東方香霖堂 〜Guriosities of Lotus Asia.
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【テキスト中に現れる記号について】
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(例)香霖堂《こうりんどう》
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(例)森近|霖之助《りんのすけ》
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もくじ
第一話 「幻想郷の巫女と十五冊の魅力」 前編[#地付き]五〇行
後編[#地付き]一二一行
第二話 「幻想の鳥」[#地付き]二一二行
第三話 「完全で瀟洒なティータイム」  前編[#地付き]二八二行
後編[#地付き]三五四行
第四話 「霖雨の火炉」         前編[#地付き]四二一行
後編[#地付き]四七六行
第四話 「夏の梅霖堂」         前編[#地付き]五四〇行
後編[#地付き]五九八行
第五話 「無縁塚の彼岸花」[#地付き]六六九行
第六話 「紫色を超える光」[#地付き]八〇五行
番外編 「神々の道具」[#地付き]九五九行
第七話 「幽し光、窓の雪」[#地付き]一〇七一行
第八話 「無々色の桜」[#地付き]一二三六行
第九話 「名前の無い石」[#地付き]一三七〇行
第一〇話「働かない式神」[#地付き]一四八八行
第一一話「洛陽の紙価」[#地付き]一六一一行
第一二話「月と河童」[#地付き]一七一四行
第一三話「龍の写真機」[#地付き]一八一〇行
第一四話「奇跡の蝉」[#地付き]一九四三行
第一五話「神の美禄」[#地付き]二〇三二行
第一六話「妖怪の見た宇宙」[#地付き]二一三八行
第一七話「流行の神」[#地付き]二二六〇行
第一八話「うるおいの月」[#地付き]二三六八行
第一九話「神社の御利益」[#地付き]二四六一行
第二〇話「八雲立つ夜」[#地付き]二五七二行
第二一話「幸運のメカニズム」[#地付き]二六七二行
番外編 後記[#地付き]二七七三行
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第一話 「幻想郷の巫女と十五冊の魅力」 前編
昼下がりの白銀の幻想郷。
手付かずの自然に白い雪がしんしんと降り、幻想的な壮観を見せていた。遠くで妖怪の悲鳴のような泣き声だけが聞こえる。
道は誰の足跡も付いていない新雪で覆われてる。この辺りまでは人間が訪れることは余りないのだ。
道なき道を進むとようやく不思議な建物の店が見えてくる。主人は外の世界のストーブで段を取りながら、意味も分からない本を読んでいるに違いない。いつもそうやって暇そうにしているのだ。
店内には外の世界の品も多い。幻想郷は外の世界で言う明治時代に隔離されたが、その後の時代の品も多数ある。ほとんどが用途不明の品だった。
店の看板には香霖堂の文字。小道具屋「香霖堂」はそこにあった。
「霖之助さん?」
久々に店に誰か来た様だ。僕はまだ本を読みたかったがお客様は神様だ、居留守を使うわけにも行くまい。
「居るんでしょ?」
赤い服を着た神様は、僕が居留守を止めるまでもなく既に後ろにいた。
「何だ霊夢か。勝手に今まで上がってくるなっていつも言っているだろ?」
「そんなことより聞いてよ。酷い目に遭ったんだからー……」
これだ。目の前の赤い少女は人の話を聞かない。少女の名前は博麗霊夢という。幻想郷で唯一の巫女だが本当に巫女かどうか疑わしい行動も取る。言い遅れたが僕の名前は森近霖之助。小道具屋を営んでいる。霊夢は肩の雪を払いながらやや早口で語り始めた。
「今日、人里まで買出しに出かけたんだけどね。買出しの内容? お茶が残り少なくなって。死ぬほどつらくなる前に買っておこうと思って……。まぁ死にはしないけど、って人の話聞いてるの?」
君が聞かないなら僕も聞いてないよ、と答えたかったが、ああ聞いてるよ、と答えた。
「でね、良いお茶はなかったんだけど。あ、関係ないけど、里の道祖神様が雪に埋もれてたわ、誰が傘当番だったのかしらね。道にも迷うわ。そういえばあそこの道祖神の神体は何だっけ?」
さて。ちょっと誘導してやらないと、用件に辿り着く前に神武天皇の話まで飛びそうだ。
「障の神、里を災いから防ぐ神だよ。酷い目に遭ったって、何があったんだい?」
「ま、買い物は何事もなく終わったんだけど。」
何事もなかったのか。
「その帰りにね、妖怪が呑気に座っていたのよ。それに楽しそうに本を読んで!」
別に良いんじゃないのか? と言ってみたが無視された。
「何となく不意打ちで退治しようとしたんだけど、そいつ反撃してきたのよ。生意気に強くてねぇ。まさか後ろから妖弾を出すとは思わなかったし。私も油断してたから……」
妖怪の方が災難だったとしか思えない。しかし不意打ちしておいて油断してたって彼女に何が起こったのだろう。
「霖之助さん、人の話し聞いてる?」
「ああ、聞いてないよ。」
「……でね、まぁ、そいつはけちゃんけちゃんに退治してきたんだけど。」
どう答えても同じだったらしい。霊夢は、ほら! と言って後ろを見せ、こっちを向いて頬を膨らました。
「このスカート、こないだ新調してもらったばっかなのに……」
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「見事に切れているな。なるほど図々しくもそれを僕に直せというわけだ。」
「今すぐにね。」
はいはい。霊夢が寒そうに見えたので、ストーブ脇にもう一人分のスペースを空けた。
「今すぐ、ってそんなに速くは仕上がらないよ。取り敢えずこっちに座り……」
パタパタパタ……。
「この服借りるわねー。着替えるからちょっと待ってて。」
いない。また勝手に店の奥の方に入っていったようである。本当に勝手な奴だ。
やれやれ。僕は席に戻り、読みかけの本をとろうとした――、が、伸ばした手は空気を掴んだ。本は少し高い所に浮いていたのだ。
「何読んでいるんだ? 香霖。」
黒い影が言った。今日は朝から湯飲みが欠けたりして、嫌な予感がしてたんだ。
「あのなぁ。いつも言ってることだがー」
「勝手に上がって来るな。だろ?」
どいつもこいつも……。目の前の黒い少女の名前は霧雨魔理沙。ちょっと言葉使いが独特な魔法使いである。霊夢とは仲が良い。よく店に来るが、用が有るのかないのかわからない。
「今日は何の用だ? 魔理沙。」
「この本、まるで内容がわからないな。おっと、用はないが帰らないぜ。」
用はないのか。魔理沙は埃位払えよと言いながら、売り物の壷の上に腰掛けた。
「……それはシリーズ物の12冊目だ、ここに積んである本の続きだよ。それだけ読んでもわからんだろう。」
「あー、『非ノイマン型計算機の未来』? タイトル見ても何のこと言ってるのか想像も付かないぜ。」
「外の世界の魔術書だ。君には縁のない話だろうが僕には興味がある。」
「うーん、外の魔法……。それってどんな魔法なんだ? 香霖。」
「まだ読んでいる途中なのだが……、コンピューターといって、計算式を使い、命令どおり使役できるものらしい。これは言うまでもなく式神のことだよ。まぁ、その式が何の力を利用しているかはよくわからないんだが。」
「ふーん、式神か。……あれ? こっちの荷物は霊夢の物じゃないのか? 霊夢がいるのか?」
魔理沙は式神には興味がないのか、話題を切り替えようとした。僕はさっき霊夢が来たいきさつを話した。魔理沙は霊夢らしいな、とか相槌を入れつつ霊夢の荷物を弄っている。彼女はその荷物から3冊の本を取り出した。僕は軽い衝撃を受けた。その本はこの12冊の本と同じシリーズ物だったのだ。何で霊夢がそんなもの持ってるんだろう……。
「ん? この本が気になるか? 霊夢のことだから『妖怪が大事そうに持っていたから持ってきた』とか言うぜ。」
この本は手元の12冊とその3冊を合わせて15冊。おそらくこの本は全15冊に違いない。外の世界の式神もやはり幻想郷と同じなのだ。コンピューターではFとは15のことを示し、Fはすべてが埋まっている状態らしい。すべてがFになった時に最大の値を持つ、と書いてあった本も読んだことがある。
僕は思う、15が力を持つのは当たり前じゃないか。古くからこの国では15は完全を意味していた。十五夜を満月と呼ぶのも同じ理由だ。コンピューターとは東洋の思想と月の魔力を利用した式神なのだろう。
魔理沙は、何を考え込んでいるんだ? と言って3冊の本を並べた。
魔理沙の何気ない行動で、更なる式神の仕掛けに気付いてしまった。本に付けられた通し番号「13」「14」「15」。この番号を並べると131415。頭の1を取れば……、直線を円に換える意味を持つ数、3.1415になる。これも満月を意味している。外の世界の式は月の力を利用したものである、という僕の説は確実なものになった。
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僕はもっと外の式神を調べたいと思ったが、そのためにはこの本を手に入れる必要がある。
「……香霖。霊夢と取引するつもりだな? 止めときな、あいつは普通の価値観を持ってないぜ。」
たしかに、霊夢は浮世離れしすぎている。普通の交換条件は役に立たないのだ。しかし僕は霊夢と取引できる。霊夢の価値観も大体わかっている。
その時、持ち主の戻ってくる足音が聞こえた。
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第一話 「幻想郷の巫女と十五冊の魅力」 後編
「お待たせ。もー、この服ちょっと大きすぎよ。歩きづらいじゃないの。」
霊夢は戻ってくるなり不満を言い放った。まぁ僕の服だからしょうがないだろう。霊夢とはかなりの慎重差がある、というか勝手に僕の服を着てるのだが。
「あれ? 魔理沙じゃない。なんでこんな所に居るの?」
「それはこっちの台詞だぜ。私は、何か新しい物が入荷してないか見に来ただけだ。まっとうな客だぜ。」
「霊夢。僕の店指して『こんな』所ってのはないんじゃないか?」
「いつ来ても客が居たことなんかないんじゃない。場所も悪いのよ。」
客と言ったはずだぜ、魔理沙はそう言いながら僕が読んでいた本を読み始めた。霊夢は勝手に戸棚から急須を出してお茶を入れ始めている。いつも通り勝手な奴らだ。客でもないし。
僕は霊夢の本を横目に見つつ、この本を僕のものにするためにはほんの存在に気づいてない振りを見せなければいけない、と考えていた。
「ともかく服の仕立て直しは引き受けてやろう。だがな、ただじゃないことくらいはわかっているよな?」
霊夢は振り向きもせず「どうして?」と言った。
「どうしてだ? だぁ? 商いというものはそれ相応の代価を払うことで成り立っているんだよ。」
「そのくらい知ってるわよ。ちゃんと普通に買い物するときはお金を払っているわ。うちの神社だって願いことを叶える代価にお賽銭もらっているし。」
「うちの店は普通ではないとでも?」
「霖之助さんはお金なんかに興味ないでしょ?」
「いつそんなこと言ったんだよ。勝手に決め付けるな。」
「いつもお金なんて取らないじゃない。」
「何言ってるんだよ。今まで受けてきた仕事も持っていった商品も、全部ツケだぞ。」
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霊夢は湯飲みにお茶を注ぎながら、
「だって、私はお金を持ち歩いていないわ。家に帰ってもないけど。」
「誰も賽銭入れないもんな。君の神社で祈っても願い事は叶わないんだろう?」
「あ、急にそういうこと言い始めたってことは、霖之助さんの目当てはこの本でしょう?」
霊夢は湯飲みを置いて僕の隣に座り、もうすぐ僕のものになる予定の本を手繰り寄せた。
「……霊夢のツケは、そんな本程度で払えるような値段じゃないよ。」
「この本はね、私が退治した妖怪が大事そうに持っていたから持って来たの。きっと価値はあるわ。」
魔理沙がこっちを見て『言った通りだろ?』って顔をしたので、腹の内では笑いそうだったがそこは堪えて、
「どれどれ見せてみな。……うーむ、なるほど。作りは良いんだが割りと新しい物だな、こういうものは古い方が価値あるんだよ。やはり大したもんでもないな。『妖怪にとって珍しい物』だったので持っていただけだろう。」
「じゃぁ、その本と今までのツケ、交換でいいわね。」霊夢はニヤリとしていた。
彼女は人の話を聞かないし物の価値という概念も持っていない。恐らく彼女にとってはお金の価値も紙や金属以外の何ものでもないのだろう。だが、僕が欲しがっていることはやんわり伝わったはずだ。何しろ……。
「しょうがないな、その3冊はもらってやるよ。」
「あれ? 3冊全部?」
「一つは服の仕立て直し代、一つは今来ているその服の貸し代、そしてもう一つは……」
「あー、ちょっと待って、今までのツケ全部とじゃないの?」
「おいおい、ツケっていくらあると思ってるんだい。とてもじゃないけどそんな本程度じゃ全部は払えないよ。」
それは本当だ。霊夢は店のものを持っていく、服や道具作成の依頼もする、お払い棒も僕が用意したものだ。
「しょうがないわね。残りはツケのままでよいわ。」
窓の外を見た。そうだった今朝から嫌な予感がしていたのだ。
「ちなみに最後の一つは──、『扉の修繕代』だ!」
ドンドンバン。店の扉が強く叩かれ悲鳴を上げていて今にも取れそうだ。本1冊では割が合わなかったかも知れないな……。
「さっきの赤いの、居るのはわかっているわ! ヒトの本勝手に持ってったでしょう!」
扉の下にはかんかんに怒った小さな女の子が見える。服がぼろぼろだ。さっき霊夢が退治したと言っていた妖怪だろうか。
「まったくしつこいわね。私に負けたんだからおとなしく森に帰ってればいいのに!」
「あれー? 赤くない。」
「今日はブルーなのよ。」
「とにかく、私の本返してもらうわ!」
「まぁ返せってもねぇ、すでに私のところにはないのよ。諦めなさい。」
「酷い……、それで今はどこにあるのよ!」
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すでに僕の物である、もちろん渡す気はない。だが僕は、荒っぽいことはできないたちなのだ。それでよく生きていられるわね、と彼女たちは言うが、僕はそれが普通だと思っているし、彼女たちの『何倍も』永く生きている。……僕は霊夢を睨み付けた。
「……ほら、魔理沙! あんた暇そうにしてるじゃない。」
「あー? 何だ? 自分が撒いた種だろうが。一人でやれよ。」
「こんな服じゃまともに動けないのよ。大して面倒じゃない相手よ、魔理沙なら。……でも、後ろからの攻撃に気を付けてね。」
「復讐の相手を私にやらせようっていうのか。まったく霊夢って奴は……」
魔理沙は壷の上からひょいっと飛び降り、何だか機嫌よさそうな歩行速度で女の子の前に向かった。
「お代はツケでね。」
もちろん、霊夢が魔理沙にお金を払っているところなど見たことない。
「出てきたぜ。赤いのはあんたに完敗だそうだ。代わりに親が相手してやるぜ。」
「……親って何よ。どう見ても親子じゃないでしょ!」
「あいつは捨て子だったんだよ。」
霊夢は再び席に戻りお茶を飲んでいる。
「闘うなら店の外でやってくれ。これ以上破壊されたら君から弁償代を払ってもらうからな。」
「わかってるぜ」と言って魔理沙は強引に妖怪を外に追い出した。
「それはともかく、香霖、15冊全部そろってよかったな。」
驚いて魔理沙を見た。僕がさっき思いついた15冊全話を話した記憶はない。
「どうして、全15冊だと思ったんだい?」
魔理沙は持っていた本を投げてよこした。
「その本の裏を見てみろよ。」
僕は本を裏返して裏表紙をめくった。そこには小さく『全15巻』と書かれていた。
外は雪が舞っている。扉は速く修理しないと辛い。
「まったく、霊夢が店に来るとろくなことがない。」
「この店自体がろくなことがないのよ。はい、お茶。」
僕は隣に座って霊夢が入れたお茶を受け取った。差し出されたお茶はすごく良い香りがした。
「あ、このお茶。棚の奥にあったお茶使っただろ。」
てっきり霊夢が買ってきたお茶だと思っていたのだが、
「そのお茶が一番良い香りがしたのよ。」
「一番貴重なお茶だ。特別なときのために取って置いたのに……」
「あら特別じゃない日なんてあるの?」
霊夢はすっかりくつろいでいて、機嫌もよさそうだった。外からは楽しそうに笑う魔理沙の声と妖怪の悲鳴が聞こえてくる。
わりといつものことである。僕にとっては特別な日とは思えなかった。
「霖之助さん。どうせその本売らないんでしょ? 周りの商品もずっと変わってないし。」
店の大半はコレクションであり、確かにあまり手放したくない。
「いや、すべて売り物だよ。」
──僕は商売人向きではないのかもしれない。
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第二話 「幻想の鳥」
「おい香霖! 何やってるんだ、今日は恒例の鍋の日だぜ。」
という騒がしい音と共に扉が開けられた。僕の中では、今日は恒例の動物愛護の日である。
「なんだ魔理沙か。来るなり鍋の日とはどういう意味だ?」
魔理沙は右手を挙げて見せたのだが、そこにはぐったりとした紅白の塊が……。
幻想郷の人里から離れた魔法の森、その森のすぐ近くに僕の店『香霖堂』はある。つまり人間の住むところと魔物のそれの中間の場所だ。この場所なら人間相手にも妖怪相手にも商売が出来るかと考えていたんだが、実際はどちらからも『客』が来ることはほとんどなかった。まぁ賑やかなのが来ることあるのだが……。
「それは朱鷺じゃないか。どうしたんだ?」
「ああ、神社でちょいと捕まえてな。霊夢は鍋の準備をするってんで遅れてくるぜ。」
「何で勝手にうちで集合なんだよ?」
「何言ってるんだ、こいつは美味いんだぜ。見た目は悪いけど……。」
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朱鷺、幻想郷で年々増えつつある鳥である。どこからわいてくるのか多い時には空が鴇色に染まることもある。だが、朱鷺の肉は美味だが見た目は良くない。鍋も……、鴇色というか朱色に近い色に染まる。言い方は悪いが、吸血鬼が作った人間の鍋みたいに見えるのだ。
「まぁいいけど、何で突然鍋だと……。」
「決まってるだろ? 気温の低い日は鍋の日だ。」
まぁこの朱鷺はたまたま拾っただけ、さっきまで活きが良かったんだけど、と言いながら魔理沙は勝手に台所に入っていった。
幻想郷は文字通り幻想の生き物が棲む。いつの間にか外の世界の人間は、『幻想の生き物』とはただの『空想の生き物』のことと刷り込まされている。だがもちろん、幻想の生き物と空想の生き物はまったくの別物だ。空想の生き物とは、ただの妄想と復号失敗と勘違いの別名だ。それに対し、幻想の生き物とは幻想郷にしか居ない生き物の略である。いうまでもなく、僕も魔理沙も幻想郷の生き物である。
しかし、なぜ朱鷺が急増したのかは僕にもわからない。まさか朱鷺も『幻想の鳥』となってしまったのだろうか。僕が知っていた頃の外の世界では考えられないことだが、まぁ、あれから時間が経ち過ぎた。限られた素材と古い記憶だけで外の世界をいくら想像しても、それは唯の空想に過ぎないのだろう。想像を根拠にした想像はただの空想だ。想像とは、空想、妄想、予想、仮想、幻想、の順でランクが付けられている。
「お待たせー、魔理沙も居るわよね。」
「……待つも何も、突然やってきたんだからそんな余裕もないじゃないか。」
「そりゃ、突然言ったんだから当然よ。けど、どんな時でも待っていればいいのよ。それがお店ってものでしょ?」
魔理沙の予告通り霊夢がやってきた。手に色々な荷物を抱えているが、鍋の材料だろうか。
「おう霊夢、待ってたぜ。早速鍋の準備だ。」
魔理沙は手を出し「ほら渡せ」、といった感じの仕草をしている。
「持ってきたわよ。はい。」
「あー? こりゃ赤味噌だ。誰が赤味噌なんか持ってこいって言ったんだよ。」
「誰が言っても言わなくても、朱鷺汁は赤味噌に決まってるのよ。」
「おいおい、ただでさえ赤い鍋なんだから白味噌にしろよ。赤汁に赤味噌か? お前はコミュニストか?」
「色で食べるわけじゃないでしょ? 最初から赤ければ朱鷺肉の赤も気にならないでしょ? それに白味噌じゃぁ……、源平合戦じゃない。」
二人とも色で食べているようにしか聞こえない。それにしても魔理沙は朱鷺を掴んでいるので、彼女が力むと朱鷺も鳴く。まるで朱鷺が魔理沙に相槌を打っているように見えておかしい。魔理沙もわざとやっているに違いない。
「とんこつに紅しょうがをのっけるだろ? 味噌ラーメンに乗せるか?」
「カレーに福神漬けを付けるでしょ? 魔理沙はクリームシチューに福神漬けを付けるのかしら。」
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「あの白色の中にある赤色には日本人の魂が宿ってるんだよ。」
「そんな紅白……、私だけで十分よ。魔理沙のどこに日本人の魂があるってのよ。侘び寂びって何だかわかる?」
「それは、霊夢の方が似合わない気もするぜ。」
「もちろん、私にはわからないわ。」
「とにかく、そんなんじゃ私は鍋は作れんな。」
「あんたが鍋にするって言い出したんでしょ? 朱鷺は生では食べられないわ。」
「そういう問題か? まぁいい、とりあえず捌くだけ捌いておくか。」
「裁くの?」
「ああ、それもいいかも知れないな。ちょっとやるか?」
結局、一切僕には相談もせず二人は決闘で決着を付けることにしたようだ(勝手に僕の店に来たくせに)。ルールは1対1のスペルカードルール、霊夢が勝てばそのまま鍋に、魔理沙が勝てば白味噌を取りに行かせるつもりらしい。別に白味噌ならうちにもあるのだが、楽しんでるみたいなのでほおって放っておこう。さらに言えば、僕は朱鷺の一番美味しい調理法も知っているのだが……。
「魔理沙、いつも言ってることだがー」
「闘うなら外でやってくれ。だろ?」
「そんなことより霖之助さん、魔理沙の代わりに捌いておいてね。」
すでに二人の目的はすり替わっている。結果がどうであれ、僕が勝手に調理しても喜んで食べるだろう。もしかしたら、最初からこういうシナリオを用意してるんじゃないかと思えるくらい、いつものパターンだ。二人はどうでも良いことを決闘で決着を付けるのが多い。しかも最近は飛び道具で闘うことが多く、大変眩しい、目に優しくない。
二人の決闘はいつも対照的である。一生懸命な魔理沙に対し霊夢は、わざとか性分か呑気な闘い方をする。勝負は大体霊夢の方に分があるのだが、魔理沙も負けてはいない。ただ、技と力で攻める魔理沙と空気のような霊夢。ぬかに釘というか……。どうにも、霊夢が見ている物は僕たちとは違う世界のもののような気がしてならない。そのくらい、つかみどころがないのだ。
「あぶないわね! 魔理沙、あたったらどうするのよ。まったくもう……」
「ああもう、何で当たらないんだよ!」
「魔理沙の弾は勝手に避けていくわ。親切ね!」
「まっすぐだぜ……。」
二人の声が聞こえてきたので様子を見てみた。霊夢は時折テレポート(零時間移動)しているように見える。弾もあらぬ方向から誘導で飛んでいる。割とずるい。
さて、この朱鷺は丸々としていて美味しそうである。こんな朱鷺は見たことがない。そういえば魔理沙が気になることを言っていたな……。
「お待たせ〜、さくっと決着を付けてきたわ。」
「ああ、いつでも待たされているよ。鍋はもう作っておいた、予想通り赤味噌だ。」
「むー、鍋がもう出来てるじゃないか。香霖、もし私が勝っていたらどうするつもりだったんだよ。」
「朱鷺を一番美味い調理法で食べさせていたさ。」
博麗神社は幻想郷の外れにある。外れといっても場所的にというだけではない。外の世界と幻想郷の境目にあるのだ。そのため、博麗神社は完全な『幻想の場所』ではない。魔理沙は朱鷺を「神社で捕まえた」と言っていた。もしかしたらこの朱鷺も外の世界のものかもしれない。まだ朱鷺も幻想の鳥ではなさそうで、僕は少し安心した。
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第三話 「完全で瀟洒なティータイム」 前編
外の世界のものであるストーブがしゅんしゅんと音を立てている。よくわからないスイッチは付いているのだが、押しても何もおきないので使い方は僕オリジナルである。最近は火の勢いが良すぎるときもあり、少々危険だ。
火といえば、最近幻想郷は火葬が増えてきたようだ。今までは、人間は死んだらすぐに消滅していたため――まぁ、妖怪の食料になっていたんだろう――ほとんど火葬が行われることはなかった。最近は、妖怪も高級志向になってきたのか、屍肉を喰らう者が減ってきたみたいである。幻想郷の人間にとってみれば、衛生面でも精神面でも亡骸をほったらかしにする訳にもいかず、仕方なく火葬しているようである。
それは同時に、新たに妖怪が生まれる機会を減らしてんじゃないだろうか? ……人間が人間以外になるチャンスは少ない。あったとしても、そのほとんどは死んだ時なのだ。火葬では、僵屍や吸血鬼といった者に変化することも難しくなるだろう。
まぁそれは良いことかもしれない。その上、灰となることで新しい妖怪に生まれる時もある、特に幽霊にはなりやすいかも知れない。そういえば最近は幻想郷に幽霊が増えてきた気がするのだが、これも火葬の影響なのか、そうじゃないのか……。でも、最近の幽霊は陽気で楽しそうであるな。だは、そもそも幽霊というのは幻想郷にとっての――。
カランカラン。
誰か来た。でも「いらっしゃいませ」と言うのをためらった。大抵、来訪者の方から騒がしく喋り始める上に、客でもないからだ。
「誰かいますか?」
「ああ? あぁ、いらっしゃいませ。何か御用ですか?」
「ちょうど良いティーカップを探しているんだけど、ここに置いているかしら?」
そこにはメイド姿の少女(しかも頻度は低いがお得意先である!)が立っていた。珍しく予想が外れたのだ、といっても、予想は一種類しかないから、お客が来れば常に外れだが。
「ええ、もちろんありますよ。どんなカップをお望みですか?」
「ちょっと小さめで、かわいらしくて、白くて……。そう、赤い液体でカップの白が引き立つような。それで、そんなに重たくなくて、でも問題は形が少し複雑なんだけど……、それは見てから決めるわ。で、それを二組。」
「えーと、そうですねぇ。」
注文が複雑だ。まるでカップ鑑定人の鑑定試験のようである。これはかなり難しい問題だ。商品の山の中で、カップのあった場所を思い出しながらでは少々難しすぎるかもしれない。
「……カップはいろいろあるんですが、紅茶用ですよね?」
「まぁ、そんなような紅茶風用ですわ。」
「紅茶用は確かのこのへんにあったような……。」
幻想郷では紅茶や珈琲といった嗜好品はメジャーである。異国の文化を持ち込む妖怪や、自然と流れ着いた道具や本などによって定着していった。幻想郷は空間は閉鎖的でも、精神は国際的なのだ。
さて、一つのアンティークケースを発見した。確かこのケースには、僕のお気に入りが二組入っていたはずである。
「あったあった、これならきっと気に入って頂けると思う……!!」
ケースを開けてみて愕然とした。そこには僕が予想した形のものは入っていなかったのだ。一組のティーカップと、昔はカップだった破片が何枚か……。そう、僕のお気に入りは無残にも割れていたのだ。
「どれですか?」
「あ、いや。ちょっと。」
落胆していたが、そのケースには一枚の和紙が入っているのに気が付いた。何だろう、紙に手を伸ばした、が。
「ふーん、これは魔理沙の字っぽいわね?『すまん』だって? どういう意味かしらね。」
「!?」
何が起きたのだ? なぜか紙は掴めなかった。本当に「なぜか」だ。気が付いたらこの娘が持っていた。
「はい。お返ししますわ。」
手渡された紙をみた。その紙には『すまん』とだけ書かれてある。……魔理沙の奴、今度遊びに来たらどうしてくれようか。
さて、僕はすぐに混乱から復帰していた。理解できないことは気にしないようにしている。そうでないと幻想郷で生きてはいけない。
「そうね。あなたの言う通り、確かに気に入ったわ。これ、頂けるかしら?」
前言撤回。僕はまたしても混乱した。割れたカップを気に入るのか?
「え? そ、そうですか? まぁ僕のお気に入りですし……、それにあまり普通じゃないですしね。」
小さいと言えばこの上なく小さいし(何しろ破片だからだ)、重くもない。注文通りである。
「かわいいし、紅いお茶にも映えそうだし。お嬢様の注文にぴったりだわ。」
まぁ触れると血は出そうだが……。
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カランカランカラッ。
「ちょっと! 咲夜、いるんでしょ?」
今度は外れではない。普段はこんな風に扉が開いてから3秒以内には騒々しくなるのだ。もちろん、この赤色は客ではない。
「あれ? 霊夢じゃない。いつ神社に戻ってきたの? それにお嬢様まで……。」
「戻ってきたの? じゃないでしょ! 人が居ないと思って神社に勝手に上がり込んで! おまけにこいつ置いてかれたら、何されるかわかったもんじゃない。」
「何もしてないわよ。神社にはちょうど良いカップもなかったし、ティータイムにもならなかったわ。」
「勝手に上がり込んでお茶もへったくれもないでしょ!」
どうやら、他人のうちに勝手に上がりこむのは幻想郷の少女たちの伝統らしいな。
ちなみにお客様の名前は咲夜。それと霊夢が連れて来たお嬢様はレミリアという。咲夜はレミリアお抱えのメイドだが、このお嬢様、見ての通り吸血鬼である。今回は散歩中に神社に立ち寄ったらしい。
「散歩中でも、お茶の時間は必須なの。当然素敵なカップでね。」
「レミリア。だいたい、なんであんたは昼間にうろちょろしてんのよ。吸血鬼のくせに。棺桶にでも入ってればいいでしょ?」
「私だって日光浴見くらいはするわ。ちなみに棺桶は死人が入る物。あなたは何か勘違いしてるわ。」
日光浴見とは、日光浴をしている人を鑑賞することらしい。
「とにかく、悪魔の居る神社とか噂されたらどうするのよ!」
「何もしないわよ。それに賽銭箱は空だったわ。」
「でも、神様の居ない神社よりはご利益ありそうですわ。お嬢様。」
「神様不在っていうなー!」
博麗神社の由来を知っているのはどうやら僕だけのようだ。ここは霊夢の名誉挽回のためにも教えてやろうかと思ったが……、どうでもいいと却下されてしまった。寂しい。
「そうそう、咲夜。素敵なティーカップは、見つかった?」
「ええ、見つかりましたとも。たいへん素晴らしい品ですわ。」
そうだった、僕はまだ混乱している最中だったのだ。なにしろそのカップ、破片は粉々である。
「お嬢様、これでみえますでしょうか?」
咲夜はケースの蓋を空け、お嬢様に見える高さまで下げた。
なぜ割れたカップで良いのか。もしかしたら、ある種のなぞかけだったのかもしれない。そうだ、片方が割れていることに意味があるのだ。たとえば、紅茶と破片で血の池と針の山、という地獄の『見立て』だとか……。悪魔とメイドだし、きっとそうに違いない!
だが、カップを見たレミリアも疑問と困惑の表情をしていた。それは予想以上に人間的な反応だった。
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第三話 「完全で瀟洒なティータイム」 後編
「あー? これはいったい何?」
レミリアは気だるそうに箱の中を指差した。
まぁ、もっともな反応だろう。咲夜はティーカップを買いに来て、割れたティーカップを手に取っていたのだ。レミリアの命令で何かおかしなことを企んでいたのかとも考えたが、どうやらそれも違うらしい。意外だがレミリアの方が意思の疎通ができそうだ。
「え? 何って……、ティーカップですが。お気に召さなかったのでしょうか?」
「えらく前衛的なデザインね。たとえば取っ手を持っても全体の3分の1も付いてこないし、まるでカップとは思えないあたりが……。でも、もう少し液体が入る部分が多くてもいいんじゃないかしら。」
「でも、この柄が良いじゃないですか。私は、こういう落ち着いて高級感のあるアンティークな柄が好きなのですよ。それに店主のお気に入りでもあるそうですし、ねぇ?」
「柄はともかく……。変わったのがお気に入りなのね、店主も。」
レミリアがいぶかしむような、哀れなような目で僕を見ている。それは"元"お気に入りだ。僕が割れたカップを押し付けたみたいに思われると困るのだが。
「あら、この紙は何かしら?」
ケースに一緒に入っていた紙は、魔理沙の詫び状である。
「多分、鑑定書かなんかだと思いますわ。」
「こんな、『すまん』と、だけ書かれた鑑定書があるの?」
「『鑑定できませんでした』って鑑定書。」
「まるで、『種も仕掛けもございません』って言う手品師の前置きみたいね。」
そのたとえは、難度が高い。
霊夢は、二人の言葉遊びに飽きたのか、一人でティータイムに入っている、そういえば、なぜかうちには霊夢専用の湯のみがあるんだよな。
「もう一度聞くわ、咲夜。これはいったい何?」
「ですから、アバンギャルドなティーカップですわ。」
「私は、そんな注文したかしら。」
「確か小さくて、重くなくて、普通っぽくなくて、かわいくて……。」
「まぁ、これもかわいいけどね。」
かわいいのか?
「それに、神社にあった奴より高級感漂ってますでしょう?」
「確かに、形も似ているけど……。」
形も似ている? 神社にこんなアバンギャルドな(原型をとどめていないという意味だが)カップがあるのか……それを聞いて霊夢が。
「そんなカップ知らないわよ?」
「あぁ、霊夢は知らないか。咲夜を送り出すちょっと前にはあったのよ。」
「お嬢様、それではわからないですわ。私たちが来た後に、カップがアバンギャルドに変形した、のですよ。」
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「あぁ? あんたら私のカップ割ったなぁ?」
しばらく霊夢の怒りの弾幕が店中に響いた。
そうか、そういうことか。霊夢のティーカップを割ってしまったから、代わりを買いに来たって訳か。ってそれで割れたカップを買ってどうする?
「咲夜、確かに私は、霊夢のカップと同じようなやつが欲しいと言ったわ。でもね、それは最終形態の物じゃなくて、変形前の物よ。そんなこともわからないのかしら?」
「え、そうなのですか。てっきり、霊夢とお揃いのカップがお望みなのかなと……。」
「これじゃお揃いも何も、混ざるわよ。」
「でも普通のカップを買っても『何やってるの? 形が全然違うじゃない』とか、言うつもりだったのではないですか?」
「そんなこと……言わないわ。」
多分言うんだろう。メイドも押さない(といっても500年以上は生きているらしいが)意地悪お嬢様相手に大変そうだ。ただ割れたカップが欲しいなら、普通のカップを買って後で割れば良いんじゃないのか? と思ったが、その辺が幻想郷の彼女たち独特の洒落なんだろう。深く考えると疲れる。だから、僕は『理解できない事は気にしない』と考えることにしているのだ。
「わかりましたわ。普通のカップが欲しいのですね?」
「咲夜がそう思うなら、お好きにしてよ。」
「もちろん、私がそう思っただけですわ。」
やれやれ、こいつらも霊夢たちとはまた別の種類の面倒な奴らだな。とにかく、別のティーカップを探してやるか、と思った瞬間、咲夜の声が、
「じゃぁ、このティーカップはゴミね。」
なんだって、ちょっと待て! 慌てて振り返って咲夜を見たが手遅れだった、ケースごとカップを高く放り投げていたのだ。
――カップと破片が宙を舞う! 時間がゆっくりと流れた、そう錯覚するくらいの緊張が走った! 一組のまだ割れていないカップもある。というか割れていても放り投げる奴がどこにいる! またお茶を飲んでいた呑気な奴ですら、驚いているじゃないか! むしろ霊夢が驚いて湯飲みを落とさないか心配してしまう。レミリアの方はというと、蝙蝠風の羽をピンと伸ばしている。あれは緊張なのか驚きなのかよくわからないが……。
……って、カップが落ちてくるまで結構余裕あるな。というか、ケースはとっくに落ちているじゃないか。まぁ、時間を考えると当たり前か……。宙には魔理沙が書いた『すまん』という紙がヒラヒラと舞っている。
「さぁどうかしら。本当の手品というものには、じつは種も仕掛けもないのですよ」
床にはカップの破片一つ見当たらない! 驚いて咲夜を見たのだが、何と不思議なことにその手にカップを持っていた。だが、それ以上に不思議なことに――。
結局、ティーカップは無事に売れ、二人は店を出て行った。レミリアは咲夜の手品に大喜びの様子だった。霊夢はしばらく唖然としていたが、二人が神社に向かっていることを思い出したんだろう、飲みかけのお茶を置いて慌てて追いかけていった。
僕はというと、咲夜がどうやって投げたカップの破片をすべて集めたのか、しかもどうやって『割れていたカップを完全な形に戻した』のかわからなかった。ずっと狐につままれたままだった……。
数日後。『理解できないことは――』の持論に従い、無事混乱から復帰できた。ちょうど魔理沙が遊びに来たので、カップを割ったことを叱りつつ、事の顛末を話して聞かせた。魔理沙の口癖『普通だぜ』から始まる説明によると、どうやら咲夜にはそういう能力があるらしい。それは『時を止める能力』だそうだ。なるほど、それならカップを放り投げても割れる前に拾い上げることも出来るだろう。確かに種も仕掛けもないとも言える。
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だが待てよ……、その能力では割れたカップを元に戻すことは出来ないだろう? どうもおかしい。止せばいいのに僕は思い返していた。そう、一つだけ時を止める能力でカップを元に戻す手段がある。それを考えれば考えるほど、僕の頭の中はある一つの疑念で一杯になった。
「そうだ、"元"お気に入りのカップは、あんな柄じゃなかった!」
嫌な予感がしてあわてて商品の山を探る。あの客はしれっとしてとんでもないことをする奴だ! まぁ、売れたのだから別に損はしてないのだが……。大体の商品の山を確認したんだが、残りは……魔理沙が腰掛けている商品か。僕は魔理沙をどかせ、魔理沙の下敷きになっていた高級なケースを見つけた。これに違いない。魔理沙も覗き込む中、ケースの蓋を恐る恐る空けた。
魔理沙も僕も見覚えのある和紙とカップの破片。そしてその和紙に重なるように新しい洋紙が1枚入っていた。それは『ごめんね』とだけ書かれた、手品師の(鑑定書)だった。
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第四話 「霖雨の火炉」 前編
薄暗い道なき道。服がいつもの何倍も重く感じるのは、さすがにこの霧雨のせいか。
陽の光も、降り注ぐ雨も、この森の葉はすべてを散らしてしまう。この森では晴れだろうが雨だろうがあまり変わらない。それどころか昼だろうが夜だろうが……、私はこの境界のなさが居心地が良くて大好きなのだ。
それにしても、スカートが重くて歩きづらい。スカートの中に手を入れ、ザラザラした硬いものを触りながら上を見た。そういえばこんな雨とも霧ともつかない日じゃなかっただろうか。これをもらって帰った日も。
私が物心ついたときには、あいつは既に今の場所に店を開いていた。あまり昔のことを考えたくはないが、あの、物が多く心地よい暗さの店内は思い出せる。そう、あそこも昼も夜もなく人も妖怪もない、そういう場所だ。居心地が良いはずだが、どうも一つだけ気に喰わないことがある。
おそらく私の実家に対してだと思うが、あいつは私に遠慮するのだ。それもそのはず、あいつは私が生まれる前は霧雨家で修行していたのである。結局、うちの取り扱う品と人間の相手では、自分の『能力』が活かせないと言って独立したらしい。あいつの能力なんて……、生かすも殺すもない中途半端な能力だがな。この前も「ストーブだよ」、とか言っておいて使い方は変だったし……。それはともかく、あいつは昔から私に遠慮している。実家に戻ることはもうないと言っているのに。
そのとき、妖精が腰掛けている大きな茸が目に入った。この茸は人を陽気にさせるから、疲労回復には持ってこいだ。あいつはいつでも愛想なく気だるそうにしているし、これでもお土産に持っていってやるか。
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森の茸はあっという間に育つし、生える場所もいつも違う。まさに神出鬼没だ。森は生きている、常に変化している。だが、森より変化が早いものがある、それは人間だ。本当は人間こそ神出鬼没なのだ。
だというのに、あいつは昔から姿も中身も何一つ変わっていない。私が物心ついたときには、すでに店はかなり年季が入っていたので、修行といってもいつの時代の話なのかわからない。あいつはいったい、どのくらい生きているのだろう。
重力に縛られない人間は居る。時間を止める人間も居る。だが、姿も中身も変化がない人間なんて……、人間には決して真似できないことの一つなのだろうか。うらやましいぜ。
ふと気が付くと、茸を取りすぎて妖精が不機嫌そうだった。茸はもう持てそうにないが、もったいないから無理やり帽子の中に突っ込むことにした。ヌルッとしてちょっと気持ち悪い。……ああ、私には物を捨てるということができないのだろうか。自分のことながら呆れてしまう。
まだ実家に居た頃にこんなことがあった。あいつが珍しく家に来ていて、鉄くずを抱えて何やら親と口論していた。幼い私は必死に盗み聞きしていたが、「ひろいかね」とか「希少な金属」とか何とか聴き取るのが精一杯だった。それからというもの、そのことが気になって、鉄器から古びた鉄の棒、原形を止めていない鉄くずまで金属なら何でも集めた。結局、何にも意味はなかったが、実家を飛び出した今もその時集めた鉄くず、――まぁゴミだが、それが私の今の家にある。実家は捨てられたのに、鉄くずは捨てられないんだな。呆れるぜ。
余計なことを思い出しているうちに目的地が見えてきた。魔法の"森"の"近"く、霧雨と森を合わせて"霖"、こんな単純な名前を名乗る主人が居る店だ。"香"は神、つまり神社のことだと言ってたな。ったく、そういうの大好きな奴だぜ。"香霖堂"よ。こんな古びた小さな店が霧雨――人間、森――妖魔、それと神社――境界の中心、つまり幻想郷の中心のつもりなのか?
――今日は細かい雨が降っているな、雨の日は灯りを点けて本を読むに限る。
カラン、カラン、パン!
「おい幻想郷の中心、早速だが何か拭くもの貸してくれ。」
黒くて濡れた塊が見えた。楽しい読書の時間を破るのは、案の定いつもの困った奴だ。
「中心って、いったい何のことかな魔理沙? ……って、かなり濡れているじゃないか。このタオルを貸すからよく拭くといい。」
「おっと悪いな。それにしても、香霖、なんで本を読んでるんだ? 今日は雨の日だぜ? いつもは『晴れの日は本を読むに限る』って言ってるじゃないか。」
「晴れの日は『灯りを消して』本を読むのに限ると言ったんだよ。」
「あ、そうそうこれやるよ。適当に喰って明るくなりな。」
魔理沙は身体を拭きながら帽子を差し出した。中は茸でいっぱいである。
「こんな怪しい物を食べろと言うのか? まぁ、魔理沙のことだから大丈夫だと思うけど……」
「茸汁にしろってことだ。あいよ、タオル返すぜ。」
「って、おい、もっとちゃんと拭けよ。そんな服で売り物に腰掛けられたら困る。」
「そこは、私が風邪をひかないか心配するもんだぜ。ともかく、今日は仕事の依頼を持ってきた。珍しいだろ?」
自分で客であることを珍しいって言っているようじゃ、もう皮肉の言いようもないのだが、魔理沙は「これの修復を依頼しに来たんだよ」と言って、スカートの中から八角形の香炉のような物を取り出した。かなり使い込まれているが、錆が目立つ。
「ああ、懐かしいじゃないか、この『ミニ八卦炉』、まだ使っていたのか。」
「毎日酷使している、フル活用だ。……ただ、錆びちゃってな。」
この『ミニ八卦炉』、魔理沙が家を飛び出した時に僕が作成してやったマジックアイテムだ。小さいが異常な程の火力を持つ。山一つくらいならこれ一つで焼き払える。暖房にも実験にも戦闘にも何にでも使えるだろう。
「もう、これがない生活は考えられないぜ。」
「そうか、そう言ってもらえれば道具屋冥利に尽きる。」
「だから、もう絶対錆びないように修復してほしい。そうだな、炉全体を『ひひいろかね』にしてくれ。」
突然の異質な単語が、相手が魔理沙じゃなくなったという錯覚を起こし、条件反射で営業口調になってしまった。
「あいにく、そのような物は取り扱ってないのですが。」
「香霖に足りないものは嘘をつく能力だな。他にもたりないものばかりだが。」
「ふん、面倒だから嘘をつくなんてことは止めたんだ。君が『緋々色金』を知っているなんて思わなかったし。」
「ふーん、緋々色金はものすごく希少な金属だ。だが、少しなら持ち合わせがある。これを使ってやっても良いんだが。」
「お願いするぜ。」
緋々色金は、確かに錆びることのない金属である。どんな環境下でも材質が変化することが殆どないから、これを使えば最高のマジックアイテムができるだろう。とはいえ、これに使えばこの貴重な金属はなくなってしまう……、どうしたものか。
逡巡しながら僕は、魔理沙が言っていることにおかしな点があるのに気付いた。これは、久々に商売のチャンスである。
「そうだな。このアイテムは僕の自信作でもあるし、やってあげても良いよ。」
「ほんとか? それは助かるぜ。」
「ただし、交換条件がある。」
と言ってから、仕事を受けるのに交換条件があるのは当たり前だと思ったが、魔理沙にとって、お金や茸を出すよりらくだと思われる条件を僕は提示した。
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第四話 霖雨の火炉 後編
「魔理沙は確か……、ちょっと昔にゴミのような鉄くずを集めていたよな。何に使うのかわからんが。」
「宝のような鉄くずだぜ。」
「どうせ、いつものようにただ集めただけだろう? そこで今回の仕事の条件は、その鉄くずの山と交換だ。どうだ? 邪魔な物も捨てられて良すぎる条件じゃないか?」
「宝物だって言ってるだろう? でもまぁ、そのくらいの価値はあるんだな。『緋々色金』は。」
「もともと、その鉄くずには大した価値はないだろうが、これはサービスみたいなもんだ。何しろそのミニ八卦炉はだな……。」
「おっと、薀蓄はいらないぜ。」
魔理沙の性格はわかっている、小さい時からずっと見てきたからな。こいつは物が捨てられない奴なんだ。集めたものは整理も行わずただ膨れていくばかりで……、あれでは物の価値を平坦化させるだけである。今回の条件も散々渋るだろうが、内心では即決しているはずだ。整理できるチャンスでもあり、ミニ八卦炉自体もなければ生活できないらしいからな。
「私があの鉄くずを集めるのに、どれだけ苦労したか知らないだろ?」
「持っているだけじゃ、その苦労を無駄にするようなものだよ。」
「集めることが目的なんだよ。使うことは考えてないぜ。」
「じゃぁ、目的はもう達成済みじゃないか。その鉄くずは僕が有効に成仏させてやるよ。」
「何か怪しいな。ひひいろかねは希少じゃなかったのか?」
「君には頭が上がらない理由もある。この程度の条件で手を打っておかないと、後が怖いじゃないか。」
「遠慮なんか、しなくてもいいんだがな。」
「修復には4日かかる」と言うと、魔理沙は「それまでこの本でも読むぜ」と言って売り物の本を持って帰っていった。うちは図書館ではないんだがな。
さて、これは久々の大仕事である。最近は滅多に仕事もないし客も来ないので、このままでは自分の"能力"も腐ってしまう。そう、"未知のアイテムの名称と用途がわかる程度の魔力"だ。普通の道具屋ではこの能力は活かせないかと思って、珍品を扱う店を開いたのだが……、珍品は奇人を集めただけだった。それにこの能力、ちょっと問題があって……、実は名称と用途がわかっても使用方法がわからないのだ。まぁ、道具なんて用途さえわかれば何とかなるもんだが。
茸汁の怪しく言い匂いが漂っている。食事の準備をしながらミニ八卦炉のことを考えていた。このミニ八卦炉はただの八卦炉ではなく、いろいろな効果が出るよう改良してある。炉の一角から風が吹き、夏には涼むことも出来る。持ってるだけで魔除けや開運の効果もある(と思う)。何しろ外の世界のそういう"用途"のアイテムを溶かして混ぜてあるのだ。これは僕のサービス(趣味)である。……さぁ、食事が終わったら早速取り掛かるとするか。
それから3日たった。今日は晴れだ。灯りを消して本を読むに限る、とはこういう日のことである。
カランカラン。
「香霖、できたか?」
「魔理沙か、ああ、できてるよ。」
魔理沙が鉄くずを抱えてやってきた。しかも4日かかると言ったのに3日で来た。まぁそれもいつものことだ。だから僕はいつも1日多く言う。
「おお、悪いね。これはここに置くよ。もしできてなかったらまた持ち帰るところだったぜ。」
「1日早く来て理不尽な文句を言うなよ。それに、また持ち帰る理由もわからんな。」
「まぁいい、これが緋々色金のミニ八卦炉だよ。たぶん世界に一つしかない。」
魔理沙は、これがひひいろかねか、と興奮している。落ち着きなく嬉しそうにしながら、珍しくすぐに帰っていった。
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――数日後。魔理沙はまだ上機嫌が続いていた。
「何か目覚めが良い。空気がうまいぜ。」と喜んでくれる。
いやなに、これだけ喜んでくれれば貴重な緋々色金を使った甲斐があったというもの。わざわざ交換条件にしなくても良かったかもと思った。
実は今回、魔理沙には内緒で"空気を綺麗にするというアイテム"を溶かして混ぜたのである。そのアイテムは、マイナスイオンとかいう謎の呪文が書いてあったりと、どうやって使用するのかわからなかったが、かろうじて機能しているようである。アイテムなんてものは名称と用途さえわかれば、後はどうとでもなるものなのだ。
「香霖。本当に良いのか? こんな効果もあるなんて、これ、かなり希少な金属なんじゃ……。」
「緋々色金は希少だけど、君の言うような効果はないよ。金属なんて溜め込んだって、何かの道具にしなけりゃただの鉄くずさ。君にはそのことがわからないようだね。」
「どうせ私は集めることだけが目的だ。使えるかどうかなんてのは二の次だよ。」
「じゃあ、私が持ってきたその鉄くずは使うのか? 放置してあるけど。」
僕が魔理沙に頭の上がらない理由。それはいつも、蒐集癖のある魔理沙が集めるゴミを"不当に安い条件"で僕が手に入れているからに過ぎない。どうせ魔理沙には細かい材質の違いなどわからないからな。この鉄くずだって、本来交換条件など成立するような代物ではないのだ。
ただ魔理沙が成長していく度に、いつかバレるんじゃないかと不安に思っていたのだが……。魔理沙は何も変わらない。いまだ集めるだけだ。これだけ変わらない人間も珍しいと思う。
「何だよ、人の顔見て。使うのか? 使わないのか?」
「そうだな。記念に使わないで取っておいてやろうかな。」
「さっきと言ってることが違うぜ。」
鉄くずの中から一振りの古びた剣を取り出した。魔理沙が緋々色金を知っていた訳がない。なぜなら、この剣は緋々色金でできているのだ。魔理沙はずっと昔から緋々色金で出来た剣を持っていたのだ。
この剣、名前は『草薙の剣』という。恐ろしく希少な品だ。何しろ、外の世界を変えてしまう程の品である。魔理沙は気が付かないうちに大変なものを手に入れていたのだ。そこで魔理沙に持たせていたらどうなるのかわからないから、僕があずかっておくことにしたという訳だ。我ながら正しい判断だと思う。
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「どうした? さっきからそんな汚い剣を持ってニヤついて。気持ち悪いな。」
「あ、ああ。この剣は良いな、と思って。」
「そんあボロい剣じゃ、大したもん斬れないだろ。」
「この剣、名前がなきゃ駄目だなぁ。君の宝物のくずだったし、『霧雨の剣』にしておこうか。」
「なんだ? 嫌味か?」
「良い物だと言っている。」
「そろそろ香霖の名前がわかる能力が鈍ってきたか。まぁ、良いけどな。ただ、私に遠慮しなくても良いぜ、香霖の剣とかでも良いんじゃないのか? 私はもう実家には戻らないぜ。」
「遠慮なんか……、してないさ。」
魔理沙を騙してばっかじゃ後が怖いから、予防線を張ってるだけである。魔理沙が成長して騙していたことがばれたとしても、返せと言われないようにするためだ。他にも命が短い方の名前を使わないと意味がない、というのもあるが……。
ただ香霖堂にまた一つ非売品が増えてしまった。店内が非売品だらけになってしまったら、魔理沙の蒐集癖のことを強く言えなくなってしまう……、それだけが心配だ。
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第五話 「夏の梅霖堂」 前編
1年の中で最も湿度が高く、いかにも日本的な梅雨は終わり、香霖堂に夏の強い日差しが差し込んでいた。
梅雨時は、黴が生えたりして本や道具の傷みが進み道具屋を悩ませる。その憂鬱な季節はようやく終わりを告げたのだ。
――だが、僕の悩みはまだ晴れてはいなかった。
別に僕は夏の日差しが苦手な訳でもない。その強い日差しは、角度のためか店の中をより暗くする。店の暗さと窓の外の明るさのコントラストが夏を実感させ、僕はその暗さも明るさも好きである。
しかし、今年の夏は違った。確かに日差しは強い、まごうことなく真夏の日差しである。でもこの店内はどうだ。窓から差し込む必要以上の光……、まるで湖上に店が建っているかのように、乱反射した光が無秩序に店に差し込んでいるじゃないか。この明るさは夏を感じさせない。どうやら僕の店の周りだけのようだが、もうこんな天気になってから3日目である。
あいにく、こういう「異変」の調査は僕の専門ではない。普段ならちょっとした異変でもすぐに解決してくれる人がいるんだが……。どうも僕の店の周りだけみたいだし、あいつも気が付いていないんだろう。だからといってこんな天気の中調査を頼みにいくのも面倒だし……。
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まぁ、その人間だったら放っておけばいつか来るだろう。いつもどうでも良い時に店に来るが、どうでも良くない時も店に来るのだ。便利なような、邪魔なような……。
――カラン、カラン。
「ちょと! 何であんたの店の周りだけ雨が降っているのよ!」
ほら来た。こういった異変調査の専門家だ。
「霊夢じゃないか。」
ちょうど良い――、と言いかけたが、とりあえず調査の専門家である霊夢の様子をみてみることにした。この異変について何かわかっているかも知れない。
「じゃないか、じゃないでしょ? もう、霖之助さんは自分の店が今どういう状態になっているかわかっているの?」
そう異変とは、梅雨が空けてからなぜか再び天気雨が降り続いて一向に止む気配がないということだ。空は雲一つない青空だというのに……。それも店の周りだけである。でもとりあえず僕は知らないふりをしてみることにした。
「どういう状態って、何のことかな?」
「呆れたわ、まったく外に出てないのかしら? この店の周りだけ外が見えないくらい雨が降っているじゃない。雲一つないのに……。遠くからみてこのへん一帯だけ白い布で覆われたようになっているわ。もしや、またおかしな実験とか始めたんじゃないでしょうね。」
「そうか、やはり、店の周りだけなのか。」
それはわかっていた。
「何をたくらんでいるの?」
「霊夢、僕は何もしていないよ。」
「それにしては、豪快な狐の嫁入りだわ。普通の狐じゃなさそうね。」
霊夢もこれといって情報を持っているわけではないらしい。まぁ、ここから上手くけしかけて霊夢に調査を依頼するとするか。僕は霊夢にタオル渡し、濡れた身体を拭くように言った。
「それはともかく、この前は大変だったな。」
「この前、っていつの話のこと? 大体いつも大変だから覚えてないわ。」
「梅雨になろうって頃まで雪が降っていたことがあったじゃないか。あれを解決したのは霊夢なんだろう?」
「ああ、そのこと? あんなの大したことじゃなかったわよ。もっと酷い目に遭ったことなんていっぱいあったわ。まぁ、どれも大したことじゃないけど。」
「大変なのかそうじゃないのかさっぱりわからないな。」
「普通よ、普通。どっちかていうと、放っておく方が大変になるの。春が来なかったら困るから解決する訳だし、霧が晴れなかったら困るから解決する……って、やっぱり霖之助さん、困ってるの?」
「よくわかってるじゃないか。そう、困っている。」
「最初からそう言えば良いのよ。仕様がないわね。この狐の嫁入り、調べてみてもいいわよ。」
霊夢はちょっと楽しそうだ。誰がどう見ても大変そうには見えない。困っているから解決するというよりは、何かおかしなことに首を突っ込むのが好きという風にしか見えない。
「悪いな。僕は別にやることがあるんでね。どうしたものか悩んでいたんだよ。」
別にやることはない。はっきりいって暇だが、僕はこういう異変は専門外なのだ。
「まぁいいわ。どうせ服は濡れてるから、もう一度雨の中に出ても大差ないし……。霖之助さんは自分の『やること』でもやって待っててよ、まぁこの程度の小事、すぐ片付くと思うけどね。」
そう言うと意気揚々と霊夢は店を出て行った。予想通り霊夢はすぐに仕事を引き受けてくれたのだが、よくよく考えると、霊夢側は特に用事がないのに店に来ていることがわかる。いや、今回は最初から異変を解決するつもりで来ていたのかもしれない。
なぜなら、霊夢に渡したタオルはまるで濡れていない。霊夢は身体を拭いていないのだ。最初からもう一度外に出る気だったように見える。それとも、濡れていようがなんだろうがかまわないだけかも知れないが。
霊夢に任せておけば、数時間後にはカラッとした夏の陽射しが店を照らし、店内は再び夏の暗さを取り戻すだろう。霊夢が動き出したら、大抵の異変は2〜3時間から半日永くても1日あれば元通りになる。いつものことだ。
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僕は新茶を淹れて本でも読むとしようか。後は放っておけばいいだろう。お茶の良い香りが時間を忘れさせる。こんな姿、頑張っているはずの霊夢に見られたら怒られるかもしれないが……。
それにしてもこの狐の嫁入り、霊夢にも原因はわかっていないようだったが、実は一つだけ思い当たる節がある。まさかと思うことだが……、そうだとすれば瑞兆だ。しばらくすれば元に戻るだろうし、もしかしたら霊夢にも応急処置くらいしかできないのかもしれない。それに、これに関しては誰にも言うことができないのも厄介だ。特に魔理沙にはいえない。
――ガン! ガラガラガラ……
一瞬のことだった。店内は本が読めないくらいに明るく青白く光、窓の外と共に一瞬にして暗くなっていた。次第に雨は強くなり、晴天だったはずの空は暗く、遠くの景色も見えなくなっていく。
夏の強い日差しと夏の暗さを期待していた僕は、突然の雷鳴と暗転に正直驚いた。晴天の霹靂とはまさにこのことか……、って晴天でも雨は降っていたのだけど。
一気に強まった雨に、ちょっと霊夢のことが心配になってきた……、といっても解決後の霊夢の愚痴の心配である。どうせ解決はするだろうが、この土砂降りは想定してなかったに違いない。霊夢の服の着替えくらいは用意した方が良いだろうな。どちらかというと霊夢の機嫌の問題なのだから。
外の様子を見てみようと思い窓に近づいて外を見た。でも、霊夢の姿はまったく見えない。雨はますます強さを増し、世界から完全に色を奪おうとしている、徐々に森も山も輪郭を失い、ついには一面黒い灰色の世界になってしまった。屋根を打つ雨の音だけが聞こえている。
そんな時、店の前に走ってくる人影が見えた。今の風景と同じく色を持たない姿。白と黒のモノトーンの人形だった。
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第五話 「夏の梅霖堂」 後編
――ドン! ガラガラガラ……、バン!
「おい! どうした!? この雷雨は尋常じゃないぜ!」
尋常じゃない状態で飛び込んできたのは魔理沙だった。それに濡れようも尋常ではない。
「どうした? 尋常じゃないって……、よくある夏の夕立じゃないか。」
「嘘つけ、この店だけだぜ、雨が降っているのは。こんな夕立はないだろ?」
とまぁ、軽い挨拶を交わしたところで、魔理沙に嘘をついても仕様がないから、これまでのいきさつを話した。
「そうか。私ならこんな天気雨くらい、すぐに晴らしただろうがな。まぁ、霊夢は仕事を邪魔されると怒るから、今回はあいつに任せるとするか。」
「とりあえず、これで身体を拭けよ。その――」
「『濡れた服で売り物に腰掛けられたら困る』、だろ? わかってるぜ。でも、飛ばして来たから大して濡れてないんだ。」
それに「雨は店の周りだけだからな」と言って魔理沙は、タオルを手に取り拭き始めた。
僕は結構濡れているように見える。雨の範囲は思ったより広いのか、それとも本当は店に来る前に寄り道してきたのか……。こんな異変を前にして、魔理沙がおとなしく黙っているとは思えない。
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魔理沙は適当に身体を拭くと、売り物の壷に腰掛けた。
「とにかくなぁ、店の周りにだけ異変が起こっているというのは、原因がお前にあるからだぜ。」
「思い当たる節はないんだけどなぁ……。」
思い当たる節はある。魔理沙には言えないことだが。
今この店だけに降っている雨。雨とは、天とも読み取れる。店にだけ雨が降ると言うことは、ここに天が下る。つまり天下があるという意味にも取れる。少し前に魔理沙を騙し……いや、ちゃんとした交渉の末、手に入れた剣。あれはただの剣ではない。あの剣の本当の名前は草薙の剣、別名|天叢雲剣なのだ。天下を取る程度の力を持つ、いや、それ以上の力もある剣だ。
この雨は、恐らく天が僕を認めたことの瑞兆であるに違いない。天候を操作するだなんて、なかなか普通の妖怪になせる芸当だと思えない。
「どうした、ニヤニヤして? 思うんだが、この雨。その辺の悪戯好きの妖精の仕業なんじゃないのか?」
「へ? そ、そう? 雨を降らせるなんてそう簡単にできるのかな。」
「雨を降らすくらいは大したことないぜ。季節を操作する妖怪がいるくらいだし、しかも降っている範囲も狭いしな。というか雨乞いでもした?」
「ここだけ雨が下る……、か。ふふふっ。」
「あー? 無視するなよ。」
僕はすでに天下を統一した気分でいた。でもそのことを魔理沙には勘繰られないようにしないといけない。魔理沙から貰ったあの剣の秘密がばれてしまうと厄介である。
魔理沙はしきりに外を気にして窓を見る。豪雨が気になるのか、ひどく落ち着きがない。
「霊夢も、失敗して諦めて戻ってこないかなぁ……。」
「おや、他人の失敗を願うなんて珍しいじゃないか。」
「何言ってるんだよ。暇だからこの店に来たんだぜ? 暇をつぶせる出来事が目の前にあるっていうのにじっとなんてしていられるか。」
「何なら魔理沙にもお願いしようか? 異変の調査。別に二人でやっても、僕はかまわないよ。」
「また濡れるのは嫌だぜ。」
「まったく、我侭な奴だな、魔理沙は!」
困っているのは僕の方なんだから、調査してもられるだけありがたく、あまり強く言うことはできないのだが。こいつらはこいつらで暇つぶしでやっているだけみたいだし、どっちもどっちか。
――ドガン! ガラガラガラ……
「うわっ! 何だ今の雷! ものすごく近いぜ!」
そりゃ、店の周りしか雨は降ってないのだから、雷も近いに決まっている。だが、その大きな雷鳴の直後、雨は突然ぴたっと止んでいた。
さっきまでの滝のような豪雨の音がなくなり、一瞬にして無音になった。最初は大きな雷鳴のせいで耳がやられたのかと思ったが、代わりに魔理沙がしきりに囃したてるのですぐに店内はうるさくなった。
「おっ、雨が止んだぜ。霊夢の奴、やったかな?」
「さすが霊夢だ。雨が土砂降りになったときはどうなるかと思ったけど。」
「私だったら、もっとスマートに解決できたんだがな。」
魔理沙は落ち着きを取り戻していた。窓の外は強烈な陽射しで夏を取り戻し、それと共に店の中は夏の暗さを取り戻していた。空には雲一つない。この空を見て誰がさっきまで雨が降っていたかなどと信じるのだろうか。僕にも信じられない。
――カラン、カラン。
「あー、終わったわ。まったく、私にこんな仕事させてぇ、お茶の用意くらいはしてくれてあるんでしょうね、って魔理沙がいるじゃない。」
「香霖は霊夢にやらせておいて、お茶の準備なんてまったくしてないぜ。自分では飲んでいたがな。」
僕は慌ててお茶を用意しようとすると、魔理沙は「時間も時間だから、もう飯にしようぜ」と言った。
「何それ、時間掛かり過ぎだって言いたいの? まぁ、魔理沙が食事の準備してくれるならいいけど。」
「時間掛かり過ぎだ。まぁいい、今日は飯、作ってやるよ、材料は何があったっけ?」
人の家なんだけど、まぁそのくらいに見逃してやるか。
魔理沙はお勝手に入っていった。魔理沙じゃないけど、本当に今、材料は何があったけ? 前のせいでしばらくこもっていたから、あまり新鮮なものはないかもしれない。まぁ、魔理沙なら何とかしてくれるだろう。いつも食材を持ってくるくらいだから、最初からうちに豊富な食料なんか期待してないだろうし……。とりあえず僕は霊夢に礼を言い、新しいタオルを渡した。霊夢はすぐに髪を拭き始め、「お茶は?」とせかすように言う。
「まぁ落ち着け、今淹れているよ。それで、なんだったんだ? この異常な狐の嫁入りは。」
「ん? いやなに、梅霖の妖精が店の屋根裏に住み着いていただけだったわ。ちょっと脅してやったら、逃げて行ったわよ。なんで途中で急に雨が強くなったのかはわからないけど、誰かが邪魔をしたのかしら?」
梅霖の妖精?
「雨を長引かせる悪戯好きの妖精ね。霧之助さんみたいに。」
「何言ってるんだ? 僕は雨なんか降らせないよ。」
「だってその名前、霖(ながめ)でしょう?」
「それはそんな意味で名付けた訳じゃないよ。それで? その妖精が何だっていうんだ?」
「貴方の店、いつも黴が生えるくらいに汚くしているから、居心地が良くてうっかり住み着いていたみたいね。梅雨は黴雨ともいって、黴を好むのよ。たまには店の隅々まで掃除することね。今回みたいに何かが棲み付いても知らないわよ。あ、お茶ありがとう。う〜ん、新茶ね。」
店の外は鮮やか過ぎる緑と、繊細さに欠けるほどの眩しい光であぶれかえっていた。さっきまでの雨が盛大な打ち水であったかのように、今は涼しく、そして居心地の良い風を暗い店内に運んでいた。
店の置くから魔理沙の声が聞こえる。どうやら食事が出来たらしい。
「駄目だな。香霖。いろんな食材が黴びてるぜ。いくら雨が長引いたからって少しは整理しないとな。仕方がないから今日は味噌と香の物がメインの料理だ。侘しいとか言うなよ。」
それにしても、黴かぁ……。僕の天下はまだ遠い。僕は店内に飾ってある剣を見やってそう思った。
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第六話 「無縁塚の彼岸花」
真っ赤な彼岸花の毒が、行く手を阻んだ。異形な彼岸花に守られたこの地は、この世のものとは思えないほど美しく、儚い。まさにここは、結界の外と内、そしてもう一つの異界の入り混じった『ありえない結界の交点』のように思えた。そのような不思議な場所ゆえ、見たこともないような道具も落ちている。
「ここはまさに、宝の山だ。」
秋の彼岸の時期になると、僕は決まって墓参りに出かける。といっても、僕が行く場所は、普通の墓地ではない。幻想郷に縁者のいない人間、身元不明の仏と言った者たちが眠る場所。そう、無縁塚に行くのである。
なぜ、人間の数が少ないはずの幻想郷に、このような無縁塚があるのかというと、そこに現在の妖怪と人間のバランスが影響している。妖怪を完全に退治する人間もいなくなったし、妖怪も幻想郷の人間を襲うことはほとんどなくなった。人間の数も妖怪の数もこれ以上増えては困るし、減ってもまた、困るのである。
死体を放置してしまうと、大抵は妖怪の餌となってしまう。死体を喰らう妖怪が出歩くことは衛生上良くない。疫病が流行る。人間にとっては良くないことだ。また、人間が死後、妖怪になることもある。人間の数が減り、妖怪の数が増えてしまうことも、今の均衡の取れたバランスを崩してしまう。
そのため、最近の幻想郷では、たとえ身元不明の遺体でも放置しておかないようになった。そういった遺体は、ここで纏めて火葬される。おかげで、幻想郷では死んだ人間は肉体を失い、亡霊になると言われるのだ。
無縁仏も纏めて火葬し、遺骨もそのままここに無縁塚に埋葬される。僕がなぜここにいるのかというと、もちろん、無縁仏を弔うためである。決して、外から来た無縁仏と一緒に落ちている「世にも珍しい」外の道具を拾うため、ではない。
そう、幻想郷に縁者のいない無縁仏のほとんどは、外の人間である。ここは冥界との壁が薄くなっている場所でもあり、その影響もあってか、外の世界とも近い場所でもある。人も霊も、また奇妙な道具もよく落ちている。
「彼岸花の赤い毒のおかげで、ここは荒らされることがない。ここはまさに、宝の山だ。」
最初から底のない柄杓、人魂で灯りをともす人魂灯、面白いものばかりである。これらは外の品だろうか、それとも冥界の品なのだろうか? 何度もいうが、僕は珍しい品を拾いに来たわけではない、無縁仏を弔うためにここに来ている。今、必死に拾っている外の品は、無縁仏を弔った報酬分だから僕は堂々と拾っているだけだ。
しかし、そんな浮かれた気分も不可解な異変によって打ち砕かれてしまった。
火葬後の骨の数を数えていたときの出来事だった。なんと、火葬前の仏の数と骨の数が合わないのだ。それも、仏が一人多いとかではない。身体の一部だけなぜか余ってしまうのだ。どうせ最初から骨を受け取る縁者もいない仏だから、多少増えたところで困ることはないが……。
「――無縁仏ってそんなにあったっけ? 霖之助さん。」
僕は不可解な謎を解決できぬまま、自分の店『香霖堂』に帰って来た。だが、主人の僕が留守の間に、いつも勝手な巫女と、大体勝手な魔法使いが、勝手に店でくつろいでいた。大体いつものことだ。
「ああ、無縁仏はほとんど外の人間だよ。霊夢にもわかっている通り、幻想郷に無縁の人間なんて少ない。でも、逃げた妖怪の食料や、道に迷ったりした外の人間がいるから、無縁塚の仏はなくならないんだよ。」
「で、その手に持っているガラクタは何だ? 相変わらず、訳のわからないもん一杯持ってるな。」
魔理沙はそう言った。どちらかというと、僕が拾ってきたものの方に興味があるようだった。
「これ? その無縁塚に落ちていたものだよ。魔理沙。」
「墓泥棒だな。」
「墓泥棒ね。嫌だわ。」
「墓泥棒? これはお供え物じゃないよ。大体な、いったい幻想郷の誰が、無縁塚にお供えに行ったりするんだい? これらの道具はむしろ、勝手に流れ着いたり、不届き物が捨てていったものだ。」
「何だ、ゴミだな。そんなもの誰も買わないぜ。」
「売らないよ。すぐには。」
ゴミが道具になるには、それなりの時間がかかる。生命の輪廻と同じなのだ。
話が途切れたところで、僕はさっきから抱えていた不可解な余った骨に繋がるように、話題を変えた。
「ところで霊夢。最近、幻想郷で何か大きな異変でもなかったか?」
「そうねぇ。大きい異変はあったにはあったけど、大したことはなかったわ。」
「相変わらず、大きいのかそうでもないのか、わからないな。まあいい、ちょっと不可解なことが起きたんだけど……。」
僕は気になっていた骨のことについて、二人にそれとなく聞いてみた。
「あー何だ? 寿司が喰いたいって事か?」
魔理沙が訳のわからないことを言ったが、放って置くとした。
「それって本当? 骨が余るなんて……。」
「ああ、ほらここにその一本がある。」
「げげ、持ってくるなよそんなもん。」
「右腕の骨……、かな? 春の彼岸の時には、右足が余ったこともあったんだけど……。」
「まさか、右半身ばらばらに集めるつもりなの?」
と霊夢が言った。
「まさかね。ただそれをいうなら、全身一人分じゃないのか? なんで右半身だけに限定する必要があるんだい?」
「いずれにしても、思い当たる節はまったくないわ。だいたい、その仏さんはほとんど外の人間なんでしょ? 変なことが起きているとしたら外の世界で起きてるんじゃないの?」
「巫女が死体を仏って言うのも面白いぜ。」
魔理沙が茶化した。
「そうかもしれないが、バラバラになって少しずつ幻想郷にやってくる仏なんて……。外の世界で、何か悪いこと企んでいる人がいなければいいけど。」
「その骨はね。きっと人間じゃないわよ。」
霊夢がまた不思議なことを言い始めた。
「どう見ても人間の骨じゃないか。いったい、霊夢はこれを何の骨だというんだい。」
「だって……、その骨からは、生きていた頃の霊魂がまったく見当たらないもの。」
「へぇ。霊夢にそんなもの見えるなんて聞いたことないぜ。」
と魔理沙が驚いた振りを見せた。
「あら、私は巫女よ?」
――次の日、僕はまた無縁塚に来ていた。もちろん、無縁仏を弔うためである。
結局、昨日は、余った骨の不可解さが解けることもなく、逆に不可解さを増したままその話題は終了した。僕は理解できないことは気にしないという、重要な特技を活かして忘れることにした……、したかったんだけど……。
「ふーん。大体予想通りだが、意表を突かれたな。」
おっと、僕にも霊夢の口癖がうつってしまったようだ。
何が予想通りかというと、今日も余計な骨が落ちていたのだ。そして意表を突かれたというのは、その骨はまた昨日と同じ、「右腕」だったのだ。いや周りをよく見てみると、他にも「右腕」の骨が落ちているように見える。
「今日は右腕の彼岸だな。」
おかしい。この骨が外の人間のものだとすると、外の世界には右腕だけ縁を切った人間が大勢いることになる。いや、人間にそんなことができるはずがない。たとえ事故で腕を失っても、体と腕の繋がりは断つことはできないのだ。体から離れても、腕は元の体を呼び、腕のない体は、腕があるものだと思い込む。人間というのは、肉体の状態に拘らず全身に魂が宿るからである。
ここで、幻想郷を囲む結界が影響するものは何かを考え直すことにした。結界が影響を及ぼすもの、それは人の「思い」である。物質の壁が「肉体を通さない壁」だとしたら、結界は「人の思いを通さない壁」だ。結界を越えるということ、いわゆる神隠しは、特殊な精神状態か意識が朦朧としている時に起こり、必ず全身ごと飛び越える。腕だけが結界を飛び越えるということは、腕と体が別の思いを持っていることになってしまうのだ。腕と体が別の意思で動く人間? そんな人間がいるとは思えないし、ましてや大勢いるとは思えない。やはり、霊夢の言う通り人間の腕ではないのだろうか。
……それにしても綺麗な骨だ。まったく生活の苦労の跡が見えない骨である。大きさは成人だが、まるで赤子のようだ。こんなに綺麗なまま人間は成長することができるのだろうか。生活に何不自由しない家庭で育つと、こんな風になるのだろうか。
そんなことを考えていると、ふと足元に咲いている彼岸花が目に止まった。茎には葉がなく、地面からまっすぐに生えている異形な彼岸花は、その先端に大きな赤い花を咲かしていた。枝葉を持たず、さらに毒をもつこの花は、無縁仏の眠るこの地にふさわしい花である。いかなるものとも繋がり持たない美しさ、そんな印象を受けた。……この綺麗な右腕だけ繋がりを絶った仏。僕は、彼岸花のように右腕が整列して生えている場面を想像してちょっと嫌な気分になった。
「――それで、その量産型の右腕をどうしたんだ?」
店に戻った僕を、いつものように勝手な霊夢と、いつものように勝手な魔理沙が待ち受けていた。
「ああ、ここに一本。」
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「余ったからって、持ってないでよ〜。」
霊夢は、お茶を片手に煎餅をかじりながらそう言った。
「うーん。ちょっと気になったことがあって……。」
僕は店の奥に向かい、昨日拾った骨とさっき拾った骨を見比べた。
「気になることって、何? あああ、この煎餅はそっちの棚じゃなくて、こっちの棚においてあったのよ?」
そんなことは気にしてない。霊夢の近くの棚にしまっておいた煎餅は、わりと高価なものである。霊夢はいつも選ばずして、店の中で一番良いものを手に取る癖を持っているのだ。ならば、霊夢が食べる煎餅の正体なんて……。
「って違う、そんなことが気になっている訳ではない! 骨のことだ骨のこと。」
そう僕が言うと、魔理沙はちょっと不機嫌そうに本を置き、
「あーあ、もういいぜ。そんなに食べたければ、今日は飯を作ってやるよ。」
と呆れたように言い放ち、お勝手に入っていった。
まぁ何に対して不機嫌なのかわからないが、魔理沙のことだからどうせ単純なことだろう。食事を用意してくれるってんだから、そこまで不機嫌ではないようだが……。それよりは今は、骨のことである。
「それで? 骨のことで気になることって何なの? 霖之助さん。」
「ああ、昨日拾った右腕と今日の右腕、よく見てみたんだが……。どこを取ってもまったく同じものだな。たとえば双子でもこんなことはありえない。まるでそのまま複製したかのようだよ。」
「それえ、何が気になってるの?」
「わからないのか? 簡単に言うと、この右腕とその右腕は、同一人物の右腕ということだ……、と思う。」
「へぇ不思議ね。普通かもしれないけど。」
「そんな訳のわからない返事で片付けるのかい?」
霊夢はちょっと諦めたようお茶を置いた。
「だって、外の世界の話でしょ? 外の世界で何が起きていようともそれは私の管轄外だわ。それにもう、外で何が起きているのかさっぱりわからないわよ。その腕だってどうせ、いいとこ六本腕か何かの人間の骨でしょ?」
「たとえ六本腕の人間でも、右腕だけ結界を越えるのは不自然だよ。結界のことは君の方が専門だろう? ならばわかると思うが、体の一部だけ結界を渡れるのは妖怪の証だって事だ。結界は壁じゃないんだからな。」
「そうなの? それは面白いことを聞いたわ。」
「そうなの、って。君は巫女の自覚があるのかい?」
「私の知り合いで、平気で体の一部だけ結界を渡る奴がいるんだけど……って、なるほどあいつは人間じゃなかったわね。」
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「だから、この人間の腕はあり得ないものなんだよ。こういうのなんて言ったっけ? オーパーツだったかな?」
それは違うぜ、という魔理沙のツッコミが聞こえた。いや、お勝手で食事の用意をしているはずだから、気のせいかもしれない。
「まるで作りものみたいな腕ね。魂の宿っていた跡もないし……、とても生きて生活していた腕とは思えないわ。」
霊夢が煎餅を置いて、初めて骨を手に取った。もう片手にはお茶は持ったままだったので、煎餅が骨に変わっただけである。ぼーっとしてるとそのまま間違えて食べそうだ。
「その腕、人の思いがないだろう? だから結界も渡ってこれたんだ、たまに流れ着く道具と同じ扱いだよ。それでも生き物だったことには違いないから、どちらかというと体のない右腕だけの人間だと思う。『僕の目』で見てもこれは人間であることは確実みたいだし。そこから推測するなら……。」
と言いかけて、工場の実験場のような場所で、道具のように同じ形をした人間の腕が生成されるところを想像して、喋るの止めた。生命を侮辱した罰当たり想像であると反省したのだ。人間がそんな愚かなことをするなんて、考えたくない。
「外の世界の人間が愚かなことを行っていなければいいけど……。」
僕はそれだけ言った。
「あら霖之助さん、たまに流れ着く外の道具で生計を立ててるんでしょ? それに、外の世界は進んでいるって、いつも唸ってるじゃないの。」
「生き物の身体は……、道具じゃない。この店では取り扱わないものだ。」
しばらく、言葉もなく静かだったが、霊夢はボリボリ音を立てて何かをかじっていた。確か骨を持っていたよな、とドキッとして霊夢を見たが、それは煎餅だった。そりゃ当然である。というか、もうそろそろ食事の時間なのに、そんなに喰っていていいのか……。
「できたぜ。お望み通り、今日はちらし寿司だ。」
魔理沙が威勢良くお勝手から戻ってきた。
「ちらし寿司? いやに豪勢だね。なるほどそれで時間がかかっていたのか、って、お望み通り?」
魔理沙は人をおちょくったような顔をすると、
「だって、昨日からずっと言っていただろ? 寿司が喰いたいって。」
と言った。
「言ってたわね。」
煎餅かじりながら霊夢も言う。
「霊夢まで……。そんなこと言ったっけ?」
「時間がかかっていたのはシャリを冷ます団扇が見当たらなかったからだぜ。この帽子じゃなぁ、降っても疲れるだけで風が起きないんだよ。」
ああ、なるほどね。それでさっきから魔理沙は「寿司、寿司」、って言っていたのか……。魔理沙らしいな。
「どうした? 早く食べないとせっかくの私のちらし寿司が冷めるぜ。」
「頑張って冷ましたんじゃなかったの?」
霊夢は食べかけの煎餅をこっそりと元の棚に戻しながら言った。
「寿司か。悪趣味な洒落だな。魔理沙。」
「ふん。人の前まで平気で舎利を持ってくるような奴に言われたくないぜ。いいか? 人間は死んだ後、亡霊になるんだよ。舎利なんかはただの抜け殻だ。その抜け殻に何か疑問があれば亡霊に聞けばいい、一発で解決するぜ。シャリは寿司の飯だけで十分だ。」
「そうだな。でも、その舎利を持ってきたから、思いがけず今日はご馳走というわけだ。これも無縁仏を弔ってきた僕の善行のおかげかな?」
「墓泥棒がよく言うぜ。」
「あら、美味しいわね。でも霖之助さんは一度手を洗ってきた方が良いわよ。彼岸花の毒が付いてるかも知れないし。」
「そうだな。って、霊夢も骨を触っていただろう? 手は洗ったのか?」
「当たり前じゃないの。」
「でも、ずっとここにいたじゃないか。」
「魔理沙。お茶のお替りお願いね。」
「なんだ、またかよ。お前、飲んでないだろ?」
魔理沙が作った寿司のおかげで、店内はいつも通りの賑やかな雰囲気を取り戻した。むしろ喧しいくらいである。僕は、いつも通り特技を使って、骨のことを考えるのを「完全に」止めることができた。もう明日からは、彼岸花は異形の花ではなく、美しき花に見えるだろう。僕はお勝手で手に付いた毒を洗い落としながら、そんなことを考えていた。
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第七話 紫色を超える光
聞いたこともない耳障りな喧騒。
もうすぐ冬だというのに、嫌な暖かさのある空気。
目を閉じていても押し寄せてくる光の洪水。
僕は恐ろしくて、目を開けることができなかった。
――色彩豊かだった外の景色は、紅く染まった葉が落ちるとともにくすんでいき、しだいに冬の色へと変化させていった。
紅葉とは、生の象徴であった木の葉が少しずつ狂い、人間が理解できる限界点に達したときに葉の紅く染まることである。大抵の葉は、その種自らの変化に耐え切れず落ちていってしまうが、中には完全に狂ってしまう葉も存在している。その葉は、紅色を超えて人間の目には見えない色になってしまう。幻想郷の者は、この葉が落ちた後の色を「冬の色」と呼ぶ。人間は色が失われた景色を見てそういっているのだが、もしかしたら妖怪の中には実際に冬の色が見えている者もいるのかもしれない。
店の中も冬の色に染まっていくのだが、外の景色の変化に比べるとひどくはない。それは人間には知恵があるからである。
僕は、その人間の知恵の産物、即ち「ストーブ」の準備をしていたのだが……。
カランカラン。
「ああもうまったく、外は寒いな。こう寒くっちゃ冬服もできないぜ……って店の中も寒いな。いつものストーブはどうしたんだよ。」
「魔理沙か。ちょっと、ストーブの燃料を切らしているんだ。」
「燃料だって?」
僕が使っているストーブは外の世界の広い物で、燃料も外の世界の物である。だから一旦燃料を切らすと、なかなか手に入れることができない。いつもは最初から入っていた燃料や、他の広い物に入っていた燃料、もしくは似たような液体で代用している。
「いくら寒くても、いらっしゃいませの挨拶くらいしたらどうだ?」
「お客様にはしているよ。いくら寒くてもな」
「あー店がこんなんだったら、ミニ八卦炉でも持って来るんだったぜ。とりあえず、燃料をどうにかしろよ。」
魔理沙は寒さに弱い。寒さの厳しい冬は、いつもの「キレ味」も三分の一程度になってしまう。
「なぜか今年は、暖房器具がほとんど落ちていなかったんだ。だから燃料が集まらなかったんだよ。」
「外の世界の冬は、もう寒くないのかもしれん。うらやましいぜ」
「冬が暖かいはずがないだろう?」
「それで? 香霖はこのまま永眠するつもりなのか?」
「冬眠じゃあないのか?って、冬眠もしないけどさ。まぁしようがない。本格的に冷え込む前に、何とかして燃料は手に入れるようにするよ」
燃料を手に入れる方法もない訳ではない。外の世界に行って手に入れるか、妖怪に分けてもらうか、だ。現実的なのは後者の方だが……妖怪だからな……。
「香霖に良い事を教えてあげようか? 香霖以外にも外の品を大量に持っている奴が、私の知り合いにいる。この間も『この道具は、遠くにいる者と会話ができますわ』とか言って自分の式神と話していたり……本当かどうか疑わしかったがな。そいつなら燃料ぐらい持っていると思うぜ。」
「そいつは妖怪か?」
「――もちろん、妖怪だ」
カランカランカラッ。
「ああ寒い寒い! 何か急に冷え込むようになったわね」
「霊夢か、いらっしゃい」
そろそろ、どこも冬支度の季節である。霊夢も、冬用の服を取りに来たに違いない。だから、今日は客なのだ。
「ちょっと、店の中も寒いじゃないの! いつもの熱くなりすぎるストーブはどうしたのよ」
「長い夏休みだそうだ」
「あれ? いたの? 魔理沙」
「ああ、目の前にな」
魔理沙は、ストーブの燃料が切れていること、それを手に入れるためにどうすれば良いのか、などを僕に代わって霊夢に説明した。魔理沙はやはり寒いのが苦手のようである。
「その妖怪って……やっぱり紫のこと?」
「そうだ。あいつが一番外の世界に近い。霊夢なら居場所を知っているだろう?」
「知らないわよ。住んでいる場所も知らないし、神社にも来てほしくない時に来て、やっぱり来てほしくない時に来ないんだから」
「……いつも来てほしくないんだな」
「それに、もうそろそろ紫は出て来なくなるわよ」
「打ち止めか?」
「おみくじの大吉じゃないんだから。紫はね、いつも冬は出て来なくなるのよ」
霊夢と魔理沙の間で、本気なのか本気じゃないのかわからないやり取りが続いていた。そもそも、僕はその妖怪に頼むとは一言も言ってない。ただ、このまま燃料が手に入らないのもやはり困ってしまうのだが。
「そういえば、油揚げとか撒いておけば寄って来るわよ。紫のしもべの方が」
――翌日、僕は店先に油揚げを置いてみた。特に何かを期待していた訳ではないが、おまじないのようなものである。
今日も順調に気温が下がっていた。やはりこのまま冬になってしまうのだろう。いつものストーブが使えないのは不便だが、仕方があるまい。暖を取る方法を別に考えないといけないかもしれない。
このストーブを手に入れたのは数年前だった。最初は売り物にするつもりだったのだが、試しに使ってみて気が変わった。こんな便利な、いや使い難い道具など売ってはいけない。
部屋の隅々まですぐに暖まってしまい、冬であるという季節感を味わえなくなってしまう。面倒な薪も、煤で汚れる煙突も、暖炉のような大掛かりな装置もいらないので、身体を動かす必要がなく運動不足になってしまう。すぐにこんな道具、売ってはもったいない、いや売ってはいけないと思った。
だが、今は久々に冬を味わっている。寒い。幻想郷の冬はこんなに寒かったのか……。昔使っていた魔法で暖める火炉でも引っ張り出してみるか……って、アレは魔理沙にあげたんだよなぁ。
カランカラン。店の入り口で音がした、早速掛かったか?
油揚げを置いてから、まだ一、二時間しか経っていない。本当に油揚げが好きな奴なんだろう。こんなにすぐに罠に掛かるとは。
……って、誰も入ってこない。
「あーちょっといいかな? 君の使い主にちょっと用事があるのだが……」
扉を開けたが誰もいない。ご丁寧に油揚げもない。何者かが来たのは確かのようだったが、こんなに素早くいなくなるとは思わなかった。もしかしたら狐の仕業かもしれないが……。
自分から動かないで、望みのもの手に入れようということ自体が間違っているのだろう。油揚げを置いておいただけで放っておけば良いというのは、何にも努力をしていないのと同じだ。
「ちょっと寒いが……、こうしていれば、罠に掛かった獲物ににげられることはないはずだ」
「……それで、さっきから油揚げを持って店前で突っ立ってたのか? 努力の仕方が間違っているぜ」
「ああ魔理沙、いたのか」
「いたぜ、目の前に」
「そうだ、僕の変わりにこうやって妖怪をおびき寄せてくれるかい?」
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「誰がそんな間抜けなことをしなきゃいけないんだよ」
「妖怪のおびき寄せ方なんて、僕は専門じゃないからな。どうしてよいのかわからなくて」
魔理沙は「いいから、とりあえず店に入れ」と言って、店に入っていった。
僕はせっかくだから手にしていた油揚げを入り口に置き、魔理沙の後に付いていった。
「あんな罠じゃあ、妖怪はおろか狐すら掛からないよ」
「それでも、さっきは何かが掛かりそうだったんだ」
「まあいい。あのストーブが使えないと、この店に来てもしようがないからな。紫はさがしといてやるよ」
「当てがあるのかい?」
「霊夢は、ああは言ってたけど、ちょくちょく神社で見かけるぜ。あの辺に住んでいるんだよ。きっと」
魔理沙は、僕の変わりに紫を探しに店を出て行った。
僕は……本当にその妖怪に会いたかったのか? ストーブだって、なくても別の方法で暖を取れる。そもそも幻想郷の皆は、このような便利な道具を使っていないのだから、さらに言うと、その妖怪に会ったとしても、燃料が手に入る保証は、何一つない。
僕は、ただ外の世界の事をもっと知りたかっただけじゃないのか? 外の世界と接点のある道具を使い、外の世界と接点のある妖怪に興味を持ち、少しでも情報を取り入れようとしただけじゃないのか?
僕が取り扱う数々の不思議な品。僕はそのたくさんの品に囲まれて、いつも外の世界を想像していた。
例えばオルゴールより遥かに小さいこの無機質で白い箱、僕の能力は、その箱が沢山の音楽を蓄え、そして奏でる道具だと教えてくれる。だが、未だにその箱は僕には音を奏でてくれない。外の世界では、いったいどのような方法で、どのような音を奏でていたのだろうか……。
僕は、その白くて小さな金属の箱を耳に当てて目を閉じた。外の音が聞こえてくるかもしれない。
店の外で話し声のような音が聞こえた気がした。もう魔理沙が帰って来たのだろうか、それとも油揚げに釣られて妖怪が寄って来たのだろうか――いや、何かが違う。
聞いたこともない耳障りな喧騒。生きものが発しているとは思えない、耳に痛い音も聞こえる。
嫌な暖かさのある空気を肌で感じていた。突然、空気の温度も変化したようだった。こんな冬なら、暖房もいらないだろう。
瞳を閉じていても押し寄せてくる光の洪水。何がそんなに光っているのだろう。太陽でも魔法によるものでもない冷たい光だった。
僕は直感でわかった、今――僕は外の世界にいる。外の道具に囲まれ、この外の道具に想いを馳せることで、僕の想いは結界を飛び越えたのだ。
……だが、僕は眼を開けられなかった。もし外の世界にいることをはっきりと見てしまえば、もう幻想郷に戻れないかもれない。神隠しに遭った人間のほとんどは、二度と戻って来ることはなかったのだ。逆に、幻覚、幻聴だと思って眼を開ければ、想いは結界を越えることなく幻想郷に戻り、外の世界を見るチャンスを逃してしまうかもしれない。僕は、どちらを望んでいるのだろう?
そうだ、僕は外の世界の燃料がほしかったんじゃなかったか? 僕には明確な目的がある。外の世界に迷い込むのではなく、用事を済ませに外の世界を訪れるだけだ。僕の想いは香霖堂、いや幻想郷に置いたまま、肉体だけ結界を飛び越えるのだ。そう、人間にはできない芸当だが……僕にはできるはずだ。
僕は、燃料を手に入れて店に暖かさを取り戻すために、ゆっくりと眼を開けた。
――博麗神社。幻想郷の端の端に存在する神社である。
魔理沙は紫を探しに神社までやってきた。香霖堂を出発するとき、店の前には油揚げが置いてあったが、もっと有効活用しようとそのまま持ってきていた。
「おーい、いるか?」
「んー? いるわよ、目の前に」
「霊夢、お前じゃなくて、紫の方だ」
「どうしたの? そんな油揚げ持って……」
「油揚げで寄って来るって言ったの、お前だぜ」
「狐だからねぇ」
「どうも、香霖は妖怪の捕まえ方がさっぱりわかっていないみたいだったんで、しようがないから霊夢に捕まえさせようかなと思ったんだ」
「ああそう、随分と勝手ね。とりあえず、お茶でも飲みながら話しましょ?」
魔理沙と霊夢は、紫を捕まえる方法で盛り上がりながら、お茶を飲んでいた。
「紫はねぇ、もう冬眠してるかもしれないわよ?」
「冬眠たって、ただ出て来なくなるだけだろう? どこに住んでるんだかわからないんだから。本当は、南の島にバカンスに行ってるだけかもしれんぜ」
「そうねぇ。ところで南の島って……どこ?」
「そこは掘り下げなくてもよい。何か本当に紫を呼ぶ方法はないのか?」
「しようがないわね。紫はこれをやると怒るんだけど……」
「何だ手があるのか」
「あるんだけどねぇ……。これをやると、危険だから止めなさいって紫が出て来るの」
「出て来るんだな。それで良いんじゃん?」
彼女たちには危険という言葉は、あまり抑止力がない。
「幻想郷の結界を緩めるの。外の世界の近くにいると、外の世界に放り出されるかもしれないわよ?」
――光の洪水だった。明るさはあるが冷たい光だった。まぶしすぎてよく見えない。日本語とは思えない言葉での話声。頭が痛くなるような生暖かい汚れた空気。外の世界のは……流れ着く本などで見たことがあったが、こんなにうるさく、そして美しくないものだとはわからなかった。
落ち着いたら燃料を探そう、その後ゆっくり、幻想郷に変える手段を探せばよい。
……眼が慣れてきた。ここは、この見覚えのある鳥居は……神社なのか? 神社に大勢の人がいる……。
「あら駄目よ、こんなところに来ちゃ。貴方はこっちに来てはいけないの。貴方は人間じゃあないんだから」
「!?」
あれ程煩かった音がピタリと止んだ。光もすべて消え、手には白い箱。周りは薄暗いがなぜかよく見える……いつもの香霖堂店内だった。
どうも少しの間寝ていたらしい。僕は、薄暗くても暖かい明かりを付け、白い箱を棚に置いた。
こうやって寝ているだけでは、目的のものなんて手に入るはずがない。僕は、さっき店の前に置いた油揚げに妖怪が引っ掛かっているか気になって扉を開けた。残念ながら、油揚げだけ持っていかれていた。
「やっぱり……狐の仕業かな?」
遠くに魔理沙と霊夢の姿が見えた。それともう一人の少女も見えたが、どうやら霊夢と魔理沙に説教をしながら歩いているようだった。珍しい光景である。
「あら初めまして。八雲紫と申します。貴方が私に会いたいって言ってた方ね?」
目の前の妖怪は、派手は服装に派手な傘を持ち、人間ではない者特有の鋭い眼をしていた。それに笑顔が不吉である。
「ああ、どうも。会いたいというか、ちょっと仕事を依頼しようかと思ってまして」
僕は店内に案内しながら、紫を呼ぶことになったいきさつ、ストーブの燃料のことなどを話した。
「電気かしら? 灯油かしら? それともニトロかしら? まぁ、何にしたってお安い御用よ。そのくらい無尽蔵に持ってるし……困った時はお互い様。だもの」
満面の笑みを見せた。やはり不吉である。
「流石は、妖怪ですね」
「流石は、私ですよ」
紫はそう言うと、音もなく長いスカートを翻し、店内を歩き始めた。
「……貴方の店、若干流行遅れの品ばかりね。最近の流行はね、携帯できるものが多いのよ。携帯して遠くの人と話せたり、他人の記憶を携帯して小さなスクリーンに映し出したり……」
「うちは、流行は気にしていないのですよ。僕が気に入ったものだけを取り扱っているんです」
「あら、この白い箱……。これは流行の品ね」
「ああ、それ……。それは音楽を大量に携帯できるみたいなんですが、まだ使い方がわからなくて」
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僕は、道の道具の用途と名前を見る能力を持っている。だが、その能力は使い方までは教えてくれない。
「こんなものを耳に当てるから、さっきみたいに変な幻覚を見てしまうのよ。貴方は人間じゃあないんだから」
また満面の笑みだ。
「おい、早くストーブを点けてくれよ。寒いぜ」
「魔理沙、気が早いだろ? まだこの娘と話をしたばかりだよ」
「あら、もう点きますわよ。ほら、燃料は一杯でしょう?」
確かに満タンだった。
「いつの間に……。ってずっとここにいたじゃないか、いったいどうやって?」
「困ったときはお互い様、よ」
そう言って紫は、手に持っていたさっきの白い箱を服の中にしまいこんだ。僕はこの妖怪少女と知り合いになったことを早くも後悔し始めていた。
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番外編 「神々の道具」
「この道具は……外の人間はいったい何を考えて作ったのだろうか」
僕は少し寒気を覚えながら、その道具を店の奥の棚に仕舞った。
こう見えても僕、森近霖之助はれっきとした商売人である。いろんな道具が置かれたこの店『香霖堂』は道具屋であり、道具の殆どは商品である。売る為に外の道具を集め、客の為に店の扉は開かれているのだ。
それなのに、あいつらは客でも無いのに店にやってきては、人を偽商売人扱いする。「どうせ売る気の無いものばかりだろう?」と言う。客では無い者には売る気が無いだけだ。
確かに僅かではあるが店の奥には売る気が無い物、趣味の物といった非売品が存在する。これらの品は、店としては場所を取るだけで邪魔である。だが、ぼくにとっては商品より価値のある物ばかりなのだ。これらの価値に見合った対価を払おうとした者はまだ居ない。
中でも最近酷く気になっている道具がある。余りの不気味さにより、誰にも相談できない様な品である。手に乗るくらいの大きさの灰色の小箱――材質はプラスチックと呼ばれる物だろうか?そういった、金属とも石ともつかない材質の道具である。最近はこの材質の道具は非常に多い。また、様々な形のボタンやスイッチの様な物も付いている。ただ、押しても何も起こらない。
それだけでは何も不気味な所は無いのだが、この道具の『用途』が奇怪なのである。そう、僕の能力は『道具の用途を見極めることができる』事だ。だからその不気味さは僕にしか分からない。それはこの小箱を非売品にするだけの不気味さである。
――カランカラン
「外は寒いぜ、香霖よぉ。まだ森のほうがましだ」
「魔理沙か。店に入るなら雪は払ってからにしてくれよ」
「あー、払ってるよ。今」
不気味な小箱を隠すように棚に置き、入り口の方に向かった。
「今払っても遅い。もう店内に居るじゃないか」
「客じゃ無いんだから、その位良いだろう?」
「二重で良くないよ。商品が濡れたらどうするつもりだい?」
「どうせ売る気の無い物ばかりだろう?店ん中非売品ばかりじゃないか。全然手放すつもりなんか無さそうだし」
「非売品だって濡れたら困る。というか、さっさと外で雪を払ってきなさい」
魔理沙は渋々外に出て行った。帽子の上に雪が積もっていたが、そんなに強く降っているのか……全く外に出ていなかったので雪が降っていることすら気が付かなかったのだ。
それで良いんだ。過酷な冬は、人間の知恵の産物であるストーブの近くでじっと冬があけるまで待てばいいんだ。
「お待たせ。外は寒いけど、陽が出てきて綺麗だぜ」
「雪は止んだんだな?」
「ん?雪なんて最初から降ってないぜ?」
「君の帽子に雪が積もっていたじゃないか」
「ああ、あれは森の木にやられたんだ。きっと巫山戯た(ふざけた)妖精の仕業かな? 人が木の下を通ろうとすると木を揺らせて雪を落とすんだよ。お陰で頭が重くてしょうがなかったぜ」
何で雪を被ったその時に払わなかったのか気になったが、どうせ『首を鍛えていた』とか言うに違いないから訊かない事にした。
「何か最近面白い品が入荷したりしてないか?」
「そうそうこの間……」僕は言いかけて止めた。
この間手に入れた道具、それはさっきの不気味な箱である。何が不気味かというと、あの道具の用途である。
あの道具の用途、それはあらゆる物を操作できる道具らしい、例を挙げると人間を操ったり、戦わせたり、戦争を起こしたり、場合によっては世界を滅ぼすことも出来るらしい。それではまるで神が使う道具の様である。どう見てもそんな大層な物には見えなかったが、僕の眼はそう教えてくれたのだ。
暫くその真偽を確かめていたのだが、使用法が解らず結局虫一匹動かすことが出来なかった。だから諦めて、非売品として店の奥の方に眠らせていたのだ。
「この間何だ?」
「この間……変な夢を見たんだよ。嫌な空気、耳障りな音、眩しすぎる光見たこともない景色だったけど、何故か見覚えのある……」あの小箱の事を話すのはまだ止めておこう。
「全然関係のない話だな。夢の話はどうでも良いぜ」
――カランカラン
「ああっもう。この店は。危ないわね。霖之助さん」
「危ないって何がだい?霊夢。これ程慎ましい店も無いじゃないか」
結局、昨日は魔理沙は暇つぶしに来ただけだった様だが、余りの暇に耐えられなかったのか、またどっかに行ってしまったのだ。まるで雪の上を駆け回る犬の様である。
今日の来客――いや客ではないが、霊夢である。いつも客ではない者しか来ないのは、この店が慎ましすぎる所為なのかもしれない。
「慎ましいんじゃなくって、売る気の無い物ばっかり置いてある店でしょう? それはともかく、霖之助さん全然外に出てないじゃない。それで暖房ばっかり付けてるもんだから、屋根の雪が溶けて大きなつららでいっぱいよ?あんなのが落ちてきたらものすごく痛いわ」
「良いじゃないか。巫山戯た妖精が店に来るおかしな人間を追っ払ってくれるっかもしれないし」
「妖精がつららを落とすって言うの?森の妖精じゃあるまいし」
「まぁいい、帰りにでも落としていってくれ。そのぐらいのツケはある筈だ」
「良いけどね。でも今日はそんなんじゃなくて、言付けを頼まれてきたのよ。」
「言付け?」
「『暫くしたら例の物、取りに行くから』って。例の物って何よ?」
「……例の物って何だ?そもそも誰の言付けだい?」
「勿論、紫の言付けよ」
僕は紫が言っている姿を想像して露骨に嫌な顔をした。お世話になっておいてこう言うのも何だが、あの妖怪少女派の笑顔は物凄く不吉である。
「まだ冬眠していなかったのか」
「冬眠しているから言付けなのよ」
そうか、あの妖怪少女ならきっとあの小箱の事も何か分かるだろう。だが……一番渡したくない相手でもある。今まで勝手に持っていかれた道具も戻ってきていないし、それになにやら嫌な悪寒がする。
「例の物ってまさかねえ」
「とにかく、言付けといたからね。今日はちょっと買出しに行かないといけないから」
霊夢はそう言うと急ぎ足で出て行った。店に来ておいて「買出しがあるから」と出て行くのはどうかと思う。うちでは買う物が無いと言っている様に見える。いや、言っているのだろう。
僕は、あの灰色の小箱をまた取り出した。紫が言っていたという例の物とは、やはりこの箱のことだろうか。この箱は偶然拾ったものだが、紫の物なのだろうか?
幻想郷に落ちている外の道具は、結界の事故で落ちた道具、使う人が居なくなり幻想となった道具、それか所有者が突然と消えた道具等である。もしこの道具が神の道具だとすれば、外の世界には神が居なくなったという可能性が高い。
この道具が本当にあらゆる物を操作できる道具だとすれば、今の危うい位置にある幻想郷なんてひとたまりも無いだろう。特にあの妖怪少女に渡してしまうと、何が起こるのか全く想像できない。
そんな不思議な道具があるなんて、普通の人間だったら誰も本気にしないだろう。だが、僕には信じさせられるだけの根拠がある。
今まで拾ってきた外の世界の道具は、幻想郷では信じられないような物も作り出されているのだ。本気で世界を滅ぼせるような道具もあるのかもしれない。僕は今の幻想郷に、外の大きな力を持ち込んで混乱させる事は、出来る限りしたくない。灰色の小箱は今はまだ全く動く気配が無いが、いつその神に等しい能力を発するのか分からないのだ。その能力が発動すれば、人を操り、争わせ、戦を起こし、世界を滅ぼしてしまうだろう。
僕は、今の幻想郷が好きである。だからこの小箱は誰にも渡すわけにはいかない。
この様な危険な道具は壊してしまおう。木槌でこの道具を壊してしまおう。
僕はこの灰色の小さな箱に僅かな未練を持ちながら、思いっきり木槌を振り下ろした。
――次の日、僕は久々に外に出かける準備をしていた。外に出掛けなければいけない用事が出来てしまったのだ。
昨日は確かに小さな箱めがけて木槌を振り下ろしたのだ。だと言うのに……不思議な手応えだった。まるでフカフカの布団を叩いたかの様だった。驚いて木槌の先を見たが……。
それは余り思い出したくも無い光景だった。なんと壊そうと振り下ろした木槌と小箱の間に……白い手が挟まっていたのだ!そう、手だけの生き物が木槌を受け止めていた。僕は思いっきり叩いたつもりだったが、その手は(か細い女の子の手であるが)平然としている。ては木槌を払うと人差し指を立てて、僕の目の前で左右に振った。呆然としている僕をあざ笑うかのように、その手は小さな箱を掴んで、箱とともに消えていったのである。
その時は、何が起きたのか分からず暫く呆然としたままっだったのだが、冷静になって考えてみると何にも不思議なことは無い。そんなことが出来る奴は、僕の知り合いの中でも一人しかいない。そう。あの娘が持って行ったに違いないのだ。一番渡してはいけなさ様な奴に。
僕はあの娘の居場所は分からないままだったが、取りあえず油揚げを用意した。
「――油揚げなんか作って……、また店の前で棒立ちするつもりか?」
「魔理沙か、いつの間に店の中に?」魔理沙は僕のすぐ後ろにいた。
「なんだが慌ててるみたいだったからな。黙って入ってきたぜ。深い意味は無い」
そうだ、僕が動くより魔理沙に探してきてもらった方が何倍も効率が良い筈だ。
「魔理沙、お願いがあるんだが……」
「紫を探してこい、って事か?別に良いけどな」
「!? 何で僕が紫を探してるって解ったんだい?」
「油揚げだ」
魔理沙は快く引き受けて、来た早々だが外に出て行った。これで……この寒い中、僕は店の外に出なくてすむ。
落ち着いて考えてみた、あの小箱は何だったのだろう?僕の能力は恐ろしい用途を見せていたが、あれだけの小さな道具にそこまでの力はないように思える。ただ、壊そうとしたら紫が持って言ったと言う事は、ただのガラクタでは無さそうだが……
黒色の安っぽいボタン、背面や側面には用途不明の小さな穴も開いていた。何より特徴的な事は、幾つかのボタンのすぐ上に、開閉不能な小さな窓が付いていたことだ。あの窓をずっと見ていると吸い込まれそうなほど、無機質で不気味だった。
だが、重さはさほど無く中身も大して詰まっていなかった様に思える。僕は危険と言うより、不気味さと、ほんの少しの寂しさを感じ取っていた。霊夢の様にもっと感受性の強い人間なら、何か感じ取れたのかもしれない。これを使用していた者が込めた、想いの様な物も見えたのかも知れない。
……何故手元に無くなってからの方が、あの道具の細部を明確に思い出せるのだろう。僕の眼は、能力の見せる幻像に曇らされているのだろうか。今度からは能力に頼らないで物を見る訓練もしなければいけないな……
……カランカラン
扉を開ける音で気が付いた。僕は考え事をしつつ、少々寝ていたようだ。
「何だよ。私に人探しを頼んでおいて、自分は好い旅夢気分か?」
「ああ、魔理沙か……。もう帰ってきたのかい」?
「神社にいたよ。紫の奴。神社で暢気にお茶を飲んでいたよ。冬眠忘れてな」
「……それで、紫はどうしたんだい?」
「言付けを頼まれたぜ」
「また言付けか……。それで何だって?」
「ああ、『確かに今月分は頂きましたわ』だって」
なんと、あれは代金代わりだったのか。それにしても今月分だって?毎月取り立てに来るつもりなのか?僕は面倒な妖怪と取引してしまったものである。
「それから次の様に言っていたぜ『この間、外の世界では携帯出来る物が流行っているって言ったでしょう?だからこういう道具もいっぱい落ちているの。これは携帯ゲーム機と言って、いつでもどこでも仮想の敵相手に、戦ったり滅ぼしたり出来るのよ……。ってあらやだ、この灰色のはかなり古い機種ね。色もモノクロだし……もうこんな古いの、外の世界でも持っている人なんて余りいないわよ。今はねぇ、この小窓が二つ付いているのが流行っているのよ』だってさ。一体何の話だ?」
「なるほどね。良い言付けだ」
外の世界では、今どのような『携帯ゲーム機』が流行っているのだろう。紫の言う二つ窓が付いた小箱も、流行が終われば幻想郷に落ちてくるのかもしれない。
静かに屋根のつららが落ちた。おかしな者が近づいてきたのを、巫山戯た妖精が悪戯しているのだろう。
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第八話 「幽し光、窓の雪」
……寒い。店内は、この世のものとは思えないほど冷え込んでいる。
店の中央にはストーブが置かれている。寒さの厳しい幻想郷の冬を過ごすための貴重なアイテムだ。今年は、ストーブを危うく何の効果も持たない飾りにしてしまうところだったのだが、今何とか動いている。
……それにしても寒い。寒いというか店全体が何か冷たいのだ。
このストーブは外の世界のものであり、いつもなら、ありえないほどの熱を持つ。今も、これでもかといわんばかりの外の焔があたりを照らしている。これで寒いはずがないのだ。本来なら。
でも……寒いのだ。というのも、朝から店内が幽霊でいっぱいになっていたから仕方がない。幽霊の温度は非常に低いからだ。店内はこの世のものではない幽かな光で包まれている。その光は窓の外の雪に反射し、店内を幻想的に演出していた。ストーブの現実的な光とは対照的である。
あいにく、僕はこれら幽霊たちの声を聴く能力を持たない。ここにいる無数の幽霊たちの目的を、知りたくても知ることができなかった。こういうことは僕の専門ではないのだ。
……この寒さのままでは、今年の冬は越せそうにない。少々荒い手段だが、専門家に幽霊退治をお願いするとしよう。荒い手段だと思うのは、これらの幽霊には悪意が感じられなかったからだ。
僕は神社まで出向くのが面倒だったので、店の中で退屈そうにしている幽霊に「神社に行って巫女を読んできてほしい」と伝えてみた。ああ、なんて滑稽な図だろう。僕は幽霊を退治するために霊夢を呼ぶというのに。
でも退屈そうな幽霊は二つ返事(といっても人魂の頭部分が上下に動いただけだが)で飛び出していった。どうやらこっちの声は聞こえているらしい。それにしても、ここにいる幽霊は陽気で気楽で非常に良い。冷たくなければもっと良いのだが。
幽霊の冷たさが世の役に立つのは、主に夏である。夏の暑い夜に、人間たちは好んで幽霊を探し、そして涼むのである。それが肝試しであり、肝試しが夏によく行われるのはそういう理由である。
生きとし生ける者すべてが生の温度を持つ。人間でも妖怪でも同じなのだ。逆に道具の温度は周りと同じになる。幽霊が冷たいのは、生きている者とも道具とも違うと言う、幽霊の自己主張なのかもしれない。
――カランカラッ。
「いったい何よ? 霖之助さん。人を呼び出したりして」
霊夢が来た。あの幽霊はちゃんと役目をはたしてくれたようだ。
「何って、この状況を見ればわかると思うけど、君にこれらの幽霊を退治、いや追っ払ってもらおうかと思って」
「幽霊? でも、最近多いわよね。神社にも幽霊がいっぱい来るわ。困るのよねぇ」
それは暗に「私では幽霊は退治できない」と言っているのだろうか。
「寒いんだ。こいつらがいると」
「幽霊だからねぇ。でも、追っ払う前に何で集まっているのかを調べる方が先じゃないの?」
「……寒いからなぁ。それは部屋が暖かくなってから調べれればよい」
「そんなもんかしら。そんなんじゃ根本的な解決には繋がらないと思うけどねぇ」
霊夢はそう言いいながらお札の準備をしていた。幽霊除けの護符だろうか。
「いくつかのお札を貼っておくわよ。気休めにしかならないけどね」
「ありがとう。でも直接手を出さないなんて霊夢らしくないな。幽霊は苦手かい?」
「私は、妖怪退治をする人間よ。幽霊は妖怪ではないの」
霊夢はみせのあちこちにお札を貼っただけで帰ってしまった。なるほど、確かに幽霊が近づかなくなったようだ。ただし、お札のごくわずかの距離だけだ。店内は相変わらず幽霊だらけのままである。これではまるで意味がないので、お札を自分の近くや寝床、大切な商品の近くに貼ることにした。
よく見ると、幽霊の一部は寒そうにしながらストーブの周りに集まっていた。寒いのは誰のせいだ、と言いたくもなるが、冷たい幽霊も必ずしも寒いのが好きなわけではないらしい。
それはそうだ。幽霊はもともと人間である場合も少なくないのだ。幽霊の好みや性格も生前と大きく変わらないのだろう。幽霊たちをよく観察してみると、興味津々と元気に動き回っている者、ストーブの周りから動かない者、幽霊同士で話し合っている(ように見える)者、様々である。
考え方だって様々であろう。でも、その様々な幽霊たちがなぜ、突然うちに集まって来たのか。そこだけは、意思が統一できたのか。もし、幽霊の声を聴くことができたならば、どれだけ楽なことだろう。
死者の声を聴くというと、イタコという職業を思い出す。ただ、ほとんどの人間はイタコの能力を誤解している。イタコは死者の声を聴いているのではない。口寄せを依頼した人間から発する無意識を、イタコが言葉にして伝えるのだ。だから、依頼人と関係の薄い死者の声を聴くことはできない。また依頼人が目の前にいない状態で口寄せすることもできない。
もし、依頼人の親子、夫婦、恋人であるのならば、たとえ死んでいなくても口寄せを行うことができる。
巫女はイタコと同じ能力を持つと思われるが、少し違うところがある。巫女は、神の言葉を口にする。あらゆるものに神が宿るので、道具であろうと声を聴くこともできる。ただ、その声は一方通行なのだ。いわば神の独り言をそのまま言葉にするようなものだ。
外が静かである。雪が降っているのだろう。幽霊たちは、実は長い旅の途中で、外が雪だからここで小休止しているだけなのかもしれない。
霊夢がお札を貼って言っただけで積極的に退治しなかったのは、やなり幽霊と妖怪は異なるということだろう。幽霊と言うだけでは退治するという理由にはならないのだ。妖怪と違って。
僕は、ストーブを付けっぱなしにしたまま寝ることにした。幽霊だって寒かろう。……いや、僕が寒いのだが。
――ドンドンドン!
夜が明け、まだ日も昇ったばかりだというのに、扉を叩いている者がいる。
雪はすっかり止み、雪の光と凍った空気で、幻想郷は白色で包まれていた。
ドンドンドン!
「すみませーん! ちょっと、貴方の店で調べたいことがあるのですがー!」
ドドドド……ドサ。
あーあ、扉を叩いて店を揺らしすぎるから……。昨夜はあれだけ雪が降っていたし、店は一晩中ストーブを付けていたから、屋根の雪も緩んでいただろうし。
「まだ、開店まで随分と時間があるんだが……いったい何の用だい?」
でも、扉を開けても誰もいないじゃないか。
いや、扉の前に雪の山がある。雪の山から二本の剣と片足が飛び出している。
これは客も入って来られないだろう。後で雪かきをしないといけない……、ってそうじゃなくて。どうやら目の前の雪の山が「来客」らしい。
雪かき用のシャベルはどこにあったかな、って中に柔らかいものが入っているようだから乱暴に掘り起こすのは危険かもしれない。
「うー……」
目の前の雪の山からうめき声が聞こえる。
「自分で出てこられるかね。いったい何の用だい? まだ朝も早すぎて店を開けてないんだが」
「う、動けない……。少しくらい雪をどかすのを手伝ってくれてもいいでしょう?」
「声だけ聞こえればとりあえず用件は聞ける。手伝うのはその後でもいいんじゃないかな?」
「うーっ、うー」
僕は、声の聞こえた付近だけ雪を退けてみた。そこには来店一番に屋根の雪に反撃を受けた、間抜けな少女の頭が見えた。
「ぷぅ、冷たいー、って手足が動かないよぉ。雪を全部どけて下さいよー」
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「雪は、体を動かすと圧縮されて固まってしまう。だから」
「だから、じゃあなくて……」
「で? いったい何の用だい?」
「しくしく。貴方の店で調べたいことがあるの、しかも急ぎで。だから訪れただけなのに……」
「調べたいこと? もしかして幽霊のこと?」
「そうです」
「ならば話が早い。雪をどかしてあげよう」
「って、違う用だったらこのままだったの? あーもう……」
「今度からは、店には丁寧に訪れるように」
しばらく雪をどかしたら、少女は動けるようになって、雪の山から出てきた。店の扉を開けると、ばつが悪かったのか、恥ずかしそうに僕の後をついてきた。
魂魄妖夢という変わった名前を名乗った少女は、店に入るなり寒そうに震えていた。上下緑色の服を着ていて、広がったスカートは短くて寒そうだった。おかっぱ頭は必要以上に幼く見えるが、登場の仕方からしてやっぱり幼いのだろう。もっとも特徴的なのは、背中に携えた背丈ほどもある長刀と腰の辺りの短刀である。店に来るのにこんな物騒なものを持ち歩いているというのは、何というか……。強盗だと思われてもおかしくない。そりゃ、店も拒絶するだろう。雪を落としたりして。
「寒いのなら、そのストーブに当たるといい。昨日から付けっぱなしなので暖まりすぎているくらいだから」
「あ、ありがとうございます。では早速」
店に入るなり、丁寧な態度になったような……。もともと「こういう」娘なのだろうか。
「あ、熱すぎるかもしれないから火傷には気を付けるように……」
ストーブの方を見てみると、少女は緩んだ表情をしていた。わりとだらしない。やっぱり霊夢たちと同類かな?
ストーブの上のやかんのお湯が危うく蒸発しきるところだったので、外からつららと雪を持ってきて入れた。
「そろそろ良いかな? まず、何の用かい? 君は、この幽霊のことを調べに来たと言っていたけど」
「そうですね。ここの幽霊って、なぜ集まっているのかわかりますか?」
「わかっていたらもっと面白いことをしているよ」
「では、貴方が意図的に集めたわけではないのですね」
集めてどうしようというのだろう。それはともかく、さっきから気になっているのだが、ひときわ大きな幽霊がいつの間にか入り込み、ストーブを独占するように鎮座している。
「幽霊が集まってくる前に、何か変わったことはありませんでしたか?」
「その前に、君はいったい何者だい? その刀で幽霊の退治をするのかい? それとも、ただの好奇心なのか……」
「ああ、申し送れました。私はこの幽霊たちが集まっている原因に心当たりがあるのです。私はこう見えても幽霊なのです。半分だけですが……」
なんだ、人間じゃないのか。じゃあ妖怪退治も幽霊退治もお願いできそうにないな、って幽霊?
「幽霊だって? いつから幽霊が君みたいな実体を持つようになったんだい? 亡霊じゃあるまいし」
「ああ、もちろん私の『こっち』は人間部分ですよ。私の幽霊部分は『あっち』」
少女はストーブを独占している大きな幽霊を指した。
幽霊使いみたいなもんか。なら幽霊の扱いには慣れているだろう。幻想郷には変わった職業もあるもんだ。
「ですから、もう一度ききますが……。最近何か変わったことはありませんでしたか? 例えば何かを拾ったとか……」
「ある日突然、幽霊が集まってきたよ」
僕は少女のきき方で、彼女の意図が読めた気がした。
「いや、それはわかっていますので」
「君は、何か心当たりがあると言っていたね。でも、こちらから原因を聞きだそうとしている。それはつまり、君にとってあまり堂々と言えるようなことではないからなのかな?」
「う。そ、そんなことないですよ」
「では、その心当たりを言えばいいじゃないか」
「そ、そうですね。……では率直にききますが、貴方は『人魂灯』を拾ったりしませんでしたか?」
人魂灯? そんなもの拾ったっけな。拾いものなんてたくさんあるから、つまらないものは覚えていない。
「その人魂灯があると何だっていうんだい?」
「人魂灯は、無数の幽霊を誘導するのに使うもので、元々冥界にしかない道具です。この道具の光は、どんなに離れていようと、障害物があろうと、幽霊には見えることができるのです。だからそれを見て集まってきてしまいます。」
「あーそうか。人魂灯って……」
そういえば、冬に入る前に無縁塚でそんなものを拾ったような気がするな。あれはどこに置いたっけ?
「ここにあるのですね!?」
少女はなぜか嬉しそうだ。
「ああ、確か拾った気がしたよ。ずいぶんと前だけど……、でも灯を入れた記憶はない。ちょっと待ってな」
「良かったぁ」
去年の秋に拾った商品の山の中から、それっぽいものを見つけた。手のひらサイズの行灯のようなものだったが、確かになぜか灯が点けられている。
「これだね? 人魂灯は」
僕は道具の名前と用途を知る能力を持っているのだ。
「それです。それです。良かったですー」
「勝手に灯が点いたみたいなんだけど……、この冷たい光は、人魂の光かな?」
「うう。そのへんはあまりきにしないで下さい。で、その人魂灯ですけど、それを捨てれば幽霊は集まらなくなります」
なるほどね、つまりはこういうことか。
「君が店に来た理由がようやく飲み込めたよ。僕は、君に幽霊が多いとは言ったが、困っているとは言ってない。この人魂灯は君がうっかりなくしてしまったものだね? 君は幽霊使いだから、これがないと困るというわけか」
「う。幽霊使いではないですがー」
「本当は、この人魂灯が欲しいんだよね。本当の理由を言わないと渡せいないなぁ」
「うーしくしく」
少女はようやく、自分の来た理由を語り始めた。
少女は、冥界にある大きなお屋敷で住み込みで働いているらしい。人魂灯は、そのお屋敷のお嬢様から預かった大切な道具だった。だが、出先でうっかり落としてしまったらしい。この少女らしい気もする。
なくしたことに気が付いたのだが、すでにいつどこで落としたのかも思い出せなかったし、お嬢様にも相談できず途方に暮れていたそうだ。しばらくは仕事の合間に探していたが、何の進展もなく、次第にそのことを忘れてしまったという。この少女らしい、のか?
「結局、幽々子様にバレてしまって……、散々怒られたのです」
「それはそうだろうな」
怒られた理由が、なくしたことなのか、それともなくしたのを伝えなかったことなのか、彼女にはわかっているのだろうか。
「幽々子様は、どこにいてもその人魂灯を灯すことができるとおっしゃていたので、それで幽霊の集まったところを探してこいって」
どこにあっても灯すことができるのなら、きっとどこにあるのかもわかっているのだろう。そんな都合よく「灯すことだけ」しかできないなんてことはあるまい。目の前の彼女に探させるつもりだったのだ。やはり、なくしたのを伝えなかったことに怒っていたのだろう。
つまり、僕はこの道具を拾ったせいで、幽霊に囲まれて寒い思いをして、その上彼女の勉強のだしに使われたというわけだ。
「君は、探し物が見つかってひと安心、って顔をしているが……。この人魂灯は、すでにうちの『商品』だよ。もちろん、ただでは渡せない。まだ店は開いていないけど、特別に売ってあげようじゃないか」
「え? そんなぁ! 返してくださいよう……」
「おっと、この人魂灯に目を付けるとはお目が高い。これはなんと冥界の品で、なかなか手に入るものじゃないよ? 値段もそれ相応だけど」
「しくしく……」
――カランカラン。
「よう! 昨日はすごい雪だったな」
店を開くなり、寒がりの魔理沙がやって来た。
「魔理沙か。扉は静かに開けないと危ないよ。屋根の雪が落ちるから」
「あれ? でも屋根に雪はなかったぜ。というか珍しいな」
「何がだい?」
「香霖が屋根の雪下ろしをするなんてさ。いつもだったら、そういう体力仕事はやらないじゃないか」
今朝、少女が店を訪れてからすでにかなりの時間が経っている。雪が降っていれば、積もることもありえるくらいの時間だ。逆に言えば、雪かきをすれば広範囲にわたって行うことができるだろう。
「ああ、親切な人間がいてね。屋根雪も、店の周りも全部雪をかいてくれたんだよ」
「ふーん……あれ? 妖夢じゃないか、ここに来るなんて珍しいな。そんなストーブに近づかなくても店内は暖かいだろう?」
彼女には朝から開店まで屋根の雪下ろしをしてもらったので、凍えていても仕方がない。
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「もう、体が冷え切って……。魔理沙っていつもこんな酷い店主を相手にしているの?」
「ああ、してやっているぜ。酷い奴だろ?」
「それは聞き捨てならないな。酷いとは何だい? 君はものを買うために店に訪れて、その上手ぶらだって言うじゃないか。それでは幻想郷は生きていけないよ」
「冥界と比べて、幻想郷は厳しいところです……」
「あははー、そんなことないぜ。これほど気楽なところもない。お前は、まんまと香霖に騙されて、雪かきをさせられたんだな」
なんとなく、この少女は、霊夢や魔理沙にいつもからかわれているような気がした。それもこの少女の未熟さと真面目さ故だろう。雪かき程度、人生の勉強代としては安いもんだ。
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[#挿絵(pic/13/01.jpg)入る]
第九話 「無々色の桜」
雪で覆われた幻想郷は、春が近づくにつれ徐々に色を取り戻していた。冬の白色は山の低い部分から消えていく。だがそれと入れ替えるように、山の低い部分から再び白色に染まっていく。春の白色、桜である。
香霖堂の窓からも桜がよく見える。こんなに景色が良いので、わざわざ外に出て花見をしようと考えるなんて間違っているのだ。花見なんて店の中で十分じゃないか。騒がしいのも好きではないし、いつも会っている者同士で花見をしても嬉しくない。一人で静かに店の中から桜を見る。これ程優雅な、いや幽雅な花見もないじゃないか。花見に出掛ける人間とは、森の中だとかあまり景色が良くない家に住んでいる哀れな人間か、妖の桜の魔力に操られてしまっている『目出度い』人間くらいである。
――カランカラン
「さあ香霖、花見の季節だぜ。神社で毎日」
「魔理沙か。帽子に花びらが積もっているよ。払ってから来なさい」
[#挿絵(pic/13/02.jpg)入る]
「ワザと載っけてきたんだがな」と言うと、魔理沙は外に出て帽子をぱたぱたと振った。
魔理沙の家がある魔法の森には桜のような木の利いた植物はないし、そもそも森は常にまっとうな人間を拒むものだ。魔理沙が桜の花を見て浮かれるのも至極当然である。
「で、行かないのか? 花見」
「花見か……。今日は別の用事があるので遠慮しておくよ」
魔理沙に付いていったら相当騒がしい花見になるだろう。僕は騒がしいのは好きではない。
「いつも暇そうにしている癖に。用事ってなんだ? 時間が掛かるのか?」
「ああ、別の花見があるんだ。静かな花見が」
「そう、お通夜みたいな花見でもするんだな」と言うと、魔理沙は出ていった。
僕は静かな花見を再開した。一人で店の中から桜を見る花見は、この上ない贅沢を感じさせ、そのまま夜も更けていった。
次の日もますます桜が見事になっていった。
昨日は一人で花見と称してぼうっと見ていただけだったので、今日はもう少し高尚な花見でもしようかと思う。高尚といえば、本を読むことである。
僕の書庫には幻想郷の本だけではなく外の本も多い。だが、いずれにしても桜を取り扱った本は非常に多いのだ。同じ植物でも達磨草を取り扱った本は皆無に等しいというのに。
それだけ、桜というのは日本人にとって特別な花ということだろう。昔から人間も妖怪も桜の色に狂わされる。ある者は桜の下で浮かれ騒ぎ、またある者は死について考え、感傷的になる。すべては遥かな過去をみてきた桜の仕業なのだ。
――カランカラン
「居ますでしょうか?」
「いらっしゃいませ」この間の半人前少女――妖夢のようだ。
「あ、この間はどうもありがとうございました。お陰さまで幽々子様にはちょっと怒られただけですみました」
「それは良かったですね」
ちょっとの度合いがわからないが、あの後、魔理沙に聞いた話だとこの娘は、幻想郷中のはぐれ幽霊を集めさせられたり、まだ見つかっていない死体を探らせられたりしたようだ。すると先日のアレはお仕置きの真っ最中だったのだろうか。
「と言っても僕は商品を売っただけですが……今日も探し物を買いに?」
「いえ、今日は店の前を通りかかったので、お礼も兼ねて花見に誘おうかと思いまして」
通りがかったから、っての言わなければお礼としての格が上がると思うのだが……。それにしてもまた花見の誘いか。
「お嬢様の庭の桜は、ここの桜の何倍も見応えがあるのですよ。と言っても今日は神社でお花見ですけど」
「うーん。生憎今日は別の用事があるんでねぇ」
「そうですかぁ。まぁ桜は逃げないのですが桜の花は逃げますので、咲いているうちにいつか花見に来てくださいね」
妖夢を追い返し、彼女のお屋敷の桜の何分の一しか見応えのないという桜を見ながら本を読んで、そのまま夜も更けていった。
次の日も一段と桜が見事になっていた。
ちなみに昨日読んだ本とは、もちろん桜が出てくる本である。これも回りくどい花見だ。なぜ桜の下で桜の本を読むのかというと、それは人生を楽しむためである。人生の楽しみ方を知らない者ほど短絡的で感情的なものだ。桜を見て「わぁ綺麗!」だとか「こんなもん綺麗なだけじゃないか」だとか「桜の楽しみ方とは云々」など知ったような口で語るのは、自ら愚かさを露呈しているだけだ。なぜなら自分の思いついたことをそのまま口にして満足してるという、非常に短絡的で幼稚な行為だからである。それしか言えないような人間も、式神や道具とさほど変わらない。
余所の桜とも過去に見てきた桜とも比べることもなく、眼前の桜をただじっと感じているとしだいに本当の花見が見えてくる。こうした回りくどさが、高尚さに必要なことなのだ。
今日は、まだ出しっぱなしだったストーブを片付けることにした。流石にこれを出したままでは春が実感できない。でもいささか心許なく感じるのは、朝や夜はそれなりに冷えるからだろうか。
ストーブといえば昨日来た妖夢を思い出す。実はあの娘が言っていた見事な桜と言うのが少し気になっている。そもそも桜と幽霊とはつながりが深く、幽霊が大量に居るというお嬢様の庭、そこに有るという桜といったら……それなりな因果を感じてしまう。
幻想郷にも妖怪と化した植物も少なくはない。特に桜は人の死を誘い、多くの魔力を持っている。また桜ではないが、魔法の森もそういった危険な植物でいっぱいなのだ。木は、人間より、時には妖怪よりも遥かに長く生きている。幻想郷の歴史を全て見てきているのは……幻想郷の木々たちだけなのだ。
――カランカラン
「いらっしゃいますか?」
「いらっしゃいませ」
「そりゃ店を開けてるから貴方はいらっしゃると思いますけど」
やって来たのは、久しぶりの吸血鬼のお嬢様――レミリアとそのメイド――咲夜の組み合わせだった。
「神社に誰も居なかったので、霊夢がこっちに来てないかなーと思って……」
お嬢様の方はよく見ると桜色の服である。吸血鬼は人の血を吸い長く生きている。桜の木と根底にあるものは同じかもしれない。
「いや、ここのところ暫く霊夢はみかけてないよ?」
「今日は神社で勝手にお花見でもしようかと思ってきたのに、勝手に居ないんだから」桜色の吸血鬼が理不尽な文句を言った。
「そうだ、貴方もお花見に行きません? 神社へ」
「霊夢は居なくても良いのかい?」
「霊夢が居なくても桜は咲いているわ」
「それに神社は空けっぱらっているから、食べ物もお酒もありますよ」と笑顔のメイド。こんなメイドがいるんじゃあ、おちおち店も留守に出来ない。
「誘ってもらって嬉しいですが、まだ店が営業中ですので……。今日は遠慮させていただくよ」
「霊夢を見かけたら神社に戻ってくるように伝えてくださいね」と言って二人は戻っていった。
僕は、ストーブを片付けながら桜を見ていて、一日終わってしまった。
次の日も際限なく桜が見事になっていた。
昨日は結局、探していた霊夢は見つかったのだろうか。尤も、霊夢が留守でも桜の下でどんちゃん騒ぎをしている姿が容易に想像できる。夜には霊夢も戻ってきて、勝手に盛り上がっていたみんなに憤慨している姿も思い浮かんだ。
桜色の吸血鬼と紅白の巫女。巫女の紅と白を混ぜれば桜色になるのかも知れない。だがその違いは大きい。紅と白が混ざらずに居ること、すなわちそこには境界が生じているのである。日本では古来から、紅白は『目出度い』とされ、逆に目出度くない時は黒と白を使われてきた。注目するべきことに、相反する二つの習慣には共に白色が入っている。とすると、単純に紅が縁起がよく、黒が縁起が悪い、という風に見えるが、実際にはそんなことはない。やはり白は必須なのだ。
ならば白とは何を指しているか、と考える。まず、白は色として認識されていないのだ。何故なら、如何なる色にも変化することが出来る唯一の色だからである。数字で言えばゼロに当たるだろう。一方、紅は人間の血の色であり、生命の象徴でもある。それは人間が最初に感じる生命の色であり、すなわち原初の色なのだ。これは存在そのものと考えても良い。
つまり、紅と白の間には存在と無の差がある。紅白の境界が『目出度い』のはそのためだ。交互に紅白の色を使いその境界を強調するのは、その境界線が物事の始まりを意味していて、だからこそ昔の人は縁起が良いと考えたのだ。
では、黒白はどうだろう。白が色として認識されていないのと同時に、黒も色として認識されていなかった。黒はただの闇であり、闇の中ではどんな色も黒になる。そこから生み出されるものは何もない。白がゼロならば黒は虚と言うことだ。ゼロと虚である以上、黒白の境界は何も実体、つまり生命を生み出さない。紅白と黒白の違いはまさに、この世とあの世の違いと類似し、紅白が生を象徴とするように、黒白が死を意味するようになったとしても何も不思議なことでないのだろう。
では、桜の色はなぜ人間を惑わせ、多くの者を惹きつけるのだろうか?
――カラン
「……桜が白くなっているわ」
「いらっしゃ……」
扉が開いた音がしたのに、なぜか店の入り口には誰も居なかった。
「明日の花見は楽しみね」
「!! ……いつの間に店の中に」
店の奥から現れたのは八雲紫だった。僕はこの少女がちょっと苦手である。何を考えているのか判らない上に、どこか見透かされている気がしてならないからだ。近くに居られると、非常に居心地が悪い。
「それにしても、ここのところみんなは毎日お花見をしているみたいだけど、休憩は必要ないのかい?」
「いいえ、明日が初めてですわ。お花見は」
「そう……君は神社に行ったりしていなかったのか」霊夢の周りの者たちは揃って馬鹿騒ぎしているイメージがあったため、ちょっと意外な気がした。
「いいえ? 毎日神社には居ましたわ。でも、明日が初めてのお花見です。本当の桜が咲くのも、明日が初めてですわ」
言っていることがよくわからなかったが、今日は花見ではないらしい。僕はと言うと、花見に誘われたら今日は行っても良いかなと思っていたところだったので、少々肩すかしを食らった気分だった。仕様がない今日はお茶でも飲みながら一人花見をするとしよう。
「今日は桜の白さを確認しに来ただけですわ。それでは今日も神社に向かいます。神社の紅い桜の下に……。そうそう。関係ないですが、紅白の旗がお目出度いのは正八幡が源流だって、知ってました? 普通忘れますよね、そんな昔のこと」
そう言うと紫は、返答も待たずに入り口から出て行ってしまった。僕は、彼女の会話の展開が予想できなくて、いつもまともに聞き取れない。会話というのは、相手が次に言うことを予想できるからどんな速い速度でも成り立つのだと思う。予想できない言葉は念仏のようなものだ。
僕はお茶を淹れながら桜を見た。言われてみれば余所の桜に比べるとうちの桜は白いようだ。桜の種類だけに起因するものではないだろう。なぜならそもそも去年まではこんなに白くはなかったからだ。ともかく明日は花見に参加しよう。誘ってくれたらの話だが……。
次の日、昨日までのが嘘みたいな満開だった。白い波は店を押しつぶすかのように膨れ上がり、もはや店の窓の外には桜しか存在しないのかのように見えた。
そうか、元来桜はここまで咲くことが出来るのか。自然はいつも予想を超えてくる。所詮、予想なんて幻想の足元には及ばないということなのだろう。
というか、冷静に考えてみると、少し咲きすぎじゃないのか? 桜の花というのは、春風が吹かなくてもそんなに長持ちはしないものだ。儚いはずのものがここまで出しゃばってくると、逆に不安を感じてしまう。この桜は本当に散るのだろうか……。
――カランカラッ
「居るかしら?」
「いらっしゃ……ああ、霊夢か」
神社で連日花見をやっているはずの霊夢が来た。霊夢は準備と片づけで四六時中忙しそうだから、魔理沙辺りがうちに来るかと思っていたが。
「最近、お花見ばっかりでねぇ。ほぼ毎日誰かが家に来るのよ」
「それだけ、神社の桜が見事って事なんだろう?」
「そうねぇ……」珍しく、何か歯切れの悪いものを感じた。流石の霊夢も連日花見で、疲れているのかもしれない。
「今日は店の裏を借りるわよ」
「店の裏? 借りるっていったい?」
「それはもう、お花見に決まってんじゃないの。今日は店の裏でお花見をやるわ」
ああやっぱり、連日花見でも疲れる訳がないか。
「みんな言ってたの。香霖堂の裏の桜がもうすぐ咲きそうだって。だから見に来たんだけど、もうちょうど良い状態になっているじゃないの」
昨日までの桜では彼女らにとっては『まだ咲いていない』状態だったのか。僕だけが満開だと思って一人花見をしていたというわけか。もしかしたら、最近とみに来客が多かったのも、店の裏の桜の状態を確認するためだったのかも知れない。
「余り騒がしいのは好きじゃないんだがな……もう他のみんなも呼んでいるのかい?」
「いえ、桜の様子を見に来ただけで、誰も呼んでないわ。でも、暫くすればみんな自然とここに集まってくると思う」
「なぜだい?」
「そういうもんだもん」
それが霊夢の自然なのか。霊夢にとっては、自分の居る場所に人が寄ってくることが当たり前であり、当たり前だからこそ強い関心を持たないように見えるのだろう。
「霊夢言うんだからもうすぐこの店は騒がしくなってしまうんだろうな。今日は店をたたむとするか、恐らく商売になるまい」
「あら、いつも開店休業じゃないの」
「お客じゃない人間はよく来るんだけどね」
「この店には欲しいものが置いてないだけよ」
店の裏の白い桜。白は無色であると同時にあらゆる色の基底になる。虹の七色も根底にある色は白だ。その白い桜に、原初の色である紅を加えて紅白になると、後は様々な色を呼び込むだろう。花が自ら白くなっていったのも、満開と同時に紅色の霊夢が来るのも偶然ではない。すべてはこの妖怪じみた桜の仕業だったのだ。そして霊夢が来ることによって人が集まり始めるだろう。誰も気が付かないうちに桜の魔力で操られているのである。
桜の花は、人を惑わして自らの下に集めることだけを考えて咲いている。何十年も何百年もの間、集めることだけを考えていたら、例え植物とはいえ不思議な力を持つようになるだろう。店の裏の桜は、自らを白くすることによって人目を惹き、霊夢の紅を呼ぶことで、紅白どころか虹の七色を手に入れようと考えたのだ。
この桜の策略に気が付いているのは恐らく僕だけである。こうやって人間を操るうちに段々と妖怪と化していくのだろう。人間に害をなすような魔力を持ってしまったら、人の手に負えない代物になる。店の裏の桜も、いつの間にかそんな智慧を持つようになっていたということだ。
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……だがまぁ、それも良いだろう。桜を見て騒ぎたくなるのも、死にたくなるのも、集まりたくなるのも、至極自然なことなのだ。何しろ桜は、紅と白を併せ持つので色の誕生を意味し、色の誕生は生の誕生である。まさに季節の始まりなんだから、本当は桜が咲いたときを正月にするべきなのだ。流石にそれは無理かも知れないが、せめて僕だけでも正月気分で居るとしよう。桜の魔力に操られるのも悪くない。
「どうしたの? 何かお目出度い顔をしているわよ」
「そりゃ正月だから『目出度い』さ」
「ずいぶんと遅い正月ね」
「ちなみに紅白が目出度い理由をしっているかい?」
「そんなの……巫女だからに決まってんじゃないの」
窓の外に、桜の白の中に黒いのが混じって、こちらに近付いてくるのが見えた。
けれども僕には、なぜかこの黒は縁起の悪い物には見えなかった。
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第九話 「名前の無い石」
元来この世のあらゆる物には名前は付いていない。この世は様々な物すべてが混ざった混沌の世界だった。だが、太古の神々がこの世の物一つ一つに名前を付けてまわり、今の世の様に秩序の取れた世界が生まれた。物に名前が付くとそこに境界が生まれ初めて一つの物として認識される。謂わばその命名の力は無から物体を生み出す創造の力であり、まさしく神の力に等しい。そして、その強い力故、物は名前を付けられた事を覚えている。だから僕はその名前を見ることができるのである。
僕は窓を開け、店内に夏の風を取り入れていた。外は人が出歩くには厳しい夏の日差しだった。店内はそれほどでもないが、それなら少し風でも楽しもうと、僕は窓に風鈴を釣り下げた。
――カランカラン
「居るよな」
「居るけど……何か嬉しそうだね。魔理沙にしては珍しくもなく」
「珍しいのか何なのか判らないぜ」と言いながら魔理沙は帽子を取り、売り物の壷の上に腰掛けた。冷やかしに来た割には、随分暑そうだ。
外はすっかり夏である。大きなスカートとふわふわの服。大きな黒い帽子と魔理沙の重装備では、暑くないのかと心配だが大きな帽子は日光を避けられるので案外快適なのかも知れない。
「あー暑すぎて頭が煮えるぜ。それでこんな物拾ったんだが。これって外の世界の石だろう?」
「あー?」
魔理沙が四角い小さな石を取り出した。驚くべき事に金属の足が何本も生えている不思議な石だ。
「これは……確かに外の石だが。」
「そうだろうそうだろう。こんな変な石が幻想郷にある訳無いもんな。それで、何か面白い物なのか?」魔理沙は嬉しそうだ。
「これは半導体と言って、外の世界ではよく使われている人口の石だ。基本的には式神を扱う時に使う物だが……残念ながらこれ単体では何の役にも立たないよ」
「あーそうなのか? 何が足りないんだ?」
「そこまでは判らないが、これはもっと大きな道具のほんの一部でしかないよ。本来はこういった石は幾つか組み合わせて使うんだ。そうすると式にありとあらゆる事を命令できるらしい」
「そうか、これ一つだと足りないんだな。ま、取りあえずお守りにでも使わせて貰うよ」そういうと魔理沙は半導体を帽子のリボンに付けた。
魔理沙は自分が持ってきた石の正体が判り、満足した感じで本を読んでいた。半導体はちゃんと使う人が使えば、ありとあらゆる事ができると言われている。具体的な使い方は判らないが、それでもありとあらゆる事ができるのだからお守り程度には使えるのだろう。大きさ的にも親指大程度で邪魔にならないし丁度良いのかも知れない。
魔理沙にとって、名前が判るまではこの半導体もただの石である。ちょっとばかし黒くて足が生えているだけの石だ。名前が付いていなかった魔理沙の世界では物の区別をする事が出来ない。でも僕に名前を聞く事で、たちまち石は単独で動き出し、晴れてお守りになったのだ。
しかし、別に僕が名前を付けた訳ではない。名前は既に付いていたのだ[#「名前は既に付いていたのだ」に丸傍点]。僕と魔理沙の違いは、ただその名前が見えたか見えないかだけに過ぎない。道具になった気持ちで見つめ、道具が視てきた記憶を共有する。それが道具に対する愛であり、その愛さえあれば名前を知ることぐらい朝飯前である。
――カランカラッ
「居るかしら?」
「おう居るぜ」
「あ、居た居た魔理沙、ってあんたじゃないわよ! 霖之助さんの方は居る?」
「ああ霊夢か、居るよ。今日は何の用かな?」
「霖之助さんに見て貰いたい物があるの」と言いながら、霊夢は勝手に店の奥へ上がっていった。
「何だい? お茶ならこっちに出してあるよ」
「ああそう。準備が良いじゃないの」戻ってくると手には煎餅を持っていた。ちゃっかりし過ぎだ。
「で、見て貰いたい物ってなんだ?」何故か僕の代わりに魔理沙が訊いている。
「そうそう、この石を見て貰いたいんだけど……」
また石である。やはり霊夢も外の石か何かを持ってきたのだろうか。別に石なんて大喜びで拾ってくるような物では無いと思うが。石がそのまま道具になるなんて、漬け物石か火打ち石ぐらいな物だし。
「結構大きいな。でも普通の石じゃないのか?」と魔理沙。
「よく見てよ!」
「ちょっと見せてごらん。……ほう、これは」
手渡された石は、動物の背骨の一部分の様な形をしていた。つまりこれは石ではなく骨だ。それ自体は珍しい物ではないが、ただ、大きさが異常だった。背骨の一部だとすると手のひらほどもあるのは、かなり大きすぎる。
「これって何かの骨でしょう? 所謂化石よねぇ。霖之助さんなら何の化石か判ると思って来たの」
ふむ。この石は確かに「化石」に見える。
「骨の化石か。もしこんな大きな骨の動物が居たら生きていたら相当でかいぜ? きっと香霖堂よりもでかい。昔はそんな大きな動物も居たんだな。これはなんて言う動物の骨なんだ?」
魔理沙も死んだ動物の骨の化石だと思っているようだが……本来化石という物が地面に埋まっているはずはない[#「化石という物が地面に埋まっているはずはない」に丸傍点]。化石というのは骨を掘り出した人が後日化石にした物[#「骨を掘り出した人が後日化石にした物」に丸傍点]だ。それに昔はこんな大きな動物が居たと言うなんて勘違いも甚だしい。僕は二人に、この骨がなんの骨なのか、化石と呼ばれる骨には現代では考えられないほど極端に大きい物があるのは何故か、を教えてやらねばなるまい。
「ああ霊夢、魔理沙。君達は大きな勘違いをしている様だね」
――夏の日差しが強ければ強いほど見せの中は暗くなる。見せには所狭しと品が置いてあるが風通しは悪くない。幻想郷は山であるため基本的に風は絶えず、夏の店の中は快適である。
夏の風が窓に吊り下げた風鈴を鳴らす。だが香霖堂の謎の商品がカタカタと風に揺れ、風鈴の音をかき消していた。こんなに商品を風に当てていたら、すぐに傷んでしまうだろうと思っていたが、どうせ大して売れないし新しい品もどんどん入荷するので気にしていなかった。勿論、本当に貴重な品は全て別の所に保管してあるのだが。
「勘違いって何かしら? 誰がどう見てもこれは骨の様な気がするんだけど」
「ああ確かにこれは骨だよ。でもね、化石ではないんだ」
「どう見ても石になっているような……」
「化石というのは『石となった骨の元の動物に名前を付けた石』の事なんだ。生きていた時の動物に名前が付いて初めて化石となるんだよ。それまでは名前が無いので石と区別が無いに等しい」
「だったら、この石の元の動物の名前を霖之助さんに聞けば、これは化石になるんでしょう?」
「確かにそう言う事になるが……実際にはそれも無理な話だ。この動物はまだ神々が名前を付ける以前の生き物だから、名前の無い動物なんだよ。こればっかりは僕の能力でも知ることの出来ない物なんだ」
「そう、じゃ、発見者である私が名前を付けて良いのね?」
名前を付ける力が神の力であるのと同時に、神々には元々名前は付いていなかった。建御雷命(タケミカヅチノミコト)や八幡様の様に、今現在馴染みのある名前の付いている神は、その神の一側面を切り出した物に過ぎないのだ。建御雷命は元々甕霊(ミカツチ)であり、名前の通りカメに宿る神だったのだ。それが名前を建御雷に変えられた事で、呪術(=甕)の神が剣(=雷)の神になった。名前が付いた事でその神の性質が変化するのは、名前は神の一側面を切り出した物であるという証拠だ。元々の神はもっと姿形も曖昧で、名も無き者と区別も付かなかったと言う事である。
逆に言えば、本来の姿のままの神は、名前を付ける以前のものにしか宿ることはない。名前が付いている物に神が宿っても、その神の一側面のみを表すことになってしまうからである。
「君はこれを骨じゃなくて化石にしたいのかい?」
「そういう訳じゃないけど……名前が判らないと気持ち悪いじゃないの。それにこんなに大きな動物がどういう生き物だったのかも気になるし」
「この骨の持ち主が大きかったって? それが一番の勘違いなんだ」
「だってぇ……」
「こんな大きな骨を持った動物を想像してごらん。高さはこの店を遥かに超える、長さも神社の境内ぐらいあるだろう。そんな生き物が生きていける訳がないじゃないか。まず十分な食料を集めるのにどの位の量が必要か、それに身体を支えるだけで精一杯で早く動くことも出来ないだろう。どうやって子供を守りながら大量の餌を集めるというのか? 動物にそんなに大きくする必要なんて、何一つ無いんだよ」
「え? でも、ここに骨があるじゃないの。それにこういう化石、というか化石見たいな物って余所でも一杯見つかってるし……これとかあれって何なの?」
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珍しく魔理沙は興味なさそうに本を読んでいる。そんな大昔の動物の話などどうでも良いのだろう。だが、これは大昔の動物の話ではないのだ。現在進行形の話である。
「この骨の持ち主は元々普通の大きさだった。今僕達が知っている大きさの骨だったんだ。その動物が死んだ後、肉は土に還り、残された骨は次第に大きく成り続けた。その証拠に、こういった大型の化石が発見され、騒がれ始めたのはつい最近の話だ。その昔はもう少し小さくて、発見されても騒ぎにはならなかったんだよ」
「死んだ後に骨が勝手に大きくなるって言うの? そんな事有る訳が無いじゃないの」
「勿論、普通はそんな事は起こらない。では何故この骨は大きくなったのか……そう、その理由はこれが化石じゃなかったから。この動物は、まだ名前が付けられるより前の動物だからなんだ」
僕はお茶を手に取った。既にお茶はぬるくなっていたが勿論わざとである。暑い夏に平気な顔で熱いお茶を飲むのは霊夢くらいだ。
「名前が無いことで、この動物は認識レベルでは他の物と区別が付かず、世界と同化していた。石とも骨とも動物とも言えず、ただそこに在っただけなんだ。それは神の本来の姿に近く、それ故神はこういった名も無いものにしか宿らない。そして神の宿った骨は、遥か未来に肉を得て地上に君臨する為に、自らを成長させているんだ」
「ちょっとちょっと待ってよ。話が飛躍過ぎてよく分からないわ」
「そう? 簡単な話だよ。霊夢の持っている骨は何らかの神の化身になろうとしている者の一部なんだ」
「そうなのかなぁ」
「大きくなり続けるのもその証拠の一つ。でも、もっと確かな確証がある。それは、僕の能力で見ても名前が判らない、というか名前が無いという事だ」
「そう……そこまでは私では判断付かないけどね。それで、この骨は何の神の化身になろうって言うのかしら?」
「そんなのすぐに想像できるじゃないか。その大きさの骨を持つ神の化身。幻想郷でもたまにみかける神だけど……霊夢には何だか判るよね?」
「あー、なるほどね。そういうこと……判ったわ」
日も沈み始め、空はほんのりと赤く染まっていた。すっかり昼間の暑さは引き、風鈴の音だけが昼間の暑さを思い出させようとしていた。二人とも満足した様子で帰って行った。
さすがに僕でも神々が名前を付ける時代の以前の物の名前を見ることは出来ない。だが人間はその時代の骨を見つけ、勝手に名前を付けてしまう。その時点で名も無い神の一部からただの石へと固定させてしまう。それが化石と呼ばれるものだ。
化石と化した神の一部は、その時点で成長を止めもう大きくならなくなる。その中途半端に巨大化した骨を見て「昔はこんなに大きな動物が居たんだよ」等と言う人間は、想像力が足り無すぎて少し哀れでもある。
――カランカラッ
「あ、もう一つ聞き忘れたことがあったわ」
風鈴を仕舞い窓を閉めていると、また霊夢が戻ってきた。
「何だい? また骨の話かい?」
「霖之助さんの話で、この骨が『龍の一部』で有ることは判ったわ。でも、この骨が落ちていた場所に古い貝の化石も見つかったのよ。これって海の生き物よね? これは何故なのか判るかしら? もしかして、幻想郷も昔海の中だったのかしら。こんな山奥なのに……」
想像力に乏しすぎる人間は、端からは哀れに見えるものだ。『海の生物が地中に埋まっていたから、ここは昔は海だった』と思うなんて哀れすぎる。
「そうか、龍の骨と一緒に海の貝も埋まっていたのか……。それでどうして幻想郷が昔海の中だったなんて思うんだい?」
「え? だって、そういうもんじゃないの? 海だった場所が陸地になれば、貝だって取り残されるし」
「そういうもんじゃないさ。徐々に陸になったとすれば海の生き物は全て生みに逃げる。反対に一瞬で陸になる程の異変が起これば、貝なんて原形をとどめていないだろう。どっちにしたって、石になるまでじっとしているなんてことあり得ないだろう?」
「そうだけど……じゃあこの貝は何なのよ」
「龍にとってはね、自分の生まれる場所が海である必要があるんだよ。骨の場所が海でないと復活が出来ないんだ。この貝はその見立て」
「そんな話聞いたこと無いわ? 龍が海でないと復活が出来ないなんて」
神の話は、僕より巫女である霊夢の方が詳しくあってほしいと思ったが、霊夢はまだ子供だ。ここは僕がもっと教えてやる必要がある。
「龍は、海の中で復活し雷雨の中、空へ昇り、そして天を翔る。その証拠に、海も雨も天も全て龍が名前を付けた物である事が挙げられる」
「詳しいのね。本当かどうか判らないけど」
「その理由は、海、雨、天は全て同じ言葉で、三つとも『あま』と読む事からも判る。海人は単体でもあまと読むが、性格には『あまびと』だ。雨傘(あまがさ)、天の河(あまのがわ)などは普通に使う言葉だ。龍は雷雨を呼びながら天を飛び、竜宮が海の中にあるように水と深い繋がりがある事は霊夢でも判るだろう?」
[#挿絵(pic/14/03.jpg)入る]
霊夢は少し疑っている様子だったが、僕は霊夢の想像力をもっと豊かにするためにそのまま続けた。
「もう一つ、龍が三つの『あま』を駆け抜ける証拠として挙げられるのが、天に掛かる『虹』だ。あの虹が雷雨の後に現れるのは、龍が現れたという痕跡なんだ」
「あー、なるほど。それは何となく判ったわ」
「そう、龍が生まれる三つの『あま』が必要となる。雨と天は在るが、幻想郷には海が無いんだ。だから龍は幻の海を創ろうとした。その幻の海の見立てが、一緒に眠っていた貝の石なんだ」
霊夢は得心がいった様子で、暗くなる前に神社に帰っていった。
今日、僕が霊夢と魔理沙に教えた龍の石の話は、何も僕の創作ではない。これは僕しか知らないことだが、実は化石と呼ばれる石は外の世界でも竜と呼ばれているのだ。恐竜、翼竜、海竜、様々な呼ばれ方をしている。今の様な話は幻想郷の外では常識なのだと思う。
ところが、幻想郷では竜(=動物)は龍(=神)へと変化し、化石ではない事で、骨は化石になることを拒み成長を続けるのだ。
僕は、名前の無い時代の物には名前を付けることはしない。自分の能力で名前が視えない物に関しては、深く記憶を探らない。それは神の力を無断で借りる行為であり、己の騙りでしかないと考えている。
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第一〇話 「働かない式神」
これといって何か反応するという訳ではないが、僕は売りもののキーボードを叩いていた。キーボードとは、コンピュータという道具の一部であり、これでもかといわんばかりに無数のボタンが付いている道具だ。売りものだから常に綺麗にしておきたいところだが、このキーボードの掃除のし難さは群を抜いており、すぐに埃が詰まる。非常に人間味のない形をしているといわざるを得ない。
コンピュータは、うちの商品の中でも入荷率、つまり幻想郷で拾得する数が高く、それでいて欲しがる人は少ない厄介な代物である。しかもそこそこの大きさで場所を取る。最近は、コンピュータを見つけても余程興味惹かれる形をしていない限り拾わないことにしている。
コンピュータとは使役者の命令通りに動く道具、所謂外の世界における式神のことだが、その異常なまでに複雑な構造と面白みのない外見は、外の世界の文化のあり方を物語っているようだった。
幻想郷では式神とはいえ対面を気にしていて、狐なり猫なりと多種多様な姿をしていて面白いものが多い。それもその筈、本来の式神とは、元々式神となる前の姿が存在し、そこに必要な機能を与えてやることで形成されるものだ。式神の道具として部分が一番重要なことは当たり前だが、式神そのものの体面がなくなれば本末転倒である。外の世界では、外面より内面ばかりを気にするようになってしまったのだろうか。それは些か心に余裕がなさすぎるのではないか。
――カランカラン
「おう、少し肌寒くをなってきたな。半袖の季節ももう終わりかな」
「ああ、君はまだ半袖だったのか。いつまで夏のつもりで居るんだい? もうそろそろ暖房も出さないと寒いくらいだよ」
「あーいや、私も寒がりな方だが暖房はまだ早い、って何だ? その珈琲は。そんな口の細い瓶に入っている珈琲なんて珍しいな」
魔理沙が珈琲と指摘した飲みものは、名前は似ているが珈琲ではなくコーラという飲みものである。外の世界の飲みものだ。飲みものぐらい使用方法がわからなくても、用途さえわかれば飲むことはできる。
「なんだ? コーラって……ってあんまり拾いもんは飲むなよ?」
「大丈夫だよ。これは売りものだし、香霖堂は拾いものを売る店だから」
我ながら何が大丈夫のかよくわからなかったが、魔理沙は納得したようで机の上に腰掛けた。
日が傾くのが早くなる一方である。既に空は赤く、有無を言わさず家に帰りたくなる色をしている。秋の日は釣瓶落としとはよく言ったものだ。だが、釣瓶落としの速さはスピードの速さであり、秋の日が沈むのは時間の早さだから釣り合いが取れていないと僕は思う。もしかしたら今の解釈は間違っていて、もっと深い意味があるのかも知れない。今度暇な時に考えてみることにしよう。
「そうそう.そこにあるコンピュータ。一台もらえないか?」
「おおそうか。買ってくれるんだね? このお買い得商品を」
「いや、金はないけど、ちょっと式神っていうのも面白そうだからな」
「金はないって、まぁツケでもいいけど……」
買う気がないのに商品を物色することをひやかしと言うが、代金を払う気がないのに商品を持って行こうとすることはなんと呼べばいいのか。魔理沙買いとでも言うか。
「ああツケでもいいぜ」
「ツケでも、って他にどんな選択肢があるのかわからないが、とにかくちゃんと払ってもらうからな。さて、コンピュータも幾つか種類があるが、大きなコンピュータ、小さなコンピュータ、君ならどちらを選ぶかい?」
「そりゃ大きいのだな。大きい方が強いんだろ?」
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魔理沙は大きいコンピュータをどうにか抱え、既に暗くなった外へ帰っていった。小さな魔女には不相応な大きさの道具だが、それを力強く持っている姿を見ると非常に魔理沙らしいと思ってしまうから不思議である。道具は通常、大きいものほど仕組みは単純なものである。魔理沙が持っていった大きなコンピュータも見た目はシンプルなものである。しかし、驚くことにその中身は複雑怪奇であり、幻想郷のものの手に負えない代物である。
このコンピュータのように複雑な式神は、外の技術なくしては創れない。コンピュータに限らずら、食器から新聞に使うような紙切れまで、殆どの道具は外の世界の技術の賜物だ。妖怪が日常食べる人間も人間の心も、その餌食となるものは外の世界の人間である。閉鎖空間である幻想郷は、外の恩恵により保っているようなものである。よく「長いものには巻かれよ」というが、長いものに巻かれる方がいいというのは、決して楽だからとか安全だからとかではない。すぐ小さな所へ逃げてしまう堕落した己を鍛え直すための教訓である。己をより大きな所に置き視野を広くする方が学べることは多いからだ。
閉鎖空間である幻想郷に閉じこもっていると、次第に外の巨界の恩恵に与っていることを忘れてしまう。幻想郷に限らず、己の置かれた場所が小さければ小さいほど別の大きなものの恩恵に気が付かない。そんな状態なのに、外の世界より幻想郷の方が優れていると思うようになったら、それは騙りである。人は小さい所に居るものほど、よく騙り、向上心を失う。今の幻想郷見てればわかるように、人間も妖怪も堕落した生活を送っているのだ。
僕は、いつかは自分の修行のために外の世界に行きたいと思っている。つまり長いものに巻かれたいということだ。そこで自分を磨き、今の僕の知識をさらに活かすことを夢見ているのだ。
最近拾うコンピュータは、さまざまな用途の中でも特に情報伝達の機能に特化していると僕の能力がいう。こんな四角い箱で自ら動くとは思えないような式神が、一度動き出せばもの凄いスピードで情報を集めてきてくれるというのだが……僕にはその姿が想像しがたい。
情報を集める式紳を創りたければ、嘘でも天狗のような姿にすればいいのである。そうすれば最初に魅力的なコンピュータが生まれ、後に本当に情報を集める機能が生まれるはずである。その考え方が幻想郷の普遍的な心理なのだ。
寝る前にコーラの空き瓶を見た。コーラは少し口が酸っぱくなるが瓶の形がどこか楽しげで見て楽しめるという点では、これは幻想郷向きな飲みものなのかもしれない。外の世界の式神もこのくらい面白みのある外見なら、もっとうちの店でも売り上げが伸びたことだろう。そんなことを思いつつ夜を過ごした。
――カランカラッ
「霖之助さん、居るわよね?」
「ああ居るよ」
「魔理沙から聞いたわよ。何か拾いもので食いつないでいるありさまだって?」 コンピュータがなくても幻想郷の情報伝達は異常に早い。昨日のことだというのに既に霊夢にまで情報が伝わっている。だが、その情報は既に変化し別のものになっているのだが、コンピュータが集める情報もやはり変化するものだろうか。
「拾いもので食いつないでいるって、僕はただコーラを飲んでいただけだよ」
「コーラ? なんだかわからないけど拾いものでしょう? 余り得体の知れないものは飲まない方が……」
霊夢はコーラの空き瓶を持ち訝しんでいた。コーラの内面は黒い飲みものである。だが、外面である瓶に面白みのある形を用意し、外面を軽視していない。この辺には高い智慧を感じる。コーラを創った人間とコンピュータを創った人間は本当に同じ人間なのだろうか?
「それから昨日、魔理沙がコンピュータを手に入れたって喜んでいたけど、あれってこの店の亮りものでしょ? 勝手に持って行っているとしたら一応報告だけてもしておかないと……」
「ああ、それは売ったんだよ。別に持って行かれた訳じゃないさ。ただ、アレを手に入れたところで何も起きないだろうね。最近わかってきたことだが、あの式神は我々よく知る式神とは少し違うところがあるんだ」
「見た目でしょ?」
「見た目も……まあ確かににそうたが、それより概念が異なる。通常我々のいう式神とは、『パターンを創ることで心を道具に変えるもの』だ。つまり幻想が実態を生むものということなんだ」
「式神にワンパターンな奴が多いのはその所為ね」
「だが、このコンピュータは自ら動く心を持っているようには見えない。最初から道具なんだよ。僕はこれを『パターンを創ることで道具を心に変えるものだ』と想像する。つまり実態が幻想を生むものということだ」
「ピンと来ないわねぇ。自分で動く人形のようなものかしら?」
「外の世界では幻想というものは実在しない。いや、実在しないものを幻想と呼んでいるんだ。だからこそ人間は幻想を生む道具を生み出したのだろう」
「ふ一ん。そんな式神を魔理沙が持っていってどうしようっていうのかしら?」「どうせ鉄くずとなって放置することになるだろうね」
――カランカラン
「聞いたぜ、まだ鉄くずにはなっていない」
「ああ居たのか。魔理沙」
「コンピュータがうんともすんともいってくれないから、ちょっと休憩に来たんだ。コーラはないのか?」
「コーラは薬みたいなものだった。余り美味しいものじゃなかったよ」
「人形くらいに便利な道具になるかと思ったんだがなー」
魔理沙は扉の前に立ち、まるで悪戯好きの妖精を取り逃がしたかのように、露骨に残念そうな顔をしていた。
「人形? 人形が便利な道具だって?」
「ほら、人形に家事手伝いをさせている奴も居るじゃないか。アレだって式神のようなもんだろう?」
「何を言ってるんだい? 人形に式なんか覚えさせられる筈がないじゃないか」
また魔理沙が勘違いをしているようである。魔理沙は怪訝な何をしながら売りものに腰掛けた。霊夢は霊夢で勝手に小さなコンピュータを弄っている。霊夢が弄ると動き出しそうだから少し怖い。
「動く人形を式神みたいなものだと言ったね。そういうこともあり得るかも知れないが、今の幻想郷では人形は式神たり得ない」
「そもそも式神と言われてもよくわからないけど,使い魔のようなもんだろう?」
「使い魔と人形は近い部分もある。使い魔と式神も近い部分はある。だが、式神は人形とは異なるものだよ」
「じゃあ何だよ。命令通り動いていたり、働いてたりするの見たことがあるぜ?」
「人形は……操られているだけだ」
いつの間にか魔理沙の顔が紅く染まっていた、夕日が沈んできたのだ。これから昼の時間が短くなっていくので、いよいよ妖怪の力が強くなる一方である。
昨日、釣瓶落としのことを少し考えたのだが、秋の日は釣瓶落としの『釣瓶落とし』とは『井戸に落とす釣瓶』のことではなく『妖怪の名前』だということではないか。釣瓶落としとは、闇夜に木の上から襲いかかる妖怪である。つまり、秋が深まると釣瓶落としが出やすくなるということではないだろうか。これなら、速度と時間の問題は生じない。
「そりゃ人形は操られてるだろうけど、式紳は違うのか? 式神もみんな操られているように思えるんだが……」
「人形は手を動かすのに、手に繋がれた紐を引っ張る。歩いているように見せるには、手足の紐を交互に動かす。生きているように見せるには、そこら中の紐を引っ張る」
「紐なんてあったかなー」
「別に紐でなくてもいいんだよ。魔法でも何でも、何らかの力で操っていることは間違いないんだ。人形が右手を動かすためには、誰かが右手を操らなければいけない。人形に家事手伝いをさせるには、家事手伝いをさせるように操らなければいけない」
「器用だな。自分で家事をやった方が楽なんじゃないか?」
「楽だろうね。でも、同時に操るほど器用ならば、楽ではないが一人ではできないことが可能になるじゃないか」
「そうか。ってことは、人形と会話するのも、人形と会話していると見えるように操っている訳か。何ともさもしい一人芝居だ」
「そして、式神は使投者の命令通りに動くものなんだ」
「って、何だよ人形と同じじゃないか」
霊夢はコンピュータを前にして動かないことに諦めてお茶を飲んでいた。コンピュータには余り興味がないらしい。
「まったく違う。式神は命令通り動くことで、別の力を得るものなんだ。さっきの人形の例と比較して言うと、たとえば式神の右手を動かすためには右手を引っ張ったりはしない。手を挙げろ、と言うだけでいい」
「式神は生きているからな」
「生きているだけじゃ命令を聞いてくれないだろう? 僕が君に手を挙げろと言ったところで挙げるかどうか」
「挙げるぜ。ほれほれ」
「本当にひねくれた奴だ」
「じゃあ何か? 私がコンピュータを使役するには何がひつようなんだ?」
ちょっと話している内に店内は、一段と暗さを増していた。もうすぐ、釣瓶落としが跋厄する時間になってしまうだろう。もっとも、この子たちなら喜んで釣瓶落としを探し出してちょっかいをかけるに違いないが。
「それもそうだな……。コンピュータが言うことを聞くくらいの力を持つこと。つまり、『長いものに巻かれる』ことだ」
幻想郷で、このコンピュータが使える時が来るのだろうか。現状を見る限り、幻想郷にいるものが外の世界の恩恵なしで生活できるようになることはあり得ないだろう。だとしたら、コンピュータを使役するには外の世界に行くしかない。 幻想郷の情報の伝達は速い。それは好奇心旺盛なものが多い所為であろう。外の世界の式神が自分の代わりに情報を収集する程度のものならば、今の幻想郷には心要ないのかも知れない。
僕は働かないコンピュータを見て思う。己の修行のためにも、いつかは『長いもの』である外の世界に巻かれる必要がある。幻想郷は外の世界の恩恵に身を委ねているから自由気ままに暮らせているのだ。そのことは、外の世界の品を扱っている僕だからこそよくわかる。
自分たち幻想郷に閉じこもりながら、外の世界から都合のいいものだけを受け取り、自立している振りをしている。それは、もし外の世界が滅べば幻想郷は道連れとなってしまうということを意味している。その上、幻想郷にいては外の世界に影響を与えることもできない。幻想郷に住むものたちが外に出て行かず小さな場所で生活しているのは、それが一番楽であることがわかっているからだ。
どうせ魔理沙は、コンピュータに家事手伝いでもさせて楽しようと考えていたのだろうが、その狭い空間ならではの堕落した考えでは外の道具は真の姿を見せないだろう。
僕が式神を扱うようになるとしたらコンピュータ以外は考えられない。いつかはコンピュータに命令し、今の何倍もの力を身に付ける時が来るまで、外の世界のことを勉強するとしよう。
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「どうした? 暗くなってきたしそろそろ帰るぜ? コンピュータの動かし方はわからなかったし」
「そうそう、拾いものは余り口に入れないようにね」
「おお、もう結構な時間だな。二人ともちょっと待って。帰る前に一つサービスしてあげるよ」
僕はそう言いながらお勝手の方であるものを探していた。そう、僕を含む幻想郷のものたちがこの式神を働かせるために足りないものは、もっと積極的に長いものに巻かれることなのだ。
僕はコーラを魔理沙と霊夢に差し出した。
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第一一話 「洛陽の紙価」
事実は情報の上に建つ砂上の楼閣。何故か定期的に発行されていた号外は幻想郷の風に舞い、無責任な記事は人の口を通して幻想郷に浸透した。記事の内容は古いものから新しいもの、誰もが知っているものから真実かどうか疑わしいものまで様々である。
我々が知る事実のほとんどが、情報の上に成り立っているものだ。どこかで事件が起きたとしても、それを目の当たりにする機会はほとんどなく、運よく事件に出くわしたが発する情報を元に事実を推測するのみである。そうした情報というあやふやな土台の上に成り立っているものが事実なのだ。
多くの事実があやふやな土台の上にある以上、事実は儚く、脆い。それどころではなく、事実は情報によって容易に変化させられるのだ。自分が情報を発するとなれば、事実を変化させることに留意して発しなければならない。ただ真実を伝えるだけという情報は、現実には存在しない。事実こそが究極の幻想。幻想郷にも存在しない幻想だ。
そのことを理解しているとは思えない新聞が大量にばらまかれたのも、つい最近まで天狗の新聞大会が行われていたからである。新聞大会は今に始まったことではないが、今年の大会は空前の盛り上がりを見せ、それと同時に天狗の新聞の存在も幻想郷のアカデミズムの間に浸透したのだった。
しかし何故、毎年行われていたはずの新聞大会が、今年になって急に盛り上がりを見せたのだろうか。それには二つの理由が考えられる。一つは昨今の異変続きで記事にするネタが豊富であったこと、それともう一つ、こっちの方が直接的な理由だと思うが、紙の供給が急激に増えて価値が下がってきていることだ。紙の入手が容易になれば新聞が増えることも当然である。同じく、紙の入手が容易になることは僕にとっても有難いことであった。
――カランカラッ
「もー、号外、号外って毎日のように配ってたら何が号外なのよ」
「いや、それを店に持ってこられても困るんだけどね」 霊夢は束になった新聞紙(それも号外ばかり)を手に持っていた。新聞紙を拾いものという定義でうちに持ってきているようだが、うちは廃品回収屋ではない。そんな新聞紙が商品になる訳もないのである。
「あら、何をしているのかしら? 本を読んでいる訳じゃないのね」
僕は机に向かい筆を持ち手を動かしていた。そう、本を書き始めたのだ。今まで書きたくても紙が安定して入手できなかったので、紙の入手が容易になった今、やることは一つである。
「毎日の出来事を書きためていこうと思ってね」
「日記ってこと? それが何の役に立つのかしら」
「新聞の真偽があまりにも疑わしいからさ。僕が事実に限りなく近い情報を書きとめていこうと思うんだ」
「事実じゃないのね」
「事実は書くと事実じゃなくなるんだよ。だから事実を書くことはできない。ちなみに、幻想郷に歴史らしい歴史がないのは何故だかわかるかい?」
「毎日が平和だからでしょ? 歴史に残るものって、一部の人だけに都合が良くて大多数には悪いことばかりだもの。それに異変が起こってもすぐに解決するし」
「それだけじゃないんだ。歴史がないのはもっと単純……!」
窓ガラスが砕ける音で会話を中断された。
「号外だよー。これを読まないと明日はないわー」
割れた窓から遠ざかっていく天狗の声が聞こえる。
あわてて割れた窓に近づいて見たが、すでに配っているものの姿は遠くにあった。窓ガラスを割ったこともお構いなしの様子である。
「まったく、号外でも何でもいいが、天狗ってものはもっと落ち着いて配れないものなのかな」
「号外を配って回るのもおかしな話だけどね」
割れた窓に応急処置として霊夢が持ってきた古新聞を貼った。新聞紙ではちょいと貧乏くさく見えてしまうが、障子の代わりである。もう外は冷たい風が吹く季節だ、こんな新聞紙でも貼らないよりはいい。
「新聞紙の障子なんかすぐに破れそうだけど……また同じ窓から号外を投げ込まれちゃうわよ?」
「いや、そんなことはないさ。新聞紙だろうが、紙の方がガラスよりは強いんだよ。それも圧倒的に」
「そうかなぁ」
「霊夢は疑問に思ったことがないのかい? 何故あんなに柔そうで薄い紙を戸や窓に使うのかを」
「明かりを取り入れるためじゃないの?」
「それだけだったら、今はガラスだってあるんだから取って代わっても不思議ではないじゃないか。それに最近は外の光を取り入れる必要も減ってきているだろう」
僕は霊夢に障子が持つ結界としての神秘性を語った。障子に使われる紙は破こうと思えば子供の力でも破くことができる。汚れた手で触れれば、もう取り返しがつかない。ガラスと違い障子は洗うこともできない。
そんな障子だからこそ、それを破ることや汚すことを咎める人物が必ず必要となる。障子の近くで暴れている子供を叱る。汚れた手で触れようとする子供を止める。こういう人物がいて、初めて障子は障子としての機能を持つ。
ほとんどの場合、障子の貼られた家屋に住むものがその役回りとなる。障子の頑丈さはその人物や家屋が持つ力そのものであり、その強さは計り知れない。
そんな障子のおかげで建物の近くで暴れるものもいなくなる。戸を乱暴に扱うものもいなくなる。これがもし頑丈を売りにした材質、たとえば鉄や石などに取って代わったら、人間の行動はがさつになり、建物の中ですら激しい行動をとるようになるだろう。それでは、近いうちに頑丈さも破られてしまうのだ。
障子には人間の危険な行動を未然に防ぐ力があるのである。ただ障子の頑丈さは一定ではなく、それは中に住むものの力に比例する。廃屋の障子は赤子の力でも容易に破ることができるが、神が住まう神社の障子は大人の力でも決して破れない。
「霖之助さん。その破れないはずの障子に目があるわよ?」
窓を見ると、新聞紙の障子に開けられた穴から覗いている目が見えた。
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「――それで、今日の号外の内容はなんだったんだ?」
魔理沙には新聞紙の窓に穴を開けた罰として、貼り直しさせた。
「ああ、どうでもいい内容だ。天狗の新聞大会の優勝者が決まったということだったよ。優勝者はどっかの聞いたこともない大天狗の新聞『鞍馬諧報(くらまかいほう)』だってさ」
「本当にどうでもいい内容ねぇ……」
「本当にどうでもいい内容だな」
その優勝者である大天狗の『鞍馬諧報』も読んだことがあるが、さっき窓から投げ込まれたこの『文々。新聞(ぶんぶんまるしんぶん)』の号外がかわいく見える位の大げさなものである。内容は事実とは大幅に異なり、あることないこと面白おかしく書かれた記事しかない。さらに情報をありったけ詰め込んで、ボリュームがあるように見えるだけの酷いものであった。
ありったけの出来事を詰め込んだものは、物事を深く考えないものたちを何か知識を得たような気分にさせてしまうのだろう。羅列された情報だけが知識なら、人の知識は出来事を羅列した本や新聞と同じじゃないか。本や新聞から知識が得られるという理由は、決してそこに知識が書かれているからではない。本や新聞に書かれている事柄はあくまでも真実を構築するあやふやな土台、つまり情報であり、それは知識足り得ない。その情報を元に考えて初めて知識となるのだ。大天狗のそれに比べると、内容はともかく『文々。新聞』の方がいろいろと考察もでき、知識がぐっと深くなるのだ、とそう思う。まぁ内容はともかく。
「ところで、何で急に新聞が増えたんだ? 全然知らなかったけど、新聞大会は毎年やってたんだって? だとしたら新聞大会だけが原因じゃないだろう?」
「それは、紙の入手が容易になったことが一番の原因だな。ここのところ幻想郷の紙の価値が急激に下がっている。外の世界から紙が大量に舞い込んできたんだよ」
「ふーん。幽霊の次は紙ねぇ。舞い込み放題ね」
「コンピュータは、紙を使わないで情報を集める式神だ。それと紙の増加を併せて考えると、紙で情報を伝えることはすでに幻想の域に達していると言えるだろう。もうすでに、外の世界では本を書いたりすること自体が幻想なのかもしれない。まぁその恩恵で僕も本を書こうかと思っていたんだけど」
「物忘れが酷くなったのか?」
「本を書いている人はみんな物忘れが酷いのかい?」
「どうせ、ヘビイチゴになるぜ」
「それを言うなら日蓮和尚でしょう?」
「君たちが言いたいのはきっと、三日坊主だ」
幻想郷には歴史らしい歴史がない。それは毎日が平和だからでも、異変がすぐに解決するからでもない。もっと単純な理由である。
それは、妖怪の寿命が永すぎるからだ。歴史となる事件でも、当事者が生きている以上都合のいいように情報が変化し続け、その曖昧な情報の上に立っている事実がいつまでたっても定まらない。事実は情報の上に建つ砂上の楼閣なのだ。真偽の不確かな事実が生まれては、風に吹かれて崩れ落ちる。いくつもの事実の楼閣が乱立し、すべてが雨で溶ける。歴史になるには客観性が一番大事なのだが、当事者が生存し続けるとなかなか主観から離れられないから、幻想郷には歴史がないのだ。
僕は外の世界から舞い込んだ紙に、できる限り客観の目で見た幻想郷を書きとめようと思う。これが歴史に繋がるのだとすれば、本を書き始めたことが一番最初の歴史になる。一番最初の歴史とは、幻想郷の歴史が誕生したという歴史だ。僕は自分の本の冒頭に「幻想郷の歴史が誕生した」と書いた。
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「それにしても紙が増えすぎよねぇ。天狗はどこからこんなに紙を集めてくるのかしら?」
「紙が増えたのは、外の世界で紙を使うことが減ったからでしかない。さっきも言ったように、紙で情報を伝えること自体がもう幻想なのだろう」
「やっぱ何でもかんでも口伝なのか。外の世界は人が多いからな。人の数だけ口があるし」
「ただ、反対に幻想郷はこれから紙による情報伝達が盛んになるかもしれないよ」
「天狗の新聞みたいにか? それは迷惑だな」
「迷惑ねぇ」
「まあ……迷惑だけどね」
もうすぐ僕の手によって幻想郷に歴史が生まれようとしている。僕の書き留めた本が幻想郷の歴史書となる時代がくるだろう。その時初めて幻想郷のアカデミズムが動き、幻想郷は外の世界に近づくことになる。ついでに言うと、僕が書いた本も飛ぶように売れて店も安泰というわけだ。店の売りものが拾いものだけじゃなくなれば、香霖堂は道具屋としての格も上がるかもしれない。
幻想郷に紙が大量に舞い込むと、幻想郷の紙の価値が下がる。それと同時に、新聞や本が書けるようになり、紙の需要も急激に増すだろう。
幻想郷の紙価が下がることで洛陽の紙価が上がる。外の世界で紙が消えようとする時、幻想郷の紙が急増する。鴇の大群が幻想郷の空を翔る時、外の世界の空から鴇が失われる。何事にもバランスがあるのだ。小さなところしか見えない人間には世界の天秤は見えてこない。
「ほんとに、どの新聞もどうでもいい内容ばかりだな。三途の河の河幅が求められたってさ。それがわかると何か嬉しいのか?」
魔理沙は、霊夢が持ってきた古新聞の束を崩し、どうでもいい内容の新聞を読んでいた。
「三途の河の河幅は渡りきるまでの時間と同様だから、君みたいな人間でも安心して死ねるようになるってことじゃないか」
「時間がかかると退屈だから、死ぬ前に何か持って行かないといけないって事か」
「魔理沙が渡る三途の河の河幅が広いってことは、自分でもわかっているのね」
「狭いよりは広い方がいいな」
「よくないよ。河幅が広いというのは人との繋がり、それもお金を貸してくれるほどの信用を持った友人が少ないということだ。店の商品を勝手に持って行くようでは河は渡りきれないほど広くなるんじゃないかな?」
「だから広い方がいいじゃないか。広ければ店の商品を持って行けるんだろう?」
内容はどうでもいい新聞だが、それでも魔理沙たちはそこから知識を得ようと頭を働かせている。知識というものは、自分で考えて、自分の論を持って初めて身に付く。それは書いてあるものではなく、書いてあることから自分なりに考えて初めて知識となるのだ。多くの情報や出来事だけを集めた新聞や本を有り難がっているうちは、知識など集まりもしない。見ているだけ、読んでいるだけ、識っているだけ、書いているだけ、喋っているだけでは知識は高まらない。
それを助長するような大天狗の新聞を優勝させるのは間違いだと僕は思う。購読数で新聞の優劣を付けることは危険である。知識を勘違いした人間や妖怪が増えるだけなのが目に見えているじゃないか。今度天狗に会ったらそう申告しよう。
「でもまぁ、天狗の新聞大会は決着がついたんだよね? これで内容のない号外の量もようやく落ち着くわよね」
「そうだね。それに定期的に号外を配られたんじゃ、購読してるのと変わらないし。まあ僕は定期購読もしているんだけど、それでも号外が配られる。号外は自分に関係する大きな事件があった時だけでいい」
「でも、新聞大会は毎年あるんだろう? 足も速ければ気も早い天狗のことだから、すぐに来年の大会に向けて準備を始めそうなも……」
魔理沙の台詞を遮るように、再び新聞紙の障子を破って号外が投げ込まれた。二人が呆れた表情で窓から投げ込まれた号外を見ていた。
僕は一年間も障子を貼り直し続けないといけないのかと思うと、軽い眩暈を覚えた。
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第一二話 「月と河童」
窓の雪は月の狂気をかき集め、闇の黒は筆を通して紙にしみ込んでいく。
昼は本を読み、夜になるとその日の出来事を本に書いた。不思議なことに日記を書き始めてから、些細な出来事でも気が付くようになったのである。日記を書くという行為の本当の意味は、日々の出来事を忘れないためでも過去を見つめ直すためでもなく、些細な変化でも見落とさないように感度を高めるためだということに気が付いた。
人は普段からもの凄い量の情報を受けながら生きている。そして興味のあるもの以外の情報はそのまま流され、興味のあるものだけが自分のアンテナに引っ掛かり自分に蓄積されていく。日記はその感度の偏り具合を極限まで増幅する、いわば真空管アンプのよう効果を発揮する。日記を書き始めたことで極限まで感度が高まった状態の僕は、どのような些細なことでも見逃さないだろう。
――カランカランカラン
店の入り口で音がした。
「こんな夜遅くにやって来るなんて……一体誰だい?」
僕は窓の雪に集められた月明かりを頼りに、入り口の方へ向かった。もう店を閉めてから随分と経っていたため、店の中は冷え切っていた。
「開いているかしら?」そこに居たのは吸血鬼に仕えるメイドだった。
夜中に訪れたからといって別段急ぎの様子には見えない。どうやら、彼女は活動時間の大半が夜に偏っているのだろう。夜に出掛けるのが当たり前のような顔をしていた。御主人様が吸血鬼なのだから仕方がない。
「何を言っているんだい。灯りを消したし、どう見たって閉まっているようにしておいたつもりだったけど」
「それは節約しているか留守にしているか、どちらかかと思いました」
留守で灯りを消していた場合も、勝手に上がって物色するつもりだったのだろうか。そう考えるとおちおち家も空けられない。
「縁起の良いものを探しに来たのですけど……何か置いてないかしら?」
僕は店の灯りを点けた。それと同時に周囲から月の狂気が消え去り、途端に店内は夜の薄暗さを取り戻した。閉店後に訪れるなんて随分と自分勝手だと思ったが、お客であるのならば別にいつでも構わない。うちの店の客には、とんでもなく早朝に訪れるものだっている。
「縁起の良い……って、漠然とした注文ですね。今なら入荷したての『鳥居が刻まれた隕鉄』とかありますが……」
「そんな信憑性に欠けるものじゃなくて、もっと見ただけで縁起の良いってわかるものはないかしら?」
僕は、こんな夜中に、何のために縁起物を使うのか想像できなかったが、売れるものなら今の内に売っておきたかった。普段、縁起物など実用性の乏しい品物はなかなか興味を持って貰えないのである。僕は「それならとっておきの縁起物があるよ」と告げて、倉庫の奥で眠っていた、もっとも大きくて縁起の良い品を持ってきた。
「あら、なんてカラフルな亀の甲羅かしら。これは確かに縁起が良さそうじゃない」
「赤と青、白と黒、そして中央は黄色の五色の甲羅。これほど縁起の良いものはなかなか見あたらないと思うよ」
「でも……この甲羅、亀にしては不自然ね。大きすぎるし、それに何だかのっぺりとしているというか」
「そう、これは亀の甲羅じゃない、『河童の五色甲羅(ごしきこうら)』さ」
外の世界で作られたストーブが、冷め切った店を暖めるまでには少し時間がかかる。ようやく店内が暖まり始めた頃に、頭の回りも良くなってきた。
「河童、ねぇ。河童なんてどこに棲んでいるのかしら?」
「河童なんて山にいくらでも棲んでいるよ。君たちはあまり山に足を踏み入れないだろうけど、山にはさまざまな妖怪が棲んでいるよ。ただこの甲羅は最近の代物ではない。千年以上……恐らくは千三百年位前のものかな。とにかくもの凄く古いものだ」
「そこそこ古いわね」
「後で文句を付けられても困るから予め注意しておくけど、河童と伝えられているだけで、本当に河童の甲羅なのかは定かではない。それでも五色の甲羅は最大級の吉兆の品さ」
河童といわれることの信憑性を正直に述べた。すると、メイドの表情が少し訝しむ目付きに変わったような気がしたので、慌てて話題を逸らした。
「ところで、なんで縁起の良いものが欲しいのかい? しかもこんな夜遅くに」
「それは……大きな魔法の成功には、大きな運が必要らしいのです」
彼女が語り出したのは、とても奇怪な話だった。先日、彼女――十六夜咲夜が働く紅魔館で節分が行われたという。吸血鬼が鬼を追い払うという変わった行事だが、紅魔館はそのような不思議な行事を頻繁に行っているらしく、あまり珍しくもない。
「――その節分大会が終わろうとした頃、月に異変が起きたのよ。貴方は知らないだろうけど」
後日、『文々。新聞』で知ったのだが、節分の日の夜に月が割れるという惨事が起きていたらしい。月は音もなく割れ、音もなく元通りになったとのことだったが、時間が時間ということもあって気が付いたものは少なかった。
「それで、その月の異変と縁起の良いものとどういう関係が……」
「砕け散った月を見て驚いたお嬢様が、また言い出したのです。『今度こそ月に行くわよ』って」
今度こそというのは、前にも突発的に月に行くと言い出して、月に行く魔法(『プロジェクトアポロ』という名前の魔法らしい)を行おうとしたことがあったからだ。その時は材料不足で失敗に終わったそうだが……。
『プロジェクトアポロ』は、外の世界の魔法の中でも非常に難解で複雑なものだという。魔法の手順が書かれた魔導書は何冊にも及び、手順、材料、道具共に最大級の魔法だそうだ。さらに材料や道具には理解不能の品が大量にあり、それ一つ一つを探し集めるだけでも一苦労なのだ。それ故に、これを実行できるだけの魔法使いは、幻想郷には存在しないと思われている。
「お嬢様のお友達の魔法使いは、『材料はかなり集まったけど、この最大級の魔法が成功するには最大級の運が必要』だと言うんです。それで『幻想郷で最も縁起の良いものを持ってきて』と命じられたもので……」
「なんとも災難でしたね」
魔法の実行は六つの要素から成り立っている。それは、術者の『技量』、魂の性質である『気質』、道具や材料といった『物質』、行う場所である『空間』、実行した時の『時間』、そして最後に『運』である。このうち、最後の運が占めるウエイトは最も重く、運さえあれば他の要素はある程度カバーできるし、逆にこれがなければどんな簡単な魔法でも失敗するのだ。
「運以外の要素はほぼ揃ったらしいので、後は運だけなのです。最も縁起の良いものとなると、茶柱でも四つ葉のクローバーでも竹の花でもなくて、もっともっと珍しいものじゃないと……」
珍しいものと縁起の良いものは異なる気がするが、恐らく紅魔館ではその常識がまかり通っているのだろう。珍しければ良いのなら、この河童の五色甲羅ではなく、つちのこ酒あたりでも良かったのかもしれない。
しかし、僕はこの河童の五色甲羅を売る絶好のチャンスが到来していると、直感でわかっていた。このチャンスをみすみす逃してはいけない。
「この五色の甲羅は、ただ珍しいだけじゃない。まさに、今の君にぴったりの品ですよ」
縁起が良いものには縁起が良いという謂われが必要である。僕はその河童の五色甲羅が何故縁起が良いのか、そして何故彼女にぴったりな品なのかを語ることにした。
立ち話を止め、僕はストーブの近くの椅子に腰掛けた。彼女にも椅子に座るよう勧めたが、「立っているのには慣れてますから」と言って姿勢の良い立ちポーズを崩そうとはしなかった。僕だけが座った状態で、彼女が手に持っている甲羅を指さして説明を始めた。
「赤、青、白、黒、黄の五色は、この自然のありとあらゆるものを表しているんだ。東西南北と中心という方角、春夏秋冬と節分の季節、そして火水木金土の物質、つまりこの世の全てを表している色なんだ。魔法の実行に必要な『空間』『時間』『物質』を網羅していることになる。さらに亀は大地を運ぶ動物として元々縁起が良く、自然をすべて乗せる五色の亀は最高級の縁起物とされたんだよ。よく言われる一万年もの長い間生きる亀とは、もちろん普通の亀ではなくこういう五色の亀のことを言っている」
「でも、この甲羅は亀じゃなくて河童なのでしょう? 河童でも一万年生きるのかしら」
「そこが、この品が今の君にピッタリの品という理由なのさ。河童は、よく中国の河伯(カハク)と呼ばれる河の妖怪が転じたものだといわれているが……それは違うんだ」
「今のお話自体、初めて聞いたのですけど」
「河伯は大河に住む水の神様だ。河伯と河童を一緒にすることは、少し河童を持ち上げ過ぎだと思わないといけないよ」
「確かに、河童なんて天狗よりもたちの悪い妖怪ですからね」
外の国に同じような呼び名の妖怪がいるというだけで、同じ生きものというのは無理がある。それに言葉だって、河に棲み河の字が付くんだから同じような呼び名になって当然なのだ。
「僕は、河童がもっと身近な生きものが変化したものだと考えているよ」
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ストーブに載せていたヤカンの水が音を立て始めた。冷え切っていた店内は再び活気を取り戻し、お茶を煎れると漸く調子が出てきた。
こういう時、メイドは習慣でお茶を煎れてくれたりしないのかと思ったが、彼女は他人の家ではそういうことをしないらしい。それは彼女が良くできたメイドという証拠である。良かれと思って他人の家でもお茶を用意したり後片付けをしたりするものも居るが、それは無神経なだけだ。誰かの家にお邪魔した時はたとえメイドであれ、常に客人である。だから手伝いを買って出たりされても、家の主人は迷惑する。本人は善意であるからなおさらたちが悪い。
メイドはありとあらゆる所にまで神経を使い、常に失礼のないようにすることに長けているものだ。店に来て勝手にお茶を煎れて飲んでいる誰かさんとは大違いである。僕は彼女の分のお茶も用意した。
「では、河童はどこから来たというのです?」
「その答えは河童の姿を思い浮かべればすぐに想像付くよ」
「河童の姿ねぇ……。そういえば河童の甲羅ってつるつるとしているかしら?」
そう、河童の甲羅は亀とは異なる形状をしているのだ。
「河童の由来は、カハカメが転じたものだと考えている」
それにしてもこのメイドは、夜中に訪れて来た割には急いでいるように見えない。もしかしたら月に行くことなんて最初から無理だと思っているのかも知れない。そう考えると、彼女はお嬢様の遊びに付き合っているようにも見えた。
「カハカメ、つまり河に棲む亀。カハカメは漢字で書くと大亀という字になるんだよ。その字が表しているようにもの凄く巨大な亀なんだ。成長すれば人間くらいの大きさになることも珍しくない。そのカハカメが何年もの長い間生き続け、人語を理解するようになったり人の形を取れる程の妖力を得たものが河童なんだ」
「カハカメ……って聞いたことがないわ。それに河にそんな大きな亀が居るのかしら? 海亀じゃあるまいし……」
まるで海亀が泳いでいるのを見たことがあるかのような口ぶりが少々気になったが、僕は続けた。
「よく思い出してごらん? 居るじゃないか、海じゃなくて河や沼にも非常に大きくなるモノが。もう一度河童の姿を思い浮かべてみたり、その甲羅をよく見てごらん? 亀にしては丸くて滑らかだと思わないかい?」
「なるほど、貴方の言いたいことはよくわかりましたわ。だから、この品が今の私にぴったりだと言ったのね。でも、そうだとすると……お嬢様には『私が水棲生物に疎い』ということにして頂かないといけません」
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メイドは納得した様子で五色の甲羅を抱えて帰って行った。勿論、お金を払い、お茶の後片付けもせずにである。本当に良くできたメイドだ。僕は二人分の後片付けをし、再び閉店にした。
それにしても、彼女が最後に言った言葉……彼女はメイドとしての心得をわきまえた上に、頭の回転も速いことがよくわかった。
彼女は河童の正体に気付くと、すぐに御主人様に見せた時の説明を頭の中でシミュレートしたに違いない。なんで縁起が良いのかを説明するにあたって、その甲羅の謂われを述べるだろう。でも、河童の正体は伝えないんじゃないかと予想する。
河童の正体である 大亀(カハカメ)、それは海ではなく河や沼に棲み、そしてとんでもなく大きくなる亀。すなわち、鼈(スッポン)である。その鼈が長い間生き続け、妖力を得たものが河童である。
御主人様が月に行こうとする時に鼈を持って行くことは、それだけで何か裏の意図、しかも負の方向の意図があると思われかねない。だから彼女は自分が水棲生物に疎いことにし、その甲羅が鼈のものであることを御主人様には伝えないのだろう。
月と鼈。確かに二つのものは似ているが大きくかけ離れている。だがしかし、我々が触れられるものも、良い縁起をもたらすものも鼈の方なのだ。月は不吉なものであり、決して触れることもできない。だとすると、月と鼈のどちらが優れているかといえば……言うまでもなく鼈の方である。遠くの不吉を見る前に、身近な吉兆を見た方が良い。
彼女はそこまで気付き、月に行くために鼈を用意するという一見侮辱かと思われる行為をわざとしたに違いない。多分、お嬢様には気付かれないだろうが、紅魔館に居る識者の誰かが気付けば彼女は満足なのだろう。
僕はというと、思わぬ臨時収入により少々高揚した気持ちでいた。あの五色の甲羅は大きいし誰も興味を持たないし、どちらかというと不良在庫だったのだ。それに河童の甲羅と言われてはいるが、それも疑わしいときたものだ。メイドが訪れた時、これが売れるチャンスはもう来ないかもしれないと思い、僕は極限まで高まった感度で甲羅と彼女を見た。
月に行くという途方もない目的とメイドらしい気の使い方を見た時に、突然、河童と鼈、月と鼈の関係が閃いたのだ。たとえ縁起が良いからといって、まったく無関係の品では意味がない。だから僕は遠回しにそれを話した。もちろん、彼女ならきっとすぐに理解し、そしてこの商品を手に取るだろう、という計算の上で……。
僕は筆を置き窓の外を見た。その時、一瞬だけ月が紅く光って見えた気がした。
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第一三話 「龍の写真機」
春告鳥の鳴く声が店内に響き渡る。
長かった冬は終わり、幻想郷に色が戻ってきた。深い雪によって白く染まっていた幻想郷は、春の訪れと共に色鮮やかな景観となり、同時に陽気な妖精や人間たちが騒ぎ始めた。まるで淀んでいた世界が突然、空気が清らかになり視界が明瞭になった様に感じる。昔から清新明瞭のこの時期に清明の日と言う日があるのはその為だ。今年の清明の日はいつだっただろうか。
日記を書いていたのだが、唐突に今の季節の美しさを紙に写したいと思った。絵に描いても良いが、幻想郷にはそれよりももっと最適な物がある。それは写真である。
「――何やっているんだ? こんなに良い天気なのに品物をひっくり返して」
店の入口付近から声が聞こえた。改めて店内を見渡すと、泥棒に入られたかのように商品が散乱していた。使い方が判らなくて仕舞っていたある道具を探していたのだ。
「ああ魔理沙。いつから居たのかい。今は散らかっているが、その辺のものに触らないでくれよ。売り物だから」
「触るなって言っても、触らないけど歩けやしないぜ」
「……ああ、やっと見つけたよ。これを探していたんだ」
「ん? それは天狗が良く持っている奴だな」
探していた道具とは『写真機』である。写真機とは文字通り写真を撮る道具だ。
僕は、道具を見ただけでその名前と用途が判る能力を持っている。香霖堂を始めたのもその能力を生かす為である。あいにく、正確な使用方法までは判らないのだが。
「日記に写真を貼り付けようと思ってね。ただ、写真機自体はずっと前に手に入れた物なんだけど、どうやったらこの道具で写真が撮れるのかさっぱり判らなくて放置していたんだ」
「天狗は簡単そうに撮っていたぜ? なんかこう構えて……覗いてボタンを押す感じで。もっとも、その機械から写真が出てくるのを見た事がないからどういう仕組みになっているのか判らないけど」
「そればきっとこのボタンの事だと思うけど、何度押したって、何の反応もないんだよ」
そういって押してみるが、やっぱりウンともスンとも言わない。僕の能力が確かならば、この写真機で写真が撮れる事は間違いない筈なのだが。
「私はてっきり。写真を撮る事が天拘の特珠能力だとばかり思っていたぜ。まさか、道具が写真を撮っていたとはな」
天狗は不思議で秘密の多い種族である。人間やよそ者の妖怪が足を踏み入れる事のない山の中に棲んでいる為、天狗独自の社会と優れた技術を擁している。天狗が発行する新聞を読む限り、写真を現像する技術も謎だが。さらに驚かされるのは印刷の技術だ。まるで外の世界の物の様な新聞を大量に刷る技術は、天狗以外の何者も手にしていないのだから。
ちなみに、山には河童も棲んでいるが、こちらも同様にかなり高度な技術を持っていると言われている。河童の技術とは、精密で優れた道具を創り出す技術である。もしかしたら手具の使う写真機も河童が創り出した物なのかも知れない。河童が創る道具は不思議な物ばかりで、道具屋として実に興味深い。
河童の道具に関しては、また後日思いを馳せるとして、今は写真機の事を考えよう。
「うーん、やっぱり駄目か。そもそもこの写真機のどこから写真が出てくるのか、さっぱり判らないからな」
「ところで、どうして急に写真を撮ろうと思ったんだ? 天狗に倣って香霖も新聞を始めようと思ったのか?」
「新聞か……」
新聞を書くことにも興味がある。他人が読むような記事を書けるのならば、世の中の道具に対しての間違った知識を正す事も出来るだろう。
もっとも、それには大きな間題がある。写真機を調べて写真は撮れたとしても。印刷と活字の扱いについては見当も付かないのだ。
「いや、そんな簡単に新聞を始められる訳がない。写真が撮りたい理由は、春になって外が美しくなってきたから、それを手元に残しておきたかった、という事だよ」
「そんなん、来年になればまた見られるじゃないか」
「誤解しないで欲しいんだけど、写真を撮りたいのは見られなくなるからでも、いつでも見たいからでもない。当たり前の景色を多面的に見たいからなんだ」
写育を撮れるようになれば。普股から写真を撮る事を前提に物を見るようになる。すると、いつも見ている景色が大きく違って見えるだろう。角度を変えて物を見る事は、充実した道具屋ライフには欠かせない。。
「だったらお酒でも飲めばいい。回じ景色でも違った見方が出来るからな。それにしても写真がどういう仕組みで撮れるのか気になるぜ」
「そんなこと、不思議でも何でもない。見た物を写真にする概念は簡単な事だ」
「そうか?  実際の景色を写真に写したら、景色が二つになる様なもんじゃないか。もの凄く、巨大な写真を作れば、遠くの景色と区別が付かないだろ? でも、遠くの山は一つしか存在しない筈だ。一体、何が減って写真の絵が増えているんだ?」
「景色が減る訳ではないが、減っている物はあるよ。例えば鏡を山の反対側に置いたとして、その間に自分が立ち鏡を見ている所を想像しでごらん?」
「自分が見えるな」
「いや、自分はどうでも良いから後ろの山が映るのを見て……。そこにば写真の様に景色が映し出されるだろう。つまり、景色というのは生き物の目が無くても鏡に映っている訳だ。後は映っている瞬間を保存できればよい。写真機ばその瞬間を保存する能力を持っているんだ。実際の最色は減るのでもなく、映った鏡と瞬間が切り取られて減ると言う訳さ」
「ふーん、ちょっと理解しがたいが……まあ実際に写真があるからにはそうなんだろうな。だとすると、鏡は平面だから平面の写真以外は撮れないって事だな」
「いや僕は、ちょっと工夫すれば立体の写真も撮ることが出来ると思っている」
改めて店内を見渡したが、やはり散らかっている。だが、魔理沙に立体の写真の可能性を示す為に、ある道具を探す事になり、再度ひっくり運す事になった。
「あったあった。これだ、この道具だ」
探し出したのは、龍の刺繍の入った小さな小箱だ。これを開けると、親指大で三角柱の小さなガラスが入っていた。僕はそのガラスを取り出して魔理沙に見せた。
「これを見てごらん」
「何だ? このガラスは」
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「このガラスの柱は三稜鏡(さんりょうきょう)、またはプリズムと呼ばれる道具。風に色を塗る道具だ」
「風に色を塗るだと? これはまたおかしな事を言い始めたな」
僕は三稜鏡を窓の近く、陽の当る所に持っていった。三稜鏡が陽の光を吸い、光の筋が七色に染まった。
「おお。小さな虹が見える」
「この小さな三稜鏡だけで、風を七色に塗る事が出来るんだ。何故、三稜鏡から七色の虹が生まれるのかというと、それには完全な三と不完全な七の神掛かった関係があって……」
「そんな事はどうでも良いよ。で、これでどうやって立体の写真を撮ると言うんだ?」
「……三つの三稜鏡で、三方向から同時に色を着ければ立体の絵が書けるだろう。後は、その時の風を保存する道具を作ればよい。風を凪にする道具だ」
「ちょっと待って、いつもの事だが話が飛躍しすぎだ。何で三方向から色を着ければ立体の絵が描けるんだ?」
魔理沙は僕から、三稜鏡を取り上げると、色んな方向から眺めまわしてみた。
「赤と緑を混ぜると黄色になる、赤と青を混ぜれば紫だ。他にも組み合わせればどんな色にでもなる筈だ。だとしたら虹を上手く交差させれば自由に色を塗れるだろう。立体に色を塗るためには横幅と奥行きと高ささえあれば良いんだから、最低三方向から虹を当てれば全ての点を空中で表現できるじゃないか」
「何だかよく分からんが、風に絵を描く。そんな道具があれば楽しそうだな。でも平面の写真すら撮れない奴には夢のまた夢だがな」
まぁその通りである。たとえ理屈が判っても、技術が追っつかないのであれば実現しない。まだ空中に絵も描けなければ、風を凪にする道具も作れないのだから。
でも、常に新しい事を考えていないと。幻想郷の最先端を行く技術は全て、天狗か河童の物になってしまうだろう。だから僕は新しい事を考え続けるのだ。これは道具屋としてだけではなく、僕個人の信念だ。
――カランカラッ
「あ、居た居た。そろそろ花見の時間よ?」
「お、霊夢か。良くここが判ったな」
「魔理沙の居る場所に選択肢なんて酷ど無いじゃないの。それにしても散らかっているわね。泥捧にでも入られたの……って既に入られているわね。泥棒に」
ちなみに泥棒とは魔理沙の事だろう。もう本人も否定せず、猫のように小さく笑った。三稜鏡を盗んでいくつもりのなか?
「あら。小さな虹が出ているわね。それは何?」
霊夢は入るなり散らかった店内を物色し、魔理沙が弄っていた三稜鏡に眼を留めたようだ。
「これは三稜鏡と言う、風に色を塗る道具だそうだ。食べられないぜ」
霊夢は「硬そうだからね」と言い、魔理沙が傾けて虹を床に落としたり、僕の顔に落としたりしているのを眺めていた。
「霖之助さん、これってどういう仕組みなのかしら? 見た感じ、中には何も入っていないみたいだけど……」
霊夢も魔理沙も疑問に思った事を自分で考えもせず訊いてくる。まず自分で熟考し。その自分の論を述べてから他人に訊く事が一番望ましいのだが……まだ子供だから良しとしよう。それに、疑問にすら思わないよりはずっとマシである。
「三稜鏡は、中に何かが入っている訳ではない。この三角形と言う所が重要なんだ」
三という数字は、完全と調和を意味する。三脚は平らではない場所でも安定して立つが。これが脚が増えて四脚以上になっても、当然脚が減って二脚以下になってもぐらついてしまう。蛇と蛙と蛞蝓(なめくじ)の様に、三すくみならばお互い牽制し合い喧嘩が始まらないが、二人や四人以上だとすぐに喧嘩が始まってしまうだろう。
「三人寄れば文殊の知恵。鼓の三拍子。三種の神器。三日天下。三ほど安定した数字はない」
「最後のは安定してないと言うぜ」
三稜鏡が意味する三が何かというと、この透明さを見ればすぐに予想できる。透明は見えざる者、つまり神の象徴なのだ。そもそも神社の御簾の向こうには何が存在しているかというと。実はただ透明な空間だけが存在しているだけだ。その透明な空間に神を惑じ、祀っている場所が神社である。そして神の御座す場所と言えば、『アマ』の事だ。
「結論から言うと、三稜鏡の三つとは弾の御座す場所の三つ、天と海と雨との事なんだ。この三つのアマと言えば、何の神を指しているか霊夢なら判るよね」
「あー、えーっと、虹ね」
「……虹に辿り着くのはまだ早いよ。本当に話について来ているかい?」
「いつもの事だけど話が飛躍しずぎるのよ。もっとゆっくり判りやすく説明できないの?」
好奇心で質問してきたのは霊夢なんだから。自分で深く考えればよいのだ。僕に霊夢のペースに合わせて教えてあげる義務はない。霊夢が理解出来ようが出来まいが、僕は説明を続けた。
「ほら。前に大きな動物の骨を持ってきた事があったじゃないか。その時も同じ説明で『龍』の骨だと説明しただろう?」
三稜鏡とは、透明と三角形だけで龍の住む所を表現しているのである。
「虹とは、龍の通った跡だと言う事は言うまでもない。だから、三稜鏡に何か――この場合は光を通すと、虹が作り出される訳だ」
「ちょっ、ちょっと、待ってよ。そういえばずっと当たり前の事だと思っていたけど、何で龍が虹を残すの?」
やれやれ、質問されっぱなしで自分の作業が進まない。今日は少しでも写真機の使い方を調べようと思っていたのだが……って霊夢は魔理沙を捜しに来ていたんじゃないのか? ずいぶんと悠長である。
二人を見ると、今は質問の答えを待っているだけで、自分達の本来の目的を忘れているようだ。
「そうか。龍が何故虹を残すか……か。それは少し難しい話になるね。予め言っておくと、霊夢にはまだ理解出来ないかも知れないよ」
「そんなに馬鹿にする事はないじゃないの。霖之助さんの説明がもっと丁寧なら、きっと理解出来るんだけどね」
「まぁ結論を先に言うと、龍は完全な三の世界から、森羅万象を創造するために虹の七色を残すんだ」
「随分大きく出たのね」
「そりゃ。龍は幻想郷の最高神で創造と破壊を行う神様だからね。その辺の妖怪とは一回りも二回りも規模が違うよ」
完全に調和が取れた世界からは、新しい物が生み出される隙間はない。天からは雨が降り、海に注ぎ込まれて天の力によって、海から水が蒸発し雲を創る。完全なアマの世界とは、三つのアマだけで完結しているのである。
龍は、その世界に不調和を持ち込み、その不調和から森羅万象を生む様に世界を変えた。その完全の『三』に足された虹の『七』色によって、世界は『三の力』で構成されるようになったのだ」
「それにより、幻想郷のあらゆる物質が十の相互作用で創造と破壊が行われるようになったんだ」
「おお、それなら何となく判るぜ。私の専門だ」
「魔理沙の専門って……何だったっけ?」霊夢の疑問は本気なのか冗談なのか判らない。
「ああ、こう見えても魔法使いだったんだぜ。驚きだろう? それより霊夢の方が巫女っぽくないがな」
「うん。物質とその相互作用は魔法を扱う者にとっては欠かせない知識の一つだからね。君が実は勉強家だと言う事は判っているよ」
「勉強ではないぜ。本を読み、魔法を磨く、それが日課だから知識を増やす事は勉強に値しない」
「へぇ、魔理沙ってこう見えても勤勉だったのねぇ。その成果が出ているのかしら?」
物質は木、火、土、金、水で成り立っている。この五つの要素が十の力で相互に作用する事で、安定することなく絶えず変化し続ける例だ。十の力とは。木は火を生み、火は土を創り、土は金を育て、金は水を浄化し、水は木を育て、木は土を痩せさせ、土は水を吸い、水は火を消し、火は金を溶かし、金は木を折る、この十個である。
複雑に絡み合ったた力は二つの物質間で決着が付くわけではない。金の力が弱まれば木は強まる事になる。だが。木が強まれば火が強まり、土も強まり、金もまた強まる。そして、金が強まれば木が弱まってしまう。決して安定することなく力が動き続ける事で、様々な物質が生まれたり消えたりするのだ。
「要約すると、私が霊夢に負けがちなのはこの力の所為だと言う訳だぜ」
「そんな要約しすぎた負け惜しみはどうでも良いわ。でもどうして?」
「それは、魔理沙は水で、霊夢は木だからだよ。水は木を育てるから……これでは水の方が少々分が悪い。でも、決闘じゃなければ相性が悪い訳じゃなくて、むしろ相性は良い方だね」
「私が木で、魔理沙が水……じゃ。霖之助さんは何なのかしら?」
霊夢は見るからに春であり、最も東にある神牡に住む。これは木の象徴だ。魔理沙はと言うと。黒い服を好み陽の射さない森に住む、これは水である。僕はと書うと……名前が示すとおり僕も又、水なのだ。
「写真機の話から随分と外れてしまったね。君達が質問ばかりするからだよ」
「うーん。龍神様の話はまだまだ判らない事で一杯ね」
「龍はその姿を見せる事は殆どないからね。今日聞いた事は今すぐに理解出来なくても、後でじっくり思い出して考えると良いよ。そうすれば、世の中の仕組みが少しすつ見えてくる筈さ。ところで、花見は良いのかい? 店に来てから随分と時間が経ってしまっている様だけど」
「ああ、忘れてたわ! 今日は珍しい客も呼んであったのに」
「珍しい客?」
「今日は清明の日だから天狗達も花見をするんだって。私達も今日は……っていつもしてるけど花見をするんで、たまには一緒にやろうって事になったの。どう? 霖之助さんも来ない?」
「天狗から写真機の仕組みを教えて貰えるかも知れないぜ」
そうだな、写真機の仕組みを知りたいのならば天狗に聞けば良いんじゃないか。何でそんな単純な事に気付かなかったんだろう……って天狗!?
「天胸だって!? とんでもない。とてもじゃないけどそんな花見に参加したくないよ」
「ま、そう言うと思ってたわよ。天狗が居ると記念撮影が出来て面白いんだけどね」
「この三稜鏡は貰っていくよ。天狗達に立体写真はどうか、って提案してみるぜ。立体新聞とか出来るかもな」そう言い残して、二人は帰ってていった。
やはり三稜鏡を持ってかれたか。ずっと、弄っていたし、気に入ったのだろう。だが大して貴重な物ではないが。商品は商品なんだからお金を払って欲しいものだ。
それにしても天狗と宴会とは……いささか心配である。天狗は無類の酒豪で。その飲む量と来たら人間の酒豪とは比べものにならないのだ。その量たるや鬼と比べてもひけを取らないと言われている。天狗一人ならまだしも。天狗達の宴会と一緒にやるとは……。
僕が今日の花見に参加したくないと言った理由は、騒がしいのが嫌いだからではない。天狗に訊いたところで、からかわれるだけだからだ。「知りたければ酒を呑め。呑まねば教えぬ」とか言って、記憶が無くなろまで呑まされるのがオチである。天狗とはそういう生き物だ。取りあえず散らかった店内を片付け、それからもう一度写真機を弄ってみよう。自分で調べるしかない。
明日の二人の報告が楽しみである。記憶が残っていれば、の話だが。
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第一四話 「奇跡の蝉」
朝夕の風に涼しさが混じる。冥界から来たご先祖様のお盆観光ツアーも、一頻り顕界を堪能すると満足げに戻っていった。これから昼の暑さも段々と落ち着いていく事だろう。
「何か最近、蝉が五月蠅くないか? こんなに奇妙な鳴き声の蝉も知らないし」
隣で本を読んでいた魔理沙は、一言そう言うと乱暴に本を閉じ、帽子の鐔で耳を押さえた。確かに、蝉が異常に五月蠅く、しかも余り聞いた事の無い鳴き声だった。だが、僕は苛つく事もなく、彼女に聞こえるように少し大きめの声で言った。
「ああ。今年は奇跡の蝉の年なんだよ」
「へぇ、それはどういう意味だ?」
僕はこの蝉の鳴き声を知っている。このけたたましさを11年前にも味わった事がある。
11年前の夏、いつもの様に不良在庫の整理をしていると、森の方から低いうねり声の様な音が聞こえてきたのだ。
11年前は、魔法の森の入り口に香霖堂を構えてからまだ数年目と間もない頃で、その時の僕は魔法の森に関して詳しくなかったし、その奇妙な音が珍しい蝉の鳴き声だと言う事は判らなかったのである。
その11年前の音の正体が判ったのは、僅か二日前だった。
――二日前。僕はけたたましい蝉の鳴き声で目が覚めた。蝉とは不思議な生き物で、ある日突然鳴き始め、そしてあっという間に居なくなる。それに地中に何年も潜伏して、思い出したかのように地上に出てくるのだ。そういう性質もあって、僕は蝉には寛大なつもりでいた。
だが、今年の蝉は異常だった。普段聞き慣れない低い鳴き声も普通の蝉とは異なるし、それに明らかに数が多いのだ。
余りの五月蠅さに、仕方が無く暑い中窓を締め切っていた。このままでは窓を閉め切っているので暑いし、商品の保存状態にも悪影響だ。それに夜も満足に眠る事が出来ないし、客も寄りつかない。
僕は暫く蝉の駆除の方法を老えていたが、締め切った店の暑さに耐えきれず、久々に店を出て里へ出掛ける事にした。勿論、その間も蝋の駆除の方法ばかり考えていた。
店から遠ざかると次第に鳴き声が小さくなっていく事が判った。どうやら魔法の森にしか棲んでいない蝉の様である。僕は少し安心した。最悪、店に居られないくらい五月蠅くても、昔お世話になった人間の家にご厄介になると言う事も出来るからだ。蝉の寿命は短く、数日で静かになるだろう。
そんな事を考えながら霧雨家を訪れた。霧雨の親父さんとは最後に会ってからもう十年以上も経とうとしてたのと、お客以外の里の人間に会うのが苦手な事もあって、酷く緊張していた。既に年老いているであろう親父さんは。僕を認識出来るだろうか……。里の人間は歳を重ねると成長し、老けていく。その当たり前の変化が少ない僕は、どうしたって里に長く居る事が出来ない。里の人間に不快感や恐怖を与えてしまうのだ。
だが、そんな緊張も軽い世間話ですぐに消え失せた。僕は霧雨の親父さんと霧雨家の商売の話や、今の香霖堂の商品、外の世界の道具について等、そんな話をして緊張も解け、いよいよ話題は本題である五月蠅い蝉の事に移ろうとしているその時だった。
「――霧雨家で森の方から聞こえていた音が、11年前に聞いた低いうねり声の様な音と同じ音だと言う事に気付いたんだ」
「随分と気付くのに時間が掛かったんだな」
「里に着いた時から何となく記憶の奥底に引っ掛かる物があったんだが、何せ11年前は蝉の鳴き声だとは思わなかったからね。言い訳をすると高い音は遠く離れれば離れる程かき消され、低い籠もった様な音だけが聞こえるもんだ。今年は店のすぐ近くまで蝉が押し寄せているようだが、11年前は遠くで鳴いている音しか聞こえなかったんだ。今とは印象も大分違ったんだよ。だから店を離れて初めて気付いたのさ」
暑くなってきたので、窓を開けて換気をすることにした。少し開けた途端、蝉の鳴き声の洪水が店内に押し寄せてきたので、指一本分くらい開けた所で手を止めた。
「何にしても11年前の不思議な音も、蝉の鳴き声だと音う事が判った。僕は親父さんにこの蝉について何か知っていないか質問してみたんだ。 あ、そうそう親父さんは元気だったよ?」
「蝉が五月蠅すぎて良く聞き取れないぜ」
「結局、親父さんも今聞こえている音が蝉の鳴き声だと言う事は知らなかった。勿論、この蝉の正体も判らないと思う。となるとますます僕は蝉の正体が気になってね。霧雨家を後にして里のとある人間の家を訪ねたんだ」
その人間とは、里の人間で最も多くの資料を持ち、知識も深い稗田家である。千年以上続く由緒正しき人間の家系だ。稗田家が持つ膨大な蔵書には。幻想郷のあらゆる事柄が収められている。その他にも外の世界の資料も少なくない。
稗田家には『御阿礼《みあれ》の子』と呼ばれる子供が百年から百数十年単位で生まれる事がある。この御阿礼の子は、膨大な資科を全て暗記できる程の知能を持つと言われ、今現在、九代目が家に居るそうである。
稗田家の資料は人間向けに書かれた一部を除いて門外不出であったが、最近はその規制も緩くなり正当な理由があれば一般にも公開するようになった。有難い事に人間以外にも公開しているのである。
「ふーん。そんな人間が居るってのは霊夢に聞いた事が有ったが……そんな面白そうな資料を抱え込んでいたとは驚きだな」
ちょっとだけ開いた窓は風を収り込む機能を果たしていなく、部屋は暑いままだった。帽子なんて被っていたらいっそう暑いに決まっている。魔理沙は、今度はそこに遊び[#「遊び」に傍点]に行こうか、と言って帽子を取って団扇の様に扇ぎ始めた。
魔理沙の言う遊び[#「遊び」に傍点]とは言うまでもなく盗みの事だろう。牽制のつもりで「稗田家の主人と霧雨の親父さんは仲が良いよ」と言うと魔理沙は悔しそうな表情を浮かべて「さっさと蝉の話に戻せ」と言った。
「そう、確かに稗田家の資料は膨大だった。余りの資料の多さにどこから探して良いのか判らなかったんだけど、九代目御阿礼の子は『全ての資料を暗記している。紙に書いてあるのは他の人に伝える為だ』って言ったんだよ。半信半疑で『この五月蠅い蝉の事の記述はないか』と訊ねたら、すぐに教えてくれた。御阿礼の子の記隠力は半端な物ではないね」
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「ふーん。ま、この五月蠅い蝉の事が判ったんなら、駆除の方法も判ったんだろう? さっさと何とかしてくれよ。魔法の森の何処に行っても五月蠅くてかなわん。難聴になるぜ」
「だったら耳栓でもすればいい。この時は、既に僕の中で興味が変化していたんだ。駆除の方法よりも、この蝉は何故11年ぶりに大量発生したのか、を知りたくなっていたんだよ」
蝉は狂ったように鳴き続けていた。次第に耳は慣れ。そこまで鬱陶しくなくなって来たが。いつもより大きめな声で話していた為かのどが渇く。僕は二人分お茶を淹れた。
そもそも、蝉の生態は謎に包まれている。蝉は7年程土の中で成長し、ある日突然地上に現れると7日間だけ忙しなく嶋いて、さらに別の生を受ける為に体を捨てる。蝉とは罪人が地獄で罪の精算が終わった後、その魂が転生されるまでの苟且《かりそめ》の姿であると言われている。
さらに、資科によると外の世界にはもっと特殊な蝉が居るらしい。それは、13年蝉と17年蝉と呼ばれる蝉である。名前の通り、13年に一度だけ土の下から出てくる蝉と、同様に17年に一度だけ出てくる蝉だそうだ。
幻想郷に現われた蝉は、11年に一度だけ大量発生する不思議な蝉で、一部の人の間では『奇跡の蝉』とも呼ばれるそうである。何故奇跡の蝉と呼ばれるかというと、11年と言う長い年月を土の中で暮らすと言う不思議さもその要因の一つだが、なんと言ってもこの蝉が発生する年は決まって豊作になるかららしい。資料はそこで終わっていた。
「ふーん。で、何で11年なんだ? 外の世界の13年も17年も、そもそも何で普通の蝉だって7年も眠っているのも不思議だが」
稗田家の資料には、魔理沙が抱くような当然の疑問に対する答えはなく、ただ客観的な事実だけが書かれていた。それは資料としては正しいが、読む側としては何か物足りない。
当然僕も、魔理沙と同じ疑問を抱いた。しかし、僕と魔理沙が徹底的に違うところは、僕の場合は自分で考えるしかないが、魔理沙の場合は周りに答えを知っている人物が居る[#「答えを知っている人物が居る」に傍点]と言う事だ。答えを知っている人物とは、勿論僕の事である。
「少しは自分で考えようとはしないのかね、君は」
[#挿絵(pic/19/03.jpg)入る]
魔理沙にとっては。僕に説教される事なんて何とも思って居ないようだった。帽子で扇ぎながら僕の話の続きを待っている。蝉の鳴き声は苛つきを助長させるのか、僕も少し苛つき易くなっているのかもしれない。
「まあいい、今回は少し複雑な話だしね。まず、11年周期の蝉が幻想郷で最初に確認出来たのは、今から百年前程前だと言われている。つまり、百年前頃に外の世界で絶滅して幻想郷にやってきた可能性があると言う事だ」
「元々は、外の世界に11年周期の蝉が居たって言うのか?」
「そう考えれば、外の世界には7年だけじゃなく、13年周期の蝉も17年周期の蝉も居るって言うんだから、至極自然だね」
「うーん。余り自然とは思えないな。7年と13年と17年が居るんだったら、残りがあるとすれば10年と15年だろう? 11年なんて中途半端だしな」
なるほど、魔理沙は数字同士の中間を埋める[#「数字同士の中間を埋める」に傍点]事で自然になると考えているようだ。7と13の中間は10、13と17の中間は15だ。恐らく、論理的な物は何もなく直感のみであろう。誰しも、間が等間隔になると言うのは気持ちの良い物である。ここから判る魔理沙の性格は、部屋の中が本以外は滅茶苦茶に散らかっていようと、本は系統別に纏め、巻数も順番通りに並べるタイプであると言う事だ。僕は、その通りだなと思い、少しおかしかった。
しかし。勘の鋭い霊夢だったら、この場は何と答えていただろうか。
「いや、11年で良いんだ。むしろ外の世界の蝉に、11年だけが欠けている事に気付かないといけない」
「7年、11年、13年、17年……何だか気持ち悪い致字の並びだな」
「判るかい? これらの数字は、1と自分以外で割り切る事が出来ない数字、素数[#「素数」に傍点]だと言う事に」
7にしろ、13にしろ、17にしろ、素数である。7以上で同様に素数は、11、13、17、19、23……と続いていく。
僕は、外の世界の蝉に7、13、17とあって、何故か11だけが欠けている事に気付いたのだ。そして、幻想郷には11年周期で発生する蝉が居る……。
「だから、僕は11年の蝉は元々外の世界の蝉で、何らかの理由で地上では絶減したと予想した」
「うーん。ま、また説教されるかも知れないけど、一応訊いておくぜ。何で蝉は素数の年数だけ土の中で眠るんだ?」
「それは当然の疑問だね。だが残念だが、この疑問に関しての明確な答えは無い」
「えー……って疑問のままで香霖が納得する訳が無いだろう?」
「その通りだ。よく分かっているな」
「ほれ、解説を続けても良いぜ」
何か上手く利用されている気がするが、まあいい。
「……素数、つまり割り切れない周期でしか発生しないと言う事は、それぞれの蝉が同時に大量発生する機会が非常に少ないと言う事だ。13年の蝉と、17年の蝉が同時に大量発生する周期は……221年に一度だけしかない。そうする事で、同時に大量発生してお互いが不利益になる年を極力減らしているのだろう。魔理沙が言っていた様な10年や15年では、30年に一度は当たってしまう」
「なるほど、何となく判ったぜ。蝉って頭が良いな」
「蝉の頭が良い訳ではない。先も言ったように、蝉は地獄から送られてくる魂の容れ物だと言われている。つまり、地獄の閻魔様が作ったシステムだろう。頭が良いのは当然だ」
「でも、何で11年の蝉だけ絶滅して幻想郷に発生したんだ?」
「推測でしかないが、11年の蝉と13年の蝉、17年の蝉が同時に大量発生し、一番若い11年の蝉が犠牲になったのでは、と僕は想像する。それらの三種の蝉が全て同時に大量発生するのは、なんと2431年に一度しか無い。百年ほど前についにその運命の年が来て、11年の蝉が幻想に追いやられたんじゃないかな」
「うーむ。そうかもな。そう言う話を聞くと、この五月蠅い蝉も珍しくて貴重な気がするぜ。何せ11年に一度の奇跡の蝉だしな」
「そうだ、だから駆除するなんて事はしたくない」
僕は思い切って窓を開けた。11年の蝉が、長かった罪の清算から解放された喜びを表すかのように、けたたましく鳴いていた。
相変わらず、魔理沙は耳を押さえ、苦い顔をしている。にもかかわらず、自分の家に帰ろうとしないのは、店より自分の家の方が五月蠅いからだろう。
客でも無いのに店に居座られては迷惑なので、僕は魔理沙を追い出した。渋々出ていったが、きっと自分の家には帰らず、神社かどっかにお世話になるつもりだろう。人間の里には自分の親が住んでいるのだから、そこへ帰れば良いのに……。
この蝉は後何日ほど鳴き続けるのだろうか。そんな事を考えていたら、蝉と地獄の閻魔様に纏わる奇妙な符合に気付いてしまった。
閻魔様は初七日から満中陰、7日起きに審理を行う事で有名である。この7は素数であり、通常の蝉の地中に潜む年数や地上で鳴いている日数と一致する。さらに審判が終わった後に転生の為に地中に潜伏すると考えると、不思譲な事に11年、13年、17年の蝉が同時に大量発生する周期の年数と、通常の7年の蝉が潜伏する日数はほぼ同じになるのである。
蝉は不思議な生き物だ。地獄の閻魔様が作ったシステムの上で生きていると言う事は、もっと緻密で不思議な性質を持っていて、その性質一つ一つに呪術的な意味がある可能性がある。
何故、地獄に堕ちた魂と同じ様に長い間地中で過ごすのか。何故、地上に出てから短い期間で居なくなるのか。人間は、輪廻転生のうち現世に居る期間が一番短いと言う事なのか。
だとすると、妖怪は死ぬとどうなるのだろうか。妖怪と人間のハーフである僕はどうなるのだろうか。店の窓を再び閉め、一人考え込んだ。
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第一五話 「神の美禄」
妖怪の山が紅く黄色く燃える。気温は急激に下がり、紅葉によって生命に狂いを生じた木の葉は、秋の冷たい風に耐えきれず落ちていった。妖怪の山の方向に日が沈み、赤く染まった空を天狗達が舞っている。妖怪の山は、この時が一番美しい。
十月は神無月と呼ばれ一般には神の居ない月と言われているが、神々しい美しさを持った十月がそのような呼ばれ方をするのはあり得ない話である。本当は醸成月《かみなしづき》、つまりこの時期収穫した穀物でお酒を醸す月、が正しい。
「何か、機嫌が良さそうね」
「今年の新酒を造る準備をしてるんだ。機嫌が悪い訳がない」
霊夢は訝しむ様子で、お酒なんて造っていたの? と訊いてきたが僕は、ここは香霖堂だからね、とだけ返答した。
今日は魔理沙と霊夢と僕の三人で、秋の味覚の茸でお酒を一杯呑む事になっている。霊夢と僕はその時間を待っていた。肝心な茸は、まだ店には居ない。
「へぇ、霖之助さんもお酒を造っていたなんて知らなかったわ。今度呑ませてよ」
寒くなってくるとお酒が美味しく感じられる。そのお酒も新酒で、さらに自家製だといっそう美味しく感じられるだろう。十月は新米の季節だ。だから、この新米で新酒を造る事に決めたのだ。
「まぁ、呑んでもらうのはいいけど……」
「けど?」
「大量に呑まなければね」
霊夢や魔理沙達は勿体ないくらい味わわずに呑む。折角造った貴重なお酒も、それでは意味がない。
「そんな大量に呑まないわよ。美味しくなければ」
「いや、美味しいさ」
「じゃあ呑むかもね」
実は僕がお酒を造る理由は、飲みたい為だけではない。お酒は原料の米から始まって、どこからがお酒なのか。物の名前が判る僕の能力を持ってすれば、その疑問も氷解する筈。ふとそう思ったのだ。
日本人がお酒を飲むようになった歴史は古く、千何百年も昔の大陸の歴史書にも「人性嗜酒《倭人は酒を嗜む》」と記録されているという。その時には既に日本独白の醸造の技術を持ち合わせていたのだ。
そんな日本人が生み出した米のお酒は、鼻に抜ける芳醇な香りと淀みのない味を持ち、その味も洗練されている。お酒にも様々な種類があるがその中でもかなり上品なお酒である。白米同様、癖のない味はあらゆる料理に合い、食卓には欠かせない。
「この店で醸造ねぇ。こんなに様々な神様が住んでいるような場所でねぇ。美味しくできるのかしら?」
話しぶりからして、霊夢はお酒に関して造詣が深いようだ。
それも不思議な話ではない、お酒と神社には密接な関係がある。本来、巫女とはお酒を飲む事が仕事でもあった。お酒を飲む事で精神状態に異常を来し、それによって神の世界と交信できたのだ。証拠に、お酒の神様は『くしの神』と呼ばれる神様で、『くし』とは『奇し』の事、つまりお酒を飲んで狂う事を指している。
神杜の儀式にお酒は欠かせない。一般の人よりもお酒を必要とする職業の為、昔はお酒の殆どを神社で醸造していた。今の博麗神社でもお酒を造っているという話は余り聞かないが、霊夢の話しぶりからすると造っていてもおかしくはない。何故なら、神社にはいつも謎の神酒が補充されているのである。
「で、いつからお酒を造っていたの?」
「今年が初めてだ」
霊夢は怪訝な顔をした。
「げげ、そんな簡単には神様は醸してくれないわよ。最初は凄い液体が出来そうね。大量に呑まなくて済むかも」
そんな顔をされる事は予想していた。
「良いんだよ。何年も続けていくうちに良い物になっていくだろう。失敗すると判っていても、最初が無ければ成長はあり得ないんだから」
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――カランカラン
「香り松茸、カキシメジ♪ すっかり秋になったんで茸を採ってきたぜ」
「カキシメジは毒茸だ」
「まぁ細かい事は気にすんな。茸を焼いて酒でも呑もうぜ。既に霊夢も来ているし」
今晩のメイン食材が店に到着した。帽子に摘んだばかりの茸を入れて、上機嫌の魔理沙はもう呑む気でいっぱいである。
「ああ、判ったよ。あと少ししたら準備が終わるから茸でも洗って待っていてくれ」
「準備って何の準備だ?」
質問するだけして質問して、答えはどうでも良いのか茸の選別に入っている。
「霖之助さんがお酒を造り始めるんだってさ」
魔理沙は、へぇ見そうかい、と驚いた様子も見せずに「今から醸造」たって今晩の酒には間に合わないぜ」と誰もが判っている事を教えてくれた。
「当たり前だ。店にはまだ、お酒になるであろう物しかない。呑みたければお酒も自分で調達して来なさい。神社にはお酒が沢山あるのだろう?」
「お酒なら大丈夫だ。こんな事もあろうかと持ってきてあるぜ」
自分の事だけは抜かりは無い。茸の山の下から一升瓶を取り出した。霊夢は驚いた様子で、「あ、そのお酒は……」と言った。
「ああ。神社に飾ってあったので持ってきた」
「そのお酒は本当はまだ早い[#「早い」に傍点]んだけど……」
霊夢は呆れた様子で言ったが、瞬時にどうでも良いかと言う表情に変わった。
「そうか、香霖もお酒を造るのか。そう言えば昔、私も自分でお酒造ろうとした事があったんだがな」
「へぇ、それは初耳だわ。やっぱり失敗したんでしょ?」
「へぇ、初耳だな。やっぱり失敗したのかい?」
「大失敗だった」魔理沙は、てへっと自分の頭を叩いて見せた。失敗談を語るにしては機嫌が良さそうに見える。彼女にとっても、もうどうでも良い過去の話だからだろう。
「お米でも果物でもお酒が出来るんなら、茸でも出来るのかと思って茸焼酎に挑戦してみたんだ。そしたら大変な事になった」
その理屈は判らんが、魔理沙はそう言う水平移動の思考を得意とする。魔法だって、同じ理屈で魔法の常識を打ち破ろうとする。それまでは五つの元素しかなかった魔法に、どれにも属さないような力を入れたりするのも彼女ならではだ。時には妖怪も驚くような魔法を生み出す事もある。
だが、茸焼酎はどうなのか。
「前衛的な焼酎ね」
「大変な事ってなんだい?」
「別の得体の知れない茸が生えてきたんだよ」
魔理沙のしょうもない失敗談に霊夢は笑っていた。
「お酒はね。何からでも何処でも出来るって訳じゃないのよ。お酒とは、神様に捧げた物を神様が自分の好きなように変化させる事で出来るの。第一条件として醸造場所は神様の宿る場所でないと、まず上手くいかないわ。それから、もっと専門的な話になるけど……」
霊夢の話は、神学の話から徐々に生物学的な話へと移っていった。神様が好んで醸す物は糖分である。果物など最初から糖分が豊かな物なら、簡単にお酒が出来るらしい。運が良ければ、潰すだけ潰して放っておいてもお酒になると言う。実際、木から落ちた葡萄や梨などが、元の果物とは違うお酒の様な匂いを発している場合がある。木に成っている状態よりも、熟れて落下した後の方に動物や蜂などが群がっているのを見た事があるだろう。それは、お酒に近い発酵が進み、生き物を惹き付ける匂いを発しているからである。
しかし、日本酒の米の様に、糖分の少ない穀物からお酒を造るには、まずは米に含まれるでん粉を糖分に変える発酵が必要である。これはお酒を造る発酵とは別の物だが、必ず通らなければ成らない段階である。米のでん粉が分解され、糖分が多く含まれている状態になった物を、麹《こうじ》と呼ぶ。麹が出来てしまえば、後は果実酒と同じで神様にお任せで良い。
この様に、日本酒の醸趙は果実酒とは異なり、自然に放って置いただけでは中々出来ない。手間の多さは加工品の品と格を高めるのだ。他にも、日本酒と同等なお酒には麦から作る麦酒などがある。これもまた、格別である。
僕はお酒を造り始めるに当たって、お酒の作り方を自分で調べたので大体の事は霊夢に訊く前に知っていたが、彼女の説明の詳しさからするとやはり今でも神杜でお酒を造っているようである。
「要約すると、お酒になるには糖分が必要なのよ。得体の知れない茸じゃ大した糖分は無さそうだし、ちょっとお酒にするには難しいかも知れないわね」
「髄分と詳しいな。そんな事ばかり勉強してないで、巫女としての勉強でもすればいいのに」魔理沙はそう言ったが、霊夢はお酒を造っているであろう、と確信した僕がフォローした。
「いや、お酒の作り方を熟知する事は、巫女として当然であり必要な事だよ。何故なら、巫女は神と交信する為にお酒を使うんだ。昔は神社でお酒を造っていて、巫女の仕事の一つだったからね。今はどうなのか知らないけど……」
僕はそれとなく霊夢にふってみた。神社で今もお酒を造っているのなら、何らかの反応が見られると思ったからである。だがその目論見も外れ、霊夢は話を続けた。
「ま、魔法の森にある魔理沙の家じゃ、別の発酵が進んじゃって美味しいお酒にならなそう。香霖堂もどうなんだか……」
霊夢はきょろきょろ周りを見渡した。確かに散らかっているが、そんなに不衛生ではないと思っているのだが。
「この家にはお酒を醸す神様は宿っていないと言うのかい?」
霊夢は店内の至る所を見ている。外の世界の式神、天狗の写真機、幽霊のランプ……。一通り見た霊夢はこう言った。
「お酒以外の物に醸してしまう神様が多過ぎるのよ」
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――茸の焼けた、香ばしい匂いがしてきた。
霊夢のお酒に関する講義から時間が経ち、既に外は暗く、赤く染まっていた山は既に黒い影しか見えない。くしの神も、酒好きの妖怪も、自分の好きなお酒を取り出して朝まで飲み明かす時間である。
軽く塩をふった茸は、火が通ると秋の胞子を店内に充満させた。その香りだけでお酒が進む。霊夢と魔理沙の二人は、茸を取り合いながらはしゃいでいた。僕は、焼いた茸と一緒に飲むお酒が。自分で造ったお酒になる日を想像して、茸をほおばった。
発酵が徐々に進むお酒は、どの段階でお酒なのか。実は僕には想像出来ていた。
「あ、霊夢。そのカキシメジは軽く毒があるから食べない方が良いよ。後で寝込む」
「大丈夫だ。毒抜きしてあるぜ」
霊夢は、暫くうーんと唸っていたが、魔理沙が「寝込んでも大丈夫だ。神社の事は任しておけ」と言ったのを聞いて、箸で摘んでそっと窓から措てた。
実は魔法の森に生えている茸の事は、魔理沙程詳しい人間は居ない。カキシメジに見えた茸も、恐らく別の安全な茸である可能性が高い。森は陽の当たる部分が少なく、湿度も高い為か、生えている茸も他に生えていない様な物だらけなのである。
僕は常念坊に似た茸を取り、少し囓るとお酒を口に含んだ。すると茸の芳香がお酒の力により、喉と鼻を駆けめぐり、えも言われぬ心地よさに包まれた。
お酒は、どの段階でお酒なのか。
それは、美味しい食材と共に口に付ける瞬間で、漸くお酒になるのだと思う。それまでは、お酒なのかも知れない液体に過ぎない。神が造るお酒は、人間の手の及ばない所で造られていく。それがお酒なのか、はたまた酢なのか、それとももっと別の液体になってしまうのか、文字通り神のみぞ知るのだ。
そんな神の美禄[#「神の美禄」に傍点]であるお酒は、当然呑む人を選ぶ。お酒の神である奇しの神[#「奇しの神」に傍点]に敬意を払うとしたら、お酒は酔わなければいけない。大いに呑んで大いに酔う事が大切なのだ。
お酒にしても煙草にしてもお茶にしても珈琲にしても、嗜好品と言う物は、人間や妖怪の心の尺度を測る良い指針となる。それら嗜好品が嗜める者かどうかで、懐の深さや感性を見極める。鬼や天狗、河童など、強い妖怪ほどお酒にも強い。吸血鬼が毎日紅茶を飲むのも、血の色に似ているから、ではない。全て、嗜好品を嗜めるような者だから強い妖怪に成った、ただそれだけなのだ。
「どうした? 箸が進んでいないな。その妖念坊[#「妖念坊」に傍点]の毒にやられたか?」魔理沙はそう言った。
「なんだ妖念坊[#「妖念坊」に傍点]ってのは」
「今、香霖が食べている茸だよ。常念坊に似ているだろう? でも明らかに大きさが違うので、妖怪の常念坊と言う事で妖念坊って名付けた」
嫌な予感がする。
「魔法の森にしか生えていないが、香りが良くてね。大きくて味も良いぜ。勿論――」
勿論、食べても大丈夫なんだろう。食べていけない茸を網の上に置く筈がない。この時は神ではなく、魔理沙に析った。
「勿論、幻覚作用はあるが。軽いから大丈夫だ」
僕はそこで二人を追い出し、タ食会を中止した。二人ももう充分食べたと言う事もあって、大人しく帰って行った。
いくら本人は味見して大丈夫だったとしても、人に毒茸を食べさせるのは問題である。魔理沙は魔法の森で暮らしていて慣れているかも知れないが、普通の人間には森の瘴気は長時間耐えられない。そんな森に生えている茸である。もう少し安全な物だけを選んで欲しいが……。
ところで、一つだけ疑問が残ってしまった。霊夢は神社でお酒を造っているのだろうか、という事である。僕が意気揚々とお酒を造ろうとしていた為か、魔理沙の茸におっかなびっくりだった為か、直截《ちょくせつ》訊く事が憚られ、答えは分からないままになってしまった。
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第一六話 「妖怪の見た宇宙」
「あ、二つ連続で落ちたぜ!」
「うん。後もう一つで十ね」
灯を消した店内に二人の興奮した声が響き渡った。そろそろ丑三つ時――もう泣く子は黙る時間であるが、霊夢と魔理沙の二人は黙らなかった。
店内は二人に占拠され、全ての灯を消されていた。僕は本を読む事も日記を書く事も出来ずに、窓から差し込む僅かな月明かりを頼りに人の元へ移動した。
「本当に二人は仕様が無いな、もう十分だろう。こういった『流星群』も珍しい物じゃないし……」
「何を言うんだよ。香霖が言ったんだろう? 今夜の流星は凄いって、きっと百以上は落ちるって」
「確かに百くらいは落ちると思うが……まさか全部見るつもりか?」
「ああ勿論だ。願い事を百以上用意してきたからな」
――昼間の香霖堂店内。
霊夢と魔理沙の二人の流星鑑賞に付き合うきっかけになった日の事である。
僕は新しく入荷した不思議な品物を、机の上に置いて眺めていた。新しく入荷したと言ってもその品物自体は古く、全体的に薄汚れていた。金属で出来ている部分はあちこち錆びている所もある。
その品物は、大きめな西瓜程度の球と、それを支える四本の足で構成されていた巨球は金属で出来ているのだが、かなり異様な形をしている。定規の様な細い金属を曲げて繋げた輪が幾つか組み合わさり、まるで竹で出来た毬《まり》を彷彿させるような、すかすかの球体だった。さらにそれらの金属の輪は、一つ一つ自由に回転出来る物と、足に固定されて動かない物がある。
残念ながら幾つかの金属の輪は錆びついている所もあり、滑らかに回転できなかった。このままでは商品にはならないので、何とか自分の手で再生しようと考えていた。
「何だ? このスカスカの変な地球儀は」
「これは地球儀ではないよ、魔理沙。で。何時の間に店に来てたんだい?」
「地球に穴が空いたのかと思ったぜ」
魔理沙は、地球儀じゃなけりゃ一体なんだい? と訊いてきた。
地球儀とは、文字通り地球の摸型である。幻想郷に居る人間は自分の住む星の事を殆ど知らない。何故なら幻想郷は、地球の中の極一部である日本の、さらに極一部の山奥に存在し、そこから出る事は出来ないのである。
だが、外の情報や道具が入ってこない訳ではない。地球儀も外の世界から流れ込んできた道具の一つで、これにより我々は自分の住む地球を知る事が出来る。知識としてかなり細かい所まで知っているが、幻想郷の人間にとって自分の住んでいる大地と、知識の地球がいまいち結び付いていない。たとえ地球に穴が空いたと言っても。容易に信じてしまうだろう。
だが。地球儀に見えるこの道具は決して地球儀ではない。地球と同じく、幻想郷にも常に近くにあるのに、詳しく判っていない物を測る道
具である。
「これは、『渾天儀』と言う道具だ。地球儀が地球を知る道具なら、渾天儀は宇宙を知る道具だよ」
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渾天儀とは、非常に複雑な道具でありながら、ただ星の位置を測定するだけの物である。
しかしその複雑さには訳がある。星はただ浮かんでいるだけに見えるが、その位置を正確に測定するのは難しい。定規を当てる事も出来ないし、遠くに見える地面だって山があったり森があったりと高さがまちまちである。夜空に方眼紙の様に線が引かれていたり、動かなくて基準となる星が沢山あれば簡単なのだが、当然そんな訳も無い。手の届かない位置にあり、近くに基準となる物も存在しない星々の位置の観測は、昔から多くの天文学者を悩ましてきたのだ。それを解決させる為に、渾天儀は複雑な道具に成らざるを得なかったのだ。
「どうやって使うんだよ。 これは」
「うーん……それは、これから開べるよ」
「あ、香霖も判らないのか。そりゃそうだろうな、いつもの事だし」
微妙に馬鹿にされた気分だが、事実だから仕方がない。
「いや、使い方は想像付くんだ。真ん中の筒で星を見つつ、この回転する球を星に合わせてここに書いてある目盛りか何かを読み取るんだろう……おや?
僕は、この道具に奇妙な文字[#「奇妙な文字」に傍点]が書かれている事に気付いた。目盛りか何かだと思ったのだが、単純な数値とかではない。この奇妙な文字は、この渾天儀の用途を大きく変化させる可能性がある物だ。
「どうした? その輪っかに何か書いてあるのか?」
「ふむ、書いてあるな。僕はこの道具はてっきり外の世界の物だと思い込んでいたが……ここに書かれている文字はそれを覆す物かも知れない」
「どれどれ、見せてみ? ふむふむ、読めないぜ」
「早いね」
渾天儀に書かれた奇妙な文字とは、星座の名前だったのだ。
「ここに書かれているのは……雪入道座、火炎婆座、芭蕉精座……。どうやら星座の名前だと思う」
「なんだいその星座は、えらくマニアックな星座ばかりだな」
「そんな単純な問題ではない。そんな星座は聞いた事も無いよ。まぁ、確かに極端にマニアックな名前の星座を書き連ねただけに過ぎないのかも知れない。それもおかしな話だし、たとえそうだとしてもこれらの星座の名前……」
手の目座、釣瓶落とし座、大天狗座……。
「どれもこれも全て、日本の妖怪の名前じゃないか」
我々――幻想郷の人間に限らず恐らく外の人間も同じだと思うが、知っている星座とは殆ど大陸から来た星座である。これは幻想郷が外の世界と隔絶する前から使っていた歴史の有る代物だ。
それ故に、日本古来の星座と言う物もある事はあるのだが、今でも残っている物は少ない。日本はどちらかというと、星の結びつきより星単体に名前を付け、それを崇《あが》めたからである……と、ずっと思っていたのだが、この渾天儀を見てからその考えも改めないといけないかも知れない。何故なら、日本の妖怪の名前の付いた星座が大陸からやってくる事は考え難い。日本で名付けられた星座がこんなに大量に存在するとすれば、日本独白の天文技術もかなり進化していてもおかしくない……のだが。
「しかし……妖怪の名前しかないな。日本独自の天文技術だとしたら、もっと神様の名前や、英雄の名前を付けても良い筈なのに。だとすると、日本独自と言うよりは……。この天球儀はひょっとして外の世界の道具ではなくて――」
妖怪の渾天儀かもしれない。何千年も生き続けて来た妖怪達だ、自分達独自の天文知識を持っていても可笑しくない。妖怪達は人間が作った技術を馬鹿にする事が多い。天文学も人間の天文学を使わずに自分達で構築したのだろうか。もしくは、人間が使っている天文学は実は妖怪が考えた学問、という事すら考えられる。
と言うのも、妖怪は千年以上も昔に月に行った事もあると言い伝えられている。その頃の人間と言えば、まだ星の意味も月の意味も判らな
かった筈だ。それだけ妖怪の天文技術は優れていたのである。
満月の日には妖怪達の宴が行われたり、新月になると妖怪が大人しくなったり、妖怪にとって月は重要な天体の一つである。妖怪が月の研究を進めていた事は容易に想像できる。
しかし、この渾天儀に書かれた妖怪の星座の名前は、妖怪の研究が月だけでは無く、数多の星々まで幅広い物であった事を示唆している。
例えば、天の川は鬼神の河であり、そこから鬼の酒が地上に流れ込むとされている。河の近くで力強く輝くオリオン座の三つ星は。妖怪の伊吹童子座と呼ばれ、伊吹童子の三つの力――即ち、調和と有限、そして無を示しているらしい。
惑星はその明るさと不定な動きから、天狗の星と呼ばれる。あっちこっちをふらふらと動き、妖怪の輪を乱す存在とも読み取れる。
妖怪の星座には、なんと彗星の記述もある。しかも彗星の周期まで調べられているのだ。妖怪は永く生きられる為、人間より調査が容易いと言う事もあるだろう。彗星は、妖怪の星座では忌星《いみぼし》と呼ばれ、妖怪の社会を脅かす縁起の悪い物らしい。
また、一際大きな文字で書かれているのは天龍座である。これは所謂北斗七星の事だ。天龍は常にある一点を見つめており、いつか飛び出そうとしていると言う。その一点にある星、それが北極星である。
妖怪の星座では北極星は不動の星、つまり不動尊の夜の顔であり、不不動尊――大日如来の化身だそうだ。大日如来は、言う迄も無く妖怪の力を無力化する太陽の権現であるが、夜の世界でも妖怪の百鬼夜行を暴走しないように、北極星となって食い止めていると言うのだ。天龍はいつかその不動尊――北極星を食べて、昼の天も夜の天も支配してしまおうと企んでいるらしい。記述によると、数千年の後に天龍は動きだし、その時妖怪の社会も大きく変化する、と予言されている。数千年後の話とは言え、妖怪の先見性は人間のそれとは比べ物にならないから、気になる記述であるが……。
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「ところで、そんなに詳しく説明して戴いて無駄な時間な事この上無いが、一つ聞きたい事がある。この道具で星の位置と妖怪の星座を知る事が出来るのは判ったが、アレ[#「アレ」に傍点]はどうなんだ? 夜空の主役の……」
「夜空の主役? 月の事か? そりゃ月の位置も同様に測れるだろう」
月は妖怪にとっても重要な天体である。夜空の主役は月に間違いないだろう。
「違うぜ。月じゃなくて……」
「月の他に主役を張れる天体があるのかい?」
「アレだ、一瞬で流れて消える一番目立つ星だ」
「一瞬で……もしかして流れ星の事かい?」
「ああ、そうだ。星の中では流れ星が一番好きだな。ついでに願い事も叶うし」
なるほど流れ星か……派手な物が好きな魔理沙らしい。だがアレは違う。アレは天体ではない。
「流れ星は星ではないよ」
「流れ星だろ? 星じゃないか」
「流れ星とは……天を翔る龍、天龍の鱗がはがれ落ち、光り輝いた物だ。だからこの道具では位置を調べる事は出来ないよ」
「ふーん、まあ動くからな。測れないと思ったが、残念だ」
「どうして残念なんだい?」
「何時流れるか判れば願い事も叶い放題だからな。他の星を研究する暇があるのなら、流れ星の研究をした方が良い」
「暇だから研究している訳じゃないと思うけど……。まあ確かに、流れ星はいつ落ちるか判らない。だが確実に見る方法は知っているよ」
「なんだって? それは本当か? なら教えてくれ」
「一年に何度か、流れ星が大量に降り注ぐ日があるんだ、その日に見れば一日で十……いや、百の流れ星を見る事が出来るだろう」
――そうして、僕は魔理沙に流星群が見られる日を教えると、早速その日に魔理沙は霊夢を連れてうちで流星群の鑑賞会を行う事になったのだ。
どれぐらい経っただろうか。二人は十五個目の流れ星を数えていた。
「凄いぜ! 本当に百個くらい降りそうだな」
「そろそろ疲れてきたわね」
そんな事は無い、と言って、魔理沙はさらに窓の外の天体ショーに食いついた。
「あ、十六個目。えーと、呪い呪い呪い」霊夢は呟いた。
「なんだそれは」
「流れ星が落ちてくる間に願い事を三回なんて、殆ど無理じゃない。だから願い事を出来るだけ圧縮してみたの」
「圧緒し過ぎだぜ。つーか、どういう願い事なんだか……」
「呪術系の願い事よ。魔理沙はどういう事をお願いしているの?」
「ああ、もっと力強い魔法が使いたいぜって」
百の流れ星を見ると意気込んでいた二人だったが、流れ星が落ちない空きの時間がちょっとだけ長く続いた後、流れ星の数がよく分からなくなってしまい、その内疲れて二人は寝てしまった。そうして、第一回流星祈願会は幕を閉じたのである。
――それから四、五年後の現代。
僕は思い出の渾天儀を眺めていた。あれから流星祈願会も毎年恒例となり、もう数回行われている。
思えば、第一回の流星祈願会から、魔理沙は星に因んだ魔法を使うようになった気がする。今では魔法の流星と言えば、魔理沙の一番のお得意技だ。さらに、毎年のように流星群の日付を訊きに来ては、一人でも流星を見ているらしい。
魔理沙は天龍に魅入られたのだろうか。それとも、願い事が叶ったのだろうか。
同じ動きをする星々に逆らい、大きく強く光ってはすぐに消える。時には隕石となって地上まで届き、甚大な被害をもたらす力強さも持つ。そんな流星に何を見ているのだろうか。
「おー、妖怪の渾天儀か。懐かしいな、まだ持っていたのか」
「ああ、久々に取り出して眺めて……って、何時の間に店に来てたんだい?」
「香霖が夢中になっていて、私が入ってきたのに気付かなかっただけだぜ」
「ちょっと昔を思い出してね……ん!?」
「どうした?」
僕は渾天儀に書かれた妖怪の星座を読み取っていた。ここには様々な妖怪が書かれていたが、気になる妖怪の名前を見つけた。それは星座の名前ではなかったが、一際目立って見えた。
「……いや何でもない」
「何でもありそうだな」
そうだった。千年以上も昔に月に行ったと言う言い伝えは、実は言い伝えでも何でもなく、妖怪本人の口[#「妖怪本人の口」に傍点]から聞いた物だ。つまり、その妖怪はまだ幻想郷にいる。幻想郷にいて、未だに、幻想郷を裏から牛耳っているのである。
この渾天儀に、その妖怪の名前が書いてあったのだ。しかも、製作者の名前[#「製作者の名前」に傍点]として書かれていたのだ。
「どれどれ? おおそこの文字なら何となく読めるぜ。『著作 八雲……紫』? げげ、渾天儀って、もしかしてあいつが作った道具だったのか?」
魔理沙は露骨に嫌な顔をしていたが、僕は妙に納得していた。何故なら、この文字が書かれていた所は星座の名前が書かれていた所である。それに、『制作』ではなく『著作』である。
「なぁんだ。この道具ってあの厄介な妖怪が作った物じゃん。何だか面白くないな」
「それだけ彼女は頭が良く、知識も豊富なんだよ。魔理沙も真摯な気持ちで、彼女から学んでみても良いかもね」
「やなこったい。それにこの道具を作った程度なら、大して頭が良いとは言えないじゃん」
「君は謙虚さと推察力が足りないな」
八雲紫はこの渾天儀を作った妖怪、と言う意味ではない。恐らく渾天儀に書かれた妖怪の星座の著者、つまり、星座を作った者と言う意味だと思う。
そんな人物が未だに活動している幻想郷。今まで遥かに長い寿命を持つ妖怪の力を軽んじてみていたが、そう考えると薄ら寒い気持ちになった。
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第一七話 「流行の神」
冬も中頃のこの時期になると、納戸の引き戸ががたつき開け難くなる。熱を発する物の少ない納戸の上の崖根には、雪が積もり易いからだ。雪が積もればその分屋根は重くなり、引き戸は押さえ付けられて開け難らくなるのである……と言う理由もある。と言う理由もあると言ったのは、もう一つ重要な理由があるからだ。
それは秋の収穫まで外で活動していた穀物の神、穀霊が次の春の農事始めまで宿る場所が納戸だからである。ただの物置である納戸は。たちまち神聖な場所となり、その神々しさに引き戸が重く感じられるのである。
大黒様の様に台所に宿る神もいる。唯一の台所に宿るのではなく、料理を作る場所その物に宿っているのだ。
この様に道具だけではなく、様々な場所自体にも神は宿っている。ただし、神は感情や考え方と言った概念に宿ることはない。必ず何処かに宿っている物質や場所がある。そこが神様と、妖怪や妖精、幽霊との決定的な差なのだ。
「おや、どうしたんだい? いつもなら店でも大きな物音を立てずに行動出来ない君にしては、静かじゃないか」
黒ずくめの格好の魔理沙が、力なく歩いてるといっそう黒く、小さく見えた。
「ゴホッ。いつも静かなつもりだが……やっと辿り着いたぜ、ふう」
「風邪かい? 調子悪そうだね。温かい物でも飲むかい?」
白湯だけど、と言ってストーブの上のヤカンからお湯を茶碗に注いだ。
「ああ、済まない」と言って魔理沙は椅子に腰掛けた。
「風邪だったら、家で大人しくしていた方が良かったんじゃないか?」
「寝てれば治る普通の風邪だったらな。ゴホゴホッ」
「異常な風邪をひいているのか」
僕は余り普通の風邪をひいたりはしない。別段体が強い訳ではないが、風邪をひかないのには訳がある。妖怪は人間と同じ病気にかかる事は殆ど無いからだ。人間には人間しか罹らない病が、妖怪には妖怪しか罹らない病が存在するのである。ちなみに人間の病は体の病、妖怪の病は心の病が多い。
そこで人妖である僕はと言うと……実は両方の病気に罹りにくい。だから風邪の魔理沙が訪れてきても伝染る心配は無いのである。
「いやぁ、実はこれが風邪なのか判らないんだが……まぁ全身に力が入らないんだ」
「ふむ。あいにく、僕は体は強くないが余り病気にならないんでね。症状を一、言われても、どんな風に辛いのかよく分からないんだよ」
「ああ、まあ香霖に病気の診断を期待はしていない……ぜ。今回は見て貰いたい物があって来たんだ」
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――カランカラッ
「霖之助さん、居るかしら? ゴホッ」
「おや? 霊夢も風邪かい?」
「風邪かどうかよく分からないけど……全身に力が入らなくてねぇ」
と言うと、来て早々、勝手に奥に上がっていった。奥には既に先客の病人が寝ている。
「既に奥で魔理沙が寝ているよ」
「そう、魔理沙も調子悪いのね」
「今日は病人が二人目だ。。僕は簡単には風邪をひかないからね。医者でも始めようかな」
「……どのみち儲からないわよ。どうせ」
それは僕を信用してくれる患者が少ないと言う意味なのか、それとも幻想郷に滅多に医者が必要になるような人間が居ないと言う意味なのか判らなかったが、二年程前から腕の立つ医者が現われ、それなりに繁盛していると言う話を聞いた事がある。後者の可能性は低い。
その腕の立つ医者は、迷いの竹林に突如として現われ、里の人間のみならず妖怪達の病気をも治していると言う。霊夢と魔理沙の二人の病状が手に負えないようだったらその医者を呼ぶ事も考えた方が良いかもしれない。
それにしてもそんな調子の悪いと言う霊夢は、何故うちに来たのだろう。うちには薬も余りないと言うのに……。
「ゴホゴホッ、今日は捜し物があって来たのよ。欲しい物は骨董品だから……香霖堂が一番良いかと思って」
「骨董品の捜し物だって? そんなの調子が良くなってから来れば良かったじゃないか」
「そんな訳にも行かなくて……その捜し物を見つけない限り不調は悪くなる一方だから」
「何か訳ありっぽいね。その異常な風邪は」
霊夢の話だと、里の人間の大半は既に同じ症状の風邪にかかっているそうである。風邪と言ってもそんなに咳が酷い訳ではないが、全身から力が抜けて歩くのが辛いらしい。それにこの風邪は、人に伝染り易い[#「伝染り易い」に傍点]のだそうだ。
「ゴホッ、捜し物は……小さな壺とか……なんかそう言った骨董品。出来るだけ古い方が良いわ」
「壷……? 巫女を辞めて、新しい宗教でも始めるのかね」
「あと重要なのは、未だ名前が付いていない物に限る事。ゴホゴホッ」
僕は霊夢が何を企んでいるのかいまいち掴めなかった。調子が悪いと言うのにわざわざ店にまで来て、挙げ句の果てに名前の付いていない骨董品が欲しいだなんて……ってそう言えば、魔理沙も何か見せたい物があると言っていたが、今は寝ているようだから良いか。
「骨董品と言えど、名前の付いていない物となると……かなり質が落ちる物が多くなってしまうよ。えーと……」
「神社にある物でも良かったのかも知れないけど、私にはどれが名前が付いていない物なのか判らなくて……。ゴホゴホッ」
名前が付いているのかどうか、見て判るのは霖之助さんしかいないでしょ? と付け加えた。僕はそれを聞いて気を良くし、少し得意げに持ってきた骨董品の解説をした。
「例えば、これなんてどうだい? 時代は三百年は遡るお皿だ。実用の為だけに作られた物だが、出来は良くなかったので実際には使用されなかったらしい。その為、これと言って名前は付けられていない」
「うーん。出来ればもう少し古い物はない? 例えば千二百年位前の……」
霊夢はお皿を一瞥すると細部を見るまでもなくそう言った。骨童品の出来より、古さだけが重要と言った感じである。
「千二百年だって? うーん、そんなに古い物はそうそう無いよ」
香霖堂は何でも屋でしょ? 出来るだけ古くて、それで名前の無い物が欲しいの。と言いながら霊夢は横になってしまった。道具屋とか骨薫品屋とかは言った気がするが、何でも屋とは言った覚えはない。
だが、一度得意げに解説してしまった手前ここで引き下がる事は出来ず、商品にならない様な物を仕舞ってある納屋まで行って、千二百年前位の品を探す事にした。重く冷たい納屋の扉を開けた時には、霊夢が何故そんな物を欲しがっているのか考えようともしていなかった。
「ふう。めぼしい物は見つからなかったが……霊夢、例えばこれなんてどうだ?」
そう言って、僕は掌より大きい位の平べったい三角形の塊を見せた。
「これは、干年以上前の壷の破片だ。名前は無い」
流石にこんな破片だけでは骨董品としての価値は皆無だが、千年以上前位の古い物と言うと選択肢は無いに等しい。
「だが、この破片もただの破片ではない。元々は何かを封印してあったと言う曰く付きの壷の破片だ。済まんがそこまで古いとなると、こんなのしか見つからないんだよ」
「ゴホゴホッ。良い物を持ってるじゃない。流石霖之助さんね」
ちょっと貸してと言って破片を取り出すと、玉串を取り出し小声で語り始めた。何やら儀式でも始めるようだ。僕には霊夢の狙いが全く見えてこない。
「……伴善男《とものよしお》の神の声の聞こえん事を……」
珍しく、巫女らしい仕事をしているように見える。恐らく、異常な風邪と何か関係があるのだろう。霊夢は簡単な儀式を行い破片に御札を貼ると、一息を付いた。
「ふう、これで一安心。これを里に持っていって廻れば、みんなの病気も治る筈よ」
「ほう、それは良かった。だが、さっきから何をしているのかさっぱり判らない。詳しく説明してくれないか?」
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霊夢は気分的に楽になったのか、謎の儀式を終えた後は調子を取り戻している様子で説明を始めた。
まず、この病気は人に伝染る病気なのだと霊夢は言った。同じ風邪でもたちの悪い風邪で、その伝染力は強く、近くにいるだけで伝染ってしまうらしい。何年かに一度くらい、こう言った原因不明の病気が流行る事があるという。
人に伝染る病気は、一人だけ治療したところで埒があかない。完全に病気を鎮めるには、病気を起こしている票り神を何かに封印する事が必要なのだという。
霊夢曰く、病気が伝染る原因とは、その病気を持っている崇り神が猛威をふるっている事[#「崇り神が猛威をふるっている事」に傍点]である。その崇り神を見つけ出して封印し、崇り神を封印した事を病気の人に見せて信じて貰う事で病気が治るのだと言う。
「この様に、目前の目的の為に一時的な信仰を集める必要がある神を、流行神《はやりがみ》って言うのよ。今回の件で言えば、病気を鎮める為に病気の神をでっち上げ[#「でっち上げ」に傍点]て信仰を集めて、本当の崇り神になってしまう様な神様の事」
「でっち上げ……なのか。病気の神としてでっち上げられてしまうなんて、災難な神様だな」
「今回の病気は、伴善男様と言う神様に崇り神の役をして貰う事にしたわ。この神様は、ちょくちょく疫病の崇り神の役を受け持つの」
「それは酷いな。伴善男と言えば……実在の人間じゃないか。確か、千二百年位前の……」
「良いのよ。最初は疫病に対する恐怖心と、伴善男様の恨みの念の強さが重なってそうさせられたみたいなんだけど。今では『疫病が治るのなら、崇り神でも何でもやっちゃるよ』って言う感じで気軽に汚れ役を受け持ってくれる有難い神様よ。それに何だか暇そうにしていたので、今回頼んでみたの」
巫女と神様はそんなにフレンドリーな会話をするのだろうか。神様の声の代弁者である巫女しか窺い知れない世界である。
「名前の付いていない物が欲しかったのは、名前の付いている物には既に別の神様が宿っているからよ。名前の付いていない物で、さらに長い年月が経ている物が憑代としては最適なのよ」
「なるほどね。人間の病気という物はそうやって治す物なのか……。ちなみに、さっき信仰を集めるのは一時的と言っていたが、病気が治ったら神様はどうなるんだい?」
「病気の恐怖が無くなって忘れ去られた神霊は、もう何の力も持たなくなってしまうわ。現に伴善男様だって一般的には神様という扱いは受けていないでしょ? 神社を建てたりする事もないし。封印したこの破片だって……最終的には無縁塚に捨てられるわね」
「何だか、神様の使い捨てのみたいな話で酷いね」
「流行神って神はそう言う宿命なのよ。基本的にほ忘れ去られている方が人間にとって幸せな事。それにしても封印していた筈の伴善男様が、何で暇そうにしていたのかしら?」
あー、何だか楽になってきたぜ、と言って上半身を起こした魔理沙が話に割り込んできた。
「寝ながら霊夢の話を聴いていたが、なんだ病は気からって事なのか?」
「そんな話はしてないでしょ? 病は神からよ」
魔理沙は「何となく、思い当たる節があるんだ」と言って、自分の帽子に手をかけ、小さな古い小皿を取り出した。
「今日は、香霖にこの小皿を見て貰おうと思って来たんだが……実はこれを拾ってから何だか調子が悪くなってな」
「それはまた古いお皿だね。何か曰くがありそうな……」
「価値があるかと思って拾ったんだか、何だか突然調子が悪くなったんで、二重の意味でも見て貰おうと思ってな」
「ふむ。これは特に名前は付いていないお皿だね。残念ながら大した付加価値は無さそうだが、物自体は古くて珍しい一品であることは間違いないな……」
霊夢はその皿をよく見ていて、不思議な表情をしていた。
「うーん。そのお皿、何処かで見た事のあるお皿だけど……」
「ちなみに、この皿には最初は汚い御札が貼られていたからはがして締麗にしたんだ。それからだな、調子が悪くなったのは」
――屋根の雪が落ちる音がした。霊夢が魔理沙に説教を始めてからどの位経ったのだろうか。説教の内容ももう三巡はしている気がする。
「……あのねぇ、御札とか貼ってあったらやたらはがしちゃ駄目なの! その小皿は無縁塚で拾ってきたんでしょ? そんなもの何が憑いてるかあんたには判らないでしょうに」
「流行神が封印されているとか素人が見ても判らないぜ。そんな滅多な物、ホイホイと捨てんなよ」
「流行神は信仰が失われるまで、人里から離れた所に捨てる必要があるのよ。それをわざわざ無縁塚まで出向いてあんたが封印を破ったから、伝染病が流行ったのねよ? 判る? 何で伴善男様が暇そうにしていたのか判ったわ。あんたが封印を破ったのね」
「そんなに大きな声を出すなよ。病み上がり途中なんだから」
「ああもう。あんたが馬鹿な事をしたお陰で、里の家を一軒一軒訪ねて廻らないといけないじゃないの」
霊夢が伝染病を治す為に、一軒一軒家を訪ねて崇り神に対する信仰を集める姿は面白そうだが……僕はそんなんで本当に伝染病が治るのか懐疑的である。崇り神の封印が病気を治すのであれば、僕が余り病気にならない理由や、妖怪と人間の病の種類が違う理由が説明付かない気がする。
迷いの竹林に現われた医者はそんな神頼みの治療ではなく、もっと高度な治療を施すと言う。見た事もない器具を使い、体の中を写真に写したり、痛みもなく患部を切り落としたり、時には駄目になった体の一部を正常な物と取り替えたりしてしまうらしい。
それはそれで、この目で見た訳ではないので僕は懐疑的なのだが……本当だとすると、迷いの竹林に現われた医者は、幻想郷の医療の現状に嘆いて開業した、知識人、もしかしたら外の人間なのかもしれない。
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第一八話 「うるおいの月」
散り急ぐ桜の花は雪解けを迎えたばかりの大地を白く染めていた。暫く暦を見る事を忘れていたが、外の景色から察するに四月はまもなく終わる頃か、もう五月に入っている頃だろう。今年の桜は咲くのが少し遅かったように思うが、数日の誤差は異変でも何でもない。ただ単に、今年の冬は暖かい日がたまたま少なかった、というだけだ。桜の花は暖かい日のみ芽吹き、寒い日は蕾を堅く閉ざすのである。暖かい日が少なければ、桜が咲くのは先延ばしになってしまう。
ところで、幻想郷に残された数少ない文を読み解いてみると、百年以上前の幻想郷では、桜の咲いていた時期は三月の初め[#「三月の初め」に傍点]であると書いてある。現在の幻想郷では、順当に咲けば四月の終わりから五月の初めくらいである事から考えると、三月の初めとは随分と早い。という事は昔の冬の気温は、一月半以上も桜が早く咲く程、今よりも遙かに暖かかったのだろうか?
勿論そんな事は無い、今も昔も冬は寒い冬である。桜が三月に咲いていたのには別の理由があるのだ。
「――私だったら、散っている桜の花びらを全て、撃ち落としてやるぜ」
「何よ、私だったら、散っている桜の花びらを全て、避けてみせるわよ」
「そんな落ちてくるのが遅いもん避けたって、自慢にもなりゃしないな」
「何を言っているの。速い弾よりも遅い弾の方が避け難いって事もあるものよ」
何やら、霊夢と魔理沙の二人が不毛な言い争いをしているようだが、それも仕様が無い。今日は花見をする予定の日だったのだが、中止になってしまったのだ。しかもその桜も、既に散り始めて緑色が目立つようになっているから、もう今日で最後になるかも知れないという。
そんな貴重な桜も無情な雨の所為で花見をする事すら叶わず、こうして席の中で暇を持てあましている状態である。花見の予定が狂った事と、悪天候で最後の花が散ってしまわないのかと気が気ではないのだろう。行き場を失った苛立ちが口から出て、言い争いとなってしまっていた。
「花びらなんて柔らかいもん撃ったって、何の自慢にもならないわ」
「じゃあ、自慢すれば私が一番乗りだな。花びら撃って自慢したという」
「さて二人とも、言い争いはそろそろ止めようか。花見が終わって夏が近づいた、今年の桜の花を散らすのは春風ではなくて春雨だった、それだけの事さ。何時までも不毛な言い争いをしてないで、もっと前回きに物事を考えていこうじゃないか」
「不毛だなんて失礼ね。私達は、桜と私達の新しい関係を模索していたの。前向きでしょ?」
「遠い未来を見通せる程に前向きだぜ」
言い方次第では前向きの様に聞こえてくるが、もっと近い未来、例えば今日、何をするべきか考えた方が良くないだろうか。
「私達は過去を振り返らない程に前向きだけど、ちょっと前に紫が『幻想郷の桜は咲くのが遅くて良いね』みたいな事言っていたわよ」
「ん? それはどういう意味なんだい?」
「『外の世界は急激に冬が短くなってぇ、今は三月中に桜が咲いて散ってしまうのよぉ』って言ってた」
霊夢は妙にゆったりした口調で説明した。紫の真似のつもりだろうが……全く似ていなかった。アレンジされ過ぎて誰なのか判らない。
「そ、そうか、それで彼女は冬が短くなった事について何か言っていたのかい?」
「『今年は二回も桜を楽しめた』ってさ。外の世界の桜と幻想郷の夜桜と」
何故、幻想郷の方だけ夜桜なのかよく判らないが、外の世界と幻想郷で桜の咲く時期に違いが出てきても、妖怪にとってなんら不都合な事は無いのだろう。
「そうか、外の世界では三月には桜が満開になってしまうのか。余程、外の世界の冬は暖かいんだろうね。まぁそれはいいや。二人とも退屈そうだから、ちょっと不思議な話をしてあげよう」
そう言って窓の方をちらりと見た。さっきより雨は小降りになっている気がするが、窓の外はしっとりと濡れていた。最後まで粘った桜の花もこの春雨ですっかり流されてしまうのだろう。
「不思議な話って何?」
「ちょっとした小ネタだけどね。外の世界の桜が咲くのが三月に早まったと言っていたが、昔は三月に桜が咲いていたんだよ。幻想郷でも外の世界でも」
「三月に咲いていた……って、一月以上も早く咲いていたって言うの?」
「それじゃ寒くて花見どころではないぜ」
「いや、実際には一月以上早く咲いていた訳ではないんだけどね。ただ単に三月に咲いていたと言うだけさ」
「何だよそれ。禅問答か?」
「旧暦だよ。今では殆ど面影はないが、百年以上前は太陰暦を使っていたんだ。旧暦では三月は新暦の四月の終わり位に当たるからね。旧暦を使っていた頃は、三月が桜の時期だったというだけさ」
「旧暦? ああ、旧暦ね」
「なぁ、前から気になったり、気にならなくなったりしていたんだが、旧暦ってなんだ? それに何で新暦に変える必要があったんだ?」
――僕は、二人の為に塩漬けの桜を浮かべた桜茶を用意した。ゆっくりとお湯を柱ぎ、器の中で桜の花が咲いたら飲み頃である。たとえ花の下に居る事が出来なくても、桜の花を楽しむ手段は幾らでもあるのだ。
「霖之助さんがこんなお洒落なお茶を用意するとは思ってなかったわ」
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「で、旧暦とは何かって話だったよね」
「それと、新暦に変えなければいけなかった理由だな」
「旧暦というのは太陰暦の事で、月の満ち欠けを基準とした暦の事さ。太陰暦では月の満ち欠けが一巡して、新月から再び新月になるまでの二十九日から三十日を一ヶ月とし、さらに十二ヶ月で一年としたんだ」
「ああもしかして、一年をいくつかに分けた期間を『月』って呼ぶのは、それが理由なんだな」
「その通りだよ。それは新暦である太陽暦に変わってからも、呼び名は変わっていない。だが現在使っている太陽暦は。一ヶ月が三十日から三十一日であるから、太陰暦の方が一ヶ月の日数が一日くらい少ない。旧暦の一年は、新暦の一年より十日余り短かったんだ」
「一年に十日ぐらい、誤差のうちだな」
「いやいや、そんな事はないよ。一年に十日も違ったら大変だ。十年も経てば春に雪が降る。二十年も経てば完全に夏と冬が入れ替わってしまうだろう」
「冬は暖かいな」
「冬が暑くなるんじゃない?」
「そんな感じで、だんだんと実際の季節と暦のズレが出てきてしまう。だから旧暦は、三年に一度くらいのペースで一年が十三ヶ月の年を設けたんだ」
「昔はたまに<十三月>があったと言う訳か」
魔理沙は桜茶を飲むタイミングを計っている。どの位待つと飲み頃なのか判らないようだ。ちなみに霊夢はとっくに飲み始めていた。
「いや残念ながらそれは違う。一年が十三ヶ月あったとしても、十三月という月は無かったんだよ。ではどうしたかというと、季節のズレが一番大きな月の後ろにおまけの月を追加したんだ。三月が寒くなって来て『これはもう二月の寒さだな』と感じられるようになった時に、三月の次の月も三月とした」
「そんな感覚的なもんなのか? 滅茶苦茶だな」
「勿論、実際には厳密な計算から求められるんだが、計算なんてのは感覚を数値化する為の道具に過ぎない。全ての計算の裏には感覚があるんだ」
「でも、同じ月が二回あるってのはややこしくないか? 十三月の方が直感的だぜ」
「二回目のおまけの月は、閏《うるう》月と呼んで正当な月とは区別した。例えば二回目の三月は、閏三月と呼んでね。旧暦から新暦に変わった理由だけど、この閏月と言う物が余りにもややこしかったし、季節の巡りと一致しないのは何かと不便だったからなんだ。だから、一気に現在の新暦である太陽暦が広まったんだ」
「へえ、昔の人は難しい事を考えて歴を作ったのねぇ。人じゃなくて妖径かしら? 何で最初から今の暦を使わなかったのかなぁ」
「太陰暦の方が、妖怪にとって都合が良かったからだろう。何日は新月だ、満月だと日付ですぐ判るからね。人間の持つ技術が進むにつれて、月が太陽に押されて次第に変わっていったんだろう」
「でもさぁ、幻想郷では妖怪の方が多いんじゃないの? 新暦に変える必要なんてあったのかなぁ」
「幻想郷で新暦を使うようになった理由は、外の世界が新暦を使うようになったから、ただそれだけだよ。隔離されたとはいえ、外の世界と同じ暦じゃないと何かと都合が悪いからね。太陽暦自体は別に幻想郷で生み出された暦ではないんだ」
「そりゃそうだろ。妖怪が月を使うのを止めて日を選ぶなんて、よく考えなくてもおかしいしな」
「そんな感じで要望がなかったのに無理矢理変わってしまったので、幻想郷の妖怪には未だ新暦に馴染めない奴らも居るって言う話だ。さらに言うと、幻想郷には妖怪が作った独自の太陰暦が存在するらしい」
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――二人は、不毛な言い争いをしていた頃とは打って変わって、機嫌を良くして僕の話を聞いているようである。
「妖怪の太陰暦、妖怪太陰暦。月の満ち欠けだけでなく、月の光の色と縁の周期を一月《ひとつき》とした暦で、人間が考案した暦より遥かに自然現象を読み取る事が出来る暦だそうだ。季節だけでなく地震や火山などの災害や、竹や笹の花の咲く時期、そういった物も周期に組み込まれているらしい。つまり日付を見ただけで、あとどの位で竹の花が咲くとか判ってしまう」
「凄いな、それは。そこまで色々判るのなら、その暦を人間でも取り入れればいいじゃないか。確実に便利になると思うんだが」
「だが、この暦には人間が使うには大きな問題がある。何故なら一日の長さが今の一日じゃない。というか、一日という単位が存在しない。最小単位が一月なんだ。人間の一日に合わせると、新月は夜中で満月は昼間みたいな感覚だな。それに暦が一周するのは六十年という長い期間だし……妖怪は寿命が長いからそれでも良いかもしれないけど、いくら何でも、寿命の短い人間には不便極まりないだろう?」
「ふーん。一日を嫌い、一月を選ぶ。妖怪はそこまで月に依存しているって訳か。だが、妖怪《あいつら》がそんな暦を使っている所を見た事がないぜ」
「作ってみたものの、結局殆どの妖怪は使っていないんだろうな。山の妖怪なんかは今でもそれを使っていると聞いているが……。ちなみにその妖怪太陰暦でも、閏月と同じ役目をする月は存在する。ただし、閏月という呼び名でばなく普通に十三月と呼ばれていて、この月がある年は特別妖怪の力が強まるらしい。妖怪が強くなる年って事で。人間にとって十三は不吉な数字だと言われている地方もあるらしいんだ」
「十三が不吉だなんて、聞いた事もないな。十三年に一度の蝉の話は聞いた事があるが……」
「その話は僕がしたんだよ。ま、十三が不吉な数字って話はこの辺りでは余り聞かれないね」
僕が持っている妖怪太陰暦に閲する知識はこの程度の物だ。これ以上詳しく聞かれても憶測でしか話せないので、お茶を淹れに席を立った。桜茶を淹れてしまうと外の桜の事を思い出して、また二人が不機嫌になってしまうかも知れないので、普通のお茶を淹れた。
僕の知っている事をあらかた出し尽くしてしまったので、会話が途絶えてしまった。静寂を破ったのは、霊夢の素朴な疑問の声だった。
「ところで霖之助さん。閏月や閏年の『閏』って何の事? 他の会話で『うるう』って言葉が出てくる事なんて殆ど無いんだけど……」
何事も当たり前と思わずに、細かい事でも疑問に思う事は大切な事だ。人間の成長は知識を増やす事と直結している。それは過去を良く知り、過去から現在、さらには未来を知る事に繋がる。
「閏かい? えーと、うむ、閏ってのは、本物ではない、って意味がある大陸の言葉だったかな。三月の後にある二回目の三月は本物ではない三月という意味で閏三月と呼んだのさ。大陸の言葉だから、妖怪太陰暦には閏の字が使われていない。それで、閏という字が閏月とかの暦以外で使われていない理由だが、この言葉が太陰暦自体と合わせて入ってきたからだろう。元々、この国には閏という概念は無かったんだ」
「なるほどねぇ」
「だが、閏という字は大陸では『うるう』とは読まれていない。閏が『うるう』と読まれるようになった理由だが……これがまたいい加減な話でね。閏って漢宇が大陸から入ってきた時代に、それに対応する日本語は存在して居なかったので、誰もこの漢字を読む事が出来なかったんだ。そのうちに、この字は潤《うるお》うに似ているから『うるおう』と呼ばれるようになってしまった。閏三月は、うるおう三月とかね、いい加減なもんだろう? さらに『うるおう』じゃ言い難かったもんだから『うるう』に訛ったのさ。だから、うるうという読みには量初から何の意味もない。この言葉が他の会話に殆ど出てこないのも、こういう経緯が言葉だったからなんだ」
「形が似ているから『うるおう』、さらに言い難いから『うるう』……ほんといい加減ね。霖之助さんはそれで良いの? 物の名前には人一倍うるさい人でしょう?」
「言葉というのは一人歩きする。それに関しては僕がどうこう口出しする物じゃない。それに僕はこの『うるう』という読みは気に入っているんだ。潤いの年、潤いの月があるなんて、原義の本物ではない月、よりずっと美しいだろう?」
「潤いの月ね、桜の咲いている時期に潤いの雨は要らないけどねぇ……って、雨が上がっているじゃないの!」
――窓の外はいつの間にか晴れ上がり、雲間から光が漏れていた。二人は諦めかけていた花見が出来ると言う事で、随分とはしゃいでいる。桜の花はまだ残っているのか判らなかったが、この二人にとっては宴会さえ出来ればどっちでも良いのかも知れない。
「今夜は霖之助さんも花見に参加するんでしょう? これで今年最後の花見になるだろうし、それに、潤いの桜も美しいしね」
「いつも言っているが、僕は外で宴会する事は奸きじゃないんだよ」
「ふん、何を言ってるんだ。散々話を聞いてやったじゃないか。そのお返しに花見ぐらい参加しろよ」
僕は理不尽な要求をされたが、今夜は花見に付き合ってもいい気分だった。春雨にも負けないで花を付けている桜があるとすれば、その花は一見の価値があると言えるだろう。雨露を蓄えた潤いの桜は、潤いの月の光の下で美しく散る、そんな美しい世界を想像し、僕はお酒が呑みたくなった。
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第一九話 「神社の御利益」
山には山の神、河には河の神。この地の全ての物や場所に神様は宿っている。手元にあるこの本も、拾い物の半導体も例外ではない。
だが、神様の中には神社に祀られる特別な神様もいる。この神様とその他の神様は何が違うのだろうか? 実はそこには大きな差はない。ただ単にその神様が人気があるか無いかだけである。
人間にとって御利益がある神様は人気がある。祀らないと崇られる神様もいるが、そういった崇り神も祀る事で祟りを避けられるから、人気があると言えば人気がある。
そういう神様にだけ神社が存在する。神社の存在は人気の有無という全て人間の都合で決まっている訳だが、神様にとっても全く無意味ではない。
というのも、神様の力量は人間の信仰心の量で決まるのである。例えばお稲荷さんや天神様の様に人間にとって大人気の神様は、神社を数多く造る事で、元の倉稲魂命《うかのみたまのみこと》や菅原道真であった存在より遥かに強大な力を持つ事に成功している。
反対にどんどん人々が信仰しなくなってしまうとどうなるのかと言いうと……神様は力を失い、そしてその神様の事を憶えている人がいなくなった時に消えてしまったのと同然になってしまう。神様は信仰を集める事に努力しないと、存在すら危ぶまれてしまうのだ。
「――何で、うちの神社に妖怪が多過ぎるんだろう」
「だから、人間の参拝者を増やさないと、神様は妖怪を追い払うだけの力を身に付けられないんじゃないか」
「でも、妖怪が居たら人間が寄り付かないじゃない。それじゃあどうしようもない」
「確かに、目に見えて判る悪循環だね」
巫女である霊夢が、仕事もしないでうちに遊びに来ている事も問題の一つだと思う。それでも昔は参拝客は今ほど少なくなかったし、妖怪も近寄らなかった。今のようになってしまったのは、現役の巫女である霊夢の責任であると言わざるを得ない。
彼女も気にしているのか、今回は信仰を取り戻す為の相談にうちに来たのだと言う。
「まあ、信仰が減っても妖怪退治をしている事には変わりないから、うちの神社としては良いのかも知れないけど」
「霊夢、それは違う。信仰が失われる事は神社としては致命的な事だよ」
「そうねぇ、お賽銭が入らないもんねぇ」
「いやいやそんな単純な理由じゃない。信仰が失われると言う事は、神様の力を失うと言う事だ。これでは別の悪霊が神社を乗っ取ってしまっても抵抗する事が難しくなってしまうよ」
「うーん、と言ってもねぇ……。どうしたらいいのかなぁ」
「神社から妖怪を追い出したいのなら、例えば、最終手段としてこういう方法がある」
「って、いきなり最終手段しか無いのかしら。まあ良いけど、どういう方法?」
「それは新しい神様に頼るという方法だ。今の神様は諦めて、人気の神様に神社に来て頂いて信仰心をあやかるんだよ。博麗神社の神様は殆ど名も知られていない神様だし、御利益もよく分からない。それでは参拝者も来なくなるし、信仰心は失われても仕方がないだろう」
「神社に祀られている神様を変えるって? そんな事して良いの?」
「それに関しては何も闘題はない。日本の神様は分霊《ぶんれい》と言って、神霊を無限に分けても力は変わらない性質を持っているんだ。その神様の力を、そっくりそのまま神社に持って来る事が出来る。分霊を頂く事を勧請《かんじょう》と言うが、これは外の世界では日常的に行われている事だよ」
「へぇ、新しい神様ねそれはそれで気分転換にもなるし面白いかも知れないわ。お酒の神様とか勧請すれば、御利益も判りやすいし信仰心も集まるかもね」
「お酒の神様なら、浅間《せんげん》さま、すなわち木花咲耶姫命《このはなさくやひめのみこと》を勧請するとかもいいね。この神様は、通常は山の神様だが酒の神様でもある。非常に美しい女神という事もあってとても人気の高い神様だよ。神社の名前は判りやすく、博霊浅間神社に変えるとか」
「うーん。名前を変えるのは何となく気が進まないないわね……」
「祀られている神様が変わっても、人間がそれを知らなければ全く意味がない。だから、普通は名前も合わせて変えるもんさ」
――カランカラン
「おう。梅雨だっていうのに今日は雨が降っていないな。せっかく晴れているから雨乞いでもするか」
「相変わらず意味が分からないよ、魔理沙」
「雨が降っていないのに何の話をしてるんだい?」
「神社の大切な相談をしていたところさ」
「神社の相談? 霊夢、あの妖怪神社に何かあったのか?」
その妖怪神社と呼ばれている事に問題があるのだが。
「やっぱり参拝客が少な過ぎてねぇ。お賽銭も狸の入れた葉っぱばっかりだし……」
「なんだそんな事か。大丈夫だぜ、その葉っぱの大半は狸じゃなくて私が入れた物だ」
「何が大丈夫なものか、霊夢が言っている事の間題は、狸に誑かされている事なんかじゃない。参拝客が居ないという事は、信仰心を失っているという事だ」
「別に神様なんか頼らなくても妖怪は倒せるぜ……って事は、神社って何の為にあるんだろうな」
信仰心が足りないと神様や神社はどうなってしまうのか言う事を、面倒だったがもう一度魔理沙にも説明した。
「なるほど。確かに神社が別の変な妖怪に乗っ取られてしまったら面倒だな。でも参拝客を増やしたかったら、簡単な方法があるぜ」
「何かしら?」
「大きなお祭りをやれよ、博麗神社例大祭とか。そうすれば祭り好きな人間が集まってくるだろう? 足りなかったら毎週お祭りをすればいい。博麗神社に足りないのは人を惹き付ける魅力だよ。毎日宴会してばかりじゃ、わざわざ人間が参拝に来る筈が無いだろう?」
魔理沙の言う事も一理ある。人間は自分に都合の良い神様しか参拝しない。人間の生活が豊かになればなるほど、神社は不要な物となっていくだろう。だとしたら、お祭りの様な人間向けのイベントも必要かもしれない。
「うちで例大祭をやっても、どうせ妖怪ばっかが集まるわよ。妖怪が居たら人間も集まらないでしょ?」
「まぁな、お祭り騒ぎが大好きな妖怪ばっかだからなぁ」
「まあそう言う事で、今は神様を勧請するかとか考えていたのよ」
「はあ? かんじょう? 何だそれは」
魔理沙に、勧請とは祀ってある神様を変えると言う事を説明した。
「それで勧請したら、今現在神社に居る神様はどうなるんだ?」
「最初は一緒に祀られたままになるわ」
「最初は、ってどういう意味だよ」
「忘れられてしまえば、自然と消えてしまうって事よ」
「何だって? 消えてしまうって!?」
――さっきまで夏の様子を見せていた窓の外が若干暗くなった。まだ夕方までは時間があるので、きっと雨が来るのだろう。梅雨の本領発揮と言う所か。
「神社の神様が消えてしまうだって? そ、それはちょっと……霊夢はそれでも良いのか?」
「それをやらないと神社自体が消えてしまうかもしれないのなら、吝《やぶさ》かでもないかなと」
「ところで、博麗神社の神様ってなんだっけ? 悪霊……は違うよな」
「余り記録が残っていないのよね。昔に悪霊に取り憑かれた事はあったけど……」
神社の巫女ですら知らない神様なんて、信仰心が失われて当然である。
ただそれも仕方がない。幻想郷では神様は自然の中に普通に存在していた。その為、神社の様な特別な場所は余り必要ではなく、神様にお願いしたければ何処でも良かったのだ。
幻想郷には神社は、博麗神社の一つしかないと言われている。つまり神社はユニークな存在であり、博麗神社の事をただ単に神社と呼ぶ事が多い。神社同士を比較する事も無いが故に、神社で神様を祀っている事すら忘れがちである。
案の定、幻想郷の人間は神社の存在価値を見いだせなくなっていた。
「まぁ二人とも、神社の今後の判断は霊夢に任せるしかないよ。ただ一つ言える事は、博麗神社は幻想郷の境界という重大な役割も持っている。神様が誰であれ、それだけは変わらないんだ」
「でも、神社の御利益がよく分からないのは大問題よね」
「というか、御利益なんかあるのか? お賽銭入れても何も変わった気がしないぜ」
「そりゃ葉っぱ入れても御利益はないわよ。うちにも何か御利益のある神様も祀った方が良いのかしら。やっぱりお酒の神様と言う事で木花咲耶姫命かな」
お酒の御利益があってもお酒を造る人しか喜ばない。お酒を造っている人なんて少ないと思うのだが。
「ところで素朴な疑間だけど、神様は何で祀ると御利益があるの? 神様もその辺の妖怪も余り差は無いでしょ?」
――店全体が暗くなった。本格的に雨が降り始めたようだ。魔理沙は窓の外の天気が気になるのか落ち着かない様子だったが、霊夢は純粋に疑問に思っているようである。
「君は巫女なのに不勉強すぎるね、修行も嫌いだと言って余りやらないし。お酒ばっか呑んでいないで少しは勉強も修行もしないと神社の危機は免れないよ」
「だからこうやって勉強してるんでしょ?」
「まあいい。この際だから教えてあげるよ、神霊を祀ると何故御利益があるのかを」
「はいはい」
「全ての物には神霊は宿ると言うが、厳密に言うとその言い方は間違いである。全ての物に宿るのではなく、名前が付けられる前の物体[#「名前が付けられる前の物体」に傍点]が神霊である。名前の無い物体が神霊その物で、それに名前を付ける事で神霊の力の一部を借りる事になるんだよ」
「そう言えば、そんな様な話を前に聞いたような気がするわ」
「前に言ったかもね、確か骨の石の時だったかな? まあそれは良いとして、神霊は妖怪と違って常に二つの性格[#「二つの性格」に傍点]を持っているんだ」
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「妖怪は大体単純なのが多いし、一つしか性格を持っていないから二倍も違うわね」
「その二つの性格はそれぞれ、和《にぎ》と荒《あら》と呼ばれていて、このうち和が人間に対して優しい性格だ。これが通常、御利益と呼ばれる物」
「ええ? 性格が御利益?」
「神霊は全ての物の元だって言っただろう? 神霊の性格は物の性格なんだ。だから神霊の感情と力がそのまま物質に現れる。お酒の神様が力を持てば、自然とお酒も良いお酒になるって事さ。ちなみに、和にはさらに二つに分かれて、幸《さち》と奇《くし》と言う性格に分かれる。幸は人の心をみたし、奇は知識を授ける。これをまたまたお酒の神様に例えて言うと、幸はお酒の味や香りを良くし、奇は新しいお酒の技術を授けてくれるって訳さ」
「和、幸、寄……どれも良いことずくめね。これは本格的に木花咲耶姫命を勧請しようかな」
「ま、木花咲耶姫命以外の神様も、それぞれ御利益と言える性格を持っているさ。だが忘れてはいけないよ、神霊には和とは別のもう一つの性格がある。それが荒だ」
「あらあら」
「荒は神霊の怒りであり、崇りとなって環れる部分だ。お酒の神様で言うと荒の性格がもたらす作用とは、お酒が不味くなるどころか、毒に変化したり同じ場所で二度とお酒を作ることが出来ないような事態になりかねない」
「それは嫌ねぇ。神様は怒らしてはいけないって事なのね。で、神様には必ず和と荒の二つの性格が存在するの?」[#挿絵(pic/24「程度の差はあれ存在するよ」
「穏やかな性格だけの神様は居ないのかぁ」
「神霊、つまり幻想郷に存在する全ての物には、良い面と悪い面の二つの面があると言う事さ。でも、荒の性格が悪い物と言う訳ではない」
「お酒が不味くなるのなら悪い物でしょう?」
「とんでもない。荒の性格こそが神霊の本当の力さ。この荒を祀る事で、悪い面から人間を守る事に繋がるんだ。つまり、お酒造りを邪魔する外敵からお酒を守ってくれるのさ。結論を言うと御利益というのは、荒の性格を鎮め、和の性格に感謝する事で神様の力を増す事を言うのさ」
「ふーん。よくみんな神頼みって言うから神様が一人一人の願い事を叶えて廻るのかと思ったけど……そうじゃなかったのね。本当は、神様の力が増す事自体が御利益に繋がっていたと言う訳かぁ」
「神様を喜ばせれば、人間にとっても御利益がある。退治をすると人間が喜ぶ妖怪と違う部分はそこさ」
「それは……神社にとって気楽で良いわね」
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昼間とは打って変わって窓の外は暗くなっていた。梅雨らしく雨が降っていたので、霊夢も魔理沙もうちでタ食を食べる事になった。
そんなつもりはなかったのだが、昼間にお酒の話ばかりしてしまったので今日は様々なお酒を呑む事にした。
「う〜ん。このお酒も浅間さまの御利益なのねぇ」
「って事は、このお酒も浅間さまの御利益だな!」
「二人とも飲み過ぎだよ」
「浅間さまにかんぱ〜い」
神社が存在して人間の願い事を聞く事は、別に神様のお仕事でも何でもない。願い事を言って貰えるだけで信仰心が集まるので、神にとっても都合が良かったからだけである。だから、人間は神社に行って少ないお賽銭で、自分勝手な事を神様にお願いしても構わない。神霊は気楽に幻想郷を楽しんでいるだけの、妖怪の一つなのだから。
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第二〇話 「八雲立つ夜」
入道が乗っているといわれる夏の雲がひとしきり雨を降らせたと思うと、昼間の暑さを奪って何処かへ行ってしまった。雨露に濡れた月の光が窓から差し込んでいる。
霊夢と魔理沙の二人は昼から店内にいたのだが、突然の夕立の所為で帰る事が出来ずに今夜は店で夕食を取る事になった。
「最近、紫の様子がおかしいのよ。もぐもぐ」
「あいつの様子がおかしいのは今に始まった事ではないぜ。もぐもぐ」
「二人とも、口に物を入れている時ぐらい喋るのを止めたらどうかね」
今日は一人で食事をするつもりだったから夕食は質素な物だった。そもそも僕は余り食事を取らないのである。夕食と言っても精々、お新香をつまみにお酒を呑む程度である。そもそも人妖である僕には、食事は愉しむ為にするだけであり生命維持の為に行うのではないのである。お酒が美味しく呑めれば、それで十分なのだ。
だが霊夢と魔理沙の二人はそういう訳には行かず、何か食べ続けないと力尽きいつか倒れてしまうだろう。幸い酒の肴は塩分が高い物が多くご飯にも合う。お米と塩分さえあれば暫くは元気が出せるであろう。
「紫の様子がおかしいって、あの妖怪、八雲紫のことかい?」
僕はあの妖怪が苦手だ。外の世界の物を扱ううちとしては、外の世界と幻想郷を別けている彼女にお世話になっているのだが、近くに居られると常に何か見透かされている気がして落ち着かない。
「最近、紫が私に稽古を付けたりして、何かおかしいのよね」
「霊夢に稽古? ……妖怪が? 変だね、妖怪が妖怪退治の専門家に稽古を付けさせるなんて……。それは確実に何か企んでいるっぽいな。それで霊夢は何か対策を取っているのかい?」
「だから紫が何を企んでいても大丈夫なように、しっかりと稽古する事にしたの」
「まぁそれしかないと言えば、それしかないけど……」
それはどのみち、紫の言う通りに動く事になっている。
幻想郷が幻想郷たる所以は、八雲紫の境界を操る力があるからである。彼女がその力を持って外の世界と幻想郷を別けているのだ。幻想郷で彼女に逆らえる妖怪は殆ど居ない。人間の力が及ばないのは言うまでもないだろう。
「……八雲、紫か。自ら『八雲』って名乗るぐらいだから、どうあがいても『巫女』は彼女の言いなりになるしかないだろうね」
食事を終えたので月を眺めながらお酒を呑む事にした。昼の暑さを夕立が全て流し、お陰で涼しい夏の夜となった。お月見には最適な夜であるのだが既に霊夢と魔理沙の二人は入り口前の特等席に陣取っていたので、僕は後ろで立って呑む事にした。
「あーそういえば神社に洗濯物干しっぱなしだったわ。さっきの夕立大丈夫かなぁ」
「いやまあ、大丈夫な訳が無いぜ。店から出られないくらいの雨だったんだからな」
「そうねぇ、もう一度洗わないとね。ところで霖之助さん、さっきの話の続きなんだけど……何で『私が紫の言いなりになるしかない』の?」
「ああ、だって八雲紫って名前が全てを表しているだろう?」
僕は物を見ただけで名前が判る能力を持っている。その事もあってか名前に関してはちょっとうるさい。
物に付けられた名前には大きく分けて二種類ある。それは『物の性質を表す名前』と『物の性質を決定付ける名前』である。前者は物の色や形等の見た目や、他の物とは異なる特徴、道具の場合等は用途で命名した物である。道具や動植物、自然物等は殆どこのパターンである。
後者はまだ性質が定まっていない物や、ただ単に物と区別したい時に名づける物である。この場合は最も命名の力が大きく働く。だから人間の性格等は名前で大きく変わってくる為、名付けの親は様々な意味を持たせるのが普通である。
決して口に出した時の語感だけでは命名しないものだ。
「八雲紫の『紫』は虹の最も外側の色だ。虹というのは雄の龍と雌の龍の通り道として二つの輪っかがセットで現れるんだが、お互いの外側の色が紫なんだ」
「確かに、虹って良く見ると二つ見える時あるけど……色の並びは覚えていないわ」
虹が現れる時は、良く見ると比較的はっきり見える内側の虹と、その外側に薄い虹の二つが掛かっている事が多い。それぞれの虹の色の並び方は異なっている事は余り知られていない。
内側の虹は下から順に紫、藍、青、緑、黄、橙、赤の順に並んでいるが、外側の虹は下から赤から紫の逆順に並んでいる。つまり、二つの虹を纏《まと》めて見ると下から順に見て紫から赤になり、赤からまた紫に戻る形になっているのだ。虹と空の境界は必ず紫色なのである。
「それだけでも自分の名前が境界を暗示しているだろう? それともう一つ。『八雲』の方だが……言葉の意味だけ取ると八雲とは『幾重にも重なった雲の事』である」
「言葉の意味だけってどういう意味?」
「と言うのも、八雲という言葉は単体で使われる事は少ないんだ。八雲とは神々の地の出雲に掛かる言葉である事が多いんだ。彼女の場合は恐らく『八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を』の八雲を取っていると予想できる」
「何よその呪文」
「これは素盞鳴尊《すさのおのみこと》が詠んだ和歌だよ。何とこれが日本で最初に詠まれた和歌だと言うのだから驚きだろう?」
「へぇ。素盞鳴尊って荒々しいイメージだったけど歌を詠んだりしてたのねぇ。それでどういう意味の歌なの?」
「内容はもの凄くシンプルで『幾重にも美しい雲が重なる出雲の国に、我が妻である奇稲田姫《クシナダヒメ》を隠れ住ます為に八重垣(幾重にも重なった厳重な垣根)の家を造ったぞ』って感じの物だ」
「……えーっと、家を造ったってだけ? 歌としてはどうなのかしら」
「まあ初めての和歌だからね。八重垣を繰り返して言う所なんか、家を作った事で浮かれている感じが歌に表れていて良いじゃないか」
「馬鹿っぽいとも言えるけどね」
巫女が神様に対して馬鹿っぽいと言うのも如何な物かと思うが……。
「結論を言うと八雲紫という名前は、境界を意味する下の名前と併せて『神様を閉じこめる堅固な囲い』を表しているんだ。神様を巫女に置き換えればまさに幻想郷の構図だね。紫は決して幻想郷から巫女を逃がそうとはしない」
霊夢は黙ってしまった。思い当たる節はいくらでもあるのだろう。
このまま黙ってお酒を呑んでも美味しい事は美味しいが、それ以上の楽しみが無いので僕の方から新しい話題を振る事にした
「さっきの和歌だけど、口に出してみるともう一つの側面が見えてくるんだよ」「八雲立つ……えーっと何だったか忘れたぜ」魔理沙がそう言ったので、僕はもう一度復唱した。
「『八重垣』が何度も出て来てリズム感があって詠んでて楽しいだろう? それに、その八重垣は全て最初の八雲の『や』に掛かっているんだ」
「や、や、や……確かにやかましいくらいだけど。何でそんな事したのかしら?」
「勿論この事に意味がない訳がない。この『や』は八が持つ本来の意味を暗示しているんだよ」
「本当かしら? で、どういう意味なの?」
「それは天照大神から身を隠すのに最適な『夜』と言う意味だ」
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風が冷たくなってきた。先ほどの夕立で湿った地面が乾き初め、それと同時に熱を奪われた空気が動き始めたのだろう。僕は燃料《おさげ》を追加した。燃料は体を冷やしすぎないのと同時に、飛躍的過ぎる程の新しい発想力を生む。平常心では新しいアイデアは常識レベルを超えないからだ。
「実は八と言う数字は夜と密接な関係があるんだ。八も夜も『や』と読むだろう?」
「それだけだと、焼き肉も夜になるぜ。ま、普通は夜か。でもそれだけじゃあ偶然じゃないのか?」
「八と夜だけならそう思うのも仕方がないだろう。だが不思議な事に、他の国の言葉でも八と夜は殆ど一緒の読みなんだよ」
「そうなの? 流石に他の言葉はよく知らないけど」
「英語の『エイト』と『ナイト』、ラテン語の『オクト』と『ノクト』、ドイツ語の『アハト』と『ナハト』……他にも世界の言語の多くが八と夜が似ているんだ。これでも偶然かい?」
「ふーん、外の世界の国の事はよく判らんがな。ま、どうして八と夜の言葉の読みが似ているんだ?」
「これには諸説あって、残念ながら正確な理由は誰も知らない」
「何だよ、持ち出しておいて理由は判らないのかよ」
「何しろ他の国の言語は語源に関しても調べる事が多すぎて単純じゃないんだ」
魔理沙は不満そうだったので、今度調べておくよ、とだけ答えておいた。
「でも、日本に限って言えば理由は想像付く。日本では『八雲』、『八重垣』、『八百万の神』と、八とは単純に個数が八つと言う意味ではなく、数が非常に多いと言う事を示している事もあるのだが……その用途に使われる時は必ず『や』と言う読み方をする事に注目したい」
「坂の多いと言う意味の『八坂』、幾重にも花びらが重なった『八重桜』、多くの首を持つ『八岐大蛇』……。確かに、多いという意味の時んも読み方は『や』ね」
「これらの言葉は、漢字が当たられる前から存在していた古い言葉なんだ。今の日本語では、数が多い事を八とは言わないよね」
「八人前で大量に持ってこられても困るぜ」
「結論から言うと、数が多い『や』に八の字を当てたのは、八が大きい数だったからに過ぎない」
「八が大きい数宇 もっと大きい数なら幾らでもあるぜ?」
「いや、一桁の数字で考えると九が最大だが、八も九に次いで大きな数字だ。でも九は久、つまり永久を意味し、昔から無限を表していた。漠然と多いと言う状態は有限だから、感覚的に無限よりは少ない事が判る。だから、九の一つ下の八の字を『や』に当てた、と言った感じじゃないかな」
「ふーん。元々八は『や』とは読まなかったと言うのね? それが夜と何の関係が?」
「八ではなく夜が『や』だったんだよ。非常に多いと言う言葉に夜を当てたんだ」
それだけではない、日本の数字の呼び方にはもっと多くの秘密が隠されている。
「何で非常に多いという言葉が夜なのかしら?」
「今夜みたいな、月の明かりだけが頼りの夜に空を眺めて見ればいい。何で夜が非常に多い、と言う言葉になったのか判ると思わないかい?」
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数刻前に夕立を降らせた雲の姿はもう何処にも見あたらなかった。その代わり、幻想郷の夜は無数の星で埋め尽くされていた。お酒を呑むのを忘れて星空を眺めた。空に流れる銀色の河は、全ての星の数を数え上げようとした無謀な挑戦者の野望を打ち砕くのに十分過ぎた。
それとは対照的に昼の空に浮かぶ太陽は無二の存在であった。天照大神、つまり太陽が最高神として崇められる様になるのは当然の結果であろう。
夜には無数の星が浮かんでいた。まるで太陽から身を隠さなければいけない者達のか細い光の様だった。満天の夜空は、人間の存在が太陽に比べるとちっぽけな物だと言う事を感じさせられると同時に、太陽に負けた妖怪達の切なさも表しているようだった。
「何にしても、紫が何を企んでいても大丈夫な様に修行するしかないのね」
「ま、そういう事になるかな。霊夢にとっても稽古になって力が付くのなら良い事だし、それに……」
紫に敵う訳が無いのだから、逆らう理由も無いのだ。
「うん。取り敢えず神社に帰ったら、新しい修行のメニューでも考えるかな」
「その前に、夕立で悲しい事になっている筈の洗濯物を再度洗濯するのが先だぜ」
「うう」
「大体、夏に夕立なんて付き物だ。昼間晴れていようと、外に洗濯物を出したまま長時間家を離れるなんて不用心過ぎるぜ」
「洗濯物は濡れてるんだから、雨で濡れても似たような物だし」
「まあそうかもしれんけど」
「いやいや、そんな事ばかりしていると服が傷んでしまうよ。そうじゃなくても君たちの服は弾幕で寿命が短いんだから、洗濯ぐらいはちゃんとした方が良い。物を大切にしないといけないよ」
「はいはい。明日は乾くまで神社を離れないわよ。夏の日差しなら一眠りもすれば乾きそうなもんだしね」
「眠っていたら留守なのと変わらんがな」
数字の一は『ひと(つ)』とも読める。一二三を『ひぃふぅみぃ』と数える様に、一は『ひ』である。それは言うまでもなく日、つまり太陽の事だった。日本の数字は、太陽に始まり『ふう(風)』『みい(水)』と空、大地と経て、夜まで繋がっている。日本の数字は九までで森羅万象を表しているのだ。
数字一つとっても言葉とはこれだけ深い意味を持っている。だからという訳でもないが、名前に数字を含める事は深い意味を隠しやすく。強力な妖怪ほど数字を名前に含めたりするのだ。数字を、ただの個数を表すだけの言葉だと思ったら大間違いである。そう思って周りの物を見てみると良い。巧妙に隠された秘密が見えてくるかも知れない。
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第二一話 「幸運のメカニズム」
ここに賽子《さいころ》が一つあるとする。この賽子を机の上に投げた時、賽の目は誰にも予想できないだろう。
例として投げた賽子の目が一だったとする。では、もう一度同じ賽子を投げたときはどうなるだろうか。
勿論普通に投げたら何が出るのか判らないので、ある条件を付けるとする。条件とは賽子の初期条件を一致させる事、つまり位置、角度、力の入れ具合も全く一緒にすると言う条件である。
するとどうなるだろうか? 賽子は一回目と同じように回転しながら空中を舞い、そして全く同じ時間に全く同じ角度で机の同じ場所に当たり、同じように跳ねるだろう。初期条件を全く同じにする事は妖怪ならば出来ない事もないが、人間の手では難しいかも知れない。その場合はそういう装置を作っても良い。
これならば、賽の目は再び一になる筈である。この事実が何を意味するかと言うと、何らかの拍子で世界に存在するあらゆる物体が、過去の一点と全く同じ状態に陥ったとしたら、そこから歴史が繰り返されるという事である。その瞬間から予定された未来が訪れる。さらに言うと、繰り返された歴史の最後には、必ずもう一度今の状態に戻ってくる事も予定されているのだ。もしかしたら世界は既に何度もループしているのかも知れない。
『――カランカラン』
店の扉がいつもの様に来客の音を立てたのは、ある作業をしている途中だった。日常がループしているかいないかを確かめる為に必要な作業だ。
それは日記を書く事である。二、三年前から書き始めた日記は、分量にして既に数冊分になっていた。日記とは、僕が見てきた幻想郷の仕組みを書き留めた物であり、有り体に言えば後の歴史書[#「後の歴史書」に傍点]である。
妖怪は人間より圧倒的に寿命が長い為か、余り幻想郷の歴史を纏《まと》めようとしない。それは常に人間より優位に立てるという利点と、自分に都合が良いように歴史を変えたいと思っているのだろう。人間は歴史から様々な物を学ぶのだが、妖怪はその選択肢を意図的に奪っているのだ。
里に住む妖怪達は、毎日の生活を楽しむ事しか考えていない。山に住む妖怪達は、同じく山に住む同士達の為だけに歴史を創る。里に住む人間は歴史を纏める余裕など無い。これでは幻想郷の歴史はまだ動き始めていないのと同じである。
僕は人間と妖怪の為に日記を書いている。僕の日記はそのまま幻想郷の歴史書となる予定である。それが幻想郷に住む妖怪と人間のありきたりの生活に吹く、新しい風となる筈だからだ。
「――いやぁ、今日は大漁だったぜ。こんな日は二度と無いかも知れないな」
「何を大げさに言ってるのよ。ここん所毎年こんな感じじゃないの」
魔理沙と霊夢の二人が、帽子や肩に掛かった落ち葉を払いながら店に入ってきた。
数年ほど前からだろうか、季節の変わり目になると何故か幽霊が増加するので、この時期に霊夢達が幽霊を片付けてまわるのが恒例行事の様になっていた。
毎年繰り返される幽霊増加、僕にはかすかに覚えがある。やはりこの世界は操り返しているのだろうか。
「どうだい、今回の幽霊退治は。少しは幽霊は減ったかい?」
「それが今回も幽霊退治三昧よ。毎年増える一方なんだけど……何か対策した方が良いのかなぁ」
「実害がないのならば放っておけばよい。幽霊は、陽気で身が軽い[#「身が軽い」に傍点]から宴会騒ぎを見つけると集まってくるんじゃないか?」
「実害ならあるぜ」
「なんだい?」
「幽霊は食べられない」
あれは六十年以上前だっただろうか……今と同じように幻想郷に幽霊が増加した時期があった。幻想郷はその当時から変化する事を放棄し、平和な生活を築いていた。
安定した状態で且つ変化を嫌い、今のままであり続けようとする状態を『平和』という。今の幻想郷は六十年前のあの頃と同じような『平和』な状態にある。六十年周期で歴史を繰り返す……つまり、これから六十年先までの未来は全て懐かしい物[#「懐かしい物」に傍点]なのかも知れない。
「この店に幽霊ホイホイとがないのかしら? 置いておくだけで幽霊が捕らえられるような何か……」
「うーん、幽霊を捕らえるったって、幽霊はとりもちにはくっつかないからなぁ。それに箱だろうが何だろうがすり抜けるし……」
「でも、とてもじゃないけど退治仕切れないのよ。このまま幽霊が増え続けたら、この世はあの世になってしまうかも知れないわ」
「大丈夫だよ。暫くしたらこの幽霊騒ぎも収まる。そういう未来が予定されているんだ」
霊夢は怪訝な表情で僕を見た。
「霖之助さんも、吸血鬼や妖怪達と同じ事を言うのね」
昔は幽霊が異常発生したと言われているが、この店に出る[#「出る」に傍点]事は少ない。そもそも幽霊は騒々しい処に集まりやすい。幽確自体が儚くて今にも消え入りそうな存在だからであろうか、自分の存在を実感しやすい賑やかな場所に集まる。それは生きていた時の人間と同じで、人の多い処に集まるのだろう。
「未来が予定されているって言うけど。そんな訳ないぜ。毎日の生活が運だけで成り立っている様な奴もいるしな」魔理沙が霊夢を見てそう言った。
「まぁ運だけというか勘だけど、勘だって何らかの根拠があっての勘なのよ」
魔理沙が信じられない、といった顔をした。
「宴会でちんちろりん[#「ちんちろりん」に傍点]やったときも、勝負にならないくらい賽の目を当てるじゃないか。そんなのに一体どういう根拠があるって言うんだよ」
ちんちろりん? ああ、賽子の目を当てるだけの単純なゲームの事か。宴会で賭博とは極道の世界の様だ。
「魔理沙、霊夢が賽の目を確実に当てる事が出来るのは、きっと予定された未来を瞬時に計算しているからだと思うよ」
賽子の目が決定されるメカニズムに対する僕の考えを伝えた。霊夢は恐らく。賽子の初期状態を見て直感で結果が計算できるに違いない。世の中にある幸運とはそういう物だ。
「霖之助さんそれは全然違うわ。いくら何でも賽子見ただけでそんな計算できっこないわよ。計算高い人は確率でしか考えないじゃない。それに、たとえ計算してもその結果通りにはならないの」
「何故そう思うんだい? 確かに計算出来る訳がないってのはそうか知れないが、もし計算出来たら未来が読めるって事になるじゃないか」
霊夢は呆れた様な顔をした。
「運に関しては私の方が数段理解が深いみたいだから、今日は私が教えてあげるわ。確率のメカニズムを。あとついでに来来が予定されていない事も……」
そういうと霊夢は三人分のお茶を煎れ。嬉しそうに手渡した。
霊夢の勘の良さの理由が聞けるのであれば楽しみである。僕はお茶を冷ますのも忘れて口に運んだ。
「……ほう。霊夢は初期条件が全く同じになった賽子ですら、同じ目が出るとは限らないと言うのかい?」
「当然そうなるわね。それだけで結果が決まる訳がないじゃない」
霊夢の話は難しい話ではなかったが、そこに衝撃的な真実が含まれていた。
霊夢曰く、この世界は三つの層から成り立っているのだと言う。
まず、生き物や道具などがある物理的法則に則って動く物理の層。物体が地面に向かって落下したり、河の水が流れたりするのがこの層である。
二つ目は心の動きや魔怯や妖術などの心理の層。嫌な奴に会って気分を害したり、宴会を開いてわだかまりを解いたりするのがこの層。大抵の妖怪はこの物理の層と心理の層の理だけで世界を捉えているから、歴史が繰り返したり、未来が予定されているといった戯れ事を言うのだと言う。
だが霊夢曰く、三つ目の世界の層が世界のループを拒むらしい。その三つ目の層とは、万物が出来事を覚える記憧の層。記憶の層は増える一方で減る事が無いから、過去と全く同じ状態には成りえない。もしそれが過去と同じ状態になるのだとすれば、過去と同じになったという記憶は行き場を失ってしまうから矛盾している。記憶の層は増える一方なのだ。
物理の層が物理法則で、心理の層が結果の解釈で、記億の層が確率の操作を行う感じで、相互に作用して未来を作る記憶が過去の一点と同じになる事が有り得ない以上、未来が予定されることなど無いと言う。
例えば賽子を一回振って一が出たとする。もう一度全く同じ条件で賽子を落としても、一が出たという事実を賽子が覚えている以上、同じ確率になるとは限らないという。
そこまで聞いて理解しようとしていた所で「それで、どうして賽の目を読めるって言うんだ?」と魔理沙が質問した。
僕は霊夢が考える新しい世界の図に気を取られていたが、魔理沙は冷静だ。賽の目が読める様になれば、ちんちろりんで負けないだけでなく、霊夢並みの幸運を手に入れられるかも知れないからだろう。
「別に私は次に出る賽の目を読む訳じゃないわ。私が賽の目を予想した[#「私が賽の目を予想した」に傍点]という事を、賽子が覚えているの」
賽の目の記憶に霊夢という幸運のカードが入るだけで、結果が大きく霊夢側に偏るのだという。結果が霊夢に付いてくる[#「結果が霊夢に付いてくる」に傍点]らしい。
「何だそれじゃあ、そんな知識、幸運の持ち主以外役に立たないじゃないか」魔理」沙はふてくされた。
[#挿絵(pic/26/02.jpg)入る]
僕は世界の中で運の存在を何か嘘くさい、いかがわしい物だと思い込んでいた。それは未来が予定されていると考えていた事が大きな要因である。縁起物だって、ただのこじつけの塊だと認識していた。
だが、霊夢の言葉を聞いてこの世における運の存在を再確認した。運の良い人間、悪い人間は確かに存在する。瞼を担ぐ事で成功する人間もいる。ジンクスに囚われ失敗する人間もいる。それら全て初期条件だけと考えるのは確かに乱暴かも知れない。
確率の決定が記憶の力による物だとすれば、縁起物が確率を操作する力を持つのも当然なのかも知れない。由来が複雑で奇異である程、記憶は多岐にわたり縁起物の格が上がるのもそれを意味している。
霊夢は『この世の物質、心理は全て確率で出来ていて、それを決定するのが記憶が持つ運』だと付け加えた。
その言葉を聞いて思い出した事がある。『この世の物質は全て確率で存在しているという[#「この世の物質は全て確率で存在しているという。」に傍点]のは既に常織である』という様な事が書かれた外の世界の科学書を見た事があった。その本を見て、僕は『誰がその確率を確定するのか』が判らず、いまいち理解できなかった事を覚えている。
でも、霊夢が同じような事を考えていて。さらに確立の決定権が記憶にある事に気付いていた。それは驚くべき事だった。
「記憶が確率を決定する……言い換えれば因果応報とも言える、凄いね。確かにその通りかも知れない。ところで君はどうやってそんな知識を身に付けたんだい?」
いつも無為に暮らしている風に見えるけど、と付け加えそうになったが、話をスムーズに進める為にやめた。
「もの凄く頭の良い人間[#「もの凄く頭の良い人間」に傍点]に聞いたのよ」
「もの凄く頭の良い、って言い方って何だか頭悪そうだぜ……」魔理沙が呟いた。
そんな世界の根源にまで関わるような事まで判る人間がいるのだろうか。
「妖怪にとって歴史が繰り返されていると感じる理由は、単純に人間じゃないからよ。人間は短い期間で記憶の糸が途絶えるの。だから妖怪から見て人間は、生まれてから死ぬまで同じ事を繰り返しているように見える、ってだけ」
霊夢は「霖之助さんみたいにね」と得意げに語っていた。いつもとは立場が逆なだけに、少し悔しい。
「その、もの凄く頭の良い人間は、記億を全て本に書き留めて代々受け継いできた家系なの。だから、永く生きてきた妖怪にも、記憶の少ない人間にも判らない世界が見えてくるんだって」
随分と長話をしていたようだ。既に窓の色がタ方の色に変化していた。外の紅葉が部屋の中まで染み出してきているみたいだった。
「ところでもう日が沈むが、今日は何か用事があって来たんじゃないか?」
「ああ、そうだった。今日来たのは他でもないわ」
「幽霊もあらかた追っ払ったし、これから神社で宴会するんで、香霖もどうか? って誘いに来たんだったな」
なるほど、それを言うだけで随分と時間がかかったもんだ。最初に用件を言わないからうっかり長話をしてしまったじゃないか。
「誘って貰って嬉しいが、僕はやらなければいけない仕事がある。それにちんちろりんをやったって、霊夢には敵いそうにないしね」
「仕事って、その本を書くことか?」魔理沙は僕の日記を指さして言った。
「そうだけど、ま、店自体も仕事なんだけどね」
「まだ日記を書いてたのか。三日坊主になると思ったんだがな」
「これは日記だが、いずれ歴史書になるんだよ。簡単には止めるわけにはいかない。香霖堂発、人間の知識を豊かにする歴史書さ」
ここ数年の間、紙の入手が容易になってから書き始めた日記が結構な分量になっている。僕はこれを一つの本という形にして記録を残すつもりでいる。その本が幻想郷の歴史書となり、幻想郷のアカデミズムが急激に動き出すだろう。そして幻想郷は外の世界に近づき、未来は安泰な物となる(それと同時に自分の書いた本が売れれば店も安泰である)。
今日はさらに、ランダムから事実が決定するメカニズム、何故人によって幸不幸の差があるのか、そんな事実を知っている人間がいる事等……珍しく霊夢から物を学ぶ事が出来た。『記録ではなく記憶が未来を決定する』事も自分の本に書き留める事にしよう。そして、それを読んだ人の記憶がその人の運命のメカニズムに作用すれば、未来は予想できない物になるだろう。人間は妖怪も考えつかない来来へ進み、妖怪も明日何が起こるのか判らないといった、人間と同じ未来の楽しみ方が味わう事が出来たら幸である。
――外はすっかり暗くなっていた。今頃霊夢と魔理沙は神社で宴会をしているのだろう。いつもの面子で、いつもの様にお酒を呑んで、いつもの様に賭け事で霊夢が勝って、いつもの様に呑み過ぎてしまう……。
でも、決して世界はループはしていない。何故なら、霊夢も魔理沙も妖怪達も、人間と妖怪のハーフであるこの僕も、その事を記憶しているから。その記憶が毎日を少しずつ楽しくしていくのだから。
[#地付き]完
[#挿絵(pic/26/03.jpg)入る]
[#改丁]
番外 後記
お早う御座います。これを朝読む人は少なそうですが、ZUNです。
実は前回も誘われたのですが、前回は東方永夜抄のマスター前に締め切りがあったため渋々断ったんですよ。そんなでしたが、もう一度チャンスがあって良かったです。
何のチャンスかって? それはもう、東方香霖堂を別の所でも発表することに決まっているじゃないですか。そうすれば単行本になったときに、ただの寄せ集めじゃなくなりますし(笑) ステレオタイプの発表の仕方じゃあ、ちょっとねぇ(殆ど嘘ですので信じないよう)
ステレオタイプと言えば、ゲームボーイってステレオだったんですよね。スピーカーはひとつしかないのに。その辺が素敵ですよね。スカートの裏をフリフリにする様なもんです。素敵。
もう、初代ゲームボーイを動かしている人なんて殆ど居ないんだろうなぁ。ああ罪なるは互換性かな。
DSが出ればアドバンスも起動しなくなるのかな?
そうそう、小説の内容にふれますね。今回のお話は、現在連載中の東方香霖堂〜Curiosities ofLotus Asia.の一話です。
一部、そちらの方を読んでいないと解らない内容も含まれていますのでちょっとキャラと設定の紹介を。
森近霖之助 …… その辺に落ちていた物を拾って売る眼鏡兄ちゃん
香霖堂   …… その辺に落ちていた物を並べてある店風な建物
博麗霊夢  …… 何も考えていない巫女さん
霧雨魔理沙 …… 香霖堂を喰い物にする自由人
ちなみに、今回の話は第七話「紫色を超える光」の次に当たります。そちらも是非。
上海アリス幻樂団 ZUN
ちなみに、決して任天堂に喧嘩を売っているわけではありませんよ。
底本:小説合同本企画 「霊偲志異2」(同人誌)
2004/12/30 小説合同本企画 「霊偲志異2」に東方香霖堂(第七.五話)寄稿