砂漠の叛乱――カレン版「智慧の七つの柱」
T・E・ロレンス/安引宏訳
目 次
はじめに――叛乱の背景
一 武人予言者をもとめて
二 トルコ軍、イェンボに迫る
三 反抗――砂漠の真実
四 アカバ急襲
五 巡礼鉄道分断作戦
六 潜行――ゲリラの現実
七 タフィレ会戦、そして冬
八 ついにダマスカスヘ
あとがき――にがい果実
解説
年譜
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登場人物
◇アブドゥ・エル・カデル……フランス当局にアルジェリアから追放され、ヤルムク峡谷のほとりに、アルジェリア移民の首長《エミール》として定着する。狂信的な回教徒。
◇アブドゥッラ(エミール)……メッカのシェリフ、フセインの次男。トルコ国会の副議長であったが、大戦がはじまるとエジプトの英軍と接触し、ロレンスをフェイサルに会わせる手順を整える。武人というより政治家。一九二一年、シリアと砂漠のあいだに横たわる英国委任統治領トランスヨルダンの太守となる。一九四六年、独立後の初代国王となるが、一九五一年に暗殺される。
◇アリ(エミール)……メッカのシェリフ、フセインの長男。へジャズにあって、フェイサルの挙兵を援ける。
◇アリ・イブン・エル・フセイン……ハリス氏族のシェリフ。フェイサル軍の指揮官のひとりで、やがて鉄道爆破の名手となる。
◇アウダ・アブ・タイ……ホウェイタ部族のひとつアブ・タイ氏族の勇敢な族長で、ダマスカスのアラブ人政府樹立を助ける。
◇イブン・ダキル……ルス部族のシェイク。トルコ軍のもとでアゲイル族部隊の長となったが、叛乱勃発とともに部下を連れてフェイサル軍に加わり、フェイサルの親衛隊の指揮官をつとめる。
◇ザアギ……ロレンスの親衛隊の指揮官。
◇シャッラフ……シェリフ。フェイサルの従兄で、シェリフ・フセインの裁判長を務める。
◇ゼイド……シェリフ・フセインの末子。
◇タラル……デラアに近いタファスのシェイク。トルコ当局に追放される。故郷ハウランの偵察にロレンスと同行。
◇ダウド……ロレンスの従者になったアゲイル部族の若者。一九一八年冬、アズラクで風邪をこじらせて病死。
◇ナシル……シェリフ。メディナの首長(エミール)の弟。叛乱で最も活躍した指導者のひとり。旗上げの戦いから、アレッポの彼方で最後の一発を撃つまで、休むいとまもなく叛乱を戦い抜いた。
◇ヌリ・サイド……バクダットのアラブ軍の将校だったが、フェイサル軍に加わり、正規軍の副司令官をつとめる。のち、イラク王国の首相となること十四回、一九五八年、暗殺される。
◇ヌリ・シャアラン……シリアの強大な部族、ルアッラ部族の首長(エミール)で、アラブ正規軍の司令官をつとめる。
◇ファハド……ゼブ族の戦闘司令官で、有名な戦士。フェイサルの同盟軍として、ヤルムク鉄橋爆破遠征に、ロレンスと同行。
◇ファッラジ……親友ダウドとともに、ロレンスの従者となる。一九一八年冬、ダウドの後を追うように、マアン北方の鉄路でトルコ軍パトロールに射殺された。
◇フェイサル(エミール)……メッカのシェリフ、フセインの三男。トルコ国会の議員となる。叛乱の旗上げにメディナ奪取をはかるが失敗。アラブ叛乱の事実上の指導者となる。戦後アラブの代表として、ヴェルサイユ会議にのぞむ。一九二〇年三月、初代シリア王国に推されるが、三カ月後、フランスによって追放される。一九二一年初代イラク国王に選ばれる。
◇フセイン……メッカの大シェリフ。預言者モハメッドの三十七代目の子孫。一九一六年六月、トルコに叛旗をひるがえし、自らへジャズ王を名乗る。戦後、ネジドのイブン・サウドと戦って敗れ、一九二四年退位。一九三一年、流寓先で病没。
◇マウルド・エル・ムクルス……トルコ軍騎兵隊の指揮官だったが英軍の捕虜となり、フェイサルの義勇軍募集に応じて参加。フェイサルの副官をつとめる。
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はじめに――叛乱の背景
[#地付き]……ジョン・カレン
「現代の古典」双書の一冊として、若い読者のために、世に言うアラビアのロレンスの主著『智慧の七つの柱』の縮冊版を編むにあたって、わたしはできるかぎり、アラブの叛乱を一貫した物語にまとめようと思った。さまざまなエピソードは、必要な場合には、わたしの説明をはさみながら、つながっていくことになる。主要人物の注をひとつにまとめたのも、読者の便宜のためだ。
この縮冊版は、ロレンスがアラブの指導者たちに会う一九一六年十月に始まり、ダマスカスに入城する一九一八年十月に終わる。ロレンスがアラブの叛乱に身をもって参加した全期間である。したがって、この本を理解するためには、第一次大戦勃発以前の近東情勢についてあるていどの予備知識が必要になる。アラブ独立への苦しい戦いは、イギリスの戦略目的とじつに密接につながっていたのだから、それだけを切りはなして考えると、叛乱の経過も、そのなかでロレンスが演じた役割についても、誤解する羽目になってしまうだろう。
アラブの古代史は、中央アラビアの砂漠にちりばめられたオアシスに暮らす無数の小部族の歴史である。彼らの行動の記録はほとんど残っていない。が、ひとたびイスラム教が興ると、その影響下に地中海世界に侵入し、七世紀から八世紀にかけて一大帝国を形成した。最大版図は、南仏からアフリカ、西アジアをへてインド洋まで達している。この帝国は、多少の曲折はあったが、中世末葉まで無傷でつづいた。だがついに、内紛と外部からの侵略によって崩壊することになる。
アラブ人の帝国の瓦解の根本原因は、しかし、最初の征服者がベドウィン族であったという事実にもとめられる。ベドウィン族は社会組織の枠組みをくみ上げることができなかった。伝統ある戦士、砂漠の遊牧民は、モハメッドの戦闘的な信条に熱狂的にしたがった。町に住む世なれたアラブ人を軽蔑し、協力して事にあたることを拒んだ。ところが彼らこそ、アラブ人の帝国を経済的政治的統一体に組み上げることができるだけの充分な組織経験と財力をかねそなえた唯一のアラブ人に他ならなかったのである。その結果、ベドウィン族は、帝国を彼らなりのやり方で処理することになる。帝国は部族社会のゆるやかな連合体となり、じっさいのきずなはただひとつ、イスラム教だけだった。帝国は現実の成果としてよりは、はるかに観念のなかの存在であった。
アラブの歴史を通じて、ベドウィン族はいつも、ある観念に憑《つ》かれることによって、突然、一体となって行動力をほとばしらせるのだが、物質的な目的を達成することへの奇妙な無関心のためにつまずいてしまう。ベドウィン族がなによりも痛切に意識するのは「世界のうつろさと神の充溢」で、この放縦のにおいのするものはなんであれ断念する態度を彼らに教えたのが、砂漠である。彼らの禁欲主義は、戦争前のロレンスの砂漠での体験にも、みごとに描き出されている――。
「われわれは北シリアの波打つ平原をはるかに遠征してローマ時代の廃墟に着いた。アラブ人は、辺境の大公が妃のために築いたものだと信じている。言い伝えによれば、この建物の煉瓦を作る粘土は、いっそうの豪奢のために、水ではなくて、花々から抽出した貴重な香油で練り上げられたという。ガイドは崩れ落ちた部屋から部屋へとわたしをみちびきながら、犬のように匂いをかいで言う『ここはジャスミン――ここは菫――ここは薔薇』と。
が、さいごにダホウムはわたしの腕を引っぱって言った。『こっちへ来て、いちばんすばらしい香りをかいでごらんなさい』われわれは大広間にはいり、東側の壁にぽっかりとあいた窓枠のまえに立って、大きく口を開きおだやかな、なにひとつ含んでいない、乾いた砂漠の風が吹き抜けるのを飲み込んだ。微風ははるかなるユーフラテス河のかなたで生まれ、いくつもの昼と夜を、乾し草の平原をたどりつづけて、はじめて行く手をさえぎるものに、われわれがいる宮殿の廃墟の人工の壁にぶつかったのだ。風はわれわれの周りを、赤ん坊がつぶやくような声をたてて、ぶつかりながらさまよっている感じだった。『これこそ最高だ』と彼らは口々にわたしに言った。『なんの匂いもついていないのだから』アラブ人たちは、さまざまな香りや奢侈に背を向けて、人の手がなにひとつ加わっていないもののほうを選ぶのである」
アラブ人の作りあげた帝国は、実際上の帝国というよりはむしろ、倫理上かつ理念上の帝国であった。それにくらべて、トルコ人は、帝国建設者として成功する資質をいくつも備えていた。アラブの内戦に助けられながら、トルコ人は征服者として次々に来襲し、一地方また一地方と、ついにアラブ帝国の全土を占領するにいたった。アラブ人にとって、その結果はおそるべき災厄となる。トルコ人のアラブ文化にたいする弾圧政策は、まさに叛乱の時点までつづいたからである。アラブの天才を記念するものとして残ったのは、ただひとつ、コーランだけであった。イスラム教徒の聖書として、トルコ人も、アラブ人と同様に、コーランを尊崇したためだ。アラブの自由な精神の姿勢は、砂漠のなかだけで保たれ、部族のなかでだけ守られていた。
アラブ帝国のうち、スペインとアフリカの一部は継承できなかったものの、トルコ人はみずからの帝国をヨーロッパにおいて、北はポーランド国境まで、東はクリミアにまで拡大した。彼らのバルカン半島支配は、十九世紀に被征服民族のあいだにナショナリズムがひろがるまで、びくともしなかった。一八一七年にセルビアが独立をかちとると、その後一世紀のあいだに、ギリシア、ルーマニア、ブルガリアが、あとにつづくことになる。
一九一二年には、トルコ帝国の版図は次のようなものであった。まず、小アジアのトルコ本土。ヨーロッパではバルカン半島のまんなかをよぎる細長い領土。シリア、メソポタミア、パレスティナ、そしていっそう深く根をおろしたアラブ半島の諸地方である。政治的には、トルコはドイツと結んでいた。ドイツ皇帝は、中東を支配し、極東への出口を手に入れる野望をいだき、その手段として、トルコ領内を走るベルリン=バクダッド鉄道を利用した。トルコ軍はドイツ軍人によって訓練を受けており、両国の指導層のあいだには、ひとたび戦争が勃発したあかつきには同盟軍として行動することについての了解が存在していた。このドイツの意図は、しかし、一九一三年、トルコがバルカン諸国連合軍に敗れたことによって危うくなる。同盟軍のヨーロッパにおける領土が少なくなればなるほど、ドイツの拡大主義者たちの目標である東方進出はむずかしくなるからだ。ドイツ、トルコ、両国にとって、戦争はひとつのチャンスであった――トルコが失った土地を回復し、さらに拡大して、バルカン半島をよぎる回廊をつくりさえすれば、それでベルリン=バクダッド鉄道の安全が保証されるのだから。
アラビア半島においても、バルカン半島と同じように、数多くの叛乱が起きている。しかし、ここでは、部族対部族、宗教対宗教の対立を巧みにあやつることによって、トルコはやすやすとレジスタンスを圧しつぶした。トルコの最後の皇帝《サルタン》アブドゥル・ハミッドの治世にいたるまで、アラブの独立運動が盛りあがる条件はととのわなかった。アブドゥル・ハミッドは、しだいに、メッカのアラブの知事《シェリフ》フセインがアラブ語を話すひとびとにたいして持っている影響力に不安を感じるようになる。メッカの知事には代々、予言者モハメッドにはじまる家系の家長がなった。メッカの知事の威信はきわめて大きく、本国からこのように遠い地域に統制を及ぼすことの難しさも加わって、代々のトルコ皇帝は、あえてその権力を制限する試みにでようとはしなかった。が、アブドゥル・ハミッドにいたって、トルコ本国に通じる鉄道の力を借りることによって、聖なる都メッカとメディナに守備隊を置くことが可能になったのである。フセインと四人の息子、アリ、アブドゥッラ、フェイサル、ゼイドは、人質として、コンスタンチノープルに連れ去られた。四人の息子たちは、そこでトルコの教育をうけ、トルコ帝国の重要な地位につくべく訓練されることになる。
一九〇八年、絶対君主アブドゥル・ハミッドは玉座を追われ、いわゆる「青年トルコ党」が実権を握った。青年トルコ党は超国家主義政党で、西欧思想の影響下に、宗教でゆるやかに統合されていた古いトルコ帝国を、強固な軍事的専制国家に再編成しようとしたのである。
トルコ支配下の諸民族は、まもなく、この新しい専制は、古い専制よりいっそう悪質なことに気づく。アラブの諸党派は余儀なく地下にもぐり、しだいに革命運動化していった。革命運動は、トルコ軍内部のアラブ人将校をも多数巻き込み、彼らはアラブの指導者の命令一下、ただちに反逆に踏みきるところまできていた。トルコ側もたしかに疑惑をいだいてはいたものの、現実に大戦が勃発するまで、ついに弾圧をくわえるための充分な証拠をつかむことができなかった。大戦の火ぶたが切られると、自由シリア党員にたいするトルコの苛酷な処分がきっかけとなり、フランス軍に呼応してシリアの全知識階級が叛旗をひるがえす。
大戦勃発後まもなく、青年トルコ党は、異教徒にたいするジハッド――聖戦を宣言する。自国の軍隊の士気をたかめ、連合軍内部の回教徒兵士の叛乱をさそいだそうという、二重のねらいからだった。しかし、現実にはキリスト教国のひとつであるドイツと同盟して戦っているのだから、聖戦の宣言は、メッカに戻ることを許されていたフセインの保証をとりつけなければ、実際にアラブ人に信じ込ませることはむずかしい。フセインは拒絶した。トルコ側は、西アラビアにあるフセイン治下のヘジャズ地区を包囲することで報復する。フセインは英国に、ヘジャズの港に補給物資を荷揚げすることによって包囲網を破ることを要請し、英国もそれを受けた。
これに力づけられて、知事《シェリフ》フセインは叛乱の機が熟したと判断する。ひそかに英国将校と会い、銃器弾薬を供給する約束をとりつける。フセインの戦略は、シリアおよびメソポタミアの自由党と、共通の目的のために手を結ぶことにあった。そこで息子のフェイサルを、連合軍が上陸していたシリアおよびダーダネルスに派遣して、可能性を打診させる。ダーダネルス遠征は、より広範な英国の近東戦略の一環であったが、こうしてアラブの叛乱と重要な関係を持つことになった。
宣戦布告前、すでに、トルコ軍指揮下のアラブ軍がシナイ半島に侵入して、エジプトへの進路を開こうと試みている。のちに、トルコ軍は本格的にエジプトを攻撃するが、スエズ運河を封鎖するために送り込んだ軍団は撃退された。連合国側は、反抗のために、二つの作戦を決定する。
反攻の第一はメソポタミア進撃だった。タウンゼンド将軍指揮下の英印混成軍がペルシア湾頭から侵入した。遠征は、はじめのうちははなばなしい戦果を上げる。インド総督がタウンゼンドに、バクダッド急襲を命じ、作戦最終目的は連合国であるロシア軍との合流にあると指令したほどだった。バスラを落としたあと、タウンゼンドはティグリス、ユーフラテス両河流域をさらに進撃する。しかし、英印混成軍には、そのように遠大な目標を達成するための補給も組織もなかった。タウンゼンド軍はバクダッドにあと二四マイルまで迫ったところで敗北をきっし、やむえずクトゥまで退却して五カ月の籠城にたえたが、ついにトルコの軍門に降る。
反攻の第二はダーダネルス海峡制覇の試みだった。トルコをヨーロッパの同盟諸国から切り離し、同時に、連合国であるロシアとのあいだに通路をひらくためである。トルコの防衛線にたいして海軍が強襲をかけるが、失敗に終わる。そのあとで英仏両軍が、ガリポリ半島の六地点に上陸を敢行した。しかし、トルコ軍の拠点はどれも、文字どおり難攻不落だった。連合軍は甚大な損失を支払いながら、上陸拠点を確保したにとどまり、それ以上はほとんど進撃できない。一九一五年一二月に、上陸部隊は撤退することになる。
ふたつの遠征はいずれも目的を果たさなかったけれども、それまでトルコ軍と共同作戦を展開してきたアラブ軍にたいしては、重大な影響をあたえた。バスラ陥落に先立つトルコ軍のタウンゼンド軍への敗北は、アラブ人に連合国側の勝利を確信させる。加えて、ダーダネルス喪失はトルコ側に重大な局面をもたらし、トルコ軍将校として現場に立ち会っていたフェイサルに、いまや叛乱の機は熟したとの信念をいだかせることになる。シリアに帰りつくと、フェイサルの意見は変わった。トルコはアラブ連帯をすべて別々の前線にばらまいたうえで、革命の指導者を逮捕してしまったからだ。フェイサルは父に、好機が訪れるまでなお自重するよう、強く要請する手紙を書き送っている。
フセインは、しかし、攻撃に出ることを決意していた。一九一六年六月十三日、フセインはメッカに真紅の叛旗を高くかかげた。トルコ軍の不意をついて市外に追いはらい、その後、紅海のイギリス海軍と共同作戦を展開して、メッカの外港であるジッダを手中におさめる。
メディナでは、事態はそれほどうまく運ばなかった。トルコが、表向きはスエズ運河攻撃のためと称してメディナ周辺に集結していたアラブの大軍の動向に疑惑をいだき、守備隊を増強したためである。奇襲に失敗すると、はるかに劣る武器しか持たないフェイサル指揮下のアラブ軍は、市の中心部から追い出されてしまう。トルコ軍は近郊の町ひとつを包囲すると、女子供までふくめて住民すべてを虐殺した。
この虐殺は、トルコ軍と共同して戦うことがなにを意味するかを、はじめてアラブ人に教えた。アラブでは、部族間の争闘はいぜんとして騎士道の掟にしたがって行われ、非戦闘員を殺すことは許すべからざる行為であった。虐殺の報は、たちまちトルコへの憎しみを、白熱するまでに燃え上がらせる。が、フェイサルは現状をはっきり認識していた。イギリスの援助なしには、指揮下のアラブ軍を団結させておくことさえできない、と。そこで兄弟のアリとゼイドを紅海沿岸のラベグに派遣し、英国海軍が陸揚げして集積しておいた武器および補給物資の輸送にあたらせる。そのあいだにも、骨董《こっとう》まがいの山砲数門を送られたことに力をえて、ふたたびメディナを攻撃した。だが、山砲ではたいして効果がないことが証明され、アラブ軍はやむをえず撤退する。暗雲がフェイサル軍をおおい、アラブの叛乱の火は、いままさに消えようとしていた。
このとき、叛乱を盛りかえす能力をもつ、おそらくは唯ひとりの人物が舞台に姿を現す――トマス・エドワード・ロレンスである。
大戦勃発当時、ロレンスは二六歳。オックスフォードで、彼自身参加したシナイ砂漠での考古学的発掘の報告書を執筆中だった。考古学者として、ロレンスはシリアおよびパレスティナで働き、しだいにさまざまな部族の慣習や家系や、彼らの住む土地の地形に精通するようになった。陸軍省はこの知識に眼をつけ、情報部の一員としてロレンスをカイロに派遣する。
エジプトでのロレンスの仕事は、おもに地図の作製と捕虜の訊問であった。パレスティナのある地域について彼が持っている豊富で詳細な知識は、入手した情報を最大限に利用することを可能にした。また彼はアラブ人の秘密結社とも接触している。秘密結社のメンバーの多くとは、戦前の数多くの旅行のあいだに顔見知りになっていたからである。
当時のカイロは近東に置ける英国の活動の中心であり、戦争遂行のために欠かせないとみなされたさまざまな分野の、さまざまな政府機関のスタッフでごったがえしていた。彼らのほとんどはアラビアの情勢について断固たる意見を持っていたから、英国の戦略は、アラブの叛乱が決定的な展開を見せるまで、対立する二派の争いのために、ついに定まらなかった。一派は主として職業軍人からなり、アラブの叛乱を「脇役の脇役」であり、まったく無駄だと考えていた。ほかの一派はアラブの独立運動を援助することは英国の利益につながると考えた。この不一致は、アラブ諸国の諸地域を帝国の領土に編入しようねらっている英仏両国の熱烈な帝国主義者の主張によって、いっそう複雑怪奇なものになった。たとえばロレンスのような、ごくわずかのアラブ気違いだけが、利害にかかわりなくアラブ人の独立の悲願にふかい同情をいだいていたにすぎない。
ロレンスのアラブの叛乱にたいする関心は、反対派も十分に承知していて、ロレンスが叛乱を援助しようとすると、ことごとに、可能なかぎり、援助を骨抜きにするよう手をまわした。反対派の妨害から逃げ出すために、ロレンスは意識的に、上官から嫌われるようにふるまう。近東にかんする無知をあげつらうのはまだしも、文章の文法上の誤りまで訂正するしまつだった。ついに彼は不快きわまる存在となって、アラブ局に厄介払いされることになる。アラブの叛乱を援助する目的で創設された外務省の一部局である。
いまやロレンスは、自分の知識とアラブの大儀にたいする熱狂が実際に役立つ地位にあった。彼は数カ月前に旗上げしたアラブの叛乱を、そもそもの始まりから入念に検討して、叛乱が頽勢にむかっているのは指導力の欠陥が原因だと確信するようになる。アラブ局に赴任する前に、ロレンスは十日間の休暇をもらうと、アラビアにはいって自分自身の眼で現状をたしかめることにする。彼はイギリスの砲艦ラマ号に乗ってスエズを出発した。同行者はロナルド・ストーズ。エジプト駐在イギリス代表部書記官で、重要な要件をもって知事《シェリフ》をたずねるところだった。一九一六年十月、ふたりはジッタに上陸する。
この時点から、われわれは、アラブの叛乱の物語を、ロレンス自身の筆に委ねよう。
訳者追記――『智慧の七つの柱』は全部で二千枚に達する大作である。抄訳は主としてカレンのたくみな縮冊版にしたがったが、必ずしも忠実にしたがったわけではない。アカバ攻略まではむしろ付加した部分が目立つぐらいだが、タフィレ会戦以後は抄出部分の差し替えをふくむ、いっそうの縮訳をこころみた。むろん紙数の制限が第一の理由だが、カレンもまた愛国心の呪縛をまぬがれることはできず、イギリス軍の一翼としての色彩を強調しすぎているからである。
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一 武人予言者をもとめて
ジッダへの航海は、いつものようにおだやかだった。紅海の気候は快適そのものである。航行中は、けっして暑すぎることはない。昼間、われわれは日かげに横になる。満天の星のもと、南風がそよぐすばらしい夜は、たいてい濡れたデッキをあちこち歩きまわってすごす。しかし、ついに、ジッダの外港に錨をおろす日がきた。燃える空と、広い礁湖のうえを近く遠くゆれうごく蜃気楼《しんきろう》にうつる空のかげとのあわいに、ぽっかりと浮かぶ白い街がジッダである。とたんにアラビアの暑さが、鞘《さや》をはなれた剣のように沖合の船まで伸び、いきなりわれわれを打ちのめす。
真昼だった。そして東方の真昼の太陽は、月と同じに、あらゆる色彩を眠らせてしまう。あるのはただ光と影、白い家並みと、亀裂を思わせる黒い街路ばかりだ。前には青白くきらめく靄《もや》が内港の上にひろがり、後方には目くるめく砂漠が何マイルも何マイルも単調にひろがり、そのはてにつらなる低い丘陵の稜線が、はるか熱気のかなたにかすんでいる。
ジッダのすぐ北に、やはり白と黒に塗り分けられた第二の街並みがあり、碇泊中の船がゆれ、またときおり吹く風が空中の熱波をゆさぶるたびに、蜃気楼のなかをピストンのように上下している。新生アラブ国家駐在のイギリス代表使節ウィルソンがさしまわしてくれた汽艇《ランチ》がつく。となれば、われわれも上陸して、あの蜃気楼のなかに浮かんでいる人々の実像を学ばねばなるまい。メッカのシェリフの第二子、シェリフ・アブドゥッラが、いまジッダに着いたと知らされる。彼こそ、われわれが会見すべき当の相手である。われわれの到着は、したがって、まことに絶好のタイミングだった。
まだ完成していない石造りの白い水門をあとに食料市場のむっとする通りをぬけて、領事館に向かう。空中には蝿の大群が、人からナツメ椰子へ、そこからまた食肉の上へと飛びかい、頭上の羽目板やズックの日除けの破れから店のいちばん暗い片隅まで射抜くようにさしこんでくる光の筋のなかで、こまかな塵のように高く低く踊っている。まるで浴場にいる感じだ。ストーズの白い上着とズボンは、この四日間、汗みずくになりながらラマ号のデッキのまっかに染めた革張りの肘掛椅子に座りつづけたために、同じように真紅に染まっていた。そしていま、着衣の下を流れる汗は、そのしみのためにニスのようにひかっている。わたしはすっかりストーズに見とれていて、自分のカーキ色の野戦服も、身体にふれているところはすべて焦茶色に変わっていることになど、まったく気づかない。ストーズは領事館に行き着くまでに、わたしの野戦服がはたして上品で、むらのない、落ち着いた色になるまで汗を吸うものかどうか心配だったらしいが、わたしはわたしでストーズが腰をおろそうものなら、なにもかも彼同様に真紅に染まってしまうのではないかと気がかりだった。
領事館には思いがけなく早く着いた。それは迎える側にとっても同じだったらしい。ウィルソンは日の当たらない部屋に、開けはなした格子窓を背に座っていた。海からの微風を待ちうけているのだが、この数日間はそよとも吹いて来ないという。ウィルソンは代表使節にうってつけの男だ。すでにアブドゥッラとの会見の約束はとりつけてあるし、力の及ぶかぎり、どんなことでも手をかそうと申し出てくれる。なによりも、われわれは彼の客であった。そして彼自身の気質も、すばらしい客のもてなしかたをする東方の人々の気質にちかいものがあった。
アブドゥッラは白い牝馬《ひんば》にまたがり、徒歩《かち》で従うけんらんたる武装をした奴隷の一団にかこまれて、町の人々が敬意をこめて目礼するなかを、しずしずとやってくる。血色がよくて幸福そうだった。わたしははじめてアブドゥッラに会うのだが、ストーズのほうは旧知の間柄で、会見は申し分なく上首尾に運んだ。が、まもなく、彼らの談笑を聞きながら、わたしはアブドゥッラがどんな場合でも上機嫌であることに疑念をいだきはじめた。眼は自信に満ちて輝いているが、まだ三十五歳なのに、もう肥りはじめているではないか。たぶん、あまり笑いすぎるせいではないだろうか。アブドゥッラにとって、人生は愉快でたまらないものらしい。小男だが、がっしりしていて、肌は白いほうだ。きれいに刈り込んだ鳶色《とびいろ》の髭が、円いすべすべした顔と小さな口もとをおおっている。態度は開けっぴろげで、あるいは開けっぴろげをよそおっていて、つきあう相手としてはじつに感じがいい。儀礼ぶったところなど少しもなく、訪ねてくる者には誰にたいしてもごく気さくな態度で接し、冗談好きだ。とはいえ、話題が重要なポイントにくると、ユーモアの煙幕もたちまち消えてしまうようだ。アブドゥッラはことばをえらび、抜け目のない議論を展開する。もちろん、ストーズが相手で、こちらのほうもアブドゥッラから相当つっこんだ内容を引き出そうとしている。
わたしのほうはもっぱらアブドゥッラを観察し、品定めすることに集中していた。シェリフの叛乱はこの数カ月というもの、思わしい状態になかった――つまり膠着状態におちいっていたのだが、これは不正規戦争においては潰滅への序曲となるものである。そしてわたしは、指導力の欠陥を疑っていた――欠けているのは、知性でも、判断力でも、政治手腕でもなくて、砂漠を燃え上がらせる狂熱の炎なのではあるまいか。
わたしがヘジャズを訪れたのは、なによりもまずこの叛乱を導く隠れた指導者を探しだし、わたしの心の中にある目標の地まで叛乱軍を引っぱっていく能力が備わっているかいないかをはかることにあった。会談がなおも続いているあいだに、わたしはますます確信をつよめていった――予言者となるためには、とりわけ、歴史が教えるように、革命を成功させる武人予言者となるためには、アブドゥッラはあまりにもバランスがとれすぎ、冷静にすぎ、ユーモアがわかりすぎる、と。彼の真価は、おそらく叛乱が成功したあとの平和の時代に現れるであろう、と。
[#ここから1字下げ]
会談はつづき、アブドゥッラは、メッカをトルコ軍に奪回されないために、英国の援軍派遣をつよく要請する。ロレンスはそれに答えて、この件をエジプトの英軍総司令官に伝えることを約束するが、その前にフェイサルに会い、現状にかんして意見を交換したいと申し入れる。メッカとの電話連絡でフセインの同意をとりつけると、アブドゥッラは長兄のアリあてに、ロレンスを安全にラベグからフェイサルの宿営地まで送りとどけるよう指令した書簡をしたためる。
[#ここで字下げ終わり]
その夜、電話が鳴った。フセインがストーズを電話口に呼び出し、自分の楽隊の演奏を聞きたくないかと訊ねる。ストーズはびっくりして聞きかえした。「どんな楽隊でしょうか?」そして、これほどまでに優雅な心遣いを示していただいたことに、心からなる謝意を述べる。フセインの説明によれば、トルコ支配下のへジャズ軍司令部には軍楽隊があって、毎晩、総督のために演奏していたという。アブドゥッラがタイフでトルコ軍を破り、総督をとらえたとき、軍楽隊もいっしょに捕虜になった。他の捕虜はエジプトの捕虜収容所に送ったが、軍楽隊だけは別で、メッカにとどめて戦いの勝者のために音楽を演奏させることにしたのである。シェリフ・フセインは謁見室の卓上に受話器をおき、われわれはひとりずつおごそかに電話口に呼び出されて、四十五マイルかなたのメッカの宮殿で演奏する軍楽隊に耳をすませた。ストーズが一同に代わって感謝のことばを申し上げる。シェリフはいっそうの恩寵を垂れたまい、軍楽隊を強行軍でジッダまで派遣し、われわれの庭先で演奏させようと仰せになる。「そこでじゃ、そのときこちらに電話をかけてくれればじゃな、わしもそなたたちと喜びをわかつことができるというものじゃ」とのおことばまでそえて。
翌日の夜、アブドゥッラがやってきて、ウィルソン大佐と晩餐をともにした。われわれは前庭に面した階段のところまで迎えに出た。アブドゥッラの後ろにはきらびやかな服装の召使いと奴隷たちが従い、そのまたうしろに頬髭をのばし、やつれはて、憂いに沈んだ顔の男たちの一団がつづく。ぼろぼろの軍服をまとい、色あせた管楽器をしっかりとかかえて。アブドゥッラはさっと腕をまわし彼らをさししめし、得意満面で言う。「わたしの楽隊です」と。軍楽隊を前庭のベンチに座らせると、ウィルソンが煙草をふるまう。われわれは階段をのぼり、食堂にはいった。バルコニーに面したシャッターはすっかり巻きあげられ、海からの風をむさぼるように吸いこんでいる。一同が席につくと、軍楽隊は、アブドゥッラの親衛隊の銃剣の監視のもとに、哀切なトルコ音楽の演奏をはじめた。それぞれの楽器がてんでんばらばらで、とても合奏とはいえない。われわれの耳は騒音のために痛くなったが、アドブゥッラはあかるいほほえみを浮かべている。
トルコ音楽に倦きると、われわれはドイツ音楽を所望した。アラブ軍幕僚長のアジズがバルコニーに出て、トルコ語でなにか外国のものをやれと軍楽隊にどなる。すっかり怯気《おじけ》づいて「世界に冠たるドイツ」をおずおずと演奏しはじめたとたんに、メッカのシェリフがこちらの宴会の音楽に耳を傾けようと電話口に出てしまった。もっとドイツのものをやれと言うと、こんどは「鉄の砦、巌《いわお》の城」をはじめる。が、曲の途中で演奏は力を失い、だらしない、不揃いなドラムの音が聞こえるだけになってしまった。太鼓の皮がジッダの湿気にためにすっかり伸びてしまったらしい。火をくれ、と、楽士たちは口々に叫ぶ、ウィルソンの召使いとアブドゥッラの護衛兵が、麦わらの山と荷造り用の箱とを運び込んだ。彼らはドラムを暖め、何度も何度もひっくり返しながら炎にかざす。それから、ようやく、連中の口上では「憎しみを讃える」という曲にとりかかった。が、ヨーロッパ的な旋律だと思ったものはひとりとしていない。エジプト派遣軍の司令官サイード・アリがアブドゥッラにむかって言う。「こいつは死の行進曲じゃありませんか」と。アドブゥッラはかっと眼を見開く。しかしストーズがすばやくその場を救うせりふを吐いて、凍りついた一瞬を爆笑に変えた。憂い顔の楽士たちにほうびをとらせ、宴会の残りのものを与えたが、彼らはわれわれの賛辞を喜ぶでもなく、ただひたすら、国に帰らせてくれと懇願するばかりであった。
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次の日、ロレンスはジッダを出発して船でラベグに行き、ラベグからひとりのベドウィンとその息子の案内で砂漠をこえ、ハムラの丘陵地帯にテントを張るフェイサルの宿営地にむかった。
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いまやフェイサルの軍隊と草をはむ鞍をおいたラクダの群れが見える。ハムラに着くまでのあいだ、あらゆる岩蔭、あらゆる木蔭が露営地である。やがて左が開けてハムラが現れる。どうやら百戸ほどの村で、二十フィートぐらいの高さの塚がいくつもあって、家々は周りを囲む樹園のなかに埋もれている。小川を渡り、木立にはさまれた小径を登って、その小高い塚のひとつの頂に出た。長い、低い家の庭木戸のそばで、ラクダをうずくませる。わたしを案内してくれたタファスが、銀の柄の剣を持ってそこに立っている奴隷に何事か話しかけた。
中庭に案内される。と、中庭の向こう側に、黒い戸口の柱を額縁にして、真っ白い人影がひとつ、身じろぎもせずわたしを待ち受けているではないか。ひと目見るなり、わたしは直感した――これこそ、わたしがアラビアまで探しにやってきた、その人だと。アラブの叛乱を栄光の勝利にみちびく指導者なのだと。フェイサルは非常に背が高く、非常に痩せていて、まるで柱を思わせる。白絹の長衣をまとい、褐色の頭被に真紅と金色の紐飾りを結んでいる。瞼をなかば閉ざした、髭の黒い蒼白な顔は、異様に静かな、しかし寸分のすきもない体躯とあまりにかけはなれていて、仮面のようにさえ見えた。両手を胸の短剣のうえに、じっと組み合わせている。
わたしは挨拶のことばを述べる。フェイサルはわたしを部屋に招き入れ、戸口にちかい自分の絨毯に腰をおろす。眼が暗さに慣れてくるにつれて、この小部屋のなかには他にもたくさんの人間がいて、黙ってわたしとフェイサルを見つめていたことがわかった。フェイサルはなおも目を伏せたまま、ゆっくりと短剣をもてあそんでいる自分の両手を見つめていた。ようやくもの静かな口調で、旅はどうでしたかと訊ねる。わたしが炎暑のことを話すと、ラベグからどのくらいで来たかと訊ね、この季節としては上出来だと意見を述べる。
「では、この露営地、ワディ・サフラはお気に召したかな?」
「ええ。ただ、ダマスカスから遠すぎます」
わたしのことばは剣のように、一座のまんなかに突き刺さった。身じろぎの気配が走る。そして、その場にいたものはすべて、席に座ったまま石のようになり、一瞬、ことばもなく息をのんだ。あるものは、おそらく、はるかな勝利の夢を追っていたのだろう。またあるものは、彼らのこのあいだの敗北にたいするあてこすりととったかもしれない。フェイサルはついに眼をあげ、わたしにほほえみかけながら言った。「ありがたいことに、トルコ兵なら、もっと近くにいますからね」われわれはひとりのこらず、フェイサルとともに微笑した。わたしは立ちあがり、しばらく席をはずす許可を求める。
柔らかな草原に丈高いナツメ椰子がならび、枝々が紐のように伸びてアーチ型の屋根になっている自然の回廊のなかに、エジプト軍の小ぎれいなキャンプがあった。スーダン総督レジナルド・ウィンゲイト卿がアラブの叛乱を助けるために送りこんできたばかりの部隊で、機関銃中隊数個で編成されていて、彼ら自身が口にするほどみじめには見えない。
フェイサルが幕僚のマウルド・エル・ムクルスをともなって現れた。マウルドは猛烈に文句を並べたてる――あらゆる面で装備がなっていない。これが現在の情けない状態の第一の原因である。フセインから支給される月に三万ポンドの軍資金で何とかやってはいるものの、小麦粉も米も大麦もほとんどなく、小銃の数も足りず、弾薬も不足し、機関銃や山砲にいたっては一基もなくて、そのうえ技術援助もなければ、情報もなにひとつ手にはいらないのだから、と。
わたしはマウルドをさえぎって言った。わたしがここに来たのは、まさしく君たちになにが不足しているかをはっきりつかんで報告することにあるのだが、まず現在の一般的な状況を説明してくれなくては、力の貸しようもないのではないか、と。フェイサルも賛成してくれて、叛乱の経過を、そもそもの発端から話し始める。
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フェイサルは、メディナ奪取の失敗を語る。現状については、トルコ軍がメッカ奪回をはかるのはまちがえないと考え、動かせる兵員を全軍、メディナ戦線に投入して、トルコ軍をメディナ市内に封じ込める戦略をとろうと思う、と語った。
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マウルドは、われわれの長い、ゆったりとした話し合いの間じゅう、腰をおろしてはいたものの、じれったそうにもじもじしていたが、とうとうたまりかねて叫んだ。「すんだことの話はいいかげんにしてくれい。いま、やらなくちゃならんのは、戦って、戦って、奴らを殺すことなんだぞ。おれにシュナイダー山砲と機関銃を持った中隊をひとつくれい。この問題に片をつけて、あんたをのんびりさせてやるよ。おれたちは喋ってばっかりで、なにひとつしてやせんじゃないか」わたしも同じように熱くなって言いかえした。たとえ勝ちいくさでも、自分の働きを示す手傷を負わないかぎり、負けいくさ同然とみなすすばらしい戦士マウルドに、わたしも釣りこまれてしまったらしい。激しく言いあらそうふたりを、フェイサルはすぐそばに坐って、たのしそうに笑いながら見まもっていた。
この会談は、フェイサルにとって祝日となった。わたしがやってきたという、ただそれだけの些事《さじ》にも、元気づけられていたのである。感情の起伏が激しい人で、栄光の絶頂と絶望のどん底とのあいだをたえずゆれ動く。そしていまは、ちょうど精根つきた気分のとりこになっていたところだった。フェイサルは三十一歳という年齢よりもかなり老けて見える。やや目尻のさがった、黒い、訴えるような眼は血走り、くぼんだ頬には内省的な深いしわが刻み込まれている。フェイサルは生まれつき思索を喜ばない――思索は行動のすばやさをそこなうからだ。思索を重ねると、たちまち苦悩のしわが容貌に刻みこまれてしまうのである。外見は、長身で、気品があり、しかも精悍《せいかん》である。歩く姿はじつに美しく、頭から肩にかけての線には王者の威厳がみなぎっている。もちろん彼自身もそのことはじゅうぶん心得ていて、公式の場での意思表示は、ほとんど手真似か身ぶりで伝えた。
行動は激しい。激情にかられ、感じやすく、非合理的でさえあって、たちまち脱線さえしかねない。欲望と肉体的なもろさとが、勇気という拍車をともなって、彼のなかに同居している。個人的な魅力と、無分別さと、この誇りたかい性格への唯一の制約とも言うべき、肉体的な弱さからくる悲劇的なかげりが、フェイサルを部下たちの偶像にしたのであった。命令が周到な配慮をもってなされたかどうか、誰ひとり訊ねようともしない。もっとも、のちには、フェイサルも、信頼には信頼を、疑惑には疑惑をもって応える能力があることを示すようになるのだが。彼はユーモアがあるというより、機智にあふれるタイプである。
わたしはハムラまで来る旅の道連れのひとり、アブドゥッラ・エル・ラアシドの話をした。毎日、ラベグに上陸してくる英国水兵のことについて、うめくようにこうもらしたのである。「まもなく、連中は夜もすごすようになるだろう。つぎには、ここに住みつくようになり、ゆくゆくはこの国を取り上げてしまう」と。アブドゥッラを慰めるために、わたしは言った――いま、イギリス人が何万何十万とフランスに上陸しているが、フランス人は別に心配もしていないぞ、と。とたんに、アブドゥッラはわたしのほうに向きなおって、嘲《あざけ》るようにこう言ってのけたのである――あんたは本気で、フランスなんぞと、この聖なるヘジャズの地を比べるつもりか!
フェイサルは短く笑って言った。「わたしはヘジャズの生まれではない。しかし、神かけて、ヘジャズに生まれたかったと思っています。そして、たしかにいまは、イギリスがヘジャズを奪おうと考えてはいないことを知っています。が、わたしになんと言えるでしょう。イギリスがスーダンを奪ったときも、最初から奪うつもりじゃなかったんでしょう? イギリスは人の少ない土地を喉から手が出るほど欲しがっています。開発するためにね。だから、たぶんいつの日か、アラビアはイギリスの目に貴重なものとして映るようになる。貴国の利益とこちらの利益は、たぶん同じではない。そして強いられた善も、強いられた悪も、どちらも人民に苦痛の悲鳴をあげさせることに代わりはない。鉱石は、自分を変えてくれる炎を讃えるものでしょうか? たしかに目くじらたてることはないのかもしれません。だが、あまりにも弱い民族は、自分のちっぽけな持ち物について、必死に声高に主張するものです。われわれアラブの民は、自分の足でしっかり立つことができる日まで、片輪者のひねくれ根性を持ち続けるでしょう」
トルコ皇帝アブドゥル・ハミッドの側近として仕える間に訓練されて、フェイサルは外交の名手となった。トルコ軍に従軍して、戦略の生きた知識を身につけた。コンスタンティノーブルでの生活とトルコ議会での経験から、ヨーロッパの諸問題とそれらのあつかいかたにも通暁していた。しかも、注意ぶかい判断力の持ち主である。もしフェイサルに夢を実現する力を与えるならば、どこまでもやりぬくことだろう。彼は自分の仕事に全身全霊をあげて取りくんでいる。そのほかに生活はない。心配といえばただひとつ、つねに真実よりもわずかに高い目標を狙おうとするように思えることで、そのために精根つきてしまうのではないか――つまり、過労のために一命を落としかねないという点だけである。フェイサルは、身をもって自らを守りながら手兵を指揮し、統率し、督励しつづけて、長い苦戦を戦いぬいたあと、文字どおり身体ごとくずれおれ、勝利の戦場から、意識を失い、口から泡を吹きながら運び去られていったという。
ともかく、ここで、われわれの手にひとりの預言者が授けられたとわたしは思った。われわれとしては、彼を受け取ることができるくらいに、大きく腕をひろげさえすればいい、と。いまはまだヴェイルにおおわれているが、この預言者こそは、アラブの叛乱において、行動の背景にある観念に力強い形を与えてくれるはずだ、と。彼こそは、われわれの望みをみたすすべてであり、いや、それ以上の人物であった。煮え切らないわれわれの戦略にはもったいないほどの賜物だった。われわれの旅の目的は果たされた。
わたしの義務は、いまや、この知らせをもって、まっすぐにエジプトへむかうことである。この夕、ナツメ椰子の林の中で得た知識は、わたしの心のなかで育ち、花開き、何百何千と枝をひろげ、枝もたわわに実を結んで鬱蒼《うっそう》と茂った。その下蔭に腰をおろして、夢うつつに物音を聞きながら幻を見ていると、黄昏はしだいにふかまり、夜が訪れた。ついに奴隷たちがランプを手に、一列になってナツメ椰子の樹々のあいだの小径をぬうように降りてきて、夢想を破る。フェイサルやマウルドとともに樹園をよぎって小さな家に戻ると、中庭はまだ待ちうけている人々でいっぱいで、暑い奥の部屋にもごく親しい人々が集まっていた。われわれはいっしょに腰をおろす。前には食事用の絨毯がひろげてあり、奴隷たちがととのえた夕食の米飯と肉の皿からは湯気がたちのぼっていた。
翌朝早く起きると、わたしはひとりでフェイサルの部隊にはいりこんだ。この時点で彼らがなにを考えているのか打診しておきたかったからである。優秀な特派員が、ここにはぜひとも必要だ。わたしはアラブ人の運動を信じ、ここに来るまえからすでに、叛乱の目ざすところはトルコ軍を四分五裂の状態に追い込むことにあると確信していた。が、エジプトにはそれを疑う連中が大勢いて、しかも戦場のアラブ人についてまっとうな情報はなにひとつ入っていなかった。聖なるふたつの都をめぐる丘陵地帯に陣をはる騎士物語の勇士たちの闘志について多少とも報告できれば、あるいはカイロの連中をうごかして、アラブ軍援助に必要な措置を講じることができるかもしれない。
兵士たちはわたしを陽気に迎えいれた。あらゆる大きな岩蔭や茂みの蔭に、彼らはものうげなサソリのように寝そべっていた。暑熱を避けて休息しながら、朝早い日かげの小石に褐色の手足を押しつけて、そのひんやりとした肌ざわりをたのしんでいたのである。ほとんどが若者だった。「戦士」ということばは、へジャズでは十二歳から六十歳までの男で、銃を撃てるだけの正気をもちあわせている者のすべてをさすのだが。見たところ精悍そのものの一団で、すっかり日に灼け何人かは黒人もまじっている。痩せてはいるものの、すばらしい身体をしていて、油をひいたようななめらかな身ごなしは、見ているだけでも気持ちがいい。彼ら以上に困苦に耐えることができ、彼ら以上に屈強な男たちがありえようとは、とても思えないくらいだ。彼らはとほうもない距離を連日ラクダに乗りつづける。はだしで炎熱のなかを何時間も、砂漠をよぎり岩原をこえて走りつづけ、苦痛を訴えもしない。そして丘陵地帯を山羊のように駈けのぼるのだ。服装は主に寛衣《ゆるぎ》だけで、時には木綿の半ズボンをはくこともある。そして、ふつうは赤い布の頭被をつけているが、これは必要に応じてタオルにもなれば、ハンカチーフにもなり、頭陀袋《ずだぶくろ》にもなる。いつも弾帯をつけていて、心弾むことがあれば、いつでも喜びを表現するために銃をぶっぱなす。
彼らの士気はおそろしく旺盛で、戦争が十年つづいてもびくともせんぞ、と口々に叫んだ。シェリフは戦士たちだけでなく、その家族まで養っていた。戦士は月に二ポンド、ラクダは月に四ポンドの支給をうける。この方法以外では、部族軍を戦場に五カ月も引きつづいて維持するという奇跡を演出することなど、とうてい不可能だろう。
分隊員は、実際には、血族の掟にしたがってたえまなく入れかわっている。一家族で一梃の小銃を持っていて、息子たちが二、三日交替で軍務につくからだ。妻帯者は宿営地と家族の間を行ったり来たりしているし、時にはひとつの氏族全員が退屈して休みをとることさえある。その結果、支給をうける人員は、つねに動員中の人員を上回ることになってしまう。しかも、しばしば、大きな族長《シェイク》にたいしては、給与という名目で金を、友好的支援にたいする儀礼的贈賄として支払う政策がとられる。フェイサルの手兵は一割がラクダ騎兵で、のこりの九割は歩兵である。彼らは部族の族長の命にのみしたがい、出身地のちかくにいるときだけ、自分たちの食料の調達と運搬にあたる。名目上では、各族長は百名の部下を持っている。族長は部族集団の長として行動する。特権的な身分のおかげで、部族民の足かせとなる嫉妬羨望にわずらわされないですむからだ。
部族軍は防禦にまわった場合にのみ優秀である――これが、わたしの結論だった。前後のわきまえもない欲張りだから戦利品には目がなくて、そのせいで鉄道の破壊や、隊商の略奪や、ラクダの泥棒の腕は抜群だ。しかし、あまりにも自由奔放で、命令には従わないし、ひとつのチームとして戦うこともしない。ただひとりでもすばらしい働きぶりを見せる戦士は、たいてい、よい兵士にはなれないものだ。こういう勇士は近代戦の教練にむいてはいないだろう。が、ルイス式自動小銃で戦力をかため、自分の思いのままにやらせてやりさえすれば、おそらく丘陵地帯の戦線を維持することは可能だろう。そこで、この優秀な防禦線の背後で、たとえばラベグにおいてアラブ正規軍の遊撃隊をつくりあげれば、ゲリラ戦で引っかきまわされたトルコ軍と対決してちりぢりに撃破できるようになる。
こうして前線に身をおいてみると、この叛乱の大きさが、わたしの胸をうった。この人口稠密な地方が、とつぜん、相貌を変える。いままで追剥ぎをはたらく烏合の衆の遊牧民と見えたものが、いまや支配者トルコにたいする巨大な怒りの爆発と映る。たしかにわれわれの戦い方とは違うけれども、しかし、かつての聖戦のさい東方をヨーロッパにたいして立ちあがらせた宗教の同一性など焼きつくしてしまうほどに激烈なトルコ支配への戦いが、ここにはあった。戦闘区域の部族には、わたしの考えではすべての民族的決起に共通する熱狂的な興奮がある。が、それは、あまりにも長いあいだ唱えられてきたために、民族の独立など飲み水のようになんの味わいもなくなっている土地にしては、信じがたいほどの狂熱であった。
のちほど再びフェイサルに会って、わたしはベストをつくすと約束した。英軍司令部はイェンボに基地を設営し、フェイサルの必要とする補給物資を、フェイサル軍専用として陸揚げすることになろう。メソポタミア戦線あるいはスエズ運河戦線での捕虜のなかから、フェイサル軍への志願将校をつのってみよう。捕虜収容所の兵卒から砲兵隊と機関銃隊をフェイサル軍のために編成し、エジプトで入手可能な山砲と軽機関銃を提供しよう。加えて、わたしとしては職業軍人であるイギリス将校を、戦場でのあなたの軍事顧問兼連絡将校として派遣することを進言するつもりだ、と。
このたびの会談は友好|裡《り》にすすみ、フェイサルは心のこもった謝辞とともに、できるかぎり早く帰ってくるようにというわたしへの招待でしめくくった。わたしは、カイロでの任務に野戦が含まれていないことを説明し、けれども先になれば上官はたぶん再訪を許可してくれるであろうし、そのころにはフェイサルの要求はみたされていて、彼の叛乱も望ましい方向に展開中のはずだと答えた。いっぽう、エジプトへ帰って自分の足で迅速に事を運びたいから、イェンボまで戻る便宜を計ってほしいと頼むと、フェイサルはたちどころにジュヘイナ部族のシェリフ十四名を護衛に指名し、イェンボの知事シェイク・アブドゥ・カディル・エル・アブドのもとまで無事お連れするようにと命じるのだった。
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二 トルコ軍、イェンボに迫る
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叛乱の指導者を見いだしたロレンスはエジプトに帰還する。報告に力をえた総司令部は、フェイサル軍への物資弾薬の援助を約束した。固辞したにもかかわらず、ロレンスはフェイサルの政治顧問兼連絡将校として、アラビアに派遣されることになる。まずフェイサルの根拠地イェンボへ。そこからさらに、族長アブドゥ・エル・ケリムとその部下三名とともに、砂漠を横断してフェイサル軍宿営地へとむかった。
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近づくにつれて、椰子の林の木の間がくれに炎が、その炎に照らしだされたおびただしい篝火《かがりび》の煙が見え、この窪地にこだまする何千ものいきりたったラクダの雄叫びが、一斉射撃の轟音が、そして暗闇に見失った仲間を呼びもとめる叫び声が聞こえてくる。ネフルの放棄をイェンボで聞かされたばかりなので、この騒ぎを見てはなにか異変が起こった――たぶん敵襲ではないのかと考えざるえない。われわれは林の片隅をこっそりとあともなく抜けて、身のたけほどの高さの土塀にはさまれた狭い通りにはいり、ひっそりと静まりかえっている何軒かの家の前に出た。アブドゥ・エル・ケリムが、左手にあるとっつきの家の中庭に通じるドアをこじあけ、ラクダをなかに引っぱりこみ、壁ぎわに両脚を縛ってうずくまらせる。うっかり立ちあがって見つかったりしないためである。そのあと小銃に弾丸をこめると、爪先立ちで足音を忍ばせながら通りに出て行く。騒ぎの場所に近づいて、何ごとが起きたのか探るためだ。肌寒い夜の中庭で、油断なく眼をくばりながらアブドゥ・エル・ケリムを待っていると、衣服にまでしみこんでいた騎乗の汗がゆっくりと乾いていくのがわかった。
半時間後にアブドゥ・エル・ケリムが帰ってきて、フェイサルがラクダ部隊をひきいていま到着したところだから、すぐここを出て合流しようと言う。そこで、ラクダを引き出して乗ると一列になって、もうひとつのワディ〔小さな谷〕の斜面のほうの小径を、家々のあいだをぬいながら降りていった。右手には黒々とナツメ椰子の樹園がつづいている。小径のはずれはアラブ人とラクダの群れで身動きもできないくらいごったがえし、そのうえみんなが大声にわめきたてている。その中を押しわけて進みながら斜面を下ってゆくと、とつぜん視野が開け、ひろびろとした平地に出た。
ワディ・イェンボの河床である。はるか彼方に明滅する篝火の不規則な連なりから、かろうじて見当がつくほどに広い。しかもひどくぬかるんでいる。二日前に河床をおおった浅い洪水のなごりの泥土が小石をおおったままだ。ラクダは足もとがすべりやすいことに気づいて、おずおずと歩みはじめる。
そのとき、しかし、われわれにはそんなことまで気を配るゆとりはなかった。じっさい、この谷を端から端まで埋めつくしているフェイサルの大軍以外には、なにひとつ眼にはいらなかった。茨の木の篝火が幾百となく燃えさかり、それらを囲んでアラブ兵がコーヒーを暖め、食事をとり、あるいは外套にくるまって死人のように身じろぎもせずに眠っている。みんながラクダの雑踏のなかに、ぎっちりとすしづめになって。こんなに多くのラクダがいっしょでは、混雑ぶりはどう表現しようもない。宿営地のいたるところにラクダがうずくまり、あるいはつながれているというのに、なおも続々と新手がくわわる。すると、前からいてうずくまっていたラクダまでが三本足で跳ね上がり、いっしょになって、飢えと興奮とで咆えたてるのだ。斥候隊が出て行き、輜重《しちょう》隊の荷がおろされ、そのまんなかで何十頭ものエジプトのラバが、いらだって荷物をふりおとそうと跳ねまわっている。
この喧噪のなかをかきわけながら、われわれはなおもラクダを進める。と、この河床のまんなかに、まるで島のようにそこだけ静まりかえった場所がある。シェリフ・フェイサルのキャンプだった。小石の上にじかにひろげた絨緞の上にフェイサルが坐っている。そして前には秘書がひざまずいて命令を書きとめており、そのむこうには奴隷のさげる銀のランプのあかりで、もうひとりの秘書が高らかに報告書を読み上げている。この夜、風は絶え、空気は重く、蔽いもない炎は、ちらともゆるがず、まっすぐに燃えつづけるのだった。
フェイサルはいつものようにもの静かにわたしたちを迎え、ほほえみを浮かべて、口述を終えてしまいましょうと言う。それがすむと、こんな混雑のなかでわたしを迎える羽目になったことを詫び、水入らずで話をするために手真似で奴隷をさがらせる。周りに集まっていた連中とともに奴隷がいなくなったとたん、われわれの席のまえにできた空き地に荒れくるったラクダが一頭とびだし、吼えたけりながらつっこんでくる。マウルドがとっさにその鼻先にとびついて引っぱっていこうとしたが、引っぱられたのは逆にマウルドのほうだった。そして、積み荷のラクダの飼料をゆわえてあった草のロープがほどけ、無口なシャッラフの上に、ランプの上に、そしてわたしの上に、乾草がなだれ落ちる。「神は讃《ほむ》べきかな」フェイサルがおごそかに言った。「バターでも金貨の袋でも、避けようがなかったのに」と。その場が収まると、フェイサルは前線でこの二十四時間のうちに起きた予想もしなかった出来事の数々を、わたしに語った。
トルコ軍は、ワディ・サフラのアラブ軍の防衛戦を迂回し、山間の間道を通って退路を押さえてしまった。ハルブ部族はパニックにおちいり、河床をはさむ両側の山あいに姿を消して、そこから三々五々、脅威にさらされた家族を案じて逃亡してしまう。トルコの騎兵隊は空っぽになった谷間を奔流のように下ってビル・サイドに殺到する。指揮官ガリブ・ベイは、そんなこととは露知らずテントの中でねむっていたエミール・ゼイドを、あと一歩で捕虜にできるところだった。が、かろうじて急報がまにあい、ゼイドはけんめいに敵襲を支え、その間にテントや荷物の一部をまとめて何とかラクダに積みこんで撤退させる時間をかせぐ。そのあと、ゼイドも身をもってのがれたが、麾下《きか》の部隊も算を乱して潰走《かいそう》し、夜陰に乗じてイェンボをめざし、やみくもにラクダを走らせるばかりだった。
これによって、イェンボへの道は、なんの守りもなくトルコ軍の前に開かれたことになる。そこでフェイサルは急遽、五千の兵を引き連れ、われわれが到着するわずか一時間前に、ここまで陣を進めたのだった。なにか、しかるべき防禦策がこうじられるまで、自分の本拠地イェンボを守りぬくためである。トルコ軍がイェンボを攻撃するつもりなのか、それとも連絡路をおさえるだけにとどめて、その間に主力を紅海沿いに南下させてラベグおよびメッカを狙おうとしているのか、フェイサルにはまったく予測がつかないと言う。状況は、いずれにしても、急を告げている――もし、フェイサルがここまで押し出して来ていることがトルコ軍の注意を引きつけ、彼の部隊の所在をつきとめるためにあと数日間を無駄についやしてくれさえすれば、そしてその間にイェンボの防備を固めることができさえすれば――それだけが頼みの綱であった。状況を説明しているあいだにも、フェイサルはできるかぎりの手を打とうとしていた。それも、じつに楽しそうに。そこで、わたしも腰をおろして、入ってくる情報に耳を傾ける。そしてまた、フェイサルのもとに持ちこまれてくる請願や、苦情や、難問にも。フェイサルはそれらをてきぱきと片づけていった。
こんな状況が朝の四時半までつづく。河床の湿気が絨緞をとおして這いのぼり、衣服を湿らせて、ひどく冷え込んでくる。宿営地はしだいに静まり、疲れはてた人もラクダも、ともにつぎつぎと眠りはじめた。白い霧が流れ柔らかに人とけものを包み、そのなかで篝火もしだいに消えて、いまはゆるやかに煙の柱が立ちのぼるばかりだ。われわれのすぐうしろに、霧のベッドからジェベル・ルドワが、かつてないほどけわしい峨々たる山容をのぞかせていた。静まりかえった月光のなかで、山はちかぢかと迫り、いまにも頭上にのしかかってくるように見える。
フェイサルはようやく緊急の手配を終わった。われわれはナツメ椰子の実を五つ六つ、ほおばる。味気のない夜食だった。それから、しめった絨緞の上で丸くなって眠る。震えながら横になっているとき、わたしはビアシャ部族の親衛隊士が、フェイサルが眠ってしまったのを見さだめてから、そっと忍びよると、自分たちの外套を脱いでやさしくフェイサルに被《き》せかけるのを見た。
一時間後、われわれはすっかり身体をこわばらせて、夜明け前の薄明かりに起きあがる――冷え込みがひどくて、とても横になったまま眠ったふりなどしていられなくなったので。奴隷たちがわれわれに暖をとらせようと椰子の葉で火をおこし、そのあいだにシャッラフとわたしは、ともかくこの場をしのぐために、食物と薪をさがしに出かける。伝令がいまもなお引きもきらず、四方八方から、いまにも敵襲があろうという悪いうわさを運んでくる。宿営地はパニック寸前の状態だった。そこでフェイサルは移動を決定する――表の理由は、もし山岳地帯のどこかに降雨があった場合、ワディにいたのでは、よみがえった河水に押し流されてしまうからというものだが、裏の理由は、部下の気持ちを移動に集中させ、そのことによって彼らの不安をぬぐいさるためであった。
太鼓が打ちはじまると、いそいでラクダに荷物をのせる。第二の連打で全員がラクダに跳び乗り、さっと左右に分かれる。そうしてできた中央の広い道を、牝馬にまたがったフェイサルが進み、一歩あとにシャッラフが、そのあとに正旗手アリがしたがう。ネジド生まれのすばらしい野性をみなぎらせた男アリは、鷹のような顔に、こめかみから長い漆黒の辮髪《べんはつ》をたらし、きらびやかな服を身にまとって、丈高いラクダを歩ませる。その後はシェリフたち、奴隷たち、それにこのわたしから成る、てんでんばらばらの一団である。この朝、フェイサルの親衛隊は八百名を数えた。
翌日、翌々日の二日間にわたって、わたしはほとんどの時間をフェイサルのかたわらですごし、彼の統率法をつぶさに観察した。しかも、麾下の兵士が、つぎつぎにもたらされる威嚇をこめた情報のためにすっかり士気沮喪してしまっているという、重大な局面での統率術を。フェイサルは部下の失われた士気を回復するために全力をつくし、自分と接触するものにはすべて、自分自身の気力を分かち与えることで確実に目的を果たした。フェイサルのテントの外に立って指示を待っているものたちなら、誰でもフェイサルに近づくことができる。その上、請願を途中でさえぎったことなどいちどもなかった。部下たちが夜、テントを囲んで、彼らの悲しみをいろんな歌に託して合唱したときでさえ、最後まで聞いていた。フェイサルはつねに耳を傾け、自分の手で問題を片付けられないときでも、シャッラフやファイズを呼んで、自分に代わって事にあたらせる。この驚くべき忍耐づよさは、わたしに、アラブ部族軍の首長であることがなにを意味するかを、いっそうふかく教えてくれたように思う。
フェイサルは、豊かな音楽的な声で話す。部下と話すときでも、きわめて慎重にことばを選んだ。部下の方言で話すのだが、独特の、ためらいがちの話しかたで、まるでことばを途中で止めて、正確なことばを探し出そうとけんめいに自分の心の中を覗きこんでいるように見える。フェイサルの思考は、おそらくことばのごくわずか前を進んでいるのだろう。そのせいで、ついに選び出されたことばは、つねに単純で、しかも、感情のこもった誠実なものだという印象を与える。ことばの被膜がじつに薄いために、武人の精神の純粋さが、外まで輝き出てくるような話しかたであった。
宿営地の日課は単純である。日の出直前に、いつも従軍|導師《イマーム》が、眠る軍隊を見おろす小丘の頂にのぼり、そこから驚くべき大音声で、礼拝の偈《げ》をとなえる。導師の声はきびしく、またじつに力強く、窪地は反響板のように周りの山々にこだまを返し、山々は怒ったように、さらに周囲の山々にこだまを投げかえす。みんなはまちがいなく眼をさます。祈るか罵ることになるかは別であるが。そのこだまも消えないうちに、こんどはフェイサルつき導師が、テントのすぐ外で、おだやかな音楽的な声をはりあげる。と、たちまちフェイサルの五人の奴隷(といっても、全員が解放奴隷なのだが、その気になるまでは自由になることを拒否している。自分の主人に仕えることはいやでないどころか、みいりも悪くないというわけで)のひとりが、シャッラフとわたしに甘いコーヒーを運んでくる。寒い朝の最初の一杯のコーヒーに砂糖を入れておくことは、ふさわしいもてなしだとみなされているからだ。
一時間ほどたって、フェイサルの寝所にあてられたテントの垂れ幕がはねあげられる。一族の訪問者を迎え入れる合図である。これが四、五名はいて、朝の報告を聞いたあとで朝食の食台が運びこまれる。メインはワディ・イェンボのナツメ椰子の実だが、メッカに住むサーカシア出身のフェイサルの祖母がみずから焼いて送ってくれた名高い香料入りの菓子一箱が出されるときもあり、また側ちかく仕える奴隷のヘジリスがつくった風変わりなビスケットやコーンフレイクのたぐいが出されることもある。食後にはブラック・コーヒーと砂糖入りの紅茶を交互に味わうのだが、その間にもフェイサルは手紙を秘書たちに口述している。秘書のひとりが、例の導師である。進軍のさいには、鞍の前輪からぷっくりふくらんだ雨傘をぶらさげているせいですぐ眼につく、悲しげな顔をした男だ。ときおり、この時間に誰かとふたりだけで会うこともないわけではない。が、これは例外である。寝所にあてられたテントはシェリフ個人の私的領域だとはっきり決まっているのだから。このテントはふつうの釣り鐘型のもので、なかにあるものといっても、紙巻煙草、野営ベットがひとつ、かなり上等のクルド産絨緞一枚、すっかりくたびれたシラジ産絨緞一枚、そしてすばらしいバルチ産の古い祈祷用の絨緞一枚くらいだった。
朝の八時頃に、フェイサルは儀式用の短剣の帯をしめ、寝所のテントを出て応接用のテントにむかう。ここに敷いてあるキリム絨緞ときたら、まったくどうしようもないしろものだった。いつもテントの開口部に向きあうように、一番奥の席に坐る。われわれは彼を中心に、壁を背にして半円形に腰をおろした。いちばん最後が奴隷たちで、テントの開いた側に座を占め、すぐ外の砂の上からむこうのほうまで引きもきらず順番を待ってうずくまっている請願者をとりしきる。可能なかぎり、仕事は正午までに片づけられる。昼にいったん引き上げるのがフェイサルのならわしなのだ。
親族と賓客から成る一同は、このあと住居用のテントに集まる。ヘジリスとサレムが昼食の食台を運んでくる。事情が許すかぎり多数の皿が並んでいる。フェイサルはまれにみる愛煙家だが、まためずらしいほど小食だ。インゲン豆やレンズ豆やホウレン草や米飯や菓子の皿に指を運び、スプーンですくって、食べるふりをしながら、ただ、われわれが満腹したようすを見せるのを待つのがつねである。フェイサルが片手を振ると食台が運び去られ、ほかの奴隷たちが進み出て、テントの入口で一同の指に水を注ぐ。太った男たち、たとえばモハメッド・イブン・シェフィアなどは、フェイサルの食事がさっさと終わってしまうことを、おどけて嘆いてみせ、一同がテントを出たあとで、もう一度自分たちの食事を用意させるのだった。食後は、コーヒーを二杯すすり、緑茶に似たシロップを二杯味わいながら、しばらく話をする。そして午後二時になると、この住宅用テントの垂れ幕がおろされる――フェイサルはいま、午睡をしているか、読書をしているか、私事の仕事をしているというしるしである。そのあと、ふたたび応接用テントに坐って、自分に用件のある人々すべてに接見しおえるまでは動かない。不満げに、あるいは怒ってフェイサルのテントを出るアラブ人を、わたしはただのひとりも見たことがない――まさに、人の心をとらえる巧みさと、おどろくべき記憶力のたまものというべきだろう。事実関係を失念してとまどったり、縁故関係につまずいたりしたことなど、いちどもなかったと思う。
二度目の接見のあとで時間がとれると、フェイサルは友人たちといっしょに散歩をする。話題は馬と作物。ラクダを見てまわり、眼につく特徴のある場所の名前を側近に訊ねる。日没の祈りはしばしば全員で行われる。とはいえフェイサルは、外から見ただけでは、敬虔そのものとは言いかねるのだが。これがすむと、住宅用テントで個人的にいろんな人物に会い、その夜の斥候と巡察の手はずを決める――作戦はほとんど日没後に開始されるからだ。六時から七時までのあいだに夕食が運ばれ、奴隷が司令部にいる全員を呼びにゆく。献立は昼とあまり変わりないが、例外がメドファ・エル・スフル、つまり米飯の大皿の中央にもりつけされた羊肉の角煮のメインディッシュである。すべてが食べつくされるまで、全員が黙って見まもっていなければならない。
この食事で一日が終わる。あとはただ、長い間をおいて、はだしの奴隷が足音を忍ばせながら紅茶のセットをのせた盆を運んでくるだけである。フェイサルは夜遅くまで起きていて、われわれに退出をうながすそぶりはいちども見せなかった。夜、フェイサルは、できるだけくつろぎ、避けられる仕事はすべて避ける。しばしば、どこか地方のシェイクを呼びにやって、その地方の物語や部族の歴史や家系の話をさせる。また、部族の吟遊詩人を呼んで、戦いの歌を唱わせる――長い伝統的な詩形をもち、何代にもわたって言い回しが積み重ねられ、何代もの情念がこめられ、何代もの事件の上に新しい事件が重ねられた叙事詩である。フェイサルはアラブの詩の熱烈な愛好者で、よく詩を朗唱する夕をもよおし、その夕の最上の詩を判定して―褒美《ほうび》を取らせた。ごくまれだが、チェスをやるときもある。いかにも武人らしく、反射的に指すタイプで、しかも名手だった。ときには、たぶんわたしのために、自分がシリアで目撃したことや、トルコの秘史の断片や、自分の身内のことなどを話してくれる。ヘジャズの人々や党派について、わたしは多くのことを、フェイサル自身の口から学んだ。
思いがけなく、フェイサルが、宿営地にいるあいだは自分のと同じようなアラブ衣装を着るつもりはないかと訊ねる。わたしにしても、そのほうがはるかにありがたい。まず、みんなとアラブ風の生活をともにしているのだからアラブ衣装のほうが快適だし、その上部族民たちも、これを着れば、わたしをどう扱えばいいかわかってくれるだろう。なにしろ彼らが知っているカーキ色の軍服の着用者ときたら、ただトルコ軍将校あるのみだから、その前にでると本能的に防禦の姿勢をとってしまうのである。もし、わたしがメッカの衣装を身につければ、彼らもわたしにたいして、ほんとうの指導者のひとりにたいするようにふるまうだろう。となれば、フェイサルのテントに出入りするたびに物議をかもさなくてすむ。初対面の人々がいるたびに、フェイサルもなにからなにまで説明しなくてもよくなるわけだ。
すぐさま、大喜びで、わたしは同意した。なにしろ軍服は、ラクダに乗るにも地べたに坐りこむにも、まことに工合が良くない。それにひきかえ、アラブ衣装は、あつかいかたなら戦前から知っているし、砂漠でははるかに清潔で上品である。ヘジリスもこの案が気にいり、すばらしい白絹に金糸の刺繍をほどこした婚礼衣装に工夫をこらして、わたしにぴったりのものに仕立ててくれた。メッカに住む大叔母から、最近、フェイサルあてに贈られたばかりの花婿の装束である(結婚のさいそくだったのかもしれない)。この新しいゆるやかな衣装を着て、わたしはムバラクとブルカのナツメ椰子の樹園をめぐった。一刻も早く、この着心地になれたかった。
イェンボに戻ってこの港町の海陸両面の防衛体制を真剣に考えなければ、とわたしは思った。あらゆる援助を惜しまないというイギリス海軍の約束は取りつけてある。フェイサルが帰途の乗用にとすばらしい栗毛のラクダを贈ってくれる。われわれはアジダ山地をぬける新しいルートをとった。よりちかいルートではトルコ軍の斥候隊にぶつかる危険があったからだ。全行程を静々と、しかし一息もつかずに乗りこなし、六時間後、夜明け前のイェンボに着く。ほとんど眠らず、いつも警報と興奮にさらされてすごしたきつい三日間のために疲れ切っていたので、わたしはまっすぐガーランドの留守宅に直行し(彼は港に碇泊中の船でくらしていたので)、長椅子でぐっすり眠った。が、まもなくまた叩き起こされて、シェリフ・ゼイドが到着するというニュースを知らされる。そこで、城壁まで、この敗軍の入城を見物に出かけた。
敗軍は総勢ほぼ八百。静かだが、敗北の恥辱にうちひしがれたようすなどまったくない。ゼイド自身、見事なまでに、まったく気にもしていないようだ。街にはいると、ゼイドはすぐうしろに馬を進める知事のアブドゥ・エル・カディルをふりかえって、大声で言う。「おやおや、きみの町もひどい荒れようだな! オヤジに電報を打って、役所の建物の修理に石工を四十人よこすように言ってやらなくちゃ」しかも、ゼイドは、じっさいにこの通りに打電したのである。わたしはすでに、ボイル大佐あて、イェンボに危機迫る旨の打電をすませ、おりかえし、早々とまではいかぬにせよ、なんとか間に合うようには艦隊を派遣する旨の返電を受け取っていた。ボイルのこの即答は、まことに時宜をえた慰めであった――翌日、いっそう悪い知らせがもたらされたからである。
フェイサル軍の態勢がまだ整わないうちにトルコ軍が接近し、戦いは簡単に片がついてフェイサルは敗れ、陣地をすててイェンボに敗走中だという。われわれの叛乱もいよいよ最後の局面を迎えようとしているらしい。わたしはカメラを持って、メディナ門にのぼり、胸壁の上から、入城してくる同志たちのすてきな記念写真をとった。フェイサルは二千人近い部下を引きつれているが、なぜかジュヘイナ部族の姿がひとりも見えない。裏切ってほんとうに部族をあげて戦線を離脱してしまったのだろうか? フェイサルもわたしも、そんなことはありえないと、考えてみようともしなかった事態が起きたのか?
すぐさまフェイサルの宿舎を訪ね、彼の口から事のしだいを聞く。攻め寄せてきたトルコ軍は三個大隊編成でほかにラバに乗った歩兵多数とラクダ隊をもっていたという。ワディ・イェンボを横断して、最初の攻撃目標にブルカの森をえらぶ。アラブ軍とイェンボとの連絡をおびやかすためである。しかも、七門の大砲で、ナクル・ムバラクにあるフェイサルの宿営地に思いのままに砲撃を加えたという。フェイサルは臆した色もなく、ただちにジュヘイナ部族を左翼に展開させ、この大峡谷をせめ下らせる。主力と右翼はナクル・ムバラクに待機させ、エジプト砲兵隊を派遣してジュベル・アジダに布陣させ、トルコ軍の占拠をはばませる。それがすむと、フェイサルはブルカにむけて、十五ポンド砲二門の火ぶたを切った。
この砲撃の指揮をとったのがシリア出身の将校、ラシムである。かつてトルコ陸軍砲兵中隊長をつとめた男で、この二門の大砲でみごとなデモンストレーションをやってのけた。エジプトからの武器援助としてはるばる送られてきたものではあるが、どう見ても野蛮なアラブ軍でならなんとか使いものになるかもしれないとでも考えたとしか思えない古色蒼然たるがらくたで、フセインへの武器援助として悪名高い、ガリポリ戦争の遺物の小銃六万梃に勝るとも劣らぬしろものだった。したがって、照準も、距離測定器も、射程目盛りも、高性能火薬もなしに、ラシムは戦うしかなかった。
着弾距離はたぶん六千ヤードくらいと見当がついたものの、榴霰弾の導火線がこれまた緑青のびっしりこびりついていようというボーア戦争時代の古物だから、うまく爆発してくれたとしても、とどかぬ先に空中で炸裂したり、たまに敵の鼻先をかすめる程度のことしかできない。とはいえ、たとえすべてがうまくいかないからといって、ラシムには予備の弾薬などありはしないのだから、こんな戦闘のやりかたに大笑いしながら、つぎからつぎへと大砲をぶっぱなしつづける。部族の戦士たちは、指揮官がこんなにも陽気なのを見て、すっかり有頂天になった。誰かが大声でわめく。「ぶったまげたな、これこそ本物の大砲だて。このものすごい音がこたえられねえ!」そこでラシムは、トルコ軍には死体の山ができてるはずだと請け合う。これを聞いて、アラブ軍の士気はいやがうえにも燃えさかった。
戦況は有利に展開している。そしてフェイサルがこれなら決定的な勝利をつかめると判断したとたん、とつぜん渓谷に展開していた左翼に動揺が走り、進撃がとまってしまった。ついに敵に背をむけ、算を乱して宿営地にむかって退却をはじめる。中央にいたフェイサルはラシムのもとに馬を走らせ、ジュヘイナ部族が破れた、おまえは大砲を敵に渡すな、と叫ぶ。ラシムが二門の大砲を馬につなぎ、ごとごととワディ・アジダまで引き上げてみると、そこでもエジプト砲兵隊が心細げに顔を見合わせながらどうしたものか相談している最中だった。ラシムのあとを追うように、アゲイル部族が、アトバン部族が、イブン・シェフィアの手のものが、ハルブ部族が、そしてビアシャ部族がなだれを打ってつづく。フェイサルとその家の子が殿軍《しんがり》を引き受け、ジュヘイナ部族とトルコ軍を戦場にのこしたまま、整然と隊伍を組み、イェンボを目ざして退却をはじめる。
わたしがまだ、この悲しい結末を聞き終わらぬうちに、そしてまだ、フェイサルとともにこの裏切者を呪っている最中に、戸口がざわめきたち、奴隷たちのあいだから当のジュヘイナ部族の族長アブドゥ・エル・ケリムが姿をあらわし、台座にかけよるとフェイサルの頭被の紐に挨拶の接吻をして、われわれのかたわらにどっかと腰をおろした。フェイサルは一瞬、息をのんでまじまじと相手を見つめ、やがてひとこと、こう訊ねる。「どうしたのです?」そこでアブドゥ・エル・ケリムは、フェイサルがとつぜん戦場から姿を消したときのジュヘイナ部族の当惑ぶりを、にもかかわらず弟をはじめ勇猛な部族の戦士たちと力を合わせ、トルコ軍とひと晩じゅう、単独で、砲兵隊に援護もなく戦いぬき、ついにナツメ椰子の林もまもりきれなくなって、同じようにワディ・アジダ経由で撤退するのやむなきにいたったしだいをものがたった。弟は部族の男たちの半数を引きつれて、いま入城をはじめたところだという。あとの半分は、水をもとめて、ワディ・イェンボの上流に退却したとのこと。
「それなら、なぜ、戦いのまっさいちゅうに、主力の後方の宿営地まで退却したのです?」とフェイサルが訊ねる。
「なに、ちょっとコーヒーをわかしに戻っただけです」と、アブドゥ・エル・ケリムは答える。
「なにしろ日の出から戦いはじめて、日没もまぢかになりましたからな、みんなひどくくたびれて、喉が渇いて、もうどうにもがまんできなくなりましてな」フェイサルもわたしも、ひっくり返って笑いころげた。それが収まると、全員で、この町を敵の手からまもるためにどんな手が打てるか、検分に出かけることになる。
最初に打つ手はすぐさまきまった。ジュヘイナ部族の全軍をワディ・イェンボに取って返させ、ケイフに集結させることである。そこからなら、トルコ軍の連絡網に持続的な圧力を加えることができ、あわせて、アジダ丘陵一帯に狙撃班をくりだすことも可能だ。この牽制策は相当数のトルコ兵を釘付けにするはずだから、イェンボ攻撃に防禦側を上回る人数をくりだすことはむずかしくなるだろう。加えて防禦側には地の利がある。イェンボは平坦な珊瑚礁の上に築かれた街で、海抜二十フィートくらい。二面は海に囲まれ、のこる二面も眼下にひろがる平坦な砂浜の広がりで、ほうぼうに流砂がひそみ、何マイルものあいだ遮蔽物ひとつなく、しかもどこを掘っても真水が湧きでることはない。大砲と機関銃で守ることができさえすれば、昼間は難攻不落だろう。
大砲のほうなら続々とやってくるところだ。ボイルはいつものように、はるかに約束以上のことをやってくれていて、二十四時間もたたないうちに、すでに五隻の軍艦を集結ずみだった。吃水《きっすい》が浅く、この役割にはおあつらえむきの砲艦M三一を港の南東のクリークに配置し、予想されるトルコ軍の進路を六インチ砲で掃射できるようにする。艦長のクロッカーは、準備万端ととのった六インチ砲をぶっぱなしたくてうずうずしていた。大型艦四隻は長い射程で町の向こう側を砲撃できる位置と、もうひとつの開いた側面、港の北側を掃射できる位置に碇泊していた。ダファリン号とM三一の探照燈が、町の彼方の平原をよぎる。
アラブ人は港に結集した軍艦をかぞえて大喜びだった。今夜の活劇に一役買おうといきごんでいる。守りをいっそう固めるには、いささか中世風ではあるが一種の防塁がほしいところだ。そこで、ぼろぼろに崩れたり、潮風で穴ぼこだらけになっているイェンボの城壁を利用することにする。第二の壁を築き、ふたつの壁のあいだに土を詰めこみ、この十六世紀風|稜堡《りょうほう》が少なくとも小銃には耐え、あわよくばトルコ軍の山砲までも防ぎ止められるように盛りあげる。この防塁の外側にも、城壁の外にある天水槽をつなぐ形に鉄条網を張りめぐらす。最適な角度を選んで機関銃座を掘り、フェイサル軍の正規の射手を配置する。鉄道爆破術の教師ガーランドが、いまや技術長兼最高顧問だった。
日が沈むと、イェンボは抑えつけた興奮のためにぶるぶると身震いしていた。日のあるうちは、働く男たちの大声や、大喜びでぶっぱなす銃声や、はたまた度はずれた熱狂やらでみたされていた町も、暗くなるとみんな食事に戻ってひっそりと静まりかえる。この夜、ベッドにはいった住民はまずいなかった。十一時ごろ、いちど、警報が出た。町の外、わずか三マイルの地点で、我が軍の前哨が敵と遭遇したという。ガーランドが声の大きい布告兵を連れて通りを二、三本歩き、守備兵を召集した。兵士は転がるようにとびだし、まっすぐ自分の持ち場に走る。ひとことも口をきかず、銃をぶっぱなしたり、意味のない叫びをあげる者もひとりとしていない。イスラム教寺院の尖塔《ミナレット》の上から水兵が軍艦に手旗で警報を送る。すると探照燈の光が何本も、複雑にからまりあいながら、ゆっくり平原を横切りはじめる。光の輪を描きながら、攻撃軍がどうしても横断しなければならぬ平野をすみずみまで照らし出す。しかし、命令も出ず、しかるべき理由も発見されず、鉄砲の火ぶたはついにきられなかった。
後日、ダキル・アッラー老がわたしに語ったところによれば、夜陰に乗じてイェンボに殺到するトルコ軍を案内していたという。今度こそはフェイサル軍を完全に踏みにじろうというわけだ。が、静寂と、港を端から端までうずめる軍艦の煌々たる明かりと、これから横断しなければならぬゆるやかな斜面のものさびしい景色を探照燈の不気味な光条が浮かびあがらせるのを見ていると、すっかり怯気づいてしまったとのこと。で、彼らは軍を返し、その夜、わたしの考えるところでは、トルコ軍は勝機をも失ってしまったのである。
わたし個人の話をすれば、その夜は誰にもじゃまされないようにとスヴァ号に乗り込んで、やっと素晴らしい眠りにありついたところだった。だから、トルコ軍につつしみというものを教えてくれたダキル・アッラーには感謝のことばもない。たとえわれわれが大勝を博したとしても、わたしはとてもこの夜の平和な八時間の眠りと引きかえる気になどなれなかったと思う。
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危機は去った。根拠地のイェンボが安全になると、フェイサルは軍を紅海沿岸ぞいに進め、イギリス海軍との共同作戦を展開してウェジに進撃する。ここを占領すれば、メディナのトルコ軍守備隊の補給線である巡礼鉄道に、重大な脅威をあたえることができるからだ。
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出発の合図がひびく。だが、これはわれわれとアゲイル部族からなる親衛隊に対してだけであって、他の諸部族軍はすべて、ひとりひとりうずくまったラクダの横に立って、進路の両側に整列し、フェイサルが通ると黙礼を捧げる。フェイサルは明るく「平和のあらんことを」と祝福のことばを返す。すると、おのおのの部族の第一シェイクが、同じことばを唱えてフェイサルに贈る。われわれが通りすぎると、彼らもラクダにまたがり、シェイクの歩調に合わせて行軍に移る。こうしてあとにつづく部隊はふくれあがり、人とラクダの隊列はついに隘路にそってうねりながら、蜿々《えんえん》と眼路のおよぶかぎりつづいて、分水嶺をめざす。
峠を登りつめるまで、聞こえてくるのはただフェイサルの祝福のことばだけであった。ここで谷間は開け、やがて小石や燧石《ひうちいし》をちりばめた柔らかな砂地のゆるやかな下り坂にかかる。そしてまた、ここではじめて、ルッス族の苛烈なシェイク、イブン・ダキルが一、二歩さがって、後続部隊を幅の広い縦隊に整列させ、太鼓を打たせる。全員がいっせいに、喉も裂けよと、エミール・フェイサルとその一家を讃える歌をうたいはじめる。
進軍は野生みなぎる壮観を帯びる。先頭には白衣のフェイサル、その右に赤い頭被とヘンナで染めた上着に外套のシャッラフ、左には白と緋の衣裳のわたしが進む。すぐうしろに黄金の穂先をつけた淡紅色の絹の軍旗が三旗つづき、そのあとに行進曲を演奏しながら進む鼓手たち、そしてふたたび千二百騎の気負いたつラクダに乗った親衛隊の荒々しい一団がつづく。かろうじて動けるくらいにぎっしりとかたまって。旗手が眼にもあざやかな、ありとあらゆる衣裳をまとえば、ラクダもまた飾りに趣向を凝らして、はなやかさをきそう。われわれは谷間をみたし、両側の斜面まであふれて、きらめく流れとなって下っていった。
ビル・エル・ワヘイダで、フェイサル軍は五千百名のラクダ騎兵と、五千三百名の歩兵を数えた。ほかにクルップ式山砲四門と機関銃十基、そして三百八十頭の運搬用ラクダから成る輜重《しちよう》部隊がある。すべてがぎりぎりまで切りつめられ、トルコ軍の水準には遠く及びもつかない。進撃開始は一月一三日、正午からときまる。そして正確に、昼食の時間までに、フェイサルの仕事も終わった。
昼食がすむとテントをたたむ。われわれは円陣をつくってうずくまるラクダのところに歩みよった。すでに鞍をおき、荷も積んでいるが、奴隷が手綱をおさえているので、前肢をふたつに折り曲げたままだ。親衛隊の指揮をとるイブン・ダキルのかたわらに控える銅鑼係が、七つか八つ、銅鑼をたたくと、あたりはしいんと静まりかえった。全軍がフェイサルを見つめる。敷物に坐ってアブドゥ・エル・ケリムと最後の打ち合わせをしていたフェイサルは、立ちあがると鞍の前輪に両手をかけ、ひざを鞍の横におくと、声高く唱える。「アッラーの導きのままに」と。奴隷が手綱をゆるめ、ラクダがぴょこんと肢を立てる。四本の脚でしっかり立つのを待って、フェイサルはのこる片足を大きくふってラクダにまたがり、片手のひとふりで長衣のすそと外套をさばき、ゆったりと鞍に腰をおろす。
フェイサルのラクダが動き出すと、われわれも自分のラクダにとび乗り、全部のラクダがいっせいに立ちあがる。なかには吼えたてるものもないではないが、大部分は調教された牝ラクダにふさわしくものしずかだ。行軍なかばでぐずるのは若いラクダか牡のラクダか育ちの悪いラクダにかぎられていて、誇り高いベドウィン族は、けっしてそんなラクダに乗らない。物音を立てるようだと、旗手が夜の襲撃とか奇襲作戦からはずされることにもなりかねないからである。ラクダは立ちあがったとたん、足早に歩くので、旗手はすばやく鞍の前輪に両脚をまわし速度をおさえるために面繋《おもがい》をあげなければならない。そのあと、われわれはフェイサルの所在をたしかめ、ラクダの頭を平手でたたいてゆっくりと向きを変えさせ、フェイサルのラクダの真横に並ぶまで、ラクダの肩を素足で押しつづけることになる。イブン・ダキルが姿を現わし、地形と進軍の方角をひとめで見定めると、簡潔な命令をアゲイル部族にくだす――横隊を組み、われわれの左右二千三百ヤードにわたって足のぶつからないかぎりラクダを近づけ、一線になって進軍せよ、と。親衛隊はあざやかな展開をみせた。
太鼓が注意をうながすように連打される。と、右翼の詩人が大音声をはりあげて歌う。一対の即興の対句で、フェイサルと、ウェジでフェイサルが与えてくれる快楽をうたったものだ。右翼はこの詩に熱心に耳をすまし、覚えこむといっせいに斉唱する。一度、二度、三度。誇りと、満足と、相手への嘲《あざけ》りとをこめて。しかし、四度目のくりかえしの前に左翼の詩人が割ってはいって即興の詩をくり返す。同じ韻をふみ、同じリズムをもち、同じ情感を受け継ぎながら。左翼は勝ちほこり、歓呼のどよめきでこの歌をむかえる。ふたたび太鼓の連打がはいり、三人の正旗手が大きな紅の戦旗を空高く投げあげる。右翼も左翼も中央も、親衛隊全員がいっしょになって、情熱的な連隊の歌を斉唱した。
[#ここから1字下げ]
われはブリテンを失いつ ガリアをも
われはローマを失いつ 悲運のきわみ
われは失いつ ララギーさえも……
[#ここで字下げ終わり]
彼らが失ったのはイギリスでもフランスでもイタリアでもなく、ネジドの地にすぎないし、ホラティウスの愛した美少女ララギーどころか、ただのマップダの女にすぎないし、彼らの未来とて、たかだかジッダからスエズにいたる道筋にあるにすぎない。が、すばらしい歌であることにかわりはなかった。リズミカルな調べはいたくラクダの気に入り、頭を垂れ、すっきりと首筋を伸ばして、歌のつづいている間じゅう、足の運びもゆったりと、物思う風情で歩むのだった。
[#改ページ]
三 反抗――砂漠の真実
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一週間後、ウェジは陥落した。トルコ軍はやむなくメッカ進攻を断念する。兵力をメディナの防衛と鉄道の警備に集中するためである。つぎの目標はトルコ軍をメディナから駆逐することを最優先とし、この作戦によってトルコ勢力をアラビア南部から一掃することだと、アラブ側、イギリス顧問団側、双方とも意見の一致をみた。フェイサルは、この戦略のなかで受け持つ役割を実行に移す準備を至急ととのえなければならない。ロレンスはアブドゥッラのもとにおもむき協力を要請する。
旅の途中で、ロレンスは病に倒れ、アブドゥッラの宿営地でただひとりで病床に伏すあいだに、ひたすら砂漠の戦争のあるべき姿に思いをめぐらす。ロレンスはやがて、メディナ奪取の戦略はまちがいだと確信するにいたる――ダマスカスとメディナを結ぶ鉄道の防衛に、トルコ軍は何万もの将兵を投入している。だが、この兵力は、はるかに移動性のたかいアラブ軍にとっては、とりわけ脅威とはならない。しかし、メディナを占領することでこの鉄道の意味を根こそぎ奪ってしまうと、鉄道の巡回警備に当たる兵力は前線のどこかに集中されることになり、アラブ軍はいまよりはるかに苦戦を強いられるだろう。ところが、鉄道をただ部分的にのみカットするにとどめ、この補給路を経由して守備隊をかろうじて維持できるていどの物資を送りつづけるようにしむければ、余力を持たないトルコ軍は攻勢に出ることもできず、千マイルもの鉄道を防禦するために、いたずらに戦力を投入する羽目に追い込むことができる、と。この戦略は、のちに、アラブ軍による一連の鉄道襲撃というゲリラ戦法となって、実行に移されることになる。
いっぽうフェイサルは、ウェジにおいて、パレスティナおよびシリアへの路をひらくために、諸部族の支持をとりつけようと懸命の努力を重ねていた。なかでもいちばん味方に加えることを願っていたのが、武名たかいホウェイタ部族の長《おさ》、シェイク・アウダ・アブ・タイその人である。
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わたしがそろそろ退出しようと腰をうかしたとき、執事のスレイマンが大急ぎで入ってきて、フェイサルに何事かささやいた。フェイサルはぱっと眼を輝かせてわたしを見つめ、落ちつこうと努めながら言った。「アウダが来ている」わたしは思わず大声でオウムがえしに言った。「あのアウダ・アブ・タイが!」その瞬間、テントの垂れ幕がはねあげられ、深い声が朗々と、わが君、義勇の長《おさ》よ、と、あいさつのことばを唱える。長身の屈強な人物が姿を現す。情熱的で、また悲劇的な、鋭い表情。まぎれもなくアウダだ。うしろに息子のモハメッドを従えている。見たところまだ子供だったが、じじつ、わずか十一歳だという。
フェイサルはさっと立ちあがる。アウダがその手をとって接吻した。ふたりは一、二歩はなれて互いにじっと見つめあう――みごとな対照をみせる一組の男たち。これ以上はない、アラビアの最良の典型だった。預言者フェイサルと戦士アウダ。いずれも自分の役割を完璧に体現している。ふたりはたちどころに相手を理解し、互いに気に入る。ともに腰をおろす。フェイサルがわれわれをひとりひとり紹介し、アウダは正確な紹介のことばとともに、おのおのを心に刻み込んでいるように見える。
アウダの噂は全員がずいぶん耳にしていた。そしていま、彼の助力をえて、一丸となってアカバを開城させようとしている。いくらもたたないうちに、この男の力と直截《ちょくさい》さとを見て、わたしは確信した――われわれは必ず目的を達するであろう、と。アウダは武者修行の騎士さながらに、われわれのもとに姿を現した。ウェジでぐずついていることに苛立ち、アラブ解放の功績《いさおし》を我が手にかちとることにのみ心うばわれて。たとえ彼の意気込みの半分だけ達成できたとしても、われわれの前途は明るく、幸運にみちたものとなるだろう。一同の心の重荷は、夕べの食卓につかないまえに、早くもおりていた。 陽気な席になった。わたしもフェイサルに、アブドゥッラの宿営地での変わった話や、鉄道爆破のたのしみを話した。とつぜんアウダがものすごい勢いで立ちあがり「神よ許したまえ」と叫ぶとテントからとびだす。われわれは互いに顔を見合わせた。外では、なにかをものに打ちつける音がしている。なんの音かたしかめようと、わたしも後を追ってテントを出た。すると、岩の上にしゃがみこんで、アウダは自分の義歯を石でこなごなに打ち砕いているのだった。「忘れておったんだ」とアウダは言った。「こいつをジェマル・パシャがくれたことをな。わしはあの方のパンを、トルコの歯でくらっておった!」不幸にして、アウダには自分の歯は数えるほどしか残っていなかった。だから、以後、好物の肉を食べるのが大仕事になり、しかもあとまで痛みが残る羽目になってしまった。なかば栄養失調でアカバ奪取の日まで奔走したのち、ようやくレジナルド・ウィンゲイト卿がエジプトから特派した歯科医の手になる|連合軍側の義歯《ヽヽヽヽヽヽヽ》をはめたのである。
アウダの服装は北方部族のならわしに従ったきわめて簡素なもので、白い木綿の長衣に赤いモスル織りの頭被をつけているだけだった。たぶん五十の坂をこえていて、黒い髪にも白いものがめだつ。が、いぜんとして強壮、背筋も伸び、身ごなしもしなやかで、贅肉のかけらもなく、若者に劣らぬ行動力をたもっている。深いしわが刻まれ、頬のそげた顔は、威風あたりをはらう。が、同時に、そこには、アンナドの戦いで愛する息子を失った悲しみがいかにふかく、その後の生涯のすべてに影を投げかけてきたかということをも、はっきり読み取ることができる。そのとき、アブ・タイの名前の偉大さをのちの代まで受け継がせようという彼の夢は、はかなくも散ったのだった。アウダの眼は大きくて雄弁であり、黒いビロードのように深い。広くてうしろに引いた額。とても高い鼻はするどくとがり、力強い鉤《かぎ》のかたちだ。かなり大きくてよく動く唇。あごひげと口ひげはホウェイタ部族の型どおりに先をとがらせて刈りこみ、あごの下側だけ剃り落としている。
ホウェイタ部族は何世紀ものむかしにヘジャズから出た遊牧民族で、自ら真のベドウィンであると誇る。アウダは、その偉大な典型だった。客のもてなしかたは圧倒的で、よほど空腹でないかぎり、ありがためいわくだ。百回もの襲撃で分捕った品は数知れぬほどだが、気前がよすぎるために、いつも貧乏だった。結婚すること二十八回。負傷すること十三回。アウダの仕掛けた戦闘によって部族民すべてが傷つき、親族のおおかたは命を落とした。戦場でみずからの手にかけたアラブ人の数、七十五人。しかし、戦場の外ではひとりもない。殺したトルコ人の数にいたっては数えたこともないという。連中はものの数にもはいらなかったわけだ。ホウェイタ部族は、アウダのもとで砂漠最強の戦士集団となった。やみくもな猛勇の伝統と、生命がつづき、なすべきことがのこるうちは、いちどもなくしたことのない優越の誇りによって。が、この同じ理由によって、遊牧民戦争の旗のもと、わずか三十年のうちに、戦士の数は千二百名から五百名弱へと減少した。
アウダは機会あるごとに、できるだけたびたび、しかも広範囲にわたって出撃した。アレッポを、バスラを、ウェジを、ワディ・ダワシルを見たのも、すべて遠征のときである。そして故意に、砂漠のほとんど全部族と敵対関係にあった。襲撃のためのしかるべき口実を失わないためである。アウダの強奪ぶりは性急かつ苛烈であったが、狂気の爆発のさなかでさえ、自分を導く冷静さを完全に失ったことはなかった。行動にさいしての忍耐力は底知れぬものがあり、忠告であれ批判であれ罵言であれ、いつも変わらぬじつに魅力的な微笑を浮かべて平然と聞きながす。アウダが憤怒にとらわれると、顔の筋肉がぴくぴくふるえはじめ、激情をいっきょに爆発させる。相手の生命を奪わぬかぎり、この発作は鎮まらない。このとき、アウダは、さながら野獣だった。人々は姿を見ただけで逃げまどう。この世の何者をもってしても、アウダの気を変えさせ、あるいはアウダを命令にしたがわせることはできない。気がむかないとなると、どんなちっぽけなことでも断じてやろうとはせず、また、いったんこうと思い定めると、他人の感情になど、一顧もはらおうとしなかった。
アウダは人生を一遍の英雄物語と考えていた。人生の出来事すべてに大いなる意味がひそみ、出会う人間すべてが英雄となった。心は往古の襲撃の詩や戦闘の叙事詩でみたされていたから、かたわらに聞き手がいればあふれるように話し続けた。聞き手がいないときでも、まちがいなく、自分自身に朗唱して聞かせていたと思う。あの深い、よくひびく、圧倒的な声を張り上げて。アウダは黙っていることができなかった。だから、自分の興味に心を奪われて、友人たちをつねに傷つけてしまう。自分のことを第三人称で話し、自分の名声に絶対の自信を持っているので、好んで自分がへまをしでかした話を大声でしゃべりちらす。ときには天邪鬼にとりつかれてしまったように思えるときさえあって、公衆の面前で、招いてくれた主人であれ、自分の客であれ、その人物の私生活について、とんでもなくどぎつい作り話を考えだしてしゃべってしまう。しかし、これらのことすべてをやってのけながら、アウダは謙虚であり、子供のように単純で、率直、正直、親切であって、いちばん手を焼かされている連中にさえ――つまり友人たちに、心から愛されていた。
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戦局はいまや紅海沿岸から砂漠の北部へと移った。つぎの攻撃目標はアカバである。スエズ運河とパレスティナに展開する英軍との双方ににらみをきかせているトルコ軍の港だ。海側からでは難攻不落なので、内陸側から奇襲をかけるしか、攻略の見込みはない。そこでフェイサルは、ロレンスを指揮官として小規模の遠征隊をくりだす。シリア地方のアウダの部族、ホウェイタからラクダ部隊をつのり、その力を借りて、背後からアカバを衝くためである。
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五月九日、すべての準備はととのい、昼下がりの目くるめく日ざしをあびながら、われわれは宿営地を出発した。遠ざかる隊列にむかって、フェイサルは丘のいただきから祝福のことばを贈る。
先導はシェリフ・ナシル。この人の善良さは悪人どもさえ献身でもってむくいたくなるほどきわだっていて、このために孤独な希望の唯一の導き手とも慰め役ともなったのである。われわれが希望を打ちあけたとき、ナシルはほっとためいきをもらした。何カ月もの前線勤務で肉体的に疲れ、精神もまた、過ぎ去ろうとする青春のわずらいのない日々を思ってものうかったからである。ナシルは成熟を怖れていた。成熟とともに、思考も、手腕も、技術も円熟する。が、そのとき、生きることが人生の目的すべてである少年期の詩は消えてしまうからだ。肉体的には、彼はまだ若い。しかし、うつろいやすく死すべき魂は、肉体よりすばやく年老いていく――われわれのほとんどの者同様、肉体よりも先に魂が、まず死への道をいそぐのである。
同行はアウダとその親族。そしてネシブ・ベクリ――ダマスカス出身の政治家で、シリアの民衆にたいしてフェイサルを代表する。護衛はアゲイル部族の戦士三十五名。隊長のイブン・ドゥゲイシルは、自分ひとりの殻のなかに閉じこもり、人とまじわらず、とらえどころがないが、自足している男だ。フェイサルは金貨で二万ポンドを用意してくれた。工面できる金のすべて、われわれが希望した以上の額である。この先募集しようと考えている新しい戦士への給料にあてるとともに、ホウェイタ部族に迅速な行動をうながすための前金として支払うためだ。
ユスフのもてなしの夕食を終えると、再び荷物を積み、クルのオアシスをめざして真夜中近くに出発する。案内役のナシルは、この地方のことなら、いつのまにか生まれ故郷同様にくわしくなってしまったという。星空のもとを、月光を浴びながらラクダを歩ませているうちに、ナシルは故郷のことを思いだして、すっかり家が恋しくなってしまったらしい。ナシルはわたしに話して聞かせる――敷石をしきつめた自分たちの家のことを。玄関は夏の炎熱を防ぐためにアーチ型の天井をもち、庭にはあらゆる種類の果樹が茂り、日蔭の小径は日ざしのことなどまるで気にしないでのんびりと散歩できることを。ナシルは話す――井戸の滑車には皮のバケツがいくつもぶら下がっていて、牡牛が引っぱりあげると、土を固く踏みかためた傾斜をもつ水路に水を落とす仕掛けになっていることを。また、どんなふうに水槽から水が小径の両側のコンクリートの溝に流れ出し、どんな仕掛けで中庭の噴水となってほとばしるかを。そして、噴水のかたわらには蔓《つる》を格子に組んでつくった大きな水浴び場があり、内側は磨きあげたセメント張りで、その深い緑いろの水のなかへ、自分や兄の家族たちは日盛りになるととびこんだものだ、と。
ナシルはいつもは陽気なのだが、内面には苦悩が渦巻いているのだった。この夜、ナシルはすっかりふさぎの虫にとりつかれていた。メディナの首長《エミール》であり、金も権力もあって、あの庭園に囲まれた宮殿にのんびりと暮らしていた自分が、いったいなにゆえ、すべてをなげうって、砂漠の絶望的な冒険の弱々しい指導者になどなってしまったのだろう。この二年というもの、席のあたたまるいとまもなく、自分はいつもフェイサル軍の最前線で戦ってきた。とりわけ危険な戦闘にはひとつのこらず参加し、進軍にはつねに前衛に選ばれる。ところがそのあいだにも、トルコ人どもは自分の家に住み、自分の果樹を荒らし、自分のナツメ椰子を切り倒している。それだけならまだいい、と、ナシルは言う。牡牛の滑車のきしみが六百年間とだえたことのないあの大きな井戸まで、ことりとも音がしなくなって久しい。あの庭園も暑熱にひびわれ、いまわれわれがラクダを進めているこの禿山同様の、不毛の荒れ地に変わりはてようとしているんだからな、と。
四時間の行軍のあと二時間眠り、日の出とともに起きる。荷駄のラクダはウェジでかかったいやらしい疥癬《かいせん》のために弱っていて、とぼとぼと進み、歩きながら一日じゅう草を食べている。乗用のラクダのほうはそれほど荷を積んでいるわけではないから、荷駄隊を追いぬいて先に進むことなどたやすかったが、行軍の速度を統制しているアウダによって禁止されてしまう。前途には苦難が待ち受けており、これに立ち向かうために、ラクダは適応能力のすべてを傾けねばならなくなるので、いまはできるかぎりそれを保存しておいてやらねば、という理由で。そこで、われわれは猛暑のなかを六時間も、陰気にとぼとぼと進んだ。ウェジ背後の白砂地帯では、夏の日は残酷に目を灼き、道の両側の蔭ひとつない岩肌は、熱波を輻射して頭痛をおこし、気もとおくさせてしまう。この結果、昼前の十一時になると、われわれはこぞって、なおも前進つづけることを主張するアウダに反抗した。やっと行進をやめ、午後二時半まで樹蔭で横になることにきまる。おのおのがなんとかひといき入れようと、毛布をふたつに折って頭上の枝の茨にわたすのだが、その日影もしばらくすると、つれなくも移動してしまうのだった。
休憩時間が過ぎると、ふたたびラクダに乗り、三時間ばかりゆっくりと平坦な河床を進んで、大きな峡谷の壁に近づく。と、視界が開けて、すぐ目の前に、エル・クルの緑の樹園があった。
クルの住人は唯一の定住ベッルウィ族であるダイフ・アッラー老人で、先祖伝来の台地にある小さな地所で、娘たちと昼夜の別なく働いていた。樹園は谷の南端にあり、天然の巨石の壁によって洪水から守られている。地所のまんなかに澄んだ冷たい水のでる井戸があり、泥でバランスをとった粗末な木組みの腕木がつくりつけてあった。ダイフ・アッラーは、これで、太陽の位置が低い朝と夕に何十杯となく水を汲みあげ、粘土で固めた水路に流し込んで、樹園中くまなく根方に水を補給する。背の低いナツメ椰子ばかりだが、これも枝葉の広がりで作物を太陽から守る工夫だ。でなければ、この丸裸の峡谷では、枯れしぼむしかあるまい。植え込んであるのは、いちばん利益の上がる作物であるタバコの若木で、季節に応じて豆とメロン、キュウリとナスの畑となる地所も少々あった。
老人は女たちと井戸のそばの|そだ《ヽヽ》葺きの小屋に住み、われわれの政治を嘲《あざけ》って言う――そんなつらい苦労をし、血の犠牲まではらって、どれだけよけいに飲み食いできるようになるだか、と。われわれは自由の概念を説いて、老人をおだやかにからかう――アラブ人のために、アラブ諸国に自由を、と。「ねえ、ダイフ・アッラー、この樹園がほんとうにあなたのものにならなくていいのかい?」しかし、老人は納得するどころか、いきなり立ちあがり、誇らしげに胸をたたいて、こう叫んだ。「わしが――わしがクルなんじゃ」
老人は自由で、なにひとつ他人には求めず、自分の樹園だけで満ち足りていた。なぜ、他の連中は、こういうつましい生活をして豊かになろうとはしないのか、どうにもわからん、と言う。老人のフェルトの頭巾は脂汗を吸ってこわばり、色も手触りも鉛さながらだが、自慢そうに話すところによれば祖父伝来で、一世紀前、イブラヒム・パシャがウェジを治めていたときに買ったものだとのこと。衣装として必要なのは、ほかにシャツ一枚だけ。これは毎年、タバコと交換で、来年用を自分のために一枚、娘たちにもそれぞれ一枚ずつ、さらに一枚を婆さん(つまり彼の妻)のために買うことにしているとのことだ。
われわれは感謝のことばもなかった――不必要な欲望の奴隷であるわれわれに満足を知ることの見本を示してくれたのみならず、野菜まで売ってくれたのだから。これに、ラシムやアブドゥッラやモハメッドから贈られた山ほどの罐詰をくわえて、われわれは豪勢にくらした。夜ともなれば、焚火を囲んで歓声がおこる。それも、部族民たちのどら声を張りあげる単調な歌でも、アゲイル部族の騒々しい合唱でもなくて、なんとシリアの都ぶりの四分の一拍子に乗って裏声をふるわせる歌いぶりである。マルウドの部隊に楽士がいて、恥ずかしがる兵士を引っぱり出しては、夜ごとにギターを爪びかせ、ダマスカスの酒場の歌や故郷の恋歌を歌わせるのだ。わたしがとまっていたアブドゥッラのテントは焚火から遠く、歌声はほとばしる水の爽やかなせせらぎや樹々の葉にやわげられて、ものうく快い旋律となって聞こえてくる。
しばしば、ネシブ・エル・ベクリは、セリム・エル・ジェザイリの歌集の写本を取り出した。不羈《ふき》奔放な革命家が、民衆の日用語で書いた、やがて訪れようとしているアラブの自由を歌った詩である。ネシブと仲間は、これらの歌をゆさぶるようなリズムで、歌詞に希望と情熱のすべてを注ぎこみ、蒼ざめたダマスカスの顔を月のように焚火の明かりに浮かびあがせ、汗みずくになって唱う。兵士の宿営地は、一節が終わるまで、水を打ったように静まりかえる。それから、全員の唇からためいきが洩れる。いま終わった一節への憧れをこめたこだまのように。ただし、ダイフ・アッラー老人だけは別で、相変わらず水まきをつづけていた。この連中の馬鹿さわぎがすめば、必ずだれかが腹をすかせて、自分の青物を買うにきまっているからだった。
町育ちの男たちにとっては、この樹園は、戦いに血を騒がせ、自らを砂漠に駆りたてる以前の世界をしのぶよすがであった。が、アウダにとっては、ここの豊かな緑は、これ見よがしのわいせつさで、一刻も早くなにひとつない風景を見たいと言う。そこで、われわれは楽園の第二夜を早めに打ち切り、午前二時に出発して峡谷をさかのぼりはじめる。漆黒の闇で、空の星さえ、われわれがさまよう谷底までは光を投げかけることができない。今夜の先導はアウダだった。全員に自分の位置を知らせるために、声を張りあげて、果てしなくつづくホウェイタ部族の歌を唱う。低音の三拍子にのせて唱う叙事詩が、谷をのぼり、くだり、しりぞき、前に進むのが聞こえてくるわけだが、あまりに大声すぎて「ほう、ほう、ほう」と聞こえるばかり、とうてい歌詞までは聞きとれなかった。が、まもなく、アウダが歌を唱ってくれたことに感謝することになる。道がふいに左に折れ、長蛇の列は曲がり角に来たことを、月光をさえぎる黒い雲間に渦巻いているアウダの声のこだまによって、かろうじて知ることができたのだから。
ある日の午後、わたしは砂岩を積んでつくった羊飼いの仮小屋の蔭で眠っていた。空気は暖かく和らぎ、日の光はみち、頭上の粗い壁のてっぺんをこする風もここまでは侵入しない。峡谷には平和があふれ、たえまない風の音さえ苦にもならない。
両目を閉じて夢路をたどっていると、若い声がとびこんで来て、眼をあけると、知らないアゲイル部族の少年の気が気でなさそうな顔が見えた。枕元にうずくまっている少年はダウドと名乗り、わたしに救いをもとめる。親友のファッラジがふざけているうちに自分たちのテントを焼いてしまったので、シャッラフ麾下のアゲイル部族の隊長サアドが、罰として親友を笞打とうとしている。なんとかとりなして、許してもらえまいか、というのである。ちょうどそのとき、たまたまサアドがわたしを訪ねてきた。わたしがこの話をもちだすと、ダウドは坐ったまま、熱心のあまり唇をかすかに開き、大きな黒い目を細め、心配のあまり真一文字の眉根にしわをよせて、ふたりを見つめる。ダウドのふたつの瞳がわずかに中によっているのが、答えを待ちきれないほど切迫した感情をものがたっているようだ。
サアドの返事は、どうみても慰めになるようなものではなかった。このふたりはいつも面倒を引きおこす。とくにこのごろ、いたずらが眼にあまるので、厳格なシャッラフはふたりを見せしめにしろと命じたくらいだ。わたしの顔を立てて自分にできる目いっぱいのところは、定めの罰をダウドにも分担させることくらいだというのである。とたんにダウドは跳びあがって喜び、わたしとサアドの手に接吻すると、峡谷を駈けのぼっていった。サアドは笑いながら、この有名なカップルの話を聞かせてくれる。ふたりは東方の少年間の愛情関係の一例で、女性から隔離されているためにやむをえないものだという。このような友情はしばしば大人の愛に育ち、われわれの肉にとらわれた偏見では理解しがたいほどの深みと強さをもつにいたるらしい。無邪気なうちは熱烈で開けっぴろげだが、性的なものがはいってくると、結婚と同様に、あたえるものと受け取るものの肉体関係に移行していくのである。
翌日もシャッラフは戻らなかった。朝、アウダとこれからの行軍のことを話しあっていると、隣のテントからナシルが、親指と人差し指でマッチを箱にこすりつけては、こちらめがけてはねとばしてくる。三人でふざけているまっさいちゅうに、人影がふたつ、眼には苦痛のいろを浮かべているが、口もとにはけんめいに微笑を浮かべて、びっこを引きながら近づいて来て挨拶する。せっかちのダウドと親友のファッラジだ。ファッラジはなるほど美しく、骨組みもきゃしゃで、少女めいたところがあり、無邪気な顔はなめらかで、涙がうるんでいる。ふたりはわたしに仕えたいと言う。わたしは召使いなどいらないし、第一、笞でぶたれたあとではラクダにも乗れまいと反対する。いまも鞍もおかず乗って来ました、と言うのがふたりの答えだった。自分は単純な男で、身の回りに召使いなどおくのは嫌だ、と、わたしは言う。ダウドはそれ以上なにも言えず、腹を立てて行ってしまった。が、ファッラジのほうは、指導者には召使いが必要だし、ふたりとも感謝の気持ちからあなたのお供をしたいのだと歎願をつづける。気の強いダウドがふてくされているあいだに、ファッラジはナシルのまえにひざまずいて頼みこむ。あきらかにナシルの気に入っている自分の中の女らしさのすべてを武器に使って。結局、ナシルの口ぞえで、わたしはふたりとも召使いにやとうことにする。ともかく若々しく、清潔なのが好ましかった。
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広幅の布でつくった鼠いろの巨大な長衣にビロードの襟を付け、黄色のゴム長をはく――アウダがウェジで買い入れたいでたちである。このアウダの先導で、一行はシェッグの大平原を横断した。赤い砂岩が尖塔のように散在する砂漠である。ウェジ進発後十日にして、一行はワディ・ディラアに到着した。涸れた河床である。ここの泉で、一行は水袋をみたした。
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午後三時四十五分、われわれはラクダに乗り、ワディ・ディラアをくだって移動する。急峻な砂の尾根に出た。ところどころ赤い鋭い岩が突きで出ている。しばらくたって、われわれは三、四人で本隊の先に出、四つん這いになって砂山を登る。鉄道を偵察するためである。空気はよどみ、運動量はほとんど体力の限界をこえるが、この努力はただちに実を結んだ。峡谷の入口の緑の平野に、鉄路は静かに、まるで見捨てられたように光っている。同じ峡谷を、われわれの一行は、すでに戦闘の準備をととのえて、用心深く近づいてゆく。
全員が狭い砂の窪地に集結しておいて、さらに鉄道をくわしく調べる。どこを見てもまったく平穏で、人影がない。われわれと鉄路のあいだをさえぎる、雑草が豊かに円形に生い茂ったトーチカさえ、どうやら放置されて久しいらしい。われわれは岩棚のはずれまで走って、きれいな乾いた砂地に跳びおり、壮大な斜面を転がり降りて、縦隊の横の平地にすり傷をつくりながら急停止する。ラクダにまたがり、草地まで走らせそこで草を食わせ、ラクダをのこしたまま鉄路にむかって走りながら、全員にあとにつづけと叫ぶ。
このじゃまひとつはいらない鉄路横断は、まことに幸運だった。シャッラフが真剣に警告してくれたところによれば、敵のパトロール隊はラバの騎乗の歩兵隊とラクダ隊に、いまは塹壕をめぐらした監視所から派遣される機関銃搭載のトロッコをつらねた歩兵隊まで加わっていたからである。アゲイル部族は大はしゃぎで、横断個所のいたるところに、時間の許すかぎり遠くまで走って、綿火薬やゼラチン火薬を詰め込んでまわる。ラクダを鉄路のはるかかなたの安全地帯まで連れ去るのを待って、われわれは順序よく導火線に点火してゆき、やがてうつろな峡谷を連続する爆発音のこだまでみたす。
アウダはこのときまでダイナマイトを知らなかった。はじめて経験する喜びに子供のように感動して、その力強い威力をたたえる即興の詩を唱う。われわれは電信線三本を切断し、その六つの端をホウェイタ部族の乗用ラクダ六頭の鞍に結びつけておいた。爆破に驚いた六頭は、びいんとはじけたりからまりあったりする電線と折れた電柱を引きずりながら、たちまち重量をます荷物に耐えて、はるか東の谷間まで必死にのがれた。が、ついに、もう一歩も動けなくなってしまう。そこで、電線を切ってラクダを解放してやると、これにまたがって笑いながら本隊のあとを追った。
翌朝もアウダは全員を四時前にたたき起こし、ゆるやかな斜面をのぼりつづけた。ようやく尾根をひとつつめ、これをこえると、こんどは砂丘の下りにかかる。とたんにラクダはひざまでもぐり、砂につかまって、どうもがいても一歩も進めなくなってしまう。ラクダを前進させるためには、砂の上に腹這いにさせ、柔らかな表層の上をすべらせて、体重を利用して脚を流砂から引きぬくしかなかった。下りきったところは峡谷の上流で、下流は鉄道の方角だった。さらに半時間行進して水源までさかのぼると、大地の低い縁のそばに出る。ヘジャズとシルハンの分水嶺だ。わずか十ヤード進むと、もうアラビアの紅海側の斜面の外に出て、たしかに神秘の中央流域に足を踏み入れているのだった。
どうやら平原のようで、眼路のかぎり東に向かってなだらかな下りの斜面がつづき、なにもない平地がつぎつぎにゆるやかな起伏を見せながら、はるか彼方まで連なっている。はるか彼方としか言いようがないのは、淡い空色に変わり、やがて靄《もや》の中に消えてしまっているからだ。暁の光がこの傾いた平原に広がり、完全に水平な光線を投げかけて、あるかなきかの尾根に長い影をあたえ、複雑な地形のすべての息吹を解きあかす――が、それもまたたくまで、われわれの見守るなかをそれらの影はたちまちちぢんで曙光に吸いこまれてゆき、一瞬、もとの尾根に貼りついて震えているかに見えるのだが、まるで合図でもあったように、いっせいに消えうせてしまう。朝日がのぼりきったのだった。陽光の奔流が、われわれ生きてうごめくものたちを脅かすように真正面から照らし、これから進んでいかねばならぬ砂漠の砂の一粒一粒に平等にあふれる。
この土地の主《ぬし》であるフェジル・ベドウィン族は、この平原をエル・ホウル、人間のいない土地と呼ぶ。そしていま、生きるもののしるしひとつないこの土地に、われわれはラクダを乗り入れる――羚羊《かもしか》の足跡もなく、トカゲの姿も見えず、鼠の穴もなければ、鳥の影さえ見ることができない。ここでは、自分たちが限りなく矮小に感じられる。この広大さのなかでは、強行軍する自分たちが、まるで動いていないように、むなしい努力を重ねながら不動の呪縛にかかったように感じてしまう。聞こえるのは、ただ、ラクダのひづめの下で、風化した板石のかけらが板石のかけらとぶつかり合う音の、まるで屋根付き遊歩道に閉じこめられたようなむなしいこだま。そしてまた、風蝕のために固い上部がのこって樹の形になった砂岩の下部を、熱風にあおられてゆっくりと西にすべってゆく流砂の、かすかだが鋭くきしむ音。それだけだった。
息づまるような熱風である。エジプトでときおりサハラ砂漠から吹いてくるハムシンについて言うように、溶鉱炉のなかの感じだ。時がたち、日が空高く昇るにつれて、熱風はいよいよつのり、ネフドの砂塵をいっそうふくんで吹きつけてくる。この北アラビアの大砂漠は、すぐそこにあるはずなのだが、靄《もや》のために見ることができない。正午には熱風はほとんど強風にちかく、しかも乾燥しきっているために、乾いた唇はぱっくりと割れ、顔にまで細かい干割れが走る。同時に瞼もまたざらざらに乾き、いつの間にか開いたままになって、痛む眼をむき出しにしてしまうみたいな感じだった。アラブ人は頭被できっちり鼻をおおい、額の上の布を兜の瞼甲のように引っぱり出して、わずかに風にはためく狭いすきまから前方をうかがっている。
翌日もまた夜明け前に出発して、真昼のさかりに、ようやく待望の井戸に到着した。深さ約三十フィート、石で囲ってあり、見るからに古いものだ。水量は豊富で、かすかに塩味がするが、汲みたてを飲めばまずくはない。けれども水袋に入れておくと、たちまちひどい味に変わってしまった。この涸谷《かれだに》は、去年の豪雨で氾濫し、そのためにずいぶん乾いて干からびてはいるものの牧草があったのでラクダを放してやった。後続部隊も到着し、水を汲んでパンを焼く。ラクダも忙しく草をはみつづける。夜のとばりがおりると、もういちどラクダに水を飲ませ、井戸から半マイルほど離れた堤の下に追いこんで夜にそなえる――こうしておけば、井戸はがらあきになり、襲撃者の群れが闇にまぎれ、水を飲みにやって来たとしても、不意をつかれなくてすむ。しかし、見張りは、足音ひとつ聞かなかった。
例によって夜明け前に出発する。だらだらとした平原をだらだらと進み、日没の寸前に目的地ハブル・アジャジュに着く。ここの水たまりは今年の降雨でできたものだが、すでにどろんと濁って塩からかった。とはいえ、ラクダは平気で飲んだし、人もかろうじて飲むことができる。水たまりは、ワディ・フェジルのわきの、二段に落ちくぼんだ瀬にできたもので、ワディが氾濫したとき、直径二百ヤードにわたって深さ二フィートの水がたまった。水たまりの北端は低い砂岩の丘である。予定では、ここでホウェイタ部族と合流できるはずであった。が、牧草はすっかり喰いつくされ、水たまりはラクダに水を与えたためにまだ濁っているのに、彼らの姿は見えない。アウダが足跡をさがして歩くが、ひとつも見つからない。強い風が砂の表面を掃ききよめて、今はただ、新しい風紋が美しく連なるばかりだった。けれども彼らがここに立ち寄ったことはたしかなのだから、きっと旅をつづけてシンハルに入っていくにちがいない――となれば、われわれも北を目ざして進みさえすれば、彼らを見つけることができるはずだ。
翌日は、おそろしく時間が経ったような気がしていたが、ウェジを出てまだわずか二週間目であった。そしてまた砂漠の太陽が、行軍をつづける一行の上に昇る。午後になって、われわれはついにワディ・フェジルをはなれ、北というよりは東にちかいシルハンのアルファジャにむかう。したがって部隊はいくぶん右に折れ、石灰岩と砂の平原を進み、はるかな一角に大ネフド砂漠をのぞんだ。ジェベル・シャンマルをシリア砂漠からわかつ、あの有名な砂丘の連なりである。ここを横断した旅行者はのちのちまで語り草になるが、なかでもポールグレイヴ〔イギリスの聖職者、外交官、旅行家。『一年にわたる中央および東部アラビア横断記』をあらわす〕、ブラント夫妻〔夫はイギリスの詩人、外交官、政治評論家。『ネジュドへの巡礼』はバイロンの孫娘である夫人アンが夫に同行した旅行記〕、ガートルード・ベル〔イギリスの女流旅行家、行政官、オリエント問題の権威。ロレンスとも面識があり、一九一三年、二人目の女性としてネフドに入る〕は名高い。そこでわたしも、ネフドに入って彼らの仲間となり、多少とも栄誉をわかちたいとアウダに頼みこむ――が、アウダは怒ってどなりつけた。ネフドに入るのはやむをえないときだけだぞ。たとえば襲撃とかな。そして、おやじの面目にかけても、おれは疥癬《かいせん》病みで足もともおぼつかないようなラクダに乗って襲撃などせんわい。いまやらなくちゃならんのは、生きてアルファジャに着くことじゃわ、と。
そんなわけで、われわれはおとなしく、ぎらぎらと輝く単調な砂原の上を進んでいった。やがて、いままでよりはるかにきびしい地帯、ギアアンにさしかかる。なめらかな泥土がほとんど紙をひろげたように白くつづき、何マイル四方にも及ぶことが珍しくない。白土はガラスのように強烈に陽光を顔めがけて照り返すから、われわれは頭上に、じかに雨あられと射かける光の矢を受け、地面からは構造上、下からの光を防ぎようのない眼をめがけて反射する光を浴びながら、ラクダを進めることになる。じわじわと圧迫するような鈍痛ではなくて、干満のある苦痛だった。ある時は痛みがつのってほとんど失神しそうになるまでたかまり、それから一瞬、黒いくもの巣のような影のまぼろしが網膜をよぎり、痛みがしずまって涼しさを感じる――といっても、水面に顔を出そうともがいている溺れる男のように、この涼しさは新しく苦痛に耐える能力をよみがえらせるために、束の間、息をつくゆとりを与えてくれるだけのことだ。
たがいに言いかわすことばもつっけんどんになっていく。が、六時ちかくなって、ようやくなんとか息がつけるようになり、夕食のために休憩して新しいパンを焼いた。暗くなってからさらに三時間、這うように進んで、砂山の頂に着く。眠りは恩寵のようだ。燃える熱風と砂嵐、飛砂は日灼けに痛む頬を刺し、一陣の迅風は行く手の道を砂塵の幕でおおいかくしていやがるラクダを迷わせてしまう、ひどい一日のあとともなれば。アウダは、しかし、明日のことで気をもんでいる。もう一日、熱風がつづくとすると、砂漠の第三日目も日程がおくれてしまうのに、もう水は一滴もない――そこでアウダは、まだ夜のうちにはやばやと皆を起こし、夜明け前にビセイタ平原まで降りた。この呼び名には、平原の広さと平坦さにたいする嘲弄がこもっている。平面をおおう燧石《すいせき》の砕片は日に灼けた褐色だが、日が昇るといっそう黒ずんで見え、痛みに涙がにじむ眼に安らぎをもたらす。もっともこの上を歩くラクダにとっては、焼けるように熱くて苦しいらしく、早くも何頭かがひづめを痛めてびっこを引きはじめる。そこでわれわれは注意ぶかく、いちばん軟らかそうな場所をえらんでラクダを進めた。先頭にはアウダとわたしが立った。
風にさからって進むうちに、なにか、かすかに砂塵を巻いて疾走するものが眼にとまる。駝鳥さ、と、アウダが言う。ひとりの男が駆けよってきて象牙色の巨大な卵をふたつ示す。われわれは腰を据えてこのビセイタの賜物で朝食をつくることにし、薪をさがしたのだが、二十分もかかって、ようやく枯草がひとにぎり見つかっただけ。不毛の砂漠にはまったく手のほどこしようがない。荷駄隊が通りかかり、わたしは積み荷の爆薬に目をとめた。ひと袋封を切り、石を組んで卵をのせ、その下で火を燃やして、爆薬をひとつまみずつ、注意深くくべる。やがて料理ができたという声が上がった。ナシルもネシブもすっかり興味をそそられ、ラクダからおりてまぜっかえす。アウダが銀の柄の短剣を抜いて、最初の卵のてっぺんを切った。ペストのような悪臭が一同をひとなめする。みんなは第二の卵を、熱いままそっと蹴りながら、においのこない場所まで逃げた。こんどは新鮮だったが、石のように固い。中身を短剣でほじりだして皿がわりの平たい燧石《すいせき》にあけ、少しずつ試食した。ゆで卵を食べるほど身を落としたことは生まれてからただの一度もないといやがるナシルまで説得して、一口、食べさせる。全員一致の判定はこうだ――口あたりは固く味はしつこい。が、ビセイタでの食事としては乙なものである。
アウダの甥のザアルが大羚羊《オリックス》を見つけ、徒歩でそっと忍びよって倒した。良さそうなところを切り取って、つぎの休憩のときに食べることにし、運搬用のラクダにゆわえつける。このあとにも貪欲なホウェイタの連中は、はるかかなたに何頭か大羚羊を見つけては追跡した。ちょっと走って逃げてはみるものの、おろかにも立ちどまって、男たちが近づいてくるのをじいっと見つめている。そして、もういちど逃げようとしたときには、すでに手遅れというわけだ。大羚羊の輝くように白い腹が不運をまねいた――陽炎《かげろう》に拡大されて、はるか彼方から、動くたびにこちらに合図を送ることになつてしまうからである。
わたしは疲れはて、とてもスポーツなどする気分ではなかったので、たとえどんな世にもまれな動物がいたところで、脇道にそれる気になどならなかったから、まっすぐ荷駄隊のあとを追った。わたしのラクダは長い歩幅にものをいわせて、たちまち追いついてしまう。荷駄隊の後尾はわたしの部下たちで、徒歩であった。もしこれ以上熱風が強くなると、ラクダの何頭かは夜までに倒れてしまうと心配のあまり、なんとかそれまでもたせようと、手綱をとって曳いていたのである。対照の妙を見せる屈強なモハメッドのいかにも農民らしい重い足どりと、アゲイル部族のしなやかな足の運び、それにそのかたわらをはだしで跳びはねるファッラジとダウドの優雅なサラブレットを思わせる足さばきも驚くほかなかった。ただ、ガシムの姿だけが見あたらない。彼らはホウェイタ部族といっしょだと思っていたと答える。ガシムは無愛想で、この陽気な兵士たちとそりがあわず、たいていははるかに気の合う仲間であるホウェイタ部族に同行していたからである。
わたしのうしろには誰もいない。で、わたしは彼のラクダの調子を見ておこうと思い、もう少し前まで行ってみる。ようやくラクダは見つかったものの、ホウェイタ部族のひとりが曳いていて、乗り手の姿はなかった。鞍袋はちゃんとついているし、小銃も食料もラクダにのせてあるのに、ガシムの姿だけどこにも見えない。やがて、この哀れな男は行方不明になったらしいということが、おぼろげながらわかってくる。恐るべき事態だった。靄《もや》と陽炎《かげろう》のなかでは、隊列は二マイルも離れたらもう見えなくなるし、鋼のように固い地面には足跡さえのこりはしない。徒歩では絶対に追いつくことは不可能だろう。
誰もが、ガシムはこのだらだらと伸びた隊列のどこかにいるだろうと考えて行軍をつづけていたわけだが、姿が見えなくなってからずいぶん時間がたって、もう正午近くにもなっているのだから、きっと何マイルもおくれてしまったにちがいない。ラクダに荷物が積んであることは、夜の小休止のさいに眠ったまま置いてきたのではないというなによりの証拠になる。アゲイルの男は、ガシムはたぶん鞍の上で居眠りをして落っこち、気を失ったか死んでしまったんだろうとまで言ってのける。あるいは、ことによると、一行の誰かがガシムに恨みをはらしたんじゃないかな。いずれにせよ、誰ひとり事実を知る者はいなかった。ガシムは心のねじれたよそ者で、誰の一族というわけでもなく、誰もとくに気にしているようすも見えない。
たしかにそのとおりだ。が、ガシムと同郷で友だちでもあり、仕事のうえでも仲間であるモハメッドは、砂漠についてなにひとつ知らないうえに、ラクダも弱っていて、とても探しに戻れないこともまた、たしかにそのとおりなのだ。もしモハメッドを探しに行かせたら、殺人をおかすにひとしい。となると、この難題はわたしの肩にかかってくる。ホウェイタ部族なら力をかしてくれたかもしれないけれど、いまは狩りか卵さがしで遠くの陽炎のなかに姿を消していた。といって、アゲイル部族はまったく部族本位だから、自分たち以外の問題にはかかわろうとしないだろう。そのうえ、ガシムはわたしの部下だ。ガシムの件の責任はわたしにある。
わたしはとぼとぼと歩む部下を力なく見つめ、一瞬、このなかの誰かと代わり、自分のラクダにその男を乗せて救助に行かせることはできないものかと思った。わたしが責任を回避したとしても、外国人なのだから、わかってもらえないことはあるまい。しかし、わたしがなおアラブ人によるアラブ人の叛乱に力をかそうと考えているかぎり、この外国人だからという口実こそ、絶対に使ってはならないものだ。
そこで、わたしはなにも言わずにいやがるラクダに向きを変えさせ、不平がましくうなり、悲しげに仲間と鳴きかわすラクダに強いて後戻りさせる。長い兵士の列が終わり、荷駄隊をあとにすると、まえには影ひとつ見えない。わたしの気分はおよそヒロイックなものから遠かった。ほかの従者にたいして腹を立て、自分のベドウィン族気取りに怒り、とりわけガシムについては憤懣やるかたなかった。あの歯欠けの不平家め。行軍中さぼれるだけさぼりおって。性悪で、疑り深くて、残忍で。おまえを雇ったことをどんなに後悔していることか。荷駄をおろす場所まで行きついたら、ただちに、おまえと手を切ろうと思っていた矢先なのに。アラブの大業のなかで自分が果たすべき重要な役割を、こんな値打ちのない男たったひとりのために危険にさらさねばならないとは、不条理きわまる――そう思っていた。
わたしのラクダも同感らしく、おおいに不平を鳴らす。が、考えてみると、これはひどい扱いをうけたラクダが示すいつものぐずりかたにすぎない。長い首をよじって後ろをふりかえり、仲間に別れの鳴き声をあげると、ひどくのろのろと、むやみに乗り手を跳ねあげながら歩きばじめる。少しでも手綱をゆるめようものなら道をそれるし、笞で軽く叩きつづけないかぎり一歩も進もうとはしなかった。けれども、一マイルか二マイル行くうちには機嫌が良くなり、それほど無理強いしなくても進むようになる。といっても、相変わらずゆっくりした歩速であったが。当時、わたしはずっとオイル・コンパスで進路を計っていたので、これを頼りに十七マイル彼方の出発点まで、ほぼ正確に戻れるだろうと期待はしていたのだったが。
ほぼ一時間半ばかり、わたしはらくらくとラクダを進めた。微風が背後から吹き、おかげで充血した眼におおいかぶさる砂塵のかさぶたが取れて、ほとんど痛みもなく前方を見ることができたからだ。と、そのとき、わたしは人影か大きな茂みか、ともかくなにか黒いものを前方に認めた。ゆれる陽炎のために、高さも距離も見当がつかない。が、この黒いものは、進路のやや東側を動いているように見えた。賭けるような気持ちでラクダをその方角に向ける。そして数分後、その影がガシムとわかる。呼びかけると、ガシムはわけがわからぬといったようすで立ちどまる。ラクダを乗りつけてみると、ほとんど眼が見えなくなり、頭もおかしくなっていることがわかった。棒立ちになったまま、黒い口をぽかんと開けて、両腕をわたしにむかって差しのべるばかりである。アゲイル部族は最後の水をわたしの水袋に入れてくれたというのに、こやつときたらあわてて飲もうとして、狂ったように顔や胸やらにこぼしてしまった。なにやら口の中でぶつぶつ言っていたかと思うと、涙声で悲しみを訴えはじめる。わたしはうしろの席、つまりラクダの尻にガシムを乗せ、ラクダを立たせて自分も乗った。
まわれ右をすると、ラクダもほっとしたらしく、のびのびと歩きはじめる。わたしは正確にコンパスの示す通り、道をたどった。焦茶いろの燧石の砕石のうえに薄茶いろの砂がかすかにかぶさっていることで、前に通った足跡だとわかることがしばしばあるくらい、正確にである。重さが倍になったにもかかわらず、ラクダは大股に歩みはじめ、ときには頭を下げて、しばらくのあいだ、あのいちばん気持ちのいいすり足の速度をさえやってのける。最高のラクダが、若いうちに、達人の騎手からたたきこまれるという、あの歩き方を。捜索のためにたしかに多少遅れてしまったわたしとしては、これはラクダにまだ十分な活力がのこっている証拠だから、なによりうれしかった。
ガシムは喉の渇きの苦痛と恐怖を訴えるようにうめきつづけ、やめろと言っても、聞くどころか、ちゃんとまたがるのさえやめてしまう。ついに、ラクダが一歩あゆむごとに、尻にどしんと腰をおとすようになり、泣き声と相まって、ラクダをせきたてるまでになった。こんなことをしていたら危ない。たちまちラクダが足を痛めてしまうだろう。もういちど、わたしはやめろと言い、ガシムがいっそう大声で悲鳴をあげたので、笞で打ちすえ、もういちど声をたてたら放り出すぞと宣告する。この脅迫は、わたしが顔色まで変えていたために、ききめがあった。それ以後、ガシムは一言ももらさず、きちんと鞍にしがみついていた。
四マイルと進まないうちに、ふたたび前方の陽炎のなかに、こちらに向かって揺れながら近づいてくる黒い泡を見つける。泡は三つに分かれる。敵ではないか。と、次の瞬間、だしぬけに、思いもかけず靄が切れて幻が正体を現す。アウダとナシルの部下ふたりがわたしを捜しに戻ってきてくれたのだった。わたしは大声で彼らをからかう――友達を砂漠に見棄てるとは、なんて奴らだ、と。アウダはあごひげをしごきながら、ぶつぶつと答える――おれがその場にいたら、絶対にあんたを引き返させたりしなかったんだが、と。ガシムは(罵詈雑言《ばりぞうごん》罵詈雑言を浴びたが、わたしよりはるかにうまい騎手の鞍のうしろに移され、われわれはいっしょに、ゆったりとラクダを進めた。
このささいな事件のために何時間もつぶれてしまったので、このあと、一日はそれほど長い感じはしなかった。とはいえ、やがて暑熱はすさまじいまでに高まり、突風が砂を吹きつけて顔をこわばらせ、ついには眼に見え耳に聞こえるまでに強まり、ひゅうひゅうと鳴りながら煙のように砂塵を巻いてラクダの脇をすりぬけてゆく。平坦でなんの特徴もない風景が午後五時までつづき、ようやく前方に低い小丘の連なりが見え、なおしばらく行くと、タマリスクの樹がまばらに生えた砂丘に囲まれた窪地に出て、風もいくぶん弱くなる。ここが、シルハンのカセイムである。茂みや砂丘が風をさえぎり、日は沈もうとしていて、やわらかな夜が西の空を赤く染めながら訪れてくる。だから、わたしはこの日の日記に書いた――シルハンは美しい、と。
一口の水もなかったから、もちろんなにも食べることはできず、したがって断食修行の夜となった。とはいえ、明日になれば水が飲めることはたしかだったから、われわれは飢えがつのるのを防ぐために腹這いになって、たちまち眠りに沈んだ。井戸につくたびにもどしそうになるまでたらふく水を飲み、つぎの井戸まで一滴の水も飲まないですませるか、あるいは水を携行したにしても、最初の休憩のとき飲んだりパンをつくったりに派手に水を使ってしまうのが、アラブ人のやり方なのだ。
翌朝、われわれは下りにつき、第一の尾根をこえ、第二、第三とこえていった。尾根から尾根までのあいだは三マイルばかり。八時にはアルファジャの井戸についてラクダをおりる。甘い香りのする茂みという意味で、じじつ、あたりいちめんに馥郁《ふくいく》と芳香がただよっている。井戸には縁石もなく、深さは十八フィート、手にすくうと水はクリーム状で、強烈なにおいがあり、塩からい。が、みんなはすばらしい味だと思い、周りには飼料になる緑があってラクダにもすてきなわけだから、この日は一日、ここですごすことになった。
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四 アカバ急襲
翌朝、われわれは五時間ぶっとおしの強行軍でつぎのオアシスに着いた。ラクダも昨日の休養で元気いっぱいだった。この窪地には、育ちがいいとはいえないまでもナツメ椰子《やし》があり、そこここにはタマリスクの茂みもあって、井戸の水量も豊富なら、深さも七フィートそこそこ、しかもアルファジャの水よりうまい。とはいえ、ここの水もまた、ためしてみると「シルハンの水」以外の何物でもなかった。その場で飲むぶんにはなんとかなるにしても、石鹸《せっけん》の泡立ちは悪いし、容器に密封しておいても二日もたてばたちまち悪臭をはなち、コーヒー、紅茶、パン、どれに使っても本来の風味をぶちこわしてしまうのである。
ラクダに乗った男がひとり、こちらに向かって近づいてくる。一瞬、緊張がみなぎる。が、つぎの瞬間、ホウェイタ部族がその男に呼びかける声が聞こえた。放畜をしているホウェイタ部族のひとりということで、じつにのんびりした口調で挨拶をかわしている。これが砂漠の礼法なので、騒々しいのは悪くいって育ちの悪い証拠であり、良くいえば町風ということになる。
この男のことばによれば、ホウェイタ部族はこの先にキャンプを張り、われわれの消息を心待ちにしているという。キャンプではすべてが順調に進んでいるとのこと。アウダは心配が消えたかわり、こんどは矢も楯もなく会いたくなってしまう。われわれはラクダをいそがせ、一時間後にはアウダの氏族のひとりの長、アリ・アブ・フィトゥナのテントに着いた。老アリはやにだらけの眼、赤ら顔に蓬髪《ほうはつ》、つき出したあごひげに長い鼻の先がいつも埋まりそうという風貌で、あたたかく挨拶のことばを述べ、熱心に自分のテントに招待してくれる。
われわれの行軍はめでたく終わりをつげた。ホウェイタ部族は見つけたし、部下は士気すこぶる旺盛で、しかも金も爆薬もそっくり残っている。そこで、朝になると、一同は心たのしく集い、行動方針を決める厳粛な会議にのぞんだ。まず、六千ポンドをヌリ・シャッランに贈ることで意見の一致をみる。この族長の黙認があればこそ、われわれもシルハンにいられるわけで、戦士を募集し戦闘の準備をととのえるまで滞在する許可と、出発後には戦士たちの家族やテントや家畜どもの面倒を見てくれる保証とを取りつけておく必要があったからだ。
これは重大な問題なので、ヌリの友人であるアウダ自身に使者にたってもらうことを決める。その間、われわれはアリ・アブ・フィトゥナのもとにあって、いっしょにのんびり北に移動しながらネブクをめざすことになる。このネブクで、アウダは全アブ・タイ氏族に結集命令を出す。もちろん結集前にはアウダもヌリのもとから戻ってくる。こうした段取りがきまると、アウダは鞍袋に金貨六袋を入れて出発した。
会議のあと、フィテンナ部族の長《おさ》がわれわれを待ちうけていて、彼らのもとにとどまるかぎり、一日二回、昼前と日暮れにわれわれをもてなす栄誉をたまわりたいという。そして、まさにそのとおりのことをやるつもりだったらしい。ホウェイタ部族の歓待ぶりには限度というものがない。いわゆる砂漠の掟に言う三日間のもてなしにはものおしみということがなかった――というより執拗なといったほうがあたっているくらいで、遊牧民の夢みる良いくらしのまったき実現から面目を失わずにのがれる余地など、まったく与えてはくれないのだった。
翌朝、八時から十時のあいだに、不ぞろいながらも馬具一式で飾りたてた純血種の牝馬の小グループが、われわれの宿営地に迎えにくる。ナシル、ネシブ、ゼキ、そして私が馬に乗り、十人あまりの部下が徒歩でしたがって、茂みのあいだの砂地の小径をぬいながら荘重に峡谷を横切る。馬の手綱は従者がしっかりとおさえている。気ままに乗り回したり速歩をとったりしては礼儀にもとるからである。やがて一行は、その日の接待会場にあてられたテントにつく。それぞれのファミリーがかわるがわるわれわれをもてなす権利を要求し、判事のザアルが正当な序列を乱して誰かをえらぼうものなら、恐ろしく憤慨することになる。
イサウィヤで、われわれは最初の日に一度、二日目に二度、三日目に二度、この豪勢なもてなしを受けた。それから、五月十三日にラクダに鞍をおき、三時間のんびりと進んで、砂におおわれた太古の溶岩地帯をよぎり、つぎのオアシスにむかう。この谷には深さ七フィートの井戸がいたるところにあった。が、水は例の塩からいやつである。われわれがテントをたたむとアブ・タイたちもたたみ、われわれのかたわらを進んで、こちらのすぐそばにキャンプをはる。そういうわけで、この日はじめて、私はアラブ部族をすぐそばから観察しながら、同時に自分自身、もう一つの行軍の一員となる機会をもった。
いつもの不動の砂漠の情景とはまったく似たところがない。一日じゅう、石と茂みからなる灰緑色の広がりが、徒歩の、騎乗の、ラクダに乗った人々の通過するたびに、まるで蜃気楼のようにゆれうごく。ラクダの背の黒いこぶのような荷物は山羊皮のテントをたたんだものだ。まるで蝶のように奇妙にひらひらするラクダは房飾りをつけた天蓋をもつ女性用の轎《かご》を載せているせいだ。マンモスの牙のように銀色にひかるテントの支柱のポプラをつきだしているラクダもあれば、鳥の尾のように銀色のポプラを曳きずっていくラクダもある。秩序も、統制も、行軍の順序も、何ひとつありはしない。ただ、前列を横に広くとり、自主独立の集団が、同時に出発しただけのことで、これが遠いむかしから安全をまもるために遊牧民たちが本能的にとってきた行軍の形なのだ。人気のないところで万人に畏敬の念をいだかせるいつもの砂漠が、この日、これだけ多くの者たちを迎えて、とつぜん生きかえったように見える――最大の違いはここにあった。
行軍の速度はゆるやかで、しかも、何週間も自分たちの命は自分たちの手でまもるしかなかったあとで、こんなふうに護衛されて、危険にさらされる気遣いはまずなく、たとえあったとしても主人役のアブ・タイ氏族がいっしょに戦ってくれることがはっきりしているのは、言いようもなく心安まる思いだ。一行のうちでいちばん実直な連中さえ多少羽目をはずすくらいだから、もともと血の気が多い連中になると、もう馬鹿さわぎにちかい。この旗頭が、言うまでもなく、私の配下の二人の腕白ども、ファッラジとダウドである。性根がすっかりなおったわけではないにしろ、道中、しばらくは収まっていたのだけれど。ふたりのあるところ、われわれの隊列はつねにふたつの渦巻きをかかえる羽目になった。騒ぎにしろ事故にしろ、すべてふたりの疲れを知らぬいたずら小僧が、新しい手を思いついたために起こった。
私が黙ってがまんしているのをいいことに、ふたりは少々ゆきすぎをやらかすようになった。火種は毒蛇である。シルハンに踏みこんだ最初の日からつきまとわれていたのだが、いまや無視できない問題となり、恐怖の的にさえなりかねなかった。アラブ人の説明では、いつもならシルハンの毒蛇の数はどの地方とくらべてもさしてかわりがなく、砂漠の水ぎわならどこにでもいるていどなのに、今年だけはこの谷全体が、這いまわるツノマムシや大毒蛇《パフ・アダー》やコブラやクロヘビでうずまっているらしい。夜間の行動は危険だった――とうとう、はだしで歩くつもりなら、杖で左右の茂みをたたきながら進む用心が欠かせないまでになった。
暗くなると気がるに水も汲めなくなる。水面には蛇が泳いでいるし、縁石には蛇がからみあって房のようにぶらさがっているからだ。コーヒーを飲みながら議論をたたかわせている油断のない円座のなかにパフ・アダーがにょろにょろと現れたことが、二回もあった。部下の三人は毒蛇に咬まれて命をおとし、四人はおそろしい恐怖と苦痛をなめながら命をとりとめはしたものの、咬まれた手足の腫《は》れはひかなかった。ホウェイタ部族の処置はかまれた箇所に蛇の皮をはいで貼りつけ、そのうえから縛りあげると、あとはただ、苦しみもだえる者にコーランの何章かを読んで聞かせながら死を待つだけである。また対策としては、夜おそく外出するときには骨ばった足に部厚いダマスカスの短靴をはくことである。色は赤、青い房飾りが付いて、かかとには馬蹄が打ちつけてあった。
不気味なことに、ここの蛇には、夜、たぶん暖を求めてであろうが、毛布の上と下とを問わず人間のそばに寄りそうという習性があった。このことがわかると、起床はたいへんに注意を要する作業となった。最初に目を覚ました者が杖で仲間の周囲をたたいてまわり、邪魔ものはいなくなったと宣言してくれるまで、じっとしていなければならない。一行は五十人だったが、たぶん毎日二十匹は蛇を殺したと思う。ついに奴らはわれわれの神経をむしばみ、いちばん勇敢な戦士たちさえ、地面に足をおろすのを怖れるまでになった。まして、わたしもそのひとりだがあらゆる這うものにぞっとして身震いがとまらぬ連中にとっては、ひたすらシルハン滞在の終わる日が近からんことを祈るばかりだ。
そうでないのは、ファッラジとダウドだけだった。ふたりにとって、蛇騒動は新しいすてきなゲームとなった。朝から晩まで、蛇だと叫んでは、みんなに迷惑をかける。ふたりの想像力を刺戟するものなら、どんな無害な小枝であれ木の根であれ、蛇だと叫んでは力まかせに殴りつけるのである。とうとうわたしは、昼の小休止のとき、二度とふたたび大声で蛇だという叫びを口にしてはならぬと、ふたりにきびしく申しわたし、手まわり品を砂の上において、やっと平和な気分を味わう。
地面に坐って暮らしていると、なにしろとても起きあがって歩く気などおこりっこない時刻だから、自然に身体をうごかすのさえおっくうになる。いっぽう考えごとの種はつきないから、そのままたぶん一時間はたったと思う。ふと、例のいまいましいペアが互いにほくそ笑みながら小突きあっているのに気づく。ぼんやりふたりの視線を追っていくと、なんとかたわらの茂みの蔭で褐色の蛇がとぐろを巻き、わたしにむかって眼をひからせているではないか。すばやく跳びのくと、大声でアリを呼ぶ。アリは鞭を手にとびこんで、こやつの始末をつけてくれた。わたしはアリに、主人の命を危険にさらしてまで主人のことばを守るようなことが二度とないように、わたしに代わってふたりの少年に半ダースずつ鞭をくれて教育してくれないかと頼んだ。すると、わたしのうしろでうとうとしていたナシルが聞きつけて、うれしそうに、自分になり代わってあと六つずつ鞭をくれろとどなる。ネシブがナシルにならい、さらにゼキが、さらにまた、イブン・ドゥゲイシルがというふうに、ついには部隊の半数までが日ごろのうらみを晴らすことを求めて騒ぎたてた。さすがの悪童どもも、どう弁解しても部隊のどの男の鞭も棒もまぬがれることはむずかしいのを見て取って、すっかり途方にくれてしまう。けれども、わたしが口をきいて罰を軽くしてやることになり、一同は鞭のかわりにふたりに人間失格を宣言して、女たちの下働きにつけ、宿営地の薪集めや水くみにあたらせることにした。このため、ふたりの少年は、アブ・タルフェイヤ滞在中の二日間を、面目まるつぶれの姿で働くことになる。
ここでも、最初の日に二度、二日目に二度、もてなしを受けた。これにはいちはやくネシブが音《ね》をあげ、病気を口実にしてナシルのテントに難を避け、ありがた涙にくれながら乾パンをかじった。ゼキは行軍中から体調をくずしていたが、ホウェイタ部族の生焼き肉と脂っこい米飯に挑戦して、第一回目でたちまちダウンしてしまう。枕を並べてテントに横たわり、息もたえだえにおじけをふるって赤痢にかかったと言いだすしまつ。ナシルの胃袋は部族の風習に長い経験をつんでいて、このテストにりっぱに耐えた。賓客としての名誉をまもるためにすべての招待にこたえる責任はナシルの両肩にかかった。そこで名誉に花をそえるために、ナシルはいつも、わたしに同行を強制した。だから、われわれふたりのリーダーが毎日こちらのキャンプを代表することになり、いつも腹をすかしているアゲイル部族と、みごとにつりあいをたもつことになった。もちろん、メニューに変化はない。が、招待してくれた側の水晶にも似た倖せそうなようすを見ていると、じゅうぶん酬われた気分になる。その水晶を打ち砕くことは、まさしく犯罪にほかなるまい。
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行軍二日にして、アウダに再会する。ヌリ・シャッランの派遣したルアッラ騎兵隊が護衛にあたっている。これは、ヌリが支援を約束したことを意味している。司令部にあてたヌリ所有の大テントに地方部族の使者が続々と訪れ、フェイサルとアラブ独立運動への忠誠を誓う。いまやアカバ襲撃の準備はすべてととのった。
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ウェジを出て、すでに五週間になる。持参した金もほとんど使い果たし、ホウェイタ部族の羊もすべて喰いつくした。これまで乗ってきたラクダはどれもたっぷり休養をとらせたり、新しいラクダと交換してある。われわれの出発の妨げとなる条件は何ひとつない。いよいよ冒険も近いという感じは新鮮で、なんにたいしても心なごむ思いがする。アウダがさらに羊肉《マトン》を仕入れて別れの宴をひらく。かずかずのもてなしのなかでも最大の宴会が、進軍の前夜、アウダの大テントでもよおされた。出席者は何百という数にのぼり、大皿に山盛りの料理が運びこまれるやいなやたちまち平らげられて、調理場と宴席のあいだを五回も往復する。
日が沈む。すばらしい夕映えだ。宴会も終わって、全員がテントを出、星空のもと、ちらちらと燃えるかまどの火にかけたコーヒーをかこんで、輪になって坐り、アウダをはじめ何人かが話をするのに耳を傾ける。話が途切れたとき、わたしは何気なく言った――乳の出るラクダをもらったお礼を言おうとして、昼間、モハメッド・エル・デイランのテントを訊ねたのだが、姿が見えなかった、と。とたんにアウダが歓声をあげ、みんなが彼の顔を見つめるまでつづける。それから、しいんと静まりかえって、みんな、アウダから冗談が聞けるかもしれないと耳をすました。アウダはコーヒーの擂鉢《すりばち》のそばに陰気な顔をしてうずくまっているモハメッドを指さし、持ち前の大声で言う。「ほう! なんでモハメッドが、この十五日間、自分のテントで眠らなんだか、このわしが教えてやろう」みんなはよろこんでくすくすと笑い、話し声もぴたりと止んだ。全員が地べたにうつぶせに寝て、両手にあごを埋め、おそらくは二十回も聞いたことのある物語のやま場を聞きもらすまいと待ちかまえる。料理をしていた女たち、アウダの三人の妻、ザアルの妻、そしてモハメッドの妻たちの何人かまでが、しきりの垂れ幕のすぐそばまでやってきた。頭に荷物をのせて運ぶ習慣から身についた、両脚を開き気味に、下腹部を突き出し、大きく腰を振る歩き方で。女たちも聴き手にくわわるまで待って、ようやくアウダは口を開く、――モハメッドがウェジの市場で、高価な真珠の首飾りを買った。みんながそれを見ておった。それなのに、モハメッドはまだ、どの妻にもこの首飾りをやっていない。そのせいで妻たちはみんな仲違いをしてしまった。もっとも、誰もモハメッドと寝ようとしなくなったところだけはいっしょだがね、と。
この話は、言うまでもなく、根も葉もない作りごとである――アウダの悪魔ばりの冗談は、叛乱に刺激されて冴えわたる。この二週間というもの、次から次へとホウェイタ部族に招かれて引っぱりまわされ、誰知らぬものとてなくなった不幸なモハメッドは、神に慈悲をもとめ、わたしにアウダがうそをついている証人になってくれともとめる。わたしは重々しく咳ばらいをする。アウダは静かにと一同を制止、わたしに自分の話を裏づけてくれと頼みこんだ。「慈悲ぶかく心優しいアッラーの御名にかけて、ウェジに行ったのは六人であります」わたしは物語の様式にのっとり、序のことばからはじめる。「アウダ、モハメッド、ザアル、ガシム・エル・シムト、ムファッディ、それにこの哀れな男。ある日のこと、夜明け前にアウダが申しました。『市場を襲撃しよう』と。みんなが答えました。『アッラーの御名にかけて』と。そこで、われわれは出発したのであります。アウダのいでたちは白の長衣に赤の頭被、足ごしらえは皮を継ぎはぎしたあのカシム・サンダル。モハメッドは例の『七王者』の絹の上衣ですが、足もとははだし。ザアル――おお、ザアルのいでたちは忘れました。ガシムは木綿の長衣、ムファッディは青い縞の長衣に刺繍のある頭被。やつがれはいまごらんのとおりのいでたちであります」
わたしがひと息いれても、驚きのあまり、誰ひとり口をきくものとてない。わたしの語り口はアウダの叙事詩的な語り口の徹底したパロディだった。しかも、アウダの手ぶりや、朗々たる音声や、ポイントのない話のなかのポイント(あるいはアウダがポイントと考えるところ)を強調するために声を上げ下げさせる口調までまねしたのである。ホウェイタ部族は死んだようにものも言わず、身じろぎもせずに寝そべっていた。汗でこわばったシャツのなかで、うれしさのあまり身をよじりながら、喰い入るようにアウダを見つめている。ひとりのこらずオリジナルがなにか、はっきりわかったからで、またパロディという手口は彼らにとって、またアウダ自身にとって、まったく新しい経験だったからである。コーヒーの接待をとりしきるムファッディは、殺人を犯して逃走中のシャンマルの亡命者だが、自分自身も登場人物であるこの話にすっかり注意をうばわれ、火に新しい粗朶をくべるのまで忘れるしまつだった。
わたしは宿営地から出発するもようを語る。一つ一つのテントを描写しながら。村まで進むさまを語るときには、行きかうあらゆるラクダや馬を、また行きずりの人々すべてを描写する。そして尾根にかかった。
「牧草一本生えていない禿山ばかり。アッラーにかけて、この土地は不毛でありました。われわれは進みました。煙草一本くゆらすほどの時がすぎると、われわれはなにか物音を聞いたのであります。アウダが立ちどまって申しました。『おい、みんな、なにか聞こえるぞ』するとモハメッドが立ちどまって申しました。『おい、みんな、なにか聞こえるぞ』するとザアルが申しました。『アッラーにかけて、あんたの言うとおりだ』と。そこで、われわれは立ちどまり、耳をすまします。なにも聞こえません。哀れな男が申しました。『アッラーにかけて、なにも聞こえないぞ』するとザアルが申しました。『アッラーにかけて、なにも聞こえないぞ』するとモハメッドが申しました。『アッラーにかけて、なにも聞こえないぞ』するとアウダが申しました。『アッラーにかけて、あんたの言うとおりだ』と。
そこでわれわれは進みに進みました。大地には草一本もなく、物音ひとついたしません。すると右手から男がひとりやってきます。黒人で、ロバに乗っておりました。ロバは鼠いろで、両耳が黒く、脚も一本だけは黒くて、肩にはこんな焼き印があり(と、空に走り書きして)、尻尾をふって歩いております。アウダがこれを見て申しました。『アッラーにかけて、こいつはロバだ』するとモハメッドが申しました。『アッラーの御名にかけて、こいつはロバと奴隷だ』と。そしてわれわれは進みました。すると尾根があり、それほど大きな尾根ではないけれども、ここからむこうに見える|なんとかいうもの《リル・ビリイエ・エル・ホク》までくらいの大きさはありました。そこでわれわれは尾根まで進みました。なにもなかった。この土地にはなにひとつない――なにもない、なにも。
そこでわれわれは進みました。すると『なんとかいうもの』のむこうに、そこからここくらい離れて『そこにあるもの』があって、その先にまた尾根があります。そこでわれわれはこの尾根まで行き、尾根をのぼっていきましたが――なにひとつなかった。この土地には、どこにも、なにもないのです。われわれが尾根を登り、尾根の頂まで来て、この尾根のてっぺんの端まで行ったとき、アッラーにかけて、ほかならぬアッラーにかけて、ほかならぬアッラーの御名にかけて、朝日がわれわれの上に昇ってきたのであります」
ここでパロディの上演は終わった。この日の出の情景は、誰もが二十回も聞かされたもので、アウダのすばらしい龍頭蛇尾の物語はここで終わるのがつねであった。激情を積み重ねる一連のことばを息づまる興奮とともにいくどもくりかえすことによって、アウダは何時間も襲撃物語のスリルを保ちつづけるのだが、けっきょくは何事も起こらない。しかし本筋をはずれた枝葉の部分は思いきって誇張されて、いかにもアウダにふさわしい話となる。ところが、この場にいる多くが同行したウェジの市場への散歩の物語までが、アウダと同じ荘重な語り口で話されるのを聞いたわけだから、円座のホウェイタ部族は波のように身体を揺すって笑いどよめく。
当のアウダが、いちばん大声で、いつまでも笑いつづけた。自分がからかわれるのが大好きだったからでもあり、わたしの叙事詩風物語のしまりのなさが、この語り口を本当に使いこなせるのは自分だけだという確信を与えたからでもあった。アウダはモハメッドを抱擁し、首飾りの件は作り話だと白状する。喜んだモハメッドは、キャンプの全員を、明日、アカバ急襲に出撃する一時間前に、名誉を取り戻した自分のテントの朝食に招待した。メニューは、モハメッドの妻たちのつくる、ラクダの赤ん坊の酸敗ミルク煮――料理の名手による伝説的な料理である。
一九一七年六月十九日午前十一時、われわれは出撃した。先頭はナシル、うちまたがるはガザラ号――ドームのようなこぶと巨大な胸をもつ、古代の船を思わせるラクダである。これにつぐラクダより優に一フィートは高くぬきんでて、しかも均斉は完璧、闊歩するさまは駝鳥さながら、まことに詩にうたわれるにふさわしい逸物だった。ホウェイタ部族のラクダのうち、もっとも高貴でもっとも血統が良く、のちのちまで語り草となる九頭のラクダの一頭である。その横がアウダ。そしてわたしも買ったばかりの競走用ラクダ牝駝鳥《ナアマ》号にまたがり、このふたりと威容をきそった。わたしのあとにはアゲイル部族の従者たちが無骨なモハメッドと轡《くつわ》を並べてつづく。
いま、われわれは総勢五百余騎。屈強で自信にあふれる北方部族の陽気な一団が、砂漠のさなかで荒々しく羚羊《かもしか》を追いまわすのを見ていると、一瞬、われわれの冒険の成否にかんする悲観的な見方はすべて消えうせる思いだった。今夜は米の飯がよかろうということになって、アブタイ氏族の主だった連中を呼んでいっしょに食事をする。そのあと、コーヒーを湧かした残り火がこの北方地方の高地の夜の冷気のなかで快く赤々と燃えるのを前に、われわれは思い思いに絨緞に座って、あれこれと遠い思いを、とりとめもなく話し合った。
ナシルがわたしの双眼鏡を手に仰向けになって星の研究をはじめ、大声で一団一団と星の数をかぞえあげる。肉眼では気づかなかった小さな星を見つけるたびに、驚きの叫びをあげながら。アウダが話題を望遠鏡にむける。話は大望遠鏡のことになり、この三百年のあいだに人類はどんなに大きな進歩をしたかに移る。最初の試作品から、いまはテントほども長い望遠鏡を作りあげ、それによって何千もの未知の星々を発見したこと。「で、その星だがね――いったいなんなんだい?」そこから、話題は、想像を絶する大きさをもち、想像を絶する彼方にある、無数の太陽のむこうの無数の太陽のことに転じる。「そのことがわかって、さて、どうするんだね?」モハメッドがたずねる。「その先をつづけるのさ。たくさんの学者とひとにぎりの天才が力を合わせて、いまよりもっと強力な望遠鏡をつくるだろうな。いまのがガリレオのよりはるかに強力なようにね。なお何百人もの天文学者が、いまはまだ知られていない星々をなお何千と見つけて、ひとつひとつ数えあげ、天体図に書きこみ、それぞれに名前を付けるだろうよ。全部の星がわかったとき、天には夜の部分がなくなるわけだ」
「なんだって西洋の奴らは、いつも全部をほしがるんだね?」アウダがいらだって言った。「おれたちの星はわずかだが、そのうしろに神が、おれたちには見える。ところが、あんたらの何百万もの星のうしろには、神なんかいやせんじゃないか」「僕らは世界の終わるところを知りたいんだよ、アウダ」「でも、そいつは神の終わりになりそうだな」ザアルが文句をつける。なかばむっとなって。モハメッドは自分の話題に固執する。「そういう大きな世界には人間がいるのかい?」「神のみぞ知る、さ」「それに、そこにはそれぞれ預言者がいて、天国も地獄もあるのかい?」アウダがモハメッドをさえぎって言った。「若いの、わしらはわしらの土地を知っとる。わしらのラクダも、わしらの女どももな。それ以上のことや、恩寵のことは、神に任せておけばいい。もし、智慧の行き着く先が、星にまた星を加えることなら、わしらは無知でけっこうだよ」それから、アウダは金の話を持ち出し、みんなの気をそらしてしまった。みんながいっせいにがやがやしゃべりはじめる。あとで、アウダはわたしにこっそりとささやいた――おれがアカバを陥したら、おれのために、フェイサルからりっぱな贈物をせしめてくれよ、と。
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マアンの南で鉄道を越えると、アラブ軍は、丘陵地帯をぬってアカバにいたる道筋をおさえる要衝の村、アバ・エル・リッサンの近くのトルコ軍要塞を占領する。そのあと、トルコ軍の強力な援軍がアバ・エル・リッサンに現れ、村の外に宿営を張ったという情報がとどく。
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この情報にふるいたち、われわれはただちに行動に移った。すぐさま荷物をラクダの背にふりわけ、シリア大地のこちらの端にあたる起伏の多い丘陵地帯にむかって出発する。焼きたてのパンは手に持ったままで。だからパンをほうばると、それには峡谷の底をよぎる大部隊のたてる埃《ほこり》の味と、斜面をいちめんにおおうニガヨモギの異様にするどい移り香がまじった。長い夏の日々のあとの丘陵地帯の風のない夕べには、すべての物がきわめて強烈に感覚に訴えかけてくる。そして、われわれのように巨大な縦隊を組んで行進するときには、先頭のラクダどもが埃をかぶった芳香のある灌木の枝々を蹴りあげるので、その香りの粒子が大気に漂い、後続部隊の道筋を匂やかにつつむのだった。
斜面はニガヨモギのするどい匂いで、すがすがしいが、低地にはいるとあふれんばかりに生い茂り、強烈な匂いにみちあふれて、重苦しいくらいだ。この夜、われわれは畑を通り抜けたのかもしれない。あの斜面も、あるいは、見えないけれども花々がつらなる堤の一部だったのかもしれぬ。この夜、物音もまたすがすがしく澄んでいた。はるかな先頭でアウダが朗々と唱いはじめ、節々で兵士が唱和する。出陣する軍勢の、偉大さへの共感をこめて。
われわれは夜もすがら行軍をつづけ、夜明けにはすでにバトラとアバ・エル・リッサンの間の丘陵地帯の頂上をきわめ、下りにさしかかっていた。西にむかってグウェイラ平原の緑と黄金《こがね》いろのすばらしい眺望がひらけ、そのむこうに赤茶けた山脈がつらなって、アカバと海を隠している。ドゥマニエ部族の長《おさ》ガシム・ドゥメイクが切迫した面持ちでわれわれを待ちうけている。従う部族民は唇を固く結び、緊張に蒼ざめた顔には、転々と昨夜の戦闘の血痕がとびちっていた。アウダと、つづいてナシルと、心のこもった挨拶をかわす。われわれは至急、作戦を練り、手配のために四方に散った。この敵の大部隊が進路を扼《やく》しているかぎり、われわれのアカバ進撃はありえない。この敵を排除しないかぎり、われわれの二カ月にわたる艱難辛苦は、その最初の果実さえ生み出すことなく挫折してしまうだろう。
幸運にも敵の拙劣な手配りのおかげで、われわれは労せずして有利な位置を占めることができた。敵が谷間で眠っているあいだに、味方は気づかれることなく敵を遠巻きにして、周囲の丘陵の頂上に陣を張りめぐらしたのである。斜面の下や水辺の岩の上に位置する敵を確実に狙撃しはじめる。敵を刺戟し、谷間からでて山を登り、こちらに突撃をかけてこさせるのがねらいだった。
射ち合いは終日つづいた。ものすごい暑さだった――アラビアでもかつて経験したことがないくらい暑い。しかも、神経をはりつめて、しじゅう動きまわるために、暑さはいっそう耐えがたかった。屈強な部族の戦士のなかにさえ、残酷な日射しに倒れ、日蔭で体力を回復するために、岩かげに這いこむかほうり込まれる者がでたくらいである。数の不足を動きまわることでおぎなおうと、われわれは丘を駈けのぼり馳《は》せくだりながら、いつも丘陵の長いつらなりを見渡して、あちこちのトルコ軍の攻撃を迎えうつ新しい地点をさがしていた。丘の傾斜はけわしく、すぐ息が切れ、草は走りぬけようとするくるぶしに小さな手のようにまつわりついて引き戻す。尾根には石灰岩の鋭い岩肌が露出していて足を傷つけ、日暮れにはまだ遠いのに、早くも元気いっぱいに走りまわる連中は、一足ごとに大地に赤錆《あかさび》いろの足跡をのこすしまつだった。
小銃は太陽と射撃のために火のようになり、両の掌を焼く。そのため、われわれは射撃の回数をへらすしかなくなり、一発ごとによく考えて、確実に命中させるために、たいへんな苦痛に耐えた。的を狙うために腹這いになる岩も燃えるようで、胸と両腕を焦がし、あとでそこから皮膚がぼろぼろとはげおちたくらいである。が、いまのところ、この痛みは喉の渇きをあおる。ところがその水さえほとんどなかった。バトラから全員にたっぷり水を携行させるゆとりがなかったからだ。となれば、全員で飲めないのなら、誰も飲むべきではないだろう。
われわれは、それでも、敵のことを考えて自分を慰めた――閉ざされた谷間はこちらの風通しのいい丘よりも暑いだろうし、なまっちろいトルコ人には熱い気候はもっとこたえていることだろう、と。そこで、われわれは奴らに喰いついて離れず、やすやすとは移動も集結も、こちらにたいして攻撃に出ることも許さなかった。敵の反撃もまったく効果がない。こちらはすばやく、むやみに動きまわったから、小銃の的にはならない。それに、こちらにめがけて打ち上げる小山砲もお笑いぐさで、砲弾は頭上をこえ、われわれの背後で炸裂するばかり――とはいえ、むろん窪地にいる敵軍からではこちらはろくに見えなかったはずで、こちらのたてこもる丘の頂を狙って撃ったにしては、かなり近い着弾だった。
正午をまわったとたん、私は日射病にやられて――それとも日射病にやられたような気分になって――なにもかもすっかりいやになり、もうどうにでもなれと、窪みに這いこんでしまった。泥の小さな穴に、わずかながら泥水がたまっている。少しでも口をしめそうと、泥水を袖で濾《こ》してすすった。ナシルもそばにやってくる。傷ついたけもののようにあえぎながら、ひびわれて血のしたたる唇を苦痛に引きつらせて。そこへ親愛なるアウダが力づよい足どりで姿を現す。血走った眼を見すえ、締まった顔を興奮にふるわせながら。
アウダはわたしたちふたりが窪地にのびているのを見ると、にがにがしげに嘲笑をうかべ、両脚をひろげて山かげに涼をもとめながら、私に荒々しくどなった。「さあ、ホウェイタはどんなか言ってみろ! しゃべるばかりで仕事はやらんと言いおったな!」「アッラーにかけて、そのとおりじゃないか」私は吐き捨てるように言いかえす。誰にたいしても、自分自身をもふくめて、すっかり腹を立てていたので。「むやみに撃ってはいるが、めったに当っとらんぞ」アウダは怒りのためにほとんど蒼ざめ、全身をふるわせながら、頭被を引きむしると、私のそばの地面にたたきつける。と、狂ったように丘の頂めがけて駆けもどりながら、よくとおる声をふりしぼり、怖ろしい叫びをあげて部下を呼び集めた。
部族がアウダのもとに集結する。そして一瞬ののちには、さっと散って、丘を駆け下りていった。戦況が悪化しはじめたのか不安になって、私は必死の思いで、丘の上にただひとり仁王立ちになって敵をにらみつけているアウダのところまでよじのぼった。だが、アウダはただ、こう答えるばかりだった。「この老人の戦いぶりを見たければ、ラクダに乗るんだな」と。ナシルも自分のラクダを呼んで轡《くつわ》をならべる。
アラブ軍はわれわれの前を通って、小高い丘の頂の手前にあるわずかにくぼんだ場所に入っていく。この丘の向こうの斜面は、アバ・エル・リッサンの親谷の泉の下手あたりに、まっすぐに下っているはずである。わが軍のラクダ部隊四百人のすべてがひしめきあっているが、かろうじて敵の視野にははいっていない。われわれは先頭にラクダを進めて、そこにいるシムト部族にたずねた――これはどうしたことなんだ、それに、騎兵隊はどこにいる、と。
あいては尾根ごしに上手《かみて》の隣の渓谷を指さして答える。「アウダといっしょに、あそこにいます」と――そのことばも終わらぬうちに、山のむこうでとつぜん喚声と銃声が湧き上がり、なだれうってつっぱしる。ラクダを狂ったように蹴りつづけて頂に出ると、わが五十人の騎兵隊が親谷に下る最後の斜面を、まるで暴走する馬の群れのように駆け下っていくのが見えた。全速力で走らせながら、鞍の上から射撃をつづけている。われわれの見ている前で二、三の者が落馬したが、残る全員は一団となって、めざましい速度で殺到した。トルコ軍の歩兵は、まさにマアンにむかって血路を開こうと崖下に集結していたところだが、薄暮のなかに浮き足だち、ついにこの突撃のまえに総崩れとなって、アウダの蹄《ひづめ》にかかるとあえなく潰走《かいそう》をはじめた。
ナシルがわたしのほうを向いて、血まみれの口で叫ぶ。「さあ行くぞ」と。狂ったようにラクダを突っぱしらせ、丘を越えて、逃げてゆく敵軍の先頭めがけてまっしぐらに斜面を駆けくだる。この斜面はラクダが走れないほど急ではないが、ものすごく加速がつき、手綱を引いても方向を変えさせることなど不可能なくらいの勾配はあった。それでもアラブの兵士たちは左右に展開して、トルコ軍のカーキ色めがけて弾丸を浴びせかける。トルコ軍は味方の後方にたいするアウダの怒り狂った突撃の恐怖にすっかり気を取られて、東側の斜面から殺到するまで、こちらには気づかなかった。したがって、われわれもまた、敵の不意をついて側面に襲いかかったことになる。時速三十マイルに近い乗用ラクダ部隊の突撃にたいして持ちこたえることなど不可能だった。
私のナアマ号はシェラリ部族から買った競走用ラクダだから、差し脚をのびのびと伸ばして怒濤のように斜面をくだり、すばらしい力を見せてたちまち仲間を引き離してしまう。トルコ軍の応戦はまばらで、大部分はただ悲鳴をあげて逃げまどうばかりである。敵の銃弾はほとんどなんの役にも立たない。突撃してくるラクダを倒すのは、よういなわざではないからだ。
私はすでに敵の先頭のなかにいて、撃ちまくっていた。こんなふうに突っ走るラクダの上から小銃を使えるのは手練れの戦士だけだから、もちろんピストルで。そのさなか、とつぜんナアマ号がつまずき、まるで木を倒すように、なんの抵抗もみせず、どさっと前のめりに倒れる。私はあっさり鞍から放り出され、もののみごとに空中遊泳をやってのけて、はるか彼方にどしんと叩きつけられてしまう。まるで、全身から、あらゆる力と感覚がぬけてしまったみたいだった。わたしはそこに横たわり、おとなしくトルコ軍の刃を待った。頭のなかでは、なかば忘れていた詩の一節が、こわれたレコードのように、くり返し聞こえている。なにかのリズムが、おそらく丘の斜面をとぶように降りていったラクダの伸びやかな差し脚のリズムが、わたしの記憶をよみがえらせたのだろう。
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神よ、汝《な》がために、われはなべて汝が花の魅惑をまぬがれ、ただ、この世の哀しきうばらを採りぬ。
それゆえに、わが足は傷つき、わが眼は滴る汗もてめしいたり。
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同時に、心のべつの部分では、人とラクダのあの奔流がわたしの上を流れさったあと、自分がどんなにぶざまに押しつぶされてしまっているだろうかとも考えていた。
長い時間が経ち、わたしの詩もとまってしまったのに、トルコ兵はひとりも現れず、ラクダのひづめはひとつとしてかすめもしない、耳から栓がとりのぞかれたような感じがあった。すぐそばでものすごい騒音が渦巻いている。上体をおこしてみると、戦闘はすでに終わったことがわかった。味方の兵士が一団になってラクダを駆りたて、最後の残敵に白刃をふるっている。わたしのラクダは、死体となってもわたしの背後に横たわり、突撃するラクダ部隊を、巌《いわお》のように、ふたつの流れに分割してくれていたのだった。それなのにナアマ号の後頭部には、わたしの発射した五発目の重い弾丸がめり込んでいた。
モハメッドがわたしの予備のラクダ、オベイド号を連れてきてくれる。ナシルも負傷したトルコ軍の指揮官を従えて戻ってきた。モハメッド・エル・デイランの怒りの刃から救ってやったのだという。この愚か者は降伏することを拒み、ピストル一挺で今日の戦いの頽勢をくつがえそうとしたのだった。
敵軍で逃れたものはごくわずかである。砲兵隊が一団となって退却したほかには、ジャジ部族の案内人とともに少数の騎兵と将校が脱出しただけだった。モハメッド・エル・デイランは逃げる敵を三マイルも追ってムレイガまで入ったが、そのあいだじゅう激しく相手を罵り、こう叫びつづけたという――この顔をよっく覚えておけ、おれを避けて、二度とこんな目にあわんですむようにな!
アウダがまことに颯爽と、徒歩でやってくる。両眼は戦闘に酔って生き生きと輝き、口からは支離滅裂なことばをものすごく早口でしゃべりちらしながら。「仕事だ、仕事だ、ことばなんぞどこにある……仕事だ、弾丸だ、これがアブ・タイだ……」そして、こわれた双眼鏡を、弾痕ののこる拳銃のホルスターを、敵の刃を受けてリボンさながらに裂けた剣の革鞘を、頭上にかざす。アウダは一斉射撃の的にされ、ラクダを倒されただけではなく、衣服に六カ所も弾が貫通した後があったにもかかわらず、無事であった。
のちの話になるが、アウダが絶対に秘密を守ることを誓わせたうえで打ち明けたところによれば、十三年まえに魔よけの絵模様のあるコーランを百二十ポンドで買ってからというもの、いちども手傷を負ったことがないという。まったくの話、死神はアウダに立ち向かうのを避けて、卑劣にも彼の兄弟や息子や仲間たちを殺す方にまわったとのこと。このコーランはグラスゴー翻刻本で、定価はわずか十八ペンスのしろものだが、アウダのすさまじい働きぶりを見ては、誰も彼の迷信を笑うことなどできなかった。
アウダはこの戦いに満悦しごくだった。なによりもまず、わたしを徹底的に打ちのめし、自分の部族のすばらしい働きぶりを証明することができたからである。モハメッドは激怒して、わたしたちを阿呆の二人組とまでののしった。わたしをアウダよりも悪党だと決めつけ、わたしがアウダを侮辱したことばは石を投げつけたにもひとしく、そのせいでアウダが愚行に走り、あやうく全員が命を落とすところだったというのである。けれども、この戦闘で味方の戦死者は二名にすぎなかった。ひとりの名はルエイリ、いまひとりはシェラリである。
もちろん、誰であれ、ただのひとりでも部下を失うことは、まことに遺憾だ。が、同時に、われわれにとっては時間もまた重要であった。とりわけマアン制圧の必要性は欠くべからざるものであって、これによって海とわれわれをへだてるトルコ軍のちっぽけな守備隊いくつかに衝撃を与えて降伏させることができるとあっては、わたしは甘んじて、ふたりよりはるかに多い犠牲であっても、堪え忍んだであろう。このような場合には、死もまたやむを得ないものであって、けっして高くつきすぎることはない。
このあいだじゅう、わがアラブ軍はトルコ兵から、トルコの輜重隊《しちようたい》から、トルコ軍の宿営地から、掠奪をほしいままにしていた。月がのぼるとまもなくアウダがやってきて、絶対に移動しなければならないと言う。これにはナシルもわたしも腹が立った。が、アウダは引っこまない。理由のひとつに迷信があった――新しい死者に囲まれているのがおそろしかったのである。またひとつに、トルコ軍が大挙して反撃してくる可能性をあげる。そしてまたひとつに、ここで疲れはてて眠っているところを、ホウェイタ部族をほかの部族が襲う可能性を数えあげる――親族を殺されたうらみをもつ氏族もいくつかあるし、ほかの氏族にしても、われわれに加勢しようとやって来たところ、真っ暗なのでわれわれをトルコ軍だと思いこんで盲滅法に銃を撃ち込んでしまったと言いわけできるじゃないか、と。そこでわれわれはしぶしぶ立ちあがり、哀れな捕虜たちをつついて整列させる。
アラブ人にとって、戦いに勝って凱旋するときに欠くベからざる条件のひとつに、敵の衣服をはぎとって身につける習慣がある。したがって、翌日、われわれは自軍が一夜にして、上半身だけトルコ軍に変身したのを見ることになった。全員がトルコ軍制服の上着を着用におよんでいたのである。この部隊は本国から直接派遣されただけに、補給は申しぶんなく、軍服も新品だったことはじじつだけれども。
死者は驚くほど美しく見えた。夜の光にやさしく照らされて、新しい象牙のようになめらかだった。軍服をはぎとられたトルコ兵は、その部分だけは肌が白いままで、アラブ兵とはくらべものにならないくらいであり、しかもみんな、じつに若かった。死者のまわりには包みこむように黒いニガヨモギが生い茂り、いまはしっとりと夜露にぬれて、葉末にきらめく月光はまるで海のしぶきのようだ。死骸はいかにもみじめに地面にほうり出されたふうで、少なくとも乱雑に折り重なってうずたかくなっている。きっとまっすぐに身体を伸ばすことができたら、死者たちもようやく安らかに憩えるだろう。そこでわたしはすべての死骸を、ひとつひとつきちんと並べなおしてやった。わたし自身、どうしようもなくものうくて、これらの静かな死者たちの仲間になりたかった。この谷のかみてで、掠奪品をなかに罵りあい、こういう場合の無限の苦闘と苦痛に耐えぬく敏捷さと体力を誇示しあっている、あの落ち着きのない、騒がしい、生臭い群衆の仲間になるのはいやだった。勝つも負けるも、いずれは死の手に捕らえられて、物語の幕を閉じることになるのだから。
ようやくわが小部隊は出発の準備を終え、のろのろと蛇行しながら丘陵をのぼり、そのむこうの窪地にはいって風を避けた。
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いまやアラブ軍とアカバのあいだに、トルコ軍の拠点はわずか三カ所を残すのみであった。第一の拠点グウェイラは、その土地のシェイクによって占領され、第二の拠点は一発の砲火もまじえることなく陥落した。が、第三の拠点の抵抗は頑強をきわめる。けれども、しだいにトルコ軍は自分たちの立場が絶望的であることを悟り、翌日には降伏することを約束した。
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夜明けに、四方八方で戦闘の火ぶたが切られた。丘陵地帯の部族が何百となく、降伏の協定を知らぬまま、夜のうちに味方に馳せ参じたためである。ナシルがとびだし、イブン・ドゥゲイシルのひきいるアゲイル部族軍を従えて、四列縦隊でどこからでも見える渓谷の河床へ降りていった。こちら側は銃撃をやめる。と、すぐさまトルコ側も砲火を収めた。将校にも兵士にももはや戦意はなく、食糧も底をつき、しかもこちら側の補給はたっぷりだと思いこんでいたからである。けっきょく、降伏は平静裡に完了した。
アラブ兵が掠奪になだれこんださい、わたしはグレイの制服を着た技師の姿に気づいた。赤いあごひげを生やし、青い目は茫然と見開いたままだ――ドイツ語で話しかけてみる。井戸掘り屋で、トルコ語はひとこともわからず、昨今の成行きには驚くばかりだったという。われわれの意図を説明してくれないかと頼むので、トルコ支配に叛旗をひるがえしたアラブ軍だと答える。すぐには納得できないようすだった。指導者が誰なのか知りたいというので、メッカのシェリフだと答える。やっぱりわたしもメッカへ送られることになるんでしょうな? いや、むしろエジプトでしょう。あいては砂糖の値段をたずね、「安くてふんだんにあるよ」と答えると、うれしそうな顔になった。
技師は所持品を失ったことについては哲学者ふうの諦念をしめしたが、井戸については残念がった。あと少しで完成するところで、自分の記念碑ともなるはずだったのに、と。技師は井戸までわたしを案内してくれたが、ポンプはまだ半分できただけであった。泥を運びあげるバケツを引っぱりつづけて、すばらしくうまい真水をたっぷり汲みあげ、喉の渇きをいやす。その後、われわれは吹きつのる砂嵐をついて、先を争って四マイルかなたのアカバへと馳せくだり、水しぶきをあげて海に躍りこんだ。七月六日。ウェジを出発して、ちょうど二カ月後のことである。
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五 巡礼鉄道分断作戦
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アカバ占領をもって、ヘジャズ戦争の幕はおりた。アラブ軍は正式に英軍のシリア侵攻を援助する任務を与えられる。エジプトへの旅の途中で、ロレンスはアレンビー将軍が総司令官に任命されたことを知る。このあと将軍と会見したロレンスは、すぐさまその人格と判断力にふかい尊敬の念をいだいた。アカバを基地として遊撃隊をくりだすアラブ軍は、やがて、パレスティナ戦線のアレンビー軍の事実上の右翼となって活躍する。
病の床でロレンスが展開させた鉄道襲撃戦略が実行にうつされることになった。狙いは、さまざまな個所で鉄道を切断することにあるが、ただし、トルコ軍を小アジアの基地から永久に孤立させるところまでは追いこまないことが肝要だった。重要な戦闘はすべてアカバの北方で行われるであろう。とすれば、トルコ軍の拠点を半身不随のまま残しておいたほうが、鉄道襲撃を撃退するためにより多くのトルコ軍が送り込まれることになり、その結果、シリア防衛に投入できる兵力はより少なくなるはずだからである。
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さまざまな目標のなかでも、いちばん有効でしかも接近がたやすいのは、マアン南方八十マイルの給水駅、ムドウワラらしい。ここで列車を転覆させておけば、敵も相当に手こずるだろう。
確実に列車を奪うためには、大砲と機関銃が必要です。それじゃ、まずストークス迫撃砲でどうだ? つぎはルイス軽機関銃かな? というわけで、エジプトの司令部はゼイトゥンの陸軍兵学校から有能な軍曹ふたりをえらんで、教官としてアカバに送り込んだ。このふたつの火器の使用法をアラブ軍部隊に教えこむためである。
ふたりの名前はたしかイェルズとブルックだったが、やがて各自の溺愛する武器にちなんで、誰もがルイスとストークスと呼ぶようになった。ルイスはオーストラリア人で、長身、やせぎす、筋肉質で柔らなか身ごなしは軍人らしさから遠い。迫力のある顔で、吊りあがった眉と猛禽類を思わせる鼻は、進んで危険にいどみ、何ごともたちどころにやってのける、いかにもオーストラリア人らしい特性をきわだたせている。ストークスのほうはずんぐりとしたイギリスの農民の出で、労働者ふう、口数も少なく、いつも命令に注意をはらい、ただちに従うタイプである。
ルイスはつぎつぎに注意を与え、生徒がうまくやってのけても、思いがけないことをしでかしても、破顔一笑する教官である。ストークスのほうは、実習が終わるまでけっして自分の意見を述べない。やおら無意識に帽子をかぶりなおすと、このつぎにはくりかえしてほしくない間違えの数々を根気よくていねいに説明する。ふたりともりっぱな教師だった。一カ月のうちに、共通のことばも通訳なしに教え子と親密になり、ともかくもかなり正確に受け持った火器の使用法を教えこんだのだから。これ以上は望むほうがむりだろう。
いよいよこの野心的な作戦にとりかかろうという段になって、ルイスから申し入れがあった――自分もストークスも、わたしの一行に参加したいというのである。思いがけない、魅力的な提案だった。ふたりが来てくれれば、トルコ軍守備隊の拠点を攻撃するさいでも、技術的にもひけをとらない自信がもてるだろう。それに、ふたりの軍曹は同行を切望しており、彼らのみごとな仕事ぶりにむくいないわけにはいくまい。それでも、わたしは警告した――この季節では、遠征はとても楽しい経験だなどと言えたものじゃないぞ、と。ルールがない。いったん内陸部に入ってしまえば、行軍、食事、戦闘、どれをとっても特別扱いはできなくなる。もし同行すれば、英国軍人としての生活条件も特権も失って、なにからなにまでアラブ兵とわかちあい(わかちあわないのは掠奪品だけだ!)、食事も規律もアラブ兵のやりかたに忠実に従ってもらうことになる。それに、わたしに万一のことがあれば、きみたちはアラブ語ができないのだから、微妙な立場におかれることになりかねないぞ。
オーストラリア人のルイスは、自分はまさにこういう風変わりな生き方をさがしもとめていたのだと答える。イギリス人ストークスは、われわれがやったことなら、自分にもできると思うとの返事。そこでわたしは、ふたりに自分の最良のラクダを(鞍袋を罐詰牛肉とビスケットではちきれんばかりにして)借すことにし、九月七日、いっしょに出発した。ワディ・イトゥムをさかのぼり、グウェイラにいるアウダのところで、襲撃に参加するホウェイタ部族をつのるためである。
グウェイラを出て、一路、ルンムをめざす。ベニ・アティイェ部族の土地の北側の水域である。あの感傷的なところのまったくないホウェイタ部族でさえ、ルンムは美しいと話してくれたことがあるくらいだから、この場所はあこがれの地でもあった。明日はいよいよルンムにはいる。行軍もまったく違ったものになるだろう――が、非常に早く、まだ星が輝いているうちに、同行していた控えめなハリシ部族のシェリフ、アイドに起こされてしまった。わたしの側に這いよって、ぞっとするような声でこう言うのである。「長《おさ》よ、わたしの眼がつぶれてしもうた」横にならせたとき、アイドがまるで悪寒にとらえられたようにぶるぶる震えているのがわかった。が、聞きだせたのは、夜中に目がさめてみると、何ひとつ見えず、ただ両眼が痛むばかりだったということだけである。燃える太陽の光が、アイドの網膜を焼ききったのだった。
日が昇ってまもなく、われわれはふたつの巨大な尖塔を思わせる砂岩のあいだを抜けて、目の前のドームを重ねたような丘陵地帯からなだらかに流れくだる、長い斜面のふもとに出る。斜面はタマリスクにおおわれていて、これが、ルンム渓谷のはじまりだという。左手を仰ぐと、岩壁が延々と、渓谷の中央部めがけて押しよせる千フィートもの波濤さながらにそびえたち、これに向きあって、右手には、嶮しい、赤みをおびた、峨々たる丘陵が、弧をえがいてつらなっている。斜面を登るラクダは、一歩ごとに柔らかなひこばえを踏みにじった。
のぼるにつれて、下生えは身を寄せあって茂みをつくり、葉郡《はむら》は緑をふかめて、明るい微妙なピンク色の砂地と趣向をこらしたみたいな対照を見せながら、いっそう鮮やかに眼にしみる。のぼり坂はしだいにゆるやかになり、ついに渓谷は、傾斜のある平原につづく。右手の丘陵はやがていっそう高さと嶮しさをまし、左手のまっすぐにそそりたつ一枚の巨大な赤い岩壁とみごとに釣り合いをたもつ。ふたつの壁のあいだはちぢまって、わずか二マイルのへだたりしかなくなってしまう。そのあとも徐々に高さをまし、ついに並行して走る胸壁は、おそらくともに頭上千フィートにまで達して大通りのように何マイルもつづくのだった。
岩壁は一枚の屏風のように切れ目なくつづくわけではなく、巨大なビルディングを思わせる岩塊に分かれて、大通りの両側にそびえている。幅五十フィートの深い谷間の径をはさんで連なる岩塊は、風雨にさらされて滑らかにみがきあげられ、巨大な張り出しや壁龕《へきがん》をそなえ、文様さながらの雷文や線刻で飾られている。絶壁の高みにうがたれた洞窟は円窓を思わせ、ふもとに近い洞穴は開いたドアのようだ。日影の壁面を何百フィートにもわたって流れ落ちる黒い汚れは、巨人がなにかをこぼした|しみ《ヽヽ》だろうか。断崖には垂直に溝が走る。粒状の岩の部分で、刻み込まれた柱列は二百フィートにも及ぶ落石の柱礎の上に屹立している。この礎石は、岩壁より色濃く硬質で、砂岩のように襞《ひだ》をつくらず、砕片がおのずから流動して水平にひろがり、岩壁そのものを支えているように見える。
岩塊の頂きはドームの連なりだ。岩肌ほど鮮やかな赤ではなく、むしろ灰色で、平べったい。そのために、この抗いがたい魅惑をもつ風景は、いっそうビザンチン建設を思いおこさせる。この行列行進の路は想像を絶する壮大さだ。アラブ全軍は、これだけの長さと幅を持つ谷間にすっぽりと呑みこまれてしまうだろうし、このふたつの壁のあいだには飛行中隊が隊形を組んだまま発着できるだろう。われわれのごく小さな一隊はしだいにみずからの存在を意識するようになり、ひっそり静まりかえる。この途方もなく巨大な山々を前にしては、われわれはあまりにも矮小《わいしょう》で、得意気に練り歩くことなど、恥ずかしくてとてもできたまねではなかった。
少年時の夢に現れる風景は、同じように壮大で静寂だ。われわれは記憶をふりかえって、この情景の原型をさがす。そのなかでは、すべての者がこのような岩壁のあいだを歩み、いまわれわれが前方はるかに見えるのに似た開かれた広場をめざす――この途は、そこでどうやら終わるらしい、と。このあともわれわれはしばしば内陸に軍を進めたが、そのたびにわたしは心の中で路をそれ、ルンムの夜を進み、また曙光に照り映える渓谷をくだって輝く平原をめざし、あるいはまた日没の谷間の道をのぼって、わたしがおずおずと予感したばかりでついに一度も行きついたことのない光あふれる広場をめざし――そのことによって麻痺しかかる感覚をとぎすました。幾度、わたしは言ったことだろう。「こんどこそハザイルの彼方に進んで、ルンムのすべてを知りつくそう」と。しかし、すべてを知るためには、ほんとうのところ、わたしはあまりにもルンムを愛しすぎていたのだった。
このルンム渓谷を後にしたのは、九月十六日の夜明けである。シェリフ・アイドは、盲目となったにもかかわらず、同行すると言い張ってきかない。銃は撃てないにしてもラクダに乗ることはできる。だから、もしアッラーのみ恵みさえあつければ、今度の冒険の成功の脚光をあびながら、フェイサルのもとを辞して故郷に帰ることができるだろう。そうなれば、残された何ひとつ見えない余生も、それほど悲しいものにはなるまいと言うのである。
五日後、われわれはムドウワラのすぐそば、鉄路から半マイルたらずの地点にいた。部隊を三十フィートの深さをもつ山あいにとどめ、数人が徒歩で線路まで偵察に行く。線路はわれわれの立つ高台を避けて、わずかに東側に迂回していた。高台のはしは線路より五十フィート高く、平坦で、山あいにむかって北を指している。
鉄道はたかい堤を走って窪地をわたる。堤には降水時の水はけのために、アーチのふたつある橋がかかっていた。ここなら爆薬をしかける場所として申しぶんあるまい。何しろ電気仕掛けで爆破をやるのは初めてのことだから、なにが起こるか、まったく見当がつかない。とはいえ、アーチの下に爆薬をしかければ、仕事はより確実になることだけはわかった。機関車をやれるかどうかは不明だが、少なくとも橋はふっとぶだろうし、そうなれば後続の客車が脱線することはまちがいないからだ。
ラクダどものところに戻って積荷をおろし、アラブ人が塩をとったために根もとがえぐれている岩のそばの安全な草原に放してやる。解放奴隷たちがストーク砲と砲弾を、ルイス機関銃を、爆薬と絶縁電線を、小型磁石発電機やさまざまな道具類を、決めた場所まで運んでいった。ふたりの教官が担当の教材を高台のうえに組み立てているあいだに、われわれは橋まで降りて、二本の鋼鉄の枕木のあいだに、五十ポンドの爆薬を隠しておく穴を掘った。別々に詰めてある薬品の栓の包装をはぎとり、混ぜ合わせ、太陽熱の力を借りてジェリー状の爆薬に仕立てて砂袋につめる。
これを埋めるのはひと仕事だった。堤防が丘で、しかも堤防と丘腹にはさまれた窪地には、風の運んだ砂の吹きだまりがあった。ここを横切ったのはわたしひとりで、ずいぶん足もとに注意したつもりだったが、やはりなめらかな砂のうえに大きな足跡をのこす羽目になった。そのうえ、線路から掘り起こした砂利も上着に包んで、何度も排水溝まで運び、ちょうど砂利でできている水路の床《ゆか》に、目立たないようにすてなければならない。
穴を掘り、爆薬を埋めるだけで、かれこれ二時間もかかってしまう。次がまた大仕事で、重い電線をほどいて爆薬の雷管と、電鍵を押して爆発させる予定の丘とを結ばなければならない。砂の表面は固くクラストしているから、電線を埋めるには、まずこれを割ることからはじめるしかない。この電線がまた、なかなか思うようになってはくれず、風紋のうえに途方もなく細長くて重たい蛇がのたくったような跡を刻みつけてしまう。しかもこちらを押さえれば、むこうのほうがひょいとはねあがるしまつ。とうとう大きな石を重しにしておさえこむしかなくなってしまったが、そのためには石まで埋めなければならず、砂のうえに残る痕跡はいっそう大きくなるばかりだった。
埋めたあとは、砂袋で固めねばならず、風紋のうえに転々と砂袋の跡が残るのを仕上げに上着で砂をあおぎたて、そっと掃いて、なめらかにならし、いかにも風のしわざのように見せかける。すべてが完了するまで五時間もかかった。が、出来栄えはみごとで、わたしだけでなく誰の目にも、どこに爆薬が埋めてあるのか、そこから二百ヤード離れた起爆地点まで二本の電線が、どういうふうに地下を走っているのか、見当がつかないまでになった。起爆地点のすぐうえの尾根には狙撃兵が配置につくはずである。
電線の長さは、ちょうどこの尾根から窪地までだった。この尾根の蔭で、二本の電線のはしを電気起爆装置に接続する。装置の場所としても、装置を押す人間の隠れ場所としても理想的だが、残念ながら橋への見通しがきかない。
しかし、この欠点は、橋と電気起爆装置の両方が見える五十ヤード前方の地点にひそんでいて合図を送り、誰かにハンドルを押してもらいさえすれば、カヴァーできる。フェイサルの奴隷のなかでいちばん優秀なサレムがこの光栄ある仕事を買って出て、みんなの喝采《かっさい》のうちに持ち場についた。午後の残りはサレムにどうやればいいか教えこむのについやしたが、針金をつながない起爆装置を使って、橋に機関車がさしかかったものと仮定してわたしが片手をあげると、サレムはもののみごとに、正確にハンドルをがちゃんと押せるようになった。
夜は静かに明けた。われわれは何時間も、物蔭ひとつない線路と、物音ひとつしない守備隊の宿営地とを見張ってすごした。ザアルとその従弟の足のわるいホウェイミルが絶えず気をつけてくれたおかげで、われわれはなんとか敵に見つからずにすんだ。といっても、これが容易なことではなかった。何しろベドウィン族ときたらまったく落ち着きがなく、十分とじっと坐っていることができないうえに、たえず身体のどこかを動かし、なにかをするか喋るかしていなければ気がすまないのだから。
どうやらトルコ軍もついにこちらに気づいたらしい。九時ころ、約四十名の一隊が南方ハッラト・アンナル付近の丘の頂にあるテントを出て、散開隊形で前進をはじめた。このまま手をこまねいていれば、一時間もしないうちに爆薬のところから撤退しなければならなくなるし、といって優勢な火器兵力を投入して反撃に出て敵を追いかえせば、鉄道のほうでも気づいて列車を止めてしまうだろう。絶体絶命の状況であったが、やがて打開策を試みることにきめる。三十名ばかりを割いて敵のパトロール隊を段階的に牽制《けんせい》しながら、あわよくば敵の進路をわずかにそらせて丘陵地帯に誘いこもうというのである。この策があたれば、われわれの主力の位置を知られることもなく、兵力も少なければ目的もはっきりしていないらしいと、敵に安心感を与えることができるだろう。
一、二時間は、事は思惑どおりに運んだ。銃声はしだいに間遠になり、遠ざかっていく。常設パトロール隊が南方から現われ、なんら怪しむ様子もなくわれわれのひそむ丘の前を通りすぎ、爆薬を埋めた地点もすぎて、こちらにまったく気がつかないままムドウワラにむかった。兵八名と屈強な伍長ひとりである。伍長は暑さに額の汗をぬぐった。すでに十一時をすぎて、実際、ひどく暑い。われわれの前をすぎて一、二マイルも行くと、行軍の疲れでたまらなくなったらしく、分隊を先導して長い排水溝の蔭に入る。排水溝のアーチの下は、冷たい水が東からゆっくりと流れており、彼らはそこの柔らな砂の上に寝ころぶと、水筒から水を飲み、煙草を吹かし、とうとう眠ってしまった。
正午になると新たな気がかりができた。わたしの強力な双眼鏡で見てみると、ムドウワラ駅から白人ばかりのトルコ兵が現われ、砂原をまっすぐにこちらにむかって進んでくる。ずいぶんゆっくりした歩き方で、大好きな昼寝の夢を失ったうらみのために、あきらかにいやいやながらだとは見てとれる。しかし、いかに最低の行軍ぶり、最低の士気ではあっても、ここまで到着するのに、よもや二時間とはかかるまい。
われわれは撤退の準備に荷物をまとめにかかった。爆薬と導線は残しておくことにきめる。ともかくもトルコ兵が気づかない場合だってないことはないのだから、また戻ってきて、この念入りな仕事を利用するチャンスもないとはいえないだろう。南方の援護部隊に伝令を出し、草を食べさせているラクダを隠してある例のえぐれた岩原の近くまで引き返して、こちらと合流することを命令する。
伝令の姿が見えなくなったと思ったとたん、見張りの叫び声があがった――ハッラト・アンマルから雲のように煙が立ち上っているというのである。ザアルとわたしは丘の斜面をかけのぼる。煙の形と量から判断して、まさしく列車が駅にとまっていることはまちがいなかった。丘越えにもっとよく見きわめようとしていると、とつぜん、煙がこちらに向かって動き出す。アラブ兵にむかって大声で、大至急持ち場に戻れと怒鳴る。彼らは砂も岩も獣のように跳びこえて、われがちに駆け戻った。ストークスとルイスは長靴だから、とても彼らのようには走れない。が、苦痛も赤痢も忘れて、りっぱに持ち場にたどり着いた。
機銃と砲のところから起爆装置のうしろを通って谷間の入り口にいたる懸崖の蔭に、狙撃兵が一列に長く銃をかまえる。そこから脱線した客車を狙って、まっすぐに百五十ヤードたらずの距離で弾丸を射ちこむはずだった。いっぽう、ストートス砲とルイス軽機関銃の射程は三百ヤード見当だろうか。アラブ兵がひとり、砲の背後の高みに突っ立って、われわれに列車のようすを大声で知らせる――これも必要な手配のひとつである。もし列車が部隊を乗せていて、われわれの尾根の後ろにでもおろそうものなら、こちらは一瞬の躊躇もなく踵《きびす》をかえし、交戦しながら谷間をさかのぼって、命からがら退却しなければならなくなるからだ。が、幸いにも列車は停まったりせず、薪炊きの機関車二両で出せる目いっぱいの速度で走りつづける。
列車は全速力で近づきながら、こちらが隠れていると報告があったらしい地点まで来ると、砂漠にむかって盲滅法に射撃をはじめた。轟音が近づいているのがはっきり聞こえる。わたしはサレムに合図するために橋のそばの小高いところに坐っていた。そしてサレムのほうは、起爆装置のまわりを膝頭で踊り狂いながら、興奮のあまり大声で、成功させたまえと必死に神に祈っている。
その瞬間、非常に巨大に見える機関車が、けたたましく汽笛を鳴らし、大地をゆるがせながら、カーヴを曲がって姿を現わす。後続の有蓋《ゆうがい》貨車は十輌、窓やドアから無数の銃口をのぞかせ、屋根の上まで小さな砂袋を積みあげて、トルコ兵がへっぴり腰でつかまりながら、こちらを狙っている。機関車が二両連結してある場合など考えたこともなかったので、とっさに二輌目の真下で爆発させることにきめる。二輌目をやっつければ、たとえ爆薬の効果がどんなに微弱だったにせよ、無傷のほうの機関車が連結をきって、そのまま貨車を押して引き返すことはできなくなるはずだから。
そこで、二輌目の機関車の前部主動輪が橋にさしかかった瞬間、わたしはサレムにむかって片手をあげた。とたんに怖るべき爆音が轟きわたり、縦横百フィートばかりもある真黒な砂塵と噴煙のほとばしる柱に覆われて、線路は何ひとつ見えなくなってしまう。黒煙のなかから者のぶつかって砕ける音が、引き裂かれた鋼鉄が、鉄塊が、鉄板がぶつかり合う長い大きな金属音が聞こえてくる。と、機関車の車輌がまるごとひとつ、噴煙のなかからとつぜん舞いあがって、青空をバックに黒々と浮かんで楽器のように鳴りながらわれわれの頭上を飛び、ゆっくりと、重々しく、背後の砂漠に落下する。さまざまな物が飛び散るのを別にすれば、しばらく、死のような沈黙がつづいた。人の叫び声ひとつ、銃声ひとつしない。やがて、いまや灰色に変わった爆発の噴煙が、線路からこちらに流れてきて、尾根をこえ、丘陵地帯に吸いこまれていった。
この静けさのなかを、わたしは南に向かって走り、軍曹たちと合流をはかる。サレムは小銃を取りあげると、黒煙にむかって突っ込んでいった。火器のところへ登りつかないうちに、窪地は生きかえり、銃声と白兵戦をめざして敵にむかって躍りかかるベドウィン族の戦士たちの褐色の姿でみたされる。たちまちのうちに事態はどう展開しているのか、わたしはあたりを見まわす。列車は動かなくなり、ばらばらになって線路沿いに立ち往生したまま。貨車の横腹は弾丸にふるえ、みるみる蜂の巣に変わり、いっぽうトルコ兵は向こう側のドアから転がり出て、堤防の蔭に身をかくそうと必死だった。
頭上で味方の機関銃が鳴り出す。わたしの眼のまえで、貨車の屋根に延々と銃をつらねるトルコ兵の列が、雨あられと降りそそぐ銃弾のまえに、まるで綿梱《わたこり》さながらころがり落ちて、たちまち一掃されてしまう。降りそそぐ弾丸は屋根にそってひと薙ぎし、厚板から木切れをはねとばして、ぱっと黄色い煙が立つ。有利な位置を占めた機関銃の効果は絶大だった。
ところが、ストークスとルイスのもとにたどりついたときには、戦況は次の局面にはいっていた。トルコ兵の生き残りが高さ十一フィートの堤防の蔭にまわり、車輌に身をかくしながら、砂が吹き寄せた斜面ごしに、わずか二十ヤードしか離れていないベドウィン兵に直射を浴びせている。線路のカーブの三日月型のなかにひそむ敵は、機関銃ではどうにもならない。が、ストークスが第一弾を迫撃砲にすべりこませる。数秒後、列車のむこうの砂漠で、轟然と炸裂する音が聞こえてきた。
ストークは軽く抑角調整ねじにふれる。と、第二弾は貨車をかすめてトルコ兵が隠れている橋の下の深い窪みに命中し、一瞬にして修羅の巷《ちまた》と化す。生き残った連中は周章狼狽、砂漠にむかってとびだすと、銃も装具も投げ棄てながらつっぱしる。いまこそルイス軽機関銃の見せ場だった。軍曹は情け容赦もなく掃射に掃射を重ね、ついに広大な砂原には|ごま《ヽヽ》をまいたように敵の死骸が散乱する。第二の機関銃を受け持っていたシェラリ部族の少年ムシャグラフは、戦闘が終わったと見るや、一声大声に叫ぶと機関銃をほうり出し、小銃をひっつかんで、脱兎のごとく高台を駆けくだる。まるで野獣のように客車をこじあけて掠奪をはじめた連中に仲間入りするためである。戦闘は十分とかからなかった。
双眼鏡で上り線を見ると、ムドウワラ警備隊は心もとなげに全速力で線路にむかって撤退して行く。どうやらけんめいに北方に遁走をつづける、列車から逃げ出した連中を接収するためらしい。南を見ると、味方の別働隊三十騎が、戦利品の分けまえにありつこうと、先をあらそってこちらにラクダを走らせてくるところだった。トルコ軍のパトロール隊は目の前の敵が引き上げていくのをみて、一斉射撃をくりかえしながら、怖ろしく用心深く追撃を開始する。このぶんなら、あきらかに三十分は余裕がある。が、それを過ぎれば挟み撃ちにあいかねない。
わたしは爆薬の効果のほどを確かめておこうと現場に駆けおりた。橋はあとかたもない。そのあとにできた裂け目に病人を満載した一輌目の貨車が落ち込み、その衝撃で三、四人を除く全員が絶命して、こわれたほうの端にうずたかく折り重なったまま血まみれになって死に、あるいは死に瀕している。そのなかのひとりでまだ息のあるものが、うわごとにチフスだと叫んでいる。そこでわたしは昇降口を閉ざして楔《くさび》で止め、そのまま、そこに置き去りにしてしまった。
後続の車輌も脱線、破壊しており、何輌かは車体が修理不能なまでにひんまがっていた。二輌目の機関車は、もはや、くすぶりつづける白っぽい鉄屑の山にすぎない。主動輪は吹き飛ばされ、火室の側面もいっしょに消えてしまった。機関手室も炭水車もずたずたになってねじ曲がり、橋桁の石の山にまじって転がっている。これでは二度と走れまい。先頭の機関車は、まだずいぶん原形をとどめている。完全に脱線して半分転覆し、機関手室もめちゃめちゃだが、蒸気は圧力をたもったままだし、駆動歯車はまったく無傷だった。
われわれの最大目的は機関車の破壊である。こんな場合のことを考えて、わたしは導火線と雷管をセットした綿火薬の箱を抱えてきていた。そこで外側の気筒のうえに、これをくくりつける。ボイラーの上の方がもっといいとは思ったけれど、蒸気がしゅうしゅうと音をたててるのを聞いていると、万一、大爆発が起きてはと心配になったのである。なにしろ蟻さながら掠奪品にむらがっている部下がいるのだから、ぎざぎざの破片をふくんだ爆風にひとなめされたら、とんでもないことになってしまう。どういってみたところで、トルコ兵がやってくるまえに掠奪をやめさせることなどできはしないのだから。そこでわたしは導火線に点火し、燃えつきる三十秒のあいだに掠奪者どもを多少後ろにさがらせる。それも容易なことではなかった。それから爆発が起き、気筒をこっぱみじんに吹きとばし、ついでに車軸も吹きとばしてくれた。このとき、わたしはこのていどの破壊で充分なものかどうか見当がつかずに悩んだのだが、あとで聞いたところでは、トルコ軍は機関車がとうてい使いものにならないと判断して、解体してしまったという。
谷間の光景は修羅そのものであった。アラブ兵はもう半狂乱で、頭被をかなぐりすて、半裸になって、めちゃくちゃに走りまわり、大声でわめき、空にむかって発砲し、互いに引っかくやら殴りあうやら。かと思えば貨車のドアを押し破って大きな包みをいくつもかつぎだしては、あちらへよろよろ、こちらへよろよろ。線路脇で包みを破いて中身をぶちまけ、要らないとなるとかたっぱしからぶちこわす。列車は難民や病人やユーフラテス河のボート乗り志願の連中やダマスカスへ帰る途中のトルコ軍将校の家族やらでごったがえしていた。
何十枚となく拡げられた絨緞、何ダースもの敷布団と花模様の掛布団、毛布の山もいくつか、あらゆる種類の衣類が男もの女ものを問わず散乱している。柱時計もあれば、料理用の鍋も、食物も、装飾品も、武器もある。線路の片側には三、四十名の女性がヒステリー状態で、ヴェールを投げ捨て、服を裂き、髪をかきむしって、狂ったように金切り声で泣き叫ぶ。アラブ兵は女たちには目もくれず、家財道具を拾い集めて、心ゆくまで掠奪のかぎりをつくす。ラクダはもはや共有財産同様であった。めいめいがとにかく手近にいるラクダをつかまえると、手あたりしだいに積めるだけ積みこんでは西側の空地に追いやり、すぐまた気に入った品物につかみかかるのだった。
わたしがどうやら暇そうなのを見てとると、女たちが殺到してきて、口々に助けてくれと泣きわめきながらすがりついた。わたしが、まもなく騒ぎもおさまるからと保証しても、とても離してくれない。やっと亭主どもが何人かかけつけて救い出してくれたと思ったのも束の間、女房どもを蹴りとばして、こんどはこいつらがわたしの足にしっかりとすがりつく。いますぐ殺されるのではないかと恐怖のあまり、文字どおり苦しみもだえながら。トルコ人ともあろうものが、これほどまでに打ちのめされているのを見ていると、胸がむかついてくる。はだしでは思うにまかせないながら、わたしは必死に彼らを蹴とばして、やっとの思いで身体をもぎはなした
ルイスとストークが救出に駆けつけてくれる。わたしはわたしで、ふたりのことが多少心配になっていたところだった。なにしろアラブ人ときたら、いったん正気を失ってしまうと、友人といえども敵とまちがえて襲いかねないのだから。わたし自身、三度までも、身をまもらなければならない羽目に陥った経験がある――わたしなど知らないふりをして、わたしの所持品をかっぱらおうとしたのだった。しかしながら、この軍曹たちの戦闘によごれたカーキ色の軍服には、あまり食指が動かなかったらしい。ルイスは線路の東側まで行って自分の倒した死体を三十ばかり数え、たまたま彼らの糧嚢にトルコ金貨とトロフィーが入っているのを見つけて帰った。ストークスはぶらぶらと壊れた橋を通って、自分の第二弾でばらばらになったトルコ兵二十名ばかりの死体を見ると、あわてて引き返してしまった。
アフメドが両腕いっぱいに掠奪品をかかえてやってくると、後ろから二輛目に乗っている老婦人がわたしに会いたいと言っている、と絶叫する――アラブ人は勝利の興奮のさなかでは、絶対にふつうに話すことができないのである。わたしはすぐさま空手でアフメドを追い立てるように、わたしのラクダと荷駄用のラクダ何頭かをとりに行かせる。火器を運ぶためである。いまや敵の銃声がはっきり聞きとれるほど近づいているのに、アラブ兵のほうは掠奪品に満足のていで、ひとりひとり、重荷によろめくラクダを追いながら、安全な丘陵地帯にむかって逃亡しはじめている。火器を最後までほうっておいたのがまずかった。だが、最初の試みが圧倒的な成功を収め、それに続く混乱のなかで、われわれの判断力も麻痺していたらしい。
客車の片隅にひどく震えている老齢のアラブの貴婦人が坐っていて、これはいったいどういうわけかと、わたしにたずねる。説明すると、自分はフェイサルの古い友人であり、自宅に泊めたこともある者だが、身体がすっかり弱ってしまって旅はもう無理だから、ここで死を待つしかあるまいと言う。誰も危害を加える者はありますまい、トルコ軍はすぐそこまできていて、列車の復旧につとめるでしょうから、とわたしは答える。貴婦人は納得すると、あらためてわたしに、黒人の老女を見つけて水をもってこさせてくれと頼んだ。先頭の機関車の炭水車からほとばしる水でルイスが渇きをいやしているのを見つけ、聞いてみると甘露の味だという。奴隷女にもコップ一杯の水を汲んで、女主人のところまで連れて行き、たいそう感謝された。何カ月ものちに、ダマスカスからひそかに手紙と贈り物がわたしの手もとに届けられた。奇妙な出会いの記念にと、しゃれたバルキ産の小絨緞がはいっている。贈り主はメディナのジェッラル・エル・レルの息女、レイディ・アイェシャだった。
アフメドはラクダを連れてくる気配もない。わたしの部下たちはすべて欲に目がくらんで、ベドウィン族とともに砂漠に散ってしまった。残骸のそばに残っているのは軍曹たちとわたしの三人きりである。いまは奇妙に物音ひとつ聞こえてこない。いよいよ火器も放棄して逃げだすしかあるまいと観念しかかったまさにそのとき、二頭のラクダが駆け戻ってくるのが見えた。ザアルとホウェイミルがわたしのいないことに気づいて、探しに帰ってくれたのである。
われわれは唯一の獲物である絶縁電線を巻きとっている最中だった。ザアルはラクダから跳び降りると、わたしにゆずって乗せてくれるという。しかし、そのかわりに電線と起爆装置をつんだ。ザアルはすかさず声を立てて笑い出し、列車には金銀が山ほどあるのに、なんておかしなものを掠奪したんだとひやかす。ホウェイミルはひざの古傷のためにひどい跛《びっこ》で歩くことさえできなかったが、ラクダをひざまずかせて、ルイス軽機関銃を鋏のように台尻と台尻を結んで、鞍のうしろによいしょと載っけた。まだ塹壕臼砲が残っている。が、どこかに消えていたストークスが、慣れない手つきで荷駄用のラクダの鼻面をとって姿を現わす。迷っていたのを見つけたのだという。われわれはいそいで臼砲を荷造りし、赤痢でまだ体調が充分でないストークスをルイス軽機関銃といっしょにラクダに乗せ、三頭のラクダをホウェイミルにゆだねて、できるだけ急いで引き揚げさせる。
この間にルイスとザアルは、さっきまで火器をそなつけてあった地点の背後にある、奥まって人目につかない窪地に、弾薬箱とガソリンと廃品で火を燃やし、そのまわりに機関銃の旋回筒や予備の小銃弾を積みあげておいて、てっぺんにおっかなびっくりで、ばらの臼砲弾を二、三発置く。それから、われわれはけんめいに走った。焔が無煙火薬や高性能爆薬のところまでのびると、轟音が何度も連続しておこった。何千発もの薬莢がつぎつぎに誘爆して、まるで何基もの機関銃がいっせいに射撃を開始したような音を立てる。おまけに砲弾はものすごい爆発音とともに砂塵と噴煙の太い柱をふきあげる。側面にまわりこもうとしていたトルコ軍は、この猛烈な防禦射撃に肝をつぶし、こちらは強力な火器をそなえて強力な防禦陣を敷いているものと思いこんでしまったらしい。突っ込んでくるのをやめて物蔭にかくれ、注意深くにせの陣地を包囲しはじめるとともに、型どおりに斥候をはなつ。そのあいだにこちらは、息せききって尾根のはざまの隠れ場所に飛び込んでしまった。
この事件は、まあ、ハッピー・エンドだろう。わたしのラクダと荷物がなくなったくらいですめば、喜んでいい。軽傷者もわずか三名にすぎない。そのうち、フェイサルの奴隷のひとりが、サレムの姿が見えないとのたまう。われわれは全員を呼び集めて問いただした。ついにアラブ兵のひとりが、機関車のすぐむこうのところで、うたれて倒れているサレムを見たと答える。これを聞いて、ルイスも、味方のひとりだとは知らなかったが、その場所で重傷を負って地面に横たわっていた黒人を見たことを思い出した。わたしはだれもそのことを言ってくれなかったことに腹を立てた。ホウェイタ部族の半数はこのことを知ってたはずだからである。しかも、サレムはわたしの指揮下の人間だった。
わたしは後戻りしてサレムを探す志願者をつのった。ちょっと考えてザアルが賛成し、つづいてノワセラ部族の十二名が加わる。われわれは砂原をよぎり、線路をめざしてラクダを走らせた。最後から二番目の尾根に立ったとき、列車爆破の現場とそこにむらがるトルコ兵の群れを目撃する。百五十名ほどもいるにちがいない。どうあがいても望みはなかった。サレムはもう死んでいるだろう。トルコ軍はアラブ兵を捕虜にはせず、虐殺してしまうのがつねである。だからこそ、その苦痛を味わわなくてすむように、重傷者を撤退する土地にひとりぼっちで残していくしかない場合には、われわれの手でとどめをさしていたのだった。サレムはあきらめるしかなかった。
われわれは小分隊に分かれ、北をめざしてしゃにむに進んだ。勝利はつねにアラブ軍をダメにする。だから、われわれはもはや襲撃隊ではなくて、よたよたと荷物を運ぶ隊商にすぎなかった。それも、らくだの背骨が折れる寸前まで荷物をつみこみ、何年間もアラブの一族を豊かに暮らさせるだけの家財道具をたっぷりと運ぶ隊商にすぎなかった。
軍曹たちが、最初の私的な戦闘の記念に、剣を一振りずつ欲しいと言う。なにか見つからないかと隊列をさがして歩いていると、思いがけずフェイサルの解放奴隷の一行に出会った。しかも驚いたことに、彼らのひとりのラクダの尻に、革紐で騎手につながれ、血まみれで意識のない、あの行方不明になったサレムがいるではないか。
わたしはフェルハンに駆け寄り、どこでサレムを見つけたのかたずねる。フェルハンの答えはこうだ。ストークス砲の第一弾が射ち込まれたとき、サレムは機関車の向こうまで突進して、トルコ兵のひとりに背中をうたれたという。弾丸は背骨近くを貫通しているが、彼らの見るところ、致命傷ではない。列車を掠奪してしまうと、ホウェイタ部族はサレムから長衣も短剣も小銃も頭被もはぎとったらしい。解放奴隷のひとりミジュビルがサレムを見つけ、すぐさま自分のラクダにのせて戦場を離れ、われわれに知らせないままに家路についた。フェルハンは路上でミジュビルに追いついて、サレムを引きうけたとのことである。サレムはのちに完全に回復したけれども、わたしにたいしてはのちのちまでも、つねにかすかな怨みをいだきつづけた。わたしの部下であったとき、負傷したのに置き去りにされたせいである。わたしは信頼の掟に背いたのだった。
翌日の夕暮れ、われわれはなお壮麗な落日の色を残すルンムの大通りに入った。断崖は西空の雲と紅をきそい、巨大さにおいても横の連なりにおいても雲さながらに、大空を背にくっきりとそびえている。ふたたびわれわれは、ルンムがその静謐《せいひつ》の美によって、いかに興奮を静めてくれるかを味わう。このように圧倒的な壮大さのまえでは、人間はとるにたらぬ存在と化し、気楽な草原をこえてくるあいだじゅうわれわれをつつんでいた笑いの外套も、いつの間にかはぎとられていた。
二日後、アカバに着いた。栄光につつまれて入城し、貴重な品々を山積みにして、列車はわれわれのなすがままだったなどとほらをふく。アカバからふたりの軍曹は船でエジプトに急行した。カイロの司令部はこのふたりを忘れたわけではなく、帰還しなかったためにすっかりおかんむりだった。しかし、ふたりはこの件にたいする罰金なら、よろこんで払ってもよかったはずである。なにしろ独力で戦闘に勝ち、赤痢にかかり、ラクダの乳で命をつなぎ、ラクダを一日五十マイルも黙って乗りこなすすべを覚え――ついでにアレンビー将軍からも勲章をひとつずつせしめたことだから。
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六 潜行――ゲリラの現実
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遅くとも一九一七年十一月までに、アレンビー軍はガザ=ベエルシェバ間に布陣するトルコ軍にたいして総攻撃を開始する予定であった。トルコ軍をパレスティナから追い出して、ダマスカスへの道を開くためである。万一、英軍が撃退されれば、とたんにパレスティナ戦線のアラブ叛乱軍は危険にさらされることになる。トルコ軍はいっきょに殲滅《せんめつ》作戦に出るであろうから。
そこでロレンスは、アレンビー軍の側面援助のためにもっとも効果的な作戦として、デラア付近でヤルムク峡谷を渡る鉄道の鉄橋爆破を考える。これによってパレスティナ戦線のトルコ軍は、少なくともアレンビー軍が攻勢を展開する二週間のあいだ、ダマスカスとの連絡手段を断たれたことになり、したがって補給をうることもできなければ、退却もままならぬ状況に追いこまれてしまうからだ。
ロレンスはベドウィン族の小部隊とインド軍騎兵隊をひきいてアカバを進発する。アラブ軍のリーダーとしては、ナシルが不在だったために、ハリス氏族の若いシェリフ、アリ・イブン・エル・フセインが選ばれた。途中、バイルで遊牧民と言うよりは砂漠の盗賊にちかいベニ・サフル部族からゼブン氏族の族長ミフレらがくわわり、のちに有名な戦士ファハド、アドゥブの兄弟も参加する。さいごにセラヒン族からも兵をつのって、襲撃の手配はすべて終わった。
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アカバを発って十四日目、午後三時に、われわれはアズラクへの上り路にかかった。アリには初めての土地である。われわれはいたく興奮して石ころだらけの尾根を早駆けで登りながら、この地を愛したいにしえの牧人王たちの音楽的なひびきをもつ名前とともに、彼らの戦《いくさ》や歌や情熱について、はたまたさらにいにしえの、ここに守備隊となったローマ軍団の嘆きを語りあった。
やがて青の砦が、葉ずれの音をたてるナツメ椰子のうえにそびえる岩頭に姿を現わし、とつぜん視野が開けて、緑の牧場が、そして陽光にきらめく泉があった。アズラクについて、人々はルンムと同じに「ヌメン・イネスト」神の宿り、と言う。ともに魔術的な魅惑にみちた土地だ。だが、ルンムの壮大、反復、神性にたいして、アズラクの底知れぬ静寂には、あまたの人々の足跡の歴史がつきまとう――吟遊詩人たち、勝利者たち、失われた王国、とりわけヒラの王国やガッサンの王国のあらゆる罪業と騎士道、そしていまはない壮麗さとの。この地は一木一草にいたるまで、はるかな昔に過ぎ去った、絹の光にあふれる楽園の、なかば失われた記憶にきらめいているのである。
ついに、アリは手綱を振った。ラクダは注意深く溶岩の流れのあとに路を拾いながら、泉のうしろの豊かな芝生に降りたつ。細めていた眼が、安らぎの思いとともに、おのずから大きく開く。この土地の太陽の照り返しには、もはや何週間もつづいたあの酷烈さはない。アリは「草だ」と大声で叫ぶと鞍からひらりと飛び降り、大地に両手をついて、固い草のあいだに顔を埋める。砂漠では、草は、それほどまでに優しいものなのだ。アリは飛び上がり、頬を紅潮させてハリス氏族の戦いの雄叫びをあげ、頭被をかなぐりすてると沼沿いに走り、葦の茂みに水がよどんで赤い水路のうえを跳びはねていく。カシミヤの長衣の裾が褶《ひだ》となってはねあがるとき、アリのふくらはぎが白く眼をうつ。われわれ西欧の人間には、このような肉体の美を眼にすることはまずないだろう――肉体が素足のうえで軽やかに釣合をたもつとき、動きのリズムと優雅さが、一足ごとに歩幅と停止した瞬間の平衡のメカニズムを見せる筋肉や腱のうごきとともに目にうつりはじめるとき、どれほどの美しさが輝きでるものかということを。
三日後の夜明け、われわれはゆるやかに低まっていく草原の彼方に、まっすぐ鉄道を見ていた。まるで射程内にでもあるようにくっきりと見える。アリとわたしは、襲撃の最後の手配にかかった。日没まではここに隠れているしかない。それからテル・エル・シェハブまで行き、鉄道を爆破し、夜明けまでに線路の東側まで戻っていなければならぬ。このことは、手ぎわのいい爆破作業を中にはさんで、暗夜の十三時間に、少なくとも八十マイルはラクダを走らせることを意味する。こんな芸当は、大部分のインド兵の能力では及びもつかない。巧みなラクダの乗り手でないし、アカバからの行軍ですでにラクダをすっかりダメにしてしまっている。アラブ人なら、ラクダをいたわりながら、きつい仕事を片づけたあとでも、上々のコンディションのまま帰りつけるだろう。インド兵はベストをつくした。だが、こんどの騎乗訓練の実習では、われわれの基準でいえば簡単な段階で、すでにひともラクダも疲れ果てていた。
そこで、わたしは最上の騎手六名をえらび、最上のラクダ六頭に乗せて、インド軍指揮官のつわものハッサン・シャーの指揮にゆだねる。ハッサンは、こんな小部隊ではせいぜいヴィッカーズ機関銃一基をあやつるのがせいいっぱいだと言う。このていたらくでは、味方の攻撃力はいちじるしく低下せざるをえない。われわれのヤルムク峡谷作戦は、具体化に近づくにつれて成功の可能性が薄らいでいくように思われる。
ベニ・サフル部族は戦士の集団だが、セラヒン族はあてにできない。で、アリとわたしは、ベニ・サフル部族をファハドにあずけて、強襲部隊にあてることに決める。セラヒン部族は、何人かをラクダの見張りに残し、残りはラクダから降りて橋に攻撃をかけるさい、爆薬を運んでもらおう。
日没と同時にわれわれは隠れていた谷間を出た。みじめな、ひどく気が進まない感じだった。最初の尾根をこえて西に折れるころ、すでに闇は深く、むかしの巡礼の路の轍《わだち》のあとを頼りに進む。凹凸《おうとつ》のある丘の斜面にラクダの足を取られながら降っていると、とつぜん先頭の集団がまえに飛び出していった。追いついてみると、みんなでおびえきった行商人をとりかこんでいる。道づれはふたりの妻と、干し葡萄や小麦粉や長衣を積みこんだロバ二頭である。われわれのすぐ背後にあるマフラク駅に行く途中だという。とんでもない話だ。けっきょく連中にはここでキャンプを張るように命じ、シルハン族の男をひとりつけて、連中が動かないように見張り、夜が明けたら釈放して、線路をこえてアブ・サワナまで避難するように手筈をうちあわせる。
いまや漆黒の闇のなかを、われわれはとぼとぼと田園をよぎり、ようやく夜目にも白く伸びる現在の巡礼の道を見いだす。アラビアに着いた最初の夜、ラベグからアラブ人たちとともにわたしがラクダを歩ませた、その同じ道路である。それ以来、十二カ月がたち、われわれはこの道を戦いながら、ほぼ千二百キロも進撃したことになる。メディナを過ぎ、ヘディアを過ぎ、ディザドを過ぎ、ムドウワラを過ぎ、マアンを過ぎて、いまやダマスカスまで、あとわずかを残すのみだ――そして、ここで、われわれの、戦う巡礼の道も終わるはずだ。けれども……。
羊飼いかなにか、ともかくわれわれの一行にたいして発砲したものがあって、わたしの思いなどふきとんでしまった。むこうから見れば、暗闇のなかから、音もなく、何者ともしれぬ集団が近づいてくるわけだから、無理もあるまい。弾丸はまったく見当はずれだが、まずいことに極度の恐怖にかられて大声をあげ、逃げながら、こちらの黒い影にむかってむやみに銃を撃ちまくっている。
先導していたミフレ・エル・ゴマアンは、思いきりよく道をそれ、何ひとつ見えない闇のなかを疾駆して部隊をくだりの斜面に連れこみ、首根をへしおりそうな窪地を渡り、丘の肩を巻いた。ようやく、いまいちど、平和でじゃまのはいらない夜が戻ってくる。われわれは星々の下を、整然と隊伍を組んで前進した。つぎにひやりとしたのは、左手で犬が吠えたてたとき、そのつぎはラクダが一頭、思いがけなく行く手にぬうっと現れたときだ。しかし、こいつは迷子で、誰も乗っていないとわかる。われわれはふたたび前進をつづけた。
ミフレはわたしに、自分とラクダをならべるようにと言い、わたしを「アラブ」と呼ぶ。わたしの名前を知ってるものは多いから、暗闇でよそ者に聞かれたりしないための用心である。草深い窪地にさしかかると、ものを焼いたあとのにおいがあり、黒っぽい女の影が道のそばの茂みから飛び出して、悲鳴をあげながら走り去った。そのあと、何事もおこらなかったところをみると、ジプシーだったのかもしれない。やがて、とある丘のふもとまで来ると、頂上の村から、まだ近づきもしないうちに、猛然と発砲してくる。ミフレはさかわらずに右手に折れ、広い畑に入って、そろそろと鞍をきしませながら登っていった。丘の頂のとっかかりでラクダをとめる。
眼下、はるか北に、煌々と輝く明かりの塊が見える。デラア駅の灯が、軍隊の輸送のためにともされているらしい。たぶん、一方では、どこかほっとした気持ちを味わいながら、もう一方では、われわれを無視したこのトルコ軍の態度に、かすかな苛立ちを覚えざるをえない。密集した一団となって、われわれは尾根伝いに左手に折れ、長い谷を下ってレムセの平原に入る。暗闇のなかで、北西の方角にある村からときおり赤い閃光がひらめくのを見る。われわれの進む道は平坦になったものの、なかば畑地で、非常に柔らかく、兎穴の迷路が走っていて、そのためにラクダが踏みこむとすっぽりひづめが埋まってしまって、たいへんだった。にもかかわらず、急がねばならない。いろいろな事件や悪路のために、遅れてしまったからである。ミフレはいやがるラクダをせきたてて、早足で駆けさせる。九時を過ぎてまもなく、われわれは畑地を抜ける。行軍はずっとはかどるはずであった。が、こんどは小雨が降りはじめ、この土地の肥沃な表土のせいでラクダの足が滑った。シンハル族のひとりのラクダが倒れる。乗り手はすぐさまラクダを立たせて、早足で前進する。こんどはベニ・サフル部族のひとりがラクダから落ちた。が、この男も怪我はなく、急いでふたたびラクダにまたがる。と、こんどは、アリの従僕のひとりが、立ちどまったラクダのそばに突っ立っているのが眼にとまった。アリは叱りつけてラクダに乗れと言い、そいつがもぐもぐと口のなかで言いわけをつぶやくと、鞭で力まかせに額を打ちすえる。ラクダはおびえて前に跳びだし、奴隷は後ろの腰帯をつかまえると、ひらりと身を踊らせて鞍に収まる。アリはこの奴隷を追いかけて、鞭の雨を浴びせかける。わたしの部下のムスタファは未熟な騎手で、二度までもラクダから落ちた。轡《くつわ》を並べていたアワドがそのたびに手綱をおさえ、こちらが追いつくまでに、手を貸してムスタファを乗せる。
雨が止み、われわれはいっそう早足に駆けさせる。いまや下り坂にかかっていた。とつぜん、鞍に立ちあがりざま、ミフレが頭上に鞭をふるう。するどい金属のふれあう音が聞こえ、夜の闇のなかでも、われわれがメゼリブに通じる電信線の下にいることを知らせる。そのあとで、前方の灰色の地平線が、いままでよりはるかに遠のく。われわれは、どうやら、弓形に隆起した土地を進んでいるらしい。両側も、前方も、闇はいっそう深まっていく。かすかなため息に似た、はるか彼方の木立を渡る風を思わせる音が聞こえてくる。が、その音はたえまなく、しかし少しずつ大きくなっていた。これこそ、テル・エル・シェハブの下流にある大瀑布の音にちがいあるまい。そこで、われわれは、自信をもって前進に前進をつづける。
二、三分後、ミフレは手綱を引きしぼってラクダを停め、首をとても優しく叩いて、おとなしく膝を折らせる。ミフレはひらりとラクダから降り立ち、われわれは手綱をひかえて、ミフレに並び、この草原の上、崩れた石塚のかたわらにラクダを停める。かなり前から耳を聾《ろう》せんばかりに高まっていた物音が、いま、眼前の暗黒の裂け目から、奔流の轟きとなって湧きあがる。われわれが立っているのは、ヤルムク峡谷のふちであった。そしてめざす鉄橋は、われわれの真下、すぐ右手にある。
みんなで手を貸して、インド兵を荷物を積んだラクダからおろしてやる。音を立てて、聞き耳を立てている連中に気づかれるようなことがあってはならないからだ。それから、ひんやりと濡れた草の上で、ささやくように点呼をとる。月はまだヘルモンの山の端に出てはいないが、夜は暁を約束するようになかば白み、鉛色の空を荒々しくひき裂かれた雲の切れはしが、ものすごい早さでよぎっていった。わたしは爆薬を十五人の運び屋に持たせ、そこで、いよいよ出発となる。アドゥブのひきいるベニ・サフル部族の一隊が、道をさがしに、目の前の暗い斜面に消えた。風雨のせいで険しい山肌は滑りやすく、裸足の足の爪先を鋭く土に食い込ませて、かろうじてたしかな足場が確保できるといったありさまだった。二人か三人、ずしんと倒れる。
岩が表土を破っていたるところに頭をのぞかせている足もとのいちばんよくない場所にさしかかったとき、川の轟きに新しい物音がくわわる。列車がゆっくりと重たげな音を立てながらガリラヤからのぼってきたのだった。車輪のふちはカーブにさしかかると甲高い悲鳴をあげ、あえぎあえぎのぼる機関車の蒸気は、峡谷の見えない谷底から白い不気味な息吹となって立ちのぼってくる。セラヒン族は尻ごみするが、追い立てられて、われわれの後ろにつづいた。ファハドとわたしは右側へ跳びのき、機関車の釜の火の明かりに浮かびあがる無蓋車に乗ったカーキ色の服の男たちを見つめる。おそらく、小アジアに送られる囚人であろう。
あと、ほんの少し進むと、ようやく足下の峡谷の暗黒の断崖に、ひとしお黒いものの影が現れ、そのむこうのはしに、またたく一点の灯火が見える。われわれは立ちどまり、双眼鏡で調べる。目ざす鉄橋だった。この高さからだから全体が見わたせるし、対岸の岩壁の上に延びる村も、その下にもうけられた警備テントも見える。川音のほかは、すべてが静まりかえり、テントの外で踊る焚火のほかは、すべてがぴくりとも動かない。
インド兵が万一発覚した場合にそなえて警備テントに機関銃弾を浴びせる用意をしているあいだに、アリ、ファハド、ミフレをはじめとするわれわれは、襲撃にあたるベニ・サフル部族と爆薬を運ぶセラヒン族ともども、足音を忍ばせて前進し、こちら側の橋台のそばに通じる古い時代の道に出る。われわれは一団となってひそかにこの道をたどった。褐色の長衣も汚れた装束も完全に頭上の石灰岩の色に、また足下の深い谷に溶けこみ、そのまま鉄橋にむかってカーブを切る直前の鉄橋の側に着いた。一同をそこに待たせて、わたしはファハドとともに腹這いになって前進する。
なんの防備もない橋台に着き、手すりの影に頭を隠しながらなお進んで、手を伸ばせば橋桁の灰色の鉄骨に手が届きそうなところまで行ったとき、敵の歩哨に気づいた。峡谷をはさんで六十ヤードむこうの橋台に、歩哨がひとり、手すりにもたれている。こちらがじっと見張っていると、歩きはじめはしたが、焚火の前をゆっくりと往ったりきたりするばかりで、ただの一度も眼のくらむ橋までは足を踏み入れようとしない。わたしは腹這いになったまま、うまい計画もなく途方にくれて歩哨を見つめていた。ファハドは忍び足で橋台の手すりの蔭まで引き返す。橋台は山腹にくっきりと浮かびあがって見えた。
状況はかんばしくない。橋桁そのものに爆薬をしかけるのがわたしのねらいだったのに。ともかく爆薬の運び屋をつれてこようとこっそり後戻りをはじめる。が、まだ味方のところまで帰りつかないうちに、誰かが銃を持つ手を滑らしてしまったらしく、小銃のぶつかる大きな音が、つづいて岩壁を転がり落ちる音が聞こえてくる。歩哨はぎくりとして、物音のした方角を見上げる。そして頭上はるか、昇りそめた月がゆっくりと峡谷を染めあげてゆく美しい光の帯のなかに、機関銃手たちが移りゆく影を追って新しい銃座を見つけようと岩壁をくだる姿を見つけたらしい。歩哨は大声で誰何《すいか》し、銃をかまえると発砲しながら、わめいて警備兵を呼び出してしまう。
一瞬にして、峡谷は混乱のるつぼと化した。姿を見られなかったベニ・サフル部族まで、われわれの頭上の狭い路にうずくまったまま、思い思いに猛烈な応射の火蓋を切る。警備兵どもは塹壕にとびこみ、こちらの銃火めがけて連射の火蓋を切った。インド兵は移動中に発見されたために、ヴィッカーズ機関銃で警備兵のテントを穴だらけにしたときには、中はとっくにもぬけのからという始末。撃ち合いはやがて全面的にひろがる。トルコ兵の小銃の一斉射撃は狭い谷間にこだまし、味方の背後の岩にあたってもういちど響きわたる。セラヒン族の運び屋たちは、わたしの護衛から、爆薬に弾丸が当たると爆発することを聞き出していたから、弾丸がぱらぱらと周りに降ってくると、とたんに袋を崖ごしに放り投げて逃げ出してしまった。ファハドとわたしは薄暗い橋台の上に、見つかりもせず、しかし武器ひとつもたずに立ちつくしていたのだが、そこへアリが駆け込んできて、爆薬はいまや峡谷の深い河床のどこかに転がっていることを教えてくれる。
このような騒ぎがもちあがってしまったからには、爆薬を取り戻す望みもなかった。そこでわれわれはトルコ軍の銃火の中を駆け抜け、無事に山道をのぼりつめ、息せききって崖の上までたどりつく。そこでインド兵たちに会ったので、すべては終わったと告げる。われわれは大急ぎで石塚まで戻ると、セラヒン族どもがわれがちにラクダに乗っているところだった。こちらも連中にならって大急ぎでラクダにまたがり、疾風のように走り去った。まだトルコ兵どもが谷底で撃ちあっている音が聞こえ、やがていちばん近い村であるトゥッラも騒ぎを聞いて銃撃にくわわる。ほかの村々も眠りを破られ、平原のいたるところで燈火がきらめきはじめた。
われわれは疾駆してデラアから戻ってくる農民の一団を追い抜く。と、セラヒン族が、自分たちの演じたぶざまな役まわりにむかっ腹を立てて(それとも、逃走にたかぶっていたわたしが連中に言ったことばに怒って)ごたごたの種をさがしているところだったから、農民を身ぐるみ剥《は》いでしまった。
追剥ぎされた農民は、月光のなかを女どもを連れて一目散に逃げ去りながら、アラブ人特有の耳をつんざくような叫び声を上げて助けを求める。レムセ村までこの声はとどいたらしい。悲鳴の大合唱は近隣の者たちすべてを叩き起こしてしまった。ラクダに乗った男たちがとびだしてきてわれわれの側面を衝き、農家の屋根には何マイルにもわたって男たちがのぼって待ちかまえていて、一斉射撃を浴びせかける。
われわれは盗みを働いたセラヒン族を邪魔になる掠奪品ともどもあとに残して、一団となり、ともかくできるかぎり隊伍を整え、陰気に黙々と先をいそいだ。そのあいだじゅう、きたえあげたわたしの部下たちは、ラクダから落ちた者に手を貸したり、ゆったりと走りつづけられないくらいラクダを痛めてしまった者を後ろに乗せたりして、めざましい働きを見せる。大地はなおぬかるみ、畑地は来るときよりなおさら大変だった。が、背後の騒動が人もラクダも駆りたて、丘陵地帯の隠れ家へと、まるで勢子たちに追われるけもののように、けんめいに走った。ついに丘陵地帯に入ると、もっとましな道をたどって突っ切り、静かな土地をめざす。とはいえ、夜明けも近いので、疲れ切ったラクダに鞭を入れて、全力で駆けつづけながら。しだいに背後の物音も静まり、最後の落伍者たちも、殿軍《しんがり》をつとめたアリ・イブン・エル・フセインとわたしに追い立てられて、ようやくもとの行軍隊列にもどった。
ちょうど線路にむかって降りていくところで夜が明ける。いまや先頭にあって道筋の安全を確かめているアリをはじめ族長たちが、いろんな場所で電信線を切断して憂さばらしをしているあいだに、本隊が通過する。われわれは前夜、テル・エル・シェハブの鉄橋を爆破し、そのことによってパレスティナをダマスカスから切り離すために、この線路を越えたのだった。ところが、現実には、全員がこれほどの苦難に耐え、危険を冒しながら、わずかにメディナへの電信線を切断したにすぎないとは! 右手はるかにあっていまなお殷々《いんいん》と響きわたるアレンビー軍の砲声は、われわれの失敗のにがい証人であった。
灰色の夜明けが静かに訪れ、あとにつづく灰色の霧雨を予告する。こぬか雨はあまりにも柔らかく切なげに降り、痛めた足を引きずりながらアブ・サワナへととぼとぼとむかうわれわれの歩みを、まるであざ笑っているかのようであった。日没に、長い水たまりのほとりに着く。さまざまな失敗のあとで、一行の拒絶反応は異様であった。われわれは阿呆だった。全員がひとしく阿呆であった。だからこそ、怒りはやり場がなかったのである。アフメドとアワドはもういちど殴り合いを始める。若いムスタファは米を炊くことを拒み、ファッラジとダウドはムスタファが泣きだすまでぶちのめす。アリは従僕をふたりも打ちすえる。そしてわれわれの誰ひとり、そして殴る方も殴られる方も、そのことをなんとも思っていないのだった。心は失敗にむかつき、肉体は日没から日没まで、小休止も食事もぬきで、ひどい土地を、ひどい条件のもとに、ほとんど百マイルちかくも神経を張りつめたまま踏破したために、すっかり疲れ果てていたからである。
さしずめ、目下の火急の問題は食糧であろう。われわれは篠つく氷雨のなかで、今後の行動を検討する会議を開いた。できるかぎり身軽にしたかったので、アズラクからは三日分の糧食を携行しただけだが、今夜までならそれでまにあった。けれども、おめおめと空手《からて》では帰れない。ベニ・サフル部族は名誉をもとめ、セラヒン族は面目を失ったばかりなので新たな冒険を要求する。まだ予備の爆薬三十ポンドの入った袋がある。そこで、アリ・イブン・エル・フセインは、マアンの下手《しもて》でやった爆破の話を聞いており、しかもいかなるアラブ人にも劣らぬアラブ人なので、「列車の爆破をやろう」と言ってのける。このことばを、全員が歓呼の声で迎え、わたしの顔を見つめる――が、わたしはたちどころに彼らの希望に賛同はできなかった。
列車爆破は、充分な兵力と、要所に機関銃を配して、じっくり計画を練って行うならば、まさに科学そのものである。もし、あわててとびつくなら、危険な作業にならざるをえない。こんどの場合で言えば、投入可能な機関銃手がインド兵であるところに難点がある。充分に食べていれば精兵であるが、寒さと飢えのなかでは半人前の働きしかできまい。糧食もなしに、一週間かかるかもしれない冒険行に彼らを引っぱり出す気は、自分にはさらさらない。アラブ人にとっては、飢えは残酷なものでもなんでもない――二、三日、断食したくらいで死にはしないし、胃袋が空っぽでもいつもと変わらぬ戦いぶりをみせてくれよう。しかも、事態が切羽つまれば、乗用のラクダを殺して食えばいい。ところがインド兵は――たしかに同じイスラム教徒だけれども、掟によってラクダの肉を食べようとしないだろう。
わたしは食物をめぐる微妙な事情をこのように説明した。アリは即座に、わたしは列車を爆破してくれるだけでいい、あとは自分とアラブ人に任せてくれれば、機関銃の援護などなくとも、全力をつくし脱線した列車のほうは片づけてみせる、と、断言する。この地方はまだ敵も警戒していないだろうから、文官連中だけか、せいぜい少人数の予備兵の援護くらいしか乗っていない補給列車にぶつかる可能性も高いな、と、わたしも危険を冒すことに賛成する。この決定にみんなが大喝采したところで、われわれは長衣のまま丸くなって坐り、きわめて遅い、冷たい夕食をとって、残りの食物を片づけてしまう。薪はすっかり雨に濡れて、とうてい火を焚くことなどできなかったが、もう一度やってみるチャンスがあると考えるだけで、われわれの心はいくぶん和《なご》むのだった。
夜が明けると、こんどの仕事にむかないアラブ人たちとともに、インド兵たちはみじめな思いでアズラクに向かって移動していった。のこる六十余名は、鉄道めざして引き返すことになる。
宵闇とともに、われわれは爆薬を仕掛けるために徒歩で山を降りていった。百七十二キロメートル標識のある石橋のところは、まえに爆破したあとに再建されたものだが、やはり絶好の地点のようである。石橋のそばに立っているとき、車輪の音が聞こえたと思うまもなく、ふかまりゆく闇と霧の底からとつぜん列車が、北側のカーブをまわって姿を現す。わずか二百ヤード先だ。あわてて長いアーチの下に隠れると、列車は頭上を轟々と地響きを立てて通りすぎる。気が気でなかった。が、線路がふたたび静かになると、爆薬を埋める作業にかかる。この夜は冷え込みがひどく、雨まじりの風が谷間めがけて吹きおろした。
アーチは頑丈な石造りで、直径四メートル。われわれが隠れていた山頂に源を発する川の、砂利の河床をまたいでいる。爆薬は細心の注意をはらって、アーチの頂上部分に、いつもより深く、枕木の下に隠した。これなら、パトロールが踏んづけても、爆薬のジェリー状の軟らかさに気づくはずもなかろう。電線は土手から水路の砂利の河床におろし(ここなら隠すのも簡単だから)、川上にむかっていっぱいに伸ばす。電線の端は、うまいことにちょうど水路の縁に生えた高さ十インチばかりの小さな草むらにかかり、このじつに好都合な目じるしのそばに埋め込むことにする。起爆装置にきちんと取りつけたまま置いておくことはできなかった。この場所は、線路のパトロール隊がまわってくると、いやでも眼にとまってしまうので。
ぬかるみのせいで、この仕事はいつもより手間取り、まだ完成しないうちに夜が白々と明けそめてしまう。風の吹き抜けるアーチの下で、雨に濡れ、みじめな気持ちで、わたしは明るくなるのを待った。夜があけきると、仕事で荒らしたあとを丹念に見てまわり、半時間もかけて、その痕跡を消した。落ち葉や枯れ草をその上にばらまき、踏み荒らしたぬかるみには近くの浅い水たまりから水を汲んで撒く。そのとき、朝いちばんのパトロールがやってきたという合図があり、わたしは河床を出て、仲間のところにむかった。
けれども、まだ辿りつかないうちに、味方がわれがちに予定していた持ち場にむかって駆け下りてきて、川筋に並び、左右の山鼻にはりつく。北側から列車がやって来たのである。起爆装置はフェイサルの賢明な奴隷ハムドが持っていたのだが、わたしのところまで来ないうちに、窓を閉め切った客車を引く短い列車は高速で走りすぎてしまう。平原の風雨のために見通しのきかない朝だったから、短い列車は見張りにも見えず、気づいたときはすでに手遅れの状態であった。この二度目の失敗で、われわれはいっそう情けない気分になった。アリまでが、今度の遠征では何一つまともにできやしないだろうと言いだすしまつ。こういう台詞《せりふ》は、ほうっておくと、誰か疫病神を見つけ出すところまで行きつきかねない。そこで、みんなの注意をそらすために、わたしは新しい見張りの地点をもっと遠くにもうけようと提案する。ひとつは、北側の廃墟、もうひとつは南側の丘の頂の大きな石塚のところがいい。
残った連中は、朝飯なんかないわけだから、腹など減っていないふりをするしかなかった。みんながおもしろがって物真似をやり、しばらくは雨のなかに笑いさざめきながら坐っていた――暖を逃がさないために互いに抱きあい、ずぶぬれのラクダを胸壁にしてその蔭に隠れながら。ラクダの毛は濡れて羊毛のように巻いてしまい、そのためにラクダどもは奇妙に、まるで髪をふりみだしているみたいに見える。雨はしばしば小止みになったが、そのたびに冷たい風がひゅうひゅうと吹きつけ、われわれの身体のむき出しの部分をさぐりだしては徹底的に痛めつける。しばらくするうちに、濡れた下着がじとじとと肌にまとわりつき、ひどく工合がよくないと感じはじめる。何一つ食べるものもなければ、何一つすることもなく、濡れた岩か濡れた草かぬかるみの上以外には腰をおろすところとてなかった。
最良の条件のもとでも、行動の時をただ待ちつづけるのはつらい。この日は残酷そのものであった。敵のパトロールでさえ、まったく警戒の気配を見せず、ただ形式的に、雨のなかをとぼとぼと歩いていくばかりである。ついに正午ちかくになり、青空がちらりとのぞいたと思ったとたん、南側の尾根の見張り役たちが、列車が来た合図にはげしく長衣を振った。全員がたちどころに配置につく。先ほどからわれわれは、今度のチャンスこそ逃がしてなるものかと、線路近くの排水溝にじっとうずくまっていたのである。アラブ人たちはしかるべく身を隠す。起爆装置を押す地点から味方のひそんでいる場所をふりかえってみても、灰色の丘の斜面のほかには何一つ見えなかった。
列車が近づく音は聞こえなかったが、わたしは情報を信じて、ひざまずいて身がまえた姿勢のまま、たぶん半時間は待ちつづけたと思う。ついに緊張に耐えられなくなり、何ごとが起きたか知らせろと合図を送る。伝令が来て、列車はひどくのろのろと近づいてくるが、途方もなく長いやつだという。われわれは期待に固唾《かたず》をのんだ。列車が長ければ長いほど、そのぶんだけ掠奪品も増えるだろう。列車が止まってしまったという知らせがはいる。が、また動きだしたらしい。
ようやく一時ちかくになって、わたしは機関車のあえぐような音を聞く。あきらかにどこか欠陥があるらしい――薪焚きの列車はどれも粗悪品だから。そのうえ長くて重い列車を引っぱりながら上り坂にさしかかったのでは、性能の限界がはっきりしはじめても無理はない。草むらの蔭にうずくまっていると、列車は這うようにのろのろと南側の切り通しを過ぎて姿を現わし、頭上の土堤を通って石橋にむかってゆく。先頭の十輛は無蓋車で、兵隊を満載している。しかしながら、またもや気づくのが遅すぎて、わたしに選択の余地はなかった。そこで、機関車が正確に爆薬の真上にさしかかったとき、起爆装置のハンドルをいっぱいに押し下げる。何事も起きない。わたしはせわしなく四回もハンドルを上げ下げする。
それでも、何事も起こってくれない。起爆装置が故障していることにわたしは気づく。と、同時に、自分がむきだしの川岸にひざまずいており、トルコ軍の輸送列車がわずか五十ヤードむこうの鼻の先を這うように通過しようとしていることにも。せめて一フィートの高さはあると思っていた草むらが、まるでイチジクの葉っぱよりも小さく縮んでしまったような感じがする。この田園風景のなかでは、わたしの姿がいちばん目立つ見ものであることはまちがいない。わたしの背後には二百ヤードも何もない谷間が広がり、その先の物蔭に味方のアラブ人たちが、いったいわたしは何をしているのか不思議がりながら待ちかまえている。しかし、味方のところへまっしぐらに逃げこむことなどできはしない――そんなことをしたら、トルコ兵どもが列車から降りてきて、われわれを片づけてしまうだろう。もし、じっと坐っていれば、わたしがここにいることも、たまたまベドウィンがひとり居合わせただけだと見過ごしてくれる希《のぞ》みも、まったくないわけではあるまい。
そこでわたしは、その場に坐ったまま、ただひたすら風前の灯の自分の生命のことを考えながら、十八輛の無蓋車と、三輛の有蓋貨車と、三輛の士官用客車が引っぱられていくのを見まもっていた。機関車はあえぎながら速度を落とし、さらにまた速度を落とす。いまにも立ち往生するのではないかと気が気ではなかった。兵士たちはわたしのことなどとりわけ気にかけはしなかったが、将校ともなると興味を示し、連中の客車の後尾にある昇降口まで出てきて、指さしたり、まじまじと見つめたりしている。わたしは連中にむかって手を振り、はらはらしながら、にやにやと笑ってみせる。メッカの衣裳を着て頭に金の環飾りをつけている羊飼いなどいるはずがないと感じながら。おそらく泥まみれになっていたのと、びしょぬれになっていたのと、連中の無知とが重なって、羊飼いの真似も見逃してもらえたのだろう。制動車の後部がのろのろと北側の切通しに消える。
列車が見えなくなると、わたしは飛び上がり、電線を埋めると壊れた起爆装置をひっつかみ、脱兎のごとく斜面を駆けのぼって安全地帯へと跳びこむ。ひと息ついて振り返ってみると、とうとう列車が立ち往生してしまったのが見えた。列車は爆薬の五百ヤードばかりむこうで止まり、蒸気の圧力があがるまで、ほとんど一時間ちかくも待っていた。そのあいだに将校たちが見回りに戻ってきて、さっきまでわたしが坐っていた地面あたりを、じつに念入りに調べてまわる。けれども、電線はしかるべく埋めてあったから、なにひとつ見つけることはできなかった。機関車が調子を取り戻すと、彼らも去った。
ミフレはわたしがわざと列車をやり過ごしたと思い、口惜《くや》し涙さえ出ないありさまだった。セラヒン族に本当の理由を話すと、口をそろえて「わしらは不運につきまとわれている」と言う。いままでの所はたしかに彼らの言うとおりではあるが――しかし、連中はこれからもそうだと予言しているつもりなのだ。そこでわたしはヤルムク峡谷の鉄橋のところで見せてくれた彼らの勇気を引き合いに出して皮肉ったうえ、ラクダの見張りをやるのがセラヒン族のこのみなんじゃないかとあてこすりをやる。とたんに怒号をあげて、セラヒン族は狂ったようにわたしに襲いかかり、ベニ・サフル部族がわたしをまもろうとする。騒ぎを聞きつけてアリが駆けつけてくる。
このもめごとが治まったときには、それまでの陰気な気分など、半分がところはふっとんでいた。アリがみごとに、わたしの後押しをしてくれる。この痛々しい若者は、寒さに血の気を失い、熱のためにぶるぶる震えながらも、あえぎあえぎこう言ったのである――自分たちの先祖でもある預言者は、シェリフに「予知」の能力をさずけた。その能力によって言うのだが、われわれの|つき《ヽヽ》は変わりかけていることが、自分にはわかる、と。このことばで、一同は大いに慰められた。そして、わたしに幸運の最初の支払いがあったらしく、雨のなかで、短剣以外には道具さえないのに、わたしは起爆装置の箱を開けて、なんとかもういちど、電動ギアがきちんと作動するように修理できたのだった。
われわれは電線のそばの不寝番に戻った。が、何ごとも起きていない。夜のとばりが下りるとともに雨はいちだんと激しさをまし、全員が不平たらたらだった。列車は来ず、雨がひどくて食事をつくる火を焚くこともできず、手に入る可能性のある食糧といってもラクダしかない。この夜、生肉は誰の食欲もそそらず、したがって、われわれのラクダはあと一日の余命を保った。
アリは眠ることで熱をさげようと、腹這いになる。この姿勢だと、飢えの痛みが和らぐからだ。アリの従僕のハゼンが、自分の長衣を脱いで主人にかける。しばらくのあいだ、わたしはハゼンを自分の長衣に入れてやったが、たちまち窮屈になってしまう。そこで、長衣をハゼンに残し、起爆装置を電線に連結するために丘を下りていった。そのあとは、その場でただひとり、電信線の鳴る音を聞きながら、ほとんど寝る気にならないままに夜をすごした。それほどまでに、きびしい寒気だった。長い夜のあいだ、何ひとつやっては来ず、雨のなかに明けた夜明けは、いつもよりずっと醜い感じがする。みんなは、いまや、ミニフィルの死闘に、鉄道に、列車の見張りと爆破に、うんざりしていた。早番のパトロールが線路の見回りに来ているあいだ、わたしは丘を登って本隊と合流する。そのとき、わずかに雲が切れた。アリがすっかり元気になって目を覚まし、新しい気力をみんなに注ぎこんでくれる。奴隷のハムドが、一晩中着物の下に肌身はなさず暖めていた木切れをいくつか取り出す。九分通り乾いているではないか。で、爆薬を少々けずり取り、その熱い炎で焚火をつくる。そのあいだに、ベニ・サフル部族は、予備の乗用ラクダの逸品である疥癬病みのやつを一頭|屠《ほふ》り、塹壕掘りの道具で適当な大きさにばらしはじめていた。
ちょうどそのとき、北側の見張りが、列車が来たと叫ぶ。われわれは焚火をそのままに、一気に六百ヤードの斜面を走り下りて、なじみの配置についた。カーブを曲がり威勢よく汽笛を鳴らして、列車がやってくる。二輌連結の機関車で十二輌の客車を引っぱっているという豪華版で、下り勾配を全速力で疾走してきた。先頭の機関車の第一主動輪の下でハンドルを押す。爆発はすさまじかった。大地が黒々と裂けて顔にもろにぶつかったと思ったとたん、わたしはきりきり舞いをしながら吹きとばされ、やっと上体をおこしてみると、シャツは肩まで裂け、左腕の長いぎざぎざの傷口から血が滴っていた。爆発の塵埃と蒸気をすかして見ると、どうやら先頭の機関車のボイラーは影も形もなくなってしまったらしい。
援護の味方のところまで逃げていかなくては、と、わたしはぼんやり考えていた。が、一歩踏み出したとたん、右足に激痛が走る。そのために、跛《びつこ》を引かなければ歩けず、その上爆発のショックで、まだ頭がぐらぐらしていた。すでに、この混乱にけじめをつける活動がはじまっていた。わたしが谷間を上手《かみて》にむかって跛をひきひき歩いているあいだに、アラブ兵たちはごった返している客車めがけて、早くもつぎつぎに銃撃を加えている。わたしは気が遠くなりかかる自分を、何度も大声でこうくりかえすことによって励ましていた――「ああ、こんなことにならなければよかったのに」と。もちろん英語でである。
敵が応射をはじめてみると、自分はまだ両軍のまんなかにいることがわかった。アリはわたしが倒れたのをみて重傷を負ったものと思いこみ、友人のトゥルキや部下二十名ばかり、それにベニ・サフル部族を引きつれて救助に駆け出してきた。トルコ兵どもは射程内の目標を見つけて、二、三秒のうちに七人までも倒してしまう。残りのものは一気に突っ走って、わたしの周りにいた――活動のあとの息づく姿態は、彫刻家にとって願ってもないモデルであろう。白い木綿の長袴はほっそりとした腰と踝《くるぶし》で留めてあり、釣鐘のようにふくらんでいる。毛など生えていない、なめらかな褐色の上半身。そして、長い角のように鬢髪《びんはつ》をきっちりと編んで両のこめかみからたらしているさまは、ロシアの舞踏手さながらだった。
われわれは一団となって大急ぎで引き返し、物蔭に隠れる。そこで、気づかれないように自分の身体のほうぼうをさわってみて、こんどもまた、本当の傷は受けていないことを発見する。むろんボイラーの破片で受けた打撲傷や切り傷や足の指の傷は別にしても、五カ所に弾丸の擦過傷《さっかしょう》があり(いくつかは不快なことに貫通銃創にちかかった)、衣服ときたら、もうずたずたに裂けていたけれども。
この水路からは周囲を見まわすことができた。爆発は石橋のアーチのてっぺんを吹き飛ばし、先頭の機関車の車台はそのむこうに、つまり、こちら側の土堤を転落して、土堤の下あたりに転がっている。二番目の機関車はアーチの裂け目に頭から突っ込み、先頭の機関車の炭水車の残骸に折り重なって横たわっていて、車台はねじまがっている。わたしの判断では、二輛とも修理不能だった。二輛目の機関車の炭水車は、土堤のむこう側へふっとんで、ここからは見えない。そして先頭の客車三輛は、衝突してつぶれ、ぐしゃぐしゃだった。列車の残りの車輌もみごとに脱線している。数珠つなぎになった客車は端と端とがさまざまな角度でぶつかりあい、線路沿いにジグザグになって脱線していた。客車のひとつは旗で飾り立てたサロン車で、なんと第八軍司令官メフメド・ジェマル・パシャが乗っていたのである。アレンビー軍の攻撃からイェルサレムを防衛するために急行する途上であった。パシャの乗馬は先頭の車輌だったが、乗用車は最後尾の車輌だったから、撃ちまくって廃品にしてしまった。幕僚のなかに太った坊主がいたので、悪名高いトルコ派の幇間《たいこもち》でアフメド・ジェマル・パシャの導師《イマール》アッサド・シュカイルにちがいないと思い、猛烈に銃弾を浴びせて、ついに撃ち倒す。
長い、全面的な撃ち合いだった。爆破した列車から物を運び出す見込みはまずないとわかる。何しろ敵兵は四百人ばかりも乗り込んでいて、生き残った奴らは、すでにショックから立ち直り、物蔭に身をかくして猛烈にこちらにむかって射撃を開始していたからだ。最初の瞬間には、北側の土手に隠れていた味方の一隊が突撃して、ほとんど勝利を手中にしていたのである。牝馬にまたがったミフレは将校たちをサロン車から追い出して低い溝に追いこんだのだが、あまりに興奮しすぎたために馬をとめて撃つことができなかった。おかげで、奴らは無傷で逃げ出してしまった。しかもミフレに続いたアラブ人たちは、途中で引き返して地べたに散らばっている小銃やら勲章やらを拾い集め、そのあとは列車から袋や箱を引っぱり出す仕事のほうにかかってしまった。もしこちらに、土手のむこう側をカヴァーする位置にすえつけた機関銃が一基でもあったなら、わたしの爆破によって、トルコ軍は一兵たりとも逃れることができなかったであろう。
ミフレとアドゥブは丘の上でわれわれと落ち合い、ファハドはどうしたかと訊ねる。セラヒン族のひとりが、わたしが起爆装置のそばでのびてるあいだに、ファハドは最初の突撃隊の先頭に突っ込み、起爆装置の付近で戦死したと話す。セラヒン族はファハドの帯革と小銃を見せて、ファハドが戦死し、自分たちがファハドを助けようとした証拠だと言う。アドゥブはひとことももらさなかったが、谷間からとび出すとまっしぐらに丘を駆けくだった。われわれは胸が痛くなるまで息をのんでアドゥブを見つめていた。が、トルコ兵はどうやらアドゥブに気がつかなかったらしい。一分後には、もう、左手の土手で、ひとりの男を引きずっている。
ミフレは牝馬のところに戻り、またがると駆け下って山影につないだ。ふたりは力を合わせてこのぐったりとなった人物を鞍の前輪に乗せて引き返してくる。一弾がファハドの顔面を貫き、歯四本を砕いて舌を深く傷つけている。ファハドは意識を失っていたが、アブゥドがやってくる寸前に気づき、血で眼が見えないので、両手と両膝で這って逃げようとしていたという。そこで、ふたりはファハドを最初に見つけたラクダに乗せかえて、すぐさま戦列を離れていった。
トルコ兵はこちらがひどく静まりかえっているので、丘の斜面を前進しはじめる。われわれは中腹まで敵をおびきよせておいてから一斉射撃を浴びせ、ほぼ二十名ばかりを倒し、残りの奴らを追いはらった。列車のまわりには屍体が散乱し、壊れた車輌には屍体の山があった。が、敵は軍司令官の眼前で戦っているわけだから、少しもひるまず、山蔭を迂回してこちらの側面をつこうと動きはじめる。
こちらはすでに残るところ約四十名にすぎず、まともに対抗できないことは明らかだった。そこで何人かずつ組になって小川の河床を駆けのぼりながら、身をかくす物蔭が見つかるたびに向きなおって狙い撃ちを加え、敵の進撃を遅らせようとつとめる。
ようやく丘の頂に着く。誰も彼も手近のラクダに跳び乗り、全速力で東側の砂漠のなかに逃げこんで、たっぷり一時間は走った。そのあと、安全地帯で、それぞれ自分のラクダに乗りかえる。ラハイルはあっぱれな男で、あの全員が興奮していたさなかにも、ちょうど列車が姿を見せたとき屠ったラクダの大きな腰肉を鞍帯にゆわえつけて、持ってきていた。この肉がきっかけになって、一同はあと五マイル進んだところで、同じ方向に進むラクダ四頭の小集団が現れたのをしおに、しかるべき休憩をとることになった。この小集団は仲間のマタールで、故郷の村から干し葡萄や農家の手製の菓子を積んでアズラクに戻る途中だった。
そこでわれわれはたちどころに行軍をやめ、貧弱なイチジクの木のあるワディ・ドゥレイルの大岩の蔭で、三日ぶりの食事をつくった。ここではまた、ファハドに繃帯を巻いた。ファハドが重傷でぐったりとなり、しきりに眠りたがるのをみて、アドゥブはマタールの新しい絨緞を買い、二重にしてラクダの鞍にかけると、両端を縫い合わせて大きなポケットをふたつつくる。ひとつにファハドを寝かせると、もうひとつのほうにアドゥブが這いこんでバランスを取り、そのままラクダは部族の宿営地のある南をめざした。
その他の負傷者も、やはりこのとき、手当を受けた。ミフレが一行のなかで最年少の若者たちをつれてくると、乱暴な話だが、防腐剤がわりに傷口に小便をかけさせたのである。そのあいだに、われわれはこぞって元気をとりもどした。わたしは肉の追加にと、もう一頭、疥癬病みのラクダを買い取り、報酬を支払い、戦死者の親族につぐないをし、戦利品の小銃六、七十挺にたいして賞金を与えた。いささか貧弱な掠奪品にはちがいないが、けっして馬鹿にしてはいけない。セラヒン族の幾人かは小銃もなしに襲撃に参加し、効果のほどもあやしい石つぶてを投げて戦うしかなかったのに、いまやおのおの二挺の小銃持ちになっていたのだから。
翌日、われわれはアズラクに入城し、大歓迎を受け――神よ許したまえ――われらこそ勝利者とうそぶいたのである。
[#改ページ]
七 タフィレ会戦、そして冬
[#ここから1字下げ]
アズラクからロレンスはアカバに戻り、アカバからさらに空路、ガザ近郊のアレンビー軍司令部に飛ぶ。アレンビーはトルコ軍を叩きのめし、イェルサレムの彼方まで駆逐していた。ロレンスははじめて少佐の正装でイェルサレム入城式にのぞむ。すべて借り着であった。
ふたたびアカバに戻ったロレンスは、自分直属の親衛隊を編成する必要に直面する。シリア総督の御召し列車を襲ったアリとロレンスに、トルコ側が生捕りなら二万ポンド、殺した場合は一万ポンド、という途方もない賞金をかけたからである。親衛隊は九十名、給与は月六ポンド。隊長は「盗賊」という父親譲りの仇名をもつアブドゥッラ・エル・ナハビと、手固い士官エル・ザッギのふたり。そして、この親衛隊のデビューをかざったのが、一九一八年一月のタフィレ会戦であった。
死海の南端を制するタフィレを占領したのはナシルである。フェイサルが死海進撃を一任した異母弟のゼイドが、ジャアファル・パシャをともなって着任した。いっぽう、トルコ軍第四十八師団司令官ハミドゥ・ファフリ・パシャは、九百名の歩兵を三個大隊に編成し、騎兵百、曲射山砲二門、機関銃二十七基を配備し、占領後、新たに行政組織を設けるべく文官連中まで引き連れて、ケラクを進発、タフィレにむかって南下をはじめた。
[#ここで字下げ終わり]
寝耳に水だった。敵の騎兵斥候隊がワディ・ヘサ(ケラクをタフィレから、そしてモアブをエドムから切り離す、幅の広い、深い、けわしい峡谷である)に張りめぐらした我が軍の警備網にひっかかって、はじめて、われわれは敵の動きを知ったのだから。敵は見張りを追い散らし、日没には早くもわが方に襲いかかった。
ジャアファル・パシャは、当初からタフィレ大峡谷の南岸に防禦陣をはる構想だった――もしトルコ軍が攻撃してきたら、村は敵にわたし、村の背後にのしかかる形の高地を守ろうというものである。この案には二重の難点がある、と、わたしは思った。第一に、この高地には斜面がないにひとしく、難攻不落かもしれないが、逆に、こちらから打って出ることも至難のわざだ。しかも敵にすれば東側を迂回すればすむことだろう。第二に、村を放棄すれば、土地の住民をほうり出すことになる。彼らは自分の家を占領している方につき、敵の手先として働くことになってしまう。
しかし、この案は多数派で、とりわけゼイドの部下が全員一致で支持したから、真夜中ごろゼイドは移動命令を出し、従僕や反トルコ派の村人は荷物の積み込みをはじめる。部隊は南の高台に進軍し、荷駄隊は下の道をとって安全地帯まで待避していく。この移動は村にパニックを引きおこした。農民はわが軍が退却するものと思い(わたしの見方でもそうなる)、自分たちの財産と生命をまもろうとあわてふためく。ひどく凍てつく夜で、大地には霜柱が立ち、足下に鳴った。風の吹きすさぶ暗黒のなかで、狭い通りから聞こえてくる混乱と叫喚《きょうかん》は、すさまじいかぎりであった。
シェイクのディアブは村人の離反について胸も張り裂けんばかりの口調で話し、かえって自らの忠節の誠《まこと》をきわだたせる。しかし、わたしの印象では、彼らは勇敢な男たちで、味方になってくれれば見事な働きを見せそうである。このことを確かめておきたかったので、はじめは屋根にあがってみていたが、けっきょくのところ長衣にすっぽりくるまって顔を隠し、声をかければ駆けつけられるところに目立たぬように護衛を配して、暗くけわしい通りを往ったり来たりしてみる。その結果、現在なにが起きているかを、自分の耳で聞くことができた。村人はほとんど危険なまでに恐怖に駆り立てられ、誰彼の見境なく、あらゆるものごとに当たりちらしてはいるものの、まったくトルコびいきの気配はない。トルコ軍が帰ってくることに怖れおののき、戦う意志のあるリーダーさえいれば、いつでも体力のかぎり支援を惜しまないだろう。これだけわかれば充分で、この場をしりぞかず断固戦うというわたしの希望にぴったり叶っている。
ついに、わたしは、美しい絹の長衣をまとい、銀の武具をきらめかせているジャジ部族の若いシェイク、メタアブとアンナドに行きあい、彼らの叔父ハムドゥ・エル・アラルをさがしに行かせる。そしてハムドゥに、峡谷の北まで馬を走らせ、銃声でなおトルコ軍と交戦中だとわかる農民たちに、われわれがまもなく援軍に駆けつけるからと伝言を頼む。沈鬱で優雅で勇敢な騎士ハムドゥは、この混乱のさなかにあつめた手兵すべて、すなわち一族の者二十名を引きつれて、ただちに走り去った。
ハムドゥたちが全速力で駆け抜けると、村人たちの恐慌はさらにあおられて極限まで高まる。主婦たちは荷物を片はしから結わえて戸口や窓から放り出す。が、外で受け取ろうと待ちかまえている男などひとりもいない。子供たちは踏みつけられて泣きわめくが、母親のほうだって理由はともあれ泣きわめいている。あのモタルガの戦士たちは馬を走らせながら続けざまに銃をぶっぱなして自らをはげまし、まるでその銃声に応えるように火蓋を切った敵の銃火が、夜明け前の暗い空を背景に、北側の断崖を縁どりながら眼にうつりはじめる。わたしはシェリフ・ゼイドに決断をうながすために、徒歩で南側の高台にのぼった。
ゼイドは厳然と岩に腰をかけ、双眼鏡で敵陣をなめるようにのぞいていた。叫喚が高まるにつれ、ゼイドは逆に、ますます超然と落着きはらう。わたしは凶暴な怒りにふるえた。そもそもまともな戦略の法則に従うならば、トルコ軍は断じてタフィレなどにあえて戻ろうとすべきではない。単なる貪欲、餌をあさる野良犬の所業であって、まっとうな敵として扱うに値しない奴らである。いかにもトルコ軍のやりそうな、どうしようもない愚行だ。奴らは敬意を抱かせるほどのことを一度もやらないのだから、敵としてまともに扱ってもらえなくても仕方がなかろう。こちらにしても奴らの愚かさのために、のべつ幕なしに気分をこわされているのだから――兵士は奴らの勇気を尊敬できず、将校は奴らの知略を尊敬できない。その上、凍てつく朝で、しかもわたしは一晩中一睡もしていなかったから、まるでテュートン人さながらの酷薄さで、なんとしてでも、奴らにわたしの心境と作戦の変化の結果をたっぷり味わわせてやろうと心に誓ったのである。
前進の速度から判断すると、敵はさしたる数ではあるまい。時、地勢、兵員、天候、ことごとく味方に有利であり、敵を追いつめることはいともたやすい。が、わたしの憤激の前には、そんなことではあまりに手ぬるい。奴らの仕掛けてきたゲームをこちらのピグミーふうのやり方であしらってやろう。奴らの求めるままに決戦してやる。皆殺しにしてやるとも。わたしは記憶をまさぐり、なかば忘れてしまっている正規の兵法の教科書にある公理を思いだして、そのパロディを実行してやろうと考える。
まず、アブドゥッラにホッチキス自動小銃二挺をもたせて前線にやり、敵の兵力と配置をさぐらせてみてはどうかと提案する。そのあとでつぎに打つ手を話しあったが、非常に役に立った。ゼイドは冷静かつ果敢な小戦士で、生まれながらにプロの将校の気質をそなえていたからである。向こうの土手を登っていくアブドゥッラの姿が見えた。銃声は一時激しさをましたが、まもなく遠ざかって消える。アブドゥッラの来援はモタルガ部族の騎兵や村人を奮い起たせ、トルコの騎兵に襲いかかって、たちまち最初の尾根をこえ、幅二マイルの平原をよぎり、さらにそのむこうの尾根をもこえて、ヘサの大窪地の入り口まで落としてしまった。
この蔭にトルコ軍の本隊がおり、ここで骨まで凍るきびしい一夜を過ごしたあと、まさに進軍を再開しようとしているところであった。敵はみごとに反撃にうつり、たちどころにアブドゥッラを釘づけにしてしまう。機関銃の小止みない射撃の音がたちまちいちめんに広がり、ときおり砲声までまじるのが、遠くわれわれのところまで聞こえてくる。耳は、眼で見るのと同様に現状を教えてくれ、しかもこの状勢は申しぶんない。わたしはゼイドにこの判断を告げてただちに進撃にうつることを提案したが、ゼイドは慎重に、前衛にいる親衛隊のアブドゥッラから、正確な報告が来るまでまとうと主張する。
そんな必要はない、兵書によればまるで必要ないのだけれど、彼らはわたしが本職の軍人ではないことを知っていて、そのせいで、うむを言わせぬ場合でさえも、わたしの進言に二の足を踏む権利をもっていると思いこんでいるのである。しかし、わたしには、そんな思惑より倍も値打ちのある手段があったから、彼らの決定を反故《ほご》にするために自分自身で前線にむかった。途中でわたしの親衛隊にあったが、連中と来たら、さも興味深そうに、往来に転がっている村人が持ち出した品物の数々を、ためつすがめつひっくり返している最中だった。ラクダを取りもどし、ホッチキス自動小銃を持って、大至急、峡谷の北側の土手に集結するよう命令をくだす。
道はイチジクの枝が青い蛇のようにうねる森に入る。いかにもイチジクらしく、大自然がすべて緑深いいまになっても、若葉ひとつない裸木だった。ここから道は東に曲がり、蜿々と谷をうねって頂に達している。わたしは道を離れ、断崖をまっすぐによじ登る。裸足で歩くことの利点が岩登りにさいして改めて発揮される。足もとが信じがたいほど確かなのだ。もちろん足の裏が、苦しい無理強いのあげく固くなるか、鋸《のこぎり》のようなぎざぎざや、ざらざらの岩肌にも痛みを感じないくらい冷えきっていなくては無理だろうが。この登りで身体がぬくもり、同時に時間もずいぶん節約できて、たちまちのうちに頂に出る。わずかに平地があり、そのむこうが平原を見下ろす突端の尾根である。
この突端のまっすぐのびる土手には、ビザンティン時代の建物の基礎が残っていて、タフィレ防衛の予備陣として、あるいは最後の死守線として、絶好の場所であろう。念のために言っておくと、われわれにはまだ予備兵力など一兵もなく――誰ひとり、どこにしろ、予備の兵員や火器を配備しておくことなど考えてもいなかったが――しかし、何者にしろ予備兵力が工面できさえすれば、布陣すべき場所はここをおいて他にない。と、まさにその時、ゼイド個人のアゲイル部族親衛隊員が遠慮がちに窪地に身をひそめている姿が見えた。彼らを動かすためには、連中の辮髪もほどけるくらい力強いことばを必要としたけれども、ついにこの予備陣の尾根のスカイライン沿いに彼らを坐らせておくことに成功する。全員で二十名ばかりだが、遠くからみればなかなかみごとなもので、相当な兵力の「先鋒」に見えるだろう。わたしは命令を与えたしるしに自分の印璽《いんじ》を与え、あとから来た者はことごとくここに集結するように、特に自動小銃を持っているわたしの部下にはここを固めさせるようにと命じる。
北の戦場をめざして歩く途中で、ゼイドに報告にむかうアブドゥッラに会う。弾薬を使い果たし、砲撃のため部下五名を失い、自動小銃一丁をつぶされたという。トルコ軍の大砲は二門らしいとのこと。そして彼の意見も、ゼイドは全軍をひきいて戦うべきだというものである。となれば、彼の報告にわたしから付け加えるべきことばは何ひとつなく、わが幸運な首脳部にすきなだけあれこれ論議させたところで、彼ら自身が正しい決定をくだすことを妨げる微妙な要素は何ひとつない。
アブドゥッラのおかげで、いずれ戦場となるはずの舞台を研究する時間のゆとりができた。小さな平原は奥行き約二マイル、低い緑の尾根に囲まれ、予備陣をはった尾根を底辺として、ほぼ三角形を形づくる。小平原のなかをケラクへの道筋が走り、ヘサ峡谷へと下っている。アブドゥッラの突進によって西側、すなわち左手の尾根は味方の手中にあり、そこが現在の火線だった。
この平原をつっきろうとすると、砲弾が降り、ニガヨモギの固い茎がわたしの傷ついた足を刺す。敵の山砲の導火線は長すぎて、砲弾は火線の尾根をかすめながら、はるか後方の平原で炸裂する。一弾はすぐそばに落ち、まだ熱い弾頭から、わたしはその砲弾の口径を推定する。わたしが進むにつれて敵は射程をちぢめ、最前線の尾根にたどりつくころには、すでに榴霰弾の雨を思いのままにばらまいていた。あきらかにトルコ軍は、なんらかの手段で着弾観測をしていると思い、あたりを見まわすと、ケラク街道のはざまのむこうを、東側の斜面を巻いて登ってゆく敵軍が眼にうつった。まもなく、われわれの拠るこの西側の尾根の側面をついてくるだろう。
「わが軍」はその数およそ六十、尾根の蔭にふたつに分かれてかたまっていることがわかる。一隊は尾根の麓ちかく、一隊は稜線ちかくである。下の方は疲れはて、みじめなさまの、徒歩《かち》の農民たちであったが、それでも、この日わたしの見た唯一の心温まる情景であった。弾丸を撃ちつくし、もうなにもかもおしまいだと言う。まだ始まったばかりではないかと激励するとともに、人影の多いわが予備陣を指さし、あそこの援軍に武器はみんなそろっているぞと伝える。大至急戻って、弾帯をふたたびみたし、最後まで死守するんだぞと命じ、きみたちが退却するまで、こちらはここであと何分間かは持ちこたえて援護してやるからと言ってやる。
農民たちはすっかり元気になって走り去った。わたしは上の方の集団のなかを歩き回って、つぎの地点から射撃する準備がととのうまでのあいだ、なぜこの地点から射撃しつづけないといけないか、説明する。指揮をとっているのは若いメタアブで、めざましい奮戦の末、いまや短い乗馬ズボン一枚の半裸となり、黒い辨髪もゆがみ、顔も汚れて、ものすごい形相だった。両手を打ちならし、焦りと苛立ちに声を嗄らして督戦《とくせん》している。われわれの味方として戦う初戦だったから、なんとしてもみごとな戦いぶりを見せようと必死だった。
最後の瀬戸際になって、しかもトルコ軍が突破をはかろうという折りも折、わたしが顔を見せたことは、この若者にとってはにがにがしいかぎりであったろう。わたしがただ地形の偵察に来ただけだというと、若者はすっかり腹を立ててしまう。ひどく軽率な行為とうつったらしく、戦場に武器も持たずにのこのこ出てくるキリスト教徒についてなにやらわめきたてる。わたしもクラウゼヴィッツの警句でやりかえす――例の、後衛部隊は行動によってではなく存在によって目的をはたす、というやつである。が、若者は笑おうともせず、またたぶん若者のほうが正しかっただろう。われわれが身をひそめていた小さな燧石の隆起は、敵弾のためにいまにも崩れそうだったのだから。トルコ軍はわれわれがここに隠れているのを知って、二十基もの機関銃を投入した。隆起の高さは四フィート、幅は五十フィートほどだが、草一本もない燧石の山肋《さんろく》で、弾丸が当たってははじけとぶ音で耳も聾《ろう》せんばかり。頭上にはうなりをあげ、あるいはひゅうと鳴って跳ね弾や岩の破片が飛びかい、頭をのぞかせようものなら、たちまち一巻の終わりだろう。もはや、すぐにも撤退しなければならないことは明白である。わたしには馬がなかったから、最初に後退することになる。メタアブは、なんとかこの場で、あと十分間は持ちこたえてみせると約束する。
走ることで身体がぬくもってくる。わたしは歩数を数えて、トルコ軍が味方を追い払ったあと、奴らに射程をあわせる便宜をはかろうとする。ここだけが南側からの攻撃にたいしてわずかに援護物のある唯一の場所だから、敵が陣を敷くとすればここしかないからである。このモタルガ部族の拠る尾根を放棄することによって、われわれはおそらく戦闘に勝ちを収めることができるであろう。モタルガ部族の騎兵はほとんど十分ちかく敵の攻撃を支え、それから無事、馬を走らせて後退してくる。メタアブがあぶみ綱につかまらせてくれたので、わたしは馬とともに駈けぬけ、息をはずませてアゲイル部族部隊のなかに飛び込む。ちょうど正午であった。まだ考えをまとめるだけの静かな時間の余裕があった。
こんどの拠点の山肋《さんろく》は四十フィートも高みにあって、まもる側にとっては申しぶんない地形である。すでに八十名がこの尾根に集まり、あとから加わる者が引きもきらず、わたしの親衛隊もしかるべき場所に自動小銃を持って布陣している。機関車こわし屋のルトフィがふたりの部下とともに威勢よく駆け登ってくると、その後を追うようにアゲイル部族がなお百名も駆けつけてくれる。予備軍はしだいにピクニック気分になり、「みごとだな」といっては、むやみにうれしそうに戦場を見下ろしている。こちらは部下たちに難題を吹っかけ、自分たちの立場を冷静に考えさせようと努めたくらいだった。自動小銃を稜線に並べて、ときおり、短時間、射撃することを命じる。トルコ軍を少々じゃまだてはするが、しかし、じゃましすぎないように――マッセナ元帥が敵軍の展開を遅らせるためにとった戦術にならって。そうでもしなければ緊張が保てなくなる。わたしはわずかに日射のある風のない物蔭に横たわり、恩寵にみちた一時間の眠りをむさぼる。そのあいだにトルコ軍は先ほどの尾根を占領し、まるでアヒルの群れのように、智慧もまたアヒルなみに、そのうえに展開する。わが軍は敵をほったらかしにして、奴らが自分の姿をまるまるさらけ出すさまに満足していた。
午後もなかばになって、ゼイドが、マストゥル、ラシム、アブドゥッラとともに到着する。彼らは主力部隊を引きつれてやってきた――ラバに乗った歩兵二十名、モタルガ部族騎兵三十騎、村人二百名、そして自動小銃五挺、機関銃四基、加えてメディナ、ペトラ、ジュルフと歴戦のエジプト軍山砲一門である。堂々たる出陣と言うべきだろう。わたしも眠りからさめて出迎える。
トルコ軍は密集したわが軍を見て、榴霰弾と機関銃の火蓋を切る。が、射程がわからないため、むなしく空を撃った。われわれは顔を見合わせ、移動することが兵法の基本であることを思いおこし、動きはじめる。ラシムが騎兵隊長となり味方の騎兵全員八十騎をひきいて馬にまたがる。東側の尾根を迂回して敵の左翼を包囲するためである。兵書にも、攻撃は全線に対してではなく一点に集中して行うべきだとあり、いかなる翼陣も有限である以上、敵の前線にそって十分に遠ざかってゆけば、ついには敵は翼端のただひとりになってしまうからだ。騎兵隊の目標はこうなるというわたしの見方は、ラシムもおおいにきにいったらしい。
ラシムはニヤリと笑うと、そのいちばん端のただひとりとやらを捕虜にして連れてこようと約束する。が、ハムドゥ・エル・アラルのほうが、それを上回る出陣の作法を見せてくれた。馬に乗ってでかけるに先だち、ハムドゥはアラブの大儀のために死に至るまでわが身を捧げることを誓い、おごそかに剣を引き抜くと、その剣に呼びかけ、雄々しい演説をやったのである。ラシムのほうは自動小銃五挺を携行したが、これも悪くなかった
われわれ中央の主力は隊伍を組んで練り歩いてみせる。騎兵隊の出撃を敵の目からごまかすためだった。いっぽう、敵軍は、見たところきりがないくらい機関銃を持ち出しては、尾根沿いに左手にむかって一定の間隔をおきながら、まるで博物館のように陳列してみせる。狂気の沙汰の作戦だった。尾根は燧石で、トカゲの隠れる蔭さえない。弾丸が大地にあたると、弾丸が跳ね、燧石が飛んで、死をもたらす雨となって降り注ぐことは、こちらがすでに経験済みなのに。しかもこちらは射程までわかっていたから、ヴィッカーズ機関銃の銃口を注意ぶかくあげていきながら、この古風な機関銃の長い射程を祝福する。山砲も照準を合わせて砲口をあげ、ラシムの攻撃準備がととのったとたんに、いつでも敵の頭上に榴霰弾の不意打ちを浴びせる準備を終えた。
待機中に援軍到着の報がはいる。アイマ部族百名で、前日、従軍給与の件でゼイドと袂《たもと》をわかったばかりだったが、この危機にさいして、あっぱれにも過去のことは水に流す決心をしたのだという。彼らの来援によってわれわれはフォッシュ元帥の戦法を棄て、とにかく三方から同時に攻撃に転じる決断をくだす。そこでアイマ部族部隊は自動小銃三挺をもって、敵の右翼、すなわち西側の側面を衝くために出撃する。そこではじめて、われわれ中央の主力はトルコ軍にむかって火蓋を切り、むきだしの全線に弾丸と跳弾《ちょうだん》の雨を降らせてさんざんに悩ませる。
敵軍の老将軍ハミドゥ・ファフリは幕僚と司令部要員を集め、各人に銃を取れと命じる。「余は四十年間軍籍にあるが、いまだかつて叛乱軍ごときがかかる戦いぶりを見せたことを知らぬ」と。しかし、すでに手遅れであった。
ラシムが前進して、五挺の自動小銃で攻撃をかける。一挺につき、射手ふたりを組ませて配置しておいて。騎兵隊は疾風のごとく戦場に現れ、敵が気づいたときにはすでに位置につき、トルコ軍の左翼をつぶす。アイマ部族軍は、自分たちの村の牧場ともいうべき戦場だから、一木一草にいたるまで知りつくしており、まったく無傷でトルコ軍機関銃座にあと三百ヤードのところまで忍び寄った。敵は我が軍の正面からの攻撃に注意を奪われ、一斉射撃の奇襲によって機関銃手をことごとくなぎ倒され、右翼が大混乱に陥ってはじめて、アイマ部族軍の存在を悟るしまつだった。
これを見て、われわれは大声でまわりのラクダ騎兵や徴募兵に突撃を命じる。ラクダにまたがったゼイド家の執事モハメッド・エル・ガシブが風をはらんできらめく衣装に身を飾り、頭上にアゲイル部族の真紅の軍旗をはためかせながら、先頭に立つ。中央に残っていた者たちすべて、従者も、砲手も、機関銃手も、幅広い横隊に展開しながら、勇ましくモハメッドのあとにつづく。
この日は、わたしにとって、長すぎる一日だった。いまはただ、戦いの結末を早く見たいと願いながら、寒さに震えているばかりである。しかし、わたしの横にいるゼイドは、沈む夕日に照らされて赤く染まった凍てつく戦場に、われわれの作戦が手順どおり、みごとに展開するさまを見て、喜んで拍手を贈る。一方ではラシムのひきいる騎兵隊が、崩れ立つ敵の左翼を尾根のむこうの窪地にひとりのこらず追い落とし、他方ではアイマ部族部隊が血煙を上げて逃げまどう敵兵を切り倒す。敵の中央は算を乱し、雪崩うって、峡谷へと逃れ、見方の兵士が、徒歩で、馬で、ラクダで、これを追撃する。われわれの背後で一日中心配そうに息をひそめてうずくまっていたアルメニア人までが、いまや短剣をぬきはなち、互いにトルコ語で怒号し合いながら跳び出していった。
わたしは、戦場とケラクのあいだに横たわる深淵を思いうかべる。あのヘサ峡谷の崩れた断崖の道を、下生えを、いたるところで狭まって隘路《あいろ》をつくる行程を。いままさに大虐殺が行われようとしており、わたしは敵軍の運命に慟哭すべきであったろう。だが、例の怒りの発作と戦闘に力をつくしたあとで、わたしの精神はくたくたに疲れ果ててしまい、とうていそんな恐怖の現場に降りていって、敵の生命をすくうためにこの夜をついやす気持ちにはならなかった。一戦まじえようというわたしの決意から、わたしは六百名の味方から二、三十名の戦死者を出し、負傷者にいたってはおそらくその三倍にものぼるだろう。つまり、名目だけの勝利のために、わが軍の六分の一を失ったことになる。この哀れな一千名のトルコ軍を壊滅させたところで、戦局の大勢にはなんの影響も与えはしないのだから、やはり、名目だけの勝利と言うしかあるまい。
けっきょくのところ、われわれは敵の曲射山砲二門(スコーダ砲で、こちらにはとても役に立った)、機関銃二十七基、馬とラバあわせて二百頭、そして捕虜二百五十名を手に入れたことになる。疲労困憊した敗兵として鉄道まで帰りついた者、わずかに五十名という。道筋のアラブ人たちが蜂起し、走り去るトルコ兵を、心なくも狙い撃ちしたのだった。わが軍の兵士そのものは、早々と追撃をやめてしまった。疲れと痛みと飢えと、そして情け容赦なく冷えこむ夜のせいである。戦闘は、将軍たちによっては、この勝利の瞬間こそスリルにみちたものであっていいはずだが、ふつうは想像力のほうが事前にあまりにも生き生きと働きすぎるために、現実のほうが虚構のように思えてしまう。あまりにも静かで、どうでもいいことのように感じ、想像の中にあった核心をもとめて戦場をさまようばかりである。この夜は栄光のかけらも残ってはおらず、ただ、先ほどまで味方の兵士であったものたちのおそろしくも無惨な屍《しかばね》が、われわれの目の前を、故郷にむけて運ばれていっただけであった。
戦場に戻ってくると雪が降りはじめ、ひどく遅くなってはじめて、それも最後の気力をふりしぼって、われわれは味方の負傷者を収容した。トルコ軍の傷兵は野ざらしのまま、翌日にはもう死んでいた。次の日も、その次の日も、吹雪はいっそう吹きつのった。われわれは荒天に閉じ込められ、単調な日々をすごすうちに、行動の意志まで失っていった。勝ちに乗じてケラクのむこうまで押し出し、流言を放ってトルコ軍をおびやかし、アンマンに追い込むべきところである。が、現実はこのとおりで、あれほどの犠牲と努力をはらいながら、われわれは何ももたらすことができなかった。ただ、わたしがパレスティナの大英帝国司令部に報告を送り、幕僚の貪欲な胃袋をみたしただけである。司令部はこの報告がおおいに気に入り、無邪気にもこのパロディに箔をつけるために、わたしに勲章をくれて、いっそう茶番の味わいを深めてくれたのだった。
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冬に閉じ込められたアラブ軍で雑踏するタフィレの倦怠をのがれて、ロレンスは部下の給料を支払うために、アカバへ金貨を取りにゆく決心をする。帰途、同行したのは、宿営地にむかうホウェイタ部族六名と、アテイバ部族二名であった。
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その朝、夜明けとともに、われわれは片手にサレフのパンを囓《かじ》りながら出発する。上りにさしかかると、セルジュは頂を仰いで「山が頭巾をかぶっている」と言う。どの頂上も白い雪のドームをいただいていた。ふたりのアテイバ部族、セルジュとラメイドは好奇心にかられ、ラクダを急がせて峠をのぼり、このはじめてみる驚異に自分たちの手で触れてみようとする。ラクダもまた雪を知らず、ものうげであってもふしぎそうに、ゆったりと首を伸ばして二度、三度と、その白いものを嗅いでいたが、やがて首をひっこめると、ふたたび興味を示すことなく、まっすぐ前方を見やった。
われわれがのんびり進んだのも、わずかの間であった。最後の尾根から頭をのぞかせたとたん、北東の風がわれわれをくわえ込み、一瞬の間もない咬みつくような寒気に、呼吸さえできなくなって、あわてて山蔭に逃げ込む。この風を真正面から立ちむかっては生命さえ危ないと思う。しかし、そんなふうに感じたりするのは馬鹿げたことだということくらいはっきり分かっているのだから、勇気をふるい、ラクダに鞭を入れて、この最初の難関を強行突破して半ば風をさえぎっている谷間に入る。セルジュとラメイドははじめて経験する肺の痛みに恐れおののき、窒息するのかと思いこむ。
むこうの高地に出ると、風は敵軍さながらに、われわれをさんざん痛めつける。夜の九時くらいになると、他の連中は泣きながら大地に身体を投げ出し、もう一歩も進みたくないと言いはなつ。わたしもまた、ほとんど泣き出したいくらいで、じっさいは他の連中の手放しの号泣にうんざりして、かろうじて持ちこたえていただけであった。だから、表向きはしぶしぶ連中のやることに譲歩しながら、内心ではほっとしていた。われわれは九頭のラクダで方陣をつくり、すっかりいい気分になってその中に横たわった。まるで夜の海に漂う船に大波が打ち寄せるような大きな音を立てて、吹きすさぶ破滅が周囲に押しよせる音に耳をすませながら。見えるかぎりの星は美しくきらめいているが、頭上を飛ぶ雲の切れ間に、欲しいままに星座を変え、位置をうごかしているように見える。われわれには、めいめい、軍用毛布二枚と焼いたパンの包みひとつがあったから、悪霊にたいして武装していたわけで、泥と寒さの中で安全に眠りをむさぼることができた。
夜明けとともに、すっかり元気を回復して前進をはじめる。しかも天候までおだやかになって、灰色の空のなかにぼんやりと、悲しげに、ニガヨモギに覆われた丘陵地帯が浮かんでいる。斜面にはこのきわめて年老いた大地の肋骨である石灰岩脈が力なく露出していた。窪地にさしかかると、泥濘《ぬかるみ》のために困難がます。霧ふかい沢は融雪のゆるやかな流れに変わり、とうとうまた、霏々《ひひ》として霙《みぞれ》が降りはじめた。まだ昼日中なのにまるでたそがれ時を思わせる薄明かりのなかを、荒涼としたオドゥロの廃墟に着く。風は吹いたり止んだりだが、層雲がゆっくりと流れ、われわれを包みこむように小雨が降りしきる。
わたしは、現在地とショベクの間にあるベドウィン族の宿営地を避けて進路を右手にとる。だが、同行のホウェイタ部族は、まっすぐに自分たちの宿営地に連れて行こうとする。七時間かかってやっと六マイル進んだだけなのに、彼らは疲れ果てていた。アテイバ部族ふたりは疲れ果てているばかりではなく、気力まですっかり失っていて、反抗的に、ベドウィン族の宿営地に立ち寄らせない力などこの世にあるものかと、誓言まではじめるしまつ。われわれは道ばたのやわらかな吹きだまりに埋まりながら言い争った。
わたし自身はまったく元気で気分も上々だったから、必要もないのに部族のもてなしを受けて遅れてしまうなんて、まっぴらだった。エドムの冬と自らの力をきそう試みに、ゼイドの一文なしの状態はかっこうの口実である。ショベクまでわずか十マイル、ラクダを走らせるためには、まだ五時間、昼間の明かりが残っている。そこでわたしは単独行動をとることにきめる。何しろこんな天候では、トルコ兵にもアラブ人にも出会うはずはないから、その点ではなんの心配もない。道筋はわたしひとりのものである。わたしはセルジュとラメイドから四千ポンドを取りあげ、ふたりを罵《ののし》って臆病者の谷間に追い払う――が、事実は、ふたりともけっして臆病者などではなかった。ラメイドは息もつけないほど啜《すす》り泣き、セルジュの心の痛みは、ラクダがひとゆれするたびに思わずもらす呻き声ではっきりとわかった。ふたりとも、わたしが解雇を申しわたし、背をむけたとき、みじめな怒りに気も狂わんばかりであった。
真の答えは、わたしがいちばんすぐれたラクダに乗っていたことにある。あっぱれなウォドヘイハ号は、まるでゲームを楽しんでいるように、余分の金貨の重みにもめげず、悪路を進んでゆく。平坦な場所ではラクダに乗り、上り坂でも下り坂でもラクダから降りて並び、滑稽な失敗を重ねながらいっしょに足を滑らしていたが、ラクダはむしろ楽しんでいるように見えた。
日没には雪も止み、ショベク川への下りにかかる。川向こうの山腹をうねりながらショベク村にむかう茶色の道筋が見えた。わたしは近道をこころみ、氷が張りついてぬかるんだ川岸を隠しているのに気づかず、まるでナイフのように鋭い薄氷を踏み抜いて泥沼に落ちこんでしまう。ひどく深々と沈んでしまって、ぬかるみに浮いたり沈んだりしながら一夜を過ごす羽目になりはしないかと、おじけをふるった。でなければ、すっぽりと頭まで沈んでしまうわけだが、そうなればもう、なんの痕跡も残さず死んでしまうことになる。
ウォドヘイハ号のほうは勘のいい動物だから、沼地に足を踏み入れたりはしなかったけれども、途方にくれたように固い地面のふちに立って、まじまじとわたしの泥遊びを見つめていた。しかしながら、やっとの思いで、まだ手に握りしめていた面繋《おもがい》をたよりに、なんとかラクダをほんの少し近寄らせる。そうしておいて、思いっきりぐじゃぐじゃする沼地にむかって仰向けざまに身体を倒し、必死で頭のうしろのところを手さぐりして、なんとかラクダのひずめのすぐ上をつかまえる。ラクダは驚いて後ずさりし、その力でわたしの全身をぬかるみから引きずり出してくれた。われわれは這うようにして川床をはるかに下り、安全な場所を見つけて、この沢を渡る。そのあと、わたしはおずおずと流れのなかに腰を沈め、いやなにおいのする分厚い泥を洗い落とした。
寒さにふるえながら、わたしはふたたびラクダにまたがり、尾根を越え、形のいい火山堆のふもとまで下りる。その切り立った山頂にはモンレアルの古城の円型の城壁が、まことに気高く夜空にそびえていた。白雪は固く凍りはじめ、この山を巻いてのぼる螺旋状の小径の両側には一フィートばかりの雪の吹きだまりがあった。裸足の足のうらに白い氷を踏みくだく孤独な足音を聞きながら城門に近づき、華やかな入城を行うために、おとなしいウォドヘイハ号の肩につかまって鞍にまたがる。とたんに後悔する羽目になった。ラクダは古城の異様な雰囲気になかばおののきながら城門のアーチを駆け抜け、その時わたしは迫石《せりいし》にぶつかりそうになり、とっさにラクダの首にそって横ざまに身体を倒して、あやうく難をまぬがれたからである。
ショベクにはまだシェリフ・アブドゥ・エル・マインがいるはずだから、大胆にも星明かりの下に静まりかえる往来にラクダを歩ませる。星の明かりは白じろと|つらら《ヽヽヽ》に戯れて壁のうえにその影を落とし、屋根の雪を、大地の雪を浮かびあがらせる。ラクダはおぼつかなげに、深い雪に覆われて見えない階段につまずいてよろめくが、わたしはもうそんなことなど気にしなかった。すでに今夜の目的地に到着し、しかも、落ちたところで粉雪の毛布につつまれるだけなのだから。十字路まで来て、わたしは佳《よ》き夜の挨拶を大声で叫ぶ。と、まもなく、呪いのことばが嗄《しわが》れた声で返ってきた。右手の賤《しず》が家《や》の狭間《はざま》をふさいだ分厚いズックごしにである。アブドゥ・エル・マインの所在を問うと「政庁に」との答え。この城壁のなかでもいちばん奥まった場所である。
政庁に着くと、わたしは再び大音声に呼ばわる。扉がひとつ、ばたんと開き、怖れ気もなく一筋の煙ったような光があふれて渦巻く塵埃を照らし、その中からいくつもの黒い顔がのぞいて、声のぬしは誰かと訊ねる。わたしは親しげに彼らの名前を呼び、ご主人と羊の食卓で手合わせを願いたいと申し込んだ。とたんに奴隷たちは驚いてばたばたと道に走り出て、わたしをウォドヘイハ号から助けおろし、ラクダを自分たちの住居である湯気のこもった厩舎に導く。ひとりが燃える松明《たいまつ》でわたしの足もとを照らし、石段を登って邸の戸口まで案内してくれ、そこからは大勢の召使いに囲まれて破れた屋根から滴のしたたる回廊をぐるぐるとくだり、小さな一室に入った。その部屋の絨緞のうえにうつぶせに横たわって、アブドゥ・エル・マインがいちばん煙の少ない空気を吸い込んでいる。
わたしの両脚はぶるぶるとふるえ、どしんとアブドゥのかたわらに倒れ込むと、よろこんで同じ姿勢をとった。厚い外壁をえぐる銃眼のところでぱちぱちとはぜる、真鍮の火鉢で燃えたつ薪の息づまるような煙を避けるためである。アブドゥは手探りで腰布を一枚さぐりあてると貸してくれる。わたしのほうは着ているものを脱いで火の前のスティームにぶらさげた。火はやがて燃えつき、赤い燠《おき》に変わって、目も喉もずっと楽になった。そのあいだにアブドゥは手をたたいて夕食をいそがせ、何度も熱い香料入りの「ファウザン」(ハリス氏族の俗語で紅茶の意。村の長であるアブドゥの従兄がそう呼びはじめたという)をふるまってくれる。やがて、干し葡萄とバターで煮込んだ羊肉が運びこまれた。
この大皿に盛った馳走を前に、主人は明日から飢えるか盗みを働くかあるまいと説明してくれる。部下はここに二百人もいるのに、食物もなければ金もなく、フェイサルに送った使者はすべて雪で足どめをくらっているのだから、と。そこでわたしもまた手をたたいて、鞍袋をもって来させ、フェイサルから軍費がとどくまでの内金として、五百ポンドを贈った。申しぶんのない食事代である。ふたりはまことに陽気に、大枚の金貨を積んで冬の単独騎行をするわたしのおかしな趣味を笑った。
一時間後、アブドゥ・エル・マインは、新たにショベク部族の妻をめとったばかりだから、失礼すると言う。話題は彼らの結婚にうつり、子供を作るのが目的だと言うので、わたしはタルススの老ディオニススの例を引いて抵抗をこころみてみる。どうして子供たちを喜びの眼で見ることができるのかね? 情欲をとげた具体的な証拠だろう? あの血だらけの母親から這いずりまわる虫のように出てくる眼の見えないもの、それがわれわれではないか、と。これは極上のジョークだとアブドゥは言って、そのあと、ともにぼろにくるまり、暖かい眠りについた。蚤がうじゃうじゃいたがわたしはアラブ風に虫どものいるベット対策として丸裸でねていたので、それほどひどい目にあわないですんだし、咬まれても疲れ果てていたから、眠りを妨げられることもなかった。
翌朝、起きてみると割れそうに頭が痛かったけれども、出発しなければならないと言いはる。同行するふたりの者を見つけておいてはくれたものの、みなは異口同音に、今夜のうちにタフィレに着くはずはないと言う。そうかもしれないが、昨日よりひどいことになるなどとは考えられぬとわたしは答え、三人で急な坂をおずおずと平原にむかって滑り下る。平原をよぎって今なおローマ時代の道が走り、名高い皇帝たちの名前を刻みこんだ道標がいくつも転がっていた。
この平原から、二人の臆病な同行者は、あの城のある丘の仲間たちのもとへと逃げ帰ってしまう。わたしは前日と同じに、かわるがわるラクダに乗り、徒歩で進む。とはいえ、今日は、道筋はむやみに滑った。もっとも、いまのトルコ人の役割を、かつてそっくりそのまま砂漠の住民たちにたいして演じたローマ帝国の最後の足跡である、古代の舗装道路だけは別で、そこではラクダに乗ることもできる。が、十四世紀にこの地方を襲った大洪水が基礎もろとも道路を押し流してしまった個所では、ラクダを降りて歩き、水溜まりを渡らねばならない。雨が降りはじめ、ぬれねずみになる。やがて雨が上がると同時に寒風が吹きつのり、白い絹の衣裳が凍り付いて鎧のようになって、ばりばりと音を立てる。芝居の騎士さながら、それとも、かちかちに凍らせた結婚式のケーキさながらと言うべきだろうか。
ラクダとわたしはこの平原を三時間で横断する。すばらしい道行きだった。が、その先に難所が待ちかまえていた。雪は逃げ去った案内人のことばどおり、小径を完全に覆いかくしている。うねうねと曲がりながら壁の間を、溝の間を、とんでもない小石の山を縫って、山腹をのぼっているはずなのだが。最初のふたつの曲がり角をこなすだけで、わたしは無限の苦痛を味わう。ウォドヘイハ号も、骨っぽい脛を白いもののなかでむなしくもがきながら進むことに疲れ、はっきりわかるほど参りかかっていた。それでも、ラクダは険しい道をわずかにつめたが、張り出しのところで路肩をはずしてしまう。いっしょに山腹を十八フィートばかりも滑り落ち、凍りついた表皮を破って、雪だまりのなかに一ヤードももぐってしまう。転落のあと、ラクダは立ちあがって一声なくと、そのまま、小きざみに全身を震わせながら動かなくなった。
もし牡のラクダなら、いったんこのように動かなくなってしまえば、もうその場を動かず、何日かあとには死んでしまう。いまやこの牝のラクダさえ体力の限界に来たのかと、わたしは気が気でなかった。わたしは首まで雪にうまりながら、ラクダの前にまわり、雪だまりから引き出そうとするが、どうにもならない。こんどは後ろに回ってながいあいだ鞭を入れてみる。つぎは乗ってみると、ラクダは坐りこんでしまう。あわてて跳び降りると、引っぱり起こしながら、この雪だまりが深すぎるせいではあるまいかと思いつく。そこで、わたしはラクダのために美しい小径を掘った。幅一フィート、深さ三フィート、長さ十八歩分である。道具といっても自分の素足と素手しかありはしない。雪の表面は固く凍っていて、まずそれをこわすために全体重をかける必要があり、そのあとで雪をすくい出すことになる。表層の氷は鋭く、ついにわたしの手首もくるぶしも傷だらけになって血がとまらなくなり、小径の両脇に桃色の結晶の縁どりができて、まるで薄い、ごく薄い、西瓜の果肉のように見えるのだった。
そのあとで、おとなしくその場で立ちつくしているウォドヘイハ号のもとに戻り、鞍によじのぼる。ラクダはすぐさま動いてくれた。のみならず小径を走り、スピードを上げて一気に浅い雪の上を駆け抜け、もとの道に出る。この道を、わたしは徒歩で先に立ち、杖で道筋をたしかめ、あるいは雪だまりの深いところでは新たに小径を掘ったりしながら、注意ぶかく登っていった。三時間後に頂上に立つ。が、西側の山腹には風が吹き荒れていることがわかり、このルートを棄ててひどく凹凸の多い尾根伝いに、おぼつかない足もとを踏みしめながら這うように進んでいった。眼下にチェス盤のようにつらなるダナ村の家々のはるか彼方、何千フィートも下の日だまりに、アラバの谷の爽やかな緑を見つめながら。
尾根を渡り終えると、それ以上はもうたいして苦労はなかったのだが、こんどはついに、ウォドヘイハ号が、ふたたび動かなくなってしまった。夜が近づいていることを考えると、事態はしだいに深刻さをますばかりである。とつぜん、わたしは孤独を意識する――もし一夜を救助の手のとどかぬこの山頂ですごす羽目になってしまったら、ウォドヘイハ号は、このじつに高貴な動物は、死んでしまうだろう。そのうえずっしり重い金貨のこともある――たとえアラビアであっても、六千ポンドの金貨を所有者の証明に印璽をつけてひと晩中道ばたに置きっぱなしにしておくとしたらどこまで安全といえるものか、わたしには確信がなかった。そこでわたしはラクダを曳いて、自分たちの足跡を逆に百ヤードばかりたどり、横斜面のところでラクダに乗ると、鞭を入れる。ラクダはこれに応え、われわれは一丸となって斜面を疾走し、ラシェイディヤのセヌッシ村を見下ろす北側の崖っぷちを越える。
山のこちらの斜面は風からまもられているうえに昼からじゅうぶんに太陽の光を受けて、すでに雪が解けかかっていた。表面をうっすらとおおう雪の下は水のにじむどろどろとした土である。ウォドヘイハ号が全力で駆けながらこの斜面にさしかかると、足をとられ、四本の足をまとめてまっすぐに伸ばしたまま、尻もちをついてしまった。そのために尻尾に乗ったかっこうになり、わたしを鞍に乗せたまま、ぐるりとひとまわりすると、百フィートばかりも滑り降りる。雪の下には小石がごろごろしていたから、おそらく滑降のために尻尾が傷ついてしまっただろう、平坦なところについたとたんに危なっかしく跳び起きて、唸り声をあげながら、まるで蠍《さそり》のように尻尾をふりまわす。それから、時速十マイルものスピードで、ぬかるんだ小径をラシェイディヤさして駆けくだった。足をすべらそうと、ぬかるみに足をとられようと、もう、いっさいおかまいなしに。わたしのほうは、ふりおとされでもしたら骨折はまぬがれまいと、必死で鞍の前輪にしがみついていた。
アラブ人が大勢、それもフェイサルのもとにおもむく途中に荒天でここに足止めになっていたゼイドの部下たちが、ひづめの音も高々とウォドヘイハ号が近づくのを聞きつけて、いっせいに往来に走り出てくると、かくも目覚ましく村に乗り込んでくるわたしを、歓呼の声をあげて迎える。彼らになにか変わったことはないか訊ねると、全員無事という答えが返ってくる。そこでわたしはふたたびラクダにまたがり、残りの八マイルを走ってタフィレに入り、ゼイドに手紙と金の一部を渡すと、いそいで寝床にむかった――この夜もまた、蚤など少しも気にならなかった。
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しかし、これほどの思いで運んだ春季攻勢のための軍資金総額三万ポンドを、ロレンスがケラク付近の調査に出かけているわずかのすきに、ゼイドは一文のこらず、付近のシェリフたちにばらまいてしまった。
また、前年の十一月、ロシア革命の結果、政権を握ったボルシェヴィキが、ロシアの関係する秘密協定をすべて公表し、その中には二年ちかくもフェイサルに伏せてあった「サイクス=ピコ協定」もあって、ロレンスは苦境に立つ。オスマン・トルコ帝国の中東領を戦争終結のあかつきには英仏で分割統治しようという、アラブ独立の大義とはおよそ相容れない内容の秘密協定である。
そしてまた、このタフィレ会戦を最後に、いわば個人的才幹を中心に動く武勲詩の時代は終わりを告げる。砂漠の戦闘はやがて「統制」にむかい、アラブ叛乱軍は名実ともにアレンビー軍の右翼として組み込まれ、ついにはロレンス自身、にがにがしげにこう書きつける日がくる――いまや砂漠はまともではなくなった。まったく恥ずかしいくらい通俗的になってしまった、と。
春の到来とともに、戦線はふたたび活溌になった。アレンビーはいまやダマスカス攻略作戦の最終的立案に着手する。この攻勢によって、トルコ軍に最後のとどめを刺すはずであった。第一段階はアラブ軍によるアカバ北東の巡礼列車の要衝マアン占領と、アレンビー軍による、ヨルダンの彼方の村サルトの占拠である。しかしながら、ふたつの作戦はともに失敗し、わずかに巡礼鉄道に打撃を与え、メディナ切り離しを達成したのみにとどまった。
この不運に、さらに大きな不運が追い打ちをかける。まさに大攻勢を開始すべき予定の日、五月五日になって、ロレンスはアレンビーから計画を四、五カ月延期するのをやむなきにいたった旨、伝達を受ける。麾下《きか》の精鋭部隊が、ドイツ軍の大攻勢を支えるためにフランス戦線に召還されたためであった。となると、トルコ軍はひと息つけることになって、続々補強部隊をくりだしてくるだろう。これを迎え撃つために、アラブ軍はデラア攻撃を受けもった。しかし、そのためには、至急にラクダが必要である。ロレンスはパレスティナのアレンビー軍司令部におもむき、ことばのあやにちかい機智によって、主計総監から乗用ラクダ二千頭を巻き上げる。フェイサルは歓喜し、アラブ軍の士気は大いにあがった。
秋期決戦を前に、英軍の維持する戦線は、大ざっぱに言って、海岸線のジャッファからヨルダン河の西岸ジェリコのちかくに至るものであった。アレンビーの「大攻勢」は海岸沿いに展開してこそ最も効果的だ。となると、前面のトルコ軍の兵力をどこかに割かせれば、作戦はいっそう有利に展開するはずである。アレンビーは、攻撃目標はヨルダン渓谷だと敵軍に信じ込ませる偽装作戦を展開する。
ジェリコ近郊に囮《おとり》の人馬を配備する。非戦闘員の大隊がいくつも昼間に渓谷へと行軍し、夜間にトラックに乗って帰ると、また翌日、渓谷へと行軍する。いくつもの橋をヨルダン河に架ける。アンマン地区に人をやって大量の糧秣を買い付けさせる。いっぽう、ジャッファでは、夜間に軍隊の移動を行なって、近郊のオレンジの果樹園に兵力を隠した。
この作戦でアラブ軍が受け持った役割は、デラアで巡礼鉄道を切断することによって、トルコ側の注意をヨルダン渓谷に釘付けにしておくことであった。ロレンスの親衛隊、英軍機二機、装甲車二台、アレンビーのラクダに乗る正規兵五百、ベドウィン族部隊からなる遠征軍は、大攻勢開始予定日の二日前にこの課題を完了すべく、アズラクを進発する。制空権はトルコ軍が握っており、爆破行は困難をきわめたが、ほぼ目標を達成することができた。ロレンス自身、デラアの南方ニシブにおいて、七十九回目の鉄橋爆破に成功する。九月十八日、「ダイナマイト王」最後の見せ場であった。
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八 ついにダマスカスヘ
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九月十九日、アレンビー軍は総攻撃にうつった。英第二十一師団の総力を投入してトルコ軍の戦線を突破し、第二十兵団とともに、二日目の日没までには敵第七、八軍を包囲しかかっていた。この勝利の報をロレンスはアズラクで知る。パレスティナから飛来した飛行機がもたらした第一報だった――「戦局は一転した。われわれは大至急このことをフェイサルに伝え、この機を逃さずアラブ人に総決起の大号令をくだすべきことを説いた。その同じ飛行機で、一時間後、わたしは無事パレスティナに到着していた」
九月二十日のことである。司令部では、すでに三方面から息もつがせぬ追撃にうつる作戦を決定していた。ニュージーランド軍はヨルダン河を超えてアンマンを占領し、後方のおさえにあたる。インド軍はヨルダン河を超えてデラアを攻略したのちダマスカスヘ。オーストラリア軍はヨルダン河を超えて長駆クネイストラを襲ったのち、同じくダマスカスに向かって進撃する。アラブ軍はこの三軍の支援にあたるが、全軍が集結するまでダマスカスヘの抜け駆けはつつしむようにとのお達しである。
ロレンスの飛行機増派の要請にこたえて、司令部はブリストル戦闘機二機と、補給にあたるハンドリ・ペイジ機を派遣する。翌日にはすでにロレンスはアラブ軍の前線にあり、翌々日にはフェイサル、ヌリ・シャッランら首脳も合流する。九月二十四日深夜、彼らは思い出話にふけりながら、ハンドリ・ペイジ機のマフラク駅爆撃を見物していた。車輌の密集する引込線が炎上し、トルコ軍の応射もやんだ。
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その夜、一座をさらったのは、トルコ軍がシャルケウイを奪回した直後のトルコのパシャ、エンヴェルの物語である。エンヴェルはジェミル公以下の豪華な幕僚をちっぽけな蒸気船に満載して視察におもむいた。
ブルガリア軍はシャルケウイを占領すると、トルコ人を虐殺した。ブルガリア軍の撤退とともに、ブルガリア人の農民も引き上げてしまった。トルコ人どもは殺そうにも誰ひとり見つからないほどだったという。ようやく、ごま塩の鬚をはやした老人が、軍司令官の餌食として船上に連行される。ついにエンヴェルは、事の成り行きにうんざりしてしまった。身近にはべる力自慢の士官ふたりに合図すると、暖炉の扉をぱたんと開けていった。「奴を押しこめろ」と。老人は悲鳴をあげたが、士官たちの力にはかなわず、老人の苦しみ悶える身体の上にぴしゃりと扉が閉ざされてしまう。「わたしたちは顔をそむけ、気分が悪くなって立ちさろうとしました。が、首をかしげて耳をすませていたエンヴェルが押しとどめるのです。で、わたしたちも聞き耳を立てていると、やがて、暖炉のなかから、もののはじけるものすごい音が聞こえてきました。エンヴェルはにっこり笑うと、何度もうなずきながら言ったものです――奴らの頭はいつもぽんとはじけるんだ、いまみたいにね、と」
ひと晩じゅう、そして翌日になっても、駅の車輌の火は燃え広がるばかりだった。これはトルコ軍|潰滅《かいめつ》の証拠であり、すでに昨日からアラブ人たちが噂している事態の裏付けであった。トルコ第四軍は、算を乱して、続々とアマンから逃走中だという。落伍者や弱い支隊を切り取っているベニ・ハッサン族に言わせれば、まるでジプシーの行列さながらだとのこと。
われわれは軍議を開いた。第四軍にたいするわれわれの任務は終わった。アラブ人の手を逃れた落武者どもは、デラアに辿りついたとしても、武器さえ持たない流浪の群れにすぎない。われわれの新しい努力目標は、力ずくで一刻も早くデラアを掃蕩《そうとう》し、トルコ軍がデラアで敗残兵を再編成して殿《しんがり》軍をつくることを防げることでなければなるまい。そこでわたしは、北進してテル・アラルを過ぎ、明日の夜明けに鉄道を越え、シェイク・サッド村に入ろうと提案する。この村のある地方はわれわれもよく知っているし、水も豊富で、見通しも申しぶんなく、万一、直接の攻撃にさらされたとしても、西側にも北側にも、南西側にさえ、安全に撤退できるではないか。しかも、この村はデラアをダマスカスから、そしてメゼリブからも切り離す要衝ではないか、と。タフィスのシェイク・タラルが、まず熱烈な支持を表明する。ヌリ・シャッランがうなずきナシルが、そしてフェイサルの正規軍副司令官ヌリ・サイドがあとにつづく。そこでわれわれは宿営地をひきはらう準備にかかった。
ナシルもヌリ・シャッランもタラルも、闇の中でわれわれを追い抜いて行ったらしい。われわれ混成軍は真っ向から吹き付ける執拗な風に悩まされながら、肥沃な農耕地帯の豊かな村々を過ぎ、北をめざして進軍する。馬に乗った連中がひきもきらず馳せ参じ、村々からは血の気の多い若者が走り出て、徒歩でわれわれの隊列にくわわる。金色の陽光のなかを密集した一団となって進むとき、われわれは、まれに見ることだが、われわれ自身が一体だと感じる――急速にわれわれはひとつの性格を備え、ひとつの有機体と化し、その全体としての誇りが各人の精神を昂揚させる。われわれは自分たちを取り囲むこのあまりにも胸迫る情景に、卑猥《ひわい》な冗談を投げかけてひびを入れ、笑いとばそうとするのだった。
正午に、われわれは西瓜畑に入る。正規軍は西瓜に群がりよったけれども、わたしの親衛隊は前方の陽光のなかにちらちらと震えている人気のない鉄道の偵察に出かけた。と、われわれの目の前を列車が通りすぎる。この鉄道が修復されたのはかろうじて昨夜のことで、これが三度目の列車であった。われわれはなんの抵抗にもあわず、一団となって二マイル先の線路に殺到し、手早く爆破を開始する。爆薬をもっている者は誰も彼も思いつくままに使い、何百人もの見習いまで熱中して、見様見真似で爆破にあたったから、爆破範囲はすこぶる広範囲にわたった。
われわれがここまで引き返してきていることが、敗北のショックから立ち直れない敵にとって脅威であることは明白だった。となれば、このチャンスを利用し、拡大することだ。そこで、ヌリ・シャッランやアウダやタラルがいるところまで出かけて、この地方でそれぞれどんな働きを請け合ってくれるか訊ねてみる。精悍なタラルはエズラアを襲撃しようと言う――北にある大きな食糧貯蔵駅である。アウダはヒルベト・エル・ガザラを――南にある同じような鉄道の駅である。そしてヌリは、部下をデラアにむかう幹線道路にやり、トルコ軍部隊を見つけしだい掃蕩することにしようと言う。
三案とも出色の策だ。首領たちはこの案を実行に移すために出かけ、われわれは再び縦隊を組んで予定の道筋を進み、月光のなかにものさびしく浮かびあがるシェイク・ミスキン駐屯地の廃墟を通過する。ここのかつての濠あとで何千人もが泥まみれになってしまったので、われわれは渡った先の切り株ばかりの平原で小休止し、夜明けを待つことになった。このハウランの粘土質の大地から立ちのぼる霧にたいして焚火をたく者もあれば、そのまま湿ってずるずるする大地に横たわって眠ってしまう者もいる。仲間をもとめて呼び立てる、あのアラブの村民特有の、鋭い、喉いっぱいの叫び声が聞こえてくる。月は沈み、地上は漆黒の闇で、とても寒い。
わたしは親衛隊を起こし、ラクダを早駆けさせて、夜明けにはすでにシェイク・サッド村にはいった。夜襲部隊が掠奪品を山とかかえて戻ってくる。正規軍も到着した。小さな森はたちまち雑踏する。各支隊はそれぞれ思い思いに空いた場所を見つけては、イチジクの樹のかたわらや、ナツメ椰子の樹の下や、オリーヴの木蔭で鞍をはずす。そのたびに小鳥たちがおびえて雲のように飛びたち、さまざまな声で鳴きさわいだ。部下たちは馬やラクダを曳いて、緑の草むらや花々や果樹の間を散歩しながら、水辺へとむかう。燧石だらけの砂漠を何年も駆けめぐったあとなので、われわれの眼にはすべてがものめずらしかった。
シェイク・サッドの村人たちがおずおずとフェイサルの軍勢を見物に出てくる。いままで、ひそひそと噂にのぼっていただけの伝説じみた代物にすぎなかったものが、いまや自分たちの村におり、しかも、タラル、ナシル、ヌリ、アウダら、あまねく知られた怖ろしい隊長たちに率いられて来ているのだから。われわれも村人たちを見つめかえす。心の中で、ひそかに彼ら、農民の生活をうらやみながら。
東のかなたはるかに、北に向かって移動する集団の黒い影が、三つ四つ現われる。われわれはホウェイタ部族部隊を差しむけた。一時間後彼らは大声で笑いながら戻ってくる。それぞれに、ラバや荷物を積んだ馬を引っぱりながら。哀れな、疲れ果てた、苦しげな動物たちのうえに、まざまざと敗軍のみじめさがにじんでいる。乗っていたのは英軍の手をのがれて敗走する武器ひとつ持たない兵士だったという。ホウェイタ部族はこんな連中を捕虜にするなどいさぎよしとしなかった。「彼らは村の餓鬼どもにくれてやったよ。奴隷にでもしろと言ってな」ザアルは薄い唇をゆがめて笑った。
西の方から、トルコ軍の小部隊が、オーストラリア軍の攻撃を避けて退却してきて、小さな村に着いたという情報がはいる。この連中にはナイムの武装部隊を差しむける。昨夜、シェイク・ミスキンで参加したばかりの農民部族隊で、ナシルの命を受け、彼らにできるかぎりのことをするはずであった。われわれがじつに長い時間をかけて準備した大衆蜂起は、いまや洪水さながらであり、成功のたびに武装した叛徒の数はいっそうふくれあがった。この二日間に行動を起こした武器をもつ叛徒の数は、おそらく六万人にものぼったのではあるまいか。
われわれはダマスカス街道で遭遇する小事件をつぎつぎに処理していった。と、やがて、デラアを隠している丘からもうもうと黒煙が立ちのぼった。一人が馬をとばして駆け込んできてタラルに伝える――独軍が飛行機や倉庫に火をかけ、すぐにも町を出る準備を終えた、と。英軍機が飛来して通信筒を落とす――インド軍はレムサ近郊にあり、またトルコ軍の二部隊が縦隊を組んで、デラアから四千、メゼリブから二千、それぞれこちらに向かって撤退中である、と。
この六千名は、デラアのトルコ第四軍と、インド軍の前進を阻んでいたトルコ第七軍の残存兵力のすべてだろう、と、わたしは思った。このふたつをつぶせば、この地でのわれわれの目標は達成されたことになる。しかし、それを確認するまでは、シェイク・サッドを動くわけにはいくまい。となると、大きなほうの縦隊四千名のほうは通過するにまかせ、わずかにハリドの率いるルアッラ部族部隊に北部の農民たち若干をつけて尾行させ、両側面と背後から追い立てるにとどめよう。
近いほうの二千名というのが、われわれには手頃な相手だろう。正規軍の半数と、ピサーニのフランス軍部隊の砲二門とでむかえうつことにしよう。タラルは、敵のめざす進路が彼自身の村タファスを通るのではないかと、気が気ではないようすだった。われわれをうながし、タファスに急行して南側の尾根を占拠する命令をもぎとる。だが、不幸にして、これほど疲れ切った部下にたいして急行といっても、それは単なる比較の問題にすぎない。わたしは親衛隊とともにタファスに走り、なんとか村の向こうで援護物のある場所に陣をかまえ、戦っては後退し戦っては後退しながら、本隊が到着するまでの時間かせぎをするつもりだった。道のなかばで、裸にひんむいた捕虜の一団をシェイク・サッドのほうへ追い立ててゆく、馬にまたがったアラブ人たちに出会う。彼らは情け容赦もなく捕虜をせきたて、鞭のあとが真っ白な背中に幾筋も青くふくれあがっている。が、わたしはとめなかった――このトルコ人どもこそデラアの警察大隊員であり、こやつらの非道のために近郊の農民の顔が涙と血で汚れたことが、数えきれないくらいたびかさなったのだから。
アラブ人たちは、トルコの縦隊――ジェマル・パシャの槍騎兵連隊が、すでにタファスにはいったと言う。村が見えるところまで来ると、敵が村を占領し、その一帯で休息していることがわかった。ときおり銃声が聞こえてくる。家並みを縫うように、煙がかすかに立ちのぼっている。こちら側の高地では、ひざまでアザミの茂みに埋まって生き残った老人や女子供が立ちつくし、一時間前トルコ軍がなだれこんだときに起こった怖ろしい話を口々に語る。
われわれが身を隠して見張っていると、敵軍が家並みのむこうの集結地から堂々と立ち去るのが見えた。敵は整然と隊列を組んで、ミスキンにむかって進んでいく――槍騎兵を前衛と後衛に配し、歩兵を縦隊に組んで、側面の守りに機関銃を備えた混成隊形をとり、野砲と大量の輜重《しちょう》とを中央において。敵の隊列が家並みの向こうに現れるのを待って、われわれは先頭めがけて火蓋を切った。敵は野砲二門をこちらにむけてこれに応じる。榴霰弾は例によって導火線が長すぎ、安全に頭上を飛び越えていった。
ヌリがピサーニとともに到着する。隊列の先頭には予期したとおりアウダ・アブ・タイの騎乗の姿が見え、自分の村の悲惨な話を村人たちに注ぎこまれ気も狂わんばかりのタラルの姿があった。トルコ軍の最後尾が、いまや村を出て行こうとしている。われわれは敵の背後に忍び寄って、タラルのどっちつかずの苦しみに終止符を打とうとする。そのあいだ、味方の歩兵は配置について、ホッチキス自動小銃で猛烈に撃ちまくり、ピサーニも歩兵中隊の半分を火線に進める。フランスの高性能火薬の前に、敵の殿軍もついに混乱におちいってしまった。
村は、白い煙がゆっくり渦を巻く下で、ひっそりと静まりかえっている。警戒態勢のまま、ラクダに乗って近づいていくと、何やら灰色のかたまりが丈高い草の間に隠れているように見える。大地を抱きしめるような姿は、いかにも死体そのものだった。彼らが死んでいることは調べるまでもなく、われわれはそっと顔をそむける。が、その塊のひとつから、小さな人影がよろめきながら、まるでわれわれの手から逃れようとするかのように、転がりでる。まだ子供でそれも三つか四つだろう。汚れた上っぱりが一方の肩から脇腹にかけて一面に赤く、おそらくは槍に刺されたものであろう、ちょうど首の付け根のところで大きく肉が裂け、血があふれている。
子供は二、三歩走り、そこで立ちどまると、驚くほど張りのある声でわれわれにむかって叫んだ(その場に居合わせたものは固唾《かたず》をのんで静まりかえっていた)――「パパ(小父《おじ》さん)、ぶたないで」と。アブドゥ・エル・アジズは喉にからまった声でなにか言い――ここは彼の村だから、この小さな娘は彼の一族のものだったかもしれない――ラクダから飛び降りると転がるように走り寄って、子供のそばの草にひざまずく。この突然のしぐさに小さな娘はおびえ、両手で頭をかばいながら悲鳴をあげようとしたが――悲鳴は声にならず、くずおれて小さな塊となり、ふたたび血がほとばしって上っぱりを濡らし――そして、息絶えたと、わたしは思った。
なおも男女の死体と嬰児の死体四つのかたわらを過ぎ(白昼の光のもとでは、死体はひどくきたなく見えた)村にむかう。この村の静けさは死と恐怖のせいであることを、いまやわれわれははっきり知っていた。村はずれに羊を入れておく囲いの低い泥の壁があり、その上になにか赤と白のものが見える。近づいてみると、尻を上に突き出すようなかっこうで二つ折りにして乗せかけてある女の死体で、刃こぼれのした銃剣で壁の上にとめてあり、柄《つか》が女のむきだしの両脚の間からおぞましくぬっと突き出している。この女は妊娠しており、まわりにも他の女たちが、みんなで二十人ばかりもいただろうか、さまざまなかっこうで殺されている――ただひとつ共通するのは、どれもみだらな好みの姿勢を取らされていることだけだ。
ザッギがとつぜん狂ったような大声で笑った。その笑い声も、この高地の昼下がりのあたたかい陽光と澄んだ空気のなかでは、いっそうやりきれない思いをさそうばかりだ。わたしは言った。「われと思わん者は、トルコ兵の屍体の山を築いて見せろ」と。そして、われわれはラクダの頭を遠ざかっていく敵にむけて後を追った。道々、道路脇に転がり落ちて慈悲を乞う奴らを容赦なく撃ち殺しながら。負傷したトルコ兵が、半裸で、立つことさえできず、坐ったまま泣いて命乞いをしている。アブドッラはラクダの頭を転じて歩み去ったが、ザッギは罵りながら道を横切って近づき、自動小銃で三発、この男の裸の胸を打ち抜く。血が心臓の鼓動のたびに噴き出し、どくん、どくん、どくんと、しだいに間遠くなっていった。
タラルも、われわれが見たものすべてを見てしまった。傷ついたけもののようにひと声うめくと、高みに馬をのぼらせ、しばらくのあいだ馬上で凍りつき、ぶるぶると震えながら、じいっと、トルコ軍を見すえている。声をかけようとして近づこうとするわたしの手綱をアウダがおさえ、立ちどまらせる。ひどくのろのろと、タラルは頭被を顔にまきつける。それから、とつぜん我にかえったように見えたと思うと、鐙《あぶみ》を馬の横腹に叩きつけて、まっしぐらに突っ込んでいく。鞍上に低く身体を折り曲げ、ゆられながら、まっすぐ敵の本隊をめざして。
ゆるやかな斜面をくだり窪地を渡って、タラルは長い道のりを駆け続ける。われわれが石となって身じろぎもせず見つめるなかを、タラルは突撃する。かつかつと蹄の音が、異様に高く耳をうつ。われわれは射撃をやめ、敵もまた射撃をやめていたせいだろうか。両軍が待ち受けるうちに、タラルはひっそりと静まりかえったたそがれのなかをはずむように馬を駆けさせ、ついに敵の眼前あとわずか数歩のところまで進んだ。そのときだった。タラルが鞍の上で上体をおこしたと見るまもなく、戦いの雄叫びをあげたのは。「タッラール、タッラール」と二度、大音声で。とたんにトルコ軍の小銃と機関銃がいっせいに轟きわたり、タラルも馬も蜂の巣になって、敵の槍先めがけてどうと倒れこんだ。
アウダはおそろしく冷静で厳然として見えた。「アッラーよ、あの男に哀れみを垂れたまえ。仇は、わしらが取ってやるぞ」アウダは手綱にひとふりくれると、ゆったりと敵の後を追い始める。われわれは、いまや恐怖と血潮によったようになった農民たちを呼び集め、ここに、またかしこにと、退却する縦隊にたいして差しむける。昔さながらの戦う獅子がアウダの心によみがえり、アウダはふたたびわれわれの指揮官に収まる。おのずから、そのほかのかたちは考えられない感じで。じつに巧妙な展開作戦で、アウダはトルコ軍を足場の悪い場所に追いこみ、隊列を三つに分断してしまった。
第三の、いちばん小さな集団は主としてドイツ人とオーストリア人の機関銃手からなり、三台の自動車の周りに固まっていた。ほかにはひとにぎりの馬に乗った将校と騎兵たちだけである。彼らはあっぱれな戦いぶりを示し、こちらが猛攻をかけたにもかかわらず、何度も何度も撃退されてしまう。アラブ人は悪魔のように戦い、汗で目がかすみ、戦塵で喉が苦しくなるほどだった。しかも、復讐と残虐をもとめる焔が身内に荒れくるい、怒りに手がふるえてほとんど射撃もできないくらいであった。わたしの命令で、われわれは捕虜を認めなかった――この戦争で、このとき、ただ一度だけ。
ついに、この頑強な枝隊を後にのこして、われわれは逃げ足の速い二枝隊の追跡にうつった。敵はパニック状態だった。敵の混乱に乗じ、浮き足立つのにつけ込んで、日の沈むころには敵のすべてを屠《ほふ》った。逃げおおせたものは、ごく少人数の片われだけである。農民の集団がいくつも、われわれの行く手にあふれる。最初は五、六人に一人が武器を持っているだけだったが、やがてあるものは銃剣を、あるものは剣を、あるものはピストルを手に入れる。一時間後には、徒歩だった連中がロバにまたがっていた。そのあとでは、すべてのものが小銃を手に、馬を引っぱっている。夜のとばりがおりるころには、馬は掠奪品をいっぱいに積み、肥沃な平原にはいちめんに人とけものの死体が散乱していた。タファスの残虐行為が火をつけた狂気のなかで、われわれは殺しに殺した。倒れた者の頭や馬の頭まで撃ち抜いた。まるで、奴らの死とほとばしる血のみが、われわれの苦悩をしずめてくれるかのように。
アラブ人のなかで、ただひとつの集団だけがタファスの惨劇を知らず、敵の中央の最後の二百人を捕虜にしていた。が、彼らの執行猶予はひどく短いものになってしまった。わたしは、なぜ捕虜にしたのか聞きただそうと駆けつける。だが、タラルの死がどれほどのものをもたらす羽目になったかを証言する者たちとして、奴らを生かしておくことに必ずしも反対ではなかった。けれども連中の背後に横たわっている一人の男がアラブ人たちにたいして何ごとかを苦しげに叫び、アラブ人たちは血の気を失った顔でわたしをその男のもとに導く。味方の一人で――大腿部がこなごなに砕けていた。血はほとばしって大地を赤くそめ、もはや死をまつだけの状態だった。しかし、そこまでなっていても、この男は見逃してはもらえなかったのである。この日の戦闘の流儀にしたがって、この男はその上一方の肩に銃剣を叩きこまれ、のこる片足をも銃剣で大地につなぎとめられて、まるでピンでおさえられた昆虫の標本のように貼り付けになっていた。
意識はじつにはっきりしていた。「ハッサン、どいつがこんなことをしたんだ?」と訊ねると、ハッサンは重い瞼をかろうじて動かし、絶望に押しひしがれてかたすみに身体を寄せあっている捕虜たちのほうを目まぜで指し示す。捕虜たちもわれわれが火蓋を切るまえの一瞬のしじまに、何ひとつ抗弁しようとはしなかった。ついに二百人の折り重なった死体は身じろぎをやめ、ハッサンも同じく死んでしまった。われわれは再びラクダにまたがり、のろのろと暗がりのなかを家路につく――家といっても、ここから三、四時間かかるシェイク・サッドにひろげた絨緞にすぎなかったけれど。すでに日は沈み、ひどく寒かった。
[#ここから1字下げ]
けれども、タラルの最期がちらついて、ロレンスは眠ることができない。ついに、ラクダを乗りかえて、四千人のほうの縦隊と戦っている前線におもむく。敵にテントを張るいとまも与えない急追撃だった。日暮れにはすでに、デラアはもぬけのからだという噂がひろまる。先遣隊からの報告を待って、ナシルもデラアに向かった。正規兵の先頭に立っていたロレンスは、寒気に苛立ち、単騎、デラアに急行して暁の光のなかを入城する。
ナシルはすでに知事の邸に腰をすえ、まもなくアラブ人の政権が樹立される。その間に、ダマスカスをめざすインド軍がデラアを包囲し、アラブ軍にたいして発砲するという事態が発生した。ロレンスは取るものも取りあえず駆けつけると、現在デラアを占拠しているのはアラブ軍であると説明する。同時にバロウ将軍に、現在アラブ軍がデラアのあるじである以上、インド軍はアラブ軍の客人として入城するしかないことを、ことば巧みに納得させた。バロウは馬に水を飲ませ、飼葉を与えおえると、トルコ軍のあとを追って進撃する。ロレンスはそのままデラアにとどまった。
[#ここで字下げ終わり]
インド軍の将兵のなかにいると、自分が檻のなかに閉じ込められている矮小な存在にすぎないような感じにおとしめられてしまう。自らを卑しいものと思いなす気風、卑屈さをほとんどいとおしむように大切にしているさまは――ベドウィン族の直截《ちょくさい》な健全さとは似ても似つかないものだ。イギリス人将校がインド兵にたいして取る態度を見て、わたしの親衛隊はおぞましい衝撃を受ける――彼らはいまだかつて個人的不平等なるものを知らなかったので。
わたしも、ここにいると、人間の業《ごう》というものを感じないわけにはいかなかった。つくづくデラアがいやになって、わたしは部下とともに、夜になると旧飛行場で眠った。黒こげになった格納庫のそばで、海の面のように気まぐれな親衛隊員たちが、いつものように習い性となった喧嘩をやらかしている。そして、この夜、この飛行場でアブドゥッラが銀の鉢に盛った米飯を運んでくれたのが、米の飯を食べる最後の機会になった。
夕食のあとの空白のなかで、わたしはこれからのことを考えようとする――が、心は空白のままで、わたしの夢想は成功の強風にあおられてひとたまりもなくかき消えてしまう。眼の前には手を伸ばせば掴《つか》めそうな感じでゴールが見えるだけだが、振りかえれば二年間の苦闘が、忘れ去った苦しみと、栄光にすりかわってしまったみじめさとともに横たわっている。さまざまな地名がこだましあいながら心のなかを駆けめぐる。すべてが、想像のなかでは比《たぐ》いないものに思われる――壮麗なルンム、燦然《さんぜん》たるペトラ、この世ならぬアズラク、清浄のきわみのバトラ。しかし人間は変わってしまった。死に神は立派な者たちを連れ去り、騒々しい者たちがやってきて、彼らとともにわたしも生き残っている――そのことを思うとわたしは傷つく。
眠りは訪れてくれそうにない。そこで日の昇らぬ先に、わたしはスターリングと運転手ふたりを起こし、四人でロールスロイス「青霧号」に乗り込むと、ダマスカスめざして出発する。キスウェまではなんの危険もないはずだった。キスウェはショウヴェルのオーストラリア軍との合流予定地であり、巡礼鉄道がわれわれの進路に接近する地点である。そして鉄路のうえにはナシルとヌリ・シャッランとアウダのひきいる部族軍があって、この多忙な三日間がはじまる前にシェイク・サッド付近で飛行機が発見した例の四千人の縦隊を(事実は七千人ちかかった)依然として急追中だった。われわれがのんびりしている間も、彼らは休みなく戦いつづけていたのである。
車を走らせていると銃声が聞こえ、右手の尾根のむこう、鉄道の走るあたりで榴霰弾が炸裂するのが見えた。まもなく約二千人のトルコ軍の先鋒が姿を現わす。ばらばらの小集団の列にすぎないが、ときおり停止しては山砲を発射していた。追撃する味方に追いつこうとなおも走り続けたが、なにしろ何ひとつない道に大きなロールスロイスを走らせるのだから、「青霧号」はまっさおだった。トルコ軍の背後から騎馬のアラブ人が数騎、こちらにむかって駆けてくる。危ない話だが、灌漑用の水路を乱暴に飛ばしながら。やがて栗毛色の駿馬《しゅんめ》にまたがったナシルの姿が見分けられる。百マイルもの追撃戦のあとで、いまもなお精悍さを失わない逸物だった。ついで、ヌリ・シャッラン老も三十騎ばかりの従者とともに姿を見せる。このひとつかみの連中が七千人のトルコ軍残党のすべてさ、と、彼らは言う。ルアッラ部族が両側面に死にものぐるいで喰いさがり、いっぽうアウダ・アブ・タイはジェベル・マニアを越えて親しいウルド・アリ部族を糾合におもむき、山蔭でトルコ軍を待ち受ける手はずだった。ナシルやヌリは敵を追いたてて山越えをさせ、この待ち伏せの場所に追い込むつもりだと言う。あんたが顔を見せたということは、ついに援軍がやってきたと考えていいのかね?
イギリスの大軍がすぐそこまで来ている、と、わたしは答える。もし、きみたちが敵を一時間だけ喰いとめてくれれば……。ナシルは前方を見はるかし、視野を限る、壁をめぐらして木立ちを抱いた農場に目をとめる。ヌリ・シャッランに声をかけ、そこでトルコ軍を喰いとめようと走り去った。
われわれは三マイル後戻りしてインド軍の先頭部隊をつかまえ、ひどく無愛想な老大佐に、アラブ軍がくわえこんだ獲物のことを話す。大佐はみごとな行軍隊形を台無しにしてしまうのは気がすすまないふうであったが、やっと騎兵大隊を散開させ、そろそろと平原を越えてトルコ軍にむかって進軍してくれた。敵は少ない砲門をひらいて前進を阻もうとし、一発か二発は隊列のすぐ近くで爆発する。とたんに、われわれはぞっとなった。すでにナシルは、勇敢な援軍をあてにして死地に身をさらしているというのに、この大佐ときたら退却を命じ、たちまち道路まで逃げ帰ってしまったからである。スターリングとわたしは狂ったように車を跳び出し、駆けよって、ヴェリ式照明弾同然の敵の山砲などこわがらないでくれと懇願したが、優しく頼んでも怒鳴りつけても、この老人は一寸たりとも兵を動かそうとはしなかった。この道をレースさながらにふっとばすのは三度目だが、われわれは大佐の上官をもとめてなおも後方へと取ってかえす。
赤い略綬《りゃくじゅ》をつけた幕僚が、グレゴリ将軍がむこうにおられると教えてくれる。われわれは幕僚を抱きしめる。参謀将校スターリングなどは、統制力が及ばなかったことに職業的自尊心を傷つけられて泣きださんばかりであった。幕僚を車に引っぱり上げて将軍を探し出し、旅団副官の少佐が緊急命令を騎兵隊に伝達できるようにとロールスロイスを提供する。伝令が一騎、馬をとばして騎砲兵部隊のもとに引きかえした。騎砲兵部隊が火蓋を切ったとき、まさに落日の最後の残光は山腹をのぼって頂を染め、雲間に消え去ろうとしていた。ミドルセクス義勇農騎兵部隊が現れ、アラブ軍の中に割り込んで、トルコ軍の殿軍に突撃をかける。そして夜のとばりが下りるころには、われわれは敵軍が総崩れになるのを見ていた。大砲を棄て、輜重を棄て、弾薬その他すべてを棄てて、急流のように鞍部をさかのぼり、マニアのふたつの峰のほうへ、さらにそのむこうの、彼らが無人の地と信じこんでいる地域へと逃げ込んでいった。
しかし、その無人地帯に、アウダが待ちかまえていたのだった。この夜、生涯の最後を飾る戦いにおいて、老人は殺しに殺し、掠奪し、敵を捕らえ、暁に及んでついに剣を収めた。このとき、二年間にわたってわれわれの行く手を阻む壁であった、トルコ第四軍は消滅したのである。
われわれの戦いは終わった。たとえ、その夜キスウェで眠ったにしろ、すでに戦いは終わっていた。アラブ人が道筋はまだ危ないと教えてくれて、われわれはダマスカスの城門を眼の前にしながら、暗闇のなかで犬死になどする気は毛頭なかっただけのことにすぎない。
フェイサルのダマスカス委員会は、トルコ軍消滅の日に政権を掌握する準備を、すでに何カ月も前から整えていた。われわれはただ、委員会と接触し、連合軍の動きと、こちらの要求とを伝えるだけでよかった。そこで夕闇が深くなりはじめたころ、ナシルはルアッラ部族の騎兵部隊を街に派遣した。委員会の議長アリ・リザないしは補佐役シュクリ・エル・アユビを探し出して、もしたちどころに政権を樹立するのであれば、明日には援軍が着くことをあてにしてよいと伝えさせるためである。事実は、政権は、われわれが働きかける前、午後四時にはすでに樹立されていた。アリ・リザは最後の瀬戸際になって、ショウヴェルのオーストラリア軍に追われてガリラヤから退却するトルコ軍の指揮官に任命されてしまったために、不在だった。が、シュクリは悪名高いアルジェリア人兄弟モハメッド・サイドとアブドゥ・エル・カデルから予期しない支援をえ、彼らの手兵の力を借りて、日没前にドイツ、トルコ両軍の最後の梯隊が引き揚げていくのと同時に、市庁舎にアラブの旗を掲げたのだった。殿軍の将軍は、皮肉をこめて、このアラブの旗に敬礼して去ったという。
わたしはナシルに入城を思いとどまらせた。今夜、ダマスカスは、おそらく混乱のきわみにあるだろう。威厳を示すには、夜明けを待って粛々と入城するほうがまさっている、と。ナシルとヌリ・シャッランがルアッラ部族ラクダ部隊の第二陣を呼びとめる。見ると、今朝、わたしといっしょにデラアを進発した連中だったが、これを全員ダマスカスへ直行させて、先発のルアッラのシェイクたちの支援を命じる。したがって、われわれが寝床に着いた真夜中には、すでに味方はダマスカスに四千の武装兵を送り込んでいたことになる。
明日こそ正念場がひかえているので、わたしは眠っておきたかった。が、どうしても寝つかれない。ダマスカスこそ、この明日をもしれぬ二年間のクライマックスを飾るものだ。そのときどきに、じっさいにこころみ、あるいは思いとどまったすべての着想の断片が飛び交い、心は千々に乱れる。そのうえキスウェときたら、あまりに多くの木々と、あまりに多くの植物と、あまりに多くの人間との呼気のために息がつまる――が、これこそ、明日からわれわれが暮らすごみごみした世界の雛形にほかならないのだが。
ドイツ軍がダマスカスを放棄するにさいして、ごみの山と弾薬庫に火を放ったので、数分ごとに爆発の轟音に悩まされる羽目になった。最初の爆発の閃光で、空は白く輝きわたり、そのあとも爆発のたびに大地はゆれ動くかのようだった。われわれが眼を上げて北の空を見ると、薄闇の空をとつぜん黄色の矢じりをつけた無数の矢が刺し貫く。炸裂する弾筒から怖るべき高みまで吹き飛ばされた砲弾が、こんどはつぎつぎに爆発して、火箭《ひや》の群れとなって降りかかった。わたしはスターリングを顧みてつぶやく。「ダマスカスが燃えているぞ」と。あの偉大な都が、自由の代償として灰燼に帰すという思いに胸ふたぎながら。
夜が明けるとわれわれは車を走らせ、この都のオアシスの上にそびえる尾根の頂をめざす。予想どおり廃墟を見ることになるのではないかと、しばらくは北の方に眼をむけることもできない――が、廃墟のかわりに川霧にけぶる静寂そのものの緑の楽園が、その中に、いつもと変わらぬ美しさでダマスカスが、朝の光を浴びて真珠のようにきらめいている。荒れくるった夜の轟きもいまは鎮まり、ただ中天さしてもくもくと立ちのぼる煙の柱だけが、巡礼鉄道の終点カデムちかくの倉庫街から陰気に黒々と吹き出しているだけだった。
われわれはまっすぐに伸びる築堤の上の道を下り、灌漑農地を突っ切る。畑では農夫たちが今日一日の労働に、いまとりかかろうとしているところである。馬を駆けさせてきた騎手がひとり、車のなかのわれわれの頭被に気づいて手綱を引きしぼり、陽気な挨拶とともに一房の黄葡萄を差し出す。「よい知らせです。ダマスカスはあなた方に挨拶を送ります」シュクリの使者であった。
ナシルはわれわれのすぐ前にいた。われわれはこの知らせをもってナシルに追いつき、五十回もの戦闘を戦いぬいた特権として、ダマスカス入城の栄誉をにないたまえと伝える。かたわらのヌリ・シャッランにむかい、ナシルは馬に最後の早駆けをさせようと言って、たちまち長い街道の砂塵の煙の中へと消えていった。後には、水路の水のきらめきのあいだに漂う砂塵が残るばかりである。ナシルに堂々の第一歩をしるしてもらおうと、スターリングとわたしは急勾配の水路の底に涼しげな細い水流があるのに眼を留め、その脇に車を停めて、顔を洗い、髭を剃った。
インドの騎兵が数人、われわれを覗きこみ、われわれの車と運転手のぼろぼろの軍用半ズボンと上着を見つめる。わたしはなにからなにまでアラブ衣装だし、スターリングときたら、頭被以外はすべて英軍参謀将校の服装だったにもかかわらず、下士官が頭も悪ければ性質もよくない奴だったらしくて、捕虜をつかまえたと思ってしまった。ようやく釈放されると、われわれもそろそろナシルの後を追ってもよい時分だった。
ごく物静かに、われわれはバラダの築堤の上の長い道を、政庁にむかって車を走らせる。道は人々で埋まっていた――左右の歩道にぎっしりと人垣が並び、路上にあふれ、窓にもバルコニーにも屋上にも鈴なりだった。大勢が嬉し泣きをしており、わずかの者が低く歓呼の声をあげ、もっと威勢のいいひとにぎりの者たちが、わたしたちの名前を叫ぶ。が、ほとんどのものは、ただひたすら、喜びに眼を輝かせながら、じっと見つめるばかりだった。長いため息に似た動きが、城門から市の中心まで、われわれの道筋を追いつづけた。
市庁舎では、事態はまるで違っていた。石段も階段もゆれ動く群衆で埋まっており、喚いたり抱きあったり、踊ったり歌ったりのありさま。群衆はもみあいながら、栄光に輝くナシルとヌリ・シャッランが坐っている控え室にむかうわれわれに道をあける。ふたりの両脇に立っているのは、なんとわたしの旧敵アブドゥ・エル・カデルとその弟モハメッド・サイドではないか。わたしは驚きのあまり口もきけなかった。モハメッド・サイドが前に跳び出して叫ぶ――エミールたるアブドゥ・エル・カデルの孫たちは、サラディン家のシュクリ・エル・アユビともども、政権を樹立し、昨日、おとしめられたトルコ人とドイツ人の耳に、フセインこそ「アラブ人の王」と宣言したのである、と。
モハメッド・サイドが喚いている間に、わたしはシュクリをふり返る。シュクリはまったく政治家の資質を欠くが、愛すべき男で、ジェマルから受けた迫害のために、民衆の眼には殉教者さながらに映っている人物である。シュクリは、このふたりのアルジェリア人が、ダマスカス中で彼らだけが、トルコ軍が敗走するのを自分の眼で見るまでトルコ側についていたもようを話してくれた。そうなってはじめて、配下のアルジェリア人をひきいて、ふたりは秘密裡に開かれていたフェイサルの委員会に乱入し、強引に主導権を握ってしまったという。
このふたりは狂信者であり、その理念は神学的で、論理的ではなかった。わたしはナシルにむかい、彼の力を借りて、いま、この第一歩から、こやつらの無礼をおさえこもうと思った。が、とんでもない場面転換が起きてしまった。われわれを取り巻いて叫んでいた人垣が、追い立てられる羊の群れのように割れ、こわれたテーブルや椅子の間を人が右に左に逃げまどううちに、聞きなれた声が叫ぶ怖ろしい雄たけびがとどろきわたり、群衆をぴたりと黙らせてしまう。
こうしてできた人のいない場所のまんなかで、アウダ・アブ・タイと、ドルーズ部族の長スルタン・エル・アトラシュが掴みあいの喧嘩をしていた。ふたりの部下もとびだしてくる。いっぽう、わたしはふたりを分けるために跳び込んで、同じように留めにはいったモハメッド・エル・ディランと鉢合わせしてしまう。力を合わせてふたりを分け、アウダをむりやり一歩退かせる。そのすきにフセイン・エル・アトラシュが軽いスルタンを人垣の中に押し込み、脇の部屋に連れ去った。
アウダは怒りに眼もくらみ、とてもこちらの話が耳に入る状態ではなかった。なんとか市庁の大会議場室に押し込む。巨大で、もったいぶった、金ぴかの部屋で、われわれが入っていった扉以外はすべて鍵がかかっていたので、墓場のようにひっそりとしていた。アウダを椅子に押し込んで、押さえつける。いっぽうアウダは怒りの発作のままに口角泡をとばし、声がかれるまで叫びたてながら、身をよじり、もだえ、両腕を狂ったように突き出しては手に触れるものはなんでも武器にしようと掴む。顔は充血してふくれあがり、頭被はふっとび、両眼は長い髪でおおわれていた。
老人は自分のほうが先にスルタンに殴られたという。となれば、自分の思いのままに生きるという美酒を生涯飲みつづけて酔っぱらったアウダの制御しがたい精神が、その侮辱をドールズ部族の血で洗い流そうと荒れくるったとしても無理はない。ザアルがフブシ部族を連れて駆けつけ、われわれ四、五人でこもごもアウダをなだめた。が、アウダがこちらの言葉に耳を貸すことができるくらい鎮まるまでには三十分もかかった。そして、あと三十分をついやしてようやくモハメッドとわたしの手にスルタンをゆだね、三日のあいだ、報復を延期するという約束をとりつける。わたしは部屋を出、ひそかにスルタン・エル・アトラシュを連れ出し、大急ぎでこの町から脱出させた。やっと片がついて、政権にけじめをつけようとあたりを見まわしたが、ナシルもアブドゥ・エル・カデルの姿も見えない。
彼らはすでにここにはいなかった。例のアルジェリア人どもがナシルを説き伏せて、自分たちの家に休息をとるために連れて行ったあとであった。好都合な出来事にはちがいない。もっと火急の公的な仕事がひかえていたのだから。われわれは古い時代が去り、いまやアラブ人の政権が権力を握ったことを証明する必要があった――このためには、シュクリがわたしの最良の道具になってくれるだろう。役回りは知事。そこで「青霧号」に同乗して、われわれは顔見世に出かける。シュクリの権威の拡大そのものが、市民の眼には革命の象徴として映るはずだから。
われわれが入城してきたとき数マイルにわたって挨拶を贈ってくれた民衆は、いまや何十倍にもふくれあがっていた。あらゆる男が、女が、子供たちが、ダマスカスに住む人間のことごとくが街頭に出ているらしく、われわれが姿を現すのを合図に、いっきょに熱狂の炎を燃えあがらせようと待ちかまえているのだった。ダマスカスは歓喜に狂乱した。男たちは喜びのあまり帽子《タルプシュ》をほうりあげ、女たちはヴェールを引きちぎる。家のあるじは花を、壁掛けを、絨緞を、われわれの行く手の路上に投げ出し、妻たちもまた格子窓にもたれ、金切り声を上げたり笑い崩れたりしながら、風呂の柄杓《ひしゃく》でわれわれに香油をふりかける。
托鉢僧《デルヴィシュ》たちは気の毒にも徒歩の供まわりの役を買ってでて車の前後を走りまわり、怒号しながら熱狂のあまり我と我が身を傷つけてしまう。そして、近くの叫び声や女たちの金切り声を圧するように、人々が声をそろえて、声をかぎりに呼びかける大合唱が湧き起こった。「フェイサル、ナシル、シュクリ、ウレンス(ロレンスのアラブ風の呼びかた)」と。大合唱は波濤のように、ここからはじまって広場という広場に渦巻き、市場を抜け、長い通りを走って東の門に達し、城壁をひとめぐりして再びメイダン大通りに戻ってくる。そして歓喜の大合唱はいっそう高まり、城壁となって、城塞にいるわれわれを取り囲んだ。
彼らは、ショウヴェルがこちらにむかっていると教えてくれる。われわれの車は市の南の郊外で出会った。わたしは市内の興奮状態を説明し、新政府は明日になるまで行政事務を行ないうるとは保証しかねる事情を話し、明日になればわたしが将軍を待ち受けていて、そちらの要求とこちらの要求について話し合う用意をととのえておくことを約束する。それまでのあいだは、わたし自身が公的秩序の責任をとります。ただ、お願いしたいのは、貴下の部下を城外に留めておいていただきたいことです。なにしろ今夜、この都は六百年ぶりのお祭り騒ぎなので、市民の大盤振舞いが英国陸軍の規律をも台なしにしてしまいかねませんので、と。
われわれはひそかに市庁舎に戻った。アブドゥ・エル・カデルを捕えるためだったが、まだ帰っていない。わたしは彼ら兄弟とナシルに迎えを出し、いま眠っているというそっけない返事を受け取ることになった。同様にわたしも眠っているべきだったろう。が、眠るかわりに、四、五人でありあわせの食事をとった。ただし、場所だけは豪奢なサロンで、座っている椅子も脚の優雅に曲がった黄金造りなら、むかっているテーブルもまた黄金造りで、こちらの脚はいっそう淫《みだ》らに身をくねらせている。
わたしは使いの者に、はっきりと自分の意図を説明する。使いの者が出ていくと、数分後には例のアルジェリア人の従弟がひどく興奮したさまで姿を現わし、すでに彼らはこちらにむかっているところだと告げる。見えすいたはったりだが、わたしは、それは結構と答えた。いずれ三十分以内に英軍を呼び寄せて、奴らの行方を念入りにさがさせるつもりであった。従弟はあわてて走り去り、ヌリ・シャッランは静かな口調でわたしの意図を訊ねる。
アブドゥ・エル・カデルとモハメッド・サイドを辞任させ、その後釜にはフェイサルの入城までシュクリを任命したい。こういうふうにおだやかに手続きをふむのは、絶対にナシルの気持ちを傷つけたくないからで、また皆の反感を買ってしまったら、わたし個人にはなんの力もなくなってしまうからでもある――と、わたしは答える。ヌリは、万一、イギリス軍がこなかったらどうするつもりかと訊ねる。「だいじょうぶ」とわたしは答える。しかし、問題は一度英軍を呼び入れてしまうと、事件の処理のあとでも出て行ってくれないおそれがある点なんだが。ヌリはしばらく考えて言った。「すべてをあんたの意志どおりにやるというなら、わしのルアッラ部族を使いなさい。それも、いますぐから」と。答えも待たず、老人はわたしのために自分の部族を召集に出かけた。
アルジェリア人どもが親衛隊をひきい、眼に殺気をみなぎらせて市庁舎に駆けつける。しかし、途中で、ただならぬさまで集結しているヌリ・シャッランの部族軍を目撃し、広場では正規兵をひきいるヌリ・サイドの姿を見、中に入るとわたしの命知らずの親衛隊が控えの間にたむろしていることを知った。奴らは勝負がついてしまったことをはっきりと悟った――にもかかわらず、会合は荒れに荒れた。
フェイサルの名代としての権限により、わたしは彼らのダマスカス市民政府の廃止を宣言し、軍司政長官の役割にシュクリ・パシャ・アユビを指名する。軍司令官にはヌリ・サイドを、副司令官にはアズミを、公安局長にはジェミルを。
モハメッド・サイドはにがにがしげに反論し、わたしをキリスト教徒でしかもイギリス人ではないかと弾劾し、ナシルに呼びかけて支持をもとめる。気の毒にもナシルはまったく柄にもない場所に引きずり出されて、ただ手をこまねいてアルジェリア人の友達が権力の座から引きずりおろされるのを、みじめにも座視するほかなかった。アブドゥ・エル・カデルは地団太《じだんだ》をふんで、わたしに悪罵のかぎりをつくし、自分のことばに駆り立てられて逆上する。論旨はおろか動機まで独断的で理性に欠けていたから、わたしはまったく取りあわなかった。
このわたしの態度が、エル・カデルをいっそういきりたたせてしまう。とつぜんカデルは短剣を引き抜き、躍りかかった。電光石火、アウダがカデルをとらえる。老人は朝から怒りを抑えつけられてうずうずしており、喧嘩のチャンスを狙っていたのだった。誰でもいい、その時その場にいるものをつかまえて、大きな指でずたずたに引きちぎることができさえすれば、アウダにとってこの上ない喜びとなったであろう。アブドゥ・エル・カデルに勝ち目はなかった。ヌリ・シャッランが一座にむかって(まことに多人数の、まことに荒っぽい一座ではあったが)、ルアッラ部族はわたしの命にしたがうと宣言し、その一言で論争も終わりをつげて、質問ひとつ出なくなった。アルジェリア人どもは席を蹴って立ち、憤然として市庁舎から姿を消す。奴らをとらえて射殺すべきではないかと、わたしは強くすすめられた――が、奴らの災いにみちた力を怖れる気になどとうていなれなかったし、なにより、アラブ人の政治の一部として、予防としての暗殺という手があるという実例など示したくなかった。
われわれは仕事に戻った。目標はアラブ人の政府の樹立である――砂漠の叛乱の熱狂と自己犠牲を生かすことができるような、巨大な民族基盤の上に立つ政府をつくること、つまり、叛乱の精神を平和の秩序に置き換える作業であった。古い型の預言者的人物を何人かかついで、あまりにも堅実な性格のために叛乱に加わらなかった、人口の九十パーセントをしめる人々の上に載せ、指導させなければならない。彼らの堅実さのうえにこそ、新生アラブ国家は築かれねばならないのだから。
叛徒は、とりわけ成功を収めた叛徒は、必然的に悪い国民となり、いっそう悪い統治者となる。フェイサルの悲しい義務は、戦友たちと袂《たもと》をわかち、そのかわりにトルコ政府にとってもっとも役に立った犬どもと手を握らねばならないことだろう。ナシルはこのことを感じとるにはあまりにも未熟な政治哲学者であったが、ヌリ・サイドにはこの事情がわかり、ヌリ・シャッランにもわかっていた。
彼らは至急、中心スタッフを集め、ティームを組んで仕事にかかった。歴史の示すとおり、内閣づくりは単調そのものである――閣僚を任命し、省庁を割りふり、こんどは各省庁の仕事の手順をきめていくだけだから。まず警察である。長官と補佐官がえらばれ、地区分けが終わると、暫定賃金、誓約書、制服、服務規定の問題にうつる。ようやく行政機構が動きはじめる。と、まもなく水道の問題で苦情が持ちこまれる。上水道が人畜の死体で汚染されているというものである。衛生検査官が作業班をひきいてこの問題の解決に出かけた。戒厳令規制の起草にとりかかる。
日は暮れなずんだが、人々はみな往来に出ていて喧噪のきわみだった。技師をひとり選んで発電所の監督にあたらせ、いかなる犠牲を払ってでも、この夜は一晩中、市街に明かりをともしつづけるよう厳命する。街の明かりの復活は、なににもまして平和を証しするものとなろう。この課題はみごとに達成され、主としてこの静かに輝く明かりのおかげで、戦勝の第一夜の秩序は保たれたと言っても過言ではあるまい。もちろん、われわれの新しい警察は、熱心にパトロールにあたり、さまざまな部族の名高い戦士たちまで見回りに力を貸したことも事実だけれど……。
概して言えば、目のまわるほど忙しい一夜であった。やっと、はっきり一区切りついたのは、各省庁の長官代理を全廃し(急いでやると、しばしば、不適格者に仕事を任せてしまう羽目におちいるからだ)、大なたをふるって行政事務の刈り込みを終わったときであった。
われわれの目標は、ふさわしい建物をつくるということより、正面《フアサード》の見てくれを整えることにあった。この急造作業はおそるべき勢いで、しかも巧妙に推進され、わたしがダマスカスを発ったのは十月四日には、すでにシリア人は名実ともに彼らの政府をつくりあげていた。この政府は、外国の指導も受けず、戦火に荒廃した占領地区において、連合国諸国間の重大な利害関係から生じる意志に逆らいながら、じつに二年間も存続したのである。
すべての手配を終えて、わたしはひとり、自室に坐っていた。この一日の騒々しい記憶の糸をたどりながら、できるだけしっかり筋道をつけておこうと仕事にかかり、考えをまとめていると、回教寺院《モスク》の尖塔から祈りの時間を告知するムエッディンたちが最後の祈りの呼びかけを誦しはじめ、その声は、お祭り騒ぎに浮き立つこの不夜の都をおおう雨もよいの夜空を渡っていった。ひとつ、りんと張って鈴を思わせる、とりわけ甘美な呼びかけが、近くのモスクからわたしの窓にとどく。わたしはいつのまにかこの僧のことばに耳を傾けている自分に気づく。「アッラーは唯一にして偉大なり――アッラーのほかに神なきを誓う――モハメッドはそが預言者なり。来たりて祈れ――来たりて心の安らぎを得よ。アッラーは唯一にして偉大なり――アッラーのほかに神なきを……誓う」
誦文の終わりで、僧は声調を二段階おとし、ほとんどふつうの話の口調になる。そしてそっとつけくわえた。「そしてアッラーは、この日、すばらしい贈り物を、われわれに賜《たまわ》ったのです。おお、ダマスカスの人々よ」喧噪は静まり、すべての人々が、この完き自由の最初の夜の礼拝への呼びかけに従っているようだった。ただわたしだけが、この圧倒的な静けさのなかで、自分の孤独と、アラブ人たちの行為に溶けこむ理由を欠いている事実を、じっと噛みしめているのだった――呼びかけの声を聞いた者すべてのなかで、ただわたしひとりにとってだけ、この勝利はもの悲しく、祈りのことばは意味を持たなかったせいであろうか。
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あとがき――にがい果実
[#地付き]……ジョン・カレン
『智慧の七つの柱』は、連合軍のダマスカス占領の記述をもって終わる。一九一八年十月三日、アレンビーが入城し、アラブ政府樹立のためにロレンスがとった処置をすべて、たちどころに承認する。同じ日、少し遅れて、フェイサルの特別列車がデラアから到着した。
「われわれがホテルで待ち受けていると、窓を揺るがす歓呼の波に乗ってフェイサルが到着した」ロレンスはその模様をこう書きつけている。「このふたりの首領がはじめて顔を合わせるのが、彼らの戦いの勝利のさなかであるとは、まことにふさわしい。そしてわたし自身も、ふたりの間にあって、変わりなく通訳の役を果たしている。アレンビーが外務省からの公電をわたしに渡してくれる。アラブ人に交戦国としての資格を認めるというものだった。アレンビーはわたしに、エミール・フェイサルに翻訳してさしあげるようにと命じるが、誰ひとりこの英文が具体的になにを意味しているのか知らなかったから、そのままアラブ語に直訳するしかなかった。そしてフェイサルのほうは、自分の同胞が示してくれた歓迎ぶりにあふれる涙をぬぐいもやらず、微笑を浮かべて電報を受け取るとかたわらに置き、総司令官アレンビーにたいして、自分および自分の運動を支えてくれた相手の信頼に、まず感謝のことばを述べた。ふたりは奇妙な対象を示している――フェイサルは大きな眼を見開き、蒼ざめやつれた顔をしていて、まるでひとふりのみごとな短剣だった。アレンビーは巨躰に赤ら顔で磊落《らいらく》、まことに世界をめぐるユーモアと強権の帯状地帯をきずきあげた強国の代表にふさわしかった」
ロレンスはいまや、アラビアにおける自分の仕事は終わったことを、そして自分の存在は新生アラブ国家建設の課題にとりくむ友達を当惑させるばかりかもしれないことを、まざまざと悟った。だからこそ、アレンビーに帰国の許しを乞い、強引に承諾を勝ち取ったのだろう。
トルコ軍との戦闘は、このあと三週間で終結した。アレンビーは敵の敗残兵を、遠く北のかたアレッポまで追撃した。いっぽう東部戦線でも、英軍は中断していた進撃を再開してティグリス河流域をさかのぼり、六日間の激戦ののち、メソポタミア駐留トルコ軍を降伏のやむなきに至らしめた。十月三十日、トルコは休戦条約に調印し、連合国にたいして占領地域の軍政継続とダーダネルス、ボスポラス両海峡の占領とを承認したのである。
第一次大戦が終わりをつげたとき、アラブ人の眼には積年の夢が、ダマスカスに首都を置く統一アラブ国家の夢が、かなえられる日も近いとうつっていた。アラブ軍はダマスカスそのものを占領しており、シリアの大部分とヘジャズも手中にある。しかもメソポタミアの英軍まで、つとに自分たちは占領軍ではなくて解放軍だと宣言しているのだから。しかし、西欧流外交の手口を知っているロレンスは、くりかえし警告した――約束をあてにしすぎるのは危険だ、軍隊の力によって確保できるかぎりのものを確保しなければ、と。フランスのシリア獲得への意図を知っていたからこそ、ロレンスはアラブ軍によるシリア占領に固執したのであり、ひとたび既成事実をつくってしまえば、これをくつがえすことはむずかしいはずだと考えたのである。対決の場は、講和会議の開かれるヴェルサイユに移った。
フェイサルとロレンスはともにヴェルサイユにおもむき、代表としてアラブの立場の弁護に立った。逆流は、フランスがフェイサルをダマスカスの単独統治者として承認することを拒否したときからはじまる。やがて、フランスのシリア領有の意志があらわになった。これは大戦中に連合国が叛乱の指導者たちに与えた言質と矛盾している――ダマスカスを首府とするアラブ国家を作り出すためにこそ、アラブ人は戦ってきたのだから。
大英帝国は対抗上、メソポタミアの占領状態をゆるめようとせず、しかもパレスティナにユダヤ人の国家を設定することをもとめた。これら、さまざまの相矛盾する要求の結果として、フェイサルはフランスによってダマスカスから追い出されてしまい、シリアはフランスの委任統治領となった。いっぽうイギリスは、パレスティナとメソポタミアを委任統治領とすることになった。
アラブ独立への苦しい戦いはここで息の根を止められたかに見えた。この裏切りにあって、ロレンスの苦衷《くちゅう》はいやしがたいものに変わってしまう――英国政府の約束をアラブの指導者たちに取り次いだのは、ほかならぬ自分なのだから、少なくとも一部分は責任をとらねばならぬ、と。いっぽうアラブ人たちは降伏をいさぎよしとせず、従って講和条約を力ずくで強制しようという試みは、困難であるのみならず高価についた。
一九二一年、メソポタミアの危機は予断を許さぬところまで高まり、時の大英帝国首相ロイド・ジョージは、この問題の解決策をウィンストン・チャーチルに一任する。チャーチルはロレンスを顧問にまねき、協力して実効力を持つ対案の大綱をつくった――英軍はメソポタミアから撤退する。そのあとに、フェイサルを王にいただく新王国イラクを創設する。パレスティナと砂漠にはさまれた小エミール領トランスヨルダンの首長《エミール》に、フェイサルの兄、アブドゥッラをあてる。南ではシェリフ・フセインをヘジャズ王として承認する。
このあたらしい体制づくりによって、英国政府はともかくも大戦中の公約を果たしたと、ロレンスは考えていたようである。のちに、ひとりの友人にあてた手紙に、こう書いている――「アラブ人たちは自分の手で運命を切り開くチャンスを与えられたのです。すべてがアラブ人しだいです。もし彼らが充分に賢明であれば、間違いを重ねながらも、それに学んで、いっそう立派になっていくことでしょう。アラブ人たちについてわたしが願っていたことは、つねに、彼らを彼ら自身の足で立たせてやりたいという一事でした。曳綱《ひきつな》を必要とした時期は、もう、これで、終わりにしていいのではありますまいか」
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解説
[騎士の伝説]
生前、すでに、ロレンスは伝説のなかの人物だった。伝説は、その現身《うつしみ》のモデルをも呪縛する。まして、時と処を異にする読者ともなると、呪縛の霧はいっそうふかく、ほとんど真実のロレンスの姿はとらえがたい。読者の数だけ、ロレンス像があると言っていいだろう――そして、この特性もまた、生身の人間というよりは、伝説上の人物のものである。
伝説は、ロレンスがアラブの叛乱に参加した一年後には、早くも砂漠の部族すべてにひろがっていた――われらに|ルレンス《ヽヽヽヽ》を送り給え。そのもので鉄道を爆破してお目にかけます(ベニ・アティエのフェイサル宛書簡)。そして、戦後まもなく、ロレンスを主人公とする一ジャーナリストの連続講演会がロンドンで大当たりをとるとともに、伝説はたちまち、世界中に広まった――いわく、ダイナマイト王。いわく、白い肌のアラブ人。メッカの王子。砂漠のロビン・フッド。ダマスカスの無冠の帝王。いわく、近代ゲリラ戦術の創始者(サー・リデル・ハート)。
しかも、生身のロレンスも、伝説のロレンスを裏切らなかったように見える。戦後処理の過程で、文字どおり「国王製造者」となり、祖国がアラブ民族との公約を裏切った失望から歴史の檜《ひのき》舞台を降りると、一兵卒となって無名の大衆のなかに身を埋めようとはかり、ついには人生のなかばで、悲劇的な事故死をとげる。
この死さえ、いかにも伝説のヒーローにふさわしいことだが、断固として信じようとしない人々がいた――事故死は、第二次世界大戦中に中東で秘密任務につくため偽装されたもので、じっさいは、タンジール郊外で老衰のために死んだ、と。そして四半世紀後、こんどはピーター・オトゥールの姿をかりてスクリーンのうえによみがえり、次の世代にも、伝説のなかの忘れがたいヒーローとして生き続けることになった。
むろん単純な英雄崇拝から、底意をひめた詐欺師説まで、評価はさまざまにゆれつづける――二〇〇〇年まで公刊しないロレンス文書や、一九六八年に国家の記録文書の機密保持期間が五〇年から三〇年に短縮されたために利用可能となった公文書などの資料を使い、サンデー・タイムズ紙のバック・アップで徹底的な調査を行った結果にもとづく『アラビアのロレンスの秘密の生涯』(ナイトリ、シンプスン共著、一九六九年刊。邦訳、早川文庫)にたいしても、すぐさま反論がよせられるしまつである(A・W・ロレンスの手紙、同年十一月二十二日、タイムズ紙。とりわけ、四十数年の沈黙を破ったという、ジョン・ブルース氏の証言部分にたいして)
なぜ、ロレンス伝説は、このように不死なのであろう? われわれにとっては、このほうの事情もまた、同じように興味深い。なぜなら、伝説とは、それを享受する人々の夢想の投影にほかならないからである。
第一に、これは個人的力量の物語だからであろう。第一次世界大戦は、ぬかるみの塹壕《ざんごう》のなかでの無名の死に象徴される、組織と組織との近代戦であった。ヨーロッパ戦線では、兵士は歯車のひとつとして戦い、歯車のひとつとして死んでいった。それにひきかえ、砂漠の叛乱は、騎士物語を思わせる、くっきりと人間の顔をそなえた戦いだった。
第二に、名分はともかく、実質は、第一次世界大戦とは、むきだしの植民地再編成戦争――帝国主義諸国による利権争いにほかならなかったせいであろう。だからこそ、アラブ民族独立の大儀は、少なくとも腐った大戦のにおい消しの役には立った。それを清涼剤として、モデルとかかわりなく美化していったのは、愛国心を鞭に、この汚い戦争に駆り立てられた民衆の無意識の願望だった。民衆は意識しないままに、反体制の英雄を必要としていたのだろう。
第三に、他国の大儀への参加という、近代国家の動きのとれない閉塞状況が生みおとした、奇妙な行動的ロマンティシズムがある。一八二〇年代のギリシャ独立戦争におけるバイロンにはじまり、一九一〇年代のアラビアのロレンスでくっきりと鮮明なイメージを結び、三〇年代のスペイン市民戦争におけるマルローやヘミングウェー、五〇年代のキューバ革命におけるゲバラへと引きつがれていく、熱い夢の系列。行動的人間像を、サルトルは「冒険者」と「党派活動家」とのふたつの極でつかまえてみせる。そして、現代のわれわれもまた、いわゆる「冒険者」の偶像を作り出さずにはいられない。それは、われわれもまた、自国の巨大組織にからめとられて、個人的力量を去勢されようとしているからではないだろうか?
最後に、むろん、謎がある。ロレンスという個人の、そして人間性の謎が、解きつくされることなく残っている――魅惑的な謎が伝説の母であることはいうまでもない。
[幸福なラヴ・チャイルド]
トマス・エドワード・ロレンス(Thomas Edward Lawrence)は、一八八八年八月十六日、ウェールズ北部のカーナヴォン州トレマドックのウェルシュ村で生まれた。誕生日はナポレオンと同じで、少年時代には、そのことを友人に誇ったこともあるという。
父はアングロ=アイリッシュの富裕な地主トマス・チャプマン(一八四六〜一九一九。一九一四年に、いとこのサー・ベンジャミン・チャプマンから準男爵《バロネツト》位を継ぎ、第七代当主となる)、母はスコットランド生まれでチャプマン家の元家庭教師セアラ・メイドン(一八六一〜一九五九。どうやら私生児らしい)である。
父はアイルランドの田舎貴族で、一八七三年、二十七歳のとき結婚した妻(イーディス。地主の娘で、副音主義の熱烈な信者だった)との間に四人の娘まであったが、一八八一年、三十五歳のとき、二十歳のセアラが登場する。やがてセアラは退職し、三年後にはダブリン郊外に小さな家を借りて住んでいた。
情事が露見すると、父は妻子を捨てて家を出たが、妻のための積立金や娘の教育費を支払うために、のどかな田舎紳士の生活も切りつめざるをえなかった。ハンティングや外洋ヨットのかわりにカメラをいじり、馬のかわりに自転車に乗ることになる。ディード・ポールという手続きで姓を一方的にロレンスと変え、正式に結婚しているような体裁を整えはしたものの、ふたりの間につぎつぎに生まれた五人の息子は、法的にはすべて私生児だった。T・Eはその二番目である。
一家が転々と引越しをくりかえしたことにも、注目しておかねばなるまい。おそらく、ヴィクトリア朝時代の、表むきはまことに道徳的な中産階級社会の眼から、一家の秘密を守る必要があったせいだろう。ウェールズからスコットランドへ、マン島からジャージー島へ、北仏のディナールからイングランドのニュー・フォレストへ。ようやくオクスフォードに定住することになるのは、一八九六年、T・E八歳の時であった。
伝説は証言者の眼をもくらます。それらのきらびやかな光背をとりさってみると、あとに残るのは、ひとりの幸福な、ごくふつうの少年である。強健で、活動的で、頭がよく、自制心の強い学生だった。
父からは自転車乗りとカメラの趣味を受けつぎ、教会にのこる古い真鍮牌の拓本取りの手ほどきを受けた。この十歳のとき覚えた趣味が、T・Eを中世の騎士の世界へ導くことになる。肉体的な資質は父から、知的で意志的な資質は母から亨《う》けたと言われるロレンスだが、どうやら母とはしっくりいかなかったらしい。
セアラは五人も私生児を産みながら、ほかの女性の夫といっしょに暮らしていることから来る罪悪感からぬけられなかったらしい。愛の副音を説くクリストファ師の影響で熱心な信者となった。T・Eは信仰こそ受けつがなかったが、罪悪感と償いへの献身という人生への姿勢のほうは、たしかに継承している。また、女性嫌悪を核とする性的なゆがみと、肉体への虐待を核とする禁欲主義とを、母の影響と見ることもできよう――ただし、証拠となるような資料はのこっていない。
ロレンス自身がバーナード・ショウ夫人に語ったところによれば、自分が私生児であることを知ったのは十歳のときだったという。親しいグループの間では公然の秘密で、「妾腹の烙印《らくいん》なんて、むしろおめでたい飾りです」などと嘲笑しながら、同時に、公的には、生涯その秘密をまもりとおした。
いまひとつ、ロレンスにはコンプレックスがあった。少年のころの足の骨折がもとで(と、家族は信じているのだが)成長が止まってしまったことである――大学生になっても、身長は一六六センチしかなく(当時のイギリス人の平均には達していたが)、T・Eの属する上層中産階級の牙城オクスフォード大学の学生を例にとれば、平均身長一七六センチよりずいぶん低かった。このことについても、時に笑い話の種に使うかと思えば、ときにはしんそこから呪いのことばを書きとめることになる。
一九〇五年、十七歳の時、この少年ははじめて奇矯《ききょう》な行動に出る。夜、ひそかに家を出て、コーンウォールまで自転車を飛ばし、大英帝国砲兵兵団の訓練大隊に、一兵卒として志願入隊してしまったのである。表向きの理由は、家族と一緒の暮らしでは心の平和とプライヴァシーが保てないから、ということだった。この場は、六カ月後、父が三十ポンドの弁償金を払ってT・Eを除隊させ、庭に二部屋のバンガローを建ててやることでけりがついた。
しかし、この事件の示す意味は大きい。ひとつには、家族の中に溶けこんだ幸福な少年時代の終末を告げる出来事だから。そして、ふたつには、アイデンティティの危機にさいしてT・Eが示す異様な過剰反応の最初のあらわれだから。そして、最後に、このことが引き金となって、ひとりの人物がロレンスの人生に介入し、いわば父親に代わって精神的な父親の位置につき、決定的な影響を及ぼすことになるからである。
[影の組織]
一九〇七年、十九歳のロレンスはオクスフォード大学に入学し、ジーザス学寮の歴史学専攻奨学生となった。このとき、ロレンス家の相談役でもあったクリストファ師は、アシュモリアン博物館長でオクスフォード大学モーダレン学寮の特別研究員を兼ねるホガース博士に手紙を書いて、必要なときにはT・Eの「親代わり」になってくれるよう依頼する。そして、このときから、ロレンスはいわばホガース・グループのメンバー候補として、正式に登録されることになる――十七歳以後、わたしが享受したすべてのことは、彼という人物のおかげです(シャーロット・ショウ宛書簡)
十七歳以後、つまり家出をして自分のバンガローを手に入れてからのロレンスは、すでに自分からホガースに近づこうとしていた。結局はアシュモリアン博物館に寄贈することになるオクスフォード出土の中世の陶器類の収集から、休暇ごとの中世の城跡をたずねる自転車旅行にいたるまで、ホガースのアドバイスがあった。
成績はよかったが学科には不熱心で、自転車乗りはむろんのこと、水泳、ボート漕ぎ、乗馬から、ピストル射撃にいたるまで、肉体的能力の訓練については徹底しているくせに、団体競技を軽蔑し、普通の学生生活にはいっさい関係しない。いっぽうでは猛烈な読書家で、とりわけ中世については専門家に迫る才質を示す。
この学生の関心を、ホガースは中東にむけさせ、ロレンスもまた、シリア徒歩旅行で応える。十字軍の城砦を自分の眼でたしかめてまわるためだった――そして、この大胆な試みが、おそらくホガース・グループへの入団儀礼の役割をはたす。やがて、ドクター・ホガースは、この素材に、いわば自分の魂を吹き込み、自分の若い分身へと、慎重につくりかえていった。
デイヴィッド・ジョージ・ホガース博士(一八六二〜一九二七)は、ロレンスの親代わりを引きうけたとき四十五歳で、すでに世界的な考古学者だった。発掘調査の足跡はエジプト、小アジア、メロス、エペソスに及び、アテネの英国考古学院長として三年をすごし、ときにタイムズ紙特派員を兼ねた――のちに、関心はヒッタイト文明に移り、カルケミシュ発掘を組織する。一九二五年から没年まで、英国地理学会長をつとめた。
パクス・ブリタニカ(大英帝国による世界平和)の信者で、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ギリシア語、トルコ語、アラビア語を話し、名講演者としてロンドンの社交界でも人気があったが、同時に、時の政府のために政治情報機関としての役割もはたす、一流のバックルーム・ボーイ(黒幕)のひとりでもあった――ホガースの伝記が公刊されないのは、この影の部分の記録が破棄されてしまったためらしい。
表に現れた部分だけ見ても、ロレンスとの重なりは明白だろう。一九一五年、アラブの叛乱を組織する密命をおびてカイロにおもむき、やがてアラブ局を新設して局長となる。一九一九年には、パリ平和会議のシリア問題委員会の英側調査官だった。
ホガースをとおして、ロレンスはまた、「円卓会議」の思想を知ることになる。政府の意志決定に圧力を加えることができるナショナリストの秘密めかした結社で、自由人連合(大英帝国内の全白人の団結)による世界秩序の樹立と帝国主義、つまりは人種差別思想とフランス嫌いが綱領だった――のちに、ロレンス自身もメンバーの何人かと親交を結ぶようになる。彼をオール・ソウルズ学寮特別研究院に推薦したのも、会員のひとりだった。
一九一〇年、オクスフォード大学の歴史部門を首席で卒業するとホガース博士の推薦でモーダレン学寮の上級奨学金を受け、大英博物館のカルケミシュ考古学発掘隊に参加することになる。初代隊長はもちろんホガース博士である。博士とともにロレンスは一カ月の迂回旅行をして、カルケミシュにはいった。回り道の理由ははっきりしない。そして、発掘隊の本隊は、ドイツ人によるユーフラテス河架橋工事現場のすぐ近くだった――ナイトリとシンプスンは、ホガース博士の考古学発掘隊をCIAがひそかに財政援助している文化事業団体になぞらえている。
ここまでが、いわば「アラビアのロレンス」の前史である。紙数の制限のため、しばらくは、本文と年譜を追ってほしい。
ロレンスがドクター・ホガースとのあいだに亀裂を意識するようになるのは、いつごろのことだろうか?――言うまでもなく、感情の振幅のなかでときに反撥し、断絶を予感したりするのとはまったく別の話として。
あきらかに一九一八年二月ではない。ゼイドが三万ポンドもの軍資金を無駄に使い果たしてしまったことの報告に、アレンビーの司令部におもむいたロレンスは、偶然ホガースと出会う。このとき、なにもかも投げ出したいとぐずるロレンスは、だだっ子の息子そっくりだし、ひとことも反論せずに懐柔してしまうホガースの手口は、くえないおやじそっくりである。
一九一八年十月二十日、国王に謁見したロレンスが、三級バス勲章と殊勲章の辞退を申し出たときも、アラブ人への祖国の約束が果たされるまでという条件には、ホガース・グループと「円卓会議」とのバックアップがあった。一九一九年五月末に、ホガースがシリア問題調査委員会の英側調査員を辞任してオクスフォードにもどったとき、ロレンスはかなりまいりはしたものの、まだ戦いつづけた。戦術を変えて、おびただしい手紙や論文を新聞に発表する。タイムズ紙の編集者も「円卓会議」のメンバーだった。
[神をもたぬ修道僧]
アイデンティティの裂け目を、修復しようがないまでに押しひろげていったのは、ロレンス自身だった。そして、自らを支える信条の基盤を掘りくずす作用をはたしたのが、ほかならぬ『智慧の七つの柱』の執筆だった。起筆は一九一九年二月のパリにおいてだが、いちおう満足できる原稿を脱稿したのは一九二二年二月のロンドンにおいてである――執筆をすすめたのが、ほかならぬホガース博士だったのも、皮肉なめぐり合わせと言うべきだろうか。
書くことは、叛乱の日々を追体験することである。が、むろん、単なる追体験にとどまることはできない。砂漠にあっては行動が思索に優先したが、いまは行動の意味が前面にうかびあがる。戦いの渦中にあっては自らをあざむくことができた希望も、いまは歴史が冷酷な結論を出してしまっている。しかも公務秘密保持法に拘束されて、自分の知っている叛乱のすべてを書きしるすことさえできないのだった。
ロレンスはついに、自分の果たした役割を、恥ずべき詐欺師であったと決めつけるほかなくなってしまう。予言者ふうの颯爽とした行動力を支えていた価値体系の核がくずれる。むなしくも破廉恥な欺瞞にまきこまれる原因となったホガース博士の魔術の正体が見えはじめる。そして、アイデンティティの核を失ったロレンスに忍びよるのが、少年時代からおなじみの、あの母ゆずりの罪悪感だった。そして、再び、少年時代の中世への夢がよみがえる。こんどは騎士ではなくて僧侶の出番だった。一九二三年のことだが、ロレンス自身、こうしたためている――自分ひとりの信条にもとづく世俗の修道士が、いままでにもずいぶんいたとはお考えになりませんか?
アイデンティティの危機にさいしてロレンスがとった行動は、十七歳の時と同じくらい奇矯だ。一九二二年八月、三十四歳の誕生日を目の前に、ロレンスは偽名をつかい、一兵卒として空軍に志願するが不合格となり、その月の末に、空軍幕僚長の口ききで宿願の入隊をはたす。表向きの理由は、空軍についての本を書くというものだったが、死後二十年たって公刊された『造幣局』には、ことばになりがたい(そして、おそらく明確に意識化されることのなかった)彼自身の怨《うら》みが、なににもまして色濃くただよっている。
危機は、その年の末、事実を新聞に暴露されたことに始まる一連の騒ぎの結果、空軍を放り出されたショックにつづいて、翌年、同じく上層部の口ききで一兵卒として入隊した戦車兵団の生活が耐えがたいほどのものであったショックが重なり、頂点に達する。ライオネル・カーティス宛の手紙に、人類がいないほうが地球はすばらしい星になるだろうとしるす――われわれは誰も彼も似たりよったりで、全員、有罪なのです……子供にさえ、どこか誕生にまつわる罪の影がやどっているというのが真実ではありますまいか? こと人間の問題に関して、唯一の理性的判断といえるのは、ペシミズムだけです。
ほとんど、分裂病発病直前の患者の手紙を読む思いがある。あるいは、妄想の体系の核を打ちくだかれたパラノイア患者の、と、言いなおすべきだろうか――みごとにバランスのとれた評伝『アラビアのロレンスとその世界』(一九七六年刊)を書いたリチャード・パーシヴァル・グレイヴズも、この時期、ロレンスがジョン・ブルースに自分を鞭打たせたこともありうるだろうと認めている。中性の聖人たちも自らを鞭打たせたわけだし、ましてロレンスの場合には、デラアでのマゾヒスティックな経験のこだまさえあっただろうから、と。
ブルースの証言によれば、ロレンスは自分を罰する「老人」という虚構を考え出したらしい。この老人に、悪夢に投影されたホガース博士を重ね合わせて読むことは、むしろ、ごく自然な反応だろう(引用は村松仙太郎訳による。傍点は筆者)
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老人は初めは保証人《ヽヽヽ》となることに同意したが、ロレンスが植民省を辞職したことを知ると、その申し出を引っこめ、彼のことを罵ったと言います。老人の言葉によれば、彼は|一族の名前を溝泥のなかに引きずり回している《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》というのです……老人は、彼のことを、上品な人々のなかで生活するのに適わしくない私生児と呼びました……『智慧の七柱』は二年以内の時間で完成するだろうし、|そうしたら老人への負債を清算し《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、同時に軍隊からも除隊できる立場に立てるだろう……。
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回復のきざしが見えるのは、自殺の脅迫までして空軍に復帰した翌年に『智慧の七つの柱』の推敲の筆を置いて限定版を出版し、翌々年ロレンスの姓をすて、まもなくホガース博士の訃報に接するころからなのは、単なる偶然の符合だろうか? 一九二八年には、ロレンスは自分自身とのある種の和解に達したように見える。『造幣局』をまとめ、『オデュッセイア』の翻訳にかかり、やがては社会的な積極性をもとりもどして、すすんで国際競技会の組織を手伝い、新しい快速艇の開発にとりくむまでになった。
一九三五年二月、十年間の兵役を終えて退役。一カ月半後、オートバイ事故にあい、そのまま意識を回復することはなく、六日後に死亡。長い晩年の唯一の喜びの源泉だったスピードを讃える自作の詩の一節を、自ら演じることになる――スピードのなかでのみ、われわれは肉体を超越する。ガソリンの香煙に包まれてはじめて、われらの肉体も天圏をかけめぐることが可能となる。
この日、ロレンスはボヴィントンに所用があってオートバイで出かけ(その一つは、友人の作家ウィリアムスンを昼食に招待する電報を打つためであった。ウィリアムスンは、イギリスとドイツが友好を結ぶことでヨーロッパに平和を確保するため、ロレンスにヒトラーとの会見を提案する手紙を出したという)、帰途、事故にあった。五月十三日、午前十一時半ころのことである。狭い急坂をとばしているとき、前方から黒い乗用車が姿を現し、それをかわしたとたん、自転車に乗ったふたりの少年に遭遇、急ブレーキをかけてまわりこもうとしたが、自転車の一台と接触した。少年は軽傷ですんだが、ロレンスは道路にたたきつけられる。
そのとき、軍用貨物自動車が通りかかって、ロレンスと少年をボヴィントン基地の陸軍病院に運んだ。ただちに報道管制がしかれ、国王の侍医ふたりをふくむ四人の名医が派遣されたが、ロレンスの容態はしだいに悪化し、五月十九日、午前八時すぎに死亡。葬儀は五月二十一日、検死のあとで行われた。家族の要望で一般市民の参加はことわったが、チャーチルをはじめ、著名な友人たち多数が列席、国王からも弔電がよせられた。
遺志により、モアトン村の墓地に埋葬。享年四十六歳。静かなヒマラヤ杉の木蔭の墓は、小さくて、人目につかない――が、この死もまた一群の伝説をうんだ。自殺説。偽装説。外国のスパイによる他殺説(フランス説、ドイツ説、アラブ説、とある)そして、秘密暴露を恐れた大英帝国の諜報機関による暗殺説まで出そろっている。
『智慧の七つの柱』
『智慧の七つの柱』は、アラブの叛乱の単なるドキュメントではない。「この本は、歴史の骨であって、歴史そのものではない」という著者のことばは、幾層もの複雑なニュアンスを含んでいる。第一稿の起筆(一九一九年二月)から数えると、ほぼ現在の普及版(一九三五年刊)にちかい予約限定版の刊行(一九二六年十二月)までの間に、じつに八年ちかい歳月が費やされている。その間、原稿は著者自身による縮冊版までふくめると、五種類におよぶ。
第一稿 一九一九年二月起筆、同年八月末脱稿。約二十五万語。ただし、同年末、そのほとんどを紛失。
第二稿 一九二〇年早春起筆、三カ月後に脱稿、推敲と訂正をへて九月に完成。約四〇万語。第三稿完成後に焼却。
第三稿 一九二一年年頭起稿、翌年二月完成。約三十三万語。八部のみ印刷製本(オクスフォード版)。
予約限定版 オクスフォード版をさらに推敲、一割五分をカットしたもの。約二十八万語。一九二六年十二月刊行。総部数百九十。
砂漠の叛乱 予約限定版を約半分、十三万語に圧縮したもの。一九二七年三月、英米で同時刊行、ベストセラーとなる。
これらの過程は、なにを意味するだろうか。まず第一に、祖国に裏切られたことへの苦さが、稿を改めるごとに色濃くにじみはじめたことだろう。第二に、自分自身の演じた役割への嫌悪の補償のために、その中にも存在した幸福な瞬間への美化が行われる。第三に、公務員の義務に拘束されて、すべてを書くことはできなかった。くわえて、第四に、自ら伏せておきたい諜報員としての詐術も無数にあっただろう。そして、第五に、そういう語らなかった事実とバランスをとるように、ロレンス自身のミスティフィケイションが行われる。第六に、にもかかわらず、歴史的事実を詩的真実にまでたかめるために、著者が渾身の努力をかたむけたこともたしかである――ロバート・ペインの『アラビアのロレンス』(一九六二年刊。邦訳、筑摩書房)は、時に張扇の音さえ聞こえてくるロレンス伝説のたくみな読み本だが、その中に、この間の事情を伝える適切な例がはいっている(引用も同書、中野好夫・沢崎順之助訳による)。
まず、原資料となったロレンス自身のメモとはどんなものだったか。フェイサルとの初会見の場(本書第一章「武人預言者をもとめて」参照)は、彼が当日に書いて、のちに「アラブ情報」に掲載された報告書では、こうなっている。
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ハムラは、シディ・フェイサルのラクダ人夫や兵士らで充満していた。わたしは高さ二十フィートほどの塚の上にある小さな土造りのあばら屋で、フェイサルが忙しげに大勢の訪問客を相手にしているのを見つけた。わたしは、手短な、いささかはげしいやりとりを交わすと、すぐ退出した。ゼキ・ベイは、わたしを温かく迎えて、草むらにテントを張ってくれた。夕食をすませると、延々何時間にわたって、まったく不可解な人物であるフェイサルと議論を闘わせたすえ、このテントで風呂をつかって、ぐっすり寝た。
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また、定稿以前の草稿とはどんなものであったか。アバ・エリ・リッサンの戦いの直後の描写(本書第四章「アカバ急襲」末尾近く参照)が、友人のロバート・グレイヴズの手をへて、アメリカの雑誌「世界の作品」にのこっている(一九二一年八月号)
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死者たちは、月光のもとで、はだかのまま横たわっていた。トルコ兵たちの肌は、わたしがともに暮らしているアラブ人よりずっと白く、みんなほんの少年にすぎなかった。黒々とした|にがよもぎ《ヽヽヽヽヽ》の葉が夜露に重くたれて、波のしぶきのように輝きながら、兵士たちをとり囲んでいた。心身ともに倦み疲れたわたしは、谷の遠く向こうで、足の速さや体力を自慢しあい、略奪品で言い争っている、うるさい、落ちつきようのない烏合の衆よりも、むしろこの静かな仲間にはいりたい、と思った。というのは、今後、この戦いは未知の苦労をへながら進められていくことだろうが、われわれ各人の歴史の最後の章をなすものは、死に間違いなかったからである。
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最後に、歴史の審判の問題がのこる。すくなくとも単身、フェイサルのもとに乗りこんだときのロレンスの胸中に燃えていた、ホガース博士ゆずりのパクス・ブリタニカの理想は、利権あさりまるだしの戦後処理によってむなしくなった。そして、第二次大戦は、そもそもヨーロッパ諸国の植民地主義まで根こそぎにしてしまった。フランス側がロレンスを眼の仇にするのはあたりまえだが、アラブ史家が指摘する大シリアの分割とイスラエル建国の種子をまいた事実は、否定できない。
むしろ、いまとなっては、ロレンスが最悪の精神状態のときに書きのこしたことばのほうが、われわれには、不吉な予言のように、なまなましく生きているようにさえ思われる――人類などいないほうが、地球はすばらしい星になるでしょう。こと人間の問題に関して、唯一の理性的判断といえるのは、ペシミズムだけです。
それでもなお、伝説のヒーローとしてのロレンスは、けっして死なない。政治的人間である「党派活動家」としてではなく、行動のなかに自らを投げ込むことによってしか自我の孤独をいやすすべを知らず、その行動を意識化する課程で自己正当化の基盤を自ら掘りくずしていったひとりの「冒険者」として。このとき、われわれは、アラビアのロレンスよりも、アラビア後のロレンスのほうをいっそう近く感じはじめる。が、それもまた、われわれの意識の底に眠る、いまひとつの伝説へのひそかな願望なのかもしれない。
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年譜
一八八八
八月十六日、トマス・エドワード・ロレンスは、ウェールズ北部カーナヴォン州トレマドックのウェルシュ村で生まれた。アイルランドの田舎貴族で富裕な地主、トマス・チャプマンと、もとチャプマン家の家庭教師、セアラ・メイドンとのあいだに生まれた私生児。五人兄弟の二番目である。父は妻子を捨てて家を出、姓もロレンスと改め、いかにも結婚しているような体裁をととのえはしたものの、ヴィクトリア朝時代の上層中産階級社会の道徳的な眼からのがれるように、転々と引越しをくりかえした。ようやくオクスフォードに定住するようになるのは、T・E八歳のときである。
一九〇五(十七歳)
家出して、大英帝国砲兵兵団の訓練大隊に、一兵卒として志願入隊。六カ月後、父は弁償金を払って除隊させ、庭に二部屋のバンガローを建てて与える。著名な考古学者D・G・ホガース博士の知遇をえる。オクスフォード出土の中世の陶器類を収集。休暇ごとに中世の城跡をたずねて自転車旅行を行なう。
一九〇七(十九歳) 十月、オクスフォード・ハイスクールを終えて、オクスフォード大学に入学、ジーザス学寮の歴史学専攻奨学生となる。ホガース博士が『親代わり』の役を引き受け、T・Eの関心を中東に向けさせる。ヴィヴィアン・リチャーズと親交を結ぶ。
一九〇九(二十一歳)
夏、単身でシリアを徒歩旅行。
一九一〇(二十二歳)
オクスフォード大学の歴史部門を首席で卒業。卒業論文は、死後に『十字軍の城砦』として刊行された。ホガース博士の推薦で、大英博物館のカルケミシュ考古学発掘隊に参加することになる。
一九一一(二十三歳)
ジェベイルで二カ月間アラブ語を学び、二月に初代隊長ホガース博士と合流、三月にカルケミシュに着く。四月、R・C・キャンベルのもとで発掘をつづける。人夫頭ハモウディ、ロバ係の美少年ダホウムと親交を結ぶ。夏、メソポタミア北部を徒歩旅行。
一九一二(二十四歳)
一月、エジプトのカフル・アンマルの発掘に参加。春、発掘隊長がL・.ウーリーに交替(ウーリーは、ロレンスとダホウムの同性愛の噂を、アラブ人たちから聞いた)。クリスマス休暇にオクスフォードに帰省。
一九一三(二十五歳)
カルケミシュ滞在。夏の休暇に、ハモウディとダホウムを伴ってオクスフォードに帰省。
一九一四(二十六歳)
年頭、六週間にわたり、ニューカム大尉の指揮下にはいって、ウーリーらとともに、英国陸軍のためにシナイ半島で情報収集にあたる。表向きは学術調査だから、報告書も翌年、ウーリー、ロレンス共著『ジンの荒野』として刊行された。二月、カルケミシュに戻る。六月、帰国。七月、第一次世界大戦勃発。八月四日、大英帝国参戦。士官養成所に志願するが、二度とも不採用。ホガース博士の推薦で、陸軍参謀本部地理班にはいる。十月、キッチナー陸相の密使、アブドゥッラと接触。トルコ参戦。十二月、新設の陸軍エジプト情報部付少尉に任官。ウーリー、ニューカム、ジョージ・ロイドらとともにカイロにおもむく。
一九一五(二十七歳)
政府はホガース博士をカイロに送り、アラブ叛乱のための下交渉にあたらせる。七月から翌年一月にかけて、マクマホン=フセイン往復書簡――叛乱にさいしては財政援助を、戦後には大アラブ連邦の独立を、ほぼ承認する内容をもつ。いっぽう、春から、フランスとのあいだに戦後の中東における英仏の権益をあらかじめ定めておく秘密協定の予備交渉にはいり、翌年の五月十六日、サイクス=ピコ協定に調印――英は主としてイラクとバグダッド、バスラ両州を、仏は主としてシリアとレバノンを、露は主として黒海沿岸を、それぞれ影響下におき、パレスティナは国際管理に委ね、アラビア半島だけ独立させるという内容である。二枚舌外交の典型というほかない手口だった。弟フランクおよびウィルが戦死。
一九一六(二十八歳)
三月、クトゥでトルコ軍の重囲におちいった英印軍を救出するため、臨時に大尉の資格を与えられて、イラクに派遣される――トルコ軍司令官ハリルを百万ポンドで買収する計画であったが、失敗。春、新設の外務省アラブ局(局長ホガース博士)発行の「アラブ情報」の編集にあたる。このころから、エジプト遠征軍司令部の同僚との対立がめだつ――イラクを英国の植民地化するためには、アラブの叛乱はマイナスだという主流派の主張に反対だった。アラブ局への転出を願い出る。六月九日、フセイン決起。アラブの叛乱の旗上げ――五日のアリのメディナ攻撃は失敗におわるが、メッカでは成功。九月までに、ジッダ、ラベグ、イェンボ、ウムレジ等を占領する。十月十六日、ロレンス中尉はジッダにつく。フェイサルと会見。十一月、フェイサル軍との連絡将校となり、大尉に任官。十二月、反攻に転じたトルコ軍がイェンボに迫る。
一九一七(二十九歳)
一月、フェイサルとともにウェジへ進撃。三月、ワディ・アイスヘ。四月、アウダ・アブ・タイ、フェイサル軍に参加。五月九日、アカバへ進軍開始。二十七日、ホウェイタ部族軍と合流。六月五日〜十八日、偵察行。七月六日、アカバ占領。九月、巡礼鉄道爆破。十月、アズラクヘ。十一月、ヤムルク峡谷襲撃に失敗。同十一月、バルフォア宣言――ユダヤ人の戦争協力とひきかえに、戦後、パレスティナにユダヤ人の郷土を設立することに同意。同月、ボルツェヴィキ革命に成功したソヴィエト政府は、帝国の外交文書を公表――サイクス=ピコ協定が暴露される。トルコのジェマル・パシャは、講和条件をたずさえた密使をアラブ叛乱軍に派遣――翌月四日、協定の原文がシリアの全新聞にのった。同十一月、いわゆるデラア事件――単独でデラアに潜入したところをトルコ兵につかまり、軍政官のまえに引きずり出されて夜伽の相手をつとめることを強要されるが、拒んで拷問を受けた、と、ロレンスは書いている。けれども、この話を創作とみなす説もすくなくない。十二月、巡礼鉄道攻撃。アレンビー将軍のイェルサレム入城に、幕僚将校(少佐)として参列。
一九一八(三十歳)
一月、ホガース博士、フセインのもとを訪れ、バルフォア宣言を釈明。翌月、ジッダ駐在英代表は、フセインに、サイクス=ピコ協定の存在を否認する回答を行なう。タフィレ会戦。二月、ゼイド、軍資金三万ポンドをすべて費消。ベエルシェバのアレンビー軍司令部におもむき、ホガース博士に解任を訴える。アレンビー将軍は七百頭のラクダ部隊と三十万ポンドを約束し、大佐に昇進させて、フェイサルのもとに送りかえす。四月、テル・エル・シャーム攻撃。六月、大英帝国、アラブ七人委員会への回答を発表(対七人委声明)――アラブ軍の力で解放した地域には、すべて完全独立を認めると約束。七月、アカバでラクダ部隊を編成。八月、アズラクに火薬を運ぶ。九月十六日、アラブ軍、デラアに迫る。二十八日、タファスの大虐殺。デラア占領。三十日、ダマスカス占領。アルジェリア人の政権を倒し、アラブ人の行政府を組織。十月三日、アレンビーのダマスカス入城、アラブ人行政府承認。つづいてフェイサルのダマスカス入城、五日、アラブ軍事政府を樹立。三十日、トルコ、降伏条約に調印。翌月七日、英仏声明――シリア、メソポタミアに、住民が自由意志でえらんだ政府を樹立することに支援を約束。十月四日、ロレンス、辞任してアラビアを去る。二十日、国王に謁見して三級バス勲章と殊勲章を辞退。二十九日、政府にアラブ側の要求を提出。十一月、ドイツ革命、帝国崩壊、休戦条約調印。第一次世界大戦終結。十二月、フェイサルとシオニストの指導者ワイツマンの会見に立ち合う。
一九一九(三十一歳)
一月、ヴェルサイユ平和会議へ。フェイサルの通訳兼代弁者として、行動をともにする。チャーチルに会う。二月、ホガース博士のすすめで『智慧の七つの柱』第一稿にかかる。三月、アメリカ代表をアラブ側に引きこむ努力をかさね、シリア問題調査委員会の派遣決定までこぎつけるが、フランスのボイコットにあう。四月、父の死。五月、ホガース博士はシリア問題調査委員会の英側調査官を辞任してオクスフォードに戻る。このころ、ロレンスは精神的にかなりまいっていたらしい。資料収集のためカイロにむかう途中、イタリアで飛行機事故にあい、重傷。カイロからパリに戻って執筆をつづける。五月、アブドゥッラ軍、イブン・サウド軍に大敗。六月、ヴェルサイユ条約調印。八月、オクスフォードに戻る。『智慧の七つの柱』第一稿脱稿。ロンドンで、アメリカのジャーナリスト、ロウェル・トマスの講演「アラビアのロレンス」が大当たりをとり、ロレンスは一躍、著名人となる。すくなくとも五回、ロレンス自身、こっそり聞きに行ったという。このころから、ロレンスは新聞をつうじて、アラブ人のために宣伝戦を展開する。九月、クレマンソー=ロイド・ジョージ協約により、シリアのフェイサルは見捨てられることになる。十月、最後の望みを託したアメリカのイェイル案も廃棄となる。十一月、シリアとアルメニアにたいする仏軍政、イラクにたいする英軍政がはじまる。十一月、オクスフォード大学オール・ソウルズ学寮の特別研究員となる。年末、レディング駅で乗り換えるとき、『智慧の七つの柱』第一稿の大部分を紛失する。
一九二〇(三十二歳)
三月、第二回全シリア会議は、シリア連合王国の独立を宣言し、初代国王にフェイサルを推戴する。四月、英仏伊日ほかから成るサン・レモ会議で、中東問題の決着をつける――イラク、パレスティナは英の、シリアは仏の、委任統治領となる。七月二十四日、シリア軍はフランス軍のまえに玉砕、フェイサルは国外追放となる。九月、『智慧の七つの柱』第二稿完成。十二月、チャーチルが植民相となり、中東局顧問を引き受ける。
一九二一(三十三歳)
三月、カイロ会議――アブドゥッラをトランスヨルダンの太守に、イラクを独立させてフェイサルを国王にする手順をきめる。七月、フセインと会談――この決裂によって、以後、イギリスはイブン・サウドと結ぶことになる。ヨルダンに平和を回復して、帰国。
一九二二(三十四歳)
二月、『智慧の七つの柱』第三稿脱稿。自分を詐欺師とみなし、はげしい自己嫌悪におちいる。三月、バーナード・ショウ夫妻に会い、親交を結ぶ。七月、植民省を辞職。八月、空軍幕僚長トレンチャードの助力をえて、ジョン・ヒューム・ロスの偽名で、一兵卒として英国空軍に入隊。アクスプリッジで六週間の新兵訓練を受けたのち、ファーンボローの空軍写真学校に配属。十二月、新聞がこの事実を暴露。
一九二三(三十五歳)
一月、トレンチャードが申し出たある任務まで拒否したため、空軍を追われる。三月、総軍高級参謀の助力をえて、T・E・ショウの偽名で、一兵卒として戦車兵団に入隊。ボヴィントン基地に配属される。十九歳の新兵ジョン・ブルースと親交を結ぶ。夏、クラウズ・ヒルに山小屋を借りる。
一九二五(三十七歳)
前年の三月から空軍への復帰を願い出、さまざまな手をうつが、すべて失敗に終わり、六月には自殺の意志を手紙にしるす。七月、ボールドウィン首相の調停で空軍に復帰、クランウェルの士官学校付となる。
一九二六(三十八歳)
『智慧の七つの柱』の推敲と縮冊版『砂漠の叛乱』の編集。十二月、海外勤務を志願、インドのカラチ空軍基地に転属――出版にともなう騒ぎに巻きこまれないためである。『智慧の七つの柱』予約限定版刊行――普及版刊行は一九三五年。
一九二七(三十九歳)
三月、『砂漠の叛乱』が英米で同時刊行され、たちまちベストセラーとなる。八月、ディード・ポールの手続きで、T・E・ショウに改名。十一月、ホガース博士死去。
一九二八(四十歳)
三月、『造幣局』完成――空軍での体験の記録。公刊は空軍への配慮から、一九五五年まで延期された。五月、インドの空軍駐屯地のなかで最も小さく最も辺境にあるミランシャーに志願、転属。『オデュッセイア』の翻訳に着手。
一九二九(四十一歳)
一月、とつぜん本国に強制送還――ミランシャーから十マイルしか離れていないアフガニスタンで勃発した叛乱の背後にロレンスがいるという、でっちあげ記事があらわれ、国際問題化したためだった。三月、キャティウォーターの飛行艇基地に配属。指揮官シドニー・スミス夫妻と親交を結ぶ。九月、シュナイダー杯国際飛行艇競技会の組織を手伝う。
一九三一(四十三歳)
『オデュッセイア』の翻訳完了――翌年刊行。快速艇の開発に従う。
一九三二(四十四歳)
九月、通常勤務に復帰。
一九三三(四十五歳)
春、退役を願い出、次期空軍参謀長の斡旋で特殊勤務に戻り、標的艇その他の開発に従う。
一九三五(四十六歳)
二月二十六日、十年間の兵役を終えて、空軍を退役。クラウズ・ヒルにこもるが、無為の生活に耐えられない。五月十三日、オートバイ事故。意識を回復することなく、十九日、死亡。二十一日、遺志により、モアトン村の墓地に埋葬された。