[#表紙(表紙.jpg)]
ヴァンサンカンまでに
乃南アサ
[#改ページ]
[#2字下げ]第一章
[#4字下げ]1
夜更《よふ》けの電車はことのほかにぎやかで、目をつぶっているとあちこちの会話の断片が耳に入って来る。
──ダカラサ、俺、課長ニ言ッテヤッタンダヨ
──はんでぃ、ドレクライデ回ッテンノ
──イヤ、彼ノ言ウコトモ分カラナイジャナイケレドモサ
──ソヤケド、今週ハホンマ、疲レマシタワ──
十一月も最後の週末だった。仲江|翠《みどり》は閉じていた目を秘《ひそ》かに開くと、自分の右隣に開かれている新聞の見出しをそっと盗み見た。それから再び目を閉じて、こころもち頭を左に傾け始める。そこから、もう少しで隣の人の肩に触れてしまいそうになるまで、少しずつ少しずつ身体《からだ》を傾けていって、ぎりぎりのところで、急いで姿勢を戻す。同じことを辛抱強く三回繰り返して、四回目に頭を傾け始めた時、ようやく右側の新聞紙ががさがさと音をたてた。耳元で衣擦《きぬず》れの音がしたかと思うと、左の肩に柔らかい重みを感じた。
「大丈夫か?」
肩に置かれた手は、遠慮がちに力を込めて、翠の身体を右側に引き寄せる。翠は目をつぶったまま、おとなしくされるままに身体を傾けて、トレンチコートの肩に頭を置いた。
「気持ち悪くない?」
もう一度、頭の上から囁《ささや》く声がする。それでも、翠は眠ったふりをしていた。小さくため息をつくのが聞こえて、それきり声は聞こえなくなった。もう一度薄目を開いてみたが、彼はもう新聞を読んではいなかった。
頭の中で、素早く今朝の自分の部屋を思い浮かべて、ビールの缶やウイスキーの瓶などが目に触れるところに出しっぱなしになっていないことを、もう一度確認する。洗濯物も目に触れるところには置いてないし、何よりも念入りに掃除しておいて、やはり正解だった。昨晩は平日だったのに。いい勘をしていた。
「気分は、悪くない?」
「本当に大丈夫。急に眠くなっちゃっただけなの」
京王線は杉並をかすめる形で世田谷区を抜け、東京の多摩地区へと向かう。すぐ先を流れる多摩川を越えれば、もう川崎市に入るという地域にある調布の駅で降りると、翠ははにかんだ笑顔を作って、自分に寄りかからせていたことなど、ひと言も口にしない彼を見上げた。同期入社の原田恭一郎は、仕入部に配属されていて、同期の中では一番のホープと言われている。
「無理に飲むことなかったんだよ。元々、ほとんど飲めないんだろう?」
「何だか、私、そういうの上手に断われなくて」
「女の子は、そういうところも大変だよな」
「上手な人もいるんだけど。それにしても、原田さんは、お酒強いのね。あれだけ飲んでも、全然平気なんだものね」
「学生時代に鍛えてるからね」
原田は半ば得意そうな顔で答える。午後十一時を回って、駅の周辺もだいぶ暗くなっていたが、営業している店がないわけではなかった。
「困ったわ、今ごろになって、お腹《なか》がすいてきちゃった」
翠は、コートの上から軽く胃のあたりを押さえながら、今度はきまり悪そうに見える笑顔で恭一郎を見上げた。
「ああ、そうか。仲江さんは、あちこち動き回って、人の世話ばかりしてたから、ほとんど料理は食べてないんだもんな」
原田は合点《がてん》がいったという表情になると「じゃあ、どこかで軽く食べようか」と辺りを見回している。百五十八センチの翠と並んで、翠の目線に肩が来るくらいだから、確実に百八十センチはあるだろう。いや、翠の方にはヒールの分があるから、もう少し高いかも知れない。
「ごめんなさい。格好悪いよね」
「全然。謝るようなことじゃないって」
翠は、伏し目がちに、なるべくゆっくりと瞬《まばた》きをした。そうすると、長いまつ毛が表情に陰影を持たせ、それが男性の目から見て魅力的に映ることを、いつの頃からか知っている。
社会人になって、初めての忘年会だった。入社当時からやれ歓迎会だ、花見だ、次には暑気払いだと、会社の人たちと飲む機会そのものは、これまでにも度々あった。だが、気疲れするという点では、何度繰り返しても変わらない。面白くも何ともないと思っている。けれど、今夜は別だった。何といっても、翠の課だけではなく、同じフロアーにいる仕入三課との合同の忘年会になったからだ。そのおかげで、翠は原田に接近して親しく話し、ついにこうして送らせることに成功した。
「広報の仕事って、面白い?」
「たぶんね──ううん、結構、面白いわ。バイヤーさんとか、スタイリストさんとか、とにかくいろいろな人に会えるし、社内のいろいろな部署のことも割合まんべんなく分かるから」
旧甲州街道沿いにある居酒屋に入ると、翠は原田と向き合い、改めてビールで乾杯をした。
「本当にごめんなさい、こんな所まで送らせちゃって」
「いいさ。週末なんだし、タクシーを使えばけっこう近いんだ。ここからなら、真北に向かうだけだから」
翠達の勤めるトーカイドレスは、その前身を東海繊維といい、和服用の腰ひもや肌着を売っていたちっぽけな店から成長した会社だった。経営陣は、現在のように全国に営業所や支店を持つまでに成長してからも、「一つの店は家族と同じ」という考え方を持ち続けていて、その結果、社内イベントや社内での引越しが頻繁に行われる。この秋にも大きな配置替えがあって、そのおかげで仕入部と翠のいる総務部広報課は同じフロアーに同居することになった。
翠は、改めて目の前の原田を眺めた。肩幅が広く、胸板の厚い彼はスーツがよく似合っている。女子社員の間では、原田恭一郎はちょっとした話題の人だった。大学時代はワンダーフォーゲル部にいたという彼は、体格も立派で、四角い、よく陽焼けした顔をしており、何となく人目をひく存在感の持ち主だった。その上、彼は取引先の部長の前でウイスキーのストレートを大きなグラスになみなみ注ぎ、それをひと息に飲み干して男っぷりを買われたとか、まっすぐな性格で上司に喧嘩《けんか》を売ったとか、話題にもこと欠かない。明るい性格と負けん気の強さは相当なものだという評判で、翠達同期入社の社員の中ではもっとも期待される存在と噂《うわさ》されていた。だからこそ今夜、翠は忘年会の席で、偶然を装《よそお》いながらも素早く原田の隣に座ったのだ。
「それにしても、早いもんだよな。去年の今ごろは、まだ学生だったのに」
「去年の今ごろ、か──私なんか、アルバイトに明け暮れてたわ。卒業旅行のお金|貯《た》めるので」
「僕は、相変わらず山に登ってた」
翠は、冷凍ものにちがいない枝豆をぽつり、ぽつりと食べながら、原田の話に細かく相づちを打ち、こまめにビールを注いだ。いいペースで二本目が空いたところで、彼はビールから日本酒に切り替えた。
「私、あんまり多人数で飲むのって、得意じゃないみたい。こういう方がずっと落ち着くな」
「そうか? 僕は、仲江さんは明るくて、今日も楽しそうに見えたし、こまめにいろいろと気がつくみたいだったから、ああいう宴会も好きなのかと思ったな」
「あれは、当り前のことをしてただけよ」
翠は心持ち眉《まゆ》を上げて、小首を傾《かし》げて原田に微笑《ほほえ》みかけた。彼も、にっこりと笑みを返してくる。
「ああいう席では、女の子の性格も案外出るみたいだね」
「私、にぎやかなのは大好きなんだけど、自分はほとんど飲めないから。あとはせめて気を遣うくらいしかできないのよね」
二次会までつきあった時点で、原田はもうかなり飲んでいるはずだった。その酔いが、ここまで来て回り始めているのかも知れない。さっきまでしゃきりとして見えたのに、いつの間にか目が赤く充血して、多少とろんとしてきている。それでも、翠は彼に酒を注いだ。
「女の子はね、そういう方がいいんだよ。がばがば飲める子っていうのも、何だか恐《こわ》い感じがするし、飲み食いに一生懸命で全然動かない子っていうのもさ。やっぱり見てて、気が利《き》かない子とは飲みたくないと思っちゃうもんなあ」
「あ、それ誰かさんのこと、言ってない?」
「杉松さんだろう? ありゃあ、駄目だな。ありゃあ、駄目。気が利かないのにもほどがある」
翠はくすくすと笑いながら、一年先輩の女子社員の顔を思い浮かべていた。目の前で他の社員がグラスを倒してしまっても、料理を頬張るのに一生懸命で、素早く対処できなかった彼女は、普段から女子の間でもひんしゅくを買っている。そして実は、原田に対して誰よりも熱を上げている女子社員こそ、その杉松|寛子《ひろこ》だった。だが、当の原田本人は、そんなことを知るはずもない。
「歳《とし》は、原田さんと一緒のはずよ」
「だったらよけいだぜ、社会人としては先輩なんだからさ。一体ね、どういうね、育ち方をして来たんだよ、あいつは、っていう感じだよな。あんなの嫁さんにしたら大変だよ、家の中がめちゃめちゃになりそうだ」
普段、人の噂などしそうにないタイプなのに、原田は少しずつ焦点が定まりにくくなっているらしい目でちらちらと翠を見ては、小さな盃《さかずき》を空ける。翠は、すかさずその盃に酌をしながら、笑顔で原田を見た。
「原田さんて、もう結婚のことなんか考えてるの?」
「まだまだ、考えてなんかいないけどね。どっちみち、不文律であと二年は無理なわけだから。でも俺、実は結婚願望、強いんだ。そうだなあ、三年後くらいには、結婚したいよな」
「へえ、そうなんだ。お相手は? もう決まってたりして」
翠の質問に、原田は白い歯を見せて笑った。
「ぜーんぜん。これから」
「ホントかなあ」
「ホント、ホント」
「原田さんなら、簡単に見つかるんじゃない?」
翠も笑顔を返す。原田は、とろりとしてきた目を少しだけ眩《まぶ》しそうに細めると「そうかな」と言いながら翠を見た。
「二人だけで三次会やったこと、内緒にしておきましょうね。噂になると困るから」
翠は、盃に半分ほどしか残っていなかった酒を丁寧に注ぎ終えると、手もとの時計を見た。もう十二時半になろうとしていた。
「ああ、ごめん。送ってきたのに、かえって遅くなっちゃって」
翠の仕草を見て、原田は急いで酒を飲み干すと、立ち上がった。足もとはふらついてはいなかったが、ろれつが回りにくくなっているのが、店の人に「勘定」と言うときに分かった。翠は、原田がレジに向かっている隙《すき》に、グラスに半分ほど残ったままになっていたビールを素早く飲み干した。
翠のアパートは調布の駅から中央高速が通っている方に向かって、歩いて十五分ほどのところにあった。その道のりを、翠はいつもよりもずっとゆっくりとした歩調で歩いた。それなのに遠く感じられないのは、隣に話し相手がいて、しかもそれが原田だからに他ならない。原田は、翠と並んで歩きながら「何だか俺、酔ったみたいだなあ」と呟《つぶや》いている。
「仲江さんと飲んでたら、何か、安心しちゃったのかな」
「そう?」
もう一度頭の中で、今朝、家を出た時のアパートの様子を思い出し、最後の点検をする。流しにも汚れ物はたまっていないはずだし、生ゴミも捨てた。トイレは、汚れてはいないはずだが、ああ、でも、ブルーレットが切れていたかも知れない。
「ね、少し休んでいかない?」
緩やかな坂道を登ったところにあるアパートにたどり着いた頃には、原田は白い息を吐きながら何度もあくびをして、気持ち良さそうに酔っている顔になっていた。
「いや、でも──」
「週末だし、この時間はすぐにタクシーもつかまらないかも知れないから、もう少ししてからの方がいいと思うんだ。それに、こんなところまで送っていただいて、そのまま帰すなんて申し訳ないもの。少し酔いを醒《さ》ましてから帰ったら?」
「いや、ああ──じゃあ、水を一杯だけ、飲ませてもらっても、いい?」
原田は嬉《うれ》しそうな、決まりの悪そうな顔で翠を見下ろしている。翠はにっこりと笑いながらバッグから鍵《かぎ》を取り出した。丸顔と言われるのは好きではないのだが、柔らかい輪郭に、小さく尖《とが》った顎《あご》を持っている翠は、多少口をすぼめて笑顔を作ると、たいていの相手が眩しそうに目を細めたり、思わず笑顔を返して来る。笑顔が大きな武器になることを知っている。
「あんまり綺麗《きれい》じゃないんだけど、どうぞ」
玄関の扉を開けて先に中に上がり、台所と奥の部屋の電気を点《つ》け、エアコンのスイッチを入れる間も、入口の所で原田は困惑した表情のままで立っている。
「いいのかな、こんな夜更けに」
「ドアを開けっ放しで話してるよりも、入ってもらった方がいいわ」
翠がさらに笑顔になると、原田は何か決心したような顔で、後ろ手に扉を閉めた。ぱたり、と控え目な音を聞いて、翠の心臓はにわかに高鳴ってきた。
「へえ。ちゃんと一人で暮らしてるんだ」
三畳ほどの台所に六畳一間のアパートは、広さの点では不満だったが、それでも翠の唯一《ゆいいつ》の城だった。この広い東京で、帰れる場所といったら、この狭い空間しかない。
「コーヒーでも淹《い》れる? それとも、コーラもあるけど」
翠は薬缶《やかん》に水を入れながら、所在なげにきょろきょろとしている原田に声をかけた。
「あ、何でもいいよ。でも、冷たい方がいいかな」
原田はやがて「あれえ?」という、すっとんきょうな声を上げた。翠は水を満たした薬缶はガス台に載せただけで、冷蔵庫からコーラのペットボトルとコップを二つ持って部屋に戻った。
「カメなんか飼ってるんだ」
原田は、窓際《まどぎわ》に置いてあるカラーボックスの上の水槽を眺めている。彼は、翠から受け取ったコーラを喉《のど》を鳴らして飲み干した後も、なおも熱心にカメを見ていた。
「そうだ、エサをやらなきゃ」
翠は水槽の蓋《ふた》にはめ込んである、透明のプラスチックの部分をスライドさせた。そして、飼い主の帰宅を察知して、早くも水の中で小さな手足をばたつかせている二匹のミドリガメの頭上に乾燥エビでできているカメ専用のエサを降らせた。
「へえ、食ってる、食ってる」
ようやくエアコンの温風が室内に回り始めた。
「さあ、これでじきに暖かくなるわ。コート、脱いだら?」
真剣に水槽を覗《のぞ》き込んでいる原田に声をかけると、彼はようやく我に返ったように背中を伸ばして振り返り、すぐ横で自分を見上げている翠に今、初めて気づいたような顔つきになった。
翠は、原田の喉が微《かす》かに上下するのを見た。けれど、視線は外さなかった。一瞬のうちに抱きすくめられて、翠が声を出す間もなく、原田の唇が顔に触れた。それは、口元には違いなかったが、少し狙《ねら》いを間違えたみたいに、頬の方にずれていた。それから慌《あわ》てたように、正しい唇の場所を求めて移動して来る。その時、翠は「彼は慣れていないのだ」と分かった。その、あまりにも不躾《ぶしつけ》な、不器用な唇の当て方に、心の中で苦笑しながら、翠は原田のしっかりとした首に手を回していた。予定よりも、三十分くらい早い展開だと思った。
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前日のテレビ番組の話題で、ひとしきり盛り上がったところで、翠は今日は自分が「お茶当番」だったことを思い出した。
「待っててくださいね、続き、聞きたいんだから」
「分かった、分かった。おいしいコーヒー淹《い》れてくれたら、話してあげる」
先輩社員に言われて、翠は「はあい!」と返事をすると、足早に汚れた食器の載ったワゴンに走り寄った。「あんなに慌てちゃって」という、先輩の笑い声を背中で聞きながら、自分も笑顔でオフィスを出て、一人になるなり真顔に戻る。ついでに苛立《いらだ》ったため息も出た。
たとえ一日置きとはいえ、日に二回ずつ課の全員のコーヒーカップを洗い、コーヒーを淹れなければならないなんて、時代遅れもはなはだしい。面白い仕事のはずがないではないか。アパレル業界といえば洗練されたイメージがあるけれど、その実は、まだまだ案外古くさいところが残っていることに、翠は入社当時かなりがっかりさせられた。本当は女子社員が交代でお茶の当番をすることになっているのだが、いつの間にか、それは新人の仕事になっていて、実際に動き回っているのは翠と、もう一人の新入社員だけなのだ。
ワゴンを押しながら給湯室に入ると、湯気の立ち昇る流しの前に立っていた制服の女子社員が振り返った。二人で「ヤッホー」と挨拶《あいさつ》を交わす。仕入三課の神田道子は翠と同期で、新人研修の時に宿舎で同じ部屋だった。
「ねえ、ねえ。先週、どうだったの」
「何が?」
「またまた。とぼけちゃって」
翠は流しの脇《わき》までワゴンを押していって、汚れたコーヒーカップを積み上げてある下の段のかごを引き上げた。道子が使っている脇から薬缶を割り込ませてもらい、まずはそれをガス台にかける。
「あの帰り、忘年会の。原田さんに送ってもらったんでしょう?」
翠は澄ました顔に微かに笑顔を作ると「悪いこと、しちゃった。原田さんも京王線なのかと思ってたら、違ってたんだもん」と答える。道子は興味|津々《しんしん》の表情で、そんな翠の顔を覗き込んできた。
「それで? 何もなかった?」
「馬鹿《ばか》ねえ、当り前じゃない」
翠が答えると、道子はじっと翠の顔を覗き込み、いかにも疑わしげな表情で、それでも「ふうん」と言った。
「私なんかねぇえ」
湯を勢いよく流してコーヒーカップを洗い始めると、道子がもったいぶった声を出す。翠はわざと思い出したような顔になった。
「あ、神田さんは、山下さんに送ってもらったんだよね」
「だって、そのために、必死で彼の隣を確保したんだもん」
道子は半分得意そうな、半分照れくさそうな顔で笑った。
「でもなぁ──こんなこと、人に話したらいけないよね」
「何よ、言いなさいよ」
「誰にも、言わない?」
「言わない」
「誓う?」
「誓う、誓う」
道子は「うひひ」というような声を上げて笑うと、一重瞼《ひとえまぶた》でつり上がった目を上目遣いにして翠を見た。全体に顔が尖っていて貧相なキツネのような印象の彼女は、そういう仕草をすると、さらに小ずるく見える。
「帰りにねえ、ホテルに行っちゃった」
「うっそぉ!」
翠が大袈裟《おおげさ》すぎるくらいに驚いて見せると、道子の笑みは勝ち誇ったような、余裕のあるものに変わった。要するに、作戦成功。狙った相手を見事に射止めたということだ。翠と同様に、
「何となくさあ、雰囲気で、そういうことになっちゃって──」
翠は「へえっ!」と感心した声を上げながら、道子の話をひと通り聞いた。その時、再び給湯室のドアが開いたから、二人は慌てて口をつぐんだ。
「どうしたの?」
入ってきたのは、やはり同期の野崎亜希だった。
「びっくりした。中井のオババかと思った」
「やめてよ。こともあろうに、あんなオババに間違われたくないわよ」
面長《おもなが》で、いつでも泣きはらしたように腫《は》れぼったい目をした亜希は、やはり汚れたコーヒーカップを運びながら口を尖らせる。その言葉に、翠と道子は必要以上にきゃっきゃと笑った。道子が何気なく目配せしてくるから、たった今聞いた話は亜希にも内緒にしておきたいということらしかった。
「オババ、さっきも何か怒鳴ってたでしょう。うちの課まで聞こえてきたよ」
亜希の言葉に、神田道子はさっきまでの得意満面の笑みを引っ込め、今度は顔をしかめて口を尖らせた。
「でしょう? 何であんなにヒステリックになるんだか、こっちにはまるっきり分かりゃしない。やぁねえ、女も三十近くなると」
それからひとしきり先輩女子社員の悪口を言った後で、道子はワゴンを押して「お先に」と自分のオフィスに戻っていった。
「神田さんのおしゃべりは、疲れるわ」
翠は、思いきり大きく深呼吸をしてからつぶやいた。
「いつだって、人の悪口か自慢話ばっかりなんだもの」
そこで、小さく笑いながら亜希を見る。翠よりも五、六センチは長身の亜希は、翠の「ねえ」という呼びかけに、心持ち首を前に出した。
「彼女、山下さんとつき合い始めたみたいよ」
翠は、ちらりとドアの方を見て、他に誰も来る気配がないことをたしかめると、皮肉っぽく顎を突き出して、もう一度ため息をついて見せた。
「可哀相《かわいそう》だよねえ、山下さんも。ついに捕まったかって感じ」
「彼女、前から目つけてたんだっけ?」
亜希の言葉に、翠は深々と頷《うなず》いて見せる。元々、新人研修の時には亜希と道子と翠の三人が同じ部屋になったのだが、その当時から、亜希と道子とは既に、互いにあまり反りが合わない様子だった。
「彼女の五年後を考えてごらんなさいよ。中井のオババより、よっぽどクソババアになってると思わない? あの顔で、あの性格で」
翠の言葉に、亜希はただでさえ細い目をよけいに細め、気弱な笑みを浮かべて、それからちらりと眉《まゆ》を動かした。
「でも、未来ある恋愛が始まったっていうことは、誰のことでも喜ぶべきよ。結局は、それぞれ似合った相手を見つけて、ちゃんと納まるところに納まるものなのかも知れないんだよね、普通」
亜希は憂鬱《ゆううつ》そうな表情で微かに肩を上下させる。翠は小首を傾《かし》げて亜希の顔を見上げた。
「うまく、いってないの?」
「クリスマス・プレゼントは何がいいか聞かれたから、カルティエの時計が欲しいって言ってやった」
「すごい」
「だって、どうせ一緒には過ごしてくれないんだもの。それくらい買ってくれたって、いいじゃない?」
「さすが。高給取りは違うわね」
「──お給料だけじゃないみたいよ」
そういえば、自分自身の今年のクリスマスはどうなるのだろうかと考えながら、翠はカップを拭《ふ》いていた。このまま順調にいけば、恭一郎と過ごすことになるのかも知れない。だが、今の段階では、そのことはまだ誰にも話してはならないと自分に言い聞かせている。
「それに、私がカルティエなら、奥さんにはもっといい物をプレゼントするに決まってるんだもの」
その言葉に、翠は意外な思いで亜希を見た。
「野崎さん、そんなこと考えてるの?」
「だって、仲江さん、考えない? 神田さんみたいな方が、やっぱり普通なのよ」
逆に聞き返されて、翠は「うーん」と曖昧《あいまい》に首を傾げて見せた。
「でもね、最初から分かってつき合ってるんじゃない。考えたって仕方がないことでしょう? つき合い方に普通も普通じゃないも、ないわよ」
「そんなふうに割り切って考えられたら気楽だろうけど」
コーヒーカップをワゴンに戻し、上に湯を満たしたポットを載せながら、翠は亜希のため息を聞いた。亜希は、長い髪を両脇の部分だけ後ろで一つにまとめて、色白の細長い顔を曇らせている。
「結論が出ないって分かってることを考えてたって、しょうがないでしょう? それより、どう? 夕御飯食べて帰らない?」
何となく亜希の暗い表情が気にかかって、翠は亜希の顔を見上げた。けれど、亜希は力のない微笑《ほほえ》みを浮かべて首を振った。
「今夜は、彼と約束があるから」
「何だ、うまくいってるんじゃない」
「どうかなあ。半月ぶりよ、それも私の方からしつこく言って、それでやっとっていう感じ。やれ取引先との忘年会だとか慰労会だとか、そんなことばっかり言って」
あまり嬉《うれ》しくもなさそうな顔でつぶやくから、翠はますます気がかりになった。
「本当は私ね、カルティエの時計なんか、欲しくないの。それが、あの人には分からないのよ」
「──分かってたとしたって、どうすることもできないじゃない」
「そう? 本当に? 真剣に考えれば、方法はあるはずよ」
翠だって、男女のことであれこれと他人が口を挟むのは、概して良い結果を生まないということくらい知っている。けれど、亜希のように考えても仕方のないことを愚図愚図と言い続ける娘が、好きではなかった。見ているだけで苛々《いらいら》する。つい、何か言ってやりたくなるのだ。
「とにかく、あんまり深刻にならない方がいいと思うけどな。野崎さんが深刻になっちゃったら、彼の方が逃げ出すかも知れないよ」
「逃げ出す?」
亜希は一瞬驚いたような顔になり、それから悲しいのか嬉しいのかも判然としない、何とも不思議な表情になった。
「そんなことはできないわ。だって、彼も真剣に愛してくれてるんだもの」
翠は、不敵とも思える亜希の複雑な笑みを見ながら、心の中では呆《あき》れていた。
不倫は不倫。それ以上でもそれ以下でもない、一つの男女の関係なのだ。それこそ学生の頃にはいくら憧《あこが》れてもとても入り込めないと思っていた不思議な大人の関係。それは、下手に青臭い恋愛ごっこよりもよほど刺激的で、大人の香りのするものに違いなかった。面倒がなく、後腐れもなく、そして少しだけほろ苦い大人の世界。そんな関係に「真剣に愛してくれる」などという言葉は陳腐以外の何物でもないと思う。
「倉沢次長が、口に出してそう言ったの?」
相手の名前は出さない約束だったが、翠は思わず亜希の不倫相手の名前を口にしてしまった。だが、亜希は真剣な表情で頷くだけだった。
──馬鹿みたい。もしも、本心からそう言ったんだとしたら、倉沢次長が馬鹿。その場の雰囲気で言ったんなら、真に受けてる亜希が馬鹿よ。
「私達が出会ったのは、運命だったっていう気がするのよね」
「運命──」
そんな陳腐な言葉を、職場の給湯室で不倫の打ち明け話をしている最中に聞こうとは思わなかった。けれど亜希は、ますます真剣な表情で宙を見据えている。
「このままじゃ、本当に未来が見えなくなっちゃう。先のない恋愛なんて、そんなの嘘《うそ》なのに」
「──ねえ、ちょっと。恋愛は恋愛かも知れないけど、今度のはゲームでしょう? 先なんか考える方がおかしいってば。終わりが来たら、それで元に戻るだけよ。どっちみち結婚したら、あとは遊べなくなるんだから、だから今のうちにいろんなことをしようねって、前に話したじゃない? そういうゲームにも飽きて、本気で結婚したいと思って恋愛するんだったら、その時はそれなりの相手を探せばいいのよ、神田さんみたいに」
「そんなふうに、理屈通りにはいかないのよ」
「いくってば。考えてもごらんなさいよ、野崎さん、いくつ歳《とし》が違うと思うの? 自分の父親くらいの年齢の人とこういうことになって、運命もへったくれもないでしょう」
「だから、これが運命だったのよ。私達の年齢の違いも、彼がもう家庭を持っていることも、全部、運命の悪戯《いたずら》なんだわ」
最後に亜希はそうつぶやいた。翠はうんざりしながら亜希の青白い顔を見ていた。
オフィスに戻り、一人一人に笑顔でコーヒーを配ってから、やっと自分のデスクに戻る。テレビの話題は、すでに消えていて、先輩達はまったく別の話に興じていた。あえて話をむし返すつもりもないから、翠はひそかに息をつきながら、自分で淹れたインスタント・コーヒーを啜《すす》った。机の列を三ブロックほど隔てたところから「よし、皆ちょっと聞いてくれるか」という声が聞こえる。それは、翠や亜希の働いている総務に比べて人の出入りも多く、活気に満ちている仕入部の方だった。
翠は、部下に向かって大きな声で何か話している荻島《おぎしま》課長を遠目に眺めていた。
──あのネクタイ、初めて見るわ。
ぼんやりと眺めていたら、横から袖《そで》を引かれた。
振り返ると、杉松寛子が顔を近付けてくるところだった。
「原田さん、頑張ってるわね」
「え?」
寛子に言われて改めて眺めると、たしかに翠達の席からは原田の真剣な表情も見える。そして、その二つほど置いて隣の末席に神田道子がいる。彼女は片肘《かたひじ》をついて大きく首を傾げていた。だが、彼女は荻島課長を見ているのではない。彼女の視線の先には、哀れな山下がいるはずだった。
「ちょっと。ところであなた、先週、彼に送ってもらったんですってね」
「──恥ずかしいです。飲み慣れないのに、お調子に乗り過ぎちゃって、ご迷惑をおかけしたと思って。女の酔っ払いなんて、みっともないですよね」
翠が答えると、寛子は「ま、そういうことね」と言い、それでも、熱い、粘っこい視線をまっすぐに原田に向けている。
「彼、親切だったでしょう」
「多分。本当に恥ずかしいんですけど、その辺もよく覚えてなくて。フラフラだったものですから」
「なあに。みっともない。まあね、原田さんは、そういうことを人に言い触らすタイプじゃないから、よかったけど」
まるで、既に自分の彼氏になったような口ぶりで、寛子がうっとりと原田の方を見ているから、翠はくすりと笑って顔を伏せた。
冗談混じりに「酒豪」と呼ばれている寛子は、色が真っ黒で、妙に丸い、ぎょろりとした目をしており、獅子鼻《ししばな》で唇も厚い。おまけに、服のセンスも良くなくて、身だしなみもそれほど誉《ほ》められない。そんな寛子を陰で「獅子舞」と呼ぶ男性社員もいたし、おまけに、当の原田に陰でどう言われているか、もしも彼女が知ったら卒倒してしまうかも知れない。
翠は、とにかく寛子のほやほやとした眉毛が嫌いだった。まるで毛虫みたいに見えるのだ。今どきカットもせずに、伸ばし放題にしているなんてと、いつも思う。
「ああ、原田さん。あんなに格好いいんだもん、もう彼女くらい、いるんだろうなあ」
「直接聞いてみたら、どうですか?」
「あんた、何か聞かなかった?」
「私にはそんなに興味がないし、本当に、そんな余裕もなかったから」
寛子に「あんた」と呼ばれる筋合いなどないと思いながら、翠はあくまで淡々とした表情を作り、机の上の整理をしていた。寛子はつまらなそうな顔で下唇を突き出すように「そうお」と頷いている。
「彼、一浪だったわよね」
「そうみたいですね」
「と、いうことは、私と同い年なわけよね。いくらこっちが先輩っていったって」
「そうですね」
それからもしばらく寛子は何やらぶつぶつと言っていたが、翠が話に乗ってこないから、やがて諦《あきら》めたように顔を離した。
翠は再び仕入部の方をそっと眺めた。荻島課長はもう席に座ったらしく、姿が見えない。原田は、どこからか電話が入って、受話器に向かって何度も頭を下げていた。遠目にも肩幅が広くてがっしりとしているために、他の人よりも目立つ。骨格のしっかりした、四角い顔はよく陽焼けしていて、白い歯がたしかに好印象を与える。一見して男らしさの塊《かたまり》のように見える彼が、実は翠が初めての異性だったなどと、果して誰が思うことだろう。
翠は週末のことを思い出して、ひとりで笑顔になりそうになった。ふと、鼻腔《びこう》に原田の匂《にお》いが蘇《よみがえ》るような気がする。
学生時代は山登りばかりしていたことに加えて、風俗営業の店などは極端に嫌いらしい原田は、二十四歳になる現在まで、ただ一人の女性経験もなかったのだ。それを打ち明けられた瞬間、翠も初めてのふりをすることにした。
「大切にする、大切にする」
恭一郎は喘《あえ》ぐような声で何度も同じことを囁《ささや》いた。
「約束する。大丈夫だよ、安心して」
本当は、入社当時から翠のことを意識していたのだと、あの晩恭一郎は打ち明けた。
抱きすくめられながら首を回すと、炬燵《こたつ》の上には、明け方になってから恭一郎が近くのコンビニエンス・ストアーへ走って買ってきた避妊具が載っていた。帰宅してすぐの時には、かなり酔っていることもあり、また緊張していたせいもあって、恭一郎はいざとなったら行為に及べなくなっていた。
「急がないで。一生の思い出になるんだもの、あとから後悔するようなのは、いや」
しきりに焦《あせ》るばかりで、自分に苛立っているらしい恭一郎に、翠はそんな言葉をかけて慰めた。言いながら、十八歳の頃だって、そんなことは言わなかったと、何度も馬鹿馬鹿しくなりかけた。そして明け方になるまで、互いの身体《からだ》をまさぐりあい、時にはうとうととして、それからようやく思いを果たすことができたというわけだ。
「同期の中で、仲江さんが一番光って見えたんだ。特に派手なわけでもないのに、遠くにいても、なんだか目立ってて、いつも生き生きとして見えた。君が、今まで大切にしてきたものを、僕が奪ったんだね」
「──平気。原田さんだったら、いいって思ったから」
すると、恭一郎はもう一度翠の顔に唇を近付けてきた。最初よりもだいぶ狙《ねら》いが定まったらしかったけれど、あの時も多少唇からずれていた。
「不公平だと思うわ。男の人は初めてでも痛くないのに」
綺麗《きれい》に筋肉のついた恭一郎の背中に手を回しながら、あの時、翠が思ったことといったら、彼があまり毛深くないことへの安堵《あんど》だった。翠は、男性で、あまりにもつるりとしている人も苦手だったが、背中にまで毛が生えているようなタイプも好みではない。恭一郎の背中は滑らかで、広く、大きかった。
やがて、電話を終えた瞬間に顔を上げ、翠と目が合うと、恭一郎は一瞬目を細めて、慌《あわ》てたように視線を逸《そ》らしてしまった。けれど、二人だけの秘密が生まれていることが、どことなく彼の自信になっているようにも見えないことはない。
──君ハ僕ノモノニナッタンダ、僕ト君ハ特別ナ関係ニアルンダ。デモ、ソレハ誰ニモ秘密ダヨ。
──ダイジョウブ、誰ニモ何モ話シテイナイワ。私トアナタダケノ秘密ダモノ。
その時、翠の視界を遮るように、野崎亜希が相変わらずの浮かない表情で、何かの書類を持って通り過ぎて行った。手首に光っている腕時計を眺めて、翠はもうすぐあれの代わりにカルティエの時計が光るのだろうかと考えた。
[#4字下げ]3
見知らぬ駅に降り立って、荻島|俊之《としゆき》は思わずコートの襟を立てた。師走《しわす》も半ばを過ぎて、やはり風は鋭さを増している。
「ここから遠いのかな」
隣に立つ庶務の西本も、襟もとのマフラーを合わせ直しながら、やはり白い息を吐いている。
「歩いて十五分くらいのところらしいです」
改札を出たところで、胸もとから手帳を取り出して、もう一度住所を確認し、駅前の住居表示板を眺めておおよその見当をつける。
「参ったね、年の瀬の忙しい時期に来て」
「申し訳ありません」
「いや、もしも噂《うわさ》が本当だったら──もちろん、こちらの杞憂《きゆう》であるとは思うが、ひょっとしてということもあるから」
どんよりとした雲が立ちこめている。
トーカイドレスの仕入部第三課長というポストにいる立場上、仕事中に外に出ることは日常だが、普通の住宅地に足を運ぶことは、まず滅多にない。荻島は半ば物珍しい思いで、見知らぬ街を歩いた。こうして薄墨を流したような空を見上げることでさえ、実に久しぶりという気がする。建物の谷間や広い通りからは、たしかに新宿の高層ビル群が見えているから、都心からそれほど離れていないことは分かるが、どことなくさびれた雰囲気の、ひっそりとした淋《さび》しい街だった。
「課長は、どこからそんな噂をお聞きになったんです」
「ああ、ちょっとしたところからね」
「私の方にはまるでそんな噂は届いていませんでした」
「なに、単なる噂かも知れんさ。だが、うちの次長が一昨日《おととい》から自宅に戻ってないことは、たしかなんだ」
荻島は西本と肩を並べながら、足早に馴染《なじ》みのない小さな商店街を通り抜けた。ケーキ屋の前に立っている首振り人形には、サンタクロースの服が着せられ、薬屋の店先では年末ということもあってか、胃の薬と風邪《かぜ》薬のポスターが目立っている。
「野崎にしても、無断欠勤どころか、病欠もしたことのない子ですから」
「だから、よけいに心配なんだ。普段からちゃらんぽらんな子だったら、こういう類《たぐい》の心配はしないんだがね」
「おまけに、その噂ですしね」
荻島は苦々しい思いで頷《うなず》いた。
昨日《きのう》の時点では、まだ「まさか」という思いの方が強かった。たまたま二件の無断欠勤が重なっただけのことだ。だが、次長という立場にある倉沢が無断欠勤するなど、考えられることではなかったし、彼女から聞いた噂が妙に引っかかった。もっとも、庶務の野崎亜希という娘については、荻島自身はほとんど印象に残っていない。
「いつの世でも、コレで失敗する人は、案外多いものだ」
荻島は西本に向かって小指を立てて見せながら、ため息と共に曖昧《あいまい》な笑みを浮かべた。笑ってすませられることであって欲しい、愚かさに、鼻を鳴らせる程度であって欲しいという気持ちが働いた。
途中のたばこ屋で道を聞き、また、住居表示を見つけるたびに自分たちのいる場所を確かめて、たっぷり二十分は歩いた頃、ようやく一軒のアパートを見つけ出すことが出来た。その頃には、荻島は額にうっすらと汗をかいていた。
ブロック塀で囲まれたアパートに入る。外壁は水色に塗装されており、白色の玄関の扉には小さなガラスがはめ込まれた、ちょっとしゃれたアパートだった。給湯システムが整っているらしく、どの部屋の脇《わき》にも薄型の湯沸し器らしいものが見えている。
「この辺りで、家賃はどれくらいするんだろうね」
「けっこう高いんじゃないですか」
二階へ上がる階段の下にしつらえられたポストを見ると、二〇一号室にはたしかに「野崎」の名前が書かれている。そこには新聞こそ入ってはいなかったが、チラシや郵便物がたまったままになっていた。
荻島は一度西本と顔を見合わせ、それから階段を上がった。冷たい風が吹き抜けて、湿った額を乾かしていく。アパートの建て込んでいる地域らしく、階段を上がったところで視界はいっこうに開けなかった。
二〇一号室の前まで来た時、荻島は暗澹《あんたん》たる気分になった。扉に取りつけられたポストには入りきれなくなった新聞が、外にまで落ちている。
「──留守、なのかな」
西本も不安そうな顔で新聞を見下ろしている。昨日から何度となく電話をかけているのに、ずっと話し中のままだった。電話局に問い合わせてみたら、受話器が外れているらしいと言われた。
荻島の中で不安が大きく膨らんでいく。
「ここの管理人は」
「さあ、普通のアパートですから。大家が近くにいるんじゃないですか」
ここまで来て、荻島は急にただならぬ雰囲気が漂っている気がし始めていた。都心に近いというのに、どこからも人の話し声すら聞こえてこない、奇妙に静まり返ったこの空間が、とてつもなく不気味に感じられてならなかった。荻島は苛立ちながら、靴音を響かせて階段を駆け下りた。
それからさらに三、四十分ほどして、彼は再び野崎亜希の部屋の前に立った。単身者ばかりが住んでいるアパートらしく、どの部屋をノックしても誰も出て来なかったから、一番近くの米屋まで行き、そこで、このアパートを管理している不動産屋を聞き出して、不動産屋からようやく大家を聞き出した上で、やっとのことで七十をだいぶ過ぎているらしい老人を伴って戻ってきたのだった。
「早く、鍵《かぎ》を開けて下さい」
荻島は苛立ちながら大家の老人に言った。不動産屋にも鍵を預けていない、要するに古いタイプの家主らしい老人は、すっかり慌てた様子で「201」と繰り返しつぶやきながら、やっとのことで部屋番号の書かれた札のついている鍵を、いくつもの束の中から選び出した。
「そっと!」
それまで黙っていた西本が鋭く囁いた。
「もしも、ガスが漏れていたら危険ですから」
荻島は西本の言葉に改めて顔から血の気が退《ひ》く思いだった。「万が一」「もしも」という思いが、一歩ずつ現実に近づいている。
大家がもたもたしているから、西本が老人から鍵を受け取って、鍵穴を覗《のぞ》き込むような姿勢で、細心の注意を払って鍵穴に入れる。思わず喉《のど》が上下に動くのを感じながら、荻島は西本の手元を見ていた。ゆっくりと鍵を左に回すと、扉の中でカチリと小さな音がする。西本は再びゆっくりと鍵を戻してから、荻島を見上げた。
ほんの少し扉を開いただけで、中から異様な臭《にお》いが漏れているのが分かった。その瞬間、それまでほとんど静止していた荻島の脳が、めまぐるしく動き始めた。
「警察に連絡して下さい、それから救急車を!」
隣の老人に言うと、老人は口を半開きにしたまま、声にならない声を出しながら後ずさりする。
「早く!」
言うのと同時に、荻島はポケットからハンカチを取り出していた。西本がほんの少しだけ引いた扉の隙間《すきま》からは、案の定、強烈なガスの臭いが漏れていた。
扉を大きく開け放って、室内に踏み込むと、まず台所の窓を大きく開ける。それから、外に顔を出して大きく外気を吸い込んだ後、口元にハンカチを当て、再び室内に踏み込んで、荻島はその場に立ち尽くした。
部屋の奥で、一見して倉沢と分かる男が、包丁を胸に突き刺したまま、血の海の中で倒れていた。仰向《あおむ》けになって、もはや何も映さない瞳《ひとみ》を虚《うつ》ろに見開いている上司の姿を認めた瞬間、荻島は思わずこみ上げて来るものを感じて、目を逸らしてしまった。確かめるまでもなく、それは死体に違いなかった。倉沢であって倉沢でない、異様な物体にしか見えなかった。荻島の脇を通り抜けて、西本が血の海に近づいていく。倉沢のすぐ隣には、髪の長い娘が、その髪をべったりと血糊《ちのり》で汚したまま倒れていた。
一瞬ぼんやりとしてしまった荻島は、はっと我に返ると慌てて西本に続いて部屋に踏み入り、広がる血を踏まないように注意しながら窓を開けた。ようやく新鮮な空気が流れ込んできて、その時になって、ガスの臭いと共に生臭い血の臭いが満ちていたことに気づいた。
ワンルーム形式のアパートの室内は、思いがけないくらいに狭く、大人二人が横たわっていると、あとはそれほどのスペースは残っていなかった。ブルー・グレイのカーペットに黒々とした血のしみが広がり、そのいびつな存在感が、壁面を埋めつくしている安っぽい白い家具と、ひどく不釣合いな印象を与えた。
「生きてる!」
ガスの元栓を締めたところで、西本が野崎の手を取って小さく叫んだ。荻島は立ち眩《くら》みでも起こしそうな気分のままで、やっと振り返った。野崎亜希は、ガスストーブのホースを抱え込んだまま、倉沢の死体の隣で蝋《ろう》のように白い顔で倒れている。その手首には数本の線がつき、乾いた血がこびりついていた。
「まだ、脈がありますよ。野崎君、野崎君!」
荻島は、必要以上に大きな声を出している西本をぼんやりと眺め、ガスと血の臭いに酔いそうになりながら、なじみのない娘の住まいを見回していた。何をどうすれば良いのか、まるで分からない。遠くでサイレンの音が聞こえ始めた時には、荻島の方が気分が悪くなりそうになっていた。ほんの数日前まで、精力的に仕事をこなしていた自分の上司が、いかにもちゃちな調度に囲まれた、こんな狭苦しいアパートで死体になってしまっていることが、まだはっきりと呑《の》み込めなかった。
「これは──本当なんだろうか──どういうことなんだ──倉沢次長が、まさか、これ──」
「課長、大丈夫ですかっ!」
西本の声に励まされ、必死で吐き気を堪《こら》えながら、荻島は救急車が来るのを待った。ガラス玉のように、虚ろに宙を見つめている倉沢の瞳が目に焼きついた。
[#4字下げ]4
≪無理心中か? アパートで一人死亡、一人重体≫
十九日午後二時ごろ、東京都杉並区本天沼一丁目、スカイコーポ二〇一号室で、ガスの充満した室内で男女が血を流して倒れているのを訪ねてきた勤務先の人が発見し、すぐに一一九番に通報した。男性はすでに死亡しており、女性は意識不明の重体。
死亡していたのは、世田谷区鎌田三丁目、会社員倉沢謙司さん(四九)で、死因は胸部を刃物で刺されたための失血死と見られ、意識を失っていたのは同室に住む野崎亜希さん(二三)。調べによると、十八日未明に野崎さん方で激しく言い争う男女の声を隣の住人が聞いていることから、倉沢さんと野崎さんの間で口論が起き、野崎さんが倉沢さんの胸を包丁で突き刺した後に自殺を図った、無理心中の可能性が高いとみて、野崎さんの意識が回復するのを待って、くわしい事情を聴くことにしている。
荻島は、朝食をとりながら新聞をゆっくりと読み、ため息をついた。妻の里江子が黙って茶を注いでいる。
「まさか、そんなものをあなたが発見しなきゃならなかったなんてねえ」
昨夜、帰宅してからおおよその話は聞かせておいたのだが、こうして活字になったものを読むと、ようやく本当の事件という実感が湧《わ》いて来るものらしかった。里江子は昨晩よりも青ざめた顔で、憂鬱《ゆううつ》そうに荻島の置いた新聞を見下ろしている。荻島も、昨夜はさすがにいつもの約束をキャンセルし、酒を多少飲んだだけで、あとは満足に食べ物も喉を通らない状態だったが、今朝はもう普段の通りに落ち着いていた。
「あの倉沢次長が、ねえ。奥さん、ご存じだったのかしら」
「当然、知らなかっただろう」
「嫌ねえ、世間にだって顔向けできないし、いい笑いものじゃない。いくら亡《な》くなったっていっても、単純に悲しむことも出来やしないじゃないの」
里江子は、ますます憂鬱そうに荻島を見る。多少たるみ始めた目の下が細かく震えたような気がした。
「その、相手の女の子って、どういう子だったの」
「俺は、ほとんど印象に残ってないんだよな。背の高い子だったっていうのは覚えてるんだけど、ぱっとしないっていうか、地味で目立たない子だったと思うんだ」
「そんな子が──人は見かけによらないっていうけど──あなた、大丈夫?」
里江子に言われて、荻島は「よしてくれよ」と顔をしかめて見せながら席を立った。実際、倉沢は良《い》い恥さらしをしてくれたものだ。今日から当分の間は、取引先や関係各社に釈明の挨拶《あいさつ》に歩かなければならないだろう。昨日の時点で、とりあえず荻島が臨時の次長代行ということになったから、仕事はますます忙しくなる。ただでさえ忙しい、この年の瀬にきて。
「ねえ、中年の突然死っていうのに、こういうのも含まれるのかしら」
ネクタイを結んでいると、里江子が背後にやってくる。荻島は返事をせずに黙々とネクタイを結んでいた。
「あなた」
「うん」
「気をつけてちょうだいよ。明彦《あきひこ》も友彦《ともひこ》も、これからなんだから」
「うん」
洋服ダンスの扉の裏についている鏡に映っていた里江子の顔が一瞬|強張《こわば》ったのを、荻島は視界の隅で受け止めた。
「『うん』て──あなた、まさか倉沢さんと同じようなことになりかかってる、なんてことはないんでしょうね」
「馬鹿《ばか》なこと言うなよ」
一度結び終えたネクタイを眺めてみたが、どうも気に入らない。荻島は少しの間考えて、苛立《いらだ》ちそうになりながらネクタイを解《ほど》いた。鏡の向こうで里江子は押し黙ったままでその様子を見ている。
「あなたが外で何してるかなんて、私には全然分からないんだから」
「よせよ」
「知らぬは女房ばかりなりって言うし」
「よせったら」
「ある日突然あなたが帰って来なくなって、気がついたら、見も知らぬ女の部屋で冷たくなってたなんていうことにでも──」
「ああ、うるさいなっ!」
荻島は気ぜわしく手元を動かしながら、振り返って里江子を睨《にら》みつけた。下の子を産んだ後で頬に大きなしみのできた里江子は化粧気もなく、最近特に太ってきて、若い頃の面影はほとんどない。荻島が舌打ちすると、里江子は表情を硬くして、唇を噛《か》んだままで荻島を上目遣いに見返してくる。
「そんなことが、あるはずないだろうがっ。朝っぱらから、やめてくれよ、もう」
「だって──」
「だってじゃない。今日は午後から仮通夜《かりつや》に行かなきゃならないし、女の子の両親も田舎から出て来る。警察にだって行かなきゃならん。仕事以外のことで、てんやわんやになるんだぞ。この年の瀬に、とんだ尻拭《しりぬぐ》いだ。そんな時に、おまえまで馬鹿なことを言って煩《わずら》わせないでくれよ」
「何が馬鹿なことなのっ」
だが里江子は気色ばんだ表情になって、さらにこちらをぎゅっと睨みつけてきた。荻島は、それきり黙ってさっさとネクタイを結ぶことに集中した。一度目に結んだ時と変わりばえがしなかったが、それでよしとすることにした。
「靴下」
「いつものとこ」
里江子はぷいと横を向くと、そのまま台所に行ってしまう。荻島は小さく舌打ちをしながら、その後ろ姿を眺め、自分でタンスの引出しを開けた。
「明彦のことなんだけど」
冴《さ》えない気分のままで、苛々と玄関に向かい靴を履いていると、音もなく里江子が近づいてきて、ふいに背後から声を出す。荻島は「ああ」とも「うう」ともつかない返事をした。
「ちょっと、最近気になることがあるのよ」
「そんなこと、出がけになってから言い出すなよ」
「だって、夜は疲れてるって言うし」
「仕方がないだろうっ。少しはいい気分で送り出せないのか! ただでさえ、こんなことがあったっていう時に。俺は、おまえ達のために働いてるんだからっ」
立ち上がって、ポケットの中を確認し、それから荻島は後ろも見ずに玄関を開けた。背後から「いってらっしゃい」という愛想のない声が聞こえた。
こんなことならば、女房を家庭に閉じ込めておくのではなかったかも知れないと、最近になって荻島は感じる。若い頃は、子どもも小さかったし、女は家庭を守り子どもの傍《そば》にいるのが一番正しい姿だと信じていたが、やがて話題がなくなってしまった。めったに電車にも乗らないような生活をしている女だから、世間のことからすっかり感覚がずれてしまったのも無理はない。
少しは外に出ろと言いたい気もするのだが、実際には一度もその言葉を口に出したことはない。いまさら仕事をしたいと言い出したとしても、二十年近く外に出ていなかった、しかも若くもない女ができる仕事など、ほとんどないに違いないし、中でも、まず里江子では無理だろうという気がする。普段小馬鹿にしている会社の若い女の子よりもよほど使えないに違いない。つまり、これから一生の間、家庭という狭い社会で飼い殺しになるより他ないということだ。
──まあ、俺だけの責任でもない。あいつが自分で望んでああなったんだから。
この辺りも多摩丘陵というのだろうか、東京でも外れに近く、まだずいぶん自然が残っていた。都心に比べて、気温も二度は確実に低いだろう。これから寒さが増す季節になると、ますます朝が億劫《おつくう》になる。それでもここ数年風邪一つひかずに、毎朝きちんと出社しているのだから、我ながらタフだと思う。
荻島は軽快な足取りで駅への坂道を下った。午前中一杯は会社で仕事をして、午後から倉沢の仮通夜の準備に出かけなければならない。こういう死に方をした上司を、どういう顔で見送れば良いものか、荻島にしても判断しかねるところではあったが、実のところ、気持ちはそれほど沈んではいなかった。
──まさか倉沢さんと同じようなことになりかかってる、なんてことはないんでしょうね。
ふと、さっきの里江子の言葉が蘇《よみがえ》る。
冗談じゃない、と荻島は口元で笑った。倉沢は相手を間違えたのだ。遊ぶには、それに適した相手がいる。自分は、そんなヘマはしないと心の中でつぶやきながら、荻島は白い息を吐いて歩き続けた。
[#4字下げ]5
事件が発覚した日の夕方、広報課の社員は全員別室に集められた。翠は、入社以来経験したことのない、ただならぬ雰囲気に微《かす》かな不安を覚えながら、杉松寛子の後について歩いた。
「ちょっとした不祥事が起こりました。と、いうよりも、まあ、ああ、言いにくいんだが、大変、不幸な事件が起こりました」
ビルの外の街路樹が、黄金色《こがねいろ》に色づいた葉を冬の夕陽に輝かせているのが、ブラインドの隙間《すきま》から見える。小さなミーティング・ルームはしんと静まり返っていた。翠は、きらきらと光りながら揺れている街路樹を横目で眺めながら「無理心中」という言葉を聞いた。押し殺したような小さな悲鳴が辺りに広がった。
こういう事件が起きたからには、マスコミの取材等が殺到することが予想される。広報課は、外部への窓口にもなる部署だから、その際にどんな対応をしたら良いのか、ということを課長は言葉を選びつつ、男性にしては高くて細い声で語っていた。どこからか鼻をすする音が聞こえる。震えるようなため息が洩《も》れた。
「次の社内報は事実を載せるんでしょうか」
──彼女が。
彼女が次長を刺した。彼女が次長を死に追いやった。彼女が、彼女がと、頭の中では亜希の力ない微笑《ほほえ》みが繰り返して現れるのに、実際に今聞かされている話とは、まるで別のことのような気がする。
「ええ、倉沢次長に関しては訃報《ふほう》を、形式通りに載せます。あと、野崎くんに関しては、現在検討中ですが、おそらくは、依願退職の辞令を、形式通りに載せることになるのではないかと──」
「依願退職では、対応が甘いんじゃないですか。それが会社の方針なんですか」
「殺人っていうことですよね、つまり」
「助かっても、逮捕されるわけですよね」
普段から強気な発言の多い先輩達が口々に意見を言い始めた。その一方では、やはり鼻をすする音が聞こえている。隣を見ると、杉松寛子もほやほやした眉毛《まゆげ》の顔を半ばうつむかせて、趣味の悪い色合いのハンカチで鼻を押さえている。翠は急に不愉快になった。寛子に泣く理由などないではないか。親しかったわけでも何でもないのに。第一、これほど泣き顔の似合わない女もいないのではないかと思うくらいに、寛子の泣き顔は醜く見えた。
「社内報の内容については、もう少し待って下さい。とりあえず、たった今連絡が入ったばかりですから、外部への対応の方が先決問題です」
課長は細い声の語尾を微かに震わし、苛立った様子で女子社員を眺め回す。
「訃報を載せるにしても、死因をどう書くんですか」
なおも食い下がる先輩社員がいる。翠は不思議な気持ちで、ぼんやりと彼女達の意見を聞いていた。誰のどんな態度も、すべてがわざとらしく芝居じみて感じられる。
「野崎さんは、どこの病院に──」
自分でも意識しないうちに口が開いていた。隣の寛子がぎょっとした顔になったのが視界の隅に入った。
「自宅の近くの救急病院に、とりあえずは運ばれたようですが」
「助かるんでしょうか」
「意識が戻りさえすれば」
──亜希は助かってしまうのか。
「とにかく、今は外部への対応を一番に考える時ですから、社内報に関しては、また改めてということで。外部からどのようなコメントを求められようと、無視。取材拒否。個人的な感情をさし挟んでのコメントは絶対に避けるように。いいね。頼むよ」
課長は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた顔で、断定的な声を出した。明らかに困惑を隠せない、混乱した表情をしているのは、その課長だけだった。
「仲江さんって、すごいこと聞くのねえ」
オフィスに戻り、何となく他の課員たちからの視線を感じながら自分のデスクに向かうと、すぐに隣の寛子が声をかけてきた。他にも空いているデスクなどいくらでもあるのに、隣の課の亜希のデスクと、ひら社員に向かって直角に置かれている倉沢のデスクが奇妙に目立つ。
「人を刺し殺すような人間のことを、どうして心配する必要があるのよ」
さっきまで鼻をすすっていたとは思えないくらいに、寛子の表情はもう普段のものに戻っていた。今ごろになって、翠の心臓は誰かに掴《つか》まれてでもいるように、固く縮こまって感じられた。
「病院が分かったら、お見舞いにでも行くつもりだったの?」
「いえ、そんな──」
「仲江さんだって、ショックなのよ。同期で仲良くしてたんだもの」
他の先輩社員が助け舟を出してくれたのを機に、翠はそのまま黙ってうつむいてしまった。寛子が鼻から大きく息を吐き出すのが聞こえた。
──本当は、亜希も死ねばよかったのだ。
何を思い詰めていたのかは知らないが、人一人殺した上に、自分も後を追おうとして死に損なうなど、愚か以外のなにものでもない。
「それにしても、倉沢次長が不倫してたとは知らなかった」
「そんな噂《うわさ》、聞いたこともなかったものね」
先輩達は声をひそめて他の課に聞こえないように話している。今後の対応を考えなければいけないのだろう、係長より上の上司達は揃《そろ》ってどこかへ消えていた。
「お葬式、どうするんだろう」
「そりゃ、やらないわけにいかないわよ」
「お香典、連名でいいのよね」
誰かの言葉に、皆が細かく頷《うなず》く。
「自分を裏切ってたと知ったとたんに、お葬式じゃあ、奥さんもたまらないわよね」
「情けなくて、涙も出ないんじゃない?」
ひそひそと話す声を聞きながら、翠は微かに首を巡らして、仕入部の方を見た。恭一郎のデスクの電話のコードに、両手の部分がクリップになっている小さなコアラの人形がしがみついているのが見えた。
「ああ、ショックだよなあ」
馴染《なじ》みのない吉祥寺《きちじようじ》の駅に降り立って、適当に見つけた居酒屋に落ち着くと、恭一郎は生ビールをぐいと飲んでため息をついた。
「俺、尊敬してたんだ。ああいう人になりたいと思ってさ、目標にしてたのに」
翠もウーロンハイをゆっくりと飲みながら大きなため息をついた。
恭一郎のデスクにコアラの人形が出ている時は、約束通りに待ち合わせができるという、二人の合図だった。ウィークデイはあまりゆっくりもできないし、仕入部の彼はなかなか予定通りに動けない場合が多いから、仕事帰りのデートは控えようということにはなっているのだが、それでも社内で二人だけの暗号を使って待ち合わせを決めるのは楽しいことだった。恭一郎のデスクにコアラを見つけて、もしも翠の都合が悪い場合は、広報の資料棚の上に載ったままになっている、昔、何かの社内キャンペーンに使った卓上用の小旗を立てておくことになっている。水曜日だったけれど、こんな事件が起きたからには、翠の予定も変わってくる。
吉祥寺に待ち合わせの場所を決めたのは、練馬の外れに自宅のある恭一郎と、調布との中間辺りという意味もある。新宿でデートしていては、どこで誰に会うか分からないし、吉祥寺ならば少しは離れている上に、案外人が多いから、それほど目立つということもない。それに、お互いにバスで帰れる場所だった。
「野崎さんって、そういう感じの子だったっけ?」
「全然。すごく、おとなしい子よ。優しくて、気持ちが細やかで、普通に結婚して、いい奥さんになるタイプだとばっかり思ってたもの。とても、そんな、人を殺すなんていうタイプじゃ──」
言いながら、翠はバッグからハンカチを取り出した。一瞬驚いた顔になった恭一郎は、翠が目頭をおさえている間、周囲をきょろきょろと見回し「泣くなよ」と囁《ささや》く。
「だって、野崎さんが可哀相《かわいそう》で。きっと、だまされたに違いないわ」
「まさか。倉沢次長だって、そんなタイプじゃなかったと思うよ」
「だって、相手はいい大人じゃない。適当に遊び相手にされて、彼女は真面目《まじめ》な性格だから、本気にしちゃったのよ。きっと、かなり思い詰めてたんだと思う。生き残ってくれたのは嬉《うれ》しいけど、これからの彼女の人生を考えたら──」
鼻をすすりながら、言い続けている間に、恭一郎の大きな手が伸びてきて、翠の肩をしっかりと掴む。
「君とは仲良しだったんだもんな。僕とは違う意味でショックだとは思うよ。でも、なあ、泣くなよ、こんな所で。僕が泣かしてるみたいに見える」
翠はそこでようやくハンカチを顔から離し、小さくしゃくりあげながら恭一郎を見つめた。恭一郎は半分|眩《まぶ》しそうな、恥ずかしそうな顔で翠を見ている。
「今にして思えば、野崎さんは前から『お父さんみたいなタイプが好き』って言ってたから──彼女が、もっといい加減なタイプだったら、こんなことにはならなかったんだろうけど」
「真面目な子だった?」
「同性の目から見ても、すごく純粋で可愛《かわい》いと思った。私、ずっと仲良くできると思ってたのに」
翠は、ウーロンハイに手を伸ばすと、今度は少し思い切って喉《のど》に流し込んだ。この居酒屋は、かなり焼酎《しようちゆう》の割合が少ない。これでは、普通のウーロン茶を飲んでいるのと、ほとんど変わらないではないかと、内心で腹が立った。
「君も気をつけなきゃ、駄目だよ」
「何を?」
言われた意味が分からなくて、翠はきょとんとして恭一郎を見た。今日もいいペースで生ビールのジョッキを空けている恭一郎は、もう二杯目だった。
「純粋なところは、君も同じなんだから。悪い男にだまされたら駄目だぜ」
「だって──原田さんは、私をだます?」
驚いた顔を作って小首を傾《かし》げると、恭一郎は満足そうに目を細め、嬉しそうに「まさか」と笑った。
「僕が傍にいるかぎりは守ってあげられるけど」
「だって──傍に、いてくれるんでしょう? ちがうの?」
まだ完全に涙の乾いていない目でじっと見つめると、恭一郎は慌《あわ》てたように視線を逸《そ》らした。
「勿論《もちろん》、その、つもりだけどさ」
その言葉を聞いて、翠は口をすぼめたまま、にっこりと笑った。恭一郎は、つられたように笑顔を作ると、つまみにとったお好み焼きを口に放り込んだ。
「やっと笑った。今日初めてだよ、仲江さん──ミドリが、笑ってるの、見たの」
[#4字下げ]6
最終のバスに揺られてアパートに戻ったのは、いつもの水曜日よりはだいぶ早い時間だった。すぐにエアコンのスイッチを入れ、翠はコートも脱がずに部屋の突き当りの、窓際《まどぎわ》に置いてあるカラーボックスに近づいた。
「た、だ、い、まぁ。お腹《なか》すいたでしょう」
四つの黒い目は、無表情にそっぽを向いている。それでも翠は、水槽の蓋《ふた》をわずかにずらして、五センチほどの深さの水の上にぱらぱらと餌《えさ》を撒《ま》いた。すると、ことん、と小さな音がして、二つの生命《いのち》が島に見立てて置いてある流木の欠片《かけら》の上から水の中に落ち、それから慌てたように手足をじたばたと動かして餌に向かって泳ぎ始める。
「明日こそは、お水を替えてあげるわね。大丈夫よ、お湯を少し足して、温かくしてあげるから」
顔の左右に鮮やかなオレンジ色の斑点《はんてん》がある二匹の小さなミドリガメは、冬場になって動きが鈍っている。ちょっと見ただけでは、どちらがどちらか見分けがつかないが、甲らの腹側の模様の入り方が違うから、翠には見分けがつけられる。
「今日から、名前を変えようか。カメイチは、トシ。カメジは、そうねえ、イッチャン。ね?」
二匹のカメは、翠の小指の先ほどもない小さな頭についている三角の口で、その、見た目の小ささとは不釣合なほどに獰猛《どうもう》な仕草で、一センチ程度の乾燥エビに食らいつく。あまり大物に食らいついた場合は、生意気に爪《つめ》の伸びた手で、口からはみ出したエビを引きちぎる。カメイチのトシの手に残っていたエビに目をつけたカメジのイッチャンが、トシの手にまで噛《か》みついて、逆に顔をひっぱたかれる。
「ほら、喧嘩《けんか》しないで食べなさい。本当におまえたちは仲が悪いんだから。いいね、今日からはトシとイッチャンだからね」
翠は、ゆっくりとコートのボタンを外しながら、そういえばカメ達の目は、このコートのボタンに似ているのだと思った。ボタン穴にボタンをはめたような、全音符の「ド」のような目。
よほど空腹だったらしいカメ達は、瞬《またた》く間《ま》に餌のなくなった水の中で、なおも必死で翠の方に向かって手足を動かす。エアコンの風がようやく流れ始めた。もともと前の住人が残していった物だから、すぐに風が出てこないし、大して暖かくならないし、こんなことなら普通の石油ストーブか何かの方がよほど良かったと思う。おまけに以前、季節外れの大雪が降って停電した時には、それこそ寒くて死ぬかと思った。
「あんまりすぐに大きくならないでよ」
翠は再びエビをぱらぱらと撒いてから水槽の前を離れた。淡い黄色と黄緑色のストライプのカメは、餌を水中から狙《ねら》ってぱくり、ぱくりと食べている。
手早く風呂《ふろ》の支度をすると、冷蔵庫からビールを取り出し、リングを引きながら炬燵《こたつ》に向かう。今夜のうちに風呂を熱めに沸かしておいて、実際に入るのは明日の朝だった。
テレビの深夜番組をつけ、ベッドの枕元《まくらもと》の時計を見て「一時半まで」と呟《つぶや》く。
炬燵の上には、昨日買ってきたばかりのジグソウパズルのピースが広がっていた。仕上がれば、テーブルの上にコップが倒れてミルクが広がっている絵柄の、かなり面白味のない写真パネルになるはずだ。けれど、今のところはまだ外枠さえもできていない。どうせなら一番難しそうなのに挑戦しようと思ったから、果してどれくらいの時間をかければ出来上がるものか予測もつかない。
翠は、時折顔を上げて面白くもないテレビを見ながら、しばらくの間、黙々とジグソウパズルに向かった。上司の死が伝わり、同僚が病院に運ばれた今日という日も、翠にとっては昨日と明日の中間でしかない。仕事をして、デートをして、ほんの少しの間一人の時間を楽しんで、そしてまた明日が来る。こういう日々の連続を、自分で断ち切ってしまった亜希のことなどは、もはや考えても仕方のないことだ。
「ちょっとは、おまえたちも手伝ってくれればいいのにねえ」
翠は、餌を食べ終えて、再び流木の島に登ろうとしているカメに声をかけた。
「本当はね、今日はもっと早く帰れるつもりだったのよ。あんなことがあったから、こっちの予定まで狂っちゃった。おまけに、彼ときたらね、やたらにホテルに行こうって言うんだから」
何でも最初のうちは夢中になるものだ。それが、男女の関係の場合で、しかもこれまで女性経験がなかった男、とくれば、それはもう夢中になって当然だろう。
「でも、そういう時に相手のペースに乗ったら負けなんだな。飽きられるのが早くなるだけ。だからね、絶対に安売りはしない。それくらい賢くならなきゃねえ」
似たような形の淡いグレーの破片を、たった一つのぴったりとくる相手を探して、懲《こ》りずに幾枚も照らし合わせながら、翠はこれは独り言ではないと自分に言い聞かせていた。自分は独り言を言うようなタイプなどではない、これは、トシとイッチャンに向かって話しているのだ。
「倉沢次長は、刺し殺されたんだって。亜希はね、生き残ったんだって」
頭の中に、倉沢の体内から流れ出た血の紅が広がっていく気がした。長い髪を振り乱して、必死の形相《ぎようそう》で包丁を構える亜希の姿が、何度となく思い浮かぶ。
ことん、と音がして、水槽を見ると名前を変えたばかりの二匹のカメが、水の中で仰向《あおむ》けになってじたばたしていた。おそらく二匹揃って流木の島から転げ落ちたのだろう。休みの日など見ていると、数時間に一度は、二匹はそうして水に落ちる。
「クリスマス、か」
去年はまだ学生だったから、翠は大学の友人と暮れからスキーに行った。そのスキー場で知り合った彼とは、東京で二度会っただけで別れてしまった。日焼け後の、むらむらになった顔が汚らしく見えた。
「今年は、あんた達とここで過ごそうか。きっと彼もそうしたいって言うわ」
飽きもせずに、似たような形のピースをたった一つのぴたりと来る相手を探して、かわるがわるに一つの凸に合わせながら、翠はテレビから流れて来る歌を小さく口ずさんでいた。
ジグソウパズルの箱には、パズルの出来上がりの写真が印刷されている。コップからこぼれたミルクがテーブルに広がる写真。それを眺めながら、翠の頭の中には紅《あか》い血の海が広がっている。
──私達が出会ったのは、運命だったっていう気がするのよね。
亜希はあの時「運命」という言葉を使った。倉沢もその言葉を使ったのだろうか。二人は、本当に凸と凹がぴったりと合わさっていたのだろうか。
「まさか。五十になろうっていう男が、そんな甘っちょろい言葉を吐くわけないじゃないよ」
それに、倉沢次長にはもう亜希のために空けておく空間など、残っていなかったはずではないか。たとえ「運命」を感じたとしても。時計を見ると、もう一時四十分だった。大きく伸びをしてから残りのビールを飲み干して、翠はまるで進まなかったパズルをため息混じりに眺め、それからベッドに入った。
まだ眠りにつかないらしいカメが、はしはしと泳ぎながら水槽にぶつかっている音が、微《かす》かにこんこんと聞こえていた。
[#4字下げ]7
倉沢の死について、殺人であることを知らない社員はいなかったが、社内報に載った訃報《ふほう》では「不慮の死」ということになっていた。通常ならば人事の異動などはすべて社内報に載せられるのに、一方の野崎亜希に関しては、その存在すら消そうという意志が働いたらしく、結局は退社の公示も解雇の公示もされなかった。
「本当のところは、どうだったんです」
死体の第一発見者でもあり、倉沢の部下でもあった荻島は、警察でもあれこれと話を聞かれた上に、取締役などにも度々呼び出され、事件が一段落ついた後も、他の社員から質問攻めにされ続けた。
「次長が、自分で彼女の存在を匂《にお》わせたって、本当なんですか」
そう言われるたびに、荻島は困ったように首を傾げて見せるしかなかった。少なくとも荻島自身は、何も聞いたことはない。
「今度の異動では、まず部長昇格間違いなしっていうところだったのに」
「相手を間違えたんでしょうな。よりによって、毒婦に当ったというわけだ」
「意外と人を見る目がなかったのかな」
同じ職場の人間が二人以上集まれば、当然のようにそういう話題が出る。だが荻島はもっぱら聞き役に徹することを心がけた。実際、話せるほどの材料もなかったのだ。荻島よりも三年先輩にあたる倉沢は、ほとんど感情を表に出さないタイプで、何事も注意深く考える性格だった。どれほど酒を飲んでも決して乱れることもなく、プライベートなことに関しては秘密主義といっても良かった。
「まあ、魔がさしたとでもいうんでしょうかね。遊び慣れない人に限って、そういう目に遭うということですか」
昼食の折にもそんな話題が出るし、時には会議の途中でさえ、倉沢の名前が出ることがあって、そのたびに荻島は複雑な表情を作って黙っていなければならなかった。現実問題として、一番矢おもてに立たされて取引先や仕事関係に弁解をして歩かなければならないのは荻島だったが、彼がいなくなったことで、同期の中でトップの出世をしたことになったのも確かだった。
「本当、女を見る目がなかったんじゃないの? 彼女みたいなタイプに限って、粘着質でしつこいっていうことが分からなかったのかしら」
シャワーを浴びた後の身にバスタオルを巻いたまま、翠は冷えたビールを冷蔵庫から取り出している。歩きながらバスタオルの端でビールの栓を捻《ひね》り、喉を鳴らしてバドワイザーの瓶を傾けると、彼女は「美味《おい》しい」と、こちらに向かってにこりと笑った。顎《あご》がきゅっと尖《とが》った輪郭に、はっきりとした眉《まゆ》と、吊《つ》り気味に二重瞼《ふたえまぶた》の目元が印象的で、普段はどちらかといえば冷やかにさえ見える顔立ちなのに、笑顔になるととたんに、ふっくらとした唇に表情が生まれ、飛び抜けて生き生きと、可愛らしく見える。そのギャップが、荻島にはいつも新鮮に見えた。
「彼女だって、つくづく馬鹿《ばか》だったと思うわ。何もそこまで思い詰めることなんかなかったのに」
一つ深呼吸をして顔に貼《は》りついていた髪を指で払い、翠は再び冷やかな表情に戻って、口元を微かに歪《ゆが》めながら荻島に近づいてくると、ベッドの端に腰かけた。先にシャワーを浴びた荻島は、もうビールを飲んでいた。
「次長が、どれほど立派な人だったか知らないけど、とにかく女を見る目がなかったことだけはたしかよ。その上、もしも、もしもよ、次長も本気だったんだとしたら、それこそ馬鹿としか、言いようがないじゃない。自分はとっくに結婚してて、奥さんだって子どもだっているくせに、青臭いこと言ってもらいたくないっていうのよ」
今夜の翠は珍しく饒舌《じようぜつ》だった。もう一口ビールを飲み、「どっちも馬鹿。大馬鹿」と吐き捨てるように言うと、テーブルの上に置かれた荻島の煙草《たばこ》に手を伸ばす。タオルの下で組んでいる足の、よくしまったふくらはぎがぶらぶらと揺れている。
「ねえ、彼女、意識が戻ってから、どうなるの」
「そりゃあ、まあ、判決が下りるまでは拘置所にいるんだろうな。何ていったって刑事被告人なんだし、証拠隠滅や逃亡の恐れはないらしいが、彼女の場合は自殺の危険があるから、たとえ保釈が申請されても、身柄を拘束しておいた方がいいらしい」
荻島もゆっくりと煙草の煙を吐き出しながら答えた。
「しかし、君がこんな情報を握ってたとは知らなかったな」
「だって、女同士の約束だったんだもの。こんなことでも起こらなかったら、これからだって、ずっと黙ってたわ」
かつて、荻島の女房だってこんな年齢の頃はあったのだが、こうして見ていると、荻島はつくづく翠が自分とは異なる生物に見えて来る。白く柔らかい肌と、しなやかな肉体を持ち、自分と同じ言葉を使う不思議な生き物。残酷なのか優しいのか分からない悪戯《いたずら》っぽい瞳《ひとみ》は、時には天使にも、小悪魔にも見える。張りのある肌は、一瞬前まで見せていた表情の痕跡《こんせき》を跡形もなく消し去り、すぐにまた、新しい表情を浮かべるのだ。
荻島は、ビールの瓶を傾けながら、ベッドに腰を下ろして足をぶらぶらとさせている翠の、小さくて丸い右足の踵《かかと》を手のひらに受ける。翠は、それでも知らん顔をして、なおももう片方の足をぶらぶらとさせていた。
「口が固いんだな」
「そうよ。約束は守るの」
「だけど、僕との約束は破ってたっていうことじゃないか。うん?」
すると翠は、ビールの瓶をサイドボードに置いて、わずかに唇をすぼめた表情になり、上目遣いに荻島の顔を覗《のぞ》き込んできた。
「だって。お互いに相手の弱みを握るんだから、絶対に大丈夫だと思ったのよ。彼女とは研修の時から一番仲良くしてたし。現に彼女は約束を守ったわ」
「まあね。そのおかげで発見も早かったことにはなるんだが──どこから仕入れた噂《うわさ》だってあちこちで聞かれたよ」
「それで? あなた、何て答えたの」
「別に。適当にはぐらかしたさ」
翠とは、彼女が入社して間もない六月頃から関係が続いている。社内報に載せる記事のためのインタビューを依頼してきて、それをきっかけに食事に誘ったのが最初だった。二回目の食事に誘った時には、「もっとゆっくりと話さないか」と言った荻島を、翠は落ち着きはらった笑顔と「どこで、ですか」という質問で受け止めたものだ。
「ねえ、死体見たの、初めてでしょう?」
明日は朝から会議がある。書類は揃《そろ》っているが、気詰まりな長い会議になることだけはたしかだ。そのことを考えると、今夜はなるべく早く帰らなければならないという気分になる。
「当り前さ。これまで交通事故の現場だって見たことはないんだから」
「──どんなふうだった?」
けれど、翠は話をやめない。彼女に悪戯っぽい表情で聞かれて、荻島は一瞬眉をひそめ、それから少し遠くを見る目つきになったのが自分でも分かった。光景だけではない、あの時の異様な臭い、天井が低くて狭い部屋、どんよりと雲がたれこめていた、あの日の空模様までが思い浮かぶ。
「ねえ、どんなだったの」
「──あんな大量の血を見たら、誰だって気分が悪くなっただろうよ。僕だって、それほど臆病《おくびよう》なつもりはなかったけど、思わず逃げだしたくなった」
女房に聞かれれば「うるさいな」と一蹴《いつしゆう》してしまうところだったが、相手が翠だと案外すらすらと話せるものだった。あの血の海に、野崎亜希という娘はべったりと髪を浸して倒れていたのだ。最終的にはガス栓まで捻って、自分も死ぬつもりで寄り添っていたのだろうが、その姿は生々しい情念を見せつけていた。
「──情念」
荻島がつぶやいた言葉に、翠は一瞬口元を歪め、顔をしかめる。けれど、若々しい肌には皺《しわ》の一本も寄りはしなかった。
「まさしく、その言葉がぴったりだと思ったね。彼女の髪の毛が次長の血を吸ってるみたいな感じがした」
思い出すだけで、背筋を冷たいものが這《は》い上がるのだ。瞳孔《どうこう》が開ききってもなお宙を見つめていた倉沢の瞳と、あの娘の白い顔と長い髪ばかりを、荻島は一日に何度となく思い出し、そして、鳥肌を立てている。
「洒落《しやれ》に、ならないわねえ」
やがて、翠はつまらなそうな顔になってため息をついた。
「ならないね。まったく、思い切ったことをしてくれたものだ」
「こんなことで人生を棒に振るなんて、亜希は馬鹿よ。本当に、大馬鹿」
「なあ、そんなに仲がよかったんなら、気がついたことは、なかったのか。思い詰めてる様子は、なかったのか」
「少し前に運命がどうとかって言ってたけど──不倫に運命なんていう言葉は似合わないと思って、私の方で、真剣に取りあわなかったのよね」
運命という言葉を使った時、あの娘はどんな表情だったのだろう。翠ほどにはドライにできていなかったに違いない娘は、倉沢と自分にどんな運命を感じていたのだろうか。出会う運命、共に生きる運命、そして男の命を奪う運命。
「これはゲームじゃない? ゲームはゲームとして楽しまなきゃ。マジになったら、ゲームじゃなくなっちゃうのに」
荻島は返事をする代わりに、手早く灰皿に煙草を押しつけて、ソファーから腰を滑り落とした。それから今度は両手で翠のふくらはぎを持ち、唇を膝《ひざ》から太股《ふともも》へと移動させる。少なくとも荻島は翠との関係に「運命」などというものは感じていない。ただ、この不思議な玩具《おもちや》をいつも弄《いじ》っていたいと思うだけだ。
やがて、翠の真っ赤なマニキュアの塗られた細い指が荻島の髪を撫《な》でる。最近白髪が目立ってきた頭をくしゃくしゃとかきまぜられる時、荻島は自分が愚かな子どもに戻った気分になった。二十歳以上も歳《とし》の違う娘を相手に、玩具にされているのは自分の方だという気にさせられるのだ。
「君は、ゲームでいいのか」
「あなたは、ゲームじゃ困るの?」
「困るって言ったら?」
「すぐに逃げるわ。面倒はご免だもの」
そう言うと、翠は荻島の手の間から素早く足を引き抜いて、ベッドに仰向けに倒れ込み、それから身体を丸めて寝返りを打った。
「何も今逃げることはないだろう?」
「だって、いやなんだもの。白けちゃう!」
「分かったから。ほら、笑えよ。君は笑っているのが一番|可愛《かわい》いんだから」
荻島は丸い膝小僧に手を伸ばし、自分の方に向けた。翠は身体を捻られて、膨れっ面《つら》のまま、荻島を見上げている。
──倉沢は愚かだったのだ。この娘が言う通り、彼は相手を間違えた。だが俺は、そんなヘマはしない。
バスタオルを剥《は》ぐと、白い滑らかな肉体が現れる。片手で額にかかっている翠の前髪を払いのけ、それから柔らかく唇を吸ううちに、彼女の手が首に回って来る。まるで小猫のようにしなやかで、ささやかな力だけを加えて、彼女の腕はやがてすがるように背中に下りて来るだろう。
翠は、一度顔を離すと、ほんの少しの間荻島の顔を見つめ、それからにっこりと笑顔になった。例の、悪戯っぽい笑顔。
「時計ね、羨《うらや》ましがられたわ」
「そうだろう」
「でも、先輩に嫌みも言われちゃったけど」
長いまつ毛に囲まれた瞳が、きらきらと輝いている。この瞳に見つめられて、荻島はとうとうカルティエの腕時計を買わされた。我がままな玩具は、自分を飾ることばかり考えているらしい。荻島の希望もあって、彼女はいつも赤いマニキュアを塗って現れる。けれど、それでも彼女は荻島と会う時には香水の類《たぐい》は使わないように気を配っている。
「君は贅沢《ぜいたく》な子だな」
「おねだりはするけど、でも、少なくとも私は亜希ほど馬鹿じゃないわ」
軽いくちづけを繰り返しながらも、翠は話をやめない。
「頼もしいな」
そういえば、今日も出がけに里江子が息子達のことを何か言っていた。上の明彦は中学の二年生で、下の友彦は小学四年、いや、五年生になる。明彦がどうの、友彦がどうのと、里江子は二人のことしか話さない。これは、あまり早く帰ると、その話を聞かされる可能性があるな。せっかく翠と逢《あ》った日に、後から面倒な話など聞きたくない。明日は会議だと言って、はね除《の》けよう。
腕の中にいる翠の身体が少しずつ紅潮してくる。荻島は、翠の足の先から時間をかけて全身を愛撫《あいぶ》するのが好きだった。
「笑ったら駄目じゃないか」
「だって、くすぐったいんだもの」
「困った子だな、こういう時には雰囲気を出すんだ」
耳元で囁《ささや》くと、翠はもう一度くすくすと笑った。荻島は、翠のそんなところが好きだった。不倫だの浮気だのという言葉とは裏腹な、乾いた明るさがある。いつもけろりとしているから、荻島も翠を抱くことに何の罪悪感も抱く必要はなかった。会社では、不倫などという言葉とは無縁に見えるほど、きちんと普通にしている娘だったから、荻島はよけいに翠に惹《ひ》かれたとも言える。ここまで切り替えの早い娘でなければ、たしかに不倫などしてはいけないのだ。
「俺が忙しくしてる間、浮気でもしてたんじゃないのか?」
「してたわ」
「誰と」
「内緒」
悪戯好きで、素直な返事をしたことのない翠は、こうやって荻島をからかうのが好きらしかった。子どもをあやしている気分で相手をしながらも、荻島は時には彼女の言葉に本気で翻弄《ほんろう》されるのを楽しむ。
「誰としてたんだ」
「な、い、しょ」
そんなことは嘘《うそ》に決まっている。もう一度、長いくちづけをすると、翠は途中で唇の力を抜き、代わりに舌を突き出して見せる。荻島は夢中になってその舌を吸った。半分あかんべえでもしているような顔で翠は荻島を求める。
「浮気なんか、させるものか」
「だって、してたんだもの」
頭の片隅には、宙を見上げていた倉沢の死顔がちらついている。玄関で不満そうな表情で立っている里江子も浮かんだ。最近満足に顔も見ていない二人の息子の後ろ姿、担架で運ばれた野崎亜希の姿も。
「浮気してたって、すぐに分かるんだぞ。翠の、この身体《からだ》は俺が一番よく知ってるんだから──」
頭からそれらのすべてを振り払って、荻島は翠の肉体に没頭した。彼女とこうしている時が、自分が一番自信を持てる時だった。彼女の喘《あえ》ぐ表情を見ているかぎり、自分はまだまだ大丈夫だと思える。
「嘘よ、嘘よ、そんなこと、してないから」
やがて、翠は甘えた声を出し、やっと素直になる。
「何も、分からなくさせて」
背中にまわった翠の指先に力が入る。
「俺が好きだって、言ってみろ」
荻島は翠がいやいやをするように首を左右に振るのを見おろしながら、視界の隅で枕元《まくらもと》の時計を見た。この分だと、帰りは一時を過ぎるだろう。里江子は眠ってしまうに違いない。
「好きだって、言うんだ。言え」
何度も翠の名を呼びながら、荻島は自分の背中から滑り落ち、見えない何かを掴《つか》もうとして空をさまよい、やがて今度はシーツを握りしめる翠の手を見ていた。あまり夢中になって、背中に爪痕《つめあと》でも残されると困るから、翠も自然にそれに注意しているのだろうと思った。
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[#2字下げ]第二章
[#4字下げ]1
学生の頃に比べると、ずっと短い正月休みに別れを告げ、「今年は年女です」と書いた年賀状を手元に十枚ほど残したまま、世間はいつも通りに動き始めていた。
菊村|尚子《なおこ》は、初めて入った大人っぽい雰囲気のバーで、心持ち緊張したままカウンターに向かっていた。小さなボリュームで、あまりよくは知らないけれど、たぶん少し古そうな感じのジャズの流れる薄暗い店だった。
「翠《スイ》って、こんな店も知ってたんだ」
高めのカウンターに向かって腰かけ、まずは軽く乾杯をしてから、尚子は隣の旧友を見た。スイというのは、翠の高校時代のあだ名だった。確か、赴任してきたばかりの新任教師が、出席を取る時に翠の名前を読めなくて「スイ」と読んだのが最初だ。
お互いに就職して以来、今日まで二回しか会っていない翠は、さすがにアパレル業界に勤めているだけあると言うべきか、驚くほど垢抜《あかぬ》けて見えた。コートを脱げばセンスの良いブラウン系のスーツに清潔な感じのごく淡いピンクのブラウスを着ている。
「会社の先輩に一度連れてきてもらったの。けっこう、雰囲気いいでしょ」
翠はわずかに目を細めると、煙草《たばこ》の煙を柔らかく吐き出した。
「ナオは? 相変わらず、毎日コンピュータ相手に黙々と仕事してるの?」
「ずっと黙ってるっていうわけじゃないけどね。全体的におとなしい人が多いから」
理科系の四年制大学に進んだ尚子は、メーカーにSEとして就職した。
「じゃあ、うちの会社なんかとは対照的ね。うちはすごくにぎやかだもの」
翠は軽く口元に力を入れて再び目を細める。
同じ時期に上京して、同じ年月を過ごしているはずなのに、自分よりもよほど洗練され、大人になっている気がして、尚子は思わず自分の淡い黄色のカーディガンを眺めてしまった。いかにも東京の典型的なOLというスタイルになっている翠に比べて、尚子の方はやはりどことなく野暮ったいと、自分で思う。
元々、それほどファッションだのおしゃれだのに興味があるわけでもないのだから、自分は自分でいいのだと、ほんの少し淋《さび》しい気持ちで自分に言い聞かせている間に、「そうそう、そういえばね」と、翠が急に思い出したようにこちらを向いた。きらきらと瞳《ひとみ》を輝かせて、よく見れば、アイシャドウの入れ方なども凝っているようだ。柔らかい表情の今の翠は、高校時代に比べるとずいぶん角が取れて、優しい感じになったと思う。
飛び抜けて美人というのでもないが、大きな目は黒目がちで、長いまつ毛に囲まれていつもきらきらと輝いて見えた。鼻はそれほど高くはないものの、筋は通っていて、先が心持ち上を向いている。尚子は、そこが愛敬《あいきよう》のあるところだと思うのだが、翠自身は「鼻が嫌い」と言っていた。口元は、両端がしまっていて、中央にかけてふくらみのある、柔らかいつぼみのように見えた。それほど表情を変えるタイプではなかったが、その翠が今、一生懸命に口を動かしている。尚子は手のひらでグラスを包み込んだまま、熱心に耳を傾けた。
「自分のすぐ傍《そば》で、そんな事件が起きても不思議じゃない年齢になったんだね」
たしか去年の暮近くにニュースで見た覚えのある「OL不倫無理心中事件」が翠の会社の同僚と上司だったと聞かされて、尚子は心の底から驚き、ついため息をついた。
「もう、子どもじゃないんだなと、つくづく思うわ。去年までは、四十、五十代の男の人なんて、ただのおじさんとしか思わなかったのに、社会人になったら、そういう人も恋愛の対象になり得るんだものね」
翠はグラスを傾けながら、独り言のように呟《つぶや》く。
「翠も、そういう人とつき合ったり、してるの?」
彼女の大人っぽさを見ていると、ふとそんなことも有り得る気がして、尚子は耳元に小さなピアスを光らせている翠の横顔を見た。だが、淡いピンクの口紅をつけたつぼみのような唇は「まさか」と動く。グラスを掲げたまま、店の奥の方を見つめている彼女の横顔を眺めていると、尚子は胸の奥の方から懐《なつ》かしさが湧《わ》いてくるのを感じた。
高校の頃、今よりももう少し丸顔だった翠は、いつも教室の窓から夕陽を眺めているような娘だった。尚子は、何を考えているのか分からない友だちが「帰ろう」と言い出すのを、いつでも隣でずっと待っていたものだ。あの頃の翠の瞳は、いつも何かに向かって怒りを抱き、挑戦的でぎらぎらして見えた。何を怒っているのかは分からなかったけれど、あの頃、尚子は翠のその瞳に惹《ひ》かれていた。だが、揃《そろ》って東京の大学に進学して、やがて、その瞳からは力が抜け、代わりに柔らかい光をたたえるように変化していった。初めのうち、尚子は翠のそんな変化を、何かに対しての諦《あきら》めではないかと思ったものだ。
こうして久し振りに翠の横顔を見ていると、あの頃の瞳を思い出す。けれど今の翠は、その頃とはまるで異なる雰囲気をまとっている。多分もう二度と、あんなにギラギラとした目をすることはないのだろう。
「私には、やっぱりおじさんはおじさんにしか見えない。自分の父親に近いような年頃の人をよ、とても恋愛の対象とは考えられないじゃない」
尚子は手元のグラスを玩《もてあそ》びながらつぶやいた。翠が瞳に柔らかさをたたえるようになり、どんどん垢抜けて綺麗《きれい》になっている間も、自分はほとんど変わらなかったような気がするのが、少し淋しい。
「むしろ、学生の頃の先生に対するみたいな感覚になっちゃうし」
「でも、向こうだって、こっちを生徒か娘みたいに思ってるとは限らないんだよ。普通の人は先生みたいな感覚なんか、持ってないもの。いくつになっても男は男で、いくつ歳《とし》が離れていても、女は女としてしか見ない人の方が、きっと多いよ」
「翠──けっこう、ショックだったんじゃない?」
尚子の言葉に、翠は皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「不倫からハッピー・エンドになったなんていう話、めったに聞かないじゃない? そんな馬鹿馬鹿《ばかばか》しいことで人の生命《いのち》も、その人の家庭も、自分の人生まで台なしにする人が身近にいたなんて思うとね、そのことはショックだったかも知れない。あんまり馬鹿馬鹿しくて」
こういうのが、翠特有の言い回しだと思う。もしかしたら翠は昔から、尚子のことを多少低く見ているのかも知れない。そう感じることが少なからずあった。だから、一度も本心を打ち明けてはくれないのかも知れないのだが、実際は尚子から見ていると、そんな翠の意地の張り方が、何となく子どもじみて、むしろ可愛《かわい》らしく見えることがあった。彼女には、昔から必死で何かの壁を守り続けようとしているみたいなところがあった。その壁の向こうで、生まれたままの翠が無防備に泣いているのが見え隠れする。痛々しくて、悲しげだった。それだけに尚子は、彼女に見下されているように感じながらも、彼女を放っておけなかったのだ。だが、こうして久しぶりに会ってみると、本当の翠はいよいよ壁の向こうに行ってしまい、素顔など見えなくなってしまったのかも知れないという印象を受けた。今夜の翠の落ち着きは、そのまま壁の厚さを物語っているのではないだろうか。
「ナオの会社には、そういう噂《うわさ》とかって、ない?」
「職場結婚の人は多いみたいだけど、不倫は、どうかなあ。今のところは、私自身があちこちを異動してるから、一カ所に落ち着いたら、そういう話も耳に入るのかもしれないけど」
そこで尚子は翠の袖《そで》に軽く手を置いてみた。
「不倫しそうなタイプって、見ていて分かる?」
翠は困ったような笑顔になって、小首を傾《かし》げる。
「分からないんじゃないかなあ。今度の彼女だって、全然そんなふうには見えなかったもの」
「じゃあ、けっこう意外な人物が不倫してる可能性もあるんだ」
尚子は口を尖《とが》らせて感心したようにまたため息をついた。翠も感慨深げな表情でグラスを傾けている。
「相変わらず、強いね」
翠は「そうお?」と言って澄ましている。
「ああ、渋谷にね、箸拳《はしけん》をやってる店があるんだって。今度、行ってみようか」
「皿鉢《さわち》料理の店?」
「経営者が高知の人か何からしいわよ」
翠は、少し考える顔をして、それからつまらなそうに煙草に手を伸ばした。
「こっちじゃ、箸拳って言ったって分からないでしょう。同県人にばっかり会うのも、何となく億劫《おつくう》だな」
ふう、と勢いよく煙草の煙を吐き出してから、翠はグラスを空ける。尚子はくすくすと笑いながら、そんな翠を見ていた。
「なあに」
「翠は、一度言い出したらきかないところがあるから。嫌だって言ったら、絶対に嫌なんだろうなと思って」
「そう? 東京に出てきて五年もたてば、ずいぶん丸くなったと思うけど」
「丸くはなったね、柔らかい感じになった」
「でしょう? 突っ張ってたってしょうがないし、もう、子どもじゃないもの」
もう一度翠が呟く。もう子どもじゃない。
たしかに、もう社会人になったのだし、二十歳もとうに過ぎているのだから子どもではないのだが、尚子にはそれでは自分が立派な大人と言えるかどうか、自信がない。できることならば、もっと単純に笑ったり泣いたりできていた頃に戻りたいという気持ちが残っている。その方が、ずっと自然なことのような気がするのだ。けれど、時は戻せない。それも分かっている。
「お正月、どうだった? 帰ったんだよね?」
「帰ったけど──どうってこと、なかった。退屈だっただけ」
そういう答えが返って来ることは分かっていた。尚子も帰郷していたから、正月休みを利用したクラス会で会えるかと思っていたのだ。けれど、翠はクラス会には顔を出さなかった。
「たしかに、のんびりしてるなぁとは、私も思ったけどね」
「のんびりどころか、時間が止まってるっていう感じじゃない? 何ていうか、空気まで動かないみたいな。私なんか、もう飛行機が着く頃には気が重くなってたもん」
翠は「東京の方が好き」と言い、煙草の煙を長く吐いた。クラス会で会った旧友の話や、本当は最近気になっている男性の話などもしたいと思ったのに、翠の横顔は、以前に比べて柔らかいくせに、実は前よりもずっと、何も受け入れまいとしているような雰囲気があった。今夜は、世間話だけで終わりにした方が良いのかも知れない。もう少し暖かくなったら、そして、もう少し尚子自身の気持ちがはっきりとしたら、話せば良いことかも知れなかった。
[#4字下げ]2
正月明けの一月と、日数の短い二月を過ごすと、あっという間に三月になった。
月曜日、翠はアパートまでの、うんざりするほどの道のりを歩いていた。やはり、少し無理をしてでも、今月の給料で自転車を買おうかと思う。そうすれば、朝の貴重な時間だって多少なりとも短縮できるし、帰り道、こうして重い足を引きずって、のろのろと歩くこともなくなる。せっかく電車の中で眠りこけて来たって、この道のりで逆に疲れが増してしまうくらいだ。
数日前に春一番が吹き、コートこそ手放せないものの、真冬の完全防備からは少しずつ遠ざかりつつあった。就職して、もうすぐ一年が過ぎるのだと思うと、無意識のうちに吹く風の中に昨年の思い出を探そうとしてしまう。社会人になった当初も、やはり翠は毎日、相当に疲れていた。
「た、だ、い、まぁ」
やっとの思いでアパートにたどり着き、相変わらず水槽の中でごとごとと泳いでいるトシとイッチャンに声をかけると、ベッドの上にバッグを放り出して、しばらくぼんやりと部屋を見回す。座り込んだら、もう立つのが嫌になりそうな気がする。
「疲れた──」
ため息混じりに一人でつぶやくと、とりあえずテレビのスイッチを入れる。それから台所に戻って、小振りの片手|鍋《なべ》に水をはり、ガス台にかける。テレビからは六時台のニュースが聞こえていた。
湯が沸くまでの間にのろのろと服を脱ぎ、下着のままでカメにエサを撒《ま》く。
「あんた達はいいわよね。甲ら干ししてるか、じたばた泳いでるだけで天からエサが降ってくるんだもの」
水槽に前足をつけて、水中からエサに狙《ねら》いをつけ、三角の口をあけて撒かれたエサを食べる二匹は、翠の言葉など聞いているはずもなく、噛《か》んでいるのか飲んでいるのか分からない食べ方で、エサを片づけていく。
何気なく首筋に手をやって、今日はプチネックレスをつけていたのだと気づくと、やはりのろのろとした手つきでそれを外し、手のひらで細いチェーンを滑らせてベッドの上に落とした。どんなに疲れていても、これ以上、何もしたくないと思っていても、それでもダイヤモンドの輝きだけは変わらなく見えるから、大したものだった。五月の誕生日には何もいらないからと駄々をこねて荻島にねだった、それは店で見つけた時に一目惚《ひとめぼ》れした小さなダイヤモンドのプチネックレスだった。
台所で湯が沸きたっている音が聞こえた。急いで台所に戻り、流しの下からインスタントラーメンの袋を取り出して麺《めん》を湯に落とす。東京では売っているのを見かけたことがない、徳島の食品会社が出しているインスタントラーメンは、二週間ほど前に届いた宅配便の中に入っていたものだ。火加減を見て、ぼんやりと鍋を見つめているうちに、三分などすぐ過ぎてしまう。スープを鍋に入れ、菜箸で軽くかき混ぜると、一応は食欲をそそる香りが広がった。翠は、右手に菜箸を持ったまま、左手で鍋を持ってテレビの前に戻った。
──べつに見てる人がいるわけじゃない。一人の時は、これで十分。
一応、誰にともなく言い訳をして、炬燵《こたつ》の上に古い雑誌を載せ、鍋を置く。もう一度大きくため息をついてから、翠は菜箸でラーメンを食べ始めた。鍋に唇が触れると火傷《やけど》をするから、それだけは気をつけながら、目だけはテレビの方を向いて、二、三筋ずつラーメンをすする。麺がなくなる頃には鍋も冷めてきて、スープを飲んでも唇を焼く心配はない。
瞬《またた》く間《ま》にスープまで綺麗に飲み干して、額にうっすらと汗が滲《にじ》む頃には、ようやく少しだけ元気が出て来た。空になった鍋を炬燵の隅に押しやって、代わりに灰皿代わりにしている絵皿を引き寄せ、一服すると、やっと気持ちも落ち着いてきた。
「ああ、また一週間が始まった」
朝から我慢していて、やっと吸えた煙草《たばこ》はめまいにも似た眩惑《げんわく》をもたらし、ようやくこの空間で一人に戻ったことを実感させてくれる。
なにしろ、会社はもちろん、恭一郎も翠が煙草を吸うことを知らないから、ずっと一緒に過ごす週末は、翠は煙草を吸うことができないのだ。自由に煙草を吸う姿を見せることができるのは、尚子のような昔からの友達か、荻島の前だけだった。
「あんた達も、もう食べたね」
帰宅した時には、せわしなく昨日替えたばかりの水の中で手足を動かしていたカメ達は、満腹になれば再び小島に見立てた流木に上がっている。広さが足りないことはないはずなのに、必ずどちらかがどちらかに半分|覆《おお》い被《かぶ》さるようにして、二匹のカメは喉《のど》を膨らませながら見るともなく翠の方を見ていた。
やがて、目の下から薄い膜が迫《せ》り上がってきて、二匹は眠りに落ちるだろう。ボタンみたいな目が隠れて、首をもたげているのにも疲れ、やがて甲らに顔を半分ほど引っこめて眠ってしまう。
「でも、カメを飼ってるなんて、エッチな感じがするよな」
週末の、恭一郎の言葉が蘇《よみがえ》る。
「どうして?」
「やっぱり、この頭の形はエッチだよ」
恭一郎がにやりと笑ったから、翠は「いやだっ」と言って恭一郎の腕を叩《たた》いた。
「男の人の身体《からだ》の方が変なのよ。こんなものがくっついてるんだもの」
翠の言葉に、恭一郎は面白そうに笑いながら「そうかな」と言った。
つき合い始めた最初の頃こそは、二人はそんな話もしなかったが、少しずつ慣れてきて、いろいろな話をするようになった。
「コンドームって、つけるとどんな感じがするもの?」
「どんなって」
「やっぱり、こう──気持ちが引き締まったりするものなの? ええと、ふんどしをするみたいに」
二人は、翠のベッドで抱き合いながら、そんな話をした。
「私にもついてたら、面白かっただろうな」
「翠についてたら、俺が困るじゃないか」
「でも、一度つけてみたかった。そうしたら、私、一日中でも玩具《おもちや》にしちゃってたかもしれないわ」
「玩具じゃないよ」
翠は甘えて恭一郎の首に腕を回しながら、無邪気な笑い声をたてた。
「だって、勝手に大きさが変わって、おかしな形してて。男の人は皆一人に一つずつ、こんなものがついてるのかと思ったら、おかしいわ。女の身体には、こんなところはないもの」
「でも、女の人にはこんなのがあるだろう?」
恭一郎の大きな手のひらが、翠の乳房をすっぽりと包み込んだ。
「恭ちゃんは、こういうの、ついてたらよかったと思う?」
「思わない」
「そうでしょう? そこが、違うのよ」
それは、二人でアパートに戻ってきて、慌《あわ》ただしいほどあっけなく恭一郎に抱かれた後の会話だった。
恭一郎は、先月頃からは週末を翠のアパートで過ごすようになった。金曜日に二人|揃《そろ》って帰宅して、日曜日の夜までずっと一緒に過ごす。その間に何をするかを、恭一郎はあらかじめ計画しているらしいが、いつでも口に出すときは突然だった。時には、ドライブをすることもあり、映画を観《み》に行くことも、買物に行くこともあるが、いずれにせよ彼はとにかく最初に、一度は翠のアパートで一週間耐えてきた思いを遂げなければ気が済まないらしかった。
やっと少し落ち着いて、そんな会話を交わしているうちに、恭一郎は必ず二度目を翠に求める。翠は、もっといろいろな話をしたいと思っていても、恭一郎の息が荒くなって来ると、黙ってしまう。彼が「好きだ」「可愛《かわい》い」を連発している間、翠は荻島の背中を思い出している。そして、恭一郎は荻島に比べて、ずっと脂肪の少ない、張りのある背中に汗をかきながら、さっさと一人でいってしまう。翠は一緒に汗をかきながら、それでも置いてけぼりにされた気分のままで、恭一郎がティッシュを引き出す音を聞く。
絵皿に煙草を押しつけながら、翠は下着のままで大きなあくびをした。なにしろ週末からの寝不足がたたっているのだ。
恭一郎は身体も大きく、いびきも大きい。まるでスポーツみたいに汗をかいた後は、ろくな会話もしないうちに、彼はすとん、と眠りに落ちるのだ。最初の頃こそは、ちゃんと翠に腕枕《うでまくら》をしているのだが、五分もしないうちに隣にいる女の存在など忘れて、一人で眠りの世界に入ってしまう。翠を抱き寄せる時には、たくましく頼もしく感じられる太い腕は、翠の存在を忘れたとたんに重くて邪慳《じやけん》な棍棒《こんぼう》に変わる。彼と壁の間に挟まって、小さく縮こまっている翠は、まるで邪魔者のように恭一郎の肘《ひじ》に押され、大きな足に蹴《け》られて夜を過ごす。時折、カメが流木から落ちるらしい音がごとん、と聞こえる闇《やみ》の中で、翠はずっと目を凝らしているのだ。
「ああ、喉がかわいた」
夜中に急に起き出して、冷蔵庫から飲物を取り出し、喉を鳴らしながらそれを飲んでいる恭一郎のシルエットに向かって「私も」と言う時、翠の声が寝ぼけていないことに彼は一度も気づいたことはない。
「な、明日、海見に行かないか」
「海?」
恭一郎は、何でも自分で決めるのが好きだった。そして、一度思いついたら行動に移すのが早い。
「よし、決めた。俺、明日朝起きたらすぐに、車取りに戻るわ。それで、そうだなあ、七時には出発しような」
恭一郎はそんなことを言いながら再び深い眠りに落ちる。右を向いて眠る癖のある彼は、まるで翠を全身で拒絶するように、広い背中を見せたまま、大きないびきをかく。翠は、何度か彼の背中にしがみついてみたことがある。けれど、彼は眠りから覚めることもなく、むしろうるさそうに微《かす》かな唸《うな》り声さえ上げて、太い腕を動かしただけだった。眠っているのだから、彼には何の責任もないと分かっていながら、翠は心の中で恭一郎を罵《ののし》った。
──勝手なヤツ。
暗い室内で、一人息をひそめながら、翠はいつまでも眠れない。ようやくうとうととし始めたかと思うと、もう明け方だ。そして恭一郎は驚異的な寝起きの良さで飛び起きると、本当に車を取りに練馬の家に戻るのだった。
金曜土曜と、二晩を恭一郎と過ごした後で、一人に戻って眠るのは淋《さび》しいものだった。ことに、彼が家に戻った後の日曜の夜は淋しい。その一方では、手足を自由に伸ばして、ゆったりと眠れるのが嬉しい。おまけに二日間、彼にあちこち引っ張り回されて、淋しさよりも疲労感の方が先に立ってしまうから、翠は日曜の夜はひたすら眠る。それでも疲れが取れないときには、こうして月曜日が一番|辛《つら》いことになる。
──ダブル・ベッドで寝ている夫婦って本当に疲れが取れてるんだろうか。
「あんた達は、いつもそんな姿勢で疲れないの?」
相変わらず中途|半端《はんぱ》に互いに負《お》ぶさるような姿勢で小島に乗っているトシとイッチャンを見て、翠は大きく背伸びをしながら話しかけた。今は、伸《の》しかかっているのがイッチャンで、前足で踏みつけられてじっとしているのがトシだった。
「実際はイッチャンがトシに踏まれてるから、こっちで仕返ししてるのね」
くすりと笑いながら、翠は二匹のカメを見ていた。今日、恭一郎は荻島に呼ばれて、何か叱《しか》られていた。身体の大きな恭一郎が、デスクの前でうなだれている姿は、他の社員が叱られている時よりも、より哀れに見えるものだ。一方、自分よりも相当大柄の部下に向かって、厳しい眼差《まなざ》しを向けて何か言っている荻島の方には、やはり相応の貫禄《かんろく》があった。
「ああ、可哀相《かわいそう》な原田さん」
隣の席では、ほやほや眉毛《まゆげ》を八の字にした杉松寛子が自分の仕事もそっちのけにして、その様子を見ていた。翠は、内心で寛子を軽蔑《けいべつ》しながら、果して自分はどっちの肩を持ちたいのだろうかと考えていた。
「言い訳はいい」
荻島の声が雑音に混ざって聞こえた。
「でも次長、僕は──」
「『でも』の前に言うことがあるだろう。買い叩けばいいってものじゃないんだ。品質を落としたら、社のイメージ・ダウンになることくらい分かるだろう。その限度が、君にはまだ分からないのか」
ああして、厳しい表情できびきびと何か言っている荻島の姿は、やはり見ていて頼もしいと思う。叱られている恭一郎は可哀相には違いなかったが、自分のミスで叱られているのだろうから仕方がないという気もする。年齢から来る器の違いは、一目|瞭然《りようぜん》と言わなければならなかった。そしてそれは、まさしく翠を抱く時の二人の違いにも言えることだった。
ぼんやりしている間にも、テレビはひっきりなしに画面が動き、時間ばかりが音もなく流れていく。本当はすぐにでも眠ってしまいたいところだったが、洗濯物がたまっていた。今夜のうちに洗っておかないと、明後日《あさつて》には、確実に穿《は》いていくストッキングがなくなるはずだ。ああ、いけない。帰りに洗濯物の柔軟仕上げ剤を買って来るつもりだったのに。
「ああ、嫌んなっちゃうなあ」
ベッドに手を伸ばして今朝、脱ぎ捨てたままのパジャマを掴《つか》み、ぐずぐずと着込む。その上で、ズボンの裾《すそ》だけを膝《ひざ》まで折曲げて、丈の長い普段着のスカートを上から穿いた。それにブルゾンを羽織って首までホックを止めてしまえば、下にパジャマを着ていることなど分からなくなる。
明日は女の子の同僚と、仕事帰りに買物をすることになっている。そして、明後日はいつも通りに荻島に逢《あ》う。木曜日を一人で過ごし、また金曜日からは恭一郎と過ごす。掃除は木曜日に回して、今日のところは洗濯だけにしておこう。少し遠いが、酒類も販売しているコンビニエンス・ストアーに行こうなどと考えて、翠はベッドに放り投げたバッグから財布を取り出した。バッグの脇《わき》にはさっき外したダイヤのプチネックレスが光っている。
今、こんな格好をしている自分には、何よりも似合わないに違いないと考え、思わず自嘲気味に微笑《ほほえ》みながら、翠はテレビもエアコンも点《つ》けたままにして、のろのろと玄関に向かった。
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「月曜日に?」
料理を口に運びながら、翠は心持ち眉を動かして前を見た。ちょうど荻島のグラスが空いたところだったので、ビール瓶に手を伸ばして彼に差し出す。
「私、そんなに疲れた顔してたかしら」
自分のグラスにもビールを注いでから、翠はわずかに小首を傾《かし》げて見せ、それから小さく肩をすくめた。
「まだ学生気分が抜けてないのかな。どうも月曜日になると、会社に行くのが嫌だなあって、思っちゃうのよね」
「いや、君だけじゃなくてさ、週の始まりっていうと、何となくだらだらしてる連中が多いっていう話だったんだがね」
今日の昼、翠の上司にあたる島田課長と食事をした時に、今年の新人の話題になったのだと荻島は言った。
「島田課長もさ、普段元気な君が月曜日だけは少し元気がないって言ってたよ」
「鋭いのねえ、案外見られてるんだ」
「当り前さ」
その日は鰹《かつお》を食べようということになった。こぢんまりとした料亭で荻島と向かいあい、翠は今年初めての鰹のたたきを口に運びながら、少しだけ故郷のことを思った。荻島は穏やかな表情で箸《はし》を動かしている。接待などでいろいろな店を知っている荻島は、味にもうるさい。
「まあね、君の場合も、週明けからそんなに疲れていて平気なのかと思って見てると、こうして水曜日にはちゃんと元気になってるものな」
「嫌だ、あなたも私のこと見てるの?」
「そりゃあ、同じフロアーにいるんだから」
翠は料理を口に運んだ後の箸の先を唇につけたままで、目を細めて見せる。
「おいしい」
「土佐出身の君が言うんだから、間違いないな」
「週明けから水曜日だったらいいのにな。そうしたら、私ずっと元気なのに」
本当は、昨日の朝などは、翠は寝ぼけていて、ストッキングを裏表に穿いたくらいだった。くるぶしまで穿いたところで気づきはしたのだが、どうせ靴を脱がなければ分からないと思って、そのまま一日過ごしてしまった。そしてようやく水曜日の今日になって調子が上がってきたというわけだ。
「水曜日が週に二回あったら、僕の身がもたない」
荻島の言葉に、翠は悪戯《いたずら》っぽく笑って見せる。それは翠だって同じことだ。月曜日から荻島に逢うとなったら、今よりももっと疲れることになってしまう。
「ねえ、ベイエリアのホテルに行ってみたい」
「帰りが大変じゃないか」
「でも、行ってみたい」
「急には、無理だよ」
ああ、こういうところが恭一郎とは違うのだと思う。恭一郎は、荻島のように高級な店に食事に連れてきてはくれないし、割り勘にすることも珍しくはない。けれど、翠に考える暇も与えてくれないほどの行動力がある。荻島には金銭的にも、気持ちにも余裕はあるものの、思いついたらすぐに行動するような部分は、もはや求められなかった。
「このまま朝までいられたらいいのに」
結局はいつものホテルに行き、ベッドの中で呟《つぶや》くと、翠の頭の下で荻島の肩が微かに動き、柔らかい手のひらが翠の髪を撫《な》でた。
「君は泊まって行ったっていいんだよ」
「嫌よ。一緒じゃなきゃ、つまらないもの」
荻島はいつでも翠が口を開くと必ず答えをよこす。翠が微かに動いただけでも、彼の手のひらはすぐにそれを察知して、翠の肩を抱いたり、髪を撫でたりする。目を閉じたまま、鼻からゆっくりと息を吐き、眠っているように見えるけれど、彼は決して熟睡していなかった。こうしてゆっくりと会話して過ごすということは、恭一郎と一緒の時にはないことだ。
「そんなに、僕と過ごしたいの」
決して朝を迎えたりはしないけれど、慌《あわ》ただしくばたばたと帰る支度をするのでもなく、ほんの短い時間でもまどろんでから帰るのが荻島のペースだった。
「だって、楽だもん」
「僕も、楽だ」
それは、嘘《うそ》ではないだろうと思う。
荻島は、翠とホテルに来ている時には、たいてい一糸まとわぬ姿で部屋中をうろうろしたり、そのままの姿でぼんやりとテレビを見ていたりする。翠とベッドに入っている時も、幼い子どもがするように、翠の胸にしがみついてじっとしていることがある。翠の手を玩《もてあそ》びながら、その指を自分の口元に運んだりする。
「赤ちゃんみたい」
翠は時折荻島の白髪の混ざった髪を撫でながら言うことがある。
「お家《うち》でも、こんななの?」
「まさか」
荻島は、翠が「お家」という言葉を出す時だけ、ほんの少し不機嫌な顔になる。
「そんなに嫌な顔することないでしょう」
「君と一緒にいる時は、僕の方は家のことなんか忘れてるんだから」
「でも、事実だもの。大丈夫よ、私は誰かさんとは違うんだから。奥さんの話をされたって、嫉妬《しつと》なんかしないってば」
翠は、昨年の事件以来、何かというと「誰かさん」を引合いに出すようになった。ゲームをゲームとして楽しめず、ついには不倫相手を死に追いやった、亜希のことだ。翠のところまでは警察は来なかったけれど、それは、荻島が噂《うわさ》の出どころとして翠の名前を出さなかったからだった。そんなことをすれば、荻島と翠の関係も露見してしまう。彼は、噂というのは、実は倉沢本人の口から何となく匂《にお》わされたのだと説明したのだそうだ。荻島のみならず、亜希の課の上司なども、警察にいろいろなことを聞かれて、結局、昨年は暮れまで社内の雰囲気は重苦しいままだった。
「嫉妬するようなタイプの女は、最初から、こういうゲームをしたらいけないのよ。資格はないわね」
ずっと目をつぶっていた荻島がゆっくりと目を開いて翠を見る。
「ルールさえ守れば、ゲームは続くんだから、か」
「そりゃあ、いつかは終わるんだろうけど。でも、発展的解消にするべきよ。終わりが綺麗《きれい》じゃなかったら、それまでの思い出が台なしになるじゃない?」
そう、たとえば翠が結婚を決意する時が、もっとも望ましい発展的解消の時だ。そしていつか、自分が普通の家庭の主婦におさまった時、若い頃に輝いていた独身時代の思い出として、時折心から引き出して味わう。スリリングで、ほろ苦い、恋人というよりも愛人と呼ぶにふさわしかった、最も年齢の離れた荻島との日々をたまに懐《なつ》かしみながら、翠は夫や子どものために日々を過ごすことだろう。
翠は、自分の結婚式に荻島を招待する時のことを想像してみた。そして、たとえば翠の結婚相手が、あの恭一郎だったら、荻島はどんな顔をすることだろうか。
「じゃあ、僕は泊まらずに帰れるな?」
「え?」
今やあの亜希もいなくなって、荻島と翠の関係を知る者はいなくなった。本当はやはり誰かに話したい気持ちもあるのだが、万が一のことを考えて、翠はもう誰にも話さないことに決めていた。大人の女は秘密の匂いをさせているに限る。
「僕は君の部屋には行かない、君は僕を引き留めない。それが、ルールだったろう」
「ああ、さっき言ったことを気にしてるの?」
翠は片方の頬だけで笑いながら、片肘《かたひじ》で上体を支えて起き上がり、荻島の向こうのサイドテーブルに置いてある煙草《たばこ》に手を伸ばした。荻島は、自分の顔の上に来た翠の乳首をすかさず口に含む。見おろすと、目を閉じて自分の乳を吸っている中年男が、突然幼い子どものように見えるから不思議だった。
「これ一本吸ったら、起きなきゃ」
「僕が好き?」
「もう十二時になるんだ。一時までには帰りたいもんね」
「僕が、好きか?」
「嫌い」
荻島のライターで煙草に火を点《つ》けて、まず一本目を荻島の口にくわえさせ、二本目にも火を点ける。荻島は、やはり子どものような表情でおとなしく煙草をくわえ、一口目の煙を吐き出す頃には、今度は不敵な笑みを浮かべている。
「好きなくせに」
翠は、ちらりと荻島を見て、自分も深々と吸い込んだ煙を吐き出す。
好きだろうが嫌いだろうが、そんなことはどうでも良いことではないかと思う。嫌いではないから、こうして毎週逢って、食事をして、ホテルに来ている。嫌いではないから、こんなつき合いが一年近くも続いている。嫌いではないから。
「頑固な子だな。絶対に自分からは『好き』とは言わないんだから」
やがて、荻島は諦《あきら》めたような口調になって、煙草の煙を吐き出すのと一緒に呟いた。翠は、その言葉を聞いて初めて、にっこりと笑って見せた。その笑顔が「口に出さないけれど、あなたの言う通りよ」という合図のつもりだった。そして、翠がその笑顔を見せさえすれば、荻島は自然に納得するらしかった。
「さて、じゃあ、帰るとするか」
翠より先に煙草を吸い終えた彼は、灰皿に吸殻を押しつけると、さっさと起き上がる。翠の方でも十分気をつけているつもりだが、それでも念のために情事の形跡を流すためにシャワーを浴びに行く彼の後ろ姿は、決して大きくはなかったけれど、それでも揺るぎない自信に満ちて見えた。
私ニハ愛人ガイル。
私ニハ恋人モイル。
なんとなく、歌うように、翠は心の中で繰り返し呟いていた。
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桜が咲いて、散り、春の匂いがそこここに満ちる季節になった。
中央高速を調布のインターで下りて、まずはいつもの通りに翠をアパートの近所まで送り届けた後、荻島は走り始めたタクシーの左側のシートに尻《しり》をずらして、大きくため息をついた。
四月に入り、翠ももう新入社員ではなくなった。つき合い始めた頃の彼女と比べてみれば、この一年の間に髪は長くなり、化粧も落ち着いて、肌が白くなったと思う。耳元や胸元を飾るものの中に贅沢《ぜいたく》なものが増え、最初の頃こそそぐわなく見えたそれらのものが、少しずつ似合うようになった。クリスマスだといっては高価な時計をねだられ、本当は五月が誕生日なのに、先月の頭にはダイヤモンドのプチネックレスを買わされて、そのくせ五月にもやはり何か欲しいようなことを、彼女はさっき言っていた。
荻島にとっては、何も今度が初めての浮気ではない。これまでにも、何度か若い女子社員や接待に使っていた店の女の子とつき合ったことがあるし、長い時には三年ほども関係が続いたことがあった。けれど、これまでに一度だってそのことを家庭や職場に気づかれたことはなく、泥沼のような深みにはまったこともない。そういう点では、荻島は遊び相手を選ぶ目に自信を持っていた。そして、中でも今度の翠は、もっともつき合いやすい相手と言えた。
だが正直な話、さすがに毎週一回の逢瀬《おうせ》というのも、けっこう大変なことだった。仕入部という部署にいなければ、とてもまかないきれないくらいに費用もかかったし、第一、やはり昔よりも体力が落ちている。たとえホテルに行かなくても、食事をしたり酒を飲んだりしていれば帰りの時間はそう変わらないから、接待が続く週などは、休む暇がなくなってしまう。昔のように、疲れはすぐではなく、数日してからがっくりと出てきて、それがすぐには取れない。
──十日か、二週間に一度じゃあ、駄目かな。
これまでも、何度か口にしそうになったのだが、そうして譲歩してしまっては、ますます翠の若さに負けてしまいそうな気がするから、そのたびに言葉を呑《の》み込んだ。
家が近づくにつれ、頭の中に自宅のリビングの様子が浮かんで来る。昨晩、帰宅した時には、すっかり乾いたカップ・ラーメンの容器と割箸が、調味料やら何日も前の新聞のチラシやらと一緒にテーブルの上に置き去りにされていた。最近とみに反抗的になってきている長男が、家族と食事をしないかわりに、夜更《よふ》けになってから一人で食べたものらしかった。
「最初の頃こそ用意しておいたけど、あんまり無駄になることが多いから、ああして勝手にラーメンでも何でも食べればいいんだと思って。それが嫌なら、食事の時間に部屋から出て来て、一緒に食べればいいんだから」
育ち盛りなのだから、あれでは可哀相《かわいそう》ではないかと荻島が言うと、先に布団《ふとん》に入っていた里江子は、布団を顔の半分まで被《かぶ》ったまま、だるそうな声で答えたものだ。
「普段は私に任せっ放しにしているあなたが、そんなことにだけ口を出すのはおかしいじゃない。明彦のことも友彦のことも、何一つ知らないくせに」
そう言われてしまえば、荻島には何を言うこともできない。まあ、自分のことを振り返ってみても、たしかに親と顔を合わせたくない時期というものがあったから、あえて何か言うこともないとは思っているのだが、それにしても子どもが二人とも男のせいか、最近は特に家の中が殺伐として感じられた。女がまったくいないわけではない、里江子はれっきとした女のはずなのに、近ごろ何だかどこもかしこもくすんで見えるようになったと思うのだ。
「帰ったぞ」
今夜は、翠と逢《あ》っていた割には十二時になっていないから、まだ早い方だった。だが、それでも家の中は早くもしんと静まり返って、荻島は玄関で声を出しながら「おまえのことなど、誰も待ってはいない」と言われている気分になった。
ため息をつきながら靴を脱いでリビングに抜けると、今夜はカップ・ラーメンの容器は転がっていなかった。もう一週間以上前から、テーブルの片隅に置かれているグレープフルーツが、いよいよしなびてきて、片隅から崩れそうになってきている。朝食に出るのだろうと思って毎朝眺めているのだが、そのグレープフルーツはまるで腐って捨てられるためにそこに置かれているようなものだった。
「おい、帰ったぞ」
寝室の扉を開けて声をかけると、里江子が布団の中から微《かす》かに何か声を出した。けれど、起きて来るつもりはないらしい。結局、一時間や二時間くらい早く帰宅したところで、我が家の状況は何一つとして変わりはしないのだ。
「おい、話があったんじゃないのか」
今朝も、出がけに里江子は明彦のことを言っていたのだ。だからこそ、荻島は今夜の翠との逢瀬をできるだけ短く切り上げた。
「おい──」
「寝かせてよ、疲れてるの」
やがて、呻《うめ》くような里江子の声がした。荻島はあからさまに大きく舌打ちをすると、そのまま扉を閉めた。子ども部屋の方の様子も窺《うかが》ってみたが、明彦の部屋も友彦の部屋も静まり返っている。会社の連中の話などを聞いていると、どこの家庭でも、もう小学校の高学年くらいになってくると、十二時過ぎまで起きている子どもが多いという話だったが、荻島の家の子どもは、二人とも早く眠ってしまうらしかった。
「しょうがねえなあ、せっかく早く帰って来たって」
仕方なく、自分でフリーザーから氷を出して、グラスに落とす。ガス台はべったりと汚れているし、流し台も、ステンレスがすっかり曇って、薄汚れていた。
「毎日家にいて、何をやってるんだ」
一人でぶつぶつと言いながら、ウイスキーのボトルに手を伸ばして、荻島はおや、と思った。元々家にいることは少ないし、遅い時間に帰って酒を飲むことも滅多にないから、ウイスキーの減りなどたかが知れているはずだ。たしか、これはついこの間、封を開けたばかりの酒だった。それなのに、もらい物の高級ウイスキーが、もう半分以下に減っている。
「明彦か」
荻島は、口を尖《とが》らせて鼻から息を吐いた。
満足に顔も見せない癖に、酒だけはくすねて飲むようになっているのだろうか。まあ、中学三年なのだから、ああ、いや、中三くらいでは、まだ早すぎる。里江子は、夕飯もきちんと食わない息子が、父親の酒をくすねて飲んでいることを、知っているのだろうか。母親のくせに。
「どうなってるんだ、この家は」
何だか妙だった。自分の家だというのに、ここで起きている状況がまるで分からない。こんなよけいなことを考えなければならないために、急いで翠と別れてきたのかと思うと、馬鹿馬鹿《ばかばか》しくなるほどだ。
ため息をつきながら、小さな音でテレビをつけて、グラスに注いだウイスキーで唇を湿していると、にわかに息子の部屋で、どすん、ばたん、という音がした。次いで「ちきしょう、馬鹿野郎!」という声が聞こえて来た。一瞬どきりとして、荻島はグラスを宙に止めた。
「ちきしょう、ちきしょう、ちきしょう!」
それは、たしかに長男の怒鳴り声だった。荻島は急いで階段を上がり、二階の息子の部屋の前に立った。
「明彦、明彦! 何をやってるんだ」
ドアノブに手をかけると、鍵《かぎ》がかかっている。荻島はドアを激しく叩《たた》いた。そのとたん、中で暴れていたらしい音が止《や》んで、家の中は再び静寂に包まれた。
「明彦、どうしたんだ? 何を暴れてるんだっ」
それでも、息子の部屋からは何も聞こえてこない。荻島は、勝手に父親の酒をくすねて飲んだ息子が、酒に酔ったに違いないと考えた。
「何時だと思ってる。おい、明彦、ここを開けなさい」
「うるせえっ!」
変声期特有のがらがら声に続いて、何かが目の前のドアに叩きつけられる音がして、荻島は思わずびくりと肩をすくめた。これほどの大声が聞こえていないはずはないのだが、隣の弟の部屋はしんと静まり返っていて、扉から顔を出す気配すらない。第一、それほど大きな家でもないのに、里江子まで起きてこないではないか。
──どうなってるんだ、この家は。
荻島は階下の夫婦の寝室にとって返すと、「おい、おい」と里江子を揺り起こした。里江子は目覚めていないはずがなかったが、それでもかたくなに目を閉じている。
「明彦が暴れてるじゃないか。おい、里江子!」
しつこく肩を揺すると、ようやく里江子が布団から出ている目を開けた。
「──いつものことなのよ」
鼻から下は布団をかけたままで、くぐもった声でそれだけ答え、里江子は再び目を閉じようとする。その間にも、二階では何か暴れているらしい音が続いていた。
「いつものことって、どういうことなんだ、おい。明彦は、俺の酒を飲んで暴れてるんだぞっ」
荻島は、もう一度里江子の肩を揺すった。里江子はさも面倒臭いという表情で、どろりとした目を開けた。
「知らないわよ、勝手に暴れてるんだもの。私にはどうすることもできないわよ」
荻島は、苛立《いらだ》って里江子の掛け布団を剥《は》いだ。そのとたん、一瞬表情が凍りついたのが、自分でも分かった。里江子は、着替えもせずにエプロンをしたまま、靴下まで穿《は》いたままの格好で、布団に入っていた。
「何だ、その格好は。どうなってるんだ、この家は。子ども達のことは──」
「私だけの子どもじゃないわよ、父親はあなたじゃないのっ」
里江子は、血走った目で荻島を睨《にら》みつけながら、初めて大きな声を出した。その息はぷん、と酒臭い。荻島は、ますます混乱して女房の顔を見つめた。よくよく見れば、明らかに泥酔《でいすい》しているらしい里江子は、二十年近く見てきた女とは思えないほどによそよそしく、遠い顔をしていた。
「──おまえが、飲んでたのか」
「明彦は、もう、昔のあの子じゃなくなったのよ。明彦だけじゃない、友彦も、私も、みんな変わったのよ!」
金切り声を上げ、里江子は声を上げて泣き始めた。
[#4字下げ]5
ゴールデンウィークが明けて、明後日《あさつて》は誕生日という日だった。二十四歳になると思うだけで、翠は不思議な感覚に陥った。よく、二十五歳になれば、四捨五入で三十歳になってしまうと、先輩達が言っている。つまり四捨五入して二十歳といえるのは、今度の誕生日で最後ということになる。けれど翠は、二十三歳という響きよりも、二十四歳の方が好きだった。
「ごめん、明日から、急になんだ」
昨日までたっぷり二人で過ごしたはずなのに、月曜日の今日、恭一郎のデスクの電話にコアラのクリップを見つけて吉祥寺で待ち合わせをすると、恭一郎は四角い顔をしかめてため息をついた。
「出張なら、仕方がないものね」
翠は、半ば唇を尖らせて、ため息をついた。二人で迎える初めての誕生日だから、少し無理をしてでもお洒落《しやれ》な店で食事をして、二人で祝おうと約束していたのに「出張」の一言で、その予定のすべてをなくさなければならないのは、やはり淋《さび》しいものだった。
「じゃあ、指輪は──どうしようかしら」
先々週の日曜日に、翠は恭一郎と一緒に指輪を買いに行った。プレゼントは何がいいかと聞かれて「指輪」と答えると、恭一郎は一瞬驚いた顔になって「もう?」と聞いた。
「僕ら、つき合い始めて、半年にもならないんだしさ、その、貯金だって──」
婚約指輪を欲しがっていると思われて、単なるアクセサリーが欲しいのだと説明するのに、翠は多少の時間をかけなければならなかった。
そして、ようやく納得した恭一郎の腕を引っ張って宝石店へ行き、誕生石のエメラルドを使った、四葉のクローバーを象《かたど》った指輪を一緒に選んだ。そのサイズをなおしてもらって、誕生日の当日に、一緒に取りに行くことになっていたのだ。
「僕が出張から戻るまで、待ってるか?」
「でも、二週間も待つの、嫌だわ。私、一人で取りに行ってもいい? 恭ちゃんがいなくても、プレゼントはその日に受け取った方が嬉《うれ》しいもの」
そんなはずがないが、ひょっとすると荻島は翠と恭一郎のことに気づいたのだろうかと、ふと思う。わざわざ翠の誕生日に引っかかるように出張を命じるなどとは、どうも荻島の悪意が働いたような気がして、翠は腹が立った。
「意地悪ね、次長も」
そして、荻島は、恭一郎を出張に追いやっておいて、誕生日は自分と過ごさせようとしているのかも知れない。
本当は自分も恭一郎と同じようにジョッキを思いきり良く傾けたいところなのだが、翠は注意深くちびちびとグラスをすすった。ことあるごとに「男らしさ」「女らしさ」という言葉を口にする恭一郎は、女で酒が強かったり煙草《たばこ》を吸ったりすることを、頭から拒絶していた。
まあ、恭一郎と共に過ごせないとなったら、少し我がままを言ってでも、荻島と過ごすのも良いかも知れない。むしろ、その方が素敵な店で勘定のことなど気にせずに、高いシャンパンの一本も開けてもらえると考えていると、恭一郎が一杯目のジョッキを飲み干して、小さなげっぷをした。
「仕方がないさ。二週間も、びっちり次長と二人で過ごすなんて、すげえ疲れる話だと思うけどな」
「次長も一緒なの?」
「そ。俺はお供。青森のさ、工場誘致の件で、視察と会議があるんだ。ついでに東北エリアの会議とか、販売サイドとの打ち合わせとかさ。もしかしたら、新しく契約する工場もあるしな──」
「恭ちゃん」
翠は顔をしかめて身を乗り出した。恭一郎は、手が大きい割には可愛《かわい》らしい小さな爪《つめ》を見せながら、手の甲で口元を拭《ぬぐ》っていた。
「次長には絶対に、私達のことを話したら駄目よ」
「分かってるって」
「私、この間聞いたんだから。荻島次長って昔ね、部下からオフィス・ラブの相談をもちかけられて、男の子の方を転勤させちゃったことがあるんですって」
白いブラウスの肘《ひじ》をついて、小首を傾《かし》げて真剣に恭一郎の顔を覗《のぞ》き込むと、恭一郎も驚いたらしく目を丸くする。
「あの人が? 本当?」
「先輩達が話してたもの。『入社して間もない若造が、女とちゃらちゃらしてる余裕なんかないはずだ』とか言って、岡山だかに転勤にしちゃったって」
つまり、このままでは誕生日は一人になってしまうということではないか。恋人からも愛人からもそっぽを向かれて、一人で過ごすのかと思うと、翠の中に、濁った緑色の憂鬱《ゆううつ》が広がっていった。
「荻島さんって、そういう人かなあ」
「でも、確かに聞いたのよ。何年前の話かは知らないけど。そういえば荻島次長って、もともと厳しい人だし、鋭い感じがするから、『仕事場に恋愛を持ち込むな』とか、言いそうな感じはするわよね」
「まあ、そう見えなくも、ないけどなあ」
恭一郎は頭をかいて、憂鬱そうにため息をついている。裏表のない性格といえば聞こえは良いが、単純で口が軽く、少しでも酒が入って興に乗れば、すぐにぺらぺらと何でも話してしまいそうな恭一郎が、二週間もの間、荻島と共に過ごすことになるとは、何とも皮肉な話ではないか。
「分かった。じゅうじゅう気をつける」
「私のことなんか、どうでもいいけど、恭ちゃんは将来を有望視されてる人なんだからね。地方に飛ばされたら大変だよ」
翠は、理由は違っていたとしても、今まさしく自分が憂鬱そうな顔をしていることだけはたしかだろうと思いながら、少し思い切ってビールを飲んだ。翠の言葉に誇らし気な、嬉しそうな顔になった恭一郎は、満足そうに頷《うなず》きながら自分のグラスにビールを満たしている。
「翠がさ、そういう情報を手に入れてくれるから助かるよ。男の間じゃあ、絶対に聞かれないような噂《うわさ》が流れてるもんなあ、女子の世界は。いわば、内助の功、ってヤツかな」
翠は、もう少し勢いをつけてビールを飲んで、上目遣いに恭一郎を見た。
「褒めてくれる?」
恭一郎は余裕のある笑顔で「ああ」と答える。
「じゃあ、誕生日、一緒にいて」
口を尖らせて頬杖《ほおづえ》をついて見つめると、恭一郎は困った顔になって頭をかくから、翠はグラスに半分残っていたビールをとうとう飲み干してしまった。
「ビールなんかじゃやけ酒にはならないよ」
「いいの」
本当は、喉《のど》が欲しがっただけなのだが、恭一郎は翠のささやかなやけ酒と勘違いしたらしかった。
「せっかくのお誕生日なのに」
「その代わり、電話するからさ」
「だって、次長と一緒でしょう? 無理することないわ」
「──約束はできないけど、でも、なるべく電話するから、な?」
恭一郎は、翠にだけ見せる、自信と優しさに満ちた眼差《まなざ》しで「もう一杯、飲むか?」と聞いた。翠は、ゆっくりと瞬《まばた》きをして、ため息をついて見せてから「うん」と答えた。
翌々日、何だか分からないけれど、あまり愉快ではない夢から目が覚めて、会社に行く途中の電車の中で、翠はようやく今日が自分の誕生日だと思い出した。
今夜は結局、同郷の菊村尚子と過ごすことになった。もちろん、尚子は翠の誕生日など覚えてはいないのだろうが、昨日の夜になって偶然電話をもらい、会うことになった。
オフィスに着いて、仕入部の方を見回しても、やはり荻島の姿も恭一郎の姿もない。今日が翠にとって少しだけ特別な日だと知っている者は、このフロアーには誰一人としていなかった。
淡々と仕事をして、午後になり、給湯室でいつもの通り、キツネ顔の神田道子とおしゃべりをしているうちに、翠の中に朝からの憂鬱が蘇《よみがえ》ってきた。
「もう決めちゃうの?」
道子は、昨年の忘年会の時からつき合い始めた山下と、いよいよ正式に婚約することにしたと翠に打ち明けたのだ。
「だってぇ、ぐずぐずしてたってしょうがないし。弾みがついたっていうのかなぁ」
道子は相変わらず「内緒にしてよ」と言いながら、身体《からだ》をくねらせて笑っている。山下は、翠達よりも四歳上だったから、サラリーマンとしてももう落ち着いていたし、彼は次男で、すでに結婚している長男が田舎で両親と同居していて、その辺りの面倒もないという話だった。
「条件的にも、悪くないしね」
道子の笑顔が、どことなく勝ち誇ったように見えた。翠は自分の内にどんどんと広がっていく憂鬱の靄《もや》とたたかいながら、精一杯明るい表情を作って「おめでとう!」と飛びはねるように喜んで見せた。
「ねえねえ、ねえねえ」
列車の社内販売の真似《まね》をしながら、笑顔でワゴンを押して、課の全員にコーヒーを配り、ようやく自分も席に戻ってコーヒーをすすっていると、例によって隣から、杉松寛子がブラウスの袖《そで》を引っ張る。神田道子が結婚するとは。まさか、あの道子に先を越されるとは思っていなかった──。
「ねえねえ、ねえねえ」
すると、彼女は山下道子になるのか。
「ちょっと、ねえってば、聞いてくれない?」
「あ、はい。すみません」
内心でうんざりしながら、口元にだけ笑みを浮かべて顔を上げると、寛子がにんまりと笑いながらこちらを見ている。その顔を見て、翠はおやと思った。朝は気がつかなかったのだが、いつもほやほやとしていた寛子の眉《まゆ》が綺麗《きれい》にカットされて、おまけに口紅の色もいつもと違うようだ。
今年は翠達の広報課には、新入社員は入ってこなかった。だから、相変わらず翠が一番下のままだ。他の先輩達は、翠の配ったコーヒーなど置きっ放しにして、この短い休み時間に、近所の薬局にファイバー・ドリンクでも飲みに行っているのだろう。翠と寛子の周りだけ、ぽっかりと人がいなくなっていた。
「あれ、杉松さん、なんだかいつもと雰囲気が違うみたい」
翠の言葉に、寛子は「ぐふぐふ」というような笑い声を漏らした。
「内緒なんだけどさ」
「はい」
「内緒よ」
「ええ」
「私さ、先週ね、実は、お見合いしたのよ」
「ええっ? 本当ですか」
大袈裟《おおげさ》なつもりでなく、自然に大きな声が出てしまって、翠は思わずしげしげと寛子の顔を見つめてしまった。
「それがね、昨日の夜、間に立ってくれた人から連絡が入ってねぇえ、お話を進めたいって。もう、嫌になっちゃう」
ぽかんとしたまま寛子を見ていると、寛子は再び「ぐふぐふ」というように笑って、机の引出しからポーチを取り出した。彼女が鏡を覗いているところなど、これまでに見かけたこともなかったから、翠はますます驚いて寛子の様子を見ていた。
「だって、杉松さんは仕入の原田さんが好きだったんじゃないんですか?」
「でもねえ、しょせんサラリーマンはサラリーマンじゃない」
ほとんど使っていない新しい口紅を捻《ひね》り出しながら、寛子は思い出したように翠の方を見た。
「先輩達には、内緒よ。中には僻《ひが》む人だっているかも知れないし、まだ、やっとおつき合いが始まるっていうところなんだから」
嫌になると言いながら、寛子はもうすっかり見合い相手と交際して、そのままゴールインするつもりらしかった。
「──どんな、人なんですか」
相手のことなどに興味はない。けれど、寛子がそれを聞かれたがっているのだろうということくらいはすぐに分かる。そして案の定、寛子は三度目の「ぐふぐふ」を漏らした。
「何ていうのかしらね、いわゆる、エリートっていうのかな。慶応の医学部出ててねえ、今は病院勤務なんだけど、ゆくゆくはお父様の病院を継ぐのよ。三十一歳、まあ、身長はそれほど高くはないんだけどね」
この杉松寛子が、医者の妻、ゆくゆくは院長夫人になるということか。翠はますます驚いて心の底から「へえっ」と言った。
「あちらのお父様と、うちの叔父が知り合いだったのよね。それで、こういうことになったんだけど、まあ、将来、彼の病院を建て直す時には、うちの実家もお手伝いできるだろうし。一応、三カ月くらいおつき合いするじゃない? それで結納っていうことになるんじゃないかしら。とにかく、彼ねえ、もう、忙しい人だから、そうなると、大変なの」
そういえば、寛子の家は何かの商売をしていて、かなり裕福らしいという話を聞いたことがあった。濁った緑色が、ますます広がっていく。
元々別世界の人間だとは思っていたが、こういう形で世界がはっきりと分かれることになるとは思わなかった。寛子のような女は、それこそ弾みだか勢いだかで、どこかの冴《さ》えない男と適当に一緒になって、薄汚い子どもに囲まれて、一年中不満を漏らし続けるような人生を歩むだろうと思っていた。そういう人生が似合う顔に見えた。
「そうねえ、たぶん、冬のボーナスをもらった辺りで円満退社して、来年の春くらいには結婚、かな」
間違いのない人生。
神田道子も、杉松寛子も、翠から見れば、どうということもない顔立ちの、特に個性や魅力があるとも思えない女ではないか。それなのに、なぜそう簡単に一生の伴侶《はんりよ》を見つけることができるのだろう。迷ったふうもなく、道子などは「弾み」という言葉まで使って、いとも簡単に自分の人生を他人に託そうとしている。
今日やっと二十四歳になったばかりの自分は、すぐにではなくとも、少なくとも彼女達よりは先に結婚すると思っていた。そのために、独身生活をなるべく楽しんで、その一方で恭一郎をおさえているつもりだった。自分の方が、よほど確実に、間違いなく歩んでいるつもりだった。スタートは、翠の方が先だったはずではないか。彼女達が結婚することに対して、羨《うらや》ましいなどとは思わない。そう、羨ましいのではない、ただ単に、その安直さに呆《あき》れているのだと、翠は心の中で呟《つぶや》いた。
「私、来週からエステに通おうと思って。ほら、私ってちょっと毛深いしね、秘密にしてたんだけど、ちょっと腋臭《わきが》もあるのね。手術すれば治るっていう話だから、そっちも考えてみようと思ってるんだ」
何が秘密なのだ。一年も傍にいれば、そんなことは嫌というほど分かっている。以前、仕事中に急に悪寒《おかん》がした時に、寛子は親切にも自分のロッカーからカーディガンを持ってきて翠の肩にかけてくれたことがある。けれども、そのおかげで寛子の体臭がすべて翠の服に染《し》み着いてしまって、翠は帰りの電車の中でも自分が腋臭の臭《にお》いをまき散らしているのではないかとびくびくしなければならなかったし、服はすぐにクリーニングに出さなければならなかった。
「仲江さんも、頑張りなさいよ。大丈夫よ、あなただって、それほどみっともないっていうわけじゃないんだから」
「はあい、ありがとうございます。ああ、私も頑張らなきゃ」
──何よ、誰もかれも、馬鹿《ばか》みたいに。
獅子頭《ししがしら》みたいな顔で、笑っていてもどことなく怒っているように見える寛子が。下世話な印象を与える丸っこい目でぎょろりと横を見る時など、えも言われず腹黒そうで、色っぽくもなく、女らしさも感じられない寛子が──。彼女が懸命に鏡を覗き込んでいるのを隣から眺めながら、翠は相手の男の顔を見てみたいものだと思った。もしも、興信所あたりが寛子のことを聞きに来たら、絶対にマイナスの要因になるようなことを言ってやろうと自分に言い聞かせていた。
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ペダルを踏むたびに、少しずつスカートの裾《すそ》が上がって来る。タイトとまではいかないが、比較的ぴったりとしたスカートを穿《は》いた日には、できることならば自転車はやめた方が良いと分かっていながら、朝になると時間が足りなくなって、結局、片手でスカートの裾を引っ張りながらペダルを踏む。
翠はパンプスのヒールが引っかからないように注意しながら、靴の爪先《つまさき》に近い部分で、ほとんどむきになっているほどの勢いで自転車を漕《こ》いだ。
──ブタの日だわ。
幼い頃、朝から転んだり叱《しか》られたりが奇妙に続く日を、翠の母は「今日はブタの日だね」と言って笑った。
「何も、今日がブタの日にならなくたっていいじゃないの」
仕事の帰りに尚子に会うと、彼女は今日が翠の誕生日だと聞いて、いつもの控え目な笑顔で乾杯をしてくれた。特に素敵な祝いの言葉やプレゼントがなくても、少しでも会社での憂《う》さが晴れれば良いと考えて、翠はなるべく明るい話題を提供しようと思っていた。けれど、尚子が翠と会いたがったのは、実は新しく見つけた恋の話を打ち明けたかったからだった。
「誰も彼も、彼氏だ見合いだ婚約だって。今日は私の誕生日なのよ」
これまで、学生の頃から一度として恋人らしい恋人もできなかった尚子は、「ついに来たっていう感じよ」と恥ずかしそうに笑っていた。翠が一緒にはしゃがないと分かると「翠は慣れてるから、冷静でいられるのかも知れないけど、私は何もかもが新鮮っていう感じなんだもの」と言った。そして、十一時過ぎに彼から電話がかかってくるのだと言って、新宿駅の構内で、笑顔で手を振りながら帰っていった。
──二十歳かそこらの小娘じゃあるまいし。
額にうっすらと汗が滲《にじ》んでくる。陽気が良くなって、おまけに酒も入っているから、身体《からだ》が熱くてたまらない。
「くだらない連中にはくだらない相手がつくものなのよ、破鍋《われなべ》に綴蓋《とじぶた》だわ」
口に出して言って、それから翠ははっとなった。
──まるで、今の台詞《せりふ》は嫉妬《しつと》しているように聞こえる。
冗談ではない。どこに、翠が嫉妬する理由などあるのだ。翠にはちゃんと原田恭一郎という恋人がいるのだし、おまけに荻島という愛人までいる。毎週、目が回るように忙しいけれど、それは翠自身が望んでいることだった。広報の仕事など、一日の半分はお茶|汲《く》みとコピーに割かれてしまう、気楽なことこの上ない仕事だ。それで、平均以上の給料だし、荻島のおかげで、案外|贅沢《ぜいたく》もできている。恭一郎がいるから、どこへでもドライブできる。人に羨まれることはあったとしても、翠が人を羨む理由など、どこにもありはしないではないか。
「第一、私は嫉妬なんかするような女じゃないもの」
緩やかな上り坂に差し掛かって、ペダルを踏む足に力を入れながら、翠は自分自身に呟いた。
「私は、そんなタイプじゃない。そんな、くだらないことに惑わされる女じゃない。だいたい、嫉妬する必要なんか、どこにもありはしないじゃない」
やはり少し酔っているらしくて、翠は坂の途中で自転車を下りると、一つ深呼吸をしてから自転車を押し始めた。
心の中に苦々しいものが広がっていく。
二十四歳になった最初の夜に、自分はこうして駅からの長い道のりを、駅前の大手スーパーで買った無印の自転車を押している。指には、尚子と会う前に受け取りに行った、恭一郎からのプレゼントの指輪が光っている。出張から帰れば、恭一郎も、荻島だって、二週間の空白を埋めようとして、それぞれの方法で翠を求めて来るだろう。翠が少し駄々でもこねれば、いつになく優しく甘やかしてくれるに違いない。
「そう、嫉妬する理由なんて、どこにもないわ。今日はブタの日なだけ」
アパートに着く頃には、ブラウスの下はすっかり汗で湿っていた。自転車を止め、だるくなった手でポストを開くと、ダイレクト・メールやサラリー・ローンのチラシに混ざって、電話代の引き落としの通知と大きめの茶色い封筒が入っていた。アパートの横の街灯の明かりを頼りに封筒を裏返すと、差出人は手書きではなく、印刷されている、思い当るところのない名前だったから、翠はその場で封筒を開いた。中から、もう一つ白い封筒と、薄い便箋《びんせん》が出てきた。便箋には事務的な文面で、野崎亜希の弁護士として、本人からの手紙をあずかったので、転送すると書かれていた。そして、白い封筒には、翠の名前と、裏には丁寧な字体で「野崎亜希」の四文字が並んでいた。
野崎亜希。
長い髪を肩に垂らして力なく笑っている顔が浮かんだ。翠は大急ぎで靴を脱ぎ散らかして部屋に入った。電気をつけると、腹を空《す》かせているトシとイッチャンが、小島からごとん、と濁った水に落ち、夢中になって翠に向かって手足を動かし始める。
封筒をテーブルの上に置き、着替えてから読むかすぐに読むかしばらく考える。少し前に判決が下りたという話は聞いたが、もうすっかり別世界の人になってしまった彼女のことなど、これ以上、知ったところで仕方がないと思っていた。
「これが、今夜最後の誕生日のプレゼントっていうわけ」
最後の最後に、とうとう殺人者から手紙まで届いた。まさかとは思うが、もしも「誕生日おめでとう」などと書かれていたら、もう、これからの一年間が台なしになってしまうという気持ちになる。
とりあえず服を脱ぎ捨てて、下着のままで台所に行き、小さなショットグラスを持って来ると、冷蔵庫から取り出したジンを注ぐ。この先、二週間は恭一郎が来る心配がないからと、昨日買ったジンだった。
部屋の片隅には、ずっと出来上がっていないジグソウパズルが薄く埃《ほこり》を被《かぶ》って置いてある。カメが小さな爪《つめ》で、微《かす》かに水槽をひっかく音がするから、翠は顔をしかめて振り返り「うるさい」と言った。エサを撒《ま》いてやれば済むことなのだが、エサさえ降って来れば、もう翠のことなどには無関心になって、さっさとエサを食べて眠ってしまうだけのトシとイッチャンにも、なぜだか今夜は無性に腹が立つ。翠は下着のまま、冬は炬燵《こたつ》になるテーブルに向かって座り、改めて封筒を手に取った。心臓というよりも、全身がどくどくと脈打っている気分だった。
お元気ですか。
突然、私のようなものから手紙を受け取って、さぞかし驚いていることでしょうね。
あのような事件を起こしてしまい、会社の皆さんや仲江さんにも、さぞかしご迷惑をおかけしたと思います。申し訳ありませんでした。もう、職場はすっかり落ち着いたでしょうか。皆さんは、以前と変わらない日々を過ごしていますか。
私は、先月の末に一審の判決が下りました。懲役六年。弁護士さんが是非とも控訴するべきだと言うので、現在、手続きの最中です。こういう事件の場合、普通は多少の情状酌量というものがあるらしいのですが、私は事情が事情だったし、相手の遺族の感情などもあって、実刑の判決を受けました。本当は、私はそのまま刑を受けるつもりだったし、たとえ、それが十年でも、二十年の刑でも構わないとも考えていたのです。でも、両親が泣きながら、何度も考え直せと言いますし、弁護士さんも、単に刑務所に入ることだけで、心の問題が解決できるわけではないと言うので、結局は控訴することになりました。まだ刑が確定していないので、こうしてあなたに手紙を書くことができています。確定後は、そんな自由もなくなるのだそうです。
意識が戻って、自分だけが助かったと知った日から、私は毎日、あの時のことを考えて暮らしています。裁判の間にも考えていました。でも、なんだか何もかもが現実のような感じがしなくて、自分が何かの芝居でもしている気分が続いていました。それでも、最近になってやっと少し気持ちが落ち着いて来たのでしょうか、誰かに正直な気持ちを伝えたいと思うようになりました。両親や弁護士さんがいくら心配してくれても、私と倉沢次長とのことを知っていたのは、仲江さんだけだし、二人のことを知らない人に話しても仕方がないと思っていたのです。だから仲江さんに、どうしても私の気持ちを分かって欲しいと思いました。こちらの勝手な希望で、本当にごめんなさい。
私は、本当に自分の手で、あの人を刺してしまいました。
あの日、私は久しぶりで次長と逢《あ》うことができて、相変わらず精いっぱい突っ張っていたのです。次長は、いつも物静かで、私がいくら芝居をしてもすべて見通してしまうようなところがありました。私が彼を心から愛していることも、彼と離れたくないと思っていることも、次長は十分に承知していました。けれどあの日、次長は「許してくれ」と言ったのです。
「出会うのが遅すぎた。僕自身が、今はもう自由に身動きのできる立場じゃない。会社があり、家庭があり、しがらみの中で、やっとの思いで生きてる。それらの、何もかもを振り捨てて、君と生きる勇気など、今の僕にはもう残っていない」
倉沢次長は、私の部屋に来て、頭を下げて言いました。私は「どうして」と、何回となく言いながら泣きました。もしも、倉沢次長が、仲江さんの言う通りの、単なる遊びで私を選んだ人ならば、私は彼を罵《ののし》って、彼も適当に謝るふりをして、そしていつかは思い出になって、毎日は過ぎていったに違いないのだと思います。けれど、あの時、倉沢次長は苦しそうに言いました。
「何もかも、ゼロにすることはできないんだろうか。もう、疲れたよ。もっと早く、君と知り合いたかったが、年齢もタイミングもすべてがずれていたんだな」
彼は、学生の頃は本当はバンドマンになりたかったのだと言っていたことがあります。今でも音楽が好きで、できることならばサラリーマンの世界から抜け出したいと思うと、言っていました。私は、散々泣いて興奮していたので「死ぬしかないわよ。あなたは、会社からも奥さんからも逃げられないんだから!」と言ったのです。そんな弱々しい言葉を吐く彼など見たくなかったし、せっかく久しぶりに二人きりで会えたというのに、そんなに疲れてしまっている彼を見ていたくはありませんでした。
「一緒に生まれ変わるか」
すると彼が、あまりにも諦《あきら》めたように、皮肉っぽい顔で言ったので、私は思わず包丁を取り出して、彼に向けたままで抱きついたのです。
彼は、最初驚いて、それから淋《さび》しそうな顔で笑いました。
「よく考えもしないで、こんなことをして」と彼は言いました。だって、一緒に生まれ変わるには、一緒に死ぬしかないのだと、私は思い込んでいたのです。だんだん血が流れてきて、私はいよいよどうしたらいいか分からなくなりました。そうだ、救急車を呼ばなきゃ、一一九番しなきゃ、と思いました。ですが、その時、倉沢次長が言ったのです。
「これでいい。もう、いいよ」
彼は、とても苦しそうに、でも安らかな瞳《ひとみ》で「医者を呼ぶ必要はない。このまま、こうしていたい」と言いました。病院に連絡しても、もう事件を隠せないだろうし、会社にも家にもばれてしまうだろう。詳しく事情を知らない人達に好奇の目で見られ、誤解されるよりは、ここでこうして静かに寝ていたいと、彼は言いました。私は、彼に遅れてはならないと思って、必死で自分の手首を切りました。そして、泣きながら彼の隣で眠りました。それなのに、何度も目覚めてしまうのです。隣の彼は徐々に息が細くなり、やがては私の呼びかけにも応《こた》えなくなりました。私は何度も手首を切り直し、そのたびに彼に「待っていて、待っていて」と言いました。
それから、どのくらいの時間が過ぎたのか、最後に気づいた時には、もう彼は息をしておらず、身体は冷たくなり始めていました。私は、自分だけが生き残ってしまうのだろうかと思うと、その方がよほど恐ろしくて、ストーブのホースを抜いて、ガス栓をひねったのです。どんなことをしてでも、彼に置いていかれたくなかった。どんなことをしてでも、彼の傍にいたかった。
病院で意識を取り戻してから、警察の人からも、駆けつけてきた母からも「人を殺したことをどう思うのだ」「自分が生き残った場合の人生を考えなかったのか」と言われました。でも、私は先のことなど何も考えていませんでした。私にとっては、倉沢次長こそが自分の人生そのものだったのです。そんな大切な人を自分の手で殺してしまったことについて、どう考えるのだと、裁判の時にも何度も聞かれました。
私は、後悔していないのです。
彼は死んでしまって、私は生き残ってしまいました。けれど、人にどう思われようと、彼のご家族を不幸に陥《おとしい》れようと、彼は、もう私だけのものになったのです。彼は、自分が私よりも二十六歳も上だったことを恥じていました。悔しがっていました。けれど、一緒にいるときに、私達はお互いの年齢のことも、背負っている背景のことも、すべて忘れることができたのです。
私は、心の底から彼を愛していました。これが、私の愛の形なのです。私は、今でも彼に会いたいとばかり思います。彼のことばかり考えて過ごしています。
仲江さんには、彼とのことを話していましたから、最後まで本当のことを知っていて欲しいと思いました。私は、それほど器用な性格ではありませんから、恋愛を遊びとして捉えることができませんでした。最初は、仲江さんの言う通り、ゲームとして考えるべきなのだと思っていたけれど、どうしても、そんなふうには思えませんでした。きっかけも、すべての条件も、私達には何一つとして味方してくれなかった。でも、彼と出会えたことが、私の幸せでした。
できることならば、あの時一緒に死んでいたかったのですが、最後の最後まで、思い通りにはいきませんでした。だから、私は彼のことを思って暮らしていきます。
馬鹿《ばか》な女、悪い女。そう思われても、仕方がありません。でも、今も彼を愛していることだけは、分かって下さい。
こんな手紙を受け取って、ご迷惑だったとは思います。けれど、どうしても、誰かに自分の気持ちをきちんと伝えておきたかったのです。最後まで読んで下さって、ありがとう。仲江さんは、私みたいな失敗をせずに、幸せを掴《つか》んで下さい。周囲のすべてから祝福される、本当の愛を見つけて下さいね。あなたの幸福をお祈りしています。
「何──何よ、これ」
背筋を冷たいものが這《は》い上がって来ていた。翠は、下着のままで長い手紙を読み終え、思わず両手で自分の二の腕を抱きしめた。
不倫して、本気になって、ついには相手を殺した女が、自分は死に損なった女が、拘置所から手紙をよこした。後悔などしていないと。自分で殺した愛人を今も愛し続けていると。
そんな、たわけた内容の、何を理解しろというのだ。
さっきからずっと、カサコソという音が続いている。ふと見ると、二匹のカメがエサを求めて必死でもがき続けていた。
「愛してたんだって。殺しても、自分の人生を台なしにしてもいいと思うくらいに、愛してたんだってさ。そんなの、分かる? たった一人の男のためよ。それも、とんでもなく年上の、冴《さ》えない中年の、ただの不倫相手よ。それなのに、後悔してないんだってさ! 相手を殺しても!」
水槽の蓋《ふた》をずらし、エサを待って顔を上げている小さな生命に向かって、翠は手を伸ばした。トシは甲らをつままれて、一瞬手足と首を甲らに引っ込めた。
「あんたは、そうやって首を引っ込めるだけ」
次に取り出したイッチャンは、翠の手の力から抜け出そうと、小さな手足をばたつかせる。
「あんたは、じたばた逃げようとするだけ」
二匹を仰向《あおむ》けにした状態でカーペットの上に置くと、トシはしばらくのあいだ、甲らにすべてを引っ込めただけでじっとしている。イッチャンは、腹を見せたまま、必死でもがいている。
「何が、愛なのよ。馬鹿馬鹿しいこと言わないでよ。あんな女から、幸せなんか祈ってもらいたくないわよ」
大きなおはじきにするように、翠は仰向けになっているふたつの甲らを指で弾《はじ》いた。こんもりと盛り上がっている背を下にされたままの二匹のカメは、抵抗することもできずにくるくると回る。
「馬鹿みたい。誰も彼も、何が愛なの。何が運命なの。どいつもこいつも、私に何が言いたいのよ!」
こんな誕生日があるものか。人が幸せになる話ばかり聞かされて、自分は一人のままで。これが二十四歳の始まりだというのか。
──馬鹿みたい。
皆は皆。私には私の生き方がある。よけいなことを言われたくない。翠は歯を食いしばり、ひたすらカメを弾いていた。
何度も指で弾くうち、イッチャンが首の力を利用して、ぱたりと背中を上にした。
「あんた、私の遊び相手が嫌だっていうの」
再び甲らをひっくり返し、指で弾く。情けないほど小さな尻尾《しつぽ》だけをしまい忘れて、イッチャンは逃げることもできずにくるくると回る。
「馬鹿みたい。馬鹿みたい」
これから二週間、予定は何も入っていない。ずっと放ったらかしにしてあるジグソウパズルを仕上げるには、ちょうど良い期間だ。約束に追われることもなく、毎日早く帰って、たまには料理をしよう。
時計を見れば、もう十二時を回っていた。
田舎からは、誕生日を祝う葉書の一枚も届かない。恭一郎にしたところで、どうせ荻島の相手で今ごろは酔いつぶれているかも知れない。世界中で、翠の誕生日を祝ってくれる相手は、結局、誰一人としていないのだ。
「あんた達、おめでとうって言ってごらん。そうしたら、ご飯をあげる。ほら、言ってごらん、おめでとうって」
苛々《いらいら》とした熱い塊《かたまり》が込み上げて来そうになるのを感じながら、翠は二つの甲らを弾き続けていた。
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[#2字下げ]第三章
[#4字下げ]1
大きなボストン・バッグを下げて、長い道をだらだらと歩いている夢を見た。道の両側は一面のとうもろこし畑か何かで、熱い風が吹き抜けていた。じりじりと、まばゆいばかりの太陽が照りつけている、音のない世界だった。あまりに荷物が重いので、荻島は立ち止まって、バッグを下に置いた。痺《しび》れてしまっていた左腕がようやく楽になって、その手を軽く振ったところで目が覚めた。
一瞬、どこでどういう姿勢で眠っていたのか分からなくてぼんやりとしていると、足元の方で誰かが歩く気配がする。
まさか、里江子がまた酒を求めて起き出しているのだろうかと、思わず上体を起こすと、里江子よりもずっと細い腰が、こちらに背を向けて下着をつけているところだった。
「起きた?」
薄明るい部屋に翠の声が広がった。
「ああ──熟睡してた」
そうだ。ここは自分の家ではない。隣にいたのは翠だった。荻島は思わず両手を上に伸ばして大きなあくびをした。
「珍しいわね、本当に眠っちゃうなんて」
「──気持ちがよかった。夢まで見てたよ」
「私が起きたらすぐに腕を振って寝返りまで打ってた。やっぱり、腕が疲れてたんだわ」
夢に見たとうもろこし畑が蘇《よみがえ》る。たった今見ていたあの風景は、実際には見たこともない場所だった。もう二度と、あんな道を歩くことはできないのだと思うと、奇妙に淋《さび》しい気分になる。
「もう一時過ぎてるよ」
翠は「明日も仕事だ」と言いながら、ストッキングに足を通している。荻島は、人知れずため息をついて、てきぱきと服を着る翠を眺めていた。彼女の動作には眠気も気だるさなども感じられず、ブラウスのボタンをはめる指の動きもスカートのファスナーを上げる手つきも、実に自然で滑らかだった。何に思い悩むことも、逡巡《しゆんじゆん》することもなく、小憎らしいほどに手際《てぎわ》よく、過ぎて行く時への哀惜も未練も感じられない。
「早く、シャワー浴びてきたら」
いつまでもベッドから起き上がらない荻島を急《せ》かすように、翠がこちらを見たから、荻島は彼女に向かって手を差し出した。翠は時々見せる、少しだけ呆《あき》れているような、余裕のある笑みを浮かべた後、それから口元をきゅっと結んで荻島をたしなめるような表情になって、荻島の手を取った。荻島はすかさず、最近見かけるようになった、四葉のクローバーを象《かたど》った指輪の手を自分の胸元まで引き寄せる。翠は小さく「きゃっ」と言いながら、荻島の上に倒れ込んで来た。
「今夜は、泊まろうか」
彼女の髪を撫《な》でながら耳元で囁《ささや》く。翠は荻島の胸に顔をつけたまま、動かない。
自分から口にしておきながら、荻島は翠が誘いに乗らないことを祈っていた。翠が「泊まる」と言い出したら、どうするつもりだと、自分の中で声がする。
「駄目。そんなわけにいかないでしょう」
翠のくぐもった声が聞こえた。
「いいじゃないか、今まで一度もないんだから。一回くらい、ゆっくり眠って一緒に朝を迎えたって」
「朝になったら後悔するに決まってるんだから。第一、同じ服を着て出社するわけにいくと思うの?」
「じゃあ、翠の部屋に泊まる」
荻島の言葉に、翠は荻島の胸から顔を離して、本気で驚いている顔になり、しげしげと荻島の顔を覗《のぞ》き込んできた。
「冗談でしょう?」
「だって、僕は君がどんな部屋に住んでるか、一度だって見たこともないんだよ。その方が不自然じゃないか?」
翠は少しの間視線を宙に漂わせ、それからため息をついた。どこまで食い下がれば、翠が「うん」と言うか、荻島にはその度合が分からない。どこまでも「駄目」と言い続けてくれることを望んでいるというのに、その一方では、このまま、まるで違う人生が始まるかも知れないスリルを味わいたい。
「どうしちゃったの、急に。今まで一度だって、そんなことを言ったことなかったじゃない。私が泊まりたいって言ったって、一度も言うことを聞いてくれなかった人が」
「我慢してたんだ」
俺の責任じゃない。
荻島は、翠の髪を撫でながら心の中で何度も繰り返した。俺の責任じゃない。これで、こんなことがきっかけで、長年かかって築き上げてきたものが崩れたとしても、仕方のないことだ。だが、翠は外泊するつもりも、荻島を泊めるつもりもないらしい。半ば確信してはいたのだが、やはりほっとしながら、それでも荻島は食い下がって見せた。
「一度くらい、いいじゃないかって思ったんだがな」
「一度きりで、済むと思う?」
翠は、正面から荻島を見た。
「済まなかったら、その時だ」
「私のため?」
薄明るい照明の中で、翠の瞳《ひとみ》はいつにも増して濡《ぬ》れて輝いて見える。ふと、頭の中を倉沢の死顔がよぎった。五十近くにもなって、今さらこれまでの生き方を変えたいなどと望んだとしても、とても一人でそれをする勇気も気力も湧《わ》いては来ない。若い女の力でも借りなければならなかった倉沢の気持ちも、分からないではないと思う。ただ、彼の場合は人生を変える前に、生命《いのち》を落とす羽目になってしまったが。
「君と、こうしていたい」
荻島が言うのと同時に、翠は身体《からだ》を起こしていた。荻島の手を柔らかくほどき、再びベッドから離れると、彼女はドレッサーの前に座って髪をとかし始める。
「深みにはまるだけだわ。分かってる? あなたが一度でも私の部屋に来たら、私はそれからずっと、あなたが部屋にいない間、悔しくなったり淋しくなったりするのよ。あなたに、もっと我がままを言いたくなるだろうし、そのうち、あなたの家庭を壊したいと思うようになるかも知れない」
「そうなったら、そうなった時じゃないか」
翠が介入するまでもなく、荻島の家庭など、とうに崩壊しかかっている。むしろ、まともなのは荻島しかいないような状況になっているのだ。
「駄目」
鏡に向かったまま、翠はきっぱりとした口調で言った。
「それじゃあ、ゲームじゃなくなっちゃうじゃない」
荻島は秘《ひそ》かに安堵《あんど》のため息をつきながら、翠の後ろ姿を見ていた。何、本気でこれまでの生活を捨てようなどと考えているわけではない。そんなことができるはずがないことくらい、十分に承知している。さっき見た夢の余韻が残っているだけのことだ。ただ少し、気分を変えたかった。
「ゲーム、か」
ため息をつきながらベッドから下り、バスルームに向かいかけると、今度は翠が「ねえ」と声をかけてきた。
「泊まりたいって、ずっと一緒にいたいっていう意味?」
「──冗談だよ」
スツールに載せた腰を捻《ひね》って、こちらを見ていた翠は、一瞬ほっとした笑顔になり、「もう」とでも言うように、口を尖《とが》らせて眉《まゆ》をひそめて見せる。今どきの若い娘の中でも、際立《きわだ》ってドライにできているらしいこの娘は、実際、荻島以上に面倒を嫌う。おまけに彼女の脳裏にも、あの野崎亜希の姿が思い浮かんでいたかも知れない。最近はそうでもなくなったが、あの事件の後しばらく、翠は何かにつけ「誰かさん」という言葉を使った。互いに同じ秘密を抱き、その秘密を打ち明けあっていた友人が、あんなことになったのだから、そのショックは荻島が思っているよりも実は大きく、尾を引いているのかも知れない。
「帰りにちょっと買物したいんだけど」
「こんな時間に?」
「コンビニでいいのよ。どこでもいいから、通りかかったら一度停まって」
ドレッサーの前の翠は、奇妙に真面目《まじめ》くさった顔で髪をとかし続ける。固く口を結んで、まるで怒っているみたいな顔で鏡を見つめている。
「すぐに支度をするから」
ゲームの相手としては、たしかにこれほどのいい相手はいないかも知れない。けれど、翠という女は、果して情が濃いのか薄いのか分からないところがあった。自分達のゲームのことをよく了解しているからこそ、彼女はいつでも、こんなに落ち着き払っていられるのだろうか。これほど何度となく肌を合わせ、翠の肌の温《ぬく》もりも滑らかさも、癖も好みも何もかも知り尽くしているつもりなのに、荻島は時折彼女と自分の間に薄ら寒い風が吹き抜けているのを感じないわけにいかなかった。
──まあ、だからこそいいんだが。妙に情が絡《から》んでくる女よりも。
二時半を回って帰宅した時には、里江子は台所のテーブルにつっぷしたままで眠っていた。飲みかけのウイスキーの入ったグラスとボトルが置かれているだけのテーブルは、ぞっとするくらいに寒々と見える。
「また買ったのか」
だらしなく眠りこけている妻を見るだけで、全身から力が抜けていくようだ。なぜだ。どうしてだという思いばかりが、頭の中で渦を巻く。もともと、猪口《ちよこ》一杯程度の酒を飲んだだけでも、顔を真っ赤にしていた里江子が、いつの間にウイスキーをストレートで飲むようになったのか、荻島にはまるで分からなかった。最初、そのことを言った時、里江子は酒臭い息を吐きながら、荻島に食ってかかってきた。
「あなただって、毎晩飲んでるじゃないのよっ」
「だから、飲むのが悪いとは言ってない」
「外で遊び歩いてるわけでもないでしょうっ。私だって、少しはストレスを発散させたいわよ。ずっと家の中にばっかりいて、もう、息が詰まりそう。いつだってあなたは仕事、仕事って。何でも私一人に押しつけてっ!」
里江子は堰《せき》を切ったように泣き、わめき、荻島を責めた。
改めて聞いてみれば、長男の明彦は高校に進学したくないと言い出しているし、次男の友彦は朝になると腹痛を訴えるようになり、学校に行きたがらなくなっているという。そんな状態になっていることを、どうして何も言わなかったのだと聞けば、「何度相談しようとしても、あなたは全然取り合ってくれなかったじゃないのっ」と、さらに責められて、荻島は返す言葉がなかった。そのうえ、ゴミの収集場所のことで近所の主婦と喧嘩《けんか》になり、先月、二週間の出張に行っている頃からは、無言電話までがかかってくるようになったという。
「親父《おやじ》の責任なんだからなっ!」
高校に行かないと言い出した明彦は、自分自身も母親の心労の種になっていることなど棚に上げて荻島を責めた。弟の友彦は、今や家族の誰とも話さず、ほとんど部屋から出なくなってしまっていた。
家の中は、あたかも爆発の瞬間を待つように、徐々に緊迫した空気が張りつめるようになっていた。同じ家族でありながら、いつの間にか皆が虚《うつ》ろな目をして、互いのことも、何も見ていない。
「このままじゃ、身体をこわすぞ。もう立派な依存症なんじゃないのか? 病院に行った方が、いいんじゃないのか?」
「何が病院よっ! 人を病人扱いするのっ! 何よ、あなたなんか──ああ、ごめんなさい、私が、勝手に、飲んで、勝手に、酔っぱらってるのよね──ごめんなさい」
今夜も、やっと揺り起こせば、里江子の虚ろな瞳がぐずぐずと濡れてきて、やがてびしょびしょと涙が落ちる。荻島は背中の力がいっぺんで抜けてしまいそうな疲労感を覚えながら、急に老《ふ》け込んでしまった女房の頭を抱えて撫でてやらなければならなかった。
「あなたぁ、ごめんなさい、ごめんなさい──でも、飲まないといられないのよぉ、恐《こわ》いのよぉ──」
里江子は鼻の先に滴《しずく》をつけたまま、半ばろれつの回らない口調で、しゃくり上げている。その様子は、幼い子どものようでもあり、見知らぬ老人のようにも見えた。そんな弱々しい存在に対しては、荻島も、以前のように「うるさい」「明日にしてくれ」とも言うわけにいかず、ただ黙っているより仕方がなかった。
「昼間は、昼間はね、まだいいのぉ──でも暗くなって、一人ぼっちで、何時になるか分からない、あなたの、帰りを待ってると、何だか、恐くて、恐くて」
「子ども達は」
荻島が努めて平静な声で聞くと、里江子の肩がぴくりと動き、泣き声が一層大きくなった。
「明彦はね、『おめえなんか、死んじまえ』って。『酔いどれのおふくろなんか、いらねえ』ですって。駄目な、母親よね。あの子を守ってやらなきゃ、いけないのに。友彦は──友彦は、相変わらず。全然、まるで口をきいてくれないの。他人を見るみたいな目で、ちらりと私を見るだけ」
もう三時になろうとしている。こんなことならば、やはり泊まって来るんだった。いや、そうではない。翠などと逢《あ》っていないで、さっさと帰って来るべきだったのだ。だが、早く帰宅したとして、荻島に何ができたというのだろうか。
「とにかく、ちゃんと布団《ふとん》で寝よう」
里江子の肩を抱き抱えて椅子《いす》から立たせようとすると、里江子は涙でびしょびしょになった顔でじっと荻島を見上げる。
「あなたって、酔っぱらいには優しいのねえ。外では、いつも、こうして酔った女の子を介抱してるんでしょうねえ」
「何言ってるんだ。もう三時になるんだぞ」
「手つきで分かるわ。あなた、いかにも慣れてる感じがするもの。ついさっきまで、誰かの肩を抱いてたみたいな感じが、ぷんぷん、する」
里江子は鼻をくんくん鳴らして、荻島の肩の辺りを嗅《か》ぐふりをする。
「ほうら、匂《にお》うわよ。若い、女の匂いがする」
「馬鹿《ばか》なことを言ってないで、ほら」
荻島は、まるで骨が抜けたかのように崩れ落ちそうな里江子を、無理矢理に立たせて寝室へ連れて行った。自分はまだ背広も脱がず、ネクタイも緩めていないのだ。この分では里江子は明日も二日酔いで起きられたものではないだろう。子ども達二人を一応起こすべきだろうか。行かないと分かっていても、学校に行く時刻には声をかけなければならないだろうか。
「電話がねえ、かかってくるのよ」
「相手にするなよ」
「ゴミよ。ゴミの電話がね、かかってくるの。『おたくのゴミが、散らばってる。おたくのゴミに不燃物が混ざってる』」
「ああ、分かったよ。相手を突き止めような」
「電話よ。何も言わないで、黙って切っちゃうのよ。きっと女よ」
「ああ」
「明彦は、あなたみたいになりたくないんだって、絶対にイヤだからなって、怒鳴ってた。歯車──人間」
「歯車人間?」
「友彦は、明彦みたいになりたくないって言ってた──あなた──私は、ねえ」
「ああ」
「あなた──誰」
だらしなく着崩れている服を脱がしてやる間、里江子はずっとわけの分からないことを言い続け、ようやく下着にしたところで、布団の上に崩れるように寝てしまう。化粧気もなく、すっかりつやのなくなった頬はまだ涙で濡れていた。
荻島は、自分の布団の上にがっくりと膝《ひざ》をついた。
──あなた、誰。
弱々しい寝息を立てている里江子を見ながら、荻島は「泣きたいのはこっちだ」と呟《つぶや》いた。布団カバーの柄が、いかにもよそよそしいものに見える。毎晩自分がこんな柄の布団で眠っていたと、今まで気づいたことがなかった。さっきの夢で見た、あの畑の中の一本道に戻りたいと思う。重いボストン・バッグを下ろした時、たしかに額の汗を熱い風が吹き飛ばして行ったような気がする。
「何だって、こんなことになったんだ──」
不覚にも涙がこぼれそうになる。荻島は布団の上に尻《しり》もちをついたまま天井を見上げ、力任せにネクタイを解《ほど》いた。
[#4字下げ]2
海辺に建つファーストフード店の、海の見える席で、ぼんやりと外を眺めていると、やがて恭一郎がトレーを持ってやってくる。夏にはまだ早かったけれど、雑誌の「初夏の湘南デートコース・ガイド」という特集を読んで、彼はさっそく、このコースをドライブしたがった。
「ええと、あと二百六十円な」
前回のデートから、飲食にかかる費用はすべて割り勘ということになった。
「もちろん、ガソリン代とか、高速の料金とかは俺が払うけどさ。二人で節約すれば、それだけ早く貯金できるだろう?」
その前のデートの時に、恭一郎は屈託のない笑顔で翠に言った。二人で協力して、金を貯《た》めようと。互いに目標額を決めて、競争しようとも。
「細かいのがないわ」
小銭入れを覗《のぞ》きながら、翠が言うと、恭一郎は「釣りなら、あるよ」と、白い短パンのポケットに手を入れる。カジュアルな短パンに、四角い黒のコインパースはいかにも不似合いだ。そこからサラリーマンの匂いがしてくるような気がする。
翠は財布から千円札を取り出し、くすんだピンクに塗られた安っぽいテーブルの上を滑らせた。十円玉から五百円玉まで、きちんと仕分けして入れられるようになっているコインパースから、ぱちり、ぱちりと音をたてながら小銭を取り出して、恭一郎は釣り銭ぴったりの金額をテーブルに並べた。
「なにしろさ、うかうかしてられないもんな。今の会社にいるかぎり、俺の生涯収入はもう決まってる様なものだしさ、計算もできる。それを常に頭に入れて、間違いのない、失敗のない人生を歩まなきゃ、な」
夏のボーナスが出て、翠はその半額以上を洋服のクレジットに使い、欲しかった物をちょこちょこと買って、貯蓄に回したのは五万円程度だった。けれど恭一郎は、ボーナス全額を貯蓄に回した。それが、ゆくゆくは「結婚相手」の幸福にもつながるのだと、この頃の恭一郎はことあるごとに翠に言うようになっていた。
「この世の中は、先手、先手でいかなきゃ駄目なんだ。結婚したら、すぐに子どものための学資保険に入って、な? それから、子どもが生まれて、ある程度大きくなったら、今後は俺らの養老保険に入って、だろう? もちろん家だって欲しいしさ、まあ、嫁さんになる人が親と同居してくれるっていうんだったら、話は簡単だけど──とにかく、世界がひっくり返ったって、自分達だけは大丈夫って気でいかなきゃ」
この五月、翠の誕生日に、ねだられるままに三万円程度の指輪を買うことになった時に、恭一郎は「何の役にも立たないのに」「正直言って」高いと思ったらしい。そして、たかだか指輪一つだというのに、それだけの金を「投資した」相手なのだから、当然、共に将来についての青写真を描ける相手だと考えたらしかった。
翠は、旨《うま》そうにダブルバーガーを頬張る恭一郎を、静かな笑顔で眺めていた。それ以外に浮かべられる表情が思いつかないから笑っている。これでは会社にいる時と、まるで同じだった。
仲江さん、はい。仲江君、はい。
別に、不機嫌な顔になる理由など、どこにもありはしない。とりたてて何の不満があるわけでもないはずなのに、あまりにも屈託のない様子で、あっけらかんとしている恭一郎を見ていると、どうしても、心の底にわずかに苛立《いらだ》ちが揺らぐのだ。「男は女をリードして、常に女を守るものだ」と断言する恭一郎は、裏を返せば、自分の考えに素直についてくる女を望んでいる。
すべてを任せてしまっていれば、その方が楽に違いない。今のところ、はっきりと口にこそ出してはいないものの、彼は、これから先、あと何十年残っているかも分からない翠の人生に、全責任を負おうとしているのだ。そして、翠も「彼ならば大丈夫」と思うからこそ、こうしてつき合っている。もしも翠が恭一郎と一緒になるとなったら、職場の誰もが羨《うらや》むに違いない。
「海岸通りを走って、そうだなあ、葉山辺りで少し休んで、前に一度寄った喫茶店でコーヒーを飲むだろう? んで、夕方の渋滞前には帰ろうな。そうすれば、夕飯は翠の部屋でゆっくり食える」
ただ隣にいるだけで、翠は恭一郎と荻島との違いを感じる。二人が全身から発散するエネルギーの違いを感じる。
──あの時、荻島の言葉を受け入れていたら、どうなっていただろう。
翠は恭一郎に対しては、まだ一度も「駄目」という言葉を使ったことがない。そんなひと言だけでも、自分の我を通そうとしたことがない。それは、恭一郎が強いからとか、弱いからとかの問題ではなかった。むしろ翠の方に、口に出す以前から、無駄だと諦《あきら》めてしまう部分があるのだ。あまりにも硬質でまっすぐな恭一郎には、一度でもぴしゃりとやられたら、かえってそのまま脆《もろ》くも崩れてしまいそうな、そんな何かを感じて仕方がない。だから、言わない方が彼のためというよりも、翠自身のためという気がする。翠が「いや」「駄目」と言えるのは、荻島に対してだけだった。荻島には、そうすることができる。だからこそ、あの時翠は、荻島が果してどこまで強引に我を通そうとするか、内心では胸を高鳴らせていた。翠が何度「駄目」と言っても、その言葉を突き破ってくれるのを望んだ。けれど、荻島は諦めた。
「帰りにさ、デカいスーパーを探して、買物しような。出来合いのものを買うのでも構わないからさ」
陽に焼けた四角い顔、厚い胸と広い肩。普段着のときの恭一郎は、その辺の学生よりもむしろ若々しく、ずっと溌溂《はつらつ》として見える。人当りの好《よ》い笑顔と、こぼれる白い歯。身のこなしの柔らかい敏捷《びんしよう》さと、決して愚鈍に見えない眼差《まなざ》し。
彼は、翠のアパートを自分の空間のように自由に使う。あの時、翠が荻島の言葉を受け入れていたら、荻島は、翠の部屋のそこここに、男の気配を見つけなければならなかっただろう。洗面所には髭剃《ひげそ》りとシェービングクリームがあるし、ドレッサーには男性用のムースがある。パジャマ代わりの大きなTシャツも、靴下もトランクスも、普段着の一揃《ひとそろ》いと、スニーカーまでがある。
──見せてやればよかったのかも知れない。男はあなただけじゃないのよと、口で言わずに知らせてやれば。
「いや、待てよ。あちこち、うろうろするのは時間のロスか。やっぱりさ、近所の、いつものあそこにしようか」
荻島は、相手が恭一郎と分からないまでも、自分よりもはるかに若い男の存在に打ちのめされたことだろう。独身で、身軽で、すべての点で翠に似つかわしい男がいると知ったら、彼はどうしただろう。素直に別れ話を切り出すか、それとも嫉妬《しつと》にたけり狂うか。少しくらいは取り乱しただろうか。
「朝がハンバーガーだから、昼飯はさ、ほか弁でも買ってさ、海辺で食おうな」
「ほか弁?」
「倹約、倹約。景色がいいんだから、何を食ったって、旨いに決まってるよ」
翠の会社では、女子はともかく、男子社員の場合は就職して三年間は結婚しないというのが不文律になっている。もしも、このまま恭一郎とつき合い続けたら、これから最低二年間は、ずっとファーストフードと「ほか弁」の、割り勘デートが続くのだろうか。それでも、好きな相手と一緒だったら、二人で共に目指す一つのゴールがあるのなら、特に何とも思わないものなのだろうか。
ずい分、つまらない数年になりそうだ。そんな味気ない思いはしたくないと思うのは、多少なりとも荻島のおかげで贅沢《ぜいたく》に慣れてしまっているからだろうか。いけないことなのだろうかと、翠は少し淋《さび》しい気分で窓の外を流れる景色を眺めていた。
「サーファーが多いなあ。連中は気分いいかも知れないけど、やらない奴《やつ》から見れば、なんだか目障《めざわ》りだ」
レンタルショップで借りてきたCDをダビングしたテープは、何度も聴きすぎていて、もう飽きてしまっている。けれど、無邪気な恭一郎は、翠がたった一言「山下達郎が好き」と言って以来、ずっと同じテープを車に積みっぱなしにしている。もうテープそのものが伸び始めているというのに。
「やっぱり、CDプレーヤーがあると、いいなあ。テープみたいに伸びちゃわないんだし、場所もとらないんだから──」
「駄目、駄目」
「何が?」
「買わないぞ」
「──そのうち、標準装備になると思うけど」
「そうなったら、その時さ。今はテープで十分じゃないか。第一、待ってれば、どんどん安くなるんだからさ」
自宅通勤で家に生活費を入れているわけでもなく、週末はずっと翠と一緒に過ごしている恭一郎が使う金額など、たかが知れている。けれど、今月からは積み立ての金額もアップしたと言っているから、彼の預金通帳を見ていれば、きっと面白いほど順調に預金は増えていくに違いない。
「翠は知らないだろうけど、うちの次長ってさ、けっこう気さくなところがあるんだよ。ああ見えて、案外話し好きだしさ」
ぼんやりと窓の外を眺めていると、ふいに荻島の話題になった。翠はにわかに緊張し、咄嗟《とつさ》に身構える心持ちになった。
「先月の出張の時にも、いろいろ話してさ。そういうところが、出張のいいところだな。お互いの理解を深めるっていうか、普段だったら、あんなにいろんな話なんか、出来ないからなあ」
恭一郎は、荻島のどんな部分を知っているのだろう。けれど、彼が一生かかっても知らない部分を、翠は全身で知っている。
「やっぱ所帯を持つと、仕事に対する姿勢も変わるってさ。仕事|一途《いちず》の人かと思ってたけど、時々家に電話なんかしちゃって、案外家庭的みたいだったぜ」
「──そう」
「つまり、家庭がしっかりしてるから、何も心配しないで仕事に精が出せるっていうことなんだよな」
恭一郎の言葉は、意外なほどに重く翠の中に沈んでいった。あの二週間の間、恭一郎が翠に電話をよこしたのは、たったの一度だった。そして荻島からは、もちろん一度として連絡はなかった。
「女子どもにもできそうな気楽な仕事をしてるんだったら、別にどうってこともないのかも知れないけどさ、俺達みたいな神経を使う仕事だと、戦場っていう言葉がぴったりくるだろう? やっぱり、帰ってきて安らげる場所は、大切なんだよ」
「───」
同じ時期に入社したのに、配属された部署と仕事の内容の違い、何よりも性別の違いが、彼と翠をはっきりと分けている。雇用機会均等法が施行されて、翠の会社でも本人が望めば男子と同じ条件で仕事ができる体制が整いつつあるという話だけれど、今のところは何も変わってはいなかった。けれど翠は、それを特に悔しいとも思わないし、不満にも感じていなかった。今の仕事だって十分に楽しいと思っている。だが恭一郎は、仕事は楽しいばかりではない、むしろ楽しいだけの仕事など嘘《うそ》だと言う。
「──今度ね、新入社員向けの教育ビデオを作ろうかっていう話が出てるのよ」
「へえ」
「実際の社員に登場してもらって、挨拶《あいさつ》の仕方から接客態度、電話の取り方まで、マニュアルをビデオにしようかって」
「ふうん」
「ちゃんとシナリオを作って、ドラマ仕立てにしてね、あまり安っぽくならないように、プロの業者の人に頼んで」
「面白そうじゃん。いいなあ、お遊び感覚で給料もらえて、学園祭のノリだもんな」
「──それが、広報の仕事だもの」
「まあね。女の子にはちょうどいい仕事だよ」
「───」
「女の子は、いいんだよ、それで。職場に花を添えるのが役目なんだから。均等法とか何とか言って、妙に突っ張らかったりしないでさ、呑気《のんき》にひらひらしててくれた方が。俺達がせっせと汗水たらして、下げたくもない頭を下げたり、飲みたくもない酒を飲んだりして、必死で契約結んでるからこそ、そうやってちゃらちゃらと色んなことができるんだと思えばさ、俺達も、もっと頑張らなきゃと思えるしな」
それでは、まるで翠たちの部署や女子社員すべてが、恭一郎たちの扶養家族のように聞こえるではないか。それも、出来の悪い。馬鹿にして。翠は、何とも屈辱的な不快感を味わいながら、それでも黙っていた。
「でもさ、たしかに翠が言ってたみたいなことも、あったのかも知れないとも思ったよ。やっぱり、仕事には厳しい人だからなあ」
もう曲の順番さえすっかり覚えてしまっているテープはご丁寧にオートリバースのデッキのおかげで、しつこいくらいに何度でも同じ歌声を流す。
「私が言ってたみたいって?」
「ほら、次長が昔、社内恋愛してた二人の仲を裂いたって」
あんなのは大嘘《おおうそ》だ。軽々しく自分達のことを喋《しやべ》られては困るから、急場しのぎで考えついたことだった。
けれど、今にして思えば、果して何が「困る」ことになるのだろう。荻島を失うことか、または恭一郎を失い、将来設計が狂うことだろうか。はたまた仕事を失うことか──。それらのうちの、どんな事態を自分は恐れているのだろうか。
「今は、だいぶ人も丸くなってるみたいだから、そういう心配はなくなってるかも知れないけど」
「──試してみたら?」
恭一郎は、眉《まゆ》をしかめて、口を尖《とが》らせた。
「止《よ》せよ。僕は転勤なんか嫌だぜ」
「違うわよ。社内恋愛してるのは、私達だけじゃないでしょう」
勝ち誇ったような神田道子の顔が浮かんでいた。
お色直しの回数のこと、新居のこと、子どもを産む時期のこと。給湯室で顔を合わせるたびに、ありとあらゆるのろけ話を話して聞かせる道子に、この頃、翠はいい加減にうんざりしていた。
「神田さん、いるでしょう?」
「うちの課の?」
「彼女、山下さんとつきあってるの。結婚するつもりらしいわ」
「山下さんって、山下先輩か? うちの?」
海岸をぐるりと回って、葉山にさしかかっていた。途中の道に、翠の好きなイタリアン・レストランがある。
「ねえ、私、お昼はスパゲティが食べたいな」
「ほか弁にスパゲティなんか、あるかな」
「あんなところの、あったとしたって、赤いケチャップのが、普通のメニューに添えてある程度でしょう? そういうんじゃないの。ちゃんとしたスパゲティ」
「何だよ、イタメシってこと?」
「だって私、なんとなくお米は食べたくないし、ほか弁が嫌いっていうんじゃないけど、ああいうところのは、何となく胃がもたれるし」
「我がままだなあ」
「ねえ、今日は、ほか弁はやめて、スパゲティにしない? その代わり、山下さんの話を聞かせてあげるから、ね?」
恭一郎が、先輩の山下にあまり良い感情を抱いていないことは、以前から知っている。だからこそ、マイナスになる情報は欲しいはずだ。
「あそこか。しょうがないなあ。だけど、割り勘だよ」
「分かってるってば」
恭一郎は一つため息をつくと、「なら、いいか」と、いつもの笑顔を見せた。白い歯のこぼれる、健康そうな屈託のない笑顔。そんな笑顔だけ見ていたら、彼の口元が「割り勘」「倹約」などと動いているとは誰も思わないに違いない。
「それで? 早く話せよ」
「恭ちゃんが、噂《うわさ》好きだとは思わなかったな」
「あ、誤解するなよな。俺達の仕事はね、特に情報が必要なんだよ」
もっともらしい口調で言われて、翠は苦笑した。とりあえず、これで「ほか弁」からは逃げられたと思うだけで、少しは気持ちが軽くなりそうだった。
[#4字下げ]3
夕方、帰宅した頃から天気が怪しくなってきて、今は雨が降っている。隣家の屋根を叩《たた》く雨音が深々とした静寂を作り、それを時折しぶきを上げて走り抜ける車の音が破っていく。ぽたり、ぽたりと聞こえる滴《しずく》の音は、このアパートの、庭ともいえないようなちっぽけな空間に植えられたビワの木の、大きな葉先から垂れる滴かも知れない。
「寒い時はよかったけど、暑くなってくると、くっついて眠るのは大変だなあ」
昨夜は恭一郎が隣にいて、翠の腰を抱き寄せながら、そんなことを言っていた。元々シングルのベッドに、特に身体《からだ》の大きな恭一郎と二人で眠るのは、土台無理な話だった。けれど、少なくとも眠りにつくまでは、恭一郎は翠を抱いていたがった。
「俺達、ずっと、こうしていような」と言われ、「うん」と答えながら、やがて邪慳《じやけん》に押しやられるのは、いつものことだった。
寝不足だし、疲れているはずなのに、今夜はなぜか寝つかれない。だんだん蒸し暑くなってきているせいだろうか。翠は、何度となく寝返りを打ちながら、闇《やみ》の中で目を閉じていた。こうしてじっとしていると、部屋中に恭一郎の匂《にお》いが残っているのが分かる。今にも、冷蔵庫を開けて飲物を取り出す音や、シャワーを浴びる音が聞こえてきそうな気がする。
雨の夜道を走る車の音。あれは、タクシーに違いない。なぜ、タクシーの音だと分かるのだろう。でも、あれはタクシーの音だ。
──私ハ、後悔シテイナイノデス。
何度も破り捨てようとしては手にとり、その都度封筒から取り出して、最初に読んだ時と同じ混乱を覚えながらも文字を追ってしまい、結局未だに捨てきれずにいる野崎亜希の手紙の内容を、今ではほとんど覚えてしまっていた。
こんな雨の夜、翠の知らない世界で、彼女はどうしているのだろうと思う。
──今デモ彼ニ会イタイトバカリ思イマス。
二度と会えなくしたのは自分自身なのに、亜希はそれを後悔していないと言い、それでも会いたいと言う。そのことを考えると、翠はじりじりとした焦燥感と苛立《いらだ》ちが湧《わ》き起こってくる。そんなにまでして、一つの生命を自分のものにしてしまいたいと思うこと自体が、まるで分からなかった。刺されながらも「これでいい」と言える男の気持ちは、もっと分からなかった。
馬鹿馬鹿しい。自分の愛とやらを貫いた結果、今ごろは鉄格子《てつごうし》の向こうにいる、そんな馬鹿げた人生を歩んでいる女のことなど、考える必要はない。よけいに眠れなくなってしまう。翠は、自分の苛立ちを抑えるために、何度となく自分に言い聞かせた。あんな人生は普通ではない。まともではないのだ。考えるだけ無駄だ。
恭一郎といれば、間違いはないだろう。彼は、決して家族を路頭に迷わせることはしないに違いない。よほどのことがないかぎり、今の会社を辞めないだろうし、ある程度順調に出世して行くタイプだとも思う。どこへ連れて行っても見劣りしないし、誰からも「素敵な人」と褒められるだろう。そう思ったからこそ、翠は彼に近づいた。安全な未来へのパスポートを手に入れるように、自分の人生を託す相手として、合格点だと思えたから、近づいた。
──だって、失敗だけは嫌。
利口な生き方をするのだ。しなくてもいい苦労や我慢など、もってのほか。いくら大恋愛の末に結ばれたとしたって、相手を間違えれば、後には憎しみと苦労しか残らない。そう、ちょうど翠の両親のように。
翠の両親は、駆け落ち騒ぎまで起こして一緒になったと聞いている。見合い話の進んでいた母を、父は半ば奪うようにして結婚したのだそうだ。だが、母の両親から最愛の娘を奪った父は、今度はそこまでして自分のものにした母から、安心も幸福も奪ってしまった。悪いのは父だ。仕事は失敗続き、賭《か》け事はやめない、酒量は増える一方で、挙げ句の果てに浮気騒動だ。それなのに、父の親類は揃《そろ》って母を責め、父を支えない母の弱さをなじった。だから、母は出て行かなければならなかったのだ。翠が十五の時だった。実家にしか帰るところのなかった母は、既に長兄が継いでいる家では、自分ひとりが厄介になるだけで精一杯だと泣いた。だから、翠は連れていかれないと。
思い出したくないことまで思い出しそうになって、翠は大きく寝返りを打った。
──とにかく、失敗だけは、嫌。絶対に。
明後日《あさつて》は、また荻島と逢《あ》う。必要以上に彼に興味を抱かず、心を揺らさず、一定の距離さえ保ち続けることができれば、決して失敗することはないはずだ。やがて、彼との記憶は社会人になった頃の思い出として、年と共に翠の中で美化されていくだろう。
ようやく訪れてきた睡魔に手を差し伸べながら、翠は大きく息を吐いた。そう、うまくやることだ。楽しく、明るく、冷静に。感情的になった方が負けるのだから。相手に引きずられてしまっては失敗する、母さんみたいに。私は、失敗しない。
まどろみ始めた頭の片隅で、もう何年も会っていない母と、翠の知らない世界で暮らしている野崎亜希の顔がだぶって見えた。
その週の水曜日、荻島は「今夜は食事だけにしよう」と言った。おしぼりで顔を拭《ふ》きながら、荻島は翠の目を見ない。
「早く帰らなきゃならないの?」
翠の言葉に、荻島は眉を微《かす》かに動かして応《こた》える。翠は、手元のカルティエの時計に、ちらりと目を落とした。これをねだっていたのは、本当は亜希だった。
「急ぐっていうほどでもないんだがね。でも、いつもほどは遅くなれないんだ」
翠は「そう」と答えながら、顔を上げなかった。どんな顔をすれば良いのかが、よく分からない。悔しがるべきか、悲しがるべきか、聞き分けよく微笑《ほほえ》むべきか、諦《あきら》めたようにため息をつくべきか。亜希ならば、すぐに「いや」と言っただろう。
今夜ハ、私ノタメニ使ッテクレルハズデショウ。家ノコトナンカ、忘レテッテ言ッテルデショウ。
聞いたこともない、亜希のそんな台詞《せりふ》が聞こえるような気がする。
荻島は普段と変わりなく食事を始めた。翠も、それきり荻島が早く帰りたがる理由は聞かなかった。大人の女は、聞き分けの良いものだ。しかも、これはゲームなのだから。本心など出すのは、野暮というものだ。
いつものように他愛《たわい》ない世間話をしながら、翠はいつになく「ゲーム」という言葉を繰り返し自分に言い聞かせていた。何に引っかかっているのかは分からない。けれど、何だかいつもと違う感触がある。荻島の表情も、翠自身の受け答えも、いつもとどこも変わっていないはずなのに、笑顔になろうとする時に、ほんの一瞬のためらいが生まれてしまう。
その理由が分からないままで箸《はし》を動かし続けていると、やがて、二本目のビールが空いたあたりで、荻島は「ところで」と切り出した。
「君は社内の噂に敏感みたいだから、ひとつ、聞いてみたいんだけどね」
「人聞きの悪いこと、言わないで。それじゃあ、井戸端会議が好きなおばさんみたいに聞こえるじゃない」
翠が膨れっ面《つら》になって見せると、荻島は「だって、例の事件の時に、驚かされてるから」と目元だけで笑った。
「君、神田道子と仲がいいかい」
「神田さん? 同期だから、けっこう話はする方かな。新人研修の時にも同じ部屋だったし。彼女が、どうかした?」
料理を少しだけ口に運び、小さく顎《あご》を動かしながら、翠は、できるだけ真面目《まじめ》そうな顔で荻島を見た。
「彼女、僕のことを噂してたことがあるかい」
翠はなおも顎を動かしながら、黙って小首を傾《かし》げて見せた。
「次長の、どんなこと?」
荻島は、このところだいぶ白髪の目立つようになってきた頭を心持ち前に傾けて、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「僕が昔、部下が社内恋愛しているのを知って逆上して、男の方を地方に飛ばしたことがある、とか」
翠は「ああ」と言いながら、大きく頷《うなず》いた。さりげなく、いかにも柔らかい表情を作るように意識した。
「それなら、聞いたことあるわ──っていうより、つい最近、聞いたんだけど。たしか、今月に入ってから」
荻島はうつむき加減に手酌でビールを注いでいるから、その表情までは見えない。「君、どう思った?」という声は、普段と変わりがなく聞こえた。
「正直、へえ、恐いんだなと思った。直属の上司じゃなくてよかった、とも思ったかな。でも次長は、どこからそれを聞いたんですか?」
「──昨日さ、帰りに課の奴《やつ》と一杯やった時にね」
荻島は、未《いま》だに仕入部次長と三課の課長を兼任している。このまま、しばらく兼任で頑張って、次には部長になるのではないかというのが、周囲の大方の予想だった。
顔を上げた荻島は小さく舌打ちをして、短いため息をつく。眉間《みけん》に、くっきりと二本、深い縦線が入った。
「何だって、そんな根も葉もないことを言うのかな、彼女は」
「え、根も葉もないことなの?」
「当り前だろう。今時、恋愛を規制なんかできるはずがないだろう? 第一、うちの女房だって、もとは同じ職場だったんだから」
「へえ、次長の奥様はうちの会社に勤めてらしたの」
その瞬間、荻島の瞳《ひとみ》の奥が、ちらりと気弱に揺れて見えた。それから、よけいなことを言ってしまったというように、よけいに苦々しい表情になる。翠は、やはり笑顔になろうとする前に、一瞬表情が硬くなってしまいそうな感じを覚えた。ひょっとしたら「奥様」などという言葉を使ったのは、初めてだったかも知れない。
「だったら、次長がそんなことをするはず、ないですよね」
翠は、荻島の言葉も、その表情もすべて振り払うように話題を進めた。見る必要のない表情、聞く必要のない言葉は、いちいち心にとどめたくない。それよりも今は、恭一郎が翠に言われた通りに行動を起こしたことを喜ぶべきだ。単純で素直な恭一郎は、何一つ疑うこともせずに、翠の言葉を鵜呑《うの》みにした。
「ひょっとすると、神田さん、疑心暗鬼になってるんじゃないかなあ。多分、いろいろと心配なことがあるんじゃない?」
「何が心配だと、僕についてそんな嘘《うそ》を言わなきゃならなくなるんだ」
「そりゃあ、決まってるじゃない。自分の恋愛よ」
翠がこともなげに言うと、荻島は「ほう」というように眉《まゆ》を大きく上げた。
「彼女、山下さんとつき合ってるのよ」
荻島の眉がますます額を狭くする。適度にゴルフ焼けしている額に、今度はくっきりとした横線まで加わった。
「私、そんなこと全然知らなかったもんだから『山下さんとつき合ってみたいな』なんて、彼女に言っちゃったことがあったのよね」
「君が? 山下と?」
荻島の顔に険しさが加わる。鼻から大きく息を吐き出し、ぐい、とグラスを傾ける彼を眺めて、翠は、ぞくぞくと喜びが湧き起こって来るのを感じた。
「それで」
「そうしたら、今の話を聞かされたっていうわけ。『もしも、山下さんとつき合えたとしても、そんなことが次長に知れたら大変なことになる』って。で、その後に『それに、彼なら駄目よ。おあいにくだけど』って、言われちゃった」
翠が屈託のない笑顔を浮かべて見せると、荻島はさも不愉快そうにそっぽを向く。眉間には相変わらず皺《しわ》が寄ったままで、手にしているビールの味まで悪くなったように見える。
「君が、山下を気に入ってたとはねえ」
──この人が、妬《や》いてるんだ。
「べつに。ちょっと興味があったっていうだけよ。それに、神田さんとつき合ってるなんて聞いたら、急に興ざめしちゃった。よりによって神田さんでしょう? 正直、ああ、女の趣味はよくないんだなと思って」
荻島がずっと黙っているから、翠は一人で喋《しやべ》り続けた。自分の部下とつき合っていると分かったら、荻島がどんな顔をするか見たい気持ちもあったのだと言った時だけ、荻島の表情が少し動いた。
「それにしても、自分達の恋愛のために、どうして僕を持ち出さなきゃならない」
「だから、『荻島次長の部下には、手を出すな』っていう意味だったんじゃないの? もしかしたら、山下さんを私に取られるんじゃないかとでも思ったのかも知れないし」
「だが、彼女は君だけじゃなく、他の社員にまで同じことを言ってる。そういう性格の子か?」
翠は内心で固唾《かたず》を呑みながら、努めて無邪気な、気楽そうな表情を崩さなかった。神田道子の勝ち誇ったような笑顔が浮かぶ。
「彼女からは、ずいぶんいろんな噂《うわさ》を聞くわよ。とにかく噂話の好きな子だから、私は話半分に聞いておこうとは思ってるけど。それに、彼女は山下さんから聞いたらしいことでもぺらぺらと喋っちゃうから、正直な話、聞いてて『いいのかなぁ』って思うこと、けっこうあるもの。彼女も、それから山下さんもね。だって、山下さんって、仕事の話でも何でも、彼女に聞かせてるわけでしょう? 二人揃っておしゃべりなわけよね。で、ますます私は興味がなくなったわけ。ほんのちょっとでも憧《あこが》れたりして、損したと思うくらいにね。口の軽い男なんて最低だもん」
それから、翠は自分が知っている社内の誰彼の噂と、恭一郎から聞いた、取引先からのバックマージンの話などの二、三を披露した。そういうことを、恭一郎は案外、不用意に話す。要するに、彼こそ口が軽いのだ。
「あいつは──。社内の噂っていうのが、どういうものか、まだ分かってないのかな」
「どういうものかって?」
そこで、荻島はようやく我に返った表情に戻り、大きくため息をついた。
「噂一つで、人の人生も変え得るっていうことだ──さて、そろそろ帰ろうか」
急に、背中がひやりとした。
これだけ話題が盛り上がっているところで、さっさと帰ろうとするなんて、これまでにはなかったことだ。ついさっき、山下のことで妬いていると感じたばかりなのに、翠の中で膨らみ始めていた新たな喜びは、瞬《またた》く間《ま》にしぼんでしまった。
その時になってようやく、荻島が今夜の約束を守ったのは、神田道子について、翠から話を聞きたかっただけなのだと気づいた。そんな問題がなければ、今夜の約束はキャンセルになったところだったのかも知れない。荻島は、翠に逢いたかったのではない。噂の真相をたしかめたかっただけなのだ。
翠は、割箸の袋を折り紙のように畳んで作った箸置に載せた白い割箸を眺めていた。ここで怒るべきではない。彼は最初から「食事だけ」と言った。
「悪いね」
「何が?」
「いつもみたいにできなくて」
翠は、わざと膨れっ面を作って、上目遣いに荻島を睨《にら》んで見せた。荻島は、そういう顔をする時の翠が、本気で怒っていないことなど百も承知だという様子で、穏やかに笑いながら立ち上がった。いつも芝居をしていれば、その中にほんの少しの本当が混ざっていても、分からないものだ。
山下が転勤を命じられたのは、それから間もなくのことだった。「好みの男がいなくなって、残念だったね」と荻島は笑った。けれど、一度しぼんでしまった喜びは、もう膨らまなかった。その翌月、神田道子が辞表を提出した。
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まだ午後三時にもなっていなかったが、今夜は二つ違いの姉が恋人を連れて来るとかいう話で、恭一郎はつい今しがた、クラクションを二度鳴らして、そそくさと帰っていった。
「普段、偉そうなことを言ってる姉貴が、果してどういう男を選んだか、じっくり見てやるんだ」
恭一郎の姉は「顔はまずいのよ」と言っていたと、彼は声を出して笑った。
彼の言葉を借りれば「なかなかの美人」だという彼の姉がどんな男を連れて来るのか、恭一郎の関心は、とりあえずその男の外見にあるらしかった。
一見|無頓着《むとんちやく》を装《よそお》いながら、実は恭一郎は、非常に自分の外見を意識していることを、最近翠は発見した。もしかすると、翠の裸を見ている時よりも、鏡に向かっている時の方が瞳に熱がこもっているような気さえすることがある。何分間でも鏡を覗《のぞ》いている恭一郎を見ていると、翠は見てはならないものを見てしまった気になった。
「ここのところ、土日っていうと翠のところに来てるから、さすがにおふくろ達も何か感じてるらしいんだ。特に口に出しては何も言わないけど」
帰る間際《まぎわ》になって、恭一郎は、どことなく複雑な表情で言っていた。嬉《うれ》しいのか照れているのか、はたまた苦々しく思っているのか分からない。見方によっては迷惑そうにも感じられる顔つきだった。
──別に、頼んで来てもらってるわけじゃないじゃない。
彼が「おふくろ」とか「姉貴」という言葉を使う時、翠はいつも不思議な気持ちになった。同じ習慣や同じ癖を持ち、彼にもっとも近い立場にいる女達、気味が悪いくらいに顔が似ているかも知れない女達のことが、翠はなぜだか会う前から好きになれない。理由などないし、写真すら見たことがないのに、恭一郎の口から少しでも彼女達の話を聞いただけで、不快になるのだ。
「ばいばい」と手を振って別れれば、その後、翠は一人に戻る。恭一郎は彼女達の待つ家に戻る。彼女達は「家族」という名の下に、余裕のある表情で彼を迎えることだろう。それが、たまらなく傲慢《ごうまん》に思えて嫌なのだ。どこまでいっても一人きりにならない人々。この東京に自宅を構え、家賃の心配もなく、都会での孤独な夜など過ごしたこともない人々。そんな連中は、大嫌いだった。
せっかくいつもより時間ができたというのに、あまりにも中途|半端《はんぱ》で、今さら買物に行く気にもなれず、翠はとりあえずベッドにひっくり返って煙草《たばこ》を吸った。金曜日の朝以来の煙草は、だが、期待していたほど旨《うま》く感じられない。
体温に近いほどに気温は高く、網戸を通して入って来る風は、薄く汗ばんだ肌を乾かす役にもたたないくらいに微《かす》かなものだった。ベッドにうつぶせになって、枕《まくら》を抱え込み、久しぶりにゆっくりとFMを聞いているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。気がつくと、もう夕方になっていた。
頭がぼんやりとしていて、喉《のど》も渇き、シーツには涎《よだれ》のしみがついている。室内はまだ暑いが、それでもカーテンが微かに揺れているのを眺めると、夕暮れと共にさっきよりは少し風が吹き始めたのだろう。
「そうだ、あんた達のお水を取り替えてあげなきゃ」
結局、三時間くらい早く一人に戻ったとしても、特に何ができるわけでもなかった。翠は、のろのろと起き上がると、窓辺に寄って水槽に手をかけた。小島に乗って、飼い主と同様にとろとろとしていたらしいトシとイッチャンは、弾《はじ》かれたように素早く水に飛び込む。
「ああ、もう、また。蓋《ふた》をしておいてって言ってるのに、一度も守ったことがないんだから」
浴室に行くと、浴槽の蓋は浴室の片隅に立てかけられたままになっていた。
「嫌だなあ、また冷めちゃってるじゃない」
湯船に指先を入れ、翠はため息をついた。その蓋の立てかけ方も、翠の癖とは異なっている。
「いちいち後について歩くわけにいかないんだから」
明らかに、自分の住まいに自分とは違う習慣を持った人間が入り込んでいたのだと、乾いた風呂《ふろ》の蓋が言っている。
黄色く濁って汚物が澱《よど》んで溜《たま》っているカメの水が、タイルにまで広がらないように、そっと排水孔に向けて水槽を傾けながら、翠は汚物にまみれてじたばたしているトシとイッチャンに話し続ける。
「そうでしょう?」
トシの方から順に、甲らの腹と背中を挟むように持つと、翠は水を張った洗面器の中で、小さな体を軽く振った。体にまとわりついていた粘液らしいものや、汚物のかすらしいものが少しだけ取れる。
体を横にされて振られて、トシは手足も頭も甲らにひっこめている。
少しの間考えてから、石ころのようになったトシを、翠はたぷん、と浴槽に投げ入れた。ちょうど、固形の入浴剤を風呂に落とす時のような感じがした。夏に近づいているから、水は冷たくはないが、それでもとうに冷めきってしまっている風呂の中で、トシはふわふわと沈んでいく。が、やがて底に着く前に手足を伸ばすと、猛然と泳ぎ始めた。
「へえ、速いじゃない」
翠は目を丸くして、水槽の中とは比べものにならない広々とした浴槽の中で泳ぐトシを眺めていた。それから、今度はイッチャンも同じように浴槽に落としてやる。
二匹は、あらんかぎりの力で手足を動かし、浴槽に鼻をぶつけるほどに勢いよく泳いだ。方向転換しては猛然と泳ぎ、少しの間漂ってはまた鼻をぶつけ、そのうち浴槽の底から真上に向けて、縦に泳ぐという姿も見せた。トシの方は、風呂の栓につながっているボール・チェーンに片手でつかまりながらじわり、じわりと水面に上がってきたりもした。
ひたすら狭い空間でじたばたしているだけに見えた二匹が、あまりにも嬉しそうに風呂の中で泳ぎ回っているので、翠はしばらくの間笑いながらその姿を眺めていた。
「ここで生活したいなんて、言わないでよ」
おそらくは、生まれて初めての広さを味わっているだろうトシとイッチャンは、顔つきそのものは変わりようもないが、それでも嬉しそうに見える。
「感謝しなさいよ。そのうち恩返し、しなさいね」
まるで、水面に粘着力でもあるかのように、小さな鼻の穴だけを水面から出して、そこからぶら下がって見える姿は、滑稽《こつけい》で情けなく見える。翠は、二匹が息継ぎをしに水面に上がって来るところを、人差指で弾いていた。
「分かった? 恩返し、するのよ」
翠の指先よりもよほど小さい頭を弾く。慌《あわ》てて首を引っ込めて、カメは浴槽の底に逃げ込むが、また息苦しくなってきて、上がって来なければならない。そこを、翠はまた指で弾く。
「浦島さんを、連れておいで」
翠に阻止されながらも、トシ達は素早く息継ぎをして、飽きることなく縦横に泳ぎ続けている。
「背中に乗せて、連れておいで」
自分も浴槽に手を入れて、時には彼らの甲らを上下から指で挟んだり、裏返しにして浴槽の底に置いたりして、翠はしばらくの間飽きずに二匹を眺め、一緒に遊んでいるつもりになっていた。久しぶりに自由な時間ができたというのに、こんなことくらいしかできないのかということを急に思い出して、苛立《いらだ》って力任せに浴槽の栓を抜いてしまうまで、一時間以上もそうしていた。
──馬鹿馬鹿しい。何をやってるの。
音をたてて浴槽の水が落ち始める。最初は変化に気づかなかった二匹は、やがて抗《あらが》いながらも水の勢いに引っ張られ、とうとうイッチャンは穴の真上まで来ると、くるくると回って、あっという間に排水孔に吸い寄せられた。排水の穴よりも甲らの方がよほど大きいから、甲らが栓の代わりになって、水が止まった。トシが安心したように浴槽の隅に向かって泳ぎ始めた。
「馬鹿馬鹿しい。何が、姉貴の恋人なの、何が、ちらし寿司《ずし》なのよ」
料理が好きな彼の母親は、何かの日には必ずちらし寿司を作るのだと、恭一郎は嬉しそうに言っていた。
「これが美味《うま》いんだ。見た目もきれいでさ。そのうち、俺の嫁さんになる人も、おふくろから教わってもらわなきゃな」
自信に満ちたあの笑顔は、何ともいえず翠の癇《かん》に障《さわ》るものだった。嫁になる人間は、その家の味を受け継ぎ、ちらし寿司の作り方を教わり、原田家に馴染《なじ》むように努力しなければならないということか。翠は、結婚したら夫と二人で新しい生活を築くものだという感覚を持っている。「嫁」になるのではなく、「妻」になるのだと思っている。
「第一、ちらし寿司くらい、今すぐにだって作れるわよ。桃屋だってミツカンだって、何だってあるんだから」
今ごろ、恭一郎は家族で寿司を食べていることだろう。翠が一人、浴室でカメと遊んでいる時に、初めて会う姉の恋人を交じえ、内心では値踏みをしながら、笑顔でビールでも飲んでいるのだろうか。一家|団欒《だんらん》の笑い声が響き、ホーム・ドラマにあるみたいな場面が展開されているかも知れない。
「気持ち悪い、わざとらしいだけじゃない、そんなの」
けれど、これは嫉妬《しつと》でも何でもない。
「しょせんは甘ちゃんなんだ。都会っ子で、その上、自宅暮らししか知らなくて」
それだけのことだ。思い出したように、排水口に貼《は》りついていたイッチャンを引き剥《は》がすと、再び水が落ち始めた。
「さ、もう、おしまい」
二匹は、再びプラスチックに囲まれた現実に戻って、しばらくの間は、存分に泳げない理由が分からない様子で手足を動かしていた。
まだ外は十分に明るく、自分のアパートで過ごせる貴重な夕暮れは、近づく夏休みと汗の匂《にお》いを漂わせて、厚ぼったく、べったりとのしかかって来ていた。
夕食はビールとピザで済ませてしまおうと考えて、翠は受話器を取り上げた。そのまま、少し考えて一度受話器を戻し、改めて受話器を取り上げる。ゆっくりとダイヤルすると、やがて、数回のコールの後に「もしもし」という声が耳元に聞こえた。
「もしもし、もしもし」
翠は、送話器の部分を手のひらで覆《おお》ったまま、息を殺してその声を聞いていた。
「またなの? 何なのよ、誰なのよ! 毎日毎日、やめてちょうだい!」
おや、今日はずいぶん声がしゃっきりとしている。いつもは、もっとふやふやとしていて、ろれつが回らないことだって珍しくはないのに。
「いい加減にしてちょうだい!」
目は水槽のカメを追っている。水を替えてやった直後は水質がなじまないのか、二匹はいつも落ち着かない様子でしばらくじたばたと動き続ける。その時、急に電話の向こうから違う声が聞こえてきた。
「もしもし、どこの誰だ。何のための嫌がらせなんだ」
それは、紛れもない荻島の声だった。翠は瞬間に全身を固くした。
「なぜ?」
思わず口に出して言いそうになって、同時に「当り前」という言葉が浮かんだ。そうだ。当り前ではないか、荻島の家に電話をしているのだ。やがて、電話の向こうで大きくため息をつくのが聞こえる。
「いい加減、下らない悪戯《いたずら》はやめてもらいたい。いいな、そうでなければ、こっちにも考えがある」
電話で荻島の声を聞くのは久しぶりのことだった。それも、会社にいる時とはどこか違う雰囲気の、家にいる彼の声は初めてだ。翠は、急に懐《なつ》かしい思いがこみ上げて来るのを感じた。ずっとその声を聞いていたいと思った。けれど、それきり電話は切れてしまった。
心臓が高鳴っている。
荻島の声に、こんなにも動揺してしまっている自分が不思議だった。
すっかり聞き慣れた感のある、あの声の隣に、今、荻島がいる。背広を脱ぎ、ネクタイを解《ほど》いた、普段着姿の彼がいる。そんなことは最初から分かっていたことではないか。それなのに翠は、あの女がなぜだか荻島とは無関係の、まったく別の世界の女だという気がしていた。
今日は彼が傍《そば》にいるから、あの女の声はいつもほど乱れていなかったのだ。酒に酔っている様子もなく、意味の分からないことも言わなかった。彼が傍にいるから、彼女は落ち着いていたのだ。彼が傍にいるから。
「──皆、お家《うち》にいるのね」
人知れずため息をついて、翠はようやく薄暗くなり始めた部屋を見回した。カメ達は、相変わらず落ち着かない様子でプラスチックの壁を引っかいている。
「皆、お家に帰るのよね」
遠くで雷の音がする。少しすれば、夕立が来るのかも知れない。いっそのこと、嵐《あらし》が来ればいいのにと思った。
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ある朝目覚めたら、もう夏は逝っていた。
とりあえず、昨日と同じようにどこかの家で洗濯機を回している音がしているし、陽射《ひざ》しも急に変わったわけではなかったが、翠は「夏が逝った」と思った。ほんの少しだけ、室内の空気が澄んで感じられたからかも知れない。
パジャマ代わりのTシャツから出ている腕はまだ陽焼けが残っていて、指輪のあともくっきりと見える。
この夏、翠は海外旅行こそ逃したものの、しつこいほどに海に行き、それから高原にも行き、キャンプのようなこともした。大半は恭一郎と一緒に、時には会社の女の子に誘われたりして、いつも思いきり陽射しを浴びて、声を出して笑い、子どもの時以上に花火もした。けれど翠は、他のすべてのものと同様に、過ぎていく季節も追おうとは思わなかった。ましてや惜しむなどという思いはさらさらない。実際、惜しむほどの夏でもなかったのだ。
「おはようございます。今日から十月、衣替えですね。夏の思い出はタンスの奥にしまって、いよいよファッションの秋の到来です。さて、今日のお天気ですが──」
ああ、今日は衣替えだった。
ぐずぐずと起き出すと、頭が重く、朝だというのに全身がだるい。
昨日は水曜日だったから、いつもの通り荻島と逢《あ》った。この習慣が始まってから、もう二度目の秋になる。時には食事だけで終わることもあったけれど、荻島は基本的に水曜日の約束を守っている。
最近の荻島は、翠の水着の跡をなぞるのが好きだった。そして、そのたびに「誰と行ってきた?」と聞く。本当にその問いの答えを聞こうとしているのか、ゲームの中の呪文《じゆもん》の一つなのか、翠には分からなかった。荻島の細かい皺《しわ》に囲まれた瞳《ひとみ》は、翠を見つめているようでいて、実は何も映してはいないのではないか、少しずつ白髪の増えてきている頭は、まったく違うことばかりを考えているのではないかと、そんな思いを拭《ぬぐ》い去ることができなかった。
いや、そんなことはどうでも良いことだ、楽しく過ごせればそれで良い。それは分かっていながら、翠はやはり笑顔になる前に、一瞬の空白が自分を包み込みそうになるのを感じていた。
荻島本人は何一つとして言わなかったけれど、翠は彼の家庭のことなら何もかも、手に取るように知っていた。なにしろ、毎日電話をしているうちに、聞きもしないことを「彼女」が喋《しやべ》り始めたのだ。
「ねえ、あなた」
ある日、荻島の妻の口調ががらりと変わった瞬間があった。
「あなた、悪戯なんかじゃなくて、本当は私を心配してくれてる誰かなの?」
彼女はろれつの回らない舌でそう言った。
翠は、息をひそめて受話器の向こうを窺《うかが》った。耳のすぐ傍で彼女の乱れた呼吸が聞こえ、自分の耳に息がかかるのではないかと思った。
「私があんまり哀れだから、こんな飲んだくれになっちゃって、皆に見捨てられそうになってるから、心配で仕方がないのね? あなた、お酒の精? それとも、あの世からかけてるの? ああ、それとも、吉川さんだったりして」
何かに憑《つ》かれたような、引きつった笑い声が聞こえ、その日は、そのまま電話は切れた。翠はその時、会社のエレベーター・ロビーから電話していたのだが、受話器を戻した途端に、ピー、ピー、という音とともにぺろりと出てきたテレホンカードを、思わずもう一度挿入しそうになったくらいだ。そんなことをするのが、いかに馬鹿げたことか思い出すまでの間、翠の頭の中には「ただ事ではない」という思いばかりがふくらんでいた。あれは、まだ本格的に暑くなる前のことだった。ある日曜日の夕方に、荻島本人が電話に出てしまって、自分でも不思議なくらいショックを受けた、その直後のことだ。平日の昼間に聞く彼女の声は、荻島が家にいるときとは別人のように、再び暗くよどんでいた。
そして間もなく、翠は荻島の家庭の事情をすべて知ってしまった。もちろん、こちらからは一言も声を漏らしていない。荻島の妻が独りで話す内容をつなぎ合わせただけのことだったが、それでも少しずつ家庭の輪郭は見えていった。いつの間にか、彼女は翠を「吉川さん」と呼ぶようになった。それが、彼女が高校時代に憧《あこが》れていた同級生だと分かるまでは、少し時間がかかった。
「あ、嫌だなあ──何よ、これ」
シャワーを浴び、クリーニングから戻ってきたままになっていた長袖《ながそで》のブラウスを取り出して、翠は思わず大きな舌打ちをした。ブラウスの前たての部分と、胸のポケットに小さな茶色いしみが飛んでいる。
「まだほとんど着てないっていうのに、これ」
眉《まゆ》をひそめ、翠は腹の底の方からむらむらと昇ってくる苛立ちを感じながら、ブラウスを水色のワイヤーでできているハンガーごとベッドに放り投げた。なにしろ六月以来着ていないブラウスだから、いまさら遅いかも知れないけれど、絶対にクリーニング屋に文句を言わなければならない。それにも腹が立ったが、せっかくシャワーを浴びながら考えておいた今日のコーディネイトがこれでめちゃくちゃになってしまったことの方が苛立ちが大きい。
別のブラウスを決めるのに多少の時間がかかり、翠はテレビの画面に出ている時計を見ながら、大慌《おおあわ》てでストッキングに足を入れた。そのとたん、今度はストッキングがほんの一ミリ程度の幅で、細く、長く伝線しているのに気づいた。おまけに、その伝線を突き止めた翠の指先は、マニキュアが中指の爪《つめ》の先だけ、欠けていた。
泣き出したいような、その場で地団駄を踏みたくなる苛立ちが、腹の底というよりも、もっと身体《からだ》の奥底から湧き上がってくる。
──ああ、そろそろなんだ。
丸めたストッキングをカメの水槽に向かって放り投げ、急がなければならないと承知していながらも、翠はベッドに腰を下ろした。そういえば、顔も腫《は》れぼったい気がするし、頭も痛くなりそうだ。要するに、毎月毎月の儀式が、もう目の前に来ているということだった。
「うんざり!」
スリップのままで足を組み、煙草《たばこ》をくわえて火を点《つ》ける。気持ちはすっかり不貞腐《ふてくさ》れてしまって、わざと下顎《したあご》を突き出して煙を吐き出す頃には「行きたくない」気分になってしまっている。
「行きたくないな、こんな日に」
このままベッドに潜り込み、もう一時間くらい眠ったら、それから電話を一本かけさえすれば済むことだ。「お大事に」と言われる理由だけを考えて、たまに平日の昼間にぶらぶらしたって、罰が当たるものでもない。
真剣に休んでしまおうかと思い始めた時、煙草はフィルター近くまで燃え尽きた。翠はやはり立ち上がって新しいストッキングを取り出していた。
今日は帰りに尚子と会う約束をしている。それに、今日からは来春採用の内定も解禁になるから広報課は忙しくなる。
「休めないってことよ、要するに」
ぐずぐずしていた分、結局いつもよりも急がなければならなくなって、翠は超特急で化粧をして、立ったままで、舌と指先を少し火傷《やけど》しながらカップ・スープを飲み、蹴《け》り飛ばしたい気分でアパートのドアを閉めると、透明感の増してきた朝の空気に自転車で漕《こ》ぎ出した。
その日、ランチを済ませてオフィスに戻ると、広報課のデスクの辺りに人が集まり、中にオフィスの中ではあまり見かけない色彩が動き回っていた。
「あら」
全身ピンクの塊《かたまり》が顔を動かしている。翠は思わず立ち止まってしまった。先月の二十日付で円満退社をした杉松寛子が、何かの冗談かと思うほどに派手な、しかも総レースのピンクのワンピースを着て立っていたのだ。
「すごい、杉松さん、見違えちゃった。綺麗《きれい》ですねえ」
他の表現が思いつかないままに、とりあえずは笑顔になりながら近づいていくと、寛子は濃い水色のアイシャドウの目をぱちぱちと瞬《しばたた》かせて、やはり濃いピンクの口紅を塗りつけてある口で「にっ」と笑った。貧相な薄い耳たぶはパールのイヤリングで隠れている。
「御挨拶《ごあいさつ》がてらにね。ついでに残ってたロッカーの荷物を引き取りに来たの。何だか、まだ十日しかたってないのに、すごく久しぶりっていう感じよ。懐かしいわ」
襟元にはやはりピンク系の小花模様のスカーフをして、寛子は「高原の乙女」でも気取っているのかも知れない。白いストッキングに、やはりピンクのハイヒールまで履いているのを見て、翠は心底|呆《あき》れ、さらに苦笑してしまった。身のほどを知らないというか、昔の少女マンガから脱け出したようなその姿だって相当なものだが、何より、寛子の顔立ちにはあまりにも似合わない。一時は短くカットされていた眉毛も、またもやほやほやに戻っているし、厚い唇にパール・ピンクの口紅は強烈過ぎる。いくら経済的に不自由のない環境で育ったのだとしても、その姿はあまりにも陳腐だった。けれど、彼女が一番の自慢にしていた細く白い指には、確実に一カラット以上はあると思われるダイヤモンドのエンゲージリングが、見事に輝いている。
「素敵。もう花嫁さんみたいだわ」
「嫌だ、こんな普段着の花嫁なんか、いるわけないじゃない」
「えっ、それ、普段着なんですか?」
「お勤めしてた時は、地味にしてたけど、私ね、レースが大好きで、色はピンクが大好きだから、普段のお洋服はたいていこんな感じなの。新居もね、全部ピンクとレースで統一しようかと思って」
翠は笑顔でうなずきながらも、その一方では寛子の姿に心底|軽蔑《けいべつ》した眼差《まなざ》しを向けている先輩社員にも気づいていた。ただ、下手な顔をすれば「やっかみ」と受け取られかねないから、誰もはっきりとした表情を作っていないだけのことだ。
「カーテンとか、クッションとかね、家中のものを手作りにしようと思ってるのよ」
翠は、インテリア雑誌のグラビアなどに出ている部屋を思い出した。部屋中に色彩が溢《あふ》れかえって、パッチワークだの手作りカーテンだの、やたらと布のものが置いてある、翠の好みからすれば、何をしていても落ち着かないような、そんな部屋だ。
「仲江さん、杉松さんね、皆にって、こんなものを持ってきてくれたのよ」
先輩が呼んでくれなかったら、翠はしばらく寛子からつまらない話を聞かされ続けていたかも知れない。腰の奥がいよいよ鈍く痛み始めて、そろそろ生理が始まりそうな感じがしている。
「つまらないものなんだけど、長い間お世話になったお礼に」
寛子は太い腰を揺らして笑っている。一人一人のデスクに置かれている、それは和紙でできている化粧箱だった。
「あられと、甘納豆の詰合せなんだけど。そこ、とっても美味《おい》しいお店なの」
翠は「まあ、嬉《うれ》しい」と言いながら、その化粧箱を見ていた。A4サイズくらいの箱は、金、銀の飛んだ花柄の千代紙と濃い臙脂《えんじ》、紫の無地の和紙を組み合わせ、胴に茄子紺《なすこん》に紅白の紐《ひも》を渡して箱の上で蝶《ちよう》結びになっているものだった。いかにも「老舗《しにせ》の甘納豆」という感じがする。
──あんなピンクの塊と一緒になる男もいる。
しかも医者で、何不自由ない生活と将来が保証されていて、嫁の来手などいくらでもいるのだろうに、こともあろうに彼女を選ぶ男がいる。
皆がそれを面白くなく思っているはずなのに、オフィスには奇妙に優しい雰囲気が満ちていた。こんな女を羨《うらや》むのはプライドが許さないと、皆が思っているのに違いなかった。結局は、自分とは別世界の話だと考えて、早く忘れるより仕方がない。そして、彼女の存在そのものを忘れてしまおうと誰もが思っている。
翠は、今日から久しぶりに着用になった制服のベストの背中が、急に重く、暑く感じられてならなかった。
[#4字下げ]6
ここしばらくの間、ようやく巡り合った恋愛のことで無我夢中になっていたから、菊村尚子は少しばかり照れくさい思いで、緊張しながら翠を待っていた。
最近、尚子は職場で「変わった」「女らしくなった」などと言われることが多い。尚子自身はそれほど変わったとは思っていないのだが、彼も尚子に「綺麗《きれい》になったね」と言ってくれるから、やはりどこかが変わったのかも知れないとは思う。からかわれるたびに頬が紅潮してしまって、「恋愛している」と宣言して歩いているようなものなのに、久しぶりに会う翠は、果してどんな反応を見せ、どんなことを言うだろうと思うと、尚子は嬉しいような不安なような、得意なような恥ずかしいような、何とも言えない気持ちになった。
ふと気づけば、約束の時間からもう三十分近く過ぎているのに、尚子は苛立《いらだ》ちもしないで、にぎやかな店で一人の時間を楽しんでいた。
実際のところ、最近では、何が起こるのでも楽しみで仕方がないのだ。世界中の何もかもが生き生きと色づき、輝いて見える。店の入口に現れる人々を眺め、笑顔で語りあう恋人たちや、客の間を歩き回る従業員を見、それらの人々にあれこれと思いを馳《は》せているだけで、まったく退屈しなかった。今の尚子は、何を見ても、世界中のすべてのものを祝福したい気分になることができた。だから、翠が現れなくても、多少心配にこそなっても、不機嫌にはならなかった。
やがて、ようやく翠が現れた時、けれど尚子は一瞬ひやりとした。本当に翠なのかどうか、ひょっとしたら人違いではないかと思ってしまったのだ。
「ごめんね。待った?」
しばらく店内を眺め回し、奥の目立たない席に座っている尚子を認めると、彼女は恐縮しているのか、多少硬い笑顔になって近づいてきた。やはり、翠に違いなかった。白い光沢のある長袖ブラウスを着て、だいぶ長くなった髪の、前髪は軽くブローしてサイドは後ろに流してすっきりとさせているからだろうか、以前よりもずいぶん輪郭が尖《とが》って感じられる。
彼女が小首を傾《かし》げてメニューに目を落としている間、尚子は自分の中で、輝くサイダーの泡のように後から後から立ちのぼって弾け飛びそうになっていた、楽しくてしょうがない思いや喜びに溢れている言葉を静かに沈澱《ちんでん》させ始めていた。
翠がこんな雰囲気の時には、はしゃいだ言葉を吐いたとしても、すぐにぴしゃりと撥《は》ね除《の》けられる。長いつき合いだから分かることだ。怒っているのとも違う、もっとせっぱ詰まった感情を必死で押し殺しているような、そんな感じがする。彼女は、高校時代のように憂鬱《ゆううつ》そうで、そして、不幸せそうだった。
「──何か、あった?」
料理をオーダーした後で遠慮がちに口を開くと、翠は微《かす》かに眉を動かす。夏の陽焼けが残っている顔は、いつもより健康そうに見えていいはずなのに、その顔は前よりも青ざめて、不健康に見える。
「あれ、始まっちゃったの」
翠が顔をしかめて小声で言ったから、尚子は思わず「ああ」と口を大きく開けて何度も頷《うなず》いてしまった。何だ、心配して損をした。そういうことならば取り立てて心配することもない。こればかりは毎月のもので、憂鬱の度合も人によって違うから、自分の感覚では推し量れないものがある。
「翠って、ひどいんだっけ」
「始まる前と、最初の二日はね」
「じゃあ、今日は早めに帰ろうね」
尚子がにっこりと笑って言うと、翠は「ごめんね」と言うように力なく微笑《ほほえ》む。尚子自身は母譲りというか、あまり毎月のものに悩まされることもなく来ているから、ついつい生理通に悩む人に無頓着《むとんちやく》になってしまうところがある。けれど同性として、それはとても薄情なことに思えるから、できるかぎり優しく接しようと日頃から自分に言い聞かせている。
「毎月思うわ。早く上がっちゃえばいいのに」
翠が煙草を取り出しながら呟《つぶや》いたから、尚子はつい声を出して笑ってしまった。とたんに、心の底でゆらゆらと漂っていた金の泡が、再び微かに左右に振れながら上昇を始める。泡が弾け飛んで、後から後から次の泡が昇ってこようとする。翠がそんな冗談を言うとは思わなかった。
「今からなくなったら、赤ちゃんが産めなくなっちゃうじゃない」
「いいわよ、そんなの。毎月毎月こんな思いするくらいだったら、今すぐだって上がって欲しい」
「あと二十年以上は無理よ」
「ああ、憂鬱」
そのひと言で、尚子はふと会社の先輩社員のことを思い出した。やはり、翠と同様のことを言っていた。
「うちの会社にもね、『その間遊べなくなるから嫌だ』なんて言う人がいるけど」
その先輩オペレーターは、職場で一番派手な人だった。女子社員の中では彼女を嫌っている人も多かったが、話してみると意外にさっぱりしていて面白い人だと尚子は思っている。けれど、彼女が言う「遊ぶ」という感覚が、尚子には分からなかった。
「ナオの会社で? へえ、機械屋さんにもそういう人もいるんだ」
料理を口に運びながら、翠は意外そうな表情になる。
「そりゃあ、見た目はアパレル屋さんとは違うけど、地味に見えても、そういう人がいるのは変わらないわよ」
「まあ、アパレル系の人だって、見た目だけ派手でも中身は陰気で地味な人って、多いからね」
翠は納得した表情で、運ばれてきたビールを飲む。こうして見ると、やはり翠は翠だった。最初、彼女を別人のように感じたのは、気のせいだったのかも知れない。
「うちの会社にも、遊んでいる人もいるし、不倫もたくさんあるみたい。でも、そういう人は見てて分かるわね」
「分かる?」
「何となく。顔つきが変わって来ちゃうもの」
「不倫してると?」
翠の驚いた顔を見て、尚子は自分も一人前になっただろう、と少しばかり自慢したい気分になった。彼氏の一人もできなくて、男女の機微などにはまったく疎《うと》いと思われてきた自分が、いつの間にか翠よりも落ち着いている気がする。それもこれも、今の尚子には大切な人がいて、彼と一緒に将来の夢を思い描くことができて、世の中のすべてのものが、昔よりもずっとクリアーに見えるようになったからだと思う。
「いい恋愛をしてる人は綺麗になるし、いくらつき合ってる人がいても、いい恋愛じゃないんだなと思う人は、顔がきつくなったり、暗くなったりするものよ」
その先輩社員だって、遊んでいると公言していた頃は、それなりに潤《うるお》いがあって、輝いて見えた。それが、最近になって表情に影がさし、どことなくきつく、何かに耐えているようにさえ見えるようになり、雰囲気が変わったと思っていたら、上司と不倫しているらしいという噂《うわさ》が流れてきた。
「そんなに変わるものかしら」
「そりゃあ、そうよ。その人にとってプラスになるつき合いじゃないんだもの。先が見えないわけだし、いくら割り切ってたとしても、人には言えないし、相手の家庭のことは考えるだろうし、結局は誰にも祝福されない恋愛でしょう?」
「でも、それでいいと思ってるから不倫してるんじゃないの?」
その時の翠があまりにも頼りない表情をしていたので、尚子は何だか急に、自分が年上にでもなったように感じた。普段は、尚子よりもずっと落ち着いて、大人っぽく感じられた翠が、初めて教えられた公式の意味でも聞こうとしているみたいな顔をしている。翠に対してそんなふうに感じたのは、初めてだった。
「頭ではそう思っていても、やっぱり本当に幸福じゃないから、表情に出るんじゃない? その先輩を見てると『私のどこが悪いのよ』みたいな、すごくぎすぎすして、挑戦的な感じがするのよね。自分の生き方とか恋愛とかを、必死になって正当化しようとしてるっていう感じ。でも、何となく辛《つら》そうで痛々しく見えちゃうの。それは、まあ、不倫じゃなくてもそうなんだと思うわ。独身同士でも、素敵な関係じゃないんだな、どこか無理してつき合ってるんだなと思う人って、やっぱり何となく疲れた、どこか虚《うつ》ろな顔してるもの」
そんなことを言える自分に、尚子は大いに満足していた。尚子本人は、それとは反対に誰が見ても幸福そうな顔をしているに違いない。それは、彼のおかげに他ならない。彼は、尚子に夢を見せてくれる。ささやかと笑われるかも知れないけれど、かけがえのない、彼と尚子とでなければ作れない夢を。
「皆、馬鹿《ばか》って言ったら悪いけど、愚かだと思うわねえ。もっと自分を大切にすればいいのに」
皆が自分と同じように幸福になってくれれば良い。皆が、自分と同じようにもっとも自分にふさわしいと思う人と巡り合って、順調に素直な心を育てることができれば、もっと素敵な顔になるに違いない。
「──ずいぶん尊大な考え方ね」
心に泡立つ金の粒を感じて満足している時、翠が押し殺した表情で呟いた言葉を、尚子は一瞬聞き漏らしそうになった。
「自分が恵まれてるから、そんなふうに高みの見物みたいなことが言えるわけね」
水面を跳ね踊りながら弾け飛んでいた泡が、一瞬のうちに静まりかえって、尚子は背中に冷や水をかけられたような気分になった。
「え──」
「言っちゃ悪いけど、ずいぶん威張って聞こえる」
「そんなつもりじゃ──」
「たしかにナオ、綺麗になったものね。表情も明るくなったし、素敵になったなと思った。さっき、ここに来た時、一瞬分からなかったくらい」
翠は静かな表情で煙草《たばこ》を取り出し、視線を逸《そ》らしたままでライターの火を点《つ》けた。
「でも、誰も好きでそんな恋愛をしてるわけじゃないんじゃない? ナオは、一度でそういう相手に巡り合えたから、今の恋愛に夢中になってるから言えることかも知れないけど。誰だって素敵な恋愛をしたいに決まってるでしょう。最初からつらい恋愛をしたい人なんか、いるわけないじゃない」
「───」
唇をすぼめ、煙を長々と吐き出すと、翠は多少目を細めてこちらを向いた。はしゃぎすぎていたと、尚子はその表情を見て一瞬のうちに恥ずかしくなった。
「前、話したわよね。うちの会社で不倫して無理心中した人のこと。私、彼女から手紙をもらったって、話したっけ。拘置所の中から」
翠の声は、いつもは耳に心地良い、高くも低くもない柔らかいものだった。けれど、今夜はいつになく低く澱《よど》んで聞こえる。
「彼女は後悔してないって書いてあった。ああするより他にどうすることもできなかったけど、あれが自分なりの愛の遂げ方だったって」
「───」
尚子は、教師に叱《しか》られる生徒のように、膝《ひざ》の上に両手を揃《そろ》えてうつむいてしまった。
「きっと、彼女は今、拘置所だかどこだかで、いい顔になってるんじゃないかと思う。確かに大変な罪を犯したし、自分の人生まで台なしにしたけど、彼女はそれで満足してるって言うんだから。人それぞれ、いろんな形があるはずだもの。私達くらいの歳《とし》になれば、誰だって結婚は意識するだろうけど、そう簡単に、何もかもが思い通りになるなんていう人、実は、そんなにいないんじゃない?」
「──そうかも知れない」
綺麗な四葉のクローバーのデザインの指輪をした翠の手が灰皿に煙草を押しつけているのが視界に入る。けれど、尚子は顔が上げられなかった。有頂天になっていた自分が恥ずかしくてならなかった。
「ごめんなさい、私、ちょっと調子に乗りすぎて──」
「謝ることなんか、何もないわよ。人それぞれの人生なんだから」
意外なほどの柔らかい口調に助けられて、尚子はやっとの思いで顔を上げた。けれどその瞬間、尚子は一層心が縮こまってしまった。
翠の表情は、店に入ってきた時と同じか、それ以上に、奇妙によそよそしく鋭角なものに戻っていた。これまで見たこともない、険しいというのでもない、それはあまりにも悲しそうで、憂鬱そうなものだった。
「ごめんね、今日は帰るわ。やっぱり、調子がよくないみたい」
何かの言葉を探そうと必死になっているときに、翠は一つため息をつくと、ふいに横を向いて、脇《わき》の椅子《いす》に置いてあったヴィトンのバッグに手を伸ばした。尚子は、悲しくなってしまって、少しの間身動きもできずにいた。翠はバッグを腕にかけると、落ち着いた表情で尚子が帰り支度をするのを待っている。
「──大丈夫?」
涙ぐみそうになりながら、恐る恐る、口を開くと、翠は目元だけで微かに微笑む。
「私、そんなつもりで言ったんじゃないのよ。たしかにいい気になりすぎてたかも知れないけど、そういう人達を哀れんだり、馬鹿にしたりしてるつもりなんか──」
「分かってるわよ。ナオはそういう性格じゃないもの。ごめんね、今日は私の方が調子が悪いの。帰って彼氏にでも電話するわ」
心の片隅に浮かびかかっていた思いを、翠の最後の言葉が打ち消してくれた。そんなふうに怒る翠は、ひょっとしたら自分が辛い恋愛をしているからなのだろうかと、一瞬思ったのだ。
「こんな時には一人でいるのが本当は一番いいのかも知れないんだけどね。毎月そのたびに約束をキャンセルしてるわけにもいかないものね」
最後に駅で別れる時、翠はそう言って笑ってくれた。尚子は、やはり自分の方が翠よりも子どもなのだろうかと、どこか突き放された思いで翠の後ろ姿を見送った。今夜、彼に電話したら、たぶん電話口で泣いてしまうだろうと思った。
[#4字下げ]7
「なによ、なによ、なによ!」
バッグを床に叩《たた》きつけると、翠はそのままの勢いで膝をついた。わけの分からない涙が溢《あふ》れそうだった。それなのに、涙の壺《つぼ》に蓋《ふた》でもしているみたいに、涙はせり上がっても来ない。ここで泣いてしまえれば、よほどすっきりすると思うのに、はっきりと泣く理由が見つからなかった。
「どうして人の顔のことまで言えるのよ!」
やはり、今日は会社になど行くのではなかった。どんな理由をつけてでも、部屋から一歩も出ずに過ごすべきだったのだ。きりきりと痛み始めた腹を抱えて、翠は乱暴に服を脱ぎ捨てた。ベッドの上には今朝着るはずだった、しみのついたブラウスと、小さく伝線しているストッキングが載っている。
腹の底からうねりながら湧き上がって来る、この苛立《いらだ》ちのおさめ方が分からない。翠は、部屋中のものを手当りしだいに投げつけたい衝動に駆られた。食器という食器を叩き割り、カーテンを引きちぎり、すべてのものを壊したい。けれど、その後どういうことが待っているのかもよく分かっている。自分がやったことは、すべて自分で片づけなければならない。そして、よけいに惨《みじ》めにならなければならないのだ。
「どうして私が、この私が惨めにならなきゃならないのっ!」
周りがどんどん幸せになっていく。周りがどんどん輝いていく。あの、ピンクの塊《かたまり》と化した杉松寛子も、自分の恋愛に満足しきっている尚子も、皆が当り前のような顔をして、落ち着いた自分の世界に入っていこうとしている。
「あんな連中のために、どうして私がこんな思いをしなきゃならないのっ!」
嫉妬《しつと》などではない。断じて、嫉妬ではない。
これまでだって、同じ言葉を何度となく自分に言ってきた。嫉妬などというものは、自分に自信のない人間のすることだ。大人の女のすることではないと、何度言い聞かせてきたか分からない。けれど、翠が嫉妬しようがしまいが、こうして周囲はどんどんと翠をおいてけぼりにしてしまうではないか。
「何よ、こんなもの!」
バッグから和紙でできている箱を取り出すと、翠は柔らかく結ばれている紐《ひも》を解《ほど》き、行儀よく並んでいるあられと甘納豆の詰合せを睨《にら》みつけた。これくらいならば投げつけたところで高が知れている。
「誰がこんなものをありがたがって食べるとでも思うのよ!」
小さな袋をわし掴《づか》みにすると、翠の手の中であられが微《かす》かにつぶれる。
「馬鹿《ばか》野郎!」
思いきり袋を投げた。力いっぱい投げたのに、袋はカーテンに当って、頼りなくぽとりと落ちただけだった。それが一層腹立たしく思えて、翠は残りの小袋も全部部屋中に投げつけてしまった。カメの水槽のすぐ脇に甘納豆の袋が当って、エサを求めて水中から顔だけを出してじたばたと泳いでいたトシとイッチャンが驚いて顔を引っ込めた。
「じゃあ、なによ。私の、顔に出てる? 刺々《とげとげ》しい顔をしているとでも言いたいわけ? 不幸そうな影があるっていうわけ? たかだか恋愛一つで、そんなに顔まで変わってたまるもんかっていうのっ! 顔に出る奴《やつ》が馬鹿なのよ!」
あの時、自分の感情を抑えきれずに、純朴なままの尚子にきつい口調になってしまった自分にも腹が立った。とうに忘れたつもりでいながら、たとえ思い出したとしても、常に嘲《あざけ》りの対象としか思わずにいた野崎亜希のことを弁護するようなことを言ってしまったことにも腹が立った。何が「今ごろ彼女はいい顔をしているはずだ」なのだ。人殺しに向かって。そんなことがあるものか。
「どんな顔をしてたって、あの子の人生は取り返しがつかないっていうのに!」
第一、毎月のことでありながら、たかが生理一つで、ここまで感情を揺さぶられ、不愉快な思いをしなければならない自分の身体《からだ》に腹が立つ。何もかも、何もかもに腹が立った。
それなのに、涙が出てこない──。
悲しくもないのに、相手の気を引こうと思えば簡単に浮かぶ涙が、こんな時には心の奥で堰《せ》き止められて、ちっとも溢れてこないのだ。
翠は苛立ち、下着のままでたった今投げつけたあられと甘納豆を踏んで歩いた。あられは翠の足の下で乾いた音をたてて粉になり、甘納豆はただ柔らかく変形するだけだった。それでも我慢できなくて、何度も何度も小さな袋の上で足踏みをした。やがて、一つのあられの袋が裂けて、細かい米の粉がカーペットの上に散った。ざらざらとした不快な感触が、初めて足の裏に届き、足踏みするほどに粉は周囲に散った。
──私はいったい何をやってるの。
ペディキュアの足元を見おろしながら、翠はいつしかうっすらと汗ばんでさえいた。ごとん、と音がして、水槽の中で二匹のカメが表情のない顔をこちらに向けている。
「あんた達まで、そういう目で見るの。私のやってることが、そんなにおかしい? 馬鹿馬鹿しくて、本当は笑いたいんじゃないの? だったら、笑ってみなさい。笑いなさいよっ! 声を出して笑ってみなさいよっ!」
翠はざらざらした足のままで水槽の前に立ち、餌《えさ》を待って顔をもたげているイッチャンを持ち上げ、あられと同じように壁に投げつけた。ごん、と音がして、小さな甲らは床に落ちる。けれど、それからすぐに顔と手足が出て来る。何の痛手も感じていないように、イッチャンは久しぶりの乾いた世界を這《は》い回り始める。
「馬鹿みたい。いじめられてるのよ、あんた。少しは痛い顔をしなさいよ。ええ? それとも、馬鹿馬鹿しくて、そんな顔をする気にもなれないの?」
翠は床に貼《は》りついているカメを爪先《つまさき》で何度も蹴《け》った。浴槽の中ではあんなに自由に素早く動いていたイッチャンは勝手の違う乾いた世界で、もたもたとされるままになるしかない。
「浦島さんを連れておいでって言ってるじゃないの。あんたが連れてきたのは、見てくれだけのケチなマニュアル男じゃない。もっとましな、他のを連れてきてよ。もっと私にふさわしい人を、連れてこいっていうのよっ!」
翠は息を切らしながらイッチャンを見おろした。軽く足を載せ、土踏まずで甲らを押さえつけると、足の裏で小さな手足が翠の足を掻《か》いた。
「好きなんかじゃない。好きになんか、なれない。あんな人と、将来の夢なんか見られない──」
口に出して初めて、翠は「そうなのだ」と、目が覚めた思いだった。
好きなんかじゃない。
好きになるにふさわしい相手だと思ったから、翠は恭一郎を選んだし、好きになっていくと思っていたけれど、けれど、好きではないから好きになろうと思うのだ。最初から好きなら、好きになろうと努力などしない。そんな必要はない。
ああ、でも、彼といれば確実な人生を歩むことができる。彼ならば間違いがない。彼とならば──。
そっと足を外すと、イッチャンは背中の重圧から解放されて、再びこそこそと歩き始める。
「──好きって、何よ。愛してるって」
翠は、そっとイッチャンを拾い上げると、空になった和紙の箱にぽとりと落とした。イッチャンは、菓子の小袋の底に敷かれていた薄い白い紙を掻いてかさかさと小さな音を立てた。
「玉手箱を上げる。だから、地上へお帰り。そこで、よぼよぼの爺《じじ》いになっちゃいなさい」
翠は箱の蓋をしめ、柔らかい紐を再び結んだ。箱の中で、イッチャンがかさかさといい続けているのが聞こえる。
ようやく少しだけ落ち着いてきた気持ちで、一つ大きく深呼吸をすると、翠は水槽に目をやった。急に一人ぼっちになったトシは、別段寂しそうな様子もなく、むしろ自分の世界が広くなったのを味わうかのように、濁り始めた水の中を動き回っている。
「あんただって、そうよ──」
もう一つ深呼吸して、何か込み上げてきそうなものを呑《の》み下すと、翠は水槽に近づいた。
「女房をアル中にするような男じゃないの。あんたの奥さんは、あんたよりも昔の初恋の人に頼ってるのよ。そうやって、やっとの思いで生き延びてることなんか、あんた、何も知らないじゃない」
荻島の妻の哀れな声が蘇《よみがえ》る。彼女は今では翠からの電話を心待ちにしているらしかった。
「黙って聞いてくれるだけで、いいのよ。そんなことさえ、他の誰もしてくれやしない。吉川さんだけよ、ずっと私の話を聞いてくれるの」
翠は、最初の頃の気持ちをすっかり失っていた。初めて無言電話をかけた頃は、夫が外で何をしているかも知らないで、ただの呑気な主婦として生活している女が、無条件に腹立たしく思えた。だから、背後に忍び寄る不気味な不安だけを感じさせたかった。あんたは何でも持っているつもりになっているかも知れないけど、そんなものはすぐにでも壊れるのだと、無言のままで伝えたかった。
「あの時、正直な気持ちを、ちゃんとあなたに言っていればよかった。そうすれば、今ごろこんなことにはなってなかったわ。あなたと、ずっと幸せにいられたかも知れないのよね。まるで違う人生になって──」
荻島の妻は泣きながら翠に訴えた。必ず十円玉を五つだけ落として彼女の話を聞く習慣がついたのは、最近のことだ。こちらから電話を切る勇気がない。今や翠からの無言電話だけを命綱のように待ち焦《こ》がれている相手を自分から切ることが、もう翠にはできなくなっていた。だから、最後の十円玉が落ちて、電話が勝手に切れるまで、ひたすら翠は黙っていることにした。会社からかければ、荻島の家は市外通話になるから、五十円くらいはすぐに使い切ってしまう。それでも彼女は、その数分の会話にすがっていた。
「あなたは、彼女を捨てることも助けることもできないの? 自分で選んだはずの女房を、幻に連れさられても、それでいいの?」
トシに囁《ささや》きかける。「ド」の目をしたトシは、もはや姿を消したイッチャンの存在など忘れているのか、一人でもエサだけは欲しいとばかりにプラスチックの水槽を掻いていた。
「家に帰ると、三百年たってるの。昔、漁に出たまま帰らない、そんな人の話は聞いたことがあるけれど、それきり帰って来なかったそうなって、そう言われるんだから。だぁれも、いなくなってるんだからね」
再び水槽に手を入れて、トシを取り出す。一瞬甲らに首を引っ込めたトシは、外から危害が加わらないらしいと思うと、ゆっくりと顔を出してきた。
「何もかもすっかり忘れて、ずっと乙姫《おとひめ》さまと暮らせばいいものを。あなたは、それもできないんだよね。あっちこっち、こそこそ、きょろきょろしてるだけ。それでも、彼女を愛してるって言うの? あなた、彼女を愛してるの? じゃあ、私は何なの」
ため息をつきながら、翠は一度結んだ紐を解き、イッチャンがもがいていた箱にトシも入れた。
「愛って、何よ──何よ」
白く乾いた紙の世界で、気がつけば買った頃よりもずいぶん大きくなったトシとイッチャンは白いハトロン紙を掻く。翠はそのまま蓋をして、今度はしっかりと紐で結わえた。そして、ベッドに腰掛けて、その箱を蹴った。中からかさかさという音が聞こえ続けていた。
明日は恭一郎が来る日だ。けれど、生理が始まったと言えば、恭一郎は「じゃあ、やめておこうかな」とでも言うだろう。結局は来るくせに、そう言えば翠ががっかりすると思っている。「抱くのだけが目的なの」と聞けば慌《あわ》てて「そんなはずがないじゃないか」と言い、続けて「馬鹿だなあ」と言う。
──馬鹿はどっちよ。抱くだけが、愛だとでも言うの。
痛む腹を抱えて、早々にベッドに潜り込み、闇《やみ》の中で耳を澄ませば、部屋の片隅に蹴り飛ばした箱の中から、かさかさという音が聞こえ続けている。
じっと闇を見つめていると、さっきと同じように込み上げてくるものがある。何度呑み下しても、それは横になっている翠を突き上げるように湧き起こってきて、やがて喉《のど》の奥にひっかかり、それから熱い塊になって、ようやく瞳《ひとみ》からこぼれて落ちた。
今、こうして腕を伸ばしても、虚《むな》しく闇をさぐるばかりで、そこには何もありはしない。遊びと本気。男にできて、女にできないはずがない。自分は上手にやってみせると、見事に使い分けてみせると、ずっと思ってきた。けれど、心の底では、分かっていたのだろうか。遊びにも、本気にも、どちらにもなっていないことを──。この腕に、誰の温《ぬく》もりを感じたいのかということを──。
──もう、疲れちゃった。
涙が耳を濡《ぬ》らす頃、翠はそっと大きく息を吐いた。このまま涙で溺《おぼ》れて、水の底に沈んでしまいそうなほどに、全身の力が抜けていく。
絶対に失敗するまいと思う。亜希のような生き方など、絶対にするまいと思う。けれど、頭では分かっていることなのに目まぐるしく時間ばかりが流れて、心は違う方へ行こうとする。何をどうしたら良いのか、もう分からなくなりそうだった。
「もう、くたくたよ──くたくた」
声に出して言うと、塊はさらに大きくなり、とめどなく瞳から溢れた。思わず嗚咽《おえつ》が洩《も》れて、翠は闇の中で、右腕で目元を隠したまま、泣き続けた。
[#改ページ]
[#2字下げ]第四章
[#4字下げ]1
毎日見ているはずの自分の身体《からだ》だが、ある朝ワイシャツのボタンをとめる時に、ふと首の皮膚がたるんだなと思うことがある。そんな時、荻島はもはや自分の年齢をある種の魅力にも武器にもできず、ただ老いに向かって突き進んでいるのだと思ってしまう。今朝、荻島はいつの間にか眉毛《まゆげ》の中からぴょんと飛び出すほどに長くて太い毛が混ざり、鼻毛にまで白いものが混ざっているのを発見した。
今、シャワーを浴びて改めて鏡に映してみると、ゴルフ焼けしている顔に比べて、首から下は奇妙に生白く、いつの間に増えたのかと思うほどほくろが多い。胸の筋肉などはすっかり落ちているし、腹は出ていないつもりなのだが、何となく肉がたるんでいる。なるほど爺《じい》さんになったと思わないわけにはいかない。
「僕の背中、どうなってる」
腰にタオルを巻いてベッドに戻ると、まだ帰り支度も始めずに、煙草《たばこ》を指に挟んだまま、ぼんやりと一点を見つめていた翠が、感情のない眼を向けてきた。
「どう、って?」
「汚いか」
荻島はベッドに腰を下ろして翠に背中を向けた。「別に」という、いかにもそっけない返事が返ってきて、それきり沈黙が流れる。
いや、だいたいの予想はついている。身体の前半分がちゃんと歳《とし》を重ねているのに、背中だけが若者のようにぴかぴかなはずがない。他の中年男の背中と同じようにシミやほくろが増えて、艶《つや》も張りもなく、弓なりに反ることもなく、くたびれきったように丸く縮み始めているに違いない。
「まあ、歳相応っていうところかな」
首筋に手を当てて、半ば自嘲《じちよう》的な笑いを浮かべて呟《つぶや》くと、再び「そうなんじゃない?」という返事。そしてまた沈黙が流れる。
このところ、翠は少しずつ言葉数が減ってきている。それは荻島も気づいていた。その理由を問いただすつもりはない。刺激的でなくなったか、二人の関係が安定し過ぎたか、それとも、共に過ごす時間にさえ、他の思いが侵入するようになったか、そんなところだ。それは、荻島にしても同じことだった。元々、考えなければならないことなら、こんな小娘には想像もつかないくらいに山ほどある。それらのことから、少しの間でも解放されたいと思うからこそ、翠とつき合って来た。けれど、時折、ちらり、ちらりと「潮時」という言葉が浮かぶようにはなってきた。つい最近のことだ。
「どうだい、新しいフロアーは」
「別に」
「仕入部と隣あわせの時とは、感じが違うだろう?」
「顔ぶれが多少違うだけ。自分の仕事が変わるわけじゃないもの」
「それは、そうだろうがね」
つい先週、荻島達の会社はまたもや社内での引越しがあった。これまで一つのフロアーに同居していた仕入部と総務部広報課は離れ離れになり、仕入部は今度は経理と同居し、広報は二つ下のフロアーで総務としてまとまることになった。営業と並んで動きが大きく、派手な雰囲気の仕入部と、女子社員も多いことから、華やかで賑《にぎ》やかな広報とは相性が良かったのだが、今度は経理が相手になって、荻島のいるフロアーは少し窮屈でおとなしくなった。
「雰囲気はどうだい」
「だから、たいして変わらない」
取りつく島のない返答に、荻島はもう一度黙らなければならなかった。
だが、翠が何を怒っているのか知らないが、こんな小娘一人の機嫌を取っている暇はない。物理的にも精神的にも、そして私的にも公的にも、今の荻島はそれどころではないのだ。
近頃、社内では再び大幅な人事異動が囁《ささや》かれ始めている。今度の異動で、荻島はおそらく正式に仕入部次長になるだろう。そして、次には部長のポストを狙《ねら》う。
そろそろ、身辺を整理しておく必要がある。下手に突かれるような弱みを握られないように、良き家庭人としてのイメージを堅持しなければならない。そういえば、良き家庭人の鑑《かがみ》のような評価を受けていた、あの倉沢が刺されてから、もうすぐ一年になろうとしている。
「あの、野崎っていう子は今ごろどうしてるのかな」
「知らない。塀の向こうでしょう」
「なあ。ずいぶんそっけない返事ばっかりじゃないか」
気分が乗らないのならば、無理に逢《あ》おうとする必要などない。荻島だって、そうすれば今日も早く帰宅できたはずだし、気力と体力と金を使って、よその娘の仏頂面《ぶつちようづら》を見たいとは思わない。そう、つまるところ、翠は荻島にとって「よその娘」でしかなかった。時には彼女の言葉に嫉妬《しつと》して、彼女が思いを寄せようとしていたらしい部下を転勤させるなどということもしてはみたが、結局のところ、翠がいつも言う通り、ゲームはゲームでしかなかった。荻島が現在抱えている、この動かし難い現実から目を背けることは不可能なことだし、彼女はその現実とはまるで無関係の位置にいるのだ。
「じゃあ、帰るとするか。こうしていても時間の無駄だから」
膝《ひざ》に両手を置いて、弾みをつけて立ち上がろうとした時、翠が「ピーッ」と笛を鳴らす口真似《くちまね》をした。
「何だい、『ピーッ』って」
浮かしかけていた腰を戻して、荻島は振り返って翠を見た。その時になって初めて、ずっと彼女に背を向けていたことを思い出した。ひょっとしたら、まじまじと翠の顔を見たのは、今夜はこれが初めてかも知れない。
「ゲーム・オーバー」
「──え?」
翠の黒目がちの瞳《ひとみ》は、柔らかい間接照明の中で濡《ぬ》れて光っている。
「に、しない? ゲーム・オーバーに」
毛布を胸元まで引き上げて、細いしなやかな指に煙草を挟んでいる翠は、そこで口をすぼめて煙を吐き出しながら、小首を傾《かし》げてにっこりと微笑《ほほえ》んだ。荻島は、その夜初めて見た翠の笑顔があまりにも楽しそうに見えたので、思わずつられて自分も曖昧《あいまい》な笑顔になった。
「それ、僕らのゲームの、っていうことかい」
「他に何があるの?」
その言葉に一瞬真顔になってしまった荻島を見て、翠はくすくすと笑っている。
「何だか、つまらなくなっちゃった」
サイドテーブルの灰皿に長い吸殻を押しつけ、両腕を頭の上に伸ばして深呼吸をする。毛布のへりがずり落ちて、形のよい乳房が顔を出した。
「あなたも、じゃない?」
翠は、それを改めて隠そうともせずに、悪戯《いたずら》っぽい瞳で荻島を見ている。
「僕は、そんな──」
「でも、私は嫌になっちゃった。飽きたのかしら」
荻島は、翠の、触れれば内側から押し戻そうとする弾力のある乳房を見ながら、たった今自分が考えていたことを、翠に読まれていたのだろうかと思った。だが、ここで慌《あわ》てるべきではない。これは、もしかしたら願ってもないことだ。
「飽きるまで続けたら、二度とゲームなんかしたくなくなるでしょう? もう少し続けたいな、と思うところで止《や》めるのがいいと思わない?」
翠は、さも愉快そうに言葉を続ける。
「だから、今度会う時は、綺麗《きれい》にゲーム・オーバーになるように、ゲームするっていうのは、どう?」
「──どうやって」
「ドラマチックに、素敵な雰囲気でね、綺麗な別れの言葉と、何なら別れの記念品を用意してもいいわね」
「別れるのに、プレゼントを用意するのか」
「そりゃあ、そうよ。お互いにすぐに忘れるって分かってても『忘れないわ』『忘れないでね』って言うの」
「要するに、僕は最後の最後まで、君にものをねだられるっていうことか」
思わず苦笑しながらつい言うと、それまで悪戯っぽい笑顔を浮かべていた翠の表情がすっと消えた。
「当り前よ」
「当り前か」
「じゃあ、泣いたり叫んだりするのがお望みなの? あの野崎亜希みたいに、包丁でも持ち出して欲しいの?」
「──大袈裟《おおげさ》だな」
「でも、実際、あれは私達のすぐ傍で起きた事件なのよ」
翠は瞳ばかりをきらきらと輝かせて、じっと荻島を見つめている。その瞳は、それほど強烈な力を秘めているとも思えなかったけれど、それでも荻島は思わず視線を逸《そ》らしてしまっていた。
「──本当に、終わりにしたいのか」
「したい。本当に」
「僕たちは、うまくいってると思うけど」
「だからよ。今のうち」
「──君がそうしたいって言うんなら」
「──そうしたいわ」
「本気なんだな」
「何回も聞かないで。本気よ」
皮膚のたるんだ頬を力なくさすりながら、荻島は深々とため息をついた。未来の夢が広がっている娘を相手にしているのだから、彼女から「別れたい」と言われれば、こちらには引き留める力はない。惜しいことをしたと思えるくらいが、ちょうど良いのかも知れない。
「さあ、今度は何のゲームをしようかな。ゴルフでも始めようかしら」
荻島は、するりとベッドから下りて、惜しげもなく裸体を見せて歩きまわり始める翠を目で追っていた。今夜、彼女は、そんなことを考えながら、いつもと変わらずに荻島に抱かれていたのだろうか。あのうなじも、二の腕も、あの腰も、あのふくらはぎも、もう最後になるのか? こうして眺めることも、愛撫《あいぶ》することもできなくなるのか? なぜ? 彼女が望むからだ。
ここは大人になって、ゆったりと彼女を送り出すのがもっとも望ましいことだ。そして、彼女は未来へ、荻島は現実に戻る。それが、荻島にとっても都合の良いことになる。もちろん、翠は知らないことだが。
「ゲームも結構だが、そろそろ、結婚のことでも考えたらどうだい。それとも、そういう気になってるから、ゲーム・オーバーにしたいのかな」
「結婚も、ゲームみたいなものでしょう?」
「そんなに生易しいものじゃない」
「──恐《こわ》いのね」
翠は小さな下着を手に取り、しなやかに身体を曲げてそれを身につけながら、にやりと笑った。
「さ、ここにいるのは時間の無駄なんでしょう? 早く、生易しくない結婚生活に戻ったら?」
やはり瞳ばかりが異様に輝いて見える。その瞳の輝きこそが、年齢を表すものかも知れない。荻島は、膝に手を置いてゆっくりと立ち上がった。思わず「よいしょ」と言いそうになって、慌ててその言葉を呑《の》み込んだ。
これでもう逃げ場所はなくなったのだと、奇妙に現実的に感じていた。翠がワンピースのファスナーを勢いよく上げる音が、耳の底に残った。
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翌朝、荻島は六時前に目覚めた。全身が重く疲れていたが、習慣で目だけは覚めてしまう。
ゆっくりと起き上がって洗面所に行く。鏡をのぞけば、昨日と同じように、ぴょんと太い毛が眉《まゆ》の中から飛び出しているし、一本だけ白い鼻毛もそのままだった。消えてもいない代わりに、増えてもいない。けれど、やがては増えていくだろう。
このままじっとしていたら、もう二度と洗面所から出たくなくなりそうな気がして、荻島は大きく息を吐き出すと、自分自身に弾みをつけるように洗面台に置いた手を突き放した。
リビングは、昨夜のままになっている。それこそ足の踏み場もない。昨夜、荻島が帰宅した時には、もうそういう状態になっていた。明彦がひとしきり暴れたことは聞くまでもなかった。
テーブルは斜めに押しやられ、椅子《いす》はひっくり返り、床一面に食器が散らばり、玄関ホールとの境の扉にはめ込まれているガラスは半分以上が割られていた。雑誌から古新聞までが一面に散らばり、壁にはソースだか醤油《しようゆ》だかが飛び散っている。サークラインまでが一本割られていて、八畳の部屋は三十ワットのサークライン一本で、情けなく薄ぼんやりと照らされていた。里江子は、それらの破片、飛び散った家財道具の中にぺったりと座り込んで、子どものように泣きながら酒を飲んでいた。
いったい、どこから手をつけたら良いものかと考えているうちに、ついにこういう状態にまで、なってしまった。
当初、荻島は少しでも時間をかけて冷静に話し合えば、こんな状況はすぐに打開されるだろうと思っていた。じっくり時間をかけて話し合えば、最後には笑い話になると思っていた。
だが何度呼びかけても、明彦は父親の前に姿すら現そうとはしなくなっていたし、友彦に至っては、まるで綿の詰まった人形にでもなってしまったようで、荻島はやっとの思いで話しかけながらも、背筋が冷たくなる思いだった。
子どもが家庭内暴力に走る、学校に行こうとしない、そんな問題が起きたら、すぐに両親が協力してしかるべき手を打つべきだということは、頭では分かっていた。だが、この家の場合、なにしろ当の里江子までが酒に逃げ込んでしまっているのだから、手のほどこしようがない。
荻島は、帰ったままの格好でガラスの破片を掃き集めながら、疲労と情けなさと怒りとで、自分が惨《みじ》めに思えてならなかった。これが、結婚十八年を迎え、家を建て、一家の長としての責任を全うしてきた男のあるべき姿だろうか。ついさっき「お洒落《しやれ》に別れましょうね」などと若い娘に言われて、穏やかに頷《うなず》いて見せた自分の、これが現実なのだろうか。もはや、どっちが本当の自分なのかも分からなくなりそうだった。
いっそのこと三人まとめて病院にでも連れて行ってしまいたい気もするが、そんなことは世間体が許さない。こんな事情が社内に洩《も》れたら、この大切な時期に来て、どれほどのマイナスになるか分かったものではない。
「起きてたの」
ひっくり返った椅子を起こし、朝刊を取って来る気力も湧《わ》かないままにぼんやりと煙草《たばこ》を吸っていると、ダイニングのソファーに寝かせておいた里江子が毛布をかけられていた上体を起こした。
最近里江子は寝室できちんと眠らず、ダイニングのソファーで着替えもせずに眠ってしまう。最初の頃こそ、いちいち寝室に運んでいたが、里江子も「放っといてよ」と言うし、ある時などは「誰があんたなんかと」と言ったから、それ以来放ってある。青黒い顔をして、瞼《まぶた》などはすっかりむくみ、髪もぼさぼさのままの里江子は、ちらりと壁の時計を見て「六時──早いのね」と呟《つぶや》く。
朝の静寂は、季節が徐々に凍《い》てつき始めていることを伝えている。耳の中にまで広がりそうな沈黙は、現実を忘れさせるほどに穏やかにも感じられる。けれど、その穏やかな朝の静寂を打ち破らなければならないのも荻島の務めだった。
「おまえみたいに好きなだけ寝てるわけにいかんからな」
「───」
「いったい、何のために毎朝起きて仕事に行くんだか、分からなくなるな」
半ば自嘲《じちよう》的な笑みさえ浮かべながら呟くと、里江子はどんよりとした目でこちらを見、それから諦《あきら》めたようにため息をつく。
「愛想が尽きたでしょう」
「まったくだ」
「──じゃあ、好きなようにすれば」
荻島は煙がしみて涙が滲《にじ》む目で妻を見た。酒が里江子からすべての表情を奪い取ってしまったのだろうか。彼女の顔は何も語ろうとしていない。
「こんな家、家族でも何でもないわ」
「───」
「誰も彼もがばらばらで、好き勝手なことを言って」
「お前がそうしてるんじゃないのか」
「──そうよね。何でも悪いのは全部私なんだわよね」
里江子の黄色く濁った目が宙を漂い、流しの方に泳いでいく。その目が酒瓶を探しているのに違いないことくらいは、すぐに分かる。
「飲むなよ。自分の力でどうすることもできないんだったら、本当に病院行きだぞ」
冷やかな視線を投げて、新しい煙草に手を伸ばしていると、急に里江子の口元から嗚咽《おえつ》が洩れ始めた。
「悪いのは全部、私なのよね。だから、あなただって好きにすればいいんだわよね」
「朝っぱらから、やめろって。誰が好きにするとか、そんなことを言ってる場合じゃないだろう」
荻島は眉根に皺《しわ》を寄せ、一つため息をついてから、肩を震わせて泣きじゃくっている里江子を見た。
「考えよう。この家は、俺とおまえで築いたものなんだから、このまま滅茶苦茶《めちやくちや》にしたくないと思うんなら、考えよう」
だが、里江子は泣きじゃくるばかりで、激しくかぶりを振っている。
「元々、あなたと一緒になったのが間違いだったのよ──そこからして、間違いだったんだわ」
里江子は涙で顔をぐずぐずに濡《ぬ》らしながら同じことを繰り返す。
「こんな女房と、あんな子ども達を捨てるくらい、あなたには何でもないことでしょう? 全部を捨てて、せいせいしたいんでしょう?」
「──だが、少なくともこれが俺の家族だからな」
背中に重石《おもし》でも載せられている気分で、のろのろと立ち上がると、荻島は通り過ぎる時に、里江子の肩に軽く手を置いた。だいぶ肉がついていたはずなのに、その肩は驚くほど頼りなく、薄く感じられた。
一人で朝を迎えた寝室に戻り、適当に布団《ふとん》を畳んで押入に押し込むと、時間はまだ早かったが、荻島は身支度を始めた。こういう状況になって、最初の頃こそタンスのどの場所に新しいワイシャツや靴下が入っているのか分からなかったが、今ではようやくそれも把握した。独身の頃は、すべて一人でやっていたことだ。
「あなた──ごめんなさい」
やがて、背後から里江子の声がした。荻島は黙ってネクタイを結んでいた。
「今夜は少し遅くなるぞ。大切な接待がある」
「──帰ってきて下さるんでしょう?」
「たまには飲まずにいてくれよ」
「ねえ、帰ってきて下さるでしょう?」
一度結んで気に入らなかったけれど、荻島はそのままにした。すると、脇《わき》からすっと腕が伸びてきて、里江子が涙で腫《は》らした目のままでネクタイを直す。荻島は黙って顎《あご》を突き出し、されるままになっていた。
「帰って来て、下さるわね?」
「今日はゴミの日だったな。昨日のガラスや何か、出さないとな」
「燃えないゴミは、金曜日なのよ──うちはいつだって守ってるのに、宮田さんの奥さんは──」
「ああ、分かったから。じゃあ、燃えないゴミは明日出そう」
「宮田さんの奥さん、きっと気づいてるわ。私がこんなになってるって。明彦の怒鳴り声だって、近所中に聞こえてるに決まってるんだし。ゴミなんか出しに行ったら、私──」
「だから、俺が出す」
荻島が正面から見ると、里江子のどろりとした目に一瞬弱々しい光が宿った。
「あなたが──出して下さるの」
「そんな顔で外に出るな」
いつまでもネクタイをいじっているから、荻島は「もう、いい」と言って里江子の手を引き離した。結局、これが荻島の女房で、今ごろどんな姿で眠っているのか分からない、化物のようにすら感じられるのが、二人の息子であることは動かしようがない、現実なのだ。
「家族なんだから」
ため息混じりに呟くと、荻島はリビングに戻った。流しの隅に丸めたままで重なっているスーパーのポリ袋に少しずつゴミを入れて、まだ近所の他の主婦連中が集まって来る前にゴミを出してしまおうと思った。
「こりゃあ、今度の休みは家の大掃除だな。少し早いが、暮れの大掃除のつもりで、やっちゃうか」
再びぐずぐずと泣いている里江子に向かって、荻島は久しぶりに自分から話しかけたと思った。
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それから数日の間、翠は実に落ち着いた気分で日々を過ごした。新しいフロアーでの人間関係には特に問題はなかったし、仕事もスムーズだった。隣合わせになった人事の女子社員とも親しくなって、ランチは一緒に食べるようになった。
「人事は情報に敏感なところなのよ。特に、女子社員の噂《うわさ》は馬鹿《ばか》にならないって、主任や課長も結構、尊重してくれるわ」
中でも佐山|圭子《けいこ》という、翠よりも二歳年上の先輩とは、一番気が合いそうだった。人事の彼女達は、それまで翠の知らなかったさまざまな情報を握っていて、翠が顔も見たことのない地方の営業所長の話なども聞かせてくれた。翠は目を丸くしたり嘆息を漏らしたりしながら、飽きることなくそれらの噂話に耳を傾けた。
週末は、恭一郎は大学のOB会と友人の結婚式が立て続けにあるとかで、翠は珍しく一人になった。それは、一つの別れを経験して、しみじみと余韻を味わうための、運命の粋《いき》な計らいのような気がして、翠はどこへも出かけずに過ごした。
こうして静かに別れを味わうことができるのは、自分が大人になった証拠だと思うと、半ば嬉《うれ》しくさえあった。もう、子どもではない。大人の女としての決着のつけ方を心得て、それがきちんと実行できるなら、何をしたって構わない。どんな男と恋愛しようと、それは自由。そんなふうに考えると、自分が少し「いい女」になったような気分だった。
これで、気持ちはすっきりするだろう。あとは、頭で分かっていることを実行するだけだ。これからは恭一郎への気持ちを、まっすぐに育てることができるに違いない。そうすれば、やがて二人の間に流れた時間と、積み上げられた思い出の数々が、しみじみとした感情を育てていく。それは、胸のときめきとか、切なさなどは伴わないかも知れないけど、静かで穏やかな感情に違いない。そして何よりも、結婚生活に必要なのは、胸を焦《こ》がす激しい思いなどよりも、そんな当り前の穏やかさに違いないのだ。今はともかく、翠は恭一郎の将来を、きっと好きになれると考えた。
久しぶりにジグソウパズルに向かっていると、時間は驚くほど早く流れた。翠はテレビをつけっ放しにしたまま、たて膝《ひざ》をして、膝小僧の上に顎を載せながら、片手でジグソウパズルの凸凹のピースを玩《もてあそ》び、のんびりとした夜を過ごした。
あの日は、最初から別れ話をするつもりではなかった。ただ、奇妙に時間ばかりが上滑りしているような感覚から逃れられず、何か、これまでとまったく違う流れを作りたいと思っただけのことだ。このところ、いくら眠っても癒《いや》されない疲労感が頭と背中に貼《は》りついていた。毎日は飛ぶように過ぎ去るばかりで、自分が何をしているのか分からなくなりそうだった。人知れず泣いたあの夜のことを思い出すたび、今のままでは頭と心がバラバラになりそうなのが恐《こわ》かった。
そして、荻島が自分の背中のことを聞いた時、何だか急に嫌になった。
荻島の背中は、肩から肩胛骨《けんこうこつ》の下辺りまで、薄いシミがまだらに広がっていた。それは、何年も前の陽焼けの痕《あと》、それも、たった一年でできてしまったものではなく、何年分もの陽焼けの痕が、少しずつ重なっているに違いないものだった。
夏のたびに少しずつ成長する子ども達を連れてプールに行った記録、庭で水遊びをした記録、もっと若い頃、現在の妻と海に行った記録。「どうなってる」と聞かれた彼の背中には、それらのすべてが記されている感じがした。
恭一郎に比べればずっと脂肪の厚い、こんもりとしたその背中は、腰までの線もシャープではなく、むしろ柔らかい単純な線でできていた。そこには、張りのある肌と筋肉の代わりに、憎々しいほどの自信と生命力が滾《たぎ》っていた。すがりつこうとするものを振り払い、払い除《の》けて、守るべきものを守りつつ、ひたすら前進する、かたくななまでの力強さに満ちていた。
「憎らしい背中だ」と、あの時翠は感じた。彼はその背中を翠に見せて帰り支度をし、背中に記録されている歴史を共有している家族の元へ帰る。問題だらけ、トラブルだらけの家に帰る。たとえ、翠が本気でしがみついたとしても、簡単に弾《はじ》き飛ばされてしまいそうな感じがした。
荻島と別れれば、翠は少しだけ睡眠不足が解消される代わりに、食生活が単調なものになり、身につけるものが増えなくなるだろう。タクシーに乗る回数は減るだろうし、赤いマニキュアは減らなくなる。けれど、何もかもが、荻島と知り合う一年半前に戻るわけではない。今、翠には恭一郎がいる。
──人生なんて、そんなものよ。
誰がカチンコを鳴らすわけでもなく、日々は音もなく流れていく。人生なんて、そんなものだ。恭一郎と額を寄せあって預金通帳を覗《のぞ》き込み、にっこりと笑みを交わす日も、そう遠くはないのかも知れない。恭一郎がそれを望み、翠がそれを受け入れる以上、その構図は壊れる心配はない。
──そんなものよ。
テレビではバラエティー番組をやっている。毎度おなじみの、オチの分かっているコントなのに、翠はくすくすと笑いながら、パズルのピースを玩んでいた。
──一人ぼっちになったわけじゃない。一人にならないために、こうなっただけ。
パズルの脇では、汗をかいたグラスの中で時折氷が音をたてる。一週間もあれば、ボトルの一本くらい空いてしまうだろうと思ったから、週末、恭一郎が来ないと分かった時に買って来たバーボンだった。水で割る代わりに、たっぷりの氷を入れて、少しずつ薄くなるバーボンを楽しみながらパズルに興じる。都会で一人暮らしする、お洒落《しやれ》な大人の女の日曜の夜。
「私も、少しは貯金に精を出そうかな」
言いながら、ふと顔を上げれば、カラー・ボックスの上には空っぽになった水槽がある。そうだった、話し相手はいなくなった。翠は微《かす》かにため息をつくと、軽く首を振った。今夜も電話はことりとも言わない。
少し考えてから、翠はそっと受話器に手を伸ばした。本当は、相手は誰でも良かったのだが、ほとんど無意識のうちに、真っ先に思い出した番号をダイヤルする。ほんの少し、他人の声を聞ければ良いのだから、どこに電話しても同じようなものだ。しかも、向こうは翠の電話を待っているのだから。
「はい、荻島でございます」
数回のコールの後で、けれども出てきたのは一瞬彼女ではないと思うくらいに確かで落ち着いた声だった。翠はぼんやりとテレビを眺めながら、受話器の向こうに神経を集中させた。
「──吉川さん──困るわ、こんな時間に」
翠がしばらく沈黙していると、彼女は急に慌《あわ》てた声になる。翠は愉快になって、薄まり始めたバーボンのグラスに手を伸ばした。おそらく、荻島は今日もきちんと家にいたのだろう。
「あのね──やっぱり──もう電話しないで下さらない? 私、あなたにいろいろと口説いちゃったけど、反省してるの。あのね、主人が、やり直そうって言ってくれてるのよ、だから、お願いですから」
「───」
「今日もね、久しぶりに外で食事をしたの。上の子はまだ問題があるけど、下の子は、一緒に行ったわ。ううん、話はしなかったんだけど、残さずにご飯も食べてくれて。本当に、久しぶりよ、一家|団欒《だんらん》なんて」
今日も翠の夕食は、オーブン・トースターで温めるだけのグラタンと、コンビニエンス・ストアーのサラダだった。
「今、ちょうど主人がお風呂《ふろ》だから話せるんだけど、ねえ、私の声も元気そうでしょう? 今日で四日なのよ、お酒を飲んでないの。一滴も。飲まなくても、大丈夫なものなのよね、ちゃんと、主人がいてくれれば」
──私ハ、今デモ彼ニ会イタイトバカリ思イマス。彼ノコトバカリ考エテ過ゴシテイマス。
「あなたには申し訳ないと思うけど、私は今の生活を大切にしたいと思うの。御親切は感謝しますけれど、これ以上電話をいただくのは、困るわ。ですから、もう電話して来ないで」
その時、電話の向こうでがたん、と音がして、「ああ、いい湯だった。おい、ビール」という声が聞こえた。「切るわ! じゃあ!」と聞こえたかと思うと、そのまま電話は切れてしまった。ここしばらく、彼女が勝手に「吉川さん」と呼ぶようになって以来、彼女の方から電話を切ったのは初めてのことだった。
「──何なのよ」
荻島は、あっという間に良き家庭人に戻ってしまったということか。翠に、たった一度別れ話を持ち出されただけで、彼は「冗談だろう」とも「考え直してくれ」とも言わず、いともあっさりと翠の言葉を受け入れた。あれほど時間をかけて翠を抱き、翠の一言一言に目を細めていた男が、翠の言葉に嫉妬《しつと》して、山下を地方にまで飛ばしてしまった、それほどのことをする荻島が。
──待っていた? こっちから言い出すのを?
ああ、いや、いつかは別れるつもりだったのは分かっている。それは、お互い承知の上だった。だからこそ翠は「ゲーム」という言葉を使ってきた。いつか、彼は家庭に戻るということくらい、十分承知してきた。彼がすんなりと家族の元へ戻ってくれなければ、それこそ困ることになったのだ。もはや一つの遊びが終わり、一段大人になった翠は、これからは落ち着いた家庭を築くことだけを考えれば良い。だからこそ、その日のために、翠だって恭一郎を準備しておいたような部分があるのだから、おあいこだ。
結局、彼は現実に戻った。彼には、失ったものなど、何一つとしてありはしない。
「つまらない男」
ようやく受話器を握ったままだったことを思い出し、翠は深々とため息をつきながら受話器を戻した。
まあ、よしとするしかないだろう。
この一年半の間に、翠だって向こうにずいぶん金を使わせたのだし、時計も、プチネックレスも、年齢にそぐわないような高価なものを、いとも簡単に手に入れた。いろいろな店に行き、いろいろな料理と味を知った。だから、それでいい。ゲームは、終わったのだ。
──どうせなら、最後に大きな物をねだってから別れれば良かった。せっかくだから、クリスマス近くまで待てば良かったかも知れない。
なにしろ、恭一郎はケチだから、クリスマスなどといっても、それほど贅沢《ぜいたく》なプレゼントは望めないに違いない。それならば、もう少しの間、荻島を確保しておけば良かったかも知れないと考えて、翠は慌ててその考えを打ち消した。物に引きずられるのは、まっぴらだ。第一、あの時は本当に荻島の背中が嫌だと思ったから、思わず言ってしまった。あれは、あの時の本心だった。あの背中が、たまらなく薄汚く見えた。二度と触りたくないと思った。
恭一郎は「電話をするよ」と言っていたのに、どうせ昔登った山の話などで盛り上がっているのだろう。元々それほどまめに電話をするタイプでもないくせに、そんなことを言われれば、思わず電話を待って、風呂に入るのもためらってしまう、こちらの気持ちは向こうには分からない。
パズルはいっこうにはかどらない。時計を見れば、もう十一時を回っていた。明日は、久しぶりに爽《さわ》やかな週明けを迎えることができそうだ。寝不足でもなく、疲れもたまっておらず、気分をすっきりと整えて。
「でも、もう一杯だけ」
氷で薄まったバーボンが、グラスの底に数ミリ残る程度になっているのをたしかめると、翠はゆっくりと立ち上がった。頭が案外ぐらりと揺れて、思ったよりも酔っていると感じたが、まだまだ平気だと思った。
[#4字下げ]4
「何か、面白いことないかなあ」
ずっとテレビのゴルフ中継を観《み》ていた恭一郎が、ふいに大きなあくびをしながら間の抜けた声を出した。
先週の今ごろは、一人でのんびり過ごしていたのだと思いながら、翠は黙ってジグソウパズルに向かっていた。モネの「睡蓮《すいれん》」のパズルは、絵の部分だってだいぶ時間がかかったのに、今は周りの縁の部分に差し掛かっていて、ただ無地の淡い水色だったから、根気だけが勝負だった。
「よくも、まあ、飽きないな」
「恭ちゃんがテレビばっかり観てるんだもの」
「翠が、そんな、せせこましいことしてるからだ」
翠はたて膝に顎《あご》を載せたままで、微かに鼻で笑った。
一日に二回はテーブルの上に小銭を出して並べて数えるような男が、ジグソウパズルを「せせこましい」などと言う。昨日など、彼はついに避妊具まで「割り勘にしないか」と言った。
「だって、使うのは俺だけど、二人のために使うわけだろう?」
冗談にしては、あまり笑えないと思いながら、翠は返事もできずに黙っていた。けれど、「使わなくて困ることになるのは、俺よりも翠の方なんだしさ」と続けて言われ、さすがに顔をしかめた。
「あと一年以上は結婚できないことになってるのは、恭ちゃんの方なのよ。もしも子どもができたら、恭ちゃんの子だって言えば、私は済むんだからね。そうしたら、会社でどんな顔をされると思う?」
翠だって、まだ子どもが欲しいなどとは思っていない。自分の腹が大きくなり、自分の中に新しい生命が宿るなど、想像したこともない。
翠の言葉に、恭一郎はがっかりした口調で「ああ、そうか」と言った。
どうやら、彼のケチなところは、何も今始まったことではないらしい。もしもこの先、本当に彼と共に暮らすことになったら、一体どういうことになるのだろうと、翠はため息をついた。共働きの間は、今と変わらず多少の分担はできるかも知れないけれど、翠が働かなくなったら、彼は一銭の金を出すのでも、口うるさく言うのかも知れない。もしも、本当に子どもでもできたら、その子を産み、育てる費用について、彼はまたもや「割り勘にしよう」とでも言う気だろうか。
背中で「あーあ」という大きなあくびを聞きながら、翠はベッドとテレビに挟まれる形で、それでもパズルから目を離さずにいた。
「なあ、本当に駄目なのか?」
「何が」
「だからさ、今度の水曜日」
翠は初めてパズルから顔を上げて、一つため息をついた。
「前からの約束なんだもの。もう少し前から分かってたらよかったんだけど」
「半額で行けるんだぜ、S席だったら、本当は二人で二万以上するところなのに」
「行かなかったら、タダでしょう?」
来週の水曜日、コンサートのチケットが入ることになったのだと、金曜日の夜になって翠は恭一郎に聞かされた。行くつもりだった友人が急に行かれないことになったので、半額で良いからチケットを買わないかと持ちかけられたのだそうだ。だが、今度の水曜日は、翠にとって一生の思い出にしたい日、荻島との最後のディナーの日だった。
「どんな約束なんだよ、キャンセルできないの」
「だから、無理なんだったら。田舎から友達が出て来るんだもの。もう、ずっと会ってないのに、こっちの都合に合わせて出て来るのよ。いまさら『会えない』なんて言えないでしょう」
「じゃあ、俺、他の子と行っちゃおうかな」
背後で動く気配がして、恭一郎はベッドの上に起き上がった様子だった。
「経理のさ、伊藤《いとう》さん。俺に気があるみたいなんだよね。誘ってみようかな」
翠は姿勢を動かさないままで、黙って手元のピースを見おろしていた。
「俺がちょっと話しかけたりするとさ、もう、真っ赤になっちゃうの。かぁわいいよな、初々《ういうい》しくて」
「じゃあ、そうすれば?」
顎を膝小僧《ひざこぞう》に載せたままで声を出したから、翠の声は自分でも意外なほどに、こもって暗く聞こえた。
「あ、それとも、うちの課の渡辺さん。ちょっと突っ張って見えるけどさ、ああいう子に限って、実は脆《もろ》くて弱かったりするんだよな。前に一度『飲みに連れてって下さいね』なんて言われたことがあるんだ、俺」
経理の方は知らないが、その渡辺という女は翠も見知っている。今年の春に入ってきた短大卒の娘だったが、あの目つきからすると、中学か高校生くらいの頃から、かなりのことをしてきたのではないかと思う。やるだけのことはやったから、今はもう落ち着いているという感じの娘だ。
「潤《うる》んださ、情熱的な目で俺のこと見るんだぜ。大人ぶってるけどさ、俺が本当の大人の男っていうものを、教えてやってもいいよな」
手玉に取られるのは、恭一郎の方だ。翠は、内心で呆《あき》れ果てながら、恭一郎の言葉を聞いていた。女には同性を一目で見抜く目、勘があるということを、恭一郎は知らない。あの渡辺という女は、かなりの強者《つわもの》。もしかすると、恭一郎が口ほどにもない男だということを、簡単に見抜いてしまっているのかも知れないと思わせるほどの女だ。見た目は男らしくて精悍《せいかん》だけれど、その実は案外女々しいナルシストで、噂《うわさ》好きでシスターコンプレックスで、ケチで、二十四歳まで童貞で。
「な、どう思う?」
恭一郎は調子に乗った声で話しかけてくる。
「だから、好きにすれば」
「あ、妬《や》いてるだろう」
「まさか」
──馬鹿馬鹿《ばかばか》しい。
「やっぱり、妬いてるんだ。ははは、翠、俺に捨てられるんじゃないかと思ってるんだろう。まあ、たしかに、俺のこと狙《ねら》ってる女の子って、けっこう多いみたいだからねえ。翠が心配するのも、分からないじゃないけどさ」
恭一郎の重くて厚い手のひらが肩に置かれる。翠は黙ってその手を外した。
「あ、可愛《かわい》くないな」
こんなものだ、これで良いのだと思いながらも、どうしても気持ちの底が苛立《いらだ》ってくる。恭一郎の無邪気な勘違いや、屈託のない言葉の一つ一つが、少しずつ癇《かん》に障《さわ》るのだ。
「あんまり、つんけんしてると、俺、本当に浮気しちゃうかも知れないぞ」
「──つんけんなんて、してないわよ」
「してるじゃないか。女の子はね、素直で可愛いのが一番なんだから、ね。俺にふられたくなかったらね、陰気なパズルなんかやってないで、何か旨《うま》いものでも作るとかさ、約束だって、俺の都合を聞いてからにするとか──」
「何でよっ!」
翠は、思わず大きな声を出して振り向いた。薄ら笑いを浮かべて、片腕で半身を支えて起き上がっていた恭一郎は、一瞬驚いた顔になった。
「何で、私が恭ちゃんの都合に合わせて、自分の約束を変えなきゃならないの。奥さんでもないのに、何で、そこまで言われる必要があるのよっ!」
後から後から、ふつふつと言葉が煮えたぎって飛び出そうとする。だいたい、翠に夢中になったのは恭一郎の方ではないか。いつでも勝手に人のことを振り回しておいて、休みのたびに人のアパートに来て、束縛して。翠は、恭一郎がこの部屋に来ている間の光熱費や食費だって、請求したことがない。恭一郎のやり方を真似《まね》たら、当然請求しても良いはずだったが、そんなみっともない真似はしたくないと思った。
「何だよ、そんなに怒らなくたって──」
「勝手なこと言わないでよ! そんなにコンサートに行きたかったら、誰でも誘えばいいでしょう? 思わせぶりなことばかり言って、私にどうしてもらいたいの? 私が焼きもち焼いて、泣いたり拗《す》ねたりすればいいの?」
彼に対して、そんなに激しい口調になったことはなかったから、恭一郎は慌《あわ》てた表情になって起き上がった。
──こんなものかも知れないんだから。
何度も自分に言い聞かせようと思う。これが、ゆったりとした休日というものかも知れない。時には喧嘩《けんか》もしながら、もしかしたら結婚した後だって、子どもがいない間は、こんな日々の繰り返しになることだろう。
「冗談だよ、冗談。もう、翠はすぐにムキになるんだからな。大丈夫、俺は翠を捨てたりしないってば」
その言葉に、翠の中で何かが弾《はじ》けて飛んだ。
「捨てるって、何なのよ。あんまり、いい気にならないで」
──私ハ、後悔シテイナイノデス。
初めて荻島に抱かれた時、翠は何よりも自分以外の人の持つ体温に感動した。
満員電車の中などで、意味もなく触れ合わなければならない他人の温《ぬく》もりとは異なる、はっきりとした意志を持って翠を包み込もうとする温もりは、驚くほど心地良く、そして、翠を安心させるものだった。あの時初めて、翠はそれまでの自分がずいぶん淋《さび》しかったのだと気づかされた。
あの温もりを捨てても、恭一郎がいるから大丈夫だと思った。一人になるのは恐《こわ》くてならなかったが、恭一郎がいれば大丈夫だと思っていた。
──彼ハ、モウ私ダケノモノニナッタノデス。
「そんなに怒るなよ。嫌んなっちゃうなあ」
荻島がいなくなっても、今の翠は望む時に温もりを手に入れることができる。あの野崎亜希は、死んでしまった、いや、自分の手で殺《あや》めてしまった男の、果して何を思い出すのだろう。顔、声、言葉、温もり、笑顔、ため息──死顔。
「──嫌なら、やめればいいでしょう」
「怒るなってば、な? 仲直りしようぜ」
もしも、このまま月日が流れたら、この自分が、いつか恭一郎の子どもを産むような日が来るのだろうか? そんなことが有り得るだろうか。十月十日《とつきとおか》もの間お腹《なか》を大きくして、陣痛の苦しみに耐えて、この男の子どもを?
「な、こっちにおいで」
恭一郎の手が伸びて、翠の二の腕を掴《つか》む。太くて強そうな腕。大きな手。頼もしい、力強いはずの手。
「おいでってば。仲直りしよう」
「触らないで」
荻島は引き留めないつもりだろうか。本当に、このまま「さようなら」と綺麗《きれい》に別れて、それでおしまいにするのだろうか。なぜ? 家庭がある。そう、彼には、帰る家があるからだ。
「あ、分かった。先週来てやれなかったから、それも拗ねてるんだな?」
「───」
恭一郎は、相変わらず健康そのものといった、余裕のある笑顔で翠を見ている。
「さあ、おいで」
指先で持っているパズルのピースの角を親指の腹で弾いている間に、幾重にも重なっている厚紙は少しずつ柔らかくなり、剥《は》がれ始める。
「でも、俺は知ってるんだ。翠はね、俺が抱いてやれば機嫌なんかすぐに直るんだ、な?」
肩で大きく息をすると、翠はピースをぽいと投げ出した。首を傾《かし》げて振り返った姿勢のまま、顎を前に出して目を細め、もう一度大きく息を吐き出すと、歯の隙間《すきま》から声を出した。
「私はあなたのダッチワイフじゃないのよ」
「ダッ──何だよ、それ」
「精力のはけ口だけにされたんじゃ、たまらないっていうの」
「ダッチワイフって、何だよ」
恭一郎は、初めて気色ばんだ表情になる。肘枕《ひじまくら》をしてごろ寝をしていたおかげで、自慢のヘアースタイルが多少乱れている。翠は冷やかにその大きな身体《からだ》を眺め回し、捻《ひね》っていた姿勢を元に戻した。
「そんな物も知らないの」
再びパズルに向かって言いながら、涙が浮かんでいた。なぜ、こんな時に涙が出るのだろうと思うと自分でも驚いたが、見る間に視界がぼやけて、唇を噛《か》みしめて堪《こら》えようとしても、一粒涙が落ちてしまった。
荻島は、翠を引き留めない。一年半の月日も、彼には一瞬のアクシデント程度にしか思えないのに違いない。就職して間もない、二十三になったばかりの翠には、もう、どうやっても還《かえ》ることはできないのに。
「──誰が、抱いてもらえばすぐに機嫌が直るのよ」
気づかれたくないと思ったけれど、声は震えて掠《かす》れてしまっている。もう、ごまかせないと分って、翠は鼻をすすった。
「馬鹿にしないで。自分が抱きたいだけじゃないの。何でもかんでも、人のせいみたいな言い方しないでよ」
後から後から涙が溢《あふ》れて来る。
──人生なんて、そんなもの? この男と、こんな男と暮らしていくのが、これからの私の人生? 安全だから、間違いがないから、だから、彼と一緒にいればいいの? 荻島は、荻島は──。
「翠──泣いてるの」
思わず嗚咽《おえつ》が洩《も》れてしまって、両手で顔を覆《おお》うと、ベッドで恭一郎の動く気配がし、それから両肩に彼の大きくて重い手がかかった。
「翠らしくないよ。そんなに感情的になって。何だよ、軽い冗談じゃないか。謝るよ、ごめん。な?」
抑え切れずに、喉の奥から声が洩れてしまう。後から後から涙が出てきて、どうすることもできない。
「翠は物事を真面目《まじめ》に考え過ぎるんだよ」
子どものように頭を撫《な》でつけられ、広い胸に抱き寄せられながら、翠は声を上げて泣いた。恭一郎の手が、背中を柔らかくさすり続ける。そうされるうち、背中から力が抜けていくのが分かる。やがて、恭一郎の手にささえられ、翠は顔を覆ったままベッドに誘われた。
「そんな、ガキみたいな泣き方しちゃって。どうなっちゃったんだ、うん?」
ベッドに寝かされて、前髪をそっと撫でつけられる。額にかかった髪を、太くて無骨な指が払う。翠はゆっくりと顔から手を離した。恭一郎の四角い、陽焼けした顔が自分を覗《のぞ》き込んでいる。
「翠──」
最初の頃、恭一郎は翠の唇の位置さえまともに狙うことができなかった。あの日の夜は避妊具もなく、彼は緊張と酒の酔いとで満足に思いを遂げることもできなくて、ひたすら翠の身体をまさぐるばかりだった。翌朝になったら、何だか唇が腫《は》れていたことを思い出す。
「翠──可愛いよ」
荻島がいなくなっても、翠には恭一郎の温もりがある。彼は荻島よりも若く、大きく、激しい。彼には荻島のように酒びたりの日々を送る女房も問題児の息子もおらず、安全で確実な人生を望んでおり、絶対に家族を路頭に迷わせるような真似はしないと誓っている。
翠は必死になって恭一郎の背中にしがみついた。やがて、恭一郎の呼吸が荒くなり、熱い手がもどかしそうに翠の服を脱がしにかかる。翠は目をつぶって、黙ってされるままになっていた。
人生なんて、そんなものだ。女は望まれてこそ幸せ。追おうとすれば逃げるに決まっている。そんなものは、決して幸福をもたらしてはくれない。
「──下手ねえ、いつまでたっても」
ゆっくりと瞼《まぶた》を開けば、木目模様の合板の天井が広がっている。その視界に、恭一郎の顔が入って来た。
「──え?」
翠は天井を見上げたまま、大きく深呼吸をした。もう新しい涙は湧いてこない。
「下手ねって言ったの」
一瞬、恭一郎の顔が恐怖とも苦痛ともつかない表情に歪《ゆが》んで、太い眉《まゆ》の下の目がぴくぴくと動いた。
「何だよ、それ」
声のトーンが急に低くなり、肌が離れる。
「どういう意味だよ」
「私だから我慢してあげてたのよ」
「我慢?」
恭一郎の顔は一瞬のうちに紅潮し、それからみるみる血の気が退《ひ》いていくのが、見ていても分かった。
「経験不足っていうのは、マニュアル本だけじゃ補えないもんね。いい? そんな程度じゃ、渡辺さんみたいな女になんか、絶対に相手にされるはずがないわ。せいぜい馬鹿にされて、笑われるのがいいところよ」
翠はじっと恭一郎の額のあたりを見据えて呟《つぶや》いた。今すぐ煙草《たばこ》を吸いたいと思う。恭一郎は鼻から大きく息を吐くと、どさりと翠の隣に横たわる。長く重い沈黙。鼓動が背中に響いている。
「──何で、そういうこと言うんだ」
翠は、ゆっくりと瞬《まばた》きをすると恭一郎に背を向けるように寝返りを打った。そうやって、翠の背中を見て、眠れずに時を過ごしたことなど、恭一郎はこの一年近くの間に一度だってありはしなかったはずだ。
「どうして、そんなことが分かる──」
翠はぼんやりと砂壁を見つめていた。もう涙は流れて来ない。頭の中には野崎亜希からの手紙の文面ばかりがくるくると回っていた。長身で、面長のあの亜希は、今ごろどんな服装で、髪はどんなふうになっているのだろう。彼女は何を思って、塀の中での日々を過ごしているのだろうか。
ははは、と乾いた笑い声が聞こえてきた。
「何の八つ当りだか知らないけど、ちょっと、タチが悪いんじゃないのか? 今日の翠、ちょっと変だよ、ダッチ何とかって言ってみたり、その──」
「私は下手なのは嫌いだし、ましてやそんな人のダッチワイフ代わりになんて、なりたくないって言ってるの。自信満々になるんだったら、せめてもう少し上手になってからにしたら」
「謝れよ!」
飛び上がるようにベッドから身体を起こす気配がして、恭一郎の声がいつもより甲高く響いた。けれど、翠は全身を固くして、ひたすら目の前の砂壁に混ぜこまれた金色の粒を数えていた。
「翠──俺に嘘《うそ》ついてたのか?──正直に、言えよ」
大きな手が右肩を包み、細かく揺する。
「俺を怒らせようとしてるのか? うん? あ、さっきの仕返しをしようとしてるんだろう」
手足を思いきり伸ばして、ゆっくりと安心して眠りたいと思う。自分のベッドなのに、恭一郎に遠慮して寝不足になるなんて、そんな馬鹿げた思いはしたくない。
「今なら、な? 聞かなかったことにしてやるよ。まさか君が、そんな次元の低い台詞《せりふ》を吐くなんて、そんなこと、な、冗談だろう?」
肩から恭一郎の温もりが伝わって来る。けれどそれは、満員電車の中でたまたま触れ合ってしまった人の温もりとどこが違うのだろう。
「何とか言えよっ!」
「──怒鳴らなくたって、聞こえてるわ」
「俺、怒るぞ。そんな、次元の低い冗談で、男を馬鹿にするようなことを言ってからかうなんて、俺──」
「思った通りを言っただけよ。本当のことを」
目の前の壁に声がぶつかる。翠はひたすら壁を見つめていた。
はっきりと感じていた。
望まれれば幸福というものでもない。心のどこかで諦《あきら》めながら暮らしていれば、満ち足りない淋しさが広がるばかりだ。最後には惨《みじ》めにさえなるだろう。
「──謝るんなら、今のうちだぞ」
翠は、ゆっくりと目を閉じる。
最後にタクシーの窓の向こうで、手を振る翠から視線を逸《そ》らした荻島の顔が蘇《よみがえ》った。彼は家に帰った。恭一郎だって、家族の待つ家に帰れば良いのだ。皆、帰れば良い。待つ人がいるのなら、まっすぐに帰れば良い。気が向いた時だけ相手をさせておいて、最後に取り残されるのは、いつも翠ではないか。独りになるのは、いつも翠だ。母が家を出た後、翠は姉と父との暮らしになった。じきに新しい母が現れ、同時に姉が消えた。いたたまれなくなった翠は母の実家を訪ねてみたことがある。だがそこで、母にも再婚の話が出ていることを知った。要するに高校生の翠にだけ、行き場所がなかった。翠だけが、とり残された。母は再婚後も、口では「いつでもおいで」と言うが、その目は常に怯《おび》えて見える。
わざとらしい鼻息が聞こえて、恭一郎が力任せにベッドから離れたのが分かった。がさがさと身支度をする音が聞こえ、やがて彼は乱暴にドアを閉めて出て行った。アパートの外で車のエンジンの音が響いた後、聞こえるのはテレビのゴルフ中継の音だけになった。
──私ハ、後悔シテイナイノデス。
ずいぶん長い間、同じ姿勢で過ごしてから、翠はのろのろと起き上がった。素肌の上からセーターだけを着て、とりあえず玄関の鍵《かぎ》を締め、改めて部屋に戻れば、作りかけのジグソウパズルと寝乱れたベッドのある空間にはむっとする空気がたちこめていた。翠は窓辺に寄り、レースのカーテンを開いて、窓を開け放った。初冬の風がセーターの編目を通して肌を刺す。
引出しに隠してあった煙草を取り出して、弱々しい陽射《ひざ》しの中に煙を吐き出すと、煙は風に乗り、案外遠くまではっきりと煙と分かる色のままで広がっていった。
部屋の片隅に和紙でできた箱が転がっていた。翠は箱に近づいて、裸足の爪先《つまさき》で軽く蹴《け》った。箱は頼りないほど軽く、カーペットの上を滑る。
「──いる?」
今度は箱を手にとって、首を傾げて耳を近づけながら箱を振る。恭一郎は、トシとイッチャンが二匹|揃《そろ》って逃げてしまったという翠の言葉を鵜呑《うの》みにした。「もしかしたら、まだ部屋のどこかにいるかも知れないぞ」と言って室内をきょろきょろと見回したりもしていたが、やがてすぐにカメの存在など忘れてしまった。
トシとイッチャンは、箱に入って数日の間は、翠が箱を振れば中でかさかさと音をたてたけれど、そのうち静かになった。今、箱を左右に振ってみても、ことことと、固い甲らの音がするばかりで、かさかさと紙を掻《か》く音は聞こえない。
「死んじゃったの? 乾いちゃった? それとも、眠ってるだけかしら」
ぽん、と箱を投げ出して、翠はもう一度窓辺に立った。
「──ろくな浦島さんを連れて来なかったんだから、あんた達が悪いのよ」
野鴨《のがも》か、雁《がん》だろうか、群をなして飛んで行くのが隣家の屋根の上の、淡いブルーの空に見えた。多摩川に行くのだろうか、今夜の寝床を探しているのか。どこからか、弱々しい秋の虫の声がする。
テレビを消して、ひところに比べてずっと早く訪れる夕暮れの気配を感じながら、翠は深々と深呼吸をした。その時になってようやく、風が頬の涙を飛ばそうとしていることに気づいた。
[#4字下げ]5
「今だから言うけど」
夜景の見える高層ビルの上のバーで、翠は穏やかに微笑《ほほえ》みながら前を見た。
十一月も末になり、店内には気の早いクリスマスのデコレーションが施されていたが、窓から見える新宿の夜景は、それ以上に細かく瞬《またた》き、これからのシーズンは、この窓際《まどぎわ》の席は予約で一杯になってしまうことを納得させる。
ドライマティーニを前にして、荻島は機嫌の良い顔で翠を見ている。ロマンスグレーと呼ぶにはまだ早いが、かなり白髪の増えた頭をきちんと撫でつけて、穏やかな表情の彼の今日のネクタイは、いつだったか翠が一緒に選んだものだった。そんなところに心憎い演出をしたのかと思って、さりげなくネクタイを褒めてみたが、彼は「自分で決めたわけじゃないさ」と言った。
翠はホワイトレディのグラスをそっと指の腹で撫でながら、上目遣いに彼を見た。
「あなたの部下の、原田さん、ね」
杉松寛子が会社をやめて、フロアーも変わって以来、その名前を口に出すのは、もしかすると初めてだった。
「彼ねえ──」
今日、翠は仕事にかこつけて、試しに仕入部のフロアーに行ってみた。
あれきり、恭一郎は翠に電話一本かけて来なかった。社内で顔を合わせることもなかったから、もしもオフィスにいたらどんな顔をしようかと迷っていたのだが、幸いなことに、彼はデスクにいなかった。以前は毎日彼のデスクを横目で眺めながら通ったのだと、そんな日々を遥《はる》か昔のことのように思いながら、自然に彼のデスクを見た時に、翠はどきりとした。
彼の電話には、クリップ式のコアラ人形がコードにしがみついていた。
とっさにフロアーを見回した時、一人の女子社員がなぜだか目に止まった。元は翠達がいた場所に、今は経理が入っているが、その中の一人の社員が、頬杖《ほおづえ》をついてぼんやりとしていた。清純と言えば清純そうにも見えるけれど、どことなく野暮ったい感じの地味な娘は、たしか今年の新卒の娘だった。彼女は、少しとろんとした表情で、間違いなく恭一郎のデスクを見ていた。
──あれが、伊藤とかいう子。今日はあの子とコンサートに行くっていうわけね。
いくら何でも一度くらい電話をよこしてもよさそうなものではないかと思っていた疑問が一度に晴れた。おそらく、翠の勘に間違いはないだろう。いかにも恭一郎の言いなりになりそうな、海辺で「ほか弁」を喜んで食べそうな娘ではないか。いや、あのタイプならば明け方から起き出して、せっせと弁当でも作るかも知れない。
「彼、私達のことに感づいてたみたいよ」
グラスを傾けて、ほんの少し唇を湿してから小声で呟くと、荻島の表情が瞬く間に硬くなった。
「それらしいことを言われたことがあるの、私」
「──いつ」
「だいぶ前よ、もちろん否定はしておいたけど、でも、ずっと疑ってたみたいね」
荻島は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、難しい顔で黙りこんでしまった。
最後のデートにふさわしい夜。女性ヴォーカルのジャズを聞きながら、きらめく夜景を眺めて、最高の雰囲気の中で、けれど荻島は一つだけ約束を守らなかった。彼は、翠の望んだブレスレットは買ってはくれなかった。結局、もう別れてしまう女には、一銭たりとも無駄な金は使いたくないというのが、本音というところなのだろうと翠は内心でため息をついた。
「彼ね、去年の忘年会の帰りに、うちまで送ってくれたんだけど、その時に私に『つき合ってくれ』って言ったのね」
荻島は努めて平静を装《よそお》うように、心持ち眉《まゆ》を上げて「ほう」と言った。額に深い皺がくっきりと浮かぶ。
「もちろん、私は断わったんだけどね。無理矢理迫られて困ったわ」
煙草をくわえると、荻島はすっとライターの火を近づけてくれる。翠は小首を傾《かし》げて、久しぶりに赤いマニキュアをした指に挟んだ煙草を小さな炎に差し出した。
「それからも、何度かデートに誘われて」
「会ってたのかい」
「何度かね。あんまりしつこいんだもの」
荻島は額の皺こそ消したものの、眉間の皺はそのままで翠の話を聞いている。
「何回つき合ってくれって言われても、こっちが煮えきらない返事をしてたら、急に『うちの次長とつき合ってるんじゃないのか』って言われたの」
大きなガラス窓には、闇《やみ》の中で煙草の煙を吐き出している翠が映っている。まるで都会の幽霊のように、彼女は夜景の広がる宙に浮かび、嬉《うれ》しくも楽しくもなさそうな顔で翠を見ていた。ここは高層ビルの最上階なのだから、風はずいぶん強いだろうし、気温だって低いだろうに、ガラスの向こうの彼女はキャンドルの淡い光に浮かび上がり、実に静かな表情で、冷やかにグラスに向かう翠を見ていた。
「彼、見かけによらず神経質で、噂《うわさ》も好きみたいな感じがしたから、ひやりとしたわ。それを否定しなきゃと思ったから、何度かつき合う羽目になったのよ、私」
おそらく荻島の頭には、一つのシーンが思い浮かんでいるだろう。以前、荻島が部下の社内恋愛に気づいて転勤させてしまったという、根も葉もないデマを荻島の耳に入れたのは、他ならぬ恭一郎なのだ。
「それで、彼には抱かれたの」
「どうかしら」
「いいじゃないか、いまさら隠すこともないだろう」
「──寝たわ」
翠は口元だけで微《かす》かに笑って見せた。
「彼、童貞だったのよ」
再び荻島の眉が動いた。口元が皮肉な、怒るのでも笑うのでもない歪《ゆが》み方をして、頬が少しだけぴくりとした。
「山にばっかり登ってたからだって本人は言ってたけどね。まいったわ、まさかあの歳《とし》になるまで、そんな人がいると思わなかったもの」
「ふうん」と言う荻島の反応をたしかめながら、翠は通りかかったウェイターに、三杯目のカクテルを注文した。
「感謝してね。私、身を挺《てい》してあなたとの噂を断ち切ったんだから」
「──ああ」
「でも、彼には気をつけた方がいいわ。熱血スポーツマンタイプに見えるけど、ああいう人に限って中身は案外女々しいものだし、それに、彼は馬鹿《ばか》じゃないから。結構、細かい人だと思ったもの」
恭一郎は馬鹿だ。翠と使っていたデートのサインを、次の女とも使っているなんて、馬鹿としか言いようがない。そんな馬鹿なことをしなければ、翠だってこんなことは言わなかったかも知れない。
「私、欲しかったのにな、ブレスレット」
新しいカクテルが運ばれて来る。入れ違いに荻島もマティーニをもう一杯注文する。
「新しい恋人に買ってもらいなさい」
「そんなにすぐにできるはずがないじゃない」
「原田は、どうなんだ」
「冗談じゃないわ」
「童貞を捧《ささ》げた相手なら、向こうはその気なんじゃないか」
「そして、あなたとのことをネチネチと聞かれればいいの?」
改めて乾杯しながら、翠はゆったりと微笑んだ。窓の向こうの翠の幽霊も、荻島の幽霊にグラスを掲げていた。
「君から貴重な情報がもらえなくなるのは、残念だな」
「また、新しいお相手を見つければ?」
彼は、とうとう言わなかった。考え直してくれとも、やり直そうとも。ガラスの向こう、闇に浮かぶカップルは、釣合いも取れていなければ、それほど満ち足りた表情もしていない。けれど、二人は笑っている。はたから見たら、これが最後のデートなのだと、気づく人はいるだろうか。
「さて、これを飲んだら帰ろうか」
「素敵なゲーム・オーバーになったわね」
翠の言葉に、荻島は満足そうにうなずいた。
荻島が鳥取支店長になるという辞令が貼《は》り出されたのは、その翌日のことだった。
[#4字下げ]6
会社から少し離れた所にある、代々木のベトナム料理店でランチを取りながら、人事の佐山圭子は忙しく口を動かしていた。
「陰険といえば陰険なやり方かも知れないんだけどね、会社の方で一年くらいかけて、内偵してたらしいのよ」
「一年も?」
「どうやって?」
「どうやってって、ちゃんとプロの探偵に頼んで」
他の二人の女子社員に混ざって、翠は目を丸くした。
「つまりね、それはもう、最後に証拠を固めるための作業みたいなものだから、プロを使うの。その前に、まず目をつけられたら、そこでおしまいっていうこと。そういうのって、何も今度が初めてじゃないのよ」
支店長といえば部長待遇だから出世には違いなく、聞こえは良いのだが、要するに荻島は本社の出世コースから完全に外されたということだった。次期部長の最有力候補だった荻島が、地方の、それも三人程度しか社員のいない支点に飛ばされた理由は、彼が長年にわたって納入業者や工場からバックマージンを受け取っていたことが発覚したからだと、佐山圭子は説明してくれた。
荻島が、納入業者や工場からバックマージンを受け取っていたことは、翠も知らないわけではなかった。そういう金は、証拠を残さないために使ってしまうのが一番良い、貯金したり、不動産などを購入してはならず、残らないもののために使ってしまうのが一番なのだと、荻島は笑いながら言っていたことがある。
「使わなきゃならない、お金なの?」
「元々帳簿には載らない金で、渡す方も受け取る方も、そんな事実があったことを知られたらまずい金。でも流れないと、また世の中がうまくいかないっていう金だな」
「いけないお金なんじゃないの?」
「まあね。公務員だったらまずいけど、一般の企業は、そういう潤滑油で回ってるようなものなんだ」
「大人の世界ね」
いつだったか寝物語に、翠はそんな話を聞いたことがあった。
家も建てて、子どももいる中間管理職の男が、それほど自由に使える金などないはずだと思っていたのに、荻島は最初から気前が良かった。いつも高級な店で食事をしたし、翠が欲しがったアクセサリーなども、いともあっさりと買ってくれた。電車のある時刻でも、必ずタクシーで送ってくれるほどだったから、翠の方が心配になって「無理してるんじゃないの?」と聞いた後の会話だった。
翠達の勤めるトーカイドレスは、自社開発ブランドというものはあまり持っておらず、その代わりに小さなメーカーや、時には海外の製品を買い占めて、ラベルやタッグだけを自社のものにする、という方式をとっている。もちろん、服地を仕入れる部門もあって、それについては自社の独自製品が工場で作られる。デパートや高級ブティックで売られている商品は、後者のオリジナルブランド製品であり、前者の、既に出来上がっている製品を仕入れている場合は、もちろん例外はあるものの、たいていスーパーマーケットや赤札商品の店に出回ることが多い。そして、営業成績に大きく反映されるのは、自社ブランド製品よりも、コストをぎりぎりまで引き下げて仕入れた、そういう製品だった。
「これがおおっぴらになれば、荻島さんだけじゃなくて、部長の責任問題っていうことにもなるわけだから、何とか上にまで広がらないようにして、荻島次長のレベルだけで片をつけちゃおうっていうこと。変なものよね、皆知ってることなんだけど、一応はいけないことになってるんだから、やっぱり事実が発覚すれば、誰かが責任をとらなきゃいけないんだもの。まあ、トカゲの尻尾《しつぽ》切りっていうか」
翠は、圭子の絶え間なく動く口元を見ながら、黙って顎《あご》を動かしていた。
「荻島次長、何にそんなお金を使っていたんでしょうね」
翠の隣にいた同僚が口を開いた。
「そりゃあ、いろいろと物入りだったんじゃない? 子どもさんだっているんだろうし、お家《うち》のローンとか何とか──」
「それが、違うんだったら」
翠が言いかけたのを、圭子が料理を頬張ったまま手で制し、それから急いで料理を飲み下す。翠は、顔がこわばりそうになるのが自分でも分かったから、わざとうつむいて、料理をつまむことにした。「探偵」という言葉を聞いた時から、内心では穏やかならぬものが、ざわざわとうごめいていたのだ。
「要するに、遊びよ、遊び」
今度は圭子の隣の女子社員が「へえっ!」と頓狂《とんきよう》な声を上げた。
「部下を連れて飲みに行く時でも、とにかく高い店で派手に盛り上がってたらしいんだけどね、実は、それ以上にねえ──女。女がいたらしいのよね」
圭子は、いかにも意味あり気な、また得意そうな表情になって翠達を見回す。周囲から「へえ」「ふうん」と大きな嘆息が漏れた。
「やっぱり、そういうことかあ」
「ホステスあたりに入れ込んでたのかなあ」
「うえぇっ、嫌らしい。荻島次長って、そういう人だったんだ」
「相手については、聞いてないんだけどね」
翠は、顔の表面が突っ張らないように、必死で眉や口元を動かしながら、必要以上に相槌《あいづち》を打ち続けた。
「案外、うちの会社の人だったりして。荻島次長って、見た感じは、まあまあ、素敵だもん」
にぎやかな笑い声が起きる。翠は顔だけで笑いながら、汗が噴き出しそうな気分だった。周囲に分からないように、必死で大きく深呼吸をしていた。落ち着こう。とりあえず、翠のことは分かってはいないらしい。それが分かったのだから、慌《あわ》てることはない。
荻島は、行ってしまう。
ようやく酒びたりの日々から解放されかかっている、あの女はどうするのだろう。二人の息子は、どうなるのだろう。皆でまとまって引っ越すのだろうか。鳥取に。土地勘はあるのだろうか。
「荻島さんにくっついて、そのまま自分も出世しようと思ってた連中なんて、きっと今頃は大慌てよね」
会社に戻る道でも、圭子はずっと喋《しやべ》り続けていた。翠は、とりあえずは自分のことがばれていなかったと確かめられたことで、少しずつ気持ちが落ち着いていた。取り沙汰《ざた》されている問題が、荻島個人の、しかも仕事上のことだけならば、結局は、翠には何の関係もないことだ。
「年末に来て、ずいぶん急な異動ですよね。あとは忘年会のことくらいしか考えなくていいと思ってたのに」
「忘年会といえば、ねえ、女の子の有志だけで忘年会したいと思わない?」
「あ、賛成!」
圭子の提案に他の三人が即座に賛同して、話題は自然に忘年会のことになった。都心の、こんなビルの谷間でも冬枯れの匂《にお》いが感じられる季節、もうすぐ、社会人になって二度目のクリスマスが来る。
──また一年が過ぎた。
昨年の自分と今の自分が、それほど大きく変わったとも思わないけれど、たしかにあの頃には戻れないのだと思う。この一年の間に、入社してから知り合った人々が、あっという間に消えてしまった。倉沢次長、野崎亜希、神田道子、杉松寛子──そして、結局は恭一郎ともうまくいかなかったし、今度は荻島までが消えてしまうという。
そうして考えてみれば、もっとも変化が少なかったのが、翠ということなのかも知れなかった。ほんの少しくらいは大人になったと思うけれど、それは外から見て分かるほどのことでもないだろう。
その日の午後も、翠はいつものように淡々と仕事をこなした。以前のように、仕入部と同じフロアーにいた時だったら、仕入部の慌ただしい動きなども見られただろうが、今はまったく無関係に時が流れている。今頃、荻島は、どうしているだろう。上司に呼ばれているだろうか、一人でデスクに向かっているだろうか。それとも、もっと別の場所で冷汗だか脂汗《あぶらあせ》だかを流しているだろうか。彼は野心家だ。出世欲も強い男だったから、今回のことでは、かなりのショックを受けているに違いない。まさか、こんな展開になろうとは、考えてもいなかったはずだ。最後に逢った時でさえ、荻島は翠の話す、恭一郎についての話題に興味を持っていた。翠が内心で願った通り、恭一郎をどこかに飛ばすことさえ、考えていたかも知れない。自分のことは棚に上げて、そんなことを考える男など、いるはずがない。要するに荻島は、まるで気づいていなかったのだ。自分の身に迫っている、大きな危機に。そんな彼の顔を見ずに済んだのは、翠にしてみれば「ぎりぎりセーフ」という感じだったかも知れない。
「何階、ですか」
夕方近くになって、課長に用事を言いつかり、外出することになった。エレベーターに乗り込むと、扉の脇《わき》に立っていた女子社員が、控え目な笑顔を向けてきた。翠も思わず笑顔で「一階を」と答えたとたん、心臓が縮こまった。荻島のことばかり考えていた頭の中が、急に、違う方向に忙しく動き始める。エレベーターには、翠と彼女の他は、誰も乗っていない。ドアの上のランプは、確実に箱が降下していることを告げている。目的階を押すボタンは、「1」しかランプが点《つ》いていないから、相手も一階まで下りるらしい。
「あの」
翠は小さく声をかけた。艶《つや》やかな髪を背中まで伸ばして、前髪だけ額で真っすぐに切りそろえている顔が振り返る。
「あのサイン、変えた方がいいと思いますよ。あのコアラのクリップは、けっこう意味を知られてますから、色んな人に。三課の渡辺さん、とかにも」
その瞬間、相手の顔がぱあっと赤くなった。
扉が開いて、一階で待っていた人の顔が目の前に現れる。翠は、目元だけで微笑《ほほえ》んでから、歩き始めた。
やはり、彼女に間違いなかった。広報課に代わって仕入部の隣にオフィスを構えた、経理の新入社員。以前、翠が座っていた辺りで、ぼんやりと頬杖《ほおづえ》をついて一点を見つめていた娘。地味で、ひたむきそうで、もう明日にでも赤ん坊を抱いていそうな感じの娘。
──彼にはお似合い。でも、そう簡単にいってもらっちゃ、つまらない。
街を歩けば、入試が近づいている予備校生の群が目に入る。何となくくすんで、生彩なく見える彼らは、考えてみれば、翠とはすでに五、六歳は離れていることになる。歳《とし》を重ねるということは、こうして後から後から育ってくる彼らにどんどんと押し上げられていくということだ。
──子どもは、嫌い。
課長から預かった茶封筒を胸に抱えながら、翠は彼らの群の中央をつっきった。
[#4字下げ]7
佐山圭子がセッティングした女子社員だけの忘年会は、皮肉なことに、日にちも場所も、仕入三課の忘年会と同じになってしまった。
「うわっ、参ったわね」
店に足を踏み入れたとたん、圭子は慌《あわ》てた表情で言葉を失ったようだった。予約の方法がまずかったのか、同じ会社からの予約ということで、部屋までが隣同士になっているのだ。
「でも、面白そうかな。荒れると思うのよ、隣」
幹事を請け負った圭子は、すぐに頭を切り替えたのか、今度は好奇心いっぱいという表情になって、集まった仲間を見回す。文句を言うものはいなかった。彼女の呼び掛けで、所属部署に関係なく、女子ばかりが十五人ほど集まった忘年会は、「乾杯」のかけ声から、翠にとっては初めてだと思うくらいに、賑《にぎ》やかで楽しいものになった。男性社員の目がないことで、妙な遠慮も気遣いも必要なく、皆がリラックスした表情で笑い、はしゃぎ、上司のもの真似《まね》などをする。けれど、こちらが盛り上がれば盛り上がるほど、襖《ふすま》一枚を隔てただけの、隣の仕入三課の静けさが気になってくる。
「ねえねえ、何だか、隣、お通夜《つや》みたいじゃない?」
「しょうがないわよ、ボスの左遷《させん》の送別会だもの。そうそう騒げないでしょう」
時折、小さなざわめきくらいは聞こえるが、実際、襖の向こうは静かだった。昨年は交互に並んで、一緒にこんな夜を過ごした人達が、今年は暗く沈んだ中で過ごしているのかと思うと、さすがに少しばかり気の毒になってくる。荻島は、そして恭一郎は、どんな顔をして、この重苦しい雰囲気の中にいるのだろうか。けれど、年齢もまちまちな十五人の女達に混ざって、翠も盛んに飲み、食べ、隣のことなどお構いなしに時を過ごした。少しでも隣に気持ちがいかないようにと、「強いのねえ!」と感心されるほどに飲んで、誰よりも冗談を言って騒いだ。
「へえ、仲江さんて、面白い人なんだ」
「そうですかぁ? 普通ですよぉ」
初めて話した先輩にも笑われて、翠は誘われればカラオケのデュエットも、ジェスチャー入りでして見せた。こんな馬鹿《ばか》騒ぎをしたのは、学生の時以来だった。女同士だけで通じる冗談を言い合い、誰それに関する噂話《うわさばなし》をしたり、さまざまな裏話を聞いたりして、さんざん笑って過ごすうち、やがて隣の部屋からもようやくカラオケやざわめきが聞こえ始めた。
二時間ほどが過ぎて、手洗いに立った帰り、翠は長い廊下の向こうから歩いて来る荻島と出くわした。まずいところで会うと思ったが、逃げるわけにもいかなかった。荻島はすでにもうだいぶ酔っている様子で、足元がおぼつかなくなっているのが遠目にも分かる。翠と一緒に過ごした時には、決してそんなところは見せなかったから、翠は意外な思いで近づいて来る荻島を見ていた。
「何で、ここに君がいるの」
翠に気がつくと、荻島は立ち止まって、わずかに身体《からだ》を揺らしながら、目を細めた。翠は誰に見られても疑われないように、注意深く、言葉を選んで荻島の質問に答えた。だが荻島は、真剣に返事を聞く気もないらしく、ただ天井を見上げて身体を前後に揺らしている。そして、ふいにこちらを見て、にやりと笑った。
「本当に、ゲーム・オーバーになったよ。僕はね、消えますよ」
「──御栄転、おめでとうございます」
丁寧に頭を下げると、半分かすれた笑い声が降ってきた。その声が、あまりに大きかったので、翠は驚いて顔を上げた。
「結局さ、得をしたのは、君だけだってことだよな」
荻島は、必要以上に大きな声で笑いながら翠を見ている。これまで、荻島のそんな笑い声を聞いたことがなかった。そういえば、彼は声を出して笑うことなど滅多になかったのだと、その時になって初めて思い返した。
「な、そうだろう? そう思わないか? ええ? ひょっとしたら、君はさあ、知ってたんじゃないのか。だって、あまりにもタイミングが良すぎたもんな」
「偶然です。私は何も知りません」
荻島が、ぐらりと大きく上体を傾けたから、翠は慌てて彼の身体を支えるようにしながら、それでも冷静な声でゆっくりと「本当です」と続けた。
「そう? 知らなかった? へえ、ふうん」
久しぶりに、間近で見る荻島の顔だった。だが、何だか急に老《ふ》け込んで、どことなく汚らしく見えると思った。荻島は本当に酔っているらしく、どろりとした濁った目で翠に焦点を合わせようとしている。
「──翠」
「もう、そういう呼び方はなさらないで下さい」
「──なあ、翠、どこか、行かないか」
生温かい息が顔にかかる。目頭に、脂《やに》がついている目で見つめられて、翠は背中をぞくぞくとするものが這《は》い上がるのを感じた。まるで、目だけで翠を嘗《な》めまわそうとでもしているような感じがする。
「御冗談を、おっしゃらないで下さい。次長、だいぶ酔ってらっしゃるんですね」
何とかして手洗いに運ぶか、または座敷に連れ戻したいと思うのに、荻島は身体を揺らしながらも、廊下に根を生やしたように、動こうとしない。
「何だよ──ずいぶん、冷たいじゃないか。なあ、翠」
荻島は、なおも翠にしなだれかかってくる。背中に回された手が、腰から尻《しり》を撫《な》でて下りてきた。
「やめて下さいっ!」
翠は、信じられない気持ちで荻島の身体を突き放そうとした。だが、荻島は本当に酔っているのかと思うほど、しっかりと力を込めて、翠の手首をつかんで離そうとしない。
「お餞別《せんべつ》だよ、なあ。いまさら、そんな冷たい顔して真面目《まじめ》ぶるなよ、君と僕の間じゃないか。なあ、二人きりでさ、どこか行こう」
荻島は、翠の手を引き寄せながら、ますますどろりとして、焦点の合わなくなってきた目を近づけてくる。翠は顔を背けたまま、何とかしなければということばかりを思った。こんな会話を他の誰かに聞かれでもしたら、たまったものではない。
「なあ、いいだろう? 減るもんじゃないんだから。君だって、僕の『御栄転』に一役買ってるのと同じなんだぞ、な? 僕のおかげで、君は、どれ、くらい、得を、した? うん?」
──こんな男と、こんな男と。一年半も。
「あ、次長!」
「次長!」
その時、ようやく荻島の部下が出てきてくれた。翠はすがるような目で、走り寄る二人の社員を見た。その向うに、恭一郎が立ち尽くしている。彼は固い表情で、すっと横を向いたまま、こちらに歩み寄ろうともしなかった。
「ごめんね、大丈夫だった?」
顔見知りの社員に言われて、翠は情けない思いでうなずいて見せた。
「ちょっと飲ませ過ぎちゃったみたいなんだ。すみません」
もう一人の社員も、申し訳なさそうな顔で頭を下げる。その間に一人が荻島の手を翠から引き離し、荻島の腕を抱え込んだ。
「何だよっ。俺はもう、本社には用のない人間なんだ。何をしようと、もう、何の関係もないじゃないか!」
荻島は大声を上げ、部下を突き放そうとして一方の腕を振り回す。近くの座敷の襖が次々に開き、見知らぬ客たちがぞろぞろと顔を出した。翠は、恥ずかしいのと情けないのとで、どうすることもできずに荻島を見ていた。見たくない、聞きたくないと思うのに、目を逸《そ》らすことができなかった。
「うるさいっ。俺の気持ちが分かるか!」
「分かります、分かってますから──」
「分かるもんかっ。ちくしょう! 誰だってやってることじゃないかっ! どうして俺だけが、こんな目にあわなきゃならないんだ!」
「次長!」
「鳥取だと? ええっ! どうしてだっ。誰の策略だぁっ!」
「次長、しっかりして下さい。もう帰りましょう」
荻島はなおも暴れて、わめき続けた。ワイシャツの襟元が着崩れて、だらしなく開いてしまったカラーの間から、茶色い、たるんだ首が見えた。いつも綺麗《きれい》に撫でつけていた髪は乱れて、白髪が多い分だけ貧乏臭く見える。
「皆が心配してますから、次長、とりあえず席に戻りましょう」
もう一人の社員が脇を抱きかかえようとする。荻島は彼のことも突き飛ばそうとした。けれど、若くて、酔ってもいないらしい彼は、わずかに身をかわしただけでそれを避けたから、逆に荻島の方がバランスを崩して、その場に膝《ひざ》をついた。床に這うような格好で、荻島は動かなくなった。
──これが、あの人?
ほんの短い静寂の後、どこからともなく、空気が洩《も》れるような、高く、細い音が聞こえてきた。何の音かと思っていると、荻島が両手をついている廊下に、ぽたりと滴《しずく》が落ちた。
「ちきしょう、ちきしょう──もう、駄目だ、もう、おしまいだぁ──」
荻島は泣いていた。
ズボンから、だらしなくワイシャツの裾《すそ》をはみ出させて、廊下にげんこつをぶつけながら、荻島は、引きつったような声を洩らし、座り込んだままで泣いていた。彼を抱き起こそうとしていた二人の社員の間から、同時に重苦しいため息が洩れた。
──これが、あの人。私が一年半もつきあった人。
これ以上、見ていられなかった。これ以上、思い出を汚したくない。これ以上、自分の愚かさを思い知らされたくない。翠は、二人の社員に身を支えられ、やっと立ち上がる荻島の横をすり抜けて、小走りに座敷に戻ってしまった。背後から、「違う! 便所に行くんだ、便所だ!」と怒鳴る声が聞こえた。いつの間にか、恭一郎の姿も見えなくなっていた。
──本当に、終わったんだ。
失敗だけはするまいと誓っていたはずなのに、もっと上手にできるつもりだったのに、思いがけず自分の気持ちが揺れるのに苦しんだ。興味も嫉妬《しつと》もないと思いながらも、毎日彼の家に電話をせずにいられなかった。彼が「別れたくない」と言うのを、心のどこかで待っていた。追いかけてくれるのを、望んでいた──。あの男のために、あんな男のために、翠は貴重な一年半を費やした。そのうえ、保険をかけたつもりの男選びにも失敗して。
──だけど、大丈夫。だって私は、まだ若い。
たしかに子どもではなくなった。でも、まだ二十四歳だ。これから、本当の大人の女になるときだ。そして来年の今ごろまでには、きっと望みのものを手に入れてみせる。来年のクリスマスまでには、誰からも羨《うらや》まれる幸福を手に入れる。そのための、これは少し長いリハーサルだった。そう、ゲームでなく。
「だから、ま、いいか。失敗しても。リハーサルだったんだから──」
どこからか、生まれる季節を間違えたらしい秋の虫の音《ね》が、か細く、情けなく聞こえる。先輩の女子社員たちが「二次会に行くよっ」と陽気な声を張り上げていた。
単行本 一九九一年十一月 KKベストセラーズ刊
一次文庫 一九九八年四月 幻冬舎文庫
二次文庫 二〇〇四年四月 新潮文庫
〈底 本〉文春文庫 平成二十年三月十日刊