O・ヘンリー短編集(1)
O・ヘンリー/大久保博 訳
目 次
ハーグレイヴズの本心
とりもどされた改心
運命の道
自動車が待っているあいだに
二十年後
魔女たちのパン
ある忙しい株式仲買人のロマンス
振り子
家具つきの貸部屋
アイキー・シェーンスタインの愛の妙薬
犠牲打
解説
[#改ページ]
ハーグレイヴズの本心
ペンドルトン・トールボット少佐は、この方はモビールの人なのですが、お嬢さんのミス・リディア・トールボットといっしょにワシントンにやって来て、この地に腰をおちつけることになったとき、下宿をするために一軒の家を選びました。その家は市内でもいちばん静かな街路から四十五メートルも奥まったところにありました。むかし風のレンガ建ての家で、柱廊《ちゅうろう》玄関は二本の真っ白な柱で支えられていました。庭は立派なロウカストやニレの木々におおわれ、今をさかりのカタルパの木が一本、ピンクのまじった白い花を、雨のように芝生の上に散らしていました。たけの高いツゲの茂みが垣根と小径《こみち》に沿ってならんでいました。こうしたこの家の南部風のスタイルと外観とが、ことのほかトールボット父娘《おやこ》の目を楽しませたのです。
そこで、この住み心地のよさそうな素人下宿に二人は部屋を借りることにしました。トールボット少佐のための書斎もふくめてです。少佐はあと数章を書き加えれば、いま執筆中の「アラバマ州の軍隊、裁判官、弁護士たちの逸話《いつわ》と回想」という本が完成するからなのです。
トールボット少佐はあの古い古い南部の出身でした。ですから、今の時代などというものは、少佐の目には少しも興味がなく、すぐれた点もありませんでした。少佐の心は南北戦争以前のあの時代に生きていました。そのころはトールボット家も何千エーカーという美しい棉畑《わたばたけ》や、それをたがやす奴隷たちをもっていましたし、家屋敷も豪壮《ごうそう》な歓待の舞台で、南部の貴族社会から賓客《ひんきゃく》を招いていたのです。
こうした時代から少佐はむかしの誇りや、名誉を重んじる心や、時代おくれのやかましい礼儀作法や、それに(そうです、お察しのとおり)当時の衣装など、すべてのものをもってきていました。
その衣装はたしかに、この五十年以内に作られたものではありませんでした。少佐は背の高い人物でした。しかし、本人が敬礼と呼んでいるあのすばらしい、昔式の跪拝《きはい》をするときには、きまって少佐のフロック・コートの裾《すそ》はゆかをはらいました。その衣服はワシントンの人々にとってさえ驚異の的《まと》でした。この人たちはもうずっと以前に、南部選出の国会議員たちのあのフロック・コートやつば広の帽子を見ても尻込みしなくなっていたはずだったのです。下宿人のひとりはその衣服を「ファーザー・ハバード」〔裾の長いだぶだぶの婦人用ガウンを「マザー・ハバート」というので、ここではそれにひっかけて「ファーザー・コート」としゃれた〕と名付けましたが、たしかにその衣服は腰の線が高く、裾のあたりがだぶだぶしていました。
しかし少佐は、こうした奇妙な服を着て、襞《ひだ》つきの、糸のほつれかかったワイシャツの胸を大きくのぞかせ、小さな黒いストリング・タイの結び目をいつも片方にずらして結んではいましたが、ヴァーデマン夫人のこの高級下宿では微笑をもって迎えられもし、また好まれもしました。若いデパートの店員たちの中には、よく少佐を、彼らの言葉で言えば「ペテン」にかけては、少佐にとってこの上なくなつかしい話を語らせようとする者がいました。……つまり、少佐の愛する南部の伝統や歴史の話をです。少佐はその話になると、よく自分の「逸話と回想」からふんだんに引用してきかせました。しかし店員たちは十分に注意して、自分たちの計画を悟られないようにしました。というのは、少佐はもう六十八にもなっていましたが、店員たちの中でいちばん胆力《たんりょく》のすわっている者でさえも、この少佐の人を射るような灰色の目でじっと睨《にら》まれると、どぎまぎしてしまうからだったのです。
ミス・リディアは肉づきのよい、小柄なオールドミスで、年は三十五歳でしたが、髪をぺったりとなでつけて、きつく編んでいるために、よけい老《ふ》けて見えました。彼女もまた古風でした。しかし戦争前のあの南部の栄光は、少佐の場合とはちがって、彼女からはうかがえませんでした。彼女のもっていたものは、節約の常識だったのです。ですから一家の経済をあずかっていたのは彼女でしたし、勘定《かんじょう》取りに会うのも彼女でした。
少佐のほうは、下宿代の勘定書や洗濯物の勘定書などというものは卑《いや》しむべき不快事と考えていました。それらは実にしつこく、実によくやってきたからです。どういうわけで、と少佐は考えました、こういったものは綴《と》じておいて、あとでまとめて適当な時機に……たとえば「逸話と回想」が出版されて印税が入ったような時などに、払うことができんのじゃろうか?
ミス・リディアは静かに縫い物をつづけながら、言いました、「お金のつづくあいだは、今までどおりにして払いましょう。そのうちにはたぶん先方で、いやでもまとめてくるようになるでしょうからね」
ヴァーデマン夫人のところに下宿している人たちは、その大部分が昼間は留守でした。というのは、ほとんどみなデパートの店員や会社員だったからです。しかしひとりだけ、この家の中をほとんど朝から晩までぶらぶらしている人物がいました。それはヘンリー・ホプキンズ・ハーグレイヴズ……この家のだれもが、彼をこのようにフル・ネームで呼んでいたのですが……という名の青年でした。そして彼は、大衆向きのヴォードヴィル劇場のひとつに出ていました。ヴォードヴィルはこの数年のあいだにきわめて上品な水準にまで達していましたし、ハーグレイヴズ氏もきわめておとなしく、礼儀正しい人物でしたので、ヴァーデマン夫人も別にとやかく言わず、この青年を自分の下宿人のリストに加えていたのでした。
劇場では、ハーグレイヴズはいくつもの方言《なまり》を自由にあやつれるコメディアンとして知られていました。ドイツ語のなまり、アイルランド語のなまり、スウェーデン語のなまり、黒人のなまりなど幅のひろいレパートリーをもっていました。しかしハーグレイヴズ氏はそれだけでは満足せず、本格的なコメディーで成功したいんだ、とその大きな望みをよく話していました。
この青年は、トールボット少佐に強く心をひかれたようでした。この老紳士が南部の思い出話をはじめたり、逸話の中でいちばん印象的な話をいくつか繰り返して語ったりするときには、いつでもきまってハーグレイヴズの姿がその場にあって、聴き手の中でもいちばん熱心に耳をかたむけていました。
ひところは少佐もこの青年をひそかに「河原乞食《かわらこじき》」なぞと呼んで、彼の接近をはねつけようとでもするような様子を見せていました。しかし、やがてこの青年の愛想《あいそ》のよい態度や、老紳士の話に対する疑う余地のない鑑識眼《かんしきがん》が、完全に少佐の心をとらえるようになりました。そして間もなくすると、この二人はむかしからの親友のようになりました。少佐は毎日、午後からの時間をとっておいて、自分の本の原稿をこの青年に読んでやりました。逸話をきいているあいだにも、ハーグレイヴズは、笑うべきところで笑いそこなうようなことは決してありませんでした。少佐は感心して、ある日、ミス・リディアに言いました、あのハーグレイヴズは若いくせに旧制度に対してすばらしい理解と十分な敬意とをもっておるぞ、と。
そこで話があのむかしの時代のことになったりすると、……そしてトールボット少佐がその話をしたがっているような時には、ハーグレイヴズ氏はわれを忘れてききほれたのです。
過去を語るほとんどすべての老人と同じように、少佐もまた細かなことをいつまでもくどくどと話すのが好きでした。昔の農場主たちのあの壮麗な、まるで王侯のような生活について語るときでも、少佐はよく口ごもっては先に進まず、馬の轡《くつわ》をとってくれた黒人の名前だとか、さして重要でもない出来事の正確な日付けだとか、その年に栽培した棉花の梱《こり》の数だとかを思い出そうとしました。しかしハーグレイヴズは決してもどかしがったり、興味を失ったりはしませんでした。それどころか、彼のほうからすすんで当時の生活に関連したいろいろなことについて質問をしました。そしていつも即答をひきだしていたのです。
キツネ狩り、ポッサムの料理、黒人地区での踊りやお祭りさわぎ、屋敷の大広間での饗宴《きょうえん》、そのときには八十キロ四方にわたって招待状が出されたこと、ときどき起こる貴族とのいざこざ、キティー・チャーマズ嬢をめぐってラスボウン・カルバトソンと行なった少佐の決闘、その女性は後にサウス・キャロライナのスウェイトという男と結婚したこと、モビール湾での巨額な金をもうけた私的なヨット・レース、年老いた奴隷たちのもつ奇妙な信仰やその日ぐらしの習慣や忠誠心など……これらすべてのものが話題となって、それらは少佐とハーグレイヴズとの二人を一度に何時間ものあいだ夢中にさせたのです。
ときには、夜、この青年が劇場での出し物をおえて自分の部屋にあがってくるときなど、少佐はよく自分の書斎の戸口に姿を見せては、ひょうきんな手つきで彼を招きました。ハーグレイヴズが中に入ってみると、小さなテーブルの上に、ブドウ酒のびんや砂糖のつぼやフルーツや青々としたハッカの大きな束がおいてあるのです。
「ふと思いついたのじゃがね」と少佐はよくこんなふうに切り出しました……いつも儀式ばっているのです……「おそらく貴君の、その……つまり勤務しておられる所での……任務はきわめて骨の折れるものであったじゃろうと思うてな、ハーグレイヴズ君、かの詩人が『つかれたる自然の甘美なる癒《いや》し手』と詩《うた》ったとき、さだめし心に思いうかべておったであろうものを、ぜひとも貴君に賞味していただきたいのじゃ。……つまりわが南部のジューレップ酒のひとつをな」
少佐がそれを作るときの手並みは、ハーグレイヴズにとってまさに魅惑的な光景でした。作り始めたその瞬間から少佐はすでに芸術家の列に入っていました。そして手順を変えるようなことは決してなかったのです。ハッカをしぼるときのあの慎重な手つき、材料をまぜあわせるときのあの驚くほどの正確さ、そのまぜあわせたものに真っ赤なフルーツをふたのようにうかべて、暗緑色の外べりと対照的に映し出させるときの、あの息をのむような慎重さ!
そして次には、それを相手にすすめるときのその愛想のよい言葉づかいと物腰。もちろんその前に、上等のカラス麦のストローが二本、ちりんちりんと氷に音をたてさせながらグラスの底に差しこまれるのです!
四か月ほどワシントンで暮らしているうちに、ミス・リディアはある朝、自分たちがほとんど一文《いちもん》なしになっていることに気がつきました。例の「逸話と回想」は、できあがってはいましたが、どの出版社もこのアラバマ流のセンスとウイットを扱った珠玉《しゅぎょく》集には飛びついてこなかったのです。モビールに所有している小さな家からの家賃のあがりも、二か月ほどとどこおっていました。自分たちの今月の部屋代はあと三日もたったら支払わねばならないのです。ミス・リデイアは父親を呼んで相談しました。
「金がないって?」と彼はびっくりした様子で言いました。「まったくうるさくてかなわんな、こんなささいな額でそうしょっちゅう、やいのやいのと言われたんでは。実際、……わしは……」
少佐はポケットをあちこちとさぐりました。見つかったのは、二ドル札が一枚きりです。少佐はそれをチョッキのポケットにもどしました。
「ふむ、こりゃあ早速なんとかせにゃあいかんな、リディア。すまんが、わしの傘をとってくれんか、これからすぐに街へ行ってくるからな。うちの地区から出ておる議員のフラム将軍が、四、五日まえに請け合ってくれたんじゃ、将軍の顔をきかしてわしの本を近く出版できるよう取り計らってくださるとな。だからわしはすぐにあの方のホテルへ行って、どんな具合になったかきいてくるのじゃ」
悲しげな小さな微笑《ほほえ》みをうかべながらミス・リディアは、父親が例の「ファーザー・ハバード」のボタンをはめて出てゆく姿を見守りました。少佐は戸口のところまでゆくと立ちどまって、それはいつものことなのですが、丁寧にお辞儀をしました。
その晩、暗くなってから、少佐はもどってきました。どうやら、フラム議員は、いま少佐の原稿が手元にわたっている出版社の者と会ってくれたようでした。その者の話によると、もしこの中の逸話などを慎重に半分ぐらい削りとって、この本を端から端まで染めているこの地方的、階級的偏見を取りのぞくようにするならば、出版を考えてもよい、ということでした。
少佐は白熱の怒りに燃えました。しかしミス・リディアの前に出たとたん、いつもの作法の道に従って、平静をとりもどしたのです。
「お金はどうしても必要なのよ」とミス・リディアは、鼻の上に小皺《こじわ》をよせながら言いました。「あの二ドルをください。それで今夜、ラルフ伯父さまのところへ電報を打って、いくらかお金を送ってもらいますから」
少佐は小さな封筒を一枚、チョッキの胸のポケットからとり出すと、それをぽいとテーブルの上に置きました。
「これは無分別であったかもしれんが」と彼はおだやかな口調で言いました。「二ドルなんて、ほんのはした金じゃと思うたものだからな、今夜の芝居の切符を買ってしまったよ。戦争の新しい出し物なのだ、リディア。その初興行をこのワシントンで見られるなんて、おまえもさぞ喜ぶじゃろうと思うてな。話によると、この芝居では南部が実に公平に扱われているんだそうじゃ。白状するとな、わし自身、この芝居が見たかったのじゃよ」
ミス・リディアは両手をあげました、もう何を言っても仕方がありません。
しかし、切符は買ってしまったのですから、使わなければ損です。こうしてその晩、二人が劇場に席をしめて、陽気な前奏曲に耳を傾けているうちに、さすがのミス・リディアも自分たちの苦労はしばらくのあいだ、二の次にしておこうというような気持ちになってきました。少佐は、しみひとつないリンネルのワイシャツを着て、例のあのとっぴなコートをそのボタンがきちんとはまっている上半身の部分だけ見せて、真っ白な髪の毛もきれいにブラシをかけて整えていましたから、その姿はまことに立派で、ひときわはえて見えました。
幕があがると、「マグノリアの花」の第一幕がはじまり、典型的な南部の大農場の光景がくりひろげられました。トールボット少佐は思わず興味の目をかがやかしました。
「あら、ごらんなさい!」とミス・リディアはさけびながら、ひじで少佐の腕をつついて自分のプログラムを指さしました。
少佐は眼鏡《めがね》をかけると、娘の指が示している登場人物の配役の行を読みました。
陸軍大佐ウエブスター・キャルフーン……H・ホプキンズ・ハーグレイヴズ。
「これはうちのハーグレイヴズさんよ」とミス・リディアが言いました。「きっとこれは、あの方が『本格的なコメディー』と言っているものの初舞台なんだわ。よかったわね、あの方」
第二幕になるまでウエブスター・キャルフーン大佐は舞台に姿を見せませんでした。いよいよ彼が登場すると、トールボット少佐はあたりに聞こえるほど鼻を鳴らし、彼をねめつけ、そのまま固く凍りついてしまうのではないかとさえ思われました。ミス・リディアも、何かネズミの鳴き声にも似た音をたてて、手にしていたプログラムをくしゃくしゃににぎりしめました。というのも、キャルフーン大佐の扮装《ふんそう》がトールボット少佐とほとんど瓜《うり》ふたつといってもいいくらいによく似ていたからなのです。長くて、うすく、先端が巻き毛のようになっている白髪、貴族的なするどい鼻すじ、皺《しわ》くちゃで、広くあいた、糸のほつれかかっているワイシャツの胸、ストリング・タイ、片方の耳の下の近くまでずれているその結び目、それらはまったく生き写しといってもいいくらいにそっくりでした。
そしてそのうえこの模倣《もほう》を決定的なものにするために、彼は少佐のあの無類とも思われるコートとそっくりのコートをきていました。高いカラー、だぶだぶで、腰の線が高く、裾がやけにゆったりとしていて、前の部分が後ろの部分よりも三十センチほども長く垂れさがっているそのコートは、ほかの見本からではとてもデザインできる代物《しろもの》ではありませんでした。
その瞬間から、少佐とミス・リディアとは魔法にかかったようにじっとすわつたまま、高慢なトールボットという偽《にせ》の肖像が、あとになって少佐が表現した言葉によれば、「堕落した舞台の中傷の泥沼の中を引きずりまわされる」のを見つめていたのです。
ハーグレイヴズ氏はこれまでの機会を巧みに利用していたのでした。彼は、少佐の話しぶりや、アクセントや、イントネイションのごく小さな特徴までも、またその大仰《おおぎょう》な礼儀作法までも、完全にとらえていたのです。……そして、それらをすべて舞台にあうように誇張して見せたのです。彼があの不思議なお辞儀のしかたを演《や》ってみせたときなど、少佐はそのお辞儀のしかたこそ、あらゆる敬礼の極致《きょくち》であると甘い気持ちで考えていたのでしたが、観客はどっとばかりにふき出して、ひとしきり拍手を送りました。
ミス・リディアはじっと身動きもせずにすわっていました。とても父親のほうへ目を向ける勇気はありませんでした。時には父親の側にある彼女の手が頬《ほお》におかれることもありました。それは、こみあげてくるおかしさを隠すためのもののようでした。いけないとは思いながらも、どうしても抑えていることができなかったからなのです。
ハーグレイヴズのこの大胆不敵な模倣ぶりは、いよいよ第三幕になって最高潮に達しました。場面はキャルフーン大佐が近くの農場主たちを何人か自分の「私室」に招いてもてなしをしているところです。
舞台中央にあるテーブルのところに立って、友人たちに囲まれながら、「マグノリアの花」の中でも特に名だたるあの天下無類の、とりとめもない、独特の、独白を語るのです。器用な手つきでみんなにジューレップ酒を作ってやりながらの独白です。
トールボット少佐は、じっとすわったまま、しかし憤《いきどお》りのあまり顔面を蒼白にして、聞いていました。自分のとっておきの話が語りなおされ、得意の理論や話題がもちだされ、拡大され、おまけに「逸話と回想」の夢までもがもちだされて、誇張され、歪曲《わいきょく》されるのです。彼の得意の話も……つまりラスボウン・カルバトソンとの決闘の話も……省《はぶ》かれはしませんでした。それどころか、少佐自身がそそぎこんだ以上の情熱と、自負と、喜びとをもって語られたのです。
独白の最後は、ジューレップ酒を作る術についての一風変わった、実に愉快な、機知に富んだ講釈であって、それをまた実演して見せようというのでした。そしてここでトールボット少佐のあの繊細な、しかしこれ見よがしの技《わざ》が、寸分たがわずに再現されました。……つまり、この薫《かお》りの高い草の優雅なあつかいかた……『つまり〇・〇六グラムの千分の一でもしぼりすぎますとな、みなさん、苦味が出てしまって、芳香《かおり》は出ませんのじゃ、この天与《てんよ》の植物の芳香がな』……というところから、あのカラス麦のストローを細心の注意をはらって選ぶところまでです。
この幕が終わると、観客はやんやの喝采《かっさい》を送りました。このタイプの人物描写があまりにも正確で、あまりにも確実でかつ徹底していたので、この劇の主役たちのほうは忘れられてしまったほどでした。再三のアンコールに、ハーグレイヴズは幕の前に出て頭を下げました。彼のまだいくぶん子どもっぽい顔は、成功を知って、かがやきわたり、紅潮していました。
とうとうミス・リディアは顔をむけて少佐を見ました。彼のうすい鼻孔は魚の鰓《えら》のように動いていました。彼はぶるぶるとふるえる両手を椅子の肘掛《ひじか》けにかけて、立ちあがろうとしました。
「行こう、リディア」と彼は喉をつまらせながら言いました。「これは言語道断《ごんごどうだん》な……冒涜《ぼうとく》じゃ」
彼が立ちあがる前に、彼女は父親を座席にひきもどしました。
「終わりまですわっていましょう」と彼女は宣言するように言いました。「お父さまは、本物のコートを人目にさらして、真似ものの宣伝をしてやるおつもりなの?」
そこで二人は最後までその場に残っていました。
ハーグレイヴズの成功は、彼をその夜は遅くまでひきとめていたにちがいありません。なぜなら、朝食の席にも、また昼食の席にも彼は姿を見せなかったからです。
午後の三時ごろ、彼はトールボット少佐の書斎の戸をたたきました。少佐は戸をあけました。ハーグレイヴズは入ってきました。両手には朝刊がいっぱいににぎられていました。……成功の喜びにあまりにも満ちあふれていたためか、彼は少佐の態度にいつもと違ったところのあるのに気がつきませんでした。
「ゆうべは徹底的にやっつけましたよ、少佐」と、彼は得意満面のおももちで始めました。「こっちのインニングをものにして、まあ、ポイントをかせいだつもりです。ほら、『ポスト』紙はこんなふうに言っています。
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『旧時代の南部の大佐についての彼の構想と描写とは、彼のとてつもない大袈裟《おおげさ》な言葉、エクセントリックな服装、一風変わった語法や言い回し、虫のくったような家系の自慢、真に温かい心根、やかましい名誉心、愛すべき単純さなどとあいまって、現代の演劇における性格的演技の役柄を最も巧みに描写したものである。キャルフーン大佐の着用していたコートは、それ自身すでに天才の展開にほかならない。ハーグレイヴズ氏はまさに観客を虜《とりこ》にした』
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「どうです、少佐、初日のご常連にとってすばらしい反響でしょう?」
「光栄なことに」……少佐の声は不吉なほど冷ややかにひびきました……「昨夜はこのわしも貴君の実にすばらしい演技を拝見つかまつった」
ハーグレイヴズは狼狽《ろうばい》しました。
「いらしてたんですか? わたしはまさか、少佐が……そのう、芝居がお好きだとは知りませんでした。こりゃあ驚きましたな、トールボット少佐」と彼は大声で率直に言いました。「どうか気を悪くなさらないでください。たしかにわたしは少佐から多くのヒントを得て、そのおかげであの役をこなすのにずいぶん助かりました。しかしあれはひとつのタイプでしてね、……特にだれを指しているというわけではないのです。観客の受けとり方を見ればそれがわかります。あの劇場の観客の半分は南部の人たちです。その人たちがそう認めているのですから」
「ハーグレイヴズ君」と少佐は言いました。さっきから立ったままです。「貴君はこのわしに赦《ゆる》すべからざる侮辱《ぶじょく》を与え給うた。わしという人間を道化のごとく扱い、はなはだしくわしの信頼を裏切り、わしのもてなしを悪用された。紳士たるものの真の署《しるし》とは何であるか、あるいは真《まこと》の紳士とはいかなるものであるか。貴君がそれをほんのわずかでも心得ていると、そうわしが考えるならば、わしは貴君に対して決闘を申しこむところなのじゃ、たとえこの身が老いてはいてもな。さあ、この部屋を出ていっていただきたい」
俳優はいささか当惑した様子でした。そしてこの老紳士の言葉にふくまれている意味がよく理解できないでいるようでした。
「お腹立ちはまことに残念です」と彼はいかにも残念そうに言いました。「当地ではわたしたちの物の見方が必ずしもあなた方の見方と同じわけではないのです。わたしは何人も知っておりますが、劇場の半分を買いきってでも自分の性格を舞台にかけて大衆に認めてもらいたいと思っている人たちがいるのです」
「そんな連中はアラバマ出身のものではござらぬ」と少佐は昂然《こうぜん》として言いました。
「かも知れません。しかしわたしはそうとう記憶力のいい人間です、少佐。それで、少佐のご本の中から少し引用させていただきましょう。ある宴会の席上、……たしかミレッジヴィルでのことだったと思いますが……乾杯《かんぱい》の挨拶《あいさつ》にこたえて、少佐はこのような言葉を述べておられます。そして少佐はそれを活字にもするおつもりでした。
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『北部の人間は情とか温かさというものをまったく持ちあわせていない。いるとすればそれはただこうした感情を利用して自分自身の商業上の利益を得ようとする時だけである。彼らは、どのような汚名《おめい》が自分自身や自分の愛する者たちの名誉の上に投げかけられようとも、それが金銭的な損失という結果をもたらさぬかぎり、腹も立てずにそれに耐えようとする。慈善においても、彼らはなるほど気前のよい手でほどこしをする。しかしそれはトランペットで前宣伝され、真鍮《しんちゅう》の板に刻まれて記念されるものでなければならぬのである』
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少佐はこの描写のほうが昨夜キャルフーン大佐についてごらんになった描写よりも公平だとお考えになりますか?」
「わしの叙述は」と少佐は顔をしかめながら言いました。「そりゃあ、まあ……根拠がないわけではないのじゃ。多少の誇張……いや表現の自由は、大勢の人の前で話すときには許されねばならん」
「そして大勢の人の前で演技するときもです」とハーグレイヴズは応《こた》えました。
「それは論点がちがう」と少佐は頑《がん》としてゆずりません。「あれは特定の個人を道化|扱《あつか》いにしたものじゃ。断じて見のがすわけにはまいらぬぞ」
「トールボット少佐」とハーグレイヴズは愛嬌《あいきょう》のある微笑をうかべながら言いました。「わたしの気持ちがご理解いただけたらと思うのです。どうかわかっていただきたい、わたしは少佐を侮辱するなぞということは夢にも思ったことがありません。わたしの職業では、あらゆる人生がわたしのものなのです。ですから、わたしは欲しいものはなんでも手に入れます。また、手に入れられるものはなんでも手に入れます。そしてそれを舞台からお返しするのです。さて、もしよろしければ、この話はこれくらいにしておこうではありませんか。わたしがおうかがいしたのは、実はほかのお話からなのです。わたしたちはここ数か月のあいだ本当に大の仲良しでした。ですからまたお気にさわるのは覚悟《かくご》でざっくばらんにお話ししようと思うのです。わたしは少佐がいまお金に困っておいでになることを知っています。……どうして知るようになったか、そんなことは気になさらないでください。下宿屋というところはこういった事柄を秘密にしておける所ではありませんからね……それで、そうした苦境からぬけ出るお手伝いをわたしにさせていただきたいのです。わたし自身、そうした苦境におちた経験はもう何度もあるのです。今シーズンはわたしもかなりのサラリーをもらっています。そしていくらかは貯金もできています。ですから、どうかご遠慮なく使ってください、二百ドル……あるいはそれ以上だってかまいません……そのうちには少佐も……」
「だまらっしゃい!」と少佐は、一方の腕《うで》をのばしながら命令しました。「やはり、わしの本にはウソはなかったようじゃ。貴君は、その金という膏薬《こうやく》であらゆる名誉の傷が治せると思うておる。いかなる事情があろうとも、わしは行きずりの知り合いなどから貸し付けを受けようなどとは思わぬ。まして貴君ごとき者については、わしはむしろ自分が飢え死にしたほうがよいとさえ思っておるのじゃ、われわれが論議してきた状況を金銭的手段で解決しようなどという、その侮辱的な申し出をこのわしが考慮するくらいならばな。失礼ながらもういちどくり返して申しあげる、どうかこの部屋からおひきとり願いたい」
ハーグレイヴズはもうそれ以上はなにも言わずに出てゆきました。そしてその日のうちにこの下宿からも出てしまいました。ヴァーデマン夫人が夕食の席で説明したところによると、なんでもあの下町の劇場にもっと近い所へ引っこしたのだそうで、ここで「マグノリアの花」が一週間の興行をうつことになったからとのことでした。
トールボット少佐とミス・リディアとは重大な局面に立たされました。ワシントンにはだれひとりとして、少佐が気兼ねなしに借金を申しこめるような人はいませんでした。ミス・リディアは伯父《おじ》のラルフに手紙を書きはしましたが、この親類でさえ窮屈《きゅうくつ》な家計をたてていましたから、はたして援《たす》けてもらえるかどうか疑問でした。少佐はやむなく、部屋代の支払いがおくれることについてヴァーデマン夫人に弁解しました。「家賃の滞納《たいのう》」と「送金の遅延《ちえん》」のことにいささか狼狽《ろうばい》した口調でふれながらです。
救いの手は全く思いもかけぬところからやってきました。
ある日の午後おそく、受付係の女の子が階段をあがってきて、年寄りの黒人がトールボット少佐に会いたがっていますけど、と知らせました。少佐は、書斎によこしてくれるようにとたのみました。まもなくすると、ひとりの年老いた黒人が、帽子を片手にして、戸口に姿を見せました。そして一方の足を不格好にうしろへ引きながら、ていねいにお辞儀《じぎ》をしました。その男はだぶだぶの黒いスーツをきわめて端正《たんせい》に着ていました。大きな、粗末な靴は、ストーヴにぬる艶《つや》出しを思わせるような金属性の光沢《こうたく》をみせてかがやいていました。もじゃもじゃの縮れ毛は白髪がまじって……というよりは、もうほとんどが白髪でした。中年を過ぎると、黒人は年齢がわかりにくくなります。ですから、この黒人も、あるいはトールボット少佐と同じくらい年をとっていたのかもしれません。
「きっと、わしがおわかりにならねえと思いますだが、ペンドルトンの旦那さま」
これが彼の最初の言葉でした。
少佐は、このむかしながらのなつかしい言葉づかいを聞くと、立ちあがって前へ進み出ました。それはむかし、農場で働いていた黒人たちのひとりであったことに疑いありません。しかし、みんな遠く散りぢりになっていたのです。ですから、少佐には声も顔も思い出すことができませんでした。
「どうもわからんな」と少佐は言いました。やさしい口調です……「わしの記憶を援《たす》けてくれんことには」
「シンディのモウズをおぼえておいでではごぜえませんか、ペンドルトンの旦那さま、ほれ、戦争のすぐあとでよそへ移って行きました者でごぜえますが」
「ちょっと待ってくれ」と少佐は言って、額を指先でこすりました。少佐はあのなつかしい時代に関係のあることなら、どんなことでも思い出すのが好きでした。
「シンディのモウズね」と彼はじっと考えました。「おまえは馬の世話をしておったな、……子馬を馴《な》らしておった。そうだ、やっと思い出したぞ。敗戦のあと、おまえは名前を……いや、教えんでもわかる……ミッチェルと変えた、そして西部へ行った……ネブラスカへだ」
「そうでごぜえます、そうでごぜえます」……老人の顔はうれしそうなニヤ笑いで伸びました。「その男でごぜえます、そこでごぜえますよ。ニュブラスカでごぜえます。それがこのわしでごぜえますだ……モウズ・ミッチェルでごぜえますだよ。アンクル・モウズ・ミッチェル、今ではこうみんなから呼ばれて慕《した》われていますだ。大旦那さまは、つまり、旦那さまのお父さまでござりますが、お別れするときわしにラバの子をひとつがいくださりました。これで何か仕事を始めるがいいと申されましてな。あの子馬をおぼえておいででごぜえますか、ペンドルトンの旦那さま?」
「子馬のことは思い出せんようじゃな」と少佐は言いました。「なにしろわしはあの戦争の最初の年に結婚して、それからはフォリンズビーの屋敷のほうに住んでおったからな。だが、さあさあ、腰をかけなさいアンクル・モウズ。よく来てくれたな。さぞ成功したことじゃろうな」
アンクル・モウズは椅子に腰をおろすと、帽子を傍《かたわ》らの床の上にそっとおきました。
「はい旦那さま。このところ、いかく有名になりました。初めてニュブラスカへめえりましたとき、みんながあのラバの子を見に集まってきました。ニュブラスカではああいうラバは見たことがねえんでごぜえますな。そんで、わしはあのラバを三百ドルで売ったんでごぜえます。旦那さま……三百ドルでごぜえます。それからわしは鍛冶屋《かじや》をはじめたんでごぜえます、旦那さま、そして少しばかり金をこさえまして、土地を買いました。わしとうちの妻《やつ》とで子どもを七人育てましてな、みんな元気にやっております、もっともそのうちの二人は死んでしめえましたが。
四年前には鉄道が敷かれて、わしの土地の真ん前に町ができました。そんで、ペンドルトンの旦那さま、このアンクル・モウズは金と財産と土地とで一万一千ドルもの大金持ちになりましたんでごぜえます」
「それはよかったな」と少佐は心から言いました。「本当によかった」
「で、旦那さまのあの可愛い赤ちゃんでごぜえますが、ペンドルトンの旦那さま、ミス・リディとお呼びなさっておいでのお嬢《じょう》ちゃまでごぜえますが……きっとあの可愛いお嬢ちゃまも大きくおなりになって、みんなが見違えるほどでござりましょうな」
少佐は戸口のところへ行くと声をかけました。
「リディア、こっちへ来てくれんか?」
ミス・リディアは、すっかり大きくなって、しかもいくらか面《おも》やつれした様子で、自分の部屋から入ってきました。
「それ、それ! わしの言うたとおりでごぜえましょう? あのお嬢ちゃまがすっかり大きくなっておいでのことは、わしにもわかっておりましたです。アンクル・モウズをおぼえておいでではごぜえませんでしょうね、お嬢さま?」
「これはアント・シンディのモウズだよ、リディア」と少佐が説明しました。「サニーミードを出て西部へ行ったんだ、おまえがちょうど二つの時にな」
「それではおまえをおぼえているなんて、とても無理なことね、アンクル・モウズ、そんな年頃ですもの。それに、おまえも言うとおり、わたしは『すっかり大きくなって』ますものね。あれは遠い遠いむかしのことだったわ。でもわたし、おまえに会えてうれしいわ、たとえおまえを思い出すことができなくてもね」
そして彼女は本当に喜びました。少佐もまた同様でした。生命のある、触れることのできるものがやって来て、ふたりを幸福な過去に結びつけてくれたのです。三人は腰をおろして過ぎし昔を語りあいました。そして少佐とアンクル・モウズとはたがいに訂正しあい、記憶を援《たす》けあいながら、農場の光景や当時のことを回想しました。
少佐は、この老人が家を遠く離れて何をしに来たのかとその目的をたずねました。
「このアンクル・モウズは大小者《だいしょうしゃ》でごぜえましてな」と彼は説明しました。「この市《まち》で開かれるバプティストの大会に出るんでごぜえます。説教なんちゅうものは一度もしたことはごぜえませんが、教会の長老でもごぜえますし、旅行の費用も自分でまかなえるもんでごぜえますから、それでみんながわしをよこしたんでごぜえます」
「で、わたしたちがワシントンにいることが、どうしてわかったの?」とミス・リディアがたずねました。
「わしの泊まっておりますホテルに黒人が働いておりましてな、なんでもモビールの出だそうでごぜえます。その男の申しますには、ある朝、ペンドルトンの旦那さまがこの家から出てこられるのを見たちゅうもんで。それでわしがめえりましたのは」とアンクル・モウズは続けながらポケットに手を入れました……「故郷《くに》の連中に会うことのほかに……ペンドルトンの旦那さまに、お借り申しているものをお返しするためでごぜえました」
「わしに借りているだと?」と少佐はびっくりして言いました。
「はい旦那さま……三百ドルでごぜえます」
そう言って彼は少佐に札束を手渡しました。「わしがお別れするとき、大旦那さまが申されました、『あのラバの子を連れてゆけ、モウズ、そして都合がつくようになったら、そのとき金を払ってくれればいいからな』そう申されました。はい、……それが大旦那さまのお言葉でごぜえました。戦争のおかげで大旦那さまも貧乏におなりになってしまったからでごぜえます。大旦那さまは疾《と》うの昔におなくなりになりましたから、この借金はペンドルトンの旦那さまに移っているわけでごぜえます。三百ドルでごぜえます。アンクル・モウズも今では十分にお払いできます。あの鉄道がわしの土地を買い取ったとき、わしはラバのお払いをしようとその分だけ別にしまっておきましただ。金を数えてみてくだせえまし、ペンドルトンの旦那さま。それがあのラバを売ったときの金でごぜえますから。はい」
涙がトールボット少佐の目にうかびました。彼はアンクル・モウズの手をとり、自分のもう一方の手を相手の肩の上におきました。
「おお誠実なる老僕《ろうぼく》よ」と彼はおぼつかぬ声で言いました。「実はな、その『ペンドルトンの旦那さま』はこの世での最後の一ドルまで一週間前に使い果たしてしまったのじゃ。わしたちはこの金を受納することにいたすぞ、アンクル・モウズ。ある意味で、これは一種の返済金でもあるし、また同時に古き制度の忠誠のしるしでもあるからな。リディア、これを受けとっておきなさい。支出のやりくりは、おまえのほうがわしよりも適任じゃからな」
「お収めくだせえまし、お嬢さま」とアンクル・モウズは言いました。「それはあなたさま方のものでごぜえます。トールボット家のお金でごぜえますから」
アンクル・モウズが帰ってゆくと、ミス・リディアはわっとばかりに泣きだしました。……うれしさのためです。そして少佐も顔を部屋の隅のほうへ向けて、陶製《クレイ》パイプを噴火山のようにふかしました。
それからの日々、トールボット父娘《おやこ》はふたたび平和と安楽とをとりもどしました。ミス・リディアの顔からもあの面《おも》やつれした影がなくなりました。少佐も新しいフロック・コートを着て姿を見せましたが、その姿は彼の黄金時代の思い出を象徴する蝋《ろう》人形のように見えました。別の出版社が「逸話と回想」の原稿を読んで、最も重要な点に少し手を加えて調子をやわらげさえすれば、実にすばらしい、売れゆきのよい本になるだろうと考えてくれました。とにかく、事態は快いもので、そこには、実際に幸福が訪れたという時よりも、もっと甘美であることがよくある、あの希望というものの感触さえないわけではありませんでした。
ある日のこと、ちょうどあの幸運がおとずれた一週間ほどあとに、女中が、ミス・リディア宛に来た手紙を彼女の部屋にもってきてくれました。消印を見ると、手紙はニューヨークからのものでした。ニューヨークには別に知人がいるわけでもないので、ミス・リディアはいぶかしげに軽く胸をときめかせながら、テーブルの前に腰をおろし、はさみで封《ふう》を切りました。中にはこんなことが書いてありました。
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親愛なるミス・トールボット
小生の幸運をお聞きになれば、あなたもさぞ喜んでくださるだろうと思いました。実は、ニューヨークのある劇団から週二百ドルの話をもちかけられ、それを承諾したのです。「マグノリアの花」でキャルフーン大佐の役を演《や》るのです。もうひとつ、あなたにお知らせしたいことがあります。これはトールボット少佐にはお話しにならないほうがよいでしょう。小生は少佐に何か償《つぐな》いをしなければと気にかけておりました。あの役を研究するうえで少佐が大変に役立ったことに対しても、またそのために少佐のご不興をかってしまったことに対してもです。少佐はどうしても小生に償いをさせてはくださいませんでした。そこで小生はとにかくやってみました。そして難なくあの三百ドルをおわたしすることができたのです。
あなたの誠実なる
H・ホプキンズ・ハーグレイヴズ
追伸 小生のあのアンクル・モウズの演技はいかがでしたか?
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トールボット少佐は廊下を通りかかって、ミス・リディアの部屋の戸があいているのを見ると足をとめました。
「今朝わたしたちのところに郵便物はこなかったかね、リディア?」と彼はたずねました。
ミス・リディアは、その手紙をそっとドレスの襞《ひだ》の下にすべりこませました。
「『モビール・クロニクル』紙がきましたわ」と彼女は即座に答えました。「お父さまの書斎のテーブルの上にございます」
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とりもどされた改心
看守がひとり、刑務所の中の靴工場へやってきた。工場ではジミー・ヴァレンタインがせっせと甲革《こうがわ》をぬっていた。看守はこのジミーを表の事務室へ連れていった。ここで刑務所長はジミーに赦免状《しゃめんじょう》を手渡した。その朝、知事が署名したものである。ジミーはそれを、待ちくたびれたような手つきで受けとった。四年の刑期のうち、もう十か月近くも務めていたのだ。初めの予想では、ここにくらっているのもせいぜい三か月ぐらいのものだろうと思っていた。ジミー・ヴァレンタインのように、娑婆《しゃば》に何人もの仲間をもっている者なら、「ムショ」に入れられたって、わざわざ手数をかけて髪を短く刈る必要もないはずなのだ。
「なあ、ヴァレンタイン」と所長は言った。「おまえもあすの朝は出てゆくんだ。しっかり心を締《し》めなおして、真人間になるんだぞ。おまえは根っからの悪党じゃあない。金庫破りなぞもうやめて、まともな暮らしをするんだ」
「あっしがですか?」とジミーはびっくりしたような口調で言った。「旦那、あっしはこれまでに金庫なんか破ったこたあありませんよ」
「うん、そうだ」と所長は笑った。「もちろん、ないな。だが、いいか。それならどうしておまえは、あのスプリングフィールドの一件で送られてきたんだ? 自分がすすんでアリバイを立証しようとしなかったからだとでも言うのか、ことのほかお上品な社会のさるお方さまに累《るい》が及んでは一大事とばかりにな? それとも、あれはただ意地の悪いおいぼれ陪審員《ばいしんいん》どもがおまえに恨みをもっていたからだとでも言うのか? いつもそのどちらかにきまっているんだ、おまえたちのような無実の犠牲者なぞとほざいている奴《やつ》らにとってはな」
「あっしがですか?」とジミーは、相変わらずすっとぼけた調子で言った。「でも旦那、あっしはこれまでにスプリングフィールドなんかにいたこたあないんですよ!」
「連れてってくれ、クローニン」と所長は苦笑《にがわら》いをした。「そして出所用の服をあてがってやれ。あすの朝、七時になっにら、監房をあけて、控室《ブルペン》のほうへ来させておくんだ。わたしの忠告はよく考えておいたほうがいいぞ、ヴァレンタイン」
次の朝、七時十五分過ぎに、ジミーは所長室に立った。やけにぶかっこうな既製《きせい》の服をきて、かたい、ぎゅうぎゅう鳴る靴をはいていた。州が、その釈放されてゆく強制収容のお客さまに支給してくれるものだ。
係の者が、彼に鉄道の切符と五ドル紙幣を一枚、手渡した。これだけで法律は、彼に善良な市民に復帰して成功するようにと期待するのだ。所長は葉巻を一本くれて、握手までしてくれた。ヴァレンタイン、囚人第九七六二号は名簿に「知事による赦免《しゃめん》」と記録され、かくしてジェイムズ・ヴァレンタイン氏が陽《ひ》の光の中に歩み出た。
小鳥の歌も、風にそよぐ緑の木々も、花の香りもそっちのけで、ジミーはまっすぐ通りのレストランに向かった。ここで彼は自由の最初の甘美な喜びを、ひな鶏の丸焼きと白ブドウ酒一本という形《もの》で味わった。……それから後に葉巻を一本。所長のくれたやつなんかより一級上のしろものである。
レストランを出ると、ゆったりとした足どりで駅へ向かった。戸口にすわっている盲目の乞食の帽子に二十五セント玉をひとつ投げ入れてやって、それから汽車に乗りこんだ。三時間ほどして、州境に近いある小さな町でおり、それから、マイク・ドーランという男の店《カフェ》に行って、マイクと握手をした。彼はカウンターの向こうに一人きりでいた。
「すまなかったなあ、もっと早くしてやれなくって、ジミー」とマイクは言った。「だが、スプリングフィールドからえらく抗議《いちゃもん》がつきやがってな、知事のやつ、すんでのことで尻込みするところだったんだぜ。大丈夫か気分は?」
「ああ、いいよ」とジミーは言った。「おれの鍵、あるか?」
彼は鍵を受けとると、二階へあがっていって、いちばん奥の部屋のドアをあけた。なにもかもがあの時のままだった。ゆかにはまだベン・プライスのカラー・ボタンが落ちていた。あの名刑事の着ていたワイシャツの襟《カラー》からちぎれたものだ。彼らがジミーを組みふせて逮捕する時のことである。
壁から折りたたみ式のベッドを引き出すと、ジミーは壁の羽目板を一枚すべらせて、埃《ほこり》のかぶったスーツケースを引っぱり出した。そして、これをあけると、東部きってのみごとな金庫破りの道具をなつかしそうに見つめた。それは何ひとつ欠けているもののない完全な一式で、特別に焼きを入れた鋼鉄でできていた。ドリルといい、穿孔器《パンチ》とい、曲がり柄《え》の錐《きり》といい、鉄梃《かなてこ》といい、鋏《やっとこ》といい、らせん状の錐といい、みんな最新式のものばかりで、おまけにジミーが自分で考案したものも二、三あって、これなどは彼の自慢の種でもあった。九百ドル以上もかけて、彼が仲間の……その、つまりこうしたものを、この種の職業《なりわい》にしている人たちのために作ってくれるあの場所で、作らせたのだ。
三十分ほどすると、ジミーはおりてきて、店先にやってきた。そのときはもう、趣味のいい、ぴたりと体にあった服を着込んでいて、手には埃《ほこり》をはらってきれいに磨《みが》いた例のスーツケースをさげていた。
「何か仕事かい?」とマイク・ドーランは愛想《あいそ》のいい声でたずねた。
「おれがか?」とジミーは当惑したような口調で言った。「さあね。わたくしは、ニューヨーク・アマルガメイテッド・ショート・スナップ・ビスケット・クラッカー・アンド・フラズルド・ウィート・カンパニーから参りました者でございまして」
このせりふはマイクを非常に喜ばせた。おかげでジミーはその場でセルツァー・ミルクを一杯のまなければならなくなった。彼は決して「強い」飲物には手を出さなかった。
ヴァレンタイン第九七六二号が釈放されて一週間後に、鮮やかな手口の金庫破りがインディアナ州のリッチモンドにあった。犯人の手がかりは何ひとつなかった。わずか八百ドルの金ではあったが、そっくり消えているのである。それから二週間後に、ローガンズポートで、新案特許の改良型盗難防止装置つき金庫が、まるでチーズのようにいとも簡単にあけられて、大枚一千五百ドルの現金が盗まれた。有価証券や銀貨には手もふれていなかった。このことが刑事たちの関心をひきはじめた。それから、ジェファーソン・シティの銀行の旧式な金庫が活動をはじめ、その噴火口から五千ドルにものぼる札束を噴きあげた。被害も今では相当な額に達したので、この事件はベン・プライス級の名刑事の手にゆだねられることになった。
それぞれの報告書を比べてみると、金庫破りの手口にいちじるしく似通《にかよ》ったところが認められた。ベン・プライスは盗難の現場をそれぞれ調査してまわった。そしてこんなことをつぶやいた。
「あれは、しゃれ男ジム・ヴァレンタインの手口だ。奴め、また仕事をはじめやがったぜ。あの組み合わせ錠の取っ手をみろ、……まるで雨の日に大根を引っこぬくように、すっぽりとやられている。奴には、こういう仕事のできるうってつけの鋏《やっとこ》があるんだ。それにどうだ、あの翻転機《タンブラー》だってみごとに抜きとってあるじゃないか! ジミーはいつだって穴は一つしかあけない。そうだ、やはりこれはヴァレンタイン先生をお迎えしなくちゃあならんぞ。今度こそ奴にはたっぷり年期を務めさせてやる。短期だの赦免《しゃめん》だのとバカなまねはさせんからな」
ベン・プライスはジミーのやり口を知っていた。あのスプリングフィールドの事件を調べているうちにわかったのだ。高とび、すばやい逃走、共犯者のいないこと、上流社会に趣味をもつこと……こうしたやり口のおかげで、ヴァレンタイン氏はいつも巧みに罰から身をかわす人物として有名になっていた。ベン・プライスがこの捕らえどころのない金庫破りの追跡を開始したということが発表されると、盗難防止装置つきの金庫を持っている他の連中もこれまでよりは安心するようになった。
ある日の午後、ジミー・ヴァレンタインと彼のスーツケースとが郵便馬車からエルモアの町におり立った。アーカンソー州の黒カシの生いしげる地方の、鉄道から八キロも離れたところにある小さな町である。ジミーは、運動選手の若々しい四年生が大学から帰省してきたばかりといった様子で、板張りの歩道をホテルの方へと歩いていった。
ひとりの若い女が通りを渡ってきて、角のところで彼とすれちがうと、そのまま玄関へ入って行った。入口には「エルモア銀行」という看板が出ていた。ジミー・ヴァレンタインは彼女の目を見つめたとき、自分が何者かも忘れて、別人になった。女の方も目をふせて、心もち顔を赤くした。ジミーのようなスタイルと容貌とをもった若者は、このエルモアではめずらしかったのである。
ジミーは、銀行の上がり段のところにぶらついていたひとりの少年の襟《えり》くびをつかんだ。まるでストック・ホールダーとでもいった調子である。そして町の様子を、ときどき小銭《こぜに》を餌《えさ》にあたえながら、あれこれとききはじめた。そのうちにさっきの若い女が出てきた。スーツケースを持ったこの若者なぞ全く眼中にないといった様子である。そしてそのまま行ってしまった。
「あのお嬢さんはポリー・シンプソンさんじゃないかね?」とジミーは、わざと空とぼけてたずねた。
「ちがうよ」と少年は言った。「あれはアナベル・アダムズだよ。あの人のおっとさんがこの銀行をもっているんだ。おじさん、エルモアへ何しに来たの? それ、金でできた時計のくさりかい? おいら、ブルドッグを買うつもりなんだ。もっとお金ある?」
ジミーはプランターズ・ホテルへ行って、宿帳にラルフ・D・スペンサーと書きこみ、部屋をひとつ予約した。それからデスクにもたれかかって、番頭《クラーク》に自分の用向きを話した。
彼は言った。自分がエルモアに来たのは、しかるべき場所を探して商売を始めるためである。この町で現在、靴商はどうであろうか? 自分は靴商などを考えているのだが。入りこむすきがあるだろうか?
番頭《クラーク》はジミーの服装と態度とに感銘した。彼自身も、うすっぺらな金箔《きんぱく》をかぶせたようなエルモアの若者たちに対して、流行の手本のようなものになっていたのだが、今や己《おのれ》の欠けているところにいろいろと気がついたからである。ジミーのネクタイの結び方を何とか探り出そうとしながら、彼は愛想よく情報を提供した。
ええ、靴の方でしたら、きっとうまいあきがあるはずでございますよ。なにしろこの町には専門の靴店はございませんからね。織物屋と雑貨屋とであつかっているんでございます。店商《みせあきない》のほうは、もうどの方面もみな、かなりうまくいっております。スペンサーさんもぜひエルモアに落ち着くようおきめなさるといいですね。住み心地のよい町で、町の人たちも大変きさくな人たちばかりだということがすぐおわかりになりますよ。
スペンサー氏は、ではこの町に二、三日滞在してひとわたり様子を見ることにしようか、と言った。いやいや、ボーイなど呼ばんでもいい。このスーツケースは自分で運んでゆく。少しばかり重いからな。
ジミー・ヴァレンタインの死んだ灰の中から……つまり、とつぜん襲いかかったこの金かそれとも女か、二つに一つと迫る恋の焔《ほのお》によって焼きすてられた灰の中から……立ちあがった不死鳥のラルフ・スペンサー氏は、エルモアにとどまって、そして成功した。靴店をひらいて商売は大いに繁昌したのである。隣り近所とのつきあいもうまくいって、多くの友だちができた。そして心の願いも達成した。アナベル・アダムズ嬢と近づきになり、ますますその魅力のとりことなった。
一年の終わりのころには、ラルフ・スペンサー氏の状態は、こんなふうであった。つまり、彼は町の人々の尊敬をかちえ、店も隆盛《りゅうせい》をきわめ、アナベルとの間には婚約も成立して、二週間後には結婚という運びにまでなっていた。アダムズ氏も典型的な努力型の田舎《いなか》銀行家であるだけに、スペンサーには賛成した。アナベルのスペンサーに対する誇りは、愛情と同じくらいに大きかった。彼はアダムズ氏の家庭でも、またすでに嫁《とつ》いだアナベルの姉の家庭に行っても、しごくくつろいだ気持ちになって、まるでもう家族の一員になっているかのような様子であった。
ある日、ジミーは自分の部屋にすわって、こんな手紙をしたため、それをセントルイスに住む旧友の一人の安全な宛先に送った。
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なつかしき相棒よ
今度の水曜日の夜、九時にリトル・ロックのサリヴァンの店に来てほしい。ちょっとした用件をかたづけてもらいたいのだ。それから、おれの道具一式をおまえに進呈もしたい。きっと喜んで受けとってくれるだろうと思っている。……千ドル積んだってこれと同じものは作れないのだからな。おれはな、ビリー、あの仕事はやめてしまったのだ……一年前にだ。今はすてきな店をもっている。まともな暮らしをしているのだ。そして今から二週間後には、この世でいちばんすばらしい女性と結婚するのだ。それがたったひとつの生き方だ、ビリー……まっとうな生き方なのだ。おれは百万ドルくれるといったって他人さまの金にはびた一文手をつけたくない。結婚したら、何もかも売りはらって西部へ行くつもりだ。あそこなら、旧悪をもち出されるようなヤバイこともまずないだろうからな。なあ、ビリー、彼女はまったく天使だぜ。おれを信じきっている。だからもうおれは、全世界をくれると言ったって、曲がったことはしたくないのだ。サリーの店には必ず来てくれよ、ぜがひでも会わなくてはならないからな。道具はその時もってゆく
旧友ジミーより
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ジミーがこうした手紙を書いた後の月曜日の夜、ベン・プライスが、こっそりと貸馬車にゆられながら、エルモアの町に乗りこんできた。そして、いつもの静かなやり方で町をぶらぶらと歩きまわっているうちに、やがて自分の知りたいと思っていたものを見つけ出した。スペンサー靴店の向かい側にあるドラッグストアから、彼はラルフ・D・スペンサーをじっと観察した。
「銀行家の娘と結婚するんだって、ジミー?」とベンは心の中でそっとつぶやいた。「さあ、それはどうかな!」
その次の朝、ジミーはアダムズの家で朝食をとった。その日はリトル・ロックへ行って自分の婚礼衣装をあつらえたり、アナベルに何かすてきなプレゼントを買ってきてやる予定だった。彼がこの町を出るのは、このエルモアに来て初めてのことであった。それに、あの最後の本職の「仕事」をやってから、もう一年以上もたっていた。だから、思いきって出て行っても大丈夫だろうと考えたのである。
朝食がすむと、家族はうちそろって下町に出かけた。……アダムズ氏、アナベル、ジミー、そしてアナベルの結婚した姉、それにその子どもたちで、五つと九つになる二人の娘。一行は、ジミーがいまもなお宿を借りているホテルの近くまでやってきた。そこで彼は自分の部屋にかけあがっていって、例のスーツケースをもってきた。それからみんなで銀行へと行った。そこにはジミーの一頭立ての馬車とドルフ・ギブソンとが待っていた。ジミーを駅まで送って行くわけである。
一同は背の高い、彫刻のほどこしてある樫《かし》の仕切りを通って中の事務室へ入っていった。……ジミーもいっしょである。というのも、アダムズ氏の未来の花婿《はなむこ》はどこででも歓迎されたからであった。事務員たちは、近々アナベル嬢と結婚することになっているこの顔立ちの立派な愛想のいい青年から挨拶されると、みな喜んだ。ジミーは手にしたスーツケースを下においた。アナベルは、幸福感と元気いっぱいの若さとで心をわきたたせていたので、ジミーの帽子をかぶるとそのスーツケースを持ちあげた。
「どうこの格好《かっこう》、すてきなセールスマンでしょう?」とアナベルは言った。「まあ! ラルフ、これずいぶん重いのね。まるで金塊がいっぱい入っているようだわ」
「ニッケルめっきの靴べらが何本も入っているんだよ」とジミーは落ち着いた声で言った。「返品するのさ。自分で持ってゆけば運送費が節約できると思ってね。このところ、ぼくはだいぶ倹約家になってきたんだよ」
エルモア銀行は新しい金庫室を作ったばかりのときであった。アダムズ氏はそれが大変に自慢で、ぜひともみんなに見てもらいたいと言ってきかなかった。金庫室は小さなものではあったが、新案特許のドアがついていた。それは、三本の頑丈《がんじょう》な鋼鉄のボルトをひとつのハンドルが同時に連動させて閉められる式のもので、おまけに時限錠《タイム・ロック》もついていた。
アダムズ氏は顔をかがやかせながらその仕掛けをスペンサー氏に説明した。するとスペンサーは儀礼的な関心こそ示しはしたが、あまり専門にわたるような関心は示さなかった。二人の子どものメイとアガサとは、ぴかぴか光る金属や、奇妙な形の時計やハンドルなどを見て喜んでいた。
一同がこんなことをしているあいだに、ベン・プライスはぶらりと銀行に入ってきて、体の重みを片方の肘《ひじ》にもたせかけながら、さりげなく、中の様子を仕切りのあいだからうかがった。窓口の出納《すいとう》係には、自分は別に用があるわけではなく、ただ知りあいの男を待っているだけなのだと告げていた。
とつぜん、するどい叫び声がひと声、ふた声、女たちから起こった。そして大騒ぎとなった。おとなたちが気のつかぬうちに、あのメイという九歳になる女の子が、ふざけて、アガサを金庫室の中に閉じこめてしまったのだ。そしてボルトをしめ、組み合わせ錠のハンドルまで回してしまったのである。さいぜんアダムズ氏がやるところを見ていて、そっくりそのとおりにやったのであった。
老銀行家はハンドルに飛びつくと、しばらくのあいだそれを引っぱってみた。
「このドアはあくはずがない」と彼はうめいた。「時計は巻いてないし、組み合わせ錠もセットしてはなかったからな」
アガサの母親は再び、ヒステリックな悲鳴をあげた。
「しっ、静かに!」とアダムズ氏は言って、ぶるぶるとふるえる片手をあげた。「みんな、しばらく静かにしていなさい。アガサ!」と彼は声を限りに呼びかけた。「おじいちゃんの言うことをよく聞くんだぞ」
そしてみんなが息をころして待っていると、その耳にようやく子どものかすかな声がきこえてきた。まっ暗な金庫室の中で、恐怖のあまり激しく泣きさけんでいるのである。
「あたしの大事な子がっ!」と母親は声をあげて泣いた。「あの子、おびえて死んでしまうわ! ドアをあけてちょうだい! ねえ、こじあけてちょうだい! あなた方、男のくせに、何かできないんですか?」
「リトル・ロックまで行かなければ、このドアをあけられる者はおらんのだ」とアダムズ氏は、ふるえる声で言った。「ああ困った! スペンサー、どうしよう? あの子は……あの中では、長くはもたんぞ。空気だってそんなにありはせんし、それに、あの子はおびえてひきつけを起こすじゃろうからな」
アガサの母親は、今ではもう気が狂ったようになって、両手で金庫室のドアをたたいていた。ある者は乱暴にも、ダイナマイトを使ったらどうかと言いだした。アナベルはジミーのほうに向きなおった。その大きな瞳《ひとみ》は苦悩にみちていた。しかしまだ絶望的な色ではなかった。女にとっては、自分の尊敬する男の力に全く不可能などというものはあり得ないように思えるのだ。
「どうにかできないかしら、ラルフ……『やってみてちょうだい』、ねっ」
彼は彼女をじっと見つめながら、奇妙な、やさしい微笑を唇とするどい目とにうかべた。
「アナベル」と彼は言った。「きみのつけているそのバラの花をぼくにくれないか」
聞きちがいではなかろうかと自分の耳を疑いながらも、彼女はバラのつぼみをドレスの胸からはずして、彼の手の中においた。ジミーはそれをチョッキのポケットにねじこむと、上衣をかなぐり捨てて、ワイシャツの袖をまくりあげた。と、同時に、ラルフ・スペンサーは消えて、ジミー・ヴァレンタインがそれに代わった。
「そのドアから離れてください、どなたもです」と彼は言葉みじかく命令した。彼は例のスーツケースをテーブルの上において、ぱっとそれをひらいた。その時から彼は他の者の存在なぞ意識しなくなったように思われた。彼は、ぴかぴか光る奇妙な道具を手早く、そして順序よく並べながら、静かに口笛をふきはじめた。仕事にかかるとき、いつもそうしていたのである。じっと黙りこんで、身動きひとつせずに、他の者たちは彼を見つめていた。その様子はまるで呪文《じゅもん》にでもかけられてしまったかのようであった。
一分もすると、ジミーの愛用のドリルが鋼鉄のドアの中へ滑るようにくいこんでいった。十分もすると、……これは彼自身の金庫破りの記録を更新するものであるが……彼は中のボルトをはね返してドアをあけた。
アガサはほとんど虚脱《きょだつ》の状態であったが、それでも事なきを得て、母親の腕にしっかりと抱きしめられた。
ジミー・ヴァレンタインは上衣を着ると、仕切りの外へと歩きだし、表の出口の方へと向かった。その途中で、聞きおぼえのある遥《はる》か遠くの声が、「ラルフ!」と呼ぶのを聞いたような気がした。しかし彼は決してためらいはしなかった。
戸口にはひとりの大きな男が、やや立ちふさがるような格好で立っていた。
「やあ、ベン!」とジミーは言った。その時もなおあの奇妙な微笑がうかんでいた。「とうとう嗅《か》ぎつけたな。じゃあ、行くとするか。もうこうなっちゃあ、どっちにしたって大した違いはなかろうからな」
すると、ベン・プライスはいささか奇妙なふるまい方をした。
「なにか勘《かん》ちがいをしているようですな、スペンサーさん」と彼は言った。「わたしがあなたに見覚えがあるなどと思わんでください。さあ、あなたの馬車が待っているようですよ」
そしてベン・プライスはくるりと背を向けると、そのまま通りをぶらぶらと歩み去っていった。
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運命の道
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わたしは多くの道を放浪《さまよ》いながら
将来あるべきものを探し求める
真実の 強い心と そこにひそむ輝く愛……
この二つこそわたしの努力を援《たす》けて
わたしの運命を定め あるときは避け あるときは支配し
あるときは形づくってくれるものではないのだろうか?
(ダヴィッド・ミニョの未発表の詩より)
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歌は終わった。歌詞はダヴィッドの作ったもので、曲はこの地方のものであった。居酒屋《いざかや》のテーブルを囲んでいた連中は、心からの拍手を送った。というのも、この若い詩人がみんなに酒をふるまってくれたからである。ただひとり、公証人《こうしょうにん》のパピノー氏だけは、この歌詞をきいて少しばかり首を横にふった。彼はなかなかの読書家であったし、ほかの連中のようには酔っていなかったからである。
ダヴィッドは村の通りへ出ていった。すると夜の大気が酒の霧《きり》を頭から追いちらした。そして、ふと記憶がよみがえってきて、自分とイヴォンヌとが昼間けんかをしたことや、その夜家を飛び出し、外の広い世界に名声や名誉を探し求めに行こうと決心したことなどが、頭にうかんできた。
「おれの詩がみんなの口にのぼるようになれば」と彼はすっかり浮きうきした気分になってつぶやいた。「彼女だってきっと、今日言ったあんなひどい言葉を考えなおすようになるだろう」
居酒屋にいる騒々しい連中をのぞけば、この村の人々はもうみんな寝静まっていた。ダヴィッドは父の家の家畜小屋の中にある自分の部屋にそっと忍びこむと、わずかばかりの衣類をひと包みにした。その包みを棒の先にひっかけると、ヴェルノアから遠ざかってゆく街道筋に顔をむけた。
彼は、柵《さく》に入れられて眠っている父の羊の群れのそばを通った……彼が毎日世話をやき、野原に連れ出しては、紙きれに詩を書いているあいだ、草を喰わせてやっていたあの羊である。
目をやると、明かりがひとつ、まだイヴォンヌの窓にともっていた。すると気弱さがとつぜん彼の決心をぐらつかせた。きっとあの明かりは、彼女が眠れずに昼間の腹立ちを後悔しているためなのだろう、朝になったら恐らく……。いや、いけない! もう決心したんだ。ヴェルノアはおれなんかの住む所じゃあない。ここの人間は一人だっておれの気持ちがわかっちゃくれないんだ。あの道の遥《はる》か彼方に、おれの運命とおれの未来とがあるんだ。
ほの暗い、月の光に照らされた平野を突っ切って、十五キロほど道はのびていた。それは農夫の耕した畦《あぜ》のようにまっすぐだった。村の人たちは、この道が少なくともパリまではのびていると信じていた。だから、このパリという名をこの詩人は歩きながら何度も口の中でつぶやいた。ヴェルノアからそんな遠いところまでダヴィッドは一度も旅したことがなかったのである。
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左の道
それから十五キロほどこの道は走って、そして謎の道となった。もう一つの、もっと大きな道に、直角につきあたったのだ。ダヴィッドは立ち止まって、しばらくのあいだ心を決めかねていたが、やがて道を左へとることにした。
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この更に重要な街道には、地面にくっきりと車輪の跡がついていた。つい最近、車が通ってつけていったものである。三十分ほど歩いてゆくと、この車輪の跡を残してゆく主《ぬし》がわかった。大きな馬車が、けわしい山の登り口のところで、小川の泥にはまり込んでいるのが見えたからである。馭者《ぎょしゃ》と馬丁《ばてい》たちとが、どなったり手綱をひっぱったりしていた。道ばたには大きな体つきの、黒い服をきた男と、長くて明るい色の外套に身を包んだ、きゃしゃな体つきの貴婦人とが立っていた。
ダヴィッドが見ていると、馭者たちの努力には技術の足りないところが見受けられた。そこで彼はひそかにこの仕事の監督を買って出た。彼は馬丁たちに声をかけて、馬をそんなにどなったりしないで、その手を車輪にかけて押してみてはどうかと指図した。そこで馭者だけがいつもの慣れた声で馬をはげますことになった。ダヴィッドは自分のたくましい肩を馬車の後部にあてがって押しあげてやった。そしてみんなが呼吸をあわせてぐいと力を入れると、そのはずみに大きな馬車はぐらりと固い地面にあがった。馬丁たちは、それぞれ自分の持ち場にもどった。
ダヴィッドはしばらくのあいだ片方の足を休めて立っていた。大きな体つきの紳士は手を振って合図した。「馬車に乗りたまえ」
その声は体と同じように大きかったが、技巧と習慣とでやさしく和らげられていた。こうした声のおもむく所には、ただただ服従があるばかりであった。若い詩人のためらいは、ほんのわずかの間だけであったが、その間にもまた相手の言葉がくりかえされて、ためらいはますます短いものになった。ダヴィッドの一方の足が馬車のステップにかかった。暗がりの中でも、彼には後ろの席に座っている貴婦人の姿をおぼろげに認めることができた。そこで、その反対側に座ろうとすると、例の声がふたたびその意志に彼を従わせた。
「ご婦人の側にかけたまえ」
紳士は大きな体を前の席へと移した。馬車は丘を登りはじめた。貴婦人は黙ったまま隅のほうにちぢこまっていた。ダヴィッドには彼女が年寄りなのか年若なのか見当がつかなかった。しかし、その衣裳からただよい流れるほのかな甘い香りに、彼の詩人としての空想は刺激されて、その神秘のかげにはきっと美しさがひそんでいるにちがいないと思えた。この場には、彼がこれまでいくたびとなく想像してきたような冒険があった。しかし今のところそれを解く鍵はなかった。というのも、この不可解な人たちといっしょに座っているあいだ、言葉はひとことも交されなかったからである。
一時間ほどすると、ダヴィッドは窓越しに、自分たちの馬車がどこかの町の中を走っていることがわかった。やがてその馬車は、扉をしめきった真っ暗な家の前で止まった。すると馬丁が一人おりていって、いらだたしそうに扉をたたいた。二階の格子窓がとつぜん大きくあくと、寝帽《ナイト・キャップ》をかぶった頭が飛び出した。
「誰だね、こんな夜ふけにまっとうな人間を叩き起こすのは? あたしんとこはもう閉《し》まっているんだよ。上等のお客が出歩くにゃあ、もう遅すぎる時刻だよ。扉を叩くのはやめて、さっさと行っておくれ」
「開けろ!」と馬丁は大声で言った。「開けるんだ、ボーペルテュイ侯爵さまだぞ」
「ああ!」と二階の声が叫んだ。「お赦《ゆる》しください、お殿さま。知らなかったものでございますから……なにしろこんな夜ふけでこざいましょう……今すぐ戸をお開けいたします。そしてこの家は、ご自由にお使いいただきます」
内側で鎖や閂《かんぬき》の鳴る音がしたかと思うと、すぐに扉が開かれた。寒さと不安とのために体をぶるぶると震わせながら、「|銀の大徳利亭《シルヴァー・フラゴン》」の主人は、服を半分ひっかけたまま、ろうそくを手にして戸口に立っていた。
ダヴィッドは侯爵《こうしゃく》につづいて馬車をおりた。
「ご婦人に手をかしてやってくれたまえ」とダヴィッドは命令された。
詩人はそれに従った。彼女をたすけおろすとき、彼女の小さな手がふるえているのが感じられた。
「家の中へ」
それが次の命令であった。
一行が入った部屋は、宿屋の細長い食堂であった。大きな樫《かし》のテーブルが部屋いっぱいにのびていた。大きな体つきの紳士は、その手近な端にあった椅子に腰をおろした。貴婦人は、壁を背にした椅子に身をしずめた。なにやら非常に疲れている様子である。ダヴィッドはその場に立ったまま、これから暇乞《いとまご》いをして自分の旅をつづけるにはどうするのが一番よかろうかと考えていた。
「お殿さま」と宿の主人が、頭を床にこすりつけんばかりにお辞儀《じぎ》をしながら言った、「お、お越しくださいますことが前もって、わ、わかっておりましたならば、お、おもてなしの用意もいたしておいたのでございますが。ぶ、ぶどう酒と鶏の冷肉と、それに、た、たぶん……」
「ろうそくを」と侯爵は言って、肉づきのよい真っ白な片方の指を独特な仕草《しぐさ》でひろげた。
「は、はい、お殿さま」
主人は六本ばかりろうそくを持ってくると、それに火をつけて、テーブルの上に立てた。
「もしお殿さまが|ぶどう酒《ブルガンディ》をお召しあがりになるようでございましたら、……ひとたるござい……」
「ろうそくを」と侯爵は言って、指をひろげた。
「かしこまりました……ただいますぐ……飛んでまいりますから、お殿さま」
さらに十二本ほどの火のついたろうそくの明かりで、食堂は輝きわたった。侯爵の大きな体は椅子からはみ出るほどであった。頭から足の先まで真っ黒な服装をしており、ただ純白のひだが手首と襟《えり》とについているだけであった。剣の柄や鞘《さや》も真っ黒であった。表情はせせら笑いを浮かべた高慢な表情であった。ぴんとはねあがった口ひげの先は、人をばかにしたように輝いているその目の近くにまでのびていた。
貴婦人は身じろぎひとつせずに座っていた。そしてその時はじめてダヴィッドは、彼女が若くてしかも哀愁にみち、何か哀願するような美しさをたたえていることに気がついた。そのさびしそうな美しさに見とれていた彼は、やがてはっとして我《われ》にかえった。とつぜん侯爵のあの鳴りひびくような声がしたからである。
「そちの名はなんと申すのか、そして職業は?」
「ダヴィッド・ミニョ。詩人です」
侯爵の口ひげは一段と目の近くまではねあがった。
「どのようにして暮らしをたてているのか?」
「わたくしは羊飼いもしております。父の羊を世話しておりました」ダヴィッドは答えた。昂然《こうぜん》と頭をもたげてはいたが、頬にはぱっと紅《くれない》がさした。
「では、よく耳をかたむけるがよい、羊飼いの詩人君、今夜たまたま君が見つけた幸運なるものにな。この婦人はわたしの姪《めい》で、リュシ・ド・ヴァレンヌ姫と申す者だ。高貴な生まれで、年収一万フランの財産をもっておる。姫の魅力については、その目で見られる通りだ。もしこれだけの財産目録で君の羊飼いの心が満足するならば、姫はただひとことで君の妻となる。まあ、口出しをせんでわたしの話をきくがよい。今宵《こよい》わたしは姫をヴィルモール伯爵の城へ連れていった。姫の婚約者だ。客も集まり、司祭も待っておった。身分といい、財産といい、申し分のない相手との結婚がまさに成立しようとしておった。ところが祭壇の前でこの姫は、あれほどおとなしく従順であったこの女が、いきなり牝豹《めひょう》のようにむかってきて、このわしを残忍じゃ罪作りじゃ、とののしりおった。そしてあげくの果ては、あっけにとられている司祭の目の前で、わしがきめておいてやった婚約をぶちこわしてしまったのだ。わしは即座に一万《よろず》の悪魔にかけて誓った。必ずやこの姫は城を出たあと最初に出あった男と結婚させてみせる、たとえその男が王子であろうと、炭焼きであろうと、あるいはまた盗賊であろうと、とな。そして君が、羊飼いよ、その最初の男なのだ。姫は今夜結婚しなければならぬ。君がいやだと申せば、その時はほかの男とだ。十分間だけ猶予《ゆうよ》を与えるから、その間に心をきめてもらいたい。つべこべ申したり、質問をしたりしてわたしを怒らせてはならぬ。十分間だぞ、羊飼い、しかもそれはすぐに経《た》つのだ」
侯爵は真っ白な指でテーブルの上をとんと音高く叩いた。そしてそのまま黙りこくって返事を待った。それはまるで、どこかの大きな邸宅が扉も窓も閉めきって人を寄せつけまいとするかのようであった。
ダヴィッドは口をききたかった。しかしこの大きな男の態度を見ると、舌がひきつってしまった。そこで彼は貴婦人の椅子の近くに行ってお辞儀をした。
「お姫さま」と彼は言った。そして自分の言葉が、これほど上品でこれほど美しい人の前に出ても、すらすらと流れ出るのを知ってびっくりした。「お聞きのようにわたくしは羊飼いです。そして時々は自分が詩人であると空想することもございます。もし美しい人を崇《あが》め、いつくしむことが詩人の証拠であるとすれば、わたくしの空想はもうすでに力を得ております。なにかあなたのお役に立つことがわたくしにできますでしょうか、お姫さま?」
その若い婦人は顔をあげて、涙の乾いた悲しげなまなざしで彼を見つめた。この冒険の重要さに真剣な表情となった彼の率直な紅潮した顔、彼のたくましい、直立した姿、碧《あお》い瞳にうかんだ同情の涙、そしてまた恐らくは、長いあいだ求めて得られなかった救いや好意の差し迫った心要からでもあろう、彼女は、わっとばかりに泣きだした。
「あのう」と彼女はやがて低い声で言った。「あなたは誠実な優しいお方のようにお見うけします。あの人はわたくしの伯父で、父の兄にあたり、わたくしのたった一人の縁者でございます。伯父はわたくしの母に想いをよせていました。そしてわたくしが母に似ておりますゆえに、わたくしを憎んでいるのでございます。伯父はわたくしの一生を長い恐ろしいものにしてしまいました。わたくしは伯父の顔つきさえ恐ろしく、これまで一度も伯父の言葉にさからったことはございません。ところが今夜、伯父はわたくしを、三倍も年上の男と結婚させようとしたのでございます。
どうぞお赦しください。あなたにまでこんなご迷惑をおかけしてしまって。もちろん、あなたは伯父が押しつけようとしているこんな気違いじみたことなどお断りくださいまし。でもあなたのお優しい言葉には、せめてお礼を申しあげさせてください。わたくし、そうした優しい言葉をかけられたことは長いあいだなかったのでございます」
このとき、詩人の目には優しさ以上のものがあった。彼はまさしく詩人であったにちがいない。なぜならイヴォンヌのことなど忘れてしまい、このすばらしい初めての美しさが、その新鮮さと優雅さとをもって彼の心をとらえていたからである。彼女からただようほのかな香りは、不思議な感情で彼を満たした。彼の優しいまなざしは、情熱をこめて彼女のうえにそそがれた。彼女は渇望《かつぼう》するようにそれにすがりついた。
「十分という時間が」とダヴィッドは言った。「わたくしに与えられています。その短い時間に、わたくしは何年もかけなければなしとげられないようなことを果たさねばなりません。わたくしは、あなたをお気の毒に思うなどとは申しません、お姫さま。そう申したのでは本当の言葉にはならないでしょう……わたくしは、あなたを愛しています。わたくしは、まだあなたから愛を求めることはできません。しかしあなたをこの残酷な男からお救いすることをわたくしにお許しください。そうすればやがては、愛もおとずれますでしょう。わたくしには未来があると思います。いつまでも羊飼いでいるつもりはありません。さしあたっては真心こめてあなたをいつくしみ、あなたの生活をこれ以上悲しいものにはしないつもりです。あなたの運命をわたくしにおまかせくださいますか、お姫さま?」
「ああ、あなたは同情のためにご自分を犠牲になさるおつもりですのね!」
「愛のためです。もう時間がありません、お姫さま」
「あなたはやがて後悔なさいます。そしてわたくしを軽蔑なさいます」
「わたくしのこれからの生涯は、ただひたすらあなたを幸福にし、わたくし自身をあなたにふさわしい人間とすることにあります」
彼女の美しい小さな手が、マントの下からそっと彼の手の中にすべりこんだ。
「おまかせしましょう」と彼女はささやいた。「わたくしの一生を。そして……そして、愛も……あなたが考えていらっしゃるほど遠くにあるのではないかもしれません。伯父にお話しください。伯父の目のとどかぬところへ行けば、わたくしも忘れることができましょう」
ダヴィッドは行って侯爵の前に立った。黒い姿が動いて、嘲《あざ》笑うような目がちらりと食堂の大時計を見た。
「あと二分しか残っておらぬ。羊飼いの分際で八分も必要だったのか、美人で財産もある花嫁をもらうかどうかをきめるためにな! さあ、申してみろ、羊飼い、そのほうは姫の夫となることを承諾いたすか?」
「お姫さまは」とダヴィッドは昴然《こうぜん》と立ったまま言った。「光栄にもわたくしの願いをおきき容《い》れくださいました。妻になっていただけますよう申しあげたのです」
「よくぞ申した!」と侯爵は言った。「そのほうにはなお宮廷人となる素質があるぞ、羊飼い君。姫は、なんにしたところで、もっと悪いくじをひいてもよかったのだ。さあ、教会と悪魔の許すかぎり手早くこの件をかたづけてしまおう!」
彼はテーブルを剣の柄で激しくたたいた。宿の主人はひざをがくがくいわせながら更にたくさんのろうそくをもってやってきた。侯爵のあの気まぐれな要求を先どりしたいと考えたからである。
「司祭を呼んでまいれ」と侯爵は言った。「司祭だ。わかったか? 十分でここへ連れてまいるのだ、さもないと……」
主人は持っていたろうそくをほうり出して、飛んでいった。
司祭はねむそうな目をし、腹立たしそうな様子でやってきた。そしてダヴィッド・ミニョとリュシ・ド・ヴァレンヌとを結婚させ、侯爵から投げ与えられた金貨をポケットにして、よろよろとふたたび夜の暗やみの中に出ていった。
「酒だ」と侯爵は命令しながら、あの不気味な指を宿の主人にむかってひろげてみせた。
「注いで回れ」と彼は言った、
酒が運ばれてきた時である。彼は、ろうそくの明かりに照らされたテーブルの上座に立った。その姿は悪意と慢心との黒い山のようであった。そして毒と化した昔の愛の想い出のようなものを目にたたえながら、その視線を姪のうえにそそいでいた。
「ミニョ君」と彼は言ってグラスをあげた。「君が飲む前に、これだけは言っておこう。君は妻としてこの女を娶《めと》ったが、この女こそ君の一生を不潔な忌《いま》わしいものにする女なのだ。この女の体の中に流れている血は、真っ黒い嘘《うそ》と真っ赤な破滅とを伝える母親ゆずりの血なのだ。この女はいまに君にも恥辱と不安とをもたらすだろう。この女に伝わった悪魔は、ほれ、その目や肌や口にひそんでいる。そしてその目や肌や口は百姓に媚《こび》を売るようなあさましいことさえするのだ。詩人君、これが君の幸福な人生の約束なのだ。さあ、飲みたまえ、君の酒を。姫よ、これでようやくわたしもお前を厄介払いすることができたぞ」
侯爵はグラスを乾《ほ》した。小さな悲痛の呼び声が、まるで不意に負わされた傷口からのように、娘の唇からもれた。ダヴィッドはグラスを手にしたまま、三歩ほどすすみ出ると、侯爵に面とむかった。その態度には羊飼いらしいところはほとんどなかった。
「先刻」と彼は静かに言った。「あなたは光栄にもわたくしを『君』づけでお呼びくださいました。それゆえ、こう考えてもよろしゅうございましょうか、つまり、姫との結婚によってわたくしも多少はあなたに対して、その……言わば、妻によって得られた身分の点で……より近くなり、わたくしの考えておりますあるちょっとした事柄について、侯爵と対等の位置に立ってお話しする権利を与えられているのだと?」
「よろしかろう、羊飼いよ」と侯爵はせせら笑いながら言った。
「それならば」とダヴィッドは言って、自分を嘲笑《あざけ》っている侯爵のその傲慢《ごうまん》な目にグラスの酒をあびせかけた。「たぶん、わたしと決闘することをご承諾くださるでしょうな」
侯爵の怒りはたちまち呪《のろ》いの言葉となって爆発した。角笛から鳴りひびくあの鋭い音にも似ていた。彼は剣を真っ黒な鞘《さや》からひきぬいた。そして、おろおろしている宿の主人に声をかけた。
「そこの剣をこの下郎《げろう》にわたしてやれ!」
それから例の貴婦人のほうをむきながら、彼女の心臓を凍らせるような笑いを浮かべ、そして言った。「お前はまったく世話のやける女だな、姫よ。どうやらわたしはひと晩のうちにお前の婿を探してやったり、お前を後家にしてやったりしなくてはならぬらしいからな」
「わたしには剣術の心得がありません」とダヴィッドは言った。彼は顔を赤らめながら、新妻の前で告白した。
「『わたしには剣術の心得がありません』」と侯爵は口まねをした。「では、われわれは土百姓のように樫の棍棒《こんぼう》で闘うことにするのかな? おい! フランソワ、拳銃を持ってまいれ!」
ひとりの馬丁が、銀細工の施してあるぴかぴか光る大型の拳銃を二挺、馬車の拳銃袋からもってきた。侯爵はその一挺をダヴィッドの手元のテーブルの上に投げた。
「テーブルのむこうの端へ行け!」と彼は叫んだ。「羊飼いでも引き金ぐらいは引けるであろう。ド・ボーペルテュイの拳銃で死ねるなぞ、こんな光栄を得られる者はざらにはおらぬぞ」
羊飼いと侯爵は長いテーブルの両端からたがいに向かいあった。宿の主人は、恐ろしさに身を震わせながら、空《くう》をつかみ、どもった。
「お、お、お殿さま、おねがいでございます! 家の中では困ります!……血を流すのはごかんべんくださいまし……客がなくなってしまいます……」
侯爵の顔は威嚇《いかく》せんばかりの様子で彼の舌を麻痺《まひ》させた。
「臆病者め」とボーペルテュイの殿はどなった。「歯をかちかち鳴らすのをやめて、そのあいだに決闘の合図でもせんか、お前にできるならばな」
主人の両膝は床《ゆか》をうった。彼は言葉が出なかった。声すら立てることができなかった。それでも身ぶりで、家と客の名において平和を願っているように思われた。
「わたくしが合図をいたしましょう」と貴婦人が、すみきった声で言った。彼女はダヴィッドのところへ歩みよると、彼にやさしく接吻をした。彼女の目はきらきらと輝いていた。そして頬には紅の色がさしていた。彼女は、壁を背にして立った。二人の男は拳銃をかまえて、彼女の合図をまった。
「一《アン》・二《ドゥ》・三《トロワ》」
ふたつの銃声はほとんど同時に聞こえた。それゆえ、ろうそくの火のゆれたのも一度きりであった。侯爵は微笑をうかべながら立っていた。彼の左手の指は、ひらいたままテーブルの端におかれていた。ダヴィッドもまっすぐに立っていた。そしてゆっくりと頭をまわして、目で妻の姿をさがした。それから、ちょうど衣類がその掛けてあったところから落ちるように、彼は床の上にくずれ落ちた。
恐怖と絶望の小さな叫び声をあげながら、この寡婦《かふ》となった処女は彼のところへかけより、その上にかがみ込んだ。彼女は彼の傷口をみつけると、以前の青ざめた陰うつな表情をたたえながら顔をあげた。
「心臓を貫いています」と彼女は小声で言った。「おお、心臓を!」
「さあ」と侯爵の大きな声がひびいた。「外へ出て馬車に乗るのだ! 夜明けまでにはお前を誰かに渡さなければならぬ。今夜のうちにもう一度お前を結婚させるのだ。それも生きた夫とな。今度われわれが出会う男は、姫よ、追剥《おいは》ぎか土百姓だ。道で誰にも合わなかったならば、そのときは、邸の門をあける下郎とだ。さあ馬車に乗れ!」
執念深い大きな体つきの侯爵と、ふたたび神秘のマントに身を包んだ貴婦人と、拳銃をもった馬丁と……この三人は、待っている馬車のほうへと出ていった。重々しい車輪の遠ざかってゆく音が、眠っている村をぬってこだました。「|銀の大徳利亭《シルヴァー・フラゴン》」の食堂では、心をとりみだした宿の主人が、殺された詩人の遺骸の上で両手をふりしぼっていた。そして、二十四本のろうそくの焔が、テーブルの上で踊り、ゆらめいていた。
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右の道
それから十五キロほどこの道は走って、そして謎の道となった。もうひとつの、もっと大きな道に、直角につきあたったのだ。ダヴィッドは立ち止まって、しばらくのあいだ心を決めかねていたが、やがて道を右へとることにした。
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どこへその道が通じているのか彼にはわからなかったが、とにかく、その夜のうちにヴェルノアから遠くへ行ってしまおうと彼は決心した。そして五キロほど歩いてゆくと、やがて大きな城の前を通った。城では先刻まで宴会がひらかれていた様子であった。明かりがどの窓からも輝いており、大きな石の門からは、客たちの馬車によって埃《ほこり》の中に引かれた車輪の跡が網目《あみめ》細工《ざいく》のように走っていた。
さらに十五キロほど歩いてゆくと、ダヴィッドは疲れてしまった。彼は足をやすめ、道端の松の小枝を寝床にしてしばらくのあいだ眠った。それから起きあがって、ふたたび、見知らぬ道を歩きつづけた。
こうして五日のあいだ、彼はこの街道を歩いていった。バルサムの芳香を放つ大自然の寝床や農家の乾草の山の中に寝たり、農夫たちのくれる黒パンを食べたり、小川や、時には羊飼いの差し出すコップから水を飲んだりした。
ついに彼は大きな橋を渡って、にこやかな町に足をふみ入れた。この町こそ世界のどの町にもまして数多くの詩人たちの気を挫《くじ》いたり、栄冠を与えたりしてきた市《まち》である。彼の息ははずんできた。パリの市が彼にむかって小さな低音で生き生きとした歓迎の歌を、人声や足音や車のハミングを、唄ってくれたからである。
コンティ街のある古ぼけた家のいちばん上の軒下に、ダヴィッドは部屋を借りた。そして木の椅子におさまって詩作をはじめた。この街《とおり》は、むかしは身分のある重要な市民の住んでいたところであったが、今では没落の道をたどる人々に席をゆずっていた。
家々は高くそびえたち、今でも荒廃した威厳《いげん》を保っていた。しかしその多くは空き家になっていて、住みつくものは埃と蜘蛛《くも》だけであった。夜になると、刃物のぶつかりあう音が聞こえたり、居酒屋から居酒屋へと絶えず飲みあるくあばれ者たちのわめき声が聞こえたりした。かつては優雅な人々の住んでいた所が、今では鼻もちのならぬ粗野《そや》な淫乱《いんらん》の宿と変わっていた。しかしここにダヴィッドは、自分の乏しい財布とよく釣り合いのとれた貸家を見つけた。そして、昼の光とろうそくの光とは、彼がペンをとり、紙に向かっている姿を見つけたのである。
ある日の午後、彼は階下の世界へ食糧の仕入れにおりていったが、やがてパンと凝乳《カーズ》とうすいぶどう酒を一本かかえてもどってきた。暗い階段を途中までのぼってくると、彼はひとりの若い婦人に会った……というよりはむしろ、でくわした、とでも言ったほうがいいであろう。彼女は階段のところで休んでいたからである。
彼女の美しさは、詩人の想像力をもった裁判官でさえ惑わすほどの美しさであった。ゆるやかな、黒っぽいマントが、ゆったりと羽織られていて、中の美しいガウンをのぞかせていた。彼女の目は、彼女のかすかな心の動きにつれて、敏感に変化した。一瞬、つぶらであどけなく、子供の目のようであったかと思うと、たちまち細長くずる賢く、ジプシーの目のようになるのである。片方の手がガウンをあげて、小さな靴をのぞかせた。かかとの高い靴で、リボンがほどけて垂れさがっていた。
彼女はあまりにも神々《こうごう》しく、自ら身をかがめてリボンを結ぶにはあまりにも不似合いであって、人を魅惑し、命令することこそ、もっともふさわしい女性だったのだ! 恐らく彼女はダヴィッドがあがって来るのを見て、彼の手を借りるためにそこで待っていたのであろう。
あら、おゆるしください、階段をふさいでしまって。でもこの靴が!……ほんとうに仕様のない靴ですわ!困ってしまいますの! どうしてもちゃんとしていないのですもの。あのう! もしご迷惑でなければ!
詩人の指は、そのつむじまがりのリボンを結んでやりながら震えた。やがて彼は、彼女の前にいることの危険から逃《のが》れたいと思った。しかし彼女の目が細長く、ずる賢く、まるでジプシーの目のようになって、彼をとらえた。彼は手すりに身をもたせかけたまま、すっぱいぶどう酒のびんをにぎりしめた。
「ご親切にありがとうございました」と彼女は言ってほほえんだ。「あなたはこの家にお住まいなのかしら?」
「はい、そ、そのつもりですが」
「では、三階でしょうかしら?」
「いいえ。もっと上です」
貴婦人は努めていらだたしい様子を見せまいとするように指をひらひらさせた。
「ごめん遊ばせ。こんなことをお尋ねしたりして、わたくし本当に不謹慎《ふきんしん》でしたわ。お赦しくださいませね? 殿方《とのがた》のお住まいをお尋ねするなんて、本当にはしたないことですもの」
「とんでもない。わたしの住んでおりますのは……」
「いえ、いえ、よろしいのです。おっしゃらないでください。わたくしが間違っていたのですから。でも、わたくし、この家やこの家の中にあるすべてのものに対して抱いている関心を失うことはできませんの。以前、ここはわたくしの家だったものでございますから。わたくし、よくここへ来ては、ただあの楽しかった頃のことを夢みているのです。これで失礼の言い訳になりますかしら?」
「ではお教えしましょう。言い訳なぞなさる必要はないのですから」と詩人はどもりながら言った。「わたしはいちばん上の階に住んでおります。……階段が曲がるところの小さな部屋です」
「表側のお部屋?」と貴婦人は言って首をかしげた。
「裏側です」
貴婦人はほっとしたように溜息をもらした。「では、もうこれ以上おひきとめしませんわ」と彼女は言って、つぶらな、あどけない目を見せた。「わたくしの家を大切にしてやってくださいませね。ああ! 今ではこの家の思い出だけがわたくしのものでございますから。さようなら、ご親切にありがとうございました」
彼女はほほえみと甘い香水のかおりだけを残して立ち去った。ダヴィッドは夢を見ているような気持ちで階段をのぼっていった。しかし夢からさめても、あのほほえみと香りとはいつまでも彼につきまとい、そのどちらも、その後決して彼から離れることはないように思われた。
この見知らぬ貴婦人は彼の心を駆りたてて、瞳の抒《じょ》情詩《じょうし》を、とつぜん芽生えた愛のシャンソンを、巻き毛の頌歌《オード》を、ほっそりとした足にはいたスリッパのソネットを、彼に作らせようとした。
彼はまさしく詩人であったにちがいない。なぜならイヴォンヌのことなど忘れてしまい、このすばらしい初めての美しさが、その新鮮さと優雅さとをもって彼の心をとらえていたからである。彼女にただようかすかな香りが不思議な感動で彼の心を満たした。
ある夜のこと、三人の人物がこの同じ家の三階にある一室にテーブルを囲んでいた。三つの椅子とテーブルと、その上に置かれた火のともっているロウソクとのほかには家具は何ひとつなかった。三人のうちのひとりは体つきの大きな男で、真っ黒な服を着ていた。男の表情は人を嘲《あざけ》るような高慢な表情であった。ぴんとはねあがった口ひげの先端は、人をばかにしたような様子のその目の近くまでのびていた。もうひとりは、貴婦人で、年も若く、美しい顔だちをしており、目はつぶらであどけなく、まるで子供の目のようであった。かと思うとその目は、細長くずる賢く、まるでジプシーの目のようになることもあった。しかし今はその目も鋭く、野心に燃えていて他の共謀《きょうぼう》者たちのもつあの目つきに似ていた。三人目は、活動家であった。闘士であり、大胆で短気な行動派の男で、焔《ほのお》と鋼のような息を吐いていた。彼はほかの者たちからデロール大尉と呼ばれていた。
この男は握りこぶしでどんとテーブルを叩くと、激情を抑えながら言った。
「今夜だ。今夜、やつは真夜中のミサに行く。わたしは、何の結果《たし》にもならぬ計画にはもううんざりだ。合図だの、暗号だの、秘密の会合だの、それにこんな譫言《たわごと》など、もうあきあきした。われわれは本物の反逆者になろうではないか。もしフランスがあの男を放逐《ほうちく》すべきであるとするならば、正々堂々と殺そうではないか。誘いや罠《わな》などで狩るようなことはせずにな。くりかえして言うが、今夜だ。わたしは自分の言いだしたことには責任をもつ。この手がその仕事をやってみせる。今夜だ。あの男がミサに行く時だ」
貴婦人は温情をこめたまなざしを彼にむけた。女というものは、たとえどれほどその心が計画に結びつけられていても、向こう見ずな勇気には、いつもこうして感服するものなのだろう。大男のほうは、ぴんとはねあがった口ひげをなでた。
「大尉どの」と彼は言った。それは大きな声ではあったが習慣で和らげられていた。「今度はわたしも貴君の意見に賛成だ。ただいたずらに待っていただけでは何も得られはせぬ。宮殿の護衛兵の中にも、かなりの数の者たちがわれわれの側についてきたから、今度の試みは無事になしとげられるだろう」
「今夜だ」とデロール大尉はくりかえして、もう一度テーブルを叩いた。「わたしの決意は今お聞きになったとおりです、侯爵。この手でその仕事をやってみせます」
「しかしここで」と大男はやわらかな口調で言った、「問題がひとつある。宮殿にいるわれわれのパルチザンに指令を送らねばならぬし、合図もきめておかねばならん。そして、もっとも信頼のおける同志を国王の馬車に随行させる必要がある。この時刻にどんな使者が宮殿の南門まで入り込むことができるだろうか? あそこにはリブーが待機してくれている。彼の手に指令が渡りさえすれば、万事うまくいくのだが」
「わたくしがその指令をとどけましょう」と貴婦人が言った。
「あなたがですか、伯爵夫人?」と侯爵は眉をあげながら言った。「あなたの忠誠は立派なものです、われわれもよく存じているのですが、しかし……」
「お聞きください!」と貴婦人は大声で言いながら立ちあがると、両手をテーブルの上についた。「この家の屋根裏部屋に、若者がひとり住んでいます。田舎から出てきた者で、自分が飼っていたという羊と同じように無邪気でおとなしい若者です。わたくし、階段のところで二、三度あったことがございます。そして質問もしてみました。わたくしたちが会合に使っているこの部屋のあまり近くに住んでいては大変と思いましたものですから。あの若者なら、わたくしの思うとおりになります。屋根裏部屋で詩を書いているのですが、どうやらわたくしのことを夢みているようなのです。わたくしの申すことならどんなことでもしてくれるでしょう。ですから宮殿への指令はあの者にもってゆかせましょう」
侯爵は椅子から立ちあがって一礼した。「あなたは、最前、わたしに最後まで言わせてくださいませんでしたが、伯爵夫人」と彼は言った。「わたしはこう言いたかったのです。つまり、『あなたの忠誠は立派なものである、しかしあなたの機知と魅力とはさらに果てしなく立派なものである』と」
陰謀家たちがこのように密議をこらしているあいだ、ダヴィッドのほうは、彼の「|階段の恋人《アムレット・デスカリエ》」に捧げる数行の詩を推敲《すいこう》していた。彼は、そっとドアをノックする音を耳にした。胸をときめかして開けてみると、そこには彼女の姿があった。せっぱつまった人のように息をはずませながら、目は大きくあいていて、あどけなく、まるで子供のような目をしていた。
「あのう」と彼女はささやくように言った。「わたくし、思案にあまってここへまいりましたの。きっとあなたなら親切で誠実なお方だと思いましたし、ほかにおすがりするような方も存じませんものですから。わたくし、飛ぶようにして道を駆けぬけ、酔っぱらいたちのあいだをぬってまいりました! 実は、わたくしの母が危篤《きとく》なのです。叔父が国王の宮殿で近衛兵《このえへい》の隊長をしております。それでどなたかに大急ぎで叔父を連れてきていただかねばなりません。もしお願いできましたなら……」
「お嬢さま」とダヴィッドは相手をさえぎって言った。彼の目は彼女に奉仕したいという願望で輝いていた。「あなたの願いをわたしの翼といたしましょう。どのようにすれば叔父さまのところへ行けるか、お教えください」
貴婦人は、封のしてある手紙を彼の手に押しつけた。
「南の門においでください……いいですか、南の門ですよ……そしてそこの衛兵たちにこう申すのです、『隼《はやぶさ》は巣を発《た》った』。するとあなたを通してくれます。そしたらあなたは宮殿の南の入口へいらしてください。そしていまの言葉をもう一度くりかえすのです。そして、『隼の望む所に襲撃させよ』と応《こた》える男にこの手紙を渡してください。これが合い言葉なのです。叔父がそっとわたくしに教えてくれたものなのです。と申しますのは、いまこの国は乱れておりまして、国王のお命をねらう者がいるため、合い言葉を知らぬ者は日が暮れてからは誰も城内に入ることができないからでございます。もしお引き受けいただけますならば、どうかこの手紙をおとどけくださいまし、母が目を閉じます前に叔父をひと目見ることができますように」
「おまかせください」とダヴィッドは熱意をこめて言った。「でも、こんな夜ふけの道をあなたひとりでお帰ししてもよいものでしょうか? わたしが……」
「いいえ、大丈夫です……それよりも、すぐに出発してくださいまし。今は一刻一刻が高価な宝石のように思える時でこざいます。いずれそのうち……」と貴婦人は言った。その目は細長くずる賢く、ジプシーの目のようであった。「ご親切にお報《むく》いいたしたいと存じます」
詩人はふところに手紙を押し込んで、階段を駆けおりていった。貴婦人は、彼が行ってしまうと、階下の部屋にもどった。
侯爵のあの表情ゆたかな眉が彼女に問いかけた。
「行きましたわ」と彼女は言った。「自分の飼っている羊のように大急ぎで、何も知らずにね、あの手紙をとどけてくれるために」
テーブルが、デロール大尉の握りこぶしに叩かれて、ふたたび揺れた。
「しまった!」と彼は叫んだ。「拳銃を忘れてきた! わたしはほかの武器は信頼できないのだ」
「これを持ってゆきたまえ」と侯爵は言って、マントの下から、銀細工を施《ほどこ》した一挺のぴかぴか光る大型の拳銃をとり出した。「これくらい信頼のできる拳銃はほかにはない。しかし、なくさんようによく注意してくれたまえ、わたしの紋章と家紋とがついているし、わたし自身すでに嫌疑のかかっている身だからな。それで、わたしは今夜はパリから遠く離れている必要がある。あすという日は、わたしをわたしの城に見出さねばならぬのだ。ではどうぞお先に、伯爵夫人」
侯爵はろうそくの火を吹き消した。身をすっぽりとマントに包んだ貴婦人と、ふたりの紳士とは静かに階段をおりてゆき、そのまま、コンティ街の狭い歩道を徘徊《はいかい》している人の群れの中にまぎれ込んだ。
ダヴィッドは飛ぶように走っていった。宮殿の南門まで来ると、とつぜん弋槍《ほこやり》が胸もとにつきつけられたが、彼はその槍先を例の合い言葉でかわした。「隼《はやぶさ》は巣を発った」
「通れ、兄弟」とその衛兵は言った。「急いで行くのだぞ」
宮殿の南の階段のところで、彼は飛び出してきた者たちに捕えられたが、またしても例の合い言葉がその警戒の兵たちを呪文にかけた。中のひとりが進み出てきてこう言いかけた、「隼の望むときに……」。
しかし衛兵たちのあいだから湧き起こった動揺が、思いがけぬ事件を語った。鋭い目つきをして、軍人らしく勇ましい歩きかたをする男が、不意に衛兵たちをかきわけながらやってくると、ダヴィッドが手にしていた例の手紙をつかんだ。
「いっしょにまいれ」と言うと、ダヴィッドを大きな広間へ連れていった。それから手紙の封をやぶって、中を読みはじめた。そして、ちょうどその場を通りかかった近衛騎兵の将校の服装をした男を招きよせた。
「テトロー大尉、南の入口と南の門とにいる衛兵たちを逮捕して監禁させてくれ。そして、国王に忠節であることがはっきりしている部下をその後に立たせてくれ」
それからダヴィッドにむかって言った。「いっしょにまいれ」
彼はダヴィッドを連れて廊下を通り、控えの間をぬけて広々とした一室に入っていった。そこには憂うつそうな顔つきの男が、黒ずんだ服をきて、大きな革張りの椅子にすわったまま何かじっと考えこんでいた。この男にむかって彼は言った。
「陛下、かねてから申しあげておりますように、この宮殿は謀反《むほん》人とスパイとでいっぱいでございます。まさに、どぶにネズミどもがあふれているのと変わりございません。陛下はそれをわたくしの妄想《もうそう》であるとお考えでございました。しかしこの男はそういう者たちとしめしあわせて陛下のお部屋近くまで忍び込んで参ったのでございます。手紙をもっておりましたので、わたくしが取り上げました。この男をここへ連れてまいりましたのは、陛下がもはやわたくしの熱意を取り越し苦労などと、お考えになりませぬようにとの願いからでございます」
「余が訊問《じんもん》いたそう」と王は言って、椅子の中で体を動かした。そしてダヴィッドを見つめたが、その目は重く、にごっていて、どんよりとした膜がかかっていた。詩人は片膝をおってお辞儀をした。
「いずこから参ったのじゃ?」と王は訊《たず》ねた。
「ヴェルノアの村からでございます、ユーレロアー州にございます、陛下」
「パリには何をしに参った?」
「わ……わたくしは詩人になりたいのでございます、陛下」
「ヴェルノアでは何をしておった?」
「父の飼う羊の群れを世話しておりました」
王はふたたび体を動かした。するとあのうすい膜が目からとれた。
「ああ! 野原でじゃな?」
「さようでございます、陛下」
「そちは野原に住んでおった。朝のまだ涼しいうちに出かけてゆき、草原の生け垣の中に身を横たえた。羊どもは山腹に散り、そちは流れる小川の水を飲み、木陰で甘いキツネ色のパンをかじった。そして恐らく、木立ちにさえずるクロ鳥に耳を傾けておった。そうではなかったか、羊飼いよ?」
「そのとおりでございます、陛下」とダヴィッドは溜息《ためいき》をつきながら答えた。「それに、花に群がるミツバチにも、また恐らくは丘の上で唄っているぶどう摘みの声にもでございます」
「そうじゃ、そうじゃ」と王はたまりかねて言った。「恐らく彼らの歌声にもじゃ。しかしクロ鳥の声に耳を傾けるのは確かじゃ。よく木立の中で鳴いておったであろう?」
「陛下、ユーレロアーほど美しく鳴くところはほかにございません。わたくしは自分の書きましたいくつかの詩の中で、その歌声を表現しようと努めたことがございます」
「そちはその詩をいま吟《ぎん》じることができるか?」と王は熱心にたずねた。「ずいぶん昔のこと、余もクロ鳥の鳴き声に耳を傾けた。もしこの鳥がどんなことを言っているのか正確にその意味をとることができたら、王国を手に入れるよりも、もっとすばらしいことであろう。そして夜になれば、そちは羊を追って囲《かこい》に入れ、それから安心して静かに食卓にむかい、楽しい食事をとったのだ。その詩を吟じることができるか、羊飼いよ?」
「詩はこのように始まります、陛下」とダヴィッドはうやうやしく、情熱をこめて言った。
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なまけ者の羊飼いよ 見てごらん お前の小羊が
牧場で 夢中になって跳《おど》っているよ
見てごらん モミの木がそよ風に踊っているよ
聞いてごらん 牧羊神《パーン》が葦《あし》の笛を吹いているよ
聞いてごらん、
わたしたちが木の梢から呼んでいるのを
見てごらん おまえの羊たちの背に舞いおりるのを
その毛を少しわけておくれ
わたしたちの巣を温かにして
枝の中で……
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「おそれながら陛下」と荒々しい声がさえぎった。「このへぼ詩人に一、二、訊問《じんもん》いたしたいことがございます。一刻の猶予もなりません。陛下、なにとぞお赦しくださいますよう、ご安泰を願うわたくしの懸念《けねん》がもし陛下のご機嫌を損じまするならば」
「ドマール公の忠誠は」と王は言った。「よくわかっておる。気にはせん」
王は椅子に身をしずめた。するとあのうすい膜がふたたび王の目をおおった。
「まず」と公爵が言った。「この男のたずさえておりました手紙をおきかせいたします。
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「今夜は王太子の命日なり。もし彼《か》の人物例年のごとく真夜中のミサに出かけ、王太子の霊に祈りを捧げん手筈ならば、隼《はやぶさ》はエスプラナード街の角にてこれを襲わん。彼の人物の意向、右に相違なくんば、宮殿の南西の隅なる階上の部屋に赤き燈火を掲《かか》げよ。隼、その報せを待ちて備うべし」
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「百姓」と公爵はきびしい口調で言った。「貴様も聞いたとおり、これが手紙の内容だ。何者に頼まれて、これを持参いたした?」
「公爵さま」とダヴィッドは誠意をこめて言った。「申しあげます。ある貴婦人《おかた》がそれをわたくしに渡したのでございます。その方の申しますには、お母さまが病気で、この手紙をもってゆけば叔父さまとやらが枕辺にかけつけてくれるから、とのことでございました。わたくしにはその手紙の意味がわかりませんが、誓って申しあげることのできますことは、その貴婦人が美しく、立派な方だということでございます」
「その婦人についてもう少しくわしく申せ」と公爵は命令した。「それに、どのようにして、貴様がその婦人の手先になったかもな」
「あの方のことをくわしくお話せよとおっしゃるのでございますか!」とダヴィッドはやわらかな微笑を浮かべながら言った。「それは人間の言葉に奇跡を行えとお命じになるようなものでございます。さよう、あの方は太陽の光と深い影とで作られております。体はすらりとしていて、まるでハンの木のようで、動作もまたこの木のように優雅でございます。目は、わたくしどもが見つめている間にも変わります。今、つぶらであったかと思うと、次にはもう半ば閉じられたようになって、さながら太陽が雲と雲とのあいだから覗いているかのようでございます。あの方がおいでになりますときは、そのまわりはすべて天国となります。去って行かれるときには、混沌《カオス》となって、サンザシの花の香りが残るだけでございます。あの方はコンディ街のわたくしのところへおいでになりました。二十九番地でございます」
「まさしくその家でございます」と公爵は王のほうに向きなおりながら言った。「わたくしどもがかねてより見張っておりましたのは。この詩人の舌のおかげで悪名高いケブドー伯爵夫人の像《すがた》がはっきりとしたわけでございます」
「陛下ならびに公爵さま」とダヴィッドは真剣な口調で言った。「わたくしは自分の拙《つた》ない言葉が誤解を生まなければよいと願っております。わたくしはあの貴婦人の目を見ました。命をかけて申しあげますが、あの方は天使です。手紙があろうとなかろうと、それは問題ではございません」
公爵は彼をじっと見つめた。「では貴様にそれを証明してもらおう」と彼はゆっくりとした口調で言った。「陛下と同じ服装をして、貴様が深夜、陛下の馬車でミサに行くのだ。どうだ、やってみるか?」
ダヴィッドは微笑した。
「わたくしはあの方の目を見ました」と彼は言った。「そこに確かな証拠を見たのです。あなたさまはあなたさまで、どうぞお好きなようにお試しください」
十二時三十分前に、ドマール公爵はみずからの手で宮殿の南西の窓に赤いランプをともした。十二時十分前になると、ダヴィッドは公爵の腕に支えられながら、頭のてっぺんから足の爪先まで国王の装いのまま、頭をマントにうずめるようにして、ゆっくりと国王の部屋を出て、待っている馬車のほうへと歩いていった。
公爵は彼をたすけて馬車に乗せると、その扉を閉めた。馬車は道を急いで大寺院へと向かった。
エスプラナード街の角の家には、テトロー大尉が二十人の部下をひきつれて警戒にあたり、謀反人たちが現われたらたちどころに飛びかかろうと待っていた。
しかし、どうやら、何らかの理由で、謀反人たちは初めの計画を少しばかり変更した様子であった。国王の馬車がクリストファー街にさしかかったとき、それはエスプラナード街よりも一区画ほど手前だったのであるが、突然、デロール大尉が、「国王殺し」と自称する一隊をひきつれて飛び出してくるなり、その馬車を襲撃した。
馬車に乗っていた護衛兵たちは、時ならぬ襲撃にびっくりはしたものの、すばやく馬車からとびおりて勇ましく応戦した。戦いの騒ぎはテトロー大尉のひきいる部隊の注意を引いた。そして部隊は味方を救わんものと通りを駆けてきた。しかし、その間に、死にものぐるいになったデロールは国王の馬車の扉を蹴破《けやぶ》って、中にいたうす暗い人物の体に拳銃をつきつけると、いきなり発砲した。
この時には、国王側の援兵もすぐ近くまで来ていて、通りは人の叫び声や刃物のすれあう音で鳴りひびいていた。しかしおびえた馬はどこかへ走り去ってしまった。馬車の座席の上には、哀れなあのニセの国王にして詩人なる人物の死体が横たわっていた。ボーペルテュイ侯爵のあの拳銃から発射された銃弾によって殺されたのである。
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本道
それから十五キロほどこの道は走って、そして謎の道となった。もうひとつの、もっと大きな道に、直角につきあたったのだ。ダヴィッドは立ち止まって、しばらくのあいだ心を決めかねていたが、やがて道ばたに腰をおろして休んだ。
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その道がそれぞれどこへ通じているのか、彼にはわからなかった。どちらの道を行っても、そこは機会と危険とに満ちあふれた大きな世界があるように思われた。やがて、その場に腰をおろしているうちに、彼の目がひとつの明るい星を見つけた。それは彼とイヴォンヌとが自分たちの星と名づけた星であった。とたんに彼はイヴォンヌのことを思い出した。そして、自分が軽率すぎたのではなかろうかと考えた。どうして彼女を捨て、自分の家を捨てる必要があるのだろう、激しい言葉が二《ふた》こと三《み》こと、二人のあいだに交わされただけではないか? 愛はそんなに脆《もろ》いものなのだろうか、嫉妬によって、愛の証拠にほかならぬあの嫉妬によって、打ち砕かれてしまうほど脆いものなのだろうか? 朝は、いつでも夕べの小さな胸のいたみを癒《いや》してくれる。家に帰る時間ならまだあるんだぞ、ぐっすりと眠っているヴェルノアの村の人たちには誰にも気づかれずにな。おれの心はイヴォンヌのものだ。住みなれたあの村でなら、いつだっておれは詩が書けるし、幸福を見つけだすことができるのだ。
ダヴィッドは立ちあがった。そして今までの不安と、彼をそそのかしていた荒々しい気持ちとをふるい落とした。彼はいま来た道のほうへまっすぐに顔をむけなおした。そしてふたたびその道をたどってヴェルノアへついた頃には、彼の漂泊の望みは、すでに消え去っていた。
彼は羊小屋のかたわらを通った。羊たちは、いつもより晩《おそ》い彼の足音をききつけると、嬉しそうに足をふみならしながら駆けよってきた。そのなつかしい音に彼の心は温かになった。彼は物音をたてぬようにそっと自分の小さな部屋に忍び込むと、そこに身を横たえた。そして自分の足がその夜、幸いにして新しい道の災難《わざわい》を避けることのできたことを感謝した。
彼は女心をなんとよく知っていたことであろう! 次の日の夕方、イヴォンヌは道端の井戸のところにいた。ここは村の司祭《キュレ》に金儲けができるようにと、若い男女がよく集まるところである。彼女の目の隅は、ダヴィッドの姿を探し求めていた。もっとも、固く結んだ口は、決して容赦はせぬぞと言わんばかりの様子であったが。
彼はその表情を見た。その口と勇敢に闘い、その口から前言取り消しの約束をひき出し、そして更にその後、接吻までもかちとった、二人が連れだって家路についたときである。
それから三か月後に二人は結婚した。ダヴィッドの父親は如才《じょさい》のない男で、暮らしむきもよかった。そこで二人のために盛大な結婚式をあげてやり、その評判は十五キロ四方にまでもひろがった。若い夫婦は村中でもてはやされた。通りには行列がねりあるき、草原ではダンスがひらかれた。ドルーから操《あやつ》り人形や曲芸師を呼んでその日の客たちを喜ばせた。
そして一年が過ぎ、ダヴィッドの父が死んだ。羊と家が遺産として彼のものとなった。彼はすでにこの村でいちばんふさわしい妻をもっていた。イヴォンヌのミルク桶と真鍮《しんちゅう》の釜とは、いつもぴかぴか光っていた……さよう! 太陽の輝いているとき、近くを通ろうものなら、それこそ目がくらんでしまうほどであった。
しかし彼女の庭にはぜひ目をそそいでいただきたい。なぜなら、彼女の花壇は実に手入れがよく、はなやかで、そのため、さいぜんの眩《くら》んだ視力も回復させてくれるほどだったからである。また、彼女の歌声も聞くことができた。さよう、それはグルノー父《とっ》つぁんの鍛《か》冶場《じば》の炉のうえに覆いかぶさるように立っている、あの対《つい》のクリの木のあたりまで遠く聞こえてきた。
しかしやがてダヴィッドが、長いこと開けたことのなかった引き出しから原稿用紙を取り出し、鉛筆の端を噛みはじめるような日がやってきた。春がふたたびやってきて、彼の心を動かしたのである。やはり彼は詩人であったにちがいない。なぜなら、イヴォンヌのことなど忘れてしまい、大地のこのすばらしい初めての美しさがその魔力と優雅さとをもって彼の心をとらえたからである。森や牧場からただよう香りは不思議に彼の心を動かした。それまでは毎日、羊の群れを追って出かけ、夜になると無事にそれを連れもどしていた。しかし今では、自分の体を生け垣の下に横たえ、紙切れに言葉を綴《つづ》ってばかりいた。羊は群れから離れ、オオカミどもは、むずかしい詩こそ容易な羊肉《マトン》となることを知って、森から出てきては彼の小羊を盗んでいった。
ダヴィッドの詩はだんだん増えていったが、羊の数はだんだん減っていった。イヴォンヌの鼻と気嫌とはとんがりはじめ、言葉はぶっきらぼうになっていった。彼女の鍋《なべ》や釜は光を失っていったが、彼女の目は鋭い光を放っていた。
彼女は詩人にむかって、彼の怠慢が羊の数を減らし、家族に悲しみをもたらしていると指摘した。するとダヴィッドは少年を一人やとって羊の世話をさせ、自分は小屋のてっぺんの、あの小さな部屋に閉じこもって、ますます詩を書きはじめた。
この少年も、生まれながらの詩人であったが、詩情の捌《は》け口を紙の上に求めるほどの才能はなかったので、もっぱら居眠りに時をついやした。オオカミどもはたちまち、詩と眠りとは事実上おなじものだということを発見した。そのため、羊の数は着実に減っていった。
イヴォンヌの不機嫌はそれと同じ割合で増していった。時には庭に立って高い窓ごしにダヴィッドをののしることもあった。やがてその声は、グルノー父《とっ》つぁんの鍛冶場の炉の上に覆いかぶさるように立っているあの対《つい》のクリの木あたりまでも遠く聞かれるようになった。
パピノー氏は、つまりあの親切で頭がよくて世話ずきの老公証人は、このことを知った。彼は、自分の鼻の指すものはなんでも知るのである。そこで、ダヴィッドのところへ出かけてゆくと、まず嗅《か》ぎタバコをたっぷりひとつまみ嗅いで元気をつけてから、こう言った。
「ミニョ君、わしは君のお父さんの結婚証書に判を押した。その息子の破産申請書に判を押さねばならぬようになったら、それこそわしは悲しい。だが、このままでいけば、いずれ君は破産する。わしは昔からの友だちとして言うのだ。よいか、わしの言わねばならんことをよく聞いてもらいたい。君はどうやら詩に夢中になっておるようじゃ。ドルーにわしの友人がおる、ブリル……ジョルジュ・ブリル氏という男だ。家じゅういっぱいの本の中に、わずかな隙間をこしらえて住んでおる。博学な男でな。パリには毎年でかけてゆく。また自分でも本を書いておるのじゃ。ローマのカタコームがいつごろ造られたものか、星の名はどのようにしてつけられたのか、なぜチドリは長いくちばしをしているのか、なぞということも教えてくれるじゃろう。詩の意味や形もあの男にはよくわかっている。ちょうど羊の鳴き声が君によくわかるのと同じじゃ。この男に紹介状を書いてあげよう、君は自分の詩をもっていって、読んでもらうがいい。そうすれば君にもはっきりとわかるじゃろう、これからももっと詩を書くべきであるか、それとも奥さんと仕事とに心をむけるべきであるかがな」
「紹介状を書いてください」とダヴィッドは言った。「もっと早くおっしゃってくれればよかったのに」
次の朝、日の昇るころ、彼は大切な一巻の詩を小脇にかかえてドルーへの道を歩いていた。そして昼ごろ彼はブリル氏の玄関先で足の埃《ほこり》をはらった。その博学な人物はパピノー氏の手紙の封をきって、きらきら光る眼鏡ごしにその内容を吸いあげた。それは太陽が水を吸いあげるのにも似ていた。彼はダヴィッドを自分の書斎に案内すると、書物の海が岸辺を洗う小島の上に彼をすわらせた。
ブリル氏は良心をもっていた。彼は、指の長さほど分厚《ぶあつ》く、しかも始末におえぬほど巻きぐせのついているその原稿の束を見ても、たじろぎはしなかった。彼は、原稿の巻きぐせを膝にあててのばしながら、それを読みはじめた。彼は何ひとつおろそかにはしなかった。原稿の束に喰い入り、ちょうど虫がクルミの実をうがつように、その核心を求めていった。
そのあいだダヴィッドは、孤島にうちすてられた者のようにその場に座ったまま、たくさんの書物の波しぶきを浴びながら震えていた。書物は彼の耳の中で鳴りひびいた。しかも彼にはその海の中を航行する海図も羅針盤《らしんばん》もなかった。世の中の人間の半分は、と彼は心の中でつぶやいていた、本を書いているにちがいない。
ブリル氏は詩稿の最後のページまで読み進んでいた。やがて眼鏡をはずすと、それをハンカチでぬぐった。
「わが旧友パピノーは元気でしょうな?」と彼はたずねた。
「たいへん元気です」とダヴィッドは言った。
「あなたは羊を何頭おもちですか、ミニョさん?」
「三百九頭です、きのう教えたのですが。わたしの羊は運が悪いのです。八百五十頭もいたのが、それだけの数に減ってしまったのです」
「あなたには奥さんもあり、家もおありになる。そして安楽に暮らしていらした。羊はあなたにうるおいをもたらした。あなたは羊たちを連れて野原に出かけ、肌をさす新鮮な空気の中で暮らし、満足という甘いパンを食べていらした。あなたはそこで大自然のふところに抱かれながら羊の番をし、体を横たえて、木立の中のクロ鳥の声に耳を傾けていさえすればそれでよかった。ここまで、わたしの言うとおりでしょうか?」
「そのとおりでした」とダヴィッドは言った。
「わたしはあなたの詩を全部拝見しました」とブリル氏はつづけた。彼の目は書物の海の上をさまよった。それは、水平線に船の帆《ほ》を探し求めるような様子であった。
「むこうをごらんなさい。あの窓のむこうです、ミニョさん。あの木に何が見えるかおっしゃってごらんなさい」
「カラスが見えますが」とダヴィッドはそのほうに目をやりながら言った。
「この世にはね」とブリル氏は言った。「自分が義務を回避したいと思うようなとき、その自分を援《たす》けてくれる鳥がいるものです。あなたはその鳥をご存知でしょう、ミニョさん。その鳥は空の哲学者です。その鳥は自分の運命に従順であるからこそ幸福なのです。気まぐれな目をして、おどけた足どりのあの鳥ほど楽しそうで、しかも胃袋をいっぱいにしている鳥はほかにありません。野原は、この鳥が望むものを何でもくれます。その鳥は自分の羽根がオリオールの羽根のように美しくなくても、決して悲しみはしません。そしてあなたは、ミニョさん、大自然がこの鳥に与えた鳴き声を聞いたことがおありでしょう? 夜鳴きウグイスのほうがそれよりもまだ幸福だとお考えですか?」
ダヴィッドは立ちあがった。カラスは木の上からしゃがれた声で鳴いた。
「ありがとうございました、ブリルさん」と彼はゆっくりと言った。「では、そのお手元のしゃがれ声の中には、夜鳴きウグイスの声はひとつもなかったというわけですね?」
「あればわたしも見逃すはずはありません」とブリル氏は溜息をつきながら言った。「一語も見落とさずに読んでみたのですがね。あなたの詩を自分の生活の中でお示しなさい。もうこれ以上詩を書こうとしてはいけません」
「ありがとうございました」とダヴィッドはもう一度言った。「ではこれで、わたしは自分の羊たちのところへ帰ることにします」
「もしわたしといっしょに夕食をなさり」とその読書家は言った、「そしてこの痛手をとくと考えてみたいとお思いなら、わたしもくわしくその理由を説明してあげましょう」
「いいえ」と詩人は言った。「わたしは野原へ帰って、羊たちにしゃがれ声で鳴いてやらねばなりません」
ヴェルノアへの帰り道を彼はとぼとぼと、詩を小脇にかかえながら、歩いていった。村にたどりつくと、彼はツァイグラーという店に入っていった。アルメニアから移住してきたユダヤ人で、手あたりしだい何でも売っている男である。
「実はね」とダヴィッドは言った。「オオカミが森から出てきて、丘にいるうちの羊を取ってしようがないんだ。鉄砲でも買って羊を護《まも》ってやらなくちゃあと思っているんだが。どんなのがあるかね?」
「きょうはわしにとっちゃあ厄日《やくび》だね、ミニョさん」とツァイグラーは両手をひろげながら言った。「なぜって、この様子だと、わしは本当の値打ちの一割にもならないような値段で品物を売らにゃあならないらしいからね。つい先週のこと、ある行商人から荷車一台分の品物を買ったのさ。なんでも王室の御用商人が開いた競売で手に入れてきたんだとかいう品でね。競売はお城のもので、さるお偉いお方さまのものなんだそうだ……そのお方さまの称号は知らんがね……王さまに謀反を起こしたかどで追放されちまったお方なんだそうだ。その競売品の中に上等の拳銃が何挺かあるんだ。この拳銃なんか……おお、まさに王子さまにもふさわしい拳銃だね!……あんたにならただの四十フランにしておくよ、ミニョさん……この売り値でわしが十フラン損をしたとしてもね。しかし、たぶん、火縄銃のほうが……」
「これでいい」とダヴィッドは言って、カウンターの上に代金をほうり出した。「弾はこめてあるのかね?」
「いまこめてあげますよ」とツァイグラーは言った。「そしてもう十フランくれれば、予備の火薬と弾をつけてあげるがね」
ダヴィッドはその拳銃を上衣の下につっこんで、自分の小屋のほうへと歩いていった。イヴォンヌはいなかった。ちかごろ彼女はちょいちょい近所の家へ遊びにゆくようになっていた。しかし、台所のストーヴには火がもえていた。ダヴィッドはストーヴの口をあけると、自分の詩をその石炭の上に投げ込んだ。詩はもえあがりながら、煙突の中で、歌でも唄うような、しゃがれた声をたてた。
「カラスの歌だ!」と詩人は言った。
彼は自分の屋根裏部屋にあがっていって、扉をしめた。村はあまりにも静かだったので、二十人ほどの人々が大型拳銃の銃声を耳にした。村人たちは集まってきて階段をのぼった。立ちのぼる煙が彼らの注意をひいたからである。
男《ダヴィッド》は詩人の体をベッドの上に横たえ、不器用に体をねじまげて、あの哀れな真っ黒いカラスの傷ついた羽根をかくそうとしていた。女たちは、心からの同情を惜しげもなく示しながら、たがいに語りあった。その中の何人かがイヴォンヌに知らせようと走っていった。
パピノー氏は例の鼻に導かれて、いち早くここにかけつけた人々の間にまじっていたが、拳銃をひろいあげると、鑑識癖と悲しみとの混《ま》ざりあった表情で、その銀細工に目を走らせた。
「この紋章と」と彼は、わきをむいてそっと司祭に説明した。「それに家紋とは、ド・ボーペルテュイ侯爵のものですぞ」
[#改ページ]
自動車が待っているあいだに
ちょうどきっかり、たそがれの始まるころに、またしてもあの静かな小さい公園のあの静かな一隅に、灰色の服をきた女がやってきた。彼女はベンチに腰をおろすと、本を読みはじめた。まだ三十分ばかりは余裕があって、そのあいだならば印刷物もはっきりと見えたからだ。くり返していうが、彼女の服は灰色であった。そしてあまりにも飾りけのないものだったから、スタイルや仕立てに何かやましいところがあるのではないかと疑いたくなるほどであった。それで、大きな網目《あみめ》のヴェールが彼女のターヴァン風の帽子と顔とを監禁していたが、それでもその顔はヴェールを通して光りかがやき、落ち着いた、罪の意識など全く知らぬ美しさを見せていた。彼女はそのベンチへ、同じ時刻に、きのうも、おとといも来ていた。そして、そのことを知っている者が、一人いた。
そのことを知っている青年は、あの偉大なる幸運の神にささげた播祭《はんさい》〔祭壇に供えた動物を焼いて神にささげる儀式〕の効力に期待をかけながら、近くをさまよい歩いていた。彼のこの敬虔《けいけん》な行いはむくいられた。というのは、ページをめくるときに、彼女の本が手からすべってベンチから一メートルほどもこちらへ転がってきたからであった。青年はすぐさまむさぼりつくような勢いでそれに飛びついた。そしてその本を持ち主に返したが、そのときの態度は、公園や人の大勢あつまる場所でよく見かけるような態度であった、……つまり、慇懃《いんぎん》と期待とがまざりあったもので、しかもパトロール中の警官に対する考慮から、いくぶんその調子をやわらげたものであった。愛想のよい声で、彼は思いきって、当たりさわりのない天気の話をしてみた……とはいえ、こうした前置きの話題こそ、この世の不幸の中でもかなり多くの不幸に責任があるわけなのだが……そして彼はしばらくじっと立って、自分の運命を待った。
女は落ちつきはらった態度で彼を眺めまわした。ふつうの小ざっぱりとした服、それに目鼻だちだって、その表情には特にこれといって際立ったところがあるわけではなかった。
「おかけになってもかまいませんことよ、もしおよろしければ」と彼女は言った。声量のある、ゆっくりとしたコントラルトである。「本当は、わたくし、そうしていただきたいの。この明るさでは、もう読書はむりですもの。お話をしたほうがよろしいわ」
幸運の神に仕える僕《しもべ》は、愛想のよい態度で彼女のかたわらの席に腰をすべらせた。
「ごぞんじでしょうか」と彼は言った。公園の議長《チェアマン》が大会《ミーティング》を始めるときのあのきまり文句である。「あなたは、わたしがこれまで会った人のうちで、一番すばらしい美人だということを? わたしは、きのうもあなたを見ていました。そのあなたの美しい瞳にだれかが打ちのめされてしまったなんて、気がつかなかったでしょうね、可愛《かわい》こちゃん」
「あなたがどういうお方かぞんじませんけれど」とその女は冷ややかな口調で言った。「お心にとめておいて頂かねばなりませんことは、わたくしが貴婦人《レイディー》であるということです。いまおっしゃいましたその『可愛こちゃん』は赦《ゆる》してあげましょう、そのような間違いは、きっと、不自然な間違いではないのでしょうから……あなた方の社会ではね。わたくしは、おかけくださいと申しました。でも、もしもそのお誘いのために、わたくしがあなたの『可愛こちゃん』にならねばならぬとしたら、このお誘いは取り消されたものとお考えください」
「どうかお赦しください、心からお願いいたします」と青年は懇願した。これまでの満足の表情は後悔と謙譲《けんじょう》の表情に変わっていた。「わたしの誤りでした。それは……つまり、公園というところには、女の人たちがいろいろいるもんですから、そのう……つまり、もちろん、あなたはごぞんじないでしょうけれど……」
「そのお話は、どうぞもうおやめになってください。もちろん、わたくしにはわかっておりますから。それよりも、あの人たちのことを教えてくださいな、それぞれの方向に、ああして小径《こみち》を通って行く人や群れをなしている人がおりますわね。あの人たちはどこへ行くのでしょう? どうしてあんなに急ぐのでしょう? みんな幸福なのでしょうか?」
青年は、これまでの思わせぶりな態度をきっかりと捨てていた。彼の台詞《せりふ》は今や受けの役となった。自分がどういう演技を期待されるのかも、彼には想像がつかなかった。
「本当に、あの人たちを見ていると興味がありますね」と彼は、相手の気持ちはたぶんこうなのだろうと見当をつけながら答えた。「それはまさに人生のすばらしいドラマです。ある者は夕食にでかけ、またある者は、そのう……ええと……まあほかの場所へ行く。わたしは思うのですが、いったいあの人たちはどんな過去をもっているのでしょうね」
「わたくしはそんなふうには考えませんわ」と彼女は言った。「それほど詮索《せんさく》好きではありませんもの。わたくしがここへ来てこうしてすわっておりますのも、それは、ここだけだからなのですわ、人間性のあの偉大な、共通の、はげしく脈うつ心臓の近くにわたくしがいることのできますのが。わたくしの役は、人生というお芝居の中では、そうした心臓の鼓動《こどう》が少しも感じられない所におかれているのです。なぜわたくしがあなたに言葉をおかけしたか、その理由がおわかりになります、ミスター……?」
「パーケンスタッカーです」とその青年はつけ加えた。そして熱のこもった、希望にみちた顔つきをした。
「いいえ、おわかりにはなりませんわね」と女は言いながら、ほっそりとした指を一本あげて、かすかに微笑みをうかべた。「でも、すぐにおわかりになりますわ。新聞や雑誌に名前が出ないようにするのはむつかしいことですものね。写真だってそうですわ。このヴェールとこの帽子とは小間使いのものですけれど、これのおかげでわたくし、だれにも気づかれずにおりますの。あなたにお見せしたかったくらいですわ、うちの運転手がこの格好を見てびっくりしていたときの顔を。あの運転手ったら、わたくしが気がつかないと思って、じろじろ見ていたんですのよ。包みかくさず申しますと、|聖なる所の中でも聖なる所《ホウリー・オブ・ホウリーズ》〔本来はユダヤ神殿の「至聖所」のことであるが、ここでは「社会的地位の最も高い所」という意味で使われている〕に所属する名が五つ六つありますけれど、わたくしの名は、たまたま生まれながらにして、その中のひとつに入っているのです。わたくしが言葉をおかけしましたのも、それはスタッケンポットさん……」
「パーケンスタッカーです」と青年は遠慮勝ちに訂正した。
「……パーケンスタッカーさん、それは一度でもいいから、自然のままのお方と話がしたかったからなのです。……つまり、いやしい富の虚飾や、自分かっての社会的優越意識などに汚されていないお方と。
ああ! あなたにはおわかりにならないでしょうけれども、わたくしはもう、うんざりしているのです……金、金、金ですものね! それにわたくしの周囲の人たちにもうんざりしているのです。みんな同じ型に作られたつまらぬ操《あやつ》り人形のように踊っているのですもの。娯楽も、宝石も、旅行も、社交も、あらゆる種類の贅沢《ぜいたく》も、つくづくいやになりましたわ」
「わたしなどはいつも」と青年は、ためらいながらも勇気をだして言った。「金というものはさぞかしすばらしいものだろうと思っていましたがね」
「ある程度の資産ならば、それは望ましいものですわ。でも何百万という資産をもっていますと、そりゃあ、もう……!」
彼女はその言葉を絶望の身振りで結んだ。
「その単調なことといったら」と彼女はつづけた。「あきあきしてきますわ。遠乗り会、昼食会、観劇会、舞踏会、晩餐《ばんさん》会、しかもそういったものがすべて無駄なお金のメッキでおおわれているのですものね。どうかすると、わたくし、手にしたシャンパン・グラスの中で氷がちりんと鳴るの聞いただけで、気が狂いそうになりますの」
パーケンスタッカー氏は率直に興味をそそられたような様子をした。「わたしは日頃から、裕福で流行の先端を行く人たちのやり方を読んだり聞いたりすることが好きなんです。きっと紳士気取りのところがあるからなんでしょうね。しかし、知識だけは正確にしておきたいと思います。それで、シャンパンというものはびんのまま冷やすのであって、グラスの中に氷を入れるものではないとばかり思っていたのですが」
女は本当におかしそうに、音楽的な笑い声をたてた。
「それはね」と彼女はやさしい口調で言った。「わたくしたち有閑《ゆうかん》階級の者は、これまでしてきたことから逸脱《いつだつ》することに、わたくしたちの楽しみを求めるのです。で、今は、シャンパンに氷を入れることが流行《はや》っていますのよ。このアイデアは、いま来訪中のダッタンの王子さまがお考えになったものですわ、ウォールドーフでの晩餐会のときに。これだってまたすぐに変わって、何か別の気まぐれが始まると思います。現に今週、マディソン街で開かれたある昼食会などでは、緑色のキッドの手袋が片一方ずつ、それぞれのお客さまのお皿のわきにおいてありましたわ。オリーヴをいただくあいだ、それをはめて使うためですのよ」
「なるほど」と青年は屈伏《くっぷく》した様子でゆずった。「そういう奥妙《おうみょう》な社会での特別の気晴らしごとは、一般大衆にはなかなか知れてきませんのでね」
「ときどき」と女は、相手が誤りを認めたことに対して軽く頭をうなずかせながら、話をつづけた。「わたくし考えるのですけれども、もしわたくしが男の方に深く心を寄せるようなことがあるとすれば、その方は身分の低い人だろうと思います。労働をする人で、のらくら者なんかではありません。でも、きっと、社会的地位や財産の要求するもののほうが、わたくしの好みよりも力が強いことになってしまうでしょう。現に今もわたくし、二人の人から攻めたてられておりますの。ひとりはドイツのさる公国の大公ですわ。でもこの方には、どこかに奥さまが今でもいらっしゃるとか、あるいはいらっしゃったことがあるように思いますの。大公の大酒と虐待とで気がふれたというお方ですわ。もうひとりの方は、イギリスの侯爵です。とても心が冷たくて、欲得ずくの人ですから、まだ大公の悪魔のような仕打ちのほうがいいくらいですの。まあ、わたくし、どうしてこんなことをあなたにお話しする気になったのでしょう、パッケンスタッカーさん?」
「パーケンスタッカーです」と青年はささやくように言った。「ほんとうに、あなたの心の内をお聞かせいただいて、わたしがどんなに感謝しているか、おわかりにはならないでしょう」
女は、落ち着きはらった、非人間的な眼差しで彼をじっと見つめた。その眼差しこそ、ふたりの社会的地位の相違をそのまま表わしていた。
「あなたのご職業は何ですの、パーケンスタッカーさん?」と彼女はたずねた。
「ごく卑しい職業です。しかしいつかは世に出たいと思っています。あなたは本当に本気でおっしゃったのですか、さきほど身分の低い男にでも心を寄せることができるようにおっしゃいましたが?」
「たしかに本気でしたわ。でもわたくし、『かもしれない』と申したのですわ。大公がおりますし、それに侯爵だっておりますでしょっ。そうよ、どんな職業だって、卑しすぎるというようなことはありませんわ、もし、その方がわたくしの理想どおりの方でしたならばね」
「わたしは働いているのです」とパーケンスタッカー氏は宣言した。「あるレストランでです」
女はかすかにひるんだ。
「ウェイターとしてではないのでしょう?」と彼女は、やや哀願するような口調で言った。「労働は気高いものです、でも……人の付きそいとか、そのう、従者とか、それから……」
「わたしはウェイターではありません、出納《すいとう》係なんです、あの」
……ふたりの真向かいの通りで、ちょうどこの公園の反対側と境を接している所に、『レストラン』と明るいネオンの看板が光っていた。……「わたしは、あそこに見えるあのレストランで出納係をしているのです」
女は、左手にはめた美しいデザインの腕環《うでわ》に埋めこんである小さな時計をのぞいた。そしてあわてて立ちあがった。それから例の本を、腰のあたりにさげたキラキラかがやく手さげ袋の中に入れた。しかし、本はその袋には少しばかり大きすぎた。
「なぜいまお仕事をなさらないの?」と彼女はたずねた。
「わたしは夜勤なんです。わたしの勤務が始まるまで、まだ一時間もあるんです。またお目にかかれると考えてはいけませんでしょうか?」
「わかりませんわ。たぶん……でもこんな気まぐれは二度とわたくしの心に起こらないと思います。さあ、わたくし、急いで行かねばなりません。晩餐会がありますの、それから桟敷《さじき》でお芝居も観《み》なければ……それに、ああ! またいつもと同じことのくり返しですわ。たぶんお気づきでしたでしょう、ここへいらっしゃるとき、公園の向こうの角に自動車が一台ありましたのを。白いボディの車ですわ」
「そして赤い車輪ですか?」と青年は考えこむように眉をよせながらたずねた。
「ええ。いつもあれで参りますの。ピエールがあそこで待っているのです。たぶん、わたくしが広場の向こうのデパートで買い物をしていると思っているのですわ。なんということでしょうね、こうした毎日の束縛、わたくしたちは自分の運転手でさえも騙《だま》さなければならない毎日なのですわ。では、さようなら」
「しかし、もう暗くなりました。それに公園は不作法な男たちがいっぱいいます。わたしもごいっしょに……?」
「わたくしの希望をほんの少しでも考えてくださるお気持ちがおありでしたら」と女はきっぱりとした口調で言った。「このベンチに十分間だけ、わたくしの立ち去った後も、残っていてください。別にあなたを不作法な男と疑うわけではありません。ただ、お気づきかもしれませんが、自動車には、みんなその持ち主の頭文字がついておりますでしょう〔ニューヨークでは一九〇一年に初めて自動車法が制定され、自動車はすべてその見やすい箇所に所有者の頭文字をつけることが義務づけられた〕。ではもう一度さようなら」
足早に、しかも気品のある足どりで彼女は夕闇の中へと去っていった。青年はその優雅な姿をじっと見つめていた。そのうちにも彼女は公園の外《はず》れの舗道《ほどう》に出ると、そこをまがって自動車のとまっている角の方へと向かっていった。
すると青年は、彼女との約束を破って、しかもためらう気配さえなく、公園の木や植えこみの間を進みはじめた。ちょうど彼女の道筋と平行して進路をとりながら、彼女の姿がいつもよく見えるようにしてである。
彼女はその角のところまで行くと、自動車の方へ顔を向けて、チラリとそれを見た。それから、そのままそこを通り過ぎて、表の通りをどんどんとわたっていった。折よくとまっていた辻馬車の陰に身をかくしながら、青年は彼女の様子をじっと目で追っていた。
すると公園と反対側の通りの歩道を通って、彼女は例のネオンの看板のレストランへ入っていった。その店は、あの開けっぴろげの、けばけばしい感じのレストランのひとつで、あたり一面に白いペンキをぬりたくったり、鏡をはめこんだりしてあって、安く、しかも豪勢な気分で食事ができるような店であった。
女はこのレストランに入ってゆくと、そのまま奥のつきあたりの部屋に入っていった。それから、すぐにその部屋から出てきたが、その時には例の帽子もヴェールもつけてはいなかった。
出納係の机はずっと店先のほうにあった。そこの腰掛けにすわっていた赤毛の女が、腰掛けからおりて来たが、おりるときに、当てつけがましくちらりと柱時計を見た。灰色の服の女は彼女にかわってそれに腰掛けた。
青年は両手をポケットにつっこむと、ゆっくりと歩道を引き返していった。例の角のところで、彼の足はそこに落ちていた小さな紙表紙の本にあたった。本は芝生の生えぎわのところまで滑っていった。その色彩に富んだ表紙で、それがあの女の読んでいた本であることがわかった。彼は無造作に本を拾いあげた。そしてその本の題名が「ニュー・アラビアン・ナイツ」で、作者がスティーヴンソンという名であることを知った。彼はふたたび本を芝生の上に落とし、そして、決心がつきかねる様子で、しばらくのあいだあたりをぶらぶら歩いた。それから例の自動車に乗りこむと座席に身をしずめた。そしただふた言、運転手に言った。「クラブだ、アンリ」
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二十年後
パトロール中の警官が、もったいぶった足どりで大通りを歩いていった。そのもったぶった足どりは、いつもの癖からであって、べつに人にみせびらかすためのものではなかった。なぜなら、それを見る者はほとんどいなかったからである。時間はまだ夜の十時にもならぬというのに、冷たい風が時おり小雨をまじえて吹きつけるので、通りはほとんど人影が絶えていた。
家々の戸締まりを確かめながらパトロールをつづけ、手にした警棒をくるくるとまわして、それにいろいろと手のこんだ巧みな動きをあたえながら、時おり後ろをふり返っては警戒の目をこの静まりかえった大通りに投げかけてゆく、このがっしりとした体つきと、やや威張った歩きぶりの警官こそ、まさに治安の守護者そのものであった。この界隈《かいわい》は早寝早起きの地域であった。時たまタバコ屋やオール・ナイトの軽食堂の灯りが見えることもあるが、たいていの家は事務所だったので、もうとっくに戸を閉めていた。
あるブロックの中ほどまで来たとき、警官はとつぜん歩調をゆるめた。灯りの消えてる金物屋の戸口に、男がひとりよりかかって、火のついていない葉巻をくわえているのである。近よってゆくと、その男は急いで口をきいた。
「大丈夫《でえじょうぶ》だよ、旦那」と男は安心させるように言った。「友だちを待っているだけなんだから。二十年|前《めえ》の約束なんだ。ちょいとばかり、妙《みょう》にきこえるだろうね? なんなら、わけを話したっていいぜ、ウソじゃねえってことを確かめてえんならね。二十年ばかり前《めえ》にゃあ、今この店の建っているところに、レストランがあったのさ……『ビッグ・ジョー』ブレイディのレストランてえ名前だった」
「五年前まであったよ」と警官は言った。「それから取りこわしになった」
戸口の男はマッチをすって、葉巻に火をつけた。マッチの火は、青白い角ばった顎《あご》の顔を映しだした。目つきもするどく、小さな白い傷あとが右の眉の近くにあった。ネクタイピンは大きなダイヤモンドで、それも妙なはめかたがしてあった。
「二十年|前《めえ》の今夜」とその男が言った。「おれはこの『ビッグ・ジョー』ブレイディの店で飯を食った、ジミー・ウェルズってえ男といっしょだ。大の仲良しでね、この世でいちばんすてきな奴さ。その男とおれとはこのニューヨークで育ったんだ。まるで兄弟みてえにして、いっしょにな。おれがそのとき十八で、ジミーは二十歳《はたち》。そのあくる朝、おれはひと旗《はた》あげようと西部へでかけることになっていた。旦那の前だが、ジミーの奴をニューヨークから引っぱり出すこたあ、だれにもできやしねえ。なにしろ、ここだけが地球上で人の住めるところだとばかり考えてた奴なんだからね。それで、その夜、おれたちはこう話をきめたんだ、それじゃあ、今夜のこの時刻から数えてちょうど二十年後に、またここで会うことにしよう、たがいにどんな境遇になっていようと、またどんな遠くから来なければならなくても、きっとな、とね。二十年もたちゃあ、たがいに自分の行きつくところもきめ、財産だって作っているはずだ、たとえそれがどれほどのものであろうと、ってね」
「なかなか面白そうな話だね」と警官は言った。「しかし、ずいぶんと長かったようだね、この再会は。友だちからは便りがあったかね、別れてから?」
「ああ、あったとも、しばらくは手紙のやりとりをした。だが一、二年すると、たがいに消息がわからなくなっちまった。なにしろ西部ってえところは、やけに大《でけ》えところで、おまけにおれはそこを結構いそがしく、あっちこっちと飛びまわっていたからさ。だがきっとジミーの奴はここへ会いに来てくれるさ、生きてせえいりゃあな。いつだって、この世でいちばん信頼のおける、義理がてえ奴だったからな。絶対に忘れやしねえ、おれだって、千六百キロも先からやって来て、今夜この戸口に立ったんだ。だがそれだけの価値はあるのさ、あの相棒が現われてさえくれりゃあな」
待っている男は立派な懐中時計をとり出した。その両蓋《りょうぶた》には小さなダイヤモンドがはめこんであった。
「あと三分で十時だ」と男は言った。「ちょうど十時かっきりだったよ、おれたちがレストランの出口の、ここんところで別れたのはな」
「西部ではかなり成功したんだね?」と警官はたずねた。
「もちろんさ! ジミーの奴がおれの半分でも成功しているといいんだが。なにしろ奴は、ちょいとばかりノロマときてやがるからな、人はいいやつなんだが。おれなんざ、当世一流の頭の切れる連中と渡り合って、やっとのことで財産の山を手にしたんだ。ニューヨークなんかにいると、人間はみんな鈍《なま》っちまう。剃刀《かみそり》の刃のように切れる人間にするにゃあ、どうしたって西部へ行かにゃあだめだ」
警官は手にした警棒をくるくるまわして、一、二歩あるきだした。
「わたしは自分の道を行かにゃあならん。その友だちが間違いなく来るといいな。時間がきれたら待ってはやらぬつもりかね?」
「とんでもねえ! 少なくとも三十分は待ってやるね。この世に生きてるかぎり、ジミーはそれまでには来るからね。あばよ、お巡りさん」
「おやすみ」と警官は言うと、再びパトロールをつづけ、家々の戸締まりを確かめながら歩いていった。
今は細かな冷たい霧雨《きりさめ》がふっていて、風もいつの間にか気まぐれな吹き方から、絶え間のない吹き方にと変わっていた。歩行者が二、三人、この界隈を通りかかったが、みな陰気に口をつぐんだまま、急ぎ足に歩いていた。外套の襟を立てて、両手もポケットにつっこんだままである。金物屋の戸口では、千六百キロの道をやって来たという例の男が、若いころの友人との、このバカバカしいとも言えるような当てにならぬ約束を果たそうとして、葉巻をふかしながら待っていた。
二十分ほど彼は待った。やがてひとりの背の高い男が、長い外套姿で、耳もとまで襟をあげて、足ばやに通りの向こう側からやってきた。男は、まっすぐに、この待っている男の方へと近づいた。
「お前か、ボブ?」とその男は疑わしそうな口調でたずねた。
「おめえか、ジミー・ウェルズ?」と戸口の男はさけんだ。
「やはりそうだったか!」と今来た男は言うと、相手の両手をしっかりと握った。「確かにボブだ、運命と同じくらい確かだ。きっとここで会えると思っていたよ、お前がまだ生きてさえいればな。やれ、やれ!……二十年は長い月日だ。あのレストランもなくなってしまったよ、ボブ。今でもあってくれたらなあ、またそこでいっしょに食事ができたんだが。ところで、西部はどうだった?」
「すげえもんだ。ほしいものは何でもくれたぜ。おめえはずいぶん変わったじゃねえか、ジミー。背丈だって、そんなに二、三インチも高《たけ》えとは思ってなかったぜ」
「ああ、二十歳《はたち》を過ぎてから少し伸びたんだ」
「ニューヨークじゃ、うまくやっているのかい、ジミー?」
「まあまあだね。市の役所のひとつに勤めているんだ。さあ、来いよ、ボブ。おれの知っている所へ行って、ゆっくりむかし話をしよう」
ふたりは通りを歩きはじめた。たがいに腕を組みあっていた。西部から来た男は、成功のためにうぬぼれを強くして、自分の出世物語を語りはじめた。相手は、外套に身をしずめながら、興味をもってそれに耳をかたむけた。
街角に、ドラッグストアがあった。店は電灯の明かりで光りかがやいていた。このまばゆい光の中に来たとき、二人はたがいに、同時に、向きあって相手の顔を見つめた。西部から来た男は、急に足をとめると、腕をふりほどいた。
「おめえはジミー・ウェルズじゃあねえ」と彼は叩きつけるような調子で言った。「二十年っていう年月は長《なげ》えが、人の鼻を鷲鼻《わしばな》から獅子《しし》っ鼻に変えるほど長くはねえはずだ」
「だが善人を悪人に変えることはあるさ」と背の高い男は言った。「お前はもう十分も前から逮捕されているのだぞ、『シルキー』ボブ。シカゴ署《しょ》は、お前がひょっこりこっちへやって来ているかも知れんと考えて、電報をよこしているんだ、お前さんとちょいとばかりお話がしたいと言ってな。おとなしく行くだろうな? うん、そのほうがいい。ところで、署に行くまえに、ここに手紙がある。お前にわたしてくれと頼まれたんだ。この窓のところで読むがいい。パトロール巡査のウェルズからだ」
西部から来た男は渡された小さな紙切れをひらいた。彼の手は、読みはじめたときには微動《びどう》だにしなかったが、読み終えるころには、かすかにふるえていた。手紙はごく短かなものであった。
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ボブ、おれは約束の場所に時間どおりに行った。お前がマッチをすって葉巻に火をつけようとしたとき、それがシカゴで手配中の男の顔であることを知った。どうしてか、おれには自分の手ではできなかった、だから、署に帰って私服にこの仕事をたのんだのだ。
ジミーより
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魔女たちのパン
ミス・マーサ・ミーチャムは町角で小さなパン屋を営んでいた(入口の石段を三段ほどのぼって、ドアをあけると、ちりんちりんと鈴が鳴る、そういった類《たぐい》の店である)。
ミス・マーサはことし四十歳。銀行の通帳を見ると二千ドルもの預金があり、おまけに二本の入れ歯と、思いやりのある心の持ち主でもあった。四十にもなればたいていの女は結婚している。そうした人たちの結婚の条件に比べれば、ミス・マーサの方がはるかによかった。
週に二、三度、この店をおとずれる客があって、彼女はその客に興味をもち始めた。中年の男で、眼鏡をかけており、褐色のあごひげは入念に刈りこまれていて、先がとがっていた。
男は、ドイツなまりの強い英語を話した。服はよれよれで、ところどころ継ぎがあたっており、あたっていないところは、しわくちゃで、ぶくぶくしていた。しかし身だしみだけはきちんとしていて、礼儀作法も実に立派だった。
彼はいつも、堅くなったパンを二つ買っていった。焼きたてのパンは一つ五セントであった。堅くなったパンは二つで五セント。彼の注文するのは、いつもきまって、この堅くなったパンであった。
あるとき、ミス・マーサは赤っ茶けた汚点《しみ》が男の指についているのを見つけた。そこで、きっとこの人は画家で、とても貧しい暮らしをしているのに違いないと考えた。きっと、どこかの屋根裏部屋に住んでいて、そんなところで絵を描いたり、堅くなったパンをかじったり、うちのお店のおいしそうな食べ物のことを考えたりしているんだわ。
ミス・マーサは食卓について、厚く切った肉とやわらかなロールパンとジャムと紅茶とを前にするたびに、よく溜息をついては考えた。あのやさしい物腰の絵描《えか》きさんが自分といっしょにこのおいしい食事をしてくれたらいいのに、あんなすきま風のふきこむ屋根裏なんかでこちこちのパンなぞかじったりしないで。
ミス・マーサの心は、前にもお話ししたとおり、思いやりのあるものだった。
彼の職業についての推測が正しいかどうか、それを試すために、彼女は自分の部屋からある日、一枚の絵をもち出してきた。以前、売りに出ていたのを買ったものである。そして、カウンターの後ろの棚に立てかけてみた。
それはヴェニスの風景画だった。壮麗な大理石の宮殿《パラッツオ》(とその絵には書いてあった)が前景《フォーグラウンド》に……というよりはむしろ前汀《フォーウォーター》に、建っていた。その他にはゴンドラがあった(それには貴婦人が乗っていて、尾を引くように手を水に浸していた)、それから雲と空があり、また明暗の配合も充分にほどこされていた。画家ならばだれだってこの絵に気がつかぬはずはあるまい。
それから二日ほどして、例の客が入ってきた。
「堅くなったパン、二つ、ください。そこに、きれいな絵、ありますね、おくさん」と彼は言った。ちょうど彼女がパンを包んでいるときである。
「そうですか?」とミス・マーサは、自分の巧妙な手口を大いに喜びながら、言う。「わたしね、とても好きなんですのよ、美術と、それに(いや、いや、ここで早々《はやばや》と「画家」だなんて言ってしまっては、効果がないんだわ)、それに、絵画が」と彼女は別の言葉にすりかえて言った。「これ、いい絵だと思います?」
「宮殿はよく描けていません。その遠近法、正しくないですね。さよなら、おくさん」
彼はパンを手にすると、お辞儀をして、急ぎ足に出ていった。
そうだわ、やっぱりあの人は画家なんだわ。ミス・マーサは絵を自分の部屋にもどした。
なんとやさしく、なんと思いやり深く、あの人の目は眼鏡の奥でかがやいていたことだろう! なんと広い額の持ち主なんだろう! 遠近法がひと目で判断できるなんて……それなのに、堅くなったパンをかじりながら暮らしているなんて! でも天才というもは、世間から認められるまでは苦労しなければならないことがよくあるんだわ。
もし天才が、二千ドルの預金と、パン屋の店と、思いやりのある心とで後援されたら、芸術のためにも遠近法のためにも、どんなにすばらしいことだろう……しかし、これは白日の夢にしかすぎないのだよ、ミス・マーサ。
このころには、彼も店にやってくると、よく陳列ケースをはさんで、しばらくのあいだしゃべってゆくようになった。どうやら、ミス・マーサの明るい言葉をしきりに求めているようであった。
彼は相変わらず、堅くなったパンを買っていた。ケーキ一つ、パイ一つ、また彼女の自慢するみごとなサリーランでさえ、一つとして買おうとはしなかった。なんとなく、彼がだんだんやせて、元気もなくなってきたように思われた。彼女の心は、彼のこのつましい買い物に何かおいしいものを添えてやりたい気持ちでうずいた。
しかしいざ実行という段になると、彼女の勇気はくじけた。彼に恥をかかせるようなことは、とてもできなかった。彼女も芸術家の自尊心は知っていたからである。
ミス・マーサは、水玉模様の絹のブラウスを着て店に出るようになった。そして奥の部屋ではマルメロの種子と硼砂《ほうしゃ》との神秘的な混ぜ物をつくった。多くの人が、それを顔の色つやをよくするために使っているからである。
ある日、例の客がいつものように入ってきて、五セント玉を陳列ケースの上に置くと、堅くなったパンを注文した。ミス・マーサがパンを取り出そうとしていると、急に大きなラッパの音と半鐘《はんしょう》の音がして、消防馬車があわただしく通りかかった。
客は戸口に走り寄って外をのぞいた。だれでもがやることである。ふと思いついたミス・マーサは、この機会を利用した。
カウンターの後ろの、いちばん下の棚に新鮮なバターが五百グラムほどあった。牛乳配達が十分ほど前に置いていったばかりのものである。パン切りナイフでミス・マーサはこの堅くなったパンに二つとも深い切りこみをつくると、そこへバターをたっぷりおしこんで、切り口をまたしっかりと合わせておいた。
客がもどって来たときは、彼女はパンを紙に包んでいるところであった。いつになく楽しいおしゃべりをしばらくのあいだした後で、彼が行ってしまうと、ミス・マーサはひとり微笑《ほほえ》んだ。しかしわずかな心の動揺がないでもなかった。
あまり大胆すぎたかしら? あの人、気を悪くするかしら? でもきっとそんなことはないわ。食品言葉なんてありっこないもの。バターは処女らしからぬ出しゃばりを象徴するものなり、なんていうことは絶対にないわ。
その日は長いあいだ、彼女の心はこの問題に執着していた。この小さな欺《あざむ》きを彼が発見するときの光景を想像した。
あの人は手にした絵筆とパレットとを置くだろう。目の前には愛用の画架が立っていて、それには制作中の絵がかかっている。その絵の遠近法は実にみごとで、一点非のうちどころもないものだろう。それから、ひからびたパンと水とのいつもの昼食にとりかかるだろう。パンにナイフを入れる……ああ!
ミス・マーサは顔を赤くした。あの人、食べるとき、そこへバターを入れたあたしの手ぎわのことを考えるかしら? それからあの人……
店先の鈴がけたたましく鳴った。だれかが荒々しい物音をたてながら入って来た。
ミス・マーサは急いで店に出た。二人の男がそこにいた。ひとりは若い男で、パイプをふかしていた……これまで一度も見たことのない男である。もうひとりは例の画家であった。
彼の顔は真っ赤で、帽子は阿弥陀《あみだ》にかぶり、髪は手のつけられぬほど、もみくしゃになっていた。両の拳《こぶし》を固くにぎりしめて、それをミス・マーサにむかって激しくふりたてた。『ミス・マーサにむかって』である。
「バカモノ!」と彼はありったけの声でどなった。それから「一千雷《トンマ》!」とか何とか、それに類する言葉をドイツ語で叫んだ。
若い男は彼を連れ帰ろうとした。
「わたし、帰らない」と彼はむきになって言った。「どうしてもこの女に言ってやる」
彼はミス・マーサのカウンターを大太鼓《おおだいこ》のようにどんと叩いた。
「あんたのお陰で、わたし、めちゃめちゃになった」と彼はさけんだ。彼の青い目は眼鏡の奥で燃えていた。
「いいかね、あんたはオセッカイヤキノ、ババア猫だ!」
ミス・マーサはよろよろとそばの棚にもたれかかり、片方の手を水玉模様の絹のブラウスの上においた。若い男は連れの襟首をつかんだ。
「さあ行こう」とその男は言った。「それだけ言やあ、たくさんだろう」
そして、むかっ腹を立てている男をドアから歩道へと引っぱり出していった。そして、またもどって来た。
「きっと、あなたには説明が必要だと思います、おくさん」と彼は言った。「いったいどうしてこんな騒ぎになったのか。あの男はブルムベルガーといいます。建築設計の製図士です。わたしも同じ事務所でいっしょに働いています。彼はこの三か月ものあいだ、一生懸命がんばって、新しい市役所の設計図を書いていたんです。懸賞応募作品だったものですからね。それで昨日やっと線の墨入《すみい》れが終わったんです。ごぞんじのように、製図士は製図をするときいつもエンピツで先に描くんです。そして墨入れが終わると、そのエンピツの線を消すわけです。堅くなったパンを手のひらいっぱいにむしって、ごしごしとね。そのほうが消しゴムよりもよく消えるからなんです。ブルムベルガーはそのパンを買いにここへ来ていたんです。ところが、今日……そのう、おわかりでしょう、おくさん、あのバターが……そのう、つまり、ブルムベルガーの設計図はもう何の役にも立たなくなってしまったんです、まあ、小さく切って駅弁のサンドウィッチ〔「サンドウィッチ」の「ウィッチ」の発音は、この作品の表題の「魔女たち《ウイッチズ》」に呼応する。作者は、恐らくこの効果をねらったのであろう〕の中へでも入れれば話は別ですがね」
ミス・マーサは奥の部屋へ行った。そして水玉模様の絹のブラウスをぬぐと、いつも着ていた古い褐色のサージの服に着替えた。それから、マルメロの種子と硼砂《ほうしゃ》の混ぜ物を窓から|灰入れ《アッシュ・キャン》の中に投げ捨てた。
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ある忙しい株式仲買人のロマンス
株式仲買人ハーヴェイ・マックスウェルの店で秘書をしているピッチャーは、軽い興味と驚きの色を、日ごろは無表情なその顔に思わずただよわせた。彼の主人が九時半に若い婦人|速記者《タイピスト》を連れて勢いよく飛びこんできたときのことである。
きびきびとした口調で「お早よう、ピッチャー」と言いながら、マックスウェルは自分の机に向かって、まるでそれを跳びこえんばかりの勢いで、突進してゆくと、そこに待ちかまえている手紙や電報の山に首をつっこんだ。
その若い婦人は、一年も前からマックスウェルの速記者を勤めていた。美しい女性ではあったが、どう見ても速記者《タイピスト》などというタイプには見えなかった。人の気をそそるようなあのポンパドールの|はなやかさ《ポンプ》はなかった。首飾りのくさりも、腕環も、ロケットもつけてはいなかった。昼食にさそってもすぐに飛びついてくるような様子もなかった。着ている服も、グレーの地味なものであった。しかし、それは彼女の容姿にふさわしく、貞節さと思慮深さとをただよわせていた。清楚な黒いターバン風の帽子には、黄金に緑を交えた色合いの、マコー〔コンゴウインコのこと〕の羽がついていた。
今朝の彼女は、やさしく、そしてはずかしそうに、かがやいていた。目は夢見ごこちにかがやき、頬《ほお》はまさしくモモの花びらのようで、表情は幸福そのものといった様子で、何かを回想しているようなところが見えた。
ピッチャーは、なおも軽い好奇心をいだきながら、今朝の彼女に感じられるいつもと違った様子を観察した。すると彼女は、自分の机のある奥の部屋へまっすぐ入ってはゆかずに、しばらく何かを決しかねる様子で、店先にぐずぐずしていた。それから一度、マックスウェルの机のそばへ行った。彼女の来たことがわかるほどすぐ近くまでである。
その机に向かって腰をおろしている機械は、もはや人間ではなかった。それは忙しいニューヨークの株式仲買機であって、ぶんぶん回転する歯車とぜんまい仕掛けとで運転されているものなのだ。
「えっ……何だい? 何か用か?」とマックスウェルはするどい口調でたずねた。
封を切った郵便物が、舞台で使うあの小道具の雪の山のように、乱雑な机の上にのっていた。彼のするどい灰色の目が、人間性を忘れ、にべもない様子で、彼女の上に半ばいらだたしそうに光った。
「いえ、別に」と速記嬢は答えて、かすかな微笑をうかべながら、その場をはなれた。
「ピッチャーさん」と彼女は秘書に向かって言った。「マックスウェルさんは昨日《きのう》なにか言っていませんでした、新しい速記者を雇うことで?」
「言ってましたよ」とピッチャーは答えた。「一人みつけてくれってね。それで昨日の午後、紹介所の方に話をして、けさ二、三人候補者をよこしてくれって言ってやったんです。もう九時四十五分にもなりますが、まだピクチャー・ハット一つ、パイナップル・チューインガム一つ〔「ピクチャー・ハット」とは「だちょうの羽根のついた、つばの広い帽子」のこと。ここではそれをかぶったような気取った女性から、チューインガムを噛みながら入ってくるようなはすっぱな女性まで、という意味〕現われないんですよ」
「じゃあ、あたし、いつものように仕事しますわ」とこの若い婦人は言った。「だれか代わりの人が見つかるまでね」
そしてすぐに自分の机のところへ行くと、黄金に緑を交じえたマコーの羽のついている黒いターバン風の帽子を、いつもの所にかけた。
忙しいマンハッタンの株式仲買人が仕事に追いまくられている時の光景、こうした光景に接する機会をあたえられたことのない人は、人類学を職とするには不利な地位におかれている。詩人は「光輝《こうき》ある人生の、ぎっしりと詰まった一時間」と詩《うた》っている。しかし仲買人の一時間は、ただ単にぎっしりと詰まっているばかりでなく、その一分一秒までがみんな吊り革につかまり、前や後ろのデッキにまですし詰めになったあの満員電車みたいなものなのだ。
そして今日は、とくにハーヴェイ・マックスウェルにとって忙しい日であった。相場速報機が、発作《ほっさ》を起こしたようにカタカタとあわただしく巻きテープを繰り出しはじめ、机の上の電話が慢性の病気のように絶え間なく鳴りつづけた。客がどっと店になだれこんできて、仕切りの手すりごしに彼を呼びはじめた。機嫌のいい声、するどい声、毒々しい声、興奮した声。
メッセンジャー・ボーイは伝言や電報をもって、駆けこんできたり飛び出していったりした。店の事務員たちは、嵐の中の水夫のように、あたりを跳びまわった。あの無表情のピッチャーでさえ、その顔は活気に似たものを見せはじめた。
証券取引所では、暴風あり、地すべりあり、吹雪《ふぶき》あり、氷河あり、火山もあったが、こうした天変地異の騒動は、縮図となって仲買人の店にも再現された。
マックスウェルは自分の椅子を壁ぎわへおしやって仕事を処理していた。まるでトウ・ダンサーよろしくのきりきり舞いである。速報機から電話機へ跳んでいったかと思うと、今度は机から戸口へと、さながら道化役者が見せるあの修練をつんだ素早さで、動きまわっていた。
こうしてますます緊迫感が高まり、重大な時機にさしかかったさなかに、仲買人はとつぜん気がついた。高く巻きあげた金髪の前髪、その上にのっているビロードと駝鳥《だちょう》の羽毛の揺れ動く天蓋《てんがい》、まがいものの海豹《あざらし》の毛皮のコート、ヒッコリー・ナッツほどもある大きなビーズの首飾り、ゆかの近くまで垂れているその首飾りの先端の銀のハート。こうしたアクセサリーにくっついて、落ち着きはらった若い女が一人、目の前に立っているではないか。そしてピッチャーもそのそばにいて、この女のことを説明しようとしていたのである。
「仕事のことで速記者紹介所から来た女《ひと》です」とピッチャーは言った。
マックスウェルは、両手に書類や速報機のテープを抱えたまま、体を半ばこちらに向けた。
「どんな仕事だ?」と彼は顔をしかめながら言った。
「速記の仕事です」とピッチャーは言った。「きのう先方に話して、今朝ひとりまわしてもらうようにしろとおっしゃいました」
「気でも狂ったのかね、ピッチャー。わたしがそんな指示をあたえるわけがないじゃないか。レズリーさんがちゃんと申し分なくやってくれてるよ、ここに来て一年のあいだ、ずっとね。この仕事は、あの人が続けたいと言う限り、いつまでもあの人のものだ。ここには今あいている席《くち》はありませんよ、奥さん。紹介所のほうは取り消しておいてくれ、ピッチャー、そして、後の女はもうここへ連れてこないでくれ」
銀のハートは店を出ていった。ひとりで左右にゆれながら、店の調度品にぶつかったりして、憤然と立ち去っていった。ピッチャーは少しのすきを見つけると、帳簿係に、「うちの大将」のほうがよっぽど狂ってきて、日毎《ひごと》に世間のことが忘れっぽくなってゆくようだなぞと話しかけた。
仕事のあわただしさと進み具合とは、ますます激しく、ますます速くなっていった。立ち会い場では五、六種の銘柄《めいがら》が叩かれだした。この銘柄にはマックスウェルの客が大口の投資をしているのだ。買った、売ったの注文が入り乱れた。まるでツバメの飛び交うような目まぐるしさである。彼自身の持ち株もいくつか危なくなってきた。すると当人は、ギヤを高速に切りかえた精巧で強力な機械のように動きはじめた。……神経を極限まで張りつめて、フルスピードを出し、正確に、少しのためらいもなく、しかもその的確な言葉と決断と行動とは、まるで時計仕掛けのように迅速《じんそく》、機敏であった。株券や債券、貸付金や担保、証拠金や有価証券……ここには金融の世界はあったが、その世界には、人間の世界や自然の世界が入りこむ余地はなかった。
昼食の時間が近づいてくると、こうした嵐の中にもしばしの凪《なぎ》があった。マックスウェルは自分の机の前に立っていた。両の手には電報やメモをいっぱいにぎりしめ、万年筆は右の耳にはさんで、髪の毛はもつれた糸のように額に垂らしていた。
彼の(心の)窓はあいていた。やさしい管理人の「春」がコックをあけて、ほんのりとした温かさを大地の喚起(換気)装置からふき送ってくれていたからだ。
その窓から、いままでさまよい歩いていた……たぶん迷子になっていたのだろうが……ある香りが飛びこんできた。ライラックの甘い香りで、それを嗅ぐと、仲買人は一瞬その場にじっと動かなくなった。というのも、この香りこそミス・レズリーのものだったからで、それは彼女自身のものであり、彼女だけのものだったからである。
その香りによって、彼女の姿がはっきりと、手にふれることさえできるほどに、目の前にうかんできた。金融の世界は、とたんに小さくしぼんで、一点の汚点《しみ》になってしまった。しかも彼女は、すぐとなりの部屋にいるのだ、……二十歩ほどの所に。
「ようし、今やろう」とマックスウェルは半ば声に出して言った。「今たのんでみよう。どうしてもっと早くたのまなかったんだろう」
彼は奥の部屋へと突進した。まるで遊撃手《ショート》がカヴァーしようとするときのような勢いである。彼は速記嬢の机に突撃した。彼女は彼を見上げてほほえんだ。やわらかなピンク色が、ほんのりと頬を染め、目はやさしく、うちとけていた。マックスウェルは片肘《かたひじ》を机にもたせかけた。相変わらず両の手にはひらひらする紙類をつかんでいて、耳には万年筆をはさんでいた。
「レズリーさん」と彼はせわしなく話しはじめた。「わたしにはほんの少ししかお話しするひまがありません。で、そのひまに申しあげたいことがあるんです。あなた、わたしの妻になってくれませんか? わたしは、世間の人のように、あなたを口説《くど》いているひまはないのです。でも本当にあなたを愛しているんです。どうか、すぐ返事をしてください……連中がいま、ユニオン・パシフィックを売りたたいているところですから」
「まあ、何をおっしゃっているの?」とその若い婦人はさけんだ。彼女は立ち上がると、目を丸くして彼を見つめた。
「わからんのですか?」とマックスウェルはいらだたしそうに言った。「わたしと結婚してほしいんです。あなたを愛しているのです、レズリーさん。それが言いたくて、やっとひまを見つけたんです、ちょうど少し落ち着いたもんですからね。ほら、また電話がかかってきましたよ。ちょっと待ってくれと言ってくれ、ピッチャー。ねえ、どうですか、レズリーさん?」
速記嬢の態度は非常に奇妙であった。最初はあっけにとられた様子であった。次に、涙がそのいぶかる目から流れ落ちた。次には、その涙のかげから明るい微笑みが見えた。そして、一方の腕がそっとのびてきて、仲買人の首に巻きついた。
「やっと、わかりましたわ」と彼女はやさしく言った。「このお仕事のおかげで、ほかのことは何もかも、しばらくのあいだ、忘れてしまったんですのね。初めはびっくりしましたわ。おぼえていませんの、ハーヴェイ? わたしたち、結婚したんですのよ、昨夕《ゆうべ》、八時に、あの『角をまがったところの小さな教会』〔「ザ・チャーチ・オブ・ザ・トランスフィギュレイション」の俗称で、ニューヨークのマディソン街と五番街とにはさまれた二九番通りにある。O・ヘンリーの葬儀もこの教会で行なわれた〕で」
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振り子
「八十一番通り……出口をあけてやってください」と紺色の服を着た羊飼いが叫んだ。
シティズン・シープの一群がどやどやと降りると、別の一群がどやどやと乗り込んだ。ディン、ディン! マンハッタン高架鉄道の家畜列車はガタガタと走り去った。そしてジョン・パーキンズがその吐き出された群れにまじって、駅の階段を押されるようにして降りていった。
ジョンはゆっくりと自分のアパートのほうへ歩いていった。ゆっくりと、というのは彼の日常生活の語彙《ごい》の中には、「ひょっとしたら」という期待を表わす言葉がなかったからである。結婚してまる二年、しかもまだアパート暮らしをしているような男にとって、びっくりするようなことは何ひとつ待ちうけてなぞいはしないのだ。歩きながらジョン・パーキンズは、憂うつな踏みつけられたようなひねくれた気分で、この単調な一日の最後がどのようにして終わるか、初めからわかりきっている結論を自分自身にむかって予言した。
ケイティが戸口でおれを出迎え、コールド・クリームとバターボールの匂いのするキスをするだろう。おれは上着をぬぎ、マカダム工法の長椅子〔「マカダム工法」とは道路の構築、修理に用いる工法で、砕石を幾層にも敷き固めて路面を作るもの。ここでは詰めものばかりでスプリングのない、堅い長椅子を皮肉った〕に腰をおろして夕刊を読むだろう。どうせそこにはロシア兵と日本兵とが恐ろしい鋳込植字機《ライノタイプ》でおおぜい殺されているんだ。夕食に出るものは|鍋焼き肉《ポット・ロースト》と、ドレッシングをかけたサラダだろう。そのドレッシングだって、ひび割れ、損傷ぜったいなしというあの保証つきの皮革《ひかく》油みたいな代物《しろもの》だ。それに大黄《ルーパーブ》のシチューと、びん詰めの苺《ストロベリー》のマーマレード。それだってラベルに書いてある科学的純度の証明を見て、自分から顔を赤らめているようなインチキ物だ。
夕食がすむとケイティは、作りかけの掛け布団の補布《はぎ》がまた手に入ったからと言っておれに見せるだろう。氷屋の配達がネクタイの端を切りとって持ってきてくれたってえやつだ。
七時半になるとおれたちは、あちこちの家具に新聞をかぶせて、天井から降ってくる漆食《しっくい》を受けとめる準備をするだろう。この時間になるときまって、真上の部屋に住んでいるでぶの男が美容体操を始めるからだ。
八時きっかりになると、ヒッキィとムーニイが、この二人はヴォードヴィルのコンビで(ただし出演契約はまだしておらず)、廊下を隔てた向かい側の部屋に住んでいるのだが、譫妄症《せんもうしょう》のあのお上品な発作に襲われて、椅子などを倒しはじめるだろう。それも、ハマースタインが週五百ドルの契約をもって自分たちを追いかけまわしているという妄想にとりつかれてだ。
それから、路地《エアーシャフト》を隔てた向こう側の窓辺の紳士がフルートをとり出すだろう。その夜ごとのガス洩れがだんだん大きくなって大通りのにぎやかさぐらいになるだろう。ダムウエイターが滑車を動かしはじめるだろう。管理人はザノヴィツキー夫人の五人の子供をもう一度|鴨緑江《おうりょくこう》の向こうへ追い払うだろう〔子供の母親は、その名前から推してロシア系。従って、「鴨緑江の向こうへ追い払う」というのは、「母親のもとへ追い返す」という意味〕。シャンペン色の靴をはき、スカイ・テリアを連れた貴婦人が足どりも軽く階段をおりていって、呼び鈴と郵便受けの頭のところに自分の木曜日の名前を貼りつけるだろう……そしてフロッグモア・アパートのいつもの夜はこうしてふけてゆくだろう。
ジョン・パーキンズは、どうせ今夜もそうなるだろうと考えていた。そして八時十五分になるとおれは勇気をふるいおこして帽子をとろうとするだろう。すると女房のやつが、ぐちっぽい調子でこんなことを言うんだ。
「ねえあなた、どこへいらっしゃるの、教えていただきたいわ」
「マクロスキイの店へ行こうと思ったのさ」とおれは答えるだろう、「連中と|玉突き《プール》を少しやろうと思ってね」
最近はこれがジョン・パーキンズの習慣になっていた。そして十時か十一時に帰ってくるのである。ケイティは先に眠っていることもあった。また、起きていて激しい怒りの坩堝《るつぼ》の中で金のメッキをあの結婚の鋼鉄の鎖からまた少し溶かし去ろうと待ちかまえていることもあった。こうしたことの責任は、|愛の神《キューピッド》が、フロッグモア・アパートから行ったその犠牲者たちといっしょに裁きの廷《にわ》に立ったときに負わねばならぬだろう。
今夜、ジョン・パーキンズはこうした平凡な毎日とはうって変わったような、とてつもない一大事件に直面した。ちょうど自分の部屋の戸口についたときのことである。あの|甘い愛情《アフェクショニット》と|甘いお菓子《コンフェクショニット》のキスで出迎えるケイティがいないのである。三つの部屋も、不吉な混乱状態の中にあるように思われた。あたり一面に彼女のものが乱雑に散らかっていた。靴が床の中央にあるかと思えば、カール用の鏝《こて》や髪飾りのリボンやキモノや粉おしろいの函《はこ》やらが化粧台やあちこちの椅子の上にごたごたとのっていた。……これはいつものケイティのやり方ではなかった。
心を沈ませながらジョンは、彼女のとび色の巻き毛が雲のように歯のあいだに巻きついている櫛《くし》を見つめた。なにかただならぬ火急の事件と狼狽《ろうばい》とが彼女の身にふりかかったに違いない。なぜなら彼女はいつもこういう梳《す》き毛をマントルピースの上の小さな青い花びんの中に大切にしまっておいて、あとで人が欲しがるような立派な「かもじ」を作っていたからである。
すぐ目につくようにと、ガス灯の口に紐でつるして一枚の折りたたんだ紙がぶらさがっていた。ジョンはそれをつかんだ。それは妻からの手紙で、こう走り書きがしてあった。
[#ここから1字下げ]
あなた、
いま電報を受けとりました。母が重病とのことです。四時半の汽車に乗ります。弟のサムが、向こうで駅まで迎えに来てくれます。コールド・マトンが冷蔵庫《アイス・ボックス》に入れてあります。またあの喉頭炎でなければと思っています。牛乳屋さんに五十セント払っておいてください。母はこの春も喉頭炎をひどく患いました。忘れずにガス会社に手紙をしてメートルのことを言ってください。あなたの靴下はいちばん上の引き出しです。あすお手紙します。
取り急ぎ
ケイティ
[#ここで字下げ終わり]
結婚して二年のあいだ、彼とケイティは一夜たりとも別々に過ごしたことはなかった。ジョンは唖然《あぜん》としてその手紙を何度も読みかえした。今まで一度も変化のなかった平凡な毎日の暮らしに、今ようやく変化が起きたのだ。しかもそれは彼をただまごつかせるばかりであった。
椅子の背には、主《ぬし》もなく形もなく、哀れを誘うように黒い水玉模様の真っ赤な部屋着が掛かっていた。それは彼女が食事の支度をするときにいつも着ていたものだ。普段着も何枚かあちこちにあわただしく投げ出されていた。彼女の好きなバターボールの小さな紙袋もまだ紐がとかずに置いてあった。新聞が一枚、ひろげたまま床の上に落ちていた。大きく四角に口をあけているところは、汽車の時刻表を切りとった跡である。部屋の中のすべてのものが喪失を、失くなってしまった本質《エッセンス》を、消え去ってしまった魂と生命とを、物語っていた。ジョン・パーキンズは、心に奇妙な廃虚のような思いを感じながら、この死滅した残骸の中に立っていた。
やがて彼は部屋の中をできるだけきちんと片づけはじめた。彼女の衣類に手が触れたとき、何か恐怖にも似た戦慄《せんりつ》が体の中を走った。ケイティなしにどんな存在があるだろうか、そんなことをこれまで一度も彼は考えたことがなかった。彼女はあまりにも完全に彼の生活の中に溶け込んでしまっていたから、彼にとっては、自分の吸い込む空気のようなものであった。
それが今、何の前ぶれもなしに、彼女は行ってしまったのだ、消えてしまったのだ、まるで最初から存在していなかったかのように、完全にいなくなってしまったのだ。もちろんそれは二、三日のことに過ぎないだろう。長くてもせいぜい一週間か二週間のことだろう。しかし彼には、まるで死神の手が彼の安全で平穏な家庭めがけて指をさしたかのように思えたのである。
ジョンはコールド・マトンを冷蔵庫から取り出し、コーヒーをわかして、ひとりぼっちの食卓についた。面と向かいあうものは、あのストロベリー・マーマレードの恥知らずな純度証明だけであった。口の中でモゴモゴと食前の祈りを唱えているうちに、輝くばかりにはっきりと眼前に浮かんできたものは、ポット・ローストや皮革油のようなドレッシングをかけたサラダの幻影であった。彼の家庭は解体されたのだ。喉頭炎の義母《しゅうとめ》が彼の家庭の守護神たちを空高く突きあげてしまったのだ。ひとりぼっちの食事をすませると、ジョンは表通りに面した窓辺に腰をおろした。
彼はタバコを吸う気にもなれなかった。外では、町が大声で彼に呼びかけ、愚かさと楽しさの踊りの仲間に加われと誘っていた。今夜はお前のものじゃないか。女房から質問されることもなく出てゆけるんだし、むこうにいるどんな陽気な独身者《ひとりもの》にも負けぬくらい自由に歓喜の竪琴《たてごと》をかきならすことができるんだ。酒だって思いきり飲んで、その辺をほっつきまわり、したいほうだいのことをして夜を明かすことだって、お前さえしたいと思えばできるんだ。しかも家へ帰ってきたってそこにはぷんぷん怒って待ちうけているケイティはいないのだ、喜びの滓《おり》がまだ残っている杯《さかずき》を手にして帰ってくるお前をな。マクロスキイの店であの暴れん坊の仲間たちと玉突きをしながら、|曙の女神《アウローラ》が電球の明かりを薄れさせるまで遊んでいることだって、したいと思えばできるんだ。フロッグモア・アパートがお前に退屈を感じさせたとき、いつもお前を制御《せいぎょ》してきたあの結婚の手綱がようやくゆるめられたんだぞ。ケイティは行ってしまったんだ。
ジョン・パーキンズは自分の感情を分析することに慣れていなかった。しかしケイティのいなくなった三メートル×三・六メートルの居間に座っているうち、彼はふと、自分の不安な気持ちのその主調音をなしているものに、誤りなく、ぶつかった。この時になって、ケイティが自分の幸福にとってなくてはならぬものであることがわかってきた。彼女に対する彼の気持ちは、退屈な毎日の家庭生活によって寝かしつけられてしまい、全く意識をなくすほどにまで眠りこけていたのであるが、彼女の存在が失われたことによって鋭く揺り起こされたのであった。これまでにも諺《ことわざ》や説教や寓話などが、耳|喧《やかま》しくわれわれに説ききかせてはこなかったであろうか、われわれが小鳥の美しい声をほめ讃《たた》えるのは、いつもその鳥が飛び去ってしまってからだということを……あるいはこれに似た話を、同じように美しい真実の言葉で?
「おれは全くのまぬけ野郎だ」とジョン・パーキンズは心の中で言った、「これまであんなふうにケイティを扱っていたなんて。毎晩、玉突きなんかやりに出かけて仲間と飲み騒いでばかりいて、家で女房といっしょにいてやらなかったなんて。かわいそうに女房のやつは、ここでたったひとり、ぽつんとして、何の慰みもなかったんだ。それなのに、おれのほうはあんなことをしていたんだ! ジョン・パーキンズ、きさまは何という性《たち》の悪い人間なんだ。かわいい女房のためにその償いをしてやろう。外へ連れ出して、何かおもしろいものを見せてやろう。あのマクロスキイの連中とはたった今からでも手をきろう」
もちろん、外では町が大声でジョン・パーキンズを呼びながら、|あざけりの神《モーモス》のあとに続いて踊りに来いと誘っていた。そして、マクロスキイの店でも仲間の連中が、所在なさそうに玉を|玉受け《ポケット》に突き落としながら、いつもの本番の始まる時刻を待っていた。しかし桜草の道も、鳴りひびくキューの音も、妻を失ったパーキンズの自責の念にかられている魂を誘惑することはできなかった。
今まで自分のものであったものが、それを軽率に考え、なかば軽蔑さえしていたのに、こうして手もとから奪い去られてみると、今度はむしょうに欲しくなったのだ。天使たちに楽園から追放されたアダムという名の人間にまで、悔恨《かいこん》者パーキンズは自分の血統をさかのぼることができた。
ジョン・パーキンズの右手の近くに椅子があった。その椅子の背にはケイティの青いブラウスが羽織らせてあった。それはまだいくぶんか彼女の体の線をとどめていた。袖の中ほどには細かい様々な形のしわができていたが、それはおれを寛《くつろ》がせ喜ばせようとして働いてくれているときの彼女の腕の動きでできたものだ。ほのかな、しかし迫るような釣鐘草《ブルーベル》の香りがそこからただよってきた。ジョンはそのブラウスを手にとるといつまでも、真剣な面もちで、その無言の薄衣《うすぎぬ》を見つめていた。ケイティは一度だってこんなに黙りこくっていたためしはなかった。涙が、……そうだ、涙が……ジョン・パーキンズの目ににじんできた。今度、彼女が帰ってきたら、万事が変わるだろう。おれは、いままで放ったらかしにしていたことを何もかも償おう。彼女のいない人生なぞ何の価値があるのだ?
ドアがあいた。ケイティが小さな手さげカバンをもって入ってきた。ジョンはきょとんとして彼女を見つめた。
「ああ! よかったわ、帰ってこられて」とケイティは言った。「お母さんはたいして悪かったわけじゃないの。サムが駅にいて、話してくれたんですけど、お母さんはちょっと発作をおこしただけで、電報を打ったあとじきによくなったんですって。それで、あたし次の汽車で帰って来たのよ。ああ、コーヒーが飲みたくって、死にそうだわ」
誰ひとり、|はめば歯車《ユグ・ウィールズ》がカチリと鳴ってガラガラ動きだす音を聞いたものはいなかったが、フロッグモア・アパートの三階の表側の部屋は、機械を動かしてふたたび「万物の理法」にたちかえった。ベルトがスリップし、ばねが触れられ、ギアが入れ換えられた。すると歯車は以前の軌道を回転しはじめるのである。
ジョン・パーキンズは柱時計を見た。八時十五分だった。彼は手をのばして帽子をとると、戸口のほうへと歩いていった。
「ねえあなた、どこへいらっしゃるの、教えていただきたいわ」とケイティが、ぐちっぽい調子で尋ねた。
「マクロスキイの店へ行こうと思ったのさ」とジョンは言った、「連中と玉突きを少しやろうと思ってね」
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家具つきの貸部屋
少しも体むことなく、常に所を移し、はかなく消え去ってゆく、さながら時の流れにも似たもの、これぞまさしくロウアー・ウェスト・サイドの赤れんが地区に住む大多数の人たちである。彼らには家がないのに百にものぼる家をもっている。つまり、家具つきの貸部屋から家具つきの貸部屋へと次々に移り住んでいるのである。彼らは永遠の渡り鳥なのである……住居の点でも渡り鳥であり、胸と心の点でも渡り鳥なのである。「|楽しい わが家《ホーム・スウィート・ホーム》」をジャズのラグタイム調で歌い、| 一 切 合 財 《ラレーヌ・エット・ペナーテース》を帽子の空箱ひとつに入れてもち運び、ぶどうのつるをピクチャー・ハットにからませ、ゴムの木を彼らのいちじくの木にしているのである。
それゆえ、この地区の家は、それぞれ千人にものぼる居住者を入れてきているわけであるから、当然、千にものぼる物語をもっているにちがいないのであるが、そのほとんどが、退屈な物語であることは疑いない。しかし、もしこうした流浪《るろう》の客たちが立ち去ったあとに亡霊の一つや二つ出なかったとしたら、これまた不思議なことになるであろう。
ある午後のこと、日も暮れてから、ひとりの若い男がこうした崩れかけた赤れんがのアパートのあいだをあちこちとさまよいながら呼び鈴を押しまわっていた。
十二軒目にきたとき、彼はやせこけた手荷物をステップの上において、帽子のリボンと額とから埃《ほこり》をぬぐった。呼び鈴は、かすかな音をたてて、はるかかなたの、どこか遠い空《うつろ》な奥底で鳴った。
彼が呼び鈴を鳴らしたこの十二番目の家の戸口へ管理人が出てきた。しかしその女を見ると彼はいかにも不健康そうな、食傷ぎみの虫を思い出した。くるみの実を中ががらんどうになるまで喰いつくしておいて、今度はその空洞へ自分の腹のたしになるような下宿人をつめ込んでやろうとねらっているふうであった。
彼は貸部屋があるかどうか尋ねた。
「まあ、お入んなさいな」とおかみさんは言った。彼女の声はのどから出てきた。そののどには水垢《みずあか》がたまっているように思われた。
「三階の裏手の部屋ならありますよ、一週間ほど前から空いてますから。ごらんになりますか?」
若い男は彼女について階段をのぼっていった。かすかな明かりがどこからともなく差し込んでいて、廊下にぼんやりと影をつくっていた。二人は音もなく階段のマットの上を歩いていったが、そのマットたるや、まるでそれを織った機械でさえも、これは絶対におれの作品ではないと断言したくなるような代物《しろもの》であった。つまり植物になってしまったように思われたのである。悪臭を放ち、太陽もあたらぬような空気の中で変質し、青々とした地衣《ちい》や一面にひろがってゆく苔《こけ》のようになってしまい、今でこそ所々につぎはぎのようになって生えているものの、やがては成長して苔の階段にでもなろうとしているかのようであり、踏みつけると、有機物のようにねちゃねちゃと粘りつくようにさえ感じられもしたのである。
階段の各階の曲がり角には、壁に飾り棚のくぼみがついていたが、中はからっぽであった。昔はそこに草花が飾られたこともあったであろう。もしそうだとすれば、その草花はきたない汚れた空気の中で枯れてしまったのだ。また、そこには聖者の像が立っていたのかもしれない。しかしそれならば、こう考えることだってむつかしくはない。つまり、小鬼や悪魔たちが暗やみにまぎれてその像をひっぱり出し、階下のどこか家具つきの穴ぐらの、神聖ならざる奥底へもっていってしまったのだと。
「この部屋ですよ」とおかみさんは言った。水垢のたまったのどからである。「いいお部屋ですよ。空いていることなんかめったにありませんでね。この夏にはとても上品な人たちが住んでいましたわ。……ぜんぜん世話のやけない人たちでね、部屋代もちゃんと前金でくれてました。水は廊下のはずれにありますからね。スプロウルズとムーニイとが三か月ほど入ってましたのよ。二人はヴォードヴィルの寸劇をやってたんです。ミス・ブレッタ・スプロウルズ……たぶんあなたも名前はご存知でしょう……いえね、ミスだなんていっても、そりゃあ芸名なんですよ……あの化粧台の上に結婚証明書がかけてありましたわ、額入りでね。ガスはここですからね。それにほら、押し入れもたっぷりとってありますからね。この部屋は誰もが気に入ってくれるんですよ。ですからいつまでも空いているなんてことはないんですよ」
「おたくでは劇場関係の人を多く泊めているんですか?」と若い男は尋ねた。
「それも出たり入ったりでしてね。なにしろ下宿人さんたちのほとんどが劇場《こや》に関係している人たちでござんしょ。そりゃあもう、この辺はあちこちに劇場があるんですからね。俳優さんは、どこへ行ったってひとつ所にじっと居つづけることはないんですよ。うちでもそうなんです。ですから、入ったかと思うとまた出ていってしまうんです」
彼はその部屋を借りることにして、一週間分の部屋代を前金で払うことに話をきめた。わたしは疲れているので、と彼は言った。すぐに入りたいんですがね。
そして、彼は部屋代を渡した。部屋はちゃんと用意ができてますからどうぞ、と彼女は言った。タオルもかかってますし、水も用意してあります。
おかみさんが出ていこうとしたとき、彼は、これでもう千回目にもなるほどであったが、これまで尋ねまわってきた質問を舌の先に置いた。
「若い女の人なんですが……ミス・ヴァシュナー……ミス・エロイーズ・ヴァシュナー……そういう名の人を憶えていませんか、おたくの下宿人の中に? 歌っていた人なんです、おそらくステージでだと思います。きりょうのいい娘《こ》で、背の高さは中ぐらい、ほっそりとした体つきです。少し赤みがかった金髪で、左のまゆの近くにほくろがひとつあります」
「いいえ、そんな名前は憶えていませんねえ。俳優さんや女優さんは、下宿先を変えるのと同じくらい、ちょいちょい名前を変えますからね。それに、来たかと思うとすぐまた出ていってしまうし、わかりませんね、そんな名前は思いあたりませんよ」
わかりません。いつだって、わかりません、であった。この五か月のあいだ、絶え間なく尋ねまわってきたが、返ってくる答えはきまってこの、わかりませんであった。五か月のあいだ昼間は支配人のところや斡《あっ》旋所《せんじょ》や練習所や合唱団を尋ねまわり、夜は劇場の観客にまじって舞台の上を探し求めてきた。オールスター・キャストの劇場も探してみたし、自分の探し求めるものがどうかこんな所にいてくれなければよいがと願うほどの低俗なミュージック・ホールの小屋までも探してみた。
彼女を深く愛していたがゆえに、彼女を見つけ出そうとしていた。彼にとって確かだと思えることは、彼女が故郷から姿を消してからというもの、この大きな、水にとりかこまれた市《まち》がそのどこかに彼女を閉じ込めているにちがいないということであった。しかし、この市は巨大な流砂《りゅうさ》にも似て、絶えずその微粒子を、何の根拠もなく移動させ、今日上のほうにあった粒子を明日は泥、粘土《ねばつち》の中に埋めていた。
この家具つきの貸部屋は新しい客を、初めだけ明るく燃えたつような偽りの歓待で迎えた。ぱっと燃えてすぐに冷めてしまう、おざなりの歓迎。まるで売春婦のつくり笑いにも似たものであった。そうした上辺《うわべ》だけをつくろった慰めは、朽ちかけた家具類や、一台の長椅子と二脚の腰掛けとに張ってあるぼろぼろの繻子《しゅす》の布地や、窓と窓との間の壁にかけてある幅三十センチばかりの安っぽい姿見などから、そしてまた、金メッキした一、二枚の額縁や片隅にある真鍮《しんちゅう》の寝台から、反射してくる輝きの中にあったのである。
客はぐったりと腰掛けの中に身をもたせかけた。するとその部屋は、まるでそれがバベルの塔の中の一室ででもあるかのように混乱した言葉で、彼にむかってこれまでの様々な下宿人たちのことを語りかけようとした。
色どり豊かな敷物が、美しい花を咲かせた長方形の熱帯の小島のように、汚いマットの波うつ海に囲まれていた。派手な柄《がら》の紙を貼った壁には、家のない者に宿から宿へとつきまとう、あのいつもの絵がかけてあった。……「ユグノー教徒の恋人たち」とか「最初のいさかい」とか「婚礼の朝の食事」とか「泉のほとりのプシューケー」といったものである。マントルピースのあの純潔とさえ言える厳《おごそ》かな感じの輪郭は、ヴェールのかげにかくされて面目を失っていた。出しゃばりな垂れ布が、アマゾニアン・バレーの踊り子たちの締める飾り帯のように、ななめに気どった格好でその前に立ちはだかっていたからである。
そのマントルピースの上にはわびしい浮き荷がのっていた。それは、この部屋に流れついた人たちが運よく帆船にひろわれて、新しい港へと運ばれてゆくときに捨てていったものである。……つまらぬ花びんが一つ二つ、女優の写真が数葉、薬びんがひとつ、仲間《デッキ》からはぐれたトランプ・カードが数枚。
ひとつ、またひとつと、ちょうど暗号文の文字が解明されていくように、この家具つきの貸部屋の客たちが残していった小さな暗号がある意味を明らかにしはじめた。化粧台の前にある敷物の、すり切れて糸までむき出しになった部分は、美しい女が多勢この上を歩いたことを物語っていた。壁に残っている小さな指紋は、小さな囚人たちが太陽と空気を求めて出口をまさぐっていたことを語っていた。四方に飛び散った汚点が、炸裂《さくれつ》している爆弾の影のような形をなしていたが、それは投げつけたグラスか瓶《びん》かが壁にあたって中身が飛び散った箇所を立証していた。例の姿見にはダイヤモンドの指環で切りつけたらしく、たどたどしい字体で「マリー」という名が書きなぐってあった。
どうやら、この家具つきの貸部屋の住人たちは、怒りのあまり……おそらくそれはこの部屋のはでやかな冷たさに我慢ができなくなったからであろうが……自分たちの激情をこの部屋に向け、この部屋にぶちまけていたのであろう。だから家具類には切り傷やら打ち傷やらの跡がみられたのである。長椅子は、とび出そうとするスプリングのために形もくずれたまま、さながら恐ろしい怪物が異様な痙攣《けいれん》をひきおこして苦しみもだえている最中に殺されたとでもいった様子を見せていた。
それよりももっと激しい騒動があったのであろうか、大理石のマントルピースからはその一部分が大きくはぎとられていた。床に張ってある厚板は、その一枚一枚が独自の言葉や叫び声をもっていて、みなそれぞれ自分の苦悶《くもん》を訴えているかのようであった。こうした怨念《おんねん》や損傷がすべて、この部屋をひと時でもわが家と呼んだ人々によって、この部屋に加えられたのだなどとはとても信じられそうになかった。しかし彼らの怒りに火をつけたものは、欺《あざむ》かれながらも盲目的に生き残っていた家庭本能であり、偽りの家庭の神に対する憤まんやるかたない怒りであったのかもしれない。たとえあばら家《や》であっても、自分自身の家ならば、われわれはそれを掃き、そして飾り、そして大切にはぐくむからである。若い下宿人は椅子に座ったままぼんやりと、こうした思いがやわらかな足音をたてながら心の中を通り過ぎてゆくのを感じていた。
と、そのうちにこの部屋の中へ、備えつけの音と備えつけの匂いとが流れ込んできた。ひとつの部屋からは、クスクスと止めどもないけだるそうな笑い声が聞こえ、別の部屋からは、口やかましい女の独り言や、さいころのガラガラいう音や、子守り唄や、重苦しく泣いている人の声が聞こえてきた。そして頭の上ではバンジョーが威勢のいい音をたてていた。ドアがどこかでバタン、バタンと鳴っていた。高架鉄道の列車が断続的に大きな音をたてながら通り過ぎた。ネコは裏の塀の上で哀れな声をあげていた。そして、彼は家の臭いを……匂いというよりはむしろ湿った臭味《くさみ》を……吸い込んだ。それは、ちょうど地下の穴ぐらから臭ってくるような冷たくかびくさい臭いに、リノリュームや、白かびが生えて腐ってしまった木材から発する臭いを混ぜあわせたような臭いであった。
そのうち突然に、ちょうど彼がそうして体をやすめていたときに、部屋の中が木犀草《もくせいそう》の強く甘い香りでいっぱいに満たされた。それはまるでさっと吹き込む一陣の風にでも乗ってきたかのように、非常な確かさと、芳香と、強調とをもっていたので、生ある訪問客かとも思えるほどであった。そこで若者は大声で叫んだ。
「なんだね、きみ?」
まるで自分の名が呼ばれたかのように彼はそう叫ぶと、パッと立ちあがって向きなおった。その甘い香りは彼にしがみつき、彼を包んだ。彼も両腕をのばしてその香りを求めた。そうしているあいだ彼のあらゆる感覚は混乱し混合していた。いったい人間が香りなどというものからはっきりと名を呼ばれることがあるのだろうか? きっとそれは何かの音だったにちがいない。しかし、彼に触れ、彼を愛撫したものは音ではなかったのではなかろうか?
「彼女はこの部屋にいたんだ」と彼は叫んだ。そして、この部屋から何かその証拠をつかもうとしはじめた。なぜなら、彼は、どんな小さなものでもそれが彼女の持っていたものであったり、あるいは彼女が触れたものであったならば、きっとわかると思っていたからである。この自分を覆《おお》い包む木犀草の香り。彼女が愛し、彼女自身のものにしたこの香り。……いったいそれはどこから来たのだろう?
部屋は無造作《むぞうさ》にしか片づけられていなかった。化粧台の薄っぺらな掛け布の上には、ヘアピンが六本ばかりちらかっていた。……あの思慮ぶかく、なかなか判別のつけにくい女性の友で、性《ジェンダー》は女性であるが、法《ムード》は不定で、そのうえ時制《テンス》も意を通じてくれぬものである。彼はそれらのヘアピンを無視した。なにか自分たちの身元の知れぬことを勝ち誇ってでもいるかのように感じられたからである。
化粧台の引き出しをあちこちと探しているうちに、一枚の使い捨てられた小さなぼろぼろのハンカチが出てきた。彼は自分の顔に押しあててみた。それはヘリオトロープの匂いをさせて、おうへいな感じを与えた。彼はそれを床に投げすてた。べつの引き出しからは、半端《はんぱ》もののボタンが数個と、劇場のプログラムが一枚と、質札が一枚と、迷い込んだマシュマロが二つと、それに夢占いの本が一冊、出てきた。そして最後の引き出しには、女性用の黒い繻子《しゅす》の髪飾りがひとつ入っていた。それを見ると彼は急に手をとめて、氷と火との中間に立たされたかのようになった。しかしその黒い繻子の髪飾りもまた、単なる女性の、つんとすました、非個人的な、共通の飾りものにしかすぎず、何ひとつ彼に物語ってはくれなかった。
それから彼は、獲物《えもの》の臭いを追う猟犬のように部屋の中を歩きまわった。あたりの壁を調べてみたり、ふくらんだマットの隅々を四つんばいになってさぐってみたり、マントルピースやテーブル、カーテンや垂れ布、片隅にある酔っぱらったような用箪笥《ようだんす》などをくまなくさがして、何かはっきりと目に見える証拠をつかもうとした。そして彼女が彼のかたわらにも、ぐるりにも、すぐ目の前にも、中にも、あるいは頭上にもいるようには認めることができなかったけれども、それでいて、彼にしがみつき、求愛し、より細かな感覚を通してあまりにも強く呼びかけてくるので、彼のようなより鈍い感覚でさえも、その呼び声を知ることができたのである。もう一度、彼は大きな声で答えた。
「ここだよ、きみ!」
そして大きく目をひらいてふりむくと、じっと虚空を見つめていた。なぜなら、彼にはまだ形も、色も、恋人も、差しのべられた腕も、その木犀草の香りの中に認めることができなかったからである。
おお神さま! この香りはどこから来たのでしょうか、そしていつから香りが人を呼ぶ声をもつようになったのでしょうか?
こうして彼はなおも手さぐりをつづけた。
彼はあちこちの割れ目や片隅までもさがしまわって、コルクのせんやタバコを見つけた。それらのものを彼は消極的な軽蔑の手で投げすてた。しかし一度、マットのひだの下から、吸いかけの葉巻を見つけたときには、緑色の鋭い罵声《ばせい》をあげながら、靴のかかとでそれを踏みにじった。彼は部屋を端から端までさがしまわった。そして、多くの渡り鳥のような下宿人たちの、わびしい、名もない小さな記録を見つけた。しかし、彼の探し求める女については、その女がここに下宿していたかもしれず、その女の魂がここにさまよっているようにさえ思えるのだが、何ひとつ形跡を見つけだすことはできなかった。
そのうちにふと、あのおかみさんのことが頭に浮かんだ。
彼はこのお化け屋敷のような部屋から階下へ駈けおりると、ひと筋の明かりがもれている戸口の前に立った。ノックに応《こた》えておかみさんが出てきた。彼は自分の興奮した気持ちをできるだけ抑えるようにした。
「すいませんが、奥さん」と彼は懇願した、「わたしの前に誰があの部屋を借りていたか教えていただけませんか?」
「ええ、いいですとも。もう一度お教えしましょう。スプロウルズとムーニイですよ、さっきもお話しましたようにね。ミス・ブレッタ・スプロウルズ、これは芸名でしてね、実際はムーニイの奥さんだったんですよ。うちの下宿は堅いので有名ですからね。結婚証明書がかかってましたよ、ちゃんと額入れで、釘にかけて、あの……」
「ミス・スプロウルズってどんな種類の女だったんですか……つまり、その、容貌の点ですが?」
「ええと、まあ、黒い髪をしてましてね、背は低く、体はずんぐりで、それにひょうきんな顔をしてましたわ。二人は一週間前の火曜日に出てゆきましたよ」
「で、その二人が借りていた前には?」
「そうねえ、運送業に関係している独身の人がいましたね。一週間分の部屋代を借りたまんま出てゆきましたわ。その人の前はクラウダー夫人とふたりのお子さん。四か月ほど泊まってたわね。そしてその前はドイルというお爺さん。息子さんたちが部屋代を払っていてくれたのよ。あの部屋を六か月ほど借りてましたね。これでちょうど一年ばかり前になりますわね、それから先のことは、わたしも憶えていませんわ」
彼は礼を言うと、そのまま這《は》うようにして自分の部屋にもどってきた。部屋は、死んでいた。この部屋に生命を与えていた本質は消え失せていた。木犀草の香りは消え去っていた。そのかわりに、そこにはあの以前のかび臭い匂いがあった。それはかびの生えた家具の匂いであり、倉庫の中の空気の匂いであった。
希望の引き潮が彼の信念を干上《ひあ》がらせた。彼は腰をおろしたまま、黄色い、音をたてて(「ゆらめいて」となっている版もある)燃えているガス灯をじっと見つめていた。やがて彼はベッドのところへ歩みよると、シーツを細長く引き裂きはじめた。それからナイフの刃先をつかってその切れ端を窓や戸のすきまにしっかりとつめ込んだ。そして、すきまというすきまをみんなふさいでしまうと、ガス灯の明かりを消し、それからふたたびガスの栓をいっぱいにあけて、気持ちよさそうにベッドの上に身を横たえた。
その夜はマックール夫人がコップ持参でビールをご馳走になりにゆく番であった。そこで彼女は自分のコップをもってパーディ夫人といっしょに腰をおろした。管理人たちが寄り集まり、うじ虫も死ぬことのないあの地下の隠れ家のひとつである。
「今日の夕方、うちのあの三階の裏手の部屋を貸しちまったよ」とパーディ夫人がビールの泡のこまかな輪の向こうから言った。「若い男が借りたのさ。二時間ほど前に寝にあがっていったよ」
「へえ、貸したのかい、お前さん?」とマックール夫人はひどく感心しながら言った。「あんたはああいう部屋を貸すことにかけちゃあ、天才だね。で、貸すときに、話してやったのかい?」と最後の言葉は、秘密を積んだしゃがれ声で、そっとささやいた。
「部屋にだね」とパーディ夫人は水垢のこびりついたような調子で言った、「家具が入っているのは、その部屋を貸すためなんだからね。話しゃあしないさ」
「そりゃあ、あんたの言うとおりだ。あたしたちゃあ、部屋を貸して生活《くらし》をたてているんだからね。あんたも商売にかけちゃあ、なかなか頭が働くんだね。たいていの人は部屋を借りるのをいやがるだろうからね、自殺した奴がいて、その部屋のベッドの上で死んでいたなんて聞かされたらね」
「あんたの言うとおり、あたしたちゃあ、生活をたてていかなきゃあならないんだ」とパーディ夫人は言った。
「そうだとも。全くだよ。ちょうど一週間前の今日だったねえ、あんたに手をかしてあの三階の裏手の部屋のレイアウトをしたのは。すらりとしたきれいな娘だったじゃないか、ガス自殺なんかするにゃもったいないほどだったよ。……かわいい顔をしていてさ、ねえあんた」
「そう、あんたの言うとおり、美人と呼ばれただろうねえ」とパーディ夫人はあいづちを打ちながらも、あらをさがすような調子で言った、「あの左のまゆのところに、ほくろさえなかったらね。さあ、もういっぱいぐっとお飲みよ、マックールさん」
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アイキー・シェーンスタインの愛の妙薬
ブルー・ライト・ドラッグストアは下町にある。バワリー通りと一番街との間で、ちょうどこの二つの通りの間隔がいちばん狭くなったあたりである。このブルー・ライトは、薬局《ドラッグストア》というところは小間物とか香水とかアイスクリーム・ソーダなどというものまで扱う所だなどとは考えていない。だから、この店に行って鎮痛剤を注文しても、ボンボンを渡されるような心配は絶対にないのである。
ブルー・ライトは、現代薬学のあの手数を省こうとするような調剤法を軽蔑している。だからこの店は、自分のところでアヘンを溶《と》かし、この店独自のアヘンチンキや鎮痛剤を作っている。今日でも相変わらず丸薬は店の背の高い調剤台のかげで作られるのである。……つまり、この店のこね板の上でこねられ、へらで分けられ、人差し指と親指とでまるめられ、苛性《かせい》マグネシアをまぶされ、そして小さなまるいボール紙の丸薬箱に入れられるわけである。
店はちょうど通りの角にあって、このあたりにはボロをまとった元気な子供たちが群れをなして遊んでいるのであるが、やがてはこの子供たちも、中で待っている咳止めドロップや鎮静シロップを必要とする候補者となるわけなのである。
アイキー・シェーンスタインはこのブルー・ライトの夜勤の店員で、おまけに客たちのよき友人でもあった。これがイースト・サイドというところなのであって、ここでは薬剤師の心もグラッセとはならないのである。ここでは、当然、薬剤師は客の相談相手であり、聴罪師であり、助言者であり、有能で気さくな伝道師や教師なのであって、その学識は尊敬され、その秘伝の知恵は崇拝され、その薬剤は、試しになめてみるようなこともせずに、いきなり咽喉《ガター》の中へ投げこまれることがよくあったのである。それゆえ、アイキーの角《つの》のような形の、眼鏡をかけた鼻と、やせぎすの、知識の重みで前こごみになった姿とは、ブルー・ライトの界隈《かいわい》ではよく知られていた。そして彼の助言や警告は大いに望まれていたのである。
アイキーは二丁ほどはなれたリドル夫人の家に間借りをしていて、そこで朝食もとっていた。リドル夫人には娘がひとりいて、名をロウジーといった。いや、こんな回りくどい言い方はむだである……みなさんはすでにもうお気づきのことにちがいない……つまり、アイキーはロウジーを熱愛していたのである。彼女は彼の心にすっかりチンキをぬっていた。彼女は、すべてのものからそのエッセンスをとり出して作った複合剤のようなもので、それは化学的にも純粋で、薬局方にも準拠《じゅんきょ》したものであった。……薬品解説書の中にも彼女に匹敵するほどのものは一つものってはいなかった。しかしアイキーは内気だった。だから彼の希望は、彼の引っこみ思案《じあん》と懸念《けねん》という溶剤の中ではいつまでも溶けずに残っていた。
店のカウンターの向こうにいるときは彼も一個のすぐれた存在で、特別の知識と価値とを静かに意識していた。しかし外にあっては、ひざのがくがくした、半分盲目の、そして市電の運転手にもどなりつけられるようなノソノソ歩きの人物で、だぶだぶな服は薬品でよごれ、下剤のソコトリン・アロウや、アンモニアのバレリアン酸塩《えんさん》〔鎮静剤の一つ〕の臭いをさせているような男であった。
アイキーの軟膏《あぶら》の中の蝿《はえ》〔「伝道の書」に、「死んだはえは、香料を造る者のあぶらを臭くし」とあるのによる。ここでは「しゃくの種、悩みの種」の意味〕(これはまた実にぴったりと合った比喩ではありませんか!)は、チャンク・マガウアンであった。
マガウアン君もまた、ロウジーのふりまくあの晴れやかな微笑をなんとかキャッチしようといっしょうけんめいになっていた。しかし彼はアイキーとはちがって決して外野手ではなかった。微笑の球がバットを離れるか離れぬうちにおどりかかるようなすばしこい内野手であった。それでいて彼はアイキーの友人でありまた得意客でもあって、よくこのブルー・ライト・ドラッグストアに立ち寄っては、打ち傷にヨードチンキをぬってもらったり、切り傷に絆創膏《ばんそうこう》をはってもらったりしていた。それはバワリー通りで楽しい一夕を過ごしたあとなどである。
ある日の午後、マガウアンは、いつものように黙ったままぶらりと店に入ってくると、ととのった顔立ちに、ひげもきれいに剃《そ》って、かたくなな、負けん気の、しかも根は正直そうなその姿を、丸椅子の上におちつかせた。
「アイキー」と彼は言った。彼の友人が乳鉢《にゅうばち》をもってきて真向かいにすわりながら安息香《あんそくこう》を粉にすりつぶし始めたときである。「よく聞いてくれ。実は薬がほしいんだ、あったらぜひわけてくれ」
アイキーはマガウアン君の顔をじろじろと見つめて、いつものあの喧嘩《けんか》の傷跡を探した。しかしそれらしきものは一つも見あたらなかった。
「上衣をぬぐんだ」と彼は命令した。「やはり肋骨《あばらぼね》のあいだをナイフで刺《や》られたんだな。だから何度も言ったじゃないか、今にきっとあのデイゴウ〔イタリア人、スペイン人、ポルトガル人たちを指す軽蔑的な言葉〕たちに片づけられちまうぞってな」
マガウアン君は微笑した。
「奴らじゃないんだ。デイゴウたちなんかじゃないんだ。だが、診断の箇所はみごとに当たっているぜ……上衣の下で、肋骨の近くだ。実はな、アイキー……ロウジーとおれとはな、駆け落ちをして結婚するつもりなんだ、今夜な」
アイキーの左手の人差し指の先が七の字に曲がりながら乳鉢のふちをこえて内側にまでくいこみ、その鉢をしっかりとにぎりしめた。彼は乳棒《にゅうぼう》で乱暴にその鉢をつついたが、自分ではそれに気がつかなかった。その間にマガウアン君の微笑は次第にうすれて、なにか途方にくれたような憂うつそうな顔つきになった。
「だがそれは」と彼はつづけた。「彼女のほうで、いよいよというときまで気持ちを変えずにいてくれればの話なのさ。おれたちが駆け落ちの計画をたてたのは、もう二週間も前からなんだ。ところが、いったん、エエいいわなんて言っておきながら、その日の夕方には、ダメよなんて言うんだからな。やっとのことで今夜決行ということに話がまとまったんだ。そしてロウジーも今度ばかりはまる二日のあいだ、肯定の気持ちを変えていないんだ。しかし約束の時間までにはまだ五時間もある。いよいよ決行という段になって、すっぽかしをくうんじゃないかと、それが心配なんだ」
「薬がほしいとか言ってたね」とアイキーは言った。
マガウアン君の様子はなにやら落ち着きのない、困りきった……つまり、いつもの態度とは全く正反対の様子だった。彼は売薬年鑑をくるくると巻いて円筒をつくると、それをいっしょうけんめい指にはめこもうとしていた。
「おれはこの二重のハンディキャップにへまなスタートをきらせたくないんだ、今夜はな、たとえ百万ドルくれるからと言ってもだ」と彼は言った。「小さなアパートだが、ハーレムにもう借りてあって、テーブルには菊の花もいけてあり、やかんの湯も沸《わ》かすばかりになっている。それに牧師とも話をつけて、九時半に自宅で待っていてくれることになっているんだ。だから是が非でも実行しなくちゃならないんだ。これで、ロウジーがまたぞろ考えを変えさえしなければいいんだが!」
マガウアン君は言葉を切った。まさに疑惑のとりこである。
「それにしても、まだわからないのだが」とアイキーはぶっきらぼうに言った。「どうして薬の話をしたんだい。薬をどうしろというのかね」
「おやじさんのリドルがね、おれのことをちょいとばかり気に入らないのだ」と、この不安な求婚者はつづけた。いっしょうけんめい話の筋を組み立てようとしている様子である。「で、この一週間ものあいだ、おやじさんはロウジーを一歩も外へ出させないのだ、このおれといっしょにはね。下宿人をひとりなくすってえことが惜しくさえなかったら、おやじさんたちはとうの昔にこのおれを追い出していたろう。おれは週に二十ドルも稼いでいる。だから彼女だってこのチャンク・マガウアンといっしょに篭《かご》を飛び出したって絶対に後悔することはないはずなんだ」
「すまないけどね、チャンク」とアイキーは言った。「わたしは処方薬を一つつくらなければならないんだ、もうすぐ取りにくる人がいるんでね」
「そうだ」とマガウアンは急に顔をあげながら言った。「そうだ、アイキー、何か薬はないかね……粉薬《こなぐすり》のようなもので、それを相手の女の子に飲ましたら、これまで以上にこっちを好きになってくれるっていうようなものは?」
アイキーの鼻の下の唇がめくれあがって、優越開花の軽蔑がのぞきだした。しかし彼が答えを口にするよりも先に、マガウアンがまたつづけた。
「ティム・レイシーの話によると、奴はいちど山の手のある医者から少し分けてもらって、そいつをソーダ水の中に入れて相手の女の子に飲ましたんだそうだ。初めに一口のましたときから、奴はピカ一になって、ほかの連中はみんなその子の目にはクズみたいに見えたんだそうだ。それで二人は二週間もたたないうちに結婚したぜ」
たくましくて、しかも単純、これがチャンク・マガウアンであった。人の心を読みとる点でアイキーよりもすぐれた者がいるとすれば、その者には、マガウアンの強靱《きょうじん》な体に何本もの細い筋金が通っているのを見ることができたであろう。さながら敵地に攻め入らんとする名将のように、彼はあらゆる点に気をくばって、起こりうる失敗に備えようとしていた。
「で、おれは考えたのだ」とチャンクは期待をこめて話をつづけた。「もしこのおれにもそういう薬があって、今夜、食事のときにロウジーに飲ませることができたら、彼女もグッときて、駆け落ちの約束を破るようなことはしなくなるだろうと思うのだ。たぶん、ラバを一チーム連れて来て引っぱり出さなければ彼女はついてこないというわけでもあるまいが、なにしろ女というやつは、|盗 塁《ベース・ランニング》をするよりもコーチをする方がうまいからね。もしその薬がほんの二、三時間ほど効いてくれさえすりゃあ、万事うまくいくんだ」
「で、その駆け落ちは何時にやることになっているのかね?」とアイキーはたずねた。
「九時さ。夕食が七時。そして八時にはロウジーが頭痛がするといってベッドに入る。八時にパルヴェンツァーノ爺さんが、おれを爺さんの家の裏庭へ通してくれる。そこは、ちょうど隣りあわせになったリドルの家の板壁が一枚はずれているところなのだ。それからおれは彼女のいる窓の下まで行って、非常梯子《ひじょうばしご》をおりてくるのをたすけてやる。おれたちは牧師さんのために早くしてやらなけりゃならないんだ。万事は至って簡単さ、もしロウジーが出走のときにモタモタしてさえいなけりゃね。そういう薬をひとつ作ってもらえるかね、アイキー?」
アイキー・シェーンスタインはゆっくりと鼻をこすった。
「チャンク。そういう類《たぐい》の薬こそ薬剤師が十分気をつけなくてはならないものなのだ。だからわたしの知りあいの中でも君だけにしかそういった薬は渡したくない。君のためにはわたしも作らざるを得ないからね。ロウジーが君のことをどんなふうに思うようになるか、すぐにわかるよ」
アイキーは調合台の向こうへまわった。そして可溶性の錠剤を二つすりつぶして粉にした。その錠剤にはそれぞれ〇・〇一六グラムのモルヒネが入っているのである。そして、その粉に乳糖を少し加えて分量を多くすると、その混合物を手ぎわよく白い紙に包んだ。大人が飲めば、この粉薬は数時間のあいだぐっすりと眠らせてくれて、しかも服用者には何の危険もあたえない。これを彼はチャンク・マガウアンに手渡して、なるべく何か飲み物に溶かして与えるようにと注意した。そして、この裏庭のロキンヴァーの、心からなる感謝を受けた。
アイキーの所業がどんなに巧妙《こうみょう》なものであったか、それは彼のその後の行動をお話しすれば明らかとなる。
彼は使いを送ってリドル氏を呼びよせると、マガウアン君がロウジーと駆け落ちをするために立てた例の計画をすっかりバラしてしまった。リドル氏は頑丈な体つきで、赤レンガの粉のような顔色をした、喧嘩っ早《ぱや》い男であった。
「よく知らせておくんなすった」と彼は言葉みじかに、アイキーに言った。「あのぐうたらアイルランドの、のらくら野耶め! おれの部屋はちょうどロウジーの部屋の真上にある。晩飯がすんだらおれはそこへあがって行って猟銃に弾をこめて待っていてやる。野郎が裏庭へ入ってきやがったら、出てゆくときの乗物は必ず救急馬車にしてやるぞ、婚礼の二輪馬車の代わりにな」
ロウジーは眠りの神モルペウス〔「モルヒネ」という語はこの語から作られた〕の手にとらえられて何時間も昏睡《こんすい》する。そして血に飢えた父親は銃をかまえ、委細承知《いさいしょうち》とばかりに待ちうけている。これでおれの恋仇《ライヴァル》も正に敗北寸前というところだ、そうアイキーは思った。
夜通しブルー・ライト・ドラッグストアで、彼は店番をしながら幸運の悲報を待ちうけていた。しかし知らせは何ひとつこなかった。
翌朝八時になると、昼間の店員が出勤してきた。そこでアイキーは、大急ぎでリドル夫人の家に行って結果を見ようと飛び出した。ところが、どうであろう! 店を一歩出たとたんに、当のチャンク・マガウアンが、通りかかった電車から飛び出して来てアイキーの手をしっかりと握りしめたではないか。……チャンク・マガウアンが勝利者の微笑をうかべ、喜びに顔をほてらせてである。
「おい、やったぞ」と、チャンクはそのニヤニヤ笑いに|至福の世界《エーリュシオン》をただよわせながら言った。「ロウジーは非常梯子に姿を見せたよ、時間どおり、一秒も違えずにね。そこでおれたちはゴールインしたのさ、牧師さんの家で、九時三十分十五秒にね。彼女はいまおれのアパートにいるよ、……今朝は卵の料理を作ってくれた。ブルーのキモノを着てだぜ、……ああ! おれは何て運がいいんだ! そのうちにぜひ来てくれよな、アイキー、そしておれたちといっしょに飯を食ってくれ。おれは橋の近くに仕事を見つけたんだ。で、今そこへ行く途中なんだ」
「あの……あの……薬は?」とアイキーはどもりながら言った。
「ああ、君がくれたあれか!」とチャンクは言った。彼のニヤニヤ笑いはますます大きくなった。「じつはね、こうなんだ。おれはゆうべ、リドルの家で食卓についた。そしてロウジーの顔を見た。それからおれは、自分にこう言いきかせたのだ、『チャンク、この娘を手に入れるんなら、正々堂々と手に入れろ……彼女のような純血種《サラブレッド》の娘にきたねえ手は使うな』とね。それでおれは、君からもらった包みをポケットの中にしまったままにしておいた。そのうちにおれの目が、そこにいたもう一人の人間の上におちた。この人間は、とおれはまた自分に言った、将来の婿《むこ》どのに対してまっとうな愛情に欠けているぞ。それでおれは、すきをうかがってあの薬をぶちこんでやったのさ、リドルおやじのコーヒーの中にね、……わかったかい?」
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犠牲打
「ハースストーン・マガジン」の編集長は、雑誌にのせる原稿の選択について彼独自の考えをもっている。彼の方式は決して秘密でもなんでもない。事実、みなさんにだって喜んで説明してくれる。マホガニーの机にすわって、愛想よく微笑をうかべ、自分の膝を金縁《きんぶち》の眼鏡でしずかにたたきながら。
「わが『ハースストーン』社はですね」と彼は言うであろう、「リーダー〔原稿を読んで出版の適否を報告する人〕たちは雇いません。もちこまれる原稿についての意見は、わたしどもの様々な階級の愛読者の方々から直接うかがうことにしているのです」
これがこの編集長の方式である。そして、それはこんなふうに遂行《すいこう》されるのである。
まず、原稿の束がとどくと、編集長は自分のポケットというポケットにその原稿をねじこんで、一日中あちこちと歩きながらそれを配ってまわる。会社の事務員、玄関番、管理人、エレヴェーター・ボーイ、メッセンジャー・ボーイ、編集長が昼食に立ち寄る料理店のウエイター、いつも夕刊を買うニューズ・スタンドのおやじ、食料品屋、牛乳屋、五時三十分発北行き高架鉄道の車掌、六十何番通りかの駅の改札係、自宅のコック兼メイドをつとめる女の子……これらの人々がみなリーダーであって、「ハースストーン・マガジン」に送られてきた生原稿《なまげんこう》について意見を述べるわけなのである。もし編集長のポケットがすっかり空《から》にならぬうちに彼が家族のふところまで来てしまうようなときには、残りの原稿は細君の手に渡されて、赤ん坊が寝たあとで読んでもらうことになる。
そして、それから二、三日たつと、編集長はその原稿をいつものきまった順路をまわりながら集めて、その色とりどりのリーダーたちの意見を考慮に入れるのである。
こうしたシステムで雑誌を作る方法は、実にうまくいった。発行部数は、広告料の増収と歩調をあわせて、すばらしいスピード記録をたてていた。
「ハースストーン」社はまた単行本も出版していて、そのインプリント〔書物のとびらなどに印刷した「発行者名、所、年月日」などのこと〕はいくつかの成功をおさめた本の中に今日でも見ることができる。……しかもそうした本のすべては、編集長の言葉によると、「ハースストーン」社の多くの篤志家《とくしか》リーダーたちによって推薦されたものなのだそうである。ときには(編集部のおしゃべりな部員たちの話によると)、「ハースストーン」社もこの雑多なリーダーたちの忠告に従ったおかげで、かえって折角の原稿をとり逃がしてしまい、後でそれが他の出版社から出版されてすばらしい売れゆきをみせたということもあったそうである。
例えば(そのおしゃべり連中によると)、「サイラス・ラタムの向上と下向」はエレヴェーター・ボーイにけちをつけられたし、給仕《オフィス・ボーイ》は満場一致と言わんばかりの調子で「社長《ボス》」を否認したし、「主教の馬車に乗って」は市電の運転手から軽蔑の目で見られたし、「解放」は予約購読受付係の男からはねつけられた。細君の母親が上京してきて二か月も滞在すると言われた男である。「女王の書」は管理人からこんな短評がついて返ってきた。「この書もまた然《しか》り」
しかし、それにもかかわらず、「ハースストーン」社は現在もその方式とシステムとを堅持している。そしてこれからも篤志家リーダーたちにこと欠くようなことは決してあるまいと思う。なぜなら、この広く散在しているリーダーたちの中の誰もが、つまり編集部の若い速記嬢《タイピスト》から石炭をシャベルで投げ込む罐《かま》たきにいたるまで(この男の逆の決定のおかげで「ハースストーン」社は「下界」の原稿を失ってしまったのだが)、みんないつの日にかこの雑誌の編集長になれるという期待をいだいているからなのである。
「ハースストーン」社のこの方式はアレン・スレイトンもよく知っていた。ちょうど彼が「恋こそすべて」という題の短編小説を書いていたときのことである。スレイトンは雑誌という雑誌の編集部を一つ残らずかたっぱしから歩きまわって、しつこくねばりついていたので、ゴタム〔ニューヨーク市の俗称〕のどの編集部の内部事情にも通じていた。
だから彼が知っていたのは、ただ単に「ハースストーン」社の編集長が種々の原稿を様々なタイプの人々に読ませているという事実だけではなくて、センチメンタルな恋愛ものの作品は編集長の速記係であるミス・パフキンのところへ行くという事実も知っていた。またこの編集長のその独自の習慣のひとつに、作者の名前は必ず原稿のリーダーたちには伏せておくということも知っていた。それは、きらめく名前がリーダーたちの報告の誠実さを左右しないようにとの配慮からなのである。
スレイトンは「恋こそすべて」を命をかけての力作にした。六か月のあいだ、彼の心と頭脳の最上の働きをこの作品にそそいだ。それは純粋な恋愛小説で、美しく、気品のある、ロマンチックな、情熱的な作品であり……散文詩であった。そしてそれは、恋の神性な恵みを(わたしはいまその原稿から移しているのだが)あらゆる世俗的な贈り物や名誉などよりもはるか上におき、それを天上の最もすぐれた報酬の目録の中に加えているような作品であった。スレイトンの文学的野望は、実に強烈であった。他の世俗的な宝物はすべて犠牲にしても、自分は己《おのれ》の選んだ芸術で名をなしたいと望んでいた。右手の一本ぐらい切りとっても、あるいはからだ全体を、盲腸炎専門医を夢想するやぶ医者のメスの前に捧げようとも、己が夢を実現させて、自分の力作の一つが「ハースストーン」誌に載せられるのを見たいと望んでいた。
スレイトンは「恋こそすべて」を完成した。そしてそれを自分の手で「ハースストーン」社へ持っていった。この雑誌社は、いくつもの会社が寄りあつまった大きなビルの中にあって、そのビルは一階にいる管理人によって統轄《とうかつ》されていた。
スレイトンが入口を入ってエレヴェーターの方へ行こうとすると、ポテト・マッシャーカ〔マッシュ・ポテトを作るときに用いるすりこ木〕が玄関口に飛んできてスレイトンの帽子を叩きつぶし、さらにドアのガラスをこなごなにしてしまった。この台所用品につづいて、そのすぐあとから、今度は管理人が飛んできた。体の大きなあまり健康そうでない様子の男で、ズボン吊りもはずれたまま、汚らしい格好で、あわてふためき、はあはあと息を切らしていた。うすぎたない様子のふとった女が、髪をふり乱してこの弾丸《ミサイル》の後を追ってきた。管理人の足はタイルの床にすべって、本体は絶望の叫びをあげながら、どうとばかりに倒れた。女は男にとびかかると、その髪の毛をひっつかんだ。男は太い声でうなった。
恨みが晴れると、この山の神は立ちあがり、ゆうぜんと、まるでミネルヴァのように勝ちほこって、奥の何やら得体のしれぬ御社《みやしろ》へとひきあげていった。管理人も立ちあがった。彼のほうは疲労こんぱいの様子で、自尊心も失っていた。
「世帯《しょたい》をもちゃあ、こんなもんでさあ」と彼はスレイトンに言った。多少、機嫌をそこねたといった様子である。「あれが、昔このわたしが夜も眠れずに思いこがれていた娘なんですからね。帽子をすいませんでしたねえ、旦那さん。どうか、今のことはビルの人たちには内緒にしておいてくださいね。くびになると困るんです」
スレイトンはホールのはずれにあるエレヴェーターに乗って、「ハースストーン」社へあがっていった。それから「恋こそすべて」の原稿を編集長にあずけた。編集長は、原稿の採否については一週間したら返事をするからと約束した。
スレイトンは階下へおりながら、すばらしい勝利の計画をたてた。その計画は、まばゆいほどのひらめきをもって彼の心に浮かんだ。そして彼は、そういう名案を思いついた自分の天才を、われながら感嘆せずにはいられなかった。その夜、さっそく実行にとりかかった。
「ハースストーン」社の速記嬢ミス・パフキンはスレイトンと同じ家に下宿していた。彼女は年老いた感じの、やせぎすの、排他的で、何か思いに悩んでいるような、センチメンタルな女であった。そしてスレイトンは、しばらく前に彼女に紹介されていた。
スレイトンの思いきった、自己犠牲的な計画はこうであった。彼は、「ハースストーン」社の編集長がロマンチックでセンチメンタルな小説の原稿については、ミス・パフキンの判断に強く頼っていることを知っていた。彼女の嗜好《しこう》は、そうしたタイプの長編や短編をむさぼり読む並の女性たちの大多数を代表していた。「恋こそすべて」のテーマと基調とは、一目惚れというやつであった。……つまり、あのうっとりとさせるような、どうしても抑えることのできぬ、魂までもふるえさせるような感情であって、これこそ人の心が相手の心に語りかける瞬間、たがいに相手をわが魂の伴侶《はんりょ》と認めさせずにはおかぬ感情であった。もし彼がこうした神聖な真理をみずからの手でミス・パフキンの胸にきざみつけたらどうであろうか!……必ずや彼女はその初めて味わう熱狂的な感動を裏書きするために、「ハースストーン」社の編集長に短編小説「恋こそすべて」を大いに推薦してくれるのではなかろうか?
スレイトンはそう思った。そこでその夜、ミス・パフキンを劇場へ連れていった。その次の夜には、下宿のうす暗い談話室《パーラー》で、彼女を激しくくどいた。恋のせりふは「恋こそすべて」の中からふんだんに引用した。そしてそれが終わるころには、ミス・パフキンの頭は彼の肩にもたれかかっており、彼の頭の中には、文学的名声の幻影がおどっていた。
しかしスレイトンは愛の語らいだけにとどまってはいなかった。これは、と彼は自分自身に言いきかせた、おれの一生の転換期だ。そこで彼は、本物の博奕《ばくち》うちのように、「最大額《リミット》いっぱいに賭けた」。つまり、木曜日の夜、彼とミス・パフキンとは「角を曲がらないところの大きな教会」〔ニューヨークで有名な「角を曲がったところの小さな教会」をもじったもの〕へ行って、結婚したのである。
勇敢なるスレイトンよ! かのシャトーブリアンは屋根裏で死に、バイロンは夫を亡くした女をくどき、キーツは餓死し、ポーは飲みものをとりちがえ、ド・クウィンシーはアヘンを吸い、エイドは遠くシカゴに住み、ジェイムズはそれをしてやまず、ディケンズは白靴下をはき、モーパッサンは狂人用拘束服を着こみ、トム・ワトソンは人民党員となり、エレミアは泣いた。これらの作家がすべてこういうことをしたのも、それは文学のためであった。しかしスレイトンよ、汝は彼らすべてにまさる行いをなせり。汝は名声の殿堂に自ら己《おの》が座を造らんがため、妻をめとりしゆえに!
金曜日の朝、新妻のスレイトン夫人は言った。これから「ハースストーン」社に行って、編集長から読むようにとあずかっていた一、二の原稿を返して、速記係としての職もやめてきたいのだが、と。
「それで、そのう……なにか……そのう、つまり君が特に気に入ったようなものがあったかね、その返しにゆく原稿の中に?」とスレイトンは胸をときめかせながら言った。
「一つありましたわ……短編ですけど、あたし、とても気に入ったわ」と彼の妻は言った。「ここ数年、読んできたもののなかで、この半分もすてきで、真に迫っていると思えるようなものはありませんでしたわ」
その日の午後、スレイトンはいそいで「ハースストーン」社にとんでいった。報酬はすぐ手近なところにあるような気がした。「ハースストーン」誌に一点でも短編が載《の》れば、文学的名声はすぐにおれのものとなるのだ。
給仕が外側の事務室の仕切りのところで彼をさえぎった。まだ成功もしていない作者たちが編集長とじかに面接できるのは、ごくまれな機会をのぞいてはほとんどなかった。
スレイトンは内心、有頂天になりながら、己の胸に激しい望みを抱いていた。こんど成功したらこの給仕なんか踏みつぶして奥へ入っていってやるぞ。
彼は自分の短編のことを尋ねた。給仕は聖なる奥の院へ入ってゆくと、やがて大きな封筒をもって出てきた。千枚の小切手のかさよりも分厚い封筒である。
「編集長がこうお伝えするようにと申しました」と給仕は言った。「残念ながら、あなたの原稿は当社の雑誌には使えません、と」
スレイトンは茫然《ぼうぜん》とした。
「あのねえ」と彼は口ごもりながら言った。「ミス・パフ……つまり、わたしの……いや、ミス・パフキンが……今朝、短編を一つ渡したかどうか知らないかね、読んでおくようにと言われていた短編を?」
「ええ、渡しましたとも」と給仕は何でも知っているような口ぶりで答えた。「編集長の話だと、ミス・パフキンがすてきな作品だと言っていたそうですよ。題名は、『お金めあての結婚、あるいは勤労女性の勝利』っていうんです」
「あれっ、あんたは!」と給仕は親しげな口調で言った。「あんたの名はスレイトンさんですね? あんたにはお気の毒でしたが、あたしが取りちがえちまったらしいんです、そんなつもりはなかったんですがねえ。このあいだ編集長から原稿を渡されてみんなに配れって言われたとき、あたしはミス・パフキンの分と管理人のおやじさんの分とを取りちがえちまったんです。しかし、それでもよかったんでしょうよ」
そこでスレイトンは顔を近づけてよく見ると、自分の原稿の封筒の表に、「恋こそすべて」という題名の下に、管理人の短評が消炭《けしずみ》で次のように書きなぐってあった。
「クソったれ、なにをぬかしやがるんだ!」
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解説
O・ヘンリーというペンネームで世界中の読者に親しまれているウイリアム・シドニー・ポーターは、一八六二年に生まれ一九一〇年に死んだ。四十七歳の生涯である。彼は幼児期と十代とを故郷のノース・カロライナで送り、二十代と三十代の前半とをテキサスで、三十代の後半をオハイオ州の刑務所で、そして最後の四十代をニューヨークで送っている。作家として注目されだしたのが四十歳。時すでに二十世紀はその第一歩をふみ出していた。
その頃のニューヨークは、今日のニューヨークとは異なり、自動車もまだわずかしかなかった。街の道路は大部分が舗装《ほそう》されておらず、されているところは、せいぜい、砕石を敷き固めた簡単なマカダム工法によるもので、アスファルトの道はごく一部に限られていた。個人の乗り物は自転車が最も新しいもので、市民の交通機関は辻馬車か市内電車か高架鉄道であった。街灯や一般家庭の照明も電気ではなくてガスが使われ、冷蔵庫も氷屋の配達する天然氷が使われていた。電話は事務所や高級レストランは別として一般家庭ではかなり裕福な家にしかなく、そういう家でもベルが鳴ると「ハイ、ハイ、ただいま」などと叫びながら受話器にとびつく有様であった。ラジオも高嶺《たかね》の花、映画もまだ。テレビなど論外のさたであった。それらに代わる家庭での唯一の楽しみは、だから、新聞の日曜娯楽版や雑誌だったのである。
O・ヘンリーの作品はこういう時代に書かれ、そのほとんどすべてが新聞や雑誌に発表されたものであった。彼の人気は今日のテレビ・スター以上であった。しかも彼は、次第に機械化され人情のうすくなってゆく都会の中で一般市民が味わう喜怒哀楽を共に味わえるだけの人生経験をゆたかにもっていた。そしてその市民の感情を彼一流の筆でスケッチし、彼らに提供した。そこに描かれた人情は、わが国の古典落語の中にみられる人情と一脈相通じるものがある。彼の文学が庶民の文学と呼ばれる理由もこのあたりにあるのであろう。