東方儚月抄 〜 Silent Sinner in Blue.
ZUN
挿絵:TOKIAME
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(例)八意永琳《やごころえいりん》
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(例)東方|儚月抄《ぼうげつしょう》
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第一話 「賢者の追憶」
夏を迎えたばかりの幻想郷の夜が、青白く冷たい月の光で包み込まれていた。妖怪にとって月の光は日の光の何倍も眩しく、普段見えない筈の物も照らし出す。
こんな夜の妖怪は、月明かりが照らし出す妖怪の道を使って先回りをし、人間を襲うのである。月明かりがあれば妖怪の目には良く見えるのだが、人間には暗すぎて何も見えない。夜は道も見えず、目の前の物が人間なのか妖怪なのか岩なのか判らないのだ。
そんな状態だから通常人間は夜は出歩かない。今夜も幻想郷の殆どの人間は家で大人しくしていた為、空から何かが舞い落ちてきた事に誰も気が付かなかった。
空から舞い落ちてきた物は何だったのだろう? 十尋(およそ18メートル)以上はあったと思われる布の様なひらひらの物体は、まるで何処かで見た児童向け創作妖怪の様に空を自由に飛び、やがて神社の方に消えた。
今日は例月祭の日である。例月祭とは、月と地上の距離が最も近くなる満月の日に行う祭りである。この祭りでは団子など丸い物を偽の満月と見立てて、相対的に満月を遠ざける。少しでも満月を遠ざけて、月の使者がやってくる事を防ぐのである。勿論この祭り自体、私が考えて始めた物だ。
今、庭では兎達が団子を搗《ひ》いている筈である。その団子には私の指示により様々な薬が混ぜられている。その薬には二つの意味がある。月の兎が搗いている物は、今ではお餅と言われているが本来は薬であると言う事と、もう一つは兎達が団子を摘み食いする事を想定したと言う事である。団子に兎を興奮させる薬が入っている為、予定通り兎が摘み食いをすれば祭は否が応にも盛り上がるのである。
東の空に光の布が舞い降りてくるのを見たのは、兎達の歌を聴きながら空を眺めていた時だった。その布は青白く光っていた。月の賢者である八意永琳《やごころえいりん》には判っていた。布の光が月の光と同じ波長だった事が。それが月の羽衣[#「月の羽衣」に丸傍点]である事が。
「――失礼します。お師匠様、例月祭は無事終わりました」
一匹の兎が私の部屋に入ってきた。鈴仙《れいせん》・優曇華院《うどんげいん》・イナバ・と言う、私の事を師匠と呼ぶ月の兎である。本当の名前はレイセンであるのだが、地上に住むに当たって私が地上人らしく名字を付けてあげた[#「地上人らしく名字を付けてあげた」に丸傍点]のだ。
彼女は月面戦争から逃げ出してきた兎だったのだが、たまたまこの家に迷い込んできた所を私が匿う事になった。彼女を含む月の兎には、遠く離れた場所でも会話が出来る特殊な能力が備わっている。彼女を匿う事で私も月の都の情報を仕入れる事が出来ると考えたのだ。
事実、実に役に立ってくれている。こうして安心して地上で暮らせるのも、彼女の働きが大きい。
「随分と早かったわね、鈴仙。最近何も起きないからって、手を抜いたりしてない?」
「いいえいいえ、とんでも御座いません。いつも通り恙《つつが》無く祭は終わりましたよ。地上の兎達は団子を喜んで食べていました」
「そう、ご苦労さんでした。それであの娘[#「あの娘」に丸傍点]は何処に?」
そう訊くと、鈴仙は少し顔を曇らせた。
「てゐの事ですか? てゐは、いつも通りどっかに遊びに行ってしまったみたいです。祭の日は特に姿を消しやすいのですよ」
幻想郷には月の姫、輝夜《かぐや》姫が住んでいた。千年以上もの長い間、人間に見つかる事なく隠れ住んでいた。
何故。姿を隠さなければいけなかったのか。それは許されざる大罪を犯し、月の使者から逃げなければいけなかったからである。人間に知られていると、月の使者にも見つかりやすい。そう考えたのだ。
私はその輝夜の数少ない味方としてずっと智慧を貸してきた。幸い幻想郷には迷いの竹林と呼ばれる妖精ですら道に迷う竹林があった。その竹林の中なら、誰にも簡単には見つかる事はないと、姫の為に特別なお屋敷を用意した。それがここ、永遠亭である。
永遠亭は特殊な建物であった。人間に見つからない限り、歴史が進まない仕掛けがしてあった。姫の永遠を操る能力と私の智慧の結晶である。歴史が進まないと言うのは、歴史になるような事件が何も起きないと言う事である。
私は長い間、姫と二人でこの歴史の止まった永遠亭に住んでいた。初めの数百年は隠れ住んでいる事もあり、時の流れを感じたりする余裕はなかったのだが……そんなある日、一匹の白い服を着た妖怪兎が迷い込んできて事態は一変する。
その妖怪兎が何故この永遠亭に入る事が出来たのか未だに判らないが、それが永遠亭に住み始めてから初めての歴史だった。
妖怪兎は自分はこの迷いの竹林の持ち主であると言い、私達が隠れ住んでいる事をずっと前から知っていたらしい。私が警戒していると、別に敵になるつもりはない、兎達に智慧を授けてくれるのなら人間を寄せ付けないようにしてあげましょう」と、言ったのだ。
その妖怪兎は因幡《いなば》てゐと名乗り、今では永遠亭に住み着いている。
「そうねぇ。あの娘は昔から自由奔放だったわ」
「困ったもんですよ。祭の後片付けも中途半端な状態のままどっかいっちゃうんですから。それにつられて他の兎もみんなちりぢりに消えちゃうから、結局私一人で片付けしてるんです。片付けも出来ないなんてどういう教育を受けてきたんでしょう?」
そこまで悪態吐いて、てゐは鈴仙より前から永遠亭にいた事を思い出し、ばつが悪そうに「お師匠様の教育の事を言っている訳じゃ無いですよ」と付け加えた。
「まあまあそう言わずに、あの娘を後で探しておいてね」
「判りました。でも……いつも思うんですけど、お師匠様はてゐには甘過ぎじゃ無いでしょうか? 少しぐらい厳しく言ってあげてください。私の言う事は聞かないけど、お師匠様の言う事なら聞いてくれると思いますので」
「うふふ。残念ながら、私の言う事も聞いてくれないわ」
「え、そうなんですか? じゃあ、何で飼っているんでしょうか?」
てゐが只の妖怪兎ではない事は明らかであった。地上の兎はてゐの言う事なら何でも聞いた。本人を見ていると何も威厳も感じられないが、大量の兎を自由に操る姿はどことなく仙人を思わせる。
「地上の兎違はてゐの命令しか聞かないの。それがどういう意味か判る?」
「てゐが地上の兎の中で、一番偉いって事でしょうか?」
「あの娘が居ないと作業兎が使えなくて私が困るって事よ」
そう話しながら、私には気がかりな事があった。先ほど見た光の筋は紛れもなく月の羽衣である。使者なら地上に一人で来る筈は無いのだが……正体が分からない。てゐもそれを見つけて消えたのではないだろうか?
「ところで、祭なんだけど本当に変わった事は無かったの? 神社付近でとか」
「神社付近? いえ……特には、何かあったのですか?」
「そう、何もなかったなら別に良いわ」
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月の羽衣とは、満月と地上を繋ぐ一種の乗り物である。しばしば天女の羽衣と混同される事もあるが、天女の羽衣は反質量の布であるのに対し、月の羽衣は月の光を編み込んだ波で出来ている0質量の布である。この二つは全くの別物である。
月の羽衣は質量が無い為、下降気流でも無い限り一人でに落ちてくる事はあり得ない。それが舞い落ちてきたと言う事は、必ずそれに乗っている者が居る[#「乗っている者が居る」に丸傍点]筈である。今はその者が何者なのか、敵なのか味方なのかも判らない。だが、月の使者に居場所を知られて、また逃げ隠れる生活に戻るのは嫌だった。
止まっていた永遠亭の歴史は三〜四年前のあの事件[#「あの事件」に丸傍点]をきっかけに動き始めたばかりである。しかし、一度動き始めてしまうともう後戻りは出来なかった。
歴史が動き始めてしまうと、後は人間のように昔の事を懐かしく思うだけの生活となってしまう。判っていても、もう歴史が止まっていた頃の生活には戻りたくなかった。
「お師匠様? 何か考え事でしょうか? 取りあえず私は祭の片付けか残っていますので一旦戻ります。てゐが数刻経っても戻ってこないようでしたら、探しに行きますので」
「ああそうね。よろしくね」
そう言うと鈴仙は部屋から出て行った。
月の羽衣を見た所為だろうか、遙か昔、私が月の賢者として月の都にいた頃を思い出していた。私は月と地上を行き来する使者のリーダーとして働き、今一緒に暮らしている輝夜姫以外にも、二人のお姫様姉妹を小さい頃から教育していた。
二人の姫は私の遠い親族である。人間風に言えば私から見て又甥《またおい》の嫁、及び又甥夫婦の息子の嫁、という何とも遠い縁だったが、私は二人の教育係として様々な事を教えた。
姉は天性の幸運で富に恵まれ何不自由なく暮らし、妹のお姫様は非常に頭が切れ、私の言う事を何でも吸収していった。私はいずれこの二人に月の使者を任せる事になるであろうと考えていた。
しかし輝夜姫が大罪を犯し、地上に落とされてから月の都の事態は一変する。
いやその言い方は正確ではない。私が大罪を犯したのである。私は自分の知識に自信を持っていた。持ちすぎていった為に些細なミスを犯したのだ。
些細なミスとは、蓬莱の薬、つまり不老不死の薬を輝夜に渡してしまった事である。輝夜は他愛もない好奇心から私に不老不死の薬を求めた。私は不老不死の薬と言えば蓬莱の薬という物がある、と教え、その薬を作ってみせた。
月の民が蓬莱の薬を持つ事は別に不思譲な事ではない。主に地上の権力者を試したり、新たな争乱を起こす為に人間に与える為である。
人間がこの薬を飲めば、その躰は朽ちる事なく、未来永劫生き長らえるでしょう。ですが、何人たりとも決して飲んではいけません[#「決して飲んではいけません」に丸傍点]
何で飲んでばいけないの?
人間が飲むと永遠に苦しみます。死ぬ事も許されず、仙人になる事も出来ず、人間のまま人間と暮らせなくなります。この薬は月の民が地上の人間を試す為に存在するのです
では、もし、この薬を月の民が飲むとどうなるの?
もし、この薬を穢れ無き月の民が飲むと……
飲むと?
不老不死になると同時に、不老不死という誘惑に負けた事で人間と同様の穢れが生まれ、二度と月の都では暮らせなくなるでしょう
私が警告した甲斐無く、輝夜は蓬莱の薬を飲み不考不死となった。それと同時に、月の都から追放された。
輝夜は何かと地上の人間の話を好んで聞き、自分からもよく話す子だった。月の民から見た地上は、刹那的な快楽の渦巻く穢れた場所である。それが輝夜の眼には魅力的に映っていたのかも知れない。蓬莱の薬も、最初から自分で飲む為に私に作らせたのだろう。
私は悔いた。悔いた結果、輝夜を月の都に連れ戻す際に月の使者を欺いて輝夜を救いだし、そのまま地上に隠れ住む事にした。
蓬莱の薬を使うと人間と同じ穢れが生じてしまう。私は輝夜が月の都に戻ってきても、まともな生活が出来ない事を知っていた。輝夜が暮らしやすいように地上で人間として暮らせる場を設け、それで私も罪を償おうと思ったのだ。
そう言えば月の使者として地上の輝夜をお抑えに行く前日、二人の姫に月の使者の後任をお願いしてきた。あれから、千年以上は優に過ぎているが、姫達は何も言わずに置いてきた事を怒っているのだろうか。
「お師匠様! 失礼します」
鈴仙が大慌てで部屋に入ってきた。
「どうしたの? そんなに慌てて」
「いや、慌てるつもりは無かったのですが……来客です。来客が慌てていたのでつられてしまいました」
「こんな夜中に来客? 急患かしら?」
「いやあ、またあの困った巫女ですよ。いつぞやもこんな事がありましたね。夜中に突然現れて……」
「まあいいわ」と言って部屋を出た。月の羽衣が舞い落ちたのは東の空、東とえば神社のある方向である。何か胸騒ぎがする。
玄関には両腕を腰に当て、堂々と仁王立ちしている人間の少女の姿があった。博麗霊夢《はくれいれいむ》、幻想郷の東の外れにある博麗神社の巫女である。
「あ、やっと出てきたわね、宇宙人。あんたらの仲間が怪我してるって神社を占拠して困っているの! 何とかしてよ」
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この巫女は何処に行っても、まずは怒りから出た言葉で会話を始めようとするのである。感情的な言葉だけでは会話は成り立たないものだが、人間にはそれが判らないらしい。
「私達の仲間? 怪我?」
「そう、傷ついた妖怪兎がうちで寝ているの。引き取るなり何なりしてよ」
「ちょっと待って、鈴仙、例月祭は無事に終わったんじゃなくて?」
「え、ええ、誰一人怪我人は出ませんでした」鈴仙は即答した。
「じゃあ、もしかして、あの娘てゐ[#「てゐ」に丸傍点]かしら?」
私がそう言うと、その質問に答えるように霊夢の背中から大きな声が聞こえてきた。
「怪我人なんて知らないよ。こうやって話を聞いていたけど、私の知る限り妖怪兎は一匹も減っていない」霊夢の背中からてゐが上半身だけ横に出してそう言った。霊夢も後ろにてゐが居る事に気が付いていなかったようだ。
てゐの神出鬼没さは今に始まった事ではない。気が付いたら居て、気が付いたら居なくなっている。それでも、重要な時には必ず居るのだ。
「あ、てゐ! 何処をほっつき歩いてたのよ! まだ探してなかったけど」鈴仙がそう叱っても、聞く耳を持とうとしなかった。
「ふあぁあ。祭が終わると何故か[#「何故か」に丸傍点]兎達が陽気になるからね。少し散歩して酔いを覚ましてただけ」
てゐは、手を頭の上で振りながら「何故か」を強調して言った。私が団子に兎が陽気になる薬を混ぜてある事に気付いているのだろう。
「そんな訳でわたしゃ疲れたよ。奥で休む」そう言って、玄関を上がり家の奥に行こうとしたので、私は気になっていた事を質問した。
「あ、ちょっと待って。てゐ、祭の最中、神社の方で気になる事は無かったかしら?」
てゐは少し考えて「……天石門別命《あめのいわとわけのみこと》。懐かしい神様が見えた」と言って廊下を走って行ってしまった。
話が中断したので、霊夢を客間に案内し、鈴仙にはお茶の用意をお願いした。
「そっちが知らないって言っても、うちに傷ついた妖怪兎が眠っているのは事実なの!」
「うーん。妖怪兎って言ったって、てゐが知らない妖怪兎なんて居ないし、そのてゐが怪我人は居ないって言っているんだから間違いはないと思うけど……」
「一匹くらい知らない妖怪兎が湧いて出てきたって不思譲じゃないでしょ? 妖怪なんてボウフラみたいなもんだし」
妖怪がボウフラみたいなもんの訳がない。人間より新しい妖怪は生まれにくいものだ。
「その妖怪兎は何か言ってなかった?」
「今のところ唸っているだけよ。何故か誰にやられたのか喋ろうとないの。そう言えば、長い布を持っていたけど……」
霊夢が言っている妖怪兎は、十中八九、月から落ちてきた月の兎だろう。先ほどの月の羽衣は、その兎の物である可能性が高い。
今はまだ月の兎に私達の居場所を教えてしまうのは不味い。何故なら、鈴仙の話では「月の都はまた大きな争乱が起き始めているらしい」からである。今、私の存在が明るみに出てしまえば、どちらかの勢力に利用されてしまう[#「利用されてしまう」に丸傍点]だろう。私は争い事はもう面倒だと思っていた。
「うーんとね。その妖怪兎は気を付けた方が良いわ。私の想像では、大方狐か狸に誑《ば》かされているんだと思う」
「何だって?」
「てゐが知らない妖怪兎が居ないってのは本当よ。てゐが全員無事だって言うのなら、神社にいる妖怪兎は偽者の筈」
「な、なるほど、それもそうかもね。妖怪兎が全員無事だって言うならそうかもしれない。それに見慣れない顔だったし……」
「化けているんなら、怪我をしているってのも嘘よ。今頃、神社の食べ物を食べられてるわよ? 早く帰らないとなくなっちゃうわ」
「!! そ、そうね。急いで帰らないと!」
霊夢はそう言って、慌てた様子で帰って行った。
「お茶の用意が出来ました、って、あれ?」
鈴仙がお茶の用意をして戻ってきた時には、もうすでに巫女の姿はなかった。
「お師匠様。巫女の話はもう終わったのですか?」
「ええ。恐らく狐か狸の仕業だと伝えたら、慌てて帰って行ったわ」
鈴仙は怪訝な顔をした。
「狐か狸……。どうしてそんな嘘を吐くのですか? 狐や狸が人間を騙すのなら、人間の姿に化ける筈です。妖怪兎に化けたって何にも得は無いじゃないですか」
「いい? 鈴仙。驚かないで聞いて」
「はい」
「神社に居る妖怪兎は。恐らく貴方と同じ月の兎よ」
「何ですって? どうしてそんな事が判るのですか?」
「貴方には話していなかったけど、例月祭の時、神社の方に月の羽衣が降りていくのを見たの」
「!?」
鈴仙もその昔、地上に逃げてきた時は月の羽衣を使用したらしい。その羽衣は今でも永遠亭に仕舞ってあるが、もう月に行く事は無いと決めて封印してある。
月と地上を行き来する手段は沢山あるが、月の羽衣はその手段の中では非常に原始的に時間もかかる。主に月の兎達が利用する手段である。
「その月の兎がどういう目的で地上に降りてきたのか判らないから、まだ永遠亭の場所を知られては不味い。だから巫女には嘘を言って追い返したのよ」
「そんな、月の兎が……今、神社に?」
もしかしたら鈴仙の知り合いかも知れない。だとしても、すぐに連絡を取るのは危険である。何が起こるのか判らない。私は月の使者から逃げ隠れている逃亡者であり、鈴仙も月面戦争から逃げ出した兎である。基本的に居場所は知られたくない。
「な、何があったのかしら……。どうすれば良いのかしら。私も何か罰を受けるのでしょうか?」
鈴仙は持っているお茶を置くのも忘れて、怯えているように見えた。
「鈴仙慌てる事は何一つありません。私の言う通りにすれば、永遠亭には何一つ問題は起こらないでしょう」
「で、では、まずは何をすれば良いのですか?」
「まずは、そのお茶をここに置いて、それをゆっくり飲みなさい」
鈴仙は笑顔を取り戻し、お茶をゆっくり飲んだ。落ち着きを取り戻した様子で、再び「何をすれば良いのですか?」と訊いてきた。
「まずは、月にいる兎と連絡を取り現状を探る事です」
「はい、判りました!」
「それで、この前の鈴仙の話だと『新しい勢力が月を支配しようとしている』と言っていたわね。その勢力について、何でも良いから詳細や首謀者の名前を聞き出して欲しいの」
「お安いご用です。もっとも、兎に判る程度の話しか知り得ませんが」
兎は嘘、噂、ゴシップの様なものが大好きであり、いまいち話に信憑性がない。だが、火の無い所に煙は立たぬ、噂から真実を推測する事は容易である。
「でも絶対に、神社にいる月の兎の事には絶対に触れては駄目よ。例え、向こうから持ち出してきたとしても」
「え、どうしてですか?」
「噂がぶれてしまう[#「噂がぶれてしまう」に丸傍点]からです。私の言う通りにしないと何が起きても知らないからね」
鈴仙は部屋を出て満月に向かって話しかけ始めた。一見危ない人の様だが、月の兎はああやって遠く離れた兎同士会話が出来るのである。その姿を眺めながら、私は次の一手を考えていた。
さて、月を支配しようとする新たな勢力[#「新たな勢力」に丸傍点]とは一体何なのだろうか。
もし、その勢力が前回の月面戦争のように外の人間なのであれば特に間題はない。その昔、人間は月面に旗を立てて、月を自分達人間の物だと言った時代があった。人間は自分の科学力を盲信していて、月ですら自分のものだと思ったのだろう。
しかし、蓋を開けてみると月の都の科学力とは雪泥の差であった。月面に基地を作ると豪語していた人間も、基地どごろか建造物を造るような段階まで至らずに逃げ帰ってきたのだ。人間の惨敗だった。
外の世界では、月面着陸は大成功の様に報道されているが、惨敗だった時は報道されていない。最初の月面到達以来、人間は負け読きだったのでそれ以降月面には行っていない事になっている。本当は、何度も月に行っては月面基地開発に失敗している事を、月と通じている私達は知っていた。
人間は大して成長していない。むしろ退化している位である。再び月への侵略を開始しようと、月の都にとって大した恐怖ではないだろう。
しかし、今回は人間ではないようである。どうやら月の都の中で何かが起きたのでは無いかと思われる。
「ねえ……永琳。何やら騒がしいわね。どうしたのかしら」
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後ろから不意にか細い声で話しかけられた。蓬莱山輝夜《ほうらいさんかぐや》、月のお姫様である。ここ永遠亭のご主人様である。
「輝夜……。月の都に急激な動きがあったかも知れない」
「ふーん。やっぱり、さっきのは月の羽衣だったのね」
「輝夜にも見えていたのね」
「見えていたけど、何なのか判らなかったので、どうでも良いかなと思っていたのよ。ああ、綺麗だなぁって感じで」
輝夜は逃亡者の割には暢気な性格だった。昔はそんな事は無かった筈なのだが……長い間平穏な日が続きすぎたのかも知れない。
「その月の羽衣を使って降りてきたのは、どうやら傷ついた月の兎だったらしいの。今は神社にいる」
「ふーん、傷ついた兎が一匹ねぇ……なんか昔を思い出すわね」
「昔? ああ、鈴仙の事ね」
「あの時も私達は警戒したわねぇ。蓋を開けてみればなんて事も無かったけど」
鈴仙が最初にこの家を訪れたのも、三十年前位のこんな満月の夜だった。竹林を彷徨っていたてゐから「月からの侵入者が居るよ」と言う報告を受けた時は会うべきかどうか散々悩んだ。
「永琳あの時は悩んだけど、結果として会って良かったじゃない。鈴仙は完全に私達の味方だわ。だから今回の月の兎にも会ってみたら?」
「輝夜は自分が逃亡者だという自覚が足りない。月の使者に見つかったら今度はただじゃ済まされない筈よ。用心するにこした事はない」
輝夜は「永琳は心配性ねぇ」と言って、お茶を飲み始めた。
「ねぇ、じゃあ鈴仙の時は何で会ったの?」
「その時は、月の様子を知りたかったからよ。月の兎には特殊な能力があるからね」
「もし、鈴仙が月の使者に私達を引き渡そうとする兎だったらとか考えなかったの?」
考えない訳がない。今回もそれを考えて用心しているのだから。
「もし私に逆らうようだったら、兎一匹くらい私の手でどうとでも……」
「冷たいのね」
気が付くと窓の外に鈴仙の姿は無かった。もう月との交信は終わったのだろう。
「失礼します。あ、輝夜様もいらしたのですか?」
「あら鈴仙、もう月との交信が終わったの?」
「ええ、終わりました。大変な事が判りましたよ」鈴仙は輝夜の方をちらっと見た。
「えー……っと、後の方が良いですか?」
「続けて構わないわ。輝夜も大体判っているから」
「そうですか、では、まず現在月の都の状態から報告します。簡単に言うと『地上からの侵入者』の痕跡が見つかって大騒ぎだそうです」
「地上からの侵入者?」
私は、月の内部分裂だと思っていたのだが……また外の人間の仕業なのだろうか。
鈴仙の話によると、月の都に地上からの侵入者があったらしい。その侵入者が目論んでいるのは、月の都を乗っ取る事だそうだ。
「そこまでは良いんですが、問題はこの後の話です」
「そんなに勿体ぶらなくても良いわ」
「その侵入者側に協力している月の兎がいるという噂があって、兎が次々と不当な裁判にかけられているらしいのです」
「なんて言う事……まるで、魔女狩りね」お茶を飲みながら輝夜は言った。
私は話の先が殆ど見えていた。私の想像が正しければ、鈴仙が大変な事と言うのもよく分かる。
「それで私がスパイの筆頭の様な扱いを受けているんだって! 地上に繋がりが深いから」
想像通りである。まあ確かにそう思われても仕方がないだろう。鈴仙は元々月の都を裏切って逃げてきた兎だし、それに今でもちょくちょく交信を行っているのである。
「なるほどね。今の話で、神社に居る月の兎の正体が判明したわね」
「え? なんでですか」
「スパイ扱いされて拷間を受けていた兎が逃げ出してきたか、本当にスパイ兎なのか、どっちかでしょう。だとすると、会ってみる価値はあるかも知れないわね……」
「あ、そうそう、もつ一つですね……。その地上からの侵略者ってのがどうも……」
鈴仙の様子が少しおかしかった。ちなみにその話の続きも想像済みである。
「言うまでもないわ、鈴仙。その侵略者は私と輝夜の二人って事になってるのでしょう? 鈴仙がスパイで、侵略者は私達」
笹の葉が風で揺れる音が、海の波のうねりように聞こえた。
輝夜は絶句していた。それはそうだろう、輝夜はそろそろ月の都の人達は自分を受け入れてくれるだろう、と暢気に考えている様子だったのだ。そんな甘い考えも、有らぬ疑いをかけられては絶望的と言わざるを得ない。また住む場所を変えて、人間から身を隠さなければいけないとしたら最悪である。
鈴仙は落ち着かない様子で私に問いかけた。
「お師匠様! 私達は一体どうすれば良いのでしょう?」
「さっきも言ったでしょう? 私の言う通りにすれば何も心配する事は有りません。この程度の事は予測済みです」
安心させる為の嘘ではない。いつかこの様な日が来る事は想像していた。私達を利用して月の民を扇動する輩が現れる事を。
「まずは情報を集めるのです。本当に侵略者など居るのか、居るとしたら何処の誰なのか。それが判るまでは私運は今まで通り隠れ住んで居れば良いのです」
「で、でも、月から刺客が来たりしたら……」
「ここは見つかりません。てゐが月の使者を寄せ付けない様にしてくれているのですから。それに、月の使者に私の味方がいます」
鈴仙は驚いた顔をして「味方……ですか?」と言った。
「そうです。恐らく今は月の使者のリーダーをやっている筈です」
とは言ったものの、正直なところ味方になってくれるのか心配だった。
あの二人のお姫様とは、千年以上前に別れてから一度も会った事が無かった。それでも私が教育したその二人のお姫様なら、私の言っている事を信じる筈である。特に妹の方は賢かったし、今はそれに頼るしかなかった。
「だとしたら心強いですね」
「でも、私達は鈴仙と違って交信する手段がありません。貴方に言伝《ことづて》を頼んでも良いのですが、さらにスパイ容疑が濃くなる可能性があります」
鈴仙の表情が曇った。
「大丈夫ですよ。既に疑われてるから、これ以上疑われたって平気です」
「貴万が平気でも、私達は平気ではありません」
「では……どうしましょう」
「ここは神社にいる月の兎に事情を話し、協力して貰うのが一番無難です」
鈴仙は手を叩き「あ、忘れてました」と言った。
「その兎も、月の羽衣を持っているのだから月に帰る事も出来ます。それで手紙を渡して頂くのです」
私は手紙を書いた。
書き手が八意永琳である事を証明する為に二人のお姫様の小さな頃の思い出話から書いた。
途中で誰かに読まれたり改竄《かいざん》される事を恐れて量子印を付けた。量子印は、量子の特性により中身を読んだ人の数が判る特別な印鑑である。これを発明したのは私である。いまだ私しか作れないので、これも本人証明になる。その他にも二重三重に仕掛けを施し、最後に薬草で封をした。
残念ながらこの手紙の返事が来る事は期待できない。表向きには月の使者は私を捕まえなければいけない筈である。この手紙に返事を書く事は、二人のお姫様にとっても危険な事だからだ。
満月は竹の背丈より低い位置まで落ち、うっすらと東の空が明るくなり始めていた。夜が明けたら神社に向かうつもりである。
いつの間にか月面戦争に巻き込まれている事を考え、私を利用している犯人をこの手で捕まえてやると心に誓ったのだった。
[#挿絵(pic/e04.jpg)入る]
[#地付き]第一話 賢者の追憶/丁
底本: 「東方儚月抄 〜 Cage in Lunatic Runagate.」第一話
2007/06/25 株式会社一迅社 キャラ☆メル Vol.1
注記
傍点は底本を参考に丸傍点の記述にしてあります。
一:108行 文末句読点無し