目次
警官と讃《さん》美歌《びか》
赤い酋長《しゅうちょう》の身代金《みのしろきん》
振《ふり》子《こ》
緑の扉《とびら》
アラカルトの春
運命の衝撃《しょうげき》
ハーグレイブズの一人二役
善女《ぜんにょ》のパン
ラッパのひびき
よみがえった改心
自動車を待つ間
多忙《たぼう》な仲買人のロマンス
黄金の神と恋《こい》の射手
桃源境《とうげんきょう》の短期滞在《たいざい》客《きゃく》
馭者《ぎょしゃ》台《だい》から
水車のある教会
O・ヘンリの生涯《しょうがい》と作品(大久保康雄)
警官と讃《さん》美歌《びか》
マディソン・スクエアのいつものベンチで、ソーピーは、もぞもぞと身体《からだ》を動かしていた。雁《がん》が夜かん高い声で鳴き、あざらしの毛皮のオーバーをもたぬ女たちが亭主《ていしゅ》にやさしくなり、そしてソーピーが公園のベンチでもぞもぞ身体を動かすと、もう冬も間近いことがわかるだろう。
一枚の枯《かれ》葉《は》がソーピーの膝《ひざ》におちてきた。それはジャック・フロスト氏の名《めい》刺《し》である。ジャックはマディソン・スクエアの常連たちに親切で、毎年ここを訪れるときには、ちゃんと予告してくれるのである。四つ辻《つじ》の角のところで、彼《かれ》は「青空荘《あおぞらそう》」の玄関番《げんかんばん》である北風氏に名刺をわたす。おかげで屋《や》敷《しき》の住民たちも冬《ふゆ》支《じ》度《たく》ができるのである。
いよいよ迫《せま》りくる冬にそなえて、おれも、越冬《えっとう》対策委員会の、一人きりの委員になる決心をしなければならぬ、とソーピーは、はっきりとさとった。だから彼は、いつものベンチで落ちついていられなくなったのだ。
越冬策としてソーピーが抱《いだ》いた願望は、そんなにぜいたくなものではなかった。地中海の船旅をしたいとか、眠《ねむ》くなるような南の空の下ですごしたいとか、ヴェスヴィアス湾《わん》で舟遊びをしたいとか、そんなことはすこしも考えていなかった。島での三ヵ月、これが彼の念願なのだ。風の神《ポオリアス》や警官を心配せずに、食事とベッドと気の合った仲間が保証されている三ヶ月が、ソーピーにとっては、望ましい最高のものなのだ。
ここ何年か、もてなしのいいブラックウェルズ島が彼の冬ごもりの住居だった。冬がくるたびに、彼よりも幸運にめぐまれたニューヨークの市民たちが、パーム・ビーチやリヴィエラへ行く切《きっ》符《ぷ》を買うように、ソーピーは例によって島へしけこむために、ささやかな準備をするのがつねだった。今年も、ついにそのときがきたのだ。昨夜は上着の下と、足首のまわりと、膝の上に、日曜版の新聞を三部ひろげて寝《ね》たが、そんなことでは、古い公園の噴水《ふんすい》のほとりのベンチの上で寒さを撃退《げきたい》できるものではなかった。折柄《おりから》、「島」が、ぼうっと、ソーピーの心の中にうかびあがってきたのである。彼はこの町の食客たちのために、慈《じ》善《ぜん》の名において設けられた施《し》設《せつ》を軽《けい》蔑《べつ》していた。ソーピーの意見によれば、法律のほうが、博愛よりも、ずっと親切だった。市営や慈善団体の施設は、数かぎりなくあった。望むなら、その世話で、簡易生活にふさわしい宿泊所《しゅくはくじょ》や食物を受けることもできた。だが、ソーピーのような自尊心の強いものには、慈善の贈《おく》りものは、気にくわなかった。よしんばゼニは払《はら》わなくても、慈善事業の恩《おん》恵《けい》にあずかれば、そのたびに精神的屈辱《くつじょく》という代価を支払わなければならない。シーザーにブルータスがついていたように、慈善のベッドには入浴という課税がつきものだし、一片《ぺん》のパンにありつくためには私事にまで立入る個人的な身元調査という代償《だいしょう》を支払わなければならない。規則によって動かされているにしても、法律は紳《しん》士《し》の私事にまで不当な干《かん》渉《しょう》をしないから、むしろ法律の厄介《やっかい》になったほうがましなのだ。
島へ行く肚《はら》をきめると、ソーピーは早速その願望の達成にとりかかった。そうするために
は、簡単な方法がたくさんあった。一番愉《ゆ》快《かい》な方法は、どこかぜいたくなレストランで、豪勢《ごうせい》な食事をすることだった。それからおもむろに一文なしだと見得《みえ》を切って、そのままじたばたせずに従順に警官の手に引きわたされることだ。あとは親切な判事が万《ばん》事《じ》とりはからってくれる。
ソーピーはベンチをあとにして、ぶらぶら公園から出て行き、ブロードウェイ通りと五番街とが合流するあたりのアスファルトの平らな海を渡《わた》って行った。ブロードウェイ通りを北へ向い、まばゆいばかりの料理店の前で立ちどまった。ここは夜ごと、とびきり上等の葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》と絹の衣裳《いしょう》と洗練された人間たちが集まってくるところなのである。
ソーピーは、チョッキの一番下のボタンから上には自信があった。髭《ひげ》も剃《そ》ってあるし、上着も見苦しくないし、小ぎれいな黒い結びつけのネクタイは感謝祭の日に婦人伝道師から贈られたものであった。このレストランのテーブルへ怪《あや》しまれずにつくことができれば、成功は彼のものである。テーブルから上に出ている部分なら、給仕《きゅうじ》の心に疑《ぎ》惑《わく》を起すようなことはないだろう。真《ま》鴨《がも》の丸焼くらいが、まず適当なところだろう、とソーピーは思った。それに白葡萄酒が一壜《びん》とカマンベールチーズ、食後のコーヒー一杯《ぱい》と葉巻が一本――。葉巻の代は一ドルとみれば十分だろう。全部合わせても、料理店の帳場から、ひどい仕返しをされるほどの金高にはなるまい。しかも、これだけの食事は、彼を満腹させ、幸福な気分で冬の避《ひ》難所《なんじょ》へ旅立たせてくれるだろう。
ところがレストランのドアの中へ一歩足を踏み入れたとたんに、給仕長の目が、すり切れたズボンと、はきふるした靴《くつ》の上に落ちた。たくましい敏捷《びんしょう》な手が、待ってましたとばかり彼の向きを変え、ものも言わずに、たちまち彼を歩道へ送りかえし、すんでのことに食い逃げされるところだった真鴨の不《ふ》名《めい》誉《よ》な運命を救ったのである。
ソーピーはブロードウェイ通りから横へそれた。待望の島へ行ける道は、食道楽《エピキューリアン》の道ではなかったようである。刑《けい》務《む》所《しょ》にはいれる何か別の方法を見つけ出さなければならない。
六番街の角に、電灯と板ガラスの奥《おく》に手《て》際《ぎわ》よく陳列《ちんれつ》された商品によって、ショーウィンドーが一際《ひときわ》目立って見える店があった。ソーピーは石をひとつ拾いあげると、その窓ガラスに叩《たた》きこんだ。警官を先頭に大勢のものが町角を曲って駆《か》けつけてきた。ソーピーは両手をポケットにつっこんだまま、じっとしていた。そして、警官の真鍮《しんちゅう》のボタンを見ると、にやりとした。
「こんなことをした奴《やつ》は、どこにいるんだ?」警官は興奮してたずねた。
「あっしがこれに関係があるかもしれねえとは思わねえかね?」皮肉まじりに、しかも幸運を迎《むか》える人のように、親しみをこめて、ソーピーは言った。
警官の心は、ソーピーの言葉を、一つの手がかりとしてすら受けつけなかった。窓を叩き割るような男が、法律の代理人と話しあうためにその場に残っているはずがない。そういう奴は、一目散に逃げだすものだ。警官は、電車に乗ろうとして半ブロックほどさきを走って行く一人の男に目をとめた。警棒をひきぬいて彼はその男を追いかけた。ソーピーは、またしてもしくじったので、無念やるかたなく、ゆっくりと歩きだした。
通りの向う側に、たいして見栄《みば》えのしないレストランが一軒《けん》あった。それは、食欲はすごいが、ふところはさびしい人間には、おあつらえ向きの店だった。食器類と雰《ふん》囲気《いき》は厚ぼったいが、スープとテーブルクロスは薄《うす》かった。この店の中へ、ソーピーは咎《とが》められもせずに、気のひける靴と、かくしようもないズボン姿で入って行った。テーブルについて、ビフテキと大きなホット・ケーキとドーナッツとパイを平《たい》らげた。それから給仕に、自分はビタ一文も金には縁《えん》のない人間だという事実をうちあけた。
「さあ、さっさとお巡《まわ》りを呼んでこい」とソーピーは言った。「紳士を待たせるもんじゃねえぜ」
「おめえみてえな奴にゃお巡りの必要はねえさ」給仕は、バター・ケーキみたいにねばっこい声で、マンハッタン・カクテルの中のサクランボみたいな目をして言った。「おい、コン、手をかしてくれ」
無情な舗《ほ》道《どう》の上へ、きちんと左の耳を下にして、二人の給仕に放《ほう》り出された。彼は、まるで大工の折尺をひらくように、関節を一つ一つ伸《の》ばしながら立ちあがり、服のほこりをはたいた。拘留《こうりゅう》は、バラ色の夢《ゆめ》にすぎないように思えた。島は、まだはるか彼方《かなた》のようであった。二軒さきのドラッグ・ストアの前に立っていた警官は、笑って通りを歩き去った。
通りを五ブロックほど行ってから、やっとまた逮《たい》捕《ほ》を求める勇気がわいてきた。こんどは、あさはかにも彼が「なんの造作もないこと」と自分勝手にきめこんでいたことが運よく降ってわいたのである。つつましやかな、小ざっぱりした身なりの若い女が、ショーウインドーの前に立って、髭そり用のコップやインクスタンドなどの陳列品に、目を輝《かがや》かして見入っていた。そして、その窓から二ヤードはなれたところに、いかめしい物腰《ものごし》の大男の警官が、消火栓《しょうかせん》にもたれていた。
卑《ひ》劣《れつ》な、いやらしい「女たらし」の役を演じるのが彼の計画であった。上品で優《ゆう》雅《が》な犠《ぎ》牲者《せいしゃ》の姿と実直そうな警官とを目の前にして、彼は、これでもうすぐ、あの小ぢんまりとした狭《せま》い島での一冬の宿を保証してくれる気持のよい警官の手が自分の腕《うで》をつかむのを感じることができるのだ、という確信に駆り立てられた。
ソーピーは、婦人伝道師からもらった結びつけのネクタイを直し、しりごみしたがるカフスを袖口《そでぐち》へ引っぱりだし、帽《ぼう》子《し》も粋《いき》に横っちょにかぶって、若い女のほうへ、にじり寄って行った。色目を使いながら、とつぜん咳《せき》払《ばら》いをしたり、エへンと言ったり、ほほえんでみせたり、にやりとしたりして、「女たらし」の用いるずうずうしい卑劣な常套《じょうとう》手段を臆面《おくめん》もなくやってのけた。警官が、じっとこちらを見ているのが横目で知れた。若い女は二、三歩はなれると、またしても、髭そり用のコップを熱心に見つめた。ソーピーはそれを追って大胆《だいたん》に彼女のそばに歩みより、帽子をあげて言った。
「やあ、ベデリヤ! うちへ遊びにこないか」
警官は、まだ見ていた。つきまとわれているこの若い女が、指でちょっと合図をしさえすれば、ソーピーは事実上、島の避難所への道をたどることになるのだ。早くも警察署の気持のいい暖かさが感じられるような気がしてきた。若い女は彼のほうを向き、片手をさしのべて、ソーピーの上着の袖をつかんだ。
「行くわ、マイク」彼女は、うれしそうに言った。「ビールを一杯おごってくれるんなら。あたしのほうからさきに声をかけたかったのだけれど、ポリ公が見てたもんだから」
樫《かし》の木にからみついた蔦《つた》のような格好の若い女をつれて、ソーピーは、すっかり憂鬱《ゆううつ》になって警官のそばを通りすぎた。どうしても逮捕されない運命のようであった。
つぎの曲り角へくると、彼は相手の女をふりはなして駆け出した。夜ともなれば、最も明るい街と、最もうきうきした気分と、最もお手軽な愛の誓《ちか》いと、最も陽気な唄《うた》とが出現するあたりまでくると、彼は足をとめた。毛皮にくるまった女たちやオーバーを着こんだ男たちが、冬の大気の中を溌剌《はつらつ》と行きかっていた。自分は何かおそろしい魔術《まじゅつ》にかかって逮捕免疫症《めんえきしょう》になってしまったのではあるまいかという不安が不意にソーピーをおそった。そう思うと、ちょっとうろたえ気味になった。一人の警官が、すばらしく立派な劇場の前を、もったいぶった格好で行ったりきたりしているのにぶつかると、彼は「治安妨害《ぼうがい》」という目の前の藁《わら》にすがりつこうとした。
歩道で、どら声を張りあげ、酔払《よっぱら》いのたわごとをわめきはじめた。踊《おど》ったり、どなったり、あばれたり、その他の方法で、あたりを騒《さわ》がした。
警官は警棒をくるくるまわしながら、ソーピーには背中を向けて、一人の市民に言った。
「エール大学の学生ですよ。ハートフォード大学を零敗《れいはい》させたというので、お祝いさわぎをやっているんです。騒々《そうぞう》しいが別に害はありませんよ。放っておけという命令をうけているんです」
みじめな気持でソーピーは無益な騒ぎを中止した。どうしても警官はおれを逮捕してくれないのだろうか? 島は、とうてい行きつくことのできない理想郷のような気がしてきた。冷たい風に吹かれて彼は薄い上着のボタンをかけた。
煙草《たばこ》屋《や》の店さきで、身なりのいい男が、ぶらさがっている点火器で葉巻に火をつけているのが、彼の目にとまった。入口の扉《とびら》のところに、その男の絹の傘《かさ》が立てかけてあった。ソーピーは店の中へはいり、その傘をつかんで、ゆっくりと出てきた。葉巻に火をつけていた男が、あわてて追いかけてきた。
「おい、それはぼくの傘だぞ」と、彼は荒々《あらあら》しく言った。
「へえ、そうかね」コソ泥《どろ》を働いた上に侮辱《ぶじょく》まで加えてソーピーはあざ笑った。「そんなら、どうして警官を呼ばねえのかね? おれが盗《ぬす》んだんだよ。おまえさんの傘をね。なぜ、ポリ公を呼ばねえのかね? あの角に一人立ってるじゃないか」
傘の持主は足をゆるめた。ソーピーも、そうした。運が、またしても逃げ出してしまいそうな予感を感じた。警官は二人をふしぎそうに見ていた。
「いうまでもないことだが」と傘の持主が言った。「つまり……そのう……こういうまちがいは、よくあるもんでして……私は……もしそれがあなたの傘だとしたら、かんべんしていただきたいもんで……実は今朝ほど、あるレストランで拾いましたんで……もしあなたの傘だとしたら、そのう……どうかお許しを……」
「もちろん、おれのだよ」ソーピーは意地わるく言った。
傘の前の持主は退散した。警官は、夜会用の外套《がいとう》をまとった背の高い金髪《きんぱつ》の婦人のところへ走りより、二ブロックほど前方から近づいてくる電車の前で道路を横ぎるのを助けてやった。
ソーピーは道路工事で掘り返された通りを東へ歩いて行った。腹立ちまぎれに傘を工事中の穴のなかへ投げこんだ。へルメットをかぶり警棒をもった男たちの悪口を、ぶつぶつつぶやいた。こちらはつかまえてもらいたがっているのに、どうやら先方は彼のことを何をやっても罪にならない王様か何ぞのように考えているらしい。
ついにソーピーは、街の明りも騒音もほとんどない東よりの大通りの一つにさしかかった。そこからマディソン・スクエアのほうへ顔を向けた。帰《き》巣《そう》本能は、たとえその家が公園のべンチであろうとも、いまなお消えなかったのである。
けれども、妙にひっそりとした街角で、ソーピーは、はたと立ちどまった。そこに一風変った、不規則なつくりの、破風《はふ》のある古めかしい教会が建っていた。すみれ色のステインド・グラスの窓ごしに、やわらかい灯火が輝いていた。たぶん、オルガン弾《ひ》きが、つぎの日曜日の讃美歌をちゃんと弾けるかどうか確かめるために、キイをなでまわしているのであろう。美しい楽の音がソーピーの耳に流れてきて、彼の心をとらえ、渦《うず》巻《ま》き模様の鉄《てっ》柵《さく》のところに釘《くぎ》づけにしてしまった。
月は中天にかかって明るく輝き、車も歩行者も、ほとんどなかった。雀《すずめ》が軒《のき》さきで眠そうにさえずっていた――しばらくのあいだ、あたりは教会のある田舎《いなか》の風景を思わせた。オルガンの奏《かな》でる讃美歌はソーピーを鉄柵にぴたりと糊《のり》づけしてしまった。彼の生活のなかに、母、薔薇《ばら》、野心、友人、汚《けが》れのない思考、純白のカラーといったようなものがまだあった時分、よく聞いて知っていた讃美歌だったのだ。
感じやすくなっていた彼の気持と古い教会の感化力とが結びついて、突然、おどろくべき変化をソーピーの魂《たましい》にもたらした。自分が落ちこんだ深い穴、自分の存在を形づくっている堕《だ》落《らく》した日々、下劣な欲望、死のごとくむなしい希望、だめになった才能、卑《いや》しい動機などを、おそるおそる、すばやくふりかえって眺《なが》めた。
すると、たちまち彼の心は、この新しい気分に感応してふるえた。強い衝動《しょうどう》が、たちどころに彼を絶望的な運命と戦わせた。自分を泥沼《どろぬま》から引き出そう。もういちど、まともな人間になろう。自分にとりついている悪にうち勝とう。まだ遅くはない。おれはまだ比《ひ》較《かく》的若いのだ。昔の真剣《しんけん》な野心をもう一度よみがえらせ、よろめいたりせずに、それを追い求めよう。あの厳粛《げんしゅく》な美しいオルガンの調べが、彼の心に革命を起したのであった。明日は騒々しい下町へ出かけて仕事を見つけよう。以前、ある毛皮輸入商が運転手になったらどうかとすすめてくれたことがあった。あす、その人に会って仕事のことを頼んでみよう。おれも、ちゃんとした一人前の人間になろう。おれだって――
ふと誰《だれ》かの手が自分の腕をつかんだのを感じた。ふり向くと、まぎれもない警官の顔があった。
「こんなところで何をしてるんだ?」と警官はきいた。
「なんにも」とソーピーは答えた。
「ともかく一緒《いっしょ》にこい」と警官は言った。
「禁固三カ月」翌朝、軽犯罪裁判所で治安判事が言い渡した。
(The Cop and the Anthem)
赤い酋長《しゅうちょう》の身代金《みのしろきん》
うまい話だと思ったんだ。まあ、待ちなよ、いま話すからさ。この誘拐《ゆうかい》事件を思いついたのは、おれたちが――おれとビル・ドリスコルが――南部のアラバマへ行ってたときなんだ。あとになってビルが言ったように、まったく「ついふらふらと魔《ま》がさした」ってわけさ。だが、そうとわかったときは、あとの祭りでね。
そのアラバマに、ホット・ケーキみたいに平べったい町があった。もっとも名前だけは「頂上《サミット》」なんて呼ばれているんだがね。ここの住民ときたら、みんな百姓《ひゃくしょう》なんだが、五月祭の踊《おど》りに集まってくるような、すごく円満な顔つきの、人のいい連中ばかりだった。
ビルとおれとは、二人合わせて六百ドルばかりの資本《もとで》をもってたんだが、西部イリノイあたりで、いかさま土地周旋《しゅうせん》で一儲《もう》けするには、あと二千ドルはどうでも必要だった。宿屋の玄関《げんかん》の階段に腰《こし》をおろして、おれたちは相談した。こういう半ば田舎《いなか》じみた町では、子供を可愛《かわい》がる気持が特別強いという話になって、そんなことから――いや、ほかにも理由はあったが――子供を誘拐するってのも、ちょいとした思いつきじゃないか、ということになったんだ。このへんは、探訪記者を送りこんで事件の噂《うわさ》を煽《あお》りたてるような新聞社の勢力がとどかねえ土地だから、きっとうまくいくにちげえねえ。サミットの町なら、せいぜい、お巡《まわ》りか、まぬけな警察犬におれたちを追いかけさせるか、さもなけりゃ「週刊農業」で一、二度こっぴどく非難攻撃《こうげき》するくらいのものだ、とおれたちには、ちゃんとわかっていたんだ。だから、こいつはうまい話だと思ったのさ。
おれたちはエブネザー・ドーセットという町の有力者の一粒種《ひとつぶだね》に白羽の矢を立てた。その子の父親は、かなりの顔役だが、けちんぼうで、高利貸もやっていた。教会の献金《けんきん》だって、一文も出さないし、抵当《ていとう》はさっさと流しちまうという男なんだ。せがれは十歳《さい》で、薄《うす》肉《にく》彫《ぼ》りみたいな雀斑《そばかす》があって、髪《かみ》の毛は、汽車を待つ間に売店で買う雑誌の表紙みてえな色だった。あのエブネザーなら二千ドルきっかりの身代金をまちがいなく出すだろう、とビルとおれは考えたわけだ。まあ、待ちなよ、いま話すからさ。
サミットから二マイルばかりのところに、いちめんに杉《すぎ》の木の茂《しげ》った小さな山があった。この山の裏手の小高いところに洞窟《ほらあな》があった。そこに、おれたちは食糧《しょくりょう》をたくわえた。
ある夕方、日が沈んでから、おれたちは一頭立ての馬車を走らせてドーセットおやじの家の前を通った。せがれは道へ出ていて、向いの塀《へい》の上にいる子《こ》猫《ねこ》に石をぶっつけていた。
「やあ、坊《ぼう》や!」ビルが声をかけた。「キャンデーを買ってやるから馬車に乗らないか」
子供は煉《れん》瓦《が》のかけらを、ビルの、ちょうど目のところに命中させた。
「これであのおやじから、あと五百ドル余分にふんだくってやるぞ」
車輪に足をかけて馬車に乗りこみながらビルが言った。
男の子は、ウェルター級の黒熊《くろくま》みたいにあばれやがったが、とうとうおれたちは、そいつを馬車の底に押しこんで馬車を走らせた。洞窟までつれてくると、おれは杉の茂みのなかに馬をつないだ。暗くなってから、おれは、馬車を借りてきた三マイルさきの小さな村へ、そいつを返しに行き、歩いて山へ帰ってきた。
ビルは、顔じゅうの引《ひっ》掻《か》き傷や打ち傷に絆《ばん》創膏《そうこう》をはっているところだった。洞窟の入口の大きな岩のかげに、焚《たき》火《び》が燃えていて、子供は、赤毛の頭に禿鷹《はげたか》の尾羽根を二本さし、ぐらぐら煮《に》えたぎるコーヒー・ポットを、じっとみつめていた。おれが近づくと、小《こ》僧《ぞう》め、棒ぎれをつきつけて言いやがった。
「やい! この罰当《ばちあた》りの白人野《や》郎《ろう》め。この大平原で泣く子も黙《だま》る赤い酋長《レッド・チーフ》の陣地《じんち》へ、貴様は挨拶《あいさつ》もせずに入ってくる気か?」
「この小僧め、すっかり元気になってしまいやがって」ズボンをまくりあげて向う脛《ずね》の打ち傷を調べながらビルが言った。「インディアンごっこの相手をさせられてるところなんだ。バファロー・ビルの芝《しば》居《い》だって、こいつにくらべりゃ、町の公会堂でやる幻灯《げんとう》のパレスチナ風景くらいにしか見えねえぜ。このおれは、罠《わな》で鳥や獣《けもの》をとる猟師《りょうし》のオールド・ハンクで、赤い酋長の捕《ほ》虜《りょ》になって、明日の夜明けにゃ頭の皮をひんめくられるんだとよ。いやはや! この餓鬼《がき》に蹴《け》とばされてみろ、まったくいやんなるぜ」
まったくのところ、子供は、すっかり調子づいているようだった。洞窟でキャンプをするのが楽しいものだから、自分が人質《ひとじち》になっていることなんぞ忘れちまっていたのだ。小僧は、すぐさまおれにスパイの『蛇の目《スネーク・アイ》』という名をつけ、そのうち手下どもが戦いから帰ってきたら、日の出とともにおれを火《ひ》焙《あぶ》りにする、と宣告しやがった。
それから、おれたちは夕食にかかった。小僧はベーコンやパンや肉汁《にくじゅう》を口いっぱい頬《ほお》ばって、しゃべり出した。その食事中の話ってのは、ざっとまあ、こんな具合だ――
「おれ、こんなことが大好きさ。だって、外でキャンプしたことないんだもの。だけど、ふくろ《・・・》ネズミをつかまえて可愛がったことはあるよ。おれ、こないだの誕生日《たんじょうび》で九つになったんだ。学校へ行くのなんか大嫌《だいきら》いさ。ネズミがね、ジミー・タルボットおばさんとこの鶏《にわとり》の卵を十六も食べちゃったんだよ。この森のなかに、ほんもののインディアン、いるのかい? 肉汁を、もっとくれないか。木が動くから風が吹くのかい? うちには犬の子が五匹もいたことがあるんだぜ。ハンク、お前の鼻は、どうしてそんなに赤いんだい? うちの父さんは、金持だぜ。お星さまは熱いのかい? おれ、土曜日に、エド・ウォーカーを二度もひっぱたいてやったんだ。女の子って嫌いさ。お前たち、紐《ひも》を使わないとヒキガエルをつかまえられないだろう。牡《お》牛《うし》も鳴くのかい? オレンジは、どうしてまるいの? この洞窟にはベッドはあるのかい? エイモス・マリの足の指は六本あるんだぜ。オームはしゃべれるけれど、猿《さる》や魚はしゃべれないんだね。いくつといくつで十二になるか知ってるかい?」
数分ごとに、小僧は自分がよく気のつくインディアンだということを思いだしては、棒ぎれの銃《じゅう》をとりあげると、洞窟の入口へ忍《しの》びより、憎《にく》むべき白人の斥候《せっこう》はいないかと首をのばした。ときどき、インディアンのとき《・・》の声をあげては、罠師のオールド・ハンクをふるえあがらせた。小僧は、のっけからビルの度《ど》肝《ぎも》を抜《ぬ》いてしまったんだ。
「赤い酋長」と、おれは小僧にたずねた。「家へ帰りたくはねえのか?」
「ふん、どうしてだい?」と小僧はぬかしゃがった。「うちなんか面白《おもしろ》くないや。おれ、学校へ行くのは大嫌いだもの。こうしてキャンプしてるほうが、ずっといいや。スネーク・アイ、お前、おれをうちへつれて帰るようなことはしないだろうね?」
「いますぐにはつれて行かないさ」と、おれは言った。「もうしばらく、この洞窟にいるんだ」
「いいとも」と小僧はいう。「そいつはすばらしいや。こんな面白いこと、生れてはじめてだ」
おれたちは十一時ごろ寝《ね》た。幅《はば》の広い毛布や掛《か》け布を何枚かひろげ、赤い酋長を真中にはさんで眠《ねむ》った。小僧が逃《に》げ出す気づかいはなかった。小僧はおれたちを三時間も眠らせなかった。ぱっととび起きると、例の銃に手をかけて、おれやビルの耳もとで、小僧は「しっ、兄弟!」なんて金切り声でどなるんだ。小《こ》枝《えだ》がパチンと鳴ったり木の葉がガサガサ音を立てたような気がするたびに、小僧は子供っぽい想像をかきたてられて、無法者の一隊がこっそりと忍びよってきたと思いこむんだ。そうして邪《じゃ》魔《ま》をされながらも、やっとのことで、おれが、うつらうつらすると、今度は、おれのほうが赤毛の獰猛《どうもう》な海賊《かいぞく》に誘拐されて木にしばりつけられる夢《ゆめ》を見る始末だ。
ちょうど夜明けごろ、ビルが、つづけざまに、ものすごい悲鳴をあげたので、目をさました。それは、わめき声でも叫《さけ》び声でも吼《ほ》え声でもなく、どなり声でも、金切り声でもなく、およそ男の発声器官から出るとは想像もできないような声だった――ただもう、女が幽霊《ゆうれい》や毛虫を見たときにしぼり出すような、なんともみっともない、おびえた、あさましい悲鳴だった。夜明けに洞窟のなかで、屈強《くっきょう》な、向う見ずの、肥《ふと》った男が、ひっきりなしに悲鳴をあげるのを聞かされるくらい気味のわるいことはねえぜ。
なにごとが起ったのかと、おれは飛び起きて見た。赤い酋長がビルの胸に馬乗りになって、一方の手にビルの髪の毛を巻きつけているんだ。小僧のもう一方の手にはベーコンを切るのに使う鋭《するど》いナイフが握《にぎ》られていた。前の晩に宣告した通り、ビルの頭の皮を本気でひんめくろうとしているのだ。
おれは小僧の手からナイフをひったくって、もう一度寝かしつけた。しかし、そのことがあってからというもの、ビルは、すっかり元気がなくなってしまった。寝《ね》床《どこ》のもとの場所へ横にはなったものの、小僧がそばにいるかぎり、もう二度と目をつぶって眠ろうとはしなかった。おれは、しばらくうとうとしたが、明け方近くなると、赤い酋長が日の出とともにおれを火焙りにすると言っていたのを思い出した。べつに、びくびくしたり、怖《こわ》がったりしたわけじゃないが、ともかく、おれは起きあがって、パイプに火をつけ、岩にもたれた。
「サム、なんでそんなに早く起きるんだ?」とビルがきいた。
「おれかい?」と、おれは返事した。「なに、肩《かた》のところがちょいと痛いんだ。起きて坐《すわ》ってりゃ楽になるかと思ってね」
「嘘《うそ》つけ!」とビルが言った。「おめえ、おっかねえんだろう。日の出とともに火焙りにされると言われたもんだから、ほんとにやられやしないかと、おっかながっているんだろう。まったく、この小僧、マッチを見つけりゃ、やりかねねえからな。ひでえことになったもんだな、サム。こんな腕白《わんぱく》小僧をつれもどすのに金を出す奴《やつ》がいると思うかね?」
「そりゃ、いるとも」と、おれは答えた。「こういう腕白小僧にかぎって、人一倍、親は可愛いものなんだ。さあ、おめえも酋長も起きて朝めしの支《し》度《たく》をしてくれ。そのあいだに、おれは、この山のてっぺんに登って偵察《ていさつ》してくる」
おれは、その小さな山の頂上にのぼって、視野のきくかぎり、あたり一帯を見わたした。サミットの町のほうには、草《くさ》刈《か》り鎌《がま》や熊手で武装した屈強な村の農民たちが、卑《ひ》劣《れつ》な誘拐犯人を追って、付近を捜《さが》しまわっているのが見えるだろうと思っていた。ところが、見えたのは、男がひとり焦茶色《こげちゃいろ》の騾馬《らば》を使って畑を耕しているのどかな景色だけだった。小川の底を浚《さら》っているものもいなかったし、気も狂《くる》わんばかりの両親のもとへ、何の手がかりもないという知らせをもって駆《か》けこんで行く急使のすがたも見えなかった。おれの目の前にひろがるアラバマの目に見える表面のその部分には、ひっそりとした、ものうい眠気がひろがっているだけだった。「どうやら」と、おれは心のなかで思った。「狼《おおかみ》どもが囲いのなかから、かわいい子羊をさらって行ったのを、まだ気がつかずにいるらしい。神よ、狼どもにめぐみを垂《た》れたまえ!」そう言って、朝めしを食いに山をおりた。
洞窟へ戻《もど》ってみると、ビルは穴の壁《かべ》に押《お》しつけられてハアハア息をはずませていた。小僧は椰子《やし》の実の半分ほどもある大きな石をビルに叩《たた》きつけようと身構えていた。
「この小僧め、真赤に煮えているジャガイモをおれの背中へ投げこみやがったんだ」とビルが説明した。「おまけに足でそいつをふみつぶしやがるんだ。おれは横《よこ》っ面《つら》を張りとばしてやったよ。おめえ、鉄砲《てっぽう》をもっているか、サム?」
おれは小僧の手から石をもぎとって、どうにかこの場をおさめた。「いまに見てろ」と小僧はビルに毒ついた。「赤い酋長をぶんなぐったりした奴は、仕返しを受けずにはすまないんだからな。おぼえてろ」
朝めしを食べてしまうと、小僧はポケットから紐《ひも》をまきつけた一枚の革《かわ》を取り出して、その紐をほどきながら洞窟の外へ出て行った。
「こんどは何をやらかすつもりだろう?」と、心配そうにビルが言った。「あいつ、まさか逃げやしねえだろうな、え、サム?」
「そんな気づかいはねえさ」と、おれは言った。「あまり家を恋《こい》しがるたちじゃねえらしいからな。それにしても、身代金のほうの計画を立てなくちゃいけねえ。小僧がいなくなったことについて、サミットの町じゃ、あまり騒《さわ》いでる気配はねえぜ。おそらく、小僧がいなくなったことを、まだ感づいちゃいねえんだろう。家族の連中は、小僧が昨夜はジェーンおばさんのとこか近所の家へでも泊《とま》ったくらいに思ってるんだろう。ともかく今日じゅうには、いなくなったことに気がつくだろう。今夜、小僧とひきかえに二千ドルよこせと親《おや》父《じ》に手紙を出さなくちゃならねえ」
ちょうどそのとき、ダビデが闘《とう》士《し》ゴリアテを殴《なぐ》り倒《たお》したときに発した喚声《かんせい》を思わせるような叫び声がきこえた。赤い酋長がポケットからひっぱり出したのは石投げ器だった。そいつを小僧は頭の上でぶんぶんふりまわしているのだ。
おれは身をかわしたが、どすんと重たい音がして、ビルが、鞍《くら》を外すときに馬が出すような一種の溜息《ためいき》みたいなものを吐《は》くのがきこえた。黒《くろ》ん坊《ぼう》の頭みたいな鶏卵大《けいらんだい》の石が、ビルの左耳のうしろに命中したのだ。ビルは完全にのびてしまい、皿《さら》を洗う湯を沸《わ》かしていたフライパンにおっかぶさるようにして火のなかへ倒れこんだ。おれはビルを引きずり出し、半時間ものあいだ、冷たい水を頭からぶっかけてやった。
ほどなくビルは起きあがった。そして耳のうしろにさわってみながら言った。「サム、聖書のなかでおれが好きな人物は誰《だれ》だか知ってるか?」
「まあ、落ちつけよ」と、おれは言った。「すぐによくなるからな」
「へロデ王だ」と彼《かれ》は言った。「おい、サム、おれをここにおいてけぼりにして行っちまうようなことはしねえだろうな?」
おれは外へ出て、小僧をつかまえ、奴のそばかすが、がたがた鳴るまで、こづきまわしてやった。
「おとなしくしねえと」と、おれは言った。「まっすぐ家へ帰しちまうぞ。さあ、どうだ、おとなしくするか、しねえか?」
「おれ、ちょっとふざけてみただけだよ」と、小僧は頬《ほ》っぺたをふくらまして言った。「オールド・ハンクに怪我《けが》させるつもりはなかったんだ。だけど、なぜあいつは、おれをなぐったりしたんだい? ねえ、スネーク・アイ、おれを家へ送り帰さないんなら、おとなしくするよ。それから、今日、黒衣団《ブラック・スカウト》ごっこをさせてくれるんならね」
「そんな遊び、おれは知らねえ」と、おれは言った。「おめえとビルおじさんとでやんな。今日は、あのおじさんと遊ぶんだ。おれは仕事で、ちょいと出かけてくるからな。さあ、なかへはいって、おじさんと仲直りしな。怪我をさせてごめんなさいってあやまるんだ。さもないと、たったいま家へ帰しちまうぞ」
おれは小僧とビルを握手《あくしゅ》させ、それからビルをわきへつれて行って、この洞窟から三マイルほど離《はな》れたポプラ・グローブという小さな村へ行って、誘拐事件がサミットでどんなふうに受けとられているか、できるだけ調べてくる、と話した。それに、今日じゅうにドーセット親父に身代金を要求し、その支払《しはらい》方法を指示した有無《うむ》を言わさぬ手紙を送るのが上策《じょうさく》だと考えていた。
「なあ、サム」とビルはいう。「いままでおれは地《じ》震《しん》だって、火事だって、洪水《こうずい》だって、ばくちだって、ダイナマイトの爆発《ばくはつ》だって、警察《さつ》の手入れだって、列車強盗《ごうとう》だって、台風だって、どんなときでも、まばたき一つせずにおめえを助けてきた。あの二本足の打ち上げ花火みたいな小僧を引っさらってくるまで、おれは、いっぺんだって、びくついたことなんぞなかった。だが、あいつにゃ、まいったよ。サム、あんまり長いこと、おれをあいつと二人きりにしておかねえでくれよな」
「昼すぎには戻ってくるよ」と、おれは言った。「おれが戻るまで、あの小僧を遊ばせて、おとなしくさせとくんだぜ。さあ、ドーセット親父に手紙を書こう」
ビルとおれは紙と鉛筆《えんぴつ》をとりだして手紙を書きはじめたが、そのあいだ赤い酋長は毛布を身体《からだ》にまきつけ、洞窟の入口を行ったりきたりしながら見張り番をしていた。ビルは身代金を二千ドルではなく千五百ドルにしようと、泣かんばかりに、おれに頼《たの》んだ。「親の愛情という誰でも知っている道徳現象にけちをつけるつもりは毛頭ねえが」と奴はいうのだ。「なにしろ相手は人間なんだし、あんな、そばかすだらけの山猫みてえな四十ポンドのかたまりで、二千ドルふんだくるというのは、どう考えても人間的じゃねえ。おれは千五百ドルでやってみてえんだ。差額は、おれの負担にしてもいいからさ」
そこで、ビルを安心させるために、おれは承知した。そして、つぎのような手紙を二人がかりででっちあげた。
エブネザー・ドーセット殿《どの》
われわれは貴下の令息をサミットから遠く離れたある場所にかくまっている。貴下にせよ、あるいは最も腕《うで》ききの探偵《たんてい》にせよ、令息を発見しようと努められても、それは無益である。令息をとりもどすことのできる唯一《ゆいいつ》の条件は以下のごとくである――われわれは令息の返還《へんかん》に高額紙《し》幣《へい》で千五百ドルを要求する。この金額は、今夜半、貴下の返信と同一の地点、同一の箱《はこ》――これは後に記す――に入れておくこと。この条件を承諾《しょうだく》されるならば、今夜八時半に、その返事を文書にして、ただ一名の使者によって届けてもらいたい。ポプラ・グローブに通ずる街道《かいどう》のアウル・クリークを渡《わた》ると、右側の麦畑の柵《さく》の近くに約百ヤード間隔《かんかく》に三本の大木がある。その三番目の木の向い側の柵の杭《くい》の根もとに、小さなボール箱があるはずである。
使いの者は、この箱のなかへ返信を入れて、ただちにサミットへ引返すこと。
もし貴下が、裏切りを企《くわだ》てたり、または上記の要求に応じない場合は、貴下は二度と令息を見ることはないであろう。
もし要求通りの金額を支払われる場合は、令息は三時間以内に、安全に貴下のもとに帰されるであろう。これらの条件は最後的なものであり、万一これに応じない場合は、以後の連絡《れんらく》は一切《いっさい》なされないものと承知されたい。
二人の生命《いのち》知らずより
おれはこの手紙にドーセットの宛《あて》名《な》を書いてポケットに入れた。出かけようとすると、小《こ》僧《ぞう》がそばへ寄ってきて、こんなことをいうんだ。
「おい、スネーク・アイ、お前が留守のあいだ黒衣団《ブラック・スカウト》ごっこをしてもいいと言ったね」
「もちろん、いいとも」と、おれは言った。「ビルおじさんが相手をしてくれるよ。だけど、いったいそれはどんな遊びなんだい?」
「おれがブラック・スカウトになるんだ」と赤い酋長は言った。「インディアンが襲撃《しゅうげき》してくることを知らせるために、開拓村《かいたくむら》の防衛柵まで、おれは馬を飛ばさなくちゃならないんだ。おれ、インディアンごっこは、もうあきちゃった。ブラック・スカウトになりたいんだ」
「よし、わかった」と、おれは言った。「それなら大して害もなさそうだ。その手ごわい野《や》蛮人《ばんじん》どもの裏をかく作戦についちゃ、ビルおじさんが手をかしてくれるだろうよ」
「おれは何をやるんだって?」と、うさんくさそうに小僧を見ながらビルがたずねた。
「お前は馬だよ」とブラック・スカウトが言った。「手と膝《ひざ》をついて四つんばいになるんだ。馬がいなくちゃ防衛柵まで走って行けないじゃないか」
「計画のめどがつくまでは、小僧を楽しませておいたほうがいいぞ」と、おれは言った。
「まあ、気を楽にしてやるんだな」
ビルは四つんばいになった。彼は罠《わな》にかかった兎《うさぎ》みたいな目をしていた。
「防衛柵まで、どれくらいあるんだい、小僧?」と、しゃがれ声でビルはたずねた。
「九十マイルだ」とブラック・スカウトは言った。「うんと馬力をかけないと間に合わないぞ。さあ、走るんだ」
ブラック・スカウトはビルの背中に飛び乗って、彼の脇腹《わきばら》を踵《かかと》で蹴《け》りつけた。
「後生だから」とビルは言った。「できるだけ早く戻ってきてくれよ、サム。身代金を千ドル以上にしなけりゃよかったな。おい、蹴るのはやめろよ。やめないと、起きあがって思いきりぶんなぐるぞ」
おれは歩いてポプラ・グローブまで行き、郵便局をかねた雑貨屋にすわりこんで、商売でそこへやってくる村の田吾《たご》作《さく》どもとおしゃべりをしていた。一人の髭《ひげ》っ面《つら》の男が、エブネザー・ドーセット旦《だん》那《な》の息《むす》子《こ》さんが迷子になったか誘拐《ゆうかい》されたかして、サミットの町は、えらい騒ぎだそうだ、と言った。知りたかったのは、そのことなのだから、おれは煙草《たばこ》を買い、さりげなく豌豆《えんどう》の値段をきいたりして、手紙をこっそりポストに入れてそこを出た。郵便局長は、一時間もすればサミット行きの郵便をとりに集配人がくるだろう、と言っていた。
洞窟《ほらあな》へ戻ってみると、ビルと小僧の姿が見えなかった。おれは、洞窟の付近をさがし、一、二度、危険をおかしてヨーデルを叫んでみたが、何の答えもなかった。
そこでパイプに火をつけ、苔《こけ》だらけの土手に腰《こし》をおろして、成りゆきを待った。
半時間ばかりすると、潅木《かんぼく》を、がさがさ鳴らして、ビルが洞窟の前の小さな空地へ、よろよろと出てきた。うしろから、小僧が、顔じゅうくしゃくしゃにして笑いながら、斥候《せっこう》みたいに足音を忍《しの》ばせて歩いてきた。ビルは立ちどまると、帽《ぼう》子《し》をぬぎ、赤いハンカチで顔をぬぐった。小僧はビルの八フィートうしろで立ちどまった。
「サム」とビルは言った。「おめえは、おれを裏切者だと思うかもしれねえが、どうにもしょうがなかったんだ。おれだって一人前の男だ。男としての意地ももっている。他人に踏《ふ》んづけられて黙《だま》ってすっこんでいるたちじゃねえが、しかし人間、意地も張りもなくなるときがあるもんだ。小僧は、行っちまったぜ。おれが家へ帰しちまったんだ。これで、なにもかもご破算さ」ビルは言葉をつづけた。「昔《むかし》の殉教者《じゅんきょうしゃ》のなかには、自分が手に入れた特別の儲《もう》けをあきらめるくらいなら死んだほうがましだなんて奴がいたけど、そいつらだって、おれが受けたような超自然《ちょうしぜん》的な責苦にあわされたことはねえだろうて。おれだって、あの掠奪品《りゃくだつひん》には、できるだけ忠実になろうとしたんだが、ものには限度ってものがあるからな」
「どんな目にあったんだい、ビル?」と、おれはきいてみた。
「おれは一インチも残さず防衛柵まできっかり九十マイル、馬になって走って行ったんだ」とビルは言った。「それから開拓者たちが無事救い出されると、燕麦《からすむぎ》を食わされた。しかも、それの代用品が砂ときては、とても食えたもんじゃねえ。それから一時間というもの、おれは小僧に、なぜ穴のなかはがらんどうなのかとか、どうして道は左右にのびているのかとか、どういうわけで草は緑色なのかとか、いちいち説明しなくちゃならなかった。なあ、サム、人間なら、我《が》慢《まん》もそのへんでもうぎりぎりだろうじゃねえか。おれは奴の襟首《えりくび》をひっつかんで、山から引きずりおろしてやった。その途中《とちゅう》だって、小僧は、おれのすねを蹴とばしゃがった。おかげで膝《ひざ》から下はあざだらけになっちまうし、親指と手は二度も三度も噛《か》みつかれて、しびれあがっちまった。
「だが、小僧はもういねえ」――とビルはつづけた――「家へ帰っちまった。おれはサミットの町へ行く道を教えてから、一蹴りくらわして八フィートばかり町のほうへ近づけてやったよ。身代金をふいにしたのは残念だが、そうでもしないことにゃ、このビル・ドリスコルは気ちがい病院行きさ」
ビルは、ふうふうはあはあ喘《あえ》いでいたが、いまは、ばら色に上気したその顔には、言いようのない安《あん》堵《ど》と次《し》第《だい》につのる満足の色があった。
「ビル」と、おれは言った。「おめえの血統にゃ心臓病はねえだろうな、え?」
「ねえさ」とビルは答えた。「マラリヤと事故をのぞけば、持病はねえよ。なぜだい?」
「そんなら、まわれ右して」と、おれは言った。「うしろを見てみな」
ビルは、ふりむいて小僧を見つけると、顔色をかえて地べたにどしんと尻《しり》もちをつき、そこらの草や小《こ》枝《えだ》を、やたらと引きむしりはじめた。一時間ばかり、おれは奴の気が変になったんじゃないかと心配した。それから、おれは例の計画をさっそく実行に移し、ドーセット親父がこちらの申し出に応じたら、身代金をにぎって、夜半までにはずらかるつもりだとビルに言った。ビルも、ようやく元気をとりもどして、小僧に弱々しい微笑《びしょう》を投げ、もうすこし気分がよくなったら日《にち》露《ろ》戦争ごっこをしてロシア兵になってやると約束した。
おれは、計画の裏をかかれてとっつかまる危険をおかすことなく身代金を手に入れるという、本職の誘拐屋だってびっくりするような計画をもっていた。返書が――そのあとでは金が――根もとにおかれることになっている木は、道端《みちばた》の柵のそばに生えているが、そのあたり四方は、なにもない広々とした原っぱだった。だから、警官の一隊が手紙をとりにくる人間を見張っているとすれば、野原を横ぎってきても、道路を通ってきても、容易に遠くから見通せるはずだ。だが、誰がその手に乗るものか。八時半には、早くもおれは、その木の上に雨蛙《あまがえる》みたいにうまく身をひそめて、使いの者がやってくるのを待っていたというわけだ。
時間きっかりに、半分大人になりかけたような少年が、自転車に乗って道をやってきて、柵の杭の根もとにボール箱を見つけると、たたんだ紙片をそのなかに放《ほう》りこみ、サミットのほうへペダルを踏《ふ》んで帰って行った。
おれは一時間ほど待ってから、もう大丈夫だと判断した。木からすべりおりて、手紙を取り出し、柵にそって、こっそり森までたどりつき、それから三十分ほど時間をかけて洞窟へもどった。手紙を開くと、カンテラのそばへもって行ってビルに読んできかせた、ペン書きの、読みにくい筆蹟《ひっせき》で、内容は、かいつまんでいうと、つぎのようなものであった――
二人の生命知らず殿
拝復、本日の郵便にて、愚《ぐ》息《そく》の返還に対してご要求の身代金に関する貴下の手紙、まさに落手いたしました。貴下の要求は少々高額過ぎるかと存じますので、ここに逆提案をいたします。たぶん受諾していただけるものと信じます。貴下がジョニーを拙《せっ》宅《たく》へつれ帰り、現金にて二百五十ドルお支払いくださるならば、本人をお手もとから引きとることに同意いたします。ご来訪は夜分のほうがよろしいかと存じます。と申すのは、近隣《きんりん》の人たちは、すでに愚息は行《ゆく》方《え》不明になったものと信じており、愚息をつれ戻す人を見かける際には、その人に、いかなることをなすか、当方としては責任を負いかねるからであります。
敬白
エブネザー ドーセット
「大悪党め!」と、おれは言った。「いけしゃあしゃあと、こんなことをぬかしゃがって――」
だが、ビルのほうをちらと見て、おれはためらった。唖《おし》か表情の豊かな動物にしか見られぬような世にも情けない目つきをしていたからだ。
「サム」と彼は言った。「結局、二百五十ドルがどうだというんだ。そのくらいの金なら、おれたちだってもってるじゃねえか。この小僧と、もう一晩いっしょにすごしたら、おれは、まちがいなく気ちがい病院行きだぜ。ドーセットさんというのは、立派な紳《しん》士《し》であるばかりか、こんな寛大な要求しかしねえところをみると、すごくおおようなご仁じゃねえか。おめえ、このチャンスを逃《のが》すつもりじゃねえだろうな?」
「じつをいうと」と、おれは言った。「このわけのわからねえ小僧にゃ、おれも少々まいってるんだ。こいつを家へつれ帰り、身代金を払って、ずらかるとしようぜ」
その晩、おれたちは子供を家へつれ帰った。お前のお父さんが銀の飾《かざ》りのついた鉄砲《てっぽう》と鹿《しか》皮《がわ》の靴《くつ》を一足買ってくれた、そして明日はみんなで熊《くま》狩《が》りに行くんだ、と言いきかせて、やっとつれて行ったんだ。
エブネザーの家の玄関《げんかん》のドアを叩《たた》いたのは、ちょうど十二時だった。はじめの計画では木の根もとの箱から千五百ドルを頂戴《ちょうだい》しているはずのちょうどその時刻に、ビルはドーセットの手に二百五十ドルを渡していたというわけだ。
小僧は、おれたちが奴を家に残して行ってしまいそうだと感づくと、蒸気オルガンみてえにわめき立て、蛭《ひる》みてえにビルの脚《あし》にしがみついてしまった。親《おや》父《じ》は絆創膏《ばんそうこう》をひんめくるように、小憎をビルからゆっくりと引きはがした。
「どのくらいのあいだ、この子をつかまえていられますかね?」とビルがたずねた。
「わしも、もう以前ほど強くないが」とドーセット親父は言った。「まあ十分間くらいは請《う》け合えるだろうな」
「結構です」とビルは言った。「十分あれば、中部や南部や中西部の州を越《こ》えてカナダ国境めざしてスタコラ走ってることでしょう」
そして、真暗闇《まっくらやみ》のなかだったが、おまけにビルはふとっちょで、走ることにかけちゃ、おれとどっこいどっこいなんだが、おれが追いつくまでに、サミットの町から、たっぷり一マイル半は離《はな》れていやがったよ。
(The Ransom of Red Chief)
振《ふり》子《こ》
「八十一丁目でございます――どうか出口をあけてください」と青い制服を着た羊飼《ひつじか》いが大声でどなった。
すると市民という名の羊の群れが降りてきて、また別の一群がどやどやと乗りこんだ。がちゃんがちゃん。マンハッタン高《こう》架《か》線《せん》の家《か》畜《ちく》電車は、やかましく走り去った。ジョン・パーキンズは解き放たれた羊の群れにまじって、駅の階段をおりた。
ジョンは、自分のアパートに向って、だるそうに歩いて行った。だるそうに、というわけは、彼《かれ》の日常生活の辞書には「もしかすると」といったような言葉はないからである。結婚《けっこん》して二年になり、しかもアパート住まいをしているような男に、思いもかけないことなどが待っているはずはないのだ。歩きながらジョン・パーキンズは、憂鬱《ゆううつ》に、冷笑を噛《か》み殺すような思いで、単調な一日の結末を、心のなかで予言していた。
ケティがコールド・クリームとバター・ボールの匂《にお》いのする接吻《せっぷん》で彼を扉《と》口《ぐち》に迎《むか》えるだろう。おれは上着を脱《ぬ》ぎ、砕石《さいせき》でも敷《し》いたような長《なが》椅子《いす》に腰《こし》をおろし、夕刊を開いて、冷《れい》酷《こく》な鋳込植字機《ライノタイプ》で殺されたロシア兵と日本兵とに関する記事を読むだろう。夕食には、ポット・ローストと、絶対に皮膚《ひふ》をいためないと保証つきのドレッシングで味つけされたサラダと、大黄《だいおう》のシチューと、レッテルに書いてある化学的純粋度《じゅんすいど》の証明に赤面している壜《びん》詰《づめ》の苺《いちご》のママレードが出るだろう。夕食のあとでケティは、氷の配達人が彼女《かのじょ》のためにネクタイの端《はし》を切ってくれたのをはぎ合せてつくった小切れ細工を見せるだろう。七時半になると、おれたちは家具の上に新聞紙をかぶせるだろう。頭の上の部屋にいるあのデブ公が体操《たいそう》をはじめると、とたんに落ちてくる壁《かべ》土《つち》を受けとめるためである。八時きっかりに、廊《ろう》下《か》の向うの部屋に住む寄席《よせ》芸人《げいにん》(目下どことも出演契約《けいやく》をしていない)のヒッキーとムーニイが、軽い譫妄症《せんぼうしょう》の発《ほっ》作《さ》を起し、興行主のハンマースタインが週五百ドルで契約をしようと自分たちを追いまわしているという妄《もう》想《そう》にとりつかれて、椅子をひっくり返しはじめる。やがて、通風孔《つうふうこう》をへだてた向うの窓の紳《しん》士《し》がフリュートをとり出す。街路では夜のガス灯が、ちらちらと陽気にまたたきはじめる。料理を運ぶエレベーターが滑車《かっしゃ》からはずされる。管理人がザノウィッキーのおかみさんの五人の子供たちを、もう一度、鴨緑江《おうりょっこう》の向うへでも追い払《はら》うように追い払はらう。シャンパン色の靴《くつ》をはきスコッチ・テリヤをつれた婦人がいそいそと階下へ降りて行き、呼《よび》鈴《りん》と郵便受けの頭のところに、彼女の木曜日の名前を貼《は》りつける――こうしてフロッグモア・アパートの夜は、いつもと同じようにふけて行くのである。
ジョン・パーキンズは、こうしたことが確実に起るのを知っていた。ついで八時十五分になると自分が勇気をふるい起して帽《ぼう》子《し》に手をのばすことも、そして妻が突《つ》っかかるような口調でこう問いかけることもわかっていた。
「あなた、どこへいらっしゃるの? 教えていただきたいものだわ、ジョン・パーキンズ」
「ちょっとマックロスキーのところへ行って、連中とプールを二、三番やってこようと思ってね」と、おれは答える。
このごろでは、これがジョン・パーキンズの習慣になっていた。十時か十一時には家に帰る。ケティはもう寝《ね》ていることもあり、どうかすると、燃えさかる憤《ふん》怒《ぬ》の坩堝《るつぼ》で、結婚という鋼鉄の鎖《くさり》から、すこしでも余計に金メッキをはがしとろうと眠《ねむ》らずに待っていることもある。
すべてこれらのことについては、愛の神《キューピッド》が、フロッグモア・アパートの彼の犠《ぎ》牲者《せいしゃ》とともに裁きの庭に立ったとき弁明しなければならないだろう。
その夜、部屋の扉口にたどりつくと、ジョン・パーキンズは、そういう平凡《へいぼん》な生活に起った一大逆転劇に直面した。あの愛らしい、菓子《かし》の匂いのする接吻をしてくれるケティの姿が、どこかへ消えてしまっていたのである。三つの部屋は、おそるべき乱雑さを見せていた。そこらじゅうに、彼女の持物が、めちゃくちゃに散らばっていた。靴は床《ゆか》の真ん中に放《ほう》り出してあるし、カール用の鏝《こて》、髪飾《かみかざ》り用のリボン、キモノ、おしろいの箱《はこ》などが、みんないっしょくたにごちゃごちゃと鏡台や椅子の上に投げだしてあった――これは明らかにケティの仕《し》業《わざ》ではなかった。ジョンは、彼女の鳶色《とびいろ》の巻き毛がかたまって櫛《くし》の歯に巻きついているのを、ぼんやりと眺《なが》めた。何か、よほど急ぎの用件か、気を転倒《てんとう》させるようなことが起って出て行ったのにちがいない。というのは、いつもなら彼女は、こういう梳《す》き毛は、ちゃんとまとめて、うらやましがられるほどの「かもじ」をつくるために、暖《だん》炉《ろ》の上の小さな青い花《か》瓶《びん》のなかへ、ていねいにしまっておいたからである。
折りたたんだ紙《し》片《へん》が、すぐ目につくようにガス灯の口に紐《ひも》でぶらさげてあった。ジョンは、それをつかみとった。つぎのような妻の走り書きであった。
愛するジョン
たったいま母が重病だという電報を受けとりました。四時三十分の汽車に乗るつもりです。弟のサムが向うの駅へ迎えにきてくれることになっています。冷蔵庫に冷羊肉がはいっています。いつもの喉頭炎《こうとうえん》の再発でなければよいと思っています。牛乳屋に五十セント払ってください。母は、昨年の春、喉頭炎でひどく苦しんだのです。メーターのことでガス会社に手紙を書くのを忘れないでください。よそ行きの靴下は一番上の引出しにはいっています。明日向うから手紙を出します。とり急ぎ
ケティ
結婚して二年このかた、彼とケティは、ただの一晩でも別々にすごしたことはなかった。ジョンは途《と》方《ほう》にくれたように、その走り書きを何度も何度も読みかえした。かつてただの一度も変えられたことのない一定不動の日常生活の手順に、いま一つの裂《さけ》目《め》が生じたのだ。彼はただぼんやりとしていた。
椅子の背には、ケティがいつも食事の支《し》度《たく》をするときに着る黒い水玉模様の赤い部屋着が、みじめなぬけ殻《がら》となり、だらしなくかかっていた。ふだん着も、あわただしく出て行ったために、あちこちに放り出してあった。好物のバター・ボールがはいっている小さな紙袋《かみぶくろ》が、口の紐もしめずに、そのままおいてあった。汽車の時間表の部分が切り抜《ぬ》かれ、そこだけ四角に穴があいている新聞紙が、ひろげたまま床の上に落ちていた。部屋のなかのすべてのものが、喪失《そうしつ》を、大切なものがうしなわれたことを、魂《たましい》と生命とが消え去ったことを、物語っていた。ジョン・パーキンズは、奇妙《きみょう》な、荒涼《こうりょう》たる思いに包まれて、この死せる残骸《ざんがい》のなかに立ちつくしていた。
彼は、できるだけきちんと部屋のなかを片づけはじめた。彼女の衣類に手をふれたとき、なにか恐怖《きょうふ》に似たおののきが、からだをつきぬけた。ケティのいない生活がどんなものか、彼はこれまで一度も考えたことがなかった。彼女はもうすっかり彼の生活のなかに溶《と》けこんでいたから、妻は彼にとって、あたかも呼吸する空気――必要不可欠ではあるが、それと気づくことはめったにないものとなっていたのである。ところが、いま彼女は何の前《まえ》触《ぶ》れもなく行ってしまったのだ。まるで最初から存在していなかったかのように完全に消えてしまったのである。もちろんそれは二、三日か、あるいは長くても、せいぜい一、二週間のことだろう。しかしジョンにとっては、まるで死の手が無事安泰《あんたい》な彼の家庭に白羽の矢を立てたかのようにさえ思われた。
ジョンは冷蔵庫から冷羊肉をとりだし、コーヒーを沸《わ》かし、臆面《おくめん》もなく化学的純粋度保証のレッテルをはりつけた苺ママレードを鼻のさきにおいて、ひとりぼっちの食卓《しょくたく》についた。ポット・ローストと、黄褐色《おうかっしょく》の靴ずみのようなドレッシングをかけたサラダが、うしなわれた幸福のなかで、いまは空《むな》しい幻影《げんえい》のように見えた。おれの家庭は解体してしまった。喉頭炎の義母が彼の家庭の守護神を大空の彼方《かなた》に追い払ってしまったのである。さびしい食事を終えると、ジョンは表通りに面した窓際《まどぎわ》に腰をおろした。
煙草《たばこ》をすう気もしなかった。窓の外の街は、出てきて愚《ぐ》行《こう》と歓楽の踊《おど》りの仲間に加わるようにと騒々《そうぞう》しく彼を誘惑《ゆうわく》していた。今夜はジョン一人の夜であった。その気になれば、誰《だれ》にとがめだてられることもなく外出ができ、街の陽気な独身者と同じように、自由に歓楽の弦《げん》をかき鳴らすこともできるのだ。夜通し飲みあかすなり、羽目をはずすなり、そこらをうろつきまわるなり、何でもやりたいことができるのだ。歓楽の余《よ》韻《いん》をただよわせて帰ってくる彼を、角を生やして待ちかまえているケティもいないのだ。望むならば、夜明けの女《め》神《がみ》が電灯の影《かげ》をうすくする時刻まで、遊び仲間とマックロスキーのところでプールをしていたって一向さしつかえないのだ。このフロッグモア・アパートがひどく味気なく思われたときでも、いつも彼をしばりつけていた結婚の絆《きずな》が、いまや解き放たれたのである。ケティは、行ってしまったのだ。
ジョン・パーキンズは自分の感情を分析《ぶんせき》するなどという習慣はもっていなかった。しかし、ケティのいない幅《はば》十フィート、長さ十二フィートの部屋に、いまこうして坐《すわ》っていると、自分の不安の主調音が何であるかを、はっきりと知った。自分の幸福にとってケティがなくてはならないものであることを、いまさらのように知ったのである。なんの変哲《へんてつ》もない家庭生活のくりかえしのために、無意識のうちに眠らされていた彼女への感情が、彼女の存在がうしなわれたことによって、はげしく目ざまされたのである。美しい声の小鳥が飛び去るまでは、われわれは、その美しい声を真実には鑑賞《かんしょう》しようとしない、ということは、諺《ことわざ》や説教や寓《ぐう》話《わ》によって、あるいはそれ以上に説得力のある名言によって、すでにいやというほどきかされてきたのではなかったろうか。
「おれは、なんという間抜《まぬ》けなんだろう」とジョン・パーキンズは考えこんだ。「これまであんなふうにケティを扱《あつか》っていたなんて。毎晩、彼女と家でいっしょに夜をすごすかわりに、外へとび出して行っては若い連中と球を突いたり、酒を飲んで騒《さわ》いだりしていたのだ。可哀《かわい》そうに、ケティは何一つ心をなぐさめるものもなく、ひとりぼっちで家で待っていたというのに、そのあいだも、おれは、ばかなことばかりしていたのだ。ジョン・パーキンズよ、きさまは、なんという罰当《ばちあた》りな人間だろう。愛するケティのために何とかこのつぐないをしてやろう。外へつれ出して、何か面白《おもしろ》いものでも見せてやろう。そして、マックロスキーの遊び仲間とは、こんにち、このときかぎり、きっぱり手を切ろう」
たしかに窓の外では街がジョン・パーキンズに向って、嘲弄の神《モーマス》のあとについて踊りに加わるようにと騒々しく呼びかけていた。そしてマックロスキーのところでは、いつもの常連が、いつもの夜の勝負をはじめる時間がくるまでのひまつぶしに、所在なげに球を突いていた。だが、いまは桜草《さくらそう》の道も、こころよい撞球《どうきゅう》のキューの音も、ケティをうしなったパーキンズの前非を悔いた心を誘惑することはできなかった。これまでたいして大切とも思わず、むしろ、なかば軽蔑《けいべつ》していた愛するものを、手《て》許《もと》から奪《うば》い去られたいまは、それがむしょうにほしくなった。後悔《こうかい》にさいなまれたパーキンズは、自分の系図をたどって、天使に楽園から追いだされたアダムにまでさかのぼることができた。
ジョン・パーキンズの右手のそばに椅子が一脚《きゃく》あった。その背にケティの青いブラウスがかかっていた。それはまだ多少ケティの面《おも》影《かげ》をとどめていた。袖《そで》の中ほどには、彼をくつろがせ、よろこばせるためにはたらくときの彼女の腕《うで》の動作がつくりだした着ぐせの細かな独特の皺《しわ》ができていた。かすかな、それでいて心をときめかすような野生ヒヤシンスの匂いが、そこからただよってきた。ジョンは、そのブラウスをとりあげた。そして、いつまでも、静かに、その冷たいうすものに見入っていた。ケティは、ただの一度も、こんなに冷たいことはなかった。涙《なみだ》が――そうだ、涙だ――ジョン・パーキンズの目ににじんできた。今度ケティが戻《もど》ってきたら、何もかも一変するだろう。自分は、これまでほったらかしにしておいた償《つぐな》いをするのだ。彼女のいない生活など、どうして考えられよう。
ドアが開いた。ケティが小さな手提鞄《てさげかばん》をさげて入ってきた。ジョンは、びっくりして彼女をみつめた。
「ああ、帰ってこられてよかったわ」とケティは言った。「お母さんは、たいしてわるくなかったのよ。サムが駅へきててくれたの。そして、お母さんは、ちょっと発作を起しただけで、電報をうったあとすぐに、すっかりよくなったっていうの。だから、つぎの汽車で引返してきたのよ。コーヒーが一杯《ぱい》ほしいわ」
フロッグモア・アパートの三階の表の部屋が、「いつものしきたり」へと、その機械を動かしはじめたとき、歯車の軋《きし》る音を聞きつけたものは、誰ひとりいなかった。ベルトがすべり、バネが動き、ギヤが調整され、車輪は、ふたたび、いつもの軌《き》道《どう》を回転しはじめたのである。
ジョン・パーキンズは柱時計を見た。八時十五分だった。彼は帽子をとって扉口のほうへ歩いて行った。
「あなた、どこへいらっしゃるの? 教えていただきたいものだわ、ジョン・パーキンズ」と突っかかるような口調でケティがたずねた。
「ちょっとマックロスキーのところへ行って」とジョンは答えた。「連中とプールを二、三番やってこようと思ってね」
(The Pendulum)
緑の扉《とびら》
かりにきみが夕食のあと葉巻を一本ふかすのに十分間を割りあて、そのあいだ、気晴らしになるような悲劇でも見ようか、それとも寄席《よせ》で何かまじめなものでも見ようかと迷いながら、ブロードウェイを歩いていると仮定しよう。とつぜん誰《だれ》かの手がきみの腕《うで》にふれる。きみはふりむいて、ダイヤモンドを光らせ、ロシア産の黒貂《くろてん》の毛皮を着《き》飾《かざ》ったすばらしい美人の、ぞくぞくするような瞳《ひとみ》をのぞきこむ。彼女《かのじょ》は、いそいできみの手のなかに、やけどをするほど熱いバター・ロールパンを押《お》しつけ、小さな鋏《はさみ》をきらりととり出して、きみのオーバーの二番目のボタンを切りとり、意味ありげに、たった一言、「平行四辺形《パラレログラム》!」と叫《さけ》んで、不安そうに肩《かた》ごしにふりかえりながら、横町を飛ぶように走り去る。
これこそ真の冒険《ぼうけん》というものだろう。きみは、これに応じるだろうか? いや、応じないだろう。きみは困惑《こんわく》して顔をあからめ、きまりわるそうにロールパンを捨て、なくなったボタンのあたりを弱々しくまさぐりながら、そのままブロードウェイを歩きつづけるだろう。おそらくきみはそうするにちがいない。ただし、もしきみが純粋《じゅんすい》な冒険心をまだうしなっていない幸福な少数者の一人であるなら、話はまたちがってくるが。
真の冒険家というものは、これまでにも、そうたくさんはいなかった。真の冒険家として書物にその名を残している人々は、たいてい新しい方法を開発した行動派である。彼《かれ》らは、自分の求めるもの――黄色の羊毛とか、聖なる杯《さかずき》とか、貴婦人の愛、宝物、王冠《おうかん》、名声など――を手に入れようとして出て行った。真の冒険家というものは、成算もなく、打算もなく、未知の運命にめぐり会って、よろこんでこれを迎《むか》え入れるために出て行くのである。そのよい例は、聖書に出てくるあの放蕩《ほうとう》息《むす》子《こ》――わが家に向って出発したときの――である。
冒険家に準ずるもの――勇気のある立派な人たち――は、これまでにもたくさんいた。十字軍からパリセイズにいたるまで、彼らによって歴史や小説の技術は豊かになり、おかげで歴史物語という商売が繁昌《はんじょう》してきたのである。しかし、彼らには、いずれも獲得《かくとく》すべき賞品があり、到達《とうたつ》すべき目標があり、胸に秘すべきたくらみがあり、競走すべき競走路があり、新たに一《ひと》突《つ》きすべき第二の突きの構えがあり、彫《ほ》りつけられるべき名があり、解決すべき問題があった――だからこそ彼らは真の冒険の追求者ではなかったのである。
大都会には、ロマンスと冒険という双生児《ふたご》の妖精《ようせい》が、これを求める憧憬者《どうけいしゃ》をさがして、いつも戸外を歩きまわっている。われわれが街を歩いていると、この双生児の妖精たちは、いろいろと異なった姿に身を変えて、こっそりとわれわれのようすをうかがって挑戦《ちょうせん》してくる。なぜともなく、ふと顔をあげると、そこのショーウィンドーのなかに、心の奥深《おくふか》くに秘めた肖像画《しょうぞうが》の画《が》廊《ろう》に属する人の顔を、見いだすことがある。寝《ね》静《しず》まった街で、鎧戸《よろいど》をおろした人《ひと》気《け》のない家から、苦《く》悶《もん》と恐怖《きょうふ》の叫びがきこえてくることもある。タクシーの運転手が、われわれを、いつもの歩道の縁石《へりいし》のところではなく、見知らぬ家の玄関《げんかん》の前でおろし、すると微笑《びしょう》をたたえた人が玄関のドアを開いて、どうぞおはいりくださいと声をかけてくれることもある。字が書いてある一枚の紙きれが、「運命」の高い格《こう》子《し》窓《まど》から、ひらひらと足もとへ落ちてくることもある。急ぎ足に行きかう群集のなかの見知らぬ人間と、一瞬《いっしゅん》、憎《ぞう》悪《お》、愛情、不安の一瞥《いちべつ》をとりかわすこともある。いきなり襲《おそ》いかかる、どしゃ降りの豪《ごう》雨《う》――すると手にした雨傘《あまがさ》が、満月の娘《むすめ》や星のいとこのような美しい女を雨宿りさせているかもしれない。いたるところの街角で、ハンカチが落ち、指が招き、流し目が攻《せ》めよせ、うしなわれた、孤《こ》独《どく》な、うっとりとした、神秘的な、危険な、変化に富んだ冒険の手がかりが、われわれの手のなかへ、こっそりと忍《しの》びこんでくる。しかし、進んでそれをとらえ、それについて行くものは、きわめてすくない。われわれは、因襲《いんしゅう》というテ杖《さくじょう》で、骨の髄《ずい》まで、こちこちに硬《こう》化《か》してしまっているからである。われわれは、そのまま通りすぎてしまう。そして、いつかは、退屈《たいくつ》きわまる人生の終りに、自分のロマンスは一度か二度の結婚《けっこん》という味《あじ》気《け》ないものであったとか、大事なものをしまっておく引出しのなかの繻《しゅ》子《す》のバラ飾りのようなものであったとか、スチーム暖房装《だんぼうそう》置《ち》と一生にらみ合って暮《くら》したような生活であったとか思いかえすときがくるのだ。
ルドルフ・スナイダーは真の冒険家であった。彼が、思いがけないことや途《と》方《ほう》もないことを求めて、ホールの端《はし》にある寝室《しんしつ》から出かけて行かない夜は、ほとんどなかった。人生で最も興味のある事件が、すぐそこの街角を曲ったところにころがっているように彼には思われたのである。ときには、運をためしてみたい気持に駆《か》られて、とんでもない横町に迷いこむこともあった。警察で一夜をすごしたことも二度ほどあった。欲の深い巧妙《こうみょう》ないかさま師にひっかけられたことも二度や三度ではなかった。甘言《かんげん》に乗せられて、時計と金を犠《ぎ》牲《せい》にしたこともあった。しかし彼は、すこしもひるまぬ熱意をもって、襲いくるあらゆる挑戦に応じ、愉《ゆ》快《かい》な冒険の表《リスト》にそのことを書きこんで行った。
ある晩のこと、ルドルフは、かつてこの市の中心部であったあたりを南北に走っている街路を、ぶらぶら歩いていた。二つの人間の流れが歩道を埋《う》めていた――一つは家路を急ぐ人々であり、一つは何千燭光《しょっこう》かの照明に輝《かがや》くレストランのうわべだけの歓迎《かんげい》を受けたいために家庭に帰ろうとしない心おちつかぬ人たちの群れである。
この若き冒険家は、風采《ふうさい》もスマートだし、態度も慎重《しんちょう》で用心深かった。彼は昼間はピアノ店のセールスマンをしていた。ネクタイをネクタイピンでとめずにトパーズのリングに通してとめていた。かつて彼は、ある雑誌の編集者に、ミス・リビイ作の『ジュニイの恋《こい》の試練』ほど自分の人生に大きな影響《えいきょう》をあたえた書物はない、と書き送ったことがある。
歩いているうちに、歩道のわきのガラスの陳列箱《ちんれつばこ》のなかで、歯がかちかち鳴る激《はげ》しい音がきこえたが、これがまず最初に彼の注意を――軽い嘔《はき》気《け》といっしょに――その箱の背後にあるレストランへ引きつけたようであった。しかし、もう一度見直すと、隣《りん》家《か》の出入口のずっと高いところに、歯科医の看板の電光文字が見えた。赤い縫《ぬ》いとりのある上着に黄色いズボン、それに軍隊帽《ぐんたいぼう》という奇妙《きみょう》ないでたちの大男の黒人が、通行人のうちでそれを受けとってくれる人にだけ、注意深くチラシをくばっていた。
歯科医のこのような広告の方法は、ルドルフにとって、目新しい光景ではなかった。いつもなら、チラシをくばる人間のそばを素《す》通《どお》りして、チラシの手持ちをへらしてやるようなことはしないのだが、今夜は、このアフリカ人が巧《たく》みに一枚すっと彼の手のなかへすべりこませてしまったので、彼も、その手練の早業《はやわざ》に苦笑して、そのまま手にもっていた。
数ヤードさきへ行ってから、なにげなくそのチラシのカードに目を落した。びっくりして、そのカードを裏返し、興味に駆られて、もう一度見直した。カードの片面は白紙だが、他の面にはインクで「緑の扉」という三文字が書いてあった。そのときルドルフは、三歩ほど前で、一人の男が、黒人から渡《わた》されたカードを歩きながら投げすてたのを見た。それを拾いあげて見ると、歯科医の名前と住所と、それから「義歯仮床《かしょう》」「ブリッジ技工」「歯《し》冠《かん》」「無痛治療《ちりょう》」などというおきまりのもっともらしい宣伝文句が印刷してあった。
冒険を愛するピアノのセールスマンは街角で立ちどまって考えこんだ。やがて彼は通りを横ぎって、一ブロックほど南へ戻《もど》り、もう一度通りを横ぎって、ふたたび北へ進む人の流れに加わった。二度目に黒人のそばを通るときには、なにも気づかぬふりをして、渡されたカードを、そしらぬ顔で受けとった。そして、十歩ばかり行ってから、そのカードを調べてみた。はじめのカードと同じ筆蹟《ひっせき》で、このカードにも「緑の扉」と書いてあった。彼の前や後を行く通行人たちが、三、四枚のカードを路上に投げすてて行った。それらは何も書いてない面を上にして落ちていた。ルドルフは、それらを裏返してみた。どのカードにも歯科「診療所《しんりょうじょ》」のきまり文句が印刷されていた。
冒険といういたずらものの妖精が、その真の追求者であるルドルフ・スナイダーを誘《さそ》うのに、二度も手招きする必要は、めったになかった。ところが、それがいまは二度行われたのである。かくして探険が開始された。
ルドルフは、あの大男の黒人が、がちがち鳴る歯の陳列箱のそばに立っているところまで、ゆっくりと戻っていった。今度は、そばを通るとき、カードを受けとらなかった。派手で滑稽《こっけい》な衣裳《いしょう》を着ているにもかかわらず、このエチオピア人は、あるものにはいんぎんにカードを渡し、またあるものには何の邪《じゃ》魔《ま》立《だ》てもせずにそのまま通しながら、生れながらの野生の威《い》厳《げん》を見せてそこに突《つっ》立《た》っていた。彼は三十秒ごとに、電車の車掌《しゃしょう》かグランド・オペラのわかりにくい口跡《こうせき》にも似た耳ざわりな、わけのわからぬ文句をしゃべり立てていた。そして、今度は黒人はカードを渡さなかったばかりでなく、ルドルフは、そのてらてら光っている大きな黒い顔から、冷淡《れいたん》な、ほとんど軽蔑《けいべつ》的な視線を受けたような気がした。
この視線が冒険家をぴりっと刺《し》戟《げき》した。彼はその視線のなかに、おまえさんでは用が足りないことがわかったよ、という無言の非難を読みとった。カードに書かれた不可解な言葉が何を意味するにせよ、とにかく黒人は二度までも多くの群衆のなかから彼をカードの受取人として選んだのである。ところがいまは、おまえさんには謎《なぞ》を解く知恵《ちえ》も熱意も欠けているときめつけているように思われたのだ。
雑踏《ざっとう》からぬけ出した青年は、冒険がひそんでいるにちがいないと見きわめをつけた建物を、すばやく観察した。それは五階建てであった。小さなレストランが地階を占《し》めていた。
一階は、もう店を閉めているが、婦人装身具店か毛皮店のようであった。二階は、明滅《めいめつ》する電光文字で歯科診療所だとわかった。さらにその上には、各国語でごてごてと書かれた看板が、手相見、ドレスメーカー、音楽家、医師たちの所在を示すべくひしめいていた。さらにその上は、ゆるやかに垂れているカーテンや、窓敷《まどしき》居《い》の上の白い牛乳壜《ぎゅうにゅうびん》などによって、家庭生活の領域であることを示していた。
観察を終ると、ルドルフは高い石の階段を一気に駆けのぼって、建物のなかへはいりこんだ。じゅうたんを敷《し》いた階段を二つのぼり、そのてっぺんで足をとめた。そこの廊下は、二つの青白いガス灯――一つは、はるか右手にあり、一つは、もうすこし近くの左手にあった――の光で、ぼんやり照らされていた。近いほうのガス灯のあたりに目を向けると、その青白い光の輪のなかに、緑色の扉が見えた。一瞬、彼はためらった。だが、そのとき、例のアフリカ人のカードくばりの高慢《こうまん》な冷笑《れいしょう》が目に見えるような気がした。そこで彼は、まっすぐに緑色の扉に歩みより、威勢よくノックした。
この種のノックに応答があるまでに経過する一秒一秒は、真の冒険の切迫《せっぱく》した息づかいをためす尺度となるものである。その緑色の羽目板の向うには、どんなものがひそんでいるか、わかったものではない。賭《と》博《ばく》師《し》が勝負をしているかもしれないし、狡猾《こうかつ》な悪漢どもが、ぬかりなく奇《き》計《けい》をめぐらして、罠《わな》に餌《えさ》をつけているかもしれない。勇者にあこがれ、勇者から求められることを待ち望んで何事かを画策《かくさく》している美人がいるかもしれない。危険か、死か、恋か、失望か、嘲笑《ちょうしょう》か――そのいずれかが、この向う見ずのノックに応じてくるかもしれないのだ。
扉の内側に、かすかに衣《きぬ》ずれの音がして、扉が静かに開かれた。まだ二十《はたち》そこそこの若い娘が、青い顔をして、よろめくように、そこにあらわれた。娘は扉の把《とっ》手《て》をはなしたかと思うと、まさぐるように片手をのばして、よろよろと力なく倒《たお》れかかった。ルドルフは娘を抱《だ》きとめて、壁際《かべぎわ》にある色あせた長《なが》椅子《いす》の上に寝かせた。扉を閉めると、彼は、ゆらめくガス灯の光で、すばやく部屋のなかを見まわした。きちんとはしているが、ひどいどん底生活らしい、と彼は見てとった。
娘は気をうしなったように静かに横たわっていた。ルドルフは、すっかり度をうしない、樽《たる》はないかと部屋のなかを見まわした。気をうしなったものは樽にのせて転がさなければならぬ――いや、ちがう、それは水に溺《おぼ》れた人を救い出す場合だ。彼は自分の帽子で娘を煽《あお》ぎはじめた。これが効を奏した。というのは、山高帽の縁《ふち》が鼻にぶつかって娘が目を開けたからである。このとき青年は、この顔こそ、わが心の奥に秘めている肖像画の画廊から紛失《ふんしつ》した、ただ一つの顔だということに気がついた。つぶらな灰色の目、こなまいきにつんと上を向いている小さな鼻、豆《まめ》のつるの巻きひげのようにカールした栗色《くりいろ》の髪《かみ》、これこそ、あらゆるすばらしい冒険の真の結末であり報酬《ほうしゅう》であるように思われた。しかし、その顔は痛ましくやせて青ざめていた。
娘は静かに彼を見まもっていたが、やがてにっこりとほほえんだ。
「わたし、気をうしなっていたのね?」と彼女は弱々しくたずねた。「でも、誰だって気をうしなわずにいられないわ。三日間なにも食べずに暮してみればわかるわ」
「これは驚《おどろ》いた」とルドルフはとびあがって叫んだ。「すぐ戻ってくるから待っていらっしゃい」
彼は緑色の扉をとび出して階段を駆けおりた。二十分たつと戻ってきて、爪《つま》さきで蹴《け》って、扉を開けてもらった。食料品店やレストランから買ってきた品物を両腕にいっぱいかかえこんでいた。彼はそれをテーブルの上にならべた――バターつきのパン、冷肉、菓子《かし》、パイ、漬《つ》けもの、オイスター、ロースト・チキン、牛乳一壜、それに舌の焼けるような紅茶を一壜。「乱暴にもほどがある」と彼は、どなりつけるように言った。「食わずにいるなんて。そんなつまらない選挙の賭《か》けみたいなまねはやめなくちゃいけません。さあ、夕食の用意ができました」娘に手をかして食卓《しょくたく》につかせてから彼はたずねた。「お茶の茶碗《ちゃわん》はありますか?」「窓のそばの戸《と》棚《だな》にあるわ」と彼女は答えた。茶碗をもって戻ってくると、娘は有頂天《うちょうてん》になって目を輝かしながら、女性のあの適確な本能によって紙袋《かみぶくろ》のなかから捜《さが》しだした大きなイノンドの実で味つけしたきゅうりの漬けものを食べはじめていた。彼は笑いながらそれをとりあげて、茶碗にいっぱい牛乳をついだ。「さあ、これをさきに飲みなさい」と彼は命令した。「そのあとで紅茶をすこしあげましょう。それからチキンの手羽のところをあげます。おとなしく言うことをきいてくれたら、明日は漬けものをあげましょう。ところで、ぼくをお客さんにしてくれるなら、いっしょにお相伴《しょうばん》させていただきましょう」
彼は、もう一つの椅子を引きよせた。紅茶は娘の目に輝きをあたえ、頬《ほお》にもいくぶん血色がもどってきた。彼女は飢《う》えた野獣《やじゅう》のように、あえていうなら一種の優《ゆう》雅《が》な獰猛《どうもう》さをもって食べはじめた。若い男がいることも、その男が救いの手をさしのべてくれたことも、まるで当然のことと考えているように見えた――それは世間の習慣を無視しているというのではなく、ぎりぎりの窮境《きゅうきょう》に追いつめられたために、体裁《ていさい》も何もかなぐり捨てて人間らしくふるまう権利をあたえられた、とでもいったふうなものであった。だが、次《し》第《だい》に力と余《よ》裕《ゆう》をとり戻してくるにしたがって、身についた世間の慣習を考える気持が湧《わ》いてきて、彼女は、ささやかな身の上話を語りはじめた。それは都会の人間なら毎日あくびが出るほど聞きあきている数多い挿《そう》話《わ》の一つだった――すなわち、もともと不十分なサラリーしかもらっていないショップ・ガールが、店の利益をふやすための「罰金《ばっきん》」のために、さらにサラリーを減額され、病気をしたために手当ももらえなくなり、ついには職をうしない、希望をうしない、そして――そこへこの冒険家が緑色の扉をノックしたというわけなのだ。
しかし、ルドルフにとっては、この身の上話は、『イリアッド』か、あるいは『ジュニイの恋の試練』の危機《きき》一髪《いっぱつ》の場面と同じくらい重大なことに思えた。
「あなたが、そんなつらい目にあうなんて!」と彼は嘆《なげ》いた。
「ほんとにつらかったわ」と娘は、しみじみと言った。
「この町に親戚《しんせき》かお友達はいないんですか?」
「一人もいません」
「ぼくもこの世で一人ぼっちなんです」ちょっと間をおいてからルドルフは言った。
「いっそそのほうがうれしいわ」と即《そく》座《ざ》に娘は言った。自分の身寄りのない境遇《きょうぐう》に娘が好意を示してくれたことが、ルドルフには、とてもうれしかった。
とつぜん娘は目を閉じて深い溜息《ためいき》をついた。
「わたし、とても眠くなったわ」と彼女は言った。「そして、とても気分がよくなったわ」
ルドルフは立ちあがって帽子をとりあげた。
「では、失礼します。ゆっくり一晩おやすみになったら、きっと元気が出ますよ」
彼が手をさし出すと、娘はその手をとって、「おやすみなさい」と言った。しかし彼女の目が、あまりにも雄弁《ゆうべん》に、率直《そっちょく》に、痛々しく問いかけてきたので、彼は言葉でそれに答えた。
「いや、明日きっとまた様子を見にきますよ。そう簡単に、ぼくをお払《はら》い箱にすることはできませんからね」
扉口のところまでくると、娘は、彼がどういう理由でここへきたかは、彼がきたという事実にくらべたら、すこしも重要ではないといったような調子でたずねた。
「どうして、あなたは、わたしの部屋の扉をノックなさったの?」
彼は、しばらく娘を眺《なが》めていたが、例のカードのことを思いだすと、とつぜん苦しいほどの嫉《しっ》妬《と》を感じた。もしあのカードが、自分と同じくらい冒険《ぼうけん》の好きな他の男の手に渡ったら、どういうことになるだろう? そうだ、決してこの娘にほんとうのことを知らせてはいけない、と即座に決心した。にっちもさっちも行かなくなった末、やむをえず彼女がとったあの一風変った方法を、こちらが知っていると絶対に彼女に知らせてはいけないと思った。
「うちの店のピアノ調律師が、この建物に住んでいるんです」と彼は言った。「まちがえて、あなたの部屋の扉をノックしてしまったんですよ」
緑色の扉が閉まる前に、この部屋で彼が最後に見たものは、娘の微笑《びしょう》であった。
階段の上で彼は立ちどまって、ふしぎそうに、あたりを見まわした。それから廊《ろう》下《か》の向うの端まで歩いて行き、また引きかえしてくると、今度は上の階へあがって行って、どうにも納得《なっとく》のいかぬ調査を続行した。この建物で彼が目にした扉は、どれもみな緑色に塗《ぬ》ってあるのだ。
不可解に思いながら階段をおりて歩道へ出た。例の奇妙なアフリカ人は、まだそこにいた。ルドルフは二枚のカードを手にしたまま彼の前に立った。
「きみが、なぜこのカードをぼくにくれたのか、また、これはどういう意味なのか、教えてくれないか」と彼はたずねた。
人のいい笑いを顔いっぱいにひろげて、黒人は、雇主《やといぬし》の職業のすばらしい広告をさし示した。
「あれでがすだよ、旦《だん》那《な》」と彼は通りの向うを指さした。「だけんど、第一幕にゃ、ちょっと間に合わねえかもしれねえだな」
黒人が指さしたほうを見ると、劇場の入口の上に、『緑の扉』という新作劇の燦然《さんぜん》と輝く電光文字の看板があがっているのが目にはいった。
「なんでもすごく上等な芝《しば》居《い》だちゅうこんですだ」と黒人は言った。「あの芝居の興行主が、一ドル出すから歯医者さんのチラシにまぜて、このカードをすこしばかりくばってくれというたんでがす。歯医者さんのチラシも一枚さしあげましょうかね、旦那?」
ルドルフは、自分の住んでいる区画の街角までくると、足をとめて、ビールを一杯《ぱい》飲み、葉巻を一本買った。葉巻に火をつけて出てくると、上着のボタンをかけ、帽子をうしろへずらせて、街角の街灯に向って、きっぱりと断言した。
「いずれにせよ、彼女を見つけるようにしむけたのは、やはり運命の神の仕業だとおれは信じる」
こういう事情のもとで、このような結論を出すからには、ルドルフ・スナイダーも、たしかにロマンスと冒険の真の追求者の仲間に加えてもいいだろうと思う。
(The Green Door)
アラカルトの春
三月のある日のことであった。
だが、小説を書くときには、決してこんなふうにはじめてはいけない。おそらく、これほどまずい書き出しはないだろうからだ。想像力に乏《とぼ》しく、平凡《へいぼん》で、無味《むみ》乾燥《かんそう》で、ただ意味のない言葉を並《なら》べただけのものになるおそれがある。だが、この場合は許されるべきであろう。なぜなら、本来この話の書き出しとなるべきつぎの一句を、前ぶれもなく読者の前にいきなりつきつけるのは、あまりに乱暴かつ非常識すぎるからだ。
サラーは献立表《こんだてひょう》を前にして泣いていた。
メニュー・カードに涙《なみだ》をそそいでいるニューヨーク娘《むすめ》を想像してみたまえ。
これを説明するために、伊勢海老《いせえび》が品切れだったためだとか、四旬節《レント》のあいだアイスクリームを断《た》っていたためだとか、玉葱《たまねぎ》料理を注文したためだとか、あるいは悲劇ものの芝《しば》居《い》のマチネーからたったいま帰ってきたばかりだからだとか、どう想像されようとも一向さしつかえない。ところが、この場合には、そのような想像は、みなはずれているのだ。だから、ともかく物語をすすめさせていただくことにしよう。
この世は牡蛎《かき》なり、われは剣《けん》もてそれを開かむ、と宣言した紳《しん》士《し》は、分不相応の大成功をおさめた。牡蛎を剣でこじあけるのは、むずかしいことではない。しかし、浮《うき》世《よ》という二枚貝をタイプライターで開けようとする人間を諸君は見たことがあるだろうか? そんなやり方で一ダースの生牡蛎が開けられるのを諸君は待っていたいと思うだろうか?
サラーは、この扱《あつか》いにくい武器を用いて、どうにか貝殻《かいがら》をこじあけて、ねっとりした冷たい中身を、ほんのちょっぴり齧《かじ》ることができた。よしんば彼女《かのじょ》が商業学校から世の中へ吐《は》き出されたばかりの速記科卒業生であったとしても、速記ができないことにかけては同様であった。速記ができないものだから、オフィスの才媛《さいえん》たちのグループに入ることができず、フリー・ランスのタイピストで、タイプ複写《コピイ》の半《はん》端《ぱ》仕事をもらって歩いていたのである。
サラーが浮世との戦いで演じた最も輝《かがや》かしい抜群《ばつぐん》の手《て》柄《がら》はシューレンバーグ氏経営の大衆食堂との間に結んだ取引であった。このレストランは、彼女が入口の部屋を間借りしている古い煉《れん》瓦《が》造りの家のとなりにあった。ある晩、シューレンバーグ氏の店の四十セントの五品つき定食(それはニグロ人形の頭にボールを五個投げつけるのと同じくらい迅速《じんそく》につぎつぎとテーブルに運ばれた)を食べ終ってから、サラーは献立表をもって帰った。それは英語ともつかずドイツ語ともつかぬ、ほとんど判読できないような字体で書いてあって、よく注意して見ないと、ツマ楊《よう》枝《じ》とライス・プディングではじまり、スープのつぎに曜日の名で終るような具合に配列してあった。
翌日、サラーはシューレンバーグ氏に、きれいなカードを一枚見せた。それには「オードヴル」にはじまり、最後の「外套《がいとう》や傘《かさ》をお忘れなく」という文字にいたるまで、料理の品目が、それぞれきちんと適切に、見る人の食欲に訴《うった》えかけるように美しくタイプされていた。
シューレンバーグ氏は、その場で即《そく》座《ざ》にアメリカ人に帰化した。彼女が帰る前に、シューレンバーグ氏は、よろこんでサラーと一つの契約《けいやく》を結ばなければならないようなことになってしまった。彼女は、この店の二十一のテーブルに、タイプでうった献立表(ディナーのメニューは、その日その日新しく、朝食とランチのメニューは、料理の品目が変ったり、献立表が古くなって汚《よご》れてきた場合には、その都度新しくするという条件で)を提供することになった。
これに対する報酬《ほうしゅう》として、シューレンバーグ氏は、毎日三度の食事を、給仕《きゅうじ》――それも、なるべく礼《れい》儀《ぎ》正しい給仕――にサラーの部屋まではこばせ、また午後には、翌日のシューレンバーグ氏のお客たちのために運命の女《め》神《がみ》が用意してくれた品目を鉛筆《えんぴつ》で走り書きして、彼女のもとにとどけるということになった。
この契約の結果は双方《そうほう》に満足をもたらした。シューレンバーグ氏のお客たちは、自分の食ベているものの正体に、ときどきめんくらうことがあったが、それが何という名前の料理かということだけは、はっきりわかるようになった。一方サラーとしても、寒い、うっとうしい冬のあいだ、食べるものに事欠かなかったが、これは彼女にとっては、まことに重大なことであった。
やがて暦《こよみ》が臆面《おくめん》もなく春がきたと嘘《うそ》をつくときがきた。春は、時期がこなければ、こないものなのだ。一月の雪は、依《い》然《ぜん》として街の横町に堅《かた》い石のように凍《い》てついていた。手《て》風《ふう》琴《きん》は相変らず十二月の活気と十二月の調子で「なつかしい夏はすぎて」を奏《かな》でていた。人々は復活祭の晴着を手に入れるために一カ月後払《ばら》いの小切手を振《ふ》り出しはじめた。管理人たちはスチームの栓《せん》をとめた。しかし、このようなことが行われていても、街がまだ冬の掌中《しょうちゅう》にあることは明らかだった。
ある日の午後、サラーは「暖房《だんぼう》完備、清潔無比、各種設備完、ご一覧を乞《こ》う」とうたってある優《ゆう》雅《が》な玄関《げんかん》わきの寝室《しんしつ》で、ぶるぶるふるえていた。彼女には、シューレンバーグ氏のメニュー・カードのほかには、なすべき仕事がなかったのだ。彼女は、ぎしぎしする柳《やなぎ》の揺《ゆ》り椅子《いす》に腰《こし》かけて、窓の外を眺《なが》めていた。壁《かべ》のカレンダーは彼女にこう呼びかけていた。「春がきたのよ、サラーさん、ほんとに春がきたのよ。わたしをごらんなさい、サラーさん、わたしの数字がそれを示しているでしょう。あなたも、とても美しい姿をしているわ、サラーさん――すばらしい春の姿だわ――それなのに、どうしてそんなに悲しそうな顔をして窓の外ばかり見ているの?」
サラーの部屋は建物の裏手にあった。窓の外には、通りを一つ越《こ》した向うの製箱工場の窓のない煉《れん》瓦《が》壁《へき》の背後が見えていた。けれども彼女にとってその壁は透明《とうめい》な水晶《すいしょう》のようなものであった。サラーには、桜《さくら》や楡《にれ》の茂《しげ》る小道も、木苺《きいちご》やチェロキー・ローズの茂みに縁《ふち》どられた草深い小道も、はっきりと見えるのだ。
春のほんとうのさきぶれは、目や耳でとらえるには、あまりにも微妙《びみょう》である。人によっては、花開いたクローカスや、森に一面に咲《さ》き乱れた山《やま》茱萸《ぐみ》や、駒鳥《こまどり》の鳴き声や――さらには、引退の時期がやってきた蕎麦《そば》や牡蛎と名残《なご》り惜《お》しくも別れるというような、春の訪《おとず》れを知らせる明白なさきぶれを見ないことには、その鈍感《どんかん》な胸のなかに「緑衣の貴婦人」を迎《むか》えることができないものもいる。けれども、大地が選んだ最もすぐれた人々には、ぐずぐずしているとお婿《むこ》さんにしてあげないことよという甘《あま》いうれしい便りが、新しく大地へきたばかりの花嫁《はなよめ》から、じかにとびこんでくるのである。
昨年の夏、サラーは田舎《いなか》へ行って、一人の農夫に恋《こい》をした。
(物語を書くときに、こんなふうに話を逆戻《ぎゃくもど》りさせてはいけない。まずいやり方で、興味をそぐ。だが、ともかく話をすすめることにしよう)
サラーは、サニーブルック農場に二週間滞《たい》在《ざい》した。そこで、老農夫フランクリンの息《むす》子《こ》ウォルターを恋することを知ったのだ。農夫というものは、恋をし、結婚《けっこん》をし、また牧場へ出かけて行くのに、二週間もかかるということは、まずないものだ。だがウォルター・フランクリンという青年は近代的な農業家であった。牛舎には電話が引いてあるし、来年のカナダ小麦の収穫《しゅうかく》が、月の暗い夜に植えた馬《ば》鈴薯《れいしょ》にどんな影響《えいきょう》をもたらすかということを正確に計算することができた。
ウォルターが求婚して彼女の承諾《しょうだく》を得たのは、あの木の陰《かげ》の、木苺の茂る小道でだった。二人は、いっしょに腰をおろして、サラーの髪《かみ》を飾《かざ》るタンポポの冠《かんむり》を編んだ。彼《かれ》は、黄色い花が彼女の鳶色《とびいろ》の髪の房《ふさ》にとてもよく似合うと言って、しきりにほめたたえた。サラーは、その花の冠をつけたまま麦藁帽《むぎわらぼう》子《し》を手にもってうち振りながら家へ戻ってきた。
春になったら――春の最初の兆《きざ》しが見えたらすぐに結婚しよう、とウォルターは言った。サラーは町へもどってタイプライターを叩《たた》いていた。
ドアをノックする音が、サラーが思い描《えが》いていた幸福な日の夢《ゆめ》を追い払った。一人の給仕が、シューレンバーグ老人が角ばった筆蹟《ひっせき》で書きなぐった鉛筆書きの大衆食堂の明日の献立表をもって入ってきた。
サラーはタイプライターの前に腰をおろし、ローラーのあいだにカードをはさんだ。彼女は仕事が手早いほうであった。たいてい一時間半で二十一枚のメニュー・カードをうちあげた。
今日は、いつもよりも献立の変更《へんこう》が多かった。スープは一層あっさりしたものとなり、豚肉《ぶたにく》がアントレーからはずされ、わずかにロシア蕪《かぶ》入りの焼肉だけが顔を出していた。やわらかな春の気配が、メニュー全体に、にじみわたっていた。つい最近まで、緑が濃《こ》くなった丘《おか》の斜面でケイパーしていた子羊が、そのケイパーぶりを記念するソースをかけられてメニューに登場していた。牡蛎の歌は、すっかりやんではいなかったが、ディミヌエンド・コン・アモーレという調子に変っていた。フライパンは炙肉器《あぶりにくき》の奇《き》特《とく》な横木の向うにかかっていて、なすこともなく休業しているようであった。パイもののリストがのさばって、濃厚《のうこう》なプディングは姿を消し、うちかけ《・・・・》をまとったソーセージは、蕎麦や、おいしいが死の宣告をうけた楓糖蜜《メープル・シロップ》とともに、こころよい死の瞑想《めいそう》にひたりながら、どうにか生きながらえていた。
サラーの指は、夏の小川の上の小さな昆虫《こんちゅう》のように踊《おど》った。正確な目測で、それぞれの品目を適当な位置にあてはめながら、料理の一品一品をうって行った。
デザート・コースのすぐ上が野菜もののリストになっていた。人参《にんじん》と豌豆《えんどう》、アスパラガス・オン・トースト、多年生トマトと、とうもろこし入りサコタッシュ、リマ・ビーンズ、キャベツ――それから――
サラーは献立表を見て泣いていた。涙が、すさまじい絶望の底からこみあげてきて目に集まった。頭が、がっくりと小さなタイプライター台の上に落ちた。鍵盤《キイ》は、涙にむせぶ彼女のすすり泣きに、カタカタと無味乾燥な伴奏《ばんそう》をかなでていた。
もう二週間もウォルターからの手紙を受けとっていないのだ。献立表のつぎの品名はタンポポだった――卵を添《そ》えたタンポポ料理――だが、卵なんぞどうでもいい――タンポポ、ウォルターが、その黄《こ》金《がね》色の花の冠を、愛の女王、未来の花嫁としての彼女の頭に飾ってくれたタンポポ――春のさきぶれ、彼女の悲しみへの悲しみの冠――最もたのしかった日の思い出。
ご婦人方よ、自分がこのような試練にあうまでは、これをお笑いになってはいけない。あなたがパーシイに心を捧《ささ》げた夜、彼がもってきてくれたマーシャル・ニール種の薔薇《ばら》の花が、シューレンバーグ氏の定食の席で、フレンチ・ソースをかけたサラダになって、あなたの目の前に出されたとしたらどうだろう。かのジュリエットですら、彼女の愛のしるしが、そのようなはずかしめを受けるのを見たなら、すぐさまあの人のいい薬剤《やくざい》師《し》から過去を忘れる薬草をもらったにちがいない。
けれども春は、なんというすばらしい魔《ま》法《ほう》使いだろう。石と鉄でできたこの巨大《きょだい》な冷たい都会のなかへも、便りはとどけられなければならないのだ。その便りを運ぶ使者は、粗《そ》末《まつ》な緑の衣《ころも》をまとい、物腰のつつましやかな、あの小さな、寒さに強い野辺の飛脚《ひきゃく》のほかにはいない。彼こそ――フランスの料理人が獅《し》子《し》の歯と呼んでいる彼こそ――真の幸福の戦士なのだ。花が咲けば、恋人の栗色《くりいろ》の髪を飾る花《か》冠《かん》となって愛の場面に登場し、花を咲かせる以前の幼い新芽のうちは、沸騰《ふっとう》する鍋《なべ》のなかへ入って春の女神の言《こと》づてを伝えるのである。
やがてサラーは、やっと涙をせきとめた。献立表のカードをうたなければならないからである。けれども、なおしばらくは、タンポポの夢の、ほのかな金色の輝きにつつまれて、若い農夫とともにいる牧場の小道に心を遊ばせながら、ぼんやりとタイプのキイをもてあそんでいた。しかし、まもなく彼女の心は、石造の建物にかこまれたマンハッタンの小道へと、すばやく駆《か》けもどった。タイプライターはストライキ破りの自動車のようにカタカタと勢いよくとびあがりはじめた。
六時に給仕が夕食を運んできて、タイプでうった献立表をもって帰った。食事のとき、サラーは、上に卵がのっているタンポポの料埋を、溜息《ためいき》をつきながら脇《わき》へ押《お》しやった。輝かしい、秘められた恋の花が、一かたまりの醜《みにく》い野菜となって、この黒っぽい塊《かたまり》に変ってしまったように、彼女の夏の希望も、しぼみ枯《か》れてしまったのだ。シェークスピアが言ったように、恋とは、おのが身を食いつくすものかもしれない。しかしサラーは、彼女の胸のまことの愛の最初の情熱の饗宴《きょうえん》を飾ってくれたタンポポを食べる気にはなれなかった。
七時半に、となりの部屋の夫婦が喧《けん》嘩《か》をはじめた。真上の部屋の男はフリュートでイ調を出そうと躍《やっ》起《き》となっていた。ガスの出が、すこし悪くなった。三台の石炭運搬車《うんぱんしゃ》が石炭をおろしはじめた――蓄音《ちくおん》器《き》がうらやむほどの騒音《そうおん》であった。裏の塀《へい》の上の猫《ねこ》どもが、奉《ほう》天《てん》に退却《たいきゃく》するロシア兵のように、そろそろと退却して行った。これらの状況《じょうきょう》から、サラーは読書の時間がきたことに気づいた。その月の「一番売行きのわるい《ノン・ベストセラー》」『修道院と炉《ろ》辺《へん》』をとり出し、トランクに両足をのせ、小説の主人公ジェラードとともに放浪をはじめた。
玄関のベルが鳴った。おかみさんが出て行った。サラーは、ジェラードとデニスが熊《くま》に追われて木の上にのぼったところで読むのを中止して耳をすました。(さよう、誰《だれ》だって彼女と同じことをやるだろう)
下の玄関から、元気のいい声がきこえてきた。サラーは床の上に本を投げ出し、第一ラウンドの勝負は、あっさりと熊に勝たせておいて、ドアのほうへ、すっとんで行った。
まさしく諸君のご想像通りである。彼女が階段のてっぺんまで出たとき、彼女の農夫は、三段を一《ひと》跳《と》びで駆けあがってくると、一かけらの落《おち》穂《ぼ》も残すことなく完全に彼女を刈《か》りとって、穀倉へ入れてしまった。
「どうしてお手紙をくださらなかったの――ねえ、どうして?」サラーは叫《さけ》んだ。
「ニューヨークって、すごく大きな町なんだね」とウォルター・フランクリンは言った。「以前のきみの住所へ、おれは一週間前に行ったんだ。そして、きみが木曜日に引《ひっ》越《こ》したことがわかった。でも、安心したよ、それが縁《えん》起《ぎ》の悪い金曜日でなかったのでね。だけど、それからお巡《まわ》りさんにきいたり、その他いろいろと骨を折って、きみを探すことだけはやめなかったよ」
「あら、あたし、手紙をあげたじゃないの」
「いや、うけとってないよ」
「それじゃ、どうしてあたしのいるところがわかったの?」
若い農夫は春の微笑をうかべた。
「今夜、偶然《ぐうぜん》ここのとなりの大衆食堂へ入ったんだ」と彼は言った。「誰に知られても、一向かまわないが、毎年この季節になると、おれは青い野菜料理が食べたくなるんだ。それで、何かそんなものはないかと思って、きれいにタイプでうった献立表に目を走らせたんだ。キャベツの下まで目が行ったとき、おれは椅子《いす》をひっくりかえして、大きな声で店の主人を呼んだ。そしたら主人が、きみの住所を教えてくれたんだ」
「思い出したわ」うれしそうにサラーは吐《と》息《いき》をついた。「キャベツの下はタンポポだったわね」
「世界じゅうどこにいたって、あの曲ったWの大文字を行の上にとび出させるきみのタイプライターの癖《くせ》は見わけがつくよ」
「あら、タンポポ( dandelion )の綴《つづ》りにWという字はないことよ」とサラーはびっくりして言った。
若者はポケットから献立表をひっぱり出して、その行を指さした。
サラーは、それがその日の午後、最初にタイプしたカードであることに気がついた。右上の隅《すみ》に、涙を落したしみが、まだちゃんと残っていた。しかも、例の牧場の草の名が書いてあるべきはずの場所に、二人の忘れえぬ黄金色の花の思い出が彼女の指に全然ちがったキイを打たせていたのだ。
赤キャベツと詰《つ》めものをしたピーマンとのあいだに、つぎのような品目があった。
「ゆで卵つき、いとしいウォルター」
(Springtime la Carte )
運命の衝撃《しょうげき》
公園にも貴族階級があるし、それを個人用のアパートとして使っている浮《ふ》浪者《ろうしゃ》にも貴族階級がある。ヴァランスは、そう思った。というより、漠然《ばくぜん》とそんな気がした。これまでの世界から落ちて浮浪者になりさがったとなると、彼《かれ》の足は、まっすぐにマディソン・スクエアに向った。
若々しい五月が、芽をふきはじめた木々のあいだから、女学生――それも昔の女学生のように――ういういしく、だが身体《からだ》がひきしまるように、ひんやりと息づいていた。ヴァランスは上着のボタンをかけ、最後の煙草《たばこ》に火をつけて、ベンチに腰《こし》をおろした。交通巡《じゅん》査《さ》にとめられて、彼の最後の自動車旅行も終りを告げ、おまけに最後の千ドルのうちの、そのまた最後の百ドルをふんだくられたことを、三分間ばかり、未練たらしく考えて後悔《こうかい》した。ついで彼は、ポケットというポケットをさぐってみたが、ただの一セント玉も出てこなかった。いままで住んでいたアパートを、その朝彼は、いさぎよく捨ててきたのだ。家具は借金のかたにとられてしまっていた。服も、いま身につけているもの以外は未《み》払《はら》いの給金の代りに下男の手に渡《わた》っていた。いまこうしてベンチに腰をおろしている彼には、友達にでもたかるか、詐欺《さぎ》でもやらないかぎり、町じゅうどこにも、ベッド一つ、照り焼きのエビ一匹《ぴき》、市電の切《きっ》符《ぷ》一枚、ボタン穴にさすカーネーション一輪ありはしないのだ。そんなわけで彼は公園を選んだのである。
それというのも、彼が叔父《おじ》に勘当《かんどう》され、これまでたんまりもらっていた手当が全然もらえなくなってしまったからなのだ。そして、そうなったのも、すべて甥《おい》のヴァランスが、あの娘《むすめ》のことで叔父の意見に従わなかったからなのだ。しかし、ことわっておきたいのは、これからの話が、その娘のことではないことだ――だから、そういう話を根ほり葉ほりききたがる読者は、これからさきは読まなくてもよろしい。ところで、この甥とは家系のちがう別の甥がもう一人いた。かつてこの男は、未来の後継者《こうけいしゃ》として叔父の寵愛《ちょうあい》をうけていた。ところがこの男は、それほど長所もないし先行きの見込《みこ》みもないところから、ずっと以前に、落ちぶれて、どこかへ姿を消してしまっていた。それを、ここでもう一度その男を探し出してきて、もとの地位にもどそうということになったのだ。そこで、ヴァランスは、堕《だ》天《てん》使《し》ルーシファーが奈《な》落《らく》の底に落ちたように華々《はなばな》しく転落し、この小さな公園の、ぼろをまとった亡者《もうじゃ》どもの仲間入りをすることとなったのである。
かたいベンチに腰をおろしていた彼は、身体をうしろにそらし、笑いながら煙草のけむりを木の下枝《したえだ》に吹《ふ》きかけた。人生のあらゆる絆《きずな》を一挙に断《た》ち切ることができたので、わくわくするような解放感を味わい、よろこびに胸が高鳴るのをおぼえた。気球乗りが繋留索《けいりゅうさく》を断ち切って気球を浮《ふ》揚《よう》させたときの興奮そのままだった。
かれこれ時刻は十時だった。ベンチでのらくらしているものも、あまり見当らなかった。公園に住んでいる連中は、晩秋の寒さには、頑《がん》固《こ》に反抗《はんこう》するくせに、春の冷たい軍勢の前線攻撃《こうげき》には、なかなかおいそれとは出てこないのである。
そのとき、噴水《ふんすい》の近くのベンチから、一人の男が立ちあがって、ヴァランスのほうへ近づいてくると、彼の横に腰をおろした。その男は、若いようにも見え、年寄りのようにも見えたが、安宿のかびくさい臭気《しゅうき》がしみついていて、髭《ひげ》も剃《そ》らなければ髪《かみ》も櫛《くし》けずらず、酒など一滴《てき》も口にしたことがないようであった。男は、マッチを貸してくれと言った。これは公園のベンチ居住者のあいだでは初対面の挨拶《あいさつ》の形式なのである。男は話しはじめた。
「お前さんは、ここの常連じゃないね」と男はヴァランスに言った。「注文仕立の服を着てるんだもの、すぐにわかるさ。公園を通りかかって、ちょいと一服しているだけだろう? だけど、ちょっとおれの話を聞いてもらいてえ。おれはいま、とても一人きりじゃいられねえんだ。おっかなくて――おっかなくて。いまも、あそこにいる二、三人の浮浪者に、そのことを話したんだがね。あいつらは、おれのことを気ちがいだと思ってやがるんだ。まあ――おれの話を聞いておくんなせえ――今日、おれが口にしたものといえば、ブレッツェルが二つ三つとリンゴが一つ、それっきりなんだ。ところが、明日になれば、おれは三百万ドルの財産相続人になるんだ。そうなれば、あそこに見える、たくさん自動車がとりまいているレストランだって、おれが食事をするには安っぽすぎるというもんだ。信じちゃもらえねえだろうな?」
「いや、ちっとも疑いやしないよ」とヴァランスは笑いながら言った。「おれだって、昨日はあそこで昼食を食ったんだが、今日は五セントのコーヒー一杯《ぱい》飲めない始末なんだ」
「お前さんは、おれたちの仲間には見えねえがね。だが、まあ、そんなこともあるだろうて。おれだって豪勢《ごうせい》な暮《くら》しをしたことがあるんだ――何年か前にはね。ところで、お前さんは、どうしてそんなに落ちぶれちまったのだね?」
「おれは――いや、なに、失業しちまったのだよ」とヴァランスは言った。
「血も涙《なみだ》もねえ地《じ》獄《ごく》だからね、この町は」と相手はつづけた。「今日、シナ製の陶《とう》器《き》でめしを食っているかと思うと、明日はもうシナで――チャプスイの安料理屋で――めしを食うってことになるんだ。おれなんざ、もう自分の分け前以上に不運の味をなめさせられてきたこの五年というもの、乞《こ》食《じき》同然の暮しをしてきたんだ。何ひとつ働かなくても、ぜいたくに暮せる身分に生れていたというのによ。実は――もう何もかもしゃべっちまうけど――誰《だれ》かにしゃべらずにはいられねえんだ――おっかなくて――おっかなくて。おれの名前はアイドっていうんだ。あのリバーサイド・ドライブの億万長者ポールディング翁《おう》が、おれの叔父さんだと言っても、信じちゃくれねえだろうが、事実そうなんだ。あの屋《や》敷《しき》に住んで、ほしいだけ金を使えたこともあったんだ。ところで、お前さんは、酒を飲む金もねえと言ってなすったね――え?――ところで、お前さんの名前は?」
「ドウスンというんだ」とヴァランスは言った。「残念ながら無一文さ」
「おれは、この一週間というもの、ディヴィジョン街の地下の石炭倉庫で暮していたんだ」とアイドはつづけた。「“まばたき”モリスというごろつきと一緒《いっしょ》にね。ほかに行き場がなかったのさ。ところが今日、おれが外へ出ているあいだに、ポケットに書類をつっこんだ男が、そこへおれを訪ねてきた。私服警官だと思ったもんだから、おれは暗くなるまでそこに寄りつかねえようにしていたよ。そしたら、そいつが置き手紙をして行った――いいかい――ドウスン、それが下町の有名な弁護士ミードからの手紙なんだ。アン通りで、おれはそいつの看板を見たことがある。叔父のポールディングが、おれに放蕩《ほうとう》甥っ子の役を演じろっていうんだ――つまり、帰ってきて、もう一度、財産相続人になり、金をふんだんに使えというわけだ。おれは、明日の朝十時に弁護士の事務所へ行くことになってるんだ。そうすれば、またもとの地位にもどれるってわけだ――三百万ドルの相続人にだぜ、ドウスン、それに一年に一万ドルの小《こ》遣《づか》いがもらえるんだ。だけど――おれは、おっかなくなってきたんだ――おっかねえんだ」
浮浪者は、いきなり立ちあがると、ふるえる両腕《りょううで》を頭の上にさしあげ、息をつめて、ヒステリーのように呻《うめ》いた。
ヴァランスは彼の腕をつかんで力ずくでベンチに押《お》しもどした。
「落ちつくんだ!」と、いささかうんざりしたような口調で彼は言った。「これじゃ、財産を手に入れようとしているんじゃなくて、財産をすってしまった人間と思われるぜ。いったい何が怖《こわ》いんだ?」
アイドはベンチの上にちぢこまってふるえていた。ヴァランスの袖《そで》にしがみついて放さなかった。この廃嫡《はいちゃく》されたばかりの男には、ブロードウェイの灯火のうす暗い光のなかでも、なにかわからぬ恐怖《きょうふ》のためにアイドの額ににじみ出た汗《あせ》の粒《つぶ》を、はっきりと見ることができた。
「朝にならねえうちに、何かがおれの身に起るような気がして、怖《おそ》ろしくてならねえんだ。何が起るか、そいつはわからねえが――あの金を手にすることができなくなるような何かが起りそうな気がするんだ。ことによると、木がおれの上に倒《たお》れてくるかもしれねえし――馬車にひき殺されるかもしれねえ。屋根から石が落っこちてくるかもしれねえ。こんな怖い思いにとりつかれたことは、これまで一度もねえんだ。これまでおれは、明日の朝めしがどこから舞《ま》いこんでくるか見当もつかねえのに、彫像《ちょうぞう》みたいに悠然《ゆうぜん》と構えて、この公園で何百回となく夜を過したんだ。ところが、いまは、そんなわけにはいかねえ。なあ、ドウスン、おれはゼニが大好きだ――ゼニがおれの指のあいだからこぼれ落ちるようになったら、おれは神さまみてえにしあわせな気持になるよ。そうなれば、みんながおれにおじぎをするし、おれは音楽や花やきれいな服にとりかこまれるんだ。そんなことは、おれには縁《えん》がねえと思っていたうちは、別に気にもしなかった。ぼろを着て、腹をすかせて、このベンチに腰かけて、噴水の音に耳をかたむけて、車が表の通りを走って行くのを眺《なが》めているだけで、結構しあわせだったんだ。ところが、金がまた手に入ることになって――しかもそいつがほぼ確実になてみると――こうやって十二時間も待つということが、どうにもやりきれなくなったんだよ、ドウスン――どうにもやりきれねえんだ。それまでのあいだに、いろんなことが起りうるんだ――盲目《めくら》になるかもしれねえ――心臓の発《ほっ》作《さ》におそわれるかもしれねえ――金を手に入れる前に、この世の終りということになるかもしれねえ――」
アイドは、またしても金切り声をあげて立ちあがった。ほかのベンチにいた連中も、動きだして、こちらを見はじめた。ヴァランスは彼の腕をとった。
「さあ、すこし歩いてみよう」と彼は、なだめるように言った。「そして、気持を落ちつけるんだ。なにも興奮したりおびえたりすることはないよ。さしあたって、お前さんの身には何も起きはしないのだからね。別に変った夜でもないじゃないか」
「その通りだ」とアイドは言った。「ドウスン、おれといっしょにいてくれ――頼《たの》むから、しばらくいっしょに歩いてくれ。こんなにまいったことははじめてだ。つらい目には、ずいぶんあっているけどね。なんとか、腹の足しになるものを、手に入れてきてくれねえかね。もう神経がまいっちまって、乞食もできねえほどなんだ」
ヴァランスは相棒をつれて、ほとんど人《ひと》気《け》の絶えた五番街を歩いて行き、やがて三十何丁目かを西に曲ってブロードウェイに向った。「ここで二、三分待っててくれ」と言って彼はアイドを静かな物陰《ものかげ》に残して歩き去った。そして、なじみのホテルへ入って行って、昨日までの落ちつきはらった態度で、バーのほうへ、悠然と歩みよった。
「ジミー、外にかわいそうな奴《やつ》がいるんだ」と彼はバーテンダーに言った。「腹がへってるっていうんだが、嘘《うそ》ではないらしい。金をやっても、ああいう連中は、何に使うか知れたものじゃないから、サンドイッチをすこしつくってやってくれないか。捨てるようなことはさせないよ」
「承知いたしました、ヴァランスさん」とバーテンダーは言った。「浮浪者だって、にせものばかりとはかぎりませんからね。腹をすかしている人間を見すごすわけにゃいきませんや」
彼は、めぐんでやるための無料のランチを、たくさんナプキンに包んでくれた。ヴァランスは、それをもって、相棒のところへ戻《もど》った。アイドは、それにとびついて、がつがつ食った。「今年になって、こんなにうめえものをめぐんでもらったのは、はじめてだ」と彼は言った。「ドウスン、お前もすこしどうだね?」
「ありがとう――だが、おれは腹がすいてないよ」
「公園へ戻ろう」とアイドが言った。「あそこだったら、ポリ公に邪《じゃ》魔《ま》されずにすむ。このハムや何かは、明日の朝めしにとっておこう。もう十分食った。腹痛《はらいた》でも起すといけねえからね。今晩、急に腹痛の発作でも起して、あの金に手をさわることもできなくなったなんてことになったら、それこそ一大事だからね。弁護士に会うまでに、まだ十一時間もある。ドウスン、おれといっしょにいてくれるだろうね? 何かが起りそうな気がしてならねえんだ。お前、行くところがねえんだろう?」
「そうだよ」とヴァランスは言った。「今夜は行くところがないんだ。いっしょにベンチで寝《ね》るよ」
「お前、いやに落ちついてるじゃないか」とアイドが言った。「嘘を言ってるんじゃねえだろうな? いい職についていた人間が、たった一日で浮浪者におっこちたとなったら、自分の髪の毛をかきむしるだろうと思うんだがな」
「そんなことをいうんなら、さっきも言ったと思うが」とヴァランスは笑いながら言った。
「明日は財産がころがりこむという人間なら、すっかり安心して、ゆったり落ちついているはずだと思うがね」
「とかく、おかしなもんさ」とアイドは悟《さと》ったように言った。「人間のやることはな。さあ、ドウスン、これがお前のベンチだ。おれのすぐ隣《となり》だし、ここなら灯火が目に射《さ》してこねえ。なあ、ドウスン、おれが家へ戻ったら、うちのじいさんに、お前の職さがしの紹介状《しょうかいじょう》を誰かにあてて書かせるよ。今夜は、ずいぶん世話になったからな。お前に会わなかったら、今夜はすごせなかったかもしれないよ」
「ありがとう」とヴァランスは言った。「眠《ねむ》るときは、ここへ横になるのかい? それとも腰かけたままで眠るのかい?」
何時間も、ヴァランスは、ほとんどまばたきもしないで、木々の枝を通して、じっと星をみつめ、南のほうのアスファルトの舖《ほ》道《どう》の海で、馬のひづめの音が鋭《するど》くひびくのに耳をかたむけていた。頭は活発に活動していたが、感情は眠っていた。あらゆる感情が死《し》滅《めつ》してしまったかのようであった。後悔も、恐怖も、苦痛も、不安も感じなかった。例の娘のことを思いだしたときも、まるで彼女が、いまこうして眺めているあのはるか遠くの星に住んでいる人のようにしか感じられなかった。相棒の奇妙《きみょう》な道《どう》化《け》ぶりを思いうかべたときも、そっと微笑《びしょう》がうかんだが、笑う気持など、ついぞ起らなかった。やがて牛乳配達の馬車の一団が、がらがらとすさましい轟音《ごうおん》をひびかせて町を行進して行った。ヴァランスは、寝心地のわるいベンチの寝床で、ぐっすりと眠った。
翌朝十時に、二人はアン通りのミード弁護士の事務所の戸口に立っていた。
時間が近づくと、アイドの神経は、ますますひどくおののきはじめた。ヴァランスは、それほど怖れている危険のなかへ彼を残したまま立ち去るわけにはいかなかった。
二人が事務所へ入って行くと、ミード弁護士は、いぶかしそうに二人をみつめた。彼とヴァランスとは古くからの友人だったのだ。彼は挨拶をすませるとアイドのほうを向いた。アイドは破局を予期して、顔面を蒼白《そうはく》にし、四肢《しし》をふるわせながら立っていた。
「アイドさん、昨夜あなたのご住所に二度目の手紙を出したのですが」と弁護士は言った。「あなたはお留守で、その手紙をお受けとりにならなかったことを、今朝知りました。じつはポールディングさんが、あなたに相続人として復帰していただくという件を、改めて再考なさいました結果、結局それを取消すことになったのです。それで、あなたに、あなたとポールディングさんとの関係は、従前通りで何の変更《へんこう》もないことをお知らせするようにということだったのです」
アイドのふるえが急にとまった。顔色も、もとに戻り、背筋もしゃんとなった。顎《あご》を半インチほど前に突《つ》きだし、目も輝《かがや》きをとりもどした。彼は片手でつぶれた帽《ぼう》子《し》をぐいとあみだにかぶり、もう一方の手を、指を水平にして弁護士のほうへ突きだした。そして深く一呼吸してせせら笑った。
「ポールディングじいさんに、おまえなんかくたばってしまえと言ってくれ」彼は大きな声ではっきりというと、きびすを返して、しっかりした足どりで事務所を出て行った。
ミード弁護士はヴァランスのほうに向きなおって、にっこりと微笑した。
「いいところへきてくれましたね」と彼は愛想よく言った。「叔父さんが、あなたにすぐ家へ戻ってもらいたいとおっしゃっているんです。叔父さんが短気を起された今度の事件ですが、結局あれも叔父さんが諒解《りょうかい》されて、万《ばん》事《じ》もと通りにということで――」
「おい、アダムズ」とミード弁護士は、話の途中《とちゅう》で大きな声で秘書を呼んだ。「水を一杯もってきてくれ――ヴァランスさんが気絶されたんだ」
(The Shocks of Doom)
ハーグレイブズの一人二役
モビール出身のペンドルトン・トールボット少佐《しょうさ》と娘《むすめ》のリディア・トールボットとは、ワシントンへ出てきて住みつくことになったとき、市内でも一番静かな通りからさらに五十ヤードも引っこんだところにある一軒《けん》の家に間借りをした。それは玄関《げんかん》に真白な高い柱がならんでいる古風な煉《れん》瓦《が》造りの建物であった。庭は、空高くそびえるさいかち《・・・・》と楡《にれ》の木におおわれ、季節になると、きささげ《・・・・》の木が桃色《ももいろ》の花や白い花を芝《しば》生《ふ》の上に雨と降らせた。丈《たけ》の高い黄楊《つげ》の茂《しげ》みが生垣《いけがき》と歩道に沿って規則正しく並《なら》んでいた。トールボット父娘《おやこ》の目をとくによろこばせたのは、このあたりの南部風の様式と景観であった。
この気持ちのいい素人《しろうと》下宿に二人は数室を借りたが、そのなかにはトールボット少佐の書斎《しょさい》もはいっていた。それというのも、目下彼《かれ》は、「アラバマ州の軍人、裁判官および弁護士の逸《いつ》話《わ》と回想」という著書に最後の数章を書き加えていたからである。
トールボット少佐は古い古い南部の出であった。彼の目には、いまの時代は、ほとんど興味がなく、またすぐれた点も見いだせなかった。彼の心は南北戦争以前の時代に生きていた。その時代にはトールボット家は数千エーカーにわたる見事な綿畑と、それを耕す奴《ど》隷《れい》とを所有していた。その邸宅《ていたく》は王侯《おうこう》のごとき歓待の舞《ぶ》台《たい》となり、南部の貴族をさかんに招待したものだった。彼は、その時代の古い誇《ほこ》りと、名《めい》誉《よ》を重んじる心と、時代おくれの格式ばった礼《れい》儀《ぎ》作法と、(読者も想像されるであろうように)当時の衣裳《いしょう》と、そういうものを全部もってやってきたのであった。
そのような衣裳は、まさしくここ五十年間はつくられたためしがなかった。少佐は背の高いほうだが、彼がお辞儀《じぎ》と称する、あの驚《きょう》嘆《たん》すべき古風な跪《き》拝《はい》をすると、きまってフロックコートの裾《すそ》が床《ゆか》を払《はら》った。この衣裳は、南部出身の国会議員たちのフロックコートや鍔広帽《つばひろぼう》子《し》に、だいぶ前から辟易《へきえき》しなくなっているワシントンの人たちにさえ一大驚異であった。同じ下宿に住む一人が、このフロックコートに「ファーザー・ハバード」という名をつけたが、たしかにそれは腰《こし》が高くて、裾がだぶだぶだった。
しかし少佐は、こういう奇妙《きみょう》な服を着て、縫《ぬい》目《め》のほぐれた、大きく胸の開いた襞《ひだ》つきのワイシャツと、結び目がいつも片方へずれている小さな黒の細いネクタイをしていたにもかかわらず、ヴァーデマン夫人のこの高級下宿では微笑《びしょう》をもって迎《むか》えられ、愛されていた。デパートの若い店員のあるものは、しばしば、彼らが「ひっかける」と言っている方法で、少佐にとってもっともなつかしい話題――愛する南部の伝統や歴史に関する話を引き出した。この話のなかで、少佐は「逸話と回想」から手あたり次《し》第《だい》に引用した。だが店員たちは、自分たちの計画をさとられぬよう十分に用心した。というのは少佐は、年齢《ねんれい》は六十八歳《さい》だが、その刺《さ》すような灰色の目で見すえられると、彼らのなかでもっとも厚かましい人間でも、ちょっと気味が悪くなったからである。
ミス・リディアは三十五歳の、小《こ》柄《がら》で小《こ》肥《ぶと》りのオールドミスだった。髪《かみ》をなめらかに梳《す》いて固く編んでいるので年よりも老《ふ》けて見えた。彼女《かのじょ》も古風であったが、少佐から輝《かがや》き出ている南北戦争以前のあの栄光は彼女には見られなかった。彼女は節倹《せっけん》の常識をもっていた。だから、一家の経済を切りもりしたり、支払いの勘定書《かんじょうがき》をもってくる人たちと応対したりするのは、つねに彼女であった。少佐は下宿の勘定書や洗濯《せんたく》屋《や》の勘定書を、いやしむべき煩《はん》瑣《さ》事とみなしていた。それらは実にしつこく、また、ひっきりなしにやってきたからである。どうして、こういうものは、綴《と》じこんでおいて、いつか適当な時期――たとえば「逸話と回想」が出版され、印税が入ってきたようなときに、一括《ランプ》して支払うというわけにはいかないのか、と少佐はたずねた。するとミス・リディアは落ちついて裁縫《さいほう》をつづけながらいうのであった。「お金のあるあいだは、いまのように払って行きましょうよ。それからさきは勘定書のほうで、いやでも一まとめにならなきゃならないでしょうから」
ヴァーデマン夫人の下宿人は大部分がデパートの店員か会社員なので、昼間は、たいてい出払っているが、ここに一人だけ朝から晩までほとんど家のなかにいる男がいた。それはへンリー・ホプキンズ・ハーグレイブズという名の青年で――この家のものはみなフル・ネームで彼を呼んでいた――大衆的な軽演劇の劇場に出ている俳優だった。ヴォードヴィルは、ここ数年間に、かなり上級の水準に達していたし、ハーグレイブズ君は、きわめて謙譲《けんじょう》で礼儀正しい人物だったので、ヴァーデマン夫人としても、自分の下宿の住居人名《めい》簿《ぼ》に彼の名を記《き》載《さい》しないわけにはいかなかったのである。
劇場では、ハーグレイブズは、各国の方言を自由に操《あやつ》れる喜劇役者として知られており、ドイツ人、アイルランド人、スウェーデン人、黒人などを得意とする幅《はば》の広いレパートリイをもっていた。しかし、ハーグレイブズ君自身は、なかなか野心家で、本格的な喜劇で成功したいという大望《たいもう》を、しばしば口にしていた。
この青年は、トールボット少佐に、たいへん好意を抱《いだ》いているようであった。この老紳《ろうしん》士《し》が南部の思い出話をはじめたり、逸話のなかでも、とりわけ生彩《せいさい》に富んだ話をくりかえしたりするときには、いつもハーグレイブズは、その場に居合せた。聴《き》き手のなかで最も熱心なのは、この青年であった。
しばらくのあいだ少佐は、彼が陰《かげ》では「河《か》原《わら》乞《こ》食《じき》」と呼んでいるこの青年が近づくのを阻止《そし》しようとしていた。だが、青年の人好きのする態度と、老紳士の物語に対する疑うべからざる鑑識眼《かんしきがん》とが、ほどなく彼の心を完全にとらえてしまった。
ほどなくこの二人は昔《むかし》からの友人のようになった。少佐は自分の著書の原稿《げんこう》を彼に読んで聞かせるために、毎日、午後の時間をそれにあてた。それに耳を傾《かたむ》けながら、ハーグレイブズは、話のさわりのところで、きちんと笑うことを怠《おこた》らなかった。少佐は、すっかり感激《かんげき》して、ある日、ミス・リディアに、ハーグレイブズ青年は旧制度に対して、すばらしい理解と十分なる敬意をもっている、と断言した。そして、昔の時代の話になると――トールボット少佐が話したいと思えば、ハーグレイブズは、うっとりとききほれるのであった。
過去を語るほとんどすべての老人がそうであるように、少佐もまた微に入り細をうがって長々としゃべるのが好きだった。むかしの農場主のあの豪奢《ごうしゃ》な、ほとんど王侯にもひとしい生活を述べるとき、彼は馬の轡《くつわ》をとった黒人の名前とか、ほんの小さな出来事の正確な日付とか、その年にとれた綿花の梱《こり》の数などを思い出すまでは、話は容易にさきに進まなかった。しかしハーグレイブズは決してもどかしがったり、興味をなくしたりはしなかった。むしろ反対に、当時の生活にまつわるさまざまな問題について、こちらから進んで質問した。そして、いつも即答《そくとう》を引き出すことに成功した。
狐狩《きつねが》り、袋鼠《ふくろねずみ》の料理、黒人部落での鍬踊《くわおど》りやお祭り騒《さわ》ぎ、五十マイル四方にわたって招待状を出した農場主の屋《や》敷《しき》の大広間での饗宴《きょうえん》、ときどき起る近くの南部貴族たちとのいざこざ、のちにサウス・カロライナのスウェートという男と結婚したキティ・チャルマーズという婦人の問題で起ったラスボーン・カルバートスンと少佐との決闘《けっとう》、途《と》方《ほう》もない金額を賭《か》けたモビール湾《わん》での秘密のヨット・レース、昔の奴隷たちの奇《き》怪《かい》な信仰《しんこう》やその日ぐらしの習癖《しゅうへき》や忠誠心――こうした話題がすべて、いっぺんに何時間ものあいだ少佐とハーグレイブズを夢中《むちゅう》にさせるのであった。
ときには、夜ふけに青年が劇場での出番を終えてから二階の自分の部屋へ戻《もど》ってくると、少佐が書斎の戸口にあらわれて、ひょうきんな手つきで彼を招き入れることもあった。なかへはいると、小さなテーブルがあって、その上に酒壜《さかびん》や砂《さ》糖壷《とうつぼ》や果物や新鮮《しんせん》な緑色の薄《はっ》荷《か》の大きな束《たば》などがおいてあった。
「ふと思いつきましてな」こんなふうに少佐は切り出すのであった――彼は、いつも何事でも大仰《おおぎょう》なのである――「あんたの、その――勤務先の仕事は、さだめし骨の折れることじゃろうと思うてな、ハーグレイブズ君、かの詩人が『心の憂《う》さを払う玉箒《たまははき》』と書いたときに思いうかべたと思われるもの――つまり、わが南部の清涼酒《ジューレップ》を賞味していただこうかと思いましたんじゃ」
彼がその清涼酒をつくるのを、ハーグレイブズは、うっとりと眺《なが》めていた。調合にかかった少佐は、まさしく芸術家の列にはいっていた。しかも手順を変えるようなことは絶対にしなかった。薄荷をつき砕《くだ》くときの見事な手《て》際《ぎわ》、調合物を計るときの絶妙の正確さ、暗緑色の総《ふさ》毛《げ》と照応するように真《しん》紅《く》の果実をあしらって調合物の上にのせるときの細かい心くばり! よく吟《ぎん》味《み》して選ばれたストローを、涼《すず》しそうな音を立てて底までさしこんでから、それを客にすすめるときの、いんぎん典《てん》雅《が》なものごし!
ワシントンで四カ月ほど暮《くら》したある朝のこと、ミス・リディアは、自分たちがほとんど一文なしになっていることを知った。「逸話と回想」は完成していたが、このアラバマの感覚と機知の珠玉集《しゅぎょくしゅう》に出版社は飛びついてこなかったのである。まだモビールに所有している彼らの小さな家からはいる家賃は、もう二カ月分もとどこおっていた。今月の部屋代は三日以内に支払わなければならなかった。ミス・リディアは父親に相談した。
「金がないんじゃと?」びっくりした顔つきで少佐は言った。「そんなはした金のことで、こううるさく言われたんでは、まったくわずらわしくてやりきれん。実際、わしは――」
少佐はポケットをさぐった。二ドル紙《し》幣《へい》が一枚出てきただけであった。彼はそれをチョッキのポケットへもどした。
「さっそくなんとかしなければならんな、リディア」と彼は言った。「すまんが、わしの傘《かさ》をとってくれんか。いまからすぐ下町へ行ってくる。うちの選挙区から出ておる議員のフルガム将軍が、せんだって、わしの本が早急に出版されるよう顔をきかして尽力《じんりょく》してやると請《う》け合ってくれたのだ。さっそく将軍のホテルへ行って、どういう手《て》筈《はず》になっておるか、きいてみよう」
少佐が例の「ファーザー・ハバード」のボタンをかけ、いつものように入口で立ちどまって、ていねいにお辞儀をしてから出て行くのを、ミス・リディアは悲しげな微笑を浮《うか》べて見まもっていた。
その晩、彼は暗くなってから戻ってきた。フルガム議員は、少佐の原稿を読んでくれた出版社の人と会ったらしい。出版社の人は、この本を端《はし》から端まで染めあげている地方的および階級的偏見《へんけん》をとり除くために、逸話などを注意深くいまの半分くらいに削《けず》れば、出版を考慮《こうりょ》してもよいと言ったのだそうだ。
少佐は烈《れっ》火《か》のごとく怒《いか》った。しかし、ミス・リディアの前へ出ると、すぐに、いつもの作法の習慣にしたがって平静をとりもどした。
「でも、どうしてもお金が必要なのよ」鼻の上に小《こ》皺《じわ》をよせてミス・リディアは言った。「さっきの二ドルをください。今夜、ラルフ叔父《おじ》さんに、すこし送ってくれるように電報をうちますわ」
少佐はチョッキの上のポケットから小さな封筒《ふうとう》を引っぱり出して、テーブルの上へ投げだした。
「いささか無分別だったかもしれんが」と彼は、おだやかに言った。「ほんのはした金じゃと思うたものだから、今夜の芝居の切《きっ》符《ぷ》を買ってしまったよ。新しい戦争劇じゃよ、リディア。ワシントンではじめて上演されるこの芝居を見たら、おまえもよろこぶじゃろうと思うてな。この芝居では南部が非常に公平に扱《あつか》われているということじゃ。白状すると、実はわし自身この公演が見たかったのじゃよ」
ミス・リディアは言葉もなく絶望して両手をあげた。
だが、どうせ切符を買ってしまったのだから、使ったほうがいいだろう。というわけで、その夜、二人は劇場で、にぎやかな前奏曲にきき入っていた。こうして坐《すわ》っていると、ミス・リディアでさえ、わが家の心配事は、しばらく後まわしにしておこうという気になった。少佐は、汚点《しみ》ひとつないリンネルのワイシャツに、きちんとボタンをかけた部分だけが目立つ例の突《とっ》飛《ぴ》なフロックコートを着て、白髪《はくはつ》を短く刈《か》りこみ、まことに立派に、堂々として見えた。
『木蓮《もくれん》の花』の第一幕の幕があがった。南部の典型的な農場風景である。トールボット少佐は興味ありげな表情を見せた。
「まあ、ごらんなさい!」少佐の腕《うで》をそっと突《つ》いて、プログラムを指さしながら、ミス・リディアは叫《さけ》んだ。
少佐は眼鏡をかけ、娘の指が示している登場人物の配役の一行を読んだ。
陸軍大佐ウェブスター・キャルフーン……H・ホプキンズ・ハーグレイブズ。
「うちのハーグレイブズさんだわ」ミス・リディアは言った。「きっと、あの方がおっしゃっている『本格劇』に、はじめて出演なさるのだわ。あの方のために、ほんとにうれしいことだわ」
第二幕までウェブスター・キャルフーン大佐は舞台に登場しなかった。彼が登場すると、トールボット少佐は、あたりにきこえるほど鼻を鳴らし、彼をにらみつけ、凍《こお》りついたように固くなったように思われた。ミス・リディアは、わけのわからぬきしむような悲鳴をあげると、プログラムを手のなかでもみくしゃにした。それというのも、キャルフーン大佐は、トールボット少佐とそっくりの扮装《ふんそう》をしていたからである。先端《せんたん》が縮れている長い薄い白髪、貴族的な嘴《くちばし》のような鼻、皺《しわ》くちゃの、糸のほつれた、幅広のワイシャツの胸、結び目が片方の耳の下までひん曲っている細ネクタイなど、ほとんどそっくりそのままであった。その上、この模《も》倣《ほう》を決定的なものにするために、彼は、おそらく他に類があるまいと思われる少佐のあのフロックコートとそっくりのフロックコートを着こんでいた。高いカラー、だぶだぶで、腰の線が高く、裾がゆったりと広く、後ろよりも前のほうが一フィートも長く垂れさがっているこの服は、他の見本からは到底《とうてい》まねられそうもない代物《しろもの》だった。それからというもの、少佐もミス・リディアも魔術《まじゅつ》にかかったように坐りこんだまま、傲慢《ごうまん》な偽《にせ》トールボットの演技を、あとでそれを表現した少佐の言葉にしたがえば「堕《だ》落《らく》しきった舞台の中傷の泥沼《どろぬま》のなかを引きずりまわされつつ」見物していた。
ハーグレイブズ君は、あたえられた機会を、うまく利用したのである。少佐の言葉づかいやアクセントや抑揚《よくよう》などの、ほんのちょっとした特徴《とくちょう》から、時代がかった優雅な作法まで完全にとらえ――それらをことごとく舞台に合うように誇張《こちょう》して見せたのである。少佐が、あらゆる敬札のなかの精《せい》華《か》だと自負しているあの珍重すべきお辞儀を、ハーグレイブズがやってのけたときには、観客からいっせいに拍手喝采《はくしゅかっさい》が起って、一しきり鳴りやまなかった。
ミス・リディアは身じろぎもせずに坐ったまま、父親のほうを盗《ぬす》み見る勇気もなかった。父の側にある彼女の手が、ときおり、そっと頬《ほお》におかれることがあった。それは、わるいと思いながらも包みきれずにこみあげてくる微笑をかくそうとでもするかのようであった。
ハーグレイブズの傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な模倣ぶりは第三幕において最高潮に達した。それはキャルフーン大佐が自分の「私室」で近隣《きんりん》の農場主たちを数人もてなす場面であった。
友人たちにとりかこまれながら舞台中央のテーブルの前に立って、彼は一座の人たちのために器用な手つきで清涼酒をつくりながら、『木蓮の花』のさわり《・・・》ともいうべき、あの追《つい》随《ずい》をゆるさぬ、とりとめのない、一風変った独白を述べるのである。
トールボット少佐は、じっと坐って、怒りのため顔を蒼白《そうはく》にしながら、自分のとっておきの話がくりかえされ、得意の持論や話題がもち出され、潤色《じゅんしょく》され、「逸話と回想」のなかの最も気に入った部分が、誇張され歪曲《わいきょく》されて物語られるのを聞いていた。彼の得意の話題――ラスボーン・カルバートスンとの決闘の話――も省略されることなく、少佐自身がつぎこんだ以上の熱意と自画自《じがじ》讃《さん》と風格とをもって語られた。
この独白は、清涼酒の調合法についての、動作入りの、風変りな、愉《ゆ》快《かい》な、機知に富んだ小講演で終った。この演技では、トールボット少佐の巧《たく》みな、しかしいささかこれ見よがしの技術が、そっくりそのまま再現された――香《かお》りの高い草の優雅な扱い方――「一グレインの千分の一でも押《お》しすぎると、諸君、この天《てん》与《よ》の植物の有する芳香《ほうこう》の代りに苦味が出ますのじゃ」――というところからストローの入念な選び方にいたるまで。
この場面が終ると、観客は嵐《あらし》のような喝采を送った。この典型的な人物の演じ方が、あまりにも巧妙《こうみょう》で正確で徹底《てってい》していたので、かんじんの主役たちがすっかり忘れられてしまったほどであった。再三のアンコールに、ハーグレイブズは幕の前に出てきてはお辞儀をした。成功をおさめたと知って、いくぶん子供っぽい彼の顔は、うれしそうに輝き、上気していた。
とうとうミス・リディアは、ふり向いて少佐を見た。彼の薄《うす》い鼻《び》孔《こう》は魚の鰓《えら》のようにひくひく動いていた。わななく両手を椅子《いす》の肘《ひじ》掛《かけ》にかけて彼は立ちあがろうとした。
「リディア、出よう」と咽喉《のど》をつまらせながら彼は言った。「なんという言語道断な――冒涜《ぼうとく》じゃ」
彼女は少佐が立ちあがらぬうちに座席に引き戻した。
「終りまでいましょう」と、彼女はきっぱりと言った。「ほんもののフロックコートを人前にさらして、あのまがいものの宣伝をしてやりたいのですか?」そこで二人は最後まで残っていた。
ハーグレイブズは、その成功のため、その夜は遅《おそ》くまで引きとめられていたにちがいない。翌朝の朝食にも昼食にも姿を見せなかった。
午後の三時頃《ごろ》、彼はトールボット少佐の書《しょ》斎《さい》のドアをノックした。少佐がドアをあけると、ハーグレイブズは朝の新聞を両手にいっぱいかかえてはいってきた――自分の成功に有頂天《うちょうてん》になっていて、少佐の態度に、いつもとちがったところがあるのに気がつかなかった。
「昨夜は上首尾《じょうしゅび》でしたよ」と彼は得意になってはじめた。「ぼくの見せ場がありましてね、どうやら大成功のようです。このポスト紙を見てください、これ、こんなふうに書いてあります――
「旧時代の南部の陸軍大佐についての彼の着想と表現とは、そのばかげた大言壮《たいげんそう》語《ご》、奇矯《ききょう》な服装、古めかしい慣用句や言いまわし、虫がくったような家系の自慢、真にやさしい心情、潔癖《けっぺき》な名《めい》誉《よ》心《しん》、さては愛すべき単純さなどによって、現代の演劇における性格的演技の役柄《やくがら》を、もっとも巧みに演じて見せたものである。キャルフーン大佐の着用したフロックコートだけでも、まさしく天才の発《はつ》露《ろ》にほかならない。ハーグレイブズ氏は完全に観客を魅了《みりょう》し去ったのである。
「初日の反響《はんきょう》として、このうけかたはどうですか、少佐?」
「わしは光栄にも」――少佐の声は不気味なほど冷たくひびいた――「昨夜、あんたのまことにお見事な演技をとっくりと拝見した」
ハーグレイブズは狼狽《ろうばい》した。
「おいでになっていたのですか? 存じませんでしたよ、あなたが――まさかあなたが芝居をお好きだとは知りませんでしたよ、トールボット少佐」彼は率直《そっちょく》に言った。「お気をわるくなさらないでください。たしかに私は、あの役について、あなたからいろいろと暗示をいただいて、たいへん助かりました。しかしあれは、ご承知のように、一つのタイプであって――特定の個人ではありません。観客の受けとりかたが、そのことを示しています。あの劇場の常連の半分は南部の人たちです。その人たちがそう認めているのです」
「ハーグレイブズ君」少佐は言った。彼はずっと立ったままだった。「きみはわしに許すべからざる侮辱《ぶじょく》をあたえた。わしの風采を愚《ぐ》弄《ろう》し、わしの信頼《しんらい》をはなはだしく裏切り、わしの歓待を悪用した。紳士たるものの真の特長とはいかなるものか、すなわち、ほんとうの紳士とはいかなるものかについて、いささかなりときみが心得ているならば、老いたりといえども、わしは即座に決闘を申込むところじゃ。さあ、とっととこの部屋から出て行ってもらいたい」
舞台俳優は、いささかとまどった様子だった。老紳士の言葉の意味が、よくのみこめなかったらしい。
「ご立腹のようで、私としても、まことに残念です」と彼は、いかにも残念そうに言った。「われわれ当地方の人間と、あなた方とは、どうもものの考え方がちがうようです。自分の性格が舞台で表現されて、それを一般の人が認めてくれるのなら、劇場の座席を半分買い占《し》めてもいいと考える人たちを私は知っています」
「そういう連中はアラバマの人間ではない」少佐は傲然《ごうぜん》と言い放った。
「そうかもしれません。ところで、私はかなり物憶《ものおぼ》えがいいほうですが、ここで一つあなたのご本から数行、引用させていただきましょう。さよう、たしかミレッジヴィルだったと記《き》憶《おく》しますが、そこで開かれた宴会《えんかい》の席上、あなたは乾杯《かんぱい》にこたえて――こう言っておられる。しかもあなたは、この言葉を活字にするつもりだったのです。
「北部の人間は、その感情を自分の商業上の利益に変えうる場合を除いては、人情も人間的なあたたかさも、まったく持ち合せていない。自分自身あるいは自分の愛するものに、いかなる屈辱《くつじょく》が投げかけられても、それが金銭上の損失を招かないかぎり、なんら腹を立てることもなく、それに耐《た》える。慈《じ》善《ぜん》には、もの惜《お》しみをしないが、ただしそれはラッパによって前宣伝され真鍮《しんちゅう》板に特筆大書されるものでなければならないのである。
「この表現のほうが、昨夜ごらんになったキャルフーン大佐の表現と比《ひ》較《かく》して、より公平だとお考えになりますか?」
「その叙述《じょじゅつ》には」と顔をしかめながら少佐は言った。「根拠《こんきょ》が――ないこともないのじゃ。ある程度の誇張――いや、自由は、大勢の前で語る場合には許されてしかるべきなのじゃ」
「大勢の人の前で演技をする場合だってそうではありませんか」とハーグレイブズは言った。
「いや、それとこれとは問題がちがう」少佐は頑《がん》固《こ》に言い張った。「あれは個人を戯画化《ぎがか》したものだ。断じて大目に見るわけにはいかん」
「トールボット少佐」ハーグレイブズは愛嬌《あいきょう》のある微笑をうかべながら言った。「どうか私の気持をわかっていただきたい。あなたを侮辱しようなどとは、私は夢にも思わなかったのです。私の職業では、あらゆる人生が私のものなのです。私は、ほしいものを取り、手に入れられるものをことごとく手に入れます。そして、それを舞台の上からお返しするのです。しかし、あなたがそうお考えになるのでしたら、そういうことにしておきましょう。ところで、私がお伺《うかが》いしたいのは、それとは別のことなのです。私たちは、ここ何カ月というもの、ずいぶん仲よくつき合ってきました。ここで、もう一度あなたを怒らせることになりそうですが、あなたがいまお金に不自由していらっしゃることを私は知っております――どうして知ったか、そんなことは気になさらないでください。下宿屋というところは、そういうことを秘密にしておけないところなのです――それで、その苦境から脱《だっ》出《しゅつ》するお手伝いを私にさせていただきたいのです。私自身、これまでしばしばそうした目にあってまいりました。この興行中、私は、かなりの給料をもらっていますし、貯金もいくらかあります。二百ドル――いや、それ以上でも、どうぞ自由に使ってください――そのうち、あなたのほうで、ご都合が――」
「やめたまえ!」手をさしのべて少佐は命令した。「結局、わしの本に嘘《うそ》はなかったようじゃ。きみは金という膏薬《こうやく》で、どんな名誉毀《き》損《そん》の傷でも治療《ちりょう》できると思うておる。いかなる事情があろうとも、わしは行きずりの人間から金を借りようなどとは思っておらん。まして、きみのような人間が、いまわれわれが論議しているような状況《じょうきょう》を金銭的手段で解決したいなどという無礼きわまる申し出をして、それをわしが考慮《こうりょ》するくらいなら、いっそ飢《うえ》死《じに》したほうがましというものだ。ふたたび要求するが、この部屋から出て行ってもらいたい」
ハーグレイブズは、それ以上なにも言わずに出て行った。そして、その日のうちに下宿からも出てしまったが、夕食の席でヴァーデマン夫人が説明したところによると、『木蓮の花』が一週間の興行をうつことになった下町の劇場の近くへ引《ひっ》越《こ》したとのことであった。
トールボット少佐とミス・リディアの状態は危機に瀕《ひん》していた。少佐が気がねなしに借金を申込めるような相手はワシントンには一人もいなかった。ミス・リディアはラルフ叔父に手紙を書いたが、この親戚《しんせき》の切りつめた家計では、援助《えんじょ》してもらえるかどうか、はなはだ怪《あや》しいものであった。少佐は、いささか困惑《こんわく》の態《てい》で、「家賃の滞納《たいのう》」と「送金の遅《ち》延《えん》」に言及《げんきゅう》しながら、部屋代の支払いがおくれたことについてヴァーデマン夫人に弁明しなければならなかった。
救いの手は、まったく思いもかけぬ方面から訪《おとず》れてきた。
ある日の午後おそく、受付の少女があがってきて、一人の年とった黒人がトールボット少佐に会いたがっている、と取次いだ。少佐は、書斎へ通すようにと言った。まもなく老黒人が入口にあらわれ、一方の手に帽《ぼう》子《し》をもち、一方の足を不格好にうしろへ引いてお辞儀をした。黒いだぶだぶの服を、きわめて上品に着こんでいた。大きくて粗《そ》末《まつ》な靴《くつ》は、ストーブに塗《ぬ》る艶《つや》出《だ》しを思わせるような金属性の光沢《こうたく》をはなっていた。もじゃもじゃの短い縮れ毛は、半白――いや、ほとんど真白だった。中年をすぎると、黒人の年齢《ねんれい》は、なかなか見当がつかないものである。この黒人はトールボット少佐と同じくらいの年頃かもしれなかった。
「ペンドルトンの旦《だん》那《な》さま、旦那さまは、きっとこのわしをおわかりにならねえと思いますだ」というのが黒人の最初の言葉だった。
昔ながらのなつかしい言葉づかいに、少佐は立ちあがって前へ進み出た。疑いもなく、これは昔の農場の黒人の誰《だれ》かにちがいなかった。しかし黒人たちは、いまは方々へ散らばってしまっているので、少佐は、その声も顔も思いだすことができなかった。
「どうも思いだせないな」と少佐は、やさしく言った。「おまえが手つだって思いださせてくれんことにはな」
「シンディのモーズをおぼえてらっしゃらねえだかね、ペンドルトンの旦那さま。戦争のじきあとよそへ移りましたモーズですだよ」
「ちょっと待ってくれ」指さきで額をこすりながら少佐は言った。彼は、あのなつかしい時代とかかわりのあることなら、どんなことでも思いだすのが好きであった。「シンディのモーズか」じっと考えこんだ。「馬の仕事をやっとったな――子馬の調教をやっとったじゃろう? そうか、思いだしたぞ。敗戦後、おまえは名前を――いや、黙《だま》っていてくれ――ミッチェルと変えて、西部へ――ネブラスカへ行ったんだったな」
「そうでがす、そうでがすよ」――老黒人は、うれしそうに相好《そうごう》を崩《くず》して笑った――「そうでがすだよ。その通りでがすだよ。ニューブラスカでがす。それがこのわしでごぜえますだ――モーズ・ミッチェルでごぜえますだ。モーズ・ミッチェルじいさんと、いまじゃ、みんながそう呼んでくれますだ。大旦那さま――先代の旦那さまは、お別れするとき、このわしに、仕事の元手にするようにとおっしゃって騾馬《らば》の子を一つがい、くだせえましただ。あの子馬を、おぼえていらっしゃるだかね、ペンドルトンの旦那さま?」
「子馬のことはおぼえとらんな」と少佐は言った。「わしは戦争の最初の年に結婚《けっこん》して、むかしのフォリンズビーの屋《や》敷《しき》のほうに住んどったのでな。だが、まあ、かけなさい、モーズじいや、かけてくれ。よくきてくれた。暮《くら》しのほうは、うまくやっとるんじゃろうな?」
モーズ老人は椅子に腰をおろし、帽子を注意深くそばの床の上においた。
「そうでがす。このごろは、とてもいい具合でごぜえますだ。はじめてニューブラスカへまいりましたときには、みんなが騾馬の子を見に集まってきましただ。ニューブラスカじゃ、騾馬ちゅうもんを見たことがねえのでがすよ。わしはその騾馬を二百ドルで売りましただ。へえ、そうでがす――二百ドルでがすよ。
「それから、わしは鍛冶屋《かじや》をはじめたんでがす。へえ、それで、いくらか銭《ぜに》もできましたで、地所を買いましただ。わしと婆《ばあ》さんで、がき《・・》を七人育てましただ。二人はおっ死《ち》んじまっただが、あとはみんな元気に暮しておりますだ。四年前に鉄道が敷かれまして、わしの地所の真ん前に町ができましたで、そこで、ペンドルトンの旦那さま、モーズじじいは現金と財産と地所とで一万一千ドルの金持になっちまったでごぜえますだよ」
「それはよかったな」と少佐は心から言った。「ほんとうによかった」
「ところで、ペンドルトンの旦那さま、旦那さまのあのかわいい赤ちゃん――リディ嬢《じょう》ちゃまというお名前の赤ちゃんは――さだめし見ちげえるほど大きくおなんなすったでごぜえましょうな?」
少佐は扉《と》口《ぐち》のほうへ歩いて行って声をかけた。「リディア、ちょっときてくれんか」
すっかり大きくなって、しかもいくらか面《おも》やつれして、ミス・リディアが自分の部屋からやってきた。
「おんや、まあ! それ、ごらんなせえまし。あのやや《・・》さまは、きっとまるまると大きくなっていらっしゃると思っていましただ。モーズじいやを、おぼえていらっしゃるだかね、嬢ちゃま?」
「シンディばあさんとこのモーズだよ、リディア」と少佐が説明した。「おまえが二歳のときにサニーミードを離《はな》れて西部へ行ったのだ」
「そうね」とミス・リディアは言った。「そんな年齢では、おまえをおぼえているかと言われても、ちょっとむりね、モーズじいや。おまえのいう通り、わたしは、『まるまると大きく』なったわ。でも、それはもう昔のことだわ。でも、おまえを憶えていないにしても、こうして会えて、ほんとうにうれしいわ」
リディアは、ほんとうによろこんでいた。少佐としても同様だった。ある生きた、実体のあるものが、彼らを幸福な過去に結びつけるべく訪ねてきたのだ。三人は腰をおろして昔の話をした。少佐とモーズじいやは農園の風景や当時の生活を思いだしながら、たがいに記《き》憶《おく》を訂正《ていせい》し合ったり、忘れたことを指《し》摘《てき》し合ったりした。
少佐は老人に、家を遠くはなれて何をしにここへきたのか、とたずねた。
「モーズじいやは、代表者なんでごぜえますだよ」と彼は説明した。「この市で開かれているバプティストの大会に出るんでごぜえますだ。説教をしたことは一度もねえでがすが、教会じゃ長老ということになっとるだし、それに費用を自分もちで旅行できるちゅうので、わしが代表者として派《は》遣《けん》されたんでごぜえますだ」
「それで、わたしたちがワシントンにいるということが、どうしてわかったの?」とミス・リディアが質問した。
「わしが泊《とま》っとるホテルにモビールからきた黒人が働いておりますだ。その男が、ある朝、この家からペンドルトンの旦那さまがお出かけになるところを見たと申しましただ。
「わしがここへまいりましたのも」とポケットへ手をつっこみながらモーズじいやは言った。――「郷里《くに》の人たちに会うことのほかに――実はペンドルトンの旦那さまにお借りしたものをお返ししてえと思ったからでごぜえますだ」
「わしに借りたもの?」少佐は驚《おどろ》いてききかえした。
「そうでがすだ――三百ドルでごぜえますだ」彼は、まるめた札束《さつたば》を少佐に渡《わた》した。「わしがお別れするときに、先代の大旦那さまがおっしゃいましただ。『モーズ、あの騾馬の子を持って行け。代金は、払《はら》えるようになったときに払ってくれればいい』そうでがす――そうおっしゃいましただ。戦争で大旦那さまも貧乏《びんぼう》になってしまいましただ。大旦那さまは、とうに亡《な》くなられましたで、この借金はペンドルトンの旦那さまに移ったわけでごぜえますだ。三百ドルでごぜえます。モーズじいやも、いまじゃ楽にお払いできますだ。鉄道が、わしの地所を買いあげたとき、騾馬の代金を別にしまっておきましただ。金を数えてみてくだせえまし、ペンドルトンの旦那さま。それが騾馬を売った代金でごぜえますだ。そうでごぜえますだ」
トールボット少佐の目に涙《なみだ》が浮《うか》んだ。一方の手でモーズじいやの手をとると、もう一方の手を相手の肩《かた》においた。
「おお、忠実なる老僕《ろうぼく》よ」おろおろ声で少佐は言った。「白状するが、この『ペンドルトンの旦那さま』は、一週間前に、最後の一ドルを使い果してしまったのじゃ。この金は、もらっておくよ、モーズじいや。これは、ある意味で、借金の返済でもあり、同時に古き制度への忠誠と献身《けんしん》のしるしでもあるからじゃ。リディア、これをうけとっておきなさい。その使い道を考えるのは、わしよりもおまえのほうが、ずっと適任じゃからな」
「お受けとりくだせえまし、嬢《じょ》っちゃま」モーズじいやが言った。「これはあなたさまがたのものでごぜえます。トールボット家のお金でごぜえますだ」
モーズじいやが帰ってしまってから、ミス・リディアは思うぞんぶん泣いた――うれし泣きだった。少佐は部屋の隅《すみ》のほうへ顔を向けたまま、やたらと陶《とう》器《き》のパイプをふかしていた。
それからの日々、トールボット家は、ふたたび平和と安楽をとりもどした。ミス・リディアの顔からも、あの心配そうな表情が消えた。少佐は新しいフロックコートを着用に及《およ》んだが、その姿は、むかしの黄金時代の追憶《ついおく》を擬《ぎ》人《じん》化《か》した蝋人形《ろうにんぎょう》のようであった。「逸《いつ》話《わ》と回想」の原稿を読んだ別の出版社が、あまりにも妥《だ》当性《とうせい》のない部分を若干《じゃっかん》修正し、生硬《せいこう》さをやわらげたら、たしかに愉《ゆ》快《かい》な、売れる本になるだろう、と考えた。総じて状況は快適であり、実際に幸福をつかんでしまってからよりも往々にして甘《かん》美《び》なものであるあの希望の雰《ふん》囲気《いき》も、そこにないではなかった。
二人に幸運の一片《いっぺん》が舞《ま》いこんできてから一週間ほどしたある日のこと、女中がミス・リディアにあてた一通の手紙を彼女の部屋に持ってきた。消印によるとニューヨークから出したものだった。ニューヨークには一人も知人がいないので、驚《おどろ》きに胸を騒《さわ》がせながらミス・リディアはテーブルのそばに腰をおろし、鋏《はさみ》で手紙を開封《かいふう》した。文面は、つぎのようなものであった。
親愛なるミス・トールボット
私の幸運を知って、あなたはよろこんでくださるだろうと思います。私はニューヨークのある劇団から週二百ドルで『木蓮《もくれん》の花』のキャルフーン大佐を演じてほしいとの申し出を受け、これを引きうけることになりました。
別にもう一つお知らせしたいことがあります。これはトールボット少佐にはお話しにならないほうがよろしいかと思います。実は、あの演技を研究するに際して少佐から大きな恩恵《おんけい》をこうむったことに対し、また、そのことでひどく少佐のご機《き》嫌《げん》を損じたことに対し、何か償《つぐな》いをいたしたいと念願しておりました。少佐はそれを拒絶《きょぜつ》なさいましたが、私は、どうにかその念願を果すことができました。私はあの三百ドルをやすやすとさしあげることができたのです。
あなたの誠実なる
H・ホプキンズ・ハーグレイブズ
追伸 モーズじいやの演技ぶりはいかがでしたでしょうか?
廊《ろう》下《か》を通りかかったトールボット少佐は、ミス・リディアの部屋の扉《とびら》が開いているのを見て立ちどまった。
「今朝は、郵便はこなかったかね、リディア?」と彼はたずねた。
ミス・リディアはドレスの襞《ひだ》の下にそっと手紙をすべりこませた。
「モビール・クロニクルがきていますわ」と彼女は即《そく》座《ざ》に答えた。「書斎《しょさい》のお机の上においてあります」
(The Duplicity of Hargraves )
善女《ぜんにょ》のパン
ミス・マーサ・ミーチャムは街角に小さなパン屋を開いていた(踏段《ふみだん》を三つのぼってドアを開けると、ベルがチリンチリンと鳴る仕掛けになっている店だ)。
ミス・マーサは、ことし四十歳《さい》、銀行通帳には二千ドルの預金があり、二本の義歯と思いやり深い心をもっていた。ミス・マーサよりも、もっと結婚《けっこん》のチャンスにめぐまれない人でも、結婚しているものが、世の中にはたくさんいる。
週に二度か三度、きまって店へやってくる一人の客がいたが、彼女《かのじょ》はこの客に関心をもちはじめた。中年の男で、眼鏡をかけ、鳶色《とびいろ》のあごひげは、ていねいに刈《か》りこんで、さきがとがっていた。
彼《かれ》は強いドイツなまりのある英語を話した。着ている服は、すり切れて、ところどころつぎが当っており、つぎの当っていない部分は、皺《しわ》くちゃで、だぶだぶだった。しかし、いつも清潔そうにしていて、たいへん礼《れい》儀《ぎ》正しかった。
いつも彼は固くなった古パンの塊《かたまり》を二個買って行った。新しいパンは一個五セントだが、古くなったパンは二個で五セントだった。この男は、いつも古パンしか買わなかった。
あるとき、ミス・マーサは、彼の指に赤と茶色の汚点《しみ》がついているのを見つけた。そのときから彼女は、その男が画家で、非常に貧《びん》乏《ぼう》なのだと思いこんでしまった。きっと、どこかの屋根裏に住んでいて、そこで絵をかき、古パンを食べて、ミス・マーサの店のおいしいパンのことを考えているのだろう。
ミス・マーサは、厚い肉切れと、ふっくらしたジャムつきのロールパンと、お茶を前にして腰《こし》をおろすと、溜息《ためいき》をついては、あの物腰のやさしい画家が、隙《すき》間《ま》風《かぜ》がはいってくる屋根裏部屋で、固くなった古パンなんぞ食べていないで、自分といっしょに、おいしい食事を食べてくれたらいいのにと思うことが、よくあった。さっきも言ったように、ミス・マーサは、たいへん思いやり深い女だったのである。
彼の職業についての自分の推測が当っているかどうかをためすために、ある日彼女は、競売で買ってきた一枚の絵を自分の部屋からもち出してきて、それをカウンターのうしろの棚《たな》に立てかけた。
それはヴェニスの風景画だった。壮麗《そうれい》な大理石の宮殿《きゅうでん》(とその画《え》には書いてあった)が、前景――というより前水景ともいうべきところに建っていた。そのほかには、ゴンドラ(それには婦人が一人のっていて手を水にひたしていた)や雲や空が描《えが》いてあって、色彩《しきさい》の濃淡《のうたん》が、鮮明《せんめい》に描きこんであった。画家なら、きっとこれに目をとめるにちがいない。
二日ほどすぎてから、例の客がやってきた。
「すみませんが古パンを二つください」
「おかみさん、立派な絵がありますね」彼女がパンを包んでいると、彼は言った。
「そう思いますか」ミス・マーサは、うまく行ったとよろこんで言った。「わたしが大好きなのは、美術と、それから……」(待て待て、こんなに早く「画家」なんて言ってしまってはいけない)「それから絵なんです」と別の言葉におきかえた。「これ、ほんとにいい絵だと思いますか?」
「宮殿は」と客は言った。「あまりよく描けていませんね。遠近法がまちがっていますよ。さよなら、おかみさん」
彼はパンを受けとり、会釈《えしゃく》をして、そそくさと出て行った。
そうだ、あの人は絵描《えか》きさんにちがいない。ミス・マーサは、またその絵を自分の部屋へもどした。
あの人の目は、眼鏡の奥《おく》で、なんとやさしく、親切そうに輝《かがや》いていることだろう! あの人の額は、なんて広いのだろう! 一目見ただけで、ちゃんと遠近法を判断できるとは! しかも古パンを食べて暮《くら》しているとは!でも、天才というものは、世間から認められるまでは、しばしば苦しい思いをしなければならないのだ。
もしその天才を、二千ドルの銀行預金と、パン屋の店と、思いやりの深い心とで応援《おうえん》してやったら、絵画のためにも、遠近法のためにも、どんなにいいことだろう――しかし、ミス・マーサよ、それは夢《ゆめ》でしかないのだ。
このごろでは、彼は店へやってくると、よく陳列棚《ちんれつだな》をはさんで、しばらく雑談をして行った。彼は、ミス・マーサの陽気なおしゃべりを、たいへん歓迎《かんげい》しているようであった。
そして、あいかわらず古パンを買って行った。ケーキも、パイも、いや、彼女の手製のおいしいサリー・ラン一つ買って行かなかった。
彼が、だんだんやせて元気がなくなってきたように彼女には思えた。彼のみすぼらしい買物に何かおいしいものを添《そ》えてやりたいという気持はあるのだが、しかし、いざ実行するとなると、なかなか勇気が出なかった。彼に恥《はじ》をかかせるようなことはしたくなかった。芸術家は自尊心が高いことを彼女は知っていたからである。
ミス・マーサは、店へ出るときには、水玉模様の絹のブラウスを着るようになった。奥の部屋では、マルメロの実と硼砂《ほうしゃ》とで怪《あや》しげな混合物をつくった。血色をよくするためにこれを用いる人がたくさんいるのである。
ある日、例の客が、いつものように店へきて、陳列棚の上に五セントの白銅貨をおいて古パンを求めた。ミス・マーサが古パンのほうへ手をのばしかけたとき、ブーブー、ジャンジャンと大きな音を立てて消防車が通りすぎた。
客は、誰《だれ》もがそうするように、急いで扉《と》口《ぐち》へ見に行った。とっさに妙案《みょうあん》を思いついて、ミス・マーサは、そのチャンスをつかんだ。
カウンターの奥の一番下の棚に、十分ほど前に牛乳屋がおいて行ったバターが一ポンドあった。ミス・マーサは、パン切りナイフで二つの古パンに深い切りこみをつくると、そのなかへバターをたっぷり押《お》しこんで、またパンをもと通りにしっかりとおしつけた。
客が戻《もど》ってきたとき、彼女はパンを紙に包んでいた。
客が、いつになく元気に雑談をしてから帰って行くと、ミス・マーサは、ひそかにほくそ笑《え》んだ。だが、いくらか心臓がドキドキしないでもなかった。
あまりに大胆《だいたん》すぎはしなかっただろうか?あの人を怒《おこ》らせるのではないだろうか? いや、決してそんなことはない。「花言葉」というのはあるけれど、「食べもの言葉」なんてものはないはずだもの。バターが女らしくない出しゃばりの象徴《しょうちょう》というわけではないのだもの。
その日は、いつまでも、そのことばかり考えていた。彼女のこのちょっとした手品を彼が発見するときの光景を想像してみた。
彼は絵筆とパレットを下におくだろう。申しぶんのない遠近法で描かれた、描きかけの絵がかかっている画架《がか》が、そこには立っているだろう。
彼は、ボロボロの古パンと水で昼食の準備をするだろう。そしてパンにナイフを入れるだろう――すると、ああ! ミス・マーサは顔をあからめた。あの人は、そのパンを食べるとき、そこへバターを入れた手のことを考えてくれるだろうか? それから――。
表の入口のベルが不《ふ》吉《きつ》に鳴りひびいた。誰かが荒々《あらあら》しい物音を立ててはいってきた。
ミス・マーサは、急いで店へ出て行った。二人の男がそこに立っていた。一人はパイプをふかしている若い男――これまで見たこともない男であった。もう一人は例の彼女の画家だ。
画家は、顔を真赤にして、帽《ぼう》子《し》をうしろのほうにずらし、髪《かみ》をくしゃくしゃにかき乱していた。そして両の拳《こぶし》を固く握《にぎ》りしめて、それをミス・マーサに向って猛烈《もうれつ》に振《ふ》り立てた。人もあろうにミス・マーサに向ってである。
「バカモノ!」と彼は、ものすごく大きな声でどなった。つづいて、「マヌケ!」とか何とかドイツ語で叫《さけ》んだ。
若い男は彼をつれ出そうとしていた。
「おれは帰らないぞ」と彼は怒って言った。「一言《ひとこと》この女に言ってやるまではな」
彼はカウンターをドンドン叩いた。
「おまえはおれを駄目《だめ》にしてしまったんだぞ」彼は眼鏡の奥でギラギラ青い目を光らせて叫んだ。「おれは言ってやる。おまえみたいなやつを、おせっかいのバカ女というんだ」
ミス・マーサは、よろよろと棚によりかかり、片方の手を水玉模様の絹のブラウスにあてがった。若いほうの男は相手の襟首《えりくび》をつかんだ。
「さあ、行こう」と若い男は言った。「もう十分いうだけのことは言ったじゃないか」彼は怒っている画家を扉口から外へ引っぱって行った。それから、また戻ってきた。
「おかみさん、やはりこれは言っといたほうがいいと思うんですがね」と彼は言った。「なぜこんな騒《さわ》ぎが起ったのかをね。あの男はブルムバーガーといって建築の製図家なんです。ぼくも彼と同じ事務所で働いているんです」
「彼は、この三カ月というもの、新しい市役所の設計図に一生けんめい取組んでいたんです。懸賞《けんしょう》に応《おう》募《ぼ》するつもりだったんです。そして、昨日やっと線にインキを入れるところまで仕上げました。ご承知のように、製図家は、いつもまず鉛筆で下絵を描くものなんです。そして、それができあがると、鉛筆《えんぴつ》の跡《あと》を、一握りほどの古パンの屑《くず》で消していくんです。そのほうが、消しゴムなんかよりも、ずっとよく消えるんです。
「ブルムバーガーは、そのパンを、いつもお宅の店で買っていました。ところが、今日――いや、もうおわかりでしょうがね、おかみさん、あのバターですよ――そのために、ブルムバーガーの設計図は、いっぺんにオシャカになっちまったんですよ。あれじゃ駅弁のサンドイッチみたいに細かくぶった切りでもするしか、ほかにどうしようもないですよ」
ミス・マーサは奥の部屋へ行った。水玉模様の絹のブラウスをぬいで、いつも着ていた古い茶色のサージの服に着かえた。それから、マルメロの実と硼砂との混合物を、窓の外の屑箱《くずばこ》へ捨てた。
(Witches' Loaves )
ラッパのひびき
この物語の半分は警察署の記録からでもわかるが、あとの半分は、新聞社の事業部でないとわからない。
億万長者のノークロスが、彼《かれ》のアパートで、強盗《ごうとう》のために殺害されているのを発見されてから二週間後の、ある午後のこと、犯人が平然とブロードウェイをぶらついていて、バーニイ・ウッズ刑《けい》事《じ》と、ぱったり顔を合わせた。
「やあ、ジョニイ・カーナンじゃないか」とウッズは声をかけた。彼は五年ほど前から近眼だということになっていた。
「そうだとも」とカーナンは、なつかしそうに叫《さけ》んだ。「そして、おめえはセント・ジョーのバーニイ・ウッズにちげえねえ。ごまかそうたって、そうはいかねえさ。おめえ、東部で何をやっているんだい? はるばるニューヨークくんだりまで出張《でば》ってくるなんて、ご苦労さまなことだな」
「おれは数年前からニューヨークへきてるんだ」とウッズは言った。「この市の警察につとめているんだ」
「いやはや、そうだったのかい」とカーナンは言って、うれしそうに微笑《びしょう》し、刑事の腕《うで》を軽く叩《たた》いた。
「ちょっとマラーの店にでもはいって」とウッズが言った。「静かなテーブルを探そうじゃないか。しばらくお前と話がしたい」
四時には、まだすこし間があった。まだ客が遠のく潮時ではなかったが、彼らは、カフェのなかに静かな一隅《いちぐう》を見つけることができた。寸分のすきもない服装《ふくそう》で、すこしばかり気どって、自信たっぷりのカーナンは、小《こ》柄《がら》な刑事と向いあって腰《こし》をおろした。刑事は、うすい砂色の口髭《くちひげ》をつけ、目がやぶにらみで、レディメードのチェヴィオット織の服を着ていた。
「お前はいまどんなことをやっているんだ?」とウッズはきいた。「セント・ジョーを出たのは、おれはお前よりも一年あとだった」
「銅山株の売買をやってるんだ」とカーナンは言った。「もしかしたら、この町に事務所をつくるかもしれねえ。それにしても、古いなじみのバーニイがニューヨークの刑事になったとはねえ。しかし、おめえは昔《むかし》から、そっちのほうに向いていたようだな。おれがセント・ジョーを出てから、おめえは、あすこの警察にしばらくいたんじゃねえのか?」
「六カ月ほどいたよ」とウッズは言った。「ところで、もう一つききたいことがあるんだがね、ジョニイ。おれは、お前がサラトガのホテルでやらかした一件以来、詳細《しょうさい》にお前の記録を調べてみたんだが、お前は以前は決して拳銃《けんじゅう》を使わなかった。なぜノークロスを殺したんだ?」
カーナンは、しばらくのあいだ、注意を集中して、ハイボールのなかのレモンの細片《さいへん》を見つめていた。やがて不意に、にやりと顔をゆがめ、明るく微笑しながら刑事を見やった。
「どうしてわかったんだい、バーニイ?」と彼は感心したように言った。「あの仕事ばかりは、皮をむいた玉葱《たまねぎ》みてえに手《て》際《ぎわ》よくやってのけたと思っていたんだがな。どこかに紐《ひも》でも一本ひっかけたままにしておいたのかな?」
ウッズはテーブルの上に、時計鎖《とけいぐさり》の飾《かざ》りに用いる小さな金の鉛筆《えんぴつ》をおいた。
「これはな、セント・ジョーでの最後のクリスマスに、おれがお前に贈《おく》った品だ。おれはまだ、お前がくれた髭剃《ひげそり》用のコップをもっている。こいつをノークロスの部屋の敷《し》きものの片隅《かたすみ》の下で発見したんだ。いや、弁解は無用だ。まちがいなく、これはお前のものだ。おれたちは昔なじみの友達だ。しかし、おれは自分の義務を果さなければならない。ノークロスの一件で、結局お前も電《でん》気椅子《きいす》に坐《すわ》らされることになるだろうな」
カーナンは笑った。
「おれには運がついている」と彼は言った。「昔なじみのバーニイが、おれをつかまえようとしているなんて誰《だれ》が思うものか!」彼は片手を上着の内側にすべりこませた。だが、つぎの瞬間《しゅんかん》、早くもウッズは拳銃を相手の脇《わき》腹《ばら》に押《お》しつけていた。
「そいつはしまっておきな」とカーナンは鼻に皺《しわ》をよせて言った。「おれはただちょっと調べてみただけさ。ヘッヘッヘ。仕立屋は一着の服に九人も人手がいるそうだが、人殺しをするにゃ一人で十分だよ。あのチョッキのポケットには、きっと穴があいていたんだろう。取組み合いになる場合を考えて、おれはわざわざその鉛筆を時計の鎖から外《はず》してチョッキのポケットに入れておいたんだ。拳銃を引っこめなよ、バーニイ。そうすれば、ノークロスを射《う》ち殺さなければならなかったいきさつを話してやる。あの老いぼれの阿《あ》呆《ほう》め、おれの上着の背中のボタンめがけて、小さな、ひねくれ弾丸《だま》の○・二二をポンポン射ちながら、おれの後を追って玄関《げんかん》のホールまで追っかけてきやがった。だから、おれとしても、そいつをやめさせねえわけにはいかなかったんだ。老いぼれの女房《にょうぼう》のほうは、いじらしい女だったぜ。ベッドのなかにもぐったきりで、一万二千ドルのダイヤの頸飾《くびかざ》りがもって行かれるのを、泣きごと一つ言わずに見てやがった。そのくせ、三ドルぐらいの値うちしかねえ柘榴《ざくろ》石《いし》のはまったちっちゃな薄《うす》い金指輪だけは、返してくれと言って、乞《こ》食《じき》みてえに拝みやがるんだ。あの女は、きっと財産目当てにノークロスと結婚《けっこん》したのにちげえねえ。女ってやつは、殺された男からもらったこまごました装身具なんかにゃ、それほど執着《しゅうちゃく》を感じねえんじゃねえかね? 指輪が六つ、ブローチが二つ、帯飾り用の時計が一つ。全部で一万五千ドルってとこかな」
「しゃべるなと言ったじゃないか」とウッズは言った。
「いや、大丈夫《だいじょうぶ》だよ」とカーナンは言った。「品物はちゃんとホテルのおれのスーツケースにはいっているからね。ところで、なぜおれがこんなことまでしゃべってしまうのか、そのわけをきかせてやろうか。しゃべっても一向さしつかえねえからさ。なにしろ、おれのしゃべっている相手は、おれのよく知っている男だからね。おめえは、おれに千ドル借金があるんだぜ、バーニイ・ウッズ。だから、よしんばおれを逮《たい》捕《ほ》したいと思ったところで、おめえの手が、いうことをきくはずがねえやな」
「おれだって忘れてはいないよ」とウッズは言った。「お前は黙《だま》って二十ドル紙《し》幣《へい》を五十枚かぞえて渡《わた》してくれたんだものな。いつか、かならず返すよ。あの千ドルのおかげで、おれは助かったのだ――実際、あのときおれが家へ帰ってみたら、あいつらはもう、おれの家財道具を歩道に積みあげていやがったんだからな」
「だからさ」とカーナンはつづけた。「おめえがまちがいなくバーニイ・ウッズで、鋼鉄のように誠実で、紳《しん》士《し》的に勝負をしなければならない人間だとすれば、恩を受けた人間を逮捕するために指一本あげることはできねえはずだ。そうだ、おれも、商売用のイェール錠《じょう》や窓の締《し》め具を研究するのと同じように、人間の研究もしなくちゃいけねえな。ところで、いま給仕《きゅうじ》を呼ぶから、ちょっとおとなしくしていなよ。おれは、この一、二年、禁酒していたんだ。ちっとばかりつらかったよ。しかし、こうしておれをつかまえた以上、運のいい刑事さんとしても、なつかしい酒と名《めい》誉《よ》を旧友と分ちあいてえと思うだろう。おれは営業中は絶対に飲まねえんだ。しかし、一仕事すませたいまは、大いばりで、わが旧友バーニイと一杯《ぱい》やることができるというものだ。おめえは何を飲むかね?」
給仕が小さな酒壜《さかびん》とサイフォンをもってきて、ふたたび向うへ行ってしまった。
「お前のいう通り、勝負はお前の勝ちだ」とウッズは慎重《しんちょう》に人差指で小さな金の鉛筆をころがしながら言った。「おれはお前を見のがさなければならない。お前に手をかけることはできないんだ。あの金を返してさえいたら――しかし、まだ返してはいない。それで万《ばん》事《じ》お手あげというものだ。とんだヘマをやったものさ。ジョニイ、だけどおれは、いいかげんなことでこの場をおさめるわけにはいかない。かつてお前は、おれを助けてくれた。いまそれと同じことが要求されているんだ」
「そうとも」カーナンはそう言ってグラスをあげた。顔いっぱいに満足の微笑をうかべていた。「おれは人を見る目をもっているんだ。さあ、バーニイ君に乾杯《かんぱい》だ。というのも、おめえが『愉《ゆ》快《かい》ないい奴《やつ》』だからさ」
「まったくの話」とウッズは、あたかも声に出して考えごとをしているかのように言葉をつづけた。「おれとお前との関係が決済ずみになっていたら、たとえニューヨークじゅうの銀行の金を全部もってきても、今夜おれはここでお前を放すようなことはしないだろうよ」
「そいつは、できねえ相談だろうな」とカーナンは言った。「とにかく、相手がおめえとくれば、おれも安全というものさ」
「たいていの人間は」と刑事はつづけた。「おれの職業を、まともには見てくれない。この職業にいる人間を決して芸術家や知的専門家と同列に見ようとはしないんだ。だが、おれはこの職業に、ばかばかしいほどの誇《ほこ》りをもっている。だけど、いまはもう何もかもだめになったよ。おれは何よりもまず人間なんだ。刑事であることは二の次ぎなんだ。おれはお前を見のがさなくちゃならない。そして、つぎには警察をやめなくちゃならない。まあ、速達郵便車の運転ぐらいはできるだろう。しかし、そうなれば、お前の千ドルは、ますます返せなくなってしまうな、ジョニイ」
「いや、そんなことはちっとも気にすることはねえさ」とカーナンは大様《おおよう》な調子で言った。「借金なんざ棒引きにしてもいいんだが、それじゃ、おめえのほうが承知しねえだろう。おめえがあれを借りてくれたというのが、おれにとっちゃ幸運の日だったというわけだ。まあ、この話は、もうこのへんでやめよう。おれは明日の朝の汽車で西部へ発《た》つつもりなんだ。あそこなら、ノークロスの貴金属類を取引できるところを知っているんでね。景気よく飲めよ、バーニイ、飲んで苦労を忘れるんだ。警察が脳《のう》味噌《みそ》をしぼってノークロス事件を調べているあいだ、おれたちは大いに愉快にやろうじゃないか。おれは今夜はサハラ砂《さ》漠《ばく》みてえに咽喉《のど》がかわいているんだ。おれは、旧友バーニイにつかまっているんだ――警官の手につかまっているんじゃねえんだ。だから、ポリ公のことなんぞ、もう夢に見ることもねえだろうよ」
こうしているあいだも、カーナンの敏捷《びんしょう》な指は、絶えず呼鈴《よびりん》のボタンを押して、給仕を走りまわらせていたので、いつしか彼の弱点――とほうもない虚栄心《きょえいしん》と不《ふ》遜《そん》な自尊心とが頭をもたげはじめた。彼は、まんまと成功した窃盗《せっとう》や、巧妙《こうみょう》な手口や、破《は》廉《れん》恥《ち》極《きわ》まる犯行などを、つぎつぎと並《なら》べ立てたので、さすが悪党どもになれているウッズも、かつては自分の恩人だったこの大悪党に対して、ぞっとするような嫌《けん》悪《お》をおぼえた。
「もちろん、おれはお前にしてやられたわけだが」と、長い間をおいてからウッズは言った。「それにしても、お前はしばらくのあいだ、かくれていたほうが身のためだぞ。新聞がノークロス事件をとりあげるかもしれないしね。なにしろこの夏は、強盗、殺人が、この町では、やけに流行しているからね」
この言葉にカーナンは、猛烈《もうれつ》な怒《いか》りと復讐《ふくしゅう》に燃えあがった。
「新聞なんぞ地《じ》獄《ごく》へ行きやがれってんだ」と彼はうなった。「でっかい活字で、でかでかと、あることないこと書き立てて、賄《わい》賂《ろ》をとること以外に、奴らに何ができるっていうんだい。かりに奴らが事件をとりあげたところで――それがどうしたっていうんだ。警察だって甘《あま》っちょろいもんだが、新聞にしたって、何がやれるっていうんだ? 新聞はまず間抜《まぬ》けな新聞記者どもを大勢現場に送りこむだろう。すると、そいつどもは、すぐさま近くの酒場にはいりこんで、ビールをやりながら、バーテンの一番上の娘《むすめ》にイヴニング・ドレスを着せて写真をとる。そして、そいつをアパートの十階の若い男の許嫁者《いいなずけ》だとか何とか書いて新聞に出しちまうんだ。その男が、殺人のあった夜、階下で物音を聞いたように思うと語ったなんて書き立てるという寸法だ。強盗を捜《さが》しだしてみせるなんて言ったところで、新聞のやることなんざ、せいぜいそんなところさ」
「なるほどな、おれにはよくわからないが」とウッズは何か考えこみながら言った。「でも、なかには、その方面で立派な働きをした新聞だってあるぜ。たとえば『モーニング・マース』紙なんかがそうだ。二、三の手がかりを徹底《てってい》的に調べあげて、警察が捜《そう》査《さ》を投げ出した後で、とうとう犯人をつきとめちまった」
「よし、それじゃ見せてやる」とカーナンは立ちあがり、ぐっと胸を張って見せた。「おれが新聞というやつを、とくにおめえのその『モーニング・マース』紙を、どう思っているかを見せてやろう」
彼らのテーブルから三フィートほど離《はな》れたとこに電話ボックスがあった。カーナンはボックスの中にはいって行き、扉《とびら》を開け放したまま、電話の前に腰をおろした。電話帳で番号を調べると、受話器をはずしてセントラル局を呼びだした。ウッズは、じっと腰をおろしたまま、電話器を握《にぎ》ったまま待っている、せせら笑いをうかべた、残忍《ざんにん》な、ぬけめのない顔を見まもって、小ばかにしたような薄笑《うすわら》いにゆがんでいる薄い冷酷《れいこく》な唇《くちびる》からもれてくる言葉に聞き耳をたてていた。
「『モーニング・マース』社かね?……主筆に話したいことがあるんだが……そうだよ、主筆に言ってくれ、ノークロス殺人事件について話したいことがあるとな。
「おまえさんが主筆かね?……そうかい……おれはノークロス老人を殺した犯人だがね……ちょっと待ってくれ! 電話を切っちゃいけねえ。おれは、ありふれたフーテン野《や》郎《ろう》とはちがうんだ……いや、危険なことなんざ、すこしもねえよ。実はいまも、おれの友達の刑事と話し合っていたところなんだがね。おれは明日でちょうど二週間になる日の午前二時三十分に、あの老人を殺《や》ったんだ……。どうだね、いっしょに一杯やるかね。冗談《じょうだん》じゃねえぜ、そんな話は、おまえさんとこの漫《まん》画《が》家《か》にでもまかしといたらどうだい。おれが、おまえさんをからかっているのか、それとも、おまえさんとこのボロ布《きれ》みてえな新聞がつかんだこともねえような大特種《だいとくだね》を提供してんのか、おまえさんには判断がつかねえのか?……うん、そうだよ、中途半《ちゅうとはん》端《ぱ》な特種だけどさ――だけど、名前と住所をはっきり言って電話しろなんて、そいつはちっとばかり厚かましいというもんだぜ……。なぜかって? てっへっへ、おまえさんとこは警察だってもてあますような迷宮入《めいきゅうい》りの犯罪を解決するのが得意だときいているからさ……。いんや、それだけじゃねえ。おめえんとこの新聞みてえな腐《くさ》ったような、でたらめの三流新聞は、めくらのプードル犬と同じことで、頭のいい殺人犯や強盗をいくら追いかけたところで何の役にも立ちゃしねえってことを、一言おまえさんに言っておきたかったのさ……。なんだって?……いや、そうじゃねえ、商売仇《がたき》の新聞のデスクなんかじゃねえよ。まともな情報なんだ。ノークロスの一件は、おれがやったんだ。奪《うば》った宝石類は、おれのスーツケースに、ちゃんとしまってある――『名は明らかにできないあるホテル』にな――どうだい、この言葉、わかるかね? わからなかったらおかしいぜ、おまえさんとこで、ちょいちょい使う言葉だものな。公正にして正確、巨大《きょだい》にして全能なる機関が、正体不明の殺人犯人に直接電話口へ呼び出されて、能なしの、大ボラ吹《ふ》きの、もうろく野郎なんて言われて、ちっとはおまえさん、あわてたかね?……いや、そいつはよしたほうがいいな。おまえさんだって、それほどばかじゃねえだろう――そうか、おめえは、おれを大ぼら吹きだと思ってるんだな。それくらい、声の調子でわかるよ……いいか、よく聞きなよ、内証《ないしょ》で手がかりを教えてやるからな。むろんもうおめえさんは、おめでたい、青二才の薄のろの新聞記者どもをかり立てて、この殺人事件を調べあげているにちげえねえ。ノークロスの婆《ばあ》さんの寝間着《ねまき》の二番目のボタンが半分欠けているだろう? おれは、婆さんの指から柘榴石の指輪を抜いたとき、そいつに気がついたんだ。ルビーだと思ったんだが……。いや、そいつはよしな! そんなことをしたって無駄《むだ》だぜ」
カーナンは悪《あく》魔《ま》の微笑をうかべてウッズをふり返った。
「うまくいったぜ。おれの言ったことをすっかり信用してやがる。送話器に手で完全にふたをしねえで、誰かに別の電話でセントラル局を呼びだして、こっちの番号をつきとめるように言いつけていやがった。もう一つだけからかってやろう。それからずらかるとしよう。
「もしもし!……うん、おれはまだここにいるよ。そんなけちくさい、おべんちゃらで、便《べん》宜《ぎ》主義のインチキ新聞から、このおれが逃《に》げられねえと思ってるわけじゃねえだろうな?……おれを四十八時間以内につかまえてみせるって? おい、おい、笑わせちゃいけねえよ。まあ、大人《おとな》の世界のことにゃ嘴《くちばし》を突《つ》っこまねえで、離《り》婚《こん》事件か電車事故でも追っかけるか、それとも、おめえさんとこのめし《・・》のタネになる汚職《おしょく》事件かスキャンダルでも書く仕事に精を出すことだな。じゃ、あばよ、おやじさん――おめえさんを訪ねるひまがなくて残念だな。ほんとうは、おめえさんとこの低能どもの奥《おく》の院に入りこんでしまえば、それが一番安全なんだけどね。あばよ!
「奴め、鼠《ねずみ》を捕りそこねた猫《ねこ》みたいにかんかんになってるよ」と、カーナンは受話器をかけて出てきながら言った。「さあ、バーニイ、寄席《よせ》へでも行って、おねんねの時間がくるまで、時間つぶしをしようじゃないか。おれは四時間も寝りゃ十分だ。あとは西部行きの汽車に乗るだけだ」
二人はブロードウェイのあるレストランで食事をした。カーナンは、すっかりいい気持になっていた。彼は小説のなかの王子さまのようにじゃんじゃん金をつかった。それから、おもしろい陽気なミュージカル・コメディを熱心に見た。そのあと、一品料理店で、おそい夕食をとった。シャンパンを抜《ぬ》いたりして、カーナンは、すっかり満悦《まんえつ》しきっていた。
午前三時半には、彼らは終夜営業のカフェの片隅にいた。カーナンは、依《い》然《ぜん》として、かびの生えたような自慢話《じまんばなし》を、だらだらとつづけていた。ウッズは法の守護者としての自分の任務を果すときが、いよいよ近づいてきたことを思って、気持が沈《しず》んでいた。
ところが、考えこんでいるうちに、彼の目は、あることを思いついて輝《かがや》きはじめた。
「可能性があるだろうか?」と彼は、ひとりごとを言った。「あり・うる・だろうか?」
すると、やがてカフェの外から、早朝の静けさを破る、かすかな、はっきりしない、小さな音のほたるのような叫《さけ》び声がきこえてきた。あるものは次《し》第《だい》にはっきりしてきた。あるものは次第にかすかになって行った。牛乳配達車や、たまに通る自動車の騒音《そうおん》にまじって、それらの叫びは、大きくなったり、弱くなったりした。それは、近づいてきたときには鼓《こ》膜《まく》を破かんばかりの叫び声だが――この大都会でいま眠《ねむ》っている幾百万《いくひゃくまん》の市民たちが起きてそれを聞くときには、さまざまの意味を伝えてくれる、ききなれた叫び声であった。その意味深い、短いひびきのなかに、人の世の嘆《なげ》きや、笑いや、よろこびや、苦しみをこめて配達される叫び声であった。夜という、はかない覆《おお》いの庇護《ひご》にかくれて身をちぢめている人々には、いやな、まぶしい昼の到来《とうらい》を知らせ、幸福な眠りにつつまれていた人々には、暗い夜よりも一層暗く明けてゆく朝を知らせた。多くの金持には、星のまたたいているあいだだけ彼らのものとなっていたものを掃《は》きだす箒《ほうき》をもたらし、貧しい人々には、また新しく貧しい一日をもたらすのであった。
叫び声は、この都会のいたるところに起った。鋭《するど》くひびきわたる声で、時という機械の一つの歯車の回転がつくりだすさまざまなチャンスを予告してあるき、運命の手に身をゆだねて寝ている人々のところへ、カレンダーの新しい数字が運びこむ復讐《ふくしゅう》、利益、悲《ひ》哀《あい》、報酬《ほうしゅう》、宿命を配達してまわった。甲高《かんだか》く、しかも哀《あわ》れをもよおす呼び声だった。あたかも、それを叫ぶ若者たちが、彼らの汚《けが》れのない手のなかに、あまりにも多くの悪があり、あまりにもわずかな善があることを嘆き悲しんでいるように、その声は刺《さ》すように鋭く、もの悲しくひびいた。こうして、救いなき都会の街々に、もっとも新しい神々の言葉を運ぶ、新聞売りの叫び声がこだました――新聞ラッパのひびきである。
ウッズは十セント銀貨を給仕に渡して言った。
「『モーニング・マース』を買ってきてくれ」
新聞がくると、彼はその第一面にちらりと視線を走らせた。それから手帳の紙を一枚ひきちぎり、例の小さな金の鉛筆《えんぴつ》で、その紙に何やら書きつけた。
「何かニュースでもあるのか?」と、カーナンは、あくびをしながら言った。
ウッズは書いた紙きれを彼の前になげてやった。
ニューヨーク『モーニング・マース』新聞社御中《おんちゅう》
ジョン・カーナンの逮《たい》捕《ほ》および同人が有罪の故《ゆえ》をもって小生にあたえられるべき賞金一千ドルを、右ジョン・カーナンにお支《し》払《はら》いください。同人を賞金受取人として指定いたします。
バーナード・ウッズ
「新聞社は、きっとこの手を使うにちがいないとおれは思ったんだ」とウッズは言った。「おまえがしきりと彼らを電話でからかっていたときにね。さあ、ジョニイ、一緒《いっしょ》に署まできてくれ」
(The Clarion Call)
よみがえった改心
ジミイ・ヴァレンタインが、刑《けい》務《む》所《しょ》の中の靴工場《くつこうじょう》で、せっせと靴の甲革を縫《ぬ》っていると、そこへ一人の看守がやってきて、彼《かれ》を表の事務所へつれて行った。典獄《てんごく》が、その朝知事が署名した赦免状《しゃめんじょう》を彼に手《て》渡《わた》した。ジミイは、面倒《めんどう》くさそうにそれをうけとった。彼は四年の刑期のうち、もう十カ月近く服役《ふくえき》していた。長くても、三カ月もはいっていればいいだろうと思っていたのだ。ジミイ・ヴァレンタインのように娑《しゃ》婆《ば》に大勢の仲間をもっている男は、監獄《かんごく》にぶちこまれたところで、わざわざ髪《かみ》を短く刈《か》る必要もないくらいなのだ。
「さあ、ヴァレンタイン」と典獄は言った。「あすの朝、出してやる。元気を出して、真人間になるんだぞ。おまえは、しんから悪い奴《やつ》じゃない。金庫破りなんぞやめて、まっとうな暮《くら》しをするんだぞ」
「あっしがですかい?」とジミイは頓狂《とんきょう》な声を出した。「とんでもない、あっしは金庫破りなんぞ、いっぺんもやったことはありませんぜ」
「そうとも、そうとも」と典獄はわらった。「もちろん、そうだろうとも。だが、いいかね、それじゃおまえは、どうしてスプリングフィールドの一件でぶちこまれるようなことになったんだ? ご立派な上流社会の誰《だれ》さまかに嫌《けん》疑《ぎ》がかかってはいけないというんで、アリバイを証明しようとしなかったからじゃないのか? それとも、おまえに恨《うら》みを抱《いだ》く陪審員《ばいしんいん》の卑《ひ》劣《れつ》な一例にすぎないとでもいうのかね? おまえたちのように自分がやりもしない罪をひっかぶった連中は、どっちみち、そんなところだがね」
「あっしがですかい?」相変らずぽかんと人のよさそうな顔でジミイは言った。「でも、典獄さん、あっしはスプリングフィールドにいたことなんぞありませんぜ」
「この男をつれて帰ってくれ、クローニン」典獄は、ほほえんだ。「そして出所用の衣類を用意してやってくれ。あすの朝七時になったら出してやって、控室《ひかえしつ》へ行かせるんだ。わしのいうことを、よく考えたほうがいいぞ、ヴァレンタイン」
翌朝、七時十五分に、ジミイは、外にある典獄の事務所に立っていた。強制収容のお客さんを釈放するとき州があてがうことになっている、どうにも身体《からだ》にぴったりとしない既《き》製服《せいふく》を着て、きゅッきゅッと鳴る、かたい靴をはいていた。
書記は、善良な市民に戻《もど》って立派に暮して行くようにと望んで法律があたえる汽車の切《きっ》符《ぷ》と五ドル紙《し》幣《へい》をジミイに手渡した。典獄は彼に葉巻を一本くれて握手《あくしゅ》した。第九七六二号囚人《しゅうじん》ヴァレンタインは囚人名《めい》簿《ぼ》に「知事による赦免」と記入され、こうしてジェームズ・ヴァレンタイン氏は日の光の中へ歩み出た。
小鳥の歌や、風にそよぐ緑の木々や、花々の香《かお》りなど見向きもせずに、ジミイは、まっすぐにあるレストランへ向った。そこでチキンの焙《あぶ》り肉と白《しろ》葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》一壜《びん》――そのあとで、典獄がくれたのよりも一段と上等の葉巻を一本――という形で、自由の最初の甘《あま》いよろこびを味わった。そこからのんびりと駅へ向った。入口に坐《すわ》っている盲人《もうじん》の帽《ぼう》子《し》の中へ二十五セント玉を一つほうりこんでやって汽車に乗った。三時間の後、州境に近い小さな町で降りた。マイク・ドーランという男がやっているカフェに行って、カウンターのうしろに一人でいたマイクと握手をした。
「もっと早く出られるようにできなくて、すまなかったな、ジミイ」とマイクは言った。「だけど、スプリングフィールドから強い反対が出たもんだから、知事も、もうすこしで思いとどまるとこだったんだぜ。元気かい?」
「元気だよ」とジミイが言った。「おれの鍵《かぎ》は?」
鍵をうけとって彼は二階へあがり、奥《おく》の部屋のドアを開けた。なにもかも、この部屋を出たときのままだった。床《ゆか》の上には、刑事たちがジミイを逮《たい》捕《ほ》しようとねじ伏《ふ》せたとき、あの名探偵《めいたんてい》ベン・プライスのワイシャツの襟《えり》からちぎれたカラー・ボタンが、いまだにころがっていた。壁《かべ》から折畳式《おりたたみしき》ベッドを引っぱりだすと、壁の羽目板を一枚はずし、埃《ほこり》まみれのスーツケースを引っぱり出した。それを開けると、東部随一《ずいいち》ともいうべき夜《や》盗《とう》の七つ道具を、いとしそうに眺《なが》めた。それは特別につくらせた鋼鉄製の完全な七つ道具で、最新型のドリルとペンチ、曲り柄《え》錐《きり》と組立式鉄梃《かなてこ》と釘《くぎ》抜《ぬ》きと大錐、それにジミイが自分で考案した新しい道具も二つ三つあって、彼のご自《じ》慢《まん》の品であった。同業の仲間のためにこういうものを製造しているところでこれをつくらせたときには九百ドル以上もかかったものだ。
半時間ほどすると、ジミイは階下へおり、カフェを通り抜《ぬ》けた。いまは趣《しゅ》味《み》のいい、身体にぴったりと合った服を着て、手には、きれいに埃をはらった例のスーツケースをさげていた。
「何かやるのか?」マイク・ドーランが愛想よくきいた。
「おれが?」と、当惑《とうわく》したような口調でジミイは言った。「なんのことですかね? 私はニューヨーク・ショート・スナップ・ビスケット・クラッカー小麦粉会社の社員でございます」
この言葉は、ばかにマイクをよろこばせた。おかげで、ジミイはその場でミルク入りのセルツァー水を一杯《ぱい》飲まされた。ジミイは決して「強い」酒には手を出さなかったのである。
第九七六二号囚人ヴァレンタインが釈放されて一週間後、インディアナ州リッチモンドで、鮮《あざや》かな金庫破りがあったが、犯人の手《て》掛《がか》りはまったくなかった。盗《ぬす》まれたのは全部でわずか八百ドルであった。それから二週間すると、今度はローガンスポートで、盗難《とうなん》よけの特許をとった改良型の金庫がチーズのように簡単に開けられて、現金一千五百ドルが盗まれた。証券類や銀貨には手もふれてなかった。これが刑事たちの関心をひきはじめた。ついでジェファソン市の銀行の古風な金庫が活動をはじめて、その噴《ふん》火《か》口《こう》から五千ドルにのぼる紙幣の噴出物を噴《ふ》き出した。今度は被《ひ》害《がい》が大きかっただけに、ベン・プライス級の名探偵の活動をうながすまでに事態を発展させた。被害の報告書を比《ひ》較《かく》してみると、金庫破りの手口に、はなはだ似通ったところが認められた。ベン・プライスは盗難の現場を調査して、つぎのように意見を述べた。
「これは、おしゃれのジム・ヴァレンタインの手口だ。奴め、また仕事をはじめたのだ。あのダイヤルを見たまえ――まるで雨降りの日に大根を引っこぬくみたいに簡単に引っこぬいてある。こんな仕事ができるような釘抜きをもっているのは奴だけだ。それに、この錠《じょう》の槓杆《こうかん》には実に見事に穴があけられているじゃないか! ジミイはいつも穴を一つしかあけないのだ。そうだ、ヴァレンタイン先生をさがすことにしよう。今度こそ短期刑だの恩赦だのと、ばかなことをさせずに、十分年期を勤めさせてやる」
ベン・プライスはジミイの手口を知っていた。それはスプリングフィールドの事件を調べているときにわかったのである。高とび、すばやい逃走《とうそう》、共犯者のないこと、上流社会に対する趣味――こうしたやり方が、ヴァレンタイン君を巧《たく》みに懲罰《ちょうばつ》をまぬがれる男として名を売るのに役立ったのだ。ベン・プライスが、この逃走の巧みな金庫破りの足跡《そくせき》を追っているということが発表されると、盗難よけの金庫をもっている他の連中は、いままでよりも安心するようになった。
ある日の午後――アーカンソー州の黒いな《・》ら《・》の木の多い田舎《いなか》の、鉄道から五マイルほどはなれたちいさなエルモアという町で、ジミイ・ヴァレンタインとそのスーツケースとが郵便託送《たくそう》の乗合馬車からおり立った。ジミイは、大学から郷里へ帰りついたばかりの大学四年生の若い運動選手といった風采《ふうさい》で、板《いた》敷《じ》きの歩道をホテルのほうへ歩いて行った。
一人の若い女が通りを渡ってきて、町角で彼を追いぬき、「エルモア銀行」という看板の出ている建物の入口へはいって行った。ジミイ・ヴァレンタインは彼女《かのじょ》の目をのぞきこんで、思わず自分が何ものであるかを忘れ、まったく別の人間になってしまった。彼女は目をふせ、ほんのりと頬《ほお》を染めた。ジミイのようなスタイルや容貌《ようぼう》の青年はエルモアではめずらしかったのだ。
彼は、まるで自分が株主の一人ででもあるかのような高飛車な態度で、銀行の石段の上でぶらぶらしている少年をつかまえて、ときどき十セント玉をくれてやりながら、町のようすをききはじめた。間もなく、例の若い女が出てきて、スーツケースをもった青年なんぞ気にもかけないように、つんとすまして歩み去った。
「あのお嬢《じょう》さんはミス・ポリイ・シムプソンじゃないかね?」ジミイは、さももっともらしく空とぼけてたずねた。
「ちがうよ」と少年が言った。「あのひとはアナベル・アダムズだよ。あのひとのお父さんが、この銀行をもっているんだ。きみは、なんの用でエルモアへきたんだい? それ、金の時計鎖《とけいぐさり》かい? ぼく、ブルドッグがほしいんだ。もう十セント玉ないの?」
ジミイはプランターズ・ホテルへ行き、ラルフ・D・スペンサーと宿帳に書きこみ、部屋を予約した。それからフロントによりかかって、番頭に自分の用件を話した。商売をはじめる場所をさがしに、このエルモアへやってきたのだ、と言った。いまこの町じゃ靴屋はどうかね? 靴屋をはじめようかと思っているんだが。見込《みこ》みがあるかね?
番頭はジミイの態度や服装《ふくそう》から、いい印象をうけた。彼自身もエルモアの、ちょっとばかりけちくさいおしゃれな若者たちの流行の見本になっていたのだが、いま自分の欠点に気がついた。ジミイのネクタイの結び方をおぼえようとしながら、彼は愛想よく情報を提供した。
さよう、靴屋でしたら、十分見込みがあります。この町には靴の専門店は一軒《けん》もありませんからね。呉《ご》服《ふく》屋《や》と雑貨屋で靴を扱《あつか》っているのです。どんな商売でも、うまくいきますよ。エルモアに落ちつくことにおきめになったらいかがですか。ここは住み心《ごこ》地《ち》のいい町で、町の人たちも、とても人づきあいがよいことがおわかりになりますよ。
スペンサー氏は、この町に二、三日滞在《たいざい》して、ようすをみたい、と言った。いやいや、ボーイを呼ぶ必要はない。このスーツケースは自分で持って行く。ちょっと重いからね。
ジミイ・ヴァレンタインの死灰――突然《とつぜん》、二《に》者択一《しゃたくいつ》を迫ってきた恋《こい》の焔《ほのお》で焼け残った死灰――の中から立ちあがった不死鳥のラルフ・スペンサー氏は、エルモアに踏《ふ》みとどまって成功した。靴屋を開業し、商売が繁昌《はんじょう》したのである。
社交的にも成功し、たくさんの友人ができた。胸の願いも成就《じょうじゅ》した。アナベル・アダムズ嬢に会い、ますます彼女の魅力《みりょく》のとりことなった。
一年たって、ラルフ・スペンサー氏の状態は、つぎのようなものであった。彼は世間の尊敬をかちとり、靴屋は繁昌し、アナベル嬢とは二週間後に結婚《けっこん》する約束《やくそく》をとりかわした。典型的な努力型の田舎銀行家のアダムズ氏は、すっかりスペンサーにほれこんでしまった。彼に対するアナベルの誇《ほこ》りも、彼女の愛情と同じくらい大きかった。彼はアダムズ氏の家庭でも、すでに結婚しているアナベルの姉の家庭でも、まるで家族の一員のように、くつろいですごした。
ある日、彼は自分の部屋に腰《こし》をおろして一通の手紙をしたため、それをセントルイスにいる旧友の安全な住所にあてて郵送した。
なつかしき相棒よ
来週の水曜日の夜九時に、リトル・ロックのサリヴァンのところへきてもらいたい。ちょっと相談に乗ってもらいたいのだ。ついでに、おれの道具一式を、きみに進呈《しんてい》したい。きっと、よろこんで受けとってくれると思う――一千ドル出しても、これと同じものはつくれないだろう。ビリイ、おれは昔《むかし》の商売から足を洗ったのだ――一年前にね。おれはいい店をもっているのだ。そして、地道な暮しをしている。二週間もすると、この世で一番すばらしい娘《むすめ》と結婚することになっている。これがおれのただ一つの生き方なんだよ、ビリイ――まっとうな生き方さ。いまは、百万ドルもらったって、人さまのものには一ドルだって手をふれたくない。結婚したら店を売って西部へ行くつもりだ。西部なら、昔の古傷をあばかれるようなこともないだろうからね。言っておくが、彼女はまさに天使だよ、ビリイ。おれをすっかり信頼《しんらい》しているんだ。どんなことがあっても、おれはもう曲ったことはしたくない。かならず、サリイのところへきてくれ。ぜひ会わなければならないんだ。そのとき道具は一緒《いっしょ》にもって行く。
旧友のジミイより
ジミイがこの手紙を書いたつぎの月曜日の夜、べン・プライスが貸馬車にのって、人目につかないようにエルモアへ入りこんできた。彼は知りたいことをかぎ出すまで、例の目立たぬやりかたで町をうろつきまわった。通りをへだててスペンサーの靴屋の向い側にあるドラッグ・ストアから、彼はラルフ・D・スペンサーをとっくりと観察した。
「銀行家の娘と結婚するんだそうだね、ジミイ?」ベンは心のなかで、そっとつぶやいた。「だが、どういうことになるか、おれは知らないぞ」
翌朝ジミイはアダムズ家で朝食をとった。その日は、婚礼服をあつらえたり、アナベルに何かすばらしいプレゼントを買うために、リトル・ロックへ行くことになっていた。エルモアへきて以来、町を離《はな》れるのは、これがはじめてだった。例の本職の仕事を最後にやってから、もう一年以上もたっているので、もう思いきって出かけても大丈夫だろうと思っていた。
朝食がすむと、家族は、みんなそろって町へ出かけた――アダムズ氏、アナベル、ジミイ、五つと九つの女の子をつれたアナベルの既《き》婚《こん》の姉。一行は、いまもなおジミイが泊《とま》っているホテルの前にさしかかった。するとジミイは自分の部屋へ駆《か》けあがって例のスーツケースをもってきた。それから、みんなで銀行へ行った。そこにはジミイの一頭立ての馬車と、彼を鉄道の駅まで乗せて行くドルフ・ギブソンとが待っていた。
一同は、彫刻《ちょうこく》をほどこした高い樫《かし》の手すりの奥にある銀行の事務室へはいって行った――ジミイもそれに加わっていた。というのは、アダムズ氏の未来の花婿《はなむこ》は、どこででも歓迎《かんげい》されたからである。行員たちは、アナベル嬢と結婚することになっているこの愛想のいい美青年から挨拶《あいさつ》されるのを、よろこんだ。ジミイはスーツケースをおろした。アナベルは、幸福と溌刺《はつらつ》とした若さとで胸がわくわくしていたので、ジミイの帽子をかぶって、スーツケースをもちあげた。「あたし、すばらしいセールスマンに見えないこと?」とアナベルは言った。「まあ、ラルフ、このスーツケースは、なんて重いんでしょう。まるで、にせの金塊《きんかい》がいっぱいつまっているみたいだわ」
「ニッケルの靴ベラがたくさんはいっているんです」ジミイは落ちつきはらって言った。「これから返しに行くんですよ。手にもって行けば運送料が助かると思いましてね。いまぼくは、とても倹約《けんやく》家《か》になっているんです」
ちょうどエルモア銀行は新しい金庫室を設けたばかりであった。アダムズ氏は、それがたいへん自慢で、人の顔さえ見れば見てくれと言っていた。金庫室は小さなものだったが、新しい特許のドアがついていた。一つのハンドルで同時に操作できる頑丈《がんじょう》な三つの鋼鉄の閂《かんぬき》で閉まるようになっていて、時限装置の錠前がついていた。アダムズ氏は、相好《そうごう》を崩《くず》しながら、その動かし方をスペンサー氏に説明した。スペンサー氏が示した関心は、丁重《ていちょう》なものではあったが、あまり理解のあるものではなかった。メイとアガサの二人の子供は、ぴかぴかした金属や、奇妙《きみょう》な形の時計やハンドルを、おもしろがっていた。
一同がそんなことをしているあいだに、ベン・プライスが、ぶらりとはいってきて、頬《ほお》杖《づえ》をついて、木柵《もくさく》のあいだから、さりげなく中のようすを見ていた。彼は出納係《すいとうがかり》に、別に何の用があるわけではなく、ただ知人を待っているのだ、と言った。
不意に婦人たちのあいだから、一声、二声、悲鳴があがったかと思うと、大騒動《おおそうどう》が起った。大人たちが気がつかぬうちに、九つになる女の子のメイが、ふざけてアガサを金庫室の中へとじこめてしまったのだ。そしてアダムズ氏がやるのを見ていた通りに閂をおろしコンビネーション錠のダイヤルをまわしたのである。
老銀行家はハンドルにとびついて、一瞬《いっしゅん》それを引っぱってみた。「ドアが開かぬ」と彼はうめいた。「時計はネジを巻いておかなかったし、コンビネーション錠も合わせておかなかった」
アガサの母親が、またしてもヒステリックな金切り声をあげた。
「静かに!」わななく手をあげてアダムズ氏が言った。「しばらくみんな静かにしなさい。アガサ!」と声をかぎりに叫《さけ》んだ。「きこえるか!」
そのあと、しいんとなったとき、真暗な金庫室の中で恐怖《きょうふ》におののき、やたらに泣きわめく子供の声が、かすかにきこえてきた。
「ああ、わたしの大事なアガサ!」母親は泣き叫んだ。「あの子は、おびえて死んでしまいます! ドアを開けてください! 早くドアをこわして開けてください! あなたたち、男のくせに、何とかできないのですか?」
「リトル・ロックまで行かないと、このドアをあけられるものはおらんのだ」アダムズ氏は声をふるわせて言った。「ああ、困った!スペンサー君、どうしたらいいだろう? あの子は――金庫室の中では、そう長くはもたないぞ。あまり空気がないし、その上、子供はおびえて、ひきつけを起すかもしれない」
アガサの母親は、いまは気も狂《くる》わんばかりで、両手で金庫室のドアを叩いていた。途《と》方《ほう》にくれたあげく、誰かが、ダイナマイトを使ったら、と言いだした。アナベルは、苦痛にみちてはいるが、まだ絶望しきってはいない大きな目で、ジミイのほうをふり向いた。女性にとっては、自分の尊敬する男の力に不可能なことは何ひとつないように思えるらしい。
「何とかできませんの、ラルフ――やってみてください」
ラルフは唇《くちびる》と鋭《するど》い目に、奇妙な、やさしい微笑《びしょう》をうかべて、彼女を見た。
「アナベル」と彼は言った。「あなたがつけているその薔薇《ばら》をくれませんか」
何か聞きちがえたのではないかと耳を疑いながらも、彼女はドレスの胸からピンでとめた薔薇の蕾《つぼみ》をはずしてスペンサーの手に渡した。ジミイは、それをチョッキのポケットにおしこみ、上着を脱《ぬ》ぎすて、シャツの袖《そで》をまくりあげた。そうした動作と共にラルフ・D・スペンサーは消えうせ、入れかわってジミイ・ヴァレンタインがあらわれた。
「さあ、みなさん、ドアの前からどいてください」と彼は短く命令した。
彼は例のスーツケースをテーブルの上において、二つに開けた。その瞬間から、他のものの存在などは、まったく意識にないようであった。ぴかぴか光る奇妙な七つ道具を、手ばやく、順序よく、とり出すと、仕事にかかるときにはいつもそうするように静かに口笛《くちぶえ》を吹いた。しいんと静まりかえり、身動き一つしないで、ほかの人たちは魔《ま》法《ほう》にかかったようにジミイを見まもっていた。
一分もすると、ジミイの愛用のドリルが鋼鉄のドアになめらかに食いこんで行った。十分たつと彼は――彼自身の金庫破りの記録《レコード》を破って――閂をはねあげて扉《とびら》を開けた。
アガサは、死ぬほど弱ってはいたが、それでも無事に母親の腕《うで》に抱《だ》きしめられた。
ジミイ・ヴァレンタインは上着をつけ、木柵の外へ出て正面の入口のほうへ歩いて行った。歩きながら、はるか遠くで、聞きおぼえのある声が「ラルフ!」とよぶのを聞いたように思った、だが彼は、すこしもためらわなかった。入口のところで、彼の行く手に大きな男が立ちふさがった。
「やあ、ベン」まだ奇妙な微笑をうかべたままジミイが言った。「とうとうやってきたね。さあ、行こう。もう、どうころんでも、たいしたちがいはなさそうだからね」
つぎの瞬間、ベン・プライスは、いささか奇妙なそぶりを見せた。
「何かのまちがいじゃありませんか、スペンサーさん」と彼は言った。「私があなたを知っているなんて、とんでもないことです。あなたの馬車が待ってるじゃありませんか」
そう言って、ベン・プライスは、くるりときびすをかえして、ゆっくりと通りを歩み去って行った。
(A Retrieved Reformation)
自動車を待つ間
夕闇《ゆうやみ》の迫《せま》りはじめるころ、またしてもその静かな小公園の、その静かな一隅《いちぐう》に、灰色のドレスをきた女が姿を見せた。彼女《かのじょ》はベンチに腰《こし》をおろして本を読んだ。まだ三十分くらいは活字に没頭《ぼっとう》できるからである。
くり返していうが、彼女のドレスは灰色であった。スタイルも仕立ても、まことに申しぶんなかったが、地味なので、それほど目立たなかった。網《あみ》目《め》のあらいヴェールがターバン型の帽《ぼう》子《し》と顔をつつんでいたが、顔はヴェールをすかして、おっとりとした気どりのない美しさをたたえて輝《かがや》いていた。彼女は昨日も一昨日も同じ時刻にそこへきた。ところがここに、そのことを知っている男がいた。
そのことを知っている青年は、そのあたりをうろついて、偉《い》大《だい》なる幸運の神に捧《ささ》げたいけにえの効果を期待していた。彼《かれ》のこの信心は報《むく》いられた。というのは、彼女がページをめくっているうちに、本が指からすべり落ちて、ベンチから一ヤードも向うへころがって行ったからである。
青年は時をうつさず走りよって、公園や人の大勢いる場所などでよく見られるあの態度――いんぎんと期待、それにパトロール中の警官に対する細心の注意などの入りまじったものごし――で、その本を持主に返した。そして、快活な声で、天候についての毒にも薬にもならぬようなあいさつをやってみた――実は、こういう話題こそ、この世の不幸のきわめて多くのものに対して責任を負うべきものなのである――それから、しばらく、じっと立ちつくして、おのれの運命を待った。
女は、ゆったりと彼を眺《なが》めまわした。平凡《へいぼん》な、きちんとした服装《ふくそう》、表情にも、とり立てていうほどの特徴《とくちょう》のないのが特徴となっている容貌《ようぼう》である。
「よろしかったら、おかけになってもかまいませんことよ」と彼女は張りのある、おっとりとしたアルトの声で言った。「ほんとうは、おかけになっていただきたいのですわ。本を読むには、もう暗すぎますもの。お話をしたほうがよろしいのです」
幸運に仕える下《げ》僕《ぼく》は欣然《きんぜん》として彼女のかたわらに腰をかけた。
「おわかりでしょうか」と彼は、公園で行われる集会の議長が開会の言葉をいうときの例の紋切型《もんきりがた》の言葉を用いて言った。「ぼくは、ずいぶん女のひとを見てきましたが、あなたほど、ほんとうにうっとりするようなひとは見たことがないということが? ぼくは昨日も、あなたに注意をひかれておりました。あなたのその美しい目に、一人の男がふらふらになってしまったことなど、おまえさんは、ごぞんじないと思います」
「あなたがどういうお方か存じませんけれど」と女は冷やかな口調で言った。「お忘れになってはいけませんわ、わたしがレディだということを。でも、たったいま、あなたがおっしゃったおまえさんという言葉は大目にみてあげますわ。まちがいではあっても、それほど不自然なまちがいではないでしょうから――あなた方のあいだではね。おかけくださいと、わたしは申しあげましたけれど、そのために、わたしに向ってそんななれなれしい言葉を使うのでしたら、いまのお誘《さそ》いは取消しますわ」
「心から失礼をおわびいたします」と青年は詫《わ》びた。さっきまでの満足の表情は後悔《こうかい》と恥《は》ずかしさの表情に変っていた。「ぼくが悪かったのです、ほんとうは――つまり、公園にはいろいろな女がいますので――それで――むろん、あなたはご存じないでしょうけれど――」
「そのお話は、どうぞもうやめてくださいな。むろん、わたしにはわかっていますわ。それよりも、わたしに教えてくださいな、あちこちの小《こ》径《みち》をぞろぞろ通ってゆく人たちのことを。あの人たちは、どこへ行くのかしら? なぜ、あのように急ぐのかしら? あの人たちは幸福なのかしら?」
青年は、たちまちそれまでのなれなれしい態度をかなぐり捨てた。いまや自分の役割は、完全に受身であるとさとったからである。しかし、どういう演技を期待されているのか、彼には見当がつかなかった。
「あの人たちを見ていると面白《おもしろ》いですね」と彼は相手の気持にさぐりを入れながら答えた。「これこそすばらしい人生劇です。夕食をとりに行く人たちもいるし、また――その――どこか別のところへ行く人もいる。あの人たちは、いったいどういう過去をもっているのでしょうかね?」
「わたしはそんなことは、考えませんわ」と女は言った。「わたしはそれほど詮索《せんさく》好きではありません。わたしがここへきて、こうして腰かけているのは、人間の偉大な、共通の、いきいきした心に、曲りなりにもふれることができるのは、ここだけだからですわ。わたしにふりあてられた人生劇での役割は、そういういきいきした動きがすこしも感じられないところにあるのです。なぜわたしがあなたに言葉をおかけしたか、その理由がおわかりになりますか、ミスター・――?」
「パーケンスタッカー」と青年はその後に自分の名をつけ足した。ここで彼は熱烈《ねつれつ》な希望にみちた表情になった。
「おわかりにならないでしょう?」と女は、ほっそりした指を一本立てて、かすかに笑った。「でも、すぐにおわかりになりますわ。新聞や雑誌に名前を出さずにおくことなど、とうていできませんものね。写真だってそうですわ。こうして小間使のヴェールと帽子をかぶっているからこそ、どうにか身分をくらまして外出することができるのですわ。あなたにお見せしたいくらいですわ、うちの運転手が、わたしが気がつかないと思って、わたしのこのお忍《しの》びの外出姿を、あきれたように見ていたようすを。うち明けて申しますと、もっとも高貴な家柄《いえがら》を示《しめ》す姓《せい》が五つか六つありますけれど、わたしの姓は、生れながらにして、その一つなのですわ。わたしが言葉をおかけしたのも、スタッケンポットさん――」
「――パーケンスタッカーです」と青年は遠《えん》慮《りょ》勝《が》ちに訂正《ていせい》した。
「――パーケンスタッカーさん、せめて一度でも、自然のままの人間と――いやしい富の虚飾《きょしょく》や、はかない社会的な優越《ゆうえつ》などに汚《けが》されてない人とお話がしたかったからですわ。おお! わたしが、どんなにうんざりしているか、あなたにはおわかりにならないでしょう――金、金、金! ほんとにうんざりしますわ。それに、わたしの周囲の人たちにしても、みんな同じ型につくられた、くだらない操《あやつ》り人形が踊《おど》っているようなものなのです。娯《ご》楽《らく》も、宝石も、旅行も、社交も、あらゆる種類の贅沢《ぜいたく》も、もうほとほといやになりましたわ」
「ぼくは、いつも思っていたんです」と青年は、躊躇《ちゅうちょ》しながらも、勇気を出して言った。「お金というものは、さぞかしすばらしいものだろうと」
「過不足のない財産、それが一番のぞましいと思いますわ。何百万とあってごらんなさい、そうしたら――」彼女は絶望的な身ぶりで結論した。「それこそ単調そのものですわ」そして、彼女はまた言葉をついだ。「つくづくいやになりますわ。ドライブ、正餐会《せいさんかい》、お芝《しば》居《い》、舞《ぶ》踏会《とうかい》、晩餐会、しかもそれが、どれもこれも、あり余るほどのお金で飾《かざ》りたててあるのですもの。どうかすると、シャンパン・グラスのなかで鳴るあの氷の音を聞いただけで、頭が変になることがありますわ」
パーケンスタッカー君は、いとも天真爛漫《てんしんらんまん》な顔で興味を示していた。
「ぼくは、いつも」と彼は言った。「お金持の上流階級の人たちの生活について、本を読んだり話を聞いたりするのが好きだったのですが、どうやらぼくの知識はまだ中途半《ちゅうとはん》端《ぱ》なものだったようです。そこで、ぼくの知識を正確にするためにうかがいたいのですが、ぼくはこれまでシャンパンは壜《びん》で冷やすもので、グラスに氷を入れて冷やすものではないと思っていましたけれど、どうなのでしょう?」
女は心からおかしそうに、音楽的な笑い声をたてた。
「それは」と彼女は、おっとりとした調子で説明した。「わたしたち有閑《ゆうかん》階級の人間は、ありきたりの習慣を破ることが愉《ゆ》快《かい》なのですわ。近頃《ちかごろ》は、もの好きにも、シャンパンのグラスに氷を入れることが、はやっていますのよ。これは、目下ご滞在《たいざい》中のダッタンのプリンスが、ウォルドーフ・ホテルで晩餐会を催《もよお》されたときに思いつかれたのがはじまりなのですわ。でも、これもすぐにまた別の気まぐれに変ることでございましょう。現に今週もマディソン・アヴェニューで開かれたある晩餐会で、めいめいのお客さまのお皿《さら》の横に緑色のキッド革《がわ》の手袋がおいてあって、それをはめてオリーブをたべるという趣向《しゅこう》になっていましたわ」
「なるほど」と青年は謙虚《けんきょ》な態度で言った。「そういう社交界の奥深《おくふか》くでおこなわれる特《とく》殊《しゅ》な風流ごとは、一般《いっぱん》のものには全然わかりませんね」
「ときどき」と女は、彼が誤りを認めたことに対して軽くうなずいてから言葉をつづけた。「わたしは、もしわたしが恋《こい》をするようなことがあったら、相手は身分の低い男の方ではないかしらと思うことがありますわ。のらくら遊び暮《くら》すような人ではなくて労働する人ですわ。でも、結局は、自分の好みよりも、身分や財産が要求するものが勝つことになるかもしれませんね。現にいまも、わたしは、二人の方から求婚《きゅうこん》されていますのよ。一人はドイツのさる公国の大公ですわ。その方には、大公の酒乱のために気が狂《くる》ってしまった奥さまが、どこかにいらっしゃるか、あるいはいらっしたのではないか、とそんなふうに想像されますの。もう一人の方は、イギリスの侯《こう》爵《しゃく》ですけれど、たいへん薄情《はくじょう》で、お金にきたないので、むしろ大公の悪《あく》魔《ま》主義のほうを選びたいくらいですわ。なぜ、こんなことを、あなたにお話しせずにはいられないのか、おわかりになりますか、パッケンスタッカーさん?」
「パーケンスタッカーです」と青年は小さな声で訂正した。「ほんとうに、ぼくがあなたのご信頼《しんらい》を、どんなにありがたく思っているか、あなたにはおわかりにならないでしょう」
女は、いかにも二人の身分の相《そう》違《い》を示すのに適した、落ちついた、非人間的な眼《まな》ざしで、さぐるように彼を見た。
「あなたはどんなお仕事をしていらっしゃいますの、パーケンスタッカーさん?」と彼女はきいた。
「たいへん下等な職業です。しかし、ぼくは出世を望んでいます。さっきあなたは、身分の低い男でも愛することができるとおっしゃいましたが、あれは本気なのですか?」
「ええ、本気ですわ。でも、わたしは、『かもしれない』と申したのですわ。だって、いまは大公のこともあるし侯爵のこともありますもの。でも、どんな職業でも卑《いや》しすぎるということはないはずですわ、わたしの理想にかなう人でしたら」
「ぼくはいまレストランで働いているのです」とパーケンスタッカー君は、はっきりと言った。
女は、ちょっとたじろいだようであった。
「給仕《きゅうじ》としてではないでしょうね?」と彼女は、やや哀願《あいがん》するように言った。「労働は神聖ですわ、でも――従僕《じゅうぼく》とか――給仕とか――」
「ぼくは給仕ではありません。出納係《すいとうがかり》をしているんです」――真向いの、公園の反対側に接した大通りに、「レストラン」と綴《つづ》られた、きらびやかな電飾《でんしょく》看板が光っていた。――「あすこに見えるあのレストランの出納係をしているんです」
女は、左の手首の、きれいな飾りのついている腕《うで》環《わ》にはめこまれた小さな時計をのぞき、あわてて立ちあがった。そして、腰のあたりで手にもっているけばけばしいハンドバッグに例の本を突《つ》っこんだ。しかし、そのハンドバッグには、いささか本が大きすぎた。
「なぜ、今日はお勤めをしていらっしゃらないのですか?」と彼女はきいた。
「今日は夜勤なのです」と青年は答えた。「勤務時間までに、まだ一時間あります。もう一度お会いできないでしょうか?」
「わかりませんわ。多分お会いできると思います――でも、二度とこんな気まぐれを起すことはないかもしれませんわ。とにかく、急いで行かなければなりません。晩餐会がありますし、それからお芝居へ行かなければなりません――ああ、毎日毎日、同じことのくり返しですわ! きっとあなたは、ここへいらっしゃるとき、公園の向うの入口においてある自動車にお気づきになったと思いますけれど――白い車体の自動車ですわ」
「車輪の赤い車ですね」と青年は考えこむように眉《まゆ》を寄せてききかえした。
「そうですわ。わたしは、いつもあれでまいりますの。あすこで運転手のピエールが待っているのです。ピエールは、わたしが広場の向うの百貨店で買物をしていると思っているのですわ。自分の運転手までだまさなければならないような束縛《そくばく》された生活をご想像くださいな。では、さようなら」
「もうだいぶ暗くなりました」とパーケンスタッカー君は言った。「公園には無法者がたくさんいます。よろしかったら、ご一緒《いっしょ》に――」
「わたしの気持を、すこしでも尊重してくださるおつもりがあったら」と女は、きっぱりした口調で言った。「わたしが立ち去ってから十分間だけ、このベンチを離《はな》れないでくださいな。あなたをとがめるつもりはございませんけれど、自動車には、たいてい、その持主の名前の組合せ文字がついていますでしょう? では、もう一度、さようなら」
足早に、気どったようすで彼女は夕闇の中へ歩き去った。青年がその美しい姿に見とれていると、彼女は公園の外れの舖《ほ》道《どう》まで行き、そこから舗道に沿って自動車がおいてある角のほうへ歩いて行った。彼は、彼女との約束を裏切って、躊躇なく、公園の木立や潅木《かんぼく》の植《うえ》込《こ》みの中を、彼女が進むのと平行に、その姿を見うしなわぬよう見えがくれにつけはじめた。
彼女は角のところまで行くと、ちらと横を向いて自動車に一べつをくれると、そのまま自動車のわきをすりぬけて、どんどん通りを横ぎって行った。折よくとまっていた車のかげにかくれて、青年は、じっと彼女の行動を見まもった。公園の向う側の歩道を下手へ歩いて行くと、彼女は、例のきらびやかな電飾看板がかかっているレストランへはいって行った。そこは、よくそのへんで見られるあのけばけばしいレストランの一つで、店内は、白ペンキを塗《ぬ》りたくり、鏡が飾ってあって、安直に、しかもちょいと豪奢《ごうしゃ》な気分で食事のできる店だった。女はレストランの一番奥の部屋へはいって行ったかと思うと、帽子とヴェールをぬいで、すぐにまた出てきた。
出納係の机は入口のすぐ近くにあった。それまでそこに腰かけていた赤毛の若い女が、腰かけから降りてきたが、降りながら、あてつけがましく掛《かけ》時《ど》計《けい》にちらと目をやった。そのあとに腰をおろしたのが灰色のドレスの女であった。
青年は両の手をポケットに突っこんで、ゆっくりと歩道をひきかえして行った。街角で彼の足は、そこに落ちている小型の紙表紙の本を蹴《け》とばした。本は芝《しば》生《ふ》のところまでとんで行った。表紙の絵で、さっき女が読んでいた本だとわかった。彼は何気なくそれをひろいあげて見た。本の題は「新アラビア夜話」――作者はスティヴンソンという名であった。彼はそれをもとの草の上に放《ほう》り投げ、しばらくのあいだ、決心がつきかねたように、そのへんをぶらぶらしていた。やがて、そこにおいてあった自動車に乗りこみ、クッションによりかかると、運転手に向って、ふたことだけ言った。「アンリ、クラブへ」
(White the Auto Waits )
多忙《たぼう》な仲買人のロマンス
株式仲買人ハーヴェイ・マックスウェルの秘書ピッチャーは、九時半に店主が若い婦人速記者をつれて事務所へ威《い》勢《せい》よくはいってきたとき、いつもの無表情な顔に、軽い興味と驚《おどろ》きの色を見せた。「おはよう、ピッチャー」と言いながら、マックスウェルは、まるでそれをとび越《こ》えんばかりの勢いでデスクに驀進《ばくしん》し、そこで彼《かれ》を待ちかまえていた手紙や電報の山のなかへとびこんだ。
その若い婦人は、ここ一年ほどマックスウェルの速記者をしていた。彼女《かのじょ》は美しかった。それは、およそ速記などとは縁《えん》のないような美しさであった。髪型《かみがた》も、人目をひくようなポンパドール型にもしていなかったし、飾《かざ》りの鎖《くさり》も、腕《うで》環《わ》も、ロケットもつけていなかった。いつでも昼食のご招待に応じますわといったそぶりも見せていなかった。ドレスはグレーで派手さはなかったが、しっくりと身体《からだ》に合っていた。上品な黒いターバン型の帽《ぼう》子《し》には金剛《こんごう》インコの金色と緑色のまじった羽根がついていた。この朝の彼女は、やさしく、はにかんだように顔を輝《かがや》かせていた。目は夢《ゆめ》みるように輝き、頬《ほお》はうっすらと桃色《ももいろ》に輝き、たいへん幸福そうな表情で、何か思い出にひたっているかのようであった。
まだいくぶん好《こう》奇《き》心《しん》を抱《いだ》きながら、ピッチャーは、今朝の彼女のようすに、どこか、いつもとちがったところがあるのに気づいた。彼女は自分のデスクのある隣《となり》の部屋へまっすぐ行かないで、表の事務所で、決心しかねたように、ぐずぐずしていた。一度は、マックスウェルに彼女の存在を気づかせるくらい彼のデスクの近くまで行った。
だが、デスクに向っているのは機械であって、もはや人間ではなかった。それはぶんぶん回転する歯車と、逆回転するゼンマイによって動かされている多忙なニューヨークの株式仲買人であった。
「ところで――なんだね? なにか用かね?」とマックスウェルは、するどくたずねた。開《かい》封《ふう》した郵便物が、いろいろなものがごたごたとおいてあるデスクの上に、舞《ぶ》台《たい》の雪のようにつもっていた。人間性をうしなった冷淡《れいたん》なするどい彼の灰色の目が、いくぶんじれったそうに彼女に向って光った。
「べつに――」かすかにほほえんで、デスクから離《はな》れながら、速記嬢《じょう》は答えた。
「ピッチャーさん」彼女は秘書に言った。「昨日マックスウェルさんが、新しい速記者を雇《やと》うことについて何かおっしゃっていませんでしたか?」
「おっしゃっていましたよ」とピッチャーは答えた。「新しい速記者を雇うようにとおっしゃっていました。だから、今朝二、三人候補者をよこしてくれるようにと、昨日の午後、周旋屋《しゅうせんや》へたのんでおいたんです。九時四十五分になるのに、まだピクチャー・ハットも、パイナップル・チューインガムも、一人もあらわれませんがね」
「じゃ、あたし、いつものように仕事をしますわ」と若い婦人は言った。「誰《だれ》か代りのひとが見えるまで」すぐに自分のデスクへ行くと、緑と金色の金剛インコの羽根飾りをつけた黒いターバン型の帽子を、いつもの場所へかけた。
仕事が立てこんでいるときの多忙なマンハッタンの株式仲買人の光景を見たことのない人は、人類学を職業とするには不適当である。詩人は「輝かしい人生のめまぐるしいひととき」について歌っているが、仲買人のひとときは、めまぐるしいばかりでなく、一分一秒が、みんなつり革《かわ》にぶらさがり、前と後ろのデッキにまで一杯《いっぱい》にぎゅう詰《づ》めになった満員電車みたいなものなのだ。
それに、この日はハーヴェイ・マックスウェルにとっては、とくに忙《いそが》しい日だった。株価表示機は、けいれんしたように巻きテープをどんどん繰《く》り出しはじめたし、卓上《たくじょう》電話は慢性《まんせい》的な発《ほっ》作《さ》を起して鳴りつづけていた。大勢の客が事務所へつめかけ、手すりの向うから、あるいはうれしそうに、あるいは猛烈《もうれつ》に、あるいは怒気《どき》をふくんで、あるいは興奮して、マックスウェルに呼びかけはじめた。メッセンジャー・ボーイが伝言や電報をもって駆《か》け足で出たり入ったりしていた。事務員たちは時化《しけ》に襲《おそ》われたときの水夫のようにとびまわっていた。ピッチャーの顔さえ、これに似た活気の色を見せてきた。
株式取引所には台風《ハリケーン》もあれば地すべりもあり、吹雪《ふぶき》も氷河も火山もあったが、そのような天変地異が縮図となって仲買人の事務所にも再現されていた。マックスウェルは椅子《いす》を壁際《かべぎわ》に押《お》しやり、トウダンサーみたいな格好で仕事を片づけて行った。株価表示機から電話へ、デスクからドアへと、修練をつんだ道《どう》化《け》役者の身軽さで、とびまわっていた。
いよいよ立てこんでくる大事な時刻のまっ最中に、ゆれている駝鳥《だちょう》の羽根飾りのついたビロード製の天蓋《てんがい》のような帽子の下からはみ出ている高く結《ゆ》いあげた金髪《きんぱつ》の端《はし》と、まがいもののアザラシの毛皮のゆるいコートと、先《せん》端《たん》につけたハート型の銀のメダルが床《ゆか》までとどきそうな、サワグルミの実ほどもあるビーズを数《じゅ》珠《ず》つなぎにした首飾りが、とつぜん仲買人の目をとらえた。そういうアクセサリーにつき添《そ》われて、一人の落ちつきはらった若い婦人が立っていた。その横に、その女のことを説明するためにピッチャーが立っていた。
「仕事のことで速記者紹介所《しょうかいじょ》から見えた婦人です」とピッチャーが言った。
書類や株価表示機のテープを両手に一杯もったまま、マックスウェルは、半分ほど身体をねじって、そのほうを向いた。
「どんな仕事かね?」眉をよせて彼はたずねた。
「速記の仕事です」とピッチャーが言った。「今朝一人まわしてくれるように紹介所へ頼《たの》んでおけと昨日おっしゃいましたので」
「きみはどうかしてるんじゃないのか、ピッチャー」とマックスウェルは言った。「ぼくがそんなことを言いつけるわけがないじゃないか。ミス・レズリーがうちへきてくれてから、この一年というもの、仕事はきちんとやってくれているじゃないか。自分でやめる気がないかぎり、速記の仕事は、彼女のものだよ。お嬢さん、いまは、あいにく空席がないんです。紹介所のほうは取消してくれ、ピッチャー。そして、もうこういう人をよこさないように言ってくれ」
銀のハート型のメダルをつけた女は、ぷんぷんしながら帰るとき、あたりかまわず事務所の備品にぶつかったり、つっかかったりして出て行った。ピッチャーは、すきを見て、うちの大将は、一日ごとに放心状態になって世間のことを忘れっぽくなっていくようだ、と帳簿係《ちょうぼがかり》に向って言った。
仕事の多忙と速度は、ますます猛烈になり、ますますめまぐるしくなった。立会場ではマックスウェルの店の客たちが大口の投資をしている五、六種もの銘柄《めいがら》の株が、さかんに売り叩《たた》かれていた。売った買ったの叫《さけ》び声が、燕《つばめ》がとびかうような早さで入り乱れていた。自分自身の持株も、いくつかあぶなくなってきたので、彼は高速ギヤのついた精巧《せいこう》強力な機械のように動きだした――極度に緊張《きんちょう》し、フルスピードで動き、しかも正確に、いささかの躊躇《ちゅうちょ》もなく、ゼンマイ仕掛《じか》けのように敏《びん》捷《しょう》に、適確な言葉と決断と行動をもって彼は動いた。株式と債券《さいけん》、貸付金と担保、頭金と有価証券――ここには金融《きんゆう》の世界はあったが、人間の世界や自然の世界の、入りこむ余地はなかった。
昼食の時刻が近づくと、さしもの騒々《そうぞう》しさも一時小休止となった。
マックスウェルは電報やメモを手にいっぱいもち、右の耳に万年筆をはさみ、髪の毛を乱雑に額の上にくしゃくしゃにして、デスクのそばに立っていた。窓は開けはなしてあった。というのは、やさしい《春》の婦人管理人が、目をさました大地の通風装《そう》置《ち》から、あたたかい微《び》風《ふう》を送っていたからである。
その窓から、ほのぼのと――たぶんまぎれこんできたのだろうが――かぐわしい香《かお》りが、ほのかに甘《あま》いライラックの香りが流れこんできた。仲買人は、一瞬《いっしゅん》、それに心を奪《うば》われて、しばらく身うごきもしなかった。というのも、それはミス・レズリーのものだったからだ。彼女自身のものであり、彼女だけのものだったからだ。
この香りは、いきいきと、ほとんど手でふれることができるほど、彼女の面影《おもかげ》を目の前に彷彿《ほうふつ》とさせた。金融の世界が不意に微細なしみのように小さくなった。しかも彼女は、となりの部屋にいるのだ――二十歩ほどはなれたところに。
「どうでも、いまやるんだ」なかば声に出して、マックスウェルは言った。「いま申しこもう。どうして、もっと早くやらなかったのだろう?」
彼は、ボールをとらえようとする遊撃手《ゆうげきしゅ》のように敏捷に奥《おく》の事務所へとびこんだ。そして、まっしぐらに速記者のデスクに突進《とっしん》した。
彼女は、ほほえみを浮《うか》べながら彼を見あげた。頬には、ほんのりと紅がさし、目はやさしく素《す》直《なお》に輝いていた。マックスウェルはデスクに片肘《かたひじ》をついた。まだ両手に書類をひらひらさせて持っており、万年筆を耳にはさんでいた。
「レズリーさん」急いで彼は切り出した。「ほんのちょっとしか時間がないんですが、そのちょっとした時間のあいだにお話したいことがあるんです。ぼくと結婚《けっこん》してくれませんか? ぼくは、世間一般《いっぱん》の手順を踏《ふ》んであなたに求婚するひまがなかったんです。でも、心からぼくはあなたを愛しています。どうかすぐ返事してください――あの連中がいまユニオン・パシフィックの株を売り叩こうとしているんです」
「まあ、何を言っていらっしゃるの?」若い婦人は叫んだ。立ちあがると目をまるくしてマックスウェルを見つめた。
「ぼくのいうことがわかりませんか?」マックスウェルは執拗《しつよう》に言いはった。「ぼくと結婚してください。ぼくはあなたを愛しています、レズリーさん。このことを言いたいと思って、仕事の合間のちょっとしたすきを見て抜《ぬ》けだしてきたんです。もう、あんなに電話がじゃんじゃんかかっています。ちょっと待ってもらってくれないか、ピッチャー。いかがですか、レズリーさん?」
速記者は世にも不思議なそぶりを見せた。はじめは、あっけにとられていたが、やがてその驚いている目から涙《なみだ》があふれだした。それから晴れやかな微笑をうかべ、株式仲買人の首に、やさしく片方の腕をまわした。
「やっとわかったわ」と、やさしく彼女は言った。「このお仕事をしていらっしゃるうちに、しばらくのあいだ、すっかりほかのことを忘れておしまいになったのね。はじめは、わたし、びっくりしましたわ。お忘れになったの、ハーヴェイ? わたしたちは昨夜八時に『角の小さな教会』で結婚したのよ」
(The Romance of a Busy Broker )
黄金の神と恋《こい》の射手
ロックウォール・ユーリカ石鹸《せっけん》会社の前工場主であり、前経営者であるアンソニイ・ロックウォール老人は、五番街にある邸宅《ていたく》の書《しょ》斎《さい》の窓から外を眺《なが》めて苦笑した。右隣《みぎどなり》の住人――貴族クラブの会員のG・ヴァン・シュイライト・サフォーク・ジョーンズ――が、待たせてあった自動車のほうへ出てくると、いつものように、石鹸御《ご》殿《てん》の正面玄関《げんかん》にあるイタリア・ルネッサンス風の彫像《ちょうぞう》に向って、せせら笑うように鼻に皺《しわ》をよせたからである。
「生意気な老いぼれめ! なにもできぬデクの坊《ぼう》のくせに!」と前石鹸王はこきおろした。「あのお高くとまった老いぼれ貴族め、気をつけないとそのうちエデン博物館に入れられてしまうぞ。来年の夏には、わしのこの家を赤と白と青に塗《ぬ》り変えて、あの老いぼれのオランダ鼻が、いくらかでもそりかえるかどうか見てやるぞ」
それから、呼鈴《よびりん》が嫌《きら》いなアンソニイ・ロックウォールは、書斎の扉《と》口《ぐち》のところまで行って、かつてカンザスの大草原で大空を粉みじんに吹《ふ》きとばしたことのある例の大音声《だいおんじょう》で「マイク!」とどなった。
「せがれに言ってくれ」と、アンソニイは出てきた召使《めしつかい》に言った。「出かける前に、ちょっとここへくるようにとな」
ロックウォール青年が書斎へはいってくると、老人は新聞をわきへやり、大きな、ひげのない、あから顔に、愛情をこめたきびしさを浮《うか》べて、彼《かれ》を見やり、一方の手で、もじゃもじゃの白髪頭《しらがあたま》をかきまわし、もう一方の手でポケットのなかの鍵《かぎ》をがちゃがちゃいわせた。
「リチャード」とアンソニイ・ロックウォールは言った。「お前が使っとる石鹸の値段は、いくらかね?」
大学を卒業してから、まだやっと六カ月にしかならないリチャードは、ちょっとめんくらった。彼は、いまだにこのおやじの性質が本当にはわかっていなかったのである。はじめてパーティに出た小娘《こむすめ》のように、思いがけないことばかりなのだ。
「一ダース六ドルだと思います、お父さん」
「では、お前の服は?」
「大体、六十ドルぐらいでしょうか」
「お前は紳《しん》士《し》なんだぞ」アンソニイは、きっぱりと言った。「近ごろの元気のいい若者のなかには石鹸一ダースに二十四ドルもつかったり、服装《ふくそう》に身分不相応の金をかけたりするやつがおるそうだが、お前は、そういう連中に劣《おと》らぬくらい使える金をもっておりながら、やけに質素で、つつましいものばかり使っておるじゃないか。もっとも、わしも、うちでつくっている昔《むかし》からのユーリカを使っているがね――これは人情からばかりでなくて、これが一番純粋《じゅんすい》な石鹸だからじゃ。一個十セント程度の石鹸では、香料《こうりょう》もレッテルも、ろくでもないものにきまっとる。お前の年齢《ねんれい》で、お前のような地位と身分の若者には、一個五十セントというのが、まず手《て》頃《ごろ》じゃろう。いまもいうたように、お前は紳士なんじゃ。紳士をつくるには三代かかるということじゃが、それはまちがいじゃ。石鹸の脂《あぶら》と同じように金が紳士をつくりあげるのじゃ。お前を紳士にしてくれたのも金じゃ。そうとも! 金は、もうちょっとで、わしまで紳士にしようとしたのじゃ。わしは、うちの両隣のあの二人の老いぼれニッカーボッカー紳士と同じくらい、粗《そ》暴《ぼう》で、不作法で、つきあいにくい人間じゃが、あいつ共の間に家を買ったものだから、あの二人は夜も眠《ねむ》ることができんのじゃよ」
「金でできないことだってありますよ」いくぶん憂鬱《ゆううつ》そうにロックウォール青年は言った。
「ばかなことをいうもんじゃない」おどろいてアンソニイ老人は言った。「わしが金を賭《か》けるのは、つねに金にじゃ。金で買えないものがあるかと思って、わしは百科辞典をYのところまで全部調べてみたんじゃ。来週は増補版を調べなければなるまいと思っとる。どんなものを敵にまわしても、わしは金に味方する。金で買えぬものがあるなら言ってみるがいい」
「まず第一に」と、いささか中っ腹になってリチャードは答えた。「上流社会の社交界にはいる資格は金では買えません」
「なに! 金で買えないって?」金権の擁《よう》護《ご》者《しゃ》はどなった。「もし初代のアスターが大西洋を渡《わた》る三等の船賃をもっていなかったら、どだい、お前のいう上流社会の社交界などは存在しなかったじゃろう」
リチャードは溜息《ためいき》をついた。
「わしが言おうとしていたのは、そのことなんじゃ」前よりもすこし静かな声になって老人は言った。
「お前を呼んだのも、そのためじゃ。お前はどこか具合のわるいところがあるんじゃないのか? わしは二週間ほど前から、そのことに気がついておったのじゃ。いうてみるがいい。わしは不動産のほかに、二十四時間以内に一千百万ドル握《にぎ》ることだってできるのじゃ。心の病いにでもやられているのなら、ランブラー号が石炭を積みこんで、あと二日でバハマ諸島へ出航できる準備をととのえて、いま湾内《わんない》に錨《いかり》をおろしておる」
「まんざら見当ちがいでもありません、お父さん。当らずといえども遠からずです」
「そうか」アンソニイは、すかさず言った。「ところで、その娘の名は?」
リチャードは書斎の床《ゆか》の上を行ったりきたりしはじめた。この無骨な年老いた父親にも、息子《むすこ》の信頼《しんらい》を引きつけるだけの肉親の愛と思いやりがあった。
「なぜその娘に申しこんでみないのじゃ?」アンソニイ老人はたずねた。「お前なら相手はとびついてくるじゃろう。金はあるし、男っぷりもいいし、それに上品な若者じゃからな。手もきれいにしておる。ユーリカ石鹸なんぞ使っておらんからな。大学にも行ったが、娘にしてみれば、そんなことは、どうでもいいのではないかな」
「機会がなかったんです」とリチャードは言った。
「機会をつくるんじゃよ」とアンソニイは言った。「公園へ散歩に誘《さそ》うとか、馬車で遠出をするとか、教会の帰りに家まで送ってやるとか。機会だと? ばかばかしい!」
「お父さんは社交界という水車を知らないんです。その娘さんは、水車をまわしている流れの一部なんです。彼女《かのじょ》の時間は一時間、一分まで、何日も前から、あらかじめ予定がきまっているんです。でもぼくは、どうしてもあの娘と結婚《けっこん》したいんです、お父さん。さもなければ、この町は永遠にどす黒い泥沼《どろぬま》です。でも、手紙でそんなこと書けやしません――ぼくには、そんなことはやれないんです」
「ちえッ!」と老人は舌うちした。「わしのもっている全財産をもってしても、一人の小娘の一時間か二時間をお前のものにすることができないというのか?」
「ぐずぐずしているうちに機会を逃《のが》してしまったんです。彼女は、明後日の正午、二年間滞在《たいざい》の予定で、ヨーロッパへ出帆《しゅっぱん》することになっているんです。二人きりで会えるのは、明日の晩、ほんの四、五分間だけなんです。いま彼女は、ラーチモントの伯母《おば》さんの家にいるんですが、ぼくは、そこへは行けないのです。でも明日の晩八時半の汽車でグランド・セントラル・ステーションに着く彼女を馬車で迎《むか》えに行くことは許されています。ぼくたちはブロードウェイを馬車を走らせてウォラックス座へ駆《か》けつけるのですが、そこでは、あのひとのお母さんや同じボックス席の人たちがロビーでぼくたちを待っているんです。そういう事情のもとにある七分か八分のあいだに、あのひとがぼくの愛の告白に耳をかたむけてくれると思いますか? だめですよ。それに、劇場や、そのあとでも、どんな機会があるでしょう? 全然ありませんよ。お父さん、これこそ、いくらお父さんの金でも解きほぐすことのできないもつれなんです。金では一分の時間だって買うことができません。もし買えるものなら、金持は、もっと長生きしているでしょう。いまとなっては、出帆する前に、ミス・ラントリーと話のできる見込《みこ》みは全然ありません」
「わかったよ、リチャード」とアンソニイ老人は、ほがらかに言った。「さあ、クラブへでも行ってくるがいい。肝臓《かんぞう》の病気でなくてよかった。だが、たまにはお寺でマズマ大明神(金の神)にお線香をあげるのを忘れるんじゃないぞ。金では時間は買えぬとお前はいうんだな? さよう、もちろん、いくら金を出しても、無限の時間を紙にくるんで自宅へ配達してくれと注文するわけにはいくまい。だが、わしは『時』のおじさんが金鉱を歩きまわっているうちに踵《かかと》に石でひどい切り傷をつくっているのを見たことがあるぞ」
その夜、しとやかで、涙《なみだ》もろくて、皺《しわ》だらけで、溜息ばかりついていて、財産の重みに押《お》しつぶされそうになっているエレン叔母《おば》が、夕刊を読んでいる兄のアンソニイ老人のところへやってきて、恋するものの悩《なや》みという題目について講釈をはじめた。
「その話は当人からすっかり聞いたよ」あくびをしながらアンソニイは言った。「わしの当座預金は、全部自由に使ってよいと言ってやったよ。そしたら、あいつは金の悪口を言いはじめた。金なんぞ何の役にも立たんとぬかしおった。社交界の掟《おきて》は十人の百万長者が束《たば》になってぶつかったところで一ヤードも攻《せ》めこむことはできぬと、ぬかしおった」
「まあ、アンソニイ」とエレン叔母さんは溜息をついた。「お金の力を、そんなに重く考えるのはどうかと思いますわ。まことの愛に関するかぎり、財産なんて何の役にも立ちません。愛は全能ですわ。あの子が、もうすこし早く話してくれていたらよかったのに。相手のお嬢《じょう》さんだって、うちのリチャードをことわることはできなかったと思いますわ。でも、いまとなっては、もう手おくれかもしれませんね。その方に話しかける機会は、もうないでしょうからね。いくら財産があっても、息子に幸福をもたらすことは、もうできないでしょう」
翌日の夜八時にエレン叔母は、虫の食った小《こ》箱《ばこ》から、風変りな古めかしい黄金の指輪をとり出して、それをリチャードにあたえた。
「今夜はそれをはめて行っておくれ、リチャード」と彼女はたのんだ。「あなたのお母さまが、わたしにくだすったものですよ。愛の幸運をもたらしてくれる指輪だとおっしゃっていたわ。お母さまは、あなたが愛する人を見つけたときに、これをあなたに渡すようにと、わたしにおっしゃったのよ」
ロックウォール青年は、うやうやしくその指輪をうけとって、いちばん小さい指にはめようとした。指輪は第二関節のところまではいったが、そこでとまってしまった。彼はそれを抜《ぬ》きとると、男性の作法にしたがって、チョッキのポケットにしまった。それから電話で馬車をよんだ。
八時三十二分に、駅で、ぺちゃくちゃしゃべり立てている群集のなかから、彼はミス・ラントリーを見つけだした。
「母や、ほかの方々を待たせておくわけにはいきませんわ」と彼女は言った。
「できるだけ急いでウォラックス座までやってくれ」と忠実にもリチャードは馭者《ぎょしゃ》に命じた。
馬車は四十二番街をブロードウェイに向って矢のように疾走《しっそう》し、ついで静かな落日の牧場から、朝日ののぼる岩の丘《おか》へと通じる、あの白い星のきらめく小《こう》路《じ》を飛ぶように走って行った。
三十四番街にさしかかったとき、リチャード青年は、あわてて馬車の引き窓を押しあけると、馭者に車をとめるようにと言いつけた。
「指輪を落したんです」馬車から出ながら彼は弁解した。「母の形見なので、なくしたくないんです。たいしてお手間はとらせません――落ちた場所はわかっているんですから」
一分もしないうちに彼は指輪をもって馬車のなかへ戻《もど》ってきた。
ところが、その一分のあいだに、一台の電車が馬車のまん前にとまっていた。馭者は電車の左へ抜けようとした。すると大きな荷物配達車が行手をふさいだ。右へ抜けようとすると、そんなところに何の用もないはずの家具運搬車《うんぱんしゃ》がいるので、また後もどりしなければならなくなった。後もどりしようとすると、今度は手《た》綱《づな》を落してしまった。そこで馭者は、自分の役《やく》目《め》柄《がら》、口汚《くちぎた》なく悪態をついた。馬車は、車と馬のごちゃごちゃの混乱のなかにとじこめられてしまった。
大都会のなかで、ときどき、まったく突然《とつぜん》に車馬の往来や交通をとめてしまう、あの道路の閉塞《へいそく》が、いま突如《とつじょ》として起ったのである。
「なぜ馬車を走らせないの?」いらいらしてミス・ラントリーが言った。「おくれてしまうわ」
リチャードは馬車のなかで立ちあがって、あたりを見まわした。すると、ブロードウェイと六番街と三十四番街とが交差している広小路に、まるでバスト二十六インチの娘が二十二インチのコルセットにしめつけられているように、荷馬車やトラックや辻《つじ》馬《ば》車《しゃ》や荷車や電車がひしめきあっていた。しかもなお車の群れは、あらゆる横町から、この集合地点をめざしてフルスピードで騒々《そうぞう》しく走りこんできて、押しあいへしあいしている集団のなかへ飛びこみ、車輪は動きがとれなくなり、馭者や運転手たちのどなる声が、ますます喧《けん》騒《そう》を大きくした。マンハッタンの交通のすべてが、彼らのまわりで、にっちもさっちもいかなくなったようであった。歩道にならんで見物していた数千人の弥次《やじ》馬《うま》のなかの最年長のニューヨーク市民でも、これほど大規模の交通閉塞は、いまだかつて見たためしがなかった。
「ほんとうにすみません」座席にもどってリチャードは言った。「これではまるで立往生です。一時間ぐらいでは、この混乱は解消しそうもありません。ぼくが悪かったんです。ぼくが指輪を落しさえしなければ、ぼくたちは――」
「その指輪、ちょっと見せてくださいません?」とミス・ラントリーは言った。「どうにもしようがないんですもの、かまいませんわ。どのみち、お芝《しば》居《い》だって、つまらないでしょうから」
その夜十一時に、何者かがアンソニイ・ロックウォールの部屋のドアをかるくノックした。
「おはいり」赤い部屋着を着て海賊《かいぞく》の冒険《ぼうけん》物語を読んでいたアンソニイがどなった。
その何者かは、エレン叔母だった。彼女は、あやまって地上に残された白髪の天使のような顔をしていた。
「二人は婚約しましたよ、アンソニイ」と、彼女は静かに言った。「あのお嬢さんがリチャードと結婚の約束をなさったんです。劇場へ行く途中《とちゅう》、道がふさがれてしまって、二人の馬車がそこから抜け出すまでに二時間もかかったんですよ。
「それで、ねえ、アンソニイ兄さん、もう二度とお金の威力《いりょく》の自《じ》慢《まん》はやめてくださいよ。結局、真実の愛を象徴《しょうちょう》する小さな指輪――お金なんかにかかわりのない、永遠の愛を象徴する小さな指輪――それが、うちのリチャードが幸福を見つけるもとになったんですからね。リチャードは、指輪を道へ落したので、拾いあげるために馬車をおりたんです。そして、馬車へもどって、まだ動きださないうちに、道がふさがってしまったんです。馬車がすっかりとりかこまれているあいだに、リチャードは愛をうち明けて、お嬢さんの心をつかんでしまったのです。真実の愛にくらべたら、お金なんて、まるで屑《くず》ですわ、アンソニイ」
「よし、わかった」とアンソニイ老人は言った。「あの子が、ほしいものを手に入れることができて、わしもうれしい。わしは、あれにいうてやったんじゃ、このことについては、わしは決して出費を惜《お》しまんから、もし――」
「でも、アンソニイ兄さん、兄さんのお金が、どんな役に立ちましたの?」
「妹や」アンソニイ・ロックウォールは言った。「わしが読んどるこの本のなかの海賊は、いま最後のどたん場に追いつめられている。ちょうど船に大穴をあけられたところじゃが、しかしこの男はよくよく金の値うちを心得ておるから、おめおめ溺《でき》死《し》させられることもなかろう。頼《たの》むからわしにこの章のつづきを読ませてくれんか」
この物語は、ここで終るべきであろう。これをお読みになっている読者と同様に、作者も心からそう望むものである。だが、われわれは真実のためには、井戸《いど》の底まで探《さぐ》らなければならない。
翌日、赤い手をして、青い水玉模様のネクタイをしめたケリーと名のる男が、アンソニイ・ロックウォール家を訪ねてきて、すぐさま書斎へ通された。
「さて」小切手帳へ手をのばしながらアンソニイは言った。「だいぶ上首尾《じょうしゅび》だったようじゃな。ところで――お前には現金で五千ドル渡しておいたのだったな?」
「あっしは自分のふところから、もう三百ドル立てかえておきました」とケリーは言った。「どうしても予算からすこし足が出ちまったんですよ。荷物配達車や辻馬車は、たいてい五ドルで話がつきやしたが、トラックと二頭立ての馬車は、十ドルまで値をせり上げてきやがったんです。それに電車の運転手も十ドルよこせというし、荷を積んだ車のなかには二十ドルよこせとぬかす奴《やつ》がおりやしてね。ポリ公が一番ひどく吹《ふ》っかけてきやがって、二人には五十ドル――あとの連中には二十ドルか二十五ドル払《はら》ってやりました。だけど、うまくいったじゃねえですかね、ロックウォールの旦《だん》那《な》。警察官のウィリアム・A・ブレディが、あの往来でのちょいとした車馬騒動の場面に乗り出してこなかったのは、なんといっても幸運でしたよ。やっこさんが仕事熱心のために心臓を破《は》裂《れつ》させるようなことは、あっしだって、望ましくねえですからね。しかも、稽《けい》古《こ》なしのぶっつけ本番なんですぜ!それにしちゃ、あの連中も、一分一秒たがえず、よくちゃんと間に合わせてくれやしたよ。あれから二時間というもの、あのグリーレイの銅像の下から、蛇《へび》一匹《ぴき》、這《は》い出せなかったんですからね」
「千三百ドル――そら、ケリー」小切手を切りながらアンソニイは言った。「お前の取前《とりまえ》千ドルと立てかえ分の三百ドルじゃ。お前は金を軽蔑《けいべつ》するようなことはないじゃろうな、ケリー?」
「あっしがですかい?」とケリーは言った。「貧乏《びんぼう》を発明した野郎をぶんなぐってやりてえくらいでさ」
ケリーがドアのところまで行ったとき、アンソニイは呼びとめた。
「お前は気がつかなかったかね?」と老人は言った。「交通が混乱したとき、どこかで、すっ裸《ぱだか》のふとった坊《ぼう》やみたいなのが、しきりに弓で矢を放っていたのを」
「いや、見かけませんでしたね」と、煙《けむ》にまかれたような顔つきでケリーは言った。「もし、おっしゃるようなすっ裸の小《こ》僧《ぞう》がいたら、あっしがあそこへ着くまでに、ポリ公がふんじばっていますよ」
「わしも、そんなちんぴら小僧がいるはずはないと思っとったよ」アンソニイは、くすりと笑った。「ご苦労じゃったな、ケリー」
(Mammon and the Archer )
桃源境《とうげんきょう》の短期滞在《たいざい》客《きゃく》
避《ひ》暑《しょ》地《ち》の開発者たちからお目こぼしにあずかっているホテルが一軒ブロードウェイにある。そこは奥《おく》深くて、広々としていて、とても涼《すず》しい。どの部屋も、ひんやりとした感じの黒ずんだオーク材で仕上げてある。人工の微《び》風《ふう》と深緑色の植《うえ》込《こ》みとが、アディロンダックスのような不便なところまで出かけずとも、そこと同じような気持よさをこのホテルにあたえている。
人は、真鍮《しんちゅう》ボタンのボーイに案内されて、ゆったりした階段をあがるなり、あるいはずっと高所までエレベーターに乗って夢《ゆめ》みるようにあがるなりすれば、アルプスの登山家といえどもいまだ味わえぬような、すがすがしいよろこびを味わうことができる。そこの料理場のコック長は、ホワイト・マウンテンでも食べられぬようなすばらしい姫鱒《ひめます》だの、オールド・ポイント・カンフォートをすらうらやましがらせるような――「ほんとですよ!」――魚介《ぎょかい》類だの、狩猟監督官《しゅりょうかんとくかん》の融通《ゆうずう》のきかぬ役人根性をもやわらげるようなメイン産の鹿《しか》肉《にく》などを準備してくれる。
砂《さ》漠《ばく》のような七月のマンハッタンに、このオアシスを発見した人は、きわめてすくない。七月中は、ホテルの滞在客が、めっきりと減り、その高《こう》雅《が》な食堂の涼しい夕明りのなかに、贅沢《ぜいたく》にあちらこちらに散らばって、雪原のような白いテーブルクロスをかけた人《ひと》気《け》のないテーブルごしに、黙《だま》って幸運を祝しあいながら、たがいに目と目を見かわす光景が見られる。
注意深く風のように動くありあまるほどの給仕《きゅうじ》たちが近くをうろついていて、こちらで頼《たの》みもしないうちに、どんな要求でも満たしてくれる。温度は、つねに四月である。天井《てんじょう》は水彩《すいさい》画《が》で夏空に似せて描《えが》かれていて、自然の雲とはちがって消え去る気づかいのないやわらかい雲が漂《ただよ》っている。
ブロードウェイのはるかなざわめきも、幸福な客たちの空想のなかでは、やすらかな音で森をみたしている滝《たき》の音に変る。聞きなれぬ足音がするたびに、客たちは不安げに耳をそばだてる。それはどんな自然の奥深いところへでも、つねに休むことなく休息の場を追い求める騒々《そうぞう》しい人たちのために、自分たちの憩《いこ》いの場が発見され侵入《しんにゅう》されるのを怖《おそ》れているからだ。
このようにして、人気のすくないこの隊商宿に、鑑識眼《かんしきがん》の高い少数の一団が、あたりを警戒《けいかい》しながら、炎暑《えんしょ》のあいだ身をひそめ、人工の技術と熟練とが提供してくれる山や海のよろこびを、心ゆくまで楽しむのである。
この七月のさなかに、このホテルへ一人の客が訪《おとず》れた。名前を記帳するためホテルのクラークにさし出された名刺《めいし》には「マダム・エロイーズ・ダーシー・ボーモン」と書いてあった。
マダム・ボーモンは、ホテル・ロータスが歓迎《かんげい》したがる客の一人であった。ホテルの従業員たちを即《そく》座《ざ》に奴《ど》隷《れい》にしてしまうような、優雅なものごしに、その気品のある姿が、さらにしとやかさと美しさとを添《そ》えていた。ボーイたちは彼女《かのじょ》のベルにこたえる名《めい》誉《よ》を獲得《かくとく》しようと競《きそ》い合った。クラークたちは、所有権の問題さえなければ、このホテルを中身ごとそっくり彼女に譲《ゆず》り渡《わた》したいほどだった。他の客たちにしても、女性らしい孤《こ》高《こう》と美によって、この雰《ふん》囲気《いき》を非のうちどころのないものに仕上げるための最後の一刷毛《はけ》と彼女をみなしていた。
この比類まれな滞在客は、めったに外へ出なかった。彼女の生活ぶりは、このホテル・ロータスの鑑識眼高き常連たちのそれと、完全に調和していた。この快適な宿を楽しむためには、何マイルも遠くからきているようなつもりで、街というものを捨ててかかる必要がある。夜になって、近くの家にちょっと出かけるくらいのことはかまわないが、灼熱《しゃくねつ》の日中は、鱒が気に入った池の清澄《せいちょう》な憩いの場所にじっとひそんでいるように、ロータスの陰《かげ》多き要塞《ようさい》に引きこもっているものなのである。
ホテルでは一人暮《ぐら》しだったが、マダム・ボーモンは、十分に女王の威《い》厳《げん》を保っていた。その孤高は、高貴な身分からくるものにちがいなかった。彼女は十時に朝食をとった。そのときの彼女の姿は、すがすがしく、優美で、ゆったりとしていて、黄昏《たそがれ》に咲《さ》くジャスミンの花のように、ほの明るく、やわらかく輝《かがや》いていた。
けれども晩餐《ばんさん》のときになると、マダムの輝かしさは、まさに絶頂に達した。彼女は山峡《さんきょう》の人目につかぬ瀑《ばく》布《ふ》から立ちのぼる霧《きり》にも似た、美しく夢《む》幻《げん》的なガウンをまとってあらわれた。このガウンが、どんな名称のものであるのか、筆者も推量することができない。レースで飾《かざ》られた胸《むな》もとには、いつも淡紅色《たんこうしょく》の薔薇《ばら》が憩っていた。それは給仕長が畏《い》敬《けい》の思いをこめて眺《なが》め、入口に進み出て迎《むか》えるようなガウンであった。それを目にしたなら、諸君は直ちにパリを思いだすであろう。そして、おそらくは神秘的な伯爵《はくしゃく》夫人を、それからまたヴェルサイユ宮殿《きゅうでん》を、決闘《けっとう》用の長剣《ちょうけん》を、名女優ミセス・フィスクを、それからルージュ・エ・ノアールを思いだすであろう。マダムは世界を股《また》にかける国際人で、ロシアのために、その白い華奢《きゃしゃ》な手で国際間の幾本《いくほん》かの糸を操《あやつ》っているのだ、という出所不明の噂《うわさ》がホテル・ロータスに流れていた。夫人が、自由に世界じゅうを旅行している婦人であるならば、夏の盛《さか》りの暑い期間、静かに滞在するには、このホテル・ロータスの優雅な一郭《いっかく》こそアメリカじゅうで最も望ましい場所だと、目ざとくも見てとったとしても、すこしも不思議ではあるまい。
マダム・ボーモンがこのホテルに滞在して三日目に、一人の青年がやってきて宿帳に名を書きこんだ。服装《ふくそう》は――ありきたりの順序で彼《かれ》の特徴《とくちょう》をいうと――ひかえめながら流行に即していた。容貌《ようぼう》は端正《たんせい》で、表情は世なれた如才《じょさい》のない人間のそれであった。彼はクラークに三、四日滞在すると言い、欧洲《おうしゅう》航路の出航日についてたずね、気に入ったホテルへやってきた旅行者の満足げな様子で、このたぐいまれなホテルの、こころよい閑寂《かんじゃく》のなかに身を沈《しず》めた。
青年は――記帳の真実性を疑わなければ――ハロルド・ファーリントンといった。彼はロータスの孤高を楽しむ静かな生活の流れのなかへ、巧《たく》みに音もなくすベりこんできたので、休息を求める同宿人たちを驚《おどろ》かすような小波《さざなみ》一つ立てなかった。彼もこのロータスで、蓮《はす》の実を食べ、他の幸福な航海者たちと共に楽しいやすらぎの世界に誘《さそ》いこまれたのであった。一日にして早くも彼は専用のテーブルと給仕とを手に入れ、ついでに、ブロードウェイを暑苦しくさせている例の休養渇望症《かつぼうしょう》の患者《かんじゃ》どもが、この手近にあって人目につかぬ停泊所《ていはくじょ》に押《お》しよせてきてめちゃくちゃにするのではないかという心配までも手に入れてしまった。
ハロルド・ファーリントンがやってきたつぎの日の夕食後、マダム・ボーモンは食堂から出て行きしなに、ハンカチを落した。ファーリントン氏は、交際を求めたがるようなそぶりはすこしも示さず、それを拾って夫人に渡した。
おそらく、ロータスのこの見識の高い客たちのあいだには、ある種の神秘的な連帯感情があったのであろう。おそらく、ブロードウェイの一ホテルに完璧《かんぺき》の避暑地を発見できたという共通の幸運によって、たがいに共感するものをもっていたのであろう。比類なく丁《てい》重《ちょう》でありながら、しかも固苦しさから抜《ぬ》け出そうという言葉づかいが二人の間にかわされた。そして本物の避暑地のあの便《べん》宜《ぎ》的な雰囲気のなかでのように、ここでも一つの交際が生れると、それは魔術《まじゅつ》師《し》の神秘な草のように、立ちどころに生長し、花を咲かせ、実を結んだ。二人は、しばらくのあいだ、廊《ろう》下《か》の行きどまりにあるバルコニーに立って、軽い会話のボールを投げあっていた。
「ありきたりの避暑地にはうんざりしますわ」かすかな、やさしい微笑を浮《うか》べてマダム・ボーモンが言った。「騒々しさや埃《ほこり》っぽさを逃《のが》れるために山や海岸へ出かけても、なんにもなりませんわ。騒々しさや埃っぽさをつくり出す人たちが、あとから追いかけてくるのですもの」
「大海原《おおうなばら》の只中《ただなか》でさえ」とファーリントンは嘆《なげ》かわしげに言った。「俗物どもがつきまといます。豪《ごう》華《か》船《せん》でさえ渡し船とあまり変らぬものになってきています。このロータスがサウザンド諸島やマッキノーよりもはるかにブロードウェイから隔絶《かくぜつ》していることを避暑客たちが発見したら、それこそもうおしまいですよ」
「ともかく、わたしどものこの秘密の別天地が、あと一週間無事であってくれればと思いますわ」吐《と》息《いき》と微笑をもらしながらマダムが言った。「あのような連中が、このすばらしいロータスへ押しかけてきたら、わたくし、どこへ行ったらよろしいかわかりませんわ。夏こんなに楽しくすごせるところは、わたくし、ほかに一カ所しか存じません。それはウラル山脈のポリンスキー伯爵のお城ですわ」
「バーデン・バーデンやカンヌも、この季節には、すっかりさびれているそうですね」とファーリントンが言った。「ああいう古くからの避暑地は、年々人《にん》気《き》がなくなりますね。たぶん、われわれと同じように、多くの人が見のがしている静かな憩いの場を求めている人が、ほかにもたくさんいるのでしょう」
「わたくしは、ここでのこの気持のよい休息を、あと三日間とることにしておりますの」とマダム・ボーモンは言った。「月曜日にはセドリック号が出帆《しゅっぱん》しますので」
ハロルド・ファーリントンの目には失望の色がうかんだ。「私も月曜日には発《た》たなければなりません」と彼は言った。「外国へ行くわけではありませんが」
マダム・ボーモンは、外国流の身ぶりで、片方のまるい肩《かた》をすくめた。
「どんなに魅力《みりょく》がございましても、いつまでもここにかくれているわけにはまいりませんわ。お城《シャトー》では一と月以上も前から、用意をととのえて、わたくしが行くのを待っていますのよ。また宿泊つきのパーティをしなければなりませんし、本当にわずらわしいことですわ。でも、このホテル・ロータスでの一週間を、わたくし、決して忘れませんわ」
「私も忘れません」とファーリントンは低い声で言った。「私はあなたをつれ去るセドリック号を恨《うら》みますよ」
それから三日後の日曜日の夕方、二人は同じバルコニーで小さなテーブルに向って腰《こし》をおろしていた。気のきいた給仕が氷と小さなグラスに入れたクラレット・パンチを運んできた。
マダム・ボーモンは毎日晩餐のときに着るのと同じ美しいイヴニング・ガウンを着ていた。彼女は、もの思いに沈《しず》んでいるようであった。テーブルの上にのせた彼女の手のそばに、小さなベルト飾りの鎖《くさり》のついた財《さい》布《ふ》があった。つめたい飲物を飲みおわると、彼女は財布を開いて一ドル紙《し》幣《へい》を取り出した。
「ファーリントンさん」ホテル・ロータスを魅了《みりょう》し去ったあの微笑を浮べてマダムは言った。「わたくし、あなたにお話したいことがございますの。明朝は、朝食の前に、ここを出るつもりです。自分の仕事に戻《もど》らなくてはならないからですわ。わたくしはキャセイのマンモス百貨店で靴下《くつした》売場で働いていますのよ。わたくしの休暇《きゅうか》は明日の朝八時で終りますの。この紙幣は、来週の土曜日の夜、八ドルの給料をいただくまでは、わたくしが持っている最後のお金ですわ。あなたは本当の紳《しん》士《し》でいらっしゃるし、わたくしに、とてもやさしくしてくださいました。ですから、ここを引き上げる前に、ぜひお話しておきたかったのです。
「わたくしは、この休暇のために、一年のあいだ、給料のなかから貯金してきましたの。二週間は望めなくても、せめて一週間だけ、貴婦人のようにすごしてみたかったのです。毎朝七時に寝《ね》床《どこ》から這《は》いださなければならない代りに、自分の好きなときに起きてみたかったのです。そして、お金持がするように、一番上等のご馳《ち》走《そう》を食べ、給仕にかしずかれ、ベルを鳴らして用事を言いつけたかったのです。いま、その望みは、かなえられました。一生のうちで一度は経験したいと望んでいた最も幸福な時をすごすことができました。これからわたしは自分の仕事と小さな安貸間に戻って、向う一年間は満足な気持で暮します。わたしは、このことをあなたにお話したかったのですわ、ファーリントンさん。というのは、わたし――わたし、あなたがわたしを嫌《きら》ってはいらっしゃらないと思ったし、それに、わたしは――わたしは、あなたをお慕《した》いしていたからですわ。でも、ああ、いまのいままで、わたしは、あなたに嘘《うそ》をついていなければなりませんでした。だって、何もかも、まるでおとぎ話のようだったのですもの。それで、ヨーロッパのことだの、本で読んだ外国のことなどをお話しては、自分が上流階級の貴婦人であるかのようにあなたに思わせていたのですわ。
「いま着ていますこのドレスも――人前に着て出られるのは、これ一枚しかないのですけれど――オドウド・アンド・レヴィンスキーの店から月《げっ》賦《ぷ》で買ったのですわ。
「値段は七十五ドルでしたわ。寸法をとって仕立ててもらったのです。即金で十ドル払《はら》い、残りは週に一ドルずつ集金にきますの。わたしがお話したかったのは、大体これで全部ですわ、ファーリントンさん。それから、わたしの名前が、マダム・ボーモンではなくて、マミー・スィヴィターだということを申しあげます。いろいろと親切にしていただいて、ありがとうございました。この一ドルは明日ドレスの月賦の支払いにあてます。では、部屋へ引きとらせていただきますわ」
ハロルド・ファーリントンは、冷静な顔つきで、ロータスで最も美しい婦人客のうち明け話に耳を傾《かたむ》けていた。彼女が話し終えると、彼は上着のポケットから小切手帳のような小型の手帳をとり出した。そして、その記入欄《きにゅうらん》に、ちびた鉛筆《えんぴつ》で何やら書きこむと、その一枚を引きさいて、相手にさし出した。それから一ドル紙幣をとった。
「ぼくも、明朝は仕事に出なければならないんです」と彼は言った。「でも、いまからはじめてもかまわないと思うんです。これは一ドルの月賦の受領書です。ぼくは、もう三年もオドウド・アンド・レヴィンスキーの店の集金係をしているんです。ぼくたちが二人とも休暇をすごすのに同じ方法を思いついたとは、まったく愉《ゆ》快《かい》じゃありませんか。かねがねぼくは、一度すばらしいホテルに泊《とま》ってみたいと思っていたんです。それで、週二十ドルの給料から貯金して、それを実行してみたんです。ねえ、マミーさん、土曜日の夜、ボートでコニイヘ行きませんか――いかがですか?」
にせのマダム・エロイーズ・ダーシー・ボーモンの顔は輝いた。
「まあ、きっと行きますわ、ファーリントンさん、土曜日でしたら、お店は十二時に終りますから。わたしたち、ここで一週間上流階級の人たちとすごしましたけれど、コニイもわるくないと思いますわ」
バルコニーの下では、うだるように暑い町が七月の夜の中で唸《うな》ったりざわめいたりしていた。ホテル・ロータスのなかでは、適度に調節された涼しい陰があたりを支配し、気のきいたボーイが、顎《あご》でちょっと合図されたら、いつでもすぐにマダムとその護衛者にサービスしようと、低い窓のあたりをゆるやかに歩きながら待機していた。
エレベーターの入口でファーリントンは別れを告げた。マダム・ボーモンが、この宿で「上昇」するのは、これが最後だった。しかし二人が音もなく動くエレベーターの箱《はこ》に行きつく前に彼は言った。
「ハロルド・ファーリントンという名前はもう忘れてくれませんか――マクマナスというのが本名なんです――ジェームズ・マクマナス。なかにはジミーとよぶやつもいますがね」
「おやすみなさい、ジミー」とマダムは言った。
(Transients in Arcadia)
馭者《ぎょしゃ》台《だい》から
馭者には馭者の意見がある。それはおそらく他の職業に従事している人間の意見よりも、ずっと純真なのではあるまいか。馬車《ハンサム》の高いゆれ動く馭者台から、彼《かれ》は、放浪《ほうろう》の欲望にとりつかれているような人間は別として、乗客を、どれもこれもとるに足りない遊牧民ででもあるかのようにみなして、人間どもを見おろすのである。彼はエヒウであり、乗客は輸送中の品物なのだ。かりにそれが大統領であっても、あるいは放浪者であっても、馭者にとっては単に料金を払《はら》う客にすぎないのである。彼は客を拾いあげ、鞭《むち》をぴしりと鳴らし、客の背骨をゆさぶり、そして客をおろす。
料金を支払う段になって、規定の料金を知《ち》悉《しつ》しているような態度を見せたりすると、どのような軽蔑《けいべつ》が待ちかまえているか、思い知らされるだろう。財《さい》布《ふ》を忘れて乗ったりしようものなら、ダンテの想像力もまだ甘《あま》いものだと思い知らされるにちがいない。
馭者の意見が単純であり、その人生観が卑《ひ》小《しょう》であるのも、つまりは馬車の構造の結果であると言っても、あながち突《とっ》飛《ぴ》な理《り》屈《くつ》とも申されまい。この棲木《とまりぎ》の上の雄鶏《おんどり》氏は、ひとり占《じ》めの座席にジュピターのごとく空高く坐《すわ》り、二本の気まぐれな革紐《かわひも》のあいだに乗客の運命を握《にぎ》っているのだ。乗客は、どうするすべもなく、ばかみたいに閉じこめられ、支那《しな》服《ふく》の首ふり人形のようにぴょこんぴょこんゆれながら、罠《わな》にかかったネズミのように坐っているだけなのだ――固い地面の上では召使頭《めしつかいがしら》にぺこぺこされる人間がだ。しかるにいまは、無力な願いを聞いてもらうために、ゆれ動く石棺《せきかん》のわずかな隙《すき》間《ま》から上に向ってかぼそくわめき立てるしかない始末なのである。
しかも馬車のなかで客は占有者《せんゆうしゃ》になることもできない。客は中身にすぎない。航海中の船の積荷なのだ。そして、「いと高きところに鎮《ちん》座《ざ》ましますケルビム」には、すっかり心得きっている海神デイビイ・ジョーンズの所番地があるというわけだ。
ある夜のこと、マックゲーリー食堂の一軒《けん》おいた隣《となり》にある大きな煉《れん》瓦《が》造りの共同住宅から、ドンチャン騒《さわ》ぎの音がきこえてきた。その騒ぎは、ウォルシュ一家の部屋からひびいてくるように思われた。ときどき、歩道にあふれた群集は、マックゲーリーの店から、忙《いそが》しそうに、ドンチャン騒ぎに直接関係のありそうな品を運んでいく運搬係《うんぱんがかり》のために道をあけてやった。歩道の群集は、しきりと議論や解説に熱中していたが、そこから、ノラ・ウォルシュが結婚式《けっこんしき》をあげているのだというニュースを排除《はいじょ》しようとはしなかった。
時刻がくると、お祭り騒ぎの連中が、どっと歩道に出てきた。招かれざる客たちは、彼らをとりかこみ、彼らのなかにもぐりこんだ。結婚を祝ってマックゲーリーが提供した喜捨のためにまき起された歓喜の叫《さけ》びや、お祝いの言葉や、笑い声や、わけのわからぬざわめきが、夜の大気のなかで爆発《ばくはつ》した。
歩道の縁石《えんせき》のそばにジェリー・オドノヴァンの馬車がとまっていた。ジェリーは「夜《よ》鷹《たか》」と呼ばれていた。だが、彼の馬車のように、くすぶった、うす汚《よご》れた馬車《ハンサム》では、手編みレースをまとった貴婦人や、胸に十一月のすみれを飾《かざ》った紳《しん》士《し》に対して、扉《とびら》が開かれたことは、かつてなかった。しかし、その馬ときたら! ごく控《ひか》え目に言っても、自分の食べた料理の皿《さら》も洗わずにほっぽり出しておいて、動物虐待《ぎゃくたい》のかどで荷物配達人を逮《たい》捕《ほ》させることに熱中しているような婆《ばあ》ちゃんたちですら、もしこの馬を見たならば、にっこり――さよう、にっこりとうなずくほど、それは燕麦《からすむぎ》をたらふく食って元気横溢《おういつ》しているのだ。
わめき合い、もみ合い、興奮しきっている群集のあいだから、ジェリーの長いあいだ風雨にさらされたシルクハットが見え、元気よくあばれまわる金持の息子《むすこ》や無法な乗客にぶたれて人参《にんじん》みたいになった鼻が見え、マックゲーリーの店の近くでほめられた金ボタンのついた緑色の外套《がいとう》が見えていた。ジェリーが、馬車の役目を横どりして、彼自身が「積荷」を運んでいることは明らかだった。実際、これを目撃《もくげき》した一人の青年が、「ジェリーの奴《やつ》、酒をのんでいやがる」と言っていたのをそのまま認めるなら、「酒樽《さかだる》」みたいになっていたと言ってもよさそうである。
どこか通りにいる群集のなかからか、そうではなくて通行人の流れがまばらになったあたりからか、一人の若い女が軽快な足どりで歩いてきて馬車のそばに立った。ジェリーの職業的な鷹の目が、この動きをとらえた。彼は馬車のほうへよろめいて行った。途中《とちゅう》、三、四人の見物人をつっころばし、自分自身までもつっころばし――いや、ちがう、ころびそうになって、あぶなく水道栓《すいどうせん》の頭をつかんで身体《からだ》を支えた。疾風《しっぷう》のとき縄《なわ》梯子《ばしご》をよじのぼる水夫のように、ジェリーは彼の職業の座によじのぼった。ひとたびこの座に腰《こし》をすえると、マックゲーリーの酒の酔《よ》いなど、たちまち吹《ふ》っとんでしまった。専門の職人が摩《ま》天楼《てんろう》のてっぺんに旗をとりつけるように、早くも彼は心やすらかに自分の船の帆柱《ほばしら》にのっかってゆれていた。
「さあ、お乗んなせえ、お嬢《じょう》さん」と手《た》綱《づな》をたぐりながらジェリーは言った。
若い女は馬車に乗りこんだ。ぱたんと扉がしまった。ジェリーの鞭が、ぴしりと宙にうなった。歩道と車道のあいだにいた群集が、ぱっと散った。やんごとない馬車は、西へ向って駆《か》け去った。
元気のいい馬が、勢いよく走った最初の一走りから、ちょっと速度を落したとき、ジェリーは馬車の蓋《ふた》を手荒く押《お》しあけ、その窓から、こわれたメガホンみたいな声で、それでもできるだけやさしくどなった。
「どこへ行きなさるのかね?」
「どこでも好きなところへつれて行ってください」音楽的な、満足そうな返事がきこえてきた。
(ドライブをたのしんでいるんだな)と彼は考えた。そこで、当然のことながら、こう申し出た。
「それじゃ、お嬢さん、公園をひとっ走りするかね。ひんやりと涼《すず》しくて、気持がいいですぜ」
「あんたの好きなようにして」客は愉快そうに答えた。
馬車は五番街へ向って、あの申しぶんのない街路を走って行った。ジェリーは自分の席で、とびあがったり、ゆれたりしていた。マックゲーリーの強い酒がゆさぶられて効果を発《はっ》揮《き》し、改めて彼の頭に酔いを送りこんだ。彼はキリスヌックの古い民謡《みんよう》を歌いだし、鞭を指揮棒のようにふりまわした。
馬車のなかで客はクッションの上に棒のように身体を堅《かた》くして腰かけて、左右の灯火や家《や》並《なみ》を眺《なが》めていた。ほの暗い馬車のなかでさえ、彼女《かのじょ》の目は宵《よい》の明星《みょうじょう》のように輝《かがや》いていた。
五十九丁目へさしかかると、ジェリーの頭はがくりがくりと揺《ゆ》れ、手綱もゆるんできた。だが馬は、くるりと向きを変えると、公園の門を入って、いつもの走りなれた夜の巡回《じゅんかい》をはじめた。客は、うっとりとして、クッションによりかかり、草や葉や花のすがすがしい健康な香《かお》りを胸いっぱい吸いこんだ。自分の行く道を心得ている轅《ながえ》の賢《かしこ》い動物は、ゆるい足どりで、きちんと右側通行の規則を守って走りつづけた。
習慣もまたジェリーの次《し》第《だい》につのってくる酩酊《めいてい》状態に負けまいと懸命《けんめい》に戦った。彼は、嵐《あらし》にもみくちゃにされた自分の船のハッチをあげた。そして、馭者たちが誰《だれ》でも公園で口にするおさだまりの質問をした。
「演芸館《カジノ》でとめるかね、お嬢さん? 音楽でも聞きながら、何か飲物でもどうだね? みんなそうするだでな」
「いいわね」と客は言った。
馬車は、がくんと一ゆれしてカジノの入口でとまった。馬車の扉が、ぱっと開いた。客は、まっすぐカジノの床《ゆか》の上に降り立った。すぐさま彼女は、魂《たましい》を奪《うば》うような音楽の蜘蛛《くも》の巣《す》にとらえられ、光と色彩《しきさい》のパノラマに眩《げん》惑《わく》された。何者かが彼女の手に小さな四角いカードをすべりこませた。それには、ある番号――三十四という番号が印刷されてあった。あたりを見まわすと、彼女が乗ってきた馬車は、すでに二十ヤードほど離《はな》れた、自家用の四輪馬車や辻《つじ》馬《ば》車《しゃ》や自動車の駐車場《ちゅうしゃじょう》のなかに並《なら》んでいた。ワイシャツの胸ばかりみたいな男が、彼女を案内して、踊《おど》るような足どりで後ずさって行った。ついで彼女は、ジャスミンの蔓《つる》を巻きつけた手すりのそばの小さなテーブルの前に腰かけた。
早く何か注文をするようにと暗黙《あんもく》のうちに強制されているような気がした。彼女は、うすっぺらな財布のなかの小《こ》銭《ぜに》の群れに相談して、ビールを一杯《ぱい》注文してもよいという許しを得た。そこに腰かけたまま、彼女はそれを一気に飲みほした――魔法の森にある妖精《ようせい》の宮殿《きゅうでん》で、新しい色彩と新しい形の生命を吸いこんだのである。
五十個のテーブルには、この世のありとあらゆる絹や宝石を身につけた王子さまや女王さまが腰をおろしていた。そのなかのあるものは、ときどき、ジェリーの乗客を、ものめずらしそうに眺めた。彼らは、「フラー織」という名によって一層やわらかみを増したかと思われるピンク色の絹服を着た質素な身なりと、女王たちが羨《うらやま》しく思うほど人生への愛の表情をうかべた、あまり美しくない顔を、そこに見つけたからであった。
時計の長針が二度もまわった。貴族たちは戸外の王座から次第に姿を消し、彼らの立派な乗物にのって、ブーブーとかガラガラとか音を立てて走り去って行った。楽器類も、木《き》箱《ばこ》や革袋《かわぶくろ》や羅紗《らしゃ》袋のなかにおさめられた。給《きゅう》仕《じ》は、質素な姿がほとんど一人きりで坐っているそばのテーブルクロスを、あてつけがましく片づけはじめた。
ジェリーの客は立ちあがり、何気ないようすで例の番号札《ばんごうふだ》をさし出した。
「この札で何がいただけるのですか?」
給仕は、それは馬車の合札だから、玄関《げんかん》にいる男に渡《わた》すようにと教えた。玄関の男は、これを受けとって番号を呼んだ。駐車場には、たった三台の馬車しかなかった。そのなかの一台の馭者が、自分の馬車で寝《ね》こんでしまったジェリーを起しに行った。ジェリーは、さんざん悪態をついてから、船長の立つ船橋へよじのぼり、船を埠《ふ》頭《とう》に向けて航行させた。客が乗りこむと、馬車は、家へ帰る最短距《きょ》離《り》を、涼しい公園の安全航路を通って走って行った。
公園の門のところまできたとき、ほのかな理性の光が、ふいに疑《ぎ》惑《わく》の形をとって、もうろうとしたジェリーの心に射《さ》しこんだ。はっきりしたことが一つ二つ心のなかに浮《うか》んできた。彼は馬をとめ、馬車の蓋をあげると、その隙間から、蓄音《ちくおん》器《き》のような破《わ》れ声を、まるで測鉛《そくえん》でもおろすように落としこんだ。
「もっと先へ行くまえに四ドル拝ませてもれえてえ。お客さん、ゼニはもっていなさるんだろうね?」
「四ドルですって?」客は、やさしく笑った。「あたし、そんなにお金もってないわ。一セント銅貨を二、三枚と十セント銀貨を一、二枚しかもってないことよ」
ジェリーは車の蓋を閉めて、元気のいい馬に鞭をくれた。蹄《ひづめ》の音が、悪態をわめき立てるジェリーの声を消してくれたが、それでも完全に消すことはできなかった。彼は、息のつまるような悪態を、星のきらめく空に向って、際限もなくわめきつづけた。すれちがう車に向っては、うっぷんをぶちまけるように鞭をふりまわした。ありとあらゆる猛烈《もうれつ》な呪《じゅ》詛《そ》と悪《あく》罵《ば》を街々にまき散らした。それは、こんなに夜おそく、のうのうと家路をたどる荷馬車の馬方が聞いても顔を赤くするほどひどいものだった。しかしジェリーは、どこへ話をもちこんだらいいかを知っていた。そこへ向って彼は猛烈に馬を駆り立てた。
入口の階段のわきに緑色のランプをつけた建物の前で手綱を引いて馬をとめた。馬車の扉を、もぎりとるように引きあけると、どすんと地面にころがり出た。
「さあ、出てこい」荒々《あらあら》しく彼は叫んだ。
客は、依《い》然《ぜん》として、そのあまり美しくない顔に、カジノでの夢《ゆめ》みるような微笑《びしょう》をうかべたまま出てきた。ジェリーは彼女の腕《うで》をつかんで警察署のなかへ引き立てて行った。灰色の口髭《くちひげ》をはやした巡査《じゅんさ》部長がデスクごしに鋭《するど》い視線を向けていた。部長と馭者とは知らない仲ではなかった。
「部長さん」ジェリーは、例のしわがれた、殉教者《じゅんきょうしゃ》的な、雷《かみなり》のような声で、苦情をならベはじめた。「お客を一人つれてきましただが、こいつは――」
ジェリーは、ふと黙《だま》りこんだ。節くれだった赤い手で額をぬぐった。マックゲーリーの酒で立ちこめていた霧《きり》が、しだいに晴れかかっていた。
「部長さん、このお客を」にやりと笑って彼はつづけた。「ちょっとご紹介《しょうかい》してえと思いましてね。今夜、あのウォルシュじいさんのところで結婚式をあげた、あっしの女房《にょうぼう》ですよ。いや、まったくえらい目にあいましたよ。さあ、ノラ、部長さんと握手《あくしゅ》しねえか。そして家へ帰るとしよう」
馬車へ乗りこむ前に、ノラは深い吐《と》息《いき》をもらした。
「ジェリー、ほんとにすばらしい夜だったわ」と彼女は言った。
(From the Cabby's Seat )
水車のある教会
レイクランズは、上流の人たちが集まる避《ひ》暑《しょ》地《ち》の案内書には名前がのっていない。それはクリンチ河の小さな支流に沿ったカンバーランド山脈の低い突出部《とっしゅつぶ》にある。もともとレイクランズは、ものさびしい狭軌《きょうき》鉄道の沿線に立っている二十数軒《けん》の平和な村である。ことによると、この鉄道が松林《まつばやし》のなかで道に迷って、恐怖《きょうふ》と孤《こ》独感《どくかん》からのがれようとしてレイクランズへとびこんできたのではあるまいかとも思えたし、あるいは、レイクランズが迷子になって、鉄道の線路のわきにより集まって、汽車が家につれて行ってくれるのを待っているのではあるまいかとも思えた。
それからまた、なぜここがレイクランズと呼ばれるようになったのか、それも不思議に思えてくる。湖《レイク》があるわけでもないし、周囲の土地も、とりたてていう価値もないほど貧《ひん》弱《じゃく》なのだ。
この村から半マイルほどのところに、「鷲《イーグ》の家《ル・ハウス》」がある。この大きな、広々とした屋《や》敷《しき》は、安い費用で山の空気を求めにくる客を泊《と》めるためにジョサイア・ランキンが経営しているのである。ところが、「鷲の家」の経営は、愉《ゆ》快《かい》になるほどへたくそなのだ。近代的な模様がえはせずに古めかしい模様がえばかりしているのである。それに、概《がい》して、われわれの家庭と同じように、気のおけない程度に扱《あつか》いがぞんざいで、楽しくなる程度に家のなかが乱雑になっているのだ。しかし、ここには清潔な部屋と、おいしくて豊富な食事が用意されていた。あとはいっさい客と松林に一任されているわけだ。自然は、鉱泉や、ぶどう蔓《づる》のぶらんこや、クロケーを提供してくれていた――クロケーの鉄棒も、ここでは木の棒だ。感謝すべき人工のものといえば、週に二回、丸木づくりの余興場で催《もよお》されるダンス・パーティのヴァイオリンとギターの音楽くらいなものである。
「鷲の家」の常連は、保養を、楽しみとしてはもちろん、必要なものとして求めてくる人たちであった。彼《かれ》らは、まことに多《た》忙《ぼう》な人たちで、たとえていうならば、歯車を一年中まちがいなくまわしつづけるためには、二週間に一度は、ねじを巻く必要がある時計のようなものであった。山の下の町からやってくる学生もあれば、ときには芸術家もきたし、山の古い地層の調査に夢中《むちゅう》になっている地質学者もきた。二、三組の、もの静かな家族づれが一夏ここですごすこともあったし、またレイクランズでは「学校の先生」で通っているあの勤勉な宗教婦人団体の疲《つか》れきった会員も、一人、二人やってくることもあった。
「鷲の家」から四分の一マイルほどのところに、もし「鷲の家」が案内書を発行していたら、おそらく「名所」として客に指《し》摘《てき》するにちがいないと思われるものがあった。それは古い古い水車小屋であるが、いまはもう製粉所ではなくなっていた。ジョサイア・ランキンの言葉を借りれば、「これはアメリカでただ一つの水車小屋のある教会でございます。そしてまた、世界でただ一つのベンチとパイプオルガンのある水車小屋」なのだそうである。「鷲の家」の泊り客は、安息日ごとに、この古い水車小屋の教会へ出かけて行っては、罪を洗い清めたキリスト教徒は、経験と苦《く》悩《のう》の挽臼《ひきうす》にひかれ、ふるいにかけられて有用なものになる麦粉のようなものだと語る牧師の説教を聞かされた。
毎年、秋のはじめごろになると、エイブラム・ストロングと呼ばれる人物が「鷲の家」へやってきて、敬愛される大切なお客さまとして、しばらくのあいだ滞在《たいざい》した。レイクランズでは彼は「エイブラム神父」と呼ばれていた。というのは、髪《かみ》が真白で、顔が力強く、しかも、やさしくて、血色がよくて、笑い声が非常に明るく、その黒い服と、つばの広い帽《ぼう》子《し》とが、見たところいかにも牧師らしく見えたからである。新しくきた客でさえ、三、四日も彼と接すると、この親しみのある呼び名を使うようになった。
エイブラム神父は、遠方からはるばるこのレイクランズへやってくるのであった。彼は北西部の、ある大きな活気に満ちた都会に住んでいた。そこに彼は、いくつかの製粉工場をもっていたが、それはベンチやオルガンのある小さな製粉所ではなくて、蟻《あり》が蟻塚《ありづか》のまわりをまわるように、貨物列車が終日そのまわりを這《は》いまわっている、大きな醜《みにく》い、山のような製粉工場であった。さてこれから、エイブラム神父と、教会になっている水車小屋について話を進めることにしよう。というのは、この二つの話は一つになっているからである。
この教会がまだ水車小屋であったころ、ストロング氏は粉屋の主人であった。その地方で、彼ほど愉快で、粉まみれで、忙《いそが》しくて、幸福な粉屋はいなかった。彼は製粉所と道一つへだてた小さな田舎《いなか》家《や》に住んでいた。仕事ぶりは不器用だが、挽《ひ》き賃が安いので、山の人たちは、何マイルもの岩だらけの道をへとへとになりながらも、わざわざ彼のところへ穀物を運んできた。
この粉屋の生活のよろこびは小さな娘《むすめ》アグレイアであった。亜麻《あま》色《いろ》の髪の、よちよち歩きの子供の名前にしては、いささか大げさすぎる名前だが、しかし山地に住む人たちは、えてして調子のよい、いかめしい名前を好むものなのだ。母親が何かの本のなかで、こういう名前を見つけて、それを自分の娘に応用したのであった。アグレイア自身は、幼い時分、ふだんこの名前で呼ばれるのをいやがって、勝手に自分を「ダムズ」と呼んでいた。粉屋とその妻とは、しばしばアグレイアをなだめすかして、この不思議な名前の出所をきき出そうとしたが、結局むだであった。ついに夫《ふう》婦《ふ》は一つの意見に到達《とうたつ》した。家の裏の小さな庭に、娘が特別に好きで、心をひかれている「しゃくなげ《ロードデンドロン》」の花《か》壇《だん》があった。おそらく娘は、「ダムズ」という名に、自分の好きな、このむつかしい花の名前と、通じ合うものがあると思ったのかもしれない、と考えたのである。
アグレイアが四歳《さい》になったとき、彼女《かのじょ》と父親は、毎日午後になると、水車小屋のなかで、ささやかな行事をやって一日の仕事を終えることにしていた。天気さえよければ、きまってそれが行われた。夕食の支《し》度《たく》ができると、母親は娘の髪にブラシをかけ、きれいなエプロンを着せて、水車小屋へ父親を迎《むか》えにやった。粉屋は娘が小屋の入口へやってくるのを見ると、粉のほこりで真白になって出てきて手をふりながら、この地方に古くからある粉ひきの歌をうたった。それは、つぎのような歌だった。
水車《くるま》がまわれば
麦粉がひける。
粉にまみれて粉屋は楽し
朝から晩までうたって暮《くら》す。
かわいいあの子を思っていれば
こんな仕事も楽しゅうてならぬ。
アグレイアは笑いながら駆《か》けよってきて叫《さけ》んだ。「おとうちゃん、ダムズを家までつれてってよ」すると粉屋は、ひょいと娘を肩《かた》にのせて、粉ひきの歌をうたいながら元気いっぱい夕食に向って行進するのであった。毎日、夕方になると、きまってこれが行われた。
彼女が四つの誕生日《たんじょうび》を迎えてわずか一週間後のある日のこと、アグレイアの姿が消えてしまった。最後に見たときには、彼女は家の前の道ばたで草花をつんでいた。それからすこしたって、母親が、あまり遠くへ行かないように注意しようと思って出てきたときには、すでに娘の姿は見えなかった。
もちろん、アグレイアを探しだすために、あらゆる努力が払《はら》われた。近所の人たちが集まって、数マイル四方にわたって森や山を探しまわった。水車用の水路や小川の底を、遠く堰《せき》の下のほうまでさらってみたが、何の形《けい》跡《せき》も発見できなかった。その一日か二日前に、近くの林のなかで野宿をしたジプシーの家族があった。ことによると彼らが子供をさらって行ったのかもしれないという説も出た。しかしジプシーの幌《ほろ》馬《ば》車《しゃ》に追いついて調べてみたが、やはり何も発見できなかった。
粉屋は、ほぼ二年ばかり、この水車小屋にとどまっていたが、そのうち娘を見つけだす望みも消えてしまった。夫婦は北西部へ引《ひっ》越《こ》して行った。二、三年たつうちに、彼は、その地方の製粉業のさかんな都市で、近代的な製粉工場の所有者になった。ストロング夫人はアグレイアをうしなった心の痛手からついに立ち直ることができず、引越してから二年後にこの世を去り、ストロング氏は、ただ一人残されて悲しみに堪《た》えて行かなければならなかった。
暮しが裕福《ゆうふく》になったとき、エイブラム・ストロングはレイクランズと古い水車小屋を訪《おとず》れた。そこの風景は彼にとっては傷心のたねであった。しかし、彼は強い人間だった。だから、見たところいつも陽気で、親切にふるまっていた。彼が、ふと古い水車小屋を教会に改造しようと思いたったのは、そのときであった。レイクランズの人たちは、あまりにも貧しくて教会を建てることができなかった。それよりもっと貧しい山地の人々には、もとより援助《えんじょ》する力はなかった。したがって、ここ二十マイル以内には教会が一つもなかったのである。
粉屋は、なるべく水車小屋の外観を変えないようにした。大きな上射式水車は、そのままにしておいた。この教会を訪れる若い人たちは、水車のやわらかい、腐《くさ》りかけている木材に、よく自分の名前の頭文《かしらも》字《じ》を彫りつけたりした。堰は、一部分こわれていたので、清らかに澄《す》んだ山の水が、さえぎるものもなく、さざなみを立てて岩床《がんしょう》を流れていた。水車小屋の内部のほうは、もっと大きく変化していた。水車の軸棒《じくぼう》、挽臼、ベルト、滑車《かっしゃ》などは、もちろん全部とり外されていた。あいだに通路をはさんでベンチが二列にならべられ、その奥《おく》は一段高くなっていて、そこに説教壇が設けられた。三方の頭上には、座席のある桟《さ》敷《じき》があって、内側からの階段でつながっていた。桟敷にはオルガン――ほんもののパイプオルガン――があった。これは「旧水車小屋教会」の信徒一同の自《じ》慢《まん》のたねであった。オルガンの演奏者はフィービ・サマーズ嬢《じょう》であった。レイクランズの少年たちは、毎週、日曜日の礼拝ごとに、彼女のために交替《こうたい》でオルガンの空気ポンプを押《お》すのを誇《ほこ》りとしていた。説教者は牧師のバンブリッジ師で、礼拝日には欠かさず年老いた白馬にのってスクイラル・ギャップ(りすの谷)からやってきた。そしてエイブラム・ストロングが、いっさいの費用を負担した。説教者には年に五百ドル、フィービ嬢には二百ドル払った。
このようにして、古い水車小屋は、アグレイアを記念するために、かつて彼女が住んでいた村人たちにとって、神のめぐみを授《さず》かるありがたい場所に改められたのである。アグレイアの短い生涯《しょうがい》は、多くの人の七十年よりも、大きな善行をもたらしたように思われた。しかし、エイブラム・ストロングは、そのほかに、もう一つ彼女を記念するものをつくった。
北西部にある彼の工場から「アグレイア印《じるし》」の小麦粉を売り出したのである。それは、これ以上は望めないほど立派で上質の小麦からつくられたものであった。国じゅうの人たちは、まもなく、「アグレイア印」の小麦粉には二種類の値段があることを知った。一つは最高の市価であり、もう一つは――無料《ただ》である。
人々を困窮《こんきゅう》におとしいれるような災害――たとえば火事、洪水《こうずい》、旋風《せんぷう》、ストライキ、飢《き》饉《きん》など――があると、それがどこで起きようと、ただちに「アグレイア印」の小麦粉が、「無料《ただ》」で、ふんだんに輸送された。それは慎重《しんちょう》に、十分な注意をもって提供され、しかも自由に分配され、飢《う》えた人たちは、一ペニーたりともそれに対して払うのを許されなかった。都市の貧民街《ひんみんがい》に大火があると、きまって消防団長の馬車がまず現場に到着し、つぎに「アグレイア印」の小麦粉をのせた荷馬車が到着し、それから消防ポンプがやってくる、と世間では噂《うわさ》するようになった。
これがアグレイアに対するエイブラム・ストロングのもう一つの記《き》念《ねん》碑《ひ》であった。おそらく詩人にとっては、これは美の主題としては、あまりにも実利的に見えたかもしれない。しかし、ある人々にとっては、純粋《じゅんすい》で白い挽《ひ》きたての小麦粉が、愛と慈《じ》善《ぜん》という使命をおびて運ばれて行くのは、たとえていうならば、その記念碑が象徴《しょうちょう》する亡《な》き愛児の霊魂《れいこん》のようなものだという思いにつながって、心あたたまる美しいことに思えたにちがいない。
ある年、カンバーランド地方に不況《ふきょう》の波がおそってきた。どこでも作物のできが悪く、全然収穫《しゅうかく》のない土地もあった。山《やま》津《つ》波《なみ》が人々の財産に大損害をあたえた。森の猟《りょう》の獲《え》物《もの》も、きわめてとぼしく、猟師たちは家族の生命をつなぐだけのものすら、ほとんど家へ持って帰ることができなかった。レイクランズ一帯が、とくにひどかった。
このことを耳にすると、エイブラム・ストロングは、ただちに命令を飛ばした。小さな狭軌鉄道がレイクランズに「アグレイア印」の小麦粉をおろしはじめた。小麦粉は「旧水車小屋教会」の桟敷に貯蔵しておき、教会に出席したものには、それぞれ一袋《ふくろ》ずつ持ち帰らせるように、というのがストロング氏の通達だった。
それから二週間後、エイブラム・ストロングは例年通り「鷲の家」を訪れ、ふたたび「エイブラム神父」になった。
この年のシーズンは、「鷲の家」は、いつもよりも客がすくなかった。そのなかにローズ・チェスターがいた。チェスター嬢はアトランタからレイクランズへきたのであって、アトランタのあるデパートに勤めていた。これは彼女が生れてはじめての休暇《きゅうか》旅行であった。デパートの支配人の夫人が、かつて一夏を「鷲の家」ですごしたことがあった。夫人は、たいへんローズがお気に入りで、三週間の休暇には、ぜひそこへ行くようにとすすめた。そして、支配人の夫人は、ランキン夫人あての紹介状《しょうかいじょう》をローズに持たせてよこした。ランキン夫人は、よろこんでローズを迎え、すすんで彼女の監督《かんとく》と世話を引き受けた。
チェスター嬢は、あまり健康ではなかった。年齢《ねんれい》は二十歳ぐらいで、屋内生活のために顔色が悪く虚弱《きょじゃく》だった。しかしレイクランズで一週間ほどすごすうちに、見ちがえるように血色もよくなり、元気が出てきた。それは九月のはじめで、カンバーランド地方が、もっとも美しい季節だった。山の木々は紅葉に燃え、空気はシャンパンのようにおいしいし、夜は気持よく涼《すず》しくて、「鷲の家」のあたたかな毛布にくるまって寝《ね》たくなるほどであった。
エイブラム神父とチェスター嬢は、たいへん仲よしになった。年老いた製粉工場主は、ランキン夫人からチェスター嬢の身の上話を聞いた。そして、彼の関心は、たちまち、自活の道を生きるこのひよわな孤《こ》独《どく》の娘に向けられた。
山地は、チェスター嬢にとっては、はじめてだった。これまでずっと、あたたかい、平《へい》坦《たん》なアトランタの町で生活していたので、カンバーランド地方の雄大《ゆうだい》さと変化をよろこび、滞在中は一瞬《いっしゅん》一瞬を楽しみたいと思った。わずかばかりの貯金は、いろいろな出費を考えて綿密に見積りを立てていたので、仕事に戻《もど》ったとき、どれくらい手《て》許《もと》に残るかということまでわかっていた。
チェスター嬢が、話相手として、あるいは友人として、エイブラム神父と知り合ったことはしあわせだった。彼はレイクランズ付近の山のどんな道も峰《みね》も坂も、すべて知りつくしていた。彼によって彼女は、松林のなかの、ほの暗く木々におおわれた小道の神々《こうごう》しい美しさ、むき出しの岩の荘厳《そうごん》さ、水晶《すいしょう》のように大気の澄《す》みきったさわやかな朝、そして神秘な静寂《せいじゃく》さに満ちた夢《ゆめ》のような黄金色の午後を知るようになった。こうして彼女の健康は回復し、気持も明るくなってきた。誰《だれ》でも知っているエイブラム神父のあの笑い声と同じように、彼女も、女らしさにあふれた、あたたかな笑い方をするようになった。二人は、どちらも生れながらの楽天家で、おだやかな明るい顔で世間の人に接する方法を心得ていた。
ある日、チェスター嬢は、宿泊客《しゅくはくきゃく》の一人から、エイブラム神父の行方知れずになった娘の話を聞いた。急いで出て行ってみると、製粉工場主が、鉄鉱泉のそばにある、彼のお気に入りの丸木づくりのベンチに腰《こし》かけているのを発見した。彼は、この可愛《かわい》らしい友だちが、その手をそっと彼の手のなかにすべりこませ、目に涙《なみだ》をうかべて、じっと彼をみつめているのに気がついて、びっくりした。
「エイブラム神父さま」彼女は言った。「ほんとうにお気の毒ですわ。わたしは、神父さまの小さなお嬢さんのことを、今日まですこしも知らなかったんです。でも、きっと見つかりますわ――ああ、ほんとに早く見つかってほしいと思いますわ」
製粉工場主は、すぐに強気の微笑《びしょう》をうかべて彼女を見おろした。
「ありがとう、ローズさん」彼は、いつもの明るい調子で言った。「しかし、おそらくアグレイアは見つからないでしょう。はじめ二、三年ほどは、浮《ふ》浪者《ろうしゃ》にさらわれたのだろうから、きっとまだ生きているだろうと希望をもっていましたが、いまは、その望みもなくなりましたよ。きっと水に溺《おぼ》れたのだと思っております」
「もしかしたらという疑念のために、どんなに切ない思いをなさったか、わたしには、よくわかりますわ。それなのに神父さまは、いつも明るくて、たえず他人の重荷を軽くしてあげようとしていらっしゃる。ほんとうにおやさしいのね、エイブラム神父さまは」
「ほんとうにやさしい娘《むすめ》さんだね、ローズさんは」製粉工場主は、ローズの口《くち》真似《まね》をして笑った。「あなたほど思いやりの深い人はいませんよ」
ふとチェスター嬢は、いたずら心を起した。「ねえ、エイブラム神父さま」彼女は言った。「もしわたしが神父さまのお嬢さんだとわかったとしたら? それこそロマンチックじゃございません? でも、神父さまは、わたしのようなものが娘になったら、きっとご迷惑《めいわく》でしょうね?」
「いやいや、ぜひそうなっていただきたいものだ」製粉工場主は、まじめに答えた。「もしアグレイアが生きていたら、何よりもまずあんたと同じような可愛い娘に成長していてほしいものだと、わしは望んでおります。ひょっとしたら、ほんとにあんたはアグレイアかもしれないぞ」彼女のいたずら心に調子を合わせて彼はつづけた。「わしたちが水車小屋に住んでいた頃《ころ》のことを憶《おぼ》えておらんかな?」
チェスター嬢は、たちまち真剣《しんけん》に考えこんでしまった。その大きな瞳《ひとみ》は、何か遠くのものに、ぼんやりとすえられていた。エイブラム神父は、彼女が急に真剣になったのを見て、おかしくなった。こうして彼女は長いこと坐《すわ》っていてから口を開いた。
「だめですわ」深い溜息《ためいき》をつきながら、やっと彼女はいった。「水車小屋については何も思い出せませんわ。神父さまのあの一風変った小さな教会を見るまでは、わたし、水車小屋なんて一度も見たことがないような気がしますわ。もし、わたしが神父さまの娘だったら、きっと何か憶えているはずよ。そうでしょう? ほんとに残念ですわ、エイブラム神父さま」
「わしも残念です」なぐさめるように彼は言った。「しかし、ローズさん、あんたがわしの子供であったことは憶えてないとしても、誰かほかの人の子供であったことは憶えているでしょう。もちろんご両親のことは憶えておられるだろう?」
「ええ、よく憶えていますわ――とくに父のことは。父は神父さまとは似ても似つかぬ人でしたわ、エイブラム神父さま。わたしは、ただちょっと気まぐれに言ってみただけなんですのよ。さあ、もう十分お休みになったでしょう? 今日の午後は、鱒《ます》が泳いでいるのが見える池へつれて行ってくださるお約束《やくそく》だったじゃありませんか。わたしはまだ鱒を見たことがないんですのよ」
ある日の午後おそく、エイブラム神父は古い水車小屋へ一人で出かけて行った。彼はよくそこへ行っては腰をおろして、道一つ越した向うの田舎《いなか》家《や》に住んでいた当時のことを回想していたのだ。歳月が彼の悲しみの鋭《するど》さをやわらげてくれ、いまではあの頃のことを思いだしても、それほど苦痛ではなくなっていた。しかし、憂鬱《ゆううつ》な九月の午後、エイブラム・ストロングが「ダムズ」が毎日黄色い巻き毛をなびかせながら駆けこんできた場所に腰をおろしているときだけは、レイクランズの人たちがつねに彼の顔に見かけるあの微笑はなかった。
製粉工場主は、曲りくねった険しい道を、ゆっくりとのぼって行った。木が道のすぐそばまで生《お》い茂《しげ》っているので、彼は帽《ぼう》子《し》を手にもって木《こ》陰《かげ》を歩いて行った。幾匹《いくひき》かのりす《・・》が右手の古い横木の柵《さく》の上を、うれしそうに走りまわっていた。うずら《・・・》が、麦の切株のなかで、ひなを呼んでいた。低く沈《しず》んだ太陽が、西に開いている山峡《さんきょう》に、うすい黄金の光をほとばしらせていた。九月のはじめ!――アグレイアが行方不明になった記念の日が、あと数日に迫《せま》っていた。
山つた《・・》に半《なか》ばおおわれた古い上射式水車は、木の間をもれてくるあたたかい日の光を、ちらちら受けていた。道の向うにある田舎家は、まだ立ってはいるが、この冬の大風におそわれたら、まちがいなく倒《たお》れてしまうだろう。朝顔や野生のひょうたんづる《・・・・・・・》が一面にはびこっていて、扉《とびら》も蝶番《ちょうつがい》一つで支えられていた。
エイブラム神父は水車小屋の扉を押しあけて、そっとなかへ入った。そこで彼は不思議そうに立ちどまった。なかに誰かがいて、切なそうに忍《しの》び泣いているのがきこえてきたのである。見るとチェスター嬢が、薄暗《うすぐら》いベンチに腰かけ、両手に持っている開いたままの手紙の上に顔をふせているのであった。
エイブラム神父は近づいて行って、その頑《がん》丈《じょう》な片手を彼女の手の上にしっかりとおいた。彼女は顔をあげて、かすかな声で彼の名を呼び、それからさらに何か言おうとした。
「いや、いや、ローズさん」製粉工場主は、やさしく言った。「いまは何も言わなくてもよろしい。気持が切ないときには、好きなだけ静かに、しばらく泣くのが一番いいのです」
年老いた製粉工場主は、自分も深い悲しみを経験してきているので、人の胸のなかから悲しみを追い払ってやることにかけては魔術《まじゅつ》師《し》のようであった。チェスター嬢のすすり泣きは、次《し》第《だい》におさまって行った。まもなく彼女は、縁《ふち》どりのない小さなハンカチをとり出して、自分の目からエイブラム神父の大きな手にこぼれ落ちた涙を、そっと拭《ふ》いた。それから顔をあげて、涙をうかべたままほほえんだ。チェスター嬢は、いつでも涙が乾《かわ》かぬうちに微笑することができるのである。それはエイブラム神父が悲しみのなかでも笑《え》顔《がお》を見せることができるのと同じであった。その点でも、この二人は大変よく似ていたのである。
製粉工場主は彼女に何もたずねなかった。しかし、チェスター嬢は、自分から進んでうち明けはじめた。
それは、いつの場合でも、若いものにとっては、たいへん重要なことに思われ、年をとったものには思い出の微笑を誘《さそ》う、ごくありふれた話だった。こういえば想像がつくであろうように、主題は恋愛《れんあい》であった。非常に善良で、いろいろと美点をそなえている一人の青年がアトランタにいた。青年は、チェスター嬢がアトランタのどんな女よりも、いやグリーンランドからパタゴニアにかけてのどんな女よりも、すぐれた美点をもっていることを知った。いま彼女を泣かせていたその手紙を、彼女はエイブラム神父に見せた。それは男らしい、愛情のこもった手紙ではあるが、善良さと美点にあふれた世の青年たちが書く恋文の例に洩《も》れず、多少誇張《こちょう》と性急さとが見られた。彼は、いますぐ結婚《けっこん》してほしいと申しこんでいるのであった。あなたが三週間の旅行に出発してからというもの、自分はもう生きるのに堪《た》えられなくなった、と訴《うった》えていた。折返し返事をいただきたいと懇願《こんがん》し、もしそれが好意的な返事であれば、狭軌《きょうき》鉄道など無視して即刻《そっこく》レイクランズへ飛んで行く、と約束していた。
「それで、いったいどこに困る理由があるのですかな?」製粉工場主は手紙を読み終ってきいた。
「わたしは、その人と結婚できないのです」チェスター嬢は言った。
「この人と結婚したいとは思っているのですね?」エイブラム神父はたずねた。
「もちろんですわ。わたしはその人を愛しています」彼女は答えた。「しかし――」彼女は、うつむいて、またすすり泣いた。
「さあローズさん」製粉工場主は、言った。「わしを信用してもらいたい。わしは、あれこれと問いただすことはしないが、あんたに信頼《しんらい》していただけるものと思っております」
「わたしは神父さんを心から信頼しておりますわ」若い娘は言った。「わたしが、なぜラルフの申し出をことわるのか、そのわけをお話しいたしますわ。わたしは、つまらない女なのです。名前もないのです。いま名乗っている名前は嘘《うそ》なのです。ラルフは立派な青年です。わたしは心からラルフを愛しています。しかし、わたしは、あの人の妻にはなれないのです」
「何をおっしゃるんです?」エイブラム神父は言った。「あんたは、ご両親を憶えていると言ったじゃありませんか。それなのに、なぜ名前がないなどとおっしゃるのか、わしには理解できません」
「たしかに両親のことは憶えています」チェスター嬢は言った。「悲しいくらいよく憶えております。わたしの最初の記憶は、どこか遠い南部での生活でしたわ。わたしたちは何度も、いろいろな町や州へ移り住みました。わたしは綿をつんだり、工場で働いたりしました。満足に食べるものも着るものもないことも、たびたびありました。母は、ときどきやさしくしてくれましたけれど、父はいつも乱暴で、わたしはよく打たれたものです。父も母も怠《なま》けもので、一カ所に落ちつけない人間だったようですわ。
「ある晩、アトランタの近くの河のほとりの小さな町に住んでいたときのことですけれど、両親が大喧《おおげん》嘩《か》をしました。たがいに口ぎたなくののしり合っているときに、わたしは知ったのです――ああ、エイブラム神父さま、わたしは、はじめて知ったのですわ、わたしには権利さえないということを――おわかりでございましょうか? わたしには名前を持つ権利さえなかったのです。わたしは誰の子かもわからない人間だったのです。
「その夜、わたしは家出をしました。アトランタまで歩いて行って、仕事を見つけました。そして、自分で自分にローズ・チェスターという名前をつけて、それ以来ずっと自活してきたのです。これで、わたしがラルフと結婚できない理由がおわかりになったでしょう?――ああ、わたしには、どうしても彼にそのわけをうち明けることができないんです」
この場合、いかなる同情よりも彼女を元気づけ、いかなる憐憫《れんびん》よりも効果があるのは、エイブラム神父が彼女の悲しみを軽くあしらってやることであった。
「なんだ、そんなことですか?」神父は言った。「ばかばかしい。わしはまた何か大変なさしさわりでもあるのかと思っていましたよ。かりにもその青年が立派な男であるなら、あんたの家系のことなど、塵《ちり》ほども気にかけないはずです。ねえ、ローズさん、わしのいうことをよくききなさい。彼が愛しているのは、あなた自身なんですよ。いまわしに話してくれた通り、正直に彼にうち明けることです。そうすれば、かならずそんなことは一笑《いっしょう》に付して、かえってますますあなたを愛するようになります」
「わたしには、とてもうち明けられませんわ」チェスター嬢は悲しそうに言った。「わたしは、彼とも、いいえ、ほかの誰とも結婚いたしません。わたしには結婚する権利はないんです」
そのとき、日に照らされた道を、よろよろとゆれながら近づいてくる一つの長い影《かげ》が二人の目に入った。それから、それとならんで、もう一つの短い影が、ぴょんぴょんついてくるのが見えた。間もなく誰ともわからぬ二つの人影は教会に近づいてきた。長い影はオルガンの練習にやってきたフィービ・サマーズ嬢のものであり、短い影は十二歳になるトミー・ティーグのものであった。今日はトミーがフィービ嬢のためにオルガンに空気をつめこむ日であった。トミーのはだしの足は誇《ほこ》らしげに道のほこりを蹴立《けた》てていた。
フィービ嬢はライラックの枝《えだ》の模様の更紗《さらさ》のドレスを身につけ、耳の上にきちんと小さな巻き毛をたらしていた。彼女はエイブラム神父にむかって膝《ひざ》を折って丁寧《ていねい》に挨拶《あいさつ》し、チェスター嬢には軽く巻き毛をふって儀《ぎ》礼《れい》的に会釈《えしゃく》した。それから助手の少年といっしょに急な階段をオルガンのある桟《さ》敷《じき》へのぼって行った。
階下の深まってゆく夕闇《ゆうやみ》のなかで、エイブラム神父とチェスター嬢は、なおも立ち去りかねていた。二人とも押《お》しだまっていた。おそらく、それぞれの思い出にふけっていたのであろう。チェスター嬢は頬《ほお》づえをついて、どこか遠いところに目をすえていた。エイブラム神父は隣《となり》のベンチのあいだに立って、外の道や朽《く》ちかけた田舎家を思いをこめて眺《なが》めていた。
すると、たちまちあたりの風景が一変し、二十年も前の過去に彼をつれ戻した。というのは、トミーがポンプを押していると、フィービ嬢はオルガンに入った空気の量を調べるために、いつまでもオルガンの低音部の鍵盤《キイ》を押しつづけていたからである。エイブラム神父にとっては、教会はもはや存在していなかった。この小さな木造建築をゆるがす深い震動音《しんどうおん》は、彼にとっては、オルガンの音ではなくて、低くうなる水車の音であった。たしかに昔《むかし》の上射式水車がまわっているのだと彼は思った。昔の山の水車小屋の粉だらけになった陽気な粉屋に逆戻りしたように感じた。もう夕方であった。まもなくアグレイアが黄色い巻き毛をなびかせながら、よちよちと道を横ぎって夕食の迎《むか》えにくるだろう。エイブラム神父の目は、田舎家のこわれた扉の上に、じっとそそがれていた。
そのとき、もう一つ不思議なことが起った。頭の上の桟敷には、小麦粉の袋が、いくつかの長い列になって積み重ねてあったが、たぶん鼠《ねずみ》がその一つを食い破ったのであろうか、とにかく強く鳴りひびくオルガンの音の振動で、桟敷の床《ゆか》の隙《すき》間《ま》から小麦粉が流れ落ちてきて、エイブラム神父を頭から足のさきまで真白にしてしまったのである。すると、年老いた製粉工場主は、ベンチの通路へ出て行って、両腕《りょううで》をうちふりながら、あの粉屋の歌をうたいはじめた。
水車《くるま》がまわれば
麦粉がひける。
粉にまみれて粉屋は楽し
そして、このとき、残されていた奇《き》蹟《せき》が実現した。チェスター嬢がベンチから身を乗り出し、粉のように青白い顔で、白日《はくじつ》夢《む》をみている人のように大きく目を見開いてエイブラム神父をみつめた。彼が歌いはじめたとき、彼女は両の腕を彼にむかってさしのべた。唇《くちびる》がふるえた。夢《ゆめ》みるような調子で彼女は呼びかけた。「お父ちゃん、ダムズをお家《うち》へつれてってよ!」
フィービ嬢はオルガンの低音部の鍵盤《キイ》から手をはなした。しかし彼女は立派に役目を果したのであった。彼女が鳴らした音が、閉ざされていた記憶の扉を叩《たた》きこわしたのである。エイブラム神父は、一度はうしなったアグレイアを、しっかりと腕に抱《だ》きしめた。
レイクランズを訪《おとず》れる人は、もっとくわしくこの話を聞かされるはずである。この物語の経過が、それからどう発展したか、また、九月のあの日、宿なしのジプシーがダムズの子供らしい愛らしさに心をひかれてさらって行ったその後のいきさつなどを聞かしてくれるだろう。しかし、くわしいことは、「鷲の家」の木陰のポーチにゆったりと腰をおろすまでお待ちになったほうがよろしい。それから、くつろいだ気分で耳を傾《かたむ》けられるがよい。私の受持ちの部分は、フィービ嬢の力強い低音がまだ静かにひびいているあいだにおしまいにしたほうがよさそうだ。
しかし私の考えでは、この話の最高の場面は、エイブラム神父と彼の娘が、長い黄昏《たそがれ》の道を、うれしさに口もきけずに、「鷲の家」へ戻って行くときに起ったように思われる。
「お父さま」彼女は、いくぶんおずおずと、まだ信じられないような調子で言った。「お父さまは、お金をたくさんもっていらっしゃるの?」
「たくさんというのかね?」製粉工場主は言った。「さよう、それも解釈次第でな。お月さまとか、あるいはそれと同じくらい高いものを買いたいというんでなければ、たくさんもっているというていいだろうな」
「アトランタへ電報をうつには、とてもたくさんお金がかかるんでしょうね?」いつも細かくお金を計算する習慣のアグレイアがたずねた。
「そうか」小さな溜息と共にエイブラム神父は言った。「なるほど、ラルフにくるように言ってやりたいのだね?」
アグレイアは、やさしく微笑《びしょう》しながら父を見あげた。
「あの人に待っていただきたいんです」彼女は言った。「わたし、やっと自分のお父さまを見つけたばかりでしょう。だから、しばらくは、お父さまと二人だけでいたいの。あの人には、しばらく待ってくれるように言ってあげたいんです」
(The Church with an Overshot-Wheel)
O・ヘンリの生涯《しょうがい》と作品
O・へンリ(O.Henry)――本名ウィリアム・シドニイ・ポーター(William Sydney Porter)――は、一八六二年九月十一日、ノース・カロライナ州ギルフォード・カウンティのグリーンズボロに生れた。ブルーリッジ山脈のふもとにある、人口二千五百ばかりの小さな町である。William Sidney Porter というのが洗礼名であるが、一八九三年に、ミドル・ネームの綴《つづ》りを Sydney と改めた。
父方の祖父シドニイ・ポーターは、コネチカット州からノース・カロライナ州へ移住してきた時計屋で、孫のO・へンリに、自分と同じ名前をのこしたばかりでなく、冒険《ぼうけん》と放《ほう》浪《ろう》を好む性質をも合わせのこした。O・へンリが、ロマンスを愛し、つねに「街角にころがっている何か」を探し求めたのも、おそらくこの祖父から受けついだ血がそうさせたのであろう。祖父のシドニイ・ポーターは、陽気で、大酒のみで、人がよくて、冗談《じょうだん》を言ったり、しゃれをとばしたり、歌をうたったりするのが好きだったから、町の人たちからは愛されたが、商売にはあまり身を入れなかったようである。
祖母のルース・ワース(Ruth Worth)は、気丈《きじょう》で実直な働きもので、夫のシドニイ・ポーターが七人の子供と抵当《ていとう》に入れたままの家《いえ》屋《や》敷《しき》とを残して死んだときも、泣きごと一ついわず、立派に家を守り、子供たちを育てた。しかし、老境に入ると共に、でぶでぶ太ってきて、毎日ポーチの揺《ゆ》り椅子《いす》に腰《こし》をおろしては、大《たい》儀《ぎ》そうに嗅《か》ぎ煙草《たばこ》を嗅いだり、パイプをくゆらしたりしていたというから、幼い孫のO・へンリの記《き》憶《おく》に、あまり愉《ゆ》快《かい》な印象を残さなかったのも、あるいは当然かもしれない。
母方の祖父ウィリアム・スウェイム(William Swaim)は、アメリカ合衆国の草創期にニューヨークへ渡《わた》ってきたオランダ系移民の子孫で、独立戦争の十年ほど前にノース・カロライナ州へ移住し、一八二七年に、グリーンズボロの地方新聞「愛国者《パトリオット》」の主幹となった。なかなかの硬骨漢《こうこつかん》で、つねにペンをとっては政冶の腐《ふ》敗《はい》や政党の堕《だ》落《らく》を攻撃《こうげき》しつづけた。しかも、南部に住みながら強硬な奴《ど》隷廃《れいはい》止《し》論者《ろんしゃ》で、機会あるごとに奴隷制度の不当と弊害《へいがい》を糾弾《きゅうだん》した。当然、周囲の南部人たちからは、憎《にく》まれ、非難された。しかし彼《かれ》は、いささかもひるまなかった。新聞ではもちろんのこと、家庭でも、街頭でも、レストランでも、臆《おく》することなく奴隷制度の廃止をとなえてやまなかった。
母方の祖母アビア・シャーリイ(Abia Shirley)は、サー・ロバート・シャーリイの直系の子孫であるダニエル・シャーリイ(Daniel Shirley)の娘《むすめ》で、ダニエルはヴァージニア州プリンセス・アン・カウンティの富《ふ》裕《ゆう》な農場主であった。シャーリイ家は、十七世紀中葉、王党派として活躍《かつやく》したイギリスの名門である。
O・へンリの父アルジャナン・シドニイ・ポーター(Algernan Sidney Porter )は、町の開業医で、はじめの頃《ころ》は、人づきあいもよく、患者《かんじゃ》にも親切で、なかなか評判もよかったが、次《し》第《だい》に発明に凝《こ》りだして、医業をかえりみなくなり、奇《き》人《じん》あつかいされるうちはまだしも、ついには狂人《きょうじん》あつかいされるようになってしまった。役にも立たぬ機械や装《そう》置《ち》の発明に夢《む》中《ちゅう》になり、それがために家産を傾《かたむ》けるにいたったが、成功したものは一つもなかった。晩年は酒びたりの日がつづいた。
母のメアリ・ジェーン・ヴァージニア・スウェイム(Mary Jane Virginia Swaim )は、例の「愛国者《パトリオット》」の主幹とヴァージニア州の農場主の娘とのあいだに生れた長女で、グリーンズボロ女学校でフランス語と絵画を習った。画才があり、文章を綴るのも巧《たく》みであったという。若いときから機知に富み、とくに言葉については鋭《するど》いセンスをもっていたらしい。この母の素質は、そっくりそのままO・へンリに受けつがれているように思われる。不幸にして母メアリは、O・へンリが三歳《さい》のとき、肺病のために三十歳の若さで世を去った。
こうして、のこされた幼児の養育と家計のやりくりは、父の妹のライナ・ポーター(Lina Porter )という老嬢《ろうじょう》の手にゆだねられることになった。彼女《かのじょ》は生活費を稼《かせ》ぐ手段として、屋敷内に私塾《しじゅく》をつくり、近所の子供たちを教えはじめた。教室では好んでディケンズやスコットの小説を教材としてとりあげたということであるが、O・へンリも、この私塾の生徒の一人であった。
O・へンリのこの未《み》婚《こん》の叔母《おば》は、たいへんな文学好きで、ヨーロッパの古典に通じていたが、その半面、南部の女らしいはげしい気性と清教徒的潔癖《けっぺき》さをもっていた。生徒たちに対しても、かなりきびしい教師で、義務を怠《おこた》ったり悪質ないたずらをしたりすると、容《よう》赦《しゃ》なく鞭《むち》をふるって折檻《せっかん》したという。しかも一方では、生徒たちをあきさせずに面白《おもしろ》く授業をすすめることを知っている、よい教師でもあった。彼女は生徒たちに書物を愛することを教え、文学を愛することを吹《ふ》きこんだ。彼女は、甥《おい》のO・へンリが、たいへん勉強に興味をもっているばかりでなく、文学を正しく鑑賞《かんしょう》する能力をもっていることを、つとに見抜《みぬ》いていた。ときどき、この私塾では、授業が終ってから、先生をかこんで、栗《くり》やポプコーンを焼きながら、生徒たちが、かわるがわる立って、「とっておきのお話」を披《ひ》露《ろう》しあったりした。自分が考えだした創作談もあれば体験談もあった。おじいさんやおばあさんから聞いた伝説やおとぎばなしを話すものもいた。そんなとき、話の上手なウィル少年(O・へンリ)は奇想天外な話を考えだしては、いつも聞くものをよろこばせた。そのほか彼は、黒板の前に立って、片手で算術をやりながら、もう一方の手でライナ先生の似顔絵を漫《まん》画《が》風《ふう》に描き、先生がふり向く前にすばやくそれを消してしまうというような芸当を、しばしばやってのけた。彼はこの時期に、叔母の指導で、スコット、ディケンズ、サッカレー、ウィルキー・コリンズ、デュマなどを愛読し、とくにディケンズは、全作品を、くりかえし読んだという。
十代の半ば近くになると、友達と一緒《いっしょ》に、よくカロライナ州の各地を旅してまわった。かなり長期のキャンプ旅行に出て、いくつかの小さな町を見てあるいたこともあった。彼は、後年ニューヨークの街々に強くひきつけられたように、これらの町に深い興味をおぼえ、それぞれの町とその住民の特徴《とくちょう》を、しっかりと記憶に刻みつけた。
父が医師の仕事をすっかりやめてしまい、ライナ叔母が家計のやりくりに苦労している状態だったので、ウィル少年は、上級の学校へ進学するのをあきらめ、十五歳のとき、同じ町で伯父《おじ》が経営しているドラッグ・ストアで働くことになった。この店は町の人たちの集会所みたいになっていて、常連が毎日のように集まってきては、カードをもてあそびながら、情報の交換《こうかん》をしたり、政治談議にふけったり、南北戦争の話をしたりしていた。そういう人たちは、古い南部人を研究するには、うってつけの材料だった。しかし、純粋《じゅんすい》の南部人であることを誇《ほこ》り、古い南部の伝統にしがみついて、新しい時代の動きを見ようともしない南部人の頑迷《がんめい》さは、ウィル少年の目には、鼻もちならぬいやみとして映った。彼は、それらの人たちを戯画化《ぎがか》することによって、わずかに生れついての諷《ふう》刺《し》欲《よく》をみたした。彼は、人物の特徴を巧みにとらえ、単純な線で鋭くそれを表現するという特殊《とくしゅ》の才能にめぐまれていたのだ。
いろんな人物の戯画を手がけているうちに、次第に杜会生活への目が開かれていった。やがて、どの絵も一つの主題をもちはじめ、その主題が、いっさいのむだなディテールを排《はい》して、簡潔な線で生かされるようになった。これこそ彼が後年、短編小説の創作にあたって駆使《くし》した手法にほかならないのである。
そのうち、ドラッグ・ストアの仕事が、だんだん鼻につきはじめた。たまたま薬剤《やくざい》の仕事を通じて知りあった同じ町のジェームズ・ホール(James Hall)という医師から、「近くテキサスの牧場にいる息子《むすこ》たちを訪問するつもりだが、よかったら一緒《いっしょ》に行ってみないか」とすすめられた。ホール医師の長男で、このあたりにまで勇名がとどろいている元森林警備隊のリー・ホール(Lee Hall )大《たい》尉《い》に会えるのも魅力《みりょく》だったし、広漠《こうばく》たる平原で牛や羊を追うカウボーイの生活も若い彼《かれ》の気持を刺《し》激《げき》した。彼は即《そく》座《ざ》にテキサス行きの決心を固めた。
一八八二年三月のある日、テキサスへ向う汽車がグリーンズボロの駅を出た。それにはホール医師夫妻と、まだ二十歳にいくらか間のあるO・へンリとが乗っていた。当時、グリーンズボロからテキサス州コタラまでは、汽車で九十五時間もかかり、途中《とちゅう》で何回も乗り換《か》えなければならなかった。彼らはヒューストンからサン・アントニオを経てコタラにつき、そこから、はてしなくひろがる平原を、四輪馬車にゆられて運ばれて行った。
牧場は、面積が四十万エーカーもあって、飼《か》っている家《か》畜《ちく》の数は、牛が一万二千頭、羊が六千頭もいた。ペンシルヴァニア州に住むダル兄弟の所有で、ダル牧場とよばれ、一八八○年以来、ホール医師の息子のリー・ホール大尉の管理にまかされていた。
好《こう》奇《き》心《しん》のつよいO・へンリは、この土地の気候、風土、人情、習慣などに、はげしく興味をそそられた。このあたりは、雨がすくなく、定住者はほとんどいなかったが、密生した森林が、お尋《たず》ね者には、うってつけの潜伏《せんぷく》場所となっていたので、テキサスばかりでなく、メキシコあたりからも、いろんな犯罪者が流れてきて、そこにひそんでいた。だから、牧場管理人のホール大尉は、森林警備隊にいたときと同じくらい多《た》忙《ぼう》で危険な毎日を送っていた。O・へンリは、ホール大尉から、無法者のこと、森林警備隊のこと、メキシコ人の羊飼いのこと、カウボーイのことなどを詳《くわ》しく聞かされた。それらは、彼の南西部を舞《ぶ》台《たい》にした短編小説のなかに、いろんな形で生かされている。
O・へンリは、牧場では、リー・ホールの弟ディック・ホール(Dick Hall )の丸木小屋に住んでいた。小屋は、せまい小さな部屋が二つあるだけなのに、家族はディック夫婦と、まだ乳児の女の子と、細君の弟のヒューズ(B.F.Hughes )と、そこへO・へンリが割りこむことになったので、とても全部が家のなかで寝《ね》るというわけにはいかなかった。やむなくO・へンリは、ヒューズと共に、小屋の軒下《のきした》にむしろを敷《し》いて、そこへ寝た。そして、ディックとヒューズからカウボーイの仕事の手ほどきをうけた。一年ほどのあいだに、乗馬も射撃《しゃげき》も投げ縄《なわ》も、どうにかこなせるようになった。もう立派に一人前のカウボーイである。仕事の合間には、楡《にれ》の木《こ》陰《かげ》でギターをかきならしたり、メキシコの羊飼いの歌を習ったりしてすごした。この頃《ころ》が、彼の生涯で、もっとものんびりした時期であったかもしれない。
O・へンリは、この牧場生活のあいだに、フランス語とドイツ語の独習をはじめたが、まもなくそれをやめてスペイン語に熱中しはじめた。おかげで、スペイン語には、かなり習熟したようである。南西部やラテン・アメリカを舞台にした彼の作品を読めば、このことははっきりする。英語の勉強も、決しておろそかにせず、つねにウェブスターの辞典をそばにおいて、ひまさえあれば、それに目を通していたということである。後年、読者ばかりでなく批評家をすら驚嘆《きょうたん》させたあの豊富多《た》彩《さい》な語彙《ごい》は、このころ身につけたものであろう。彼にとって辞典は、たんに単語の意味を知るためのものではなく、思想の源泉であり、現実の世界に抽出《ちゅうしゅつ》されることを待っている言葉の宝庫であったのだ。
テキサスでの牧場生活は、ほぼ二年間つづいた。一八八四年、二十一歳の誕生日《たんじょうび》を迎《むか》えると間もなく彼は牧場生活に別れを告げて、その州の首都オースチンへ出た。首都とはいっても、当時オースチンは、人口一万ばかりの西部の小都市にすぎなかった。しかしここは、いろいろな意味で、南部の古い文化と北部の新しい文化の交流点であった。
彼は、牧場で知りあった鉱山師の口ききで、グリーンズボロ出身のジョー・ハーレル(Joe Harrell )という人の家に身を寄せた。そして、ある薬品会社へ勤めたが、まるでドラッグ・ストアの店員のような仕事だったので、つまらなくなって、二カ月ほどでやめてしまい、しばらくのあいだ、絵をかいたり本を読んだりして気をまぎらせていた。
翌年の秋、友人の父親が経営している土地会社へ帳簿係《ちょうぼがかり》として勤めることになった。給料は月百ドルだった。彼は、この仕事と給料が気に入ったらしく、一八八七年にテキサス土地管理事務所へ移るまでの二年間、この職についていた。
彼が「O・へンリ」というペンネームを用いるようになったのは、一八八六年の夏からであるといわれている。当時彼が「生意気へンリ」という仇《あだ》名《な》をつけていた野良《のら》猫《ねこ》がいた。その猫を呼ぶのに、ただ「へンリ」と呼んだだけでは見向きもしないが、「OH・へンリ」と呼びかけると、すぐに彼のところへきて身《から》体《だ》をすりつけた。そこで「O・へンリ」というペンネームを思いついたというのである。その後しばらくして彼が自分の書いた文章に「O・へンリ」とサインしたことが記録に残っている。これがO・へンリというペンネームを用いた最初であろうということである。その由来はともかくとして、そのころ彼が親しくつきあっていたロリイ・ケーヴ(Lollie Cave)が残した一八八六年のサイン・ブックに「O・へンリ」の名がしるされていることから考えても、このペンネームが生れたのが一八八六年ごろであることは、ほぼまちがいあるまい。
ダル牧場で世話になったディック・ホールが、一八八六年の末、テキサスの土地コミッショナーに選ばれたのを機会に、彼はホールにすすめられて、翌年一月、テキサス土地管理事務所へ移った。この事務所に彼は、その後四年間、一八九一年一月まで勤めることになるのだが、はじめは登記係として、給料は月百ドルだった。仕事は、それほど面白いものではなかったが、しかし、この仕事を通じて彼は、土地問題にからむ紛争《ふんそう》の実態を、つぶさに観察することができた。さまざまな紛争事件が、多くの劇的可能性をはらんで、彼の想像を刺激した。これは、後年の彼の作品活動にとって、貴重な体験であったといえる。
O・へンリが、エイソル・エスティズ(Athol Estes)とはじめて会ったのは、一八八六年、州会議事堂の新築完成を記念して開かれた祝賀ダンス・パーティの夜のことであった。エイソルは、テネシー州クラークスヴィル生れの十八歳の少女で、その夜のパーティでも、若い男たちの人気の的だった。
エイソルが生れたころ、クラークスヴィルの周辺では黒人の暴動が相つぎ、その危険を避《さ》けるため、彼女《かのじょ》の一家は、テネシー州の首都ナシュヴィルに移った。エイソルが満一年の誕生日を迎える前に父が結核《けっかく》で死に、母は彼女が六歳のときG・P・ローチ(G.P.Roach)と再婚《さいこん》してオースチンに新しい家庭をつくった。
エイソルは、小《こ》柄《がら》で、華奢《きゃしゃ》で、『賢者《けんじゃ》の贈《おく》りもの』(The Gift of Magi )のデラにそっくりの美しい少女だった。デラを描《えが》くとき、おそらくO・へンリの頭には、若い日のエイソルの面影《おもかげ》があったものと思われる。彼女は、日常のごくささいなことについても、口のなかで低くお祈《いの》りをとなえる癖《くせ》があったというが、信仰心《しんこうしん》のあつい、心のやさしい女性だったらしい。
間もなくO・へンリは彼女に求婚した。エイソルの両親は、彼の人物については異存がなかったが、その経済力に不安をいだき、二人の結婚を許そうとはしなかった。ついに彼は駆《かけ》落《お》ちしようとまで決心した。ところが、一八八七年七月一日に、思いもかけぬ好機がおとずれた。
その日エイソルは母の使いで町へ出かけることになった。服が一カ所破けていたが、誰《だれ》にも会わずに帰ってこられるものと思い、そのまま着換えもせずに急いで家を出た。二人が道で出会ったのは、まったくの偶然《ぐうぜん》だった。O・へンリは、この機会をのがさなかった。うむを言わせず彼女を馬車に乗せて教会へつれて行った。馬車から降りたとき、彼女は、服が破けているのを気にして、どうしても教会へ入ろうとしなかった。すると彼は、即《そく》座《ざ》にそこへかがみこんでピンで服の破れた個《か》所《しょ》をとめてやり、なおもしりごみする彼女を引立てるようにして祭壇《さいだん》の前に進んだ。こうして二人は結婚した。彼が二十五歳、エイソルは十九歳であった。二人は、O・へンリが勤めている土地管理事務所の近くの東十一番通りに小さな家を借りて、そこに新家庭を構えた。二人の新婚生活は幸福だった。彼は心からエイソルを愛していたし、エイソルもまた病弱の身にもかかわらず献身《けんしん》的に彼につくした。
小説を書くことをすすめたのも彼女だった。もともと、文章を書くのは、絵をかくのと同じくらい好きで、それまでにも、いくつかスケッチ風のものを書いたりはしていたが、小説家になろうなどとは考えてもいなかった。自信もなかった。ところが、妻のはげましをうけて書きあげた二編のスケッチ風の小品――『最後の勝利』(The final Triumph )と『ちょっとした手ちがい』(A Slight Inaccuracy )――を、ある雑誌社へ送ってみたら、これが採用されて、原稿料《げんこうりょう》として六ドルの小切手が送られてきた。彼の書いたものが金になったのは、これがはじめてである。
一八八七年九月には、デトロイトの「フリー・プレス」社から原稿の依《い》頼《らい》をうけた。つづいて、「アップ・トゥ・デイト」誌にも寄稿するようになった。しかし、O・へンリの本格的な文学活動は、まだまださきのことで、この時代の作品は、ほんの小手調べのようなものであった。
男の子が生れたが、すぐに死に、一八八九年に娘のマーガレット(Margaret )が生れた。エイソルは、マーガレットを生んだあと、産後の肥立ちがわるく、何週間も生死の境をさまよった。やや恢復《かいふく》のきざしが見えてきたが、それでも家庭を切りまわして行くことなど、とうていおぼつかなかった。そこでO・へンリは、妻と娘を馬車に乗せて、エイソルの両親のもとへつれて行った。
彼は妻子と共に翌年の夏まで妻の実家に滞《たい》在《ざい》した。そして、妻の恢復を待って、一八九一年、ふたたびオースチンに戻《もど》り、東四番町の小さな家におちついた。彼は裏庭にある大きな納屋《なや》を改造して書斎《しょさい》をつくり、オースチンを去るまでに約一千冊の蔵書をたくわえたが、これは後に火災にあって全部焼失《しょうしつ》してしまった。ひまさえあれば、彼は、この書斎にとじこもって、軽いスケッチ風の文章を綴《つづ》ったり読物風の小編を書いたりしていた。
一八九○年にホール・コミッショナーが知事選挙に出馬して敗《やぶ》れたため、O・へンリも、翌年一月、土地管理事務所をやめた。そして、それから一カ月後に、ファースト・ナショナル銀行の出納係《すいとうがかり》になった。O・へンリが、銀行の出納係になったことと、その在職中に新聞の発行に乗り出したことは、はからずもエイソルと彼の幸福な生活を根こそぎ破《は》壊《かい》する原因となった。売れない新聞の発行は、必然的に多額の借金をつくる結果になったし、現金出納係の地位にあったことは、不幸にも彼を公金横領という破《は》廉《れん》恥《ち》罪《ざい》に巻きこむことになったからである。
そのころファースト・ナショナル銀行の経営は乱脈をきわめていたらしい。当座預金の貸《かし》越《こ》しは日常茶《さ》飯《はん》事《じ》であったし、銀行の役員や町の有力者たちはサインもせずに平気で現金を引出した。なかには金を引出したことすら忘れてしまって、注意したりすると逆に出納係をどなりつけるような始末であった。O・へンリは、つくづく出納係になったことを後悔《こうかい》したが、他に生活費を稼《かせ》ぐ手段も見つからないまま、ずるずると銀行勤めをつづけた。そのあいだ、彼の収入は月に百ドルを越したことがなく、家計はいつも赤字つづきであった。だから、うまくゆけば収入がふえるかもしれないチャンスが、思いもかけぬ方面から転《ころ》がりこんできたとき、即座に彼はそれにとびついたのであった。
一八九四年三月、「偶像破壊者《アイコノクラスト》」という月刊新聞を発行していたブラン(Brann)という人が、オースチンを去るにあたって、その新聞を工場とも二百五十ドルで売りに出した。彼は妻や友人の援助《えんじょ》をうけてこれを買いとり、「転石《ローリング・ストーン》」と改題して、週刊紙として発行することにした。まもなく彼は銀行をやめて新聞の経営と編集に専心した。記事も自分で書いた。夜、編集の仕事がすんでから、よく彼は街々をうろつきまわって、記事のネタを探してあるいた。人生の敗残者だけが寄り集まるような裏町の汚《きた》ない酒場で彼らを相手に安酒をくみかわすこともあれば、豪壮《ごうそう》な邸宅《ていたく》で開かれる上流階級のパーティに顔を出して、紳《しん》士《し》、貴婦人といわれる人たちの生態に目を向けることもあった。こうした夜の探訪を通じて、次《し》第《だい》に彼は、人生の機微《きび》に通じる鋭《するど》い観察者へと変貌《へんぼう》して行ったのである。
しかし、新聞の経営は赤字が重なるばかりであった。発行部数も、わずか千五百部ばかりで、それ以上すこしも伸《の》びなかった。その上、新聞に掲載《けいさい》した彼の戯画がもとでドイツ系市民の反感を買い、広告収入が激減《げきげん》した。とうとう一八九五年四月十七日号を最後として「転石《ローリング・ストーン》」は廃刊《はいかん》されることになった。
他に適当な職もないまま、半年ほどぶらぶらしていた後、フリー・ランスの新聞記者として働こうと決心し、主として「クリーヴランド・プレインディーラー」のために記事を書くことになった。フリーランスの記者だったころのさまざまな体験は、『あるユーモリストの告白』(Confessions of a Humorist)という短編小説のなかに面白く描き出されている。やがて彼は友人たちの尽力《じんりょく》によって、「ヒューストン・ポスト」という新聞社に就職がきまり、その年の十一月、家族と共にヒューストン市へ移った。ほどなく、この新聞の経営者ジョンストン(Johnston)は、O・へンリが珍重《ちんちょう》すべき画才の持主であることを知り、彼に戯画をかかせて「ポスト」紙に掲載した。当時ヒューストンは政争がはげしく、市民たちも政治運動に血道をあげていたから、時事問題にひっかけて諷刺をきかせた彼の戯画は、まもなく「ポスト」紙の呼びものの一つとなり、他の新聞までが競《きそ》ってこれを転載するようになった。
こうして、収入もふえ、地位も安定して、ひさしぶりにくつろいだ家庭生活を楽しんでいるところへ、突如《とつじょ》として災難がおとずれた。
一八九六年二月十日付で、ファースト・ナショナル銀行から、つぎのような告発状がオースチン裁判所へ出された。
「一八九四年十一月一日、当時オースチン市ファースト・ナショナル銀行の現金出納係の地位にあった被告人ウィリアム・シドニイ・ポーターは、前記ファースト・ナショナル銀行に損害をあたえ、かつ資産を詐《さ》取《しゅ》する特別の意図をもって、金四七○二ドル九四セントを横領し、私消した。よってここに……」
O・へンリは、翌日ヒューストンで逮《たい》捕《ほ》され、身《み》柄《がら》をオースチンの警察署へ移された。
そのころ妻のエイソルは、ふたたび病状が悪化して寝《ね》こんでいたので、それを理由に保釈の手続きをとり、家へ帰ることを許された。彼《かれ》はヒューストンへ戻《もど》って、「ポスト」紙の仕事をつづけた。だが、多くの読者によろこび迎《むか》えられた彼の戯画《ぎが》も、一八九六年六月二十二日号をもって終りを告げた。
翌七月はじめ、裁判をうけるためにオースチン市へ向った彼は、途中《とちゅう》で、オースチン行きの汽車に乗り換《か》えるかわりに、ニュー・オーリンズ行きの汽車に乗り換えた。
O・へンリが、どのくらいニュー・オーリンズに滞在したかは、いまもって判然としないが、それほど長い期間であったとは思われない。しかし、彼の名作の一つといわれている『シャルルロワのルネサンス』(The Renaissance at Charleroi )などで、かなり詳《しょう》細《さい》にニュー・オーリンズとその近郊の風物を描写《びょうしゃ》していることから考えると、それほど短い期間でもなかったようである。ともかく名前を変えて「ニュー・オーリンズ・デルタ」という新聞杜に勤め、しばらく記者生活をしていたことは事実らしい。妻とは、当局の目をくらますため、友人を介《かい》して、ひそかに文通をつづけた。
さらに彼はニュー・オーリンズを去って中米のホンジュラスへ逃《に》げた。ここでアル・ジェニングズ(Al Jennings)という男と知りあった。アルは列車強盗《ごうとう》をやって官憲に追われ、弟のフランク(Frank)と一緒《いっしょ》に、この地へ逃亡《とうぼう》してきていたのであるが、強盗犯人とは思えぬほど人のいい気さくな人間で、すぐにO・へンリと仲よしになり、よく彼らは三人で、海岸をあるいたり、町をうろついたり、酒場でポーカーをたたかわしたりしたということである。短編集『キャベツと王様』(Cabbages and Kings)に出てくるエピソードは、たいていジェニングズ兄弟も目撃《もくげき》しており、そのなかのいくつかはアル自身の体験を書いたものだという。
ときどきO・へンリはジェニングズ兄弟に向って、自分は二度とアメリカへは戻りたくない、家族と一緒に安全に暮《くら》せるような場所をこの国でさがしたい、と語っていたそうである。エイソルの健康さえ許せば、おそらく彼はそうしたであろう。何人もの友人の手をへてエイソルに送られた手紙に、彼は、この熱帯の小国に安住する計画を、こまごまとしたためている。
そうこうするうちに妻が危《き》篤《とく》だという知らせがとどいた。帰れば捕《とら》えられることはわかっていたが、妻に会いたい一心から、翌年一月下旬に帰国し、やつれはてた病床《びょうしょう》の妻の枕《まくら》もとに姿をあらわした。
二月一日に彼は友人につき添《そ》われて裁判所へ出頭し、改めて保釈を申請《しんせい》した。保証人となった友人たちの尽力で、もう二度と逃亡しないという条件つきで、この申請は受理された。
彼は日夜心をこめて妻の看病につとめた。しかしエイソルは、ついに健康をとりもどすことができなかった。そして、彼が戻ってから六カ月あまりたった一八九七年七月二十五日、夫に抱《だ》かれながら二十九年の短い生涯《しょうがい》の幕を閉じた。
妻の死後に行われた裁判の結果、彼は有罪の宣告をうけ、五年の刑期を言い渡《わた》された。そして、翌年四月二十五日、オハイオ州刑《けい》務《む》所《しょ》に収容された。
彼の犯罪事実については、今日まで明らかにされていない。さきにも書いたように、ファースト・ナショナル銀行の経理は、およそ前時代的な杜《ず》撰《さん》きわまるものであったから、銀行検査官の検査の際、帳尻《ちょうじり》が合わないことを指《し》摘《てき》され、やむなく当時の出納係のO・へンリに責任をなすりつけて告発したのだという説もあれば、いや彼は銀行の金を「転石《ローリング・ストーン》」の赤字の穴埋めに使ったのだという説もあって、いまだにいずれとも判然としないのである。O・へンリの最も信頼すべき伝記とされている"O.Henry Biography"(1916)の著者アルフォンソ・スミス(Alphonso Smith)は無罪説をとっているし、"Alias O.Henry"(1957)の著者ジェラルド・ラングフォード(Gerald Langford)は、はっきり有罪と断定している。その根拠《こんきょ》の一つとして、ラングフォードは、この事件についてO・へンリが一言半句の弁明もしなかったことをとりあげているが、たしかに彼は生涯を通じて、この話題にふれることを極端《きょくたん》にいやがり、むしろ、ひた隠《かく》しに隠していたようである。
刑務所の生活は、彼が想像していたよりも、はるかに悲《ひ》惨《さん》なものだった。彼は、その悲惨さを、つぎのように書いている。「ここでは自殺がピクニックのようにありふれたものとなっている」「ここでは肺病が家庭での悪性の風邪《かぜ》よりもありふれたものとなっている」「私は人間の生命が、ここでのように安っぽく考えられているとは想像したこともなかった」「ここでは人間は魂《たましい》も感情もない動物とみなされている」
しかし、当時の刑務所がいかに怖《おそ》ろしいところであったにせよ、もしも彼が刑務所生活を体験しなかったら、はたしてアメリカ文学史に残る短編作家O・へンリが生れていたかどうか疑わしい。それほど、この体験は、彼の作家的生長にとって貴重なものだったのである。
刑務所では彼は模範囚《もはんしゅう》であった。ドラッグ・ストアで働いた経験が役に立って、薬局の仕事をあたえられたが、刑務所医や所員たちも、彼の誠実な人柄と謙虚《けんきょ》な態度に好意を寄せ、はては尊敬するようになった。時間的に、かなり余《よ》裕《ゆう》があったので、彼は熱心に小説を書きはじめた。一つには、小説の世界に閉じこもることによって、残酷《ざんこく》な現実を忘れたいという気持がはたらいていたとも考えられる。
彼は作品を書きあげると、それを友人を通じて雑誌社へ送った。一八九九年、当時かなり有名だった「マックリュア」という雑誌に、『口笛《くちぶえ》ディックのクリスマス・ストッキング』(Whistling Dick's Christmas Stocking)と題する短編小説が、はじめてO・へンリの名で掲《けい》載《さい》された。刑務所で書かれた作品は、すくなくとも十二編はあるといわれている。『よみがえった改心』(A Retrived Reformation)のモデルとなった男を知ったのも、この刑務所においてであった。
模範因として五年の刑期を三年三カ月に短縮され、一九○一年七月に出所した。さっそく彼は、亡妻の実家にあずけたおいた娘マーガレットのいるピッツバーグへ行った。そして、翌年の春までここに滞在して創作をつづけた。そのころはまだO・へンリというペンネームに、それほど執着《しゅうちゃく》を感じなかったらしく、作品によっては、シドニイ・ポーターとかオリヴァー・へンリとかS・H・ピーターズとか、いろんな筆名を用いている。彼が、はっきりO・へンリをペンネームとするのは、ニューヨークへ出てからのことである。
O・へンリは、一九○二年の春、はじめてニューヨークを見た。彼《かれ》は貧民街《ひんみんがい》の安ホテルで二晩ほどすごしてから、彼をニューヨークへ呼んでくれた「エインズリー・マガジン」の編集者ギルマン・ホール(Gilman Hall)を訪ねた。つとに彼の奇《き》才《さい》を見ぬいていたホールは、彼のためにブロードウェイの近くにアパートを借りてやり、熱心に執筆《しっぴつ》をすすめた。これに力を得て、O・へンリは、つぎつぎと短編小説を書きはじめた。ニューヨークへ出てから一年とたたぬうちに、彼の署名のある作品が、いろんな雑誌や新聞の日曜版などに見られるようになった。「ニューヨーク・ワールド」紙の日曜版に、一編百ドルで毎週一編ずつ作品を提供する契約《けいやく》を結んだのは、一年半ほどたってからであった。週に一編というこのおどろくべきぺースは、一九○三年にはじまって、一九○六年まで、実に四年間もつづいた。この期間がO・へンリの最も多作な時代であった。
名声もあがり、収入もふえた。月に五百ドルないし六百ドルくらいの収入があったらしい。もはや押《お》しも押されもせぬ流行作家であった。当時は、アンブローズ・ビアス(Ambrose Bierce)ジャック・ロンドン(Jack London)スティーヴン・クレーン(Stephen Crane)などが、さかんにもてはやされていたが、O・へンリの短編は、彼らの作品とはいくらかちがった意味でではあるが、より以上にジャーナリズムからも読者からも歓迎《かんげい》された。
おもしろいのは、「ワールド」紙と契約してから以後、彼の作品の舞《ぶ》台《たい》が、ほとんどニューヨークにかぎられてしまったことである。南西部やラテン・アメリカに材をとった作品は、いずれもそれ以前に書かれたものといっていい。当時アメリカは近代資本主義の勃興《ぼっこう》期《き》にあった。アメリカの代表的都市ニューヨークには、近代資本主義の落し子であるサラリーマンの小市民的生活が氾濫《はんらん》しはじめており、O・へンリにとっては、まさしくうってつけの舞台が提供されていたわけである。彼は、昼も夜も、ひまさえあれば街へ出て、公園の片隅《かたすみ》にたたずんだり、ごみごみした裏街に入りこんだり、安酒場にもぐりこんだりしては、しさいに実人生の裏側を観察し、それを巧《たく》みに小説のなかへとり入れた。こうして、この頃《ころ》の彼の日常は、うむことのない探訪と、それを素材とする創作の執筆とに明け暮《く》れていた。彼は、「自分の書く物語の筋書は、どこにでもころがっているものだ」と語っているが、それは、そういう物語の材料が、どこにでもあることを意味するものではない。彼の物語の背景は、あくまでニューヨークそのものなのである。世界のどこにでもあるというものではないのだ。近代資本主義の中心地ニューヨークに、東洋的幻想《げんそう》が生んだアラビアン・ナイトの魅力《みりょく》と色彩《しきさい》とを見たO・へンリは、ニューヨークにとりつかれたローカル・カラリストであったと同時に、ニューヨークをバグダードと見立てることのできたロマンティストでもあった。
一九○四年に、最初の短編集『キャベツと王様』が出版された。つづいて一九○六年、第二短編集『四百万』(The Four Million)が出るにおよんで、彼の作家的地位は、一層ゆるがぬものとなった。「四百万」というのは、当時のニューヨークの人口を示す数字で、いずれもニューヨークを描《えが》いたものである。『二十年後』(After Twenty Years)『警官と讃《さん》美《び》歌《か》』(The Cop and the Anthem)『賢者《けんじゃ》の贈《おく》りもの』『多《た》忙《ぼう》な仲買人のロマンス』(The Romance of a Busy Broker)など、今日でも彼の傑作《けっさく》とされている名品が、たくさんこのなかには入っている。『四百万』はまたO・へンリの短編の特長である「結末の意外性」を、きわめてはっきりと示したものとして知られている。さりげなく物語をすすめていって、最後に予想もしないような意外な結末を披《ひ》露《ろう》して読者をあっといわせるあの「どんでん返し」の手法は、もちろん彼が創《つく》りだしたものではないが、『四百万』が出てからというもの、完全に彼のトレード・マークとみなされるようになった。しかし、この「結末の意外性」も、注意深く読んでみれば、実は意外でも不自然でもなく、そうならざるをえない結末であることに、炯眼《けいがん》な読者ならば、すぐ気がつくはずである。きわめて自然な、しかも不可避《ふかひ》な結果なのだ。「私は物語の結末を考えずに書きだすこともしばしばある。ときには最後まですっかり筋を立てて書きだすこともあるし、またときには、あらかじめ考えておいた結末に合わせて物語をつくることもある」と彼は言っている。いずれにせよ、不必要な誇張《こちょう》や、くどすぎるだじゃれや、きざな気どりなどが多少まじってはいるものの、人物と情況《じょうきょう》、物語性と人間性の関係を、つねに一貫《いっかん》して正しくとらえていることはまちがいない。これが今日でもなお多くの読者をうしなわないゆえんであろうと思う。
一九○七年には、ニューヨークの生活に取材したもう一つの短編集『手入れのよいランプ』(The Trimmed Lamp)が出版され、同じ年に、テキサスでの体験をもとにした短編集『西部の心』(Heart of the West)が出た。つづいて一九○八年には『都会の声』(The Voice of the City )と『やさしいつぎ木師』(The Gentle Grafter)が、そして翌一九○九年には『運命の道』(Roads of Destiny)と『選択権《せんたくけん》』(Options)の二冊の短編集が出た。さらに一九一○年には『きびしい商売』(Strictly Business)が出版されたが、これが彼の生存中に出た最後の短編集となった。
一九○五年春、O・へンリは、幼《おさな》なじみのサリイ・コールマン(Sallie Coleman)という婦人から、とつぜん一通の手紙をうけとった。『牧場のマダム・ボピープ』(Madame Bo - Peep of the Ranch)の作者は、子供のころ自分がよく一緒《いっしょ》に遊んだウィリアム・ポーターのような気がしてならないが、ちがうだろうか、という問合せの手紙だった。これに対して返事を書いたのがきっかけとなって、O・へンリとサリイ・コールマンとの幼い日の友情が復活し、文通を重ねているうちに、とうとう結婚《けっこん》の約束《やくそく》をするところまで発展した。そして、それから二年後の一九○七年十一月二十七日、二人はナシュヴィルで結婚式をあげた。サリイはこのとき三十九歳であった。どうして彼女がこの年齢《ねんれい》になるまで独身を通してきたのか、その事情はわからないが、ともかく初婚であったという。
七番街と八番街のあいだの西二十三丁目に新居を構え、亡妻の実家にあずけてあった娘《むすめ》のマーガレットを引きとった。しかし、この結婚生活は、あまり幸福ではなかったらしい。このころから、彼の執筆速度は、めだっておそくなり、飲酒癖《いんしゅへき》と浪《ろう》費《ひ》癖《へき》とがたたって、相当の収入があったにもかかわらず、経済的にもそれほど楽ではなかった。仕事の進まぬ焦《しょう》燥《そう》から、ますます酒に溺《おぼ》れるようになり、二度目の妻とのあいだも次《し》第《だい》に気まずくなっていった。ついに翌一九○八年の秋、妻と娘をナシュヴィルの妻の実家へあずけ、自分は単身ニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジにアパートを借りて、そこへ移り住んだ。そして、あまり人前に出ることもなく、ひっそりと自分だけの世界に閉じこもっていた。
もともと彼は社交的な人間ではなかった。人前では、つとめて陽気にふるまったが、内実は陰性《いんせい》で内向的な性格だったらしい。内気で、気まぐれだった。どんな相手にも胸を開いて話すということがなかった。かたくなに自分の世界を守っていて、そこから内部へは誰《だれ》にも絶対に踏《ふ》みこむことを許さなかった。「ニューヨーク・ワールド」の編集者ウィリアム・ジョンストン(William Johnston)は、編集者と作家という関係以上に親しくO・へンリとつきあっていた友人であるが、「彼を包んでいる固い殻《から》のなかへは、ついに自分は入っていけなかった」と書き、つづけて「O・へンリの親友だったと自称する人物の回想文が発表されるたびに、私は、彼の霊魂《れいこん》が天国でハイボールでも飲みながら皮肉に笑っている図を想像する。O・へンリには親友などというものは一人もいなかったのだ」と書いている。
この自己《じこ》閉《へい》鎖《さ》的な性向を、例の公金横領事件と結びつけ、前科が知られるのをおそれて交際ぎらいになったのではないかと説明するものもいるが、おそらくそれは生れつきの性格と考えていいだろう。しかし彼が前科者という過去を知られるのをいやがりおそれていたのは事実で、ジョージ・マックアダム(George MacAdam)とのインタヴューの際にも、ニュー・オーリンズからホンジュラスへの逃亡《とうぼう》、さらに三年余の刑《けい》務《む》所《しょ》暮しについては、極力煙幕《えんまく》を張り、あるいは故意にごまかしている。このインタヴューの記事は、一九○九年四月四日の「ニューヨーク・サンデー・タイムズ」に掲載されているが、O・へンリが新聞や雑誌からのインタヴューに応じたのは、あとにもさきにもこれ一度だけであった。このインタヴューにおいて彼は一八六七年生れであると言っているが、これは受刑中の年月をごまかすためではなかったかと考えられる。また、中央アメリカへ行ったのは果樹園をつくるためであったと言い、ニュー・オーリンズへ行ったのは、いっさいの係累《けいるい》を離《はな》れ、ひとりぼっちになって、真剣《しんけん》に文学を勉強したいと思ったからだ、と説明している。
また、このなかで彼は、「どんな方法で小説を書くのか?」という質問に答えて、「いつも書き出す前に、できるだけ物語の筋を頭のなかで組み立てておく。そして、いったんペンをとりはじめると、一《いっ》気《き》呵《か》成《せい》に書きあげて編集者に渡《わた》す。読み直したり推敲《すいこう》したりすることは、ほとんどない」と言っている。つづいて、スランプのときのことをきかれると、「スランプになると、三カ月ものあいだ一行も書けないことが、しばしばある。そんなときには、強《し》いて書こうとせず、町へ出てぶらつくことにしている。町へ出て、群衆のなかへ入って行き、実人生の鼓《こ》動《どう》と迫力《はくりょく》を、じかに肌《はだ》で感じとるのである。物語作家にとって、これ以上の刺《し》激剤《げきざい》はないと思う」と答えている。
一九○九年には劇作にも筆を染めたが、これはあまり成功しなかったようだ。ところが、同年、ポール・アームストロング(Paul Armstrong)が、O・へンリの短編『よみがえった改心』を脚色《きゃくしょく》して上演すると、これがすばらしい大当りをとった。
一九一○年には、六つの短編と二編の詩が、いろんな雑誌に発表されている。
健康を害したO・へンリは、一九○九年、いったん妻と娘《むすめ》のいるナシュヴィルへ行き、一年ほどそこで静養してから、翌年三月にまたニューヨークへ戻《もど》ったが、それから死を迎《むか》えるまでの最後の三カ月あまりは、人にも会わず、電話の受話器もはずしたまま、ひとりアパートの一室に閉じこもって、病気とたたかいながら原稿《げんこう》を書きつづけていたらしい。とくに彼が病院へ運びこまれるまでの数日間をどうすごしたかは、今日まで謎《なぞ》のままである。ただべッドの下にウイスキーの空壜《あきびん》が九本ころがっていただけである。
彼の死の床《とこ》には医師が一人つき添《そ》っていただけだった。死の翌日の一九一○年六月六日付「ニューヨーク・トリビューン」紙は、O・へンリの死を報じる記事のなかで、死因は肝硬変《かんこうへん》であったと伝え、つぎのような医師の談話をのせている。――「彼の肝臓は極度に悪化していた。消化器官はだめになり、神経は手のつけられぬ状態になっていた。そして心臓はわずかなショックにも耐《た》えられないほど弱っていた」
息を引きとるとき、彼は、「ニューヨークが見えるようにシェードをあげてくれ。暗闇《くらやみ》のなかを故郷へ帰るのはいやだ」と言ったとつたえられているが、この言葉は当時の流行歌をもじったもので、あまりによくできすぎており、あとでつくられた伝説ではないかともいわれている。
葬式《そうしき》は、彼が生前愛したマディソン・スクエアに近いという理由から『警官と讃美歌』や『多忙な仲買人のロマンス』などにも出てくる「角を曲った小さな教会《リトル・チャーチ・アラウンド・ザ・コーナー》」で行われた。この葬式については、まるで彼の作品そのままのようなエピソードが残されている。どういう手ちがいからか、この教会では、当日おなじ時刻に結婚式が予定されていた。はなやかに着《き》飾《かざ》った結婚式の人たちが教会へきてみると、そこではいま葬式がはじまろうとしていた。やむなく彼らは、『四百万』の作者の葬儀がすむまで、近くのホテルで待っていなければならなかった。
彼はノース・カロライナのナシュヴィルに埋葬《まいそう》されたが、質素な花《か》崗岩《こうがん》の墓碑《ぼひ》には、ただ、"William Sydney Porter 1862 - 1910"とだけ記されている。
O・へンリの死後、短編巣『回転木馬』(Whirligigs,1910)が出た。このなかには、彼の最もユーモラスな作品とされている『赤い酋長《しゅうちょう》の身代金《みのしろきん》』(The Ransom of Red Chief)や、文章の美しさで知られている『盲人《もうじん》の休日』(Blind Man's Holiday)や、そのほか『われらのたどった道』(The Road We Take)『一ドルの価値』(One Dollar's Worth)などのすぐれた作品がふくまれている。
翌一一年には、『てんやわんや』(Sixes and Sevens)が出版されたが、これには、ホンジュラスで知りあったアル・ジェニングズの体験談をもとにした『列車強盗《ごうとう》』(Holding Up a Train)、ニューヨークへ出てきた田舎《いなか》者《もの》のカウボーイを主人公にした『天気のチャンピオン』(The Champion of the Weather)などのほか、美《び》貌《ぼう》の名流婦人と内気な青年とのはかないアヴァンチュールを描《えが》いた『臆病《おくびょう》な幽霊《ゆうれい》』(A Ghost of a Chance)などが収録されている。
つづいて一二年に出版された『転石』(Rolling Stones)には、『サントンの霧《きり》』(A Fog in Santone)や『あやつり人形』(The Marionettes)など機知に富んだ作品も入っているが、大半は作者が若いころ書いたカリカチュアや軽いスケッチ風の物語が集められていて、それほど推賞できる作品集ではない。ただこれには未完のまま絶筆となった『夢』(The Dream)という短編が収められていることをつけ加えておきたい。
一九一七年には短編集『がらくた』(Waifs and Strays)が出た。これは、題名の通りの「がらくた」の寄せ集めではないにしても、O・へンリの代表的な作品とくらべたら、だいぶ質が落ちるというのが批評家の一致した意見である。一九二○年には、七編の詩と短いスケッチを集めた『O・へンリ集』(O.Henryana)が限定出版された。ここにおさめられた『るつぼ』(The Crucible)は彼の詩作のなかでは最高の出来ばえを示しているし、『思わせぶりな盛《さか》り場』(The Elusive Tenderloin)は彼がはじめて「ニューヨーク・ワールド」に発表した短編として記《き》憶《おく》さるべきであろう。一九二三年に出版された『あとがき』(Post - scripts)は「ヒューストン・ポスト」紙に掲載《けいさい》された彼のスケッチを集めたものであり、三九年の『O・へンリ・アンコール』(O.Henry Encore)は初期の漫文《まんぶん》やスケッチの寄せ集めではあるが、後年の彼の成功を約束《やくそく》するようなものがいくつか入っていて興味深い。
彼は十年たらずの作家生活のあいだに、およそ二百八十編の作品を残している。典型的な短編作家で、短編小説しか書かなかった。「アメリカのモーパッサン」といわれているが、人生のさまざまな断面にスポットをあて、軽妙《けいみょう》な文学的表現をもって、これを巧《たく》みに小さな短編形式にまとめあげる手腕《しゅわん》の見事さは、ちょっと他に類がないだろう。
ユーモアとウィットとぺーソス、誰《だれ》もが指《し》摘《てき》するように、これがO・へンリの独特の持味であるが、もっと驚嘆《きょうたん》に値《あたい》するのは、その着想の奇《き》抜《ばつ》さとプロットの巧妙《こうみょう》さである。豊富な想像力と、しっかりした構成力をもった作家でなければ、とてもできる芸当ではない。
彼の作品は、いずれも起承転結がはっきりしているのが一つの特長である。二ぺージか三ぺージのほんの短い小編でも、ちゃんと発《ほっ》端《たん》があり、ヤマがあり、そうして結末がある。もう一つの特長は、さきにも書いたように「結末の意外性」である。最後の場面で、あっと読者の意表をつくという趣向《しゅこう》、これはO・へンリのお家芸といっていいだろう。しかも、どんな作品の場合でも、ほとんど例外なく、しっとりとした、心の底からおのずとにじみ出るような笑いを誘《さそ》われるというのは、この作者が、人間の心理、人情の機微《きび》に通じているだけでなく、彼自身、あたたかい、ヒューメインな心の持主だからであろう。O・へンリの伝記を書いたアルフォンソ・スミスは、アメリカの文学史を飾《かざ》ったすぐれた短編作家たち、アーヴィング、ポー、ホーソーン、ブレット・ハートなどと比《ひ》較《かく》して、「O・へンリはアメリカの短編小説をヒューマナイズした」と書いているが、まさしくO・へンリ文学の本質をつく適切な評言というべきだろう。
大久保康雄