O・ヘンリー短編集(2)
O・ヘンリー/大久保博 訳
目 次
馭車台から
ポリ公と讃美歌
マモンと弓の使い手
お好み料理の春
運命の衝撃
最後の一葉
ラッパのひびき
賢者たちの贈りもの
れんが粉の長屋
インディアン酋長誘拐事件
解説
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馭車台から
馭者《ぎょしゃ》には馭者としての物の見方がある。それはおそらく、ほかのどんな天職に従っている人の見方よりも一途《いちず》なものだと思う。馬車《ハンサム》の高い、ゆらゆらと揺れ動く馭者台から見れば、世の中の人間なんてみなそこいらをウロチョロしている微粒子《びりゅうし》みたいなもので、何の価値もない存在なのである。ただし、その微粒子がどこか遠くへ行きたいという気持ちをおこしたときは別であるが。そのときでも馭者はエヒウであり、みなさんは運送貨物なのである。たとえみなさんが大統領であろうと、ゴロツキであろうと、馭者にとってはただ運賃をはらってくれるもの、にしかすぎないのである。馭者はあなた方を乗せ、ムチをならし、あなた方の背骨をゆさぶり、そしておろすだけのことである。
運賃を支払うときになって、もしみなさんが、公定料金は先刻承知だぞというような態度を見せようものなら、軽蔑というものがどういうものであるか、とくと知るようになる。また、財布《さいふ》は家に忘れてきてしまったなんていうことになろうものなら、あのダンテの想像力でさえまだまだ生温《なまぬる》いものだということをいやでも思い知らされるにちがいない。
別に途方もない理屈から申しあげるわけではないが、馭者が一つの目的にひたむきであったり、人生について凝《こ》り固まったような見方をしたりするのは、それはその馬車の独特な構造のためからのようである。この棲木《とまりぎ》の雄鳥《おんどり》は、地上高く、さながらゼウス大神《おおみかみ》のごとく最高の座に鎮座《ちんざ》ましまし、二本の気まぐれな革ひものあいだにみなさんの運命をにぎっている。ほかになす術《すべ》もなく、愚にもつかぬ恰好で、閉じこめられたまま、まるでおもちゃの首ふり人形よろしくピョコピョコと頭をさげながら、みなさんは罠《わな》にかかったネズミのようにすわっているのである……固き大地に立ちてありせば、執事たちから深々と頭をさげられる身のみなさんでさえもですぞ……そしてこのゆれ動く棺《ひつぎ》のわずかな隙間から天上をあおいで、チューチューとあわれな声で自分の願いを聞いてもらわなければならないのである。
それにまた、馬車の中にあってもみなさんは、その場の占有者というわけではない。ただ馬車の中身にしかすぎない。みなさんは海上の船荷なのであって、「遥か高きところに座したもう天使《ケルプ》」〔馭者のこと〕だけがデイヴィー・ジョンズの所番地〔「デイヴィー・ジョンズ」は「海の悪霊」、「その所番地」とは海底のこと〕を暗記《そらんじ》ているというわけなのである。
ある夜のこと、飲めや唄えのどんちゃん騒ぎが、大きなレンガ建てのアパートの中であった。マックギャリーの大衆食堂《ファミリー・キャッフェ》から一軒おいたとなりである。どうやらこの騒ぎはウォルシュ一家の部屋から出てくるようであった。歩道は物見高い近所の人たちでいっぱいになっていた。彼らはときどき道をあけてやっていたが、それはこのお祭り騒ぎと余興とに関係のあるさまざまな品物をマックギャリーの店から運んでくる忙しそうな運搬係のためにであった。歩道の集団はいろいろと取り沙汰をしたり論じあったりしていたが、そうした話の中から彼らが決して省こうしなかった話題は、ノーラ・ウォルシュが結婚したというニュースであった。
時の満ちるにおよんで、中のうかれ騒いでいた連中がどっと歩道に飛び出してきた。招待を受けていなかった客たちは、その連中をとり囲み、その中に割りこんでいった。そして、夜空に高く立ちのぼったものこそ、喜びの叫び、祝いの言葉、笑い声、そのほか、もう聞きわけることもできない様々な声であった。それらはみな、この結婚のめでたい会場にマックギャリーが提供してくれた賜《たまわ》り物から生まれたものなのである。
歩道のふち石のそばには、ジェリー・オドノヴァンの馬車がとまっていた。夜鷹《よたか》とジェリーは呼ばれていた。しかし、彼の馬車のようにくすんだきたならしい車では、手編みのレースや十一月のスミレを身につけたような上等の客に向かって扉のあいたためしはなかった。
しかし、ジェリーの馬だけは、じつに立派だ! ごく控え目にお話ししても、その馬は充分にカラス麦をあてがわれていて、それゆえ、よごれた皿を洗いもせずに家を飛び出しては町を歩きまわり、運送業者たちを動物|虐待《ぎゃくたい》のかどで逮捕させようとしているあのお節介《せっかい》ばあさん連でさえも、ひと目見ただけで微笑をうかべるような……そう、本当に微笑をうかべるような……立派な馬だったのである。
入り乱れ、高声をあげ、脈動している群れの中から、ちらちらと、ジェリーのシルク・ハットが見えてきた。長年にわたって風雨に打ちつぶされた代物《しろもの》である。それからニンジンのような彼の鼻、これは、いたずら好きで腕っぷしの強い百万長者の息子たちや不届《ふとどき》千万な乗客たちに打ちつぶされた代物であって、その次に、金ボタンのついた彼の緑の上衣が見えてきた。これだけは、マックギャリーの店の付近でもほめそやされた代物《しろもの》である。どうやらジェリーは自分の馬車からその職権をとりあげてしまって、自分で「お荷物」を運んでいるようであった。実際、この表現はもっと誇張して、ジェリーを食パン配達馬車にさえなぞらえることが、もしそのそばで見ていた一人の若者の言葉をわれわれが認めるならば、できるのである。なぜなら、その若者はこんなことをつぶやいていたからであった、「ジェリーの腹は酒でパンパンだぞ」
通りのこの群衆の中からか、それともまばらな歩行者の流れの中からか、一人の若い女がつかつかと歩み出てきて、馬車のかたわらに立った。ジェリーのさすがに職業的な鷹《たか》の目が、すばやくその動きをとらえた。彼は体を斜《なな》めにしながら馬車に突進した。途中、見物人を三、四人つっころばし、自分自身までも……おっと! そうではない、自分は消火栓の頭をつかんで、あやうく体をささえることができた。水夫が疾風《はやて》の中で縄梯子《なわばしご》をよじのぼるような恰好でジェリーは彼の職業の座によじのぼっていった。
ひとたびそこにつくや、マックギャリーの酒の酔いもおさまってきた。彼は自分の船の後檣《ほばしら》の上で危なげもなくゆれていた。ちょうど摩天楼《まてんろう》のてっぺんの旗竿《はたざお》に身をたくした鳶職《とびしょく》のようである。
「お乗んなせえ、お嬢さん」とジェリーは手綱をたぐりながら言った。
若い女は馬車に乗りこんだ。扉が音をたてて閉まった。ジェリーのムチが宙に鳴った。溝《みぞ》の所にいた群衆がぱっと散った。そしてこの立派な馬車は西に向かって威勢よく走り去った。
カラス麦で元気いっぱいの馬が、その勢いよく飛び出した最初のひと走りをいくぶんゆるめたころ、ジェリーは馬車の蓋《ふた》をあけてその隙間から、ひびの入ったメガフォンのような声でどなった。なにやら機嫌をとろうとするような口調である。
「さて、どこへ行きたいのかね?」
「どこへでもお好きなところへ」と答えが返ってきた。美しい響きの、満足しきった声である。
「こりゃあ気ばらしのためのドライヴだな、このお嬢さんのは」とジェリーは考えた。そこで当然のこととして、こう提案した。
「公園の中をひとまわりするといいぜ、お嬢さん。すてきに涼しくって、いい気分だからね」
「ええ、あなたのお好きなように」とその客は陽気な声で返事をした。
馬車は五番街に向きをとり、そしてその申し分のない道をつっ走っていった。ジェリーは馭者台の上でとびあがったり、ゆれたりした。そのためマックギャリーのさしもの腰《こし》の強い酒も、不安になってきて、新たな毒気をジェリーの頭に送りはじめた。ジェリーはむかしのキリズヌックの歌をうたい、手にしたムチを指揮棒のようにふりまわした。
馬車の中では、客はクッションの上に背筋をまっすぐのばしたまま、右に左にと目をやりながら、街灯や家なみを眺めていた。うす暗い馬車の中でさえ、彼女の目はたそがれ時の空の星のようにかがやいていた。
五十九番通りにさしかかると、ジェリーの頭はこくりこくりと舟をこぎはじめ、手綱もゆるんだ。しかし彼の馬はくるりと向きをかえて公園の門を入ってゆくと、いつものあの勝手知った夜の一周をはじめた。そこで客のほうも恍惚の境に入って、背中をうしろにもたせかけると、草や葉や花の清らかで健康な香りを深々と吸いこんだ。轅《ながえ》の中の賢明な動物は、自分の土地をよく心得ていたので、急にあの時間ぎめのゆっくりとした歩調に速度を落とし、道の右側をきちんと守って歩きはじめた。
習慣もまた、悪戦苦闘のすえに首尾《しゅび》よく、ジェリーのつのりゆく酩酊《めいてい》の力をおさえた。彼は暴風にもてあそばれた自分の船のハッチをあげると、馭者たちが公園の中で必ずもち出す例の質問をした。
「カジノでとまるかね、お嬢さん? 何か飲みながら音楽でもきくといいぜ。だれでもとまるんだがね」
「きっとすばらしいでしょうね」と客は言った。
二人は、つんのめるようにして、カジノの入口で馬をとめた。馬車の扉がぱっとあいた。客は直接カジノのゆかにおり立った。そのとたんに、彼女はうっとりするような音楽のクモの巣に捕らえられ、光と色のパノラマに眩惑《げんわく》されてしまった。だれかが一枚の小さな四角いカードを手にすべりこませてくれた。それには番号が印刷してあった……三十四番。
彼女はあたりを見まわした。すると自分の馬車が二十メートルほど離れたところにあって、自家用馬車や辻馬車や自動車などが待っている群れにまじって、いつの間にかきちんとならんでいるのが見えた。それから、全身がワイシャツの胸ばかりかとも思われるような男が一人、踊るような身振りで彼女の前を後ずさりしながら店の奥へと案内していった。そして次には、手すりのそばの小さなテーブルに彼女は席をあたえられた。その手すりにはジャスミンの蔓《つる》がいっぱいに巻きついていた。
何かを注文するようにという無言の誘いが感じられるように思われた。そこで彼女は、うすっぺらな財布の中に集まっている小銭《こぜに》たちに相談して、ビール一杯ぐらいならよろしかろうという許可を得た。彼女はその場にすわったまま、それを……つまり魔法の森の妖精の宮殿で、新たな色をもち新たな形をもった人生を、……あますところなく吸いこみ、そして飲み込んだ。
五十あまりのテーブルには、王さまや女王さまたちが、世界中のありとあらゆる絹や宝石に身を包んで、すわっていた。そしてときおり、その中からだれかしらがジェリーの客をものめずらしそうに眺めていた。彼らの目にしたものが、「|薄地の絹《フラール》」という言葉だけが柔らかみを感じさせるあの安手のピンクの絹物を着た素朴な姿でありながら、しかも、女王たちでさえうらやむような、人生を愛する表情をうかべた素朴な顔だったからである。
時計の長い針が二度もまわった。王族方は戸外《アル・フレスコ》の玉座から次第に影をひそめ、自分たちの立派な乗物《おめしもの》にのって、ブーブーと、あるいはカタカタと、音をたてながら去っていった。音楽も木の箱や革のケースや羅紗《らしゃ》の袋の中に退《ひ》きあげた。給仕たちは、もうほとんど一人きりになったこの素朴な姿の近くで、あてつけがましくテーブル・クロスを片づけはじめた。
ジェリーの客は立ちあがって、例の番号札をあどけない顔つきで差し出した。
「この札《ふだ》で何か頂けるのかしら?」と彼女はたずねた。
一人の給仕が、それはお客さんの馬車の合札《あいふだ》である、だから玄関のところにいる男にわたすようにと教えてくれた。玄関の男はその札を受けとると、番号を呼んだ。馬車はもう三台しかならんでいなかった。そのうちの一台の馭者が、ジェリーのところへ行って、馬車の中でねむっていた彼をひきずり出した。ジェリーは深い声で悪態をつくと、船長の指揮する船橋《ブリッジ》にのぼって自分の船を埠頭《ふとう》のほうへと動かしていった。彼の客が乗りこむと、馬車は公園の涼しい風の中へと突進していった。家に向かういちばん近い道を通ってである。
公園の出口のところまで来ると、分別のかすかな光が、とつぜんの疑惑という形となって、ジェリーの曇った心をつかまえた。一、二のことが彼の胸にうかんできた。彼は馬をとめると、蓋をあげて、蓄音機のような声を、測鉛《おもり》のように、その隙間からたらした。
「さきに四ドルおがませてもらってから、このあと馬車を走らせてえと思うんだがね。それだけのお金《ちょうもく》があるかね?」
「四ドルですって!」と客はやさしく笑った。「とんでもない、あるもんですか。一セント玉が二、三個と、十セント玉が一、二個だけよ」
ジェリーはバタンと蓋をしめると、カラス麦を食わせた馬にピシャリとムチをあてた。
ひづめの響きは、彼の発する神を汚すような言葉をおさえはしたが、完全に消すことができなかった。彼は、窒息《ちっそく》しかけてはゴボゴボとふき出す悪態の数々を星空に向かってわめきちらした。すれちがう車にも激しくムチをふるって打ちかかった。荒々しい、絶えず表現を変えた悪態と呪いの言葉とを、通りから通りへとわめきちらしていった。夜ふけに家路《いえじ》をさしてノロノロと歩いてゆく荷馬車の親方でさえ、これを聞いたら恥ずかしくなるほどであった。しかしジェリーは自分の償還請求権《リコース》を知っていた。だからそれに訴えようと、全速力で馬を走らせた。
石段のわきに緑色の灯りのついている建物の前で、彼は馬をとめた。それから馬車の扉を大きくパッとあけると、そのまま彼はどさりと地上にころげ落ちた。
「さあ来い、こいつめ」と彼は荒々しい声で言った。彼の客は出て来たが、まだあのカジノでの夢みるようなほほえみをその素朴な顔にうかべていた。ジェリーは女の腕をつかむと、警察署の中にひっぱって行った。
白髪まじりの口髭をはやした巡査部長が、机の向こうからするどい目でにらんだ。彼とこの馭者とはまんざら知らぬ仲ではなかった。
「部長さん」とジェリーはいつもの、あのしゃがれたような、迫害に苦しむような、雷《かみなり》のような、そういった調子の声で不平を述べはじめた。
「この客はねえ……」
ジェリーはひと息いれた。それから、節くれだった赤い手で額をぬぐった。マックギャリーの酒のせいで立ちこめていたあの霧が、しだいに晴れあがってきた。
「この客はねえ、部長さん」と彼は、ニヤリと笑いながらつづけた、「部長さんに紹介しておきてえ奴なんです。あっしの女房でやしてね、ウォルシュのおやじさんの所で、今夜、結婚したんでさ。で、いま、とてつもなくすげえことをやらかして来たんでさ、本当ですぜ。さあ部長さんに握手しろや、ノーラ、そして家に帰ろうぜ」
馬車に乗りこむまえに、ノーラは深々と溜息をついた。
「今夜はあたし、本当にすばらしいときを送ったわ、ジェリー」と彼女は言った。
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ポリ公と讃美歌
マディソン・スクウェアのいつものベンチの上で、ソウピーは落ちつかぬ様子で体を動かした。雁《がん》が甲高《かんだか》い声で夜空を飛び、アザラシの毛皮のコートを持たぬ女房たちが亭主にやさしくなり、ソウピーが公園のいつものベンチで着ちつかぬ様子で体を動かしはじめたら、みなさんは、冬が間近にやってきたのだなとお考えになっていい。
枯葉が一枚、ソウピーの膝に落ちてきた。それはジャック・フロスト〔「霜」を擬人化したもの〕の名刺《めいし》であった。ジャックはマディソン・スクウェアの常連たちには思いやりがあって、毎年ここを訪れる前にちゃんと警告をあたえてくれるのである。公園を囲む四つの通りの角々のところで、彼はオール・アウトドアズ〔「だれもかれも」という意味と、「戸外にいるすべての人々」つまり「すべての浮浪者」との意味がある〕の大邸宅の従僕ノース・ウインド〔「北風」のこと〕に名刺を手渡す。おかげでこの大邸宅の住人たちは、支度にとりかかれるというわけである。
ソウピーの心は認識しはじめた、こりゃあいよいよ吾輩《わがはい》も単独歳入調査委員会を開いて、来《きた》るべき難局に対処せにゃあならんぞ。
だから、彼は自分のベンチで、落ちつかぬ様子で体を動かしたのである。
ソウピーの抱く越冬《えっとう》計画の野望は、最高というほどのものではなかった。地中海の船旅を考えていた訳ではなし、睡《ねむ》けをさそう南国の空の旅とかヴェスヴィオ湾に小舟をうかべることを考えていた訳でもなかった。「島」で送る三か月、これこそ、彼の魂が熱望するものだった。三か月のあいだ、食事や寝所《ねどこ》の心配もなく、気心の合った仲間までちゃんと用意してくれて、ボレアース〔北風の神〕にも巡査《ブルー・コート》たちにも煩わされることのない暮らし、これこそソウピーにとっては、望ましいものの真髄《しんずい》であるように思われたのである。
ここ数年というもの、このもてなしのよいブラックウェルの島が彼の冬期用宿舎であった。彼よりももっと幸運なニューヨークの市民たちは、毎年冬になると、パーム・ビーチやリヴィエラ地方へ行く切符を買うが、それとちょうど同じように、ソウピーもこの島への例年の|旅立ち《ヘジラ》〔「ヘジラ」とはモハメッドが時の行政官に追われてメッカからメディナへと旅立ったその「逃避」をいう。今では一般に「身の安全を求める旅」を意味する〕を遠慮がちに計画していた。そして今やその時がやって来たのである。
前の晩、日曜日の新聞を三つ、それぞれ上衣の内側と、足首のあたりと、膝の上とに配置してはみたものの、そんなことでこの寒さを撃退できるものではなく、彼はふるえながらこの古《いにしえ》の公園のほとばしり出る噴水の近くのベンチで眠っていたのであった。だからあの島がぼんやりと、大きな姿で、ちょうど折よくソウピーの心にうかんできたのである。
彼は、この市の扶養者たちに対して慈善の名のもとにあたえられるものをことごとく軽蔑していた。ソウピーの意見によれば、「法律」の方が「博愛」よりもずっと恵み深いものであった。なるほど慈善施設などというものは、市営のものにしろ篤志家《とくしか》たちのものにしろ、一つを皮切りにして次々とまわって歩けば際限なく利用することができて、簡易生活にかなった宿や食物をうけることはできる。しかしソウピーのような自尊心をもった者にとっては、慈善の贈り物などはわずらわしいばかりなのである。金という形でではなくても、精神的屈辱という形で代償を支払わなければ、いかなる恩恵も博愛の手からは受けられない。シーザーにはブルータスがついていたように、慈善のベッドには必ず強制入浴がつきものだし、一塊のパンにさえ立ち入った個人的な身元調査という代償がついている。だから、法律の客になる方がずっとましなのだ。法律は堅苦しいさまざまな規則によって運営されてはいるが、紳士の私事にまで不当に干渉することはないからである。
ソウピーは島に行く決心をすると、ただちにその願望の達成にとりかかった。これを実行するには簡単な方法がいくらでもあった。中でもいちばん楽しい方法は、どこか値段の高いレストランに入って行ってぜいたくに食事をすることであった。それからおもむろに支払い不能を宣言したのち、静かに、大騒ぎもせずに、警官の手にひきわたされるのである。親切な判事さんが、後のことは処理してくださるからである。
ソウピーはベンチを後にすると、ぶらぶらと公園を出て坦々《たんたん》としたアスファルトの海をわたっていった。ちょうどブロードウェイと五番街とが合流するあたりである。ここで彼はブロードウェイの上流へと舳先《へさき》を向けると、光りかがやくあるレストランの前で足をとめた。この店こそ、ブドウと、蚕《かいこ》と、原形質とのそれぞれ最上の産物が夜ごと集まるところであった。
ソウピーは、チョッキのいちばん下のボタンから上の部分にかけては自信があった。ひげもそってあるし、上衣も小ざっぱりとしたもので、それにきちんとした黒の結びつけのネクタイもしめていた。これなどは、婦人伝道師から感謝祭の日に贈ってもらったばかりのものである。このレストランのどこかのテーブルへ怪《あや》しまれずに着くことができさえすれば、成功はもうこっちのものだ。テーブルから上に出る部分ならば給仕の心に疑惑をかきたてるようなことはあるまい。真鴨《まがも》の丸焼きぐらいが、とソウピーは考えた、まあ適当なところじゃろう……それにシャブリを一本と、それからキャマンベールと、デミタースと葉巻が一本。その葉巻は一ドルぐらいので充分じゃろう。全部あわせたって、この店の経営者から最高級の復讐の顕示《けんじ》を喚起するほど高い額にはなるまい。しかもその食事は、彼に満足感と幸福感とをあたえながら冬の隠れ家へと旅立たせてくれるのだ。
しかしソウピーがレストランの入口に足をふみ入れたとたん、給仕長の視線がソウピーのすりきれたズボンと、くたびれた靴の上におちた。たくましい、すばやい手がソウピーの体をくるりと回すと、そのまま彼をだまって急ぎ足に歩道へとおし出して、危険にさらされた真鴨が不名誉な運命をたどらぬようにとりはからった。
ソウピーはブロードウェイをわきにそれた。どうやら、彼の熱望する島への道はけっきょく食道楽の道ではなかったようだ。リムボウ〔「監獄」のこと。しかし「リムボウ」の原意は「辺土」で、これは地獄と天国との中間にあって、キリスト教に接する機会のなかった人や、洗礼を受けない幼児、異教徒、白痴などの霊魂が住む所〕に入る道をどこかほかに考えなくてはならない。
六番街の角のところまで来ると、電気の明かりと手ぎわよく陳列した商品とが、板ガラスの向こう側から一軒の店のウインドウをくっきりと浮きたたせていた。ソウピーは石をひろうと、いきなりそれをガラス窓にぶちこんだ。人々がその町角に走ってきた、先頭には警官が一人。ソウピーはじっと立っていた。両手はポケットにつっこんだままである。そして、彼は、真鍮《しんちゅう》ボタン〔警官のこと〕を見ると、にやりと笑った。
「やった奴はどこだ?」と警官は興奮した声でたずねた。
「ひょっとして、わたしがそれに関係しているとは、お考えになりませんかな?」とソウピーは言った。多少ひやかし気味なところもあったが、幸運をむかえる人のように親しみのこもった調子であった。
警官の心は、ソウピーの言葉を一つの手がかりとしてさえ受け入れようとはしなかった。窓を割るような者はいつまでもこんな所にいて法律の手先どもと話をするはずはない。さっさと逃げだすはずだからである。警官は一人の男が半ブロックほど先をかけだして市電をつかまえようとしているのを見つけた。そこで警棒をひきぬくと、彼もまたその追跡に加わった。
ソウピーは、胸に吐き気を感じながら、うらめしそうにぶらぶらと歩きだした。またしても失敗である。
通りの反対側に、ごく地味な構えのレストランがあった。この店は、旺盛《おうせい》な食欲で、しかも控え目な財布の持ち主たちの用をたしていた。皿と空気は厚く、そのかわりにスープとテーブル・クロスは薄かった。この店にソウピーは、自分の正体をあばきそうな靴と、隠すに隠されぬズボンとを運んでいったが、今度は誰も挑戦してはこなかった。テーブルにつくと、たちまちビフテキとホットケーキとドーナッツとパイとを平らげた。それから給仕に向かって自分はごく細かい小銭とさえ縁もゆかりもない間柄である、とうちあけた。
「さあ、早いとこお巡りを呼んでこい」とソウピーは言った。「お大尽《だいじん》さまを待たせるんじゃねえぞ」
「お前らのような奴にポリ公なんかいるもんか」と給仕は言った。その声たるや、まるでバター・ケーキのようで、目はマンハッタン・カクテルの中のサクランボのようであった。
「おい、コン、手をかしてくれ!」
実にみごとに左の耳を下にして、固い歩道の上に二人の給仕はソウピーを放り出した。彼は、大工の折り尺《じゃく》がひらくように、一節《ひとふし》ひとふし体をおこし、そして埃《ほこり》を服からはたいた。抑留はただバラ色の夢にしかすぎぬようであった。「島」はまだ遥かかなたにあるように思われた。
警官がひとり、二軒おいた先のドラッグストアの前に立っていたが、笑いながら通りを向こうへ行ってしまった。
ブロックを五つほどソウピーが歩いてゆくうちに、やがてまた勇気がわいてきて、なんとか捕まえてもらえるように、もういっちょうやらかしてみようという気になった。今度という今度は、彼がたわいもなく、一人で「絶対の極め手」と称しているようなチャンスであった。年若い女がひとり、しとやかな、人好きのする様子で、ショー・ウインドウの前に立って、しごく熱心にひげそり用のコップやインクスタンドなどの陳列品をのぞいていた、おまけにそのウインドウから二メートルほどのところに、たくましい体つきの警官が一人、いかめしい物腰で、消火栓にもたれておいで遊ばすのである。
ソウピーのもくろみは、ここで賎《いや》しむべき、呪われるべき「女たらし」の役を演じることであった。犠牲《いけにえ》となろうとする女の美しいエレガントな姿を見、実直そうなポリ公をすぐその傍に見て、彼はますます確信を強めた。もうすぐ心地よい官憲の手がこの腕をつかんでくれるだろう、そしておれの冬期宿舎をあのちょいと乙《おつ》で、ちょいと粋《いき》な島に確保してくれるだろう。
ソウピーは婦人伝道師からもらった例のネクタイを直し、奥の方へ尻込みしようとするカフスを袖口にひっぱり出すと、帽子も悩殺《のうさつ》的な角度にかぶりなおして、若い女の方へとにじり寄っていった。そして、色目をつかったり、急に咳きこんで、「えへん」とやってみたり、ほほえんだり、ニヤニヤしたり、「女たらし」のあの厚かましい、いやしむべき例の手口を、臆面もなく披露《ひろう》におよんだ。横目で見ると、警官がじっとこっちを見つめていた。
若い女は二、三歩むこうへ行ったが、ふたたびうっとりした眼差しをひげそり用のコップの上に注いだ。ソウピーはそれを追って大胆に彼女の脇に歩みよると、帽子をあげて言った。
「やあ、ベッドねえちゃん! どうだい、うちのお庭で遊ばないかい?」
警官はまだこっちを見ていた。だからこうして言い寄られた若い女は、ただ合図に指を一本あげさえすればよかった。そうすればソウピーは島の避難所さして、もうその途上にあると言ってもいいくらいであった。すでに彼の胸中には、警察署のあの心地よい暖かさが感じられるような気がした。若い女はソウピーの方を向くと、片手をのばして、彼の上衣の袖をつかんだ。
「いいわよ、マイク」と彼女はうれしそうに言った。「ビールを一杯おごってくれるんならね。あたしのほうから先に声をかけようと思ってたんだけどさ、ポリの奴が見てたもんだから」
カシの木にからみついたツタのように、この若い女にしがみつかれて、ソウピーは警官のそばをゆううつな顔をしながら通りすぎた。彼の運命はどうしても自由の身でいなければならぬと定められているように思われた。
次の曲がり角のところまでくると、彼は女の手をふりきってかけだした。そしてしばらく走ってから足をとめた。そこは夜になると、いちばんライトな(明るい)通りと、いちばんライトな(浮きうきした)心と、いちばんライトな(軽薄な)愛の誓いと、いちばんライトな(軽快な)歌とが出現する界隈《かいわい》である。毛皮の外套をきた女たち、しゃれたオーヴァーをきた男たちが寒空の下を陽気に歩いていた。
とつぜんソウピーは不安な気持ちにかられて、おれの体は何か恐ろしい魔法のせいで、抑留から免疫《めんえき》になっちまったんじゃなかろうかと考えはじめた。そう考えるといささかあわてだした。そこで、一人の警官がまばゆいばかりの劇場の前をもったいぶった足どりでぶらぶら歩いているのに出会うと、眼前のワラにすがるような思いで、「治安紊乱《ちあんびんらん》行為」におよぼうとした。
歩道で、ソウピーは耳ざわりな声を張りあげながら、飲んだくれのたわごとをがなり始めた。それから踊ってみたり、咆《ほ》えてみたり、わめいてみたり、そのほかいろいろなやり方で大空をかきみだした。
警官は警棒をくるくるまわしながらソウピーに背を向けると、通行人の一人に言った。
「エール大学の学生ですよ、ハートフォード大学をゼロ敗させたんで、それを祝っとるんです。やかましいですが、別に害はありません。放っておくようにと指示されとるんです」
やるせない思いでソウピーはこの無益な空さわぎをやめた。警官はどうしても捕《つか》まえてくれないのだろうか? 夢に描いていた島は、行きつくことのできぬ理想郷《アルカディア》のように思われた。彼はうすっぺらな上衣にボタンをかけて、冷たい風を防いだ。
タバコ屋の店を覗くと、身なりのよい男が火縄のような点火器で葉巻に火をつけていた。その男の絹の傘が入口のドアのところに立てかけてあった。ソウピーは中に入ると、その傘をつかんでゆっくりと出てきた。火をつけていた男はあわてて追いかけてきた。
「わたしの傘だぞ」と男は厳しい口調で言った。
「おや、そうかね?」と言いながらソウピーはニヤリと笑って、軽窃盗罪《けいせっとうざい》に侮辱罪までつけ加えた。「よし、それなら警官を呼んだらどうだ? おれがとったんだ。お前さんの傘をな! どうしてポリ公を呼ばねえんだ? あそこの角に立っているじゃねえか」
傘の持ち主は歩みをゆるめた。ソウピーも同じように歩みをゆるめた。なんとなく悪運がまたぶつかってくるような気がしたからである。警官は二人を好奇の目で見つめていた。
「もちろん」と傘の男が言った。「それは、そのう、まあよくある間違いでして……わたしはそれがあなたの傘でしたら、お赦しねがいたいのです……今朝ほどあるレストランで手にしましてな……もしあなたの傘のようでしたら、どうか……そのう、お赦しを……」
「もちろんおれのさ」とソウピーは毒々しい声で言った。
傘の前の持ち主は退散した。警官の方はいそいで背の高いブロンドの女性を援《たす》けに行った。観劇用の外套《オペラ・クローク》を着たその女が通りをわたりかけたところへ市電が二ブロックほど先までやってきたからである。
ソウピーは、改良工事《インプルーヴメンツ》のためにめちゃめちゃになった道を東に向かって歩きだした。傘は腹立ちまぎれに穴の中に投げこんだ。ヘルメットをかぶり警棒をもった奴らに向かってブツブツと悪態をついた。こっちは奴らの手の中に落ちてゆきたいと思っているのに、奴らの方ではこっちを王さまかなんぞと勘違いして、どんな悪いことをしても罪にはならんと考えているらしい。
やがてソウピーは東寄りの大通りの一つに出た。ここまで来ると、あのきらめきや喧騒《けんそう》もかすかにしか感じられなかった。彼は顔をマディソン・スクウェアの方へと向けた。帰巣本能《きそうほんのう》は、たとえその巣が公園のベンチであっても、なお生きつづけているからである。
しかし妙に静かなある街角までくると、ソウピーの足はぴたりと止まった。そこには古い教会があった。風変わりな、雑然とした感じの、破風造《はふうづく》りの建物である。スミレ色のステンド・グラスの窓から、やわらかな光がひと筋もれていた。そこではきっと、オルガンひきが鍵盤の上に慎重な指を運ばせながら、今度の日曜日にひく讃美歌の仕上げをもう一度たしかめているところなのであろう。なぜなら、そこから流れ出てソウピーの耳に聞こえてきたものは、あまりにも美しい調べで、そのために彼は思わず心を奪われ、鉄柵のうずまき模様の飾りのところに釘づけにされてしまったからであった。
月は頭上にかかって、明るく澄みわたっていた。車も歩行者もほとんどなく、スズメが軒さきで眠たそうにさえずっていた。……しばらくのあいだ、あたりの光景は田舎の教会の境内《けいだい》かと見まごうばかりであった。オルガンひきの奏《かな》でる讃美歌は、セメントで固めたようにソウピーをしっかりと鉄柵に固定してしまった。その讃美歌こそ、むかしよく聞いたことのある曲だったからであり、そのころは、彼の生活もさまざまなものをもっていた。母、バラ、大望、友人、しみ一つない潔《きよ》らかな考え、そして襟《カラー》。
ソウピーの感じやすくなった精神状態と、この古い教会をとりまく様々な感化力との結びつきは、とつぜんの不思議な変化を彼の魂にもたらした。彼は、ふと襲いかかる恐怖におびえながら、自分の転落していった洞穴を見つめた。堕落した毎日、取るにたらぬ欲望、死滅した希望、めちゃめちゃになった才能、いやしい目的、こんなものでおれはこの世に生きていたのだ。
そしてまた次の瞬間、彼の心はこの新しい気持ちに、身がふるえだすほど感応《かんのう》した。たちまち力強い衝動にかきたてられて、彼は、自分のこの絶望的な運命とたたかってみようという気になった。自分をこの泥沼からひきあげてみよう、自分をもう一度まともな人間にしてみよう。おれにとりついている悪に打ち勝とう。まだ間にあうぞ。どちらかと言えば、おれはまだ若いほうだ。昔あんなに真剣に抱いていた大望をもう一度よみがえらせ、少しもためらうことなくそれを追求しよう。あの厳《おごそ》かではあるが気持ちのいいオルガンの調べが、おれの心に革命をおこしてくれたんだ。明日になったら景気に賑わう下町へ行って仕事を見つけよう。毛皮を輸入している男が、いつだったか運転手はどうかって言ってくれたっけ。明日、そいつを見つけてその口をたのんでみよう。おれもこの世でひとかどの人間になってみせるぞ。そしておれは……
ふと気がつくとだれかの手がソウピーの腕をつかんでいた。急いでふりむくとそこには警官の大きな顔があった。
「なにをしちょるのかね、こんなところで?」と警官がたずねた。
「別に何も」とソウピーは言った。
「では、いっしょに来たまえ」
「三か月『島』に監禁」と判事が、警察裁判所でその翌朝、言いわたした。[#改ページ]
マモンと弓の使い手
アンソニー・ロックウォール翁《おう》は、すでにロックウォールズ・ユリーカ石鹸《せっけん》会社の工場主、兼《けん》経営主の地位を引退している人物であるが、ある日のこと、五番街の彼の邸の書斎の窓から外をながめて、にやりと笑った。右隣に住んでいる男が……つまり貴族的なあるクラブ会員、G・ヴァン・スカイライト・サフォーク=ジョーンズ〔この名前からみて、オランダ系のアメリカ人であることがわかる〕が……出てきて、待たせてある自動車の方へゆきながら、いつものように鼻にしわをよせて、この石鹸御殿の正面玄関にあるイタリア・ルネサンス風の彫像をあざけるように眺めたからである。
「なまいきな老いぼれのデクの坊《ぼう》め、なに一つできもせぬくせに!」と前石鹸王はこきおろすように言った。「奴も用心せんと、いまにあのエデン博物館《ムゼー》が、その冷凍のネセルロード〔K・R・ネセルロード伯(一七八〇―一八六二)のこと。ロシアの外交官、政治家。この貴族の名をかりて、相手の冷ややかな態度を皮肉った〕を収容することになるぞ。今度の夏にはこの邸を赤と白と青〔オランダ国旗の色〕の三色に塗りかえて、見てやろう、それでも奴のオランダ鼻が上を向いて侮《あなど》られるかどうかをな」
それからアンソニー・ロックウォールは、生来、呼び鈴がきらいだったので、自分で書斎の戸口のところまで行くと、「マイク!」とどなった。その声は、むかしカンザスの大草原で大空の一部をそぎ落としたときの声と少しも変わってはいなかった。
「せがれに伝えろ」とアンソニーは、とんできた召使いに言った。「出かける前にここへ来いとな」
ロックウォール青年が書斎へ入ってゆくと、老人は手にしていた新聞をわきに置いてじっと見つめた。温情のこもった厳しさが、その大きくて、すべすべした、赤ら顔にうかんでいた。そして老人はもじゃもじゃの白髪を一方の手でもみくちゃにしながら、もう一方の手でポケットの中の鍵をじゃらじゃらとならした。
「リチャード」とアンソニー・ロックウォールは言った。「お前は自分の使っておる石鹸にいくら払っておる?」
リチャードは、大学を卒業してからまだ六か月にしかならぬ青年であったが、いささかびっくりした。いまだにこの自分のおやじの正体がつかめず、彼にとっては、初めてのパーティーに出た娘のように、なにもかも思いがけぬことばかりであった。
「一ダース、六ドルだと思いますが、お父さん」
「で、その服は?」
「たぶん、六十ドルぐらいでしょう、ふつう」
「お前は、紳士なんだぞ」とアンソニーはきっぱりとした口調で言った。「聞くところによると、近ごろの若い連中は石鹸一ダースに二十四ドルも使い、服には百ドルの単位をこえて使っておるそうではないか。お前はそういう連中のだれにも負けぬくらい無駄使いのできる金をもっておるんじゃ。それなのに、いつも地味な、なみのものばかり使っておる。そりゃあ、わしだって石鹸はむかしからのユリーカを使っておる……それは、ただなつかしいからというのではなくて、どこの石鹸よりも純粋だからじゃ。石鹸なんてものは、一個十セント以上するものを買うときには、その分だけろくでもない香水代とレッテル代を払わされていることになるんじゃ。だが、お前のような年ごろと地位と境遇の若者には、五十セントの石鹸がよかろう。さっきも言ったように、お前は紳士なんじゃ。世間ではよく、紳士をつくるには三代かかる、なぞと言っている。だがそれはウソじゃ。金を使えば簡単にできるんじゃ、石鹸の脂《あぶら》のようにツルリとな。お前が紳士になったのもこの金のおかげじゃ。そうとも! このわしだって金のおかげでどうやら紳士になれたんじゃ。わしが無礼で、不愉快で、無作法だというのなら、両隣に住んどるあのニッカボッカー野郎〔ニューヨークに住むオランダ系移民〕の二人のおいぼれ紳士だって同じようなものさ。そのくせ、わしが邸を買って奴らの間に割りこんだものじゃから、夜もろくに眠れんでおるのじゃ」
「金ではできないものだってあります」とロックウォール青年は言った。いささか憂鬱《ゆううつ》そうな口調である。
「おい、バカなことを言っちゃあいかん」とアンソニー翁はびっくりして言った。「わしはいつだって、自分の金は金に賭けるぞ。百科事典をめくってYの項まで探してみたが、それでもまだ金で買えないものなんぞ見つかりはせん。来週は補遺《ほい》の項まで調べてみなけりゃならんと思うとるぐらいじゃ。わしは、ほかの競走馬《うま》を全部相手にしてでも、金という競走馬だけに賭けるのじゃ。金で買えんものがあるというのなら、言ってみるがいい」
「たとえば」とリチャードは答えた。何か心にうずくものがあるような様子である。「あの排他的な上流社会のサークルに入るには、どうしたって金なんかではだめなんです」
「なに!……だめだと?」と悪の根〔「金」のこと〕の擁護者は雷鳴《らいめい》のような声を出した。「なら聞かせてもらいたい、お前の言う、その排他的な上流社会なぞというものが、一体どこに存在したじゃろうか、もし初代のアスター〔アメリカの資本家〕に金がなくて、大西洋横断の三等の船賃がはらえなかったとしたならばな?」
リチャードは溜息《ためいき》をついた。
「そして、そこがわしの話したかったところじゃ」と老人は、前よりもやわらいだ口調で言った。「だからお前をここに呼んだのだ。お前には何か心配ごとでもありそうじゃな。この二週間ほど、わしも気がついておったのじゃ。それを話してみるがいい。わしはな、この両の手に一千百万ドルの金を二十四時間以内につかむことだってできるのじゃ、不動産を別にしてもな。もし心配なのがお前の肝臓〔むかしは、激情や欲望は肝臓に、愛情は心臓に宿ると考えられていた〕ならば、湾にはランブラー号が入っているぞ。石炭を積みこんで、あと二日もしたらバハマ諸島へ出発する支度をととのえてな」
「まあ図星《ずぼし》というところでしょうかね、お父さん。あまり外《はず》れてはいません」
「そうか」とアンソニーはするどい口調で言った。「その娘の名はなんというのじゃ?」
リチャードは書斎のゆかの上を行ったり来たりしはじめた。この無骨な年老いた父親の心にも同志としての意識や思いやりの感情が充分にあったので、彼は息子の秘密をきき出すことができた。
「それなら、なぜその娘に申しこまんのじゃ?」とアンソニーは問いただした。「相手はとびついてくるじゃろう。お前は金もあり、男っぷりもいい。それに身は堅いしな。手もきれいじゃ。ユリーカ石鹸などついちゃおらん。大学は出たばかりじゃが、そんなことは娘のほうで無視するじゃろう」
「チャンスがなかったんです」とリチャードは言った。
「つくるんじゃ。公園へ散歩に連れてゆくとか、ワゴンに乗って田舎《いなか》へ遊山《ゆさん》にでかけるとか、教会の帰りに家まで送ってゆくとかしてな。チャンスがないじゃと! まったくじれったい話じゃ!」
「お父さんは、社交界の水車を知らないんですよ。彼女はその水車をまわしている流れの一部なんですからね。彼女の時間は、一時間、一分にいたるまでもう何日も前からちゃんと決められているんです。でも、ぼくはどうしても彼女を手に入れたいんです。お父さん、さもなければ、この市《まち》は黒カシの立ちならぶ永遠の沼地です。だのに、ぼくはそのことを手紙で訴えることもできないんだ……ぼくにはそれができないんです」
「ちょっ! じゃあなにか、わしがもっておる金を全部はたいてもお前は小娘の一時間や二時間を自分のものにできんというのか?」
「ぐずぐずしているうちに手遅れになったんです。あさっての正午、ヨーロッパへ出帆《しゅっぱん》することになっているんです。それも一年間滞在の予定なんです。ぼくはあすの晩、彼女と二人きりで会うことになっています。それもほんの数分です。彼女はいまラーチモントにいるんです。伯母さんとかの家にね。ぼくはそこへは行けません。でも、馬車でグランド・セントラル・ステーションまで出迎えに行くことは許されているんです。あすの晩、八時半の汽車です。それでぼくたちは馬車を走らせてブロードウェイをウォラック劇場までつっぱしるんです。劇場で彼女のお母さんや、同じボックスの連れの人たちがロビーに出て待っているからです。どうですお父さん、こんな状況のもとで六分かあるいは八分のあいだにこの口からとびだすぼくの告白に彼女が耳を傾けてくれると思いますか? だめですね。それに、劇場の中でどんなチャンスがつかめますか、あるいは芝居《しばい》がはねてから後でも? 全然ありませんね。そうです、お父さん、これこそお父さんのお金をもってしても解くことのできない、もつれ糸なんです。われわれはいくら現金を積んでも一分の時間さえ買えません。もし買えるとすれば、金持ちはもっと長生きするはずです。もう出帆する前にミス・ラントリーと話のできる望みは全くないんです」
「よしわかった、リチャード」と老アンソニーは快活な声で言った。「お前はもういつものクラブへ馬車を走らせてもいいぞ。心配なのはお前の肝臓でなくてよかった。だがいいか、その寺《クラブ》ではマズーマ大王〔イディッシュ語で「金」のこと。「イディッシュ語」とはアメリカのユダヤ系移民などが使う言葉〕にときどき線香をあげることを忘れるな。お前は、金では時は買えぬと言うんじゃな? そりゃあ、もちろん、永遠の時なぞというものは買うことはできん。金を出すから紙に包んで家に届けてくれと言ったってむりじゃ。だが、わしは「時」というおやじが踵《かかと》に石でひどいすり傷をつくっていたのを見たことがあるのじゃ、そのおやじが金鉱を歩いているときにな」
その夜、叔母のエレンがやってきた。やさしく、感傷的な性格で、しわだらけの顔をし、溜息ばかりついて、富の重みに押しつぶされそうな感じの女性であったが、彼女は、夕刊を読んでいる兄のアンソニーのところへやってくると、恋人たちの悩みについて講釈をはじめた。
「その話なら、あの子がすっかりきかせてくれたよ」と兄のアンソニーはあくびをしながら言った。「それで、言ってやったのじゃ、わしの銀行預金は自由に使っていいぞとな。そしたら奴は金をけなしはじめた。金なんかなんの援《たす》けにもならんと言いおった。社交界の掟《おきて》は、大資産家が十人、チームを組んでぶつかっていっても、一ヤードも押し返すことはできんとぬかすのじゃ」
「ねえ兄さん」と叔母のエレンは溜息をついた。「どうか兄さんお金の力をそんなに高くお考えにならないでください。富なぞというものは、本当の愛の関与するところでは、一文の価値もないのですからね。愛こそ全能の力をもつものです。あの子がもっと早く話していてくれたらよかったのに! 相手のお嬢さんがうちのリチャードを拒《こば》んだはずはありません。でも、今ではもう手遅れのようですね。求婚の機会ももうないでしょうからね。兄さんのお金を全部つかっても息子に幸福をもたらしてやることはできないのですわ」
次の日の夜、八時に、叔母のエレンは一風変わった古めかしい金の指環を虫のくった小箱からとり出して、リチャードにあたえた。
「今夜はどうかこれをはめて行っておくれ、リチャード」と彼女は言った。「あなたのお母さんがくださったものなの。愛の幸運をもたらしてくれるんだっておっしゃってたわ、この指環は。そして、あなたがだれか心に思うような人を見つけたら、そのとき、あなたに渡してやってほしいと頼まれたの」
ロックウォール青年は、うやうやしくその指環をいただき、いちばん小さな指にはめてみた。指環は二つ目の関節のところまで入ったが、そこでとまってしまった。彼はそれをはずすと、紳士の作法に従って、チョッキのポケットにしまいこんだ。それから電話をかけて馬車を呼んだ。
駅で、彼がミス・ラントリーを、がやがやと騒がしい群衆の中から見つけ出したときは、ちょうど八時三十二分であった。
「わたしたち、母やほかの方々をお待たせしてはいけませんわ」と彼女は言った。
「ウォラック劇場までやってくれ、できるだけいそいでだぞ!」とリチャードは言った。まことに忠実である。
馬車は四十二番通りをブロードウェイに向かって走りだした。そしてそれから白い星のかがやく小道を走った、それは、落日のやわらかな牧場からあすの朝の岩だらけの丘へ通じる道であった。
三十四番通りまでやってきたとき、リチャード青年は急にトラップをおしあげて、馭者《ぎょしゃ》に止まれと命令した。
「指環を落としたんです」と彼は馬車をおりながら弁解した。「母の形見なんです。ですからなくしたくないんです。一分とはお待たせしません……落ちたところは見ましたから」
一分もたたぬうちに彼は指環をもって馬車にもどってきた。
しかしそのあいだに、横合いから来た電車が馬車の真ん前にとまっていた。馭者は左へよけて進もうとしたが、大きな運送便の荷車がその行く手をふさいだ。右へまわろうとすると、今度は後もどりをして家具運搬車をさけなければならなくなった。その車がそんなところに来る用はないはずなのだ。そこで馭者が後もどりをしてぬけ出ようとすると、今度は自分が手綱を落としてしまい、そのため、せざるべからずとばかりに悪態《あくたい》をついた。彼は車と馬とのもつれあった混乱の中に閉じこめられてしまった。
こうした路上の混乱は、ときには商業も交通も麻痺《まひ》させてしまうものであるが、そうした事件の一つが突如としてこの大都会に起こっていたのである。
「どうして馬車をいそがせてくださいませんの?」とミス・ラントリーはやきもきしながら言った。「わたしたち遅れてしまいますわ」
リチャードは馬車の中で立ちあがって、あたりを見まわした。そこには荷馬車やら大八車《トラック》やら辻馬車やら荷車やら市電やらの混ざりあった洪水が、ブロードウェイと六番街と三十四番通りとがたがいに交差しあう地点にあふれていた。まるで、ウェスト二十六インチの娘が二十二インチのガードルに自分の体を押しこんだときのようである。しかもなお、横町という横町から、さまざまな車があわてふためき、がたがた音をたてながら、この集合地点へ向かってフルスピードでやってきては、ごたついている群れの中につっこみ、車輪をからませ、ののしり声をあげて、いやが上にも騒ぎを大きくした。マンハッタンのすべての交通機関が彼らのまわりに押しよせてしまったように思われた。歩道にならんで見ている何千というヤジ馬の中で、いちばん年長のニューヨーク生まれの年寄りでさえ、これほど大規模な交通障害は生まれて初めて見る光景であった。
「申しわけありません」とリチャードは、ふたたび席に腰をおろしながら言った。「釘づけにされてしまったようなのです。この混乱は一時間たっても解決できないでしょう。ぼくがいけなかったんです。指環を落としたりしなければ、ぼくたちは……」
「その指環を見せてください」とミスラントリーは言った。「もうこうなっては、どうにもしようがありませんから、わたくしは構いませんことよ。どうせお芝居なんて退屈なものですもの」
その夜、十一時ごろ、『だれか』がアンソニー・ロックウォールの部屋の戸をかるくノックした。
「どうぞ」とアンソニーはどなった。彼は真っ赤な部屋着をきて、海賊ものの冒険物語を読んでいた。
『だれか』とは妹のエレンであった。彼女は、まちがって地上にとりのこされた白髪の天使とでもいったような様子をしていた。
「あの子たち婚約しましたよ、兄さん」と彼女は静かに言った。「相手のお嬢さんがうちのリチャードと結婚するって約束したんです。劇場へ行く途中、道路がいっぱいになりましてね、二時間もたってようやくあの子たちの馬車もぬけ出せたからなんですよ。ですから、ねえ兄さん、もう二度とお金の力なんか自慢してはいけませんわ。真実の愛を象徴する一つの小さなしるしが……つまり、終わることのない、欲得ずくなどではない、愛情を象徴する一個の小さな指環が……原因となって、うちのリチャードに自分の幸福を見つけさせたのです。あの子は指環を道に落としたのです。それで馬車をおりてそれを拾いました。そして馬車を進めようとすると、もうそのときには道がふさがれていたんです。あの子は恋しいそのお嬢さんに思いを打ちあけ、その場でお嬢さんの心をつかんだのです。ふたりの馬車が閉じこめられていたそのあいだにね。お金なんて、真《まこと》の愛にくらべたらクズみたいなものですわ、兄さん」
「よし、わかった」と老アンソニーは言った。「あの子がほしがっていたものを手に入れることができて、よかったよ。わしも奴には言っておいたんじゃ。こういうことに関しては、わしは少しも出費をおしまん、もし……」
「でも兄さん、あなたのお金が何の役にたちましたの?」
「なあ、お前」とアンソニー・ロックウォールは言った。「わしの海賊はな、いま大変な窮地に追いこまれておるんじゃ。奴の船は底に穴をあけられて沈められようとしておる。しかしこの男は金の値打ちというものをよく心得ておるから、おめおめとその金を海底の藻屑《もくず》にはさせんのじゃ。どうか、このままこの章を読ませてもらいたいな」
この物語は、本来ならここで終わるべきです。わたしは心からそう願っています。この物語を読んでくださっている読者のみなさんも、同じようにそう願っていらっしゃるでしょう。しかしわたしたちは、井戸の底までおりていって、真実を求めなければなりません。
その翌日、真っ赤な手をして、青い水玉模様のネクタイをしめたケリーと名のる男が、アンソニー・ロックウォールの邸をたずねてきた。そしてすぐに書斎に通された。
「さて」とアンソニーは言いながら、手をのばして小切手帳をつかんだ。「上々の泡《あわ》だちの具合だったぞ。ええと……お前には五千ドル、現金でわたしてあったな」
「それにあと三百ドル、あっしのふところから立てかえておきやした」とケリーは言った。「なにしろ初めの見積もりより、ちょいとばかり余計かかっちまったもんで。運送便の荷車と辻馬車はたいてい五ドルであがったんでやす。だが、大八車《トラック》と二頭立ての馬車とは、たいてい十ドルまでふっかけやがるんで。市電の運公《うんこう》たちは十ドルよこせなんて言いやがるし、荷物を積んだ連中は二十ドルでさあ。ポリ公の野郎なんざ、いちばん高くふっかけやがったね……五十ドルづつ、二人に払って、後の連中は二十ドルと二十五ドルってえわけなんでさあ。
だが、仕事のほうはうまくいったじゃござんせんか、ロックウォールの旦那? ありがてえことは、ウイリアム・A・ブレイディ〔アメソカの有名な映画・演劇プロデューサー〕があのちょいとした野外|車輌《しゃりょう》暴動の現場にいあわせなかったことでさあ。あっしだって、ウイリアムがうらやましがって心臓を破裂させるようなこたあさせたくねえですからね。おまけにリハーサルなしのぶっつけ本番ときてたんですぜ! 連中も一分一秒たがえずにちゃんと来てくれたんでやすからね。あれから二時間というもの、ヘビいっぴき這い出してグリーリーの銅像の下へもぐりこむこともできなかったんでやす」
「三百ドル……さあ、とっておけ、ケリー」とアンソニーは言いながら、小切手を一枚切りとった。「お前への千ドルと、それに立てかえ分の三百ドルだ。お前はまさか金を軽蔑するようなことはないじゃろう、なあケリー?」
「あっしがですかい?」とケリーは言った。「あっしは、貧乏を発明した野郎をぶんなぐってやりてえくらいでさ」
アンソニーは、ケリーが戸口まで行ったとき、声をかけた。
「お前、気がつかなかったろうな。あの混乱の最中、どこかその辺で、ふとった男の子のようなのが着物もきずに弓で矢を射っていた〔キューピッド、すなわち「愛の神エロース」のこと〕のをな?」
「へえっ」とケリーは、けげんそうな顔つきで言った。「気がつきませんでしたね。もしその子が旦那のおっしゃるとおりだとしたら、たぶん、ポリ公たちがしょっぴいて行ったでしょうよ。あっしが現場につくめえにね」
「わしも、そんないたずら小僧は現われんじゃろうと思っとったよ」と言いながらアンソニーはくすくすと笑った。
「では達者でな、ケリー」
〔「マモン」はシリアの「富の神」である〕
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お好み料理の春
三月のある日のことであった。
みなさんが物語をお書きになるときには、決してこんなふうにお始めになってはいけません。これほどへたな書き出しは、まず、ないからです。これでは創作力に欠けていて、平板で、無味乾燥です。そして単なる空言《そらごと》の羅列《られつ》ということにもなりかねません。でも、この作品の中では許されるのです。なぜなら、次の一節は、実はこの一節こそ本来この物語の書き出しとなるべきものだったのですが、それではあまりにもとっぴで、先走りしすぎているために、いきなりみなさんの目の前にお見せするわけにはいかないからなのです。
セアラは献立表を前にして泣いていた。
一人のニューヨーク娘がメニューのカードに涙をそそいでいる図をご想像ください!
この光景を説明するために、みなさんはいろいろとその理由が想像できるでしょう。イセエビが品切れになったからだろうとか、四旬節《レント》のあいだアイスクリームを断っているからなのだろうとか、玉ネギの料理が目の前にあるからだろうとか、ハケット主演の昼間興業《マチネー》を観てきた帰りなのだろう、といった具合に。ところが、そうした想像はみんなはずれていますので、どうかこの物語はこのまま先へ進めさせてやっていただきたいのです。
この世は牡蠣《かき》さ、だからおれは自分の刀《かたな》でこじあけてみせる、と言った例の紳士は、自分の真価以上に大当たりをとった。牡蠣を刀でこじあけるなんて、むずかしいことではない。しかし浮世《うきよ》という二枚貝《かき》を一台のタイプライターでこじあけようという、そんな人間のいることにお気づきになったことがおありだろうか? 一ダースの生牡蛎がそんなふうなものであけられるのを、じっと待っていられるだろうか?
セアラは首尾よくこの貝殻を自分のその扱いにくい武器でこじあけ、中の、冷たいねっとりとした世界をほんのわずかばかりかじることができた。彼女の速記術についての知識は、もし自分が実務学校から世の中に送り出されたばかりの速記科卒業生だったならば、とクヤシがる程のものであった。つまり、速記は不得手であったので、オフィス・タレントたちのあの華やかなグループの中には入ることができなかった。彼女は自由契約《フリーランス》のタイピストとして、タイプ・コピーの半端仕事をもらいあるいていたのである。
セアラが浮世とのたたかいで得たいちばん華々しい、そして自分の額をかざるほどの勲功《くんこう》は、シューレンベルクの経営するホーム・レストランと結んだ協定であった。このレストランは、彼女が安部屋《ホール・ルーム》を借りている古い赤レンガ建てのアパートのとなりにあった。
ある晩、シューレンベルクの四十セント五品という定食(それは、つぎつぎと矢つぎ早《ばや》に出てくるのですが)をとり、その食事をおえると、セアラはこの店のメニューを持って帰ってきた。メニューはほとんど判読もできぬような字体で書いてあった。英語でもなく、ドイツ語でもないような字体で、おまけにそれが妙な配列になっているので、気をつけて読まないと、初めにつまようじとライス・プディングが出てきて、最後にスープと曜日の名が出てくるようなあんばいであった。
翌日、セアラはシューレンベルクに一枚の美しいカードを見せた。カードにはメニューがきれいにタイプで打ってあって、料理の名がそれぞれ正しく適切な項目の下に、食欲をそそるように、配列されていた。さらに、「オードーヴル」から始まって、「オーヴァーやこうもり傘など紛失物には責任を負いかねます」の注意書きにいたるまでちゃんと書いてあった。
おかげでシューレンベルクはたちまち立派な帰化市民となった。そしてセアラが彼のもとを立ち去るときには、彼女はすでに彼から快諾《かいだく》をとりつけて一つの契約を結んでいた。つまり、タイプで打ったメニューをこのレストランの二十一のテーブルに提供するというわけである。……夕食のメニューは毎日新しいものを提供し、朝食と昼食のメニューは、料理の品に変更があったり、メニューがよごれて新しいのが必要になったとき、そのたびに提供するという条件である。
これに対する報酬《ほうしゅう》として、シューレンベルクのほうは、毎日三度ずつ食事をセアラの安部屋《ホール・ルーム》まで給仕に……それも、もしできれば従順な給仕に……運ばせること、および午後には毎日、エンピツで下書きした原稿をとどけて、運命の女神が翌日のシューレンベルクの客たちのために何を用意してくれているかを知らせる、ということであった。
おたがいの満足がこの契約から生まれた。シューレンベルクの客たちは、いまや、自分たちの食べているものが何という名の料理であるかを知るようになった。もっとも、料理そのものが彼らを当惑させるようなことは時々あったけれども。そしてセアラのほうも、寒くてうっとうしい冬のあいだ食物を得ることかできた。これは彼女にとっては、肝心なことであった。
やがて暦《こよみ》がウソをついて、春の到来を知らせた。本当の春は、それが来るときにやってくるのだ。一月にふった雪は凍ったまま、磐石《ばんじゃく》のようになってまだ大通りに残っていた。手回しオルガンも相変わらず「なつかしきあの夏のころに」を、十二月の陽気さと調子とで奏でていた。人々は一か月後払いの手形をきって復活祭《イースター》の晴着を買いはじめた。アパートの管理人たちはスチームを止めた。そしてこうしたことが起こっているときにさえ、だれにだってわかるのは、この市《まち》がまだ冬の手中にあるということであった。
ある日の午後、セアラは自分のエレガントな安部屋でふるえていた。「暖房あり、至って清潔、諸設備完備、ご一覧をこう」という広告につられて借りた部屋である。彼女には、仕事といえばシューレンベルクのメニュー・カードのほかには何もなかった。セアラはぎしぎしと鳴るヤナギのゆり椅子にすわって、窓の外を見つめていた。壁のカレンダーは相変わらず彼女に呼びかけていた。
「春が来ましたよ、……いいですか、春が来ているのよ。わたしを見てごらんなさい、セアラ、わたしの数字《フィギュアズ》を見れば、それがわかるはずよ。あなただってきちんとした姿《フィギュア》をしているわ、セアラ……美しい春の姿をね……だのに、どうしてそんな悲しそうな顔をして窓の外を見つめているの?」
セアラの部屋はこのアパートの裏手にあった。窓から見ると、通りをひとつへだてて建っている製箱工場のレンガ造りの窓のない壁が見えた。しかしその壁はセアラにとってはこの上なく澄みきった水晶のようであった。彼女は草の生いしげる小径を見つめていた。サクラの木やニレの木が影を落とし、キイチゴの茂みやチェロキー・ローズが縁《ふち》をかざっている小径である。
春の本当のさきぶれはあまりにも微妙なものだから、それは目にも見えず、耳にも聞こえはしない。人によっては、咲きそめるクローカスや森の中で星のようにかがやきはじめる|はなみずき《ドッグ・ウッド》や、ブルーバードの声や、……さらにはまた、春になると引退してゆくそば粉のパンケーキ《バックウィート》や牡蛎などと交わす別れの握手といった、きわめて明白な徴《しるし》がなければ、「緑の衣をまとった貴婦人」を自分たちの鈍感な胸に歓迎することができないというような人たちがいる。しかし年老いた大地の子供たちの中でも、最もすぐれた子供たちのところへは、新しく大地に嫁《とつ》いできた花嫁からのやさしい挨拶が直接にやってくるのである。そしてあなた方さえおいやでなければ、決してあなた方をまま子なんかにはしませんからね、と言ってくれるのである。
去年の夏、セアラは田舎へ行って、一人の農夫に恋をした。(物語を書くとき、みなさんは決してこんなふうに逆もどりしてはいけません。いかにもへたな手法ですし、興味をそこないます。話はどんどんと進ませることです)
セアラは二週間ほどサニーブルック農場に滞在した。そしてこの農場で、年老いた農夫フランクリンの息子ウォルターに深い思いをよせるようになった。農夫というものは、むかしから、愛され、結婚させられ、そしてまた牧場へ追い出されるのに二週間とはかからなかった。しかし青年ウォルター・フランクリンは、近代的な農場経営者だった。牛舎には電話もひいてあったし、来年のカナダの小麦の収穫が、満月と新月との間に植えつけされるジャガイモにとってどのような影響をあたえるか、それさえ正確に計算することができたのである。
こうした農場の、木々におおわれ、キイチゴの繁みにふちどられた小径で、ウォルターは彼女に恋をうちあけ、彼女の心を得た。そして二人はいっしょに腰をおろし、タンポポの花かんむりを編んで、彼女の髪をかざったのだ。彼は、その黄色い花が彼女のふさふさとしたトビ色の髪に映る美しさを、口をきわめてほめたたえた。そして彼女はその花かんむりをつけたまま、手にした麦わら帽子をふりながら家にもどってきた。
ふたりは、春になったら……春の最初のきざしが見えたら、結婚しよう、そうウォルターは言った。そしてセアラは市《まち》へ帰って、タイプライターをたたいていたのである。
ドアをノックする音が、セアラのひたっていたこの幸福な日の夢を追いちらした。一人の給仕が、エンピツでおおざっぱに書いてあるホーム・レストランの明日のメニューの原稿を持ってきたのだ。シューレンベルク老人のかどばった筆跡である。
セアラはタイプライターに向かって腰をおろすと、ローラーのあいだにカードをすべりこませた。彼女は仕事が速かった。だから、たいていは一時間半もすれば二十一枚のメニュー・カードはきちんとタイプされてできあがった。
ところが今日はメニューにいつもよりよけい変更があった。スープ類はずっと軽いものになり、ポークがアントレーからはずされて、わずかにラシアン・ターニップと盛り合わせでロースト類の中に出てくるだけとなった。やさしい春の心がメニューのすみずみにまでゆきわたっていた。子羊は近ごろ、草の萌《も》え始めた丘の中腹を跳躍《ケイパー》しているが、その子羊もその跳躍を記念するソース〔「ケイパー・ソース」のこと〕といっしょにメニューに加えられてきた。牡蠣《かき》の歌は、まだすっかりやんではいなかったが、ディミヌエンド・コン・アモーレ〔「愛情をこめて次第に弱く」の意〕といった調子であった。フライパンは慈悲深いブロイラーの格子のむこうに、おとなしく閉じこめられているようであった。パイもののリストはふくれあがった。濃厚なプディングは姿を消していた。ソーセージは、身を衣に包まれて、そば粉のパンケーキやおいしいけれども死期のせまったメイプル・シロップといっしょに、快い死の瞑想にふけりながら、かろうじて余命をたもっていた。
セアラの指は夏の川面《かわも》に飛び交う昆虫のようにおどった。コース、コースをタイプしながらも、的確な目測で、それぞれの品目をその長さに応じて適当な位置にならべていった。デザート類のすぐ上に野菜もののリストがきた。ニンジンとエンドウ豆、トーストにのせたアスパラガス、時なしトマトとトウモロコシ、それにサコタッシ、リマ・ビーンズ、キャベツ……そして、それから……
セアラは献立表を前にして泣いていた。涙が、なにか得体のしれぬ絶望の淵《ふち》から胸にこみあげてきて、目にたまったのである。彼女の頭は小さなタイプライターの台の上にうなだれた。それから、キーボードがカタカタとかわいた音をたてながら、彼女のしめった泣きじゃくりに調べをあわせた。
というのは、彼女はウォルターからもう二週間も手紙をもらっていなかったからなのだ。しかも献立表にある次の品目は、タンポポだったからである。……タンポポと玉子の盛り合わせ料理……だが、玉子なんかどうだっていい!……タンポポ、その金色の花の冠をあのウォルターがセアラの頭にのせて、愛の女王、未来の花嫁と言ってくれた花……タンポポ、春の先ぶれ、悲しみに満てる悲しみの冠……こよなく幸福《しあわせ》だったあの日の思い出。
この物語を読んでくださる女性のみなさん、笑いたければどうぞお笑いください。でもその前にこんなテストを受けてみてください。つまり、あなたがパーシーという男性に心をささげたとします。そしてその夜彼がくれたマレシャル・ニエル種のバラの花が、フレンチ・ドレッシングをかけたサラダとなって、シューレンベルクの共同食卓のあなたの目の前に出されたとしたらどうでしょうか。もしジュリエットが、同じようにして自分の愛のしるしが辱《はずか》しめられるのを見たとしたら、あの時よりももっと早く例の麻酔薬をかの薬剤師に求めていたことでしょう。
しかし春はなんとすばらしい魔法使いなのだろう! 石と鉄とでできたこの巨大な冷たい都会の中にも、便りが送りこまれねばならなかったのだから。その便りの運び手となれる者は、荒々しい緑の衣をきて、ひかえめな様子をした、あの小さいながらもしんの強い野辺の飛脚《ひきゃく》のほかにはいなかった。彼こそ真の野武士なのだ、このダン・ド・リオンこそ、……フランスの料理人たちが獅子《しし》の歯と呼ぶタンポポ〔タンポポは英語で「ダンデライアン」というが、これはフランス語の「ダンドリオン」つまり「ライオンの歯」からきている〕こそ。花を咲かせば、恋人たちの求愛に力を貸して、わが女性のクリ色の髪をかざる花かんむりとなり、年若く、うぶ毛をはやして、まだ花咲きそめぬころには、煮えたぎる鍋の中におどりこんで、主君たる春の女神の言《こと》づてをつたえるのだ。
やがてセアラは、むりにも涙をおさえた。カードは打ってしまわなければならない。しかし彼女は、タンポポの夢からもれる、ほのかな金色の光になおもひたりながら、しばらくのあいだぼんやりとタイプライターのキーをもてあそんでいた。そのあいだにも彼女の胸と心は、あの牧場の小径の中で、若い農夫といっしょだった。
しかし、まもなくすると、彼女もマンハッタンのあの岩に取り囲まれたような小路にすぐもどった。そして、タイプライターはがたがたと音をたてながら跳びあがりはじめた。まるでストライキ破りが運転するあの電車のようである。
六時になると、給仕が夕食をとどけに来て、打ちあがったメニューをもって行った。セアラは食事にかかるとき、溜息をつきながら一枚の皿をわきへどけた。それは玉子が上にのっているタンポポの煮つけ料理の皿であった。ちょうどこの黒い塊が、かがやかしい、そして恋を約束する花からその姿を変えられて、いやしむべきただの野草になりさがっているように、彼女の夏の希望もしおれてしまい、朽ち果ててしまったのだ。恋は、シェイクスピアも言ったように、おのれ自身を食べて生きてゆくのかもしれない。
しかしセアラはどうしてもタンポポを食べる気にはなれなかった。このタンポポこそ、彼女の胸に芽生えた真の愛情の最初の精神的|饗宴《きょうえん》に、そのかざりものとして、光彩をそえてくれたものだったからである。
七時半になると、となりの部屋の夫婦がけんかを始めた。上の部屋の男はフルートをふきながら、さかんにイ調をさがしていた。ガスの出が少し悪くなった。石炭運搬車が三台、石炭をおろしはじめた。……その音だけは蓄音器《ちくおんき》もうらやむほどの音だった。裏のレンガ壁の上のネコたちはゆっくりと奉天《ほうてん》さして退却した。
こうしたことから、セアラは読書の時間がきたことを知った。彼女は「僧院と家庭」というその月の最もすぐれた、売れゆきの悪い本をとり出して、トランクの上に足をのせると、小説の主人公ジェラードといっしょに放浪の旅をはじめた。
玄関の鈴《ベル》が鳴った。家主のおかみさんがそれに応《こた》えた。セアラは、クマのために木に追いあげられたジェラードとデニスとをそのままにして、じっと耳をすました。ええ、そうです。みなさんだって、彼女と同じようにしたことでしょう!
やがてたくましい声が下の玄関口から聞こえてきた。するとセアラはとびあがって、自分の部屋の戸に向かった。本はゆかの上におきっぱなしにして行ったので、第一ラウンドはあっさりとクマの勝ちということになった。
みなさんはもうおわかりでしょう。彼女が階段の降り口についたときには、ちょうど彼女の農夫がそこへあがってくるところだった。彼は一度に三段も跳びながらやってくると、彼女を刈《か》り取ってしっかりと穀倉《こくぐら》に収めた。一本だって落ち穂《ぼ》ひろいたちに拾わせまいとするような勢いである。
「どうしてお手紙をくださらなかったの……ねえ、どうして?」とセアラはさけんだ。
「ニューヨークってずいぶん大きな町なんだね」とウォルター・フランクリンは言った。「ぼくは一週間も前にきみのもとの住所へ行ったんだ。そしたらきみが木曜の日に引っこしたことを知った。それでいくらか安心したよ。あの縁起でもない金曜日の禍《わざわい》がさけられたんだものね。しかしぼくはきみの捜索をやめはしなかった。警察へも行ったし、いろいろなことをしたんだ、その日からずっとね!」
「でも、あたしお手紙を出しましたわ!」とセアラは激しい口調で言った。
「受けとってなんかいないよ!」
「なら、どうしてここがわかりましたの?」
若い農夫はにこやかに春の微笑をうかべた。
「実は今夜、ふと隣のあのホーム・レストランへ入ったんだ。だれが知ろうとかまやしない。ぼくはね、毎年、今ごろになると何か青いものが食べたくなるんだ。それで、あのきれいにタイプしてあるメニューに目を走らせて、何かないかと野菜の項を見ていたんだ。そしてキャベツの次まできたとき、ぼくはすわっていた椅子をひっくりかえして大声で店の主人を呼んだ。それできみの住んでいるところを教えてもらったんだ」
「そう言えば」とセアラはうれしそうに溜息をついた。「キャベツの次はタンポポだったわ」〔アルファベット順で、キャベツ(cabbage)の次にはタンポポ(dandelions)がくるわけ〕
「きみのタイプライターはいつもWの大文字がずれてラインの上に跳び出るくせがあるから、世界中どこにいたってぼくにはすぐにわかるんだ」
「あら、タンポポの綴《つづ》りの中にはWの字なんかありませんわ」とセアラはびっくりして言った。
青年はポケットの中からメニューをとり出すと、ある行を指さした。
セアラは、それが昼間自分のタイプした最初のカードであることに気がついた。右上の隅には、まだ円《まる》く光っているしみが残っていた。涙がひとつぶ落ちた箇所《かしょ》である。しかし例の|牧場の草《タンポポ》の名が書かれてなければいけないところに、二人の金色の花についてのあの忘れることのできない思い出が、彼女の指に奇妙なキーを打たせてしまっていた。
赤キャベツと詰めものをしたピーマンとのあいだに、こんな料理の名が書かれていたのである。
「|おなつかしき《デアレスト》ウォルターさま、堅ゆでの玉子つき」[#改ページ]
運命の衝撃
数ある公園の中には貴族風な公園があるものだが、公園を自分の住まいに使っている浮浪者たちの中にだって貴族風な浮浪者がいるものだ。ヴァランスはそれを知っていた、というよりはむしろ、そんな気がしていたのだが、これまでいた世界から混沌《カオス》の世界に降り立ったとき、彼の足はまっすぐに彼をマディソン・スクウェアーへと運んでいった。
女学生のように……つまり昔流の女学生のように……まだ熟しきらず、酸味をのこした若い「五月」が、芽をふきはじめた木々のあいだから冷たいそよ風を送ってきた。ヴァランスは上衣のボタンをかけると、タバコに火をつけて、ベンチに腰をおろした。そして三分ほど未練がましい思いにひたった。あれはおれの最後の千ドルのうちの最後の百ドルだった。それをポリ公に罰金にとられてしまって、おかげでおれの最後のドライヴもそれっきりになってしまったんだ。
やがて彼は、そこいら中のポケットをさぐってみた。しかし一セント玉ひとつ出てはこなかった。彼はその日の朝、住みなれたアパートをひきはらってきた。家具も借金のかたに消えてしまった。衣類も、いま身につけているものをのぞけば、すべて未払い給金の代わりに下男にくれてやった。だから、こうしていま腰をおろしている彼には、街のどこを探しても、ベッド一つ、海老《えび》の鬼殻《おにがら》焼き一つ、市電に乗るための小銭一つ、ボタンホールに差すカーネーション一つ、なかった。友人にでもたかるか、詐欺《さぎ》でもするなら話は別である。それゆえ、彼はこの公園を選んだのであった。
そして、こうしたことはすべて、伯父《おじ》が彼から相続権を取りあげ、これまで支給していた充分な手当さえ打ち切って、何ひとつ与えなくしてしまったからであった。そして、それはすべて、甥《おい》の彼が、ある女のことで伯父の言いつけに従わなかったからなのであった。しかし、その女というのは、この物語には登場しない……それゆえ、そういう話を根ほり葉ほりききたがる読者は、どうかこれから先はお読みにならないでいただきたい。
甥はもうひとりいた。別の分家の甥で、かつてはこの伯父の相続人として見込まれ、寵愛《ちょうあい》されていた。ところが、神の恵みもなく望みもないままに、もう何年も昔に世の泥沼へと姿を消していた。それが今や捜査の網が打たれて、その男を探し出すことになった。以前の資格を与え、元の地位につけようということになったのである。かくしてヴァランスの方は、ルシファーのように華々しく奈落の底に転落し、この小さな公園の、ぼろをまとった亡霊たちの仲間入りとあいなった次第なのである。
腰をすえたまま、彼は固いベンチの上で思いきり体をそり返らせると、笑いながらタバコの煙をひとふき、立木の下枝にふきかけた。これまでの人生のすべての絆《きずな》がとつぜん断ち切れたおかげで、何か自由な、わくわくするような、嬉しいとさえ言えるような、揚々《ようよう》たる気分になっていたからである。その気持ちは、まさに、気球乗りが係留索《けいりゅうづな》を断ち切って、そのまま吹き流されてゆくときのあの興奮にも似ていた。
時刻はそろそろ夜の十時になろうという頃であった。浮浪者たちは、あまりベンチには姿を見せていなかった。公園に巣くう連中は晩秋の寒さには頑固に抵抗するくせに、春の冷え冷えとした軍勢の前哨線《ぜんしょうせん》にはなかなか攻撃を開始しないのである。
やがて一人が、噴水の近くのベンチから立ちあがると、こちらへやって来てヴァランスの隣に腰をおろした。若いようでもあり、年寄りのようにも見えた。安宿がこの男の体にかびくさい臭いをしみこませていた。かみそりも櫛《くし》も、この男のそばには寄りつこうとしなかった。酒さえも悪魔の保税倉庫の中でびんにつめられたまま、封印をされていた〔「一滴の酒も飲めない」の意〕。男はマッチを貸してくれと言った。それは、公園のベンチにたむろする者たちのあいだでは初対面の挨拶なのである。そして男は話しはじめた。
「おめえさんは、ここの常連じゃあねえな」と男はヴァランスに言った。「注文仕立ての服は、見りゃあすぐにわかるんだ。公園を抜ける途中、ちょいと足を休めただけなんだろう。少しばかり話をしてもいいかい? おれは誰かといっしょにいなくちゃあいられねえんだ。おっかなくって……おっかなくって。今もあすこにいるのらくら野郎たちの二、三人に話してきたところなんだ。奴らはおれを気ちがいだと思ってやがる。まあ……聞いてくれ……今日このおれが口にしたものはな、プレッツェルふたつとリンゴ一つだけなんだ。ところがあしたになりゃあ三百万ドルの遺産を相続する列に並ぶんだ。そうすりゃあ、あすこに見えるレストランだって、ほら、自動車がずらっと並んでいる店があるだろう、あんな所だっておれが食事をするにゃあ、安っぽすぎるぐれえになるんだぜ。おめえさんも本当の話だとは思っちゃくれめえな?」
「いや、とんでもない」とヴァランスは笑いながら言った。「私もきのうはあそこで昼食をとったんだよ。ところが今夜は、一ぱい五セントのコーヒーさえ買えないのだ」
「おめえさんは、おれたちの仲間のようには見えねえぜ。だが、そんなこともあるんだろうな。このおれだって以前にゃあ高《たけ》え所を飛んでいたんだ……何年も前《めえ》のことだがね。おめえさんはどうしてそういう所から叩き出されたんだ?」
「私は……その、つまり職を失ったのだよ」とヴァランスは言った。
「なさけ容赦もねえ地獄だからな、この市《まち》は」と相手はつづけた。「今日、陶器《チャイナ》の皿で乙《おつ》な食事をしていたかと思うと、あしたはもうチャイナで、……つまり一膳《いちぜん》めし屋で、めしを喰っているてえことになるんだ。おれなんざもう、自分の分け前いじょうに不運な味をなめてきた。ここ五年ものあいだ、おれは乞食同様の身の上なんだ。ぜいたくな暮らしをし、何ひとつ働かなくっていいように育てられたというのによ。そうだ……こうなったらもう、かまわずに話をしよう、……誰かに話さなけりゃあいられねえんだ。だってな、おれはおっかねえんだ……おっかねえからなんだ。おれの名はな、アイドっていうんだ。おめえさんはあのポールディングっていう、あのリヴァーサイド・ドライヴの百万長者がおれの伯父だなんて思うまいな。ところが、そうなんだ。昔はおれもあの屋敷に住んでいた。そして金は好きなだけもらえたんだ。ところで二、三ばいひっかける酒代、もってないかね、ええ……ええと……なんていう名前だっけねえ、おめえさんは……」
「ドーソンだ」とヴァランスは言った。「いや、ないな。あいにくと財政的にすっかり参っているんでね」
「おれはこの一週間というもの、ディヴィジョン・ストリートの地下の石炭置場に住んでいるんだ」とアイドはつづけた。「『ちらり』のモリスってえゴロツキといっしょにな。ほかに行くところがなかったもんだからね。で、今日、おれが外へ出ているあいだに、何か書類《かきつけ》をポケットにした野郎が、そこへやって来やがって、おれに用があるって言うんだ。こりゃあてっきり私服《デカ》だと思ったから、日が暮れるまでそこへ近よらずにいた。そしたらおれに置き手紙がしてあったのよ。ええ……ドーソン、手紙は下町の有名な弁護士ミードからなんだ。おれはそいつの看板をアン・ストリートで見たことがあるんだ。ポールディングはおれに放蕩《ほうとう》甥っ子をやらせてえんだ……つまり、おれに帰って来て、もういちど伯父《おじ》きの遺産相続人になり、金をどんどん使ってもらいてえって言うんだ。それでおれは弁護士の事務所へあすの朝、十時に行くことになっているのさ。そしてまたもとの古巣《ふるす》に帰ってゆくのよ。……三百万ドルの相続人だぜ、ドーソン、そして年に一万ドルの小遣いだぜ。だから……おれはおっかねえんだ……おっかねえんだぁ」
その浮浪者は、とびはねるようにして立ちあがると、ふるえる両腕を頭上高くあげた。そして息をころしてヒステリカルに呻《うめ》いた。
ヴァランスは男の腕をつかむと、むりやりベンチにひきもどした。
「しずかにしたまえ!」と彼は命令した。その調子には、何か嫌悪《けんお》にも似たものがあった。「人がきいたら、君が財産をなくしてしまったんだと思うぞ、君がそれを手に入れようとしているのではなくてね。いったい何がこわいのだね?」
アイドはベンチの上で身をちぢめながらふるえていた。それからヴァランスの袖《そで》にしがみついてきた。そのために、ブロードウェイの灯りが差し込むこのうす暗い光の中でさえも、ついさきごろ相続権を取り消されたばかりのヴァランスには、相手の男の額に、何か不思議な恐怖によってしぼり出されている汗の粒をはっきりと見ることができた。
「なにしろ、朝がこねえうちに、何かがおれの身に起こるんじゃねえかと、そんな気がするんだ。それが何だかわからねえんだが……とにかく、おれにその財産をつがせねえようにするものなんだ。木が倒れてくるのかもしれねえ、……辻馬車にひき殺されちまうのかもしれねえ、石が屋根から落っこってくるのかもしれねえ、何かが起こるんだ。前には、おっかねえと思ったことなんか一度もなかった。この公園じゃあ百ぺんも夜をすごしてきたんだ、朝めしがどこで喰えるかわからなくたって、彫像《ほりもの》みてえに落ち着きはらってな。ところが今は違うんだ。おれは金が恋しいんだ、ドーソン……金が指のあいだからこぼれ落ちるほどになって、みんながおれに最敬礼をし、音楽や花やきれいな衣裳にとりかこまれるようになれば、おれは神さまのように幸せなんだ。そういう世界からおれはおっぽり出されちまったんだぞとあきらめていたうちは、別に気にもかけなかった。ぼろを着て、腹をすかせてここに腰かけ、噴水の音をきいたり、車が大通りを走ってゆくのを眺めているだけで、けっこう幸せだった。
だが、金がこうしてまたおれの手のとどくところにやってきたんだ……もうすぐそこまでな……そうなってみると、おれは十二時間も待つなんてえことが、耐えられねんだ、ドーソン……耐えられねんだよ。待っているあいだに、どんな災難がふりかかってくるかしれやあしねえ……おれがめくらになるかもしれねえし……心臓の発作に見舞われるかもしれねえ……この世が終わりになっちまって、おれはせっかくの金を……」
アイドはまたしても跳びあがるようにして立ちあがりながら、鋭い叫び声をあげた。人々がベンチの上でもぞもぞと体を動かし、こちらを見はじめた。ヴァランスは相手の腕をつかんだ。
「さあ、歩こう」と彼はなだめるように言った。「そして自分を落ち着かせるのだ。なにも興奮したり、おびえたりする必要はないのだ。君には何も起こりはしないのだからね。今夜だって、いつもの夜と変わりはないのだよ」
「そうだな」とアイドは言った。「今夜はおれといっしょにいてくれ、ドーソン……頼むからな。しばらくそこいらをいっしょに歩いてくれ。こんなに参《めえ》っちまったこたあ、これまで一度もなかったんだ。ひでえ打撃はいくらでも喰らってきたおれだっていうのによ。なあ、親方、ちょいと腹のたしになるようなものを工面《くめん》してきてもらえねえかね? どうもおれの神経はいかれちまって、物乞いにでかけられそうもねえんだ」
ヴァランスは相手を連れて、ほとんど人気《ひとけ》の絶えた五番街を歩いていった。そして、それから三十何番通りかの角を西に曲がるとブロードウェイの方へ向かっていった。
「ここでしばらく待っていたまえ」と言うと、彼はそのままアイドをひっそりとした物かげに残して立ち去った。それから馴染みのホテルへ入って行き、いつものあの落ち着きはらった態度で、ゆっくりとバーの方へ歩いていった。
「おもてにな、気の毒な悪魔がいるんだ、ジミー」と彼はバーテンに向かって言った。「腹がへっていると言うんだが、あの様子ではどうやら本当だ。ああいう連中は、金なんかやったら何に使うか君も知っているだろう。だからサンドウィッチを一つ二つ作ってやってくれ。捨てるようなことはさせんからな」
「かしこまりました、ヴァランスさま」とバーテンは言った。「あの連中だって、みんながみんなペテン師とはかぎりませんからね。わたくしも人が腹をすかせているのを見るのは好きではございません」
バーテンはこっそりとサーヴィス用のサンドウィッチをナプキンに包んでくれた。ヴァランスはそれを持って連れの男のところへもどって行った。アイドはそれに飛びつくと、がつがつと食べはじめた。
「こんなうめえもらいものは初めてだぜ、この一年のあいだちゅうものはな」と彼は言った。「おめえさんも少し喰わねえかい、ドーソン?」
「私は腹はすいていない……結構だよ」とヴァランスは言った。
「おれたち、公園へ帰ることにしようや」とアイドが言った。「あそこならポリ公の心配もないからな。このハムやなんかの残ったやつは、このまま丸めておれたちの朝めしにとっておくことにしよう。おれももうこれ以上は喰わねえことにするよ。加減が悪くなると大変だからな。腹いたかなんかで、今夜おっ死《ち》んじまって、それっきりあの金に手もふれられねえてなことになってみねえ! あの弁護士に会うまでには、まだ十一時間もあるんだ。おめえさん、おれを置き去りになんかしねえだろうね、ええ、ドーソン? どうも何か起こるような気がするんだ。おめえさん、行くところはねえんだろう?」
「そう」とヴァランスは言った、「今夜はどこにもない。いっしょにベンチで寝るよ」
「おめえさん、ばかに落ち着いているんだね」とアイドは言った、「さっきからの話は本当のことなのかねえ。人がたった一日で、まともな仕事からルンペン稼業《かぎょう》に落とされちまったら、てめえの髪の毛をかきむしるだろうと思うんだがねえ」
「それなら、私もさっき言ったと思うのだが」とヴァランスは笑いながら言った、「明日は財産がころがりこむのだと思っている人間は、ずいぶんと気が楽になって落ち着くだろうと思うのだがね」
「おかしなもんさ」とアイドは哲人ぶった口調で言った、「人によって物の考え方が違うんだからね、とにかくよ。ほら、これがおめえさんのベンチだ、ドーソン、おれのすぐ隣だ。ここなら街燈の明かりも目をさしゃあしねえ。なあ、ドーソン、おれは伯父きに言って、おめえさんのために仕事のことで誰かへ紹介状を書いてもらってやるぜ。おれが家に帰ったらな。なにしろ今夜はえらく世話になっちまったもんな。おめえさんに逢わなかったら、おれはきっと今夜は過ごせなかったろうぜ」
「ありがとう」とヴァランスは言った。「眠るときは、ここへ横になるのかね、それとも腰かけたままかね?」
何時間ものあいだ、ヴァランスは、ほとんど瞬《まばた》きもせずに、空の星を、木々の枝を通して、見つめていた。そして南側の、あの海のようなアスファルトの舖道を通る馬のひづめの鋭い響きに耳をかたむけていた。彼の頭は活発に働いていたが、感覚は眠っていた。あらゆる感情が根だやしにされてしまったように思われた。後悔も、恐怖も、苦痛も、不快も、感じなかった。例の女のことを考えたときでさえ、それはもう、こうして見つめているあの遠くの星の一つに住んでいる生き物のようでしかなかった。彼は、連れの男のあのばかばかしい、おどけた挙動を思い出して、そっと笑ったが、それにさえおかしみの感情などはなかった。
やがて、毎朝やってくる牛乳配達の馬車の一隊が、街中を太鼓のように鳴りひびかせながら、行進していった。ヴァランスは夜具もないベンチの上で、ようやく眠りに落ちていった。
翌朝十時に二人はアン・ストリートにある弁護士ミードの事務所の戸口に立った。
アイドの神経はこの時刻が近づくと、前にもましておののいた。そのためヴァランスとしては、本人がそれほど恐れているのにそうした危険の餌食《えじき》になるかもしれぬ男を、そのまま置き去りにしていくことができなかったのである。
二人が事務所に入ってゆくと、弁護士ミードは不思議そうに二人を見た。
彼とヴァランスとは古くからの友人であった。彼は挨拶をすませると、アイドのほうに向きなおった。アイドは来たるべき危機を前にして、顔を真っ青にし、手足をふるわせながら立っていた。
「昨夜、私は二度目の手紙をご住所のほうへ持って行かせたのです、アイドさん」と彼は言った。「ところが今朝になって、あなたがお留守でその手紙をお受けとりになっていないことを知りました。手紙は次のようなことをお伝えするものでした、つまり、ポールディング氏は、あなたをお引きとりになろうというあのお申し出をもう一度お考えになりました。そして結局、お引きとりにならないと、そうお決めになりました。そしてあなたとあの方との間の関係は、これまで通りで、何の変更もないから、さよう理解してほしい、ということだったのです」
アイドのふるえは途端にやんだ。血の気も顔にもどってきた。そして彼は背筋をぴんとのばした。下あごが一センチばかり前に突き出て、輝きが目にさしてきた。彼はよれよれの帽子を片方の手であみだにかぶると、もう一方の手を、指を水平にして、弁護士のほうへさしだした。それからひといき深く息をつくと、せせら笑うように笑った。
「ポールディングの伯父《おじ》きに言ってくれ、野郎、地獄にでも落ちやがれってな」
彼は大きな声で、はっきりそう言うと、くるりと背を向けて事務所から出ていった。その歩みはしっかりとして、快活であった。
弁護士のミードはヴァランスの方へ向きなおると、微笑を浮かべた。
「あなたが来てくださってよかった」と彼は愛想よく言った。「伯父上がすぐに帰って来てほしいと言っているんですよ。ああした短気な処置に出られた今度の事件はもう仕方がないとあきらめて、こう伝えてくれと言っておられるのです、つまり、万事もとのとおりに……」
「おい、アダムズ!」と弁護士のミードは、いきなり話をやめて、秘書を呼びながら叫んだ。「水をもって来てくれ……ヴァランスさんが気絶してしまったんだ」
[#改ページ]
最後の一葉
ワシントン・スクウェアの西側にある、ある小さな区域に入ると、とたんに道筋が乱れて、いくつもの細い通りに分かれてしまう。「小路《プレイス》」というやつだ。こういう「小路」は奇妙な折れ方をしたり、曲がり方をしたりしている。一本の路がぐるっと回って、また自分自身を横切ってゆくようなことが、一度や二度はあるのだ。
そこでむかしある画家が、こういう路でならきっとすばらしいことが起こるかもしれないぞと考えたことがあった。つまり、勘定取りが絵の具や紙やカンヴァスの請求書《つけ》をもってやって来る。そしてこの路を歩いているうちにふと気がつくと、自分がいつの間にか内金ももらわずに手ぶらで帰り路を歩いていた、なんてことになるかもしれんぞ! というのである。
そんなわけで、この一風変わった古いグレニッチ・ヴィレッジに、画家たちが間もなくさまよい集まってきて、北向きの窓、十八世紀の破風《はふう》、オランダ風の屋根うら部屋、安い間代の家など、を探しはじめた。それから白鑞《しろめ》のコップを数個と卓上用コンロをひとつふたつ、六番街から買いこんできて、「植民地人《コロニー》」となった。
ずんぐりとした、三階建ての、レンガ造りの家のてっぺんに、スウとジョンジーはアトリエをもっていた。「ジョンジー」というのはジョアンナの愛称であった。一人はメイン州の出身で、一人はカルフォルニア州。この二人は八番通りのレストラン「デルモニコ」の共同食卓《ターブル・ドート》〔「相席で」という意味〕で食事をしているときに知りあった。そして芸術のことでも、チコリ・サラダのことでも、ビショップ・スリーヴのことでも、たがいに趣味がぴったりと一致するのを知って、共同でアトリエを借りることになったのである。
それは五月のことであった。十一月になると、冷たい、目に見えぬ他国者が、医者はそれをニューモウニア(肺炎)と呼んでいたが、この芸術家村《コロニー》にやってきて、氷のような手であちこちと人に触れまわった。イースト・サイドの貧民街では、この乱暴者は大胆な足なみでかけまわっては犠牲者を何十人となく打ちたおしていたが、その乱暴者も、このせまい、苔《こけ》むした「小路」の迷路に入ってくると、足どりがにぶった。
ニューモウニア氏はとても騎士風の老紳士などと言える人物ではなかった。ほんの小娘、しかもカリフォルニアのそよ風に育《はぐく》まれて血の気もうすくなった女なぞ、真っ赤なこぶしをして息をはずませているこの老行商人にとっては、決して血祭りにあげるほどの獲物ではなかった。しかしそのジョンジーを、彼はたおしたのだ。彼女は身動きもできず、ペンキをぬった鉄製のベッドに横たわったまま、小さなオランダ風の窓ガラスを通して、となりのレンガ建ての家の、窓もなんにもない外壁をじっと見つめていた。
ある日の朝、多忙な医者が、毛深い灰色のまゆで合図しながら、スウを廊下に呼び出した。
「助かる見込みは、……そう、十《とお》に一つじゃな」と言いながら彼は体温計の水銀をふりおろした。「その一つも本人が生きたいと思わにゃあだめじゃ。人は何かというとすぐに医者よりも葬儀屋の肩をもつくせがあるが、こんなことではどんな薬もみんな能なしに見えてしまう。あんたんとこの娘さんも、もう自分は治らんものときめこんでおる。何か心にかけているようなものがあるじゃろうかな?」
「そうねえ……あのひと、いつかナポリ湾を描いてみたいって言ってたわ」とスウが言った。
「絵を描《か》くじゃと?……とんでもない! なにかこう、じっくりと考える価値のあるものを、あの娘が心にかけてはおらんじゃろうかという意味なんだがね……例えば恋人《マン》のこととか?」
「恋人《マン》?」とスウは、口琴《ジューズ・ハープ》をはじくような口調で言った。「恋人ってそんなに価値の……いいえ、先生。そんなものはありません」
「そうか、そこが弱点じゃな。とにかく、あらゆる手をつくしてみよう、科学が、と言うてもその科学がわしの努力を通して浸透しうる限りにおいての話じゃが、その科学が果たすことのできるあらゆる手をな。しかし、わしの患者が自分の葬式につらなる車の数をかぞえはじめたら、そのときはいつでもわしは五十パーセントを薬の効力から差し引くことにしておる。だからもしあんたが、この冬の外套の袖口の新しいスタイルのことで、ひとつでもあの娘に質問させるようしむけることができたら、見込みは五に一つと約束してあげよう、十に一つではなくてな」
医者が帰ってしまうと、スウは仕事部屋に入っていって紙ナプキンがパルプになってしまうほど激しく泣いた。それから、陽気な足どりで、ジョンジーの部屋へと、画板を手にジャズを口笛でふきながら入っていった。
ジョンジーはじっと横たわっていた。掛け蒲団の下で、さざ波一つたてず、顔も窓の方に向けたままであった。スウは口笛をやめた。眠っていると思ったからである。彼女は画板をすえると、雑誌小説の挿絵《さしえ》のためにペン画を描きはじめた。若い画家たちは芸術への道をきりひらくために、まずもって、若い小説家たちが文学への道をきりひらくために書く雑誌小説の挿絵を描かねばならぬのである。
スウが、馬匹《ばひつ》品評会用の粋《いき》な乗馬ズボンと|片眼鏡《かためがね》とを小説の主人公であるアイダホ生まれのカウボーイの姿に描いていると、かすかな物音が、何度かくりかえしてきこえてきた。彼女はいそいでベッドのところへ行った。
ジョンジーの目は大きくあいていた。窓の外を見つめながら、彼女は数えていた……数を逆にかぞえていた。
「十二」と彼女は言った。それから、少したって「十一」。そしてまた「十」、そして「九つ」。それから「八つ」と「七つ」、それはほとんど同時くらいであった。
スウは気づかわしそうに窓の外をながめた。何を数えているのだろう? 見えるものといえば殺風景な、ものさびしい裏庭だけ。それにあとはレンガ建ての家の、窓も何にもない外壁が、六メートルばかり離れたところにあるだけなのだ。古い、古いツタのつるが一本、もう根元もふしくれだって朽ちかけたまま、そのレンガの壁の途中までのびていた。冷たい秋の風がその葉をつるから叩き落としてしまって、今ではもう骸骨《がいこつ》のような枝だけが、ほとんど裸になって、この崩れかけたレンガにしがみついていた。
「ねえ、どうしたの?」とスウはたずねた。
「六つ」とジョンジーは言った。ほとんどささやくような声である。「落ちるのが速くなってきたわ。三日前には百ぐらいもあったのよ。だから数えていると頭がいたくなったわ。でも今はもうかんたん。ほらまた一つ落ちていくわ。これでもう後は五つだけ」
「ねえ、何が五つなの? あなたのスウディに教えてちょうだい」
「葉っぱよ。あのツタについてる。最後の一葉が落ちたら、あたしも行かなきゃならないのよ。三日前からわかっていたわ。お医者さま、そう言わなかった?」
「まあ、そんなバカげた話、きいたこともないわ」とスウは、おおげさに嘲笑《あざわら》いながら、口をとがらせて言った。「いったい、古いツタの葉っぱとあなたがよくなることと、どんな関係があるというの? それにあなたはあのツタがとても好きだったじゃないの、おバカさんね。おくびょうもののおバカさんなんかになっちゃだめよ。だって、お医者さまもけさ言ってたけれど、本当にすぐよくなる見込みは、ええと、たしか、あれは、……そう、一つに十ですって! ね、こんな確率なら、あたしたちがニューヨークで市電に乗ったり、新築のビルの前を歩いたりするのと同じくらい確かなものじゃないの。さあ、少しスープをのんでごらんなさい。そしてスウディをお仕事に帰してちょうだい。そうすれば編集者のところへ行ってお金にかえて、この病気の赤ちゃんにはポート・ワイン、そしてこの食いしんぼうのあたしにはポーク・チョップを買ってきますからね」
「もうワインを買う必要はないわ」とジョンジーは言った。その目はあいかわらず窓の外を見つめていた。「ほら、また一つ落ちてゆくわ。いいえ、スープもほしくないわ。これで後は四つだけ。暗くならないうちに最後の一葉が落ちるのを見たいわ。そしたら、あたしも行くのよ」
「ねえ、ジョンジー」とスウは彼女の上にかがみこむようにして言った。「あたしに約束してくれないかしら、その目を閉じて、決して窓の外を見ないって、あたしが仕事を仕上げてしまうまでね? あの絵はどうしても明日までに渡さなきゃならないの。で、あたしには明かりが必要なのよ、さもなければブラインドをおろしてしまいたいところなんだけど」
「向こうの部屋では描けないの?」とジョンジーは冷ややかにたずねた。
「ここであなたのそばにいたいのよ。それに、あんなバカバカしいツタの葉っぱなんかを、あなたに見ていてほしくないんですもの」
「じゃあ、描きおえたらすぐに教えてね」とジョンジーは両目を閉じながら言った。そして真っ白な顔をしてじっと身動きもせず、たおれた彫像のように横たわっていた。「あたし、最後の一葉が落ちるのを見たいんですもの。もう待っているのがうんざりなの。考えるのもうんざりだわ。すべてのものから手を放してしまいたいの、そしてそのままスーっと落ちてゆきたいの、ちょうどあのかわいそうな、疲れきった葉のように」
「眠ったほうがいいわ。あたし、ベールマンさんに来てもらわなけりゃならないの。年老いた世捨て人の坑夫《こうふ》のモデルになってもらうのよ。すぐにもどってくるわ。帰ってくるまで、体を動かそうとなんかしちゃあだめよ」
年老いたベールマンは、やはり画家で、彼女たちと同じ建物の地下室に住んでいた。もう六十を過ぎていて、ミケランジェロの彫ったあのモーゼのような長いひげを、サテュロスのような頭から小鬼のような体にかけて、うず巻きながら垂らしていた。ベールマンは芸術の落伍者《らくごしゃ》であった。四十年ものあいだ絵筆をふるってはいたが、いまだに芸術の女神の裳裾《もすそ》にさえふれたことがなかった。いつも、今度こそ傑作を描くぞと言っていながら、一度もそれにとりかかったことはなかった。そしてここ数年というもの、ほとんど何も描かず、ただときおり、商業用か広告用のヘボ絵を描くていどであった。わずかばかりの稼ぎも、それは本職のモデルをやとえないこの芸術家村《コロニー》の若い画家たちのためにモデルとなって得た金であった。彼はジンを飲み過ぎるほど飲み、そしてあいかわらず将来の傑作を口にしていた。そのほかは、小柄なくせに至って気の強い老人で、誰彼かまわず気の弱いところを見つけるとそれを思いきり嘲笑した。そして、自らを特別の番犬と心得、階上のアトリエに住むあの二人の年若い画家たちを守っていたのである。
スウが行ってみると、ベールマンはジューニパーの匂いをぷんぷんさせながら、彼のうす暗い穴ぐらのような階下の部屋にいた。部屋の片隅には何も描いてないカンヴァスが画架の上にのっていた。それは二十五年ものあいだそこにあって、傑作の最初の一筆を今か今かと待ちうけていたものであった。
彼女はジョンジーのあのとりとめもない考えのことを話し、そして自分の心配していることも打ち明けた。ジョンジーは木の葉のように軽くてもろい体だから、この世にしがみついているあのわずかばかりの力がもうこれ以上弱まったら本当に飛んでいってしまうだろう、と語ったのである。
ベールマン老人は、赤い目から大粒の涙を流しながら、声をはりあげて、こうしたバカバカしい空想を軽蔑し嘲笑した。
「なに!」と彼はさけんだ。「この世にそんな『パカ』げたこと考えてる人いるのかね、人死ぬ、それ葉っぱツタの奴から落ちるためなんて! わたしそんな話、きいたことない。だめ、わたしパカな世捨て人のぼんくらなどのモデルしてやらない。あなたどうしてそんなパカなこと、あの娘《こ》の頭に入るの放っておくのですか? あハ、かわいそうな『ヨンシー』さん」
「病気がとても重くて、体が弱っているのよ。それに熱があるので気が変になって、それでいろいろと妙なことばかり考えるんだわ。いいわ、ベールマンさん、あたしのモデルがおいやなら、してくださらなくたって結構よ。でも、あなたって本当にいやな、……がみがみ爺《じい》さんね」
「あなたやっぱり女だね!」とベールマンはわめいた。「モデルしないなんて誰《たれ》言うたか? さあ行きなさい。わたしもいっしょに行くから。三十分も前から言おうとしてたのよ、喜んでモデルになるよ、ってね。まったく! ここ、ヨンシーさんのようないい人、病気でねかせておく所でないね。いつか、わたし傑作かくよ、そしたらみんなでよそへ移るね。まったく! 本当のことよ」
二人があがって行ったとき、ジョンジーは眠っていた。そこでスウはブラインドを窓の下わくのところまでおろすと、ベールマンに合図して別の部屋に行かせた。その部屋に入ると、二人は窓からおそるおそるあのツタのつるをのぞいてみた。そしてたがいに一瞬、無言のまま顔を見合わせた。しつこい、冷たい雨が、雪をまじえて降っていたのである。ベールマンは、古いブルーのシャツの姿で、釜をひっくりかえして岩に見たてたその上に腰をおろして、世捨て人の坑夫のポーズをとった。
スウが翌朝、一時間ほどの眠りから目をさましてみると、ジョンジーは生気のない目を大きくあけて、引きおろしてある緑色のブラインドを見つめていた。
「上げてちょうだい。あたし見たいの」と彼女は、ささやくような声で、命令するように言った。
いやいやながらスウはそれに従った。
しかし、どうだろう! あの叩きつけるような雨と激しい突風とが、長い長い夜のあいだ明け方までつづいていたというのに、まだレンガの壁にはツタの葉が一枚、くっきりとその姿を見せているではないか。それは、つるについている最後の一葉であった。つけ根のあたりはまだ濃い緑色をしてはいたものの、のこぎりの歯のようなふちの部分はすでに黄色い死滅と腐敗の色合いをおびながら、その葉は地上六メートルばかりのところにある枝から健気《けなげ》にもぶらさがっていた。
「とうとう一枚だけになったわ」とジョンジーが言った。「夜のうちにきっと落ちるだろうと思っていたのに。風の音が聞こえていたんですもの。でも、今日は落ちるわ、そしてそのとき、あたしもいっしょに死ぬのよ」
「やれ、やれ!」とスウは疲れきった顔を枕におしあてながら言った。「自分のことを考えたくなかったら、せめてあたしのことを考えてちょうだい。このあたしはいったい、どうしたらいいって言うの?」
しかしジョンジーは答えなかった。この世で最も寂しいものは、神秘な、遠い旅に出ようと準備しているときの人間の魂である。彼女を友情や大地に結びつけていた絆が、一本、一本、ほどけてゆくにつれて、あのとりとめもない考えはますます強く彼女をとらえてゆくように思われた。
その日も暮れて黄昏《たそがれ》どきとなったが、その中でさえ二人の目にはあの孤独なツタの葉が壁を背景にしてその枝にしがみついている姿が見えた。やがて、夜のおとずれとともに、北風がまた吹きだした。雨もあいかわらず窓をたたき、低いオランダ風の軒先からぽたぽたと滴《しずく》を落としていた。
夜が明けはじめるとジョンジーは、容赦もなく、ブラインドをあげるようにと命令した。
ツタの葉はまだそこにあった。
ジョンジーは長いあいだじっとそれを見つめていた。それからスウに声をかけた。スウはそのときジョンジーのチキン・スープをかきまわしながらガス・ストーヴの上でそれを作っていた。
「あたし、いけない娘《こ》だったわ、スウディ」とジョンジーは言った。「なにかがあの最後の一葉をあそこに置いて、あたしの心が間違っていたことを教えてくれたんだわ。死を願うなんて、悪いことだぞって。さあ、スープを少しちょうだい。それからミルクもね、中にワインを少し入れて、それから……いいえ、その前に手鏡をもってきてちょうだい。それから体のまわりに枕をかってね。そうすれば、あたし体を起こして、あなたの料理するところが見られますもの」
一時間ほどたつと彼女は言った。
「スウディ、あたし、いつかナポリ湾を描いてみたいわ」
医者がその日の午後にやってきた。そしてスウは医者が帰るとき、うまく口実をつくって廊下に出た。
「見込みは五分五分というところじゃな」と医者は、スウの細いふるえる手をとりながら言った。「看病がよければあんたが勝つ。さてと、わしはもうひとり、階下《した》の患者を診《み》なけりゃならん。ベールマン、とか言ったな……画家のような人らしいがね。これも肺炎でな。年をとっていて、弱い体でな、おまけに急性の肺炎ときておる。まず助かる見込みはないな。だが今日、入院するから、そしたら少しは楽になるじゃろう」
その翌日、医者はスウに言った。
「もうあの娘の危険は去った。あんたの勝ちじゃ。あとは栄養と養生……それだけじゃ」
そして、その日の午後、スウはジョンジーの横たわっているベッドのところへやって来た。ジョンジーはそのとき、非常に青くて大して役立ちそうにもない毛糸の肩掛けを満足そうに編んでいたのであったが、スウはそのジョンジーを枕もなにもいっしょにして片方の腕に抱きしめた。
「ねえ、あなたにお話があるの」と彼女は言った。「ベールマンさん、肺炎で死んだわ、今日、病院でよ。病気になったのはほんの二日前からよ。この家の管理人が最初の日の朝、見つけたんですって、ベールマンさんが階下《した》の自分の部屋で一人で苦しがっているところをね。靴も着ているものもみんなぐっしょりぬれて、氷のように冷たかったそうよ。あんなひどい晩にどこへ行ってたのか、だれにも見当がつかなかったの。そのうちに、まだ火のついているカンテラが見つかったんですって。それから、いつも置いてある所から引きずってきた梯子《はしご》、その辺にちらかっている画筆、緑色と黄色の絵の具をまぜたパレット、それから……ほら窓をのぞいてごらんなさい、そしてあの壁にある最後のツタの葉を見てごらんなさい。あなた、不思議に思わなかった? どうしてあの葉は風がふいても少しもふるえず、動きもしなかったかということを。ああ、ジョンジー、あれこそベールマンさんの傑作よ、……あの人それをあそこに描いたのだわ、最後の一葉が落ちたあの夜のあいだに」
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ラッパのひびき
この物語の半分は警察署の記録を調べればわかる。しかし後の半分は、ある新聞社の営業部の受付の奥にまで行かなければわからない。
ある日の午後、それは大資産家のノークロスが自分のアパートで強盗に殺されるという事件のあった二週間ほど後のことであるが、そのときの犯人が、何くわぬ顔をしてブロードウェイを歩いているうちに、ばったりとバーニイ・ウッズ刑事にでくわした。
「なんだ、ジョニー・カーナンじゃないか?」とウッズはたずねた。彼は五年前から私服になっていた。
「いよう」とカーナンは威勢のいい声でさけんだ。「そういうおめえはバーニイ・ウッズじゃあねえか、セント・ジョーでの働き者のな! いったいどうしたことだい! こんな東部で何をしているんだ? 生鮮野菜の宣伝広告《チラシ》はこんなとこまで飛んでくるのか?」
「数年まえからニューヨークに出てきているんだ」とウッズは言った。「市の警察に勤務しているんだよ」
「それは、それは!」とカーナンは顔をほころばせ、喜びの言葉をもらしながら刑事の腕をぽんとたたいた。
「マラーの店へ来たまえ」とウッズが言った。「そして静かなテーブルをさがそう。君に少し話がしたいんだ」
四時にはまだ数分、間《ま》があった。客がおおぜいおしよせる潮時ではなかったので、二人はその酒場の一隅に静かな席を見つけた。カーナンは、りゅうとした服装をして、やや肩をいからせ、自信たっぷりの様子で席についたが、その真向かいにすわった小柄な刑事は、淡い砂色の口髭《くちひげ》をはやし、しばたくような目つきで、レディー・メイドの|厚地の服《チェヴィオットスーツ》をきていた。
「今どんな仕事をしているのかね?」とウッズはたずねた。「たしか、わたしよりも一年前にセント・ジョーを出たんだっけね」
「銅山の株を売ってるのさ。もしかしたら、この市《まち》に事務所をつくるかもしれねえぜ。それにしても、驚いたな! むかしのバーニイがニューヨークの刑事さまたあな。そう言やあ、おめえは昔からそっちのほうに向いていたっけな。おれがセント・ジョーを飛び出してからだって、おめえはあすこの警察に勤めていたんだろ?」
「六か月ね。ところで、もう一つ質問があるんだ、ジョニー。わたしは、君がサラトガでやったあのホテルの一件以来、ずっと君の記録をこまかく追っていたのだ。そして君が一度も拳銃を使っていないことがわかった。その君がどうしてノークロスを殺すようなことをしたのだ?」
カーナンはしばらくのあいだ、注意を集中して、ハイボールの中のレモンをじっと見つめていた。それから、急に顔をゆがめて明るく微笑しながら刑事を見た。
「どうしてわかった、バーニイ?」と彼は感心したような口調でたずねた。「あの仕事は、きれいに、あざやかにできたと思っていたんだぜ、まるで皮をむいた玉ネギみてえにな。どこかにひと束、むきそこなったやつがぶらさがっていたってえわけか?」
ウッズはテーブルの上に小さな金のエンピツをおいた。それは懐中時計の鎖につけるかざりであった。
「これは、わたしが君にやった品だ、われわれ二人がセント・ジョーにいた最後のクリスマスの日にな。君がくれたヒゲそり用のコップはいまでももっている。わたしは、これをじゅうたんの片隅のかげから見つけたんだ、ノークロスの部屋のな。いいか、これから先は気をつけて口をきくのだぞ。わたしは君にわかってもらいたいのだ、ジョニー。わたしたちは昔は親友だった、しかし今はわたしも自分の義務を果たさなければならない。このままでは君はノークロスの一件で電気椅子に行かねばならなくなるのだ」
カーナンは声をたてて笑った。
「おれの運はまだおれの味方さ」と彼は言った。「昔なじみのバーニイがおれの跡を追っかけているたあ、お釈迦《しゃか》さまでも気がつかなかったろうぜ!」
彼は一方の手を上衣の内側にすべりこませた。そのとたんにウッズは相手のわき腹に拳銃をおしつけた。
「そんなもの、しまっておけよ」とカーナンは鼻にしわをよせながら言った。「おれはちょいと調べているだけなのさ。ほほう! 仕立屋は九人でやっと一人前と諺《ことわざ》に言うが、人間いっぴき仕立てあげるにゃあ一人でたくさんてえわけだ。あのチョッキのポケットにゃ穴があいているんだな。おれはあのエンピツを鎖からはずしてそこに入れておいたんだ、とっくみあいになるといけねえと思ってな。その拳銃はしまってくれよ、バーニイ。そしたらどうしておれがノークロスを撃たなきゃあならなかったか、その理由《わけ》を話してやるから。あのおいぼれのバカじじいはな、廊下までおれを追いかけてきやがって、おれの上衣の背中についているボタンめがけて撃ってきやがったのさ、癇《かん》にさわるような、ちっぽけなポイント二十二を使いやがってな、だからおれはそいつをやめさせなけりゃあならなかったてえわけさ。ばあさんのほうは、すてきな女だったぜ。ベッドにもぐったまま、一万二千ドルのダイヤのネックレスがもっていかれるのを泣き声ひとつあげねえで見ていやがったからな。そのくせ、大道《だいどう》の物乞いみてえにたのむのよ、三ドルばかりの値打ちしかねえザクロ石のはまった小さなうすっぺらな金の指環、それだけは返してくれってな。この女がノークロスじじいと結婚したのは、じじいの金が目あてだったんだろうさ、きっとな。だが、女なんてものは、『恋に破れた男』からのちょいとした思い出の品のほうに未練があるんじゃねえのかな? 指環が六つ、ブローチが二つ、それに帯かざりの鎖につける時計が一つ。全部ひっくるめりゃあ、一万五千ドルにゃあなるだろう」
「さっきも注意したが、べらべらしゃべってはいかん」
「いや、でえじょうぶだよ。盗品《ぶつ》はホテルのおれのスーツケースの中に入ってるんだ。それでな、どうしておれがこんなことをべらべらしゃべるか、その理由をきかしてやらあ。それはだ、心配ねえからさ。おれはいま、自分がよく知っている男に話しているんだ。そのおめえはおれに千ドルの借金があるんだよな、バーニイ・ウッズ、だからいくらおれを捕まえたくたって、おめえのその手のほうが言うことをきいちゃくれねえってわけだ」
「忘れてはいないよ。君はひとことも言わずに、五十ドル札を二十枚、出してくれたものな。いつか返すつもりでいるんだ。あの千ドルのおかげで、わたしや家族の……そうだ、奴らがわたしの家財道具を歩道に積み出しているところへ、ちょうどその金をもってわたしが帰っていったのだからな」
「だからよ」とカーナンはつづけた。「おめえが本当にバーニイ・ウッズで、生まれたときから鋼のように誠実で、紳士らしく正々堂々とやってくれるはずの男だったら、こうした義理のあるお方さまをふんじばろうだなんて、指一本あげるこたあできねえはずだ。そりゃあ、おれだってこんな稼業をしているからにゃあ、イエール錠や窓の錠前と同じように、人間さまも研究しなくっちゃあいけねえんだ。さあ、いいか、いまベルを鳴らして給仕を呼ぶから、そのあいだ静かにしているんだぞ。おれはここ一、二年やけに酒が飲みたくってな、それでちょいとばかりイライラしているんだ。こうしておれがとっ捕《つか》まえられちまったんなら、幸運な刑事さんもむかしなじみの飲み助と名誉をわかちあわにゃあなるめえ。だが、おれは取り引きの最中にゃあ酒は飲まねえぜ。話がつきゃあ、おれのほうも親友バーニイと澄みきった心で一杯のめるんだからな。おめえ、何にする?」
給仕は小さな酒びんとサイフォンとをもってくると、またすぐに立ち去っていった。
「君の予想どおりだ」とウッズは言いながら、その小さな金のエンピツを物思いにふける人指し指でころがしていた。「わたしは君を見逃さなければならない。わたしには君を捕まえることはできない。あの金さえ返しておいたら……だが、まだ返してはいない、だから目をつぶらなければならない。わたしも大変なへまをやったものだ、ジョニー、だがそれをごまかすわけにもいかない。なにしろ君は一度わたしを救ってくれた。そしていまその恩義が同じことを要求しているのだからな」
「そう言ってくれるだろうと思っていたよ」とカーナンは言って、グラスをもちあげ、自賛のほほえみに顔をほころばせた。
「おれには人間を見る目があるんだ。さあ、バーニイに乾杯だ、なぜって、……『奴はすてきにいい男』だもんな」
「わたしはね」とウッズは静かにつづけた。まるで口をききながら考えごとをしているといった調子である。「君とわたしのあいだでもう清算がついているのだったら、ニューヨークじゅうの銀行の金を全部もってきたって、今夜、君をこの手から手放しはしないのだが」
「ところがそれができねえんだよな。だからおめえとならおれも安全だってことを知ったのさ」
「たいていの人はね」と刑事はつづけた。「わたしの職業を白い目で見ている。この職業を芸術や知的職業の中には入れてくれないのだ。しかし、わたしはむかしからこの職業にはバカげた誇りのようなものをもっている。だからこそわたしは『お手あげ』になってしまうのだ。どうやらわたしはまず人間で、次に刑事なんだろう。わたしは君を逃がしてやらなくてはならない。そして、次に、警察をやめなければならないのだ。運送便の馭者《ぎょしゃ》ぐらいはつとまるだろう。君に返す千ドルはますます遅れることになるがね、ジョニー」
「いやあ、そんなこたあどうだっていいんだ」とカーナンは言った。主君のような態度である。「貸した金は帳消しにしたっていいと思っているくらいなんだが、それじゃあおめえのほうで承知しねえこたあ、おれにもわかっている。おめえがあれを借りてくれたってえのが、おれにとっちゃあ幸運の日ってえことなんだな。だがまあ、この話はこの辺にしておこうや。おれはあすの朝の汽車で西部へ行くつもりなんだ。向こうでなら、ノークロスの宝石を処分できる店を知っているからな。さあ、ぐっと飲《や》れよ、バーニイ。そして面倒なこたあ忘れちまうんだ。おれたちゃあ愉快にやろうじゃねえか、警察が頭をつきあわせてあの一件を調べているあいだな。おれは今夜はサハラ砂漠みてえにのどが乾いているんだ。だがおれは親友バーニイの手の中に……刑事《でか》なんかじゃあねえお方さまの手の中に……あるんだ。だからポリ公の夢を見ることさえねえだろうよ」
そしてカーナンのすばやい指がひっきりなしに呼び鈴をならし、給仕を何度も呼びよせていたが、そのうちにカーナンの弱点が、……つまり、とほうもない虚栄心と傲慢《ごうまん》な自尊心とのかたまりが、頭をもたげはじめてきた。彼は首尾よくいった自分の窃盗《せっとう》のことや、巧妙な手口や、度をこえた恥ずべき行為を次から次へとこと細かに話しはじめた。そのため、さすがのウッズも、悪党どもにはずいぶんと慣れていたはずのウッズも、この全くの邪悪な人間にたいしてひややかな嫌悪の情が心の中に湧いてくるのを感じた。かつては自分の恩人だったこの男に対してである。
「これでわたしは片をつけられてしまったわけだ、もちろんな」とウッズはやがて言った。「しかし君もしばらくのあいだは身をかくしていたほうがいいぞ。新聞がこのノークロス事件をとりあげるかもしれないからな。この夏はニューヨークでは強盗や殺人が大流行《エピデミック》だったんだ」
その言葉はたちまちカーナンを凄然《せいぜん》たる、報復的な怒りの白熱のなかに送りこんだ。
「新聞なんかクソでもくらいやがれってんだ」と彼はどなった。「奴らがすることといやあ何だ、バカでかい活字で、バカぼら、だぼらをふきやがって、買収金をせしめようってえことだけじゃねえか。かりに奴らが事件をとりあげたってだ……それでどうなるっていうんだ? 警察《さつ》なんかだますのはわけねえこったが、新聞にだって何ができるっていうんだ? まぬけな記者《ぶんや》どもをごっそり現場に送ってくる。するとそいつらはすぐ近くの酒場へ行って、ビールかなんか飲みながら、バーテンの総領《そうりょう》娘にイヴニング・ドレスをきさせて写真をとる。そしてそれをアパートの十階に住んでいる若い男のフィアンセにしたてて新聞にのせる。そして、この青年によれば殺人のあった夜、階下で物音がきこえたように思うと語っていたなんて記事をでっちあげる寸法だ。新聞が強盗さまの狩り出しをするといったって、せいぜいそんな程度のことさ」
「さあ、それはどうかな」とウッズは考えながら言った。「新聞によっては、その方面で立派な仕事をしているものもある。たとえば『モーニング・マーズ』紙なんかがそうだ。この新聞は、二つか三つの手がかりを最後まで嗅いでいって、警察があきらめてしまった後で、犯人をつきとめたことがあるんだからね」
「よし、それならばだ」とカーナンは立ちあがって、ぐっと胸を張りながら言った。「それならば見せてやろう、このおれがそこいらの新聞をどう思っているかってえことをな。そして特におめえのその『モーニング・マーズ』ってえやつをな」
二人のテーブルから一メートルばかり離れたところに電話ボックスがあった。カーナンはそこへ入ると電話の前に腰をおろした。ドアはあけたままである。彼は電話帳で番号を調べると、受話器をはずして交換手に用件を告げた。ウッズはじっとすわっていた。そして、送話器にかじりつくようにして待っている、そのせせら笑いをうかべた、冷ややかな、用心深い顔を見まもりながら耳をそばだてていると、やがて、人をばかにしたようなニヤ笑いにゆがんだカーナンのうすい残忍な唇から、こんな言葉がきこえてきた。
「『モーニング・マーズ』かい?……編集長に話してえことがあるんだがね……。いや、ノークロス事件のことで話がしてえ者《もん》だと伝えてくんな。
おめえさん、編集長かい?……よし……。おらあノークロスじじいを殺《や》った男なんだがね……まあ待ちねえ! 切るんじゃねえよ。おれは電話狂いたあ、わけがちがうんだ……いやあ、危なっかしいことなんかこれっぽっちもありゃあしねえさ。いまも友だちの刑事《でか》さんとそのことを話していたんだ。おれはな、あのじじいを午前二時三十分に殺《や》ったのさ、あしたでちょうど二週間になるぜ……。君と一杯やろうかだと? おい、そんな話はそれこそ電話狂いにまかしといたほうがいいんじゃねえのか? おめえさんはわかんねえのかな、これがおめえさんをからかっている電話なのか、それともおめさんとこの、そのくだらねえボロ新聞がこれまでにつかんだこともねえようなすてきな特ダネを頂戴できるってえ話の電話なのかってえことをよ?……うん、そうさ。尻きれとんぼの特ダネさ……だが、おれの名前と住所を言ってから電話しろったって、そりゃあお生憎《あいにく》だな……あたりめえさ! ああ、そりゃあ、おめえさんとこは警察《さつ》でも閉口するような迷宮入りの事件を解決するのが得意だって聞いたからさ……。いや、話はまだ終わっちゃあいねえ。まだ言ってやりてえことがあるんだ。そりゃあな、おめえさんみてえな腐ったウソつき三文《さんもん》新聞が頭のいい殺人犯や追いはぎをいくら追っかけたところで、何の役にも立ちゃあしねえってことさ、盲目の|わんちゃん《プードル》と同じでな……。何だって?……いや、そうじゃあねえよ、こっちは競争相手の新聞のデスクなんかじゃねえや。おめえさんは今、まともなネタをおきき遊ばしているんだぜ。ノークロスの仕事はこのおれがやったのよ、そして宝石はおれのスーツケースに入れて、ちゃんとあるホテル……『そのホテルの名は聞き出すことができなかった』……どうでえ、この文句は聞きおぼえがあるんじゃねえか? そうだろうよ。おめえさんたちがよく使う文句だもんな。ちょいとばかり泡をくったろう、こうしてナゾの男からそちらさまのような権利、正義、善政をモットーとする大そうご立派な、でっけえ、全能の機関が呼び出されてよう、てめえはなんていう能なしのホラふきじじいだなんて言われたんだからな?……おい、そんなこたあ、やめときな。おめえさんもそれほどの大バカじゃああるめえ……いや、おれをペテン師だなんて考えるなよ。そのくらいおめえさんの声でわかるさ……。いいか、よくきけよ、いまヒントを一つやるからな、そうすりゃあおめえさんも納得するだろうぜ。むろん、おめえさんもこの殺人事件についちゃあ、おめえさんとこのチャキチャキの若いチンピラ連中にでも調べさせてあるんだろうからな。それでだ、ノークロスばあさんのナイトガウンについている二つ目のボタンだがな、半分ほどぶっかけているはずだ。おれは、ばあさんの指からザクロ石の指環をぬきとるときそれに気がついたんだ。そいつはルビーだと思ったんだが……、おっと、そんなこたあやめときな! やったところでむだなこったぜ」
カーナンはウッズのほうを向いて悪魔のようなうす笑いを見せた。
「奴《やっこ》さんとうとう動きだしたぜ。やっとおれの言うことをまともにとりやがった。送話器の口を手でふさぎやがったが、完全にふたをしてねえもんだから、だれかに言いつけて別の電話て交換を呼んでこっちの番号をつきとめようとしているのがまるぎこえよ。もう一つだけからかって、それから『逃走《とんずら》』をきめこむとしよう。もしもし!……そうだ。おれはまだここにいるさ。まさかこのおれが逃げだすとでも思ってたんじゃねえだろうな、てめえんとこみてえな買収専門の裏切り新聞のけち野郎からな?……このおれを四十八時間以内に捕《つか》めえてみせるだと? おい、冗談もいいかげんにしてくれ。まあ、大人たちのことはそっとしておいて、せいぜい離婚事件か電車の事故でも追っかけたり、おめえさんとこの飯のたねになるようなワイ談やスキャンダルを活字にする仕事に精を出すこったな。じゃああばよ、じいさん……そっちまで行くひまがなくて残念だぜ。おめえさんとこの|愚者どもの聖所《サンクトゥム・アシノールム》にいりゃあ、おれもすっり安全な気分になれるんだろうによ。テン、テレツク、テンドンドン!」
「奴さんネズミをとりそこなったネコみてえに怒ってやがるぜ」とカーナンは言いながら受話器をかけて出てきた。「さて、バーニイ、どこかショーでも観《み》にいって、適当な寝る時刻までゆっくり楽しもうぜ。おれは四時間も寝りゃあいいんだ、その後は西部行きの汽車に乗るだけだからな」
二人はブロードウェイのあるレストランで食事をした。カーナンはひとり悦にいっていた。そして、小説の中の王子さまのように金を使った。それから奇妙で、しかも豪勢なミュージカル・コメディーが二人の注意をひきつけた。そのあと、あるグリルで夜食を食べ、シャンパンを飲んだ。カーナンは得意絶頂であった。
朝の三時半ごろには、二人はオールナイトの酒場の片隅にいた。カーナンは気のぬけた、とりとめもない口調で相変わらず自慢話をしていた。ウッズは物思いにしずみながら、終局を考えていた。その終局は、法の支持者としての己の有用性が問われるところまで来ていたからである。
しかし、思案にふけっているうちに、彼の目がある思惑《おもわく》の光にかがやきはじめた。
「はたして可能性があるだろうか」と、彼はひとりごとを言った。「本当に可、能、性がある、だろう、か!」
やがて酒場の外で、早朝の比較的静かな町なみが、かすかな、おぼつかぬ叫び声に乱されはじめた。その叫び声は音のホタルとでもいったように、あるときははっきりと聞こえ、あるときはかすかにしか聞こえなくなって、牛乳配達の馬車や、たまに通る電車の騒音の中で大きくなったり、小さくなったりしていた。それは、近づいたときにはかん高い叫び声であった……この大都会にまどろむ幾百万という市民の中で、目をさましてそれを聞く者たちの耳へは様々な意味を運んでくれる、いつもの聞きなれた声であった。その意味深い、小さな音量に、この世の嘆きや、笑いや、喜びや、圧迫などの重荷をのせて運んでくれる叫び声であった。それは、夜というつかの間の覆いの庇護《ひご》にかくれてちぢこまっている者たちに対しては、恐ろしい、目もくらむような昼のニュースをもたらし、幸福な夢に包まれている者たちに対しては、暗黒の夜よりももっと暗く明けゆく朝を予告するものであった。そしてまた、裕福な多くの者たちに対しては、星のかがやくあいだだけ彼らの持ち物となっていたものをことごとく掃き出してしまうような箒《ほうき》をもたらし、貧しい者たちに対しては、……またしても貧しい一日をもたらすものなのであった。
この都会《まち》のいたるところにその叫び声はおこりはじめた。するどく、力強い声で、時という機械の中の一つの歯車がすべって起こした様々な偶然を予告してまわり、まだ眠っている人々には、彼らが運命の手に身をゆだねて横たわっているあいだに、復讐や利益や悲哀や報酬や滅亡など、カレンダーの新しい数字が彼らにもたらしたものを割り当てていった。その叫び声はかん高く、しかも哀れをさそうものであった。まるでその幼い声が、自分たちには責任のない両の手に、悪ばかり多くて善など少しもない荷物を持たされているのを悲しんでいるかのようであった。こうして、自らをどうすることもできない都会の街路にこだまするものこそ、神々の最も新しい命令の伝達、すなわち新聞売りの少年たちの発する叫び声であった……新聞ラッパのひびきだったのである。
ウッズは十セント銀貨を爪の先で給仕のほうへはじくと、こう言った。
「『モーニング・マーズ』を買ってきてくれ」
新聞がくると、その第一面に目を走らせた。それから自分の手帳の紙を一枚ちぎって、そこへ例の小さな金のエンピツで書きはじめた。
「何か変わったことでもあるのか?」とカーナンがあくびをしながら言った。
ウッズは彼のほうへ、その書いたものを爪の先ではじいた。
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ニューヨーク「モーニング・マーズ」社御中
ジョン・カーナンを指定受取人として、賞金千ドルをお支払いください。右金額は同人の逮捕および有罪認定により、小生にあたえらるべきものであります。
バーナード・ウッズ
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「わたしは、新聞社がこの手を使うのではないかという気がしたのだ」とウッズは言った。「君がしきりに電話でからかっていたあのときにね。さあ、ジョニー、署《しょ》までわたしと一緒に来てくれ」
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賢者たちの贈りもの
一ドル八十七セント。これで全部だった。しかもそのうちの六十セントは一セント玉ばかり。この一セント玉だって一個ずつ、二個ずつと、その都度《つど》ためてきたものなのだ。乾物屋や八百屋や肉屋の抵抗をよそに、無理やりまけさせ、あげくの果ては、こんな細かい買いかたをするなんて全くあきれかえったケチン坊だ、と黙りこくってしまう相手の無言の非難に、顔から火の出るような思いをしてまでためてきたお金なのだ。三べんもデラはそれを数えなおした。一ドルと八十七セント。しかも明日はクリスマスなのだ。
もう手のつくしようのないことははっきりとしていた。後はただ、ぼろぼろの小さな寝椅子に、どっと身を投げだして泣きわめくばかりだった。だからデラは、そうした。こうした行為は、教訓的な考えをとりもどさせてくれるものだ。人生は|むせび泣き《ソブズ》と|すすり泣き《スニフルズ》と、|ほほえみ《スマイルズ》との三つの「S」からできているのだよ、その中ですすり泣きがいちばん多いのだよと。
この家の女主人が次第にこの第一段階から第二段階へと落ちついてゆくあいだに、まずこの家なるものを見ていただこう。
家具つきの部屋がたった一つ、部屋代は週八ドルというしろものである。筆舌につくし難《がた》いといったほどひどいものではなかったけれども、とにかく浮浪者狩りのパトロール隊につかまったとき、わたしには家があるのです、と言いのがれができる程度のものであった。
階下の玄関口には、手紙だって入りたがらないような郵便受けと、人間の指ではどんな術をつかっても絶対に鳴らすことのできないベルのおしボタンとがあった。また、それに付属してカードが一枚はってあり、それには「ミスター・ジェイムズ・ディリンガム・ヤング」という名が書いてあった。
この「ディリンガム」がそよ風にのって、はたはたとひらめくような景気のよい時代が以前にはあって、そのころはこのカードの主《あるじ》も週三十ドルの給料をとっていた。ところが、その収入が二十ドルに減った現在は、「ディリンガム」の文字もかすんで見えた。まるでその文字さえ、自分たちがつつましやかな目立たぬ存在となって頭文字のDだけに切りつめなければいけないのではないか、と真剣に考えているかのようであった。しかし、当のジェイムズ・ディリンガム・ヤング氏が勤め先から帰ってきて、階上のわが家にたどりつくときには、必ず「ジム」と声をかけてぎゅっと抱きしめてくれるものがいる。これぞまさしくいつも変わらぬジェイムズ・ディリンガム・ヤング夫人で、みなさんにはすでにおなじみのデラという女性であった。これだけはまことに結構な家である。
デラは泣きやむと、頬にパフをあてた。それから窓辺に立ってぼんやりと外をながめた。灰色のネコが一ぴき、灰色の裏庭の、灰色の壁の上を歩いていった。明日はクリスマス、それなのに手元には一ドル八十七セントしかない、これでジムにプレゼントを買ってあげなければならないのだ。何か月ものあいだ、できる限りの節約をして小銭をためてきたけれど、やはりこれっぽっちしかたまらない。週二十ドルの給料はまったく使いでがない。出費は初めの予想をはるかに上回ってしまった。出費などというものはいつもこうなんだわ。たった一ドル八十七セント、これでプレゼントをジムに買ってあげなければならない。わたしの大切なジムのために。もう何度となく、心に楽しいときを費やしながら、あの人のために何かすばらしいものをと考えてきた。何かすてきなものはないかしら、何かめずらしいもの、正真正銘のもの……ジムに持っていてもらえるというその名誉に少しでも値するようなものはないかしら。
部屋の窓と窓とのあいだに、壁掛けの姿見があった。八ドルの部屋などでよく見かけるあの鏡である。これだって、ごくやせぎすの、そしてごく敏捷《びんしょう》な人ならば、自分の姿をまず右半分、次に左半分という具合にすばやく映してゆきさえすれば、自分の姿についてかなり正確な概念を得ることができる。デラはほっそりとした体つきだったので、いつの間にかこのこつを会得《えとく》していた。
とつぜん、彼女は窓辺をはなれるとその鏡の前に立った。目は明るくかがやきはじめた。しかし顔は二十秒とたたぬうちに色を失ってしまった。彼女は手早く髪をおろすと、それを長さいっぱいに垂らしてみた。
さて、このジェイムズ・ディリンガム・ヤング夫妻には財産が二つあった。二人ともことのほか自慢にしているものである。一つはジムの金時計で、むかしは彼の父親のものであり、更にむかしは祖父のものであったという時計である。もう一つは、デラの髪であった。もしかりにシバの女王が路地《エアシャフト》の向かい側の部屋に住んでいたとすれば、デラがいつか自分の洗い髪を窓から垂らして乾かそうとしただけで、この女王の宝石や贈りものはその価値をさげてしまったであろうほど、デラの髪は美しかった。また、もしかりにソロモン王がこのアパートの管理人で、地下室に宝物を山ほど積んでいたとしても、ジムがそばを通るたびにその時計をとり出して見ただけで、ソロモン王は羨望《せんぼう》のあまり自分のあごひげを引きむしったであろうほど、ジムの時計はすばらしいものだったのである。
だから今、このデラの美しい髪は、彼女のまわりにさざ波をたて光りかがやきながら垂れさがっていた。その様は、まるでトビ色の水の滝にも似ていた。髪はひざの下まで達して、ちょうど衣のように見えた。やがて彼女は、ふたたびそれをいらだたしそうな手つきで、すばやく結《ゆ》いあげた。一度、ちょっとのあいだ、ためらい、そのままじっと立っていた。その間に、涙がひとつぶ、ふたつぶ、すり切れた赤いカーペットの上に落ちた。
彼女は古いトビ色の上衣《ジャケット》を着た。古いトビ色の帽子をかぶった。スカートをひらめかせ、きらりと光る涙をまだ両の目にためながら勢いよくドアをあけると、そのまま階段をおりて街路《とおり》へ出た。
彼女が足をとめたところには、こんな看板がかかっていた。
「マダム・ソフロニー。髪結い用具一式」
二階への階段をデラはかけのぼった。そして息を切らせながらも気を落ちつかせた。マダムは太柄な女で、やけに色が白く、よそよそしい感じで、とても「ソフロニー」などというやさしい感じの女には見えなかった。
「あたしの髪を買っていただけるかしら?」とデラはたずねた。
「髪なら買いますよ」とマダムは言った。「帽子をとって、ちょっとその髪を見せてごらんなさい」
トビ色の滝がさざ波をたてて流れおちた。
「二十ドルってえとこね」とマダムは、なれた手つきでその髪を持ちあげながら言った。
「その二十ドルを早くください」とデラは言った。
おお、それからあとの二時間。それはバラ色の翼にのって軽やかに過ぎていった。いや、こんな焼き直しの比喩《ひゆ》なぞどうでもよい。彼女は、店から店をあさり歩いて、ジムのプレゼントを探した。
そして、ついに見つけた。これこそまさしくジムのために作られたものだ、ほかのだれのものでもない。どの店にもこれに及ぶものはなかった。しかも店という店を丹念に探しまわってきた後なのだ。それはプラチナの時計鎖であった。デザインも地味で、上品で、そのものの真価を品質だけで充分に表わしていて、けばけばしい装飾なぞにはよっていない……つまり、良い品がすべてそうであるような、そんな鎖だった。それは『あの時計』につけても決して恥ずかしくない品であった。ひと目みた瞬間、これこそジムのものでなければならないと思った。鎖は彼に似ていた。静かで、本当に値打ちのある……この言葉は、ジムにも鎖にもあてはまった。二十一ドルを店の者は彼女から受けとると、鎖をわたしてくれた。彼女は残り八十七セントをもって家に急いだ。この鎖を時計につければ、ジムはどんな人中でも堂々と時間を気にすることができるだろう。時計は立派なものだったが、彼はそれをこっそりと見るようなことが時々あった。古ぼけた革ひもを鎖のかわりに使っていたからである。
家に帰りつくと、陶酔《とうすい》気分もいくらかさめて、分別と理性とがよみがえってきた。彼女はカール用の髪鏝《こて》をとり出し、ガスに火をつけると、愛情に気前のよさが加わって生じたこの荒廃の跡の修理にとりかかった。
こういうときはいつも大仕事となるものですね、みなさん。……とほうもない大仕事に。
四十分とはたたぬうちに彼女の頭は、小さな、短くならんだ巻き毛でおおわれた。おかげで彼女の様子は、学校をずる休みするあのいたずら坊主そっくりになった。彼女は、鏡に映るその姿を、長いこと、注意深く、綿密にながめた。
「ジムは、わたしを殺すようなことはしないまでも」と彼女は自分自身に言いきかせた。「ひと目みただけで、もういちど見直すよりも先に、なんだコニー・アイランド〔ニューヨークの大衆むき海水浴場。歓楽地〕のコーラス・ガールみたいじゃないかって言うだろう。でもわたしに何ができただろう……そう! 一ドル八十七セントで何ができただろう?」
七時に、コーヒーがわき、フライパンもストーヴの上で温まっていつでも肉《チョップ》が焼けるようになった。ジムは時間に遅れたことがなかった。デラは時計の鎖を二つに折って手ににぎりしめると、ジムがいつも入ってくるドアの近くのテーブルのはしに腰をおろした。
やがて彼の足音が階段にきこえた。はるか下の最初の階段である。彼女の顔は一瞬、蒼白《そうはく》になった。彼女には、ごくつまらない日常のことでも短い無言のお祈りを唱えるくせがあった。だからこのときは、声にまで出して祈った。
「どうぞ神さま、こんなわたしでもまだきれいだと、あの人に思わせてくださいまし」
ドアがあいて、ジムが入ってきて、そしてドアをしめた。彼の顔はやつれて、とても深刻な様子だった。かわいそうに、年もまだほんの二十二……それでいてもう家庭の重荷を負わされているなんて! 新しいオーヴァーも必要なのに、手袋さえはめていない。
ジムはドアを背にすると、そのまま、ウズラの臭いをかぎあてた猟犬《セッター》のように動かなった。目はじっとデラの上にすえられた。その目には、彼女には読みとることのできない表情があった。そして、その表情が彼女を怖れさせた。それは、怒りではなかった。かといって驚きでもなく、非難でもなく、恐怖でもなく、そのほか、彼女が前から覚悟していたどんな感情でもなかった。彼はただじっと彼女を、この奇妙な表情を顔にうかべながら、見つめていた。
デラは体をひねってテーブルから立ちあがると、彼の方へと歩みよった。
「ねえ、ジム」と彼女はさけんだ。「そんなふうにわたしを見ないでちょうだい。あたし、髪を切って売ったの。クリスマスを、あなたにプレゼントもしないで過ごすなんて、とてもできないことですもの。髪はまたのびるわ……気になさらないわね、あなた? ほかに仕様がなかったんですもの。あたしの髪は、とても早くのびるのよ。ねえ、『メリー・クリスマス』って言ってちょうだい、ジム、そして楽しい気分になりましょう。ご存じないでしょうけど、とてもすてきな……とても美しくてすてきな贈り物をあなたのために買ってきたのよ」
「髪を、切ってしまったのかい?」
ジムはやっとの思いでそうたずねた。まるで、どんなにいっしょうけんめい頭を回転させても、まだこの明白な事実に到達できないでいるとでもいった様子である。
「切って、そして売ったの。とにかく、こんなわたしでも、前と同じように好きだって言ってくださるわね? 髪はなくても、あたしはあたしですものね」
ジムは部屋の中を丹念に見まわした。
「髪はなくなっちまったって言うんだね」と彼はまるで頭の中がからっぽになってしまったような様子である。
「探したってむだよ。売ってしまったんですもの……売って、もうなくなってしまったのよ。今日はクリスマス・イブよ、あなた。やさしくしてちょうだい、髪はあなたのためになくなったんですもの。たぶん、あたしの髪の毛も数えられたことでしょう」と彼女はつづけた。その声には急に真剣なやさしさがこめられていた。「でも、あなたに対するわたしの愛情だけは、だれにも数えることはできないわ。肉を焼きましょうか、ジム?」
夢現《ゆめうつつ》の状態からジムは急に目がさめた様子だった。彼は愛するデラを抱きしめた。そこでわれわれは、十秒ほど視線をそらせて、この反対側にある何かつまらないものにでも目を向けていることにしよう。
一週に八ドルと一年に百万ドル……その差はどのくらいだろうか? 数学者や知識人などにきいたりすると、まちがった答えを教えてくれる。かの賢者たちは高価な贈り物をもってきはしたが、その中にだってこの答えは入っていなかった。暗闇のようなこの言葉の意味は、やがて光を受けてはっきりとするだろう。
ジムはオーヴァーのポケットから包みを引っぱり出すと、それをぽいとテーブルの上においた。
「誤解しないでおくれ、デラ」と彼は言った。「ぼくのことをね。髪など切ったって、削《そ》いだって、シャンプーをしたって、どうということはないよ。そんなことで大切なきみが少しでも気に入らなくなるなんていうことは、絶対にないんだからね。その包みをあけてみたら、ぼくがなぜさっき、しばらくのあいだ、ぼんやりしていたかその理由がわかるよ」
白い、すばやい指がひもや紙を引きむしった。それから恍惚《こうこつ》たる喜びのさけび声。そして次の瞬間には、ああ! 女性特有のあの急変のしかたから生じるヒステリカルな涙と慟哭《どうこく》。おかげでこの部屋の主人《あるじ》は、さっそく、あらゆる力をつくして慰めの手段を講じなければならなくなった。
包みの中は、櫛《くし》だったのである……横にさす櫛、後ろにさす櫛、そのセットだった。デラがブロードウェイのウインドウをのぞきこんでは、以前からあこがれていたものである。美しい櫛、ほんものの鼈甲《べっこう》で、ふちには宝石まで埋め込んである。……今はなくなってしまったが、あの美しい髪にさすのにぴったりの色合いだった。これが高価な櫛であることは彼女も知っていた。だから彼女の心はただ単に渇望《かつぼう》しあこがれるばかりで、それを手に入れるなどという望みは少しも持っていなかった。それが今、自分のものとなったのである。
しかしこのほしがっていた飾り物、それを飾るべき髪はなくなっていた。しかし彼女はその櫛をしっかりと胸に抱きしめた。そしてようやく、うるんだ目とほほえみとの顔をあげて、口をきくことができた。
「わたしの髪はとても早くのびるわ、ジム!」
やがてデラは、毛をこがしてしまった小ネコのようにあわてて跳びあがると、さけんだ、「あっ、そうだわ!」
ジムはまだ自分がもらう美しいプレゼントを見てはいなかった。彼女はそれを手のひらにのせ、意気ごんで差し出した。にぶい貴金属の光が、ぱっと閃光《せんこう》を放って、彼女のかがやく燃えるような心を反映するかのように思われた。
「すてきな品でしょう、ジム? 街じゅう探しまわって見つけたのよ。もうこれからは一日に百ぺんも時間を見なくてはいられなくなるわ。さあ、時計をかしてごらんなさい。どんな具合にうつるか見てみたいの」
ジムはその言葉には従わずに、寝椅子に身を投げ出すと、両手を頭のうしろに組みながらほほえんだ。
「デラ」と彼は言った。「ぼくたちのクリスマス・プレゼントは、このまま片づけて、しばらくのあいだしまっておくことにしよう。あんまりすてきなんで、今すぐ使うわけにはいかないからね。ぼくは、時計を売って、そのお金できみの櫛《くし》を買ったんだ。さて、肉を焼いてもらおうかね」
あの賢者たちは、みなさんもご存じのように、賢明な人たちだった……すばらしく賢明な人たちだった……かいば桶の中の嬰児《みどりご》に贈り物をもってきたというあの人たちは。この人たちこそ、クリスマスにプレゼントを贈ることなど考えだした人なのだ。賢明な人たちだったから、彼らの贈り物ももちろん賢明な品で、おそらく、同じものがかちあった場合にはお取り替えいたしますというあの特典つきのものだったかもしれない。それでわたしはみなさんに、たどたどしい筆の運びではあったが、あるアパートの一室に住む二人の愚《おろ》かな幼児《おさなご》たちの、これといった波瀾《はらん》もない物語をお話しした次第なのだ。自分たちの家でいちばん大切な宝物を、いちばん賢明でない方法で、おたがいのために犠牲にしてしまったこの幼児たちのことを。
しかし、今日の賢明な方々に捧げる最後の言葉としてひと言、あらゆる人の中で、これだけはぜひ述べさせていただきたい。すなわち、贈り物をするあらゆる人の中で、この二人こそ最も賢明な人たちだった、と。贈り物をしたり、贈り物を受けたりするあらゆる人の中で、この二人と同じような人たちこそ、最も賢明な人たちなのだ。たとえどこにいようとも、その人たちは最も賢明な人たちだ。その人たちこそ、ほんとうの賢者なのだ。[#改ページ]
れんが粉の長屋
ブリンカーは、不機嫌だった。彼ほどの教養と落ち着きと財産とをもっていない人間だったら、とっくの昔にののしりわめいていたことであろう。しかしブリンカーはいつでも、自分が紳士であることを心にとめていた。……そんなことは、本当の紳士のなすべきことではなかったのであるが。
そこで彼はただ、うんざりしたような顔にせせら笑いを浮かべていた。馬車にのって面倒な用事の中心地へ向かっているときのことである。その中心地とは、ブロードウェイにある弁護士オールドポートの法律事務所のことで、オールドポートはブリンカー家の財産を管理している男であった。
「どうもわかりませんね」とブリンカーは言った。「どうしていつもぼくがこんな面倒くさい書類にサインしなければならないのでしょう。もう荷作りもすませて、今朝はノース・ウッズへ出かけていたはずなんですよ。これじゃあ、あすの朝まで待たなければなりません。夜汽車はきらいなんです。愛用の剃刀《かみそり》は、むろん、底のほうですよ、どれだか見分けもつかないトランクの中のね。これじゃあ、どうしても髪香油《ベーラム》と、ひとりでぺらぺらしゃべりまくるぶきっちょな床屋の所へ行かなきゃならない筋書きです。紙にひっかからないペンをください。がりがりいうペンはきらいです」
「まあ、おかけください」と二重あごの、白髪の弁護士オールドポートが言った。「いちばんいやな件はまだ申しあげていないのですからな。ああ、金持ちというものもつらいもんですな! その書類はまだサインを頂くところまでできあがっておりません。あすの十一時にはお目にかけられるでしょう。ですから一日、出発を延ばしていただかなければなりませんな。その床屋はブリンカーなる人物の気の毒な鼻を二度もつまむことになるのです。感謝すべきは、あなたのその悲しみの中に、散髪までは入らぬことですな」
「もし」、とブリンカーは立ちあがりながら言った。「こんなことをしてもこれからさき書類にサインをしなくてすむもんでしたら、ぼくの仕事はすぐにでもあなたの手から取りあげたいところですよ。すみませんが、葉巻を一本ください」
「もし」、と弁護士オールドポートが言った。「このわしが、旧友の息子が鮫《さめ》どもにガブリと呑みこまれるのを見たがるようなそんな男だったら、とうの昔に、こんな仕事は持っていってくれとあなたに言っていたでしょうな。さあ、冗談はこれくらいにしておきましょう、アレグザンダー。ところで、あす、あなたの名前を三十回ほどサインする退屈な仕事のほかに、ある事務的な問題について考えていただくという仕事をどうしてもあなたに負わせねばならんのです。……これは事務的な問題でもあり、また人道上の、あるいは人権上の問題ともいえるものなんです。この問題はすでに五年前に申しあげておきましたが、そのときあなたは耳をかそうともされなかった。……たしか、あれは馬車旅行とかで急いでおられたときでしたな。そのときの問題がまたもちあがってきたのです。その財産というのは……」
「ああ、また財産ですか!」とブリンカーは相手の話をさえぎった。「ねえオールドポートさん、あなたはさっき、あすと言ったはずですよ。あす一度にみんなまとめて片づけましょうよ、……サインも、財産も、威勢よく音をたてるゴム輪も、いやな臭いのする封蝋《ふうろう》も、なにもかもです。昼食をいっしょになさいませんか? そうですか、それじゃあ、あすは忘れずに十一時に立ちよることにしましょう。さようなら」
ブリンカー家の財産は、土地と家屋、それに法律用語でいう世襲財産とからなっていた。弁護士オールドポートは以前、小さな、肺のあるガソリン式巡回車にアレグザンダーを乗せて、彼が街に所有している多くの建物や長屋を見せにいったことがある。というのも、アレグザンダーがただ一人の法定相続人だったからである。それらを見てブリンカーは非常に心を楽しませた。しかしそれらの家屋が、弁護士オールドポートが銀行に預金して使えるようにしてくれているあの莫大な額の金を産みだせるもののようにはとても見えなかった。
その日の夕方、ブリンカーは食事をするつもりで彼の所属するクラブの一つへ行った。誰もおらず、ただ数人のじいさん連がトランプをやっているだけで、その連中でさえ、しかつめらしい丁寧な口のききかたで彼に言葉をかけてきはしたものの、ぶしつけな蔑《さげす》むような目でじろじろとこちらを眺めていた。誰もが市《まち》を出て避暑に行っているのだ。ところが彼だけは市に居残りをさせられて、まるで小学校のできない坊主みたいに、自分の名前を何度も何度も紙の上に書かなければならないのだ。彼の痛手は深かった。
ブリンカーはじいさん連に背を向けると、クラブの給仕長にむかって言った。よく冷えた新鮮な筋子《すじこ》のことで何やら愚にもつかぬことを言いながら近づいてきたからである。
「サイモンズ、ぼくはコニー・アイランドに行くよ」
それは、まるで人がこんなふうに言っているような調子だった。
「万事休すだ。おれは川へ飛び込むんだよ」
その冗談はサイモンズを喜ばした。彼は、従業員規則が許す量の十六分の一以下の小さな声で笑った。
「なるほど」と彼は忍び笑いをしながら言った。「もちろん、あなたさまはコニーででもお目にかかれるようなお人柄と存じます、ブリンカーさま」
ブリンカーは新聞をとると、日曜《その》日の汽船の発着時間を調べた。それから最初の街角で辻馬車を見つけると、ノース・リヴァーの桟橋《さんばし》へ走らせた。それから、読者のみなさんや私のように庶民的に、列に並び、切符を買い、足を踏みつけられたり、後ろから押されたりしているうちに、いつしか船の上甲板に出て、そこで折りたたみ椅子にひとり腰かけている娘をじろじろと見つめる次第となった。しかしブリンカーは初めからじろじろ見るつもりはなかった。ただその娘があまりにも美しい器量をしていたので、彼はしばらくのあいだ、自分が微行《おしのび》の王子であることを忘れてしまい、社交界でしているとおりにふるまっただけなのである。
彼女のほうでも彼を見ていた。しかし厳しいまなざしではなかった。さっと吹いてきた風が、ブリンカーのむぎわら帽を飛ばしそうになった。彼は慎重な手つきでそれをつかむと、ふたたび頭の上におちつかせた。その動作が、ちょうどお辞儀をしたように見えた。娘はうなずいて、ほほえんだ。そして次の瞬間には、彼は娘のかたわらに腰をおろしていた。彼女は純白の服をきて、青白い顔をしていた。それはブリンカーが乳しぼりの女や身分の低い娘たちに想像していた以上に青白い顔であった。しかし彼女は桜の花のように小ざっぱりとしていて、その落ち着いたこの上なく無邪気な灰色の目は、かげのない、悩みを知らぬ魂の、びくともせぬ深みの中からじっとのぞいていた。
「お帽子などとって、わたくしによく挨拶できますことね?」と彼女は尋ねた。その言葉には、ほほえみで和らげられた厳しさがあった。
「いや、ぼくは」とブリンカーは言った。しかしすぐに彼女の思い違いをそのままにして、こうつけ加えた。「いや、ぼくは、あなたの姿を拝見したら挨拶しないではいられなくなったのです」
「わたくし、男の方をそばに座らせるわけにはまいりませんの、正式に紹介されてもいないようなお方など」と彼女は言った。その突然の高慢な態度に、彼はついだまされてしまった。しぶしぶ立ちあがると、彼女の明るい、からかうような笑い声がふたたび彼を椅子に落ち着かせた。
「うまくいかなかったようですわね」と彼女は言った。その口調には美人の堂々たる自信がこもっていた。
「あなたはコニー・アイランドへいらっしゃるのですか?」とブリンカーは尋ねた。
「わたくし?」〔コニー行きの汽船の中で、コニーに行くのかときかれたので彼女はびっくりする。そこで相手をからかうわけ〕
彼女は目をまるくして彼のほうへ顔を向けた。その目にはいたずらっぽい驚きの色があふれていた。
「まあ、何というご質問でしょう! わたくしがいま自転車に乗って公園の中を乗りまわしているのがおわかりになりませんの?」
彼女の冗談は無遠慮の形をとった。
「そして、ぼくのほうは工場の高い煙突の上にまたれんがを積み重ねているというわけですね」とブリンカーは言った。「ぼくたちいっしょにコニーを見物できませんか? ぼくは一人きりですし、コニーへはまだ行ったことがないんです」
「それはね」と娘は言った、「あなたのお行儀しだいですわ。お申し出は、向こうへつくまでに考えておきましょう」
ブリンカーは自分の申し出が断られないようにいろいろと気を配った。相手の気に入られるようにと努めもした。彼の愚にもつかぬ言葉の比喩を借りて言えば、彼は礼儀という高い煙突の上に更にまた礼儀というれんがを一枚一枚積み重ねてゆき、ついにその煙突をしっかりとした完全なものに仕上げたのである。上流社会の礼儀作法も、せんじつめれば結局は素朴ということになる。そしてこの娘の態度は、生まれながらにして素朴であったから、二人は最初から同じ水準で交際することができた。
彼は、彼女の年が二十歳《はたち》で、名がフロレンスだということを知った。またある婦人帽子店で帽子の飾りつけの仕事をしていること、アパートの一室に、大の仲良しのエラといっしょに住んでいて、そのエラという娘《こ》は靴店のレジをやっているということ、窓の敷居の上に配達されるその牛乳びんから注いだ一杯のミルクと、髪をととのえているあいだにゆだる卵が一個あればそれで朝食は充分だということ、などを知った。
フロレンスは、「ブリンカー」という名をきくと声をたてて笑った。
「まあ」と彼女は言った。「それであなたが相当な想像力をおもちだということがよくわかりますわ。とにかくそのおかげで、『スミス』のほうは少し休めますわね」
二人はコニーに上陸した。そして浮かれさわぐ行楽客たちの大きな人の波頭《なみがしら》に乗って、今やヴォードヴィルと化したこのおとぎの国の小道や大通りを突き進んでいった。
好奇の目と、批判的な心と、かなり控え目な判断とをもってブリンカーは、この大衆化された楽しみの殿堂や塔やあずま屋を眺めた。民衆《ホイポロイ》は彼を踏みつけたり、押しつけたり、殺到してきたりした。バスケット連中《パーティー》がぶつかってきた。べとべとした手の子供たちが、足もとで転んで泣きわめきながら、彼の服にキャンデーの汁をこすりつけてきた。横柄《おうへい》な様子の若者たちが屋台店のあいだをねり歩いていたが、片方の腕にはやっと手に入れたステッキをかかえ、もう一方の腕にはたやすく手に入れた女をかかえてやってくると、安ものの葉巻から挑戦的な煙を彼の顔に吹きかけた。
メガフォンをもった宣伝係たちは、それぞれ自分たちの途方もない呼び物の前に立って、ナイアガラの滝のように、彼の耳へがなりたてた。真鍮《しんちゅう》、舌《リード》、皮、絃からしぼり出すことのできるあらゆる種類の音楽が、たがいに空中で闘いながら、己《おのれ》の振動の場を勝ちとろうと、はげしく競いあっていた。
しかしブリンカーの心を恐ろしい魔力でとらえたものは、群衆であり、大衆であり、プロレタリアであった。かん高い叫び声をあげ、もみあい、先を急ぎ、息を切らせながら、臆《おく》すことも知らぬ自由奔放さのために抑え切れぬほどにまで熱狂し、見かけ倒しの金ぴかの歓楽を納《い》れた愚にもつかぬニセの殿堂へとなだれ込んでゆくその姿であった。その卑俗さ、彼が属している上流階級《カースト》の信奉する抑制や趣味の教義をすべて蹂躙《じゅうりん》しようとするその野蛮な行動、こうしたものが彼に激しい不快感を与えた。
不愉快な気持ちのさなかに、彼は顔を向けなおして、かたわらにいるフロレンスを見た。彼女はすばやく微笑をつくり、幸福そうな目をあげて彼を見返した。その目は鱒《ます》の泳ぐ池の水のように明るく澄んでいた。そしてその両の目は、自分たちは光り輝き幸福でいる権利があるのだ、と語っていた。なぜなら、その目の所有者は、彼女だけの《さしあたりの》男性、男友だち、魔法の歓楽郷へ入る鍵の持ち主、といっしょにいたからである。ブリンカーは、そうした彼女の表情を正確には読みとることができなかったが、何か不思議な力で、突然、コニーを正しく理解することができた。
彼の目にはもはや、野卑《やひ》な歓楽を追い求める俗物たちの群れは映らなかった。今は十万にものぼる真の理想家たちの姿をはっきりと見つめていた。彼らの無礼はすっかりぬぐい去られていた。こうした金箔《きんぱく》で飾られた殿堂のけばけばしい歓楽は、なるほどニセものであり、まやかしものには違いないが、そうした金箔の表面の奥底で、それらの歓楽は休息も与えられぬ人間の心につつましやかではあるが、適切な慰安と満足とを提供しているのだ、ということを彼は知った。ここには、少なくとも、ロマンスの外皮《さや》があった。空虚ではあるが、いまなお光り輝く騎士たちの兜《かぶと》、安全を保障されてはいても思わず息をのむ「冒険」の飛び込みや飛行、たとえわずか数メートルの旅程ではあっても、われわれをおとぎの国へ連れていってくれる魔法のじゅうたん、があった。彼は、もはや賎《いや》しむべき大衆ではなくて理想を追い求めている同胞の姿を見た。ここには詩の魔力や芸術の魔力こそなかったが、彼らのもつ想像力という魔力が、黄色の綿布《キャラコ》を黄金の錦《にしき》に変え、メガフォンを喜びの使者の銀《しろがね》のトランペットに変えていたのだ。
ブリンカーは、高慢の鼻をへし折られたような気持ちで、心のシャツの袖をまくりあげると、その理想家たちの中に飛び込んでいった。
「あなたは先生だ」と彼はフロレンスに言った。「ぼくたち、どこから始めたらいいんでしょうね、この陽気な、おとぎ話の集団株式会社を見物してまわるには?」
「あそこから始めましょう」とお姫さまは言いながら、海のはずれにある楽しみの塔を指さした。「そして全部見物しましょう、一つずつね」
二人は八時に出発する帰りの船に乗りこむと、快い疲れを全身に感じながら舳先《へさき》の手すりにもたれて腰をおろした。そしてイタリア人の奏でるヴァイオリンとハープの調べに耳をかたむけた。ブリンカーはあらゆる心のわだかまりを捨てていた。ノース・ウッズはもはや彼にとっては人間の住み得ない荒野のように思われた。サインのことで何とつまらぬ大騒ぎをしていたことだろう……ばかばかしい! こうなったら百ぺんでもサインしてやるぞ。しかも彼女の名は、彼女自身と同じように美しい……「フロレンス」。彼はその名をくりかえしくりかえし心の中でつぶやいた。
船がノース・リヴァーの桟橋に近づいたとき、二本の煙突をもち、にぶい灰色の、外国船らしい遠洋航路の汽船が湾《ベイ》のほうへと流れに乗って静かに河をくだってきた。船は舳先を船着き場のほうへ向けた。汽船は中流を求めるかのように向きを変え、そして船体をぐらつかせながらも、スピードをあげようとする様子であったが、そのままコニー船の横っ腹の船足に近い部分にぶつかってしまい、恐ろしい衝撃と音響とをもって喰い込んできた。
六百人にものぼる乗客が、転がるようにしてデッキに押し寄せ、悲鳴をあげながらあわてふためいているあいだ、船長は相手の汽船に向かって大声をはりあげ、汽船は後退させてはいかん、そんなことをすれば裂け目がむき出しになって、そこから水が流れ込んでくるからな、とどなった。しかし汽船のほうは、|獰猛《どうもう》な鋸鮫《のこぎりざめ》のように、しゃにむに船体をひきはなすと、無情にもそのまま波をけたてて全速力で行ってしまった。
船は船尾から沈みはじめたが、それでも少しずつ船着き場のほうへ動いていった。乗客は狂乱の暴徒と化し、見るもいまわしいものとなった。
ブリンカーはフロレンスをしっかりと抱きしめていたが、そのうちに船もふたたび水平をとりもどした。彼女は恐怖の声もあげず、またそんな気配さえも見せなかった。彼は折りたたみ椅子にのって、頭上の薄板をはがし、たくさんの救命具を引きおろした。それからその一つをフロレンスの体にまいて、バックルでとめはじめた。しかし腐っていたズックが破れて、中から模造の粒状のコルクがざっとばかりに流れ出してきた。フロレンスはそれを片手にすくいとると、陽気に声をたてて笑った。
「まるで朝食に食べるコーンフレイクみたいだわ」と彼女は言った。「ぬがしてくださらない。こんなもの何の役にも立ちませんもの」
彼女は自分で救命具をはずすと、それをデッキの上に放り出した。それからブリンカーをむりに座らせ、自分もそのかたわらに座って、片手を彼の手の中に置いた。「大丈夫よ、わたしたち船着き場には無事に着けますから」
彼女はそう言うと、鼻歌をうたいはじめた。
その頃、船長のほうは乗客のあいだをまわっては、みんなを落ち着かせていた。船はまちがいなく船着き場につくはずだから、と彼は言った。そして、女と子供とを舳先のほうへ移動させるように、そうすればまっさきに上陸できるから、と命令していた。船は艫《とも》を水に沈めたまま、健気《けなげ》にも船長の約束を果たそうとがんばっていた。
「フロレンス」とブリンカーは言った。彼女が彼の腕と手をきつくにぎりしめたときである。「ぼくは、あなたを愛している」
「それは誰もが言う台詞《せりふ》ですわ」と彼女は、こともなげに答えた。
「ぼくはその『誰もが』の一人ではない」と彼はなおも言った。「ぼくは、愛を捧げることのできる人にこれまで会ったことがなかったのです。あなたとならば生涯をともに送ることができます。しかも毎日を幸福に生きてゆくことができます。ぼくには財産があります。どんなことでも、あなたの望みどおりにすることができるのです」
「それは誰もが言う台詞ですわ」と娘はふたたび言った。その言葉を、短い無邪気な歌でも唄うように節をつけて言うのである。
「二度とそれを言わないでください」とブリンカーは語気を強めて言った。彼女は見るからに驚いた様子で彼の顔をのぞいた。
「なぜ言ってはいけないの?」と彼女は静かに言った。「誰もが言うことよ」
「その『誰もが』って、誰なんです?」と彼は尋ねた。生まれて初めての嫉妬である。
「あら、あたしの知っている人たちよ」
「そんなにたくさん知っているんですか?」
「ええ、そりゃあ、あたしだって壁の花ではないんですもの」と彼女はやや得意そうに答えた。
「どこで会うんですか、そういう……そういう男たちと? あなたの家でですか?」
「もちろん、ちがいますわ。あなたに会ったのと同じようにして会うのよ。ときには船の上のこともあるし、ときには公園の中のこともあるし、ときには街中《まちなか》のこともあるわ。わたし、これでも男を見る目は相当にいいのよ。ひと目見ただけでわかるの、その男がフレッシュしてくるような男かどうかね」
「『フレッシュ』ってどういう意味ですか?」
「キスしたがることよ、相手に……つまりこのあたしにね」
「奴らはみんなしたがるんですか?」とブリンカーは歯をくいしばりながら尋ねた。
「そうよ。男の人ってみんなそうよ。あなただってご存知でしょう」
「あなたはみんなに許すんですか?」
「何人かにはね。大勢ではないわ。それをしなければ、どこへも連れていってくれないんですもの」
彼女は顔をこちらへ向けて、さぐるようにブリンカーを見た。彼女の目は子供の目のように無邪気だった。ただそこには当惑の色が浮かんでいた。それはまるで、彼女には彼が理解できないとでも言っているかのようであった。
「男の人たちに会って何がわるいの?」と彼女はいぶかしそうに尋ねた。
「何もかもだ」と彼は答えた。獰猛《どうもう》とも思えるくらいの剣幕であった。
「なぜ自分の住んでいる家で友人をもてなせないのです? 街中でトムやディックやハリーなどを拾う必要があるのですか?」
彼女はどこまでもあどけない目差しでじっと彼の目を見つめた。
「あたしの住んでいる家をごらんになれたら、あなただってそんなこと尋《き》けないと思うわ。あたし、れんが粉の長屋に住んでいるのよ。みんながそう呼ぶのは、れんがを粉にする仕事場からの赤い埃《ほこり》がそこいら中に積もっているからよ。あたしがそこに住んでからもう四年以上になるわ。お友だちを通す場所なんかどこにもないのよ。自分の部屋にだって誰も来てもらえないのよ。ほかにどうすればいいというの? あたしだって女ですもの、男の人たちと会わずにはいられないでしょう?」
「そうだね」と彼はしゃがれた声で言った。「女だもの、男と会わずには……いや、男たちと会わずにはいられないだろう」
「初めて街中で男の人たちから言葉をかけられたとき」と彼女はつづけた、「あたし、家へ走って帰って、ひと晩じゅう泣いたわ。でも人間ってすぐに慣れるものなのね。あたし、教会で何人もすばらしい男の人たちに会うの。雨の日に出かけていって、入口に立っているのよ。傘をもった男の人が出てくるまでね。うちに客間があればいいと思うわ。そうすれば、あなたにも来ていただくようお誘いできますものね、ブリンカーさん、……あなたは本当に今でも『スミス』じゃないんですか?」
船は無事に桟橋についた。ブリンカーはこの娘と歩いてゆくことになんとなく困惑した気持ちを感じながら、静かな通りを東へ向かって行った。やがて彼女はある町角までくると足をとめて、手をさし出した。
「あたし、このブロックをもう一つ先へ行ったところに住んでいるんです」と彼女は言った。「おかげで今日はとても楽しかったわ」
ブリンカーは何やら口の中でつぶやいた。そして急に北に向かって歩きはじめ、やがて一台の辻馬車を見つけた。大きな灰色の教会が彼の右手にぼんやりと見えてきた。ブリンカーはその教会に向かって、窓ごしに握りこぶしを振りあげた。
「おれは貴様に千ドルも先週は寄付したんだぞ」
彼は声をひそめて叫んだ、「だのに彼女は貴様の戸口で男たちと会っているんだ。何か間違っていることがある。何か間違っていることがあるぞ」
その次の日、十一時にブリンカーは自分の名前を三十回サインした。弁護士オールドポートが用意してくれた新しいペンを使ってである。
「さあ、これでノース・ウッズへ行かせてください」と彼はむっつりとした口調で言った。
「顔色がよくありませんな」と弁護士オールドポートが言った。「今度の旅行で気分もよくなるでしょう。ところでですな、もしお差し支えなければ、しばらくお耳を拝借したいのです。昨日お話した、そしてまた五年前にもお話した、例の事務上の一件のことです。つまり、家作《かさく》が少しありましてな、数にして十五軒ばかりですが、その新しい五年間の貸借契約書にサインをしていただかねばならんのです。お父上はその契約の規定に一部変更を加えるおつもりのようでしたが、それを果たさずに亡くなられてしまった。お父上の考えでは、これらの家作についている客間は、又貸《またが》しをさせないようにし、借家人たちが応接間として自由に使用できるようにさせるものだったのです。その家作は、商店街にあって、主に若い勤労女性が借りているのです。そんなわけで、彼女たちはやむを得ず交際相手を外で求めなければならんのです。この赤れんがの長屋は……」
ブリンカーは、大きな調子はずれの声で笑いながら、相手の言葉をさえぎった。
「それはきっと、れんが粉の長屋のことでしょう、百ドル賭けたっていい」と、彼は叫んだ。「そして、ぼくがその長屋の持ち主なんでしょう。当たりましたか?」
「借家人たちは、なにかそのような名前をつけているようですな」と弁護士オールドポートは言った。
ブリンカーは立ちあがると、帽子を目深《まぶか》にかぶった。
「その長屋はどうとも好きなようにしてください」と彼は荒々しい口調で言った。「改造しようと、焼き払おうと、ぶちこわそうとかまいません。しかし、先生、それはもう手遅れですよ。遅すぎたんです。遅すぎたんです。遅すぎたんです」
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インディアン酋長《しゅうちょう》誘拐事件
うめえ仕事だと思ったんだ。まあ待ってくんねえ、いま話してきかせるからさ。おれたちゃあ南部に、つまりアラバマにいたんだ……ビル・ドリスコルてえ奴とおれだがね……そのとき、ひとつ、子どもでも誘拐《ゆうかい》してやろうという考えがうかんだのさ。それは、ビルの奴も後になってから言っていたが、「ちょいとした一時的な|精神の幻影《メンタル・アパリション》」からなんだ。だがそれに気がついたのは、ずっと後になってからのことさ。
そのアラバマに、フランネル・ケーキみてえにぺしゃんこな町があった。だからもちろん「頂上《サミット》」なんてえ負けおしみの名前がつけてあった。この町に住んでいる連中は、五月祭の|飾り柱《メイポール》のまわりに群がる、あのとげとげしたところのない、心満ち足りた百姓たちばかりだった。
ビルとおれとは、二人あわせて六百ドルほどの資本《もとで》をもっていた。だが西部イリノイあたりへ行っていかさまの土地|商売《あきない》でひと旗あげるにゃあ、どうしてもあと二千ドルは必要だった。おれたちは宿の玄関先でこのことを相談した。
子煩悩《こぼんのう》の傾向は、とおれたちは話しあった、こういう半分田舎じみた町では強いんだ。だから、そしてそのほかにもいくつか理由があったが、子どもを誘拐する計画はうまくいくにちげえねえ。なまじっか新聞社の鼻がきくような土地で、奴らが記者どもをそっと忍びこませてきて、こういった事件のうわさをあおりたてるような町なんかよりも、うまくいくにちげえねえ、とな。おれたちにゃあわかっていたんだが、このサミットの町の奴らがおれたちを追っかけるにしても、ここで手強《てごわ》い相手といやあ、せいぜい駐在のお巡りぐれえのものだってえことさ。それに後はたぶん、思わせぶりな警察犬と、「週刊・農業経営者新報」にのる猛烈な非難の記事が一つ二つぐれえのものだってえことよ。だから、こいつはうめえ仕事だと思ったのさ。
おれたちゃあ、犠牲《いけにえ》として、この町の有力者でエベニーザ・ドーセットという男のひとり息子を選んだ。この男はそうとうなけちんぼ野郎で、高利貸しをしていやがって、教会で献金皿が回ってきても、それには頑として応じようとせず、すぐとなりの者に回してしまったり、はねつけたりしているような野郎だった。息子は十歳《とお》になる子で、顔には浅浮き彫りのようなソバカスがあって、髪の毛は、汽車を待っているときよく売店で買うあの雑誌の表紙みてえな色をしていた。ビルとおれとの考えじゃあ、エベニーザは二千ドルの身代金をそっくりそのまま出すだろうと思った。まあ待ちねえな、いま話してきかせるからさ。
サミットから二マイルばかりのところに、小さな山があってな、そこはこんもりとしたスギの林になっているんだ。山の裏側の小高い所に、洞穴が一つあった。そこへおれたちは食い物を運びこんだ。
ある晩、陽《ひ》がしずんでから、おれたちは馬車《バギー》に乗ってドーセットの家の前を通った。息子は通りにいて、向かい側の壁の上にいる子ネコに石をぶっつけていやがった。
「なあ、坊や」とビルが言うんだ。「キャンデーほしくないかい、そしてあの馬車に乗りたくないかい?」
子供はビルのちょうど目のあたりを、レンガでぶんなぐりやがるんだ。
「これであのおやじから、もう五百ドルふんだくってやるぞ」とビルは言いながら馬車に乗りこんでくる。
子供は、ウェルター級の黒クマみてえにあばれだしやがった。だが、やっと馬車の座席におさえつけて、そのままおれたちは馬を走らせた。それから例の洞穴へ連れていって、おれは馬をスギの林の中につないだ。
暗くなってから、おれはその馬車を走らせて、五キロばかり先の小さな村へ行った。馬車はその村から借りたものだったからだ。それで、帰りは歩いて山にもどってきたんだ。
ビルの奴は、顔じゅうのひっかき傷や打ち傷に絆創膏《ばんそうこう》をはっていやがった。洞穴の入口のところにある大きな岩のかげには焚火《たきび》がもえていて、子供が、ぐらぐら煮えるコーヒーの番をしているんだ。ハゲタカの尻尾の羽根が二枚、子供の赤い髪にささっていた。おれが近づいてゆくと、子供は棒きれをつきつけて、こう言いやがった。
「やっ! この罰あたりの白人め、おまえはインディアン酋長『平原の恐怖』さまのキャンプへ入ってこようというのか?」
「小僧め、やっとおとなしくなったんだ」とビルの奴は言いながら、ズボンの裾をまくりあげて、向こう脛《ずね》の打ち傷を調べやがるのさ。
「おれたち、いまインディアンごっこをしているんだ。バッファロー・ビルの活劇だって、こいつにくらべたら、町の公会堂でやる幻燈写真のパレスチナ風景ぐらいにしか見えねえぜ。おれはオールド・ハンクってえ猟師で、インディアンの酋長の捕虜なんだとさ。そしてあすの夜明けにゃあ、頭の皮をはがれるんだとよ。ジェロニモに誓って言うが、畜生! この小僧は本気で蹴《け》とばしやがるぜ」
そうなんだ、あの子供は嬉しくってしようがねえ様子だった。洞穴の中でキャンプなんかができて楽しいもんだから、自分が人質にとられていることなんか忘れちまっていやがるんだ。それで、さっそくこのおれにもスパイの|蛇の目《スネイク・アイ》なんて名をつけやがって、こう言いやがった。奴の部下たちが戦いから帰ってきたら、日の出とともにこのおれを杭《くい》にしばりつけて火あぶりにするんだ、なんてな。
それからおれたちは夕めしを食った。子供は口いっぱいにベーコンやら肉汁《グレイヴイ》やらをほうりこんで、話をはじめやがった。その食事中の話というのは、だいたいこんなふうのものだ。
「おいらはこういうことが大好きだ。キャンプなんてこれまで一度もしたことがなかった。だけど、以前、ペットにフクロネズミを飼っていたことはあって、おいらはこのあいだの誕生日で九つになった。学校は大きらいだ。ネズミたちが、ジミー・トールボットのおばさんとこの斑《ぶち》のニワトリが生んだ卵を十六個も食べてしまった。この森には本当のインディアンがいるのかい? 肉汁《グレイヴイ》がもう少しほしいな。木がゆれるから風がふくのかい? うちには子イヌが五匹もいたんだぜ。おじさんの鼻は、どうしてそんなに赤いんだい、ハンク? うちのおっ父《と》さんはすごい金持ちなんだぜ。お星さまって熱いのかい? おいら、土曜日にエド・ウォーカーの奴を二回もムチでたたいてやった。女の子なんかきらいだ。ガマガエルはヒモを使わないと捕れないんだぜ。牡ウシは鳴くのかい? オレンジはどうして丸いの? この洞穴にはベッドあるの? エイモス・マリーは足の指が六つもあるんだぜ。オウムはしゃべれるけれど、サルや魚はしゃべれないんだ。いくつといくつで十二になる?」
二、三分ごとに子供は、自分があの小うるさいインディアンだということを思いだしては、棒きれのライフル銃をとりあげると、忍び足で洞穴の入口まで行って、憎むべき白人の斥候《せっこう》はいないかと首をのばしてあたりを見回した。そしてときどきインディアンの鬨《とき》の声をあげて、猟師オールド・ハンクをふるえあがらせた。あの子供はビルの奴をしょっぱなからこわがらせていたんだ。
「酋長《しゅうちょう》」とおれは子供に言った。「家へ帰りたいかい?」
「ふん、なんのためにだい?」
子供はそう言いやがるのさ。
「家へ帰ったってなんにもおもしろいことないよ。おいら、学校はきらいなんだ。外でキャンプするほうが好きなんだ。おじさん、おいらを家に連れもどしたりなんかしないだろう、ねっ、スネイク・アイ?」
「今すぐにはな」とおれは言った。「おれたちは、しばらくのあいだこの洞穴の中でくらすんだ」
「いいぞ!」と子供は言いやがる。「こいつはすてきだ。こんな楽しいことって、おいら、生まれて初めてだ」
おれたちは十一時ごろ寝た。幅の広い毛布や掛け布を何枚かひろげて、酋長を真ん中に並べて寝かせた。子供が逃げだしゃしねえかという心配はなかった。それどころか子供はおれたちを三時間ばかりも眠らせなかった。急にとび起きると、例のライフルに手をのばして、金切り声をあげやがるんだ。
「しーっ、静かに! 相棒」だなんて、おれやビルの耳もとでやりやがってな。そんなとき子供は小枝の折れる音がしたり、木の葉のすれあう音がしたなんて自分で勝手にきめやがって、頭ん中で、無法者の一隊がそっと忍び寄ってきたと思いこんでいやがるんだ。
そのうちにやっとおれは眠ることができたが、そうすると今度は夢を見たよ。このおれが誘拐されて木にしばりつけられているんだ、獰猛《どうもう》な顔つきの赤毛の海賊にな。
ちょうど夜が明けるころ、おれは目をさました。ビルの奴がつづけざまに恐ろしい悲鳴をあげたからだ。その悲鳴は金切り声ではなく、かと言ってわめき声でも、さけび声でも、がなり声でもなく、とにかく男の発声器官から出るとは考えられねえような声なんだ。……ただもう、みっともねえ、おびえたような、情けねえ悲鳴で、ちょうど女どもが幽霊や毛虫でも見たときに出すような、そんな声なのさ。まったくいやなもんだぜ、筋骨《きんこつ》たくましい、命知らずの、太った男が夜明けの洞穴《ほらあな》ん中で、のべつ幕なしに悲鳴をあげているのを聞くなんてえこたあな。
そこでおれはとび起きて、いったいどうしたのかと見てみたんだ。すると、酋長の奴がビルの胸の上に馬乗りになって、片手にビルの髪の毛を巻きつけていやがるのさ。そしてもう一方の手には、おれたちがベーコンを切るときに使ったあの切れ味のいいナイフをにぎってやがるのよ。子供はいっしょうけんめい、本気になって、ビルの頭の皮を剥《は》ごうとしているのさ。前の晩、ビルに下《くだ》したあの宣告どおりにな。
おれはナイフを子供から取りあげると、もういちど子供を寝かしつけた。だが、このときからビルの勇気はくじけてしまった。ビルはベッドのもとの場所に横になったが、あの子供がおれたちといっしょにいるあいだは二度と目をつぶって眠ることができなかった。
おれはしばらくうとうと眠ったが、日の出近くなってから思い出した。酋長の奴が日の出とともにおれを杭にしばりつけてあぶり殺しにするといったあの言葉だ。おれはびくびくしたり、こわがったりはしなかった。ただ体を起こしてパイプに火をつけ、岩にもたれていたのさ。
「なんでこんな早くから起きるんだ、サム?」とビルの奴がききやがった。
「おれか?」とおれは言った。「いやあ、ちょいとばかし肩が痛むもんでな。こうやって体を起こしていりゃあ、楽になるだろうと思ったんだ」
「ウソつけ!」ビルの奴が言いやがるんだ。「おめえ、こわがってるんだ。日の出とともにあぶり殺しになるんだからな。それで、奴が本当にやるんじゃねえかとおっかながってたんだ。奴だって本当にやる気だぜ、マッチさえ見つけりゃあな。大変なことになったもんじゃねえか、サム? どうだい、こんないたずら小僧を家へ連れもどすために金を出すような親がいるだろうか?」
「いるさ」とおれは言った。「こういうあばれん坊こそ親なんてものは可愛くってしかたがねえのさ。さあ、おめえと酋長は起きて、朝めしを作ってくれ、そのあいだにおれのほうはこの山の天辺《てっぺん》にのぼって偵察してくるからな」
おれはこの小さな山の頂上へのぼっていって、ふもと一帯の土地にくまなく目を走らせた。サミットの町のほうを見たとき、おれの予想じゃあ、たくましい村の百姓どもが草刈り鎌や三又《みつまた》を武器にしてそこいらじゅうを叩きまわり、卑劣な誘拐犯人たちを狩り出そうとしているのが見えると思っていた。ところが、目にしたものは、のんびりとした風景で、男が一人こげ茶色のラバを使って畑をたがやしているだけなのさ。だれも小川の底をさらっている者はいなかったし、伝令たちがあちこちと飛びまわっては、半狂乱の両親に何の消息もないという知らせをもって帰ってゆく、そんな姿もなかった。ただ、眠気をさそう眠りの森の空気みてえなものが、見わたすかぎりつづいているこのアラバマの土地の上に広がっているだけだった。
「こりゃあ、ひょっとすると」とおれはひとりごとを言った。「まだ気がついちゃいねえのかもしれねえぞ、オオカミどもが可愛い子ヒツジを囲いの中からさらっていったことをな。神さま、どうかオオカミたちに御手をお貸しくださいまし!」と、おれは言った。そして朝めしを食いに山をおりていったんだ。
洞穴のところまできてみると、ビルの奴が洞穴の壁に追いつめられて、ハーハーあえいでいる姿が見えた。そして子供のほうはヤシの実の半分ほどもある大きな石でビルを叩きつぶそうと身構えているじゃあねえか。
「この小僧、真っ赤にゆだったジャガイモをおれの背中につっこみやがったんだ」とビルが説明した。「そうしておいて次には足でそいつを押しつぶしやがった。だからおれは横っ面《つら》をはりとばしてやったんだ。おめえそこに鉄砲をもっているか、サム?」
おれは石を子供からとりあげて、なんとかその場の諍《いさか》いを鎮《しず》めた。
「この仕返しはしてやるからな」と子供がビルに言いやがる。「これまで酋長をなぐった奴で、仕返しされなかった奴はいないんだからな。気をつけたほうがいいぞ!」
朝めしのあと、子供はひもの巻きついている革をポケットからとりだして、そのひもをほどきながら洞穴の外へ出てゆきやがるんだ。
「今度は何をやらかすつもりだろう?」とビルの奴は心配そうに言うのさ。「まさかあの小僧、逃げるわけじゃねえだろうな、サム?」
「そんな気づかいはねえ」とおれは言った。「あまり家を恋しがるような小僧でもなさそうだからな。だがおれたちは身代金のことで何か計画を決めておかにゃあならねえ。どうやらサミットの町じゃあ、小僧のいなくなったことであまり騒いじゃあいねえようだからな。だが、たぶん、いなくなったことにまだ気がついちゃいねんだろう。小僧の家じゃあ、ゆうべジェーンおばさんの所か近所の家に泊まったぐれえに思っているのかもしれねえ。とにかく、今日はいなくなったことに気がつくはずだ。だから今夜おれたちは手紙を小僧のおやじのところへ送って、小僧とひきかえに二千ドル要求しなくっちゃあいけねえ」
と、ちょうどそのとき、おれたちの耳に鬨《とき》の声のようなものが聞こえた。ダヴィデが闘士ゴリアテを倒したときに叫んだかもしれねえような声だ。
酋長がさっきポケツトからひっぱり出したのは、石投げ器だったのさ。そしていまそれを頭の上でぶんぶん振りまわしていたんだ。おれはひょいと身をかわした。するとドスンという重い音が聞こえ、同時に溜息のようなものが、ビルから聞こえてきた。ちょうど鞍《くら》をはずしてやるときに馬が出すような溜息さ。卵ぐらいの大きさの真っ黒な石が、ビルの左の耳のすぐうしろに命中したんだ。ビルはぐんにゃりしちまって、そのまま火の中に倒れこんじまった、皿を洗うために湯をわかしていたフライパンを下敷きにしてな。おれはビルを引きずり出して、冷たい水をその頭へ三十分ほどかけてやった。
そのうちにビルも起きあがる、そして耳のうしろへ手をやって、こう言うんだ。
「サム、おめえ知ってるか、聖書の中でおれがいちばん好きな人物はだれかってえことを?」
「まあ落ちつけ」とおれは言った。「すぐ正気にもどるからな」
「ヘロデ王だ」と奴は言うんだ。「おめえ、どこかへ行っちまって、まさかおれをこんなところへ一人で置き去りにゃあしめえな、サム」
おれは外へ出ていって、子供をとっ捕まえ、そばかすがガラガラなるほど体をゆすぶってやった。
「行儀よくしねえと」とおれは言った。「このまますぐ家へ帰しちまうぞ。さあ、おとなしくするか、どうだ?」
「おいら、ふざけていただけだよ」と子供はふくれっ面《つら》をしながら言うんだ。「オールド・ハンクに怪我なんかさせるつもりはなかったんだ。だけどあのおじさんは、どうしておいらを殴ったんだい? おいら、行儀よくするよ、スネイク・アイ、もしおいらを家に帰さないでくれたらね、それから、今日ブラック・スカウトごっこをさせてくれたらね」
「そんな遊びは知らねえな」とおれは言った。「そいつはおまえとビルさんとで決めりゃあいい。あのおじさんが今日はおまえの遊び相手だからな。おれはちょっと出かけてくるんだ、仕事でな。さあ、中へ入っておじさんと仲なおりしな。そして怪我をさせちまってごめんなさいって言うんだ。それがいやなら、今すぐ家に帰るんだ」
おれは子供とビルに握手をさせた。それからビルをかたわらへ連れていって、奴に話をした。おれはこれからポプラ・グローヴという、この洞穴から五キロばかり離れた小さな村へ行って、今度の誘拐事件がサミットの町でどんなふうに考えられているか、できるだけ様子をさぐってくるから、とな。それに、おれの考えじゃあ、頑とした強い調子の手紙をドーセットおやじのところへその日のうちに送って、身代金を要求して、その支払い方法を指示してやるのがいいと思ったのだ。
「なあ、サム」とビルの奴は言うんだ。「おれはこれまで、まばたき一つしねえでおめえのそばに立ってきた。地震のときだって、火事のときだって、洪水のときだってそうだった、……それにポーカー・ゲームのときだって、ダイナマイトの爆発のときだって、警察の手入れのときだって、列車強盗のときだって、竜巻《たつまき》のときだって、そうだ。一度だって気おくれのしたことはなかった。ところが、どうもあの二本足の打ち上げ花火みてえな小僧をかっさらって来てからがいけねんだ。奴はおれをダメにしやがった。おめえ、長いことおれをあいつと二人きりにさせときゃあしねえだろうな、ええ、サム?」
「昼すぎにゃあもどってくるさ」とおれは言った。「それまであの小僧をおもしろく遊ばせて、静かにさせておかなけりゃあいけねえぜ。さて、ドーセットじいさんのところへ手紙を書こうじゃねえか」
ビルとおれは紙とエンピツをとり出して手紙を書きはじめた。酋長のほうは毛布を体に巻きつけて、もったいぶった歩きぶりで行ったり来たりしながら洞穴の入口を守っていた。ビルの奴は目に涙をいっぱいに溜めながら、おれに身代金は二千ドルではなくて千五百ドルにしといてくれと頼んだ。
「おれは別に」と奴は言うんだ。「親の愛情というあの立派な道徳的一面を非難するつもりはねえが、おれたちは人間と取り引きをしてるんだ。だから二千ドルもふっかけて、あんなソバカスだらけの山ネコのような四十ポンドのかたまりを引き渡してやるなんざ、人間的じゃあねえ。おれはいちかばちか、とにかく千五百ドルでやってみてえんだ。差額はおれに請求してくれてもいいからさ」
そこで、ビルを安心させるために、おれは承知してやった。そして二人で手紙を書きあげた。それはこんな具合だ。
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郷士《ごうし》エベニーザ・ドーセット殿
われわれは貴殿の令息をサミットから遠いある場所にかくまっている。貴殿にせよ、またいくら老練の刑事にせよ、令息を見つけようと試みることは無益である。いかなることがあろうとも、貴殿が令息を取りもどすことのできる唯一の条件は、以下の如くである。
すなわち、われわれは令息の返還に対して千五百ドルを高額紙幣にて要求する。紙幣は今夜、真夜中に貴殿の返信と同じ地点、同じ箱の中に置いてゆくこと……この件については後に記す。
以上の条件に同意されるならば、返事をしたため、使いの者一名によって今夜、八時半にそれを届けること。ポプラ・グローヴに通じる道を進み、アウル・クリークを渡ると三本の大きな木が約百メートルおきに立っている。右手にある小麦畑の柵の近くだ。その三本目の木の向かい側にある柵の杭の根もとに、小さなボール紙の箱が見つかるはずだ。使いの者は返事をこの箱の中に入れ、すぐにサミットへ引きかえすこと。
もし貴殿が裏切りを企てたり、上記の要求に従って行動せぬような場合は、貴殿はこれからのち二度と令息に会うことはないであろう。
要求どおり金を支払う場合は、令息は二時間以内に無事に貴殿のもとへ帰されるであろう。以上の条件は最終的なものである。従ってもしこれに応ぜぬ場合は、今後いかなる連絡も試みられぬであろう。
二人の命知らずより
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おれはドーセット宛のこの手紙に上書を書き、それをポケットにつっこんだ。そして出かけようとすると、子供がおれのほうへやってきてこう言うんだ。
「ねえ、スネイク・アイ、おじさんが留守のあいだブラック・スカウトごっこをしてもいいって言ったね」
「いいとも、もちろんだ」とおれは言った。「ビルおじさんがいっしょに遊んでくれるさ。だが、いったいどんなゲームなんだ?」
「おいらがブラック・スカウトになるんだ」と酋長は言うんだ。「そして砦《とりで》まで馬を走らせて開拓者のみんなに、インディアンが襲撃してきたことを知らせなくっちゃあならないんだ。おいら、もう自分でインディアンをやるのはあきちまった。だから今度はブラック・スカウトになりたいんだ」
「よし、いいだろう」とおれは言った。「別に危険はなさそうだ。ビルおじさんもおまえに手をかして、その小うるさいインディアンたちをくいとめてくれるだろうからな」
「おれの役はなんだい?」とビルは子供の顔をうさん臭そうに見つめながらたずねるんだ。
「おじさんは馬さ」ブラック・スカウトはそう言うんだ。「四つんばいになるんだ。おいら、馬がなけりゃあどうやって砦まで行けるんだい?」
「小僧を楽しませておいたほうがいいぞ」とおれは言った。「計画がうまく滑《すべ》り出すまではな。まあ、気楽にやってくれ」
ビルの奴は四つんばいになる。とたんに目つきが変わって、罠にかかった野ウサギみてえな目つきになりやがる。
「砦までどのくらいあるんだい、坊や?」と奴はしぼるような声でたずねる。
「十五キロだ」とブラック・スカウトは言う。「だから頑張って走らないと間にあわないぞ。どうどう、まだまだ!」
ブラック・スカウトはビルの背中にとび乗ると、踵《かかと》でビルの脇腹を思いきり蹴とばすんだ。
「おい後生だから」とビルの奴は言う。「いそいでもどってきてくれよ、サム、できるだけ早くな。身代金は千ドル以上にしなけりゃあよかったよ。おい、坊主、蹴るのはやめろ。さもないとおれは立ちあがって、思いきりぶんなぐってやるぞ」
おれはポプラ・グローヴまで歩いていって、郵便局をかねた雑貨屋に腰をおろし、商《あきな》いにやってくる田吾作《たごさく》連中と話をはじめた。一人のヒゲ面の男が言うには、サミットの町はエベニーザ・ドーセット爺さまんとこの子供が行方不明になったとか、さらわれていったとかで大変な騒ぎをしているそうだ、とのことだった。
それだけ聞きゃあたくさんだ。おれはきざみタバコを少し買って、何気ねえ様子でササゲ(豆)の値段をきき、例の手紙をこっそり投函して、そこを出た。郵便局長の話では集配係は一時間もたてばやってきて、郵便物をサミットへ持ってゆくだろうとのことだった。
洞穴にもどってみると、ビルと子供の姿が見えねえんだ。おれは洞穴の近くを探しまわり、危険を承知で一、二度、ヤーホーと呼んでみた。だが何の応答もなかった。そこでパイプに火をつけ、コケの生えた土手に腰をおろして成り行きを待った。
三十分もすると、近くの薮《やぶ》がガサガサなりだした。そしてビルの奴が洞穴の前の小さな空地によろよろと出てきやがった。ビルの後ろには子供がいて、斥候《せっこう》のように足音を忍ばせながらついてきた。顔じゅう、ニヤ笑いをうかべてやがるんだ。ビルの奴は立ち止まると、帽子をぬいで、顔を真っ赤なハンカチでぬぐった。子供は二メートルばかり後ろで足をとめた。
「サム」とビルは言うんだ。「おめえはおれを裏切り者だと思うかもしれねえが、どうしようもなかったんだ。おれだっていっぱしの人間で、男らしさもありゃあ、また自分の身を譲《まも》るぐれえの気性もある。だが、どんな我欲もうぬぼれもなくなっちまうような時てえものがあるもんだ。小僧は、いねえぜ。おれが家に帰しちまったぜ。なにもかもお流れさ。むかしは殉教者ってえものもいて」とビルは続けるんだ。「自分が喜び味わっている苦行をあきらめるぐれえなら、いっそ死んだほうがましだといって、おっ死《ち》んでいった奴らがいた。だがそいつらだって、おれが味わったような、こんな超自然的《べらぼう》な責め苦にあわされた奴は一人もいねえはずだ。おれは、われわれ強盗仲間の仁義を守りとおそうとした。だが限界がきたんだ」
「いったいどんな目にあったんだ、ビル?」とおれは奴にたずねた。
「馬になって走らされたんだ」とビルの奴は言うんだ。「百五十キロ、砦までな。一センチも残さずにだぞ。それから、開拓者たちが救い出されると、おれはカラス麦を食わされた。それが砂ときてやがるんだから、とても食えたしろものじゃあねえ。それから、一時間ばかり、今度は小僧の質問に答えなけりゃあならねえハメになった。なぜ穴というものは中がからっぽなのかだとか、どういうわけで道は行ったり来たりできるのかだとか、なぜ草は緑色をしているのか、なんてききやがるんだ。なあ、サム、人間も我慢のできるのはこの辺までだぜ。そこでおれは小僧のえり首をつかんで、奴を山から引きずりおろす。するとその途中で奴はおれの向こう脛《ずね》を蹴とばす。おかげで膝《ひざ》から下はあざだらけだ。二、三度は親指と手のひらとを噛みつかれて、しびれあがっちまった」
「だが、奴はもういねえよ」……とビルはつづけて言うんだ……「帰っちまったんだ。おれはサミットへ行く道を教えてやってから、二メートルばかりサミットのほうへ近く奴を蹴とばしてやったよ、ひと蹴りでな。身代金をフイにしちまってすまねえ。だが、こうでもするか、それともこのビル・ドリスコルが精神病院へ行くかのどちらかだったんだ」
ビルはフーフー、ハーハーあえいでいたが、それでも、えも言えぬ平和と、高まる満足との表情が奴のバラ色の顔にはうかんでいた。
「ビル」とおれは言った。「心臓の病気は、おめえの血統にはねえだろうな、えっ?」
「ねえさ。持病は何にもねえよ、マラリヤと事故にだけはしょっちゅう見舞われているがね。なぜだい?」
「なら、回れ右をしてもいいぜ」とおれは言った。「そしておめえの後ろを見てみな」
ビルはふりむいて小僧を見る。とたんに顔色をなくして地べたにドシンと尻もちをつく、そしてこれという当てもないのに草や小枝をむしりはじめるんだ。一時間ばかり、おれは奴の精神状態を心配したぜ。それからおれは奴に言ってやった、おれの計画は万事すぐにうまくいくはずだ、だから身代金も手に入るし、真夜中までにゃあその金をもってずらかることもできる、後はあのドーセットじじいがおれたちの要求を受け入れるのを待つだけなんだ、とな。
するとビルはだいぶ元気をとりもどして、子供のほうを見ると弱々しくほほえんで、もう少し気分がよくなったら、日露戦争ごっこをしてロシア兵になってやるからな、なんて約束しやがった。
おれは身代金を手に入れるとき、相手に裏をかかれて、とっ捕《つか》まるようなそんなへまはしなくてすむ計画をたてていた。本職の誘拐犯にだって推奨してえくれえのものだ。例の木は、つまりその根もとに返事を置かせ……そのあとで金も置かせることになっていたあの木のことだがね、……その木は道路の柵のそばに立っていた。あたり一面は何ひとつねえ大きな草っ原だ。だからもし警官たちの一隊が、返事を取りに来る者を見張っていたら、草っ原を横切って来るにしろ、道を通って来るにしろ、その者の姿を遠くから見ることができたはずだ。ところがそうはいかなかったのさ! 八時が三十分過ぎたころ、このおれさまはその木にのぼっていたってえわけさ。雨ガエルみてえにうまく身をかくしてな。そして使いの者が来るのをじっと待っていたんだ。
時間きっかりに、おとなになりかかったような少年が自転車に乗って道をやってくる、柵の杭の根もとに置いといたボール箱を見つける、その中に折りたたんだ紙っ切れをすべりこませる、そしてまたサミットのほうへペダルをふみながら走り去って行く。
おれは一時間ばかし待った。そしてもう大丈夫だと結論をくだした。で、木から滑りおりると、その手紙を取り出して、そっと柵づたいに森までもどってきた。それからもう三十分ばかり間をおいて、洞穴に帰ってきた。手紙を開くとカンテラの近くへよって、ビルにも聞かせてやった。ペンで書かれていたが、ひねくれた読みにくい字体だった。要点はこうだ。
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二人の命しらず殿
拝復 貴書、本日郵便にて落手いたし候。こは何かと拝読つかまつれば、愚息《ぐそく》返還に対する貴下要求の身代金の件。愚考いたすに、貴下の要求はいささか高額。よって小生ここに逆提案いたしたく、多分ご受諾くださるものと拝察いたしおり候。すなわち、貴下がジョニーを拙宅へお連れくださり、二百五十ドルを現金にてお支払いくださるならば、当方お手もとより本人を引き取ることに同意いたすべく候。
ご来訪は夜分がよろしかるべし。と申すは、近隣の諸公、すでに愚息が行方不明になりしことを確信いたしおり候えば、小生、とても責任を負いかねる儀これある故にて御座候《ござそうろう》。すなわち、かかる諸公、愚息を連れもどさん者を見かけしときは、その者に対していかなることをか仕でかさん。
頓首《とんしゅ》再拝
エベニーザ・ドーセット
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「ペンザンスの大海賊どもめ」とおれは言った。「選《よ》りにも選ってふてぶてしいあの……」
だがおれはビルの顔をちらりと見て、ためらった。奴の目にはしきりと何か訴えるような様子があった。それは口のきけない人の顔や、表情豊かな動物の顔にも見たことのねえような様子なんだ。
「サム」と奴は言いやがるんだ。「二百五十ドルが何だってんだ、こうなってみりゃあな? おれたちは、それだけの金は持ってるんだ。この小僧ともうひと晩いっしょにいたら、おれはベッドラム〔ロンドンの「セント・メリー・オヴ・ベスレヘム精神病院」のこと〕のベッド行きになっちまわあ。非のうちどころのねえ紳士であるばかりか、このドーセットさんてえ人はえらく気前のいいお方じゃあねえか、おれたちにこんな寛大な要求しかしねえんだからな。まさかおめえ、このチャンスを逃すつもりじゃあねえだろうな、ええ?」
「じつを言うとな、ビル」とおれは言った。「この小さな牡《おす》の『牝ヒツジ』は少々おれの癇《かん》にもさわっているんだ。こいつを家へ連れていって、身代金をはらって、ずらかることにしようぜ」
おれたちはその夜、子供を家に連れていった。行かせるについてはこんなふうに話したんだ。おまえのおっ父《と》さんが銀作りのライフルとモカシンの靴を買ってくれた、それで明日はみんなでクマ狩りにゆくことになったんだ、とな。
ちょうど十二時だったよ、おれたちがエベニーザの家の玄関の戸をノックしたのはな。そして初めの計画ならば当然おれが例の木の根もとの箱から千五百ドルを頂戴していたその時刻に、ビルの奴が二百五十ドルを数えながらドーセットの手にわたしていたんだ。
子供は、おれたちが奴を家においたまま行こうとしていることがわかると、蒸気オルガンみてえにわめきはじめやがって、ビルの脚に蛭《ひる》みてえにしっかりと吸いつきやがった。おやじは子供をそろそろと剥《は》がした。まるで穴のあいた絆創膏《ばんそうこう》を剥がすみてえにな。
「どのくらいこの子をおさえていられますかね?」とビルの奴がたずねる。
「わしも昔ほど力が強くはないが」とドーセットじじいが言うんだ。「まあ、十分は大丈夫じゃろう」
「それだけあれば充分だ」とビルが言う。「十分あれば、中部、南部、中西部の州をこえて一目散《いちもくさん》に突っ走っているだろうからね、カナダの国境めざしてね」
そして、あたりは真っ暗だったが、それにビルの奴はふとっていたが、そしておれはかなり足の速いほうだったが、それでも奴がサミットの町からたっぷり二キロほども離れたころ、ようやくおれは奴に追いつくことができたってえわけさ。(完)
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解説
O・ヘンリーというペンネームで世界中の読者に親しまれているウイリアム・シドニー・ポーターは、一八六二年に生まれ一九一〇年に死んだ。四十七歳の生涯である。彼は幼児期と十代とを故郷のノース・カロライナで送り、二十代と三十代の前半とをテキサスで、三十代の後半をオハイオ州の刑務所で、そして最後の四十代をニューヨークで送っている。作家として注目されだしたのが四十歳。時すでに二十世紀はその第一歩をふみ出していた。
その頃のニューヨークは、今日のニューヨークとは異なり、自動車もまだわずかしかなかった。街の道路は大部分が舗装《ほそう》されておらず、されているところは、せいぜい、砕石を敷き固めた簡単なマカダム工法によるもので、アスファルトの道はごく一部に限られていた。個人の乗り物は自転車が最も新しいもので、市民の交通機関は辻馬車か市内電車か高架鉄道であった。街灯や一般家庭の照明も電気ではなくてガスが使われ、冷蔵庫も氷屋の配達する天然氷が使われていた。電話は事務所や高級レストランは別として一般家庭ではかなり裕福な家にしかなく、そういう家でもベルが鳴ると「ハイ、ハイ、ただいま」などと叫びながら受話器にとびつく有様であった。ラジオも高嶺《たかね》の花、映画もまだ。テレビなど論外のさたであった。それらに代わる家庭での唯一の楽しみは、だから、新聞の日曜娯楽版や雑誌だったのである。
O・ヘンリーの作品はこういう時代に書かれ、そのほとんどすべてが新聞や雑誌に発表されたものであった。彼の人気は今日のテレビ・スター以上であった。しかも彼は、次第に機械化され人情のうすくなってゆく都会の中で一般市民が味わう喜怒哀楽《きどあいらく》を共に味わえるだけの人生経験をゆたかにもっていた。そしてその市民の感情を彼一流の筆でスケッチし、彼らに提供した。そこに描かれた人情は、わが国の古典落語の中にみられる人情と一脈相通じるものがある。彼の文学が庶民の文学と呼ばれる理由もこのあたりにあるのであろう。
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あとがき
O・ヘンリーは二十世紀の初頭、アメリカの新聞・雑誌界に最も人気を博した作家である。彼はジャーナリズムによって世に出《い》で、ジャーナリズムに酔い、ジャーナリズムに溺れてこの世を去った。良きにつけ悪しきにつけ、彼はジャーナリズム|の児《こ》であった。だから彼の作品を鑑賞するとき、彼のそうしたジャーナリスティックな要素を無視することはできない。そこで今回の翻訳ではこの点に留意し、それぞれの作品の発表機関誌と発表年月日とを調べ、その作品とその当時の社会的背景などとの関係を考慮しながら訳出を試みた。作品の配列も発表年月順とした。
本書に収められた作品はO・ヘンリーの代表作と言われるものばかりであるが、紙面の都合で数多くの名作を割愛《かつあい》せざるを得なかった。他日機会があればそれらの作品を紹介したいと思っている。
本書の出版にあたっては多くの方々のご好意を得た。本多顕彰先生をはじめ、アメリカ在住の Sheridan P.Gorman 氏および Edith Hendley 夫人、またグリーンズバロ公立図書館の方々等。紙面をかりてひと言お礼を申しあげる。
追記
今回、わたくしの「O・ヘンリー短編集」がこのような形でグーテンベルク21社からデジタル出版されることになり、大変うれしく思っております。この「O・ヘンリー短編集」はもともと旺文社から文庫本として一九七四年に出版されたものですが、その後一九九〇年に、とくに若い読者のみなさんのために編集しなおしました。その際、表現を変えたり、活字を大きくしたりしたため、ページ数が大幅にふえて、何点かの作品を割愛しなければならなくなりました。しかし今回はまえに割愛したものもすべて復活させました。
一九九六年
〔訳者紹介〕
大久保博《おおくぼひろし》
アメリカ文学専攻。一九二九年、愛知県に生まれる。法政大学文学部英文学科卒業。法政大学教授。訳書にH・B・ストウ「完訳アンクル・トムズ・ケビン」(共訳)トマス・ブルフィンチ「完訳ギリシア・ローマ神話」、「完訳中世騎士物語」、「アーサー王物語」、マーク・トウェイン「アーサー王宮廷のヤンキー」など多数。