宇宙のスカイラーク
E・E・スミス/川口正吉訳
目 次
一〇
一一
一二
一三
一四
一五
一六
一七
一八
一九
二〇
二一
二二
≪スカイラーク・シリーズ≫について
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登場人物
リチャード・ボーリンガー・シートン……希少金属研究所の博士
ドロシー・ヴェーンマン……リチャードのフィアンセ
マーク・デュケーン……リチャードの同僚
ファーディナンド・スコット……リチャードの同僚
マーチン・レーノルズ・クレーン……リチャードの友人、億万長者
ブルッキングズ……マンモス企業ワールド・スチールのワシントン支店長
マーガレット・スペンサー……ブルッキングズの元秘書
パーキンス……ブルッキングズの部下
プレスコット……部長刑事
ナルブーン……マルドナーレの皇帝
ダナーク……コンダールの皇太子
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リチャード・シートンは化石になったかのように呆然《ぼうぜん》となって銅製の蒸気タンクの行方を見つめていた。
たったいま――その角型の蒸気タンクの上で、彼は未知の金属≪X≫の溶液を電解していたのである。貴重な溶液の入ったビーカーを彼は手にしていた。それを蒸気タンクの上へおろしたとたん、その全金属製の大きな蒸気タンクが、彼の手の下をすりぬけて、縦に置かれた姿のまま、どこかへ飛んでいった。まるで生きているような気味わるさだった。テーブルの上を越し、一ダースもの試薬壜《しやくびん》をこわし、開いた窓から真っすぐに飛んでいった。彼は急いでビーカーを置くと、双眼鏡をとって、もう肉眼には遠くの小さな黒点としか見えなくなった蒸気タンクへ焦点をあわせた。双眼鏡でみると、蒸気タンクは地面へも落下せず、直線をえがいて飛びつづけており、ただ黒点が急速に小さくなっていくことで、そのすさまじい運動速度が察しられるだけであった。黒点はぐんぐん小さくなり、数秒のうちにはまったく見えなくなった。
シートンは双眼鏡をおろし、催眠状態のように放心して、室内へ眼を移した。まずテーブルいっぱいに飛散したガラス壜のかけらが眼に入った。それから、何年間もいまの蒸気タンクの置いてあった、フードの下の、嘘《うそ》のような空っぽの空間に、彼の視線は釘づけになっていた。
実験助手が入ってきた物音で、彼は放心から醒《さ》めた。そして声にはださず、毀《こわ》れた跡を片づけるように眼で合図した。
「どうしたんですか、博士?」
「どうもこうも……ぼくにもてんでわからん」
不可解な出来事に気がとられていて、まともな答えはできなかった。
隣りの実験室で働いていた化学者のファーディナンド・スコットが軽い足どりで入ってきた。
「やあディッキー、大きな音がしたようだが――わっ、こりゃ! 何のお祝いをしていたんだ? 爆発だね?」
「うーむ」シートンは首を振って、「どうもおかしい、まったくおかしい。起きた事件だけを話すよ、ありのままの事実だけだが……」
シートンは事件を述べながら、大きな実験室を歩きまわり、計器、ダイヤル、メーター、ゲージ、標示盤などを一つ一つ仔細《しさい》に調べていった。
話を聞いているうちにスコットの表情も興味から驚きにかわったが、最後には友人の正気を疑う、憐れみとも警戒心ともつかないものになっていった。
「おいおいディック、どうしておかしいことを言いだしたのか知らんが、その話はどう考えたって変だよ。アラジンのランプからか、壜《びん》からか、針からか、出どころは知らんけど。そいつぁ、正真正銘の駄法螺《だぼら》だね、いちばん出来のわるい作りばなしだよ。まあ、止したほうがいいね」
シートンがぜんぜん耳もかさぬ様子なので、スコットは気の毒そうな顔をして部屋を出ていった。
シートンはゆっくりとデスクのほうへ戻り、手垢《てあか》で黒くなった古物のブライヤーパイプをつまみ、不安げに椅子へ腰をおろした。
自分の知っている自然法則を木っ端|微塵《みじん》にしてしまった今の出来事、一体ぜんたい、これはどうしたことだろう。慣性質量をもったあれだけの重量の一塊の金属は、何らかの力が働かないかぎり、飛翔《ひしょう》するということはあり得ない。それもどえらいものすごい力が働いたと考えるよりほかには解釈がつかない。原子エネルギー級の猛烈な力が働いたと想定するのが唯一の解釈である。しかし、原子エネルギーでないことだけは確かである。強い放射能はなかった……だって、もしあれば計器類がミリマイクロキューリーの百分の一程度の微量放射能でも検出し、記録したはずである。だのに計器類はすべて、はじめっから終りまで、指針ゼロに固定したままではないか! だとしたら、あの力はいったい何ものであったろうか?
その力はどこから出たのだろう? 電池か? 溶液か? 蒸気タンクか? すくなくともこの三カ所以外には考えられない。
彼は全精神をこの一点に集中した。外界のすべてにたいして、彼は聾《つんぼ》、唖《おし》、盲になり、歯のあいだにパイプを噛んでいることも忘れてじっと動かずに思案した。
やっと何かに思い当たったのか、彼は立ち上って電燈をつけ、手のひらをパイプの腹でパタパタと叩きながら、声に出して独り言を言った。
「この実験全体のなかで異常な偶然といえば、これ一つだけだ――つまり、≪X≫溶液がごくわずか銅に垂《た》れた。そしてぼくがビーカーをつかんだとき、銅線の間に短絡が起こった。……もう一度やってみられるかしら?」
彼は一本の銅線をとり、不思議な≪X≫金属の溶液が入っているビーカーへ浸《つ》けた。そして溶液から出してみると、銅線の外観が変っている。銅の表層にX金属が入れかわったと見られた。彼はテーブルから充分に離れ、導線でこわごわとその銅線に触れてみた。小さな火花が散り、パチッという音がして銅線が消えた。つぎの瞬間、ライフル銃弾が硬い物体を突き破ったような鋭い音がした。びっくりして音のほうを見ると、熱い煉瓦《れんが》の壁に小さな孔が開いている。銅線が壁を貫通してしまったのである。たしかに力が作用した! だが、どうしてだろう? それはわからないが、何らかの力が働いたことは事実である。何度でも実験できる厳然たる事実である。
彼は急に空腹をおぼえた。腕の時計をみると、もう十時である。
ちぇっ!
七時にフィアンセの家に夕食に招ばれていたのだ。婚約して初めての会食だというのに! 自分の馬鹿さかげんに腹が立ち、呪詛《じゅそ》の言葉をわめきながら実験室を出た。
廊下を歩いていくと、同僚のマーク・デュケーンの部屋から灯火《あかり》がもれている。奴《やつ》も残業だな、と彼は思った。研究所の建物を出、モーターサイクルに飛び乗ると、コネチカット|大通り《アヴェニュ》をフィアンセの家に向かって猛スピードですっ飛ばしていった。
途中、一つのアイデアが霹靂《へきれき》のように脳天を打った。着想のすばらしさに恍惚《こうこつ》となり、モーターサイクルを操縦していることも忘れ、数ブロックは熟練モータリストの勘だけが事故を避けてくれた。それでも、恋人の家近くになると、意志の力で精神を正気に立ち返らせることができた。
「ああ、危なかった。曲乗りもいいとこだった!」胸をなでおろしてつぶやいた。「何という阿呆だ、俺は! もう金輪際《こんりんざい》、こんな真似はしない。たとえ彼女が出ていけとどなりちらさないとしても、もう曲乗りはこりごりだ。百万年生きても二度としない!」
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日が暮れ、ワシントン特別区の郊外チェヴィチェーズの豪壮なお邸の庭園にホタルが飛び交《か》いはじめると、ドロシー・ヴェーンマンは着替えのため螺旋《らせん》階段を昇っていった。
ヴェーンマン夫人の心配そうな眼が、娘の背の高いすんなりした姿態を追っている。夫人はこの招宴が不思議でならないのである。なるほど、リチャード・シートンは好青年であり、ゆくゆくは一廉《ひとかど》のものになるだろうけれど、今は全く無名の科学者にすぎない。しかも社交的には永久に一介の青年にとどまるだろう。一方ドロシーには、資産家や有名人、非の打ちどころのない高い身分の人びとがたくさん言い寄ってきている。それなのにこの娘は見向きすらしない。いったんこうと心に決めたら、てんで親の言うことなど聴かないのだから、ドロシーときたら。まったく頑固な性分だわ、この娘は!
ドロシーは母親の表情には気がつかず、軽やかな歩調《あしどり》で階段を昇っていった。柱時計を見るとまだ六時をちょっと廻ったばかりだ。リチャードの写真が置いてある化粧テーブルの前に坐った。強そうな顔――かなりハンサムだわ。それに、鋭い、切れ長の大きな碧眼《へきがん》。思索家型の広額《ひろびたい》――その上に乗った剛《こわ》そうな濃い黒髪。生まれつきの闘士らしい角ばった強そうな下顎《したあご》。一目会って以来、他の男性とはあまりに違った強烈な印象を彼女の心にきざみつけたその人の写真がそこにあった。鮮烈なパーソナリティ、恐ろしいまでの激烈な行動意欲、絶対にくじけない頑張り。あれ以来、彼女の心のなかで、リチャードはあらゆる競争者を押しのけて居坐ってしまっている。化粧テーブルに坐っているうちに、乙女の息づかいは烈しくなり、頬が薔薇色に紅潮してきた。ゆたかな褐色のカールに夜の照明が戯《たわむ》れている。そして、そこはかとない微笑が可愛らしい口許にそっと浮かんできた。
異常なまでに念入りに着付けをし、最後のお化粧も手ぎわよく終え、ドロシーはゆっくりと階段を降りてきた。そして今晩の客を迎えるべくポーチに立ったのである。
三十分経った。ヴェーンマン夫人が戸口に来て、落ち着かない調子で言った。
「あのひとに何かあったのかしらね?」
「そんなことないわよ、ママ」ドロシーはできるだけ胸さわぎを声に出すまいとした。「交通が混んでるからでしょう。もしかすると、またスピード違反で捕まったのかもしれないわ。アリスがすこしお食事を延ばしてくれないかしら」
「ほんとだね」彼女の母はそう答えて、ドアからはなれていった。
しかしさらに三十分が過ぎると、さすがのドロシーもポーチから家の中へ入っていった。いつもよりすこし首筋を高く反《そ》らし、どんな弁解も受けつけまいとする硬い表情になっていた。
不在の客の皿は見ないふりをして食事はすすめられた。やがて父も母もテーブルを去っていった。ドロシーにとっては夕べの時間は終りがないようであった。やがて、いつも彼が訪れる十時になり、さらに十時半になった。……それからしばらくたった頃、シートンがやってきたのである。
ドロシーがドアを開けたが、シートンはすぐ入ってこようとしない。彼女の傍に立ったままだ。手を触れようともしない。落ち着かない眼で彼女の顔を探っている。そのシートンの表情には、ためらいの色が見える。ほとんど恐怖に近い表情である。いつもの彼とはあまりに違った顔つきなので、ドロシーの口もとに思わず微笑が浮かんできた。
「ほんとうに、ほんとうにすまなかった。でも、どうしようもなかったんだ。きみが不機嫌になる権利大ありだよ。ぼくは追いだされても文句は言えない。でもドッチー、一分か二分、ぼくの話を聴いてくれないか?」
「あたし、どなたにも決して怒ったことはないんです。でも今は事故でもあったのかと、気が遠くなるほど怕《こわ》くなりました。あなたがわざとこんなことをなさるとはとても信じられませんもの。まあ、お入りになって」
彼はホールに入り、彼女はドアを閉めた。彼は両腕をのばしかけたが、決心がつかず途中でとめた。まるで、あたまを撫《な》でてもらおうと近よった小犬が、蹴《け》られそうになって、ためらっているみたいであった。ドロシーはおかしさがこみあげ、微笑《わら》いながら彼の腕のなかへ身をゆだねた。
「何かあったの、ディック? あなたがこんなことなさるなんて、何か恐ろしいことがあったのでしょう? こんなにおかしなあなたなんて、初めてだわ」
「恐ろしいことじゃないんだ、ドッチー。異常なことが起こったんだよ。あんまり異常だから――ぼくは君にお願いしたい。ぼくが話をはじめる前に、ぼくの顔をみてくれ。ぼくの精神は大丈夫かしら。ほんとにぼくは狂っていないかい?」
ドロシーは彼を居間へつれていって、恋人の顔を灯火《あかり》に近づけた。そして眼の色を調べる素振りをした。
「リチャード・ボーリンガー・シートン、あなたが完全に正気だということを証言するわ。あたしの知っている誰よりも正気の人だわ。いいわね、さあ、お話をなさい。どんなにひどいことをしたの? コバルト爆弾で科学局を爆破したの?」
「まさか……」シートンは笑った。「ぼくの理解できないことが起こったんだ、それだけなんだよ。君は知っているだろう? ぼくがプラチナの渣《かす》を再加工してきたことを。十年も十五年も堆積してきたプラチナの沈殿渣《ちんでんかす》……」
「ええ、プラチナを小量回収したってこと、他の金属もすこし回収したってことを、お聞きしたわ。新しい金属を発見したと思うって、そうなんでしょう?」
「たしかに発見したんだ。名前のわかる成分は一つのこらず分離した――その後で大量に別のものが残溜した。ぼくの知るかぎりの試験のどれにも、あらゆる文献に見える試験方法にも反応しない何物かが残溜したんだ。
それが昨日までのことだった。ところが今日、もうあらゆる手は試みたので、ぼくは最後の手段として、もしかしたら、超ウラン元素じゃないかと思い、それを検出する試験をしてみたんだ。ところがそれがあったのだ! しかも安定した、不活性の――ほとんど不活性に近い同位元素があったのだよ。これまでは、元素表の、ウランの上には、≪ほとんど不活性の同位元素≫というものは存在しないと考えられていた。ぼく自身、そんなものは存在しないだろうと信じていた。それはもう、ぼくの最後の持ち物まで賭けてもいいと思うほど、確実なことと信じていたのだ。ところがそれがあったのだ!
そう――ところがそれを電解しようとしたら花火が始まったんだ。溶液がブツブツ沸《わ》いてきたので、ぼくはビーカーをつかんだ――大急ぎでだよ。そのとき銅線が二つとも蒸気タンクのなかに落ちて、装置全体が音の六倍から八倍の速度で窓の外へふっ飛んだのだ。ビーカー一個残しただけで、全部が飛んでしまったんだ。ぼくは双眼鏡で眺めたが、弾道に一フィートのたるみもなく、真っすぐに飛んでいった。まだ飛んでいるんじゃないかとぼくは思う。
起こったことというのはそれだけだ。だが、この事実は物理学者をリング外へ弾《はじ》きとばすほどの大事件なんだ。ぼくは自分の一気筒だけの単純な頭脳でこのことばかり考えていた。十時過ぎまでは正常状態に戻れなかった。ぼくとしてはただ、君にすまないと詫びるだけだ。君を愛していると訴えるだけだ。今までどおり、いやこれまで以上に君を愛している――そう訴えるだけだ。ぼくの愛情は永久に変わらない。君、許してくれるかい、今度だけ許してくれるかい?」
「おお、ディック、あなたは!」
二人の愛はこれまでにないほど進んだ。そして――
やがてシートンはモーターサイクルに乗り、ドロシーはそばに添って歩いた。二人はいつか表通りへ出ていた。別れの接吻をすると、シートンは爆音とともに去っていった。
赤い尾燈が暗がりのなかに消えると、ドロシーは溜息をついて家への道を戻っていった。長い、こころもちふるえた溜息だった。だが、それは深い深い幸福の溜息でもあった。
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シートンは少年時代を北アイダホの山のなかで過ごした。北アイダホは当時まだ開拓時代の名残《なご》りをとどめており、彼の知的生活を誘発する何物もない辺境であった。
シートンは母のことはおぼろげにしか憶えていない。やさしい美しい婦人で、書物が大好きだった。母の死後は、父の≪ビッグ・フレッド≫シートンが少年の心の隙間を満たしてくれた。父は後添《のちぞ》いももらわず、ありったけの愛情をこの母親のない少年に注いだ。ストロブ松の処女林をかこった四分の一マイル四方の土地が父の所有であったが、このすばらしい森林のなかに、父は自分と母なし児のためのささやかな家を建てていたのである。
丸太小屋の前には平坦な牧草地がどこまでもひろがっていた。その先は雪をいただいた気高い峰であった。朝ごとの太陽は、まずこの白い雪の絶頂をピンクに染めるのであった。
原野を見おろしている気品のある山は、感じやすい少年にとって偉《おお》いなる挑戦であり、疑問であり、神秘であった。少年は山の挑戦に答え、その峻《けわ》しい山腹をよじのぼり、山の森林で狩りをし、渓川《けいせん》で釣りをした。朝な夕な斜面を駆けては若い肉体を鍛えた。巨人にも似た老松の落葉に臥《ふ》しながら、少年はどうして山が出来たのだろうかと、偉《おお》いなる疑問に思い悩んだ。彼はおしつぶされそうないくつかの疑問を父に打ち明けて、説明してもらおうとした。
だが彼が生まれ変ったのは書物を手にして、そこに彼を苦しめた疑問への部分的な解答を見出し、躍りあがったときである。山の懐《いだ》いている秘密のいくかつを知ることができたのも本を読んだからであった。それらは物質世界を支配している自然法則の一部であった。人類の心が、大自然の隠しているメカニズムを理解しようと努力し、その努力が実ったわずかばかりの結実が、書物のなかに記《しる》されていたのである。
知識の味を知ると、さらに知識への欲求がたかまってきて、彼は書物を追いもとめた。貪《むさぼ》るように書物を読んだ。書物の与えてくれる知識は、彼の精神の飢えを癒《いや》す血であり肉であった。彼を悩ますもろもろの疑問にたいする親切な答えであった。
あるとき山火事が起こり、丸太小屋が焼けた。ビッグ・フレッドも丸太小屋とともに焼死した。天涯の孤児となったシートンは、永久に森林を後にした。町へ出、ハイスクールはアルバイトで稼ぎ、奨学金をとって大学へ進んだ。彼の鋭敏な精神にとっては、勉学は苦しみではなく愉しみであった。スポーツにも充分の時間をさいた。森林での生活で身体が出来あがっていたから、どんなスポーツでも彼は人並み以上に優れていた。フットボールやテニスまでふくめて、彼はあらゆることに優秀な学生であった。
苦学生ではあったが、学生仲間では人気者であった。彼は玄人《くろうと》はだしの手品の名人であったが、それがかえって彼の人気を煽《あお》りたてさえした。彼の長い逞《たくま》しい指は、眼で追うこともできないほど早く動いた。学生パーティーなどで、彼は妙技をみせて一同を唖然とさせた。
最優秀の成績で物理学部を卒業した彼は、ある有名大学へ招聘《しょうへい》され、研究所員となった。そこで希少金属を研究して学位をとった。博士論文は『ある種の超ウラン元素をふくむ若干の金属の諸性質に対する若干の観察』という溌剌《はつらつ》たる題名がついていた。そしていくばくもなく、彼はワシントン特別区の希少金属研究所に自分の研究室を与えられる一流の学者となったのである。
彼は肉体的にも恵まれていた。身長六フィートあまり、肩幅広く、腰はきりりとしまっており、驚くべき膂力《りょりょく》の持ち主であった。研究所生活でも、彼はひまさえあればテニス、水泳、モーターサイクリングと、たえず身体をベストコンデションに持っておいていた。研究室のなかで身体を生《なま》にすることは、彼の性《しょう》にあわないのであった。
彼はほどなくワシントンのスポーツ界、社交界でその人ありと知られる一流のテニス選手になった。特別区トーナメントで彼はM・レーノルズ・クレーンと試合をした。クレーンのファーストネームは≪マーチン≫というのであるが、それはごく親しい間にしか知られていなかった。クレーンは有名なスポーツマンであり、同時に探険家、考古学者であり、億万長者であった。テニスでは特別区のシングルス・チャンピオンであった。この試合でクレーンは王座を守ることができたのであるが、五セットともに、ワシントンではかつて見られなかったほどの白熱戦であった。
シートンの力強い、鋭いゲームぶりに感銘したクレーンは、一緒にダブルスチームをつくらないかと申し込んできた。シートンはすぐに承諾した。二人のコンビは長短を補い、はなはだ効果的であった。
毎日練習に励み、お互いに気心がわかるようになると、友情が芽生えた。そしてクレーン=シートン・チームは、特別区ダブルスの覇権《はけん》を握り、全国大会の準決勝までいって惜敗したのだが、そのころになると、二人は真実の兄弟もかくやと思われるほどの仲良しになっていた。二人の友情は信頼の発展であって、クレーンの資産も社交界での地位も、またシートンの貧しさや地位の低さも、友情を深めこそすれ障害にはならなかった。シートンのみすぼらしいアパートに二人でいるときも、クレーンの宮殿のようなヨットで遊んでいるときも、二人の友情にはいささかの変化もみられなかった。
クレーンは金で買えるものには困らない身分であった。父の遺産を受け、その管理を専門家に委《まか》せて、自分は一切ややこしい仕事から免れていた。といっても、人生に目的のない怠惰《たいだ》な資産家というのでは決してない。探険家、考古学者、スポーツマンである彼は、同時にエンジニアでもあった。ロケット研究家としては世界に二位とは下らないエキスパートでさえあった。
チェヴィチェーズにある古くからのクレーン屋敷は、もういっさいがマーチンの所有であったが、彼は屋敷に手を加えずに旧態を保存させた。ただ書斎だけは改造したのだが、それはマーチンらしい設計であった。縦長の大きな部屋で、窓がたくさん開いている。一端に暖炉があり、クレーンは長い足を投げだして、炉辺《ろへん》で本を読むのが好きである。手の届くところに書架を置いて、そこから一冊でも何冊でも取りだして読みふける。部屋としては簡素な装飾であったが、蒐集した書物が、内容といい冊数といい、一個の博物館といっても過言ではなかった。
クレーン自身は使わないのだが、書斎の隅に、装飾もなにもない大きなグランドピアノが置いてあり、また一挺のストラディヴァリウスが専用キャビネットのなかに立てかけてあった。ピアノにしろヴァイオリンにしろ、クレーンに演奏をたのむ物好きはごく少なかった。が、その少ない慫慂者《しょうようしゃ》に対しては、クレーンは黙って耳をかたむけた。そして謎のような微笑を浮かべて、ただ二言三言有難うというだけなのだが、その言葉のはしばしに、聴いているものにはこの主人の並々ならぬ音楽への傾倒が汲みとれるのであった。
この若い富豪には、友人は数えるほどしかいなかった。自分の気持を率直に打ち明けないからというのではなく、富裕な人の常として、いや、ありきたりの金持ちなどよりはるかに高く、彼は真実の自己の周囲に厚い壁を張りめぐらせていなければならなかったのである。
クレーンは女性はむしろ避けていた。一つには、女性と関係のない事物に大きな興味と関心をもっていたからであるが、いちばんの原因は、ここ数年来、社交界に初めて出た女性たちが競《きそ》って射止めようとする男性獲得の大きな目標となっており、加えて三大陸の縁結び夫人たちに狙われどおしだったからである。
ドロシー・ヴェーンマンがクレーンに紹介されたのは、シートンを通してであった。彼女の明るい性格と友情とはクレーンにとっても爽やかなものに感じられた。最近クレーンに頼まれてストラディヴァリウスを演奏したのも彼女であったが、その経緯《いきさつ》はこうである。
ある日ドロシーとシートンはクレーンの邸宅の近くで俄雨《にわかあめ》に会い、雨宿りにクレーンのところに駆けこんだのである。雨はなお止まない。クレーンは時間つぶしにヴァイオリンを弾いてみないかと彼女に言った。ドロシーは音楽博士であり、ヴァイオリンの名手であった。で彼女は、弓を一と弾きしたとき、もう、夢にまでみた名器の霊感というべきものにうたれ、あとは恍惚のうちに一曲を奏し終わったのであった。
雨のことも、聴き手のことも、時も場所も忘れはてた。彼女はただ、自分のもつ芸術的才能のいっさいを、その美と優しさのすべてを、この稀代《きたい》の名器に打ち込んだのであった。
妙《たえ》なる調べは真実と確信とをもって広い書斎を満たした。クレーンのあたまのなかには、愉しい仕事、笑い、友情で溢《あふ》れた一つの家庭が髣髴《ほうふつ》として描きだされてきた。
優艶の音楽が耳を満たすにつれて、彼はドロシーの夢を自分の心に感じることができた。するともう抗するすべもなく、すぐれた女性と共にする家庭というものがどれほど素晴らしいものであるかが、繁忙《はんぼう》で野心にあふれた彼の人生にかつてないほどの鮮やかさで、理解されてきたのである。
ドロシーへの愛という気持は起こらなかった。ドロシーとディックとの間には、死によってしか終らすことのできない烈しい恋があることを知っていたからである。だが今、はからずも彼女が自分の心に大きな窓を開いてくれた。家庭への憧れがそれであった。もうこの事件があってからは、孤独でいるときのクレーンの心のなかから、家庭への憧れが去ることはなかった。愉しいわが家をもつまでは、自分は決して安らかではないであろうと、心に沁《し》みて彼は悟らされたのである。
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下宿に帰ったシートンは着替えをしてベッドに入ったが、眼が冴えて眠れなかった。
今日の午後、彼はたしかに宇宙旅行の駆動《くどう》力として実用になりそうな動力源を発見した。だが、いまは眠らなければならない。明日の研究にそなえて……。しかし一時間余りも眠ろう眠ろうと努めて、無駄だと知ると、彼はがばと跳ね起きてデスクに向かい、研究にとりかかった。研究すればするほど、新発見の確信は強固になった。たしかにあれは宇宙旅行の駆動力に使える!
朝食のときまでには、彼はおおざっぱではあるが一応の理論の緒口《いとぐち》にたどりついていた。そして実現になお踏みこえなければならない幾多の障碍《しょうがい》の性質やら大きさやらが、おぼろげに掴《つか》めたようであった。
研究所へいってみると、すでにスコットが昨夜《ゆうべ》の爆発事故のことを所内に吹聴していたので、彼の実験室はたちまち全所員の興味の対象となった。彼は見たこと、したことを集った科学者たちに話し、自分が到達したある理論の説明をしようとした。そのときファーディナンド・スコットが口をはさんだ。
「針を早く、ワトソン博士!」そしてラックから大きなスポイドを持ちあげると、シートンの腕に注射をする大袈裟《おおげさ》なジェスチュアをした。
「科学小説とシャーロック・ホームズを組み合わせたみたいだね」と科学者の一人が言った。
「≪ちゃちなホームズ≫って言いたいんだろう?」とスコットが応酬した。たちまち若い科学者たちがいっせいに狎《な》れなれしい皮肉や冗談をとばしあった。
「おい待て、貴様たち、鉄面皮の間抜けどもに、ぼくがひとつ実験をみせてやる!」
シートンがどなった。そして銅線の切れはしを溶液に浸けた。
だが銅線は昨日のようには褐色に変わらない。導線で触れたが何も起こらない。
研究所員たちは興を削《そ》がれて散っていった。残った数人もただ気の毒そうに黙って顔を見あわせるだけである。
シートンは、一人が耐《こら》えきれないで洩らした失笑を聞いた。また二人か三人の口からは「神経衰弱らしいね」というコメントがささやかれた。
公開実験が失敗して、シートンはみじめな挫折感にうちひしがれ、憎たらしい導線を黙って睨《にら》んだ。昨日は二度とも反応したのに、どうして今日は言うことをきかないのだろうか?
彼は自分の考え出した理論を反省してみた。たしかに重大な欠点があると思われた。何かがある――昨夜は働いたが今日になって働かなくなった何かが! それは金属の超微細構造に微妙に影響する≪何か≫である。……この部屋のなかにあるものか、でなければ、この部屋にごく近く存在する何かに違いない。しかしふつうの発電機やX線器械ではなさそうである……
ただ一つ考えられることは、隣りのデュケーンの実験室にある機械だ。彼自身が時おり手伝ってやって作りあげたあの機械だ。
機械というのは、サイクロトロンでもないし、ベタトロンでもない。まだ公式の名前がついていないのである。所員のあいだでは≪ホワッツィトロン≫(何だろう)、≪メービトロン≫(かもしれない)、≪イテーントソートロン≫(そうじゃない)など、まったく非記述的な、茶化した名前で呼ばれている。ひどく場所をふさぐような大きな機械ではない。重量も一万トンはない。所要電気量は百万キロワット以下である。それにもかかわらず、金属の超微細構造に影響する機械だ。すくなくとも理論的にはその能力があるのである。
でも、隣りの部屋にある機械が本当にいたずらをしたのだろうか? シートンはどうも信じられない。
だが他には考えられない。それに、機械は昨夜も作動していたのである。その輝きはまったく独自なもので、間違いようがない。
もうすぐデュケーンがあの機械のスイッチを入れるだろうと思ったシートンは、期待に胸をつまらせながら、じっと銅線を睨んで坐っていた。突然、部屋のドアの向こうに見えている壁に、あの独特の青光りする輝きが現われた。同時に、溶液に浸けられた銅線が褐色に変った。
シートンは安堵《あんど》して大きな溜息をつき、レデカー蓄電池から出ている導線でその金属の一片に触れた。金属は甲《かん》高い音とともに消えて見えなくなった。
シートンはデュケーンを呼んで、もう一度実験に立ち会わせようと思ってドアのほうへ行きかけたが、気が変わった。
何か確実なものを発見しないうちは誰にも教えないほうがよいと思いついたのである。その本体と原因をつきとめ、反応が制御できるかどうかを明らかにしなければならない。それには時間も装置も要《い》る。だが、何よりも資金だ。金といえばクレーンだ。そして彼はマート・クレーンがこの現象に関心をもってくれる自信があった。
シートンはそそくさと今日午後の休暇届を書いた。そしてモーターサイクルを駆ると、コネチカット|大通り《アヴェニュ》を飛び、たちまちクレーン邸の私道に乗り入れていた。堂々たる玄関の車寄せ天蓋《てんがい》の下で急角度に廻って急ブレーキをかけたが、オートバイは滑って、大理石の円柱から二インチという危ないところで、砂利をはねながら停止した。石段を駆け上り、呼鈴のボタンを強く押した。ドアを開けたのはクレーン家の日本人の家僕であった。日本人の顔はシートンを見て陽気にかがやいた。
「やあ、シロー。≪天国の名誉ある息子≫は家にいるかい?」
「はい、いらっしゃいます。でもいま入浴中ですが」
「かまわん、早くしろと言ってくれんか。火急の用なんだ。やっこさんの踝《くるぶし》をへし折るくらいの、火のついた用件だと言ってくれ」
シローは丁寧に頭を下げて、書斎の椅子へシートンを掛けさせるとあたふたと出ていった。すぐ戻ってきて、シートンの前へ『ポスト』『ヘラルド』を出し、さらにシートンの好きなブランドのパイプタバコの容器を置き、また丁寧に頭を下げて、「ミスター・クレーンはすぐお見えになります」と言った。
シートンはブライヤーに煙草をつめると、部屋のなかを大股で往来《いきき》しながら、やけにパイプを吸った。まもなくクレーンが入ってきた。
「お早う、ディック」――力強く握手しながら、「君のメッセージは伝達の途中ですこし狂ってきたようなんだ。火事が起きたとか、踝《くるぶし》がどうしたとか、それだけなんだよ。いったいどこの火事だ? 捻挫《ねんざ》したのは誰の踝だ?」
シートンは笑いながらシローに言ったと同じ科白《せりふ》を繰り返した。
「ああ、そうか。そんなことだろうと思ったんだが。ところで、ぼくはこれから朝食にするんだが、君もいっしょにどうだ。君にはお昼食《ひる》だろうけれど……」
「うん、頂戴しようか。昂奮しすぎて朝食もろくに摂《と》っていないんだ」
テーブルが用意され、二人は食卓に向かった。
「ところで、だしぬけでびっくりするだろうが――銅金属を構成するエネルギーを解放、制御する新装置を考えているんだが、君はぼくといっしょにやってみないかな? 核分裂とか核融合とかいう小出しのエネルギー解放じゃなく、百ポイント・ゼロゼロパーセントのエネルギー変換なんだよ。放射能もなし、残溜物もなし、副産物もなしだ。したがって遮蔽《しゃへい》とか防御《ぼうぎょ》装置などは必要がない。物質を制御可能のエネルギーへ純粋に完全に転換する新しい装置なんだよ」
クレーンはコーヒーカップを口へ持っていきかけたが、中途で虚空に支えたまま、シートンの眼をじっと見た。瞳と瞳が火花を散らすように格闘した。シートンの提案は、泰然自若|居士《こじ》クレーンに、シートンに見せたこともない心の動揺を与えたらしい。クレーンはコーヒーカップをようやく口まで持っていき、一口にすすった後、ゆっくりとカップをコーヒー皿の真ん中へ戻した。まるで皿の正確な中央部へ置くことが絶対命令ででもあるかのような慎重な、綿密な手つきだった。
「そんなことができれば、史上空前の技術的躍進となることはたしかだね」とようやくクレーンは口を開いた。「しかし質問を許してくれたまえ。一体その話はどこまでが事実で、どこまでが空想なんだね? という意味は、君の実験したのはどの部分か、多かれ少なかれ証明を将来に委《まか》すのはどの部分かということだよ」
「一対九十九――いやもっと少ないかもしれんな」とシートンは実証部分の僅かなことを率直に認めた。「手をつけたばかりなんだ。君が少々冗談めかしたコメントをしたのも無理はない――事実、研究所のやつらはぼくを大変なクルクルパーと思っているくらいなんだ。……とにかく実際起こった事実を説明してやろう」
爆発事故を微に入り細にわたり説明してから、「それで、実験を裏づける、ぼくの工夫した理論というのはこれだよ」
しばらく理論の講義が続いた。そして緊張に震えながら、「これがメカニズムなんだ。ぼくはできるかぎりはっきり理論づけたつもりなんだが。君はどう思う?」
「いや途方もない理論だ、ディック……ほんとうに奇想天外というよりほかない。研究所の人たちがてっきり君が気が変になったと考えた気持は理解できるよ。ことに君がみんなの前でやった実験が失敗した後ではね。それから、その実験や手続きの議論をする前に、ぼくはこの眼で見てみたいんだが……」
「よしきた! 願ったりかなったりだ――すぐ着替えたまえ、ぼくのバイクの後ろに乗るんだ。君の眼を一フィートも飛びださせるぐらいの実物をお目にかけてやる。それができなかったら、ぼくはあの罰当たりのモータシックルをタイヤもろとも食べてやる!」
研究所へ着くと、≪ホワッツィトロン≫がまだ作動していることを確かめ、シートンはすぐ実験の準備にかかった。クレーンは黙っていたが、シートンの一挙手一投足から眼を離さなかった。
「まず一片の、ふつうの銅線をとる、そして……」とシートンが実験をはじめた。「それをこの溶液のはいったビーカーに浸《つ》ける、こんなふうにだ。ほら、表面がはっきりと変化しているのがわかるだろう? この銅線をベンチの上に置く――こうだ――溶液に浸けたほうの端を窓の外へ向けて……」
「駄目だよ。壁のほうへ向けてくれ。ぼくは壁に穴があくのが見たい」
「いいとも――じゃ、この溶液に浸けた端をあの煉瓦の壁に向けてと……。これは在来の八ワットのレデカー蓄電池だ。この二本の導線をぼくが、溶液で処理した銅線に触れさせる。よく見ていろよ。スピードは超音速なんだ、しかし音がするから、成功か不成功か見誤ることはない。用意はいいかい?」
「用意よし」クレーンは銅線に眼を釘づけにしている。
シートンはレデカー導線で銅線に触れた。たちまち銅線は消えてなくなった。クレーンは壁にあいた穴と銅線があったところをかわるがわる見くらべた。シートンは友人のほうへ振り向いて得意満面で叫んだ。
「どうだい、疑いぶかい友達――じゃがいもはお気に召したかい? あの銅線は飛びましたか、飛びませんでしたか? 銅線に何かの力が働いたでしょうか、働きませんでしたでしょうか?」
クレーンは壁のところへ歩き、仔細に穴を調べた。穴に指をいれてみ、それでも足りず、かがんで覗《のぞ》いてみたりした。
「うーむ……そうか……」背をのばした。「穴は真物《ほんもの》だ、壁の煉瓦以上に真物だ……確かに手品であけた穴じゃなかった。……あの力を制御して……船体に仕込んでもいいし……工場の動力車輪に取りつけてもいいし……うむ、君はぼくにパートナーシップを申し込んでいたね?」
「そうだよ。ぼくは研究所を辞《や》めるゆとりもない。ましてこの仕事に必要な装置や工場を建設する力などゼロだ。それに、これだけのものを実現するのは一人じゃ、でかすぎる仕事だよ。ぼくたち二人の頭脳をトコトンまで動員し、おまけに多少の資金が要るんだ」
「わかった。ぼくはパートナーになる。ぼくをいれてくれたことに感謝する」猛烈にシートンの手を握り、「まず第一番にやらなければならないことは――それもできるだけ急速にする必要があるが、あの溶液の所有権を確立することだね。あれはもちろん政府の資産というんだろうが。これについて君はどんな請求をするつもり?」
「技術的には政府資産だが、ぼくが大変な価値を発見したことを別とすれば、あれは無価値になっているんだ。ふつう流しに捨てるものなんだ。ぼくは好奇心から捨てなかったまでのことだ。溶液のなかに何が入っているか知りたくてね。ぼくは溶液の壜《びん》を紙袋に入れて出ていく。誰かが難しいことを言ったら、下水口へ流すだけだ――事実すてることになっているのだから」
「そんなんじゃ充分に明確とはいえんな。われわれは明瞭な所有権が要るんだ。署名入りで封印がしてあって、前所有者から正式に譲渡された物件というんでなければならん。そういうことはできないかしら?」
「できると思う――大丈夫、できる、この手があるんだ。後一時間で競売があるんだが――毎金曜にあるんだよ。競売に出せばすぐ廃棄に決まると思う。こんな廃物の一壜や二壜、ぼくたち以外に値段をつけるやつはおらんだろう。それは保証するよ」
「それからもう一つ。君が退職するのに支障はないだろうね?」
「ぜんぜん」とシートンは憂うつに苦笑した。「みんなぼくを半気違いだと思っている。こんなにあっけなく馘《くび》にできるんだったら喜ぶだろうさ」
「それでよし。すぐ行動開始だ。まず溶液の確保からだ」
「そうしよう」
たちまち、事務員が溶液の入った壜に密栓をし、≪物件番号QX47R769BC、廃液一壜≫とラベルを貼りつけて競売室へ運んだ。
シートンが希少金属研究所を辞職することも、難なく行なわれた。たちまち、あの変人が辞めたそうだという噂が拡がっていった。
競売係は、たった一壜を競売しなければならなくなって顔をしかめた。競売といえば、いつも幾|樽《たる》という多数量である。何でまたわずか一壜? と思ったのだろう。けれども壜にはちゃんとラベルが貼ってある。競売しないわけにはいかない。
「廃液一壜。さあ、値をつける方《かた》は?」と競売係は味もそっけもない声で言った。「なければこんなもの捨てっ……」
シートンは前へ飛びだし、危うく叫びかけたが、肋《あばら》を強く突かれて口をつぐんだ。
「五セント」クレーンの静かな競《せ》り声が聞こえた。
「五セントの値がつきました。さあ、その上は? さあその上は?――その上は?」
シートンは生唾《なまつば》をのんで心を落ち着け、「十セント」と叫んだ。
「十セント。その上は、その上は――」誰も競るものはなかった。物件番号QX47R769BCは正式に記録されたリチャード・B・シートンの所有物となった。
そのときスコットがシートンの腕をつかまえた。
「やあ、小型ホームズ君! あれが有名なゼロの溶液かね? ぼくたちも気がついておりゃよかった――値を吊りあげてやったら面白かったろうになア」
「たいして面白くもなかろうよ、ファーディ」貴重な溶液がはっきり自分の所有物になっていたから、シートンの声はいま冷静であった。「現金売りだから安いに決まっているんだ。どう転んでもわれわれの支出がそう多くなることはなかったさ」
「それも本当だな」とスコットは気軽にうなずいた。「可哀そうに、ここの政府事務員はいつだって文句なしだからな。でも、≪われわれ≫って誰と誰だい?」
「ああ」とシートンは傍のクレーンをひっぱってきて、「ミスター・スコットだ。ぼくの友人のM・レーノルズ・クレートン」と二人を紹介した。スコットはびっくりして眼をパチクリしたが、シートンはかまわずに、
「クレーンはまだぼくが聖エリザベス脳病院行きとは思っていないんだよ」
「駄法螺《だぼら》ですよ、信用しちゃいけませんよ、ミスター・クレーン」とスコットは右の人差指を耳の近くでぐるぐる回し、「ディックは、これまではしっかりした、いい奴《やつ》だったんですが、とうとうここへ来ちゃったんです、気の毒に」
「と思うのは君だろう!」シートンは、半歩踏みこんでスコットの胸ぐらをとりかかったが、危うく自制した。クレーンもシートンの肱《ひじ》をおさえた。「まあいい、二、三週間待ってごらん、スコッティ」
二人はタクシーでクレーン邸へ帰った。壜は貴重だから、とてもバイクなどで運ぶ危険は冒せなかった。
書斎へ着くと、クレーンは壜から小量を小さな薬壜に移して金庫にしまいこんだ。大きな壜は厳重に包装して地下室の大金庫へいれた。
「とにかく万が一の粗相《そそう》があってもいけないからね」
「そうだとも」とシートン。「よし、これから多いに張り切るんだ。まず小さな貸実験所をさがさなくちゃならんな」
「違う。まず会社の組織を決めるべきだよ。問題が解決しないうちにぼくが死んだとしてごらん? だからこんなふうにしたらいいと思うんだ――君もぼくも、会社の事務なんかごめんだ。だから資本金百万ドル、一万株の株式会社にして、ぼくの銀行関係の仕事をしてくれるマクィーンを社長にする。マクィーンの顧問弁護士のウィンターズを秘書部長に、同じく公認会計士のロビンスンを財務部長にする。君は総監督、ぼくは支配人になる。取締役は七名だから、あと二人はヴェーンマン氏とシローがいいだろう。出資額は、ぼくが五十万ドル出そう。君は現物出資で、このアイデアと溶液を出す。それをとりあえず五十万ドルと評価しておく――」
「でもマート――」
「待ちたまえ、ぼくの話はまだ終っていない。もちろん、君のアイデアと溶液は五十万ドル以上の値打はあるよ、しかしそれは後で再評価すればいいんだ。とにかく仕事を始めるにはそれくらいでちょうどいいんだ……」
「そうじゃないんだ、マート。要《い》る金はせいぜい一万ドルだというのに、どうしてそんな大金を寝かそうというんだ?」
「一万ドルだって? 考えてごらん、ディック。試験装置にいくらかかる? 月給や賃金はいくらだい? 百万ドルで宇宙船のどの部分がつくれるというんだい? 動力装置だけでも一億ドルからもっとかかる。どう、わかったかい?」
「なるほど、そう言やそうだな……でも、最初の出だしは、ぼくは……」
「出だしだから、こんなに少なく言っているんだよ、ディック。よし、じゃすぐ発起人に集ってもらおう」
クレーンはマクィーンに電話をかけた。マクィーンは、この若い富豪の財産のほとんどを預っている大きな信託会社の社長であった。電話での短いやりとりを聴きながら、シートンはこの友人のふるう巨大な権力に、いまさらながら舌を捲《ま》いた。
発起人がクレーンの書斎へ集ったのはそれからまもなくであった。クレーンが開会を宣し、設立される会社の性格と事業内容を説明した。シートン=クレーン技術工学会社は順調にすべりだしていった。
客が帰ってしまうと、シートンは、「実験所を借りるのにどんな周旋屋《しゅうせんや》にたのんだらいいのか、心当りがあるのか?」
「当分は、ここが実験所だよ」
「ここが? でもこんなものを部屋の中に散らかしておくのは嫌だろう?」
「かまわんさ。理由は、第一にプライバシーだ。第二は便利だろう? すでに必要なだけの材料と装置はある。あそこの格納庫と工作機工場だ。君の必要な新しいものを据え付けるなら、場所はいくらでもある。第三に変な好奇心がないからいい。クレーン家のものはみんな発明家、修理屋、それから機械いじりが大好きだから、うちの企画委員会が工場を邸《やしき》の外へ出そうなどと言いだしたことは一度もない。それから隣り近所だが――隣りといってもずいぶん離れている。何しろここは四十エーカーだからね。その隣り近所も機械の音や何かには慣れっこになっているから、何をやっても気にしなくなっているんだよ」
「すごい! 君さえその気なら願ったりかなったりだ。よし、じゃんじゃん働こう!」
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マーク・C・デュケーン博士は、リチャード・シートンと似た体つきの、背の高い、がっしりした偉丈夫《いじょうふ》であった。
髪は烏《からす》のように黒く、密生している。ただすこし縮れ毛ではあった。シートンよりやや明るい青色の眼のすぐ上には、濃くて黒い眉が眼のあいだまで生えつながっている。その真ん中から形のよい鷲鼻《わしばな》が伸びている。顔は、青いというのではないが、黒髯の剃《そ》りあとが濃いので、青みがかって見えることはたしかである。まだ三十をすこし出たばかりだが、物理化学の世界ではもっともすぐれた学者の一人として広く知られている。
さて競売がすんだ後すぐ、スコットがこのデュケーン博士の部屋へ入ってきてみると、デュケーンはホワッツィトロンのコンソールに倚《よ》りかかっていた。機械の発する緑、黄、青の奇妙にまじりあった輝きで、デュケーンの厳しいハンサムな顔には不気味な濃淡がつけられていた。
「やあブラッキー」とスコット。「君はシートンのこと、どう思う? アタマがまともだと思うかい?」
「考えてみるまでもないさ」とデュケーンは入室者のほうへ顔も向けずに言った。「彼はあまり長時間働きつづけて睡眠を充分とっているとは言えんな。しかし狂っているとは思わん――あんなに正気な変人はめったにあるもんじゃない、ぼくは法廷でもそう証言する」
「ぼくはやっこさん、はっきり気が狂ったと思うんだよ。昨日やっこさんの見つけたの、そりゃすごい珍品だった。やっこさん可哀そうに、真物《ほんもの》と信じこんでいるらしいんだがネ。それで今日の昼、あの廃物の溶液を競売課へ運ばせて、やっこさんとM・レーノルズ・クレーンで十セントで落としたよ」
「M・レーノルズ・クレーンって?」デュケーンは驚きを隠して、「いったいどうして彼がこの件に?」
「ああ、彼とシートンはずっと以前から仲のいい友だちだったんだ。多分やっこさんがクレーンの機嫌をとっていたんだろうけどネ。とにかく、彼らは溶液を競《せ》り落した後、タクシーを呼んだ。運転手に言った行き先は、クレーンの邸宅だというんだ、チェヴィチェーズの奥のほうだよ。でも……おっと、ぼくの電話だ――じゃ後で」
スコットが帰ったあと、デュケーンはデスクへ歩いていった。その顔には、無念さと賞賛とがいりまじった複雑な表情があった。彼は受話器を取り上げ、ダイヤルを廻した。
「ブルッキングズだね? こちらデュケーン。これからすぐあんたのところへ行って話をしたいんだが。いや電話では言えないんだ。……わかった、すぐ出る」
デュケーンは研究所の建物を出、ほどなくマンモス企業ワールド・スチールのワシントン支店長のオフィスに現われた。ここは、会社のいわゆる≪対政府外交の支店≫なのである。
「どうしたんだ、デュケーン博士? ばかに昂奮しているじゃないか?」ブルッキングズは訪問者に椅子をすすめながら言った。
「昂奮しているんじゃない。ただ、急いできたもんだから。じつは、空前の大事件が起こりかかっているんだ。ぼくらもバスに乗り遅れないためにはスピードを出さなくちゃならない。ところで話す前にちょっと訊きたい。あんたはぼくが自分の話すことがわかっていると思うかい? いや、ぼくが正気と思うかいと訊いてるんだ」
「正気だとも、博士。これっぽっちもわたしは疑ってなんかいないよ。あんたは有名な学者だし、いろんな取――いや事柄でわが社を援助してくれているし……」
「≪取引≫と言いなさい、はっきり取引なんだから。ところがこれは最大の取引になりそうなんだ。簡単な仕事だ――一人殺すだけ、盗むのも一つだけ。あのタングステンの仕事みたいに大量殺人の必要はない」
「よしてくれよ、博士。殺人じゃない、事故じゃないですか」
「ぼくは正しい名称でよぶのが好きなんだ。ぼくはびくついてはいないよ。ところでここへ来たわけは、あのシートンのことなんだ。われわれの部のシートンだよ。彼が偶然に原子力の全体的変換を発見したのだ」
「というと?」
「あんたにわかるように分析して話せば、一発電所当たり十億キロワット、一キロワットの電力コストは消却までふくめて一ミルの百分の一ということだ」
「へーえ?」ブルッキングズの顔にはとても信じられないという冷笑の色が浮かんでいる。
「笑うなら笑え。あんたが信じようと信じまいと、事実はあくまでも事実なんだ。ぼくの感情はあんたに笑われても傷つきやせん。チェンバーズを呼んでくれ、ぼくが訊いてみる。百ポンドの銅のエネルギーを、ええと十マイクロセコンド内で解放したとしたら、どういうことになるか?」
「悪く思わんでくれよ、博士。あんたを侮辱したわけじゃないんだ。チェンバーズを呼ぶから」
やがて白いガウンを着た男が入ってきた。ブルッキングズの質問に、男はちょっと考えていたが、すぐ笑顔になって、「だいたいの憶測ですが、地球全体を蒸発させてしまうか、軌道をはずれさせてしまうでしょうね。でもミスター・ブルッキングズ、そんなことは起こりっこないから、心配することはありませんよ。とても不可能なはなしです、とてもとても」
「なぜ不可能だ?」
「なぜって、核分裂にしろ核融合にしろ、たった一個の原子核が反応するんですからね、放出されるエネルギーは知れたものです。超重量の元素は分裂するし、非常に軽い元素は融合します。その中間の元素――たとえば銅などは、分裂も融合もしません。それを無理に、たとえば銅を核分裂させようとすれば、途方もないエネルギーが必要です。放出するよりはるかに多量のエネルギーを吸収してしまいますから。おはなしはそれだけですか?」
「それだけだ。ありがとう」
チェンバーズが部屋を出ていったあと、ブルッキングズはデュケーンに向き直った。
「お聞きのとおりだ。チェンバーズも切れる物理学者なんだよ。その彼が不可能だといっている」
「彼の知識の範囲では、そのとおりの答えでいいんだ。ぼくだって、今朝まではチェンバーズと同じ答えをしただろう。ところがあんた、不可能なことが実現してしまったんだ」
「どういうふうに?」
デュケーンはシートンの話した理論の一部を説明してきかせた。
「でも、その男は気が変なんじゃないの? てっきりそれだよ」
「そう――変だよ、狐《きつね》のように変で、賢いというんだ。ぼくもシートンだけだったらあんたの説に賛成しようが、M・レーノルズ・クレーンがいっちょう噛《か》んでいるということで、事情はがらりと変わってくるんだ。クレーンがあたまのおかしな変人と手を組むとは絶対考えられん。彼の後援が得られると知って、シートンは彼に真物《ほんもの》を多量に見せたに相違ない。それはあんた、絶対に確かだよ」
ブルッキングズの顔が嘲笑から半信半疑へ、そして信用へと変わっていった。デュケーンはなおも続ける。
「さあ、まだわからないのかな? あの溶液は政府資産だった。それでシートンはあれがまったく値打のないものとみんなに信じこませ、確実に所有権を握るために、何らかの手を打たなければならなかった。競売というのはあんた、大胆不敵な手だよ。他の者がしたのだったら、馬鹿なことをと一笑に付すこともできよう……彼があれを独占できたのは、いつもアケスケに話すように見せかけていたからだ。知っていることは何でも話す馬鹿正直と思わせていたからだ。だからぼくも今度は完全に裏をかかれてしまった。ぼくもそう夜中まで監視してはいられないからな」
「それで、あんたの考えは? われわれの出る幕は?」
「要はあの溶液をシートン、クレーンから奪うことだ。そしてあの材料を開発し、ぼくの指導の下に、世界一の原子力発電所を建設する資金を調達することだ」
「特にあの溶液が必要だというのはどういう理由《わけ》かね? 何かもっと豊富なプラチナ廃液から精製すればいいんじゃないのかね?」
「駄目だね。化学者は百年も前からプラチナを回収している。しかし、ああしたものはこれまでぜんぜん発見されなかった。あの材料、その正体はわからないが――何か特定のプラチナ廃液バッチのなかに含まれていたのに違いない。しかしそのバッチ中にある全部を抜き取ったわけじゃないだろう、もちろん。といって、何を捜すべきかを知らずにいくら分解してみたって、まあ発見できるチャンスはゼロだ。それに、われわれはあれを≪独占しなければならん≫。クレーンは純利益十パーセントもあれば満足するだろうが、われわれは溶液のなかから最後の一ミリリットルまで抜きとらなければ満足できない。われわれはまずシートンを殺さなければならない――やつは知りすぎている。あんたのところの暴力団員二人を借りて、今晩やつを消してくる」
ブルッキングズはしばらく柔和な無表情のうちに考えていたが、やがて、
「博士、気の毒だが、われわれにはとてもそれはできない。やりかたが悪《あく》どすぎるし、危険が大きすぎる。それに、シートンからその材料を買う手だってあるからね。多少でも値打のあるものだと彼が証明できたときに……」
「フン」デュケーンは鼻先でせせらわらった。「誰にそんな冗談をいっているつもりなんだ? これだけ重要な打明け話をして、他人にあぶらげをさらわれて黙っているぼくたちと考えているのか? そんなつまらん考えはすぐ忘れてしまえ――早くだ。この仕事を扱えるのは世界に二人しかいない――R・B・シートンとM・C・デュケーンだけだ。シートンか、でなきゃぼくだ。ほかのやつ――誰でもいい、他のやつに扱わしてみろ、そいつの身体はおろか、隣り近所全体を火星の軌道の向こうへすっ飛ばしてしまう」
ブルッキングズは不意打ちをくらって半ばデュケーンの言ったことの真実性を信じかけたが、なおもねばった。
「隣り近所とは、またばかにへりくだったもんだね、デュケーン」
「へりくだりは賞《ほ》められるかもしれんが、ぼくの欲しいのは現金《ゲンナマ》だ。それにしてももうあんたも、ぼくの言ったことが真実だとわかってくれそうなものだ。ぼくは急いでいる。あの溶液を奪取する機会は刻一刻と薄くなっていくんだ。ぼくの値段は一分ごとに高くなっていくんだ」
「今の時点でお値段は?」
「開発期間に月額一万ドル、最初の発電所が稼働《かどう》したら五百万ドル。それ以後は純利益――発電所全部をひっくるめて、純利益の十パーセントだ」
「もうすこし常識に近いことを言ってくれよ、博士。本気にそんな値段を言っているわけじゃないんだろう?」
「ぼくはいつでも本気にしか言わん。ぼくはこれまでも、あんたんとこの会社のために汚れた仕事をずいぶん引きうけてきたが、たいした分け前はもらっていない。あんたたちを強請《ゆす》ればぼくの正体が暴露するからだ。しかし今度という今度は、あんたたちの足許を見たのだ。ぼくはどうしても貰うだけのものは貰うよ。
言っとくが、あんたたちはぼくを殺せやしない――ぼくはエーンスワースのような馬鹿じゃないからな――ぼくがあんたたちにとって必要な人間だからばかりじゃない、いまでも、ぼくを殺せば、あんたんとこのお偉方《えらがた》はもちろん、パーキンスのあたりまで、電気椅子へ、でなきゃ河を遡《さかのぼ》って終身刑務所へ送られる羽目になるからだ」
「ちょっとデュケーン、そんな言葉は使わんでくれ」
「使ってどこがわるい?」デュケーンの声は冷酷、平静である。「あんたのでもぼくのでもないかぎり、四人や五人の命が何だ。ぼくはあんたを信用できる、多少なりともな。あんたも同じ程度にぼくを信用するだろう。あんたはぼくがあんたを刑務所へぶちこめることを知っているからだ。ぼくと一緒にじゃないよ。ぼくと一緒じゃ怖いというなら、独り歩きさせてやる――しかし長くは耐《も》たんぜ。そういうわけだ。さあ早く決めてくれ、ぼくが要るか要らんか、即決してくれ。遅くなると、さっき教えた最初の数字二つは倍になるんだ」
「そんな条件じゃ、とてもわれわれはビジネスをやってゆけないよ」とブルッキングズは頭を振った。「もっと安くシートンから発電の権利を買うことだってできるし……」
「わざわざ難しい方法をとろうというんだね、ふん?」デュケーンは立ち上りながらせせら笑った。「じゃあ思うようにした方がいい。とにかくまず溶液を盗んでくるんだ。しかし、会社のやつにあんまりたくさん扱わせちゃいかんよ、茶|匙《さじ》に半分以上はお断りだ。ぼくはできるだけ多量に残しておきたい。どこでもいい、町や村から百マイル離れたところへ研究所を建てるんだな。あんたが何人殺そうとそんなことを心配して言っているわけじゃないよ、誤解しないでくれ。ぼくはそういう条件じゃ一緒にやりたくないからだ。それから誰にやらせるにしろ、銅は≪ごく小量≫使うように注意するんだ、いいな。じゃさよなら」
物理学者が冷笑しながら出ていった後、ブルッキングズは時計によく似た小さな器械をポケットからとりだし、ボタンを押してから口に当てた。「パーキンス!」
「はい、何でしょう?」
「M・レーノルズ・クレーンが家の内部か外に小さな溶液壜を一つ隠している」
「はい。どういった品物でしょう?」
「はっきりはわからないが……」ブルッキングズはわかっているだけの情報を与えた。「壜の中味が減っていたら水を満たしておけ。どうせ誰にも見分けはつかん」
「でしょうな。それじゃ……」
ブルッキングズはそれから、抽斗《ひきだし》をあけて私用のタイプライターを取り出し、数分間熱心にタイプした。
「……一時に多量の銅に反応させないように。一オンスか二オンスで充分と思う……」
[#改ページ]
シートンは未明から夜遅くまで機械工場で働いた。あるときは機械工の作業を監督し、あるときはひとりで働きつづけた。夜、クレーンが寝室へもどるとき覗くと、シートンは濛々《もうもう》たる煙草のけむりのなかで、あるいは青写真を調べていたり、あるいは計算機に向かっていつ果てるともなく計算を続けているのだった。クレーンの忠告にも耳をかさず、仕事に没頭し、超人的な頑張りをしめした。ドロシーのことを忘れていたわけではないが、なすべき仕事があまりに多いのである。この部分を片づけたらすぐ彼女に逢いに行こうと思う。だが、一つが片づくと、また別の問題が出てくる。より難しい、よりレベルの高い難関がつぎからつぎと前途に立ちはだかってくる。こうして幾日かが矢のように過ぎていった。
一方、ドロシーはますます憂鬱《ゆううつ》に沈んでいった。あの晩餐の日からもう一週間もたっている。あの日は何というあっけない逢《お》う瀬であったことか。あの魔に憑《つ》かれた不運の日以前は、シートンは毎日のように彼女を訪れてきていたのに、毎日のように一緒にオートバイを乗りまわし、お喋りをし、遊んだのに、そしてあのせっかちな性格をことごとに彼女の計画に押しこんで、彼女の日常をめまぐるしく振りまわしていたのに。それが今はどうだろう。彼と結婚の約束をして以来というもの、訪ねてきてくれたのはただの一回、それも夜中の十一時だった! あのときもう、あの人の心はこの俗世間からすっかり離れてしまっていた。あれからすでに六日間も、あの人は電話ひとつかけてくれない。研究所で奇妙なことが起こったからといって、そんなことがこの長い放置の理由になり得るかしら。でも、それ以外に彼女は原因を知らないのである。
迷いに苦しみ、心|傷《いた》む彼女には、母の気遣わしげな眼差《まなざし》が堪えられなかった。彼女はそっと家を抜けだし、いつまでということもなく、またどこへということもなく、足の赴《おもむ》くままに彷徨《さまよ》った。彼女をとりまく春の季節の自然の美しさも、傷心の乙女の眼には映らなかった。悩みもだえる彼女は、後を尾《つ》けてくる足音にも気づかなかった。だからマーチン・クレーンにうしろから呼びとめられたとき、彼女は不意をつかれ、びっくりしてしまった。とっさに明るさと快活さを取り戻そうとつとめたのだが、すでに彼女の心からはゆとりが失われていて、作った陽気さはクレーンの鋭い眼をあざむくことはできなかった。やがて二人は沈黙したまま並んで歩いていた。ようやくクレーンが口をきいた。
「たったいま、シートンのところから抜けてきたのです」と彼は言った。彼女はびっくりして見上げたが、クレーンは彼女の様子には眼もくれず、「あんなに一つことに熱中している人って見たことがないでしょう。もちろん、ああいう性格だから、現在のように偉い学者になれたとも言えるのですがね……無理して働いて、もうすこしで参ってしまうのではないかと心配しているんです。希少金属研究所を辞めたことを、彼はあなたに話しましたか?」
「いいえ、あの事件のあった、いや発明というんですか、あの晩から逢っていないんですの。あの晩、彼はあたしに一生懸命に説明していました。言う意味はほとんど理解の外でしたけど、わかった範囲でも彼のいうことは滅茶苦茶でしたわ」
「あの件については、ぼくもあなたに説明ができません――その点ディックの口からでもぼくによく説明ができないのですから。ですが、大体どういうことになりそうだということだけはお話しできると思います……」
「それを聞かせて下さいません? お聴きしたいわ」
「ディックは銅を純粋エネルギーに変換する何ものかを発見したのです。あの水タンクが真っすぐに飛んでいって――」
「その話は無茶ですわ、マーチン。あなたがそれをおっしゃっても、変にしか聞こえませんわ」
「ことばに気をつけなさい、ドロシー。実際に起こったことは変だとか無茶だとかいうことはあり得ないのです。ぼくはこの眼で見たのです。ところで、いま言ったように、この銅のタンクはワシントンからどこへ飛んだのか、とにかく真っすぐに未知のところへ飛んでいったのです。適当な乗物があれば、ぼくたちはあのタンクの後を追いかけてみたいと思っているのです」
ひと息いれてドロシーの顔をみた。ドロシーは何も言わない。クレーンは何事もなかったかのように淡々と語りつづけた。
「結局、宇宙船を作ろうという考えにぼくらは到達したのです。あなたも知っているように、ぼくには金があり、ディックには頭脳があります。ですから何日かは、そうですね、夏が終らないうちに、ぼくらはどこかへ……そうです、地球からかなりはなれたどこかへ行くつもりです」
それから、絶対他言しないようにと前置きして、あの実験室で彼が目撃した事実をこと細かに話し、現在の模様を打ち明けた。
「でも、あの人が、それっぽっちの小さな事実をもとにして、いまのようなことをみんな考えついたのだとしたら……そんな理論を考えだし、宇宙旅行などと聞いたこともないような計画を立案するほど素晴らしい頭脳をもっているのだったら、どうしてあの人は、あたしに話してくれなかったのでしょう?」
「話したいとは思っていたのです。でもいまは計画に夢中になっていて、そのヒマがない――だからと言って、あなたに対する愛情が薄らいだなどとは決して思わないで下さい。ぼくはそのことをあなたに教えてやろうと思ってお宅をたずねてきたら、あなたがちょうど散歩しているのを見かけたものだから……。いいですか、ドロシー。彼は自分の健康も考えないで夢中で仕事をしているんです。食事らしい食事もしない。睡眠もほとんどとらない。くつろがなければいけないのに、どうしてもそうしない。いまに倒れてしまいます。ぼくがどんなに忠告しても聴こうとしません。ドロシー、何かあなたがしてやれることは考えつきませんか? あなたとぼくと二人でしてやれることでもいい……」
ドロシーはなおも黙って歩いている。だが先刻のドロシーとは人が違ったような感じである。背すじを伸ばし、歩きかたが軽快である。眼がきらきらと輝いている。彼女らしい魅力と活気がたちもどってきたようである。
「あたしにできることがありますわ!」彼女は息をはずませた。「あたし、あの人の頭のなか一杯にいいことを詰めこんでやります。そして夕食後すぐ寝かせつけてやるわ、あの大きなおバカさんを!」
驚いたのは、今度はクレーンだった。踏みだした片足を宙に止めるほど、彼はびっくりした。
「ど、どうしてそんなことが?」眼をパチクリして訊いた。
「あなたのいうことはまるで無茶だ――どうしてそんなことができる?」
「あんまり詳しいことは訊かないほうがいいわ」と彼女は小妖精のような意味深長な微笑を浮かべた。「マーティ、あなたは世界一の名優というわけにはいかないのよ。ディックにヒントを与えてはいけないの。万事あたしの胸三寸だわ。あなたはただお家へまっすぐに帰るのよ。あたしがお家へ着くときには必ずいらっしゃるようにしてよ。あたし、ちょっと他処《よそ》へ電話していかなければならないの……でも六時にはお家へ行ってますからね。シローにあなたたち二人の夕食はつくらないように言っといてね」
ドロシーは六時かっきりにクレーン邸へ現われた。
「マーティはどこなの? 工場?」
「はい、工場においでです」
工場へ踏みこむと、ドロシーは何も知らない恋人の背後へそっと近づいていった。
「ハーイ、ディック! どう、お元気?」
「えっ!」
シートンは、坐っているストールから飛びあがりそうにびっくりした。振り向いて、うしろに立っているのが本当にドロシーだとわかると、彼はバネ仕掛《じかけ》のように、それこそストールを蹴って飛びあがった。
無我夢中の熱烈な抱擁――ドロシーは足をすくわれていた。彼女は恋しい人の、岩のようなごつい身体へ、すきまもなく、その柔らかい肢体を押しつけた。強く、より強く。二人の唇はあわさり、しっかりともつれあった。
ドロシーは、息もつけない抱擁からわずかに半身をほどくと、恋人の眼をじっと見つめた。
「あたし怒ってたのよ、ディック。あなたにキスしてやろうか殺してやろうか、ほんとに迷ったのよ。でもキスすることにした、今度だけはね」
「わかっている、わかっている、ドロシー。ぼくも一時間でもヒマをつくって君に逢いにいこうと骨折ったのだが――どうしても……つぎからつぎへ、いろいろなことが起きてきて――ごめんね、ドロシー――ぼくの頭はコチコチに厚くなって、一つのアイデアが浸出してくるのに千年もかかるような有様なんだ――」
「黙って! あたしは先週いっぱい考えてたの、ことに今日はそうよ。そのままのあなたを愛しているのよ。でも耐えきれなくて――愛しつづけようか、諦《あきら》めてしまおうか、迷ったの。でも諦めるなんてとても考えられない。だってあなたに色眼を使う女があったら、あたしはもう、その女の髪の毛につかみかかっていきかねない。……さあいらっしゃい、ディック。今晩はもうお仕事よしてね。あなたとマーチンをあたしの家へつれていくの、ご馳走をしに」
そのときシートンの眼がまたおのずと計算機のほうへ向いたので、ドロシーは声をはりあげて、「今夜はもう――お仕事――おしまいと言ったでしょう! あたしと喧嘩したいの?」
「ううう! そ、そんなこと考えてないよ。仕事をしようと思ったのでもない!」シートンはドロシーの見幕《けんまく》に震えあがってしまった。「喧嘩はごめんだ、君と喧嘩なんて。絶対にごめんだ――信じてくれ」
「信じるわ、あたしの恋人!」二人は腕を組んで工場から母屋のほうへいった。
クレーンは招待を喜んだ。友人のためにこんないいことはないと思った。着替えにいこうとするとドロシーが止めた。
「ぜんぜん非公式のディナーなの。そのままの服装にして?」
「じゃあ、ぼくは手を洗ってくる、すぐ来るから」とシートンは部屋を出た。
ドロシーはクレーンに向きなおって、
「マーチン、お願いがあるの。あたしキャディラックを運転してきたの。エアコンディションの車よ、わかっているわね? あなたストラディヴァリウス持っていらっしゃらない? あたしのいちばんいいヴァイオリンでもいいのだけど――でもいちばん強い武器を使いたいと思うの」
「そうか――やっとわかった!」クレーンは浮わずった声で叫んだ。「そうだとも。必要なら戸外《そと》で弾いてもいい、雨のなかでもいい。素晴らしい作戦だよ、ドロシー――まったく素晴らしい」
「どういたしまして。自分にできることをするだけよ」ドロシーは謙遜して言った。そこへシートンがあらわれたので、
「さあ、行きましょう。ディナーは七時半かっきりに出るのよ。時間ぴったりに家へ着かなければいけないわ」
ヴェーンマン邸の瀟洒《しょうしゃ》なダイニングルームで、三人はテーブルについた。ヴェーンマン夫妻もいっしょだった。
ドロシーは再び、六日間の心労がシートンに及ぼした憔悴《しょうすい》の痕をさぐった。顔は青ざめ、やつれ、見るかげもない衰えかたである。眼尻にしわがより、口のあたりにも条《すじ》が這っている。眼のふちにまごうかたもなく、青い隈《くま》ができている。
「あんまり根《こん》をつめすぎるわ、ディック。すこし仕事を減らさなければ……」
「なあに、ぼくは大丈夫だよ。気分は上乗なんだ、ガラガラ蛇をけしかけて、第一発を咬《か》ませられるほどなんだ」
ドロシーは笑ったが、気がかりの色は表情から消えなかった。
食事中は、プロジェクトのことは避け、もっぱらテニスの話、水泳、その他のスポーツの話題だけに限った。シートンは、ここ数週間こんなにすばらしい、美味しい料理にありついたことはなかった。たいらげるあとから、皿がまた山盛りにされていった。デザートの後、一同は居間へ行き、坐りごこちのいい椅子にそれぞれの身体をくつろがせた。男たちは煙草をくゆらせた。五人はなおも愉しい会話をつづけた。
しばらく憩《やす》むと、主人のヴェーマンは、珍しい二つ折の判本を見せてあげるからと言ってクレーンを書斎へつれていった。ヴェーンマン夫人は、あの原稿、放っておいたら、いつまでたっても出来やしない、今日はぜひ書き終えてしまわなければなどと、辛《つら》そうな調子でつぶやきながら二階へあがっていった。気をきかせたのである。
居間にはシートンとドロシーだけが残された。
「今日はヴァイオリンのお稽古やすんじゃったのよ、ディック。あなたたち二人のせいだわ、あなたたち二人の天才をおいかけてあんなところまで出掛けたからよ。あたしのお稽古、三十分聴いていただける?」
「遠慮いらんよ、ドッチー・ディンプル。君のヴァイオリンほどぼくの大好きなものはない、わかっているじゃないか。ぼくに頭を下げて頼みなさいと言うんなら、ぼくは喜んで頭を下げるよ、ほら、この通りだ。プリーズ、ドッチー、プーリーズ――おお、そこなるみめ麗《うるわ》しき楽神のごとき処女《おとめ》よ、汝《な》が周囲の空気をその妙《たえ》なる調《しら》べもて満てよかし」
「歓迎《ウイルコ》。諒解《ロジャー》」ドロシーはクツクツと含み笑いをした。「高く、そして広く」
彼女はクレーンのヴァイオリンを取り上げ、弾き始めた。
最初はシートンの好きな曲であった。巨匠の作曲したオペラと独奏曲から精髄《せいずい》を選んで編曲した、二弦和声に富んだものであった。これが終ると、彼女はもっと柔かい、単純なメロディーへうつり、そこからまた昔懐かしい歌曲へと流していった。シートンは深い幸福感にひたり、次第次第に心がくつろいでいった。パイプはやめ、両手をだらんと下げ、眼は自然と閉ざされ、椅子の背にからだをぐったりとよりかからせた。
音楽はまた移り、おもむろに夢幻曲へと入っていった。一と弾きは前よりも柔和に、つぎの一と弾きはさらに緩慢に、そして夢み心地に、それが終るか終らないうちに、メロデーは甘い哀調の子守唄に変わっていた。名器と名手の結合は、じつはこの子守唄に最大の効果を発揮したのである。
ドロシーは最後の楽節を、だんだん弱音でのばして弾き終り、鳴りやんだ静寂のなかに立った。まだ弓はかざしたままである。いつでも弾きはじめられる姿勢をたもったが、その必要はなかった。ここ数日、無慈悲に鞭《むち》うたれ追いまわされていたシートンの肉体は、いまようやく頭脳の拷問から釈放されて、奪われていた数十時間の睡眠をいっきょに取り返すために弛緩《しかん》しはじめていた。
シートンが深い眠りにおちたことを見届けたドロシーは、書斎のドアのところまで忍び足で行き、
「椅子で眠っているわよ」と低声《こごえ》で言った。
「だろうな」ヴェーンマンがにっこりと微笑《わら》った。「あの最後の曲は一壜の睡眠薬《ヴエロナール》よりも効きめがあった。クレーンもわしも、自分たちが眠りこまないように気合いをかけどおしだった。スマートな娘だ、お前は」
「音楽家です――たいした音楽家です」とクレーンがうなずいた。
「あたしじゃないわ――ヴァイオリンだわ! でも彼をどうしましょう? 眠らせておいていいかしら、あんなところで?」
「いや、寝椅子のほうがずっと身体が休まるだろう。どれ、毛布を二枚もってこよう」
毛布をもってきた父親といっしょに、クレーンとドロシーは居間へもどった。シートンは身動きもせずに熟睡している。逞《たくま》しい胸のゆっくりした上下運動で、彼が生きていることがやっとわかるほどの、死んだような熟睡であった。
「あんたはシートンの頭を……」
「しッ!」ドロシーがものすごい顔でささやいた。「起こしちゃうじゃないの、ダディ」
「ばかな! 棍棒《こんぼう》でなぐりつけても起きやしないよ。クレーン、あなたは頭と肩をもって下さい――よっこらしょ!」
ドロシーは心配げに寝せ替えの手順を見ていた。手伝えたら手伝おうと身がまえた。ヴェーンマンとクレーンは、眠っている人を安楽椅子から部屋の隅の寝椅子まで運んだ。上衣と胸衣《チョッキ》を脱がしてやった。
ドロシーは枕を直してやり、毛布を身体のすみずみへ押しつけた。それから彼の唇に接吻してやって、「おやすみなさい、愛する恋人……」とささやいた。
シートンの唇が、彼女の愛撫にわずかにこたえたようだった。そして眠ったままで、「……おやすみなさ……」とかすかにつぶやくのが聞こえた。
シートンがすっかり元気になって工場へ姿を現わしたのは、翌日の午後三時頃であった。クレーンが彼の姿をみつけて、こんにちはというと、シートンは恥ずかしそうに笑って挨拶をかえした。
「何も言わんでくれ、マーチン、ずっとそれを考えていたんだ。それから他のことも。今日の正午《ひる》、ヴェーンマン家の寝椅子で眼をさましたときほど恥ずかしい思いをしたことはない。君がぼくを寝かせつけてくれたんだろう?」
「そうだよ」クレーンは陽気にうなずいて、「いいかい、ディック。昨日までみたいな調子だと、二度三度と恥ずかしい思いをするよ、いや、もっとひどいことになるかもしれない」
「そう嫌なことを言わんでくれよ、マーチン――四つ脚を空中へ投げだして、ペシャンコに眠っているぼくの哀れな姿を想像したら。これからは大丈夫だよ。毎晩十一時には寝る。一日おきにドロシーに逢いにいく。日曜日は一日じゅう彼女につきあう」
「ほんとなら、結構なこった――いや、真実《ほんと》でなくちゃいかんよ」
「肝《きも》に銘じるよ、だから君も助けてくれ。それはそうと、今朝――いや今日の午後だ、朝食をたべているときに、ぼくの理論に欠けているあれを見つけたんだ。ぼくが元気をとりもどしたから思いついたなどと言わんでくれ。どっちにしたって、ぼくは気がついていたんだから」
「ぼくはわざとそれを言わなかったんだ、友情のしからしめるところだ」
「ありがとう、ありがとう。それで、その難関のことだが、君も憶えているだろう、エネルギーを解放するときの小電流の効果はどうかという問題だった。ぼくは自分で解決できたと思っている。小電流はエプシロン―ガンマージータ平面を転移しなければならない――そしてもし転移するとすれば、解放率は、ジータ角が零《ゼロ》のとき、ゼロとならなければならない。ジータ角が二を超えてパイに近づくにつれて、解放率は無限大に近づく」
「近づかないのだよ」と、クレーンがぴしゃっと反駁《はんばく》した。
「近づくことはできないのだ。その平面の方向は温度で定められている――温度以外の何ものによっても定められない」
「ふつうはそのとおりだ、しかしこの場合は|X《エックス》が入ってくる、その証明はこうだ……」
こうして二人の議論はますます熱を帯びていった。参考論文はテーブルから溢れて床へ落ち、下書きペーパーがどんどん積みかさねられていった。二台の計算機がほとんど休みなく活動していた。
≪シートン=クレーン効果≫の数学的詳細をのべることは読者にも興味がないだろうから、ここではただ、二人が合意した数個の結論を述べるにとどめよう。
エネルギーはたしかに制御できるということ。そのエネルギーは宇宙船を駆動する――あるいは牽引する力があるということ、さらに、このエネルギーは爆発物としても利用され、その威力は二十ミリ砲弾の爆発力から、ほとんど上限のない数値におよぶということなどである。その他、彼らの達した最終方程式には、本質的に、多くの可能性が秘められており、それらは当時人類が未《いま》だ探険していなかった無限の未来を約束するものであったこともつけ加えなければならない。
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「おい、ブラッキー」デュケーンの実験室のドアで、スコットが呼びかけた。「いまのKSKMテレビ局のニュースフラッシュを見たかい? 君の領分だったぞ」
「見なかった。何だった?」
「誰かが百万トンのテトリル、TNT、ピクリン酸、ニトログリセリンその他を小山に積みあげて爆発させたらしい。ウェストヴァージニア州バンカーヒルの町がすっとんじゃった。人口二百の町がだよ。生存者はない。残骸すらもないとアナウンサーは言うんだ。ただ地面に二マイル直径の大穴があいたそうだ、深さは――神のみぞ知る、だってさ」
「でたらめだ!」とデュケーンがどなった。「あんなところで原子爆弾を何に使うんだ?」
「それがおかしいんだ――原子爆弾じゃないというんだ。どこにも放射能は検出されない、その気配すらないというんだ。ただ幾千、幾万トンの高性能爆薬が一時に爆発しただけであとは一切不明。『全科学者が度肝《どぎも》をぬかれた』というニュースフラッシュの科白《せりふ》だ。君はどう思う? 君も度肝をぬかれたかい、ブラッキー?」
「その一部分でも信じられればな」
デュケーンはぶっきらぼうに答えて自分のデスクへ向きなおった。
「ぼくのせいじゃないよ――ぼくはただ、フリッツ・ハーベルマンの言ったとおりを君に教えただけだ」
デュケーンがぜんぜんこのニュースに興味をしめさないので、スコットはぶつぶつ言いながら出ていった。
「あの馬鹿な技師のやつ、とうとうやらかしやがった。これでブルッキングズの吝嗇《けち》が、治ればいいが」――デュケーンはそうひとり言をつぶやいてから受話器をとりあげた。
「交換手だね? こちらデュケーンだが、午後に電話がかかってくることになっているんだ。電話があったら、ぼくの家へかけるように言ってくれたまえ。リンカーン六四六二〇だ……じゃたのむ」
研究所の建物を出、駐車場から自動車をだしてきた。三十分もしないうちに、美しいロッククリーク公園を見おろすパークロードの自宅に着いた。彼はここに黒人の老夫婦を召使いにして、独りで住んでいる。
午後のいちばん忙しい時間というのに、チェンバーズが、新聞をひっつかんで、真っ青な顔をしてブルッキングズの個室へ駆けこんできた。
「読んでごらんなさい、ミスター・ブルッキングズ!」
ブルッキングズは新聞の記事を読んだ。顔が土気《つちけ》色に変わった。
「もちろん会社《うち》だな」
「そうです、うちです」チェンバーズが元気なく応じた。
「馬鹿者めが! ごく小量しか使っちゃいけないって注意しなかったのか?」
「よく注意したんですよ。彼は心配することはないと言っていました。ムリはしないし、どうせ研究所全体でも、一時に一グラムしか銅はもらえないんだからって」
「うむ……まさか……いやひょっとすると?」ゆっくりと電話機に向かい、ブルッキングズはある電話を呼び出し、デュケーン博士に絡《つな》いでくれといった。デュケーンは不在で、もう一つ別の番号を呼ばなければならなかった。
「ブルッキングズだが、至急会いたい。……一時間以内にそちらへ行く……じゃ」
ブルッキングズはデュケーンの家の書斎へ通された。形ばかりの握手をして椅子にすわった。
科学者は相手が喋りだすのをじっと待っている。
「あんたのほうが正しかった、博士。会社の人間じゃうまく扱うことができないとわかった。契約書をもってきた……」
「二万と一千万だな?」デュケーンの薄い唇が冷酷な微笑にゆがんだ。
「二万と一千万だよ。会社は犯した過ちを弁償する覚悟をきめた。それがこの契約書というわけ……」
デュケーンは書類をちらっと見ただけで、ポケットに突っこみ、「今晩弁護士と書類を調べて、弁護士がオーケーといえばコピーを送り返す。それまでの間、すぐ近いとこから始めようか?」
「何を教えてくれる?」
「第一に溶液だ。あんたは溶液を盗んだ、ぼくは――」
「そんな言葉は使わんでくれよ、博士」
「どうして? ぼくは直接的な行動を尊重する主義だ。始めも終りも、いや、いつだって、直接的に行動しなければならん。溶液は貴重だから言葉なんか惜しんでいられない。そこに持ってきているね?」
「うん、ここにある」
「残りはどこへやった?」
「これがみつけた全部だよ、ただ会社の技師が実験室に茶匙《ちゃさじ》半杯分もっているが。われわれは全部とったんじゃない、半分だけとったのだ。残りは水で薄めて、見ただけじゃわからないようにしてきた。その分は後でとることにする。そうしたら大騒ぎになるだろうが、後の祭りで……」
「たった半分だと! ここにあるのは二十分の一だけじゃないか、シートンは四百ミリリットルはかり――一パイント近くも持っていったんだぞ。いったい誰が残りを隠匿《いんとく》したんだ。瞞《だま》されたのは誰だ?」
「わたしゃ隠したりしやしないよ」
「あんたじゃない。あんたがそんなことをするなんて理屈にあわん。あんたの使った泥棒がこれっぽちしか差しださない――泥棒がわれわれを瞞すということは? いや違うな、それも理屈にあわん」
「理屈にあわんよ。パーキンスを知っているだろう?」
「パーキンスか、じゃあ、やつの手下が下の大壜を見つけぞこなったんだな。あんたの方法がダメだってのはそこんとこだよ。まったくアタマにきちゃう。やっぱりぼくが自分で手を下さなければダメということだ。しかしまだ遅すぎはしない。今晩あんたんとこの暴力団を二人借りていって、そこへ乗りこむ」
「そして何をするんだ?」
「シートンを射殺、金庫を開ける、溶液、設計図、ノートを全部盗む。小金があればそれも盗《と》る、もちろんだ――金は暴力団にやる」
「ダメダメ、博士。そりゃ乱暴すぎる。最後の土壇場《どたんば》というのでないかぎり、わたしが許さない」
「はじめにそれをしろと言ってるんだ。シートン、クレーンを生かしておいて、わきのほうからあれこれしてもダメなんだ。シートンの研究はもうかなり進んでいる。クレーンだって人に踊らされるような男じゃない。あのコンビはちょっとやそっとでは負かすことはできない。われわれはすでにずいぶんヘマをやっているが、まだ足がついていない。今のうちにやっちまわなくてはダメだ」
「まずわれわれの持っている溶液を充分に活用したらどうだね、それから残りの溶液を手にいれる。そのうちにシートンが事故に遭えば、つまり殺したあとは、われわれがあの材料をとっくの昔に発見していたんだという説明もできる」
「それはダメだ。というのは、あんたもわかったろうが、あの材料の開発という仕事は非常に危険をともなうからだ。やつらがすでに最大難関を突破しているんだから、こっちでその苦労と金をかけることは愚の骨頂《こっちょう》だ。警察も二、三日は騒ぐだろうが、結局何もわからんし、何も発見できやしない。容疑のかかるのはクレーンだけだ――彼がまだ生きているとしてだよ。クレーンも、疑われてもどうしようもないだろう」
二人はそれからも激しく議論しあった。
ブルッキングズはデュケーンと目的の点では意見が一致したが、手段は許さなかった。もっとおとなしい、遠まわしな、乱暴でない方法がみつかるまでは手出しは控えるべきだと主張した。デュケーンはどうしても妥協しない。業をにやしたブルッキングズは、ついにはっきりとデュケーンの手段を拒否した。そしてパーキンスを電話で呼んで、元の大壜の話をし、設計図、ノート、その他関係資料も全部盗みだして来いと命令し、持参した契約書を渡し、早々にデュケーンの家から出ていった。
大爆発の起こった日の午後おそく、シートンはノートをいっぱい抱えてクレーンのところへやってきた。
「やっと、すこし解決できたよ、マート。エネルギーはぼくの計算したとおりだった。どこまでも出せる、ほとんど無限というに近い。君がいちばん欲しがっていた三つの解答がやっと出た。第一に変換は百パーセントだ。損失はなく、残溜物もなく、放射能も、その他の廃棄物も出ない。だから危険はまったくなく、遮蔽《しゃへい》やその他の防御装置は不用だ。第二に、X材料は触媒としてはたらくので、それ自体はちっとも消耗しない。だから銅線には非常に薄い皮膜をつけるだけで充分なんだよ。第三に、エネルギーはX図形――図形がどんなものかは別の問題だが――の軸に沿った牽引《けんいん》力として働き、無限大値に集中されるということだ。
ぼくはそれから、例の二つのボーダーラインの条件も調査してみた。第一の場合はXの軸に沿って、いちばん近い物体に集中する牽引力を発生させる。第二の場合では、エネルギーは百パーセントの斥力《せきりょく》だ」
「すばらしい解答だ、ディック」クレーンはそう唸《うな》り、一、二分じっと考えていたが、「装置の建設を進めるデータは揃ったと思うね。ぼくは特に最初のボーダーライン・ケースが気に入った。こりゃ対物コンパスと呼んで差しつかえないんじゃないかね。エネルギーの集中焦点を地球にする。どんなに遠くまで行っても、必ずここへ帰ってくれる道がつねに見つかるわけだ」
「うむ、そうだ――それは思いつかなかった。いまぼくが来たのは、モデル機械をつくったから君に知らそうと思ったからだよ。ぼくぐらいの身体なら小銭《こぜに》よりも軽がると扱う力がある。ラムジェットなどよりずっと推力が出る。すくなくとも十Gは出るね。作動するのを見たいかい?」
「そいつぁ、ぜひ見たいなア」
二人が戸外へ出かかると、シローが呼んだ。ドロシーと父親が訪ねてきたというのである。二人はまた家へもどった。
「こんにちは、あなたたち」ドロシーは、はっきりとエクボをみせて、輝くばかりの微笑をたたえている。「ダディとあたし、どうしていらっしゃるかと思って訪ねてきたのよ、お仕事のほうも気になったし」
「ちょうどいいところへ来た」とクレーン。「ディックがモデル推進装置をつくったんだ。いま動かしてみようというんだよ。いっしょに行ってみよう」
屋外の広い作業場へ出てみると、シートンがいま、馬具のような格好の重い装置を肩や腰につけて、あちこちを尾錠《びじょう》で締めているところであった。装置にはいくつかのハンドルやスイッチや小型の容器、その他もろもろの小道具が取りつけてある。シートンは馬具を身体につけたまま、いったん機械工場へ走り、ホワッツィトロンのスイッチを入れた。戻ってきて、左手で懐中電灯のような格好のものを握り、右手でその懐中電灯様のものについている滑り金をそっと動かした。懐中電灯に似たチューブのものは、動力であって、その中に動力源である銅バーが挿入してある。また動力チューブは、一本の長い、調整のできる鋼鉄ケーブルで、彼の体にまきつけてある馬具本体のどこかへ繋《つな》いである。
さて――
シートンは動力チューブの滑り金を動かすや否や、両手でしっかりと動力チューブを握った。ベルトが張りきってキューキュー鳴ったかと思うと、たちまちシートンの身体は二百フィートばかりも、弾丸のように空中へ飛んでいった。空中で停止し、数秒間動かなかった。それから、矢のようにまた突進した。前進、後退、上昇、下降、さらにジグザグ行進、ループ旋回、ぐるぐると輪を描いて飛び、8の字を何度も何度も描いた。数分間そんなデモンストレーションを続けたあと、エンジンをかけたまま隕石《いんせき》のようなスピードで急降下し、あわや地上へ激突というとき、急速に速度はゆるみ、羽毛のようにふんわりと見事な着陸ぶりをしめした。
「ああ、そこに――麗《うるわ》しき貴婦人と尊敬すべき紳士|諸卿《しょけい》――」
かすかに叩頭《こうとう》し、片手をなめらかに前へまわして騎士的会釈をはじめたとき、鋭い金属音がひびいて、足もとをすくわれ、シートンの身体は横ざまに数フィート吹き飛んだ。片手を前にまわしたとき、親指が触って、滑り金が何分の一インチか動いたらしいのである。もう一方の手で彼は動力チューブをしっかりと握っていたのだが、滑り金が動いたので動力チューブが痙攣《けいれん》をおこしてシートンの手を振り放し、鋼鉄ケーブルで、馬具の本体と、馬具を身体にまきつけたシートンを引っぱりながら、地面をバッタのように跳躍して、高い石塀のほうへ真っすぐに飛んでいった。シートンは、釣りあけられて砂地をひきずりまわされる魚のように惨《みじ》めな格好であった。
シートンが引きずりまわされたのも数秒であった。彼はすぐ姿勢を直して足を地面につけ、張りきったケーブルを両手で握って、凧《たこ》を操るように動力チューブをこっちへ手繰《たぐ》りよせた。動力チューブはようやく従順になり、塀から離れて、シートンを駆けさせながら、作業場の中央へ、そして三人のほうへと飛んできた。
ドロシーと父親は息もつけず、立ちつくしたまま、この奇妙な光景に見入っている。クレーンが機械工場のほうへ走っていった。
「ホワッツィトロンのスイッチに触らんでくれ!」とシートンが叫んだ。「ぼくひとりでこの暴れ馬、始末できるんだから!」
シートンがじゃじゃ馬馴らしの名人だとわかって、クレーンはやや安堵《あんど》して大声で笑ったが、万一にそなえて、ホワッツィトロンのスイッチに軽く一本の指だけはつけておいた。
ドロシーは一時恐怖で青くなったが、いまは恋人の格好がおかしいといって、腹を抱えた笑いの発作に陥っていた。いかさまシートンの姿は道化役者のそれであった。エンジンは人間の歩速度よりも格段に早い。それが彼の前で、右へ左へ勝手な方向へ逸走するのである。それにつれてシートンの巨体も振りまわされてジイグ〔テンポの速い躍動的な踊り〕を踊らざるを得ない。まるで狂った仔牛の尻尾にとりついた少年のようである。でもシートンは落ち着いたもので、仔牛をあやすようにして右へ飛び左へ廻り、しだいに鋼鉄ケーブルを手繰《たぐ》っていって動力チューブに手をかけた。とたんに両手でがっしりと握り、またもや空中高く飛びあがった。今度は巧みな操縦ぶりをみせて、三人のいるすぐ傍へ、あざやかに着陸した。三人はまだ腹をかかえて笑いこけている。
「いい格好じゃないと言ったろう?」シートンは息をはずませながら言った。そして自分でもおかしくてたまらないというふうに笑いだして、「しかし、こんなに暴れるとは思わなかった」
ドロシーがシートンの手を握った。
「どこも怪我しなかったの、ディック?」
「うん、ちょっとばかり」
「あんたがマーチンに放っておけと叫ぶまでは、あたし、こわくて真っ青になっていたのよ。でもあのときからおかしくなってきたの。もう一度やってみない? あたしカラー写真で撮ってみるから」
「ドロシー!」父親が娘をたしなめた。「今度したら、おかしいどころじゃないかもしれんのだぞ」
「この機械には今度ということはないんです」とシートンははっきりと言明した。「ここまでくれば、あとはほんものの船へすすんでいいと思うんですよ」
ドロシーはシートンの腕をとりながら、家のほうへ歩いていった。
ヴェーンマンはクレーンに近づいて、「商業ベースではどうするつもりなのですか? もちろんディックは宇宙船以外のことは考えていないでしょうが、あなたとしては……」
クレーンはちょっと顔をしかめて、
「そうです。数人の設計技師にもう何週間か働かせているんですがね。五十万キロワットか百万キロワット程度の発電所をこしらえて、何分の一ミルという低廉《ていれん》電力を売り出せると思うんですよ。でも、深く研究すればするほど、従来の大きな中央発電所はみんな廃物になってしまいそうなんですよ」
「へえ、どうしてそんなに?」
「電力消費工場単位に発電所をつくることになるからです。しかし、まだデータが充分じゃないし、実際に採算のとれる発電所をつくるまでには、もうすこし時間がかかると思います」
夕方の時間は、たつのが早かった。客は帰りかけていた。ドロシーは玄関でシートンをつかまえて訊いた。
「何という名前をつけるつもり? あなたたち二人、さっきからいろいろな名を言っていたけど、ひとつもいいのがなかったわね」
「だって、≪宇宙船≫でいいだろう?」
「それ、普通名詞じゃないの、あたし、固有名詞をいっているのよ。考えられる名前は一つしかないわね、≪スカイラーク≫(宇宙の雲雀《ひばり》)はどう?」
「それだ! それ以外にないよ、ドロシー」とクレーンが叫んだ。
「完璧な名前だ!」とシートンが手を叩いた。「ドッチー、君が名付け親になってくれ、超真空をいっぱい詰めた五十リットルのフラスコを聖盤にしてね。『われ汝《なんじ》をスカイラーク号と命名す――バン!』」
ヴェーンマンは思いだしたようにポケットから一枚の新聞をとりだして、クレーンに渡した。
「これです――ここへ来る途中でクラリオン紙を一枚買った――ここに異常な大爆発のことが出ています。話半分としても途方もない話です。真実じゃないかもしれない。でもあんたがた、その道の玄人《くろうと》には面白い記事でしょう? じゃおやすみなさい」
シートンがドロシーを自動車まで送って帰ってくると、クレーンが黙って新聞を手渡した。シートンは読み終って、
「Xだね、間違いない。クラリオンの記者もXとは思いつかんだろう。どこかの馬鹿な奴が、ぼくのようにウサギの足〔幸運の護符〕をポケットに忍ばせないで、Xをいじくったのだな」
「だけど考えてみろ、ディック! 何か重大なものが潜《ひそ》んでいる、ここには。二人の人間が同時にXを発見したとは想像もできない。誰かぼくたちのアイデアを盗んだのだろう。しかし、あの材料がなければ、アイデアだけではどうにもならないはずだが、材料はどこで手に入れたのだろう?」
「そうだ。あの材料は極度に珍しいものなんだ。この世に存在することすら予想されていないのだから。科学の世界に知られたXは全部、そのマイクログラムまで、ぼくたちが確保したはずだ」
「よし。じゃ――仕事をはじめたときに持っていた分量があるか、調べたほうがいい」
貯蔵壜はほとんど一杯に入っており、封臘《ふうろう》も剥《は》がれてはいない。小壜も、見たところシートンが残しておいたままである。
「みんなあるようだが」
「違う」とシートンが断乎として言った。「きわめて稀有の物質なんだ。偶然によそにもあるという確率はほとんど零《ゼロ》にひとしい……よし濃度を調べればわかる」
調べてみると、小壜のほうは濃度が貯蔵壜のそれの半分になっている。
「やっぱりそうだよ、マート。誰かがこの小壜の中味を半分盗んだ。盗んだ奴があの爆発の……どう、君はどう思う?」
「ぼくもそう思う。てっきりそれだ」
「問題は一ダースもある研究所のどれが盗んだかということだ。わかればみんなこの材料を欲しがるだろう。盗んだ研究所をつきとめることが大仕事だ」
「そうだね。アイデアは、君の公開実験から得たものに相違ない。それとも君の実験室の毀《こわ》れたガラクタを調べてみて、あのとき働いていたすべての因子が存在していたら、君の公開実験は失敗しなかったはずだ、というふうにヒントを得たのかね。実験をみせたときは誰がいたの?」
「ああ、二、三度。たくさんやってきたよ。しかし君の仕様書でだいぶ範囲がせばまり、スコット、スミス、ペンフィールド、デュケーン、ロバーツの五人になるな。ふふん、待てよ――スコットの脳が無垢《むく》のサイクロナイトだとすれば、あんな爆発ぐらいではやつの頭蓋骨は割れないだろう。スミスは純粋な理論家だからこれは問題外だ。ペンフィールドは原典を引用するにもいちいち許可をもとめるという気の弱い男だから、これもオミットだ。デュケーンは……ええとデュケーンは……まさかデュケ――」
「デュケーンは、じゃあ容疑者第一号だね?」
「でもちょっと待ってくれ! まさかデュケーンが犯人とは……」
「はっきりは言えない。それで容疑者第一号になる。五番目のロバーツはどうなんだい?」
「ああ、あれは全然違う。彼は生粋《きっすい》の研究畑で、あれがもし国家公務員の身分を剥脱されるようだったら、ワシントン市中の時計が全部とまってしまう」
クレーンは受話器をとりあげ、ダイヤルを廻した。
「プレスコットだね? こちらはクレーンだが、希少金属研究所のマーク・C・デュケーン博士について完全な調査報告を大至急送ってくれたまえ。……そう、あらゆる点を調べて……制限はつけないでくれ。それから、すぐボディガードを二人か三人送って欲しいんだ。守衛に使う。君の信用できるのを……じゃ」
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シートンとクレーンは≪対物コンパス≫の開発にかなりの時間をかけた。超耐《ちょうたい》衝撃の宝石入りベアリングにのせた称平環《ジンバル》上に装架されたコンパスで、これを数個製作した。シートン理論に厳密に沿ってつくられたので、対物コンパスはきわめて鋭敏であって、超遠距離にある極小物体――たとえば三千マイル遠方の小さなガラス玉みたいなものに向けてこれをセットすると、一秒以内に正確にその方向を指して固定するのである。
航法問題は解決したので、二人は≪X爆薬≫使用銃弾の等級別シリーズを作製した。どのシリーズも、標準型の四五口径銃弾に見わけもつかぬほど酷似した形状、大きさに製造した。
かれらは青写真と作業ノート類をいつものように金庫に収めており、まだ作業継続中の対物コンパスとX爆薬銃弾に関する資料だけは絶えず手許に置いておいた。
かれらはまた、工場を出るときは、工場内および金庫などすべてをよく見張るように、シローと、警察がつけてくれた三人のボディガードに指令していた。
こうしてある日、かれらはヘリコプターに乗って極秘の場所へ飛んだ。そこで新しいX爆薬銃弾の威力試験をするつもりであった。
新兵器は期待どおりの高性能をしめした。臨時のヘリポートともなった小さな卓状小丘の上から、クレーンが第一号銃弾を試射した。標的は百ヤード以上離れた大きな切株であったが、銃弾のショックで切株は地の底からもぎとられ、空中に木っ端《ぱ》みじんとなって四散した。爆発力のすさまじさに二人は呆然となった。
「うおッ! 五号が見ものだな」
「慎重第一だよ、ディック。標的に何を選ぶ?」
「そうだな、谷の向こうに見える、あの大きな岩を狙ってみようか。距離計でみると九百ヤードと出ているが。どうだ、命中すると思うか? 一ドル賭けるかい?」
「特別区のピストル・チャンピオンがかい? ごめんこうむろう!」
ピストルが鳴った。弾丸が標的に当たると、その大きな岩は巨大な球のような……何ものかの球となって消滅した。炎というのではない。すくなくとも炎ばかりとは言えない。原爆のような殺戮《さつりく》的放射能は出していない。高性能爆薬の大量爆発にともなう火球とくらべて、はるかに高熱とも見えない。しかし、シートンもクレーンもこんな爆発は見たことがない。まったく奇態な爆発というより他はなかった。
観測しているうちに、二人は衝撃波ではげしくつきとばされ、よろけながら地面に這いつくばった。ようやく立ち上ってみると、巨大なキノコ雲ができていた。ものすごい速度で立ち昇り、同じく急速に外側へぐんぐん拡大していくキノコ雲を、二人は息をのんで見つめていた。
クレーンはガイガー計数管とシンチレーション計数器で調べていたが、テスト中も爆発に関係のない自然放射能計数しか示していない、とびっくりした表情で言った。シートンは観測をつづけ、しきりに計算尺を動かしていた。
「ここからじゃよく測れない、雲の真下だからな。それにしてもこりゃすごい! 最低九万七千フィートは昇っている。まだむくむくと昇っている。いやもう、ぼ、ぼくは――なんといっていいか――わからなくなっちまったよ!」
二人の男は自分たちの解放したエネルギーの信じがたいまでのすさまじさに肝を冷やし、数分間は声も出せずに立ったままであった。やがてシートンが一世一代の遠慮を言った。
「この界隈《かいわい》で第十号の発射テストをするのは見合わそうや」
「なんだと、パーキンス。まだ何もしていないんだって?」
ブルッキングズは詰《なじ》った。
「しかたがないんですよ、旦那。プレスコットの下にいる連中ときたら、じつに欲張りで、つきあいにくい手合でして」
「そんなことはわかっとる。それにしても一人ぐらいは承知するだろうが」
「十万じゃダメですよ。しかし十万が旦那のおっしゃる限度だから。二十五万でなけりゃどうしても動きません」
ブルッキングズはこつこつとデスクを叩いていたが、「しようがないな……」と舌打ちして、少中額紙幣で二十五万ドル支出という出納係宛の支払命令書に署名した。「じゃ明日午後四時、キャフェで君に会う」
キャフェというのはペンシルヴェニア|大通り《アヴェニユ》にある料理店≪パーキンス・キャフェ≫のことである。ワシントン界隈《かいわい》の外交官、政治家、さらに財界、社交界のエリートがおもな顧客になっている有名なレストランであるが、この店が世界を股《また》にかけた巨大会社ワールド・スチールの、これもまた世界を股にかけた凶悪な秘密活動の中枢《ちゅうすう》拠点だとは神ならぬ身の知る人とてはなかったのである。
翌日の午後四時、ブルッキングズは≪パーキンス・キャフェ≫の奥の事務所へ通された。
「なんて態《ざま》だ、パーキンス! まだ何もできんのか?」
「いや、どうにも手が出ないんですよ、旦那」パーキンスは相変らずかぶりを振るだけである。「あらゆる手順を秒刻みにきちんと計画しているんですが、あの日本人《ジャップ》、何から何まで嗅ぎだす勘のいい奴で、こっちを出し抜きやがるんです。こんどもわたしゃどうにか逃げおおせたんですが、トニーは冷たくなっちまいました。でも心配しないで下さい、旦那――シルク・ハンフリーと、ほかに二人の利《き》けものを、奴を消しに遣《や》りましたから、四時八分に報告しろと言ってあるんです。もうそろそろ来るころです」
そう言っている矢先にパーキンスの通信器が鳴った。
「こちらはディク(刑事のこと)だ。シルクじゃない」通信器にごく低くキーキーという声が響いている。「シルクはやられた。連中二人もやられた。あのジャップ野郎が続けざまに射って、三人をバラした。他にすることはないかい?」
「ない。あんたの仕事はそれまでだ」パーキンスはそのスパイ用通信器を小さな金属片に接触させた。ブルッキングズがこの通信器をとおしてデュケーンに呼びかけた。
「わたしのオフィスに来られないかね、それとも盗聴されてるのか?」
「両方だ。頭のてっぺんから爪先まで盗聴されている。プレスコットの部下が前後左右、それから樹の上にもかくれている。とにかくすぐ行く」
「すこし待ってくれ……」
「昂奮するな。ぼくが出し抜かれると心配しているのか? 盗聴や盗聴防止の手なら、ぼくのほうがプレスコットや奴の使っている刑事《ディク》よりよっぽどくわしいんだ」
ブルッキングズのオフィスに現われたデュケーンは、スパイやディクの眼と耳をごまかす独特の技術を話した。苦《にが》みばしった浅黒い顔に冷酷な微笑を浮べて、自分で興に乗っているふうであった。それからブルッキングズの失敗と零《こぼ》し話を黙って聴いてやってから、
「あんたがとちることはわかっていた、だからこっちで独自のお膳立てをしておいたのだ。ただし一つだけ、はっきりさせておきたい。これからはぼくが指令を下す、いいね?」
「まあ仕方がないね」
「よし、まずクレーンのにそっくりのヘリコプターを一台用意しろ。それから背丈が六フィート、目方が百六十ポンドの麻薬中毒患者を一人捜してこい。そいつに三時間もつ注射を一本打ってくれ。今からぴったり二時間後にクレーンの飛行場へ届ける、できるな?」
「できる」
約束の時間にデュケーンはクレーン屋敷の私設飛行場付近に現われた。同じ時間にヘリコプターと麻薬を注射されて意識を失った大男も到着した。万事、デュケーンの指令どおりだった。彼はすぐ、ヘリコプターに大男を乗せ、自分が操縦して離陸した。急上昇し、西から北へかけて広い円弧を描いた。
シローと三人の守衛は、エンジンの音を聞いて空を見上げた。主人の乗った(と思った)ヘリコプターが空から垂直に私設飛行場へ下降してきた。地面すれすれまで下降すると急に速度をおとして着陸し、ストリップを徐行しながら四人のほうへ近づいてきた。体つきと服装からシートンと思われる男がふらふらと操縦席で立ちあがった。そして、機のなかにじっと横になっている痩せた男を指さし、早く来てくれというふうに、両手を気ちがいのように激しく振り、何やら嗄《かす》れた声で叫び(声はほとんど聞こえない)、そのまま力尽きてぐったりと座席へ腰をおろした。
シローと二人の守衛はそのほうへ駆けだしていった。だが一人の守衛だけは駆け出さなかった。
突然、布で包んだような鈍い銃声がし、シローと二人の守衛が倒れた。
デュケーンはヘリコプターの操縦席から軽やかに外へ飛びだして、三人の体をしらべた。守衛は、二人ともこときれていた。シローはまだ呼吸している。ちょっと可哀そうな気がした。だが、そう長いことはあるまい、とデュケーンは思った。
デュケーンは手袋をはめ、家の中へ押し入って金庫のとびらをこじあけ、中を捜した。溶液入りの小壜はあったが、大壜がみつからない。その形跡すらない。彼はそれから建物のなかを、屋根裏から地下室までくまなく捜した。ようやく地下室に大金庫がみつかった。鋼鉄のとびらが巧くカモフラージしてあったのでわからなかったのである。だが、このとびらを破ることは、さすがの彼にもできなかった。彼は大金庫のとびらを睨《にら》んでいたが、破る必要もないと心に決めた。表情はまったく変わらない。ただ、深く思案しているらしく陰険な眼がスリットのように細くなっただけである。溶液の大壜はここにはあるまい。おそらくどこか田舎の、地下の大金庫かなにかに隠されているのだろう――そうデュケーンは判断した。
彼はヘリコプターへもどって、いくばくもなく自分の家へ帰った。そして盗んできた青写真と研究ノートブックに眼を注ぎはじめた。
クレーンとシートンがヘリコプターで帰ってきたころは、日が暮れてすっかり昏《くら》くなっていた。着陸灯が点《つ》いていないので何か胸さわぎがした。着陸のとき、衝撃で機が激しく揺れた。二人は家のほうへ急いだ。
呻《うめ》き声がしたので振り返った。シートンが懐中電灯を片手に、もう一方の手に自動拳銃を握って、そっと近づいていった。拳銃をいそいでホルスターにしまい、シローの冷たくなりかかった体の上へかがんだ。二人の守衛は、手を触れてみると、もう完全に死んでしまっていた。二人でシローを抱きあげ、シローの部屋へつれていった。シローの頭蓋《ずがい》が大きく割られている。シートンは応急手当を施した。クレーンは外科医、検屍官、警察などにつぎつぎに電話をかけた。最後にプレスコット部長刑事にも電話した。どれも、長い会話であった。
重傷を負ったシローにできるだけの応急手当をすると、彼らは無言でシローの病床のわきに立った。
二人の憤怒《ふんぬ》は、ものも言えないほどの沸《たぎ》りかたであった。シートンは身体中の筋肉をぴくぴくと痙攣《けいれん》させながら立ったままであった。拳銃の柄を握った右手の関節が白く浮きたっていた。ベッドの太い真鍮《しんちゅう》の手すりが、左手で押されて、ゆっくりと撓《たわ》んでいった。クレーンは無表情で立ったままだ。だが、その顔は蒼白である。そして大理石のように硬《こわ》ばっている。ようやくシートンが口を開いた。
「マート」怒りで歯がきしり、声が咽喉につっかえている。
「死にかけた男をほうっておくとは人間のできることじゃない。やつは人間じゃない、物だ。ぼくたちの最強拳銃でやつを射殺してやる……いや、射殺などは生ぬるい。この素手で八つ裂きにしてやる」
「きっと犯人を見つけるよ」クレーンの声は低く、冷やかで凄味《すごみ》があった。「これも金でできる仕事だ」
外科医と数人の看護婦がやってきて、二人の緊張がいくぶん解けた。外科医は手なれた巧みさと正確さで、きわめて専門的な医術を施してくれた。しばらくたって、外科医は二人に向かい、
「頭皮に負傷しただけです、ミスター・クレーン。二、三日すれば起きられますよ」
やがて警官、プレスコット部長刑事、検屍官の順序で到着した。家のなかは急にざわめき、あちこちで人が動き、検査がすすんだ。若干の有力な線がつかみだされた。さまざまな説が出された。いくつかの筋の立った推理もおこなわれた。
クレーンは一同の前で賞金を発表した。殺人犯人の逮捕および有罪決定にみちびく情報の提供者には、税ぬき百万ドルを贈与するという思いきった提案であった。
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プレスコット部長刑事は眠られぬ夜をあかした後、朝食のテーブルでクレーンとシートンとに向かいあった。
「何かわかりましたか?」とクレーンが訊いた。
「現在のところ、何もまだ。犯人はあなたがたの動きを細かく正確に知っておりましたね」
「そうです。で、その意味はおわかりでしょう。三人目のボディガード、あの逃げたボディガードですよ」
「そう」有名な敏腕刑事の顔が曇った。「問題はかれの犯行だと証明できるかどうかですね。第二に重要なことは、ホシは、あんたと背丈から体つきまで同じだということですね、シートン。それでシローもごまかされた。臆面もない、酷似《こくじ》だった」
「うん、それならデュケーンです。中国じゅうの茶に賭けて、デュケーンです!」シートンが叫んだ。
「第三は、ホシは金庫破りの専門家だということです。この一点だけでも、デュケーンの容疑は薄くなります。なにしろ金庫破りというのは特殊技術でしてね、ちょっとあんたのような専門技術を要するんです。いや実に見事な破りかたですよ――実にみごとな」
「その説には賛成できませんね」とシートンはつっぱねた。
「忘れちゃいけませんよ、デュケーンは百科事典みたいな男です。駆けだしの金庫破りなど足もとにも及びません、ちょうどぼくのほうがあそこにいる牡猫よりも賢いようなもんです。デュケーンは金庫破りなぞ十五分も習えばその道の名人はだしの腕になれます。それにやつは一連隊に支給できるほどの臓腑《ぞうふ》をもっている大胆不敵な男です」
「第四に」とプレスコットはシートンの抗議を無視してつづけた。「絶対にデュケーンじゃないということです。彼の家のなかのことは一切合財こっちで盗聴しています。われわれは彼を継続監視していました。彼がどこにいたか、一分ごとにわかっています」
「わかっていると思うというんでしょう? やつは電気のことは電気を発明した人間よりも詳しいんですよ。じゃあんたに一つ訊きますがね、デュケーンの家へ人をいれたことがありますか?」
「ううん……それは、そうはっきりとは……でも近頃はその必要はなくなっていますよ」
「しかし今度のケースでは必要だったかもしれませんよ。しかし、今は、しないでください。ぼくの眼に狂いがなければ、あんたはやつの家へ刑事を張りこませなくともよい」
「と思いますがね」とプレスコットはうなずいた。「でも、なぜ急にそんな、張りこませなくともよいなどとおっしゃるんです? なぜです?」
「理由はこれです」とシートンは、テーブルの上に対物コンパスを置いた。「ぼくはこのコンパスを昨晩おそく彼にセットしました。彼は一晩中自分の家から一歩も出ませんでした――それが何を意味するか、しないかは別としてですね。とにかく、このコンパスの針は、今からずっと彼を指します。やつがどこへ行こうと、中間に何が挟《はさ》まろうと彼を指しつづけるんです。この器械はぼくの知っているかぎり――照れくさいけど、ぼくはこの器械に関しては世界の誰よりもよく知っているのです。とにかくこのコンパスは妨害されることはない。もちろん極秘ですよ」
「そうでしょうとも。いや、こりゃありがたい。……でもこんな簡単な器械がどうしてそんな不思議な働きを?」
シートンが説明してやった。常識いってんばりの部長刑事はキツネにつままれたような顔をして、クレーン邸を辞去した。
その晩おそく、プレスコット部長刑事はデュケーンの家へ忍びこんだ。すでにそこに数人の刑事を張りこませていたのである。
あたりは森閑としてまったく異常がない。デュケーンは書斎にいる。プレスコットの握っているスパイ通信器のスピーカーからは、ふつう仕事に没頭している人間の身辺から発する、雑多な、かすかな物音が聞こえてくる。しばらく時間がたった。スピーカーからは、紙などをいじる音がサラサラとひびいていたが、一方、対物コンパスの指針がゆっくりと下のほうへ動きはじめた。同時に窓掛けに紛《まが》うはずもないデュケーンの横顔がシルエットになって写った。デュケーンが部屋を横切ったらしい。
「歩くのが聞こえないかい?」と暗がりでプレスコットが一人の部下に訊いた。
「いいえ、厚いカーペットが敷いてあるんです――それにあんな大男にしては歩き方がひどく静かなんですよ」
プレスコットがびっくりして針をのぞいていると、針はぐんぐん下のほうへ降りていき、文字盤の底から廻って、こんどは彼自身のほうへ指してきた! ということは、もし本当とすれば、デュケーンがプレスコットのいるすぐ下を歩いているということである。
プレスコットは半信半疑で針の指す方向へ歩いていった。すると、この家の建っている小高い丘をくだって、公園道路のわきへ出た。行き先は、さらにロッククリーク公園への入口の一つである長い橋のほうへまっすぐに伸びているようである。プレスコットにはデュケーンの姿はまったく見えない。コンパスの針だけが頼りである。プレスコットは公園道路から離れて、灌木の茂みへかくれた。そこからは橋が斜めにまる見えである。
そのとき橋がガタガタと震動をはじめた。高速の自動車が一台、橋を渡りかかったのである。と、自動車は急に速度をゆるめた。見ると、デュケーンらしい格好の男が、長い巻紙のような包みをもって橋の下から這いあがってきた。デュケーンを乗せると自動車はスピードを増して去っていった。見なれた車型と塗色の自動車であった。だが、ナンバープレートは汚れていて見えない。色もはっきりしなかった。コンパスの針はいまはもう、遠くへ去った自動車を指しつづけたまま、じっと動かない。
プレスコットは部下たちのところへ駆けていった。
「自動車をもってこい」部下の一人に言いつけた。「どこを走るか、乗りながら教えるから」
自動車のなかで、彼は手のひらに隠しもったコンパスをちらっちらっと盗み見ながら運転を指示した。ワールド・スチール社総支配人ブルッキングズの邸を指していた。プレスコットは部下の刑事に、その辺の目立たないところに駐車して待機していろと言いつけ、自分は密かに監視にかかった。
四時間ほど張りこみをつづけたところ、どこからともなく一台の小型車がブルッキングズ邸の私道へ入ってきて玄関に停った。遠くの、ある州のナンバープレートをつけていた(ただし、後でこの州の警察当局は該当の番号はないと報告している)。植込みにかくれて監視している刑事たちの眼に、玄関から出てくるデュケーンの姿が見えた。デュケーンは長い巻紙の包みはもっていない。デュケーンが小型車に乗りこんだ。
プレスコットはもう、デュケーンがどこへ行くか察しがついた。彼と部下とは超スピードで先まわりして例の公園道路の橋へ走り、その辺の茂みへ身を潜《ひそ》めた。
いくばくもなくデュケーンの乗った小型車が橋に差しかかって停った。デュケーンが出てきた。暗いから彼とはわからない。だがコンパスの針がピタリと彼の方向へ向いて離れない。デュケーンは、橋のたもとの堤をなかば歩き、なかば滑《すべ》りながら、降りていった。灰色の橋脚のコンクリートをバックに、デュケーンの大きな姿が黒く浮き彫りにされて立っている。デュケーンが頭上へ片手をのばした。何かの合図か? たちまち橋脚の腹に四角の黒い穴があき、デュケーンの姿がその中へ吸いこまれていった。はっと思った拍子に、もう橋脚の壁は灰色一色にもどっていた。
プレスコットは懐中電灯で、秘密のとびらを捜しあてた。灰色の壁に、ほとんどわからないような割れ目が這《は》っている。とびらの上に、デュケーンが押したボタンが見つかった。プレスコットはボタンを押すのをためらった。押すことはやめ、深い思いに沈みながら自宅へ帰った。翌朝クレーンに報告する前に、二時間か三時間眠らなければどうにもならないと思ったからである。
翌朝彼が行ってみると、クレーンとシートンが首を長くして待っていた。シローも頭に繃帯をまいていたが、もうもとどおりの体になったと言い張って、彼の代わりに臨時に雇われた男を台所から追いだしているところであった。
「シートン、あなたのコンパスがすごく効きましたよ」とプレスコットが一部始終を報告した。
「棍棒でたたっ殺してやりたい」シートンが凄《すご》い形相で言った。「電気椅子なんかもったいない」
「電気椅子に坐らんかもしれんよ」そう言ったクレーンの顔は苦しそうに歪《ゆが》んでいる。
「なぜだ? われわれはやつが犯人だということを知っている。証明できないというのか?」
「知っているってことと、それを陪審員の前で証明するってことは、シャム猫とペルシャ猫ほども違うんですよ」とプレスコット。「われわれにはボロきれ一枚の物的証拠すらない、これで起訴をもとめたら、一笑に付されて法廷からつまみだされるのがおちです。そうでしょう、ミスター・クレーン?」
「そのとおり」
「わたしゃ前にもワールド・スチールをつっついたことがあるんです。わたしの仕事の半分はワールド・スチールです。わたしの失敗の九十九パーセントはワールド・スチールの手入れです。この市《まち》の他の検察機関だって似たような痛い目にあっています。警察は、あるだけの手段を動員して、何度やつらを襲ったかわかりゃしません。そのたびに、ただ撥《は》ね返されるだけです。FBI(連邦検察局)だって同じですよ。われわれの捕えられるのはいつも雑魚《ざこ》ばかりで……」
「望みなしというんですね?」
「はっきりそう言うわけじゃありませんが。とにかく、わたしはわたしなりに捜査はつづけます。わたしの部下も何人か殉職していますから、お返しはしてやらなきゃならんのですよ。過去に奴らの厄介になったこともありますがね。しかし希望的観測をしちゃいけない――というのがわたしの信念なんです」
プレスコットが出て行った。
「度《ど》しがたい甘ちゃんだな、あれは」とシートンが辛辣《しんらつ》な批評をくだした。
「そうなるのもムリはないんだよ、ディック。報告によると、警察は殺しから放火、その他何でも使えそうなヤマをぜんぶぶっつけて縛ろうとしてみたんだが、どっこい、これまで逮捕できたのは一人もおらんのだ」
「ところで、真相がわかったから、見通しもはっきりしてきた。やつらはX材料を独占はできっこない――」
「できないって? そこが肝腎《かんじん》かなめのところだよ、ディック。もしぼくたちが二人とも死んでしまったら――もちろん事故でだよ、そうしたらどうなる?」
「とてもやつら、このままでは逃げきれるものじゃない。君が大物すぎる、ぼくは小魚にしかすぎんが。何たって君は天下の富豪M・レーノルズ・クレーンだからな」
「それだってダメだよ、ディック。名前や財産なんか何にもならん。ジェット機はまだ墜落するし、プロペラ機だってときどき落っこちるだろう。まだ悪いことがある――君はまだ気づいていないらしいが、スカイラーク号の鍛造《たんぞう》厚鋼材料と厚鋼板をつくるのはワールド・スチールなんだよ」
「地獄の――真鍮の――鐘!」シートンは足許をすくわれて呪いの言葉をつぶやいた。「どうする、いったい全体? どうできるというんだ?」
「まあ何もできないね」クレーンが暗澹《あんたん》たる表情で言った。
「すくなくとも部品を確保するまでは。せいぜい、独立中小メーカーでも捜すぐらいが関の山だろう」
デュケーンは≪パーキンス・キャフェ≫でブルッキングズに会った。
「あんたんところのフリーの技術者たちはどう思っている、あの発電所? 気に入ったといってるか?」
「報告は上乗だよ、博士。しかし材料はあれしかないというんだろう? 残りの溶液を手にいれんうちは――ところでX金属採鉱のほうの進捗状態はどうなんだね?」
「前にあんたに言ったとおりだ――完全なゼロだよ。Xってのは、多少とも銅金属のある惑星だったら、どの惑星にも自然的には存在し得ないものなんだ。ところが銅あるところ必ず惑星がある、惑星あるところ必ず銅がある。でなきゃ、銅も惑星もない、従ってXもない。シートンのXは隕石から採ったものなんだ。プラチナの塊りになった隕石だ。おそらくX金属の隕石というものは世界中であれだけ――一個だけしかないんじゃないかな。しかしまあ、万が一の僥倖《ぎょうこう》ということもあるから、うちの連中は採鉱はしているがね」
「うむ――とすると、いつかはシートンの溶液は是が非でも頂戴しなければならんということだね? 頂戴する方法は見当がついたか、博士?」
「まだだ。……あの溶液壜は、おそらく世界一安全な信託会社かなにかの地下大金庫のなかだと思う。多分、クレーン名義で預けてあるんだろう。そして壜の入った箱をあける鍵は二個で、それが別々の、どこかの金庫に預けてあるんだろう――それからまだ手がこんでいる。どこまでいっても果てしのないトリックになっているんだ。クレーンが≪みずから≫金庫を開けなければならない、≪自由意志≫で開けなければならない。と言って、シートンを脅迫して入手するということが容易というわけじゃないよ。しかしあんた、今の段階で、レーノルズ・クレーンを陥落させる強力な手は考えつかんかな?」
「考えつく……とはいえんな。ダメだね。しかしいつだったか、博士、あんた言っていたね、おれの身上《しんじょう》は直接行動だって。じゃあ、パーキンスと話してみたらどうなんだね……おっと、これはダメか、パーキンスは三度ともしくじっているから」
「いや、やっこさんがいい。呼んでくれ。やっこさんの弱いのは実行の面だ。計画は案外いい。ぼくはその逆だ、フフフ」
パーキンスが呼びいれられた。いまの問題をじっと考えこんで思案していた。十分、二十分たった。ようやくパーキンスに一つのアイデアが浮かんだようである。
「方法は一つしかありませんね。まず|ハンドル《てがかり》を手に入れなければ……」
「ハンドルだと? 馬鹿いうんじゃない!」とデュケーンが即座にどなった。「どっちもハンドルなんかつかめやしない――どころか、|フレーム《でっちあげ》すらつかめない!」
「誤解しちゃ困りますね、博士。本人をよく知ってさえいれば、どんな人間でもそのハンドルをつかめるんです。過去のことに限りません。現在また将来のことのほうがかえって都合がいいことが多いんです。金……権力……地位……名声……女――このケースで女のことを考えたことありますか?」
「女だって? ないよ!」デュケーンは鼻であしらって、
「クレーンは長いこと女に追いかけられていて、今じゃ不感症だ。シートンはもっと悪い。ドロシー・ヴェーンマンと婚約しているんだ。石部金吉《いしべきんきち》だ」
「ますます好都合ですね」とパーキンスは鼻をうごめかしている。「みなさん、完全無欠のハンドルがあります。溶液を手に入れるハンドルだけじゃありませんよ。シートンとクレーンをあの辺りから引っ込めてしまった後は、いま旦那さんたちが欲しいというものは何でも手に入るハンドルですぜ」
ブルッキングズとデュケーンは、わけがわからず、互いに顔を見あわせた。それからデュケーンが探りを入れてみた。
「よしパーキンス、馬鹿野郎呼ばわりをしたあとだから、よろこんで君に勝ち名乗りをあげさせよう。ハンドルのスケッチを描いてみろ」
「シートンの設計図で宇宙船を一台つくって、そのドロシーという女をそれに乗せて連れだすんですよ。そして誰も見えないところへ隠すんです――もちろんたくさん証人をつくっておかなくちゃいけませんよ。それが宇宙船だということ、まっすぐに飛んでいって見えなくなったということ、それを証言させるんですよ。そうしておいて、彼女をわれわれのどこかの場所へ監禁しておくんです。たとえばスペンサー、あの娘のところでもいいでしょう。それでシートンとクレーンには、女は火星にいっているんで、彼ら二人が救けだしに行かなければ、いつまでも火星にいてついには死んでしまう、と言ってやるんです。彼ら二人はすっかり意気消沈してしまいますよ――そんな話、警察へなんかよう持ってはいかんでしょう。どうです、ここまでに洩れ穴がありますか?」
「今のところ、穴が透けて見えるというわけじゃないが……」ブルッキングズは放心したようにデスクの上で指をカタカタ鳴らしながら言った。「もし彼ら二人が自分たちの宇宙船でわれわれを追いかけてきた場合、どうだろう、条件は変わって来ないかな?」
「ちっとも変わらない」とデュケーンが即座に断定した。「かえっていいくらいだ。やつらはそのまま殺されてしまうだろう。宇宙船の残骸をみれば、墜落と死亡の原因は一目瞭然だ。まさか残骸の冶金《やきん》学的検査など考えつくものは一人もおらんだろう?」
「それが本当だね。じゃあ、こっちの宇宙船は誰が操縦する?」
「ぼくがする」デュケーンが即答した。「しかし助手が要るな。内部の人間を一人――あんたかパーキンスだ。パーキンスがよさそうだ」
「安全でしょうか?」とパーキンスが不安げに訊いた。
「絶対に安全だ。宇宙船は女王様の趣味に合うように作ってある」
「じゃ、お伴しましょう。今日のおはなしはこれでお終いですか?」
「まだだ」と、ブルッキングズ。「君はスペンサーと言ったな。君はまだ彼女からあの証拠物件を奪《と》っておらんのか?」
「ええ。あの女は騾馬《らば》以上に頑固でして」
「時間が切迫しているんだ。彼女もつれていけ、絶対に逃がすな。あの証拠は別の方法で奪《と》るようにしよう」
パーキンスが部屋から出ていった。
デュケーンとブルッキングズは計画の細部について長い間話しあった後、それぞれ別の道順をとって、そのレストランを後にした。
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一〇
スカイラーク号の枠組構造となるはずの特別に厚い鍛造《たんぞう》鋼材が配達された。これを試験室に運び、ラジウム・カプセルを使ってのX線透視試験をしたところが、どの部材にもひび、割れ目などの欠陥があることがわかった。シートンは、直角測定《オーソメ・トリック》投影法によって金属の欠陥を図表化した後、ヴァーニア・キャリパート計算尺を使って一時間ばかり欠陥の程度を調べていたが、
「出荷と機械加工にやっと耐えるだけの強度だな。もっとも、それよりもう少し強いかもしれんが、まだ大気圏にいるぶんなら、加速度一Gぐらいには耐えられるかもしれないが。しかし、本当の強い推力が加わるとか、突然の方向転換などに出会ったら、ポシャッ! ひとたまりもない。石鹸泡《せっけんあわ》よりも脆《もろ》くくずれてしまうだろう。ぼくの数字、当ってみるかい、マート?」
「いいや。材料の分析試験なんか放っとけと言ったろう。ぼくたちが要るのは健全な金属なんだよ。鉄屑じゃないんだ」
「じゃ返送しちまおうか――説明の検査員を一人つけて?」
「そりゃだめだよ、ディック」
「どうしてだめなことがあるもんか」――シートンはクレーンの言う意味が呑みこめず、仏頂面《ぶっちょうづら》をしている。
「だからだよ。ぼくはもうずっと前から、こういうこともあり得ると踏んでいたのだ。この鍛造《たんぞう》品を不合格にして受け取らなかったら、かれらは、別の方法でわれわれを殺しにかかる。すぐにでも非常手段をとってくるだろう。それが成功しないとは言いきれないんだ。ところが、材料を知らん顔して使っているぶんには、かれらはわれわれを放っておく。すくなくともスカイラーク号が木っ端みじんにされるまでは放っておく。それでこっちに数カ月の自由な時間が得られる。高価な犠牲だ。しかし、高い犠牲を払うだけの値打のある貴重な時間だ、それを活用しなければならないんだよ」
「なるほど……そうかもしれんな。金のことは詳しい君だからその判断は君に委せる。しかし、なんぼなんでも、スクラップの山を宇宙空間へ飛ばせることはできんよ、マート」
「できないが、知らぬ顔で、スクラップを使っている振りをして、もう一つの本当のものを作るんだよ。この四倍も大きなものを、絶対に内緒でだ」
「マート! まるで無茶だよ、君のはなしは。そんな大きなサイズの材料を、どうやってこっそりワールド・スチールから買えるというんだ?」
「それができるんだよ。ぼくは製鉄所を経営している男を知っている。ごく小さな――ワールド・スチールと比較してだよ――製鉄所だから、スチールに買収されなかったし、締め殺されもしなかった。ぼくはその男の窮状を救ってやったことがあるんだ、二度か三度。彼はこんどのことでは喜んで協力すると誓ってくれている。ぼくたちは、鋼材の検査なんかにあまり時間をかけていられない――それがぼくらの弱味ではあるが。しかしこのマクドーガルがぼくらに代わってそっちを見てくれる」
「マクドーガルだって? 大陸間弾道弾《インターコンチネンタル》をつくった男か? あの男がこんな一本マストのちっぽけな舟に手を貸すというのか?」
「手を貸すどころのはなしじゃない。是非ともやらしてくれと、ひどく熱心なんだ。なにしろ世界で最初の宇宙船をつくることになるんだからな」
「消えてなくなるほどちっぽけじゃないな、あの会社なら。ワールド・スチールが調査しないかしら?」
「スチールは絶対それをやらなかった。二、三度そういうことがあったが、彼とぼくで、一時に三カ月も文明を離れて旅行に出ていたときも、スチールはぜんぜん放っておいた」
「うむ、でもぼくたちの資本全部以上の金を食うだろう?」
「もう金のはなしはするなよ、ディック。この仕事に対する君の無形出資はぼくの全支出よりずっと貴重だ」
「よかよか――そんなふうに言ってくれると、ぼくは駝鳥《だちょう》の羽毛《はね》を呑んだみたいに頭のあたりがくすぐったくなる。……もうこれ以上文句はないよ。四倍のサイズね――うへえエエエエ! 二百ポンドの銅バー――すげえ力だなア!」
じゃあ牽引装置をつくろうじゃないか――対物コンパスに似た装置を。あんなちっぽけな針じゃなく、十ポンドの銅バーのついたやつさ。宇宙へ出て、ぼくたちを追っかけてくる船があったら、その機械で引っぱって、きゅーと乳漿《なかみ》を絞りとっやる。それとも機関銃をつくるか、宇宙船の与圧ガスケットから第一号から第十号X爆薬銃弾までを発射する? マート、ぼくはもう金輪際《こんりんざい》ごめんだよ――ライフル一挺しかないばっかりに、頭のおかしな異星の怪物《モンスター》の群をみて三十六計逃げるにしかずなんていう、お粗末きわまる戦略思想にはオサラバしたいんだ」
「おかしなこと言わないで、黙ってその二つを設計するんだよ、ディック――そう難題でもないだろう? でも万一の場合を考えて、動力装置は最大安全率にしなければならないね、四百ポンドぐらいに。それから動力バーから押しボタンまで、部品はすべて同じものを二つつくる、そうだね?」
「そのアイデアは買おう」
巨大な鋼製|外殻《シェル》の製造がまもなく始められた。マクドーガルが直接指揮して、ワールド・スチールの干渉の及ばない独立製鉄会社の工場内であった。工員はマクドーガルが数年来手なづけてきた、信頼のできる人ばかりであった。
マクドーガルが巨大な外殻シェルを建造している間、クレーンとシートンはワールド・スチールの鋼材で第一宇宙船の製作をすすめていった。だが真相は、彼らの時間は、あげて、真物《ほんもの》のスカイラーク号つまり巨大宇宙船であるスカイラーク号に装備される無数の不可欠部品の完成についやされたのである。
このように部分品に没頭していたので、彼らは、欠陥のある部材に、欠陥のある鋼板が、ワールド・スチールの職工によって、不手際に溶接されつつあることには気がつかなかった。またふつうの検査員にまかせた材料や組立てなどの検査にも、欠陥があることに彼らは気づかなかった。というのは、検査員はすべてパーキンスが送った、抜け目のない、わからないように欠陥をかくす、とんでもない検査員だったからである。だが、ワールド・スチールのほうにも抜かりがあって、この狐と狸の化《ば》かしあいは五分五分であったといえる。スチールは、シートンとクレーンが装備しているいくつかの特殊計器が、スチール側で了解しているものとは、ちょっぴり違うことに気づかなかったのである。
やがて第一号宇宙船が完成し、≪クリップル号≫(びっこ)と命名された。もっともシートンはすぐ≪オールド・クリップ≫(ヘボ選手)と呼び慣らわしていたが。
その頃、クレーン=シートン工場の職長は、クレーンとシートンの会話をちらと耳にした。航法諸表を整備するまで、試験飛行を二週間のばすことにしたという会話内容であった。
一方プレスコット部長刑事からはシートンとクレーンに、ワールド・スチールが、≪オールド・クリップ号≫の試験飛行を阿呆待ちしているという報告があった。
真物《ほんもの》の宇宙船スカイラーク号のほうはどうかというと、まもなくマクドーガルから、完成、準備オーケーの報告がきたので、クレーンとシートンは「宇宙船に対し若干の最終テストを行なうため」と称して、ヘリコプターで、ある秘密の場所へ出かけた。
数日後のある晩――その秘密の場所≪クレーン飛行場≫へ、巨大な球型宇宙船が着陸したことはシートン、クレーン、ヴェーンマン父娘、シロー以外は誰も知らなかった。飛行はスムーズに、容易に行なわれた。非の打ちどころのない操縦性と思われた。この宇宙船の重量が数千トンの厖大《ぼうだい》さに達するとはとても思えなかった。ただ、固く地ならしした地面に、重みで大きな窪《くぼ》みができたので、その重量が察しられただけである。スカイラーク号が着陸すると、シートンとクレーンが中から地面へ飛びおりた。
ドロシーとヴェーンマンがそこで待っていた。シートンはドロシーをつかまえて熱烈なキスをした。それから、凱旋将軍のような晴々しい顔をして、彼はヴェーンマンと握手した。
「飛びましたよ! 飛んだの何のって! ぼくたち月を一周してきたんです」
「えっ!」ドロシーが衝撃をうけて叫んだ。「あたしに何も言わないで? まあ!――でも聞いたら、グリーンピースよりも真っ青になったでしょうけど」
「だから言わなかったのさ。もう今度は離陸するとき、心配しなくていいよ」
「心配するわよ」と彼女はふくれた。
だがシートンは生返事だけし、クレーンとヴェーンマンのやりとりに耳をすましていた。
「……時間がかかりましたか?」
「いや一時間もかかりませんでした。もっと短時間で月を一周して帰ってこれたんですがね」
クレーンの声は冷静そのものである。顔も落ち着いた表情である。だが、この男を知りつくしている三人にとっては、さすがに内心の昂《たかぶ》りは見逃すことができなかった。
二人の発明家は、公言はしなかったが、かくも長く、かくも苦心の末に完成した宇宙船の大成功に、いま得意の絶頂にあるらしかった。
緊張と昂奮がシローが走ってきたので破られた。この日本人は地べたに着くぐらい深く頭をさげて、
「旦那さまたち、そしてお嬢さま――やつがれは一言《ひとこと》申しあげないでは気がすみません。これは奇蹟です。すんばらしい奇蹟です。もしお許しを得ますならば、わたくし今日の好き日にふさわしいご馳走を容易いたしたいと存じますが……」
クレーンが許したので、シローは小走りに走っていった。二人の発明家兼技師は、二人の客人を案内して宇宙船の内部を見せた。
ドロシーも、≪オールド・クリップ号≫の計画表、設計図などで、またシートンから聞いていた話で、およその見当と類推はできていたが、内部へ一歩踏みこんでみて、息がつまり、叫び声すら出なかった。巨大な空の漫遊機械≪スカイラーク号≫の内部は目もくらむばかりの照明であった。
全体は驚くばかりの厚みをもった硬質鋼でつくられた球型の外殻《シェル》であり、直径は約四十フィートであった。だが本当の形は内部へ入ってみないとつかみにくい。内部は数階になっており、各階は隔壁でいくつかの仕切り部屋になっている。中央部には梁《はり》や桁《けた》が縦横にからみあった球状の骨組がある。この球状骨組のなかには、同じようなかたちの小型球型骨組があり、このほうは、大型球体の内部で、万能ベアリングで支えられて、円滑自在にあらゆる方向に回転するのである。万能ベアリングは円滑比類なき、またすさまじい強度のベアリングである。またこの小型球のなかは、いっぱいに各種機械がつまっており、そのど真ん中にぴかぴかと光る銅のシリンダーがある。これが肝腎の動力源と思われた。
大型球体から外殻《シェル》の壁へ、八本の巨大な組立て支柱が垂直に四本、水平に四本走っている。この井桁《いげた》状構造は最大強度を保証するものらしかった。各階のフロアは厚い敷物でおおわれており、やわらかくフワフワしている。いろんな、ちょっとした場所に調《しつら》えられている椅子もまた、たっぷりと布地がつかってある。そんな椅子――というより座席が一ダース以上もあった。計器パネルないし制御盤は二つある。どのパネルにもたくさんの標示灯がパッパッと瞬《またた》いており、ガラス、プラスチック、金属のプレートが燦《きら》めいている。
昂奮がおさまると、ヴェーンマン父娘が質問をはじめた。シートンが新宇宙船のおもだった特長を説明している。クレーンは黙って三人のあとについて、ヴェーンマン父娘の驚きと嬉しさを賞美しながら、みずからも偉大な宇宙船の光栄に酔って、いちいちうなずいていった。
シートンは四本の水平支柱のうちの一本を指さして、その太さと驚くべき強度に父娘の眼をみはらせた。それから、フロアを突きぬけている垂直支柱へと二人を案内した。水平支柱も大きいが、この垂直支柱という名の頑丈な組立て構造のモンスター的巨大さに較《くら》べたら赤ん坊の腕でしかない。垂直支柱は全部で四本と思われたが、上の二本がそれぞれ下の二本それぞれと、各フロアを貫通して一本構造になっているので、事実は前後二本ということになる。この二本が、大型球体を前後からがっしりと挟んで、同時に外殻《シェル》のトップとボタムを一枚岩の強靭《きょうじん》さに結びつけているのである。
宇宙船の銃身は球の幾何学的中心よりも下に置かれているから、二本の垂直支柱は四本の水平支柱よりも格段に強くなければならない――そうシートンは説明した。その太い垂直支柱へ、まるで愛撫するかのように手を置きながら、シートンは勝ちほこったように言った。現在知られているなかでは、最強高張力の、熱処理された特殊合金鋼をつかっているから、地球上でこれほど強い構造物はいまのところないのですよ……
「でも、どうしてそんなに極端な強さにしたのですか?」と弁護士のヴェーンマンが訊いた。「まるで鉄橋でも支えられるみたいじゃありませんか?」
「鉄橋を支えることができるのですよ。またそうでなければならんのです、この動力を全部解放する場合を考えるとね。この船がどれくらい早く飛べるか、想像できますか?」
「光の速度より早く飛べると聞きましたが、すこしオーバーじゃないですかな?」
「どっこい――アインシュタインの相対性原理というものがなければ、われわれは光速の二倍までの速度を開発できたのですよ。しかしあの原理がありますから、そうはいかない。結局、どの程度まで光速に近づけるか、それが研究の眼目だったのですよ。ところが事実、光速にごく近いのです、いや本当です。もちろん宇宙空間へ出てからのはなしですよ。大気圏では速度は音速の三倍ないし四倍に制限されます。熱交換器と冷凍器の類をいくら使ってもダメです」
「しかし、わしがジェットエンジンに関して読んだ記憶では、重力の十倍が十分間つづいたら致命的だというじゃないですか?」
「おっしゃる通りです。しかしそのために、ここのフロアは特殊設計になっています。椅子ときたら、大変な特殊設計です。ぼくたちもこれにいちばんアタマを使ったのです。ふつうなら人体をセンベイみたいにペシャンコにしてしまう力に耐えて、人間を安全にたもつには、その支持表面をどう設計すべきか……」
「なるほど。操縦はどんなふうにするのですか? 安定基準平面はどうなんです。それを基準にして操縦する? それとも、ゆきあたりばったりに、火星だの、金星――あるいは海王星だのアルデバランへ向かうのですか?」
「それじゃまずいですね。ぼくたちも、はじめはそうなるよりほかないと思っていたのですが、マートがそこんところを切り抜けたのです。エンジンは内側の小型球のなかにあり、船体そのものとは完全に切り離されているのです。外側大型球体と船殻とは連結されていますが、内部小型球体とは関係なく回転するように設計されているんです。船が前後左右に揺れても、動力バーは最初に置かれた方向を指してじっと固定しているんです。ほら、あそこにジャケットが六つありますね。その一つ一つが、一個のジャイロスコープをおおっているのですが、このジャケットで、外側大型球体が゛常に正確に同一位置に――」
「何に対して同一位置ですか? わたしたちが入ってきてから、すこし動いたようですよ……あっ、たしかにそうだ。よく注意してみれば、動くのが見えますよ」
「当然です。おっ……うーむ……おっしゃるような角度からこの問題を考えたことはなかった! 外側大球と船体の方向は動力バーに影響されないとばかり思っていました。でも、もっと細かくぼくを突っこんで下さるなら、ぼくとしてはこう答えます――外側大球は、マクドーガルがあの六個のジャイロスコープを保持回転速度《ホールディング・スピード》にあげたとき、あの製鉄所の三次元的位置にはっきり、そして固定的に合わせられていたのです。しかしここではもう、それはたいした意味はないので、大体において近い基準として、固定した恒星へ釘づけされています。もっとはっきり言えば、銀河系全体に合わせているといったらいいでしょうか……」
「よして、ディック。専門用語なんかもうたくさんだわ」とドロシーが不平を鳴らした。「もっと大事なものを見せてよ、キッチンとか寝室とか、バスとか」
シートンは恋人の要求に応え、地球上での生活と、空気も光もない、寒冷そのものの宇宙空間へ飛びだして、宇宙船という世界で否《いや》おうなしに自給自足を強いられる生活とが、どれほど違うものかということを、こと細かに説明してやった。
「まあ、あたし、あなたと一緒に行きたいわ、ディック。気が狂いそう! いつ連れてって下さるの?」
「もうすぐだよ、ドッチー。小さな故障をぜんぶ解決したらすぐ、きっと連れていく。君がぼくたちの宇宙旅行客第一号だよ、神様に誓って」
「外を見るときはどうするんです? 空気と水はどうなんです? その時々で暖かくしたり涼しくしたりする工夫はどんなふうになっているんです?」ヴェーンマンが矢継《やつ》ぎ早に質問してきた。まるで証人を反対尋問している検事のような熱心さだった。「……ああ、それはわかりました。電熱器と冷凍器のはなしはお聞きしましたものね」
「パイロットが外部をみるときは、特殊な装置で全天が視界に入ります。潜望鏡に似た装置ですが、本当はずいぶん違います、電子工学装置ですから。それから乗客が外を見るときは、舷窓のカバーをはずしてみます。舷窓の材料は溶融した石英ガラスです。空気は酸素、窒素、ヘリウム、アルゴンの混合気体ですが、これはタンクに詰めてもっていきます。しかし空気清浄器と空気回収ユニットが装備してありますから、新規の空気はそう大量には要りません。また非常用に、酸素発生装置もそなえつけてあります。
それから水ですが――水は三カ月分の飲料水をもっていきます。使った水は化学的に純粋な|H2O《エイチツーオー》として回収しますから、二カ月どころか永久に連続使用ができます。ほかに何か?」
「もう諦めたほうがいいわ、ダディ」とドロシーが笑いながら父親にささやいた。「あたし連れてってもらっても完全に安全なのよ」
「らしいな。まごまごしていると朝になってしまう。今晩すこしでも眠るつもりなら、お前とわしは家へ帰ったほうがよさそうだ」
「そうよ。それにあたしが、毎晩十一時に就寝しなければならないって、ディックにきびしく叱言《こごと》をいっている張本人なんですもの。ちょっと待って、顔をなおしてくるから」
ドロシーが去《ゆ》くと、ヴェーンマンはシートンに、
「あんたは、ごく安直に≪故障≫と言いましたね、まるで他人事《ひとごと》のように」
「ぼくよりも、あなたが全然それをおっしゃらなかったじゃないですか」
「それはあんた――」とヴェーンマンは娘の去った方へ首をつとそらして、「でも≪本当は≫どんな具合なんです、みなさん?」
「君から言えよ、マーチン」
「大体において、きわめて良好といえます。もちろん今度のテストはごく短時間の飛行でしたが、エンジンにもその制御装置にも悪いところは一つも見つかりませんでした。大きな改造は必要ないといって大体間違いないと思っています。しかし、光学系は多少改善の余地があります。牽引装置と斥力《せきりょく》装置は、正確度でも精妙さという点でも大分期待に反しています。機関銃は完璧でした。空気清浄器はまだ完全に脱臭しきれません。しかし、浄化した空気は安全に呼吸していいのですし、健康的にも充分に適正です。ただ水回収装置ですがね、これがぜんぜんダメで――汚水を出す始末なんですよ」
「うむ、それも大したことはないですな、必要な水を持っていきさえすればいいのだから」
「そう簡単ではないのですよ。水回収がうまく機能しないということは、ぼくたちが他の点でも大変な間違いを犯していやしないかという懸念《けねん》を生じます――いや、たしかに犯しているんですね。故障は、すぐ発見できて、すぐ直せるものでないと困るんです。まあしかし、これだけの何もかも新しい試みですから、試験結果については大いに満足しているわけです」
「じゃあもう、ワールド・スチールがどう出てこようとかまいませんな? あんたがたが≪オールド・クリップ≫はいじらないつもりだと知ったら、スチールがどう出てきますかね。とにかく何らかの手は打つでしょう?」
「癇癪玉《かんしゃくだま》を爆発してくれればいいと思っているのですがね」とシートンが憂鬱そうに答えた。「ぼくたちのほうでは、用意はしてあるんです。彼らの聞いたこともない、そしてちっとも有難くない道具立てがしてあります。いまマートが説明した故障をなおすのに四日ないし五日の猶予《ゆうよ》を下さい。そうしたらもう大丈夫――やつらに好きなことをやらせていいんです」
[#改ページ]
一一
スカイラーク号が試験飛行から帰還し、四人がその成功を祝った日の翌日、シートンとドロシーはその日の午後、公園のなかを乗馬で遠乗りを楽しんだ。シートンはドロシーをヴェーンマン家まで送り、すぐモーターサイクルに乗ってさよならをした。
ドロシーはシートンと別れた後、隣りの家のコートで行なわれているテニスを見ようと思って、両家の間に立っている楡《にれ》の老樹の下のベンチのほうへと歩いていった。
ベンチに腰かけようとしたそのとき――
忽然《こつぜん》として天から舞いおりたように、一個の銅メッキされた大きな球体が彼女の眼前に現われた。重い銅製とびらが軋《きし》って開くと、全身を皮革服につつんだ逞しい男が中から飛びだした。男の顔も眼も、ヘルメットの垂下布《フラップ》と琥珀《こはく》色の防塵《ぼうじん》眼鏡でかくされていて見えない。
ドロシーは悲鳴をあげて飛びあがった。
シートンはいま帰ったばかりだ。この宇宙船はそれよりずっと小さい。だからスカイラーク号であるはずがない。永久に飛ばないと保証された(と彼女は聞かされている)贋物《にせもの》≪オールド・クリップ号≫であろう。そこまでは彼女にもとっさにわかった。彼女はふたたび金切り声をあげて、逃げようとして振りむいた。だが数歩も駆けださないうちに、皮革服の男につかまってしまった。皮革服の男の腕力は、シートンよりも強く、抱《かか》えられた彼女は、ただ手足をバタバタするだけである。
デュケーンは女を軽々とだきあげて、芝生を走って宇宙船へ急いだ。ドロシーは狂気のように悲鳴をあげ、もがいたが、捕獲者に何ほどの影響も与えることができなかった。爪でひっかいても、ヘルメットの防塵ガラスと皮革では手応えがない。歯で咬みついたが、皮革服にはぜんぜん傷跡さえつかない。
デュケーンは女を抱いたまま宇宙船のなかへ入った。ドアがひどい音をたてて閉った。もう一人の女が、椅子のひとつに堅く縛りつけられていた。
「彼女《こいつ》の足を縛ってくれ、パーキンス」と、デュケーンはドロシーの胴体を抱きなおし、その足が前に突き出るようにした。「ちょッ、山猫みたいに暴れる女だ!」
パーキンスが細い綱の一端を彼女の踝《くるぶし》にまわしたとき、ドロシーは膝を折って両脚をできるだけ引っこめた。パーキンスが不注意に一歩踏みだし、足首をつかもうとして手を出した瞬間、彼女は全身の力を足先にこめて蹴りあげた。パーキンスの胃のあたりへ、彼女の乗馬靴の爪足がもろに当ったからたまらない。
鳩尾《みぞおち》の太陽神経|叢《そう》に激しい一撃を喰らって、パーキンスは完全に失神しかけ、よろよろと後ずさりして、計器盤にどしゃんとぶつかった。そのとき彼の腕が宙を泳いで、動力レバーを最後段の|刻み目《ノッチ》まで押しさげた。それで、動力レバーは着陸時と同じく真っすぐに直立となり、動力レバーにフルの推進力が流れた。
たちまち、宇宙船は想像を絶した速度で飛びだしていった。組立て鋼材が極限値の撓《たわ》みに耐えて、すさまじい軋《きし》り音を発した。四人の肉体はものすごい加速度の力に押されて床の上にべったりと貼りつけられた。ただフロアが超保護力、超柔軟性の特殊構造になっていたため、かろうじて四人の生命が救われたといえる。
狂気を発した宇宙船は数秒という短時間で地球の薄い空気層を突破し、厚い鋼型|外殻《シェル》へ摩擦熱が伝導しきらないうちに、惑星間空間の超真空に近い虚無の世界へ飛びだしていた。
ドロシーは倒れたときのまま、背をべったりとフロアに貼りつけられている。いかに努力しても、腕を動かすことはおろか、息を吸うことも、吐くことさえもできない。
パーキンスは計器パネルの下に、棄てられた屍体のようになって動かない。もう一人の被捕獲者であるブルッキングズの元女秘書は、ドロシーやパーキンスよりはまだましであった。というのは、彼女の肢体を縛りつけていた綱が衝撃でぷっつりと切れ、はじめに置かれた座席の中で、その姿勢のままで横臥《おうが》されていたからである。特殊宇宙椅子の設計者は、このような地球脱出時に人体が可能的快適に耐えるように、そもそもすべてを作りあげていたのである。だが、元女秘書も、呼吸困難はドロシーと同じであった。胸部が巨大重量となり、肺の筋肉が麻痺してしまい、空気を肺中へ送りこまないからである。
動けるのはデュケーン一人である。しかし、蛇のように匍匐《ほふく》していって、計器盤まで達するには、そのヘラクレス的体力をぜんぶ出しきらなくてはならなかった。やっと計器盤まで着いた彼は、残る全力をふりしぼって、頭上二フィートほどのところにある動力遮断スイッチをつかんだ。制御レバーには到底手が届かないとして諦めたのである。いくども発作に似た全身痙攣を起こしながら、彼はすこしずつ身体を起こしていった。はじめは膝と肱をフロアに立てるだけであったが、やっとしゃがみこむ姿勢まで上体が起こせた。それから左手で右肱をささえ、最後の体力をふりしぼった。顔を汗がしたたり落ちた。筋肉の盛上りが厚い皮革服の表面にまではっきりと浮きたって見えた。右手をそのスイッチへ届かせようと、逞しい肉体のすみずみまでの力を指の先にこめたとき、思わず唇が開き、唸《うな》り声が洩れた。手先がゆっくりと伸び、スイッチに指がかかり、ついにそれを引きさげた。
スイッチを切った効果は驚くべきものであった。
狂暴な力が瞬時に切断されるとともに、デュケーンが集中していた筋肉に釣りあう、ふつうの重力すら働いていないのであるから、デュケーン自身の筋力が彼を上方へ放りあげ、彼の体は船の中央部へ、そして計器盤にぶつかることとなった。その結果、彼の右手がまだつかんでいたスイッチがまた閉じ、同時の彼の肩が、動力バーの作用方向を制御しているノッブに衝きあたり、制御ノッブをいっぱいに廻した。船が、以前の加速度をとりもどして新しい方向に飛びだすとともに、彼の身体は計器盤にぶつかり、計器盤の支柱の一本を根元から折り、反対側のフロアへ叩きつけられた。
彼は意識を失ってのびたままだった。無限とも思われる時間がたち、ドロシーともう一人の女はしだいに気が遠くなっていくのをかすかに意識した。
四人の失神した人間をのせたまま、宇宙船は無限の宇宙空間へ走っていった。すでに想像を絶した数値に達していた狂走速度には、光速に近い数値が一秒ごとに新たに加速されていき、船は銅バーの野放図な推力のままに、果てしない超真空のなかへまっしぐらに飛んでいった。
シートンは恋人の家からわずかしか行かないうちに、オートバイ・エンジンのさざめきに混ってドロシーの悲鳴が聞こえたように思った。
確かめるのも待たず、彼はすぐターンした。
スロットルを全開にすると、エンジンのさざめきはすさまじい爆音に変わった。自殺的スピードでヴェーンマン家の邸へ踏みいれたとき、横すべりする車輪に小砂利が飛散した。現場へついたのは、ちょうど宇宙船のドアが閉じたときだった。夢中で駆けだしたが遅かった。あっというまに宇宙船は視界から去った。雑草と土砂が地面からえぐられ、渦を巻いているだけだった。それだけが宇宙船の離陸をしめす全部だった。呆気《あっけ》にとられているテニスプレーヤーたち、金切り声をあげているドロシーの母親にとっては、ただ巨大な鋼鉄の球が瞬時に消えたとしか思えなかった。シートンが舞いあいがった砂埃《すなぼこ》りの竜巻に沿って天を仰ぐと、碧空《へきくう》に一点の黒いシミが見えた。それも何分の一秒という短い時間、ちらっと見えただけで、あとはもう何も残っていなかった。
ラケットをもった若者たちが、口ぐちに事件を話してきかせようとした。その混乱のなかで、シートンはヴェーンマン夫人に早口で言った。
「お母さん、ドッチーは大丈夫ですよ。ワールド・スチールの仕業《しわざ》なんです。でもいつまでも連れていかれたままじゃありません、ぼくたちが必ず連れもどしますから。一週間かかるかもしれません。また一年もかかるかもしれません。でも必ず連れもどします。お母さん決してご心配なく」シートンはそうヴェーンマン夫人を慰めると、ひらりとモーターサイクルに飛び乗り、スピード制限をも交通規制をも無視してクレーンの家へ急行した。
「マート! 大変だ! ドッチーがさらわれた、ぼくたちの設計を盗んでつくった宇宙船でだ。さあ行こう!」
「落ち着け、ディック――早まっちゃいけない。どういう計画だ?」
「計画? やつらを追いかけて、殺しちまうのさ、当たり前じゃないか!」
「彼ら、どっちの方向へ飛んだ? 何時《いつ》行った?」
「まっすぐ上へだ。全速力でいった。二十分前だ」
「時間がたちすぎている。まっすぐ上の方角はすでに五度動いている。もう百万マイルもいってしまっているかもしれない。あるいはまた、ここからたった数マイルのところへ着陸しているかもしれない。坐って考えるんだよ、ディック。頭を冷やして考えるんだよ」
シートンは腰かけて、パイプを引っぱりだした。落ち着こうと努めた。
ふと気がつき、彼は飛び立って自分の部屋へ走っていった。対物コンパスをもって戻った。コンパスの針は垂直上方を指していた。
「デュケーンの仕業だ!」喜びを抑えきれなかった。「針がまだやつを指している。さあ行くんだ、早くしろ!」
「まだだよ。どのくらい離れたかな?」
シートンは対物コンパスの小さな飾りボタンを押し、同時に千分の一秒刻みのストップウォッチを始動させた。コンパスの指針が揺れはじめた。二人は緊張に頬をこわばらせて、ストップウォッチとコンパスを見つめた。針はなおも揺れ動いている。ようやく指針の揺れがとまると、クレーンが計算機のキイを押した。
「三億五千マイルだ。太陽系からちょうど半分出かかっている。ということは毎秒一光速の加速度ということだ」
「そんな速度で走れるはずはないよ、マート。E=M×Cの二乗だよ」
「アインシュタインの理論はしょせん理論にすぎんのだよ、ディック。この距離は観察された事実じゃないか」
「理論は事実に合うように修正されなければならない、とね。よしきた。とにかくやつは制御を失っている――どこかが狂っちゃったんだな」
「てっきりそれだよ」
「やつがどんなに大きな動力バーをつくったのかわからない。だから、追いつくのにどのくらい時間がかかるか、計算のしようがない。しかしとにかくマート、追いかけよう!」
二人はスカイラーク号の格納庫へ急ぎ、大至急に点検をした。シートンがエアロックのとびらを閉めようとすると、クレーンが動力室のほうへ手真似して、待てといった。
「ディック、銅バーはたった四本だ。どちらのエンジンにも二本。彼らに追いつくには少なくとも銅バーが一本|要《い》る。停止するのにもう一本要る。ぼくたちの寿命以内で地球へ戻ってくるつもりならば、さらに二本の銅バーが必要だ。予期しない突発事故に対してゆとりを見ないとしても、これじゃどうしても動力が不足だよ」
出発を焦《あせ》っていたシートンも、この冷酷な事実の前には兜《かぶと》をぬがなければならなかった。
「そうだったか……。もう二本つくらなければならんな――いや四本か。それから食糧とX爆薬も積まなければならんだろう」
「それと水だね。水が特に大切だよ」
シートンは製銅工場の支配人を呼んだ。支配人は、注文は受けてくれたが、シートンの焦りには理解がない。鷹揚《おうよう》な顔で、不吉な情報をぬけぬけと言った。市中はいま銅不足だという。(さてはワールド・スチールが買い占めたか!)完納まで十日か十五日ぐらいはかかるだろうというのである。シートンは、耐久消費財、たとえばバスの銅棒などを溶解したらいいじゃないか、値段はかまわないと言ったが、製銅工場の支配人は頑固で、受注には順序があって、それを崩すわけにはいかないの一点張りであった。
シートンは諦めて、他の会社を呼んでみた。思いつく店はもちろん、電話帳の黄色い職業ページすら繰ってみた。棒――板――型もの――トロリー電線――ケーブル――家庭配線、銅でつくったものなら何でもいいと思った。だが所要量をみたすだけはどうしても見つからなかった。
約一時間、あちこちへ問い合わせてみたが徒労であった。がっかりして、がなりたてるような調子でクレーンに報告した。
「そんなことだろうと思っていた」とクレーンは割に落ち着いている。「ワールド・スチールがぼくたちに銅を使わせないようにしているのかもしれないな」
「よし、こうなったらブルッキングズに会ってみる」シートンが血走った眼で言った。「銅を少しよこすか、でなきゃ、やつの死骸を原子にしてアンドロメダへふっとばすかだ!」といきりたって戸口へゆきかけた。
「待て、ディック!」クレーンが腕をつかんだ。「そんなことをしたら、計画が遅れるだけだ」
「じゃどうするんだ?」
「マクドーガルのところだったら五分間で行ける。彼なら多少はもっているだろう。いや多量に入手してくれる。スカイラーク号がそこで翔《と》ぶ用意ができているよ」
数分の後、二人はマクドーガル工場のオフィスに現われていた。スカイラーク号はこの工場で建造されたのである。二人が銅のはなしをすると、製鋼工場の社長は首をふって、「お気の毒ですが、いま百ポンドくらいしか手持ちがありません。ほかに非鉄金属の機械類も一台もないんですよ……」
シートンが癇癪玉《かんしゃくだま》を爆発させかかったが、クレーンが押しとどめて、マクドーガルにこうなった事情を打ち明けて頼んだ。
マクドーガルは拳固で思いきりデスクを叩いた。そして吼《ほ》えつくような声で、
「そうでしたか! こうなったら教会の屋根をひっぱがしても銅を手に入れましょう!」それからすこし冷静になって、
「溶鉱炉と坩堝《るつぼ》を修理しなくちゃならんのですよ……それから手細工の原型と鋳型《いがた》ですね……ああ大きな旋盤はどこかから借りてきます……とにかくこちらは大至急でバーをつくりますから」
磨きあげられた銅のシリンダーが納品されるまでに二日が経った。そのあいだ、クレーンは多少とも活用できると思われる装置や器械をスカイラーク号に積みこんだ。一方シートンは気違いのようになって工場のあちこちへ飛びまわっていた。
銅バーを装着しているあいだに、二人はもう一度対物コンパスを覗いてみた。一分一分が経過するにつれ二人の顔の緊張は増し、心臓は痛いほど高鳴っていた。コンパスの指針はまだ揺れをとめない。シートンがおろおろ声で言った。
「二百三十五光年だ。針の先がぴたりと固定しないが、大体そのくらいだ。未来永劫の闇に消えたみたいだ」
「そんなに遠くか?」
「さよなら、マート」とシートンが手を差し出した。「君の友情をほんとうに感謝する。帰ってこれたら必ずドロシーも一緒だからと、ヴェーンマンに言ってくれ」
「何?」クレーンは差し出された手を払いのけ、「いつからぼくをオミットしたのだ、ディック?」
「たった今からだよ。一緒に行くことは意味ないんだ。ドロシーが死んだら、ぼくは生きていてもしようがない。しかしM・レーノルズ・クレーンは、絶対に死んじゃいけないんだ」
「馬鹿なことを言うもんじゃない、ディック。この旅行はたしかにぼくらが計画した第一回宇宙旅行よりは遠すぎる。しかし本質的には何の変わりもない。一光年行くのも千光年行くのも安全性に何の変わりもない。それに物資はうんと持っていけるんだし……とにかく、ぼくはどんなことがあっても行くよ」
「一体ぜんたい、だれを揶揄《からか》っているつもりなんだ――かい?……ありがとう、エース!」こんどは二人の手はがっしりと握り合わされた。「君はぼくの三倍の値打がある男だよ!」
クレーンは弁護士に真実《ほんとう》のことは言わなかった。真実に近いことすら言わなかった。ただ、追跡は予想したよりはすこし長びくかもしれない。通信はまあ不可能だろうということ、それからどう考えても今度の旅行はかなり長期になる――どの程度の期間かも憶測すらできない、というようなことを漠然と報告しただけであった。
彼らはエアロックを閉め、離陸した。シートンは動力バーのすべてを全開にした。高温計を読んでいたクレーンが、すこし加減しろといった。船体外壁が危険な高温をしめしたからである。
大気圏を脱出すると、シートンはふたたび徐々にレバーをあげていった。最大出力に近くなると、彼はもう自分の手の重量にすら耐えられなくなり、こういう緊急時のためにつくられてあった腕支えを使った。こうして彼はなお数|刻み《ノッチ》、レバーを押しあげ、暴力的な加速度で自分の椅子に圧《お》しつけられた。椅子は自動的に上へ繰りだされ、彼の手はなお爪車《ラチェット》のハンドルを制御することができた。彼の手はハンドルをまわし、ラチェットはカチカチと刻み目に爪を食いこませていった。ついに、もうこれ以上は耐えられない限界まできた。
「君のほうは……どうだ?」マイクロフォンに呻《うめ》き声を通じた。どうしてもまともな会話はできなかった。
「気……が……とおく……なっ……た」クレーンの返答は、ほとんど聞きとれない。「き……みィ……が……堪《た》……え……られ……る……なら……か……まわん……」
シートンは数|段《ノッチ》、レバーをもどした。「この程度ならどうだ?」
「そのあたりなら堪えられると思う。いまちょうど、失神の境目《さかいめ》だった」
「じゃ、この程度で進行させよう。何時間ぐらい走らせる?」
「四時間か五時間だろう。そうしたら食事をして、もう一度コンパスの指針を見よう」
「よろしい。喋ることは大変な努力が要《い》るんだ! 喋れなかったら叫べ、まだ叫ぶ力があるうちだ。ぼくは嬉しくってしようがない! やっと本格的な宇宙旅行ができて、今日はぼくの最良の日だ!」
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一二
デュケーンの宇宙船は、無制御のエンジンによって、無限の宇宙空間を突きすすんだ。速度はおそるべき程度に達し、なおも刻々と増していった。こうして四十八時間たったころ、銅がほとんど尽きかかると、加速度は減りはじめた。フロアも座席も正常位置に戻りはじめた。銅の最後の一滴がなくなると、船の速度は恒常となった。宇宙船のなかにいるものにとっては、宇宙船は静止しているように見えた。だがこのとき、それは光速の数千倍の速度で動いていたのである。
デュケーンが最初に意識を回復した。彼は立ち上ろうとした。その努力で身体はフロアから離れてふわりと浮かび、上方へ飛んでいって天井へ軽くぶつかり、そのままじっと動かずに空中に漂っていた。他の三人は、動こうとはせず、ただデュケーンの奇妙な運動を驚いて眺めているだけであった。
デュケーンは手をのばして、壁にとりつけられた楔型《くさびがた》のハンドグリップにつかまり、自分の身体をフロアへ引きおろした。極度の慎重さで皮革服を脱いだ。脱ぐとき二挺の自動拳銃をはずした。身体にそっと手を触れてみたが、どこにも骨折はなかった。それから初めて彼は他の三人がどうしているかと四辺《あたり》を見まわした。
三人は座席にすわり、何にもつかまらないでいる。二人の女はただ静かに休んでいるだけである。パーキンスは皮革服を脱ぎかかっていた。
「おはよう、デュケーン博士。あたしがあなたの友だちを蹴ったので、変なことが起きて……」
「おはよう、ミス・ヴェーンマン」とデュケーンは微笑《わら》った。やっと、微笑える程度の人心地がついたふうである。「いくつかのことが起こった。パーキンスがあなたに蹴られて制御装置のどまん中へ転んだ。そこで動力が全開になってしまい、予定よりずっと高速度で地球を離れた。ぼくは制御をとりもどそうと頑張ったが、できなかった。そのうちにみんな眠ってしまって、いまやっと眼が醒《さ》めたというところだ」
「あたしたち、どこにいるんですの?」
「さあ、わからん……でも大体の計算をしてみよう」
デュケーンはエンジンの燃料室のほうへちらっと眼をやった。出発のときは、燃料室には銅シリンダーが一本挿入してあったのだが、今は空っぽである。彼はそれからノートブック、鉛筆、計算尺をとりだし、計算した。数分間かかった。
それから舷窓の一つへにじり寄り、船外をじっと見た。ついで別の舷窓へ行き、同じことを繰り返し、三つ目の舷窓をのぞいて観測してから、制御盤のそばへ坐って、仔細にそれを調べ始めた。制御盤はみじめに頷き、まともに作動しているとは思えなかった。それから彼はしばらく計算機を使った。
「どう解釈していいのか見当がつかない」と彼はドロシーのほうへ静かに言った。「動力がぴったり四十八時間全開していたのだから、われわれは太陽から二光日以上離れていることは確かなんだ。太陽から一光年かそこら以らしい恒星が数個、それから星座がいくつか見えたからね。それでいて、ぼくのよく見知っている恒星も星座もひとつも発見できない。だからこの船は四十八時間、絶えず加速度がついていたのだ。ぼくたちは地球から二百三十七光年ばかり離れたどこかに漂っている。君たち二人は一光年といってもわかるまいが、大体六千兆マイル――六千マイルの百万倍の百万倍の距離なんだ」
ドロシーの顔からさっと血が引いた。マーガレット・スペンサーは気絶してしまった。パーキンスはといえば、顔面筋肉を痙攣させ、血走った眼をむいている。痴呆になったのであろうか?
「じゃあ、あたしたち、もう絶対に帰れないわね?」とドロシーは訊いた。
「帰れないとは言わないが――」
「おまえのせいだ、ドロシー!」とパーキンスが悲鳴に近い叫び声をあげてドロシーに飛びかかった。
指先を鷲《わし》の爪のような鉤《かぎ》状にまげ、眼に凶暴なひかりをきらめかせて、殺意が汲みとれた。だが、手は思うようにのびなかった。不様《ぶざま》に躯全体が空中へ横倒しになって漂っただけである。すかさずデュケーンは、一方の足を壁にかけ、左手で一つのハンドグリップを握り、右手でパーキンスを張り倒した。パーキンスの身体は部屋のすみへ吹っ飛んでいった。
「そんな真似は許さんぞ、このシラミたかり!」デュケーンの声は冷酷、冷静であった。「もう一度変な真似をしてみろ。船外へ放りだしてやる。彼女の罪じゃない。われわれ自身のしたことだ。しかも大体がお前のせいだ――もしおまえのあたまに脳細胞が三個でもあったら、彼女は蹴りはしなかったのだ。しかし出来たことは仕方がない。大事なことはどうして地球へ帰還するか、その方法だ」
「でもおれたち、帰れねえんじゃないですか」パーキンスは泣きわめいている。「動力はダメんなったし、制御装置はこわれちまった。あんたはあんたで、どうしていいかわからんという……」
「そんなことは言わん。現在位置がわからんと言っただけだ――ぜんぜん違う発言だ」
「でも、たいした違いはないんじゃありません?」ドロシーは辛辣《しんらつ》な口調で詰《なじ》った。
「絶対に違うんだ、ミス・ヴェーンマン。ぼくは制御盤を修理することができる。銅バーのスペアは二個ある。そのうちの一つを使って、方向を正反対にすれば、船は停止する。地球に対してだよ。最後の一個は半分だけふかして巡航速度にもっていき、われわれの知っている恒星をいくつか見つけ、三角測量をおこない、現在位置をはっきり知ることができる。そうすればわれわれの太陽系がどの方角かもわかり、それに向かって推進すればいいんだ。そんなことより、みんなですこし食べることを考えなくちゃいかん」
「そうだわ、タイムリーな美しい着想だわ!」とドロシーが叫んだ。「あたしも腹ペコよ。冷蔵庫はどこなの? あっ、それよりもまず……あたし手を洗いたいのよ、彼女もきっとそうだわ、あたしたちのルームはどこ?……ルームあるんでしょ?」
「ある。あそこだ。それから、あそこがキッチンだ。ゴチャゴチャしているが、行けばわかる。ちょっとミス・ヴェーンマン――君の度胸には驚いている。パーキンスがあんなにだらしないは思わなかった。君たち女性がへたばるだろうと思った……でもミス・スペンサーはまだ危ない、君が力づけて……」
「ええ、やってみるわ。もちろんあたし、とてもこわかったわ。でも神経が参っちゃったってもどうにもならないでしょ?……それにどうしたって地球へ戻ることが先決問題だし」
「必ず戻れますよ。すくなくとも、君とぼく二人だけは」
ドロシーはスペンサーを励ました。この女は放心状態で、周囲の事物いっさいに関心を喪失しているようである。
ドロシーはハンドレールを伝わりながら、スペンサーをトイレットルームへ連れていった。レールにつかまりながら、彼女はいまさらながら自分を誘拐したデュケーンという男の逞しさ、その勇敢さに感嘆の気持を禁じることができなかった。冷静沈着で、自分自身およびその置かれたシチュエーションを完全に把握している。全身の打撲傷や擦過傷《さっかしょう》、顔半面が変形するほどの傷をうけながら、すこしも意に介してはいない。彼女が自制を失わないでいられたのは、すくなくとも、この男の逞しさを眼《ま》のあたりにし、その範《はん》にならおうと無意識のうちにも努めたからだ……。
パーキンスの脱ぎすてた皮革服の上を這《は》っていきながら、ドロシーはたしかにパーキンスは武器を抜きとらなかったと思った。ちらっと見ると、パーキンスはこっちを見ていない。彼女は大急ぎで皮革服をさがし、二挺の自動拳銃をみつけた。標準型の四五口径のものだと知って彼女はほっとした。素知らぬ態《てい》で、拳銃をポケットにしまいこんだ。
トイレットルームへもどると、ドロシーはスペンサーの様子をもう一度見た。まだ様子がおかしい。キッチンへ行って薬を持ってきた。
「さあしっかりして、これを飲むのよ!」と命令するように言った。
スペンサーは言われたとおりに薬を飲んだ。だがまだブルブルと、自制できぬまでに身体を震わしている。まだ充分に正気づいていない。
「すこしはいいようね。さあ、しゃんとしなさい。あたしたち、まだ死んじゃいないのよ。死にはしないんだから」
「あたしは死にかかっているの」弱々しいつぶやきが洩れた。「あなたはパーキンスを知らないのよ。あのケダモノ!」
「わかっているわよ。それ以上のことも知っているわ、デュケーンもパーキンスも想像できないようなことまで知っているのよ。いまね、すばらしい機敏な男性二人があたしたちを追跡しているの。ここへ追いついたら……そう、あたし絶対にデュケーンにもパーキンスにも降参しない、どんなことがあっても」
「えっ?」スペンサーが眼をあげた。ドロシーの自信に満ちた言葉と態度とに力づけられたらしい。急速に正気に戻り、眼の動きが正常になった。「まさか、あなた?」
「本当なの、あたしたち、これから頑張るのよ、することがたくさんあるの、まず身だしなみが第一。それから無重力なのだから……あら、まだ気分わるいの?」
「とても気持が悪かったわ。すっかり出しちゃって、吐くものがない。あなたは気分悪くないの?」
「たいして。気分はわるいことはわるいけど、馴れなのよ。あなたは何も知らないのね」
「ええ。下へ落っこちていくみたいな感じだけなの、我慢できないほど嫌な気持だわ」
「そりゃ気分はよくないわよ。あたしはこの問題はずいぶん研究したの。理論の上でね。あのひとたちが言っていたわ――落下感覚を忘れなければいけないって。あたし忘れられるというんじゃないのよ、でもそう努めているの。さあ、何はともあれバスをとらなくっちゃ、それが済んだら――」
「バスですって? ここに?」
「そう、スポンジ・バスなの。さあ、こっちよ。それが終ったら……かれら、あたしに合うドレスをたくさん持ってきているの。あなたはあたしと同じサイズでしょ?……グリーンを着たらよく似合うわ」
スポンジ・バスでさっぱりと身体を浄《きよ》め、新しいドレスに着替えると、ドロシーは、「ああ、やっと人心地ついたわ!」と歓声を洩らした。女は互いに服装を見較べた。ドレスがぴったりと肌についていて、いい感じだった。
スペンサーは二十二歳ぐらいらしかった。縮れ毛をしていた。豊かな黒髪だった。眼は褐色――表情のある、澄んだ褐色の瞳孔《ひとみ》だった。肌は白く、象牙のようにすべすべしている。ふつうだったら相当の美人だ。いまは見る影もなく、やつれているが――とドロシーは思った。
「まずお互いに名乗りをあげましょうよ、でなくちゃ、何もできないわ」とその女は言った。「あたしはマーガレット・スペンサーっていうの。ワールド・スチール社のお偉方《えらがた》ブルッキングズの元秘書。かれらはあたしの父を瞞《だま》して、数百万ドルの値打ちのある発明を奪ったの。そして殺してしまったの。あたしは、証拠をつかもうとして秘書になったのだけれど、たいして証拠集めもできないうちに捕まって監禁されてしまったの。それから二カ月して、とても信じられないでしょうね――でも本当なんです、こんな目に遭っているんです。前でしたら、こんなこと話したって何にもならなかったでしょうけど、今は違うわ。パーキンスはあたしを殺すわ……いいえ――あなたのおっしゃったことが本当なら、『もし彼が殺すことできれば……』と、ただし書が必要だわね。正直なところ、そこまでの希望がでたのは、たった今なのよ」
「でもデュケーン博士をどう思う? 博士はパーキンスにそんなことさせないわよ、ぜったいに」
「あたしデュケーンは初めてなの。でもオフィスで耳にしたことから考えれば、デュケーンはパーキンスよりもっとひどい奴よ。もちろんやりかたは違うけど。かれは飽くまでも冷酷で非情なのよ――完全な悪魔だわ」
「まあ、あなたったら! それはすこし酷《こく》じゃない? パーキンスがあたしを狙ったとき、デュケーンがなぐり倒したのを見たでしょう?」
「いいえ――見たのかもしれないけど、あたまがぼんやりしていたから。でも、そうだからって、ちっとも変わりゃしないわ。多分かれは、あなたを生かしておきたいと思っているんだわ――もちろんそうだわ。だって、あなたを誘拐までしたんですもの。そうでなければ、かれはパーキンスに好きなようにさせたはずでしょ? 自分では指一本動かさずに、できるんですもの」
「そうは思わないわ」スペンサーの考えを反芻《はんすう》しながらも、ドロシーの背筋に冷たいものがつっ走ったことは否定できなかった。なぜなら、デュケーンの犯した数々の残虐行為がいま思いだされたからである。「だってかれは、あたしたちを、ずいぶん丁重に扱っていたじゃない? まあ良いほうに解釈して希望をもちましょうよ。とにかくあたしは、二人だけは安全に地球へ戻れると確信しているのよ」
「さっきからそうおっしゃっているけど――どうしてそれほど自信があるの?」
「そう――あたしはドロシー・ヴェーンマンというの。この宇宙船を発明したディック・シートンと婚約しているの。そのかれがいまあたしたちを追跡していることは確かなのよ」
「でも、追跡って――≪追跡したいと思っている≫ということでしょう?」マーガレット・スペンサーが悲鳴に近い叫び声をあげた。「それについて、あたし極秘の話を聞いたわ。あなたの名前とシートンということで、いま思い出したわ。シートンの宇宙船には、デュケーンたちが仕掛けをしたんですって、どんな仕掛けか知らないけど。ですから、離陸したら、すぐ爆発か何か、そんな大変なことになってしまうんですって!」
「それは≪かれら≫がそう考えているんでしょ」ドロシーは冷笑した。「ディックとそのパートナー――マーチン・クレーンという名前、もちろん聞いたことあるでしょ?」
「ええ、シートンといっしょにクレーンという名前は出たけど、それだけだわ」
「それだけなの? でもクレーンもすばらしい発明家なの、ディックに負けないくらいだわ。この二人は、いまあなたの言った工作員のサボタージュに気がついてね、それとはぜんぜん違う宇宙船を一つ作ったのよ、ワールド・スチールには内密に。この宇宙船よりずっと大きな、速力も早い……」
「まあ! それほんと! なんて素晴らしい――それを聞いて希望が出たわ」マーガレットがはじめて明るい表情をみせた。「この旅行、どんなに辛くても、じゃあ、気晴らしだと思って我慢できるわね。ただ拳銃さえあれば……」
「これ」とドロシーが拳銃を一挺差しだした。マーガレットが眼をまるくしている。「いいのよ、あたしも一つ持っているんだから。パーキンスの皮革服から奪《と》ったの」
「まあ、すごい! ≪栄光神にあり≫」マーガレットは満面を輝かせた。「≪ギレアデに乳香あり≫だわね。ねえあなた、こんどパーキンスがナイフであたしの心臓を抉《えぐ》るとか脅かしたら、そのときこそ……。じゃあなた、いっしょにサンドイッチつくりに行きましょうよ。あたしをペッギーと呼んで下さらない?」
「ええ、そう呼ぶわ、可愛いペッギー――これから親友になりましょうね。あたしはドットまたはドッチーよ」
キッチンで二人は美味しいサンドイッチをつくりにかかったが、手がいうことをきかなかった。マーガレットはことに不器用だった。パン切れはあっちへ飛び、バターはこっちへ漂う。ハムとソーセージは四方八方へ散る。マーガレットはトレイを二枚つかみ、逃げようとする食物をその間に挟み込もうとした――が足場を失って、彼女の身体そのものが空中へ舞いあがり、足をバタつかせている。
「おお、ドット、どうすればいいの、これ?」とマーガレットは泣き声になった。「何もかも飛びだしてしまうわ!」
「あたしにもどうしていいかわからない――鳥籠《とりかご》みたいなものがあればいいのね、逃げないうちに手をのばして捕まえられる。しようがないから、何でもかんでも紐《ひも》でしばってしまいましょう。食べたい人は勝手にきて、ちぎって口へ放りこめばいいんだわ。でも困るのは飲み物だわね。咽喉が死にそうなほど乾いてるんだけど、ボトルを開けるのがこわくて」
彼女は左手にジンジャエールの瓶を、右手に栓抜きをもって、片足を垂直レールにひっかけている。
「栓を抜いたら何百万もの雫《しずく》になってしまわないかしら。ディックが、ムリして飲もうとすると窒息しかねないと言ってたわ」
「シートンはほんとうのことを言う――いつもそうだ」という声がした。
ドロシーがよろめきながら振り向くと、デュケーンが片方の黒|痣《あざ》のつかない眼に愉しそうな輝きをみせながら、部屋をのぞいている。
「無重力状態のとき、詰めた飲み物を摂《と》ることはすすめられないな。ちょっと待って――網《あみ》をもってくるから」
デュケーンは柄のついた虫とり網をもってきて、空中を漂う食物のかけらを器用な手つきで捕捉しながら、
「詰めた飲み物は、マスクをかけていないと、殺人的な衝撃力を発揮するんだ。方法《コツ》さえのみこめば、ストローで、炭酸のない液体なら飲める。飲み込むときは意識的にやらんといかん、重さのない筋肉をつかうのだから。ぼくがここへきたのは別の用件だ――これから一Gの加速度をつけてやろうと思うんだ。そうすればふつうの重力状態になる。そっとやるからね――でも気をつけなさいよ、そら!」
「まあ、天国へいったみたいな安堵だわ!」とマーガレットが叫んだ。あらゆるものがきちんとその場所に固定しはじめたからである。「ひとところにじっと立っていられるだけで感謝感激なんて、考えてみたこともなかったわ、ねえドッチー」
こんどは調理もごく楽な仕事だった。
四人で食事がはじまった。
ドロシーは、デュケーンの左腕がほとんど利かなくなっており、顔半分が大きく擦《す》りむけているので、ものを食べるのも容易でないことに気がついた。食事が終ると、ドロシーは薬箱のあるところへ行って、薬瓶、脱脂綿、ガーゼなどを選んだ。
「こっちへいらっしゃい、博士。応急手当をしてあげるから」
「なあに、大丈夫なんだよ……」と言いかけたが、ドロシーが恐ろしい顔をして急がすので、そっと立ち上り、彼女のところへやってきた。
「腕が利かないのね。怪我はどこなの?」
「肩がいちばんひどい。制御盤に突っこんだんだ」
「シャツを脱いで横になりなさい」
デュケーンが従った。ドロシーは傷の大きさと深さを見て、息をとめた。
「タオルとお湯をとってちょうだいな、ペッギー」
数分間、乾いた血を湯で拭きとり、消毒剤を塗布し、繃帯をまくなど、忙しく彼女は立ち働いた。
「その腕の引っかき傷、こんなにひどいの初めてだわ。あたしは看護婦じゃないから。何を使います? トリピディアゲンか、でなかったら……」
「アミロフェーンをつけてくれ。腕を動かすから、すり込んでくれ」
痛々しい傷へアミロフェーンをすりこんでいる間、デュケーンは顔をしかめもしないし、表情を変えもしない。ただ、脂汗を流し、顔色が蒼白になりかかった。ドロシーは手をやすめた。
「かまわんから続けてくれ、看護婦さん」冷然と命じた。「その薬、ふつうには謀殺《ぼうさつ》用に用いる毒薬なんだ。しかし傷にはいいんだ。それに早い」
ドロシーが塗布と繃帯を終ると、デュケーンはシャツを肩へもどして、
「ありがとう、ミス・ヴェーンマン――ほんとにありがとう。もう百パーセント気分がよくなってきた。でも、君はどうしてこんなに? 君があの洗面器でぼくを叩きつけるのかと思っていた……」
「能率を考えたのよ」とにっこり笑いながら、「あたしたちの技師長に寝込まれちゃったら困るでしょ?」
「うん論理的だな……それにしてもまさかぼくを……」
彼女は答えない。そしてパーキンスに向かって、「あなたはどうなの、ミスター・パーキンス? 応急手当|要《い》らないの?」
「要らん」パーキンスがかみついた。「退《ど》いてろ、さもないとおまえの心臓を……」
「黙れ!」デュケーンが一喝《いっかつ》した。
「何もしやしませんよ」
「悪いことをしたことにはならんかもしれない。だから悪いという定義を拡大しよう。この女《ひと》の前で紳士らしい口がきけないんだったら、黙っているんだ。いいか、ミス・ヴェーンマンに手を出すな。考え、言葉、行動、一切だ。ぼくが彼女の面倒をみる。干渉は許さない。最後の警告だぞ」
「スペンサーはどうするんです?」
「彼女はおまえの責任だ、ぼくじゃない」
パーキンスの眼に邪悪な光がまたたいた。見るからに恐ろしそうなナイフを一本取り出し、座席のレザーで砥《と》いでいる間も、スペンサーから眼を離さない。
ドロシーは震えあがり、抗議と怒りをぶちまけかかったが、マーガレットに眼顔で制せられた。マーガレットは落ち着いている。そしてポケットから拳銃をとりだした。遊底《ゆうてい》をぐいと抜き、人差指一本にバランスをとって武器を支えた。
「彼のナイフなんか心配いらないわ、ドッチー。一カ月あたしを狙ってナイフを砥いでいたのよ。でももう何でもない。パーキンス、ナイフを弄《もてあそ》んでいることは許されないのよ。いじっていれば投げたくなるでしょう。フロアへ落としなさい。そしてこっちへ蹴ってよこしなさい。三つ数える前によ。さあ、一つ」
重い自動拳銃がパーキンスの心臓をねらって一直線になった。マーガレットの指が引金を押しかけている。
「二つ!」
パーキンスは降参した。マーガレットがナイフを拾いあげた。
「ドクター!」パーキンスがデュケーンに救いをもとめた。デュケーンは先刻から凶暴な悪相にかすかな笑《え》みを浮かべてこのありさまを眺めやっているのである。「どうしてこいつを射たねえんです。手をこまねいて、おれの殺されるのを見てるんですか?」
「見ていちゃいけないかい? 君たち、どっちがどっちを殺したって、両方殺されたって、ぼくは平気だ。自業自得じゃないか。すこしでも脳みその残っているものだったら、拳銃をそこらに放ったらかしちゃおかない。ミス・ヴェーンマンが拳銃を奪《と》るのを見ていなかったろう――ぼくはちゃんと見ていた」
「見ていておれに教えてくれなかったんですね?」
「教えなかった。自分の始末すらできない奴を、ぼくは始末してやるほど慈悲心はないんだ。お前がこの仕事をトチったあとはなおさらだ。ぼくだったら、彼女があの阿呆のブルッキングズから盗んだ証拠文書の材料、一時間で取り返してやったろう」
「どうしてそんなことができます?」パーキンスが冷笑した。
「それほど眼はしが利《き》くんだったら、どうしてドックはシートンとクレーンのこと、おれに訊きに来たんです?」
「ぼくの方法ではうまくいかない、君の方法がうまくいくとわかったからだ。君の弱いのは計画じゃない、実効面がだめなんだ――ぼくがそうブルッキングズに訴えたとおりだ」
「まあ、そらぁいいとして――あの女をどうするつもりなんです? 一日中そこに坐って説教しているつもりなんですかい?」
「何もする気はない。君は勝手に君の戦いを続けたらいい」
しばらく沈黙が続いた。
ドロシーが突然言った。
「あたしが拳銃を盗むの、見ていたんですって、ドクター?」
「見ていた。今もそのズボンの右ポケットに一挺入ってる」
「じゃあ、どうして奪《と》り返そうと努めなかったの?」怪訝《けげん》な表情で訊いた。
「≪努める≫はないだろうよ、ミス・ヴェーンマン。ぼくが君に拳銃を持たせたくないと思えば、君が持てないってことはわかりきったことじゃないか」
「パーキンスはこれ以上にナイフや拳銃もっていないの、彼の個室に?」
「知らんね、そんなこと」
だが、二人の女がパーキンスの個室へ行こうとするとデュケーンが文句をいった。
「じっと坐っているんだよ、ミス・ヴェーンマン。二人に勝手に戦わせておいたらいいじゃないか。パーキンスは君の処分の指令を受けているんだ。ぼくは君に彼を処分する指令を与えよう。彼が余計なことをしたら、かまわんから射殺してしまえ。でないかぎり、完全に手を引いているんだ――一切かまわんでおくんだ」
ドロシーは強い男の意志に挑《いど》もうとして首をそらしかけたが、冷酷な視線に合うと決心が鈍り、そこへ坐りこんだ。一方、マーガレット・スペンサーがパーキンスの部屋へ入っていった。
「あのほうがいいんだ」デュケーンが横眼でマーガレットを眺めながら言った。「それに、彼女には手助けは要らないとぼくは思う」
マーガレットがパーキンスの部屋を捜して戻ってきた。拳銃を尻のポケットにつっこんで、パーキンスを見据えて、
「どう、これでケリがついたわ。おとなしくしなけりゃ、その首根っこを柱に鎖《くさり》でつないでやるけど……」
「おとなしくせざるを得ねえな、ドックがおれに背を向けたんだから」パーキンスが僻《ひが》むように言った。「しかし、帰ったらおまえをやっつけてやるからな、この――」
「お待ち!」とマーガレット。「いいこと、パーキンス。この先あたしを変なふうに呼んだら射ち殺してやるわよ。一度悪口を言ったら一発、二度だったら二発、三度は三発。一発ずつ好きなところへぶち込んでやる。さあ、言ったらどう」
しーんとなった。
デュケーンが静寂を破った。
「勝負がついたようだから、食事にして休息しよう。すこし動力をだすから、みんな座席へもどって……」
それからの六十時間、デュケーンは、食事のときだけ加速度を減らし、船は相も変わらぬ速度で宇宙空間を驀進《ばくしん》していった。食事のたびに、彼らは体操をして、硬ばり虐《しいた》げられた肉体の柔軟性をとりもどした。睡眠のために動力を遮断する必要はなかった。誰も彼も、死んだようによく眠ったからである。
ドロシーとマーガレットは始終いっしょだった。二人は大の仲良しになった。パーキンスは絶えず不機嫌に黙りこくっていた。デュケーンは、睡眠と食事の時間以外は実によく働いた。食事のときには気軽にみんなに話しかけた。しかし、その態度にも言葉にも親密さというものはなかった。デュケーンの課した規律は峻厳《しゅんげん》そのものであった。叱るときは情容赦《なさけようしゃ》もなかった。
動力バーの推力が尽きると、デュケーンは残った最後の銅シリンダーをエンジンに入れて、一同に言った。
「さあ、これで地球に対してほぼ安定してくるはずだ。いよいよ帰り道に入る」
そう言ってレバーを押した。それから数十時間、宇宙船の日常生活がつづいていった。
数日たって――
デュケーンが眠りから醒めた。見ると、エンジンはもうフロアにたいして垂直ではなく、すこしではあるが傾いている。彼はダイヤルの外円部|目盛《めもり》でエンジンの傾斜度をこまかく読み、舷窓から宇宙空間の一方角を観測した。そしてすぐに動力バーに送られる電力量を減らした。たちまちエンジンの傾斜度は目盛盤の上を幾刻みも跳躍し、四人は急激な速力低下に足をすくわれてよろけ、ハンドレールにしがみついた。デュケーンは大急ぎでまた目盛盤を読み、巡航推力を元に戻した。それから計算機の前に腰をおろし、計算をはじめた。もうすぐ宇宙の空虚に死の立往生をしなければならない――それほどもう動力給源が残り少なくなっているというのに、何という大胆不敵な神経であろうか!
「どうしたの、ドクター?」ドロシーが訊いた。
「予定コースから少し逸《そ》れていっている」
「悪い徴候なの?」
「ふつうなら何でもないんだ。星のそばを通るとき、星の重力にすこし引っぱられてコースが逸れるんだ。しかしふつうはその影響はわずかで、長続きはしない。また、あっちこっちに星があるから、影響は相殺されるのだ。しかしこの星はすこし大きい。影響もすこし長びくようだ。このまま進んでいったら、太陽系から完全にはずれてしまう。今のところこれを防ぐ方法がみつからない……」
そう言ってデュケーンは動力バーを心配そうにみつめている。いまにも動力バーが垂直に戻りはしないかと希望をかけているのである。しかし動力バーの傾斜はますます、着実に大きくなっていく。デュケーンは再び電流を減らし、宇宙船を不当に引っぱっている問題の天体をさがそうとした。
「まだ見えません?」
「まだ……この光学装置はもっと改善の余地があったんだ。夜間双眼鏡のほうがよく見えるかもしれん」
グロテスクな格好の双眼鏡を取ってきて、上部の舷窓から覗いた。五分間も双眼鏡を覗いていただろうか。
「わあッ、驚いた。死滅した星だ。もうすこしでぶつかりそうだ!」
飛びあがって制御盤にとりつき、動力バーを垂直に押しあげ、垂直を通りこして反対側まで回した。そして見しらぬ天体の見かけ上の直径を測ろうとした。他の三人に警告してから、現在の推進動力を増した。正確に十五分動力をあげてから、すこし緩《ゆる》め、もう一度天体の直径を測った。
ドロシーは、デュケーンの表情が変わったのを見て、話しかけようとしたが、手で制せられた。
「さっきよりかえってずれてしまった。この星、地球の天文学者たちの知っているどんな星よりも大きい。ケタはずれに大きいようだ。もうこうなったら、星から離れようとしてもムダだ、星をまわる軌道にのせよう。動力全開にしなければならん――みんな席について!」
動力は全開のまま、しばらく放っておかれた。銅バーはほとんどなくなっている。
デュケーンはなおも双眼鏡で観測し、計算をして、
「ダメだ、銅が足りない」
と静かにつぶやいた。
パーキンスは神経の切断点を越し、金切り声をあげると、フロアに身体を投げだした。
マーガレットは両手を心臓にあて、不安そうに虚空を睨《にら》んでいる。
ドロシーの眼は、仮面のような蒼白の顔に穿《うが》たれた黒い孔のようである。それでも必死にデュケーンの表情を注視していた。
「じゃあ、いよいよ最後ですの?」
「いや、まだまだ……」あくまでも冷静な声である。「あそこまで落下するにはまだ二日ぐらいはかかる。最後の動力用に多少の銅はとってある。最後の銅をもって効果的に使おうと、いま角度を測ろうとしているところだ」
「外殻《シェル》の斥力皮膜はちっとも役立たないの?」
「役に立たん。ぶつかる前に皮膜は焼けきれてしまう。剥《は》がす方法があれば、銅を回収して、エンジンに補給したいくらいだ」
煙草に火をつけ、無造作に計算機に向かって坐った。約一時間、煙草を吸い、計算機を動かし、考えこんでいた。それから、エンジンの角度を、ごくわずか変えた。
「ここで銅をみつけなければならない。この船には、ひとかけらの銅もない。電気部品はすべて――懐中電灯から電球の口金まで、みんな銀だ。しかし、道具や君たちの私物を調べれば多少銅製品があるんじゃないか。どんなにわずかでもいい、銅か真鍮があったら全部出してくれ。硬貨《カネ》でもいい――一セント銅貨、五セント白銅貨、銀貨……」
みんなで数点だしたが、ごくわずかだった。デュケーンは腕時計、太い認印つき指輪、キイ、ネクタイ止めなどを出した。拳銃から薬莢《やっきょう》を抜いた。パーキンスが銅製品を残していないかどうか、念を押した。女たちは硬貨と薬莢をすてたが、宝飾類は出さなかった。ドロシーもエンゲージ・リングは出さなかった。
「これだけはとっておきたいの……でも……」彼女はついに決心して、エンゲージ・リングまで棄てた。
「すこしでも銅をふくんでいるものだったら何でもいいんだ。シートンはさすがに科学者で、プラチナのエンゲージ・リングなんか買わなかった――ぼくは感謝したい。無事に地球へ帰れたら、君の指輪の変ったことに気がつくかどうか。その指輪には銅はほんのちょっぴりしか入っていない。それを抜くんだから。でも今のぼくたちには、一ミリグラムの銅だって貴重なんだ」
デュケーンはそう言って、出された金属類をぜんぶエンジンの燃料室に投げこみ、レバーを押しあげた。銅はすぐ消費された。一同がきびしい不安と緊張で見守っている間に、彼は最後の観測を終え、ぶっきらぼうに裁断を下した。
「充分というわけにはいかなかったな」
パーキンスはすでに心が崩れて正気ではなかった。野獣のような唸りを発して、パーキンスは冷静な科学者へ飛びかかっていった。
デュケーンは飛びすさり、拳銃の柄でパーキンスのあたまを強打した。パーキンスの頭蓋は粉砕された。身体が宇宙船の向こうの壁へぶつかった。マーガレットはいまにも失神しそうな顔色をしている。
ドロシーとデュケーンはしばらく睨《にら》みあっていた。だが、男はまるで自分の書斎でくつろいでいるように平静である。ドロシーは驚愕と狼狽に立ちすくまないではいられなかった。声を出そうとしたが、顫《ふる》えてくるのをどうにもできない。心を励まして、
「つぎはどうするの、ドクター?」
「よくわからん。外殻《シェル》の銅板を回収する方法がまだ考えつかない。……この大きな球体ぜんぶを包んでいるのだが、薄いからあまり銅はないだろう」
「銅板を回収して、それで充分でも、あたしたち餓死してしまうでしょう、そうじゃありません?」――言ったのはマーガレットである。さりげなく喋ろうとして、一生懸命に自分を抑制している。
「そうとは限らない。銅さえ回収できれば時間が稼げる。その間に打つ手を考えるんだ」
「打つ手って――ほかに何も考えつかないわ」ドロシーが宣告した。「どっちみち、あなたは考えつかないわ、二日しかもたないとおっしゃったでしょ?」
「ぼくの観測がずさんだったんだ。二日よりもうすこしある――正確にいえば四十九時間半ある。でもなぜ?」
「ディックとマーチン・クレーンがあたしたちを見つけだすからよ。二日以内に見つけだすわ」
「生きているうちはダメだね。ぼくたちを追いかけてきたとしても、今頃はもう死んでいるよ」
「あんたのような偉い人でも、そこんとこでつまずいたわ!」と彼女は気色《けしき》ばんだ。「あんたたちがスカイラーク号にどんな小細工をしていたか、あの人たち、ずっとみていたのよ。だからもう一台つくったのよ、あんたなんかぜんぜん知らない宇宙船を。それに、あんたの聞いたこともない新しい金属のこともよく知っているのよ、あんたの盗んだ計画表にはまだ出ていなかった……」
「ぼくたちを観測できないのに追跡できるというのかい?」デュケーンは、ドロシーの鋭い攻撃が耳に入らぬかのように、ことの真髄《しんずい》をついてきた。
「追跡できます。すくなくともあたしはできると思います」
「どういう方法で?」
「知らないわ。たとえ知っていても、あんたになんか教えない」
「それは、できないと思ってるからだろう? とにかく、今そんなことを議論しても始まらない。ぼくたちを見つけるんだったら――大いに疑わしいが――この死んだ星も早く発見して避けてくれればいいが……」
「でもなぜ、そんな?」とドロシーは、かすれた声で呻《うめ》いた。「あんたは、かれら二人を殺そうとしていたんじゃないの? 死出の道連れにできるのが嬉しいんじゃないの?」
「もっと論理的になってくれ、ミス・ヴェーンマン。道連れなんてとんでもない。ぜんぜん関係のないことだ。たしかにぼくらは彼らを殺そうとした。それはこの新金属を開発しようというぼくの進路に、あの二人が邪魔をしていたからだ。しかしぼくが開発者になれないことがわかれば、ぼくはシートンが開発者になってもらいたいのだ。あれは人類最大の発見だ。較《くら》べるものもない偉大な発見だ。それを正しく開発できる、世界で三人とはいないシートンとぼくの両方が死んでしまったら、開発は数百年遅れるんだ」
「かれがあたしたちを見つけたために、死ななければならなくなるのだったら、あたしたちを見つけないで欲しい……でも、見つけないとは、あたしは絶対に思わない。かれがあたしたちをこの場から救ってくれる――あたしにははっきりわかってるんだわ」
彼女はなおもゆっくりと言葉をつづけた。だがその声は低く、自分の心へ語る、ひとり言のようであった。声とともに、気持も滅入《めい》っていた。
「……あたしたちを追っている。たとえ逃げられないとわかっていても、あのひとは止《や》めはしない……」
「ぼくたちが絶体絶命だという事実は否定できない」とデュケーンは冷やかに言った。「しかし、ぼくの生命がつづいているかぎり、ぼくは考える力がある。なんとかして、あの外板の銅を回収する方法を考えださなければならない」
「できればいいけど……」ドロシーは声が嗚咽《おえつ》にくずれないように、必死に自分の感情に耐えていなければならなかった。「ペッギーが気を失ったわ。あたしも気を失いたい。あたし、もう力が……」
彼女は座席のひとつへ力なく腰をおろし、虚《うつ》ろな眼で天井を見た。絶叫したい衝動と、全身の気力をふりしぼって闘っていた。
こうして無限と思われるときが自らを刻んでいった。
パーキンスは屍体となっていた。マーガレットは意識を失って倒れていた。ドロシーは座席に横倒しになったままである。もう考える力もなかった。言葉をなさない祈りが、彼女の心のなかを流れていた。神への信仰と恋人への思慕と信頼だけが、くずれようとする彼女の意志をかろうじて支えていた。
デュケーンだけが平常のままであった。
さっきから何十本煙草を吸いつぶしたかわからない。彼の冴えた精神は、もっとも困難な問題と血みどろにつかみ合っていた。おそらく、その生命のとぎれる最後の瞬間まで、彼の心は船殻外板のなかにふくまれる銅の回収と取り組むことであろう。
動力を失った宇宙船は、驚くべき速度で落下しつつあった。目ざすところは、宇宙空間の死せる孤児となった、冷たい荒涼たる巨星である。落下速度は一秒ごとに加わっていった。
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一三
シートンとクレーンは、じっと動かない対物コンパスの針の指す方向へ、スカイラーク号の進路を固定していた。加速度は異常な数値をしめしていた。二人は十二時間交替で、計器盤についていた。
スカイラーク号は、その建造者たちの期待を裏切らなかった。シートンとクレーンはこの最初の宇宙飛行が大成功|裡《り》に終ることがますます確実となり、意気軒昂《いきけんこう》としてスカイラーク号を操縦した。すでに人類の想像をはるかに超えた宇宙の果てに、彼らはとびたっていたのである。ドロシーの身の安全――その気がかりというものがなかったら、この旅行はどんなに愉しいものであったろう。だがその気がかりですら、二人の発明家のいまの喜びを覆うだけの力はない。事業の成功への期待が大きかっただけに、その喜びは限りなく深く、いま二人は抑さえきれない勝利感に酔っているのであった。
「あの騙《だま》されたお人よし、知ったかぶりの猿公《えてこう》――宇宙旅行ができると思いこんで飛びだしたまではよかったが、今頃はすこし考え直しただろうな、マート」シートンが大声で言った。
発進後数日がたっていた。いまも、目指す先発宇宙船までの距離を計器盤で読んだところであった。
「ご本人は大丈夫としたり顔で飛びだしていったのだが、どっこい、そううまくいくかい! こちとらは結局やつをつかまえてしまった。もうわずか百光年ばかりだ。そろそろ逆にふかしたほうがいいと思うが」
「さあどうかな――難しいところだよ」とクレーン。「推測航法でみると、彼は引き返しはじめたらしく見える。しかしこの推測航法というのがあてにならないからね。参考にする天体がぜんぜんないのだから」
「うむ――でも推測航法以外に頼《たよ》れるものはないんだから。でも君、こんなところで正確正確と唱《とな》えてもはじまるまい? 一光年ぐらい多くたって少なくたって、たいした違いじゃない」
「大した違いじゃないとは思うが……」
クレーンは計器類の数値をつぎつぎに読みあげた。このデータが正しいとすれば、スカイラーク号は先発宇宙船と、正確にランデヴーをする相対位置にあり、しかもそれと同じ速度で走っている勘定になる。
動力バーを逆転させると、巨大な宇宙船は、吐き気をもよおす動揺をともない、コマのように回転しつつ、大きな半円をえがいてUターンした。進行方向は乗っている二人からみれば、≪ダウン≫と見なされる、ある方向のはずである。だが感覚はあたかも≪アップ≫のようであった。
「マート、来てみろ」
「どうした?」
「コースが偏向しているんだ。とてつもない大きな星だ。まるでS―ドレーダスみたいだ。何も見えん――理論的には右舷のどこかにあるはずなんだが。大至急、真実《ほんと》のコースと速度をチェックしたいんだが――距離を知らんで、墜落しつつある引力圏の強さを測る方法はないかな? 近似値さえわかればいいんだが」
クレーンが観測をはじめた。データを計算機にかけ、スカイラーク号はほぼ前方真正面の、ある天体に牽引《けんいん》されつつあると報告した。引力はきわめて強いという。
「おい、大きな夜間双眼鏡の荷を解《ほど》いて、よく観測したほうがいいぞ。君、いつか言ってたじゃないか、あのほうがかえってよく見える。でも今のやつらの距離は?」
「十時間と数分というところだが」
「えっ、そんな! まだそんなか……こいつぁいけねえ、ほんとにいけねえや。全開にすれば三時間ないし四時間にちぢめられるんだが……でも……一か八《ばち》かやってもいいが、君が……」
「一か八か、ぼくが? 何言ってる、ぼくたち一緒じゃないか、ディック。死なばもろともだ。突っこめ、全開にしろ!」
ランデヴーの時間が切迫してくると、二人は一分間ごとに計器盤の目盛を読んだ。
シートンは動力を増したり減らしたり、苦心|惨憺《さんたん》した。船は先発宇宙船にきわめて近くなった。先発宇宙船の真上を、黒い惑星の上空にかかっているような格好で進んでいた。そのときシートンはエンジンを止めた。二人は急いで底の舷窓へ駆けつけ、それぞれの夜間双眼鏡をとりだし、無数の星が象眼《ぞうがん》のように嵌《は》められている暗黒の天球大円盤を凝視した。
「おい、マート」シートンが双眼鏡をのぞきながら言った。
「もちろん理論的には、これだけの大引力をおよぼし、しかしぜんぜん姿をみせない巨大な天体も存在するさ。しかし、どうもぼくには信じられん。四分間か五分間、ぼくにこのままの視覚を与えて観測させてくれ、そうしたら信じるかもしれん、でも――」
「そう!」と、クレーンが叫んだ。「すくなくとも視覚半度だ。十一時、かなり高いぞ。明るくはない。黒い天体だ。ほとんど見えないくらい真っ黒い」
「あっ、見えた。それからあの小さな黒点は何だ、四時半の、ちょうど天体の縁《へり》のすこし内側だ。デュケーンの宇宙船かな?」
「そうらしい。ほかに何も見えない」
「あいつを引っとらえよう。そしてこの引力圏から脱出しよう、木っ端みじんにならんうちに!」
数秒後、二つの宇宙船は互いに相手の船体をみとめうる程度まで接近した。死滅した星の、やや薄い調子《トーン》の墨色の上に、小さな黒い輪郭が、はっきりと見えた。先発宇宙船の姿であった。クレーンは深照灯のスイッチをいれた。シートンはスカイラーク号に装置した最強力の牽引ビームをその黒い輪郭めがけて集中した。さらにクレーンは、弾薬帯を機関銃に装填《そうてん》し、ある独特の感覚パターンをもった機関銃弾を発射しはじめた。
果てしのない時間の後、そして長い沈黙の後、デュケーンは夢から醒めたように、弛緩《しかん》しきった身体をひきしめ、ゆっくりと座席から立ち上った。シガレットを腹の奥まで吸いこみ、吸殻を用心深く灰皿にもみ消した。宇宙服を着にかかった。ヘルメットのフェースプレートは開いたままにした。
「これから外殻《シェル》の銅を採集してくるよ、ミス・ヴェーンマン。どれだけ回収できるかわからんが、できれば……」
そのとき左舷の窓からまぶしい光線が侵入し、宇宙船の内部を稲妻のようにあかあかと照らしだした。と同時にデュケーンは一方の壁面へ叩きつけられていた。自由落下中の宇宙船が、突如として何ものかの力によって強く逆方向へ牽引《けんいん》されたのである。デュケーンの耳にタッタッタッという執拗な断続的な金属音が聞こえた。デュケーンには、瞬時に、それが何であるかがわかった。
「機関銃だ!」脳天を打たれたような驚きの叫びであった。
「い、いったい……待てよ! あ、あのモールス信号は? ミ―ン―ナ―みんなだ。イ―キ―テ―イ―ル―カ―生きているか?」
「ディックだわ!」とドロシーが叫んだ。「ディックがあたしたちを見つけた! わかっていたわ、わかっていたわ! あんたはディックとマーチンにかなわない、千年たったって、かなわない!」
ドロシーとマーガレットは抱きあってよろこんだ。安堵とよろこびとでヒステリー状態になったマーガレットの言葉は、ことばの態《てい》をなさない。ドロシーもマーガレットも狂喜して泣きわめいている。ところどころに、恋人をほめちぎるドロシーの喚声が混じった。
すでにデュケーンは上方舷窓へよじ登っていた。そして舷窓の蔽いをはずしていた。彼は手にした懐中電灯でSOSを信号した。
深照灯が消え、≪ワカッテイル、パーティーハオーケーカ?≫と、こんどは銃弾ではなく、光線信号であった。
「オーケー」
デュケーンは≪パーティー≫の意味はわかっている。パーキンスは数の中に入れる必要はないのだ。
「ウチュウフク?」
「ヨウイアリ」
「エアロックトエアロックヲセッショクシ、リョウセンヲセツゴウスル」
「オーケー」
デュケーンは女二人に報《し》らせた。三人は宇宙服を着、小さな気密室のなかにすし詰めに閉じこもった。気密室の空気がポンプで抜かれた。二つの宇宙船が接触し、気密室と気密室とが接合されているあいだ、激しい震動と衝撃があった。外側バルブが開かれ、気密室に残っている空気が金切り声をあげて星間の真空中に放出された。たちまちフェースプレートに宇宙服内の湿気が充満し、視力が利かなくなった。
「早くしろ!」シートンの声がヘルメットラジオからキンキンと響いてきた。「こっちからは一フートも見えないが、君は見えるか、デュケーン?」
「見えん。それにこの宇宙服の関節は二インチ以上動かないんだ」
「宇宙服はもっと改善しなけりゃならんな。手探《てさぐ》りでいくよりしようがない。みんなをこっちへ渡してくれ」
デュケーンは手近の女を引っつかみ、シートンのいると思われる方向へ押してやった。シートンは女をつかみ、まっすぐに立たせた。愛する恋人の肢体を感じようとして、宇宙服の上から力いっぱいに抱きすくめた。英雄的な行為といえた。
抵抗の気味を感じ、彼はびっくりした。と、ぜんぜん聞いたこともない声が響いてきた。
「止《よ》して! あたしじゃないのよ! ドッチーはまだよ!」
つぎに投げとばされてきた宇宙服の物体こそドロシーであった。シートンは狂気のようなドッチーの抱擁と喜びとを感じた。恋人の抱擁としては文字どおり隔靴掻痒《かっかそうよう》で不満足なものではあったが、熱烈な(たとえ距離はありすぎても)接触ではあった。
デュケーンは、この機会を逃してなるものかと、外側バルブからダイヴィングしてきた。クレーンが制御レバーのいくつかをまさぐり、エアロックが密閉されたのはその直後であった。たちまち気圧と温度が正常値にもどった。みんな、不便きわまる宇宙服を脱ぎすてた。シートンとドロシーが抱きついた。
今度こそ恋人同士のほんとうの熱烈な抱擁であった。
「何か始めたほうがいい。一分間一分間が大切だ……」デュケーンが落ち着かない声で言った。
「まずこれだ――」とクレーン。「ディック、この殺し屋をどう処分する?」
デュケーンのことはすっかり忘れていたシートンは、あわてて振り向いた。
「そいつのボートへたたきこんで、地獄へつき落してしまえ!」とシートンが両眼をランランとむいてどなった。
「ダメよ、ディック!」ドロシーがシートンの腕をつかんだ。
「かれはあたしたちを親切に扱ってくれたのよ。一度はあたしの生命《いのち》を救ってくれたのよ。それに、かれが殺し屋だからって、あんたが血も涙もない殺し屋になることはないでしょう? 自分でわかっているくせに」
「うん、そう言いや……よし、やつを殺すのはよそう――せめて半分でもやつが罪滅ぼしをするなら」
「そりゃもちろんだろう、ディック」とクレーン。「かれは充分罪を償《つぐな》うだろうよ」
「やればできるはずだ……」とシートンはしばらく考えた。顔はまだ険悪で、硬《こわ》ばっている。「やつは悪魔のように悪知恵にたけ、牡牛もそこのけの腕力がある……しかしやつがどうしてもなれないのは、そう、ウソつきにはなれない、この男は」
そう言ってデュケーンの眼を正面から見据えた。まるでその灰色の眼が、デュケーンの黒い瞳にボーリングしてくるような激しく鋭い眼光であった。
「君、パーティーの一人として行動すると誓いたまえ」
「承知した」
デュケーンが臆《おく》する気色もなく睨み返した。冷淡な無関心ともいうべき表情は、この会話のあいだも、いささかも変わらない。
「いつでも君たちの許を去る――≪逃げる≫と言えばメロドラマ的表現になるが、いまの場合、事実に近いのだから仕方がない――その権利を保留し、そうすることによって、君たちの宇宙船、現在実施中の君たちの事業、さらに集団的にも個別的にも君たちの身体《しんたい》に不利な影響はあたえないという条件で、君たちのパーティーの一員として行動する」
「マート、君は法律家だが、今の文句で充分か?」
「たいへん立派だと思う。充分でありかつ簡明である。それに、権利を保留したという点に、かえってかれの真情が汲みとれる」
「じゃ、君を仲間にする」とシートンがデュケーンに宣言した。だが握手はしようとしなかった。「君は情報をもっているだろう。ここから脱出するには、何を投入すればいい?」
「直接に脱出することは――生きて逃げきることはできん。しかし……」
「何を言うか、われわれは脱出できるんだ! 非常の場合、われわれの装置は出力が倍にできる」
「≪生きて逃げきる≫と言ったろう?」
シートンは黙った。動力部一単位の全出力がどれほどのすさまじさであるかを思い出したのである。
「きみとしてやれる最善の方法は」とデュケーンが続ける。「結局双曲線軌道を描いて飛行するということだけだ。ぼくの推測では、それにも全出力が必要だろう。銅がもう十ポンドあったら、ぼくの船も擦《す》り傷程度で脱出できたかもしれなかったのだ。しかしきみたちの船はずっと大きいし、重量もある。それに、さっきよりはるかに巨星に近づいている。クレーン、きみはいまそれを計算したいか、それとも一発強力に噴《ふ》かし、それから計算するか?」
「噴かすべきだろうね、君の意見は?」
「エンジンを回転させて双曲線軌道にあわせ、全出力で駆動する……そうさな、約一時間」
「全出力だって?」クレーンが考えこんだ。「ぼくの身体がそれに耐えられない。しかし、脱出するためには――」
「あたしだって耐えられないわ、そんな」とドロシーが眼に不安の色をたたえて抗議した。「マーガレットだってムリだわ!」
「――全出力が必要なんだよ」とクレーンがまるで女どもの喚きを聞かなかったかのように言葉をつづけた。「全出力であるべきなんだよ。ほんとにそれでいいんだろうね、デュケーン?」
「絶対だ。全出力以上に出れば、なおいいが。一分ごとに事情が悪化している」
「君はどのくらいまでは耐えられるのだ?」とシートンが訊いた。
「一単位全出力以上。そう多くはない、ほんのちょっと以上だ」
「君に耐えられるなら、ぼくにも耐えられる」シートンは豪語しているのではなかった。事実を述べたのに過ぎない
「じゃあ、することはこうだ。エンジン出力を倍にあげる。デュケーンとぼくは動力を一|刻み《ノッチ》ずつ上げる。ついにどちらかが耐えられなくなるまで、それで一時間続ける。それから計器を読む。いいな?」
「いいとも」
クレーンとデュケーンが異口同音に言った。三人の男は猛《たけ》り狂ったように活動しだした。
クレーンはエンジンへ、デュケーンは天体観測室へ。
シートンは計器盤についているバルブを開け、三人のヘルメットに空気タンクと酸素タンクから空気と酸素とを満たした。
シートンはマーガレットを座席に坐らせ、ヘルメットをかぶせ、ストラップを締めてやり、それからドロシーに向かった。
二人はすぐに抱きあった。シートンは彼女の激しい息づかいと心臓の鼓動を感じとった。瞳の底の紫色の部分に、未知のものへの恐怖が現われていた。
だが彼女は瞬《まじろ》ぎもせず恋人の顔を覗きあげ、
「あたしの可愛いディック、もしこれが最後のお別れだったら……」
「そうじゃない、ドッチー――まだだよ――しかし……」
クレーンとデュケーンはそれぞれの仕事を終らせていた。だからシートンも大急ぎでドロシーにヘルメットをかぶせてやった。クレーンはすでにベッドに横たわっている。シートンとデュケーンはヘルメットをかぶり、一対の計器盤のそれぞれの座席にすわった。悲壮な姿であった。
矢継ぎばやに、動力を二十|刻み《ノッチ》あげた。スカイラーク号は、先発宇宙船から、飛ぶように離れていった。先発宇宙船はなおも狂気の落下を続けている。見離された悲運の船体に一個の屍体をのせたまま、死せる巨星の、破壊だけが待っている荒涼たる不毛の地表へ向かって、まっしぐらに落下しつつある。
こんどはもっとゆっくりと、動力は一|刻み《ノッチ》ずつ増量されていった。シートンは、一|刻み《ノッチ》ごとに、混合バルブをすこしずつ廻した。ついに酸素の集中度は危険なまでに高くなった。
だが二人は鉄の意志をもった男であった。シートンもデュケーンも自分のほうが長く耐《も》ち、最後の燃料送り一|刻み《ノッチ》をおこなうと競《きそ》いあった。いわば決闘はさらに続き、とうてい可能とは信じられぬほどのエンジン出力に高まっていった。いま、シートンがこれが最後と、祈るように一|刻み《ノッチ》押しあげ、そして待った。だが一分間の後、宇宙船はさらに速力を増し、デュケーンがなお一|刻み《ノッチ》レバーを押しあげたのだと知らされた。
すでにシートンは身体のどの部分をも動かすことができない。肉体は気持の悪くなるほどの超重量で圧しつけられている。最大の呼吸努力で、やっとわずかの酸素が肺中へ吸いこまれるにすぎない。このようなストレスの下で、あと何秒意識が保てるか、と怪しまれた。それにもかかわらず、彼は身体じゅうの余力をふりしぼり、もう一|刻み《ノッチ》レバーを押しあげた。そして頭上の時計盤を見つめた。もう自分は力のかぎりを尽くした。デュケーンがもう一|刻み《ノッチ》押しあげられるかどうか……?
時間は一分、一分、過ぎた。加速度は恒常となったままである。シートンはいま、この場を守るのは自分一人だけと知っている。時計の長針が秒を刻んで文字盤を廻っている。彼は意識喪失と闘いつづけた。
永劫ともいうべき時間がたったが、それは予定の六十分経過であった。シートンは時計を睨みながら動力を減らそうとした。だが、あまりに永びいた緊張のため、体力が消耗されつくし、爪車装置《ラチェット》を逆に回転させることができない。ただレバーをでたらめに引っぱるだけが精いっぱいであった。するとたちまち、爪はリンクの歯をはずれ、動力の約半分がカットされた。座席のスプリングがとつぜんに弾《はじ》け、五人の身体が上へ持ちあげられ、安全ストラップが悲鳴をあげて軋《きし》った。
デュケーンが意識を回復し、自分のエンジンを停止した。
「君はぼくより傑《すぐ》れた男だ。ガンガ・ディンだ!」観測をはじめたデュケーンのいつわらざる述懐であった。
「なあに、きみはさっきからこっぴどく虐《いじ》められているからだよ――ぼくだって、もう一|刻み《ノッチ》で意識を失うところだった」
シートンは平然と言って、ドロシーとマーガレットのヘルメットを脱《ぬ》がしに行った。
クレーンとデュケーンはそれぞれの計算を終った。
「充分脱出できたか?」とシートン。
「充分以上だよ。もう一個の銅バーで完全に通過してしまう」とデュケーン。
そのときクレーンが何か思いついて眉をひそめたので、デュケーンはさらに、
「不賛成かね、クレーン?」
「賛否両方だね。巨星は通過する、しかし安全に通過とはいかんだろう。もうひとつ、ぼくたち三人が気づかなかったのは、『ロシュの限界』ということだ」
「『ロシュの限界』はこの宇宙船には当てはまらんよ」とシートンがはっきりと否定した。「高張力合金鋼だから、崩《くず》れはしない」
「崩れるかもしれんよ」とデュケーンが言った。「あまり接近すると崩れるだろう……質量はどのくらいと思う、クレーン?――接近して崩れる理論上の極限値だよ」
「算定してみよう。あの星、とてもそこまではいかんだろう。でも、そうかけ離れてはいまい」
二人はまたもそれぞれの計算機に集中した。デュケーンは計算を終って、
「ぼくは二倍動力で三十九・七|刻み《ノッチ》と出たが、きみは?」
「うん、ごく近い――ぼくは三十九・六五だ」クレーンが答えた。
「約四十|刻み《ノッチ》というところだな……なるほどなア……」デュケーンが絶句した。「ぼくはさっき三十二|刻み《ノッチ》までいって意識を失った……その後は自動送りで動力をあげるよりしようがないから時間がかかる。しかしこれが唯一の……」
「三十二|刻み《ノッチ》はもういっている――あとはただ自動送りにセットすればいいだけだ。しかしそれにはずいぶん銅が要る。生きのびるには、ほかに何をすればいいだろう? 酸素の圧力を増してやる。ほかに?」
三人は短い時間、死と闘う相談をしあった。そして来たるべき酷薄な運命をしのいで生きのびる万般の処置をとった。それで充分であったかどうか、誰もイエスといえるものはなかった。この狂気にも似た安全への足掻《あが》き――その終端の果てに彼らがどうなっているか、誰もわからなかった。これだけ銅が尽きかけていて、そもそも帰航が可能かどうか?
『ロシュの限界』の危険以外に、死星がどんな危険を隠しもっているのか? 彼らの帰路にたちはだかる太陽その他の惑星が、どんな険悪な罠《わな》を仕掛けて待ち伏せしているであろうか? 考えれば考えるほど限りなく疑惑が湧く。だが彼等は一切を無視するほかはなかった。
一行のなかでは、本当の冷静さを維持していたのはデュケーン一人であった。あとの四人も、狼狽してはいない、物静かである。だがそれは、純粋な冷静さというよりは、恐怖に立ち向かう勇気というべきものであった。
男たちは持ち場についた。シートンは、自動送りモーターを始動させた。自動送りモーターは、二つの動力レバーを自動的に四十|刻み《ノッチ》まで押しすすめると、そこでストップするのである。
五人のうち、まずマーガレット・スペンサーが失神した。それをみたドロシーが、自分も失神寸前の悪寒《おかん》を覚え、悲鳴をあげたい衝動を抑えていた。それから三十秒して、クレーンが意識を喪失した。だが冷静なこの男は、意識喪失前の症状を落ち着いてみんなに分析し、説明してやった。クレーンが参ってしまうと、そのあとはデュケーンだった。デュケーンは成行きにまかせ、意識の朦朧《もうろう》化を避けようとはしなかった。ジタバタしても同じことだと覚悟していたからである。
シートンも抵抗の無益はわかっていたが、できるだけ長く、五感を機能させておかなければと、闘う決意をかためていた。そして自動送りでレバーが一|刻み《ノッチ》ずつ進む間、自分の脈拍を数えていた。
三十二刻み!
さっきこの地点までレバーを押したときと同じ、奇妙な嘔吐《おうと》をもよおす感覚が知覚されてきた。
三十三刻み!
眼にみえない巨人の手が彼の息の根をとめようと咽喉へ蓋《ふた》をしかけた。彼の心と肉体はもっと空気をと喘《あえ》いだが、徒労であった。耐えがたい重さが眼球の上から圧しかかって離れようとしない。眼球が頭部の内側へ強い力でめりこませられる感覚があった。四辺《あたり》のすべてが、気狂いじみた、もうろうとした輪をえがいて回転していった。眼球が破裂しそうになり、オレンジ色、黒、緑色の火花、斑点や縞が眼前をはげしく乱舞した。
三十四刻み!
火花は星となり、もっと輝きを増し、さまざまな狂おしい色彩の万華鏡《まんげきょう》となった。彼の、ふるえおののく脳のなかへ、火炎のインキにひたした巨大なペンが方程式や符号を書きだした。
三十五刻み!
星と火炎のペンは、眼球を裂き、視覚を麻痺させる極彩色の花火術ともいうべき輝きをともなって刹那に爆発し、つぎの瞬間、彼は深淵へまっさかさまに突き落されていった。
その間《かん》、スカイラーク号は、双曲線に似た軌道を描きながら、下へ下へと落ちていった。速力は刻一刻と増していった。落下速度はぐんぐん上昇していく。時計は秒を刻み、分を刻んだ。スカイラーク号は死せる巨星へ、しだいに近づいていった。この世のものとも思われない、めくらめく墜落が始まってから十八時間がたった。やがてスカイラーク号は巨星を廻りはじめた。『ロシュの限界』からは離れていった。だがその離れかたの、何とわずかな、生と死の、何と紙のように狭い境界線であったことか! クレーンが意識を失っていたのは仕合わせであった。もしこれを知ったら、彼の頭髪は一本のこらず逆さに立ち、白髪と化しただろうからである。
ちょうどその頃である。倍増動力の四十|刻み《ノッチ》の威力が、想像も言葉もない厖大《ぼうだい》な弧線の黒い足の下から、わずかにその効果をしめしはじめたのは。
三十六時間たつと、スカイラーク号の軌道は、もう双曲線とは似ても似つかぬものになっていた。巨星の牽引力は、しだいに弱まり、その執拗な把握がゆるみはじめた。そして――スカイラーク号は、巨星への墜落速度を減ずることなく、墜落速度はある極限の一点で即座に上昇速度に変化し、いま宇宙船は猛然たるスピードで巨星から遠ざかっていった。
四十八時間――巨星の把握力はすでに極度に弱まった。
六十八時間――スカイラーク号がその恐ろしい把握の手から脱出した死せる巨星は、もはや何ほどの引力をもおよぼさなかった。
その動力機構の中枢部に、解放された銅原子の魔神の子を擁《よう》したスカイラーク号は、形容を絶した強い推力によって、上へ上へと押しあげられ、異常なスピードで真空のなかを突進した。そのスピードに較べたら、光の速度などは蝸牛《かたつむり》ののろさとも、銃弾ののろさともたとえられよう。考えられないスピード、計算のできないスピードで、いまスカイラーク号は恒星間宇宙空間の果ての果てを、真空の海を切り裂いて飛んでいくのであった。
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一四
まずシートンが正気に返った。
眼をあけ、うろうろと周囲を見まわしはじめた。まだ意識は半分しかもどっていなかった。体《からだ》じゅうに擦り傷や打撲傷があった。どうしたのか、何があったのか、彼には思い出せなかった。正値圧力の酸素ガスが彼の肺中を満たし、それとともにいま置かれているシチュエーションの全貌がようやく完全に了解されてきたとき、彼は本能的に、深い息をついた。そして咳《せ》きこんだ。彼はヘルメットをかなぐり棄て、ドロシーの横臥している寝台《カウチ》へいざりよった。
彼女はまだ生きていた!
彼はドロシーをうつ伏せにし、人工呼吸をはじめた。まだか、まだかと待たれた咳がやっと出て、彼の勇気が百倍した。ヘルメットをはずしてやり、両腕に抱いた。ドロシーは、逞しい男の肩に顔をうずめ、痙攣《けいれん》するような嗚咽《おえつ》をはじめた。はげしい接吻と抱擁が終ると、彼女は、自分だけがこんな幸福を独りじめしていては悪いとでもいう調子で、
「ああディック! ペッギーを見てちょうだい! もしも……」
「心配するんじゃない、ドッチー。彼女は元気だよ」とクレーンがドロシーの顔を覗きこんで言った。
なるほど――クレーンももう、マーガレット・スペンサーに手当を施して蘇生《そせい》させていた。
デュケーンの姿は見えなかった。
ドロシーは顔を赤らめて恋人の首へまきつけていた自分の手をほどいた。シートンも手を放した。たちまち、支えを失い、ふわふわと船内の空間を漂いかけた。手近のハンドホールをつかもうとしたが、手がとどかない。
「引っぱって、ディック!」と笑いながら恋人に頼んだ。
シートンはあわてて彼女の足首をつかんだ。自分の足場を忘れてつかんだので、彼の身体も上へ飛びあがり、二人はいっしょに空中に漂った。クレーンとマーガレットは、渡り綱につかまりながら、心の底から笑いこけた。
「ピーピーピー、ぼくカナリヤだ!」とシートンが両手を翼のようにばたつかせながら言った。「綱を投げてくれ、マート」
「かわいいディックの小鳥ちゃん!」とドロシーが飄軽《ひょうきん》な声でささやいた。
くそまじめな表情を装って、クレーンが、空中を漂っている二人をしげしげと見上げた。
「珍しいポーズだよ、ディック――何のつもりなんだい、玉座におさまったゼウスの神かい?」
「おい、不精者! 早くその綱を投げてくれんと、きさまの首根っこへ跨《またが》るぞ!」
そう言いながらも、シートンは天井に手が届き、天井を押して、自分の体とドロシーとを渡り綱へ近づけることができた。
シートンはエンジンの一つへ、銅バーを一本装入した。そして警報灯をまたたかせてから、動力をすこしあげた。
スカイラーク号は身悶《みもだ》えして飛びあがったように見えた。まもなく、すべての物体が正常の重力をとりもどしていた。
「さあ、万事が多少とも落ち着いたようだから、あたし、お二人に紹介するわ」とドロシーが言った。「あたしの無二の親友、ミス・マーガレット・スペンサーよ。こちらはディック・シートン博士、かく申すあたしのフィアンセ。原子、電子、中性子等々のことなら何でも知らないものはない、その道のエキスパートよ。それからこちらはミスター・マーチン・クレーン。この人は肩書はないけど、すばらしい大発明家。二人でこのエンジンとか全部をつくったのよ」
「ミスター・クレーンってお名前、お聞きしたことあるみたい」とマーガレットが眼を輝かせた。「あたしの父も発明家でしたの。父が言っていましたわ。超音速航空機につける計器類をたくさん発明したミスター・クレーンって、父が言い言いしていました。その計器で航空技術の革命がきたんですって。あなたがそのミスター・クレーンですの?」
「いや、それはとうていいただきかねる過褒《かほう》ですよ」とクレーンがちょっと渋面《じゅうめん》をつくった。「でも、多少ともその方面の仕事をしましたから、お父さんのおっしゃっていたのはぼくのことかもしれませんね」
「話がはずんできたところで申しわけないが、デュケーンはどうしたろう?」とシートンが言った。
「うん、彼はそこらを片づけに行っていた。それからキッチンへ行って、毀《こわ》れたところを調べていた。ついでに食べものをさがしていたよ」
「まあ、大胆不敵なひと!」ドロシーが感嘆してさけんだ。
「食べものですって! それよりも、片づけものをするなんて! ね、わかるでしょ、あたしのいう意味。いらっしゃい、ペッギー、あたしたちの部屋へ行ってみましょう」
「なんちゅう娘だ!」ドロシーがペッギーを半分抱きかかえるようにして去ってしまうと、シートンがあきれ顔でいった。
「頭のてっぺんから爪先まで怪我だらけだというのに。まだ半分死んだも同然なんだよ、彼女《あれ》は。タクシーをとめる手合図の力もまだ出ていないというのに。歩けさえしないんだ。びっこひくことすらできないんだ。それなのに、泣き声ひとつあげないじゃないか。ほんとにわからない。≪いつものビジネスを!≫って、そんなことをしたら殺されるかもしれないというのに、あれだ。まったく、何ていったらいいんだろう!」
「そのカテゴリーには、ミス・スペンサーも含めるんだね、ディック。彼女だって、≪泣き声ひとつあげた≫かい? 彼女もドロシーに劣らず、全身傷だらけなんだよ」
「そりゃそうだ。あれも度胸のすわった女だな。おいマーティ、ぼくの古い友達、そしてぼくの鼻もちのならん相棒! あの二人はすごいな、目のくらむ閃光、耳をつんざく轟音《ごうおん》、驚天動地《きょうてんどうち》の大発見だ!……よし、バスをつかって、髯《ひげ》でも剃ろうか。ああそれから、エアコンディショナーを二|刻み《ノッチ》ばかりあげてくれんか、マート」
人心地がついて戻ってきてみると、二人の女性が、舷窓の座席《シート》にすわって外の景色をみていた。
「どうした? 麻薬《くすり》、服《の》んだのかい、ドット?」とシートンが訊いた。
「そう。二人とも、アミロフェーンを服んだの。あたし中毒になりかかっているわ」とドロシーは苦しそうな微笑を浮かべた。
「その点はぼくたちもだ」シートンも顔をしかめた。「すごいな! まったくこのアミロフェーンというのは良く効く」
「それより、こっちへ来てごらんなさい、窓へ。こんな光景、見たことある?」
四人が顔をあわせ、かがみこんで舷外をみた。誰もものを言わなかった。いや、言えなかったのである。恒星間宇宙の真空は、真の闇である。漆黒《しっこく》というも、インキの黒さというもおろかである。光の絶対的な欠如といったらいいか。この黒さにくらべたら、プラチナの粉末など灰色にすぎない。この信じがたいほどの暗黒の全天を背景にして、そこにかすかな輝きの星くずが漂っている。それは星雲であった。そしてケシ粒ほども小さな、キラキラとした光点が無数にある。それが恒星であった。
「ビロードのうえに撒《ま》かれた宝石ね」とドロシーが溜息をついた。「おお、何という華麗な……何と素晴らしい!」
そのときシートンの脳裡に、ある考えが閃《ひらめ》いた。彼はとびあがって計算盤のところへ行った。
「見ろよ、マート。あっちの方位に何も見えなかった、なぜだろうと不思議だった。ぼくたち、地球から遠ざかっているんじゃないのか、光速の何倍、何十倍で遠ざかっているんじゃないのか。あの大きな不発弾(死せる巨星)から勢いよく身を翻《ひるがえ》して飛んだのは大したものだったが。それにしてもエンジンはもっと……」
「そうは思わない。予想はしていなかったが、と言って驚くというには当たらない。あれだけ『ロシュの限界』に近かったのだから、どんなことでも起こり得るさ」
「起こり≪得た≫んだな、多分。軌道の永久|歪曲《わいきょく》をチェックしなければならんだろう。でもこの対物コンパスがまだ働いているから――よし、地球からどのくらい離れているか、計算してみよう」
二人は計器の数値を読みとり、別々に計算した。
「どう、出た、マート? ぼくは、ぼくの数字を言いたくない、怕《こわ》いんだ……」
「四十六・二七光世紀と出たが。君は?」
「同じだ。……うーむ、よく知ったクリークを櫂《かい》なしで流しているわけだな。時間は……ええと、精密時計クルノメーターでは二十三時三十二分だ。よかったよ、君が砕石機で叩いても毀れない頑丈な構造《つくり》にしておいてくれて。一時間かそこらたったら、また見てみる。そうすればいまの速度がわかる。出た数値を、声にだして言えるか、怖いような数値だろうけれど」
「食事の用意ができましたよ」とデュケーンが言った。さっきから、ドアのところに立って、二人の会話を立ち聞きしていたらしい。
疲れはて、傷だらけとなり、身体じゅうを硬くつっぱらせた五人の宇宙|流浪《るろう》の男女は、それでも畳みこみ式のテーブルに向いあった。食事中、シートンはエンジンを気にして、そっちにばかり眼をやっていた。そうでないときは、ドロシーを見、話しかけた。クレーンとマーガレットは和《なご》やかにお喋りしていた。デュケーンは、話しかけられた場合以外、ひと言も口をきかなかった。自分は自分で満ちたりた沈黙を維持しているという姿勢であった。
もう一度観測を終えると、シートンが言った。
「デュケーン、ぼくたちは地球からすでに五千光年近くも離れてしまっている。こうしている間も、一分間一光年の速度で遠ざかっている」
「なぜわかったと訊くのはヤボだろうね?」
「ヤボだね。数値はみんな正しいんだ。困るのは銅バーの残りが四本しかないということだ。宇宙船を停止するには充分で、なお、少し残る。しかし、地球へもどるにはすこし足りない。遊行航法《ドリフティング》でもだめだ――それだったら一生を幾つ繋《つな》ぎあわせても足りない」
「だからどこかに着陸して銅を掘るというわけか?」
「そう。ぼくが君に訊きたいのは、銅のある太陽は、銅のある惑星を従えている傾向があるかということだ」
「まあ、そう言えるね」
「じゃあ、分光器で調べてみよう、どこか先方の――いや、先方下方だ、太陽の発射光線を調べてみよう。それからマート、ぼくらのいつもの十二時間交替をとったほうがいい、いや三人だから八時間交替だ。結局相手を信じるしかない。でなきゃ殺してしまうだけだ。ぼくは第一番交替に立つ。みんな寝ろ」
「そう急《せ》くなよ」とクレーン。「ぼくの記憶が正しければ、ぼくの番だったが……」
「古代史は勘定に入れないんだよ。よし、五セント白硬貨を投げる。表《おもて》だ。ぼくの勝ちだよ」
シートンが計器盤に就《つ》き、他の疲れきった宇宙旅行者たちはベッドにもぐった。ただ、ドロシーだけが去りがたく、ぐずぐずしている。恋人にもっと親切なお寝《やす》みが言いたいのである。
恋人のそばに坐り、恋人の腕を腰にまわし、彼の肩に頭をのせて、彼女は幸福そのもので、この短い時間を愉しんでいた。そのとき彼女ははじめて、左の手に指輪がないのに気がついた。彼女は息をとめ、眼をまるくした。
「どうした、ドット?」
「ああ、ディック!」彼女は狼狽の叫び声をあげた。「あたし、すっかり忘れていた。指輪をドクターのエンジンに投げこんで、取り返すのをすっかり忘れていたのよ」
「えっ、いったい何を喋っているんだい?」
ドロシーはこれまでの経緯《いきさつ》を話した。シートンは自分とクレーンの冒険を話してやった。
「おおディック――ディック――あなたと一緒にいるって、何て素晴らしいんでしょう! 何マイルも翔《と》んで、何年も年とったみたいよ」
「そうだろうとも、君の立場は辛かったんだ……クレーンとぼくよりずっと悪条件だった。でもマクドーガル工場で銅がないと聞いて、ぼくが腹を立てて、どなりかけたことを考えると、恥ずかしくて穴があったら入りたい。マーチンの慎重|居士《こじ》のおかげだよ。やっこさんがいなかったら、ぼくたちは……いや、彼には大恩があるよ。ね、ディンプルズ」
「そうよ、大恩があるわ、でも借金を気に病むことはないのよ、ディック。ただ、ペッギーにマーチンが億万長者だったこと口をすべらしちゃダメよ」
「おや、もう結婚仲介人になったつもりかい? そうなったって不思議じゃないけどさ。彼が大金持ちだからって、彼女の彼に対する評価が落ちるわけじゃない――ぼくだっておなじだ。ね、ぼくだって、一つは君にお金があるから結婚しようというんだもの、そうだろう?」
ドロシーが陽気な忍び笑いをした。
「わかってるわ。でも聞きなさい。貧乏で、世間知らずで、財産めあての、可愛いあたしの恋人。もしペッギーが、マーチンが本当のM・レーノルズ・クレーン氏だとわかったら、そりゃ彼女は手マリみたいに小さく縮んでしまうわよ。自分が財産めあてにマーチンを追いかけていると、マーチンに思われていやしないかと思うでしょう。そしてマーチンも結局、そう思うようになるでしょ? いま何も知らないからマーチンはほんとに自然に振舞っているのよ。彼があんなくだけた調子で女の子に話しかけるの、ここ五年間見たことがないわ。あたしにだけは例外で、わだかまりなく話してくれたけど――それだって、あたしが彼を追いかけているんじゃないってことが、はっきりわかってからなのよ」
「だろうね、やつの性格としては。だけど、君が多いに力説したあの一点――あの一点では、彼はもう完全にハートを射ち抜かれているよ、鷹《たか》よりも猛《たけ》りくるっている」
八時間後、クレーンが交替に立った。シートンは自室にもどり、ベッドに転げこみ、催眠術にかかった人間のように、十時間以上ぶっつづけに眠った。眼を醒《さ》ますと、体操をして、サルーンへ出ていった。
ドロシー、ペッギー、クレーンが朝食に向かっていた。シートンも仲間入りをした。地球を出発して以来、誰もこんなに陽気に、はしゃいだ食事時間を過ごしたことはなかった。大きな傷はまだ開《あ》いていたが、アミロフェーンの、すこしばかり痛いが強力な治癒力によって、おおかたの傷口の痛みや筋肉の硬化やつっぱりはなくなっていた。
食事が終ると、シートンは、冗談めかして、
「おいマート、君はぼくたちのロマンス指向ジャイロの軸受《じくうけ》が臨界点を超えても圧迫《ストレス》されているかもしれんと言ったな。よおし、ぼくは綜合測角器を出して調べてあげる……」
「≪ぼくたち≫じゃない、≪あたしたち≫だわ。測角器を二人のサイズに縮小してちょうだい、ディック――ペッギーとあたしの」
「そうしてあげる。ノギスでも何でも、そこらにある道具を取って、ひどくひん曲がった心臓《ハート》や頭脳《ブレーン》があるかどうか調べてあげる。おいドッチー、ぼくんところへ来て、ぼくがロマンチックな考えごとをしている間、ぼくの頭を押えてくれるっていうのはどう?」
「膝枕? それもいいわね――あんたの頭がそれひとつしかないんだったら」
クレーンとマーガレットは、宇宙の闇がそのまま貼りついたような透明な舷窓のそばへ行き、坐った。
マーガレットはクレーンに、いままでのことを全部打ち明けた。あの恐ろしかった墜落――パーキンスが殺されるという事件も起きた、どうしようもない宇宙船の墜落のことも話した。話しながら身震いしていた。
「うむ、ぼくたちはあのワールド・スチールの連中、そしてデュケーンと、決着をつけなければならない問題がたくさんあるんですよ」とクレーンが静かに言った。「こんどはデュケーンは誘拐の廉《かど》で告発できます……するとパーキンスの死は故殺《こさつ》じゃなかったんですね?」
「故殺なんかじゃ! パーキンスは狂った野獣みたいだったんです。かれはやむをえず殺したんです。でもドクターも――みんなドクターと呼んでいるんです――、パーキンスに負けないくらい悪いひと。ぜんぜん優しい心はなく、無慈悲なひと――冷酷で科学者的な冷酷さで。かれのことを考えるだけで、頭がヘンになって、震えてくるわ。
「でも、ドロシーは、彼が生命を救ってくれたって言っているようだけど」
「そう、パーキンスが襲うところを、救ってくれたんです。でも、あれだって厳密にいえば、自分に都合がいいからですわ。かれのすることはみんな打算からきているの。かれはドロシーを生かしておきたいのです。殺しちゃったら利用できなくなるでしょ? かれは人間じゃないわ、ロボットになりきった人間だわ」
「ぼくも君と同じように考えていた。彼を殺す、よい口実がみつかればディックは大喜びだろう」
「かれだけがあんなに悪いんじゃないでしょ? あたしたちの感情をまるで冷酷に無視するあの態度――かれは単なる機械じゃないかしら、何かに使われている――あらッ、何ですの?」
スカイラーク号がかすかに揺れたからである。
「なあに――恒星を廻るときに引っぱられてすこし揺れたんですよ、こっちへいらっしゃい」
クレーンは計算盤をのぞき、マーガレットを低い舷窓のほうへ連れていった。
「ぼくたちはいまディックが目指していた恒星のそばを通りぬけているんです。速力がすごいから、恒星の引力でストップされないのです。この次はデュケーンがもう一つ別の星を目標にしますよ。ほら、あれです、あの惑星」と指さして、「それからあそこの小さな惑星、見える?」
彼女は二つの惑星を見ることができた。一つは小さな月といった大きさである。もう一つはさらにずっと小さい。その惑星をあやつっている太陽が見えた。太陽はグングンと大きくなっていく。スカイラーク号はものすごい速度で飛んでいる。この速度では、地球上でいう遠距離などは、発進と同時に到着ということになるだろう。いまの刻々に大きさを増していく太陽の、スカイラーク号がその温かい光線のシャワーを浴びたのは瞬《またた》く間であった。
つぎの瞬間には、船はふたたび底知れぬ暗黒にとりまかれていた。
従来は、操縦士なしで七十二時間の宇宙飛行というのは奇跡のように思われていた。しかし今はこの考えは変えなくてはいけない。幾週間ものあいだ、一つの惑星にも出会わずに、一直線に飛びつづけることは充分にあり得ることのように思われた。それほど虚無の空間は広大である。この空間に銀粉のようにばらまかれた小さな星屑とくらべて、あまりに広大である。ときどき、恒星のすぐそばを通りすぎることがある。そんなときだけ、宇宙船の速度がわかる。それ以外には、広い曠野を走っている列車の窓から見る遠い山の頂きのように、遠くの星は何分も、何十分もじっと同じ位置に停止しているようだ。
宇宙の広さに畏《おそ》れをおぼえながら、二人は窓のそばに立ちつくしていた。声は出なかった。愛しはじめた若い男女の恥ずかしさからの沈黙ではなかった。言葉にはつくしがたい遠く偉《おお》きな存在の前に、頭《こうべ》をたれる敬虔な二人の友達《にんげん》の沈黙であった。だがこうして黙って立っているうちに、二人の心はゆっくりと忍びよって、お互いを理解しあっていたのである。
マーガレットは無意識のうちに半ば身震いを感じたのであろう、自然と身体がクレーンのほうへにじり寄っていった。クレーンはマーガレットを見た。美しい女がそばにいる。クレーンの顔に優しい表情があった。何という美しい女性であろうか! 充分に休息をとり、飢えも満たしたので、もう彼女の面影からは虜囚《とらわれ》の身という惨めさは毛すじほどもなくなっていた。ドロシーから、シートンとクレーンの能力に対する測りしれない信頼を打ち明けられたので、マーガレットの恐怖は跡かたもなく鎮静していた。だが、いまのマーガレットが美しいのはそればかりではなかった。ドロシーの仕立てのよいドレス――ものすごく高価なドレスが、いま彼女の肢体にぴったりとまつわりついていたからである。いまの彼女は彼女の最高の姿であり、完全に自信をとりもどした、素晴らしい貴婦人《レディ》であった。
彼はふと顔をあげた。そしてまたも星を観測した。だが、もういつもの彼ではなかった。宇宙の驚異のほかに、彼の眼には房々と波うった黒髪が映っているのであった。女王のようにかたちのよい頭部に、ぬばたまの黒髪が高く束《たば》ねられていた。そして長く黒い睫毛《まつげ》がそっと匿《かく》している、澄んだ褐色の瞳。吸いつきたいほど甘美な、敏感な両《ふた》つの唇。まるくひきしまった、えくぼのできた下顎《おとがい》。そしてすんなりと、牝鹿のように伸びた若い肢《あし》の美しさ。
「まあ、ほんとに、なんという素敵な……何という信じられないほど偉大な景色なんでしょう……」マーガレットがしずかにつぶやいた。「地球などで得られる、どんな認識よりも大きな、ずっとずっと深い……でもやっぱり……」
咽喉をつまらせた。下唇が真白な二本の前歯に把《とら》えられていた。思い決したような表情であった。やがてまた、ためらうように続けて言った。
「でも、こう思いません、ミスター・クレーン――人間という生物には、この偉大な宇宙よりももっと偉大な何ものかがあるんだと? それはたしかにあるのだと思いますわ、あたし。でなかったらドロシーとあたし、こんな素晴らしいスカイラーク号に――あなたとディック・シートンのお作りになったこんな船に乗っているなんて、あり得ないことですもの!」
数日がたった。ドロシーは自分の覚醒時間を調整して、シートンのそれと合わせていた。シートンの食事をつくり、計器盤につく交替時間の退屈さを紛《まぎ》らわせてやった。
マーガレットはマーガレットで、クレーンに同じようにかしずいていた。
しかし、デュケーンが当番のときは、四人はよくサルーンで一緒であった。真面目な議論もあったが、面白おかしく、談笑することのほうが多かった。マーガレットはすでにみんなの友達であった。そして気のおけない、愉快な仲間であった。活発なおしゃべり、すばやい、気のきいたウイット、表情の豊かな動き、それらは三人をこよなく喜ばせた。
ある日のこと、クレーンがシートンに示唆して、写真とは別にノートもとったほうがいいと言った。
「ぼくは天文学のことはあまりわからないんだが、これだけの計器類があるのだから、データをとったらいいと思うんだよ。ことに、惑星系のデータは天文学者に貴重な参考資料となると思う。ミス・スペンサーにぼくたちの秘書になって手伝って貰えばいいんじゃないかな?」
「そうだ――アイデアだな。誰もやったことのない仕事だものな」
「あたし喜んでお手伝いしますわよ――ノートをとるぐらい当たりまえのお手伝いだわ」とマーガレットは大きな声で言って、パッドと鉛筆をとりにいった。
そのときから、クレーンの非番のときはいつも、マーガレットが手伝って数時間データ収集をおこなう習慣ができた。
スカイラーク号は、太陽系から太陽系へと通過していった。速力がはやすぎ、どこにも着陸することができなかった。マーガレットは、仕事としてクレーンと一緒にいるようになったのだが、当然二人にとって、それがいちばん愉しい時間になった。二人で計器盤の前に坐り、データ研究に精をだしながらも、ときどき打ちとけた会話をした。互いに黙っているときも心のなかは通じあっているようであった。わずか数日のうちに、数カ月という長期を藉《か》しても達し得ないほどの友情と愛情が成長していった。
時がたつにつれ、クレーンはますます自分の理想のヴィジョンが心のなかに形をなして浮かびあがるのを感じるようになった。流星なみの速度でとぶスカイラーク号を操縦するとき、またストラップで小さい寝台にしばりつけられて横臥するとき、彼のヴィジョンはますます明確になっていた。もうヴィジョンの中核はぼやけてはいなかった。
マーガレットはといえば、彼女のほうも、ますますこの物静かな、衒《てら》いのない、だが心のしっかりした若い発明家に惹きつけられていった。広汎な知識と視野をもち、鋭敏な感受性をもった青年に傾いていった。
スカイラーク号の速度はようやく緩《ゆる》み、やがて、ある惑星への着陸が可能と思われる程度になった。コースのセットされた惑星が、銅をもったある太陽のすぐそばを廻る惑星であったことは言うまでもない。
宇宙船が惑星に近づくにつれて、四人の心には昂奮が高まっていった。円盤はしだいに大きくなっていく。惑星のディスク面は白く輝いている。輪郭はそれを取り囲む大気でぼかされている。その惑星は二つの衛星を伴《つ》れていた。惑星の親である太陽は手が届くように近く、巨大な焼けただれた火球であった。その高い表面温度が、スカイラーク号にじかに感じられた。マーガレットは不安が増してきた。
「あまり近づいたら危険じゃありません、ディック?」
「うん、高温計を睨むのがパイロットの主な仕事の一つなんだ。温度が高すぎるようになれば、パイロットは大急ぎで逃げ去る――心配することはない」
スカイラーク号は惑星の大気圏に突入し、なおも降下していった。地表に接するほど近くなった。空気は呼吸できる組成であった。二酸化炭素の含有率が高いという点をのぞいては、地球の空気とほぼ同じ組成であった。気圧はやや高いが、高すぎるということはない。温度も高いには高いが、耐えられる。惑星の重力は地球のそれより十パーセントばかり強い。地表のほとんどは濃密な植物におおわれている。が、ここかしこに山の斜面のような、露岩部があった。
そうした斜面の一つをえらんで着地してみると、地面が固くなっていることがわかった。彼らは船外へ出た。斜面のように見えたものは、実は岩石であった。いや、岩石というよりは、見た眼でそれとわかる、ひとつづきの巨大な金属の塊りであった。砕《くだ》けてバラバラになった部分はほとんどない。全体がくずれずに一つの棚状の露頭《ろとう》をなしている。露頭の端のところに大きな木が一本立っている。不思議な、対称的な樹相であった。しかし奇妙なことに、枝は上へゆくほど長い。暗緑色の広葉が茂っている。小枝には長い棘《とげ》があり、若芽のようにつやつやした柔軟な触手がかなり長く飛びだしている。この木は、その背後にみえる密生した樹林の前哨《ぜんしょう》をつとめるかのように独りで立っている。
密生した樹林はすべて羊歯《しだ》植物である。それが空中へ二百フィートあるいはそれ以上|聳《そび》えたっているのである。地球で見るどんな森林とも比較にならない異様な光景であった。
風はまったくない、沸《たぎ》るような熱い空気のなかで、樹々は鮮烈な緑色を呈して、じっと立ったままである。動物がいる気配はまったくない。風景全体がうだるような空気のなかで深い眠りにおちいっているようである。
「地球よりずっと若い惑星だな」とデュケーンが第一印象をのべた。「石灰紀かそこらの年代だね。夾炭《きょうたん》層の中に、あんな羊歯《しだ》植物みたいな樹があったんじゃないかな、シートン?」
「そう――いまそれを思いだしていたところなんだ。しかしぼくらに異常な興味があるのはこの露頭だ。こんなでかい貴金属の塊り、見たことはないだろう?」
「貴金属って、どうしてわかるの?」とドロシー。
「腐蝕していないからだ。おそらく、百万年からも、ここにあったままなのだろう」
シートンは毀《こわ》れかけた小さな一つの塊りのところまで歩いていき、重い宇宙靴で蹴ってみた。小さな塊りは微動だもしなかった。
かがみこんで拾いあげようとした。塊りは動かない。両手をかけ、力いっぱいにふんばって、ようやく持ちあげることができた。
「どうする、デュケーン?」
デュケーンはナイフを取り出し、表面を削ってみた。あらわれた光金属面と削りくずを調べた。それからまた削り、なおも観察していた。
「うむ、すごい! プラチナ・グループの金属だ。ほとんど間違いはない……それに、プラチナ・グループのなかでもこんな奇妙な青みがかった輝きをみせる金属は、君のX金属だけじゃなかったかな?」
「しかし、君とこの前議論したときは、同じ惑星上にXと銅が自然状態で存在することはないということになっていたろう? それから銅のある太陽の惑星は銅をもつと?」
「そう――でも本当じゃなかったかもしれない。もしこの金属がXだとすると、宇宙学者がこれから二十年は取り組む大変な研究材料というわけだ。ぼくはこの削りくずを持って帰る。大急ぎで二、三の簡単な試験をしてみる」
「そうしてくれ。ぼくはもうすこし塊りを集めていく。もしこれがXだとすると――いや主成分がXであることはほぼ確実だ――これだけでも地球の発電所ぜんぶを一万年まかなえる」
デュケーンは宇宙船へ帰った。シートンとクレーンは金属塊をなおいくつか見かけた。転がしながら宇宙船まではこんだ。ドロシーとマーガレットが始終二人と一緒だった。四人はなおも金属塊をもとめて、スカイラーク号着陸地点からしだいに遠ざかっていった。
「おい、こうしていちゃ危険だ、ディック」とクレーンが叫んだ。
「何が危険だ。この辺は静かで……」
そのときマーガレットが悲鳴をあげた。振り返ってスカイラーク号のほうを見たのである。彼女の顔は恐怖でゆがんで、真っ青である。
シートンは大きく身をひるがえしざま、拳銃を構えていた。引金にかけた指を、すんでのところで抑え、拳銃を下げた。
「X爆薬銃弾がこめてある……」
四人はじっと見据えた。
スカイラーク号の背後から、奇妙なものがのろのろと動いて出てくる。
奇態な動物である。
四本のずんぐりした大きな脚がゆっくりと動いている。四本の足が支えている胴体は、横に百フィートもある、長いものだ。ぶくぶくと肥えた、醜い胴体である。胴体の一端から、長い、蛇のようにくねくねした頸部が伸び、その先に小さな頭がついている。頭といっても、その全部が口だといっていい。食肉獣の鋭い歯がぎっしりと並んだ、空洞のような巨大な口である。
ドロシーが恐怖でガタガタ震えだした。マーガレットと一緒になって、二人の男のかげに隠れた。シートンとクレーンは物も言わず動物をにらんでいる。巨大な野獣は、首をのばし、スカイラーク号の船体へ、その吐き気をもよおすような醜悪な頭部を、こすりつけるふうに近づけていた。
「射《う》てないんだ、マート。船体をこわすおそれがある。普通の銃弾でも同じことだろう」
「そう。だから去《い》っちまうまで隠れていたほうがいい。君たち二人はその岩棚のほうへ逃げろ。ぼくとマーガレットはこっちの岩棚を逃げる」
「待て――それとも、船体から離れたら、X爆薬で木っ端みじんにするか」
シートンが言った。ドロシーが寄りそってきた。二人は低い金属のでっぱりの陰へ身をひそめた。
マーガレットは怪物から眼を放すことができず、釘づけされたように動かなかったが、クレーンがやさしく腰に手をかけ、身許へ引きよせてくれた。
「こわがることはないよ、ペッギー。もうすぐ去《い》ってしまうから」
「こわくないわ――もうこわくない」溜息をついた。「あなたがいてくださらなかったら、あたし、ほんとうに恐怖で心臓が潰《つぶ》れてしまうところだった……」
腰にまきついた腕がぐっと彼女を引きよせた。だが意志の力でそれを緩《ゆる》めた。そんな時ではないし、場所でもない……
スカイラーク号から、すさまじい轟音がひびいてきた。怪獣は苦痛と怒りの咆哮《ほうこう》をあげた。だが、つづいて五十口径の機関銃弾が集中し、さしもの怪獣も静かになった。
「デュケーンだ――さあ行こう!」
シートンが叫び、四人は斜面を駆けあがった。のたうつ巨体を避け、迂回《うかい》して、開いたドアから船内に飛びこんだ。デュケーンがドアを閉めた。四人は抱きあって安堵の溜息をついた。だがそのとき、船外ではもうすさまじい修羅場が現出していたのである。
一刻前まで静かだった船外の景色は、いま急変していた。あたり一帯が、空中まで、いやらしい怪物どもに満たされていた。ものすごい大きさの有翼《ゆうよく》爬虫類が空から舞いおりてきて、虎のような鋭い牙《きば》をむいて、スカイラーク号の装甲|外殻《シェル》へ襲いかかった。それはまあいいとして、十フィートもある蠍《さそり》のような動物が、彼女のいる舷窓へ外から飛びかかり、鋭い剣状の針から水晶ガラスへ毒液をシャーッとふきかけたとき、ドロシーは悲鳴をあげて飛びずさった。サソリの攻撃が徒労におわって、地面へ落ちると、この巨大な昆虫の上へ、一匹の蜘蛛《くも》が躍りかかっていった。ふつうのクモのような毛は生えていない。複眼もない。だが節《ふし》くれだったいくつもの背骨をそなえたこの化物じみた昆虫は、八本の節足《あし》をもち、クモの一種と形容する以外にはなかった。放射状に出た八本の節足の要《かな》めは膨れあがった球状の胴で、数百ポンドの重量があろうと思われる。クモの攻撃武器はパワーショベルのような強い大顎《だいがく》である。
剣と大顎との死闘がはじまった。上になり下になり、組んずほぐれず、果てしなく死闘がつづいている。
デュケーンが射殺した怪獣の屍骸を、十二フィートのゴキブリの一群がさっきから眼を光らせて狙っていたのであろう。倒れて朽ちた湿地帯植物の幹の上を、数匹のゴキブリは身軽にとび越えて、眼にもとまらぬ早さで、もう怪獣の屍骸を争って食べはじめていた。だが、そこへまた一頭、巨《おお》きい怪物が出てきて、ゴキブリの一群は蹴散《けち》らされてしまった。
形態からいえば剣歯トラのようではあるが、性質と習性は食肉恐竜《ティラノザウルス・レクス》のようなそれである。とにかく爬虫類時代にしか見られない、生きた夢魔ともいうべき怪獣である。肩高《かただか》約十五フィート、口は図体にくらべてもなおアンバランスな大きさである。鋭い剣状の牙は三フィートもある。怪獣は悠々と屍骸をむさぼり食いはじめたが、独占は許されなかった。つづいて登場したのは、鰐《クロコダイル》に似た、これまた原始生物時代の生きた夢魔である。
クロコダイルは唸《うな》りをあげて闘いをいどんだ。トラは牙《きば》をふりかざし、鋭利な爪をひろげて、真正面から挑戦をうけて立った。竜虎《りゅうこ》相撃つとは、まさにこの地獄絵のことであろう。爪でかき、牙で咬み、血まみれの憤怒をまきちらしながら、両者は小さな大地を鳴動させつつ、果てしない格闘場面を繰りひろげていった。だがそのとき――
突如として、金属の露頭のそばにそびえていた巨樹の姿勢が変わった。幹が曲がり、茂った枝が二頭の動物の上へどさって落ちていった。怪獣二頭は枝についた、数フィートもある巨大な棘《とげ》に刺されて、いわばその場で釘づけになった。五人が見ると、驚いたことに、棘は針のように鋭く、しかも、釣り針のように≪かえり≫が出ているのである。無数の槍が一度に怪獣たちを串刺しにしたのである。
するとすぐ広葉が活動を開始した。広葉には吸着盤がついていて、幾枚かの広葉が協力して動物の体をすっぽり包んでしまった。すると葉柄のすぐわきから出ている長い、小枝というか触手というかが、波打ちながら、安全距離を保ちつつ動物の体へ伸びていった。驚いたことに、触手の尖端には一個ずつ眼がついているのであった。
二頭の剣闘士の体液はすっかり吸いとられた。残ったものは無残な組みほぐれた骨格だけであった。
樹は何ごとも起こらなかったように元の姿勢にもどり、孤高な、異国風な美さえ湛《たた》えて、そこに微動だもせずに立っていた。
ドロシーは唇をしめらせた。色|褪《あ》せて、顔色とともに生気がなかった。
「気持がわるくなっちゃったわ」
「いいや、君は大丈夫だよ」とシートンは彼女の腰にまわした腕を強く締めた。「元気だせ、エース」
「オーケー、チーフ。ほんとに大丈夫みたい――今度は」頬に生色がもどってきた。「でもディック、あの恐ろしい樹、爆破して下さらない? もしあれが、他の動物みたいに醜い姿の樹だったら、まだ我慢できるわ。ところがあんなにおっとりと澄ましこんで、美しいんですもの!」
「爆破してやるとも。そして早くここは退散したほうがいい。銅を探鉱する惑星じゃない、たとえ銅があっても。ところが銅はないらしいんだ。……Xなんだ。そうだろう、デュケーン?」
「そうだよ。すくなくとも九十九パーセントXだ」
「それで思い出した」と、シートンはデュケーンに向き直って大きな声を出した。「はっきり自分で宣言しろ、これで戦争は終結にしよう」
デュケーンは差し出された手を無視した。
「こっちはその気はないよ」冷静な声で言った。「君といっしょにいる間はパーティーの一員として行動する。しかし、帰還し次第、ぼくはまだ君たち二人の息の根をとめてやるつもりでいるんだ」
ぷいと振り向いて、自分の部屋へ行った。
「うーむ、ぼくは……」シートンは絶句した。甘かったとか、愚かだったとか言いかけたのだろう。
「やつは人間じゃない――冷血魚だ!」
「機械だわ、ロボットだわ」マーガレットが断言した。「いつもそう思っていました。いまそれがはっきりわかりました」
「ようし、帰ったらやつを殺してやる。やつがそれを望んでいるんだ。拳銃二挺でめった撃ちにしてやる!」
クレーンが計器盤を見にいった。
やがてスカイラーク号は、濃い霧につつまれた惑星に近づきつつあった。ゆっくりと下降しながら観測すると、惑星は異常な圧力のもとに圧縮された高温の水蒸気と有毒ガスの塊りであることがわかった。
つぎの惑星は不毛で死んだ世界のように見えた。大気層は透明ではあるが、一種独特の黄色がかった緑色であった。分光試験の結果は、九十パーセント以上が塩素であった。こんな惑星には地球型の生命が存在するとは思われない。たとえ宇宙服をつけてでも、銅の探鉱など、不可能ではないまでも、極度の困難をともなうであろう。
パーティーは不毛の惑星を離れて、ふたたび拾い宇宙空間に出た。
もう一つ惑星が見えてきた。
「幸いまだ、もう二つや三つ、太陽系を探険するだけの銅はある。でもほら、あそこを見てごらん。よさそうな惑星があるだろう? ぼくたちの捜していた惑星かもしれないよ!」
シートンの呼びかけに、みんなが舷窓をのぞいた。溜息が出た。大気の帯へ突入しながら、これまでと同じ手続きでテストしてみた。結果は満足すべきものであった。
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一五
彼らは急速に下降していった。
広々とした美しい平原であった。山のない、絨毯《じゅうたん》を敷いたような緑の平野に大きな都市がある。その真上をいまスカイラーク号が翔《と》んでいた。
ところが、見ているうちに、都市は忽然《こつぜん》と消え、かわって突兀《とっこつ》とした山の頂きがそこに現われていた。眼のとどくかぎり、山頂から四方八方へ、深い渓《たに》がどこまでも刻まれている。
「わあーッ! こんな蜃気楼ははじめてだ!」シートンが叫んだ。「でも着陸してみよう、最後は泳がなければならなくなっても……」
スカイラーク号は、高山の頂きに着陸した。五人の宇宙放浪者が、いままた足下の峨々《がが》たる山岳が蜃気楼のように立ち消えてしまいはしないかと、幾分の不安を感じていたことはたしかである。だが、安全に着陸してみると奇現象は起こらなかった。起こらなかったことが不思議な気さえした。五人は狭いエアロックの中で固かたまりあって、船外に出ようか出まいかとしばらく迷っていた。生物の存在をしめす徴候はひとつも見えなかった。だが、五人の一人が、何かしら茫漠《ぼうばく》とした≪不可視の、ある物の存在≫を感得した。
突然――
空中に独りの人間の姿が現われた。見ると、どこからどこまでもシートンと寸分|違《たが》わぬ男性である。片眼の下についたグリースの黒いシミから、着ているスポーツシャツのハワイ風な派手な模様まで、そっくりである。
「よう、君たち!」とその幻の声がいった。調子から音色まで、シートンの声に酷似している。「君たちの言語《ことば》を喋るんでびっくりしたろう――フフフ、そうだろうとも。君たちは、テレパシーもエーテルもわからんのだね。時間と空間との関係も知らんようだ。四次元さえ知っておらんな?」
姿はたちまちシートンのそれからドロシーのあでやかな姿態に変わった。だが、その男、いや女はよどみなく喋りつづけている。
「電子、中性子、その他もろもろ――みんなここにはない。なんにもない」
姿がデュケーンのそれに変わった。
「ああ、もうすこし自由型の人間だな、でも盲で、鈍く、愚かな人間だ。これも無価値な存在だな。どれ、マーチン・クレーンになってみるか。うん、これもご同様だ。ペッギー、これも同じことだ、予想どおりだ……
要するに君たちは、本質的には無価値な存在だ。進化|階梯《かいてい》でいえば低すぎて問題にならん――死を超克するまでに、死に随伴する厄介な必要物セックスを超克するまでに、あとどのくらいかかるかな? 数百万年というところかな? もちろんぼくが君たちを、事実上無価値にすることが必要だ、君たちを非物質化することが……」
幻の男がシートンの姿になって、じっとシートンを凝視している。その恐るべき凝視《ぎょうし》(そこから何かの電磁波などが出ているのかどうかはわからないにしても)のインパクトに、シートンは五感がしびれ、ゆらめくのを感じた。
シートンは精神エネルギーの全部をあげて凝視に耐え、なおも立ちつづけていた。
「おや?」と幻の男が驚きの叫びを洩らした。「こんなことは数百万年来ないことだ。精神の単なる仮象にすぎない物質が、権力《パワー》の心に従うことを拒んだなどということは! どこかに変なものがありそうだ……」
幻の男はクレーンの姿に変わってみた。
「おや、完全な複製になっとらんぞ。どこか妙な差異があるようだ。外形はまったく同じなのだが……。内部構造も似たものだが。物質の分子は正しく配列されている、分子のなかに行儀よく原子が並んでいるのだが……。電子、中性子、陽子、陽電子、中性微子、中間子……どれもそこまでのレベルでは一つも間違いはないのだが……。第三レベルでは」
「出よう!」とシートンが叫んだ。ドロシーをうしろへ押しやり、エアロックのスイッチに手をのばした。「非物質化などという戯言《たわごと》――こいつの大好きな料理かもしれんが、ぼくの口には合わん!」
「よせよせ!」幻の男が聞きとがめて言った。「君はじっとしていなくちゃならん。そして、生きたままにしろ、死ぬにしろ、非物質化されるんだ――」
幻の男が拳銃を抜いた。抜きかたがゆっくりだった。それはクレーンの姿になっているかららしかった。だが、その拳銃がホルスターから出るか出ないうちに、シートンの放った第一号X爆薬銃弾が幻の男に命中し、その≪擬似肉体≫が瞬時に蒸発してしまった。大事をとってクレーンが次弾を放った。
クレーンの銃弾は第五号、すなわちはるかに強力な銃弾である。それを、閉《と》じつつあるエアロックの最後の小さい隙間から、幻の男の立っていたあたりの地面へ発射したのである。
エアロックは閉《し》まり、シートンは計器盤へ飛びついた。計器盤に飛びついたとき、眼前に、空中に、妙な生きものが出現した。シートンが動力レバーを入れた瞬間、生きものはフロアへ叩きつけられた。総毛立《そうけだ》つような、恐怖の生きものであった。大きな口と鋭い歯。長い爪。人間のように手に自動拳銃を握っている。しかし、強烈な加速度でフロアにたたきつけられて、その生きものは立ちあがることもできなければ、自動拳銃を持ち上げることもできないでいる。
「どうだ、この術《て》で参ったか!」シートンが睨みつけてどなった。「物質のままでいろ! 踝《くるぶし》に火がつくまで、おまえといっしょに駆けてやる!」
「ふふん、子どもっぽい反抗だな。それで君の勇気だけはわかったが、同時に知能が足りないこともわかったよ」
不思議な生きものはせせらわらって、忽然《こつぜん》として消えてしまった。
だが、つぎの瞬間、シートンは全身の血流がとまったように蒼白になった。
計器盤の上に拳銃が現われていたからである。拳銃は鋼鉄のバンドでしっかりと計器盤に固定されているのだ。見ている間に、遊底が自然にぐいと引かれ、引金が動いた。撃鉄《げきてつ》がおりた。が、爆発はなく、カチッと鳴っただけである。矢継ぎばやに、度肝《どぎも》をぬく事件が起こって神経が麻痺しかかっていたシートンも、銃口を自分に向けた自動拳銃の引金がひかれて、まだ生命があることに、いささかびっくりした。
「ああ、爆発しないことはわかっていたんだ」――驚いたことに、喋ったのは銃身であった。その調子の、なんと軽いことよ。だが乾ききった金属質の音色で、銃身のものと知れた。
「ねえ、君の原子核構造の方程式をまだ聞いていなかったんだ。だからほんとうの爆発はできなかった。しかし、殺すにはいろんな方法があるんだよ。どれを使っても君を殺すなんて、わけはない……」
「その一つを言ってみろ!」
「二つ言ってやろう。君の頭の上で、五個の金属塊になって、どかんと落下する。でなきゃ、これはかなりの努力を要する仕事だが、君のすぐ前に太陽を一個現出して焼き殺してしまう。どうだい、どっちの方法でも、確実に君を殺せるだろう?」
「う――うむ、できるだろうな」
シートンはしぶしぶ認めなければならなかった。
「しかし、そんな雑《ざつ》な方法は鼻もちならんほど、ぼくの趣味にあわん。それに、どんな情況であろうと是非とも使わねばならんというほどのものじゃないからね。それからもう一つある――君たちはぼくが最初に大ざっぱに分析して予想したほどは、完全な無価値じゃないからね。特にデュケーンは有望だ。心的能力と呼べるまではいかんが、それでもある種の性質の芽生えはある。それを発展させていけば、時間がかかるだろうが、純粋に知的な階層という部類にはいるかもしれない。
もう一つ、君を殺さなかった理由がある。君はぼくに相当の運動をさせてくれたし、それをエンジョイさせてくれた。ちょっと意外な程度までな。また、それよりもっと面白い目にあわせてくれる力もありそうだ。面白い目というのはこういうことだ。ぼくはあの方程式――君の原子核構造の方程式だよ、それに六十分間、君の世界でいう六十分間を費やして研究してみたいのだ。その方程式の誘導は比較的かんたんだよ。九十七個の同時微分方程式を解き、それから得られた九十七個の次元を積分すればいいんだから、いとも易《やさ》しい。もし君がぼくが計算しているときに邪魔をして、与えられた時間内に、ぼくがその方程式を導くのを阻止できたら、君はいまのままの姿で、君の友達のところへ戻っていけるだろう。いいかい? 与えられた時間の第一分は、君の精密時計《クルノメーター》の長針がゼロ点に来たときに始まる……そら今だよ!」
シートンは動力をゼロGに減らし、両眼をとじ、顔をしかめて坐っていた。集中された心の努力の程度が彼の表情にまざまざと現われている。
「そんなばかなことができるか、この非物質の、のらくら野郎!」と彼はいきりたって心に言った。「変数が多いんだぞ。いくら超人的な頭脳だって、九十一個以上の変数を同時に扱えるわけがない……貴様は間違っている。それはシータだ、エプシロンじゃない。……それはYでもZでもない、Xだ。あっ、アルファだ! ベータだよ! へへへへ、そこで間違った――ひどい間違いだ。はじめからやりなおさなきゃならんよ。……九十六個以上の括弧《かっこ》を積分するなんて、そんな芸当できる奴がいるもんか! この馬鹿げた宇宙をそこらじゅう捜しまわったって、そんな人間、いや生物にしろ、精神にしろ、あるもんか!……」
シートンはこのことだけに意識を集中した。五人の仲間がおかれている恐怖のシチュエーションへの考慮を排除しようとした。サスペンス、スリルの感情を拒否した。彼とドロシーが、いまこうやっている間にも、宇宙の虚無のなかへ放りだされるかもしれないという厳然たる事実を、あえて無視した。彼は全意識、全努力、彼の鋭利な、高度に訓練された頭脳の質量とポテンシャルのすべてを、この一事に集中した。
時間が過ぎた。
「君の勝ちだ」銃身が言った。「もっと正確に言えば、君のところのデュケーンが勝ったと言おうか。ぼくは驚きもしたし嬉しくもなったのだが、あの男は、この一時間という短い間に、発生期の性質を非常によく発達させた。これまでどおり真っすぐに進むがいい、ぼくの親戚となるべき素質をもった男。これまでどおり、東方の哲学者《マスター》たちに従って一生懸命に研究をつづけるがいい。君の短い一生のうちにも、異常な精神緊張に耐える能力ができ、われわれのような進化階級に受けいれられるようになるかもしれない」
言うと同時に銃身が消え、彼らの背後の惑星も消えた。彼らを異常な感覚で包んでいた、精神エネルギーのひたひたと満ちた場《フィールド》も、また消えてしまった。
五人はいまこそ一点の疑問もなく、あれが一つの異常な実存在であったこと、そしてこの実存在がまったく消えてしまったことを確信することができた。
「あれはみんな、本当に起こったことなのかしら?」ドロシーがふるえ声で訊いた。「それとも宇宙の悪夢の原型の原型に悩まされていたのかしら?」
「起こったのだ……本当に起こったのだと思う。それとも……ああマート、あれをコードに直して機械頭脳に押し込んだら、どんな答えがでてくると思う?」
「ぼくにはわからない。ただわからないというより仕方がない」とクレーンが答えた。
クレーンの、高度に訓練された技術者の精神が、あり得べき可能性に反抗していた。いまの途方もなく幻想的な出来事のどの一部分をとってみても、とうてい彼の知識をもってしては説明ができない。結局、どの一つも、事実上は起こらなかったのじゃないか。それにもかかわらず……
「事実起こったのか、でなければぼくたちが催眠術にかけられていたのか、どちらかだ。後者とすれば、誰が催眠術を使ったかだ。催眠術者はどこにいるかだ。いやそれよりも、なぜ催眠術などをかけたか、それが問題だ。結局、実際起こったことだよ、これは。ねえディック?」
「と思うな、突飛《とっぴ》は突飛だけど。デュケーン、君はどう思う?」
「起こったのだね。どうして?――なぜ?――ということはぼくにもわからない。しかし、起こったのだとぼくは信じる。どんな現象でも、起こることが不可能とは信じなくなったのだ、ぼくは。あの日、もしぼくが、君のタンクが自力で窓の外へ飛んでいったなどという途方もないことを信じていたら、いまこうして、五人でこんなところへ来ているはずもないのだ」
「あれが本当に起こったことだとすれば、君がわれわれの危急を救ってくれた原動力らしいんだ。君が、それに従って研究していたという東方の哲学者《マスター》たちって、一体ぜんたい誰なんだ? 君は何を研究していたんだ?」
「そんなことわかるもんか」デュケーンは煙草に火をつけ、二度深い吸いこんでから、「わかればいいと思うんだが。事実ぼくは数派の密教哲学を研究したことはある。……そのどれを指しているのか、考えればわかるかもしれない。よし考えてみよう。というのはな、君たち、その密教がぼくの宇宙観になるかもしれんからだ」
驚くべき告白であった。四人がそのショックから立ち直るにはしばらくの時間が必要であった。
ショックの余震がまだ四人の胸にひびいているうちに、クレーンが一つの密集した星群を発見した。どの星も、不気味な緑がかった輝きを発している。分光器にかけてみると、その光は銅の波長であった。
スカイラーク号は星群に近づいた。
各太陽は互いにかなりの距離を保ちながら、天空にかかっていた。クレーンはシートンに計器盤を見てくれと言いのこし、自分はマーガレットと、惑星を探しにかかった。
クレーンとマーガレットは天体観測室に入った。だが、まだ惑星はみつからない。まだかなりの距離があるからである。二人はノートをとりはじめたが、クレーンの心は仕事に集中していない。そばにいる美しい女性への思慕でいっぱいなのである。ノートを較べる情報の交換はしだいに間隔が長くなっていった。いくばくもなく、二人は沈黙のうちに窓外を眺めていた。
またスカイラーク号がすこし横に揺れた。これまでも、星に近づくときに何べんも、いや、何百ぺんも同じ動揺を繰り返したことだろう。クレーンはよろめく身体を支えるため腕をのばした。だが狭い、むっとする天体観測室のなかでは、伸ばした腕はいつもとは違う意志をもっているようであった。二人は顔を赤らめ、相手の眼から顔をそらした。だが、ふたたび眼と眼が会ったとき、どちらの心にも相手がいま何を望んでいるかがはっきりとわかった。
クレーンはゆっくりと彼女の腰へ腕をまきつけていった。まるで無意識のような緩慢な動作であった。彼女の顔が羞《はじら》いでさっと紅潮した。が、赤い唇が彼の唇へ近づいていき、細いしなやかな両腕が男性の首にまきついた。
「マーガレット――ペッギー――ぼ、ぼくは待つつもりだった。でもどうして、どうして待つことがあろう? ぼくがどんなに君を愛しているか、君は知ってくれている、ああ可愛いペッギー!」
「そうなの、わかっていた……わかっていたわ、あたしのマーチン!」
それからしばらくたって、二人はエンジン室へもどってきた。二人の心に高鳴っている無上の歓喜が、いま大きく飛躍した二人の間柄が、ここしばらくは他人に気づかれないようにと祈りながら。だがそれは不可能だった。二人の姿をみたシートンが、やにわに、「何かみつかったか、マート?」と訊ねたからである。不意をつかれ、秘密を隠す余裕がなかった。
いつもは冷静沈着なクレーンが狼狽の色をかくしきれなかった。マーガレットは伏し眼がちで、顔が火のついたように赤らんでいった。
「そう、あなたたち≪何を≫みつけたの?」と、ドロシーが訊いた。ドロシーには、二人の顔色で、とっさに激しい変化が感じとれた。
「ぼくの未来の妻をみつけた」クレーンがしっかりした調子で宣言した。
ドロシーとマーガレットが、「まあ、よかったわ」と叫びながら抱きあった。シートンとクレーンは手を握りあった。この二つの結合に一時の気紛《きまぐ》れや出来心があり得ないことを、四人はひしひしと感じていた。
惑星の位置がわかり、スカイラーク号はそれを目指して進みつつあった。
「かなり深いところに位置しているらしいな、マート。デュケーンといっしょに頑張っているんだが、この変な太陽群の相対位置がまだ算定できない。データがあつまっていないんだよ。どの太陽がどこにあるのか、ちっともわからん。しかし、惑星は真ん中あたりと思うんだが……。それでも差しつかえないかい?」
「差しつかえないよ。寄りかたまっている惑星がたくさんある。しかし、どれも、大きすぎるか小さすぎる。手頃の大きさと思えば水がなかったり、空気がなかったり――それがあっても別の欠点がある。もっと近づいてみよう」
目ざす惑星の大気層に近づき、推力をカットした。
太陽はぜんぶで十七個あった。どれも巨大な太陽である。一定の秩序はなく、ただ大空にてんでんばらばらに散っている。惑星はほぼその中央部に挟《はさ》まれていた。
「表面気圧は一平方インチあたり三十ポンド。大気の組成はほぼ正常、ただし、ぼくの知らない非有毒ガスが〇・三パーセント含まれている。温度華氏百度。表面重力、地球の十分の四」
シートンはゆっくりと、宇宙船を眼下の海洋上へ着水させた。海は極度に深い淡青色であった。海水のサンプルを採集し、分析機械にかけてみた。
「わあーッ、アンモニア性の硫酸銅だ! こいつぁ有難い! レッツ・ゴー!」
シートンは、いちばん近い大陸へ針路を向けた。
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一六
スカイラーク号が大陸の海岸に向かって徐々に下降していくと、急速で続けざまな爆発音が聞こえてきた。彼らの向かっている方向から来るものらしかった。
「あの音は何だろう?」とシートンがいぶかった。「ほら、大口径の銃声みたいでもあるし、高性能爆薬みたいでもある――しかし原爆じゃないな」
「原爆じゃない」とデュケーン。「ここの空気密度を考慮にいれて、もふつうの火器ではあんなふうな音はしない」
シートンは、気密室の小孔を閉じて音を遮断し、速度レバーを押しすすめた。増したエンジン推力のインパクトをうけて、船体は急角度に上昇した。
「ゆっくり行け、シートン」デュケーンが注意した。「やつらの砲弾に当たりたくないからな――われわれの砲弾とはちがうものかもしれんから」
「よし、ゆっくりいこう。しばらく高度を保つ」
スカイラーク号が海岸へ近づくと、不気味な音はますます大きく、冴えたものになっていった。爆発音ではあるが、一つの無限連続的な爆発音である。
「ほら、あそこだ」シートンが叫んだ。計器盤についていたシートンには、視界がぜんぶ盤上で俯瞰《ふかん》できるのである。
「左舷六度、五時低方だ」
四人が言われた方向へ行き、舷窓から覗いた。シートンがなお続ける。
「宇宙戦艦が八隻みえる。四隻はスカイラーク号と似た形状だ――翼はない、ヘリコプターのような動きかたをしている。しかし、あとの四隻は、われわれの見たこともないものだ」
クレーンにしても、デュケーンにしても、生まれてはじめてみる奇妙なものである。
「どうも、動物らしい」とようやくクレーンが判断をはっきり口にした。「どこの国のエンジニアだって、まさかあんな機械は設計しないだろう」
クレーンの判断が正しいことはすぐわかった。第一級の戦艦に太刀打ちできる動物――まさしく、ここに驚異の新動物が出現しているのである。
胴は巨大な魚雷のような形をしている。胴から数十本の触手、そして十枚ばかりの大きな翼が出ている。両側には数個の眼が並んでついている。船首のような巨大な、鋭い嘴《くちばし》がついている。胴体は透明ガラスを幾枚も重ねて並べたような鱗《うろこ》状の鎧《よろい》でおおわれている。翼も触手も、同じような透明ガラス状の皮膚におおわれているようである。
鱗状の鎧がきわめて有効な防御装置であることは明瞭であった。なんとなれば、これらの動物を攻撃している巨大戦艦は、船体からハリネズミの棘《とげ》のように突きだした無数の大砲を一刻の休みもなく乱射しているからである。発射される砲弾で、そのあたり一帯は火炎と硝煙に包まれている。すさまじい衝撃波が間断なく四辺の空気をつんざいている。
だが、これほどの集中砲火をものともせず、巨獣は悠々と宇宙戦艦に立ち向かって進んでくる。と見る間に、宇宙戦艦のどてっ腹へ巨大な嘴《くちばし》が突きささり、数ヤードもある穴があいた。翼がはばたいたかと思うと、頑丈をきわめた戦艦の上部構造がぺしゃんこに叩き潰《つぶ》された。動物の触手がタコの手のように揺らぎ、砲架から砲身をもぎとり、乗員を蠅か何かのように握りつぶしている。一隻の宇宙戦艦は、その乗員のことごとくを動物の触手に握りつぶされて、行動不能に陥ってしまったらしい。浮揚力を失い、一瞬、力なく横に傾き、どどーっと二万フィートの下界へ墜落していった。と同時に、一頭の巨獣は胴体を真っ二つに裂かれて、これまた真っ逆さまに下界へ。
死闘がつづくうちに、さらに宇宙戦艦が二隻、巨獣が二頭、傷ついて斃《たお》れた。
残った一隻はもう半ば破壊しつくされていた。しかるに巨獣のほうは無傷である。この最後の死闘はあっけなくおわった。
勝ちほこった巨獣は身をひるがえすと、何かを追いかけるようにはばたいて、猛スピードで飛んでいく。スカイラーク号の乗組員五人は息もつけず巨獣の方向を眼で追った。そして初めて気がついたのだが、小宇宙艇の一編隊が戦闘場面から命《いのち》からがら逃げていくのが見えた。宇宙艇も早いが、巨獣のほうがその三倍も早い。
みるみる距離は縮まっていく。
「とても見ていられない!」シートンは叫んで動力レバーをぐんぐん押しあげた。スカイラーク号は唸りをあげて速力を増した。
「あいつを引っぱりつけたら、第十号銃弾を雨あられと浴びせかけてやる。なあ、マート」
スカイラーク号が可視距離まで近づいたとき、ちょうど怪物は、編隊のなかでいちばん大型の、陽気な鮮色をほどこした航空機一機をとらえたところであった。シートンは怪物の巨大な嘴《くちばし》めがけて牽引ビームの焦点をあわせ、ビーム出力を全開にし、同時にエンジン推力方向を真正面アップに向け、五|刻み《ノッチ》を一気に押しすすめた。四つの動作を電光石火のいきおいで完了した。
怪物は宇宙艇から引きはなされた。そのとき、金属のひき裂かれるようなすさまじい音がした。シートンは怪物を約百マイル真っすぐ手前へ牽引《けんいん》した。怪獣は、不可視ビームの強大な握力にとらえられ、もがきながら抵抗した。必死のあがきであった。さしも数千トンのスカイラーク号も、鯨《くじら》に打ち込んだ銛《もり》にとりすがった捕鯨手のように、あるいはまた台風の波浪にもてあそばれた漕ぎボートのように、前後左右に木の葉と揺れた。
クレーンが発射した。轟音は、船内にいてさえ、またこれほど稀薄な上層大気中にありながら、船内にいる一同の聴覚を麻痺《まひ》させるほどものすごかった。
火球は沸《たぎ》りたち、猛然たる勢いで拡大していった。第十号X爆薬銃弾の威力は筆舌にのぼせ得ない。百聞は一見に及ばない。だがその一見ですら、理解を保証し得まい。それはまことに、とうてい信じ得ない威力というべきであった。
あらゆる破壊力を嘲《あざわら》ったかに見えた巨獣の鱗《うろこ》状外被は、粉々となって砕け散ってしまった。
シートンは動力バーを逆転させて速力をゆるめ、真正面ダウンへ操舵し、傷ついた鮮色の宇宙艇の約五千フィート上空で追いついた。よろめく宇宙艇にやんわりと牽引ビームを集中してやり、静かに地上へ安着させた。さっきまで、墜落しかかる隊長機のまわりを、半ば自殺的な救助行動に翔《と》びまわっていた編隊機も、これに続いて、その近くへ着陸した。
五人の地球人は、すぐスカイラークがおびただしい大群集に取り囲まれているのに気がついた。顔、顔、顔――男も女も、みんな地球人とそっくりであった。どれも洗練された、気高い姿態をした美しい人種であった。巨人国か? なぜなら男性はみなシートン、デュケーンのように大きい。女性は地球女性よりずっと背が高い。
男性たちは金属製のカラーを首にまいている。また夥《おびただ》しい金属製の装身具を身にまとっている。ぎっしりと宝石をちりばめたベルトと肩吊りには、たくさんの武器が吊りさげてある。女性たちは武器は帯びてはいないが、装身具は男よりもはるかに多い。それらには、まばゆいほど無数の宝石がキラキラと瞬《またた》いているのである。
この惑星人たちは衣服をまとわず、全裸である。皮膚は滑らかで毛はない。黄、青、緑をひとつに融かしたような、影をつくらない陽光のもとに、つややかな皮膚は黒ずんだ、何ともいえない不気味なひかりを放っている。しかし基調はたしかに緑色というべきものである。ただし、地球上では見られない一種独特の緑色である。彼らの瞳は黒であったが、白眼は淡い黄緑色である。女たちは房々した豊かな髪をもっている。男たちは短く刈った前髪である。どちらも漆黒《しっこく》である。彼らの瞳ほども黒いつやである。
「何という色だ!」シートンが舌を捲きながらつぶやいた。「人類だと思うな……ただあの色は別だが……それにしても、一体ぜんたい、何という不思議な色だ!」
「どれだけが本当の皮膚の色で、どれだけがこの光のせいか――問題だね」とクレーン。「外へ出て、昼光色のランプの当らないところでは、ぼくたちも同じような色に見えるのじゃないかな?」
「こわいわ!」ドロシーが叫んだ。「あんな色になるんだったら、あたしここから一歩も出られないわ、おお、こわい!」
「あの色になるんだよ」とシートン。「君の姿は、現代美術の夢幻色彩に変わるんだ。君の髪の毛も黒曜石のつやになる。さあおいで――惑星人をよろこばせてやりたまえ」
「じゃあ、あたしは何色になるの?」とマーガレット。
「さあ、君は黒髪だから――そうだ、きっと非常に黒くなって、とても美しい緑がかった色になるかな」シートンが嬉しそうに笑った。「これはちょっとした公式訪問となりそうなんだ。ちょっと待て、ぼくが二つ三つ小道具をひろってくるから……さあ行こうか? おいでよ、ドロシー」
「了解《ロジャー》。何でも一度は味わってみるのがあたしの主義……」
「マーガレットは?」
「もちよ。進め、地球の勇士らよ!」
シートンが気密室のとびらを開けた。そのまま、五人が気密室に立って下の群集を見おろした。
シートンは両手を頭上高くあげた。平和、ないし友愛の意図をしめすときは、宇宙のどこへいっても、これがジェスチュアだろうと彼はとっさに思いついたのである。これに応えるように、一人のヘラクレスのように逞しい男が手をあげて、何かの命令を下した。武装の飾りは驚くばかりで、無数の宝石が日の光をうけて眼を奪うばかりに輝いた。ヘラクレスのような男の命令一下、群集は退いて、約百ヤードばかりもスカイラーク号の前をあけた。男は武装帯も何もかもかなぐりすて、シートンのジェスチュアを真似《まね》たのか、両手を高く頭上にあげ、裸《はだか》のままスカイラーク号に向かって進みでた。
シートンが降りかけた。
「待て、ディック、ここから話しかけてやるんだ」クレーンが忠告した。
「いやだ!」シートンがつっぱねた。「やつのやれることはぼくもできる。男も女もいる前で裸になることは別としてもだ。ぼくがポケットに拳銃を忍ばせているとは、やつにもわかるまい。武器を使わなけりゃならん羽目になれば、半時間もしないで武器を使おう――それもやつにはわかるまい」
「よし、そんなら行け、デュケーンとぼくもいっしょにいく」
「それもお断りだ。やつは一人だ。だったら当然こっちも一人でなくちゃ。やつの部下が援護している――だから君たちも拳銃を抜いて、見せびらかすように構えていてくれ」
シートンはスカイラーク号の段を降り、逞しい惑星人のほうへ歩いていった。歩み寄る二人の距離が数フィートになると、男は歩みをとめ、直立不動の姿勢となり、左手を優美な弧をえがいて曲げ、のばした指先が左耳につくようにした。そして真っ白な歯並をみせながら、にっこりと晴れやかに笑った。何かしゃべった。だが、無意味な声音の混合で、さっぱりわからない。大男の咽喉から出るにしては、軽い、低い声であった。
シートンも明るい微笑を返し、相手を真似て敬礼をした。
「つつしんで挨拶をのべます、おん大将閣下!」シートンは恭々《うやうや》しく言った。荘重な声は濃度の高い空気のなかで、底深く鳴りひびいた。
「意図はわかりました、友好の態度をうれしく思います。この言葉を伝えられたらいいのだが……」
惑星人は胸をちょっと叩いてみせた。そして、
「ナルブーン」
とはっきりといった。爽やかな発声であった。
「ナルブーン」シートンが復唱した。そして、自分の胸を指し、相手と同じ調子と態度を真似て、「シートン」と叫んだ。
「シーティン」と、ナルブーンが繰り返し、にっこりと笑った。そして、また自分を指さし、「ドマック・ゴック・マルドナーレ」
わからぬ言葉はこの男の身分に違いなかった。
シートンも何か自分の身分を見つけなければならない。とっさに、得意満面に身体をひきしめ、「ボス・オヴ・ロード」(道のボス)と叫んだ。
こうして両者が公式の自己紹介をすますと、ナルブーンは傷ついた隊長機を指で示し、かすかにそのかたちのよい頭をかしげた。それは感謝の意味とも、危急を救ってくれた奉仕行為に対する諒知《りょうち》の意味ともとれた。それから一方の腕を高くあげて民衆のほうへ向き直った。何やら命令を与えたが、シートンにも、似かよった音節で、どうやら意味がわかった。
「シーティン・バズ・ウヴィ・ローグド」
たちまち群集の右腕があがった。その手に武器が握られている。同時に左腕は敬礼で耳のそばまであけられていた。そして異口同音に珍客の名前と公式身分の名称とをどっと叫んだ。谺《こだま》するような斉唱であった。
シートンはうしろを振り向いて、
「おいマート、四色の信号ロケットを一つ持ってきてくれ! これだけの歓迎をうけて、礼を返さなければならないんだ」
一行がぞろぞろと出てきた。
デュケーンが、大袈裟な身振りでロケットを捧げている。シートンはちょいと片いっぽうの肩をすくめた。そのほうの手にシガレットケースが載《の》っている。手品をみせたわけである。ナルブーンはきょとんとし、自制しきれずに、びっくりしてシートンの手の上のきらきらした品物をぬすみ見ている。シートンが何もしないのに、ケースの蓋《ふた》が開いた。シートンは自分で一本つまみ、右手で一本を指し、
「吸わないか?」
と愛想よくすすめた。ナルブーンは一本とりあげたが、吸うのだという観念はぜんぜんない。相手がちょっとした手品で肝を冷やしたことと、煙草というものを知らないとわかると、シートンは急に大胆になって、もうひとつやさしい芸当をしてみせた。
口に手をやり、燃えているマッチの軸をとりだしてみせた。ナルブーンは仰天して、一フィートも後|退《ずさ》った。ナルブーンと民衆が眼をまるくしてシートンの手もとを見つめているうちに、シートンはシガレットに火をつけ、二た息で半分以上を吸い、残りをまだ火がついているのに口のなかへ放りこみ、口をもぐもぐさせてからパッと煙を吹きだし、吸殻はそのまま嚥《の》みこんでしまった。
「ぼくは手品は巧いんだが――」とシートンはクレーンに低声《こごえ》で言った。「でも、あんなにびっくりさせるほど巧いわけじゃない。大向こうを唸らせたというのは初めての経験だ、フフフ。ロケットを発射したらどうなるか――この連中、撚《ひね》りビスケットみたいに気を失って倒れるだろうな。……さあ、みんな退《ど》いて下さいよ!」
シートンはナルブーンに向かって、日本人のように丁寧に頭をさげた。頭をさげながら、耳から火のついたマッチ棒を出し、ロケットの導火線に点火した。シュルシュル――ロケットは天空をさして飛び、シャワーのような火花を散らしたかと思うと一大轟音がひびき、同時に五色の火の玉が閃《ひらめ》いた。
ところが、驚いたのはシートンのほうである。ナルブーンも群集も一向に驚かない。当たり前のことを当たり前の方法で行なったという表情だけである。ただナルブーンだけがスカイラーク号一行の返礼を認識して、厳粛な姿勢でまた耳もとへ手をやる敬礼をした。
シートンは一同にこっちへ来いと合図し、クレーンに耳打ちした。
「いや、ぼくは出ないほうがいいよ、ディック。ボスは一人だと思わせておいたほうがよい」
「長い眼でみたらそうじゃない。敵はボスが一人だ……こっちにボスが二人いれば、二倍いいじゃないか」
シートンはそう言ってクレーンを紹介した。大変な仰々《ぎょうぎょう》しい儀式を工夫して、「スカイラーク号のボス」といって紹介した。先刻と同じ、群集一同の敬礼が繰り返された。
ナルブーンが何かを命令した。一分隊ほどの兵士が十四、五人の人間をつれてきた。見たところ捕虜らしい。男が七人、女が七人で、ふつうの惑星人と違って、皮膚の色はずっと薄い。男女とも真っ裸《ぱだか》である。ただ宝石いりのカラーを頭にまわしている。そして男のなかの一人だけが、分厚い金属製のベルトをしめている。彼らは一歩一歩、悠揚《ゆうよう》と進みでてきた。あきらかに捕獲者である惑星人を蔑視《べっし》しているらしい。
ナルブーンが頓狂な声で命令をくだした。捕虜十三人は、挑むような面構《つらがま》えで気をつけの姿勢をとり、ナルブーンの顔を喰いいるように睨んでいる。そのとき、金属ベルトを締めている男が、さっきからシートンの様子をじろじろと窺《うかが》っていたのだが、何やらわけのわからぬ声をはりあげた。十三人はいっせいに地面へ摺《ひ》れ伏した。ナルブーンが手を泳がせた。この一群をシートン、クレーンに贈呈するジェスチュアと受けとれた。シートンとクレーンは適切な感謝の意を表して十四人の捕虜の贈りものを受けとり、自分たち一同のうしろへ移した。
それからシートンとクレーンは、銅が欲しいということをナルブーンにわからせようとしたが、ナルブーンはどうしてもわからない。仕方がないからシートンは惑星人をスカイラーク号へ案内して、銅バーの残りを見せ、その本来の大きさを説明し、指をひとつひとつ示して数え、銅バーが十六個要ることをわからせようとした。ナルブーンはようやくわかったようである。外へ出て、頭上にみえている十一個の太陽のうち、いちばん大きな太陽を仰いで指し、太陽の昇り沈む弧を現わして四度、大きく腕を振った。それで十六という数を表現したものらしい。それから一同を自分の飛行場へつれていき、乗れといった。シートンはそれを断り、自分たちはスカイラーク号で後を追うからと説明した。
一行がスカイラーク号に乗ると、十四人の奴隷がぞろぞろと入ってきた。
「この人たちを乗せておくのは反対だわ、ディック」ドロシーが抗議した。「だって、あんまり大勢なんですもの、あたし、こわいというわけじゃないけど、でも……」
「乗せなければいけないんだよ、ドロシー。荷物を預けられたんだ。それに、ローマに来たらローマの花火にならなければいけない、わかっているね?」
新任務に就いたナルブーンの隊長機が編隊の先頭に立った。スカイラーク号が続き、数百ヤード後ろをそのすこし上からついていった。
「この惑星人のことはちっともわからん」とシートンが考えこむようにして言った。「彼らは二十一世紀の機械をもっている。だのに手品は見たことも聞いたこともないという。クラス九のロケットなどは陳腐《ちんぷ》だといいながら、マッチの軸をみてびっくりする。まったくおかしい」
「彼らの肉体と格好がぼくらと同じだというのがすでに驚きだね」とクレーン。「進化過程が細部にわたって同じと考えるのが間違いのもとだね、きっと」
航空機と宇宙船は大きな都会に近づきつつあった。
地球人たちは、未知の世界の首都を興味津々たる眼で観察していた。建物はすべて同じ高さに規整されており、屋根は平坦である。建物のかたちは、正方形、長方形、三角形さまざまであり、アトランダムに配列されている。道路はなく、建物と建物とのあいだは公園地帯になっている。
交通はすべて空中である。飛行機があらゆる方向に飛び交っている。しかし混乱は見た眼でそう思うだけで、飛行機の種類、航路などはすべて一定のレベルを使用するように秩序立てられている。
編隊は、首都郊外にある巨大なビルディングに向かって下降していった。隊長機以外の航空機は、そのビルディングの屋上に着陸した。隊長機はスカイラーク号を案内して、近くの着陸ドックに向かった。
「ぼくが何を飛びださせてもびっくりしちゃいけないよ」スカイラーク号から降りながらシートンが言った。「なにしろぼくは、こまごましたガラクタの倉庫みたいなもんだからね」
ナルブーンがエレベーターへ案内した。一行は地階へ降りた。各ゲートが真一文字に開かれた。おびただしい人びとの姿が見えた。みんな土下座して平伏していた。その間を縫って、ナルブーンに先導されたシートンの一行は宮殿広場へとむかった。偉大なる国民マルドナーレの皇帝の居城がその前方にそびえていた。空からみた巨大なビルディングは、この宮殿であった。
展開された景色はこの世のものとも思われない豪華|絢爛《けんらん》たる壮大さであった。この惑星特有のスペクトルに現われる、あらゆる光彩が個体物にも液状物にもガス体にもゆらめいていた。樹という樹は緑一色ではなく、あらゆるスペクトルの色彩のものがあった。樹そのものが万華鏡であり、神秘な光の芸術であった。広場の小径《しょうけい》をいろどる草や花もマゼンダ、ローズ、ベビーピンク、マルーン、テラカッタ、ゴールド、ウルトラマリーン、ラベンダーとありとあらゆるトーンに多彩入り乱れていた。広場には無数の池があり、噴水が虹のようにおどっていた。噴出する水流にも多種多様の色があり、その色がまた絶えずメリーゴーラウンドのように変化するのである。空気には和《なご》やかなピンクの色がついている。そして香水を撒《ま》きちらされたように、えもいわれぬ芳香に満ちている。空気は停滞せず、金属製の高いアーチの隅から、ゆるやかな渦をなして流れてきた。そよ風とも薫風《くんぷう》ともいえる香ぐわしい、頬をなでるような、練絹《ねりぎぬ》のような感触をもった、色のついた気流であった。宮殿広場一帯には、形容を超えた光と匂いの大交響楽が奏《かな》でられているようであった。
「これは何というゴージャスな美しさ――ねえ、ディック」ドロシーが恍惚と感懐をつぶやいた。「でもあたし、鏡が欲しい。あなたのそのお顔、何と煤《すす》けた、みっともない――まあ、あたしだって、ボロボロの案山子《かかし》みたいじゃないのかしら?」
「なに、案山子? ほんとだ。いままで水銀ランプに照らされていたのかい? いや、もっと悪い。きみの髪は黒くはないよ。ぼくが思っていたほど漆黒じゃない。おかしな緑色のトーンがついている。もっとも、真っ黒い君の唇とくらべたら、まだましだが。なあんだ――君の歯も緑じゃないか……」
「やめて! 緑の歯と黒い唇なんて! それだけでたくさん、鏡なんか見たくないわ!」
ナルブーンの案内で、一行はしずしずと歩いて壮麗な宮殿へと入っていった。いくつもの広い廊下をとおり、ダイニングホールへ導かれた。そこはすでに山海の珍味を盛ったテーブルが準備されていた。ダイニングルームにはいくつも窓があった。窓という窓は花輪で飾りたててある。キラキラとゆらぎ、火花が散るかとも思われる幾百万、幾千万の宝石がそれらの花輪をすきまもなく埋めている。それを見ただけで夢心地に誘いこまれる。壁には、いちめんにタペストリが掛けてある。布地はガラス繊維かナイロンに似たものであった。タペストリは壁の下で終らず、なだらかな、大波のような、きらめく五彩の起伏をつくって、フロアまで延びているのであった。見わたしたところ、木造部というものは一切ない。ドア、パネル、テーブル、チェア、すべてが金属である。タペストリも、近よって仔細に観察すると、金属繊維である。一インチに数千本の糸が数えられるほどの、微細な精巧品であった。タペストリはまるで生きもののように、ひそやかなリズムに揺れ動いているかのようだ。色彩が豊富で種類が多く、デザインが斬新《ざんしん》で洗練されているので、室内のちょっとした物の動きにつれて、タペストリは百色めがねがまわるように、息づいてみえるのかもしれなかった。
「まあ――何という完璧な美しさでしょう。ゴージャスというも愚《おろ》かだわ!」ドロシーが溜息をついた。「こんな布地でドレスをつくったら、あたし死んでもいいくらい……」
「ご註文、たしかにうけたまわりました」とシートン。「銅を手に入れたら、この布地を十ヤードばかり貰ってやる」
「食物はよく吟味したほうがいいぞ、シートン」ナルブーンが一同をテーブルへ案内したとき、デュケーンがささやいた。
「君はよく気がつくな、デュケーン。銅に砒素に何にかんにと。まあこんなでかいテーブル――食べられるのはちょっぴりだろうね」
「じゃあ、女の子たちとぼくは、君たち化学者二人に一皿一皿吟味してもらうのを待とう」とクレーンが示唆した。
地球からの賓客《ひんきゃく》がテーブルについた。皮膚の色の薄い奴隷たちがそのうしろに並んだ。召使いがつぎからつぎへと、大盛りの皿を運んできた。いろいろの種類の輪切肉や切肉があった。鳥、魚――ただし獣類はない。生のもの、火をとおしたもの、さまざまの料理法になるもの。グリーン、ピンク、ブラウン、パープル、ブラック、象牙色などの野菜や果実。奴隷たちはこの国独特の珍しい食器を配っていた。ナイフとみればナイフにあらず、剃刀《かみそり》の刃をつけた刃物であった。針のようにとがった短剣まがいの刃物。広幅のへらへらした薄コテ――この薄コテはフォークでもありスプーンでもあるらしかった。
「こんな道具じゃ食べられないわ」
ドロシーが泣き顔をした。
「だからぼくの樵人夫《きこりにんぷ》の修業がものをいうんだよ」とシートンが笑って、「君がフォークを使う四倍の速度でぼくは食べられる、この薄コテを使ってね。でも、助けてあげよう」
シートンはそう言って、ドロシーとマーガレットの髪の毛へ手を伸ばし、ひょいとフォークとスプーンを取り出した。惑星人たちはびっくりして眼を見張った。
デュケーンとシートンは、出された皿のほとんどを不承認にした。別に二人で相談もしなかった。やっと数種類は承認ずみになったが、それには慎重に舌で味わい、二人で議論しあってからであった。結局、食べてよいとされたものはごくわずかだった。
「これなら、たいして有毒じゃないだろう」選ばれたわずかの皿を指しながらデュケーンが言った。「ということは、一時にたくさん食べず、あとでまたすぐ食べないようにすればだよ。ぼくはこの皿はちょっと好かんな。どうだね、シートン?」
「うん、こりゃぼくも良くないと思うな。でも、あとは君の意見と必ずしも同じでないかもしれん」
こうして食物の選定が終り、食事がすすんだころ、ナルブーンが、テーブルの上の青い結晶のたくさん入ったボウルをとって、自分の食物にふんだんに結晶をふりかけ、ボウルをシートンにまわした。
「硫酸銅だな」シートンが、ひとり言のようにつぶやいた。「キッチンにおかずにテーブルに出してくれておいてよかった。でなきゃ、ここの食物は一と口も口にできんところだった」
シートンは硫酸銅のボウルを返すと、ひょいとうしろへ手をのばし、塩と胡椒のシェーカーの対《つい》になったのを取り出し、自分の皿へかけてから、主人《ホスト》へまわした。
ナルブーンはおっかなびっくりに胡椒を味わってみたが、よほど気に入ったらしく、にんまりと笑って、シェーカーの半分ほども自分の皿にふりかけた。それから塩のほうは、ちょっぴり掌《てのひら》へこぼしてみて舐《な》めていたが、次第に驚きの表情にかわって、何やら喚《わめ》いた。すると一人の将校がやにわに彼のそばへ飛んできて、皿を一枚差し出した。その皿へナルブーンは塩をふりかけた。将校はわずかな塩の粒を仔細に調べていた。それから、ナルブーンの手を丁寧に洗ってやった。ナルブーンはシートンのほうへ振り向いた。塩をみんな使ってしまったから、塩入れをもう一つ出してテーブルに置いてくれという意味らしい。
「いいとも、わが百年の親友――」
シートンはさっきと同じ奇妙な手順で塩入れを取り出し、クレーンに渡した。
食事は友好親愛の雰囲気《ムード》で進行したが、惑星人と地球人とのあいだでは、手まね足まねの会話しかできなかった。しかし、ふつうは厳しく無口な皇帝らしいナルブーンが、今日はことのほか陽気ではしゃいでいることは確かであった。
盛餐が終わり、ナルブーンが一行に慇懃《いんぎん》なる別れの挨拶をのべ、五人は王家の侍従と護衛一個中隊にまもられつつ、寝室へみちびかれた。寝室は五部屋つづきのスイート・ルームで、護衛兵が扉の外でいかめしく番兵に立った。
五人は一部屋にあつまり、部屋の割りふりを相談した。ドロシーとマーガレットは一つ部屋で寝たいといった。そして男性は両傍の部屋にすべきだと主張した。ドロシーとマーガレットが自分たちの部屋へしりぞこうとすると、四人の奴隷もこれについてきた。
「あたし、この人たち欲しくないわ。でも去《い》ってしまえと言うわけにもいかないし。なんとかしてくださらない、ディック?」
「何ともならんね。ここにいるかぎり、ぼくたちは逃げるわけにはいかんのだよ。そうだろう、マート?」
「そうだ。この文明を観察してみると、もしぼくたちが奴隷を追っぱらえば、結局あの奴隷たちは処刑されてしまうんじゃないかと思う」
「へえ、どうしてそんなことが……? いや、そうかもしれん。いっしょに置いてやるよりしようがないんだ、ドット」
「それなら仕方がないわ。あなたたちは男の奴隷にしなさい。あたしたちは女を貰うわ」
「えーと」シートンはクレーンにささやいた。「彼女たち、ぼくらがこの素晴らしい女奴隷と一つ部屋で寝るのはゆるさんようだ。なぜだろう?」
シートンは仕方なく、女奴隷をのこらずドロシーとマーガレットの部屋へ追いやった。だが、女奴隷たちは行こうとしない。一人の女が、ベルトをまわした男のところへ走っていった。まことにあだっぽい手つきで、くねくねと男の首へ腕をまきつけ、何やら早口で喋っている。夫婦奴隷だろうか? 男は首を振って、大丈夫だと諭《さと》すような手つきで、シートンのほうを数度指した。それから優しく女の手をひいて、ドロシーとマーガレットの部屋へ連れていった。他の三人の女奴隷がおとなしくついていった。
デュケーンとクレーンはそれぞれの部屋へ、一人ずつ男奴隷を伴っていった。それを見送ってシートンが自分の部屋へ入ると、数人の奴隷も恭々《うやうや》しく入ってきた。彼が衣服を脱ごうとすると、ベルトをつけた男がすぐ駆け寄って、手つだった。
裸になると、シートンは両足をひらき、手を拡げて体操をした。体を柔軟にあちこちへねじまげると、太い腕や逞《たくま》しい肩の筋肉がぴくぴくと波打った。筋肉の硬くなったところをほぐす体操なのである。数人の男奴隷は、美事な筋肉組織を前にして、眼を皿のようにして見入っている。そしてシートンの脱ぎすてた衣服を拾いあげながら、互いに早口でペラペラと喋っていた。ベルトをつけた男が塩入れ、銀製フォーク、その他こまごましたものを床から拾いあげた。衣服から床におちたのである。そしてシートンにこれをいじらせて下さいと頼むような手つきをした。シートンはうなずき、ベッドに横たわった。
しばらくすると、廊下のほうで、武器などのガチャつく音がする。窓から覗いてみると、廊下にも数人の護衛兵が立哨していた。いったいぼくたちは、名誉ある賓客なのか、それとも体《てい》のよい虜囚《とりこ》なのか――シートンはすこしわからなくなってきた。
シートンの部屋にいた男奴隷は、ベルトをしめた男――奴隷頭らしい――に命令されると、たちまち床に体を倒して、そのまま棒切れのように眠ってしまった。しかし奴隷頭は寝ようとしない。つくづく見ると、シートンほどの年齢の、聡明な眼差しをした立派な若者である。また、裸の奴隷頭がつけている、一見して一枚の金属ベルトらしいものも、実際はベルトではない。男はそこから、いろいろな小さい工具や小型の計器類をとりだした。細い絶縁導線を幾巻きもそこへ並べた。こうして奴隷頭は、シートンの与えたさまざまな小物を一生懸命にいじくり始めた。塩入れなどは、ほんの一粒の結晶までこぼすまいと神経をつかっている。器用な手つきで、細かい作業をやっている。
時間はしだいにたっていくが、コマネズミのように動く手はいっこうに休もうとはしない。そのうちに、シートンが見たことも聞いたこともない、まことに奇妙な、複雑な装置が奴隷頭の指先で作りあげられていった。
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一七
シートンはよく眠れなかった。眠れる道理がない。夜にならないからである。また一つには暑すぎたからである。八時間たち、シートンはむしろ、やれやれと思って起床した。
髭剃りをはじめようとすると、男奴隷の一人が彼の腕に手をかけ、理髪店式の椅子を指さしてあそこへ掛けなさいと手真似で言い、鋭利な、すこし彎曲《わんきょく》した剃刀をみせた。シートンが椅子に長くなると、奴隷は驚くほどの早さで剃ってくれた。香水のついた油を頬にすりこんだだけで、蒸《む》しタオルも何も使わず、いきなり剃っていった。刃の切れ味はすごい。剃りあとは、かつて経験したこともないほどツルツルだった。シートンが終ると、こんどは奴隷頭の顔を当った。
「ちょっと待ちなさい、石鹸があるからこれをつかってみたら?」とシートンは自分のブラシで、奴隷頭の顔に石鹸泡をたててやった。奴隷頭はびっくりもし、喜びもした。硬い髯《ひげ》が、ひっかからずにスムーズに剃れたからである。
シートンはスカイラーク号の四人を呼んだ。ほどなく彼の部屋へみんな集った。睡眠期間中も華氏百度を越す暑さだったので、みんな裸同然の薄着だった。
ゴングが鳴り、奴隷の一人がドアを開けた。数人の召使いが、食事を満載したテーブルを運んできた。五人の地球人はほとんど食欲がなかった。起きたばかりだから当然である。後一時間ほどして、スカイラーク号で食べることにした。豪華な客の食事はそのまま奴隷たちの食事となり、奴隷たちには思わぬ御馳走であった。
奴隷たちが食事をしている間、ドロシーが女奴隷の一人と話をしていた。昨日奴隷頭の首に腕をまきつけた女である。たどたどしいやりとりではあるが、会話ができるとは驚くべきことである。シートンはびっくりした。
「君が語学の天才だとは知っていたが、一日でマスターするとは思わなかった」
「あら、そんなんじゃないわよ。五つか六つ単語を覚えただけなのよ。この人たちの言おうとしていること、ほとんどわからないのよ」
その女奴隷が何やら早口にベルトをつけた奴隷頭に話しかけた。奴隷頭が、ドロシーに話しかけてよいかとシートンの許しをもとめた。許しを得ると、奴隷頭はドロシーのところへ走っていき、丁寧に頭を下げ、いきなりぺらぺらとまくしたてた。あまり早口なので、ドロシーが手をあげて黙らせた。
「もっとゆっくりやって下さい」とドロシーが言った。そして惑星人の単語を二つか三つつけくわえた。
まもなく奴隷頭・女奴隷の組とドロシーとのあいだに、奇妙な会話がはじまった。奴隷頭と女奴隷との間だけで喋ることが多かった。また二人で一時にドロシーに話しかけたりした。もっぱら、手真似と、紙に略図を描いて意味が通じた。ようやくドロシーが、顔をしかめてシートンに振り向いた。
「この男はあたしに言っていること、半分もわからないの。わかる半分だって、あらかたはあたしの想像よ。何でも、男はあんたに、どこかへ連れていってもらいたい、と言っているらしいのよ。この宮殿のどこかの部屋らしいわ。そこで何かを手に入れたいんですって。いったい、どんな品物か、さっぱりわからない。自分のものを取ってくるというのか、かれらがこの男から捲きあげたものを取り返そうというのか、それともかれらのものを盗んでくるというのか、そのへんがどうしてもわからないわ。でも、一人では行けないというのよ。マーチンの推測が正しかったわ。あたしたちと一緒でなく、勝手に動きまわったりすると射ち殺されるらしいのよ。それで、こう言っているの――ここんところはかなりはっきりわかるの――あなたが彼を連れてそこへ、というのは部屋らしいわね、行ったら、護衛兵を決してその中へ入れないでくれって」
「へーえ? 君はどう思う、マート? ぼくはこの男についていってみたい気持なんだが、途中まででも。どうもナルブーンの≪儀礼衛兵≫というのが気にくわん。すこし臭《くさ》い気がするんだ、腐った魚みたいに」
クレーンが賛成した。シートンと奴隷頭がドアのほうへ急いだ。ドロシーがついてきた。
「君はここにいたほうがいい、ドッチー。すぐ帰るから」
「いいえ、あたしも行くわ」シートンに耳打ちした。「こんな奇妙な惑星に来ていて、あたし、一分間でもあなたから離れていたくないの」
「オーケー、エース。君が一緒にいてくれるというのにぼくが文句をいう筋はないんだ」
ベルトを締めた奴隷頭が先頭に立ち、六人の男奴隷がそれに続き、いちばん後からシートンとドロシーが行った。ホールへ出た。誰も咎《とが》めなかった。しかし武装衛兵一個中隊の半数ばかりが護衛についてきた。シートンに対しては、恭々《うやうや》しく、畏《おそ》れすら懐《いだ》いているらしかった。
長い行列は、そこからずいぶん離れた、宮殿の一翼にある部屋に着いた。ドアが開かれた。シートンが覗いてみると、そこは講堂ないし法廷ふうの大ホールで、いまは誰もいなかった。
衛兵がドアに近づいてきた。シートンは帰れと手で合図した。半個中隊はぞろぞろと長い廊下を帰りかけたが、中隊長は戻ろうとしない。シートンはかっとなった。そして威丈高《いたけだか》に激怒の形相すさまじく中隊長を睨み返した。中隊長はシートンを無視して、大ホールに踏みこむ意図をしめし、大股にドアに歩みよった。シートンは右手の掌《てのひら》で中隊長の胸を押した。地球でも腕力の強いほうの彼の力が、この小惑星でどれほどの強大さになるのか、彼はとっさに忘れていた。ちょっと乱暴に押した程度なのに、中隊長の体はくるくると回転して廊下を転がり、帰りかけた衛兵を三人ばかりも将棋倒しにした。
中隊長は姿勢をとりなおすと、剣を抜いて突進してきた。衛兵たちはびっくり仰天して長い廊下の端まで遁走《とんそう》していった。
広刃のダンビラが唸《うな》りをあげて落ちてきた。シートンはさっと身をかわした。電光石火のすばやさであった。薬罐《やかん》ほどもある右の拳固《げんこ》が、男の咽喉へガッとあたった。腕、肩、そして胸と腰の全運動がこの一撃に集中されていたからたまらない。骨の砕《くだ》ける音がし、中隊長の頭は、頚骨《けいこつ》が折れてうしろにのけぞった。体全体が飛びあがり、空中で二度きりきり舞いをし、廊下の壁に激突し、フロアへ落下した。
数人の衛兵が隊長の危急をみて発砲した。奇妙な拳銃であった。ドロシーが金切り声をあげ、「危ない!」と叫んだ。
シートンは稲妻のような敏捷さで第一号X爆薬銃弾使用の銃を抜き、発射した。すさまじい火球が飛び、いっしゅんにして、群がっていた兵隊の体は木っ端みじんとなり、長い廊下のある宮殿の一角に大穴があき、ものすごい地鳴りとともに建物が崩れた。
その間に――
奴隷頭は大ホールのなかのキャビネットから数個の部品を取りだし、ベルトに挿しこんでいた。奪《と》りそこねたものがないかと確かめるや、彼は踵《きびす》を返して逃げ帰った。廊下でちょっと止り、死んだ中隊長の頭部に何か小さな工具を取りつけただけで、あとは眼もくれず元の部屋へ走って戻ってきた。
奴隷頭は部屋へもどると、大急ぎで組立てをはじめた。昨夜寝もやらずにつくりあげた装置に、いま大ホールから盗んできたいくつもの部品を接続したのである。配線はきわめて複雑であった。
「何が出来上るのかしらんが、ずいぶん精巧なものだな。こりゃ驚いたわい」とデュケーンが感嘆の声をあげた。「ぼくも複雑な装置をつくりあげるが、この男の器用さにくらべたら赤ん坊みたいなもんだ。ある部品がどこのところで接続してどこへ行き、そこで何の働きをするのか――ぼくらには一週間やそこらでは見当もつかんかもしれないぞ。いや、すごいもんだ!」
組立てと接続を終ると、男は背すじを伸ばし、自分の頭へ数個の電極を取りつけ、シートンその他へ手真似をし、ドロシーに話しかけた。
「この変なものを、あたしたちの頭につけて欲しいんですって」と彼女が通訳した。「でも何のためか、さっぱりわからない。言うとおりにしましょうか?」
「してみよう」シートンが即決した。「いまにも地獄の蓋《ふた》があくかもしれん。ピッチの熱さなんていうもんじゃないぜ! ぼくたち絶体絶命なんだ。しかしぼくは悪いことではないような気がする。でも、もちろん君たちにどうしろという権利はぼくにはない。ドット、君はお利巧だから……」
「あたしお利巧なんかきらい! どんなことだって、あんたのする通りにする」――度胸をきめた静かな口調で言って、乱れた鳶《とび》色の髪をした頭をかしげ、奴隷頭のほうへつき出した。
「金属片をあたまに充てるというのは好かんなア」とクレーンが唸《うな》った。「ぜんぜん気に入らん――しかし今の場合、仕方がないだろう」
マーガレットはクレーンに従って金属片をつけられる拷問《ごうもん》に耐える覚悟をきめた。しかしデュケーンはそうではない。冷笑を浮かべて、
「君たちは好きなようにやれ、やつに生きた屍《しかばね》にでもしてもらうがいい。ぼくは絶対いやだ――理解できない機械に導線なんかで繋《つな》がれてたまるか」
奴隷頭がスイッチを入れた。
その瞬間、四人の訪問者は、いま彼らがいるこの国家マルドナーレと、奴隷たちの国家コンダール――オスノームのたった二つの文明国家――の両方の国の風俗習慣と言語とを詳細に知ったのである。
四人がまだ、驚くべき学習方法が与えた昂奮から醒《さ》めやらぬうち、ダナーク(ダナークというのがこの奴隷頭の名前だということも四人にわかった。本当はコンダール王国のコフェディックス、つまり皇太子なのである)が電極を四人の頭部から解きはじめた。まずドロシーとマーガレットのヘッドギアをはずし、それからクレーンのギアをはずした。いよいよシートンの電極をはずそうとして手をのばしたとき、閃光が飛び、パチッという音がした。装置から煙がでている。同時に、ダナークとシートンは感電して、気を失って倒れた。
クレーンが助けに行ったが、失神はごく短時間で、二人はもう起きていた。
「これは教育機械なのです」とダナークが言った。「まったく新しい発明品です。私たちは数年間この機械の研究をつづけたのですが、まだまだ幼稚なものです。こんな機械を皆さんに使いたくはなかったのですが、やむを得ませんでした。どうしてもナルブーンの策謀をおしらせしたかったからです。皆さんの生命を救えば、同時に私たちの生命も救われる――それを皆さんに信じこませたかったからです。しかし思うように機械が働いてくれません。大急ぎで組み立てたから、悪い個所があったのでしょう。しかし、私たちの国の言葉を皆さんに教えるのをやめるのは残念ですから、思いきって、私とディックとを完全に短絡《たんらく》させたのです」
「短絡? その短絡は一体どういう目的なのですか?」とクレーンが訊ねた。
「ぼくが答えるよ、ダナーク」とシートンがあとをとった。
シートンはコンダール人ほど回復がはやくなかったが、それでももう正常に戻っていた。
「短絡とは、つまり、脳のひだに印刷することなんだ。お互いのこれまで習い覚えた一切の知識を、そっくりそのまま、二人の人間それぞれの脳のなかへ印刷するのだ。知識の相互転移が完全であったので、約一分間ダナークとぼくは意識喪失におちいったのだ」
「ほんとにお気の毒でした、シートン……」
「何が気の毒なもんか。だって、君もぼくも一生かかって自分の知識を蓄積した。その知識が、いま瞬間的に倍になった。君もぼくもそれだけ進歩したわけだ。詫びる理由はない」
「そんなふうに思ってくだされば、ほんとうに嬉しいです。しかし、いま時間が切迫していますから……」
「いや、ぼくがみんなに言おう。君はまだどっちの英語を使うかよく知っとらんようだ。話しコトバと書きコトバの区別ができないだろう。また、君にしろぼくたちにしろ、他国の言葉じゃそう早く思考できまい。とにかくぼくがかいつまんで話す……
この人はコンダール王国の皇太子ダナークだ。他の十三人は彼の身内で、王子や王女たちなのだ。ナルブーンの奇襲隊はダナークたちが狩りに出ているときに、彼らを捕虜にした。この辺では新技術に属す、ある神経麻痺ガスを使ったのだ。だから、ダナークたちは自決するいとまがなかった。
コンダール王国とマルドナーレ帝国は六千年以上戦争を続けている。手段と方法をえらばぬ殺しあいなんだ。捕虜になどしない、ただ殺すだけだ。憐れみもへったくれもありはしない。こんどもそれだった。必要な情報は奪ってしまったので、ナルブーンはビッグ・パーティー、といっても実際はローマ帝国の闘技場みたいな催しだが、それを行なって、皇太子たちを自分の飼っている何かタコみたいな海生動物に食わせようとしたんだな。そこへあの装甲鱗《そうこうりん》をつけた巨獣――皇太子たちの国の人びとはカルロンと呼んでいる巨獣だが、そのカルロンが、皇太子たち十四人を闘技場へ輸送中に、皇太子たちの体臭を嗅ぎつけて、空中から遅いかかってきたわけだ。ヘリコプターのような動き方をしていた四隻の宇宙戦艦は、皇帝機をすくおうとして、カルロン攻撃に飛び立ったのだが、逆にやられてしまった……」
一同が唖然《あぜん》として聞きいっている。
「それから以後のことは、ぼくたちの見たとおりだ。ダナークたち十四人はナルブーンの皇帝機に乗っていたのだ――ほら、ぼくたちが地上へ誘導してやった隊長機のことだよ。危ないところを助けてもらったのだから、ナルブーンはわれわれに感謝していると君たちは思うだろうが、どっこい……」
「わたしに結論を言わせて下さい」とダナークがさえぎった。「自分で自分の評定をくだすことはむつかしいでしょう。皆さんは彼の生命を救ったのですから、本当はこれほど大切な名誉の貴賓はないはずです。これは宇宙のどこへ行っても当然の道徳です。ところがマルドナーレ人には、名誉を守る心も良心もありません。それどころか、まず第一に、彼らは皆さんを恐れてます。私どもを恐れる以上に恐れています。私どもは、皆さんが第十五太陽系からおいでになったものと推測しますが、第十五太陽系といえば、ここからいちばん近い太陽系です。マルドナーレ人はまず皆さんの国の国力を見きわめた後、征服と皆殺しに乗りだすのではないかと、私たちは予想しておりました。
ところが、スカイラーク号を見てからナルブーンの心は変わったのです。皆さんが動力燃料が欠乏していることを知り、また皆さんが血に渇えた凶悪型人類ではなくて、温順《おとな》しくて弱い――彼はひどい間違いを犯しましたが、事実そう思っているのです。それでナルブーンは皆さんを殺し、皆さんのスカイラーク号を奪い、その驚異の推力の秘密を盗もうと決心したのです。だいたい、私たちオスノーム惑星人は機械学と電気学に秀《ひい》でていますが、化学は知りません。原子エネルギーなどというものがあると、これっぽっちも考えたオスノーム惑星人はこれまでだって一人もなかったでしょう。しかしナルブーンは、スカイラーク号のエンジンを研究して、原子エネルギーの解放と制御の方法を知ったのです。スカイラーク号を手に入れれば、ナルブーンはコンダール国民を一掃《いっそう》できます。この目的のためには、彼は手段をえらんでなどおりません。
それからあの驚異の薬物――皆さんが塩と呼んでいるあの薬物の容器です。ナルブーンにしろ、他の誰にしろ、オスノーム惑星の科学者は、もちろん私もそうですが――あの塩の容れ物を手に入れるためにはどんなこともいたします。造物主そのものの尊厳と絶対にすら戦いを挑《いど》むでしょう。なぜなら塩は、私たちの世界ではきわめて稀有《けう》な、貴重物質だからです。皆さんがあの食卓に出された塩だけでも、全オスノーム埋蔵量よりも多いでしょう。ケタはずれに高価というのは希少価値のせいもありますが、塩が私どもの惑星の最も硬い金属の、唯一の精錬|触媒《しょくばい》だからです。
さあ、これでナルブーンの不逞《ふてい》の意図がおわかりになったでしょう。皆さんが何をおやりになっても、また何をやらなくても、彼の意志を変えることはできません。彼の計画というのはこうです。
次の睡眠期間――と言うのは、皆さんのように≪夜≫という単語を私たちは使いません。オスノームには夜はないからです。次の睡眠期間に彼はスカイラーク号に乱入し、持っていらっしゃる塩を全部奪います。一時中断された大闘技会は続けることにし、皆さん地球人を主賓にして見物させます。私たちコンダール人は、カルロンの餌食《えじき》として投げ与えられます。それから彼は皆さん五人を殺させ、屍体を溶解して塩分を回収する――そういう計画なのです。
以上が皆さんにお伝えしようとした警告です。それが寸刻を争う一大事なので、私は、まだ未完成の教育機械をつかって、わが国の言語を学んでいただいたのです。私はなお、防衛手段として次のことをつけ加えなければなりません。あなたたち五人の地球人の生命はきわめて貴重です。これに対して、私どもコンダール人十四人の生命など物の数ではありません。私たちは紙や鉛筆と同じ消耗品にすぎません。しかし、スカイラーク号は消耗品じゃありません。ナルブーンがスカイラーク号を奪えば、コンダール人はみんな一年以内に殺されてしまいます。コンダールの皇太子である私が、マルドナーレのナルブーンの前にひれ伏し、また皆さんもあのときお聞きになったでしょうが、他の兄弟たちにもひれ伏すように命令したのはこのためです。すこしでも生きのびて時間を稼ぎ、皆さんにこのことをお伝えしてから従容《しょうよう》として死期に赴きたいと思ったからです。これ以上に、どうして、私が奴らの前に叩頭《こうとう》する理由があり得ましょう」
そう言ってコンダールのダナークはその端麗な顔に、つきつめた決意の表情をみなぎらせた。
地球人たちは心の底から揺り動かされるような感動のうちに聞き入っていた。
長い沈黙ののち、ようやくクレーンが口を開いた。
「他国の王子である君が、どうしていまみたいな内密の情報を知ったのですか?」
「一部は誰も知っている話です。またナルブーンの飛行機に乗っていたときに、いろいろなことを聞きました。またナルブーンの計画は、ディックが殺した護衛兵指揮の将校の脳から読みとったのです。将校はナルブーンの寵臣《ちょうしん》で、なんでも打ち明けられていたのです。スカイラーク号に侵入し、あなたたち五人を殺して屍体を溶かす作戦は、この護衛隊長が指揮することになっていたのです」
「それで全貌が明らかになった」とシートンが言った。「ありがとう、ダナーク。問題は、これからどうするかということだね」
「私の意見はこうです。私たちをすぐスカイラーク号に乗せ、ここから脱出して下さい。できるだけ早くです。私は皆さんをコンダレックへ案内します。私たちの首都です。首都へ着いたら、われわれは皆さんをほんとうに国をあげて歓迎いたします。私の父はあなたを、隣国皇太子の公式訪問としてあつかうでしょう。私としては、もし無事にコンダールへ連れもどしていただけたら、いや、たとえ私たちは死んでも、スカイラーク号だけでもコンダールへ着けていただけたら、私たちは何でもいたします。たとえどんなに努力しても、何をやっても、わが国民の受けた大恩をお返しすることはできないでしょう。せめて鴻恩《こうおん》の万分の一でもお返しするために、お入り用の銅をぜんぶ差し上げます。全コンダールの力の及ぶかぎり、どんなご希望に対しても喜んで協力いたします」
シートンは考えこんだ。眉に縦じわができている。
「結局ぼくらも、生き残るためには、君たちと協力するのがいちばんだな」ようやく彼は断を下した。「しかし、もしわれわれが君たちに原子力を与えたら――君をお国へ届けたらそうしようと思っているのだが、コンダールはマルドナーレを撃滅するだろうね、もしできれば?」
「もちろんです」
「それが困るんだ。だから、道徳的な見地に立てば、君たちをこのままにして、ぼくら五人はスカイラーク号でぼくらの道を行けばいい――それが当然だろう。君は君で自分の道を行く……」
「どうなさろうと、あなたたちの当然の権利です」
「しかし、ぼくとしては、それはできないんだ。そんなことをしたら、ドッチーがぼくの生皮をひっぺがして、塩をすり込む――今日から毎日責めたてるに相違ないんだ。そしてナルブーンとその側近は宇宙の芥《あくた》になる。……ぼくは多分、君の心全体とぼくの心を一体にしてしまったから、幾分の偏見ができたかもしれない。しかし、よしんばぼくがナルブーンの心と一体となったとしても、やっぱり同じ結論しか出さんだろうと思う。結局、為《な》すべきことを為す――これ以外にわれわれの道はない」
決意を固めたシートンの表情はよほど明るくなった。
「よし、君のいうとおり、すぐ脱出しよう。いつ脱出する? 第二食事後はどうだろう?」
「散歩時間ですね、いいでしょう。もう私の知識を使っておられますね? 私もあなたの知識を使っていますが」
「マート、デュケーン――ぼくたちは次の食事後脱出しよう。宮殿内のものがみんなお喋りしながら散歩している時間にだ。護衛兵たちが緊張をゆるめているのもその時間だ。ぼくたちは防弾服もつけていないし、早急には入手の道もないから、逃げるとすれば、その時間以外にはない」
「でも君がナルブーンの護衛兵を殺傷し、宮殿の一角を爆破したことはどうなるんだ?」とデュケーンが横から訊いた。
「ナルブーンは黙って指をくわえている男じゃあるまい。すでに大急ぎで対策を完了したかもしれんじゃないか?」
「それはよくわからん。ぼくもダナークも。しかし出方はもっぱら、怒りか恐怖か、どっちの感情が強いかによる。それももうすぐわかってくる。彼はこれから、ぼくたちを公式に訪問してくる。どんな態度をとるか、どんな話し方をするか、それに気をつけていれば察しがつく。相当の外交的手腕もあり、本当の感情を隠すかもしれない――しかし忘れちゃいけないよ。彼の根本的なメンタリティは、≪温順は恐怖を物語る≫という思想なんだから。彼が姿を現わしたら、ぼくはすぐ乱暴な口をきいて彼を挑発してみる――そのとき、びっくりしてぼくを止めたりしてはいけないよ。もし彼がすこしでも生意気な態度を示したら、それはぼくらに対して恐怖はなく、怒りだということだ。そうしたらぼくはその場で射殺する」
「まあいいだろう」とクレーン。「しかし、すこしでも待つ時間があるのなら、すこし緊張をほぐそう。部屋の真ん中につっ立っていないで、椅子にでもかけてくつろごうよ。ところで、ぼくからすこし質問があるんだけど」
五人の地球人はソファに腰をおちつけた。
ダナークは組み立てた教育機械を分解しはじめた。他のコンダール人たちは、彼らの≪マスター≫である地球人のうしろに、うやうやしく立って控えている。シートンが見かねて、
「さあさあ、そんなにしていないで坐りなさいよ、みなさんも。ぼくたちだけのときは、奴隷の真似ごとなんかしないでいいんですよ――茶番劇だ、まったく」
「多分それでいいんでしょうが……」とダナークが言った。「しかし、もし誰かが入ってくるような気配でも見えたら、私たちはすぐ侍立《じりつ》の姿勢に戻っていなければなりません。まだすこし時間がありますから、もっと理解を深めていただくために、私たちを皆さんに紹介させて下さい」
「いいでしょう、さあどうぞ」
「きみたち、カルフェディックス・シートンとカルフェディックス・クレーンにご挨拶しなさい。とても遠い地球という珍しい惑星からおいでになった方たちだ」
ダナークがそう言うと王子、王妃がいっせいに丁重な、正式の敬礼をおこなった。「それから気高い貴婦人の方、ミス・ヴェーンマンとミス・スペンサー――ほどなくカルフェディール・シートンとカルフェディール・クレーンにおなりになる……」
一同はもう一度敬礼をした。
「地球の皆様、ご紹介いたします。こちらはコフェディール(皇太子妃)・シタール、私の妻の一人で、今度の狩猟旅行に私と一緒だったため、この不運に会いました」
二人いる女のうちの一人が、一歩前へ進みでて、四人にうやうやしく叩頭《おじぎ》した。四人が同じ流儀で礼を返した。
デュケーンは捕虜であって、すこし離れて立っていたが、ダナークはそんなことにはおかまいなく、五人の地球人に他のコンダール人を紹介した。彼の弟と妹たち、妾腹の弟と妹たち、それから従弟妹《いとこ》たち――コンダール現王朝のほぼ全員であった。
「それで、シートン博士――あなたに内々ちょっとお話をしてから、他の方々にもできるだけの情報をお知らせしたいと思いますが……」
「ぼくも君にちょっと注意したいと思っていたんだ、ジュニア。しかし、紹介の儀式を途中でとめては失礼だから、後で話せばよいと思って黙っていた」
「何のことでしょうか?」
「ぼくはカルフェディックスじゃないよ、絶対に。カルフェディックスという言葉は君、翻訳すれば≪皇帝≫ということじゃないか。ぼくは一介の市民にすぎない。あんまりひどいと思ったから……」
「それは知っています……といいますのは、あなたの持っていらっしゃる知識の内容から、おおよその判断ができたからです。しかし、どう考えても一介の市民というのが私には理解ができませんし、私の経験のなかの何とも関係づけようもありません。第一、あなたのお国の政府というのが、私にはまるで理解できません。その政府が、どんなふうに治めるのか? たとえあなたのお国の一年間でさえ、瓦解《がかい》しないで治めることができるというのは、どういうことなんでしょう? オスノーム惑星では、あなたほどの教養と実力のある方はみんなカルフェド(カルフェディックスの複数)です。マーチンもそうです。あなたは、ご自分が望むと望まないとにかかわらず、哲学博士……つまり≪知識のカルフェディックス≫なんです……」
「よしてくれよ、ダナーク――そんなこと忘れてしまえ! それより、ぼくだけに話したいというのは何のこと?」
「ドロシーとマーガレットのことです。あなたはもうご自分の心の隅で、わたしの心から得た知識で、私の物の見かたはおおよそおわかりでしょう。でも、私があなたたちのことを理解している程度には、とても私たちの気持はご理解がいかないでしょう。あなたのところのご婦人は、私どもの女とは非常に違います。びっくりするほど美人なのです。ですからナルブーンは、ドロシーもマーガレットも殺さないでしょう――しばらくは生かしておくでしょう。ですから、万一最悪中の最悪の事態となったら、忘れずにあなたの手でご両人を昇天させておあげになるように」
「うーむ……やっといまわかった」シートンの声は冷たい。その眼は険しい。「忠告をありがとう。覚えとくよ、そしてナルブーンにそれだけのお礼はきっとしよう」
皆のそばへ戻ると、ドロシーとシタールが打ちとけて親しそうに話しあっていた。
「じゃあ、男のひとたちは一ダースからの妻をもっているんですの? 一体どうやって暮らしていくんでしょう?」
「どうやってって――うまく操《あやつ》っていきますわ、もちろんです」
「まあ! もしディックがそんな妙な考えにとり憑《つ》かれたら、あたし山猫よりも激しく闘うわ」
「あたしは違いますわ。それが男の偉いところですもの。たった一人の女性しかその男をキャッチしたがらないような、そんな……そんな甲斐性のない男なんて――あたし絶対にそんな男と結婚しようとは思いませんわ」
「まあ!」
「おい君、いま君とペッギーのためにいい情報を貰ってきたんだ」とシートンが二人の女性のなかへ入っていった。「このダナークが、君たち二人はとっても美人だってさ。≪びっくりするくらい美人だ≫――そう言っていたよ」
「なんですって、こんな光線のなかで? グリーン、ブラック、イエロー、泥のカラーで? バカにしてるわ。あたし絶対いやよ。あたしたち、恐ろしいほど醜《みにく》いんだわ! もしそれがあんたのジョークだったら……」
「あら、そうじゃないのよ、ドーシー」とシタールがさえぎった。「あなたたちお二人は本当にお美しいわ――とっても可愛いわ。それにあなたは、こんなにゆたかな、しっとりとよく融けあったカラーの流れというか、線をもっていらっしゃるんですもの。それを衣類でかくすなんて、あたしにはとても考えられないわ」
「そうです。シタールのいうとおりです。どうして線を隠したりなさるんです――」ダナールが言った。
ドロシーとマーガレットが顔を真っ赤にし、ダナールは絶句した。どう解釈したらいいかわからないので、ディックの心のなかを探っているような眼つきである。
「いや、一種の保護感覚として肌を蔽《おお》うということはわかりますよ。あるいはまた、蔽うということが礼儀になっている世界ならそれも意味があるでしょう。しかし、それがまったく要らない世界で、こんなに暑いところで、いや本当にみなさん、いま、お暑いのでしょう……」また絶句した。表現と言葉で詰ったのである。「助けて下さいよ、ディック。わたし、ますます深く泥のなかへはまり込むみたいで。何かお気に召さないことを申しましたでしょうか?」
「いやなんにも。君のせいじゃないんだ。ただ、ぼくたち地球人は数十世紀、衣類を着てきたのでね。脱ぐことは……。おいマート、どう説明したらいい、ここの人びとに≪たしなみ≫というアイデアを?」
と腕を泳がせて男女の群をカバーするようにした。そこには一糸もまとわぬ裸形《らぎょう》でありながら、完全に自意識もなにもない、くだけた姿勢の、立ったり坐ったりする惑星の男女があった。
「そうさね、ムリにこじつければ説明できんこともないだろうが……。ダナーク、君だってたとえ裸でいることが昔からの習慣にしろ、本当に裸ということの意味を理解しているのかどうか疑問だと思うね。いつか、もっと時間のあるときに考えてみよう。しかし今訊きたいのは、その首にまきつけたカラーは何ですか、どういう意味なんです?」
「ああ、名札みたいなものなのですよ、マーチン。子どもが大きくなると、首につけて鋳造《ちゅうぞう》するのです。姓名、国民番号、家の紋章などが彫りつけてあります。アレナック製ですから、その人を殺しでもしなければ変えることができません。カラーをしていないオスノーム人というのは考えられません。もし見つかれば殺されてしまいます」
「じゃあベルトも同じようなものですか? それとも……」
「ちがうのです。あれはただ合切袋《がっさいぶくろ》みたいなものです。しかし、ナルブーンでさえもあれが不透明アレナック製だと思い込んでいて、開けてみようとはしないのです」
「護衛兵のつけている、あの透明の甲冑《かっちゅう》も同じ金属で作っているんですか?」
「そうです。ただ製造のとき、鋳型に何もつけませんから、不透明になったり色彩がついたりしないで、透明になっているのです。塩が要《い》るのはこの金属をつくるときです。ただ触媒として働くだけですから、後で回収できるのです。しかしどこの国民も塩は充分ありませんから、必要な甲冑《かっちゅう》を全部つくるわけにはいかないわけです」
「じゃ、あの怪物――みなさんカルロンと呼んでらっしゃると思ったけど、あれも同じ金属で蔽《おお》ってあるんですの? とにかく、あれなんですの?」ドロシーのせっかちな訊き方である。
「おっしゃるとおりです。あの獣は、魚が鱗《うろこ》を生やすように、あの金属板を自生すると考えられています。しかし実際どうしてそんなものが生やせるのか誰も知りません。大体、あの獣そのものについても、確実なことはほとんど何もわかっていないのです。オスノーム惑星で最悪の疫病神といわれていますが……。科学者の意見もまちまちで、鳥だという人もいるし、ケモノだという人もいます。また魚、植物だという学者すらあるくらいです。有性生殖、無性生殖、また一個体で雌雄の性器を兼ねそなえている、というふうに、いろいろ言われています。棲息地は――」
ゴングが鳴り、コンダール人たちは電気をかけられたように立ち上った。
コフェディックス《ダナーク》が、ドアのところへ駆けたが、ナルブーンは軽く払いのけ、部屋へ入ってきた。甲冑に身をかためた、重武装の兵士一分隊が付きそってきた。ナルブーンの顔面は怒りで歪《ひず》んでいる。きわめて醜悪なムードのなかに腸《はらわた》が煮えくりかえっているらしい。
「とまれ、マルドナーレのナルブーン!」シートンが怒号した。マルドナーレ語で、しかも割れるような大音声《だいおんじょう》である。
「許しも得ずにこの部屋のプライバシーを侵そうというのか?」
護衛兵は虚《きょ》をつかれて立ちすくんだが、皇帝は頑として退かない。もっとも彼もまた不意をつかれて、かなり仰天はしたようである。おそらく精いっぱいの内心の努力をしたのであろう、ゆがんだ顔面のしわを伸ばして慇懃《いんぎん》な表情に変え、
「私の国賓はなぜ私の護衛兵を殺戮《さつりく》し、宮殿の一部を破壊されたのか――それをお訊きすることを許していただきたい」
「許そう。君の過ちを指摘するために許すのだ。君の護衛兵は、明らかに君の命令をうけて、ぼくのプライバシーを侵そうとした。ぼくは我慢して、一度は警告を発してやった。しかるに護衛兵の一人は、ぼくの警告を無視して不敵にも挑んできた。ぼくが殺戮してやったことはもとより当然のことである。しかるに他の兵士たちは子どもだましの武器を持ち上げ、ぼくを撃《う》とうとした。ぼくは当然彼らを殺戮した。宮殿の一部が破壊されたのは、事件当時ぼくが用いた武器の破壊圏内に、たまたま宮殿の壁があったからであって、ぼくの意図ではない。
ぼくが国賓だって? あきれて物が言えん!
ナルブーンよ、よく聞け。君が地球からはるばる訪問したドマーク(偉い人)を虜囚にしようと企むならば、君はただちに君自身の生命ばかりか、君の国民全部の生命をも失うことになる。どうだ、自分の過ちがわかったか?」
怒りと恐れとがナルブーンの顔貌《がんぼう》を占拠しようとして競いあった。
が、ついに第三の感情である驚きが勝ちを制したらしい。ナルブーン自身武装しており、多数の重武装、重甲冑の兵士に守られている。しかるにシートンは素手で立っている。奴隷はといえば素手以下である。しかもこの地球人は、まるでこの惑星の王者のように、太陽系のマスターであるかのように、宇宙の覇者《はしゃ》であるかのように、堂々として自信にあふれ、威丈高《いたけだか》にそこに立ちはだかっている。
なぜそんなことができる? どうした秘密で、こんな態度ができる? どうしてこの男は、数十人の武装兵を無視し、千トンの岩石と超硬質とで築きあげられた難攻不落の大牙城を尻目にかけることができるのだろうか?
ナルブーンは屈した。その顔に諂《おも》ねるような表情があらわれた。
「つい昨日までご存知なかったのに、どうしてわが国の言語がわかったのですか? お訊《たず》ねすることを許していただきたい」
「許さん、すぐ退去せよ、ナルブーン」
シートンが厳として撥《は》ねつけた。
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一八
「まったく凄い! いや、お見事な脅《おど》しでした、ディック!」
ナルブーンと護衛兵の背後でドアが閉ったとき、ダナークが感きわまって叫んだ。
「強くもなく弱くもなく、ちょうど適度の調子でした。あれでナルブーンは考えこむことでしょう」
「一時は機先を制した。しかしどれほど長もちするか疑問だ。やつは大山師だし、抜けめのない男だ。こっちも負けてはいられない。すぐスカイラーク号へ急ごう。やつが立ち直らんうちにだ。君はどう思う、マート?」
「ぼくもそう思う。ここでは、いかにも防衛力が薄い」
地球人は、この部屋へ持ってきていた手廻り品を大急ぎでまとめた。シートンが廊下へ出た。護衛兵を去れと手で命令し、ダナークに案内せよと合図した。他のコンダール人がいつものとおり後に従った。一同は着陸ドックにいちばん近い出口のほうへ、大胆にもそのまま進んでいった。護衛兵はなんの妨害もせず、直立不動の姿勢をとり、敬礼してシートンの行列を通り過ごさせた。しかし指揮将校はマイクロフォンをあげて、何やら喋っている。ナルブーンが、刻々の動静を報《し》らされていることは明らかである。
宮殿を出ると、ダナークが振り向いた。
「走りましょう!」
みんな駆けた。
「ドックに着かないうちに、ナルブーンが飛行機を離陸させると、困ったことになります。宮殿から追手は出さないでしょう。宮殿を破壊されては大変だからです。しかし着陸ドックはそうじゃありません。ドックをメチャクチャに爆撃するかもしれません」
塔のような着陸ドックが見えてきた。その五十フィートばかり手前にある金属製の彫像をまわったとき、エレベーターの一つのドアが開いているのが見えた。
ドアのすぐ内側に、二人の兵士が隠れるようにして潜《ひそ》んでいる。シートンたちをみつけると、兵士は銃をかまえた。だが、シートンの反応のほうがはるかに早かった。ドアが見えたとき、彼はもう二歩大股に助走していたのである。そしてフットボールの|飛びこみ《ブランジ》よろしく、四十フィートばかりの空中をエレベーターのドア目がけて突っ込んだのである。二人の兵士が狙いをつけるか、つけないかに、シートンの体は彼らに体当りをしていた。兵士はエレベーター・ケージの金属壁へ叩きつけられ、伸びていた。
「すごい早業《はやわざ》ですね」とダナークが感心して言った。
意識を失った兵士から武器を奪い、シートンの許可を得て、二人の部下に渡してやった。
「これで屋根にいる奴どもに奇襲をかけられますね。だから武器はお使いにならなかったのですね?」
「そうじゃない。エレベーターが要るからだ。第一号銃弾をつかうと、あとがメチャクチャになってしまうからだ」
シートンは倒れている二人のマルドナーレ人をエレベーターの外へ引っぱり出し、ドアを閉めた。
ダナークがエレベーターの操縦をした。エレベーターは矢のように上昇し、屋上のすぐ下の階でとまった。金属ベルトの中から筒状の工具を出し、マルドナーレ人から奪った拳銃の筒先に取りつけた。
「ここを出て、わきの階段から上へ出ましょう。あまり使っていない秘密の階段なんです」
「よし行け」
「屋上では数人の護衛兵がいるかもしれません。私が始末します。どうぞ私の背後《うしろ》にいて下さい。ほかの皆さんもどうぞ」
「いや、それはいけない」
「ダメですよ、ディック。背後《うしろ》に控えていて下さい。こうしたことは、私以上にご存知でしょうが、そう何でも素早く知識をつけることはムリですよ。屋上へ出たら、とにかく私にまかして下さい」
ダナークは拳銃をかるく腰にあてながら先頭に立って登った。廊下の最初の曲がり角で、四人の護衛兵とばったり出会った。拳銃はダナークの腰から離れさえしない。それなのに、四度、カチカチとかすかな金属音がした。勘定もできない高速度の連続音だった。みるともう四人の兵士はそこに倒れている。
「すごい無音銃だな!」とデュケーンが舌をまいてシートンにささやいた。「無音銃があんなに早く発射できるとは思わなかった」
「火薬は使っておらんのだ」つぎの曲がり角へ全エネルギーを集中しているので、シートンの返事は生返事であった。
「力場発射《フォース・フィールド》なんだ」
階段の最後の踊り場へつくまでに、ダナークはなお数群の兵隊を処理した。踊り場で彼は停止した。
「さあディック。こんどはあなたにお願いします。私の部下一人ひとりに命令しないですむように、わざと今、英語で喋っているんです。今からすぐ、全員の指揮をとって下さい、文字どおり指揮して下さい――私をそばに置いて、いちいちわたしを通じて命令するというんじゃなく」
「わかった。敵の兵力は?」
「あなたの持っていらっしゃる全火力と猛烈なスピードが必要です。敵は、このすぐ外の屋上に数百人おります。一分間千発|射《う》つ速射砲を装備しています。クレーンが拳銃を貸してくれれば、私はそれを使います。あなたは用意ができたら、あのドアを蹴破《けやぶ》って下さい、大至急に」
「それよりいい作戦がある」とデュケーン。「ぼくは君以上にスピードがある、そうだろうシートン? また、君とおんなじで、両手が利く。ぼくに拳銃を貸せ。ドアがすっかり開かないうちに、奴らをなぎ倒してやる」
「思いつきだ、兄弟――すごい思いつきだ。おいマート、拳銃をデュケーンに貸してやれ、いいか、ブラッキー? 二挺拳銃だぞ! 位置について――用意――走れ!」
シートンがドアを蹴って真一文字に開いた。四挺の拳銃が矢継ぎばやに火炎を噴いた。タッタッタッタッ。だが発射音はすぐ耳をつんざく轟音で打ち消された。強力なX爆薬銃弾が死の扇型《おおぎがた》を現出させながら、目標にあたって爆発したとき、天地を震わす圧倒的な集中音が炸裂《さくれつ》したからである。
ドアウェイに立った二人の大男が手練の名手であったことは幸いであった。しかも彼らの握る武器に装填《そうてん》された弾丸は、巨砲の弾丸も及ばぬ威力をもっているのである。敵兵はこのドアのあたりにぎっしりと寄り集っていたのである。破壊エンジンともいうべき速射砲は、エレベーター、ドアウェイ、着陸進入路のすべてをカバーして待機していたのである。
奇襲の力とスピードが圧倒的であったので、猛訓練をつんだ敵砲手もスイッチを押すゆとりがなかった。戦闘は約一秒間しか続かなかった。終ったときは敵の速射砲のバラバラになって飛散した破片、ドック屋上の構築物のくだかれた石材や金属材料の破片などが、一瞬に微細な煙霧《えんむ》と化した人肉蒸気をすかして、穴ぼこだらけの屋上の石だたみへ落下しつつあった。
ドック屋上に一人のマルドナーレ人も見当らないことを確かめると、シートンは他のものに激しく手を振った。
「早くしろ! あと一分もすると、地獄の火の河よりも熱い修羅場になるんだぞ!」
広いドック屋上を、大口をあいた石だたみの破れを慎重によけながら、彼はスカイラーク号をめざして一同の先頭に立った。
宇宙船はまだそこにそびえ立っていた。牽引ビーム装置で堅固に固定されていたからである。だが何という惨憺《さんたん》たる姿になり果てたことであろう。水晶ガラスの舷窓はことごとく破れている。ノールウェイ人の甲冑に似た装甲板は凹《へこ》み、ねじれ、割れ目がつき、塗装はあらかた消えてしまっている。
銃弾が当った形跡はない。傷跡はぜんぶ、速射砲の破片や、ドック構築物の金属破片などが飛散してできたものである。新しい爆発物を開発したシートンとクレーンはいまさらながら、自分たちの生んだ鬼っ子の威力に唖然《あぜん》となった。
彼らは急いで宇宙船へのぼった。シートンは制御室へ走った。
「戦艦の轟音が聞こえます」とダナークが言った。「あなたの機関銃を一挺使わせていただけますか?」
「いいとも、できるだけ早くやれ!」
シートンが動力レバーに手をのばしたとき、先頭の宇宙戦艦が発射した測距用の初弾がドック塔の壁に命中した。彼らのいた、すぐ下であった。次弾が空中をうなりを発して飛来し、彼らの頭上数ヤードをかすめた。そのときようやくシートンの手がレバーを握っていた。推力五|刻み《ノッチ》の動力がはいった。スカイラーク号が勢いよく天空をさして発進した。その直後、いま宇宙船のいた地点へ、巨大な砲弾が奔流《ほんりゅう》のように集中されていた。
クレーンとデュケーンが数隻の戦艦に向かって発砲したが、射程が及ばなかった。しかしダナークの機関銃は連続的に音を発している。クレーンとデュケーンがそのほうを見た。宇宙戦艦を狙撃しているのではなく、眼下に小さくなっていく都市へ向かって撃っているのであった。銃口を小さく螺旋《らせん》状に廻しながら、敵首都へ死と破壊とをばらまいている。弾薬を撃ちはたしたころ、最初の機関銃弾が地上に到着した。宮殿はいっしゅんにふっ飛び、土砂の雲のなかに消えてしまった。雲はどんどんとサイクロンのように上昇し、拡がっていき、都市のあった地域一帯が淡褐色の雲におおわれつくした。
安全上空まで達したので、シートンはそれ以上の上昇をやめ、制御室を出て、みんなと相談しに行った。
「冷たい空気を吸うってのは、ほんとに爽快なものだな」
この高度の稀薄な冷えきった空気を肺いっぱいに吸いながら、シートンが感慨をもらした。言いながらそばを見ると、コンダール惑星人たちは、恐ろしい加速度に叩きのめされたあと、薄い空気をもとめて喘《あえ》ぎ、寒さで真っ青になりながら震えている。
「こんな拷問に平気で耐えるんですね。やっと衣服を着ていらっしゃる意味がわかりましたよ」――ダナークが雄々《おお》しく微笑をつくろいながら言った。
シートンは、「ちょっとごめん」と叫び、すぐ計器盤へ戻った。そして海洋へ向かって、やや下向気味に針路をセットした。それから、デュケーンにあとの操縦をたのみ、一同のところへ帰ってきた。
「人種によって拷問の感じ方が違うってのは大変なものだね、ダナーク。しかし君のところの気候だけはぜんぜん戴《いただ》きかねる。八月のワシントンより蒸し暑くてムンムンする。≪そしてジャンジャンひどくなる≫――これはある詩人がしみじみと洩らした実感だが……。しかしこんな暗がりにじっと坐っていたって意味ないや。ドッチー、スイッチをひねってくれないか?」
「ええ、よろこんで点《つ》けるわ……みんな本当はどんな色をしているのか、今度やっとわかるわね……」(パッと照明がともった)「わあーッ、美しい女《ひと》たち……すこし緑がかっているようだけど、ほんとに、実際にも美しいのね!」
しかしダナークの妻シタールはそばのドロシーをちょっと見て、両手を眼にあて、金切り声をあげた。
「何てまぶしい光線でしょう! 消して下さい。おねがい! 一生涯暗闇にいたほうが……」
「君は暗闇なんか経験があるのかい?」とシートンが訊いた。
「ありますわ。小さいとき、暗い押入れのなかに籠《こも》ってみたことがありますの……気の遠くなるほど怖い思いをしました。暗闇のほうがいいっていう言葉、取り消しにしますわ。でも何たってあの光線……」――ドロシーはすでに照明を消していた――「生まれてはじめての強い光線だったんですもの」
「まあ、シタール。ほんとにあなたったら、気絶したみたいな顔色よ!」
「この人たちはぼくらとは違ったふうに視覚が働くんだ」とシートンが説明した。「視神経の反応が違うんだな、だからぼくたちとは違った情報を頭脳へ送る。同じ刺激でも、末端では二つの全然異なった最終感覚を与える。どう、わかったかい?」
「すこしはね」とドロシーが首をかしげた。
「具体的な例をとってみようか。たとえばコンダール人の色≪ムラップ≫は、どうだ? 君、どんな色か説明できるかい?」
「そうね、緑がかったオレンジ色……でもほんとはそうじゃないわね。ダナークから聞いたところでは、明るい紫色だっていうわね」
「そうだろう……。ああ、みんな、身構えてくれ。コンダレックへ向かって、もう幾|刻み《ノッチ》かスピードをあげるから」
大洋に近づくと、マルドナーレの宇宙戦艦が数隻、スカイラーク号を迎撃しようとしたが、宇宙船は相手にならず、その上を軽く飛び越えていった。スピードがぜんぜんちがうから、敵は追いつけず、諦《あきら》めたようである。同じ高速度で、スカイラーク号は大洋の上空を横断した。
ダナークはすでに、スカイラーク号の大出力の発信機を父君の私設無線局周波数に同調させており、今までの経過をすべて報告ずみであった。皇帝と皇太子は事実を適当に粉飾し、もうすぐ全国民に長い物語を放送する予定になっていた。
クレーンがシートンを小わきへ引っぱってささやいた。
「ぼくたち本当にコンダール人を信用できるかね。マルドナーレ人を信用して失敗だったが、宮殿へなど行かないで、スカイラーク号で籠城《ろうじょう》したほうがよくはないかな?」
「それは違う、マート。ぼくもこの前は生半可《なまはんか》な知識で行って失敗したことは認める。しかし今度はそうじゃない。ダナークの心をぜんぶぼくの脳のなかへ取り入れてあるから、ぼくは君の知らないことまでわかっているんだ。コンダール人は幾分奇妙な思想傾向をもっている。おまけに残忍で、タングステン・カーバイド以上に頑固な人種だ。しかし根はわれわれ地球人同様、やさしい民族なんだよ」
「へーえ、そんな?」
「それから、スカイラーク号に籠城だなんて、それが何になる? 鋼鉄もかれらのもっている硬質金属にくらべたらマッシュポテトより柔かいんだ。銅がないんだから、だいいち、どこへも行けやしないじゃないか。また銅ばっかりどっさり集めたって、この古いガタバスはもうオンボロなんだよ、完全に作りなおさなきゃ駄目なんだ」
「そうか、でもかれらが……」
「今度はまったく心配ないよ、マート。ぼくははっきりわかっている。かれらはぼくたちの友達だよ」
「君はなかなかそうは言わん男だったが――そこまで言うからには信用しよう。よし、もう一切文句は言わん」
広大な首都上空を回遊し、やがてスカイラーク号は宮殿の真上へ来て空中に停止した。宮殿はマルドナーレ帝国のナルブーン宮殿に酷似した構えで、着陸ドックが宮殿のすぐそばにそびえていた。
スカイラーク号の眼下では、数百門の大砲が歓迎の祝砲を撃った。家々の軒や道には幟《のぼり》や横幕が張ってある。空気は、戸惑うばかりの変化にとんだ色彩と芳烈に満たされていた。エーテルも空気も、歓迎のメッセージと市民の喜びを唄う讃歌で充満していた。
巨大な宇宙戦艦からなる大編隊が近づいてきた。そして見るかげもない小球であるスカイラーク号を華やかな公式礼法にのっとって前後左右から護りつつ、着陸ドックに安着させた。そのあいだも、虻《あぶ》のような小型の飛行機が無数に空中を乱舞して歓迎の意を表した。一人乗りの小型機は、あらゆる方向へ奔放自在に翔び、小型機同士または航空戦艦と空中衝突も生じかねないありさまで、シートンをはじめとする地球人をハラハラさせた。巨大なカモメのように空中を悠々と舞いあがり、下降するかと思うと、さっと反転して遊弋《ゆうよく》しているのは、美しい肢体をした、鮮かに塗りたてられた遊覧機であった。小型機の群がる間を、巨大な弧をえがきながら堂々と翔んでいるのは多翼式の定期旅客機である。浮力をつけるために、翼上にいくつかのヘリコプターまがいのスクリューが回転している。旅客機はスケジュール・コースをちょっと逸《そ》れて、奇蹟の生還をした皇太子殿下と王族たちに心からの喜びと敬意とを表した。
スカイラーク号が着陸ドックに接近していくと、護衛機はすべて退避し、いずれかへ飛び去った。広大な着陸ドックの屋上では、地球人は国をあげての重臣貴族たちの出迎えがあるかと期待していた。だが、そうではなく、ごくつつましやかな小グループばかりであった。しかも、その人たちは、ダナークはじめ、ついさっきまでの奴隷たちと同じく、まったくの裸であった。
シートンが眼をまるくしていると、ダナークが気持を察して、
「私の父母、それから家族です。私たちが着ているものすべてを剥《は》がれていると知っていますので、同じ姿で出迎えに出ているのです」
シートンは宇宙船を着地させた。
王家の人びとが再会をよろこびあう間、シートンをはじめ四人の地球人はスカイラーク号のなかでしばらく待った。再会は地球のこうした場合と同じようなものであった。抱擁や接吻がすむと、ダナークが父君をつれてスカイラーク号のドアへやってきた。地球人たちが降り立った。
「私の友達、父のことは皆さんにお話ししました。この人が私の父、コンダールのカルフェディックス(皇帝)であるローバンです。
父上、私たちをナルブーンとマルドナーレの魔手から救って下さった人びとをご紹介します。こちらがシートン、≪知識のカルフェディックス≫です。それからクレーン、≪富のカルフェディックス≫です。ミス・ヴェーンマン、こちらがミス・スペンサー。それからこの方が」と手で招くようにして、「カルフェディリックス(小皇帝)・デュケーンという方で、シートンの次に位する知識の権威です。そして四人の方々の捕虜となっているのです」
「いや、コフェディックス・ダナークはぼくたちの奉仕をすこし大袈裟にお耳にいれています」とシートンが謙遜して言った。「その上、彼は自分がぼくたち五人の生命を救ってくれたことは、ひと言も言いません」
ローバンはシートンの言葉には構わず、コンダール王国を代表して感謝のことばを述べ、一行を王族の人たちに紹介した。みんなエレベーターのほうへ歩きかけると、父君が皇太子に向かって、困ったような表情で、
「賓客《ひんきゃく》の方々が非常に遠い世界から来られたことはわかっとる。教育機械に故障があったこともわかっとる。しかし、この人たちの称号がはっきりしないようじゃ……。知識とか富とかいうものは統治されないものじゃ、統治の対象となり得ないものじゃ。お前は、ほんとうにこの方々の称号を正しく翻訳したのかい?」
「翻訳は不可能です、父上。クレーンには称号はありません。また私が称号を奉ろうとすると嫌がっております。シートンの称号は学識に関係したものですが、わが国語では類似の単語がありません。ですから、あの方々がもしこの国で生まれて育ったなら、こういう称号がつけられたろうと、適当な称号を工夫してあげたのです。かれらの政府は、政府でもなんでもなく、狂気の沙汰です。統治者は人民が選挙するのだそうです。そして人民は毎年あるいは二年に一回、気変りして統治者を変えるのだそうです。それから人民は法律のもとで平等であって、勝手気ままに振舞うのだといいます……」
「信じられぬことじゃのう! それでは一体ぜんたい、どんなふうにして政治を行なうんじゃろうか?」
「私にもわからないのです。ほんとうに解《げ》せません。かれらは、人民一人ひとりが、自由とかいうものを享受できさえすれば、他のことは政府が何もしなくとも一向構わないらしいんです。しかし、まだ悪いことがあります。これはもう、どう考えたって不合理です」
ダナークは皇帝に、シートン、クレーンの二人対デュケーンの確執《かくしつ》のはなしをした。
「……それでですね、父上。そんな間柄なのに、クレーンはデュケーンに自分の拳銃を二挺とも貸してやったのです。デュケーンはあのドアウェイで、シートンのわきに立って、屋上のマルドナーレ人を全部殺してしまったんです。私が一発も撃たないうちにですよ。デュケーンは拳銃に装填《そうてん》されてあった弾丸をみんな射ち尽くしました。シートンやクレーンを殺そうとはしませんでした。それでいてデュケーンはまだ生捕《いけど》りになっているんです!」
「信じられぬことじゃ! 名誉という意味を何と歪《ゆが》めて考えとるんじゃろう、まったく呆れてものが言えんわい。お前じゃなく、他人《ひと》が言いおったら、わたしは気違いのたわごとと一笑に付そう。じゃが息子、いまのは確実な事実じゃな?」
「確実ですとも、この眼で見てきたのですから。他のものたちもみんな目撃しています、ですが、他のいろいろの点から考えて、かれらは……そうです、たしかに狂っているんじゃありません。ただ私たちには理解できない考え方――それだけです。私たちが道理としているような大事な根本原則は、あの人たちの考え方と行動にはまったく当てはまらんのです。たとえば衣服です。かれらの価値観、かれらの倫理は、ものによっては全然私たちのそれと合いません。しかし底の底ではかれらの名誉は私たちのそれと同様、健全であり、強固なものと思います。それですから、ナルブーンがかれらを殺そうと企んでいるのがわかって、はっきりと私たちの味方についたのです」
「うん、その点だけはわしにもよく理解できる。まあ本当によかった。わしの心はいまクモの巣のような、わけのわからぬもので一杯じゃ。友達である敵、敵である友達、いったいこりゃどういうことじゃ。奴隷に武器を与えるマスター。武器をもちながら、マスターを殺そうとしない奴隷。息子や――わしにとっては、こりゃまったく正気の沙汰とは思えんぞよ」
会話のうちに一同は宮殿へ着いた。
ナルブーンの宮殿をとりまいていた庭園をさらに豪華に、さらに広くしたような豪壮な庭園であった。宮殿の建物に入ると、ダナークは貴賓をそれぞれの部屋へ案内した。主家の家令と親衛隊員が護衛してくれた。各室には部屋同士相互に通話のできる装置がある。またバスルーム、小さな水泳プールが付随している。バスタブもプールも石造りやコンクリートや陶器でなく、磨きあげられた金属板でできている。
「うん、いいプールだ、冷たい水が出ればもっといいんだが」
「冷たい水もでます」ダナークが栓をひねると十インチ径パイプから生温かい水が勢いよく流れだしてきた。栓をし、恥ずかしそうに笑いながら、「いや失礼しました。≪冷たい≫という単語の本当の意味をすぐ忘れてしまうんです。さっそく冷凍機械をとりつけましょう」
「いや、そんな心配をしないでいいよ。長く滞在するつもりはないんだ。でも、一つ、君に言っておくのを忘れた。食物のことだけど、君たちの食事でなく、自分たちのものを食べるからね」
「ごもっともです。そのように取り計らいましょう。半時間後に、第四食事におつれするよう、戻ってきますから」
地球人が生温かい水で体を拭き終らないうちに、もうダナークが戻ってきた。だが、つい先ほどまでのダナークではない。金属と皮革でつくられ、宝石をちりばめた精巧な肩吊りで身を飾っている。これまでの、一本の中空の金属筒であったベルトの代わりに、黒革のベルトを締め、それにはぴかぴかに磨きたてられた武器が吊ってある。右腕の、肱から手首までのあいだに、六個の腕輪がはめられている。腕輪は深いコバルトブルーの透明金属で作られており、同じ色の、信じられないくらい眩《まぶ》しい大きな貴石が一つずつ、どれにも嵌《は》めこまれている。左手首に帯《お》びているのはコンダールの時計である。車の走程記録計に似た計器であって、文字盤のかわりに、表面は数個の扇型に区分され、各扇型は遅速さまざまに回転して、数ケタという大きな数字を現わす。それはオスノーム惑星の日付と時間である――ただそれらがコンダール王国の紀年を基準とし、一年を単位とした小数点以下の数字で表わされているところが、地球で使われる時計と変わっている。
「ああ、いらっしゃい、地球《テルス》の珍客! ほんとによくいらっしゃいました」とダナールは別人のような声を出した。「私もやっと本当の自分にもどったような気分です。自分の装身具を帯び、自分の武器を腰につけたからです」
そう言って、五人の賓客の手首をとって、コンダール制式時計のついたコバルトブルーの腕輪を一人ひとりに嵌《は》めてやった。
「私といっしょに第四食事に参られますか? お腹、空いていらっしゃるんでしょう?」
「まあ有難い! お伴しますわ」とドロシー。「あたしもペコペコですの」
みんなでダイニングホールへ歩いていくとき、ドロシーはさっきからダナークの右腕についている六個の腕輪から眼を離さない。ダナークが疑問を解いてやった。
「結婚腕輪です。結婚式のときに新婚夫婦が腕輪を交換するんです」
「じゃあ、腕をみれば結婚しているかどうかわかるのね? 妻を何人もっているかも?」
「そうです」
「まあ、いいわね。地球でも結婚指輪をつける人はいますわ。腕輪じゃありませんけど。もっとも、そんなにたくさんつけはしません、たった一つです」
ローバン皇帝がダイニングホールのドアで一同を迎えた。皇帝がテーブルへ案内してくれる間、ドロシーは皇帝の右腕に十個の腕輪がついているのに眼をみはった。ダイニングホールはマルドナーレで見たそれと似たものであった。婦人たちも、無数の宝石をはめこんだ豪華な装身具で肌を飾っていた。
食事は和気藹々《わきあいあい》たるムードのもとに進められた。ことに、王家の子どもたちが無事に帰ってきたので、祝賀の意味もふくめられて、和やかな中にも浮き立つような喜びが終始満ち溢れていた。
盛餐後、デュケーンはまっすぐ自室へもどった。四人は庭園を逍遥《しょうよう》して、就寝時間まで寛《くつろ》いでいた。ドロシーとマーガレットの泊る部屋へ四人が戻ると、そこで男女は二組に別れ、各組は腕をとりながら、男の部屋へ行った。
マーガレットがすこし沈んでいた。
「どうかしたのかい、スイートハート?」クレーンが心配げに訊いた。
「あたし……あたし……」マーガレットはためらっていたが、いきなり堰《せき》が切れたように、
「ダナークがあなたを≪富のカルフェディックス≫と呼んでいたでしょう? あれ、どういう意味なんでしょう?」
「ああ、ぼくがたまたますこしお金をもっているから……」
「じゃ、あなたは本当にM・レーノルズ・クレーン?」
クレーンは彼女の背に腕をまわし接吻した。そしてなお彼女を抱いたまま、
「そんなこと心配していたの? 君とぼくの間で、お金など何だというの?」
「あたしは何にも――でも、あたし、前にそのこと知らないでいたの、嬉しいわ」彼女は熱烈なキスを返した。「あたしがお金のために――それさえわかっていただいていれば、あたしもう何も言うことは――」
冷静沈着なクレーンも、今度ばかりはその原則がくずれ、いきなり彼女を抱きしめた。
「もうそんなこと言わないでおくれ。もうそんなこと、考えてもいけない。君とぼくの間には、もう何の疑いもない、何のわだかまりもない、そうだね?」
シートンはドロシーの手をとって自分の部屋のドアに立っている。
「あのプール、冷たい水が一杯はいっていたら、ぼくはいますぐ君と一緒に飛びこんじまうんだが、服をきたまま」
「まあ、あなたったら!」
「……そして一晩じゅう漬《つか》っている――夜? 夜といったね? 夜なんかあったかい。まったく一日じゅう照りに照って照りつくして、暑くて暑くて、超飽和の湿気だろう、ぼくはあたまが変になってきそうだ。君だってまともな顔色じゃない」
豪奢《ごうしゃ》な金褐色のかわいい形の彼女の首を自分の肩から外し、下顎に指をかけてつくづくと眺めた。
「材木の節穴《ふしあな》から引っぱりだされたみたいな顔つきだ――いまに眼の下に黒い輪ができてくるよ」
「わかってるのよ」彼女は、なおもぴったりと身体を押してきた。「しょっちゅう怯《おび》えているの、青くなるくらい。太い神経もっていたはずなんだけど、ここではあんまりなんですもの、眠れやしないわ。いつもだったら、あたし空中で眠ったのよ――シーツに身体がまだ二インチか三インチ着かないうちに、もう眠っていたわ」
「ちょっと表現がオーバーだな」
「オーバーなものですか! あなたといっしょのときはいいわよ、とても愉しい……でもあの睡眠期間という――ラララ!」シートンの腕のなかで彼女は身ぶるいした。「ほんと、あなたはあの恐ろしい睡眠期間という習慣にはどんな悪態をついてもいいわ、あたしは九九・九九九九九九パーセント支持するわ。あたしは身体を硬く緊張して、ただ横になっているだけ。心はスカイロケットのように朦朧《もうろう》として飛んでいるわ。ペッギーとあたしは――紫色の幽霊みたいになって、ガタガタ震えて抱きあっているだけなのよ。恥ずかしい。でも仕方がないんですもの、実情なんですの」
「ほんとに気の毒だ、エース。でも君にはタフな神経がある。ちょっとやそっとでは崩れやしないね、ドッチー。君がいらいらしてきたのは、地球を出てからまだあまり長くないからだよ、もうすこしたてば、どこへいっても平気になれる」
「ほんとにそうかしら?」
「君がぼくと一緒だと落ちつくというのは、ぼく自身がどこへいっても落ちつける性《たち》だからだ――ただこの温度だけは閉口だけど」
「うーん、そうかもしれないわね」下唇をぎゅうと噛んでいる。「あたし、自分じゃ蔓《つる》植物みたいに、まつわりつく型《タイプ》と思っていなかったけど、そうなりそうよ。就寝となると死ぬほど怖いの」
「元気をだしなさい、スイートハート。ぼくはしょっちゅう君と一緒にいたい――どんなにそれを望んでいるか! でもドッチー、もうじきだよ。宇宙船《チャリオット》を修理して、さっさと地球へ帰還しようよ」
ドロシーは彼氏を押して部屋へ入り、ドアを閉めた。両手を彼の肩へ投げかけ、
「ディック・シートン」顔を火照《ほて》らせ、あつっぽい声で言った。「あなたはあたしの思っていたほど鈍《にぶ》くないわね――違う、違う、ずっと鈍いわ、あなたは! あたしがあれだけの新派大悲劇を見せたあとでも、あなたが言えないなら、あたしが言うわ。ねえディック、地球以外のところでした結婚は有効じゃないっていう法律はないのよ」
彼はじっとドロシーを抱きしめた。感情が昂《たか》まっていて、しばらく声も出なかった。
「そんなこと、考えてみたこともなかった、ドッチー。考えついていたら、もっと前に大声でわめいていたろうに。こんなに家から遠く離れて、まるで……」
「まるでなんていうことはないわ!」大声でかぶりを振ったが一体何を否定しているのか自分でもわからない。それを訊《き》くまでも待てない。「それ以外に方法があって? この大きな坊や。このあたまの鈍い、あたしの素敵な、なまけ坊主。あたしたちはお互いが必要なのよ――すくなくともあたしにはあなたが必要、とってもよ……」
「互いがだよ――そうだよ、そうだよ」
「もちろんダディもマミーもあたしの結婚を望んでいるわ……ここだって有利なこともあるのよ。第一、ワシントンで挙げる結婚式なんか、ダディは嫌いなのよ、あんただってそうでしょ? ここで挙げたほうがよっぽどいいわ」
一言さしはさもうとしたシートンは隙間がみつからず、全部ドロシーに言わせてしまった。
「ほんとに確信がもてたよ、ドッチー。ショックから醒《さ》めてから、確信がついてたんだ。嬉しくって言えなかったんだ。ぼくたちの結婚のことを考えるたんびにコチンコチンに硬くなって悩んでいたんだ。朝になったら真っ先にカルフェディックスに話をする……それとも、たったいま叩き起こすか?」
「まあディック、落ちついてちょうだい!」そうは言いながらも、ドロシーの眼は喜びで躍っている。
「そんなことできっこないわよ。明日だって突然すぎるというのに。それからディック、まずマーチンに話して下さらない?」
「どうしてマーチンに関係ある?」
「そうじゃないのよ、ディック。ペッギーはあたし以上に夜が怖いの。そしてマーチンときたら、あの世間知らずのお坊ちゃんは、あなたなんかよりずっと疎《うと》いんだわ、こんなはなしになると、自分から進んで原動力になろうなんて考えつきもしないんだわ。ペッギーはペッギーでマートにヒントを与えるのも遠慮してるでしょ。あの娘《こ》はまるで蝦《えび》みたいに身体を曲げたまま死んでしまいたいといっているのよ。あの娘はほんとに自殺しかねないわ」
「ああ、ああ――なんていうことだ!」
シートンはソファの上で坐りなおし、ドロシーの肩をつかんで腕いっぱいの距離に見据えながら、
「こらドッチー。やっとわかってきたぞ。君がいつかぼくを君の家へ案内してくれた晩のことは、どうも様子がおかしいおかしいと思っていたんだ。九ドル紙幣みたいにヘンテコリンだった。≪新派大悲劇≫を語ってもらって腑《ふ》に落ちることない? ぼくの英語が拙《まず》いから、君の英語も悪い感化を受けたかとそんなふうにばかり思っていた。八百長《やおちょう》だったの、あれ?」
「何言ってるのよ、あたしがそんなこと……そんなことみんな、自分で言えるほど心臓強いとでも思っていたの? いくら何でも、みんななんか言えないわ、ディック、うううう」彼女は身悶えしてしがみついてきた。そして抱かれてうっとりと幸福そうに眼をうるませた。「ちょっぴりよ、ほんのちょっぴりだけしか……」
シートンは突然立ち上ってドアを開けた。
「おーい、マート、ペッギーといっしょにここへ来い!」
「待って、ディック、気をつけるのよ――何もかもメチャメチャにしてしまうわ!」
「メチャメチャになんかするかい」
「だって」
「ぼくにまかしとき――照れくさいが率直に認めるよ、ドッチー――ぼくはこういう外交交渉になると天下一品の腕を発揮するんだ。鰻《うなぎ》のように滑《なめ》らかにいくんだ」
クレーンとマーガレットが入ってきた。
「ドッチーとぼくで話しあったんだが、今日が結婚式として最大|吉日《きちじつ》だと思うんだよ、マート」シートンが藪《やぶ》から棒に言った。「ドッチーは日の暮れない夜を怖がっている。ぼくも彼女がどこに寝《やす》んでいるかわかれば、いまよりずっとよく眠れる。もし君たちも結婚に賛成なら、彼女はすぐ結婚しようという。ダブル結婚式だ。どうだい、マート?」
「どうって、そういきなり……」
「何だと? 君がイエスと言わないなら、捻《ねじ》れビスケットみたいにノックアウトしてやるぞ、マート。それからペッギーも同じだ。この膝の上へ転ばしてうんとスパンキしてやる。よし、たっぷり一秒間の猶予をやる」
マーガレットは真っ赤になった。それでもクレーンのそばへなお近く寄りそった。
「一秒もあれば充分だよ。ここで結婚してもどこでも認められると思う……証明書をもっていって登録すればいいんだから。もし法廷が無効と裁定したら、もう一度結婚し直せばいい。あらゆる事情を考慮して、いますぐ結婚することがみんなのために一番よいようだ」
クレーンの細《ほ》っそりした端麗な容貌は、マーガレットの潤《うる》んだ眼と紅潮した頬を見おろしながら、なおいっそう黒ずんできた。ここの光線では赤みが増すと黒く見えるからである。
「ぼくたちの愛情ほど宇宙で確実なものはない。日付を決めるのはもちろん花嫁の特権である。どう、ペッギー?」
「早ければ早いほどいいわ」ペッギーはまた真っ赤になった。
「今日とおっしゃったの、ディック?」
「そう言ったんだよ。起床したらすぐカルフェディックスに会って頼もう」
クレーンとマーガレットが部屋を出たあと、ドロシーがささやいた。
「あたし、あんまり幸福すぎて、とても言葉では表わせないわ」背のびして、お寝《やす》みの接吻をしながら、「今夜は一睡もできなくともかまわないわ、あたし」
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一九
シートンは眼をさました。
暑く、体がべとついて気色《きしょく》は悪かったが、心のなかは喜びで一杯だった。
今日は結婚当日だ!
ベッドを蹴って起き、プールに≪冷たい水≫を十インチ管から注ぎだした。数秒で一杯になった。プールの縁《ふち》で軽くポーズをとると、きれいにダイビングした。だが、息をつまらせながら浮かびあがり大声で喚《わめ》きたてた。ダナークが彼の要求を忠実に守りすぎ、プールの水は氷点下数度の寒冷であったからである。 それでも、冷水のなかを数分間抜き手をきったり、プールを出て身体を摩擦《まさつ》したあと、彼は顔をあたり、シャツとスラックスを穿《は》き、底深いバスを張りあげて≪ローズ・メードン≫の結婚コーラスを唄った。
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いざ起きよ麗《うるわ》しの乙女
起きいでよ起きいでよ麗しの乙女
汝《な》が乙女の瞳に
見おさめの晴れたる朝ぞ
いざ起きいでよ
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生きている喜びに浸り、つきあげる青春の歓喜を彼は声のかぎり唄った。驚いたことに、隣りの部屋から三つの声が聞こえる――ソプラノ、コントラルト、テノール。彼はドアを開けた。
「お早う、ディック。幸福らしいな」とクレーン。
「君たちだって幸福だろう、幸福でない馬鹿野郎なんているものか! 今日は何の日だと思う?」
ドロシーが走りよってきて、しっかりと抱擁した。
「それに今朝は冷水を浴びたんだ!」
「一マイル四方で聞こえたわ」とドロシーが含み笑いした。
「あたしたちも少し浴びたのよ。冷たいバスは好きだけど、でもアイスウォーターはちょっとね、ブルブルブル!」
「あなたたちお二人、歌えるとは知らなかったわ」とマーガレット。
「歌えるというんじゃない。ときどき理髪屋の真似をするんだ、おどけてね。でも、そんな言い方――まるで君が歌えるみたいじゃないか」
「まあ失礼、彼女はたいした歌手よ!」とドロシーが叫んだ。
「たったいままで知らなかったの。でもファースト・エビスコパル合唱団のソプラノ独唱歌手といったって立派にとおるわ」
「わあ、すごい!」シートンが口笛を吹いた。「彼女にその心臓があれば、いつかこの四重唱団《カルテット》で舞台に立とう――ただし聴衆の一人もいないところでね」
結婚式のことを考え、四人はいつしか、シーンと黙ってしまった。ようやくクレーンが口を開いた。
「ここにも牧師がいるんだね、驚いた。かれらの宗教をすこしは聞いたが、まだ漠然としている。ディック、君のほうが詳しいだろう? 待っている間に、すこし講義してくれ」
シートンはうなずいたが、すぐ言葉は出なかった。妙な顔をしている。見慣れない参考書かなにかのページを繰る人のように、クレーンの質問に答えようと何か考えているらしい。ダナークから速成で注ぎこまれたオスノームの百科事典的知識の貯蔵庫から、どれを抽《ひ》きだしたらいいかまよっているらしい。いよいよ喋りだすと、口調はゆっくりで、英語も立派だった。
「うまく言えないが、ぼくの説明できる限りでは、ここの宗教は一種独特の混合物なんだ。神学とダーウィン進化論、いやオスノーム特有の進化論だ、それから純粋な実証主義哲学もしくは経済的決定論というか、そういうものが混りあっている。彼らは超越的存在を信じている。造物主《ファーストコーズ》といえば英語の表現にいちばん近いかな? 不滅、不可知の生命原則、つまり霊魂というものの存在を認めている。造物主が適者生存を根本原則としてこの世に規定している――彼らはそう信じている。彼らの完璧な肉体も、この信仰にもとづくものだろう……」
「完璧な肉体ですって? だって彼らは子どもみたいに≪ひよわ≫じゃない?」とドロシーが鼻を鳴らした。
「それは低重力のせいなんだよ、ドッチー。この惑星ではぼくの体格で八十六ポンドしかないんだ。バネの上にのっかっているようなもんだ。だから、地球の十二、三歳ぐらいの子どもの筋肉しか要らない。君だってペッギーだって、オスノームでいちばん強い男を二人ぐらい相手にしたって負けやしない。もし地球で立つとすれば、ダナークぐらいの逞しい男でも全力をふりしぼらなくちゃならんだろうな。
その点を割引すれば、彼らの体はとてもよく発達しているよ。とにかく、この完璧に達するには、幾十世紀も不適格者という雑草を淘汰《とうた》したのだ。精薄児や虚弱児を育てる病院はない。そういうものはみんな殺してしまうんだ。彼の清潔さ――身体的清潔さも道徳的清潔さも、同じ原因からくる。罪悪というものはまったくないんだ。清潔な考え方、清潔な生活をしていれば、自然と、より優れた心身タイプが生まれてきて酬《むく》いられる……」
「ことに、ダナークがいつか話したような空恐ろしい刑罰ね、あれがあるから、罪悪感が矯正《きょうせい》されるのね」とマーガレットが言った。
「多分そうだと思うが、その点はまだ議論の余地があるね。彼らはまた、人間のタイプが優秀になればなるほど、進化のテンポは早くなり、やがて彼らのいわゆる≪最終目標≫への到達も早まり、すべての知識を知るようになる、そう信じている。彼らは適者生存の哲学と、自分たちが最適人種だという信念だから、マルドナーレは徹底的に滅ぼさなければならない、根も枝も絶《た》やさなければならないと――これが至上命令になっている。
彼らの大臣は、王族の次に適者生存の原則に合ったものから選ばれるのだ。王族は最優秀の適者であり、いつまでもそうでなければならない。もしそうでなくなれば、当然王位を下り、他の最適者が王位につく。いずれにしろ、大臣階級はみな強い肉体をもち、元気溌剌として、清潔なくらしをしている。また軍の高級将校などもみな、立派なものだ」
侍者が、皇帝、皇太子の臨御《りんぎょ》を伝えた。五人の地球人に公式訪問をなさるというのである。儀式づくめの挨拶が終ると、一同、第一食事のためダイニングホールへ行った。
食事がすむと、シートンがダブル結婚式の問題を持ち出して皇帝の意向を伺った。皇帝が満顔をほころばせて喜んだことはもちろんである。
「カルフェディックス・シートン。わたしたちにとって、そんなにおめでたい儀式がこの宮殿で取り行なわれるほど嬉しいことはないのじゃ。皆さんのような高度進化に達した人びとが相互に婚姻する――これは造物主のご命令じゃ。われわれもみんな造物主の下僕《しもべ》なんじゃからのう。造物主もさることながら、この宮殿のなかで、もう一人のカルフェディックスが結婚されるとは、宮殿の主《あるじ》である統治者として、これは前代未聞の名誉と申すもの――しかも貴下はそのめでたい儀式を二つまでわしに主宰させて下さるとは!
いや有難う、有難う。わしはどんなにお礼を申し上げてよいか言葉を知りませんのじゃ。この儀式を長く記憶に残る盛大なものにするため、万善のことをいたしますじゃ。どうぞお心安うしてくだされ」
「いや皇帝陛下、盛大など、どうぞそんなになさらないで下さい。簡単で簡素な結婚式で、ぼくたちは充分満足なんですから」
「カルビックス(大僧正)・タルナンに儀式を取り行なわさせましょう」ローバン皇帝はシートンの言葉に耳もかさないで言った。「わしどもの儀式は、慣例上、すべて第四食事すこし前に行ないますのじゃ。その時間で宜《よろ》しいかのう、四人の皆さん?」
四人にとって不足はなかった。
「これダナークや――お前のほうがこの偉い方々の習慣に詳しいのじゃから、わしにかわって全部とりしきってくれ」
皇帝ローバンはそう言い残してダイニングホールを辞去された。
ダナークはすぐさまマイクロフォンを取り上げ、つぎつぎと指令を下した。おお、そのテキパキと忙しいこと!
「まあ、あたしたちの結婚式を取材して映画プロダクションを起こすつもりなんだわ!」とドロシーが眼を輝かせた。「カルビックスって、ここの教会のいちばん偉い人じゃないこと、ディック?」
「そう。コンダール国防軍の最高司令官をも兼ねている。全帝国で、ローバンのつぎに偉い実力者だ」
「まあ、そんな?」
「とにかく彼らは一大舞踏会、一大パーティーを展開するつもりらしいぞ――ワシントン最大の結婚式なんか、ケチな小者の誕生日パーティーぐらいにしか見えんだろうな。どうだい君、大結婚式、大嫌いだろう?」
「そうよ、もう大嫌いになってるわ」彼女は制しきれず笑いこけた。「あたし、宮殿じゅうに、辛《つら》い涙、塩からい涙を流しまわるわよ――まさかね。可哀そうなのはあなたよ、黙っていなければならないでしょう? 仕方がないわ、じっとおとなしくしていてちょうだいね」
「できるかぎり、おとなしく黙って――そう、ぼくは抑えるよ」シートンが苦笑した。彼女は急に真顔になって、
「本当はあたし、ずーっと、大きな結婚式を望んでいたの。でもねえディック、それは諦《あきら》める努力をしていたの、そして諦めたと思っていたの」
「そうか、そうだったか。忘れないよ、その気持。前にも言ったように、いや何度でも言うが、ドッチー、君はほんとに、めくらめく閃光《せんこう》、耳をつんざく轟音《ごうおん》だ! 宇宙第一の女性だ!」
ダナークがようやく電話での指令を終った。シートンはダナークに話しかけた。
「ドッチーがさっき言ってたんだが、ドレスに仕立てるから、あのタペストリー布地を数ヤード欲しいんだってさ。……でもね、あれとは別のドレスを買うそうだ。もっと上等の、シックな」
「そうですとも」ダナークは賛成した。「大事な国家的儀式では私たちはいつも礼服を着ます。だのにあなたもクレーンも、どういうわけか、礼服はお嫌いのようですね」
「ぼくたちは、ホワイト・スラックスとスポーツシャツを着る。君も知識を得たろう、ぼくたちの国では女は装飾一点張りのドレスを着るが、男は着ないんだよ」
「ほんとですか」ダナークは解《げ》せないという表情で、「それもまた私たちには謎ですね。でもあなたたちお二人の服装は、私たちコンダール人が見たこともない珍しいものですから、花嫁さんたちのドレスよりかえって豪華に見えますよ。わが国最高の織姫と仕立師を呼んで礼服をつくらせます。彼らが来るまで間がありますから、すこし儀式の相談をしましょう。あなたも私どもの習慣をかなりお知りになったようですが、私はなお念を入れたい。初回結婚には宝石のつかない腕輪を交換します。この結婚は二年つづきますが、この二年の間に離婚ができます。一方が配偶者にその旨を通告すればいいのです」
「ふーん」とクレーン。「ぼくたちの国でも数年ごとに繰り返してそんな一種の試験結婚が叫ばれるけど、みんな決まって根拠のない自由恋愛になってしまって、いつとはなしに立ち消えてしまう」
「私たちの国ではそういうことはありません。初回結婚前には、身分の上下にかかわらず、新郎新婦とも心理試験を受けます。グラフで道徳的劣等性が証明されたものはその場で射殺されます」
みんな唖然《あぜん》として声も出ない。
「二年すると、同じ新郎新婦が第二回結婚を行ないますが、こうなるともう結婚を解消できないことになっています。前の腕輪に代わって宝石入りの腕輪を交換します。進化の進んだ者同士の間では、初回と二回の結婚式を一緒にして行なってもいいことになっています。次は第三回結婚ですが、これは最高の進化に達した人たちにしか許されません。この場合はじめて、永遠の誓いが交わされ、フェードン――永遠の宝石――が交換されます。皆さんが当然に永遠結婚タイプだろうとは信じますが、私としては是非ともそれを実証しておかなければなりません。なぜかといいますと、永遠結婚の儀式を頼んでおいて、いざというときに大僧正タルナンが新郎なり新婦なりを不適格と判定しますと大変なことになります。私は文字通り首がふっ飛ぶだけでなく、父も取り返しのつかない不名誉の汚点がつくことになるのです。ですから、永遠結婚をお望みなら、私がいますぐ心理テストをして上げなければなりません」
「へえ? なぜだい?」とシートンが顔色を変えた。
「私に責任があるからです」ダナークは静かに答えた。「父が私に、この儀式を光輝《こうき》ある伝統にしたがって取り行なう責任を負わせたのをお聞きになったでしょう。何しろ、コンダールの歴史あって以来初めての、異例の結婚式ですから、もし不適格判定などという不祥事になると私の責任です。私は即座に無能力者の烙印《らくいん》をおされ、父は、重大な事業を無能力者に委《まか》せたという責任感から、自決することになります」
「なんという恐ろしい規則だろう!」シートンが息が詰まるようにびっくりしてクレーンにささやいた。それからダナークに向かって、
「しかし君が合格させておいて、大僧正タルナンが不合格にした場合はどうなるんだ?」
「そんなことは起こりっこないから大丈夫です。心理テストのグラフは嘘をつくはずもないし、また偽証ということもあり得ませんから。もっとも、私がテストして合格させたといっても、タルナンに対する強制力はないのですが……。いま申しましたように、結婚は三種類ありますが、どれにします? ご選択はまったくご自由ですよ」
「ぼくは、結婚は長ければ長いほどいい。そうだ、永遠結婚にするよ。すぐテスト道具をもって来てくれ、ダナーク」
「あたしも永遠結婚だわ、ダナーク」ドロシーが息もつかずに復誦した。
「まだ質問があるんだけど」とクレーン。「もしぼくが死んだ後に妻が再婚すると、それは永遠の誓いを破ることになるの?」
「それは絶対ありません。若者は毎日のように殺されていますが、残された妻はみな再婚します。男はたいてい数人の妻をもっています。配偶者が死んだら、残ったものはそういうふうにして幾人と結婚してもいいのです。ちょうど皆さんの化学にあるように、いろいろの原子が結合して安定した化合物をつくりますね、あれと同じですよ」
クレーン=マーガレット組も、永遠結婚をすることに決めた。
「皆さんの場合は、腕輪の代わりに指輪を使いますが、式後、捨てても構いません」
「捨てるもんか! ぼくは一生指輪をつけている」とシートンが昂然と宣言した。クレーンもそうだと言った。
「じゃあ、予備試験をします。このヘルメットをつけて下さい」とダナークはシートンとドロシーにヘッドギアを渡し、自分も一つかぶった。
ボタンを押した。たちまち、二人の心は相手の心を隅々まで読んだ。そして、ダナークもまた二人の心を読んでいることが、二人に感知された。二人の心を読む一方、ダナークは両手で支えた試験装置を仔細に調べていた。
「お二人は合格です。大僧正タルナンは適格にするはずです」
数分後、クレーンとマーガレットも試験に合格した。
「合格は信じていたのですが、なにしろケースがケースですから、絶対間違いないように実証しなければならなかったのです。……ああ、礼服の仕立師が来たようですから、お二人はどうぞ」
ドロシーとマーガレットが出ていくと、ダナークは、深刻な顔をして、
「じつは私、マルドナーレに奴隷になっていたとき、私たちの発見した軍事科学の秘密が洩《も》れているらしいことを知りました。私たちがやられた神経麻痺ガスもそうですが、もう一つ重大な秘密兵器のことを喋っているのを耳にしました。コンダールから盗んだと、はっきり言っていました。私たちが、私たちの発明した兵器で全滅させられる――そんなことを豪語していました。ここへ帰ってきて、それが本当のはなしだということがわかり、ちょっと憂鬱な気分になっているのです」
「なあに、そんなこと何でもないよ」とシートン。「スカイラーク号を修理したらすぐマルドナーレへ飛んでいき、ナルブーンを宮殿から引っぱってくるんだ――まだ宮殿なんてものがあり、ナルブーンが生きていたらだよ。ナルブーンがいなかったら、誰かほかの奴を連れてくる」
「たしかに、その方法がありますね。いずれにしても、早くスカイラーク号を修理して、銅を補給しましょう、大至急に」
三人はスカイラーク号を見にいった。内部まで綿密に点検した。内部の被害は甚大で広範囲にわたっていた。計器類の破壊されたものが多い。地球に焦点が合わせてあった対物コンパスのうちの一台もやられてしまっている。
「これは三台作っておいてよかったな、マート」そして、毀《こわ》れた装置類を着陸ドックの石だたみへ放りなげ、「君のあの旧式の思考タンク(教育機械)をつくり直すのに、あれを君にやるよ、ダナーク」
「捨てないほうがいいですよ、ディック。後で何かの用に立つでしょう」
「いや、スクラップになるだけだよ」
「じゃ私がしまっておきます。いつかあの種類のスクラップが必要になるかもしれませんから」そう言って、遺棄された計器や装置を貯蔵するよう命令を出した。
「よし、まず手初めは、水圧ジャッキを装置して、宇宙船をまっすぐに据えなおすことだ」とシートン。
「柔かい金属でつくったこの宇宙船は廃棄して、アレナック金属で作りなおしたらいかがですか? 塩はたくさんあるんでしょう?」
「そりゃいいところへ気がついてくれた。塩は二年分ある。百ポンドぐらいかな」
百ポンドと聞いて、ダナークが眼を丸くした。地球事情は知りながらも、この貴重物質の量に度肝《どぎも》をぬかれたのである。何か言いかけたが、混乱して絶句した。シートンにはダナークの心情がよくわかる。
「君に三十ポンドぐらいやってもいいよ、なあマート、かまわんだろう?」
「かまわんとも。大変なサービスをうけてるんだから、ぼくもそのつもりでいたのだ」
ダナークは塩の寄付を、眼をかがやかせて感謝した。しかし、くだくだとお世辞は続けていない。すぐ一小隊の将校に護衛させて、自ら貴重物資を運んでいった。帰ったダナークは一連隊もの技術工員をつれている。まず、動力バーが、アレナック金属を使っても、鋼鉄を通してと同じように作動することを確認し、それから機関銃のように無数の指令を数人の隊長に与えてから、シートンのほうを振り向き、
「もう一つだけお聞きすれば、技術員はすぐ建造にかかれます。壁の厚みはどのくらいにしますか? 私たちの航空戦艦は一インチのアレナック板をつかっています。塩が少ないので、それ以上厚くできないのです。しかし、皆さんのところには、くれてやるほど塩があり、それにこれは厳密に、複製工程ですから、今までのとおり四フィート厚にしましょう。そうすれば図面をひく手間も省けるし、機関銃座その他の設計し直しをしなくともすみますから」
「なるほど。四フィートも必要じゃないんだが、そうすれば時間が助かるからね。それに、ぼくらも慣れているし……。よし、それでいってくれたまえ」
ダナークはまた指令を矢継ぎばやに出した。機械工たちが一挙手一投足の無駄もなく作業を開始すると、ダナークはしばらく深い物思いに耽《ふけ》っていた。
「マルドナーレのことが心配なのかい、ダナーク?」
「ええ。ナルブーンが持っているという新兵器――何だかわかりませんが、気になってしようがないんです」
「これと同じ宇宙船、もう一台作ったらいいじゃないか、四フィートのアレナック板を使って。そしてマルドナーレを地図の上から消しちまえばいい」
「宇宙船体はすぐ作れますが、Xがまったく不明です。それに、Xはこの惑星にはないんです」
「君が慎重にならなければならん気持はわかるが、ぼくたちはたくさんXを持っている。少量だったら分けてやってもいい」
「お受けできません。塩みたいな具合にはいきません」
「いや、ぼくたちはXが無尽蔵にある惑星を知っているんだ。そこからいくらでも手に入る。当面必要な分は十分に手元にあるから、使うといい」そう言って、X金属の重い一塊をエアロックまで運び、着陸ドックの石だたみに投げだした。「取っておきたまえ。そしてジャンジャン働いてくれよ」
コンダールの機械工たちは、地球では考えられないほどの器用さと、これまた珍妙な工具をつかって、孜々《しし》として立ち働いている。シートンは、恍惚として、その仕事ぶりに見とれていた。船体内部は複雑な足場を組み、それで支持されている。金属板や部材はまるで紙みたいに造作もなく切断された。そのうちに、斥力《せきりょく》発生帯を取りつけるための溝までつけた球体が、密質で固練りの可塑《かそ》的なアレナック合金で塑型された。球体には、全体を中心から井桁《いげた》状に支える支柱から、中央機械室まで、全部が組み込みで塑型された。溶接接続やリベット止めとは完全に異なる工法である。また鋳造成型ともぜんぜん違う。形が出来あがると、必要な部分だけは精密に切りとられ、残る全体が一個の巨大な花崗岩《かこうがん》のかたまりのように、急速に永久固体化していった。
次は研磨《けんま》である。これにはきわめて薄い塩の溶液をつかう。研磨工は特殊技能者で、塩の溶液を一滴もこぼさないよう細心の注意をはらった。プラチナ・プレートが球体の適所にクランプされ、そこから人間の脚ほども太い銀ケーブルが、強力集束ビーム誘導発電所端子まで這わされた。銀ケーブルに電流を通じると、とたんに巨大な球体はガラスよりも透明なアレナック合金に変化した。
かくて地球人は、かつて見たこともないような宇宙船をもつことになった。最強最硬の鋼鉄の五百倍も強靭で硬質な金属でつくられた、四フィート厚の外殻《シェル》――それが世界最高のエンジニアの設計になる支持枠組で補強され、全体が継目なしワンピースとして形づくられたのである。考えられるかぎりの兇暴な破壊力も、この強大無比の構造物には刃がたたない。しかもその内部には、およそこれより強大なものは考えられないというほどの動力源が収蔵される!
足場がはずされた。柱、部材、ブレースに黒ペンキが塗られ、視覚に錯覚を与えないよう、可視体にされた。各キャビンの壁も、一部を透明に残し舷窓として使う以外に、ぜんぶ可視的に塗装された。
建造の第二次作業もほとんど終末に近づいた。シートンとクレーンはその素晴らしい出来ばえに感動を禁じることができなかった。
「どちらの船体も明日完成する。残りは計器その他ぼくたちの担当部分だけだ。別の工作部隊がきて、睡眠期間中に銃器と付属機器類をとりつけて終了となる」
結婚式は第四食事前に挙げられることになっているので、三人は宮殿へ戻った。クレーンとシートンは服装のためであるし、ダナークは万事万端の準備終了を確認するためであった。
シートンは、侍者にスーツケースをもたせて、クレーンの部屋へ行った。
「洋服のスーツケース持ってこなかったろう――バカな!」とシートンが詰《なじ》った。「君のことだから万事抜かりはないと思ったが、やっぱりミスがあるんだな、坊ちゃん」
「痛いね、そうこられると。幸い君がよく気がついてくれた。相変わらず頭の回転が早いな、君は。白服がぼくたちの最高の正式礼装じゃないとは、ダナークだけしか知っとらんだろうな」
「でも彼は喋らんだろうから大丈夫だ」
着替えを終ったらダナークが入ってきた。
「ちょっと見てくれ、ダナーク」とシートン。「これで検閲をパスするだろうか? 生まれてこのかた、こんなにあわてたことはなかった。白服を着なければならんとなると、一種の精神錯乱を起こしてね、錯乱のほうにばかり気がとられて、着るほうはお留守になっちゃったんだ。……しかし、これの半分くらいも上等の服なんて、もともとぼくたちは持ってきていないんだから」
ダナークが見ると、二人ともテニス靴からオプンカラーまで純白である。二人とも背が高い。クレーンは針金のようにすらりとしている。そして白服が板について、ぎごちないところなど微塵《みじん》もない。シートンは肩幅がひろく、逞《たくま》しい体つきである。ぜんぜん気どらずに優美に悠揚と歩いてみせた。どちらも教養の高い、知的な顔である。そしてぴゅんと張り切った期待の面差《おもざ》しである。ダナークはすっかり気に入った。
「大丈夫です、皆さん。決してお世辞で言ってるんじゃありません」
シートンとクレーンが感激して出した手を、ダナークはしっかりと握りしめ、二人に永遠の幸福を望んだ。
「式次第のつぎの一項は、皆さんが花嫁と歓談することです……」
「式の前にかい?」
「そうです。これを略してはいけません。皆さん、彼女たちの手をとって。……いいえ、あなたたちはじっとそのままにしていて。そう――これを言い忘れていましたね。皆さん――特に淑女のかたは、私たちの正式手続きがこの辺の段階にくるとちょっとエゲツないとお考えでしょうね……ええ、とにかく他人の前でするんですから、地球人の標準からすればしとやかな図ではありませんが。彼女たちの腰に手をまわし、そうです、接吻して下さい。はい、それで結構。じゃあ花嫁さんはこちらへいらして」
花嫁には、ダナークの六人の皇太子妃が花嫁ガウンを着せた。ダナークの母親であるファースト・カルフェディール(第一皇后)が手落ちのないように監督した。第一皇太子妃シタールは、着付けが終ると二人を並べて立たせ、数歩退いて効果をたしかめた。
「まあお見事! 全世界でいちばんお美しい花嫁|御寮《ごりょう》ですこと!」とシタールが叫んだ。
「こんな光線でさえなかったらね」とドロシーが悲しんだ。「あたしたちの本当の肌をお見せしたいんですわ、ほんと」
シタールが嬉しい悲鳴をあげ、侍女に命じて黒いカーテンを廻させた。スイッチを押すと、部屋のなかにゆたかな白光が溢《あふ》れた。
「ダナークが照明をとりつけましたのよ」とシタールが満足げに言った。「お二人のお気持、充分にお察ししていましたの……」
そこへシートン、クレーン、ダナークが入ってきた。しばらく誰も声が出なかった。
シートンはドロシーへ眼を釘づけにしたままである。心は飢えていた。自分の眼が信じられなかった。白い素肌が練絹《ねりぎぬ》のようにつややかに輝いている。頬と唇のピンクは純粋のピンクである。豪奢な金褐色の頭髪が、その本来の色と艶をだしきって輝いている。
コンダールの花嫁衣裳でかざった二人は、この世のものとも思われない美しさであった。足にはずっしりと宝石で重いスリッパー靴を穿《は》いている。踵《くるぶし》には幾重にも足輪がはめてある。足輪にも宝石がきらきらと瞬いている。細腕にも太腕にも絢爛《けんらん》とした腕輪、咽喉には首輪、そして耳には長いペンダント。ほとんど素肌が隠れるほどに、これらの宝飾品がチラチラと火花を散らすように光り輝いているのである。だがそれにも増して豪華な結婚ガウンのすばらしさ!
ガウンは地球では知られない精細な金属繊維を厚織りにしたもので、最良の練絹よりも柔かい。そして、滲《にじ》むような薄光を放ちながら、ふんわりと膨らみ、また優美な肢体の曲線にまつわりつくのである。
黒髪と象牙色の肌をもつマーガレットのためには、コンダールの王女はガウンの布地に、純白に近い金属繊維を選び、パステル色調にきらめく無数の宝石を、混みいった文様にちりばめさせた。
ドロシーのガウンは黒と濃緑の地色である。そこにこの惑星だけに見出される不思議な緑と緋《ひ》の蛍光をはなつ宝石が精緻なデザインで縫いつけられて、ガウンの布地が隠れるほどであった。
ドロシーもマーガレットも、髪は束ねないで長くたらした。これがコンダールの結婚髪型なのである。ブラッシングを幾度も重ねた、華やかなブロンドと黒髪とは、つやつやとした、靄《もや》か霞《かすみ》のような暈《ぼか》しの光沢を放っている。ただそこへ一本のアクセントが入っているのは、こめかみからこめかみまで、頭髪の靄《もや》を横断している貴金属の線条細工《フィリグリー》で、これにも宝石がたくさんちりばめてある。
シートンはドロシーからマーガレットへ視線を移し、またドロシーを見た。驚きと憧憬とを秘めた紫色の瞳。身にまとったゴージャスな衣裳のどの宝石よりもずっと美しい二つの瞳。部屋のなかへ、王族の方々や重臣顕臣が入ってきていたが、それには眼もくれずドロシーはシートンの肩に手をかけたままである。そしてシートンは彼女のスムーズな丸いヒップにそっと手をまわして、彼女の瞳にじっと見入っている。
「あなたを愛しています――今も、そして永久に」彼女の美しい声はヴァイオリンの音もとうてい及ばない。
「ドット! 君を愛している。今も、そうしていつまでも」シートンがそう答えたとき、二人は式次第も忘れてしまって夢中で抱擁し合った。しかし愛情のデモンストレーションは、コンダールでの結婚のための基本条件を完全に満足させていたから、式次第はむしろ二の次であった。
ドロシーは眼を輝かせ、シートンの抱擁を解いてマーガレットを顧《かえり》みた。
「まあ、あなた! ペッギーの美しいことったら、あなたもあんな綺麗な女《ひと》はじめてでしょう?」
「それほどでもないさ――でもマートにはそう思わせておくことにしよう」
皇帝と皇太子が、シートンとクレーンを祭壇へ導いていった。ふだんでも燦然《さんぜん》と光りかがやいている祭壇は、今日の儀式のために特別に新しく装飾が施されていた。広いアーチの下に、オスノーム人たちは美しい衣服を着飾っていた。衣類をまとったオスノーム人は地球人には初めてで珍しかった。広い式場は美々しい礼服をつけたコンダールの貴族階級でいっぱいであった。
花婿二人は一つのドアから式場へ入った。ドロシーとマーガレットは皇后とシタールに導かれて、もう一つのドアから入ってきた。参会者はいっせいに立ち上り、荘重な敬礼をした。轟《とどろ》くような軍楽が高鳴り、新郎二人と花嫁二人が向かいあって進みだし、一段と高いプラットホームの下で出会った。プラットホームでは、今年八十歳になる高貴な容貌の、堂々たる老人が立っていた。この国の大僧正カルビックス・タルナンであることは言うまでもなかった。大僧正は両手を高く挙《あ》げた。音楽がやんだ。
荘厳な儀式であり、心にしみいるような、張りつめた光景であった。大式場はピカピカと光る金属板でつくられている。怪奇な異国的な模様が金属の壁を、はばたくように大きく匐《は》いまわっている。眼には見えない照明源から、五色のひかりがやわらかく洩れて室内を満たし、その諧調が気づかれぬうちに徐々に変わっていく。並いる王族と顕臣は不動の姿勢で立ちつくしたままである。物音ひとつしない。しわぶきすら憚《はばか》られているのである。その粛《しゅく》とした緊張の空気のなかで、双手《もろて》を高くあげた大僧正が、呪文を唱えて造物主を喚《よ》びだした。荘厳なる一瞬である。
大僧正の音声は荘重であったが、今日はまた、その人をよく知る王族や側臣すらも聞いたことのない高邁《こうまい》な感情がこめられているようであった。それだけに、一言一句が参式者の肺腑《はいふ》を抉《えぐ》り、じーんとその心の芯《しん》に浸みとおっていた。
「諸卿よ、本日このきわめて著しいエヴェントにおいて、他世界から来られた四人の方々の結婚のお手伝いをすることは、われらの名誉ある特権でなくて何であろう。只今、オスノームの歴史上初めて、一人のカルフェディックスが他のカルフェディックスの結婚盛儀を取り行なう名誉を与えられたのである。しかしながら、本日のこのエヴェントがわれらの胸のうちに深く刻まれるべき盛事であるというのは、単にそのことからだけではない。
より深い理由は――われらは今、宇宙の歴史で初めて、無限の距離によって隔てられ、同時にまたきわめて異なった進化過程、生活条件、環境の下にある二つの世界の人類が、友情と相互理解のうちに相見えるのを、この眼で確かめることができるということである。しかも、これらの他世界人たちは、善意と名誉の精神をそなえておられる。これらの精神は、森羅万象ことごとくが、その広大無辺のプロジェクトを実現する卑小な小道具にすぎないところの、偉大なる造物主によって、すべての価値ある人類の心に吹きこまれている精神である。
この故にわれらは、二つの世界の友情の名において、この儀式を取り行なうものである。
リチャード・シートンとマーチン・クレーンのお二人、ドロシー・ヴェーンマンとマーガレット・スペンサーと無宝石指輪を交換して下さい」
地球人は言われたとおりに指輪を交換した。カルビックスが愛と貞節の誓いを唱えたあと、彼らはそれを復誦した。
「この一時の結婚の上に、願わくは造物主が微笑《ほほえ》みたまい、この結婚をして永遠の価値あらしめ給わんことを。余は造物主の下僕かつ代理人として、汝等《なんじら》二人《シートンら》をば、そして汝等二人《クレーンら》をば、夫および妻と宣言する。しかしながら忘れてはならぬ一事がある。限りある人間などの鈍い眼力では、造物主のすべてを見透しなさる眼には水晶のように明らかな未来の、そのヴェールを貫くことは所詮《しょせん》できないのじゃ。汝等は互いに深く愛してはいようが、汝等の間に立ちはだかって、その幸福を損《そこ》なうような不測の出来事が発生しないとは限るまい。それ故に、汝等の結合が完全であるか否を見きわめるため、しばらくの一時期が許されなければならぬのじゃ」
しばらく息を休め、大僧正タルナンはなおも続けた。
「マーチン・クレーン、マーガレット・スペンサー、それにリチャード・シートンとドロシー・ヴェーンマン――汝等は余が前に来たり、汝等の肉体を終始結合し、魂を永遠に一つにする最後の誓いをなさんものといま心を固めている。汝等は何らの保留なくこの永遠の結婚に踏みいる第一歩の重大さを、心にしみて充分に考慮したるや否や?」
「考慮しました」四人は異口同音に誓った。
「しからば、汝等の前にあるそのヘルメットを暫時《ざんじ》かぶってみよ」
四人がヘルメットを頭につけたとたん、四台のオシロスコープのスクリーンに無数のジグザグの波線が映しだされた。式場内の参列者の誰にもはっきり見える四つの大きなスクリーンである。大僧正タルナンがその一つ一つのある波型を調べている間、水を打ったような静けさが部屋を領していた。
「参集者の男も女も残らず見たように、余もまたこの眼でしかと確かめた。汝等四人の一人一人は、永遠の結婚が許されるための必須条件である進化状態の人格を示している。よろしい……ヘルメットを取りなさい。宝石入り指輪を交換しなさい。汝等の一人一人は、造物主の御前に、コンダールの最高裁判官たちの立合のもとに、汝等がお互いをあらゆることに関して助けあい、永遠に誠実であり貞節であることを誓うか? 思考においても行動においても、汝等一人一人の心と肉体と魂とが真実と名誉の道より、永遠にわたって、決してはずれることはあらじと、心より誓うか?」
「誓います」と四人はいっせいにそう答えた。
「余はここに汝等を永遠の結婚により結ばれたものと宣言する。汝等の一人一人がその指にはめているフェードンは永遠の宝石にして、いかなる人力もそれを変えることはできず、歪《ゆが》めることはできない。フェードンは不易不変に、終ることなく、その内なる光明を放射しつづけるであろう。フェードンは、それらの宝石を抱いている金属の輪が腐食して崩れおちるまでは、年々歳々果てしなくその不滅の光明を放射しつづけるであろう。汝等の魂――以前は二つの魂であったが、今こそ一つとなり、融け得ざるまでに硬く結ばれている汝等の心は、あたかもそのフェードンに表象されるごとく永遠の進化のうちに、たゆみなく前進を続けるであろう。汝等の肉体をなすその基本物質が、そもそも肉体がそこから発生した基本物質と混合しあい、見分けがつかなくなったその後までも、永遠に進歩を続けるであろう」
カルビックスが両手をおろすと、四人の夫婦は捧げられた二列の武器の間をドアのほうへ静々《しずしず》と歩いて向かった。
案内されたところは別室であった。新婚夫婦は用意されていた登録簿に署名した。ダナークは二枚の結婚証明書を出した。証明書というのは、ピカピカと光る紫色の金属板であった。その上に英語とコンダール語で二欄に銘が刻まれている。金属板の縁《ふち》には貴石がぎっしりと嵌《は》めこまれている。地球人四人と数人の立会人が、各欄の下に署名し、その署名はすぐ薬品で処理されて金属板に刻みこまれた。
四人はダイニングホールへ護衛つきで導かれた。王者の盛餐が振るまわれた。食事コースの間、王族と顕臣たちが四人に祝辞をのべ、幸福な未来を祈念した。最後のコースがすむと、タルナンが挨拶に立ち上った。こんどもまた、大僧正の声は式の際にも参会者一同の首をひねらせた不思議な感動に潤《うる》んでいるようであった。
「わが全国民の魂は、本日あげてわれらとともにこの式場にあり、われらの珍客を歓迎しております。この方々のご友情は、何よりもまずわれらに結婚の式を取り行なう特権をあたえられたことにより、明瞭にあらわれておりまする。四人の方々は、コンダールの存続するかぎり長くその姓名を国民崇拝の的《まと》とする、こよなき恩恵をお与え下さられたのみならず、造物者が、われらの味方であることを自らお示し下された。またわれらの名誉を重んずる長き伝統そのものが、生存競争に勝利をおさめるに値する人種を造りだす唯一の基礎であることをお示し下された。
同時にまた、まったく名誉心なるものを欠如し、流血の残虐という基礎にその人種を繁栄させようとする、われらの憎むべき敵は、その方法が根本的に誤ったものであり、オスノーム惑星上より完全に絶滅すべきものであることを、身をもってお示しなされた」
聴くものはみな、大僧正の熱烈な調子に動かされたが、言われた意味は理解し難かった。だが大僧正が一段と声を張り上げ、その眼を歓びにかがやかせて、つぎのように言ったとき、参集者一同もはじめて納得がいった。
「諸卿《しょけい》らは余の言葉の意味を解せんようじゃ。オスノーム惑星上の二人種も知識や能力において大変な差を示している。それと同様、地球人もわれわれ人種とはまったく異なった知識と能力をもっていらっしゃる。遠い遠い宇宙の果てからいらっしゃった四人の友達は、すでにわれわれに強大な破壊兵器の建造の秘密を教えて下さったのじゃ。この兵器をもってすれば、マルドナーレは完全に絶滅することができるのじゃ――」
ダイニングホールに歓喜が爆発し、大僧正の声がぜんぜん聞こえなくなった。貴族たちはいっせいに飛びあがり、それぞれの帯びていた武器を高く頭上に振りあげて、四人の地球人に敬礼した。一同が着席すると、タルナンがようやく言葉を続けることができた。
「これは非常な大恩沢じゃ。これにより、われわれの進化の優越性をきわめて容易に説明することができるのじゃ。四人の地球人の友達は、はじめはマルドナーレに着陸されたのじゃ。もしナルブーンが名誉をもってこの人たちを遇したならば、この人達もナルブーンに今の恩恵を与えられたことじゃろう。しかるにナルブーンは彼らを殺戮《さつりく》して秘密武器を盗もうとした。その結果がどうなったかは諸卿らの知ったとおりじゃ。しかるにわれわれは、取るに足らぬ奉仕のお返しに、ナルブーンの陰謀が地球人のはるかに優れた進化の威力によって無残に砕かれなかったとしても、彼が与えられたであろうそれよりも、はるかに偉大なる恩沢を受けたのである」
カルビックス・タルナンが、挨拶を終って席につくと、割れるような喝采が湧きおこり、しばし混乱は止まなかった。やがて、貴族たちは立ち上って列をつくり、四人の地球人の前後左右に立って、それぞれのスイートホームへと案内していった。
「ねえディック、素晴らしい演説だったわ。あれほど感動的なことばを聞いたの初めてだわ。ほんとうに雄大な思想だわ。あのお爺さん、素敵ね。まだ胸がドキドキしているわ」
「そのとおりだった、ドッチー。ぼくの心のなかの芯にカチンと当るものがあった。あの雄弁がはじまったとたん、ぼくのイライラはいっぺんに吹き飛んでしまったよ」
しかしシートンはさすがに花婿らしく、厳粛な儀式や言葉は一日だけでたくさんであった。
「でもドッチー、ぼくは君の顔をまだよく見れなかったんだ。ほんとに君の顔が見られる白昼光だというのに。どれ、そこへ立ってごらん――おお、美しいよ、美しいよ、ドッチー。ぼくの眼は眩《まぶ》しくて狂いそうだ」
「あたしは狂わないわよ」ドロシーは彼のムードにすぐ応えて言った。「だって自分の姿を見てないんですもの。あなたがあたしの姿を見るのと同じくらい大切だわ、あたしが自分の姿を見るの」
「そうだ、自分で確かめるのはもっと大切だ」シートンは嬉しそうに眼をみはった。「だから一緒に大鏡のところへ行って、二人の眼を愉しませよう」
「あたし、ほんのちょっとペッギーを見たわよ。でもそれだけじゃわかりませんもの。たしかに彼女は素晴――」絶句して鏡に見入った。
「これがあたしなの?」喘《あえ》ぎながら言った。「これがドロシー・ヴェーンマン――いやドロシー・シートンなの?」
「そうだよ、ドロシー・シートンだよ。不可逆的にドロシー・シートンだ」
彼女は片方の足をつきだした。スリッパー靴をよく見るためだ。ガウンのすそを膝の上までまくりあげ、踝《くるぶし》と足輪を見た。両手をヒップにあて、腰から上をくねらせて鏡に映る効果をたしかめた。振り向いて上体を揺りうごかし、背に踊る宝飾品のきらめきをその眼でたしかめた。それからまた真正面から鏡に近づいて、髪型の超現実的な宝石|線条細工《フィリグリー》と、光沢で暈《ぼ》けている長髪のアウトラインをじっと見つめた。そして顔いっぱいに喜びと誇りとをかがやかせてシートンを見上げた。
「ねえ、ディック」浮わずった声で言った。「あたしこの服装で――そっくりこのままで、大統領の舞踏会へ出るわ!」
「それはできんね。いくら君でもそれだけの心臓はないだろう」
「そう思うのはあなたでしょう? でもあなたは女じゃないもの! あなた、あの虚栄心のかたまりみたいな、赤毛の模倣《ひとまね》女マリベル・ホウィットコーム知ってるでしょ?」
「君がいつか貶《けな》したことがあった」
「そうよ、あの女にこれを見せるのよ。へんな染料で髪を代赭色《たいしゃいろ》に染めた、詰めものだらけの雌狐《めぎつね》に拝ませるのよ、これを。カニの眼玉みたいに眼を飛びださせるわ、羨望と口惜しさで、フロアで卒倒するわ。いくら人真似上手の彼女でも、この豪華な結婚衣裳だけは真似できないでしょうよ!」
「九十九・九九九九……パーセントまで大賛成。でも着替えなくっちゃ。ぐずぐずしていると遅れちまうよ」
「あーあ、いやんなっちゃう。仕方がないわね……」二人で部屋を出かかりながらも、彼女はなお、鏡に映る自分の艶姿《あですがた》に見惚れている
「でも、一つだけはたしかよ、あたしのディッキー。あたし≪耳をつんざく大轟音≫ではとてもないけれど、≪めくらめく大閃光≫になったことはたしかなのよ。鏡の前、離れるの、せつないわ!」
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二〇
「どうもこの宝石が気になってしようがないんだ。何だろう、いったい?」
四人が集って第一食事を待っているとき、クレーンが薬指をつきだしてシートンに訊いた。紺青の透明なアレナック金属の台地《だいじ》の上に、コンダールの王室貴石がキラキラときらめいている。
「フェードンという名だとはわかっているが、それ以外は何もわからない」
「誰に訊いてもそれだけしかわからんのだ。そのとおりの形で産出するんだよ――深い青色で、一見透明のようだが本当は透明じゃないんだ。しょっちゅう強い青びかりをはなっている。カット、研磨など人工的に加工したものじゃないね。コンダール人が発生する電弧の真ん中に入れても焼けないし、変質もしない。そんなのは序の口だ。液体ヘリウムのなかへ漬けても変質しないんだ。別の言葉でいえば、完全不活性らしいんだ」
「酸にはどうだろう?」
「その点を疑問に思っていたんだがね。酸と、それから核融合の混合剤その他だね。なにしろオスノーム人は化学じゃだいぶ遅れているんだから、そんなことは知らんだろう。ぼくはもう一個手に入れて、何かの方法で破壊してみたいと思っているんだ。原子核構造だけでこんなに大きいということは、いくらぼくでも信じられんからな」
「原子核にしちゃ大きすぎるよ」
クレーンはそれからドロシー、マーガレットのほうを振り向いて、
「君たち、その|一つ宝石《ソリテール》、どう、気に入った?」
「完璧な美しさだわ」とドロシーが力をこめて言った。「このティファニーの台地も素敵だわ。でもこの宝石、ずいぶん大きすぎるわね。十カラット・ダイヤぐらいも大きいんですもの」
「その程度はあるね」とシートン。「しかしそれでもダナークがこの指輪に合うように、いちばん小さいのを苦心して捜したんだ。この程度のものは、あんまり小さすぎて誰も見向きもしないんだそうだ。彼らは大きな宝石が好きなんだよ。
とにかくドッチー、ワシントンへ帰るまで待ってごらん。ワシントンの連中は、君がコルク栓でも嵌めて得意になっていると嗤《わら》うだろうさ。でも夜になったらびっくりするかもしれない。びっくりしても、間違って尾灯を指につけていると憐れむかもしれない。ところがそのうちにニュースが流れていくと――そりゃ大変な騒ぎになる。宝飾店がまず嗅《か》ぎつけて、ワンサと君んとこへ押しかけてくるな。わたしに譲って下さい、いくらでも出しますってね。競《せ》りをすると、一声ごとに百万ドルずつ飛びあがるんだ。金のありあまっている老貴婦人なんか、人のもっていないものを鵜《う》の目|鷹《たか》の目でさがしまわるからね。どうクレーン、そうだろう?」
「そういうことだよ。ぼくたちはずうっと指輪をつけているから、しょっちゅう宝飾屋の眼につく。宝石の専門家は、ひと目で新しいものだとわかる。ユニークな、眼玉のとびだすほど高価なものだと踏むだろう。結局、宝飾関係が大騒ぎして、ぼくらはその渦中にまきこまれる、好むと好まざるとにかかわらずだ。大昔から、大きなダイヤモンドなどはみんなそうだ……」
「そうそう……ぼくはそこまで考えなかった。どうだい、その気持? ちょっと悪くないな、ドッチー。ぼくたちは、そこらの泥かなんかみたいに、ごくありふれたものとして、ごく気軽な態度で指輪をつけているんだ。真実ただ結婚のしるしに嵌《は》めている――これは本当のところだものな」
「まあ素敵だわねえ」とマーガレット。
「ところが一個や二個じゃないんだ。永久使用、バッテリーなしの駐車ランプを市販できるぐらい、つぎからつぎと、どっさり持っている。それだけじゃない。さっきもドットが言ったんだが、ぼくたちのガール・フレンドは結婚衣裳をつけて、大統領主催の舞踊会へ出るというんだ。これがまた大変な宣伝効果だ。ダイヤモンドが一個どれだけの値段だか知らんが、一枚のドレスに三十八ポンドの宝石を着けているものは一人もおらんだろうからな」
「そうなると結局、指輪が欲しくてぼくたちの女房を殺すなんていう奴は、すくなくとも論理上はなくなるわけだ」
「それはそうと、あなたの結婚証明書読みました、ディック?」
「いや、まだ。どれ、見てみようや、ドッチー」
彼女はずっしりと宝石で重い金属板の文書を取り出した。金褐色とブラウンの頭が二つ仲良くならんで、英語の文面を読んだ。二人の宣誓の文句が、署名といっしょに刻まれていた。シートンは、署名の下に彫ってある立会人の名前を見てにっこりと笑った。そして声を出して初めから読んだ。
「オスノーム惑星コンダールの教会首長であり国防軍最高司令官たる余はつぎのことを証明する。余はこの日、当該惑星当該国家のコンダレック都市において、コンダールおよびワシントン特別区両婚姻法に厳にもとづき、リチャード・ボーリンガー・シートン哲学博士とドロシー・リー・ヴェーンマン音楽博士をば永遠に解きほぐされることなき婚姻の絆《きずな》に結びあわせたものである。
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結婚立会人――
コンダール皇帝ローバン
コンダール皇后テュラール
コンダール皇太子ダナーク
コンダール皇太子妃シタール
マルク・C・デュケーン(地球アメリカ合衆国ワシントン特別区)」
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「いやはや大した文書だな」とシートンが叫んだ。「ワシントン特別区の婚姻法に則《のっと》っているって、どうしてわかるんだろう? 適法かどうかわかるものか。≪永遠に≫とか≪解きほぐれることなき≫とか、アメリカ風の結婚にしてはずいぶん大袈裟な表現じゃないか。君たち地球へ帰ったらもう一度結婚式をやり直すかい?」
ドロシーもマーガレットもはげしく首を振って抗議した。
「いや、その必要はないだろう」とクレーン。「ぼくはこのまま登録して、裁判所の承認をもらうつもりだ。裁判所は当然適法を認めるよ」
「あまり自信がないな。人間が不死の魂を永遠に縛りつける契約をむすぶ能力があるなんて、法律で前例はないだろう?」
「そうかしらね。しかし、ぼくらの弁護士が法廷闘争を終ったときは判例ができるだろう。ディック、君はシートン=クレーン技術工学会社が実に優秀な法律スタッフを擁《よう》していることを忘れているね」
「そうだ、忘れていた。たしかにうちの弁護士たちは面白がってこのケースをいじりまわすと思うよ。……ああ、お腹が空いた。ベルが鳴らないかな」
「あたしもよ」とドロシー。「夜食のない生活なんか、ほんとに慣れ切れないわ」
「それに食事から食事までの時間が長すぎるものな」とシートン。「ほら、有名な二人の知事が酒と酒の間が長すぎると言ったろう?」
「あら、あたしが言おうとしたことを、どうして知ってるの?」
「亭主の勘《かん》というやつだよ」とシートンが笑った。「それに、食事間隔六時間システムに慣らされない胃袋が、下から衝《つ》きあげてくるんだ」
食後、男性たちは新規建造中のスカイラーク号へ急いだ。すでに睡眠期間のうちに、斥力ビーム発生帯が取り付けられていた。さらに銃器と計器類、コンダールの無線放送受信装置一式などが装備されていた。動力バーを取り付けさえすればスカイラーク号は飛びたてるばかりに完備されていた。これと双生児《ふたご》の設計になっているコンダールの宇宙船(≪コンダール号≫と名付けられた)は動力バーと計器類がまだ装備してなかった。
「銅の具合はどう、ダナーク?」とシートンが訊いた。
銅のことがいちばん心配だった。
「まだはっきりしたことはわかりません。材料収集班を市中に出して、銅スクラップをさがさせているのですが、まだあまり集めていないようです。ご存知のように、プラチナ、イリジウム、銀みたいには一般に使われないものですから。むしろ金のほうがはるかに一般的に使われています。製銅工場建設を全能力で急いでいるのですが、処女製品が産出されるまで一日か二日はかかりましょう。私たちの宇宙船の計器類と制御装置は、こちらで作る意気込みなんです。お二人、すこしお暇があったら手伝って下さるでしょうね」
二人は喜んで援助すると言った。クレーンは、コンダール宇宙船につける計器類は全部イリジウムでつくることになっているので、この極度に硬質で頑固な金属をダナークたちがどんなふうに加工するか、興味|津々《しんしん》たるものがあった。
同時にシートンはダナールに、スカイラーク号にできるだけ多量のプラチナを積んでくれるようたのむのを忘れなかった。
≪プラチナ≫という単語を耳にしたとき、デュケーンの眼に異様な光がまたたいたのを、シートンもダナークも気づかなかった。
計器製造工場へ行く道すがら、シートンがクレーンに言った。
「それよりぼくが解《げ》せないのは、あのアレナックだよ。甲冑《かっちゅう》そのほかに使っているだけじゃない。君は剃刀の替刃《かえば》を見たかい?」
「見ないでいられるものか」
「どうしてあんなに硬いのか、まったく見当がつかん。アレナック粉の研磨機で四十年間|砥《と》ぐというんだ。ダイヤモンド粉では柔らかくて砥げないという。しかしいったん砥ぎ上ってしまうと、十人の人間が毎日剃って、千年も使って、まだ初めのときと同じ切れ味だというからな。科学への貢献というのは、あの金属にして初めて奉《たてまつ》れる賛辞だと思うな」
ダナーク自身の異常なまでの熟練技術と、彼の使用する、これまた異常に精密で超能率の自動工作機械の賜物《たまもの》であろう、コンダール宇宙船用の計器類はおどろくほど短時間に出来上った。
まだ製作進行中のことであったが、銅スクラップの収集を担当している収集班の班長が中間報告に来た。今までのところ、動力バー二本をつくって少し余るぐらいの銅が集ったということであった。そこで、各一本を各宇宙船のエンジンに挿入した。
「よくやってくれた、コラニックス(技師)・メルネン」とダナークが労《ねぎ》らうように班長に言った。「こんなに集めるとは思わなかった」
「市中をさがしまわって、一片の同スクラップも全部回収しました」班長が誇らしげに答えた。
「よかった!」とシートンも心から叫んだ。「銅バーが一本ずつ着いたのだから、すぐ飛行できる。さあ、メルネン君、君も来たまえ」
「来させるわけにいかないのですよ」とダナーク。「≪行かせる≫んですよ。一台で一本じゃあまりに心|許《もと》ない」
「それもそうだ。武力侵攻の目的では一本じゃ足りない。じゃあ、君の船に二本使ったらいい――おっと待てよ、二本といっても五十歩百歩だな」
「そうですよ、ディック。最低四本欲しい。しかし私は八本つくります。何かあの製銅工場の作業をスピードアップする方法がありそうなものですが……私にはどうしてもいい方法が考えつかない」
「スピードアップだって? 今でももう大変なスピードで進んでるじゃないか。地球だったら、溶鉱炉と精錬所をつくるには何日というんじゃなく、何カ月もかかる」
「私は工場へ行ってみようかとも思っているんですが、しかし……」
「≪しかし≫が当然だよ。君が工場へなど乗り込んだ日にゃ、スピードアップどころか、工員が、すったまげて眼をまわすのがオチだ」
「そうかもしれませんが……それにしても……」
コンダールの皇太子がまだためらいながら立っているとき、SOSの電話連絡があった。数百マイルの遠方で、一台の輸送機が一羽のカルロンに追跡されているというのである。
「さあ、君がスピードアップの方法を考えめぐらす時間だよ」とシートンはダナークをからかった。「ぼくたちは班長をひっぱっていく。君んとこの科学者を追っぱらってくれ!」
スカイラーク号は直ちに発進して、怪獣とも怪鳥ともつかぬ巨大な動物を追跡した。
シートンは牽引ビームの焦点を怪獣にあわせ、動力を入れた。怪獣は後方へ、そして上方へと牽引された。怪獣は、ちっぽけなスカイラーク号をそれこそ宇宙の雲雀《ひばり》とでも錯覚したのであろう、醜怪な肉食の嘴《くちばし》を開いて襲いかかってきた。シートンはその鋭い嘴で斥力ビーム発生帯が剥《は》がされては大変だから、急いで発生帯のスイッチをいれた。突進してきた怪獣は、自分の推力と斥力ビームの力とが釣りあって、空中に固定されたまま、死にもの狂いでジタバタしている。
シートンはそのままの状態で、怪獣を飛行場まで引っぱり込んできた。ジタバタもがく奇獣を曳行《えいこう》したというべきか。
飛行場へ着くと、牽引ビームと斥力ビームを巧みに操《あやつ》りながら、三人の地球人はとうとう巨獣を地上に捻《ね》じ伏せることができた。そこへさらにダナークの宇宙船も協力したが、さしも強力な二つの宇宙船のビーム力をもってしても、凶暴な触手をまったく地上へ釘《くぎ》づけにするということはできなかった。コンダールの科学者が航空戦艦および重装甲タンクのなかから巨獣に接近して、これを観察した。
「肉体を粉砕しないで殺したいんだがな」とダナークが無線機で連絡している。「何かうまい方法はないか?」
「はあ、おそらく毒ガスか何かより方法がないんじゃないでしょうか」と科学者の一人が答えてきた。「しかし、どんな毒ガスかわかりませんし、たとえわかっていても、いますぐ製造するわけにはいきません。結局粉砕よりほかに方法がありますまい。でもこうやって気長に苦しめて疲れさせるのも一法ですね、ときどきまだ生きているかどうか確かめればいいのですから」
科学者たちが協議して方法を報告してきたので、シートンはまた宇宙船を高空へ飛び立たせ、動物の巨体を二、三マイルばかり空中へ持ちあげ、牽引ビームのスイッチを切った。
そのとたんに、雷の鳴るような激しい音がした。そしてカルロンは、このちっぽけな宇宙の雲雀《ひばり》が恐ろしい大敵だと悟ったのであろう、一目散に逃げていってしまった。
「あの音は何だろう?」とクレーン。
「さあ? また一羽現われたのかな。それとも奴の鱗《うろこ》を二枚か三枚ひっぱがした音かな」
シートンは答えながら、怪獣を追った。
カルロンは、おそらく生まれて以来、自分よりもスピードが速く力も強い生きものに遭遇したのは初めてであったろう。その巨翼にからだ中のエネルギーを傾けて遮二無二《しゃにむに》飛んだ。首都コンダレックの上空はとっくに過ぎ、周辺の田園も越し、すでに外海上空へかなりまで進んできた。だがマルドナーレ国境近くなると、航空戦艦の一編隊が巨獣を迎撃に上昇してきた。シートンは作りなおしたスカイラーク号を間近に見られるのを嫌い、巨獣を高高度へ放りあげた。
「突っ込め、怪物め!」とシートンは叫ぶ。「海の底まで潜《もぐ》る気なら、こっちも負けはしないぞ!」
怪物と宇宙船が海面を打ち、巨弾の落ちたような二つの水柱が天に昇った。
ドロシーは思わず息をのみ、ハンドホールドにつかまって両眼をとじた。この世の終りかと思ったからである。だが不思議や、海面をうった衝撃はまったく感じられない。スカイラーク号の新しい船体はそれほど強力構造であり、この巨船を動かす推力は、それほど厖大《ぼうだい》であったわけである。
シートンはすぐさま探照灯のスイッチをいれ、巨獣に迫っていった。
巨獣はどこまでも逃げていく。海底を深く潜《もぐ》っていく。
シートンたちも、海中へ入ってみると、スカイラーク号での居心地はすこしも変わらぬ快適さであった。
探照灯が奇怪な海中の景観をあばきだした。
海中生物のなかには奇怪な魚がいた。慣れない探照灯の光芒のなかで、魚たちはきょとんとした顔つきであちこち逃げ回っている。カルロンがなおも深度を深めるうちに、生物の姿がしだいに稀《まれ》になっていった。しかし地球人は宇宙船の舷窓から、悪夢のような深海生物の奇態を垣間《かいま》みることができた。カルロンはさらに潜り、ついに海底に達し、沈泥を煙りのように蹴《け》立てながら、そこでへたばったかに見えた。
「どのぐらいだ、深度は?」
「もうすこしで四マイルというところかな」とクレーン。「はっきりした数値はまだ出ていない」
「そりゃそうだろう。あんまり潜水が早すぎたものな。歪《ひず》み計は大丈夫かな?」
「ゼロ目盛からちっとも動いていないよ」
「へーえ! そりゃ大ニュースだ。歪みはないだろうとは思っていたが、まさかゼロとはな。これが鋼鉄製の船体だったら、歪み計はとっくに赤を指していたろう。すごい材料だ、まったくこのアレナックというのは!
よおし、可愛い奴は、あくまでもあそこに居坐って、ぼくたちを煙に捲《ま》く気らしいぜ。おいこら、可愛い化物、出てこい! もっと他処《よそ》へ行こうや!」
シートンの呼びかけに答えたわけでもあるまいが、カルロンは今度は上昇を開始した。すごい浮力、そして速度である。
スカイラーク号も後を追っていく。
海面へ出ると、怪獣は高高度をとろうとした。シートンは追いかけたが、怪獣の高度があんまり高いので、彼は度肝をぬかれた。
「こんな稀薄な空気のところまで昇るとはちょっと信じられん」
「ひどく稀薄だ。一平方インチあたりわずか四・一六ポンドだ」
「その辺がやっこさんの上限だろう。こんどはどうするか、見物《みもの》だね?」
それに答えるかのように、カルロンはコンダールの低地帯をめざして降下した。
そこは沼沢地で、有毒植物や有毒爬虫類の棲家《すみか》である。地面へ近づくと、シートンはスカイラーク号の下降速度をゆるめた。
「やつはペシャンコになるか、何かをぶっ毀《こわ》すか?」
だが、カルロンはペシャンコになるどころか、まるで海中へ沈んでいくかのように、頭を先にして泥地へ突っこみ、見えなくなってしまった。
意外の成りゆきにシートンはびっくりし、スカイラーク号を空中に停止させ、一方牽引ビームを全出力で下に向けて集中した。
牽引ビームの最初の一撃では、ただ泥の柱が持ち上ったばかりであった。二度目の集中で、ようやく翼片いっぽうと一本の肢《あし》が泥のなかから出てきた。
第三撃!
動物が全身を浮かびあがらせたが、やつは相かわらずへたばらずに猛烈にもがいている。
シートンは牽引ビームの出力をすこし緩《ゆる》めた。
「また泥のなかへ潜ったら、こちらも追いかけていく」
「船体が耐えるだろうか?」とデュケーンが訊いたとき、はたして怪物はもう泥のなかへ潜っていった。
「何にでも平気で耐えるさ。泥のなかでも何でも、みんな頑張ったほうがいい。震動がひどいかどうか、見当がつかん」
震動はほとんどなかった。スカイラーク号が、やすやすとものの一分間ばかり、泥中を下へ下へと潜ったころ、シートンはクレーンのほうを振り向いた。クレーンはさっきから何もしないで、計器盤に向かって坐ったまま、ニヤニヤしているのである。
「何を笑っている、こいつめ?」
「君が何を追ってきたのか、何のために潜ったのか、わからんからさ。ここの計器はみんなウソをついているよ。どれもこれも、一生懸命にウソをついている。半固体の流れだものね、液体とは違う」
「えっ……うーむ、そうか。探照灯もレーダーも効《き》かずか。しかしぼくたち、測探機か速度計なら作れるな」
「時間をかける気さえあれば、つくれるものはたくさんあるよ」
「ところが時間がないときている」
数分後、シートンは再び怪物を泥表へ、さらに空中へと追いあげた。だが、怪物はすこしも疲労をみせず、またも襲ってきた。
「もうこれくらい追っかければたくさんだなあ。やっこさん、自分の棲家《すみか》へ帰りたくないと見える――もっとも泥のなかに棲家があるのかもしれんが、まさかそうじゃあるまい。さて、こう遊んでばかりもいられない。そろそろ引導を渡すとするか」
第五号銃弾が発射された。爆発の衝撃で大地は波浪のように揺れ動いた。
「あっ、しまった。たったいま、いいことを考えついたんだが!」とシートンが叫んだ。「やっこさんを引っぱりだして、この惑星をまわる軌道に乗せるべきだったな。水も空気も食物もないとなったら、いつかは化け物もくたばるだろうに。そして絶好の研究資料になったのに、惜しいことをした」
「まあ、何という恐ろしいことを考えるの、ディック!」ドロシーが血走った眼でシートンを睨《にら》んだ。「いくらあんな怪物でも、そんなむごい死に方をさせる気持はないでしょう、あんた!」
「そうだった、とてもぼくにできることじゃない。とにかくやつは勇敢に闘ったのだから、いつかダナークにこの手を教えてやろう、彼がその気なら」
スカイラーク号が宮殿へ戻ったのは第四食事すこし前であった。
食事が始まったとき、ダナークがシートンに重大ニュースを伝えた。製銅工場はあと数時間中に操業を開始する。最初の精錬銅バーは、(コンダール時計で)ポイント三十四、すなわち、翌《あ》くる≪日≫の第一食事のすぐ後に生産ラインから飛びだしてくるというのである。
銅ができる!
「そりゃよかった!」シートンが思わず歓喜の叫びをあげた。「君は≪コンダール号≫で待機しといてくれ。最初の銅バー八本は君がとり、すぐ発進する。うわわわわアー! マルドナーレが潰滅《かいめつ》だ!」
「だめですよ、シートン。ちょっとお考えになれば、それは不可能だということがおわかりでしょうに」
「あっ……そうか。倫理規程があったんだったなア。君に規程は破らせたくない。しかし君……こんなチャンスは二度と来ないんだ、何とか倫理規程をすこし緩和するわけにはいかんのか?」
「それはできません」きっぱりとダナークが拒否した。
「しかし考えてごらん、ダナーク」
「だめといったらダメです」
「うーむ、そうだったか……悪かった、ダナーク。ぼくの無知からだ。君に教えられた倫理規程、ぼくはざっと目を通しさえしなかったんだ。君の言うとおりだ。ぼくはちゃんと規程に従ってサヨナラをしよう」
「いったい何なの、ディック!」とドロシーが耳もとで心配そうに訊く。「あなた、ダナークに何をしたの? あの人、いまにも癇癪《かんしゃく》玉を爆発させるかと思った!」
「いや、実にうっかりしたことを言ったのだよ」とシートン。その声はかなり高かったので、ダナークにもそれは聞こえた。「それは、君にぼくの出発スケジュールを打ち明けるべきじゃなかった。ぼくの考えた出発スケジュールが変更させられたのだよ、ダナークが肯《き》かないのだ」
「どんな?」
「うむ、コンダール号に先に銅をとらせて、すぐマルドナーレ攻撃へ進発させるというのがぼくの考えだった。ところがダナークは倫理上そんなことはできないと言い張る。コンダールの人びとの考え方ではどうしてもそうなるんだ。スカイラーク号が先に銅をとれというんだ。コンダール号は後だと頑張るんだ。ダナークは、ぼくたちを正式に見送らないうちは、金輪際《こんりんざい》マルドナーレ攻撃に進発しないと言い張るんだ」
「すごく義理堅いのね」
「それにしても、ダナークもわからんやつだよ、ぼくがあれほど地球人の習慣を教えこんでやっているのに――とにかく、サヨナラをするときには、君とぼくはちゃんと礼服を着なければならんというんだ。アタマに来ちゃうが、まあ倫理規程で仕方がないさ」
「礼服に着替えるだけでしょ? たいした時間がかかるわけじゃなし、差しつかえないじゃないの?」
「いや、そうじゃない、すこし遅れても大変なことになる。マルドナーレがいつ襲撃してくるかわからない。銅バー生産を急がせた。それがいち早く生産コンベアから転がり出てくる」
「でも、礼服を着るなんて二十分か三十分よ」
シートンはしばらく考えていたが、
「うん、そうか! たいした狂いじゃない。すでにこれだけ遅れてしまったんだもの、三十分くらいどうだっていいや。よしダナーク、君の技術員がもうプラチナを積んでいると思うが……」
「積んでおります。第三号倉庫をいっぱいにしています」
「すごい腕だな、シートン」とデュケーンが横合いから、冷酷な眼を光らせながら言った。「ぼくは以前からときどき考えていたんだが――X金属をつくるために、宝飾品からプラチナを回収し、実験室へ持ち帰って精錬する方法が何かないものかと。今度の君の計画で、容易にそれが達せられる。百万ドルからの大金を儲《もう》けるチャンスをふいにする君の判断はあまり評価できないけれど、これで宝飾屋がプラチナを使わないようになるのが嬉しい。もっとも、宝飾屋が、もうプラチナは宝飾品に使えないしろものなんだということを、どうやって納得するか、ちょっと気がかりだけどな」
「そんなことはなさい。宝飾屋は相変わらずプラチナを使うよ。使いたいだけ使うさ」とシートンは何の邪気もなく言った。
「ただし、ステンレスと同じくらいの安値でな」
「貴様――いったい誰をからかっているつもりなんだ?」
デュケーンのつぶやきは、シートンへの反問というよりは、氷のように冷酷な嘲笑であった。
翌くる≪朝≫――という言葉は当たらないが――≪朝食≫直後、両宇宙船は山のなかの製銅工場へ飛びたち、製銅工場の生産ラインから必要なだけの銅バーが転がり出る予定時間ぴったりに、そこへ着陸した。スカイラーク号がまず銅燃料を積み、ついでコンダール号が銅バーを積んだ。
両宇宙船は緑の平原と首都上空を通過し、一秒の何分の一も狂わぬ正確な予定時間に、宮殿敷地内の着陸ドックに安着した。
両船の乗組員は外へ出、準不動の姿勢で整列して待った。三人のアメリカ人は二、三十分もかかって白服に着替えていた。二十人のコンダール高級将校は制式の正装ローブを着ていた。
「やっこさんたちのサービスだ。七面倒くさい倫理規程さ」シートンがつぶやいた。唇がほとんど動かない。そばにいたクレーンだけにしか聞きとれなかった。「コンダール人たちを喜ばせるため、予定秒数だけ待つ、仕方なかろう」
言いながら、上空をおおっている、おびただしい宇宙戦艦や軍用機の群へちょいと眼をやった。
「王侯諸侯やお偉方が、ぼくたちの女房をつれて現われたら数秒間不動の姿勢をとる。一方、上空の宇宙戦艦が敬礼をする。ちぇっ! 下らんお芝居だ」
「だってぼくたちのガール・フレンドがどんなにお涙ちょうだいの訣別《おわかれ》を楽しんでいるか、すこしは察してやれよ、ディック」クレーンがシートンの逆手をつかって言った。「結局、君もそうするじゃないか――こぼすことはないだろう?」
「何言ってる! ほんとは、バカヤローとどなってやりたいんだ! ドッチーを呼んで、早くしろと急がせたいんだ!――でも、ぼくにそれはできない。ダナークがああいう義理堅い男だから、ぼくはおとなしく、クソ真面目にサヨナラをしなけりゃならん。ほんとうは面白いもんか、こんなくだらん……」
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二一
厳粛な沈黙が突如として破られた。
ベルが鳴り、サイレンが咆哮《ほうこう》した。警笛が鳴った。コンダール市中のあらゆるラジオ、観測セット、通信器が瞬時に喚《わめ》きはじめた。
空襲である。空からの、火急、破局的、奇襲的侵略である。
シートンはいちばん近いエレベーターへ飛んでいったが、ダナークが叫ぶよりも早く、スカイラーク号へ駆けもどった。
「乗ってはいけません、ディック――発進の時間がないんです! 防空|壕《ごう》へ逃げる時間はあります。壕のほうが安全です。マルドナーレ人の強制降下さえ阻止できれば……」
「奴ら降下などするものか――降りれば地獄だ!」
三人は、スカイラーク号へ飛び乗った。シートンは制御盤へ、クレーンとデュケーンは機関銃座へ。
クレーンがマイクを取り上げた。
「通信は英語で!」シートンが振り向きもせずにどなった。
「ガール・フレンドたちには絶対に答えるなと言いつけるんだ! 敵は一フィートの間違いもなく、彼女たちの居場所をつきとめる。ただ、ぼくたちは安全だと言え。ぼくらがごろつきギャングどもをなぎ倒すまで、じっと坐ってろと言ってくれ!」
デュケーンが機関銃弾ベルトの容量を一箱空けている。
「どれを先に使う、シートン? どの一箱も、そう長い戦闘にはもたんようだぞ」
「五号から射ちはじめて、六、七……十号へいけ。それで充分のはずだ、足りなかったら、四号から順次、下へ」
「五号から十号へ。四号から下へ。オーケー」
すさまじいプロペラの轟音がしだいに高鳴りを強めていく。と、激しい震動音が響いてきた。宮殿の北の一翼が瞬時に消え、もうもうたる砂塵《さじん》と残片の巨雲が舞いあがった。
上空はマルドナーレ宇宙戦艦の大編隊で文字通り埋められている。どれも巨大な超弩級《ちょうどきゅう》戦艦である。各機とも数百の銃座を装備していると思われる。すでに高性能砲弾の豪雨が、コンダレック市街をほぼ廃墟と化しつつあった。
「待て!」レバーにかけられたシートンの手が、一瞬とまった。「コンダール号を見ろ――変だぞ!」
コンダール号では、ダナークが制御盤にとりつき、乗務員もそれぞれの部屋についてはいたが、身体の動きを全然コントロールできず、もがき苦しんでいる様子である。だが、シートンがどなり終ったころ、コンダール人たちは体力が尽き果てたか、すでにぐったりとなった。手は何かにしがみついたまま、意識を失ったのか死んだのかわからないように、とにかく静かになった。
「苦しいだろうが、これで慣れていくんだ。よし、発進!」
シートンが叫んだとき、スカイラーク号の巨体を支えている着陸ドックが割れて、崩れ落ちた。
洪水のような砲弾の流れがスカイラーク号に突き当たり爆発を繰り返している間、三人はこの世の終りが来たと思った。
だが、そうではなかった。アレナック合金、四フィート厚の装甲は難攻不落であったのである。シートンは宇宙船を発進させ、垂直にマルドナーレの大編隊の真っ只中《ただなか》へ突入していった。クレーンとデュケーンは機関銃座についていた。発射は慎重をきわめた。充分に連続放射的に、だが有効な間隔をおいて――一発一発にその十全の威力を発揮してもらわなくては困るのだ! 強力X爆薬銃弾の一発ごとに、敵宇宙戦艦一機ずつが消滅していった。その衝撃音はすさまじく、マルドナーレの砲弾は強力ではあったが、圧倒されて、ぜんぜん音は聞こえてこなかった。
「ディック、君はまだ斥力《せきりょく》ビーム帯のスイッチを入れてなかったな!」とクレーンが叫んだ。
「そうだ――ちくしょう、何ていう狂い方だ!」とシートンがどなり返した。
耐えがたい轟音と爆発音がいっとき小やみになり、斥力ビーム発生帯のスイッチを入れたシートンの声がギャンギャンと船内にひびいた。
「うわーッ、すごいぞ。空気分子までも押し戻していらるしいぞ!」
スカイラーク号はいま、上から下から、滝のようなマルドナーレ砲弾の集中攻撃を受けていた。砲弾だけでなく、敵は誘導ミサイルまで使っている。強力集中ビーム誘導の魚雷であり、想像を絶する威力弾頭をつけている。だが、それですらもアレナック船殻に到達することができない。砲弾も魚雷も、純粋力《ピューア・フォース》の非物質の壁にぶつかり、目標から百フィートばかりもはずれた虚空で炸裂し、連続的に強烈な火炎と閃光の帯をつくりだすだけである。
一方、クレーンとデュケーンは慎重な射撃をつづけている。すでに侵入編隊の半ばが破壊されていた。二人はいま、第六号と第七号をつかっている。七号に当った敵艦は木っ端みじんに飛散するだけではない。瞬時に粉末化するのである。蒸発といってもいい、ただ一瞬のうちに消えて無に帰するのである。
突然――砲弾の嵐がやみ、スカイラーク号は、千二千の投光器より発する目くらめく光束のなかに把えられた。強烈な光線である。肉を灼《や》き、瞼と眼球をつらぬき、脳にまで喰いこむ光線である。
「眼をつぶれ!」レバーを前押しながらシートンが叫んだ。「頭をさげろ!」
スカイラーク号は身震いとともに虚空へ飛び出た。
「原爆の閃光に近いな」とデュケーンが信じられないというふうにつぶやいた。「こんなところで、どうしてあんな光を発生できるんだろう?」
「わかるもんか」とシートン。「どうしてなど問題じゃない。対策だ」
三人は至急に相談し合った。
宇宙服を着ることにした。宇宙服は濃い赤色に塗られている。ヘルメットの下に、超厚質の溶接用遮光眼鏡をかけた。煤《すす》のような真っ黒な特殊ガラスの眼鏡である。
「これでやつらのいやがらせもカタなしだ!」
シートンが陽気に言い、レバーを押して、スカイラーク号をマルドナーレ艦編隊のまっ只中へ急降下突入させた。
敵が投光器の一斉照射をするまでに約十五秒の間があった。この短時間に、約二十機が蒸気と化せしめられた。だが今度は、殺人光線だけではない――
三人は異様な、強烈な震動を聞いた。いや感じたというほうが正確である。音のない音波のようである。通常の音は鼓膜を震わすだけであるが、この音波は鼓膜を破り、関節をゆさぶり、神経をガタガタにいじめる。まるで全身が解《と》きほぐされて崩れるような感覚になる。その効果はあまりに突然であり、強烈でもあった。さすがのシートンも思わず狼狽の叫びをあげ、苦痛を訴えた。もう一度、船を駆って、超高空の安全圏へ飛翔させた。
「いったい全体、何だろう?」デュケーンが驚いた表情で訊く。「まさか奴ら、超音波を投射できたんじゃあるまいな」
「できたのさ」とシートン。「やつらは、ぼくたちのできない、いろいろな術《て》をもってるんだ」
「ぼくたち、毛皮の服があれば……」クレーンが言いかけたが止めた。「衣類をあるったけ着よう。それから耳|栓《せん》を使おうか?」
「そんなことより――」シートンは、制御盤を見まわして、「うん、ぼくはこの抵抗器をはずして、斥力ビームにもっと電流を流す。そうすれば真空が強くなって、空気中を伝わってくる波動も阻止できるだろう」
宇宙船は、ふたたび対敵射程まで降下した。デュケーンが銃座についた。と突然に飛びすさって、
「逃げろ!」と叫んだ。宇宙船はもう一度超高度へ飛びあがった。
「あの機関銃に電圧がある――すごい電圧だ」とデュケーンが説明した。「ぼくは電流の流れているものを扱い慣れているからよかった。絶対に、最初は接触をしないんだ。でも、たいしたことじゃない。乾焼した厚手袋と、ゴムの遮蔽《しゃへい》板さえあればいい。シートン、君のそのレバーについているような気の利いたハンドルを機関銃にもつけておけばよかったのに」
「うん、それでダナークとその乗員たちがしてやられたんだな。でもどうして、君たち二人はやられなかったんだろう? ああ、わかった。やつらはイリジウムに同調させたんだ。やつら鋼鉄のことはぜんぜん知らないんだ。知っていても、どこかでサンプルの破片をいじくった程度だろう。今頃やっと鋼鉄へ同調しなければならんと悟ったわけだ」
「君はいちいち敵の新戦術を看破《かんぱ》するようだが、つぎは何で来ると思う?」とクレーン。
「それほどでもないさ。しかし、今のが最後の術《て》だと思う。ダナークがずいぶん心配していた。他にも術《て》は――そう、たくさんある。防衛策はぜんぶ純コンダール技術と材料だ。ぼくらとしては、ぼくらの防衛策を講じるよりほかはない。つぎは何で来るかといえば……」シートンは考えこんでいたが、「どうも見当がつかん。なにしろ、敵の術《て》があんまりたくさんあって、一時にどっと頭の中へ浮かんでくるから……実際に当たってみて明瞭になるまでは、記憶が暈《ぼ》けたみたいな格好で、ここに」と自分の頭をたたいた。「入っているんだ。でも、誰かヒントを与えれば出てくるかもしれん。ええと……これまで敵のつかった術は、これと……これと……」
「たくさんあるよ」デュケーンが感心するように、「不可視光線と可視光線、超音波――いや亜音波かもしれん。それから高圧電線で揺さぶった。奴らはまだX線をつかっていないな。加速素粒子も、ヘルツ波も、赤外熱線も……」
「それ! それだ――熱線だ!」とシートンが叫んだ。「アレナック合金のなかへ誘導電流をつくる熱波を投射してくるかもしれん。充分時間をかければ、この装甲を溶かせるんだ」
「冷凍器があるから、相当まで熱は処理できるだろう?」とクレーン。
「できる……ただし、限界は、積載した水の量によるな。水が尽きたら、海へジャンプといこう。そして外殻《シェル》を冷やす。よし、いいかい?」
準備は成った。
スカイラーク号はふたたび敵艦に死と破壊をもたらす仕事に乗りだしていった。
敵はいま、みじめな首都の破壊作業を終り、小さな宇宙船へ主力を傾注しようとしていた。だが、この小さな球体に、信じがたい威力が包蔵されていようとは、敵はまだ充分に認識してはいないのである。
クレーンよりは格段の早射ちであるデュケーンは、いま第十号銃弾を使っていた。この人間の理解を超えた暴力兵器の炸裂に出会っては、六号七号あたりの一発で二、三機というのではなく、十機ないし二十機の超|弩級《どきゅう》艦が、瞬時に構成原子に分解され、無の宇宙空間へ飛び散りつつあった。
だが、わずか数分の後、スカイラーク号の四フィートの装甲は高熱となった。シートンはすでにフルに作動しつつある冷凍機を鞭《むち》打ち、五十パーセントの過重という絶対トップまで出力をあげていた。船の内部はまだ充分に冷たいが、船殻は厚いので、そう急速には熱を伝導させない。殻の外層は次第に温度があがり、赤に、鮮紅色に、ついに白色に変わっていった。アレナック球面にすれすれに外部へ覗いている機関銃の銃口は、軟化し、はては溶融《ようゆう》をはじめた。射撃はもう不可能である。銅の斥力ビーム発生帯も融けはじめ、火炎の点滴となって散っていった。斥力が衰えたので、砲弾とミサイルの爆発はますます外殻《シェル》に近づいてきた。
「うん、とうとう奴らもぼくらをしばらく食い止めたみたいだな」
デュケーンが冷静な調子で言った。しかし声にも調子にも戦闘を諦めたような節《ふし》は感じられなかった。
「何か別の術《て》を考えだそうや」
スカイラーク号はふたたび敵の射程外へ逃《のが》れた。三人は対抗策を相談しはじめた。そのとき無線機が鳴り、暗号なしの呼び出しが、汎用電波《ジェネラル・ウェーブ》にのってきた。
「カルフェディックス・シートン――カルフェディックス・シートン――確認されたし――カルフェディックス・シートン――カルフェ……」
「シートン確認しつつあり!」
「こちらはカルフェデリックス・デパール――四機動部隊司令官デパール。カルビックス・タルナンの命令により以下報告する……」
「それではタルナンが無線|緘口令《かんこうれい》を破れといったのか?」
「わしが破れと命令した」老カルビックス・タルナンの声である。カルビックスは、なぜ緘口令を破る必要があったかも、もはや安全だという理由も、証明しなかった。だが、シートンにはそれらはもうわかっていたのである。
「よろしい!」
それからシートンは最高司令官と機動部隊司令官に、マルドナーレの新兵器の性質と威力を説明してやった。
「カルフェデリックス・デパール、君の報告をつづけたまえ」
「カルビックス・タルナンが私に、貴下に報告して指令を仰ぐようにと命令しました。マルドナーレの一編隊が東方より接近しつつあります。私の部隊はこれを迎撃してよろしいでしょうか?」
「二十キロボルトの電流を絶縁する方法があるのか? 君の部下はそのイリジウムに接触することになるのだぞ」
「絶縁方法はあると思います」
「思うだけでは不充分だ。絶縁方法がなければ、いったん着陸して絶縁してから、マルドナーレの宇宙戦艦と交戦せよ。味方の機動部隊は、一部すでに発進中なのか?」
「その通りです。十五分以内に四部隊、一時間、二時間、三時間以内に各三部隊が発進します」
「報告確認せり。追って命令を待て!」
シートンはちょっと顔をしかめて考えていた。大提督を任命しなければならないからである。しかし、コンダール人の一人ひとりが、いまこの無線通話を聞いているのに、このデパールという男が大提督として適任であるかどうかを、ダナールなどに質問するのは憚《はばか》られたからであった。
「カルビックス・タルナンへ!」と彼は言った。
「タルナン受信確認!」
「いま飛行中の貴官の部下将校で、目下集結中の防衛軍大編隊の指揮官として適格者はありませんか?」
「カルフェデリックス・デパールが適格であります」
「ありがとう、閣下。……カルフェデリックス・デパール、貴官に来たるべき戦闘の指揮権を与える。指揮をとれ!」
「ありがとうございます」
シートンはマイクをおろした。そして、
「やっと別の術《て》を考えついたぞ!」クレーンとデュケーンへ叫んだ。「スカイラーク号は砲弾よりはるかに速度が早い、それにこちらとの質量は、問題にならんくらい差が大きい。こちらの四フィートのアレナック装甲板に対して、敵はわずか一インチだ。こちらのアレナックは、紫外線に長く晒《さら》されて放射線をもつようにならないうちは絶対に溶解しない。いいか――この術《て》でゆく。ストラップをしっかりとつけろ――これからが相当つらいぞ」
ふたたび宇宙船は下降していった。
しかし今度は、じっと空中に浮かんだまま交戦するのではない。二十|刻み《ノッチ》の超推力で突進して、いちばん近い敵宇宙艦に体当りしたのである。
紙を破るよりも呆気《あっけ》なかった。
直径四十フィートの発射体に突きぬけられて真っ二つに裂け、エンジンは破壊され、ヘリコプター補助浮揚装置もプロペラもだめになった敵宇宙戦艦は、バラバラになって、二マイルの高空を、焔《ほのお》を吐きながら地上へ墜落していった。
スカイラーク号は、つぎからつぎへと敵をもとめ、片っぱしから敵戦艦に体当りをくらわせていった。スカイラーク号がここでは誘導ミサイルとして使用されたわけである。しかも、リチャード・シートンという無類の人間頭脳を収蔵した無敵の発射体となったわけである。そしてこの人間頭脳はかつてない戦意をもやし、最高速で回転し、生涯最大の死闘をたたかい抜く決意をかためた火の玉であった。
斥力ビーム発生帯が溶けて剥《は》がれてしまったので、敵の発射する無音の超音波の効果は刻一刻と強くなっていった。シートンは超音波の恐るべき衝撃に叩きつけられた。そして、宇宙船がかしいで身体がU字形に曲げられたために船暈《ふなよい》をもよおし、もうすこしで意識を失うところだった。それにもかかわらず、彼は歯を食いしばり、眼を灰色に濁《にご》らせ、身体を高炭素鋼の破面のように固くして、この拷問に耐えた。発射体と頭脳とはなお分裂せず、一体となって協調した。
宇宙船の速力は早く、肉眼にとらえ難い。しかし、マルドナーレの機械的な照準装置はスカイラーク号の航跡を正確に跡づけ、なおも殺人的な超兵器の余力をスカイラーク号に向かって浴びせかけてきた。敵砲はなおも雨あられのごとく砲弾を叩きこんだ。しかし電波と違い、砲弾は目標よりも遅速だから、ほとんどが命中しない。むしろ味方の砲弾にやられて地上へ叩き落とされた宇宙戦艦が多数にのぼった。
シートンは高温計を見た。指針は昇りきったまま赤線の一歩手前である。ここがアレナック合金の融点であった。だが、シートンがじっと睨んでいる間も、指針はかすかながら下降をはじめていた。もはや、アレナック合金をこの高温に保っておくだけの、敵攻撃力はなくなっているのであろう。シートンもようやく愁眉をひらいた。亜音波はまだかなり凶悪ではあるが、耐えられないというほどではなかった。
それから一分間が過ぎると、戦闘はおおむね終ってしまっていた。生き残った数少ない敵艦は、命からがら母国の領空をめざして逃げだしている。しかし、遁走しながらも、傷を負っているので、墜落していくものが多い。逃走針路には、破壊の条痕が長く尾を曳いたまま、しばらくは消えなかった。
はじめは敵の逃走を見送るつもりでいたシートンも、コンダールの領土へ残した敵の爪跡を見ると心が変わった。彼はあくまでも追いかけて、敵戦艦を撃墜した。
彼がスカイラーク号を焼土の真っ只中へ着陸させたのは、最後の敵一機を撃ちおとした後であった。そこはかつて豪壮な宮殿の建っていた跡である。だがいまは焼けただれ、くすぶっている赤土でしかなかった。傍にコンダール号が転がっている。戦闘も忘れ、一弾も敵に見舞うことなく、コンダール号はそこに転がったままであった。
スカイラーク号の三人は、数度足を踏みしめながら、ようやくまともに歩くことができた。エアロックを開き、まだ白熱状態で燃えている外殻《シェル》をすりぬけて地上へ飛びおりた。
シートンは地上に立つや否や、無線機で愛妻を呼んだ。
ドロシーは、工兵隊が道を片づけ次第王族がここに駆けつけると夫に報告した。
三人はここでようやくヘルメットをはずし、青白く、憔悴《しょうすい》して長くなった顔を太陽の下にあらわしながら、コンダール号のほうへ近よっていった。
「この中へ入る方法がないな……おお、これはいい! 彼らのほうでやってくる」
ダナークがエアロックを開いて、よろめきながら地面へ降りてきた。
「今度という今度は――生命を助けていただいたとき以上の感謝です」三人の手を握りながら、ダナークの声が感激で震えている。「私はほとんどずっと意識はありました。戦闘もこの眼で見ました。皆さんはコンダール王国全体を救って下さった」
「それほどじゃないさ」シートンはむしろ不機嫌に言った。「どちらの国も前に何度も侵略されているんだもの」
「そうです。しかし、これほどの大戦果はありません。もうこれで戦争は終りでしょう。しかし私は急がなければなりません。私に指揮権を返して下さい、ディック、どうぞ。私は返された指揮権を大至急カルビックスに返さなければなりません。もちろん、コンダール号が旗艦《きかん》です」
シートンは突然に不動の姿勢をとり、この国の敬礼をした。
「コフェディックス・ダナーク殿下! わたしの指揮権を殿下にお返しいたします」
「カルフェディックス・シートン殿――ご活躍に対し満腔《まんこう》の感謝をこめ、貴殿の指揮権を収受いたします」
ダナークは生き残りのコンダール宇宙戦艦の将校たちと歓談しながら、その場を急ぎ立ち去っていった。
数分の後、皇帝とその随行の一団が瓦礫《がれき》の山をまわりながら、地球人のそばへやってきた。
ドロシーとマーガレットは、夫たちのやつれた顔と、赤いものを滴《したた》らせている宇宙服をみつけると、悲鳴に近い歓声をあげて走りよってきた。シートンはちかづこうとする妻を避け、すばやく宇宙服を脱ぎすてた。
「なあに、赤ペンキだよ」
妻を抱きあげながら彼は言った。
眼のすみに、コンダール人がスカイラーク号を取り囲み、口をぽかんとあけて驚いて見上げている光景が映った。シートンがよく見ると、なんとこれは、霜《しも》と雪で包まれた巨大な球体であった。
シートンは妻をはねのけ、宇宙船へ入って、冷凍器のスイッチを切って、戻ってきた。
そこへローバン皇帝がやってきて、地球人の努力と功績を讃《たた》え、コンダール国民の名において深甚《しんじん》の感謝を捧げた。
「ねえ、ローバン陛下――お気がつきませんでした?」とマーガレットが羞《はにか》みながら皇帝へ近寄っていった。「陛下が厳格に倫理規程をおさとしにならなかったら、とてもこうはならなかったろうって。マルドナーレ人が攻撃をしかけてきたとき、地球人はもう誰もオスノーム惑星かその近くにはいなかったでしょう……」
「いや、とてもそんなことは……わたしにはまだその関係がわかりませなんじゃ、奥さん。よかったらそれを説明して下さらんか?」
「ええ。ディックの最初の考えはこうだったのですわ――ダナークに出来あがったばかりの最初の銅バー八本を取らせ、すぐマルドナーレ攻撃に出かけさせる。そして、あたしたち地球人は、つぎの四十本の完成を待って――それにもたった三十分しかかかりませんのよ――すぐさまここを発って地球へ向かう予定でしたの。もしその通りにしていたら、ダナークはマルドナーレ上空で、高周波電流でイリジウム部品を照射され、制御を失って墜落し……そうじゃございません?」
「ほほう、そのとおりじゃ……ようやくわしも納得がゆきましたじゃ、そのつぎを聞かして下され」
「マルドナーレの大編隊がここへ到達しますのに何時間かかりますかしら、おおよそ?」
「そうじゃな、あなたの時間で約四十時間というところかのう」
「とすれば、ダナークが銅を得てすぐ出発し、マルドナーレ上空へ無時間で――それほど超スピードなんですから――到着して、撃墜されたとすれば、そしてそれからすぐマルドナーレ艦隊がこちらを攻撃に向こうから飛び立ったとすれば、どうなります? ここへ着くまでに四十時間もかかるのですよ。そのころ、あたしたちはすでに三十九時間半も、ここから遠くへ去っていたはずですわ……いいえ、敵はもっと早く到着したかもしれません! あたしたちが銅を積んでいる間も、敵はすでにかなりこちらへ近づいていたはずですから」
「うん、そうじゃのう」
「ですから結局、倫理規程を厳格に適用して、コンダール号が、あたしたちを出発させるまではマルドナーレへ侵攻しないと言い張ったのがよかったのですわ。おお――運命の三十分間ね? 考えただけでも背筋に冷たいものが走ります!」
「まったくその通りじゃ。しかし結果はまったく同じことじゃったろう。皆さんがたった一時間でも、ここから遠く飛び立ったら、そりゃもう、わしの国にとっては一千年の悪夢と同じじゃからのう」
ローバン皇帝が四人の地球人に相対していた。皇帝のうしろには、王家の人びと、将軍と将校たち、顕臣たち、そして一般民衆がひしめいていた。
「カルフェディックスたちよ、朕《ちん》が貴下たちの捕虜に対し、彼がわが国民に与えた奉仕に関し、ささやかなる感謝のしるしとして褒美を与えることが許されましょうか?」
「許されます」シートンとクレーンが異口同音に答えた。
皇帝ローバンは数歩をすすみ、デュケーンに重たそうな袋を一つ手渡し、それからデュケーンの左手首に、コンダール勲章を結びつけた。
「カルフェデリックス・デュケーン――朕は貴下をわがコンダールの最高貴族に列することを喜ぶ」
それから皇帝はクレーンの手首に、紅玉のような色の金属でできた腕輪をはめた。腕輪には、たくさんの宝石をいれた細かい細工の円盤《ディスク》が嵌めこまれている。それを見た貴族たちは恭々《うやうや》しい敬礼をした。シートンもびっくりした。
「カルフェディックス・クレーン――朕は貴下にこの徽章《きしょう》を与える。この徽章はオスノーム惑星のコンダール領土の到るところに、貴下が大小にかかわらずあらゆる事柄については朕の個人特使としての権限をもつことを宣明するものじゃ」
皇帝はそれからシートンに近づき、七つの円盤《ディスク》の嵌められた腕輪を差し出し、一同にそれが見えるようにかざした。貴族たちはひざまずき、一般庶民は平伏した。
「カルフェディックス・シートン――いかなる国の言語も、貴下に負っているわれわれの恩を言い現わす用語を有していない。その恩は測り知ることができないが、われらのささやかなる感謝のしるしとして、朕は貴下にこの徽章を与える。この徽章は、貴下がわれらの大君主であり、オスノーム惑星のすべてに対して至高の権威であることを宣明するものじゃ」
そして両手を高く頭上にあげ、皇帝はなおも言いつづけた。
「貴下たちが|宇宙の神秘《プライム・ミステリ》を解決するその日まで、偉大なる造物主が貴下たちの努力の上に微笑み給わんことを祈る。貴下たちの子孫が究極目標《アルティメット・ゴール》に到達することの一日も早からんことを祈る。では、さようなら」
シートンは答礼の辞として、心に深く感じ入ったことどもを数語に託して述べた。
かくて五人の地球人はスカイラーク号へ進んだ。宇宙船に達すると、皇帝と居並ぶ貴顕たちが一斉に不動の姿勢をとり、二重敬礼――きわめて敬虔《けいけん》な場合の他は行なわれない――を行なった。
「この返礼に何をしよう?」とシートンがささやいた。「もうぼくはアイデアが尽きちゃったんだ」
「叩頭《おじぎ》だわ、もちろんよ」とドロシーが言った。
二人は静かに、深くふかく頭を垂れておじぎをし、それから宇宙船のなかへ入っていった。スカイラーク号が空中へ飛びだすと、コンダール宇宙戦艦の一大編隊が王者の礼砲をいっせいに轟《とどろ》かせた。
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二二
デュケーンは、自分のキャビンに閉じこもると、まず皇帝から貰った袋を開けてみた。彼は数種の貴金属(ことにプラチナ!)と宝石類などが入っていると思ったのである。ところが出てきたものは、金属としては厚いチューブの容器にいれられた金属一種類だけであった。ところが何と、これが正半ポンド量のラジウムだったのである。
その他に宝石類が入っていたが、数百粒のダイヤモンド、ルビー、エメラルドなどであり、どれもきわめて大型であり、完璧な玉であった。ローバン皇帝にとってはガラス玉と変わらぬありふれたものであろうが、これらの宝石の地球上での価値といったら、ちょっと想像もできない。これらの名の知れた宝石の他に、皇帝はオスノームにしか産しない各種の宝石をいれてくれていた。ただフェードンだけは見当たらなかった。なぜであろうか? 宝石類を選り分けているうちに、デュケーンの持ち前の冷静さは失われていった。
ラジウムだけでも数百万ドルはするであろう。彼自身はその高い価値に心の昂《たか》ぶりを抑さえきれないでいたが、同時に彼のなかの科学者の半面は、これだけのラジウムの用途について豊かな空想をめぐらせていた。
彼は名の知れた宝石類を数えてみて、その一つを値踏みし、合計してみてびっくりした。厖大《ぼうだい》な金額になるのである。残りはオスノーム特産の見知らぬ宝石であるが、これが袋の半分も占めている。絢爛《けんらん》たる多彩に光りかがやく無数の宝石。彼は選りわけ、数を算《かぞ》えた。しかし値踏みはしなかった。これらには相場はない。彼自身の付け値で、いくらにでも売れるだろう。
「ようし」と彼はひとり言のように言って溜息をついた。「これで俺は独自の行動がとれるぞ!」
地球への帰還の旅は無事平穏であった。幾度か、スカイラーク号は巨大な太陽の引力圏に入った。しかし宇宙操縦者たちは、恒星間航法におけるもっとも重要な基本的安全方法を心得ていた。自動的に表示し記録する角度計が絶えず監視に当たっており、弧に二秒のずれがあれば直ちに警報を送ってくれる。加速度と速度は自動的な推測法によっているが、これは八時間シフト中に二度、三角測量術とシャイラー方法の応用によってチェックされている。
地球までのほぼ半分を踏破したとき、動力バーを逆転した。スカイラーク号が百八十度の旋回を行なっている間、地球の宇宙旅行者たちは思いついて赤道祭を真似《まね》た小儀式を催し、航行の安全を祈った。
数日後、監視当番にあたっていたシートンは、オリオン星座を認めたように思った。彼のよく知っている星座の形はしていなかった。しかし、スカイラーク号が進んでいるうちに、星座は徐々に懐かしいあの形に変わっていった。果たして、それはオリオンであった。
「おい、みんな来てみろ!」
シートンは狂喜して叫び、みんながオリオン星座を見つめた。
「こいつぁいいや! おいみんな、ぼくたちの老いしぼんだ弱い視力が、こんなに幾週間も幾月も疲れきって宇宙をさまよった後に、はじめて拝む有難い光景だぞ。乾杯!」
五人の地球人は、つきあげてくる喜びに全身を痺《しび》れさせながら、乾杯をした。
もうみんな、それぞれのキャビン個室に閉じこもっていることはできなかった。操縦の当番が制御盤にいれば、誰かがそばにいて話しかけた。そしてみんなの肩ごしに、星屑をちりばめた天空を眺めた。満天の星座配置はしだいに地球人に見慣れた昔なつかしい相貌を帯びていった。
彼らは太陽《ソル》を認め、親父に逢っているような気がした。それからしばらくするとソルの諸惑星が見えた。
クレーンが、船内にある、ありとあらゆる光学機械を持ち出してきた。女たちは太陽に照らされる明るい半円盤の上に、あまりにも見慣れた大陸や海の輪郭を見つけ出すと、もう興奮を抑えることができず、喚声をあげて跳《は》ねまわった。
大陸や大洋のかたちが肉眼ではっきり認められるようになるまでには何ほどの時間もかからなかった。
地球はやわらかい微光に包まれた、薄みどりの半月型であった。極地の氷冠が両端に二つ、白銀のように輝いており、その中間には綿毛のような雲が散らばって、地表は暈《ぼ》かされていた。宇宙の放浪者五人は、咽喉《のど》につかえるものをおぼえながら、じっと母なる地球の姿に見入っていた。クレーンは着陸の心構えをし、あまり高速度に突入してはならないと、慎重に速度を加減していった。
女たちは食事の用意に退いた。
デュケーンがシートンのそばへ坐った。
「君たち両紳士は、ぼくをどう処分することに決めた?」
「まだだ。相談もしていない。ぼくも決心がつきかねているんだ――ただ、ぼく個人としては、君を四オンスのグローブをもたせて四角いリングの中央に立たせたい。ぼくと決闘をするためにだ。君はこんどの旅行中、ぼくらにとって非常な助けとなった。君が縛り首になるのを見るに忍びないという気がする。それと同時に、君は憎んでもあまりある悪党で、ぼくたちは、とても君を無罪放免にする気はない。ぼく個人は、どういう方法を考えても気に入らない。妙なジレンマに陥っているのだ。君は何か提案があるのか?」
「いや、別にない」デュケーンの答えは冷静であった。「差し当たっては絞首刑の危険もないし、毒を盛られる惧《おそ》れもないから、君が口先でどんな脅かしを言ったって、痛くも痒《かゆ》くもない。ぼくをつかまえておこうが釈放しようが、そっちの勝手だ」
「よし、いい度胸だ。覚悟してろ!」
「ただ、ひと言だけ言わしてもらおう。こんどの旅行でぼくは相当の財産を獲得できた。だからこれから先、ワールド・スチールと交渉をもつ必要はなくなった。特にぼくのためになることでもあれば別だが。しかしぼくは、いつかX材料の独占権を握りたいという気になるかもしれない……。
そうなったら、君もクレーンも、それから多分あと数人もおそらく死なねばならんだろう。
いずれにしろ、それは先のはなしで、今の時点ではすべてはおわった。ぼくに関するかぎり、これでケリだ。幕は降りた」
「ぼくたちを殺す?」
「そうなるかもしれん」
「貴様、たわけた大法螺《おおぼら》を吹く奴だな。勝手なときに、いつだっていい――ここから飛び出すがいい、この野郎め! ぼくらは君より早く走れる、君より高く飛べる。叩き伏せてその首根っこをねじきってやれる。君より腕力はつよい、ダイビングなら君より深く潜れる――上ってくるときは君よりは皮膚は乾いている。賭けてもいい、≪ただ賭け≫であろうと、金、白墨、おはじき玉、何でもいい……」
兇暴な怒りがシートンの腹の底から噴きあげてきた。
もう気まぐれも冗談っ気も、これっぽっちも残ってはいなかった。冷酷な眼、そして険《けわ》しい形相で、彼はデュケーンを睨《にら》みつけた。デュケーンは冷静に、無表情に睨みかえしている。
「しかし、よく聞け、デュケーン」シートンはゆっくりと、一語一語を明瞭に、氷のように冷たい調子で言った。「いまの言葉はクレーンとぼくに当てはまる。他の誰にも当てはまらない。とにかく貴様を見損《みそこな》った。貴様を人間とはとうてい思えない。貴様が万一ドロシーかマーガレットに手出しをしてみろ――俺はすぐさま貴様を殺す。蛇を殺すように叩っ斬《き》ってやる――いや、科学機械を分解するように、ズタズタに切り裂いてやる。これを脅かしと思うなよ。約束だ、これは。どうだ、はっきりしたか?」
「完全に明瞭だ。じゃおやすみ」
それから数時間、地球表面は薄黒い雲でおおわれ、操縦席についているシートンにもすぐ眼下に何があるかはわからなかった。
どの辺かを確かめるため、シートンは日没時の薄明地帯へ急降下してみた。ようやく地表のようすがおぼろげにわかった。スカイラーク号はいま、パナマ運河の西端真上にあった。さらに一万フィートばかり下降し、そこで船を停止させ、待った。クレーンは方位を定め、ワシントンへ向かう航路を計算した。
デュケーンは自室へ退いていた。冷静と沈黙の態度は常に変わらなかった。
その冷徹な心に自問して、何も見落してはいないと確かめると、彼は地球を去るとき着ていた皮革服で身ごしらえをした。押入れのかぎをけ、コンダールのパラシュートを一つ取り出した。誰からも見られていないことを確かめつつ、忍び足で機密室へ進み、そこへ入った。
スカイラーク号がパナマ地峡上空で停止していたころ、デュケーンはすべての準備を完了していた。悪魔のような冷笑に顔を歪《ゆが》めながら、彼は外側バルブを開き、高度一万フィートの大気のなかへ飛びだしていた。
宇宙船を離れて数秒後、パラシュートの中間色は薄明のなかに吸いこまれて見えなくなった。
航路は計算された。シートンは動力バーをセットした。スカイラーク号は、地球の朝の空気を切り裂いて進んでいった。ワシントンまでの約半分の距離を進んだころ、シートンは突然、クレーンに話しかけた。
「デュケーンのことなど忘れるんだ、マート。奴をキャビンに監禁したほうがいい、そうは思わないかい? 監禁しておいて、刑務所へ送るか釈放するかを相談しよう」
「そうしよう」
だが、シートンはちょっと席を立ち、すぐもどってきた。
「ふん、奴はコンダールのパラシュートをつけて降下したらしい。パラシュートをポケットに忍ばせるわけにはいかなかったろうが、隠し場所はいくらでもあったさ」
「逃がしたか!」
「でも逃がしたことを残念とは思わん。どっちにしろ、つかまえようと思えば、いつでもつかまえられる、対物コンパスがまだ奴を指しているんだから」
「かれは自由を獲得したのだと思うわ」ドロシーがはっきりと断定した。
「そうじゃないわ。かれは射殺されるべき人間よ」とマーガレットが反対した。「でも、あんなやつ、いなくなってほっとしたわ。顔をみただけでも、ぞーッと背筋が冷たくなったわ」
計算された時間がたつと、四人のすぐ眼の下に大都市の灯火が見えてきた。クレーンが下を指した。シートンの腕へ、クレーンの指がしっかり喰いこんでいる。
クレーン飛行場の着陸灯が見えた。七台の探照灯が夜空へ煌々《こうこう》たる光条をあげている。
「九週間だったな、ディック」クレーンの声が震えている。
「シローのやつ、必要なら九年間でもあの灯を燃やしつづけていただろうな」
スカイラーク号は飛行場へゆっくりと着陸した。
四人の宇宙放浪者が飛びだしていくと、半分ヒステリーになった日本人の家僕のシローが走りよってきた。
訛《なまり》のひどい、澄んだ声のシローの英語は、感きわまって今の場合まったく用をなさなかった。彼はただ、にこにこと笑いどおしで、頭をぴょっこり下げるだけであった。片腕で新妻をしっかりと抱き、クレーンはシローの手をとった。そして物も言えずに、何度もシローの手を握った。
シートンはドロシーを軽々と抱きあげた。二人の腕は相手の身体をしっかりと抱きつづけていた。
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≪スカイラーク・シリーズ≫について
この『宇宙のスカイラーク』という作品は≪アメージング・ストーリーズ誌≫の一九二八年八月号から三回にわたって連載されたものだが、その始めにあたって編集者のヒューゴー・ガーンズバックは同誌上にこんなことを書いている。
――編集者が、自分の雑誌にのる作品について自らの意見を大声で云々することは道義にもとり、非常識なことなのかもしれないが、この『宇宙のスカイラーク』のような作品が現われると、「この作品こそ、これまでにあらわれた宇宙小説中の最高傑作だ」と屋根の上から叫びたい衝動をおさえるわけにはいかないのである。
おそらくこの作品は、最高の宇宙小説のひとつとして末永く読まれるにちがいない。
この話は科学的に立派なだけではなく、この種の作品としてはめずらしい要素、つまりロマンスがみごとに折りこまれている、たいへん充実した作品である。宇宙小説において、この種の要素はしばしば馬鹿げたものになりがちなのだが、この作品に限ってそんなことはまったくない……。
ガーンズバックの手放しのよろこびようが見えるような前説である。
しかし、今日この『宇宙のスカイラーク』という作品の持つSF的意義は、なんといっても、地球人類がはじめて太陽系をとび出し、銀河系から外の島宇宙へと、果てしない旅への第一歩を印《しる》したのが、実にこの『宇宙のスカイラーク』の中でだったのだという事実をおいて他にはないのである。
かつて地球人類がさまざまな虚構の世界の中で、遠く月へ、火星へ、金星へと人間を送り込んだ陰には、ガリレオ、ケプラーからハーシェル、スキャパレリ、等々の天文学者たちとその研究の成果があるように、この『宇宙のスカイラーク』もまた、当時の天文学の直面していた問題をみごとに消化した結果生まれた作品なのである。
渦状星雲がはたして我々の住む銀河系のなかにあるのかどうかが大きな論議の的《まと》となったのは、今世紀に入ってからのことで、光のドップラー効果を応用して我々の住む銀河が実は宇宙に散らばっている無数の島のひとつにすぎないということが証明されたのは一九一二年なのである。
それから十六年目、E・E・スミスはスカイラーク号を他の島宇宙にむけてはじめて発進させたのであった。
ヒューゴー・ガーンズバックがこの≪アメージング・ストーリーズ誌≫を創刊したのは、『宇宙のスカイラーク』発表の二年前、一九二六年の四月のことだが、当時の同誌をめくってみると、技術畑出身である彼の――サイエンティフィクション(この言葉は彼がつくった)は未来社会の予言でなければならぬ――といういささか偏狭ともいえる主張に支えられて、かなり生硬な作品ばかりが並び、わずかにウエルズやヴェルヌの再録がその低調さを救っているという感じさえするぐらいであった。従ってまた読者の中にもかなり不満を抱くものがあったらしい。
そこに突如としてあらわれたのが、この『宇宙のスカイラーク』というわけであり、奇しくも同じ号にのったフィリップ・フランシス・ノーランのご存じバック・ロジャーズものの第一作『決戦二四一九年』とともに読者の間に空前の反響を呼んだのであった。
そんなわけでこの『宇宙のスカイラーク』はまた≪アメージング・ストーリーズ誌≫の歴史上にも大きなエポックを画した作品でもある。
スペース・オペラという言葉がある。狭義には一九三〇年代初期から一九五五年頃まで主として雑誌に書かれた娯楽性の強い宇宙冒険読物のことを指す。従ってかなり軽蔑の意味を含めて使われる場合も多いのだが、定義をもうすこしひろげて、当時たくさんあらわれた宇宙等を舞台にしたスケールの大きな波瀾万丈のSF作品だとすれば、これらスペース・オペラというものが今日のSFに与えた影響の大きさには計り知れないものがある。この問題に関してはまた機会を改めるとして、『宇宙のスカイラーク』という作品がそんな観点からしても極めて面白いものをいろいろと持っていることは本篇を読まれればすぐにわかっていただけるはずであり、数年後、≪アスタウディング・ストーリーズ・オヴ・スーパーサイエンス誌≫の創刊によってスペース・オペラの時代が開花するための大きな布石になっていたという事実もまた、この作品の持つ大きな意義のひとつであろう。
エドワード・エルマー・スミスは一八九〇年五月二日、ウィスコンシン州に生まれた。両親はイギリスの古い家柄で長老教会派のキリスト教徒であった。父親は元捕鯨船の乗組員であり、彼の生後しばらくはワシントンで大工をやったりしたが、すぐアイダホに移り、農業で生計を立てた。山中の丸太小屋ですごした少年時代の記憶はリチャード・シートンの生い立ちの部分に随所にあらわれてくるわけである(山火事ではないが十九歳のときに火事に会い、四階から飛び降りて肋骨を五本折ったことがある)。
彼ははじめ土木技師を志し、大学に入る学資をかせぐために鉱山で働いたりしたが、見かねた兄のダニエルがポーカーでかせいだ三百十ドル五十セントを彼の前に放り出して勉強するようにすすめ、また姉たちもそれぞれ金を工面してくれたという。
その期待にこたえてか、アイダホ大学での彼の成績は全科目が「A」だったという。化学を専攻した彼は卒業後、ワシントンにある合衆国標準局に勤務した。これまたシートンを地で行っているわけだが、一九一五年、友人の妹ジェニー・マクドーガルと結婚、彼女の内助の功により一九一九年ジョージ・ワシントン大学で博士号を取った。
スミスが物を書こうという気になったのは一九一五年のあるむし暑い夜のことだった。大学時代の友人、C・D・ガービーと宇宙空間の温度についてさんざん論じ合ったのがきっかけである。家に帰ったガービーが妻のリー・ホーキンス・ガービーに逐一その話を聞かせたところが、彼女はいたくその内容に興味をそそられ、そんな宇宙を舞台にした小説を書いてみたらと熱心にスミスにすすめたのだった。
しかし、彼はあまり乗り気ではなかった。彼の考えによると、小説というものには恋愛が出てこないとつまらないし、かといってどうも、その種のものを書く自信はぜんぜんない……。
それを聞いた彼女は約束した。科学的な部分だけをお書きなさい。後は私が書いてあげるから……。
もともとスミスは≪アーゴシイ誌≫(当時、SF的な作品を時たま掲載していた数すくない雑誌のひとつ)の愛読者であり、もちろんヴェルヌ、ウエルズ、ポー、ハガート、バローズなどの作品も洩れなく読んでいたくらいだから、彼に異存のあろうわけがない。二人はさっそく仕事にとりかかったのである。
一九一五、一六年のまる二年間を費やして二人はその共作を約三分の一くらいまで完成したのだが、その頃になって二人ともなんとなく興味を失ってしまい、ついにそれきり沙汰止みになってしまった。
一九一六年、彼はミシガン州にあるF・W・ストック&サン会社の技師として就職し、三六年まで同社でドーナッツ・ミックス・パウダー(インスタント・ドーナッツの素というところか)の開発に従事するのだが、一九一九年のある夜のこと、突然思い立った彼は未完のままになっていた大宇宙小説のつづきを再び書き始めたのである。もちろんすぐさまガービーに連絡はとったものの、もう完全に興味を失っていた彼女はすべてを彼にまかし、以後彼はその進み具合だけを知らせて、≪恋愛部分≫も彼の独力で書き進め、一九二〇年の春ついに完成したのがこの『宇宙のスカイラーク』なのである。
だが、この作品が陽の目を見たのはそれから八年も後のことだった。その八年間、彼が、原稿を持ち込んだ≪アーゴシイ誌≫をはじめとするすべての出版社はまったく相手にもしてくれなかったからである。
一九二七年の四月、彼は何の気なしに本屋の店先で一冊の雑誌をとり上げた。その名は≪アメージング・ストーリーズ≫。ぱらぱらとめくった彼は突然奇声をはり上げて家に駆け戻り、その足で原稿をガーンズバックの手許へと発送したのであった。
活字になるまでにはずいぶん時間がかかったが、いざ世に出るとその反響は凄まじいものがあった。連載の第一回が出版された直後に、彼が第二作の執筆をたのまれている事実はその反響の大きさを物語っている。≪ドック≫・スミス、≪スカイラーク≫・スミスの名は不動のものとなったのである。
スミスは原稿料をめぐるトラブルから≪アメージング≫と別れ、第三作『バレロンのスカイラーク』は一九三四年八月から≪アスタウンディング・ストーリーズ誌≫に連載を始めたのだが、そのとたんに同誌の売れ行きが一万部以上ハネ上ったといわれるくらい、スカイラーク・スミスのファンの熱狂は大きかったのだ。
その後彼はSF史上不朽の大作≪レンズマン≫シリーズを世に送り、スカイラークに勝るとも劣らぬ金字塔を打ち立てることになるのである。
スカイラーク・シリーズが単行本になったのは戦後のことだが、この『宇宙のスカイラーク』は今日までに三社からハードカバーで、そしてピラミッドからは一九五八年と六二年の二回にわたってペーパーバックで刊行されており、海外版としてはフランス、スペイン、デンマーク、ドイツ、そして今度これに堂々日本が加わるわけである。
書かれてから四十年近くにもなった今日のこの盛況を見るとき、リチャード・シートン氏に対してSF界不滅の英雄という称号をおくったとしても、それは決してオーバーなことではないだろう。
シートンの持つあのイキの良さ、ガラの悪さがクレーンの冷静さとみごとに対比されていることもさりながら、回を追っておもしろくなってくるデュケーンの個性は、ついにスミスをして第四作『スカイラーク・デュケーン』執筆に踏み切らせたのだった。≪イフ誌≫一九六五年七月号から同年十月号までに連載されているが、不勉強でいまだ読んでいないので、これについては何も申し上げようがない。申し訳ない。
スミスは『スカイラーク・デュケーン』の完結したすぐ後、一九六五年九月一日に死去した。享年、七十五歳であった。
最初に引用したが≪アメージング誌≫上に『宇宙のスカイラーク』が初めて発表された時、ガーンズバックの書いた紹介文の中にはまた、こんな一節がある。
――この話にあらわれる原子力(本文中には INTRA ATOMIC FORCE とある)について、我々はほとんど何も知らないため、本文中になにかしっくりしないような気のする部分がいくつかあるけれど、これから何十年かの後、我々が原子の謎をとき、原子力エンジンを持った時には、これらの箇所がきっと至極あたり前のこととして読まれることになるだろう……。
我々が原子の謎をとき始め、原子力エンジンを宇宙船が装備する日がもはやそこまで来ている昨今、スミスがどんな心境でその第四作にとりくんだかについては、大いに興味のあるところだけれど、月の軟着陸成功のニュースの流れる日本で、≪ドック≫スミスがまたあたらしい読者を獲得するということは、とりもなおさずガーンズバックのこの予想がみごとに的中したのだということでもあろうか。なにかしみじみとした思いで、僕は今この解説を書いている。
最後に本シリーズの発売年代をまとめておこう。
The Skylark of Space. Amazing Stories 1928(8〜10月号)(リー・H・ガービーと共作)本書
Skylark 3. Amazing Stories 1930(8〜10月号)
Skylark of Valeron. Astounding Stories 1934〜35(8〜2月号)
Skylark Duquesne. IF 1965(7〜10月号)
[#地付き](野田宏一郎)