ボヘミアンガラス・ストリート
第一部 発熱少年
By MASK−MAN
SEEK1
突然、目の前の幕が切って落とされたみたいに、背中を奇妙な身震いが走り抜ける。えたいの知れない衝動が身裡を突っ走ったのが、合図だ。
悪寒とともに、発熱がはじまり、みるみるうちに世界が変わっていく。
42度の異様な高熱が、全身を煮えたたせ、脳を茹であげると、世界は見知らぬ異界に変わる。
絶え間なくぐらぐら揺れ動き、変形をつづけ。色のつかない炎みたいに視界を幻に変える高熱の世界で。
俺は、その子に。琥珀色の冷たい鷹の目をした少女に遭遇した。
もはや彷徨することをやめ。その少女をさがしていた旅の。終わりを知る。
そして、俺は。世界線を固定し。ウィンドウズを意識野いっぱいにひらいた。
暴走するおびただしいバイクの狂騒音が溢れかえる世界に、意識がはげしくぶれつづけるまま、俺は投げだされた。
俺……僕の名は円。大上円(オオカミ・エン)17歳。現在発熱中で。
体温42度の異様な高熱のさなかにある。
病気ではなくて、何かべつのものだ。
女性特有の生理に似て。ほぼ正確な29日周期で、僕は発熱期をむかえる。
生まれてこのかた、ずっとそうであり。発熱中は、世界中が動乱の嵐に変わる。
それは今。暴走族の恐ろしいエンジン・ノイズの狂乱であって。
世界全体の構造に、脆性破壊をもたらす危険なぶれをもたらしつづけ。
亀裂の中に、僕は自分を見失い、意識が破壊されては、再生される、そのくりかえしの変動の中で。
俺は……凶暴な排気音の渦巻に見え隠れする、ジーンズの少女をさがしあてた。
鎮まれ。そう命じた。この鋼鉄の悪鬼どもの荒れ狂う嵐にむけて。
ちりぢりになり、そして、この世から消え失せろ。
正気を奪う轟音が滝壺の中にいるように、世界に満ちていた。
多数のバイクのエンジンがひりだす排気ガスとともに、破壊的な金属の金切り声が大渦巻をつくり、そのさなかでは、正常思考をたもつことが困難であり。
その狂騒音は肉体に直接作用して、内臓感覚を異常な興奮においやり、気を昂らせ、正気を奪い去る。
俺は……僕は、何度目かにはっと意識をとりもどし、狂騒音に攪乱され、空中に散乱している自分の思考をひきもどそうと努めた。
血のようにぎらぎらするライトが入り乱れ、鼓膜やぶりの轟音が冲天高くふきあがり、おびただしい鋼鉄の車体がうごめいている。
暴走族の集団が包囲しているのは、この僕ではなくて。
そして集中したライトの中心に、少女が射すくめられていた。
どこかで糸がもつれているみたいに、つっかえながら、意識がもどってきた。
そうなのだ。
僕は、体内にこもった熱を発散するために、プール通いをしており。その途中で、暴走族とのトラブルに巻きこまれたのであって。
だれもが見て見ぬふりをする状況にあり、頭の中身はおろか、視界全体が色のない炎のように絶え間なくぐらぐら揺動しているさなかの、僕の手に負えるものではなく。
けれども、その女の子の鷹の目を覗きこんだ瞬間、僕はさとった。
ウィンドウズの窓がひらいていた。
『やれ!』
頭の中で厳しい警告が響きわたった。それは、とりもなおさず僕自身の良心の声であり、その厳格な声音は、常に僕をうちすえる鞭だった。
『見過ごすな!』
(この状況で、僕に何を?)
僕の良心は、いつもはっきりとものをいう。僕はそれが自分だけに起きる特異な現象であることを、永いあいだ知らずにいた。
ぼくの良心は厳格であるだけでなく、横暴なのだ。
良心を無視したり反抗しようものなら、いつまでも心が執拗に疼きつづける。本当に肉体的な鋭い苦痛なのだ。疼きつづければ、夜も眠れない。
『やるんだ』
良心の声は断乎としていってのけた。
こんな異常な状況であっても、見たこともないほど、女の子はうつくしかった。
だが、それは異常なうつくしさだった。なぜ、彼女が暴走族に包囲されているのか、察しがついた。
少女はまともではなかったのだ。
眸が鋭く恐い。鷹の目のように冷やかな獰猛さであって。
冷たく琥珀色に澄んだ眸の奥から、圧倒的な波動が発散されて、胸をおしつぶすような圧迫感がある。
その鷹の目で、じろっと睨まれたら、僕など口もきけなくなるだろう。
僕は、何かに操られるままの夢遊病者の動作で、いつの間にかバイクの間隙をすりぬけて、ライトの渦巻の中に入っていた。
「ちょっと……」
僕は、かろうじて年寄りみたいな塩辛声をやっとおしだした。
暴走族の連中が振り返り、殺気が一斉に放射されて降りかかってきた。
ロードローラーが暴走する道路に寝そべるとしたら、こんな気分になるかもしれず。
「こんなことはいけないんじゃ……大勢でひとりを……いけないんだよ、こんなのは」
何をいっているのか、自分でもよくわからず。
寝言をいっている、と僕自身が思った。
こんな際なのに、僕が口にしたのは、寝言そのものであって。
しかし、こっちは42度の発熱中で、脳がおかされているとしても不思議はなく。
それこそ流氷の海にでも飛び込まないと、体中が燃えだしそうな最中であり。体力も気力も完全に底をついていた。
「ばっきゃろー、余計な口をたたくんじゃねーよ!」
パンチのきいた口調で、罵声を浴びせかけたのは、ゾクの連中ではなく、包囲されていた美少女で……それだけで足ががくっとなった。
「ボーヤはひっこんでろ! 真っ赤な顔しやがって、熱でもだしてんのか?! 病人の出る幕じゃねーんだ! 本当に死ぬよ!」
「見過ごせない……そんなのが許されたら……」
「なんだ、てめー。正義の味方のつもりか、ちんかすが」
ひときわ体の大きな獰猛なやつが、更にどすの効いた波動を発散した。
きっとテープに録音してしょっちゅう練習してるんだろう、と僕は莫迦なことが頭をよぎって。
日常的に練習してないと、これほどおっかない恫喝的な響きは出せないはずだ。
こんなことを思ったのは、発熱して頭が変になってたせいであって。
「きみたち、丁重に挨拶してあげなさい」
へんにいやらしい言い種だった。体力気力とも底をついているのに、僕はかっと灼熱するものが身裡を電流みたいにはしった。だれか頼む、こいつらを、カスだといわせてくれ!
図体のでかいやつは、胸糞悪いとしかいいようがなく。僕の意識のどこかで扉がひらいて、不吉なものが解き放たれるのを感じた。
たちまち粗暴さの化身のようなやつらが、聴覚を麻痺さす凶暴なエンジン音を噴かせて、バイクをつっこませてきた。
とめどもなく頭はぐらぐらしているし、苦痛ははげしく、だが、怒りは火の手となって燃え上がった。
「待ちなっ。ボーヤはだれが見たってひどい病人なんだ! てめーらは重病人にまで乱暴しようっていうのかい? いくらゲドーといったって限度ってもんがあるだろう!」
あ、かっこいいな、と僕は驚嘆と賛嘆で頭が一瞬すっきりしたくらいだ。
その時の女の子は、マイケル・ジャクソンとか全世界規模(ワールドワイド)で超有名な人気スターぐらい圧倒的にかっこよく見えた。
そして対比的にゾクの連中が食堂を這い回るゴキブリの群れみたいに醜悪に見えて。
ガソリンをぶっかけて焼き払っても、厳しい良心といえども決して責めないだろうと確信するほど、忌まわしい汚物に感じられたんだ。
もちろん許されないことではあるけど。僕は禁忌やぶりをすでにやってのけていた。
「本当のことをいおうか!」
僕はふらふらとからだを揺らしながら、大声をだした。そんな大声がでること自体が不思議だった。もう、逆さに振ったって余力などないはずだったのだから。
「おまえらひとりのこらず××なんだよ!」
少女がこちらを振り向くのが見えた。その琥珀色の目がかがやいた。
バイクが数台凶暴な金切り声をあげて、殺到してくる前に僕はその場に貧血でひっくり返った。
バイクの体当たりを食ったり、ひきずり回されるよりも、力尽きてぶっ倒れるほうが安楽にきまっていて。
気絶しちまえば、うるさい良心だってこっちを責め苛むことはできないのだから。
何か乱暴なことが起こっていた。
僕に関係ないところで、暴力沙汰の強烈な波動が渦巻いているのだった。
それで、僕は等身大の岩の塊みたいに重くなった体を、必死になって起こして、何が起こっているのか見定めようとした。
あっさり気絶するよりも見応えのあることが起きているにちがいなく。
ゾクの連中が血だらけになってわめいていた。
バイクの数は十数台だったし、人間のほうも同じ数だけいたはずだ。そのうちの半分があっという間に血まみれになっていた。血を噴いているのはもっぱら露出した顔と首の部分であり。
連中がバイクに乗る必要上、厚着してなければ、体中から血煙をあげていたかもしれない。
剃刀でも使っているんだな、と僕は直感した。
最初に見た時は、女の子は素手だったし、武器を隠し持っているように見えなかったからだ。
あ、パワーアップしてる、と僕は火に触れたように感じた。彼女にパワーが入ってしまったんだ。
女の子には言葉にできないような凶暴さがあり。火球が物凄い速さで暴れ回っているみたいな迫力があった。
目が眼窩の中でぐらぐら揺動しているので、はっきり見定められなかったけれど、十数名のゾクの連中があっと言う間に半分も血だらけにされたのは、やっぱり相手が女だと甘く見ていたからだろう。
それにしても、そのスピードとパワーは女のレベルを超えており、連中が最初から全力でかかったとしても、劣勢にまわったことはまちがいなく。
後ろから後頭部を鉄パイプで力いっぱい殴るような、卑劣な手を使わない限り、女の子につけいる隙がなかったんだ。
「ビビるんじゃないよ、でっかい図体しやがってえ」
女の子の口調が乱暴なのは、この際やむをえないとしても。
だけど、僕に対して喋るときは、もっとちがう口調でいて欲しいと心底思った。
あんまり綺麗な女の子が粗暴な不良少年の調子で喋るのは、僕の美意識を痛めるのだ。本当に胸が痛くなるんだ。
「これがこの世の見納めにしてやるよ! この腐れゲドー!」
やめてくれ、と僕は本心から願った。
人殺しだけはやめてほしい。こんなに美しい女の子が殺人者になるのは、僕の美意識に反する。好きじゃない!
彼女のスピードは信じられないほど速くて、稲妻電光娘(ミス・フラッシュ)とでも呼びたくなった。
女の子の筋肉では絶対にだせない速さだ。恐ろしい宣告を下した時は、7メートルは離れていたのに、言い終わった瞬間、でっかい体格のゾクの顔面から血が飛び散った。
片目が切り裂かれた。
残る片目を潰すのは、ハミングするより簡単であり。
「やめて! やめてくれっ」
こんなに懸命さをこめて願ったことはない。
女の子の追撃が鈍ったように見えた。
と、女の子の体が流れて宙を飛んだ。
バイクのゾクの一台が横合いから突っこんで撥ね飛ばしたんだ!
僕は後悔の念で全身が凍った。あんまり力をこめて願ったおかげで、とんでもない結果を生んでしまった!
その瞬間、思いがけぬ至近距離に、パトカーのサイレンがつんざかなければ、僕は何をしていたかわからない。
切羽詰まって死にものぐるいになった時、僕はどんなことを願うか自分でもわからないんだ。
だってそうだろう?
人間ってだれでもそうだと思うけど、緊急時には恐慌状態に嵌まって筋道の立たないことを考える。
後で考えても、笑うしかない変な不条理なことで頭がいっぱいになるのだ。
その時、僕の錯乱した頭にあったのは、カンカンに凍ったアイスを食べたいという単純な欲望であって……きっと高熱のせいだ。
パトカー数台が同時にサイレンを鋭くつんざかせたので、ゾクの連中もとっさに動物的な本能に支配された。
緊急事態の動物を圧倒的に動かすのは、逃避の本能で。逃げ道がないと悟った時だけ、死にものぐるいの闘争へ自分を駆りたてる。
連中は一斉に退避の道を探し、金切り声でエンジンを噴かせてつっこんでいった。
僕はどうやって、倒れている女の子のそばへ近寄ったのか、まったく記憶がない。
時間が例によってジャンプした。
気がつくと彼女の傍らにいたんだ。
女の子を抱き起こそうとしたことまではおぼえている。
彼女は肌が透き通るようで、驚くほど上品であって。いい香りが漂ってきて、僕は思わず胸いっぱい吸いこんでしまった。
こんな時でも僕はすけべそのものだった。だってしょうがない、男の子なんだから……
『おまえはなんというゲスなやつなんだ。まるでサカリのついた牡犬だ』
良心が手厳しく責めつけたが、それどころではなく。
「しっかりしろ! 死ぬな! 頼むから死なないで!」
睫毛が驚くほど長く、目鼻立ちの美しさは尋常なものではない、と僕は考えた。
もしかすると、良心が考えたのかもしれない。良心は僕自身よりも文語的な表現が上手なんだから。
彼女の呼吸が停まっているように見えたので、人工呼吸をしなければ、と僕は思いついた。
ゾクゾクと首筋の毛が全部立ち上がってくるような強いスリルがあり。
こんな美しい女の子に人工呼吸……それもマウス・トウ・マウスの人工呼吸を施すなんて、あまりにも衝撃的な考えだったからだ。
僕は当分のあいだ、ファーストキッスの予定が皆目立たない状況にあって……その考えが僕を駆り立てたことは否定できない。
正直いって、体が震えるほどゾクゾクした。
残念なことに……まったく残念なことに、唇を相手のそれに近づけて、あと一センチ、というところで、相手の長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開いて、琥珀色の眸が表れた。眸に射るような鋭さのある輝きが加わって、僕は呼吸がとまりそうになった。
相手の手が僕の顎を掴み、ぐいと押し上げた。
「このすけべ。女の子みたいな優しい目してるくせに、そういうとこだけは変わらないのかよ」
彼女は囁くようにいった。あなたが好き、といっているような言い方であって。
それが彼女の悪意の表れだということを、僕は後で知った。
「あ……」
「あ、じゃねえよ。こういうことをもう一回してみな。息の根が停まって、もっと色白になるから」
息の根が停まるほど殴られた。
こんなにパワーのある平手うちなど想像したこともなかった。顔が百八十度反対側を向かなかったのが不思議なほどで。
頭の中身が真っ赤になって、僕の意識はヒューズが飛んだ。
SEEK2
その女の子と二度目に逢ったのは、それから十日目の真っ昼間だった。
僕は生理的期間が終わって、元気を回復していた。
やっと平常人並みのコンディションになったという意味だ。
僕は海岸にのぞむ切り立った岩崖の上に立って、鉄の手すりに掴まり、下を見下ろしていた。
切り立ってはいるが、恐ろしく急な階段が岩に刻まれており、紆余曲折しながら、下の海岸まで下りていくことはできる。
だが、一度降りたら、今度上がってくるのは、恐ろしく骨が折れる。
ちょっとした登山をやらなければならず。
僕はあまり体を鍛えてるほうではないし、汗を掻いてみる気はぜんぜんなかった。
吹き上げてくるしょっぱい潮風に晒されていると、肌がべたべたになり、不快感に襲われる。
われながら軟弱だと思うが、一大決心でもしない限り、自分が決して岩の階段を下りることはないだろうとわかっていたんだ。
バイクの轟音がして、ぎくりと振り返ると、派手なスカイブルーの革ツナギを着込み、フルフェイスのヘルメットをつけたライダーが後ろに停まっていた。
エンジンは動いているから、バイクを下りてくる気はないようであり。
ゾクの連中とつまらない関わりを持ってからというもの、バイクの連中は苦手になっていた。
顔をしっかり覚えられているだろうから、いきなり囲まれて、死ぬような目に合わされる可能性は高く。
ヤバイ関係を作ったものだ、と後悔しても、もう遅いのだ。
真先に頭に浮かんだのは、どうやって逃げ出そうかという情け無い考えで……次は助けを呼ぼうか呼ぶまいかという二者択一だった。
助けを呼んだら、絶対にバカにされることは間違いなく。
長兄である僕の威光など徹底的に無きに等しくなるのであって。
もっとも、今でもそうなのかもしれないんだけど。
逃げ道は目の前にしかなくて……あれほど下りるつもりはなかったのに、狭苦しい急な岩の階段を駈け下りるしかなかった。
バイクはそこまで追っかけてはこない。
でもヤクをやったりして頭のいかれたゾクなら、どうかわからないぞ、と背筋の毛がさかだった。
ひとひとり下りるのが精一杯の階段を、車重二百キロのバイクが、僕の頭上から転がり落ちてきたら。
「階段を飛び下りるつもり?」
女の声だった。
凄味をきかすトレーニングをかさねた連中の、だみ声ではなくて。
バイク・ライダーがフルフェイスのヘルメットを脱ごうとしているのを見て、僕は逃避行動を中止した。
直感で相手がわかったからだ。
だが、そのまま逃げ出したほうが利口なやり方だったかもしれない、とも思った。たぶん僕自身ではなく、良心がそう考えたんだろう。
栗色の長い髪が現れ、女の子は頭を強く振って、髪を調えた。
さらさらの髪でなければこうはいかない。
首をひとつひねっただけで、正しい位置に髪の毛は落ち着いた。
僕は感心して、その手際に見入っていた。
「弱虫」
と、彼女はいった。
強く張った眸が綺麗だった。
彼女は一事が万事で、強く張られた弓の弦を想わせるものがあった。
性格もそうなら、眸の輝きかたまでそうであり。
僕みたいな弱気の人間には、いささか手に余る、張りの強さであり。
それでも、僕はそこに引きつけられている自覚があった。
彼女が彼女であるからこそ、僕はその引力圏にひきよせられてしまったんだ。
「この前は悪かったね……」
彼女は声の調子を落としていった。
優しいものの言い方といってもよかった。
「あ……」
「また、あ、といったね?」
彼女はふっと笑った。
青磁器みたいな硬質な笑いだった。やわらかみというものが一切なかった。
「強く殴りすぎたね。あんたが人工呼吸しようとしたことに後で気がついたよ。でも、その口つきが、あの、ちょっと、淫猥な印象を受けたもんだから……」
「いや……あの……こっちこそすみませんでした……」
僕は何か別のことをいおうとしていたのだけれど、口からでたのは、そんな気弱な言葉でしかなくて。
彼女の圧倒的な……その美しさは目に見えない放射線みたいに、体を圧迫するほどだった。
「この間、大丈夫だった?」
それでわかった。彼女は僕のことを少し心配してくれていたんだ。
僕はあっさり気絶してしまい、意識が戻った時には、もちろん彼女の姿はなく……といってもほんの数分間のことだったらしいけれど、警察の目にとまる前に現場を抜けだすことができたのだ。
「ええ、なんとか……」
「すまなかったね。あんたを置き去りにして、ちょっと寝覚めが悪かった。あんたずいぶん病弱らしいけど」
「あ、もう大丈夫。僕は、時々熱を出すんで……」
「知恵熱じゃないの? まるで、ちっちゃい子供みたいだね。でも、よかった、元気そうで」
彼女はバイクを下りる気配は見せなかった。
だが、なぜか僕と話をすることに興味を持っているようで。
僕は彼女がヘルメットを被りなおして、行ってしまうのをなんとかして引き延ばしたいと思っている自分に気づいた。
僕にとり、彼女は胸元にピンで止められた、小さな花束(コサージュ)のような存在だった。
忘れるどころか、しょっちゅう意識せずにはいられなかった。
「いつも、ここにきてるの?」
彼女が尋いた。どういう意味なんだろうと胸がどきどきした。
彼女にとって、なにか意味があるはずだ。
「ああ……大きな岩の間を縫って崖を下りていく階段なんて、おもしろいから……それに、ここから海岸に下りないと、すごい遠回りになるんだよね。下りるのはともかく、また登ってくるのは大変だけど……」
僕はへんにお喋りになっていた。
たいして意味もない言葉を、勝手に口が動いて紡ぎ出しているのを、自分でもちょっとびっくりして聞いていたくらいだ。
「それに、ここを下りると、下の海岸に犬がいるんだ……」
「ふうん、犬?」
「小さな犬なんだ。チビイヌなんだよ。だけど、これまでお目にかかったこともないほど、醜い顔をしてるんだ。そのチビイヌ、ひどい人嫌いでね。僕を見るといっぱしに牙を剥いて唸るんだ。くるなっていってるんだよ。あっちへいけって。こっちが手だしをしなければ、かみつくようなことはないけど、なんか気に入ってね。時々、チビイヌを見にいく……何度逢っても、全然慣れないけどね。最初に逢った時と同じように、牙を剥いて、凄く機嫌が悪い。おまえなんか大嫌いだ、そばへくるなって、いつもいってる……」
「その犬が気に入ったの?」
「ああ、何だかご縁ができちゃったっていうか……糸で結ばれちゃったという感じで」
「赤い糸じゃないよね。黒い糸かな」
「そうだね。茶色の糸ぐらいかな。絶対にそばへ寄せつけないだろうけどね」
「何で気に入ってるの? すごく醜いっていったね」
「うん。世界一醜いチビイヌというタイトルでTVに出てもいいくらいで……でも、なぜか心に残ったというか。忘れがたくなってしまって……」
「変わってるね、あんた」
彼女が不思議そうに僕を見ているのがわかった。
彼女がもっと僕に興味を持ってくれて、長い時間をともにしてくれればいい、と僕は本気で願っていた。
「そうかな……変わってるかな?」
「絶対、変わってる。普通だったら、そんな醜い犬で自分を嫌ってるとしたら、はなもひっかけないよ。それどころか、石をぶつけるか、蹴飛ばすか、相手に嫌われたら、こっちも嫌い返すにきまってるもん」
「おもしろいと思っただけだよ。すごくユニークだから……べつに仲よしになろうとも思わないし。友情を覚えたわけじゃないんで……」
「なんだ、それだけなのか」
突然、彼女の声の調子が変わった。
はっきりとわかるほど変わったんだ。
僕はちょっとショックを受けて、彼女を見返した。
眸に冷たさが戻っていた。
何が彼女を不機嫌にさせたんだろう。口が乾くほど僕ははっきり狼狽していた。
「その犬があんまり醜いので、おもしろがってるだけなんだね」
「そんな……ちょっと興味があっただけであって」
「女の子みたいに優しい目をしてるくせに、あんたってあんがい人が悪いんだね。あたしがその犬だったら、やっぱりあんたを嫌うだろうな」
「え……」
飛躍していると思った。
だが、僕の言い方が彼女の心を傷つけたことはたしかであって。
他愛もないお喋りなのに、僕は簡単に彼女を傷つけてしまったのだ。
「だけど、他愛もないことだと思うよ」
「そうかもね。だけど、むかつくよ」
琥珀色になった眸に、怒りがガラスのかけらみたいに尖っていた。
僕はただ当惑し、言葉を見失っていた。
こんなにむずかしい相手は初めてだと思った。まるで、ガラスの破片を敷き詰めた道路を、はだしで歩こうとするみたいだ。
「僕はただ……」
バイクの2サイクル・エンジンの唸りが近づき、彼女は素早くヘルメットを被った。
フルフェイスのヘルメットは、言葉を心に通わせない冷たい拒否の装甲を、僕に感じさせた。
同じように派手な色彩の革ツナギのライダーを乗せたバイクが数台、減速して、彼女のそばに寄せてきた。
「何かあったんですか……ケイさん?」
真っ赤な革ツナギの、ほっそりしたからだつきのライダーが、フルフェイスのメットを脱いだ。
険悪な視線が、僕に集まってきた。
細身のライダーはやはり若い女の子で、声を聞かなければ、男の子と見紛がうような断髪の子だった。
敵意を孕んだ眸が気の強い子猫のように挑みかかってきた。
どんなに険悪になっても、本質的な可愛さを失わないタイプというものがあるんだ、と僕はさとった。
「なんでもないよ。ちょっと話をしてただけ。いくよ!」
言い残して、風のように彼女のバイクが走り去り、仲間らしいバイクが次々にその後を追った。
「あ、ちょっと待ってくださいよう!」
断髪の女の子は声をあげたが、フルフェイスのメットを被るには、ちょっと手間がかかった。
「その顔、覚えとくよ、おにーさん!」
捨てぜりふを残したが、本能的に僕は相手にこわさを覚えなかった。
それどころか親しみに似た感覚であって。
素性も何もわからないが、相性がよさそうだ、と直感する女性はこの世にいるものなんだ。
バイクの群れに追いつこうと全速力でかっとばして行くバイクを見送り、僕は少しどころでなく、得をした気分で、大岩の間を縫って下方の海岸へ導く階段をゆっくり下って行くことにした。
ケイさん、と呼びかけた仲間の声が耳に残っていた。
ケイ……どんな字を書くのだろう?
あの子らしいちょっと変わった漢字じゃないだろうか。
また、あの子に逢いたい、と僕は本気で願った。
そう想わせるだけ彼女は魅力があり……めったにないことが、僕の身に起こっていたんだ。
SEEK3
三度目に、ケイさん、とバイクの仲間に呼ばれた女の子と逢ったのは、新都心東京ウィング・シティの繁華街だった。
僕は家族連れで、一家の長兄としての責任を全うしなければならぬ立場にあり……実情を述べると、大上家において長兄というのは、すごく損な立場であって。
兄として立てられチヤホヤされるどころか、僕の場合は、下僕、ポーターとしてこきつかわれる意味合いしかないんだ。
要するに奴隷労働をさせられるだけで……いや、一家のペットとしてもてあそばれる立場でもあるんだけれど。
16歳にもなる妹がふたり(現場以外にもうひとり)もいるというのに、僕がやるのは、荷物持ち以外に五歳の末の妹の面倒を見る仕事も加わってくるのであり。
明らかに僕は一家の奴隷であって。
なぜそうなったかといえば、明らかに、これは猿山における秩序といっしょであって、力関係でしかない。
情け無いことに、ぼくは大上一家の階層の最下層に位置しているんだ。
その状況は、五歳の末の妹にまで同情と憐憫を与えられるほどで……
「おいおい、レストラン、席を予約しておかなかったのか? この休日だ、混んでて到底今からじゃ席がとれんぞ」
親父がいいだすと、とたんにてんやわんやの騒ぎになって……それはそうだ、もっぱら親父というのは、自分の責任を棚に上げて、家族の誰かを責めればよいという特権の座に安住している人間なんだ。
はっきりいわせてもらえば、猿山のボス猿の真剣な責任感や一族への奉仕という努力を全然払ってない。
だから、たちまち家族たちは互いに責任逃れと相手の糾弾という、混乱状態に落ち込んでしまい、その後始末と尻拭いは全部僕のところへ集まるんだ。
「だって、あたしはハッキリうんといわなかったもん」
「あたしだって」
「そこはやっぱりお兄ちゃんが最後はきっちりとやってくれると信じてたから」
「そうだ。お兄ちゃんはミスター良心、聖人様だもんね」
いつもいつもこんな結果ばかり。
一家の長兄としての僕は、どんなに忙しかろうが、レストランを予約しなかったという不始末の責任を取らねばならず。
この大混雑の状況下において、キッチリと責任を果たすことを迫られているんだ。
つまり僕がレストランの席を五人分、確保するという義務を迫られるわけで。そんなこと無理だ、できっこないといくら抗弁しても、だれも耳を貸してくれない。
「やって! お願い、お兄ちゃん!」
妹筆頭のくるすが力いっぱい僕の背中をひっぱたいた。
くるすの腕力はダンプトラックをひっくりかえすといわれており、ひよわな僕など十メートルも飛ばされるほどで……僕はたちまち混みあった駅ビルの雑踏の中でボーリングのピンのようにころがり、群衆の憤激と抗議の叫びをひきだすことになった。
「ばかねえ、お兄ちゃん。そんなに無理してころばなくてもいいのに」
くるすが平然としていい、何の反省の色も見せなかった。
「お茶目なんだから、お兄ちゃん」
次席の妹すばるがはじけるように笑いころげた。
箸のころがるのを見ても可笑しい年齢というが、この笑い上戸の妹は僕が二階の窓を突き破って飛びだしていっても笑いころげるにちがいないのであって。
「くるす、お願いだから、人前ではもう少し手加減して……」
僕は痛む腰を撫でながら哀願した。
この怪力の女の子の将来の亭主、というやつが気の毒だった。
よっぽど頑丈でないと三日ともたないにきまっている。
なにしろ大の男を小型犬みたいに気軽に扱うんだから。
「やあねえ。お兄ちゃんがあんまり柔弱すぎるからいけないのよ。ちょっと軽くこづいただけなのに、恥ずかしくて顔から火がでるわよ」
顔から火がでるのは、こっちのほうだと思うんだけど。
可愛い女の子が、鬼をもひしぐ怪力の持ち主だというのは、恥ずかしいことだと思わないのだろうか。
全然思ってないところを見ると、やっぱりわが妹ながら、相当変わっている……というのも、くるすはちょっと見には美少女マニアなら、ふるいつきたくなるほどの甘く優しい美貌の女の子だからだ。
すばるにしたって、我が家の内情を知らなければ、だれもが夢中になりそうな見かけの持ち主で……僕にしても妹たちの名誉のために、これ以上恥をさらしたくはない。
「頼むよ、円。妹たちの御所望だ。ステーキハウス予約してきてくれ」
親父が合掌し、伏し拝む真似をした。
瀟洒な口髭がかっこいいクラーク・ゲーブルふうの中年紳士にはまったく似合わないおどけぶりだった。
妹たちは全員、口を揃えておやじはお茶目だという。
そうかもしれないが、重厚で寡黙な男を演じさせれば、抜群に男っぷりのいい親父なんだから、もう少し抑制をきかしたほうがいいのに。
「だって、席が取れるかどうかもわからないのに……」
「おまえならなんとかなる。信頼してるんだ。おまえほど頼りがいのあるやつはいない、自慢の息子だからな」
お茶目であるだけでなく、親父は口がうまい。
きっと美しい女性たちが相手なら、もっと威力を発揮するんじゃないだろうか。
「ちょっとお、ななこも連れていって。お兄ちゃんがいっしょでないときまって迷子になっちゃうから」
妹たちは強引で、横暴だ。どんなに権柄づくの姉だって、ここまで弟を顎で使うとは思えない。
昔から、僕は妹ではなくて、姉が欲しかった。
優しくて頼りになる、弟思いの姉が。
妹どもにいつもキリキリ舞いをさせられている頼りない兄のはかない夢想でしかないのだけれど……
ウィングシティとネーミングされた駅ビルはやけにだだっぴろくて、しかもその大きなスペースを、無闇に人の波が占領していた。
雑踏を縫って、五歳の妹ななこの手をひき、10キロ以上重量のある買い物で嵩張る、恐怖のペーパーバッグス(複数)をさげて歩くのは、なみたいていのことじゃない。
行き逢う人々が全員、憤りの目で僕を見るんだ。
体重二百キロのお相撲さんが押し通るとしても、これほど非難の眼差しを向けられることは無かったにちがいない。
僕はこうした度を越す人込みが死ぬほど嫌いだ。
多数の群衆の中には必ずマナーなど学んだこともない、という厚顔無恥なやつらがいて、死ぬほど頭にくることになりかねないからだ。
むかついたあげくのはてに、気分が悪くなる。
感情の抑制を外したと峻厳な良心に責められて病気になる。
度を越した人込みに出ていいことなんてひとつもない。さまざまな意味で、僕は外出を控えたほうがいい人間なのだ。
「すみません……ごめんなさい……すみません、ちょっと通してください……」
まるでお経のように百万べんをとなえなければ、目的とするレストラン街にたどりつくことすら不可能であって。
全身が汗まみれになり、頭ががんがん痛くなり、呼吸困難に襲われる。
妹たちに柔弱、と罵られるのも無理はない。
僕が体力的には、まったく非力で柔弱なのは事実だから。
『精神的にもだ』
しばらく沈黙していた良心が憎たらしく指摘した。
『まったくおまえは取り柄がない』
良心が僕を褒めたことなど一度もないが、ひとたび貶し始めるととめどがなくなる。
徹底的に自己嫌悪に塗れるまでつづけるんだから。
最上階のレストラン街は、すいていた。
つまり、歩くたびに肩がぶつかりあったり、手にさげたペーパーバッグ群が通行人の足にひっかかったりしないという程度にはすいていた。
率直にいえば、泣きたくなるほど、どこの店も混みあっていたんだ。
一時間以上待たなければ、空席にありつけないことは一目でわかった。
いくら家族全員の信頼と期待が僕の一身にかかっていたって、無理なものは無理なのであって。
めざすステーキハウスの前まできた時は、僕は完全な諦めの境地にあった。
休日で、集客力抜群の駅ビルの人出は飽和状態に達しており、順番待ちで並んでいる客の行列は見ただけでうんざりするほど長い。
この極限状況を、わが家族はどうせいっちゅーんだろうか。
この最上階に溢れた人込みを、一瞬にしてかき消す驚異の大マジックを、僕が心得ていると確信しているにちがいない!
「だめだ、ななこ」
僕は思わず五歳の妹ななこに向かって泣き言をいってしまった。
僕の手を、しっかりと小さな熱い手で掴んだななこが、不思議そうな黒い瞳で見かえした。
僕が弱音をはいたことに驚いていた。
ぼくが頼りにならない兄だと思わない妹は、ななこだけだ。
現在、我が家で熱を出して寝込んでいる妹ほくとと、ななこは兄に対する意見の両極にある。
もしかすると、これは、妹ほくとの祟りではあるまいか、と思いついた。
熱を出して寝込んでいる彼女を留守番に残して、一家でお出かけした僕たちに、ほくとは激しい恨みの言葉をはいたのだ。
「みんないけいけ! いっちまえ! この裏切り者! あたしはお布団の中から呪ってるからね!」
これは、まさしく置き去りにされた妹ほくとの呪いがかかったとしか思えない状況であって……
幼い妹ななこの手を引き、大荷物で人々の非難の注視を浴びつつ、雑踏を抜け、超高層の駅ビルの最上階へ満員の高速エレベーターでのぼり……それほどの苦労がなにひとつ報われない。
うん、これはただごとではない、と僕はさとった。
これほど徹底的に目が出ないとなると、今度は逆転するしかない。
これまでの僕の経験からすると、悪運がその極点に達すると、今度はクルリと幸運にひっくりかえるものであって。
しかし、あまりの人ごみでもまれると気分が悪くなり、ジンクスを思い出したからといって、にわかに元気がでるなんてことはありえなかった。
そして、僕は彼女と三度目の遭遇をした。
ごったがえす人波の中で、彼女の強く張られた眸が霊感のように、僕の感覚の中へ飛びこんできた。
あ、彼女がいる、と思っただけで、特別の感慨はなかった。
すっかりへこたれて、疲れていたせいだ。
感動より、圧迫感が先に立って。
前回のわかれぎわの冷たさがこたえていたんだ。
彼女が僕に対して悪意を抱いていることは、はっきりしていて、僕を後ろ向きにさせるのに、十分だった。
彼女は、僕と逆方向の人の流れに乗っていたから、僕はちらりと見ただけだった。
むしろ、視線をあわせないように、目をそらしており。
彼女のもたらす独特の圧迫感が、疲労した今は鬱陶しく、僕をして見てみぬふりをさせたのだ。
ところが、すぐに肩を後ろからたたかれた。
はっとする意外感だった。
どんでんがえしのような……しかし、僕が一瞬にしてシャッキリとなり、覚醒したのはたしかだ。
「また、逢っちゃったね。よっぽどご縁があるのかな」
彼女は後ろからくる人波におされて、足をとめた僕の体にくっついてしまった。
そのやわらかくあたたかい感触は、電気に触れたような緊張感を僕に与えた。
ショックで声がでなかった。
「彼女、きみの子?」
冗談をいっているのだ、とわかるまでにだいぶかかった。
彼女はななこのことをいっているのだった。
「い、いや、妹……妹!」
「洒落、わかんなかった、きみ?」
彼女の呼気が顔にふりかかる至近距離で、彼女はくすっとわらった。
「いや……まさかと思って……」
「似てるね、やっぱり。眉と目が優しくてかわいい」
「え?」
「すんだの、食事? これからだね?」
彼女は僕の心を読んでいた。
そして僕の顔は自分ではどうしようもなく、正直に心の状態を表してしまうんだ。
「やっぱり。キミの顔を見るとわかるよ。妹さんの名前、なんていうの?」
「ななこ……」
彼女は僕の名前を聞いてくれなかった。
「気に入ったよ。あたしもこんな妹、欲しいな」
「あげるよ、よろこんで。こんな妹でよかったら……」
「冗談、ヘタだね。でも許す、可愛い妹に免じて」
僕は、彼女が冗談をいうと、へんに動揺してしまう自分に気づいた。
彼女に最初から圧倒されているので、どうにも挽回できないせいかもしれない。
「お目当ての店あるの?」
「あ、一応……フルハウスっていうステーキハウスなんだけど」
彼女のものの言い方は、短くてうっかりしていると聞き損なうほどだった。
僕は彼女に圧倒されっぱなしだった。
バイクライダーの革ツナギの彼女と違って、彼女はモノトーンの白と黒の着こなしのすばらしさで、遥かに年上の成熟した美しい女性だったんだ。
白のジャケットと黒のロングスカート、その組合せは垢抜けしていて、派手なブルーの革ツナギの彼女とはおよそ別人だった。
それぞれが完全な別世界に属していて、彼女の鷹の目のようにクールな眸を見た瞬間に、二つの世界が結びつき、統一されたのだ。
「無理だよ。今沢山行列してる。あたしも覗いてきたんだ」
彼女はあっさりといった。
「知り合いが経営してるお店なんだ。割りこませてあげたいけど、今の混み具合ではちょっと」
「いや、そんな割りこみだなんて。僕も最初から無理だろうと思ってたし」
僕はうろたえていった。彼女がいきなり想像もつかないことをいいだしたから、うわずってしまったのだ。
「大丈夫だから。空腹で死ぬようなこともないだろうから」
「でも、妹さんのななこちゃん、おなかすかせているよ?」
「大丈夫だよね、ななこ。我慢できるよね」
「おなかすいた」
ななこが珍しく、はっきりと言葉にしてみずからの意思を表明した。
この五歳の妹はひどく寡黙で、知恵遅れと間違えられるほどなのだ。
「ほら、子供は正直だね」
彼女がくっくっとわらった。
「それにひきかえ、きみは素直じゃない。人の好意は受け入れるものよ」
「でも、見ず知らずのひとの好意に甘えるのも、つけあがるようで……」
「見ず知らず? これで三回も逢ったよ」
「あ、ああ……そうだね」
「このぶんだと、四回目も五回目も遭うことになるんじゃない? あたしが気まぐれでふらっと外にでかけると、必ずきみと遭うんだから」
(本当にそうだったら、いいんだけど……)
僕はもちろんそれを口にださなかった。
彼女が生来のバリヤーみたいに纏っている圧迫感が、それを許さなかった。
彼女の前では、滅多なことをいえない、と感じてしまうんだ。
それが僕だけの気弱さのせいだとは思えなかった。
「まるで、きみに呼びだされてるような気がする」
彼女が何気なさそうにいったそのひとことが、僕の心臓をひとつジャンプさせた。
全身に鳥肌が立った。
「ついといで。つれてってあげる」
彼女はくるっと後ろを向いて、逆方向へ歩きだした。
「え? ど、どこへ……」
「決まってるだろ。いいステーキハウス知ってるんだ。駅ビルの中じゃないけどね、近くだよ」
彼女はごく自然に主導権をとるタイプに属していた。
生まれつきのリーダーで、彼女の他人に及ぼす圧迫感もそのリーダーとしての資質のひとつなんだろう。
「エレベーターで下りるからね」
彼女は足が速かった。
人込みの中でもたくみにすり抜けていくフットワークが身についていた。
予測の技術に長けているんだ。それだけでなく、機敏な反射神経もすばらしい。
バイクライダーとしてすごい適性だな、と僕は思った。
僕が同じことをやろうとすれば、一歩二歩のうちにたちまち人とぶつかってしまう。
僕が追従できないでいるのに、気づいて、彼女は足をとめ、戻ってきた。
もたもたするんじゃないよ、といわれるのかと緊張したが、彼女はまったく予想外の言葉を口にした。
「ごめん。妹さんのこと忘れてた。荷物持ってあげる」
「い、いやっ。大丈夫だから!」
「いいから。ななこ、おいで。おねえさんと手をつなごう」
驚いたことに、ななこは僕の手を振りほどくと、彼女のさしのべた手をしっかりと握った。
ななこは生まれつき人見知りがはげしい性分で、初対面の相手に対して、いきなりこんな態度にでるなんて信じがたいことであり。
でも、ななこは確かに、彼女が気に入ったのだ。
あまり驚いたので、僕は一階のフロアで偵察の結果を待っている家族たちのことを、すっかり忘れてしまった。
彼女の存在が急速にふくれあがって、僕の心を完全に占領してしまっていたんだ。
「ありがとう……でも、なぜそんなに親切にしてくれるの?」
高速エレベーターで、ギュウ詰めの周囲の耳を気にしながら、尋いた。
「ばーか。キミのためじゃないよ。ななこのためだよ」
彼女はわらいながらいった。
ちょっと気落ちしたが、そのわらいが心を慰めてくれた。
僕は勝手にどんどん深入りしていた。
まるで抑えが効かないのがこわいほどだった。
一階のフロアまで下りて、彼女にひっぱられてどんどん歩き、駅ビルの出入口にさしかかったことで、僕ははっと家族のことを思いだした。
「ご、ごめん! 実は、僕とななこだけじゃなくて……」
「そうか。家族が待ってたんだ。一家全員で、おでかけだったんだね」
彼女の眸はまたクールな鷹の琥珀色にもどっていた。
「わかった。じゃ、地図を描くよ。ななこ、手をはなして」
彼女はすばやくハンドバッグから手帳を取りだし、鉛筆で大雑把な地図を走り書きした。感情をまったくあらわさない表情になっていた。
「すぐにわかると思うよ。店の名前も同じフルハウスだから」
「え? さっきの店と……」
「駅ビルのは支店なの。こっちは本店、電話番号も書いておくから。いいお店だよ。きっと気に入るよ」
「きみは、この店の関係者じゃ……?」
「関係ないよ。ただ経営者を知ってるだけ。コミッションなんか貰ってないよ」
彼女の口調がそっけなくなった。
以前、海岸へ下る岩の階段のところで、醜いチビイヌの話をした時と同じだった。
彼女の心が偏光したように暗くなってしまった。
「あのっ、いろいろありがとう。僕は大上円……」
「オオカミ? へえ、全然そうは見えないけどね。きみはどっちかというとシカとかレイヨウとか草食動物のタイプだよ」
彼女の眸に明るさがもどり、それにたすけられて、僕は勇気を奮い起こした。
「あの、きみの名は?」
「どうでもいいじゃない。そのうちわかるよ、縁があればね」
つっぱなす語調だった。
優しいかと思えばハードになり、ハードでとっつきにくいかと思っていれば、不意に限りなく優しくなる……僕はまったく振り回されっぱなしだった。
彼女との距離がまったく測れない。
こっちの手が届かない間合いを、彼女はきっちりと測っているようだった。
「さよなら、ななこ。あ、そうだ……」
立ち去りかけていた彼女がいきなり振り向いた。
「あの海岸のチビイヌね、見にいったよ……」
「ああ……」
「全然……人なつっこいじゃないか。あいつ、ただきみを嫌ってただけじゃないの。きみのやりかたはむかつくから。最初から見くだしてるし」
「ちょっと待ってよ。僕は……全然そんな気はなかったよ」
「きみは許せないくらいひとを見くだしてるよ」
彼女はさっさと歩き去り、すぐに群衆にまぎれて見えなくなってしまった。
僕はただ茫然として見送るしかなかった。
ななこが手をひっぱって注意を促さなければ、いつまでも我を忘れたまま棒立ちになっていたかもしれない。
明らかに、彼女にとって、僕の家族とは鬱陶しいものだったのだ。
僕とななこだけだったら、お目当ての店まで直接案内してくれたろうし、もっと沢山話すこともできたはずだ。
家族のことなど放り出しても、僕は彼女とともにいたかったし、すぐに後を追いかけたいと本心から思った。
それができないのが、僕のだらしなさだった。
僕の恐ろしい厳格きわまりない良心が、家族を遺棄した僕を徹底的に糾弾し、責め苛むことがわかっていたからで……それでも、僕は後を追うべきだと内心ではわかっていたんだ。
僕が、本気で何かをしたい、と強烈に願ったのは、それが生まれて初めてだったような気がする。
しかし、彼女は家族の目には、単なる不良……粗暴な非行少女でしかなく、彼女が時折、稲妻が閃くように垣間見せるたとえようもない素晴らしさをみぬいて、理解してくれるとは思えなかった。
けれども、僕を見上げるななこの純粋な黒瞳の輝きのなかに、僕に対する同意があったことはたしかであって……この五歳の恐ろしくひっこみ思案な妹は、本気で彼女が好きになっていたんだ。
また逢いたい、とななこはその純粋無垢な黒瞳の輝きで語っており……僕もまったく同じ気持ちだった。
「ななこ、また、あのおねえさんに逢いたいだろ?」
僕は、今は疚しさを無視して、ななこを利用しようとしていた。
「うん」
「逢いたいって、うんと強くお願いしてくれ。あのおねえさんが、ななこにまた逢いにくるようにって」
「おにいちゃん、おねがいしないの?」
これは思いがけない反問だった。ななこは僕の心をみぬいていたらしい。
「もちろんするよ……でも、ななこがお願いすれば、もっと効き目がある」
「でも、おねえさんはななこにあいにくるのよ。おにいちゃんじゃないわよ」
すごい! ななこがここまで纏めて大量の言葉を喋るのは、希有なことなんだ。
ななこは変わっていて、他人の目からすれば、単なる知恵遅れの女の子に映るかもしれない。
だけど、本当はななこには特別な異常能力があり……それは家族のだれも及ばない高度のレベルにあったんだ。
だけど、ななこがみずからの意思で、その異常能力を行使することは滅多になく……本気で使うことは一度もなかった。
大抵は、家族のだれかにしつこく頼まれて、ほんの少しだけ、使う、そんなケースがほとんどだった。
「ななこに逢いにくるのでもいいよ……」
「ほんとうはちがうのに」
得心できない、という調子でななこはいった。
ななこは知恵遅れではない。極端に無口なので、誤解されやすいが、本当は驚くほど知能が高いんだ。
普通の五歳の子供であっても、大人並みの知恵を持ってることは少しも珍しくない。
その点、ななこは特別の異常能力を所持しているのだから、見た目ではまったくおしはかれない。
「ほんとうにそうなってしまってもいいの?」
「いいんだ。すこしだけでも、おにいちゃんのほうを見てくれれば……」
もちろん、あとで後悔することになったとしても、それが、僕のその時点での本心であることに相違はなかったんだ。
「なんだ、見たかったなあ!」
妹すばるの言葉が、家族たちの気分をそっくりあらわしていた。
「なんで、ひきとめておかなかったのよ。お兄ちゃんは気がきかないんだから!」
いつも言葉が過ぎるのは、わが家族たちの共通した悪習なんだ。
自分勝手で我儘で、いつも悪いことは他人のせいにする。
もっともそれはウチの家族だけでなく、どこでもそうかもしれない。
でも、責任追及の火の手を一身に集中して浴びるのが、大上家の長兄という、本来ならば父親に次ぐ一家の権威を負う存在であるはずの、僕だということが……我が一家の特性といえる。実に情けなく、嘆かわしい。
「だから、彼女は急いでいたんだろう。とにかく、地図まで書いてくれたんだから、それでいいじゃないか。ちゃんとおいしいステーキにありつけたんだから!」
いつも穏和な人当たりのいい兄貴といえども、時には中っ腹になっていいかえすことだってあるんだ。
だけど、妹たち(くるす・すばる・ほくと)の連合軍は、実際の人数以上の圧倒的な多数派であって、たいていの場合、僕があっさり圧倒され、完敗に終わる。
「なんで、彼女はお兄ちゃんに対してそんなに親切にするのよ。だいたいこっちは引っ越してきたばっかしじゃない? だいたい彼女とどこでどうやって逢ったのよ?」
「さあっ、ありていに白状しろっ」
と、妹連合軍が合唱する。その執拗な追及ぶりと自白を得るまでのやり口は非情な検事そのものであって……僕は自分の精神の正常さを護るためだけでも、ありていに告白するしかない、極限状況においこまれる。
「わかったよ、いうよ。実際、たいしたことじゃないんだから」
「えーっ、引っ越し初日の日に、フラフラ出かけたと思ったら、痣だらけになって帰ってきたの、そのせいだったのおっ」
「階段から落ちたって、いけしゃあしゃあとしていったじゃないっ」
「おかしいおかしいと思ってたのよ! 発熱中だし、頭が変になったせいかと思って、深くは追及しなかったけど!」
「彼女の名前は?」
「年齢は?」
「その彼女、紹介しなさい!」
三番目の妹ほくとが厳命をくだした。
「紹介しろといったって、住所どころか名前も知らないし、連絡のとりようもないんだから……」
「じゃあ、さっそく彼女の身元を探り出して、紹介しなさい!」
「無理いうなよ……」
「暴走族がいつも走る通りで見張ってればいいのよ。彼女、女暴走族(レディース)のアタマなんでしょうが」
「知らないよ、そんなの。バイク乗りの革ツナギは着てたけど、レディースとかいう連中の胸にサラシ巻いて特攻服着たファッションじゃないし」
「ゾクの連中と喧嘩してまで、お兄ちゃんをたすけてくれたんでしょ。妹としては、そのひとに逢って直接お礼をいいたいじゃない?」
「嘘つけ。その好奇心満々の目はなんだ?」
「とにかく、兄思いの妹としては、兄を助けてくれた勇敢な若い女性に対して、大きな感謝の念を持っているわけよ。それにおくてのお兄ちゃんが、生まれて初めて、女性に恋心を抱いたことでも、関心を持たざるをえないわけ」
ほくとが力をこめていった。
「ちがうってのに。彼女にたすけられたんじゃなくて、たすけたの。たすけたのはこっち、たすけられたのは向こう」
と、くるすが訂正した。
「ちがうちがうう! 彼女がお兄ちゃんをゾクからたすけたんでしょうが!」
「何いってんのよ。暴走族のやつらに囲まれてたのは、彼女でしょうが! 多勢に無勢、そこでかっこよく彼女をたすけたのはお兄ちゃんってわけ。そうだよね!」
「どうなの、はっきりしなさいよ!」
妹たちが詰め寄ってきて、僕はたちまち頭が混乱しはじめた。
なにせ、妹たちはひとりひとりが、異常に意識圧が高い上に、連合軍を形成すると、その集合意識の圧力は飛躍的に増大し、僕のひよわな感性はヒューズがたやすく飛んでしまうのであって。
「あれっ、どうだったかな……どっちがどうだったか、わからなくなっちゃったよ。でも、彼女は無事だったから、どっちでもいいんじゃない?」
「どっちでもいいなんて、そんなわけあるかっ」
だが、本当のところ、僕には真実がさだかでなくなっていたんだ。
常識で考えても、たったひとりの少女が……どんなに喧嘩慣れした強い女性でも、強度に暴力的な男の十数人を相手にして、無事に済むわけはないと思えるのだし。
高熱でダウン寸前の僕としては、実際に何が起こったのか、明確に説明するのはちょっと。
「発熱少年のお兄ちゃんは、信用できないからね」
くるすが考え深げにいった。
「彼女に逢えば、その時何が本当に起こったのか、わかると思うよ」
「毎晩、ゾクの通り道に張り込むんだわね。それしかないわ」
「病弱のお兄ちゃんにそんな根性ないって」
「命の恩人のためじゃないか。それくらい我慢しろ」
「無茶苦茶いうんじゃない、ほくと!」
「でも、きっとあたしたちにもわかると思うよ、そのひと」
すばるがいった。
「お兄ちゃんの初恋のひとだからね。みんなで手分けして探そうよ」
「初恋のひとだなんて、そんなのじゃ……。ともかく、これはおまえたちには関係ないんだ。彼女のことはほっといてくれ、頼むから……」
「とんでもない、これはわが大上家の一家の問題だわ。ななこにも協力させて、絶対に捜しださなきゃ」
「なんで、一家の問題なんだよ? ほんの個人的なことじゃないか。彼女とはまた逢えるかどうかもわからないのに……」
「必ず遭うよっ」
ほくとが僕の胸元に指をさしつけた。
実際に胸板を掌で突き飛ばされるような気がした。それくらいほくとは“気”の強さでは抜群なんだ。
「ステーキハウスの恨み、えいっ」
「うわっ、やめろっていうのに!」
僕はどーん! と部屋の壁に背中から激突し、ぐうっと肺中の空気を絞りだされてしまった。
ことほどさように、女の恨みはしつこく恐ろしい。ほくとは、まだステーキハウスに行き損ねたことを根に持っているんだ。そんなのは、ただ自分の巡り合わせが悪かっただけで……僕のところに尻を持ちこむのはすじちがいだっていうのに!
SEEK4
四度目に、ケイさん、とバイクライダー仲間に呼ばれていた少女に出逢った時、僕は転校直後の学校にいた。
珍しく、妹のななこの言葉がはずれた。
正確にいうと、彼女が逢いにくるのではなく、僕から逢いにいったのだから。
学校は、新都心ウィング・シティにふさわしくぴかぴかの新品だった。
包装をたった今解いたばかり、という眩しさであって。
学校のみならず、ウィング・シティ全体がこの世に生まれたての新鮮さを身につけていたんだ。
もちろん、そんなものはあっという間に古びてしまい、ありきたりのほこりっぽくきな臭い、排気ガスの撒き散らす灰色の噴煙によって汚されてしまうにきまっていた。
本日をもって、僕、大上円17歳と三人の妹たち(すばる、くるす、ほくと)16歳は、同時に同じ高校に編入された。
学校の名は、白露高校……たいへん美しいネーミングで、いかにも新都心にふさわしいのだ、そうだ。
学校の施設、建物は新設校みたいで、光りかがやいていたけれど、中身はずっと以前から存在しているわけで、古びた、埃臭い人間性をひきずっていた。
学校なんて、どこへいっても同じだ、と転校を重ねたベテランの僕には絶対の確信をもって、断言する資格があるのであって。
人間関係は、どこでも絡みあってグチャグチャしており、学校を初め、すべての機構は長年の惰性で動いていて、イカレた干物みたいなすえた臭いがするものであり。
理想主義なんか、全然この世に存在しないのかもしれない。
17年間も流浪を続け、転校に転校を重ねていれば、もはやその道でのプロであって。
新参者として、どのように振る舞えばいいか、わかっている。
迎える側の好奇心を満足させてやり、折りあいよく、居心地のいい隙間を見つけて滑りこんでしまう。
むろん、口でいうほど易しくないけど、人当たりのよさが、たとえ演技であっても、いつしか身についてしまっているんだ。
妹たち三名は、午前中に転入生としてのお目見えをすませてしまっていたが、僕は市庁に寄ったので、午後になった。
僕が通りを挟み、学校の正門の前に立って、学校の全景をどこで鑑賞しようかと考えていると、まだ終業時間でもないのに、制服姿の女生徒がひとりすたすたと足ばやに歩いて、校門の間をぬけだしてきた。
エスケープだと気づいたが、べつに気にする理由もなかった。
そうした生徒のタイプは、どこの学校にもめずらしくない。
生徒を強制収容所のような学校の教室に縛りつけておけば、反抗者のタイプの人間が必ず脱出をはかる。
刑務所を破り、強制収容所を脱走する連中と同じ人類のタイプに属するんだ。
僕が、この学校にどれだけの期間、在籍できるか未知数だったし、もしかすると三日間という最短レコードを破ることだってあるかもしれない。
なぜなら僕は、このウィング・シティを暴走するゾクと揉めたことで、いつ誘拐されて、簾巻きにされるかわからない状況にあったから。
四人の息子と娘たちを、私立学校である白露高校に転校させるために、親父がどれだけ金を使ったか。それを考えるとちょっぴり憂鬱な気分になるのであって。
成績面では問題ないとしても、学校としては、いずれ大問題を抱えこんだことに気づくことになるかもしれない。
僕は、エスケープを決行中の生徒には、関心を払わなかった。
女生徒だということだけ漠然とわかっていた。もし、それが彼女であれば、遠くから見ても一目でわかったはずだ。
あの鷹の目を想わせる鋭い美しい眸は一キロ離れていても、見分ける自信があったからだ。
その女生徒は、すらりとしたからだつき、少年みたいな思い切った断髪で、動作にも少年っぽいものを感じさせた。
なよなよしたところがないんだ。少年というのは、時折発作的に、身ごなしが衝動的になり乱暴になる。
いきなりジャンプしたり、回し蹴りの動作が飛び出す。
その断髪の女生徒も、そんな感じで、不良っぽさが漂っていた。
道路で足を停めると、うすべったい鞄を小脇に挟み、ボケットからとりだしたたばこのパッケージが、僕の視線を惹きつけた。
チタン製らしい大ぶりのライターを着火させ、たばこに火をつける。
こちらを正々堂々と見やりながら、それをやってのけたんだ。
何かしら、こちらを挑発する意図を感じさせるやりかただった。
そして、セーラー服の女生徒はくわえたばこで、こちらへ向かって通りを渡り、まっすぐに早足でやってきた。
どこかで逢ったな、と感じた。
向こうも、こっちを知っているという雰囲気が先立っていたからであって。
それも知り合いを見つけてやってくる、というより、喧嘩を売りにくるという印象が濃く。
不良に喧嘩を売られるのは、ごめんだった。
僕が、この街にやってきてから、何よりも願っていたのは、そうしたトラブルを回避することであり。
バイク・フリークスも不良少女も願い下げだ。もし、この願いが叶えられないとすれば、僕たち一家はまたもやすぐに、この街を去らなければならないだろう。
にこやかな八方美人でことなかれ主義……このシフトは効きそうもなかった。
相手の女生徒の決然、断然、キッパリという態度には譲歩の余地がないと感じさせるものがあったんだ。
通りを渡りきると、女生徒は足を緩めるどころか、体当たりするような勢いを保持したまま僕にまっすぐ向かってきた。
女生徒の持っているうすべったい鞄が、金具で補強されているのを、僕は見逃さなかった。
確かに荒っぽいハードな生き方をしているので、持ち歩くものは、すべからく武器に早がわりするようになっているんだ。
頑強な革鞄の鋭角な金属の補強部分は、特殊警棒を携帯するより破壊力を具えているだろう。
そんな破壊力を試すのは、まっぴらだった。
凶暴なバイク・フリークスに襲われる覚悟を常に持ち歩くのなら、その女生徒の中身はきまっている。
ストリート・ギャングと同じぐらいハードだということなんだ。
僕は逃げだそうか、それともちがうシフトでいこうかと迷い、咄嗟にちがうシフトを選択してしまった。
今までほとんど選ばなかったシフトをだ。
女生徒は間合いを選んで足をとめた。
体当たりを食わせる前に、常套的だけど儀式というものが一応あるんだ。
口にくわえたたばこの先端が、僕に狙いをさだめた。
火口が消えているのがわかった。向こうも相当に緊張している証拠だ。
「この前たしか、顔、忘れないといったよね、おにーさん」
すごんでいる作り声で、不良少女がいった。
いかにも僕は彼女と逢っていた。
あの岩の階段のところで、彼女のバイクの連れだった少女だ。真っ赤な革ツナギをおぼえている。
あの時の、相性がよさそうだ、と感じたのが、嘘のようなハードさだった。
炭焼きステーキを焼く炭火みたいに、赤い敵意が熱気を放っており。
「話をつけなきゃならないようだね。痛い目にあいたいんだろ?」
不良少女は、がっちりした作りの大型ライター(やっぱり材質はチタンだった)をだして、たばこに点火した。
すると、通りを渡る途中で、たばこの火が消えたことに気づいていたんだ。
敵前で威厳を失った自分の間抜けさ加減が、彼女を怒らせ、敵意を更に熾烈に煽っていた。
「気に食わないね。あたしを甘く見てるんだろ? 何かいいたいことがあったら、いっときな」
「いいたいことはひとつある」
僕はとんでもないシフトを選んだことに気づいた。
しかし、もう遅い。
「たばこなんかやめろ。かっこつけてすってるんだろうけど、体も着ているものも物凄く臭くなるんだぞ。きみのそばにねこは近寄らないだろ? ひどい悪臭をきみは放ってるからだよ。当然のことだけど、口だって臭いんだぞ」
僕のいささか長めのせりふを、女生徒はあっけにとられて聞いていた。
僕は舌打ちしたくなった。このシフトミスはひどい結果を生むと直感したんだ。
「余計なお世話だよ」
もちろん、少女はものすごく気分をこわした。
いつ回し蹴りが飛んでくるかわからなかった。
「口臭がどうした? てめえの世話にはなんないよ。たばこを喫うカレを持てばいいんだろっ」
「たばこ、やめろよ」
僕は一歩踏みこんで、少女の口許からたばこを払いのけた。
僕は不器用だから、狙ってやったとしても、空振りするのが関の山なのだが、この時ばかりは神様がぴったりタイミングを計ったように、鮮やかにきまった。
たばこが宙に舞い上がり、驚くほど遠方へくるくる回りながら飛んでいった。
僕と相手の少女は、期せずしてたばこの行方を最後まで見送ることになった。
「どんなにかっこいい、素敵な女の子だって、鼻が曲がりそうに臭かったら台無しだもんな」
「なにしやがんでいっ」
少女は怒声を放って、僕の顔面に手にしていた大型ライターをたたきつけてきた。
僕は反射的に左手を上げて顔をかばった。
「あれ……?」
たいした衝撃もなしに掌のなかにぴったりおさまったライターを、僕はびっくりして見つめた。
ずしっと掌に重みを伝えるチタン製ライターであって。
「素敵なライターじゃない? きみにぴったりだけど、これは貰っとくよ。もう用はないんだから、いいだろう?」
驚くべきタイミングだったけど、同時に僕が喋っているせりふもきまりすぎだった。
僕が自分の意思でやったとしたら、絶対にこうはならない。
グッドタイミングの神様がついてる。
「ふざけんなあっ」
女の子が蹴ってきたが、パターンが最初からわかっていたので、相手に体を寄せて回し蹴りを避けるのはたやすかった。
セーラー服のスカートが翻るのを目の隅に見ながら、僕は女生徒の顔に平手打ちをかませた。軽く、だ。思いきりじゃない。
抜群にタイミングがいいので、女生徒はあっけなく腰から崩れて、路面に尻餅をついてしまった。
「やりやがったな、てめえ……」
痛みよりも屈辱と怒りで、少女の顔は怒り狂ったねこに似てきた。
「ただじゃすませねーからな……」
僕は、不良少女が落とした平べったい革鞄を拾い上げた。
みかけに似ず、ずしっと重かった。隅の金具が尖っていて、凶器そのものだ。
こんなもので顔を狙われたら、堪らない……僕の心の隅で縮みあがっているものがあった。
もちろん、それは恐怖心だ。だが、シフトが違うところに入っているので、表面化してこないんだ。
「危ないもの、持ってるなあ。ふだんどんな生活してるか、わかるよ」
「忘れねーぞ……必ず思い知らせてやる」
体が震えていた。恥辱のためで、僕を恐れているのではなさそうだ。
だが、闘志は彼女を見捨てて立ち去ってしまっていた。
「ケイさんって、どんな字を書くの?」
何気なく僕は尋いた。そんなつもりはなかったのだが、ひょっこり口にのぼってきたんだ。
「なぜ知ってるんだ? ケイさんのことを……?」
「うん。けっこう、むずかしい字を書くような気がする」
「ちゃんと答えろよ、てめえ。なんでケイさんのことを知ってるんだよ」
「前に逢ったことがあるような気がするんだ。ずっと前だ……よく思いだせない。でも、たしかにどこかで逢ったと思う」
「てめえって、変なやつだな……」
不良少女は目配りも用心深く立ちあがった。
こっちがいきなり攻撃に転じるのを警戒していた。
「あの時……てめえ、ケイさんと何を話してたんだよ?」
「それを話したら、ケイさんのケイ、どんな字を書くのか教えてくれる?」
「なんで、そんなことにこだわるんだよ?」
「気になってたまらないってことあるじゃない? きみが彼女にケイさんって、呼びかけたんだよ。それ以来、頭にこびりついてるんだ」
「ケイって、ホタルだよ。ほたるの螢(ケイ)という字を書くんだよ。てっぺんに火が二つ並んだむずかしいほうのホタルって字だよ」
「ありがとう!」
僕は間髪をいれず、心をこめて礼をいった。心にひっかかっていた蟠りが一挙に解消したんだ。
「あー、すっとした。きみのおかげだ。本当に礼をいわせて貰う」
「ちぇっ、てめえって本当に変なやろーだ。調子を狂わせやがって……」
忌まいましげに呟く少女に、僕は革鞄を渡した。
反射的に受け取ってから、少女はどきっとしていた。
僕のタイミングは完璧だったんだ。
意識的に革鞄を返そうとすれば、更にぎこちなくなり、少女の心に好機を窺う攻撃性が芽生えないともかぎらない。
受け取った瞬間、革鞄の金具の縁が襲ってきたかもしれないんだ。
「そうかあ……ホタルの螢だったんだ。ずいぶん考えたんだけど、どうしてもしっくりこなかった。螢……本当にピッタリだよ。きみのおかげだ」
「それじゃ、ライター、かえせよ」
不良少女の目が動物じみた敏捷さで、僕を窺っていた。
攻撃をしかけようかと思い立っては思いとどまる、その思い惑いのくりかえしをつづけているんだ。
思ったよりだいぶ手ごわいと判断して、その反復の波が次第に鎮まってきた。
「あ、ライターね」
僕はポケットをずしっと重くしていたライターをとりだした。
改めて少女と大型のライターを見くらべる。
これほどフィットしにくいとりあわせはなかった。
「すげー高価いんだぞ。返して貰おうか」
「へえ。そんなに高価いのか?」
僕がライターをちょっといじると、突然大型ライターの円形のガス口から炎が噴出し、数メートルも噴きのびた。
少女は頓狂な声を発して、後ろへ飛ぼうとし、仰向けにひっくり返ってしまった。
制服のスカートが舞い上がり、浅黒いなめらかな太腿が、ピンクの下着で区切られたつけねまで剥きだしになった。
驚いた! やけに大型なのも重量級なのも道理、このライターも隠し武器のひとつだったんだ!
一瞬にしてライターが火炎放射器に化けるしかけだ。
「てめえ、とぼけんなよ! ごまかすな! あの時螢さんと話していたこと、教えるっていう約束じゃないか!」
ああ、そうか……僕はちょっと戸惑って、少女を見つめた。
少女の心にある焼けつくような感情がやっと遠方から、僕の心に伝わったんだ。
それは嫉妬だった。
「犬の話をしたんだ。海岸にいるちっぽけな犬だ。すごくユニークな顔つきのチビイヌの話……」
「あ、それでか!」
少女が口走った。顔つきが変わり、怒りの色が失せた。
少女本来の無邪気さの地金が顔を覗かせた。
「螢さんが拾ってきた犬、おまえに教わったのか……」
「拾った? すると螢はもうあのチビイヌ飼ってるわけ?」
「おいっ、呼び捨てにすんなよっ。生意気なやろーだなっ」
「わかったよ、螢さんといえばいいんだろ」
「おまえなんかに、気軽に螢さんなんて呼んで貰っちゃ困るんだよ」
「じゃ、どう呼べばいい?」
「百合川さんってお呼びしろ。軽く踏んでると怪我すんぞ、こらっ」
「百合川……百合川螢か」
僕の目の前に華やかな虹がかかったような心地がした。
顔が明るくなったにちがいない。
不良少女はあっけにとられたように僕の顔をまじまじと見ていた。
「綺麗な名前だ。とても気に入ったよ」
「てめえ、いちいち腹の立つやろーだな……簡単に螢さんのお名前を出すなといってんのがわからねーのか」
「きみは、この学校の生徒だろう?」
もはや、僕は不良少女のいうことなど聞いていなかった。
「彼女も……百合川もここの生徒か?」
「それがどうしたってんだ! てめえは、なにか、螢さんにアヤづけでもしようってのかよっ」
「だけど、チビイヌを最初に見つけたのは、俺なんだから」
「だったら、どうした? おまえ所有権でも主張すんのか?」
「そうじゃないけど、気になるじゃないか? あのチビイヌ、どうしてるかな、百合川のとこで幸せにやってるかな、とか……」
「そんなことなら、心配ないっ。螢さんは、生き物には優しいんだよ」
「人間にはきびしいけどって?」
「すぐに裏切るしな、人間って……おまえみたいな人間がなっ」
「なぜわかる?」
「おまえもそんな顔してる。ちょっと都合が悪くなると、恩や義理なんか忘れて、けろっと裏切るやつばっかしさ!」
不良少女は、そこで言葉を切り、僕の顔を凝視した。
「おまえ、何だ? この学校に用か?」
「うん。転校してきたんだ、たった今」
「新参者か……なんだ、てっきり螢さんに用があるのかと思った。おまえ、くだらない学校に入ったな」
「どうして? 螢さんがいるんだろう?」
「それだけさ。この学校のとりえは……けど、螢さんだって、いつまでいるかわからないもん」
「こっちもそうなんだ。いつまでもつかわからない」
「ちぇっ、おまえも相当なワルなんだろ。まじめ少年のふりして、実は偽善者……」
「きついこといってくれるじゃないか」
「わかったら、ライター返せよ」
「いやだ。これは不要になるまで俺が預かっとく。それに、僕……俺はきみみたいな素敵な女の子が悪臭を放っているのがいやなんだ。ゆるせないんだよ」
「ちくしょうっ、おぼえてろっ。必ずおとしまえつけるからなっ」
「ゾクの仲間といっしょにしかえしにくるのか?」
「ゾク? ばかやろー、なにいってやがんだ! ふざけやがって。てめえみたいな、ふざけたやろーに逢ったことねえやっ」
少女は軽蔑の眼差しで僕を見ると、そのまま後ろも見ずにすたすたと歩き去った。
振り向きもせずに叫んでよこす。
「また転校なんかで逃げるんじゃねーぞっ。おとしまえつけるまで、ライター預けとくからなっ」
乱暴な不良少女にはちがいないけれど、なぜか可愛げがあった。
もちろん、気を許したり油断したりすれば、こっぴどい目にあわされることはたしかで。それでも、僕は高揚感じみたものを身裡におぼえていた。
おもしろいことになったぞ、とわくわくする期待感が込み上げてくるのを制止できなかったんだ。
SEEK5
教職員室へいき、担任教師と話をすませて、正式に編入手続が完了、転校生としてクラスメートにおめみえするまでに、かなりの時間がかかった。
教職員室の雰囲気は、ごく普通、一般的なもので、校内が荒んでいるというあかしの、体育教師閥の横行、という現象はめだたなかった。
百合川螢……という有名な(か、どうかはわからないが)不良少女を抱えているわりには、白露高校の雰囲気はごくごく平穏無事を伝えるものであって。
歌川という名の担任教師は、贅肉がなく鰓が張った顔立ちで、眼鏡をかけているために半魚人みたいな印象だった。
同僚の教師たちから、歌さん、とか歌ちゃんときやすく呼ばれているのが、権威を落としていた。
生徒からは、間違いなく半魚人、半魚ドンと呼ばれているはずであって。
事務的で愛想がなく、笑ってもうわべだけで、誠意がこもらず、人間性希薄な……人気も希薄なタイプで。
あまりにシビアな観方で、自分でも気が差すけれど、あまりにも転校を重ねすぎて“学校無宿”と呼ばれる僕にとっては、一発で見通しがきいてしまうんだ。
“半魚人”は、よほど好奇心が乏しいのか、僕の転校歴については何も尋かなかった。これは珍しいことで、ロボットに近い人間性の持ち主にちがいなかった。
それでも、あれこれ根堀り葉掘り問いただされるよりは、はるかにましであって……
英語教師の“半魚人”に引率されて、2Eクラスへ向かった。
無口な担任教師とつきあっているうちに、こちらも寡黙になってしまいそうだった。
学校正門前で、いきなり不良少女に喧嘩を吹っかけられ、シフトを変えたのが不安だった。
八方美人・ことなかれ、なあなあ主義のシフトが、転校生としては一番無難であって……ハードな突っ張り型は、暴力的な気風の吹き荒れる学校向きなんだ。
そんな場所では、最初にいじめっ子の標的にされないように気をつけなければならない。
僕としては、人当たりのいい、体制順応派にシフトするのが好みでもあって。特に、この白露高校に、彼女……百合川螢が在籍しているとなれば、絶対にこのハードなシフトは不向きだった。
しかし、一度シフトすると、そう簡単にはチェンジできない。
ハードな気分は持続力と粘着力で、僕の表層意識を、僕自身の意思とは逆に左右してしまう。
はなから、出会い頭に、あの不良少女と暴力的な出会いを持ったのは、とんでもない間違いだったんだ。
「新しい級友を紹介します……」
“半魚人”担任は、そっけなくいった。
感情移入が何もなく、ぼそぼそと聞き取りにくい声だし、受けるはずもないのだけれど、“新しい級友”に興味をもたない古い級友はいないので、きらきら輝く多数の目に迎えられることになった。
「転校生の大上円くん……大上くん、挨拶しなさい」
後は知らん、という無愛想な半魚人顔でそっぽを向いた。
挨拶は苦手だが、一応お披露目だから、逃げるわけにもいかず……僕はハードなシフトのまま、挨拶する羽目になってしまったんだ。
「大上です、よろしく」
すでにオオカミ、と聞いた時点で、クラスにざわめきがおこっていた。
「父親の職業のおかげで、多数転校しています。子供としてはきわめて迷惑なことです。仲良しの友達ができても、すぐに別れを迎えなければならない……小学校の時から、そのくり返しです。だから、友達はいません。とっくに友達を作るのを諦めています。友達とは、俺にとって、河の水がさらさらと流れ去っていくようなものです。この学校にきても、すぐにまたよそへいくことになるかもしれない。だから、俺は何も期待しません。さよならをいいすぎたから、俺にとって人生は、川の流れと同じです。たださらさらと後に何も残さずに、流れ去っていくだけです。つまらない挨拶です。忘れてください……」
俺は、喋る前から、あの鋭い鷹みたいに琥珀色の澄んだ眸を意識していた。それで、喋り方が余計にハードになってしまったのであって。
「オオカミといっても、字は違います。動物のオオカミにはなんの関係もありません。大上と書いて、ダイジョウともオオカミとも読みます。うちの名字は昔からオオカミです。新しい動物学の発見では、野生動物のオオカミは気が優しい生き物だといわれているけど、俺はそうではないので、そのつもりでつきあってほしい。俺はどこへいっても、こんな危ないやつはいないといわれているくらいで……」
ハードな部分がどんどん広がってきて、俺はすっかりイメージ・チェンジしてしまっていた。
もちろん後悔の念が心の片隅で疼いており。
やっぱり八方美人で徹底すればよかったんだ。これは、今のうちに抑えておかないとまずいことになりそうだ……
「よおよお、ロンリーウルフさんよ……」
軽薄な声音が、いきなり野次った。
たぶん野次るなら、こいつだろう、と睨んでいた通り、へらへらした笑顔のやつが、両手でメガフォンを作って野次る。
「うちの女どもにもてすぎないようにしろよな! 特に転校生に親切にする女ども、下心があるんだから!」
「そうそう! 触ると大火傷をする女にご用心!」
ヘラヘラした軽薄野郎に輪をかけたようなやつが、ばんばんと両手を机に打ち下ろしながら揶揄する。
制服がはち切れそうな固太りであって。
「ちょっといい女だと思うのに限って、ひでえ精神ブスだからな! 後で俺んところへこいよ! 喜んで我が校のブス女の情報提供しますう!」
女子たちの間から激しい不満の声があがり、たちまち大騒ぎになった。
男子も盛大にブーイングを始めて、教室全体が揺らぐほどの騒音レベルに急上昇というわけで……
「静かに!」
俺は、“気”を入れて、教卓を両の掌でたたいた。
そのとたん、嘘のようにブーイングがやんだ。意識圧のレベルがとめどもなく上昇をつづけていた。
まったく正門の前で、不良少女なんか相手に、事を構えるべきじゃなかったんだ!
「以上、挨拶終わり! よろしく!」
俺は教壇を下りて、空いていた席についた。
だれにも教えられたわけじゃないけど、俺ぐらい、回数を忘れるほど転校慣れして、場数を踏めば、どんな新しい環境だろうと、戸惑うことなど何もなくなるのであって。
こっちが予定していた挨拶とはまったく違ったペースになったが、俺が新しいクラスで獲得したのは、悪い待遇ではなかった。
あらゆる意味で、一目置かれる、そんな挨拶を俺はやってのけたようで。
俺の座った席が、たまたま百合川螢の隣席なのは、できすぎだ。
しかし、百合川の周囲は空席が三つもあり、それは百合川の人気ぶりをあらわしていただけかもしれなかった。
俺はちょっと左横を見れば、百合川螢の横顔を見ることができたが、あえて目の隅に感じているだけにとどめた。
彼女がどんな表情をしているか、見なかった。
俺の突発的に上昇した意識圧は、ちょっとという以上にレベルオーバーで、それが自然に低下するのを待つしかなかったんだ。
英語の授業は、およそ面白味のない展開で終始したが、クラスのだれも気にしていなかった。
もうとっくの昔に投げてしまっていた。
“半魚人”教諭の授業では、だれも英語力を涵養する意欲をかきたてられないようだった。
授業が終わると同時に、クラスの軽薄派閥がいっせいに俺の周囲に集まってきた。
しかし、百合川螢のいる左側には、だれも近寄ることなく。
このクラスにおける“気圧配置”は、新参者の俺にさえ簡単に読みとれるほどのものだった。
「おもしろかったよ、きみ……ねえ、きみのことウルフって呼んでいい?」
さっそくクラスの軽薄派筆頭が、俺にエールを投げてきた。
こういうヘラヘラしたやつは、あまり信用ならないとしても、さほど有害ではない。
危ないのは、もっともらしい顔をして、おためごかしを平気で口にできるタイプだ。
落とし穴を人の足元にこっそり掘るタイプのやつは、あまりヘラヘラしたりしない。
あまり軽薄すぎると、だれも信用しなくなるからだ。
だから、俺は軽薄派とむしろ誼を通じることにしている。
芯から軽薄なやつは、自分の心を隠しだてできないものであって。
「ぼくは、円くんと呼んでもいい?」
体重九十キロは固い、固太りが喉がむず痒くなりそうな声でいった。
TVのバラエティ番組のお笑い芸人をコピーしているような、おきまりの道化者だ。
「君って、なんかこうパワーを感じさせちゃうのね。もしかして、超能力あるんじゃない? そんな顔してる……」
驚きを顔に出したかもしれない。
いきなりずばりと指摘されたのは、数多い転校生生活では初めてだ。
たいていの場合は日にちがたつにつれて、噂が立ち、しまいに本物の危険が迫って、慌ただしく引っ越すということになるんだが。
「なんで、そう思うんだよ?」
「君の雰囲気がそうなの。呪術とか魔法とか使いそうで、円くんという名前も、もしかすると役行者小角からきてるんじゃないかと……」
「知らないよ。自分でつけた名前じゃないんだから。親父がどんなつもりでつけたのか、聞いたこともない」
「ロンリーウルフちゃん、きみには確かに超能力があると思うよ。みんなきみに注目しちゃってるもんね。だから、女の子に気をつけろよ。フレッシュなロンリーウルフ、きみをぱっくり戴いちゃいたい、と思ってる女ども、どっさりいるからね」
「うそうそ、こいつ安田っていうボケだけど、自分の女を円くんにとられるの心配してるだけなの。本当はこんな学校、たいした女はひとりもいないのよ。それなのに、こいつは女飢饉だから、フレッシュな新人の円くんに取られるという被害妄想に陥っちゃってるわけよ」
「こいつこそ信用するなよ、大上。こいつの名は田子っていうオマヌケだけど、おまえの顔がいいんで、女にもてるだろうと予測の上で、おまえにくっついていれば、おこぼれ頂戴できると期待してる、阿呆な胡麻すり茶坊主なんだからよお!」
「うるさいっ、ね、円くん、こんなやつのいうことなんか耳を貸さないで、ボクと仲良くしよう! 裏本、裏ビデオ、なんでも無料でレンタルしてあげるから!」
「俺なんかいくらでも女の子紹介しちゃうからねっ。今夜暇? 女の子ふたりつれてくるから、ダブルデートしちゃっちゃおうっ」
突然狂騒的な雰囲気がふっと冷えて、教室がしんとした。
けたたましいお喋りのふたり組……安田と田子のコンビが黙り込んでしまったのが、異様な唐突さで。
左手の机から、百合川螢がすっと立ち上がり、教室内に冷気を送り込む雰囲気を纏って、教室を横切り、出ていった。
ドアが閉まるまで、異様な沈黙が続いた。
「彼女、百合川っていうんだろう? 百合川螢?」
「あのね、おまえ、なぜ百合川のことを知ってるわけ?」
息を呑むようにして、安田がいった。
ただならぬ緊張感がはりつめている顔は、安田や田子ばかりではなく。
「ちょっとね……何か俺、悪いこといった?」
「ま、大上は、まだここにきたばかりで何も知らないんだから、あれだけど、関わりあわないほうがいいってことはあるんだぜ」
安田がこわばった口調でいった。
「そうそう! 口は災いの門なんていっちゃったりして!」
「この田子ってオマヌケがね、一番身をもって知ってるわけよ。詳しくは田子の口から聞いてくれ、そういいたいね」
「とにかく、彼女には近づかないほうがいい。無事にこの学校に在籍していたかったら、の話だけど」
田子の固太りの顔は生真面目そのものだった。
この狂騒的なお笑いコンビを、そこまで生真面目にさせるには、よほど大きな事件があったに違いない。
「百合川、エスケープしたのか?」
「エスケープは常習犯だけどね。鞄が残ってるからちがうだろ。とにかく、その名前もあんまり口に出さないほうがいい、と心から忠告したいね。何も見ず、何も聞かず、何も話さず、彼女に関しては、それが一番だぜ」
「クラスメートなのに?」
「彼女には、クラスメートなんかひとりもいないよ。宇宙人と一緒だから」
「だいたいのところは、わかった」
俺は席を立った。
「ちょっと道をあけてくれ」
「どこへ行くんだ。もう次の授業はじまるぜ」
「用事ができたんだ。俺もエスケープするから、よろしくな」
「ちぇっ、転校早々エスケープかよ! こいつ、いい根性してるぜ!」
「えらいっ、大上くん! 今夜ストリップ見に行こうな!」
爆笑を後に、俺は教室を出た。
どんなシフトを選ぼうと、この種のおっちょこちょいの軽薄派に受けることは、経験上間違いない。
だが、それが百合川螢のような特別の少女に通用するとは思わなかった。
百合川螢と話をするのを、別の日に選ぶこともできたが、今は、意識圧の高さが俺を勝手に操り、動かしていた。
俺は待ちきれないほどの心の昂りに支配され、拒むことができなかったんだ。
“学校無宿”と異名をとった俺にとり、初めての学校といえども、迷うなんてことはないのであって。
だいたい、学校といった公共施設は、ひとつのお決まりのフォーマットがあって、工場だの市役所だのといった施設とは本質的に異なる。
それさえ飲み込んでいれば、簡単に地理的条件を消化できるんだ。
授業をサボった不良たちが、どのあたりにたむろして、便所座りというブザマな座り方で円陣を作り、たばこをふかしたり、ビールや水割りウィスキーの空き缶を製造してるか、すぐに見当がつく。
体育館の裏手を歩いていると、学生服をだらしなくはだけた連中が、そうした非合法のミニ・パーティを開いているところへでくわした。
「なんだよ、てめえ」
不良連中のことだから、つっかかってこないわけがない。
「何見てんだよ!」
「人を探してるんだよ」
俺はいつもと違って、意識圧をあげてるから、この種の連中は苦にならない。
「人を探してる? だれをだよ」
「百合川螢」
連中は動揺を走らせ、それから険悪さをまして立ち上がってきた。
囲もうとするのを避けてあとずさりした。
体育館のコンクリート壁を背負う。
前にも同じようなことが幾度かあって、先が読めるんだ。
「てめえ、百合川を探してるって?」
胃弱らしく口臭のひどいやつが、妙に動物的な光りかたをする目をむいて、詰問してきた。
「百合川に何の用なんだよ? いってみろよ」
「それは百合川に直接話す。俺はたった今転校してきたばかりだ」
「転校生? それが何の関係があるんだよ?」
「百合川の居場所、知らないのか?」
俺は頭ごなしにいってのけた。
意識圧が高くなると、俺は恐怖心を感じなくなる。
不安もなく、懸念もない。自信が腹の底に居座っている。
内心ではびくびくして、不安を隠すために高飛車に出る、この種の連中とは違う。
「知らないなら、あっちに行けよ。パーティーの邪魔はしないよ!」
「おーおー、いってくれるじゃねえの」
「ボクちゃん、パーティーに招待してやるから、こいよ」
「いっしょに遊んでやるよお」
一斉に掴みかかられると面倒なことになる。
口臭のひどいやつ、ひとりに目標を絞って、ヒットエンドランだ。
「お口が臭いんだよ、おまえは! 近寄るなよ!」
「てめえっ」
変な目の光りかたをさせてるやつが、激情に負けて飛びかかろうとした。
「待ちなっ」
鋭い女の声が心臓にショックを与えて、そいつはおもいきり空振りし、俺の頭を殴るかわりに、背後のコンクリート壁をまともに殴ってしまった。
「いっ、いてえっ」
拳を掴んでそいつはぶっ倒れ、その場で足をばたばたさせた。
コンクリート壁を力まかせに殴ると拳が砕けるということを初めて知ったらしく。
制服姿の百合川螢がこっちを睨んでいた。
睨まれているのは俺であって、連中ではなかった。
琥珀色の鷹の目になった眸はきびしく、ガラスの破片が刺すような痛みを、意識に感じさせた。
火傷するような痛みが、本当に意識に生じるんだ。
「百合川……さん」
連中のひとりが押し殺したような声でいった。
「こいつが百合川さんを探してるって……嘘だと思ったもんだから……」
「そいつ、すぐに保健室へ連れていきな。たぶん骨折してるよ」
「わかりました……」
百合川を見た連中の態度の急変ぶりは可笑しいほどであり。
百合川螢が、この学校の不良たちに一目も二目も置かれているVIP存在であることはまちがいなく。
連中が、ひいひい呻き泣いている骨折少年をひきずるようにして立ち去ると、沈黙が重くなった。
木立の葉擦れの音さえも聞こえない静寂の深さであって。
「どういう気なんだよ?」
口を切った百合川の口調は、するどい怒気をおびていた。
「なんで、ここにいるんだ?」
「転校生だから」
「このっ。ふざけるんじゃないよっ」
「これで、四度目だね、百合川。四度目も五度目も遭うんじゃないかっていったのはきみだ」
「転校してこいなんていった覚えはないねっ」
「俺だって、まさかと思った。でも、偶然が何度も何度もくりかえされれば、もう偶然とはいえないだろ、百合川?」
「あんた、ちょっとようすが変だね……」
百合川螢は、眉をひそめて俺の顔をしげしげと見た。
「前と感じが違うね。前は僕、といってたのに、今は俺だし……まるで別人みたいだよ。つっぱってるのかい?」
「さあね」
「だったら、すぐにやめたほうがいい。つっぱりなんてくだらないよ。危ない目に遭うだけだし」
「俺は、ただ百合川を探してただけだ。向こうからつっかかってきた。俺のかわりにコンクリートの壁を殴って、拳を砕いたって、俺のせいじゃないぜ」
「莫迦! それがつっぱってる証拠じゃないか! 馬鹿な不良とこんな場所で揉めるのが、つまらないイキガリだといってるんだよ! あんた本当に別人みたいだね……」
息を飲むようにして、百合川は呟いた。
「どうしたの?! なんでそんなに変わっちゃったの?」
「俺はちっとも変わってない。百合川のいうとおり、四回目、五回目を実現させようとしてただけだ。俺の気持ちを正直にいおうか?」
「そんなの、聞きたくないよっ」
百合川は激しくたたきつけるようにいった。
その激しさは、高められた意識圧のもとでは、心地よい刺激に感じられた。
「あんたは莫迦だ! 転校早々、こんな莫迦なことをしでかすなんて! あんたがどうなるか、教えてやろうか!? あんたはこの街全体の莫迦どもから狙いをつけられる! もうあんたはゾクからも睨まれてるんだし、こうなったら、すぐにこの街から出てったほうがいいよ!」
「出ていくつもりはない。転校してきたばかりなんだ。でも、百合川は俺のことを心配してくれてるんだな」
それがわかってうれしい、と俺がつづけるのを、百合川は許さなかった。
「もう、あんたの莫迦さかげんはうんざりだよ! ゾクとの悶着にあんたを巻きこんだのは、あたしのまちがいだった! でも、あんたはけっきょく、トラブルを自分で起こしてるんだ! そんな莫迦を相手にしてられないねっ」
「海岸のチビイヌを飼ってるって聞いたよ、百合川」
「それがどうしたっていうんだよ! あんたなんかに関係ないよ!」
「俺はうれしかったんだ」
百合川がびくっとしたように、俺を見るのが印象的なリアクションだった。
「…………」
「百合川と俺の間に、目に見えない繋がりがあるのがわかったから。これで四度目だけど、きっと四千回目もあると思う。それどころか四万回目だって……」
「ほんっとに馬鹿げてる! あんたの見つけた犬を、あたしが飼ったこととそんなにご大層な関係があるっていうのかよ! ふざけんじゃないよ!」
「俺は、あの後、何度も何度も海岸へチビイヌを探しにいったんだ。チビイヌがいなくなってるとわかった後もね。とってもさみしい気持ちになったよ。だから、今は本当にうれしい……百合川にお礼をいいたかったんだ」
「関係ないだろ! あたしにかまうんじゃないよ! あんたなんかとは所属する世界がちがうんだ! あたしにつきまとうんじゃない、しょうちしないよっ」
「女のNOは信用するなって、ある人たちにいわれた。NOといわれたら希望がある証拠だから、元気を出して突撃しろって」
「そんなことをいうやつは、女を知らないただのマヌケだよ!」
「そうかな。そういったのは、俺の妹たちなんだけど。百合川を捜しだせ、と妹たちにいわれた。絶対に捜しだしなさいって厳命されたんだ」
「バカバカしい! あんたとはつきあいきれない! ともかくあたしの返事はNOだよ、絶対にNO! あんたとは関わりをコンリンザイ持たない!」
「関わりを持たないといったって、今、現に持ってるじゃないか。次は五回目だし、その次は六回目……同級生なんだぜ。毎日逢うことになるんだ」
「勝手なことをならべたてやがって! 遭うたびにその顔を思いきり張り倒してやろうか! いいか、あたしは本気でいってるんだ……甘く見てると後悔もできないようにしてやるから!」
「百合川にいいたいことがあるんだ」
俺はきっぱりといった。
「そういう乱暴な言葉遣いはやめるんだ! 百合川は女の子だろ! だったら、もっともっと優しくしたらどうだ!? そんなに乱暴な言葉で、ぽんぽんぽんぽんまくしたてるなんて、竿竹屋の火事じゃないんだ! 女らしい優しい言葉遣いをしたって、罰は当たらないんだぞ!」
肩が震えて、百合川はぷっとふきだした。
「それはそれは、悪うございましたわね。あたくしとしたことが、ついうっかり伝法な口を叩いてしまいまして。こんな言い方をすれば、お上品なあなたさまのお気に召しますかしら?」
「ふざけるなよ! 俺も本気でいってるんだ! 俺は、百合川、おまえみたいな綺麗で素敵な女の子が汚らしい乱暴な口をきくのが我慢できない! 俺の美意識に反するんだよ!女の美しさは顔かたちじゃないぞ! 百合川も美しい心を持ってるなら、美しい立ち居振る舞いを絶対にすべきだ! 百合川、おまえが綺麗な名前や綺麗な顔や体を持ってるのは、偶然なんかじゃないぞ! 神様に貰ったからじゃないか! 俺は一生かかったって、おまえの乱暴な言葉遣いをやめさせるからな!」
「黙って聞いてりゃ際限もなく! ふざけんじゃねえよっ、このっ」
火の出るような平手打ちが弾けて頭を炸裂させた。
鮮やかな花火が頭の中に打ち上げられて、暗闇に戻っていった。
俺が後頭部を後ろのコンクリート壁にぶつけて、失神したと知ったのは、それからだいぶたってのことだった……
意識が舞い戻ってきた時は、意識圧がきれいに低下していた。
溜め息がふうっと自然に漏れた。
意識圧が一定のレベルを超えている間は、絶対にリラックスできないのだから、素直にありがたいと思った。
気絶している間に意識圧が下がったのは初めてだ。
そう、僕は気絶したんだ。百合川に思い切り殴られて……これで二度目だ。
きっと三度目もあるにちがいない。
百合川に殴られるのは、僕の宿命かもしれない。
でなければ、彼女もあんなに気軽に僕のことを気絶するほど力いっぱい殴ったりはしないだろうから……
最初に目に映ったのは、保健室のビジネスライクなそっけない天井で、僕の裡に何の感動も呼ばなかった。
だが、百合川の顔が視野に入ったとたん、僕の心臓はひとつジャンプして、にわかにどくどくと血潮を急速に送りだしはじめた。
これほど一瞬のうちに、高揚感が急上昇するのは、初めての体験で。
百合川の顔は、気絶する直前までのはりつめたきびしい表情ではなく、怒りで琥珀色にかがやく眸でもなく、戸惑いがちにくもっており……
「気がついた……?」
百合川が尋ねた。
その声も鋭くはりつめたものが失せて、優しい響きがあり、こちらの気分をらくにしてくれた。
「やあ……」
僕はそっといった。あまり過激な反応を示すことで、百合川のせっかくの優しさをこわしたくなかった。
「また逢ったね。五回目だ」
「いやだ、心配したのよ……でも、冗談がいえるんで、安心した」
「僕は……たった今、百合川のことを考えていたんだ」
僕は、百合川の顔を見上げながら、口が動くままにまかせた。もうシフトが変わって元に戻っている。
「なに? 何のこと?」
「百合川に、これで二度殴られて気絶した。だから、三度目もあるだろうなって……二度あることは三度あるっていうじゃない?」
「いやね。そんな気はなかったんだ。あんまりあっさり円くんが気絶しちゃったので、こっちがパニック……本当に円くんは病弱なんだね。すぐにこわれてしまいそう……」
「実は、それほどでもないんだ。病弱なふりをしていると、優しい女性が同情して親切にしてくれるんじゃないか、そう期待してるだけで……」
「えっ、うそっ、みんな演技なの? 信じられない……だって、円くん、本当に気絶していたもの」
「冗談さ。今度三度目の時は、手加減してくれよな」
「やだ、みんな冗談なんだ」
百合川は声をあげてわらった。ころころとなめらかなボールが転がるような笑い声で、すごく気に入った。
百合川のわらいは魅力的で、鋭い琥珀色の鷹の目のきびしさとあまりに落差が激しかった。
だからといって、彼女の鷹の目を、僕が嫌っているという意味じゃないんだ。
「百合川の笑い声、好きだ。胸があったかくなる……僕の妹のななこ、おぼえてる?」
「もちろんおぼえてるよ。ななこちゃんと逢ったの、ついこないだだもの。また逢いたい、逢えるといいな、そう思ってた」
「僕は……ななこも同じことをいってた。ななこは百合川が好きだ。百合川のことを、いつも思ってるんだよ。きっとななこの気持ちが百合川にも通じたんだね」
「一人称が、また僕にもどったね。さっきは俺といっていたのに……」
百合川は椅子から立ち上がり、間近にあって見下ろしていたその顔が遠く離れた。
戸惑いが彼女にとりついて、にわかにおちつきを失わせたようだった。
「さっきは、円くん、別人みたいだった。でも、今は前のきみにもどってる。僕といってる時と、俺といってる時の円くんは、ずいぶん態度とか顔つきもちがうのね」
「さっきの僕は、どんなだった?」
「すごく高圧的で、迫力があった。うそみたい……今と全然ちがうよ。なんでひとりの人間がそんなに極端に性格が変われるの? ひょっとして円くん、二重人格者?」
「それは百合川だって同じじゃ……今の百合川は優しくて、ななこが好きな百合川だもんな。でも、僕は、ハードなきつい眸をした、バイオレンスな百合川も意外と好みなんだ……」
「なによ、勝手なこといっちゃって……」
百合川はぷいとそっぽを向いたが、本気で怒っているとは思えなかった。
「いててて……」
保健室の寝台から身を起こした僕は、ずきんと鈍痛が頭に脈打って、頭を抱えた。
「い、いたまが……いや、頭が痛い」
「ちょっと、大丈夫!?」
「はあー……百合川のビンタよりも、後ろのコンクリートの壁が……こたえた」
「やっぱり病院へいかないと。ごめん。あたし手かげんしたつもりだけど、円くんがあっけなく気を失っちゃって。脳神経外科で診て貰ったほうがいいね」
「冗談じゃない! そんな大袈裟な! 平気だよ、ちょっと頭痛がしただけで」
「さては、お医者さんがこわいんだ……?」
「白衣の人間が、ちょっとね」
「歯医者さんが一番苦手、そうでしょ?」
「ピンポン、です。よくわかるな」
百合川との他愛もない会話が楽しくて、いつまでも続けばいい、といつしか僕は念じていた。
「病院、いかなきゃだめよ。あたしがつれていってあげる」
「僕の妹たちなら、絶対にそんな優しいことはいわないな。気絶したなんていったら、笑い飛ばすにきまってる。後頭部にできたタンコブぐらい、唾を塗っとけば治るって、ほくとなんか、僕を追いかけ回すな、きっと」
「円くんの妹さん、沢山いて、楽しそうだね」
「どっこい、僕としてはですね、妹たち三人を優しいお姉さん一人でトレードしたい……」
「贅沢いってる! 妹さんたちにいいつけてやろうかな」
そんな時の百合川は、鷹の目になった時の眸の琥珀色が嘘のように、暖かい鳶色になっていた。
気分しだいで、人間の眸の虹彩の色は変わるのだ。
冗談をいい、軽口を叩いている時の彼女はとてもたのしそうで……その言葉遣いはちっとも乱暴ではなかった。
「病院はどうでもいいけど、とにかくいっぺん家に帰る。学校に編入が無事にすんだって、親父に報告しなくちゃならないし……長兄としての義務なんだ。わが大上家のしきたりなんだよ、おかしいだろ?」
「ううん、おかしくない……家族が多いといろいろ大変だろうけど、やっぱりたのしそうね。ほら! あんまり急に動かないで! 眩暈がしたんでしょ?」
寝台から下りようとした僕は、頭がくらくらして、足元の安定を失った。
彼女のしっかりした手がすかさず延びて、僕の体をしっかり支えてくれなければ、ころんでしまったかもしれない。
僕はころびやすい、不安定なところのある体質なんだ。
「ああ……まだ、なんか体に力が入らないや」
百合川の手に体を支えられているのが心地よくて、その時間を少しでもながびかせようとするのが、僕の姑息なところだ。
僕はものすごくせこい!
「しっかりして! 体をもたせかけてもいいよ。でも、大丈夫かしら? もっと休んでいたほうがいいのかも。そうだ、救急車、呼ぼうか?!」
「じょ、冗談! 歩けるから大丈夫!」
百合川は壁にハンガーでかかっていた、僕の学生服の上着を外して渡してくれた。
こんな濃やかな心遣いを見せる女の子の百合川と、強烈な不良少女の恫喝の波動を撒き散らす百合川との落差は大きすぎた。
彼女は僕を二重人格者といったが、彼女こそ本物では。
百合川の内部にはふたりの相反する性格の少女が住んでいるんだ。
「これ、先公に……先生に見られるとまずいから、ポケットから抜き取っておいたんだけど……」
百合川は制服のスカートのポケットから、ライターをとりだした。
ずっしり重い大型ライターを、僕はすっかり忘れていた。
「もしかして、これ、だれかから貰った?」
百合川は、僕の目を正視することをなんとなく避けながら尋ねた。
「正門の前で逢った女の子からね」
「やっぱり……でも、どうして?」
「彼女、たばこはやめるといったから、貰ってきたんだ。ライターなんか要らないだろうってね」
「本当に? ちょっと信じられない……」
百合川は呟いて、躊躇いがちにライターを僕の手の中に落としこんだ。
「あの子の名前、なんていうの?」
僕はいきなり質問した。
「白山……白山小雪。あの子から名前、聞かなかったの?」
「急いでたんだ。彼女、百合川のこと、すごく尊敬してるんだね? まるで神様扱いだった……百合川は女だから、女神さまかな」
「そのライター、小雪にせがまれて、あたしがあげたものなんだ。よく、小雪、手放したね」
「どうりで、大事そうにしてた」
「あなたはたばこすわないんじゃない?」
「もちろん。たばこをすう女は口臭がひどくなる、といったら、すぐに小雪ちゃんは納得してたみたいだ」
「あの小雪がね……あきれた」
思い直したように、百合川はふっとわらった。
「あなたには、そういう芸当ができるんだね。変なひとだと思ってたけど……」
「僕が? それとも俺といってた時のやつが?」
「両方とも。さ、上着着て。家まで送っていくから」
「小雪ちゃんと百合川、つきあいは長いの?」
「幼なじみってほどでもないけど……境遇がお互いに似てるから。同い年なのに、あたしをまるでずっと年上みたいに妙にたててくれるんだ」
「子分? いや、違うな。きっと小雪ちゃんにとっては、百合川は女神さまなんだ。小雪ちゃんは女神さまの忠実な信徒……」
「ちがうよ、そんなのじゃない!」
百合川はちょっときつくいったが、その言い方は反発、というのではなく、照れているように感じられた。
「忘れ物ないね?」
「あるよ。百合川の鞄……エスケープする時、教室に置いてきちゃったんだろ?」
「そんなこと、心配ないの……さ、送ってくよ、二重人格者の円くん」
「そうかあ……百合川には、信徒が小雪ちゃんのほかにもいるんだ……」
「やめてよ。つまらないこといわないの!」
百合川の表情の変化は、含羞とでもいうべきもので……その時、すでに僕は二度とぬけだせないまでに深入りしてしまったことを、さとっていた。
『その通り。もうおまえは逃げ出せない。逃げ出したら、おまえは卑怯な裏切り者だ』
それまで沈黙をまもっていた僕の良心が突然宣告を下した。
『逃げ出すことは許さん』
僕はあえて良心の言い種に対して反発しなかった。そういわれるまでもなく、僕はその気になっていたんだ。
SEEK6
僕を自宅まで送りとどけた百合川螢を迎えた、妹たちの反応は不気味なものだった。
異様にかっこつけて、淑やかにふるまっているんだ。
あの男より男っぽいほくとまでが、驚くべき演技の冴えを見せるありさまであり。
「本当にぴっかぴかのご新居なんですねえ……」
百合川は部屋中をぐるりと見回しながら、とってつけたようにいった。
他人の家庭を公的に訪問するという、この種の場数は、彼女も踏んでいないらしい。
僕は、相当に居心地の悪いことを、百合川に強いてしまったのではないかと心配になった。
「そりゃ、そうだ。引っ越してきたばかりだもん」
「お兄ちゃん!」
すばるが目配せをよこした。
「とっちらかしてて、ごめん。なにせ、部屋の整理は、この長兄である、僕一人にゆだねられているわけで……従って、なかなか捗らないもんで。この大上家における長兄のポジションとは、すなわち、ひとえに奴隷労働者であって……」
「もういいから、お兄ちゃん、ななこを迎えにいってきて。もう幼稚園から戻ってくる頃だから!」
体よく追い出そうとしていることは明らかだった。
三人の妹が何をもくろんでいるのか、わからないまま家を出るのは不安で……けれど彼女たちがしゃっちょこばって、百合川を接待しているのはたしかだったし、さほど心配することもないかもしれなかった。
幼稚園の送迎バスが到着時間に遅れて、僕は苛立ちながら待った。
予定より二十分も遅れて、マイクロバスが現れた時、背後に百合川の声がして、彼女が走ってきた。
「どうした? 脱出してきたの?」
「うん、ごめんね。あたしちょっと、ああいう雰囲気ふなれで。妹さんたちが気をつかってくれていることはわかるんだけど……」
百合川の笑顔はちょっとひき攣っているみたいだった。
妹たちの好奇心を押し隠した目つきには、なんとなく底意が感じられて……僕のいない間に何が起こったのか、少し気になった。
「あ、ななこちゃんだ! ななこちゃん!」
マイクロバスを下りてきたななこが、躊躇わずに百合川にとびついた。
こんな仕種は、決してななこが普段見せないもので……不思議な結びつきが、百合川と五歳のななこの間に成立していることはたしかだった。
「家に戻る? それとも三人で少し散歩しようか?」
「さんぽ」
と、すかさずななこがいった。
こんなに反応が速いのも、いつものななこには決してないもので、驚きを誘われた。
「それじゃ、公園へいこうか……」
そこまでいって、僕ははっと気づいた。
やっぱりだ! ななこのいう通りになった!
百合川は、ななこに逢いにきたんだ。
僕に逢いにきたのではなかった。
その発見はずしっときたが、僕は黙っていた。
だれに逢いにきたのでもいい、百合川はともかく、今ここにいる。
その事実だけが大切であり、そのほかのことは些事でしかなかった……とにかく無理やりにでも、僕はそう思った。
「ねえ、円くん。妹さんたちにあなたからもお詫びをいっといてね。とても好意的に、親切にしてくださったんだけど、あたしはちょっと、改まったのが苦手で……それにななこちゃんにも早く逢いたかったし」
あの百合川が、そんなこまごまとした気遣いを見せるのがいたいたしい気がした。
自由奔放にふるまって生きていた、野生の王者が、捕らわれの身になっているのを見るようでもあり……百合川自身が、礼儀ただしさというマナーにおいて払っている努力は、全部この僕が強いたものだという自責に似た気持ちに襲われていたんだ。
しゃがみこんで、ななこと耳うちしあっている百合川が、うずくまったまま、振り返って僕にいった。
「おにいちゃんが落ち込んでるって、ななこちゃんが……円くん、それほんとう?」
「仲間はずれにされたからね……」
「いやね。ななこちゃん、おにいちゃんがジェラシーしてる。わかる? ジェラシーって……」
「つまり、百合川をななこにとられて、ヤキモチを焼いてるってこと」
僕はわざと拗ねたようにそっぽを向いたままいった。
「うそ! 今、それと逆のことをいおうとしてたのに。あたしがななこちゃんを、円くんからとりあげたって……」
「さっきトレードの話、したじゃないか。百合川にはなんでもあげるよ。でも、やっぱり不足かもしれないけど……」
「そんなこというと、本気でななこ、貰っちゃうぞ!」
百合川がわらった。いつ聞いても、彼女のわらいは好ましかった。
そう、好ましすぎて胸の芯がぎゅっと痛くなり……溜め息が出るほどだったんだ。
「いいよ。そうすれば、百合川にいつでも逢う口実ができるから……」
「そう……」
そのいいかたが気にかかった。
冗談を受けて返すのでもなく、含羞を見せるのでもなく、ふっと暗く沈んだからだ。
「とにかく同級生になったんだから。この次は明日で五回目、次の日は六回目だもんな。死ぬまでに何回百合川と逢えるか、パソコンの余命ソフトで計算してみようかな」
「でも、人生ってわからないよね」
百合川はいった。暗さはまだ残像のように残っていた。
「こんなことになるなんて、思わなかったもの。人生って、少しずつ変化するんじゃなくて、いきなりガタッて変わるんだね。坂道を登るんじゃなくて、階段を登るみたいに急激に、あっという間に変わってしまう。先が見えない……未来に何が起きるのか、少しでもいいから見えたらなって思う」
「未来は自分で選ぶ、そうじゃない? 未来はいいことづくめじゃない、けど、悪いことばかりでもない。自分で選択する機会があるんだから。百合川と出逢って、僕の人生は急激に新しい展開を迎えた、そう思ってる」
「そう……そういうふうに自分で信じられたら、いいね」
「とりあえず、明日、学校で百合川と逢えるよ。そうだろ?」
「うん……円くんに迷惑かけなければいいんだけど」
わかれるまで、百合川の裡に生じた一抹の暗さはとどまりつづけた。
僕はその暗さを、言葉で吹き飛ばそうと無理強いする愚かさを避けた。
それはいかなる慰めでも届かない、百合川の内部の深みにあると直感していたからなんだ。
僕たちは、両側からななこの手を結んで、公園を歩き回った。若い両親が、幼児を真ん中にはさんでやるようにだ。
こんなことは一度も経験したことがなく……新鮮な興奮を僕の心にかきたてた。
奇妙なことに、僕たち三人でいることで、ひとつのユニットとして纏まった、そんな気がしたのだ。
若い男女が結ばれて、子供をつくり、ひとつのユニットをつくりだす。
それは新しい強固なユニットであり……全てが新しく生まれ、新しい世界が展開することになるんだ。
しかし、それは単なる錯覚でしかなく、すぐに崩れさってしまうほどのもので。
結局、百合川は、僕の新しいマンションの住まいには戻らず、ななこと僕にわかれを告げて帰っていった。
いつまでも小さい手を振り続ける、妹ななこに応えて、面倒くさがりもせず、振り返っては手を振り返す、百合川の思いやりが心に残った。
後で、僕が百合川にもっとも親しく接近できたのは、その日の公園の散歩の時間だったことをさとった。
さまざまな意味で、僕と百合川の間は深淵で隔てられていた。それを渡るのは、僕たちだけの意志では不可能だったんだ……
ウィング・シティには、“ボヘミアンガラス・ストリート”、とネーミングされた地下街(モール)がある。
それは華やかで幻想的なガラス工芸品、東欧生まれのボヘミアンガラスをモチーフにしたお洒落な遊歩道なのだそうで……
僕のような芸術家気質と無縁な人間には何もいえないけれど、すばるにずばっと指摘されると、いささかまいった。
「ボヘミアンガラスの良さなんて、お兄ちゃんにはわかんないわよね。だって、お兄ちゃんは全然、芸術家気質なんかないんだもの」
「そうそう、お兄ちゃんは常日頃、ボヘーとしてるボヘミアンだけど」
くるすまでが、いっぱしの口をきいてくれるんだ。
「ボヘミアンって何だ、そう尋かないの?」
と、すばるがいった。そこまでつっこまれると、兄貴の権威はかたなしだ。どうせ向こうは、パンフレットの説明を読みかじって、受け売りをしようという気であり。そんな安っぽさで差をつけようという安易な根性が許せないわけで。
「へえへえ。どうせ、私は病弱で、スポーツ万能じゃないし、詩集の一冊も持ってないし、絵も描かないし、小説もだめだし、音楽的才能はからきしないし、まるっきりのダメ兄貴ですよ」
「何も、そこまで自己卑下することも……」
「だって真実じゃない。なにかもうひとつ、しゃきっとしたことができないの、お兄ちゃん?! スポーツ万能じゃなくても、何かひとつぐらい、切れ味するどいことがあってもいいと思うよ!」
こんな時、すごいほどの美少女ほくとは徹底的に追及してくれる、手ごわい妹だ。さんざん踏みにじって、最後にがしがしと靴の踵でしあげをする、こわいタイプだ。
「でも、お兄ちゃんはスケコマシの才能があるかも」
くるすがいった。底意があるのが見え見えの顔つきなんだ。
「だって、引っ越し初日で、さっそく百合川さんを落としたもんね」
「あんなすごい美人を、この情けないお兄ちゃんがね……」
ほくとが溜め息をついた。
「まさかと思ったけど、百合川さんもお兄ちゃんにまんざらじゃないみたい……」
「ほんとか、それ?!」
僕は思わずいずまいをただして、座り直すほどで。
「あれほどの有名人を、うちのお兄ちゃんが、あっさりコマすなんてね」
うーむ、と僕は思わず腕組みをしてしまった。
少なくとも妹たちの目にはそう見えたんだ。
ということは、百合川も僕に対して、客観的に見てもかなりの思い入れを持っているということであり。
すぐに頭(ず)のぼせて妄想に耽る癖が僕にないわけではないとしても、はたの目からしても、百合川が僕に惚れているという可能性はかなりあるわけで……
「お兄ちゃん、声に出していってるよ!」
「そんなわけないだろっ、この誇大妄想!」
「百合川さんは、病弱のお兄ちゃんに憐憫の情を抱いているだけなの」
「頭(ず)のぼせるんじゃないっ、このセンズリ少年があっ!」
「な、なんてことをいうんだ、おまえらはっ」
「この果報者っ、確かに百合川さんはお兄ちゃんに気があるよっ」
くるすが力をこめて、僕の背中をたたく。僕は肺中の空気を絞り出され、咳きこむ羽目になって。
「ほんとか、冗談でなくて……?」
「でも、やっぱり同情かなあ? 百合川さんって自分が腕が立つから、弱者には寛大なのよね。お兄ちゃんの不甲斐なさを見るに見かねて、同情と憐憫が愛に変わってってこともありうるよね」
「ないない、そんなこと! お兄ちゃんはただななこの“力”を借りて、百合川さんをコマそうとしてるだけ!」
16歳の三人の妹の議論が、僕をそっちのけで白熱化した。
どんなに話が展開しても、妹たちの贔屓はすべて百合川螢に集まり……兄である僕にはおこぼれほども集まらない。
「お、おまえたちは実の妹のくせに、身贔屓とか内輪褒めとか、麗しい風習をひとかけらも持ってないのかっ」
「実の妹かどうか、お兄ちゃんにわかるわけないじゃない?」
ほくとが冷やかにきめつけた。
「そうよ、いくら一卵性じゃない三つ子だといったって、三人とも全然似たとこないもんね。顔も姿かたちも性格も、知的なとこも頭のよさも……」
「嘘をつけ! 兄貴を侮る非情な妹という点では瓜ふたつ……いや瓜みっつだ!」
「とにかく、ボヘミアンガラスというのは繊細で優雅なガラスなの、若者の繊細さと優雅さと華やかさを意味してるんだけど、どれも芸術家気質とほどとおいお兄ちゃんには、徹底的に関係ないわよね」
最後にくるすがぐさぐさと情け容赦なくとどめを刺した。
ぐうの音も出ないのがくやしい。
くやしいが、あまりそっちのほうではとりえのない僕としては、抗弁のしようがないんだ。
「でも、ボヘミアンという言葉には、放浪者という意味があるのよ。ジプシーのことをいうんだけれど、芸術家のこともボヘミアンというわ。放縦ででたらめで無責任な、という意味、こっちだったら、芸術家じゃないけど、お兄ちゃんにぴったしじゃない?」
「うーん、あちこち時間と空間をまたにかける、大上ファミリーとしては、ボヘミアンという言葉はけっこうしっくりくるわね」
妹どもに議論をさせておいたら、かならず話が化ける。
それもとんでもない化けかたをすることになるのであって。
それでも、ボヘミアンという言葉は気に入った。
“ボヘミアンガラス・ストリート”という地下遊歩道も僕のお気に入りになった。
憂愁を帯びた放浪のボヘミアン一家というのも、またファンタスちックで、しかもロマンちックではないだろうか。
そんなことで、僕は頻繁に“ボヘミアンガラス・ストリート”にでかけていった。
本当は百合川螢を誘いたかったのだけれど、彼女とは、あれ以来、逢う機会がないままになっており。
転校二日目……百合川の姿は2Eの教室になかった。
そのまま一日中、最後まで姿を見せず。
三日目も彼女の欠席は続き。そして四日目も。
「百合川、どうしたんだろう。病気してるのかなあ?」
気安くなった安田と田子に尋いたが、まるで相手にされなかった。
「生理じゃねえか」
「サボリだよ、サボリ。百合川みたいなやつを気にしないほうがいいぜ。最初にそういったろ?」
「電話とか住所とか、わかるやついない?」
「いないいない。そんなやつ、学校中探したってひとりもいない。いいか、百合川は超不良なんだぞ。子分ならともかく、友達なんかこの学校にひとりもいるわけない。悪いこといわないから、百合川のことは忘れろ。この裏本、明日まで貸してやるから、百合川をオカズにマスかくのだけはやめなよ、円ちゃん。健康に有害だよ彼女」
裏本を借りれば、どうせ妹たちに見つかって大騒ぎになるので思いとどまった。
百合川が、田子たちのいうような超不良とも健康に有害とも思わなかったけれど、百合川の住所電話番号を探すてだてを、今度は探さなければならなかった。
“ボヘミアンガラス・ストリート”へ百合川を誘って、ステディな仲を固めるつもりだったのに、実際に僕を待っていた運命は、皮肉な逆転劇そのものであって……
妹くるすの書架からぬきとった立原道造の詩集を持って、僕は“ボヘミアンガラス・ストリート”へでかけた。
あまり人出の多くないウィークデーの午後は、けっこうすいていて、詩集など持ちこむ気分に浸れるんだ。
もちろん、詩集はすばらしいにちがいないけれども、ベンチに座りこんだまま、ぼんやりと妄想に耽るほうがおおく……僕は情けない話だが、目がよすぎるためもあって、細かい活字で埋められた文庫本は苦手だ。
数頁ほどページをめくるうちに、目の奥にきんきんする痛みが生じる。
やっぱり読書は、近視の人間向きだと思う。
引っ越し直後は、知りあいもいないので、こんな時間の費やしかたもできる。
長期間暮らして、街にすっかり馴染んでしまえば、たちまち友達の、烏ほどにも鋭い目に発見されてしまうわけで。
「見つけたっ」
女の子のきんきんした声が耳にとどき、ぎくっとして立ち上がると、記憶に新しい女の子がこっちへすっとんでくるのが目に映じた。
それも物騒な相手で……男の子みたいな断髪で、顔はめっぽうかわいいが、やることは男の子以上に荒っぽい。
「にーちゃん! 今日は逃がさないからな! ライター返して貰うぜっ」
それはあの、白山小雪、と百合川から教えられた腕っぷしの強い女の子で、回し蹴りなんかさせるとけっこうあぶないのだ。
前回はグッドタイミングの神様がついており、避けるのは簡単だったが、今日もそうだとは思えない。
彼女はぴったり太腿に密着したスパッツ姿で、足元はブーツ、お洒落だけれど、てごわい感じだった。男の子みたいに活発で、スリムで動きがいい。
その彼女が脇目もふらずにやってくるんだ。
こっちは逃げ場を探そうときょろきょろするだけで、やりあおうなんて気はまったくなかった。
こんなお洒落な場所で、かわいい女の子と殴る蹴るの喧嘩沙汰なんかできるわけもないのであって。
「待ったあ!」
僕は手にしていた立原道造の詩集を、相手の胸元にさしつけて、牽制しようとした。
「ライターは返す! やりあう気はない!」
「冗談ですよ、ほんの冗談」
女の子は足をとめていった。
僕は油断しなかった。いくらかわいい声をだしても、次の瞬間に必殺技がとびだすかもしれなかったから。
「螢さんに、あなたのこと聞きました……この間は、本当に失礼しました。あやまろうと思って、あなたを探していたんです。大上さんですよね? 大上円さん……?」
いかにもその通りである、と僕は答えた。
どういうわけか、相手は前回と異なり少しも暴力的でなく、全面的に友好的な波動を放っていた。
「本当にごめんなさい。大上さんが、螢さんのすごく信頼しているかただとは思わなかったんです。あたし、全面的に誤解しちゃって……まさか、螢さんが、あなたに命をたすけられたなんて、あなたが螢さんの命の恩人なんで、ゾクのやつらにつけ狙われているなんて、全然知らなかったんですよ」
少女が熱をこめて語りかけているのに、こちらははたにいる人々の耳を気にして、ろくに聞いていなかった。
「ちょっと待って! 命の恩人?!」
「はい。螢さん、はっきりそういっていましたよ。だから、あたしすっごく後悔しちゃって、どうしても大上さんにあやまりたいと思っていたんです。ゆるしてくださいね?」
「それは、も、もちろん……でも、今はライター持ってなくて、この次にかならず返すから……」
「えっ、ライターですか? ライターなんかもう要りませんよ。だって、もうたばこやめましたから」
相手がびっくりするほどかわいい顔で笑うのを、僕は唖然として見ていた。
「やめた? たばこを?」
「はい! だって大上さんにたばこをやめろときつくいわれて、あたし反省したんです。確かに大上さんのいう通りだって思いました。若い女の子が、灰皿の強烈な臭いをぷんぷんさせていたら、色気も何もありませんよね! ああ、やっぱり本当のことをはっきりいってくれる人って、絶対に必要だな、そう思いました。禁煙できたの、大上さんのおかげです。大上さんはあたしにとっても恩人です。だって、螢さんの命の恩人だし、それにあたしの目をさまさせてくれて、禁煙させてくれた恩人なんですから」
うーむ、と僕は腹の中で唸った。
これはちょっと意外な展開であって。
破天荒な急展開が、今まさに僕の前で生じている。
とにかく、物騒な武闘派の可愛い女暴走族に、命をつけ狙われる危機だけは、運よく脱することができたわけだ。
「それで、お礼といってはなんですけど、喫茶店に御一緒して戴けないでしょうか? 大上さんとお逢いするの、とっても楽しみにしてきたんですよ」
少女はすごい啖呵を切った本人と同一人物とも思えず、ごく自然に小首を傾げて、にこっとわらった。
SEEK7
「いや、本当に二重人格が沢山集まったなあ、と思って……」
喫茶店でだいぶ話しこんだ後で、僕は苦笑しながらいった。
「百合川にいわれたんだ。円くんは、二重人格だって……最初に逢った時と二度目に逢った時、三度目にあった時と、それぞれ全然別人みたいだって。でも、それは百合川本人にもいえるわけで……僕は思いっきり殴られたのと、優しく介抱してくれたのと、同じ百合川だとは思えないもの」
「そうですかぁ。そんなことがあったんですかぁ。螢さん、そこまで詳しく話してくれなかったんです。でも、螢さんはそこが魅力なんですよ。敵にはものすごく強烈無比だけど、仲間には本当の親兄弟よりも優しいんですから」
「似たもの同士っていうのかな? 小雪ちゃんも、そんなとこ百合川にそっくりだし。小雪ちゃんに、二度目に学校の正門の前で出会った時は怖かったよ。どうやって逃げようかとそればっかり考えてた」
「あっ、それはもういわないでください! あの時は頭に血がのぼって……血迷っていたんです! 百合川さんの敵だとばっかり思っていたもんですから」
それは嘘だとわかっていたが、僕は黙っていた。白山小雪は、百合川が気にしている相手、すなわち僕のことを試してみる気だったんだ。
つまり、僕がどれほどの男か、中身を知りたかった……小雪が本当に中身を知ったかどうかはさだかでなく。
「でもよかったよ。ちゃんと話し合う機会があって。二重人格者が三人集まって、トリオができたしね」
「あのぅ、二重人格者ってあたしもですかぁ?」
「今逢ってる小雪ちゃんは、すごくソフトで甘いほうの小雪ちゃんだ。やっぱりライター、返さないことにするよ。ころりと人格が別のほうへひっくり返った時に、火炎放射器に使われないためにね」
「いやです、そんないいかた、意地悪ですよぉ! こうやって大上さんとお近づきになれたんですから、あたしがそんな乱暴なこと、するわけないでしょお……」
率直にいって、白山小雪という女の子は魅惑的だった。
スリムで緊まったからだつきは、少年みたいで、成熟した女性のまるみには欠ける。
だけど、そこが彼女の魅力の源泉だった。妖精そっくりの少女に、僕は強く惹きつけられた。
『不潔な二股膏薬のスケコマシ』
たちまち、僕の厳格な良心が、呵責という破邪の剣を振るいはじめた。
『二股がけの不徳義漢! 図々しい女たらし!』
「あのぅ、大上さん……どうかなさったんですかぁ?」
白山小雪が、不思議そうに瞳をみはって、僕をまじまじと至近距離から見ていた。
小さなカードテーブルみたいな、喫茶店のテーブル越しだと、どうしても顔が極端なほど接近してしまうので。
「いや、あの……ちょっと良心が、きびしい叱責をね」
「ど、どうしてですかぁ? 大上さん、何か悪いことでもなさったんですか?」
「いや、未来において悪いことをしないように、と厳しく、その……」
「ふうん。大上さんの良心って、すごく厳格なんですねぇ。未来のことまで、今から厳しくお説教するんですね。つまり、大上さんってそれだけ良心的なかただっていうわけですよね?」
「いやあ、どうも……とにかく、最初にあの石段のところで、小雪ちゃんに出逢った時ね、きっとこの女の子なら、相性がいいだろうなあ、そう思ったんだ。顔とか声とかはもちろんだけど、全体的にふわっとくる感じで、それがまっさきにわかっちゃうんだ。ファースト・インプレッションって大事だね……」
「うわーっ、感激ですっ」
小雪はほとんど、華奢なテーブルをひっくり返して立ち上がるところだった。
「大感激ですっ。実はあたしも、同じ印象を受けてたんですよおっ。彼ならしっくりくるだろうなって。相性のことは考えなかったけど、それで、思わず最後まで残って、大上さんに声をかけてしまったんです! 絶対にまた逢いたい、逢うんだ、そう決心したんですよ!」
うーん、と僕はまた腕組みをしたくなった。
ここまでかわいい女の子に率直な告白を受けたのは初めてだ。
けれども、彼女が、田子たちのいう超不良、百合川螢の舎弟筆頭であることは間違いなく……ゾクとの暴力的な抗争はまだつづいており、この先大波瀾を覚悟すべきだということもわかっていたからなんだ。
「大上さん、あたし本当に大感激してるんですよ! 螢さんのことを、大上さんが本当に好いてくださっていることも、よっくわかったし! あたしたち、仲よしになってもいいですよね! 毎日逢ってお喋りするような大親友になってもいいですよね、ねっ、大上さんっ」
こんないいかたを、とびきりの美少女からされて、退ける勇気のある男の子はひとりもいないはずだ。
しかし、白山小雪と仲よしになったとして、それを百合川はどう思うか、もうひとつはっきりしないものがあったのもたしかなのであり。
(ああ、俺は、百合川螢に本気で惚れている! それなのに、この白山小雪にも惚れてしまいそうだ! 俺は本当にきたないやつだ! 良心のやつのいう通りだ! 二股かけているといわれても仕方がない!)
「どうかなさったんですかぁ?」
至近距離から、白山小雪ちゃんのかがやくつぶらな黒い瞳が、まじまじと僕の目の中を覗きこんでいた。
今の内心の叫びを聞かれてしまったのではないか、と僕はぎょっと体を竦めた。
妹たちにはよくそれを指摘されるんだ。
お兄ちゃんはチョロイ、と彼女たちはいう。
その通りだと我ながら思うわけで。
「いや、なんでもない! 僕、今何かいった?」
「いいえ、何も……それでお願いがあるんですけど、いいですか?」
「お願いって何です?」
「いやだ、そんなに固くならないでくださいよ。あの、大上さんのことを、ウルフ、とお呼びしても構いませんか? 呼び捨てじゃおいやだったら、ウルフさん、いえ、ウルフさまと呼ばせて戴きます」
うーむ、とまたしても唸りたくなる展開だ。
ウルフ、と過去に呼ばれたことはあるが、長続きしないニックネームで……いみじくも百合川が指摘するとおり、僕は狼のイメージよりも、柔弱派の鹿とか羚羊(レイヨウ)のタイプであって。
「まあ、別にかまわないと思うけど……」
僕はしぶしぶ呟いた。
「やった! うれしい! それじゃウルフさまとお呼びしますっ。わたしのウルフさまって! 人生最高の感激ですっ」
白山小雪はとうとう本格的に、ちっぽけなテーブルをひっくり返してしまい、その破壊音と叫び声に、喫茶店中の客と従業員がとびあがった。
僕は親しくなった白山小雪から、ぬけめなく電話番号と住所を教えて貰った。
かわりに自分も教えざるをえなかった。
しかし、おっかない女暴走族の彼女ならともかく、今はすっかりシフトを変えて、しおらしくかわいくなった小雪ちゃんなら、教えてもさしつかえないと思ったんだ。
実のところ、百合川たちはレディースなどと誇大呼称する女暴走族とはちがって、バイクの走り屋であり、それでゾクとの間に悶着が生じたのだとわかった。
革ツナギのライダー・ファッションは、ゾクのものではなく。
ゾクはやはりフリークスなので、正常世界のファッションに反発するんだ。
百合川たちがゾクの仲間で、殺伐な抗争に明け暮れているのではないとわかって、一応安心はしたものの、ゾクの連中が百合川たちに含むものがあり、常にちょっかいをかけてくる危惧まで解消したわけではなかった。
「螢さんも、今のところはトラブルを避けたほうがいいという判断なんです。本当に血を見るようなことが起こってるし、この先もエスカレートするにきまっていますから。警察もうるさくなってきてるし、無理を重ねることもないだろうって……螢さんが走り屋をリタイアするなら、あたしもそうするつもりです。もうこの先は命をやりとりするか、警察の厄介になるか、どっちかですもん。でも、螢さんが完全にリタイアできるかどうか、あたし心配してるんですよ。だって、螢さんは侠気のあるひとだし、昔の仲間が危ない目に遭ったりしたら、損は承知で体を張って助けにいくようなひとだから……」
「百合川は、本当はすごく優しいんだよな」
僕はぼんやりと呟いた。
百合川は損な性分をしている。
自分の損になるとわかっていても、人のために体を張る。
侠気なんてものを、男がだれも持たなくなった時代に、百合川のような女の子が自分を傷つけてでも、誠実さをつらぬこうとする。
本末転倒だ。
しかし、だから小雪のような激しい性格の女の子が、百合川を女神さまのように崇めて、どこまでもつき従おうとするのだろう。
義理とか人情とか、たぶん時代錯誤なんだろうけど、百合川にとっては護りぬかねばならない、至上のものなのであって。
そして僕はそんな百合川に惚れてしまったんだ。
「でも、すごく辛いだろうな……小雪ちゃん、僕にいったよな? 人間はすぐに裏切る……自分の都合が悪くなると恩や義理なんかけろっと忘れて、平気で裏切るやつらばっかりだって……」
「それは本当なんです。螢さんは何もいわないですけど、おなかの中は焼けただれるような辛い気持ちだろうと思って……でも、みんな裏切っても、あたしは絶対に螢さんを裏切りません。死んでもいいから、螢さんについていくつもりです」
「裏切るやつのほうが、本当は苦しいのかもしれないよ。小雪ちゃん、僕なんかきっと簡単に裏切ってしまうと思う。悪いなあと思いながら……でも、家族もいるしなあって。一生の間、思いだすと夜中でもわーっと叫びだすような、痛い苦しい、恥ずかしい、情けない、そんな気持ちを味わうだろうな……だけど、百合川はそんなことないよな」
「ウルフさまはそんなことしないと思いますよ。だって、螢さんから聞きましたもん。物凄く熱があって、ほとんど歩けないような状態で、ふらふらしながら、ゾクの連中にとりかこまれている螢さんを、たすけてくれようとしたって。そんな奇特なひとって、絶対にほかにいませんよ。螢さんは、だからウルフさまを信頼してるんです」
「小雪ちゃんもそうするだろうな……」
「ええ、たぶんやると思います。でも、絶対の自信はないんです。恥ずかしいですけど……螢さんならかならずそうするとわかってるんですけど」
「小雪ちゃん、きみは素敵だよ。だから、百合川は、これ以上、小雪ちゃんを危険に曝したくないと思っているんだ」
僕は、不思議な気分になった。
今まで遊ばしてきた、自分の異常能力を極限まで、百合川のために使ってもいい……そんな高揚した気分にとらわれたんだ。
僕の異常能力を使いすぎるとたちまち恐ろしい報いがある、と僕の厳格な良心から常に牽制され、威嚇と脅迫で封じられている“力”……良心がなんといおうとも、いざとなれば、僕は百合川のために全力を発揮するだろう。
それを考えると身震いがでた。
古風な表現で、武者震いとでもいうんだろうか……
僕は、卑劣なやりかたで、小雪ちゃんから百合川の電話番号と住所を尋きだし、それを、一瞬の間も躊躇しなかった。
こんな時だけ、峻厳な良心が一言もいわないのはなぜだ、と僕は気づいた。
僕の恐ろしい良心も、けっこういい加減なところがあるんじゃないだろうか。
自分の(良心自身の)好きな時だけ、乗りだしてきて、僕を責め苛み、拷問にかけるのだ。
なぜ卑劣か、といえば、僕ははっきりと企みをもって小雪ちゃんを利用したからであって。
小雪ちゃんは、すごく都合のいい情報源で、小雪ちゃんと親しくなれば、百合川の情報はいくらでも集められる……
小雪ちゃんが、僕に対して強い好意を寄せてくれることを、僕はちゃっかりと利用して、恥じることもなく。
きさまは非情で破廉恥な人間の屑だ、と僕の良心が徹底的に弾劾したって当然のことをやってのけたのであり。
きさまは今に小雪と間違いを犯すぞ……この少女の好意につけこんで、不潔な情欲を満たすんだ。
なぜなら、きさまはこの少女の妖精じみた細身の体に淫猥な好奇心を燃やしている。
浅黒いすべすべした太腿の肌が目に焼きついていて、欲望が突き上げてくると、彼女をオカズにするじゃないか……
あれ、と僕は戸惑った。
今は自分自身で、いかにも良心が弾劾しそうなことを考えていたからだ。
こいつはあぶない。
良心のやつはシフトを変えて、僕自身の思念のふりをしているのかもしれない。
実際、どっちがどうなのか、僕にはまったく判断がつかなかった。
ごめん、小雪ちゃん。
だけど、僕は百合川の情報が必要なんだ。
百合川が何かまずいことに嵌まりこんでいるなら、なんとかしてたすけてやりたい。
そのために小雪ちゃんを利用することになっても、ゆるしてくれ……
この口実は、どうにも理屈に合わないところがあった。
率直にわけを話して、小雪ちゃんに協力を求めれば、彼女はよろこんで要請に応えてくれたはずだからだ。
つまり、僕が目的を隠して、百合川の情報を彼女からとろうとしたのは、僕自身が後ろめたさを十分感じているからであって……
小雪ちゃんの気を悪くさせまいとして、というのは、ちょっと都合がよすぎる。
やはり、小雪、百合川ともにいい顔をしたいという、利己的なさもしい動機に基づく、八方美人だからであって……ああっ、やっぱり、これは良心のやつが、シフトを変えてるんだ!
「どうなさったんですかぁ、ウルフさま? 頭を振ったりして、頭痛でもなさるんですかぁ?」
ふっと気がつくと、小雪が心配そうな瞳で、僕の顔を覗きこんでいた。
「いや、その、ちょっとガスが溜まって……」
「不思議ですね。ウルフさまは頭にガスが溜まるんですか? 普通はおなかに溜まりますよね、ガスって」
「僕の場合は、ちょっと例外で……頭の中にガスが溜まるらしい」
「へええ……ウルフさまってほんっとうにユニークなんですねえっ!」
妙なもので、最初は抵抗があった「ウルフさま」も聞き慣れるうちに、気にならなくなった。
小雪ちゃんの甘い抑揚でいわれる「ウルフさま」は、リフレインの蓄積効果のためか、今度は妙に魅力的になってきた。
「うちのウルフ」呼ばわりされても、小雪ちゃんなら苦にならないかもしれない。
「螢さんは、だいたい一人ぐらししてるんですよ……」
と、小雪ちゃんがいった。
「ウルフさまだからお話しちゃいますけど、螢さんには複雑な家庭の事情というのがあるんです……お姉さんと住んでいたんですけど、そのかたは実のお姉さんじゃなくて、べつの家に住んでいらっしゃる両親のうちの、お父さまの娘さんなんです……」
「ちょっと待って、小雪ちゃん。複雑すぎて頭がついていけないよ。するとお姉さんというのは義理の姉で、百合川とは血が繋がっていないとすると、お父さまというひとは、百合川にとっては義理の父親、つまり、両親のどちらかが死別するか離婚してて、たぶん再婚した母親の配偶者、再婚相手というわけなの?」
「うわーっ、ウルフさまって物凄く頭がいいんですねえっ。あたしも、最初に螢さんからお聞きした時には、頭がこんがらがってわけがわかりませんでしたのに……」
小雪が感動して、僕の腕を鷲掴みにしてぶるんぶるんと振り回した。
はたの目が気になって、僕はせっかく築き上げた百合川の家庭の構図がふっとんでしまった。
「そ、それほどでも……」
「でも、残念ながら、ちょっとだけちがうんです。つまり、百合川さんの実のご両親のうち、お父さまがまず最初に亡くなって……」
「うん、それで実のお母さんが、再婚した。それで、再婚相手の義理の父親の娘が、百合川と同居していたお姉さん、つまり何の血のつながりもない、義理の姉っていうことになる……」
「ブーッ、はずれです。途中まではあっているんですけどね。まず最初に起きたことは、ご両親の離婚です……」
「離婚……」
重いものが全身に覆いかぶさってきたような気分になった。
「そうです、離婚です。螢さんにはたいへんなショックだったみたいです……」
小雪ちゃんの口調もにわかに重くなった。
「いろいろあって、螢さんはけっきょくお父さまについていったんです。そのこと、螢さんは今でも悔やんでいるみたいです……そのお父さまが突然亡くなられて、その直後、お母さまが再婚した、運命かもしれないけど、ずいぶんですよね、神様のやりかたって。それで、螢さんはけっきょく、お母さまのところにもどることになってしまって。お母さまとの間には、螢さんずいぶん感情的ないきちがいがあったみたいです……ところが、まだ亡くなったお父さまの四十九日も終わらないうちに、まるで後を追うみたいに、そのお母さまも亡くなっちゃったんです! とっても変! たがいに憎しみあって離婚したっていうのに……で、その後、お母様の再婚相手だった義理の父親が再婚した……それが、別居しているご両親というわけなんです」
聞いている僕の頭は、当然のことながら収拾つかないほど大混乱に陥った。
「うわっ、待って待って! それじゃ、百合川のご両親って、最初に小雪ちゃんがいったのは、百合川にとっては全然血のつながりのない、他人同然の義理の両親ってことになる、そうじゃないの?!」
「そうなんです、実は。ですから、別居することになったんですけどね……ただ、義理のお父さまの再再婚のお相手の女性の連れ子の娘、つまり義理の(実は完全な他人)お姉さんとは、百合川さんも気があって、今でもゆききがあるんです……でも、“ご両親”とはほとんど切れている状態なんです」
「それじゃ、いってみれば、百合川は天涯孤独じゃないか。ほとんど孤児って状態だよな!」
「ほとんどじゃなくて、完全な孤児なんです。実のお父さまが資産家だったので、ますます遺産相続の問題がこじれてしまって……なまじ財産があると、いやなことが起こるものですよね。百合川さんも突然、沢山の親戚が現れて、大変だったみたいです……」
そう語る小雪ちゃんの表情は、いきなりおとなびていた。
小雪ちゃん自身にも何か似たようなことが起きたのかも、と僕は思った。
百合川が、小雪の境遇もお互いに似ている、と語ったことを思いだしたんだ。
「それは、百合川が孤児になると、どこからともなく親類縁者の連中がうようよと出現して、親族会議を開いて、百合川に残された両親の遺産を取り上げようと画策した、とか、義理の両親と遺産目当ての親族が抗争を演じたとか……お金持ちの間ではよくある話だと思うけど、百合川にとっては大変なことで……それはいつごろのことなの?」
「三年前です。再婚したお母さまが亡くなられたのは……それ以来、螢さんはだいたいずっと一人ぐらししてます」
「ものすごく大変だったと思うな……」
「はい。でも、螢さんは気丈ですから。螢さん、おとなばっかりの親族の人たち相手に啖呵を切って、それでようやく向こうも何もいってよこさなくなったんですよ。でも、まだトラブルはつづいてます。螢さんにとっては、義理のお姉さんだけが味方だったんですけど、そのお姉さんも結婚してしまって……螢さん、本当にひとりぼっちです」
「世の中には、信じられないくらい複雑な家庭の事情っていうのがあるんだね」
自分の家庭の事情は棚に上げて、僕は、頭の中身が、引きだしをひっくり返したみたいになった気分で呟いた。
「螢さんは、正義感が強すぎるんだと思います。だから、よけいに苦しむことになるんですよね。義理のご両親に対しても好意を持っていると思うんですけど、一度ギクシャクしてしまうと修復ができなくて……螢さんはみんなにこわがられてるみたい」
一途で思い詰めることが多くて、一度堰を切るととまらなくなり、いきつくところまでいく……そんな百合川の面影が心を占めて、僕は耐えがたい気分になった。
にわかに創造力が活性化を遂げて、青ざめた面持ちで正座した百合川が家宝の刀剣をぬいて、明かりで刃を眺めている、ざわざわと鳥肌の立つそんなつきつめた姿が脳裡に浮かんだりして。
百合川だったら、とんでもない暴発をやりかねない……
「螢さん、死ぬほうがよっぽどらくじゃないかって何度もいっていました。あたし必死にとめたんですけど、その時は本気だったみたいです。螢さんが死ぬんだったら、あたしもいっしょに死ぬといったら、やっと思いとどまってくれましたけど……」
「まだ、そんな調子で、つづいてるの?」
僕は息を呑む心地で尋ねた。
「また、緊張状態がぶり返したみたいです。やっぱり、信頼してた家族関係が崩壊したり、裏切りに遭ったりすると、人間不信っていうのか、もうどうなってもいい、そんな投げやりな、ニヒルな気持ちになりますもんね……自分ひとりが死ねばすむことだ、それが一番てっとり早い解決法だって。螢さんがそんな気分になってるのが、あたしは一番こわいんです。ねえ、ウルフさま、螢さんのことたすけてあげてください! ひどい高熱をだしている時に、死ぬ気で螢さんをたすけてくれたウルフさまでないと、だれも螢さんをたすけられないと思うんです!」
小雪ちゃんが力をこめて、僕の手を握りしめてきた。
そのやりかたには必死の思いがこめられていて、僕を動かさずにはおかなかった。もっとも、その時は僕のほうから積極的に、すでに動いてしまっていたのだけれど。
SEEK8
「ごいっしょに、螢さんの家を訪問してみませんか?」
それは白山小雪の提案で、僕の思惑とはくいちがったけれど、いまさらそれを退ける必然性が見つからなかった。
僕としては、自分ひとりで百合川の家を訪ねたかった。
これまでの小雪ちゃんの話ぶりからすると、彼女は相当なマイペースの女の子であって、百合川と僕の間に存在する緊張関係を、緩和するどころか、逆に増大する可能性が大きく。
小雪ちゃんはひとりで喋りまくり、ひたすら独演会を演じて、こちらが口をはさむ隙も与えられないで終わりそうで。
あの複雑な百合川の心情は、小雪ちゃんの機関銃みたいに賑やかなお喋りの前で、沈黙し、そしてバリヤーのうちに密閉されてしまうだろう。
僕には最初から、それがわかっていた。
「あたし、さっそく螢さんに電話してみますから……螢さんはいきなり人に訪ねてこられるのが大嫌いなんですよ。それで、螢さんの都合を聞いてみて、それからウルフさまにお報せしますから……それで、いいですね?」
牽制されているんだろうか、と僕のうちに、猜疑心がむらむらと湧いた。
小雪ちゃんが、百合川との間に入ると、常に彼女のマイペースで攪乱されることになるんじゃないか?
僕としては、小雪ちゃんに主導権を握られるのは困るのだ。
小雪ちゃんは好意でいっているのだろうけど、人の好意というのはたいていの場合、有難迷惑で終わりがちなものであって……
(俺はひとりで、百合川に逢いにいきたい。でないと、本当に大切な話は絶対にできないことがわかっているから……小雪ちゃんの考えを変える方法はないものか。彼女が身をひいてくれたら……そうだ、小雪ちゃんが同行できないようなことが起こればいいんだ! それが最良の解決法なんだ!)
僕は、いつの間にか、意識的に願望していた。
たぶん、僕の良心が沈黙をまもっているせいだ。
こんな時、かならずうるさい良心はしゃしゃりでてきて、僕の不当なやりかた、よこしまな願望を徹底非難してやまない。
なぜ、良心のやつは黙りこくっているんだ?
良心が沈黙してしまうと、調子が狂う。
おかげで、こっちはだんだん狡くなり、大胆不敵になってきそうな気がする。
最初はびくびくして小心だけれど、次第に慣れてくるにつれてつけあがり、ふてぶてしくなる。
もしかすると、僕はもう相当に図々しくなっているんじゃないだろうか?
いかにして小雪ちゃんをすっぽかし、百合川とふたりだけで逢おうかと算段している、この僕は、明らかに良心が糾弾しっぱなしの不徳義なワルそのものであって……
この頃までに、僕は自己嫌悪に陥り、自分がよごれた二股かけのスケコマシになりきっている自覚があった。
こんな僕の中身を知ったら、百合川も小雪ちゃんもぜったいに僕を許してくれないだろう……
それでも、僕はあくまでも厚かましく図々しく、小雪ちゃんに教えられた百合川の電話番号に電話をかけたのだ。
電話の呼び出し音は、いつまでも鳴りつづけた。
留守番電話もセットされていなかった。ただ虚ろなコール音が蓄積されていくと、僕は強迫観念でいたたまれぬ圧迫感に苦しめられはじめた。
もしかして、百合川の身に重大な異変が生じているのではないか?
そのために百合川は学校を欠席しているのであって、同居人がひとりもいない百合川が、生命の危険に曝されている可能性だって、十分にあるはずだ!
電話にもでられないほどの重病……いや、一人ぐらしの百合川が、対立抗争の相手であるゾクどもに襲われていることだってありうる!
何日も監禁されて、それで姿を見せなかったのかもしれないではないか!
その瞬間、イマジネーションが圧倒的な増殖を遂げた。百合川の身に降りかかっている恐ろしい災厄が、ビビッドな絵になって、眼前に展開された。
胸の中に鉄棒を刺しとおされたようになり、口中に毒薬みたいな苦さが溢れた。
強迫観念の恐ろしさは、想像でしかないものが、本人にとってはまぎれもない現実と化してしまうことなんだ!
だめだ、やめろ!
僕は自分自身に命じた。
僕の想像力は、普通の人々のとはちがうんだ。
ななこが自分の願望を現実化する力を秘めているように、僕もまた想像をこの世界に実現させる、特別の想像力の持ち主で……絶対にやってはならないのは、今僕が百合川の身に生じた災難を、イマジネーションで現実化させてしまうことだった!
僕は全身にべったり脂汗をかき、息を荒くした。
僕が視てしまったイマジネーションの絵は、この世でもっとも起きてほしくない絵で、いかなることをしても、抹殺しなければならない出来事だった。
僕は数人のゾクの連中に襲われ、監禁されて、忌まわしい性的な汚辱を強制されている百合川の絵をまざまざと視てしまった!
彼女の悲痛な叫び声が耳の奥に残った!
畜生、そんなことは絶対にさせない! きさまら、俺がひとりのこらずこの世から抹殺してやる! あとかたも残らずに消してやるぞ!
僕は自分の喉から、抑制のきかない怒号が迸ろうとするのを、両手でしっかりとおさえ、あげくのはてに拳を噛み締めて耐えなければならなかった……
うわっと叫んで飛び起きたのは真夜中で、妹たちが起きなかったのが奇蹟的だった。
僕は喘ぎながら、キッチンに冷水を飲みにいき、そんなことではまったく抑制できない自分をさとった。
僕の抑制は切れぎれにちぎれとんでしまっており、いきつくところまでいくまでは、歯どめがかからなくなっていたんだ。
僕は妹たちを起こさなかった。どうせたたき起こしたところで、各自すさまじい寝相で寝乱れている妹たちは寝ぼけており、僕の説明を理解しないだろうし、何の意味もない結果に終わるだろう。
僕は悪夢の中に幽閉されてしまっていた。
理屈ぬきで行動しようとしていた。自分の作り上げた想像によって駆りたてられて……僕は自分の異常能力を呪縛した全ての封印を破り去ることを決意していたんだ。
僕の頭は錯乱し、理性のかけらもみあたらなかった。
良心は、失神でもしたように一言も言葉を発さなかった。
夢の中で行動するように、僕は服を着替えた。
気配がして、振り向くと、妹のななこがパジャマ姿で立っていた。
ななこはめざといほうではないので、なぜこの時起きてきたのかわからない。
いったん眠りこめば、いつも朝まで一度も起きず、起こそうとしても絶対に起きたためしがないのは、他の妹たちと同じだからだ。
黙って佇むななこは、暗闇の中で微光を発しているように、はっきりと顔が見えた。
寝ぼけている曇った表情ではなく、静止した稲妻のように透き徹った知性の表情、何も彼も理解している表情だった。
「おにいちゃん、いくの?」
ななこが尋いた。それは確認の言葉であり、質問しているのではなかった。
どこへいくのかとも尋かなかったんだ。
「あ、ああ……」
「そうなの……でも、もうかえれないわよ」
「わかってる」
自分でも、何がわかっているのか理解しないままに、僕の口が動き、自動的に言葉を吐きだした。
「俺、いくよ。百合川を助けなきゃ……」
「おねえちゃんがまってる……おにいちゃんをいつもまってるのよ」
「わかってる……」
「じゃ、いって」
ななこは口を結んで、僕を見つめた。
その表情は五歳の妹のものではなくて……
どうやって、百合川の家を捜しあてたのか、後で考えても見当がつかない。
僕はまだウィング・シティの地理も知らず、土地勘も全くなかったし、意識がはっきりした時は、百合川の家の門前にいたので、妹ななこと暗い寝室で向かいあっていた以降の、その間の記憶がすっぽりと脱落していたんだ。
想像以上の大きな家で、僕は当惑しなければならなかったはずだ。
たぶん真夜中で、街灯が疎らに灯った住宅街は暗く寝静まっており……夢の中の光景そのものだった。
もし、僕の想像が正しければ、大きな青銅の門についたドアフォンの呼びだしボタンをおすなどできるわけもなく……だが、僕は自分が百合川の家の内部に入りこんでいる自分を意識化しても、なにひとつ疑わなかった。
僕にはそうしたことが可能であって、それは僕のそなえる異常能力の結果であり、さもなければ、僕たち大上ファミリーは、流浪のボヘミアン一家と化することもなかったということだ。
百合川の家は、不動産業者の誇大広告とは無関係に、豪邸と本格的に呼べるもので、一度や二度正式に招待されて入ったとしても、家の構造に通暁するなどありえないほど広くて……僕は迷って当然のはずであり。
「だれ?!」
百合川の声がどこかで聞こえた。
か細く、弱っていて、ふだんの百合川のみっちりと密度のあるなめらかな声音とは大違いだった。
「だれ? だれ?!」
百合川の声は、悪夢の中の子供のそれのように怯えていた。
僕はまっすぐ歩いていき、百合川を見つけた。
大きなベッドに横たわる百合川はむっと発熱の熱気を発散させており、その顔とシーツの間から出した手は汗に濡れそぼっていた。
「俺だ……」
「ああ、円くん? 円くんなのね……よかった」
百合川の声が安堵に揺れた。
僕は手を延ばして、百合川の濡れた手を握った。
百合川は高熱のため完全に弱々しくなってしまっており。僕にはその感じがよくわかっていた。
体が何百キロにも体重が増大したように、途方もなく重くなり、身動きすらとれなくなる。
もちろん歩くこともできない。
高熱が全身を煮えたたせ、意識も蒸気のように頼りなく揺らぎつづけている。
こんな状態にある時は、援軍がくるのを一日千秋の思いで待ちつづける。
だが、孤立無援の百合川にとっては、援軍は求めても得られないものであり、ただ熱に浮かされて悶えているしかなく。
「円くん、どうして……」
「騎兵隊が助けに駆けつけたんだ。もう大丈夫だよ、百合川」
「よかった……もう大丈夫なのね」
百合川の手が僕の手を握りしめた。
安心感でとろけそうな手だった。
「だれかがくるのを願ってた……くるはずないのに。でも、やっぱりきた。円くんがくるとわかってたのかも……」
「俺にまかしておけよ。一生、面倒を見てあげるよ……」
「ありがと……喉が乾いた……」
後はよくおぼえていない。
すべてが僕の幻想だったのではないか、と後で疑ったのはそのためで……百合川の汗で濡れたパジャマを着替えさせ、汗で汚れた体を濡れタオルで払拭し、シーツや枕を初め、寝具を全部とり替えた。
その肝心なことをおぼえていないのが、足踏みしたくなるほどもどかしくて。
要するに、僕が発熱時に、家族から受けている世話を、そっくりそのまま百合川に施したのであり。
何をどうするか、考えるまでもなく、体が自動的に動いて作業を進めるので、記憶に残らなかったということか。
僕は百合川の体にまとった衣服をすべて脱がせ、全裸の肌を見ているはずなのに、その記憶はまったく残存せず……朧気なイメージを自分で作るしかなくて。
ぐっしょり濡れたシーツを初め、身に纏ったものを残らず、洗濯機に投げ込み、自動的にクリーニングが終了するまでに、百合川のために食事を作り、流動食を彼女に食べさせた。
百合川はまったく動けない無力状態だったから、僕は彼女をトイレットに連れて行き、用足しをさせたかもしれず。
筋肉が弛緩して、便座にまっすぐ座っていられない百合川を、僕は支えてやり、そして……その記憶が全然ない!
第一、どうやって百合川にわかれを告げて、彼女の家を立ち去ったのか、それすらもおぼえていない。
すべて、体が自動的に動いてやってのけたのか……それとも、僕の意識が変換されて、べつの意識が呼び出され、その仕事を務めたのか。
だとすれば、これほど無念なことはない!
だれかが、ぼくの当然獲得すべき甘美な報酬を全部、横どりしてしまったことになるんだから!
すべては幻想だ、と妹たちなら笑い飛ばしたかも。
あまり百合川に執着しているので、あらぬ妄想のあげく、夢物語の世界に掴まってしまったんだ、と。
だから、僕は一言も彼女らにうちあけなかったが、ひとつだけ証拠が残っていた。
翌朝、ベッドの中に着の身着のままの自分を発見しただけじゃない。
僕のポケットの中には、ヘアピンが一本残っていた。
何の変哲もないヘアピンで、妹たちの使っているものと変わらないだろう。
それは、百合川の汗にまみれた顔や髪を清拭した時に、彼女の長い髪から外したものであって、それだけが、なぜか僕のポケットに入り込んで残った。
もちろん、意識的にスーベニールとして選んだのかもしれないけれど、なにひとつ記憶がはっきりしない今は、その時の僕の肉体を占拠していた、別の意識体の僕からの、ささやかな贈り物だった、と考えるしかなくて。
妹たちは、何も気づかなかったはずだけれど、僕の態度に不審を覚えたらしく、猜疑の視線をちらちらよこした。
何の確証もないとしても、僕の精神状態を知り尽くしている妹たちにとっては、ちょっとした異常を示すシグナルを僕が発していたんだろう。
「何よ、にやにやしちゃって……」
さっそくすばるが絡んできた。
この手のことは、このすばるという妹が鋭敏であって、遠感能力者(テレパシスト)と自称するだけはある。
もちろん、霊感と呼んだほうがてっとり早くて、妹たちはいずれもちょっとしたその手の異常能力の持ち主だ。
「あっ、怪しい! 怪しいっ!」
「さあ、手間かけさせずにげろしてしまいなっ」
妹たちが活気づくのを見ていてもしかたがないので、てっとり早くけりをつけた。
「実は……本日、白山小雪ちゃんという百合川の友達から……」
「あっ、不良だ、その子って」
「すっげー喧嘩が強いんだって、小雪って子……なんでその子が、お兄ちゃんの知りあいなの?」
「それはつまり、百合川の大親友だからであって……」
「そうか、いつの間にか、うちのお兄ちゃんも凄腕のスケコマシの道を突進してるっちゅうことか」
「あの頼りないお兄ちゃんがねえ……人間って変われば変わるもんね」
「気のせいか、お兄ちゃん、顔がきりっとひき締まってきたわよ。その割りに男前にならないけど」
好き勝手なことをわいわい妹たちがいっている最中、電話が鳴った。小雪ちゃんから援軍がやってきたんだ。
「噂をすれば影って……その影さんからよ」
「莫迦、わざわざ聞こえよがしに大声でいうんじゃない!」
「ウルフさまですかぁ……」
小雪ちゃんのその第一声で、聞き耳をたてていた妹たちは爆笑を絞め殺すために、床にぶっ倒れて転げ回った。
呼吸困難になり、ひくひくのたうちまわっている女どもを避けて、僕はコードレスホンの子機を掴んで、自分の部屋へたてこもった。
妹たちが立ち聞きしにきたとしても、電話の周辺で爆笑されるよりは、はるかにましだったから。
「螢さん、やっぱり病気で寝こんでました! すごく高い熱が出て何日も下がらなかったんですって……でも、今はもう平熱に下がって元気になったそうですよ」
白山小雪の声が弾んだ。
その声だけ聞いていれば、何の苦労も知らない、明朗な女の子だとだれでも思うにちがいなくて。
「ウルフさまぁ、いっしょにお見舞いにいきましょう! 善は急げで、今日、これからすぐ!」
「だって、小雪ちゃん、百合川は、昨日まで高熱だして何も食べずにへたばっていたんだろう? いきなり他人の僕までいっしょに見舞いにいったら、きっと迷惑するよ」
「あ、その点はご心配なく。もうすっかり元気だから、お見舞い大歓迎っていってました! ウルフさまといっしょでいいですかってお尋きしたら、しぶしぶ歓迎するってことでしたよ。そのかわり、サンジェルマンのフランスパンをお土産に持ってくることって、条件をつけてましたけど……」
ドアの外で、妹どもが転げ回っているのを意識しながら、そつなく受けこたえするのは、容易なことではなかった。
必死に堪える忍び笑いというのは、爆笑よりも始末に悪いものであって。
小雪ちゃんの話のおかしさに、つい、こっちにまで身をよじっている妹たちのヒステリックな忍び笑いが伝染してきたりするので。
「なぜ、しぶしぶかといえば、病みあがりのやつれた顔を、好きな男のひとに見せたくないからっていってました。ねっ、百合川さんってそんな冗談をいうんですよ! おもしろいでしょう?」
ぴたっと妹たちの忍び笑いがとまったが、もちろんそんなことは小雪ちゃんに関わりのないことであり……
「それじゃ、11時にサンジェルマンのお店でお待ちしてますぅ! 遅刻したらいやですよ! フラれたと思って悲しくなっちゃいますから……」
うーむ、と唸る癖が、いつしか僕にしみついてしまったようで。
鈍いというより無邪気な小雪ちゃんにはわからなくても、恐ろしく鋭い勘を持った妹たちにはお見通しということがあるんだ。
「お兄ちゃん、まるで、百合川さんが発熱して寝こんでたことを、最初から知ってたみたいじゃない?」
くるすが目をぎらつかせて、絡んできた。
この猛烈追及につきあっていれば、全部自白させられるまでに幾らも時間は要さないというほどで。
警視庁の女性捜査員など、この妹どもの適職ではないだろうか。
「勘だね、勘。忘れちゃいけない、僕だって異常能力で有名な大上ファミリーの一員なんだから。念のためにいっとくが、早めに出かけるのは、髪をカットするためだからね。べつに追及を誤魔化すわけではないので……」
いつもこんな調子で、するっと脱出成功、ならいいのだけど、妹たちが笑い疲れでげんなりしていなければ、最後までとっちめられることになっただろう。
家を出た後で気づき、あっと声がでた。
ヘアピンがデスクの上に残っていた。もちろん何の変哲もなく……妹たちのそれと見わけはつかないはずだが、彼女らの炯眼をまぬがれる自信はなかった。
一本のヘアピンで、兄貴の身に起こったことを残らず見ぬく。それがうちの妹たちの恐ろしいところなのであって。
しかし、なんだって、あいつら、この頼りない兄貴のことを、そこまで執拗に構わずにいられないのだろうか。
そんな暇があれば、ボーイフレンドのひとりでも作るのに時間を使えばいいと思うのだが、それともほかに理由でもあるのだろうか……
今日は休日で、ウィング・シティの繁華街は混みあっていた。
引っ越し直後の僕は、ロケーションのおぼえが悪く、迷ってしまいがちだ。
サンジェルマンで待ち合わせ、と白山小雪ちゃんは気軽にいったが、僕にとっては未知の世界を彷徨するようなもので。
なぜ“ボヘミアンガラス・ストリート”を待ち合わせの場所に選ばなかったのか、と後悔することになった。
ここからが、僕の悪いところであって。
サンジェルマンというパン屋さんの場所がわからず、小雪ちゃんに連絡が取れない、というそれだけの理由で、僕はサンジェルマンをパスして、直接百合川の家を訪ねてしまった。
百合川の家から、パン屋さんに電話して、小雪ちゃんに連絡を取ればいい、そんな安易な気分で。
兄貴のそんなとこが、最高に腹が立つ、と妹たちの悪評ランキング、トップをいくのが、こうした僕の安易なとこであり。
そんなの、電話の104に尋けばいいじゃない、と妹たちなら頭や顔に血管隆起のむかつきマークをいっぱい出して怒鳴るだろう。
ところが、そのやさしいことが、僕にはできない。
僕には、いろいろ短所はあるけれど、持って生まれた安易な根性が治らずに十七年たったんだ。
どうせなら、百合川のためにも、妹のななこを連れてくるんだったなあ、と思ったが、もう遅い。
小雪ちゃんが一枚噛んでいるんなら、ななこが加わっても悪くない。
どうせ、深刻な話、内輪に踏みこんだ話はできないのだし。
「あらっ、円くん、どうしたの?!」
百合川の顔を、青銅門の柵越しに見た瞬間、僕は忘れた。
小雪ちゃんとの待ち合わせのこと、遅刻しないでと釘をさされたことも含めて、すべて頭から蒸発してしまったんだ。
つくづく、僕はひどいやつだ。
だけど、百合川の顔を見た瞬間、化学変化が生じたんだ。
頭をがんと殴られたようなショックの弾みで、思い詰めていたことをけろっと忘れる。人間にはよくあることであって。
「うわーっ、元気だったんだね! ぜんぜん病みあがりとは見えないよ! 前に見た時よりも、もっと元気いっぱいという感じで……」
僕の口をついてでたのは、そんなアホなせりふであって。
「早く入って! でも、本当にお見舞いにきてくれたのね、期待してなかったけど」
百合川の態度が変わっていることに、僕はすぐに気づいた。
以前とは完全に変わっている。前回が、厳寒期の分厚い外套を脱ぎ捨てて、春物のコートだったら、今はコートもジャケットも脱いでしまっていた。
ひょっとしたら、ブラウスも脱いでしまっていたかもしれなくて。
僕の腕をとって、玄関へ導く百合川の態度は、Tシャツ一枚といった親しみがこもっていたんだ。
それも、ニプレスをつけて、ブラジャーなしで……いや、そこまではいかなかったかも。
窓を開けて掃除をした、という印象だった。
発熱のための熱い空気がむっとこもっていた昨夜の部屋が、虚構そのもので……いや、本当にあれが起こったのかどうか、今でも確信はないのだけれど。
「学校へこないから、心配した。ゾクの連中のこともあるし……電話ぐらいしたらいいじゃない」
「だって、あたし、円くんの電話番号教えて貰ってないから。それに、ちょっと気がねしちゃって……」
「だって一度遊びにきて、妹たちとも顔見知りなのに」
「あたしね、ちょっと気おされているのかもしれないな。円くんの妹さんたち、カンロクがあって、圧倒されるというか。円くんに電話をかけること自体、ものすごく緊張するの。息が苦しくなって、指が動かないわ」
「なんで、そんな? カンロクがあるなんていったら、妹たち、どんな顔するかな? ひっどい、と叫んで天井までとびあがるな、きっと」
「やめて、お願いだから……ね? ともかく緊張するの。円くんに電話しようと思うだけで、心臓が早鐘を打つわ。気力がない時は絶対むり」
「なんでかなあ? こうやって話している時はごく自然な感じだし、別に緊張感なんかないだろ?」
「電話をかけるって行為自体が、苦手っていうわけじゃないけど。とにかく、円くんに電話すると思うとそうなるの。全身にすごい圧力がかかるのよ。だから、病気の時なんか、絶対だめ。円くんが、それをわかってくれなきゃ」
「俺……僕も、昨日の夜、百合川の家へ電話した時、そうだったみたいだ。緊張した。初めてってこともあるけど、いくらコールが鳴っても、百合川がでないから……」
「その電話の呼び出し音、聴いてたわ。体が燃えるようで全然力がなくて、動けなかった。全部で二十七回鳴って切れた……円くんだったらいいのに、そう思った」
「心配で気が変になるかと思ったよ。ゾクのこともあるし……テレポーテーションして、百合川の家へ飛んでいきたいと思った……」
「昨日の夜、円くんの夢を見た……」
僕は、大きく瞠られた百合川の眸にひたと目をあてて、そらさずにいることが初めてできたような気がした。
これまで困難を覚えていたのに、そんな真似ができるなんて不思議であって。
まるで双方の目から放出されている磁力線が、引き合ったように、ぴたっと膠着してしまったんだ。
「夢だと思うの。円くんがきてくれるなんて、ありえないから。でも、円くんがとっても親切で、あたしの世話を焼いてくれた。あたし、もう赤ちゃんのようになって、円くんにされるままになってた。ちっとも恥ずかしくなかったわ。素晴らしい夢……朝になったら、嘘みたいに熱が下がって、ぴんぴんしてた。病気になる前よりも元気になってることに気づいたの。ほら、何の後遺症もなくて、朝から家中大掃除をしちゃった。ちっとも疲れてない。円くんから、フォースを貰ったんだって思った……」
「僕も夢の中で、百合川の家にいったのかなあ。百合川がひどい熱で、赤ん坊みたいに弱々しくなってる夢だったと思う。きっと僕たちは、ふたりで同時に同じ夢を見たのかもしれないね」
「そうよね。現実にはありえないことだものね。円くんが、鍵のかかった部屋の中に当たり前みたいに入ってきたんだもの。円くんに赤ちゃんみたいに抱きあげられたこと、おぼえているの。今だったら、円くん、同じことできないでしょう?」
僕は、目の前の百合川をしげしげと見た。
病後のやつれなどまったく見えず、わらっている百合川は、165センチ、46キロといった素敵な体型で、たしかに病弱者と常日頃、妹たちから軽侮されている僕の腕には、余るように見えた。
「でも、やってみなきゃわからないね」
「やってみたら? でも、やっぱりやめといたほうがいいかな? お見舞いにきた円くんに床に落とされたら、莫迦みたいだもの」
百合川の眸が光を発しているように、鮮やかにきらきらした。
僕は胸がどきどきして、息が苦しくなった。
百合川の態度は、もうTシャツすら脱いでしまっていたんだ。
「試させてくれる?」
僕はひきつった声でいった。
「いいわよ……」
鮮やかにきらめいていた百合川の眸が、ふっとかげった。
「あ、お見舞い……小雪といっしょにくるんじゃなかった?」
「そうだ……」
一気に、高ぶった気が抜けだしていき、僕はその場に立っていることすら、大儀になってしまった。
小雪ちゃんと待ちあわせがあることを、頭から消し飛ばしていたんだ!
「サンジェルマン……そこで小雪ちゃんと待ちあわせする約束だった」
「何時?」
「11時……だったと思う」
「急いで! タクシーを呼んであげるから、大急ぎでいって!」
百合川がバタバタとスリッパを鳴らして、電話に走っていった。
高みに上り詰めようとしていた雰囲気が一瞬にして萎んだ。
痛烈な慚愧の念と恥ずかしさで、僕は顔があげられない思いだった。
俺ってやつは、なんという恥知らずだ……誠実さなんかひとかけらもありゃしない。
あれだけ、小雪ちゃんに遅刻しないでくださいと念をおされていながら、けろりと完全に忘れることができるなんて、俺って男はいったい何者なんだ?
自分という人間が、こんなに卑劣な恥知らずだなんて……
厳格な良心の譴責よりも、辛く厳しい自己嫌悪が、タバスコを一瓶まる飲みにしたように、ひりひりと胸の内側を焼いた。
百合川は僕を蔑むだろう。それが当然の報いだ。
もし、小雪ちゃんが僕の妹のひとりだったら、そんなやつは思いきりたたきのめすはずだ。顔の形が変わるほどぶちのめしてやるだろう……
SEEK9
間にあわない、と観念したけれど、一分遅れで到着した。
サンジェルマンのガラスの向こうに、小雪ちゃんが腕時計を覗きこんでいる姿が、目にとびこんできた。
時計の誤差の範囲に辛うじておさまる程度の遅刻だ。
『このこと、小雪にはいわないで、お願い』
でがけに、百合川に念をおされていた。彼女は真剣そのものだった。
『小雪にとっては、大きなことかもしれないから……あたしが、小雪の立場だったとしたら、ショックで家にとじこもっちゃうかも』
三日三晩泣き明かすかもしれない、と釘をさされて、百合川が呼んでくれたタクシーに乗った。
『わかった、これは百合川とだけの秘密だね』
『もちろん、秘密。今朝、もう一遍きたなんて、絶対にいっちゃだめ』
百合川との間に共有の秘密ができた。
それは僕等の宝物だった。他人からすれば、笑っちゃうような、子供っぽい秘密だったかもしれないけれど、それを協力してまもりぬくことに、僕等は生き甲斐に似た感動をおぼえたのであって。
「うわーっ、ウルフさまっ」
店中に響きわたる声で、小雪ちゃんは天真爛漫に叫んだ。
客と従業員の全員が、おもしろがって僕と小雪ちゃんを眺めた。
いつもだったら、顔がまっかになったろうし、慌てて店をとびだしてしまったかも。
だが、今の僕を支えているのは、百合川との秘密協定であり……それが妙な効き目を発揮して、僕は注視してくる人々をまっすぐ見返すことさえできたんだ。
厳格な良心の糾弾と弾劾の声が消えてから、僕はどうやら相当という以上に、厚かましく図々しくなってしまったような気がしてならない。
小雪ちゃんは、店中の関心を惹きつけたことを、ちっとも気にしていなかった。
僕を見つけたとたんに、そんな通俗的な自意識はけしとんでしまったんだ。
「やっぱりきてくださったんですねえっ。もしかして、と思うと、心配で一分間に三十回も時計を覗かずにいられなかったんですよぉっ」
たしかに、小雪ちゃんは大袈裟だけれど、決してそれはオーバーアクトなんかじゃない。
自分の正直な思いを、赤裸々に吐露せずにいられない激しい情熱の持ち主だからなのであって。
一途な情熱家であって、これほどの率直さにあうと、人間は太刀打ちできない。
三十六計逃げるにしかず……そんな言葉があるとおり、一目散に逃げださなければ、その一途さにかならず負けてしまうことになる。
自分が脱出不能の迷路に迷いこんだ、とわかっているのに、僕は小雪ちゃんの素直さに勝てないことを知っていたんだ。
既に百合川の虜になっていながら、更に小雪ちゃんの魅惑にも絡めとられている。
たとえ卑劣な二股かけと激しく非難されても、どうにもならないことが、この世にはあるんだ。
「螢さんご所望のフランスパン、買いましたあっ」
太い棍棒みたいなパンを抱えた小雪ちゃんは、行き交う人々の目を、アイキャッチャーみたいに惹きつけた。
彼女みたいなお洒落で活発な女の子が小脇に抱えると、すごくサマになるんだ。
「ちょっとお茶を飲んでいこうか、小雪ちゃん?」
僕はわざとお茶を誘って、からかった。案の定、彼女はまんまと乗って。
「はいっ、お供しますっ」
「ついでに、ディズニーランドへいったりして」
「はいっ……あれっ、だ、だめですよっ。だって、お誘いはうれしいけど、あたしたち、螢さんのお見舞いにいくところでしょうっ」
「そうだ、忘れてた……」
そこまでいってから、小雪ちゃんも僕にからかわれているのがやっとわかって。
「あたしをからかったんですねっ。悪いひと、えいっ、制裁っ」
フランスパンのスティックで、僕はぼこっと殴られた。
もちろん痛くも痒くもない制裁であり。
こういうふざけあいは、妹たちとの間にも経験がなく、新鮮な刺激があり、心がぽっと温まった。
「でも、ウルフさま。螢さんと逢ったら、あまりこんなふざけかたするの、やめましょうね」
バスの停留所で下車したあと、小雪ちゃんはふっと改まった態度でいった。
「螢さんって、とってもデリケートなひとなんですから。いつも明るくふるまっているけれど、ふーっと暗くなってしまうのがわかるんです。ふざけあって、笑ってきゃいきゃいいっている途中で、螢さんの心が、こうお日様がかげるようになって……どんなたのしいことでも、螢さん、心からたのしめないらしいんです。いつも、未来のことを考えてる……そんな気がします。みんな、先のことなんか全然考えずに、今がたのしければそれでいい、そう割りきってますけどね。螢さんだけはちがうんです。もしかしたら螢さんは、未来が見えるんじゃないか……そんな気がすることも」
「未来が見えるって、占い師とか予言者みたいに?」
「まあ、そういう感じなんですかね……バイク仲間が事故って死んだときも、螢さんはずいぶん前からわかってたみたいです。螢さん、優しいですから、それがわかってたとしたら、とても辛かったと思うんですよね……」
僕には何と答えていいのか、まったく言葉を選べなかった。
百合川の悲しみや嘆きは重たく、ずっしりと心の底に沈んでいき、彼女の眸にかげりを与えている。
僕みたいな脳天気な人間には想像もつかないけれど、絶望の苦しみをいつも感じつづけている百合川に、僕が少しでも安らぎをもたらすことができたら……それこそ死んでもいい、と脳天気な僕は思ったのだ。
なぜなら、僕は絶望的なまでに、百合川の感じている苦しみから遮断され、遠ざかっているせいであって……安易な同情なんかで、彼女と繋がりを持ちたくない、と本気で思うからだった。
もし、百合川が僕に対して特別な心の繋がりを持ってくれるとしたら、僕は彼女の眸から悲痛なかげりをぬぐい去ることができるかもしれない……
なにかしら形容しがたい尨大な海水が心の中で揺れ動いているようで、僕は自分の興奮がとんでもないレベルに逸脱しないように、抑制するので精いっぱいだったんだ。
百合川の家で、僕は、あのチビイヌに再会した。
その醜さは独特なもので、じっくり顔を突きあわせているうちに、愛嬌にも変わってくるのだけれど、相手があまりにも敵意を剥きだしに、生意気にも白いちっぽけな牙を見せつけて、こちらに手痛い目を見せてやるぞ、と威嚇するものだから、かえって可笑しくなってしまい。
こちらが大声で笑うと、チビイヌはますます憤慨して、相互の関係は悪化の一途をたどることになるのだった。
チビイヌは、青銅門の向こうから、くすっともいわず黙りこくって、こっちを凝視していた。
インタフォンをおしても何をしても、一切無反応だった。
その無口さが、もっとはるかに体のでかい、猛犬の見本のようなドーベルマンをきどっているようで、こちらとしても、ついからかいたくなってしまう。
「わーっ、コースケ、おいで! どうしてたの?!」
小雪ちゃんは、門があく前から、柵越しにチビイヌを見つけて、いろいろ賑やかに呼びかけたけれど、チビイヌは平然と無視してのけた。
この無愛想さが、チビイヌの個性であり、僕はからかいの、そして百合川は愛情の対象としたわけで。
しかし、いかに媚びないことを誇りとしているとしても、真っ黒に煤がついた鍋底みたいに無愛想なやつだ。
百合川が玄関口に姿を現して、門扉をあけた。
その表情は、さっきとは大違いで、僕を初めて見るような顔をしていた。
つんとしていて、とっつきにくい。
照れているんだろうか、と、僕は笑ってみせたが、百合川はにこりともしなかった。
「いらっしゃい……その犬、手をださないほうがいいわよ」
「こんにちは、螢さん! コースケ相変わらずなんですね! 全然声ださないし、これで番犬の役がつとまるんですかね?!」
白山小雪ちゃんは、百合川の忠告に従い、チビイヌに出そうとした手をひっこめた。
「これでも、吠える時には偉そうに吠えるのよ。でも、番犬という意識は全然ないみたいね。自分がこの家のご主人様だと思ってるのかもしれない」
「それじゃ、犬じゃなくて、まるっきし猫じゃないですか? 猫って人間のことを人間と思わない傲慢なとこあるでしょう?」
「傲慢ね……本人はそうと思ってないみたいよ。自分の主体性をきっちりまもってるだけだって思ってるのかもね」
チビイヌ、“コースケ”はにこりともせず、僕の一挙一動を監視していた。僕に受けた侮辱の数々を残らずおぼえている、といわんばかりの目つきであり。
本当にこれほどかわいげのない犬は見たこともない。こんな変な犬を拾ってきた、百合川の気が知れなかった。またその名が“コースケ”というのも、突拍子もなくて……
「よくきてくれたわね、大上くん」
百合川の言い種も、とってつけたようだった。目つきこそクールそのものだったが、あの琥珀色の眸ではなく、暖かい濃い鳶色であり、僕は彼女が白山小雪ちゃんの前でとり繕っているのだ、と解釈するほかはなかった。
「ああ、元気そうで、安心したよ……」
僕の演技はへたくそそのものだったが、小雪ちゃんは気にもとめなかったようだ。
「熱をだしたんだってね」
「だれかさんの熱を伝染(うつ)されたのかも」
百合川は大胆なことをいい、僕をひやりとさせた。
「大上くんって病弱で、しょっちゅう高い熱を出して寝こむそうだから」
「そう、幼い頃から病弱だから」
「でも、ウルフさまの熱はべつに人に伝染(うつ)るような熱じゃないんでしょう?」
小雪ちゃんは、あくまでも無邪気であり。
「それが、伝染(うつ)るのかもしれないわよ……えっ、ウルフさまあ?!」
百合川は彼女に似つかわしからぬ頓狂な声をあげた。
「はい! 許可を戴いたんです、あたしがウルフさま、とお呼びすることを! なんかかっこいいでしょ、螢さん? だって、ウルフさまってとってもミステリアスなんですもの。学校じゃ評判なんですよ!」
「知ってるわよ、大上くんが謎の人物だって評判は。オオカミ人間だとか、役行者小角の生まれ変わりだとか、騒がれてるようね」
「はい。ミステリアスなウルフの君って、騒いでます。超能力を持ってるって」
「知らなかったな」
と、僕は本気でいった。だが、転校初日、いきなり安田から、超能力者呼ばわりされたこともたしかだ。
その時は冗談のレベルでしかなかったんだ。
「やっぱり、大上くんから、発熱は伝染(うつ)されたのかもね」
「螢さん、発熱して何かいいことあったんですか? すっごく元気そうですよ! 病気して寝こむ前の百倍ぐらい元気いっぱいです!」
「そうかもね。小雪から電話貰って、大上くんといっしょにお見舞いにきてくれるって聞いたとたんに、元気でてきちゃったから」
「あ! そんなに御利益があるんなら、あたしもウルフさまにお願いして、発熱を伝染(うつ)して欲しいです!」
「でも、病弱になるかもしれないよ、大上くんみたいに」
「病弱になってもいいですよ! ウルフさまとお揃いになるなら光栄ですから!」
「玄関先でごめんなさい。さあ、中へ入って、ずっと奥へ……“コースケ”やめて!」
不意に鋭い声で、百合川が制止した。
目を足元に落とすと、チビイヌが、僕のジーンズの裾をがっぷりとくわえているのが目に入った。
「どうも、この家のガードマンは、僕に入るなといってるみたいだな……」
「“コースケ”ってプライドが異常に高いの。大上くんに見くだされたことを忘れてないようね。“コースケ”、大上くんをはなしてあげて」
チビイヌは鋸を引くように唸りながら、放す気配も見せなかった。
「だめでしょう、“コースケ”、ご主人の命令に従わなきゃ! ウルフさまはこの家のお客さまなんだから、丁重にお迎えしないと」
かがみこんで、小雪ちゃんが叱ったが、チビイヌは上目遣いに睨みかえし、叱責を無視した。
「だめか……“コースケ”って、けっこう頑固なんだ」
「プライドが高すぎるのもなんだけど……きっと“コースケ”は、海岸にいた時、大上くんに侮辱されたと信じていて、許してないのかもね」
「わかったよ、それなら、あやまればいいんでしょうが」
僕は憤然といった。
「おい、“コースケ”、僕がおまえを侮辱したなんて事実はないし、僕としては海岸にいっておまえと逢うのを楽しみにしてたほど、おまえに対して好意的だったんだ。おまえは僕のしたことを誤解してるんだぞ。そこで、これを機会に、ひとつわれわれは和解しようじゃないか? おまえの新しい女主人さまは、ご理解のある寛大なかたで、僕のことを許してくれたんだから、おまえだって、僕に寛大さを見せたっていいだろう?」
「だめだめ、大上くん。彼は謝罪されたなんて、全然思ってないわよ。かえって怒りだしたみたい」
「ちゃんと和解を申しでたのに……」
「本当ですよねえ。ウルフさまが、これだけきちんとお詫びしてるのに、もっと“コースケ”だって、太っ腹なところを見せたっていいと思いますよ……」
「わかった。時間の無駄だ! ここに慎んで、私こと大上円は、“コースケ”に謝罪します。これまであなたを見るたびに腹を抱えて笑ったことを、まことに無礼な行為と認め、反省の意を表します。まことに申し訳ありませんでした」
「“コースケ”がズボン、放しましたよ! ひえーっ、驚愕! こんなことって本当にあるんですかねえっ!」
小雪ちゃんがひとりで大騒ぎしていた。
「本当に、これで和解が成立したのかなあ? あのチビイヌ相当しつこそうだから、百合川の家へくるたびに、食いつかれそうな気がするんだけど……」
応接室へ通された後で、僕はぼやいた。和解成立といっても、チビイヌの敵意の目つきは全然変わらず、その後は僕を完全無視してのけたからだ。
「やっぱり心から謝罪してないからじゃない? たかが犬にあやまるなんて、大上くんのプライドが傷ついたでしょ? だから、心から和解するという気にならなければ……本当の誠意を見せなければ、犬だって赦す気にならないんじゃないかな」
「僕がだれかさんの心を傷つけた時も、そんな気は毛頭なかったんだよ。でも、僕は全然あやまらなかったのに、だれかさんはなぜ赦してくれたのかなあ?」
「心が通じればね……」
「そのために、痛い思いをずいぶんしたもんな。人間ってなぜ誤解するんだろう?」
「その点は、動物だって同じじゃない?」
小雪ちゃんがトイレに立った僅かな間に、百合川と僕は慌ただしい会話を交わした。
案の定、小雪ちゃんが同席していると、常に追いたてられているような、気忙しい気分に支配されなければならず……それは百合川も同じだったらしく。
気忙しい口調で、早口に喋るようになってしまうんだ。
「何か人の心を傷つけるようなことを、うっかりいってしまう。そんな気持ちは全然ないのにね。でも、それが原因で、心が離れてしまうってことあるよね。わずかな言葉の行き違いで、心の繋がりがあっさり断ち切れてしまう……そんなことあっていいのかって思うよ。なんで誤解なんていういきちがいが生じるんだろう? 本当にそのひとを愛していたら、すごく辛いよね……どうしてもいわなければならないことがあって、それがもとで、愛するひとの心を傷つけてしまう。そんなことだってあるかもしれない……」
「あたしは傷ついたりしないわよ。プライドなんて捨てたから」
百合川はまっすぐ僕の目を見返しながら口ばやにいった。
「傷つくのはやめたの」
「でも、人間って、気が変わる……」
「うん。でも、あたしは変わらない。大切なものは護りぬきたい」
「百合川を見てるとこわくなる。ぎりぎりにはりつめた糸みたいだ。その糸で支えているものがものすごく重いものなんで、細い糸が食い込み、百合川の指や掌が裂けて血を噴いている……わあっと叫んでとび起きた。そんな夢を見たんだ。どんなになったって、百合川が絶対に糸を放さないってわかっているんで……」
「円くん……」
その時、小雪ちゃんが慌ただしく物音をさせて帰ってきたので、僕たちは口を閉ざした。
これ以上、相手の内面に踏みこむと、へまを演じそうだと感じたんだ。
小雪ちゃんはいたって無邪気で、僕等の間に生じている緊張関係に気づかないかもしれないけれど、歯どめを失うのがこわかった。
「螢さぁんっ、絵をウルフさまにお見せしないんですかぁっ。今ちょっとアトリエ覗いてきたんですけど、新作を制作なさってるんですねえっ」
「だ、だめだったら、そんなことまで喋っちゃ!」
百合川の素直に照れた顔を、僕は初めて見た。
「螢さんって、すごく絵がお上手なんですよお! でも、人には絶対に見せないんです!不思議ですねえ、あれだけ素晴らしい絵を描けるんだったら、あたしならどんどん公開しちゃいますけどね!」
「だって、アマチュアの手すさびだから……上手っていっても、その程度だったら、いくらでもいるし」
「是非とも芸大へ進学するようにって、中学の時に美術の先生に勧められたんですよ」
「そんな気は全然なかったわよ」
「その時は、バイク乗ってましたもんね、無免許で。でも、螢さんがずっと絵を描いていたの知ってましたよ。ウルフさま、螢さんって天才的芸術家の素質があるんです。音楽だって絵だって、隠してますけどね、あたし知ってるんですから!」
「もう、やめて! 今日はお見舞いにきてくれたんでしょ? だったら、おとなしくお見舞いだけにして……」
「ふうん……何かお昼御飯、作りましょうか? もう普通に食べられるんでしょう?」
「心配はご無用! ちゃんと食事の支度はしてあるから!」
「うわーっ、螢さん、お昼を御馳走してくださるんですかあっ。でも、ちょっと変ですねえ、病気のお見舞いにきて、その病人の螢さんから手作りの料理を御馳走になるなんて……」
「気にしない! 今日は快気祝いだからね!」
「あ、そうか。快気祝いって、病気や怪我が無事に治って回復したお祝いですよね? それで、ウルフさまに新作の絵をお目にかけないんですか?」
「こらっ。せっかく大上くんの気をそらしたのに! よけいなことをいって、こじらせないでよ!」
「だって、いいじゃないですか?! 螢さんの絵は素晴らしいんだし、ウルフさまだって絶対見たがってますよ! 絵なんか、全然描けないあたしからすると、螢さんはずいぶん贅沢だなって思います。何を恥ずかしがってるんですか? 螢さんは天才で、スポーツは万能だし、芸術方面もすごいし、きら星みたいな才能に恵まれているじゃありませんか? そういうひとは、人類の宝物なんですから、あたしみたいな凡人のためにも、ご自分の才能の結実を惜しみなく与えてくださらなきゃ! ね、ウルフさま、そう思いませんか? 螢さんのようなひとの自己卑下なんて、いけませんよね? そのすごい才能で、あたしたち一般大衆をどばあっと楽しませてくれなければ! なにしろ、人類の宝物なんですからね! そう思うでしょう、ウルフさま? なんとかいってくださいよおっ」
「絵を見たあとで、百合川螢画伯なんていったら、怒る?」
「怒る! 断然! もう絶交!」
間髪をいれずに、百合川がいってのけた。
「じゃあ、いわない。実際の美術館にいるように静かにしてるから、百合川の作品を見せて」
「わかったわ。じゃ、小雪、大上くんをアトリエへご案内して。あたしは、その間にお料理のしたくをするから」
「逃げたんですね、螢さん!」
「当たり前でしょ。自分の拙ない作品を人に見られて、正気じゃいられないわよ! どんな感想を持ってもいいから、絶対に一言もあたしにいわないで、お願い」
「まだ見る前から、口封じをされるのは、ちょっと……」
二十畳を超える広さのアトリエに、二十点以上かけられた百合川の絵は、想像以上にすごかった。
全部、人物画だ。しかも若い女性が大部分で。
僕は絵については本物のど素人だから、何もわからないといっていい。
けれど、百合川の絵が、技術はもちろんあらゆる点において、アマチュアっぽさから外れていることはわかった。
色使いもそうだけれど、異様な迫力というのか、エネルギー感が画面全体から放射されていた。
実際に、顔面に目に見えない力がぶつかってきて、思わずたじたじとなる、そんな迫力であり。
ただ、絵全体からすると迫力がありすぎて、長い時間、目を当てていられない、そんな感じがした。
見ていると、次第に圧迫感が増大してくる。
絵はたしかにすごい。素人だとか玄人だとかいう以前に、強烈なんだ。
「なんで、溜め息をつかれるんですか、ウルフさま?」
小雪ちゃんが尋いた。圧迫感のあまり、自然に呼吸が肺から絞りだされたらしい。
「感動でしょう? 螢さんは絶対に許してくれないんですけど、だれか絵を見わける力をもったプロフェッショナルに見せたいなって思います。でも、螢さんの絵って、激しいでしょう?」
「うん、気力で負けてしまう。百合川にビンタを食った時のことを思いだしたよ……そんな迫力がある絵だな。でも、悲痛なパッションがあって、こっちにまで伝染してくる。長く見入るのは辛い……」
「あたしも同じです! すごいけど、つらい、本当にウルフさまに同感です! 全身全霊で、絵に叩きつける……そんな気がしません?」
「百合川が人に見せない理由がわかったような気がする。この絵は、百合川の内面を全部あらわしているもの。人に見せようとして描いた絵じゃないんだ。自分の内部に高まる異様な圧迫感を全部吐きだそうとして、描かれた絵なんだ……」
それは一言で表現すれば、激情、という言葉になるだろう。
人を楽しませ、心地よくさせる絵ではないんだ。
もし、百合川の絵を自分の部屋の壁にかけておいたら、きっと絵にはっきりと影響されるだろう。
辛い夢を見て、夜毎に飛び起きることになるだろう。
それでも、百合川の心の深奥から迸りでる叫び声を、僕はしっかりと受けとめたいと思った。
どんなに辛くても受け止めてやりたい。
もし、百合川の絵が、人を苦しめ、不幸にする絵だとしても、僕はその絵を決して、自室の壁から外さず、その激情の苦しみを受け容れる。
僕にはそれしかいいようがなかった。
百合川の激しい絵は、賞賛だろうと排撃だろうと、そんなものとは次元を違える世界の産物だったんだ。
「ウルフさまは……あまりお気に召しませんでしたか……?」
小雪ちゃんが、僕の顔色をうかがって、おずおずと尋ねた。
「いや、気に入るとか気に入らないとか……そんなのじゃなくて……この絵を受け入れるのは、百合川の魂を受け入れることだから……」
「万人向きじゃないってことはわかっていますけど……でも、あたしは全力でこの絵に立ち向かうと、痺れるような感じになるんです。それって、今ウルフさまのおっしゃった、螢さんの魂をあたしが受け入れたってことになるんでしょうか?」
「もちろん……でも、百合川が絶対に批評や感想は聞かないといってくれて、よかったと思う。百合川の魂を批評するなんてできっこないんだから……」
「本当にそうですね……」
小雪ちゃんが、その賑やかな軽燥的なところをすっかり消して、重い感じで呟いた。
「やっぱり、螢さんのおっしゃることのほうが正しいんでしょうかね。ウルフさまのおっしゃるように、螢さんの魂を、安易に大衆に見せるなんてできませんもの」
応接室に戻った時は、すっかり重い気分になってしまっていた。
小雪ちゃんが気を奮い立たせて、盛りあげようとさかんに喋ったが、成功したとはいえなかった。
「あたし、螢さんをお手伝いしてきますね? ウルフさまをひとりぼっちにしてしまいますけど、さみしいなんていって泣きませんよね?」
小雪ちゃんは、なぜか僕の右腕に、その腕を絡ませてきた。
ふわっぁっと舞い上がった香料のいい匂いが漂って……女の子はやっぱりいい匂いがする。でも、いいのかな、という気がしないでもなかった。
小雪ちゃんの移り香を漂わせて、帰宅しようものなら、たちまち妹たちから尋問と糾弾の嵐の洗礼を受けるにきまっている。
感覚の鋭敏そうな百合川だって、すぐに見破ってしまうだろう。
これ以上、小雪ちゃんがスキンシップ攻勢をかけてきたら……
「その香水、オー・デ・コロンというのか、くらっとするね」
僕は笑いながらいった。
「本当ですかぁっ! ウルフさまがお嫌いになるんじゃないかって心配してましたけど……でも、とってもうれしいですっ」
「僕には刺激的すぎるかも……うおおおっっと吠えていきなり狼男に変身したりして」
「よろしいんですよ! ウルフさまが本当に狼男に変身したら、すっごくスリルがあってたのしいと思います」
意外に小雪ちゃんは真剣な瞳で、僕を見あげた。
ぞくっとする瞳だった。
僕は、女の子が、こんなやりかたで目で語ることができる、と初めて知った。
色っぽいとしかいいようのない瞳だったんだ。
「いや、たのしいとかいうのはべつにして……さっき、“コースケ”が、小雪ちゃんに近寄らない理由がやっとわかったよ。犬や猫って、女性の香水に弱いんだ。嗅覚をおかされて鼻が馬鹿になるんだよ、きっと」
「ああ……やっぱりそうだったんですか。この前、きた時は“コースケ”、ちゃんとあたしに触らせてくれたんですよ……今日は無視されちゃったんで、どうしたんだろうって思ってたんですけど……」
「動物は、たばこの臭いも大嫌いだけどね」
「そ、そうなんです! あたし、たばこやめたでしょう、口臭女なんていわれるの、いやだし……たばこやめたついでに、香水を使ってみたんですけど、やっぱり動物に嫌われるんですかねえ」
がっかりしていた。いやなやつだ、と僕は自分自身に向かっていった。
最近、良心のやつが沈黙しているぶんだけ、こっちがその役割を果たさなければならなかった。
こすっからいやつだな、おまえは。
ストレートに、香水の移り香が苦手だと彼女にいえばいいじゃないか。
もってまわった言い回しをして、言葉巧みに彼女をいいくるめようとしているんだ、おまえは。
まったくおまえというやつは。
けれども、小雪ちゃんに露骨な言葉を使って、その心を傷つけるのは、僕にとって実に簡単なことであって……たとえ、いやなやつと非難されようが、小雪ちゃんをがっかりさせたくなかったんだ。
(俺は、百合川と小雪ちゃんの間で、どっちにもいい顔を見せようとジタバタしているんだ)
自分から深みに嵌まって、破綻を恐れている。そんな矛盾したやつ、それが俺だ。
(しかし、俺のせいで、百合川と小雪ちゃんの間に不愉快な緊張ムードを生じさせたくないもんな)
僕は、自分がひとりで車を際限もなく回し続けているコマネズミになったような気がした。
愚かしく、無為な徒労……結局は、このままの状態をずっと維持できるはずもなく、破綻を迎えるのは避けられないというのに。
僕はただ、溜め息をつくしかなかった。
大上円十七歳。
女の子のことで、こんなに心労が多いなんて、夢にも思わなかった。
男女交際なんて、簡単にいうが、それはまるで底知れぬ深淵に下りて行く、危険なおそろしい作業に似ていた。
はたで無責任に見ている時には、なんとでもいえる。
だが、実際に女の子の肌が間近に迫った時には、もう逃げられなくなっていることに気づくんだ。
ダイニング・ルームに招待されて、百合川の顔を見た時、彼女が僕の視線を避けていることに気づいた。
それは形容しがたいぎごちなさで……百合川は僕が、彼女の魂に触れてしまったことで、身の置きどころを失ってしまったのだ。
それは、照れるとか含羞というレベルではなく、たとえ肉体的に結ばれたとしても、解消できないものだと僕にはわかっていた。
「さあさあ、御馳走ですよおっ、早くお席についてくださあいっ」
小雪ちゃんがひとりでとりもちに専念していたが、そんなことで、このぎくしゃくした気まずさが解消されるはずはなく。
「どうしたんですか? せっかくの御馳走を、螢さんが病みあがりなのに全身全霊で作って下さったんですから、ウルフさまも気合を入れて、食べてくださいよ……」
「わかってる、小雪ちゃん。はっきりいったほうがいいと思う」
百合川の眸が怯えを見せて、揺らぐのを僕は見てしまった。
ぜったいに言葉でごまかせない問題が僕たちの間にたちふさがってしまったんだ。
「百合川、僕の頼みをきいてくれないか?!」
僕は座り直して、ダイニングテーブルに両手をついた。
「な、何なの?」
「大上円十七歳、一生のお願いがある……いや、あります! どうか聞きとどけて欲しいんだ、是非とも、イエスといってくれないか、百合川!」
「だ、だから、どういうことなの?」
「百合川の絵をください! お金は払えないけど、一生大切にする! 絶対に人に譲ったり手放したりしないと約束するから! 一生かけても、お礼を……このお返しはするから、だから……絵をください! この通り、お願いします!」
僕は深々と頭を下げて、前菜の取り皿にごつんと頭をぶつけてしまった。
「だ、だって、円くん……そんなこと急にいわれても」
「絵をください、百合川! それがだめだったら、僕と結婚してください!」
ひええっと小雪が小さく叫んだ。百合川の眸の動揺がぴたっとやんだ。
「わかったわ、あの……大上くん。絵はあげるわ、どれでも好きな絵を持っていって。でも、結婚のことはちょっと……」
「うわーっ、よかったですね!」
小雪ちゃんが力いっぱい手をたたいた。
「よかったよかった! めでたし、めでたし、です!」
「驚いた……心臓にショックがきたわ。大上くん、脅かすんだもの……」
百合川は、心臓の上に手をあてがって、深呼吸をした。誇張した仕種だった。
「本当に、そうですよね。女性って、まともに結婚してくれなんていわれたら、ショック、ショックですよ! それをウルフさまったら、ものすごい迫力でおっしゃるんですから! いくら冗談だとわかっていても、女性はとり乱してしまいますよ……」
僕はふうっと息を吐きだした。
自分がどれほど満身に力をこめて、その言葉を吐きだしたか、ようやく実感を持ったんだ。
こんなに渾身の力で、同じ言葉を吐きだすなんて、もう二度とないだろう、とわかっていた。
「あっ、どうしたんですか、螢さん?!」
小雪ちゃんの叫び声に、虚ろになった目をあげると、百合川がふらふらっと体を揺らしながら、椅子に座りこむところだった。
「ごめん……やっぱり病みあがりなんだわ。くらっとしてしまって……」
「大丈夫ですか、螢さん? せっかくのランチ・パーティ、台無しにしないでくださいよお」
小雪ちゃんが嘆願するようにいった。百合川を支配している、ただならぬ緊張感に気づいたのだろう。
「ノープロブレム! 食事しましょう。そのワイン、大上くん、開けてくれる?」
百合川の顔は、ワインを嗜む前から、うっすらと紅潮しているようだった。
百合川のつくった料理は、特別に凝ったものではなかったけれど、想像した以上においしく……たがいに料理当番をおしつけあいながら妹たちの作る食事を、黙って食べている僕としては、これ以上はないというほどけっこうな味わいだった。
ワインも上等であって、あっという間に、三人で一本をあけてしまい、ものたりないほどで。
小雪ちゃんがいちばんの酒量を誇ったのはいいけれど、さんざんはしゃいだあげく、酔い潰れてしまった。
もちろん泥酔したというのではなく、単に眠くなって、ソファの上で居眠りを始めたにすぎないのだけれど。
「小雪、あなたが本当に好きなのね」
キッチンで後片づけをしながら、百合川が突然いった。
ふたりで皿洗いができるほど、百合川家のキッチンは広かったが、それでもならんで作業をすると、体が触れあうのは避けられない。
肩が触れ、腕が触れた。そのつど、電流が走るような気がした。
「大好きだって……こんなに人を好きになったことは一度もないっていってた。どうするの、大上くん? 小雪、本気よ」
「なんといえばいいのか……」
「うれしいでしょ? 小雪、かわいいもの。一途で純粋なの。大上くんにズベッているところをまともに見られて、辛いっていってた……いくらまじめになったって、ぶりっこしてるとしかだれも見てくれないし」
「僕は、そんなこと全然……」
「そう。大上くんは気にしないって、あたしにはわかる。でも、小雪は気にするわ。とり返しのつかないあやまちをおかしたと感じてるの……たしかに小雪はつっぱってたけど、悪い子じゃないの。愛情深くて、献身的で……小雪が、あたしのためなら、どんなことだってしてくれるってわかるの。あたしは、小雪がかわいい。まるで自分の大好きな妹みたいに感じるの。おかしいでしょ? 同い年なのに、小雪が妹みたいだっていうの、やっぱり変よね?」
「その感じはわかるよ……もう小雪ちゃんはつっぱるのもやめたんだろう? だったら、気にしなくてもいいのに」
ありきたりの返事しかでてこなかった。
僕は、至近距離にいる百合川のさらさらした髪の毛や、白い首筋やうなじ、長い睫毛、かたちのいい鼻、唇に全身の注意を吸いとられ、集中力をなくしていた。
強力な磁石に引き寄せられる鉄粉になったみたいであり。
どれほど努力を払っても、百合川の吸引力から身を遠ざけることなど不可能だとわかっていた。
「お願い、大上くん」
間近に、百合川の体が向き直り、僕は百合川の真剣な眼差しを受けていた。
心臓にショックを受ける、というのがどんな感覚か、僕はもろに味わっていた。
「今、小雪はとってもあぶない立場にあるわ。あの子は、これまでだれも本気で好きになったことがないし、それがどんなことかわかってないと思う。大上くんは、小雪を破滅させる力があるの、それをわかって……」
「僕が、小雪ちゃんを破滅させるって……そんなこと……」
「大上くんが困惑する気持ちもわかるの。でも、小雪は免疫がなくて……一度絶望したら、もう立ち直れないかもしれない。あたしはそれがいちばんこわい。だから、お願い、小雪を絶望に追いやらないでほしいの」
「…………」
「みんな、だれでもおとなになっていくわ。でも、小雪は子供から一足跳びに、大人になれないタイプ……あの子はあたしだけが頼りで、ほかに支えがないの。幼稚だといえば、それまでだけど、あたしは小雪を見捨てられない。似た境遇の者同士で、これまで寄り添うようにやってきたけど、これから先はちがう道を行くことになるかもしれない……迷惑かもしれないけど、大上くんにお願いしたいの。あの子に絶望だけは与えないで。いずれは、小雪もおとなになる。腫れ物にさわるようにするとか、そんなことじゃなくて……たたいたっていいのよ。でも、少しでもいいから……」
「それは、僕に、小雪ちゃんの気持ちを受け入れろといっているの?」
僕は喉がつまるような気持ちで尋いた。息ができないほど胸が固くなっていた。
「友達以上の存在になってやってくれという意味?」
「そういうのじゃなくて……なんていったらいいのかな。小雪が少しずつおとなに育っていくのを、見守ってあげて……小雪は、今は自分の気持ちだけでいっぱいになってるわ。大上くんのことを大好きで、夜も昼もずっと考えてる。本当にひとを好きになるとそうせずにいられないでしょう? 苦しくて辛くて息もできない感じになる。もし、好きになったひとに、自分の気持ちを拒まれたらどうしよう、突き放されたら……その時はもうおしまいだ、もう自分の人生は終わったんだって。極端な場合はそんなになってしまう。小雪は初めてだから、余裕が全然なくて、大上くんの気持ちをおしはかることもできないと思うの。だから、おしつけがましくて、自分勝手で、我儘だけを強引に押し通す……大上くんがそう思うこともあると思う……でも、きっと小雪はだんだんに気づいていくわ。自分の一途な思いこみだけでは、何も動かすことができない、かえって自分のほうが跳ね返されてしまうんだって……今は人の気持ちがわからない小雪も、しばらくすればわかってくると思うの。だから、そう……長い目で見てあげて、と大上くんにお願いしたいの」
僕は息をつめて聞いていた。
まるで、眼前に巨大な石塀が出現して、こちらに倒れかかってくるような閉塞感であって。
叫び出したい気持ちをじっとおさえつけるので、すべての力を使い果たしてしまいそうな。
「それじゃ、百合川はどうする……まるで、小雪ちゃんを残して、百合川はどこかへいってしまうみたいないいかただ! 百合川は、小雪ちゃんを妹みたいにかばってきたんだろ? なぜいきなり彼女をほうりだしてしまうようなことをいうんだ?」
「そうじゃないの。そんなつもりはさらさらないの。でも、もしそうなってしまった時には……大上くんがいる。小雪の支えは大上くんしかない……」
彼女の両手が、僕の両腕を握りしめた。
目の前にある百合川の顔は緊張して、少し色あおざめ、唇が震えていた。
僕は彼女を両腕の間に力いっぱい抱きしめることができたら、何を犠牲にしてもかまわない、と全身全霊が揺らぐほど満身の力をこめて考えた。
「わかって、お願いだから!」
「百合川のいってること、遺言みたいに聞こえるんだ……」
僕は少し震えていたかもしれない。
その揺れが大きくなるにつれて、震えは百合川にも伝染した。
百合川の歯がふれあってかちかち鳴るのが聞こえた。
「だめ、だめよ、大上くん……」
「死なせるもんか。きみがたとえ……どこへいこうと、僕はかならずどこまでも追いかけて、きみをとりもどす!」
魂で誓う。それがどんなことか、僕は初めて知った。
「百合川が、たとえ黄泉の国へいってしまったって、僕は追いかけていく。だから、そんなつまらない遺言じみたことなんかやめろ。僕はゆるさない……百合川が何を予感してるとしても、絶対にそんなことにはさせない!」
「わかったわ、ありがとう……」
百合川は握っていた僕の両腕を放して、あとじさった。
血の気の引いていた顔が、にわかに紅潮した。
「もうやめる……つまらないことをいうのは、おしまい。小雪はどうしてる?」
「まだ安らかにお休み中だ……」
いっぺんに全身から力がぬけだしてしまった。
「円くん……何も起こらなかったように……ね?」
「わかった。小雪ちゃんには何もいわない。だから、百合川も明日からなにごともなかったように登校するんだ。いいね?」
「ええ……でも、どうなるんだろう? 未来に何が起こるのかしら?」
「なにもかも、すべてはうまくいくよ。何も心配は要らない……未来は素敵でたのしいことばかりだ。そういう未来をつくるんだ。わけないだろ?」
「円くんが、自信をこめて語るのを聞いていると、あたしもそんな気になる……どうしてかしら? これまで、未来はなにもかもうまくいかなくて、不安なことばかりで、破滅がかならずずやってくる……そんな気がしてたのに。円くんは、あたしに何か魔法をかけた?」
「そう、魔法をかけた。百合川と小雪ちゃんに。僕はすごく強い力を持った魔法使いだから、何も心配はない。ほら、だんだん気が楽になってきたろ?」
「ほんとね……あなたを信じるわ、円くん。あなたに逢って、ものすごく変わったもの。これからだって、絶対に動かせない、変わらないと思いこんでいたことだって、がらがらっと変わる、必ず変わる! そう信じることにする」
「僕もだ、百合川。きみのおかげで、僕も変わったよ。ゾクの連中にとり囲まれている百合川を見た時、僕はこれまでやらないことをした……それまでは、僕には封印が張られていて……できないと思っていたことを沢山した。でも、もし今度、同じシーンを二度くり返すようなことがあったら、人工呼吸だって一瞬間も躊躇わない。きみに強烈なビンタを食ったとしたって本望だもの」
「あの時は、手かげんをしたのよ。本気でぶっていたら、病弱で発熱中の円くん、死んでしまったかもしれないね……」
「死ぬもんか! 百合川に対して、騎兵隊になって救援に駆けつけるんだから、どんなことがあったって、死ぬわけにはいかないんだ!」
「あたし、それ、信じてる。大上くんは、不思議な力を持ってるひとだし、慈悲深い神様があたしのために送ってくれたひとかもしれないって……でも、ちょっとさすがに疲れたみたい」
百合川の体が、僕にまともにもたれかかってきた。
僕はその豪華な重みを支えることに、無上のよろこびを味わった……
「ごめんなさい。あたし、少しベッドで休みたい……」
「わかってる。つれていくよ」
「ひとりで歩けるから、だいじょうぶ」
「帰ったほうがいい?」
「ううん……できたらまだ帰らないで」
「わかった。小雪ちゃんと待ってる」
「少しだけ眠りたいの。すぐに回復するから」
「ワインが効いたんだ。小雪ちゃんといっしょだ」
「眠い……睡魔だわ。堪らない」
「ななこがね……」
「ななこちゃんがどうしたの?」
「おにいちゃんは、もう帰れないといったよ」
「もう……帰れない?」
「ああ。それを今突然思いだした。ななこのいうことはかならず当たるんだ」
「帰れないって、どういう意味?」
「百合川のいない世界には、もう二度と帰れない……」
「大上くん、帰りたい?」
「帰るもんか。どんなことがあったって。ここにいるよ、百合川が目をさますまで」
「うん。いつも目をあけると大上くんがいる……そんな毎日だったらいいな。そうでないと、とても不安だもの」
「もう約束したよ。きみが目をさました世界に、かならず僕はいるさ」
その約束が果たされないことを、僕はまだ知らなかった。
SEEK10
“ボヘミアンガラス・ストリート”で、小雪ちゃんを待っているところを、悪友の安田に発見されてしまった。
「ウッルフちゃん!」
その軽薄度を千倍に希釈すると、ようやく正常人のレベルになるという安田の声を、僕は誰かが吐き捨てたガムを、靴の裏で踏んづけた気分になって聞いた。
「おーっ、奇遇だ、奇遇だ! まさかウルフちゃんがこんな場所にいるとは。今頃はてっきり、ブちックホテルに彼女としけこんでるとばっかし思ってたかんね!」
「ブちックホテル?」
「またの名はファッション・ホテル、ラブホテル、連れこみ宿、サカサクラゲ、温泉マークといろいろありますがね、古いところでは出会い茶屋なんぞと申しますが、要するに、スキスキスキっていう男女がキモチヨーイことをしちゃう場所。拙は納得いきませんな、モテモテのウルフちゃんが、こんな無粋な男女が待ち合わせをする時代遅れ、アナクロチックな場所で油を売ってるなんざ、本当に」
「あーあ、教養があるのはわかったから、静かにしてくれない? 心静かに詩集なんぞを読んでいるところなんで」
「宮沢賢治の“春の修羅”ねえ。すけべなウルフの旦那にはちょっとミスマッチでげすな! ところで、ねえ、ウルフの旦那、スケバン百合川と仲睦まじいのは結構でやんすが、ちょっと雲ゆきが怪しくなってきたようよ」
「頼むから、その変な喋りかたはやめて貰えない? この高尚な場所のいい雰囲気を堪能していらっしゃるかたがたに、すっごく迷惑を及ぼしているようだから……」
くぇけけけ、と安田は喉が裏返るような奇妙な声で笑った。
「なんとおっ。旦那も隅におけない。真面目純良印高校生みたいな顔をバッチリきめながら、学校エスケープの常習犯……いいんですか、いいんですか、どんな物凄い噂をたてられても?」
「いいですいいです。想像はつくから。俺の知ったことじゃないからね」
「おっ、居直りましたな。百合川関係の情報、本当に聞きたくない?」
「うーむ。安田くん。きみの売り込みかたは根本的に間違っている。たとえば、こう売りこまないと……百合川のおっかない彼氏が、転校生の大上とかいうクソナマイキなガキに、ズージャを一発かまそうとして捜しまわっている、そんな噂はどう?」
安田はがくっと体勢を崩した。
「な、なんでそれ、知ってるの? 百合川に聞いた?」
「いや、聞かないけど、そんな噂がでる頃だろうと思って」
「ところでズージャって何?」
「よくわからないけど、物凄いことをするという意味じゃない」
「いやいやいや、おちついてるねえ、さすがは学園無宿のウルフの旦那。ガセネタだってんで、完全無視?」
「本当かも。ありうることだしね。百合川ってすごい美少女だろ? 百合川に懸想してるどこかのワルが、恋敵をばらしちまおうと思いたつのは、自然のなりゆきで」
「いいの、そんなにおちついてるけど。百合川っていうのは、いつも周辺でおっかないことが火事みたいに起こってる女だぜ。火の手が消えたことが一度もないくらいで」
「でも、百合川は走り屋から足を洗ったんだ。もうゾクとは関係ない。バイクにも乗らないし、危険な場所にはでむかない」
「よしんば、そうするとしても、向こうからでむいてきたらどうする? 百合川はゾクの連中に狙われているんだろ? 自宅の前に張り込まれて攫われたら?」
「安田くん、そゆ余計なことはいいっこなしだよ」
僕は、安田の奥襟を掴んで、彼の顔をひっぱり寄せた。
安田は本気で驚いていた。僕がシフトを変えることを知らなかったんだ。
「縁起でもない、と昔からいうだろ? 不吉なことを言葉にすると、本当に不吉なことが起こってしまう、と昔の人は信じてたんだ。だから忌み言葉というものがある。だけど、心配しなくてもいいよ。安田の心配するようなことは、絶対に起きない。つまり、忌み言葉とはちょうど正反対の、強いパワーを持った言葉によって、不吉な可能性を変えてしまうんだ。だから、百合川は大丈夫だ。ゾクの連中は決して百合川に近づかない……」
「驚いたな……円くん。ウルフちゃん。きみは本当に呪術師ってわけだね。俺、百合川があんなに素早く、急激に変わるなんて思わなかった。邪眼の魔女みたいな恐ろしい目をしてた百合川が、今は幼稚園の保母さんみたいに優しくなってるんだもんな。いやっ、心から敬服した! 尊敬してます、役行者小角の再来、ウルフの円くん!」
「ひとつおぼえておいてくれないか。このことは内密に……悪い呪術師との約束を破ると、ちょっと大変なことになるぜ。わかるだろ、いいかな安田くん……」
「おっと、今度は脅迫かっ。みずから悪い呪術師と名乗るのかっ。すげーな、やることが。ほんっとうに迫力あるよ、ウルフちゃん。話に聞けば、きみのめちゃ可愛い高校一年生の妹たち三人、ボーイフレンド募集中だそうじゃないの? できれば、この安田も兄のエンくんのコネで、立候補したいなあ……と思ってるわけで。どれでもいいから、妹をひとりわけて。みんな劣らぬ美少女だし、エンくんを義理のお兄さん、なんて呼んじゃったりしたいわけ」
「おー、いいとも。安田くん、きみを妹たちの餌に投げ与えるぐらいお安いご用だよ。ただし妹たちは男をおもちゃにして、骨までしゃぶる魔女だからね、やつらの気の毒な奴隷になりたければご勝手に」
「本当? なんだか二の足を踏んじゃう。私を脅かしているんでしょう?」
「疑うな。妹たちは、魔女なんだ。本物の恐ろしい魔女だからな。それを覚悟の上なら、いつでもきみは彼女らの餌だ」
「うーっ、迷っちゃう! 本当に迷っちゃうよ! でも、あれだけの美少女たちなら、たとえ食い殺されて、骨までしゃぶられても、本望かも!」
「きみには負ける、安田くん」
僕は詩集を閉じて、ベンチから立ち上がった。
「魔女の食事のお時間だ。妹がきたよ」
安田の表情の変化は見もので、めっきり人の悪くなった僕は、それをたのしんだ。
目を剥くとたいていの人間は間抜けづらになる。
鼻孔がかぽっと開き、下顎が垂れてお口あんぐりだ。
それをじっくりと観察してのけるのは、僕のシフトが変わっているせいなんだ。
ゾクという物騒な相手にいつ囲まれるかわからない、という警戒体制にある僕としては、ぬけめのないところを機敏に発揮しなければならず……お口あんぐりのオマヌケな平時の僕ではいられないわけで。
うわったったった……と異語(意味不明の霊的言語)を口走って、僕の背後にまわりこんだ。
安田のほうが背が高いのだから、楯にとったって無駄なんだけれど。
「い、妹? 嘘つけ! あれは超不良の百合川の舎弟、白山小雪じゃないか……なんでおまえが? わかった、大上、おまえは百合川だけじゃなく、白山まで手をだしてるんだな?! こぉの、超スケコマシが!」
興奮に我を忘れて、安田は背後から僕の背中にパンチの連打を食わせた。
「この、この、このっ。おまえってやつは、おまえってやつは……なんて羨ましい! 絶品揃いの美人の妹三人だけじゃ飽きたりず、あんなすごい美少女ばっかしコレクションしやがって!」
「おー、いったな! 今、おまえがぬけぬけといったこと、全部小雪ちゃんにばらしてやる!」
「こ、小雪ちゃん! もうそんなに親しい仲に!? だめっ、だめだめっ、どれでもいいから、ひとりでいいから、ぼくちゃんにもわけて、お願い!」
「おまえは、ほんとにそればっかりだな……」
小雪ちゃんは、いつものボールが弾むような弾力に富んだ足取りじゃなかった。
めっきりと歩きっぷりが悪かった。
ま、女性には時期によって、そんなこともある。だが、いつもとちがうことは歴然としていた。
“ボヘミアンガラス・ストリート”には、全幅三十メートルもある、人工滝が造られており、絶え間なしに落水が石壁を滑り落ちている。
ルクスの強い照明を浴びて、流れ落ちる水の壁は複雑微妙なうねりと波紋を重ねて、その千変万化する眺めは、じっと凝視しているうちに催眠作用さえもたらすほどで……僕などは本当に自己暗示にかかってしまうんだ。
小雪ちゃんの足取りは、人工滝のあたりでにわかにのろくなり、ついにストップしてしまって……ぼんやりと滝の落水に見入っている。
「小雪ちゃーん、こっち、こっち!」
声をかけると、やっと意識がもどり、こっちに顔をふりむけた。
「あっ、ウルフさまぁっ!」
その甘美な響きのある声音は、周囲の人々の注意を惹くのに十分すぎるほどで、居眠りしている高齢の老人までが、パッチリと目をあけて、手をふり返す妖精じみた細身の少女に見惚れた。
「ウ、ウルフさま、ウルフさまだと?! おまえのことだな、大上、おまえのことなんだな!?」
嫉妬と羨望に燃えあがった安田が、僕の首に腕を巻きつけて締めあげた。
「おまえは許せん! 大上、おまえはおれの永遠の怨敵だ!」
「ウルフさま、どうなさったんですか?」
小雪ちゃんは、ふたりの揉みあいを見て、みるみる目を怒らせた。
「おいっ、こら、おまえ! わたしのウルフさまから手を放せっ。延髄切り、叩っこまれたいかっ」
「いやっ、これはちがいますっ、単なる親しい友人同士のふざけあいでっ。な、そうだろ、大上っ、なんとかいって、お願いっ」
「小雪ちゃん、こいつは僕を怨敵と呼んでる同級生で、安田というんだ。いつも僕の首を締めたり、後ろから角材で殴ったり、プロレスの技をかけて僕が痛がるのをたのしんでるやつなんだよ」
「さては、おまえはいじめっ子だな! このやろー、ウルフさまをいじめたりするやつは、このあたしが許さない! 足の二三本へし折ってやるから覚悟しろい!」
「よせっ、やめてっ、お願い! 本当に冗談なのよ冗談!」
「冗談かどうか、たった今、この軽薄な同級生が、小雪ちゃんと百合川のことをなんていったか、正確にリプレイしてみようか、安田?」
「やめろっ、よせっ、殺されるっ」
「小雪ちゃんや百合川や、すごい美少女ばっかり僕がコレクションして、羨ましい……そういったんだよな?」
「死ぬっ、死ぬっ、逝っちゃう! 逝っちゃう!」
「まー、そういうことだったら、許してもいいけど、あたしのウルフさまに手をかけたら、許さない。あんたにも、その薄い胸板にエルボー・ドロップを食わしてあげるから、覚悟することね」
妖精ふうの細身の小雪ちゃんが、相手は男であり、痩せ型といっても十センチ背が高く、二十キロ体重でうわまわる安田に脅し文句をはくのは、ちょっとした見ものだったわけで……僕はそのさまを十分たのしんだ。
「はいっ、はいっ。もう二度とウルフさまの尊いおからだには手をかけたりは、決して決していたしませんので、重々反省しておりますので、この先はウルフさまをわが義兄として深く深く敬って参りますので」
僕の体を楯にとろうとする安田を、小雪ちゃんが追いかけ、安田が逃げるので、ふたりは僕の周りをぐるぐる回った。
「もういいよ、そのへんで。安田が本気で技をかけたって、この細腕なんだから、たいした被害はないんだし」
「そうっそうっ、ぼくが本気で技をかけたって、ウルフさまは痛くも痒くもないわけで、苛めるなんてとんでもないことで」
「でも、ウルフさまは病弱でいらっしゃるから……」
小雪ちゃんがぎゅっと強い眸で、へこたれている安田を睨む。安田は本当にこわかったらしい。後でしっかりと沢山の愚痴をこぼされた。
「滅多なことがあったら承知しないからっ、いいねっ」
「はいっ、もちろんもちろん、滅多なことなど絶対にあってはならないことで」
ようやく安田は解放されて、交通量の多い大通りを横断する猫のように、一目散に逃げていってしまった。
「大丈夫ですかぁ、ウルフさま……頚椎なんかずれたりしませんでした?」
「なんともないよ、小雪ちゃん。それより、小雪ちゃんのほうこそ顔色わるい。さっきもカスケード(滝)の前で、ぼうっとしてなかった?」
「ご、ごめんなさいっ」
小雪ちゃんはいきなり、僕の腕にしがみついてきた。
「せっかくのウルフさまとのデートなのに、あたし、不調なんです! 昨日から変だったんですけど……今朝になっても治らなくって」
小雪ちゃんのおしつけてくるからだは異様に熱かった。
「こ、小雪ちゃん、きみ熱があるよ!」
「え、ええ……なんか寒気がして、風邪かななんて思ってたんですけどね。でも、だいじょうぶです。ウルフさまとのデートですから、風邪ぐらいに負けません!」
小雪ちゃんの顔をよく見ると、大きな眸が潤んで、顔があかかった。額に手を当ててみると、掌が焦げそうな熱さで……
「だめだよ、小雪ちゃん! こんな高い熱だしてるのに、なぜ黙ってたんだ?! こんなことしてると、ぶっ倒れちゃうよ! 早く家に帰って休まなきゃ!」
「だって、だって! せっかくのウルフさまとのデートなのに! 家で寝てるなんて、そんなのいやですよおっ」
「ばかだな。べつに僕とのデート、逃げやしないよ。無理して病気をこじらせたら、それこそデートが逃げていっちゃうよ。でも、なぜ熱だしたんだろう?」
「熱、伝染(うつ)ったのかもしれませんね。この間、螢さんが熱だしたばかりだし……やっぱり螢さんの、風邪で、伝染したんでしょうかね」
「だって、百合川のだって、ただ高熱がでただけで、風邪みたいじゃなかったぞ。いきなり熱が下がったら、完全に治っちゃったし」
「螢さんは、ウルフさまの高熱を伝染(うつ)されたんだっていってましたよ……でもいいんです、みんなお揃いですから。ウルフさまの熱が、螢さんを経由して、あたしのところにやってきたんなら、歓迎します。うれしいです……」
「おいおい、小雪ちゃん。早く家に帰って休まないと……送ってくから」
「いやです。熱があるくらい、何ともないですから。しばらくすれば治りますから、予定通り遊びにいきましょう」
「だめ。百合川が大熱出して大変だったの、知ってるじゃないか! 濡れタオルがみるみる蒸気をあげて乾いちゃうほどの熱だったんだぞ。静かに寝てなきゃだめだよ」
「いやですぅ……家に帰りたくないんです」
「なんで? 何か特別の理由でもあるの?」
「今、男の人が家にきてるんです……お母さんの愛人なんです」
にわかにはりつめていた気力がぬけだしたように、小雪ちゃんはぐんにゃりなってしまった。びっくりして、僕は彼女に肩を貸した。
「お母さんの……愛人?」
「そうなんです。こんな内輪話したくなかったんですけど……わかりますか? あたしが絶対に家に帰りたくない理由が」
高熱で潤んだ眸で、小雪ちゃんは僕の目をじっと見つめた。
「お父さんの想い出がいっぱい残ってる家の中で、お母さんが違う男の人とセックスするの、いやなんです。ラブホテルへいけばいいんですよ……」
「わかった……それなら、僕の家へいこう。昼間はだれもいないはずだから、ゆっくり寝ていられるはずだ」
「うわーっ、それ、本当ですかっ」
小雪ちゃんの声は弾んだが、からだに力はなかった。発熱でひどく火照ったからだを、ぐったりと僕に預けてきた。
「光栄です。うれしいです……でも、ウルフさまのご迷惑になるんじゃ……?」
「フレンズだからね。困ってる時に、肩を貸さないフレンズなんかいないよ」
「そうかあ、フレンズですよねえ……」
呟いた小雪ちゃんは、急に気落ちしたようにずるずると滑り落ち、足元にうずくまってしまった。
「もー歩けません。ごめんなさい……」
僕のように病弱といわれる少年が、小雪ちゃんみたいなめだつ美少女を両腕に抱いて、“ボヘミアンガラス・ストリート”から運びだすさまは、さぞかし見ものであって……いざとなれば、やってみるもんだな、と感想を述べるしかない。
とにかくタクシーに乗せて、小雪ちゃんを僕の自宅まで連れ帰った。
親父は常に帰宅せず、妹たち四人は学校と幼稚園で不在中、自宅は完全にひとけがなくて。
小雪ちゃんが高熱をだしているのでなければ、胸がどきどきして平静さをなくしたにちがいない。
本当のところ、小雪ちゃんが高熱をだしていようがいまいが、僕が平静でいられるはずがなかった。
一度、どっと発汗が始まると、纏っている衣服を全部脱がせて、汗を清拭してやり、シーツなど寝具をとり替えなければならないんだ。
それは、前に百合川のところで経験したことであって……いや、それが夢でなく本当だったのかどうか確信がないが、今度の小雪ちゃんの場合は、夢でも幻でもないのだ。
横抱きにするほど腕力に欠ける僕は、タクシーでマンションの前におりたった時は、小雪ちゃんを背中におぶった。
小雪ちゃんは、その頃はものすごく発熱し、背中にストーブを背負ったほどの熱気が滾っていた。
こちらも目が眩むほど汗をかいていたから、どれだけの視線を自分が浴びたか、まったく意識しなかった。
都会に住む人間の習性で、だれも声はかけないくせに、いやらしい好奇の目で注視されたことは間違いなかった……
僕のベッドに、小雪ちゃんを横たえる前から、激しい発汗がはじまった。
僕の着ている衣服も、背中におぶさった小雪ちゃんの汗が染み通って、まるで夕立に降られたみたいに濡れそぼった。
この発汗がすごいのだ。百合川の時も同じで……ふっとその情景が蘇ってきて、僕は驚いた。
どうしても具体的なイメージを蘇らせることができなかったのに、小雪ちゃんの発汗ぶりを見ていると、昨日のことのようにまいもどってきたんだ。
「すみません……すみません……あたし、汗をいっぱいかいちゃって……ベッド汚しちゃいますよ……」
僕のベッドに横たわった小雪ちゃんは、譫言のように口走った。
僕は彼女からジャケットを脱がせただけで、とりあえず寝かせてしまったんだ。
噴きだしてくる汗が、みるみる彼女の顔を濡らしていく。
自慢じゃないけれど、わが大上家では、しょっちゅうファミリーのメンバーのだれかが、とっかえひっかえ発熱しては寝こむので、その準備はばんたん調っている。
冷蔵庫をあければ、額を冷やすためのアイスノンがぎっちりと冷凍庫に詰めこまれている。
製氷能力も凄くて、浴槽を氷風呂にすることだって可能だ。
僕は予備のタオルをひとかかえ持ちだして、濡れタオルを製造した。
発熱はもちろん、発汗もこれから本格化する。
マットを水を張った浴槽にぶちこんだほどに、小雪ちゃんは大量の汗をかくんだ。
小雪ちゃんをベッドに横たえた時に、すぐ脱衣させて、パジャマに着替えさせようかといったんは思った。
思いとどまったのは、なんとなく自信がなかったからで……小雪ちゃんも明確な意識があり、発熱のためふだんより十倍ぐらい潤んだ眸で見つめられると、胸の動悸が激しくなり。理性をとりとめる確信が持てなくなって。
ブラウスを脱がせたり、ブラジャーをはずしたり、小振りなかわいい乳房が露出するのを見たりすると、僕は……やっぱり自信がなく。
「そばについていてくださいね、ウルフさま……」
小雪ちゃんは汗まみれのぬるぬるする手で、僕の手首をしっかりと握りしめると、思いがけないほどの力で、僕の上体を自分にひき寄せた。
「どこかへいっちゃ、いやですよ。なにをしてもいいですから、そばにいてくださいね……」
なにをしてもいい、とは、どういう意味なのだろうか。
まさか小雪ちゃんは、高熱で意識を失った間に、その妖精じみたかわいいからだを、僕が看護の名目で裸体にして、人の道にはずれた……さまざまな変態的行為をすることを、期待している、のでは?
「汗を拭くだけ、シーツを換えるだけだよ。何も悪いことはしないから……」
僕は掠れ声で約束した。
彼女は僕の手を放さず、にこっとわらって目を閉じた。そのまま眠りこんでしまったようだった。
百合川についで小雪ちゃんまで……ふたりもの美少女の裸身を隅々まで見ることになってしまったわけで。
僕の手は震えた。
タオルを掴んだ手が頼りなくなった。
この手が何をするかわからないので……僕には全然、自信というものがなくなっていたんだ。
(俺というやつは、つくづくすけべにできてるんだな)
いまさら、それがわかったわけでもないのに、と僕は自嘲的に考えた。
それを考えない日は一日としてなかった。
百合川や小雪ちゃんのことをイマジネーションの中で、どれほど弄んできたか。汗だらけになるまで想像力を凝らしてきたんだ。
百合川の白い柔肌、小雪ちゃんの滑らかな浅黒い肌、それが僕の想像力の中で現実に等しいまでにリアルになっていた。
僕はすけべでいやらしいやつであり、許せない恥知らずだった。
百合川たちが、僕の赤裸々な内面を知れば、深く深く軽蔑して、僕に対して口をきくどころか、視線を向けることすら拒むだろう。
想像力で創りあげた世界の中に誘いこんだ小雪ちゃんを相手に、僕は数えきれないほどの火柱が全身を走りぬけるクライマックスを味わっており……その想像力で創りあげた仮想現実が、やがて本物の現実となって具現化することは、避けられないなりゆきだったかもしれないんだ。
しかし、僕に根本的な勇気が欠落していることも事実であって、いざとなると何もできないのではないか、男性としての能力を喪失してしまうのではないか、そんな危惧もあり……僕は二重三重の板ばさみという情けない状態にあった。
けっきょく、僕はベッドの小雪ちゃんにつきっきりで、融けたアイスノンをとり替えたり、濡れタオルで汗を拭いたりの作業に終始することになって。
一時間ほどを、そうやって過ごしたのだけれど。
電話が鳴った。でたくはなかったのに、習性でつい受話器をとった。
「円くん、あたし百合川。小雪がそこにいってるの?」
僕はごくりと唾を飲んだはずみに、気管にまぎれこんでしまい、こんな苦しいことがあるかと思うほど激しく咳きこんだ。
これは神罰だと思ったくらいで……
「どうして、それが……」
「だいじょうぶ、円くん? すっごく咳きこんでるけど……クラスの安田のやつに尋いたの。ちょっと緊急で、小雪に連絡しなくちゃならないことがあって」
「ちょっと、待って……」
僕は狂ったように、周囲を見回した。
なにか犯跡が残っていやしないか、それを糊塗しなければ、と馬鹿げた考えに操られてだ。
それは、明らかに想像力で創りあげた世界での行為と、現実が交錯し、いりまじってしまったからであって……まっかな火照った寝顔で苦しげな息をついている、ベッドの小雪ちゃんを見て、やっとそれに気づいた。
彼女が全裸でベッドに寝ており、脱がせた下着や衣服があたりかまわず散らばっていて、現場へ踏み込まれれば、弁解の許されない事実を見られてしまう……そんなパニックに一瞬の間、僕は掴まってしまっていた。
「どうしたの? 大上くん、とっても変よ」
「待って、今コップの水を飲む間だけ」
僕は水が食道を冷たく流れ落ちるのをおぼえながら、まだ犯跡を晦ます必要があるかどうか、点検をつづけていた。
僕というやつは、本当にせこくて、百合川に知られれば、必ず軽蔑されるにきまっている……
「小雪ちゃん、熱をだした」
水を飲んだおかげで、やっと声らしい声がでた。
「すごい高熱だ。百合川と同じような……今、僕の家に連れてきて、寝かせている。小雪ちゃんがどうしても自分の家に帰りたくないって……人がきているらしい」
「わかった」
しばらくの沈黙の後に、百合川はぽつんといった。
何を考えているんだろう、と僕を不安にさせるのに十分なだけの沈黙だった。
「よく、わかったわ」
「で、どうする、百合川は? こっちにくる……いや、きてくれる?」
僕は固唾を飲みながら、いった。
百合川の沈黙にはそれほど僕を脅かすものがあったんだ。
「いったほうがいい?」
「だれもいないんだ、今。妹たちは学校だし、ななこは幼稚園だし。親父は滅多に帰ってこないし」
「じゃあ、大変ね。小雪の面倒を見るのは。すぐにそっちへいくわ。でも、本当にあたしがいってもいいのね?」
「どうしてそんな……もちろん、百合川がきてくれたらたすかる。なぜ、そんなことをわざわざ尋くの?」
「いろいろ都合があると悪いから。でも、お許しがでれば伺いますけど」
百合川は意地悪だった。それは、僕の心をお見通しだとしか思えないほどで。
「そんな皮肉めいたこといってる時間があったら、きてくれよ、すぐに!」
「じゃあ、いくわね、一分で」
一分? たった一分?!
つまり、百合川はこのマンションの真ん前にいるということじゃないか!
僕はどたばたとつんのめるように、マンションの正面が見渡せる窓へ走り、がらっと開け放った。
マンションの前の道路をはさんだ歩道に、百合川が佇み、こっちを見上げているのが目に映じた。
その大きな眸が琥珀色なのかどうか、そこまでは見えなかった。
「おーい!」
僕は手を振ったが、百合川はこたえず。
車の往来を右、左とたしかめて、小走りに道路を渡った。
そのフットワークは軽くて、先日発熱していた時の後遺症はまったく窺われず。
玄関のチャイムが鳴る前に、僕はドアを開けて待っていた。
百合川はエレベーターを下りて、ドアまでくる間も、にこりともしなかった。
とり澄ました表情で、こちらの感情移入を拒んでいた。
それは、つんとしている、といったほうが正確な表現であって。
「お邪魔します」
百合川は、僕の目をまっすぐに見ていたが、他人を見る目つきだった。
琥珀色の眸でこそなかったが、暖かさが欠けていた。
「小雪、大丈夫なの?」
「だと思うんだけど……まだ当分のあいだ、動かせないと思う。熱がひいて立ち直るまでに、三日から四日……」
「あたしの場合もそうだった。小雪、あたしに伝染(うつ)されたのかしら?」
「伝染性じゃないから」
「そうかな? あたしの場合は、明らかに円くんに伝染(うつ)されたと思うんだけど。ちがう?」
「何の熱だか、わからない」
「円くんの家族、妹さんたちもいれかわりたちかわり、熱をだしてるんだって?」
「だれに聞いたの?」
「妹さんのひとり。円くんはそのこと、話してくれなかったけど」
「だいたい、一箇月に一度ね……熱がでるんだ。数日つづいて、ぱたっと終わり」
「いやだ。それじゃ、まるで女性の毎月の……」
「そうなんだ。僕の場合はほぼ正確に29日周期で」
「あたしといっしょだ」
思わずいってしまって、百合川は顔を紅潮させた。
「なぜ、いってくれなかったの?」
そんなこと関係ない、といわんばかりの語調で。
「そのうち、わかると思って……」
「ななこちゃんもそうなの?」
「うん。だけど伝染病じゃないよ。みんな発熱の周期をそれぞれ持ってて、もう三年間ずっとつづいてるし」
「大上家のしるしかな?」
「よくわからないんだ。でも、あまり人に話せることじゃないしね」
「もっと早く、あたしには話して貰いたかったな」
「うん……怒ってる?」
「ほんの少しね。でも、円くんがまだあたしにいわない、いえないでいることが……秘密がどっさりあるのもわかってる」
「そのうちに話す機会があると思って……」
「わかった。もう拗ねたりしない。催促はしないけど、わかって貰いたかった……」
「ごめん」
問題が、小雪ちゃんにあるのではない、とわかって、僕は安堵で体が痺れるようになった。
百合川が冷やかな眸になると、僕の健康状態は悪化しそうだ。
「百合川が冷たい目をすると、僕は病弱になるよ」
「だって、今でも病弱なんでしょ?」
「妹たちがね、百合川が僕に親切にしてくれるのは、ただ憐憫を感じているだけだって、そういったよ」
「ひどい」
「百合川は弱いものや虐げられているものに優しい。強者にはハードになるけど」
「気性だから。ただ単細胞でばかなのかもね」
「百合川を見ていると、心が痛む」
「どうして? あたしがばかだから、同情して? それこそ憐憫ね」
「恥ずかしいんだ。僕は卑怯で、狡い……うまく立ち回ることばかり考えてるし。だから、百合川の顔が……その綺麗な眸がまともに見れない。うしろめたくて」
「円くんが、そのかわいくて優しい目の奥で、エッチなこと考えてるの、知ってるわよ。男ってみんな同じね」
「だから、百合川の目を正視できない。すぐに見破られてしまうから」
「いいわよ。我慢できなくなったら、教えるから」
「ビンタ一発でね」
「それは覚悟して戴かないと」
百合川はくすっとわらった。すこし緊張がやわらいだわらいかただった。
「それはともかく、小雪の面倒はあたしが見るけど、円くん、いいの?」
「なぜ、僕に尋くんだい?」
「だって、円くんのおたのしみをとりあげてしまうことになりそうだから」
「本当のことをいうよ。困ってたんだ。百合川の時は、まるで夢を見てるようで、よくおぼえていない。だけど、今日は意識が鮮明で、なにひとつ忘れそうもないから。克明に全部おぼえていられたら、小雪ちゃん、後でいやな思いをするんじゃないかって」
「そうかな? 平気じゃないの。小雪は、円くんなら、全部見られてもいいと思ってるかも。でも、円くん、責任重いわね。なんだか、かわいそうになるくらい」
(それで、きてくれたの?)
その質問を、僕は喉の奥へ逆もどりさせた。
耐えがたい重みが突然、萌してきそうな予感、強迫観念に捕らわれたんだ。
小雪ちゃんは、百合川と僕の間にうちこまれた、大きな楔であり……百合川もそれを知っている。
だけど、その暗黙の了解は、決して口にだしてはならない、禁忌なんだ。
「後は百合川にまかせたよ。下着とか必要な着替えはどうしよう?」
「後であたしが調達してくる。小雪は、本当はあたしよりも、円くんに看病して貰ったほうがうれしいでしょうね」
「そんな……」
「円くん、実をいうと、あたし変なんだ」
と、百合川は僕に向き直っていった。その眸が揺れていた。
「あたしのからだ変。何かが起こってる。円くん、心当たりない?」
「変化って、どんな変化?」
「ちょっと、口にだしていえないんだけど」
「微妙な?」
「そう。今度手紙に書くね。今は恥ずかしくていえない」
「ひとつだけ……それは好ましくないこと?」
「だと思う……でも、やっぱりはっきりとはいえない」
わかった、と僕はいうほかはなかった。百合川の見せている含羞は、相当にプライバシーの深みに触れそうな感じで、それ以上言葉を重ねて追及できない、と感じるようなものであって。
小雪ちゃんの世話を焼くのは、やはり百合川ひとりの手にはあまり、僕の力を必要とする場合は、いやでも(だれがいやなんだ?)たちいらざるをえなくなった。
「ちょっと、円くん、向こうを向いてくれない?」
「?」
いわれた通りにすると、いきなり両眼の上に手拭いが巻きつけられたりして。
「どう、見えないよね?」
「うん、まあ……」
目隠しをされても、やはり鼻梁の間には僅かな隙間が生じて、視界を完璧に奪われるなんてことはないのだ。
「じゃ、ちょっと手を貸して……」
「どうするの?」
「小雪の着替えをするの。だから目隠し……絶対に目隠しをとらないで」
「わかった」
「一度、汗ができったら、からだを固く絞った濡れタオルで拭いて、とり替えるの。妹さんの浴衣、お借りしてもいいかしら?」
「いいよ。でも、目隠ししてるから、どこにしまってあるかわからない」
「もう見つけてあるわよ。浴衣、後で新しい品でお返しするわ」
「そんな必要はないけど。百合川はこの家のこと何でも知ってるみたいだね」
「夢で見たのかもね。実際にここへきたみたいにビビッドな夢……」
「百合川、何してるの?」
「物色してるの……小雪のからだを起こすから手伝って。下着とか全部脱がせるから。絶対に見ちゃだめよ」
百合川の手と僕の手が絡みあった。
小雪の肩や胸に手が触れるのは、思いがけないほどの強度のスリルであって。
「ちゃんと支えていて。今、浴衣を着せるから。おかしなところにさわっちゃだめ」
「さわらないよ! でも、汗で手が滑るんだ」
眠ったままの小雪ちゃんの体はぐにゃぐにゃに弛緩していて、頭がいやに重く安定を欠き、肌は汗でぬめり、しっかりホールドするのは予想外にむずかしく……僕は緊張と刺激とで汗をかいて、疲れた。
「もう一度お絞りで体を拭くから……ちょっと手を放して……だめ! 全部手を放しちゃったら! もう」
「無理だよ、目が見えないと、どこをどうすればいいかわからないし」
「わかったわ。目隠し外してもいいわよ。その代わり、あんまりじーっと見ないのよ」
「でも……いいの?」
「しょうがないじゃない? それに小雪は、円くんになら肌を見られても、平気だろうから……」
その後は、溜め息が出るようなことばかりで……できるだけ目をそらしていようとしたが、見まいとしても見えてしまうものはしかたがない。
「かわいいでしょ、小雪の生まれたままのからだって」
「なんとも、お答えしようがありません」
「顔があかい」
「それをいうなら、百合川だって」
「なんか、どきどきしちゃった。女同士なのに、変ね。それとも、シチュエーションが刺激的なのかしら」
無事に浴衣を着せ終わった。
「あれ、これって妹たちのじゃないな。ちょっと地味でおとなっぽくて、昔のものみたいだ」
僕は、その浴衣の生地が、どこかで見覚えがあるのに気がついた。
妹たちのものではない。彼女たちは、こんな柄模様の浴衣は着ない。
ばばあっぽい、と決めつけるだろう。
「そこのサイドボードの上に乗ってたのよ。クリーニングの透明な袋に入って」
「浴衣なんか、今着る時期じゃないのに、変だな」
わからない。妹たちのだれかがやったことだろうけど、その意図については、謎に包まれているとしかいいようがなくて。
「これでよし、と。シーツが寝汗でぐっしょり。やっぱり何度も換える必要があるわね。マクラカバーとか上掛けのカバーとか」
「必要なら、いくらでも使ってよ。かまわないから」
「あたし、下着とかいろいろ買ってくる。どうしても必要になるものだから。円くん、彼女を見ててね」
「僕もいっしょにいくよ」
「だめ。やっぱり付添いがついていなきゃ。それに、女の子のかわいい下着やらなにやら、いっしょに品定めする勇気ある?」
「あ、それはパス! パス!」
「それじゃ、お留守番、お願いね」
「早く帰ってきてほしい」
「どうして? 自信なさそうね」
「自信ないです。裸かのかわいい女の子といっしょに残されたら、自制心が、そのちょっと」
「だけど、裸かの湯たんぽより熱いわよ。火傷したいならかってにしなさい」
百合川は玄関のドアーをばたんと鳴らして、でていった。
僕はそのまま、部屋にとどまって、かたづけにかかった。
小雪ちゃんのジャケットやミニスカート、ブラウスなどをハンガーにかけて、自然乾燥させて。
だが、百合川が小雪ちゃんのからだからはぎとった、ブラジャーやパンティなどの下着類、ロングソックスは、どうすればいいか。
洗濯機に放りこむか、それとも紙袋にでもとりあえずつっこんでおくか。
下着に手を触れたのが、間違いのもとだった。じっとりと重く汗で湿ったパンティーは、妖しく色っぽくておとなっぽくて……小雪ちゃんはなんで、こんなにアダルトな下着を身につけているんだろう?
妖精とか天使みたいなセックスレスの魅力があるんだから、アダルトな下着はちょっとミスマッチで。
僕の五官は疲労のためか、鋭く研ぎ澄まされていて、特に匂いに鋭敏になっていた。
小雪ちゃんのパンティの匂いを嗅ぐつもりなどなかったんだけれど、身裡にぞくっとする妖しい興奮が突き上げてきて、それは強烈な悪徳の味わいがあり……くらっと頭の芯が痺れて、理性が蒸発し、それに顔を埋めそうになってしまって。
「きゃああっ、何やってるのおっ、お兄ちゃんっ」
強烈な糾弾の叫びがあがり、僕はその手に小雪ちゃんのアダルトな下着をかざしたまま、氷柱のように凍り付いてしまった。
そのパンチの効いた糾弾の声音は、まさしく妹ほくとのものであって、彼女が兄に劣らず、エスケープの常習者だということを、僕はけろりと忘却していた、不運であった。
「エッチっ、すけべっ、この変態男おおっ」
ほくとは手に下げていた、ペーパーバッグを、僕めがけて放り投げた。
「許さなあいっ、いくら兄貴だってえっ、ひとのパンティーをををっ、いやらしいいいっ」
ペーパーバッグは宙を飛んで僕に襲いかかると、たいした重みもないのに、まるでハンマーパンチを食わせるみたいに、僕をふっとばした。
ほくとは、前に話したように特殊な“気”の使い手で、特に感情が激発した時には、その威力はすさまじく。
「もおっ、兄でもなければ妹でもないいっ。ずえーったいに変態兄貴なんかと縁を切るからっ。破門、じゃなくて、義絶よ、義絶っっ」
最終的に、誤解は解けるにしても、それまでやっさもっさ、あれこれ、ぐだぐだと悶着がつづき。
変態男として一度、地に落ちた兄貴の権威はとり繕うすべもなく。
ほくとの証言によれば、僕は小雪ちゃんのパンティーを頭にかぶって踊り狂っていたそうで。
買い物からもどった百合川が、僕のために弁護してくれるまでは、いかにしても誤解は解けず。
更に輪に輪をかけてハチャメチャな兄貴の狂乱話は拡大の一途を辿り。
誤解が解けた後でも、妹たちの特殊な差別の冷たい視線は、遠慮会釈なしに僕に突き刺さりつづけた。
僕は怒った。怒るよりも断念した。妹たちは最初から僕を変態のパンティー・マニアとみなしている。何を弁解しようが、その先入観、固定観念を解消さすすべはなく。
差別精神が人間存在の根源に根ざしていることは、まさしく真実であり、家庭内ですら、差別は平然と行われ、蔑視と軽視の視線は、アンタッチャブルと化した僕を刺しつづけるのであって。
僕が血縁である家族よりも、新しい盟友である百合川や小雪ちゃんに大きく、その方向性を傾けるのは当然のことであって。
ことのいきさつを知って、百合川はおなかを抱えて大笑いした。
笑いがとまらなくなり、苦痛に悶えるほど笑いに笑った。
「間が悪いひとね、円くんって。これまで、いつもそう。本当に気の毒なバッドタイミング……でも、そのシーンを想像すると、どうしたって笑いがとまらないの、ごめんね」
「だったら、この次のビンタ、免除してくれるんだろうね?」
「それはわからない。咄嗟のことだから。かっとなった瞬間には、もう掌が動きだしているから」
「もし、妹のほくとのやつに見つかったシーンで、百合川がほくとのかわりに居あわせたら、どうしてた?」
「もちろん、ビンタの嵐!」
百合川はまたひとしきり笑いこけた。
人間には、その一生の間、しつこくつきまとい、ことあるごとにひきあいに出される故事……というものがあって、このパンティー・アフェアは、いつまでも尾をひくことになりそうで。
小雪ちゃんは、けっきょくのところ三日間、我が家に逗留し、四日目には平熱にもどり、元気回復して自宅へひきあげた。
その間は、百合川が毎日看護にきて、大上家は、毎日がお祭りのように賑やかそのものだった。
ただ、女の館と化した我が家で、唯一の男子である僕にとっては、困苦と忍耐の日々であったことはたしかで。おやじはその間、一度も帰宅しなかったのだから。
静穏がもどってから、百合川から一通の封書がまいこんだ。
毎日、顔をあわせているひとから手紙を貰うのは、ギフトに添えられたカードを除けば例がなく、奇妙な感じがするものだ。
拝啓、大上円さままいる。先日の約束どおり、レター、書いてます。ふだん手紙なんか書かないので、悪戦苦闘。これが四枚目の便箋。今度こそ最後まで書きあげるつもりでいますが……どうなることか。
いろいろありがとう。感謝してます。妹みたいな小雪のことをふくめて。人生の色彩ががらっと変わりました。みんな円くんのおかげ。その恩人くんに、わたしの人生相談をします。わたしのからだに、異変が起こったといったけど、実はたいしたことではないんです。ただ、ほそい金色のふわふわした毛が(ヘアーじゃないからね!)背中にはえてきたの。なにかの病気かと心配したけど、しばらくして(円くんのおうちから帰ってから)金色の毛はぜんぶぬけおちました。まだちょっぴり心配ですが、とりあえずご報告しますね。
今度、円くんをわたしのバイクにのせて、風をあじあわせてあげたいな。風の味、おぼえると病みつきになるんですよ。誘ったら、YESといってほしいな。書きたいことはたくさんあるけど、このくらいにしておきます。手紙の正式な書きかた、知らないので、失礼があったらごめんなさい。円くんの忠実なフレンズ百合川ホタルより。
レターの末尾には、ホタルの漫画がアイキャッチャーとして描いてあった。
奇妙なことだけど、僕はつよく心を動かされた。
何かほっぺたにくすぐったさを覚え、指でさぐってみると、その指が濡れていた。
女の子にレターを貰ったのは、そういえば初めてであり、百合川の手紙がラブレターでないのは残念だったが……僕は二十回も続けざまに読み返し、心をまたしても動かされて、泣いてしまった。
妹たちにその現場を発見されたら、お兄ちゃんは、女の子から初めて手紙を貰ったので、感激して泣いたのだ、と断定されるだろう。
もちろん、そんなことではなくて……自分の人生が、本当に大事な瞬間を迎えつつある、真の意味での転機を迎えている、と感じたからだと僕は思っているんだ。
僕の未来が、ついそこまで、迎えにやってきて、ドアをノックしている……
第一部『発熱少年』了
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