
俺がそう答えると、桐乃は失望《しつぼう》のまなざしで舌《した》を打った。
「はぁっ? 速攻《そっこう》でクリアしろっつったでしょ!?」
「敵《てき》が強くて勝てない……じゃなくて! そもそも! この前も聞いたけど、どうして俺がんなことしてやらなくちゃなんねーんだよ! しかもテスト前だぞいま!?」
「テスト前にオタオタすんのは、普段《ふだん》からやることやってないマヌケの証拠《しょうこ》」
「くっ………」
たまに正論《せいろん》を吐《は》いてきやがって……。やりにくいヤツだな。
「いやっ、そうかもしんねえけど!」
でも、だからといって、じゃあテスト前にエロゲーやるのが正しい生《い》き様《ざま》かっていうと、そんなこともないと思うんだ。
だからどうして俺がんなことしなくちゃなんねーのか、説明しろ説明。
というようなことを桐乃に向かって言ってみたところ、
「理由? この前も言わなかったっけ?」
堂々《どうどう》と胸を張って、こんな答えが返ってきた。
「人生《じんせい》相談よ」
わけが分からない。人生相談ってのは、悩《なや》みを聞いて、解決の手助けをしてやることだろ? どうして妹の悩みを解決すんのに、エロゲーを攻略《こうりゃく》する必要があるってんだ。
桐乃はこう言った。
「このゲームの醍醐味《だいごみ》は、キャンペーンモードのクリアデータを使って、自分の育成《いくせい》した妹キャラで対人戦《たいじんせん》ができるところなの。アンタがさっさとクリアしてくんないと、対戦《たいせん》できないでしょ? そのくらい察せないわけ?」
「他《ほか》のやつとしろよ!」
オンライン対戦……だっけ? そういうモードがあったはずだろ? よく知らんけど。
理不尽《りふじん》な要求を当たり前みたいに言ってんじゃねぇよ。つーと俺は何か? こいつの対戦|相手《あいて》になってやるために、あの苦行《くぎょう》をしていたわけ? ふざけんな。
「だってオンラインだと勝てないんだもん。……あたしはこういう格《かく》ゲーは苦手《にがて》なの」
「俺だって超《ちょう》苦手だよ! そもそも親がゲーム機|買《か》ってくれねーから、ゲーム自体ほとんどやったことねえし!」
「知ってる。だからアンタに貸してあげたんでしょ。感謝《かんしゃ》しなさいよね」
ようやく分かってきた。そうかおまえ、自分が勝てる程度《ていど》の対戦相手が欲しかったんだな? 対戦はしたい。でも負けるのはヤダ。ハンデつけたり、手抜《てぬ》きされたりするのもヤダ。
あくまで本気《ほんき》の相手と対戦《たいせん》して、勝ちたいという……。
くぅ〜っ、どんだけわがままなんだよこの女……。
「と、とにかく、俺《おれ》はテスト勉強しなくちゃなんねーから、あんまりゲームに時間|割《さ》いてらんねーんだよ」
「ふーん、バカなんだ?」
にやぁ……と嗤《わら》う桐乃《きりの》。
兄をムカつかせる才能《さいのう》なんてもんがあるとしたら、こいつは天才だな。
「時間ないなら、さっさとクリアしちゃえばいいだけじゃん。どうしてもっていうなら、あたしが教えてあげてもいいケドぉ〜……でも今日はあいにく忙《いそが》しいからダメ」
こいつは人の話を聞いているのか? やりたくねーんだってばよ。
眉間《みけん》に縦《たて》ジワを刻《きざ》んだ俺に向かって、桐乃はこう言った。
「……ったく。攻略《こうりゃく》サイトでも見れば? せっかくアンタの部屋からでもネットに繋《つな》げるようにしてあげたんだからさ」
「……攻略サイト?」
「そ。『シスカリ@wiki』ってサイトが大分《だいぶ》詳しいかな。あたしもそこ見てクリアしたし」
「あっとうぃきってなんだ?」
「は? 健忘症《けんぼうしょう》? 教えてあげたでしょ?」
「う…………あ、ああ……あれな」
そうそう。そうだった……。えーっと wiki ってのは、もの凄《すご》く大雑把《おおざっぱ》に説明すると、ユーザー自らが情報を追加《ついか》/変更《へんこう》していくことができるホームページのことである。
つまり『シスカリ@wiki』ってのはたぶん、シスカリについての情報がみんなから集められたサイトのことなんだろうな。
桐乃からアドバイスを受けた俺は、それならもうちょっとだけやってみてもいいか、という気分になっていた。妹ゲーなんざやりたくないってのはもちろん超本音《ちょうほんね》ではあるが、中途《ちゅうと》半端《はんぱ》なところでやめるのも気分が悪い。それに格《かく》ゲー部分だけに限定してみりゃあ、あのゲームも、わりと……その……面白《おもしろ》いしな。
「攻略サイト見ながら、明日《あした》一日やり込んでクリアしときなさいよ。分かった?」
「………」
なんでそんなに偉そうなんだよ。
「耳|遠《とお》いの? 分かったって聞いたんだけど?」
「あーはいはいはいはい……やりゃあいいんだろ、やりゃあ。明日な。やるだけやってやるよ」
ったく、しょうがねえな。俺がしかめっツラでため息をつくと、桐乃は、
「あーそうそう、それで思い出したけどさ」
「あん? まだ何かあんのか?」
「明日《あした》、家にあたしの友達くるから。ぜったい部屋《へや》から出てこないでよね」
すげえこと言いやがった。
まあでも……そのくらいなら許容《きょよう》範囲《はんい》だな。妹の友達が家に来たときの兄貴《あにき》の扱《あつか》いなんざ、どこもこんなもんだろうし。その日は妹|様《さま》の言うとおり、部屋にこもって一日――……
んっ? 待てよ? 待て待て待て待て……。
「お、おまえ……この兄に、女子中学生が家に遊びにきてる中、部屋でエロゲーやってろと?」
「うん」
「どんな拷問《ごうもん》だよそれは!? もし見付かったら恥《は》ずかしいじゃすまねーぞ!?」
妹の友達にエロゲーやってるところ見られるとか、トラウマどころの話じゃねえだろ。
下手《へた》すりゃ本気《ほんき》で死にたくなるレベルだぞ。
「そんなことになったら、今度こそほんとに他人《たにん》のふりしなくちゃね、一生」
「おまえが恥ずかしいって話じゃねえよ!? 俺《おれ》! 見付かったら、俺が自殺モンの辱《はずかし》めを受けるっつってんの!」
断固《だんこ》拒否《きょひ》すると、桐乃《きりの》は「うーん」と少し考え込むようにして、俺を流し見た。
「ヘッドホンつけてればバレなくない?」
「おまえは何も分かっちゃいない!」
これだから女は……全国の男子中高生|諸君《しょくん》ならば同意していただけると思うが、こっそりビデオなどを視聴《しちょう》する際、ヘッドホンの着用は必ずしもリスクの低減《ていげん》には繋《つな》がらない。
確かにテレビの音を遮断《しゃだん》すれば勘《かん》づかれ難《にく》くはなるだろう。しかし、こちらの聴覚《ちょうかく》も遮断されてしまうため、親の襲来《しゅうらい》を察知《さっち》しにくくなってしまうのだ。そのため世の男たちは、イヤホンを片耳《かたみみ》だけつけるなど、さまざまな工夫《くふう》を凝《こ》らし――
まあいい。いまはそんな話をしてる場合じゃないんだ。
「俺の部屋にゃあ鍵《かぎ》がかからねーんだよ! なんかの拍子《ひょうし》に開けられたら一発アウトじゃねえか! 危険すぎるわ!」
「……そっか……確かに……まあそこは自分で考えてなんとかして」
ようやく俺の言わんとする危険性に気付いてくれたらしく、桐乃は難《むずか》しい顔で頷《うなず》く。
ほんっと、たまに天然《てんねん》っぽいこと言いやがるよなあ……こいつ。しかもあくまでエロゲーをやらせるつもりなのか。自分で考えてなんとかして、じゃねーよ。
「とにかく――友達くるからさ。家にいるんだったら、部屋で大人《おとな》しくじっとしてて」
「………」
しっしっと犬を追い払うような仕草《しぐさ》で俺を追い払う桐乃。ウチの妹は、よっぽど友達と俺を会わせたくないらしいが……どこの家でもそうなのかね?
まあいい。まあいい。イラっときたが、まあいいさ。いつものこったしな。
俺《おれ》は肩をすくめて言ってやる。
「あいよ。明日《あした》な。なるべく部屋にいるようにすりゃいいんだろ?」
「そーいうコト。くれぐれも、あたしに迷惑《めいわく》かかんないようにね。かわいい子いっぱいくるけど、話しかけたら殺す。見るのもダメ、穢《けが》れるから」
「人をバイ菌《きん》みたいに言ってんじゃねえ!? そこまで言うことねえだろが!」
大体《だいたい》だな――
「別におまえの友達になんて興味《きょうみ》ねーっての」
「ふん、どうだか」
相も変わらずのゴミを見る目。こんなのが何人もくるのかと思うと、ぞっとするよ。
桐乃《きりの》の学校での友達ってのは、いわゆる『高めの女子』ばかりが集まったグループだ。
華《はな》があって、垢抜《あかぬ》けている高嶺《たかね》の花たち。だが桐乃の心配は、的《まと》はずれにもほどがある。住んでる世界の違う連中《れんちゅう》に、わざわざ自分から近寄《ちかよ》ろうなんて思わんさ。
それが、このときの俺が抱いた、嘘偽《うそいつわ》りのない本心《ほんしん》だった。
「……ったくよ。何様《なにさま》のつもりなんだあいつは……」
そんなこんなで、俺はむかむかしながら部屋に戻った。
ついさっきまでは昼寝《ひるね》でもしようかと考えていたのだが、妹|様《さま》と喋《しゃべ》って眠気《ねむけ》がすっ飛んでしまったので、いまさらそんな気にもなれない。
机に座って、ノーパソをスタンバイから復帰《ふっき》させる。
えーっと……どこでもいいからボタン押しゃーいいんだよな?
最近桐乃からノーパソを借りっぱなしなので、少しずつ手慣《てな》れてきたような……。
「…………むう」
一瞬《いつしゅん》、自分が少しずつ何かに侵食《しんしょく》されてきているような錯覚《さっかく》に陥《おちい》ってしまったぜ。
気のせいだといいんだが。
俺はとりあえず、ブラウザを起動《きどう》してみた。(あまりパソコンには詳しくない俺であるが、ブラウザくらいは分かるさ。使い方もな。ホームページを見るソフトのことだろ?)さっき桐乃が言っていた『シスカリ@wiki』とやらを見てみようと思ったからだ。ちなみにこのノーパソでブラウザを起動するのは初めてである。
「お」
ブラウザが立ち上がるや、パッと表示《ひょうじ》されたのは見覚《みおぼ》えのあるサイトだった。この前《まえ》桐乃が登録《とうろく》したオタク系《けい》SNSサイトのトップページである。
トップページには、桐乃が参加しているコミュニティや、仲良くなった友達の一覧《いちらん》などが表示されていた。その中には先日、俺も会ったことがある沙織《さおり》≠竍黒猫《くろねこ》≠フ名前もあった。
ちなみに妹のハンドルネームは『きりりん@さっきエロゲーマーの鑑《かがみ》を見た』。
――あんの野郎《やろう》。あのあと携帯《けいたい》で更新《こうしん》しやがったな。人の尊厳《そんげん》をなんだと思っていやがる。
「……ちっ」
妹の個人ページなんぞにこれ以上いられっか。人様《ひとさま》のプライベートを覗《のぞ》き見しているようで気分が悪くなってくるからな。
俺《おれ》はページ上部にある検索《けんさく》ウインドウにマウスカーソルを合わせ、かちっとクリック。
えーと、なんだっけ? ……そうそう、シスカリ……半角《はんかく》スペース、wiki……エンターっと。
そんな感じで検索してみると、『シスカリ@wiki』のページは簡単《かんたん》に見付かった。
画面|左端《ひだりはし》にずらっとメニュータイトル(キャラクターや必殺技《ひっさつわざ》の名前など)が並んでおり、それらをクリックすると該当《がいとう》の情報が画面|右側《みぎがわ》に表示《ひょうじ》されるという、ごくシンプルなページ構成である。
「……うっお。……なんじゃこりゃ」
俺はまず、その圧倒《あっとう》的な情報|量《りょう》に舌《した》を巻いた。発売日からさほど日が経《た》ってないってのに、こんなに詳しく攻略《こうりゃく》情報が載ってるのかよ……。
ゲームシステムの詳細《しょうさい》な解説はもちろん、キャンペーンモードの攻略|法《ほう》(動画《どうが》リンク有《あり》)から解説付き全技表《ぜんわざひょう》、育成《いくせい》方針とパラメータアップの法則《ほうそく》、ダメージ計算|式《しき》、さらにはエンディングリスト&シナリオフローチャートまで網羅《もうら》している……らしい。よく分からんが。
俺は普段《ふだん》、インターネットを、携帯からたまに天気|予報《よほう》を見る程度《ていど》にしか利用しないので、攻略サイトとやらの有効性《ゆうこうせい》を見くびっていた。
発売日|当日《とうじつ》からやり込んでいる人たちが『シスカリ@wiki』のページをどんどん更新し、データベースを充実《じゅうじつ》させてきたわけだから、ある意味|当然《とうぜん》のことなのかもしれない。
だが、だからこそ、凄《すご》いと思う。
同じエロゲーが好き――たったそれだけの想《おも》いが集まって、こんなに上等《じょうとう》なデータベースを造《つく》り出しちまうんだよな……。
俺は先月の事件で触《ふ》れた『あの感覚《かんかく》』を、このサイトからも感じ取った。
「……ふん」
口の端《は》から苦笑《くしょう》めいたものが漏《も》れる。
……まったくよー、これだからオタクってやつらは……どんだけやり込むんだよ。
まあ、でも、こういうのって熱いよな。社会の役にゃあぜんぜんまったく立たないけども。
だからこそ、な。
「………うーむ」
俺はそのまま、しばらく wiki を眺《なが》めていたのだが……どこから手を付けていいか分からない。これでも分かりやすく書いてくれてるってのは、文面《ぶんめん》からスゲー伝わってくるんだけどな。
書いた人はたぶんコアなゲーマーなんだろうから、俺みたいな正真正銘《しょうしんしょうめい》の初心《しょしん》者とは感覚がズレてしまうんだろう。なもんだから悪戦苦闘《あくせんくとう》さ。シスカリの説明書と見比《みくら》べたり、wiki の文面を何度も読み返したりして……ようやく少しは内容を理解することができた。
えーっとだな。それによると、シスカリのキャンペーンモードの難易度《なんいど》は相当《そうとう》に高いらしく、俺《おれ》のような超《ちょう》初心《しょしん》者がクリアするのは難《むずか》しいらしい。
「だが、桐乃《きりの》はクリアしたんだよな」
あいつだって格《かく》ゲーは初心者なんだから、あいつにできて、俺にできんわけがない。
――何か方法があるはずだ……
かちっ。俺は wiki のメニュータイトルから『初心者|必見《ひっけん》』というリンクを見つけ出して、クリックした。画面|右側《みぎがわ》に、ずらっと初心者|用《よう》の攻略情報が表示《ひょうじ》される。
それは、こんなあおり文句《もんく》で始まっていた。
[#ここから太字]
初心者必見・キャンペーンモード攻略|指南《しなん》!
其《そ》の一、オンラインで、妹のレベルを効率《こうりつ》よく上げよう!
シスカリのオンラインモードには、大きくわけて二つのモードが存在する。
全国の妹たちと対戦《たいせん》し、最強の妹を目指す『対戦《シスカリプス》』モード。
全国の妹たちと力を合わせ、多重世界《シスターワールド》の終末《しゅうまつ》を回避《かいひ》するため、さまざまなミッションをクリアしていく『協力《CO-OP》』モード。
[#ここまで太字]
〜〜〜中略《ちゅうりゃく》〜〜〜
[#ここから太字]
協力モードならば、未《み》クリアのセーブデータが使用|可能《かのう》だ。
もしもキミが初心者であるなら、オンラインで鍛《きた》えた強力なキャラで、キャンペーンモードに挑《いど》もう! いままで勝てなかったアイツにも、必ずやリベンジが果たせるはずだ!
*ただし寄生《きせい》プレイヤーは嫌《きら》われる! 自分のランクにあったミッションを受けること!
[#ここまで太字]
「……ふーむ……なにがなにやら」
寄生プレイヤーとか当たり前のよーに言われても分からんて。
だが、何となく理解できたところもある。えーと……こういうことだろ?
まず……だ。オフラインキャンペーンモード(俺がさっき何度もゲームオーバーになってたやつな)をクリアしないと、人間|同士《どうし》の対戦《たいせん》モードを遊ぶことはできない。
つまり現状、俺はオンラインに繋《つな》いでも、他のプレイヤーと協力してコンピューター相手《あいて》に戦うモードしかできねーってわけだ。
「……なんでまた、こんなめんどくさい制限《せいげん》が付いてるんだか」
まあたぶん、キャンペーンモードをクリアしたやつじゃないと、オンライン対戦をやる資格《しかく》はないということなんだろうが……なんつーか、いちいち敷居《しきい》が高い気がするよな。
さっき見たとおり、キャンペーンモードの難易度も相当に高いらしいし。
オンラインゲームってのはそういうもんなのか? ふん、まあいい。そんで、そのキャンペーンモードの攻略法《こうりゃくほう》なんだが……。
そもそもこのシスカリというゲームは、何度も同じミッションをクリアすることで経験値《けいけんち》を稼《かせ》ぎ、自キャラを強化していく、いわゆる『レベル上げ』が重要なゲームなのだ。
いままで俺《おれ》は、そいつに気付かず、どんどん先に進もうとしていた。だから何度も同じ敵《てき》にやられていたわけだ。でもってレベル上げは、オンライン協力プレイの方がやりやすい、と。
「はあん……色々《いろいろ》あるもんだ」
エロゲーのくせに(こういうことを言うと桐乃《きりの》に怒《おこ》られそうだが)、メチャクチャゲーム部分が作り込んであるんだな。エロゲーというのは、その名のとおり、ただひたすらエロいだけのもんだとばかり思っていたのだが……色々|種類《しゅるい》があるらしい。
ていうか俺には、このゲームをわざわざエロゲーにする意味が分からない。
エロっつっても、敵を倒したときのご褒美《ほうび》に、そういうシーンが申しわけていどにあるだけなんだし……そんなもんバッサリカットして普通に売れよとも思う。
十八|歳《さい》以下の人が買えなくなって、客層《きゃくそう》が狭まっちゃうんじゃないの?
まあ、俺なんかには窺《うかが》い知れない複雑《ふくざつ》な事情があるのかもしれないけどさ。
俺が素人《しろうと》の発想《はっそう》で考察《こうさつ》していると、
「……うおっと」
参照《さんしょう》していた動画《どうが》が、ややエロいシーンに差しかかった。
これは wiki ページ内からリンクが張られていた、シスカリの基本的な立ち回りを解説《かいせつ》する動画らしいのだが、この動画を作成《さくせい》したヤツの茶目《ちゃめ》っ気《け》なのか、ラスト付近に、戦闘《せんとう》終了|後《ご》の『ご褒美《ほうび》CG』を一部|収録《しゅうろく》してあったのだ。
……ううむ……くそう。やっぱ、こういう妹もののエロには馴《な》れんな……。
ゲームとはいえ、妹がエッチなことをされているシーンというのは、見ていて気が滅入《めい》るというか、精神的に辛《つら》いものがあるんだよ。
桐乃あたりにしてみれば、ゲームと現実はあくまで切り離された別物《べつもの》であり、妹がいるからといって妹ゲーを楽しめないというのはおかしな話であり、二次元と三次元を一緒《いっしょ》にするのは甚《はなは》だキモいということなんだろうが……俺はその辺、いまだに割りきることができないでいる。
この件については、無理なものは無理としか言いようがないんだ。妹がいるのに、妹を攻略《こうりゃく》するゲームなんかやってられん。妹キャラがエロいことになってるシーンなんざ見たくもない。
俺は実に気まずい想《おも》いで『服が破れて倒れている妹キャラのHCG』をすがめ見――ガチャ!
「京介《きょうすけ》ぇーこれから買い物行くんだけど、あんた中辛《ちゅうから》と」
「うおおおおおおおおおおおおお!!」
俺は大絶叫《だいぜっきょう》しながら動画の| × 《とじる》ボタンを連打《れんだ》した。
がたがたがたんっ! 動揺《どうよう》のあまり椅子《いす》を鳴らしながら振り返ると、お袋《ふくろ》が、部屋の扉《とびら》を開けた体勢でぽかんと突っ立っていた。俺《おれ》はろれつの回らない口調《くちょう》でまくしたてる。
「ちょ!? お袋! の――ノックしてから開けろっつったれば!」
「ごっめーん☆ 次、次からは気を付けるから。――で、中辛《ちゅうから》と辛口《からくち》どっちがいい?」
「ちゅ、中辛!」
「残念《ざんねん》ーあたし今日《きょう》、辛口が食べたい気分なの。じゃそーいうことで、行ってくるわねー」
お袋は含《ふく》みありげな作り笑顔《えがお》で言い捨てて、ぱたんと扉を閉めた。
「っぁ〜〜〜…………」
半泣《はんな》きで伸びをする俺。ちくしょー……なんつーか……色々《いろいろ》とチクショー!
ババァ〜、ヒマさえありゃあカレーばっか作りやがって……! そもそもいまの話の流れだと、俺の意見を聞きにきた意味がねえだろ! チッ、どーせ我《わ》が家《や》では、長男《ちょうなん》の意思《いし》なんざゴミみたいなもんですよ。
あんまり冷遇《れいぐう》すると、いいかげん俺も田村《たむら》さん家《ち》の子供になるからな。
にしても……。エッチな画像《がぞう》が表示《ひょうじ》されているウインドウを閉じるタイミング、かなりギリギリだったよなあ……。まさか『見た?』ってお袋に確認《かくにん》するわけにもいかんしよォ〜。
……くっ、自我《じが》を守るためにはこの件のことは忘れるしかねえ……!
はい、忘れた忘れた!
ってか、ホントさ! 鍵《かぎ》のない部屋《へや》ってのは何すんのにもネックになるな!
実際《じっさい》、なんとかならねーもんかねコレ……
俺は、多くの中高|生《せい》が抱えているであろう悩《なや》みについて思考《しこう》を巡らしながら、げんなりと立ち上がった。そぉっと窓から下をのぞき、お袋が出て行ったことを確認する。
――よし、行ったな?
俺は気を取り直して wiki の閲覧《えつらん》を再開《さいかい》することにした。
で――初心者《しょしんしゃ》指南《しなん》の残りのコンテンツは、以下のようなものだった。
[#ここから太字]
其《そ》の二、初心者キラー『触手《しょくしゅ》妹』に注意! その他、蹟《つまず》きやすいポイントを徹底攻略《てっていこうりゃく》!
其の三、かんたんステ振り講座《こうざ》。序盤《じょばん》で上げておくべきパラメータとは!
其の四、主観《しゅかん》視点を活用しよう! 視点|切《き》り替えを有効に使って、3Dバトルを制せ!
其の五、最後の手段! アイテム課金《かきん》で、最愛《さいあい》の妹にレアアイテムを装備《そうび》させよう!
[#ここまで太字]
「ほほう。なるほどな……」
俺はスッキリ|爽《さわ》やかな気分でしきりに頷《うなず》き、
「さっぱり分からんということが分かったぜ」
解説|書《か》いた人が聞いたら、ガックリしそうなことを言うのであった。
だって分かんねーもんは分かんねーんだよ。しょうがねえだろ。専門|用語《ようご》多いしさあ。
でもまあ、オンライン協力プレイをやるべしってのは分かったよ。
俺《おれ》は初心者《しょしんしゃ》指南《しなん》に一《ひと》とおり目をとおし、ブラウザを閉じた。それから、デスクトップのシスカリアイコンをクリックし、ゲームアプリケーションを起動《きどう》させる。
『真妹大殲《しんいもうとたいせん》シスカリプス』のメニュー画面が起動。
「ええと……こうか?」
俺は手元《てもと》の説明書を眺《なが》めながら、シスカリをオンラインに繋《つな》いだ。このへんの設定は、すでに桐乃《きりの》がやっていたらしく、クリック一発で簡単《かんたん》にサーバーへと接続することができた。
[#ここから太字]
『プレイヤーネームきりりん≠ナ接続しました』
[#ここで太字終わり]
「ありゃ?」
なんだこりゃ。桐乃の名義《めいぎ》で繋がったってことか? あいつがそう設定したから?
よく分からんが、まぁ繋がったからいいか。
オンラインに繋ぐと、大学ノートみたいに区分《くわ》けされた『枠《わく》』がずらっと並んだ『ロビー画面』とやらが、ディスプレイに表示《ひょうじ》された。
右隅《みぎすみ》のウインドウでは、『きりりん』のプレイヤーデータも確認《かくにん》することができる。
うーん。英単語《えいたんご》と数字が色々《いろいろ》並んでいるんだが……パッと見て分かるのは、
Win:003/Lose:046
これくらいだな。となりのなんたらレシオってのはサッパリだが、たぶんこれは勝敗|表《ひょう》だろう。きりりん≠ェ、対戦《たいせん》モードで勝った回数と、負けた回数が表示されているってわけさ。
ヘッ、なんだよ、負けまくってんじゃねーかアイツ。
「えーと……なになに……?」
区分けされた『枠』のひとつひとつは『部屋《へや》』と呼ばれ、クリックすると、たとえば、
[#ここから太字]
『「上級者《じょうきゅうしゃ》来たれ。タイマン部屋です♪(地上|限定戦《げんていせん》・飛行|禁止《きんし》)」対戦・参加者1/2』
『「初心者レベル上げ部屋ぁ〜」協力・ミッション02・参加者2/3』
[#ここで太字終わり]
といったふうに、部屋情報が表示される。プレイヤーはこういった部屋に入室してもいいし、自分で条件を設定して新規《しんき》に部屋を作ってもいい。
これはあとから聞いたのだが、オンラインゲームとしてはわりとポピュラーなシステムなのだそうだ。
「……うーむ……なんか……どーしていいか分からんな……」
俺はロビー画面を前にして、ぽりぽりと頬《ほお》を掻《か》いた。
適当に部屋を選んで、入室して、他のゲーマーと会話(チャットというらしい)して、協力プレイして――という手順《てじゅん》を踏めばいいのだが、一番|最初《さいしょ》の部屋を選ぶところで止まってしまっている。
なんつーのか、顔も知らないやつとチャットしたり、一緒《いっしょ》にゲームやったりっつーのに、二の足を踏んじまうんだよ。こういうのって、俺だけなんかね……?
それともオンラインゲームを初めてやるときは、みんなそうなのだろうか。俺《おれ》には判断《はんだん》がつかなかったが……たぶんコレがエロゲーであるという精神的|重圧《じゅうあつ》も関係しているんだろうな。
「……あー……今日《きょう》のところは、やめておくか、な……」
ログアウトボタンにマウスポインタを移動させたとき――
ぴろりんっ、と軽やかな音がして、画面《がめん》中央上部に小さなウインドウが表示《ひょうじ》された。
[#ここから太字]
『沙織《さおり》さんからメッセージが届きました』
[#ここまで太字]
「あん?」
俺は見覚《みおぼ》えのあるプレイヤーネームを、しげしげと眺《なが》めた。
沙織というのは、桐乃《きりの》のオタク友達で、『オタクっ娘《こ》あつまれ!』というコミュニティの管理人でもある。先月、桐乃がオフ会に参加した際、この沙織に世話《せわ》になったのだ。
……こいつもシスカリやってたのかよ……。世間《せけん》は狭《せ》めーなぁ……
いや、というか、たぶん流行《はや》ってるんだろうな、コミュニティの中でも。
いま現在も、一万人以上がシスカリサーバーに接続しているみてーだし……。
「うーむ」
あいにく俺にゃあ、エロゲーの売上について知識《ちしき》の持ち合わせがないんだが……
もしかしてさぁ、めちゃくちゃ売れてるんじゃないのかこのゲーム?
だってこれって、アレだろ? この世界にゃ、妹|好《ず》きのエロゲーマーが、少なくとも数万人以上|存在《そんざい》しているってことだろ? ウチの妹の趣味《しゅみ》って、マイノリティだとばかり思ってたんだけど、オタクの間では意外《いがい》とマジョリティなのか?
いやぁ〜、にしたって需要《じゅよう》ありすぎだろ!? 絶対おかしいよこの世界!?
それはさておき。メッセージの文面《ぶんめん》は、以下のようなものだった。
[#ここから太字]
「ごきげんよう、きりりんさん。お暇《ひま》でしたら、わたくしとお話しいたしましょう?』
[#ここまで太字]
「アンタ、ほんっとネットだと別人《べつじん》なのな」
俺は、ついついディスプレイに向かって突っ込みを入れてしまった。
この沙織≠ヘ、ネット上では『清楚《せいそ》なお嬢様《じょうさま》』を装っているんだが、腹立《はらだ》たしいことに実物は大違《おおちが》いなんだよな。背が180センチ以上あって、藤原紀香《ふじわらのりか》と同じスリーサイズ。
でもってファッションセンスと口調《くちょう》はキモオタそのものという、超変《ちょうへん》テコな女なのだ。
そんな沙織に向かって俺は、
「ええっと……」
チャットなんてやるのは初めてなので、ネット越しのリアルタイムのやりとりに少々|面《めん》くらいながらも、こう返事を打鍵《だけん》した。
[#ここから太字]
『桐乃じゃなくて悪かったな、兄貴《あにき》の方だよ』
[#ここまで太字]
すると、今度は『沙織さんから、チャットルームに招待《しょうたい》されました』[#「『沙織さんから、チャットルームに招待《しょうたい》されました』」は太字]というメッセージが表示された。そのメッセージをクリックすると、新規《しんき》にチャットウインドウが開く。
[#ここから太字]
沙織《さおり》 :あら、まあ、凶介《きょうすけ》お兄《にい》様でしたの――ご無沙汰《ぶさた》しております。
[#ここまで太字]
この文面|打《う》ってるのがアレかと思うと、実に萎《な》えるな。誰《だれ》がお兄様だよこの野郎《やろう》。
[#ここから太字]
きりりん:誰が凶介だこら。俺《おれ》の名前は京介《きょうすけ》だよ。高坂《こうさか》京介。
[#ここまで太字]
教えてないから字を間違《まちが》えるのはしょうがねえさ。だがなぜあえてその漢字《かんじ》を選ぶ……。
不幸そうだからですかねえ! とか思っていると沙織が『お元気でしたか?』[#「『お元気でしたか?』」は太字]と聞いてきた。
俺はなんとか向こうのペースに合わせ、キーボードを叩《たた》いていく。
[#ここから太字]
きりりん:普通だ。そっちはめちゃくちゃ元気そうだな。妹がいつも世話《せわ》になっている。
沙織 :いえいえ。こちらこそ、きりりんさんにはお世話になっておりますわ。このゲームでも、最近《さいきん》毎日カモらせていただいて。おかげさまで、わたくし勝率《しょうりつ》八割をキープしておりますのよ。
[#ここまで太字]
Lose:046っつーのはおまえの仕業《しわざ》かよ! チクショー、テメーのせいで俺は……!
俺はこめかみをヒクつかせながら、こう打鍵《だけん》した。
[#ここから太字]
きりりん:ふーん、おまえ、ゲーム上手《うま》いんだな。
沙織 :ええまあ。それほどでもありますわ。
[#ここまで太字]
そうかい。
[#ここから太字]
きりりん:じゃあ、ちょっくらコツでもあったら教えてくれよ。いや、妹にムリヤリこのゲーム押しつけられちまってさ――もうこの際だから、上手くなって、アイツをへこましてやろうかって思ってんだよ。
沙織 :うふふ、仲がよろしくて羨《うらや》ましいですわ。
[#ここまで太字]
なわけねーだろ。何言ってんだこいつは。
[#ここから太字]
沙織 :シスカリ@wiki の初心者《しょしんしゃ》指南《しなん》は、もうご覧《らん》になりまして?
きりりん:おう、ちょうどいま見てたとこなんだが。さっぱり分からなくってな、特に……なんだ? 主観《しゅかん》視点を活用しろとか言われてもさ。いや、そこに関しては書かれている意味は分かるんだ。でもさ……ええと……
沙織 :あら、もしかして3D酔《よ》いをしてしまうとか?
きりりん:3D酔い?
沙織 :3Dゲームをプレイしているとき、車酔《くるまよ》いのような症状《しょうじょう》を起こすことをそう呼ぶのですわ。特にFPS――主観視点のゲームは酔いやすいそうです。
きりりん:ああ、言われてみればそうかもしれない。そうなんだよ……。
[#ここまで太字]
沙織に言われて納得《なっとく》した。俺はこの手の3Dゲームをやっていると、酔ってしまうのだ。
一向《いっこう》に腕《うで》が上達《じょうたつ》しないのは、たぶんそのせいもあるんだろう。
[#ここから太字]
きりりん:あんな言い方で、よく分かったな?
沙織 :わたくしも、初めはそうでしたから。練習すれば、ある程度は改善《かいぜん》できますわよ?
きりりん:練習? どうやって?
沙織《さおり》 :たとえば、リアルでもFPSゲームのように生活するというのはいかが? まず常にアサルトライフルを持ち歩き、視界《しかい》の隅《すみ》に入れておきます。次に方向|転換《てんかん》をするときはいつも身体《からだ》ごと直角《ちょっかく》に向き直るようにします。そして索敵《さくてき》範囲《はんい》に人影《ひとかげ》が映ったら、敵味方《てきみかた》問わず高速エイムしながら伏《ふ》せ撃《う》ちの体勢へ移行するのです。――わたくし、これでバッチリ治りましたわ※[#中白ハートマーク]
きりりん:バッチリ変な人じゃねえか!? そこまでして治したくねーよ!?
[#ここまで太字]
しかも体験|談《だん》かよ!? 忘れてたぜ! こいつはこういうヤツだったな!
お嬢《じょう》言葉でも中身《なかみ》はぜんぜん変わってねえじゃねーか。
[#ここから太字]
沙織 :まぁ変な人だなんて……京介《きょうすけ》お兄《にい》様ったら、失敬《しっけい》ですこと。この前も申し上げましたでしょう? わたくし、普段《ふだん》は大人《おとな》しい女の子なんですのよ?
きりりん:大人しい女の子は出会い頭《がしら》に銃口《じゅうこう》向けてきたりしねえよ!? それは絶対《ぜったい》自分で思ってるだけだろ!? 悪いこと言わないから、周囲《しゅうい》の反応を顧《かえり》みてみろって!
[#ここまで太字]
たとえば、アサルトライフルで狙《ねら》われた友達とかさあ!
[#ここから太字]
沙織 :あら、「ふぅ〜……よかった。今度の趣味《しゅみ》はずいぶんマシだな」と、理解を示してくれましたわよ?
きりりん:諦《あきら》められてるんだよそれは!? 以前に何をやらかしたんだ!?
[#ここまで太字]
なんて、そんなやり取りがしばらく続いた。チャットなんて、ほとんど初めてやったってのにずいぶんとエキサイトしてしまったぜ……。
なんだかんだいって、やはりこの女は場を盛り上げるのが上手《うま》い。そこにいるだけで賑《にぎ》やかになる、いわゆるムードメーカーってやつなのかもな。
俺《おれ》はそんなことを考えながら、両手首をぶらぶらさせていた。キーを高速で打ち続けていたせいで、疲労してきたのだ。
「ふー……」
一息。ディスプレイでは依然《いぜん》として沙織がべらべら喋《しゃべ》っているが、こいつのハイペースなトークには、もうついて行けそうにない。
[#ここから太字]
沙織 :京介お兄《にい》様? どうして黙《だま》っていらっしゃいますの?
[#ここまで太字]
指が疲れたからだよ。もうちっと待っとけ。
[#ここから太字]
沙織 :あら、放置《ほうち》プレイですわね。
きりりん:テメーが何度も突っ込ませるから文字打ちすぎて指がイテ――んだよ!?
[#ここまで太字]
ほっとくと何言い出すか分からんな、こいつは!
俺が渋《しぶ》い顔になっていると、沙織は『それはともかく』[#「『それはともかく』」は太字]と、話題を修正《しゅうせい》した。
[#ここから太字]
沙織 :そういうことでしたら、シスカリ攻略《こうりゃく》指南《しなん》の続きは電話でみっちり教えて差し上げますわ。あ、わたくしの携帯《けいたい》番号は――
[#ここまで太字]
とまぁ、そういった経緯《けいい》で。
俺《おれ》は沙織《さおり》からみっちりゲームの修行《しゅぎょう》をさせられて、当初《とうしょ》の予定どおり腕《うで》をあげることができた。その際、この女に俺の携帯《けいたい》番号が知られてしまったわけだが。
俺はこの件について、早くも後悔《こうかい》することになる。
翌日《よくじつ》の日曜日。
昼食をすませ、リビングでだらだらテレビを眺《なが》めていると、ぴんぽーんとインターホンが鳴った。少し間《ま》を置いて、再び、ぴんぽーん。誰《だれ》も出る様子《ようす》がない。
ちなみに親父《おやじ》は休日だってのに仕事。お袋《ふくろ》は近所のオバサンたちとどっかに行った。
いまこの家には、俺と桐乃《きりの》しかいねーってわけだ。
「んだよ……ったく。よっこらしょ」
仕方なく俺はソファから重い腰を持ち上げようとしたのだが、そこで、どたどたどたっと階段を駆《か》け下りてくる音が聞こえた。でもって、
「お待たせ〜、待ってたよ〜」
絶対俺には言わないような猫《ねこ》なで声が聞こえてきた。これがあの妹の声だとは、なかなか信じがたいものである。
「………………」
そうか……今日は桐乃の友達が遊びに来る日だったんだっけな。
俺は浮かせかけた尻《しり》を、再びソファに沈めた。なんともなしに玄関《げんかん》の方を眺《なが》める。
やがて「おじゃましまぁ〜す」という女の子たちの声が聞こえ、開きっぱなしになっている扉《とびら》の先に、通り過ぎていく女子中学生たちの姿《すがた》が少しだけ見えた。
とんとんとんとん、という階段を上っていく音。
桐乃は友達を二階の自分の部屋《へや》に招いたらしい。いつのまにかさっきまで眺めていた番組が終わっていたので、俺はリモコンでテレビを消し、ソファに寝転《ねころ》がって週刊|漫画《まんが》を読み始めた。
――誰が来ようが、俺にゃカンケーねーよな。
そう思っちゃいるのだが――
「くそ……集中できん」
一度|読《よ》み終えた作品だということを抜きにしても、漫画の内容が、まったく頭に入ってこない。どうにも上[#「上」に傍点]が気になってしまい、チラチラ何度《なんど》も天井《てんじょう》を見上げてしまう。
妹の友達が家に遊びに来る――なんて、そりゃあアイツが中学入ってからは初めてかもしんねーけどさ、なにもこれが生まれて初めてってわけじゃあない。
うーむ。なんでまた、今回に限ってこんなに気になるんだろうな……。
たぶんそれは、俺が『妹の秘密《ひみつ》』を知ってしまったからだろう。そして、あいつの趣味《しゅみ》が親にバレちまって、大変なことになったあの事件が、まだ記憶《きおく》に新しいからだ。
そう。
あいつの部屋には、エロゲーその他のオタクグッズが大量に隠《かく》されているのだ。
アレが友達に見付かったりしたら、親バレ以上にとんでもない事態《じたい》になるよな……。
いや、別に、アイツのことを心配してるわけじゃないぜ。
あんなヤツはどうでもいいし、どうなろうが構《かま》いやしない。だってカンケーねえもんよ。
ただ……その、なんだ。テスト前だってのに、また騒《さわ》ぎを起こされたらイヤじゃんか。
だから俺《おれ》は、あくまで自分の心配をしているんだ。
「あいつ、妙《みょう》に抜けてるとこあっからなあ……」
大丈夫《だいじょうぶ》かね?
俺が健気《けなげ》にもそんなことを考えていると、桐乃《きりの》がリビングに入ってきた。
妹|様《さま》の今日《きょう》のファッションは、何やらぶかぶかっぽいシャツと、超短《ちょうみじか》いスカート、それに膝《ひざ》上まであるソックスというもの。俺にはファッションのことはよく分からんし、ウチの妹は何でも格好《かっこう》良く着こなしてしまうから、余計《よけい》に分かり難《にく》いのだが――
おしゃれな格好なんだろうな、これ。少なくとも、それは間違《まちが》いのないことのように思われた。で、そんなティーン誌《し》モデル様が、何しにやってきたのかというと……
どうやら友達のために、お菓子《かし》や飲み物を用意するつもりらしい。
どうしてその気遣《きづか》いを、兄貴《あにき》には向けられないんだおまえは。
「……………キモ。なにこっち見てんの? つーかなんでここにいんの? 昨日《きのう》、部屋で大人《おとな》しくしてろって言ったでしょ?」
「……うっせーな。俺はここでテレビ見ていてーんだよ。ほっとけや」
「は? 見てないじゃん。ウソつかないで。漫画読《まんがよ》んでたくせに」
あームカつく。俺は妹の言葉をあえて無視《むし》し、リモコンでテレビをつける。
するとちょうどニュース番組がやっており、『――違法《いほう》改造《かいぞう》を加えたスタンガンで、女性を感電死《かんでんし》させようとしたとのことです。男の部屋《へや》からは、他にも成年《せいねん》漫画や――』と、ろくでもない報道《ほうどう》が流れてきたもんだから、余計《よけい》に苛立《いらだ》つ。
ほら、さっさとあっち行け。いっちまえよ、もう、ったく。心の中で妹を追い払う。
「邪魔《じゃま》だっつってんの。これからここでお菓子|食《た》べたりするんだからさあ。ほら、さっさと出てってくんない?」
びっくりだぜこの扱《あつか》い。人を何だと思ってんだこいつ。
「ちっ……わーったよ。出ていきゃいいんだろ? 出ていきゃあ。へーへー、邪魔な兄貴は部屋に戻ってますよ、と」
渋々《しぶしぶ》ながらも従う俺って、なんて優しいのだろう。
そんな素敵《すてき》な兄貴に、おまえ、なんか言うことないの?
「汚《き》ったないなあ、このへん掃除《そうじ》して行ってよね」
俺が求めてるのは、そんな台詞《せりふ》じゃねえよ!
結局俺《けっきょくおれ》は、リビングの掃除《そうじ》を手伝ってやり、妹の友達のためにアイスコーヒーを作ってやり、しかるのちにリビングから追いやられ、とぼとぼと自分の部屋《へや》へと戻った。
さーて、どうすっかな? 期末《きまつ》テストが近いので勉強しなくちゃならんのだが、どうにもやる気が出てこない。テストが近付けば近付くほど、学生のやる気は減衰《げんすい》していくというのが、抗《あらが》いがたい世界の法則《ほうそく》である。そんな言《い》い訳《わけ》を組み立てながら、机に座った。
「えーと、こうだよな」
相変わらずの拙《つたな》い手つきでノートパソコンをスタンバイから復帰《ふっき》させる。
ブラウザを起動《きどう》。もちろん、さすがにここでヘッドホンつけてこっそりエロゲーをやるわけはないのだが、インターネットを眺《なが》めるくらいなら、もしも突然|扉《とびら》を開けられたって、どうってことはない。
頬杖《ほおづえ》ついて、眠たげ〜な瞳《ひとみ》で、かちこちニュースのリンクを巡っていく。
というか。最近《さいきん》気付いたのだが、このインターネットという代物《しろもの》は、非常〜〜に、俺の性《しょう》に合っているのではなかろうか。
「……………………ふあ……あ」
二度|寝《ね》の安息《あんそく》にも似《に》た、怠惰《たいだ》でまったりとした感覚《かんかく》。いいね、悪くない。
その間も時は無慈悲《むじひ》に無為《むい》に流れていくが、本人《ほんにん》には自覚がないんだよな。
あ〜〜〜〜〜〜っ、ダリぃー……なぁーんか面白《おもし》れーことねーっかなぁ〜。
インターネットで時間を無駄《むだ》にするやつの頭ん中は、大抵《たいてい》こんなもんだろう、たぶん。
深い考えなんかありゃしねえ。そのうち、だらだらとリンクをクリックしているのにも飽《あ》きてきたので、何か検索《けんさく》してみようみたいな気分になった。
んなことしてんなら勉強でもしろって思うかい? フッ、無理だね。理屈《りくつ》じゃねえんだよ!
とまぁそーゆうわけで、俺《おれ》は Google のロゴの上でマウスポインタをぐるぐるさせながら、思考《しこう》を巡らしていた。
やがて、怠惰な物思《ものおも》いにふけっていた俺の脳裏《のうり》に、何故《なぜ》か、眼鏡《めがね》の幼馴染《おさななじ》みの顔が浮かび上がってきた。よく見知った、地味《じみ》でゆるーい笑顔《えがお》だ。
俺が無《む》目的に考え事してっと、よくこいつが現れるのだ。
おそらく単純《たんじゅん》に俺と一番仲が良くて、一番|一緒《いっしょ》にいる時間が長い人間だからだろう。
そういえばあいつ、このまえ、こんなことを言ってたな……。
『……きょうちゃん、きょうちゃん、わたしねー……いま、枕集《まくらあつ》めてるのー。それでぇ、この前、家族みんなで、でぱーとに行ったときにね? 寝具《しんぐ》売り場で面白い枕|見付《みつ》けたんだぁ。こうふにょってしてて、さわると気持ちいいんだけど……手を離すとぐにゅーってゆっくり元の形に戻るやつで……』
確か俺はそのとき、幼馴染みののんびりトークを半分くらい聞き流しつつ、
『ふーん、で、なんて商品?』って気のない返事をした。でもあいつはぜんぜん気を悪くした様子《ようす》もなく、妙《みょう》に嬉《うれ》しそうに答えようとしてくれたんだよな。
『……えっと……えっとー……て、て、てんぷ!……てんぷー……?』
結局《けっきょく》、アレ、何だったんだろうなあ……。おそらくあの棒読《ぼうよ》み具合からすっと、アイツの苦手《にがて》な横《よこ》文字だったんだろうけど。テンプー……枕《まくら》?
「んー」
調べてみっか。……えっと検索《けんさく》ワードは……枕=Aと。
かちっ。すると Google は、俺《おれ》の検索ワードに対し、以下のような検索|結果《けっか》を弾《はじ》き出した。
[#ここから太字]
枕の検索結果 約 43,800,000 件中1-10件目(0.16秒)
[#ここで太字終わり]
バーカ! こんなもん調べきれるわきゃねーだろが。
ひーふーみーよー……四千万|件《けん》!? 俺を舐《な》めてるの?
いや、いや、もちろん Google は自分の機能《きのう》を果たしただけだから、曖昧《あいまい》なキーワードで検索した俺が悪いんだけど。
でも初めて使ったやつは、ぜってーいまの俺と同じこと思うよなあ!
ふぅ。気を取り直して検索|結果《けっか》を見る。そこには十件の『枕』についてのページが表示《ひょうじ》されていた。楽天市場《らくてんいちば》へのリンクやら、枕の総合《そうごう》ポータルサイトやら、枕-wikipedia やら……どうにも俺が求めているブツは見付かりそうにない。とくれば……。
検索ワードを追加《ついか》することにする。枕、半角《はんかく》スペース、さわると気持ちいい、半角スペース、テンプー……エンターっと。かちっ。
「くそ……ダメか……」
一件も出やがらねえ。仕方ないので、枕の検索結果から駄目元《だめもと》でリンクをたどりまくってみることにする。どーせ、暇《ひま》つぶしみたいなもんだったわけだしな。見付からなくたって別に構《かま》いやしねーさ。しばらくそうやって、リンクをたどったり、それらしいワードで検索したりしていると、やがて俺はとあるサイトにたどり着いた。
どうやらキャラクターグッズなどを扱っているサイトらしいな。なんで枕を探していて、そんなところに行きついちまったんだろうと思ったが……
どうやらキャラクターものの枕が売っているから、らしい。
「え? これが?」
商品|画像《がぞう》を見ても、俺には一瞬《いつしゅん》それが枕だとは分からなかった。というのもそれが、細長《ほそなが》いクッションに、どっかで見たような女の子のイラストがプリントされたものだったからだ。
商品|解説《かいせつ》にはこうあった。
[#ここから太字]
人気|爆発中《ばくはつちゅう》! ほしくず☆うぃっちメルル「赤星《あかぼし》める』ちょっぴりエッチな抱《だ》き枕カバー。
*商品画像はサンプルです。
[#ここまで太字]
……な、なんだと……? なぜ枕カバーにイラストを付ける必要が……。
……こんなミスマッチなもんがこの世に存在するとは……。
しかも人気|爆発中《ばくはつちゅう》だと……? マジで? こういうのが売れるってのか……?
ま、まぁ……まさか実際《じっさい》にイラスト付き抱《だ》き枕《まくら》と一緒《いっしょ》に眠っているやつはいないだろうから、『イラスト付き抱き枕を買っちゃうほど、このキャラが好きなんだ!』という自己|満足《まんぞく》を得るための、あくまでコレクターアイテムとしての需要《じゅよう》ではあるんだろうが……。
にしてもオタク市場というものは、俺《おれ》の理解と想像《そうぞう》の限界《げんかい》を超越《ちょうえつ》していた。
こ、これと同じ感覚《かんかく》を、俺は知っている……!
オタク三人|衆《しゅう》に引き摺《ず》られてアキバ巡りをしたときの、あの感覚だ。
「むう……」
どう考えてもここに俺の求めているものはねぇよな。ふ、ふん、なにが抱き枕だ……。
俺はすぐさまブラウザの戻るボタンで、検索《けんさく》結果|表示《ひょうじ》画面まで引き返し……
検索ウインドウに別の単語《たんご》を入力して、画面から微妙《びみょう》に視線《しせん》を外《はず》しつつ、
かちっ。
すると Google は、俺の検索ワードに対し、以下のような問いを投げてきやがった。
[#ここから太字]
もしかして眼鏡《めがね》っ娘萌《こも》え≠ナはありませんか?
[#ここまで太字]
「ちょ、何のことだよ!」
意表《いひょう》を衝《つ》かれた俺は、がたがたっと椅子《いす》を鳴らしてしまう。
……くそう。Google め、意味|分《わ》からんことを言いおって。
どんな単語で検索したかって? ま、まぁいいじゃん。
「びっくりさせやがって。検索サイトの分際《ぶんざい》で」
ふと時計を見ると一時間が過ぎていた。
はああ!? んだよこの時間の進み具合《ぐあい》は! 俺はびっくり仰天《ぎょうてん》して時計を睨《にら》み付けたが、過ぎた時間が戻ってくることは、もちろんなかった。
やっべえ……こ、これがインターネットか……。
おっかねえ〜〜……。時間|泥棒《どろぼう》にもほどがあんだろー。
「はあ……」
椅子に座ったまま、全身の筋《すじ》をのばす。
集中して勉強したあとのように、身体《からだ》中がびきびきだ。
俺はこのとき初めて、世のパソコンユーザーを捕らえて離さない、深淵《しんえん》なる陥穽《かんせい》に触《ふ》れたのかもしれない。深入《ふかい》りしない方が、身のためかもな……。俺はちょっとした寒気《さむけ》を覚《おぼ》えながら、そんなことを思うのであった。
と――
「ん?」
気付けば、壁越《かべご》しに女の子の楽しげなお喋《しゃべ》りが、かすかに聞こえてくる。いつのまにやら女子中学生|軍団《ぐんだん》は、リビングから隣《となり》の部屋《へや》へと戻ってきていたらしい。
この家、わりと壁が薄《うす》いので、でかい声で話すと結構《けっこう》素通《すどお》りしちゃうんだよな……普段《ふだん》はお互《たが》いに気を付けているので、それほど問題になったことはないんだが……
今日《きょう》は友達も来てるしな……そこまで警戒心《けいかいしん》は働かないのだろう。
「……………………」
微妙《びみょう》な表情で、壁を凝視《ぎょうし》する俺《おれ》。うーむ。一度|意識《いしき》すっと、どうにも気になっちまう。
そこで――壁を貫通《かんつう》して聞こえてくる桐乃《きりの》の声が、一際《ひときわ》大きくなった。
『だからぁ〜、そんなのいないってば!』
『うそだぁ〜、じゃーケータイ見してみ?』
『だ、だめ。それはだめ。プライバシーの侵害《しんがい》だから……』
なにやら追及《ついきゅう》しているのが友達で、必死で抵抗《ていこう》しているのが桐乃らしい。
何が『いないってば!』なのかは分からんが、そりゃまぁ、おまえのケータイにゃ、ゴスロリドレス着た友達の写真やら、見るからにオタクなデカ女の写真やら、オタトークしてる証拠《しょうこ》満載《まんさい》のメールやら、入ってるもんな。学校の友達に見せられるわけがねえ。
『……やっぱアヤシイ〜。……桐乃ぉ……いい加減白状《かげんはくじょう》したらぁ〜?』
いったい何の話をしてるんだ、こいつらは。でっけー声でよ……。
俺はマナー違反《いはん》だと分かっていながら、ついつい聞こえてくる声に耳を澄《す》ませてしまう。
『ふ、ふん……白状するって……なにを?』
『もう、とぼけて! ねえ、ねえってばあ! 桐乃ぉ〜〜、相手《あいて》はどんな男なのぉっ?』
あん? いま何つった? 変な単語《たんご》が聞こえた気がすんな?
俺は眉《まゆ》をひそめて、来るであろう桐乃の返事を待った。
『だからぁ! あたしに彼氏《かれし》なんかいないってば!』
えぇええええぇぇぇぇぇぇええっ!?
こ、この話題の流れってもしかして……?
『うそだあ! 信じらんないよ! 絶対|男《おとこ》だって! いいじゃん別に、誰《だれ》も友達の彼氏|取《と》ったりしないからさあ。ね? あたしたちだけに、こっそり教えてよ〜う』
『い、いないってばそんなのっ。何度《なんど》言わせるのっ!』
ちょ、ちょっと待て! 桐乃に彼氏だあ!? ウソだろ!?
そんな菩薩《ぼさつ》のような男がどこに!? 神か? 神なのか?
目を見開いてかぶりを振る。俺の十七年の生涯《しょうがい》でも、最大|級《きゅう》の衝撃《しょうげき》だった。どのくらいかっつーと、ハンドルネーム沙織《さおり》≠ウんの正体《しょうたい》を見てしまったときより驚いたわ!
あんなのを彼女にできるわけねえだろ。精神が保《も》たねえって。
しかし壁の向こうの彼女たちは、俺の意見に賛同《さんどう》してくれそうにない。
『えー? だって桐乃、ガッコーですっごいモテるじゃん、男の子たちからさー』
『そ、それは! そうかもしんないけど!』
そうなのか……。ま、まぁ黙《だま》ってりゃかわいいからな。学校では猫被《ねこかぶ》ってるみたいだし……見てくれに騙《だま》されちゃうかわいそうな男も、そりゃあいるだろう。
いや、待てよ……? 意外《いがい》とアイツ、好きな男の前じゃ、ちゃんとしてるのかも。
ひねくれた性根《しょうね》を引っ込めて、健気《けなげ》な彼女をやっているんだとしたら。……想像《そうぞう》してみた。
「うえ」
吐《は》き気がした。うっげ、ぺっぺっ! しゃれになんねーわコレ。気色悪《きしょくわ》りい。
『ていうかぁ。あたしが男と会ってる場面を見たわけじゃないんでしょ? ならどうしてそんなこと言い始めたワケ? あたしにか――彼氏《かれし》がいるなんてさ』
『だって最近おかしーじゃん、桐乃《きりの》!』と、友達A。
『そうそう! すっごい変ーっ!』と、友達B。そしてそれに答える――
『ええ〜〜んっ? うそぉ〜〜ど、どこがぁ? そ、そんなことないじゃ〜ん?』
誰《だれ》だこいつ。俺は桐乃のあまりにもぬるい[#「ぬるい」に傍点]態度に面食《めんく》らってしまった。
やはり分厚《ぶあつ》い猫[#「猫」に傍点]を何重《なんじゆう》にも被《かぶ》っているらしい。しかし女子中高生ってのはどいつもこいつも、どーしていちいち妙《みょう》に語尾《こび》を上げたむかつく喋《しゃべ》り方をするんだろうな?
と、そこで桐乃の友達が、
『最近いきなり付き合い悪くなったしぃ〜、ガッコでもこそこそメールしてるみたいだしぃ〜』
『…………』
言い返せないところを見ると、心当《こころあ》たりがあるっぽいな。ふうん……それからそれから?
『あ、あたし電話してるとこ見た! なんか痴話喧嘩《ちわげんか》してるような感じだった!』
『ち、痴話喧嘩? なにソレ?』
この桐乃の台詞《せりふ》は、とぼけているわけではなく、本当に分かってないような感じだ。
『うん、なんかぁ、すっごい怒鳴《どな》ってるんだけどぉ、でも、それなのになんか嬉《うれ》しそうなの。そんで電話切ったあと、にやにやしてんの。絶対彼氏でしょアレぇ――』
『だよねー?』
『いや、それは、ちが……ちがくて……えっと』
桐乃はしどろもどろになっちまっている。
な、なるほど………なんか、展開《てんかい》読めてきたぞ俺……。すげー心当たりあるわ……。
『あ、ホラあ。思い当たることあったんでしょ?』
『な、ないっ! ぜんぜん!』
頑《かたく》なに否定する桐乃。が、こいつはウソが下手《へた》だな。
これじゃある≠チて宣言《せんげん》してるようなもんじゃねーか。
そう、思い当たることなんて、ありまくりだった。桐乃が付き合い悪くなった理由。学校でメールしている相手《あいて》。電話で痴話喧嘩してる相手――すべて俺は知っている。
アイツは最近、オタク友達とつるんで遊んでいるのだ。それをこの娘《こ》たちは、彼氏《かれし》ができたからだと勘違《かんちが》いしてるっつーわけか……。まぁなぁ。成績|優秀《ゆうしゅう》スポーツ万能《ばんのう》、ティーン誌《し》モデルの高坂桐乃《こうさかきりの》が、エロゲーやらアニメやらにハマっていて、隠《かく》れてオタク友達とオフ会したりしてるなんて、想像《そうぞう》できるわきゃねーよな。
『ふーん? あくまで彼氏なんていないってゆーんだあ、桐乃は?』
『あったりまえでしょっ』
『じゃー最近のおかしな行動について、セートーなリユーを説明してよ』
さっきから桐乃と喋《しゃべ》っているこのガキ、えらい人の神経逆《しんけいさか》なでしやがんなあ。
とか思っていたら、案《あん》の定《じょう》桐乃が爆発《ばくはつ》した。
『あーんも〜、いい加減《かげん》にしてぇ〜』
――したのだが、もの凄《すご》い違和感《いわかん》。
だって怒《おこ》った桐乃が『あーんも〜、いい加減にしてぇ〜』とか言うわけない。
いつものアイツだったなら、億倍《おくばい》おっかない声で、『死ね』とか『うざい』とか叫ぶって。
なのに猫被《ねこかぶ》った桐乃は、やけにかわいらしい猫なで声で、友達を怒っている。
『さっきからさ〜、あたしに彼氏なんかいないって、言ってるでしょ〜』
『えーそんなぁ……アタシらは桐乃のことを心配してぇ……いたた、叩《たた》かないでよ桐乃ぉ〜』
俺《おれ》は一瞬《いつしゅん》、桐乃がついにキレて友達をぶっとばしたのかと背筋《せすじ》が寒くなったのだが――
『やぁだぁ〜、も〜っ。痛いってばっ※[#中白ハートマーク]』
見当違《けんとうちが》いの心配だったらしい。桐乃の打撃《だげき》を喰らって、そんな軽口《かるくち》が叩けるわけがねえ。
どうやら桐乃は、友達をぽかぽか[#「ぽかぽか」に傍点]叩きながら『怒ったゾ』と主張しているらしい。
『だめ。ちゃんと反省しないと許してあげないっ』
『そんなぁ〜』
ぬ、ぬるい[#「ぬるい」に傍点]。ぬるすぎる……つうか気色悪《きしょくわ》りーよ!? うおお鳥肌《とりはだ》が……!
猫を被った桐乃のあまりの異様《いよう》さに、俺は戦慄《せんりつ》を禁じ得なかった。
『ま、まぁまぁ……桐乃、そのへんでやめときなよ。ほら、この子も反省してるし……ね?』
桐乃をそう言ってなだめたのは、また別の声だった。
『うーん、どうしよっかなー。詮索《せんさく》をやめてくれるんなら、許してあげるケド……』
声はこちらまで届かなかったが、皆がうんうん頷《うなず》いたような気配《けはい》を俺は察した。
再び桐乃をなだめたのと同じ声が聞こえてくる。話を変えようとしているようだ。
『そうそう。ところでさ。桐乃って、お兄《にい》さんいたんだね? 知らなかったよ』
バッ。俺が壁に耳をくっつけることを、誰《だれ》が責められよう。
俺は興味《きょうみ》しんしんで耳を澄《す》ませた。
『……う……そ、それが?』
『なんでそこで嫌《いや》そうな顔するの。優しそうな人じゃない?』
『えー?』
なにその返事。せっかく兄貴《あにき》が褒《ほ》められてんのに『えー?』って、ひどくね?
だが桐乃《きりの》が発した次の台詞《せりふ》は、そんなもんじゃなかった。
『眼科《がんか》行った方がいいよ……? それゼッタイ目の病気だって』
『そ、そんなことないと思うけど…………たぶん』
たぶんて。庇《かば》ってくれんのはいいけど、ずいぶん自信なさげっすね……。
俺《おれ》が少々へこんでいると、他の友達も俺の品評会《ひんぴょうかい》に加わってきたらしい。
『あたしも見た見た。チラッとだけど。なんかぁ、桐乃にぜんっぜん似《に》てなかったよね?』
うっせクソガキ。ほっとけや。オメーに言われんでも承知《しょうち》してるっつの。
『むしろ地味《じみ》っていうかぁ――』
『あはは、言えてる言えてるーっ。なんていったらいっかなぁ……あ、アレアレ。十年後とかぁ、フッツーにしょぼい中小|企業《きぎょう》とかに勤めて、課長《かちょう》とかやってそうじゃね?』
『うっわビミョー……でも分かる。あの顔はそんな感じだった』
あはははは、と楽しそうに笑い合う。
……女子中学生、口ワリー……。妹の友達からの俺|批評《ひひょう》なんて、聞きたくなかった……。
別に、俺が地味なのも、そういうイメージなのも事実だけどさ……
中小企業の課長って、おまえらがバカにしていいもんじゃねーと思うよ?
あー落ち込むなぁ……。
『あれ? 桐乃ぉ……なに黙《だま》り込んでんの?』
『……別に?』
桐乃の部屋《へや》では、そのあともしばらく俺をネタにして盛り上がっているようだった。
……勝手《かって》なことばっか言いやがって。いい加減《かげん》にしろって怒鳴《どな》り込んでやろうかい。
と、俺は非常に不愉快《ふゆかい》な気分で憤慨《ふんがい》していたのだが――そんな真似《まね》はできやしない。
どうせ俺は、腰抜《こしぬ》けのへたれだからな。妹の友達に言いたいこと言われたからって、どうしようもないんだよ。……それだけだ。他に理由なんて、ないんだからな。
妙《みょう》な勘違《かんちが》いをするんじゃないぞ。
心臓《しんぞう》に悪い会話をそれ以上|聞《き》いていられず、俺はそーっと一階へと退避《たいひ》した。
――あいつら、もう一階には下りてこんだろうな……。
冷蔵庫《れいぞうこ》を開けると、桐乃が用意したのであろうコーラがまだ残っていたので、ありがたくそれを飲むことにする。
「ぷは」
息をついたところで、ぴんぽーん、とインターホンが鳴った。
――桐乃の友達が遅れてきたのか?
当然俺《とうぜんおれ》はそう思ったのだが、玄関《げんかん》そばまで様子《ようす》を窺《うかが》いに行ったところで、
「高坂《こうさか》さ――ん。宅急便《たっきゅうびん》で――す」
「あ、はーい。はいはいはいはい……っと」
俺はそそくさと玄関の扉《とびら》を開ける。と、そこには宅急便|配達《はいたつ》の兄《にい》ちゃんが笑顔《えがお》で立っており、ダンボールを抱《かか》えていた。求められるがまま伝票《でんぴょう》にサインをし、荷物を受け取る。
「ども、ありがとうございましたーっ」
元気よく頭を下げて、兄ちゃんは車に戻っていく。
そして――
俺の手には、ダンボールの箱が残された。週刊|漫画《まんが》四〜五冊ぶんくらいの高さで、まぁ、それほど大きくも重くもない。せいぜい一〜二キロってところだろう。
「……ふむ」
なんだろうな、これ? 俺には心当たりがないので、親父《おやじ》かお袋《ふくろ》、あるいは妹あてだとは思うのだが……。伝票を見てみると、受取人《うけとりにん》は『高坂|京介《きょうすけ》さま』となっている。
「んんっ? 俺あて?」
俺はさらに目を凝《こ》らして、伝票を検分《けんぶん》する。依頼人《いらいにん》の名義《めいぎ》は、まったく知らない女の名前で、中身《なかみ》の表記《ひょうき》は『化粧品類《けしょうひんるい》』となっていた。
なんだあ――?
どうして俺あてに、知らない女から、化粧品が届くわけ? 意味|分《わ》かんねーんだけど。
俺はまったくわけが分からず、首をひねった。
ここで考えていても仕方がない。そう思ったところでちょうど、桐乃《きりの》が階段を下りてきた。
さっきのインターホンを、こいつも聞いていたのだろう。不機嫌《ふきげん》そうに聞いてくる。
「あ、アンタが出たんだ。で? なにその箱」
「分からん」
「はあ? ……なにそ」そこで桐乃の表情が|驚愕《きょうがく》に染《そ》まった。「あっ!? そのデザイン……」
「あん? やっぱおまえのだったのかコレ? 俺の名前で通販《つうはん》したとか――ってオイ」
桐乃は慌《あわ》ただしくだんだん音を立てて階段を駆《か》け下り、俺の手からダンボールをひったくるや、嬉《うれ》しそうな声を上げた。
「エタナー≠フ箱じゃん! ウソ、なんでなんで? なんであるのっ?」
桐乃は俺の方を見て、困惑《こんわく》と期待が入り交じったような表情になる。
「え? なに? これ……あたしに?」
「は? あ、いや……」
「すごー! これ、あたしでもなかなか手に入らないんだよ!」
なんのこっちゃ分からんが、何やら勘違《かんちが》いが発生《はっせい》しているようだな。どうやらコイツ、このブツを俺からのプレゼントだとでも思ったらしい。よく考えろよ、どうして俺がおまえに化粧品なんざくれてやんなくちゃなんねーの?
「しょうがない、もらっといてあげてもいいよ」
なんてやつだ、誤解《ごかい》を解《と》く気がどんどん失せていくな……。ところでエタナー≠チてのは、メーカーの名前っぽい。ダンボールに英語でエターナル・ブルーなんとかって書いてあるのが見えた。
桐乃《きりの》の嬉《うれ》しげな態度からすっと、いいものなのかもな。知らんけど。
でもさぁそれ、開けちまっていいのか? 桐乃が頼んだものじゃないみてーだし、どうして俺《おれ》あてにこんなもんが届けられたのか、まだ分かってねーんだぞ?
そりゃ、爆弾《ばくだん》が入ってるとは言わんけどさあ。何かの間違《まちが》いってことだって……
「しかもこれ……今年の新作《しんさく》じゃん! さっきからアンタがヘボいせいで溜《た》まりまくってた怒《いか》り、これでチャラにしてあげるから!」
「いやそうじゃな――お、おいっ!」
俺が何かを言う前に、桐乃は、よく分からん傲慢《ごうまん》な台詞《せりふ》を残し、謎《なぞ》のダンボールを持ったまま階段を上っていった。
怒《おこ》ってたの許すって? 俺がヘボいせいで? ……なんのこっちゃ?
……ったく、一言もやるなんつってねーのによ。
と、そのとき。
シリのポケットに突っ込んであった携帯《けいたい》が、ブルブルと震え始めた。
む、誰《だれ》だ? 登録《とうろく》してない番号からの着信に、いぶかりつつも出てみる。
「はい、高坂《こうさか》ですけど……」
『……京介《きょうすけ》さん?」
携帯から聞こえてきたのは、落ち着いた女の声だった。
――だ、誰《だれ》?
俺を『京介さん』なんて呼ぶ女に心当たりはない。当惑《とうわく》しながら|誰何《すいか》する。
「えっと……どちらさまっすか?」
『? ああ……』
相手《あいて》は得心《とくしん》の吐息《といき》を漏《も》らし、こう名乗《なの》った。
『いや〜、これは失敬《しっけい》っ。京介|氏《し》! 拙者《せっしゃ》、沙織《さおり》≠ナござるーっ!』
「うお」
いきなりでっかい声出すもんだから、びっくりしちまった。
「え、おまえ……沙織≠チて……あの沙織≠ゥ?」
そういや昨日《きのう》、こいつと電話したから、向こうも俺の番号|知《し》ってるんだっけな。
『ふむむん、京介氏が他に何人の沙織≠ウんとお知り合いなのか、図りかねるところではこざいますな。強《し》いて申し上げるならば、もっとも美しく可憐《かれん》な眼鏡《めがね》っ娘《こ》の沙織≠ナござる』
「そもそも『ござる』とか言う沙織《さおり》≠ウんは、俺《おれ》の知る限り他《ほか》に存在しねえよ」
『然様《さよう》でござるか。はは、いやぁ、なにやら照れますな』
「褒《ほ》めてねーよ。ところで俺に何か用か?」
『こらこら京介氏《きょうすけし》。休日に電話を掛けてきた女の子に向かって、その言《い》い草《ぐさ》は感心しませんぞ? まるで用がなければ電話を掛けてはいけないみたいではありませんか?』
説教《せつきょう》されてしまった……。まあ、そうだな、反省しよう。
『京介氏あてに送った荷物、そろそろ届きましたかな?』
その台詞《せりふ》には心当たりがありすぎた。見知らぬ女からなんでこんなもんが届くんだと思ったら……そうだよな。依頼《いらい》人の名前んところに、ハンドルネームは書かねぇよな普通。
「……荷物って、もしかして化粧品《けしょうひん》メーカーの箱に入ってるヤツ?」
『ええ、それです。無事《ぶじ》、届きましたか、それはよかった。いや、実は住所も電話番号も知っているのに、きりりん氏の本名《ほんみょう》を聞いていなかったものでして――』
「それで俺あてに送ったってわけか」
そういや俺も、沙織と一緒《いっしょ》のときに桐乃《きりの》の名前は呼ばなかったっけ、一回も。
うーむ。友達なのに本名知《ほんみょうし》らないって、妙《みょう》な話だよな……。ネットで知り合うってのは、そういうもんなのかね。ま、それで上手《うま》くやれてんなら、別に悪いとは言わねえさ。
「もう桐乃にゃ渡しといたよ。だいぶ喜んでたみてーだ。よく分からんが、ありがとうな」
沙織は『それはなにより』と、明るい声で答えてくれた。
……いいヤツなんだよなー、こいつ。超変《ちょうへん》テコだけど。
「でもいいのか、あんな――化粧品? もらっちまって。……高いもんじゃねえの?」
あの桐乃が喜ぶくらいなんだから、相当《そうとう》なもんじゃねえかと思うんだが。
『……ふむ、勘違《かんちが》いしていらっしゃるようですな、京介氏?』
「あん?」
『確かにあの箱は、拙者《せっしゃ》が海外に行ったときに買った、少々|高価《こうか》な化粧品セットが入っていたものなのですが――いま中に入っているのは[#「いま中に入っているのは」に傍点]、ぜんぜん別の品物ですぞ[#「ぜんぜん別の品物ですぞ」に傍点]?』
「………………」
えーと、いま何つったこいつ? あの中に入ってんのは、化粧品じゃねーって……言った?
「じゃあ何が入ってるんだ?」
俺はなんでもないように聞いてみた。
なんでもないような声で返事がくる。
『メルルとシスカリの同人誌《どうじんし》セットその他《ほか》です』
「ちょ……」
俺は絶句《ぜっく》して、携帯《けいたい》を取り落としそうになった。その響《ひび》きが危険だということだけは、瞬時《しゅんじ》に察したんだよ。ま、待て。待て待て、落ち着け……!
荒れ狂う内心《ないしん》とは裏腹《うらはら》に、きわめて普通の声色《こわいろ》で問うた。
「エロいやつ?」
『それはもう』
バッ。俺《おれ》は階段の上を振り仰《あお》いだ。ごくりと生唾《なまつば》を呑《の》み込む。
その間も通話は切れず続いており、
『きりりん氏に以前から捜索《そうさく》を頼まれていたレアものが、つい最近ようやっと手に入りまして――最新のイベントで購入《こうにゅう》したシスカリ本や、京介氏《きょうすけし》のために作った拙者《せっしゃ》のお手製《てせい》攻略本《こうりゃくぼん》と合わせて、早速《さっそく》昨日《きのう》送ったという次第《しだい》で……。ああそうそう、ベッドシーツも入れておきましたので。ファファファ……なぁに感謝《かんしゃ》などいりません。拙者と京介氏の仲ではありませんか?』
落ち着け――俺は、全身全霊《ぜんしんぜんれい》を振り絞《しぼ》って、錯乱《さくらん》しかけた精神を沈静《ちんせい》させた。
いまはこいつにキレてる場合じゃねえ。
「すまん急用《きゅうよう》ができた! またかけ直す!」
ぴっ。通話を切って携帯《けいたい》をしまう。
「うっわ絶対やべえって!」
沙織《さおり》のヤツ! ものすげータイミングで爆弾《ばくだん》を送り付けてきやがって!
あの野郎《やろう》〜〜伝票《でんぴょう》の品名を化粧品《けしょうひん》って書いて化粧品メーカーの箱に詰めてきたのは、あいつなりにカムフラージュのつもりなのかもしんねーけどさあ、むしろ今回の場合|逆効果《ぎゃくこうか》だよ!
女子中学生の興味《きょうみ》、超惹《ちょうひ》いちゃってんじゃん……。
アレが同級生の前でお披露目《ひろめ》された日には、とんでもないことになるぞ! あーもう! どうすんだ! しゃれになんねーぞこれっ! てかベッドシーツってなにさ? 一緒《いっしょ》に箱詰《はこづ》めされてるもんを考えると、悪い予感《よかん》しかしねえぞオイ!
そこで俺は、先日《せんじつ》発見した『イラスト付き抱《だ》き枕《まくら》』のことを思い出した。
ま、まさか……まさかベッドシーツって…………
ぐっわあああああ! 絶対そうに違いない! まだ開けてんなよォ〜〜〜〜〜〜桐乃《きりの》ッ!
俺は超慌《ちょうあわ》てながら階段を駆《か》け上り、妹の部屋《へや》へ。
ぐいっ。考えなしに扉《とびら》のノブを捻《ひね》った。幸い|鍵《かぎ》は掛かっておらず、あっさり開く。
「桐乃っ!」
「!」
部屋に踏み入るや、俺は室内を高速で見回す。妙《みょう》に甘い匂《にお》いのする部屋だ。以前入ったときよりも、匂いが強い気がする。
八|畳《じょう》ほどの広さに女子中学生が、桐乃を含《ふく》めて四人いた。桐乃は勉強|机《つくえ》の椅子《いす》に座っており、その他《ほか》二人は猫《ねこ》の座布団《ざぶとん》を敷《し》いた床《ゆか》に座り、最後の一人はベッドに腰掛《こしか》けている。
そして――幸い、パンドラの箱はまだ開かれる前だった。
ダンボールは部屋の中央、床にどしりと置かれており、桐乃の友達の一人が、頑丈《がんじょう》に箱を閉ざしているガムテープを、爪《つめ》でかりかりひっかいていた。
冷《ひ》や汗《あせ》だらだらデコに貼《は》っ付けている俺《おれ》――無断《むだん》で部屋《へや》に踏み入ってきた無礼者《ぶれいもの》に、女子中学生たちの視線《しせん》が一斉《いっせい》に集中する。各々《おのおの》のタイプこそ違っているが、さすがに桐乃《きりの》の友達だ。
みんなえらいかわいい子ばかりだった――って! いまはそんな場合ではない!
桐乃が、勢いよく椅子《いす》を鳴らして立ち上がった。
「ちょっとやだっ!? なに勝手《かって》に入ってきてんの!」
もの凄《すご》い剣幕《けんまく》と形相《ぎょうそう》だ。
「あ……いや……その、な?」
人の気もしらねえで! なんだそのハエを見る目はよお!
くっそー、俺を追い出したら泣くのオメーなんだぞ? 分かってねーんだろうけどよ。なんだって俺はコイツの世間体《せけんてい》を護《まも》ろうとしてるんだろうな! ったく報《むく》われねえ話だぜ!
「勝手に開けてごめんな? 申《もう》し訳《わけ》ない。えっと、ちょっとした手違《てちが》いがあったんスよ……」
へこへこ愛想笑《あいそわら》いしながら、ブツへの距離《きょり》を詰めるべく一歩を踏み出す。
が、桐乃がそれを強硬《きょうこう》に阻《はば》んだ。
「は? 手違い? いいから出てって。早く。いますぐ」
ずんずん部屋を横切って俺に肉薄《にくはく》するや、両手でぐいぐい押し出そうとしてくる。
「ちょ、待て……そうじゃないんだ! 話を聞いてくれ……」
「うるさい! 出てけって言ってるでしょ!」
取り付く島もない。これは桐乃にしてみりゃ、ごくごく自然な行動だろう。こいつは俺のことが大嫌《だいきら》いで、バイ菌《きん》の温床《おんしょう》か何かだと思っているフシがある。しかもさっきの会話からすると、俺の評価《ひょうか》はこの女子中学生|軍団《ぐんだん》の中でボロボロらしいしな。
一秒たりとも、俺と友達とを接触《せっしょく》させたくねーってのは、分かるよ。分かるんだけどな……
「いや、だからさ……ちょっと話を聞いてくれって! ちょっとだけだから! それさえ終わったらすぐ出て行くから……!」
桐乃は、俺を押し出す勢いはまったく緩《ゆる》めず「なにが!?」と叫ぶ。
「箱だよ箱――おまえがさっき俺の手からひったくってった箱! 返してくれよそれ!」
「はああ? そんな理由で入ってきたわけ!? 一回くれたもんじゃん! イミ分かんない! いいから出てけ!」
と言いつつ、やはりぐいぐい押し出そうとしてくる桐乃。俺はもどかしげに唇《くちびる》をゆがめる。
説明してやる余裕《よゆう》もない。
「……くっ」
気付け……! 兄の意図《いと》に気付くんだ桐乃……! その中身《なかみ》はエロ同人誌《どうじんし》なんだって……!(ちなみに同人誌とやらについては、先日のアキバ巡りで不本意《ふほんい》ながら学習させられたんだぜ。女三人|連《つ》れてエロ本|売《う》り場《ば》を見て回るとか、なんの拷問《ごうもん》かと思ったもんよ)
「キモいからこっち見んなっ!」
兄妹|同士《どうし》で通じ合うテレパシーとか、昔テレビでやってたけど、ウソだなありゃ。
俺《おれ》の願いなんざ、何一つ伝わってねぇ。
仕方ないので、ちょっと強引《ごういん》にやることにした。
「くっ……スマン!」
俺は桐乃《きりの》の手をやや強引に振り払い、逆に二《に》の腕《うで》あたりを掴《つか》んで、上手《うま》く体勢を入れ替えた。
その際、妹からの即座《そくざ》の反撃《はんげき》がくると思っていたのだが――少なくとも即座にはこなかった。
「ひゃっ」という女の子みたいな悲鳴を漏《も》らし、自分の身体《からだ》を抱《だ》きかかえるようにしただけだった。腕に触《さわ》っただけだろ! 妙《みょう》な反応をするんじゃない!
ま、まあいい。いまはそれどころじゃないからな。とにかく最大の障害《しょうがい》は突破《とっぱ》した。
さぁブツはどこだ!?
箱の方に目をやると、そこには桐乃の友達が三人、きょとんとした顔でベッド付近に座っている。そのうちの一人、背の低い女の子が箱をふとももで挟むようにしている。テープを剥《は》がそうとしていた子だ。俺はその子に向かって片掌《かたて》を立てる。
「え、えーと。ちょっとごめんな?」
箱に手をのばしたところで、箱をふとももに挟んでいた子が、バッと箱を後ろ手に隠《かく》した。
でもってニヤリと悪戯《いたずら》っぽい笑《え》みを浮かべ、
「いひ」
こ、このクソガキ! 他人《ひと》の嫌《いや》がることを機敏《きびん》に察知《さっち》しやがって……。
さっき俺の悪口《わるくち》で盛り上がってたのも、絶対おまえだろ!
俺は、顔面を笑顔《えがお》の形に凍り付かせたまま、こめかみにビキビキと青筋《あおすじ》を浮かべた。
「ははは、いたずらはやめてくれよ」
乾いた笑い声を上げながら、さらに手をのばす俺。
バックステップしてベッドの上に逃げるクソガキ。
ぬう〜〜ッッ。
逃げたガキに向かって、さらに手をのばそうとしたところで。
がしっと胸ぐらを掴まれた。桐乃だった。
「いい加減《かげん》にしてよ! 人の友達が遊びに来てるときくらい、大人《おとな》しくしてらんないワケ!?」
恐《こ》ッえー! 親父譲《おやじゆず》りの眼光《がんこう》が、俺の両眼《りょうめ》を真《ま》っ直《す》ぐに突き刺《さ》していた。
女の花園《はなぞの》に侵入《しんにゅう》した賊《ぞく》に、死の制裁《せいさい》がいままさに加えられようとしているかのようであった。
こいつ、マジで怒ってやがる。まぁ逆の立場だったら俺だって怒るかもしれんし、しょうがねえよな。だが、妹よ……俺はここでいい加減にするわけにゃいかんのだ。
別におまえのためじゃねえぞ。一度|乗《の》りかかった船から途中《とちゅう》で降りんのが、俺の性《しょう》に合わねーだけだ。せっかくこの俺が、おまえの人生《じんせい》相談とやらに付き合って、親父にブッ飛ばされたり、エロゲーやらされたりとヒデー目に遭《あ》ってさあ、それなりに成果《せいか》も出てたってのに。
ここで台無《だいな》しになったらシャクじゃねーか。
なので俺《おれ》は、険《けわ》しい妹の瞳《ひとみ》を、真《ま》っ直《す》ぐに睨《にら》み据《す》えた。
「桐乃《きりの》っ!」
「……な、何よ……怒《おこ》ったワケ?」
俺の威嚇《いかく》で、さすがの桐乃も一瞬怯《いっしゅんひる》む。その隙《すき》を見逃《みのが》さず、俺はでかい声で言った。
「あっ! あんなところにゴキブリが!?」
「……えっ?」
我《われ》ながら古典《こてん》的でお粗末《そまつ》な作戦だったが、上手《うま》くいった。俺が指差《ゆびさ》した先に、俺|以外《いがい》の全員の注意が集中する。その間隙《かんげき》を衝《つ》いて、俺は素早《すばや》く行動。胸ぐらを掴《つか》んでいた桐乃の手を振り払い、一気にダンボールへの距離《きょり》を詰め――
「悪《わり》い!」
「あんっ」
後《うし》ろ手《で》に隠《かく》されていた箱を、腕《うで》を回り込ませて強引《ごういん》に奪取《だっしゅ》。
くそ、このガキも、変な声出しやがって……。まるで俺が変態《へんたい》みたいじゃねぇかよ……。
「お、お邪魔《じゃま》しましたぁ〜……」
俺は自分の尊厳《そんげん》がズタズタになっていくのを自覚《じかく》しながら、ずだだだだっと素早《すばや》く部屋《へや》の外へ脱出《だっしゅつ》した。
ううっ……休日の昼間《ひるま》っから、どうしてこんな心臓《しんぞう》に悪いことをしてるんだ俺は……。
マジで泣けるぜ……ぐすっ。
ふぅ……まぁ、とりあえず……これでなんとかなっ……
「ちょっと! 待ちなさいよ!?」
てねぇ! 桐乃のやつ廊下《ろうか》まで追って来やがった!
バッカ、なんでおまえはそう負けず嫌《ぎら》いなんだよ!
「あ――あとで事情は説明すっから!」
「うるさい! 人の休日をめちゃくちゃにしておいて、何よその言《い》い草《ぐさ》!」
それはこっちの台詞《せりふ》だ! よっぽどそう言ってやりたかったよ。
俺は半《なか》ば飛び降りるような形で、階段を駆《か》け下りていく。
「待て!」
陸上部のエース様の脚力《きゃくりょく》は伊達《だて》じゃなかった。あっという間に距離を詰められてしまい、俺は方向|選択《せんたく》の自由を与えられなかった。
「……くっ」
廊下の袋小路《ふくろこうじ》に追い詰められた俺は、比類《ひるい》ない危険|物《ぶつ》を抱え込んだまま後退《あとずさ》る。
桐乃は俺の手にある箱を掴むや、全力で引っ張ってきた。
「返せ!」
「だ、だめだっつってんだろ!?」
兄妹がダンボールを奪い合う光景《こうけい》は、傍《はた》から見りゃあ、ガキの喧嘩《けんか》そのものだったろうよ。
弁解《べんかい》をさせてもらえれば、このとき二人とも頭に血が上ったり焦《あせ》ったりで、まともな思考《しこう》をしていなかったんだよ。
「ぐぬぬぬ……」「ぎにににに……」
両者はともに歯を食い縛《しば》っていた。拮抗《きっこう》する力と力。腕力《わんりょく》だけなら俺《おれ》の方が強いはずだが、桐乃《きりの》はダンボールを引っ張りながら、しきりに蹴《け》りを放ってくるので、互角《ごかく》の勝負に持ち込まれてしまっていた。痛い! 痛いっつーの!
「やめろ! この!」
「うっさい! 死ね! 死ね死ね死ね死ね死ねぇっ!」
主に下半身《かはんしん》を狙《ねら》った蹴りの乱打《らんだ》から、俺は必死になって急所《きゅうしょ》を守るしかなかった。
い、いかん……! このままでは負ける……!?
怒《いか》れる妹のパワーに、俺が屈《くっ》しようとした瞬間《しゅんかん》――
「ひゃあっ」
つるんっ。桐乃が、バランスを崩してすっころんだ。
よく磨《みが》かれたフローリングを足場《あしば》にして、全力で箱を引っ張りつつ、ソックス履《は》いたまま兄を蹴りまくっていたのだから、当然だろう。
「お、おい――うおっ」
箱を奪い合っていた相手《あいて》たる俺も、当然のようにそれに巻き込まれた。
ダンボールが宙《ちゅう》に舞い、俺の目の前で桐乃が仰向《あおむ》けにひっくり返っていくのがスローモーションのように遅く見えた。
「危ねえ!」
俺は前のめりに倒れながらも、咄嗟《とっさ》に手をのばし、桐乃の後頭部《こうとうぶ》に差し入れた。
言っておくが、あくまでこれは無意識《むいしき》の行動だった。別に妹を助けようとしたわけじゃない。
どしんっ! 俺たちは重なりあって倒れ込んだ。桐乃の後頭部と床《ゆか》に挟まれた掌《てのひら》に、鋭い痛みが走る。
倒れ込んだまま目を開けると、すぐ間近《まぢか》に妹の顔があった。何が起こったのか分からない――そんな呆然《ぼうぜん》とした表情をしている。たぶん俺の方も同じだろう。
痛みはあるが、桐乃も俺も、たいした怪我《けが》はなさそうだ。
……ってて。
「………………」
「………………」
ぴったり密着《みっちゃく》して、折り重なるように倒れたまま、俺たちは数秒間《すうびょうかん》見つめ合った。
お互いに、事態《じたい》を認識《にんしき》する時間を必要としていたのだろう。
俺《おれ》の右手は、あたかも妹の顔を自分の顔に引き寄せようとしているかのような形で、桐乃《きりの》の後頭部を押さえており。
俺の左手は(断じてわざとではないが)妹の、大きくめくれあがった服から覗《のぞ》くブラジャーを、いまにも引き毟《むし》ろうとしているかのようであった。
そして俺たちの下半身《かはんしん》は、もつれ、互いのふとももを密着させる形で絡《から》まり合っている。
「――――――」
この窮地《きゅうち》にあって、俺の脳《のう》は以下のようなことを考えていた。
……エロゲーだったら、このシーンには絶対イベントCGがあるよな……。
しょ、しょうがねえだろ! つい最近やったゲームで、まったく同じシチュエーションがあったんだよ! と、誰《だれ》にともなく心中《しんちゅう》で弁明《べんめい》していたときだ。
ようやく事態《じたい》を認識《にんしき》した桐乃の表情が、ひくっ、と引きつった。
次いで、整った顔が真《ま》っ赤《か》に茄《ゆ》で上がる。小さな唇《くちびる》が、ふるふると震《ふる》え始めた。
「なっ……!? な、な、なな……!?」
「お、お、おおお落ち着け……! これは不可抗力《ふかこうりょく》だということを、おまえも分かっているはずだ……!」
「こ――この変態《へんたい》っ! シスコン! 強姦魔《ごうかんま》ッ!」
「わざとじゃねぇ――!? それと俺《おれ》は断じてシスコンではない!」
「うるさいっ! と、とにかく離れ――」
そうやって俺たちが錯乱《さくらん》した頭でぎゃあぎゃあがみがみやっていたときだ。
「「「キャ――――――――――――――ッ!?」」」
背後から甲高《かんだか》い悲鳴が上がった。そこで桐乃《きりの》の顔色がサッと青ざめ、全身を硬直《こうちょく》させた。
どうやら俺の背後に、何か恐《おそ》るべきものを見てしまったらしい。
俺も絶望的な気分でそーっと振り向く。
「げ……」
桐乃の友達が集まってきていた。
「き、桐乃……?」
「うっわ〜……ちょっとコレは引くよ〜〜ぅ?」
「まさか禁断《きんだん》の恋《こい》っ!? 二人はそういう関係だったの!?」
女子中学生どもは、俺の想像《そうぞう》の斜め上を行く誤解《ごかい》をしていた。
なんでそうなるんだよ! このマセガキどもめ!
「「違《ちが》っっが―――――――――――――――う!!」」
俺と桐乃は、声を揃《そろ》えて同じ台詞《せりふ》を叫んだ。
ある意味では、兄妹の気持ちが強固《きょうこ》に繋《つな》がった一瞬《いつしゅん》だったさ。
それから数《すう》時間|後《ご》――
「ふぅ…………」
俺は縁側《えんがわ》に腰掛《こしか》け、しょんぼりとうなだれていた。
あれからどうなったのかというと――
あんな騒動《そうどう》があったものの、俺はなんとか例の箱を守りきることができた。
妹と友達の距離《きょり》が離れた隙《すき》に、桐乃に特別な事情[#「特別な事情」に傍点]をどうにか説明したし、友達にも、あれは事故だったのだと(本当に納得《なっとく》してくれたかどうかは分からんが)釈明《しゃくめい》することができた。
しかし、妹は事情を理解したあとでも怒《いか》りが収まらないらしく、俺にさんざん理不尽《りふじん》な制裁《せいさい》を加えた上で、こう言いやがったのだ。
『追放《ついほう》追放追放ッ! みんなが帰るまで、絶対|家《いえ》に入ってこないで! この変態《へんたい》!』
どうやら誤解《ごかい》云々《うんぬん》よりも、俺に胸を触《さわ》られたことをお怒りになっているらしかった。
別に触りたくて触ったわけじゃねーのにさ……。
こういうとき、女はずるいよな。そう思わないか?
「おーいて。まだ痛《いて》ぇよ……くそ」
とまぁ……そういうわけで、俺はこうして一時間以上、縁側で黄昏《たそが》れているってわけさ。
背後にはリビングがあるが、窓には鍵《かぎ》がかかっている。
「あ〜〜〜あ……」
めちゃくちゃ憂鬱《ゆううつ》な気分で伸びをする。あくびを一発《いっぱつ》かましたところで、
「おじゃましましたぁ〜〜」
玄関《げんかん》の方から、そんな声が聞こえてきた。身を乗り出してそちらを見ると、女子中学生どもが玄関の門のところに集まっている。どうやら帰るところらしいな。
……フゥ……ようやくこれで家《いえ》ん中《なか》に入れてもらえる……。
我《われ》ながらなんという負け犬|思考《しこう》。つーか高坂家《こうさかけ》における長男《ちょうなん》の立場の低さはいったいなに?
いつもなんとかしなければとは思うのだが、一度|定《さだ》まってしまった流れを変えるのは、とてもとても難《むずか》しいものなのだ。
……それにしても、今日は散々《さんざん》だったぜ。
もはや桐乃《きりの》の同級生たちの、俺《おれ》への印象《いんしょう》は最悪《さいあく》だろう。一応《いちおう》釈明《しゃくめい》したとはいえ、一度|貼《は》られてしまった『妹を襲《おそ》う鬼畜兄《きちくあに》』というレッテルを剥《は》がすことができたとは思えない。
別にいーけどな。確かにみんなかわいい顔してたけど、あんなクソガキどもに嫌《きら》われたって、俺はぜんぜんまったく気にしねーよ。……ほんとだぞ?
ぐすっ。俺は(あくまで感情とは無《む》関係に!)鼻をすすり、汗ばんだ顔をシャツで拭《ぬぐ》った。
夕方とはいえ、蒸《む》し暑い。
「……ちっ……なんだかな……」
不快な要素《ようそ》が色々《いろいろ》と積み重なって、俺は非常〜に鬱屈《うっくつ》した気分になっていた。
さて、家に入るか……。
縁側《えんがわ》から立ち上がり、ダンボールを抱えて、女子中学生どもが去った玄関に向かう。
と――
そこに、一人の女の子が小走《こばし》りで戻ってきた。そして俺の目前《もくぜん》、つかず離れずの微妙《びみょう》な位置で立ち止まる。
「あのぉ〜」
「……はい?」
げげっ……桐乃の友達のひとりじゃねえか……。
な、なんだ……? いまさらこの俺に何を言うつもりだ?
「……ええと……俺に、何か?」
からかいの言葉でもかけられるのかと、内心《ないしん》身構《みがま》えていたのだが、そうではなかった。
「その、箱のことで……ちょっとお話がっ」
「……あー……やっぱ中身《なかみ》気になる? 悪いけどさ……」
見せられない――そう続けようとしたら、「あーいえっ、違うんですよっ」と返された。
「詮索《せんさく》したりするつもりはなくて。いえ、もちろん気にはなりますしっ、その……中身についてのことなんですけど。あっ……これじゃやっぱり、詮索することになっちゃうのかなぁ」
彼女は少し迷っていた様子《ようす》だったが、やがて意を決したように言った。
「その箱って、桐乃《きりの》が自分で開けたら、いけないものだったんじゃないですか?」
「え?」
なんで分かったんだ? 俺《おれ》がいぶかっていると、彼女はこう続けた。
「だって、さっきの桐乃のお兄《にい》さん、妹に嫌《いや》がらせをしているようには見えませんでしたから。凄《すご》く必死で……一生|懸命《けんめい》で。だから、何か理由があったんじゃないかなぁって」
なるほど……この娘《こ》、お人好《ひとよ》しなんだな。俺はちょっと笑って応《こた》えた。
「はは……俺には、この箱を、桐乃に開けさせちゃマズイ理由があったって?」
「はい! だって、伝票《でんぴょう》の受取人《うけとりにん》も、お兄さんの名前になっていましたし! もしかしたら、後々《のちのち》特別な日に渡すつもりだった、桐乃へのプレゼントだったとか――そういう事情があったんじゃないですか? だから桐乃に嫌がられたのに、ああいうことをしたんじゃないですか?」
「そんなんじゃないよ」
俺は正直に答えた。俺はそんなに優しい兄貴《あにき》じゃない。
彼女の推理《すいり》は的《まと》はずれだったが……少しだけ慰《なぐさ》められたような気分になった。
「そうなんですか?」
自分の考えを俺に否定された彼女は、それほど気にした様子《ようす》もなく、きょとんとそんなことを言った。気を取り直して、
「じゃあ、何か他《ほか》の事情があったんですね、きっと! それがなんなのか、わたしには分かりません。でも、どうか桐乃のこと、許してあげてください! わたしなんかがお兄さんに言えるようなことじゃないかもですけど、あの娘、ちょっと我《が》が強いところがありますから」
いや、ちょっとじゃないよ? ぜんぜんちょっとじゃないよ?
女の子は顔を上げ、両手をぐっとガッツポーズのように握《にぎ》り、こう主張した。
「だけどっ、本気《ほんき》でお兄さんのこと嫌《きら》ってるわけじゃないと思うんですよ!」
「そ、そうかぁ?」
「絶対そうですって! 勘《かん》ですけどっ!」
簡単《かんたん》に断定するけどな、俺にはそうは思えん。兄貴のこと、めちゃくちゃ嫌ってるだろアイツ。幾《いく》らなんでもそりゃあおまえの読み違いだって。つーか、ほんとお人好《ひとよ》しなんだな。
それに加えて、結構《けっこう》思い込みが強い娘なのかもしれない。
桐乃は俺のことなんか好きじゃないし、俺はあいつのためになんか動いてない。
そりゃ事情はあったけど、この娘が考えているほど殊勝《しゅしょう》なもんじゃない。
この快活《かいかつ》でお人好しな女の子の考えは、どれもこれも大外《おおはず》れだった。でも……
「そっか。忠告《ちゅうこく》、ありがとうな。肝《きも》に銘《めい》じておく」
俺は素直な気持ちで礼を述べた。この娘は俺たち兄妹のことを想《おも》って、色々《いろいろ》言ってくれたのだし――なにより俺がそうしたいと思ったからだ。
今日|来《き》た連中《れんちゅう》は、どいつもこいつもクソガキばっかりだと思っていたが……
ヘッ、なんだよ、アイツ。学校にもいい友達、いるんじゃん。
「あはは。――いえいえっ、こちらこそ出過《です》ぎたことを」
照れ臭そうに片掌《かたて》を振ってはにかむ。俺《おれ》も微笑《ほほえ》みを返した。
「その……桐乃《きりの》のこと、これからもよろしくな」
「もちろんです! わたしたち、親友ですから! あッ」女の子は、そこでぽんと拍手《かしわで》を打ち、
「そうだ! お兄《にい》さんにちょっとお願いが……」俺に携帯《けいたい》電話を差し出してきた。
「せっかく知り合えたんですから――アドレス交換しましょう」
「なんの?」
あとから思い返してみりゃ、バカ丸出《まるだ》しの返答だった。
「やだなあ、メールに決まってるじゃないですか! 電話番号も!」
「俺と? ……なんでまた?」
「あ。ご、ご迷惑《めいわく》……でしたか?」
「や、んなことはねーけど……」
ふーむ。最近の女子中学生ってのは、結構《けっこう》簡単《かんたん》にアドレス交換とかしちゃうもんなのかね。
俺はちょっと照れ臭いような、気恥《きは》ずかしいような気分で、自分の携帯を彼女に渡した。
――ぴっ。赤外線《せきがいせん》通信で一瞬《いつしゅん》のうちにメールアドレスや電話番号がやり取りされる。
「あは、やった。ありがとうございます」
携帯を覗《のぞ》き込んで、嬉《うれ》しそうにしている彼女。
な、なんだよ……そんなに喜ばれると、こっ恥《は》ずかしいなあ。
俺は携帯を受け取り――まだ、彼女の名前すら知らないことに気が付いた。
「俺は高坂《こうさか》京介《きょうすけ》。――そっちは?」
「あ、ごめんなさい! 申し遅れました――」
女の子は、片手で頭をぽんと叩《たた》き、照れ臭そうにはにかんで、
「わたし、新垣《あらがき》あやせです」
妹の友達。あやせとの出会いは、我《わ》が家《や》の庭に、あまやかな余韻《よいん》を残していった。
あるいはそれは、彼女が付けていた香水《こうすい》の残り香《が》のせいだったのかもしれないが――
ともかくこのとき、俺は、眠り薬でもかがされたように、ぼーっとしたような気分で突っ立っていた。……なんというか、あれだな。年の近い妹がいるやつなら分かってくれると思うが、妹の友達というのは、やたらとかわいく見えるんだよ。妹と同い年の――ガキのはずなのに。
……まあいまの娘《こ》に限っては、マジで超《ちょう》美人だったけどさ。だから余計《よけい》に……むう。
頭をぽこぽこ叩いていると、背後のリビングで、鍵《かぎ》の掛かっていた窓が開いた。
そこから桐乃が、ぬっと姿を現す。
「…………………………」
超《ちょう》無表情。冷たい視線《しせん》が、俺《おれ》の眼球《がんきゅう》をぐさりと貫《つらぬ》いた。
妹は、人差《ひとさ》し指《ゆび》でくいくいと『こっちに来い』とやっている……。
「はぁ…………そうだったな。おまえ、まーだご機嫌《きげん》斜めなんだったっけな……」
甘ったるい奇妙《きみょう》な気分は、一瞬《いつしゅん》にして吹っ飛んだ。やれやれと肩をすくめる。
さーて。よそん家《ち》の美《び》少女はもう帰っちまったし。
数《すう》時間ぶりに、我《わ》が家《や》の美少女とのご対面《たいめん》といきますか。
自分でいうのもなんだが、俺《おれ》は、ごく平凡《へいぼん》な男子高校生である。
所属《しょぞく》している部活《ぶかつ》はなし、特筆《とくひつ》するような趣味《しゅみ》もなし。余暇《よか》の過ごし方といったら、テレビや漫画《まんが》を読んだり見たり、友達と町をぶらついたり――そんなもんだ。
……最近はこれに一つ、あんまり公言《こうげん》したくないものが追加されてしまっているのだが、それはまあそれだ。
無難《ぶなん》でつまらない毎日だと言われるかもしれないが『普通』でいるってのは、わりと大事なもんだと俺は思う。平々《へいへい》凡々《ぼんぼん》、目立たず騒《さわ》がず穏《おだ》やかに、のんびりまったり生きていくってのが、俺のスタンスなのさ。
「……ふあ……あ……」
休み時間の教室にて。俺は、自分の信条《しんじょう》に基づくような、のんびりとしたあくびをかました。
「あはは、今日も眠そうだねぇ。きょうちゃん?」
「まーな。最近ちっと寝《ね》不足でよ……と、サンキュ」
汗ばんだ顔に涼《すず》やかな微風《びふう》がかかる。眼鏡《めがね》の幼馴染《おさななじ》みが、となりの席から、パタパタ下敷《したじ》きであおいでくれたのだ。夏場《なつば》の学生にとって下敷きが貴重《きちょう》な冷房|器具《きぐ》だってのは、異論《いろん》の余地《よち》がないと思う。教室のあちこちで、下敷きパタパタやってる光景を見ることができた。
「どお、涼しい? テスト前だからってあまり頑張《がんば》りすぎちゃだめだよー? 無理して身体壊《からだこわ》しちゃったりしたら、意味ないんだからね?」
そんないたわりの言葉に俺は、「ああ、そうだな……気を付けるよ」と微笑《びしょう》した。
「俺はいいから、おまえ、自分をあおげって」
「わたしは別に、そんなに暑くないもん」
ウソつけ。でこに汗かいてるじゃねーか。
ふぅ……やれやれ、なんか妙《みょう》に胸が痛むな。我《われ》ながら情《なさ》けない秘密《ひみつ》を抱《かか》えちまったもんだぜ。
いや〜、俺が眠そうにしてるのって、実は毎晩|夜遅《よるおそ》くまでエロゲーやってるからなんだよね――なんて言えるはずがない。
下敷きを両手|持《も》ちして、一生|懸命《けんめい》パタパタあおいでくれているこいつには、特に。
この女は本気で、俺が勉強を頑張るあまり夜更《よふ》かししていると思っているのだ。
「そうだ、きょうちゃん。今日、わたしの家に来ない? 冷たいくずきりがあるんだ。たまには息抜《いきぬ》きも必要でしょ?」
この地味《じみ》〜な女は田村《たむら》麻奈実《まなみ》。眼鏡が似合《にあ》う俺の幼馴染みで、実家《じっか》は和菓子屋《わがしや》をやっている。
成績は上の下。部活動には所属しておらず、趣味は料理と縫《ぬ》い物。人当《ひとあ》たりが良く友達は多いが、放課後《ほうかご》に遊ぶような親しい友達となると、ぐぐっと減ってほとんどいない。
ザ・脇役《わきやく》というか、なんというか『普通』『平凡』『凡庸《ぼんよう》』という称号《しょうごう》がこれ以上しっくりくるやつもそうはいないだろう。桐乃《きりの》の対極《たいきょく》に存在するような女である。
「そりゃいいな」
「えへへ〜……やった」
麻奈実《まなみ》はいつもように、ほわほわとした微笑《ほほえ》みで喜んでくれた。
ちょっと天然《てんねん》入ってるところはあるが、それはこいつの長所《ちょうしょ》でもあることを、俺《おれ》はよく知っている。そばにいるとすげえ安心するんだよな。
「じゃあ、きょうちゃん。約束だよ?」
そう言って、麻奈実は俺の席から離れ、女《おんな》友達との会話に呼ばれていった。
代わりにそばにやってきたのは、赤城《あかぎ》という男子生徒だ。
俺が学校でよくつるんでいるやつなのだが、このときはちょっと真剣な顔つきをしていた。
「なぁ高坂《こうさか》」
「どうした、不景気《ふけいき》なツラして」
「前々から気になってたんだが、おまえって、田村《たむら》さんと付き合ってるわけ?」
この質問に意表《いひょう》を突《つ》かれた俺は、軽く目を見張った。
「いいや。……そう見えるか?」
「見える。このクラスの誰《だれ》に聞いても、同じ答えが返ってくるだろうな」
ふぅん、そりゃびっくりだ。
俺は女友達と喋《しゃべ》っている麻奈実を一瞥《いちべつ》してから、再び赤城を見据《みす》えた。
気怠《けだる》い気分で口を開く。
「……そういうんじゃねぇよ、あいつとは。そりゃ、仲は良いさ。ガキのころから一緒《いっしょ》にいたからな」
「ほーう。それじゃあ、恋愛《れんあい》感情っつーか、そういうのはない?」
「……………………」
俺が眉《まゆ》をひそめると、赤城が急《せ》かすように言う。
「ねぇの?」
「………………ああ」
俺は渋々《しぶしぶ》と答えた。俺は麻奈実に対して、恋愛感情的なものはないと思う。強《し》いて言えば妹みたいなもの……ううむ、このたとえは何か違うしイヤだな。ええと他《ほか》のたとえは……
「なぁ赤城、たとえばだ。おまえに、子供のころから一緒に暮らしている、優しいお婆《ばあ》ちゃんがいたとしよう。で、おまえは当然のように超《ちょう》の付くお婆ちゃんっ子だったとする」
「……なんだその、いまの話題とまったく関係のなさそうなたとえ話は?」
目を細めた赤城に向かって、俺は片手を突き出してみせた。
「いいから聞けって。……そんでな、ある日おまえの大好きな婆ちゃんが、魔法《まほう》で五十|歳《さい》くらい一気に若返《わかがえ》って、おまえと同い年になったとしよう。そのとき、その女の子について自分がどう想《おも》うか、想像《そうぞう》してみろ」
「……いきなりファンタジーになったな……」
当惑《とうわく》する赤城《あかぎ》に、俺《おれ》はしれっとこう言ってやった。
「つまりそういうことなんだ」
「そんなんで分かるか!」
「それならしょうがねえな。別におまえに分かってもらわなくたって困らねーよ」
もともとこの話題に乗り気でなかった俺は、それで話を打ち切るつもりだったのだが、赤城はそれをよしとしなかったようだ。
どうしてか、ちょっとムキになっているような感じだった。
「じゃあ、おまえらは付き合ってないし、今後も付き合う予定はないって認識《にんしき》でいいのか?」
「あ? なんでんなこと聞くんだよ?」
俺は質問に質問で返した。少しむっとしていたのだ。
すると今度は相手の方がたとえ話を始めた。
「たとえば……他《ほか》の男が田村《たむら》さんに言い寄っても、おまえは構《かま》わないっての?」
「は? そりゃ構うよ。ダメに決まってんだろ。誰《だれ》だその物好《ものず》きは。ぶっ飛ばすぞ」
俺が苛立《いらだ》たしげに即答《そくとう》すると、赤城は呆《あき》れたような顔になった。
「……いやおまえ、数秒|前《まえ》に『そういうんじゃねえよ』って言ったよな?」
「それがどうした」
「じゃあ何か? 高坂《こうさか》……おまえは、こう言うわけか? 田村さんとは単なる幼馴染《おさななじ》みであって、付き合っているわけじゃない。惚《ほ》れてるわけでもない。でも田村さんが他の男と付き合うのはぜってーイヤだと」
「………………悪いかよ」
くそ、どーして俺がこんな台詞《せりふ》を言わなきゃならんのだ。まるで幼馴染みへの秘《ひ》めた想《おも》いに、自分でも気付いていない鈍感《どんかん》主人|公《こう》みたいじゃねえか。そんなんじゃねーってのによ。
まあでも、この答えは俺の本心《ほんしん》ではある。
あの垢抜《あかぬ》けない麻奈実《まなみ》の魅力《みりょく》に気付くような目ざとい[#「目ざとい」に傍点]やつがそうそういるとは思えんが――もしもそんなやつが現れたなら、俺は全身全霊《ぜんしんぜんれい》をもって妨害《ぼうがい》してやる。
いいか、俺はあいつのとなりにいるのが一番落ち着くんだよ。色恋《いろこい》とか抜きにしてもな。
それを邪魔《じゃま》しようってんなら、誰だろうと許さん。
「勝手《かって》なこと言うなよ高坂……。田村さんがかわいそうだと思わねえの?」
「それこそ、おまえに言われる筋合《すじあ》いはないだろうが。本人《ほんにん》に言われたら考えてやるよ」
いー加減《かげん》にしやがれ、そういう意図《いと》で告げると、それで赤城は押し黙《だま》った。
「……ふん」
俺はごく自然な動作で、幼馴染みの姿《すがた》を探す。
するとふと目が合った。麻奈実は『どうしたの?』という眼差《まなざ》しで俺を見つめる。
俺は『なんでもねえよ』という意味で、鼻を鳴らす。
俺《おれ》と麻奈実《まなみ》との関係は、つまり、そういうものだった。
放課後《ほうかご》。俺は麻奈実に連れられて、田村家《たむらけ》へとやって来ていた。麻奈実ん家《ち》の外観《がいかん》は、古式蒼然《こしきそうぜん》とした二階建ての建物だ。日光《にっこう》江戸村《えどむら》に並んでいてもそんなに違和感《いわかん》はないと思う。
見るからに頑丈《がんじょう》そうな、わりとでかい家だ。
一階の一部が和菓子屋《わがしや》になっていて、中で飲食ができるようになっている。ちなみに来店するのは爺婆《じじばば》ばかりじゃなくて、メインの客層《きゃくそう》はなんとびっくり若い女性|客《きゃく》なんだと。
――こんなに古めかしい店なのに、分からねえもんだ。
まあ確かに、見ようによっては、長い伝統《でんとう》を誇る名店《めいてん》に見えるのかもしれないな。
「ただいまー」「……ただいま、と」
俺たちは勝手口《かってぐち》から家の中に入った。玄関《げんかん》に入った瞬間《しゅんかん》、線香《せんこう》のにおいが漂ってくる。
田舎《いなか》の爺《じい》ちゃん家と同じにおいだ。麻奈実は俺をお茶の間に通すや、
「ちょっと待っててねー」
と言って階段を上っていった。俺は片手を挙げて見送る。
「ふぅ……落ち着く」
俺は畳《たたみ》の上に足をのばし、自分の家のようにくつろいだ。ああいや、桐乃《きりの》がいない分、この家の方が気が休まるかもな。
そんなことを考えていると「おう、きょうちゃんかい」と声がかかった。
「爺ちゃん。ども、お邪魔《じゃま》してます」
「邪魔なわけがない。いくらでもゆっくりしていきな。おーい、ばーさーん。きょうちゃんが来たよー。スイカ持ってこい、スイカ――」
爺ちゃんは嬉《うれ》しげに廊下《ろうか》へと呼びかけた。するとぱたぱた足音がして、麻奈実の婆《ばあ》ちゃんがやってきた。この人もやっぱり、常にニコニコしている。違う表情を見たことがない。
「まあ、きょうちゃん。婿《むこ》に来てくれたの?」
これは婆ちゃん一流の冗談《じょうだん》で、ほとんど口癖《くちぐせ》みたいなもんだ。
俺はいつものように「いやいや、違いますよ」と苦笑《くしょう》する。そこで爺ちゃんが口を尖《とが》らせた。
「ばーさん、スイカ切ってスイカ。さっきわしが買ってきたデッカイやつあんだろ――」
「あのスイカは、食べるのにはまだ早いですよ、お爺さん」
田村家には麻奈実の他に、両親と祖父母《そふぼ》、そして弟が暮らしている。
典型《てんけい》的な核《かく》家族である高坂家《こうさかけ》とは対照《たいしょう》的な大所帯《おおじょたい》だ。
あの娘《むすめ》を見れば分かるとおり、皆、おだやかな人たちで――そして皆、程度は違えど天然《てんねん》入ってる。……とか言ってる間に、もう一人来たぜ?
「ただいま! おっ、誰《だれ》か来てんの!?」
どかどかと激《はげ》しい足音を立ててやってきたのは、田村いわお。麻奈実の弟である。
現在十四|歳《さい》。近所の学校(桐乃《きりの》とは別)に通う中学生だ。姉と同様《どうよう》、それほど目立つタイプではなく、前に会ったとき[#「前に会ったとき」に傍点]には黒髪《くろかみ》+黒縁《くろぶち》眼鏡《めがね》といういかにも地味《じみ》な姿形《なり》をしていた。
麻奈実《まなみ》の話によれば、最近|色気《いろけ》づいてきて、眼鏡をコンタクトに変えたり、洋楽《ようがく》やら何やらにハマっていたりするらしいのだが……
「あ! あんちゃんか! ういーっす!」
「ういーっす。……どうしたんだそのアタマ?」
「切った! へっへ……どーよ? ちょーカッコよくね?」
「………………」
俺は幼馴染《おさななじ》みの弟の『ちょーカッコいい新しい髪型《かみがた》』を前に、一瞬《いつしゅん》言葉を失ってしまう。
いわおは、自分の頭をぺしんと叩《たた》き、誇《ほこ》らしげに胸を張った。
「あんちゃん知ってっかー!? この髪型、いま流行のスキンヘッドっていうんだぜ!」
「いやいやいやいや! その髪型は五|厘刈《りんが》りだから! スキンヘッドじゃねえよ」
俺は突っ込まずにはいられなかった。この中学生はいったい何を言い出すんだ!
あと別に流行《はや》ってないだろ、スキンヘッド。
いわおは、全《ぜん》財産を擲《なげう》って手に入れ、長年《ながねん》自慢《じまん》し続けてきた絵画が実は贋作《がんさく》だったと知ってしまった元富豪《もとふごう》のような表情になった。
「え? え? ……はは……やだな、なに言ってんのあんちゃん? もの知らね〜なぁ……どう見てもスキンヘッドだろう、これ?」
「こんな青々《あおあお》としたスキンヘッドがあるかっ!」
五厘刈りを撫《な》でてざりざり[#「ざりざり」に傍点]してやると、いわおは『ムンクの叫び』みたいに絶叫《ぜっきょう》した。
「ウソ――ん!? ちきしょー床屋《とこや》のオッちゃんに裏切られた!?」
「まあ行きつけの床屋じゃ、常連《じょうれん》の中坊《ちゅうぼう》にスキンヘッドにしてくれって言われたって、なかなか素直にゃやってくれんだろうな。あとで何で止めなかったって親に文句《もんく》言われるかもしれねーんだからさ」
「う、うう……くぅ〜っ」
号泣《ごうきゅう》するいわお。あんなに誇らしげだったのに、かわいそうなことしたかな……。
たぶんもっとも罪深《つみぶか》いのは『はいはいスキンヘッドスキンヘッドねー』という軽いノリで髪の毛を刈ったのであろう床屋のオッちゃん。そして知らなければ幸せでいられたのに、突っ込みを入れてしまった俺。まあコイツの自業自得《じごうじとく》もあるんだろうけど。
「お、おれ、もう自分で剃《そ》ろうかな……」
「やーめとけって。上手《うま》くできるわけねえよ。あれ、特別なカミソリ使ってんだぜ?」
「くぅ〜っ……学校では誰《だれ》も突っ込んでくれなかったのに……」
知るかよ。どうしてこう中学生ってのは、みんなと違うことをしたがるんだろうな。
このとき俺の脳裏《のうり》には、先月|会《あ》った桐乃《きりの》のオタク友達の姿《すがた》が浮かんでいた。
と――そこで私服《しふく》姿の麻奈実《まなみ》が戻ってきた。お茶とくずきりが載《の》ったお盆《ぼん》を持っている。
「な、何やってるの〜?」
「いや、ちょっとコイツにショッキングなことがあってな……」
うなだれる坊主頭《ぼうずあたま》をざりざり[#「ざりざり」に傍点]してやりながら言うと、麻奈実は傷心《しょうしん》の弟に向かってにこっと笑った。
「そっかあ。何があったのか知らないけど、元気だして――はい、ロックの分もあるよ」
「ロックってなに?」
俺《おれ》が無《む》表情で聞くと、麻奈実は笑顔《えがお》のままで、
「え? うん、えっとねー。この前、いわおが床屋《とこや》さんから帰ってきたとき『……っふ……このカッチョいい髪型《かみがた》にいままでの名は相応《ふさわ》しくないぜ! 今日からおれのことはロックと呼んでくれ、ねーちゃん!』って」
「――そうか。じゃあ俺もこれからはそう呼ぼう。よろしくな、ロック。その髪型、超いかしてるぜ」
「うわあああああああああああああああああああん!?」
ロックは大泣《おおな》きしながら走り去っていった。自分の恥《は》ずかしい台詞《せりふ》を他人の口から改めて聞かされたことによって、正気に立ち返ってしまったのだろう。かわいそうに。
そしてあの様子《ようす》だと学校でも同じ台詞を言ってしまっているだろうから、あだ名として長々《ながなが》と定着してしまう可能性があるな……。だとしたら、あいつはもう高校卒業するまで、そして社会人になってからは同窓会《どうそうかい》のたびに、ロック≠ニ呼ばれ続けるであろう……。
弟を見送った麻奈実が、驚《おどろ》いてぱちぱちと瞬《またた》きをする。
「ど、どうしたんだろ……あの子……?」
「男には、泣いて忘れたい過去があるもんなんだよ」
「……はあー……そうなんだぁ。……なんかちょっとかっこいいね?」
おまえが止めを刺《さ》したんだ、とは言えん……。
というわけで――仕事中の両親は紹介《しょうかい》がまだだが、田村家《たむらけ》のみなさんは大体こんな感じだ。
なるほど、こんな家庭で暮らしていれば、こういう娘《むすめ》が育つのかもしれないな……なんて思うこともある。
「お。うまいな、このくずきり。俺はいつもポン酢《ず》かけて食べてるんだけど……」
「たまには黒蜜《くろみつ》もいいでしょ? ……いっぱいあるから、たくさん食べてね?」
「ああ。そうするよ。……そういや、ほとんど婆《ばあ》ちゃんが作ってるんだっけ、これ?」
「うん。えへへ……わたしも手伝ってるんだよー?」
「へぇ……たいしたもんだな」
実に普通のやり取りだ。
なんの面白《おもしろ》みもない だからこそ俺|好《この》みの会話が、この家には満ちている。
「きょうちゃん。家に婿《むこ》に来てくれれば、毎日|美味《おい》しい和菓子《わがし》が食べられますよ?」
「や、やだ……もうお婆《ばあ》ちゃんたら……きょうちゃん困ってるじゃない……」
「お〜ばーさん、いいこと言うな! きょうちゃん、そうしろそうしろ! 麻奈実《まなみ》と一緒《いっしょ》になれば……ええっとな、色々《いろいろ》いいことあるよ? いまなら、もれなくわしも付いてくるし」
いや、いまならて。期間|限定《げんてい》のおまけじゃねえんだから……。
つうか爺《じい》ちゃん! 余計《よけい》な一言《ひとこと》が付いたことによって、意味|深《しん》な台詞《せりふ》になってるよ!?
「もぉ、おじーちゃんっ。余計なこと言わないでよーっ」
「あれ? ジジイいらない子か? 孫《まご》にまでそんなこと言われちゃあ……もう生きててもしょうがないな……?」
ず〜ん。いまにも老衰《ろうすい》で死にそうな爺ちゃんに、婆ちゃんが笑《え》みを向ける。
「またお爺さんの死ぬ死ぬ詐欺《さぎ》が始まりましたね。本気《ほんき》にしちゃだめですよ? この人、すーぐお調子《ちょうし》に乗るんだから」
「てへっ」
麻奈実もよく同じポーズをやるが、ジジイにやられるとひっぱたきたくなるよな。
平々《へいへい》凡々《ぼんぼん》、目立たず騒《さわ》がず穏《おだ》やかに、のんびりまったり生きていく――
俺《おれ》が求めている生活というのは、こういうものかもしれない。
うるせー妹もいないしな。
翌日《よくじつ》の放課後《ほうかご》。俺と麻奈実はいつものように、近所の図書館で勉強をしていた。
これは高校受験のときから続いている習慣《しゅうかん》のようなものである。
白状《はくじょう》してしまうと、中学時代の俺は成績が結構《けっこう》やばくてさ。かといって進学|塾《じゅく》に通うほどの気力もなくて。そんで、当時からそこそこ成績のよかった幼馴染《おさななじ》みに頼み込んで、勉強を見てもらうことになったんだ。
結果は見てのとおり。俺は無事、幼馴染みと同じ高校に進学することができた。
そしていま――
「あ、くそ、ここ分かんね。麻奈実、ちょっと見てくれ」
「んー? あぁ、ここはねー……この数式《すうしき》を、こういうふうに応用するの……ね?」
俺は再び幼馴染みと同じ大学に行きたいがために、こうしてとなりに麻奈実に座ってもらい、勉強を見てもらっている。
成長しないというか、なんというか。変わり映えしねえなーとは思う。
けどさ、それはそれでたいしたもんじゃねーかな。『平凡《へいぼん》に生きる』とか『何も変わらない』って、そんなに卑下《ひげ》しなくちゃならねーもんか? そりゃ『夢がない』とか『目標が低い』ような印象《いんしょう》はあるけどさ……『普通でいる』って字面《じづら》ほど簡単《かんたん》なもんじゃないだろ。
むしろ結構《けっこう》すげーことなんじゃねーかとも思う。少なくとも、俺はな。
だから、まぁ、俺《おれ》はこれでいい。
変わり映えのしない、いまと同じ未来[#「いまと同じ未来」に傍点]こそが、俺が常に望み、望んできたもんなんだ。
中学時代の俺が望んだ自分が、いまここにいるんだから、何も文句《もんく》なんてないぜ。
そりゃ、何もかも思いどおりってわけじゃねーけどさ……。
妹のこととか、妹のこととか、妹のこととかな。
ま、人生ってのは、そういうもんだろう。どうにもならんことだってあるよ。
「なるほど……こうだな。分かった、サンキュー麻奈実《まなみ》。あとこっちなんだけどな?」
「えー? どれどれ?」
「ここ、ここだよ……こっちの、なんかぐちゃっとした式の証明《しょうめい》問題」
数学は俺の苦手《にがて》分野《ぶんや》なので、さっきから麻奈実に頼りきりである。
たぶん微分法《びぶんほう》を使うんだろうと思うのだが……
となりに向かって身を乗り出し、麻奈実にノートが見えやすいようにしてやる。
すると麻奈実は、なぜか「わ、わ……」という声を出した。
「……なんだ、どうした突然《とつぜん》?」
「な、なんでもないっ……えっと、ここはね? えーと、えーと」
「なに慌《あわ》ててんだおまえ……おい、眼鏡《めがね》くもってるぞ?」
それじゃなにも見えないだろう。
「え、ええっ?」
麻奈実はメダパニにかかったようにきょろきょろしている。なかなか面白《おもしろ》い動きだった。
「ほれ」
くもった眼鏡を奪い取ってやると、麻奈実は何故《なぜ》か恥《は》じらうような仕草《しぐさ》で、
「あっやだ……めがね取ったらよけい見えないんだよ?」と、上目遣《うわめづか》いになった。
「知ってる。はは、おまえ両目とも視力0・1ないもんな?」
「もーっ。きょうちゃんのいじわる。め、めがね返してよ〜」
漫画《まんが》やら何やらのお約束に『眼鏡を外したら実は美《び》少女』というものがあるが、眼鏡を外した幼馴染《おさななじ》みの顔は、見てのとおり、普通で地味《じみ》なままだった。だが……
眼鏡を奪ってやると麻奈実は決まって、こういうふうな困った表情になる。
「眼鏡をつけていると地味な顔に見えるっていうけど、おまえは別に変わんないなあ」
「う、うう〜」
正直に告白《こくはく》してしまうが、俺は幼馴染みにこの表情をさせるのが大好《だいす》きでしょうがない。
意地悪《いじわる》だと分かっていながら、ついつい何度もやってしまうのだった。
「で、でもきょうちゃん……。めがねをつけると、賢《かしこ》そうにも見えるって言うよ?」
「まぁ、言うよな」
どっちにしろ、おまえにゃ理知《りち》的なイメージはカケラもないよ。
とは突っ込まず、俺《おれ》は眼鏡《めがね》のレンズを拭《ふ》いてから、自分でかけてみた。
もちろん度《ど》が合っていないので、視界《しかい》がぐにょりと歪《ゆが》む。
「フッ。どうよ、秀才《しゅうさい》っぽい?」
「ん〜〜……?」
「…………なんだその辛《つら》そうな声は?」
俺が眉《まゆ》を顰《ひそ》めると、どうやら誤解《ごかい》だったらしく、麻奈実《まなみ》は「え? あ、いや、そうじゃなくてね……?」と困惑《こんわく》した声を出した。
「めがねないから、近付かないと分からないんだよ」
「ふーん」
俺は眼鏡をかけたまま、ずい、と顔を近づけた。
度《ど》が合ってないせいで距離|感《かん》が狂っていたらしく、鼻と鼻が軽く触《ふ》れ合う。
「……!?」
「おっと、ワリ」
息を呑《の》むような声を出した麻奈実に詫《わ》びた俺は、少し顔を離してから改めて聞いた。
「どうだ、頭よさそうな顔だろうが?」
「もぉ……。ば、ばかっ」
……お世辞《せじ》を言えとはいわんが、幾《いく》ら何でもひでえ返事だろ。
そんなにバカヅラだったのかよ……。
と……そんな感じで、時折《ときおり》こうした会話ややり取りを挟みながら、のんびりとした勉強の時間が過ぎていった……。
塾《じゅく》でがんがん知識《ちしき》を詰め込んでいくより、こっちの方が俺の性《しょう》にはあっている。
だからなのか、麻奈実との勉強会は毎回かなりはかどるんだよな。
「よ――っし、今日《きょう》はこの辺にしておくか」
俺がぐぐっと伸びをすると、麻奈実がにこやかに笑《え》みを向けてきた。
「うん。頑張《がんば》ったね、きょうちゃん」
「はっは、まーな。このぶんなら期末テストも楽勝《らくしょう》だろ」
「またすぐそうやって油断《ゆだん》するんだからー。毎日ちゃんと続けないと意味ないんだからね?」
「はいはい、分かってますよ、と」
鞄《かばん》を背負い、幼馴染《おさななじ》みと並んで図書館の出口へと向かう。
外に出ると、そこには夕焼《ゆうや》けが広がっている。
もう数えされないほど同じ光景を見たが、まったく飽《あ》きない。
この景色を見るときは、必ずと言っていいほど充実した疲労感《ひろうかん》が伴っているからだろう。
そのまま二人で帰途《きと》につく。そうして、いつもの分かれ道にたどり着いた。
「また明日《あした》ね、きょうちゃん」
「ああ、また明日《あした》な」
俺《おれ》たちは、いつものように別れ、それぞれの道を歩いていく。
特筆《とくひつ》することなんてなにもない、なんでもない一日が、また今日も終わっていく。
穏《おだ》やかで温かな、しかしどこか物足《ものた》りなくもある、変わり映えのしない毎日。
俺はずっと昔から、こう想《おも》い続けてきた。
今日と似たような日が、あと何十年か続いて終わるなら――
俺の人生はそれでいいや。
そしてまた別の日。学校からの帰り道、俺が麻奈実《まなみ》と並んで歩いていると、我《わ》が家《や》のそばの丁字路《ていじろ》で意外《いがい》な顔見知《かおみし》りと出くわした。
「あれっ、こんにちはー!」
「おっ?」
会釈《えしゃく》をよこしたそいつに向かって、俺は片手をあげた。
先日知り合った桐乃《きりの》のクラスメイト、新垣《あらがき》あやせだ。制服を着ているから、学校の帰りなんだろう。同じ美《び》少女でも、セーラー服|姿《すがた》の桐乃は、いかにも小生意気《こなまいき》なコギャルという感じなのだが、あやせの場合は清楚《せいそ》な女学生という風情《ふぜい》。
長い黒髪《くろかみ》やすらりとした体格のせいだけではなく、醸《かも》し出す雰囲気《ふんいき》がとても落ち着いている。
「……きょうちゃん。お知り合い?」
「ん? まぁな。えっと……」
びっくりしている麻奈実に、あやせを紹介《しょうかい》してやろうとすると、相手《あいて》が先に自ら名乗《なの》った。
「初めまして。――新垣あやせです」
「……えっ? ……はあ、ご丁寧《ていねい》に、どうも……」
麻奈実は快活《かいかつ》な美少女相手に緊張《きんちょう》しつつも「えと、た、田村《たむら》麻奈実です、初めまして」と自己紹介をした。その気持ちは分からなくもない。俺も美少女相手だと喋《しゃべ》りにくいからな。
自己紹介を済《す》ませたあと、あやせは含《ふく》みのある微笑《びしょう》を俺に向けた。
「あはは、このまえは、どうも〜」
「お、おう……」
何とも言えない微妙《びみょう》な気分で、適当な返事をする。
この間、あやせが家にきたとき、俺はたいへんひどい目に遭《あ》ったのだ。ただその際、このお人好《ひとよ》しの美少女と知り合えたのは、不幸|中《ちゅう》の幸《さいわ》いというか、嬉《うれ》しい出来事ではあった。
アドレス交換もしちゃったしな。最近《さいきん》俺のアドレス帳に、女子中学生の名前が増えつつある。
客観《きゃっかん》的に見ればうらやまれる状況かもしれない。
あやせはそれ以上会話を続行《ぞっこう》する意思《いし》がないらしく、
「それでは、これで失礼しますね」と、辞意《じい》を示した。
「ああ。家こっちなのか? いま、学校帰りだろ?」
「いえ、実はいまから、そちらにうかがうところだったんです」
「お、そうなのか」
「はい! なので、また後ほどお会いできるかと。――そうそう、お会いしたら言おう言おうと思っていたことがありまして。……実は、桐乃《きりの》とわたしが初めて一緒《いっしょ》にグラビアに載《の》った雑誌、見本|誌《し》が届いたんですよ。桐乃も持ってるはずなので、あとできっと見てくださいね!」
へぇ、この娘《こ》もモデルやってんのか……
「そりゃ|凄《すご》い。必ず見るよ」
「……へへ、実は夏特集ってことで水着なので、ちよっぴり恥《は》ずかしいんですけどね」
「ふ、ふーん…………水着なんだ」
「そうなんです。あ、でもでも! 桐乃ほどスタイルよくないので、あんまり期待しないでくださいね?」
楽しみにしておくよ。少なくとも妹の水着なんぞよりも、ずっと興味《きょうみ》深いし。
「おっとと、遅くなると桐乃に怒《おこ》られちゃう。――では、また」
あやせは後光《ごこう》が差してきそうな笑顔《えがお》とともに、そんな挨拶《あいさつ》を残して行った。
「はいよ。またな」
片手を挙げて見送る俺《おれ》。そんな俺たちを、麻奈実《まなみ》はきょとんと不思議《ふしぎ》そうな眼差《まなざ》しで見ていた。やがて胸を押さえて「はぁ〜〜」とため息をつく。
「………す、すっごい大人《おとな》っぽい娘《こ》だったねぇ……女優《じょゆう》さんみたい」
「うむ。確かに美人だな、ありゃあ」
他《ほか》に言いようがない。ちなみに麻奈実の桐乃への評価《ひょうか》は『もーすっごいかっこいいし、かわいーっ』だった。どちらも実に直感《ちょっかん》的な物言《ものい》いなのだが、ニュアンスの違いが、両者の違いをよく言い表していると思う。
「あはは、きょうちゃんたら、あの娘の顔、じぃーっと見てたでしょー?」
「え? そ、そうか? まじで?」
ぎくりとしてしまう俺。仮にも女友達といるときに、そんなことはしない主義《しゅぎ》だったのだが……麻奈実がそう言うんなら、そうなんだろう。こいつは誰《だれ》よりも俺のことをよく見ているし、よくも悪くも、ウソがつけないやつだからな。
そしてだとしたら、あやせも当然《とうぜん》俺の視線《しせん》に気付いていたんだろう……。
うおっ、やべ〜……。なーにやってんだ俺。
俺は妙《みょう》にばつが悪くなっちまって、麻奈実と目が合わせられなかった。
そんな俺を眺《なが》めていた麻奈実は、頬《ほお》に片手を当て、微笑《ほほえ》ましいものを見たような声を出した。
「ふ〜ん。きょうちゃんも、やっぱり男の子なんだねえ……ちょっと安心したかな」
「いや、どうしておまえはそう、俺を自分の孫《まご》のように扱《あつか》うのよ」
いまのはどう考えても『気になる女の子ができた思春期《ししゅんき》の孫《まご》』への台詞《せりふ》だったぞ……?
これで女子高生かと思うと、照れ臭いを通り越して、心配になってくるわ。
大丈夫《だいじょうぶ》なのかこいつ、いまからこんなババア思考《しこう》で……。
「あ、なんか失礼なこと考えてるでしょー。分かるんだからね、そういうの。ぷんぷん」
見るがいい諸君《しょくん》。擬態語《ぎたいご》を口にする女子高生はここに実在《じつざい》する……。
「あ、また考えたーっ。もう、きょうちゃぁ〜ん? いい加減《かげん》にしないと、息子《むすこ》さんがえっちな目で中学生を見てましたよーって、お母《かあ》さんに言いつけちゃうからねー?」
「それはマジでやめてくれ!?」
しゃれにならんから! 家のお袋《ふくろ》にそんな話を聞かせたら、ぜってー夕飯《ゆうはん》のときに話題にされるって。で、桐乃《きりの》にも伝わっちゃうだろ? アイツにゃこれ以上|軽蔑《けいべつ》されようがないくらい嫌《きら》われてるけど、この前|間違《まちが》って押し倒しちゃった件があるから、その話題はピンポイントでやばいんだって!
つうか、えっちな目って! そこまで卑狼《ひわい》な感情は視線《しせん》に込めてないっすよ! 断じて! とは言わない。何故《なぜ》なら、ここで言《い》い訳《わけ》をすると逆に嘘《うそ》くさくなってしまうからだ。
代わりに、ごまかすように嫌味《いやみ》を言う。
「……ふん。俺《おれ》だって、ツラ眺《なが》めるなら、かわいい娘《こ》の方がいいわ」
「そうだよねー……うーん……やっぱり、わたしもがんばろっかなぁ……」
いかん、忘れていた。
こいつにこういうことを言うと、しょんぼりして、本気《ほんき》で反省を始めちゃうんだよ……。
くそ、罪悪感《ざいあくかん》がっ。
嫌味を放った俺が、完全にカウンターを決められた形だった。おずおずと囁《ささや》く。
「いやあの……麻奈実《まなみ》? 別に、おまえはそのままでいいと思うぞ?」
「……ほんとに?」
「ああ。変に背伸《せの》びするより、自分らしさを大切にしてだな……」
「…………そ、そお? きょうちゃんは……そう思う?」
俯《うつむ》きつつも、ちらちらと俺の顔を覗《のぞ》き込んでくる麻奈実。
俺は首肯《しゅこう》して、はっきりと自分の意見を言った。
「ああ、俺は、そっちの方がいいね。変わらないのが一番だって」
「……変わらなくても、いいの……? そっちの方が、好き?」
絶対にないとは思うが、こいつまで桐乃みてーになっちゃったら、非《ひ》っ常《じょう》〜に困る。
俺はいまさらながら前言《ぜんげん》を撤回《てっかい》して、わりと必死でなだめに回った。
「あー好きだね。好き好き、いまの子よりもおまえの方がずっといいや」
あまり語彙《ごい》の豊富な方ではないので、どうしても陳腐《ちんぷ》な褒《ほ》め言葉しか出てこないが、とにかく褒める。何でもいいから褒めちぎる。すると……
「え、えへへ……嬉《うれ》しいな……」
ちょっと涙目《なみだめ》になっていた麻奈実《まなみ》が表情をほころばせてくれたので、俺《おれ》はほっと胸を撫《な》で下ろす。微笑《ほほえ》んだ幼馴染《おさななじ》みの態度は、いつものそれとまったく変わらないように思えた。
のだが……。
朝の教室。
一限目《いちげんめ》終了|直後《ちょくご》の休み時間。俺は麻奈実の席に近寄《ちかよ》って、その日|初《はじ》めて幼馴染みに声をかけた。少々|珍《めずら》しいことに、今朝《けさ》は麻奈実が遅刻《ちこく》して、待ち合わせ場所に現れなかったのだ。
「よっ。朝はどうしたんだよ? 寝坊《ねぼう》かぁ?」
「……え? う、うん……そうなんだっ。ごめんね、待たせちゃって……」
「そんなんで謝《あやま》ることねえよ。俺が遅れたとき、おまえだってそう言うだろ?」
「う、うん……」
麻奈実は頷《うなず》いたものの、まだ恐縮《きょうしゅく》しているせいか、俯《うつむ》きがちにしていた。
そんな幼馴染みの様子《ようす》に、俺は「ん?」と些細《ささい》な違和感《いわかん》を覚《おぼ》えたのだが、すぐに頭の隅《すみ》にやってしまった。
後から思い返してみれば、授業中も麻奈実のそうした様子は続いていたようだったのだが、このときの俺は、朝飯《あさめし》喰いそびれたせいで腹でも減《へ》ってんのかな――そんなふうに思うばかりだった。
その日の放課後《ほうかご》。俺は珍しく自分から麻奈実に寄っていって声を掛けた。
いみじくも朝の再現《さいげん》のような場面だった。
「麻奈実ー、帰ろうぜー?」
「あ……その……」
麻奈実は頭痛《ずつう》を堪《こら》えるように額《ひたい》を押さえながら、上目遣《うわめづか》いで俺を見上げる。
「ごめん……ちょっと予定があって。今日は、一緒《いっしょ》に帰れないんだぁ……」
「そ、そっか……」
正直に言うと、このとき俺は、自分でもびっくりするくらい気落《きお》ちした。ただ、それをあからさまにするのは抵抗《ていこう》があったので、つとめて明るい声で続けた。
「いいよいいよ。気にすんなって。じゃ、今日は勉強会、一回休みだな。俺もあんまりおまえにばっか甘えてられんし。たまには一人で勉強するさ」
「ほんとにごめんね……?」
「いいってことよ。毎日毎日、俺の勉強にばかり付き合わせてちゃ悪いからな」
こんなやり取りをしたのは、もしかして初めてじゃないか? 普段《ふだん》は俺がわがまま言って――って流ればっかだったもんなあ。……はー、まったく、珍しいこともあるもんだぜ。
その日、家に帰った俺は、結局《けっきょく》勉強なんてしなかった。
明日《あした》から、麻奈実《まなみ》に教えてもらって取り返せばいいや。
そんなふうに気楽《きらく》に考えていたからだ。
しかし――
「ごめん……きょうちゃん。……今日もだめなの」
その翌日《よくじつ》の放課後《ほうかご》も、麻奈実は、俺《おれ》と一緒に勉強ができないと言う。
な、なにぃ〜〜!?
俺は内心《ないしん》かなり動揺《どうよう》してしまい「な、なんで?」と、素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を上げた。
今朝《けさ》だって待ち合わせ場所に来なかったし……いったいどうしたってんだ?
「……ちょっと、用が……ある、から……」
麻奈実はとてもウソが下手《へた》なやつだ。しかしこのとき、俺にはこの台詞《せりふ》の真偽《しんぎ》を図《はか》りかねた。
理由の一つは、麻奈実が消沈《しょうちん》したように俯《うつむ》いて、その表情が窺《うかが》えなかったからで。
二つは、その声色《こわいろ》と口調《くちょう》から『きょうちゃんに、本当に悪いことをしちゃった……』という気持ちがびりびりと伝わってきていたからだ。
だから。仮に『ちょっと用がある』というのがウソであったとしても、それを責めることは俺にはできない。
「……分かった。しょうがねぇな、そういうことなら」
俺は大人《おとな》しく引き下がり、鞄《かばん》を持って、教室の出口へ向かったのだが――
「ふー……」
自然とため息が漏《も》れてくる。麻奈実の様子《ようす》が変だったような気がしたからというのもあったし……自分|勝手《かって》なことを言わせてもらうと、恒例《こうれい》になっていた『幼馴染《おさななじ》みとの勉強会』は、俺の学力を上げるという本来の目的だけでなく、精神的な疲れを癒《い》やしてくれる貴重《きちょう》な時間になっていたからだ。
特に妹の人生《じんせい》相談に付き合わされるようになってからは、麻奈実と過ごすのんびりとした時間は、俺の中で、その重要|性《せい》をぐぐっと増していた。
それができないとなると、たった二日ばかりでも、気が重くなってくるというわけだ。
――うーむ。俺って、結構《けっこう》あいつに頼ってるよな……。
と、そんなことを考えていたときだ。赤城《あかぎ》が、からかうような口調《くちょう》で声を掛けてきた。
「どうした高坂《こうさか》、避《さ》けられてるんじゃねえの?」
「はあ? なんだいきなり……」
あまりにも突拍子《とっぴょうし》もないことを言われたもんだから、かなり間抜《まぬ》けな返事をしてしまった。
なんだ? こいつ、俺と麻奈実のやり取りを見てやがったのか?
…………ドラマとかでもよくいるよな、こういうめざといやつ。
名字《みょうじ》しか設定されてない、おせっかいな脇役《わきやく》かよおまえは。
「いや高坂《こうさか》、自分で気付いてねえの? 最近のおまえ、田村《たむら》さんにあからさまに避けられてるみたいじゃん?」
「……麻奈実《まなみ》が俺《おれ》を避けてるだあ?」
そんな事態《じたい》は想定《そうてい》さえしていなかったからだろう。俺の理解|度《ど》はきわめて低かった。
「どうしてそうなるんだよ?」
「おーい、どう見てもそうだろうが。たったいまも、喧嘩《けんか》中のカップルみてーだったぞ?」
「……………………」
普段《ふだん》ならこんな妄言《もうげん》は一蹴《いっしゅう》してやるところなんだが……実際《じっさい》、麻奈実の様子《ようす》はちょっとおかしかったような気もする。
俺はムスっと押し黙《だま》った。
……麻奈実が、俺を、避《さ》けているだと?
そのありえない仮説《かせつ》は、しかし、最近のあいつとのやり取りに当てはめてみると、しっくりとくるものではあった。
確かに、ここ二日ばかりのあいつは、どうにも俺と目を合わせようとしないのだ。
それに喋《しゃべ》っていても、声にいつもより元気がないのは気付いていた。
いつもどおりに振《ふ》る舞《ま》おうとしてはいるみたいなので、あえて何も言わなかったのだが。
でもってテスト前だってのに、俺と一緒《いっしょ》に帰ったり、勉強をしたりといった諸々《もろもろ》を『用があるから……』と、断るようになった。
少なくとも、傍《はた》からみりゃ、避けられているように見える――のかも、しれない。
だとしてもだ。俺が、麻奈実に避けられているとして。
その理由が分からん。俺、あいつに何かしたか? なんも悪いことしてねーよなあ……。
だいたいあいつは怒《おこ》ったなら怒ったで、ぷんぷんっとか分かりやすく口走《くちばし》る。
理由も言わず人を避けたりするようなヤツじゃ断じてない。
さっぱり分からん。にっちもさっちもいかないとは、このことだった。
「……本当にそう見えるか?」
一緒《いっしょ》に教室を出た赤城《あかぎ》に向かって、そう聞いてみた。
俺が避けられているんだとして、その理由と、麻奈実が俺に何も言わないでそういうことをしている原因についてだ。赤城の返事はこうだった。
「……うーん。高坂、それってさ、オレが思うに」
「なんだよ?」
「田村《たむら》さん、彼氏《かれし》ができたんじゃねぇの?」
「ハア?」
このとき俺は、妹に人生《じんせい》相談をされたときのようなしかめっツラをしていただろう。
「ねーよ。なんでそうなるんだ」
「だってさ。たとえば高坂《こうさか》、おまえに彼女ができたら、田村《たむら》さんに対してちょっと気まずくなったりするんじゃねえ?『彼女ができたから、今日から一緒に帰れないし、一緒に勉強できない』とか、すげー言いにくいだろ。しかも田村さん、最近|用《よう》があっておまえと一緒にいらんないっつってんだろ? ――つじつま合うじゃん」
ばーか。それはつじつまが合うだけだ。俺《おれ》は赤城《あかぎ》のくだらん意見を完全に却下《きゃっか》した。
麻奈実《まなみ》に彼氏《かれし》ができるなんて、桐乃《きりの》のそれと同じくらいに想像《そうぞう》ができん……。
「っと、そんじゃ俺、部活《ぶかつ》行くわ。じゃあな、高坂、あんま気を落とすなよ。ハハハ」
赤城はこっちの気分をさんざん害してから、ぽんと俺の肩を慰《なぐさ》めるように叩《たた》いて、さわやかに去っていった。
こんにゃろう。その後《うし》ろ姿《すがた》をぎろりと睨《にら》み付けながら、俺は思考《しこう》を続行する。
麻奈実に彼氏ができるという、到底《とうてい》ありえない可能性についてだ。
まあ……しかし、なんだな。いまではなくとも、遠い未来、将来的には、そういうこともあり得るのだろうとは思う。あまり考えたくはないが。
明日《あした》も明後日《あさって》も、俺が望んだとおり、おそらくはいままでと似《に》たような日が続くだろう。
だが、五年後十年後もまたそう[#「そう」に傍点]だろうと考えるのは、いささか楽観すぎるってもんだ。
居心地《いごこち》のいい、いまの日常は、いずれ違う日常にすり替わっていくかもしれない。
俺は自分の信条《しんじょう》に従って、できる限り長続き[#「長続き」に傍点]させるよう頑張《がんば》っていくつもりだが――
変化をすべて押し止めることはできない。俺も麻奈実も、もちろん桐乃も、一年に一つ歳《とし》を取るし、そのうち卒業したり、就職《しゅうしょく》したりもするだろう。
変わるものは変わっちまうし、どうにもならないことは山ほどあるよな。
「ふん……」
想像してみる。たとえば将来……俺に彼女ができたりしたら、麻奈実を避《さ》けるようになったりするのだろうか?
そんなことしねーよ! と、いまの俺は思った。
その日の夜。俺は自室のベッドに腰掛《こしか》けて、漫画《まんが》を読んでいた。
読みながら、つまらないことを考えている。
――麻奈実が、俺を避けている……ねぇ?
さっきは『確かにしっくりくる』なんて思ったけど、時間が経《た》つにつれて段々《だんだん》と『やっぱねーよ』という意見に変わってきた。
そう、麻奈実と俺との関係が、そんなに簡単《かんたん》に変わってしまうとは思えない。
そうならないよう、普通のままでいられるよう、俺は俺なりに頑張ってきたつもりだ。
ただ、今日の俺は、妙《みょう》に精神がちくちくしていた。やっぱりというか、勉強なんざやる気分になれながったし、漫画|読《よ》んでるときも、テレビ見てるときも、どうにも没頭《ぼっとう》できなかった。
赤城《あかぎ》のバカが余計《よけい》なことを言ってくれたおかげで、ほんのささいなことだと気にも留めていなかった麻奈実《まなみ》の様子《ようす》が、少し気になってきてしまったのだ。
「つまらん」
読んでいた漫画《まんが》を放り投げ、俺《おれ》はベッドに倒れ込んだ。
携帯《けいたい》を取り出して、短縮《たんしゅく》ダイヤルの一番を押す。
つーかもう、本人《ほんにん》に聞いてみりゃいいじゃん。そう思ったからだ。どうせつまんない勘違《かんちが》いなんだから、さっさと麻奈実に電話して、否定してもらって、笑い話にしちまおう。
しかし――
[#ここから太字]
「おかけになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか、電源《でんげん》が入っていないため――」
[#ここまで太字]
電話は繋《つな》がらなかった。
「――んだよ。はぁ……」
俺は大きく息を吐《つ》き、携帯の液晶《えきしょう》をすがめ見た。
仕方ねえ。明日《あした》、学校で聞いてみるか。
なんとなく気に食わない、いらいらとした気分ではあったが……
明日の朝までの辛抱《しんぼう》だしな、と苦《にが》い笑《え》みを浮かべる。
だけど結果から言えば、俺は翌朝《よくあさ》も、麻奈実と話をすることができなかった。
翌日《よくじつ》、麻奈実は学校に来なかったのだ。
「田村《たむら》さんはご家庭の事情で、しばらくお休みします――」
というのが担任《たんにん》の説明。
麻奈実の家庭の事情って……なんだよ……。聞いてねぇぞ……俺。
俺は担任に詳しい事情を聞いてみたのだが、教えてもらうことはできなかった。幼馴染《おさななじ》みとはいえ、軽々《かるがる》しく生徒の家の事情を教えることはできないとのことだ。
もどかしいが、正論《せいろん》ではあるので、俺は大人《おとな》しく引き下がるしかなかった。
クラスの女どもに当たってみても「知らなーい」とか「でも、そういえば、最近|元気《げんき》がなかったかもしれないね……なにか関係あるのかな?」という証言《しょうげん》が得られただけで、肝心《かんじん》の『家庭の事情』については誰《だれ》も知らなかった。
ふん。まあ、そうだな。知りたけりゃ、当人《とうにん》に聞くべきだよな。
しかし麻奈実は依然《いぜん》として電話に出てはくれなかった。俺の携帯からは、相変《あいか》わらず「おかけになった――」[#「「おかけになった――」」は太字]という機械|音声《おんせい》が流れている。それを聞きながら、
「ふん……どうすっかな……」
俺はさらなる思案《しあん》を始めた。
放課後《ほうかご》。
自分の部屋に帰り着くや、俺は鞄《かばん》から携帯を取り出し、とある人物に電話を掛けてみた。
麻奈実《まなみ》の携帯《けいたい》に繋《つな》がらなくても、あいつと連絡《れんらく》を取る方法なんて幾《いく》らでもあるのだ。
ちなみに田村家《たむらけ》は、家の電話が店の電話と共用《きょうよう》になっているので、俺《おれ》はなるべく用がある相手《あいて》の携帯に直接|掛《か》けるようにしている。ささいなことでも、麻奈実の両親の仕事を邪魔《じゃま》したくないからだ。
電話が繋がるや、相手がいきなりでかい声を張り上げた。
『HEYラッシャイ! 田村|屋《や》っすー!』
「……なんで携帯に掛けたのに営業トークなのおまえ?」
そしてなんでエセラップ調なの?
『ハッ!? いつものクセでつい! ――そ、その突っ込みの切れ味は、まさかあんちゃんか!』
いつもながら大袈裟《おおげさ》な野郎《やろう》である。あと声がいちいちでけぇ。
俺は半《なか》ば呆《あき》れつつ「はいはいそのまさかだよ」と返した。
『本当か─!? 本当にあんちゃんかー!? 偽物《にせもの》じゃないだろうな! 本物《ほんもの》だったら電話|越《こ》しだろうと、強烈《きょうれつ》な突っ込みでおれを怯《ひる》ませられるはずだぞ!』
「うるせえハゲ。さっさと発信者|通知《つうち》見ろや。この前|登録《とうろく》してやったろうが」
『おおお本物だっ!? HYO――! さっすがだぜあんちゃん!』
俺は携帯を耳から遠ざけ、音声ボリュームを二段階|小《ちい》さくした。
もう言わなくても分かると思うが、俺が電話をかけた相手は、麻奈実の弟のロック≠ナある。電話する相手を誤《あやま》ったかと早くも後悔《こうかい》し始めていた俺ではあったが――
気を取り直してこう言った。
「なぁロック、ロックよ。威勢《いせい》よくシャウトしているところ悪いんだが、ちょっといいか?」
『お、奇遇《きぐう》だなあんちゃん。おれもちょうど相談したいことがあったんだよ。一度|定着《ていちゃく》しちゃったニックネームを変更《へんこう》するにはどうしたらいいと思う?』
「諦《あきら》めろ」
『一言《ひとこと》で片付けちゃった!?』
ロックの人生《じんせい》相談を一瞬《いつしゅん》で解決してやった俺は、辛辣《しんらつ》な声でこう続けた。
「つーかテメー、人が話してる最中《さいちゅう》に自分の用件《ようけん》を割り込ませるんじゃねーよ」
『……む。あんちゃん今日機嫌悪くねー? いつもならもうあと一言二言《ひとことふたこと》遊ぶじゃんかよー』
かもしれん。でも、その原因を取り除くために、おまえに電話かけたんだって。
「悪い。今はおまえと遊んでやる気分じゃねーのよ。先にこっちの用件を片付けさせてくれ」
『そっかー。おっけ。へっへっ……よーし、このおれっちがあんちゃんの話を聞いてやんよ』
この野郎、えらそーに。
「残念ながらおまえなんぞに用はねー。麻奈実《まなみ》と代わってくれ。あいつ、なんか携帯の電源|切《き》ってるみたいなんだよ」
『へ? ねーちゃんに用? いや、ねーちゃん家にいないから無理だぜ?』
「はあ? 家にいない? なんで? 今日『家庭の事情』とかで学校|来《こ》なかったけど、それと関係あんのか?」
俺《おれ》は湧《わ》き上がってきた疑問を一気にぶちまけたが、ロックはそれを受け流すように、焦《じ》らすような台詞《せりふ》を言う。妙《みょう》にむかつく口調《くちょう》で、
『ちっちっち……悪いがそいつは言えねーなァ』
「そうか。おまえ次《つぎ》会《あ》ったときパロスペシャルの刑《けい》な?」
『な、なんであんちゃん、いつもおれにだけ突っ込みキツいんだよ!?』
「気のせいだ」
俺は誰《だれ》にでも分け隔《へだ》てなく突っ込んでるよ。むしろおまえへは優しいくらいだぜ。桐乃《きりの》に対する俺の全力《ぜんりょく》突っ込みを知らねえからそういうことが言える……あいつはな、オメーへの三倍ぐらいの威力《いりょく》でかまして[#「かまして」に傍点]やらねえとビクともしやがらねーんだよ。忌々《いまいま》しいことに。
つーか、いまのはこの状況でおまえがもったいぶるからだろうが。
俺が無言《むごん》で突っ込み倒していると、その沈黙《ちんもく》をあっちで勝手《かって》に解釈《かいしゃく》したらしい。
『むう……ほんと機嫌《きげん》悪いんだな……珍《めずら》しいこともあるもんだぜー。いや、あのさ、もったいぶってるわけじゃなくてさあ……まじで言えないんだって。ねーちゃんから「きょうちゃんには聞かれても言わないで」って止められてんの!』
「……んだとぉ……?」
つうと何か? 麻奈実《まなみ》は俺が探りを入れてくることを見越《みこ》して、弟に口止《くちど》めをしたってことか? ……なんでんなことする必要があるってんだよ……。くそ、気に入らん。
……チッ……麻奈実のくせに……ずいぶんと手回しがいいじゃねえの。
どんどん俺の機嫌が悪くなっていく。
こいつに怒《おこ》ったって仕方《しかた》ないと分かっちゃいるんだが、問いつめる口調が剣呑《けんのん》なものになってしまうのを自分でも止められなかった。
「どういうこったよ?」
『そ、そんなの、おれだって知らないよ! ただそう言われたってだけで……とにかくさ、ねーちゃんは出かけてて家にいないし、しばらく学校も休むから。じゃ、そーゆうことで!』
「ちょ、切ろうとすんな!? 分かった! わーかった! なら、それはもういいから!」
「……だってなー、あんちゃん機嫌悪そーじゃんか。おっかねえったら」
「あー……悪かったって。もう怒らねえよ」
ぶつくさ言っているロックをなんとかなだめ、会話を続行する。
口止めされているってんなら、こいつを問いつめても仕方がない。
「……で。いつ帰ってくるんだ、麻奈実。このくらいは教えてくれてもいいだろ?」
『えっと、週末の夕方くらいだって』
ってことは、三日後か。
それまで麻奈実《まなみ》は学校に来ない。会うことはもちろん、声を聞くこともできない。
一週間にも満たない三日間という期間は、いまの俺《おれ》にとって、とても長いもののように思われた。別に幼馴染《おさななじ》みが恋しいわけじゃないぞ。あいつがいないとテスト勉強がはかどらねえんだよ。あと俺が気になってた『麻奈実の様子《ようす》がおかしい理由』が分からないまま、しばらく過ごさなくちゃいけないってのが、もどかしいってのもあるが。
……ケッ、それだけなんだからな。
さておき、最近麻奈実がおかしかった原因というのは、これだったのだろうか。
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
結局《けっきょく》のところ、そこは麻奈実の口から教えてもらわんことには判然《はんぜん》としねえ。
……ふぅむ。……もう少しだけ、違う切り口で突っ込んでみるかな……。
「ところで最近、おまえのねーちゃん、様子《ようす》がおかしいとか……そういうことないか?」
『んー……そういえば、ちょっと前から元気がなかった……かも』
「ああん? ちょっと前って、具体的にいつからだよ?」
『そう言われてもなー。いちいちねーちゃんの様子なんかよく見てねーしさ……』
「かーっ、使えねえハゲだなオイ」
『ちょ、マジで毒々《どくどく》しいよ今日《きょう》のあんちゃん? 言っとくけど、おれもうすぐ泣くからね!』
む……確かに。いまの言《い》い草《ぐさ》は桐乃《きりの》っぽかった。……やべ、自分で思っているよりも、ずっと精神がささくれ立っているのかもしれん。
考えてみりゃ、俺だって妹の様子なんかよく見てねーよ。これはロックが正しい。
「すまんすまん。悪かったな、ロック。このとおり謝《あやま》るよ。……だからもうちょっとだけよく思い出してみてくれねーか?」
『いいけどさ……えっとね……たぶんだけど、何日か前、霊能捜査官《れいのうそうさかん》見ながら夕メシ喰ってるときね、もう元気ないよーな感じだったと思う。それより前は、ちょっと分かんねーや』
「あーそうすっと……五日くらい前か? ちょっと待ってろよ……」
新聞で特番《とくばん》をやっていた日付を確認《かくにん》してみると、やはり五日前である。
思い返してみると、麻奈実の異変《いへん》の兆候《ちょうこう》が出始めたのは三日前の朝くらいからだった。
その前に麻奈実と会ったのは……えっと……休日を挟んじまうから……そうそう、下校《げこう》中にあやせと会った日だ。つまり……
あのとき別れてからその日の夜までの間[#「あのとき別れてからその日の夜までの間」に傍点]に、麻奈実が落ち込んでしまうような『何か』があった……ということだろうか。
「なあロック……何か思い当たることあるか?」
『そーだなー。――髪《かみ》の毛《け》切るの失敗しちゃって、そんで落ち込んでるんじゃねーの?』
「オマエの話じゃねえよ!? 麻奈実! 俺が聞いてんのは、オマエのねーちゃんのことだ!」
『いや……分かってるけど』
ウソつけ。ぜんぜん分かってないじゃねーか。……いまは突っ込まないでおいてやるが。
もう怒《おこ》らないって言ったばっかだしな。何度も約束を破るわけにゃいかんだろ。
『そうそう髪《かみ》の毛といえばさ。おれ、近いうちに小遣《こづか》いでヅラを買おうと思うんだよ』
「こんのヤローやっぱり分かってないじゃねえか!? 一応《いちおう》忠告《ちゅうこく》してやるが絶対やめとけ! ハゲの髪の毛《け》が一夜にして茂ったりしたら、おまえのクラスメイトが対応に困っちゃうよ!」
『そっかー……。やっぱ段階《だんかい》的に増やしていかないとバレちゃうよね?』
「いますぐ話題を戻そうな? 俺《おれ》はもう、おまえをひっぱたきたくてしょうがない!」
結局、ロックからそれ以上の有益《ゆうえき》な情報を聞き出すことはできなかった。
それからさらに数日が経《た》った。もう期末テストまでは、ほとんど日が残っていない。
あれから麻奈美《まなみ》と会うこともできず、当然|様子《ようす》がおかしかった理由を聞くこともできず――俺は日々を怠惰《たいだ》に過ごしていた。勉強はさっぱりはかどっていない。
いや、これは言《い》い訳《わけ》だな。俺はもともと、麻奈実と一緒《いっしょ》のとき以外、勉強なんてやりゃしねえのである。自分でもこれはマズいと分かっちゃいるし、すっげー焦《あせ》っちゃいるのだが……
まったく完全に一ミリたりとも、やる気が湧《わ》かんのだ。
あとでやろうやろうと思いつつ、ぶらぶらネット眺《なが》めたり、漫画《まんが》読んだりしているうちに、いつの間にか深夜になっているんだよ。
ディスプレイの右下には、0:41 という無情《むじょう》な時刻|表示《ひょうじ》が……。
うううっ……ひぃぃ〜……さっきまでは十時だったはずなのに……。
……いったいこれは、どういうことなんだ?
深夜の自室にて、俺はノートパソコンのディスプレイを切ない眼差《まなざ》しで見つめた。
しかし当然、インターネットに吸い取られていった時間は帰ってこない。
こ、こんなはずでは……!
「あ――くそっ! しゃれにならん! 学生はパソコンなんか持っちゃゼッテーだめだな! ものスゲー勢いで時間が消し飛んでいっちまうもん!」
俺がついつい世界の真理《しんり》を叫ぶと、壁がドカッと向こう側から叩《たた》かれた。
妹|様《さま》が『うるせー黙《だま》れ』とおっしゃっている……。俺は気まずい視線《しせん》を壁へと向けた。
ちなみにこいつとの関係は相変わらずだ。たまーに、エロゲーの進捗《しんちょく》状況を問いただされたり罵倒《ばとう》されたりする以外は、いっさい喋《しゃべ》らないし、目も合わせない。
もっとも妹に嫌《きら》われているのは前々からだし、俺だってこんなクソ生意気《なまいき》で面倒《めんどう》きわまりない女なんか大キレーだから、喋らないのはむしろ大歓迎《だいかんげい》だ。
「やれやれ……」
誰《だれ》かさんが水をかけるような真似《まね》をしてくれたおかげで、ネットを眺める気力も失せた。
俺は再び、様子《ようす》のおかしい幼馴染《おさななじ》みについて考えを巡らせる。
『田村《たむら》さん、彼氏《かれし》ができたんじゃねぇの?』――赤城《あかぎ》はそんな妄言《もうげん》を吐《は》いていたが、それだけは絶対にないと断言《だんげん》できる。
しかし、どこか元気がなくて、俺《おれ》を避《さ》けているように見えるのは事実だ。
あれから何度《なんど》も考えてみたが、やはり麻奈実《まなみ》がそんなふうになってしまうような理由に、心当たりはない。やっぱ自分一人で悩《なや》んでても、いい考えは浮かんでこないのかもな。
あいつが何か悩みを抱《かか》えている――。現状、その点はかなり濃厚《のうこう》になってきたとは思う。
家庭の事情とやらで、学校も休んでいるわけだしな。
しかし麻奈実は、それを俺《おれ》に知られたくはないようだ。
俺と話しているとき、つとめていつもどおりに振《ふ》る舞《ま》おうとしていたし、弟にも(もしかしたら担任《たんにん》にも)『家庭の事情』について俺に話さないよう口止《くちど》めをしていた。
それなら俺は、このまま何もせずにいるのがいいんだろうか……?
少なくとも麻奈実は、俺にそうして欲しいと願っているみたいだしな……。
そう結論《けつろん》しかけて「いや」と踏みとどまる。
このままじゃ、どうせ気になって勉強どころじゃねぇし……あいつのために、俺ができることが本当にないのかどうか、もう一度|考《かんが》えてみるとしよう。
この時点で、俺の行動|動機《どうき》は『麻奈実のため』ではなくなっていた。
誰《だれ》に頼まれたわけでも、頼られたわけでもない。
俺は、あくまで俺のために、麻奈実の悩みについて、何かをしようと思ったのだ。
とはいえだ……。麻奈実|本人《ほんにん》とは会えないし、弟のロックに聞いても埒《らち》が明かなかったし、クラスの女どもも知らないって言ってたし、赤城のバカは問題|外《がい》だったわけでなあ……。
自分|自身《じしん》をも含めて、この件で頼りになりそうなやつが周りに見当たらない。
「……むぅ」
他《ほか》にこういうことを相談できて、その上で有益《ゆうえき》な回答《かいとう》をしてくれそうなやつ……俺の知り合いに残ってんのかな? うーむ。できれば俺にない思考《しこう》回路《かいろ》を持っている――女心《おんなごころ》をよく分かってるようなやつがいいよな……。そんでもって秘密《ひみつ》を厳守《げんしゅ》してくれる口の固いやつだ。
まず……一番あてにできそうな麻奈実の家族には、すでにロックにあたってもらっていて、何の成果《せいか》もあがっていないことが確認《かくにん》されている。
じゃあ俺の親父《おやじ》は……だめだな。死ぬほど口は固いし、ちゃんと真剣には聞いてくれるだろうが、見るからにごついし、どう考えても女心なんか分かりそうにない。お袋《ふくろ》はお袋で、女心には長《た》けちゃいるのだろうが、口が軽すぎて信用できん。むぅぅ……。
と……すると、だ。残る候補は……――
「…………………………………………フ〜」
俺は一分ほど沈思《ちんし》していたが、やがてきわめて複雑な心境《しんきょう》で、目を細めた。
――いる。たった一人……いるっちゃいる、な。真剣に相談に乗ってくれそうで、女心に長けていて、死ぬほど口が固くて、有効なアドバイスが期待できそうなやつ……。
だが……こいつは。こいつはなぁ………………ふぅむ……。
俺《おれ》はうってつけの人材に思い当たっていながら、決心《けつしん》が付かず……
眉間《みけん》に深い縦《たて》ジワを刻《きざ》み、しばし捻《うな》っていた。
……もしかしたら、先月のあいつ[#「あいつ」に傍点]も、こんな気持ちだったのかもな。
何しろ、幾《いく》ら悩《なや》んでいたとはいえ、こんなにも嫌《きら》ってる相手に自分の秘密《ひみつ》をさらけ出して、相談してみようってわけなんだからさ。
そう考えると、迷いが少しずつ薄れてきた。
何故《なぜ》ってホラ、あいつにできて、俺にできんわけがないだろうよ。
「よし」
覚悟《かくご》を決めた俺は、吹っ切れた気分で壁を見据《みす》えた。
その向こうには、桐乃《きりの》の部屋《へや》がある。
妹に相談してみよう。そう決意した俺は、思い立ったが吉日《きちじつ》という勢いで、さっそく行動を起こすことにした。桐乃の部屋の扉《とびら》が、いま俺の目の前にある。
もう夜も遅いが、あいつだって俺に初めて人生《じんせい》相談をしてきたときは夜中《よなか》だったのだから、お互《たが》い様《さま》ってもんだ。
思い返してみりゃひどい話で、ヤツは深夜だってのに、安らかに眠っている俺を、ひっぱたいて起こしやがったんだよな……。あんときゃ何事かと思ったぜ。なんのつもりだって聞いたら返ってきた台詞《せりふ》が『静かにしろって言ってるでしょ……いま何時だと思ってんの?』だし、しかもその上、ウムを言わせず『話があるからちょっと来て』ときたもんだ。
眠いから明日《あした》にしろっつっても聞かないわ、呼び出す理由は言わないわ……。
それで妹のお願いを聞いてあげる優しい兄貴《あにき》は、世界でも俺くらいのもんじゃねーの?
マジいい男だよ。俺が妹だったらとっくに惚《ほ》れてるよ。グッドエンド一《いつ》直線だよ。
というわけでレッツゴー。俺は問答《もんどう》無用《むよう》で、妹の部屋のノブを回した。
がちっ。
鍵《かぎ》がかかっていた。
「……フッ。これが格差《かくさ》社会か…………」
ですよね。俺の部屋には鍵がかからないけど、妹の部屋には鍵がかかるんでしたよね。
去年《きょねん》リフォームしたばかりだから、長男《ちょうなん》の部屋よりずっと綺麗《きれい》で広いんでしたっけね。
バーカ! くやしくねえよ!
俺は妹の部屋の扉《とびら》に向かって、無《む》意味にキバを剥《む》くのであった。
イラだちまぎれにノブをがちゃがちゃ回していると、扉の野郎《やろう》は俺の敵意《てきい》を敏感《びんかん》に察したのか、無機物《むきぶつ》の分際《ぶんざい》で先制攻撃《せんせいこうげき》をかましてきた。
バゴン! いきなり勢いよく扉が開いて、俺《おれ》の顔面にぶち当たった。
「ぐぉぉおぉぉおぉぉう……!」顔を押さえてもだえ苦しむ俺。あまりの痛みに、その場でしゃがみ込んでしまう。「ひぃっ……ひっ……イテぇ〜……」我《われ》ながら情《なさ》けない声だった。
視界《しかい》を涙で滲《にじ》ませたまま、頭上を振り仰《あお》ぐと、そこには……
「……………………」
路傍《ろぼう》の生ごみを見下ろすような表情をした、俺の妹が立っていたのである。
ショートパンツにシャツという、ラフな格好《かっこう》だ。
うおお……なんという冷たい視線《しせん》なんだ……。
『アンタにはもはや言葉をかける価値《かち》さえないわ』みたいな内心《ないしん》が透《す》けて見えるようだった。
無言《むごん》で『何の用?』と、俺の言葉を待っている。
俺はシャツで涙を拭《ぬぐ》い、すっくと立ち上がった。
そして痛みのせいで内心めちゃくちゃ混乱しつつ、それを押し隠《かく》して、何事もなかったかのように、あらかじめ考えておいた台詞《せりふ》を言うことにする。できる限りかっこいい表情でだ。
フフ……突然|部屋《へや》を訪れた兄貴《あにき》に対する桐乃《きりの》の反応は予想してあってだな、それに対抗《たいこう》するための台詞なんだ。お互《たが》い様《さま》だという皮肉《ひにく》を込めて、いつか妹に言われた台詞をそのまま返してやろうと思ったのさ。どんな台詞かって?
「静かにしろ。……いま何時だと思ってるんだ?」
「………………………………」
図《はか》らずもセルフ突っ込みになってしまった。
自分の台詞でこんなに寒い気持ちになったのは、生まれて初めてかもしれなかった。
桐乃は無《む》表情で扉《とびら》を閉めた。がちゃっ。鍵《かぎ》が掛かる音がした。
「ごめんなさい。開けてください」
開けてくれなかった。十秒待っても、一分待っても、開けてくれなかった。
俺でもそうするけど。
まあ、こうなってしまったものは仕方がない。俺はいまだにヒリヒリする顔面をさすりつつ、ノックを開始。こんこん、こんこん、こんこん、こんこん……
六〜七分ほど続けたところで、ようやく根負《こんま》けしてくれたらしい桐乃が、再び勢《いきお》いよく扉を開けた。よーし勝った、と思ったところで、超険悪《ちょうけんあく》な台詞が来た。
「なに? なんなわけアンタ? 人に嫌《いや》がらせして楽しい? ねえ?」
「話があるんだ。ちょっと来てくれよ」
桐乃の台詞をそのまま使わせてもらったわけだが、あらためて実感した。
怒《おこ》ってる人間に対してこの台詞はねえよ。
桐乃の返事は、かつて俺がしたそれとそっくり同じものであった。
「はあ? 話? こんな時間に?」
「そう」
「あっそ、死ねば?」
ここでようやくオリジナルの台詞《せりふ》を発した桐乃《きりの》は、問答《もんどう》無用《むよう》で扉《とびら》を閉めて、話を終わらせようとした。が、俺《おれ》はぎりぎりのタイミングで足を踏み出した。がしっ、つま先が扉に挟まる。
「は、話を聞いてくれって……」
「やだ。……しつっこいなー。なんであたしがそんなことしてやんなくちゃいけないワケ?」
「お、俺は、おまえの相談に乗ってやってるだろうが……」
「ばかじゃん? それはそれ、これはこれよ」
この論理《ろんり》はひどい。言われるかもしれないと覚悟《かくご》はしてたけどひどい。
つか足が痛《いて》え! 痛いよ!
てめえ……この体勢になったら、普通、力|込《こ》めるのやめるだろうが……。
まったくなあ! ある程度《ていど》予想はしてたけど、相談を申し込むだけでなんでこんなに苦労しなくちゃなんねーんだよ。立場が逆だったら、俺、とっくに相談に乗ってやってるころだろ!
「あ〜も〜ウザっ! いい加減《かげん》にしてくんない?」
「くっ………」
このときには俺の方も半分|意地《いじ》になっていて、よせばいいのに食い下がった。
「頼むよ! 聞くだけでもいいんだ! もうおまえしか頼れるやつがいないんだって!」
「………………」
必死の嘆願《たんがん》が功《こう》を奏《そう》したのか、足に掛かる圧力が弱まった。いまの台詞は、相談に乗ってもらうための方便《ほうべん》ではなく、かなりの部分、俺の本心《ほんしん》だ。
「……なに、その、もしかして……アンタ、あたしに悩《なや》みを相談するつもりなワケ?」
「そうだよ。さっきっからそう言ってるつもりだったんだがな。……悪いか」
「悪い」
即答《そくとう》かよ。しかし桐乃の台詞はそれで終わらず、さも忌々《いまいま》しげな口調《くちょう》で、こう続いた。
「悪いんだけどね……チッ、もうめんどくさいから、五分だけ聞いてあげる。感謝《かんしゃ》しなさいよ」
もの凄《すご》く偉そうだ。
そうか……相談する人間が逆になっても、俺たちの立場は変わらんのだな……。
ともあれ、ようやくなんとかなったぜ。
ふん、まさかこの俺が、こいつに悩みを打ち明ける日がこようとは思わなかったがな。
「さっさと入って。あたし、アンタの汚《き》ったない部屋なんかに入りたくないし」
「はいはい、仰《おお》せのとおりにいたしますよ」
「は? なにその態度? 相談に乗ってあげようって人に対して、失礼だと思わないワケ?」
そこまで盛大《せいだい》に自分のことを棚《たな》に上げられると、いっそすがすがしいな!
とまぁこういう経緯《けいい》で、俺は高坂《こうさか》桐乃の人生《じんせい》相談室に、足を踏み入れることとなったわけだ。
先月のことを思い出す。
親父《おやじ》に問いつめられたとき、桐乃《きりの》は頑《がん》として俺《おれ》との共犯《きょうはん》関係を漏《も》らさなかった。
モデルの仕事を、遊び半分ではなく、こいつなりのプロ意識《いしき》をもってこなしていたように見えた。親父《おやじ》との約束を遵守《じゅんしゅ》し、学業スポーツともに優秀《ゆうしゅう》な成績《せいせき》を修めていたことを知った。
そういった内面の硬さ[#「硬さ」に傍点]は、あの厳《きび》しい親父|譲《ゆず》りのものかもしれない。
誰《だれ》よりも口が固く、一度|決《き》めたことに対しての責任|感《かん》があり、女心《おんなごころ》にも長《た》けている――。
なんだかんだ言って、先月の出来事を経《へ》て、俺は桐乃にある種の信頼《しんらい》を抱《いだ》いていたのだ。
もちろん大キレーだってことは、変わらないけどな。
妹の部屋《へや》には灯《あか》りが点《つ》いていた。どうでもいいが、明るいところで見ると、俺の妹はやはりかわいい顔をしていやがるな。かわいいのは顔だけだけど。
相変《あいか》わらず妙《みょう》に甘ったるいにおいがする、全体的に赤っぽいカラーリングの部屋だ。
桐乃はベッドにちょこんと腰掛《こしか》け、地べたを指差《ゆびさ》す。
「ほら、座れば?」
だからこの位置《いち》関係は、罪人《ざいにん》と奉行《ぶぎょう》みたいだと……。
言ってもどうせ聞きゃしねえんだろうけどさあ。
俺は素直に妹の言うことに従い、床《ゆか》に敷《し》かれていた猫《ねこ》の座布団《ざぶとん》に腰を下ろした。その瞬間《しゅんかん》、桐乃は不快そうに眉《まゆ》をひそめる。こいつは自分の持ち物を俺に触《さわ》られるのが嫌《きら》いなのだ。
……もはや何も言うまい。いまは特に、頼み事をするためにここに来ているわけだしな。
桐乃はそれはもう偉そうに腕《うで》を組み、冷然《れいぜん》とあごをしゃくった。
「そんで? 相談したいことってなに?」
「あ、ああ……それがな……」
相談の内容を喋《しゃべ》りかけていた俺の口は、そこでぴたりと止まってしまった。
本当にこいつに相談していいもんかと、躊躇《ちゅうちょ》する心理が働いたのだ。
いまさらだとは、自分でも思うんだが……。この態度を見せられると、なぁ?
「ちょっと……なに口ごもってんの?」
「いや……その……あのさぁ……聞いても、バカにしないか?」
これは別に妹の台詞《せりふ》の真似《まね》とかではなく、自然に出てきたものだった。
嫌《いや》な話だが、やっぱ俺らは兄妹なのかもな。ちなみに先月の俺は、妹の『バカにしない?』という台詞に対し『絶対バカにしたりしねえって言ったろ』と超《ちょう》クールな返事をしたもんだ。
桐乃の返事はこうだった。
「するに決まってるじゃん。ほら、さっさと言えば? あたしの貴重《きちょう》な時間を割《さ》いてあげてるんだからさ」
最悪《さいあく》だなおまえと怒《おこ》るべきか、正直でよろしいと褒《ほ》めるべきか、迷うところだった。
俺《おれ》はがっくりと肩を落とし脱力《だつりょく》したが、逆にそれで覚悟《かくご》が決まった。あらかじめバカにするって言ってくれてるわけだから、もう何も恐れることはないじゃんみたいな気分になったのだ。
発想の転換《てんかん》というか、諦《あきら》めにも似た境地《きょうち》だった。俺はゆっくりと口を開く。
「実はさ……麻奈実《まなみ》のことなんだよ」
「は? なにそれ? 誰《だれ》にも言えない特殊《とくしゅ》な性癖《せいへき》についての相談じゃなかったの?」
「違《ち》げぇ!? おまえは俺を何だと思ってんだ!?」
さては自分|基準《きじゅん》で考えていやがったな? 確かにおまえからの人生《じんせい》相談は、想像《そうぞう》を絶《ぜつ》するとんでもないものだったが……それはあくまで『妹』が『兄貴《あにき》』に相談する形式《けいしさ》だからこそ、辛《かろ》うじてぎりぎり[#「ぎりぎり」に傍点]のラインを保っていられたんだと思うのよ。セーフかアウトかはともかくね?
逆は絶対やばいって!? 想像してみろよ、先月の逆パターンをさあ!
『高校生の兄貴』が『深夜』に『中学生の妹』を『自分の部屋《へや》に』連れ込んで『実は俺……妹もののエロゲーが大好《だいす》きなんだ。どうしたらいいと思う?』って告白《こくはく》するんだぜ?
それこそエロゲーでもねえだろこんな話! どんだけマニアックな変態《へんたい》なのよその兄貴!
想像だけでもう俺は俺を殺したいっ!
「ふぅ……」
少々エキサイトしてしまったぜ……(一言《ひとこと》も口に出しちゃいないがな)。
「じゃあなに?……まさかその顔で恋愛《れんあい》相談だとでも言うつもり?」
「それも違う。俺とあいつは、そういう色恋《いろこい》とは無縁《むえん》だからな」
「……ふぅん? あんなに、キモいくらいベタベタしてるのに?」
嫌《いや》な言い方すんなあ。よく知りもしねえくせに。俺は、ついムッとして言い返した。
「おまえに俺と麻奈実の何が分かんだよ」
「相変《あいか》わらずあの女のこととなると、すぐむきになるんだから…………」
忌々《いまいま》しげに言う桐乃《きりの》。
……おまえ、やっぱり麻奈実のことが嫌《きら》いだろう? 意味が分からん。おまえと麻奈実は、ほとんど会ったことすらねーじゃねーか。どうしてそんな目の仇《かたき》にすんだよ。
「確かにあたしは、アンタたちのキモい関係なんか知ったこっちゃないけどぉ。そんじゃ、なんであたしに相談したのよ? ばかなの?」
「おまえに期待してるのは、一般的な女の子としての意見だよ。俺は男だし、自分でもにぶいと思うしさ。俺が気付かないようなことでも、おまえになら分かるかと思って……」
「…………なるほどねー」
桐乃は俺に侮蔑《ぶべつ》の視線を向けたまま、組んだ足をぶらぶらさせた。
「分かった、言ってみ。聞いてあげるから」
「ああ。実はさ……なんか、最近、あいつの様子《ようす》がおかしくて……」
俺は最近の麻奈実が元気がないように見える件について、そして俺が避《さ》けられているかもしれないという可能性について、桐乃《きりの》に話して聞かせていった。
「で、さ。それで……」
すると、桐乃が途中《とちゅう》で口を挟んできた。
「ふーん。……いまのとこ、ちょっと巻き戻して」
「んっ? ……ど、どこだ?」
「最後に一緒《いっしょ》に帰ったっていう場面、もう少し詳しく言って」
「あ、ああ……」
どうやらそこ[#「そこ」に傍点]に、桐乃のセンサーが反応したらしい。
言われるがままに、俺《おれ》はあのときのことを喋《しゃべ》る。麻奈実《まなみ》と一緒に帰って、その途中、あやせと出会った場面についてだ。
しかし俺は、なぜかあやせの名前については伏せてしまった。
……まぁ、別に、あえて名前を出す理由もないしな。
それに、その辺を詳しく話すとややこしくなりそうだし……構《かま》わんだろ。
そのあと続けて、先日ロックと話した内容について説明した。
「……というわけなんだが……どう思う?」
「死ねばいいと思うよ」
即答《そくとう》でそんな言葉のナイフを投げてきたので、さすがに俺は「おいっ……」と咎《とが》めようとした。しかし桐乃は「真剣に考えた回答《かいとう》だけど?」と悪びれない。
「家庭の事情ってのはなんだか知らないけどさ――これだけは分かった。アンタは死ぬべき」
眇《すが》められた妹の瞳《ひとみ》は、その温度を、際限なく低下させていく。桐乃はさらに、こう続けた。
「幾《いく》ら何でもそれはナイでしょ。なんで気付かないワケ? 一緒に歩いてた男に、自分の顔をばかにされてさー、他《ほか》の女と比較《ひかく》されたら、落ち込むに決まってんじゃん」
「バカになんてしてねーよ! ちゃんとあとでフォローしたし、俺は、」
「アンタがどういうつもりで言ったとか、カンケーないって。大事なのは相手《あいて》がどう思ったかなんだからさ。あと何度も言うけど、あたしはアンタらの関係なんて知ったこっちゃないの。これはあくまで、あたしだったらどう思うかって話。いや、あたしだったらもちろん、落ち込む前に、ふざけた口を利いてくれた男に身《み》の程《ほど》を教えるけどね。ていうか、なに? フォロー? 一度|吐《は》いた台詞《せりふ》が、あとで取り消せるとでも思ってるワケ? んなわけないでしょクズ」
「………………」
散々《さんざん》な言われようだが……。俺は押し黙《だま》って、桐乃の回答を吟味《ぎんみ》していた。
麻奈実が、あのとき俺が言った言葉のせいで、落ち込んでいるって……?
そうかぁ? 確かにしょぼくれて『もっとがんばろっかなー』とか反省してる様子《ようす》ではあったけど……そのあとのフォローで、機嫌《きげん》直してくれたと思ったんだが。
それにあんなやり取りは、別にあのときが初めてってわけでもない。
むしろこの前、なんともなしに『おまえって、畳《たたみ》のにおいがするよな。身体《からだ》がい草《ぐさ》でできてんじゃねーの』って言ったところ、いきなり泣かれちまったのだが。
そんときのほうがよっぽど機嫌《きげん》を損《そこ》ねていたような気がする。
うーむ……どうにも釈然《しやくぜん》としねえな。家庭の事情とやらとも繋《つな》がりそうにないし……。
だが、他に心当たりもないのだから、仮説《かせつ》が一つ立ったってだけでも前進ではある。
俺《おれ》はこう聞いた。
「仮に、そうだとしてさ。……どうすりゃいいんだ、俺?」
「だから死ねって言ってんじゃん」
「死ぬ以外でだ!」
こいつはもう。兄貴《あにき》への情《じょう》とかホントにないのな。一《ひと》欠片《かけら》も。どうして俺は、こいつに相談してるんだ? なんか、分からなくなってきたぜ……。
俺に『死ね』以外のアドバイスを求められた桐乃《きりの》は「チィ……なにその難《むずか》しい質問……」と、悩《なや》み始めた。
……どうやら俺の妹は『死ね』がベストアンサーだと本気《ほんき》で思っていらっしゃるらしいな。
いたたまれなくなってきた俺は、アイデアの切っ掛けにでもなればと口を動かした。
「おまえだったら……どうする? たとえば……俺がおまえを怒《おこ》らせちゃったとして、どうしたら許してくれるんだ?」
「絶対|許《ゆる》さない」
「許すっつー前提《ぜんてい》で考えてくれよ!」
「えっ………だって、何をされても許さないし……」
きょとんと目をぱちぱちさせる桐乃。
当たり前のように言いやがって……。
こういうときだけかわいい表情してんじゃねえよ。絶対ダマされねーぞ?
俺が非難《ひなん》の眼差《まなざ》しを向けると、桐乃は「仕方ないな……」とかぶりを振った。
「というか、あたしとアンタでたとえるからダメなんじゃん。一般的な女の子の場合という前提で考えればいいんでしょ?」
「まあ、そうだな。それで頼む。女の子を傷つけちゃったとき、男が取るべき対応な」
現役《げんえき》女子中学生の意見だ。みんなもよく聞いておくといい。
「お金を払えばいいと思うよ。それかモノね」
「金!? おまえいまこの俺に、お詫《わ》びの印《しるし》として麻奈実《まなみ》に金を渡せと言ったのか!?」
「謝罪《しゃざい》と賠償《ばいしょう》、一番分かりやすい誠意《せいい》の示し方でしょ?」
「某国《ぼうこく》政府みたいなこと言ってんじゃねえよ? 本当にそれで女の子の心は癒《い》やされるのか!?」
「あたしは別にそうでもないけど……話|聞《き》いてると、そうらしいよ?『男からのプレゼントは、換金《かんきん》性が高いものほどウレシイよねぇ〜』ってこの前友達が言ってたし」
「……誰《だれ》だそんな男の純情《じゅんじょう》を踏みにじるようなことを言う邪悪《じゃあく》な女は」
「加奈子《かなこ》のこと? ホラ、この前《まえ》家に来てた背のちっちゃい娘《こ》」
あいつか! メチャクチャ俺《おれ》の悪口《わるくち》言ってたガキじゃねーか! なんか納得《なっとく》したよ!
「……桐乃《きりの》、悪いがその意見は却下《きゃっか》だ。幾《いく》ら何でも、麻奈実《まなみ》に金を払ったところで状況が改善《かいぜん》されるとは思えん」
「……なに? どんだけ貪欲《どんよく》なのよあの女?」
「そういうことじゃねえんだよ!」
おまえらとは価値観《かちかん》が違う人間がいるってことを分かってくれ。
あいつはホントに金のかからないやつなんだよ。
好きなとこ連れてってやるって誘ったら『公園行こう』とか言いやがるんだぜ?
仮に高級|化粧品《けしょうひん》だとか、宝石だとかをくれてやったとしても、逆に困った顔をされるのがおちだろうよ。
「あっそう。じゃ、好きにすりゃいいじゃん。ハイ五分|経《た》った。さっさと出てって」
しっしっと手で俺《おれ》を追い払う桐乃。
「はいはい……」
はぁ……こいつに相談したのが間違いだったな。俺は素直に腰を浮かせ、扉《とびら》へと向かう。
…………結局《けっきょく》、ろくな助言はもらえなかったぜ……どうすっか……。
「でもさぁ」
ノブを掴《つか》んだところで、後ろから声が掛かった。
「アンタは、モノで釣《つ》るのがあざといみたいに思うのかもしんないけどー。そういうのって、モノがどうこうじゃなくて、自分のために何かしてくれたってとこが大事なんじゃないの?」
桐乃は、ぼそっと、どうでもいいかのように呟《つぶや》いているのだが、その言葉は、妙《みょう》に俺の胸に突き刺《さ》さった。
「……ん……む……」
おずおずと振り返ると、桐乃はおもむろに立ち上がり、本棚《ほんだな》から雑誌を一冊引き抜き、
バフッと無造作《むぞうさ》に放り投げてきた。
俺の足元《あしもと》に落ちたそれを指差して、単語《たんご》ブツ切りで眩く。
「見て。百七十五ページの特集」
拾って、該当《がいとう》のページを開いてみろってことなんだろうな……。
俺は妹の尊大《そんだい》な態度に鼻白《はなじろ》みつつ、言うとおりにした。
その特集ページを開くと、いきなり大きいフォントでタイトルが飛び込んできた。
[#ここから太字]
『夏の特集・おねだりするならコレっ! 魔法《まほう》の魅惑《チャーム》<Aイテムで、砂浜のシンデレラ』
[#ここまで太字]
なにこの……やたらとカンに障《さわ》る記事。
キラキラした数珠《じゅず》みてーなブレスレットやら、ピアスやら……
そんなド派手《はで》なアクセサリーを身に付けて、砂浜でカッコいいポーズを決めている水着|姿《すがた》の茶髪《ちゃぱつ》モデルは、目の前にいる俺《おれ》の妹であった。となりには青いビキニ姿のあやせもいる。
先日、あやせが言っていた見本|誌《し》というのは、どうやらこれのことらしい。
……実にイマドキの女子中学生が好みそうな記事ではあるな。
かわいいじゃん。
で? これがどうかしたのか? わざわざ自分の水着姿を、兄に見せる理由はなに?
そういう意図《いと》を込めて妹を一瞥《いちべつ》すると、桐乃《きりの》は軽く舌《した》を打った。
「なにもあたしはさ、あの地味《じみ》な女にそういう派手《はで》なアクセをあげろって言ってるわけじゃないの。どーせ似合《にあ》いやしないんだしさあ。チッ――いい? 雑誌とかテレビっていつも流行の特集とかで購買《こうばい》意欲《いよく》をあおるけど、そういうのをぜんぶ女の子が鵜呑《うの》みにしてるんだと思ったら大間違《おおまちが》い。女を舐《な》めすぎ。そりゃあね、流行は流行で当然《とうぜん》気にするけど、それが自分に相応《ふさわ》しいかどうか、似合うかどうかくらいはフツー考えるって。メディアと自分、あたしのことをより分かっていて、より考えてくれるのはどっちかって――決まってんでしょ、そんなの」
雑誌モデルのくせに、自分が載《の》ってる記事に向かって、妙《みょう》に批判的なことを言いやがるな。
ていうか……話が主題《しゅだい》から盛大《せいだい》に逸《そ》れてきてるぞ……? こいつ、実は話すの下手《へた》くそだろ。
そんな俺の思考《しこう》を察したのか、桐乃はつたなく言葉を選びながらも、まとめに入った。
「つ、つまり、何が言いたいかっていうとね……えっと、自分の想《おも》いを伝えるのに、カネやモノを使うのがあざといとか、違うとか、決めつけんなってこと。相手《あいて》のことをよく考えて、やり方を選べばいいだけの話でしょ」
桐乃はそこで、改めて真剣な眼差《まなざ》しを俺に向けた。
「だいたい――喧嘩《けんか》するほど仲がいい男からもらったもんならさあ。それがなんだって、嬉《うれ》しくないわけないよ」
「……それって、おまえの話か? それとも、一般的な女の子の場合か?」
「さあ?」
小馬鹿《こばか》にするような口調《くちょう》ではあったが――たぶん、そうじゃない。
こいつは心底《しんそこ》兄貴《あにき》を嫌《きら》っていて、ムチャクチャむかつく性格をしちゃあいる。
しかし、自分を頼って相談してきた相手に、適当な回答《かいとう》をしたりはしない。こんな見てくれとは裏腹《うらはら》に、厳《きび》しくしつけられたせいか、妙に硬いところがあるやつなのだ。
それは先月の事件で、なんとなくだが分かったことだった。
だからこそ俺は、こいつに悩《なや》みを吐露《とろ》したんだよ。
ふむ……。
俺は軽く会釈《えしゃく》をして、言った。
「ありがとな、桐乃」
「ふん」
桐乃《きりの》はすげなくそっぽを向いた。超絶《ちょうぜつ》クールに礼を述べたこの俺《おれ》に対し、
あたしの兄貴《あにき》が、こんなに可愛《かわい》いわけがない――つい、そう想《おも》ってしまったに違いない。
嘘《うそ》だが。
麻奈実《まなみ》の様子《ようす》がおかしい理由は、結局《けっきょく》のところ俺には分からない。さっき桐乃が指摘《してき》した『俺が、あやせと麻奈実を比べたから落ち込んでいるのだ』という理由も、正しいかどうかは分からない。いまひとつ納得《なっとく》いってないというのが本音《ほんね》である。
そもそも本当に避《さ》けられているのかどうかも判然《はんぜん》としない。
とにかく――麻奈実は明日《あした》帰ってくる。
直接会って、話して、事態《じたい》をハッキリさせなくちゃな。
でもって何か悩《なや》んでいるってんなら、なんとかしてやりたかった。力になってやりたかった。
俺が何か悪いことをしちまったってんなら、きっちり謝《あやま》りたかった。
なにせ麻奈実のことだからな。俺としても、桐乃相手の場合とは違って、カンケーねえってほっぽり出すことはできん。あいつにはさんざん世話《せわ》になっているし、これからも世話になり続ける予定なんだから。
その際に、手《て》土産《みやげ》の一つも持っていってやるのも悪くはないだろう。
そう、|贈り物《プレゼント》。現金や高級品はむろん却下《きゃっか》だが――それで麻奈実が喜んでくれるなら、なかなかいい考えではなかろうか。これ以上の案は、いまはちょっと思いつかない。
さっき桐乃に礼を述べた気持ちは、俺の本心《ほんしん》だった。あいつは最後に、とても大切な示唆《しさ》を与えてくれたのだ。少なくとも俺はそう解釈《かいしゃく》した。
――そういうのって、モノがどうこうじゃなくて、自分のためにしてくれたってとこが大事なんじゃないの?
――自分の想いを伝えるのに、カネやモノを使うのがあざといとか、違うとか、決めつけんなってこと。相手《あいて》のことをよく考えて、やり方を選べばいいだけの話でしょ。
――だいたい――喧嘩《けんか》するほど仲がいい男からもらったもんならさあ。それがなんだって、嬉《うれ》しくないわけないよ――
今回の場合、喧嘩したわけじゃないが……俺と麻奈実の仲は悪くない。ってことは……
……そうだよな。麻奈実の悩みがなんであれ、ほんの少しくらいは、マシな気分にさせてやれるかもしれない。もしも俺が避けられちまっているんだとしてもだ。
あいつを喜ばせてやることは無駄《むだ》じゃないだろう。
元気のないあいつなんて、見ていたくはないしな。
「うん……そうだな。そうすっか」
いつもいつも俺の勉強に付き合ってもらってることだし、こんなことがなくたって、プレゼントくらいあげるべきだった。そう決まったはいいものの……
「うーむ、何がいいんだ……?」
新たな悩《なや》みの種が生まれてしまった。こういうとき、物欲《ぶつよく》に乏《とぼ》しい麻奈実《まなみ》の性格は逆に困りものだ。何をあげたら喜んでくれるのか、さっぱり予想がつかないからだ。
これが桐乃《きりの》や桐乃の友達にあげるものだったなら、なるべく高価なものを、予算や店員と相談しながら選べばいいんだろうが……幸い俺《おれ》の貯金《ちょきん》は結構《けっこう》あるしな。ぜんぜん使わないから。
えーと、麻奈実が好きなもの、欲しがりそうなものは――
お茶? 和菓子《わがし》? ――いやいや、それはあいつん家で売ってるじゃん。
じゃあ……眼鏡《のがね》? 服? ――なんかそれも違う気がすんな……あんまり高いと、あいつ困っちゃうだろうし……。あいつが恐縮《きょうしゅく》しない程度《ていど》の安物《やすもの》だと、今度は贈り物としてどうなんだという話になるしなあ……。
「ん〜………………」
かなり長い時間|迷《まよ》っていた俺であったが、やがて、麻奈実の過去の言動《げんどう》から閃《ひらめ》きを得た。
――『最近は、くまの抱《だ》き枕《まくら》をぎゅーってして眠ってるの。すっごく気持ちいいんだよー?』
――『わたしね、いま、枕|集《あつ》めてるのー』
「……枕、か?」
俺は、自らの台詞《せりふ》に自分で首を捻《ひね》ってしまった。枕というのが、女の子への贈り物として、果たして適当なものであるのか、かなり自信が持てなかったからだ。
たとえば桐乃に、枕をあげたとしよう。
『おい桐乃、お兄《にい》ちゃんがプレゼントをやろう。――枕なんだけどな?』
『死ね』
当然こうなる。でも、あくまで相手は麻奈実だから……これでいいんじゃないかと……いまいち自信はないけど、そう思うんだよ。
これでも俺は、あいつのことを一番よく分かっているつもりなんだ。俺が選んだプレゼントがダメなら、他《ほか》の誰《だれ》が選んだものだってダメだろう。そうだよな?
「うっし、枕だ。枕に決めた」
俺はさっそく、ノートパソコンをスタンバイから復帰《ふっき》させ、インターネットでプレゼントの見積《みつ》もりを開始した。この間《あいだ》見付けた枕のサイトに行ってみようと思い立ったからだ。
麻奈実も一応《いちおう》女の子だから、キャラクターものは好きだろうし……色々《いろいろ》と調べてみよう。
そう、パソコンってのは本来ヒマ潰《つぶ》しの道具じゃない。こういうときにこそ活用してやらなくちゃあな。桐乃から借りたノーパソが、初めて心強く思えた瞬間《しゅんかん》だった。
そして麻奈実が帰ってくる日の夕方。
俺は田村家《たむらけ》のすぐそばの路上で、コンクリの壁にもたれかかって、天を振り仰《あお》いだ。
「……あっちー」
眩《まばゆ》い夏の陽光に眼《め》を細める。噴《ふ》き出してきた汗を、ハンカチで拭《ぬぐ》う。
ウソみたいに暑い。もう夕方だというのに、電柱が歪《ゆが》んで見えるほど気温が高かった。
……ちょっと早く来すぎたかもな……。
そんなことも思う。でも、しょうがないだろ? 早く麻奈実《まなみ》の顔を見たかったんだよ。
しかし……こうして待っていると、段々《だんだん》と不安になってくるな……。
ロックは、今日の夕方《ゆうがた》に麻奈実《まなみ》が帰ってくるって言ってたけど、本当に帰ってくるのか……とか。会って、まずなんて言おう……とか。また避《さ》けられたらどうしようとか……な。
「はぁ……ったく……あぁ……情《なさ》けねえ……」
考え出したらきりがない。俺《おれ》の頭の中は、麻奈実のことでパンクしそうになっちまっていた。
もうハンカチは汗を吸ってべとべとだ。ジュースでも買ってこようかとも考えたが、その間に麻奈実が通るかもしれないと思うと、一歩たりとも動きたくない。
田村家《たむらけ》に上げてもらって、そこで待っていりゃあいいのかもしれないが、なんだかそれはしたくなかった。意味なんかない。ないけどさ。俺は、ここであいつを待っていたかった。
少なくともそうすれば、何秒か早く、あいつの顔を見られるんだから。
それから十分ほども待っただろうか……
すぐそこの角《かど》から、ついに麻奈実が姿《すがた》を現した。重そうなトランクを、よいしょ、よいしょ、と、いちいち掛け声をかけながら引き摺《ず》っている。
そうやって、ときおり「ふぅ」と汗を拭《ぬぐ》う仕草《しぐさ》を見ていると――
「――――」
一瞬《いつしゅん》で、色々《いろいろ》な想《おも》いが胸を過《よ》ぎった気がした。
心配、寂寥《せきりょう》、苛立《いらだ》ち、郷愁《きょうしゅう》、親愛《しんあい》、それに――……まぁ、なんだ。
混沌《こんとん》としていて、ちょっと一言では表せないが……安堵《あんど》というのが一番近いかな。
こいつのそばにいると、たまらなく安心する。避けられているかもしれないという不安を抱《かか》えているいまでさえもだ。
それは、何年もかけて少しずつ俺の心に深く刻まれてきた、もう取り外しの利かないルールなのかもしれなかった。条件|反射《はんしゃ》といってもいい。
――は、まったく。俺って、こいつがいないとホントしょうがねえやつだよ。
ちゃんと仲直りしなけりゃな。改めてそう思う。
俺は無造作《むぞうさ》に片手を挙げて、つとめていつもどおりの挨拶《あいさつ》をする。
「よっ、おかえり」
「わ、わっ……ええっ?」
角を曲がった瞬間《しゅんかん》、いきなり俺がいたからだろう。
麻奈実は目を見張ってびっくりしている。
「きょ、きょうちゃん……どうしてここに――。なんでわたしが、いま帰ってくるって……分かったの? え……もしかして……ずっと、ここで、待っててくれた……とか……」
「ん? そんなことはないぞ?」
まあ、実は二時間くらい前からいるけどさ。
「まぁ、ちょっとな。……おまえの顔、見たくて」
「……ふえ……あ、あう……」
なぜか麻奈実《まなみ》は、口をもごもごさせながら、恥《は》じらうような仕草《しぐさ》をした。当惑《とうわく》しているようだったので、俺《おれ》は頬《ほお》をかきながらこう聞いてみた。
「あー……メーワクだったか?」
「そ、そんなことないよっ。ぜ、ぜんぜんっ……」
俺が顔を覗《のぞ》き込んでよく見ようとすると、麻奈実はぱっと俯《うつむ》いてしまう。
その上、俺から逃れようとするかのように、トランクと一緒《いっしょ》に、じりじりと後ずさりを始めた。でかい犬に絡《から》まれて、半泣《はんな》きになっている子犬のような仕草《しぐさ》であった。
……ありゃ。
帰ってきたらもういつもどおり――実はそういう期待をしていたのだが、そうもいかないらしい。麻奈実の様子《ようす》は、相変《あいか》わらずおかしいままだった。
なんてこった。こんなんじゃ到底《とうてい》、いつもどおりとはいえない。俺たちらしくない。
よし――
俺は意を決して、手をのばした。そうして、麻奈実の手首をがしっと掴《つか》む。
嫌《いや》がられることは覚悟《かくご》の上で、それでもここで逃げられるわけにはいかなかったから。
ただ、我《われ》ながら情《なさ》けない声がでてしまった。
「待て待て、待てって。……逃げないでくれよ」
「逃げてなんて……ないもん」
ウソつけ。じゃあなんでこっちをちゃんと見ないんだよ。いつものおまえなら、ゆるーいツラで笑って、そうするだろうよ。俺と話すときはさ。
ああ……くそ、どうすっかな。色々《いろいろ》と話しやすい切り出し方とか、セリフとか、考えてきたのに、まったく思い出せん。テストの一夜漬《いちやづ》けを失敗しちまったような気分だぜ……。
「おまえさ、最近|何《なに》か悩《なや》んでたり――しないか?」
仕方ないので何の捻《ひね》りもなく本題《ほんだい》に入る。ものすごい直球だった。
「えっ? ええっ?」
図星《ずぼし》を衝《つ》かれたようにバッと顔を上げる麻奈実。
しかしすぐさま、再び俯いてしまう。
「ど――どうして、そんなこと聞くのっ? そんなことないよ? あはは……」
こいつはとぼけるのが壊滅《かいめつ》的にヘタクソだな。桐乃《きりの》以上だろ、これ。
しかし、そうか……やっぱ、悩みがあるんだな、おまえ。そして、それを俺に言いたくない理由がある、と。必死になってごまかしている様子《ようす》を見ても、俺《おれ》の指摘《してき》をこいつが歓迎《かんげい》していないのはあきらかだった。
つまり麻奈実《まなみ》は、いま、俺の助けを必要としていない――
認めたくはないが、そういうことだろう。
ただ、俺は、ここでそうかと素直に頷《うなず》くことはできない。どうしてもだ。
繰り返しになるが、なんとかしてやりたいと思っているし、力になってやりたいとも思う。
それができないなら、せめて元気付けてやりたかった。誰《だれ》のためでもなく、俺自身のためにだ。あくまで俺の自分|勝手《かって》なわがままで、そうしたいと思っている。
そう、だから迷惑《めいわく》そうにしているこいつには悪いが、ここで話を切り上げるわけにはいかない。俺は率直《そっちょく》に頭を下げた。
「――ごめんな」
「え……? きょ、きょうちゃん?」
麻奈実の戸惑《とまど》ったような声が聞こえてくる。
俺からのいきなりの謝罪《しゃざい》に、驚いているのだろう。
「おまえが何を悩んでいるのかは知らないし……俺には話したくないんだろうってのは、なんとなく分かるんだ。でも、それで納得《なっとく》してやるわけにゃいかない。いくらカンケーねえって突っぱねられても、見て見ぬふりはできねえよ」
「それは……」
「――いつか、おまえも、俺にそう言ってくれただろ?」
目を見張った麻奈実と、一瞬《いつしゅん》だけ、俺の目が合った。麻奈実は俺から目を逸《そ》らして、
「そ、そう……だっけ?」
「そうだよ。いつだってそうだった。俺がしんどいとき、おまえはいっつもしゃしゃりでてきて、勝手《かって》に世話《せわ》を焼いてくれんだよ。頼んでもいねーってのにな」
俺は微笑《ほほえ》ましい想《おも》いで苦笑《くしょう》した。そう、俺はいつもそうやって、こいつに助けてもらってきた。だからこれは、お互《たが》い様《さま》ってやつなのだ。
「それは、だって……きょうちゃんのこと、ほっとけないもん」
「知ってる。なにせおまえは、俺のお袋《ふくろ》よりもお袋みたいなやつだからな」
「……それって、大好きって意味?」
少し落ち込んだような口調《くちょう》で、麻奈実はそう口にした。
以前とは違う返答が、自然と俺の口を衝《つ》いて出てくる。
「おう」
「え、ええっ――!?」
麻奈実はびくっと身体《からだ》を震わせた。
「あ――ち、違うぞっ。いまのはそういう意味じゃなくてだな……ああクソ……ええっと…………売り言葉に買い言葉っつーか、家族的な意味というか……だな……その……」
バカか! なに言っとんだ俺《おれ》は!
クソ暑い中、二時間も突っ立ってたもんだから、脳《のう》味噌《みそ》ゆだってんのか!?
必死で誤解《ごかい》を解《と》こうと試みると、そんな俺をぽかんと眺《なが》めていた麻奈美《まなみ》が、突然《とつぜん》くすくすっと笑い声を漏《も》らした。指で目尻《めじり》の涙を拭《ふ》いてから、
「もぉ……きょうちゃんって……ぜんぜん変わらないね」
「……ぐ………………お、おまえだって、人のこと言えねえだろ……」
「…………わたしは……変わったもん」
麻奈実は含《ふく》み笑いもやめて、俯《うつむ》いてしまう。
いつもなら、お互《たが》いにお互いを笑って、それでオチがつく場面だったってのに。
……まぁ、そうだな。最近のおまえは『変わった』といえるのかもしれん。
それはぜんぜん、俺の望む形ではないけれども……。
それから、沈黙《ちんもく》はしばらく続いた。
その間、俺は目の前にいる幼馴染《おさななじ》みのことを考えていた。
俺たちはもう十年以上の付き合いになる。お互いのことは――分からないこともあるけれど――誰《だれ》よりもよく知っていた。
だけどそんな関係に慣《な》れきって、安心して。そんでもって、相手を傷つけてもそれに気が付いていなかったんだとしたら――妹の言うとおり、俺は一回死んだ方がいい。
『親しき仲にも礼儀《れいぎ》あり』って言葉があるが、いい関係ってのは、無《む》条件でずっと続いていくようなもんじゃない。だから、長続《ながつづ》きするよう頑張《がんば》らなくちゃいけねえ。
――俺はそう解釈《かいしゃく》している。
だからこれだけは、なんとしても確認《かくにん》しておかねばならなかった。
「――おまえが悩《なや》んでるのって、俺のせいか? 変わった原因って、俺にあんのか? だから最近《さいきん》元気がなかったり、俺を避《さ》けたりしてたのか? ……俺が何か悪いことしたんだったら、謝《あやま》るよ。だから、頼む。ここではっきり言ってくれ」
「はええっ!?」
俺の言い分を聞いた麻奈実は、アワを吹いて両手をぶんぶん振った。
「ち、違うよっ! ぜ――ぜんぜん違うっ。きょ、きょうちゃんが、わたしにそんなことするわけないじゃない!」
「えっ!? そ、そう――なのか?」
「そうだよーっ! どうしてそんなありえないこと言うかなーっ!」
普段《ふだん》のこいつからは考えられないような大声で、麻奈実は否定した。
むしろ俺のいまの言動《げんどう》にこそ、怒《おこ》っているようでさえあった。
その剣幕《けんまく》に俺はやや怯《ひる》んだが、それでもほっとした。幼馴染みの悩みの原因が、自分じゃないと本人《ほんにん》の口から証明されたからだ。
……まだ安心するのは早い。こいつの悩《なや》みの原因は、また別にあるってことなんだから。
「でも、実際《じっさい》、様子《ようす》がおかしかっただろ? おまえ。変わったって……言ってたじゃねえか? それが俺《おれ》を避《さ》ける理由になってたんだろ……? あれはなんだったんだよ?」
聞くと、麻奈実《まなみ》はもじもじと指と指を絡《から》め、恥《は》ずかしそうに頬《ほお》を染《そ》めた。
「そ、それは……あ、あのね……?……きょうちゃんと一緒《いっしょ》に帰ってて……あの女の子と会った日ね……?」
そうして。麻奈実は眼鏡《めがね》を真《ま》っ白《しろ》にくもらせながら、ぽつぽつと語り始めた。
「ま、前髪《まえがみ》?」
「う、うん……」
麻奈実が俺に語ってくれた悩みは、まったく想定外《そうていがい》の、意表《いひょう》を衝《つ》くものだった。
「あの子と会った日ね……? わたし……家に帰ってから、髪の毛を切ったの。……で……その……そしたらね? 失敗しちゃって……前髪が左右|不揃《ふぞろ》いになっちゃって……揃えようとしたら、どんどん余計《よけい》に変になっちゃって……も、もうどうしようもなくなっちゃって……」
そのときのことを回想《かいそう》しているのだろう、麻奈実は半泣《はんな》きになっていた。
「せっかく褒《ほ》めてくれたのに……こんなふうに変わっちゃったから……学校にも、行きたくなくて、ぎりぎりまで家から出られなくて……」
「……で、俺と顔を合わせたくなかった、と」
だから、避けているように見えたってことなのか?
「……うん」
麻奈実は落ち込んだ様子《ようす》で、くすん、と鼻を鳴らした。
まるで少年|漫画《まんが》とかで、醜《みにく》い怪物《かいぶつ》の姿《すがた》になってしまったヒロインが、主人|公《こう》に向かって穢《けが》らわしい秘密《ひみつ》を告白《こくはく》するシーンのような台詞《せりふ》だった。
俺は麻奈実の話にまったく納得《なっとく》がいっていなかったが、とにかく残った疑問を解消《かいしょう》すべく、順番《じゅんばん》に問いただしていく。
「じゃあ……あやせと会ったときのことは?」
「……なんのこと?」
ぱちぱちと涙目《なみだめ》で|瞬《またた》きしながら、きょとんと首を傾《かし》げる麻奈実。
――あれ?
「じゃ、じゃあ……俺が電話かけても、ずっと電源|切《き》ってたのは?」
「え? 電話くれたの?……ごめんね、わたし、ここしばらく親戚《しんせき》の家に出かけてて……」
「いや、携帯《けいたい》電話にかけたんだぞ?」
「……わたし、携帯電話、外に持ち歩かないんだぁ。なくしちゃいそうで、恐《こわ》いから……」
携帯《けいたい》電話の意味がない。どこの年寄《としよ》りの言《い》い草《ぐさ》だよ。
俺《おれ》さあ、おまえが電話に出てくれない件で、実は結構参《けっこうまい》ってたんだぞ?
なに? なんなのこの展開? 俺はさらに困惑《こんわく》を深めつつ問いただす。
「じゃ、じゃあ……学校休んでた『家庭の事情』ってのは?」
「あ、あれはね。親戚《しんせき》の家に――そこもお店をやっているんだけど――お手伝いに行ってたの。おばさんが――あ、もう大事《だいじ》はないんだけどね? 入院しちゃってて……」
「そう――なのか? で、でも、弟に口止《くちど》めしてたって聞いたぞ? 俺に聞かれても教えるなって……あれはなんだったんだよ?」
あれで俺は、おまえに嫌《きら》われるようなことしたんじゃねえかって疑いを強めたんだが……。
麻奈実《まなみ》は「え?」と一瞬《いつしゅん》目を見張ってから、失敗しちゃった、とばかりにしょんぼりした。
「違うの〜。あのときは、おばさんの具合《ぐあい》がわたしにも分かってなくて……。もし、その……よくないことになったら……。きょうちゃん、わたしのこと、心配してくれる……から……。だからあの子に『おばさんの具合が分かるまでは、もし聞かれても、きょうちゃんには黙《だま》っててね?』って、頼んだの」
「……そっ………か」
そうだよな。麻奈実が『家庭の事情』とやらで学校を休み始めたら、別に普段《ふだん》の俺だって、ロックに事情を問いただすだろう。そのとき、親戚のおばさんが倒れて云々《うんぬん》っつー話を聞かされたら、もちろん心配するわな。麻奈実の心情《しんじょう》を思いやって、痛ましい気持ちになるだろうよ。
だからこいつは、俺に黙っていようと決めたわけだ。
ただし今回の場合は、そいつが裏目《うらめ》にでちまった。俺への伝言役に選んだやつ[#「伝言役に選んだやつ」に傍点]が、かなり思わせぶりなことを言った上に、姉貴《あねき》の意図《いと》をいいかげんに解釈《かいしゃく》していたせいだ。
ってことは……
『家庭の事情』とやらと『麻奈実が抱《かか》えていた悩《なや》み』ってのはぜんぜん別で――
「俺が、おまえの顔をばかにしたから、怒《おこ》ってたんじゃ……なかったのか」
「だから、そんなことぜんぜんないってばー。だって……あのとき、きょうちゃん『そのままでいい』って言ってくれたじゃない……。いまの子より、おまえの方がずっといいよ……好きだよって……わたし、すっごく、すっごく嬉《うれ》しかった……」
い、言ったっけ、んなこと? ……思い返してみれば、確かに似《に》たような単語《たんご》を口にしたかもしれないが……ちょっとニュアンスが違くないか?
おいおい誰《だれ》だよ、そんな恥《は》ずかしい台詞《せりふ》を臆面《おくめん》もなく言うキザ男は。俺か? 俺なのか?
切羽《せっぱ》詰まっている俺の目前《もくぜん》で、麻奈実は緩《ゆる》みきった笑顔《えがお》で喜びを噛《か》みしめている。
「………だからわたし、きょうちゃんのこと……怒ったり、するわけないもん」
「そ、そっか……」
恥ずかしくてしょうがないので、俺は気合《きあい》で思考《しこう》を切り替えた。
え、えーと。つまり――全部が全部、こっちの一人|相撲《ずもう》だったってこと?
おまえが悩《なや》んでたのって、そんな理由だったのかよ……と、言葉に出さなかった俺《おれ》を、自分で褒《ほ》めてやりたい。
だってこいつ、たぶん俺が『そのままの方がいい』って言ったのに『自分の髪型《かみがた》が変わっちゃった』から、それを気にしてたんだぜ?
で、申しわけなくなっちゃって、学校行きたくなくなるくらい落ち込んでたんだぜ?
超《ちょう》バカ。信じらんねーくれーのバカ。いいかげん、聞いてるこっちが涙出《なみだで》てくるわ。
だが、だからこそ。間違《まちが》ったって言えるかよ。そんな理由だったのか、なんて。
……でもさあ……。
「で――どこ? どこを、切りすぎたって?」
「えっと………………こ、ここっ。ほら、ここ……へ、変でしょっ?」
いや、そんな泣きそうな顔で指差《ゆびさ》されても……。
「はぁ〜……変わってしまった自分にしょんぼりだよ……」
肩を落とした麻奈実《まなみ》と同じタイミングで、こっちもがっくりした。おま、おまえなあ……
切りすぎたっつっても、正直ぜんぜん分かんねーよ……。
だいいち、確かに俺はおまえに『そのままでいい』って言ったけどさあ。
髪型《かみがた》変わったくらいで怒《おこ》ったり、嫌《きら》ったり、するわけねーだろ。
ったく、気にしすぎだっての……女ってのは、まったく理解できんな。
まぁ、何事もなくてよかったよ。本当に、よかった。これで明日《あした》からはいつもどおり、一緒《いっしょ》に学校行ったり、一緒に帰つたり、一緒に勉強したり、一緒に菓子《かし》喰ったり……できるもんな。
フハハ! 見たか赤城《あかぎ》! 彼氏《かれし》なんてできてねーってよ! ざまあみやがれ!
…………あれ? でも、つーか、てことはさ。なにか?
俺《おれ》が、数日前にある人物[#「ある人物」に傍点]と交わした会話を思い出したとき、とうの本人《ほんにん》が姿を現した。
俺たちがここで話していることに目ざとく気付いたのだろう。
そいつは、田村家《たむらけ》の二階|窓《まど》から身を乗り出して、
「HYO――! ねーちゃんおかえり――っ!」
手をぶんぶん振りまわす。
でもって部屋《へや》に引っ込んだと思ったら、玄関《げんかん》から外に飛び出してきた。
「ねーちゃんねーちゃんねーちゃんねーちゃん! おれ、今日《きょう》小遣《こづか》い日だったからさ! ねーちゃんのために、ヅラ買ってきたんだよ! 大丈夫《だいじょうぶ》大丈夫っ、一部分にだけつけるやつだから! ぜってーバレないから! ウイッグっていうんだって――あっ」
ロックだ。どたどた大騒《おおさわ》ぎしながらやってきたバカは、俺の姿《すがた》を認めるや、嬉《うれ》しげにハシャイだ声を出した。
「OH! 誰《だれ》かと思えばあんちゃんじゃん! よーっす!」
「よーっす。………………いータイミングだぜロック? ちょっとこっち来いよ」
くいくいっ。優しい声で手招《てまね》きしてやると、バカは「なになにっ? なんかくれんの?」とハラを空かせた柴犬《しばいぬ》のような感じで駆《か》け寄ってきた。
がしっ――俺は攻撃《こうげき》範囲《はんい》に入ってきた坊主頭《ぼうずあたま》に、すかさずヘッドロックをかけて首を締《し》める。
「このハゲっ! てんめえ〜〜麻奈実《まなみ》が落ち込んでた理由、最初から知ってやがったな!」
「あいだだだだっ! 痛い!? だ、だから言ったじゃんか!『髪《かみ》切りすぎて落ち込んでんじゃないの?』ってさあ! ぜんぜん聞いてくれなかったのはあんちゃんじゃん!」
「ほーう……それは悪かったな。――あんな言い方で勘違《かんちが》いしないわけがあるかっ!」
俺は問答《もんどう》無用《むよう》で、坊主頭をぐりぐりしてやった。こいつにプロレス技をかけていじめるのは、以前の俺がよくやっていたことだったので、別に麻奈実も取り乱したりすることはなかった。
むしろ微笑《ほほえ》ましげに言ったものである。
「……相変《あいか》わらず仲良いねぇ〜〜」
「…………ったく! おまえらときたら……」
なんかもう、すげぇ脱力《だつりょく》したよ。ここ数日《すうじつ》俺がぐじぐじ悩《なや》んでたのは、いったいなんだったんだろうな。大嫌《だいきら》いな妹に相談してまでよぅ……。
だがまあ、繰り返しになるけど、ほんとにさ。何事もなくて、よかったよ……。
俺がふっと力を抜いた瞬間《しゅんかん》、隙《すき》ありとばかりにロックは逃げていってしまった。
ネズミみてーな野郎《やろう》だ。まあ、いまさらどうでもいいが。
「はあ……」
俺《おれ》はため息を一つ吐《つ》いてから、背負っていたバッグに手を突っ込んだ。そこから取り出したものを麻奈実《まなみ》に向かって無造作《むぞうさ》に突き出す。
「やるよ、これ」
「えっ? えっえっ?」
麻奈実はプレゼントを受け取ったはいいものの、目をしきりにぱちくりさせて、不思議《ふしぎ》そうな顔をしている。
「……これ、わたしに? あ、ありがとう……でも、どうして? 今日《きょう》、わたしの誕生日《たんじょうび》――だったっけ?」
「……ばっか、おまえ……んなわけないだろ? ボケんのはあと五十年は早いぜ?」
しばらくぶりに幼馴染《おさななじ》みの、お年寄《としよ》りじみた天然《てんねん》っぷりを見た俺は、とても心が落ち着くのを感じた。微笑《ほほえ》ましいような、照れ臭いような気分で言う。
「おまえの誕生日は十二月四日だろ? 俺が忘れるかって。ちゃんとその日はその日で、なんかくれてやるから安心しろ。いまやったのは、そうじゃなくて……あ〜もう何でもいいだろ!」
いまさら本当のことを言うのは恥《は》ずかしいし、さりとて他の口実《こうじつ》も思いつかなかったので、そんな投げやりな言い方になってしまった。
「いいからもらっとけ!」
「う、うん………」
照れ隠《かく》しの剣幕《けんまく》に圧倒《あっとう》されたのか、目をぱちくりさせながら頷《うなず》く麻奈実。
てんぱっていた俺は、さらに余計《よけい》なことを言った。
「……別に変な意味はねぇんだからな。妙《みょう》な勘違《かんちが》いはするんじゃないぞ」
すると今度は「……ん、分かった」という優しげな返事が来る。
……ううむ。突然《とつぜん》、スゲーせわしない気分になってきたのはなんでなんだろうな?
チッ……。麻奈実が、プレゼントと荷物を一緒《いっしょ》に持っていて大変そうだったので、俺はむすっとしたツラのままでトランクを持ってやった。すぐさま礼を言われるが、そっぽを向いて無視《むし》してやる。ちらりと麻奈実を流し見ると、
「……じゃ、開けるね? えへへ……なにかなぁ……」
俺は麻奈実が丁寧《ていねい》に丁寧に包装《ほうそう》を剥《む》いていくのを、内心《ないしん》固唾《かたず》を呑《の》んで見守っていた。
やがてプレゼントの中身《なかみ》が、麻奈実の腕《うで》の中で露《あら》わになる。
「わぁ…………」
俺が選んだのは、うさぎの抱《だ》き枕《まくら》だった。とても胴長《どうなが》で、抱き心地《ごこち》の良い素材でできている。
実はアニメのキャラクターらしいのだが、そこは別にどうでもいいんだ。単純《たんじゅん》に、デザインが気に入った。これなら麻奈実《まなみ》が喜んでくれそうだと、びりっと来たんだよ。
そしてその予感は、どうやら当たってくれたらしい。
「すっごいかわいい枕《まくら》〜〜っ。ありがと〜〜〜※[#中白ハートマーク] きょうちゃ〜〜ん」
「……はは、やる気なさそーっつーか、妙《みょう》に眠そーなツラしてるだろうそいつ? ま、気に入ってくれたんならよかったよ。たまには一緒に寝てやってくれ」
俺《おれ》がほっと胸を撫《な》で下ろすと、麻奈実ははしゃいだ様子《ようす》で、ぎゅっとうさぎを抱き締《し》めた。
「うんっ、きょうちゃんだと思って大事にするね!」
「…………それはやめろ」
「え? なんで? この子、ダルそ〜なお目々とかきょうちゃんに似《に》てると思うんだけど……」
「なんでもだっ」
鈍感《どんかん》ってのは、普通|男《おとこ》が言われるもんだけど……こいつも相当《そうとう》鈍いな。
こっ恥《は》ずかしいっての!
結局《けっきょく》――事の顛末《てんまつ》はこんな感じ。
この件の真相《しんそう》は別にたいしたことではなくて、単なる俺の早とちりと勘違《かんちが》いでしかなかった。
俺たちの関係は相変《あいか》わらず、いままでと何一つ変わることがなかった。
「ねぇ、夏休みに入ったらさ……また今年も、家に遊びに来てね」
「そーだな。宿題|教《おし》えてくれるんなら、行ってやるよ」
「うんっ。じゃ、じゃあさ、なんだか心配させちゃったみたいだから……そのお詫《わ》びと、『きょうちゃん』をもらったお礼に……わたし、おいしいご飯、がんばって作るね」
「……もしやいまの『きょうちゃん』というのは、そのうさぎのことじゃあるまいな……」
眉間《みけん》に縦《たて》ジワを刻んで、いつものように、とぼけた幼馴染《おさななじ》みに突っ込みを入れる。
まったくいつもどおりの光景だ。
俺《おれ》が常に望み、望み続けてきたものが、いまここに、確かにある。
――やれやれ。俺たちの腐《くさ》れ縁《えん》は思いの外《ほか》、頑丈《がんじょう》なのかもしれねーな。
この天然《てんねん》地味《じみ》眼鏡《めがね》な幼馴染みとの付き合いは、ずいぶんと長いものになりそうな予感がする。
俺と麻奈実がお互《たが》いに、そうしよう[#「そうしよう」に傍点]と心がけていく限り、俺たちの望みは叶《かな》い続けるからだ。
その望みさえ、いずれ変わるときがくるのだとしても。
いまはこれでいい。なに一つ問題ねえ。
ふん、今後ともよろしくな。
ふと振り仰《あお》いだ夕陽《ゆうひ》は、やはり見飽《みあ》きることがなく、心地《ここち》よい疲労感《ひろうかん》を思い出させた。
夏休み――。それはすべての学生たちが待望《たいぼう》する、一年でもっとも長い休暇《きゅうか》である。
海水|浴《よく》、プール、夏祭り、花火大会、旅行――胸が躍《おど》るイベントが満載《まんさい》だよな。
夏期|講習《こうしゅう》だの宿題だのといった、目を背けたくなるようなもんもあるっちゃあるが、それでも夏休みが嫌《きら》いだっつー中高生はそうそういやしないだろうぜ。
もちろんこの俺《おれ》も、そうだったさ。
愛すべきサマーホリデイ。ビバ、輝かしい青春。カムヒア、何にもしなくていい時間。
別段《べつだん》たいした予定なんざないが、毎日|昼《ひる》まで寝てやるぜヒャッホー。
そんなふうにはしゃいでいた。
受験勉強に精《せい》を出しつつ、のんびりまったり過ごそうと思っていたんだ。
だが――
「……ちょっとぉ。まだ開場してもいないってのに、なによこのふざけた人混《ひとご》みは……。ねぇ、どうにかしてくんない?」
「……俺に言うな。こんなもん、どうにかできるわきゃねーだろが」
お盆明《ぼんあ》けの日曜日。この俺が、クソ生意気《なまいき》な妹と一緒《いっしょ》に、朝っぱらからどこにいると思う?
「はぁ〜ァ。はぁぁ〜〜〜ァ。せっかくの貴重《きちょう》な夏休みだってのに、こんなんじゃ、ガッコの友達とショッピングにでも行った方が百|倍《ばい》ましだったな〜ァ」
ヒントをやろう。多数の人がひしめく、都内|某所《ぼうしょ》だ。ちなみに我《わ》が家《や》からは、電車で二時間ちょい、新木場《しんきば》でりんかい線に乗り換えて――という経路《けいろ》で来た。
この時点で分かったヤツは、現在俺が置かれている立場も、おおよそ察してくれているものと思う。ま、そのへんはおいおい語っていくさ。
「あーつまんないつまんない、どうしてあたしが朝っぱらから、こんな暑苦《あつくる》しいところに来なくちゃいけないワケぇ? ねぇ、聞いてる?」
しっかし。さっきからぎゃーぎゃーがみがみ、うるッせーなこのガキャあ……せっかく連れてきてやったっつーのに文句《もんく》ばっか垂《た》れてんじゃねーよ。黙《だま》ってPSPでもやってやがれ。
俺はむさ苦しい人混《ひとご》みの中、ため息を吐《つ》いて、天を振り仰《あお》ぐ。
空は曇天《どんてん》。雨こそ降っちゃいないものの、真夏の太陽を、分厚《ぶあつ》い雲が覆《おお》い隠《かく》している。
まるで俺の気持ちを代弁《だいべん》するような天候ではあったが、屋外《おくがい》で何時間も待たされている現状を思えば、むしろこれは僥倖《ぎょうこう》だったのかもしれない。
これでカンカン照りだった日にゃあ、熱中症《ねっちゅうしょう》で倒れたっておかしくない。人混みから発散《はっさん》される膨大《ぼうだい》な熱気だけでも、気持ち悪くなってくるくらいなんだからな。
「ふぅ……」
俺はデコに貼《は》り付いた湿気を拭《ぬぐ》い、隣《となり》の桐乃《きりの》を一瞥《いちべつ》した。いいかげん、俺に文句をのたまうのにも飽《あ》きたのか、妹は大人《おとな》しく、ぴこぴこPSPをやっている。
PSP……PSPねえ……。ちょっとやりたくなってくんじゃねーかよ。
親がゲームを買ってくれない俺《おれ》としては、実に妬《ねた》ましい光景なのだが、これは妹が自分で稼《かせ》いだ金で買ったものなので、ずるいとも言えない。……くそ、俺もバイトして買おうかなァ。
今日の桐乃《きりの》は、ピンクのキャミソールにミニスカート、スタイリッシュなサングラスというファッション。でもってブレスレットやピアス、指輪《ゆびわ》などを大量に着けている。
クソ生意気《なまいき》な妹だと分かっちゃいても、ついつい見惚《みと》れちまうくらいにはかわいい。
だからなんだっつーわけでもないけどな。別に、デートしているわけでもねぇし……
いくら妹が美人だっつっても、なにひとつトクなことなんざないっての。
俺も桐乃も、もう一時間以上、しゃがんで列に並んでいるわけだが……こんなに長時間、列に並んだのは、生まれて初めてかもしれない。
「…………くそ、やってられん」
誰《だれ》にともなく呟《つぶや》く。それにしても前後《ぜんご》左右どこを向いても人人人、人人人だ。
はー……まったくなあ……。開場《かいじょう》三時間|前《まえ》に行くなんて、こいつら張り切りすぎじゃねえのって苦笑《くしょう》していたころが懐《なつ》かしいぜ……。着いたらすでにメチャクチャ人が集まってんだもんな……。なんっ……でこんなに人いんのよ!? 数千――どころじゃねえだろこれ!
ずいぶん慣《な》れたと思ったが、俺はまだまだオタクって連中《れんちゅう》を見くびってたぜ!
そう――もう言わなくても分かると思うが、俺はいま、オタクたちが集まる夏の大規模《だいきぼ》イベントに参加するため、妹と(そして妹のオタク友達と)一緒《いっしょ》に、東京ビッグサイトにやってきていた。こういう状況にいたるまでにゃあ、紆余《うよ》曲折《きょくせつ》があってだな……。
まぁ、聞いてくれよ。
あれは確か……麻奈実《まなみ》と仲直りした当日《とうじつ》夜のことだった。
麻奈実とのごたごたが誤解《ごかい》だと分かって、すっきりした気分で家に帰った俺は、ずっと借りっぱなしになっていたノートパソコンを、妹に返しに行ったんだ。
これから期末テストに向けて気合《きあい》を入れて行かなきゃならんと思ったからさ。パソコン――特にインターネットってのは、のめり込むとどんどん時間を溶かしてしまう厄介《やっかい》な性質がある。
だから、俺みたいに自分が流されやすいって自覚《じかく》しているやつは、あえて目の届かないとこうに封印《ふういん》しちまうのが賢《かしこ》いやり方だ。せめて時間を大切にしなくちゃいけない期間だけでもな。
フッ。いま、俺、いいこと言ったよね。
それに、麻奈実との件に関しては、なんだかんだ言って妹にも世話《せわ》になった。
このへんで、きちんと礼を言っておくのが筋《すじ》ってもんだろう。
こんこん。例のごとく部屋の扉《とびら》をノックする。しばらく待つと、わずかに開いた扉の隙間《すきま》から、桐乃が不機嫌《ふきげん》そうに顔を覗《のぞ》かせた。
「……なにっ?」
「いや……ゲームクリアしたからさ……返しに来たんだけど……」
なんかこれと似《に》たようなやり取り、先月もやった気がすんな……。
俺《おれ》はもはや本能的《ほんのうてき》なレベルで妹にびびりつつ、
「その前に、さ。言っておくことがあって……あー……えっと……さんきゅな」
相談に乗ってもらった礼を口にした。
「おまえのおかげで、麻奈実《まなみ》と仲直りできた。プレゼントもさ、喜んでくれたみたいだった」
照れ臭いのを我慢《がまん》して、赤面《せきめん》しながらも、ようやっと口にした台詞《せりふ》だったのだが――
「……………………ふーん、あっそ」
桐乃《きりの》は、そんなすげないお言葉とともに、ばたんと扉《とびら》を閉めやがった。
ちょ、なんだこいつ!? 珍《めずら》しく素直《すなお》に礼を言ってやってんだから、なんかもう一言《ひとこと》くらいあってもいいだろ! ……よりにもよって、問答《もんどう》無用《むよう》で扉閉めるってなによ? 信じらんねえ。
俺は殊勝《しゅしょう》な態度をがらりと改めて、険悪《けんあく》な口調《くちょう》で扉を叩《たた》いた。
「おい桐乃――てめえ人の話聞いてたか? ゲーム返しに来たっつったろうが」
扉が再びわずかに開き、妹の不機嫌《ふきげん》顔が現れる。
「チッ……うるさいなあ。で――なに? キャンペーンモード、クリアしたって?」
「ふん、まーな。ホレ、ノーパソごと返すからよ」
「へーえ……じゃあこれで一応《いちおう》、あたしと対戦《たいせん》できるようになったワケね」
桐乃は俺からブツを受け取るや、多少《たしょう》機嫌を直した様子《ようす》だった。
このへんの心理は、俺にはさっぱり分からない。
「おお、そのうち対戦してやるよ」
「ふん。そんなに言うなら、別にやってあげてもいいケド……」
「勉強やんなくちゃならんから、テスト終わったらな」
「テスト勉強? は? こんなぎりぎりまでやってんのアンタ?」
ほっとけや。ぎりぎりまでやってるっつーか、むしろぜんぜん勉強してねーんだよ。
……待ってくれ。いま、世界の外側から『えらそーなこと言いやがって! 結局《けっきょく》テスト前にエロゲーやってたんじゃねーか!』という猛烈《もうれつ》な突っ込みを受けたような気がする。
違うんだ。これは違うんだ。だって俺、最近|色々悩《いろいろなや》んでてさ、勉強やる気分じゃなかったし……麻奈実は一緒《いっしょ》に勉強してくれないし……そしたらもう、エロゲーくらいしかやることないじゃん? なぁ、そうだろう? 分かるよな、この切ない気持ち……。
この思考《しこう》は我《われ》ながらきもい。言《い》い訳《わけ》にもなってなかった。
ま、まぁ……とにかくだ! せめて今日からはテスト勉強に集中しようと、ノーパソとエロゲーをぜんぶ妹に返したんだよ!
桐乃も、いつもどおり侮蔑《ぶべつ》の視線《しせん》をくれちゃあいたが、一応きりのいいところまでゲームを進行させたっつーこともあって、この件について、特に文句《もんく》を言ってくるということはなかった。この日は何事もなく終わったのさ。
……この話が、冒頭《ぼうとう》のアレとどう繋《つな》がってくるのかって? まぁまぁ、慌《あわ》てるなって。
桐乃《きりの》が文句《もんく》を言ってきたのは、その翌日《よくじつ》なんだよ。その日、久しぶりに麻奈実《まなみ》と勉強して、まったり癒《い》やされて帰ってきた俺《おれ》は、鼻歌《はなうた》まじりに玄関《げんかん》の扉《とびら》を開いた。
そしたら、いきなり妹が仁王立《におうだ》ちしていたんだ。
完全にぶち切れた形相《ぎょうそう》で。顔面|耳《みみ》まで真《ま》っ赤《か》になって。しかもなぜか涙目《なみだめ》でだ。
「……き、桐乃? ……ど、どうしたんだよ……おまえ……」
俺《おれ》は最初、こいつまた親父《おやじ》にエロゲーでも見付かっちゃったのかと心配した。だって先月、親父に叱《しか》られた直後もこんなツラをしていたからだ。
桐乃は怒《いか》りのあまり、とぎれとぎれになりながら言う。
「ど、ど、どうしたじゃ……ない……っ! あ、あ――あんた……あんた……」
俺? ……お、おい……? 俺が、そんなにキレられるような何をしたってんだよ……。
いまにも外に逃げ出しそうなへっぴり腰でびびっていると、桐乃はそりゃもう恐ろしい声で叫んだ。涙の粒《つぶ》を飛ばしながら、
「あたしのノーパソでエロサイト見まくったでしょ!!」
「ちょっ――」
俺は一瞬《いつしゅん》、頭が真《ま》っ白《しろ》になったが――
「み、みみみ見てねぇーよ!? と、突然《とつぜん》何を言い出すんだオマエっ!? 変なこと言うなよ!」
両手を前に突き出して振り、全力で否定した。しかし桐乃《きりの》の怒声《どせい》は収まらない。むしろ俺《おれ》が容疑《ようぎ》を否認《ひにん》した瞬間《しゅんかん》、さらに激《はげ》しく燃え上がった。
「ウソつくな! もう証拠《しょうこ》はアガってんの!」
「……ああ? んだとぉ……?」
バカ言ってんじゃねーよ。保存したサンプル動画《どうが》はぜんぶキッチリ消したっつーの。
証拠《しょうこ》なんざ残ってるわけねーだろ? ちゃんと『ごみ箱を空《から》にする』ってやったもん。ヘッ、いくらPC初心者《しょしんしゃ》の俺だってな、そんくらいの操作はできんだよ。
不敵《ふてき》に鼻を鳴らす俺。しかしよく考えてみりゃ、証拠が残ってなけりゃこうして桐乃が怒《いか》り狂っている事態《じたい》はありえないワケで――
「きゃ、キャッシュが残ってんの……! とぼけてもムダなんだからね!」
「………………きゃっしゅって、なんすか?」
耳慣《みみな》れない単語《たんご》を聞いて、途端《とたん》に弱腰《よわごし》になる俺。
桐乃は眼球を片方ぎょろりと剥《む》いて、こめかみをビキビキさせながら説明してくれた。
「……ブラウザにはね……どこのサイトを見たとか……どんな単語で検索《けんさく》したとか……そういう情報がしばらく残ってんのよ……!」
「ふ、ふーん……そりゃ……初耳……だな……」
な、なんだって――! しまったそうだったのか……。
警察のハイテク捜査《そうさ》で追い詰められた殺人|犯《はん》というのは、こんな気分だろうか……。
俺が妹とまともに目を合わせていられなくて視線《しせん》を逸《そ》らすと、そこで桐乃は不気味《ぶきみ》なほど優しい口調《くちょう》になった。
「ふふ、ふふふ……あー、びっくりしちゃった。あたしさぁ……ねこ鍋《なべ》の動画《どうが》保存しようとしたら、一時ファイルに動画データが残ってるからさぁ……なにかなーと思って、再生して確認《かくにん》してみたのよー……?」
……やっべ終わった……。
妹は嚇怒《かくど》の神雷《じんらい》を背景効果《バックエフェクト》に纏《まと》っており、極大の雷鳴《らいめい》とともにこう叫んだ。
「ひ――と――に――なんってものを見せてくれてんのよッ!? あぁあぁぁあもうサイアクっ……! 信っっじらんない! 早く死んでよ!」
「な、泣くなよ! 俺が悪かったって!」
「泣いてないっ!」
ぐしっ! 手の甲《こう》で涙を拭《ぬぐ》う桐乃。
いや、その、よっぽどショックだったんだな……おまえ……オフ会でハブられたときだって、そこまでじゃなかったろ……。
むう……。見た目《め》遊んでそうなのに、もしかしてああいうの耐性《たいせい》ないのか……?
なんだそりゃ。おかしな話じゃね? エロゲー何十本もやってるくせによ。
実写《じっしゃ》だとダメなの? それとも妹|以外《いがい》のジャンルだと無理なの?
って、そんなことを考えてる場合じゃねぇな。
ど、どうしよう。いや、どうしようもないわけだが……。俺《おれ》は、脂汗《あぶらあせ》をだらだらかいた。
「も、もう見ないから……反省してるから……な?」
自己|嫌悪《けんお》と後悔《こうかい》が胸中《きょうちゅう》で渦巻《うずま》いている。ぐぅぅ……どうして俺は、よりにもよって妹に、エロサイトを見たことについて責められてんだ? 自業自得《じごうじとく》だってのは分かってるが――
ちくしょう……俺の人生、どうなってんだよ……? ちょっと死にたくなってきたぜ……。
はあはあと息を荒げていた桐乃《きりの》は、突然《とつぜん》無表情になってボソッと呟《つぶや》く。
「あんたのことはこれからカ●ビアンコムって呼ぶから」
「そのあだ名はシャレになんねえぞ!? て、ていうか、その単語《たんご》が何なのかちゃんと分かって言ってんだろうなオマエ!」
「――よ、よく知んないけど!」
真《ま》っ赤《か》になって叫ぶ桐乃は、完全に本気《ほんき》だった。目が据《す》わっている……。親父《おやじ》と同様、俺の妹は『やる』と言ったらやる女である。
俺は迷わずその場にひれ伏し、許しを請《こ》うた。
「すんません。許してください」
「絶対やだ」
「ど……どうしたら……許してくれます……か……?」
「絶対|許《ゆる》さないっつってるでしょ? この前も言わなかったっけ?」
ですよね。仕方ないので、俺は開き直ることにした。盛大《せいだい》に舌《した》を打ちながら顔を上げ、
「んだよ、こうしてちゃんと謝《あやま》ってんのによ……もう勝手《かって》にしろ。何とでも呼べ。だいたいそのサイトはチラ見しただけだっつーの……。ケッ、だがそのあだ名、呼ぶ方も恥《は》ずかしいってことを忘れんなよ」
「あっそう。でも知ってる? 検索《けんさく》エンジンのウインドウをダブルクリックすると、いままでに検索したワードがずらーっと並ぶってコト。あんたがどんな単語で検索したのか、ぜんっぶ分かんだからね! ていうか、なにアレ?『幼馴染《おさななじ》み よりを戻すには 台詞《せりふ》例』って……いくら Google だってそんなピンポイントな悩《なや》みに答えられるワケないでしょ!」
「……ほ、ほっとけ!」
赤面《せきめん》して叫んだ俺に向かって、桐乃は、何故《なぜ》か自らも頬《ほお》を紅潮《こうちょう》させながら、
「そっ、それに! その……め、眼鏡《めがね》、かけたままとか――あと、」
「すま――――――――――ん! 俺が悪かったぁ――――――!」
あっさり態度を翻《ひるがえ》し、俺は桐乃様に平伏《へいふく》した。
い、いかん! 妹よ、それは断じて女子中学生が口にしていい台詞《せりふ》ではない……!
うっわああああ! もうめちゃくちゃ反省したぜ!
よく分からん機械《きかい》で後ろめたいことしちゃダメ、ゼッタイ!
桐乃《きりの》は深々と土下座《どげざ》した俺《おれ》を、冷然《れいぜん》と見下《みくだ》してきた。
「……ねぇ、そんなに眼鏡《めがね》が好きなワケ?」
「そんなにいたぶらないでくれ……! マジで! 何でもするから……!」
でもな? 言わないけどな? 中高生男子にパソコン与えて、インターネットを探索《たんさく》させたらさあ。数時間|以内《いない》に百パーセントたどり着くだろ! エロい世界に! 検索《けんさく》なんざしなくたって、適当にサイト巡っているうちに自然と吸い込まれてしまうんだって!
これはしょうがないことなんだ! どうにもならないことなんだ! 誰《だれ》に教わらなくとも、男の子なら自然と身に備わっている本能みたいなものなんだって!
誰か分かってくれっかなぁ――!
という俺の心の叫びが通じたわけもないのだが、桐乃は「何でもするから」という台詞《せりふ》に反応し、何やら思案《しあん》を始めた。
「…………何でも? ホントに?」
「お、俺にできることなら……!」
「そう、じゃあ――」
桐乃は、土下座している俺を見下ろしながら、傲然《ごうぜん》と言い放った。
「アンタ、あたしを不快にした責任とりなさいよ」
「……ハダカ踊りでもしろってか?」
「ば、ばっかじゃないの!? そんな汚《きたな》いモノ見るわけないでしょ」
「じゃあ、どうしろってんだよ?」
「だから――そうじゃなくて――夏休みの話っ! あたし、今年の夏、部活で忙《いそが》しいから……あんまり遊んでらんないのよね」
桐乃の話を要約《ようやく》すると……こういうことらしい。桐乃は、陸上の県《けん》大会で活躍《かつやく》したおかげで、ナントカという強化合宿の選抜メンバーに選ばれたんだと。
その辺はよく分からん、というか、そもそも興味《きょうみ》がない。我《わ》が県の陸上がどうこうとか、妹の事情が云々《うんぬん》だとか、どうでもいいし。………ふん、凄《すご》い話ではあるんだろうけどよ。
んでまあ、これからの夏休み――具体的には八月の中旬《ちゅうじゅん》以降、とても忙しくなってしまうのだという。ほとんど合宿と練習で埋め尽くされて、遊ぶヒマもないくらいらしい。
モデル活動も、その間は休まなくちゃならんのだとか。
だけどその前に、遊べなくなるその前に『夏の想《おも》い出』を作っておきたいのだという。
直接そう言われたわけじゃないが、おそらくそうだろうと察したさ。
なんで俺に言うのかは分からんが、そのために協力してくれってんなら、是非《ぜひ》もない。
カ●ビアンコムの件を抜きにしたって、俺もこいつの兄貴《あにき》だからね、そういうことなら――殊勝《しゅしょう》にもそう考えたんだ。
でもな、こいつ、具体的に何をして欲しいのか、絶対言わねーんだよ。
「で、俺《おれ》に、何をしろって?」
「…………だから、責任とれって言ってんじゃん」
ついっとそっぽを向いてしまう桐乃。
ほらな。最近分かってきたが、この妹|様《さま》には、こういうことがままあるのさ。なんとも面倒《めんどう》くせーことに、こうなっちまったら最後、こっちがこいつの本心を推理《すいり》して、察して、その上で望みを叶《かな》えてやらないと、へそを曲げちまう。でもってさらに厄介《やっかい》なことに、いま俺は妹に対し『知ったことかバーロー』とは言えない立場と状況にあるわけで……。
ふぅ……。俺は土下座《どげざ》の体勢から桐乃《きりの》を見上げつつ、眉《まゆ》をひそめた。
こいつは俺に、いったい何をさせたいんだ? 不快にした責任とれって言われても……
つまり、楽しませろってこと? 俺は健気《けなげ》にも、なんとか妹の望みを察してやろうと、少ない脳《のう》味噛《みそ》を回転させた。
「山……とか……海……とか……映画とか……連れてきゃいいのか?」
「は? なんであたしがアンタとデートしてやんなくちゃなんないワケ? なにその拷問《ごうもん》、恥《は》ずかしすぎて死ぬって。……ちょっと考えれば分かることでしょ? そういうとこだったらあやせと行くっての」
ボロクソ言いやがんなこいつ。ちくしょう、俺だってそんなの拷問《ごうもん》だって思うっつーの。
「あやせ?」
「そう、この前《まえ》家に来た、黒髪《くろかみ》のスタイルいい娘《こ》いたっしょ。あの娘があやせ。去年からクラスが一緒《いっしょ》で、仕事でもよく一緒になるから、学校では一番よく話すかな」
名前を復唱《ふくしょう》したら、聞いてもねえのに友達の自慢《じまん》話を始めやがった。しかもエロゲーの話をするときと同じくらい、嬉《うれ》しそうにだ。――つまり、そういうことなんだろうさ。
「仕事でもっつーと、あの娘もモデルやってんの?」
そういやあやせも、そんなようなこと言ってたな。
「あたしと違って、あやせは事務所に所属《しょぞく》してるけどね。あの娘の初《はつ》仕事のとき、あたしが色々《いろいろ》教えてあげて――それで仲良くなったの。いまでは、まあ、親友ね……ふふ」
おお……ここまで桐乃が、素直な態度を示す相手《あいて》というのは他《ほか》にいないんじゃないか?
かなり驚いたが、同時に微笑《ほほえ》ましくもあった。
「そっか。親友か」
「そう。だからアンタなんかじゃ、あやせの代わりにはならないの。比べるのもバカらしいくらい。――分かった?」
「へーへー。……じゃあどうしろってんだよ?」
「自分で考えれば? あんたにできることなんて、あんまりないでしょ」
そう言い捨てて、桐乃は扉《とびら》をばたんと閉めてしまう。廊下《ろうか》に一人取り残される俺。
こんにゃろう……あくまで自分の望みを言うつもりがないらしいな。
しかしこの様子《ようす》だと桐乃《きりの》は、『夏休みに、俺《おれ》にして欲しいこと』があるんだよな、たぶん。
でも、自分からは絶対言いたくないと……。うーむ。どうしたもんかね。
俺は、しばらくその場で考えて――ぽんと拳《こぶし》で掌《てのひら》を叩《たた》いた。
こういうときに頼りになりそうなやつの電話番号を、つい最近|教《おし》えてもらったことを思い出したのだ。
俺は携帯《けいたい》を取り出して、最近|登録《とうろく》したばかりのアドレス二件を交互《こうご》に眺《なが》める。
桐乃のクラスメイトで親友――いま会話に出てきたばかりの、新垣《あらがき》あやせ。
桐乃のオタク友達である、沙織《さおり》・バジーナ。
さーて、どちらに相談してみるべきだろうかね。二人ともお人好しな性格をしているので、どちらに相談したとしても、きちんと『桐乃の願い』について一緒《いっしょ》に考えてくれるに違いない。
ふーむ。でも、桐乃はこんなことを言ってやがったんだよな……。
――あんたにできることなんて、あんまりないでしょ。
まあ、そうだよな。俺にできることなんて、たかがしれてるだろうよ。
とすると――
『はっはっは――そういうことでしたら、ちょうどよかった。拙者《せっしゃ》、夏コミに、きりりん氏と京介氏《きょうすけし》をお誘いしようと思っていたところでして』
「なつこみ? なんだそりゃ?」
迷った末、俺が電話を掛けたのは、桐乃のオタク友達の沙織≠ナある。
オタク系《けい》コミュニティの管理人でもあるこいつなら『桐乃の想《おも》い出作り』に何をしてやればいいのか、いいアイデアを持っているかもしれない――俺はそう考えたのだ。
だってさ、あの桐乃に、俺がしてやれることなんて、こっち方面[#「こっち方面」に傍点]のことしかないだろう? だから俺のやるべきことは、この方向で間違《まちが》っていないと思うんだよ。
でもって、俺の相談をこころよく聞いてくれた沙織は、『ちょうどよかった』という、さっきの台詞《せりふ》を言ってくれたという次第《しだい》。
『はい。夏コミというのはですな――』
沙織によると、夏コミというのは、八月の中旬《ちゅうじゅん》、金土日の三日間を使って国際|展示場《てんじじょう》――東京ビッグサイトで開催《かいさい》される、大《だい》規模なオタクの祭典らしい。説明を口頭《こうとう》で聞いただけでは、ちょっと想像《そうぞう》がしにくかったのだが――
『きりりん氏と京介氏のよき|想《おも》い出になるよう、拙者も全力で臨《のぞ》みますので、ぜひにっ!』
そうまで言ってもらえるなら、承諾《しょうだく》しない理由はない。
つーか。本当に頼りになる、いいやつだよ、こいつは。
桐乃のことで相談したってのに、ごくごく自然に俺の名前まで『楽しませるリスト』に入れちまってるところがまた……。
こいつと出会えたのは、桐乃《きりの》にとっても、俺《おれ》にとっても、望外《ぼうがい》の幸運だったのかもな。
なんにせよ、ありがたい。俺は苦笑《くしょう》した。
「――じゃ、それってお願いしてもいいか? こっちも桐乃に言っておくからさ。すまないが、よろしく頼む。で、えーと……幾《いく》つか聞いていいかな? それって参加すんの、三日間のうちどこでもいいのか? 俺んち、親父《おやじ》の休みがちょうどそのイベントと被《かぶ》っててさあ。帰省《きせい》して墓参《はかまい》りに行かなきゃならんから、日曜日しかたぶん予定あけられないんだが……」
『ええ、ええ。三日目に出撃《しゅつげき》できるのであれば、ばっちりでござる。では、これから黒猫《くろねこ》氏もお誘いしますので、詳細《しょうさい》は後日改めて詰めていきましょうぞ――』
ってなことがあって――。
現在、俺は桐乃を連れて、こうして夏コミとやらにやってきたというわけだ。
時刻はまだ、朝の九時ごろだ。
空は曇天《どんてん》。夏にしては気温が低いが、人混《ひとご》みのせいでむわっと熱気が漂っていた。
みっしりとひしめくオタクたちが、整然《せいぜん》と並んで、十時の開場を待っている。
いや、すげー混むとは、あらかじめ沙織から聞いちゃいたが……ここまでとは思わなかった。
「はぁ……も〜、休日だってのに、なんであたしがこんなとこ来なくちゃいけないワケぇ? ねぇちょっと、列《れつ》動くのマダー? あたし、足痛いんだケド――」
PSPの画面を覗《のぞ》き込んだまま、俺の脇腹《わきばら》に肘《ひじ》を入れてくる桐乃。
「……しらねえよ。おまえ、ほんっとさっきから文句《もんく》しか言ってねえな」
「ふん」
そっぽを向いて鼻を鳴らす桐乃。もの凄《すご》い態度の悪さだ。
誘ってくれた沙織《さおり》に失礼だとは思わねえのかよ。
だが『夏コミに連れて行く』という俺の選択《せんたく》は、間違《まちが》っていなかったようだ。
何故《なぜ》なら本気で『めんどくさい』『こんなとこ来たくなかった』と思っているんなら、桐乃は絶対にいまここで大人《おとな》しく座っていたりはしないからだ。
そもそも誘っても付いてこなかったろうし、来て後悔《こうかい》したならその瞬間《しゅんかん》に帰るって。
たぶん照れ隠《かく》しに悪態吐《あくたいつ》いているだけなので、この程度の文句で済んでいるのだろう。
……おい。なんだって俺は、だんだん捻《ひね》くれた妹の思考《しこう》を読めるようになってきてんだよ。
クソ、マズイな……。妹の下僕《げぼく》として、着々と経験《けいけん》を積み重ねてる場合じゃねえぞ……。
そんなふうに焦りつつ、俺は頭をかきかき、となりに座っている沙織に話しかけた。
「あー……えっと……改めて――ありがとうな。正直、助かるぜ。……俺一人じゃー『いい想《おも》い出を作ってやる』っつったって、何をどうしていいのかさっぱり分からんからさ」
「フッフッフ……。なーにを水くさいことをおっしゃいますか、京介氏《きょうすけし》。夏コミにお誘いしたのは拙者《せっしゃ》の方ですぞ? 誘いに応じて参加してくださったきりりん氏や黒猫氏《くろねこし》そしてもちろん京介氏《きょうすけし》にも――目一杯《めいっぱい》楽しんでいただけるよう力を尽くすのは、当然のことではありませんか。それが拙者《せっしゃ》自身が楽しむことにも繋《つな》がるのです。ですから――」
礼には及びません。沙織《さおり》はそう言って、上機嫌《じょうきげん》に微笑《ほほえ》んだ。いつもの、口元を| ω 《こんなふう》にした独特の表情でだ。……ほんっとこいつは、ほんっとこいつは……。もう言葉もないな。
「おやおや、どうしましたそんなに見つめて? ――ははあ。なるほど、さては拙者の美貌《びぼう》に見惚《みと》れてしまったのですな?」
「……おまえの顔はぐるぐる眼鏡《めがね》でほとんど隠《かく》れてるじゃねーか」
見惚れようがないっての。つーか美貌っておまえ……凄《すげ》ぇ自信だなこのナリで。
180センチくらいある、どでかい体格。
ぐるぐる眼鏡にバンダナ巻いて、シャツのすそはズボンにイン。
さらにごっついリュックに丸めたポスターを差しているという、とんでもなくダサい格好《かっこう》。
そうー。沙織の見てくれは、その言動《げんどう》以上に、超変《ちょうへん》テコだった。
このキモオタファッションは、沙織に言わせりゃ『オタクたちのリーダーに相応《ふさわ》しい』格好なんだとか。実際《じっさい》沙織は、オフ会でオタクっ娘《こ》たちに慕《した》われていたようだったので、それなりに効果はあるのかもしれないな。
瓢々《ひょうひょう》としたデカ女の言動に俺《おれ》が呆《あき》れていると、
「※[#「あ」に濁点]あああああああああああああああ!! なんっってことすんのよッ!!」
となりから妹の悲鳴が聞こえてきた。
ただでさえ湿度と熱気が凄《すご》いってのに、でかい声出されると余計《よけい》に蒸《む》し暑く感じる。
いらつきながら振り返ると、桐乃《きりの》は怒《いか》りの形相《ぎょうそう》で、PSPの画面を覗《のぞ》き込んでいた。
「……うるっせーな。何事だよ? 気でも狂ったのか?」
「違う! こ、こここ、こいつが! こいつが……!」
桐乃が指差《ゆびさ》したのは、全身黒|尽《ず》くめのゴスロリ女だ。
桐乃の対面《たいめん》にちょこんと座り、やはりPSPを持っている。
このゴスロリ女は黒猫《くろねこ》≠ニいうハンドルネームで、やはり桐乃のオタク友達である。
ビシリと指を突き付けられた黒猫は、見下《みくだ》すような眼差《まなざ》しで、無《む》感情な声を出した。
「……ふん。ちょっとあなたのキャラに向かって、たわむれに散弾《さんだん》を速射《そくしゃ》してあげただけじゃない。こんなの協力プレイでは、よくやるお遊びでしょう? いちいち目くじら立てないで頂戴《ちょうだい》。たかがモンハンで、何をがたがた騒《さわ》いでいるの? そんなに大きな声を出して、恥《は》ずかしいったらありゃしないわ」
「はああ!? 何度も何度も、敵《てき》を倒して素材を剥《は》ぎ取ろうとするたびに、あたしに散弾|撃《う》ち込んで剥ぎ取りモーション強制|停止《ていし》させてきたくせに! なにその言《い》い草《ぐさ》! 三十分かけて倒したのに、結局《けっきょく》何にも取れなかったじゃん!」
「……だって私、このボスから取れる素材は全部|持《も》ってるもの。他《ほか》の楽しみを見い出さなければだるくてやってられないわ」
「ちょ、いまアンタ楽しみって言ったの!? 味方撃《みかたう》つのが!」
「……聞き間違《まちが》いよ。……だいたい、ラオごときで二落《にお》ちするようなヘタクソと一緒《いっしょ》にプレイしてあげてるんだから、むしろ優しい私に感謝《かんしゃ》するべきだと思うけれど?」
「……あ、あたしが死んだのはあんたのせいでしょお……?」
「あら最低、人のせいにするのね?」
「違っが――う! あたしが大タル爆弾《ばくだん》を仕掛けた直後に、アンタがしれっと起爆《きばく》させたせいで死んだの! いちいち回復を邪魔《じゃま》してくるしさあ……敵《てき》を撃ちなさいよ敵を――!」
「フッ、あれは痛快《つうかい》だったわね」
「〜〜ッ!! アンタとはもう二度と一緒にゲームやんないから!!」
…………………………。
あらゆる意味で突っ込めない。そもそもなに言ってるのかサッパリ分からねーし、こいつらが揃《そろ》うと必ずこうなる。俺《おれ》としてはもう諦《あきら》めているので、止める気にはなれなかった。
勝手《かって》にギャーギャーいがみ合わせておくしかない。
まぁなんだ、どうやらゲームの腕《うで》に関しちゃ、桐乃より黒猫の方が上手《うわて》らしいな。
「……ふふふ。微笑《ほほえ》ましい光景ですなあ、そう思いませんか、京介氏《きょうすけし》?」
「微笑ましい……かぁ?」
おいおい、沙織《さおり》さんよ。本気で言ってんの? こいつらお互《たが》いに性格とクチ悪いから、会話が毒々《どくどく》しくてしょうがねーぞ? どんだけ毒舌《どくぜつ》に耐性あんだよアンタ、感覚|麻痺《まひ》してんだろ。
ほら、周りで並んでる人たちからも、注目されちゃってるじゃねーかよ。
んまぁ、それだけ本音《ほんね》を見せ合ってるってことではあるんだろうが……。
ふー、つーか、これから俺、この面子《メンツ》を連れて、よく分からんイベント見て回らなきゃならないんだよな……。大丈夫《だいじょうぶ》かなァ。すげー……先行き不安になってきたよ。
「おや、京介氏《きょうすけし》、どちらへ?」
「……いまのうちトイレ行ってくるわ。なんか重い考え事してたら、ハラ痛くなってきた……」
尻《しり》を浮かせながら、沙織の問いに答える。すると沙織は、リユックのポケットから腕時計を取り出して眺《なが》め、表情を曇らせた。
「……ふむ、でしたら急いだ方がよろしいでしょうな」
「なんで? 別にそんな遠くもないとこに、トイレあったぞ?」
「冬ほどではありませんが……下手《へた》をすると三十分待ちです。早く行っておかないと、列が動き出すまでに戻って来られない可能性があります」
ぎゃー……。用を足すのにも並ばなきゃならんとは……。夏コミってのは、おっかねぇな。
俺は、どんよりとした気分で空を振り仰《あお》いだ。
列が動いたのは、それから数十分後のことだった。相変《あいか》わらず周囲は暑く、ただ座っているだけでも汗が噴《ふ》き出てくる。体力も減っていく。となりがうるさいので余計《よけい》に暑い。
「このクソ猫《ねこ》! あたしの死角《しかく》に、こっそり爆雷針《ばくらいしん》設置するのやめてよ!」
「お黙《だま》りなさいビッチ。覚えておきなさいな、ガノトトスには爆雷針がとても有効なのよ」
相変わらずギャーギャーガミガミ一緒《いっしょ》にゲームやりながら喧嘩《けんか》している女どもに、
「おい、おまえら――そろそろグームやめろ。前の方で、列《れつ》動き始まったぞ」
俺《おれ》はイヤイヤ声を掛けた。しかし桐乃《きりの》も黒猫《くろねこ》も、一向に人の話を聞いてくれない。
「さっきッから、あたしも巻き込まれて感電《かんでん》してるっつってんのが分からない!? そんなんだから xlink kai の掲示板《けいじばん》でネーム晒《さら》されんのよ!」
「…………そ、それはきっと、同姓《どうせい》同名の別人に違いないわ」
「はッ、こんな厨《ちゅう》くさいネーミングセンスのやつが他《ほか》にいるわけないって。あーそうそう前々からずっと言おう言おうと思ってたんだケド、ハンドルネームの両側にごてごて記号っぽいの付けるの、まさかカッコいいとでも思ってるワケ? 恥《は》ずかしいからやめた方がいいよ?」
「なんですって……? ――ハ、思ってるわよ、悪い? むしろこのカッコよさが分からないなんて、あなたの感性《かんせい》を疑うわ。まったく、周りの風潮《ふうちょう》に流された低脳《ていのう》の豚《ぶた》どもがよくいう台詞《せりふ》よね……ハンドルネームの両脇《りょうわき》を†で囲んだから厨くさいとか、聖《せい》とか堕《だ》とか、美麗《びれい》で耽美《たんび》な字を名前に使ったらDQNくさいとか……。なによそれ? 勝手《かって》に決めつけない頂戴《ちょうだい》。何がカッコよくて何がカッコ悪いかなんてのはね、私が自分で決めるわよ」
「あんたの信念《しんねん》はよく分かった。だからいますぐゲームをやめて移動してくれ、な?」
俺の心労《しんろう》は、まだ建物にも入っていないってのに、早くもピークに達しようとしていた。
列が少しずつ動いていく。
「できるだけ前に詰めてくださーい! そこ! なるべく隙間《すきま》を埋めて、埋めて!」というスタッフの指示《しじ》が聞こえてきたが、桐乃たちの反応は依然《いぜん》として鈍い。
スタッフも汗だくで、実に大変そうだ。
はっきり言うが、俺はこういった指示や、場のルールに従わないやつは嫌《きら》いである。
別に俺が、品行方正《ひんこうほうせい》かつ従順《じゆうじゅん》な人間だからってわけじゃないぞ。
単に、周りで波風立《なみかぜた》てられんのがイヤなだけだ。俺は穏《おだ》やか生きていきたいんだよ。
つーかそれ以前の問題として、こんなくだらねーことで周りに迷惑《めいわく》かけちゃ駄目《だめ》だろ。
……ったく、しょうがねえな。
健気《けなげ》にも俺は妹たちの荷物を代わりに持ってやり、しかるのちに喧嘩中の二人の間に割り込み、両者の背中を押すようにして進行を促《うなが》した。
「ほらおまえら――いいかげん進もうぜ? 後ろがつまっちまうだろうが」
「「気安く触《さわ》らないで」」
おのれ……。こういうときだけハモりやがって〜〜……。実は仲良いんじゃねえのか?
への字|口《ぐち》になった俺に向かって、沙織《さおり》が笑いながら声を掛けた。
「はっはっはー。モテモテですな!」
「おまえはもう眼鏡《めがね》買い換えろ!」
ゆっくりと人混《ひとご》みが動いていく。俺《おれ》は開発された大通りを、しかめっツラで歩き始めた。
やがて列は幅広の階段を上り、逆《ぎゃく》三角形の建物――東京ビッグサイトに向かって進んでいく。
その有様《ありさま》は、黄泉比良坂《よもつひらさか》を歩む亡者《もうじゃ》の列のようでもある。
ちなみに華《はな》やかな妹と一緒《いっしょ》に歩いていると、周囲から視線《しせん》(男女|両方《りょうほう》)を感じることが多いのだが、いまはまったくそういうことはない。
それだけ皆、目前《もくぜん》に迫ったイベントに集中しているってことなのかもな。
階段を上りきったところで黒猫《くろねこ》が(おそらくは沙織《さおり》に向かって)ぼそりと呟《つぶや》いた。
「……今日は東館《ひがしかん》から回るということで、よかったのかしら?」
「ええ。まずはイベントの実質メインである、同人誌《どうじんし》即売会《そくばいかい》からですな」
「一応《いちおう》待ち時間にカタログ読んではみたんだが――その同人誌即売会? ってのが、いまひとつピンとこねえんだよな。同人誌ってのは、ようするに自前《じまえ》で作った本のことだろ? 普通の本屋じゃ売ってないようなやつ。そういうのを売る会ってことはさ……えっと、この前行った、とらのナンタラをでかくしたようなもんか?」
歩きながら俺が聞くと、沙織が素早く回答《かいとう》してくれた。
「同人誌を売っているという意味ではそうかもしれませんが、拙者《せっしゃ》はまったく違うものだと考えておりますよ。ふぅむ……どう表現したものですかな………おそらく肝要《かんよう》なのは、夏コミとはみんなで創るお祭りである[#「夏コミとはみんなで創るお祭りである」に傍点]という点でしょうか?」
「……? ……企業《きぎょう》が運営してんだろ?」
「もちろん。運営会社|自体《じたい》はありますな。ですが言ってみればそれは『皆が楽しめるお祭りの舞台をお膳立てする』というものでして……。このイベントはあくまで、スタッフの方々、サークル参加している方々、そしてたくさんの一般《いっぱん》参加者たち――皆が集まって、ルールに則《のっと》って、めいめいに盛り上げていくものなのですよ」
「……すまん。よく分からん」
「……あんたそんなことも調べて来なかったの?」
俺《おれ》の言《い》い草《ぐさ》を聞きとがめた桐乃《きりの》が、呆《あき》れ果てたとばかりにため息を吐《つ》いた。
あんた今日《きょう》ホストでしょ? そんな認識《にんしき》であたしを楽しませられるとでも思ってんの?
とでも言いたげである。
「うるせえよ。ふん、じゃーおまえはよっぽど詳しいんだろうな?」
「知るわけないじゃん。あたしだってこういうの今日初めてきたんだから……」
こいつ……。どこまでも偉そうに……。荷物持ってやっている俺への感謝《かんしゃ》とかねえのかよ? 俺たちがバチバチ視線の火花《ひばな》をぶつけ合っていると、沙織がフォローを入れてくれた。
「まぁまぁ、お二人とも。いいではありませんか、参加してみれば分かることです」
「そりゃ……」「そうだけどね……」
渋々《しぶしぶ》といった感じで、俺《おれ》たちは矛《ほこ》を収める。
そうやって歩いていると、やがて、目前《もくぜん》で列の流れが分かれ始めた。
えーっと? 俺は手《て》荷物からカタログを取り出し、地図のページを開いてみる。
ふむふむ……どうやらここはエントランスプラザといって、各|棟《とう》への中継《ちゅうけい》点となっているらしい。俺と桐乃《きりの》は、沙織《さおり》と黒猫《くろねこ》のあとに付いていく形で、エントランスプラザの誘導《ゆうどう》看板《かんばん》を左に曲がり、建物の中に入った。
「げ……」「うわ……」
げんなりとうめく、俺| & 《アンド》桐乃。室内に足を踏み入れた瞬間《しゅんかん》、むわっとした熱気が広がった。
東京ビッグサイトのエントランスホールは、さながら満員《まんいん》電車のような様相《ようそう》を呈《てい》している。
人が多すぎて、ろくに様子《ようす》が分からない。とにかく人人人、人人人だ。
こんなもん、油断《ゆだん》したら一瞬《いつしゅん》で人混《ひとご》みに流されて、はぐれてしまいかねん。
「すっげえな……こりゃ。おい桐乃……大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「あっつ……! くっさ……! やだも〜っ! 冷房《れいぼう》きかないのここっ」
桐乃がものすごくイヤそうな顔で、俺の服のすそを掴《つか》んだ。
「ぎゃー、擦《す》れ違ったときデブの汗がぬるって!」
「オイ! さりげなく俺の服になすりつけてんじゃねえ!」
俺は俺で、人混みから頭一つ飛び出している沙織を目印《めじるし》にし、なんとかはぐれないよう後に付いていく。ぐぬぬ……外の十倍くらいアチーよこれっ! 息が苦しい! 酸素《さんそ》をくれ!
しゃれにならん! ぐッわ〜〜〜〜〜〜こっりゃ〜〜〜キツいわ! 来たことないやつにゃあ、どう言ったって伝わらないだろうな、この……この……うッひぃ〜〜〜…………!
強《し》いて、強いて喩《たと》えるなら……そうだなあ。
冷房のきいてない夏場の満員電車でさあ、一番前から一番後ろまで、走行中に踏破《とうは》するようなもんだろコレ……。
やっべ……早くも帰りたくなってきたわ……。もう無理だって。涙出そうだよ……。
ぐすっ。まさか夏コミってのが、こんなに辛《つら》いもんだとは……。これで今日《きょう》が晴れてたりしたら、俺、もう完全にくじけてたね! 曇り万歳《ばんざい》っ!
「走らないで! 絶対に走らないでくださ――い!」
ふと声がした方を向くと、腕章《わんしょう》をつけたスタッフが、半《なか》ば鬼気《きき》迫る形相《ぎょうそう》でメガホンを構え、警告《けいこく》している。
すると、ほとんど競歩《きょうほ》みたいな勢《いきお》いで進んでいたオタクたちの一群《いちぐん》が、速度をゆるめた。
しかしそいつらからは依然《いぜん》として、早く先に進みたいという焦燥《しょうそう》が感じられる。
「……なんなんだこいつら……そんなに急いでどこに行くのよ?」
「人気サークルの列よ。人気のある同人誌《どうじんし》は早く行かないとすぐに売り切れてしまうもの」
振り返って、答えてくれたのは黒猫《くろねこ》だった。……ふーん、そういうもんなのか……。
桐乃《きりの》が周囲の焦燥《しょうそう》にあてられたように言う。
「あ、あたしたちは、急がなくていいの?」
「ええ――。今日は、あまり慌《あわ》ただしいのはやめておきましょう。黒猫|氏《し》ともお話しして、そう決めたのですよ。確かに行列《ぎょうれつ》に並んで同人誌《どうじんし》を買い求めるというのも、イベントの大きな醍醐味《だいごみ》の一つではありますが――」
沙織《さおり》は目ざとく空《あ》いているスペースを選んで通り、俺《おれ》たちを導いてくれている。
俺たちは頼りになるリーダーのあとに続いて、北コンコース――東ホールへの通路を歩いていく。
「――初めてのイベントでいきなり死闘[#「死闘」に傍点]を繰り広げるというのも、それはそれでなかなか辛《つら》いと思うのですな。時間もたくさん喰ってしまいますし……であればもっと広くイベントというものを知っていただくためにも、今日は行列に並ぶのはやめて、ゆっくり催《もよお》しを見て回ろうと愚考《ぐこう》した次第《しだい》――ニン」
死闘《しとう》ねえ……。確かにこの有様《ありさま》は、戦場《せんじょう》と呼ぶのがしっくりくるかもな。それか地獄《じごく》な。
さっき、待ち時間にカタログ読んで予習したんだけどさあ、注意|事項《じこう》やルールがやったら細かく書いてあったり、救護《きゅうご》室の利用について紙面が割《さ》かれていたりして……なんでまたこんなにおおげさなんだ? って思ったもんだけど……無理もないよな、これじゃあ。
どんだけ注意したって足りねえよ。
俺は周囲の、とんでもねー人混《ひとご》みを見回して、うむうむと納得《なっとく》するのであった。
しかし沙織のやつ……ほんとに色々《いろいろ》考えてくれてたんだな。俺たちのためによ……。
などと俺が感動していたら、黒猫《くろねこ》がでっかい沙織をちらりと見上げて、ボソッと呟《つぶや》いた。
「……ふん。そんな綺麗《きれい》ごとを言って、あなた、ちゃっかりファンネル飛ばしてるんじゃないでしょうね? …………もしそうなら私の分も確保して頂戴《ちょうだい》」
「いや〜、申しわけござらんっ。あいにく拙者《せっしゃ》、今回、三日目はそれほど買わないつもりでおりましたので……。ワンフェスでもかなり散財《さんざい》しましたからなあ……実はこれ以上フィギュアや同人誌で部屋を圧迫《あっぱく》すると、怒《おこ》られてしまうのですよ。やはは」
後頭部に手を当てて、ぺこぺこ頭を下げる沙織。意味|不明《ふめい》なやり取りに、俺は口を挟んだ。
「ファンネルってなに?」
「えーと、どう説明したものか。……おお! 京介氏《きょうすけし》! あちらをご覧《らん》ください!」
沙織が指差《ゆびさ》した方を見ると、フライトジャケットを着込み、ロン毛を後ろで縛《しば》った髪《かみ》型のオッサンが、ヘッドセットのマイクに向けて、気合《きあい》の入った指示《しじ》を飛ばしていた。
「こちらスカルリーダー、こちらスカルリーダー、各機|状況《じょうきょう》を報告せよオーヴァ。――A28新刊《しんかん》確保|了解《りょうかい》。A87新刊確保了解。A69交戦中《こうせんちゅう》了解。――スカル2および3に告げる、プランBでいく、そのまま壁サークルの|攻略《こうりゃく》を続行、索敵《さくてき》班の警告《けいこく》を聞き漏《も》らすな。スカル5は島中《しまなか》に向かえ、俺《おれ》もすぐに合流する。――聞こえるかピクシー小隊。企業《きぎょう》ブースの状況はどうか」
「――ああ、暑さでやられちまったんだな。で、あのバカがどうかしたのか?」
「い、いや、いやいや! 京介氏《きょうすけし》! あれは一人|芝居《しばい》をしているわけではなく!」
慌《あわ》てた様子《ようす》で、両手をぶんぶん振る沙織《さおり》。
「彼は、ああやって自らのファンネルを制御《せいぎょ》しているのです。無線《むせん》で仲間と連絡を取り合っているわけですな。ええと、言ってみれば『みんなで協力して、人気のある同人誌《どうじんし》を効率《こうりつ》よく確保しよう』というものでして。それをガンダムに登場する遠隔《えんかく》操作《そうさ》兵器になぞらえて、そう呼んでいるのですよ」
「……ふ、ふーん……そうだったのか」
会話をしながら通路を進んでいくと、やがて左手に『東4→』という表記《ひょうき》が見えてくる。
俺は手元の地図をちらちら眺《なが》めながら言う。
「あそこか?」
「下よ。エスカレーターで下に降りるの」
黒猫《くろねこ》がぼそりと答えてくれた。それから数秒もしないうちに、黒猫の言葉どおり、俺たちの前方に下りのエスカレーターが見えてきた。そこにはスタッフが二名立っており、
「必ず、前の人と、一段|空《あ》けて、乗ってくださーい!」
と逐一《ちくいち》注意を呼びかけていた。俺たちは、黒猫&桐乃《きりの》・俺&沙織という組み合わせでエスカレーターに乗り、ゆっくりと下っていく。
その際、一階の全景を見渡すような視界《しかい》になったのが壮観《そうかん》だった。
通路の広大なスペースが、大量の人間で埋め尽くされている。
「なんかさー、デッドライジングにこーゆうシーンあったよねー。ゾンビがショッピングモールにドバーッって雪崩《なだ》れ込んでくるとこ」
やめろ。ゾンビとか言うな。言われてみると段々《だんだん》そう見えてきちゃうじゃねーかよ。
俺が妹の発言にげんなりしていると、今度は黒猫が余計《よけい》なことを言った。
「……毎回参加するたびに思うのだけど、こうして上から人間どもが群れるのを眺《なが》めていると、MAP兵器《へいき》で蹴散《けち》らしたくなってくるわ」
「ハハハ、拙者《せっしゃ》は真三國《しんさんごく》無双《むそう》を連想しますなあ」
おまえまで何を言う。おそらくどれもゲームからの喩《たと》えなんだろうが……俺はゲームについて詳しくないので、この光景から連想したのはジョージ・A・ロメロ監督《かんとく》の『ゾンビ』である。
なんにせよ――
この時点で、俺にはこの『夏コミ』とやらに、あんまりいい印象《いんしょう》はなかったんだよな。
だってそもそもこんなイベントに興味《きょうみ》なんてねーし、超疲《ちょうつか》れるし、クソ暑いし、妹は文句《もんく》垂れてバッカだし……いいことなんざひとつもねーんだもんよ。
一階に下りた俺《おれ》たちは、『東4』と表記《ひょうき》された入口から、ホールへと入っていった。
「ノド渇《かわ》いたァ〜〜、あつい〜〜、きもい〜〜……もー、死にそー……」
さっきから桐乃《きりの》は、俺のシャツのすそをつかんで歩きながら、文句《もんく》垂れッぱなしである。
俺としても同感なので、咎《とが》めることもできない。
こんなんで『いい想《おも》い出』なんか作れんのかね? 俺は不安を禁じ得なかった。
「へぇ……」
即売会《そくばいかい》会場にたどり着くや、俺は首を大きくぐるりと動かして、周囲を見回した。
凄《すさ》まじい人混《ひとご》みは相変《あいか》わらずだ。きわめて天井《てんじょう》が高く、壁面のコンクリートが剥《む》き出しになっている。工場とか倉庫みたいに、飾り気のない無骨《ぶこつ》な印象《いんしょう》。
机がどばーっと大量に並んでいて、その一つ一つが同人誌《どうじんし》やらグッズやらを売っている店になっている。で、そういう店が固まった列が、幾《いく》つも幾つもあるわけ。
「カタログをご覧《らん》になったのであれば、すでに御存知《ごぞんじ》かもしれませんが――このお店一つ一つのことをサークルと呼びます。大学などでも同じ単語《たんご》が使われますが、同人の場合は、もっと小さな集まりを指すことが多いようですな。一人〜数人の作家さんと、そのお手伝いをする方、という感じでしょうか」
と、沙織《さおり》が簡単《かんたん》に説明してくれた。なるほどな。
俺は先月、アキバで同人誌専門店を見てきたのだが、それともまた様子《ようす》が違う。
こっちの方がずっと――なんというか、誤解《ごかい》を承知《しょうち》でいえば泥《どろ》くさい。
「ふーん。高校の文化祭を、めちゃくちゃ大《だい》規模にしたら、こんな感じかね――」
「ははは。みんな少年少女の心を持って、ここに来ているわけですな」
……上手《うま》いこと言ったつもりかよ。
一方、俺のシャツのすそをつかんで、あとを付いてきている桐乃は、死にそうな声であえいでいる。一際《ひときわ》強くシャツを引っ張りながら呟《つぶや》いた。
「もー無理、限界《げんかい》。休憩《きゅうけい》、いますぐ休憩するから。さっさとなんとかして」
うるっせーなコイツは。なんとかしろっつわれてもよ……。
俺は、すでに疲労|困憊《こんぱい》で即売会どころじゃなくなっている妹を見て、眉《まゆ》をひそめた。
「しゃーねーな。とりあえずそこのシャッターんとこから、一旦《いったん》外出るか。俺も疲れたしよ」
「そうですな――そういたしましょう」
シャッターから外に出るや、曇天《どんてん》の微風が、ふわりと俺たちの身体《からだ》を包んだ。
ホールからは長蛇《ちょうだ》の列が外にまで延びているが、中ほどには人口|密度《みつど》が高くない。
軽く一休《ひとやす》みするにはちょうどいい。
「ふー……外の方がよっぽど涼しいな」
「もー信じらんない。頭ふらふらする……」
汗《あせ》を拭《ふ》き拭き脱力する俺《おれ》| & 《アンド》桐乃《きりの》。
「情《なさ》けないわねあなたたち……。昨日《きのう》と一昨日《おととい》はこんなものじゃなかったわよ?」
どうやら三日連続で参加したらしい黒猫《くろねこ》が、俺と桐乃に、嘲《あざけ》りの視線を向けてきた。
まぁ、そう言われるのも仕方がねえよな。一昨日は思いっきり晴れてたし、昨日は昨日で雨降ったみたいだしなあ……。今日はむしろ夏コミにしては過ごしやすい気候なんだろうよ。それでも、俺たちみたいな初心者《しょしんしゃ》には、かなりキツく感じるわけだが。
つーかさー……根本的な疑問なんだけど。
このイベントって……面白《おもしろ》いの? ぶっちゃけ、しんどいだけじゃね?
俺がここに来たことを後悔《こうかい》し始めていると、沙織《さおり》がペットボトルの冷たいお茶を手渡してくれた。
「さ、皆のもの、喉《のど》を潤《うるお》さねば夏コミでは戦えませぬ。ひとまず水分|補給《ほきゅう》といきましょうぞ」
……まさかこの飲み物、わざわざペットボトルを凍らせてきたのか?
へぇー、ありがたいな。受け取ったお茶を半分ほど飲み干《ほ》し、一息《ひといき》を吐《つ》いたところで、沙織がまるでこちらの心を読んだようなことを言った。
「さて――お二人とも、どうですかなっ? 夏コミのご感想は?」
「超つまんない。暑い、きもい、もー帰りたい」
桐乃はふてくされたように言った。
せっかく誘ってくれた人に対して、なんともひどい言《い》い草《ぐさ》だったが……。
ごめん、俺も同感だわ。しかし、そこまでの不評《ふひょう》を喰らったにも関わらず、沙織にはまったく傷ついた様子《ようす》は見られない。むしろ『想定《そうてい》どおりですな』といった表情である。
「ふふふ――然様《さよう》でござるか。まあ、無理もありませんな。なにせ最初に、夏コミの大変なところばかり一斉《いっせい》に体験《たいけん》したわけですから」
「は? なにその予定どおりみたいな態度……むかつく……」
夏コミが思いの外つまらなくてイライラしているらしい桐乃は、そこでまたしても俺の服を引っ張った。
「ちょっとぉ、あんたホストでしょ? ちゃんとあたしを楽しませなさいよ」
「そうは言うがな……」
どうしろってんだよ。仕方なく俺は、引きつった笑顔《えがお》を沙織に向けた。
「な、なぁ……沙織。ここにはさ、こいつが楽しめそうなもん……あるんだよな?」
「さて……」
沙織はゆるりと首を振り、それからニヤリと口の端《は》を持ち上げる。
「それは、きりりん氏|次第《しだい》でしょうな」
「……と、というと?」
「ふむ……ええと……なんといいますか……」
沙織《さおり》は慎重《しんちょう》に言葉を選びながら、俺《おれ》に説明してくれた。
「拙者《せっしゃ》が思うに、夏コミというお祭りは、参加者一人一人が能動的《のうどうてき》に楽しむものなのですよ。ですから、たとえば遊園地のように『客を積極《せっきょく》的に楽しませる何かが用意されている』というものではないのですな。極端《きょくたん》なことを申し上げますと、漫画《まんが》もアニメもゲームも好きでない人がこのイベント参加したとしても、きっと何一つ楽しいことなどありはしませんし――同様に、行けばそこに面白《おもしろ》いものがあるだろうと軽い物見遊山《ものみゆさん》の気分で参加しても、やはり楽しむことはできますまい」
「……つまり、お呼びじゃないということよ」
黒猫《くろねこ》は、あえて主語を省略《しょうりゃく》して言ったようだった。オタク的な素養《そよう》がまったくないやつや、ひたすら受け身でいるようなやつは、このイベントには来なくていいわ――そう聞こえた。
だが――
「はっはっは――ですがまぁ、お二人の場合、そういった心配はまったくの無用でしょうな! 大丈夫《だいじょうぶ》! ここは我ら[#「我ら」に傍点]にとって宝の山です! ナビは拙者にどんとお任せくだされ!」
言葉どおり、沙織はどんと胸を叩《たた》いた。
「……桐乃《きりの》はともかく、俺はオタクじゃねえぞ?」
「あたしだってオタクじゃないしぃ」
桐乃は白々《しらじら》しいウソを吐《つ》いた。それを聞いた沙織が呵々《かか》と笑う。
「ははは。では最後まで何一つ楽しめなかったなら、お二人はオタクではないということで」
ほーう、面白いじゃね! か。その挑戦《ちょうせん》、受けて立ったぜ。
沙織の言《い》い草《ぐさ》に触発《しょくはつ》されて、俺の気分はやや上向いた。(後から考えると、これは沙織の計略《けいりゃく》だったような気もするのだが、本当のところはどうだか分かちない)
桐乃は桐乃で、なにやら思うところがあったらしく、文句《もんく》を言うのをぴたりとやめた。
俺の服を引っ張って、不遜《ふそん》な態度で言い捨てる。
「もう休憩《きゅうけい》は十分でしょ。ホラ、ぐだぐだ言ってないでさっさと案内しなさいよ」
「……だとさ。すまんが頼む」
やれやれ……。従者《じゅうしゃ》たる俺は、姫君《ひめぎみ》の意向《いこう》をナビゲーターに伝えた。
「お任せアレ」
あごに手を添《そ》え、にまーっと笑う沙織。次いで黒猫《くろねこ》が「……ふん」と鼻を鳴らした。
そんな感じで――
シャッターの外で一息吐いた俺たちは、再びホールの中へと入っていった。
器用《きよう》に人混《ひとご》みを避《さ》けて歩きながら、沙織が桐乃に話しかける。
「ところで、きりりん氏、この間お送りした同人誌《どうじんし》には目を通されましたか?」
「え? まあ……もちろん全部|読《よ》んだけど……それがなに?」
「では……どの作家さんがお気に入りとか、ありますかな?」
聞かれた瞬間《しゅんかん》、桐乃《きりの》は待ってましたとばかりに喜色《きしょく》を表しかけ――ぎりぎりで踏みとどまって、ぎゅっと表情を引き締めた。
「そ、そーね……特にいいとは思わなかったケド……し、強《し》いて言うならっ。月見里《やまなし》がんまさんのめるちゃん本と、|QQQ《トリプルきゅー》さんのレイカ本と――あとは、そうそう! あのイラスト集の――さくら・G・さくらさんって、メルルのコミカライズやってる人だよね! えへへ! あれ、すっっごいかわいかったなァ〜〜〜〜!」
……自分の好きなもんの話をするときは、本当イキイキしてんのな、こいつ。
なーにが「えへへ!」だ……おまえがやると気色《きしょく》悪いっつーの。
ったく、さっきまで、超つまんな〜いとか、ブツクサ言ってたやつと同一《どういつ》人物とは思えんな。
俺《おれ》は微笑《ほほえ》ましい想《おも》いで口の端《は》を歪《ゆが》めていたのだが、そこで沙織《さおり》が、さらに桐乃を興奮《こうふん》させるようなことを口にした。
「実は先日送った同人誌《どうじんし》はすべて、拙者《せっしゃ》の知り合いが作ったものなのです」
「は!? ちょ、マジっ!?」
「マジでござる。これから挨拶《あいさつ》回りにうかがおうと思うのですが――もしよかったら、きりりん氏もご一緒《いっしょ》しませんか?」
「い、行――い、」
桐乃は、何度か断続的《だんぞくてき》に「い」を繰り返し、苦しげに言葉を吐《は》き出す。
「行ってあげてもいいけどぉ……! どうしてもって、言うんならね!」
鼻息《はないき》荒くして、がちこちに固まって、アイドルにでも会いに行くような様子《ようす》の桐乃だった。
「やだっ……! でも! どうしよ! えぇ〜〜〜! すっごい緊張《きんちょう》してきた……!」
「はっはっは、どうやら拙者のご用意したサプライズは、お気に召していただけたようですな――。黒猫《くろねこ》氏と京介氏《きょうすけし》はどうなさいますかな? もしよろしかったらご一緒《いっしょ》に――」
「私はパス」
場のテンションを一瞬《いつしゅん》で凍結《とうけつ》させるような声色《こわいろ》で告げ、黒猫はそっぽを向いた。
「お生憎《あいにく》様……。私には書店|委託《いたく》をやらない島中《しまなか》サークルから、よさげなマスケラ本を回収してくるという崇高《すうこう》な使命があるのよ」
「俺もいいや。知らない本の作者に会いに行ったってなーって思うし……このへんでテキトーにブラブラ眺《なが》めてっから。おまえらだけで行ってこいよ」
「はあ!? ちょ、ちょっとアンタ、なに無《む》責任なこと言ってんの!?」
「……沙織がナビしてくれるんだから、別に俺がついて行かなくたっていいだろ?」
なに怒《おこ》ってんだよ?
「それとも、なんか俺が付いていかないとマズイ理由でもあんのか?」
「ないけどッ! そういう問題じゃなくて……! っあんたバカでしょ!?」
何故《なぜ》かえらい剣幕《けんまく》で怒《おこ》り始めてしまった桐乃《きりの》を、沙織《さおり》が「まあまあ……」となだめてくれる。
すると桐乃は一応《いちおう》大人《おとな》しくはなったものの、今度は嫌味《いやみ》ったらしく舌打《したう》ちを連射し始めた。
意味が分からない。……なんだってんだよ……。何がそんなに気に食わねえんだ……?
俺《おれ》と桐乃は、バチバチと視線の火花《ひばな》を散らす。そんな険悪《けんあく》な雰囲気《ふんいき》を紛《まぎ》らわすかのように、沙織がでかい声を張り上げた。
「では! ここで一旦《いったん》、別《べつ》行動といたしましょう! ええと……それぞれの用が済んだら、この辺りでブラブラしている京介氏《きょうすけし》のところに集まるということで! もし上手《うま》くみつからなかった場合は、十一時半に、そこのトイレの前に集合しましょう」
あんまりな集合場所だと思ったが……トイレというのは確かに、この場所では分かりやすい目印《めじるし》かもしれないな。
「さすれば、散開《さんかい》っ!」
そんなわけで。それから俺はしばらく、自分の言葉どおり、その辺をぶらぶらしながら同人誌《どうじんし》即売会《そくばいかい》とやらを眺《なが》めていた。
やはり文化祭のイメージが最も近いように思う。ときおり妙《みょう》な仮装《かそう》をしているヤツと擦《す》れ違って目を見張ったり、俺も知ってる漫画《まんが》の同人誌《どうじんし》を見付けて、こんなのもあんのか……と軽い気持ちで手にとってみたり。わりと結構《けっこう》な割合で女の子がいることに、いまさらながらびっくりしたりして。噴《ふ》き出してくる汗を、タオルでふきふき、歩き回る。
ふーん。時々へったくそな本もあるけど…………楽しそうだな。
そんなふうに冷やかしていると、店の売り子さんに声をかけられた。
「そこのカッコいいお兄《にい》さんっ!」
「えっ――俺?」
自分の顔を指差《ゆびさ》しながら振り返る俺。――おほっ! 女の子にカッコいいって言われたの、幼馴染《おさななじ》み以外では生まれて初めてなんすけど! お世辞《せじ》でも嬉《うれ》しいっすよ!
「ぜひぜひ新刊《しんかん》見ていってください〜」
にこやかに本を差し出してくる。……どっかで聞いたことがあるような声だな。
メイドさんのカッコをしたその女の子が、結構《けっこう》かわいかったということもあって(カッコいいって言われちゃったしな!)、俺は流されるままに、おそらくその子が描いたのであろう同人誌を手に取って、表紙もタイトルもろくに確認《かくにん》せずに開いてみた。
メイドさんがHなことをされるエロ本だった。
「……くおっ……」
イヤな汗がぶわっと噴き出してきた。俺の十七年の人生で、これほどまでに対応に困るシーンが、かつてあっただろうか……。
だっておまえ……俺の前にさあ、おっぱい丸出《まるだ》しでM字|開脚《かいきゃく》しているメイドさんの漫画と、その作者(こっちもメイドな? 漫画《まんが》と同じ衣装《いしょう》着た。しかも顔までキャラとそっくりだ)が並んでいるんだぜ?
「どうですかっ?」
どうですかじゃねえよ。むしろどうしたらいいんだよ、俺《おれ》は。
つーかアンタさあ、先月、メイド喫茶《きっさ》で、妹の手作りカレー・ざらき味とやらを持ってきたメイドにスゲー似《に》てるんだよな……。
アンタの方がちょいと若い気がするし、他人のそら似だとは思うんだが……
もしも本人だとしたらさ、奇遇《きぐう》っつーか、イヤな再会っすね。
「お気に召しませんでしたか〜?」
「いえ……そんな……ことは…………絵、うまいっすね……」
「ありがとうございます〜。えへへ……あ、そこの絡《から》みは、ちょっと自信あるんですよ〜」
「……ふ、ふーん……」
……気まずい。
……なんで俺は、よりにもよってかわいいメイドさんと、こんな会話をしているのだろう?
信じらんねーよ……。穢《けが》されちゃったよ……。
なんてこったい。いま、俺の脳内《のうない》では、その単語《たんご》がひたすらリフレインされていた。
俺はこの場から一刻《いつこく》も早く逃げ出したかったのだが、目の前にいる痴女《ちじょ》メイドが上目遣《うわめづか》いで微笑《ほほえ》んで、何かを期待するような眼差《まなざ》しを送ってくるので、まったく身動きが取れない。
……な、なに? なんすか? キミは俺に、いったい何を期待しているの?
……分かってるさ。『買えよ、五百円な?』って意味だろ。分かってる。ああ分かってる。
だが、しかしだ。このとき俺は非っ常〜にてんぱっていたので、
まさか、まだ感想が足りないってのか……? と、そう思っちゃったんだよ。
むう……ッ。俺は眉間《みけん》に縦《たて》ジワを刻み、懊悩《おうのう》にもだえた。
「?」
きょとんと首を傾《かし》げて、はにかんでいるメイドさん。かわいい表情してんじゃねえよもう。
くそう……感想なんて思いつかねーよ。チッ、どうせなら聞きたいことを聞いてやるぜ。
ヤケクソ気味《ぎみ》になった俺は、意を決して、むりやりにコメントを捻《ひね》り出した。
「えーと……こ、この漫画に出てくるメイドって、もしかして自分がモデル?」
「なんてこと聞いてんのアンタ!?」
ドゴンッ! 背後からもの凄《すご》い突っ込みがきた。ケツを問答《もんどう》無用《むよう》で蹴《け》り飛ばされ、俺は地べたにひっくり返る。その拍子《ひょうし》に、机の上に置かれていたエロ同人誌《どうじんし》がいく冊か、ばさばさと俺の頭上に振ってきた。凄《すさ》まじく情《なさ》けない格好《かっこう》で苦悶《くもん》しつつ、俺は襲撃《しゅうげき》者を振り仰《あお》ぐ。
「ぐぉぉおぉぉ……っ? き、桐乃《きりの》、おまえ……いつのまに背後に! ってか、まさかこの兄を、そのごっついブーツで蹴っ飛ばしやがったのか!? メチャクチャ痛《いて》ぇぞ!」
「あ――アンタが売り子さんにセクハラしてるからでしょ!? 信っっじらんないっ! こんなとこに来てまでなにやってんの変態《へんたい》ッ!?」
違うよ! 先にセクハラしてきたのは向こうなんだって! なあ! そうだろ!?
うろたえながらメイドさんを振り|仰《あお》ぐと、
「スケッチしてんじゃねえよ!」
「え? あ、あはは……その……つい……素敵《すてき》な構図だったもので〜……えへへ」
スケッチブックを胸に抱き締《し》め、照れ臭そうにはにかむメイドさん。
なんだそりゃ……クリエイターのサガってやつか? 俺《おれ》がいぶかりの視線を向けると、エロ同人誌《どうじんし》の作者は、ぽんと嬉《うれ》しそうに拍手《かしわで》を打ち、
「そうだ! 次の新刊《しんかん》はぁ〜、近親|相姦《そうかん》SMものにし〜よおっと♪」
俺は、もう二度とこのサークルには近付くまいと心に誓《ちか》った。
五分後――。同人誌|即売会《そくばいかい》の会場には、メイドさんのエロ本を脇《わき》に抱え、不機嫌《ふきげん》そうに歩く俺の姿があった。あのあとすぐに黒猫《くろねこ》と沙織《さおり》も合流して、再び四人が集まっている。
で……結局《けっきょく》、俺は、成り行きで同人誌を買わされてしまったわけだが……。
初めて買った同人誌がメイドさんのエロ本ってどーいうことよ? つーかどうして即売会ってのはどこもかしこもエロ本ばっか売ってんの? いや、もちろんそうじゃない本だって売ってるけど、明らかにエロ本の比率が多いだろこれ。
そもそも俺に言わせりゃあだな。ファンイベントだってのに、なんで好きなキャラを脱がすのかが分からん。愛《め》でるっつーより、むしろ穢《けが》しているように思えるんだが。
その方が売れるからか? 売れるからなのか?
ったく、どこの業界《ぎょうかい》もエロは強《つ》えーな。なにが強いって、エロくない男などこの世に存在しねーってとこだ。キリスト教以上のパワーを持つ世界共通の価値《かち》観だろこれ。
いまだって成り行きでエロ本買わされたってのに、あんまり損した気分になってないしな!
そんなことを考えつつ、俺は沙織に話しかけた。
「なあ……この本を剥《む》き出しで持ち歩くことに、俺の心は耐えられそうにないんだが……」
「ふむ。あちらで紙袋《かみぶくろ》を買ってはいかがです?」
なるほど。それはいい考えだな。俺は沙織の指差《ゆびさ》した方に向き直った。
「沙織さんよ……一つ聞いてもいいかい?」
「おや、なんですかな?」
首を傾《かし》げた沙織に向かって、冷静に呟《つぶや》く。
「……おまえは俺に、半裸《はんら》の女の子がでかでかとプリントアウトされた紙袋を持ち歩けと?」
「周囲からメイド萌《も》えだと誤解《ごかい》されることに、心が耐えられないという話だったのでは?」
ち が い ま す。おっかしーなー……なんで頻繁《ひんぱん》に話が通じなくなるんだ?
「どっかで普通の紙袋《かみぶくろ》売ってねーの? 電車の中で持ってても大丈夫《だいじょうぶ》そうなやつ」
「電車というと……あちらなどがそうですな?」
「ほうほうどれどれ……誰《だれ》が痴漢《ちかん》ものの紙袋を探せと言った! さすがの俺《おれ》も、電車の中で痴漢もののイラストが付いた紙袋を提《さ》げる度胸《どきょう》はねえよ! 本気《ほんき》で捕まるだろあれは!」
おまえはそこまで、日本が性にフリーダムな国家だとでも思っているのか?
俺は話の通じないぐるぐる眼鏡《めがね》に見切りを付けて、端《はし》っこの方で売っていた夏コミの公式《こうしき》紙袋・大(三百円)を買い求めた。これはこれで夏らしい色彩《しきさい》豊かなイラストが付いちゃいるのだが、これなら電車で持っていても恥《は》ずかしくない。
待たせていた一行《いっこう》のところに戻ると、ちょうど沙織《さおり》が黒猫《くろねこ》に話しかけているところだった。
「ところで黒猫|氏《し》は、今回サークル参加なさらなかったのですな?」
「サークル参加していたら、いまここにはいないわよ」
いまさら何を聞くのかという、ぶっきらぼうな口調《くちょう》。
ふむ。話の流れからすると、どうやら黒猫はそういう活動をやっているらしいな。
と、何を勘違《かんちが》いしたのか、桐乃《きりの》が嬉《うれ》しそうに口を挟んだ。
「なーにあんた。そんなにあたしと遊びたかったのー?」
「おぞましいことを言わないで頂戴《ちょうだい》。……ふん、たんに、今回は参加申し込みしたけれど落ちてしまったというだけよ……」
「ふーん。じゃあ今回作った本は、他《ほか》のサークルに頼んだりしたわけ? あ、ごめーん! 友達いないんだっけあんた! 悪いこと聞いちゃったなあ!」
事情がよく飲み込めない俺でも分かる。桐乃のやつ……明らかにわざと言ってやがるな?
超|嬉《うれ》しそうに手ぇ叩《たた》いてんじゃねーよ。サルのおもちゃかおまえは。
「くっ……」
無《む》表情で唇《くちびる》を噛《か》む黒猫。図星《ずぼし》を衝《つ》かれて悔《くや》しいんだろう、不機嫌《ふきげん》にそっぽを向いて言う。
「べ、別に……? お金にもあまり余裕《よゆう》がなかったし……自分のサークルで出せないのなら、あえて委託《いたく》してまで新刊《しんかん》を出そうとは思わなかっただけよ……」
「ハッ。なに言《い》い訳《わけ》してんのバー……んぐっ」
俺は、さらなる毒《どく》を吐《は》こうとしていた妹の口を手で塞《ふさ》ぎ、話題の軌道《きどう》修正を試みた。
「なぁ。同人誌《どうじんし》作るのって、やっぱ金かかんの?」
「……作り方にもよるわね。原稿《げんこう》をコピーしたものをホチキスで留めただけの『コピー誌』なら、お金は紙とコピー代くらいしかかからないけれど……あくまで印刷《いんさつ》するだけならね」
黒猫はすぐそばのサークルブースの方を向き、机上《きじょう》の同人誌を指差《ゆびさ》した。
「ああいう本格的な『オフセット本』だと、やはりそれなりの費用がかかってしまうわ」
「おふせっと?」
「印刷|方式《ほうしき》のこと」
「へえ……ちなみにどれくらい?」
俺《おれ》と黒猫《くろねこ》の会話を邪魔《じゃま》しないよう気を利かせてくれたのか、そこで沙織《さおり》が「きりりん氏、きりりん氏、あちらにメルルの本が――」と、さりげなく桐乃《きりの》をそばのブースへと誘導《ゆうどう》していった。言葉を選んでいたようだった黒猫が、おもむろに口を開く。
「印刷|方式《ほうしき》とか、カラーページの割合とか、追加オプションをどうするかとかで色々《いろいろ》変わってくるのだけれど……私が頼んでいるセットだと、わりと高くて、五十部で三万円ちょっとくらいかかるわ」
「……そりゃ、結構《けっこう》…高い……な……」
三万円という金額は、俺にとってもわりとリアルな数字だったので、絞《しぼ》り出した声にも実感がこもっていたと思う。しかも計算したら、それ、一冊五百円で全部売れても、五千円|損《そん》しちゃうってことだろ? それに実際《じっさい》本出すとなったら、他にも色々《いろいろ》金がかかるだろうしなあ。
交通費だの食費だのはもちろん……そもそも原稿《げんこう》描く道具|揃《そろ》えたりもしなくちゃならんし。
黒猫は、いつかの桐乃みたいに金銭《きんせん》感覚が麻痺《まひ》した返事はせず、
「……そうね。だから中学生の同人《どうじん》活動って、なかなか難《むずか》しいところがあるのよ。私の場合、他《ほか》の趣味《しゅみ》にもだいぶお金を使ってしまっているし……」
「そうだよなあ……金ばかりは……どうにもならんもんなあ……」
桐乃みてーに、モデル活動で稼《かせ》ぐなんてのは、誰《だれ》にでもできるもんじゃない。
バイトが校則《こうそく》で禁じられているところだって多いだろうし、中学生の台所|事情《じじょう》は厳《きび》しいのだ。
「色々《いろいろ》家の手伝いしたり……こっそりバイトしたりしてね。半年で一〜二|冊《さつ》出せればいい方」
「……そこまでして出したいもんなのか? その――オフセット本?」
どうせあなたには分からないでしょうね――そう言いたげな眼差《まなざ》しで、こくんと頷《うなず》く黒猫。
「同人やってる人のモチベーションって、人それぞれだと思うわ。交流するのが目的だったり、たんに自分のイラストを見てもらいたいだけだったり――あるいはそういうのが色々混じってたりね。私の場合は、自分で本を作りたいというのがそれ。だから高価なオプションを付けて、オフセットで出すの。たいして売れやしないとしてもね。あくまで自己《じこ》満足だけど、だからこそ自分が納得《なっとく》しないと作る意味がないでしょう?」
「――へえ」
ネクラで無口《むくち》なやつだと思っていたが、自分のフィールドだと饒舌《じょうぜつ》になるのは、桐乃と同じだな。最近分かってきたのだが、オタクってのは、スイッチが入る[#「スイッチが入る」に傍点]と途端《とたん》に喋《しゃべ》り始める生き物らしい。誰《だれ》しも自分の趣味《しゅみ》のことは、語りたいってことなんだろうよ。
俺はなんとなく、妹と話しているような気分になってきて、さらに質問を重ねた。
「えーと、反響《はんきょう》ってあるもんなのか? 自分で本作って、売ってさ。感想とか、結構《けっこう》くんの?」
「……たまにはね。本を配布《はいふ》して……その次のイベントで買いに来てくれた人に、感想を言われるということが、あるわ。あとは、そう……ネットとか……」
「ネット?」
「ええ。ブログとかで、私が作った本の感想を書いてくれる人も、ほんの少しは、いるから。イベントが終わったあととか、検索《けんさく》サイトで評判《ひょうばん》を調べたりも……するわよ」
……意外《いがい》だな。こいつ、自分の本の評判とか、気にするタイプには見えなかったんだが……。
驚いている俺《おれ》の前で、黒猫《くろねこ》は無《む》表情で喋《しゃべ》り続ける。
「――でも、SNSで自分の本のタイトルを検索したとき、飛んだ先のページで叩《たた》かれているととても気まずいわね。だってあいつら、足跡《あしあと》たどって作者《こっち》のページにやって来るんだもの。フッ、本の叩き記事を作者本人に見られたと知って、どんな気分になったことでしょうね?」
知らんがな! 聞いてもねえのに、なんでわざわざそんなダウナーな話題を選ぶのよ!
だめだこいつ。桐乃《きりの》とは違う意味で扱いづらい……。
「で、でもさ! いい感想もらったら、やっぱ、嬉《うれ》しいだろ?」
「……まあ、ね」
そこで黒猫は、ほんの僅《わず》かに、ほんの幽《かす》かに――唇《くちびる》の端《はし》をゆがめた。
とうてい笑顔《えがお》とは呼べない表情ではあったが……そこに込められた感情は、決してわずかなものではないように思えた。
「……自分が作ったものを褒《ほ》められて嬉しいという想《おも》いは、作り手であれば皆――共通して持っているモチベーションでしょうね……」
「……そっ……か」
俺はしみじみと息を吐《は》いた。心底《しんそこ》感心したからだ。
「……なによ……馬鹿にしているの? 祟《たた》るわよ」
「いや、たいしたもんだって、な」
俺は、そんなに何かに一生《いっしょう》懸命《けんめい》になったことがない。なれるものも見付からない。
だから、こういう夢中《むちゅう》になれるものを持っているやつを見ていると、羨《うらや》ましくなってくる。
悪くねえ――。先月と同様、やはり、そう思った。
「…………ふん」
俺の台詞《せりふ》をどう取ったのか、黒猫はふいっとそっぽを向いた。
「……なら、そのうち見せてあげてもいいわ」
はいよ。なるべくなら、エロくないやつにしてくれよな。
沙織《さおり》のナビの甲斐《かい》あってか、桐乃は即売会《そくばいかい》の会場で、ずいぶんと本を買い込んだらしい。
ご機嫌《きげん》そうに紙袋《かみぶくろ》を抱《かか》え持っている。
「…………なぁ。幾《いく》ら何でも買いすぎじゃないか? 十冊じゃきかねえだうそれ……」
しかもエロいやつばっか。いまさらだけど、十八歳|未満《みまん》は買っちゃだめなんだぞ?
「別に。挨拶《あいさつ》回りでもらったり、薦《すす》められたから仕方なく買ったりしただけじゃん。だいた何|冊《さつ》買おうがあたしの勝手《かって》でしょ? なんでアンタにそんなこと言われなくちゃなんないワケ?」
フッ。その程度《ていど》の暴言《ぼうげん》では、もはや痛くもかゆくもないな。
……このままだと俺《おれ》もいずれ沙織《さおり》みてーに、感覚|麻痺《まひ》しちまうかもしれない。
ふ――まぁなんだ。こんな悪態《あくたい》を叩《たた》きつつも、桐乃《きりの》のヤツ、イベントを楽しんでいるようではあるよな。
あっちへきょろきょろ、こっちへきょろきょろ、祭りの出店《でみせ》を巡る子供みてーにはしゃいでいやがる。へっ、よかったじゃねーの、初めは心配したけど……このぶんならいい夏の想《おも》い出になりそうじゃんか。沙織に感謝《かんしゃ》しなくちゃな。
で――。
即売会の会場を一《ひと》とおり見て回った俺たちは、一旦《いったん》建物の外に出て、エントランスプラザ方面まで戻り、西館《にしかん》へと向かう。
その途中《とちゅう》、屋外《おくがい》展示場とやらの手前で、例のごとく沙織が解説を始めた。
「今年はコスプレスペースが二|箇所《かしょ》ありまして、そのうちの一つが、あちらの屋外展示場です」
「ふーん?」
俺は桐乃と黒猫《くろねこ》が早足になるのを見て苦笑《くしょう》しながら、気のない返事をした。だってコスプレってのはようするに、アニメとかゲームキャラの服を着て、なりきったりして楽しむことだろ? 正直、傍《はた》から見ている分にゃ、それほど面白《おもしろ》いもんだとは思えねえんだよな。
俺は屋外展示場にたどり着くや、冷めた瞳《ひとみ》を前方に向けた――のだ――が。
「な……!?」
「おや、おや、どうしました京介氏《きょうすけし》? コスプレに興味《きょうみ》などなかったのでは?」
ふっふっふっふ――。沙織は、絶句《ぜっく》した俺に、にまにま笑《え》みを向けてくる。
何か興味を引くようなコスプレでも見付けたのですな――そう察したんだろうが、違うな。
俺が見付けたのは、もっととんでもねえ代物《しろもの》だ。
「……あ、あれさあ……」
俺がおずおずと指差《ゆびさ》したのは、広場の入口|付近《ふきん》にさっそうと立っている緑色の戦士である。
おいおいおいおいおい……マジ? マジで? こんなことがあっていいの?
「セルじゃねえか……! セルが写真|撮《と》られてるぞ……!」
「まあ、セルですな。……ふぅむ……よくできている……」
「な、なに落ち着いてレビユーしてんだオマエ! セルだぞ!?」
「……コスプレですよ?」
「バッカ! 分かってるっつーの!」
やっべえ――あまりのことに混乱しちゃってるよ俺! だってセルだぜ? セルが現実世界で動いてるんだぜ? しかも第一|形態《けいたい》! 一番カッコよくておっかないデザインのやつ!
これに反応しない男は存在しねえ……! くわ――っ! すっげえぇぇえぇええ!
俺《おれ》は驚喜《きょうき》のあまり、セルに駆け寄って行った。
でもって他《ほか》の人に倣《なら》って、携帯《けいたい》カメラを構《かま》え――ぱしゃり。ぱしゃぱしゃっ。
「えっと、どもっす!」
何度もセルに頭を下げて、沙織《さおり》の元へと駆《か》け戻る。
「ハハハッ! 見ろ! かめはめ波のポーズやってもらっちゃったよ!」
「あの……京介氏《きょうすけし》? いまの京介氏は、どこからどう見ても生粋《きっすい》のオタクですぞ……?」
「ハッ! ………………」
写《しゃ》メを沙織に見せびらかしていた俺は、そこでようやく正気に立ち返り、赤面《せきめん》した。
………………まぁ。……なんだな。…………コスプレに夢中《むちゅう》になるやつの気持ちも……そう分からんもんじゃねえよな? むしろ一般人でも分かるってゆーか……別に変なことじゃないってゆーか……。ドラゴンボールは別枠《べつわく》だしさ、つまり俺はオタクじゃないんだよ。分かる?
俺は携帯を覗《のぞ》き込んだ体勢のままで、必死に自己《じこ》弁護をするのであった。
……くそ……セルは反則だよな……。
「と、ところで他《ほか》のやつらはどこ行った?」
強引《ごういん》に話を変えると、沙織はくいっと指で示した。その先では黒猫《くろねこ》がごつい一眼《いちがん》レフを構えており、手慣《てな》れた仕草《しぐさ》で、ぱしゃぱしゃ写真を撮っていた。
ちなみに被写体《ひしゃたい》は、黒マントを羽織《はお》った仮面《かめん》の人物である。ビシッ! ビシッ! バサァッ! と数秒ごとに超カッコいいポーズを決めるのが、妙《みょう》に印象《いんしょう》的なコスプレイヤーだった。
「……ありゃ。ウチの妹はどーこ行きやがったんだ?」
さらにぐるりと見回す。曇天《どんてん》の屋外《おくがい》展示場は、ゲームや漫画《まんが》のキャラが跋扈《ばっこ》する異《い》空間と化していた。右を向いても左を向いても、奇天烈《きてれつ》な格好《かっこう》した人やら、人でない何か[#「何か」に傍点]やらが存在している。
そんなコスプレイヤーたちの晴れ姿を、黒猫のようにごついカメラを構えた人々が、あちこちで写真に撮っている。そんな光景を眺《なが》めていると、ほどなく、ちょこまかと広場を動き回っている桐乃《きりの》を見付けることができた。
おしゃれな服装のせいもあって、まるで|渋谷《しぶや》の街でウインドウショッピングでもしているような有様《ありさま》だが、妹が眺《なが》めているのはもちろんコスプレイヤーたちである。
桐乃は、周囲にたくさんいるコスプレイヤーたちに目移りしながらも「おおっ」とか「わぁ……」とか、素直な感動を露《あら》わにしている。
その様子《ようす》は、普段《ふだん》の憎《にく》たらしい態度からは考えられないほど、かわいらしい、父性《ふせい》を刺激《しげき》する姿《すがた》であった。眺めていると、段々《だんだん》と口元がにやけてくる。
――よかったな、桐乃。俺《おれ》は素直な気持ちを、口内で呟《つぶや》いた。
と、そこで沙織が、桐乃に小走りで駆寄《かけよ》っていき、肩を抱《だ》いた。
「きりりん氏っ。いかがですかなっ、本場《ほんば》のコスプレをご覧《らん》になった感想はっ」
「え! そんなの決まってんじゃ――」
喜色《きしょく》満面《まんめん》で振り返った桐乃《きりの》は、沙織《さおり》の笑顔を見た瞬間《しゅんかん》、むりやり表情をひきしめて、
「……ま、まぁまぁね……!」
「――それはよかった。喜んでいただけたようで何よりです」
沙織の察したような微笑《ほほえ》みに照れてしまったのだろう、桐乃は口元を「〜〜」と波打たせて、落ち着きなく視線をさまよわせている。思いっきりはしゃぎたい、でも恥《は》ずかしい。そんな複雑な心境《しんきょう》が、そのまま表情に出てしまっていた。
俺《おれ》の妹は、実に素直じゃない。桐乃は噴《ふ》き出しそうになっている俺の顔を見るや、カッと赤面《せきめん》して怒鳴《どな》った。
「ちょっと、なに笑ってんの?」
「笑ってねえよ。――くくっ」
俺は笑い声を噛《か》み殺しながら、さりげなく話題を変えることにする。
ちょうどそばを歩いていた着ぐるみを眺めながら、
「にしても、コスプレってのも大変だよなあ。今日《きょう》は曇ってるからいいようなものの、夏場に着ぐるみはかなりきついんじゃねえか?」
「……ふん、大丈夫《だいじょうぶ》よ。たぶん、あれは中に保冷剤《ほれいざい》を仕込んであるの」
いつの間にかとなりにいた黒猫《くろねこ》が、呆《あき》れたように言った。
そういえばこいつはコスプレイヤーでもあったんだっけ。
納得《なっとく》、どうりで詳しいわけだぜ。
「会場が炎天下《えんてんか》になるのは、あらかじめ予想できることなのだから、対策くらい考えてあるわよ。レイヤー側だけじゃなくて、撮影《さつえい》側もね。ホラ――効率《こうりつ》よく囲んで撮影しているでしょう? レイヤーを長時間|拘束《こうそく》しないためのマナーよ、あれ」
「ふーん……色々《いろいろ》あるもんだな。そんじゃあ、おまえが一滴《いってき》も汗かかないで涼《すず》しい顔してるのも、なんか暑さ対策してるからなのか?」
今日もまた、ずいぶんと暑そうなゴスロリ衣装《いしょう》着てるようだけどさあ。
「……そうね。ごくごく薄い妖気《ようき》の膜《まく》を張って、太陽の光や熱気から身を護《まも》っているのよ……」
「…………えっと、なに? なんだって?」
「……解《わか》らない≠ナしょうね? 諦《あきら》めなさい。仕方ないわ。残念だけれど、夜の眷属《けんぞく》特有の眼《め》≠持たぬあなたには、稀薄《きはく》な妖気を視《み》≠驍アとは叶《かな》わないから」
遠い眼差《まなざ》しをする黒猫《くろねこ》。いや、まったく意味が分からない。
「……まーた超《ちょう》テンプレな邪気《じゃき》眼が発症《はっしょう》してるし……」
俺が対応に困っていると、忌々《いまいま》しげに眼を細めた桐乃が、会話に参加してきた。
「あんたがマスケラ好きなのはもう十分に分かったからさあ。日常会話にアニメの台詞《せりふ》を混ぜるの、お願いだからやめてくんない? あまりにも痛々しくて色んなトコがムズムズすんのっ」
「ほざくじゃない。人間|風情《ふぜい》が……」
なるほど。このゴスロリ女の言動《げんどう》が理解できなくなったら、アニメの台詞《せりふ》を真似《まね》ていると思えばいいんだな。俺《おれ》が得心《とくしん》していると、桐乃《きりの》が、派手《はで》なゴスロリ衣装《いしょう》を眺《なが》め回しながら言う。
「そういえばあんた、今日《きょう》のコスもあれ? マスケラの『|夜 魔 の 女 王《クイーン・オブ・ナイトメア》』とかいうやつ?」
「……どこに目をつけているの? ぜんぜん違うわ。――これは私服《しふく》よ」
え……それ、私服だったのか……。すまん……。俺にゃあぜんぜん区別が付かない。
桐乃が小さく舌《した》を打った。
「私服ならさー、もっと涼《すず》しげなカッコしなさいよ」
「そんなの私の勝手《かって》じゃない」
「見てるだけで暑苦《あつくる》しいって言ってんの。いいから上着だけでも脱げっ」
そう言うやいなや、桐乃は、強引《ごういん》に黒猫《くろねこ》の服を剥《は》ぎにかかった。
「ちょ、ちょっと……あなた……」
黒猫はじたばたしていたが、桐乃の手際《てぎわ》は思いのほかよく――黒猫はあっというまにノースリーブのカットソー姿《すがた》になった。下はフレアミニスカートと、丈《たけ》の長いソックス。
ほう、ずいぶんとこざっぱりしたもんだ……。
俺は薄着になった黒猫を眺めるや、感心の吐息《といき》を漏《も》らした。
夏らしい身なりになった黒猫の格好《かっこう》と、桐乃の手際、その両方についてである。
テキパキと服装を整えてやる桐乃は、さながら撮影《さつえい》現場のメイクさんのようであった。
こいつは本職《ほんしょく》のメイクさんの技をいつも間近《まぢか》で見ているわけで、門前の小僧《こぞう》云々《うんぬん》というやつなのかもしれないな。
「これでよし」
満足げに胸を張る桐乃。剥ぎ取った上着を片手に、妙《みょう》に先輩風《せんぱいかぜ》を吹かせて言う。
「服の趣味《しゅみ》なんか人それぞれでいいと思うけど、TPOくらいはわきまえなさいよ。夏は夏らしく――そうしないと体調にもよくないの。分かる? ねぇ?」
「…………この程度《ていど》の暑さ、問題ないと言っているでしょう……」
「はいはい、分かった分かった。でもとにかく今日《きょう》はそのカッコでいなさい。いい?」
えっらそーに。自分の方が年下のくせになあ。
ただ、桐乃のこの言動《げんどう》は……まぁ、言わぬが華《はな》ってやつだ。
ほんっと素直じゃねーもんなあ、こいつは。
「へーえ。あんた、ごてごてしたカッコやめたら、普通にかわいいじゃん」
「……露骨《ろこつ》に『あたしの方が上だけどね』という意図《いと》を込めた讃辞《さんじ》はやめて頂戴《ちょうだい》」
ぷいっとそっぽを向いてしまう黒猫。そのままさっさと歩いていってしまう。
どうやら素直じゃないのは、一人だけではないみたいだ。
「なにやってるの。もうここには用はないでしょう? 早く行くわよ……」
「バカじゃん。なに照れてんの?」
桐乃《きりの》は、黒猫《くろねこ》の背中に向かってにやにやしながら言い放ち、それから、持っていた上着と紙袋《かみぶくろ》を、俺《おれ》の方に突き出した。
「はい。これ持ってて」
「じ、自分で持ってろよそんなもん……」
「そんなに眼鏡《めがね》の件について追及《ついきゅう》されたいの?」
「めっそうもないっス」
俺は熟練《じゅくれん》の執事《しつじ》の仕草《しぐさ》で、上着とお荷物を受け取った。
屋外《おくがい》展示場を抜けて、西館《にしかん》へとたどり着いた俺たちは、建物の中を進んでいく。
「ここ西3・4ホールは企業《きぎょう》ブースになっております。企業ブースというのは、まぁ、ごく簡単《かんたん》にご説明すると、ゲームメーカーや出版《しゅっぱん》社といった、主にサブカルチャーを扱《あつか》っている企業が出展《しゅってん》しているスペースのことですな」
「へえ」
俺は沙織《さおり》の解説に、相槌《あいづち》を打った。しかしこの女、さっきからまるでバスガイドみてーだな。
「このイベントで初めて企業側から発表される最新《さいしん》情報なども、多々ありまして――そういったプレビューといいますか、お披露目会《ひろめかい》的な意味合いもあるのですよ」
沙織の台詞《せりふ》に、「ふぅん」と、桐乃がつまらなそうな反応を示した。
「最新情報って。別にそんなの、わざわざ会場まで来なくたって、MOON PHASE あたりのニュースサイトがすぐ雑記に書いてくれんだからさあ。ネットで確認《かくにん》すればいいだけじゃん?」
そこで黒猫が、不機嫌《ふきげん》そうに鼻を鳴らした。
「ふん、ネットで流れる情報って、どうしても噂《うわさ》や憶測《おくそく》といったノイズが混じるものよ。もちろん、それはそれで、ガセネタ込みで楽しめるものではあるけれど――。わざわざイベント会場で発表する、それを会場まで足を運んで、自分の眼《め》と耳で確認する。そういった過程《かてい》ややり取りにもまた、私は意味や価値《かち》があると思うのだけれどね」
「なにそれ。――あんたって、いちいち小難《こむずか》しく語るよねー。カッコいいつもり?」
「……あなたが低脳《ていのう》だから理解できないのよ。このニュースサイト心棒《しんぼう》者が、ネットの海で溺《おぼ》れ死ぬがいいわ。……この前だってあなた、どっかのサイト記事で見たとか言って『HG仕込|竹箒《たけぼうき》』とやらを、使い途《みち》もないクセに衝動買《しょうどうが》いしてたじゃない。莫迦《ばか》じゃないの?」
「あ、あれは玄関《げんかん》に立て掛けておいたら、いつの間にかお母《かあ》さんが庭《にわ》掃除《そうじ》用にしてたし! それにもし強盗《ごうとう》が入ってきたとき箒から刀が出てきたらビビって逃げるかもしんないでしょ!」
桐乃と黒猫が、またしても喧嘩《けんか》をおっ始めた。隙《すき》あらば口論してやがるなこいつらは。
益体《やくたい》もない口論が一段落《いちだんらく》したころ、俺は沙織に質問をしてみた。
「企業が出展って……具体的にどういうもんなんだ? まさか企業が同人誌《どうじんし》作って売ってるわけじゃあるめー?」
「あったりまえでしょ」
と、妹からはにべもない返事が返ってきたのだが、
「いえ、そういうこともありますよ?」
沙織《さおり》がまったく逆の台詞《せりふ》を口にした。桐乃《きりの》が「えっ?」と当惑《とうわく》して振り向くと、夏コミガイドのお姉《ねえ》さん・沙織は、こう説明してくれた。
「たとえばゲームメーカーでしたら、自社ゲームのファンブックやイラスト集、小説本といった冊子《さっし》類を配布《はいふ》したりするのですよ。公式《こうしき》同人誌《どうじんし》――とでも申しましょうか」
「へえー。他《ほか》にはどんな催《もよお》しがあるんだ?」
「キャラクターグッズを販売したり、新作ゲームのPVを流したり、巨大ロボットを展示したり――まあ色々《いろいろ》ですな。出版《しゅっぱん》社のブースでは、漫画《まんが》の持ち込みを受け付けたりもしているそうですし――確か今回は、世界の漫画・同人誌コーナーという変わった展示もあるそうですよ」
「持ち込みの受付ねえ。んなことまでやってんのかよ。はあ――」
俺《おれ》が大口《おおぐち》を開けて驚くと、桐乃《きりの》も隣《となり》で「ふむふむ」と領《うなず》いていた。
まあ確かに、同人誌|即売会《そくばいかい》の会場にゃ、漫画の心得《こころえ》があるやつが集まるわけだから、スカウトにゃあうってつけなのかもしんねーな。
などと考えていると、黒猫《くろねこ》がぼそっと呟《つぶや》いた。
「無個性《むこせい》男がそういう台詞《せりふ》を喋《しゃべ》っていると、まるでこのイベントの紹介ビデオのようね?」
「うまいこというじゃんアンタ」
感心したように目を見張る桐乃。ほっとけや。
「事実を述べただけよ。くそつまらない質疑《しつぎ》応答はいいかげんにして頂戴《ちょうだい》。行けば分かることでしょうに」
「そうそう。のろのろ歩くのやめてくんない? あたし、早くありす|+《プラス》のブース行きたいんだケドー」
おまえらさあ、普段《ふだん》ぎやーぎゃー喧嘩《けんか》ばっかしてるくせに、どうして俺の悪口《わるくち》言うときだけ息がぴったりなんだよ? だいたい俺が歩くの遅いのは、おまえらの荷物やら上着やらを持たされているからだろうが。そしてどうして妙《みょう》に楽しそうに俺を罵倒《ばとう》すんですかー。
ったく――。沙織がこいつらのことをしきりに相性《あいしょう》がいいみたいなこと言うけどよー。
あれ、意外《いがい》とマジかもな。俺にとっちゃイヤなコンビが誕生《たんじょう》したとしか言えんけども。
とかやっている間に、企業《ぎぎょう》ブースへとたどり着いた。
即売会《そくばいかい》の会場とは、だいぶ雰囲気《ふんいき》が違う。スペースに余裕《よゆう》があるってのが大きいんだろうが、あの泥臭《どろくさ》い雑然《ざつぜん》とした感じがあまりなくて、ややきっちり[#「きっちり」に傍点]している。
あちこちに色んなコスプレをしたお姉《ねえ》さんがいて、優雅《ゆうが》な笑顔《えがお》を周囲に振りまいていた。
全員が全員|美人《びじん》だっつーところをみると、コンパニオンさんなんだろうな、きっと。
あと特に目に付いたものといえば、擦《す》れ違う人たちが、やたらと美《び》少女のイラストが描かれたでっかい紙袋《かみぶくろ》を提《さ》げていることだ。
「あれは、今度アニメ化される人気《にんき》作品の紙袋ですな」
「ほう」
俺《おれ》の視線《しせん》に気付いたのか、的確《てきかく》なタイミングで沙織《さおり》が教えてくれた。
それから俺たちは、桐乃《きりの》がさっきからずっと行こう行こうと主張している『ありす|+《プラス》』というエロゲーメーカーのブースに行くことになった。
ありす+ってのは、ほら、最近俺がやっていた『真妹大殲《しんいもうとたいせん》シスカリプス』を作ったメーカーさ。だから当然ありす+のブースでは『シスカリ』関連の催《もよお》しをやっていたり、シスカリのグッズが売られていたりするのだろう。
なるほど桐乃が行きたがっているわけだよな。無理矢理《むりやり》やらされたとはいえ俺も一応《いちおう》クリアしているゲームだから、ちっとは気になっているというのが本音《ほんね》である。
「あ、ほら、あそこあそこ! 早く行こーよ! あたし夏コミ限定《げんてい》ディスクってのが欲しくってさ――」
はしゃいで早足《はやあし》になる桐乃。
俺はその様子《ようす》に苦笑《くしょう》しつつ肩をすくめ、沙織《さおり》に向かって聞いてみた。
「限定ディスクって?」
「このイベントでしか手に入らないデータディスクですな。それをPCに読み込ませることで追加|衣装《いしょう》――シスカリキャラに着せる服――が幾《いく》つか手に入るわけです。まぁ、別段|防御力《ぼうぎょりょく》が高かったりするわけではないのですが、記念品というか、コレクターアイテムというか……そういったものでして」
「ふーん。あいつが急いで買いに行くわけだ」
俺は納得《なっとく》したのだが、何故《なぜ》かそこで沙織が下唇《したくちびる》を突き出して表情を曇らせた。
「ええ。しかし――アレはたぶん」
「あん?」
理由を問おうとした俺だったが、その必要はなかった。
「えっ――配布《はいふ》終了?」
限定ディスクとやらを買いに行った桐乃の、でっかい声が聞こえてきたからだ。
超短気《ちょうたんき》な妹をそのままにしておくわけにはいかなかったので、俺たちは早足でありす+のブースへと向かう。その際、黒猫《くろねこ》が「はあ……」と呆《あき》れたようなため息を吐《つ》いた。
「……人気《にんき》メーカーの人気商品なのだから、この時間に残っているわけないでしょうに……」
「おいおい……まだ午後になったばっかだぞ?」
そんなに早く売りきれちゃうのかよ……。すっげぇなー。
俺はなんとなく、入場|時《じ》に急いでいたやつらの気持ちが分かった気がした。
「うーむ。アレを買おうと思ったら、入場|直後《ちょくご》に直行して並ぶ必要がありましたので……」
『イベントをゆっくりと見て回ろう』というスケジュールを立ててくれた沙織《さおり》が、少し落ち込んでいるようだったので、俺《おれ》は「気にすんな」と言っておいた。
あれだけ世話《せわ》になっておいて、こんなことで責められるわけがねー。
ずーん……と、重苦《おもくる》しい雰囲気《ふんいき》で肩を落としている桐乃《きりの》。
そんな妹の背後から、俺はゆっくりと近寄《ちかよ》っていった。
おそらくスタッフを睨《こら》み付けているのであろう妹の頭に、ポンと掌《てのひら》を乗せる。
「残念だったな。ま、しょうがねーだろ」
「うっさい。触《さわ》んないで。ぜんぶアンタのせいだから」
バシッと払いのけられる。ちょ、なんで俺のせいになんだよ!
……数秒|前《まえ》まであんなにはしゃいでやがったくせに、おまえはホント、あっという間に不機嫌《ふきげん》になるよな。ったく、しょーがねーだろーがよー。
俺がポリポリ頭を掻《か》いていると、販売スタッフがおずおずと言った調子で話しかけてきた。
「ええと……限定《げんてい》ディスク……配布分《はいふぶん》は終了したんですが、イベントの賞品になっておりますので――もしよかったら、そちらに参加してみてください」
「い、イベントって!?」
桐乃が勢《いきお》い込んで聞くと、スタッフは若干怯《じゃっかんひる》みつつも、こう説明してくれた。
「今秋|稼働《かどう》予定の『真妹大殲《しんいもうとたいせん》シスカリプス』アーケード版のお披露目《ひろめ》です。当方スタッフが操《あやつ》るキャラクターを見事《みごと》倒した方――先着一名さまに限定ディスクをプレゼントしております」
スタッフは脇《わき》の方を示して、
「参加する方は、こちらの列からどうぞ! ただし参加スタッフはアーケード版の仕様《しよう》に慣れた凄腕《すごうで》です。そう簡単《かんたん》に勝たせはしませんよ!」
先着一名さま――賞品を一つしか用意していないことからも『そう簡単に勝たせはしない』というのがハッタリではないと分かる。
しかし桐乃が何と答えるか、俺には聞かずとも分かった。
「へーえ。面白《おもしろ》いじゃん? やってやろうじゃない」
そう言うと思ったぜ……。出た出た、負けず嫌《ぎら》いが。
ま、好きにやらせておくさ。どうせ止めたって聞きゃしねーだろうしな。
ありす|+《ぷらす》の店舗《てんぽ》からぐるっと側面に回り込むと、イベント用の小ステージが設営《せつえい》されていた。アーケード用の対戦《たいせん》筐体《きょうたい》が一セットと、CPU戦を体験できる筐体が一台、それらのプレイ画面を映している大型ディスプレイが幾《いく》つかある。
桐乃と沙織が列に並び、俺と黒猫《くろねこ》は大型ディスプレイのそばで観戦《かんせん》者たちの群れに混じる。
俺はとなりの黒猫に軽く問うてみた。
「……おまえは参加しないのか?」
「……………………」
黒猫《くろねこ》は、俺の言葉を完全に無視《むし》した。
その場で立ち尽くし、無《む》表情でディスプレイを見上げている。
……無《ぶ》愛想《あいそ》なやつ。こいつと二人きりって、気まずすぎるだろ……。
仕方なく俺《おれ》も隣人《りんじん》に倣《なら》ってディスプレイを見上げた。桐乃《きりの》の番が回ってくるまで、参加者とスタッフとの対戦《たいせん》を眺《なが》めていることにしたのだ。
で――そうしているうちに段々《だんだん》と、PC版との相違《そうい》点が分かってきた。
アーケード版『シスカリ』は、PC版と違って、自分でカスタムしたキャラを使って戦うわけじゃない。通常の格《かく》ゲーみたいに、何人かのキャラクターから使用キャラを選択《せんたく》する方式だ。で、使用キャラを選んだあと、さらに武器やら必殺技《ひっさつわざ》やらコスチュームやらを選ぶわけ。
ようは育成《いくせい》パートをかっ飛ばして、純粋《じゅんすい》に対戦《たいせん》だけを楽しもうってものらしい。
PC版にも、初めからそういうモードを付けてくれりゃよかったのに。
――ってのは贅沢《ぜいたく》な要望なんだろうな。
ざわざわとした喧噪《けんそう》に耳を澄《す》ましてみると、こんな会話が聞こえてきた。
「これでもう、三日間で通算《つうさん》50連勝らしいぜ……スタッフ、マジ勝たせる気ねーなこれ……段々|挑戦《ちょうせん》者も減ってきちゃってるよ……」
「つか、あのスタッフの人、PC版の上位ランカーだろ確か? そんな強い人に未|解析《かいせき》の新キャラ使われたら勝てるわけなくね? こっちは新しい仕様《しよう》にも慣れてねーってのにさあ」
いや、スタッフが使ってるのはたぶん、新キャラじゃなくて――PC版で中ボスだったやつじゃないか? コスチュームがちょっと違うけど、俺、あのキャラの必殺技に見覚えあるぞ。
「……………………」
なんで俺はエロゲーの話題に対して、的確《てきかく》に突っ込めるようになっているのだろう?
いかん。本格的にまずい……。アーケード版は18禁《きん》じゃないとか、言《い》い訳《わけ》にもならない。
俺が望む『普通の高校生』ってのは、そうじゃないはずだ……。くそぉぉぉ……。
熱気|以外《いがい》の理由で、俺は額《ひたい》に汗をかきまくっていた。
黒猫《くろねこ》は黒猫で、さっきから微動《びどう》だにせずディスプレイを見つめ続けている。
スタッフは着実に連勝を積み重ねていき――
そして、55戦目。ついに桐乃の番がやってきた。
桐乃が選択したのは、PC版にもいた、電撃《でんげき》使いの妹だ。遠距離《えんきょり》近距離ともに強力な技をそなえた、とても扱《あつか》いやすいキャラクターである。初心者《しょしんしゃ》向けだと wiki にも載《の》っていた。
コスチューム選択《せんたく》画面で妖精風《ようせいふう》の衣装《いしょう》(スピードを重視《じゅうし》したものらしい)を選んだ桐乃は、最後に『バトルスタイル選択画面』に差し掛かった。
たくさん用意された必殺技/武器《ぶき》の組み合わせから、任意《にんい》のものを一つ選ぶという形式だ。
必殺技《ひっさつわざ》の一例を挙げると、
ゲージを全《ぜん》消費して特大の砲撃《ほうげき》を見舞う『超電磁砲《レールガン》』。
|特殊な操作《レバガチャ》でエネルギーをチャージし、チャージ時間に応じて加速度《かそくど》的に威力《いりょく》を増大させる近接《きんせつ》攻撃『|神鳴る拳《クラックナックル》』などがある。
キャラ選択を終えた桐乃《きりの》は、片腕《かたうで》をぐるぐる回して気合《きあい》を全身に漲《みなぎ》らせている。
もしかしなくとも、勝つ気まんまんでいるらしかった。
こいつだってこれから自分が戦う相手が、いままでに挑戦者《ちょうせんしゃ》を54回も叩《たた》きのめしている強敵《きょうてき》(大人《おとな》げない野郎《やろう》ともいう)だと分かっているはずなのにな。この態度はちょっと凄《すご》い。
やるからには勝つ――。ようするにそれが、俺《おれ》の妹のスタンスなのだろう。
勝つつもりでやる[#「勝つつもりでやる」に傍点]というのは、勝負《しょうぶ》事において、非常に基本的な心構《こころがま》えだとは思うが、徹底《てってい》しようとするとこれほど難《むずか》しいこともない。一流と二流を分けるのは、才能のみならず、その心構えにこそあるのではないか――。こいつの生き様《ざま》を見ていて、最近、そう思うこともある。
「あ――ッ!?」
一瞬《いつしゅん》で負けやがった。
おい。おまえが逆転《ぎゃくてん》勝利するかのような前振《まえぶ》りをしていた、俺の立場はどうなる。
対戦《たいせん》の解説を入れる暇《ひま》もないじゃねえか。キャラを選んでる時間の方がよっぽど長かったよ。
「…………チッ。なにこのクソゲー。勝てるわけないじゃんあんなの。ハメだよハメ――」
ふて腐《くさ》れながら戻ってきた妹の言《い》い訳《わけ》は、ゲーセンの対戦台で叩《たた》きのめされた不良のようであった。しょんぼりと俯《うつむ》いて、とぼとぼ歩いてくる姿《すがた》は、実に同情心《どうじょうしん》を掻《か》き立てられる。
「いや……そもそもおまえ、そんなにシスカリ上手《うま》くないんだからさあ。あの相手《あいて》じゃ最初から勝ち目なかっただろ」
「そういうこと言ってるからアンタはしょぼいの。負け犬の考え方でしょそれは」
負けたくせに態度でかいっすねー!
言ってることは分かるけど、明らかにいまのそれは八つ当たりだろ。
つーか言い訳すんのは負け犬じゃないのかよ!
俺が妹の罵倒《ばとう》に耐えていると、沙織《さおり》も負けて戻ってきた。
片手を後頭部に当てて、ぺこぺこと頭を下げてくる。
「いやー、申しわけござらんっ。結構《けっこう》いいところまで行ったのですがー」
「あーいーいー。しょうがねーって。ありゃ勝てねーよ」
桐乃よりもずっと上手《うま》い沙織が勝てないんだから、もう俺たちにはどうしようもない。
桐乃が欲しがっていた限定《げんてい》ディスクとやらは、諦《あきら》めるしかないな。
「ほれ桐乃――。いい加減《かげん》、機嫌《きげん》直せって。どれでも好きなグッズ買ってやるからさあ」
俺がつとめて優しい口調《くちょう》で言ってやると、桐乃は「子供|扱《あつか》いしないで」みたいな文句《もんく》をほざきつつも、納得《なっとく》してくれたようだった。
「ふん……。負けたもんはしょーがないっか。はあ……。ほら、じゃあアンタ、アレ買ってよ、あそこにあるシスカリの等身大《とうしんだい》POP。魔導院《まどういん》レイカのやつ」
桐乃《きりの》が指差《ゆびさ》したのは、シスカリに登場する中ボスで、アーケード版で操作《そうさ》キャラへと昇格した妹《ヒロイン》『魔導院レイカ』の等身大POPである。ちなみに見た目は、金髪《きんぱつ》黒衣《こくい》の魔法《まほう》使いといった感じで、悪魔《あくま》の尻尾《しっぽ》が生《は》えている。ちなみにマントの下にはなにも着ていない。
翻《ひるがえ》したマントから多数の触手《しょくしゅ》を放出して攻撃するので、通称《つうしょう》『触手|妹《いもうと》』などと呼ばれている。
「……あれは売りもんじゃねえだろ」
たとえ売ってもらえたとしても、間違《まちが》いなく持つの俺《おれ》じゃん。
しかもマント翻《ひるがえ》したポーズじゃんかよ。あれを持ち歩けって……殺すつもりか?
千歩|譲《ゆず》って会場内ならまだいいよ。みんなエロいグッズ持ってるし。
けど地元は無理ですから。ぜってーイヤですから。
途中《とちゅう》で知り合いに会ったらどう言《い》い訳《わけ》すんだよ。
たとえば麻奈実《まなみ》に会っちゃったとしてさ――
『――しすかりぷすって、なーに? きょうちゃん?』
とか聞かれた日にゃあ、俺、閉まった踏切《ふみさり》に飛び込みかねないよ?
「ところで京介氏《きょうすけし》、黒猫《くろねこ》氏はどちらに?」
「あん? 俺のとなりにいんだろ――っていねえな」
いつの間にいなくなってんだよ。気配《けはい》が薄いから、まったく気付かなかったぞ。
俺たちがゴスロリ女の姿《すがた》を探して、周囲を見渡したときだ。
わぁぁ――っ、という歓声が上がった。
どうやら、連勝|街道《かいどう》を爆走《ばくそう》中だった例のスタッフを、見事《みごと》倒したやつが現れたらしい。
俺を含めた全員の視線が、対戦《たいせん》筐体《きょうたい》に座る勝者に集中する。
そこにいたのは、なんと、俺たちがいままさに探し求めていた人物だった。
「は、はぁっ? な――なにやってんのアイツ……」
桐乃がポカンと大口《おおくち》を開けて、素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を上げた。俺も似たり寄ったりの有様《ありさま》で、ディスプレイに映し出されている対戦《たいせん》リプレイを見上げる。
そこには件《くだん》の新キャラ『魔導院《まどういん》レイカ』が二人、高速で戦っている様子《ようす》が映し出されていた。
同キャラ対戦だ。
魔導院レイカが、もう片方のレイカを、ほとんど一方的に叩《たた》きのめしている。
と――いうか……その……
俺も一応《いちおう》クリアするくらいにはやり込んだゲームだから分かるのだが、一方的に攻撃《こうげき》している方の『魔導院レイカ』……動きが普通じゃない。有り得ない反応《はんのう》速度で、相手の攻撃にことごとくカウンターを決めている。
そのうち――
うおおおおおおおおお――っ! という先よりもさらに大きな歓声が沸き上がる。
リプレイ画面で黒猫《くろねこ》が操《あやつ》るレイカが、三十秒もかからずパーフェクト勝ちを決めたのだ。
そしていま――負けたスタッフも、脱帽《だつぼう》という感じで、称賛《しょうさん》の拍手《はくしゅ》を送っている。
「人が悪いですそ黒猫|氏《し》――! そんなにお強いなど、拙者《せっしゃ》、聞いておりませんでしたぞ!」
黙然《もくぜん》と戻ってきた黒猫に、沙織《さおり》が、驚喜《きょうき》して抱《だ》きついた。
「……むぐっ……ちょ、ちょっと……苦しいわ……やめて頂戴《ちょうだい》」
「なにをおっしゃいますか、このっこのっ! こやつめっ! ハハハ!」
本気で嫌《いや》がっている様子《ようす》の黒猫だったが、どうやら沙織はそれを照れ隠《かく》しか何かだと解釈《かいしゃく》したらしく、よりいっそう激《はげ》しい手つきでもみくちゃにする。
しばしその状態が続いて……ようやく解放されたとき、黒猫は疲労|困憊《こんぱい》のていで呟《つぶや》いた。
「……に、人間のくせに、人語《じんご》が通じないのあなたは……? 呪《のろ》われなさいよ……」
沙織に日本語が通じないときがあるという点については、全面的に同意する。
呪われろとまで言われた沙織は、やっぱりまったく気にしておらず、黒猫の背中をバンバン叩《たた》きながらはしゃいでいる。
「いやあ〜〜にしてもお強いっ! あの理不尽《りふじん》な反応速度ときたら! 難易度《なんいど》設定8のゲーニッツみたいでしたぞ黒猫氏!」
誰《だれ》だよゲーニッツって。ちゃんと通じる比喩《ひゆ》を使えや。
オタクってのはどうして、自分が知っている知識は当然|相手《あいて》も知っているだろうという前提《ぜんてい》で話すんだろうな? 俺《おれ》みたいに懇切《こんせつ》丁寧《ていねい》に突っ込みを入れてくれる人は、あんまいねーぞ? ま、きちんと通じた場合に限っては、分かりやすい比喩なのかもしれんけど。
「つーかアンタさあ、どうして新キャラの必殺技《ひっさつわざ》コマンド知ってるワケ? 通常技《つうじょうわざ》はともかく、超必は適当に入力したって出るわけないのにさあ」
桐乃《きりの》が憮然《ぶぜん》と聞いた。なんだかいちゃもんつけているように聞こえるんだが……
たぶん自分が勝てなかった相手に、いつも喧嘩《けんか》している黒猫が勝ってしまったのが気に食わないんだろうな。こういうのをして、了見《りょうけん》が狭いという。
さておき、新キャラ(正確には今回から操作《そうさ》できるようになったキャラ)の必殺技コマンドを、黒猫がどうやって知ったのかについては、俺も気になっていた。
黒猫が無《む》表情で答えてくれる。
「……コマンド入力をするとき、キャラが揺れる[#「揺れる」に傍点]でしょう。その揺《ゆ》れ方とか、手元《てもと》の動きとか、ボタンを押す音やタイミングで、どういうコマンドを入力しているのか、判別《はんべつ》したのよ」
つまり何か? スタッフが動かしているのを見て、その場で見切ったってこと? 使ったこともないキャラの技を、あんな短時間で?
どんな動体《どうたい》視力してんだよ……。変態《へんたい》じゃねえのコイツ?
「どんな動体視力してんのよ……。変態じゃないのアンタ?」
「バカ! 思ったことを全部|口《くち》に出すんじゃない!」
衆目《しゅうもく》の面前《めんぜん》だ。なるべく突っ込みを外に出さないように出さないようにつとめてきた俺《おれ》であったが、これには黙《だま》っていられなかった。ったく、どうして自ら火種《ひだね》を作るんだおまえは!
ただでさえ黒猫《くろねこ》が注目浴びてる最中だってのに、いま喧嘩《けんか》し始まったら、目立つどころの騒《さわ》ぎじゃないっての。
桐乃《きりの》も遅ればせながらそれに気付いたのだろう。取り繕《つくろ》うように言った。
「……いまの変態ってのは、褒《ほ》め言葉だから」
「フォローになってねえんだよ!」
もうダメだ。ぜって――大《おお》喧嘩になる……。手で顔を覆《おお》い、げんなりと覚悟《かくご》を決めた俺であったが 予想していた黒猫からの反撃《はんげき》は、幾《いく》ら待っても来なかった。
いぶかって顔を上げると、黒猫が桐乃をじっと見つめていた。
何を考えているのか分からない、いつもの無《む》表情でだ。
「な、なによ……なにか、文句《もんく》でもあるわけ?」
「…………………………」
ただならぬ雰囲気《ふんいき》に呑《の》まれたらしい桐乃が、挑発《ちょうはつ》するようなことを言っても、やはり黒猫は微動《びどう》だにしない。赤い瞳《ひとみ》で、黙然《もくぜん》と桐乃を見ているばかりだ。
やがて……その視線《しせん》が落ち着きなく足元をさまよい始める。
次いで、ぎゅっと自分の腕《うで》を握り締める。
眉間《みけん》にかすかな縦《たて》ジワが刻まれているので、何かに懊悩《おうのう》しているようにも見えた。
そこにいたって、桐乃は黙っていられなくなったらしく、さらに険悪《けんあく》な言葉を投げる。
「ちょっと……黙ってないで、なんとか言ったらどうなの?」
すると――
桐乃に向かって、黒猫が、すっ、と何かを差し出した。
賞品としてもらったばかりの、限定ディスクだった。
「……あげるわ、これ」
「は?」
こんときの妹の顔はマジで見物《みもの》だったね。目をいっぱいに見張って、顎《あご》がかくんと落っこちて、話の流れがまったく分かっていない様子《ようす》だった。
「え? え? なに?……どういうつもり?」
「………なによ。いらなかったかしら? それとも人語《じんご》が通じないのかしら?」
黒猫は、まるで桐乃と口《くち》喧嘩《げんか》をしているときのように、ムスリと言った。
たぶん……。たぶんこいつは桐乃のために、限定《げんてい》ディスクを手に入れてきてくれたのだろう。
いまひとつ確信が持てないのは、この女が無愛想《ぶあいそ》すぎて、何を考えているのかまったく分からないからだ。だって言動《げんどう》と表情と態度が、見事に全部ばらばらなんだもんよ。
めちゃくちゃ分かり難《にく》いよ。
そして桐乃《きりの》――おまえ、俺《おれ》が『例の箱』を持っていたときは、自分|本意《ほんい》に解釈《かいしゃく》してかっぱらっていったくせに……。友達の好意には、どんだけ鈍いんだよ。
話が通じてないのは、どちらというわけではなく、両者に問題があるようだった。
『あの……もしよかったら、これ、もらってくれる?』
『え? いいの? ありがとう――』
どうしてたったこれだけのやり取りができないんだ?
実際《じっさい》には、
「……ふん。いらないなら捨てて頂戴《ちょうだい》」
「そ――そんなこと言ってないでしょ!」
「だったら素直に受け取ったらどう? はあ……もしかして見栄《みえ》が邪魔《じゃま》をしているのかしら? だとしたら、なんてくだらない、つまらない人間なのかしらね」
「なにそのむかつく言い方……。なんでそこまで言われなくちゃなんないワケ!」
これだもんなあ……。結局《けっきょく》喧嘩になってんじゃねーかよ。
俺は見ていられなくなって、二人のやり取りから顔をそむける。
すると視界《しかい》に、腹を抱《かか》えて笑いを堪《こら》えている、沙織《さおり》の姿が目に入った。
沙織はハンカチで涙を拭《ふ》いて、それから俺の方を向いた。
「……っくく。いや、いやいや。申しわけありません京介氏《きょうすけし》――。ああ面白《おもしろ》い。いえね、分かり難いかもしれませんが、彼女なりに気を遣《つか》っているのですよ?」
「わーってるよ」
桐乃《きりの》に、いい夏の想《おも》い出をつくってやりたい――。
俺《おれ》は、そう伝えていたんだよな。沙織《さおり》と、そして――黒猫《くろねこ》にも。
だからきっとこのゴスロリ女は、自分でもガラでもねーとか思いながら、桐乃のために動いてくれたんだろうよ。分かってるさ。
「ちッ! そこまで言うならもらっておいてあげるわよ! 感謝《かんしゃ》しなさいよね!」
激情《げきじょう》がたっぷりこもった桐乃の台詞《せりふ》が聞こえてきたので――
俺はため息混《ま》じりに妹を指差《ゆびさ》し、沙織に向かって翻訳《ほんやく》してやった。
「『ありがとう。すっごい嬉《うれ》しいよ※[#中白ハートマーク]』と、おっしゃっているに違いない」
「――プッ、ハハハッ! 違いありませんな! さすが兄上《あにうえ》、よく分かっていらっしゃる!」
「そこ! なんか言った!?」
地獄《じごく》耳の妹から突っ込まれた俺は、肩をすくめてとぼけてやる。
沙織の大爆笑《だいばくしょう》が、いつまでも高らかに響《ひび》き渡っていた。
夏コミの催《もよお》しを一通《ひととお》り巡り終えた俺《おれ》たちは、国際《こくさい》展示場|駅《えき》へと向かった。
すでにポツポツと雨が降り始めているので、地元の駅に着くころには本降《ほんぶ》りになっているかもしれない。
――向こう着いたら、タクシーでも拾うか。
俺《おれ》も桐乃《きりの》も、この重くて危険な紙袋《かみぶくろ》を両手に提《さ》げて、家まで歩いていく勇気はないしな。
「――なぁ桐乃。ところでおまえ、企業《きぎょう》ブースで色々《いろいろ》買ってたみたいだけど……」
「……なに、文句《もんく》あんの?」
桐乃の耳がぴくぴくっと動いた。おそらくこいつは自分の買ったアイテムを、自慢《じまん》したくてしょうがないのである。もちろん俺はそんなもん見たくもねーわけだが、口《くち》喧嘩《げんか》をするよりはマシなので「や……なに買ったのかなって、思って」と、妹の望む台詞《せりふ》を言ってやった。
すると桐乃は「……ふん、しょうがない、見せてあげる」と、むかつく態度でもったいぶってから、透明《とうめい》なビニールに包まれた布を、じゃーんと効果音付きで見せびらかしてきた。
「フフ、すごいっしょ」
「……いや……なにそれっ?」
「星くず☆ういっちメルル・夏コミ限定抱《げんていだ》き枕《まくら》カバーよ。表《おもて》は|E X《エクスタシー》モードのメルルでー、裏《うら》はめるちゃんの下着|姿《すがた》なの。かわいいっしょ」
超《ちょう》ご機嫌《きげん》。こんなに陶然《とうぜん》とした笑い方をする妹を、俺は、いまだかつて見たことがない。
よく分からんが、|E X《エクスタシー》モードというのなら、いまのこいつこそがそれではなかろうか。
しかしまさか……ここで再び『抱き枕カバー』という単語を聞くことになろうとは……。
ネットショップで見かけたときといい、麻奈実《まなみ》にあげたプレゼントといい、最近|妙《みょう》に抱き枕に縁《えん》があるんだよな……。
ベッドシーツとやらのときも思ったんだけどさー……そんなもん、いったいどうすんのよ? いくらメルルが好きだっつっても、まさか一緒《いっしょ》に寝てるわけもないだろうし……。
俺は額《ひたい》に冷や汗の粒《つぶ》を貼《は》り付けながら、おそるおそる聞いてみた。
「抱き枕って……おまえ、それ、なんに使うの? 部屋《へや》に飾るの?」
「え? 抱き枕なんだから、だっこして寝るに決まってんじゃん。――まあ、ときには顔を擦《こす》りつけたり、くんくんしたりもするけど」
「………………!!」
聞かなきゃよかった! さも当然のようにきょとんとしやがって!
そんな爆弾《ばくだん》発言、しれっと言ってんじゃねえよ!
俺は、圧倒《あっとう》的な戦標《せんりつ》に身を強ばらせながらも、辛《かろ》うじて言葉を発した。
「……い、いや、でも、さ。……ポリエステルの|匂《にお》いしかしないんじゃないか?」
「は? ちゃんと女の子の匂いするよ?」
……それ、自分の匂い! 正確に言うと、おまえが使ってるブランドもんのシャンプーの匂いだろ! ッ…………ッ……くわぁ〜〜、どうしたもんかね! この! この妹!
俺《おれ》のこと変態《へんたい》変態|言《い》いやがるけど、おまえの方がよっぽど変態じゃん!
分かってたけどな? 最初っから、分かってたけどな!?
そんな感じで――
俺と桐乃《きりの》の夏コミ初《はつ》体験は、涙と騒乱《そうらん》のうちに幕を閉じようとしていた。
そもそも桐乃に『夏の想《おも》い出』を作ってやろうという意図《いと》で企画《きかく》された、今回のビッグサイト行きだったわけだが、俺個人の感想としては、まったく面白《おもしろ》かぁなかったね!
沙織《さおり》や黒猫《くろねこ》の言ったとおりだ。
このイベントはあくまで、オタクどもが集まって、能動《のうどう》的に楽しむお祭りなんだよ。
俺みたいな一般人は、お呼びじゃないのさ。
入場するまでに何時間も待たされるわ、超《ちょう》人混《ひとご》みだわ、めちゃくちゃ蒸《む》し暑いわー。
妹にぐだぐだ文句《もんく》垂れられたり、メイドにエロ本買わされたり、大量の荷物を持たされたり――さんざんだったぜ。俺が見て楽しめるものなんざ、セルくらいしかなかったしな。
だがまぁ、あれだ。俺には合わなかったけど。桐乃は、スッゲ――楽しそうだったよな。
最初こそ文句ばっかだったが……好きな作家と会って、たくさん同人誌《どうじんし》買って。
グッズ買って、ゲームやって、コスプレ見て。そんで、友達と、絆《きずな》を深めてさー。
いい想い出に……なったんじゃ……ねぇかな。本人じゃねーから、分かんねーけど。
「……ったく……もう足が痛《いて》ぇよ……」
あァ〜疲れた疲れた。家に着いたら、風呂《ふろ》入ってソッコー寝よう……。
ふん、こんなイベント、もう二度と来ねえよ。
でも、桐乃の想い出作りに協力してくれた二人には、きちんと礼を言っておかなくちゃな。
歩く速度をゆるめ、俺はさりげなく桐乃から離れた。俺たちの後ろでは、黒猫と沙織が話している。二人のそばまで寄っていき、まずは沙織に告げた。
「あーその、沙織。さんきゅな、今日《きょう》、色々《いろいろ》と………助かった。マジでさ」
「ははは、いや、礼には及びません。そう朝も申し上げたではありませんか。……ふっふ、本当に礼儀《れいぎ》正しい御方《おかた》ですなあ、京介氏《きょうすけし》は。少々|律儀《りちぎ》すぎるくらいですぞ?」
「んなことねえって」
「フッ、ではシスコンと言い換えましょう」
「言い換えんな。――またおまえはそうやって煙《けむ》に巻く。礼ぐらい素直に受け取ってくれよ」
……まさかこのでかぶつ、俺が褒《ほ》めたり礼を言うたびに、照れてるわけじゃあるまいな? 黒猫は無《む》表情で感情が読めないが、沙織は沙織でいつも笑顔《えがお》でいるもんだから、こいつも実は感情の機微《きび》が分かり辛《づれ》えんだよな。
口調《くちょう》とか服装とかも、キャラ作りの一環《いっかん》だって話だし……表《おもて》に出ているものを、そのままこいつだと思うのは、違う気がする。だからといって『いいやつ』だってことには違いないが。
「恐縮《きょうしゅく》です。しかし、本当に、礼を言うのは拙者《せっしゃ》の方なのですよ。今日《きょう》はとても楽しい時を過ごすことができましたゆえ。自分|勝手《かって》にお節介《せっかい》を焼いて、それで喜んでもらえたなら、それは己《おのれ》の喜びでもあるのです。他《ほか》ならぬ京介氏《きょうすけし》になら、分かっていただけると思うのですが?」
「………………知るか」
見透《みす》かしたようなことを言いやがって。苦手《にがて》だぜ、こいつ。
沙織《さおり》のとなりにいた黒猫《くろねこ》が、ふと、俺《おれ》のそばに寄ってきた。
「……そろそろ上着、返して頂戴《ちょうだい》」
「ん? ……おう」
ずっと持たされていた上着を渡してやると、黒猫はふわりとそれを肩に羽織《はお》った。
「あーと……おまえも、サンキュな。たぶんあいつもさ……」
「なんのことかしら? ……あなたにお礼を言われるようなことなんて、何一つした覚えはないけれど。やめて頂戴《ちょうだい》、してもいないことで感謝《かんしゃ》されるのは不快の極《きわ》みだわ」
……こいつはむしろ、まだ分かりやすい。桐乃《きりの》と同系統《どうけいとう》だから。
スタスタ足を速めて遠ざかっていく黒猫の背中に、俺は、軽い調子でカマをかけてみる。
「おまえ、今度ウチに遊びに来いよ。住んでるとこ近いらしいじゃんか」
「…………考えておくわ」
その答えで、こいつが桐乃をどう思ってくれているのか、なんとなく分かった気がした。
なにもかもが上手《うま》くいっていた。
色々《いろいろ》と大変だったが、桐乃の『夏の想《おも》い出作り』は上首尾《じょうしゅび》に終わるかにみえた。
だがそうはいかないのが、人生の恐ろしいところだ。桐乃も俺も、前回のことでさんざん思い知ったはずなのにな。落とし穴ってのは、いきなり目の前に現れるもんだってさ。
まさか、二度目[#「二度目」に傍点]があるとは思わなかったよ。
ビッグサイトからの帰り道。幅広《はばひろ》の階段を下り、大通りを駅に向かって進む。
空はますます雲を厚くし、灰色に染《そ》まっている。大団円《だいだんえん》には相応《ふさわ》しくない雰囲気《ふんいき》ではあった。
そして――。そろそろ駅に到着するというところで、聞き覚えのある声がしたのさ。
「あ、あれっ? 桐乃?」
「!?」
俺の前方で、桐乃がびくっと硬くなり、声のした方を向いた。俺も視線《しせん》をスライドさせる。
なんと、そこにいたのは桐乃のクラスメイトで親友の、新垣《あらがき》あやせだった。
ぴっちりとした黒のタンクトップに、半袖《はんそで》のホワイトジャケット、サングラスにシルバーアクセサリー――等々《エトセトラ》。身体《からだ》のラインがよく分かる、しかもへそが見える服装だったものだから、目をやった俺も、ついどきりとしてしまった。
しかし着ている本人が醸《かも》す雰囲気《ふんいき》のせいか、清潔《せいけつ》な印象《いんしょう》は欠片《かけら》も損《そこ》なわれてはいない。
すぐそばの路肩《ろかた》に、後部《こうぶ》窓がスモーク張りのワゴン車が駐《と》まっていて、あやせはそのドアに手をかけている。この車から降りてきたばかり、という感じだった。
「あはっ、やっぱり桐乃《きりの》だあ! やだ、なに、どしたのー?」
「……あ、あやせ……!?」
桐乃は動転《どうてん》して硬直《こうちょく》したまま、呟《つぶや》いた。当然、両手には同人誌《どうじんし》やらグッズが満載《まんさい》の紙袋《かみぶくろ》を提《さ》げたままである。
対してあやせは、純粋《じゅんすい》に、桐乃と出くわしたことに驚いている様子《ようす》だ。思わぬところで親友と会えて、無邪気《むじゃき》に喜んでいるようでもあった。
「ウソぉ、嬉《うれ》しー! えー、うそみたーい! 待ち合わせしたわけでもないのに偶然《ぐうぜん》会っちゃうなんて。……すっごいよね! わたしたち見えない絆《きずな》で結ばれてるんじゃない? ――あ! やだわたし、いま桐乃のストーカーみたいなこと言ってる? あはは、違うからね!」
大はしゃぎである。普段《ふだん》なら桐乃も、一緒《いっしょ》になってはしゃいでいるシーンなのだろうが、もちろんいまはそんな場合じゃない。
「……う、ん……凄《すご》いね!……すっごい偶然…………!」
突如《とつじょ》現れた親友を前に、顔面が引きつってしまっていた。
『ちょ、こ、こんなふざけた偶然、あ、あっていいはずないでしょ……っ! なにかの間違《まちが》い……っ! 夢っ……バグっ……!』とでも言いたげである。
「やだどしたの桐乃! 面白《おもしろ》い顔! こら〜、せっかく親友と会えたっていうのに、テンション低いんじゃない〜? あ、そうそうところでどうしてここに? お盆《ぼん》明けから部活が忙《いそが》しくて、お仕事休んでるって聞いたけど? ショッピング――じゃないか。じゃあなんだろ」
どうやらあやせは、感情が昂《たか》ぶると、相手《あいて》の返答を待たず、ばんばん早口でまくしたてる傾向があるらしい。うちのお袋もそういうタチで、毎回毎回イライラさせられているのだが、この娘《こ》がやる分には何故《なぜ》かかわいらしい。どこが違うんだろうな。全部ですね。
「……え、えと……その」
喜色《きしょく》満面《まんめん》のあやせと向かい合っている桐乃は、あからさまに困惑《こんわく》している。
そういえば、オフ会でハブられてしまったときもこんな感じだった。
何でも万能《ばんのう》にできるこいつは、意外《いがい》とこういったハプニングには弱いヤツなのだ……。
しっかしまァ――やっべぇ〜〜〜よなぁ……。
これ、アレだろ。俺《おれ》の立場で言うと、夏コミ帰りの国際《こくさい》展示場|駅前《えきまえ》で、いきなり麻奈実《まなみ》が登場しちゃったようなもんだろ。……ははっ。
正直に言おう。このとき俺は、ハプニングに仰天《ぎょうてん》すると同時に、あまりにも妹にとって都合《つごう》の悪い展開に、ちょっぴり噴《ふ》き出しかけていた。
いや、いや、だってさあ。このタイミングで知り合い登場とか、ないだろ普通……?
やっぱ普段《ふだん》の行いが悪すぎたんじゃねえの、おまえ。ざまあみろって言っていい?
あ〜あ……どうすんだよ桐乃《きりの》、おまえ、どうやってこの窮地《きゅうち》を切り抜けるんだ?
と、お手並み拝見《はいけん》みたいな感じで眺《なが》めていたら、
「……! ……!」
やっぱりというか、桐乃は、助けを求めるような眼差《まなざ》しで俺《おれ》を見た。
『な、なんとかしなさいよ!』とのことらしい。
――俺すかァ? な、なんとかって言われても……。つうかそこで俺に振るか普通!
だっておまえにとってはさあ、俺はあやせに『妹を押し倒した鬼畜兄《きちくあに》』と思われたままだっつー認識《にんしき》のはずだろ!? ちっくしょう! ったく……しょうがねぇな……。
俺は渋々《しぶしぶ》といった調子で、あやせに向かって歩み寄りながら、「よう」と声をかけた。
俺は俺で、両手に危険な紙袋《かみぶくろ》を持ったままである。
それまで桐乃ばかりに注目していたらしいあやせは、そこで初めて俺の存在に気付いたらしく、目を見張って、ぱちぱちと瞬《またた》きした。
「わ、お兄《にい》さんじゃないですかー! ご無沙汰《ぶさた》しております! ん!? んんっ!? ……もしかしてもしかして、お二人でデートしてたんですかっ!」
なんでそうなるんだよ……。まさかあのときの誤解《ごかい》、まだ完全には解《と》けてなかったのか?
俺はいますぐ「違《ちげ》ぇ!」と大声で否定したかったのだが、そうすると話がややこしくなってしまうので、あえて我慢《がまん》して「……ま、まぁ……そんなとこだ」と無難《ぶなん》な返事をした。
「ちょ! な、なに言って!」
桐乃は赤面《せきめん》して抗議《こうぎ》しかけたが(おそらく、俺があやせと妙《みょう》に仲がよさそうなことへの驚きもあったんだろう)俺はそれを制し、妹の代わりに、あやせに話しかける。
「おまえこそ。どうしたんだよ、こんなところで」
「はい、わたしはグラビアのお仕事で」
ああ、だからそんな露出《ろしゅつ》の多い服着てるんだな。発売されたらその雑誌《ざっし》絶対|買《か》う。
「ちょうどそこが現場だったんですけど。雨で撮影《さつえい》、中止になっちゃって……マネージャーさんたちがお話ししている間、車の中で休憩《きゅうけい》してたんですよ」
そう言って、あやせは空を振り仰《あお》いだ。相変わらず曇っていて、ぽつぽつと雨が降っている。
なるほど、こんな天気じゃあ外での撮影は難《むずか》しいのかもな。
「ふぅん……そうなのか……」
さて、話を若干逸《じゃっかんそ》らしたのはいいが、ここからどうごまかそう。
おそらく、あやせにはオタク知識なんかまったくないだろうし……今日、東京ビッグサイトでオタクの祭典《さいてん》が行われていることも、夏コミという単語《たんご》も、まったく知らないはずだ。
だから無難に話を切り上げて、さっさと別れてしまえばそれで事足《ことた》りる話ではある。
でもさあ……もうこの娘《こ》には本当のこと言っちまってもいいんじゃねーの?
もちろん上手《うま》くごまかせりゃ、それに越したことはねえんだろうけどよ。
親友なんだからさあ、仮に桐乃《きりの》がオタクだってバレちまったところで、そんなに激《はげ》しく嫌《きら》われたり、言いふらされたりはしねーと思うんだが。違うかな?
少なくとも俺《おれ》は、麻奈実《まなみ》のヤツにオタクだってカミングアウトされても、いままでと態度を変えたりはしねえし……。逆にアイツだって、俺がどんな趣味《しゅみ》を持っていたって、気にしないでいままでどおり付き合ってくれるだろうよ。俺が、そうアイツに望む限りはな。
そりゃ、俺と麻奈実の関係と、桐乃とあやせの関係が、同じもんとは言わないよ。
でも、あの捻《ひね》くれまくってる桐乃が、あやせのことだけは素直に親友だって自慢《じまん》していたんだぜ? それにほんの少しではあるが、俺も、このあやせって娘《こ》と会って、話して、為人《ひととなり》を知った。めちゃくちゃお人好《ひとよ》しで、ちょっと思い込みが強くて、優しくて、真面目《まじめ》で――
だから。こっからどう転ぼうが、結局《けっきょく》笑い話で終わんだろ。
もっとも、バレかけている相手《あいて》が麻奈実だったらって想像《そうぞう》すると俺が泣きたくなるように、桐乃にとっちゃ、いまのこの状況は、それこそ生死の境目《さかいめ》みたいに思えてるんだろうけどな。
まあ、無難《ぶなん》にごまかしてみるか。
「――ええと新垣《あらがき》、」
「あやせでいいですよ?」
「そか、じゃ、あやせ……ごめん、ちょっと俺たち、いま急いでてさ……」
俺が申《もう》し訳《わけ》なさそうな顔で辞意《じい》を示すと、
あやせは何を勘違《かんちが》いしたのか、心配そうな面持《おもも》ちで桐乃の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「……ね、桐乃、具合《ぐあい》悪いの? さっきから、ぜんぜん喋《しゃべ》らないし……辛《つら》そうだよ……?」
いや、それは、追い込まれてテンパってるだけだから。わりと逆境《ぎゃっきょう》に弱いのよ、こいつ。
「そ、そうなの……ちょっと、具合悪くて……だから……ごめんネ?」
ウソくせぇ〜……子供だって、もうちょっとマシなごまかし方するだろうよ……。
桐乃は『対《たい》学校の友達|用《よう》』の気色《きしょく》悪い喋《しゃべ》り方で愛想《あいそ》笑いをしたのだが、その言《い》い訳《わけ》は、あやせに対しては逆効果だったらしい。
「よかったら……車に一緒《いっしょ》に乗っていく? その重そうな荷物……持とうか?」
「あ、ありがと……! え、えへへ! でも、だいじょぶだからっ!」
桐乃は大慌《おおあわ》てで拒否《きょひ》。ぶんぶん両手を振るたびに、危険な紙袋《かみぶくろ》がぶるんぶるん揺れる。
……お、おい桐乃……その紙袋、ミチミチいってないか?
駅前で底が抜けたりしたら、いくらなんでもシャレにならんぞ……?
俺の心配をよそに、桐乃はあやせの執拗《しつよう》な誘いを固辞《こじ》し続けている。
やがてお人好しのあやせも、ようやく根負けして、諦《あきら》めてくれたらしい。
「そっか、分かったよ、桐乃。……お兄《にい》さんとのデート、邪魔《じゃま》したら悪いしね」
「※[#「う」に濁点]……うん」
もの凄《すご》く複雑《ふくざつ》そうな表情で頷《うなず》く桐乃。『くぅぅっ、いまはこう言うしかなかったのよ……!』
という自己|弁護《べんご》の叫びが聞こえてくるようだった。そんなに嫌《いや》なのかよ。俺《おれ》も嫌だけど。
「ところで桐乃《きりの》……さっきから気になってたんだけど……」
「こ、今度はなにっ?」
桐乃が半泣《はんな》きで叫ぶ。あやせはぴょこんと首をのばし、桐乃の背後を覗《のぞ》き込むようにした。
「「……げ」」
振り返った桐乃と俺の口から、同じ言葉が漏《も》れた。
何故《なぜ》ならそこには、さっきからずっと展開に置いてけぼりを喰らい続けている沙織《さおり》と黒猫《くろねこ》が、きょとんとした顔で突っ立っていたからだ。
うわ、そうだよ、こいつらのことを忘れてたぜ……! きっと桐乃も同じ想《おも》いでいるだろう。
そんなオタク二人組を、あやせは若干《じゃっかん》引き気味《ぎみ》に、眉《まゆ》をひそめて見つめている。
「えっと……あの人たちって 桐乃の知り合い……なの?」
「えっ、あ、あー……えーと……!?」
さらにテンパる桐乃。その気持ちは凄《すご》く分かる。だってなあ、キモオタファッションの沙織にしろ、ゴスロリファッションの黒猫にしろ、見れば見るほど変テコりんで怪《あや》しいもんなあ。
どうしても目の前にいるあやせと比べちゃうから、余計《よけい》際立《きわだ》ってそう見えるんだよな。
「え、えーと、えーと、えーとッ……」
オタク友達に向かって振り向いたポーズのまま、桐乃は冷や汗をダラダラ流している。
『や、やばっ! こいつらのせいでバレちゃうっ!?』
桐乃の内心《ないしん》は、そんなところだろう。動揺《どうよう》が表情に出まくっているぞオイ。
一方《いっぽう》沙織は、珍《めずら》しく困った表情で愛想《あいそ》笑いになっている。察しのいいこいつのことだ、桐乃の知り合いだと名乗り出ていいものかどうか、悩《なや》んでしまっているのだろう、そして黒猫は、この場で唯一《ゆいいつ》、無《む》表情を保っていた。何を考えているのか分からない瞳《ひとみ》で、事態の趨勢《すうせい》を冷たく見つめている……。やがて――。
「…………何か勘違《かんちが》いをされているようね。……行きましょう? 急いで帰らないと、五時半からのアニメに間に合わないわ。いいところなのよ、今日《きょう》」
黒猫はふいっと踵《きびす》を返し、俺たちを大きく迂回《うかい》するような軌道《きどう》で、駅へと歩いていってしまう。次いで沙織も、黒猫と俺たちの間で視線を数度《すうど》移動させ、結局《けっきょく》黒猫の後についていった。
「…………………………」
最近少し分かってきたのだが、あの黒猫という女は、表面的な態度と本心《ほんしん》がまったく連動《れんどう》していないやつだ。だから今回のこれも、本当にアニメを見たかっただけなのか、気を遣《つか》ってくれたのかは分からない。だけど……。
悪いな、ありがとう――俺は口の中だけで、そう呟《つぶや》いた。
桐乃も、気まずそうな表情で、黙然《もくぜん》と二人の後《うし》ろ姿《すがた》を見送っていた。
やや意外《いがい》な形で沙織と黒猫が退場し、この場には俺・桐乃・あやせの三人が残される。
「……な、なんだったんだろう……あの人たち……すごい格好《かっこう》だった……よね?」
オタク二人組の退場を見届《みとど》けたあやせが、やや怯《ひる》んだ声で咳《つぶや》いた。まあ、この娘《こ》にとっちゃ、あいつらの格好は衝撃《しょうげき》なんだろうな。……でもさぁ、あんな見てくれでも、スゲーいいやつらなんだぜ……? そう言ってやりたいのを我慢《がまん》するのが、とても大変だった。
「さ、さあ! 知んないよあんなキモい連中《れんちゅう》!」
おーい桐乃《きりの》……万《まん》が一《いち》、それ本心で言ってんならブッ飛ばすからな。違うとは思うけどよ。
「う、うん……」
そこであやせは、居心地《いごこち》悪そうに周囲を見回した。そこには当然というか、夏コミ帰りのオタクたちが、駅に向かって大量に歩いている。中には俺《おれ》たちと同じ紙袋《かみぶくろ》を提《さ》げているやつらもいるので、かなり気が気でない……。勘《かん》づかれなきゃいいけど……。
「ねえ桐乃……。さっきから、おかしな格好した人とか、アニメの絵が描かれてるバスとか、やたら見かけるんだけど……今日《きょう》このあたりで、なにかあるのかな?」
「し、知らない! な、夏コミがあったからじゃない?」
バッカじゃないのこの妹! ば、バッカじゃないの!? いくらテンパってるっつったって、オタク知識のないあやせ相手に、その台詞《せりふ》はねえだろ! そんなこと言ったりしたら――
「……なつこみ……って、なあに?」
ホラこの質問が来ちゃった! どうすんだよ!
「な、夏コミってのは……そ、そこでやってるイベントみたいだよ? よく知んないけど。……ど、同人誌《どうじんし》とか、売ってる」
「……どうじんし? って?」
「ふえぇっ」
あっちゃー……だーめだこりゃあ。墓穴《ぼけつ》掘りまくってるよ、桐乃のヤツ……。
せっかくあの二人が気を遣《つか》ってくれたってのに、肝心《かんじん》のおまえがそんなんでどうするのよ? 俺は天を振り仰《あお》いで、呆《あき》れかえってしまう。そこまでヒントを出されてしまっては、あやせも色々《いろいろ》と勘《かん》づくところがあったのだろう。ちょっと不審《ふしん》そうな眼差《まなざ》しになって、観察を始めた。
「……桐乃? えっと……何か、隠《かく》してる?」
「そ、そんなことないよお〜?」
気色《きしょく》悪い声で否定する桐乃。しかしあやせの視線は、すでに桐乃の提げている紙袋に注目しており、そこに書かれている文字を読んでいる……ような……。
次いで……あやせは、紙袋とテンパる桐乃を、交互《こうご》に眺《なが》め始めた。
もう限界《げんかい》だろこれ。オタバレへのカウントダウン始まってるって……。そう判断した俺は、
「だ――だから俺たちちょっと急いでてさ! スマン、また今度な!」
桐乃の手を強引《ごういん》に引っ張って、その場から退避《たいひ》を試みた。もうこうなったら、場を改めた上でしらをきり通すしか、ごまかす方法が思いつかなかったからだ。
「い、行くぞ桐乃《きりの》っ」「え、あ、う、うん……じゃあね、あやせー」
混乱しながらも、俺《おれ》の指示《しじ》に従い、大人《おとな》しく手を引かれる桐乃。甚《はなは》だ不本意《ふほんい》な話だが、この一瞬《いつしゅん》だけを切り取れば、仲のいいカップルに見えたかもしれんな。しかし、
「――待って!!」
背後で、あやせの大声が雷鳴《らいめい》のように轟《とどろ》いた。
逃げる気まんまんだった俺の足が、びくっと強制的に止まってしまう。
大気がびりびり震えている気さえする。あの大人しそうな外見から、よくぞこんな――
振り返ると、あやせが桐乃の手首をガッチリ[#「ガッチリ」に傍点]と掴《つか》んでいた。逃がすまじとでもいうように。
「あ、あやせ……?」
「桐乃、どうして逃げるの?」
「え……あの……逃げたワケじゃ……」
「ウソ」
断定《だんてい》。あやせは桐乃の言《い》い訳《わけ》を圧《お》し潰《つぶ》すように、瞬時《しゅんじ》に否定を被《かぶ》せてきた。
「それはウソ……ウソウソウソウソウソ……ウソ吐《つ》かないでよ……。だって逃げたじゃない?……逃げたでしょ? 逃げたよね? ………なんでわたしにウソを吐くの?」
…………えぇ? な、なんだ突然《とつぜん》、この妙《みょう》な迫力《はくりょく》は……。
桐乃の手首を握り締めたまま、無表情でウソを吐くな逃げたでしょうと糾弾《きゅうだん》してくるあやせ。
その不気味な剣幕《けんまく》に、俺《おれ》も桐乃《きりの》も、呆気《あっけ》に取られてしまっていた。直接《ちょくせつ》言葉を投げ付けられている桐乃は、特にショックを受けている様子《ようす》である。
俺は妹の手をつかんだまま、恐《おそ》る恐る話しかけた。
「……あ、あやせ……? そのさあ」
「うるさい!」
ヒィ! ちょ……い、いや、いやいや。……誰《だれ》、この人?
「お兄《にい》さんは黙《だま》っててくれます? いま、桐乃とわたしが話しているところなので」
「ごめん……なさい……」
なにこの女|恐《こえ》ッえぇえええええぇぇぇぇぇぇええぇぇ!! いまチョー睨《にら》まれたんだけど!
さっきまでとは別人だろ明らかに! 多重《たじゅう》人格!? 悪霊《あくりょう》愚依《ひょうい》!? 台詞《せりふ》だけ抜き出せば『ちょっと怒《おこ》ってますわたし』くらいに感じるかもしれんが……ぜんぜん違うからね? マジで。
超《ちょう》ド迫力《はくりょく》。ポツポツと降り始めている雨や、あやせの長い黒髪《くろかみ》も相まって……いまや国際《こくさい》展示場|駅《えき》には、実におどろおどろしい雰囲気《ふんいき》が漂っていた。まるでホラー映画のようですらある。
信じてくれ誇張《こちょう》じゃないんだ……!
我《わ》が家《や》の親父《おやじ》もおっかないが、それとはまったく別ベクトルの恐怖に、俺たち兄妹は襲《おそ》われていたのである。
なんだよこの豹変《ひょうへん》……いま俺たち、この娘《こ》を怒らせるようなこと、なんかしたっけ?
「ごめんなさい、いきなり大声出したりして……でも、わたし、桐乃のこと――心配で」
反転・今度は優しい声で詫《わ》びるあやせ・耳の中を、羽毛《うもう》でくすぐるような口調《くちょう》で、
「だから桐乃――。逃げないで、わたしの質問に答えてくれない? 何か隠してるよね[#「何か隠してるよね」に傍点]?」
最後だけ声がおっかねぇーよ! 優しい囁《ささや》きとのギャップで、逆にドキリとするわっ!
これだから美人は! こ、こここ、これだから美人はよォ〜〜!
勘弁《かんべん》しろよ!? なんでこうことごとく、俺が知り合う美人はマトモな性格してないの?
どっか配線キレてんの? 絶対|女運《おんなうん》おかしいって!? あぁ〜ッ、もう、ヤッパ普通の娘が一番だよな! なんだか無性《むしょう》に幼馴染《おさななじ》みの顔が見たくなってきたわ!
――つうか、桐乃! お、おまえコレ、この娘がこんな、こんなんだって、知ってたのか?
一瞬《いつしゅん》現実|逃避《とうひ》から舞い戻った俺は、全身の肌《はだ》を粟立《あわだ》たせながら、チラっと妹に視線《しせん》を向けた。すると、
「う、うう……」
桐乃は、俺よりよっぽどあやせにびびっていた。
う、うわ……。こ、こりゃ、知らなかったんだな……。
「……ち、違うのっ。あやせ、これはね? 違うんだ? だからその、怒《おこ》らない……で?」
「桐乃こそ、言《い》い訳《わけ》しないでくれる? わたし、真剣に聞いてるんだよ……?」
「あう……」
「いま、逃げたよね? わたしから、逃げようとしたよね? 言《い》い訳《わけ》じゃなくて――本当に誤解《ごかい》なら、そう言って? 言えるものなら[#「言えるものなら」に傍点]」
「う、うう……」
呻《うめ》いて、俯《うつむ》いてしまう桐乃《きりの》。いや、あの迫力《はくりょく》であんなこと言われたら、俺《おれ》だってそうなるわ。
実際、言い訳だったわけだしな……反論できるはずもない。
そんな親友の姿《すがた》を虚《うつ》ろな瞳《ひとみ》で見つめていたあやせは、そこで、噛《か》みつくようにキバを剥《む》いた。
「ほら言えない! 知ってるよね? 桐乃は知ってたはずだよね? わたしがウソ吐《つ》かれるの大嫌《だいきら》いだってこと。ウソ吐く人が大っ嫌いだってこと! ――なのにどうしてそういうことするの? ウソ吐くの? ねぇどうして? ――わたしたち親友じゃなかったの?」
ひぃぃ……おっかねぇ〜……しかも怒《いか》り方がすげえタチ悪い〜。なにこのイヤな責め方。
ほら、周りのオタクたちもびびってチラチラこっち見てるじゃん……。
つーかそもそもこの女……どうして突然《とつぜん》こんなにヒスってんの?
そりゃ、適当なこと言って逃げようとしたのは悪かったと思うけど………いくらなんでもキレすぎだろ。こんなに突っかからなくてもいいじゃんなあ。そう思わないか?
「……………………」
桐乃は何も言い返せず、俯いている。俺の位置からじゃ妹の表情は見えないが、繋《つな》いだ手を、ぎゅっと握り締《し》めてくるのが分かった。妹の掌《てのひら》は熱くて、汗をかいていて、震えていた。
そんな桐乃を、あやせはじっと観察している。すぅっと眼《め》を細めて、冷然《れいぜん》と告げる。
「――黙《だま》ってないでなんとか言ったら?」
「…………っ」
「……そう、なにも言えないってことは、やましいことがあるってこと? それともわたしなんかとは話したくもないってこと? ……ショックだな、親友だと思ってたのに。ぜんぶわたしの勘違《かんちが》いだったなんて」
「ち、違が……」
「違う? なにが? ねぇ、なにが違うの? ……ほら、また黙り込む。いい加減《かげん》にしてよ」
あやせは、ぐっと桐乃の顔に自分の顔を近づけた。手首を固くロックしたままでだ。
そして、がらりと一変《いっぺん》、痛ましい表情になった。綺麗《きれい》な瞳《ひとみ》をうるませて、訴えてくる。
「桐乃らしくないじゃない……いったいどうしちゃったの? ねぇ、わたし、なにかおかしいこと言ってる? 間違《まちが》ってること言ってる? なんで逃げようとしたのか、なにをごまかそうとしたのか、教えてもらいたいって思うのが、そんなに悪いこと?」
俺は見ていられなくなって、繋いだ手を引っ張り、二人の間に割り込んだ。
「――そのへんにしとけ。親友|同士《どうし》だって、隠《かく》し事のひとつやふたつ、あるもんだろ? ホレ、手ぇ放せよ。そんなに強く握り締《し》めたら、痕《あと》になるだろう」
俺《おれ》の台詞《せりふ》に、あやせは少し鼻白《はなじろ》んだように見えた。が、すぐに微笑《ほほえ》みをたたえ、手を離した。
「……ごめんなさい、痛かった?」素直に詫《わ》びて、いたわりの言葉を口にする。
「ううん……だ、大丈夫《だいじょうぶ》……」
桐乃《きりの》はそう言って弱々しい笑《え》みを見せたが、やはり懸念《けねん》したとおり、赤く手の痕《あと》が残ってしまっている。……どんだけ強く握ってたんだよ、こいつ……。
俺は薄ら寒い思いで、赤く腫《は》れた痕を見つめた。
「そうですね 親友|同士《どうし》だって、隠《かく》し事の一つや二つ、ありますよね」
あやせは決して嘲《あざけ》るような調子ではなく、あくまで真剣な表情と口調《くちょう》で言う。
「……でも、わたし、桐乃の力になってあげたいんです。だって……桐乃は、わたしに、いつもそうしてくれるから……。いつだってそうでした。モデルのお仕事では、先輩《せんぱい》として、学校ではクラスメイトとして――ここ数年、ずっとわたしのことを、支えてくれていたんです」
桐乃は、わたしにとって、とっても大切な、親友なんですよ――。
あやせの言葉からは、何の裏《うら》も、作為《さくい》も、感じられなかった。
心の底からそう思っていて、桐乃のことが本当に好きで。だから、力になってあげたい。
たとえ拒絶《きょぜつ》されてしまったとしても、どうしても見て見ぬふりはできない。
どこかで聞いた話だと思ったよ。まったくよく分かる話だったさ。
だから、次の台詞も予想できた。
「桐乃が何か隠し事をしていて、それをわたしに言いたくないというのは、態度を見ていれば分かります。でも、今回だけは、どうしても看過《みす》ごしちゃいけないような気がするんです。女の勘《かん》――というと大袈裟《おおげさ》かもしれませんけど。嫌《いや》な予感がして……放っておけません」
「ううっ……」
心配そうに見つめられた桐乃は、気まずそうに俯《うつむ》いた。その掌《てのひら》が緊張《きんちょう》で震えている。
あやせが、桐乃の視線の先を見る。
「――その紙袋《かみぶくろ》、中に何が入ってるの?」
それを射殺《いころ》すような眼差《まなざ》しで睨《にら》み付けながら、いままでで一番|恐《おそ》ろしい声で聞いてきた。
もちろんそんなの、答えられるわけがない。桐乃も、俺も、黙《だま》り込むしかなかった。
今度はあやせも、急《せ》かしたり、罵倒《ばとう》したりすることはなく……すぐそばに立ったまま、じっと俺たちの目を見つめている。それが逆に不気味《ぶきみ》でもあった。
「…………コミックマーケット……ね」
紙袋に書かれているイベント名を、実に忌々《いまいま》しげに読み上げるあやせ。
再び無言の時間が過ぎていく……。ぽつ、ぽつ、と、段々《だんだん》と早まっていく雨音だけが妙《みょう》に耳に残った。そして、やがて――。
ざぁっと、バケツを引っ繰り返したように雨が強まった。豪雨《ごうう》といっていい激しさだ。
そこで桐乃は、はっと紙袋が濡《ぬ》れるのを気にした。すぐさま屋根のある場所まで移動しようと脚《あし》を踏み出す――が、再び手首をつかまれる。
「どこに行くの! いまの話より大事なものなの、それ……!?」
「――っ」
桐乃《きりの》の精神は、このとき、相当《そうとう》に追い込まれていたのだろう。あとから考えれば他《ほか》に幾《いく》らでもやりようはあったろうし、俺《おれ》だってどうにかしようと動いている|途中《とちゅう》だった。でも、
「放してツ!」
桐乃は強引《ごういん》に親友の手を振り払った。決してそんなつもりでやったわけではないのだろうが、手厳《てきび》しく拒絶《きょぜつ》したようにしか見えなかった。
あやせもそう感じたに違いない。カッと頬《ほお》が紅潮《こうちょう》した。
「桐乃……っ!?」
振り払われた手で、あやせは縋《すが》るように紙袋《かみぶくろ》をつかむ――。
ビリッ! 虚《うつ》ろな音が俺の耳朶《じだ》に響《ひび》いたときには、もう取り返しがつかない事態《じたい》が起こってしまったあとだったのだ。
「あ――」
桐乃が振り返りながら、声ならぬ声を上げる。いまのやり取りで、紙袋の底部が破れてしまったのだ。桐乃が買い集めた同人誌が、剥《む》き出しのまま地面に落ちてしまう。雨に濡《ぬ》れ、無惨《むざん》に湿っていくそれらを見て、思い入れの少ない俺でさえ、心臓《しんぞう》が止まりそうな寒気《さむけ》を覚えた。
――あんなに嬉《うれ》しそうに、買ってたのに……。そりゃ……ねぇだろ……。
桐乃は完全に思考《しこう》不能《ふのう》状態に陥《おちい》ってしまっているようで、真《ま》っ青《さお》な顔で立ち尽している。
あやせは、自分の足元《あしもと》に落ちた同人誌を、恐ろしく冷たい瞳《ひとみ》で見下ろしていたが……
「!」
やおら、シスカリの同人誌を一冊拾い上げた。表情はそのままに、瞳だけが見開かれる。
ぱら、ぱら……濡《ぬ》れたページを捲《めく》り、震えた声を漏《も》らす。
「安心……して。このことは、絶対に誰《だれ》にも言わないから。あなたみたいな人が、こんな――……もの……ウソを吐《つ》いてまで、隠《かく》そうとしていたなんて……そんな馬鹿げた話……みんなに信じてもらえるとも思えないし………――――でもっ[#「でもっ」に傍点]」
そこで、ぴたりと声の震えが止まった。こちらの背筋《せすじ》が凍るような、無《む》感情な声で告げる。
「……ごめんなさい。わたし、そういう人とは今後お付き合いできません。……高坂《こうさか》さん。お願いですから、もう学校でも話しかけないでくださいね――」
三時間後――。俺は家にたどり着くや、玄関《げんかん》にドスンと紙袋を置いた。
「………※[#「あ」に濁点]〜………………つか…………れ……た……」
しゃがみ込んだ体勢で、そのまま動けなくなってしまう。
高レベルのオタクはこれを三日間連続でこなすらしいが、同じ人類とは到底《とうてい》思えんぞ……。
さて……。こうしている場合じゃねえ。この危険なブツたちは、さっさと片付けてしまわんと。お袋《ふくろ》に見付かったら、まためんどうなことになりかねん……。
……のだが、そういった始末《しまつ》を率先《そっせん》してやらなくちゃならない妹はといえば、帰って早々、ゆらゆらとおぼつかない足取りで、階段を上っていってしまった。
とても話しかけられる雰囲気《ふんいき》じゃなかったね。桐乃《きりの》は帰り道、電車やタクシーの中でもずっと、こんな感じだった。あの重苦《おもくる》しいイヤな空気の中、二時間|超《ちょう》も耐えた俺《おれ》は、それだけでも称賛《しょうさん》に値するのではなかろうか。
やれやれ……。どうしたもんかね、こりゃあ。
俺は靴《くつ》を脱ぎ、ずきずき痛む踵《かかと》をひとくさり揉《も》んでから、「……っ、しょっと」クソ重い紙袋《かみぶくろ》を再び五つも持って、ゆっくりと階段を上っていった。妹の部屋にたどり着くや、一旦《いったん》紙袋を下に置き、こんこんとノックをする――が、無《む》反応。
「おい桐乃――。せめてせっかく買ったもんくらい、部屋に入れとけ」
返事はなかったが、中にいる気配《けはい》はする。駄目元《だめもと》でノブを捻《ひね》ってみると、鍵《かぎ》が掛かっていなかった。鍵をかける気力さえないのかもしれない。少しだけ扉《とびら》を開くと、部屋の中は真《ま》っ暗《くら》だった。兄貴《あにき》らしい行動――扉を開け放って、電気を点《つ》けて、落ち込んだ妹を元気づけてやる――を頭の中だけで思い描いて、やめる。どう考えてもガラじゃないし、そこまでしてやる義理もない。そもそも何を言ったらいいか分からないし、あいつに嫌《きら》われている俺が何を言ったところで、慰《なぐさ》めにも励《はげ》みにもなるわけがない。情《なさ》けない話だった。俺も、妹も。
「……ここに置いとくぞ」
俺はわずかに開いた扉の隙間《すきま》から、紙袋を五つ、なるべく丁寧《ていねい》に滑《すべ》り込ませた。それが俺にできる、せめてもの兄貴らしい行動。「風呂《ふろ》わかすから、あとで入れよ」やはり返事はない。
俺はシャワーで軽く汗を流したあと、一応《いちおう》、風呂の準備を整えておくことにした。シャワーだけで済ますより、湯船《ゆぶね》に浸《つ》かった方が、多少なりとも気が休まると思ったからだ。誰《だれ》も入らないようなら、自分で入りゃいい。無駄《むだ》にはならない。
……妹に、こんなことをしてやるの、何年ぶりだろうな?
そんなことも思う。いままではお互《たが》い、ほとんど無視し合ってたからな……。
シャワーを浴びたあと、携帯《けいたい》を確認《かくにん》すると、沙織《さおり》から着信が入っていた。
折り返すと、やはり別れ際の顛末《てんまつ》を心配しているようだった。
「わざわざありがとうな。おかげさまでどうにかなったから、心配すんな。ごめんな――気を遣《つか》わせちまって」
あのときにいた女は桐乃の親友で、オタク趣味《しゅみ》がバレちまって、絶交《ぜっこう》されて、そんで落ち込んじまってんだよ、あいつ――なんて言えるわけがない。沙織は俺たちのために、色々《いろいろ》と考えて、企画《きかく》を立てて、一緒《いっしょ》に遊んでくれたんだから。
この件で、変に気に病ませたりは絶対にしたくなかった。
『きりりん氏にも電話をかけたのですが、出てくださらなかったので――』
「ハハ、さすがのあいつも疲れたんだろ。帰ってきて早々|寝《ね》ちまったよ」
『然様《さよう》でござったか。なら、よかった。本当に、よかった』
安心したように沙織《さおり》は言った。せっかく気を遣《つか》ってくれたのに……ごめんな。
次に桐乃《きりの》の姿《すがた》を見たのは、翌朝《よくあさ》のことだ。両親と俺《おれ》が揃《そろ》っている朝の食卓《しょくたく》。
最後に現れた妹は、何事もなかったかのようにけろりとしていた。漫画《まんが》とかなら、落ち込んだヒロインってのはもっと、くまのできた、ひどい顔をして現れるものなのに。
髪《かみ》の毛もメイクも、いつもどおり綺麗《きれい》に整えられている。
食事中に何も喋《しゃべ》らないのは、桐乃にとっちゃいつものことだし、ぱくぱくとカレーを食べている妹を横目《よこめ》に、俺は少々|拍子抜《ひょうしぬ》けしたような気持ちでいた。なんだこいつ? と。
「桐乃あんた、今日《きょう》から合宿でしょ。緊張《きんちょう》してるんじゃない?」
「あたしを誰《だれ》だと思ってるの、お母《かあ》さん」
笑いこそしなかったが、自信に充ち満ちた発言だった。俺の妹は、こういう台詞《せりふ》をごく自然に吐《は》いて、それに相応《ふさわ》しい結果を出し続けてきた人間なのだ。
だから、このとき俺は、親友に絶縁《ぜつえん》されてしまった桐乃が、たった一日で立ち直ってしまったものとばかり思っていた。たいしたやつだな、と、本気《ほんき》で感心さえしていたんだ。
『夏の想《おも》い出作り』が終わってから、夏休みが終わるまで、桐乃はいつか自分でそう言っていたように、とても忙《いそが》しい日々を送っているようだった。
一週間ほどの合宿から帰ってきてからも、毎日毎日練習に出かけて、帰ってきたらさっさと部屋《へや》に閉じ込もってしまう。そんな日々が月末まで続いた。
夏コミが終わってから、俺は妹と一言も口を利いていなかった。
人生《じんせい》相談とやらで呼び出されることもなかったし、あやせとの件について妹と話すというようなこともなかった。約束していたゲームの対戦《たいせん》も、いまだに実現しちゃあいない。
だから。桐乃とあやせの、その後の顛末《てんまつ》については、まったく把握《はあく》していなかった。
色々《いろいろ》と桐乃に問いただしたいことはあったよ。でも、聞かなかった。
あやせに電話やメールをして、確認《かくにん》しようともしなかった。
何故《なぜ》って、そこまで踏み込める関係じゃないからだ。
俺は今回の件に関して、いっさい何もしちゃいない。するつもりもない。
確かにな……妹は俺に何度《なんど》も人生相談とやらをしているし、俺は俺で、麻奈実《まなみ》の件について妹に頼ったこともある。ずっと冷戦《れいせん》状態だったころと比べれば、お互《たが》いのことをほんのちょっぴりは理解して、歩み寄ってはいると思う。相談の範囲《はんい》でなら、話す機会《きかい》も増えたしな。
だけど、それはあくまで『相談を持ち掛ける』というルールがあってこそなんだ。
勘違《かんちが》いするんじゃないぞ。最近は馴《な》れ合っているように見えるのかもしれんがな、俺と桐乃は、お互《たが》いにお互いのことが大嫌《だいきら》いなんだ。根本的な部分でウマが合わないのだから、どうしようもない。上手《うま》く折り合い付けて、できる限り無視《むし》し合っていればいい。
いま俺《おれ》たちは、再び数ヶ月前のように、目も合わせず喋《しゃべ》りもしないという冷めた関係に戻っている。
最後の人生《じんせい》相談の結果が、あんなことになって――
あいつももう、役立たずの兄貴《あにき》なんぞに相談すんのに懲《こ》りたのかもしれないな。
……まぁ、それでいい。何一つ問題ない。
もともと俺は、いやいや妹の人生相談とやらに巻き込まれていたわけで、いまの状況は、むしろありがたい。穏《おだ》やかな生活を掻《か》き乱されなくなって、せいせいするってもんさ。
ふん……知ったこっちゃねぇっての。
あっというまに夏休みが終わり、二学期が始まった。
最近は雨だの雷《かみなり》だの天気が思わしくないせいで、季節《きせつ》感もへったくれもありゃしない。
気温も暑くなったり寒くなったりするもんだから、迂闊《うかつ》に衣替《ころもが》えもできん。
とはいえ、そんな些細《ささい》な諸々《もろもろ》では、俺の愛する平凡《へいぼん》な日常に、ヒビひとつ入れられやしないわけで。俺は、今日《きょう》も今日とて麻奈実《まなみ》と一緒《いっしょ》に、下校|路《ろ》を並んで歩いていた。
「ね、ね。きょうちゃん……久しぶりだね、こういうの」
「あ? なにが?」
となりで突然《とつぜん》にやけ始めた幼馴染《おさななじ》みに、俺は不審《ふしん》な眼差《まなざ》しを向けた。
すると麻奈実は、地味《じみ》〜な眼鏡《めがね》の奥で瞳《ひとみ》を弓《ゆみ》なりにし、思いっきり緩《ゆる》んだ表情になる。
「だからぁ、二人で一緒《いっしょ》に帰るのが」
「なにを言っとるんだおまえは。今日から新学期なんだから当たり前だろうが」
しかも二人で帰るのなんて、別に久しぶりでもねえし。
夏休みに、さんざん図書館に行ったり、公園行ったりしたろうが。
俺が自らの習性《しゅうせい》に従って、適切な突っ込みを入れると、麻奈実は唇《くちびる》を小さくすぼめ、うらめしそうに見上げてくる。
「そうじゃなくってぇ。も〜、分かってないなぁ、きょうちゃんは」
「俺にはおまえが分からねえよ……ったく」
こんなにいつも一緒にいる麻奈実のことでさえ、分からないことばかりなのだから、他《ほか》の女のことなんて、俺に分かるわけがねえんだよな――結局。
そのまましばらく歩いていると、ごく自然な調子で麻奈実は言った。
「で――。きょうちゃんは、最近ずっと、何に悩《なや》んでいるのかな?」
「…………なんのことだよ」
そっぽを向いてとぼけると、麻奈実はくすくすと笑いながら、
「おまえが何を悩《なや》んでいるのかは知らないし……俺《おれ》には話したくないんだろうってのは、なんとなく分かるんだ。でも、それで納得《なっとく》してやるわけにゃいかない。いくらカンケーねえって突っぱねられても、見て見ぬふりはできねえよ=\―って、言えばいい?」
「………………ほ、ほっほう。……そんなカッコいい台詞《せりふ》、どこで覚えたんだ?」
「カッコいーでしょ〜? この前、きょうちゃんが、わたしに言ってくれたんだ」
「そ、そう……だっけ?」
ひぃぃ……スッとぼけてようと思ったけど、このままほっとくと、どんどんどんどん無《む》制限に精神|攻撃《こうげき》の威力《いりょく》が上がっていくような気がしてきた……。
「なに? おまえは俺を殺すつもりなの?」
「お互《たが》い様ですーっ」
苦《にが》い顔でギブアップした俺を、鞄《かばん》でぽかんと突っついて、麻奈実《まなみ》は快活《かいかつ》に笑う。
まるでこのときだけ、真夏に戻ったような気分だった。別に幼馴染《おさななじ》みから、天日干《てんぴぼ》しされたい草の匂《にお》いがするから、というわけではないぞ。
「しかしな、悩みっつっても……本当にないんだが……いや、ウソじゃなくてな?」
「……そうなの? ないわけないと思うんだけどなぁ……」
おまえが言うなら、そうなのかもな。でも、思い当たらないのは事実だぜ?
「うーん。自分でも、自覚できてない……のかも?」
「ふーむ」
「あ、かなり前に言ってた、妹さん――桐乃《きりの》ちゃんの人生《じんせい》相談とは、関係ないの?」
「ないよ」
即答《そくとう》。かなり強い口調《くちょう》で断じた。すると麻奈実は、ぽんと拍手《かしわで》を打って、
「分かった、それだ」
「なんでだよ!」
おかしいだろこの流れ! しかし麻奈実は、自分の発言に確信があるようで「あはは。素直じゃないよねぇ」などとわけ知り顔で呟《つぶや》いている。
「……とにかく、俺が悩んでいるんだとしても、それに妹は関係ねーよ。分かったか?」
「うん、分かった。じゃあ、違うこと聞くね? 桐乃ちゃん、最近、何か悩んでるの?」
「…………………………」
にゃろう……気に入らねえ。まったく気に入らねえ流れだぜ……。なんだ、この手玉に取られているような展開は……。違うって言ってんじゃねーかよ。
地味子《じみこ》のくせに生意気《なまいき》だぞ、このぅ……。
俺が喋《しゃべ》り渋《しぶ》っていると、いつのまにかいつもの丁字路《ていじろ》に差し掛かった。
そして、なんともタイミングのいいことに――あるいは悪いことに――渦中《かちゅう》の妹と遭遇《そうぐう》したのである。別に珍《めずら》しいことじゃない、学生の下校《げこう》時刻なんてどこも大して変わりゃしねーんだからな。ここでこいつと出くわすのだって、もう何十回目か分からねえよ。
「あっ……あれって……桐乃《きりの》ちゃん……だよね?」
「ふん、そうみてーだな」
麻奈実《まなみ》の声が自信なさげなのは、こいつと桐乃との間に、ほとんど接点がないからだ。ただ結構《けっこう》前に、桐乃が参加している撮影《さつえい》現場を麻奈実と一緒《いっしょ》に見かけたことがあって、それで今回、桐乃に気付くことができたということなんだろう。気付かなくていいのに。
いつも大勢《おおぜい》の取り巻きを引き連れて下校している桐乃は、何故《なぜ》か、今日《きょう》は一人だった。
「……あれれ? 桐乃ちゃん……元気、なさそう?」
「そうかぁ? よく分かんねーな」
ふむ、思いっきりしょぼくれてんな。俺《おれ》も一応|兄貴《あにき》だから、そのくらいのことは分かるさ。
普段《ふだん》のあいつは、ピッと背筋《せすじ》のばして、ザンザン早足《はやあし》で歩くんだよ。
あんなふうに猫背《ねこぜ》になって、俯《うつむ》いてとぼとぼ下校したりするようなやつじゃねーんだ。
昨日《きのう》までは、落ち込んでいるようなそぶりはなかったんだが……。
今日、学校で何かあったのかもしれないな……。なにやってんだよ……あいつ……。
人前で落ち込んでんじゃねーよ。そんなん、らしくないだろ。
俺はいつの聞にか、下唇《したくちびる》を噛《か》んでいた。
「なぁ、麻奈実」
「なぁに、きょうちゃん」
「悪い。ちょっとハラが痛くなってきたから、勉強会は中止な」
まっすぐ前を向いたまま言うと「ん、分かった」という素直な返事。
次いで予期せぬ声援《せいえん》が、俺の背中を強く押し出した。
「がんばってね、お兄《にい》ちゃんっ」
おまえに言われちゃしょうがないな。
家に帰ると――
桐乃はリビングのソファに乗っかり、クッションを抱《だ》き締《し》めて、そこに顔をうずめていた。
テーブルの上には、少し口を付けたコーラが置かれている。
夏休み中とは異なり、一目瞭然《いちもくりようぜん》で落ち込んでいると分かる状態だ。
だからどうしたとは思う。こんなやつのことなんか心配してやる義理《ぎり》はねえし、そもそもどう話しかけたらいいか見当《けんとう》もつかねえし、こいつがしょぼくれてる理由になんか興味《きょうみ》もない。
けどさあ。たったいま俺、麻奈実に『がんばって』って言われちゃったんだよね。
あのお人好《ひとよ》しがさ、桐乃が元気がないの、心配してくれてて……。
だから、しょうがねえんだ。
別に俺はぜんぜん心配しちゃいないけど、悩《なや》みがあるなら、聞いてやらんこともないぞ。
「……おい桐乃《きりの》……おまえ……電気も点《つ》けねぇで……」
俺《おれ》は灯《あか》りを点けようとしたが、それもなんだか憚《はばか》られて、結局《けっきょく》、薄暗《うすぐら》いリビングを妹のそばまで進んでいった。桐乃はクッションに顔をうずめたまま、微動《びどう》だにしない。
俺はひとくさり躊躇《ちゅうちょ》してから、意を決して妹に話しかけた。
「なぁ。おまえ、どうしたんだよ? 学校で……なんかあったのか……?」
「別に」
クッションに顔をくっつけたまま、ぼそっと呟《つぶや》く。もの凄《すご》く聞き取りにくい。
が、とりあえず反応があったことに、俺は安堵《あんど》した。完全に無視《むし》されている状態からじゃ、どうにもならないからだ。ひとまず一歩前進、と。
「宿題|忘《わす》れた……とか……」
そんなわけはないのだが、様子見《ようすみ》の質問をしてみる。
すると桐乃は顔を横に振るような仕草《しぐさ》をした。違うらしい。
「じゃあその……あやせに、またなんか言われたり……したとか?」
「…………」
本命《ほんめい》の質問をぶつけてみたが、今度は返事がない。まったくの無《む》反応。
俺はへこたれずに問いかける。
「まさか……あの女、約束|破《やぶ》って、おまえの趣味《しゅみ》のこと言いふらしたりしたんじゃ……」
「あやせはそんなことしない!」
怒《いか》りのこもった返答に、俺は目を見張った。夏コミ直前の俺なら、親友を信頼してるんだなと微笑《ほほえ》ましい気分になったんだろうが……。どうなんだろうな、この桐乃の言《い》い草《ぐさ》は。
「おまえ――あの娘《こ》と仲直り、したの?」
「…………」
またしても無言。桐乃は先よりも強く、クッションを抱《だ》き締《し》めている。この様子《ようす》を見ると、どうやら仲直りはしていない……のか。くそ、埒《らち》が明かねえな。俺はクッションを引っ張った。
「おい、桐乃。ちょっとこっち向けよ。黙《だま》ってちゃ分かんねーだろが」
「ほっといて」
ぎゅ、と頑《かたく》なにクッションを離そうとしない桐乃。俺は構《かま》わずさらに強く引っ張る。
と、
「うざい! ――ほっとけっつってんでしょ!」
桐乃はいきなりクッションから手を離し、怒鳴《どな》った。すっぽ抜けた形になって体勢を崩した俺に向かって、さらに怒《いか》りをぶつけてくる。
「なによ――最近ちょっとあたしが話してあげてるからって、慣《な》れ慣れしく兄貴面《あにきづら》しないでくんない! 勘違《かんちが》いすんな! キモいっつってんのっ!」
「ちっ………」
ああそうかい。奇遇《きぐう》だな。俺《おれ》もまったくの同《どう》意見だぜ。
そうだよなあ、俺たちの関係は、何一つ変わっちゃいねーってのに、ちっとは歩み寄ったとか、仲良くなったとか、くだらない勘違《かんちが》いして、調子にのっちゃまずいよなあ。
まったくだ。あぁまったくだ。
でもな。そんな泣きそうなツラ[#「泣きそうなツラ」に傍点]で、言われたくねーんだよバーカ。
「いやだね――。大《おお》バカ野郎《やろう》が。てめえの言うことなんざ誰《だれ》が聞くかっ」
「はあっ?」
顔を嫌悪《けんお》に歪《ゆが》める桐乃《きりの》の前で、俺は、クッションを床《ゆか》に放り、
ドカッ! と、勢《いきお》いよくソファに腰を下ろした。
妹のすぐとなりで、同じ目線《めせん》で、話を聞いてやるためにだ。
「キモくて結構《けっこう》だっつってんだよ――。いいから言え。言ってみろ! ハッ、なんせ俺は、妹と仲良くなれたって勘違いしちゃってる、シスコン変態《へんたい》バカ兄貴《あにき》だからな! 事情を聞くまでは絶対逃がさねえよ。ウザいのがイヤなら、観念《かんねん》して白状《はくじょう》するんだな」
我《われ》ながらなんつー言《い》い草《ぐさ》だよ。この前から俺、どんどん頭|悪《わる》くなってねえ?
俺の支離滅裂《しりめつれつ》な台詞《せりふ》を聞いた桐乃は、なんとも奇妙《きみょう》な表情になった。
「な、に……言ってんの?」
怒《いか》りながら当惑《とうわく》している――とでもいおうか。
「あやせとは仲直りしてねえんだな?」
俺は構《かま》わずに聞いた。強引《ごういん》なやり方だとは思うが、この調子じゃ、今回こいつ、自分から悩《なや》みを打ち明けたりはしなさそうだしな。
こっちからどんどん聞いて、その回答《かいとう》を組み合わぜて推測《すいそく》するしかない。
まぁ俺の心当たりなんて、一つっきゃねーわけだし、たぶんそれで合ってるんだろうけどな。
繰り返すが――断じて、こいつのことを心配しているわけじゃないぜ。だって見ろよ、この嫌悪《けんお》の眼差《まなざ》し。俺のお節介《せっかい》を、心底《しんそこ》余計《よけい》なお世話《せわ》だと思ってるんだろうな……。
こんなやつのために、誰《だれ》が心を砕いてやるもんかってんだ。
だが、一度やると決めたことだ。一度|口《くち》にしたことだ。途中《とちゅう》でやめるつもりはなかった。
俺もまた、あの頑固《がんこ》な親父《おやじ》の血を、確かに受け継いでいるのかもしれないな。
「どうなんだよ?」
「……仲直りなんて……」
怒鳴《どな》り散らしても無駄《むだ》だと諦《あきら》めたのか、桐乃は声のトーンを落とし、潤《うる》んだ瞳《ひとみ》で睨《にら》み付けてくる。
「……できるわけ……ないでしょ。あんな……ことが……あって……」
「そうか……そうだな」
あの剣幕《けんまく》だ。思い返しただけでぞっとする。いくら親友だといっても、あんだけ強く拒絶《きょぜつ》されちまったら、仲直りすんのは難《むずか》しいだろうさ。しかし桐乃《きりの》の泣いている原因というのは、この反応を見ても、あやせとの件に関係があるのはもう間違いない。
「でも……おまえ、あいつと喧嘩《けんか》した次の日、もうけろっとしてたじゃねーかよ……」
そう。だから俺《おれ》は、さっさと立ち直るなり、あやせと電話でもして仲直りするなり、なんらかの決着を付けたものとばかり思っていたんだ。
なのに新学期|始《はじ》まって早々、いったいどうしたってんだ? おまえ。
「だって……あのときは、陸上の選抜《せんばつ》強化合宿があったし……しょぼくれてらんないでしょ」
「……なんだ、そりゃ? ……そんなにその、合宿とやらが大切なもんなのか?」
「決まってるでしょ……あたしの他《ほか》にも、あの合宿|行《い》きたかった人はいっぱいいて、みんな頑張《がんば》ってて……なのに、そういう人たち押しのけて選ばれたあたしが。このあたしが、落ち込んで、だめになってるとか――有《あ》り得《え》ない、じゃん」
だから、落ち込んだり、しょぼくれたりすんのは、後回しにしたのだと。
「……少女|漫画《まんが》とかケータイ小説でも、男に振られたり、友達と喧嘩した主人公が、そのせいで部活の大会で上手《うま》くいかないとか、たまにあるけど……ふざけんな、って思うし。それはそれ、これはこれじゃんって、思うし。アンタもう死ねばって、思うし……。あたしは、絶対、そうはならないって、決めたの」
「そうかよ――」
当たり前のように言いやがって。なるほどな、やっぱウチの妹は、見た目ちゃらちゃらしてるくせに、異様《いよう》に硬くて、他人にも自分にもキツくて、クソ真面目《まじめ》なやつなんだってよ。
「あのあと、夏休み中、あやせと電話で話したりしたのか?」
「してない。電話は何度かかけたけど……でてくんなくて。……あたしも、忙《いそが》しかったし……」
「……それで……今日《きょう》、新学期で、久しぶりに顔|合《あ》わせたってことか……」
「……うん」
俺の妹は、さっさと立ち直って、けろっとしてたわけじゃなかった。
他《ほか》にやるべきことがあるから、その間、我慢《がまん》してただけ。
自分のやるべきことが終わって、新学期が始まって、あやせと顔合わせて。
絶交《ぜっこう》したことを、間近《まぢか》で直視《ちょくし》しちまって――。そこで、改めて落ち込むことにした[#「改めて落ち込むことにした」に傍点]、ってことか? だから俺の目には、立ち直ったはずなのに、ある日いきなりふさぎ込んでいるように見えたってことなのか?
――気に入らねえなあ。凄《すご》いとは思うが、どうにもこうにも気に入らねえ。なんで気に入らないのか、自分でも上手《うま》く説明できないところが、特に気にいらねえ。
おまえ、なんで……もっと……ああくそっ! 上手く言えねえけど……!
「……今日は? 今日は、あやせと、話せたのか? 少しくらいは」
桐乃は、俺の質問には答えず、唇《くちびる》を噛《か》んで俯《うつむ》いた。ふん、ダメだったんだな……。
俺《おれ》は、桐乃《きりの》の学校での友人関係なんて詳しくは知らない。でも、いつもたくさんの友達と一緒《いっしょ》にいるであろうこいつが、一人しょぼくれて帰ってきたところを見ると――。
ぎくしゃくしちまってんのかもな、色々《いろいろ》と。桐乃もあやせも、たぶん、女子グループの中核《ちゅうかく》にいるようなやつらなんだろうし、その二人が仲違《なかたが》いしたりしたら、取り巻きたちも距離《きょり》を置いちまうのかもしれない。
仕事でも、学校でも、ずっと自分を支えてくれた、とても大切な親友。
あやせは桐乃を、そう評していたし、桐乃もまた、かつて自慢《じまん》げに親友のことを誇っていた。
二人の絆《きずな》は、本当に、掛け替えのないものだったんだろうな。
だからこそ、こいつはいま、こんなにも憔悴《しょうすい》している。
……おかしいな、ムカつく。妙《みょう》〜に、イライラする……。どうしたってんだ?
「それで? それで――どうするつもりなんだ、おまえは」
「……どうする……って」
弱々しく呟《つぶや》く桐乃。さっき怒鳴《どな》った元気は、もう完全に使い果たしてしまったのだろうか。そんな妹の姿《すがた》が、ただひたすら気に食わない。かわいそうだなんて、かけらも思わなかった。
「決まってんだろ。あやせと仲直りするために、おまえはこれからどうするのか[#「これからどうするのか」に傍点]って話だ」
「……そ、そんな――こと……言ったって。どうしようも、ないじゃん」
なに言ってんだ? なにを言ってるんだ、こいつは……。
「……親友だったんじゃねーのかよ」
返事はこない。俺はさらに厳《きび》しい口調《くちょう》で言葉を重ねる。
「このまま仲違いしたままでいいのかよ――おまえは」
と、
「――うるさいっ!」
ぶんっ――。今度は返事ではなく反撃《はんげき》がきた。ガシャガシャンッ! 桐乃は苛立《いらだ》ちのままに腕《うで》を振り払い、テーブルに載《の》っていたもんをぶちまけやがったのだ。
クリスタルの灰皿《はいざら》がひっくり返り、コーラの瓶《びん》が勢いよくフローリングに転がった。
リビングの大気が急激《きゅうげき》に張りつめる。きわめて危うい、一触《いっしょく》即発《そくはつ》の数秒が過ぎた。
「……だから? だからなに? 大人《おとな》しく聞いてれば、さっきから勝手《かって》なことばかり言って……ほっといてよ! あんたには関係ないでしょっ!」
「……そうだな」
……そうなんだよな。言われなくても分かってるさ。今回の件、俺には、関係がない。
いつかみたいに人生《じんせい》相談されているわけでも、俺がしてやった諸々《もろもろ》が無駄《むだ》になろうとしているわけでもない。目の前で、妹と、妹の親友が、仲違いしただけ。
ただそれだけの、ぜんぜん関係のない世界の話なんだ。でも、でもな……。
「……気に入らねえんだよ」
「は?」
「気にいらねえって言ってんだよ! おまえのその、簡単《かんたん》に諦《あきら》めちまう態度が!」
関係ないってのに、俺《おれ》は、たまらなく怒《おこ》っていた。
「――親友なんだろ? 一番仲のいい友達なんだろ? そう言ってたじゃねえかよ自分でさあ! なのに、どうしてそんなに簡単に諦められんだよ! このまま仲違《なかたが》いしたままでいいわけねえじゃねーかよ!」
「だからアンタには関係ないっつってんの!」
「俺は三日で泣き入ったんだよ!」
怒りにまかせて喋《しゃべ》っているので、言葉がきちんとした順番《じゅんばん》で出てこない。
「何が!?」
「だから――だから……っ。一番|仲《なか》のいいやつと、関係がおかしくなって……会えなくて……焦って、イラついて……だけど、どうにもならなくて……」
なに言ってんだ俺は! なに……妹|相手《あいて》に、こっ恥《ぱ》ずかしい告白をしてるんだよ、俺はッ! クソッ! やっぱ最近の俺はおかしいぜ。
一旦《いったん》スイッチが入ると、バカになっちまって――!
「嗤《わら》えよ! ハハッ! そんなことで泣き入ってさあ、カッコ悪いだろうがてめえの兄貴《あにき》は! けど、けどな……誰《だれ》にだっているだろうよ、そういうふうに想《おも》えるやつが! 別れがたいやつが! 一緒《いっしょ》にいられなくなるなんて、考えたくもないやつがさあ!」
「………………」
「おまえにとっては――あの娘《こ》がそうだったんじゃ、ねぇのかよ?」
俺には、桐乃《きりの》とあやせの関係が、本当のところどうだったのかなんて、分からない。
桐乃とあやせの関係が、俺と麻奈実《まなみ》との関係と、同じものだとも思わない。
だけど――近いものじゃ、ないのか?
親友だとか、一番|仲《なか》のいい友達だとか、言ってたろう?
「……だとしたら、辛《つら》いだろう、おまえ。盆《ぼん》明けから、いままで、何日あったんだよ……? その間ずっと会えなくて、電話も出てもらえなくて……嫌《きら》われちまったのが、明らかでさ……」
俺だったら、無理だ。耐えきれない。想像《そうぞう》するのもイヤだ。ショックで死ぬかもしれん。
そしてだからこそ俺は、桐乃の諦めきった態度が気に食わなかったんだ。
「だってのに、なにあっさり諦めてんだよ! らしくないじゃねえか! いつものおまえだったらさあ、もっとあがくだろうが! 見苦《みぐる》しくても! 勝ち目がなくても! こんなところで落ち込んで、物に八《や》つ当《あ》たりして……それがおまえのやることか!? いまのおまえは、てめえの言ってた、負け犬そのものじゃねえか!」
「――はッ、なにマジ顔で語っちゃってんの?」
俺の話を聞いていた桐乃は、そこで、あからさまに冷めた[#「冷めた」に傍点]ため息を吐《つ》いた。
「バッカじゃん? ……つかね、ぶっちゃけウザいの、あんたら[#「あんたら」に傍点]のキモい話なんか聞きたくない。……三日|会《あ》えなかったくらいで泣いちゃうんなら、いっそ心中《しんじゅう》でもすればぁ?」
「……んだと? いまなんつったてめえ……?」
「ほーら、すぐムキになる! そういうところがキモいっつってんのッ!」
「っざけ……、っ!?」
衝動《しょうどう》的に、妹の胸ぐらを掴《つか》み上げようとしていた俺《おれ》は、目を見開いて動揺《どうよう》した。
引き寄せた妹の顔――その瞳《ひとみ》から、涙が溢《あふ》れ出てきていたからだ。
「放せ!」
バシッ! 桐乃《きりの》は俺《おれ》の手を強く振り払った。
「き、桐乃、おまえ――」
「黙《だま》れっ! さんざんほったらかしにしておいたくせに、いまさら兄貴面《あにきづら》すんな!」
――いま、こいつ、なんて言った? 妹が叫んだ言葉を吟味《ぎんみ》する前に、
バンッ! と、顔面をぶっとばされた。桐乃がクッションを拾い上げて、両手で思いっきり俺の顔面に叩《たた》き付けたのだ。「ゲホッ……」さほど痛くはないが、一瞬《いつしゅん》息ができなくなる。
立ち直る暇《ひま》さえなく、今度は下腹《かふく》部に衝撃《しょうげき》が来た。ずどんという音がするほど、強烈《きょうれつ》な前蹴《まえげ》りだ。たまらずその場に蹲《うずくま》る俺――その脳天《のうてん》に、桐乃は急《きゅう》角度でクッションを振り下ろす。
「ちょ……待……痛……」
「うるさいっ!」
バンッ!「あたしが……っ! あたしがどんな気持ちで夏休みを過ごしたと思ってんの!」
バンッ!「このままでいいわけないなんて……! そんなのあたしが一番分かってる!」
バンッ!「でもどうしようもないの! あたしはあやせに嫌《きら》われるようなことをしてて、やめるつもりがないんだからっ! もうどうしていいか分かんないの……っ!」
バンッ! バンッ! バンッ! バンッ!
何度《なんど》も、何度も、あふれる感情ごと、叩き付けてくる。
「くっ……」俺は無様《ぶざま》に蹲って、両|腕《うで》で頭を庇《かば》っている。妹の打撃《だげき》を受け続けながら、痛い――。痛い、と、思った。身体《からだ》も、心も。
「諦《あきら》めるな? 勝ち目がなくてもあがけ? あたしらしくない? ……っざけんな! これ以上どうしろってのよ! 簡単《かんたん》に言うなっ!」
桐乃は、泣きじゃくりながら俺をブッ叩き続けている。
「あたしが何もしてなかったとでも思ってんの!? あがいてないとでも思ってんの!? ――アンタは何も分かってない! 何も、何も分かってない! 分かってないのッ!」
殴《なぐ》られるたびに、桐乃の本心《ほんしん》が伝わってくるような気がした。
同時に、新たな怒《いか》りが湧《わ》き上がってきた。
――このバカ。どうしておまえは、そう素直じゃないんだよ。どんだけ捻《ひね》くれてんだよ。
やっぱり、辛《つら》かったんじゃねーか。強がって、自分の気持ち、隠《かく》してただけなんじゃねーか。
夏休み中、ずっと我慢《がまん》してただと? ふっざけやがって……!
そして俺《おれ》だ。どうして俺は、こんなにマヌケなんだ? 直接言葉にしてもらわなくちゃ、自分の妹のことも察してやれねえのかよ。親しいやつと仲違《なかたが》いしたら辛いなんて、てめえの身で思い知ったはずじゃねえか。なんも成長しちゃいねえ、どうしようもないやつだよ俺は。
ったく――
たった二人きりの兄妹だってのに、どうしてこんなに気持ちが擦《す》れ違うんだろうな。
「っ……っ〜〜〜〜…………チッ!」
桐乃《きりの》は両目をきつく閉じ、盛大に舌打《したう》ちをする。涙を怒《いか》りで吹き飛ばさんとしているかのように。
気が付けば攻撃《こうげき》がやんでいた。桐乃は、はあはあと息を荒げ、だらりとクッションを下ろし、ぎりっと唇《くちびる》を噛《か》み締《し》めている。嗚咽《おえつ》を漏《も》らさぬよう堪《こら》えているようだった。
やがて――聞き取れないほど小さな声で、ぽつりと、こう呟《つぶや》いた。
「………………人生《じんせい》、相談……まだ、ぜんぜん、終わってない……」
決して弱気を見せまいと、精一杯《せいいっぱい》強がりながら、それでも隠しきれない涙声《なみだこえ》で、
「――最後まで、責任、とってよぉ……」
それをさっさと言え、バカ。俺が、おまえの何だと思ってんだ。
想《おも》いは言葉にならなかった。身体《からだ》と心と――なにより金玉《きんたま》が痛かったからだ。
長くあとをひく鈍痛《どんつう》からようやく立ち直ったころ、リビングにいるのは俺|一人《ひとり》だけになっていた。この兄がカーペットで悶《もだ》え転がっているうちに、妹は部屋《へや》を出て行ってしまったらしい。
ちゅーかさあ、妹にリンチされる兄ってどうですか? なかなかいないっすよね?
「っふー……っふー……おーイテ……ひゅー……ひゅー……」
なでり、なでり、患部《かんぶ》を数度なでてから、そっと立ち上がる。……イテー、まだ痛い。
どしん、ソファに深《ふか》く腰掛《こしか》け、天上《てんじょう》を振り仰《あお》ぐ。
さて――やるかね。
自分でも驚《おどろ》くほどサッパリした気分で、そう思った。これから俺は、妹の抱《かか》える悩《なや》みをぶち壊《こわ》すために、またしても奔走《ほんそう》しなくちゃならない。しかもあの、どこか常軌《じょうき》を逸《いっ》した裏《うら》の顔を抱えた、あやせを相手取《あいてど》ってだ。しち面倒《めんどう》くさい、厄介《やっかい》ごとさ。俺だってできることなら、やりたくねえよ。他人事《ひとごと》のままにしておきたかったさ。
けどな、もう『俺にはカンケーねえ』とは言えない。
その台詞《せりふ》は、ついさっき、言うことができなくなっちまった。
人生相談――あいつは俺に、『夏の想い出を作れ』と言った。自分を不快にさせた責任をとれと――俺の恥《は》ずかしい秘密《ひみつ》を盾《たて》にとって、理不尽《りふじん》に命じやがったんだよ。
想《おも》い出ってのは、楽しいもんじゃねえといけねえ。後味《あとあじ》の悪いもんであっちゃいけねえ。
とすると俺《おれ》は、まだ人生《じんせい》相談を受けている途中《とちゅう》ってわけだ。やりかけで放り出すわけにはいかねえだろ。だから仕方がない。どうしようもない。やれやれだ。
ハッ。兄貴《あにき》ってのは、難儀《なんぎ》なもんだなー。俺はそう自嘲《じちょう》しつつ、携帯《けいたい》のボタンを押し込む。
液晶《えきしょう》には『新垣《あらがき》あやせ』の電話番号が表示《ひょうじ》されている。繰り返されるコール音。
――あやせが突然《とつぜん》豹変《ひょうへん》したのには、何か理由があったんじゃないか。
俺はそう考えている。だって、俺、いまだに信じられないんだよ。あんなにお人好《ひとよ》しで、優しくて、真面目《まじめ》で――いいやつだったあやせがさあ。いきなりブチキレて、別人みたいにおっかなくなって、親友だった桐乃《きりの》と絶交《ぜっこう》しちまうだなんて――。
目の前でエロ同人誌《どうじんし》をぶちまけたくらいでなあ? や、くらい[#「くらい」に傍点]じゃねえけど。くらいってほど軽くはないだろうけど――ちょっと解《げ》せないというのは、分かるだろう?
それに、さっき桐乃が断片《だんぺん》的に漏《も》らした台詞《せりふ》からも、そんなニュアンスが感じられた。
だから、きっと、何かあるんだよ。……何か、な。
十五回目のコールで、『はい』と相手が出た。
「よう、久しぶり。高坂《こうさか》京介《きょうすけ》だ」
『――なにかご用ですか?』あのときと同じ、かなりキツい声色《こわいろ》だ。
「……桐乃のことで話がある」
数秒の間をあけて、返事が来た。
『それ、桐乃に、頼まれたんですか?』
「そう思うか?」
『いえ』
否定。あいつがそういう性格をしちゃいないことは、この娘《こ》にも分かっているのだろう。
どちらからともなく、俺たちはため息を吐《つ》く。初めて会ったときには、まさかこの娘と、こんな気分で話をすることになろうとは思わなかった。
「ええっと……な」
さて、どこからどう切り出したもんか……。俺が迷っていると、相手《あいて》が先んじて言った。
『仲直りをしろという話なら、お断りします』
取り付く島もねえな……。こいつ、学校でも、桐乃に対してこんな感じだったんだろうか。
で、あいつはショックを受けちまった、と。
ふん、あいつもなあ……むやみに責任感が強くて、何かしらの理由があれば気合《きあい》で耐えられるみたいだが、その理由がなくなると、とたんに脆《もろ》くなっちまうからな。
親友からのこの態度は、きつかったろうよ。
「それは……あいつの趣味《しゅみ》を、認められないからか?」
『はい。ああいうものを持っている人とは、お付き合いできません。先日もそう言いました』
あやせは、きっぱりと断じ、こう続けた。
『逆に聞きますが、あなたはどう思っているんです? 妹がああいう趣味《しゅみ》を持っていることについて――いえ、聞くまでもないでしょうね。一緒《いっしょ》になって、あの場所にいたわけですから』
おい、まだ何も言ってねえよ。くそ、自己《じこ》完結してどんどん話を進めやがるなこの女。
そういえば初めて会ったときからそうだったよ、思い返してみりゃ。
『そう、ぜんぶあなたのせい。あなたが桐乃《きりの》を引き摺《ず》り込んだから……あんな……』
「いや、それは……」
勘違《かんちが》いだっての! なんて哀《かな》しい誤解《ごかい》なんだ……! 逆! 俺《おれ》が引き摺り込まれた方!
『言《い》い訳《わけ》しないでください。信じられない……どうしてそんな……桐乃はそういう娘《こ》じゃなかったのに! お兄《にい》さんだったら知ってるでしょう? すごい娘なんですよ、あの娘は! みんなに尊敬《そんけい》されて、頼られてて、わたしだって……』
「ちょ、ちょっと待て! 待ってくれって!」
『言い訳――』
「だああああっ!? 待てっつってんだろうが! 落ち着けよ! 人の話を聞け!」
強引《ごういん》に割り込んで叫び、ようやくなんとか、あやせの一方的な話を中断《ちゅうだん》させることに成功した。お得意の『言い訳しないでください』をさえぎられたあやせは、実に不満そうに言った。
『……なんですか?』
「おまえ、今日《きょう》、桐乃とどんな話をしたんだ?」
こりゃあ、事態《じたい》をハッキリさせる必要があるな。こいつ、もしかしてさあ……。
「それともあれか? ずっと無視してたとか……」
『いいえ、話しましたよ、少しだけ。無駄《むだ》でしたけどね』
口を挟むとまた叱《しか》られそうだったので、俺は大人《おとな》しく話の続きを待った。
情《なさ》けないって言うな。恐《こわ》いんだってば、マジで。
『私と桐乃は、親友だったんです。いまは違いますが、親友だったんですよ、お兄さん。ですから――仲直りをしたいと思うのは、またいつもどおりの私たちに戻りたいと思うのは、当たり前のことだとは思いませんか?』
そうだな。仲の良いやつと、仲違《なかたが》いしたら、辛《つら》いよ。仲直りしたい、いつもどおりの自分たちに戻りたいと思うのは、当たり前のことだ。最近この身で味わったばかりだからな……
よく、分かる。分かるし、だからこそ俺は、こうしておまえと話してるんだ。
あやせは俺の無言をどう取ったのか……先を続ける。
『……ですからね、私、言ったんです、桐乃に。「もう、ああいうの、やめよ?」って。「あなたと仲直りしたいから、嫌《きら》いになるのがいやだから、全部|捨《す》てて、忘れよ?」って……夏休み中、わたしもずっと悩《なや》んでて……自分の気持ちに折り合いが付けられなくて……でも、やっぱり桐乃のことが大好きだったから……これからも大好きでいたいって、思ったから……自分から、歩み寄ったんです』
そう語っている間、酷薄《こくはく》な雰囲気《ふんいき》はなりをひそめ、あやせは初めて会ったときと同じ、親友思いの優しい女の子に戻っていた。この娘《こ》のことを『いいやつ』だと思った俺《おれ》の感性《かんせい》は、やはり間違《まちが》っていなかったと思う。しかし――次の瞬間《しゅんかん》、がらりと空気が凍り付く。
『――そうしたら桐乃《きりの》、なんて言ったと思います?』
分かる。おそらく、一言一句違《いちごんいっくたが》わず暗唱《あんしょう》できるくらいには、明確に想像《そうぞう》できる。
たぶん、まずはバッサリと一言で――
『「絶対イヤ」って言ったんですよ! っ……信じられない……わたしがあんなに頼んだのに……! 仲直りしようって、お願いしたのに……っ!「絶対イヤ」って……ひどい……』
泣くなよ……。くそ、親父《おやじ》よりよっぽどやりにくいな。妹にしろ、こいつにしろ、女に泣かれたら男にはどうしようもない。俺は慰《なぐさ》めるように言った。
「それはさ……おまえと仲直りすんのがイヤって意味じゃないだろう?」
『同じことですよ! わたしよりも、あんな趣味《しゅみ》の方が大事だってことでしょう!? 親友だと思ってたのに……こんなのないですよ……!』
「――じゃあ、おまえはどうなんだ?」
俺は、あえて挑発《ちょうはつ》するような口調《くちょう》で聞いた。
「確かに桐乃は、人とは違う、あまり感心しない趣味を持っているかもしんねえよ。じゃあ、聞くが、おまえはそのくらいのことで桐乃とは付き合えないと斬《き》り捨てるわけか? 自分が理解できないものを好きだからって、親友を嫌《きら》いになっちまうわけか? なぁ、どうなんだよ」
『そのくらいのこと? そのくらいのことって言いました?』
「言ったさ。それがどうした。勘違《かんちが》いすんなよ――俺は桐乃の趣味を擁護《ようご》するつもりは、これっぽっちもねえ。だけど、それが親友をやめなくちゃならないほどのもんだとは、思えない」
『それはあなたも同じ趣味を持っているからでしょう?』
違う――と言っても、納得《なっとく》しちゃもらえないだろうな。それに実際《じっさい》俺は、妹や妹のオタク友達と交流したり、イベントに参加したりして、オタクへの偏見《へんけん》を薄めている。
俺とあやせで、オタク趣味への認識《にんしき》が違うのは、事実だ。
だとしても。何か他《ほか》に理由があるんじゃないかと思う。親友が変テコな趣味を持ってるというだけで、縁《えん》を切ってしまうなんて、俺には信じられないんだ。
「かもしれないな。だが俺に言わせれば、おまえだって、桐乃の趣味がどういうものなのか、分かっちゃいないだろう? よく知りもしないで嫌ってるわけだ」
俺は、かつて親父《おやじ》にしたものと同じ論旨《ろんし》で、あやせの説得《せっとく》を試みた。しかし――
「わたしの母は、PTAの会長を務めているんです」
あやせは斬り捨てるように言った。
「PTA?」
文脈《ぶんみゃく》を無視《むし》して意外《いがい》な単語《たんご》が出てきたので、俺《おれ》は首を傾《かし》げた。
それがいまの話と、どんな関係があるというのだろう?
「わたし、母が定期的に開催している会合≠ノ、お手伝いとして参加することがあるんです。……その会合で、テレビのコメンテーターもやっているジャーナリストの方が、講演《こうえん》をしてくださったことがあって――。……その方がおっしゃるには、日本は世界でも有数《ゆうすう》の児童ポルノ供給国《きょうきゅうこく》で、特に秋葉原《あきはばら》には、そういったいかがわしいものが蔓延《はびこ》っているそうですね。とても深刻《しんこく》な問題だと思います……。この前|衆議院《しゅうぎいん》でも『美少女アダルトアニメ及《およ》びゲームの製造・販売を規制《きせい》する法律の制定《せいてい》に関する請願《せいがん》』というものが提出されたとその方にうかがいました」
「……アダルト……規制……請願?」
なんだ……。雲行《くもゆ》きがあやしくなってきやがったぞ……。
「はい。要約《ようやく》すると、アダルトゲームやアニメなどを規制しようというものです。これはもともと参議院《さんぎいん》議員らが提出した請願でして――ああいったものをやっていると、しらずしらずのうちに心を破壊《はかい》され、人間性を失ってしまうんだそうです」
あやせは整然《せいぜん》と話しながらも、少しずつ感情を昂《たか》ぶらせていく。
「会合で配られた資料に、幾《いく》つかの製品が載っていました。小さな女の子を強姦《ごうかん》したり、監禁《かんきん》したり、痴漢《ちかん》をして楽しんだりする、漫画本《まんがほん》や、パソコンゲームなどです。……そういうのを見て、遊んで、楽しめる人がいるなんて、わたしには信じられません。……本当なら思い出したくもなかったんですけど……きっと、あのとき桐乃《きりの》が持っていたものって、全部そういうものなんですよね? そうでしょう?」
怒濤《どとう》のような糾弾《きゅうだん》に、俺はどう答えていいか分からなかった。
PTAって、そんなこともやってるのか。ていうか請願ってなんだよ……? 規制って……?
益体《やくたい》もない感想や疑問しか出てこない。
『そんなおぞましい趣味《しゅみ》を――趣味と呼ぶのも穢《けが》らわしいものですが――親友が持っていたと知ったら。……やめさせるのが当然じゃないんですか? 許容《きょよう》して、認めるのが友情だと言えるんですか? わたしはそうは思いませんし、どうしてもやめないというのであれば、そんな人とはお付き合いできない。たとえ親友でもです』
たぶん数ヶ月前の俺なら、なにも疑問に思うことなく、立派《りっぱ》な考えだと称賛《しょうさん》できただろう。
いや、いまだって、あやせの論旨《ろんし》はクソ真面目《まじめ》な正論《せいろん》――に聞こえるのだが……。
俺は、首を捻《ひね》ってしまう。そこまで言わなくてもよくね? と思ってしまう。
それってもう俺が、オタクに片足《かたあし》突っ込んでるからか? 俺の考えがおかしいのか?
内容が内容だし、女子中学生相手に反論すると、凄《すご》く変態《へんたい》っぽい台詞《せりふ》になってしまいそうでイヤなのだが……つい、口を衝《つ》いて本音《ほんね》が出てきてしまった。
「いや、そりゃ、おまえからしたら、おぞましいし、穢らわしいんだろうし――そう思うんだって言われちゃったら、そうかと言うしかないんだけどさあ。でも、そこまで過剰《かじょう》反応することないんじゃないかな。だってさ……たかが本、たかがゲームだろう?」
『そのたかがゲームに影響《えいきょう》されて、犯罪《はんざい》者になった人がいるとしてもですか!? 夏休み前、ニュースでやっていたでしょう、ええと……シスカリ殺人|未遂《みすい》事件≠チて!』
「し、シスカリ……殺人未遂事件?」
『はい。知らないんですか? 少し――待ってください。確かここに……』
電話の向こう側で、がたがたと音が聞こえた。例の資料とやらを用意したらしい。
『――女の子を感電《かんでん》させて殺そうとした男が、捕まった事件ですよ。その男はいわゆるオタクと呼ばれている犯罪者|予備軍《よびぐん》≠ナ「真妹大殲《しんいもうとたいせん》シスカリプス」という18禁《きん》ゲームに影響《えいきょう》されて、そういうことをしてしまったそうです。ゲームキャラに憧《あこが》れて真似《まね》をしたくなったと自供《じきょう》していて……その男の部屋《へや》からも、いかがわしいゲームや本が、たくさん押収《おうしゅう》されたそうです』
あやせは、怒《いか》りのままに、糾弾《きゅうだん》の言葉を叩《たた》き付けてくる。
『桐乃《きりの》があのとき落とした穢《けが》わしい本も、この資料に載《の》っています!「シスカリプス」って書いてありましたよね!? 桐乃も、犯人と同じゲーム、持ってるんじゃないですか!?』
なるほど――なるほど。なるほどな……。すげえよく分かったよ。おまえが突然《とつぜん》ヒスを起こした理由も、あの同人誌《どうじんし》読んで、真《ま》っ青《さお》になってた理由もぜんぶ得心《とくしん》がいった。
つまりこいつ――マジで、桐乃の心配してくれてるんだな。
大切な親友が、犯罪者予備軍になってしまったかもしれない。このままじゃ、心が壊《こわ》れて人間性を失ってしまうかもしれない。
……どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう――!
そういうことだ。あやせは悲痛《ひつう》な泣き声で言いはなった。
『……いいですか? あなたがどう取り繕《つくろ》おうと……ああいったゲームや漫画《まんが》や、それに類《るい》する諸々《もろもろ》は、この世にあってはいけないものなんです! 欲しがる人も、作る人も、みんな同罪《どうざい》の犯罪者予備軍! きちんと規制して、厳《きび》しく取り締《し》まるべきものなんです! そして断じて、桐乃が関わっていいものじゃない! わたしの桐乃を返して! 返してくださいよッ!』
ピッ。
と、一方的に叩《たた》き切られてしまった。勇気を振り絞《しぼ》ってリダイヤルしてみるが、あやせが電話に出てくれることはもう二度となかった。
「……なんてこった」
重々しく息を吐《は》く。
難《むずか》しいとは思っていたが、想像《そうぞう》していたよりもさらに難儀《なんぎ》な話かもしれんな。
あやせは単に、女子中学生|特有《とくゆう》の生理的|嫌悪《けんお》感と、偏見《へんけん》だけでオタクを嫌悪《けんお》しているわけじゃなかった。桐乃のために、あいつの趣味《しゅみ》を否定し、やめさせようとしている。そこまではウチの親父《おやじ》と一緒《いっしょ》だ。しかしあやせはさらに、実際《じっさい》の事例《じれい》を持ち出して、自分の意見――オタクへの嫌悪《けんお》を強化しているようだ。手強《てごわ》い相手だといえた。おそらくは親父よりも。
生中《なまなか》なことでは意見を曲げさせることはできないだろう。
「……シスカリ殺人|未遂《みすい》事件≠ヒ……まさかこんなところで、その名前を聞くとはな」
いまにして思えば、桐乃《きりの》があそこまで消沈《しょうちん》していたのは、あやせのあの態度を実際《じっさい》に目にしていたからなのかもしれない。こりゃあ確かに、どうしようもないと嘆《なげ》きたくもなるわ。
「…………ふむ」
ただ、どうなんだ? あやせのまくしたてた論旨《ろんし》は? 聞いた限りでは(本心《ほんしん》からの心配が籠《こ》もった一方的な口調《くちょう》のせいもあるだろうが)、十分に説得《せっとく》力を感じたし、論拠《ろんきょ》となる事例《じれい》もあるらしい。でも……なんか……素直に肯定《こうてい》できない部分があるんだよな。
実際に、桐乃や、桐乃のオタク友達と接して、イベントにも参加して……仲間|意識《いしき》が芽生《めば》えたせいだろうか。それとも俺《おれ》自身が犯罪《はんざい》の原因になったという『シスカリ』を実際にプレイして、練習して、一応なりともクリアして――多少、好意《こうい》的な感情を持っているせいだろうか。
それは分からないが、とにかく納得《なっとく》できない。
俺だって、ゲームにしろ、漫画《まんが》にしろ、ネットにしろ、悪影響《あくえいきょう》がないとは言わないよ。貴重《きちょう》な時間はバンバン溶けるし、いい歳《とし》こいて美少女アニメ見てるのがカッコいいわきゃねーし、エロゲーのことを誇らしげに語れるのは限られたコミュニティの中だけだ。
外に出て、一般的な常識の中で、胸を張れるようなものじゃない。
だからこそ、かつて桐乃も、自分の趣味《しゅみ》を語れる相手がいなくて悩《なや》んでいたんだからな。
けど、悪影響があるっつってもさあ。
それで善人《ぜんにん》が悪人《あくにん》に変わっちまったり、本来《ほんらい》犯罪を起こさなかったであろう人に犯罪を起こさせちまったりするほど、オタク趣味の影響力ってたいそうなもんなのかよ?
たとえば……人を殺す漫画見て、残虐《ざんぎゃく》なゲームやって、人が殺したくなるんだとしてもさ。
それで本当に人を殺しちゃうのは、そいつがそもそもバカだからじゃねえの? だって我慢《がまん》するだろう、普通の人間だったらさ。ゲーム云々《うんぬん》とかじゃなくて、そいつ自身の人格に問題があったんじゃねえの?
仮にゲームに影響されて犯罪に走るようなやつがいたとして。そいつはたとえゲームに影響されなくたって、遠からず他《ほか》の理由で犯罪に手を出していたろうよ。なんといってもゲームなんぞより、現実の方がずっと、人間への悪影響は強いからだ。
現実よりもリアルで残酷《ざんこく》なゲームなんてあるわきゃない。
そんなもん、考えるまでもないと思うんだがな。
だから実例があるって言われても、ピンとこねえってのが本音《ほんね》だった。
ただまあ、これは俺の個人的な意見であって、それ以上のもんじゃない。
これであやせを説得するのは、不可能だろう。
「……どうすっかな」
桐乃もあやせも、お互《たが》いに仲直りしたいと思っている。
だけど桐乃《きりの》は自分の趣味《しゅみ》を捨てるつもりは断じてないし、あやせはあやせで、桐乃の趣味を認めるつもりは断じてない。平行線だ。
で――俺《おれ》は、あやせと桐乃を元どおりとはいかないまでも、仲直りさせてやりたいと思っている。あんなクソ妹のことなんて心底《しんそこ》どうでもいいのだが。
人生《じんせい》相談――一度始めたことだからな、やるだけのことはやるさ。
それに俺は、自分の身近で、親友同士が仲違《なかたが》いするというのは、実に気に食わないし、我慢《がまん》ならないんだ。その辛《つら》さを、想像《そうぞう》できちまうから。できることなら、なんとかしたい。
妹のことを、抜きにしてもな。
第一――あの女はオタクのことを犯罪者《はんざいしゃ》予備軍《よびぐん》≠ニか言いやがった。
そこには俺や桐乃のみならず、黒猫《くろねこ》や沙織《さおり》も含まれているはずだった。
別に、オタクなんか、どんなに悪《あ》し様《ざま》に罵《ののし》られようが、俺の知ったこっちゃないけどな……。
友達を悪く言われて、黙《だま》ってられるか。
当然だろう?
それからしばらく、俺は自分の部屋《へや》で考えていた。
どうやって、あいつらを仲直りさせてやろう。どうやって俺の友達を貶《おとし》めた台詞《せりふ》を、撤回《てっかい》させてやろう。俺に何ができるのか、できないのか。
「…………」
やるべきこと。できそうなことは幾つかあるな。
まず桐乃からノーパソを借りて、インターネットで調べものをする。
そして、この件について……誰《だれ》かの力を借りる……。
いきなり他力《たりき》本願《ほんがん》かよと笑われてしまうかもしれないが、俺は自分の力が決して大きくないことをよく知っている。ごく普通の、十七|歳《さい》の、男子高校生。それが俺だ。
俺よりもっと頼りになるやつの力が借りられるなら、それでよりよく目的が叶《かな》えられるなら、それでいい。カッコ悪くても、情《なさ》けなくても、考えられうる手は、すべて打っておく。
自分にできることをやる。力を尽くすってのは、そういうことだと思うんだ。
とはいえ、誰に相談すべきだろうか……。一番こころよく話を聞いてくれそうで、こういった件に詳しそうなヤツといえば、沙織なんだが……。これは保留《ほりゅう》にしておきたい。黒猫についても同様だ。力を尽くすと言っておいてなんだけど……アイツらには、この件で心配を掛けたくないんだよ。もう十分すぎるほど、協力してもらってさ……その上こっちのヘマの尻《しり》ぬぐいまで、させられねえだろ?
まぁ、沙織ならきっと『礼には及びません』と言ってくれるのだろうが――
だからこそ、沙織や黒猫に頼るのは、本当に、最後の最後にしておきたいんだ。
じゃあ桐乃はといえば、あいつはあいつで自分にできることをやっているはずだ。力を尽くしているはずだ。それであのザマだったのだから、少なくともいまの段階で俺《おれ》と相談しても、ろくな案は浮かぶまい。むしろ、また喧嘩《けんか》になるのがオチだ。
と……すると、だ。残る候補は……――
「…………………………………………フ〜」
俺は一分ほど沈思《ちんし》していたが、やがてきわめて複雑な心境《しんきょう》で、目を細めた。
――いる。たった一人……いるっちゃいる、な。
真剣に相談に乗ってくれそうで、シスカリ殺人|未遂《みすい》事件≠ニかPTAの会合=A美少女アダルト規制≠ニいったことにめっぽう詳しそうで、死ぬほど口が固くて、有効なアドバイスが期待できそうな人……。
だ、だが……この人は。この人はなぁ………………ぐうう……。有《あ》り得《え》ないだろ……?
俺はうってつけの人材に思い当たっていながら、決心が付かず……
眉間《みけん》に深い縦《たて》ジワを刻み、しばし唸《うな》っていた。
「よ、よし……」
やがて覚悟《かくご》を決めた俺は、真《ま》っ青《さお》な顔色で、ベッドに倒れ込んだ。
ちくしょー。怪我《けが》なんてしてないのに、頬《ほお》がズキズキしてきやがるぜ……。
その日の夜。俺は頃合《ころあ》いを見計らって、リビングへと足を運んだ。
リビングでは親父《おやじ》がソファに腰掛《こしか》けて、恒例《こうれい》の晩酌《ばんしゃく》を楽しんでいるところである。都合《つごう》良く、お袋《ふくろ》の姿はない。風呂《ふろ》にでも入っているのだろうか。
「お、親父……」
「……京介《きょうすけ》か。……どうした?」
俺の親父は、メチャクチャおっかない極道面《ごくどうづら》をしており、動物で喩《たと》えるとゴリラに似《に》ている。
つまりゴツい。でもって警察《けいさつ》に勤《つと》めている。桐乃《きりの》とよく似た鋭くキツい目付きで、いつも罪人《ざいにん》の心を震え上がらせているのだろう。
夏休み前――俺はこの親父と対決した。桐乃の趣味《しゅみ》を認めさせるためにだ。
いまにしてみれば、よくぞあんな恐ろしい真似《まね》ができたもんだと思う。奇跡《きせき》的に上手《うま》くいったからいいようなものの、もしも失敗していたら、いまごろ丸坊主《まるぼうず》にされた挙《あ》げ句《く》、寺にでも放り込まれていたかもしれない。もっとぶっちゃけると、ほとんどお咎《とが》めなしでケリがついたのが不思議《ふしぎ》でさえある。
で――。実は俺、あれから親父と、ほとんどクチを利いてないんだよね。
親父は一度口にした約束は守る人だから、いまさら例の件についてごちゃごちゃ言ってくるわけはないんだが、あれ以来、妙《みょう》に気まずくてな。あんときゃ、我《われ》ながらすんげー啖呵《たんか》切っちまったし、アレについてどう思われてんのかなァとか、さ。……分かるだろ?
ええと、それでな。どうして俺が、そんな気まずい引け目を感じているくせに、わざわざ親父に会いに来たのかっつーとだな……。凄《すご》く言い辛《づら》いんだけど……。
「京介《きょうすけ》。どうした、と聞いたんだが? 話があるんじゃないのか?」
「あ、ああ……そう、そうなんだ……」
「ふむ……進路の件か?」
「いや……」
ごめん、違うんだ、親父《おやじ》。……ほんとにごめんな? すっげー悪いと思ってるよ。
聞いてくれ――
「相談があるんだ……。お、おもに、18禁《きん》ゲームの件について」
「…………………………………………………………………………………………」
だ、黙《だま》っちゃった……。お、親父?
「……フ……俺《おれ》も耳が遠くなったものだ。……すまんが京介、もう一度|言《い》ってくれ」
親父は珍《めずら》しく上機嫌《じょうきげん》な様子《ようす》で苦笑《くしょう》し、おちょこの酒を、くい、と口に含んだ。
桐乃《きりの》は一応、18禁《きん》持ってないことになってるから……俺のことに変換して話さなくちゃな。
え、えーと……どう言ったらいいもんかね。なるべく迂遠《うえん》に、ソフトに……
「親父……実は俺……この前、18禁のグッズを路上《ろじょう》でぶちまけちゃってさあ。仲良くしてた女子中学生に嫌《きら》われちゃったんだけど、どうしたらいいかな?」
「ブッ――!? ゲフッゲフッゴフッゲフッ……!?」
顔面に思いっきり酒ぶっかけられた。「ガッガッゴッガフ……!」喘息《ぜんそく》の発作《ほっさ》みたいにもだえ苦しんでいる親父。片手で胸を鷲掴《わしづか》みにし、もう一方の手は闇雲《やみくも》に宙を掻《か》いている。
し、しまった! 我ながらいまの台詞《せりふ》はねえ! 焦ってストレートに言っちゃったよ!
「だ、大丈夫《だいじょうぶ》か親父……! ほら水だ、飲んでくれ……!」
水を汲《く》んだコップを差し出すと、親父はそれを受け取るや、ごくごくと飲み干《ほ》した。
「ブハア――――ハア、ハア、ハア……」
その場で立ち上がり、汗をびっしょり掻いて、肩を上下させている。
テーブルにコップを、カタンッと強く置いて、
「このバカ息子《むすこ》が!! よりにもよって親に何を相談するつもりだ貴様《きさま》!?」
大絶叫《だいぜっきょう》! びりびりと震える大気の中、俺は両手を前に突きだして、弁解《べんかい》するように言う。
「いや、イベントでエロ漫画《まんが》を大量に買った帰りに、ばったり会っちゃったんだよね」
「誰《だれ》が詳細《しょうさい》を話せと言った!『何を相談するつもりだ』というのはそういう意味ではない!」
「わ、分かってるよ……」
……おお……親父……キレながらも的確《てきかく》に突っ込みを入れてきやがるな……。
「では何だというのだ! その件はもう一度終わった話だろう! ここで蒸《む》し返す必要があったというのなら、その理由を言ってみろ!」
「か、確認《かくにん》したいことがあったんだよ! 親父《おやじ》に! 頼む――聞いてくれ! お願いだ! 俺《おれ》たちの力になってくれ!」
俺はその場に土下座《どげざ》して頼み込んだ。
「……なんだと?」
そう――。俺が、こんな無茶苦茶《むちゃくちゃ》な行動にでたのには、きちんと理由がある。
あやせをどうにか説得《せっとく》するために。
ぶっ飛ばされてでも、親父の力を借りる必要があったんだ。そして。
「……………………言ってみろ」
「ああ。……こういう話があるんだけど、知ってるか――」
親父はもの凄《すご》く嫌《いや》そうな顔をしつつも、俺の話を最後まで聞いてくれたのである。
翌日《よくじつ》の放課後《ほうかご》。
「それで? 私にお話って、なんでしょう」
俺は、桐乃《きりの》が通う中学校のそばで、新垣《あらがき》あやせと対峙《たいじ》していた。
学校帰りのあやせは、いつかと同じ制服|姿《すがた》で、力を込めて鞄《かばん》を握り締《し》めていた。
まるでこれから決闘《けっとう》にでも挑《いど》まんとしているかのような、眼《め》。
明らかに警戒《けいかい》されている。仕方がないとはいえ、なかなかキツい状況ではあるな。
俺たちが向かい合っているのは、小さな児童《じどう》公園だ。幼いガキのころ、麻奈実《まなみ》と一緒《いっしょ》によく遊んだ場所なのだが、いまはもう、滑《すべ》り台も、ジャングルジムも、ブランコまで撤去《てつきょ》されて、砂場くらいしか残っていない。遊ぶ子供さえ一人もいない、たまらなく物寂《ものさび》しい場所だ。
だが、これからする話を思えば、むしろ都合《つごう》がいい。
俺はこの場所に、あやせをメールで呼び出した。電話にでてくれないので、無視《むし》されることを覚悟《かくご》でな。そして、いまに至るってわけだ。
「決まってるだろう。桐乃のことだよ」
「その話なら、もう終わりました」
ぴしゃりと言い放つあやせ。
「お話がそれだけなら、これで失礼します」
「待て待て、待てって。どうしておまえはそう、結論を急ぐんだよっ。少しは俺の話も聞いてくれって」
「聞く必要がありますか? わたしの考えと結論は、昨日《きのう》電話でお話ししたとおりです。……わたしは、できることなら、桐乃をどうにかして更生《こうせい》させたいと思っています。あんな趣味《しゅみ》はやめさせて、正気に戻ってもらいたいと思っています。なのに――」
冷然《れいぜん》と口上《こうじょう》を述べていたあやせは、そこで、ぎり、と唇《くちびる》を噛《か》んだ。
その先は聞かなくとも分かった。桐乃は、自分の趣味を絶対に捨てない。世間体《せけんてい》が脅《おびや》かされようと、親に糾弾《きゅうだん》されようと、ずっと変わらず好きでいる――。
その頑迷《がんめい》なまでのバカげた決意を、かつて俺《おれ》は、間近《まぢか》で直視《ちょくし》したからだ。
「どうして、あんな……」
それは――あやせには理解できないことなんだろうな。
どうして親友の自分が、こんなにも真摯《しんし》に忠告《ちゅうこく》しているのに、桐乃《きりの》は聞き入れてくれないんだろう? 絶対|間違《まちが》ったことは言っていないはずなのに。あんな趣味《しゅみ》は穢《けが》らわしくて、おぞましくて、桐乃みたいな娘《こ》が近付いていいものじゃないのに。
……まさか、親友だと思っていたのは、わたしだけだったの――?
……そう思っちまうのも無理はないさ。
この娘は、俺の親父《おやじ》以上に強くオタクを嫌悪《けんお》している。世間《せけん》の一方的なオタクバッシングを鵜呑《うの》みにして、強烈《きょうれつ》な偏見《へんけん》を抱《いだ》いてしまっている。もちろんそういったものの中には正鵠《せいこく》を射ているものもあるのだろうし。あやせの中に、偏見|抜《ぬ》きで、オタクを生理的に受け付けない部分もあるのかもしれない。見るからに潔癖《けっぺき》そうだもんな、この娘。
『オタクをもっとも毛嫌《けぎら》いしている人種って、なんだと思う?』という桐乃の台詞《せりふ》を思い出した。答えは女子中学生――あいつは、自分の親友を例に挙げて、話していたのかもしれない。
とても真面目《まじめ》で、純粋《じゅんすい》で、優しく、素直で、ちょっぴり思い込みが激《はげ》しい――。
俺があやせに下していた評価《ひょうか》は、間違《まちが》っちゃいなかった。
こいつは決して、悪いやつじゃない。むしろ、すげえいいやつなんだと思う。
……俺のためにここまで怒《おこ》ってくれる友達が、果たして何人いるだろうか?
「……お兄《にい》さん。お願いがあるんですけど」
「……なんだ?」
「お兄さんからも言ってくれませんか。桐乃の趣味をやめさせたいんです」
俺は、現状、あやせにオタクだと誤解《ごかい》されているわけで。この娘は、俺のことをおぞましくて穢《けが》らわしい、心の壊れた犯罪者《はんざいしゃ》予備軍《よびぐん》のように思っているはずだ。なのに、
「どうか、お願いします。もう――わたしの言葉じゃ、届かない、から……」
それほど嫌っている相手《あいて》に、こいつは、こうして真摯《しんし》に頭を下げることができる。
これを俺に頼むために、この娘はここに現れたのかもしれないな。
一番大切な友達を、取り戻したいから。悪い道から、救い出してあげたいから。
……これじゃ、まるでこっちが悪者みたいじゃねーかよ。違うとは言いきれないけどさ。
「だめだ。それはできない」
「どうしても、ですか?」
お辞儀《じぎ》をしたまま、問うてくるあやせ。
「ああ、どうしてもだ」
俺が言ったところで、桐乃の趣味をやめさせられるとは思えないし――
そもそも俺《おれ》は、そんな話をするために、ここに来たわけじゃない。
俺にすげなく断られたあやせは、すぅっと顔を上げる。
その瞳《ひとみ》から、光彩《こうさい》が消えていくように見えたのは気のせいだろうか。
「――桐乃《きりの》の世間|体《てい》、壊《こわ》しちゃいますよ? ……と言っても?」
「………………おまえは、そんなことしねえだろ」
「どうしてあなたに、そんなことが分かるんです?」
「桐乃がそう言っていたからだ」
俺は、これ以上ない答えを言ってやった。見開いたあやせの瞳《ひとみ》に、光彩が戻った気がした。
さて――もう、いい頃合《ころあ》いだろう。状況の再|確認《かくにん》はおしまいにして、本題《ほんだい》に入ろうぜ。
「なぁ……あやせ、簡潔《かんけつ》に要旨《ようし》を並べると、おまえの言い分はこうだ。『桐乃の趣味《しゅみ》は穢《けが》らわしくておぞましくて、あってはならないものだ』『なのに桐乃は、自分の趣味を捨てようとはしない』『だから、そんなやつとは付き合えない。仲直りもできない』――そうだな?」
「……ええ。それが、なんです?」
ここで簡単《かんたん》な問題だ。この状況から、二人を仲直りさせるには、どうすればいいか?
一つは、あやせが主張するように『桐乃にオタクをやめさせればいい』だよな。
しかし当然ながらその方法を、俺は選ばない。とすると採《と》れる方法は、限られてくる。
なんだと思う? ……まぁ見てな。一応《いちおう》、幾《いく》つか策はあるんだ。切り札も含めてな。
そのために今日、学校も休んじまったし。
正直、それで上手《うま》くいくかどうかは分からんが。やるだけやってみるさ。
「俺、電話でおまえに色々《いろいろ》言われてさ……調べたんだよ」
「調べた……ですって?」
「ああ。シスカリ殺人|未遂《みすい》事件のこととか、そのニュースでオタクのことを色々言っていたコメンテーターのこととか、おまえが参加したPTAの会合のこととか、日本の児童《じどう》ポルノ云々《うんぬん》のこととか……一《ひと》とおりさ」
……昨日《きのう》、電話で話したとき、色々な事例《じれい》を織り交ぜながら糾弾《きゅうだん》してくるあやせに、俺はまったく太刀打《たちう》ちできなかった。
だから――この前、似《に》たような論旨《ろんし》でオタク趣味を否定していた親父《おやじ》に、知恵《ちえ》を借りにいったんだよ。
『それを、よりにもよって俺に相談するのか……? その度胸《どきょう》だけは大した物だな』
そしたら親父が、イヤーな顔をしつつも、思いのほか詳しく説明してくれてな……。
『だが偶然だな……その事件については――知らないこともない。美少女アダルトアニメ云々の請願《せいがん》についてもそうだ。少なくともその娘《こ》よりは、俺の方が事情に詳しいだろう。……ふん、むろん、偶然その記事が目にとまったせいで、知っていただけだがな……』
『母親がPTAの会長をやっているという話だが……おそらく新垣《あらがき》議員の奥さんのことだろう。とすると、その娘《こ》が参加した会合とやらにも、偶然《ぐうぜん》心当たりがある。確か……』
『その資料とやら……実は俺《おれ》も持りている。……勘違《かんちが》いするな。先月、偶然、署《しょ》の同僚《どうりょう》から譲ってもらっただけだ』
『そのジャーナリストのことはよく知っている。偶然、最近、調べたことがあってな』
そんな偶然があるかっ! 突っ込んだら殺されそうなので、俺は必死に我慢《がまん》したさ。
以前《いぜん》俺が叩《たた》き付けた、何も知らないくせに、適当なこと言ってんじゃねえ――という言葉を、親父《おやじ》なりに真摯《しんし》に受け取ってくれていたのだろう。
だから色々《いろいろ》とオタクのことを調べて、テレビなんかで取りざたされている事例《じれい》を調べて、子供たちが護《まも》ろうとしたものが何なのか、理解しようとしてくれたんだろうな。
スッゲーだろう? ウチの親父|殿《どの》は。『勝手《かって》にしろ!』とか、放り出すようなことを言っておいて、その裏《うら》ではこれだ。ちまちまオタクのことを勉強してくれていた。
俺たちのために。本当に危ないものから、護《まも》るために。――どんだけ偉大《いだい》なんだよ。
まぁ万《まん》が一《いち》、親父までエロゲーを始めたら、俺は家出して田村《たむら》さん家《ち》の子供になるけどな。
「――おまえが言ってた資料って、これのことだろ」
「それが……なにか?」
俺は、鞄《かばん》から、親父が用意してくれた資料を取り出して、あやせに突き付けた。
「結論から言うぜ。ここに書かれていることはでたらめだ。オタク趣味《しゅみ》と犯罪《はんざい》との間に、おまえが言ったような、明確な因果《いんが》関係は認められてないんだそうだ。いまのところはな」
「え……?」
あやせは一瞬、意味を計りかねたようにきょとんとし、しかし即座に表情を引き締めた。
「で、でも! テレビのニュースでは……! それに、議員さんだって……!」
「例の衆議院《しゅうぎいん》に提出された請願《せいがん》≠ノしたって、根拠《こんきょ》薄弱《はくじゃく》なんだ。エロゲーやってると、しらずしらずのうちに心を破壊《はかい》され、人間性を失ってしまう――だったか? そんなもんどうして分かるんだよって話だし、そもそもゲームやったくらいで心が壊《こわ》れちゃうようなやつが、まともな人間性を持ってるわけねえだろ。よく考えろよ自分の頭でさあ」
「か、考えてます! いまのはあなたの個人的な意見でしょう!?」
「そうだな。だけど、こういう意見を持っているのは俺だけじゃない。議員の中にも慎重論《しんちょうろん》を唱える人はいる。『児童ポルノ禁止法改正に当たり、拙速《せつそく》を避け、極めて慎重な取り扱いを求めることに関する請願』ってのが、数百人の署名付《しょめいつ》きで提出されているんだ。……当たり前の話だが、色々な意見があるってことだよ。そもそも議会ってのはそういうのを論議《ろんぎ》する場所なんだからな。衆議院に提出されたからって、請願≠フ内容が絶対に正しいとは限らないんだ。だからいまここでこいつを持ち出しても、オタク趣味を否定する材料にはならねえよ」
「く……!」
あやせは、ぎり、と歯を食いしばり、叫んだ。
「でも、実際に犯罪者《はんざいしゃ》になった人がいるんですよ!? コメンテーターの方だって、そうおっしゃっていたじゃありませんか!」
「シスカリ殺人|未遂《みすい》事件≠ノ関しては、でっちあげだったんだよ。犯人がシスカリの他、18禁《きん》ゲームをたくさん持っていたのは事実だけど、それが原因で犯行に走ったってのは、ウソっぱちだ。『ゲームキャラの真似《まね》をして、女の子を感電死《かんでんし》させようとした』――確かに、初め犯人はそう言ってたらしいけどな、あとで撤回《てっかい》したんだってよ。『女の子に乱暴《らんぼう》したかったから、改造《かいぞう》スタンガンをちらつかせたんだ』って――どっちにしろゲスな事件だけどな。ことさら動機《どうき》をクローズアップしたり、ゲームの影響|云々《うんぬん》を論じる必要はどこにもなかったんだ。ただし、最初の報道の時点では、『ゲームの影響で』『人を殺そうとした』――そういう連想がしやすい事件ではあった[#「そういう連想がしやすい事件ではあった」に傍点]」
一息。
「そんでマスコミ連中《れんちゅう》は、おまえも知ってのとおりシスカリ殺人未遂事件≠ネんて、仰々《ぎょうぎょう》しく飾り立てて、大々《だいだい》的に報道したわけだ。有名なコメンテーターがここぞとばかりにオタク叩《たた》いて、犯人の部屋にあるエロゲーの箱とか、秋葉原《あきはばら》の映像《えいぞう》バシバシ映してな。その挙《あ》げ句《く》『やっぱ違ってたゴメンね』とは言いにくいだろうよ。だからなのかはしらねーけど、とにかく、『やっぱアレ、ゲームのせいじゃなかった』ってニュースは、ほとんど報道されなかったのさ」
「そんな……でも、あの人は、お母《かあ》さんも凄《すご》くお世話《せわ》になってる方だって――」
あやせは、俺《おれ》が渡してやった資料を必死になって捲《めく》っている。
まるで、俺の言動《げんどう》を否定する文面を見つけ出そうとしているかのように。
「別にそいつの言ってること全部が全部|嘘《うそ》っぱちだとは言わないよ。オタクバッシングの報道全部がでっちあげだとも言わねえよ。でも、少なくとも今回のコレに関しては、そのジャーナリストが自分の主張を正当なものとして伝えるために、事件を都合《つごう》良く利用しただけなんだ。ウソだと思うなら、自分で調べてみればいい」
「………………」
あやせは明らかに動揺《どうよう》した様子《ようす》で、唇《くちびる》を噛《か》んでいる。ぶつぶつ「ウソ……ウソだったウソウソウソ……」とか呪誼《じゅそ》のように唱《とな》えているのが実におっかない。潔癖《けっぺき》で、純粋《じゅんすい》で、素直で、だからこそウソを吐《つ》かれると、その分|拒否《きょひ》反応が凄《すご》いのかもしれないな。
「……オタクを犯罪者|予備軍《よびぐん》って言ったの、取り消してくれるか? そりゃ、中には悪いヤツもいるのかもしんないけどさ。全員がそうじゃないんだ。あのときおまえが『桐乃《きりの》の友達なの?』って聞いた、二人組いたろ? 変テコな格好《かっこう》したやつら。あいつら、俺の友達なんだよ。すっげえイイやつらなんだよ! 頼むから、一緒《いっしょ》くたにして悪く言わないでくれ……!」
これは桐乃とあやせを仲直りさせる――それと同じくらいに大切な用件だった。
あいつらを犯罪者扱《はんざいしゃあつか》いしやがった件だけは、どうしても撤回《てっかい》してもらわないといけない。
それだけは、あいつらの友達として、俺《おれ》が譲《ゆず》るわけにはいかないことだった。
「……桐乃《きりの》と、似《に》たようなこと言うんですね?」
「あん?」
「なんでもありません。――分かりました、あくまでその件だけは、わたしの失言でした。ああいった趣味《しゅみ》と犯罪との間に因果《いんが》関係はない――それでいいです」
「そ、そうか! じゃあ――」
「でも、桐乃がああいう趣味を持っていることについては、認めるつもり、ありませんから」
ぴしゃり。俺の追撃《ついげき》をシャットアウトするあやせ。俺は眉間《みけん》にシワを寄せて聞いた。
「……なんでだよ?」
「なんで? 当たり前でしょう? 犯罪と関係なかったから――だからなんだって言うんです? 穢《けが》らわしくておぞましい趣味には違いないでしょう!?」
「おまえにとってはそうなんだろうよ。でも、繰り返しになるけど、それが親友をやめなくちゃならないほどのもんだとは、思えない。認めろとは言わないよ。どう考えても、ありゃいいもんじゃねえ。それは分かるよ。でも、見て見ぬふりしてやるわけにはいかないか? 見なかったことにして――いままでどおり付き合ってもらうこと、できないかな?……あいつだって、アレが表《おもて》に出せない趣味だってことは重々《じゅうじゅう》分かってる。だからこそいままで、表と裏の顔、使い分けて上手《うま》くやってきたんだ」
「そうですね。上手く隠《かく》して――わたしたちをずっと騙《だま》し続けてきた」
「騙してたわけじゃない。言う必要がなかっただけだ! そりゃもちろん世間|体《てい》を護《まも》るためでもあったんだろうけど――一番は、おまえと仲違《なかたが》いするのがイヤだったからだろうが! 親友なんだろう? どうしてそんなことも分かってやれねえんだよ!」
「ウソ! そんなのウソです! だって桐乃は、わたしよりもあんな趣味の方が大事なんですよ? 昨日《きのう》も今日《きょう》も、あんなに頼んだのに! 仲直りしてってお願いしたのに……!『絶対イヤ』って、それしか言わなくて……!」
「それは、違うんだ! その台詞《せりふ》は、そういう意味じゃなくて……!」
「うるさい! 知ったような口を利くな! あなたなんかにわたしたちの何が分かるのッ! わたしが一番、誰《だれ》よりも桐乃のことを分かってる! なのにあんな……っ! あんなのは桐乃じゃない! 別人です! 絶対に別人! 偽物《にせもの》ッ……! 返して! 本物《ほんもの》の桐乃をどこに隠したの! わたしの親友を返してくださいよッ!」
……こりゃ、だめだ。だめだ、と思った。俺にはこの娘《こ》を、説得《せっとく》することはできない。
この娘にとっちゃ、今の状況は、親友が変な宗教に嵌《は》まっちゃったような感じなんだろうな。
あやせは、本当に桐乃のことを案じていて、桐乃のことを高く評価《ひょうか》していて、桐乃のことを好いてくれている。だからこそ、いまの状況が許せない。親友の堕落《だらく》が許せない。
らしくない。おまえはそうじゃないはずだ[#「らしくない。おまえはそうじゃないはずだ」に傍点]――。
……誰《だれ》かさんも、似たようなこと言ってたっけな……。同じ想《おも》いで、怒《おこ》っていたっけな。
どうして俺《おれ》に、あやせを窘《たしな》められるだろう? 俺たちは同じ穴のムジナだ。自分が想い描くとおりの姿を相手《あいて》に押しつけ、違う姿《すがた》を見せつけられて、怒る。哀《かな》しむ。失望《しつぼう》する。
実に勝手《かって》なもんだ。だけどそれは、人間|同士《どうし》が一緒《いっしょ》にいれば、当然のようにそこにある陥穽《かんせい》だろうよ。親友だからこそ、敬愛《けいあい》しているからこそ、相手にはそうあって欲しいと望む。
その想いを、真《ま》っ向《こう》から『違う』と否定できるのは、世界でたった一人だけだ。
顔面ぶっ飛ばして、金玉蹴《きんたまけ》っ飛ばして、『ざけんな!』と叫んでいいのは、一人だけだ。
そう。
「っざけんなッ! いい加減《かげん》、偽物《にせもの》偽物やかましいのよアンタ!」
こんなふうにな。
「――─」「桐乃《きりの》……っ!?」
突如響《とつじょひび》き渡った怒声《どせい》に、俺とあやせは同時に振り向いた。
児童《じどう》公園の入口から、制服姿の桐乃が、さっそうと歩いてくる。
いつものように背筋《せすじ》を伸ばし、ザンザンと早足《はやあし》で向かってくる。
「お、おまえ……どうしてここに……!」
「アンタも黙《だま》れ。どうでもいいでしょ、そんなの」
桐乃は、俺を一睨《ひとにら》みで黙らせて、
「あたしたちの問題に口挟《くちはさ》まないで。これはあたしがやんなきゃいけないことなの!」
………………。そういうことだな。分かってんじゃねえか、おまえ。
「……は。そりゃ、出しゃばって悪かったよ」
苦笑《くしょう》。俺が大人《おとな》しく場を譲《ゆず》ろうとしたら、桐乃がしっしっと手を振った。
「分かったら引っ込んでて。もういっそ死んじゃえばぁ?」
ひっでえ言い草! この兄が、誰のためにこんなことしてたと思ってんの!?
ホ――ラ言ったとおりじゃねえか!? 聞いただろいまの暴言《ぼうげん》? エロゲーにハマる前々から、とっくにこいつの心は破壊《はかい》され、人間性を失ってんだよ! ゲームの影響《えいきょう》とかぜんぜん関係ねーって! だって元々《もともと》こんなんだったもん俺の妹! マジ泣けるね!
エロゲーなんぞよりもよっぽど俺の|境遇《きょうぐう》の方が、心が壊れそうだと思わないか?
クソッ……しかし完全に復活してやがるなこの妹。
しかもあやせの前だってのに、猫被《ねこかぶ》るのやめてるし!
だがまぁそうだな。ことここに至っちゃ、お互い分厚《ぶあつ》い化けの皮はいで、本音《ほんね》さらして、ハラ割って、喧嘩《けんか》して……それしかねぇと思うよ。桐乃も、あやせもさ。
……チッ、あーあ。結局さあ、俺《おれ》ができることなんざ、たかがしれてんだよ。
こういうのってさ。やっぱ、最後は当事者《とうじしゃ》同士が、なんとかするしかない。
――頑張《がんば》れ、桐乃《きりの》。
俺の思念《しねん》が届いたわけもないが、そこで桐乃は、気持ちを切り替えたように、あやせに向き直った。引き締《し》まった表情で、親友と対峙《たいじ》する。
「あやせ――あたしの話を聞いて」
「……偽物《にせもの》の言うことなんて、聞きたくない」
あやせは頑《かたく》なに首を振った。キバを剥《む》いて叫ぶ。
「本物《ほんもの》の桐乃と会わせてよ!」
「本物のあたしってなに?」
いまの桐乃は、あのとき、あやせに圧倒されるばかりだった桐乃とは別人《べつじん》だった。
尊大《そんだい》に胸を張って、キレたあやせに優るとも劣《おと》らぬ気迫《きはく》で、相手《あいて》を見据《みす》えている。
「眉目秀麗《びもくしゅうれい》、スタイルファッションセンスともに抜群《ばつぐん》、スポーツ万能、学業|優秀《ゆうしゅう》。友達がいっぱいいて、全校生徒の憧《あこが》れの的《まと》で、教師からも受けがよくて、部活では大|活躍《かつやく》、校外ではモデル活動なんかもやっちゃって、みんなから頼られてて、誰《だれ》からも好かれてて――そんな超《ちょう》完璧《かんぺき》で、超カッコよくて、超かわいくて、超美人の、高坂《こうさか》桐乃のこと?」
自分のことをここまで自信|満々《まんまん》に褒《ほ》め称《たた》えられるやつを、俺は他《ほか》に知らねえよ。自画自賛《じがじさん》もここまで突き抜けると爽快《そうかい》だな。自分のこと大好きだろ、おまえ。
「それがあんたの言う、本物のあたし?」
「そう! それが桐乃でしょ! 一緒《いっしょ》に買い物したときも、街で男の人に絡《から》まれたときも、勉強が分からないときも、モデルの仕事に慣れなくて困ってたときも、文化祭でショーをやったときも……いつもわたしに……わたしと……な、なのに――」
「あんな趣味《しゅみ》に近付くのはおかしいって? ありえないって? あたしらしくないって? 穢《けが》らわしくておぞましい、偽物だって? ――ごめん、あやせ。それ、勘違《かんちが》い」
「勘違い?」
「そう、だからよく聞いて……上手《うま》く言えるか、分からないけど……」
当惑《とうわく》する親友に向かって、桐乃は語り始めた。
「……あたしね、あやせが穢《けが》らわしいって嫌《きら》ってる漫画《まんが》、大好きなんだ。おぞましくて吐《は》き気がするって言ってた18禁《きん》ゲームもいっぱい持ってるし、超好《ちょうす》き。かわいい女の子が出てくるアニメは何度|観《み》ても飽《あ》きないし、集めたグッズは眺《なが》めているだけで幸せになる。ほんとにね、そういうの大好きなんだ。愛してるといってもいい。誰が何と言おうと、それがあたし」
あやせは何かを言おうとしていたが、言葉にならないようだった。
ごめんね、と桐乃は詫《わ》びる。
期待してくれたとおりの人間じゃなくて、ごめん。でも、これがあたしなの。
そう伝えようとしているように、聞こえた。
「だから、あやせがあたしのことを心配してくれているのは分かるけど、やめないよ。この趣味《しゅみ》を捨てるなんて、絶対イヤ。だって好きなんだもん。好きなものは好きなんだもん。やめちゃったら、なくしちゃったら、あたしがあたしじゃなくなっちゃうから……」
かつて俺《おれ》にそうしたように、桐乃《きりの》は自分の想《おも》いを吐《は》き出した。さらけ出した。
あやせは、目の前で起こっていることが信じられないというように、何度もかぶりを振った。
「……友達よりも、大事なもの? その趣味《しゅみ》って、わたしよりも大切なものなの!?」
「そんなわけないでしょ!!」
「じゃあ――」
そう続けようとしたあやせの言葉をさえぎって、桐乃は力の限り叫んだ。
「あんたのことも、エロゲーと同じくらい好き!! ウソじゃないっ! なんで分かんないの!? どっちか選べるくらいだったら最初から悩《なや》んでない! 学校の友達も! オタク趣味も! どっちも凄《すご》く大事で、大切で、捨てられないからこんなんなっちゃってんでしょうが!」
「な、な、な……」
もの凄い殺し文句《もんく》を叩《たた》き付けられたあやせは、たたらを踏んでよろめいた。
真《ま》っ赤《か》に赤面《せきめん》しているのは、桐乃の言葉に一片のウソも含まれておらず、その意図《いと》が十全に伝わったからだろう。怒《おこ》っているのか、喜んでいるのか、照れているのか――それともそのすべてか。頬《ほお》を染《そ》めて困惑《こんわく》しているあやせに向かって、畳《たた》みかけるように桐乃《きりの》は言う。
「いい、あやせ。あたしはね、どっちも捨てるつもり、ないから。友達も、趣味《しゅみ》も、どっちもあたしには必要なものなの。どっちかが欠けちゃったら、あたしがあたしじゃなくなるの。だから決めた! 絶対あんたとは仲直りする! 絶対趣味はやめない! なんか文句《もんく》あるっ?」
ちょ、開き直りやがった、このバカ! 無茶苦茶《むちゃくちゃ》言ってんじゃねえよ!
だが――傲岸不遜《ごうがんふそん》にふんぞり返る妹の姿《すがた》は、これ以上なく、らしかった。
正真正銘《しょうしんしょうめい》本物の、高坂《こうさか》桐乃だった。それは、あやせも十分に分かっただろうよ。
こいつはこういうやつなんだ。親友なら、知っているはずだろう?
「…………ウソ……じゃない? わたしのことも、凄《すご》く大事……?」
あやせはしばらく桐乃の言葉を吟味《ぎんみ》していたようだったが、やがて、こう言った。
「桐乃の気持ちは……分かった。わたしも、色々《いろいろ》誤解《ごかい》しているところ……あったし。人の意見を鵜呑《うの》みにして、ひどいこと、言っちゃったし……それはわたしが悪かったと思う。ごめんね。本当に――ごめん、なさい」
あやせは深々と頭を下げた。
「わたしも桐乃と……仲直り、したい……」
「……ん」
桐乃は照れたように微笑《ほほえ》んだ。親友と、早く仲直りしたい――その点に関しては、最初から、二人の気持ちは一緒《いっしょ》だった。ハラ割って話し合って、ようやくお互《たが》いにそれが分かったのだろう。……ったく、回りくどい話だよな。最初からそうしとけよ……ってのは、自分のことを棚に上げてるか。俺《おれ》だって勘違《かんちが》いして、テンパって、うじうじ悩《なや》んだり、したもんな。
正直、今回、俺はほとんど何もしちゃいない。こうして親友と仲直りできたのは、桐乃が自分で頑張《がんば》ったからだ。勇気を出して、胸の内を赤《せき》裸々《らら》にさらけ出したからだ。
『あんたのことも、エロゲーと同じくらい好き!!』
確かに想《おも》いは伝わった。トコトンどうしようもない、けれど、最強の台詞《せりふ》で。
……よくまあ、アレでサマになるもんだな、と、少々の理不尽《りふじん》さえ感じてしまう。
他《ほか》の誰《だれ》が、どのようなシチュエーションで口にしても、あれほどの効果は望めまい。
いまここで、桐乃が、あやせに対して使ったからこそ、この結果が生まれたのだ。
「ハァ……なんだかな」
ともあれ。よかったよかった。
と、思ったのだが。
あやせは俯《うつむ》いたままで、口惜《くちお》しそうに、「でも」と続け、
「……やっぱりダメっ……。……桐乃とは絶対|仲直《なかなお》りしたい。仲直りしたいけど……桐乃の趣味は認められない……!」
さっきの誰かみたいなことを呟《つぶや》いた。俺と桐乃は同時に目を剥《む》く。
「な、なに言ってんのアンタ!? 仲直りするって言ったじゃん!」
「……っ……ふぇ……」
桐乃《きりの》に怒鳴《どな》られたあやせは、ぶわわっと泣き始めてしまった。
何度も瞬《まばた》きをして、手の甲《こう》で目尻《めじり》を拭《ぬぐ》って、嗚咽《おえつ》を漏《も》らしながら、訴える。
「だって……だって……やっぱり、やだよ……桐乃……。……わたし、やっぱり、そういうゲームとか、漫画《まんが》とか、嫌《きら》い……。大嫌い……犯罪《はんざい》とは関係なくても、穢《けが》らわしい、おぞましい、気持ち悪いって……思うもの。……過剰《かじょう》反応かもしれないけど……ごめん……無理……」
「………………………………※[#「う」に濁点]ッ……」
さすがの桐乃も、痛いところを衝《つ》かれて怯《ひる》む。
オタク趣味《しゅみ》が、犯罪に直結《ちょっけつ》しないことは証明した。誤解《ごかい》は解《と》けて、桐乃の想《おも》いも伝わった。
しかし最後に残ったのは、女子中学生|特有《とくゆう》の生理的|嫌悪感《けんおかん》。拭いきれないマイナスイメージ。
こればかりは、どうにもならない。誤解|云々《うんぬん》ではなく、これはもう、あやせの個人的な主義主張の領域《りょういき》だからだ。
「ど、どうしよう……桐乃ぉ……わたし……どうしよう……」
あやせは縫《すが》るような瞳《ひとみ》で、桐乃を見つめる。
自分の気持ちに、どうしても折り合いが付けられないのだろう。
桐乃とは仲直りしたい。でも、オタク趣味を認めることができない。
見て見ぬふりもできない。この融通《ゆうずう》のきかなさは、彼女の潔癖《けっぺき》さゆえのものだ。
「……っ……」
追い詰められた桐乃は――
「ううッ……」
ギュンッと勢《いきお》いよく俺《おれ》の方を向いた。
『なんとかしなさいよ!』とのことらしい。
――そこで俺スか!? そこで俺に振るのかよ!? 引っ込んでろっつったくせに!
「……桐乃……わたし……わたし……ふぇぇ……っ……」
「う、うううううッ……」
チラ、チラチラッ。『早く! 早くなんとかして! 殺されたいの!』と、必死の目配《めくば》せを送ってくる桐乃。そ、そんなこと言われてもよォ〜〜〜。ううッ……。
そりゃ、こういうときのために、切り札も……あるっちゃ、あるけどさ。これ……これはなぁ……。正直、すっげえやりたくない。自分で準備してきておいてなんだけど、どう考えてもロクなもんじゃねえし。たぶん、これで、仲直りさせてやることはできるだろうけど……
っ、くぅ〜……クソッ、これ以上考えていると、動けなくなるな。
ちっくしょう! やりゃいいんだろやりゃあ! てめえ! どうなってもしらねえからな! 俺|様《さま》の聖なる言《い》い訳《わけ》を聞いてから、後悔《こうかい》するんじゃねえぞ!
「……待ってくれあやせ。俺《おれ》の話を聞いてくれよ」
「?」
潤《うる》んだ瞳《ひとみ》で上目遣《うわめづか》いになるあやせ。俺はどぎまぎしながらも、言う。
「お、おまえは、俺たちが夢中《むちゅう》になっている趣味《しゅみ》を、穢《けが》らわしいと思っていて……どうしても納得《なっとく》できないから、桐乃《きりの》と仲直りできないってんだよな?」
「…………あ、当たり前じゃないですかぁ……だって、だって……」
まあ、女子中学生は、普通、そうだよな。認めろって方が無茶《むちゃ》な話さ。
「じゃあ、その認識《にんしき》を塗り替えてやる。これを見ろ……」
俺は学生|鞄《かばん》から、今日《きょう》図書館で借りてきたばかりの分厚《ぶあつ》い本を取り出した。
「……『オデュッセイア』と……『日本書記《にほんしょき》』?」
……よく知ってるな。
そう、俺があやせに渡したのは、古代ギリシアの有名な叙事詩《じょじし》『オデュッセイア』と、日本|最古《さいこ》の歴史書『日本|書紀《しょき》』だ。さらにもう一冊『エジプトの神話《しんわ》〜オシリスとイシス〜』という本も渡す。あやせは俺の意図《いと》をいぶかりつつも、涙を拭《ぬぐ》って、紙面に眼《め》を落とした。
「イザナギとイザナミ…………クロノスとレアー……オシリスとイシス……それに……」
付箋《ふせん》を貼《は》ってあるので、どこを見ればいいのかは分かるはずだ。
あやせは、一通《ひととお》り目を通すと、さらに困惑《こんわく》を強めた態度で問うた。
「……これが、何か?」
「それはな、全部、兄妹|神《しん》の逸話《いつわ》だ。一部|別説《べつせつ》もあるが――そいつらは皆、兄妹で結婚《けっこん》してるんだよ」
「あの……失礼ですけど、何をおっしゃりたいのか……これが桐乃の趣味と、何の関係があるんです?」
「まぁ待て。それは頭の隅《すみ》にでも留め置くだけでいい。真打《しんう》ちはこっちでな……」
俺は学生|鞄《かばん》からおもむろに切り札を取りだした。
「そ、それッ………!?」
桐乃が瞠目《どうもく》して声を張り上げた。何故《なぜ》かといえば、俺が取り出したブツたちは、桐乃が夏コミで買い集めた、秘蔵《ひぞう》の妹ものエロ同人誌《どうじんし》≠セったからだ。
はいコレ、あやせにエロ同人誌を手渡す俺。
あやせは目をぱちくりさせていたが、ぱら、ぱら、とページを捲《めく》り――
ぱぁんっ! と俺の顔面に平手打《ひらてう》ちを見舞《みま》った。
「こ! こんなモノを見せてどういうつもりですか!? ブチ殺しますよ!?」
ブン殴《なぐ》ってから言う台詞《せりふ》なんですかねえ! 痛《いて》えぇぇぇぇッ……! もうヤダこの女!
「け、穢《けが》らわしい! け、けけけ穢らわしいッ! はれんちですこの痴漢《ちかん》ッ!」
「……穢らわしい? 違うな……間違《まちが》っているぞあやせ! その本は穢らわしくなどない! いま渡した本は、すべて同じテーマで書かれたものだ[#「すべて同じテーマで書かれたものだ」に傍点]!」
「な……!?」
「あんた何《なに》言ってんの?」
桐乃《きりの》は口を半開《はんびら》きにして、露骨《ろこつ》に醒《さ》めた口調《くちょう》で言った。この兄が、せっかくあやせを説得《せっとく》してやろうとしているのに、非《ひ》協力的なやつである。
俺《おれ》は大きく手を広げ、あやせに向かって喝破《かっぱ》した。
「思い返してみろ! おまえがおぞましいと忌避《きひ》していた俺たちのコレクションは、すべて兄妹の愛を描いた芸術作品だったはずだ! 違うか!? ひとつでも例外があったかよ! いいやないね! だとしたらいま渡した神話《ハードカバー》とどこが違う! 新しいか古いかの違いだけじゃねえか! こっそり混ぜても絶対|分《わ》かりゃしねえよ!」
「あ――あなたいま各国の神話《しんわ》とナニを一緒《いっしょ》にしました!?」
「近親《きんしん》相姦《そうかん》もののエロ同人誌《どうじんし》だよ! 文句《もんく》あっか! そのエロ本に描かれているのはなあ、紀元《きげん》前から連綿《れんめん》と人類に受け継《つ》がれてきた兄妹|愛《あい》の物語だ。世界でもっとも尊《とうと》く美しい文学[#「文学」に傍点]だ。そう、俺たちは決して、邪《よこしま》な気持ちでそういったものを愛好《あいこう》しているわけじゃない!」
何故《なぜ》ならば――
俺は、あやせの手元にビシリと指を突き付け、涙ながらに叫んだ。
「そいつはなあ! 俺と桐乃の愛の証《あかし》≠ネんだよ!」
間違いなく、我《わ》が生涯《しょうがい》でもっともアホな台詞《せりふ》だった。
「え、ええっー!?」「んなっ……!? なっなっ……」
あやせも桐乃も、目ん玉飛び出そうな形相《ぎょうそう》になっている。
「なッ……にとんでもないこと口走ってんのア――むぐっ」
咄嗟《とっさ》に俺は、桐乃の顔面を押さえつけるような形で抱《だ》き締め、口を塞《ふさ》いだ。
ジタバタもがいていやがるが、腕を背中に回して、それもなんとか押さえつける。
『愛を確かめ合うように、きつく抱き合っている』俺たちを、あやせが呆然《ぼうぜん》と見つめている。
「な、な、な……何を……!?」
俺は、先日のキレたあやせのごとく、一方的にまくしたてる。
「見てのとおりだ、あやせ。俺たちは愛し合ってんだよ! だからこそ許されざる愛の物語を集めていたんだ! 俺たちの愛の証を、穢《けが》らわしいだなんて言うなッ! 文学だっつってんだろ!? 女のハダカが描かれている? 濃厚《のうこう》なエロシーンがある? んなもんは本質《ほんしつ》じゃねえっ! てめえにボロクソ言われるほど悪いもんじゃあねえッ!」
アドリブを加えていくうちに、段々《だんだん》とテンションが上がっていって、自分でも何を言っているのか分からなくなってきて――演技《えんぎ》で言っているのか、本気で言っているのか、境界《きょうかい》が|曖昧《あいまい》になってくる。いつしか俺の口は、自然に動いて言葉を紡《つむ》いでいた。
「……桐乃の趣味《しゅみ》は、俺たち兄妹の仲を、ぶっ壊れた絆《きずな》を繋いでくれたんだよ。あのときアレを見付けなけりゃあ、俺《おれ》たちの関係はずっと冷めきったままだった。一番そばにいた妹のことを、助けてやるこたあできなかった。カンケーねえってそっぽ向いたまま、妹が泣くのを眺《なが》めているしかなかったんだ……! だから俺は心底《しんそこ》感謝してるぜ! てめえが穢《けが》らわしいと抜かしたオタク趣味《しゅみ》全部にな! こいつがあったからこそ、俺たちは初めて本当の兄妹になれたんだ! 泣いている妹を見たとき、カンケーねえなんてクソな言い訳《わけ》をしなくて済《す》むようになったんだ! ……この想《おも》いを、誰《だれ》だろうと否定されてたまるかよ。ウソなんかじゃねえ[#「ウソなんかじゃねえ」に傍点]、これは俺たちの愛の証《あかし》≠ネんだ! いいか、よく聞け、俺はなあ――」
俺はもがき暴れる妹を、全力で抱《だ》き締《し》め、完全にヤケクソになって叫んだ。
「妹が、大ッッ……好きだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――っ!」
魂《たましい》の叫びを受けたあやせの瞳《ひとみ》から、完全に光彩《こうさい》が消え失せた。ばらばらと本を取り落とす。
「……………………………………」
拘束《こうそく》を解《と》いてやったのに、何故《なぜ》か桐乃《きりの》は、口をぱくぱくさせて硬直《こうちょく》している。
ふらり、ふらりとよろめきながらも、こちらに近付いてきたあやせは、そんな桐乃の手を引き、俺から奪い取るようにして――ぎゅっと抱き締めた。
「桐乃─――仲直りしよ。いますぐ」
「あ、あやせ……?」
「ごめんね……ごめん……穢らわしいとか、認められないとか……そんな小さなことを言ってる場合じゃなかったんだね。……ほんとにごめん……気付いてあげられなくて……」
「え? え?」
号泣《ごうきゅう》して抱き締めてくる親友の態度に、桐乃は面食《めんく》らってしまっている。
お、おお……やった。
俺としても、まさかこれほどまでに効果があるとは思わなかった。思い込みの強いあやせのことだ。桐乃の趣味ってのは、同人誌《どうじんし》ってのは穢《けが》らわしいばかりのものじゃない。そう必死に訴えれば、多少|論旨《ろんし》に無理があっても、納得《なっとく》してくれるかもしれないという読みはあったわけだが――。
フッ……わりと俺の弁舌《べんぜつ》も捨てたもんじゃあねえぜ。
「……やれやれ、面倒《めんどう》かけやがって」
シニカルな笑《え》みを浮かべ、二人のそばに向かって行くと――
「ち――近付かないで変態《へんたい》ッ!」
あやせは桐乃を護《まも》るように抱き締めたまま、俺をキッと睨《にら》み付けてきた。
……あれ?
「……え……っと。……誰《だれ》が、な」
「うるさい! 喋《しゃべ》るな変態《へんたい》! 変態変態変態ッ! 耳が腐《くさ》るッ!」
あれぇ――。予定と違うなあ! 思い込みが強いという読みは当たったし、納得《なっとく》もしてくれたみたいだけど、妙《みょう》なベクトルで自己《じこ》完結しちゃってないか?
あやせは光彩《こうさい》のない虚《うつ》ろな瞳《ひとみ》で、俺《おれ》を見据《みす》えている。
「やっぱりおまえが諸悪《しょあく》の根元《こんげん》……! 二度とわたしの親友に触《さわ》るな! 穢《けが》らわしい! おぞましい! 気持ち悪い!」
「あ、あや……せ……?」
いまだにポカンとしている桐乃《きりの》に、あやせは涙声《なみだこえ》で、優しく言い聞かせる。
「大丈夫《だいじょうぶ》……! わたしが絶対|護《まも》るから…………逃げよ、桐乃」
あやせは桐乃の手を引いて、俺から早足で遠ざかっていく。
バッと振り返って、
「……キモ、死んでください」
汚物《おぶつ》に向けるような一瞥《いちべつ》と、捨《す》て台詞《ぜりふ》を残していった。
「………………」
人気《ひとけ》のない公園に、俺は一人取り残される。
「………計画どおりだ!」
よかったな、桐乃。おまえ親友と、ちゃんと仲直りできたじゃねーか。
はッ、目にゴミが入ってきやがるぜ……ぐすっ。
――こうして。前回に引き続き、俺の人生に、またひとつ巨大な黒《くろ》歴史が刻まれたわけだが。
その後の顛末《てんまつ》についても、記しておかねばなるまい。
あれから一週間が経《た》って。
まずは、俺と桐乃の関係――
これはもう、最悪と言っていいだろう。俺たち兄妹はあれから一言《ひとこと》も会話をしていないし、目も合わせないし、挙《あ》げ句《く》の果てにあの野郎《やろう》、半径《はんけい》5メートル以内に近付いてきやしない。
汚物のように――というより、存在しないものとして、俺を扱っている。
完っ全に、ガン無視。元《もと》のもくあみ、どころじゃない。
俺と妹の仲は、いまだかつてないほどに悪化していた。
これ以上|嫌《きら》われようがないとばかり思っていたけど、下には下があるもんだな……。
……もう修復《しゅうふく》不可能なんじゃないか、これ?
あれだけのことをしでかしたんだ、無理もねえ。
しっかしまー。なんでまた俺、あんなことしちゃったんだろうな?
スイッチが切れて、熱気が冷めて、正気に戻って。
まず最初に思ったのが、それだった。
あんなに恥《は》ずかしい台詞《せりふ》を吐《は》いて、あんなに捨て身で献身《けんしん》して、その挙《あ》げ句《く》に、桐乃《きりの》にもあやせにも、めちゃくちゃに嫌われちまって――。
「はっ……ざまぁねぇな」
まぁ、しょうがねえさ。俺《おれ》が自分の意思《いし》で、自分のやりたいように動いた結果なんだ。
後悔《こうかい》だけはしていないし、結果は粛々《しゅくしゅく》と受け容れますよ、と。
それに、だ。桐乃とあやせを仲直りさせてやるっつー目的だけは、達成《たっせい》できたわけだから。
恥《は》ずかしい真似《まね》して、情《なさ》けない想《おも》いした甲斐《かい》は、あった。あった……よな?
続いて、俺と麻奈実《まなみ》の関係――
これはまぁ……なんだ。いつもどおりさ。
「なにが、ざまぁないの? きょうちゃん?」
「ん? いや、なんでもねぇよ」
朝の教室。
今日《きょう》も今日とて、幼馴染《おさななじ》みと一緒《いっしょ》に登校してきた俺は、席に着くや、生《なま》返事で首を振る。
「そっか、それなら、よかった」
にこ、と意味もなく微笑《ほほえ》む麻奈実。その笑顔に、たまらなく救われる。
ゆったりと繰り返される、いつもと同じ日常。三日と離れられない、大切な時間。
たとえそれらが、少しずつ変わっていってしまうものだとしても。
それが止められないものなんだとしても。
きっとなんとかなる。壊《こわ》れた絆《きずな》は、再び結びなおすことができるからだ。
互いがそう望む限り、二人の絆《きずな》はいくらでも、強く堅固《けんご》に生まれ変わる。
俺がさんざんビビッていた『変化』ってのは……意外《いがい》とおっかないもんじゃないのかもな。だってさ、なにせ、自分で選べるんだし。
最近、そう想《おも》えるようになってきた。……誰《だれ》かさんのおかげでな。
「ね、ね、見て見てきょうちゃん。……髪《かみ》の毛、ちゃんと元《もと》に戻ったんだよ?」
「そうか。そりゃよかったな」
全然《ぜんぜん》分かんね。つーか元に戻ったって……切ったの夏休み前の話じゃん。いまごろなに言ってんだよ。おまえの髪の毛|絶対《ぜったい》おかしいって。
「もぉーっ、ちゃんと見てよう」
「見てる見てる。超かわいい」
「……ほんと?」
「あーほんとほんと。最近|肌《はだ》もつやつやしてるし、おまえ、綺麗《きれい》になったんじゃないか?」
めんどくさいのでテッキト〜〜に褒《ほ》めてやると、「え、えぇ〜っ」単純な麻奈実は両目をぎゅっとつむり、鞄《かばん》をぱたぱたさせている。ひとくさり照れるや、にへら〜〜として、
「えへへ……そうかなっ。た、たぶんねっ、よく眠れてるからだと思うっ。ほら、夏休み前からわたし……きょうちゃん≠ニ一緒《いっしょ》に寝るようになったからっ」
「おまえ教室でなんてことを!」
抱《だ》き枕《まくら》のことだからね!
そして最後に――桐乃《きりの》と、あやせの関係。
その日の放課後《ほうかご》。学校から帰宅《きたく》すると、いつぞやと同じように、妹がリビングで電話をしているところだった。
「ただいま」
一応の礼儀《れいぎ》として挨拶《あいさつ》してみるが、返事がないどころか、こっちをチラリとも見やしない。
セーラー服|姿《すがた》の桐乃は、ソファに深く腰掛《こしか》け、超短《ちょうみじか》いスカートで足を組み、携帯《けいたい》に向かって何やらこくこくと頷《うなず》いている。
「――うん、大丈夫《だいじょうぶ》。ありがと、あやせ。心配するようなことは何もないから。……うん……うん……あはは……本当に……うん……そだね、明日《あした》にでも一緒《いっしょ》に買い物行こ?」
――ということだ。今度こそ本当に『変態《へんたい》鬼畜兄《きちくあに》』の烙印《らくいん》を押されてしまった俺《おれ》は、妹に直接問いただすことはできないが、桐乃とあやせの仲は、わりと上手《うま》くいっているのだと思う。
なにせ こうやって毎日のように、電話がかかってきて、話しているんだからな。
穢《けが》らわしい趣味《しゅみ》を許容できない、桐乃とも別れがたい――二律背反《にりつはいはん》の葛藤《かっとう》に囚《とら》われていたあやせは、俺を悪役とすることで、一応の落としどころを見付けたらしい。
先日、俺の携帯に一通のメールが届いた。
『――大《おお》ウソ吐《つ》きのお兄《にい》さんへ。
おかげさまで、桐乃と仲直りすることができました。例の趣味を認めたわけではありませんし、先日お話しした意見を撤回《てっかい》するつもりもまだありませんが――しばらくは折り合いを付けないまま、納得《なっとく》しないままで、やっていくことにしました。仕方がありません。でも、諦《あきら》めませんからね、わたし! あなたの魔《ま》の手から、いつか必ず桐乃を救い出してみせます! あなたなんかには絶対|負《ま》けません!
PS.もしも桐乃にいかがわしいことをしたら、ブチ殺します』
――どうだ、恐《こわ》いだろう? あの女とは、もう二度と顔を合わせたくないもんだ。
ただ………………このメール………………ま、いいか。
一抹《いちまつ》の疑問を、コーラと一緒に飲み干す。冷蔵庫《れいぞうこ》からリビングに戻り、妹の横を通過《つうか》する。
「じゃ、あやせ、また明日《あした》、学校でね――」
ぴ、と電話を切って、はにかむ桐乃。
この嬉《うれ》しそうな顔を見れば、あやせの葛藤も、俺に降りかかった汚名《おめい》も、どうでもいい、些細《ささい》なことに過ぎない。いまだけは、そう想《おも》えた。
――よかったじゃん。もう話すこともないだろう妹に、最後の祝福《しゅくふく》を送る。
そう、なにはともあれ……。
これで今度こそ――夏の想《おも》い出作りという、人生《じんせい》相談はおしまいだ。
これで最後。きっと今度こそ、最後だろう。
何故《なぜ》なら俺《おれ》と桐乃《きりの》の仲は、今回の件で、これ以上ないほどに悪化してしまったし。
俺なんぞに相談することの無謀《むぼう》さを、桐乃も思い知っただろうから。
ようやく念願《ねんがん》の、穏《おだ》やかで平凡《へいぼん》な毎日が戻ってくる。
これで無理矢理《むりやり》エロゲーをやらされなくてすむし、めちゃくちゃ疲れるイベントに連れて行かされることもないし、せいせいするってもんだ。
俺は肩をすくめて、その場をあとにしようとしたのだが。
「ねぇ」
ドアノブに手を掛けたところで呼び止められ、俺は足を止めた。
すると妹は、いつものすげない口調《くちょう》で、さらっと口走った。
「ちょっとこっち来て」
……うげっ。
バッと振り返る。ドアノブを握り締《し》めたまま、目を見張る。
な、何日ぶりだろうなこいつと話すの……。この期《ご》におよんで、俺に、何の用だって?
「なに呆《ほう》けた顔してんの? ほら、さっさと」
「……わーったよ」
俺は諦《あきら》めて、妹の指示《しじ》に従った。桐乃の座るソファの前に立ち、ごくりと唾《っぱ》を飲む。
……ど、どんな罵倒《ばとう》が来る……?
覚悟《かくご》を決めた俺だったが、なぜか桐乃は下を向いて言い辛《づら》そうにしながら、
「……その……あんた……あのとき叫んだアレ……どの辺まで本心《ほんしん》なわけ?」
「あ? ど、どうでもいいだろ、んなことっ」
なんでいきなりそんな話が出てくんだよ……。
つうかやめようぜその話題! お願いだから! 俺が懇願《こんがん》を込めた視線を送ると、
桐乃の雰囲気《ふんいき》がガラリと変わった。
「どうでも……よく――ない、よ……」
俯《うつむ》いたまま、スカートの裾《すそ》をぎゅっと握《にぎ》り、かぁぁ〜っと、頬《ほお》を染《そ》める。
……なんだ? この……妙《みょう》な反応は。おまえらしく……ない、ぞ……?
俺は当惑《とうわく》しながら問うた。
「なんで?」
「………………分かんないの?」
ソファに座った体勢から、上目遣《うわめづか》いで、熱っぽく、俺の顔を覗《のぞ》き込んでくる。
目が合うと、妹の瞳《ひとみ》が潤《うる》んでいることに気が付いた。
その顔は、風邪《かぜ》を引いているみたいに、赤い。
「……それは…………だな」
俺《おれ》は妹の態度が恐《こわ》くなってきて、一歩、二歩と後退《あとずさ》った。
すると桐乃《きりの》は、そんな俺の態度が哀《かな》しくて仕方ないというふうに、泣きそうな顔になる。
ソファから立ち上がり、きゅ、と、縋《すが》るように俺の服の裾《すそ》を掴《つか》む。
「…………ほんとに、分からない……?」
……いや……もしかしたら……ってのは、あるけど……どう答えろってんだよ……。
困り果てて黙《だま》り込んでいると、桐乃は意《い》を決したように告白を始めた。
俯《うつむ》いて、俺と目を合わせないように、
「鈍すぎだよ……ばか……。言わせないでよ……恥《は》ずかしいのに……」
「ごくっ」
俺は生唾《なまつば》を呑《の》み込んだ。
「あ……あたし……あのとき言われたこと、考えてみたの……そしたら……その……あの……もう……素直にならなくちゃって……だ、だからっ、き――聞いて?」
そこで桐乃は、決然と顔を上げ、真っ直ぐ俺に向き直った。そして、ぐ、と力を込める。
お、おま……! 何を言うつもり――
「あたしもあ兄貴《あにき》のコトね好き……かも」
「ま、ま、ま、マジで!?」
「――なぁんて言うとでも思ったァ? なに慌《あわ》てちゃってんの? キモいんだよシスコン」
「な……こ――こ……こ……こここ……………っ…………」
俺は、大口《おおぐち》開けて、目ぇ見開いて、唖然《あぜん》とするしかなかったね。
だって見ろよこの顔[#「この顔」に傍点]! チクショウ! チックショウ! チクショ〜〜〜〜!
ありえねえ! こいつ! 〜〜〜〜〜〜ッ! くっそぉ〜〜〜!
燃えるように熱い顔を両手で押さえて、激しく身を振《よじ》る俺。
「キャハハハ! ひ〜苦しい! バ、バッカじゃん……やっぱアンタ、アレわりとマジ入ってたでしょ! キッモぉ〜〜、あははは!」
そんな俺を指差《ゆびさ》し爆笑《ばくしょう》していた桐乃は、やがて涙を拭《ふ》いて、腹を肘《ひじ》で小突《こづ》いてきた。
「ホラ、いつまでアホ面《づら》押さえて悶えてんの? さっさと行くよシスコン!」
俺のそでを強く引っ張って、かろやかに振り返る。ニヤッと不敵《ふてき》に笑《え》みを浮かべ、
「シスカリの対戦《たいせん》するって、約束したでしょ?」
あとがき
伏見《ふしみ》つかさです。このたびは『俺《おれ》の妹がこんなに可愛《かわい》いわけがない』二巻を手にとっていただきまして、ありがとうございます。
ひとまず無事に発売までこぎつけられたことに、ホッとしております。一巻以上に、改稿《かいこう》改稿の連続で、入稿《にゅうこう》したあとにも色々悶着《いろいろもんちゃく》があったりと、今回の企画《きかく》進行では最後まで肝《きも》を冷やしっぱなしでしたが、この四ヶ月でできることはすべてやり尽くしたつもりです。
いかがでしたでしょうか? 一回でも笑っていただけたなら、嬉《うれ》しいです。
担当《たんとう》編集の三木《みき》さん、小原《こばら》さんには、今回も強大なご支援を賜《たまわ》りました。小原さんには、一巻から引き続き、主に作中に登場する固有《こゆう》名詞の名前について、たくさん知恵《ちえ》をお借りしました。そして三木さんは、本《ほん》企画の黒幕《くろまく》として、今回も様々《さまざま》な策謀《さくぼう》を巡らせてくださいました。
今巻のキーパーソンとなるキャラクターの設定|発案《はつあん》、キャッチーでピーキーなテーマの提案などなど、色々とお世話《せわ》になりました。
本シリーズは、密《みつ》な打ち合わせと改稿を繰り返しながら少しずつ作っていく、という、とても担当編集の負担《ふたん》が強い作り方をしています。ですから私|個人《こじん》の作品というよりも、イラストレーターさんを含め、四人で作り上げた作品だと思っています。そこは繰り返し書いておかねばと思いました。意見の食い違いなどで衝突《しょうとつ》することは多々ありますが、編集のお二人には感謝しています。
いつもありがとうございます。大変だとは思いますが、今後ともよろしくお願いいたします。
かんざきひろさんも、ありがとうございました。ラフイラスト素晴らしいです! せっかく描いてくださったのに、加奈子《かなこ》の出番《でばん》がなくなってしまって申しわけない……!
シリーズ化の話を聞いたときは、驚《おどろ》くと同時に不安もありました。『このお話を続けるの?』と、そう思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか?
なにぶん一巻が、キャッチーなキャラ設定で読者の興味《きょうみ》を惹《ひ》こうというお話だったので、キャラ設定のファーストインパクトがなくなる二巻|以降《いこう》はどうしようかなと困っていたんです。
キャラ設定に頼らず、本筋《ほんすじ》に力を入れるのは当然の大前提《だいぜんてい》ですが、それでは足りないと悩みまして。担当編集との打ち合わせの結果、最終的に、今回のような形になりました。
なお作中に登場する時事《じじ》やイベントについてですが、色々と事情がありまして、実際のものと微妙《びみょう》に異なっている部分がございます。恐れ入りますが、その旨《むね》ご了承《りょうしょう》くださいませ。
三巻では、これまでとはやや違う方面からのアプローチも考えています。
一巻でいただいた皆様からの反響《はんきょう》も、三巻ではバッチリ反映することができますし。手前《てまえ》味噌《みそ》ではありますが、いいものになるんじゃないか、と、思います。
ご期待ください。
[#地付き]二〇〇八年十一月 伏見《ふしみ》つかさ