俺の妹がこんなに可愛いわけがない
伏見つかさ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)高坂《こうさか》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一番|華《はな》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)犯人[#「犯人」に傍点]
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俺《おれ》の妹《いもうと》がこんなに可愛《かわい》いわけがない
俺の妹・高坂《こうさか》桐乃《きりの》は、茶髪にピアスのいわゆるイマドキの女子中学生で、身内の俺が言うのもなんだが、かなりの美人ときたもんだ。けれど、コイツは兄の俺を平気で見下してくるし、俺もそんな態度が気にくわないので、ここ数年まともに口なんか交わしちゃいない。よく男友達からは羨ましがられるが、キレイな妹がいても、いいことなんて一つもないと声を大にして言いたいね(少なくとも俺にとっては)!
だが俺はある日、妹の秘密に関わる超特大の地雷を踏んでしまう。まさかあの妹から人生相談≠される羽目になるとは――!?
[#改ページ]
第一章
p11
第二章
p77
第三章
p131
第四章
p185
学校から帰宅すると、妹がリビングで電話をしているところだった。
妹の名前は、高坂《こうさか》桐乃《きりの》。現在十四歳。近所の中学校に通っている女子中学生だ。
ライトブラウンに染めた髪の毛、両耳にはピアス、長くのばした爪《つめ》には艶《あで》やかにマニキュアを塗っている。すっぴんでも十分目を惹《ひ》くだろう端正な顔を、入念なメイクでさらに磨き上げている。中学生には見えないくらい大人《おとな》びた雰囲気。背がすらっと高く、しかし出るところはきっちり出ている――。
これて歌でも上手《うま》ければ、いかにも女受けしそうなカリスマアイドルのでき上がりだ。
身内の贔屓目《ひいきめ》なんかじゃない。俺《おれ》の妹は、とにかく垢抜《あかぬ》けているやつなのだ。
もっとも自慢の妹だと誇るつもりはぜんぜんない。男連中からはよく羨《うらや》ましがられるし、連中の気持ちも分からんでもないが、俺としては冗談《じょうだん》じゃないと言いたいね。
実際に妹がいるやつなら、ちょっとは俺の気持ちが分かってくれるんじゃないかと思う。
妹ってのは、そんなにいいもんじゃない。少なくとも俺にとっては。
例えばこう考えてみてくれ。学校のクラスには、たいてい幾つかの友達グループがあるよな。
その中でも一番|華《はな》やかなグループを思い浮かべてみるんだ。運動部のエースやら、秀才のイケメンやら、特別かわいい女子なんかが中心になってる集団さ。
その集団の中でも、さらに一段、垢抜けている女子。
なんだか話しかけるのも躊躇《ちゅうちょ》しちまうような、今後もずっと関《かか》わることのないだろう、別世界の住人。いわゆる『高めの女子』ってやつだ。見てくれがどんなによかろうと、たいていの男なら、苦手《にがて》なタイプだって思うよな。俺もそうさ。
そんな女が、自分の家族だと想像してみろ。もちろんお互いの距離感《きょりかん》は据え置きで、だ。
……どうだ、分かるか俺の気まずさが。そんなにいいもんじゃないだろう?
「ただいま」
一応の礼儀《れいぎ》として挨拶《あいさつ》してみるが、返事がないどころか、こっちをチラリとも見やしない。
セーラー服姿の桐乃は、ソファに深く腰掛け、超短いスカートで足を組み、携帯《けいたい》に向かって何やら楽しそうにけらけら笑いを振りまいている。
その笑顔《えがお》はなるほどかわいかったが、それが俺に向けられることは今後もないだろう。
「えー? ウッソー? なにそれぇ。きゃはは、ばっかみたーい」
ああ、おまえなんかに話しかけた俺がバカだったよ。
俺は心の中で毒づいて、ぱかんと冷蔵庫《れいぞうこ》を開けた。バックの麦茶を取り出し、グラスに注いで一気にあおる。ふぅ、とひと心地《ごこち》ついてから、その場を後にした。
「うん、うん……分かった。じゃあ着替えて、これから行くね――」
もう夕方になるってのに、どこに遊びに行くのやら。
まあ、しょせん俺には関係のない話だけどな。俺は心の中で呟《つぶや》いて、階段を上っていった。
俺《おれ》の名前は、高坂《こうさか》京介《きょうすけ》。近所の高校に通う十七歳。
自分でいうのもなんだが、ごく平凡な男子高校生である。所属している部活はないし、趣味《しゅみ》も特筆するようなもんはない。そりゃ流行の音楽くらいは聴《き》くし、漫画やら小説だって、まあそれなりには読むけど、趣味といえるほどのもんじゃないな。
放課後《ほうかご》はだいたい友達と町をぶらつきながらだべったり、家で漫画読んだり、テレビ見たり。
ときにはまあ……勉強したりもする。
だいたい普通の高校生ってのはそんなもんだろう? 無難《ぶなん》でつまらない毎日だと言われるかもしれないが、『普通』でいるってのは、わりと大事なもんだと俺は思う。
普通っていうのは、周りと足並み揃《そろ》えて、地に足つけて生きるってことで。
無難ってのは、危険が少ないってことだ。
幸い俺の成績《せいせき》は、いまのところ悪かぁない。このまま順調《じゅんちょう》にいけば、わりといい大学に進学できるんじゃないかと思う。その先、将来どうするか――なんてのは、四年間のキャンパスライフを楽しみながら、ゆっくりと考えればいいことだ。
いまから慌《あわ》てなきゃならないのは、そのやり方では就けない職業《しょくぎょう》を目指しているやつらくらいのもんだろう。夢を追いかける――聞こえはいいけどな。それは『普通』じゃなくなるってことだ。危険は多いし、間違っても無難じゃない。少なくとも俺には向いてないね。
ま、子供の頃《ころ》の夢なんて、とっくの昔に忘れちまったけど……強《し》いて言うなら。平々凡々、目立たず騒《さわ》がず穏《おだ》やかに、のんびりまったり生きていくのが俺の夢ってところかな。
我《わ》が家《や》は二階建ての一軒家。家族構成は俺と妹、それに両親の四人。
そこそこ裕福な、別段珍しくもない、ありふれた家庭。
俺と妹の部屋《へや》は二階にある。部屋で私服に着替えた俺は、十分ほどくつろいでから階段を下りた。勉強を始める前に、トイレを済ませておこうと思ったからだ。ちなみに階段を下りるとすぐ玄関で、向かって左手にリビングへの扉がある。
と――
「っと」
階段を下りてすぐ、玄関付近で、私服の妹とぶつかった。実はこの位置、お互いにとつて死角になるので、接触事故が多発するポイントなのだ。
どん。俺の左肩が桐乃《きりの》の胸にぶつかるような形で、軽く衝突《しょうとつ》。衝撃《しょうげき》自体はたいしたことがなかったのだが、その拍子に妹のバッグが手から離《はな》れ、床《ゆか》に中身をぶちまけた。
「あっ……」
「お、悪い」
俺は素直に詫《わ》びて、床に散らばった化粧品|等《など》の諸々《もろもろ》に手を伸ばそうとしたのだが……
ばしっ。それを察した桐乃が、俺の手を平手で払った。
「なっ」
目を見開いた俺《おれ》は、鋭《するど》い視線《しせん》を向けられて絶句する。
妹の口から出た台詞《せりふ》はこうだ。
「……いいから、さわんないで」
それだけ告げて、散らばったバッグの中身を、黙々《もくもく》と一人《ひとり》で拾い集める。
うぉ……感じ悪《わ》りぃな……こいつ……。自分の持ち物にさわられるのがイヤだって?
どんだけ兄貴が嫌いなんだっての。
無表情で手を動かす妹を、俺は、ただ無言で見下ろしていた。
「……………………」
気まずい空気が玄関に満ちている。
妹は俺に背を向け、そそくさとパンプスを履《は》き、
「………………いってきます」
義務をいやいや果たしているみたいに呟《つぶや》いて、バタンと強く扉を閉めた。
……とまあ見てのとおり、俺と妹の関係は、こんな感じだ。
別に、たいしてハラも立ちやしねえ。
だってあいつのことは、もう兄妹だと思ってねえからな。
クラスメイトの誰《だれ》それさんに同じことされたと思えば、ああこいつはこういうやつなんだなと諦《あきら》めもつくってもんよ。
へたれ兄貴と笑わば笑え。どうでもいいさ。
けっ、妹とろくに口をきかなくたって、俺《おれ》の生活に支障はないしな。
「……ったく、いつからこうなっちまったのかね」
あいつにも、あんなんじゃなかった頃《ころ》があった気がするんだが。
まあいい。まあいい。イラッときたが、まあいいさ。本来の目的を果たすとしよう。
俺は小便を済ませて手を洗い、リビングのソファにダイブした。そのへんに転がっていた週刊誌を拾い、仰向《あおむ》けの体勢で脚を組む。
あー、俺って、これから勉強をしようとしてたんじゃなかったっけ?
寝ころんで、バトル漫画の絵だけバラバラ眺めていると、どこまでも空虚《くうきょ》な気分になっていく。こんなことしてる場合じゃねーだろと理性が叫ぶが、凄《すさ》まじいかったるさがそれを阻《はば》む。
ああ――やだやだ。勉強したくねえ。
このダルさはたぶん、学生がかかる共通の病気だな。
俺は、水をぶっかけられた犬みたいに頭を振って、立ち上がる。
扉を開けて廊下に出ると、そこで妙なものを見付けた。
「……ん?」
それが落ちていたのは、玄関の隅《すみ》っこ、靴箱《くつばこ》の裏側だ。さっきは気付かなかったが、靴箱と壁《かべ》の隙間《すきま》から、白くて薄《うす》い――ケースのようなものが半分はみ出している。
そいつに手を伸ばしたのは、一種の現実|逃避《とうひ》だろう。勉強やりたくなくてやりたくなくて、なんとか別の行動理由を脳が見付け出そうとしている。
こんなもんを拾ったところで、ほんの数秒の時間|稼《かせ》ぎにしかならないってのに。
だけど、結果から言えばそうでもなかった。俺はこのブツのおかげで、しばらく勉強どころじゃなくなるんだから。
俺は、靴箱の裏から引っ張り出したそれを見た瞬間《しゅんかん》、
「……なんだこりゃ?」
と、素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を上げてしまった。何故《なぜ》って、それが我《わ》が家《や》にあまりにも似つかわしくない代物《しろもの》だったからだ。
これは……えーと……これは……なんだ?
ケースを指に挟んで、ためつすがめつしてみるが、正体が判然としない。
DVDのケースだ。それは分かる。レンタルビデオ屋なんかではよく見かけるケースだし……というかDVDってちゃんと書いてあるしな。だがその中身がよく分からねえ。
このとき俺の表情は、さぞやいぶかしげだったことだろうよ。
そのパッケージの表面には、やたらと目がでかい女の子のイラストが、でんと描かれていた。
小学校高学年くらいの、かわいらしい女の子だ。
「目と髪がピンクだな」
冷静に呟《つぶや》く俺《おれ》。証拠品を検分する探偵《たんてい》の眼差《まなざ》し。
イメージカラーなのか、パッケージ全体を見ても、白とピンクの配色が多い。
まあそれはどうでもいい。問題は、
「なんつーカッコしてんだ、このガキ」
この小さな女の子が、やたらと扇情的《せんじょうてき》な衣装《いしょう》に身を包んでいることだ。水着というか、包帯というか、ちゃんと服を着なさいと言ってあげたくなるような格好。その包帯のような衣服からはロケットブースター的な何かが発生しているらしく、女の子は、星屑《ほしくず》の尾(☆←こういうの)を曳《ひ》いて空を飛んでいた。
でもって、バカでかいメカニカルなデザインの杖《つえ》(槍《やり》か?)を片手で軽々と構えている。
呂布《りょふ》奉先《ほうせん》もかくやというゴツイやつだ。明らかに戦闘用《せんとうよう》。敵兵を薙《な》ぎ払い、あるいは叩《たた》き潰《つぶ》す、世にもおぞましい用途がイヤでも連想された。
ぶっそうなものである。
そして――
パッケージ上部に、おそらくタイトルであろう文字が、丸っこいフォントで表記されていた。
「ほし――くず、うぃっち……める、る? 初回……限定版……? なんのこっちゃ?」
色々《いろいろ》ともったいぶったが、つまりはアニメなのだろう。たぶん。俺はそういうのをサッパリ見なくなって久しいので、よくは分からないのだが。
「で……なんでこんなもんが、ここに?」
俺が疑問符を頭に浮かべたときだ。『星くず☆うぃっちメルル』とやらを両手に構え、玄関に佇《たたず》んでいる俺の真正面で、ばんっと勢いよく扉が開いた。
「ただいま――って、どしたの京介《きょうすけ》? 玄関で胎児《たいじ》のように丸まっちゃって?」
「気にするなお袋。ちょっとした気分転換だ」
危ねえ――!? 社会的に死ぬかと思ったわ!
だが問題ない。扉が開いた瞬間《しゅんかん》、俺はその場に伏せてブツを隠していた。
ふぅ……ぎりぎりのタイミングだったぜ。
誰《だれ》の仕業《しわざ》か知らねえが、俺を陥《おとしい》れるための罠《わな》だったんじゃなかろうな。俺がこんなもんを持っているところを目撃《もくげき》された日には、家族|会議《かいぎ》でつるし上げられかねん。
桐乃《きりの》のゴミを見るような視線《しせん》が、いまから想像できる。
買い物袋をぶら下げたお袋は、異様なポーズでいる俺を、哀《あわ》れみの視線で見下ろした。
「……さっきおとなりの奥さんから聞いたんだけどね? 最近、学生専門の心理カウンセリングが流行《はや》っているそうなの」
「ま、待て……早まるな、俺は正気だ。ただ……そう、今日《きょう》は、ちょっと勉強のしすぎでな?」
「ウソおっしゃい。あんたがそんなストレス溜《た》めるほど勉強するわけないでしょ?」
ひでえ言い草だな親のくせに。もっと自分の子供を信用しろよ。
「んなことねえって。俺《おれ》の成績《せいせき》が悪くないの、知ってるだろ?」
「だってそれは、麻奈実《まなみ》ちゃんのお陰《かげ》でしょう。優秀《ゆうしゅう》な幼馴染《おさななじ》みに家庭教師してもらってて、何を自分の手柄《てがら》のように威張《いば》ってるの? あんた、自分|一人《ひとり》じゃ勉強なんてやりっこないでしょうが」
「くっ……」
まったくの図星なので、何も言い返せない。五分前まで漫画読んでたしな、俺。
俺は尺取《しゃくと》り虫《むし》のように床《ゆか》を這《は》いずり、『星くず☆うぃっちメルル』を服の下に隠しつつ、その場から待避《たいひ》した。そんな俺に、背中からお袋の声がかかる。
「京介ー? お母《かあ》さんはそんなに気にしないけど、玄関でHな本広げるのはやめなさいねー?」
すごく惜しい。俺の奇行からそこまで洞察《どうさつ》したお袋はさすがといえよう。俺の部屋《へや》を勝手に掃除して、秘蔵《ひぞう》のコレクションをすべて暴《あば》き出したという経歴はダテじゃあない。
だがいま、俺が腹に隠しているコレは、ある意味それ以上に見付かってはならない代物《しろもの》だ。
慎重にお袋をやり過ごした俺は、ラガーマンがボールを堅固に抱きかかえているような体勢で、素早《すばや》く階段を駆け上った。部屋に飛び込み、扉を閉めて、ようやく一息。
「ふぅ……」
ごそごそと腹からブツを取り出し、利き手で恭《うやうや》しく掲《かか》げる。左手の甲で冷や汗をぬぐう。
ミッションコンプリート。このへんの仕草《しぐさ》は実に手慣《てな》れたものだ。理由はあえて言わないが、健全《けんぜん》な中高生男子|諸君《しょくん》ならば、必ずや察してくれるものと信じている。
「…………持ってきちまった、な」
『星くず☆うぃっちメルル』とやらをすがめ見つつ、呟《つぶや》く。
まあ、あの状況では仕方なかったと思う。勉強をサボる口実捜しをしていた最中でもあったし、このここに存在するわけがない代物≠ノ、強く興味《きょうみ》を惹《ひ》かれているのも事実だ。
俺は、本日の受験《じゅけん》勉強をやむを得ない事情により切り上げて、さっそくブツの検証を始めることにした。
俺の部屋は六畳間。ベッドに机。参考書や漫画等を収納した本棚。そして、クローゼットなどがある。
カーペットは黄緑色《きみどりいろ》で、カーテンは青。壁《かベ》にはお袋が町内会でもらってきた和風っぼいカレンダーが貼《は》られているくらいで、ポスターなんかはいっさいない。
その他《ほか》にはミニコンポがあるくらいで、パソコンやらテレビやらゲームやらはない。
どうだ、無個性だろう? なるべく『普通』に生きるというのが、俺の主義で、性《しょう》にも合っている。
ちなみにエロ本を隠すのはもう半分|諦《あきら》めているので、ダンボールに入れてベッドの下に収納してある。でもつてお袋には『ベッドの下は掃除しないでください(←五体投地)』と、お願《ねが》いしておいた。……お袋様がその不可侵条約をきちんと守ってくださる保証はないし、毎日コレクションの更新状況を確認《かくにん》されていたとしでも、俺《おれ》には知る術《すベ》がないわけだが……
そこはあえて考えない! 自我《じが》を守るために!
なるべく無難《ぶなん》なチョイスをして、もしも見られたとしでも家族会議にならないよう予防線を張っておくくらいが、せいぜい俺が講じることのできる最大の防御策《ぼうぎょさく》である。
……つーか、マジな話、自分の部屋《へや》がないやつは、どこに隠しているんだろうな?
俺には開き直って堂々とフルオープンにしておくくらいしか、有効な策が思いつかないんだが。自分の部屋に鍵《かぎ》がかからない程度で悩んでいる俺は、わりと贅沢者《ぜいたくもの》なのかもしれん。
そんなふうに、深遠な思考を巡らせていたのは現実時間にして数秒。
俺はベッドに腰掛け、足を組む。DVDケースを片手で持ち、「ふむ」とあごに手をやる。
「見れば見るほど、我《わ》が家《や》にはそぐわんパッケージだな……」
蛍光灯《けいこうとう》の光を浴びて、星くず☆うぃっちの笑顔《えがお》がキラキラきらめく。これほどまでにゴツい破壊《はかい》兵器を構えて笑顔を浮かべているのが、考えようによっては恐ろしい。
「ふーむ」
んでさ……コレ、誰《だれ》の?
俺は我が高坂《こうさか》家《け》に住まう人々の顔を、順番に頭に思い描く。……が、やはり、『星くず☆ういつちメルル』とやらの所有者にふさわしい人物は一人《ひとり》もいなかった。
当然、我が家のリビングで、このアニメが放映されていた覚えもない。
(このとき俺は、パソコンでDVDが視聴《しちょう》できることを知らなかった)
つーと……どうなるんだ? これは? どうしてコレは、あそこにあったんだ?
俺が思索《しさく》を継続しつつ、パカっとケースを開いたときだ。
「ブフッ……!?」
さらなる衝撃《しょうげき》が俺を襲《おそ》った。このアニメ絵パッケージを見たときより、ずっと強烈なやつだ。
結論《けつろん》から言えば、DVDケースの中には『星くず☆うぃっちメルル』のDVDは入っていなかった。代わりに違うDVDらしきものが収まっていた。
……よくあることだ。ミニコンポでCDを聞いたあとなんか、俺も一つ一つ『正しいケース』 に収めるのが面倒《めんどう》で、シャッフルしちまうことがあるからな。
で、後でどのCDをどのケースに入れたのか分からなくなって、混乱したりする。
たぶんコレの持ち主も、そんなふうに横着《おうちゃく》して『星くず☆うぃっちメルル』のDVDケースの中に、違うDVDだかなんだかを入れてしまったのだろう。
ああ、ああ、分かるぜっ よくある話さ。
だが――だが……な……?
入っているDVDのタイトルがどうして『妹と恋しよっ♪』なんだ? よりにもよって『誰』に『何』をそそのかしてんだよおまえ。
しかもなんだこの『R18』という、あってはならない魅惑《みわく》の表記は。
「…………落ち着け……!?」
俺《おれ》は額《ひたい》に冷や汗をびっしりかいて、呼吸を乱した。
やばかったっ。 マジでやばかったっ。 何がやばかったかって、さっきお袋と遭遇《そうぐう》したシーン。
コレ、中身見付かってたら自殺もんだろ、俺。まさかホントに俺を陥《おとしい》れる罠《わな》だったのか?
この手のものはよく分からんが、本能がぎんぎんに警笛《けいてき》を鳴らしている。なんだこのタイトルから発されているドス黒いオーラは……! 仮に|魅惑の《18禁》表記がなくともタイトルだけで分かるよ! どう考えてもコレ、俺がもっとも持っていてはならない代物《しろもの》だろうが……!
「京介《きょうすけ》――ちゃんと勉強やってるー?」
「ヒィィィィィィィィィィイィッ!?」
俺は断末魔《だんまつま》の絶叫を上げながら布団《ふとん》をひっ被《かぶ》った。
チラリと扉の方をうかがうと、ノックもなしに扉を開け放ったお袋は、息子《むすこ》の狂態に唖然《あぜん》としていた。
「……ごめん、なんか、いけないタイミングだった……?」
「気にするなお袋。ちょっとした発声練習だ。――つうかノックしてくれ、頼むから」
「うんごめん。次からはそうするから」
明らかに作り笑いと分かる表情で言って、扉を閉めるお袋。
いかん……ブツを隠し切れたのはいいが、絶対妙な誤解をされただろ……くそう。
……なんか今日《きょう》は散々《さんざん》だな、俺。……それというのもぜんぶ、こいつのせいだ。
布団をひっ被ったまま、謎《なぞ》のDVDケースを見つめる。
「ちくしよう……」
こうなったら、意地でもコイツの持ち主を見つけ出してやらねば気が済まん。
俺は八つ当たり気味の決意を燃《も》やすのであった。
……しかし、余計に分からなくなってきやがったな。
この妙ちきりんなDVDの持ち主のことが、だ。『星くず☆うぃっちメルル』とやらのDVDケースの中に、『妹と恋しょっ♪』と題された怪《あや》しさ抜群のブツが入っていた事実。
俺の予想が当たっているのだとすれば、コレの持ち主は、『星くず☆うぃっちメルル』と『妹と恋しょっl』の両方を所有しているということになるよな。
そして我《わ》が家《や》の靴箱《くつばこ》の裏なんて場所に落ちていたことを鑑《かんが》みるに、所有者は、我が家に住んでいる俺・妹・お袋・親父《おやじ》――以上四人の中にいる可能性が高いわけだ……。
もちろん家族以外の人間が、この家にまったく出入りしていないわけじゃないから、『部外者犯人[#「犯人」に傍点]説』を完全に否定するわけにもいかない。
だがなあ……誰《だれ》がわざわざ俺ん家《ち》に『妹と恋しょっ♪』IN『星くず☆うぃっちメルル』を持ち込んで、靴箱の裏に落としていくっていうんだ? 状況がまったく想像できねえよ。
「むう……」
とにかくだ。『部外者犯人説』は現状、考えるだけ無駄《むだ》な気がするので、ひとまず容疑者は家族内に絞って考えてみることにする。
俺《おれ》・妹・お袋・親父《おやじ》……この中に『犯人』がいるとして。客観的《きゃっかんてき》に考えて、一番アヤシイのは、誰《だれ》だ……? 『星くず☆うぃっちメルル』。そして『妹と恋しょっ♪(18禁)』といったアイテムを、家族の中で一番持っていそうなやつは……?
「俺だから困る」
いやいや、いや。もちろん俺じゃあないぜ。いまのはあくまで、家族の中で一番そういうのを持ってそうなヤツは誰か、という意味だ。自分で言ってて哀《かな》しくなってきたけども。
とにかくアレは俺のじゃない。だってアニメとか興味《きょうみ》ねえし。そういう話をしているやつらはクラスにもいるが、俺とはあまり接点がない。
しかしそりゃ、家族の誰にしたって同じなんだよな……。
分かり切った結論《けつろん》に、俺は頭を抱えて悩んでしまった。
だって。まずお袋はないだろ? そんで親父は心底メカ音痴《おんち》だから、DVDプレイヤーが使えるとは思えないし、あの堅物の極道《ごくどう》ヅラが、アニメ観《み》て喜んでいる光景なんざ考えたくもねえ。でもって妹は――一番最初に除外すべき人物だ。五年くらい前ならアニメとか観ていた気がするけど、最近は流行のドラマやら音楽番組くらいしか観てないんじゃねえかな。
子供向けのアニメDVDなんざ桐乃《きりの》の趣味《しゅみ》とはかけ離《はな》れている。
いくらなんでもアイツが『星くず☆うぃっちメルル』を、DVD買ってまで観ている光景なんてまったく想像できない。『妹と恋しょっ♪』に至っては、口に出すのもおぞましいといったところだろう。だって桐乃だぜ? イマドキの女子中学生。今日《きょう》だって、合コンにでもでかけたに違いないってのに――
「はあ……参った。さっぱり分からん」
俺の推理は、完全に暗礁《あんしょう》に乗り上げてしまった。やっぱり家族の中にゃ犯人はいないのかとも思うが、疑う範囲《はんい》を部外者にまで拡大しちまうと、今度は容疑者が多すぎて埒《らち》が明かない。
だめだこりゃ。とりあえず俺に探偵《たんてい》の才能はねえようだ。
さーて、どうするよ俺。もう……面倒《めんどう》くせえし、やめておくか?
いや……やっぱ、どうしても気になる。ぜってー犯人を見付けてやる。
自分でも不思議《ふしぎ》なんだが、このとき俺は珍しく積極的《せっきょくてき》になっていた。普段《ふだん》の俺なら、ここで追及を打ち切って、夕飯まで昼寝でもしていただろう。そして、もしもそうしていたなら、これまでと同じ平穏《へいおん》な生活が、これからも続いていたに違いない。
だが、そうはならなかった。俺が俺の意思で、この件について追及をやめないと決めたからだ。むろんこの時点では知るよしもなかったが、良くも悪くも俺は、このとき自分で自分の運命を確定《かくてい》させてしまったのだろう。
この件で、俺《おれ》は、超特大の地雷《じらい》を踏み付けることになる――。
我《わ》が家《や》の夕食は午後七時ジャスト。親父《おやじ》が帰宅するのが、いつもこのくらいの時間だからだ。このときに食卓についていないと、問答無用《もんどうむよう》で飯抜きにされる。
現在六時四十五分。頭をぼりぼりかきながら部屋《へや》を出た俺は、階段を下りていく。が、途中で足を止める。眼下、玄関のあたりに桐乃《きりの》の姿を発見したからだ。
……ああ、帰ってきてたのか。
そういえば桐乃の門限は六時半だったか。その時刻が早いか遅いかはさておき、守ってはいるらしい。まあ見た目は高校生っぼくても、一応中学生だしな。
ちなみに今日《きょう》の桐乃は、自黒ストライプのTシャツに、黒い短パンとスカートを混ぜたような代物《しろもの》を穿《は》いている。よく知らないが、セシ――なんとかというブランドのものらしい。こいつがファッションモデルだと言われたら、誰《だれ》もが信じるだろう。
……かわいいじゃねえか。
だがこの妹様には、あまり積極的《せっきょくてき》に近付きたくない。
あっちは俺のことが嫌いみたいだし、それならお互いそばに寄らないようにすればいいだけの話である。ぐだぐだ言っても兄妹やめられるわけじゃなし。
それなりに折り合いつけてやってかないとな。
――とまあそういうわけで、桐乃が食卓に向かうのを階段途中で待っている俺。
「……ん?」
しかしどうも様子《ようす》がおかしい。扉を開ければすぐリビングだってのに、桐乃はそっちにはいかず、玄関付近でぼーっと突っ立っている。
……なにやってんだ、あいつ?
その場でジッとしているのもバカらしいので、俺は階段を下りていった。
リビングへの扉の前に立ち、ノブに手をかける。
「…………」
俺は、ふと首だけで振り返った。
「……なぁ。なにやってんの?」
「…………は?」
すげえ目で睨《にら》まれた。
……くそ。こうなることが分かってて、どうして俺はこいつに話しかけるかな……。
バカじゃねえの?
「チッ、なんでもねえよ」
舌打ちをして、俺はノブを強く回した。
食卓に、夕食のカレーと味噌汁《みそしる》が並んでいる。家族が揃《そろ》って食事を摂《と》るこの部屋《へや》は、リビング・ダイニング・キッチンが一体型になっているため、仕切りがなくて広々としている。
俺《おれ》と妹が並んで椅子《いす》に腰掛け、対面には親父《おやじ》とお袋が座っている。
テレビではニュースキャスターが、海外への輸出《ゆしゅつ》がどうのこうのと、最近注目されている時事を読み上げている。
粛々《しゅくしゅく》と味噌汁を啜《すす》っている親父。風呂上《ふろあ》がりにはいつも着流し姿でいるので、圧迫感のある雰囲気も相まって極道《ごくどう》のようにも見える。実はまったく逆で、警察《けいさつ》に務めているのだが。
一方そのとなりでは、お袋が、ぼりぼり福神漬《ふくじんづけ》を噛《か》んでいる。こちらはもう、見るからに専業主婦のおばさんという印象。桐乃《きりの》とはまったく似ていない。
妹は超無言。こいつは基本的に、家族には無愛想《ぶあいそう》なやつである。無言でメシを食っている姿を見ると、桐乃は間違いなく親父似だと思う。主に鋭《するど》い眼光とかがな。
ちなみに俺は、お袋と雰囲気がそっくりだとよく言われる。
そんな我《わ》が家《や》の食卓は、ごく普通の一般家庭という感じで、たいへんよろしい。
俺は黙々《もくもく》とカレーを食いながら『作戦』を発動する機会《きかい》を探っていた。
もちろん例のDVDの持ち主を特定してやるための作戦である。
……といっても、そんなにたいそうなものじゃない。実にひねりのない、シンプルなものだ。
ようするに、あのまま推理を続けても埒《らち》が明かないので、容疑者の揃っている場で、ゆさぶり[#「ゆさぶり」に傍点]をかけてみようと思ったのだ。そして、うってつけの場が目の前にある。
ずず、とアサリの味噌汁を飲み干してから、俺は誰《だれ》にともなく問うた。
「俺、メシ喰《く》ったらコンビニいくけど。なんか一緒《いっしょ》に買ってくるものある?」
「あら、じゃあハーゲンダッツの新しいの買ってきてちょうだい。季節限定のやつね」
「ほいよ」
なんでもないお袋との会話を挟んでから、俺はしれっと切り出す。
「そういやさ。俺の友達が、最近女の子向けのアニメにはまってるらしいんだけど。えーと、確《たし》か、ほしくずなんとかっつーやつ」
「なぁに、突然?」
俺のゆさぶりに、蔵初に反応してきたのも、お袋だった。まさか……
「イヤ別に、面白《おもしろ》いってすすめられたからさ。一回くらい観《み》てやってもいいかなって」
「やぁだー、そういうのって確かオタクっていうんでしょ? ほら、テレビとかでやってる……あんたはそういうふうになっちやだめよー? ねぇお父《とう》さん」
お袋に話を振られた親父は、ほとんど表情を変えずに淡々《たんたん》と答える。
「ああ。わざわざ自分から悪影響《あくえいきょう》を受けに行くこともあるまい」
ふぅん、やっぱそういう認識《にんしき》か。よく知らないもんを悪くいうもんじゃないけど、正直あんまりいい印象はねえよな、普通。俺なんかは、別に人がどんな趣味《しゅみ》してようといいじゃねえかって思うけど。だってカンケーねえし。
とはいえ、ここで両親に反論《はんろん》しても面倒《めんどう》くせえだけなので、適当に「へーい」と言っておいた。こりゃ、お袋は完全にシロだな。言動によどみがねえもん。
本音全開で喋《しゃべ》ってるってことだ。んで、親父《おやじ》は最初から除外。使い方を知らないクセにDVDを持ってるわけがない。
とすると……消去法で……残っているのは……?
俺《おれ》は、そっととなりに座っている桐乃《きりの》を横目で見た。
「………………」
桐乃はきつく唇を噛《か》みしめていた。全身に固く力を込めているのか、手に持った箸《はし》の先が、小刻みに震《ふる》えている。……ええ? お、おいおい……?
「……桐乃?」
妹の異常に気付いたお袋が軽く呼びかけると、
「……ごちそうさまっ」
ばん、と苛立《いらだ》たしげに立ち上がった桐乃は、スタスタと早足で部屋《へや》を出て行く。
バタンと強く扉を閉める。だんだんだんだんだん、と階段を駆け上がる音。
残された俺たちは唖然《あぜん》とする。
「……どうしたのかしら……あの子?」
「さ、さぁ……な」
きょとんとするお袋に、俺は適当に答えた。正直、俺にもよく分からなかったからだ。
……なにキレてんだ? あいつ……。いまのやり取りのどこに、桐乃が怒らなきやならないポイントがあったってんだよ。もしもあいつが『犯人』で、俺のゆさぶりに気付いていたとしたなら、なおさらおかしい。
普段《ふだん》のあいつだったなら、あんなにあからさまに動揺して、俺にシッポを掴《つか》ませたりはしないはずだ。どうしたってんだ? ぜんぜん分からねえよ、桐乃。
「……はぁ……」
だが……桐乃のあの態度は普通じゃない。……俺のゆさぶりに反応した……とも考えられる。
もちろんこんなもんで犯人を特定できるとは思わないし、まだまだ家族の中では怪《あや》しいというレベルではあるが……
玄関で俺が拾った『星くず☆うぃっちメルル』とやらの持ち主は……
妹……なの……か?
「母《かあ》さん、あとで桐乃を呼んできなさい」
親父の渋い声が、ずしりと食卓に響《ひび》いた。あーあ、怒られるぞ、あいつ。しーらね。
DVDの持ち主は桐乃。そう仮定してみると……確《たし》かに色々《いろいろ》なことに辻褄《つじつま》が合う。
落としたのは夕方、俺《おれ》とぶつかったときだろう。あのときバッグに入っていた例のブツが、散らばった拍子に靴箱《くつばこ》と壁《かべ》の隙間《すさま》に入っちまった。
で、桐乃《きりの》は出かけた先でバッグを開き、ブツが入っていないことに気が付いた。
それで夕飯の直前、玄関で探しものをしていたわけだ……。
補足しておくと、ケースの中身を入れ間違えたという俺の想像が正しいのなら、桐乃が持っていくはずだったのは『妹と恋しょっ♪』ではなく『星くず☆うぃっちメルル』の方だろう。
………いやまあ、アレを持っていかなきやならん用事というのが何なのか、すでに俺の想像の埒外《らちがい》ではある。合コンだとばかり思っていたんだが、合コンにアニメDVD持ってく女子中学生はいないだろうよ。友達に会いにいったのは間違いないと思うんだがな。
「………うーむ」
まったく分からん。そもそもいまだに『桐乃と子供向けアニメ』という組み合わせが信じられない。なんかの間違いじゃないのか? だって桐乃だぜ? ……有り得ないだろ。
『桐乃犯人説』を立ち上げてみたはいいが、このときの俺の心情としては、半信半疑以下。
……まあ、とりあえず、ちょっと引っかけてみっかな。
「ごっそさん」
メシを食い終わった俺は、食卓をあとにした。一旦《いったん》自分の部屋《へや》に戻り、財布《さいふ》を持ち出す。
妹の部屋の前で、わざとらしく言う。
「さぁて。コンビニいくか」
……俺に役者の才能はねえな。まあいい。どうせ上手《うま》くいくとも思っちやいない。こんなのはあくまで引っかかったら逆にびっくりの余興《よきょう》みてえなもんだ。
だんだんだんだんと、あえて音を出しながら階段を下りる。バタンと勢いよく扉を閉める。
家を出て、ひとまずコンビニへの道程《みちのり》を歩いていく。角を曲がったところでコンビニへは向かわず、違う道を通って家の裏手へと回り込む。
何をするつもりかって? いや、『犯人』の立場で考えてみたのさ。もしも桐乃が犯人だとしたら、たぶんヤツはもう、俺が例のブツを拾ったことに気が付いている。
で、だ。俺が桐乃の立場だったら、どうするか。
一番望ましいのは、なんとか俺に気付かれないようブツを回収して、あとは知らん顔している――これしかない。
さっきの桐乃は、明らかに様子《ようす》がおかしかった。冷静さを失っていた。だとすると――俺が外出したスキに、我慢できなくなってブツを捜し始めるかもしれない。んでまあ、引っかかる可能性は低いが、簡単《かんたん》な罠《わな》を張ってみたわけだ。
「いや、さすがにねえだろ……まさか……な?」
呟《つぶや》きながら、俺は裏手の勝手口から我《わ》が家《や》に入り、足音を忍ばせて階段を上っていく。
そして、勢いよく自室の扉を開け放った。
ギィッ!
「………………………………………おい…………何やってんだ?」
「……っ……!?」
ええええええ!? う、嘘《うそ》だろ? マジでいやがったよ……こいつ。
ど、どんだけテンパってんだ、おまえ?
部屋《へや》の中心で四《よ》つん這《ば》いになっていた桐乃《きりの》は、ビクッと青ざめた顔で振り向いた。
怯《おび》えたような顔。けれども相変わらずのゴミを見るような視線《しせん》が、俺《おれ》の胸にぐさぐさ刺さる。
「……何やってんだ? って聞いたんだが?」
「………………なんだって、いいでしょ」
こちらにケツを向けたまま、噛《か》みつくように呟《つぶや》く桐乃。緊張《きんちょう》のせいか、息が荒い。
「……よくねえだろ? 人の部屋に勝手に入って、家捜《やさが》しして……おまえが同じことされたら、どう思うよ?」
しかもおまえが手を突っ込んでいたのは、よりにもよって俺のエロ本の隠し場所じゃねえか。
口には出せぬ怒りも相まって、俺は冷然と言ってやった。
「………………」
桐乃は無言で視線をそらす。怒りのためか、顔が紅潮《こうちょう》し始めている。それから、ゆっくりと無言で立ち上がり、こちらに向かって歩いてきた。
「どいて」
「やだね。俺の質問に答えろよ。――ここで何やってたんだ?」
「どいて!」
「……分かってんだよ。おまえが探してるのはコレだろう?」
至近距離《しきんきょり》でメンチ切ってきた妹に、内心非常にビビリつつ、俺はおもむろに、腹に隠していた『星くず☆うぃっちメルル』のDVDケースを取り出して見せる。桐乃の反応は劇的《げきてき》だった。
「それ……!?」
「おっと」
もの凄《すご》い剣幕《けんまく》で手を伸ばしてきたが、俺はそれを手際《てぎわ》よく回避《かいひ》。
ハッタリの余裕を顔面《がんめん》に貼《は》り付け、とんとんケースの背で掌《てのひら》を叩《たた》く。
「ふーん。やっぱコレ、おまえのだったんだな?」
「……そんなわけないでしょ」
これ以上ないくらい不機嫌《ふきげん》な声。おいおい、台詞《せりふ》と行動が一致してねえぞ?
「違うのか? これ、夕方玄関で拾ったんだが。俺とぶつかったときに、おまえが落としたんじゃねえの?」
「絶対違う。……あたしのじゃない。そ、……そんな……子供っぽいアニメなんか……あたしが見るわけない……でしょ」
断じて認めるつもりがないらしい。埒《らち》が明かねえな、これ。
「コレを探してたんじゃないなら、じゃあおまえ、俺《おれ》の部屋《へや》で何やってたんだよ?」
「……それは……それは!」
「それは? なんだよ?」
俺が促《うなが》すと、桐乃《きりの》は再びだんまりを決め込む。
「………………………………」
ぶるぶる肩を悔しそうに震《ふる》わせて、唇を噛《か》みしめ、俯《うつむ》いてしまう。
俺の追及に、桐乃が強い屈辱《くつじょく》を感じているのは明らかだった。
そりゃまあ、例えば俺にしてみりや、大嫌いな相手に『なぁおい、このエロ本、おまえのなんだろ? ヒヒッ』とか言われてるようなもんだからな。そりゃメチヤクチャ悔しいし、死にたくなるほど恥ずかしいだろうよ。
「……………っ……………」
親の仇《かたき》を見る瞳《ひとみ》で、桐乃は無言の敵意をビシバシぶつけてくる。
……ちくしよう。なんで妹に、憎しみの込められた目で睨《にら》み付けられなくちやならんのだ。
クソ……だんだんバカらしくなってきたぞ……。俺はこんなやつのことなんざ、どうでもいいってのに。なんでこんな気まずい真似《まね》しなくちやなんねえわけ?
やめだやめだ! やってられるか!
「ほらよ」
俺は投げやりに、DVDケースを妹の胸に押しつけた。桐乃は、瞳に憎悪《ぞうお》を宿したままで俺を見上げてきた。
「大事なもんなんだろ? 返すから、ちゃんと受け取れ」
「だ、だから、あたしのじゃ……」
「じゃあ代わりに捨てといてくれ」
「は?」
何を言われたのか分からない――そんな顔で俺を見上げる桐乃。
なんだそのツラ? 俺は別に、妹|苛《いじ》めて楽しもうと思ってたわけじゃねえんだよ。このDVDが誰《だれ》のなのか気になってただけで、そりゃもう分かったんだ。これ以上おまえとぐだぐだやってられるか。――そんな内心はおくびにも出さず、俺は空気を読んだ台詞《せりふ》を言う。
「悪かったな、俺の勘違《かんちが》いだった。コレがおまえのもんじゃないってのは、よく分かったよ。誰《だれ》のなんだかしらないが、俺が持っててもしょうがねえ。謝《あやま》りついでに頼むわ。コレ、おまえが捨てといてくれねえかな、俺の代わりに」
そこまで妥協してやって、ようやく桐乃は、
「………………ん……ベ、別に……いいけどさ」
と、ブツを受け取ってくれた。俺が脇《わき》にどいて、部屋の出入口を開けてやると、桐乃は俺と入れ替わりで部屋《へや》を出て行く。俺《おれ》はそのまま部屋の奥へと進む。
「ふぅ……」
ったく、ありえねえ! 妹とこんなに口利いたの、何年ぶりだよ? 俺。
超疲れたァ――俺はベッドにどさりと座り込んで、天を仰《あお》ぐ。
ところがそこで、とっくに行っちまったと思っていた妹から、声がかかった。
「……ね、ねえ?」
「あ?」
まだいたのかコイツ。面倒《めんどう》くせえな、さっさと行っちまえよ。
俺が視線《しせん》を向けると、妹は、チラチラ窺《うかが》うような感じでこちらを見ていた。普段《ふだん》のこいつなら絶対に見せない殊勝《しゅしょう》な表情だ。……な、なんだ……? ……どうしたってんだ?
俺は妙に胸騒《むなさわ》ぎを覚えながら、「なんだよ?」と言糞を促《うなが》す。
「……………やっぱ。……おかしいと、思う?」
「なにが?」
「だから…‥その、あくまで例えばの話。……こ、こういうの。あたしが持ってたら……おかしいかって聞いてんのっ……」
…………ちっ。
「別に? おかしくないんじゃねえ?」
心の中で舌打ちして、そう応《こた》えた。さっさとこいつを追い払いたかったし、そう応えないと、またキレそうだったからだ。……ったく、なんでまだ喧嘩腰《けんかごし》なんだよ。……俺はおまえの矜持《きょうじ》をおもんばかって、ことを荒立てないようブツを返してやったんじゃねえか。そもそもおまえがドジ踏んだのが原因だろ……俺に感謝《かんしゃ》こそすれ、逆恨《さかうら》みするってのはどうなんだよ。
「……そう、思う? ………………ほんとに?」
「ああ。おまえがどんな趣味《しゅみ》持ってようが、俺は絶対バカにしたりしねえよ」
だって俺、カンケーねえし。
「ほんとにほんと?」
「しつけえな、本当だって。信じろよ」
内心超投げやりに言った台詞《せりふ》だったのだが、どうやら桐乃《きりの》は俺の言葉に満足したらしい。
「…………そっか。……ふぅん」
何度か領《うなず》きを繰《く》り返し――後生大事《ごしょうだいじ》に『星くず☆うぃっちメルル』を抱きかかえ、その場から走り去っていった。その光景が、何故《なぜ》だか俺に郷愁《きょうしゅう》を抱かせる。ずっと昔、こんなことがあったような気もする。……もう忘れたけどな。
「……扉くらい閉めていけっての」
そうぼやいて、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。
で――それから二日間は、何事もなくすぎた。俺《おれ》と桐乃《きりの》はいつもどおり、会話もなく、目も合わさず、他人の距離感《きょりかん》を保ったまますごしていた。妹の意外な一面を垣間見《かいまみ》た俺だったが、別段何をしようとも思わなかったし、さっさと忘れちまおうと割り切っていた。
そりゃ、なんでまた、あの妹があんなもんを……? という興味《きょうみ》は湧《わ》いていたけどな。
だからといって、他人の秘密をほじくり返そうとは思わんさ。面倒《めんどう》くせえもの。
だが……
そんなある日の深夜。
安らかに眠っていた俺は、バチンと煩《ほお》に強い痛みを感じた。
「っだ!?」
最悪の目覚め。どうやら頬を張り飛ばされたらしい。
な、なんだ!? 強盗か!? 仰天《ぎょうてん》した俺は、慌《あわ》てて目を開ける。
「っ」
まぶしい。部屋《へや》の電気はつけられているようだ。腹に重みを感じるが、手足を拘束《こうそく》されているようなことはない。強盗にしては中途半端な……って、おい!
「お、おまえっ」
襲撃者《しゅうげきしゃ》の姿を認めた俺は、目を見張ってしまう。いきなり夜襲をかけられたもんだから、心臓《しんぞう》がばっくんばっくんいってやがる。
「…………静かにして」
なんと襲撃者の正体は、パジャマ姿の桐乃だった。ベッドで上体を起こした俺に、覆《おお》い被《かぶ》さるような体勢で四《よ》つん這《ば》いになっている。化粧をおとした妹の顔が、すぐ間近にある。
「……っこの、おまえな……!? なんのつもり……」
「…………静かにしろって言ってるでしょ……いま何時だと思ってんの?」
俺が非難《ひなん》の声を上げると、桐乃は小声で恫喝《どうかつ》してきた。
いま何時だと思ってるってのは、この場合、俺の台詞《せりふ》だと思うんだがな。
……つーか、俺はいま……深夜、自室のベッドの上で、妹に覆い被さられて、至近距離《しきんきょり》で見つめ合っているわけだが……。このシチュエーションは……いったい? このシーンだけ切り取ってみりやラブコメちっくだが、俺の心臓は違う意味で張り裂けそうだ。
「と……とりあえず、ベッドから下りろ……」
呼吸を整《ととの》えながら言ってやると、桐乃は明らかにムッとした表情で、俺の言葉に従った。
これが他《ほか》の女なら、俺だって(驚《おどろ》く以外の理由で)動揺しただろうが、妹に乗っかられても重いだけである。どんなに見てくれがよかろうと、こいつは異性のうちに入らない。
妹を持つ兄なら、みんなそう言うはずだ。
「はぁ」
俺はこめかみを指で押さえ、ため息をついてから聞いた。
「で? どういうつもりだ?」
「…………話があるから、ちょっと来て」
なんでおまえがキレ気味なんだよ……。いきなり頬《ほお》を張り飛ばされたこっちの方が、よっぽどムカついてるっての。それでもちゃんと相手をしてやる俺《おれ》は、ホント人間ができているよな。
「話だぁ? こんな時間にか?」
「そう」
「すげー、眠いんだけどな、俺。……明日《あした》じゃ駄目《だめ》か?」
あからさまに嫌《いや》そうに言ったのだが、桐乃《きりの》は首を縦《たて》に振らなかった。
むしろ『バカじゃん?』みたいな顔で返事をした。
「明日じゃダメ。いまじゃないと」
「どうして?」
「……どうしても」
はいはい。理由は言わない。主張も曲げない。どんだけわがままなんだよ、この女。
こんな妄言《もうげん》はうっちゃって眠りたいのが本音だったが……あいにく目が冴《さ》えてしまったので仕方ない。面倒《めんどう》くさいが返事をしてやる。
「……どこへ来いって?」
「……あたしの部屋《へや》」
親の仇《かたき》でも見るような目で言って、桐乃《きりの》は俺《おれ》の袖《そで》を引っ張った。
やれやれとかぶりを振って、俺は抵抗を諦《あきら》める。
「行けばいいんだろ……行けば」
なんだってんだよ、本当。
妹の部屋《へや》は、俺の部屋のすぐとなりにある。一昨年《おととし》の春、桐乃が中学に上がったので、親父《おやじ》があてがってやった部屋だ。ろくに使っていなかったボロ和室を、わざわざ洋室にリフォームした部屋で、俺自身は一度も入ったことがない。
今後もないだろうとばかり思っていたのだが……よりにもよって深夜に招かれることになろうとは。今朝《けさ》までの俺なら、絶対に信じられないだろうな。なにせ、いまだって何かの冗談《じょうだん》じゃないかと疑っているくらいなんだから。
「……いいよ、入っても」
「……おう」
先導《せんどう》していた桐乃に促《うなが》され、俺は妹の部屋へと、初めて足を踏み入れた。特に感慨《かんがい》はないが。妙に甘ったるいにおいがする。
……ふーん。俺の部屋より広いじゃねえか。
八畳くらいある。ベッドにクローゼット、勉強机、本棚、姿見、CDラック……等々《などなど》。
内装自体は俺の部屋と、それほど代わり映えしない。全体的に赤っぽいカラーリングだ。
違うところといえば、パソコンデスクがあるくらいか。
個性には乏《とぼ》しいが、わりと今風で、俺が抱いている桐乃のイメージと一致する部屋だった。
「……なにジロジロ見てんの?」
「別に見てねえよ」
信じらんねえ。自分で連れてきたくせに、この言い草。
桐乃はベッドにちょこんと腰掛け、地べたを指差す。
「座って」
いたって自然に言うけどな。妹よ、それは奉行《ぶぎょう》と罪人の立ち位置だぞ?
「……おい、せめて座布団《ざぶとん》をよこせよ」
「………………」
桐乃はすごく嫌《いや》そうに眉《まゆ》をひそめ、猫の座布団を投げてよこす。
俺はありがたく猫の顔面《がんめん》を尻《しり》に敷《し》いて、あぐらをかいた。
……ほんっとこいつ、自分の持ち物に俺が触れるのが気に入らんらしいな。菌《きん》がつくとでも思ってんのかね? この年頃《としごろ》の女ってのは、みんなそうなのか? あー、やだやだ。
「で?」
俺は無造作《むぞうさ》にあごをしゃくった。桐乃はムスっとしたまま、落ち着きなく視線《しせん》をさまよわせている。やがて、すぅはぁと深呼吸をしてから、こう呟《つぶや》いた。
「…………があるの」
「なに?」
声が小せえよ。聞こえねえっての。俺《おれ》が問い返すと、桐乃《きりの》の目付きが厳《きび》しくなった。
「……だ、だから、相談《そうだん》」
ずいぶん妙な台詞《せりふ》が聞こえたな? 聞き間違いかと思い、俺はもう一度問い返す。
「なんだって?」
「……人生相談が、あるの」
「……………………」
俺は、かなり長い間、呆然《ぼうぜん》と沈黙《ちんもく》してしまった。落ち着きなくまばたきを連射しながらだ。
だっておまえ……ねえ? よりにもよってこの妹が、ゴミ虫みてーに嫌ってる俺に向かって、なんつったと思う? 人生相談があるの、だぜ? どう考えても夢だろ。町にゴジラが攻めてきたっつわれでも、こんなに驚《おどろ》かねえよ。
俺はカラカラに渇いたのどで、なんとか声を発した。
「人生……相談って……おまえが……俺にか?」
「うん」
桐乃ははっきりと領《うなず》いた。おいおい、マジかよ……。
「……この前、言ったじゃん?」
「なにが?」
「あ、あたしが、その、……ああいうの持ってても、おかしくないって、さ」
歯切れが悪い。落ち込んでいるような喋《しゃべ》り方《かた》だ。
「ああいうのって…………もしかして、俺が捨てといてくれって頼んだアレのことか?」
「……うん」
何でここでその話が出てくるんだ?
俺はいぶかりつつ「ああ、言ったな」と答えた。
「それがどうした?」
「あの……ほんとに……バカにしない?」
本当に、こいつに話しても大丈夫かな――そう言いたそう。
この期《ご》におよんで疑惑の視線《しせん》を向けてくる桐乃に、俺はこう言った。
「何度も同じこと言わせんな。絶対バカにしたりしねえって言ったろ」
だからおまえの趣味《しゅみ》なんざ、心底どうでもいいんだっての。そんなことをわざわざもう一度聞くために、俺をここに呼びやがったのか、こいつ?
「ぜ、ぜったい? ほんとに、ほんと?」
「絶対の絶対。本当に本当に本当だ」
「ウソだったら……許さないからね」
「おお、好きにしろよ」
フ――いい加減にしてくれねえかな、なんだってんだ……。
俺《おれ》がげんなりと脱力していると、桐乃《きりの》は意を決したように立ち上がり、本棚の前まで歩いていった。
……あん? 何をするつもりだ〜
当惑《とうわく》している俺の前で、桐乃は二つある本棚のうち、片方を手前に引っ張った。ずいぶん軽々と動くもんだと思ったが、よく見りや中身はすでに取り出して、ベッドの上に積《つ》んである。
壁《かべ》の一面を占有《せんゆう》していた本棚が片方なくなり、大きなスペースが空《あ》く。
「お、おい……おまえ……何やってんだ?」
桐乃は俺の質問には答えず、残った本棚(こちらは半分くらい本が収納されている)の側面に肩をあて、ぐっ、ぐっ、と空《から》スペースに向かって押し込み始めた。
ズ、ズ……と、分厚い本棚が少しずつズレていく。そうして現われたのは、群室にはそぐわない襖《ふすま》だった。隠し収納スペース。
「うお……」
桐乃は「ふぅ」と一息ついて、言う。
「……あたしが中学入って、自分の部屋《へや》をもらえることになったとき……この部屋を洋室にリフォームしたじゃん? よく分かんないケド、そんときの名残《なごり》だと……思う。本棚で隠れてたから、あたしも去年の大掃除んとき、初めて気付いたんだけどさ」
「へえ……」
親父《おやじ》あたりが金をケチったのかね? まあ本棚で隠しておきや見えないしな。
「で……人生|相談《そうだん》ってのは、もしかしてその『中身』のことか?」
桐乃は領《うなず》いた。が、襖に手をかけたまま、一向《いっこう》に開けようとしない。
「…………」
難《むずか》しそうな顔で躊躇《ちゅうちょ》しながら、俺をじっと見つめてくる。
とくれば、これまでの話の流れで、察しのよくない俺にも、襖の奥に何が入ってるのか想像がつくってもんだ。こいつが躊躇している理由もな。
――人生相談ねえ。……どうして俺なんだろうな?
確かに俺はこの間、こいつがどんな趣味《しゅみ》を持ってようとバカにしないとは言ったが……
「ふむ……」
自分が桐乃の立場だったらと想像してみる。
えーと……人生相談ってのは大きくわけて二種類あるよな?
いっこはまあ、一番よくあるケースで、『事情に通じてて頼れる人間』相手に相談する場合。
この場合は当然『自分が抱えている悩みとか問題が、どうやったら解決するのか』一緒《いっしょ》に考えて欲しくて相談《そうだん》するわけだな。
んで、もういっこは、『事情を知らない第三者』相手に相談する場合。
こっちの場合は、有効なアドバイスなんざハナっから期待してなくて、とにかく『話を聞いて欲しい』から相談するわけだ。
でもつて、桐乃《きりの》にとって俺《おれ》は『事情に通じてて頼れる人間』じゃあない。断じて、ない。
……だとすっと?
桐乃の悩みが俺の想像どおりなら、そもそも他人に相談すること自体が難《むずか》しいよな。
自分のイメージを崩すのが恐《こわ》いから。相談相手をえり好みできる立場じゃねーわけだ。
いま、桐乃が開けっぴろげに相談できる相手は、たった一人《ひとり》しかいない。
『すでに相談内容を知っていて』、『相談した結果、どう思われようが構わない、どうでもいいやつ』――つまり俺。
へーえ。そういうことかよ……。妹が抱える大体の事情を察した俺は、さっさとうざったい用事をすませて睡眠《すいみん》の続きに戻るべく、こう言った。
「心配すんな。そこから何がでてこようと、俺は絶対バカにしねえし、秘密にしろってんなら、絶対|誰《だれ》にも言わねえ……だから、な?」
俺の打算に満ちた優《やさ》しい台詞《せりふ》を聞き終えた桐乃は、再びこくんと領《うなず》き、
「……約束だからね」
と念を押すように呟《つぶや》いてから、禁断の扉を開けた。
がら……
ぽとっ。
「……ん? なんか……落ちた……ぞ?」
俺はつまびらかになった襖《ふすま》の中身を見る前に、転がり落ちたブツを何気なく拾う。
それはまたしてもDVDケースで――
タイトルは『妹と恋しょっ♪ 〜妹めいかぁEX Vol.4〜』だった。
「げふんげふんげふんげふん……!?」
盛大にむせた。
ほ、本体登場――!? 考えてみりやアニメだけじゃなくて、アレの持ち主もこいつだった! 度肝《どぎも》を抜かれる俺。何にって、半裸の女の子が身体《からだ》を抱いて恥じらっているという、想像以上にいかがわしいパッケージイラストにだ!? しかもシリーズものなのかよ!?
「な……なんだ……コレは……」
「あ。それは最初プレステ2から出たんだけど、パソコンに移植されてから別シリーズ化したやつね。名作ではあるけど、ちょっと古いし内容もハードだから、初心者にはおすすめしない」
んなこた聞いてねえよ!? 大体なんだ初心者って? おまえはプロか? プロなのか?
チクショウ突っ込みどころが多すぎて、俺のスキルではカバーしきれねえ!
い……いったい何が始まろうとしているんだ?
お、俺《おれ》はどんな異常空間に足を踏み入れてしまったんだ? 誰《だれ》か教えてくれ!?
『妹と恋しょっ♪』というファーストインパクトで脳をやられてしまった俺は、スデにグロッキーだった。だがこんなモノは、桐乃《きりの》にとってほんのジャブでしかなかった。
「くっ……」
脂汗《あぶらあせ》をだらだらかいて、顔を上げ、開け放たれた禁断の深淵《しんえん》を覗《のぞ》き込む。
襖《ふすま》の内側は、一見ごく普通の押し入れだ。上段下段に分かれていて、薄暗《うすぐら》い。
だが、そこに積《つ》まれているモノどもは、さらに濃厚《のうこう》なグッズの数々。
まず目につくのは、上段にうずたかく積まれた大量の箱。
「……その……箱は……?」
「これ? これは、パソコンゲームの箱」
桐乃はちょっと得意げな口調で答え「よいしょ」と、箱の一部を俺の前に置いた。
そのほとんどは『妹めいかぁEX』シリーズで、タイトルの例を挙げると『超義妹《ちょうぎまい》』『妹たちとあそぼH』『天元突破十二姉妹』『最終兵器妹』……とまあそんな具合。
色々《いろいろ》言いたいことはあるが、ここで台詞《せりふ》を間違えると世にも恐ろしいシチュエーション[#「世にも恐ろしいシチュエーション」に傍点]になりかねん。ひとまず俺は、無難《ぶなん》な質問を投げる。
「なんで……こんなに箱がでかい?」
「……それは、あたしにも分からない。でも、こういうものなの」
世界の謎《なぞ》を、 厳《おごそ》かに口にする桐乃。 分からん……分からん……俺には何もかもが分からねえ。
ゴクリ……いまにも口をついて出てきそうな危険な突っ込み[#「危険な突っ込み」に傍点]をギリギリのところで飲み込みつつ、俺は視線《しせん》を収納スペースの下段へと向けた。
そこにはやはりドでかい箱が、でん、でん、でん、でん、と並んでいる。
パソコンゲームの箱よりもさらにでかく、規格が統一されていない。それぞれ女の子のイラストが描かれていたり、メタリックに輝《かがや》いていたりとまちまちだ。
「こっちの……コレらは……な、なんなんだ?」
「アニメのDVDボックス。ここにあるのはぜんぶ特製ボックス仕様」
「DVDボックス? 特製ボックス仕様?」
情けないが、オウム返しに問い返すのが精一杯だ。
「そう。本編《ほんぺん》に修正を加えた完全版と、ボーナスディスクとか、特製ブックレットとか、他《ほか》にも色々特典がぎっしり入ってるの。……ふふ、凄《すご》いでしょ」
「その……星くず☆うぃっち……とかの?」
「うん」
桐乃のテンションは、何故《なぜ》か上昇気味だった。
自慢のコレクションを開帳《かいちょう》できたのが、そんなに嬉《うれ》しいのか? 大嫌いな俺《おれ》に、ついうっかり笑いかけちまうほど。俺はなんとなく釈然《しゃくぜん》としない気分になった。
ところで気になるんだが、
「こういうのって……結構高いんじゃねえの?」
「んー? まあ、わりとね。えっと、コレは41,790円でしょ? コレは55,000円でしょ? で、えっと、こっちは――」
「高《た》っけええええええええよ!? どこがわりと!?」
「そう? ……服一着か二着分くらいでしょ、こんなの」
「どっからそんなカネがでてくんの!? 中学生だろおまえ! どうして十四歳にしてスデに金銭感覚|麻痺《まひ》してんだよ!」
言ったあとで、しまったと思った。
……やべ、これ、もしかしたら地雷《じらい》かも分からん。答え聞くのがすごくイヤだ……
俺の気まずい心配をよそに、桐乃《きりの》はあっさりと言った。
「どっからつて……ギャラに決まってるじゃん?」
「そ、そうか……」
ふーん……ギャラ……ギャラね? それならいいんだが……。
って、いやいやいやいや!? 全然よくねえだろ!?
俺は、片眼をぎょろりと剥《む》いた形相《ぎょうそう》で問う。
「ぎゃ、ギャラ、だと……?」
「うん」
「……なにそれ? どっからどういう理由でもらってるわけ?」
「ああ……言ってなかったっけ。あたし、雑誌のモデルやってるから」
「ざ、雑誌? モデル? ……巻頭グラビアとかか?」
「……全然違う。耳腐ってる? モデル[#「モデル」に傍点]だっつってるでしょ? 専属読者モデル」
軽蔑《けいべつ》しきった視線《しせん》が胸に痛い。モデルとグラビアアイドルの区別がいまいちついてない俺だったが、どうやら見当違いのことを言っていたらしい。
呆然《ぼうぜん》と首を傾《かし》げている俺を見かねたのか、桐乃は本棚から雑誌を取り出し、俺に放ってきた。
それは、いわゆるティーン誌というやつだった。白背景に、やたらとキラキラしたフォントのタイトル。流行を先取りだのなんだの、幾つかのあおり文句が並んでいる。
「…………」
バラバラページをめくってみると、雑誌のあちこちで、見憤れた妹の姿を見付けることができた。俺にはよく分からんが、流行最先端とかいう服を着て、ぴっとポーズを決めている。
――へえ。モデルみてーだとは思っちゃいたが、まさかホントにモデルやってたとはね。
こいつがどこで何をしてようがどうでもいいはずなのに、妙にイラっときたのは何でなんだろうな? 俺《おれ》にもよく分からんのだが、つい考えなしに悪態をついてしまった。
「――んだよこの格好、腰でも痛《い》てえの?」
「……バカじゃん」
軽蔑《けいべつ》の視線《しせん》に、失望の色が混じったように見えたのは、気のせいだろう。
さっと目を伏せた妹を見ていると余計に気分が悪くなってくる。俺は取《と》り繕《つくろ》うように言った。
「……まあ……か、かわいいんじゃねえの」
妹相手に、なに言ってんだ俺は。……一応本音ではあるけどな。
「……つうか、これ結構有名な雑誌だろ? 俺が名前知ってるくらいなんだから。――おまえ、もしかして凄《すご》いんじゃないのか?」
「ふん、別に? たいしたことないよ、こんなの」
俺なんかの褒《ほ》め言葉でも、それなりに嬉《うれ》しいらしい。まんざらでもない様子《ようす》だった。
険悪な空気がほどけたので、俺は途切《とぎ》れた話題を再開させる。
「で、幾らくらいもらってんの?」
「えーと……確《たし》かぁ」
妹から返ってきた答えを聞いた俺は、がっくりと肩を落とした。
……おいおい。……幾ら何でもガキに金渡しすぎだろ。
「そういうわけだから、あたしが日々、かわいさに磨《みが》きをかけているのも仕事のうちってわけ」
「けっ……よくいうぜ」
だがなぁ……この雑誌の読者どもも、このカッコ付けたポーズ決めてるかわいいモデルが、まさかギャラで『妹と恋しよっ♪』だの『妹たちとあそぼH』だのを買っているとは思うまい。
というかたぶん、こいつのファンが真実を知ったら間違いなく卒倒《そっとう》するね。
俺は世界の悲哀《ひあい》を噛《か》み締《し》めつつ、さらに収納スペースの奥底を覗《のぞ》き込もうとした。
が、そこに膝立《ひざた》ち体勢の桐乃《きりの》が、両手を広げて立《た》ち塞《ふさ》がる。
「……きょ、今日《きょう》はこれ以上見せられない」
「なんで?」
いや、別に見たくもねえけど。全部見終わるまで解放してくれないのかと思ってたぞ。
桐乃は収納スペースの奥底を一瞥《いちべつ》してから、ぎろっと俺を睨《にら》み付ける。
だからそのゴミを見る目はやめろよ。
「まだ……信用したわけじゃないから。いまは、これが限界」
「はあ?」
なんだ? こいつ、何を言ってやがるんだ? その言い方だと、まるで……いま見せたのはほんの序《じよ》の口《くち》で、さらに上があるみたいに聞こえるんだが。え……マジで? そうなのか?
「あの、奥にあるのは、ちょっと恥ずかしいやつで……その……だから、だめ」
「………そ、そうか……」
ええ〜〜? 『妹と恋しよっ♪』を得意げに見せびらかせるこいつが、恥ずかしがって躊躇《ちゅうちょ》してしまうブツって……いったいどんなとんでもない代物《しろもの》だってんだ……? あまりの戦慄《せんりつ》に黙《だま》り込んでいると、桐乃《きりの》が話しかけてきた。
俺《おれ》のすぐ前、四《よ》つん這《ば》いで前のめりになった体勢で、
「で、どう?」
「ど、どうとは?」
何を言えってんだ。誰《だれ》か分かるやつがいたら教えてくれよ。
俺が何も言えないでいると、桐乃は、若干《じゃっかん》もじもじし始めた。
「だから、その、感想。あたしの、趣味《しゅみ》を、見た」
「……ああ、感想、感想……な? ……ええと、びっくりした」
「そんだけ?」
「……そんだけって言われても……しょうがねえだろ? すげえびっくりして、他《ほか》の感想なんて出てこねえんだから」
俺が取《と》り繕《つくろ》うように言うと、桐乃は整《ととの》った眉《まゆ》をひそめて物憂《ものう》げに呟《つぶや》く。
「……やっぱり、あたしがこういうの持ってるの……おかしいかな」
「……いや、そんなことは……ないぞ」
おかしいっていうか……そういう次元の問題じゃねえし。
……つまり桐乃の相談《そうだん》ってのは、これか……。
それよりさ、そろそろ解放してくんねえかな。ぐっすり眠って、もう忘れたいよ俺は。
俺は一刻も早くこの場から脱出したいので、妹が求めているであろう台詞《せりふ》を言ってやった。
「言ったろ。俺は、おまえがどんな趣味を持ってようが、絶対バカになんかしねえって。――いいんじゃねえの? 何を趣味にしょうがそいつの勝手だ。誰に迷惑かけてるわけじゃなし、自分が稼《かせ》いだ金で何を買おうが、文句言われる筋合いはねえよ」
「……だよね? ……ははっ……たまにはいいこと言うじゃん!」
よしよし満足したな? じゃあ俺はそろそろ退散させてもらおう。
と、尻《しり》を浮かせかけた俺だったが、気が変わって再び腰を下ろす。
実は、さっきからずっと、こいつに突っ込みたくて突っ込みたくて我慢していることがある。
下手《へた》に突っ込むと、とんでもない回答が返ってくる可能性があるので、できることなら突っ込まずに済ませたいと考えていたわけだが……もう我慢の限界だ。
まるで世界の外側から『早く突っ込め! 突っ込め!』と指示を飛ばされているような感覚だった。もちろん気のせいだろうがな。
「はあ……」
ようし……いまから突っ込むぞ? 突っ込むからな? 覚悟はいいか? もしも最悪の回答が返ってきたとき、慌《あわ》てず騒《さわ》がず落ち着いて対処する準備はOK?
「桐乃《きりの》、話が前後しちまうが、ひとつおまえに聞いておきたいことがある」
「は? キモ、なに改まってんの?」
てめえ、それが大サービスでおまえの趣味《しゅみ》を全肯定してやった兄への言い草かよ。
なんかこの分だと、どうやら最悪の展開はなさそうな気がしてきたな……。
ふぅ……。俺《おれ》は一息ついて気を取り直してから、こう言った。
「なんでおまえ、妹もの[#「妹もの」に傍点]のエロいゲームばっか持ってんの?」
「……………………………………」
お、おい……なぜそこで黙《だま》り込むんだ? な、なんとか言えよ……なあ?
「……なんで、だと……思う?」
「さ、さあ……なんでなんだろうな?」
ま、待て。待て待て待て……なぜそこでうっとり頬《ほお》を染める……!?
なぜ四《よ》つん這《ば》いで這い寄ってくる……!?
まさか、まさか……ちょっと、やめてくれよマジで……俺にそんな趣味はねえっての……!
身の危険を感じた俺は、腰が抜けたような体勢で、じりじりと後退《あとずさ》った。
「……なに逃げてんの?」
「別に逃げてねえよ」
「うそ、逃げてるじゃん」
「それはおまえが……あ」
し、しまった。背中が壁《かべ》についてしまい、これ以上逃げられない。
さっさと立って逃げりゃあいいものを、焦《あせ》ってしまった俺は、きょろきょろ部屋《へや》を見回すばかり。そうやってモタモタしているうちに、さらに追い詰められてしまう。
「…………」
そこで桐乃は、何かを決意したような、思い詰めたような表情になった。
真剣な眼差《まなざ》しが、俺の瞳《ひとみ》を真《ま》っ直《す》ぐ突き刺す。桐乃に見詰められた俺は、金縛《かなしば》りにあったように動けなくなる。目をそらせない、張り詰めた空気が周囲に満ちていた。
そうして桐乃は、四つん這いで俺に覆《おお》い被《かぶ》さるようにして――
俺の鼻先に、『妹と恋しよっ♪』のパッケージを突き付けた。
「は?」
予想外の展開に、面食らう俺。そんな俺の反応なんざ意にも介さず、桐乃はころっと態度を一変させて、ややうっとりとした口調《くちょう》でこう言った。
「このパッケージを見てるとさ……ちょっといい[#「いい」に傍点]とか思っちゃうでしょ?」
「……な、なに言ってんのおまえ?」
意味が分からねえ。この部屋に足を踏み入れてから、何度この台詞《せりふ》を思い浮かべたかもう分からんが、中でもいまの桐乃の台詞は、とりわけ意味不明だ。
「だぁからぁ〜」
何で分からないかなぁとでも言いたげに、桐乃《きりの》は呆《あき》れた表情を俺《おれ》に向けた。
「……すっごく、かわいいじゃない?」
だから何が? おまえの台詞《せりふ》には主語がねえよ。
このときの俺の表情は、さぞかしいぶかしげだったことだろう。
これ以上聞き返しても、ろくな答えが返ってきそうにないので、俺はなんとか妹の言わんとすることを察してやろうと頭を回転させた。
「……………………」
手掛かりは二つ。いま、鼻先に突き付けられたパッケージ。そして唐突《とうとつ》に告げられた、『すっごく、かわいいじゃない?』という台詞。
普通に考えれば答えは一つしかないわけだが……でも、それ[#「それ」に傍点]っておかしくねえか? ……おかしいよなあ? ……俺はどうにも納得いかないままに、おそるおそる聞いてみる。
「……すると、おまえ。なんだ、その……まさかとは思うけど……『妹』が、好きなのか? で、だから、そんなゲームとか、いっぱい持ってると」
「うんっ」
だ、大正解……。元気いっぱいに顔《うなず》きやがった……。なんでそんなに誇らしげよ?
……普段《ふだん》もこのくらい愛想《あいそう》がよけりやいいのになあ。
などと思っていると、桐乃は聞いてもねえのに語り始めた。
「ほんとかわいいんだよ。えっと、例えばね? たいていギャルゲーだとプレイヤーは男って設定だから、お兄《にい》ちゃんとか、おにいとか、兄貴とか、兄くんとか――その娘《こ》の性格やタイプに合った『特別な呼び方』でこっちのことを呼んで、慕《した》ってくれるのね。それがもう……ぐっとくるんだあ」
「ふ、ふーん……すごいな」
適当に相槌《あいづち》を打って合わせる俺。……フ――ったく、楽しそうに語っちゃってまぁ……
ところでおまえは俺のことを『おい』だの『ねえ』だの、やたらと不遜《ふそん》な態度で呼びつけるよな。そのへんどうよ? 全然ぐっとこないし、常にイラっとくるんだがな。
俺の無言の問いかけにはもちろん気付かず、桐乃は『妹と恋しょっ♪』のバッケージを俺に見せつけるようにして、とある女の子のイラストを指で示した。
「この中だと――あたしは、この娘が一番お気に入り」
妹が示したのは、背の低い、気弱そうな女の子だ。黒髪をツインテールに結《ゆ》わき、もじもじと恥じらっている。
「やっぱね、黒髪ツインテールじゃないとダメだと思うの。清楚《せいそ》で大人《おとな》しい娘って、こう、護《まも》ってあげたくなっちゃうっていうか、ぎゅって抱《だ》き締《し》めてあげたくなっちゃうっていうか……へへ……いいよねえ」
おまえ茶髪じゃん。糞《くそ》短いスカートはいて、脚組んで、太もも丸出しでゲラゲラ電話してるじゃん。いまの台詞《せりふ》、自分で自分にダメ出ししてねえ?
……まぁ……それはそれとして、だ。
「……な、なるほど」
俺《おれ》の妹は『妹』が好き――だからこいつは、そういう[#「そういう」に傍点]アイテムを蒐集《しゅうしゅう》している。
それは理解した。だが俺の疑問は解消されちゃいない。むしろでかくなったくらいである。
俺は難《むずか》しい顔で聞いた。
「だ、だが……どうしてだ?」
「え?」
「だからおまえ、どうして妹が好きなんだ? 悪いとは言わないが……おまえが集めているゲームって、普通男が買うもんだろ? ……しかも、その、18歳未満は買っちやいけないやつじゃないのか? あまりにも、おまえのイメージからはかけ離《はな》れてるだろ。どうしてそんな――そういうのを、好きになったんだ? 何かきっかけとか、理由とか……あるのか?」
「そ、それは……その……」
俺の問いを受けた桐乃《きりの》は、明らかに狼狽《ろうばい》した。冷水ぶっかけられたみたいに目をぱちくりして、きょときょとと視線《しせん》をさまよわせている。言いにくい質問に戸惑《とまど》っている……のとは、ちょっと様子《ようす》が違う気がした。しばらくそのまま待っていると、
「わ、分かんない!」
目をきつくつむって、顔を真《ま》っ赤《か》に染めて、どこか子供っぽく桐乃は言った。
俺が「は?」と問い返すと、妹は胸に両手を持っていって、もじもじと恥じらい始める。
「……あのね……あのね……じ、自分でも……分かんないの」
……うお、なんだコイツいきなり……悪霊《あくりょう》にでも憑依《ひょうい》されたか?
普段《ふだん》の憎たらしいおまえはどこにいったのよ?
恥じらう仕草《しぐさ》があんまり桐乃らしくなくて、(つまりかわいらしくて)俺は当惑《とうわく》してしまう。
「分かんないっておまえ……自分のことだろ?」
「だ、だって! しょうがないじゃん……ホントに分からないんだから……。いつの間にか、好きになってたんだもん…‥」
だもん、って……おいおい、おまえのキャラじゃねえだろ、それ。
「……たぶん店頭で見かけたアニメがきっかけだったとは思うんだけど……」
桐乃は、それこそ自分が好きな妹キャラみたいに、気弱な態度になっている。
不安そうに俺を見上げてきた。
「……あたしだって……こういうのが、普通の女の子の趣味《しゅみ》じゃないって、分かってるよ。だからいままで誰《だれ》にも言えなくて……隠してたんだもん。でもさ、分かっててもやっぱり好きだから……ネットやってると、ついつい、ググっちゃうの。……で、体験版《たいけんばん》とかダウンロードして、やってるうちにさ……こう……ああんもー買うしかないっていう気になっちゃって……」
で、挙げ句の果てにこのザマというわけか……。
俺《おれ》はうずたかく積《つ》まれた妹ゲーを見やって、目をすがめる。
……めちゃくちゃメーカーの策略にハマってやがるな、こいつ。
「こ、このかわいいイラストが、あたしを狂わせたのよ……」
イラストレーターのせいにすんじゃねえよ。
ていうか俺はなんで、深夜に妹から、オタクになったいきさつとか聞いてるんだろうな?
こんな奇妙な体験《たいけん》をする兄は、世界で俺だけじゃねえの?
桐乃《きりの》はさらに続ける。
「このままじゃいけないって……何度もやめようって、思った。でも、どうしてもやめられなくて……だってね、ブラウザ立ち上げると、はてなアンテナに登録《とうろく》してあるニュースサイトが、毎日あたしに新たな情報を伝えて、色々《いろいろ》買わせようとしてくるんだよ? ……うう、かーずSPとアキバBlogめ……」
「いやおまえ……よく分かんねえけど……ニュースサイト? 見なきやいいんじゃないか?」
「………………それができれば苦労しないんだって……」
軽く突っ込んだら、桐乃は思いっきりしょんぼりしてしまった。
おいおい……だから誰《だれ》なんだこいつは。こんなかわいい妹に、心当たりはねえぞ?
俺の前にぺたんと座り込んだ桐乃は、目に涙を溜《た》めて、上目遣《うわめづか》いで見上げてくる。
「……ねぇ、あたしさ、どうしたらいいと思う?」
「………………」
どうしたらいいと思う……って、言われてもな……。
んなもん知るかよ、というのが正直な意見だが、さすがに俺を頼ってきた妹にこの台詞《せりふ》は言えねえ。こいつの腹ん中がどうであろうとだ。
分かってるさ。こいつが相談《そうだん》相手に俺を選んだのは、頼れる兄貴だと慕《した》ってくれているからじゃあない。俺がこいつにとってどうでもいい人間で、何を話しても無害だと判断したからだ。
人をなめた、ふざけた話さ。
けどな……そんな理由でも桐乃は、自分が抱え込んでる悩みを、こうして俺に話してくれたわけだ。思慕《しぼ》の念なんざカケラもねえんだろうけどよ、そんでもちっとは俺を信頼して、頼ってくれたってことだろ? で、こいつの力になってやれるのは、いま、俺っきゃいねーんだろ?  ……んじゃ、しょうがねえよな。
俺が目をつむって観念《かんねん》したときだ。桐乃がすげえことを言った。
「やっぱさ……お父《とう》さんとお母《かあ》さんに話した方が、いいのかな」
「駄目《だめ》に決まってんだろ!? 絶対やめとけ! だいたいそれができるんならおまえ、最初っから悩むことなんかねえだろよ!?」
うおお、びっくりすんなあ。実はこいつ、天然なんじゃねーの?
「それもそっか。……じゃ、やめとく」
「そうしとけ。特に親父《おやじ》には絶対バレねーようにな」
我《わ》が家《や》の親父は、いわゆる昔ながらの堅物というやつで、実に厳《きび》しい。
そんな親父が、桐乃《きりの》の『秘密の趣味《しゅみ》』を見付けたら……とんでもないことになるだろう。
「見付かったら……まずいかな……?」
「まずいだろうな。正直、その展開は考えたくもねえ。だから、そこは協力してやる。おまえの趣味がバレないように……つっても、何ができるかは分からねえけどさ」
「……いいの?」
桐乃は意外そうな顔をしていた。俺《おれ》が協力を申し出たことが、信じられないらしい。
……おまえさ……俺をどういう評価してたわけ? おっかないから聞かないけどよ……。
などと不満を抱きつつも俺は頷《うなず》いた。
「いいさ。何かあったら、遠慮なく言えよ。たいした助言もできねーけど、俺にできる範囲でなら協力してやるから」
俺は成り行きで口にしてしまったこの台詞《せりふ》を、あとで後悔することになる。
「……そ、そう? ……じゃ、そしよっ、かな……うん……そうしてくれると、助かる、かも」
桐乃は礼こそ一言も言わなかったが、しきりに小さく頷いて、嬉《うれ》しそうにしていた。
そんな妹を見ていると、正直、悪い気はしない。
――ふーん、こういう顔もできるんじゃん、こいつ。
俺は意外な想《おも》いを抱きつつ、はにかむ妹の顔を見つめる。
懐《なつ》かしい……何故《なぜ》だかやはり、そう想った。
なんだかなあ……ちっとばかし無賃任なこと言っちまった気がするが。
まあいいか、どうにかなんだろ。俺に例のブツを見付かってから今日《きょう》までの二日間、ほんとに悩んで悩んで悩んだ上で、俺に相談《そうだん》してきたんだろうしさ、こいつ。
協力せんわけにゃいかんだろ。面倒《めんどう》くせえけども。
……やれやれ、とにかく『最悪の展開』じゃなさそうでよかったぜ。
「ところでおまえ、あくまで『妹』が好きで『妹もののエロいゲーム』を買ってるんだよな? ……他意はないんだよな?」
「は? じゃなきやなんだと思ったワケ?」
俺がさらなる安心を求めて呟《つぶや》いた台詞に、桐乃はきょとんと首を傾《かし》げる。
そして数秒後、俺が心配していた『最悪の展開』について思い至ったらしく、さっと眉《まゆ》をひそめた。
「……キモ。なわけないでしょ」
おお、一瞬《いっしゅん》でいつもの桐乃に戻りやがった。嫌悪感《けんおかん》まるだし。これぞ俺の妹。
やべえ、むかつくはずなのに妙に安心しちまった。さっきの殊勝《しゅしょう》な態度が、どんだけ異常かって話だよな……これ。
「キモ、っておまえな……おまえの好きなゲームだと、妹ってのは兄貴が大好きなんだろ? 自分で否定してどうすんだよ?」
「……ばかじゃん? 二次元と三次元を一緒《いっしょ》にしないでよ。ゲームはゲーム、リアルはリアルなの。大体さー、現実に、兄のことを好きな妹なんているわけないでしょ?」
こいつ、いま俺《おれ》のことを遠回しに『大嫌い』って言ったか? ひどくね? 仲のいい兄妹だって世界にゃたくさんいるだろうよ。俺とおまえは永遠に敵だけどな!
「もう用は済んだから。そろそろ出てってくんない?」
ちくしよう……やっぱかわいくねぇよ、こいつ。
[#改ページ]
超特大の地雷《じらい》を踏み付けた夜から一週間が経《た》った。俺《おれ》はあの夜、人生|相談《そうだん》という名目で、妹と数年分以上の会話をかわしたが、それで俺たちの冷めた関係が変わったかというと、そんなわけもない。
相変わらず俺たちは、あれから一言も口を利いちゃいないのだ。
ま、世の中そんなもんよ。そうそう変わりゃしねえって。
できる範囲《はんい》で協力してやる――そう口にしたはいいが、いまのところ、妹から何らかの協力を要請されたことはない。そもそも俺があいつにしてやれることなんざ、何一つないのかもしれん。率先して何かしてやろうという気概《きがい》もないし、俺が抱いていた疑問も、興味《きょうみ》と一緒《いっしょ》に軒並み氷解した。だから、これでいいのだろう。
妹の妙ちきりんな趣味《しゅみ》なんざさっさと忘れて。いままでどおりにやっていきゃあいい。
いきゃあいい……はず、なんだけどなぁ。
もやもやした想《おも》いに囚《とら》われていると、授業終了を告げる鐘《かね》が鳴り、教室がざわめき始める。
「あ〜あ、なんだかな」
俺は着席したままのびをして、退屈な授業で凝《こ》り固まった筋をほぐす。
と、さっそく近付いてきた眼鏡の幼馴染《おさななじ》みが、俺の席のすぐ前に立った。
くいっとかがみ込むようにして、俺の顔を覗《のぞ》き込んでくる。
「なんだか最近、ずーっとだるそうだね――きょうちやん? お疲れ気味かな?」
「俺がダルそーにしてるのは、いつものことだろう」
首をこきこき鳴らしながら、俺は自嘲《じちょう》気味に答えた。だらしなく椅子《いす》に浅く腰掛け、両目をとろんと半開きにした、誰《だれ》がどう見ても『ダルそうな高校生』という格好でだ。
眼鏡の幼馴染みは、ふんわりと笑った。
「あはは、確《たし》かに。でもね、きょうちゃん、わたしは『いつもと比べて』だるそうだね、って、言ったんだよ?」
「ふぅん……おまえが言うならそうなんだろうよ」
「投げやりだなあ」
「それこそいつものこった――帰るか」
「うんっ」
俺は鞄を《かばん》持って立ち上がり、眼鏡の幼馴染みを伴って廊下に出た。
田村麻奈実《たむらまなみ》。俺との関係は一言でいえば、幼馴染みの腐《くさ》れ縁《えん》。最近では、個人的に家庭教師の真似事《まねごと》などもしてもらっている。
眼鏡をかけているだけあって、こいつはなかなか優等生《ゆうとうせい》なのだ。
外見的には普通。わりとかわいい顔つきをしてはいるのだが、いかんせん地味で垢抜《あかぬ》けない。
眼鏡を外したら超美人――ということも残念ながらない。
眼鏡を外したこいつは、やっぱり地味で普通なツラであった。
成績《せいせき》は上の下。部活動には所属しておらず、趣味《しゅみ》は料理と縫《ぬ》い物《もの》。人当たりがよく友達は多いが、放課後《ほうかご》に遊ぶような親しい友達となると、ぐぐっと減ってほとんどいない。
ザ・脇役《わきやく》というか、なんというか、『普通』『平凡』『凡庸《ぼんよう》』という称号がこれ以上しっくりくるやつもそうはいないだろう。桐乃《きりの》の対極に存在するような女である。
それは外見に限らない。
「どうしたの? わたしの顔なんか、じろじろ見て」
「別に? なんでもねえよ。おまえってとことん普通だな、と思ってさ」
「そお? 照れちゃうな、あはは……」
「別に褒《ほ》めてねえよ」
訂正、普通よりもちょっぴり天然入ってるかもしれない。
「でも、普通っていいことだよね」
などと言う天然地味|眼鏡《めがね》に、俺《おれ》は「まあな」と答えた。
凡庸|万歳《ばんざい》。ビバ、普通の人生だ。
そういう主義の俺であるから、普通を絵に描《か》いたような麻奈実《まなみ》との腐《くさ》れ縁《えん》は、とても居心地《いごこち》のいいものだった。こいつのとなりにいると、安心できる――そんなところも妹とは逆だよな。
俺たちは、並んで廊下を歩いていく。
「それで、どうかしたの?」
「あ? なにが?」
「だからぁ、きょうちゃんが、最近|気怠《けだる》そ〜にしてる理由。よかったら教えて欲しいな」
「ああ……俺がダルそーにしてる理由、な」
俺の異常には、自分よりもコイツの方がよく気付く。自覚はなかったが、こいつがそういうのなら、俺は最近、気怠い毎日を送っているのだろう。となるとやはり、その理由になりそうなのは一つっきゃない。
「おまえにゃカンケーねえよ。気にすんな」
俺はすげなく言って、学生|鞄《かばん》を肩にさげる。が、麻奈実はそれで納得するような女ではない。
唇を小さくすぼめ、うらめしそうに見上げてくる。
「関係あるよう、すっごく」
「は? なんでよ?」
「あ、そゆこと言う……? じゃあ、わたしが落ち込んでたら、きょうちゃんは『カンケーねー』って見て見ぬふりするの?」
んー? とふんわり目を細めて微笑《ほほえ》みを浮かべる。くそ、卑怯《ひきよう》な言い方しやがって。
俺はしかめっ面《つら》で「おせっかいなやつ」と呟《つぶや》いた。麻奈実は「えへぇ〜」と口元をゆるゆるにして笑う。なんで嬉《うれ》しそうなんだ。俺は呆《あき》れ顔《がお》でため息をつく。
「おまえって……ほんっと、俺のお袋よりも俺のお袋みたいなやつな」
「えっ……大好きって意味?」
「おばさんくさいって意味」
「……えぇ〜」
ずーん。俺《おれ》の言葉を受けた麻奈実《まなみ》は、両手で持っている鞄《かばん》の重量がいきなり数十倍に増えたみたいに、しょんぼりして立ち止まってしまう。
一歩先を行った俺が振り返ると、涙目になっていた。
「ひーどーいー……」
なるほど、実は結構気にしていたっぽいな。それなりに罪悪感も出てきたので、俺は麻奈実がした最初の質問に、できる範囲《はんい》で答えてやることにした。詳しくは言えないと前置きした上で妹の名前を口に出すと、麻奈実は意外そうに首を傾《かし》げた。
「妹さん?」
俺は正面を向いたまま「ああ」と顔《うなず》く。
「妹さんが……どうかしたの?」
「ん……まあなんだ、人生……相談《そうだん》を受けたのかね? あれは」
俺が言葉を濁《にご》しながら言うと、麻奈実は目をぱちくりと瞬《しばたた》かせた。
「きょうちゃんに? 人生相談?」
「……んだよその意外そうなツラは?」
人選誤ってない? みたいな目をすんじゃねえ。俺のジト目に気付いた麻奈実は、慌《あわ》てふためいた様子《ようす》で両手をぶんぶん振った。
「えっ、わたし、そんな、『無謀《むぼう》なことを』だなんて思ってないよっ?」
「おまえって、ほんっとウソが下手《へた》な?」
俺はにこやかに眼鏡《めがね》を奪い取る。戯《たわむ》れにかけてみると、世界がぐにゃりと歪《ゆが》んで見えた。
「め、めがね返してよーっ」
めがね、めがねっ……と漫画みたいに繰り返す地味子《じみこ》を、ひとくさりいじってから、俺は唐突《とうとつ》に話を戻す。
「相談《そうだん》っつっても、成り行きで話を聞かされただけだよ」
「わ、わ」
俺が返してやった眼鏡を、必死になってかけなおす麻奈実。
俺がさっさと先を歩いていると、麻奈実は小走りで追い付いてきた。となりに並んだのを確認《かくにん》してから、俺は話題を続行する。
「……本人は悩んでるみたいだけどな。俺にはどうしようもねえし、ほっとくしかねえよ」
「ふ、ふぅん……」
会話が途絶《とだ》え、しばし静かに廊下を歩いていく俺たち。
その間、唇に人差し指をあて、視線《しせん》を上の方にやっていた麻奈実だったが……
突然、「えへー」とゆるゆるな笑《え》みを浮かべた。
「優《やさ》しいね、きょうちゃんは」
「……どうしてそうなるんだよ。ユル顔近づけんな眼鏡《めがね》」
邪険《じゃけん》に言って俺《おれ》はそっぽを向いた。我《われ》ながら照れ隠しがバレバレでガキくさいと思う。
「どうにもできなさそうで――でも、なんとかしてあげたいんでしょ」
「はっ」
んなわけあるか。俺は肩を揺らして声を漏らす。だが、麻奈実《まなみ》は『きょうちゃんの気持ちはお見通しだよ』とばかりの訳《わけ》知り顔で微笑《ほほえ》んでいる。
くっ、気にいらん。これだから幼馴染《おさななじ》みってやつは……。
俺が返事をしなかったので、そこで一旦《いったん》、会話が止まる。
俺たちは下駄箱《げたばこ》で靴を履《は》き替え、校舎を出た。ここから家までは一キロほどの道程《みちのり》だ。
麻奈実とは近所なので、俺ん家《ち》の前まで一緒《いっしょ》である。
校門を出たところで、麻奈実が話しかけてきた。
「ところで勉強は進んでる?」
「全然だな」
「即答できるくらい全然ってこと? もう。じゃあ、今日《きょう》も一緒に勉強しよっか?」
「そうしてくれると助かる。どうにも一人《ひとり》だと、やる気にならなくてな――」
「漫画とか読んじゃうんでしょう」
「……千里眼《せんりがん》かよ、おまえは」
本当にお見通しらしかった。にこにこと笑ってやがる……。
受験《じゅけん》勉強。高校二年生にとっての『普通』の話題。
ちなみに俺が目指しているのは、麻奈実と同じ地元の大学である。
少々|女々《めめ》しいと思われるかもしれないが、俺が進路を決定した理由は、こいつと同じ大学に行きたかったからだ。別に惚《ほ》れているから――とかではなくて、この心地《ここち》いい腐《くさ》れ縁《えん》を、なるべく長く続けていたかったから。それにミス・凡人たる麻奈実のとなりにいれば、自然と俺の目指す『普通』の人生を歩むことができるんじゃねえか――そう考えたのだ。
我《わ》が人生のガイドライン・麻奈実は言う。
「ん、分かった。じゃあ、わたしの家で待ち合わせして、図書館《としょかん》行こっか。……あ、そうそう、新味のもなかがあるんだ。せっかくだから、食べていかない?」
「お、おお、いいのか? 悪いな」
麻奈実の家は和菓子屋《わがしや》をやっているので、よく菓子を俺に喰《く》わせてくれる。
毎度毎度、年寄り趣味《しゅみ》だと幼馴染みをからかう俺であるが、こいつん家の菓子ばかりは悪くないと思う。落雁《らくがん》やら饅頭《まんじゅう》やら、ガキの頃《ころ》から喰わされてるせいかもな。
お袋の味ならぬ、幼馴染みの味ってところか。
「いいよ。妹さんの人生|相談《そうだん》じゃあ、わたしは力になってあげられそうにないし。だからそのぶん、きょうちゃんに優《やさ》しくしてあげる」
「……このお人好《ひとよ》しめ」
俺《おれ》の皮肉に、麻奈実《まなみ》は「えへへ」とはにかんだ。幸せそうな顔で俯《うつむ》き、両手で持った鞄《かばん》をスカートの前で、ぱたん、ぱたん、とやっている。これは幼馴染《おさななじ》み同士でのみ通じるサインであり、子犬がシッポを振っている仕草《しぐさ》と同じである。もつと褒《ほ》めて、褒めて、という意味だ。
「おまえは、いいお婆《ばあ》ちゃんになるよ。おまえの孫になる子供は、幸せだな」
「……あ、あのさー……その褒め言葉って、『おまえはいい奥さんになるよ。おまえの夫になる男は幸せだな』とか言うもんじゃない?」
「いや、お婆ちゃんで正しいね。何故《なぜ》ならおまえと話していると、俺はいつも、死んだ婆ちゃんと縁側《えんがわ》で茶を飲んでいるような気分になるからだ」
「……褒めてないよね? それ、全然褒めてないよね? ……ふんっ、どうせ色気がないですよーだ。もうっ、きょうちゃんだって、脇役《わきやく》みたいな顔してるくせにーっ」
「おまえにだけは言われたくねえよ!?」
まさかお互いにそんなことを思っていたとは……。わりと似たもの同士なのかもしれん。
そんな会話をかわしているうちに、我《わ》が家《や》のそばまできてしまった。
目の前の丁字路《ていじろ》を左に曲がれば、俺の家。
が、そこでタイミングよく――あるいは悪く――下校中の桐乃《きりの》と遭遇《そうぐう》した。
「げ」
俺は咄嗟《とっさ》に(丁字《ていじ》で言うと一番下部分あたりで)足を止めた。
丁字路の右手から、制服姿のティーン誌モデル様が歩いてくる[#「くる」は底本では「いくる」]。同じ学校の女生徒たちと一緒《いっしょ》のようだ。妹とお喋《しゃべ》りしている女どもは、どいつもこいつも器量よしばかり。タイプは違うが、それぞれズバ抜けた華《はな》がある。
ほら、ローティーンばっかを集めた有名なアイドルグループがあるだろ? あいつらが、セーラー服着込んで、きやらきやら騒《さわ》ぎながら歩いてくると思いねえ。
「………………」
俺たちは立ち止まったまま沈黙《ちんもく》した。
脇役二人《わきやくふたり》の前を、煌《きら》びやかなオーラを振りまいて、女子中学生たちが通り過ぎる。
「はあ〜……」
そんな派手派手《はではで》しいイマドキの若者たちを、麻奈実は羨望《せんぼう》の眼差《まなざ》しで見送っていた。
「いまの、すっごくかわいい娘《こ》たちだったね――いいなー、若いって」
「婆さんや、自分が女子高生だってことを思い出しなさい。もの忘れ激《はげ》しいよ?」
もはやフォローしきれないレベルで言動がババア。どうにもならんな、こいつ。
「分かってますよう、お爺《じい》さん。でも、わたしが中学生のときだって、あんなに垢抜《あかぬ》けてなかったでしょう。中学生っていったらまだまだ子供なのにね……わたしよりずっと大人《おとな》っぽいんだもん。羨《うらや》ましいなあ……わたしも、もうちょっと頑張《がんば》ろっかなー」
「……いいよ別に……おまえはそのまんまで」
おまえまで桐乃《きりの》みてーになったら、俺《おれ》の安息の地はどこにもなくなっちまうだろうが。
俺は、垢抜《あかぬ》けたイマドキの女の子なんぞより、地味で普通な幼馴染《おさななじ》みのとなりにいたいよ。
ふん。俺も麻奈実《まなみ》も、あいつら[#「あいつら」に傍点]とは、しょせん別世界の人間なんだよな。
分かってるさ、ちくしょうめ。
それからさらに数日後。俺は、しばらくぶりに妹と言葉をかわすことになった。
日曜日《にちようび》。俺は午前中から麻奈実と一緒《いっしょ》に図書館《としょかん》に出かけていた。で、夕方、麻奈実を家まで送っていったあと、帰宅した俺を、玄関で桐乃が待ちかまえていたのである。
壁《かべ》にもたれて腕を組んでやがる。険悪な流し目が胸に刺さる。
……えーと、なんかこいつに悪いことしたかな、俺〜
「……ちょっと来て」
「な、なんで?」
内心ビビりながら問うと、桐乃は俺を流し見たまま、
「人生|相談《そうだん》。続き」
単語ブツ切りで呟《つぶや》く。言いたいことは分かったが、なんでそんなに嫌悪感《けんおかん》剥《む》き出《だ》しなんだよ。
これから人にモノを相談《そうだん》しようって態度かそれが?
「続きっておまえ――」
「……いいから、早く来てよ」
と、桐乃は俺がろくに靴も脱いじゃいないうちから、袖《そで》を引っ張ってくる。間違っても手を直接握ってきたりはしないところが、こいつのむかつくところである。
「ったく、相っ変わらず問答無用《もんどうむよう》だな……」
人の好い俺は、桐乃の剣幕《けんまく》にあらがえず、へっぴり腰で階段を上っていく。
そうして無理矢理《むりやり》連れ込まれたのは、妹の部屋《へや》であった。
相変わらず甘ったるいにおいのする部屋だな……。ちなみに麻奈実の部屋は、いつ行っても線香《せんこう》のにおいしかしない。お婆《ばあ》ちゃん家《ち》のにおいな。……まあ人それぞれなんだろう。
先んじて部屋に入った桐乃は、パソコンデスクの椅子《いす》を引き、くいくいっと人差し指で俺を招いた。なんだこいつ、どういうつもりだ? 人生相談じゃなかったのか?
妹の思惑《おもわく》が読めず、困惑する俺。
「ここ、座って」
「あ、ああ」
俺は素直に、妹の指示に従った。桐乃は、椅子に座った俺のすぐ脇《わき》に控え、デスクに片手をついて体重をかけている。
桐乃《きりの》がパソコンの電源を入れると、ウィンドウズの起動画面が俺《おれ》の瞳《ひとみ》に映る。やがて画面が切り替わり、デスクトップが現われる。
たくさんのネコ耳少女たちが、お茶の間でくつろいでいる壁紙《かべがみ》だ。
そんなかわいいデスクトップの隅《すみ》っこには、デフォルメされた猫が、ごみ箱からちょこんと顔を出しているアイコン。左上隅にはカレンダー。上部には横長のネコ耳型ウィンドウが開いていて、メッセンジャー、ブラウザ等のアイコンが整然《せいぜん》と並んでいる。
「……ずいぶんと凝《こ》ってるな」
「まあね。スキンを変えて、かわいいランチャー使ってドレスアップしてあるんだ。基本でしょ、こんなの」
得意げに笑《え》みを漏らす桐乃。
皮膚《スキン》と発射装置《ランチャー》でドレスアップ……? ……なんのこっちや。どうしてこいつは専門用語ばっか使うかね。いまひとつ意味が分からんが、とにかく自分好みにカスタマイズしてるってことらしい。
……つーかこういうのを見せびらかしたがるのは、オタクも女子中学生も変わらんな。
「そんで? 俺にこれを見せて、どうしようってんだ?」
「あっきれた。……まだ分かんないの?」
分かるかよ。桐乃は、俺のすぐとなりから、侮蔑《ぶべつ》の瞳《ひとみ》を向けてくる。パソコンのマウスを掲《かか》げて言った。
「……ゲームよ、ゲーム。これから一緒《いっしよ》にプレイするの」
「はあ? ゲームって……俺とおまえが? 二人《ふたり》で?」
「……そ、そう」
視線《しせん》を合わせずに答える桐乃。微妙に言《い》い辛《づら》そうにしているのは、こいつも自分がめちゃくちゃ言っているのをそれなりに自覚しているからだろう。
さっぱり分からん。どうして俺が、別に仲いいわけでもねえ妹と二人で、並んでゲームをせにゃならんのだ。対戦にしろ何にしろ、気まずいだけだろうによ。
怪訝《けげん》そうな俺に気付いたのか、桐乃は取《と》り繕《つくろ》うように言う。
「自分で言ったんじゃん。できる範囲《はんい》で協力するとか、なんとか……」
「いや、親にバレねえよう協力するっつったんだぞ? 俺は。だいたい人生|相談《そうだん》って話だったじゃねえか、どうしていきなりゲームやることになってんだよ」
「ひ、必要なことなの! いいから、はいコレ持って――」
「お、おい……」
無理矢理《むりやり》俺にマウスを握らせる桐乃。普段《ふだん》なら触れるのも嫌《いや》がるはずなのに、俺の手の甲に自分の掌《てのひら》を被《かぶ》せるようにしてマウスを操《あやつ》る。隅《すみ》っこのアイコンをダブルクリック。
いきなりテンション高くなってきたなコイツ……。
普段《ふだん》のクールぶった態度はどこへやら。どっちかっつーと、たぶんこっちが本性なんだとは思う。やったらイキイキしてるもんな。なんか最近分かってきたけど、普段は周りに合わせて猫被《ねこかぶ》ってやがるんだ、こいつ。
冷めていて、投げやりで、斜に構えて……妙に反抗的で。
流行の服着て、流行の口調《くちょう》で喋《しゃべ》って、友達とつるんでカラオケやら、なにやら……
それがイマドキの中学生が考える『イケてるあたし(死語か?)』像なのかもな。
その生き方が良いとか悪いとか、俺《おれ》ごときがどうこう言えるもんじゃねえとは思う。
でもさあ桐乃……おまえ、そういうのより、友達とゲームやったりしたいんじゃねーの?
「……なに見てんの? なんかむかつくんですけど」
「別に?」
やれやれ……。しょうがねえな、ちっとくらい付き合ってやっか――。
俺は内心で兄貴風を吹かせ、ゲーム画面に切り替わったディスプレイを見た。
ぴっろりん。賑《にぎ》やかなタイトル画面が、少女のロリボイスと一緒《いっしょ》に俺を出迎える。
『いもーとめーかぁいーえっくす♪ ぼりゅーむふぉーっ!
――おかえりなさい、おにーちゃんっ。妹とぉ……恋しよっ♪』
「俺《おれ》に何やらせるつもりだてめえ――!?」
キレていい。いま、俺は絶対キレていい。そもそもリビングのテレビじゃなくて、桐乃《きりの》のパソコンでやるっつー時点で気付こうよ俺!? このクソアマ、どこの世界に妹と一緒《いっしょ》に、妹を攻略する[#「攻略する」に傍点]ゲームをやる兄がいるんだっつうの!? 変態か俺は! ああん!?
『わかってるとおもうけどぉ――おにーちゃん? このゲームにとうじょうするいもーとは、みぃんな18さいいじょうなんだからねっ』
うるせえ、おまえもちょっと黙《だま》ってろ。
俺はズキズキ痛むこめかみを押さえながら、桐乃に向き直った。
「お、おまえな……」
「なにいきなり怒鳴《どな》ってんの? びっくりするじゃん――ちょっと、顔近づけないでよ」
詰め寄った俺に、言葉の毒ナイフをぐさぐさ投擲《とうてき》してくる桐乃。さすがに何か言ってやろうと思ったのだが、その直前、妹の顔がみるみる曇《くも》っていったので踏みとどまる。
「……おい、どうした?」
「……やっぱ、バカにしてんじゃん」
「は? 何が?」
「結局……口だけなんでしょ? やってもないうちから偏見《へんけん》持って……口では綺麗事《されいごと》言っちゃってさ……あたしのことも、心ん中では変な子だって思ってたんでしょ……」
忌々《いまいま》しげに睨《にら》み付けてくる桐乃。
「あ、あのなあ……そうじゃなくて……っ」
俺はマウス片手に頭をくしゃくしゃかきむしった。
「バカにするとかじゃなくて! おまえの前でコレをやるのが気まずいんだっての! 分かれよ! お茶の間でドラマ見てる最中、キスシーンになるどころの騒《さわ》ぎじゃねえだろコレ!?」
「……なにそれ? なに言ってるか、ぜんぜん分かんないんだケド」
まさか……本気で分かってないのか? つうか、俺が変なこと言ってるのか?
いや、だってさあ。俺はディスプレイを指差して言う。
「俺もぜんぜん詳しくないが、恐らくコレは、仮想の妹と仲良くして、どうのこうのっつーゲームだろ? そんでもって男向きの18禁ゲームだろ? ってことはだ、当然の結論《けつろん》としてストーリーの佳境《かきょう》ではそういうシーンがあると思うんだが……」
そこまで言ったところで、桐乃が、怒った顔のままびくっと反応した。
「おまえ、俺と一緒にそういうシーン見てて、何とも思わねえの?」
「あっ……」
口を大きく開けた桐乃の顔は、『言われていま気付いた』とばかりに真《ま》っ赤《か》になっていた。
「あ、あたしは、そういうの……意識《いしき》してやってなかったしっ……わけわかんないこと言わないでよねっ。その言い方だと、まるであたしが変みたいじゃない」
「むう……」
なるほど、問題点が見えてきたぜ。たぷんこいつ、『18禁だから[#「だから」に傍点]』『そういうシーンがあるから』、こういうゲームをやってるわけじゃねーんだ。こいつが言う『妹が好き』ってのに、エッチなことしたいって意味は含まれてない。まあ、女だから当たり前なんだろうけど……。
とにかく、んなもんだから……
俺《おれ》は手の甲で額《ひたい》をぬぐう。
「ふ――、分かった桐乃《きりの》。おおむね状況は理解した。話し合おう、な? いいか……あのな」
『画面を、やさしぃく、くりっくしてねっH』
「だからうるせえっての!? いいタイミングで話のコシを折るんじゃねえ!」
ディスプレイに突っ込み入れちゃったよ……どんだけ混乱してるんだ俺は。
いかん、落ち着かねば……
「……ちょっとぉ、しおりちゃんを苛《いじ》めないでよ」
「おまえも現世に戻ってこい。それは絵だ」
「絵って言うな!」
しまった、不用意な発言だったか……。なんつー顔で怒鳴《どな》るんだよおまえ。
あーもう、ったく、なんだかな……。どうすりゃいいんだ。誰《だれ》か教えてくれ。もう俺の手にはおえねえっての。
俺は疲弊《ひへい》した精神を振り絞って、妹の説得を試みた。
「悪かった。よく知りもしねーで適当なこと言ったな、俺。別に、おまえのやってることを否定したり、バカにしたりするつもりはこれっぽっちもねーんだよ。それだけは誓《ちか》って本当だ。
信じてくれ」
「…………」
唇を尖《とが》らせて、涙目で見つめてくる桐乃。
「でもな、その、いきなりこのゲームはハードル高いと思うんだ。ホラ、俺、まだ十七歳だしさ。バカにするつもりは全然ないけど、無理なんだって。……いや、分かるよ? たぶんメチヤクチャ面白《おもしれ》えんだろ、コレ? で、おすすめしてくれてんだよな? 分かる、それは十分分かるんだ。――その上であえて言うけど、勘弁《かんべん》してくれ。百歩|譲《ゆず》って、一人《ひとり》でやるならまだしも、妹のとなりで18禁ゲームをやるクソ度胸はあいにくねえんだよ」
「………………いくじなし」
そんな侮蔑《ぶべつ》の言葉を、妹から投げかけられる俺。
堪《た》えろ……堪えるんだ京介《きょうすけ》……! ここでキレたらまた話がこじれるぞ……!
「はぁ」
盛大にため息をつかれた。ため息つきたいのは俺の方だ。
さらに桐乃《きりの》は、しれっと言う。
「じゃ、宿題ね?」
「しゅ、宿題だあ?」
「そう。ようするに、あたしのとなりじゃ、コレ、やりたくないんでしょ? だから、宿題。あとでノートパソコンと一緒《いっしょ》に貸してあげるから、来週までにコンプリートしておくこと」
「…………」
これ、断ったらまた、バカにしたとかなんとか言うんだろうな……。
俺《おれ》は頬《ほお》をひきつらせながらも、結局、妹の横暴《おうぼう》に抗《あらが》うことはできなかった。
「……わーったよ、やりゃあいいんだろ? やりゃあ……」
「そーゆうコト」
桐乃は得意げにマウスを操作《そうさ》。ゲームのアプリケーションを終了させると、タイトル画面にいた女の子(二頭身デフォルメサイズ)が再び現われ、ぺこりとお辞儀《じぎ》をした。ぶんぶん元気よく手を振って、プレイヤーとの別れを惜しんでくれる。
『――おにーいちゃんっH ぜぁ〜ったい、またあそんでネ? ばいばーい♪』
「へーいへい。ばいぼーい……」
おまえは偉いよ。
俺の妹なんか、そんなふうに呼んでくれたこと、一度たりともないもん。
翌日の夕方、俺が冷たい飲み物を求めてリビングに入ると、桐乃と遭遇《そうぐう》した。
ヤツは、例のごとく糞《くそ》短いスカートの制服姿。ソファーで女王然と脚を組み、ティーン誌を眺めている。……相っ変わらず、『下郎め、寄るでない』みたいなオーラをびりびり放出していやがるなこいつ。
まさしく姫。妹とはいえ、俺のような一般人は、話しかけることもままならないのである。
だからなんだっつーわけでもない。最近ちっとばかし話す機会《きかい》があったとはいえ、俺たちの距離《きょり》が近付いたなんて、間違ってもねーんだなと再確認《さいかくにん》しただけだ。
「…………」
俺は桐乃を遠目に眺めながら、グラスに注いだ麦茶を飲み干す。ふぅ、とひと心地《ごこち》ついてから、リビングを出て行こうとする。と、ドアノブに手をかけたところで声がかかった。
「――ねぇ」
「……な、なんすか?」
ぎぎぎ、錆《さ》び付いたロボットみたいに、ぎこちなく振り向く俺。
桐乃は雑誌に目を落としたまま、短く問うてくる。
「やった?」
「……………えーと。…………なんのことっすかね?」
質問の意図が分からないことをアピールすると、桐乃《きりの》は読んでいた雑誌をパフッとそのへんに放り、売れっ子芸能人が下っ端ADを見る視線《しせん》で、俺《おれ》に向かってこう呟《つぶや》いた。
「やってないんだ?」
「……え〜〜と……ね?」
な、なんで分かったんすか?
うおお……恐《こ》ええ。桐乃さん、マジ恐ええって。勘弁《かんべん》してよもう……。
怯《ひる》む俺に、桐乃はさらに淡々《たんたん》とプレッシャーをかけてくる。
「なんで? 宿題だって言ったよね、あたし? どうしてまだやってないの?」
なんで? なんで俺は、借りたエロゲーをやってないという理由で、妹に説教|喰《く》らってるの? 俺の人生、いったいどうなっているの? ……つうかね! ぶっちゃけ、やるわきゃねーだろっちゅー話ですよ! なにが哀《かな》しゅうてリアル妹がいる身分で、18禁の妹ゲーをやらなきゃならんのよ! いやマジでね、心理的な抵抗がパンパじゃねーんだってば。
誰《だれ》か分かってくれっかなあ――?
「いやだって……な? ホラ、俺、初心者だし? 説明書見ても、やり方がよく分かんなくってさぁ」
俺は半ば涙目になりながらも、苦しい言《い》い訳《わけ》をするのであった。
すると桐乃は半ギレのままで、「それならそうと、さっさと言いなさいよ」と言い捨てた。
舞台裏《ぶたいうら》で豹変《ひょうへん》する芸能人みてぇだ。
「はぁ……じゃあたしが序盤《じょばん》だけ、説明してあげるから。――部屋《へや》来て」
俺は妹に袖《そで》を掴《つか》まれ、引《ひ》き摺《ず》られていく。リビングを出て、階段を上っていく途中、なんとか口を挟んで抵抗を試みる。
「だ、だから……おまえのとなりじゃやりたくないっつっただろ、昨日《きのう》」
「あーはいはい。ったく、わがままばっか言うんだから……とにかく来て」
クソ、なんで俺がこんなこと言われなくちゃいけねーんだ? それは俺の台詞《せりふ》じゃね?
階段を上り切り、例のごとく妹の部屋に連れ込まれる。
桐乃はパソコンをスタンバイから復帰させるや、こう言った。
「……仕方ないから、全年齢版《ぜんねんれいばん》出してあげる」
「んなもんがあるなら最初から出せや!?」
「――全然分かってない。全年齢版と18禁版では同じタイトルでも、違うものなの」
この会話にちゃんと付き合ってあげる俺って偉いよな? 誰《だれ》か褒《ほ》めてくれよ。
「はあ……でも全年齢版ってことはさ……単にエロいシーンカットしただけのモンじゃねえの?」
「そんなこと言ったら文章書いてる人にも、ファンにも失礼。二度と言わないで。……あたしは大抵18禁版でやったゲームがコンシューマとかで全年齢版になってリメイクされると、一応そっちもやってみるんだけどさ。よく『なーんか違うなー』って思うんだよねー。なんて言うの? どっか物足りないっていうか……あたしは素人《しろうと》だからよく分かんないけど、18禁だからこそできることって、あると思うんだ」
「ふーん」
サッバリ分からん。
「ヒロイン一人《ひとり》追加して、フルボイスにすりやいーってもんじゃないのよ」
んなこと、俺《おれ》に言われても困るよ。
「色々《いろいろ》喋《しゃべ》ったけど、つまりあたしが言いたいのはね? 全年齢版《ぜんねんれいばん》もいいけど、なるべくなら原作をやって欲しいってこと。だから原作の方を、宿題だって渡したの」
「……じゃあなんで、いま全年齢版とやらを用意してんの、おまえ?」
「だーかーらー。自分がやり方分かんないって言ったんじゃん。ありがたく思いなさいよね、ちゃんとあたしが教えてあげるから」
ありがたくねえ――。
ちくしょう……。やっぱり、やんなくちゃならねーのかよ……コレ。
俺はマウスを構え、ゲーム画面に切り替わったディスプレイと向き合う。
例の忌々《いまいま》しいロリボイスとともに『妹と恋しょっ♪』のタイトルが出現。
タイトルの下では『画面を、やさしいく、くりっくしてねH』の文字が点滅中。
妙に口数が増えてきた桐乃《きりの》が、脇《わき》から指示を飛ばしてくる。
「じゃ、スタート。まず名前を入力して……ちょっと、なにデフォルトの名前で始めようとしてんの? 本名入れなさいよ本名」
「ほん……みょう……だと……? ……それは、なに? 絶対入力しないとダメなの?」
「は? 当たり前でしょ? 妹たちが自分の名前を呼んでくれるところが、キモなんだから。ホラ、さっさと、はい」
「クソッ、やりゃあいんだろ……やりゃあ……」
ヤケクソになる俺。初めての妹ゲーで本名プレイとか……ハードル高《たけ》えなあ。
このあたりで『妹と恋しよっ♪(全年齢版)』とやらの基本システムについて、簡単《かんたん》な解説を入れておこうと思う。もちろん、たったいま始めたばかりの俺が何を語れるわけもない。
ほんのさわり[#「さわり」に傍点]だけになることは勘弁《かんべん》してもらいたい。
こほん……このゲームでプレイヤー・つまり俺は、主に画面下部のウィンドウに表示されるテキストを、マウスの左クリックでスクロールさせて読み進めていく。桐乃の説明によれば、
「ま、オーソドックスな|A V G《アドベンチヤー・ゲーム》だよね。説明書なんかいらないって」
ということらしい。説明書をチラ見したところによると(たったいま取り上げられてしまったが)、基本となるプレイ画面はこのテキストウィンドウと、背景画像、そしてキャラクターの立ち絵の三つで構成されているようだ。
なお特殊なイベントシーンになると『イベントCG』と呼ばれる一枚絵が、『背東画像・立ち絵』に取って代わり、ゲームを盛り上げてくれるというシステム。
忌憚《きたん》のない感想を言わせてもらうと『めちゃくちゃ豪華な紙芝居』ってとこか。
シンプルなシステムだし、操作《そうさ》方法も簡単《かんたん》そうだ。
ふーん、ま、これくらいなら俺《おれ》にもできっかな……
名前入力を終え、ゲームをスタートさせると、まずは青空を背景に、主人公のモノローグが始まった。
俺の登別は、高坂《こうさか》京介《きょうすけ》。自分でいうのもなんだが、ごく平凡な男子高校生である。
……つまらん男だなー。いきなり自分で平凡とか……おいおい (苦笑)。
せっかく俺の名前を付けてやったんだから、もうちょっと気の利いたこと言えや。
俺のネガティヴな感想を汲《く》み取ったのか、桐乃《きりの》がタイミングよく解説を入れる。
「あのね、こういうゲームの主人公って、プレイヤーが感情移入しやすいように、たいてい平凡で地味な性格に設定されていることが多いの。あと、本編《ほんぺん》で成長する余地を残しておくために、最初はちょっとヘボくしておくんだって」
「ふーん」
……自分のことを言われているわけじゃねえはずなのに、妙に胸がズキズキと痛むのは、なんでなんだろうな。同姓同名だからなせいか、まるで他人とは思えん。
よし、つまらん男と言ったのは撤回《てっかい》しよう。よろしくな、京介。
しっかし……この手の話題になると、途端《とたん》に饒舌《じょうぜつ》になりやがんなぁこいつ。
俺は桐乃の楽しげな解説を聞きながら、クリック、クリック、クリック、クリック………… 平凡で地味なモノローグが終わり、画面が暗転。ちゅんちゅん雀《すずめ》が鳴くエフェクト音。
京介「ふぁ〜〜……よく寝たなあ。昨日《きのう》は遅くまで勉強していたから、仕方ないかぁ」
若干《じゃっかん》台詞《せりふ》が説明的な気もするが、そこはまあ気にしないでおこう。
さて、ゲームテキストをそのまま表記していくのもなんだ、要約して説明するとだな。
このゲームの本編は、主人公・京介が自分の部屋《へや》で目を覚ますと、なんと妹のしおりが、同じ布団《ふとん》の中で眠っていたというシーンからスタートするわけだ。
京介「うわっ……し、しおり……?」
がばぁっ。あわてて起き上がる。ぱちぱちとまばたき。
京介《きょうすけ》「びっくりしたぁ。……ったく、しおりのやつ、いつのまに……」
ん? 妙に反応が薄《うす》いなコイツ。
おいおい、もつと身の危険を感じろよ京介。寝ぼけてんのかおまえ――。朝起きたら、妹が一緒《いっしょ》に寝てたんだぞ? そこは絶叫して然《しか》るべきだろうが?
ちなみに、しおりとやらの見てくれは、黒髪ツインテールの気弱そうなチビガキである。
この前、桐乃《きりの》がお気に入りだと吐《ぬ》かしていたキャラクターだ。いまは髪をほどいて、ストレートにしている。
「ねぇ、ねぇ、すやすや無防備に眠ってるところ、どう? びっくりしたっしょ?」
「いや……どうだろう、な。……ふ、普通?」
イベントCGを絶賛している桐乃に、俺《おれ》は曖昧《あいまい》に答えた。
クリックしてテキストを進めようとすると――ぼこん、画面中央に新しくウィンドウが開く。
「お〜」
「それが選択肢《せんたくし》分岐《ぶんき》ね。要所要所で、主人公の行動をプレイヤーが選ぶわけ。で、その結果いかんによって妹たちの好感度が上下したり、その後のストーリーが変化したりすんの」
「ふーん? ……で、じゃあ、どれを選べばいいんだ? 三つくらいあるけど」
「は? そこは自分で決めなきやゲームの意味ないじゃん。大丈夫だって、このゲーム、選択肢すっごく簡単《かんたん》なのばっかだから」
軽く言う桐乃。なるほど、それもそうだな。
俺は主人公が取るべき行動を選択することにした。えーと……なになに?
すやすや眠るしおりを、俺は……
1.ぎゅっと優《やさ》しく抱《だ》き締《し》めてあげた。
「却下だな」
死ぬつもりか? 妹の渡込みを抱き締めるとか、狂気の沙汰《さた》だろ……。
2.起こしてしまわぬよう、そっと布団《ふとん》を抜け出した。
「ふむ……」
無難《ぶなん》な選択ではある。しかしな、京介? ここできっちりしつけておかないと、おまえ、後々なめられることになるぞ? ウチの妹はもう手遅れだけどさ、おまえは俺と同じ轍《てつ》を踏むんじゃない……。よってこれも却下。俺は三つめの選択肢を、迷いなくクリックした。
3.問答無用《もんどうむよう》で、布団から蹴り出した。
ドコッ!(画面が振動するエフェクト)
京介「おい、勝手に人の布団入ってくんじゃねーよ! さっさと起きろバカが!」
よし! 適切な行動だ。それでこそ兄。ふん、なかなかいいゲームじゃねえか。さてお次は、
「しおりちゃんになんてことすんのよッ!?」
ドゴッ! 現実の妹から反撃《はんげき》がきた。問答無用で蹴《け》り飛ばされ、俺《おれ》は椅子《いす》ごとひっくり返る。
「ってぇな!? いきなりなにすんだ!?」
起き上がるなり文句を言った俺を、桐乃《きりの》はもの凄《すげ》え形相《ぎょうそう》で怒鳴《どな》った。
「なにすんだはこっちの台詞《せりふ》!? なんで最初の選択肢《せんたくし》が『問答無用で、布団《ふとん》から蹴り出した』になるワケ!? 信っ[#「信っ」は底本では「信っっ」]じらんないっ、どういう思考回路してんの!?」
「いや……その……まずは妹に、なめられねーよーにと……ね?」
「はあ? なんか言ったいま?」
「なんでもないっす」
弱っ! 俺、弱っ……。ったく、こっちの妹は強《つ》えーな、反撃の糸口さえ見付からん。
凶悪《きょうあく》に育っちまったら、もう手遅れなんだよなあ……。
俺は蹴っ飛ばされた脇腹《わきばら》を押さえながら、内心で嘆《なげ》くのであった。
椅子《いす》に座り直す俺。マウスを掴《つか》み、ゲーム再開。クリックして京介《きょうすけ》の台詞をスクロールさせると、突然、もの悲しいBGMに切り替わった。
しおり「ご、ごめんね……ごめん京介おにいちゃん……ひくっ……わ、わたし……
ゆうべ……ひとりじゃねむれなくって……それで……そのぉ……」
京介「はあ? なんか言った?」
しおり「ひぅ……な、なんでもないよう…………え、えへヘ! おはよ、おにーちゃんっ」
しおりは、俺が蹴っ飛ばしてやった脇腹《わきばら》を押さえながら、それでも健気《けなげ》に微笑《ほほえ》むのであった。
「いやな野郎だな、この主人公」
「自分の選択の結果でしょっ!? つか、こんなシナリオあったんだ! こんな選択肢絶対選ばないから初めて知ったんだけど! ……あーもぅっ……かわいそうじゃん、しおりちゃん」
ゲーム開始早々ひどい扱いを受けているヒロインをあわれむ桐乃。
でもおまえ、たったいま、俺に似たような台詞言ってたよね?
賢明《けんめい》な俺は内心の疑問を口には出さず、健気にもゲームを続けるのであった。
ゲーム開始早々、朝っぱらから嫌《いや》な空気になってしまった高坂《こうさか》家《け》。選択肢|分岐《ぶんき》によって暴君《ぼうくん》と化した主人公・京介は、しおりを部屋《へや》から追い出すと、制服に着替えて食卓へと向かう。
そこでは、主人公を慕《した》う六人の妹たちが待っていて――
「なぁ桐乃? こいつら似てないにもほどがあるだろ。どう見ても血ぃ繋《つな》がってないじゃん」
「しょうがないでしょ。ヒロインごとに描いている人が違うんだから」
無粋《ぶすい》な質問をしておいてなんだが、それは最悪の回答じゃないか? まあいいや、とにかく突っ込んじゃいかんところなんだろう。
俺《おれ》はマウスを左クリック。全ヒロインが勢揃《せいぞろ》いする食事イベントがスタートする。
びっろりん。画面が食卓を俯瞰《ふかん》する視点に切り替わった。妹たちの顔面をかたどったアイコンがあちこちに散在し、てかてか点滅と収縮《しゅうしゅく》を繰《く》り返している。画面[#ルビ「がめん」は底本では「がんめん」]《がめん》上部には、まるっこいフォントで『おにいちゃんは、だれとお話したいのぉ〜』との表記。
「お? またなんか画面変わったぞ?」
「それはイベント選択《せんたく》画面。話したい妹のアイコンをクリックすると、その妹との会話イベントが発生すんの。で、そこでもやっぱり選択|肢《し》があって、それによって好感度が上下するってわけ」
「ふーん。ところでさっきから言ってる『好感度』ってなに?」
「妹が兄をどれだけ好きかってのを、数値化したパラメータ。これが一定数値以上じゃないと見られないイベントとかあんの。もちろん個別エンディングもそう。だから基本的には、攻略したい妹とのイベントをいっぱい見て、好感度を上げていくのがクリアのコツ。ちなみに複数の妹の好感度をたくさん上げておくと、バレンタインとかで特殊イベントが発生しやすくなるから絶対押さえておくべきね」
さっきからこいつ、説明に熱《ねつ》入りすぎ。べらべらべらべらとよ……そんなに楽しいのか。
「そ、そうか……ところで聞くけど、おまえの俺への好感度はいくつ?」
「……聞きたい?」
「いやいい」
その表情だけで聞かなくても分かったわ。俺の人生で、妹の好感度が一定数値以下じゃないと見られない特殊イベントが発生しまくっていることもな。
「ま、だいたい流れはこんな感じ――分かった?」
「おう」
俺へのチュートリアルを終えた桐乃《きりの》は、最後にセーブデータの管理についての説明をして、ゲームのアプリケーションを終了させた。それから窺《うかが》うような表情で俺の顔を覗《のぞ》き込む。
「感想は?」
「まだなんともいえん……始めたばっかだしな」
「そ、そっか……そだよね……」
正直に言うと、少なくともこのゲームは、俺には合わないと思う。面白《おもしろ》いとか面白くない以前の問題なのだ。どだい本物の妹がいる人間に、仮想の妹を愛《め》でるゲームを楽しめってのが酷《こく》な話なんだよな……。いくらこのしおりとやらが、かわいい顔して、かわいい台詞《せりふ》で俺を慕《した》ってくれようと、俺には腹に一物《いちもつ》抱えているようにしか見えんのよ。
なんつったらいいのかな……妹不信? たとえばの話さ、桐乃が兄貴を攻略するゲームをやったとして、純粋に楽しめると思うか? 無理だろたぶん? そういうことなんだって。
けどまあ、一度やるっつっちまったしな。この一作だけは最後までやってやるか。
などと思っていたのだが、
「うーん、じゃあ次は何がいっかなー」
楽しそうにフォルダを展開して、ポインタをさまよわせている桐乃《きりの》。……ま、まさか一作では飽《あ》きたらず、どんどん俺《おれ》に妹ゲーをプレイさせるつもりかおまえ?
「…………」
恐ろしくて開けないが、たぷんそうだろう。さすがにそれは冗談《じょうだん》じゃねえ。こいつなんぞのために、俺がそこまでしてやる義理はねえだろ。
ただ、桐乃が俺に妹ゲーをやらせたがる理由は、なんとなく分かるんだよなあ……。
「なあ……桐乃」
「なに? どしたの真剣な顔しちゃって?」
「おまえさ……学校で、一緒《いっしょ》にゲームやったり、ゲームの話するような友達、いんの?」
聞くと、桐乃はぽかんとした表情になって、それからさっと俯《うつむ》いた。
「…………どっちでもいいでしょ」
「そうか」
この前、桐乃が同級生と一緒に歩いていたシーンを思い出す。……あの連中は子供向けアニメ見たり、妹ゲーやったりはせんだろう。
それこそちょっと前までの俺が抱いていた、妹のイメージだ。俺が桐乃の立場だったとしても、同級生に自分の趣味《しゅみ》をカミングアウトして、同好の士を捜す気にはなれん。
「じゃあ学校じゃなくてもいいや。……おまえと同じ趣味持ってて、気兼ねなくゲームやらアニメの話ができる友達、いんのか?」
俺の二つめの問いにも、桐乃は首を縦《たて》には振らなかった。
「…………どっちでもいいじゃん」
「そっか」
そう、だからこいつは、俺に自分と同じ趣味を奨《すす》めてくる。一緒に話が、したいから。周囲全部に趣味を隠して、一人《ひとり》で楽しんでるだけじゃ、寂《さび》しいから。
昨日《きのう》、俺をこの部屋《へや》に連れ込むとき、桐乃は『人生|相談《そうだん》の統き』だと言った。
単なる口実だとばかり思っていたんだけどな……そうじゃなかったのかもしれん。
「なに……? バカにしてんの?」
「そうじゃねえよ」
そうじゃねえ。なんとかしてやりでえって、思ったんだ。寂《さび》しいんだろ、おまえ? でもそうは言いたくねえんだろ? そうだよなあ、おまえ、素直じゃねえもんなあ。
けっ、俺だって、これ以上おまえなんぞの趣味に付き合いきれんからな。代わりに生《い》け贄《にえ》になってくれるヤツがいるんなら、それが一番ってもんよ。せいせいするぜ。
「桐乃《きりの》――」
俺《おれ》は首をかくんと傾け、天井《てんじょう》を見た。俺が二十歳《はたち》以上であったなら、ここでケムリの一つでも、ぷかーっと吐き出していただろう。
「――友達、作るか」
「は、はあ?」
桐乃は目を真ん丸にして驚《おどろ》いていた。『何言ってんの? このばか?』みたいな顔。
上等だぜ。俺はいつものやる気なさそうな表情で、妹を流し見る。
「人生相談っつったのはそっちだろ? そんならアドバイスくらい聞いとけよ」
にやり。俺は不敵な笑《え》みを浮かべて、椅子《いす》の支柱をくるりと回転させた。なんとなく、カウンセラーの気分でベッドを指差す。
「ほら、そこ座って」
「………………」
桐乃はなんだか文句ありそうな顔で黙《だま》り、しぶしぶと俺の言うとおりに移動。
まあいい。とりあえず、聞く気はあるとみなす。
「おまえ、この前言ったよな? 『あたし、どうしたらいいと思う?』って。で、そんとき俺は、ろくなアドバイスもしてやれなかった。だからいま、答えるぜ。――おまえは友達を作れ」
「友……達?」
「そう。おまえと似たような趣味《しゅみ》持ってて、気兼ねなしに全力で話題振っても、アニメだろうがゲームだろうが18禁だろうが、ちゃんとついて来られるようなやつらがいい。もちろんおまえを蔑《さげす》んだりバカにしたりは絶対しねえさ、なにせ同じ穴のムジナなんだからな」
「……つまり、それって……オタクの友達を作れってこと?」
俺は領《うなず》いた。
「…………」
ベッドに腰掛けている桐乃は、唇を噛《か》み、両膝《りょうひざ》を掴《つか》んで考え込んでいたが……
やがてこう呟《つぶや》いた。
「……やだよ……オタクの友達なんて。一緒《いっしょ》にいたら、あたしまでおんなじに見られちゃう」
「そりゃまた、ずいぶんとおかしな話じゃねえの。――てめえだって立派なオタクだろ?」
「……ち、ちが……」
「違うのか? じゃあなんだってのよ? なあオイ、言えるもんなら言ってみ? ホラ」
このとき俺は、妹の態度にわりと本気でムッとしていたので、あえて追い詰めるような言い方をした。桐乃は俯《うつむ》いて黙《だま》り込んでしまう。ぶるぶると眉を震《ふる》わせている。
俺は舌打ちをした。
「口だけなのも、オタクをバカにしてるのも、おまえの方じゃねーか。俺は言ったよな? おまえがどんな趣味持っていようが、絶対バカになんてしねーってさ。――じゃあおまえはどうなんだ。おまえと同じ趣味《しゅみ》のやつを、こそこそ隠れたりせず堂々とオタクやってるやつらを、バカにできるってのか?」
「――――――」
桐乃《きりの》はキッと顔を上げ、敵意ばりばりの視線《しせん》で俺《おれ》を貫《つらぬ》いた。――やべえ、超|恐《こえ》え。俺は内心、泣きそうになりながらも、頑張《がんば》って真剣な表情を保つ。
「――それは駄目《だめ》だろ。筋が通らない。自分で自分を貶《おとし》めるようなもんだ」
……我《われ》ながら偉そうなこと言ってんなあ。ガラでもねえ。
桐乃は盛大に舌打ちをした。俺のお株を奪うほどでかいやつだ。だからおっかねえっての。
「バカにしてるわけじゃないもん! あたしは、世間体《せけんてい》のことを言ってるの!」
「世間体だあ?」
「そう、世間体。あたしは確《たし》かにアニメが好きだし、エロゲーも超好き。ううん、愛していると言ってもいい」
言ってもいいんだ……。女子中学生の台詞《せりふ》としては、それもどうよ……?
ドン引きしている俺に向かって、桐乃は胸を張って言う。
「もちろん、ガッコの友達と一緒《いっしょ》にいるのもすっごく楽しいよ? でも、こっち[#「こっち」に傍点]も同じくらい好き。どっちかを選ぶなんてできない。しょうがないじゃん? だって好きなものは好きなんだもん」
桐乃は堂々と胸を張った。
「でも、オタクが世間から白い目で見られがちだってのも、よく分かってるつもり。……日本で一番オタクを毛嫌いしてる人種って、なんだと思う?」
女子中学生。自分がそう[#「そう」に傍点]だから、よく分かるんだろうな、こいつは。
「ええと……何が言いたいかっていうと……その……つまり、両方があたし[#「両方があたし」に傍点]なの」
気持ちを伝えるのに適当な言葉が見付からず、もどかしそうにしている桐乃。
確《たし》かにメチヤクチャ分かり難《にく》いが……俺は妹が伝えたいことを、大体察したと思う。
アニメが好きだし、エロゲーを愛している。でも、学校の友達と一緒にいるのも好きだから、どちらかを選ぶなんてできない。女子中学生としての自分、そしてオタクとしての自分。両方を合わせたものが自分なのだ――桐乃はそう言いたいのだろう。たぷん。
「でも――それはそうなんだけど、だからこそ……家族はともかく、同級生にバレるのだけは絶対ヤダ。そんなことになったら、もう学校行けないもん」
世間体。社会人と同じか、それ以上に学生にとっては重要なもんだ。クラスっつー集合体の排他性《はいたせい》、異物に対して容赦《ようしゃ》なく攻撃《こうげき》を加える性質については、中高生なら誰《だれ》もが身に染みているだろう。俺もその一人《ひとり》だ。ようく分かってる。
世間体を気にするのは、誰だって当たり前だよな。
趣味と世間体の板挟み。誰にも相談《そうだん》できねえで、頑張《がんば》ってたんだな、おまえ。
OK、問題は把握したぜ桐乃《きりの》。
「つまりおまえ、同級生にバレさえしなきや、オタクの友達を作ってもいいっつーんだな?」
「う、うん……別に……いいけどさ」
「それなら大丈夫だ。おまえの同級生にバレねーよう、オタクの友達を作りゃあいい」
そのまんまである。いや、ここで確認《かくにん》したのは、桐乃の気持ちな? こいつに友達作る気があんなら、なんとかなるんじゃねーかと思うんだ。
「なにそれ……なんかいい考えでもあんの?」
「いいや? あいにく全然なんも思いつかねーな」
「だめじゃん。……つかえねー」
ジト目で言い放つ桐乃。ふん、言ってくれんじゃねえの。おおよ、自分で言うのもなんだが、俺《おれ》は使えないやつだぜ?
「まあ俺に任せておけって」
「……は? なにその自信……」
怪訝《けげん》そうな桐乃に、俺は不敵な笑《え》みを向けた。
妹よ、知っているか?
この世には、おばあちゃんの知恵袋、という言葉があってだな……。
『――なら、『おふかい』に参加してみたらどうかな?』
眼鏡《めがね》の幼馴染《おさななじ》みは、電話越しにそう提案してくれた。妹の部屋《へや》から脱出したあと、俺は自分の部屋のベッドでうつ伏せに寝っ転がり、麻奈実《まなみ》に電話をかけた。
もちろん妹の秘密について漏らすわけにはいかないから、そのへんは上手《うま》くぼかし『同級生にバレないよう、同じ趣味《しゅみ》を持つ同好の士を見付ける方法』について相談《そうだん》してみたのである。
「おふかい?」
『そ、おふかい。えっと……いんたーねっとで仲良くなった人たち同士が、実際に集まって遊ぶこと――かなっ』
「…………」
えーと、とすると発音は『オフ会』だろうな。
このお婆《ばあ》ちゃん、横文字の発音が棒読《ぼうよ》みだから困る。
「ウソ。おまえ、インターネットとか、できたの?」
『……そのくらいできるってばー……もう……きょうちゃんたら、わたしのこと、ばかにしてるでしょー』
「いやーだってお年寄りって、機械《きかい》が苦手《にがて》なイメージあるじゃん?」
『わたし十七歳っ!? ぴちぴちの女子高生ーっ!』
必死に訴えてくる麻奈実。相変わらず擬態語《ぎたいご》の使い方が面白《おもしろ》いやつである。
電話の向こう側で、両目をバッチンにして半泣きになっているのが見えるようだ。
『もーっ。きょうちゃあ〜ん? いい加減にしないと怒っちゃうんだからねー。ぷんぷんっ』
ぷんぷんとか口で言うやつ、存在したのか……
なんつーか。桐乃《きりの》とやり合ったあとでこいつの声聞くと……すげー心が休まるな……。
「や、悪かったって。……でもおまえ、パソコンなんか持ってたっけ?」
「え? あ、あるよっ? ……お、弟のだけど」
最後の方が、ぼそぼそ喋《しゃべ》りになっていた。本当、隠し事苦手なのな、こいつ。
「なんだ、聞きかじりかよ」
「う、う〜……そうだけどぉ。いんたーねっとくらいは、普通に使えるもん」
「はいはい」
だからな、そもそも発音からして怪《あや》しいじゃん、おまえ。ジジババだから横文字苦手なのは知ってるけどさ……こりゃ、あんまりアテにしない方がいいかもなあ。
「オフ会とやらに参加したことはあるのか? あ、おまえじゃなくて弟な?」
『あるみたいだよ? あーるあんどびーの、こみゅの、おふかいに、この前行ったって。……えっと、きょうちゃん、「そーしゃるねっとわーきんぐさーびす」って知ってる?』
「あー、SNSってやつか。なんか聞いたことあんな。会員制で、自分の趣味《しゅみ》だのなんだのを書いたプロフィールページ作ったり、日記を見せ合ったりして、友達増やしたりするやつだろ?」
『うん。有名なのだと、みくしぃとかね。弟がやってるのは年齢《ねんれい》制限のないやつだけど。学校以外で、同じ趣味の友達を捜すなら、こういうのを使うのがいいんじゃない……かなっ?』
「……ふむ」
なるほど。これはいいことを開いた。さっそくやってみる価値はあるな。
「おし、参考になった。さんきゅな、麻奈実《まなみ》」
「……どういたしましてっ。えへへ……じゃあまた明日《あした》、いつもの場所でね――」
ベッドに寝ころんでいた俺《おれ》は、通話を切って立ち上がった。携帯《けいたい》ストラップに指を突っ込んでクルクル回し、ケツのポケットにしまう。部屋《へや》を出て、向かうのはもちろん妹の部屋。
こんこんこんっとノックを三回。しばらく待つと扉が開き、妹が顔を出す。
「入って」
「あいよ」
妹に部屋に招き入れられる俺。……そういやいま気付いたが、こいつの部屋に入るのはもうこれで四回目か。人生ってのは分からんもんだなー……色々《いろいろ》と。
「待たせたな桐乃。おまえのオタ友を作る方法、閃《ひらめ》いたぜ」
さっそく用件を切り出すと、なぜか桐乃は不機嫌《ふきげん》そうに舌打ちをし、さらに「ふんっ」と鼻で嗤《わら》いやがった。
「……うそばっか。どーせ電話で、地味子《じみこ》に泣きついたんでしょ?」
「地味子って言うんじゃねぇ!? 確《たし》かにそれ以上あいつを的確《てきかく》に表わす言語は存在しないかもしれないけどな、俺《おれ》はあいつの悪口を自分以外の口から聞くのが大嫌いなんだよ」
「……なにマジギレしてんの? ばっかみたい」
俺を侮蔑《ぶべつ》の視線《しせん》で流し見ながら、ぼそっと呟《つぶや》くように言う。
「とにかく、次はおまえでもひっぱたくからな。もう言うなよ」
「はいはい」
はいは一回だこの野郎。せっかくおまえのために動いてやってるってのによ、なんだ、そのむかつく態度は。いきなり不機嫌《ふきげん》になりやがって……さっき俺が部屋《へや》出たときは、別に普通だっただろうが。
……ん? あれ、もしかしてコイツ……。
「……ちょっと聞くけどよ、おまえ、麻奈実《まなみ》のこと嫌いなのか?」
「……別に? つてか、よく知らないしぃ――」
だよな。そりゃ俺の幼馴染《おさななじ》みなんだし、初対面ってことはないんだろうが、桐乃《きりの》と麻奈実の間にほとんど接点なんてないはずだ。ごくたまーに、麻奈実がウチのそばまで来たときに、擦《す》れ違うくらいがせいぜいである。
実際、この間、桐乃が俺と麻奈実の前を通ったとき、麻奈実は桐乃に気付いていない様子《ようす》だった。そんな程度の関係性しかないのに、桐乃が麻奈実を嫌う理由はねえだろう。
そもそも麻奈実は、人に嫌われるようなヤツじゃねえ。じゃあなんだ――?
「……なんか、デレデレしてんのが、気に食わなかっただけ」
あっそ。そうですか。……意味分かんねー。デレデレなんかしてねーっての。
パテバチと火花を散らす俺らであったが、このままでは再び冷戦に突入しかねん。
けっ、ここは年長である俺が折れてやる。我《われ》ながらなんという寛容《かんよう》な兄貴。惚《ほ》れるね。
「なぁ桐乃、この際、誰《だれ》のアイデアだろうがいいじゃねーか。 聞くだけ聞いてみろって、 な?」
「……いいけどさ。で、どんなん?」
「おう。ところでおまえ、SNSって知ってっか――?」
麻奈実の受け売りで、オフ会に参加してみたらどうかと提案してみると、妹は微妙な表情で黙《だま》り込んでしまう。
「……気にいらなかったか?」
「……そういうわけじゃ……ないけど……」
数秒間、俯《うつむ》いて思案《しあん》していたが、やがて顔を上げてこう言った。
「……分かった。んじゃ、やってみるよ」
お? 意外と素直じゃん、珍しい。
「ケータイからでもアクセスできるらしいぞ?」
「分かってるって。顔近づけないで」
桐乃《きりの》はどこからともなく携席《けいたい》を取り出し、タタタタタタタと、超高速で打鍵《だけん》し始めた。
……すっげぇな。俺《おれ》にや無理だわ、コレ。たまにいるよな、メール打つ速度がクソ速い女。
とか思っていると、桐乃がチッと舌打ちした。
「あー、入会するのに紹介状いるんだ……。めんどくさいなあ……」
「おまえガッコにゃ友達いっぱいいるんだろ? いまからメールでもなんでもして、SNS入ってるヤツから紹介状もらえばいいじゃん」
「バカ。ほんっとバカ。表の顔と裏の顔、一緒《いっしょ》にできるわけないでしょ? こういうのって足跡残るんだから」
「そ、そうか……」
すげえな、顔に裏表があんのかい。……まあ表の顔ってのは、イマドキの女子中学生、ティーン誌モデルの『高坂《こうさか》桐乃』なんだろうな。で、裏の顔ってのは、妹大好きアニメ好き、エロダーをこよなく愛している『高坂桐乃』 ってわけか。つくづくギャップがやべえな。
「えーと、ゲームとかアニメなら、そういうのが専門のSNSがあるんじゃねえの? 紹介状いらないところ探してみろよ」
「……はいはい」
俺が脇《わき》から適当な指示を飛ばすと、桐乃は渋々《しぶしぶ》といった様子《ようす》で携帯をいじり、とあるオタク系SNSサイトに登録《とうろく》した。で、まずはプロフィールページを作成しなきゃならんらしい。
「ハンドルネームを入力してくださいだとよ。ほれ、さっさと決めろよ」
「そんなこと言われたって、いきなり決められるわけないじゃん」
「どうせ後で変更できんだろ? 最初はテキトーでいいよ、テキトーで。それか他《ほか》のヤツのを参考にしてみるとかさ。ほれ、見てみ、何か@がどうのこーのとか――」
携帯の画面を脇から覗《のぞ》き込みながら急《せ》かしてやると、桐乃は「いちいちうるさいなあ」と凄《すさ》まじく迷惑《めいわく》そうに携帯を俺から遠ざけた。そのまま何やら入力し、見せてくる。
「はい、こんな感じでどう?」
「……この……名前|欄《らん》の『きりりん@さっきからとなりのバカがうざい件さん(1)』ってなんだ?」
「あたしのハンドルネーム。かわいいっしょ」
似合わねえ――。あと俺怒っていい? 怒っていいよな? いい加減泣けてきたわこの扱い。
「お、おい……待て……年齢《ねんれい》欄が十四歳なのに、趣味《しゅみ》がエロゲー(妹もの)ってやばくね?」
「だって本当のことじゃん。いいの、これは裏の顔なんだから。あたしだって、さすがにクラスメイトとかモデル友達から紹介状もらってたら、こんなプロフィール欄にはしないって」
まあな。俺《おれ》も同じクラスの女子のページに、エロゲーへの熱《あつ》い想《おも》いが綴《つづ》られてたら噴《ふ》くわ。
次の日学校で顔合わせたとき、普段《ふだん》どおり振《ふ》る舞《ま》える自信がねえ。
だからおまえみてーに、裏表を使い分けるのは無難《ぶなん》なやり方なんだろうよ。それはいいさ。
でも俺が気になってることは、まだあってな……。
「おまえ、さっきからなに渋い顔してんの?」
「………………だって」
桐乃《きりの》は俺の案を実行しながらも、ずっと物憂《ものう》げな表情で作業をしていたのだ。
それは何故《なぜ》か。俺は耳を澄《す》まして妹の言い分を開くことにした。
「その……こういうの使って交流するのが、ちょっと恐《こわ》いっていうか……だって、やっぱりあたしと同じ趣味の人って、男が多いと思うし……ずっと年上の人が多いと思うし……バカにしてるわけじゃないんだよ? もちろん、嫌ってるわけでもなくて――でも、その……やっぱさ……ちょっと恐い」
「そうか……そう……だな」
盲点《もうてん》というか。すごく基本的な大問題じゃねえか、これ……。同級生やらモデル友達と交流すんのとは、わけが違うんだよな。オタク云々《うんぬん》を抜きにしたって、年上の男どもと友達になるってのは……女子中学生にゃおっかないだろう。たとえネット上だけの付き合いだとしてもだ。
オフ会で直接会うとなれば、なおさらだよなぁ。……となると、やっぱ同年代で、同性で、趣味《しゅみ》が合う友達を捜してやんなきゃいかんわけだが……
……いるワケねぇ――桐乃と趣味の合う女子中学生なんざ、そう何人もいるワケねぇ――
俺はバリバリと頭をかきむしった。どうしたもんかね、こりゃあ。
「……そういう……女だけの集まりとか……探してみっか……駄目元《だめもと》で」
「……やってみる」
桐乃は携帯《けいたい》をいじくり、コミュニティの検索を始めた。例のごとく脇《わき》から口を挟む俺。
「……これ、とか……どうだ?」
「んー……? えっと、これ?」
「……そうそう。ヘー、探しゃああるもんだな……どれ、ちょっと中見てみろよ」
俺たちが見付けたのは『オタクっ娘《こ》あつまれー』というコミュニティだった。メンバー数は二十人ほど。この人数が多いのか少ないのかは分からんが、ちょっとしたサークル程度の規模《きぼ》である。コミュニティには参加条件が設定されていて、年齢《ねんれい》と性別を明記した上で参加表明メッセージを送り、管理人が承認しないとダメらしい。なんともちょうどいいことに、『お茶会の誘い』というトピックが立っている。メンバーじゃないから詳細《しょうさい》を見ることはできんが、オフ会みたいなもんと考えていいはずだ。
「……なあ桐乃。これなら大丈夫なんじゃねーの」
もしもメンバーに、女になりすましている男が混じっていたとしても、女だらけのオフ会に参加してきたりはせんだろう。大顰蹙《だいひんしゅく》間違いなしだもんな。俺《おれ》はこれでバッチリだと思ったのだが、妹の表情は、何故《なぜ》か芳《かんば》しいものではなかった。
「ん……うん……そだね……」
「なにおまえ? まだ何か、他《ほか》に心配でもめんの?」
「そういうわけじゃないけどぉ…………」
「じゃ、参加したいってメッセージ送ってみれば? ほれ、このボタン」
「ん……」
桐乃《きりの》はメッセージ作成画面をしばし眺めていたが、ふと俺を見上げてこう聞いてきた。
「……メッセージ、なんて書いたらいいかな?」
「そうさなあ。こういうのは、ある程度ハラ割って話した方がいいんじゃね? 趣味《しゅみ》の合う、女の子の友達が欲しいってさ」
桐乃は領《うなず》き、ぽちぽちメッセージをしたためて送っていた。
『メッセージが送信されました』
その表示を見た俺は、自分の役目が半ば果たされつつあることを実感する。
これで桐乃に、趣味を理解してくれる女友達ができれば――もう俺はお役御免《やくごめん》ってわけだ。
俺がこの部屋《へや》を訪れるのも、もしかしたらこれで最後かもしれんな。こいつが俺を相談《そうだん》相手に選んだのは、もともとイレギュラーみてーなもんだったわけだし。これ以上付き合ってられねえってのも、俺の、掛け値なしの本音である。
だから、これでいい。もしもこれで、また前みてーにドライな関係に戻っちまうんだとしても、それはそれで仕方のねーことなんだ。ふん……まあ……正直なところを言うと、ちっとばかし寂《さび》しい気はする。そう、ほんのちぃっとばかしはな。
俺たちはここ数日で、それこそ十年分くらい話をした。
そうして俺は、妹の意外な一面を知った。
それは『意外な趣味』だけじゃあない。何を考えてんのか分からねえと諦《あきら》めていた妹の、隠されていた本音を垣聞見《かいまみ》た。俺が見ようともしていなかった心に、指先一本くらいは触れられたような気がする。だからなんだってわけじゃねえけどさ。なんだろな、やっぱ、嬉《うれ》しいのかもな、俺。よく分かんねーけど。
「これでよし、と。あとは返事を待つだけ……」
「上手《うま》くいきゃいいな」
「…………うん」
桐乃はこくりと頷く。俺は唇の端を持ち上げて笑《え》む。
なぁ、おまえさ。俺なんぞよりもずっと、一緒《いっしょ》にいて楽しい、遠慮《えんりょ》なしにだべってバカやれるような、そういう友達ができりゃあいいな。
ま、それまでのあとちょっとだけは、俺が代わりに付き合ってやんよ。
『オタクっ娘《こ》あつまれー』コミュニティの管理人から色よいメッセージが返ってきたのは、翌日のことだった。
学校から帰宅した俺《おれ》は、例のごとく桐乃《きりの》に部屋《へや》まで引《ひ》き摺《ず》り込まれ、現在、コミュニティの管理人・ハンドルネーム沙織《さおり》≠ウんからの返信メッセージを読んでいるという次第。
『はじめまして、きりりん様。「オタクっ娘あつまれー」コミュニティの管理人を務めております、沙織≠ニ申します。……さっそくですが、コミュニティへの参加希望メッセージ、ありがとうございました。――もちろん承認させていただきますわ。歳《とし》も趣味《しゅみ》も近しいあなたとなら、きっと素敵《すてき》なお友達になれると思いますの。もしよろしければ……近日|開催《かいさい》を予定しておりますお茶会にもご参加くださいませ。たくさんお話したいですわ。……どうかご検討くださいな。――それでは、今後ともよろしくお願《ねが》いいたします』
「ハンドルネーム沙織≠ウん……ね。へぇ……この管理人さん、ずいぶんと丁寧《ていねい》な人みてーだなぁ」
俺はこの文面から、深窓《しんそう》の令嬢然《れいじょうぜん》とした雰囲気を感じ取ったね。なんつーか、こう、匂《にお》い立つような気品があるもん。あと、儚《はかな》げな感じ? 俺の勘《かん》が、間違いなく美少女だと言っている。
気付いたら桐乃が、汚物を見る瞳《ひとみ》を俺に向けていた。
「……キモ、なにニヤニヤしてんの?」
「ニヤついてなんかねえよ。いい人そうでよかったって、思っただけだ」
「まぁ……ね。清楚《せいそ》なお嬢様系? ……なーんか想像つかないな。あたしのクラスには、そういうタイプいないし」
そうだな。おまえの友達って、おまえ自身も含めて派手派手《はではで》しいのばっかだもんな。華《はな》があって垢抜《あかぬ》けちやいるんだろうけど、近寄りがたいっつーかさ。同属性のヤツ以外を遠ざけちゃう雰囲気があるんだよな。トゲがあって、そばにいられっとチクチクすんだよ。
「で、もちろん参加すんだよな?」
「…………うん、する」
桐乃は、何故《なぜ》か渋い顔で領《うなず》く。ったく、こいつ、この前からこんな感じなんだよな……心配ごとがあんのに、言えずに隠している、みたいな。年上の男と交流すんのが恐《こわ》いっつー問題は解決したわけだから……それ以外で何かあんのかね? 気になって聞いてみても、
「なあ、やっぱおまえ、何か心配ごとでもあんの?」
「別にぃ」
とまぁ、こうだ。どうやら言いたくないらしいな。だったら俺は何もしてやれん。……もどかしいけどな。へっ、せめて激励《げきれい》くらいはしてやんよ。
「そつか、ま、頑張《がんば》れや」
「は? なに他人事《ひとごと》みたいなこと言ってんの?」
桐乃《きりの》は『豚は死ね』みたいな瞳《ひとみ》で俺《おれ》を串刺《くしざ》しにした。温かい激励《げきれい》を投げかけてやったはずなのに、返ってくるのが冷たい侮蔑《ぶべつ》ってどういうことよ? なにこの間違った等価交換。
眉間《みけん》に縦《たて》ジワを刻んだ俺に向かって、桐乃は、
「人生|相談《そうだん》。続き」
単語ブツ切りで呟《つぶや》く。それからさも当然のことを命じるかのような調子《ちょうし》でこう言った。
「一緒《いっしょ》に来てよ」
……すげえこと言いやがるな、この女。
「………………あのな、女だけの会合に、男の俺がどうやって参加するというんだおまえは?」
「女装《じょそう》でもすれば?」
「しねぇ――よ! しれっと言うけどな、もしもバレたら俺は、女だらけのオフ会にそれほどのリスクをおかしてまで参加したかった変態野郎ということになんじゃねえか!?」
「大丈夫。その程度のリスクは覚悟の上だから」
「おまえの話じゃねえ!? 俺! 俺が、変態の汚名《おめい》を被《かぶ》るリスクを負う覚悟はねえっつってんの! 全然大丈夫じゃねえよー」
大体だな――
「俺が女装したって、絶対|一瞬《いっしゅん》でバレるだろうが」
「……そつか、そだよね……」
桐乃はようやく納得してくれたらしい。数回しみじみと領い《うなず》てから、唇を尖《とが》らせてぼやいた。
「……なんで美形に生まれなかったの?」
「ブッ飛ばすぞこの野郎! おまえの全発言中、いまのが一番傷ついたわ! その哀《あわ》れむような視線《しせん》をいますぐやめろ!」
そこまで抗議《こうぎ》してやっと、桐乃は俺から視線をそらし、チッと忌々《いまいま》しげに舌を打った。
「仕方ないな……。じゃ、もっと正攻法でいこっか」
「まるで俺がオフ会に行きたくて行きたくで、おまえに頼み込んでいるかのような台詞《せりふ》だな。……まあいい、一応聞いてやるから言ってみろ。正攻法ってなんだよ?」
「あたしがこれから沙織《さおり》≠ウんに『あたしの知人(十七歳・男)が、どうしても女の子だらけのお茶会に参加したいと言って聞かないんです。かわいそうなので一緒に連れて行ってあげてもいいでしょうか?』ってメッセージを送るとかどう?」
「それは『こそこそした変態』と『堂々とした変態』の違いでしかないな」
つーか、普通に断られんだろ。女だけの集まりなんだし、大顰蹙《だいひんしゅく》喰《く》らうって。
そう伝えると、桐乃はご機嫌《きげん》斜《なな》めになってしまった。下唇を噛《か》んで、俺を睨《にら》んでくる。
「――じゃあどうすんの?」
「だから俺が一緒に参加すんのは無理だって――ああもう、そんな睨むんじゃねえよっ。わーったって……ええっと」
俺《おれ》はディスプレイに映る『オタクっ娘《こ》あつまれー』コミュニティのページを見る。
オフ会のトピックにポインタを合わせてクリックすると、詳細《しょうさい》が表示された。
「ほら、この場所……カフェか? 別に当日貸し切りつてわけでもねーんだろ? そんなら、そばの席に俺も座っててやるよ。それでまあ、口出しとかはできねーけど、見ててやるから」
自分で言っててなんだけど、ただそばで座ってるだけじゃ意味ないよな。
当然|桐乃《きりの》からは侮蔑《ぶべつ》の言葉が飛んでくるものとばかり思っていたのだが、
「……分かった。それでいい」
桐乃は、何でか知らんが素直に領《うなず》いた。意表を衝《つ》かれた俺は、目を見張ってしまう。
「そ、そか」
そういやこいつ、どうして俺についてきて欲しいなんて言ったんだろうね? 聞くタイミングを逃しちまったけど……俺がそばにいるだけでいいって……? 分っかんねえなァ〜……。
まあ、ともかくそういうわけで。次の日曜日《にちようび》、俺は『オタクっ娘あつまれー』コミュニティのオフ会に出陣する妹を、草葉の陰から見守ることになったのである。
あっという間にオフ会の当日がやってきた。
最寄《もよ》り駅《えき》から電車に乗って一時間半。現在位置は、JR秋葉原《あきはばら》駅・電気街口である。
休日の昼過ぎ。噂《うわさ》のアキバとやらはさぞやゴミゴミと混雑しているのだろうと思っていたが、わりとそうでもない。駅構内や駅前の光景だけを眺めている限りでは、むしろきっかり整備《せいび》されていて、洗練された印象を受ける。
「ラジオ会館《かいかん》! ゲーマーズ本店っ!……おぉっ」
桐乃は、声を小さく抑えながらも、感動を隠し切れていない様子《ようす》。
……浮かれてやがんなあ、こいつ。俺のみならず桐乃も、秋柴原に来たのは初めてらしい。こいつの行動|範囲《はんい》は同じ東京で《とうきょう》も渋谷《しぶや》だの原宿《はらじゅく》だのなんだろう。グッズこそどっさり持っていたが、オタクとしてはビギナーなのかもしれない。俺は携帯《けいたい》で時間を確認《かくにん》する。
「おい桐乃。もうそんなに時間ねえぞ? 店回りたいなら、オフ会終わってからにしろ」
「分かってるって。ってか、あんまそば寄んないでデートしてると思われたらヤじゃん」
「………………」
そんなひどい口を叩《たた》く桐乃は、初めてのオフ会ということで、非常に気合の入った格好をしていた。大きく肩を露出《ろしゅつ》させた、大人《おとな》っぽい服だ。下はマイクロミニスカートとブーツ。でもって要所要所には高そうなアクセサリーときたもんだ。
ファッションなんかにはうとい俺にでも分かるレベルで垢抜《あかぬ》けている。
それこそお台場《だいば》やら渋谷へ行けと言いたくなる格好。
無地のシャツにジーンズなんつー格好の俺とは、なるほど釣り合うまい。
でもな……。もう違いから言わないけど。おまえ……今日《きょう》の集まりに、その格好で出るのかよ……確《たし》かにかわいいんだけどさあ。……ったく、大丈夫かな。
「よし。ンじゃこっからは一旦《いったん》別行動な。おまえ待ち合わせここだろ? 俺《おれ》は先に店行ってスタンバってるから」
「え? あ……うん。分かった」
「心細そうな顔すんなって。ちゃんと見ててやっから」
「――そ、そんな顔してない。バカじゃん、さっさと行けば?」
「ヘーヘー。――じゃあな」
俺は軽く片手を挙げて、妹に背を向けた。
桐乃《きりの》がゲーマーズ本店と呼んでいた店の脇《わき》をとおり、大通りに出る。すぐそばの店先には、ごちゃっとゲームやらコードっぼいものやらが雑多に並んでおり、一見しただけでは何を売っているんだか分からない。俺は、ガキの頃《ころ》に通っていた駄菓子屋《だがしや》を連想した。別に買うものなんかねーのに、妙にわくわくしてくるところも似てる。
……賑《にぎ》わってんなー。
この辺はさすがに混《こ》んでいる。もっとも騒《さわ》がしかったころの秋葉原《あきはばら》では、この大通りでゲリラライブ的なものが行われていたこともあるらしい。かつてと比べると、今日《こんにち》の賑わいは多少落ち着いているのだろうが――
……はー、祭りみてーだ。
それでも俺は、そう思った。
俺は感心しつつ、肩にかけたバッグから、プリントアウトした地図を取り出して眺める。
……あ、道こっちじゃねえや。ぜんぜん逆じゃん。
俺は一旦、引き返すために振り返ったのだが、そこには依然として桐乃が立っている。
楓爽《さっそう》と歩いてきた手前、Uターンするわけにはいかない。俺は電気屋が軒《のき》を連ねる大通りには向かわず、左折した。交差点をさらに左折、直進――鉄橋の下を潜《くぐ》り抜けて先へと進むと、やがて右手に細長い建物が見えてくる。
書泉《しょせん》ブックタワー、と地図にはある。この辺まで来ると、オタクの町という感じはずいぶん薄れ、周囲の印象はごく普通の駅前と変わらなくなる。
俺は横断歩道をわたり、ブックタワーの入口付近で立ち止まった。
……えーと、こっちでいいんだよな?
俺はそのまま、道路沿いに直進した。地図に従って数分歩くと、周囲の町並みが、閑静《かんせい》な住宅街という風情《ふぜい》に変わった。地図のとおりなら、この辺《あた》りにカフェがあるはずなんだが……
「と、ここか」
俺は足を止め、ロッジ風の建物を見上げる。カフェ『プリティガーデン』の外観《がいかん》は、瀟洒《しょうしゃ》な白い小屋という印象。ごく短い階段を上り木製の扉を開くと、快い鈴の音《ね》が響《ひび》いた。
からん、かららん――
「「お帰りなさいませ! ご主人様!」」
エプロンドレスのメイドさんたちが、声を揃《そろ》えて俺《おれ》を出迎えた。
俺は見なかったことにして扉を閉めた。
「……………………ど、どどど、どういう……ことだ……?」
両手で扉を固く押えつけながら、呟《つぶや》く。いや、分かってる。分かってるんだって……でもちょっと待ってくれ。脳が事態を整理《せいり》できてないから。
周りが普通の町並みだからって、ここがアキバだっつーことを忘れてた……
噂《うわさ》には聞いたことがある……。こ、これがいわゆる、アレ……
――メイド喫茶《きっさ》だったのかよ、ここっ!?
ようやく脳が状況を理解し、遅ればせながら脳内で突っ込みが言語化された。
すうはあと深呼吸し、恐る恐る、再び扉を開ける。
かちん、かららん――
「「お帰りなさいませ! ご主人様!」」
さっきと同じ光景が、再び展開された。……クソ、やっぱり幻じゃなかったようだぜ……。
俺を出迎えるために、ばたばたとかわいらしい挙動で、メイドさんが寄ってくる。
白いふりふりのエプロン姿。やたらと短いスカートと、長いソックスを穿《は》いている。
とにかくかわいさ重視の衣装《いしょう》だった。
内心帰りたくてしょうがなくなっていた俺ではあったが、先に行ってスタンバってると約束しちまった以上、ここで引き返すわけにはいかない。覚悟を決めて一歩を踏み出す。
高坂《こうさか》京介《きょうすけ》、十七歳。メイド喫茶、初体験《はつたいけん》……
「一名様でございますか、ご主人様?」
「は、はあ……」
「はぁい、それでは、こちらへどうぞ〜♪」
メイドさんに連れられ、俺は一人《ひとり》用の席へと案内された。内装《ないそう》は普通の喫茶店だ。やや薄暗《うすぐら》い店内を、橙色《だいだいいろ》の灯《あか》りが照らしている。調度《ちょうど》もどことなくアンティークっぽくて、洋館《ようかん》の雰囲気がよく出ていると思う。ちなみに昼時だってのにわりと空《す》いている。オフ会のヤツらが予約してんのかもな。
「こちらのお席でよろしいですかぁ?」
「ええ、あ、ども」
俺はメイドさんに椅子《いす》を引いてもらって、席に着いた。なーんか妙に恐縮《きょうしゅく》しちまうなあ。
どのメイドさんも結構かわいい顔をしているし。
「こちらがメニューです♪ ご主人様。――呼び方のオーダーはございますかぁ?」
「え? な、なんすかそれ?」
「はい♪ わたくしどもがぁ、ご主人様のことをどう呼ぶか、決めてくださいっ。ちなみにメニューは『ご主人様』『旦那《だんな》様』『〜〜くん』『〜〜ちゃん』『おにいちゃん』『お兄《にい》様』など、各種取りそろえておりまぁす♪」
……メイド喫茶《きっさ》、恐るべし。くっくくく……一介の高校生にゃハードル高い展開だぜ……。
もう笑うしかねえ。なるようになれだ。俺《おれ》は不敵な笑《え》みを浮かべて言った。
「……いやその、なんでもいいっす」
「そうですかぁ? じゃあ、『おにぃちゃん』って呼ぶね? おにぃちゃん♪」
と、いきなり態度が慣《な》れ憤《な》れしくなるメイドさん。この時点ですでにメイドじゃないという突っ込みは無粋《ぶすい》なんだろうな……。大体このメイドさん、明らかに二十歳《はたち》超えてるし……。
「なにか言った? おにいちゃん?」
「いえいえ!」
おっかねえな。心読まれたかと思ったわ。俺が手の甲で額《ひたい》を拭《ぬぐ》っていると、メイドさんが水を運んできてくれた。ありがたく喉《のど》を潤《うるお》しながら、メニューを眺める。
まだ昼飯食ってないからなー……なんかハラにたまるもんを……と……
「…………?」
俺は困惑《こんわく》の表情で、メニューの項目をざっと眺めた。どうしてかって?
ん……まぁなんだ、とりあえず数例を挙げてみよう。
HらんちっH
メイドさんのちぶらぶオムライス(ケチャップorオタフク)900円
いもうとの手作りカレー(ぱるぷんて味 ぺきらごん味 ざらぎ味)1000円
ツンデレ委員長の特製ラーメン 800円
HどりんくっH
スピリット・オブ・サイヤン 380円 超神水 300円 神精樹ジュース 300円
――どうだ、よく分からんだろう。ランチは食い物の名前がくっついてるからまだいいが、ドリンクにいたっては何が出てくるのかまったく想像がつかねえ。どうしろと?
仕方ないのでメイドさんに聞いてみた。
「すんません、この……すぴりっと……おぶ……さいやんってなんすか?」
「はい♪ そちらは野菜ジュースですよっ、おにーいちゃんっ」
じゃぁ野菜ジュースって書けや。――とはもちろん言わない。そういうモンなんだろうし。
ちなみに『超神水=サイダー』、『神精樹ジュース=フルーツミックスジュース』らしい。
「ご注文はお決まりですか? おにぃちゃん」
「いえまだっす……すんません」
情けないことに、緊張《きんちょう》して敬語になってしまう……。
「ちなみにわたしのオススメはぁ。――いもうとの手作りカレーでぇす。わたしの手作りなんだよっ、おにいちゃんH」
「じゃ、じゃあそれで」
クソ。このアマ、さりげなく一番高いのを選びやがって……いや、流される俺《おれ》が悪いんだけどさ……。
「オーダー入りましたぁ♪ いもうとの手作りカレー・ざらき味よろしくでぇっす♪」
しかもザラキ味かよ。とりわけヤバそフなのじゃねーか。くっ……もうどうにでもなれ。
まぁ、さすがに喰《く》えない代物《しろもの》は出てこんだろう……な?
「はぁ……やれやれ」
メニューを選ぶだけで疲労しつつある俺であったが、とにもかくにも一息ついた。
ぎしっと椅子《いす》を軋《きし》ませて、天を仰《あお》ぐ。
と、そこで扉が開き、団体客が姿を現わした。
からん、かららん――
「「お帰りなさいませ!ご主人様!」」
おっ、来たな。俺はバッグから野球帽を取り出し、目深《まぶか》に被《かぶ》る。
そしてさりげない仕草《しぐさ》を装《よそお》って、入日付近に視線《しせん》を注いだ。
ぞろぞろっと、女の子の集団が入ってくる。桐乃《きりの》の姿はまだ見えない。ふむ……やっぱりわりと地味め――失礼を承知でいえば垢抜《あかぬ》けていない娘《こ》が多い気がする。
コスプレらしき衣装《いしょう》を着ている娘もちらほらと……ん?
――うおっ、一人《ひとり》すげえのがいんな!?
心の声とはいえ、あまりにも失礼な物言いだと思うかも知れない。だがな、アレを見てもそれが言えるかな? 俺は集団の先頚に立って入ってきた女の子? を注視した。
ええと……まずね? でかい[#「でかい」に傍点]んだわ。超でかい。とにかくでかい。
下手《へた》すっと180センチくらいあんじゃねーの……? まぁね、それだけ見りやスーパーモデルもかくやってとこなんだろうが……そいつの服装《ふくそう》がこれまた凄《すげ》えの。見るからにオタク。
頭にバンダナ巻いて、ぐるぐる眼鏡《めがね》をかけている。でもってチェックの長袖《ながそで》シャツの裾《すそ》を、ズボンにインして、ごっついリュックサックを背負っている。
おまけにそのリュックに、丸めたポスターを挿《さ》しているときたもんだ。
……ようするに……テレビとかに出てくる『典型的なオタク像』そのものの格好をした、スパーモデルみてーな体格をした女の子? だ。
嘘《うそ》じゃねえって。俺だって信じられねえけどさ、現実にいるんだからしょうがねえだろ。
やべー、ビックリしすぎで喉《のど》がカラカラになってきた。
はー、東京《とうきょう》ってのは、おっかねえところなんだなー……。勉強になったわ。
だいぶ頭が混乱してきたので、俺《おれ》は水をがぶ飲みして、精神を沈静させようと試みた。
そんな俺の視線《しせん》の先、件《くだん》のでっかい女の子? が、メイドさんになにやら話しかけている。
「拙者《せっしゃ》、一時に予約していたものでござるが……」
……とんでもねえ喋《しゃべ》り方《かた》だなこのでかぶつ。
顔色ひとつ変えないメイドさんからはプロの凄《すご》みを感じるね。
「はぁいっ。お名前うかがってもよろしいですかぁ?」
「沙織《さおり》・バジーナ」
ブッ――!? 俺は盛大に水を噴《ふ》いた。そのまま喉《のど》を押さえて咳《せ》き込む。
「……がはっ……げほごほげほっ……!?」
「きゃっ! だ、大丈夫ですかおにいちゃん!?」
メイドさんに背中をさすってもらいながら、俺はもだえ苦しんだ。やっべ気管に入った……!?「げはげはごほッ……!?」クソッ、瀕死《ひんし》の有様だが……
これだけは……これだけは突っ込んでおかねば、死んでも死に切れねえ……。
ハンドルネーム沙織≠ウんってコイツかよ!? しかもバジーナて、日本人だろアンタ!?
っあ――そうだよなあ! コミュニティの名前からしてアレだったもんなあ!
まぁね? ネット上の人格と実物が一致しないのなんざ珍しくねーって、そんくらいは俺でも分かるよ。でもな、いくらなんでもこりゃあ詐欺《さぎ》ってもんだろ。
想像どおりの、清楚《せいそ》なお嬢様《じょうさま》っぼい美少女が来るとは思っちゃいなかったけどさ――
アンタは斜め下にぶっ飛びすぎですから! 俺の十七年の生涯《しょうがい》で最大級の衝撃《しょうげき》だよ!
おそろしくタチの悪い出オチじゃねーか。なんてこった。この俺が、話したこともねえ初対面の相手に、こんな死ぬ気で突っ込んでしまうとは……。
「……ごほっ……はあ……はあ……ども、すんません、お騒《さわ》がせしました……」
「いえいえ〜。じゃ、代わりのお水、お持ちしますねっ♪ でもでもおにーちゃん? 次、やったら怒っちゃうゾH」
こつん。俺の疎を軽くゲンコツでつっつくメイドさん。突然のハプニングにも、メイドさんは慌《あわ》てず騒がず奉仕の精神を忘れない。たいしたプロ根性である。
「くっ…………いやっ、ほんと申しわけない……」
俺は涙目で赤面した。しかもいまの騒動《そうどう》で、店内の視線をクギ付けにしてしまったらしい。
ちらほらいる男性客たちから『貴様、うまくやりやがって……』という嫉妬《しっと》の視線が、ビシバシ突き刺さってくるのが分かる。
いやいや! ワザとじゃないっすよ!? ああっ、居づらくなっちゃったよ畜生《ちくしょう》〜!
チラッ。再び入口付近に視線を向けると、桐乃《きりの》が『なに目立ってんだ殺すぞコラ』という視線で腕を組んでいた。――だってしょうがねえじゃん!? バジーナのせいだって!
俺が目線だけで訴えると、
「…………ふんっ」
アイコンタクトが通じたのかどうなのか、桐乃《きりの》はふいっとそっぼを向いた。
……しつかしアイツ……めちゃくちゃ浮いちまってんなあ。
それもそのはずで『オタクっ娘《こ》あつまれー』の面子《メンツ》は(でかいのを除き)若干《じゃっかん》地味めの女の子や、コスプレじみた格好をした、やはり大人《おとな》しそうな女の子ばかりが揃《そろ》っている。ちなみに髪を染めている子はほとんどいない。
そんな中に、気合ばりばりでコーディネイト決めてきたティーン誌モデル様(茶髪)が混じってんだもんな――そりゃあ浮くって。
そこで、入口付近に溜《た》まって誘導《ゆうどう》待ちをしていたコミュニティメンバーたちのところへ、メイドさんが二人《ふたり》連れだってやってきて一礼した。
「たいへんお待たせいたしましたぁ〜。それでは、お席にご案内いたしま〜す♪」
メイドさんに導《みちび》かれ、ぞろぞろと女の子の集団が奥に入ってくる。
桐乃たちが通されたのは店の最奥《さいおう》だ。テーブルを複数くっつけて団体席にしてある。
およそ十人のオタクっ娘は幾つかのグループに自然と分かれ、お喋《しゃべ》りをしながら席を選んでいく。漏れ聞こえてくる会話からすっと、どうやらこれがこのコミュニティで初のオフ会らしい。つまりほぼ全員が初対面ってわけだ――が。
「…………………………」
……き、桐乃のやつ、孤立しちゃってるじゃねえか……。
隅《すみ》っこの方でぽつんと一人《ひとり》きりで座っている桐乃。妙に姿勢を正して、落ちつきなくきょろきょろしている。ちょうど小学校とかで、『お友達同士でグループ分けしなさい』と言われて、余っちゃった子みてーだ……。
これは切ねえ――――俺《おれ》は胸を押さえて歯を食《く》い縛《しば》った。
「あの……」
そんな具合に桐乃が恐る恐る話しかけても、二言三言話しただけで、会話が止まってしまう。
お互いに相手を警戒《けいかい》しているような感じだ。同じ趣味《しゅみ》の集まりのはずなのに、全然そうは見えない。言葉が通じてないというか……日に見えない壁《かべ》があるというか……
俺は舌打ちをした。
だよな……こうなるんじゃねーかって……薄々《うすうす》は、思ってたんだよ……
桐乃はいつも『下郎め、寄るでない』みたいな姫様オーラをびりびり放出している。
華《はな》があって、垢抜《あかぬ》けていて――同属性のヤツ以外を遠ざけてしまう雰囲気《トゲ》。
もちろん学校では、それでもいいんだろう。クラスにゃ色《いろ》んなヤツがいるから、同じ属性同士で集まって、つるんで――グループを形成する。
でもって桐乃は、クラスで一番華のあるグループで、さらに中心的な存在として君臨《くんりん》していたわけだ。そこ[#「そこ」に傍点]では気合入れてファッション決めて、かわいくあればそれでよかった。
トゲのある姫様オーラは、同属性のヤツらを惹《ひ》き付けるカリスマとして機能《きのう》していた。
だけど、いまここでは、そうじゃない。桐乃《きりの》が仲良くなろうとしているのは、学校でつるんでいる連中とは全然違う属性を持つ女の子たちだからだ。いまの状況を喩《たと》えるなら、そうだな。
羊《ひつじ》の群れの中に、『羊と仲良くなりたい狼《おおかみ》』を放り入れたようなもんだろ……。
狼がどんなに必死に話しかけようが、羊の方はビビリまくった上で『なんでコイツが、あたしたちの群れに混じっているの?』――と、なっちまう。
「〜〜〜〜っ」
俺《おれ》はもどかしさのあまり、唇を噛《か》む。……あ、桐乃のやつ、また逃げられた。ほんっと二言三言しか保《も》たないのな。相手も最初は相槌《あいづち》うってくれるんだけど、すぐに別グループの話題に食い付いて、桐乃から離《ほな》れていっちまう。
……というか、漏れ聞こえてくるこいつらの会話、俺にはなにが何だかサッパリ分からん。
外国に迷い込んじゃったみてーな気分だぜ……。
こめかみを押さえてため息をつくと、ふと桐乃が、助けを求めるように俺の方を向いた。
……そんな泣きそうなツラすんじゃねぇよ。そうじゃねーだろよ、いつものおまえはさ!
俺がぐっと拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》めようとしたところに、
「お待たせいたしましたぁ〜♪ いもうとの手作りカレーだよっ、おにーいちやんっ♪」
「あ、ども」
ちょ、このクソメイド、すげえタイミングで持ってきやがって。メイドさんに『おにいちゃん』と呼ばせているところを妹に見られちゃったじゃねーか!? 台無しだよもう!
いっそ殺せ……! 俺は羞恥《しゅうち》に打《う》ち震《ふる》えながらも妹を見つめた。桐乃はもうこっちを見ちゃいなかったが、構わない。俺はぐっと拳を握り締め、視線《しせん》に力を込めた。
なぁ桐乃、俺はなんにもしでやれねぇ。でも、ちゃんとここで見ててやっから――
頑張《がんば》れ! 頑張れ桐乃……! 頑張れっ! ひたすら俺は意味のない念を送り続けた。
ちくしょう……!
なにが手作りだ……この味、明らかにレトルトじゃねえか……!
オフ会はそれから二時間ほど続き、最後にプレゼント交換みたいなことをやって終わった。
桐乃は終始ろくなコミュニケーションが取れず、もちろん一人《ひとり》の友達も作れなかった……。
さらに追い打ちをかけるように、桐乃に回ってきたプレゼントは、誰《だれ》が持ってきたもんなんだか、見るからにショポイ、おもちゃのマジックハンド。
……ちょっ……こ、これはねえよ。いくらなんでも、あんまりだって。
ビンゴの外れでも、もっとマシな賞品用意すんだろ……。
一人ぽつんと俯《うつむ》いて、しゅこしゅこハンドを開閉させている妹が、ホント不憫《ふびん》で仕方ねえ。
……やべ、マジで涙出てきたわ……。
俺《おれ》の十七年の人生において、これほどまでに涙を誘う光景がかつてあっただろうか……。
ちなみ俺はいま、店の外で、メンバーたちの集団から、ちょっと離《はな》れた位置にいる。
と、そこでコミユテティの管理人兼オフ会幹事の沙織《さおり》≠ェ、締《し》めの挨拶《あいさつ》を述べ始めた。
「――皆様のご協力もありまして、記念すべき初めてのお茶会は、つつがなく終了したでござる! 拙者《せっしゃ》、心より感謝《かんしゃ》しておりますぞーっ!」
楽しげな歓声《かんせい》が上がる。さすがコミュニティの代表というべきか、あんな見てくれと喋《しゃべ》り方《かた》なのに、妙にオタクっ娘《こ》たちから人気があるらしい。一人《ひとり》だけタッパがあるもんだから、中学生を引率する先生みてえだ。
「――お茶会はひとまず! これで解散となりますが――まだまだ時間はあるよという方、会で仲良くなった友達ともっと話したいよという方は、それぞれ各自で二次会、三次会へと向かってくだされ! なお次回の催《もよお》しについては、またトピックを立てますゆえ、ぜひともふるってご参加くだされ! では――解散っ!」
わぁっと喧噪《けんそう》が広がった。別れの挨拶《あいさつ》が飛び交い、「ねーこれからとらの穴に行こーよ」だの「二次会どこいくー?」だの「シードのカップリングについてみっちり語り合わない?」などと誘《さそ》いの文句がやり取りされている。
が、しかし――そんな楽しげな輪《わ》の中に、我《わ》が妹・桐乃《きりの》はいない。
オフ会のメンバーは、二、三人ずつ連れだって、ポッポッとその場から離れていく。
ちなみに沙織≠ヘ、締めの言葉を発してからすぐ、猛ダッシュでどっかにいっちまった。
急用でもあったのかね?
……そんなふうにして、人気《ひとけ》がほとんどなくなってからも、桐乃はその場にポツンと立ち尽くしていた。もしかしたら誰《だれ》かが誘ってくれるんじゃないかと、諦《あきら》めようにも諦め切れない様子《ようす》。ぐったりと疲れた表情で、肩を落としている。ばりっばりに決めたかわいいファッションも、いまとなっては虚《むな》しいばかり。……むちゃくちゃ逆効果だったもんなぁ、それ。
その姿はさながら、刀折れ矢尽きた敗残兵のようであった。しかも片手にはマジックハンド。
そんな寂《さび》しげな妹のところへ、俺は帽子を脱いで、ゆっくりと近寄っていった。
「…………何も言うな。……おまえはよく頑張《がんば》ったよ」
ぼん、と頭に手を置いてやると、すぐさまパシッと払いのけられた。
……はいはい、情け無用な。
桐乃は俯《うつむ》いたまま、俺に顔を見せようとはしなかったが――
そんだけ強がれりゃ上等だ。今回は失敗しちまったけど、反省して、立ち直って――何度だって挑戦すりゃあいいのさ。そうだろう?
「よっしゃ、桐乃――せっかくアキバにきたんだ。ちょっくら観光《かんこう》していこうぜ」
ばんっと背を叩《たた》いてやると、ようやく憎まれ口が返ってきた。
「ったいな……バカ。……大体なんなのさっき、いきなり水|噴《ふ》き出したりして……」
「いやおまえ、アレはしょうがねえだろうよ――」
なんでもない会話をかわしていると、ふいに桐乃《きりの》が「はぁっ」と大きなため息をついた。
「………………ぜんぜん話できなかった」
「……そうだな。ま、最初はこんなもんよ。気にするこたねーって」
「……そんなことない。……な、なんで……? あ、あたしっ、いつもどおりにやったつもりなのに……どうして避《さ》けられるわけっ? ……くぅぅ〜……かつく。……むかつく。むかつくむかつくむかつく……っ……」
イライラと歯軋《はぎし》りしながら、見苦しく地団駄《じだんだ》を踏む桐乃。
「…………」
咎《とが》める気にはなれなかった。俺《おれ》にも覚えがあるからだ。悔しさとか哀《かな》しさを、怒りに変換することでしか紛らわすことができないときが、あるんだよな……。
だが妹よ……むかつくのはホンットよく分かるんだけどさ……八つ当たりに、兄を蹴《け》っ飛ばすのはどうかと思うんだ。俺はそのへんの壁《かべ》じゃないからね? 蹴られたら痛いんすよ。
怒らないけどさ! 痛《いて》えけど、おまえも痛いんだろうから、今日《きょう》だけは我慢してやる。
「痛《い》ってえ!? このガキャ……いくらなんでも踵《ヒール》はやり過ぎだろうが!? クソ、我慢できっかこんなもん! そこまで俺は寛容《かんよう》になれねえよ!」
そんなふうに、俺が必死で妹の八つ当たりに耐えていると。
意外なやつが現われた。
「おぉ〜〜い! きりりん氏! ……ふぅっ、よかった! まだいてくださって!」
「あ、アンタ……さ、沙織《さおり》さん……?」
息せき切って走り込んできたのは、コミュニティの管理人・沙織だった。
「おやおや、沙織さんなどと! 拙者《せっしゃ》ときりりん氏の仲ではござらんか! 呼び捨てで結構!いやぁ〜それにしてもよかったよかった。いま、ちょうど携帯《けいたい》にご連絡差し上げようと思っていたところでござってな――」
にかーっと笑う沙織。しっかしテンション高《た》けえ女だな。変テコな口調《くちょう》しやがって、ちょっと遠くで開いてるぶんにゃ慣れたかと思ったけど、いざ話しかけられっとどうにも対応に困る。
この相手にゃ桐乃も調子《ちょうし》が狂ってしまうらしく、おずおずと、こう問うのが精一杯だったようだ。
「あ、あたしに何か――?」
「うむっ」
沙織は口元を|ω《こんなふう》にして領《うなず》いた。こんな図体しくさって、妙にかわいい仕草《しぐさ》をするやつである。ぐるぐる眼鏡《めがね》で半分隠れてしまっているが、間近でよく見りゃかなり整《ととの》った顔立ちをしている。誰《だれ》かさんと違って、眼鏡外したら意外に美人なのかもしれない。
さておき、沙織は指を一本立てて、こう言った。
「実は、これから二次会にお誘《さそ》いしようと思いましてな」
「えっ?」
意外な申し出に当惑《とうわく》する桐乃《きりの》。返事をする間もなく、ぐるぐる眼鏡《めがね》が俺《おれ》の姿を捉《とら》えた。
「きりりん氏、ところでこちらの男性は? 勘違《かんちが》いでなければ、さきほど店内でお見かけしたような気が――ああなるほど」
沙織《さおり》は一人《ひとり》で勝手に得心《とくしん》して、
「彼氏でござるな?」
「「違ぁ――う!?」」
同時に反論《はんろん》する俺&桐乃。よりにもよってなんつー勘違いしてやがる!?
「はて、違うとおっしゃる? いや失敬――しかし拙者《せっしゃ》、そちらの彼氏は先ほど、店内でずーっときりりん氏を凝視《ぎょうし》していたようにお見受けしましたぞ? てっきりアレは愛のまなざしであろうと得心しておったのですが」
「なわけないじゃん!? やめてよも――っ! 想像しただけでキモっ!?」
むっかつくなこの妹様はよ……否定するにしたって、他《ほか》にもっと言いようがあるだろ。
そう思いながら俺は補足する。
「俺は高坂《こうさか》京介《きょうすけ》ってもんで、こいつのれっきとした兄だっての。勘違いすんな」
「ほほう。なるほどなるほど、きりりん氏の……似てない兄妹ですな」
ほっとけや。
ふむふむと領いた沙織は俺に向かって軽く会釈《えしゃく》をした。
「それでは改めて。すでに御存知《ごぞんじ》であろうかと思いますが、我輩《わがはい》は沙織・バジーナ≠ニ名乗っておるものでござる。沙織≠ニお呼びくだされ。ニン」
「……こりゃどーもご丁寧《ていねい》に……」
ニンて。ほんっと、いかにもオタクっぼいなあんた! あと一人称変わってんぞ?
心の中で突っ込みつつ、俺は会釈を返した。
「ではでは、京介氏――京介氏とお呼びしても構いませんな――京介氏も一緒《いっしょ》にどうです?」
「どうですて……その二次会とやらのことか?」
「もちろん! いかがかっ?」
うお、いきなり顔近づけんなって。びっくりするだろが。
俺が怯《ひる》んで一歩さがると、代わりに桐乃が口を開いた。ちょっぴり不安そうな口調《くちょう》で、
「えっと、それって……他にもたくさん人が来るの?」
つまり行きたくねーんだな、こいつ。理由は分かるよ。行ったってまた除《の》け者《もの》にされるんじゃあ面白《おもしろ》くねーもんな。
桐乃の場合、他んトコじゃちやほやされてばかりいたもんだから、余計にきっついんだろう。
しかし沙織は「いやいや」と大袈裟《おおげさ》な身振りで首を振った。片手の指を四本立てて言う。
「きりりん氏と京介《きょうすけ》氏を合わせて四人です。先ほど拙者《せっしゃ》があんまりお話できなかった方と、もっと仲良くなりたいと思ってお誘《さそ》いした次第で。ですからまぁ、二次会といってもささやかなものですな。マックとかでちょっとお喋《しゃべ》りでもして、それから一緒《いっしょ》に買い物でもどうかなと」
「ふ、ふーん……」
詳細《しょうさい》を聞いた桐乃《きりの》は、明らかに心動かされた様子《ようす》で、考え込み始めた。
そういうことなら自分が除《の》け者《もの》にされることもないだろうし、行ってもいっかなー。
桐乃の考えは、おおかたそんなところだろう。
――チャンスじゃん、悩むことないだろ?
俺《おれ》はそう思ったので、桐乃の行動をうながすべく、沙織《さおり》に向かってこう言った。
「俺は構わないけど。こいつがいいっで言うならな」
「ふむ、いかがですか? きりりん氏」
「うーん」
桐乃はさらに考えるそぶりを見せ、さんざん勿体《もったい》ぶった仕草《しぐさ》をしてから、頬《ほお》を染めた。
「わ、分かった。そんなに言うなら……行ってあげてもいいケド」
その台詞《せりふ》が、あまりにも子供っぽかったもんだから、俺は笑いを堪《こら》えるのが大変だった。
一見同年代にしか見えない妹ではあるが、たまにこういう年相応のところを見せられると、かわいいもんだと微笑《ほほえ》ましくなる。
「ああ、よかった! では、お二人《ふたり》とも、参りましょうぞっ! もうお一方《ひとかた》は、すでにマックでお待ちいただいておりますので――」
背中のポスターをビームサーベルのように抜きはなって、先を指し示す沙織。
やたらとでっかい、オタクファッションの女の子。変テコ口調《くちょう》の、コミュニティの管理人。
正直、なんにも考えてない変なヤツにしか見えないんだけど……もしかしたら。
伊達《だて》にオタクどものリーダーやって、慕《した》われているわけじゃねーのかもしれないな。
その考えは、二次会に参加する『最後の一人《ひとり》』と会って、確信《かくしん》に変わることになる。
いま俺たちが座っているのは、プリティガーデンから一番近くにあるマックの二階、角のソファー席。テーブルを二つくっつけて、四人がけにしてある。
俺と桐乃が並んで座り、俺の対面に沙織、桐乃の対面に最後の一人という席配置。各席の前にはドリンクが置いてある。俺、桐乃、沙織の三人は、一階でドリンクを買ってから二階へと上り――ほんの数秒前、この『最後の一人』と対面した、という場面だ。
ちなみに四人が揃《そろ》ってからまだ誰《だれ》も、一言も喋っていない。
……しっかし、沙織とは別の意味で、凌《すげ》え格好だな。
俺は『最後の一人』の姿を見るや、目を見張ってしまった。
……そういやこの人、顔はろくに見なかったけど……桐乃とは反対側の隅《すみ》っこの席で、ぽつんと携帯《けいたい》いじくってたヤツじゃん。
ジッと俯《うつむ》いているから顔は見えないが、めちゃくちゃ綺麗《きれい》な黒髪の持ち主だ。
でもってコレは……コスプレってやつなんだろうな……。
彼女が着ている服は、これまた真っ黒のドレスだった。バラの花びらみたいなのがヒラヒラたくさんくっついていて、やたらと豪勢な感じがする。このまま普通に舞踏会《ぶとうかい》に出られそうだ。
「ずっと気になってはいたけど……近くで見たらすっご……水銀灯《すいぎんとう》みたいじゃん…‥」
というのが桐乃《きりの》の感想。でもさー桐乃、これはこれでおまえとは違う意味で浮くよなぁ?
何のコスプレかしんねーけどよ、こりゃどう見ても気合過多だろ……。本格的すぎ。
全員が席に着くのを確認《かくにん》してから、沙織《さおり》が俺《おれ》たちを組介してくれた。
「こちらのお二人は、きりりん氏と――特別ゲストで、その兄上様の京介《きょうすけ》氏です。そして、こちらは我《わ》がコミュニティのメンバーで――」
「……ハンドルネーム黒猫≠諱v
最後の一人は、そこで初めて顔を上げ、ぼそっと自己紹介をした。
無感情な、淡々《たんたん》とした喋《しゃべ》り方《かた》だ。
「えっと……きりりんです。よ、よろしくね」
桐乃が緊張《きんちょう》した様子《ようす》で言った。若干《じゃっかん》似合わない喋り方だが、オフ会の間中、こいつはこんな感じだった。
「高坂《こうさか》京介だ。飛び入り参加ですまない」
次いで俺が、妹にならって自己紹介すると、陰気な声で返事がきた。
「……そうね。とりあえず、よろしく」
率直に言うが、黒髪のゴスロリ女はどえらい美人だった。
といっても桐乃とはだいぶタイプが違う。
前髪を揃《そろ》えた長い黒髪。真っ白な肌。切れ長の瞳《ひとみ》。左目目の下に泣きぼくろ。
ドレス姿の女を、こう表現するのはどうかと思うが、どこか幽霊《ゆうれい》じみた和風美人である。
赤いカラーコンタクトを嵌《は》めているのは、コスプレの一環《いっかん》だろう。
見るからに性格がキツそうで、陰気で――いまにも黒魔法《くろまはう》とか使いそうな雰囲気。美人ではあるが、桐乃のような華《はな》やかさはまるでなく、マイナスベクトルの黒いオーラが全身からゆらゆら立ち上っている感じ。
「……面子《メンツ》が揃ったようだからさっそく聞くけれど。……私をこんなところに誘って、管理人さんはなんのつもりなのかしら?」
「はっはっは――先ほども申し上げたではありませんか、拙者《せっしゃ》が二次会にお誘《きそ》いしたかったのだと。いやぁしかし危なかったですな! 拙者の話が終わった瞬間《しゅんかん》、スタスタ帰ってしまわれるものですから、慌《あわ》てて追い掛けてしまいましたぞ! まったく、あれでは誘う暇《ひま》もないではありませんか!」
このこのっと肘《ひじ》でつっつく沙織《さおり》。ゴスロリ女は超無表情。初登場時からピクリとも表情が変わらないのが不気味すぎる。
しかしなるほど、さっき沙織が猛ダッシュしたのはそれか。
……やっぱりな。だんだんこの沙織とやらの考えが分かってきたぜ……桐乃《きりの》、そしてこのゴスロリ女。なんでわざわざこの二人《ふたり》を選んで誘《さそ》ったのか、その理由が薄々《うすうす》な……。
おそらくこの二次会は、コミュニティの管理人である沙織が『さっきのオフ会であぶれちゃってたやつらを誘って、ちゃんと楽しんでもらおう』という趣旨《しゅし》で開催《かいさい》したものなんだろう。
だから他《ほか》に人がいねーんだ。
――『先ほど拙者《せっしゃ》があんまりお話できなかった方と、もっと仲良くなりたい』ね。
上手《うま》い言い方だ。ふーん。見かけによらず、さりげない気配りのできるやつなんじゃん。
もしかすると、『なんで俺《おれ》が桐乃に付いてきていたのか』いっさい聞かず、さらっと『特別ゲスト』として受《う》け容《い》れてくれたのも、俺たちの事情を薄々察してくれているのかもな。
だとすっと……はは……見かけどおり、度量のでかいやつじゃねえの。
「ちゅー……」
まだ警戒《けいかい》が解けていないらしく、黙々《もくもく》とコーラを吸《すす》っている桐乃。
こいつは全然気付いてないみたいだが……黒猫≠ヘ気付いているみたいだな。
初対面でいきなり不機嫌《ふきげん》そうにしているのは、だからなのかもしれん。
まぁ……ありがたい反面、相手の気遣《きづか》いを察してしまうと、どうしても情けをかけられているような気分になるわな。それはまぁ、いかんともしがたい。
黒猫の心中は複雑だろう。実のところ、俺だってちっとは複雑な気分さ。
でもさぁおまえら、俺が管理人だったら、わざわざあぶれたやつらに声なんてかけねーぞ?
初めていった会合の空気に馴染《なじ》めなかったヤツは、どうせ次の会にゃ来ないだろうし、沙織としてはそれでもよかったはずなんだよ。
だから俺はこう思う。この変な格好しているデカ女は、いいやつなんだって。
「ところで管理人さんなどと他人|行儀《ぎょうぎ》な呼び方はやめて、遠慮《えんりょ》なく沙織≠ニお呼びくだされ黒猫氏。せっかくこうして集まったのですから、無礼講《ぶれいこう》で楽しくいきましょうぞ」
「その図体で沙織≠セなんて、よくもまあ名乗れたものね、図々しい」
このゴスロリ、相手から無礼講って言葉が出た瞬間《しゅんかん》、なんてこと言いやがる。
「やや、そんなことを言われたのは初めてですなあ」
「それはそうでしょう。あなたがネット上で演じてた『清楚《せいそ》なお嬢様《じょうきま》』なら、あのハンドルネームでイメージぴったりだったのだから。……でも実物はコレでしょう? 幾らなんでも詐欺《さぎ》というものよ。出オチにしたってタチが悪いわ。――悪いことは言わないから、今後はアンドレ≠ニでも名乗っておきなさいな。それなら間違いないわ。……それに、その妙な口調《くちょう》と格好《かっこう》――『ニン』ってあなたね……」
「何年前のキモオタだよって感じ」
ボソッ。借りてきた猫のように縮《ちぢ》こまっている桐乃《きりの》からも危険な本音が飛び出した。
「お、おまえら!? 無礼講《ぶれいこう》っつーのは、毒舌フリーつて意味じゃねえ!」
いや確《たし》かに俺《おれ》もそう思ったけども! それは言っちや駄目《だめ》だろ!?
せっかくあぶれちゃったおまえらを誘《さそ》ってくれた管理人さんに、なんつーひどい仕打ちをしてんの!? この恩知らずどもが!
特に桐乃! 大人《おとな》しくしてると思ったら第一声でそれかよ!? 土下座《どげざ》して謝《あやま》れや!
そっぽ向いてコーラ飲んでんじゃねぇ[#「飲んでんじゃねぇ」は底本では、「飲んでいんじゃねぇ」]!
ところがボロクソ言われたとうの沙織《さおり》は、けろっとしたもんだった。
「まあまあ、京介《きょうすけ》氏、そうカッカせず。拙者《せっしゃ》のために怒ってくれたのには感謝《かんしゃ》いたしますが――フッ、あいにくこの程度の毒舌など、この身にとってはそよ風のようなもの。むしろ心地《ここち》よい。ですからまあ、お気になさらず、京介氏もどんどん罵《ののし》ってくれて構いませんぞ?」
「アンタのことは、すげえいい奴《やつ》だと思いかけてたんだけどな、俺。――最後の方に余計な言葉がついたことによって、よく分からなくなってきたわ!」
どんだけ毒舌に耐性があんだよ。
俺が温《ぬる》い視線《しせん》を送っていると、沙織は指を一本立てて身を乗り出した。
「――とまぁ、 打ち解けてきたところで。 皆のもの、改めて自己紹介というのはいかがかっ?」
「いまのやり取りで『打ち解けてきた』と判断するのは正直どうかと思うが……」
悪くない提案ではあるよな。しかし沙織の発言で、場はしんと静まり返ってしまう。
「………」
いや、おまえら一言くらい反応しようぜ? 気まずいだろうが。
仕方なく俺は、率先してこう促《うなが》した。
「いいんじゃねえか? なあ」
「…………」
やっぱり返事がこない。どうやら黒猫と桐乃は、戸惑《とまど》ってしまっている様子《ようす》だ。
黒猫は、どう見てもこういうのはガラじゃなさそうだし……桐乃はさっきの失敗が堪《こた》えているんだろう。ふむ。となると、漠然《ばくぜん》と自己紹介しろって言われても、気が引けちまうか……。
部外者が口挟むのは、あんまよくねーんだけど……やむをえん。俺は、こう提案した。
「じゃあ、自己紹介する人に順番で『質問』をしていく形式にするってのはどうだ? その方が話しやすいだろ。あ、もちろんパスありな? で、どんどんローテーションしていくわけ」
「ふむ、ナイスアイデア、さすが京介氏。――ではさっそく、黒猫氏への質問タイムからいきましようぞ!」
「……勝手に仕切ってくれるわね」
ジロリと睨《ね》め付けてきた黒猫を、沙織《さおり》は「まあまあ」と大仰《おうぎょう》な仕草《しぐさ》でなだめる。
すると黒猫は、ホットコーヒーに「ふぅ……」と息を吹きかけ、ゆっくりと一口飲んでから、どうでもいいかのようにこう呟《つぶや》いた。
「まぁいいわ。……で、もう名乗ったはずだけれど。私はあと、何を話せばいいのかしら?」
「ええと、ではさっそく。拙者《せっしゃ》からの質問は……そうですなあ」
てっきり『一番聞きやすいこと』を尋ねるかと思ったのだが、沙織はそうしなかった。
「『最近、一番あせった瞬間《しゅんかん》は?』というのはどうですかなっ?」
「……自己紹介のための質問ではないの? どうして、そんなバラエティ番組のゲストへの質問みたいな……」
まったく同感だ。このでかぶつの発言は、さっぱり読めん……。しかし黒猫は「まあいいわ」とさらりと流した。まあいいのか、えらいクールっすね。
そんなふうにして、会話の流れは、だんだんとスムーズに流れ始めた。
「ふん、『最近、一番あせった瞬間は?』だったわね……それなら……」
黒猫はしばし無表情で思案していたが、やがて淡々《たんたん》とした口調《くちょう》で呟いた。
「ニコニコ動画に投稿《とうこう》するために、ネコ耳とシッポをつけてウッーウッーウマウマを踊っているところを妹に目撃《もくげき》されたときがそうね。……フ、あのときは、さすがの私もあせったわ」
ニコニコうんたらとやらはよく知らんが、アンタが見た目に反してまったくクールじゃない
のはよく分かった。あと台詞《せりふ》の半分くらいは解読不能なんで、突っ込むことすらできない。
「ははは黒猫氏は意外とオチャメさんですなあ。妹さんがいらっしゃる?」
「ええ。不可思議《ふかしぎ》なモノを見る目で、口半開きになっていたわ」
そうだろうよ。ちょうどいまの俺みたいな感じだろ? スゲー気持ち分かるわ。
で、それからしばらく黒猫の妹についての会話がかわされていたんだが、その間、桐乃《きりの》は一言も喋《しゃべ》っていない。相変わらず緊張《きんちょう》してるみたいだなコイツ。
と、沙織がいいタイミングで桐乃に話を振ってくれた。
「次は、きりりん氏の番ですな。黒猫氏への質問をどうぞ!」
「え、あ、あたし? ……え、えーとぉ」
いきなり沙織に指差され、目をぱちくりさせる桐乃。
「と、特に……ない……かな? ……バスで」
……バカ桐乃。なにやってんだおまえ! せっかく沙織が気を遣《つか》って『一番聞きやすいこと』を聞かずにおいてくれたんじゃねーか! 聞けよ!? 服のことをさ!?
「………………」
だが俺の願《ねが》いは通じなかったらしく、桐乃はぎゅっと縮《ちぢ》こまって俯《うつむ》いてしまう。
こりゃアレかもな。さっきハブられたのがトラウマになりかけてんだ。なもんだから……
どうしたもんか……。俺は、ぼりぼりと頬《ほお》をかきながら、黒猫に適当な質問を投げかける。
「好きな食べ物は?」
「魚。……はい、これでいいのかしら?」
いやいや義務を果たし終えたみたいな感じで呟《つぶや》く黒猫。
……く……どうやらこの女も、年上への敬意が足りんようだな……くそう。
「さて。次は、きりりん氏が自己紹介をする番ですぞ」
「あ、あたし……? うん……え、えっと……きりりんです」
固くなっている桐乃《きりの》は、改めて名乗ったものの、きゅっと俯《うつむ》いてしまう。
場のテンションが下がるのは許さないとばかりに、いいタイミングで沙織《さおり》が声を張り上げる。
「それではきりりん氏への質問ターイム! 黒猫氏、どうぞっ!」
「あなたどうして、そんな浮いた格好《かっこう》をしているの? 渋谷《しぶや》で合コンとかならまだ話は分かるのだけれど、アキバでオフ会やるのに、そのファッションはありえないと思うわ」
ずばっと聞きにくいことを聞くなあ、このゴスロリ!?
トラウマになりかけてんだから、それは聞いてくれんなよ!
確《たし》かに服のこと聞けって念じたけど、アンタに言ったんじゃねえから!
「むっ……」
しょぼくれてた刷乃も、さすがにカチンときたらしく、黒猫に反論《はんろん》した。
「悪かったわね……しょうがないじゃん、コレがあたしらしい服なんだもん。だ、だいたい自分だって……」
「……自分だって? 何かしら? 言ってごらんなさい?」
せせら嗤《わら》うように囁《ささや》く黒猫。うおお、ものスゲ――――見下されてる感じがする。
「うぐ……」
桐乃のこめかみで、ビキビキと血管が浮かび上がった。……うわ、我慢してる我慢してる。
短気なはずの我《わ》が妹は、普段《ふだん》ならばありえないほどの自制心を発揮して、すぅはあと深呼吸。
内心ではキレているはずだが、とりあえず怒りを表に出すことはなかった。
でもちょっとした刺激《しげき》で爆発《ばくはつ》するぞ、コレ。心配だなあ……。
このやばい空気をなだめてくれることを期待して、ちらっと沙織の顔を見ると……
『はて? いかがいたしましたかな?』みたいなオトボケ顔で、かわいく首を傾《かし》げやがった。
どうやらこいつは、何もせず静観《せいかん》するつもりらしい。……ったく、どういうつもりだ?
火薬のにおいを漂わせたまま、桐乃と黒猫の会話は続く。
「やっぱさっきのパスなし。あたしからも質問させて。――そのドレスって、何のコスプレ? 水銀灯《すいぎんとう》……じゃないよね?」
「ああこれ? 水銀灯じゃないわよ、全然違う、どこに目をつけているの? ……マスケラに出てくる『|夜魔の女王《クイーン・オブ・ナイトメア》』……まさか、知らない?」
知らねえ。まさかと驚《おどろ》かれても知らないもんは知らねえ。桐乃も知らなかったようだ。
「ふぅん? 名前は聞いたことあるような気がするけど……アニメだっけ〜」
「ええ。『maschera〜堕天《だてん》した獣《けもの》の慟哭《どうこく》〜』――ストーリー・作画ともに今期穀高峰のアクションアニメよ。毎週|木曜日《もくようび》の夕方にやっているから、ぜひとも観《み》て頂戴《ちようだい》」
「あ、それって、あの――メルルの裏番組じゃない? 確《たし》かオサレ系|邪気眼《じゃきがん》厨二病《ちゅうにびょう》アニメとか言われてるやつ」
ぶちっ。いま、俺《おれ》には、ドクロマークのスイッチが押される幻影《げんえい》が見えたね。
「――――聞き捨てならないことを言うのね、あなた。メルルって、まさか『星くず☆うぃっちメルル』のことかしら? ――ハ、バトル系|魔法《まほう》少女なんて、いまさら流行《はや》らないのよ。あんなのは超低脳のお子様と、萌《も》えさえあれば満足する大きなお友達くらいしか観《み》ない駄作《ださく》。だいたいね、視聴率的《しちょうりつてき》にはそっちが裏番組でしょう? くだらない妄言《もうげん》はやめなさい」
「視聴率〜 なにソレ? いい? あたしが観てる番組が『表』で――それ以外が表番組なの。コレ世界のしきたりだから覚えておいてね? だいたいアンタ、その言い草だとメルル観てもいないでしょ。つーか一期のラストバトル観てたら、絶対そんなふざけた口きけるはずないからね! あーかわいそ! アレを観てないなんて! 死ぬほど燃《も》える挿入歌に合わせてメチヤクチャぬるぬる動くってーの! キッズアニメなめんな!」
「あなたこそ口を慎《つつし》みなさい。なにが厨二病アニメよ。私はね、その漢字三文字で形成される単語が死ぬほど嫌いだわ。ちょっとそういう要素が入っているというだけで、作品の本質を見ようともせずにその単語を濫用《らんよう》しては批判する蒙昧《もうまい》どももね。あなたもそんな豚どもの一匹なのかしら?」
なにコレ? なんでいきなり喧嘩《けんか》が始まっちゃってんの?
「待ーて待て待て待て待て! 二人《ふたり》とも立ち上がんないで座れ! 落ち着けって! たかがアニメじゃねえか、な?」
「「たかがアニメ[#「たかがアニメ」に傍点]?」」
ぐりんと二人|揃《そろ》ってこっちを向く桐乃《きりの》&黒猫。
「……し、失言でした!」
いかん、マジになったアニオタはおっかねえ。助けを求めて沙織《さおり》を見ると、このぐるぐる眼鏡《めがね》、我《われ》関せずみたいな態度でオレンジジュースを啜《すす》っていやがった。俺《おれ》はこそっと耳打ちする。
「……何とかしてくれよ、オイ」
「二人ともこんなに打ち解けてきて――フフ、意外と相性《あいしょう》がよかったのかもしれませんな?」
「どこに目ェつけてんだおまえ!?」
誰《だれ》も止めないもんだから、もちろん口喧嘩は続行されてしまう。
「ふん……あなた、どうやらずいぶんといい性格をしているようね? そんなだから、オフ会で誰からも相手にされないのよ。自覚あるのかしら?」
「どっちが? あたし見てたんだからね、アンタがずーっと一人《ひとり》ぼっちで携帯《けいたい》いじってたの。暗すぎ! はん、あれじゃー誰も話しかけてこないって」
「うるさいわね……。突然|朝目《あさめ》新聞のネタ画像が見たくなったのよ……」
仁王立《におうだ》ちで睨《にら》み合う女二人。どっちも美人なんだけど……なんという低レベルな言い争い。
ぶっちゃけ、どっちもどっちだろ。ったくよ〜……どうして美人ってのはこう、性格に問題があるヤツばっかなんだ? おまえらのせいで、俺の美人への偏見《へんけん》がどんどん強まっていくじゃねーか。やっぱ普通が一番だよな……なんか無性《むしょう》に幼馴染《おさななじ》みの顔が見たくなってきたわ。
そんなふうに俺が現実|逃避《とうひ》していると、醜《みにく》い口喧嘩が中断されたスキを衝《つ》いて、沙織が割り込んだ。
「さて。議論《ぎろん》も一段落したようですし、そろそろ次に移りましょう。次は――ええと、拙者《せっしゃ》のターンですな」
沙織のよく通る声が響《ひび》くや、場の注目が彼女に集まる。にっ、と口角を吊《つ》り上げて笑《え》む。
「では改めて。拙者は沙織・バジーナ≠ニ申すものでござる。『オタクっ娘《こ》あつまれー』コミユの管理人を務めております。プロフィールページにも書いてはありますが、年は十五――中学三年生ですな。確《たし》か黒猫氏とは同い年であったはず」
さりげなく話題を振る沙織であったが、黒猫はノーリアクション。ガン無視。
ふーん。こいつら、桐乃《きりの》のいっこ上なのか。……黒猫はまあ、そんなもんだろうと予想は付いていたけどさ。沙織《さおり》……これで……俺《おれ》より年下なのか……
俺は信じられないという心持ちで、沙織の全身を眺め回した。
「ちなみに拙者、スリーサイズは上から、88、60、」
「それは言わんでいい」
「フッ、なんと藤原紀香《ふじわらのりか》と同じでござる」
「人の話を聞けよ! 誇らしげに言ってんじゃねえ!」
クソ。なんで俺が、一人《ひとり》で突っ込みを担当しなくちやなんねーんだ?
幾らなんでも、だんだん捌《さば》ききれなくなってきたぜ……。
俺はここに突っ込みの鍛錬《たんれん》をしにきたわけじゃねーんだけどなあ。
「もういいから誰《だれ》か早く質問してやれ」
脱力して助けを求めると、反応したのは、意外にも黒猫だった。
「……じゃあ『誰もが聞きたかったであろうこと』を私が代表して、沙織さん、あなたに聞いてあげる。―そのキモオタな口調《くちょう》と服装《ふくそう》はいったい何?」
俺もそれは凄《すご》く聞きたかった! 内心で喝釆《かっさい》をあげるものの、素だという答えが返ってきたらどうしよう。妹を連れて変態から逃走すべきだろうか?
俺の懸念《けねん》は、しかし、幸いにも無駄《むだ》に終わってくれた。沙織から返ってきた答えはこうだ。
「いやはは、お恥ずかしい。――拙者、実はオフ会の幹事など務めるのは初めてだったもので――少しでも皆から好かれようと、気合を入れてリーダーに相応《ふさわ》しいキャラを作ってみたのです。……ですから拙者《せっしゃ》、普段《ふだん》はもう少し、大人《おとな》しい女の子なのですよ?」
いや、なのですよて。まじっすか? 服装だけじゃなくて口調《くちょう》も、キャラ作りの一環《いっかん》?
ええと……突っ込みどころはホント無数にあるんだが……とりあえずその『普段は大人しい女の子なの』という自己主張は到底信じられんな。それはたぶん、自分で思ってるだけだろ。
聞いたとうの黒猫も、赤い眼をぱちくりさせて驚《おどろ》いている。
「……気合を入れるとどうしてそうなってしまうのか、理解できないわ。……フッ、まあ、誰かさんみたいに勘違《かんちが》いしたブランド物で完全|武装《ぶそう》してきた挙げ句、空回《からまわ》りして避《さ》けられるよりはマシなんでしょうけれどね?」
「なにソレ? ムカック……自分だって人のこと言えないじゃん。なにその無駄に気合入ったゴスロリドレス!? いくらアキバだっていったって、オフ全でそんな格好《かっこう》してくるバカがいるとは思わなかったなぁ!」
「……なんですって?」
再びメンチを切り合う桐乃&黒猫。この二人《ふたり》はもう放っとこう。いちいち止めんの疲れたわ。
ところで……俺はあることに気が付いた。
流行のブランドもので、バッチリかわいく決めてきた桐乃。
超本格的なコスプレをしてきた黒猫。
キモオタファッションに身を包んだ沙織《さおり》。
三者三様。服装も性格もてんでんバラバラの三人だが、こいつらには共通しているところがある。それは……三人が三人とも、オフ会が上手《うま》くいくようにという願《ねが》いを込めて、それぞれ気合入れたファッションを決めてきたんだろうってところだ。
「ふむ……」
桐乃《きりの》と黒猫のよく分からん罵《ののし》り合いを聞きながら、この数時間のことを反豹《はんすう》してみる。
今日《きょう》、俺《おれ》は桐乃以外のオタク連中に初めて触れたわけだが……正直なところ、想像していたのとは大分違っていたんだよな。ここでいうオタクというのは、狭義の意味でのオタク、つまりゲームやアニメ――いわゆるサブカルチャーに傾倒《けいとう》しているやつらのことだ。
当たり前のことを言うが、それは『大好きな趣味《しゅみ》を持っている』という、ただそれだけのことなんだよな。そう、それだけのことなのさ。R&Bが好き、バスケが好き、ミステリーが好き、書道が好き――そういうのと何にも変わらねえ。
だが、俺は、いままでそうは思ってなかった。オタクってのは、なんだかこう、そういうのとは違うもんなんだと特別視していたフシがある。よく知りもしねえくせにだ。
いまも俺の脇《わき》で桐乃と黒猫が、ベラベラベラベラ喧嘩《けんか》ごしで、たぶんアニメの話をしているけどさ。それってカラオケボックスの一室で、女子高生どもが、夢中で憧《あこが》れのカリスマアイドルの話してるのと、どう違う? 洒落《しゃれ》たカフェの片隅《かたすみ》で、セレブが恋愛小説の話してるのと、どう違うんだろうな?
たぶんだけど……たいした違いはないと思うんだよ、俺は。違うかな?
世間体《せけんてい》があるから、おおっぴらに趣味《しゅみ》を明かせないと桐乃は言っていた。
それも分かる。昨日《きのう》までの俺が抱いていたイメージを思い返してみれば、世間ってのがいかにオタクへの偏見《へんけん》で満ちているかは一目瞭然《いちもくりょうぜん》ってもんだ。特に中高生の間ではな。
……しかも、全部が全部、偏見ってわけでもねーしな……。
だってこいつら[#「こいつら」に傍点]って、変じゃん? 少なくとも『普通』じゃねーよ。偏見持ってた俺が、あえて言うけども。見くびってたわ! 想像以上に変だよおまえら!
いやまぁ。俺の知っているオタクって、まだ三人しかいないからさ、こいつらを基準にしちゃいかんよという向きもあるかもしれん。正しいオタク像からは、かけ離《はな》れてるのかもしれん。
だから、あくまでこれから言うのは、現時点での俺が抱いた、偏見[#「偏見」に傍点]に満ちた感想だ。
オタクってさ――そんな捨てたもんじゃなくね? 変だけど。
俺は、いかにもオタクなカッコした、ぐるぐる眼鏡《めがね》のデカ女を見やる。
例えばこいつなんか……桐乃とたいして年も違わないのに、ずいぶんと気配りのできる気の良いやつじゃんか。なんかもー、すべてにおいて変テコだけどさ! ちゃんとみんなが楽しめるよう、リーダーの務めをはたしているのは偉《え》れーと思うよ。
捨てたもんじゃないってのは、何もこいつに限った話じゃねえ。
今日《きょう》の出来事をもう一回思い出してみれば、よーく分かる。
オフ会やってた、さっきのメイド喫茶《きっさ》にしろ。祭りみてーだった、あの大通りにしろ。
でもつてこの二次会にしろだ。桐乃《きりの》がハブられててかわいそうだった件以外で、俺《おれ》にゃ、悪いイメージはまったくないんだよな。だって楽しそうなんだもんよ。
同じモンを好きなやつらで集まって、騒《さわ》いで、遊んで――
混ざれないのが、悔しくなってくるくれえだよ。
世間体《せけんてい》が気になる? 偏見がおっかない? よーし、それじゃあオマエもこっちに来いよ。
さあ俺らと一緒《いっしよ》に、大騒ぎして遊ぼうぜ――そんなふうに手を差しのべられているような気がするんだな。誰から[#「誰から」に傍点]かって? いや、それはよく分かんねーけれども。
強《し》いて言やあ、みんな[#「みんな」に傍点]から、だ。我《われ》ながら、なんのこっちゃちゅー話だけどさ。
だからこいつら[#「こいつら」に傍点]は、望んでここにいるんじゃねえかな?
仲間を捜してここに来た、桐乃みてーに。
だってちょっと見てみろよ、この桐乃と黒猫のギャーギャーうるせー言い争い。
出会ったその日に、こんだけ本気で深い喧嘩《けんか》ができるって、それはそれでスゲーと思わないか? で、さ。それって……こいつら二人《ふたり》の間に、強く通じ合う『大切なもの』があるってことだと思うんだ。
まあ傍《はた》から見てるぶんにゃ、それは、人によっては、変テコに見えることもあるんだろう。
でも、それは、絶対、悪いもんじゃあない。そう簡単《かんたん》に見下したり、捨てていいようなもんじゃあない。たとえどんなに妙ちきりんに見えようと、だ。
「……っふ……よくもまあ、べらべらと好き放題さえずってくれたものね……人間|風情《ふぜい》が……いいでしょう、外へ出なさいなビッチ。真の恐怖というものを、じっくりとその身に刻んであげる。来世で後悔するがいいわ」
「うっさい! いい加減にしてよね、この邪気眼《じゃきがん》電波女っ!」
「……じゃっ、邪気限……ででで電波女ですって……? ク、クククク……ついに言ってはならないことを言ってしまったわね……。あ〜あ。かわいそうに、どうなってもしらないわよ……後悔してももう手遅れ。もはやこの負の想念は、私自身にすら止められはしない……」
「バッカじゃないの!? アンタさー、生きてて恥ずかしくならないワケ? もう死ねば?」
……前言|撤回《てっかい》してもいいっすか?
オタクってやっぱりさぁ……いいやつらばっかじゃねえな。
それからしばらくして。マックを出た俺たちは、沙織《さおり》が予定を立てたとおり、秋葉原《あきはばら》で軽く買い物をした。この事件(あえて事件という単語を使わせてもらう!)については、非常に長くなるし、思い出したくもないので割愛《かつあい》する。というかさ! 分かんだろ!? この面子《メンツ》でアキバ巡りなんてしたら、どんなことになるのかくらい! ちょっと想像してみてくれよ!
……した? したな? OK、その想像に、俺《おれ》が被《こうむ》る被害を150%ほど上乗せすると、おそらくかなり事実に近いモンができあがるはずだ。
ったく……よくぞ逃げ出さなかったもんだぜ。我《われ》ながら偉いと思うよ。
ちなみに桐乃《きりの》と黒猫は、その間中も、ずーっと口汚く罵《ののし》り合っていた。しかも大体オタクネタが絡んでくんだよな。アニメから始まって、ゲームやら、漫画やら――カップリングがどーたらこーたら、作画がうんたら、DVDの値段が云々《うんぬん》――よくもまー罵貫雑言《ばりぞうごん》のネタが尽きねえもんだと感心しちまったよ。
夕方になって、二次会を解散した直後のいまだってそうだ。あの二人《ふたり》は一応別れの挨拶《あいさつ》もすませたってのに、依然として喧々囂々《けんけんごうごう》、邪気眼《じゃきがん》VS魔法《まほう》少女をやっている。
「ふふふ、きりりん氏と黒猫氏は、すっかり意気投合したようですなあ」
「アンタには、どうしてアレがそう見えるんだ? 眼鏡《めがね》の度が合ってないんじゃねえの?」
と、口では言ったが……分かってるよ。
桐乃と黒猫の口喧嘩《くちげんか》を眺めながら、俺は、口の端をほんの少しだけ持ち上げた。
よかったな、桐乃。そんなバカでかい声で、遠慮《えんりょ》なしに趣味《しゅみ》の話ができるやつ、見付かったじゃん。おまえは絶対、『そんなことない』って否定すんだろうけどよ――
それって友達っていうんだぜ?
「……さて」
俺と沙織《さおり》は、アニオタどもの抗争に巻き込まれないよう、ちょっと離《はな》れて立っている。
秋葉原《あきはばら》ワシントンホテル脇《わき》の歩道。横断歩道がすぐ目の前にある。
――こいつには桐乃の兄貴として、言っておかなきやならん台詞《せりふ》があるよな。
俺はできるだけの誠意を込めて、沙織に頭を下げた。
「ありがとうな」
「……はて? お礼を言われるようなことを、何かいたしましたかな?」
?マークを頭上に浮かべ、口元を|ω《こんなふう》にして首を傾《かし》げる沙織。
こいつめ、分かってるクセによ。だが、これ以上言葉を重ねても、無粋《ぶすい》になるだけだ。
言うべきことは言った。俺の気持ちは伝わったと、信じるしかない。俺は微笑した。
「アンタ、やっぱいいやつだよ。桐乃も、俺も、運がよかったと思うぜ」
「……なんのことだか分かりませぬが――ふふ、拙者《せっしゃ》はそれほどできた人間ではござらんよ? 拙者はいつも、自分がやりたいと思うことを自分勝手にやっているだけに過ぎませぬゆえ。……それでもそう思われるのであれば、それはおそらく、京介《きょうすけ》氏自身が『いいやつ』であるからでありましょう。他人は鏡《かがみ》というではありませんか?」
そこまで言って、沙織は背のポスターを、ビームサーベルのように抜きはなった。
夕日を受けて煌《きら》めくポスター。突き付けられた切っ先[#「切っ先」に傍点]をすがめ見ながら、俺は肩をすくめる。
「ふん、勝手に言ってろ」
「そういたしましょう」
沙織《さおり》は、にかーっと笑《え》んで、俺《おれ》に背を向けた。きっと素顔のこいつは、よっぽど表情豊かな女なんだろう。そう思わせるに足る、魅力的《みりょくてき》な笑みだった。
ぐるぐる眼鏡《めがね》にバンダナ巻いて。チェックのシャツはズボンにイン。
とんだキモオタファッションだ。ダサいにもほどがあるって格好さ。
沙織は、ぶん、とサーベルを横に振って、背中のリュックに納刀[#「納刀」に傍点]する。
「では、また、いずれ必ずお会いしましょうぞ――ニン」
信号が青に変わる。黄昏《たそがれ》に染まる秋葉原《あきはばら》駅。
さっそうと歩み去っていく大きな背中は、誰《だれ》に憚《はばか》ることもなく、堂々としたもんだった。
俺も負けずに胸を張って、桐乃《きりの》のもとへと歩いていく。
例のオフ会があった日から一晩が明けて、いまは翌日の放課後《ほうかご》。
いつものように俺《おれ》は、麻奈実《まなみ》と肩を並べて帰途を歩いていた。
「で、最近は、くまの抱《だ》き枕《まくら》をぎゅーってして眠ってるの。すっごく気持ちいいんだよー?」
「ふーん」
眼鏡《めがね》の幼馴染《おさななじ》みが語ってくれるババくさいのんびりトークを、いかにもダルそ〜な生返事で聞き流していると、ふと心配そうな声で聞かれた。
「……ねぇきょうちゃん? 今日《きょう》、勉強、お休みする?」
「いや、いつもどおりおまえと図書館《としょかん》に行くつもりだったけど……なんでんなこと聞くんだ?」
ろくに話聞いてないのがバレたのか? でもそんなのいつものことだしなぁ……。
それに怒ったなら怒ったで、コイツは、ぷんぷんっとか分かりやすく口走るだろうし。
じゃあテストが近いわけでもねーのに、週に三度も四度も勉強に付き合わせたのが悪かったのか? ……いやー……それもなんか違うような……。
などと、うろんな瞳《ひとみ》で考えていると、麻奈実は物憂《ものう》げに目を伏せた。
「だってきょうちゃん……。朝からずーっと、すごく疲れてるみたいだから……」
「ああ、それなー」
そりゃそうだろ。なにせ昨日《きのう》は俺の人生でも、まれに見るハードな一日だったからな。
精神的に疲弊《ひへい》してんのよ。あのあとも、帰りの電車で桐乃《きりの》に散々《さんざん》馬倒《ばとう》されたかんなー。
あのボケ、なーにが『サイアク! 今日はほんっと大失敗だった! チッ……そーいえばオフ会に行けなんて言ったの誰《だれ》だっけ?』だよ……。確《たし》かにオフ会でハブられたり、延々と黒猫と喧嘩《けんか》しっぱなしじゃああったけどさ。
結構楽しそうだったじゃねーか。どんだけ素直じゃないんだよアイツは。
そりゃ多少なら、かわいいもんじゃねーのって思うよ? でもさー、となりのシートで一時間半ずーっと舌打ち連射してんだぜアイツ? もはや憎たらしさしか残らないっつの。
「はあ……」
俺は本日何度日かになる、重いため息をついた。肩をがっくりさせながら、言う。
「まあ……色々《いろいろ》あってなー。確かに、今日は勉強やる気分じゃねーや。もー疲れちまって」
「そっかぁ……残念だけど。……それじゃあ仕方ないね……」
俺とそっくり同じポーズで、がっくりする麻奈実。こいつはいつも、俺が機嫌《きげん》よくしているときは一緒《いっしょ》に笑ってくれるし、落ち込んでいるときは、一緒になってしょんぼりしてくれる。
毎度毎度ご苦労なこった。いちいち他人に共感しちまうんだから、このお人好《ひとよ》しめ。
ま、ありがたいっちゃ、ありがたいけどさ。いまさら礼なんて言わねーぞ?
「ああ。だから今日は、ぱーっと遊びに行こうぜ?」
「えっ……?」
意表を衝《つ》かれたように、俺に向き直る麻奈実。眼鏡の奥で、円《つぶ》らな瞳をぱちくりさせている。
「これから二人《ふたり》で、気晴らしに遊びに行こうっつってんだけど? イヤだったか?」
「う、ううんっ。ぜ、ぜんぜんっ、イヤじゃないよっ」
麻奈実《まなみ》はブンブン首を横に振った。落ち着けって、飼い主を出迎える子犬みてえなやつだな。
「そか。じゃ、おまえ、どっか行きたいとこあるか? なんだったらとなり町まで出てもいいし……いま、なんか映画とかやってたっけ?」
「う、うーん」
せわしなく眼鏡《めがね》の位置を整《ととの》えながら、考え込む麻奈実。まあじっくり考えてくれや。
一方、俺《おれ》は財布《さいふ》の中身を思い出しながら、『この際、空《から》にしちゃってもいいだろ』という気になっていた。たまには世話になっている幼馴染《おさななじ》みに、おごってやるのも悪くない。
勘違《かんちが》いして欲しくないから言っておくが、あくまで俺のためだかんな?
このゆるいのとくっ喋《ちゃべ》っていりゃあ、多少は疲れも取れんだろ――ってわけ。
「ど、どこでもいいの?」
「おう。――どんと来い」
「それじゃ――遠慮《えんりょ》なく言うね?」
麻奈実は、ゆるゆるの笑顔《えがお》で、こう提案した。
「中央公園がいいなあ」
「……一分の迷いもなく、選択肢《せんたくし》の中で一番地味なところを選びやがったな? 『どこでもいいの?』 って前振りしといてそこなのかよ……」
せっかくおごってやる気になってたんだから、そこはわがまま言っとけよ……。
「え、えー? なんで怒ってるの……? どこでもいいって言ったじゃない」
などと口を尖《とが》らせる麻奈実。そりゃ言ったけどさ……つたく、昨日《きのう》のオタク三人衆とのギャップが凄《すご》すぎるわ。昨日、俺が同じ台詞《せりふ》言ってたら、間違いなく毟《むし》り取られてたね。
「ま、いいや。せめて飲み物かなんかおごってやんよ」
「わ、ありがと。……それなら、お茶がいいかなあ。あったかいの」
「はいはい、いつものな。ホットなぁ……もう春も終わるってのに、売ってんのか……?」
ほんっと……金のかからないやつだな。
どうしておまえは、たった百二十円で、そんな幸せそうな笑顔を浮かべられるんだ。
そんなわけで徒歩十五分と少々。俺たちはとなり町の中央公園にやってきた。
この辺の観光《かんこう》マップに載るくらいには有名で、かなり広い。
噴水《ふんすい》やらベンチやら、池やら橋やら薔薇《ばら》園《えん》やらがある憩《いこ》いの場という感じ。
資料館《しりょうかん》にもなっている小洒落《こじゃれ》た洋館が、見所っちゃあ見所かな。
敷地《しきち》をぐるっと囲うように並木道があって、お年寄りやら家族連れがよく散歩している。
春になると桜《さくら》がぱーっと咲いて、絶好の花見場所になる。
今日《きょう》は少々肌寒いくらいなので、季節外れのホット緑茶《りょくちゃ》も、それほど悪かあないはずだ。
「ほれよ、いつものやつ」
「ありがと。いただきまぁす」
ぷしゅっ。コンビニで買ったホットの緑茶を、ビニールから取り出し、フタを開けてから渡してやった。ベンチに座っている麻奈実《まなみ》は、アツアツのお茶を受け取るや、ハンカチで包んで、大事そうに抱える。俺《おれ》が半分ほど茶を飲み干して、となりを見ると、まだ同じポーズでいる。
「どうかしたか? 別に火傷《やけど》するほど熱《あつ》くねぇぞ?」
「え? えへへぇ……なんでもない」
と……何故《なぜ》か、お茶を胸に抱きかかえて、にやけている麻奈実。
意味が分からん。俺はもう一目茶を飲んで、ふぅ……と息をつく。
茶がうめえ。身体《からだ》の芯《しん》から温まってくる。
「……んー……なーんか、いいよねー……こういうの。……ずーっと、千年くらいこうしていでもいいくらい」
「……そりゃ、いくらなんでも、気い長すぎだろ。おまえの前世はぜったい盆栽《ぼんさい》だな」
「それでもいーよ? きょうちゃんがお世話してくれるならね?」
そうやって。俺たちはしばらく、くだらねー話をしながら、ベンチで日向《ひなた》ぼっこをしていた。
いつだって、となりに麻奈実がいるだけで、田舎《いなか》の縁側《えんがわ》でくつろいでいる気分になる。
「あ〜あ……眠くなってきた……」
ここで昼寝したら気持ちよさそうだ。枕《まくら》があればいいんだが……なんて思っていると、肩をつんつん突っつかれた。
「きょ、きょーちゃんっ」
「……あ? なに?」
俺が寝ぼけ眼《まなこ》で振り向くと、麻奈実は、何やら両手を左右に広げており――
緊張《きんちょう》の面持《おもも》ちで、恥じらうように頬《ほお》を染めて、こう囁《ささや》いた。
「ど、どうぞっ?」
………………なに言っとんだこいつ?
何が『どうぞ』なのかサッバリなので、俺はいぶかしげに首を傾《かし》げる。
と、そこで麻奈実の肩越しに、俺はとあるモノを見付けた。
お? あれって、もしかして――俺は思わず身体を横にずらし、目を凝《こ》らした。
「……きょうちゃん」
「お、ワリ。で、なんだっけ?」
再び麻奈実に視線《しせん》を戻すと、じーっと上目遣《うわめづか》いで見つめられた。
な、なんか麻奈実から無言のプレッシャーが……
怒り心頭みたいな感じで、顔が耳まで赤くなってるし、それに、
「…………眼鏡《めがね》くもってるぞ?」
「もおっ……きょうちゃんのばか」
プイっとそっぼを向いてしまう。俺《おれ》は目をぱちくりさせて聞いた。
「……なんで怒ってんだ? 珍しい」
「ふーんだ。きょうちゃんが、ニブいだけだもん」
ぷりぷりお怒りになりながら、眼鏡をごしごし拭《ふ》いている麻奈実《まなみ》。
眼鏡をかけてから、改めて問うてくる。
「……それより、なに見てたの?」
「ああ。ホレ、あっち」
俺が指差した方角を、麻奈実は向いた。そこはちょっとした広場になっていて、よくガキどもがサッカーやら草野球やらして遊んでいる場所だ。いまはワゴンが二台止まっている。
で――
「あれって……なにやってるの? どらまか何かの、撮影《さつえい》?」
「たぶんな。でもドラマじゃねーだろ。ほら、あれってテレビカメラじゃなくね? フラッシュたいてるしよ――ありゃあ、写真|撮《と》ってんだ」
野次馬《やじうま》根性を発揮した俺たちは、ワゴンの方へと近付いていった。
歩道から、芝生《しばふ》の広場を眺める。そこでは数名のスタッフが作業をしており、ライトみたいな機材《きざい》を調整《ちょうせい》したり、モデルらしきの女の子と喋《しゃべ》ったりしている。
「ふぁっしょん雑誌の撮影……かな?」
「ちなみにおまえ、そういうの読んでんの?」
「あはは……あんまり。洋服買うときは、お店で店員さんとお話ししながら決めるし……」
だよな。ま、ともあれ俺も、アレはファッション雑誌の撮影だと思う。
夕暮れを背景にした写真を撮っているらしい。なにやら酒落《しゃれ》たカッコした女の子たちが、色々《いろいろ》ポーズ決めながら、ばしゃばしゃフラッシュ浴びていた。ことあるごとにスタッフからのオーダーが入って、表情やポーズを上手《じょうず》に切り替えている。ただ笑って、ポーズ決めて――そんな生やさしいものではなさそうだった。現場には厳《きび》しい雰囲気が漂っている。
当たり前の話だが、モデルってのも、やっぱり簡単《かんたん》な仕事ではないのだろう。
二人《ふたり》くらいがそうやって写真を撮られているのだが、その他《ほか》にもバッと見てモデルだろうと分かる女の子たちが、幾人か待機していた。
「うわー……見て見てきょうちゃん。あの子、すっごいかわい〜」
「あー……そーね。かわいーね」
「あれれ? 反応うすい?」
あのなあ……別に俺たち付き合ってるわけじゃねーけどさ。一応、女の子を連れてるときに、俺は「うおっ、あの娘《こ》スツゲーかわいいじゃん!』とかそーゆうことはやらねえから。
おまえだってイヤじゃねえの? ……イヤじゃないんだろうな、たぶん。自分が若い女だという認識《にんしき》がいまひとつ薄《うす》いもんなあ、おまえ。はあ……なんでか俺《おれ》は複雑な気分だよ。
「あ、ほら、あの茶髪の娘《こ》なんて、もーすっごいかっこいいし、かわいーっ」
大はしゃぎしちゃってまあ……。別に有名な芸能人ってわけでもねーのによ。
ほんとミーハーなやつ。
ふん。『おまえの方がかわいいよ』とでも、よっぽど言ってやろうかと思ったね。
どんな顔すっかな? 俺は意地の悪い笑《え》みを浮かべる。と、そこで麻奈実《まなみ》がベタ褒《ほ》めしている女の子に、俺の視線《しせん》は自然と吸い付けられた。
ふーん。あの茶髪の娘、確《たし》かにスゲー見てくれはいいな。
脚は長げーわ、背はすらっと高いわ、でもって顔も――
「桐乃《きりの》じゃねえか!?」
「ええ――っ!?」
俺と麻奈実は、ビックリ仰天《ぎょうてん》しちまった。特に、事情をまるきり知らなかった麻奈実の驚愕《きょうがく》は、大きかったらしい。何度も瞬《まばた》きしながら、桐乃と俺を見比べている。
「え、ええと……桐乃……ちゃんって……妹さんだよね? きょうちゃんの……」
「……ああ、まあ、そのようだな……たぶん」
「え、えぇ……た、たぶんてなにっ?」
いやっ、俺も驚《おどろ》いてるんだって……。
そういや言ってたなアイツ……あたしモデルやってるのとか、何とか……。
疑っていたわけじゃねーけど、ピンとこなかったんだよな。こうして直接見るまではさ。
――本当だったのか。
俺は改めて、まじまじと茶髪のモデルを見つめた。
椅子《いす》に座って、スタッフと打ち合わせをしているようだ。
「………へえ」
大人《おとな》に混じって、堂々とまあ……しっかり仕事してんじゃん……あいつ。
どうやら俺は、妹への認識を改めなけりゃならないようだ。
あいつのことを、ずいぶんとなめていた。あなどっていた。
俺は、モデルっつったって、しょせん中学生のガキのお遊びみたいなもんだと思っていたんだな。おだてられて、調子《ちょうし》こいて、ばしゃばしゃ写真|撮《と》られてるようなイメージ。
だが――
いま桐乃は、写真を撮られているモデルを眺めながら、見たこともないくらい真剣な顔で話し込んでいる。その間も、メイクさんが手早く服の乱れを整《ととの》えたり、髪をセットしたり―。
フラッシュ浴びているモデルの周りは、華《はな》やかな雰囲気だけど。
おそらく出番を待っているんだろう桐乃の周りは、ぴりぴりと空気が張りつめていた。
「…………はぁ。……なんか、すごいねー」
「……そう――だな」
俺《おれ》は、撮影《さつえい》現場ってのは、もっとちゃらちゃら[#「ちゃらちゃら」に傍点]した、いい加減なもんだとばかり考えていた。
そうじゃなかった。俺はチラっと見ただけだ、偉そうなことは言えねーけどさ。決して少なくないカネもらって、写真|撮《と》らせてるわけだよ。そりゃ、そんな甘いモンじゃねえってのな。
「……ほんと、すごいや。……住んでる世界が違うっていうか……」
「ああ」
そんなに何度も言われなくたって、知ってるよ。あいつは凄《すご》いヤツで、一般人の俺らとは、別世界の人間なんだってさ。最近|一緒《いっしょ》に出かけたりしてたから、ちょっと忘れてただけだ。
くそ、何でかしらんが、イラつく。
「どうせ俺とは似てねーよ。昔っからアイツは、見てくれだけはいいからな」
「そんなに謙遜《けんそん》しなくてもいいのに。だって、すっごい頭もいいって聞いてるよ?」
「は? なに言ってんのオマエ?」
ダセぇ。ちょっと八つ当たりっぽい口調《くちょう》になっちまった。俺は後悔した――が、麻奈実《まなみ》は受け容《い》れるように微笑《ほほえ》んだ。『気にするな』と言われているような気分になる。
「うちの弟、妹さんと同じ学年なの。学校は違うけど。でね、この前、共同テストつていうのがあったんだって。それで―県の成績《せいせき》優秀者《ゆうしゅうしゃ》のランキングに、載ってたって言ってたよ」
「誰《だれ》が?」
「だからぁ、きょうちゃんの、妹さん。桐乃《きりの》ちゃん」
一瞬《いっしゅん》、何を言われたのか分からなかった。俺は、数秒、その言葉を脳内で反動《はんすう》して――
「ま、マジで!? え? 学内じゃなくて――県? 県っつったいま?」
「そう。県で、四番とか、五番とか。詳しい順位はうろ覚えなんだけど――そうなんだって」
あいつ、そんなに成績よかったのかよ!? ぜんぜん知らなかった――って、まあ、いままで自分の妹に関心なんざなかったし、ほとんど喋《しゃべ》ったことなかったからな……。
知らなくて当たり前なんだろうけど……にしても驚《おどろ》いた。
同級生のコギャルどもときゃらきゃら遊んで。あんなに真剣に、モデル活動やって。
何時間も語れるほど子供向けのアニメに熱中《ねっちゅう》して。ばりっばりエロゲーやって――
でもって、ばっちり勉強もやってたって?
は――……正直、びびったわ。
俺の妹は、思っていたよりもずーっと……とんでもないヤツだったのかもしれん。
色《いろ》んな意味でな。
数日が経《た》った。俺が学校から帰宅すると、リビングで、どうやら買い物帰りらしいお袋と遭遇《そうぐう》した。お袋は冷蔵庫《れいぞうこ》にブツを詰め込みながら、ふんふーん♪ と上機嫌《じょうきげん》で鼻歌を歌っている。
なんかいいことでもあったのかね? 俺《おれ》は麦茶片手に聞いてみる。
「どうしたお袋――ずいぶんとご機嫌《きげん》じゃん? そろそろ医師の診断が必要な時期?」
「あら京介《きょうすけ》。お母《かあ》さん別にラリってるわけじゃないから、大丈夫よ? うふふ、ちょっとね――いま、おとなりの奥さんに褒《ほ》められちゃって。『おたくのお子さん凄《すご》いわね』って」
「へえ? そりゃまた照れるね。で――オバサン同士の井戸端会議《いどばたかいぎ》で、この俺の、どんな偉業が讃《たた》えられてたのよ?」
「もちろんアンタじゃないわよ」
ですよね! 分かってたけどな! 文頭に『もちろん』が付いたことによって、俺の心にドス黒い親への不信感が芽生えたわ!? ケッ、老後を覚悟しておくんだな!
「ふ、ふーん……とすると桐乃《きりの》か……」
顔面《がんめん》をひくつかせながら呟《つぶや》くと、お袋は『よくぞ聞いてくれました!』みたいな満面の笑顔《えがお》になった。一言も聞いてないけどな。
ハイハイ、不出来な息子《むすこ》で悪うございましたね。自慢の娘のお話をどうぞー。
「あの子ねー、昨日《きのう》の部活動で、なんだか凄い記録[#ルビ「きろく」は底本では「きおく」]《きろく》出して、今度おっきな大会に出るらしいのよー。おとなりの奥さんが、娘さんから聞いたって」
「へーえ、あいつ部活なんざやってたんだ?」
「なぁに? お兄《にい》ちゃんのくせに知らなかったのー? 陸上部よ、陸上部――ったく、あんたらほんっと仲悪いもんねえ……」
「ほっとけや」
おいおい……勘弁《かんべん》しろよ。……見てくれよくて? 学業|優秀《ゆうしゅう》で? スポーツまで万能?
アホか。いいかげんにしろ。漫画とかでよくある、過剰に長所だらけのキャラ設定聞いてる気になってきたわ。
だがこれで事実だから困る……。
いるとこにゃーいるんだよなあ〜、こーゆうミュータントみたいな生き物。
「でもアイツ、部活やってる時間あんの? 勉強とか遊びとかさ――他《ほか》にやること色々《いろいろ》あんだろうによ」
「そこはもちろん、文武両道、ちゃんと両立させてるわよー。そうしなきやお父《とう》さんだって認めないでしょ? あんたは知らないだろうけど、あの子、雑誌のモデルだってやってるのよー」
「ふーん」
ま、そりゃそうか。
あの堅物がモデル活動なんて『ちゃらそう』なもんを、そう簡単《かんたん》に許すとは思えん。
いまにして思えば、髪染めんのにしたって、ガキのくせに化粧すんのにしたってそうだ。
「あの子、お父さんと約束してるのよ。ワガママさせてもらう代わりに、その分、ちゃんとするってね」
「はー、ちゃんとねえ……」
過当に相槌《あいづち》を打つ俺《おれ》。
お袋はむふふと笑《え》みを漏らした。
「おかげでぇ……ご近所で、すっごい評判いいのよお、あの子。外では愛想《あいそう》いいし、挨拶《あいさつ》だってしっかりするし――その上あたしに似てかわいいでしょ?」
「えー?」
俺は思いっきり眉《まゆ》をひそめたが、お袋はガン無視して話を続行。
人の話聞かないところはソックリだなこの親娘《おやこ》。
「もーお年寄りにも大人気! あたしもハナ高々なのよねー! すんごい羨《うらや》ましがられるもん」
「でもそれって結局全部、親父《おやじ》との交換条件の材料なんだろ? めちゃくちゃ不純な動機《どうき》じゃねえ?」
「不純な動機よー? いいじゃない別に、黙《だま》ってれば同じことでしょ? それに、桐乃《きりの》が凄《すご》いってことには変わりないんだから」
身《み》も蓋《ふた》もねえな。大丈夫かこの母親? だがまあ、一理ある。
桐乃は自分のワガママ通すために、頑張《がんば》って――たいした結果を残しているわけだからな。
そこは認めなくちやならんだろうよ。やろうと思ったって、なかなかできるこっちやねえ。
少なくとも、俺にゃ無理だ。
「ふうん……」
しっかし最近、なにやら桐乃の話が出るたびに、凄い凄い言ったり言われたりしてる気がすんなあ。みんな語彙《ごい》が乏しいんじゃねえの? 俺が言うと僻《ひが》みにしか聞こえんけどさ。
まあなぁ……。ずっと妹のことなんざ興味《きょうみ》なかったし、いままで俺が、桐乃のことを知らなさすぎたってのもあるんだろうよ。にしたって大概《たいがい》じゃねえの……なんだってんだ。
正直、凡人の兄貴としては、妹ばかりが凄い凄いと褒《ほ》めはやされるのは面白《おもしろ》くない。自分のダメさを強調《きょうちょう》されているような気分になる。情けねえ話だがな。
俺が複雑な表情で考え込んでいると、お袋が意表を衝《つ》くようなことを言ってきた。
「そういえば最近あの子、表情がイキイキしてるのよねー。ま、あたしにしか分からないくらいの変化だから、だーれも気付かないだろうけど」
「はぁ?」
俺が眉《まゆ》をひそめると、お袋は、さらに突拍子《とっぴょうし》もない台詞《せりふ》を吐いた。
「きっとアレよ……男ね! 京介《きょうすけ》、あんた何か知らない?」
「お、男?」
「そう、男ができたに違いないわ。だからあんなに笑顔《えがお》が煌《きら》めいているのよ!」
ねーよ。あんなのと付き合える男が、そうそういてたまるか。いたら俺はそいつのことを、ゴッドと呼んで讃《たた》えてやる。
だが、お袋はそうは思っていないらしく、鼻息荒くして追及してきた。
「で、知らない? 心あたりでもいーからさー」
「知るか。俺《おれ》と桐乃《きりの》が仲悪いの、知ってるだろ?」
俺が当たり前のように答えると、お袋はへの字口で流し見てきた。
「ほんっと、使えない子ねえ! あんたもちょっとはしっかりしなさいよ――妹は出来がいいんだからさあ! 血統は悪くないはずなのよお」
「ケッ。あいにく母親に似たもんでな――凡人の俺は、せいぜい地道に勉強しますわ」
捨《す》て台詞《ぜりふ》を残して、俺はその場を後にした。ノブに手をかけ、がちゃりと扉を開ける。
――桐乃の表情がイキイキしてる、ねえ……。
……心当たりは、あるっちゃあるよ。まさかとは思うけど……もしかしたら。
ビックリ仰天《ぎょうてん》の趣味《しゅみ》を見せられたり、さんざん罵倒《ばとう》されたり、エロゲーやらされたり、オフ会に連れて行かれたり、アキバを引《ひ》き摺《ず》り回されたり――空回《からまわ》りばっかだった俺への人生|相談《そうだん》が、ちっとは役に立ったのかもな。
ははっ、ガラでもねー。なに言っちゃってんだか。アホらしい。
数日後の夜、俺は『妹と恋しょっ♪』を、ついにコンプリートした。
正直言って、大変|辛《つら》く苦しい作業だったぜ……。
あのな、つまんないとか、そういうレベルじゃねえんだ。
このゲームに何度、精神を破壊《はかい》されかけたことやら……もはや数え切れん……。
リアル妹がいる身分で、妹を攻略するゲームをプレイするという重圧に耐え、よくぞここまでたどり着いたもんだ。我《われ》ながら感心するよ。いやっ……ほんと、スゲ――嬉《うれ》しい……!
感無量だ。ゲーム自体の感想はさておき、とてつもない達成感がある。
「……っ……ぅぅっ……」
なんだコレ、猛烈にテンションが上がっていく……。
胸の内から……熱《あつ》い感情が湧《わ》き上がってくる……
だってさ! も――これで、明日《あした》からいやいやエロゲーやらなくてもいいんだと思うと……! 俺! 嬉しくて嬉しくて! 万歳《ばんざい》! いますぐ大声で叫びたいっ!
ヒャッハー! これでもう二度と、あの小悪魔《こあくま》どものツラを拝むこともねえぜ!
『おにいちゃん……いいよ?』とか囁《ささや》かれて、血涙を流すこともねえぜ!
「ヒイヤァァァァッホォォォォォ――――――――ゥ!!」
近年まれに見るほどの馬鹿《ばか》ハシャギを見せる俺。このワクワク感は自分でも止められねえ! そしてついに……
桐乃から借りたノートパソコンに、ENDのクレジットが表示された。
「はぁ――――――」
勉強机に座っていた俺《おれ》は、思いっきり背筋をのばして息をはく。
「…………ふぅ」
そうすると……達成感の余韻《よいん》が、じわじわと、なんとも言えない虚無感《きょむかん》に変わり……俺の胸をきりきりと締《し》め付ける。さっきまでのハイテンションが、ぐわ――っと急下降していく。
初めて知ったが、ギャルゲーを全クリした直後の虚《むな》しさは異常だ。
だめだこれ、どうにもならん。なんだろうな、この、悟りを開いた賢者《けんじゃ》のような気持ち。
ふぅ……なんで俺は数秒前まで、あんなに舞《ま》い上がっていたのだろう……。
「さて、ゲーム返しに行くか」
俺は、明鏡止水《めいきょうしすい》の心で立ち上がった。自分の部屋《へや》から出て、妹の部屋のドアをノックする。
がちゃ、とわずかにドアが開き、妹が顔を覗《のぞ》かせる。
そして例のごとく、ゴミを見る目で睨《にら》んできた。
「なに? なんか用?」
「……いや……ゲーム……返しに来たんだけど……」
ったく、コレだよ……。はぁ……やっぱリアルとゲームは違うよな。イベント積《つ》み重ねたって、ちっとも好感度なんざ上がりやしねえ。なにこのバグってるとしか思えない攻略|難度《なんど》。
桐乃《きりの》は俺からノートパソコンを受け取るや、疑わしげな声色《こわいろ》で言った。
「コンプリートしたの?」
「した」
「ふぅん……で?」
「いや……」
妹よ……その鬼教官の形相《ぎょうそう》は、いったいなに?
答えを間違えたら銃殺されそうなんすけど。俺はたいそうびびり、慎重に答えた。
「ま、まあまあかな……結構|面白《おもしろ》かったぞ?」
「ふん、どういうところが? 具体的に言って」
無感情に詰問《きつもん》してくる桐乃。
フッ……そうか……俺はいま、ゲームでいう『選択肢《せんたくし》分岐《ぶんき》』にいるってわけだ……!
だが、目の前にいる『妹』の好感度は、マイナスに振り切れている。
よって下手《へた》な選択肢を選べば、命はない……そして人生というゲームには、セーブもロードもない……。一発勝負ですべてが決まる。デッド・オア・アライブ。
上等じゃねえか。俺は不敵に笑った(心の中で)。
「ええっとっスね……しおりシナリオ? アレの後半部分は……いい話だったと思うっス。ホラ、あの、親に二人《ふたり》の仲を反対されちゃって……しおりが家を飛び出して……それを主人公が追っかけて……夕日を背景に見つめ合うシーン」
「……………………」
俺《おれ》の回答を開いた桐乃《きりの》は、目をつむって黙《だま》り込んだ。
はたして正答を選び取ることができたのか、否か……俺の心臓《しんぞう》が、どきどきと拍動を刻む。
……フッ、実はさっきやったばっかのトコを言ってみただけだぜ。
あんなクリック連打してるだけで膨大《ぼうだい》な精神負荷がかかるよーなシーンを、全部覚えてられっかボケ! だから命だけは助けてください!
やがて桐乃は、ゆっくりと目を開いた。細めた瞳《ひとみ》で俺を見下すようにして、
「……ま、まぁ……ちょっとは分かってきたじゃない」
おお……なんと、正答だったらしい。フゥ……奇跡的に命をながらえた俺は、胸を撫《な》で下ろした。そして、改めてこう思う。
くだらねえぇぇぇぇぇえぇぇぇえ! 冗談《じょうだん》じゃねーよ! なんで実妹と妹ゲーについて語り合わなくちやならんのだ! そもそも、それを避《さ》けるために俺は、色々《いろいろ》と尽力《じんりょく》してやったわけなんだからさあ! まずはそっちの首尾を聞かせてもらわんと!
「でも、まだまだね。いいシーンはそこだけじゃないはず。たとえば……」
「ま、待て……」
俺は、桐乃が語り始めようとしたのを手でさえぎって、なんとか話をそらそうとする。
「それは後でゆっくり聞いてやっから……先に聞かせろって。この前のオフ会で知り合った連中と、最近、どうなんだ?」
「え? あ、あー……あいつらね」
桐乃は、いきなりへの字ロになり、そっけない口調《くちょう》で、俺を部屋《へや》に招き入れる。
「入って」
どうやら、廊下でこれ以上話を続けるのがマズイと思ったらしい。
「……おう」
俺が従順に従うと、桐乃はテーブルにノートパソコンを置いて、ベッドに腰掛ける。
それから、こきこきと首の関節を鳴らし、さも関心がなさそうなそぶりで言った。
「一応、両方とやり取りしてるよ、いまも。メールとか、メッセとかで」
「へえ、じゃあ友達になったんだな」
「友達っていうかあー……話し相手? いちおー話は合うしさーあ? 色々知らないこととか、教えてもらえたりするしぃ――ま、役には立ってくれてるかなぁー」
だからそれは友達だろ。断じてその単語を口にしたくねえらしいな、こいつ。
猫被《ねこかぶ》ってるときの友達は、抵抗なく友達って呼べるくせによ……本音全開で接してる相手にゃ、どーして素直になれんのだ。ま、らしいっちゃ、らしいけどな。
「直接会ってはいねえんだ?」
「うん。あの黒いの[#「黒いの」に傍点]はわりと近所に住んでるらしいけど、でかいのはちょっと遠いらしくてさ――。だから今度、またオフ会で会おうよって話になってて……で、まあ、仕方ないから?
行ってあげてもいっかなあ……とか」
「ふぅん……そっか……」
上手《うま》くやってんだな。
ゲームはクリアしたし、桐乃《きりの》にゃ本音で喋《しゃべ》れる友達ができた。
お袋の話によると、最近いい顔するようになったっつー話だし……そういや、あれから一度も俺《おれ》に頼ってこなくなったな。今度のオフ会にも、一人《ひとり》で行くつもりらしいし。
つまり万事が上手くいって、相談《そうだん》する必要がなくなったってことだろうよ。
やれやれ……。
これで、今度こそ俺は、お役御免《やくごめん》だ。俺はさっぱりした気分で言った。
「なぁ桐乃――油断して、またDVD落とすんじゃねーぞ?」
「うっさいバカ。そんな間抜けな失敗、このあたしが何度も繰り返すわけないっしょ?」
‥‥‥よく言うよなあ、あんときやオマエ、ちょっとゆさぶっただけで取り乱すわ、駄目元《だめもと》で罠《わな》張ったらアッサリ引っかかるわ、テンパって迂闊《うかつ》な行動取りまくってたじゃん。
俺がこヤニヤと回想していると、桐乃は恥ずかしそうに横《ほお》を染めて、ティッシュの箱を投げてきた。
「おっと」
俺は首を傾けて軽く回避《かいひ》。そのまま扉の外へと脱出する。
閉めた扉に、ガン、と物がブツかる音がした。
こいつは、これからもずっとこうなんだろうな……。おっかねえ妹様だぜ、まったく。
まぁ……てなわけで。高坂《こうさか》京介《きょうすけ》の人生相談室は、今日《きょう》このときをもって店じまいだ。
へっ、二度とやらねえからな。
日曜日《にちようび》の夕方、俺が図書館《としょかん》から帰ってくると、家の中が異様に静まりかえっていた。
料理を作るような音も聞こえなけりや、テレビの音も、話し声も、物音すらしない。
不自然だ。俺は靴を脱ぎながら、ぴりっとした刺激《しげき》を感じ、首の裏に手をやった。
妙に張りつめた空気が漂っている。ぞわぞわっ……と、肌が粟立《あわだ》つ。
やはり、おかしい。いつもと違う。
「……?」
俺は眉《まゆ》をひそめ、なんとなく足音を立てないようにして廊下を進む。リビングへの扉の前で立ち止まる。ノブを掴《つか》んだとき、めちゃくちゃ嫌《いや》な予感がして、俺は一瞬《いっしゅん》躊躇《ちゅうちょ》してしまう。
ごくり。つばを呑《の》み込んでから、ドアを開ける。
「……ただ……いま……?」
中に入ると、桐乃と親父《おやじ》が、テーブルを挟んでソファに座り、対面していた。
両者とも、無言。親父はいつも無口だし、桐乃も普段《ふだん》、家族とはあまり話さないやつだ。
だから、一見したところだけなら、別段珍しい光景というわけではなかった。
ただし、俺《おれ》がリビングに入ってきたってのに何の反応もないのはおかしい。
それだけじゃない。テレビを観《み》ているわけでもなく、新聞や雑誌を読んでいるわけでもなく、親娘《おやこ》が向かい合って座り、ひたすらに無言でいる……。
親父《おやじ》は超無表情なので何を考えているのかまったく分からないが、桐乃《きりの》はガチガチに固くなって、しょんぼり項垂《うなだ》れているようだった。
そして、
「あ」
俺はテーブルの上を見て、すべてを察した。
テーブルの上には、親父の仕事ふうにいうならば、二つの証拠品が残されていた。
一つは、桐乃がよく提げているブランド物のハンドバッグだ。
そしてもう一つは、俺にとっては忘れもしない。
『星くず☆うぃっちメルル』のDVDケースに入っている、
『妹と恋しよっ♪(18禁)』だった。
バカッとしっかりオーブン状態。証拠は十分。問答無用《もんどうむよう》で有罪《ギルティ》である。
「……………………ふむ」
俺は瞬《まばた》きを数度|繰《く》り返し、その間に、状況を十分に認識《にんしき》した。感想を言おう。
バァァァァァァァァァアァァァァァァァア――――――カかアイツはぁぁぁあぁぁあ!?
バカッ……なんっ……たるバカッ……アホッ……! もはや情けなくて泣けてきたわ!
あれほど親父にだきゃーバレんなっつったろうが……!?
油断して、またDVD落とすんじゃねーぞって――言わんこっちやねえよ!
間抜けな失敗、繰り返してるじゃん!
かぁ――っ! 俺にバレたときと同じ轍《てつ》を踏みやがって〜〜〜〜! どーしてあんだけ高スペックなクセに、そういうとこだけ抜けてっかなあ! 迂闊《うかつ》にもほどがあるってーの……。
あ〜あ〜…………どうすんだ? 知らねーぞ……俺…………
俺は、動揺が顔に出ないようにするだけで、精一杯だった。
「京介《きょうすけ》、ちょっと、京介……」
扉を開けた体勢で固まっている俺に、廊下から、お袋が小声で話しかけてきた。
振り返ると、袖《そで》を掴《つか》んで引っ張られる。
「あんたは部屋《へや》に戻ってなさい」
「あ、ああ……」
お袋は俺を廊下に引っ張り出すや、そおっとリビングへの扉を閉めた。
「……その……何が……あったんだ?」
我《われ》ながらわざとらしい質問だ。
「それがね……」
お袋から返ってきた答えは、おおむね俺《おれ》が予想したとおりのものだった。
桐乃《きりの》は親父《おやじ》の前でDVDケースを落っことして、中身を見られてしまったのだという。
どういう状況だったのか詳しく聞こうと思ったが、お袋も直接その瞬間《しゅんかん》を見たわけではないので、知らないらしい。一番可能性が高そうなのは、俺にバレたときみたいに、ここでぶつかって――というバターンだが、落ちた柚子にケースが開いたんだとしたら、すげえ偶然《ぐうぜん》だよな。
もしくは、アニメDVDケースを見た親父が、中を開けたのか。
うーん。18禁表記を見た瞬間の親父の顔が、想像できん……。
さすがの親父も、動揺したろうなあ。俺もビックリ仰天《ぎょうてん》して噴《ふ》き出しちまったもの。
「……ふうん……」
そもそもさ、どうして桐乃のヤツ、んなもん持ち歩いてたんだ……?
幾つかの疑問がわいたが、なんにせよ、奇跡的な状況ではある。
単なるドジとか、不運とかで片付けられる問題じゃないだろ、コレ。こういう運命だったんじゃねえの? そんなことさえ思ってしまう。
「京介《きょうすけ》……あんまり驚《おどろ》かないのね」
「そりゃあな。アイツのことなんざ知ったこっちやねえし」
本心だ。ウソは言ってないぜ。しかしお袋はさらに決定的な追及をしてきた。
「あんた……もしかして知ってたの?」
「あ? 何が?」
「……だから。……その……あれよ……ああいうの、桐乃が持ってるって、こと」
言《い》い辛《づら》そうにしているお袋を横目で見つつ、俺は考える。
どう答えるべきだろうか。保身を考えるなら、ここは当然、トボけておくべきなんだろうが。
俺は判断が付けられず、黙《だま》り込んでしまう。
……やれやれ。我《われ》ながら、中途半端なこった。自嘲《じちょう》の笑《え》みが自然と浮かぶ。
あんなヤツのことなんざどうでもいい。その気持ちはいまだって変わらない。
俺が望むのは、あくまで普通の人生だ。
凡庸《ぼんよう》でありきたりの登場人物、緩《ゆる》やかに停滞した、変わり映えのしない日常風景。
波瀾万丈《はらんばんじょう》の非日常も、非凡でユニークな登場人物も、俺の人生には必要ない。
桐乃なんか、その最たるもんだ。だから、本当にどうでもいい。心の底からそう思う。
なのに――。あいつから相談《そうだん》を受けて、色々と尽力《じんりょく》してやったという記憶《きおく》が、妙な共犯|意識《いしき》を俺に抱かせていた。そして、秋葉原《あきはばら》で垣間《かいま》見《み》た、妹の『大切なもの』――
チッ。無関係を決め込むにゃあ、俺は、妹の事情に深入りしすぎちまったようだ。
「……まあな。知ってたよ」
「……やっぱり!……まさか……あんたの影響《えいきょう》じゃないでしょうね?」
ぜってー言うと思ったぜ。なあ、この信用のなさを見てくれよ。泣けるだろ?
「違《ちげ》ぇよ。よく考えてから言ってくれお袋。そもそも俺《おれ》はパソコン持ってねぇし、俺の部屋《へや》にブツを隠せるような場所なんてないの、知ってるだろ」
「そういえばそうね……ま、いいわ。どのみちアレは桐乃《きりの》のなんだものね――はぁ」
がっくりとため息をつくお袋。
この反応も、出来のいい娘がああいうものを持っていたから、なんだろうな。
例えば親父《おやじ》にエロゲー見付かったのが俺だったなら、お袋は大爆笑し《だいばくしょう》ていたはずだ。
「お父《とう》さんがあんなに怒ってるのって、久しぶりよね。このままじゃ、しばらくおさまりそうにないわ。どうしたものかしらねえ……」
お袋はしばし思案《しあん》していたが、「あ、そうだ」何かを思いついたらしい。
「京介《きょうすけ》、あたしちょっと出てくるから、あんたは部屋に戻ってなさいね」
「……何? 出かけんの?」
「ここにいたってしょうがないでしょ。お父さんの好きなお酒買ってくる。あの人さっぱり酔わないけど、どぼどぼ呑《の》ませればある程度|大人《おとな》しくなるからさ」
怒り狂った妖怪《ようかい》やら土地神やらを鎮《しず》めるみたいな、お袋の言い草であった。
だが、そのニュアンスはよく分かるぜ。この家で、親父の雷ほど恐《こわ》いもんはない。
お袋が出て行って、それから十分ほど、俺はリビングの扉の前でバラバラしていた。廊下を落ち着きなくうろついたり、爪《つめ》を噛《か》んだり……耳を澄《す》ましてみるが、中の二人《ふたり》は小声で話しているらしく、会話の内容は聞こえてこない。
秘密の趣味《しゅみ》が親にバレちまった桐乃は、果たして何と言《い》い訳《わけ》しているのだろう……。
ちょっと想像がつかないが……あの親父に、どんな言い訳をしょうが無駄《むだ》ではある。親父は自分が正しいと確信《かくしん》している件については、絶対に譲《ゆず》らない人だからだ。
しかも異様に鋭《するど》い。ウソは基本的に、すべて見抜かれると思っていい。
ずっと昔、俺がガキのころ……いたずらで、女の子の髪の毛にガムテープを貼《は》ったことがめる。その子はガムテープを取るために、長い髪をちょっぴり切らなくてはならなかった。
当時の俺は、それを、別にたいしたことだとは思っちやいなかったのだが……それを知った親父は、俺を厳《きび》しく叱《しか》った上で、俺と、自分の髪を丸刈りにした。
そうして一緒《いっしょ》に、その子の家まで謝《あやま》りに行ってくれた……。
あのとき、俺は自分が悪いと認めはしたものの……泣《な》き喚《わめ》いて嫌《いや》がった。しかし親父は、どんなに謝っても、言い訳しても、聞いてはくれなかった。容赦《ようしゃ》をくわえることもなかった。
よくも悪くも、一度口にしたことは必ず守るし、やると決めたことは必ずやる人なのだ。
「……ふぅ……どうなることやら」
この扉の向こうで、どんな会話がかわされているのか。
へタレで腰抜けの俺には、知るよしもないことだった。
リビングへの扉が開き、桐乃《きりの》が姿を現わしたのは、それからさらに十分が経《た》ってからのことであった。扉を蹴破《けやぶ》る勢いで飛び出してきた桐乃は、赤鬼みたいな形相《ぎょうそう》になっていた。
顔は怒りで真《ま》っ赤《か》に染まり、目が充血して腫《は》れている。
……な、なにがあったんだ……?
「き、桐乃……?」
「……どいてよ…………どけ!」
ずんずんこちらに歩いてきた桐乃は、憎悪《ぞうお》の視線《しせん》で俺《おれ》を睨《にら》むや、突き飛ばすように押しのけてきた。やりどころのない感情を持てあましているような感じだ。俺は意表を衝《つ》かれて、ちょっと体勢を崩してしまう。
桐乃はハァハァと息を荒げながら玄関へと向かい、乱雑な手つきでブーツを履《は》いた。
「お、おい桐乃……どこ行くんだよ?」
「うるさい! あたしの勝手でしょ!」
「ちょ、待てって――」
外に出て行こうとする妹を、俺は咄嗟《とっさ》に追い掛けようとした――が。
バタン! 桐乃は明らかに俺を狙《ねら》って、勢いよく扉を閉めてきやがった。
「ぶへっ!?」思いっきり顔面《がんめん》をドアに挟んじまう俺。「あうぐ……つのッ……!?」
ふらつきながら外に出たときには、もう妹の姿は見えなくなっていた。
――やべえ。今日《きょう》の俺って、めちゃくちゃカッコ悪くねえ!?
グスッ……ついつい泣きが入ってしまう。うぐあー、顔がイテエよぉぉ〜〜ッ。
自分の情けなさと、ドアに挟まれた痛みを噛《か》みしめながら、俺は桐乃が走り去っていった先を見つめるのであった。
「くそっ!」
ぶんぶんとかぶりを振って、気を取り直す。立ち直りが早いのが、俺の数少ない長所の一つ。
――追っかけるべきか? いや……その前に……
俺は家の中へと戻った。正直自信はなかったが……親父から、事の顛末《てんまつ》を聞き出せないかと考えたからだ。そうしねえと、桐乃がヤケクソになってた理由も分からないままだからな。
もちろん大体のところは予想できるけどよ。
それにアイツ、確《たし》か今日、友達とオフ会行くって言ってたもんなぁ。
俺がついて行かなくても、自分|一人《ひとり》で仲間と会って――きっと、とても楽しい時間を過ごしてきたんだろう。黒猫と喧嘩《けんか》したり、沙織《さおり》に毒舌吐いて平気な顔されたり……想像できるよ、なんとなくな。俺も、この前、そばで見てたからさ。
最近桐乃がイキイキしてる――この状況で、皮肉にもお袋の言葉を思い出した。
それってたぶん、ずっと隠してた趣味《しゅみ》を分かち合える相手ができたから、なんだよな?
そんなに何もかもが上手《うま》くいっている状況でさ……すぐ前に落とし穴があるなんて、想像もしてなかったんだろうな、あいつ。
恐る恐るリビングに入ると、何故《なぜ》か、親父《おやじ》が掃除機《そうじき》をかけていた。フローリングの片隅《かたすみ》に、クリスタルの灰皿が転がっている。どうやらコレを引《ひ》っ繰《く》り返してしまったらしいが……
まさか、親父がキレてぶん投げたのか……?
いったいここで、どんなやり取りが繰り広げられたのだろう。俺《おれ》はごくりとつばを呑《の》み込んだ。
「…………」
黙々と掃除機をかけている親父。静まりかえった室内に、掃除機の音だけが場違いに響《ひび》く。
家庭内でトラブルが起こった直後の、あのいやーな沈黙が、リビングを支配していた。
やがて親父が掃除機をかけおわり、低く重い声で、こう呟《つぶや》いた。
「京介《きょうすけ》、ちょっとそこに座りなさい」
「あ、ああ……」
俺は言われるがままにテーブルに近付き、ソファに腰を下ろした。
たぶん桐乃《きりの》の件について、俺も尋問《じんもん》されるんだろう。あるいは説教も、かもな。
桐乃はあれで頑固なところがあるから、俺の名前を出しちやあいないんだろうが、親父ならそのくらい言質《げんち》を取らずとも察する。トボけるだけ無駄《むだ》ってもんだ。
ま、そうだとしでもだ。俺も、桐乃に相談《そうだん》を受けた件について、自分から口を割るつもりはねえ。それが相談を受けたもんの礼儀《れいぎ》ってやつだろう。
俺はテーブルの上に目をやった。例の証拠品、開かれたDVDケースが置かれている。その脇《わき》に、一枚の紙切れを見付けた。
「……こりゃあ」
それはどうやら、アニメや漫画の専門店の広告らしかった。でかでかと『星くず☆うぃっちメルル』のイラストが載っており、そのすぐ下に、このような記述があった。
『星くず☆うぃっちメルル2(初回限定版)ついに入荷! 前作のパッケージを店頭までお持ちくださったお客様全員に、人気|声優《せいゆう》・星野《ほしの》くららのサイン入りポストカードをプレゼント!』
……な、なるほどな。こいつで、幾つかの謎《なぞ》が解けたぜ……。
俺が『星くず☆うぃっちメルル』のパッケージを拾った日、どうして非オタの友達に呼び出されたのであろう桐乃が、メルルのパッケージを外に持ち出そうとしていたのか。
そして、どうして今日《きょう》、桐乃が部屋《へや》からメルルのパッケージを持ち出したのか。あいつはこれから専門店に出かけて、星野くららさんとやらのサイン入りポストカードを入手する腹積《はらづ》もりだったわけだ。
大した手間でもないんだし、さっさともらいに行っておきゃあいいものをよ……よりにもよって今日このときって……ほんとタイミング悪《わり》いな。
とりあえずこれで、親父がブツを発見したのが、夕方、桐乃がイベントから帰ってきたあとだということが分かった。まず間違いないだろうよ。桐乃《きりの》は一旦《いったん》帰ってきて、部屋《へや》に戻って、メルルをバッグに入れて、さあポストカードもらいに行こうってときに、親父《おやじ》とぶつかって――そんな流れが想像できる。そのあとの展開はやはり分からないままだが、まあとにかく中身を見られちまったと。で、家族|会議《かいぎ》勃発《ぼっぱつ》ってわけか……なんつーか、無惨《むざん》な話だな。
と――
掃除機《そうじき》を片付けてきた親父が、俺《おれ》の対面に座った。
俺は条件反射のように緊張《きんちょう》し、姿勢を正す。親父の第一声は、次のようなものだった。
「京介《きょうすけ》、おまえ、知っていたのか?」
「……ああ」
そう答えるしかなかった。そもそも親父の眼光は、罪人の口を割らせるために、長年|研《と》ぎ澄《す》まされてきたものなのだ。そんなもんを息子《むすこ》に使うなよ。ちびったらどうすんの?
「そうか。おまえがどうして知っていたのかは聞かん。喋《しゃべ》るわけにはいかんのだろう」
親父の眼差《まなざ》しは恐ろしいだけでなく、心の奥底まで覗《のぞ》き込まれるような気分になる。
「…………」
俺と桐乃の共犯関係は、どこまで見抜かれているのだろう。俺は背筋が塞くなった。
「俺は、こういったものを、おまえたちに買い与えたことはない。何故《なぜ》か、分かるか?」
親父は、DVDケースを片手で取り上げ、パッケージに描かれたアニメも、その中身も一緒《いっしょ》くたにして言った。18禁なのは中身だけなのだが、親父にはその区別は付けられまい。
俺は反論《はんろん》することもできず黙《だま》り込んだ。親父と視線《しせん》を合わせないよう、俯《うつむ》く。
俺も桐乃も、親父から説教を喰らうときは、絶対いつもこうなる。
「こういうものは、おまえたちに悪影響《あくえいきょう》を与えるからだ。ニュースなどでもよくやっているだろう、ゲームとやらをやっていると頭が悪くなる。犯罪者の家から、いかがわしい漫画やゲームが見付かったと――もちろんテレビの話を鵜呑《うの》みにしているわけではないがな……」
どうせ、ろくでもないものなのだろう? 親父の表情がそう語っていた。
親父のサブカルチャーへの理解度は、とんでもなく低いし、いわゆる『常識《じょうしき》ある大人《おとな》のレッテル』ってやつを貼《は》って、桐乃の趣味《しゅみ》をフィルター越しに眺めている。
……ちょっと前の俺だって、オタクへの認識は、親父と似たようなもんだった。
小遣《こづか》いで買える漫画やCDはともかく、ゲームなんか絶対買ってくれない両親だったからな。
普通の高校生よりも、サブカルチャーへの偏見《へんけん》が強かったのさ。
ゲームなんざろくでもねー。やってんのはバカばっかだ。だから持ってなくたって、悔しくなんかないもんね――とまぁそういう論理だな。ゲームを買い与えられない子供は、そうなる。
桐乃の葛藤《かっとう》も、だからこそ大きかったはずだろう。
「真偽はともかくだ。悪影響を及ぼすと言われていて。しかも、そんなものばかりやっている者どもは……なんだ? オタクだのなんだのと……蔑視《べっし》されているのだろう? であれば、持っていて良い影響《えいきょう》などあるまい。そんなものを、おまえたちに買ってやるわけにはいかん」
「…………けどよ。あれは……」
辛《かろ》うじて言《い》い止《さ》した俺《おれ》に、親父《おやじ》が声を被《かぶ》せてきた。
「『桐乃《きりの》が、自分で稼《かせ》いで買ったものだ』とでも言うつもりか。……それはそうだな。だから俺は、アレが自分の金で買った品物については、それほど口うるさく言うつもりはないのだ。化粧品だの、派手《はで》な服だの、バッグだの……本来ならば、ああいった子供らしからぬ諸々《もろもろ》も、制限すべきだと思うのだがな。……母親と一緒《いっしょ》になって、それが友達づきあいに必要なのだと言われれば、俺にはもう何もいえん。勝手にしろと諦《あきら》めるしかない」
「化粧品やバッグはよくて、ゲームやアニメはダメだってのか?」
「当然だ。あんな世間でよくないと思われているようなものは、桐乃に持たせておくわけにはいかん。特にアレは、俺が言うのもなんだが、できた娘だ。くだらん趣味《しゅみ》にうつつを抜かしているのなら、ダメになる前に道を正してやらねばならん」
オタク趣味は、桐乃をダメにする。だから、やめさせる。親父の論旨《ろんし》はこうだ。
実際、妹もののエロゲーにうつつを抜かしている桐乃は、すでに女子中学生としてかなりダメになっているので、ここで俺は何も言うことはできなかった。
と――
親父は俺への説教を切り上げるや、席を立ち、リビングから出て行こうとする。
ゾッと嫌《いや》な感触が背筋を駆け上った。
「お、親父っ? どこ行くんだよ……?」
俺は慌《あわ》てて親父の後を追い、呼び止めた。親父が、階段を上ろうとしていたからだ。
その先には、俺の部屋《へや》と桐乃の部屋くらいしかない。まさか……!?
親父の台詞《せりふ》は、予想どおりのものだった。
「桐乃の部屋を調《しら》べる。他《ほか》にも隠しているものがあるかもしれん」
「ま――待てって! ちょっと待ってくれよ!」
やべえっ、あそこには桐乃のコレクションが……!
俺は階段の下から親父を見上げ、でかい声で制止する。
「んなもんがあったら、お袋が見付けてるって! 毎日|掃除《そうじ》してんだからさ! 俺が隠してたエロ本だって、全部見付かってんだぞ? 隠してるモンなんかあるわけねーじゃん! ハンドバッグに入ってたので全部だよ絶対――」
たぶん桐乃もそう主張したはずだ。何故《なぜ》なら、親父にエロゲーその他が見付かったら、間違いなく全部捨てられちまうからだ。親父と一対一で対決するハメになろうとも、あいつは自分のコレクションを死守しようとするに違いない。
「……だから、それを調べると言っている。俺が探して、見付からなければそれでいい」
いや、絶対見付けるだろアンタ。まさにそういうのが本職《ほんしょく》じゃん。
このまま親父《おやじ》を桐乃《きりの》の部屋《へや》に入れたら、桐乃のコレクションが全部見付かっちまう。
そして絶対! 断言してもいいが、親父は桐乃の趣味《しゅみ》を見くびってる!
悪いこと言わないからやめとけって! 見ない方がいいっすよ! アイツが持ってるエロゲーは、二本三本じゃねーんだってば!
この前見せてもらったのだけでも、二、三十本はあったから!
しかもあの桐乃がさ、恥ずかしがって見せらんねーとか言ってたのが、あの奥にさらに積《つ》まれてるわけだろ? そんなモンを親父が見たら、下手《へた》したら発狂すんじゃねえの?
ま、マズイ……現状がかわいく思えるほど、絶対、マズイ……
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 親父!」
親父はどんどん音を立てて階段を上っていく。俺はその後を急いで追っかけて、前に回り込み、両手を広げて立《た》ち塞《ふさ》がった。
「どけ、京介」
「ど、どかねえ……」
なに言ってんだ俺《おれ》は!? 正気か!? いま親父に逆《さか》らったりしたら――
「いでででででっ!?」
親父は俺の手首を軽々と捻《ひね》り上げて、同じ台詞《せりふ》を繰《く》り返す。
「どけ」
親父は、あくまで俺の意思で、道を譲《ゆず》らせようとしている。やろうと思えば、俺をぶん投げて強行突破するのは容易《たやす》いはずだからだ。俺は手首の痛みに涙を流しながら、こう言った。
「どか……ねえっ」
ぎりぎりぎりっ……。
手首の激痛《げきつう》が、さらに強まった。効率よく痛みを与える術《すべ》については、親父はプロだ。
「ぐっ……」
っ痛《い》てぇ〜〜〜〜〜〜!? っあ――ホントにさあ! なにやってんだろうな、俺は!
自分で自分が分からねえよ!
「……どんな事情があろうと、本人の許可も取らずに部屋を家捜《やさが》しすんのは、まずいだろ……。たとえ親でも、やっていいことと、悪いことがある。……だから、どかねえ」
痛みを堪《こら》えて、訴える。
どうやら俺は、妹のコレクションを護《まも》ろうとしているらしかった。
あんなヤツがどうなろうが知ったこっちゃねえのにな、俺。
それに――娘がいかがわしい品物もってたら、きっちり叱《しか》って取り上げるのが親の役目だ。
親父は、親として当然の責務を果たそうとしているわけで、その結果、桐乃が泣こうが喚《わめ》こうが、本人の自業自得だろう。
じゃあ何で、俺は、こんな痛い思いして、得にもならねーことをやってんだ?
そりゃあ……そりゃあさ! まがりなりにも、相談《そうだん》を受けてたわけだし――それにコレクションを見せびらかして、得意げにしている妹の顔を、思い出しちまったからだ。
無理矢理《むりやり》俺《おれ》にエロゲーやらせて、しきりに感想を聞いてくる妹を、なんとかしてやりてーと考えた自分を、思い出しちまったからだ。
でもってアキバのマックで、初対面だってのに盛大に喧嘩《けんか》して、楽しそうに騒《さわ》ぐオタクどもを、この目で見ちまったから。捨てたもんじゃねえって、思っちまったから。
だから、俺は、こんな、ガラでもなく――
「……親父《おやじ》。ここは俺に任せてくれ……俺が、あいつと話してみるから。せめて、それまでは待ってやってくれよ。自分がいないときに、大切にしてたもんが勝手に捨てられちまってるのなんて――かわいそうじゃねえか。な? 頼むよ……!」
必死になって訴えると、親父はいぶかるような目で俺を見た。
「おまえ……」
アンタが言いてえことは分かってるよ、親父。この俺が、こんな必死こいて不仲な妹をかばうのがおかしいってんだろ〜 ああ、ああ、そうだろうよ……おかしいよなあどう考えでも。
でも、んなこた俺が一番よく分かってんだよ!
「…………」
俺たちは、しばし無言で睨《にら》み合った。親父は、厳《きび》しい顔で何事か考えていた様子《ようす》だったが、
やがて……掴《つか》んでいた俺の手首から、手をはなした。
「――いいだろう。待ってやる。俺は、桐乃《きりの》の部屋《へや》には入らん」
親父は自分が一度口にしたことは、どんなことがあっても守る。二言はない。
「その代わり、京介《きょうすけ》、おまえが責任を持って捨てておけ。全部、一つ残らずだ。分かったな?」
「――分かった。桐乃と話して……必ず、そうする」
そう答えるしか、俺に選択肢《せんたくし》は残されていなかった。先の台詞《せりふ》でも分かるとおり、親父は、部屋に入らなくたって、桐乃の部屋にあってはならない代物《しろもの》≠ェあるだろうって確信《かくしん》してる。
仕方ないこととはいえ、これだけ親父の捜索を強くこばんじまったんだから、逆にある≠チてでかい声で叫んでるようなもんだしな……。
この約束をもしも違《たが》えたら、親父は俺を許さないだろう。まったく誇張せずに言うが、殺されたっておかしくない。男と男の約束だからな。
あのコレクションを全部、一つ残らず捨てろ――俺はそれを、妹に告げなくちやならないってわけだ。
責任重大な上に、えらく困難《こんなん》で、しかも何の見返りもねーミッションだ。
こんなの、俺のガラじゃあねえ。やってられっかってんだ。
ったく。ホラよ、桐乃……とりあえず、時間は稼《かせ》いでおいてやったから――
感謝《かんしゃ》……するわけねーよな。はあ……。
親父《おやじ》を何とか止めた俺《おれ》は、買い物から帰ってきたお袋に後を任せ、改めて桐乃《きりの》を捜すべく外に出た。が、家を飛び出していったあいつがどこに行ったのかなんて、俺に分かるわけもない。
心当たりさえない。
夕焼けの中、当《あ》て所《ど》もなく駆け出す。
携帯《けいたい》に電話かけりやあいいだろうって思うか? 知らね――よ! あいつの電話番号なんかさ。お袋が言ってただろ? 俺たち兄妹は、仲が悪《わ》りぃんだ。桐乃は俺のことをゴミみてーに嫌っているし、俺は妹のことを、どうでもいいヤツだと無視している。
会話はない、目も合わせない――見知らぬ他人と同様の、冷えきった関係。
だから俺は、妹の携帯番号なんて知りやあしねえし、知りたくもねえし、知る必要もねえ。
「くそっ……どこ行きやがったんだ、あいつ……」
なのに俺はいま、そんなどうでもいいヤツを捜して、町を闇雲《やみくも》に駆け回っている。
公園、商店街、ゲーセン、学校、駅前――美麗《びれい》で目立つ妹の姿は、どこにもない。
ここにもいねえ……! くそっ! あとは、どこだよ……ちくしよう。
胸を焦《こ》がす苛立《いらだ》ちは、断じて、絶対、アイツの心配をしているからじゃあないぜ。
ムカつきの正体は自分でも分からんが、俺はいま、めちゃくちゃ俺らしくないことをしている。だからこんなに、苦しいのか? イライラしてんのか?
「わけ分かんねーよ……バカじゃねえの?」
ガラじゃあねえ……ほんっとガラじゃあねえ。ああっ、くそっ……くそくそくそっ!
もう、いい。とりあえず考えんのやめた――バカらしい。
「知るかよ……」
混沌《こんとん》とした想《おも》いを呑《の》み込み、歯を思い切り噛《か》み締《し》めながら、俺は走った。
まるで妹から借りたゲームの主人公みたいに、高坂《こうさか》京介《きょうすけ》は、飛び出していっちまった妹を捜して、夕焼けの町を駆けていく。頭ん中は、かわいい[#「かわいい」に傍点]妹のことでいっぱいだ。
ゲームと異なるのは、妹の、俺への好感度がマイナスに振り切れているところと。
あのシスコン野郎と違って、俺が妹のことを、大っキレ――だってことだよ。
やってることは同じだけどな!
ゲームの高坂京介は、黄昏《たそがれ》に染まった町で、捜し求めた妹と再会する。
息を切らして夕日を見上げた主人公の前に、タイミングよく、妹が現われるのだ。
ま、それはあくまでゲームの話。
この現実において、俺が妹を見付けた場面は、そんな浪漫《ロマン》とお約束に満《み》ち溢《あふ》れた展開とはかけ離《はな》れたものであった。
夕方の駅前商店街。俺が、ゲーセンの脇《わさ》を走り抜けようとしたとき――
「あ」
どっかで見たよーな茶髪娘が、八つ当たりみてえな激《はげ》しさで太鼓《たいこ》ゲームのバチを叩《たた》いていやがったのさ。リズムなんざ完全無視で、ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ!
ぶっ壊《こわ》す気かよ!
「………アイタタタ……」
つい、呟《つぶや》いてしまう俺《おれ》。
このバカ。こっちが必死で捜してやってるってのに……こめかみ痛くなってきた。
ま、現実ってのはこんなもんだよな。そーそードラマチックな展開にゃあならねーつて。
「死ね! 死ね! 死ね! 死ねッ! みんな死ねぇっ!」
なーんかボソボソ言ってんなーと思ったら、この台詞《せりふ》! おっかねえ女だなオイ。
俺は、妙に脱力した気分で、ゲームに絶賛八つ当たり中の桐乃《きりの》に近付いていった。
背後から、軽く後頭部をひっぱたいてやる。
「こら、おめーが死ね」
「っ誰《だれ》!?」
ブンッ! 桐乃は振り向きざまにバチを振り回した。またしても顔面《がんめん》に喰《く》らう俺。
「ぐあ……っ」
「…………なんだ……アンタか……」
てめぇ……っ。相手|確認《かくにん》もせずにブッ飛ばしたのかよ!? 乱暴《らんぼう》なプレイを注意しに来た店員だったらどうすんだ!? ったく、よっぽどハラに据えかねてるらしいな!
だが、振り向いた桐乃の態度は、死ね死ね言ってた人間と同一人物とはまるで思えないものだった。声色《こわいろ》も表情も、めちゃくちゃ暗い。
「……なにしにきたの」
「なにしにって……オメーが飛び出していっちまうから……捜しに来てやったんじゃねえか」
「………………キモ。……なにそれ? ゲームと現実……ごっちゃにしないでよね」
あたしはアンタなんかに惚《ほ》れないからね、と言いたいんだろうが、こっちから願《ねが》い下げだっての。妹もののギャルダーをやってみて、俺は改めて埋解したんだ。
三次元の妹なんぞ、マジでいらねーとな。
クソ生意気な妹を持つ兄貴|諸君《しょくん》ならば、必ずや同意してくれるはずだ。
本当、俺は、こいつを見付けてどうするつもりだったんだか。もう思い出せねーよ。
にしてもコイツ、見事にふて腐れてやがんな。鼻声になってるじゃん。
「うっせえよ。それよかオマエ、俺に感謝《かんしゃ》しろよな」
「……は? なんでそんなことしなくちやなんないワケ?」
「あのあと大変だったんだかんな? 親父《おやじ》が、おまえの部屋《へや》に入ろうとして――」
「……な、え……」
桐乃《きりの》は泣《な》き腫《は》らした目を見開いて、俺《おれ》の襟首《えりくび》を締《し》め上げてきた。うげげ、超苦しい。
「………………ちゃんと止めたんでしょうね」
てめえ、なんで俺が止めるのが当たり前みたいな言い草なんだよ。俺は、おまえの兄貴であって、下僕じゃねえんだからな? おい、分かってんのか、ああ?
「も、もちろん止めたっス……身体《からだ》張って」
「よし」
よくやったワンころ。そんな感じの『よし』だった。半分自業自得とはいえ、俺の尊厳《そんげん》は跡形もないぜ。桐乃は俺から手を離《はな》すや、難《むずか》しい顔で腕を組んだ。
「……とりあえず、場所変える。ここ、目立つし」
俺たちは近くのスタバヘと場所を変えた。
初夏とはいえ、そろそろ暗くなってくる時間。
私服姿の俺と桐乃は、小さな丸テーブルを挟んで腰掛け、コーヒーを飲んでいる。
客入りはそこそこといったところで、大学生ふうの兄《にい》ちゃんやら、仕事帰りのリーマンやらがメインの客層。部活帰りの中高生なんかは、もうこの時間になると見かけない。
そんな中。俺たちは、周りからどう見えているのだろう。
さっきから俺たちひとっことも喋《しゃべ》ってねーし。
桐乃は怒りのオーラを纏《まと》って、充血した目で、ずーっと俺を睨《にら》んでやがるし……。
修羅場《しゅらば》中のカップル、しかも原因は俺の浮気《うわき》とかに見られてそうでスゲーイヤだ。
沈黙《ちんもく》に耐えかねた俺は、ろくに考えもせずに喋りかけた。
「なぁ……桐乃」
「……なによ」
「おまえ、どうすんだ。これから?」
桐乃はムスっとした顔でコーヒーを一口飲み、こう呟《つぶや》いた。
「……分かんない」
だろうな。家に帰ったら、親父《おやじ》がいるし。どうしていいか分からないだろうよ。
実際、桐乃はそう口にした。「……どうしたらいいと思う?」と。
妹の口からその台詞《せりふ》を聞くのは、これで二度目だった。
俺は、自分でも、頼れる兄貴なんかじゃないと思う。そんな俺に頼らざるを得ないほど、こいつは悩んで、追い詰められているってわけだ。あんときと同じさ。
だからここで俺は『知ったことか』とは、言わない。たとえ思っていても。
一つ残らず捨てろ。そう言われたことは、まだ伏せておくか。親父の台詞は、ウチじゃあ絶対だ。大事なコレクションが死亡|確定《かくてい》だと知ったとき、こいつがどう想《おも》うか――。
ふん、ここでキレられても厄介《やっかい》だしな。とりあえず聞くこと聞くのが先だろうよ。
「その前に桐乃《きりの》。幾つか聞いておきたいことがあるんだが、いいか?」
「……なに?」
「おまえ、親父《おやじ》になんて言われたんだ? 結構話し込んでたみたいだったけどよ」
親父の言い草からすっと、捨てろとは言われてねえはずだよな……。
これは現在、桐乃が置かれている立場をよりハッキリさせるための問いだったのだが。
「……お、おい……桐乃……?」
桐乃の思いもよらない反応に、一瞬、《いっしゅん》頭の中が真っ白になっちまった。
「……っ……っ……!?」
俺《おれ》の問いを聞いた瞬間。桐乃は顔を真《ま》っ赤《か》に染めて、全身をぶるぶると震《ふる》わせ始めた。
片手で胸を押さえ、もう片手はテーブルの上で拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》めている。
かわいい顔はぐちやめちやだ。俺はすぐに目を逸《そ》らしたが、それでも、こいつの胸中で荒れ狂っている激情《げきじょう》がなんなのかくらいは、嫌《いや》になるほど分かった。
憤怒《ふんぬ》。悔恨《かいこん》。僅《わず》かばかりの諦観《ていかん》。
悔しくて。悔しくて。悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて――哀《かな》しくて。
そんなやりきれない気持ちが、ひしひしと伝わってくる。
あのときリビングで何があったのか。何を話したのか。依然として俺には分からない。
だが、桐乃がこんなふうになってしまうだけの何かがあったのだろうとは察した。
「…………たの」
俯《うつむ》いた妹の口元から、黒い吐息《といき》のような聴《ささや》きが漏れた。
俺が死ぬほどビビりながら「な、なに?」と問い返すと、桐乃はテーブルを激《はげ》しく叩《たた》いた。
ガンッ!
「くだらんって言われたのっ!? あたしが好きなアニメも! ゲームも! 今日《きょう》行ってきたオフ会も! 全部全部全部全部っ!? ……がうのに! ……っ……んなんじゃないのに……っ……あたし……な、なに……も…………っ…………」
その先はもう、ほとんど鳴咽《おえつ》に変わっていて、ほとんど聞き取れなかった。
桐乃は拳を叩き付けたままの体勢で、俯き、しゃくり上げている。
「なにも言い返せなかった――のか」
「……うん……」
ぼっ、ぼっ、とテーブルに涙の雫《しずく》が落ちた。
ここしばらく、妹の人生|相談《そうだん》に付き合ってきた俺には分かる。
桐乃は、今日、逆鱗《げきりん》にふれられた。俺があのとき垣間見《かいまみ》た『大切なもの』を、踏みにじられた。
だから桐乃は、いま、こんなにもキレている。死ぬほど悔しくて、涙を流している。
比較するのはバカげているのかもしれないが、俺にだって『大切なもの』くらいある。
そいつをくだらんと否定されたなら、俺だって同じようにブチキレるだろう。
ぜってーだ。相手が親父《おやじ》だろうが必ずブッ飛ばす。そうしなきや気が済まねえからだ。
桐乃《きりの》も、同じ気持ちなんじゃねーかな?
「あたし、なにも言い返せなくて……さ……クリスタルの灰皿|掴《つか》んで殴りかかったんだけど……取り押さえられちゃって……ハッ……くやしいなあ……」
そこで咄嗟《とっさ》に鈍器《どんき》を持つのが、こいつのおっかないところだな。ほとんど音は聞こえてこなかったけど、あのとき中でそんなバトルが繰《く》り広げられていたとは……
同じ気持ちっつったの取り消すわ!
こいつの場合、ブッ飛ばすじゃなくて、あくまでブッ殺すなんだな!?
「ホラ、桐乃、ハンカチ使え」
「……ん。……やだ……化粧、ぐちゃぐちゃ……」
俺《おれ》がハンカチを貸してやると、桐乃は顔を拭《ふ》いて、それから一且《いったん》、席を中座した。
化粧直し。感情を落ち着けて、仕切り直し――俺も、桐乃も。
「ふぅ…」
おい、てめーら。なに見てんだ、あ? 周囲をぐるりと睨み付けて、好寄の視線《しせん》を蹴散《けち》らす。
時間帯がいまでよかったな。この時間なら、胴乃や俺の同級生に、いまのやり取りが目撃《もくげき》されているということはないはずだ。
すっかり冷めたコーヒーを全部飲み干したころ、すっぴんになった桐乃が戻ってきた。
ちょこん、と俺《おれ》の対面に座る。
……絶対言うつもりはないけどさ。こいつ、すっぴんの方がかわいいんじゃないか?
そんなことを考えてたもんだから、
「……ねぇ?」
「ん、んっ? な、なんだ?」
俺はいきなり話しかけられて、キョドっちまった。
すっぴんになった桐乃《きりの》は、弱々しい口調《くちょう》で、こう聞いてきた。
「……あたしさ……おかしいかな? ああいうの……好きでいちゃ、悪いのかな?」
「桐乃……」
泣《な》き腫《は》らした目で、そんなこと言われたら……俺はなんて答えりゃいいんだ?
「少なくとも、親父《おやじ》は、そう言うだろうな。親父が特別|厳《きび》しいからってわけじゃない。普通の親なら、誰《だれ》だってそう言うし、それが当たり前だ。自分でも分かってるはずだろう――世間体《せけんてい》があるから、バラすわけにゃいかなかったんだって」
「でも……だって……もう……バレちゃったじゃん……」
「ああ。だから、もう、遅い。バレちまったもんは、もう、なかったことにゃできねえ」
俺はできる限りの誠意を込めて、言った。
「おまえは選ばなきやならねーんだ」
俺はそこで、一旦《いったん》言葉を止めた。妹の目を、しっかりと見据える。
「この趣味《しゅみ》を、やめろって……こと?」
「それができんなら、全部丸くおさまるわな。おまえがオタクをやめりゃあ、何の問題もねえんだよ。親父の怒りは静まるし、おまえの世間体を常に脅《おびや》かしている爆弾《ばくだん》も、なくなるんだから。……俺は最近、おまえの噂《うわさ》をたくさん開いたよ。スゲーんだってな。スポーツ万能、学業|優秀《ゆうしゅう》、モデルやって、部活やって――たいしたもんだ。マジでそう思う。これで例の趣味がなくなりや、ホント完璧《かんぺき》じゃねえか。……俺の言いたいこと、分かるよな?」
「……分かってるよ。あたしが凄《すご》いのは、あたしが一番よく知ってる。オタクやめれば、何もかも、全部|上手《うま》くいく――そんなの最初から分かってる」
桐乃は、今度は軽く、拳《こぶし》でテーブルを叩《たた》いた。落ち着いた声で、言う。
「でも、やめないよ。絶対やめない。だって……好きなんだもん……すっごい好きなんだもん! それなのにやめるなんて……やだよ。できないよ……」
「そうか。でも、親父にとっちゃ、おまえの感情なんて関係ないぜ。よくないものは正さなくちゃならん――耳が腐るほど言われただろ? おまえがどんなに好きだろうが、親父にとっちゃ『くだらない、感心しない趣味』なのさ。無理矢理《むりやり》にでもやめさせられるだろうし、俺たちにゃあ何の抵抗もできないだろうよ」
「それでも!」
桐乃は真剣なツラで叫んだ。いつか俺《おれ》が感心した、あの表情だ。
「あたしは、やめない。好きなのを、やめない。前にアンタに言ったじゃん。両方があたしなんだって。どっちか一つがなくなっちゃったら……やめちゃったら、あたしがあたしじゃなくなるの。確《たし》かに、あたしは子供だし、お父《とう》さんの言うことは聞かなくちゃいけないと思う。それが当たり前だし、抵抗なんてできないと思う。……でも、もしも、全部捨てられて……なくなっちゃっても。いままでのあたしが、なかったことになるわけじゃ、ないから。……だから、好きでいることだけは、絶対、やめない」
……だとさ。
コレクションが全部捨てられても。
ケータイやらパソコンを捨てられて、インターネットに繋《つな》げなくなっても。
オタクはやめない。絶対やめない。だって好きなんだもん。
どっちか一つがなくなったら、あたしがあたしじゃなくなるの――
「……そっか」
バッカだなあ――おまえ。本当、バカだよ。信じらんねーほどのバカ。アホ。
アニメやエロゲーがそこまで大事か? そこまで頑《かたく》なにして、護《まも》らなくちやならないもんなのか? 俺にゃあ分からん。さっぱり、分からん。それは絶対、誰《だれ》かに誇れるような趣味《しゅみ》じゃないってのに、どうしてそんなに大切にして、楽しんで、集まって、騒《さわ》いでさあ。
ああ――ったく……オタクってのは、みんな、こんなんなんかねえ……。
だとしたら、やっぱり、俺が思ったとおりじゃねーか。
「悪くねえ」
「え?」
きょとんとした妹に、俺は不敵な笑《え》みで言ってやった。
「悪くねえって、言った。おまえがしたさっきの質問への、それが、俺の答えだ」
どうしちまったんだろうな? おかしいぜ、今日《きょう》の――いや、最近の俺は。普段《ふだん》の俺……つい先月くらいまでの俺なら、さっき、親父《おやじ》を止めようなんて屁《へ》ほども思わなかったはずだ。
大キレーでどうでもいい妹なんて、捜そうとも思わなかったはずだ。
そして、こいつの痛々しい宣言聞いて、こんな気持ちになることもなかったはずだ――
チッ。舌打ちひとつ、俺は妙に吹っ切れた気分で、おもむろに立ち上がった。
「桐乃――」
妹のツラ見て、親指で自分のツラをぐっと指差す。
「俺に任せろ」
十七年の人生で、俺は、もっとも自分らしくない台詞《せりふ》を吐いた。
まるでこいつの、兄貴みてえに。
――なに言ってんだろうな、俺《おれ》。バッカじゃねーの?
俺は帰途を急ぎながら、猛烈な自己嫌悪《じこけんお》と戦っていた。
桐乃《きりの》は店に置いてきた。一時間|経《た》ったら帰ってくるよう、言い含めてある。一方的に喋《しゃべ》って、返事も聞かずに出てきたから、アイツが言うことを聞くかどうかは分からんが。
どちらにせよ、家に帰る決心がつくまで、戻ってくるこたあないだろう。
だから俺はその前に、親父《おやじ》と話をつけるつもりだ。
「へっ……」
笑ってくれて構わないぜ。自分でもバカだと思うよ。本当にバカだと思うよ。
何が『俺に任せろ』だ。熱《あつ》くなっちゃってまー、恥ずかしいったらねえぜ。
顔から火が出そうだよ。カッコつけてんじゃねーっての、地味ヅラのくせによ……
これから俺は、分不相応にも、あの親父と対決しようってわけだ。
当たって砕《くだ》けて、丸坊主《まるぼうず》にされる未来しか見えねえよ。
でもさあ! しょうがねえじゃんか!
『部屋《へや》にあるもん、全部捨てろ』『もうオタクなんてやめちまえ』
んなことアイツに言えるか! アイツの気持ちを知っちまった以上、そんなことを言うヤツは、この俺が許さねえよ! たとえそれが親父でもだ!
――確《たし》かに俺は、あのクソ生意気な妹のことが大っキレーだ。
あんなに非凡な登場人物は、俺の人生にゃあ必要ない。あっちも俺のことが嫌いみたいだし、折り合い付けて、お互いに無視していりゃあいい。
それらの点に関しちやあ、最初っから、まったく意見は変わらないんだな。
あんなヤツはどうでもいい。本当に、心底、どうでもいい。
おかしいと思うか? ウソをついていると、矛盾《むじゅん》してると思うか?
……どうだろうなあ。自分でも、今日《きょう》の自分のこたあ、ちょっと分かんねえ。
全部が全部、本音ではあるんだが……もしかしたら、自分でも意識《いしき》できてない何か[#「何か」に傍点]が、あるのかもしれん。胸の内から湧《わ》き上がってくる妙な気持ちの正体だって、まだ判然としねえよ。
ああ、だから、いま分かってんのは一つだけだ。
桐乃は、一度だって、そんなふうに呼んでくれたことはないけどな……
俺は、あいつの兄貴なんだ。
大キレーだろうが、どうでもよかろうが、クソ生意気でかわいくなかろうが。
妹は、助けてやんなくちやならんだろうよ。
そうだろう?
三十分後、俺はリビングの扉の前に立っていた。
片手に提げたバッグには、ちょっとした秘策が入れてある。帰途を走りながら、足りない脳《のう》味噌《みそ》振り絞って、必死こいて考えたもんだ。
お袋にも手伝《てつだ》ってもらって、何とか思うとおりのものを揃《そろ》えることができた。仕上げに、お袋には部屋《へや》に入って来ないよう言い含めておいて、準備完了。
が……正挺なところ、これで上手《うま》くいく保証はなにもない。にべもなく跳《は》ねつけられる可能性の方が、よっぽど高いだろうよ。
「へっ……」
だが、あえてやる。妹のためなんかじゃなく、そうしまうと決めた俺《おれ》自身のためにだ。
ちっくしょう! やるだけやってやるぜ!!
俺は気合も新たに、リビングへの扉を開けた。
つん、と薫《かお》る酒精《しゅせい》の芳香《ほうこう》。酒呑童子《しゅてんどうじ》の屋敷《やしき》にたどり着いた、 源《みなもとの》 頼光《よりみつ》の気分。
親父《おやじ》はソファに腰掛けて、おちょこで酒を呑《の》んでいた。入ってきた俺に気付くや、ジロリとこちらを睨《ね》め付けてくる。
「京介《きょうすけ》、挨拶《あいさつ》はどうした」
「た、ただいま」
無理無理無理無埋! 酒藩《しゃれ》にならんて!? なんだよこのド迫力……。
ただでさえ極道《ごくどう》ゾラだってのに、怒りが熟成《じゅくせい》されてきたせいか、さっきよりさらにとんでもない極悪ゾラになってやがる。
せっかく気合入れてきたってのに、んなもん一気に吹っ飛んじまったよ……。
俺は、肌がびりびりと粟立《あわだ》つのを止められなかった。ごくりと生《なま》つばを呑み込み、そーっとそーっと足を進める。とても親父の正面にゃ立てなかったね。
こっち向いてくれんなよ〜と祈りながら、三メートルくらい離《はな》れた側面に立つ。
情けないと思ったか? フッ、これだから素人《しろうと》は困る……。実際にここに立ってみりや分かるって。空腹の猛獣《もうじゅう》が、すぐそばでグルグル唸《うな》ってるようなもんなんだ。これ以上、一歩たりとも近づきたくねえ。……もう、なんかね、バラしちゃうけど、スデに涙目なんすよ。
「お、親父……話がある」
声の震《ふる》えを必死になって抑えながら、俺は切り出した。
親父は返事をせず、くい、と酒を口にした。
「桐乃《きりの》は見付かったのか?」
「……ああ……話、してきたよ、アイツと」
「それで?」
俺に一瞥《いちべつ》もくれずに、促《うなが》してくる親父。正直、ありがたい。最終的にはきっちり目を見て訴えなきゃならんのだろうが、いまこの時点で目を合わせるのは避《さ》けたかったからだ。
恐《こわ》いから。
「………………」
周囲の空気が、ずしりと重くなった。妙に暑く、息苦しい。なのに震《ふる》えが止まらない。
嫌《いや》な汗が、顔面《がんめん》からだらだらと溢《あふ》れ、顎《あご》の先からこぼれ落ちる。
「それで?」
もう一度、同じ言葉で促《うなが》された。俺《おれ》は、断崖絶壁《だんがいぜっぺき》から飛び降りるような気分で口を開く。
「桐乃《きりの》の趣味《しゅみ》を……認めてやって欲しい」
言った瞬間《しゅんかん》。錯覚《さっかく》なんだろうが、部屋《へや》の中が、しんと静まりかえった。
聞こえるのは自分の心臓《しんぞう》の音と、荒い呼吸音のみ。
「京介《きょうすけ》」
低く、無感情な声で返事が来た。
「俺はさっき、『おまえが責任を持って捨てておけ。全部、一つ残らずだ』と言った。そして、おまえは、こう答えた。『分かった。桐乃と話して、必ず、そうする』。そうだな?」
「ああ」
「自分が口にしたことは守れ」
短く告げて、再び親父《おやじ》は黙《だま》り込んだ。……そうだな。親父の言うことは、正しいよ。間違ってんのは、どう考えたって俺の方さ。分かってる。
けどよ……ここで引くわけにゃあいかねーんだ。
「あれはなしだ」
「おまえは、一度口にした約束を破るのか? 俺が、いつ、そんなことを教えた?」
親父の言葉が、一つ、一つ、重く響《ひび》く。俺は下唇に歯を立ててから、でかい声を張り上げる。
「知ったことかよ。アイツの趣味はやめさせねえし、隠してるブツも捨てさせねえ。たとえ道理を蹴っ飛ばしてでもだ。聞いてくれ、親父。俺が、そうしようと思った理由を」
「……言ってみろ。しつけるのは、それからにしてやる」
ひいっ。威勢《いせい》のいい口|叩《たた》いたけど、言ってる本人はマジ泣き入ってるぜ!
自分で自分の顔は見えねーけどさ、こんな情けないツラ晒《さら》してたら、たぷん話聞いてもらう前にブッ飛ばされてたわ。親父の正面に立たなくて、ホントによかった!
へッ、見たか素人《しろうと》ども、これが玄人《くろうと》の作戦よ!
……ふん。情けなさを増幅するのはこの辺にしておいて、だ。俺はTシャツで顔面を拭《ふ》く。
「確《たし》かに……桐乃は、普通の女の子とは違う趣味を持っている。でも、いつも一緒《いっしょ》にいるやつらの中にゃ、趣味が合うやつなんているわけがない」
一呼吸を置いて、先を続ける。
「……だからあいつはさ、自分と同じ趣味の友達を、見付けようとしてたんだ。……で、色々《いろいろ》と探して、どうにか上手《うま》いこと見付けられて……初めて会うところまでこぎつけた」
「…………」
親父はかなりのペースで酒を呑《の》みながら、俺の話を黙って聞いている。いまの俺は、自分の保身をまったく考えずに喋《しゃべ》っているので、親父《おやじ》の中で死刑が確定《かくてい》していてもおかしくない。
無言の圧力が、ただただ恐ろしい。考えてみれば、親父にとっても今日《きょう》は散々《さんざん》だ。
大切に育ててきた愛娘《まなむすめ》にやあ『実はエロゲー大好きです』 ってカミングアウトされるわ。
きっちり叱《しか》ってしっけ直そうとしたら、灰皿で撲殺《ぼくさつ》されそうになるわ。
その上さらに、出来の悪い長男がしゃしゃり出てきて、べらべらと、けしからん趣味《しゅみ》を擁護《ようご》するようなことをくっ喋《ちゃべ》り始めるわ――。
そりやあ、酒もぐいぐい呑《の》むわな。本当に申《もう》し訳《わけ》ない。心からそう思うよ。
いますぐ俺《おれ》を殴りたいだろうが、もう少しだけ付き合ってくれ。
「……それが、ついこの間のことだ。今日《きょう》、そんときにできた友達と、一緒《いっしよ》にオフ会……趣味の会合に行ってきたんだ、アイツは。……親父も聞いただろ?」
「……ああ」
「で、くだらんって言ったんだってな。……頑張《がんば》って友達見付けた桐乃《きりの》に向かって……ふざけんなよ! よく知りもしねーのに、勝手に決めつけてんじゃねーよ!」
俺は、何も言えなかったと悔しがっていた妹の代わりに、アイツの想《おも》いをぶつけてやった。
自分の気持ちじゃないはずなのに、俺はカンケーねえはずなのに、本気でハラを立てていた。
いつの間にか、他人事《ひとごと》じゃあなくなっていた。
「俺は、この目であいつの『大切なもの』を見てきた。同じもんを大切にしている奴《やつ》らに、会ってきた。ああ、確《たし》かに偏見《へんけん》を持たれたってしょうがねえ、妙ちきりんなやつらだったさ。言動も格好もとにかく変テコでよ――正直、俺にゃあ理解できねーと思ったわ。でもさあ!」
俺は思い出す。あのときの光景を、それを見た、自分の想いを。
「悪くねえって、思った。だってあいつら、アホみてーに楽しそうなんだもんよ。初めて会ったのに、いきなりバカデケー声で口論《こうろん》始めて、大騒《おおさわ》ぎしてさあ。どんだけ大好きなんだっつーのな! 桐乃も、そいつらも、あんなに真剣に怒れるなんて、ただごとじゃねえよ! 桐乃も、そいつらも、そんくらい自分の好きなもんに夢中だった! 見てるこっちが恥ずかしくなってくるくらいにな! でも、もうそんときにゃあ、あいつらは仲間だった! ハラ割って話せる友達だった!」
ちょっと前の俺なら、自分がこんな暑苦しい真似《まね》するとこなんざ、想像もできなかっただろうよ。いまのいまだって、一言一言、自分が口開く度《たび》に驚《おどろ》いてるさ。
まさかこの俺に、こんな激《はげ》しいところがあったなんてな。普通に、平凡に、凡庸《ぼんよう》に――のんびりまったり生きていくのが俺の信条だ。それはいまも変わんねえ。
でも、ちょっと前の俺と、いまの俺とでは、確実《かくじつ》に何か[#「何か」に傍点]が違っている。
アイツから相談《そうだん》受けて、色々《いろいろ》面倒《めんどう》見てやって、いままで知ろうともしなかったモンをたくさん見て、影響《えいきょう》受けてさ。変わっていったのは、俺の方だった。
あんな変テコな連中やら、理解できねえ諸々《もろもろ》に、自分が影響されていたなんて、認めたくはないけどな。事実なんだから、しょうがねえ。
俺《おれ》はあいつらから何か[#「何か」に傍点]を得て、変わった。バカになった。恥ずかしいやつになった。
だからこそ、涙目でもなんでも。
このおっかねえ親父《おやじ》に、こうやって立ち向かえるんだろうよ。
「もちろん俺にゃあ、あいつらの趣味《しゅみ》はサッバリ理解できねえよ。できねえけど! 夢中になるのって、そんなに悪いことかよ!? そういうのってさ、大事なもんじゃねえのかよ! なあ! そう簡単《かんたん》に、捨てていいもんじゃねーだろうが!」
「だから……許してやれと言うのか? 悪影響しか及ぼさない、くだらん趣味を?」
親父が立ち上がって、俺を見た。桐乃《きりの》の百倍おっかない視線《しせん》が、心臓《しんぞう》を貫《つらぬ》いた。
ちびっちまいそうだ。いますぐ土下座《どげざ》しちまいてえ。
「悪影響しかない、くだらん趣味って言ったな……?」
ここだ――俺は切《き》り札《ふだ》を使う覚悟を決めた。ずんずん親に近寄って、テーブルの上に、バッグの中身をぶちまける。ばんっ! まず、俺が親父に叩《たた》き付けたのは、桐乃の成績表だ《せいせきひょう》。
「じゃあ……見ろよ、このとんでもねえ成績を。県でも五指に入ってるんだってな。それも今回に限った話じゃねーんだろ? あいつの成績がずっとどうだったのかなんて、親父が一番、よく知ってるはずだよな」
「だからなんだ。桐乃が、俺との約束を守っている。それだけのことだろう。だからこそ、あのような軽薄《けいはく》な格好を許している。モデル活動とやらを認めてもいる」
「まだあるぜ……」
続いて叩き付けたのは、トロフィーや賞状の数々。
最新のものは、去年の陸上なんたら大会のもんだ。
「これも。これも。これもこれも……! 見ろよ! 全部二位だの優勝《ゆうしょう》だのばっかじゃねーか! こっちは小学校時代のやつな! こっちは幼稚園時代のやつ! ……なんでこんなにあんだよチクショウ!? 集めた俺がビックリだぜ! なあ! 親父! あんたの娘は、こんなにも、スゲエやつだろうが!?」
「知っている。それがどうした」
「どうしたじゃねえ! ケツの穴が小せえってんだよ! あんだけ頭良くて、運動もできて、こんだけ色々《いろいろ》才能あって――俺とは大違いのできた娘だろうが! たいしたヤツじゃねえか! 一つっくれー変テコな趣味があったからって、それがなんだよ! いいじやねーかそんくらいさあ! 多めに見てやれよ! 自慢の娘に、たった一つ、気にくわないトコがあったくれーのことで、こっぴどく説教して、泣かせて、大事にしてたもんを捨てるって――そりゃあねえだろう!?」
「それがしつけというものだ」
クソ。勢い込んで訴える俺だったが、親父はまったく動じやしねえ。
だが、まだ終わりじゃねえぞ……。バンッ! 俺《おれ》は分厚い本を叩《たた》き付ける。
「……桐乃《きりの》のアルバムか。これがどうした」
親父《おやじ》の口調が《くちょう》、ほんの少しだけ柔らかくなった。豪華で分厚いアルバムには、桐乃が生まれてから今までの姿が、大量に写真として収められている。
赤ん坊の桐乃が、ベビーベッドで寝ている写真。お袋に抱かれている写真。
幼稚園のお遊戯会《ゆうぎかい》で、主役を張っている写真。七五三の写真。卒園式の写真。小学校の入学式の写真。遊動会で一着になっている写真――等々《などなど》。
もちろんすべて、親父手ずから、一眼レフのバカ高いカメラを使って撮《と》ったもんだ。
親父が桐乃のことをどう思っているか、これだけでもよく分かろうってもんだよ。
しかしホントに俺の写真は一枚たりともねえな。
「京介《きょうすけ》……これがどうしたと聞いたんだが?」
「慌《あわ》てるなって……」
パンッ! 俺は、さらに一冊の薄《うす》い本を叩き付けた。親父の顔色が、明らかに変わる。
「……!?」
「……お袋に頼んで、貸してもらったぜ。こいつは親父の、宝物なんだってな」
俺が親父に見せつけたのは、スクラップブック。収められているのは、ティーン誌の切り抜きだ。よく見知った茶髪のモデルが、流行の服着て、ポーズ決めて、党々と写っている写真。
何枚も、何枚も。何十ページにも亘《わた》って。
おそらく桐乃がデビューしてからいままでの写真が、すべて大切に保管されていた。
親になったことのない俺には、娘を持つ親父の気持ちなんて、分からねえ。
だけどな、想像することくらいはできんだよ。
「嬉《うれ》しかったんだろ? 感心しねえとか口ではいいながら、桐乃が写った雑誌買って、切り抜いて、集めてさ……」
「……馬鹿《ばか》なことを言うな。娘の仕事とやらがどんなものか、俺が確認《かくにん》しなくてどうする」
この言い草……。桐乃と血が繋《つな》がっているだけのことはあるな。
「それで? 確認して……どうだったんだよ。親父が偏見《へんけん》持ってたような、ちゃらちゃらした仕事だったのか」
俺は、スクラップブックのページを一枚一枚めくりながら、言う。
「違ったんだよな。でなきや、アイツの仕事ぶりを、こうして宝物みてーに取っておいたりしねえ……そうだろうが」
綱渡《つなわた》りのような緊張感《きんちょうかん》。俺と親父の目が合う。おっかねえ。俺は怯《ひる》まず、目を逸《そ》らさない。
親父は長い息を吐いた。
「憚《はばか》る必要のない仕事だ。あの格好は、いまもどうかと思うがな」
「じゃあ、これはどうだ」
俺《おれ》は胸ポケットから、最後の写真を取り出した。
「!」
そこに写っているのは、桐乃《きりの》と、黒猫と、沙織《さおり》の三人。
これは沙織が今日《きょう》、携帯《けいたい》カメラで撮《と》ったばかりの写真なんだそうだ。
スタバで桐乃と話したとき、あいつの携帯に入っていた画像データを、預かってプリントアウトしたもんさ。……画像を借り受ける際、かなりもめたけどな。
「これは、憚《はばか》らなきやならないようなもんか?」
「…………」
オフ会で撮られた、桐乃と、友達の写真。
三人が寄り添って小さなフレームに収まっている。
一人《ひとり》は前に腕をのばし、飄々《ひょうひょう》と携帯カメラを構えていて。
あとの二人《ふたり》は、いがみあいながらも、なんだかんだ言ってカメラに目線《めせん》をくれている。
「悪影響し《あくえいきょう》かねえ、くだらない趣味《しゅみ》か?」
騒《さわ》がしいお喋《しゃべ》りがいまにも聞こえてきそうな……しかめっ面《つら》の中に本心が見え隠れしているような……そんな微笑《ほほえ》ましい写真だった。少なくとも、俺にはそう見えた。
「親父《おやじ》は認めたくないのかもしれないがな――これがあいつが得たもんなんだよ!」
それは――
「このアルバムで家族と一緒《いっしょ》に笑ってる桐乃も……モデルの仕事で、流行の服着て、格好良くポーズを決めてる桐乃も。オフ会でオタク友達と並んで、しかめっ面で騒《さわ》いでる桐乃も――この全部が桐乃なんだよ[#「この全部が桐乃なんだよ」に傍点]! 全部があって、初めてアイツなんだよ! 一つでもかけたら、アイツじゃなくなっちまうんだよっ!」
いま俺が叫んだのは、いつか聞いた桐乃の言葉だ。
だけど俺は、あいつの代わりに言ってやったわけじゃない。
いま親父にぶつけたこれは、腹の底から湧《わ》き上がってきた、俺自身の言某と感情だ。
胸ぐらを掴《つか》みあげて訴えた。
「いいか……! これを見て、まだアイツの趣味を認めねえってほざくんなら……! 桐乃の代わりに俺が親父をぶっ飛ばすぜ!? なんも知らねぇくせに、テキトー言ってんじゃねえよ!」
親父は厳然《げんぜん》と俺を見据えたまま、ほんのわずかに……目を見張ったようだった。
やがて感情をまじえない声で、こう返事が来た。
「……おまえの話は分かった」
極道《ごくどう》ヅラに血管が浮かび上がって、凄《すさ》まじい形相《ぎょうそう》になっている。
マジ鬼そのもの。胸ぐらを掴みあげている俺の方がひるんじまう。
「くだらんと言ったのは、ひとまず取り消してやる。確《たし》かに俺は、何も知らん。偏見《へんけん》でものを言ったことは、認める。いいだろう。おまえに免じて桐乃《きりの》の趣味《しゅみ》を許してやってもいい」
「……ほ、本当か!?」
俺《おれ》はいま、親父《おやじ》に向かって自分の気持ちを全部ぶちまけた。
勢いまかせに叫ぶばかりで、筋道だった諭旨《ろんし》なんざカケラもない、ぐちやめちやの嘆願《たんがん》。
それでも、必死に訴えかけりゃあ、伝わるもんはあったんだろう。
桐乃の趣味を許してやってもいい――この台詞《せりふ》を引き出せた時点で、この勝負は俺の勝ちだ。
しかし親父は、こう続けた。
「同じことを言わせるな。ただし一部だけだ。あのケースに入っていたような、いかがわしい代物《しろもの》は許すわけにはいかん。これは良い悪いの間題ではない。俺がそういったものに無知なのも、偏見《へんけん》を持っているのも関係ない。18禁という表記の意味を考えろ」
ついにこの台詞が来たか……。俺は親父の胸ぐらから手を離《はな》し、苦《にが》い顔で沈欺《ちんもく》した。
親父の台詞は超《ちょう》正論《せいろん》ではある。18禁なんだから、そりゃあ18歳未満のヤツが持ってちやまずいだろうよ。
だが仮にここで親父の言うとおりにしたなら……桐乃のコレクションの大半を捨てることになっちまう。それじゃ意味がねーんだ。
どう考えても、これは親父が正しい。正しいが……反論の余地はある。たぶんこの台詞が来るであろうことは、俺《おれ》にも分かってたからな。一応……対応策くらい考えてあったさ。
「…………」
考えであるんだけど……な。正直言って、これだけはやりたくなかった。
かつてない葛藤《かっとう》が、俺の中で荒れ狂っている。
本当に、いいのか? あんな妹のために、俺がそこまでしてやることがあるのか――と。
だが、今日《きょう》の俺は、どこまでもおかしかった。ありえないほどいかれていた。
なもんだから……俺の脳《のう》味噌《みそ》は、この方向性で突き進むことについて、是《ぜ》と承認したんだよ。
俺は言った。
「………き、桐乃《きりの》は年齢《ねんれい》制限のモノなんて、持ってないぜ?」
以上の台詞《せりふ》を聞いた親父は、心を落ち着けようとしているかのように両目をつむり、目蓋《まぶた》を震《ふる》わせている。そして突然、くわっと目を見開いた。
「ぐえっ!」。
俺は、襟首《えりくび》を引き千切る勢いで掴《つか》み上げられ、それから後頭部をメリッとロックされ、無理矢理《むりやり》DVDケースへと目を向かせられた。うぎぎ、超痛いっす。
ケースの中には例のブツ。燦然《さんぜん》と輝《かがや》く18禁の表記。
「貴様……この期《ご》におよんでウソを言うのか……!?」
「ち、違うんだって!」
俺はあいつらから何か[#「何か」に傍点]を得て、変わった。バカになった。恥ずかしいやつになった。
だからこそ、こんなムチヤクチャな策を実行しちまうんだろうよ。
「これは俺のなんだ[#「これは俺のなんだ」に傍点]!」
我《われ》ながら、生涯《しょうがい》最悪の台詞だったね。
「だからこれは絶対桐乃のじゃねえ! 俺が預かってもらってた俺のもんなんだって! だったら捨てなくてもいいだろ!?」
もう二度と見られない光景だろうから、刮目《かつもく》するといいぜ。
デコに血管ビキビキ浮かべた悪鬼が、無表情で突っ込みを入れてくるところをな。
「……よく知らないが、これはパソコンに入れて遊ぶゲームなのだろうが……この家で、パソコンは……桐乃しか持っていないはずだ……」
お、思ったより詳しいじゃねえか……。俺の脳は、瞬時《しゅんじ》に言《い》い訳《わけ》を思いついた。
「そ、それは、桐乃にパソコン借りてやってたんだって!」
「……ほ、ほほう。……お、おま、おまえは妹の部屋《へや》で、妹のパソコンを使って、妹にいかがわしいことをするゲームをやっていたというんだな?」
「超|面白《おもしろ》かったぜ! 文句あっか!」
顔面《がんめん》をブツ飛ばされた。俺は盛大にスッ転がって、壁《かべ》にぶつかった。
ドアホか俺は!? そこはせめてノーパソ借りて部屋でやったとか言っておけよ!?
「…………ぐうっ……ぅぅ……」
視界がチカチカしやがる。口の中に血の味が広がっていく。ぐらんぐらん頭痛がして、意識《いしき》が急速にぼやけていく。あ、も、ダメだな……コレ……死んだかも……。
だが、まだだ。ここで終わってたまるかよ……!
俺《おれ》は、ぶったおれたままキッと顔を上げ、涙ながらに訴える。
さあ聞くがいい……! 俺の聖人のごとき、清らかなる言《い》い訳《わけ》――
「とにかく、アレは俺のなんだって! 高校生だって、18禁のエロ本くらい持ってたっていいだろ!? お袋だって、ベッドの下のコレクション、持ってていいって認めてくれてるもん! そのゲームだってエロ本と同じょうなもんだろが! なんか違いがめんのかよ!? えぇオイ! ねーよなあ!? だからゼッテー捨てねぇ―――! ふヘアはは! 誰《だれ》になんと言われようがな、命を懸《か》けて護《まも》り抜くぜ! よっく聞けよ、親父《おやじ》。俺はなあ、アニメも、エロゲーも、超・大・好き・だぁ――――――っ! 愛していると言ってもいいね! こいつを捨てられたら、俺は俺じゃなくなっちまうんだよ! エロゲーは俺の魂《たましい》なんだよ……っ!」
俺は最後の力を振り絞り、ヤケクソ混じりに叫んだ。
「分かったかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――っ!」
魂の叫びをその身に受けた親父は、立ちくらみを起こしたようによろめいた。
「こ、この……この……」
頭部に強烈な一撃《いちげき》を見舞《みま》われたかのようにこめかみを押さえ、
「バカ息子《むすこ》が!! 勝手にしろ!! 俺はもう知らん!!」
かつてない大絶叫! ここまでブチキレた親父を見たのは生まれて初めてだ。
だが、俺を殺すつもりはないらしい。はぁはぁと肩を上下させていた親父は、くるっと背を向けて、足音を立てて去っていく。
よし、勝った。俺は鼻血まみれの顔面《がんめん》を押さえ、にやりと笑《え》みを浮かべる。
フッ……どーよ、桐乃《きりの》……おまえのコレクション……一つ残らず護《まも》ってやったぜ?
へっへっへっ……まったくしまらねえ、俺らしい願末《てんまつ》だけどな。
高坂《こうさか》家《け》を賑《にぎ》わせた騒動《そうどう》が一件落着した、翌日の朝。
俺がいつもの待ち合わせ場所に着くと、眼鏡《めがね》の幼馴染《おさななじ》みは、いつものようにすでに先に着いて待っていてくれた。そしてやはりいつものように、鞄《かばん》をスカートの前で、ばたばた振りながら、にこやかに俺を呼ぶ。
「きょうちやん、おはようっ」
「おう、おはよう、麻奈実《まなみ》」
ごくごくありふれた、どこにでもある朝の一幕。
あー、安らぐ。やっぱ俺《おれ》の日常は、こうでなくっちやいけねーよ。
俺の名前は、高坂|京介《きょうすけ》。近所の高校に通う十七歳。
自分でいうのもなんだが、ごく平凡な男子高校生である。
地味で普通な幼馴染《おさななじ》みと、今朝《けさ》も、のんびりまったり学校に行く。
どうだい、ちょっと羨《うらや》ましいだろう? 普通っていうのは、周りと足並み揃《そろ》えて、地に足つけて生きるってことで。無難《ぶなん》ってのは、危険が少ないってことだ。
凡庸万歳《ぼんようばんざい》。ビバ、普通の人生だ。
でもまあ、非凡で危険な生き方も、あれはあれでいいもんだよな。
と――最近はそんなふうにも思えるようになってきた。
楽しくて、賑《にぎ》やかで、ときに痛々しくて恥ずかしい。
我《わ》が道《みち》つらぬく、地に足つけない、空を飛ぶような生き方。
俺はそいつを、この身をもって体験《たいけん》したってわけ。
「きよ、きようちゃん。どうしたのーっ、その顔」
「ん? ああ、これか」
そんなに驚《おどろ》かれるほど地味なツラをしてるのかと思ったわ。ま、それは否定しねえけど、麻奈実《まなみ》が言ったのは、俺の顔面《がんめん》にでかでかと張られた湿布薬のことだろう。
「まあ、なんだ。……色々《いろいろ》あってな」
まったくなあ。ほんっと色々あったもんだ……。俺の人生の中でも、ここしばらくの出来事は、特別|濃厚《のうこう》で――たぶん一生忘れられない。
クソ生意気で、俺のことをゴミみてーに嫌っている妹。秘密の趣味《しゅみ》と、人生|相談《そうだん》。
俺はあいつと、ここしばらくで何十年分もの会話をかわした。いままで知ろうともしなかったあいつのことを、ほんのちょっぴりくれーは、分かった気がする。
だけどな。それで俺たちの冷めた関係が変わったかというと、そんなわけもない。
相変わらず俺は、妹のことが大キレーだし、どうでもいいと思ってるし。
あいつはあいつでいままでどおり、今朝《けさ》も俺を、路傍《ろぼう》の石ころみたいに無視してくれたぜ。
ま、世の中そんなもんよ。そうそう変わりやしねえって。
ふん、おかしいと思うかい? あんだけイベントこなして、あんだけ尽力《じんりょく》してやったんだから。妹の好感度は、その分ぐーんと上がってなきやあワリに合わねーだろうって?
冗談じゃねーよ! 気味悪い想像させんなや! 第一ゲームじゃねえんだからさ、人生ってのは基本ワリに合わねーもんだと思うよ? 特になぜか俺の人生はな!
おおっと、興奮《こうふん》して話が逸《そ》れたな。戻そう戻そう。えーとな。確《たし》かに昨日《きのう》、俺は、妹を助けてやったさ。親父《おやじ》を説得して、あいつの趣味を認めさせてやった。
だけどそんなのはさ。別に、感謝《かんしゃ》されたくてやったわけじゃねーのよ。見返りを求めてやったわけじゃあない。どっかの誰《だれ》かの台詞《せりふ》じゃねーけどさあ。
俺《おれ》は、俺のやりたいようにやっただけなんだ。自分勝手に、お節介《せっかい》を焼いただけ。
だからその結果、得られる対価ってのは、自分の中にある。誰かにもらうもんじゃあない。
「そっか……。色々あったんだぁ……」
「おうよ。色々あったのさ」
もらうもんじゃあねえんだけど。
「お疲れさま、きょうちゃん。……頑張《がんば》ったねぇ」
事情を全然知らない幼馴染《おさななじ》みの、そんなゆるーいねざらいだけで。
「まーな」
俺は、十分に報《むく》われた。
その日の放課後《ほうかご》。学校から帰宅すると、いつぞやと同じように、妹がリビングで電話をしているところだった。
「ただいま」
一応の礼儀《れいぎ》として挨拶《あいさつ》してみるが、返事がないどころか、こっちをチラリとも見やしない。
セーラー服姿の桐乃《きりの》は、ソファに深く腰掛け、超短いスカートで足を組み、携帯《けいたい》に向かって何やら楽しそうにけらけら笑いを振りまいている。
その笑顔《えがお》はなるほどかわいかったが、それが俺に向けられることは今後もないだろう。
とか思っていたら、
「はああっ!? ちゃんと観《み》たのアンタ!? DVD版の方だよ!? じゃあどうしてそういう結論《けつろん》になるワケ!? 信じらんないっ、これだから邪気限《じゃきがん》女の感性はさあ――! ……も、いい。……アンタいい加減、厨二病《ちゅうにびょう》卒業した方がいいよ。じゃあね」
どんな会話だよ……。
電話を切るや、乱暴《らんぼう》に携帯を放り投げた桐乃に、俺はかなり引いてしまった。
ま、こいつはこいつで、以前とは、少し変わったのかもしれねーな。
俺なしでも上手《うま》くやってんじゃん……なあ?
なにはともあれ、これで桐乃の悩みは解決だ。
だから今度こそ、ガラでもねえ人生|相談《そうだん》……俺の役目はおしまいだ。
俺は心の中で独りごち、ぽかんと冷蔵庫《れいぞうこ》を開けた。バックの麦茶を取り出し、グラスに注いで一気にあおる。
ふぅ……万感の想《おも》いで息を吐く。
安心感と、満足感と、ほんの少しの寂《さび》しさが脳裏《のうり》を過《よ》ぎる。
俺は肩をすくめて、その場を後にしようとしたのだが。
「ねぇ」
「……あん?」
ドアノブに手を掛けたところで呼び止められ、俺《おれ》は振り向いた。
すると妹は、いつものすげない口調《くちょう》で、とんでもねえことを口走った。
「人生相談、まだあるから」
……………………マジで?
あまりの絶望に、俺は、じわ……と、目に涙を滲《にじ》ませた。
ドアノブを握《にぎ》り締《し》めたまま、固まる。
「それと――一応、えと……」
そんな俺に、桐乃《きりの》は、口ごもりながら目を合わせる。
たった一言。照れくさそうに微笑《はほえ》んで、
「ありがとね、兄貴」
はっきりと、そう言った。
それから、ふいっとそっぼを向いてしまう。
心なしか、煩《ほお》が赤かったかもしれない。
「…………………………」
俺《おれ》は、大口開けて、目え見開いて、唖然《あぜん》とするしかなかったね。
だってよ。幾らなんでも、ありえねぇだろうが……。
自分の目と耳を盛大に疑いながら、俺はこう想《おも》ったのさ。
俺の妹が、こんなに可愛《かわい》いわけがない――ってな。
[#改ページ]
あとがき
こんにちは、伏見《ふしみ》つかさです。無事、新シリーズをお届けすることができました。
本書を手にとっていただいて、ありがとうございます。
本書は、性格も見た目もまるで似ていない、とてもとても仲の悪い兄妹の関係を、面白《おもしろ》おかしく描いたものです。筆者の長編《ちょうへん》コメディ初挑戦となる作品でもあります。
皆さんに笑っていただけるよう、全力を尽くして書き上げました。
読みやすく楽しいお話を目指したものですので、読んでくださった方にくすりとでも笑っていただけたなら、これに勝《まさ》る喜びはありません。
担当編集の三木《みき》さんと小原《こばら》さんには、いままでよりもさらに強大なご支援を賜《たまわ》りました。実のところをいえば本書の企画原案――特に『妹』についての設定発案――のでどころは三木さんなのです。ある意味、陰の黒幕といっても過言ではないでしょう。
本作は決して筆者|一人《ひとり》の力で書き上げられたものではなく、三人の数十回に亘《わた》る密な打ち合わせによって作られたものだということは、ぜひともここで書いておかねばと思いました。
原稿《げんこう》を何度読んでもらって、何度アドバイスをいただいたかを数えるだけでも、担当編集のお二人《ふたり》には、感謝《かんしゃ》してもしきれないなと思うのです。本当にありがとうございました。
いつも文句ばっかり言っててスミマセン。今後もこの調子《ちょうし》で、不満や不安はお二人にどんどんぶちまけていくとは思いますが、どうか見捨てず付き合ってやってください。
イラストレーターのかんざきひろさんは、とてもかわいらしい女の子(特にネコミミ)を描かれる方です。世界一ネコミミ描くの上手《うま》い人連れてくるよ! というのがイラストレーターさんを選ぶ際の編集さんの言でして、そののちに表紙イラストを私に見せつけながら得意気になっている姿が印象的でありました。もちろん私もまったく同じ気持ちでしたとも。
修正作業の終盤《しゅうばん》では、送られてくるラフイラストは元気の源で《みなもと》した。ありがとうございます。今後ともよろしくお願《ねが》いいたします。
その他、本書の出版に関《かか》わってくださったすべての方々に感謝いたします。
かんざきひろさんとのコンビで、もう一つ企画が進行中です。
年末までには何かしらお知らせできるかと思いますので、ご期待ください。
[#地付き]二〇〇八年六月 伏見つかさ
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