レンズマン・シリーズ6
三惑星連合軍
E・E・スミス/小西宏訳
目 次
第一部 発端《ほったん》
一 アリシアとエッドール
二 アトランティスの陥没
三 ローマの没落
第二部 世界戦争
一 一九一八年
二 一九四一年
三 一九××年
第三部 三惑星連合軍
一 宇宙海賊
二 ロージャーの小惑星の中で
三 艦隊対人工惑星
四 赤いベールの中で
五 ネヴィア戦争
六 怪虫、潜水艦、そして自由
七 〈丘〉
八 超宇宙船発進
九 標本
十 超宇宙船の活躍
十一 ロージャー活躍を続行
十二 標本脱走
十三 巨人対巨人
訳者あとがき
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登場人物
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ガーレーン……エッドールの副首領、グレー・ロージャーの本体
ユーコニドール……アリシア人、監視員
バージル・サムス……地球人、三惑星連合軍の長官
ブラッドレー……同、ハイペリオン号船長
コンウェイ・コスティガン……同、戦区指揮官
ライマン・クリーブランド……同、シカゴ号船長
フレドリック・ロードブッシュ……同、核物理学者
フェアチャイルド……同、渉外部長
クリオ・マースデン……地球人の女性
ネラド……ネヴィア人、船長
ラルク・K・キニスン……地球人
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用語解説
[ビーム Beam] エネルギーを光に変えて集束したもの。攻撃用としては敵の物体を固定させる牽引《トラクター》ビーム、溶解性熱線を放射する大型から半携帯式デラメーター、携帯用の光線銃《レイ・ガン》まで、さまざまの形式がある。物体に穴をあける針光《ニードル》線もその一種。また通信用電波としても使用する。
[スクリーン Screen] 遮蔽膜《しゃへいまく》。強力なエネルギーを持つ磁場を展開して、敵のミサイルや攻撃ビームを防ぐ防御兵器。|防 御 壁《ウォール・シールド》(Wall-Shield)、|障 壁《バリヤー》(Barrier)などもこれと同工異曲のもので、小は人間や物体から、大は一つの惑星全体を包んで遮蔽効果を発揮する。
[宇宙船エネルギー Cosmic-energy] 太陽系から太陽系へ一瞬のうちに航行する超光速宇宙船の推進動力として開発されたもので、感受器《リセプター》で受け、変換器《コンバーター》を経て|蓄 積 器《アキュムレーター》に貯えられる。蓄積器は電気の場合のバッテリーに相当し、各種のビーム、スクリーンなどのエネルギー源にも使用する。原子力や化学燃料とちがって補給は無制限と考えられる。
[「自由」航法 Free, Inertialess drive] 惑星間飛行には、種々の方法があるが、これもその一つ。慣性を中立化し無慣性(無重力)状態を作り出して航行する。宇宙船を動かす大型ドライブと個人の身につけるドライブとがあり、有重力と無重力飛行を適宜切りかえて使用する。
[エーテル、サブ・エーテル Ether, Sub-Ether] 宇宙空間。サブ・エーテルは亜空間と訳される。これはアインシュタインの相対性原理にもとづく概念で、宇宙空間にある歪みを利用して通信ないし航行することにより、数百光年の距離を瞬時にしてカバーする。
[パーセク Parsec] 天体の距離を示す単位で視差が一秒になる距離。三二五九光年にあたる。
[ダイン Dyne] 力の絶対単位。質量一グラムの物体に作用して、一秒につき一センチの加速度を生じる力。
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第一部 発端《ほったん》
一 アリシアとエッドール
二十億年ほどまえ、二つの銀河系が衝突《しょうとつ》した、というより、相互《そうご》にすれちがった。二、三億年の誤差《ごさ》は問題ではない。このすれちがいには、少なくともそれくらいの時間がかかったからである。ほぼ同じ時期に――誤差の限界は、プラス・マイナス十パーセント以内と信ぜられる――両銀河系内のほとんどすべての太陽が、惑星を持つにいたった。
これほど多くの惑星が、二つの銀河系のすれちがいとほぼ同時に発生したのが偶然《ぐうぜん》ではないという判断には、これを裏付ける多くの証拠《しょうこ》がある。いっぽう、それがまったくの偶然だとする意見もある。すべての太陽は、まるで猫が子猫を持っているように、必然的に惑星を持っているというのである。
いずれにせよ、アリシア人の記録が明確に指摘するところによれば、二つの銀河系がすれちがうまでは、どちらの銀河系にも、三つ以上の太陽系はなかった。原則として一つしかなかった、ということになっている。したがって、アリシア人が誕生した惑星の太陽が、古くなって冷却《れいきゃく》しはじめると、アリシア人はその文化を維持するために苦境《くきょう》に立たされた。彼らは、惑星を古い太陽から新しい太陽に移転させるという技術的な問題を、期限つきで解決しなければならなかったからである。
エッドール人が、他の存在次元に移動しなければならなかったとき、物質的要素は破壊されなかったから、彼らの歴史的記録もまた残存《ざんそん》した。これらの記録は――エッドールの有害な大気に対してでさえ無限に対抗できるプラチナ合金製の書物、テープ・レコードだったが――この点については、アリシア人の記録と一致《いっち》している。二つの銀河系の合体《がったい》がはじまる直前には、第二銀河系の中には、太陽系が一つしかなかった。そしてエッドール人が進出するまでは、第二銀河系には、知的生物がまったくいなかった。
こうして何億年ものあいだ、一つの銀河系のみならずおそらく全時空体系を通じて、それぞれただ一種の知的生物である二つの種族は、おたがいに相手の存在をまったく知らなかった。両種族とも、銀河系がすれちがったときには、すでに長い歴史を持っていた。しかし、その他の点では、両種族の共通点は、どちらも精神能力をそなえているということだけだった。
アリシアは、地殻構造、大気、気候などが地球に似ていたので、アリシア人は当時から地球人に酷似していた。しかし、エッドール人はそうではなかった。エッドールは巨大で比重が重く、液相《えきそう》は有害でどろどろしており、大気は有害で侵蝕性《しんしょくせい》だった。エッドールは、すこぶる特異だった。両銀河系内のどんな惑星ともまったく異質だったから、この惑星が通常の時空体系から発生したものではなく、ある別種のきわめて奇異《きい》な時空体系からきたという事実が、惑星自身の記録によって判明するまでは、その存在自体が不可解だった。
惑星が異なると同様に、住民も異なっていた。アリシア人は、一般の知的生物と同様、野蛮の段階から文明を発達させていった。石器時代、銅器時代、鉄器時代、鋼鉄の時代、電気の時代。事実、アリシア人がこのような文明の諸過程を経過したからこそ、その後に発生したすべての惑星文明も、同様の過程を経過したということがいえるだろう。なぜなら、会合した両銀河系の惑星の冷却しつつある表面に発生した生命の胞子《ほうし》の起源は、アリシア人であって、エッドール人ではなかったからである。エッドール人の胞子も存在していたことは疑いないが、あまりにも異質なので、それらの惑星の環境の中でも発達しえなかった。各惑星の環境は、多種多様ではあったが、正常な時空体系の中でも自然に存在し、または発生したものだったからである。
アリシア人は――とくに、原子力エネルギーの利用によって、肉体的労働から解放されてのちは――心のもつ無限の可能性を探求することに、いよいよ熱中するようになった。
そういうわけで、両銀河系の会合を予知するためにさえ、アリシア人は宇宙船や望遠鏡を必要としなかった。彼らは、星のレンズ状集合体が、自分たちの銀河系に接近してくるのを、心力だけで観察していた。この星雲は、ずっとのちになって、地球人天文学者から、ランドマーク星雲と呼ばれるようになったものだった。彼らは、数学的に不可能に近い天文学的事件が起こるのを、注意深く精細《せいさい》に観測し、大きな知的喜びを感じていた。二つの銀河系が赤道面において正面から衝突し、完全に交差するという可能性は、数学的に見てさえ、ほとんどゼロと区別しえないほど小さいものだったからである。
彼らは、無数の惑星の誕生を観察し、そこに起こったあらゆる現象を、その完全な記憶力によって精密に記憶した。のちになって、彼ら、または彼らの子孫が、当時は不可解だった諸現象を説明しうるような記号学や方法論を開発できることを期待したのである。アリシア人の知性は、自由に、そして熱心に、全宇宙を彷徨《ほうこう》した――そしてついに、その一つが、エッドール人の心に接触した。
エッドール人は、意のままに人類の形態を仮装《かそう》することができたが、本質はまったく人類に似ていなかった。また、アメーバ的という表現もあたっていなかった。アメーバ的といえば、柔軟《じゅうなん》で組織が欠けていることを意味するからだ。エッドール人は、どんな形態にも変化できるのだった。各エッドール人は、そのときどきの要求にしたがって、形態ばかりでなく、組織をも変化させた。必要に応じて、そのときの仕事にもっとも適合する器官を発生――突起――させた。器官に固さが要求されれば固くなり、柔軟さが要求されれば、柔軟になった。小さい器官、大きい器官、固い器官、柔らかい器官、関節《かんせつ》のある器官、触手状《しょくしゅじょう》の器官――なんでもござれだった。繊状体《せんじょうたい》、索状体《さくじょうたい》、指、足、針状体、鎚状体《つちじょうたい》――どんな形態をとることも、同様に容易だった。思考しさえすれば、肉体が仕事に適当な形態に変化するのだった。
彼らは無性だった。地球上の生物とすれば、イースト菌より高等などんな生命形態にも類似がないほど無性だった。単に雌雄同性的とか、童貞生殖的とか、処女生殖的とかいうのでなく、まったく性がないのである。また、彼らは暴力による死をのぞいては、ほとんど不死といってよかった。各エッドール人は、数百万年も生存してその心が飽和的《ほうわてき》に硬化すると、二つの新しい個体に分裂するだけだった。その二つの『子ども』は、生命力においては新鮮であり、能力においては、成熟していた。彼らは、それぞれ『親』の知識や記憶を完全に保存していたからである。
エッドール人の肉体的外観を言葉で表現することは困難であるが、エッドール人――すべてのエッドール人――の心の真の様相《ようそう》は、銀河文明のいかなる記号によっても描写することはできない。彼らは不寛容で支配的で貪欲《どんよく》で飽《あ》くことを知らず、冷酷《れいこく》で非情で残虐である。また、鋭利で、有能で、忍耐づよく、分析的で効果的である。彼らは、銀河文明に所属する種族が所有しているような、温柔な情緒や感受性をかけらほどももっていない。どんなエッドール人も、ユーモアの感覚に多少とも似かよったような感情はまったくみられない。
彼らは、本能的に血を好むというわけではない――つまり、血を流すこと自体を好むわけではない――が、かといって、血を流すことを、ことさら避《さ》けることもない。自己の目標へむかって邁進《まいしん》するためには、どれほど多量の殺戮《さつりく》でもやってのける。無益な殺戮が好まれないのは、それが殺戮だからではなく、無益――したがって無効――だからである。
銀河文明に所属する諸種族の諸団体は、多様な目標を追求しているが、エッドール人の目標は、すべて同一だった。それは、権力である。権力! 権力!
元来、エッドールには、地球の諸民族と同様、相互に類似したさまざまの種族が居住していたので、この惑星の初期――すなわち、それがまだ固有の宇宙にあった時期――が長期の戦争の連続であったということは、理解できる。そして、戦争はつねに技術的進歩と密接に結びついているから、現在、単に『エッドール人』として知られている種族は、最高の技術者になった。他の種族はすべて消滅《しょうめつ》した。その他の生命形態も、どれほど下等なものでも、この惑星の主人であるエッドール人になんらかの意味で邪魔《じゃま》になるものは、すべて消滅した。
こうして、種族間の対立は、いっさい解消したが、支配欲はそれまで同様に激烈《げきれつ》だったので、生き残ったエッドール人は相互に闘争し、その『ボタン戦争』では、想像を絶する厚さの岩床のみが防御できるような破壊兵器が用いられた。
ついに、比較的少数の生存者は、相互に殺すことも屈服させることもできなくなったので、一種の妥協をした。彼ら自身の宇宙には太陽系がほとんどなかったから、彼らは自己の惑星を宇宙から宇宙へと移動させて、エッドール人の各生存者が無数の惑星の唯一の支配者となれるほど惑星に富んだ宇宙を発見することにした。これは、はなはだ効果的な計画であり、エッドール人の飽《あ》くことを知らぬ権力欲をさえ充足する可能性のあるものだった。そこでエッドール人は、そのがむしゃらな抗争《こうそう》の長い長い歴史を通じてはじめて、物心の資源を結集し、集団として行動することに決したのである。
結局、一種の同盟《どうめい》が締結《ていけつ》されたが、それは親和的なものではなく、しばしば致命的な摩擦《まさつ》をともなっていた。彼らは、デモクラシーが本質的に非能率的であると判断していたので、デモクラティックな政府形態は一片の考慮すら払われなかった。能率的な政府は、必然的に独裁制でなければならない。また、彼らは素質も能力も完全には同一ではなかった。彼らのように複雑な生命構造においては、完全な同一性ということはありえなかったからである。そして、彼らのような社会にあっては、どれほどわずかの相違でも、上下の階層をつくる正当な理由になった。
こうして、彼らのうちでわずかながらもっとも強力で冷酷なものが至高者《しこうしゃ》――聖上陛下――となり、それよりごくわずかだけ劣った十人ばかりの一団が、彼の補佐機関、すなわち、のちに側近サークルとして知られるようになった内閣を形成した。この内閣の構成は、時とともに多少変化した。構成メンバーのひとりが分裂すればひとり増加し、反目する同僚なりまたは下級者によって暗殺されれば、ひとり減少したのである。
こうしてついに、エッドール人は真剣に協力しはじめた。そのとくに重要な結果として、超空間《ハイパー・スペシャル》チューブと完全な無慣性推進とが開発された――この推進技術は、数百万年後に、バーゲンホルムという名前で行動するアリシア人によって、銀河文明に与えられることになった。もう一つの結果は、銀河系間交通が開始されてからまもなく起こった。それは惑星エッドールが、正常な宇宙空間に突入したことである。
「余はいまや、この宇宙をわれわれの恒久的総司令部とすべきか、さらに他の宇宙を捜《さが》すべきかを決定せねばならぬ」至高者《しこうしゃ》は、補佐機関に苛酷《かこく》な思考を投射した。「第一に、すでに形成されている惑星でさえ、冷却《れいきゃく》するまでに、ある程度時間がかかるであろう。そして、その上に発生した生物が、われわれの計画する帝国の下部組織を形成し、われわれの相当な配慮を必要とするほどに発達するまでには、さらに長い時間がかかるであろう。第二に、われわれはすでに、数百万年をついやして、数億の時空体系を観察してきたが、この両銀河系を将来確実にみたすであろうほど多数の惑星を見いだしたことはなかった。また、これらの惑星にまだ住民が発生していないという事実にともなう利益があることも確実である。生物が進歩する過程で、われわれがそれを思うままに変形できるからだ。クロンジェネスよ、他の宇宙に惑星が存在する可能性について、どのようなことが判明したか?」
この『クロンジェネス』という言葉は、一般に認められた意味での名前ではなかった。むしろ、名前以上のものだった。それは心的速記における主調思考《キー・ソート》で、その特定のエッドール人の生命形態または自我《エゴ》を凝縮《ぎょうしゅく》し省略したものだった。
「まったく有望ではございません、陛下」クロンジェネスは、ただちに答えた。「わたしの装置で探知できるかぎりでは、この宇宙にやがて発生するであろうほど多くの居住可能な惑星をもった宇宙は、存在いたしません」
「よろしい。この宇宙にわれわれの帝国を建設するについて、なんらかの妥当《だとう》な異議をもっている者があるか。もしあるなら、いま、ただちに思考を伝達せよ」
なんの異議も表明されなかった。当時、この怪物たちはだれひとりとして、アリシアについてもアリシア人についてもまったく知らなかったからである。たとえ知っていたとしても、異議がとなえられることは、ほとんどありえなかっただろう。第一に、至高者《しこうしゃ》をはじめあらゆるエッドール人は、他のどんな種族にせよ、なんらかの能力においてエッドール人に匹敵《ひってき》するとか、将来匹敵するだろうとかいうことには思いもおよばず、また絶対に認めようとはしなかったろうからだ。第二に、専制政治のつねとして、至高者に反対することは、生命を維持するためにならなかったからである。
「よろしい。では、つぎに協議すべきことは……いや、待て! この思考は、われわれの一員のものではないぞ! 未知のものよ、あつかましくも側近サークルの協議に侵入するおまえはなにものか?」
「わたしは、惑星アリシアの若い学生エンフィリスターである」
この名前も、一種の記号だった。また、この若いアリシア人は、まだ監視員ではなかった。彼や多くの同僚は、やがて監視員になるのであるが、エッドールがこの宇宙に到来するまでは、アリシアには監視員の必要がなかったのだ。「きみにもわかるように、わたしは侵入しているのではない。きみたちのうちだれの心にも接触していないし、だれの思考も読んでいない。わたしは、きみたちと知りあいになろうと思って、きみたちがわたしの存在に気がつくのを待っていたのだ。きみたちは、じつに驚くほど進歩している――われわれは、この大宇宙において唯一の高度に進歩した生物だと、長いあいだ考えてきたのに……」
「だまれ、うじ虫。ご主人さまの御前だぞ。着陸して降服《こうふく》せよ。そうすれば、おまえたちの惑星は、われわれに奉仕させてやる。それを拒絶するか、ためらいでもするならば、おまえたちの種族を皆殺しにしてやる」
「うじ虫だと? ご主人さまだと? わたしの舟を着陸させるだと?」若いアリシア人の思考は純粋の好奇心で、少しの恐怖や狼狽《ろうばい》をも含まなかった。「降服するだと? きみたちに奉仕するだと? わたしはきみの思考を誤解《ごかい》なしに受けとっているつもりだが、きみのいう意味がまったく……」
「余を呼ぶなら、『陛下』という言葉を使え」至高者は、ひややかに命令した。「ただちに着陸するか、さもなければただちに死ぬのだ――これが最後の警告《けいこく》だぞ」
「陛下だと? そういう呼び方がならわしなら、そう呼んでやろう。だが、着陸とか――警告とか――死ぬとかいうことになると――きみはわたしが肉体でその場にいるのでないことを知っているはずだ。それに、きみはわたしを――それどころか、アリシア人の赤んぼうをでも――殺せると信ずるほど無知なのか。なんという奇妙な――なんという〈異常な〉心理だろう!」
「うじ虫め、死にたければ死ぬがいい!」至高者はののしって、どんな生物でも殺せると確信するだけのエネルギーをもった心的衝撃を投射した。
しかし、エンフィリスターはその激烈な攻撃を、さしたる努力もなくかわした。彼の態度は変化しなかった。また、反撃もしなかった。
そこで、エッドール人は分析的思考を投射したが、ふたたび驚かされた――アリシア人の思考は捕捉《ほそく》できなかったのである! そして、エンフィリスターは、エッドール人の憤然たる攻撃をかわしながら、自分のそばにいるだれかに話しかけるかのように、平静な思考を投射した。
「ひとりまたは複数の長老よ、わたしの心に参加してください。わたしには処理する資格のない情況が起こりました」
「われわれアリシアの長老の融合体は参加した」おごそかで深く反響する擬似声音《ぎじせいおん》がエッドール人たちの心をみたした。そして各エッドール人は、三次元的に映写された白髯《しろひげ》の老人の顔を知覚した。「おまえたちエッドール人の到来は予期されていた。そしてわれわれがとるべき行動方針は、ずっとまえから決定されている。おまえたちは、この事件を完全に忘れるだろう。以後長期間にわたって、いかなるエッドール人も、われわれアリシア人の存在を知らないであろう」
この思考が投射されるよりもはやく、長老の融合体はひそかに、手ぎわよく仕事を開始していた。エッドール人は、たったいま起こったことを完全に忘れた。彼らのうちひとりとして、エッドール人だけが宇宙の知的生物ではないということについて、いささかの認識をもとどめなかった。
そして、はるか離れたアリシアでは、すべてのアリシア人が心を結集して会議を開いた。
「しかし、なぜあなたがたは彼らをすぐに殺さなかったのですか?」エンフィリスターはたずねた。「もちろんそのような行動はきわめて不愉快なものです――ほとんど耐えられないほどです――けれど、わたしでさえわかるのですが……」彼は自分の思考にさまたげられて言葉をとぎらした。
「若者よ、おまえが近くしていることは、全体のきわめて小部分にしかすぎない。われわれが彼らを殺さなかったのは、そうすることができなかったからだ。おまえが指摘《してき》したように、そうすることを好まなかったからではなく、そうすることができなかったからなのだ。エッドール人の生命力は、おまえの現在の理解力をはるかに越えるほど強靭《きょうじん》である。彼らを殺そうとこころみたならば、彼らに忘れがたい印象を与えただろう。われわれは時をかせがねばならない……ながいながい時だ」融合体は思考をとぎらせて数分沈黙したのち、全員にむかって呼びかけた。
「われわれ長老は、宇宙万有にたいするわれわれの洞察《どうさつ》を、おまえたちに完全には伝達していない。というのは、エッドール人が真に出現するまでは、われわれの判断が誤る可能性がつねに存在したからだ。しかし、いまや一片の疑いもなくなった。銀河文明は、二つの銀河系にみちた惑星の上で平和に発達するはずだったが、いまや抵抗なしに前進することはできなくなった。われわれアリシア人は、究極において銀河文明を完全に成熟させることができるだろうが、その仕事は長く、そして困難なものとなった。
エッドール人の心は膨大《ぼうだい》な潜在的能力をもっている。彼らがいまわれわれのことを知るならば、われわれのあらゆる努力を無に帰せしめるような機械力を開発できることは確実である――彼らはわれわれを、われわれにとって固有のこの時空体系から追放するであろう。われわれは時をかせがねばならぬ――時をかせげれば、われわれは成功するであろう。やがてレンズが出現する――そしてあらゆる点でそのレンズを着用するにふさわしい銀河文明の代表者が出現する。しかしわれわれアリシア人だけでは、エッドール人を征服することはできない。事実、まだ確かなことではないが、われわれがどれほど自己改良につとめようとも、われわれの子孫は、まだ存在しておらぬある惑星上で進化するはずの、ある血統を通じて、まったくあたらしい種族――われわれよりもはるかに有能な種族――を養成し、〈銀河文明の擁護者《ようごしゃ》〉としてわれわれのあとをつがせねばならないだろう。その公算はすこぶる大なのだ」
数世紀が過ぎた。数千年が過ぎた。宇宙地理学的期間が過ぎた。惑星は冷却《れいきゃく》して凝固《ぎょうこ》した。生命が発生し進歩した。そしてそれらの生命は進歩するにつれて、彼らはたがいに対立するアリシアとエッドールという二つの勢力に、強力に、しかもひそかに従属《じゅうぞく》させられていった。
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二 アトランティスの陥没
1 エッドール
「側近サークルの各員よ、現在の所在と行動のいかんにかかわらず、同調せよ!」至高者《しこうしゃ》は放送した。「最新の観測データを分析したところによると、〈大計画〉は全体において順調に進行している。われわれの代行者が従来も適当に制御できず、今後もできないであろうと思われる惑星は、四つしかない。太陽《ソル》系第三惑星、リゲル系第四惑星、ヴェランシア系第三惑星およびパレイン系第七惑星がそれである。おまえたちにもわかるように、四個ともわれわれとは別の銀河系にある。われわれの銀河系においては、これまでのところ、なんらの不都合も起こっていない。
これら四個の惑星のうち、第一のものには、ただちに痛烈な集中的処理を加えることが必要である。その住民は、われわれが最後に全般的観測をおこなったのちのわずかな期間に、核エネルギーを開発し、われわれがはるか以前に設置した基本原理にはあらゆる点で適合しないような文化形態におちこんでいる。あの惑星におけるわれわれの代行者は、事態を自分たちだけで処理できると誤解して、直接の上級者に完全な報告をすることもせず、援助を求めることもしなかったから、厳罰《げんばつ》に処する必要がある。失敗は、いかなる原因にもとづくものであろうと、容赦《ようしゃ》することはできない。
ガーレーンよ、おまえは余の次に位する第二席として、ただちに太陽系第三惑星の制御を引き受けよ。この側近サークルは、おまえがあの惑星上に秩序を回復するために必要なあらゆる手段を採用する権限をここに賦与《ふよ》する。他の三つの惑星も、近く問題となるであろうから、それらに関するデータを慎重に検討せよ。おまえは、これらの不都合な事態を抑制するために、この側近サークルの他のメンバーの協力を必要と考えるか?」
「そうは考えません、陛下」ガーレーンは、しばらく思考したのちに断定した。「問題の住民は、まだ知能の程度が低いからであります。また、一時にひとりの肉体を操作すれば充分だからであります。そして、その技術は本質的には同じですから、他のメンバーの協力をうるよりも、わたしひとりで四つの惑星を操作したほうが効果的です。このデータに対するわたしの判断が正しければ、精神力の採用については、もっとも基本的な注意が必要なだけだと思います。なぜなら、四つの種族の中では、ヴェランシア人だけが、精神力の使用について部分的な知識をもっているにすぎないからです。わたしの判断は正しいでしょうか?」
「われわれもそのように判断した」驚いたことに、側近サークルは満場一致で賛成した。
「では、出発せよ。仕事が完了したら、完全に報告せよ」
「出発いたします、陛下《へいか》。そして完全にして包括的な報告をいたします」
2 アリシア
「われわれ長老の融合体《ゆうごうたい》は、全員の研究と闘技のために、銀河文明とその和解《わかい》しがたい敵とのあいだに現在存在し、また将来も存在するはずの相互関係に対する洞察《どうさつ》を公開する。若いメンバーのあるもの、とくに最近監視員になったユーコニドールが、この問題について指示を求めたからである。このものたちはまだ未熟なので、従来ネダニロール、クリーディガン、ドラウンリ、ブロレンティーンたちが個々に、または融合体として、なぜある行動を遂行《すいこう》し、またある行動を遂行しなかったか、またこれら〈銀河文明の造成者〉の行動が、未来においても同様に制限されるかどうか、ということについて明確に洞察していない。
われわれの現在の洞察は、これらの父祖の洞察よりもいっそう複雑で完全で詳細《しょうさい》であるが、基本的な点ではすべて一致している。五つの基本原則は変化していない。第一に、エッドール人は心力によってのみ圧倒し得る。第二に、それに要求される心力はきわめて膨大なものであって、われわれが従来建設に努力し、今後も努力するところの〈銀河パトロール隊〉という組織によってのみ発生することが可能である。第三に、いかなるアリシア人、またその融合体も、この心力の始動者《しどうしゃ》となることはできないから、その仕事を遂行するに充分な心力をそなえた種族を養成することが肝要である。第四に、この新種族は、エッドールの脅威を除去するのに指導的な役割を果たしたのち、必然的に、アリシア人にかわって〈銀河文明の擁護者《ようごしゃ》〉となるであろう。第五に、エッドール人にとって効果的な対抗手段を講ずることが物理的、数学的に不可能になるまでは、彼らにわれわれのことを知られてはならない」
「なんと暗い予想でしょう」陰気な思考が伝達された。
「かならずしもそうではない。多少とも反省してみれば、おまえの現在の思考が薄弱で不明瞭なことがわかるだろう。そのときが到来すれば、すべてのアリシア人は変化に対する準備ができているだろう。われわれはその過程を知っている。その過程がなにに通じているかはわからないが、この存在相――この時空体系――におけるアリシア人の目的は完全に達成され、われわれは欣然《きんぜん》としてつぎの存在相に移動するであろう。他に質問したいことがあるか?」
質問はなかった。
「では、各員慎重にこのデータを検討せよ。おまえたちのうちでだれかが、子どもでさえも、われわれが見落としたり、あるいは充分に調査しなかった事実の一面を知覚するかもしれない。そのようなことがわかれば、敵との闘争の期間を短縮し、われわれの現在の洞察によれば避けられないものと思われる多数の幼い文明の崩壊を減少させることができるであろう」
数時間が過ぎた。数日が過ぎた。なんの批判も提案もなされなかった。
「では、この洞察は、現在の時点において獲得される情報からわれわれアリシア人の総合された知能が構成しうるかぎりでもっとも完全で正確なものと判断する。したがって、〈文明の造成者〉たちは、従来遂行したことを簡単に述べたのち、近い将来において遂行することが必要と考えることを報告せよ」
「われわれは、多くの惑星上における知的生物の進歩を観察し、しばしばそれを指導してきました」造成者の融合体はのべ始めた。「われわれは、これらの生物のエネルギーを、銀河文明の類型に導くために最善をつくしました。また、なるべく多種多様な種族を、レンズの効果的な使用に必要な知的水準に導くという方針を堅持しました。そのレンズの使用なくしては、新計画中の〈銀河パトロール隊〉を誕生させることはできないからです。
長期間にわたって、われわれは四つのもっとも強力な種族のなかで、個々に工作してきました。その四種族のうちの一つから、将来われわれに代わって〈銀河文明の擁護者《ようごしゃ》〉となるべき種族が養成されるのであります。そのための血統はすでに設定されました。われわれは優秀な因子《いんし》を集中し、劣等な因子を解消するような配置を促進《そくしん》してきました。進化の最終段階の配置がおこなわれるまでは、精神的にも肉体的にも、標準型からの大きな遊離は生じないでしょうが、各種族の一般的進化は避けることができませんでした。
そういうわけで、エッドール人はすでに地球上での文明の萌芽《ほうが》に着目し、また他の三つの惑星上でのわれわれの工作を妨げることも避けられないでしょう。これら四つの若い文明は、没落することを許されねばなりません。この会合が招集されたのは、各アリシア人が善意の、しかし逆効果をもたらすような行動をとらないように警告するためであります。われわれは、工作中の惑星上の住民と知的にも肉体的にも区別できないような形態を通じて行動するでありましょう。これらの形態とわれわれとの関係は、探知することができないでしょう。われわれ以外のアリシア人は、これら四つの惑星のどれからも有効範囲で工作してはなりません。今後これらの惑星はエッドール自体に従来与えられてきたのと同様の地位を与えられるでしょう。エッドール人には、彼らが事態を知っても効果的な対抗手段を講ずることが手遅れになるまでは、われわれのことを知らせてはなりません。偶然エッドール人に洩《も》れた情報は、どんなわずかなものでもすべて忘却《ぼうきゃく》させねばなりません。われわれの監視員は、そのような偶然的|漏洩《ろうえい》を警戒するように訓練されねばなりません」
「しかし、もしわれわれに属するすべての文明が没落するとしたら……」ユーコニドールが抗議しはじめた。
「若者よ、精神の全般的水準は向上しており、したがって全般的能力も向上しているのだ。おまえも研究すればそのことがわかるであろう」と長老の融合体がさえぎった。「全般的傾向はたえず向上している。各文明の頂点と最低点は、そのまえの文明の頂点と最低点よりも高くなっているのだ。予定の水準――レンズの効果的な使用が可能になるような水準に到達したならば、われわれは自己の存在をエッドール人に知らせるばかりでなく、あらゆる機会に彼らと戦うであろう」
「一つ、不明瞭な要素が残っている」一人の長老がそれに続いた沈黙を破った。「この洞察においては、わたしはエッドール人がいつでもわれわれの存在を知る可能性があり、それを妨げるような何物をも知覚していない。はるか昔の長老たちがエッドール人の存在を洞察したばかりでなく、時空観測にさいして彼らを知覚し、当時の長老およびその後の長老たちが現状を維持することができたと仮定しても、またエッドール人の思考方法が本質的に哲学的であるよりも機械的であると仮定したとしても、敵が論理だけでわれわれの存在を推定するという可能性はやはり存在する。現在わたしがとくにこうした懸念《けねん》をいだいているのは、これら四つの惑星上での諸事件を厳密な統計的分析にかけるなら、それらが偶然に発生したものではないことがわかるからである。この分析を出発点とするならば、平凡な精神能力をもってしても、われわれの存在を詳細に洞察することが可能であろう。しかしわたしはこの可能性が考慮に入れられているものと判断し、そのことを各員に報告する」
「その点は充分考慮されている。そのような可能性は存在する。われわれが自己の存在を明示するまでは、そうした分析は行なわれないであろうという蓋然性《がいぜんせい》はきわめて大である。が、確実ではない。しかしエッドール人はわれわれの存在を推定すれば、ただちに四つの惑星その他において、反対工作を開始するであろう。効果的な対抗手段は唯一であり、われわれ長老はずっと以前からそのような行動の兆候に注目しているから、状況は不要である。もし状況が変化するならば、われわれはただちに次の総会を招集する。他に重要事項があるか――もしなければ、この会議は解散する」
3 アトランティス
最近五年任期のアトランティス大統領《ファーロス》に三選されたアリポニデスは、そびえ立つ大統領官邸《ファーロステリー》の最上階にあるオフィスの窓ぎわに立っていた。彼の両手は背中でゆるやかに組まれていた。彼の目は静かにひろがる広大な大洋も、舟でにぎわう港も、目の下に展開する繁華な大都市も実際には見ていなかった。彼がじっと立っているうちに、かすかな振動がつたわって、訪問者たちがドアに近づいてきたことがわかった。
「諸君、はいりたまえ……そして席についてくれたまえ」彼は透明なプラスチックで作ったテーブルの端《はし》に腰をおろした。「心理学者タルモニデス、政治家クレト、大臣フィラモン、大臣マルクセス、将軍アルトメネス、わたしが諸君にわざわざ出向いてもらったのは、この部屋の障壁《しょうへき》が盗聴に対して安全だと信ずべき確実な理由があるからだ。われわれの専用テレビチャンネルは、もはや盗聴にたいして安全であるとはいえない。われわれはわが国民が現在直面している情況を討議し、もし可能ならば、なんらかの結論に到達しなければならない。
われわれはいずれも、自己の本質を正確に知っている。いっぽうわれわれの能力をもってしては、相手の本質を正確に知ることはできない。しかし心理学的装置は有能で正確である。タルモニデスは、われわれ各員を徹底的かつ厳密に調査した結果、われわれの内部に、いささかの反逆心も存在していないことを確認した」
「そんな確認はなんの価値もない」大男の将軍が断言した。「タルモニデス自身が、反逆者のひとりでないという保証がどこにありますか? お断りしておきますが、わたしは彼が反逆心をもっていると信ずる理由があるわけではありません。事実、彼は二十年以上もわたしの親友でしたから、彼が反逆心をもっていないということをひそかに信じています。しかし、アリポニデスよ、厳密にいえば、あなたがとったあらゆる警戒は無駄ですし、これからも無駄でしょう。厳密な真実は未知であるし、これからも未知のままでしょう」
「きみのいうとおりだ」心理学者が認めた。「したがって、わたしはこの会合から身をひくべきだろう」
「そんなことをしてもやはり無駄だ」アルトメネスは首を振った。「有能な陰謀者《いんぼうしゃ》ならば、このような事態に対しても、他の事態に対してと同様、充分備えているだろう。きみ以外のわれわれのうちのだれかが、真の陰謀者であるかもしれない」
「そして、アルトメネスがそのように無用な区別をしたという事実こそ、われわれのうちのだれが真の陰謀者かわからないということをしめしている」マルクセスが皮肉に指摘《してき》した。
「諸君! 諸君!」アリポニデスがたしなめた。「絶対的な確実性は、もちろんわれわれの限りある能力では、到達することができないが、諸君もみな知っているように、タルモニデスは厳密な審査を受けた結果、彼を疑うべき理由がないということがわかっている。しかしそのような危険をおかすことはやむをえない。なぜなら、もしわれわれがこの計画について、相互に完全に信頼し合わないならば、失敗はさけられないからだ。この問題は、ここで打ちきって、わたしの報告をはじめることにする。
現在の世界的な社会不安は、原子エネルギーが解放された直後に発生したのであるが、その原因も――おそらく――それに帰せられるだろう。この社会不安は、アトランティス政府が帝国主義的な目標をたてたり、そのような行動に出たりしているためではない。この事実は、どれほど強調しても強調しすぎることはない。われわれは、過去においても現在においても〈帝国〉に関心をもったことは一度もない。他の国家がアトランティスの植民地として出発したのは事実だが、われわれは彼らをその選挙民の意に反して植民地的状態に引きとめようと試みたことはない。すべての国家は同権の姉妹国家であったし、現在もそうである。われわれは利害をともにしている。彼らの母胎《ぼたい》であるアトランティスは、過去においても現在においても彼らの連絡機関であり調整者であるが、彼らを支配することを要求したこともないし、実行したこともない。すべての決定は、自由討議と自由な秘密投票にもとづいて行われている。
しかし、いまはどうか! いたるところに、アトランティスにおいてさえ、分裂が起こっている。すべての国家が内部的不和と闘争にひきさかれている。そればかりではない。ウイガル国は、南部の島国を不当に憎んでおり、南部の島国はマヤ国を憎んでいる。また、マヤはバンツーを、バンツーはエコプトを、エコプトはノルハイムを、ノルハイムはウイガルを憎んでいるのだ。このような悪循環は、いたるところでからみあっている他の憎悪によって、いっそう悪化している。各国が他国によって全世界を支配されはしないかと危惧《きぐ》の念を抱いている。そして、アトランティスが他のすべての国を服従させようとたくらんでいる、というまったく根拠のない確信が急速にひろがっているように思われる。
これは、わたしが感じたままの世界の現状を率直にのべたものである。わたしはわれわれの民主的な政府の憲法で規定された枠《わく》内では、他に有効な手段を考案できないので、われわれが現在の活動を継続するように提案する。すなわち、国際的条約や協定の締結《ていけつ》を促進し、できるかぎり努力を強化するのである。では、政治家クレトの意見を聞こう」
「大統領《ファーロス》よ、あなたは情況を明確に要約されました。しかし、わたしの見解によれば、問題の根本的原因は、多数の政党、とくに主として狂信家や過激家によって構成された政党が発生したことにあります。この現象と原子エネルギーとの関連は明白です。なぜなら、原子爆弾は、少数のメンバーからなるグループに世界を破壊するような力を与えたからです。彼らはそれによって、世界を支配する権力を与えられたと考えているのです。わたしの提案は、閣下の提案を特殊化したものに過ぎません。すなわち、ノルハイムとウイガルの選挙民に圧力をくわえて、原子エネルギーの効果的な国際管理を支持させるように全力をつくすことです」
「きみはデータを一覧表に作成したかね?」心理学者タルモニデスが計算機の鍵盤の前でいった。
「作成したよ。これがそうだ」
「ありがとう」
「大臣フィラモン、発言したまえ」大統領《ファーロス》がうながした。
「私見によれば――理屈《りくつ》のわかる人間なら、だれでも同じように考えるでしょうが――原子エネルギーがこの世界的な混乱の主要な原因となったのは、それが労働の堕落をもたらしたからです」銀髪の商業大臣は簡潔にのべた。「ひとり当たりの労働生産力は、少なくとも二〇パーセント増大させるべきです。そうすれば、物価は自動的に下がるでしょう。ところが、近視眼的な労働組合は、生産に過激な抑制を加えているので、生産が下落し一時間あたりの賃金が上昇し、したがって物価は上昇し実収入は下落しています。解決はただ一つしかありません。労働階級を理性の命ずるところにしたがわせねばなりません。彼らをあまやかし、のらくらさせ、そして……」
「わたしは反対だ」労働大臣のマルクセスがとび上がってさけんだ。「責任はまったく資本家にある。彼らの貪欲、彼らの搾取……」
「待ちたまえ」アリポニデスがはげしくテーブルをたたいた。「ふたりの国務大臣がこのように反撥《はんぱつ》しあうということが、そもそも現在の混乱した状態をそのまま示している。きみたちふたりは、今日の協議によって新しい解決策をみちびきだすつもりはないのかね?」
ふたりとも発言を要求したが、多数決によって否決された。
「きみたちのデータをタルモニデスにわたしたまえ」大統領《ファーロス》が指示した。「将軍アルトメネス、発言したまえ」
「大統領《ファーロス》よ、閣下はわたしの責任である防衛計画が現在の混乱の主要な原因であるとほのめかされました」銀髪の軍人は話しはじめた。「ある程度はおっしゃるとおりでしょう――その関連に気づかないものは、めくらであり、その関連を認めないものは偏見《へんけん》をいだいているといわなければなりません。しかし、原子爆弾に対しては事実上防御手段がない以上、わたしにどんなことができたでしょうか? 各国は原爆をもっており、ますます保有量をふやしています。どの国にも他国のスパイがうようよしています。世界中が牙《きば》をといでいるというのに、アトランティスを牙《きば》のない状態にしておけるものでしょうか? それにわたしに――いや、だれにしても――そんなことが効果的にできたでしょうか?」
「恐らくできなかったろう。わたしはきみのやりかたを批判するつもりはない。われわれは情況にありのままに対処しなければならない。きみの意見をのべてくれたまえ」
「わたしはこの問題を日夜考えましたが、われわれのデモクラシー――いや、どんなデモクラシーにも――適応するような解決策を見いだすことはできませんでした。しかし、わたしは一つの提案をいたします。周知のように、ノルハイムとウイガル――とくにノルハイムが病根《びょうこん》です。現在のところわれわれは、両国の原爆保有量を合わせたよりも多量の原爆を保有しています。われわれはウイガルが超音速航空機を準備していることを知っています。ノルハイムは最近わたしの諜報網《ちょうほうもう》を切断したので、ノルハイムがどんな新兵器をもっているかは正確にはわかりかねます。しかしわたしは今夜もう一人の工作員――わたしのもっとも優秀な部下を派遣します。もし彼がわれわれの航空機のほうが速度が速いことを確認したならば――わたしはそうにちがいないと確信していますが、そのばあいには、両国がわれわれを攻撃しないうちに、彼らを攻撃することを提案します。それも徹底的に叩くのです――粉砕《ふんさい》してしまうのです。それから強力な世界政府を樹立して、それに協力しない国家は――アトランティスをもふくめて――打倒してしまうのです。この行動方針が、すべての国際法やデモクラシーの原理に正面から反するものであることはわかっていますし、また成功しないかもしれません。しかし、わたしに考えられるかぎりではこれが唯一の〈有効な〉解決策です」
「この方針の弱点は、きみのいうとおりだ――われわれもみんなわかっている」大統領《ファーロス》はしばらく考えてからいった。「きみの諜報網をもってしても、すべての敵の軍事施設を確実に偵察することはできない。それにそれらの多くは、われわれのもっとも強力な誘導弾でも破壊できないほど地下深くにあるにちがいない。われわれは全員きみをも含めて信じていることだが、そのような行動に対する他の諸国の反応は望ましくない激烈なものであろうという心理学者の判断は正しい。タルモニデス、報告してくれたまえ」
「わたしは、すでにデータを求積器にかけました」心理学者がボタンを押すと、機械はうなったりカチカチ音をたてたりしはじめた。
「多少とも重要な新しい事実は一つしかありません。それはある重要人物の名前です。そのことから必然的に推論されるところによると、ノルハイムとウイガルの間には、ある程度の協力が存在するかもしれません……」
彼は、機械がカチカチいうのをやめて報告を吐き出したので、言葉をとぎらせた。
「そのグラフをごらんなさい――七日の間に十も問題点があります」タルモニデスが指さした。「情況はいよいよ悪化しています。破局はさけられません――この合成線が急速に一定点に接近しているのがわかるでしょう――爆発は、ほぼ八日以内に起こらざるを得ないでしょう。一つだけわずかな例外があります――ここです――組織線と目的線は依然として不定です。このように統一性が欠けていることは、データが不充分なせいだと思われます――この現象全体の背後には慎重に設定され、完全に統一された計画がありそうです――ただし、党派や国家はほとんど互角の状態です。しかし、データが不充分です。もしアトランティスが完全に破壊されたとしても、他の一国が勝利を得ることはできないということが、はっきり示されています。各国は相互に破壊しあって地球上の全文明を没落させてしまうでしょう。この予測においては、軍事大臣が提供したデータがもっとも重要な決定要素ですが、この予測にしたがえば、ただちに解決手段を採用しない限り、こうした結果はさけられないでしょう。アルトメネス、もちろんきみは自分のデータの正確さに自信があるだろうね」
「自信がある。ところで、きみはある重要人物の名前があらわれていることを指摘して、それがノルハイムとウイガルの同盟を予想させるといったが、その人間はだれだね?」
「きみの古い友人のひとりだ……」
「ロー・サングか!」アルトメネスはののしるようにさけんだ。
「ほかならぬ彼だ。そして不幸なことに、成功の可能性のある行動方針はまだ示されていない」
「では、わしの方針を採用したまえ!」アルトメネスはとび上がると、こぶしでテーブルをどんとたたいた。「ただちに二集団にロケットを発進させてください。両国の首都ウイガルストイとノルグラードを放射性の塵《ちり》に粉砕して、それぞれの周囲一千平方マイルを一万年間、居住不可能にしてしまうのです! それが彼らにわからせる唯一の方法だとすれば、わからせてやればよろしい!」
「すわりたまえ、将軍」アリポニデスが静かに命じた。「きみが、すでに指摘したように、その方針は支持できない。その方針はわれわれの文明の最高原理に違反する。そればかりでなく、まったく無益だろう。なぜなら、その結果、地球上のあらゆる国が一日以内に破壊されてしまうことはあきらかだからだ」
「では、どうするのです」アルトメネスは、くってかかった。「おとなしくすわったまま、彼らの破壊にまかせるのですか?」
「そうとは限らない。われわれがここに集まったのは、解決策を協議するためだ。タルモニデスは、われわれの知識の結集にもとづいて、すでになすべきことを決定しているだろう」
「予測はよくありません。まったくよくありません」心理学者は沈鬱《ちんうつ》に答えた。「多少とも成功の可能性のある唯一の行動方針は――その可能性は〇・一八にすぎません――大統領《ファーロス》が提案されたものを、多少変形させて、もっとも有能な工作員を派遣するというアルトメネスの提案を付加したものです。ところでこの工作員をはげますために大統領《ファーロス》ご自身が彼を出発前に引見されるのがよろしいと思います。通常の場合ならば、わたしはこのように成功の可能性が少ない行動方針をすすめはしませんが、これは従来われわれがやってきたことを継続し強化するものにすぎませんから、他の方針を採用する必要はないでしょう」
「諸君は賛成かね?」アリポニデスはしばらく沈黙した後でたずねた。
全員が賛成だった。四人の協議者が出て行き、そのかわりにひとりの青年がはいってきた。彼は大統領《ファーロス》のほうを見なかったが、目には、もの問いたげな表情をうかべていた。
「命令受領のため出頭いたしました」彼はきびきびと将軍に敬礼《けいれい》した。
「休め」アルトメネスは答礼した。「きみをここへよんだのは、大統領《ファーロス》からお言葉をいただくためだ。大統領《ファーロス》、フリジェス大尉をご紹介いたします」
「命令ではないのだ……そんな固苦しいものではない」アリポニデスは大尉の左肩に右手をかけ、思慮深い目で青年の金茶色のひとみをじっとみつめた。大統領《ファーロス》は、特別意識することもなく、青年の赤銅色の髪を見やった。「きみをここへよんだのは、きみの幸運を祈るためだ。それはわたし自身のためばかりでなく、われわれ全国民、いやおそらくわれわれ全人類のためなのだ。わたしは予告なしに不当な攻撃を加えることは非常な反発を感ずるが、われわれは軍事大臣の計画にしたがって先制攻撃をかけるか、地球文明全体を没落させるか、どちらかの道を選ばざるを得ないだろう。きみはもう自分の使命の重要さを知っているだろうから、そのことをあらためて強調する必要はない。しかし、フリジェス大尉、わたしは今夜きみといっしょに全アトランティスが飛んで行くということをきみに完全に理解してほしいのだ」
「あ……ありがとうございます」フリジェスは、声のふるえをおさえるために、二度ばかり、生《なま》つばをのみこんだ。「わたしは最善をつくします」
それからしばらくして、フリジェスは翼《つばさ》のない航空機に乗って空港へ向かいながら、ながい沈黙ののちにつぶやいた。「では〈あれ〉が大統領《ファーロス》なのですね……いいかたですな、閣下……これまで近くでお会いしたことがなかったのです……あのかたはどこか引きつけられるところがあります……それほどわたしの父に似ていらっしゃるわけではありませんが、わたしはあのかたを一千年も前から知っていたような気がします!」
「ふむ……む……む。ふしぎだ。きみと大統領《ファーロス》とはそれほど似ているようにみえないのに、ひどく近い感じがする……はっきりそうとは指摘できないが、問題は目にあるらしい」アルトメネスも当時のだれも知らなかったが、確かに共通点はそこにあったのだ。それは、『鷲《わし》の目つき』で、ずっとのちになって、アリシアのレンズの着用者の特徴となったものである。
「ところで空港へついた。きみの飛空船は出発の用意ができている。幸運を祈るよ」
「ありがとうございます。しかし、出発するまえに一つお願いがあります。もしも、――もしもわたしが生還しなかったあかつきには――わたしの妻と子どもを――」
「わかったよ、フリジェス。奥さんと子どもさんは、あしたの朝、北マヤへ出発させる。ふたりは、きみやわたしが死んでも、生きのびるだろう。ほかになにかあるかね?」
「ございません。ありがとうございます。ではさようなら」
飛空船は、巨大な空飛ぶ翼だった。標準型の商船である。普通この船には、人は乗らない――旅客も乗務員も、こうした無人機の苛烈《かれつ》な加速度に耐えられないからだ。フリジェスは、操縦パネルを調べた。小さなモーターが制御装置内におさめたテープをひっぱっている。すべてのライトは緑色を示している。準備はすべて完了している。彼は防水服をつけて、柔軟なバルブをつうじて加速タンクの中にはいり、待機した。
サイレンがみじかくほえた。抑制されていた原子エネルギーが解放されると、暗黒の夜は白熱的に照らしだされた。十分の五・六秒のうちに、V字型をした後退翼《こうたいよく》のベリリュウム銅の鋭利な前縁は、いよいよ希薄化する空気を切りさいていった。
船は瞬間的に停止したように思われた。停止して激しく動揺した。戦慄《せんりつ》し、振動した。バラバラに分解するかと思われた。しかし、タンクの中のフリジェスはおちついていた。以前には、弱い船が、音速時の固体に近いような空気抵抗の壁に耐《た》えられずに分解したこともあったが、この船は充分堅固につくられていて、その壁を無傷で突破できるだけの動力を持っていたのだ。
猛烈な振動がやみ、巨大な加速度は、わずかな衝撃に減少した。フリジェスは船が時速二千マイルの巡航速度におちついたことを知った。彼は、みがいた鋼鉄の床になるべく水をこぼさないように気をつけながら、加速タンクから、はい出した。そして防水服をぬいでバルブからタンクの中におしこんだ。つぎに、タオルで床をぬぐって、それもタンクにしまった。
やわらかい手袋をはめて、手動操作で加速タンクや、そうした作業を可能にしたいっさいの装置を投棄した。投棄物は大洋に沈んで、二度と発見されないだろう。彼は室内とハッチを念入りに調べた。ひっかき傷もよごれも、どんな種類の痕跡《こんせき》も残っていない。ノルハイム人が捜査するなら、して見るがいい。これまでのところは、手ぬかりはない。
彼は、それから、翼の後縁の小さな脱出口のそばに固定されている黒っぽい球体のところへ行った。球体を繋留《けいりゅう》していた装置がはじめに投棄された。室内の空気が真空に近い空中にふき出した。彼はあえいだが、急激な気圧の変化にたえられるように訓練されていた。球体を脱出口にころがしていって、脱出口を開いた。球体は半分を蝶番《ちょうつがい》で接合したもので、それぞれの半球は、スポンジゴムに似た物質であつくおおわれていた。フリジェスのような大男が、特にパラシュートをつけたまま、このように小さい球の中にもぐり込めるというのは、信じられないほどだったが、球の内径は彼の体にぴったり合うように作られていたのだ。
この球は〈小さくなければ〉ならなかった。船は正規のスケジュールにしたがった輸送飛行をしていたが、ノルハイムのレーダー有効範囲にはいったときから、集中的に継続的に探知されているだろう。球はどんなレーダースクリーンにも捕捉されないから、疑われることはあるまい。とくに――アトランティスの諜報機関が発見したかぎりでは――ノルハイム人が、超音速飛空船から生きた人間を脱出させる装置の完成に成功していない以上、なおさらである。
フリジェスは、時計の第二針が予定の時刻を指すのを待った――なおも待った。彼は球の下半分に身をかがめ、上半分をかぶってロックした。ハッチが開いた。球は中に、彼を封じ込んだまま落下していった。急激な減速度で速度がゆるみ、最終速度におちついた。もし、空気がもう少しでも濃かったらアトランティスの大尉はたちまち死んでしまったろうが、その点も正確に計算されていたので、フリジェスは生きのびた。
そして球はななめに弾丸のように落下しながら、縮小した!
アトランティス人の希望的観測によれば、これもノルハイム人には知られていない技術だった――球を構成している合成物質は、空気の摩擦《まさつ》によって一分子ずつ急速に浸蝕されて、地上には認知できるような断片が到達しないのだ。球の外壁が消滅し、つづいて多孔性の内壁も消滅した。フリジェスはまだ三万フィート以上の高空にあったが、球の残骸《ざんがい》を蹴《け》やぶって、地上が見えるように空中で反転した。地上はいまや、朝あけの中にあらわれはじめていた。彼の落下方向と平行にハイウェイが走っていた。百ヤードとは離れないところに着陸するだろう。
彼は開傘索を早く引きたいという激しい欲求をおさえつけた。待たねばならない――最後の瞬間まで待たねばならない――パラシュートは大きいし、ノルハイムのレーダーは地面をかすめるように探知しているからだ。
ついに、充分低いところまで落下したので、彼は索《つな》を引いた。ズーン――パッ! パラシュートは開き、パラシュート・バンドがはげしく引っぱられた。ほんの数秒後、彼のバネの強いひざは、着陸のショックを受けとめた。
きわどいところだった――あまりにもきわどかった! 彼は蒼白《そうはく》になって身ぶるいしていたが、けがはなかった。波うってひろがるパラシュートをよせ集めて、パラシュート・バンドといっしょに包みにまとめた。そして小さいアンプルの口をこわして、中の液体をふりかけた。じょうぶなパラシュートの繊維は消滅しはじめた。燃えるのではなく、そのまま分解して消えていくのだ。一分足らずの間に、二、三の鋼鉄のスナップやリングだけしか残らなくなった。アトランティス人は芝生の表面を慎重にとりのけて、その下にそれらを埋めた。
彼はまだ、スケジュールどおりに行動していた。三分足らずのうちに、信号が発信されて、自分の現在位置がわかるだろう――もちろんノルハイム人がアトランティスの秘密グループをすべて発見して抹殺《まっさつ》していなければの話だ。彼は小さな装置のボタンを押して、そのまま押しつづけた。ダイヤルの上にみどり色の線が一本あらわれた――それが赤くかわった――そして、消滅した。
「ちくしょう!」彼ははげしくののしった。信号の強度からすれば、彼は潜伏場所《せんぷくばしょ》から一マイルかそこらのところにいた――第一級の計算だ――しかし、信号が赤にかわったのは、その潜伏場所に接近するなという警告だ。キネクサが彼のところへやってくるというのだ――キネクサでさいわいだった!
どのようにして、くるだろうか? 航空機でか? 地上車でか? 森の中を歩いてくるのか? 彼にはそれを知る方法がなかった――タイト・ビームをつかったとしても、通信することは問題外だった。彼はハイウェイに近よって、一本の木の陰に身をかがめた。ここにいれば、彼女が三つのうちどの方法できても、彼をみつけられるだろう。彼はときどき発信器のボタンを押しながら待った。
長くて背の低い地上車がカーブをまがってきた。フリジェスは双眼鏡を目にあてた。乗っているのはキネクサだった――いや、替え玉かも知れない。彼はそう思うと双眼鏡をおろして、武器を引きぬいた――右手には電子銃《ブラスター》、左手には空気ピストルをかまえたのだ。しかしこんなことをしてもむだだ。彼女も、こちらを替え玉ではないかと疑っているだろう――疑わざるを得ないのだ――そして、あの車にはおそらく重火器が積んであるだろう。もし彼が攻撃しようとすれば、彼女は、彼をたちまち焼き殺してしまうだろう。防御装置を用意していれば、彼女はすぐには、攻撃しないかもしれない――しかし、危険をおかすべきではない。
車は速度をゆるめて停止した。彼女は車をおりて、前輪を調べてから、体を起こし、道路を見わたして、フリジェスがかくれている場所に目をそそいだ。背が高く、ブロンドで、美しい体つきだ。左のまゆげがかすかにゆがんでいる。口の中で、金のブリッジが光っている。上唇には小さなきずあとがある。そのどちらも、彼がおわせたきずだ――彼女はいつも、自分より年上で大きな少年達と泥棒ごっこをやりたがった――キネクサにちがいない! ノルハイムの科学がどれほど進歩していようとも、彼は彼女がひざ位の背たけしかない頃から、ずっと知っているのだから、彼女の肉体的特徴をなにからなにまで似せることはできない!
彼女は、席にもどり、重い地上車は動きはじめた。フリジェスは、素手《すで》のまま、その行手にふみ出した。車はとまった。
「背中をむけて、両手を後にまわしたまま、後退しなさい」彼女はきびきびと命令した。
フリジェスは、とまどったが、命令にしたがった。彼女が指で彼の首すじの短い毛をさぐったので、彼女がなにをさがしているのかわかった――そこには、彼女が七つのときにかみついたきずあとが、それとわからないくらいかすかに残っていたのだ!
「まあ、フリジェス! あなたなのね! 〈ほんとに〉あなたなのね! よかったわ! わたし、あなたにこんなけがをさせたことをしょっちゅうくやんでいたんだけれど、でも、いまは……」
彼はくるりとふり向いて、彼女がたおれかけたのをささえた。しかし、彼女は完全に気を失ったわけではなかった。
「急いでちょうだい……乗って……すぐ発車しないと……でも、あまり急がないで!」彼女は、するどく注意した。タイヤは悲鳴をあげはじめた。「このあたりの制限速度は七〇マイルだから、それ以上出すとつかまるわ」
「大丈夫だ、キネクサ。だが、教えてくれ! いったいどうしたんだ。コラニデスはどこにいる? というより、彼にどういうことが起こったんだ?」
「死んだわ。ほかの者たちも死んだと思うの。ノルハイム人は彼を心理分析器にかけて、分解してしまったのよ」
「だが、精神|障壁《しょうへき》は効果がなかったのかい?」
「効果がなかったの――ノルハイム人は、通常の心理分析のほかに、肉体的な拷問《ごうもん》を加えるからよ。でも、彼らは、わたしのことをなにも知らないし、彼らの情報がどうやって探知されているかも知らないわ。さもなければ、わたしも死んでいたでしょう。でも、そんなことは問題じゃないわ、フリジェス――わたし達は一週間おそすぎたのよ」
「おそすぎたとはどういうわけだい? 早く話したまえ!」彼の口調は荒かったが、手は彼女の腕《うで》にそっと置かれていた。
「これでも精一杯、早く話してるつもりよ。わたし、おととい彼の最後の報告をうけとったの。ノルハイムはわたしたちの誘導弾と同じ位に大きくて、同じぐらい速い誘導弾を持っているのよ――もっと大きくて、もっと速いかも知れないわ――そして、それを、今夜、七時きっかりに、アトランティスに向かって発射することになっているのよ」
「今夜だって! なんということだ!」フリジェスは、せわしく頭を働かせた。
「そうよ」キネクサの声は、低く淡々としていた。「そしてわたしは、それをどうすることもできなかったのよ。もしわたしが味方の根拠地のどれかに接近したり、それらに到達するほど強力な通信ビームを用いようとしたりすれば、わたしも探知されていたでしょう。わたし、考えに考えたけれど、なにか効果のありそうな方法は一つしか思いつかなかったの。それに、その方法はひとりではできないのよ。でも、わたしたちふたりなら、たぶん……」
「つづけたまえ。説明してくれ。きみが頭を持っていないなんて、非難したものはだれもいやしない。それに、きみはこの国の地理をすみからすみまで、自分の手のひらのようによく知っているはずだ」
「飛行船を一隻盗むのよ。七時きっかりに、誘導弾発射基地の上空に到達し、発射扉が開いたら、全速力で突入して、アルトメネスに通信するの――もし敵に通信波妨害をされる前に一秒でも時間があればね――それから、発射チューブの中で、誘導弾と正面衝突するのよ」
これは困難な方法だったが、時間は非常に切迫《せっぱく》していたし、ふたりは極度に緊張していたので、どちらもそれを異常な方法だとは考えなかった。
「もしほかにもっといい方法が思いつかなければ、その方法でも悪くないな。もちろんその方法の難点は、きみひとりでは飛行船を盗みだす手段が見つからなかったということだね」
「そのとおりよ。わたしは電子銃を身につけることができないの。いまノルハイムの女は、上着も外套も着ていないから、わたしも着られないわ。それに、この服をごらんなさい! 電子銃を一挺でもかくせる場所があると思って?」
彼は彼女の体をじろじろ見つめた。彼女は顔を赤らめるだけのたしなみがあった。
「かくし場所があるとはいえないない」彼は認めた。「しかし、もし飛行船に接近できれば、一隻手にいれたいな。われわれふたりならできると思うかね?」
「見こみがないわ。敵は、飛行船の中に、少なくともひとりの人間を常時《じょうじ》置いているわ。船の外の人間をみな殺しにしたとしても、船はわたしたちが外部制御装置で出入口を開けるほど接近する前に、離陸してしまうでしょうね」
「たぶんそうだろう。つづけたまえ。だが、はじめに聞いておこう。きみは確かに探知されていないかね?」
「もちろんよ」彼女は暗い微笑をうかべた。
「わたしがまだ生きているという事実は、敵がわたしについてなにも発見していないということの決定的な証拠だわ。でも、あなたがもっといい方法を思いつけるのなら、あなたがこの方法にしたがって行動することを、わたしは望まないわ。わたし、あなたがなりたいどんな人間にでも適合するような旅券を持っているの。配管工からエコプシアの銀行家にいたるまでね。わたしについてもそうよ。つまりわたしたちは夫婦になるわけなの」
「ぬけめがないな」彼は数分間考えていたが、やがて首をふった。「ぼくにもほかの方法は思いつけない。救命ボートは、あと一週間しないと到着しない。それに、きみがいったような情況だと、とてもここへは到達できないだろう。だが、きみは脱出できるかもしれない。どこかできみを離脱《りだつ》させるよ……」
「その必要はないわ」彼女はしずかに、しかし、きっぱりとさえぎった。「〈あなた〉なら、こんなときどちらを選んで? ――すぐれたアトランティス人といっしょにいさぎよく死ぬのがいいか、それとも仲間を見すてたあとでつかまって、心理分析され、拷問《ごうもん》されたあげく――まだ生きているうちに――内臓をひき出されたり、四つ裂《ざ》きにされたりするのがいいか」
「それなら、ずっといっしょにいこう」彼は賛成した。「ぼくたちは夫婦になろう。旅行者だ――新婚のね――そう遠くないどこかの町からきたことにするのだ。ぼくらが乗っている車ともつじつまがあう。できるかね?」
「簡単だわ」彼女はひきだしを開いて、書類の束《たば》の中から一枚を選び出した。「この書類を十分間で偽造《ぎぞう》できるわ。残りの書類は、ほかのいろんなものといっしょに処分しなければ。それから、あなたはその皮の服を脱いで、この旅券の写真にふさわしい服を着たほうがいいわ」
「そうしよう。この道路は、数マイルにわたって直線で、前にも後にも何も見あたらない。服を出してくれたまえ。いま着かえてしまう。車は走らせつづけるかね、それとも停止させるかね?」
「停止させたほうがいいと思うわ」彼女は判断した。「早くしてちょうだい。着がえがすんだら、この証拠物件をかくすか埋めるかする場所を見つけないとね」
彼が着がえをしているあいだに、キネクサは禁制品を彼が脱ぎすてた皮の服につつみこんだ。彼女はフリジェスが上着を着かけているときに顔をあげた。そして彼のワキの下をちらりと見やって目を見はった。
「あなたの電子銃はどこにあるの? それとわかりそうなものなのに、まるでわからないわ」
彼は放射器を示した。
「でもなんて小さいんでしょう! そんな電子銃は見たことがないわ」
「ぼくは普通の電子銃も持っているが、それは尻《しり》ポケットにはいってはいないんだ。これは電子銃じゃない。空気ピストルだ。毒針がはいっている。三十メートルをこえるとまるで効果がないが、接近していれば致命的だ。からだのどこにふれても、たちまち死んでしまう。二秒以上はかからないよ」
「すてきだわ!」このアトランティスの若い女スパイは、臆病者ではなかった。「あなたは、もちろん補充用《ほじゅうよう》の空気ピストルを持っているわね。この空気ピストルなら、靴下止めに、らくにかくせるわ。使い方を教えてちょうだい」
「標準式操作さ。電子銃の操作とほとんど同じだ。こんなぐあいにやるんだよ」彼は操作してみせた。そして彼がハイウェイをおちついて運転して行くあいだ、彼女は熱心に操作を練習した。
時間は過ぎていった。そのあいだ、事件がないことはなかった。事実、一つの事件は――それをくわしくここに述べることは必要でないが――はなはだ危険なものだったので、それが過ぎ去ったあと、「その誘導弾発射基地の位置を、ぼくに正確に教えておいてくれないか」フリジェスは静かにたずねた。「いまみたいな衝突で、きみがやられて、ぼくだけがまぬがれた時のためにね」
「そうだわ! もちろんよ! ごめんなさい、フリジェス――あなたが発射基地の位置を知らないということを、すっかり忘れていたわ。第六地区四七三――六〇五よ」
「わかった」彼は数字をくりかえした。
しかしふたりのアトランティス人は、どちらも〈やられ〉なかった。そして午後六時に、ハネムーンをよそおったふたりは、ノルグラード空港のガレージに大きな地上車をパークさせ、関門を通過して行った。ふたりの書類は、切符をもふくめて、完全にととのっていたので、普通の新婚夫婦のようにありきたりに見えた。それ以上でもなく、それ以下でもなかった。
ふたりはさりげなくぶらつきながら、目新しいものに、いちいちするどく目を向けて、とある小さな格納庫のほうへ迂回的《うかいてき》に近よって行った。彼女がいったように、この空港には超音速戦闘機が数百機もあった。数が多いので、補給は機械的に行なわれていた。ふたりが向かっている格納庫には、先端の鋭い、ずんぐりしたV字型の航空機が納められていた。ノルハイムでもっとも速い航空機の一つだ。この航空機は、補給をすませて、発進の準備ができていた。
もちろん外来者が不審尋問されずにその建物に侵入することは、期待できなかった。事実ふたりは不審尋問を受けた。
「もどれ!」守衛がふたりに手を振った。「一般ホールへもどるのだ。そこがきみたちの場所だ――外来者はこっちへ出て来てはいかん!」
フッ! フッ! フリジェスの空気ピストルが、咳《せき》に似た、低いが致命的な音をたてた。キネクサはくるっと回転した――両手が、さっとおりてスカートがひるがえった――そしてかけ出した。守衛たちは、彼女の行く手をさえぎろうとした。武器をかまえようと努めた。努めた――が、失敗した――死んだ。
フリジェスも走った。うしろ向きに走った。いまや彼の電子銃は火を吹いていた。もう空気ピストルがとどく範囲には生きている敵がいなかったからだ。ライフルの弾丸が彼の頭の上をビューンとかすめた。彼は本能的に首をすくめた。ライフルは危険だ。しかしその危険も考慮にはいっていた。
キネクサは、戦闘機の出入り口にかけつけるなり、それを開いてとび込んだ。フリジェスもとび込んだ。彼女はフリジェスに倒れかかった。彼は彼女をつきかえしながら、ドアをピシャリと閉めて錠をおろした。それから彼女の顔を見やったが、はげしい悪態をついた。彼女の鼻柱には小さな丸い穴があいていたのだ。彼女の後頭部はけしとばされていた。
彼は操縦装置にとびついた。小さな快速艇は、悲鳴をあげて上昇した。彼は発信器と受信器のスイッチを入れ、ちょっと操作した。むだだった。やはりおそれていたとおりだったのだ。敵は彼がしようできるあらゆる周波数の通信ビームを強力に妨害しているので、いかなるタイト・ビームを用いても百マイルも伝達できないのだ。
しかし、彼はまだ誘導弾を発射前に破壊することができる。だが――できるだろうか? 彼はほかのノルハイム戦闘機の追撃をおそれてはいなかった。彼はずっとリードしているし、ノルハイムでももっとも速い戦闘機にのっていたからだ。しかし敵はすでに警戒心を起こしているから、七時〈前〉に誘導弾を発射しないだろうか? 彼はむだだと知りながら、すでに全開しているエンジンからいっそう大きな馬力をしぼり出そうとつとめた。
彼が全速力で誘導弾発射基地に接近したちょうどそのとき、誘導弾が通過したことを示す超高温蒸気の航跡が、地上から成層圏のかなたに消えているのが見えた。彼は戦闘機を上向かせ、誘導弾を視界に捕捉《ほそく》したのち水平飛行にもどった。彼の戦闘機は、大誘導弾のような加速度はもっていないが、誘導弾がアトランティスに到達する前に追いつくことができる。なぜなら、彼は誘導弾ほど高空まで上昇する必要はないし、誘導弾は発射後は動力なしでとばなければならないからだ。誘導弾に追いついた後でそれをどう処理することができるかはわからなかったが、彼としては〈なにか〉をするつもりだった。
彼は誘導弾に追いついた。そして航空機を超音速で操縦した経験のある人にだけわかるような妙技《みょうぎ》で、コースと速度を誘導弾に同調させた。それからわずか三十メートルの距離で、もっとも強力な弾丸を誘導弾の弾頭にそそぎかけた。ねらいをあやまつはずはなかった! とまっているアヒルをうつよりももっとやさしい――バケツのなかにいる魚を、ダイナマイトでやっつけるようなものだ! しかし弾丸が弾頭に命中しても、なにごとも起こらなかった。弾頭は衝撃によっては発火せず、時間によって発火するようになっているのだ。発火機構は防弾耐震式になっているのだろう。
しかし、もう一つ方法があった。追跡者たちは急速に接近しながら依然として妨害波を送っていたが、それを突破して通信ビームを送ることができたとしても、いまとなってはもう、アルトメネス将軍に警告を与える必要はなかった。アトランティスの観測員たちは、とうの昔にこの誘導弾を探知しているはずだ。そしてアルトメネス将軍は現在、発生しつつある事態を正確に知っているだろう。
フリジェスは、全速力で下降しながら、自分の機を誘導弾との直角衝突コースにもっていった。彼の戦闘機の鋭い先端は、彼がねらった部分の三〇センチ以内のところで誘導弾の弾頭に衝突した。フリジェスはその瞬間に死んだが、自己の使命がはたされたことを確信した。ノルハイムの誘導弾は、アトランティス大陸そのものには当たらずに、少なくとも十マイル手前に落下するだろう。そして、そこに海はとても深い。とても深い。アトランティスは損害を受けないだろう。
しかし、じつはフリジェスはノルグラード空港でキネクサといっしょに死んでいたほうがよかったのだ。そうすれば、アトランティス大陸は存続しただろう。ところが、そういうことにはならなかった。誘導弾は、アトランティスの都市には達しなかったが、その恐るべき原始的エネルギーは、アトランティスの港から数マイルたらず、一千メートルの水面下で解放された。それは、古代の地質学上の亀裂に非常に接近していた。
フリジェスが想像したように、アルトメネスは危険を予知して、フリジェスが知っていた以上に、アトランティスの運命を洞察していた。しかし、彼が知ったのはおそすぎた。その時すでに、ノルハイムからは、一発ではなく、七発の誘導弾が発射されていた。そして、ウイガルからは、少なくとも五発の誘導弾が発射されていたのだ。けれども、それらの誘導弾が、アトランティスの誘導弾基地を完膚《かんぷ》なきまでに破壊するよりもずっと前に、報復誘導弾は、ノルグラードとウイガルストイ、およびその周辺数千平方マイルを一掃《いっそう》していた。
しかし、平衡《へいこう》が回復されたとき、アトランティス大陸があった場所には、海洋がしずかにたゆたっているだけだった。
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三 ローマの没落
1 エッドール
エッドールの至高者《しこうしゃ》と副首領のガーレーンは、地球のふたりの経営者がクラブで顔を合わせて事業のはなしをするように、一仕事すませたあとの歓談《かんだん》をしていた。
「おまえは地球でうまくやってのけた」至高者はいった。「もちろん、ほかの三つの惑星でもうまくやったが、地球はずばぬけて情況が悪かったから、おまえの工作の優秀さがことさら目だったのだ。アトランティスの諸国民が相互に徹底的に破壊し合ったとき、わしはあの『デモクラシー』という代物《しろもの》が、永久に消滅したと思った。しかし、あれはひどくしぶといものらしい。だが、おまえはローマを完全に支配下においているようだな?」
「完全です。ポントスのミトリダテス〔紀元前一〇〇年前後のポントス王。ローマ帝国の対抗者〕は、わたしの工作員でした。スラ〔ミトリダテスを破ったローマの将軍、政治家〕もマリウス〔スラと対抗したローマの将軍〕もそうでした。彼らやほかの工作員を通じて、わたしはローマのほとんどすべての有能な人物を殺し、いわゆる『デモクラシー』なるものを、目的もなくわめきたてる暴徒と化してしまいました。わたしの工作員であるネロがこの仕事を完成するでしょう。さしあたり、ローマは継続するでしょう――外見では、成長するように見えるかもしれません。しかしネロがこれからやることは、絶対に回復できません」
「よろしい。まったく困難な仕事だ」
「それほど困難ではありません……しかし、ひどく〈不安定〉です」ガーレーンは、にがにがしく思考した。「だが、それはあのように短命な種族を相手にする場合、さけられないことです。各生物は、ほんの瞬間しか生存しないで、急速に変化しますから、短時間しか彼らの心を支配することができません。わたしは、固有の時空体系に帰還《きかん》して休養したいと思いますが、いましばらくして彼らが安定するまでは、そうできそうもありません」
「それもながいことではあるまい。おまえも知るように、諸種族は安定するにつれて寿命がのびている」
「そうです。しかし、わたしの半分も困難を経験しているエッドール人は、ほかにありません。事実、彼らの大部分は、望みどおりに事を運んでいます。わたしが処理している四つの惑星は、両銀河系のすべての惑星をあわせたよりもっと多くの困難をもたらしています。しかし、それはわたしのせいではありません――わたしは陛下についでもっとも有能な工作員なのですから。わたしが不思議に思うのは、なぜ自分がこんなひどいめにあわなければならないかということです」
「それはまさに、おまえがわれわれのもっとも、有能な工作者であるからだ」もしエッドール人が微笑するといえるとすれば、至高者《しこうしゃ》はまさに微笑していた。「統計器の結果は、おまえも余《よ》と同じように知っているはずだ」
「知っています。しかしわたしはその結果を無条件に信じていいかどうか、しだいに疑わしくなってきたのです。絶滅《ぜつめつ》した生物の因子《いんし》――適当な環境――偶然の法則の作用――そんなことはばかげています! わたしは自分の特定の利害という点から見ると、偶然が、弾性の限界を越えてゆがめられているのではないかと疑いはじめました。わたしが、このゆがみをもたらしているものを発見すれば、それと同時に、側近サークルの中に欠員ができるでしょう」
「気をつけるがいい、ガーレーン!」至高者の態度から、気軽さがすべて消えうせた。「おまえはだれを疑っているのか? だれを非難しているのか?」
「まだだれとも決まっていません。陛下とこの問題を話し合っているたったいままで、わたしには真相がわかっていません。またわたしはこれまでだれも疑ったこともなく非難したこともありません。わたしは確信をもってから行動します」
「余《よ》に反抗してもか? 余《よ》の命令に反抗してもか?」至高者は、短気にききかえした。
「いや、むしろ陛下を支持してです」副首領は、びくともせずに答えた。「もしだれかがわたしの仕事を妨害しているとすれば、どうして陛下にそれがわからないのでしょう? わたしの推定が正しくて、わたしが担当している四つの惑星が、側近サークル内のだれかの陰謀《いんぼう》によってゆがめられていると仮定しましょう。わたしの地位をねらっているのはだれでしょう。そしてそれと同じ陰謀が、それよりもはるかに深刻に陛下に対して、くわだてられていないという確信があるでしょうか? わたしには重大な問題が起こりつつあるように思われます」
「そうかもしれん……おまえのいうとおりかもしれん……サークル内には、二、三の不一致があった。それらは、個々にとりあげれば重要ではないが、総合すると、また、この新しい観点からすると……」
こうして、エッドール人がこの時点においてはアリシアの存在を推定しないであろうというアリシア人長老の判断は正しかった。そしてエッドール人はアリシア――銀河文明――の武器――やがて出現する〈銀河パトロール隊〉――に対抗すべき武器を準備するチャンスを失った。
もしもこのふたりのエッドール人が、相互にこれほど疑惑をいだかず、嫉妬せず傲慢《ごうまん》で支配的でなかったならば――つまりこのふたりが典型的エッドール人でなかったならば――銀河文明についてこの歴史は書かれることがなかったであろう。あるいはまた、ほかの手によって、すこぶる異なった形で書かれていたであろう。
しかし、ふたりとも典型的なエッドール人であった。
2 アリシア
アトランティスの没落《ぼつらく》とローマの興隆《こうりゅう》との短い期間に、アリシアのユーコニドールはほとんど年をとらなかった。彼はまだ青年だった。彼はそれから数世紀の間、依然《いぜん》として〈監視員〉として働くことになるのだ。彼の心は銀河文明の将来についての長老たちの洞察《どうさつ》を理解するのに充分なほど強力ではあったが――事実、彼はすでに宇宙万有を洞察する点にかけては、長足の進歩をとげてはいたが、――完全なアリシア的洞察にもとづいて、これから必然的に起こるさまざまの現象を冷静に判断するほど成長してはいなかった。
「ユーコニドール、おまえの感情は自然だ」地球問題を担当している〈文明の造型者〉ドラウンリは、若い監視員と円滑に思考を同調した。「おまえにもわかっているように、これはわれわれにとって楽しいことではない。しかし、これは〈必要〉なのだ。このほかの方法では、われわれは銀河文明の勝利を確保することはできないからだ」
「しかし、いくらかでも負担を軽減することはできないのでしょうか?……」ユーコニドールはたずねた。
ドラウンリはききかえした。「おまえには、なにか意見があるのか?」
「なにもありません」若いアリシア人は率直にいった。「しかし、わたしの考えでは……あなたや長老たちは、わたしよりずっと年長で強力なのですから……なんとか手を打つことができるのではないかと思いますが……」
「われわれにもどうすることもできない。ローマは滅亡するだろう。それは、そのまま放置しておくしかないのだ」
「では、ネロの出現はさけられないのですか? われわれは、それをどうすることもできないのですか?」
「そうだ。われわれにはほとんどなにもできない。われわれが動かしている肉体――ペトロニウス、アクテ、そのほか――は、できるかぎりのことをするだろう。しかし彼らの能力は、同時代の人間の能力とまったく同じだ。彼らの能力は、そのように抑制せられねばならない。なぜなら精神的にも肉体的にも、異常な能力が発揮されるならば、たちまちエッドール人に疑われるだろうからな。いっぽう、ネロは……実はエッドールのガーレーンなのだが……はるかに自由に行動している」
「おっしゃるとおりです。ガーレーンは、純粋に物理的な問題をのぞいては、ほとんど抑制されるところなく行動しています。しかし、もしそれを抑制するために、なにも手が打たれないとすれば……もしネロが破滅の種子をまくことを許されるとすれば……」
アリシア人の会合は、このように陰惨《いんさん》な見通しでおわった。
3 ローマ
「だがな、リヴィウス、その点からすれば、われわれはいったい、なんのために生きているのだ?」剣闘士《けんとうし》のパトロクルスは、仲間の囚人《しゅうじん》にたずねた。「われわれは、馬のように充分に食わされ、運動させられている。しかしまた、馬のように、奴隷よりも低級なあつかいを受けている。奴隷はいくらか行動の自由をもっているが、われわれはまるでもっていない。われわれは戦う――憎むべき所有者が選んだ相手と戦う。生き残った者はまた戦う。だが、われわれがやがて死ぬことは確実なのだ。わたしはかつて妻と子どもたちをもっていた。きみもそうだった。だが、きみもわたしも彼らにふたたびめぐり合う機会があるだろうか? また彼らが生きているか死んでいるか、それを知る機会があるだろうか? まるでない。このような犠牲をはらっても、きみは生きている意味があると思うかね? わたしはそうとは思わない」
ビシニア人のリヴィウスは、鉄格子を通して競技場のなめらかな砂の向こうにある、花輪で飾られた紫の旗が立ったネロの玉座を見つめていたが、仲間の剣闘士をふり向いて、頭のてっぺんから足の先までじろじろ見まわした。筋肉がもりあがった足、ひきしまった胴、ひろい肩。赤銅色の髪がもじゃもじゃ乱れた、ライオンのような顔。そして目は――金茶色で――かくしようもない闘志で冷たくかがやいている。
「おれはこんなことになるのではないかと思っていたよ」リヴィウスは静かにいった。「なにもはっきりしたことはない――パトロクルス、きみはいい体格をしている――だが、おれのように剣闘士のことを知っている者にとっては、この数週間なにか異常なことが起こりつつあることがわかっていた。おれの判断では、だれかがおれのために命をかけてくれているのだが、しかもおれは、その仲間がだれかをたずねてはいけないらしいのだ」
「そのとおりだ。きみはその理由をきくべきではないな」
「そういうことだ。おれは未知の後援者と神々に対して感謝をおくるよ。おれはきみに完全に協力する。おれに希望があるというわけではない。きみの種族は男らしい男を養成している――きみの体格、髪、目などからすれば、きみはスパルタカスの血をひいている――だが、なにしろ、スパルタカス〔ローマの奴隷剣士。反乱を起こしたが最後には平定された〕さえ成功しなかったんだ。しかも事態は以前よりはるかに悪くなっている。ネロに対して陰謀《いんぼう》を企てて成功した者はいない。彼の狡猾《こうかつ》な母でさえ成功しなかった。きみも知っているように、みんな無惨《むざん》な死をとげた。ネロは邪悪で最低の人間だ。しかし、彼のスパイは、まれに見るほど有能なのだ。しかし、おれはきみと同じ意見だ。もし二、三人のプレトリア人を味方にひきいれることができれば、おれは満足して死ぬよ。ところがきみの顔つきをみれば、きみの計画は、おれの想像しているようにネロの玉座を無益に攻撃するものではなさそうだ。きみはこの計画が、いくらかでも成功の可能性があると思うのかね?」
「それどころではない」トラキア人は歯をむき出して笑った。「彼のスパイは、きみがいうように、とても有能だ。しかし、今度はわれわれのスパイも有能だ。彼らと同じように強固で無慈悲だ。われわれの組織にはいりこんでいる彼らのスパイは、多くは死んでしまった。残りの者も全部ではないまでも、われわれにわかっている。彼らもやがて死ぬだろう。たとえばグラチウスだ。ときには、運命のいたずらでも、剣闘士が自分よりすぐれた者に勝つこともある。だがグラチウスは、かすり傷もうけずに、そういうことを六度もたてつづけにやってのけた。ところが次に戦ったときは、ネロの庇護《ひご》があったのに殺されてしまった。うわさによると、ネロの知らない陰謀が剣闘士たちによってくわだてられているということだ」
「いかにも、そのとおりだ。一つききたいことがある。それがわかれば、おれも希望がもてそうだ。剣闘士がネロに対して陰謀をくわだてたのはこれがはじめてではない。しかし、反逆者が何事もできないうちに彼らは相互に暴露《ばくろ》し合う。そしてその結果はつねに死であって容赦はないのだ。これはいったい……?」リヴィウスはことばをとぎらせた。
「そうではない。わたしが希望しているのもその点なんだ。われわれは宮廷に有力な友だちを何人かもっている。そしてそのひとりは何日も前から、ナイフをとぎすまして、ネロの脇腹《わきばら》に突き通そうとしているのだ。その男がいまだにナイフをかくしもっていて、われわれがいまだに命があるということは、母殺しで放火者であるネロが、現在進行している陰謀については、なにも疑いをもっていないという証拠だよ」
≪このとき、ネロは玉座で、さもおかしげにからだをふるわせてからからと笑った。そばにいたチゲリヌス〔ネロの寵臣。古来奸臣として悪名が高い〕は、ネロが闘技場でキリスト教徒の女が死の苦しみにもだえているのをおもしろがったのだと思った≫
「ささいなことでもいいから、おれが知っておけば役にたつようなことがあるかね?」リヴィウスはたずねた。
「いくつかあるよ。牢獄《ろうごく》はキリスト教徒でいっぱいで多くの者が死んでくさりかけているから、疫病《えきびょう》の危険が迫っている。この問題を解決するために、あす数千人のキリスト教徒が、十字架にかけられることになっているのだ」
「それはあたりまえだ。だれでも知っているように、やつらは井戸《いど》に毒を投げこみ、子どもたちを殺し、魔法を使う。やつらは、男も女も魔法使いなのだ」
「そのとおりだ」パトロクルスは、たくましい肩をすくめた。「しかし、あすの夜すっかり暗くなってから、十字架にかけられなかった残りの数百人は、サーメンティティーとセマクシーの刑に処せられることになっている――きみはあの処刑を見たことがあるかね?」
「一度だけある。まったくみごとなながめだ。自分の刀で人を突き殺すのと同じくらいスリルがある。油に浸し、松脂《まつやに》をなすりつけた衣裳をまとわせた男女を、柱に鎖でしばりつけて、火をともすのだから、じつにすばらしいたいまつだ。すると、きみがいう意味は……?」
「そうなんだ。処刑《しょけい》は皇帝の庭園で行なわれる。火がいちばん明るく燃えているとき、ネロは行列をしたがえて見物するだろう。彼の戦車が十番目の〈人間たいまつ〉を通り過ぎたとき、われわれの同志が短剣で切りつける。親衛隊は皇帝のもとにかけつけるだろうが、そのあいだの混乱に乗じて、われわれは行動に移り、彼らを殺す。と同時に、同志の別働隊が宮殿を占領し、男も女も子どももネロに帰属しているものはみな殺しにしてしまうのだ」
「それはいい――理論的にはな」ビシニア人は、率直に疑いをのべた。「だが、おれたちはどうやってそこにたどりつくのかね? 少数の剣闘士――たとえばトラキアのパトロクルスのようなチャンピオンは、自由な時間には、気のむくようにすることを許される場合があるから、そのような戦闘に参加できるくらい近くにいあわせられるかもしれないが、おれたちの大半はいつもとじこめられて監視されているのだ」
「その点も、手配してある。玉座の近くにいるわれわれの同盟者をはじめ、われわれの勝利によって多額の賭け金をせしめた貴族や市民のある者が、われわれの持ち主たちを説きふせて、あしたの夜、集団十字架刑の直後に、すべての剣闘士のための大宴会をもよおすことになっている。その宴会は、皇帝の庭園の隣の、クローディアの森で行なわれるのだ」
「そうか!」リヴィウスは、目を輝かしながら、深い息をついた。「バール神とバッカス神に誓《ちか》って、イシス神の豊かにふくらんだ胸に誓って、こいつはすばらしいぞ! この何年来はじめて、おれは生き甲斐《がい》を感じはじめた! まずわれわれの持ち主たちを、その場で殺してやるぞ……だが待て――武器はどうするのだ?」
「提供されるはずだよ。見物人たちが、外套の下に武器やよろいや楯《たて》をかくしている。そうだ、まずわれわれの持ち主を殺し、それから親衛隊をやっつけるのだ。だがリヴィウス、忘れないでくれ。親衛隊の司令官チゲリヌスは、わたしの――わたしだけの――獲物だ。わたしは自分でやつの心臓をえぐり出してやる」
「わかった。やつは一時きみの妻を自分のものにしていたそうだな。だが、きみはあしたの夜まで生きのびられることを確信しているように見える。バール神とイシュタール神に誓って、おれもそういう確信がもてればいいのだが! やっと生き甲斐が見つかったとたんに、おれの勇気は水のようにとけてしまったようだ――おれには、死の川の渡し守《もり》カロンのオールの音が聞こえる。おそらく、きょうの午後、だれか網闘士〔三つ又槍と網をもって戦う〕の青二才が、おれを鉄網でからめとっても、助命の合図はあたえられないだろう。皇帝をはじめ見物人は気まぐれだから、きみだって倒されれば、やつらは『殺せ』と合図するだろう」
「そのとおりだ。だがもし生きのびたければ、そんな悲観的な考え方はやめたほうがいい。わたしのことなら、まったく安全だ。わたしはジュピター神に誓いをたてた。あの神はこれまでずっと保護してくれたのだから、いまさら、わたしを見すてるようなことはあるまい。きょうの競技で、わたしに対抗する者は人間だろうと動物だろうと必ず死ぬのだ」
「そうあってほしいものだ……だが聞きたまえ! 角笛《つのぶえ》だ……だれかやってくる!」
ふたりのうしろのドアがさっと開いた。そしてひとりのラニスタ、つまり剣闘士の所有者が、武器とよろいを持ってはいってきた。ドアはすぐにしまり、外側から錠《じょう》がおろされた。所有者はあきらかに興奮していたが、数秒間だまってパトロクルスを見つめた。
「パトロクルス」所有者はついに口をきった。「おまえはきょうの相手がだれか知りたくないか?」
「特に知りたくはありません」パトロクルスは無関心にこたえた。「わたしとしては、身支度をするだけのことです。なぜそんなことをきくのですか? なにか特別なことがあるのですか?」
「〈きわめて〉特別だ。今年《ことし》一番の大試合になるだろう。おまえの相手は、フェルミウスそのひとで、勝負は無制限だ。武器もよろいもどんなものを選んでもよいのだ」
「フェルミウスだって!」リヴィウスはさけんだ。「ゴール人のフェルミウスですか? パトロクルス、きみのからだをアテネ神が楯《たて》でまもりたまわんことを!」
「そのことばは、わしにもいってくれ」持ち主は冷酷《れいこく》な調子でいった。「ばかなことに、わしはこのパトロクルスの相手がだれかを知るまえに、わずか一対二で、パトロクルスに百セスタース賭けたのだ。だがパトロクルス、もしおまえがフェルミウスに勝てば、わしのもうけの三分の一をやるぞ」
「ありがとうございます。あなたはもうけるでしょう。フェルミウスは抜け目のないすぐれた剣闘士です。わたしはあの男のことはいろいろ聞いていますが、あの男が戦うのを見たことがありません。ところがあの男はわたしが戦うのを見ていますから、その点は不利です。わたしたちはどちらも体重が重く、しかもすばやいです――あの男のほうがわたしよりいくらか軽くて、いくらかすばやいでしょう。あの男は、わたしがいつもトラキア式の武装で戦うことを知っています。だから、わたしがほかの武装で戦うはずがないと思っています。あの男は相手しだいで、トラキア式の武装もすれば、サムニウム式の武装もします。あの男はきっと、わたしにむかってはサムニウム式の武装でくるでしょう。あなたは、あの男の武装がわかっていますか?」
「わからん。秘密にしているのだ。フェルミウスは、最後の瞬間まで、武装を決定しないだろう」
「武装が無制限だというからには、彼はサムニウム式の武装でくるでしょう。そうしないわけにはいかないのです。武装が無制限な試合は危険ですが、わたしはこのあいだから研究している新しい技《わざ》を用いることができます。わたしはあそこにあるあの剣――鞘《さや》のないやつ――と、二本の短剣を、普通の剣のほかに持って行きます。それから、わたしに鎚矛《つちほこ》をください。武器庫にあるうちで一番軽い鎚矛です」
「〈鎚矛だ〉と! トラキア式の武装で、サムニウム式と戦うというのか」
「そうです。鎚矛です。わたしをフェルミウスと戦わせますか、それともあなたが、ご自分で戦いますか?」
鎚矛が持ってこられた。パトロクルスはそれを両手でつかんで振りまわし、壁石にたたきつけた。鎚矛の頭の部分はまがりもせず、折れもしなかった。これなら大丈夫だ。そしてふたりは競技の開始を待った。
ラッパが吹きならされた。大観衆の喚声はたちまちしずまった。
「チャンピオン・フェルミウス対チャンピオン・パトロクルス」しゃがれ声の宣言がなされた。「一騎打ち。双方ともにどのような武器を選んでもよく、それをどのように使ってもよい。休息なし。入場せよ!」
よろいに身をかためた二つの姿が、競技場の中央にすすみ出た。パトロクルスのよろいは、高くそびえたかぶとから楯にいたるまで、にぶく光る鋼鉄製で、まったく装飾がなかった。よろいはいたるところ傷だらけで、それが実用的なものであり、長らく使われてきたことをあきらかに示していた。いっぽう、ゴール人のサムニウム式半よろいは、彼の種族が好む装飾できらびやかに飾られていた。フェルミウスのかぶとには色鮮やかな三本の羽が植えられ、虹の七色の半分ばかりの色で色どられた楯や胸当ては、はじめて着用されたように鮮やかに見えた。
ふたりの剣闘士は、五メートルほど離れたところで立ちどまり、ネロがゆったりもたれている玉座のほうへくるりと向きなおった。見物席のざわめき――パトロクルスの鎚矛は、見物の論議の的《まと》になっていた――見物席のざわめきは、ぱったりとやんだ。パトロクルスはその重そうな武器を空にさしあげた。ゴール人は長く鋭い剣をひらめかした。そしてふたりは口をそろえてさけんだ。
「さらば、皇帝陛下!
われら死せんとしておんみに挨拶す!」
試合開始の旗が、さっと振りおろされた。旗が見えたとたん、それが地面を打つよりも早く、ふたりの男は行動に移った。フェルミウスはひらりと身をひるがえしてとんだ。彼の動作はすばやかったが、それでも間に合わないほどだった。ついさっきまでトラキア人の手の中でいかにも重そうに見えた鎚矛は、信じられないほどすみやかに動いた――それは空を切ってフェルミウスの体のど真中に突進したのだ! しかし、それは目標に当たらなかった――パトロクルスはその打撃が相手に当たるとは予想していなかった。が、そう考えているのは自分ひとりだけであることを願った――フェルミウスは飛んでくる鎚矛をさけるために足場をくずさなければならなかったので、瞬間的に攻撃のチャンスを失った。そしてその瞬間にパトロクルスは攻撃した。たてつづけに攻撃した。
しかし、すでに述べたようにフェルミウスは強力でしかも敏捷《びんしょう》だった。パトロクルスの第一撃は、バック・ハンドで敵のはだかの右足をねらったが、楯にはばまれた。左手の突きは、その左腕が楯でじゃまされたので、やはり同じ結果に終わった。次の攻撃は痛烈なフォー・ハンドのカットだったが、やはり楯でかわされた。剣による疾風のような第三打は、フェルミウスがやっと抜きはなった剣によって部分的にかわされ、赤と緑と白の羽が切りおとされて地面にひらひらと落ちた。ふたりの戦士はさっととびはなれて、しばらく相手をさぐりあった。
剣闘士の常識からすれば、これは戦闘のほんの手はじめだった。ゴール人は羽飾りを失い、彼のよろいは装飾がはげて大きな傷がついたが、こんなことはふたりにとって、トラキア人の不意打ちが失敗したことを示すに過ぎなかった。どちらも自分がもっとも危険な敵と対決していることを知っていたが、どちらもそのひるみを相手にさとらせなかった。
しかし群集は熱狂した。当初の打ち合いがこれほど激しい決闘は、かつてなかった。突然の無惨な死が予想された。競技場は死の予感にみちあふれた。人々は興奮のあまり心臓がのどもとまであがってきたように感じた。競技場にいる者は男も女も名状しがたい死のスリルを味わった――それは自分が直面するのでない、安全なスリルだった――彼らは情熱をふりしぼって、いっそう多くのスリルを要求した。もっと! どの見物人も、きょうの午後、このふたりのうちのひとりが死ぬことを知っていた。ふたりがともに生きることは、だれも望まなかったし、また許そうともしないだろう。これはどちらかが死ぬまでの決闘だ。そして死は訪れるだろう。
女たちは、熱狂のあまり顔をまだらに染めてわめきたてた。男たちは、足を踏みならし手を振ってさけんだり、ののしったりした。そして男も女も多くの者が、この勝負に金を賭けていた。
「フェルミウスに五百セスタース!」ひとりが書き板と鉄筆《てっぴつ》を振りまわしてさけんだ。
「ひきうけた!」返事がさけばれた。「ゴール人は負けたぞ――パトロクルスは、いまにもやつをやっつけるところだったぞ!」
「おい、一千だ!」ほかの挑戦があった。「パトロクルスはチャンスをにがした。もう二度とチャンスはこないだろう――フェルミウスに一千だ!」
「二千!」
「五千!」
「一万!」
ふたりの剣闘士は接近した――身をひるがえした――突撃した。楯は剣の衝撃を受けてなりひびき、剣は風をきってうなった。前へ後へ――回転――退却、前進――ふたりは、技術、スピード、力、耐久力の限りをつくして、一分また一分と戦いつづけた。そして戦闘が長びくにつれて、緊張はいやが上にも高まった。
ゴール人のむきだしの足からは、まっかな血がしたたり、群集は声援を送った。トラキア人のよろいの継ぎ目からも血があふれると、群集は半狂乱の状態になった。
どんな人間の体も、このような激闘にながく耐えることはできない。ふたりはたちまち疲労し、動作がにぶっていった。パトロクルスは、体重とよろいの重さを利用して、ゴール人を追いつめた。それから、あきらかに最後の力をふりしぼって、みじかく一歩ふみだし、全力をふるって剣をうちおろした。
血にまみれた柄《つか》が彼の手の中で回転し、刀身はたいらにぶつかって折れ、うなりを生じてすっとんだ。フェルミウスはこの失敗した打撃の激しい力によろめいたが、たちまち回復した。彼は剣を落とすと、すばやく長剣を手にして、このすばらしい機会につけこんだ。
しかし、パトロクルスの失敗は偶然ではなかった。彼はバランスをとりもどそうとはしなかった。そのかわり、あっけにとられているゴール人のわきをすりぬけると、身をかがめたまま彼以外の者が全員、忘れていた鎚矛をつかんで振りまわした。手、手首、腕、肩、巨大なからだを結合したすべての力を動員してふりまわした。
重い武器の鉄の先端は、ゴール人の胸当ての中央を打った。胸当てはボール紙のようにへこんだ。フェルミウスは宙に浮きあがったように見えた。槌矛にだきつくような形で、瞬間的に空中をすっとんだ。彼が地面にどっと倒れると、パトロクルスはその上にのしかかった。ゴール人はおそらくもう死んでいただろう――パトロクルスの打撃は、象を殺すほど激しいものだった――だが、それは問題ではなかった。熱狂した群集はフェルミウスが死んだことを知っていても、やはり、とどめを刺すことを要求してわめきたてただろう。そういうわけで、パトロクルスは顔をあげて短剣を高く振りあげながら、皇帝の意向をもとめた。
群集はすでに熱狂していたが、パトロクルスの一撃で、まったく狂乱した。この血に飢えた群衆には、慈悲などは思いもよらなかった。あのようにりっぱに戦った男に対する一片の思いやりもなかった。もっと冷静になれば、フェルミウスが生きのびて彼らをくりかえして楽しませてくれることをのぞんだろうが、彼らはすでに三十分ちかくも、息づまるような死のスリルを満喫《まんきつ》していた。そしていまや、最後のスリルを求めているのだった。
「殺せ!」堅固《けんご》な競技場は、ますます高まるさけび声にゆらいだ。「殺せ! 殺せ!」
ネロは右手の親指を水平にして胸におしつけた。ヴェスタの巫女《みこ》たちもすべて同じ合図をした。|敗北者を殺せ《ポリシ・ヴァーソ》。殺せ。群衆のすさまじい喚声はますます高くなった。
パトロクルスは短剣をおろして、フェルミウスの胸を突きさした。しかしその打撃は、すでに不必要であり、フェルミウスには手ごたえが感じられなかった。
「勝負あった」耳をろうするようなさけび声が起こった。
こうして赤毛のトラキア人は生き残った。そして、少々、意外なことに、リヴィウスも生き残った。
「セレス神の白い股《もも》に誓って、またきみに会えてうれしいぞ、パトロクルス」リヴィウスは、次の日パトロクルスと顔を合わせたとき叫んだ。パトロクルスは、これほど昂然《こうぜん》としているビシニア人を見るのは初めてだった。「アテネ神は、おれが祈ったように、きみを守りたもうたのだ。しかしソース神の赤いくちばしと聖なるタニットのザイムフ神に誓って、きみのあれほどすばやい第一撃がしくじったのを見たときには、ぞっとしたよ。しかしその後、きみがほんとうの打撃を加えたときには、ほかの観客たちと同じように熱狂した。だが、あの試合のことでは油断は禁物だと思うね――無制限試合というのは普通ではないよ。ニニブ神の赤い槍に感謝したまえ!」
「きみもそうまずくなかったそうだな」パトロクルスは友人のことばをさえぎった。「きみのはじめの二試合は見そこなったが、きみがカレンディオスをやっつけたのは見た。彼は強い戦士だ――あの地方では一流の戦士のひとりだ――わたしはきみがやられるのではないかと心配したが、きみの外見からすると、二個所ばかり刺されただけらしい。うまくやったな」
「祈ったおかげだよ。祈ったおかげでシャマス神が助けてくれたのだ。おれは勇気がよみがえって、前兆《ぜんちょう》がすべて有利なことを感じた。ところで、きみがフェルミウスに向かってすすみでたとき、赤毛のギリシャ美人がきみに色目を使ったのに気がついたかね?」
「いや、気がつかなかった。ばかなことをいいなさんな。わたしはあのとき、それどころではなかったのだ」
「そうだろうと思った。たぶん彼女も本気ではなかったのだろう。なにしろ、あの後まもなく、おれのそばに剣術師範といっしょにやってきて、やはり色目を使ったのだからな。きっとおれが、きみのつぎにいい体をしていたせいだろう。なんという浮気女《うわきおんな》だ! いずれにせよ、おれはますます元気になって、彼女がたち去る頃には、三叉矛《みつまたほこ》を振りまわすどんな網《あみ》闘士も、おれの防御を破って網をしかけることはできないだろうと確信したね。そして事実そのとおりだった。もう二、三度ああいうことがあれば、おれもグランド・チャンピオンになるだろう。ところで、十字架の穴が掘られているし、宴会の準備ができたことを知らせる角笛が鳴っている。さぞすばらしい見ものだろうよ」
剣闘士たちは、ネロが提供した豊富なご馳走《ちそう》を、さかんな食欲でたいらげた。彼らは十字架を見物するために定められた場所にもどった。十字架は互いにできるだけ接近して広大な競技場をうずめつくし、それぞれの上に、苦痛に悶《もだ》えるキリスト教徒がうちつけられていた。
そして、真実をかくさずにのべるならば、パトロクルスとリヴィウスも、この長々とつづくおそろしい見ものを、心から楽しんだのである。彼らはおよそこの世にある中でも、もっとも苛酷《かこく》な学校の、もっともしたたかな生徒たちだったからだ。彼らは命令に応じて容赦《ようしゃ》なく相手に死をあたえ、やむをえない場合には、たじろがずに死を受けとめるように訓練されていた。彼らを、より温和で上品な時代の、より高等な基準で判断するわけにはいかない。
午後が過ぎて夕方が近づいた。当時のローマにいたすべての剣闘士が、クローディアの森に集まって、料理や酒の重みできしむテーブルのまわりについていた。女性も多数いた。慰安用の女で、自分でも男がほしくてたまらない獲得される女たちだ。そしてらんちきさわぎはいやが上にも高まっていた。剣闘士たちは全員はめをはずして食ったり飲んだりしているように見えたが、大部分の酒は投げ捨てられていた。そして空が暗くなるにつれて、剣闘士の大部分は、なにかの口実をつくって相手の女性からはなれ、外套《がいとう》をつけた物見高い見物と宴会場をへだてた道路のほうへ、ひとりまたひとりとさまよい出ていった。
すっかり暗くなると、皇帝の庭園から一団の炎が空に舞いあがった。剣闘士たちはいまや大通りにそって展開していたが、これを見るとどっと大通りを横切って、一瞬外套をつけた人々ともみあうように見えた。そして武器を手にし多少ともよろいを身につけた剣闘士たちは、らんちきさわぎの現場に駆けもどった。剣、短剣、長剣が斬り、突きさし、なぎはらった。テーブルもベンチも赤く血に染まった。地面も草も血ですべった。
つづいて反逆者たちはくるりと向きを変えると、〈人間たいまつ〉であかあかと照らし出された皇帝の庭園めがけて突進した。しかし、パトロクルスはその先頭にはいなかった。彼は体にあうほど大きな胸当てがなかなか見つからなかったからだ。そのうえ彼がほんとうに殺したいと思っている自分の所有者におそいかかるまでは、三人の外国人の剣術師範を殺さなければならなかったので、なおさらおそくなったのだ。そういうわけで、彼は他の剣闘士たちよりも少しおくれて駆けだしたが、そのときペトロニウスが向こうから駆けてきて彼の腕をつかんだ。
この貴族は、いまや蒼白《そうはく》になって身ぶるいしていた。もはや|美の審判者《アービター・エレガンシァルム》でもなく、沈着なキリスト教徒でもなかった。
「パトロクルス! バッカス神の名に誓って、なぜかれらはいま皇帝の庭園に突進しているのだ。わたしは合図をしなかった――ネロを倒すことができなかったのだ!」
「なんですって?」トラキア人は叫んだ。「ヴァルカン神に誓って、合図は〈ありました〉ぞ――わたしはこの耳で聞いたのです! どんな手違いがあったのでしょう?」
「手違いだらけだ」ペトロニウスは、かわいた唇《くちびる》をなめた。「わたしはネロのすぐわきに立っていた。だれもわたしの邪魔をできるほど近くにいた者はなかった。やさしい仕事だった――そのはずだった。だが短剣を抜いたら動けなくなった。パトロクルス、それはネロの〈目〉のせいだったのだ――ヴィナスの白い胸に誓ってまちがいない! やつは凶眼をもっている――実のところ、わたしは身動きひとつできなかったのだ! そして自分で望んだわけではないのに、背をむけて逃げだしてしまったのだ!」
「どうしてこんなに早く〈わたし〉が見つかったのです?」
「わたしには――わたしには――わからない」ペトロニウスはしどろもどろにいった。「走りに走ったら、きみに出会ったのだ。だが、われわれは――きみは――どうするつもりだ?」
パトロクルスは忙しく思いめぐらした。彼はジュピター神が自分を保護していることを確信していた。他のローマの神々を信じていた。ギリシャ、エジプトはおろかバビロニアの神々をさえなかば信じていた。神々の世界は、現実のものとして身近に感じられた。日常生活にはさまざまの不可解な事実があり、凶眼もその一つだった。しかし、彼はそうした信仰をもっているにもかかわらず――というよりは、そうした信仰をもっていたので――自分自身の能力も確信していた。そこで、たちまち決断をくだした。
「ジュピター神よ、わたしを|赤ひげ《アヘノバルブス》の凶眼から守りたまえ」彼は声高く叫んで向きなおった。
「どこへ行くつもりだ?」ペトロニウスはまだ身ぶるいしながらたずねた。
「もちろん〈あなた〉がすると誓った仕事をやるためです――あのうぬぼれた蝦蟇《がま》を殺すためです。それから、チゲリヌスに長い間の借りを返してやるのです」
彼は全速力で走って、たちまち仲間においつき、乱闘の中になんなくわりこんでいった。チャンピオン・パトロクルスにはもってこいの仕事だ。命がけで身につけた手なれた仕事だ。親衛隊や普通の兵士は、瞬間的にしか彼に立ちむかえなかった。彼はトラキア式のよろいで完全に身を固めてはいなかったが、防御は充分だった。彼に立ちむかう者はかたっぱしから殺された。
いっぽう、ネロは右に美しい少年を、左に美しい遊女をはべらしてゆったり腰をおろしながら、燃えさかる人間たいまつを、エメラルドのレンズ越しに鑑賞していた。そしてそのあいだ、エッドール人の膨大《ぼうだい》な心のごく少部分を使って、パトロクルスとチゲリヌスの問題を考察した。
トラキア人に親衛隊の隊長を殺させるべきだろうか? そうすべきではないだろうか? いずれにしても、重大な問題ではなかった。事実、この愚劣《ぐれつ》な惑星――エッドール人の大計画からすれば微細な宇宙塵《うちゅうじん》に過ぎないような反抗的惑星全体が重要な問題ではなかった。剣闘士がローマ人をずたずたに切って復讐をはたすのを見ているのは、いささかおもしろいだろう。だがいっぽう、ネロには、仕事を完全に仕上げたいという誇りがあった。その観点からすると、トラキア人にチゲリヌスを殺させるわけにはいかない。そのような逸脱《いつだつ》をゆるせば、わずかながら仕事がふえるからだ。チゲリヌスはいやが上にも堕落して、ついにはかみそりで自分の喉《のど》を切らせなければならない。パトロクルスは最後まで知らないだろうが――彼にはそれを知らさないほうがいいのだ――彼の復讐などは、不運なローマ人が自分に加える処置にくらべれば、もののかずではないのだ。
そういうわけでネロが巧みに加減した打撃はパトロクルスの頭からかぶとを打ち落とし、鎚矛が振りおろされて彼の脳を飛散させた。
こうして、ローマ文明を救うという最後の意義深い試みが挫折《ざせつ》した。この失敗はすこぶる徹底していたので、タキトゥスやエトニウスのような綿密な歴史家でさえ、この事件をネロの園遊会における小ぜりあいとして言及しているに過ぎない。
惑星地球は太陽のまわりを二千回ばかり公転した。六十世代ばかりの人類が、生まれては死んでいった。しかし、それではまだ時間が足りなかった。アリシア人の新種族育成計画には、もっと多くの時間が必要だった。そこでアリシアの長老たちは、慎重《しんちょう》な考慮の後、この文明もまた没落するにまかせなければならない、ということに意見が一致した。エッドールのガーレーンは、短すぎる休暇のなかばで任務にもどり、地球の情況が非常に悪化していることを知って、それを改善する仕事に忙しくとりかかった。彼は側近《そっきん》サークルのメンバーのひとりを殺したが、その他にも、まだ彼を没落させる陰謀《いんぼう》をたくらんでいるメンバーがいるかもしれないと考えた。
[#改ページ]
第二部 世界戦争
一 一九一八年
キニスン大尉は、激しくむせながら操縦桿《そうじゅうかん》をひねった――操縦装置の表面のなかばを撃《う》ち飛ばされた飛行機はひどくよたよたしていた。もちろん、勝ち誇ったドイツ機に別れを告げて脱出することはできたが、彼の飛行機は――まだ――発火していなかったし、彼も――まだ――負傷していなかった。また弾丸の雨が降りそそいで、すでにずたずたに引きさかれた飛行機の胴体《どうたい》に新しい縫い目をつけ、すでに動かなくなっているエンジンに当たって激しい響きをたてた。発火するかな? まだ大丈夫――よろしい! なんとか着陸できるかもしれぬ!
飛行機は、麦畑のへりにある友軍の塹壕《ざんごう》のほうへのろのろと――〈まったく〉よたよたと――着陸姿勢にはいった。もしドイツ人どもが次の攻撃で彼の飛行機を撃墜《げきつい》しなければ――
地上でカタカタという機関銃の響きが聞こえた――ありがたい、ブローニングだ!――しかも予期された敵機の攻撃はなかった。彼は敵が彼の飛行機のエンジンを破壊したとき、ちょうど前線の真上にいたことを知っていた。機が敵側に着陸するか否かは五分五分だった。機が損傷してから何年もたったように思われたが、いまやはじめて自分に向けられていない機関銃の響きが聞こえたのだ!
機の車輪が麦の切り株をかすめた。彼は肉体と意志の持てる力をふりしぼって、機の尾部を引きさげようとした。彼の努力はほとんど成功した。しかしスピードがほとんどなくなったとき、機は鼻をつっこみ始めた。彼は機から飛びおり地面にぶつかりながら、からだを丸めてころがった――彼は長年にわたってオートバイレースの選手だったのだ――そのとたん熱気がさっとかすめた。追撃してきた敵機が、ついに彼の機のガソリンタンクを撃ち抜いたのだ! 弾丸がプスプスと地面に突きささった。できるだけ目標にならないようにからだを丸めて塹壕《ざんごう》のほうへ走り出したとき、一発の弾丸がヒュッと頭の上を飛びこした。
友軍のブローニング機銃はまだカタカタとほえたてながら、銅とニッケルと鉛の合金でできた弾丸で空をみたしていた。キニスンが身を守ってくれる水と泥の中に身を投げたとき、すさまじい衝突音が聞こえた。ドイツ機の一つが、やっきになって彼を殺そうとしたあまり、二、三秒、深《ふか》追いし過ぎて地面に衝突したのだ。
機関銃の響きは、不意にやんだ。
「一機やっつけたぞ! 一機やっつけたぞ!」一つの声が熱狂してさけんだ。
「ひっこめ! 身をかがめているんだ、まぬけめ!」軍曹《ぐんそう》の声らしい命令的な声がどなった。
「首を吹っとばされたいのか。銃をおろせ、地獄行きだぞ。おい、飛行士! 大丈夫か、負傷したか。それとも死んじまったか」
キニスンは泥を吐きだしてやっと口がきけるようになった。「大丈夫だ!」彼はそう叫ぶと、低い土手から片目だけあげて、のぞきはじめた。しかし、たちまち首をひっこめた。北側から金属の雨がうなりをあげて注ぎかかってきたので、顔を出すのはひどく危険だということがわかったのだ。「だが、ぼくはいますぐはこの溝《みぞ》をぬけだせない――おそろしく危険なようだ!」
「そうとも、兄弟。あそこの尾根のうしろからここまでは、地獄の釜の中よりもっと危険だ。だがその溝をちょっと降りて最初の曲がり目をまわりこめ。そのあたりなら、かなり安全だ。それに平地を横ぎって岩棚《いわだな》が走っている。その所で平地を横ぎって丘にのぼるんだ――あそこの枯れた切り株のそばでおち会おう。われわれはここから脱出しなければならない。あの繋留気球《けいりゅうききゅう》がわれわれの一隊を発見しているにちがいないから、敵はこの区域全体を砲弾で地図から抹殺《まっさつ》してしまうだろう。急げ! 急げ! それから、おまえたちも早くしろ!」
キニスンはこの指示にしたがった。彼は岩棚を見つけた。溝からはい出すと、ねばつく泥を制服からかきおとした。そして、はいながら小さな平地を横ぎった。ときどき弾丸が頭のずっと上をうなり声をあげて飛んだが、軍曹《ぐんそう》がいったように、この部分だけは『安全』だった。彼は丘をのぼって、ひょろひょろした裸の枯れ木に近づいた。人の動く気配がしたので、用心深く呼びかけた。
「O・K、兄弟」軍曹のふといバスが聞こえた。「そうだ、われわれだ。急げ!」
「おやすいご用だ!」キニスンはその日はじめて笑った。「ぼくはもうフラダンサーの腰みたいにがくがくしているよ。これはなんという部隊だ? そしてここはどこなんだ?」
「プルーン!」地面が揺れ、空気が震動《しんどう》した。さっきまで機関銃があった北部の低地で、ぞっとするような雲の柱が立ちのぼっていた。煙と蒸気と粉砕《ふんさい》された土と岩や木の破片からなる雲だ。しかも雲の柱は一本ではなかった。
「ガン! バン! ズシン! ブーン! ダーン!」あらゆる口径《こうけい》の爆発弾やガス弾がどっと降り注いだ。風景は消滅した。アメリカ兵の小部隊は、沈黙したまま一心不乱に敵の攻撃地点から遠ざかることにつとめた。ついに彼らは息ぎれがして立ちどまらなければならなかった。
「第七十六野戦砲兵隊所属B小隊」軍曹は、たったいまされた質問に答えるかのようにいった。「われわれが現在どこにいるかという問題については、ベルリンとパリの間のどこかだということしかわからない。われわれはきのうさんざんやられて、それからずっと場所もわからずにうろつきまわっているのだ。だが、この丘のてっぺんに集結信号があがったのが見えたので、われわれが出発しようとしていたときに、きみがドイツ機に追跡されているのを見かけたのだ」
「ありがとう。ぼくはきみたちといっしょに行動したほうがよさそうだ――そしてわれわれのいる場所を確認し、ぼくの本隊にもどるチャンスをさがすとしよう」
「そのチャンスはきわめてわずかだろう。われわれのまわりには、ドイツ軍が犬にたかったノミよりもっとうようよしているからな」
彼らは丘のいただきに近づいて味方の誰何《すいか》をうけ、迎え入れられた。そこには銀髪の男――このような前線では老人――が、岩にゆったりと腰をおろして、たばこを吸っていた。彼の仕立てのいい制服は、そのあまり細くないからだにぴったりあっていたが、泥だらけでぼろぼろにさけていた。ズボンの片方は半分からさけとんで、そこに血のにじんだ包帯がまいてあった。彼はあきらかに将校だったが、階級章はどこにも見あたらなかった。キニスンと砲兵たちが近づいて行くと、ひとりの中尉――プエルトリコとスペイン系の混血らしい――が、岩に腰をおろした男に話しかけた。
「まず決定すべきことは、階級の問題です」彼はてきぱきといった。「わたしはランドルフ中尉、所属は――」
「階級だって?」腰かけた男はにやりと笑って、たばこの吸いさしを吐きすてた。「だが、階級というやつは、わしが中尉だったころには、やはり重要に思われたものじゃ――それはきみが生まれたころのことだった。わしはスレートン少尉じゃ」
「おお……失礼致しました、閣下《かっか》……」
「そんなことはかまわん。きみの部下は何人おるんか? そして兵科はなんじゃ?」
「七名おります。われわれは歩兵部隊の電信係りで……」
「〈電信係り〉じゃと! ばかもの。それならなぜ電信機をもってこんのか? すぐもってこい!」
将校はあわてて姿を消した。将軍はキニスンと軍曹《ぐんそう》のほうをふりむいた。
「軍曹、きみは弾薬《だんやく》を持っておるか?」
「はい、閣下。弾帯《だんたい》を三十ほど持っております」
「ありがたい! それは役にたつ。ところで大尉、わしにはわからんが……」
電信機が持ってこられた。将軍は送話器をつかんで呼びかけた。
「スピアミントをだしてくれ……スピアミントか? スレートンだ――ウエザビーをだしてくれ……スレートンだ……そうだ、だが……いや、だがわしの希望は……ばかをいうな、ウエザビー、黙ってわしのいうことを聞いてくれ――この電信がいまにも切断されるかもしれないということがわからんのか。われわれは四――九――七――丘の頂上にいる――そうだ――人員は二百名ばかり、三百名くらいはいるかもしれん。構成は――フランスにいるアメリカ派遣軍の半分くらいの中から寄せ集めたように雑多だ。難しいし遠すぎる――両側面が大きく口をあけとる――切断されとる……もしもし! もしもし! もしもし!」彼は送信器をおとすと、キニスンをふりむいた。「大尉、きみは本隊へ復帰《ふっき》したがっているし、わしは伝令《でんれい》が必要だ――絶対に必要だ。敵陣を突破してみるかね?」
「やってみます、閣下《かっか》」
「電信機があるところへ着きしだい、スピアミントを呼び出せ――そしてウエザビー将軍に連絡したまえ。スレートンからの伝言だといって、われわれは本隊から切断されたが、ドイツ軍は兵力も不足だし、地の利も占めていないから、彼らが集結するのをさまたげるために、飛行機とタンクを派遣してほしいとたのんでくれ。ちょっと待て。軍曹《ぐんそう》、きみの名はなんというのか?」彼は大男の下士官を、しげしげと見つめた。
「ウエルズであります、閣下」
「機関銃をどう使ったらいいと思うかね?」
「まずあの峡谷《きょうこく》をカバーします。それからやつらが峡谷をのぼってこようとしたら、掃射《そうしゃ》を浴びせます。そして、もしもっと機関銃があれば、わたしは……」
「それで充分じゃ。ウエルズ、きみはこれから少尉だ。総司令部もそれを承認するだろう。われわれが持っているすべての火器の指揮《しき》をとれ。配置がすんだら報告するのだ。ところでキニスン、聞くがいい。わしはおそらく明日の夜までここをもちこたえるじゃろう。敵はわれわれがここにいることをまだ知らないが、われわれは、すぐにもなにか行動を起こさねばならない。敵はわれわれがここにいることをつきとめれば――そして、ここに敵部隊があまりいない場合は――砲撃によってこの丘をテーブルのようにたいらにしてしまうじゃろう。だからウエザビーに、暗くなりしだいここに部隊を投入して、第八部隊と第六十部隊を進出させ、この全地域を強化するようにいってくれ。わかったかね?」
「わかりました、閣下」
「磁石《じしゃく》を持っているか?」
「はい、閣下」
「鉄かぶとをかぶって出発しろ。真西よりちょっと北寄りで一キロ半ばかり向こうだ。前進は困難だから、姿を見せないようにするのだ。しばらく行くと道路にぶつかる。ひどくいたんではいるが味方の道路だ――というより、最近までは道路だったのだ――そこまで行けば、最悪の危険はきり抜けたことになる。その道路は南西に向かっているが、それを二キロばかり進むと、監視哨《かんししょう》が一つある――オートバイやなにかで、それとわかるだろう。そこから電話するのじゃ。幸運を祈る!」
弾丸がヒュウヒュウ飛びはじめた。将軍は地面に腹ばいになって、雑木林のほうへはいながら命令をさけんだ。キニスンも腹ばいになり、できるだけものかげを利用しながら、真西へ向かって行くうちに、ひとりの特務曹長《とくむそうちょう》が、ふとい木の南側によりかかっているのに出会った。
「兄弟、たばこをもっているか?」その男はたずねた。
「もっているよ。箱ごととりたまえ。ぼくはもう一箱あるから、それで充分だろう――あまるかもしれない。ところで、ここはどういうことになっているんだ? 少将《しょうしょう》が足を撃たれるほど前線に出てきているなんて聞いたこともないぜ。おまけに、その少将は全ドイツ軍を一掃《いっそう》するつもりでいるような口ぶりなんだ。あのじいさんはばかじゃないのか?」
「きみが思うほどばかじゃない。『かみなり』スレートンのことを聞いたことがないか? それなら、いまに聞くよ。もしこの作戦のあとで、パーシング将軍が彼に三つ星をよこさなかったら、彼は気ちがいみたいに怒るだろう。彼は戦闘に自分で参加するつもりではなかったんだ――彼は〈総司令部〉から直接派遣されていて、〈アメリカ派遣軍〉のだれにも命令をくだすことができるんだ。このあたりまで偵察にきて、もどれなくなってしまったのさ。だが彼には頭をさげないわけにいかんよ――彼は情況を多いに改善しつつある。おれは彼といっしょにきたのだ――彼に同行したもので生き残っているのは、おれぐらいのものだ――この射撃がやむのを待っているんだが、ますますひどくなっていくばかりだ。もぐろう――あそこだ!」
弾丸が雨あられとそそぎかけて、すでにほとんどはだかにされている木々の枝をへし折った。ふたりは砲弾穴にあわててすべりこんで、いやなにおいのする泥に身を沈めた。ウエルズが指揮する火器が活動しはじめたのだ。
「ちくしょう! おれはこういうことはしたくないんだ」特務曹長《とくむそうちょう》はブツブツいった。「やっと半分乾きかけていたのに」
「情況をおしえてくれ」キニスンは要請《ようせい》した。「情況がくわしくわかっていれば、それだけ成功しやすいわけだから」
「ここにいるのは、二つの大隊の生き残りと、一団の分遣兵《ぶんけんへい》なのだ。彼は目標地点を設定したが、右翼と左翼の部隊には、それができないということがわかった。側面が敵に露出するからだ。命令は点滅信号で伝達されて、前進線を訂正することになっているが、それまではどうすることもできない。われわれは敵の監視下にあるのだ」
キニスンはうなずいた。このように広々とした地面を日中横断しようとする部隊が、どのような弾幕《だんまく》を浴びせられるかわかったのだ。
「だが、ひとりなら、充分警戒すれば、突破できるだろう」特務曹長はことばをつづけた。「ところで、きみは双眼鏡をもっていないのだろう?」
「もっていない」
「簡単に手に入るよ。靴|鋲《びょう》をうっていない長靴が、毛布の下から突きだしているのが見えるだろう?」
「うん、わかった」キニスンは、兵科将校《へいかしょうこう》が靴鋲をうたない長靴をはいていて、彼らが通常双眼鏡をもっていることを知っていたからだ。「どうしてこんなにたくさん同時に殺《や》られたんだ?」
「ここまで来た将校は、ほとんどみんな殺《や》られてしまった。おれの想像では、スレートンじいさんのうしろで協議していたのだろうな。いずれにしてもドイツ機が彼らを発見して、急降下攻撃をやったのだ。その敵機は、われわれの機関銃でうちおとされたが、そのまえに爆弾を投下した。それが彼らの真中《まんなか》に命中したのだ。いやはや、ひどいものさ! だが使える双眼鏡が六つや七つは残っているはずだ。おれも一つ手に入れたが、将軍に見つけられてしまうだろう――彼ときたら、はんごうの中のものまで見とおせるのだから。さあ、味方がドイツ軍の射撃を沈黙させたぞ。おれはじいさんを捜しだして、偵察したことを報告しよう。ちくしょう、なんて泥だ!」
キニスンは遠まわりして穴から抜けだし、毛布におおわれた死体の列のほうへはって行った。彼は毛布をもちあげておどろきのさけびをあげ、胃の中のものをみんな吐きだした。まるで何日も前にたべたものまで吐きだしたような気がした。だが彼は双眼鏡を手に入れなければならなかった。
彼はそれを手に入れた。
それから、まだ胸をむかむかさせ、青ざめて身ぶるいをしながらも、できる限りものかげに身をかくして西のほうへはって行った。
しばらくは、彼の進路の北よりのところから、一台の機関銃が断続的に撃ちかけてきた。ごく近くだったが、音が大きくて反響《はんきょう》がひど過ぎるために、機関銃の正確な位置を知ることは不可能だった。キニスンはジリジリはいすすみながら、強力な双眼鏡で、目に入る限りの地面をくまなく偵察《ていさつ》した。機関銃の音質から、それがドイツ軍のものだということがわかった。それどころか、彼は機関銃については精通していたから、この機関銃がマクシムのモデル一九〇七――きわめてやっかいな機関銃――だということもわかった。彼はこの機関銃が丘のうしろの味方に多大の損害を与えていて、味方がそれをどうすることもできないでいることを察した。それは巧妙《こうみょう》にかくされているのだ。自分がこれほど近くにいるのに、やはり発見できないのだから。だが待てよ、なんとか〈方法〉が……
何分ものあいだ、彼は双眼鏡だけを動かして偵察し、ついに敵の機関銃を発見した。一筋の――ほんのひとひらの――煙が、小川の表面から立ちのぼっている。蒸気だ! マクシム一九〇七の冷却ジャケットから立ちのぼる蒸気だ!
彼は慎重に接近して行った――巧妙にかくされた銃座《じゅうざ》だ。そら、あった! 彼としては、西へのコースを維持していけば、どうしても彼らに発見されてしまう。そうかといって、ずっと遠まわりすることもできない。そればかりではない……少なくとも一度は敵のパトロール隊にぶつかるだろう、もしそれがすでに丘をのぼって行っていなければだ。しかも彼の手元には手榴弾《てりゅうだん》がある、すぐ近くに……
彼はそれまで避けていた無気味な死体の一つにはいよった。そしてその死体からはなれたときには、カンバスの袋にはいった三発の手榴弾をひきずっていた。彼は一つの丸石のほうへはって行った。そしてすっくと立ちあがると、三つの栓《せん》をひっぱり、三度腕をふりまわした。
ダーン! ダーン! ダーン! カムフラージは消滅《しょうめつ》した。そのまわり数ヤードの繁みも消滅した。キニスンは岩の陰に身をひそめていたが、なにかの破片が、ほとんど勢いをうしなって彼の鉄かぶとにぶつかったので、いよいよ身を低めた。ほかの物体がドサッと彼のわきに落ちた――灰色のズボンをはき、重い軍靴をはいた片足だ!
キニスンはまた吐き気をもよおしたが、吐いている時間もなく、吐くべきものもなかった。だが、なんといまいましいことだ! なんとまずく投げたことだ! 彼は野球が得意ではなかったが、銃座ほどの大きさのものならば、命中させられるつもりだった――ところが彼の手榴弾は一発も命中しなかったのだ。銃手たちは――破片にあたらなかったとしても、衝撃によって――死んだだろう。だが機関銃は損傷さえ受けていないにちがいない。銃座まで行って、機関銃を破損しなければならないのだ。
彼は四十五口径の拳銃を手にして――いささかおっかなびっくりに――進んで行った。ドイツ兵たちは死んでいるように見えた。彼らのひとりは、正面の胸壁にぐったり倒れていた。彼はその体をおしのけた。それがスロープをころげ落ちるのを見つめた。ところがドイツ兵はころげ落ちて行くうちに叫び声をたてた。するとその叫び声と同時に、若いキニスンの髪の毛を、鉄かぶとの内側でさか立たせるようなことが起こった。破壊された丘の斜面の灰色の地面に、それまで気がつかなかった灰色の人影がいくつも動きはじめたのだ。それらは、わめき声をあげている戦友のほうへ進んできた。キニスンは自分のまずい投げ方を、生まれてはじめて祝福しながら、マクシム銃がまだ支障なく使えることを切望《せつぼう》した。
ちょっと点検しただけで、機関銃は使えることがわかった。銃にはほとんどいっぱいの弾帯《だんたい》が装着《そうちゃく》してあり、そのほかにも沢山の弾帯があった。彼は弾帯の箱をひきよせた――弾帯の補給をしてくれる助手はいないのだ――彼は銃把《じゅうは》をつかみ、安全装置をはずし、〈はずし装置〉をしぼった。機関銃はほえたてた――このマクシムは、なんというにぎやかなどんちゃん騒ぎをやらかしたことだ! 彼は弾丸が命中している場所が見えるように、機銃を旋回《せんかい》させた。そして金属の流れを右に左にふりまわした。一弾帯を撃ちつくすと、ドイツ兵は完全に混乱した。二弾帯を撃ちつくすと、生きた姿は見えなくなった。
彼はマクシムの台座をひきぬいて投げすてた。冷却管《れいきゃくかん》を拳銃で穴だらけにした。この機銃は、もう使えない。また、彼の危険がましたわけでもない。ドイツ兵たちがすぐにもやってこなければ、だれが、どんなことを、だれに対してやってのけたかもわからないだろう。
彼は、はいながらその場をはなれ、またせっせと西へ進みはじめた。危険を冒さない範囲でできるだけ早く――時にはそれよりもすこし早く――進んで行った。しかし、もうそれ以上の危険はなかった。さえぎるものもなくむきだしになった土地を横ぎって行った。すさまじく引き裂《さか》れた森をすばやく通りぬけた。道路にたどりつくと、それにそって進み、最初の曲がり角をまがったが、ぎょっとして立ちどまった。これまでこのようなことを聞いたことはあったが、見たのははじめてだった。そして単なる描写というものは、つねにはなはだ不充分なものである。いまや彼はその情況のただ中に踏みこんで行った――その情況は、彼の九十六年の生涯を通じて、たえず悪夢の中に現われることになるのだ。
実のところ、目に入るものはごくわずかしかなかった。道路は突然消滅していた。もと道路だったところ、もと農場だったところ、もと森だったところ、それらはほとんど見わけもつかないほどに、すさまじく変形されていた。その全地域がひっかきまわされたようになっていたのだ。いや、それよりも悪い――まるでそのあたりの地面と地表のあらゆる物体が、巨大な製粉機にかけられて、いちめんに吐きだされたかのようだった。木の破片、金属の破片、血みどろの肉片。キニスンは悲鳴をあげて駆けだした。その粉砕された地域を駆けもどってまわりこんだ。駆けながら、彼の心はさまざまの映像をつくりあげた。それらの映像は、彼が脳裏からぬぐい去ろうと狂気のようにつとめればつとめるほど、なおさら鮮明《せんめい》になるのだった。
その道路は、前夜、世界でももっとも交通が頻繁《ひんぱん》な道路の一つだった。オートバイ、トラック、病院車、炊事車、幕僚車《ばくりょうしゃ》、その他の自動車。七十五口径からビッグ・ボーイにいたる大小の鉄砲。このビッグ・ボーイはとほうもない重さがあって、それをのせた大きなキャタピラが堅い地面に数インチもめりこむのだ。そして、馬やろばや、彼のような人間――〈とくに〉問題なのは人間だ。彼らは、ぎっしり隊伍《たいご》を組んでできるかぎり早く行進して行った――彼ら全員を運ぶほどトラックがなかったのだ。こうして、道路は混雑していた――びっしりつまっていた。正午のマディスン広場《ニューヨークの》よりもっと混雑していた。兵員、輸送機械、兵器などでごったがえしていた。
そしてこのぎっしりつまったハイウェイの上に、鋼鉄につつまれた高性能爆薬の雨が落下したのだ。ガス弾もあったかもしれないが、おそらくなかっただろう。ドイツの司令部は、特定の時間にこの特定の地域を粉砕する命令をくだしたのだ。そして数百門の、おそらく数千門の大砲が、精密に時間を一致させて集中砲火をあびせ、この地域を粉砕したのだ。これは文字通り粉砕だった。道路も、農場も、畑も、建物も、樹木も残っていなかった。肉片は馬のものか、人のものか、ろばのものか区別がつかなかった。金属片は、それが、もとなんだったかを示すような原形をとどめているものはほとんどなかった。
キニスンはそのいまわしい地域を駆け足で――というよりよろめきながら――まわりこんで、また道路に出た。そこは砲弾の穴だらけだったが、通ることはできた。彼は進むにつれて穴の数がへるだろうと期待したが、そうはならなかった。敵はこの道路全体を使用不可能にしてしまったのだ。
ところで駐屯《ちゅうとん》司令部のある農場は、この次の曲がり角のあたりにあるはずだ。
あった。だが、それはもう駐屯司令部ではなかった。指導砲火――照明弾――によったのか、それとも、小憎《こにく》らしいほど正確な地図測定によったのか、敵はもっとも莫大な損害を与えることができる場所に、重砲弾をそそぎかけたのだった。駐屯司令部の建物は消滅していた。駐屯司令部があった地下室は、いまや火口のようにぽっかり口をあけていた。オートバイや自動車の破片が地面にちらばっていた。木の幹が――すっかり葉をもぎとられ、ふとい枝以外はすべての枝を吹き折られ、木の皮さえはぎとられて――無気味に立っていた。一本の木の股《また》には、キニスンがぞっとしたことに、完全に衣服をはぎとられ、ずたずたになったすっぱだかの胴体がだらりとぶらさがっていた。
砲弾が、時たま――すぐ頭の上を――かすめていた。大きな砲弾だが、ねらいは高く、ずっと西のほうの目標をめざしていた。警戒するにたりるほど近い弾丸はなかった。二台の病院車が、たがいに二百メートルばかりはなれて、弾痕におおわれた道路を接近しつつあった。はじめの病院車が速度をゆるめて……停止した。
「だれかいる――気をつけろ! 頭をひっこめろ!」
キニスンはそうした警告を前にも聞いたことがあり、肝《きも》に銘じていたから、一番近くの穴にまっしぐらに飛びこんだ。天地がくずれるかと思うような爆発音が起こった。なにかが彼の体にぶつかって、体ごと地面にのめりこんだような気がした。彼は意識をうしなった。意識を回復したときには、担架《たんか》の上に横たわっていて、ふたりの男が彼の上にかがみこんでいた。
「なにがぶつかったのだ」彼はあえぎながらいった。「それともぼくは……」彼はことばをとぎらせた。聞くのがおそろしかったのだ。身動きをしようとするのさえおそろしかった。手も足もなくなっているのではないかと思われたからだ。
「車輪だ。それに車軸もぶつかったかもしれない。もう一台の病院車で残った部分はそれだけしかない」ひとりの男がはげますようにいった。「たいしたことはない。万事これまでどおりに好調だ。肩と腕がちょっとやられた――だが、たぶん打撲傷だろう――それから内臓を貫通《かんつう》された。しかし、われわれがすっかり処置したから、安心したまえ――。それから……」
「われわれが知りたいことはだね」もうひとりの男が口をはさんだ。「このあたりで、ほかに生き残っている者があるかどうかということなんだ」
「いや、ない」キニスンは首を振った。
「O・K。確かめたかっただけさ。後方には、わんさと仕事があるんだ。きみを後方につれて行って医者に診せたほうがいいからな」
「なるべくはやく電話をかけさせてくれ」キニスンは注文した。彼は自分の声が強くて確信にみちていると思ったが、事実はそうではなかった。「ぼくはスピアミントにいるウエザビー将軍に伝言があるのだ」
「要件なら、われわれに話したほうがよくはないか?」病院車はいまやかつて道路だったものの上をがたがた走っていた。「敵はわれわれが向かっている病院の電話を破壊した。だが、きみは車が病院に着くまでに気絶するかもしれんよ」
キニスンは伝言を伝えたが、意識をうしなわないように努めた。その長くてがたがたした旅の間じゅう、彼は勝ちぬいた。自分でウエザビー将軍に電話をかけた――医者は彼が空軍大尉であることを知って彼の伝言が直接伝えられるように、電話口で助けてくれた。キニスンは、将軍が救援隊を派遣して、その重要な通信線を今夜にも復活するという確約を受けとった。
そのあと、だれかがキニスンの腕に注射し、彼は朦朧《もうろう》たる昏睡《こんすい》におちいって、何週間も意識を回復しなかった。時としてぼんやり意識がよみがえることもあったが、当時もその後も、どこまでが現実でどこまでが幻覚かわからなかった。
医者が入れかわりたちかわり現われ、手術につぐ手術がおこなわれた。野戦病院のテントをたらいまわしにされた。それらのテントには、身動きもできない負傷者たちが運ばれてきて、いっそう静かな状態で出て行くのだった。木造のもっと大きな病院にもはいった。ブンブン音をたてる機械があって、白衣の人々がフィルムや書類を研究していた。そしてさまざまの会話がかわされた。さまざまの会話がかわされるのが聞こえた。
「腹部の傷は悪質だ」キニスンは医者のひとりが、そういうのを聞いたように思った――実際に聞いたのか聞かなかったのか確かではなかった。「それから、こんなにひどい打撲傷や複雑骨折もよくない。予後はむずかしい――あきらかにそうだ――だが、できるだけのことはやってみよう。興味あるケースだ……心をひかれる。先生《ドクター》、あなたならどうします?」
「わたしならほうっておきますよ」若くて力強い声が熱心にいった。「複雑貫通、病毒感染、内出血、水腫――ううむ。わたしは観察していますよ、先生《ドクター》。そして学んでいるのです!」さらに時間がたった。そしてついに、つぎの命令が発せられたが、キニスンはまったく知らなかった。
「アドレナリン注射! マッサージ療法!」
キニスンはまた意識を回復した――というより、部分的に回復した――体中の筋が痛かった。体中の皮膚に有刺鉄線《ゆうしてっせん》が突きさされ、体中を踏みつけられ撲《なぐ》られているような気がした。一番いたいところを選んで踏みつけたり、ひねったりされているように思われた。彼は声をかぎりに叫んだり、ののしったりした。彼のとほうもない悪罵を削除して要約すれば、「やめてくれ!」ということだった。彼は自分が思ったほど大きな声はたてなかったが、それでも、かなりやかましかった。
「よかったわ!」キニスンは、いままでのよりあかるくてやさしい声を聞いた。彼はびっくりしてののしるのをやめ、あたりを見つめようとした。どのみち、あまりよく見わけられなかったが、そこに中年の女性がいることは、確かだった。確かにいた。そして、彼女の目はかわいていなかった。「この人、とうとう生きのびたわ!」
日がたつにつれて、彼はほんとうに眠るようになった。自然な、深い眠りだった。
彼はいよいよ腹がへるようになったが、充分に食べさせてもらえなかった。彼は、すねたり、怒ったり、憂うつになったりした。
つまり、回復期にあったのだ。
ラルフ・K・キニスン大尉にとって、戦争は終わったのだ。
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二 一九四一年
ふっくりして髪の茶色なユニース・キニスンは、揺り椅子に坐って、新聞の日曜版を読みながら、ラジオを聞いていた。夫のラルフは、長椅子にのびてたばこをふかしながら、背後に流れる音楽には耳も貸さずに、『驚異物語』の今月号を呼んでいた。彼は、心理的には地球をはるかに離れ、超大型宇宙戦艦に乗って、真空の宇宙空間を、超光速で突進していた。
そのとき、なんの警告もなく音楽がきれて、アナウンスががなりたてた。ラルフ・キニスンは、それを聞いたとたんに、ほとんど物理的なはげしさで、地球にひきもどされた。彼は、とびあがって、両手をポケットにつっこんだ。
「パール・ハーバーだ!」彼は叫んだ。「いったいぜんたい……どうして、やつらをそんな手もとまでつけこませたんだ?」
「でも、フランクは!」妻はあえぐようにいった。彼女は、夫のことはそれほど心配していなかったが、息子のフランクについては……「あの子はきっと……」彼女の声はとぎれた。
「そんな見込みは絶対にないよ」キニスンは、妻を安心させるためではなく、確実な知識を断言するようにいった。「ロックウッド社のデザイナーだったら、戦線へ出なければならないのはもちろんだが、航空工学を専攻した人間は、この戦争の最後まで後方に残るさ」
「でも、この戦争はそう長くつづくはずはないといっているわ。そうでしょう?」
「そうじゃない。たわごとさ。最少五年というのが、わしの推定だ――わしの推定が、だれよりも正しいというわけじゃないがね」
彼は、部屋の中を歩きまわった。むずかしい表情は、あかるくならなかった。
「わかってましたわ」彼女はとうとういった。「あなたも……このまえの戦争のあとでさえ……あなたはなにもおっしゃらなかったから、わたしは、たぶん……」
「そうさ、わしはそういわなかった。われわれが戦争にひきこまれない可能性は、つねにあったのだ。だが、きみがそういうなら、わしは家に残るよ」
「わたしがそんなことをいうと思って? いざとなったら、行かせてあげますわ……」
「その警句は、どういう意味だい?」彼はさえぎった。
「軍律《ぐんりつ》ですわ。あなたは、一つ年をとりすぎてますもの――ありがたいことに!」
「それがどうした? 当局は、技術専門家を切実に要求するだろう。例外規定をつくるさ」
「たぶんね。でも、デスクの仕事ですよ。事務将校は、現場で殺されたりしません――負傷さえしませんわ。それに、子どもたちがみんな大きくなって結婚しているのですから、わたしたちはわかれわかれになる必要もないでしょうよ」
「もう一つの問題がある――経済的な問題だ」
「そんなもの! だれが気にするものですか。そればかりじゃなく、あなたは失業中なんですもの……」
「きみがそういう気持なら、この問題はとばそう。ありがとう、ユーニー――きみはりっぱだ。当局へ電報をうつよ」
電報が送られた。キニスン夫妻は、待ちに待った。とうとう、一月のなかばごろになって、美しい文句で美しく複写《ふくしゃ》された手紙が何通もとどきはじめた。
「陸軍省は、貴下《きか》の従来の軍歴を認め、国家防衛のためにふたたび武器をとろうとする貴下の意欲を多とする……退役将校調査票……空欄を完全に埋めてください……書式一九位置A……書式一七〇、二通作成……書式三〇五……陸軍省が貴下をはじめ無数の退役軍人によって惜しみなく提供されたサービスを、究極《きゅうきょく》においてどの程度利用するかを予知することは不可能である……書式……書式……貴下の申請が恒久的に却下されたと解釈されるべきではない……書式……現在の時点においては、陸軍省として貴下を採用できないことを通告する……」
「じつに腹のたつ話じゃないか?」キニスンはいった。「やつらの頭には、いったいなにがはいってるんだ――おがくずか? やつらは、わしが五十一だということで、墓場に一歩近づいていると考えとるんだ――わしが、あのいまいましい少将や職員どもより達者だということで、四ドル賭けてもいいよ!」
「わたしもそう思いますわ、あなた」しかし、ユーニスの微笑は、安堵《あんど》の色を示していた。「でも、ここに広告がありますよ――一週間まえからずっとでてるんです」
「化学技師……砲弾装填《ほうだんそうてん》工場……タウンヴィルから七十五マイル以内……経験五年以上……有機化学……工業技術……爆薬……」
「先方では、〈あなた〉が必要よ」ユーニスはまじめな顔で断言した。
「うむ、わしは有機化学の博士だ。有機化学でも工業技術でも、五年以上の経験がある。もし、わしが爆薬についていさか知識がないとしたら、ゴッシュ・ワッタ大学で、モントローズ学長をうまくごまかして卒業したことになる。ここへ手紙を書こう」
彼は手紙を書いた。書式の空白を埋めた。電話が鳴った。
「キニスンです……そう……サムナー博士ですな? ふむ、化学技師長ですな……そうです……定年を一年過ぎています。そこで思ったのですが……いや、それは問題じゃありません。飢え死にすることもないでしょう。もしそちらで百五十ドルだせなければ、百ドルでもいい、七十五ドルか五十ドルでも……それも結構です。わたしは、専門の分野では充分知られていますから、下級化学技師の肩書きは、ちっとも気になりません……O・K、一時ごろ、うかがいます……ストーナー・アンド・ブラック社エントウィッスル兵器工場。所在ミシコタ、エントウィッスル……なんですと! それはいずれにせよ、できるでしょう……グッドバイ」
彼は妻をふりむいた。「どういうことかわかるかね? むこうでは、わしにすぐきて仕事にかかってほしいというのだ。おあつらえむきだ! あのヘンドリックスのやつに、わしのあの仕事をどこへもっていったらいいかはっきりいってやってよかったよ」
「あの人は、あなたがこんなにながいこと利益配当を受けてきたあとでは、定給雇用契約にサインしっこないと思っていたにちがいありませんわ。たぶん、あの人は、あなたがだれかの歯をへし折るすぐ前かすぐあとにいつもいうことを信用して、あなたのことをひどく弱虫でおとなしい人――ありきたりの臆病者――と思いこんでいたのでしょう。戦争が終わったら、あの人があなたのもどるのを希望するとほんとに思っていらっしゃるの?」
ユーニスがキニスンの失業をいくらか気にしているのはあきらかだったが、キニスンは気にしていなかった。
「おそらくな。そういう噂だ。そして、わしはもどるだろう――戦争騒ぎがおさまったらな」彼の角ばったあごがひきしまった。「なにをつくっても売れるものだから、技術陣を手離してしまったばかな会社のことをよく耳にする――だが、そんなことは、長くはつづかん。ところで、わしはそういう会社のために働いてきたことに気づかなかった。なるほどわしは臆病者じゃないかもしれんが、相手が先にわしの歯をへし折らんかぎりは、だれの歯をへし折ったこともないよ」
エントウィッスル兵器工場は、二十平方マイルばかりの多少とも平坦《へいたん》な敷地をおおっていた。敷地の九十九パーセントは、「柵内」だった。その囲われた区域内の建物の大部分は、実際には巨大なものだったが、相互の距離がとほうもなく遠いので、ひどくちっぽけに見えた。なぜなら、TNT火薬やテトリル火薬がトン単位で存在している建物の場合、安全距離は小さくないからである。これらの建物は、コンクリート、鋼鉄、ガラス、タイルなどで建造されていた。
「柵外」は、それとはちがっていた。これは管理区域だった。ここの建物は巨大な木造のバラックで、相互に接近して建てられたおり、二万以上の男女をかかえた組織に必要な幹部、事務員、専門職員などがつまっていた。
柵の充分内側、ただし第一ライン――第一|装填《そうてん》ライン――より一安全距離手前に、長くて低い建物があり、はなはだ不当にも化学研究所と呼ばれていた。「不当」というのは、きわめて有能な――ただし少なからず口やかましい火薬担当の化学技師長が、すでに自分の化学部門に、開発部門の大部分、工学部門の大部分、物理部門、重量部門、測定部門、気象部門のすべてを集中していたからである。
化学研究所の一室――管理部からいちばん離れた一隅――は、建物の他の部分から、厚さ十六インチの鉄筋コンクリートの壁で仕切られていた。この壁には、基礎から屋根まで、ドアや窓やその他の穴が一つもない。これは、化学技師たちの研究室で、その室員たちは高低さまざまの性能の火薬を扱っていた。この室内でどんな爆発が起こっても、化学研究所の本体やその人員には影響がないようになっている。
エントウィッスルの主要道路は舗装《ほそう》されていたが、一九四二年の二月には、歩道のような細部は、青写真の上で存在しているだけだった。エントウィッスルの土壌には、多量の粘土が含まれていて、当時はぬかるみの深さが十五センチほどもあった。したがって、屋内ドアも歩道もないのだから、工業監督がこの研究所に視察にきても、タイルをみがきあげたような清潔さにめったにぶつからなかったのは当然である。また、研究所本体に属する所員たちが、この分離されたグループのことを亡命者とか追放者とか呼んだことも、ある機知のある化学者がこの孤立した場所を「シベリア」と名づけたことも、やはり当然だった。
この名称は、そのまま残った。そればかりでなく、室員の技師たちは、それを採用し、喝采《かっさい》した。彼らは、シベリア人であることを誇りとし、エントウィッスルのぬかるみがほこりに変わってからもずっと、シベリア人のままでいた。そして、一年たらずのうちに、このシベリア人たちは、国中のあらゆる兵器工場で、その名称の由来《ゆらい》を知らない多くの幹部たちに知られ、また親しまれるようになったのだ。
キニスンは、そこのいちばん若い室員と同じように熱烈なシベリア人になった。「いちばん若い」という言葉は、厳密な意味で用いられている。なぜなら、彼らはひとりとして、最近の大学卒業者ではなかったからである。だれもが責任のある地位に少なくとも五年ついていた経験を持っていた。そして、「技師長《キャッピー》」のサムナーは、着々組織をすすめていった。彼はふんだんに採用して容赦《ようしゃ》なく首を切った――それを、無分別と考える者もいた。しかし、彼は自分のしていることを知っていた。火薬を知り、人間を知っていた。彼は好かれなかったが、尊敬された。彼の組織はすぐれていた。
下級化学技師のキニスンは、ここではふたりかいない「老人」のひとりだった――そして、もうひとりは長くは居つかなかった――ので、はじめのうちは、遠慮なしには受けいれられなかった。彼は、その事実に気づかないようすで、自分のきめられた仕事にとりかかった。彼は、自分が扱っている材料についてきわめて慎重だったが、それをこわがっているのではないことも明白だった。曳光弾《えいこうだん》、発火弾、焼夷弾《しょういだん》などの火薬を粒にしてテストし、不合格品を焼却する仕事を、輪番《りんばん》でひき受けた。求められさえすれば、だれとでも現場にでかけて行った。
彼がつくった実験用テトリル火薬は、いつも正確な大きさに「粉末化」され、TNTの流しこみ型――第三ラインの四十ミリ砲弾装填用――は、ひびやうつろもなく、かっちりした形で製造された。若いが有能な室員たちには、自分たちのうちで彼だけが、仕事に精通しているということがあきらかになった。彼らは、自分の疑問を彼に相談するようになった。彼は、自分の技術的経験にものをいわせたり、その場の全員を討議にひきこんだりして、彼らを直接に援助するとか、彼らの自力で解決させるとかした。彼の立場は、向上してきた。
「タッグ」タグウェルは、もとフットボールの選手をしていた。髪も目も黒い二百ポンドの大男で、第七ラインの曳光弾製造を指揮していたが、キニスンのことを「アンクル」ラルフと呼び、そのあだ名がひろがった。そして、二週間ばかりのうちに――「インディアン」アバネーシーが第八ラインの発火弾の小爆発でドアの外へ吹きとばされて軽傷をおったと同じころ――キニスンは中級化学技師に昇進した。この昇進は、肩書きとサラリーが変わるだけなので、人目をひかなかった。
しかし、三週間すると、彼は上級化学技師に昇進して、流し込み班の指揮をとることになった。このときには、第二ラインでテトリルを扱っている硫酸専門家の「ブロンディー」ワナセックの主唱で、お祝いがあった。キニスンは、嫉妬や反感のきざしでもあるかなとくわしく観察したが、なにも見つからなかった。キニスンは、第六ラインでいさんで仕事にかかった。そこでは、二十ポンド破砕爆弾の流し込みを開始することが要求されていた。タッグとふたりの新入社員が、彼を巧みに援助した。そのひとりは、「ドク」または「バート」バートンで、噂によると「技師長《キャッピー》」が自分の補佐《ほさ》にするつもりで採用したものとのことだった。彼のモットーは、リッキ・ティッキ・タヴィ〔イギリス作家キプリングの「ジャングル・ブック」にでてくるインドいたち〕と同じで、「走り回って見つける」ことだった。そして、彼はそれを喜びいさんで熱心にやった。彼は好漢だった。もうひとりの新入社員「シャーリー」シャルルヴォアもそうだった。これは、年よりもはやく髪が灰色になったペイント・ラッカー専門家で、やはりシベリア人になる栄誉《えいよ》をかちえたのである。
二、三か月後、サムナーはキニスンを事務室に呼んだ。キニスンは、あの老いぼれの頑固《がんこ》屋が、こんどはなんのことでがなりたてるのかと思いながら出かけて行った。事務室へ呼ばれるのは、ただ一つのこと――叱責《しっせき》を意味していたからだ。
「キニスン、きみの仕事は気にいった」化学技師長は、ぶっきらぼうに話しはじめたので、キニスンはあっけにとられた。「モントローズ学長の下で博士になったものはだれでも、火薬のことを知っているのが当然だ。それに、FBIがきみについておこなった報告によると、きみは頭も能力も勇気もあるということがわかっている。だが、そういうことだけでは、きみがあのしたたかなシベリア人たちと、どうしてあれほどうまくやっていけるのかはわからない。わしは、きみを次長にして、シベリアをまかせようと思う。といっても、それは形式上のことだ――実際上は、きみはもう何か月もまえからそうだったのだからな」
「いや、ちがいます――わたしは、そんなことはありませんでした――それに、バートンはどうなさるのです? あの男は、じつにいい人間ですから、そんなふうに彼の面子《めんつ》をつぶすのはいけません」
「わかっている」この言葉は、キニスンを〈ほんとうに〉びっくりさせた。この口やかましくてがむしゃらな技師長《キャッピー》が、自分の誤りを認めるとは、思いもよらなかったからだ。彼は、技師長《キャッピー》にこのような面があるとは、それまで知らなかった。「わしはきのう、あの男とこの問題を話しあった。あの男は、確かにいい人間だ――だが、あの男に、きみのような能力があるかというと、はなはだ疑わしい。きみの能力は、どういうものだかわからんが、とにかくそのおかげで、タグウェル、ワナセック、シャルルヴォアたちが、ときどきベンチでうたた寝するだけで、わずかな暇も惜しんでコーヒーやサンドイッチをつめこみながら、七十二時間ぶっつづけに働き通して、とうとうあの破砕爆弾を完成してしまったのだからな」
サムナーは、キニスンもまたぶっつづけに働いたことには言及しなかった。それは、いまさらいうまでもないことだったのだ。
「いや、わたしにはわかりません」キニスンは、目がまわりそうだった。「はじめに、バートンに確かめたいのですが、O・Kですか?」
「きみがそういうだろうと思っていたよ。O・Kだ」
キニスンは、バートンを見つけて、テスト小屋のうしろにひっぱっていった。
「バート、技師長《キャッピー》は、きみをさしおいてわしを次長にするつもりでいるし、きみもそれをO・Kしたというのだ。きみがそんなことはないといいさえすれば、わしはあの老いぼれのあほうに、仕事をどこへもっていけばいいか、まさにどこからとりかかればいいか、教えてやるよ」
「ぼくの反応は、完全だ。百パーセント譲歩《じょうほ》するよ」バートンは、手をさしだした。「さもなければ、ぼくが自分で技師長《キャッピー》に、そういうことをもみんな、いやそれ以上のことをいってやるさ。ところが、そうじゃないんだ、アンクル・ラルフ。だから、そう羽をさかだてないでくれたまえ。みんなは、きみのためなら、地獄へでも、つっ立ったままはいって行くよ――ぼくが運転台に坐っても、同じようにしてくれるかもしれないが、そうでないかもしれない。なぜ危険をおかすことがあるんだい? きみは〈それだけの〉人物だ。もちろん、この処置について、ぼくの気にいらないところはある――だが、そのおかげで、ぼくは安定したいい仕事が見つかりしだい、退職することができる。ストーナー・アンド・ブラック社で働いている人間でそういうことができるのは、ぼくくらいのものだ。ぼくは、そのときまでいまの仕事にしがみついているよ。O・Kかね?」バートンとしては、ここにいるかぎり真剣に働くということは、つけ加えるまでもなかった。
「O・Kだ!」そして、キニスンはサムナーに報告した。
「結構です、技師長《キャッピー》、やってみます――もしシベリア人たちを納得させられればですが」
「それは、そうむずかしいことではあるまいよ」
そのとおりだった。キニスンは、シベリア人たちの反応に胸を熱くした。
「シベリア皇帝ラルフ一世!」と彼らは叫んだ。「皇帝ばんざい! 農奴《のうど》および臣下《しんか》たち、ラルフ一世に敬礼!」
キニスンは、その夜、家へもどったときも、まだ身内が燃えていた。彼は、ユーニスといっしょに、国家住宅営団の「小マンション」に住んでいた。彼は、その日の出来事を生涯、忘れないだろうと思った。
「なんという連中だ! なんという連中だ! だがね、ユーニス――あの連中は、自発的に働いているのだ――あの連中を働かせないでおくことはできない。なぜ、わしはあの連中のすることを自分の手柄《てがら》にできるのだろうな?」
「わたしには、ちっともわかりませんわ」ユーニスは、ひたいに――そして鼻にも――小じわをよせたが、口もとは嬉しそうにひきつっていた。「あなたは、ほんとにそういうことになんの関係もないんですの? でも、夕食のしたくができますわ――食べましょう」
さらに数か月が経過した。作業はつづけられた。興味深い、きわめて多彩な作業だったが、ここでは、それについてくわしく述べる必要はない。ポール・ジョーンズは、がっちりした大男で、第一級のチクルゴム技術者だったが、破壊防止装置をつくるために、第四ラインを設けた。フレデリック・ヒントンは、シベリア人になる資格を認められて参加し、対人地雷の製造に着手した。
キニスンは、また昇進して、化学技師長になった。彼とサムナーとは、友だちづきあいしたことはなかったので、技師長《キャッピー》がやめさせられたのかどっちかわからなかったが、その原因を知ろうとはしなかった。この昇進は、なんの変化ももたらさなかった。バートンは、いまや次長になり、一斑のかわりに化学部門全体――シベリア――を運営して、すばらしい能率《のうりつ》をあげていた。化学技師長の秘書は、キニスンのためにではなく、バートンのために働いていた。キニスンは、シベリアの皇帝だったからである。
対人地雷について、困難な問題が発生していた。早期爆発のために多数の人員が殺されていたが、その原因はだれにもわからなかった。その問題が、シベリアにまわされた。ヒントンがそれと取り組んだが、失敗したので、援助を求めた。シベリア人は集結《しゅうけつ》した。キニスンが、地雷を装填《そうてん》してテストした。ボールもタッグもブロンディーもやった。キニスンが、射撃場でテストしていると、管理部から、職員会議に出席するように呼びだしがかかった。ヒントンが、彼と交替した。ところが、彼がゲートに着かないうちに、守衛車が彼の車を呼びとめた。
「失礼ですが、第五ピットで事故が起こり、技師長《キャッピー》においでいただきたいとのことであります」
「事故だと? フレッド・ヒントン! あの男が……?」
「残念ながらそうらしいです」
親友の体の断片をさがして寄せ集める仕事を手つだわなければならないというのは、胸の痛むことだ。キニスンが青ざめて暗い気持で射撃場へもどったとき、ちょうど主任保安官がこういっているのが聞こえた。
「不注意だったにちがいない――ひどい不注意だ。わたしは、ある機会に、このヒントンという男に注意したことがあったのだが」
「不注意だと、ばかな!」キニスンは叫んだ。「きみは〈わし〉にもあえて注意したことがあるが、わしはきみには考えもおよばんくらい、たびたび爆薬についての安全を無視してきたのだ。フレッド・ヒントンは不注意では〈なかった〉――もし、わしが呼ばれなければ、わしがこういう目にあっていただろう」
「では、なにが原因なのです?」
「わからん――いまのところはね。だが、断っておくがね、モールトン少佐、わしはきっと見つけるぞ。そして、見つかったらすぐ、きみに報告する」
彼はシベリアへもどると、タッグとポールがまだ涙で頬をぬらしながら、針金の小さな切れはしのようなものを見つめていた。
「これです、アンクル・ラルフ」タッグは、とぎれとぎれにいった。「どうしてそうなのかはわかりませんが、これが原因です」
「なにがどうしたというのだ?」キニスンは問い返した。
「撃針《げきしん》です。もろくなっています。安全装置をひっぱると、スプリングの力で、これのこのしぼられた部分が切断されるにちがいありません」
「だがおかしいぞ、タッグ。それは筋《すじ》が通らん。その張力は――いや、待て――やはり、水平分力というやつがあるわけだ。しかし、そこがガラスみたいにもろくなければならんことになるぞ」
「わかっています。あまり筋が通らないようです。ですが、ご承知のように、われわれは現場にいました――そして、わたしは、あのいまいましい地雷を一つ一つ自分で組み立てたのです。このほかの原因で、あの地雷がちょうどあのときに爆発するはずがありません」
「O・K、タッグ。テストしてみよう。バートを呼んでくれ――あの男が測定検査室員に装置を準備させるあいだに、われわれは組み立て現場からこの撃針をもうすこし回収しよう」
百本の撃針をスプリングの標準張力でテストすると、三本がこわれた。さらに百本テストすると、五本がこわれた。彼らは顔を見あわせた。
「これが原因だ」キニスンはきっぱりいった。「だが、こいつはひどくくさいことになりそうだ――検査に新しい包みをあけさせて、一千本テストしてみよう」
その一千本の撃針のうち、三十二本がこわれた。
「バート、きみはヴェラに口述して一ページの予備報告書を作成し、できるだけはやく第一ビルに提供してくれないか。わしは、モールトンのところへ行ってちょっと話してくる」
モールトン少佐は例によって「会議中」だったが、キニスンはゆっくり待っているような気分ではなかった。
「少佐に伝えてくれ」彼は自分をさえぎった少佐の個人秘書に指示した。「少佐がいますぐわしと話してくれなければ、わしは少佐の頭をとび越して地区保安局を呼び出す。六十秒余裕を与えるから、どちらかにきめるようにとな」
モールトンは、彼に会うことにきめた。「キニスン博士、わたしは非常に忙しいのですが……」
「きみがどんなに忙しかろうと、わしにはちっとも問題ではない。わしは、M2地雷のどこが悪いかわかったら、すぐきみに伝えると約束した。それでやってきたのだ。撃針がもろくなっている。三・二パーセントが不良だ。だから、わしは……」
「博士、それは、はなはだ違法です。この問題は、正規の手続きをへなければ……」
「この問題はそれではだめだ。正式の報告は正規の手続きで提出するつもりだが、わしがきみに話しにきたのは、主任保安官としてのきみに対する緊急報告だ。欠陥は設計明細書にはふくまれていないのだから、製造工程でも軍需品部でもテストをしないではねることはできん。そして、テストをするものはだれだろうと、殺されてしまうだろう。だから、ストーナー・アンド・ブラック社のすべての従業員は、危険な情況を発見しだい、直接保安局に報告する権利があるばかりでなく、すすんでそうする義務があるという規定にしたがって、わしはそうしているのだ。わしはなみの技手よりちょっとばかりひねているから、保安局長に直接報告しているのだ。念のためにいっておくが、きみがすぐにもなんとか手をうたんと――きみの権限がおよぶかぎりのM2AP製造所に、生産出荷停止命令をださんと――わしは地区保安局を呼び出して、今後のあらゆる早期爆発の責任をきみに負わせるぞ」
どこのどんな保安官でも、生産工程を進行させるよりは、停止させるほうをはるかに好むものだし、とくにこの保安官はいばり散らすのが好きな男だったから、キニスンはモールトンがただちに行動しないのに驚いた。モールトンがそのように行動しなかったという事実から、柵《さく》の外に存在する情況について多くの情報が察知できたはずなのに、単純なキニスンはそれを察知しなかった。
「だが、あの地雷は切実に要求されている。特別な大量生産を停止するとすれば――どのくらいの期間ですかね? なにか提案がありますか?」
「あるとも。地区保安局を呼びだして、彼らの手で設計明細書の変更を強引《ごういん》に通過させるのだ――熱処理と改良式チャーピー・テストもふくめてね。そのあいだに、きみが地区保安局の尻をたたいて、あのピンの検査を百パーセント遂行《すいこう》させれば、あすまでには全力生産にもどることができる」
「すばらしい! そういうことならできる――りっぱなものです、博士! ミス・モーガン、すぐに地区保安局を呼びだしなさい!」
このことからも、キニスンは警戒心をいだくべきだったのに、やはりいだかなかった。彼は研究室へもどった。
時間は矢のように過ぎた。
第九ラインでM六七H・E・A・T弾(一〇五ミリ高性能爆薬|徹甲《てっこう》弾)の装填《そうてん》を準備せよという命令がきて、シベリア人たちは新しい装填作業にいさんでとりかかった。この爆薬は、TNT火薬とある重合化合物との混合体になるはずで、それについては万事が極秘《ごくひ》にされていた。
「ですが、いったいあのしろもののどこがそんなに秘密なんです?」五、六人の仲間といっしょに皇帝《ツァー》のデスクのまわりにむらがっていたブロンディーがたずねた。サムナー技師長《キャッピー》の時代とはちがって、化学技師長の専用オフィスは、今ではシベリアそのものと同じくらいシベリア的だった。「そもそもはドイツ人どもが、開発したんじゃありませんか?」
「そうだ。そして、イタリア人がエチオピア人に対して使用したのだ――だから、やつらの爆弾はあんなに効果的だったのだ。だが、『極秘』にしろというのだから、そのようにしよう。ブロンディー、もしきみが寝言《ねごと》であれのことをいうようなら、ベティーに聞かないようにいっておきたまえ」
シベリア人たちはせっせと働いた。M六七は生産に乗った。それは大成功で、発注は応じきれないほど性急にきた。生産はスピード・アップされた。製品に小さい空隙《くうげき》ができはじめた。しかし、検査はパスするのだから、なにも問題はないはずだった。にもかかわらず、キニスンは公式の報告書で抗議し、それが受理されたことも公式に認められた。
エントウィッスルの司令官は某という将軍で、シベリア人たちはだれも面識がなかったが、その将軍がいっそう活動的な任務に転任になって、ある大佐――スノッドグラスとかいう名前の――が、その地位についた。兵器工場には、新しい主任検査官が着任した。
エントウィッスルで装填された一発のM六七弾が早期爆発して、二十七名の人員を殺した。キニスンはもう一度、こんどは幹部会議の席上、口頭で抗議した。そして、公式の徹底的調査がおこなわれているということを――口頭で――保証された。また、そのあとで調査は完了したが、装填《そうてん》には欠陥がなかったということを――口頭で、立会人なしに――告げられた。そして、また新しい司令官――フランクリン中佐――が任命された。
シベリア人たちは、いそがしすぎて新聞をかいま見るひましかなかったから、グライダー墜落事故のために数人の名士が死んだという記事にも、ろくすっぽ注意を払わなかった。彼らは、調査がおこなわれているということは聞いていた。しかし、皇帝《ツァー》さえのちになるまで知らなかったことだが、ワシントンはまちがった情況を改善するためにはじめて敏速《びんそく》に行動し、それまで生産部門の下部にあった検査部門がただちにそこから分離されたのだった。そして、ひろく伝わったゴシップによると、それまで検査部門の長だったスティルマンは、その職に耐えるほどの大物ではなかったというのである。そういうわけで、まったくなんの予期もしていないキニスンが、生産部長トマス・ケラーの極秘専用オフィスに呼ばれることになった。
「キニスン、きみはいったいどんな方法であのシベリア人たちを使いこなしているのかね? わしはこれまであんな連中にぶつかったためしはないが」
「そうです。これからもぶつかることはないでしょう。戦争をのぞけば、地球上のなにものも、彼らを協調させたり団結させたりすることはできなかったでしょう。わたしは彼らを『使いこなしている』のではありません――彼らを『使いこなす』ことはできないのです。わたしは、彼らになすべき仕事を与えてやらせているのです。彼らをバック・アップしているのです。それだけのことですよ」
「うむむ」ケラーはうなった。「そいつはとんでもない方式だ――もしわしがなにかをうまくやらせようと思ったら、自分で手をくださねばならん。だが、きみの方式がどんなものであれ、とにかくうまくいっている。ところで、きみに話したいと思っていたことだが、検査部門の長になるのをどう思うかね? その部門は拡張されて、きみの現在の化学課を包含《ほうがん》することになるだろう」
「なんですと?」キニスンは、あっけにとられてたずねた。
「サラリーは、内示賃金等級のかなり上のほうだ」ケラーは一枚の紙に数字を書いて相手に示してから、それを灰皿の中で燃やしてしまった。
キニスンは、口笛を吹いた。「結構《けっこう》です――それ以上の理由があるからです。しかし、わたしは知りませんでしたが、あなたは――それとも、すでに将軍やブラック氏と意見が一致されたのですか?」
「もちろんさ」と、よどみない返事があった。「事実、わしはこの件をあの人たちに提案して、承認をえている。おそらく、きみは、なぜこういうことになったか知りたいだろうな」
「おっしゃるとおりです」
「二つ理由がある。第一に、きみは国中のすべての技術屋がうらやましがるような熟練した技術家集団をつくりあげた。第二に、きみと部下のシベリア人は、わしがきみに要求したすべての仕事をやってのけた。それも迅速《じんそく》にな。きみは部長になれば、もうわしの部下ではないが、いまとまったく同じように効果的にわしに協力してくれると考えていいだろうな?」
「協力しない理由など思いあたりませんよ」
この返事は誠心誠意なされたが、キニスンはのちになって、ケラーがこのときどういうつもりでいったのかを理解するようになった。そして、自分がそんな返事をしたのをどれほど、いまいましく思ったことだろう!
キニスンはスティルマンのオフィスに移ってみて、前任者が成功できなかったのももっともだと思われる理由を発見した。彼の考えかたからすれば、このオフィスははなはだしく職員過剰《しょくいんかじょう》で、とくに主任検査官補佐が過剰だった。エントウィッスル兵器工場では、全体を通じて、権限の委任が非常にひろくおこなわれていたが、このオフィスでは、それが口先だけの実行さえされていなかった。スティルマンは、生産ラインを視察したためしがなく、ラインでどんなことがおこなわれているかを実際に知っているライン主任検査員のほうでも、彼を訪問したためしがなかった。彼らはスティルマンの補佐《ほさ》たちに報告し、補佐がそれをスティルマンに報告して、スティルマンのほうは大いばりで決定をくだすのだった。
キニスンは、主要な部下であるライン主任検査員を、現在のシベリア人とまったく同じようなグループに仕あげる仕事に、こんどは慎重にとりかかった。彼は自分の補佐たちをもっと生産的な職務に転出《てんしゅつ》させ、スティルマンのオフィスの職員の中からほんの二、三人の事務員と自分の専用秘書をひとりだけ残した。この秘書は、セレスト・ド・オーバンといって、活動的で陽気な――ときには爆発的な――ブルネット娘だった。彼はラインの検査員に全権を与え、その職務に耐えられないような少数のものは、耐えられるものに変えた。はじめのうち、主任検査員たちはキニスンを信じられなかったが、四十ミリ事件があってからは、ひとり残らず忠実な部下になった。この事件のとき、キニスンは部下の決定を反復して上司《じょうし》に持ちこみ、ケラーをとび越し、将軍をとび越し、ストーナーとブラックをとび越し、司令官のところまでいって、ついにそれを承認させたのだった。
しかし、ほかの課の課長たちは、依然としてよそよそしかった。現在は検査部の一部になっている技師課のペトラーと規格課のウィルスンのふたりは、大言壮語するばかりで、たとえ行動するとしても、妨害的にしか行動しなかった。一週間また一週間と過ぎるにつれて、キニスンはますます事情に通じてきたが、なんのそぶりも示さなかった。ある日、休憩時間中に、彼の秘書が「会議中」というサインをドアにかけて、キニスンの専用オフィスにはいってきた。
「中央ファイルのどこにも、こんな調査報告の参照はありませんわ」彼女はなにかをつけ加えるように言葉をとぎらせてから、背をむけて出て行こうとした。
「待ちたまえ、セレスト。坐りなさい。わしはそういうことを予期していた。調査はもみ消されてしまったのだ――万が一おこなわれたとしてもな。セレスト、きみは利口だから、事情がわかっているだろう。わしになら安心して話せるということを知っているね?」
「はい、でもこれは――あの、噂ですと、部長さんを首にするつもりでいるということですわ。この工場では、いい人というとみんな首にしてしまうんですけど、部長さんのことも、そんな目にあわそうというんです」
「それも予期していたよ」言葉はしずかだったが、彼の顎《あご》はひきしまった。「それから、やつらがどんな具合にそれをやってのけようとしているかもわかっている」
「どんなぐあいにですの?」
「現在第九ラインでおこなわれている生産促進さ。やつらは、今夜から実施されるケラーの新生産方式で生産されるような鋳型《いがた》を、わしがおとなしく見すごすわけがないということを知っている――今度の新しい司令官は見すごすだろうがね」
沈黙が訪れたが、秘書がそれを破った。
「はじめの司令官のサンフォード将軍は軍人で、それもりっぱな軍人でした」彼女はきっぱりいった。「スノッドグラス大佐もそうでした。フランクリン中佐はそうではありませんでしたけれど、潔白《けっぱく》な人でしたから、けが――」
「けがらわしい仕事だ」とするどくいった。「そのとおり。つづけたまえ」
「そして、ストーナー・アンド・ブラック社のなかばを所有するニューヨークのストーナー氏は――実際には九十五パーセントを所有していますが――大物の経営者です。それで、わたしたちは、いまの間抜《まぬ》けな少佐にウォール街のデスクから指図されているんです。あの人ときたら、|fuse《フューズ》(信管)と|fuze《フューズ》(起爆装置)の区別も知らないのですもの」
「それがどうだというんだね?」
「それがどうなんだですって?」娘は、両手を握りあわせて叫んだ。「部長さんがここにおいでになってからというもの、わたし、部長さんがあるものを吹きとばすのを――やっつけるのを――いまかいまかと期待してきました――部長さんはこれまで十ぺんも『セレスト、戦士というものは、両足をしっかり地に踏みしめるまでは、有効な打撃を加えられないんだよ』っておっしゃいましたけれど。いつ――いつ――両足を踏みしめるおつもりなんですの?」
「いつになっても踏みしめられないかもしれん」彼がむっつりいったので、娘は目を見はった。「だから、すくなくとも片足が地についていないままで、攻撃を開始しなければなるまいよ」
この言葉は彼女をおどろかした。「説明していただけません?」
「わしは〈証拠〉が必要だった。地方保安局に提出できるような代物《しろもの》だ――うむをいわさぬ、れっきとした証拠だ。そういうものが手にはいったかね? はいっていない。ひとかけらもな。きみにも手にいれることはできん。いつか真の証拠が手にはいるどんな見こみがあるね?」
「ほとんどありませんわ」セレストは認めた。「でも部長さんは、すくなくともペトラーやウィルスンのような連中をやっつけることがおできです。あのいやらしいヘビたちときたら、なんてにくらしいんでしょう! 部長さんが、あの有害な間抜けのトム・ケラーをやっつけることがおできになればいいのに!」
「やつらはそれほど間抜けじゃない――頭が帽子より三倍もふくれあがった、あほうな人形みたいなふりをすることはあるがね。だが、攻撃をやかましくせきたてるのはやめなさい――あしたの二時には、花火を打ちあげることになっている。今夜の操業で製造する弾丸を、ドレークがつっ返すのだ」
「ほんとですの? でも、ペトラーやウィルスンがどんな干渉《かんしょう》をするでしょう」
「やつらは干渉せんよ。あんな小物とやりあっても――たとえやっつけたところで――さわぎを起こすには不充分だ。ケラーが相手さ」
「ケラーですって!」セレストは金切り声をたてた。「でも、そしたら部長さんが――」
「わかっている。わしは首になるだろう。それがどうしたというのだ? わしがやつを相手にすれば、相当な騒ぎになるから、大物たちだって、すくなくともいくらかはでたらめをやめないわけにはいくまい。わかっているだろうが、きみもたぶん首になるぞ――無事でいるにしては、わしに近すぎたからな」
「わたし、首になんかなりませんわ」彼女は元気よく首をふった。「部長さんがやめさせられたとたんに、やめてしまいますもの。ふん! かまうもんですか! それに、わたしタウンヴィルでもっといい仕事につけるんです」
「戦時産業から離れないわけだね。わしもそう思っていた。心配なのは、男のほうだ。この何週間というもの、彼らにその準備をさせているのだ」
「でも、あの人たちもやめますわ。あなたの部下は、シベリア人も――検査員も――きっとみんなやめますわ!」
「社では彼らを手放すまい。そして、もし彼らが許可なしにやめれば、戦争が終わったあとだとしても、ストーナー・アンド・ブラックは彼らを犬にも劣るようなめにあわすだろう――すくなくとも、やつらが彼らをあまりひどく圧迫しないかぎりはな。ケラーは、シベリアを支配したくてよだれをたらしているが、やつにしてもやつの手先にしても、そんなことは絶対にできんだろう――この問題については、いまのうちにブラックあての覚書を口授しておくことにしよう。わしがまだ冷静で落ちついているうちにな。わしの部下がエントウィッスルからとびだしていくのをくいとめるためにはどうしなければならんかを、やつに教えてやるのだ」
「でも、あの人がそれにいくらかでも注意を払うとお思いですの?」
「払うとも!」キニスンは鼻を鳴らした。「ブラックのことで思いちがいをしちゃいかんよ、セレスト。やつは抜け目のない男だから、こうされるまえに、自分の鼻をきれいにしとかなければならんということに気がつくだろう」
「でも、部長さんは――どうしてそんなことがおできになりますの?」セレストはたずねた。「わたしだって、あの人たちにすすめたいとは思いますけど、愛国心を持っている人なんかろくに――」
「愛国心なんぞ問題じゃない! それだけのことなら、わしはとうの昔に革命を起こしとる。部下たちの将来のためだ。彼らも〈自分の〉鼻をきれいにしておかねばならん。ノートを出して、これを書き取ってくれたまえ。下書きだ――あとでわしがみがきあげて、各行に歯や爪をとりつけることにする」
そしてその晩の食後に、彼はユーニスに新しい事態を残らず知らせた。
「これでも、きみはO・Kかね」彼はさいごにたずねた。「わしは、サラリーのいい今の仕事を自分から首になるわけだが」
「もちろんよ。あなたのことですもの、そうする以外に、どうしようがありまして? まあ、ほんとに、その連中の首をしめてやりたいわ!」この会話はもっとつづいたが、これ以上くわしく述べることは、ここでは必要がない。
つぎの日の午後二時すこし過ぎ、セレストは電話を受けつぐと、あつかましく傍聴《ぼうちょう》した。
「キニスンだ」
「タッグです、アンクル・ラルフ。鋳型《いがた》は、案の定《じょう》、プレートDの焼き直しです。ドレークは、どのトレーにも赤札をさげました。ピッディーはその場に待機していて、大騒ぎを起こしはじめました。そこで、わたしがじゃますると、やつは尻に火のつきそうな勢いで逃げました。ドレークはあなたに電話をかけたがらなかったので、わたしがかけました。もしピッディーがここから逃げだしたスピードで駆けつづけていれば、たちまちケラーのオフィスに着くでしょう」
「O・K、タッグ。ドレークに、彼がはねた弾丸は、はねられたままになるはずだといってくれ。そして、報告を持ってすぐここへくるようにとな。きみもいっしょにきたいか?」
「行きたいですとも!」タグウェルは電話を切った。
「でも、博士、あなたは〈あの人〉がここへくるのをお望みなんですの?」セレストは、ボスが彼女の盗聴《とうちょう》を許してくれるかどうかも考えず、心配そうにたずねた。
「もちろんだ。タッグが首を吹っとばされるのを防いでやることができれば、ほかの連中は戦列にとどまるだろう」
二、三分後、タグウェルが、第九ラインのライン主任検査員ドレークを連れて大またにはいってきた。その直後にオフィスのドアがさっと開かれた。ケラーがキニスンのところへ出向いてきたのだ。シベリア人からいくらか軽蔑的《けいべつてき》に「ピッディー」と呼ばれている監督が、つきそっていた。
「キニスンのちくしょう、ここへ出てこい――おまえにいうことがある!」ケラーがどなると、長い廊下の両端のドアがぱっと開いた。
「だまれ、シラミやろう!」これは、タグウェルの口からでた言葉だった。彼は、黒い目から火花を散らすようないきおいで、断固として踏みだしていった。「きさまを思いきりぶんなぐって――」
「しずかにしろ、タッグ、これはわしが処理する」キニスンの声は大きくはなかったが、奇妙に迫力があって、断固たる調子をおびていた。「口げんかだろうと、なぐりあいだろうと、やつのお望みしだいだ」
彼はケラーをふりむいた。ケラーは、若いシベリア人の攻撃を避けて、ホールにとびもどっていた。
「ケラー、きみに神さまがアイルランドのえせガチョウにさずけたほどの脳味噌があれば、この協議を内密におこなったはずだ。だが、きみが公然とはじめたのだから、わしも公然とやってのけよう。どういうわけで、きみはこのわしを、なんでもいいなりになるイエス・マンだなぞと思いこんだのだ? わしは、そんなものには永久にならんぞ――きみの間抜けさかげんは、もうひとまわり大きいらしいな」
「あの弾丸は完全だ!」ケラーは叫んだ。「このドレークに、たったいまあれをパスさせるように命令しろ! もしそうせんと、わしは断じて――」
「だまれ!」キニスンの声がさえぎった。「話はわしがする――きみは聞いていろ。設計明細書には『有害な空隙《くうげき》を含んではならない』と規定している。仕事に精通しているライン検査員が、あの空隙は有害だというのだ。化学技術員もそういっている。だから、わしとしても、有害と認めるのだ。あの弾丸は不合格で、〈今後も〉不合格だ」
「それはおまえの考えることだ」ケラーは憤然としていった。「だが、新しい検査部長は、あしたの朝、あれをパスさせるぞ!」
「きみのいいぶんは、半分だけあたっているだろう。ブラックのところへ行って、彼の靴をなめおえたら、わしが自分のオフィスにいると伝えろ」
キニスンは、自分の続き部屋にもどった。ケラーは悪態をつきながら、ピッディーといっしょに立ち去った。ドアがカチッととじた。
「アンクル・ラルフ、わたしはやめますよ、なにがなんでも!」タグウェルがどなった。「やつらは、あのがらくたをパスさせて、それから――」
「彼らがやめるまでは、きみもやめないと約束してくれるかね?」キニスンは、しずかにたずねた。
「えっ?」「なんですって?」タグウェルの目は――セレストの目も――驚きにあふれた。しかし、セレストは内情に通じていたので、はじめに理解した。
「ああ――彼の鼻をきれいにしておくためですわね――わかりました!」彼女は叫んだ。
「そのとおりだ。あの弾丸は受理《じゅり》されないだろうし、あれに類するようなしろものも受理されないだろう。表面的には、われわれは敗れた。わしは首になるだろう。だが、事実上はわれわれがこの戦闘に勝ったということがわかるさ。そしてきみがここにとどまって、団結して攻撃をつづければ、もっと多くの戦闘に勝つことができる」
「たぶん、われわれがうんと騒ぎたてれば、やつらにわれわれも首にさせることができますね?」ドレークがたずねた。
「それはあやしいものだ。だが、わしがまちがっていなければ、きみたちはこれから自分の除隊《じょたい》命令を書くことができるよ。もしうまくやってのければね」キニスンは若者達が理解できないあることについて、にやりと笑った。
「あなたは、ストーナーとブラックが、われわれにどういうことをするかを話されました」タグウェルは、熱心にいった。「わたしが心配しているのは、やつらがあなたにどういうことをするかです」
「やつらにはできんよ。まったくチャンスはない」キニスンは受けあった。「きみたちは若い――声価が確立していない。だが、わしは専門の分野では人に知られているから、やつらがわしを排斥《はいせき》しようとすれば、自分たちが笑い者になるだけだし、やつらもそのことを知っている。だから、きみたちは第九ラインへもどって、規格どおりに区分けしない製品には、みんな赤札をぶらさげるのだ。ほかの連中には、わしからよろしくといってくれ――きみたちには、ひきつづき情報を伝えるよ」
一時間たらずのうちに、キニスンは社長のオフィスに呼ばれた。彼はまったく落ちついていたが、ブラックはそうでなかった。
「いま決定されたのだが――その――きみの辞職を求める」社長はついにいった。
「おだまりなさい」キニスンはいった。「わたしがここへきたのは、ある仕事をするためです。そして、わたしがその仕事をするのをくいとめるただ一つの方法は、わたしを首にすることです」
「それは――その――まったく思いがけないことだった。しかし、きみの解雇書類にどういう理由を記入するかについて、困難が起こったのだ」
「その点はよくわかります。なんでも好きなように書きこんでください」キニスンは肩をすくめた。「ただし、一つだけ例外があります。わたしの無能をほのめかすような文句がすこしでもあれば、法廷で証明しなければならないはめになりますぞ」
「意見の不一致という理由ではどうかね?」
「O・K」
「ミス・ブリッグズ――『ストーナー・アンド・ブラック社の最高幹部との意見の不一致』と書いてくれたまえ。キニスン博士、待っていてもいいよ。ほんのちょっとしかかからんから」
「結構です。二つばかりいいたいことがあります。第一に、わたしはあなたが進退きわまっているということを、あなたに劣らずよく知っている――やってもだめだし、やらなくてもだめなのです」
「そんなことはない! ばかな!」ブラックはどなったが、目は迷っていた。「どうしてそんなとほうもないことを考えたのだ? どういうつもりなのだ?」
「もしあの規格はずれのH・E・A・T弾をむりにパスさせれば、またいくつか早期爆発が起こるでしょう。多くはない――あの製品は事実上ほとんど合格です――一万発に一発か、五万発に一発くらいでしょう。しかし、あなたは一発も早期爆発を許せないということを充分に知っておいでだ。わたしの部下のシベリア人と検査員たちが、あなたやケラーやピッディーや第九ラインについて知っていることだけでもたくさんなのに、かてて加えて、あなたのあの脳なしの手先が、きょうの午後、すっかり秘密をばらしてしまった。そして、第一ビルの者みんながそれを聞いていました。早期爆発がもう一発も起これば、エントウィッスルは吹っとばされるでしょう――ワシントンの政治家が総がかりでもおさえられないようなことがはじまるでしょう。いっぽう、あの製品をスクラップにして、装填《そうてん》をやりなおせば、ニューヨークやワシントンにいるストーナー氏は、ひどく悲しがってわめきたてるでしょう。しかし、あなたはプレートD装填を兵器工場には、これ以上、提供しないにちがいありません――わたしの部下たちの性質や、あなたの間抜けな手下がぶちまけた秘密を聞いた人数を考慮にいれて、そうしないでしょう。事実、わたしは部下の何人かに、あなたは自分の鼻をきれいにしておくくらい賢明な経営者だから、そうはしないだろうと話しました」
「〈話した〉だと!」ブラックは、怒りと失望の叫びをあげた。
「そうですよ? いけませんか?」言葉はいとも無邪気だったが、キニスンの表情は意味深長だった。「月並みなことをいうつもりはありませんが、あなたは正直と誠実がおそろしく手ごわい相手だということを、やっとわかりはじめましたな」
「出て行け! この解雇書類を持って、出て行け!」
そして、ラルフ・K・キニスン博士は、頭をきっと起こし、ブラック社長のオフィスから、エントウィッスル兵器工場から、大またに立ち去って行った。
[#改ページ]
三 一九××年
「セオドア・K・キニスン!」まったく平凡でそっけない外見のラジオ・テレビジョン・セットから明晰《めいせき》な声がひびいた。
がっしりした青年ははっと息をつめると、装置にとびついて、目だたないボタンを押した。
「セオドア・K・キニスン了解!」映像盤は暗いままだったが、彼は自分が詳細に点検されていることを知っていた。
「|うそ鳥《ブルフィンチ》作戦発動!」スピーカーは叫んだ。
キニスンは生つばをのみこんだ。「|うそ鳥《ブルフィンチ》作戦発動――おわり!」彼はやっといった。
「おわり!」
彼はまたボタンを押すと、ふりむいて、アーチ形通路に緊張して立っているすらりとしたハニー・ブロンドの女性と顔を会わした。彼女の目は訴えるように見開かれ、両手はのどをつかんでいた。
「うむ、やつらが攻撃をしかけてきたんだよ――極点を越えてね」彼は歯ぎしりした。「二時間内外だろう」
「まあ、テッド!」彼女は彼の腕の中へ身を投げた。ふたりはキスしてから離れた。
男は、すでに詰まっている二つの大きなスーツケースを取りあげて大またに歩きだした――そのほかのものはすべて、食物や水もふくめて、何週間もまえから車の中におさめられていた。女は、アパートのドアをしめることさえせずに、通りすがりに、足のひょろ長い四歳の男の子と二歳ばかりのぽっちゃりした女の子をすくいあげながら、彼のあとを追った。彼らは、芝生を横切って、大きな背の低いセダン型地上車のほうへ走って行った。
「きみはまちがいなくカフェイン錠剤《じょうざい》を持っているだろうね?」彼は走りながらたずねた。
「ええ」
「あれが必要になるだろう。しゃにむにつっ走るんだ――前進しつづけるんだ! こいつはすごく足が速くて、ガソリンもオイルもたっぷり積んでいる。どこからも千百マイル離れていて、人口が一平方マイル十分の一人のところへ行くんだ――そこなら助かるだろう。もし助かるものがあるとすればね」
「わたくしが心配しているのは、自分たちのことじゃないのよ――あなたのことなの!」彼女はあえぎながらいった。「技術員の妻は、水爆警報が起こる数分まえに予告を受けるわ――だから、わたくしは避難《ひなん》ラッシュのさきに立って、先頭を切りつづけるでしょう。心配なのはあなたよ、テッド――あなたのことなのよ!」
「心配するな。ぼくのあのモーターサイクルも足が速いし、ぼくが行く道はそう混雑していないだろう」
「あら、警報なんか! わたくしがいったのは、そのことじゃないわ。それは、あなたもわかってるのに!」
彼らは車のところにきた。彼が二つのバッグをぴったりおさまる空き場所に押しこんでいるあいだに、彼女は子供たちをフロント・シートに落とし、ハンドルの下にするりとすべりこんで、エンジンをスタートさせた。
「君がいったのがそのことじゃないのはわかっているよ。ぼくはもどってくるさ」彼は彼女と娘にキスしながら、むすこと握手をかわした。「ちびさんたち、まえにもよく話しておいたように、おかあさんといっしょにキニスンおじいさんのとこへ行くんだ。おもしろいぜ。おとうさんはあとから行くからね」
重い乗用車はバックして回転し、アクセル・ペダルがフロアに当たると同時に、砂利《じゃり》がふっ飛んだ。
キニスンは小道を横切って駆け、小さなガレージのドアを開くと、長くて背の低いモーターサイクルがあらわれた。両手をすばやく二度走らせると、三つのスポットライトはもう白ではなかった――一つはあざやかな紫色、もう一つはまぶしい青色に輝いていた。彼は穴のあいた金属箱をつり鉤《かぎ》にかけてスイッチをいれた――特異な調子のサイレンがきしるようにほえはじめた。彼は小道に沿って四十五度の角度でまがり、路面がこげるようなスピードで分岐路《ダイヴァーシー》へ向かった。
ライトは赤だった。問題ではない――どの車も止まっていた――このサイレンは数マイル離れていても聞こえるのだ。彼は交差点に突入した。車が悲鳴をあげて左折するとき、ステップ・プレートがコンクリートをこすった。
サイレンだ――うしろからじりじり接近してくる。都市警察のサイレンだ。二つの赤いスポットライト――都市警察官だ――こんなに早くきたのか――いいぞ! 彼はエンジンのしぼり弁をちょっと切った。相手のバイクはわきにならんだ。
「これが例のやつですか」制服のドライバーは、断続的にとどろく競争するような排気音のあいだからわめいた。
「そうだ!」キニスンはわめき返した。「外部ドライブウェイへ通じる分岐路《ダイヴァーシー》と、南はゲーリーまで、北はウォークガンまでのドライブウェイの交通をストップしてくれ。急ぐんだ!」
白黒のモーターサイクルはスピードをゆるめ、カーブのほうへすっ飛んでいった。警察官は、自分のマイクロフォンに手をのばした。
キニスンは走りつづけた。シセロ大通りでは、ライトは青だったが、交通がひどく混雑していたので、スピードを落とさなければならなかった。プラスキー通りでは、ふたりの警官が彼に手を振って赤信号を通過させた。サクラメントを過ぎると、一台の車も動いていなかった。
七十マイル――七十五マイル――彼は橋を八十で越えた。両輪は十メートルも空中をすっ飛んだ。八十五――九十――こんなにでこぼこの道路で車体を路面に保っておくには、このスピードが精いっぱいだった。おまけに、彼はもう分岐路《ダイヴァーシー》を独占しているわけではなかった。青と紫のライトをきらめかせたバイクが、あらゆる脇道《わきみち》から突入してきていたからだ。彼は五十マイルというおとなしいスピードにゆるめて、ほかのドライバーたちと密接な編隊を組んで進んで行った。
水爆警報――計画にしたがってシカゴ全体が整然《せいぜん》と避難するための全市にわたる警報――がひびいたが、キニスンは耳を貸さなかった。
公園を横切りながら、じりじり左側へ寄って行った。南へ行く要員たちが回転する余地をつくるためだ――こんなに熟練した乗り手たちでも、時速五十マイルで回転するためには、〈いくらかは〉余地が必要なのだ!
高架橋《こうかきょう》の下で――ブレーキをくいこませタイヤをきしらせながら、鋭くきわどい直角の左折――北へ向かう広くてなめらかなドライブウェイへ!
ハイウェイは、スピードをだせるようにつくられている。このモーターサイクルもそうだ。各ドライバーは、ひろびろとした平坦地へ出ると同時に、タンクに沿って身を低め、顎《あご》をクロス・バーの後方に押しこんで、両方のしぼり弁をいっぱいにひねった。彼らは急いでいた。長い距離を走破《そうは》しなければならないのだ。もし彼らがあの極地横断原子ミサイルをくい止めるのにまにあうように目的地に到着しなければ、この世の地獄が現出するだろう。
なぜこんなことが必要なのか? この組織、この性急さ、この間一髪のタイミング、この全市にわたる気ちがいじみたドライブ競技が、なぜ必要なのか? なぜこのモーターサイクル・レーサーたちは、どんな非常事態にも応じられるように、それぞれのポストに常駐していないのか? その理由は、アメリカはデモクラシー国家なので、先制攻撃をかけるわけにはいかず、現実に攻撃されるまでは、待機――ただちに応じられるように待機――していなければならなかったからである。また、アメリカのあらゆる優秀な技術員は、アメリカ防衛計画の中でそれぞれに割りあてられた職場を持っており、|うそ鳥《ブルフィンチ》作戦はその計画のほんの一部に過ぎなかったからだ。また、これらの技術員が日常の職場にいなかったならば、アメリカにおける日常的な機能はすべて停止してしまっただろう。
一本の枝道が右へカーブしていた。キニスンは、ほとんどスピードをゆるめずに曲がりかどへとびこんで行き、きびしく警戒されているあけはなしのゲイトを通過した。ここでは、彼の車とライトが充分な通行証だった。ほんとうの検査は、もっとあとで行なわれるのだ。彼は合金の広大な建物に接近した――ブレーキをぐっとかけた――ひとりの兵士のかたわらで停止した。キニスンが飛びおりるやいなや、兵士はそのモーターサイクルに乗って走り去った。
キニスンは一見なんの変哲《へんてつ》もない壁に駆けつけると、四十五口径をいつでも発射できるように構えている四人の士官に背をむけたまま、右目を一つのカップにあてがった。指紋とちがって、網膜《もうまく》のパターンは模造することも複製することも変化させることもできない。替え玉は逮捕も尋問《じんもん》もなしに、その場で殺されるのだ。このロケットに乗り組む要員はすべて、照合され検査されていた――〈どれほど〉厳密に照合され検査されていたことか――こうした技術員の席のどれかに、ひとりでもスパイがもぐりこめば、とほうもない大損害をひきおこすからだ。
出入口がさっと開いた。キニスンは、はしごをのぼって、大きいが混雑した操縦室にはいった。
「やあ、テッディー!」一つの声が叫んだ。
「やあ、ウォルト! やあ、レッド! どうだい、ボールディー!」などなど。この男たちは、昔からの友人だった。
「やつらはどこにいるんだ?」キニスンはたずねた。「わが軍は発進しているかね? ちょっと球をのぞかせてくれ」
「発進しているとも! O・K、テッド。ここへ割りこみたまえ!」
彼は割りこんだ。それは球ではなくすこし扁平《へんぺい》な半球で、北極がほぼ中心をなしていた。多数の赤い点が、カナダの上空をのろのろ北へ動いている――この地図の上では、百マイルといってもわずかな距離だ。それらの点よりもっと密集した、よりすくない黄緑色の点の集団が、すでに北極のアメリカ側にあって、南へ進んでいる。
予想されたように、アメリカは敵より多くのミサイルを持っていたのだ。アメリカが敵より有効な防衛システムと、より熟練した、より有能な防衛員を持っているというもう一つの確信は、やがてテストされるだろう。
ノームからスカグウェイ、ウォラストン、チャーチル、カニアピスカウをへてベル島まで、一連の青い光点が大陸を横切っている。アメリカの第一防衛線だ。すべて正規部隊である。こはく色の光点がそれらの青い光点をほとんどおおいかくしている。戦闘ロケットがすでに高度をとりつつあるのだ。ポートランドからシアトル、バンクーバーをへてハリファックスに達する第二防衛線も一様な緑色を呈して、そのいくつかは琥珀色《こはくいろ》の光点におおわれている。一部は正規部隊で、一部は州兵部隊だ。
シカゴがふくまれている第三防衛線は、すべて州兵部隊で、サンフランシスコからニューヨークにかけてひろがっている。緑色――油断なく活動している。第四も第五も第六もそうだ。|うそ鳥《ブルフィンチ》作戦は、一秒の狂いもなく進行している。
ベルが鳴った。要員は部署について、ベルトをしめた。すべての椅子はふさがった。不安定アイソトープの分裂製原子核を動力とする戦闘ロケット一〇六八号は、その厚い壁をもってしてもさえぎれないような咆哮《ほうこう》とともに発進した。
技術員たちは、体にぴったり合ったクッションに押しつぶされながら、歯を食いしばって三Gの加速度に耐えた。
いよいよ高く! いよいよ速く! ロケットは音速の壁にぶつかって振動《しんどう》したが、速度をゆるめなかった。
いよいよ高く! いよいよ速く! いよいよ高く! 高度五十マイル。百――五百――千――千五百――二千! シカゴ分遣隊が行動に移るように計画された高度だ。
加速度はゼロに落とされた。技術員たちは、ほっとしたように深い溜息《ためいき》をつきながら、奇妙な保護眼鏡のついたヘルメットをかぶると、自分のパネルを調製した。
キニスンは、視覚をふりしぼって自分の映像盤を見つめた。球の場合は、光点が電子工学的に配置され、自動的に調節されるので、明瞭《めいりょう》で正確で安定しているが、これはそんなものではなく、レーダーだった。もちろん、一九四八年のレーダーとはかなりちがって、大いに進歩していたが、それでも、数千マイル離れて時速数万キロで航行している物体を扱うには、あわれなほど不充分である!
それに、これは演習ではない。演習なら、目標は無害な円筒《えんとう》か、同様に無害な誘導ロケットだが、これは本物だ。きょうの目標は、正真正銘、致命的な物体だろう。射撃演出なら、熟練度リストの順位が問題になるだけだが、それでも結構、刺激的だった。ところが、これは刺激的すぎる――あまりにも刺激的すぎる――脳の鋭敏《えいびん》さ、目や手の迅速《じんそく》さ、確実さが、かくもすみやかに要求されるとは!
目標だって? 見えるのか? 見える――三個または四個。
「第一目標――第十区域」冷静な声がキニスンの耳に呼びかけると、彼の映像盤の上の白い点の一つが、黄緑色に変わった。A戦区に属するほかの十一名の技術員も、それと同じ言葉を聞き、それと同じ光点を見ていた。キニスンは、この戦区の戦闘ロケット熟練度リストのトップにいるおかげで、A戦区主任だった。彼は、いまの声が戦区の射撃指揮官のものであることを知っていた。射撃指揮官の任務は、自分の指揮戦区の目標について、地上および空中の観測員が提供するコース、速度その他のあらゆるデータをもとにして、その目標を撃滅《げきめつ》すべき指令を決定することにある。そして、A戦区は、想定的ではあるが厳密に規定された円錐形《えんすいけい》で、ふだんの演習では、空中のもっとも枢要《すうよう》な部分だった。射撃指揮官の「第十区域」という言葉によれば、目標は限界射程《げんかいしゃてい》にあるということなので、時間は充分あるわけだ。けれども、
「ローレンス、二発! ドイル、一発! ドラモンド、三発で待機!」キニスンは、射撃指揮官のはじめの言葉を聞くなり叫んだ。
各技術員は、自分の名前を聞いた瞬間、一連のボタンを押した。すると、彼らの耳には、数字の流れが急速にそそぎこみはじめた――彼らの目標の動きのあらゆる要素について、あらゆる観測点から送られてくる、その瞬間のデータである。彼らがその数字を自分の計算器に打ちこむと、計算器は彼ら自身のロケットの行動を自動的に修正した――彼らは問題の解答が印刷されて出てくるのに目を走らせた――そして自分が操作《そうさ》するように指示された戦闘ロケットの数に応じて、ペダルを一度、二度または三度踏んだ。
キニスンは、ドイルより射撃の正確なローレンスに、二発の空中魚雷を発射するように命じていた。このように長い射程では、どちらも目標に命中する可能性はない。しかし、二発目は目標に接近するだろう。充分接近するから、空中魚雷自体によって、ふたりのスクリーン――およびキニスンのスクリーン――に瞬間的に送り返されてくるデータのおかげで、ローレンスより追跡技術が未熟なドイルにとっても、目標は容易なものになるだろう。
キニスンの第三射撃員であるドラモンドは、ドイルがミスしなければ、ミサイルを発射しない。また、キニスンの第二射撃員であるハーパーが、ドラモンドと同時に「出撃」するわけにもいかない。ふたりのうちひとりは、つねに「待機」していなければならない。もし戦区主任が出撃するように命令されたら、キニスンに代わって戦区の指揮をとるためだ。なぜなら、キニスンはハーパーへでもドラモンドへでも目標への出撃命令をだすことができるが、自分から出撃することはできない。彼が出撃できるのは、射撃指揮官からそうするように命じられたときだけだ。戦区主任は、非常用に温存されているのである。
「第二目標――第九区域」
「カーネー、二発。フレンチ、一発。デー、三発で待機!」キニスンは命令した。
「ちくしょう――はずれた!」これはドイルからだった。「はじめの獲物だとあがっちまうんです――やたらとね」
「O・K。ドイル――だからこんなにはやく射撃を開始したんだ。ぼくだって、振動器みたいにふるえてる。いまに慣れるさ――」
第一目標を示す光点がちょっとふくれてから消えた。ドラモンドが命中させて、「待機」にもどったのだ。
「第二目標、第八区域。第四、第八」射撃指揮官が指示した。
「第三目標、ヒギンスとグリーン。ハーパーは待機。第四、ケースとサントス、ローレンス」
実戦がはじまって一、二分たつと、A戦区の技術員たちは落ちついてきた。待機員は、もはや必要がなく、指名もされなかった。
「第四十一目標、第六」射撃指揮官がいった。そして、
「ローレンス、二発。ドイル、二発」キニスンが命令した。これはきまりきった手順だったが、たちまち、
「テッド!」ローレンスが叫んだ。「はずれました――大はずれ――二発ともです。第四十一は逃避行動《とうひこうどう》をとっています――有人か誘導です――しゃにむに突進してきます――ドイル、気をつけろ――気をつけろ!」
「キニスン、撃破《げきは》せよ!」射撃指揮官は、ドイルが命中させるかはずすかがわかるまで待たずに、低くもなく冷静でもない声でどなった。「すでに第三区域へ侵入――衝突《しょうとつ》コース!」
「ハーパー! 指揮を引きつげ!」
キニスンはデータをとり方程式を解くと、五発の空中魚雷を五Gの加速度で発射した。一発――二発――三、四、五発。あとの三発は、近接爆発信管が爆発しない限度で、できるだけ接近させて発射した。
通信、数学、計算器の電子頭脳などはすでにできる限りのことをしていたから、あとは人間の技術にかかっていた。人間の心、神経、筋肉の調製の完全さと反応の迅速《じんそく》さとにかかっていた。
キニスンの視線は、映像盤からパネルへ、計算器のテープへ、メーターへ、検流計へとせわしなくとんで、また映像盤にもどった。彼の左手は小さな弧《こ》をえがいてノッブを動かしていた。このノッブの回転によって、彼の魚雷の推進器の相互に垂直な二つの分力の大きさが変化するのだ。彼は三角観測員たちの報告を注意深く聞いていた。彼らはいま、彼のミサイルと目標についてのデータを彼に提供《ていきょう》しているのだ。彼の右手の指は、ほとんどたえまなく計算器のキーをたたいていた。ほとんどたえまなく魚雷のコースを修正しているのだった。
「わずかに上」と彼は決定した。「約一ポイント左」
目標は予想されたコースからそれた。
二ポイント下、三ポイント左、わずかに下、よろしい! 目標は第二区域をほとんど通過して、第一区域に突進しつつあった。
一瞬、キニスンは自分の魚雷が命中するかと思った。いまにも命中しそうになった――だが、目標は最後の瞬間に全力で側進して命中をまぬかれた。二つの数字が映像盤に白くひらめいた。彼の実際の誤差は、距離にして三〇センチ以内、時間にして六分の一秒以内の正確さで、空中魚雷の中の装置によって計測され、彼の計器板に返信されたのだ。
正確な同時的データで計算したためと、敵に行動の時間がごく少ししかなかったためとで、キニスンの二発目の魚雷はきわめてわずかはずれただけだった。三発めはかすめるくらい近かったので、近接爆発信管が作用して、サイクロナイト爆薬をつめた弾頭《だんとう》が爆発した。誤差数字が映像盤にあらわれたとたんに消えたので、キニスンは三発目が爆発したことを知った。探知装置と伝達装置が破壊されたのだ。この爆発だけでも充分だったろうが、キニスンは誤差が映像盤に現われたのをちらと見てとって――なんとわずかな誤差だったことか!――行動する時間がほんの一瞬だけあった。したがって、四発目と五発目は、どまん中に命中した。目標がなんであったにせよ、それはもう脅威《きょうい》ではなかった。
「キニスン待機」彼はみじかく射撃指揮官に報告して、ハーパーからA戦区の指揮権を引きついだ。
戦闘は継続した。キニスンは、ハーパーとドラモンドを交互に出撃させた。彼自身は、さらに三つの目標を与えられた。敵の第一波――その残存部分――は通過した。A戦区は、また射程極限で第二波に対して行動を開始した。第二波の残存部分も、はるか前下方の地上に向かって突進して行った。
第三波は、まことに手ごわかった。それがはじめの二波より実際に強力だったというのではなく、戦闘ロケット一〇六八五号は、その技術員たちが有効な作業を行なうに必要なデータを、もはや受けることができなかったからだ。そして、どの乗員もその理由を知っていた。もちろん、敵のいくらかが防護線を突破して、地上および空中の観測施設――アメリカ防衛の目――が重大な損傷《そんしょう》をこうむったのだ。
しかし、キニスンも彼の部下も狼狽《ろうばい》しなかった。このような情況は、必ずしも予想されないものではなかった。彼らはすでにベテランであり、試練に耐えて、欠陥のないことが判明していた。彼らは世界がそれまでに一度も経験したことがないような猛攻撃の洗礼《せんれい》を、無傷でくぐりぬけてきたのだ。彼らにいくらかでもデータを与えさえすれば――いや、データなどなにもなくても、戦闘ロケット一〇六八五号自体の旧式なレーダーと、まだたっぷり持っている空中魚雷とがありさえすれば――彼らは自分たちに投射《とうしゃ》されるどんなものでも処理できるし、また処理するつもりだった。
第三波が通過した。目標はしだいに減少した。戦闘行動は緩和《かんわ》された――停止した。
技術員たちは、戦区主任でさえ、戦闘全体の進行情況について、まったくなにも知らなかった。自分たちのロケットがどこにいるのか、それが東西南北どの方向へ進んでいるのかも知らなかった。それが上昇しているのかも知らなかった。それが上昇しているのか下降しているのかは、「尻の感覚」でわかるだけだった。自分たちが撃破する目標の種類さえわからなかった。映像盤の上では、どの目標も同じように――あかるい小さな黄緑色の光点に――見えたからだ。
「ピート、一分でもゆとりがあったら、情報を教えてください」キニスンは、射撃指揮官にたのんだ。「われわれよりはやく知っておられるはずです――教えてください!」
「いま情報がはいっているところだ」ただちに返事が返った。「あの曲技的な逃避行動をとって目標のうち六つは、防衛線をねらった原爆ミサイルだった。五つは、わが軍のナンバーをつけた誘導ミサイルだった。きみたちは大仕事をやってのけた。敵ミサイルは、ごくわずかしか突破しなかった――U・S・Aのように巨大な国土に大きな被害を与えるには足りないということだ。いっぽう、敵はわが軍のミサイルをほとんど阻止《そし》できなかった――きみたち技術員に匹敵《ひってき》するような技術員がいなかったのだろう。
だが、世界中が大混乱におちいっているらしい。わが国は東西海岸とも攻撃されているが、持ちこたえているということだ。われわれの作戦と同様に、|ひな菊《デージー》作戦とフェアフィールド作戦が進行している。ヨーロッパは、地獄の様相《ようそう》を呈しつつあるそうだ――みんなが、めくらめっぽう射ちあっている。ある報告によると、南アメリカ諸国は、相互に爆撃しあっているという――アジアもそうだ――はっきりしたことはまるでわからん。確かな情報がはいりしだい伝達する。
攻撃の猛烈さを考えあわせれば、われわれは、あざやかにきり抜けたわけだ――損失は予期されたより少なく、わずか七パーセントだ。第一防衛線は――きみたちもすでに知っているように――大打撃を受け、事実、チャーチル・ベルチャー地区はほとんど一掃《いっそう》された。そのために、味方は大部分の観測点を失ったのだ――われわれはいまハドソン湾南端のほぼ上空にいて、垂直編隊の形成に参加すべく、南下方へ向かっている――もう後続波はないが、低空飛行戦闘ロケットによる攻撃が予想されるということだ――そら、警報が出た! 諸君、注意しろ――だが、A戦区のスクリーン上には、なにも現われていない――」
たしかに、なにも現われていなかった。それに、戦闘ロケット一〇六八五は南下方へ向かっていたから、これからも現われないだろう。しかし、ロケットに乗っているある観測員は、原爆ミサイルが突進してくるのを発見した。ある射撃指揮官は、命令を叫んだ。ある技術員たちは、ベストを尽《つ》くした――だが、失敗した。
そして、核分裂の破壊力はすさまじく、その速度はまったく想像を絶しているので、セオドア・K・キニスンは、自分のロケットや自分自身にどんなことが起っているかをまるで知らずに死んだのだった。
エッドールのガーレーンは、自分の工作で破壊された地球を眺めて満足した。そして、この惑星がふたたびガーレーン自身の注意を必要とするようになるまでには、地球の年で数百年もかかるだろうということがわかっていたので、ほかの場所、リゲル系第四惑星、パレイン系第七惑星およびヴェランシアの太陽系へでかけていった。そのヴェランシアで、彼は自分が育成した生物であるヴェランシア貴族が、計画どおりに進歩していないことを発見した。そこでごくわずかの時間をついやしたあとで、エッドールの側近《そっきん》サークル内で自分に敵対的な活動が行なわれている証拠を精細に捜査したが、収穫はなかった。
いっぽう、はるかに離れたアリシアでは、重大な決定がなされた。これまでなんの妨害も受けなかったエッドール人の行動をきびしく抑制《よくせい》するときが、いよいよ到来したというのである。
「では、彼らに対して公然と挑戦《ちょうせん》する準備がととのったのですか?」ユーコニドールは、いくらか疑わしそうにたずねた。「ふたたび惑星地球を清掃《せいそう》して、危険な放射能やあまりにも有害な生命形態を除去するのは、もちろん容易なことです。北アメリカにおいてわれわれが保護している区域から、強力ではあるが民主的な政府が発生して、地球全体に拡大することはできます。その政府がさらに拡大して、火星と金星を包含することも容易にできます。しかし、やがてロージャーとして工作を開始するガーレーンは、すでに木星北極の錬金術者たちの中に木星戦争の種をまいています――」
「若者よ、おまえの洞察《どうさつ》は正しい。思考をつづけよ」
「この惑星間戦争はもちろん避《さ》けられないもので、内側惑星群の政府を強化し統一するのに役立つでしょう――ただし、ガーレーンが妨害しなかった場合です――おお、わかりました。ガーレーンは、はじめは気がつかないでしょう。彼の周囲には、精神的強制ゾーンがめぐらされるからです。彼またはエッドール人の融合体《ゆうごうたい》がその強制ゾーンを知覚して破壊しても――たとえば、ネヴィア事変のような緊急時にはその可能性がありますが――そのときには、もう手おくれでしょう。われわれの融合体が工作するでしょう。ロージャーは、究極的には、銀河文明のためになるような行動しかすることを許されないでしょう。ネヴィアが主要動因として選ばれたのは、それが銀河系の中でもほとんど固形鉄を含まない小区域に位置しているからであり、またそれが水性だからです。そこに住む水的生命形態は、エッドール人にとって、もっとも関心の薄い生命形態です。この水的生命形態は、完成の部分的中立に成功するでしょう。そして、光速度より二、三倍速い速度を獲得するでしょう。これで情況を包括《ほうかつ》しているでしょうか?」
「大いによろしい、ユーコニドール」長老は認めた。「簡潔《かんけつ》で正確な要約だ」
地球の年にして数百年が過ぎ去った。戦争の余波。再建。進歩。まず一つの世界が――つぎに二つの世界が――そして三つの世界が――統一し、調和し、親和した。木星戦争。強固な、ゆるぎない結合。
そしてエッドール人は、かくも驚くべき急速な進歩が行なわれていることを、だれひとりとして知らなかった。事実、ガーレーンは、その巨大な宇宙船を太陽系めがけて進めながら、未開人同様の人類が居住する地球を見いだすものと思っていた。
ここで、ついでに注意されるべきことだが、キニスンと呼ばれる男性が、赤銅色の髪と金茶色の目とを持つ女性と結婚したことは、こうした数世紀を通じて、ただの一度もなかったのである。
[#改ページ]
第三部 三惑星連合軍
一 宇宙海賊
惑星間定期客船ハイペリオン号は、乗客や乗組員には動いていないように思われるほど静かに、通常加速度で宇宙を突進していた。制御室の一隅《いちぐう》の手すりで囲まれた区画の中で、ベルがチンと鳴って、押しころしたブザーの音が聞こえ、ブラッドレー船長はレコーダーのテープにしるされた短いメッセージ――レコーダー操作員のパネルから彼のデスクへ伝達されたメッセージ――を調べながら、眉《まゆ》をひそめた。彼が手まねきすると、当直《とうちょく》の二等航行士が大声で読みあげた。
「偵察《ていさつ》パトロールの報告によれば、依然として兆候《ちょうこう》なし」
「依然として兆候なし、か」二等航行士は眉をひそめて考えた。「彼らはもう、漂流物が拡散《かくさん》する最大限度外の捜索《そうさく》までやっています。一か月以内に、原因不明の消失が二度――はじめはダイオンで、つぎはレア――しかも、金属板一枚、救命艇一隻回収されていないのです。おもしろくない情況ですな、船長。一度なら事故かもしれないし、二度なら偶然ということもありますが――」彼の声は途中で消えた。
「三度ということになると、くせになりがちなものだ」船長は航行士の言葉を補った。「ところで、なにが起こったにしても、急激に起こったのにちがいない。どっちの船も、一言も伝達する時間がなかった――位置レコーダーがぱったりとだえてしまったのだ。だが、もちろんあの二隻には、われわれの船のような探知スクリーンも武装もなかった。観測所の報告によれば、われわれは障害のないエーテル中にいるというが、わしは観測所なぞまるで信用せんよ。きみはもちろんあの新しい命令を出したね?」
「はい、船長。探知器は全力展開、防御スクリーンは三層とも操作、放射器には要員配置、宇宙服は鉤《かぎ》に懸垂《けんすい》。探知された物体はすべてただちに調査――もし、それが宇宙船であった場合は、射程範囲外にとどまるように警告。第四ゾーンに侵入したものはすべて熱線《ビーム》放射」
「よろしい――」
「ですが、知られているかぎりのどんなタイプの船でも、探知されずにあの二隻を掠奪《りゃくだつ》することはできなかったはずです」二等航行士は主張した。「最近われわれが耳にしているあのとてつもない噂《うわさ》には、いくらか根拠があるのではないでしょうか?」
「ばかな! もちろんありやせんよ」船長は、鼻を鳴らした。「光より速い船に乗った海賊――サブ・エーテル光線――重力の中立化――慣性《かんせい》のない質量――ばかばかしい! そんなものが不可能だということは、再三、証明ずみだ。そうとも、もし海賊が宇宙で仕事をしているとしても――てっきりそうらしく思えるが――三重の厚い防御スクリーンの背後にある充電された強力なバッテリーと、多重式|熱線《ビーム》放射器の背後にひかえた優秀な射撃員に向かっては、手が出せないさ。こいつはどういう相手にも充分有効だからね。海賊だろうが、海王星人だろうが、天使だろうが、悪魔だろうが――船に乗っていようが、ほうきの柄《え》に乗っていようが――ハイペリオンに手をだしたら、エーテルから焼き払ってやるぞ!」
当直航行士は、船長のデスクを離れると、義務的な見回りをつづけた。観測員たちが油断なくのぞきこんでいる六つの大きな監視映像盤は空白で、はるかに展開された超|鋭敏《えいびん》探知スクリーンはなんの障害にもぶつかっていなかった――エーテルは、数百万キロにわたって空虚なのだ。パイロットのパネルの上のシグナル・ランプは消えていて、警報ベルは沈黙していた。ぎっしり目盛りのはいったパイロット用マイクロメーター回析格子《かいせきこうし》の中心に輝いている白い光点は、パイロットの指導子の交差点の真上にあって、この巨大な宇宙船が、自動合成コース決定器によって設定された予定のコースを正確にたどっていることを示していた。万事が平穏《へいおん》で整然としている。
「船長、すべて順調です」航行士はブラッドレー船長に短く報告した――しかし、すべて順調というわけではなかったのだ。
危険が――外部的なものでないだけになおさら重大な危険が――まったく気づかれることなく、すでに巨船の枢要部《すうようぶ》をむしばんでいた。この定期客船の深層部の、閉鎖《へいさ》され遮蔽《しゃへい》された一区画に、巨大な空気浄化器があったが、いまやその本管――全船内に清浄な空気の流れを送る大動脈――にひとりの男がよりかかっていた。この男は、宇宙服を完全に身につけたグロテスクな格好で本管に寄りかかっているのだが、そうしているあいだに、一本のドリルがパイプの鋼鉄の壁にしだいに深くくいこんでいった。まもなく壁に穴があいて、空気がすこし吹きだしたが、穴にぴったりあうゴムのチューブがさしこまれてそれをとめた。チューブの端には、薄いガラスのバルブを包んだ厚いゴムのバルーンがついていた。男は大きなポケット用クロノメーターを持った片手を、珪素《けいそ》鋼鉄製ヘルメットをかぶった顔の前にかざし、もういっぽうの手でバルーンをかるくつかみながら、緊張して立っていた。男は、あざけるような笑いを顔に浮かべながら、行動開始の正確な瞬間を待っているのだった――その慎重に予定された瞬間がくれば、彼の右手は握りしめられ、もろいフラスコを砕《くだ》いてその中味をハイペリオンの送風本管に押しだすのだ!
はるか上方の大広間では、おきまりのイブニング・ダンスがたけなわだった。船付きのオーケストラがぱったりとだえると、拍手が起こった。この航行中第一の美人であるクリオ・マースデンは、パートナーを連れてプロムナードへ出ると、観測映像盤の一つに近寄った。
「あら、もう地球は見えませんのね!」彼女は叫んだ。「これをどちらへ回すんですの、ミスター・コスティガン?」
「こうです」そして、この定期客船の一等航行士である若い大男のコンウェイ・コスティガンはダイアルを回した。「さあ、この映像盤は地球のほうをふりむいています。見おろしているともいえますがね。このもう一つのほうは、前方を見ているんです」
地球は、飛んで行く宇宙船のはるか下方に、三日月形に輝いていた。その上方には、赤味をおびた火星と銀色の木星とが、形容を絶した真の暗黒を背景にして、いうにいわれぬ美しさできらめいている――その背景には、恒星が平面的なまばゆい光点をなして、いちめんにちらばめられているのだ。
「まあ、すてきじゃありませんこと!」娘はうたれたように溜息《ためいき》をついた。「もちろん、あなたには見慣れたものでしょうけれど、ごぞんじのように、わたくしは地上人ですから、いつまでも見あきないような気がしますわ。そういうわけで、ダンスが終わるたびにここへ出てきたいんです。おわかりでしょうけど、わたくし――」
彼女は奇妙なあえぎとともにふいに声をとぎらせると、けいれん的に彼の腕をつかみながら、たちまちぐったりした。彼はするどく彼女を見つめ、彼女の目に書かれたメッセージをただちに理解した――彼女は、彼に支えられているほかはまったく無力にくずおれていたが、その輝かしい目はいまや大きく見開かれてじっと前を見つめ、心を引きさくような恐怖に満ちていた。彼は息を吐く途中だったので、肺はほとんどからっぽだったけれど、息をぐっとつめると、ベルトからマイクをつかみだして、「非常」のレバーを押した。
「制御室!」彼はあえいだ。そして、大宇宙船のすべてのスピーカーがけたたましい警報を発しているあいだに、彼はすでにからになりかけた肺をまったくからっぽになるまでふりしぼって叫んだ。「V2ガス、注意せよ!」
コスティガンは、船内の有毒な空気を一息も肺に吸いこむまいとするすさまじい努力に身もだえしながら、意識を失った娘のぐったりしたからだを左腕にかけたまま、いちばん近い救命艇の出入口めがけて突進した。オーケストラの楽器がガチャンと床に落ち、おどっていたカップルたちが倒れてぐったり床にのびているあいだに、一等航行士は苦痛をこらえながら救命艇のドアをさっと開くと、小部屋を横切ってエア・バルブに駆け寄った。バルブを全開すると、噴出口に口をあてがって、エア・タンクから吹き出すつめたい空気を、酷使《こくし》された肺にむさぼるように満たした。そして、空気に対する飢えがいくらかいやされると、また息をつめて、非常ロッカーをぶち破り、常時おさめてある宇宙服の一着を身につけた。つづいて、宇宙服のバルブを全開した。自分の制服にしみこんだ有毒ガスを、痕跡《こんせき》も残さず洗い流すためだ。
それから、連れのところへ駆けもどった。空気を切ると、純粋酸素を流出させ、彼女の顔をその流れの中に保った。そして、彼女の胸を自分のからだに押しつけたり離したりすることによって、彼女の肺に酸素を押しこむように努めた。やがて彼女はけいれんするように息を吸いこみながら、むせたり咳きこんだりしはじめた。彼は気流をまた純粋空気に変え、彼女が意識回復の兆候を示しかけると、はげますように話しかけた。
「立つんです!」彼は叫んだ。「この支柱《しちゅう》にしがみついて、この気流に顔をさらしていなさい。そのあいだに、宇宙服を着せてあげます! わかりましたか」
彼女はよわよわしくうなずいて、自分でバルブのところにからだを支えていられることを告げた。彼女を防護服の中に包みこんでしまうのは、ほんの一分間の仕事だった。それから、彼女がベンチに腰かけて元気を回復しているうちに、彼は救命艇の透視《とうし》ビーム放射器のスイッチをいれて、目に見えない透視ビームを制御室に放射した。そこには、宇宙服を着た姿が、パネルのそばでせわしく働いているのが見えた。
「卑怯きわまる計画です!」彼は船長個人にあてて叫んだ――敬語は無視されていたが、これは三惑星連合軍ではよくあることだった。
「本船の送風本管のどこかで、たちのわるい細工《さいく》が行なわれている! たぶん、ほかの二隻もこの手でやったのだろう――海賊だ! 時限爆弾だったかもしれん――どうして検査をくぐりぬけてあんな奥にもぐりこめたのか、わけがわからん。それに、空気室の遮蔽力場《しゃへいりきば》を中立化できるのは、フランクリン以外にひとりもいないはずです――だが、ぼくはとにかく調査に行くつもりだ。そのあとで、きみたちに合流する」
「あれはどういうことでしたの?」おびえあがった娘はたずねた。「あなたは『V2ガス』っておっしゃったようですけど、あれは使用を禁止されてますわ! どっちにしても、あなたにおかげで命拾いしましたわ、コンウェイ。ご恩は忘れません――いつまでも。ありがとう――でも、ほかの人たちは――ほかの人たちは、みんなどうなるんです?」
「あれはV2でした。そして使用を禁止されています」コスティガンは透視盤に目をすえながら、むっつり答えた。透視光線は、いまや船腹深く放射されていた。「あれの使用または保有に対する刑罰は、即時死刑です。しかし、ギャングや海賊は使用します。すでに死刑リストに載っているので、なにも失うものがないからです。あなたの命のことですが、ぼくはまだ助けてはいませんよ――われわれが料理されることになったら、あなたは、ぼくにほうっておいてもらったほうがよかったと思うかもしれません。ほかの人たちは、酸素で生き返らせるには手遅れでした――もう二、三秒もおそければ、あなたでさえ生き返らせられなかったでしょう。すぐに手当したんですがね。しかし、確実な解毒剤《げどくざい》があります――われわれはみんな、そいつを宇宙服のロック・ボックスにいれているんです――そして、その使用法を知っています。悪漢どもはみんなV2を使うので、われわれはいつもそのことを予期しているわけです。空気は三十分で、またきれいになりますから、ほかの人たちも簡単に生き返らせることができますよ。もしこれから起こることをうまく切り抜けられればね。
ところで、いまの仕事をやってのけたやつが、空気室にいます。着ているのは主任機関士の宇宙服ですが、中にいるのはフランクリンじゃない。乗客のだれかだ――変装したんだ――主任をやっつけ――宇宙服と放射器をとりあげ――送風管に穴をあけた――プスッ! そして、毒ガスをすっかりぶちまけた! たぶん、やつがこのお芝居ですることになっていた役割はそれだけでしょう。だが、やつはこの世ではもうなにもできんぞ!」
「あそこへおりて行かないで!」娘は訴えた。「あの男の宇宙服は、あなたが着ているその非常用宇宙服よりずっといいわ。それに、あの男はミスター・フランクリンのルーイストン銃を持っているんですもの!」
「ばかをいっちゃいけない!」彼は叫んだ。「船に海賊がいるのを生かしとくわけにはいきません――もうすぐ、船外のやつらとやりあうので手いっぱいになってしまうんだ。心配はいりませんよ、やつに連続得点をさせたりしないから。ぼくはスタンディッシュ銃を持って行きます――しみをふき取れるように、きれいに片付けてやる。ぼくがあなたを連れにもどるまで、ここで待っているんですよ」彼は命令するように、そういうと、救命艇の重いドアをバタンとしめてプロムナードに飛びだして行った。
彼はそこここにちらばっているぐったりした姿には目もくれずに、大広間をまっすぐに横切って行った。のっぺりした壁に近寄ると、壁面とたいらにとりつけられたほとんど目だたないダイアルをまわして、重いドアを横に開き、スタンディッシュ銃を取りあげた――恐るべき兵器だ。ずんぐりして巨大で重く、太った機関銃に似ているが、数個の不伝導性の集光レンズとパラボラ反射鏡のついた、太くて短いテレスコープをそなえている。彼はそのしろものの重量にあえぎながら、廊下をたどり、短い階段をおもおもしくはいおりて行った。ついに空気浄化室に着くと、そのドアが壁や緑色をおびた光のもやでおおわれているのを見て、にやりと不敵に笑った――遮蔽《しゃへい》力場はまだ展開されている。つまり、海賊はまだ室内にいて、恐るべきV2ガスをハイペリオンの送風本管に送りこんでいるのだ。
コスティガンは奇妙な形の武器をおろし、がっしりした三本の支脚《しきゃく》をひろげると、その背後にうずくまってスイッチをいれた。すさまじい密度を持ったにぶい赤色のビームが反射鏡からほとばしり、その衝撃《しょうげき》によって、ほとんど電光に匹敵《ひってき》するようなスパークが、遮蔽スクリーンからとび散った。パチパチとすごいひびきをたてながら、闘争は数秒間つづいていたが、やがて緑色をおびた光輝はスタンディッシュ銃の優越した力に負けた。その奥の金属のドアは、スペクトルの全色域に沿って急速に色を変えた――赤、黄、目もくらむような白色――そして文字通り爆発した。溶解《ようかい》し、気化して、焼失した。こうしてできた穴を通して、コスティガンは主任機関士の宇宙服を着た海賊を、はっきり見ることができた――その宇宙服は、ライフル射撃に耐えるばかりか、コスティガンが使用しているすさまじいビームをさえ短時間にはね返し、中立化することができるのだ。
また、海賊は非武装でもなかった――海賊のルーイストン銃からは、猛烈な白熱光がほとばしり、そのエネルギーは、ずんぐりしたぶきみなスタンディッシュ銃のエーテル壁に衝突して、パチパチと花火のような火花を散らしながら消耗した。しかし、コスティガンの悪魔的な武器は、振動性破壊力だけに依存しているのではなかった。海賊の武器がひらめいたと思うまもなく、航行士が一つの引きがねに触れると、せまい空間に耳をろうするような二重の爆音がとどろき、海賊のからだは文字通り雲散霧消《うんさんむしょう》した。半キログラムの弾丸が、宇宙服を貫通《かんつう》して爆発したのだ。コスティガンはビームを消し、きびしい表情をいささかもやわらげずに空気室を見まわした。空気浄化器――この巨大な宇宙船の肺そのもの――の枢要部に重大な損傷が与えられていないことを確認したのだ。
彼はスタンディッシュ銃を支脚からはずし、それを大広間へかついで行って倉庫にもどすと、また組合わせ銃をかけた。それから救命艇へもどったが、クリオは彼が無傷なのを見るなり、喜びの声をたてた。
「まあ、コンウェイ、あなたに、もしものことがあったらと、とても心配しましたわ」彼女は彼に連れられて制御室のほうへ急ぎながら叫んだ。「あなたはもちろん――」彼女は言葉をとぎらせた。
「そう」彼は短く答えた。「簡単でした。気分はどうです――どうにかもとにもどりましたか?」
「大丈夫だと思いますわ。死ぬほどこわくて、いまにもおかしくなりそうですけど。なにか役にたつとは思えないけど、わたくしにできることがあったら、お仲間にいれてください」
「よろしい――あなただって役にたちますよ。みんなやられてしまったらしいからね。ぼくみたいに、警告を受けて、宇宙服を着るまで息をつめていることができたものだけは別ですがね」
「でも、なにが起こったかどうしてわかりましたの? 目にも見えないし、匂《にお》いもしないし、なにも感じられないのに」
「あなたがぼくより一秒前に息をすいこんだとき、ぼくがあなたの目に気がついたからです。ぼくは前にあれにぶつかったことがあります――あの代物《しろもの》を一息吸いこんだ人間を一度でも見たら、二度と忘れられません。もちろん、下の機関士たちがはじめに吸ったのです――みんなやられてしまったにちがいない。それから、大広間のわれわれが吸った。ぼくはあなたの気絶《きぜつ》で警告を受けたのですが、さいわい警報を発する程度には息が残っていました。上のほうでは、かなりの乗組員がまぬがれる時間があったはずです――制御室に集まっているその連中に会えるでしょう」
「そういうわけでわたくしを生き返らせてくださったのね――わたくしが親切にガス攻撃の警告をしてあげたお返しに」娘は身ぶるいしながらも元気に笑った。
「まあそんなところですな」彼は気軽にこたえた。「さあ着いた――これからどんなことが起こるか、もうすぐわかりますよ」
制御室には、宇宙服姿のものが少なくとも一ダースくらいいた。いまはもういそがしく働いてはいず、それぞれの部署に緊張して待機していた。コスティガンが下の大広間にいたのは、さいわいなことだった――彼は年こそ若かったが、宇宙のベテランだったからだ。彼があの恐るべき禁制ガスの経験者だったこともさいわいだった。彼が麻痺性《まひせい》のガスをいささかも肺にいれずに警報を発するだけの冷静さと肉体的スタミナとを持っていたこともさいわいだった。ブラッドレー船長、当直員をはじめ、それぞれの部署や高級船員室にいた数人の高級船員――いずれも宇宙ずれのしたベテランたち――は、マイクから発せられた「注意せよ!」というあえぐような命令に、ただちにためらいなくしたがっていた。「V2」という恐るべき言葉が聞こえたとたん、彼らは吐きかけた息も吸いかけた息もぱったりとめて、それぞれの宇宙服に文字どおり飛びついた――危険のない空気をどしどし送って宇宙服の内側を洗い、酷使《こくし》された肺が耐えられなくなる最後の瞬間まで、息をつめていた。
コスティガンは、手ぶりで娘をあいたベンチに坐らせて、彼がそれまで着ていた非常用宇宙服から自分の宇宙服に慎重に着かえたのち、船長に近寄った。
「なにか見えましたか、船長?」彼は敬礼《けいれい》しながらたずねた。「やつらは、いままでに、なにか始めていそうなものですが」
「はじめている。だが、やつらの位置をつきとめられんのだ。総戦区警報を送ろうとしたが、送信をはじめたと思うまもなく、やつらに電波を妨害されてしまった。あれを見ろ!」
コスティガンは、船長の目を追って、技師が操作する強力セットを見つめた。映像盤には、いきいきと動く三次元的映像の代わりに、目もくらむような白熱光が輝き、スピーカーからは、意味のわかる言葉の代わりに、バリバリというすさまじい雑音が発していた。
「こんなことはありえない!」ブラッドレーははげしく叫んだ。「第四区域の内側――十万キロ以内――には、一グラムの金属もないのに、こんな電波を送れるところを見ると、やつらはすぐ近くにいるにちがいない。だが、二等航行士はそう考えておらぬ――きみはどう思うかね、コスティガン?」保守的で旧弊《きゅうへい》な教育を受けた単純な船長は、憤然《ふんぜん》としていた――姿も見えず、探知もできない敵ととっ組みあいをしたいほど当惑《とうわく》し激怒していた。しかし、こうして不可解な現象にぶつかったので、彼はいつにない我慢強さで年下の男の言葉に耳を傾けた。
「こういうことは、ありえるばかりではありません。われわれが持っていないような何かを、やつらが持っていることは明白です」コスティガンの声は痛烈だった。「しかし、やつらがそういうものを持っているのもふしぎはありません。公共船というものは、どんな新装置でも長年にわたって実験されたあとでなければ採用しませんが、海賊のたぐいは、新装置が発明されたとたんに採用するのがつねです。一つだけ都合がいいと思うのは、われわれがメッセージを一部だけでも発信したので、偵察隊《ていさつたい》が、やつらのあの妨害波を追跡できるという点です。しかし、海賊どもも、そのことは知っています――もうまもなくはじまるでしょう」彼はむずかしい顔で言葉を結んだ。彼のいったとおりだった。つぎの言葉が発せられるまえに、外層の防御スクリーンが、すさまじい強力なビームをあびて白熱し、同時に、監視映像盤の一つに海賊船の鮮明な映像があらわれた――鋼鉄製の巨大な黒い魚雷型で、いまや目もくらむような攻撃用エネルギー・ビームを吐き出している。
たちまち、ハイペリオン号の強力な兵器は敵に集中され、そのビームの全力放射のもとに、正体不明の宇宙船のスクリーンは白熱的に輝いた。重砲は、その痛烈な一斉射撃《いっせいしゃげき》の反動によって巨大な球体の戦隊を振動させながら、高性能爆薬をこめた巨弾を発射した。しかし、海賊の司令官は、定期客船の力をあらかじめ熟知し、その武装が、自分の船の威力に対して無効なことを知っていた。海賊船のスクリーンは貫通《かんつう》されず、巨弾は目標から何マイルも手前の宇宙空間で無益に爆発した。そして突然、敵の黒い船体から、恐るべき炎の矢がまばゆくほとばしった。それは空虚なエーテルを貫き、強力な防御スクリーンを貫き、船体の外壁および内壁の堅牢《けんろう》な金属板を貫いた。ハイペリオン号のエーテル防御はすべて消滅し、加速度は通常値の四分の一にまで減少した。
「バッテリー室をまともにやられた!」ブラッドレー船長はうめいた。「本船はいま非常推進に切り代え中だ。ビームはだめになったし、砲弾を敵の船体の近くに到達させられそうもないのだ!」
しかし、その無力な砲も永久に沈黙した。恐るべき破壊ビームが容赦《ようしゃ》なく制御室を貫き、パイロットも、砲も監視パネルも、それらの前にいる要員も一挙に抹殺《まっさつ》してしまったのだ。空気は宇宙空間に噴出し、室内の気圧が減少するにつれて、三人の生存者の宇宙服は太鼓《たいこ》の皮のようにぴんとふくれあがった。
コスティガンは船長を壁のほうへ軽く押しやってから、娘をつかんで同じ方向へ身をおどらした。
「ここから出ましょう、はやく!」彼は叫んだ。音響盤が機能を停止すると同時に、ヘルメット内の超小型無線装置が会話を伝達する仕事を自動的に引きついだ。「やつらは、われわれを見ることができません――本船のエーテル壁はまだ展開しているから、やつらのスパイ光線も外側から貫通できんのです。やつらは本船の設計図にしたがって攻撃を加えている。だから、たぶん、つぎはあなたのデスクをねらうでしょう」
そして、いまや気密境界《エア・ロック》の外縁となったドアのほうへ彼らが身をおどらして行くうちにも、海賊船のビームは、彼らがたったいま捨てた空間を引きさいていた。
彼らは気密境界《エア・ロック》を抜け、旅客区画を数層駆けくだって、救命艇に飛びこんだ。この艇の唯一の出入口からは、第三ラウンジ全体を見渡すことができた――防御するためにも、小型宇宙船によって船外へ脱出するためにも、理想的な場所だ。彼らは避難所へはいって行くうちに、体重が減少するのを感じた。無力な客船がしだいに外力を加えられて、ついに通常の加速度で航行しはじめたのだ。
「それでなにをするのだ、コスティガン?」船長がたずねた。「牽引《けんいん》ビームじゃないか」
「わかりきったことです。やつらが、なにか新装置を持っていることはまちがいありません。本船をどこかへ急いで運んでいるのです。わたしはスタンディッシュ銃を二挺と宇宙服をもう一着持ってきます――防御体制をととのえておいたほうがいいですからな」
まもなく、小さな部屋には例の強力な破壊兵器がそなえられて、真の要塞《ようさい》と化した。それから、第一航行士はもう一度もっと長いこと出かけて行って、三惑星連合軍の宇宙服を一揃い持ち返った。ふたりの男が着用しているのとまったく同じ種類のものだが、かなり小型だった。
「クリオ、万全を期するため、これを着ていたほうがいい――その非常用宇宙服は、戦闘にはあまりむかない。きみはスタンディッシュ銃で射撃したことはないでしょうね?」
「ないわ。でも、すぐおぼえられます」彼女は勇ましく答えた。
「ここはふたりが同時に活動する余地しかないが、きみは、船長かぼくがやられた場合に、その部署を引き受ける方法を知っておくべきです。それから、宇宙服を着替えるついでに、ぼくが持ってきたこの装置をつけたほうがいい――特殊任務用の通話器と探知器です。この小さい円盤をこのテープといっしょに胸につけたまえ。見えないように、下のほうへね。鎖骨《さこつ》のすぐ下がいちばんいい場所だ。腕時計をはずして、こいつを〈いつも〉着用しているんだ――一秒もはずしていてはいけない。この真珠の飾りを、やはりしょっちゅうかけていたまえ。このカプセルは、肌に触れるようにしてかくしておく。この上もなく厳密な検査を受けなければ発見されないような部分にね。非常の場合には、のみこむんだ――らくにのみくだせるし、体内にあっても体外にあるときと同じように作用する。これはなによりも大事なことだよ――それさえあれば、ほかのものはみんな失ってしまっても、ひとりでうまくやっていけるが、そのカプセルがなくなると、なにもかもおじゃんだ。その装置があれば、もしぼくらから引き離されても、きみはぼくらに話しかけることができる――ぼくらはどっちも同じものをつけている。きみのとはちょっとちがう方式ですがね。大声で話しかける必要はない――ほんのささやく程度で充分なんだ。便利な小型装置さ――ほとんど発見されることがないうえに、いろいろなことができるんだから」
「ありがとう、コンウェイ――そのこともおぼえておくわ」クリオは彼の指示にしたがって小さいロッカーのほうへむきなおりながら答えた。「でも、偵察隊やパトロール隊は、もうすぐわたくしたちを発見するのじゃないかしら? 通信員が警報を送ったのですもの」
「本船に関するかぎり、エーテルは空虚だと思いますね」
こうした会話が行なわれているあいだ、ブラッドレー船長は驚きに目を見張りながら黙ってつっ立っていた。コスティガンが、「ぼくらはどっちも同じものをつけている」といったとき、船長は目をむいたが、沈黙を守っていた。そして、娘が姿を消すと、彼の顔には、合点《がてん》がいったような表情が現われた。
「なるほど、わかりましたよ、きみ」彼は丁寧《ていねい》にいった――これまで単なる一等航行士にむかって話しかけてきたよりもはるかに丁寧な口調だった。「つまり、われわれはどっちもやがて同じのをつけることになるというんでしょう。きみは『特別任務用』といったが――しかし、どんな任務か、はっきりいわなかったね?」
「あなたがそういうからには、ぼくは言わなかったはずですね」コスティガンはにっこりした。
「それできみについていくらかわかる――とくに、きみがV2ガスを察知したこととか、あの人並みはずれた自制力や反応の速さからしてね。しかし、きみはまさか――」
「そんなことはないさ」コスティガンはさえぎった。「現在の情況は、どんな軽はずみも許せないほど重大なものに発展しそうだ。もしわれわれが脱出したら、あの装置を彼女からはずしてしまう。そうすれば、彼女はあれがありきたりの道具ではないということに気づかないだろう。あなたが秘密をまもることができて、またそうするはずだということは、ぼくにはちゃんとわかっている。だから、この装置をあなたに体につるすんだ――ぼくは装具袋の中にいろんな装置をしまっておいたが、われわれ三人のためにここへ持ってきたもののほかは、スタンディッシュ銃ですっかり消してしまった。きみがどう考えているにしても、われわれは真の危機におちいっているのだ――われわれが脱出できる可能性は、ゼロに近い――」
娘がもどってくると、彼は口をつぐんだ。いまやどこから見ても三惑星連合軍の将校である。そして三人は腰をおろすと、長時間の無為な待機にはいった。一時間また一時間とエーテル中を航行して行ったが、ついに船体がぐらっとかたむくと、ふいに加速度が増加した。短い相談ののち、ブラッドレー船長は透視光線放射器のスイッチをいれ、ビームの力を最小限にしぼって、慎重に下方をのぞいた。つまり、海賊船があるにちがいないとわかっている方向と逆の方向だ。三人はそろって映像盤を見つめたが、無限の虚空《こくう》に無限に遠い恒星がひややかに輝いているのが見えるばかりだった。しかし、なおも宇宙空間を見つめているうちに、天空の広大な部分がおおいかくされて、奇妙な青い冷光にぼんやり照らされた巨大な球体が見えてきた――球体は非常に大きく、またかなり接近しているので、船は一個の天体へ向かって落下して行くみたいだった! 船は停止した――無重力状態で停止した――巨大なドアがするすると横にすべった――船は上方に引きあげられ、気密境界を抜けると、小さいながらも、あかるく照明された整然たる金属ビル都市の上空に静かに漂っていた! ハイペリオン号はやんわりおろされて、標準型の着陸台の抱きとめるような腕の中におさまった。
「よし、どこか知らんが、やっとついたぞ」ブラッドレー船長はむずかしい顔でいった。
「さあ、花火がはじまるぞ」コスティガンは、娘に質問するような視線を投げながらうなずいた。
「わたくしなら、心配しないでちょうだい」彼女は彼の無言の質問に答えた。「わたくしだって、降服《こうふく》しようなんて考えていません」
「よろしい」そして、ふたりの男は恐るべき兵器のエーテル障壁《しょうへき》のうしろにうずくまり、娘はそのうしろに身を伏せた。
長いこと待つ必要はなかった。一団の人間が――男で、どこから見てもアメリカ人らしい――武装もせずに小さいラウンジにあらわれた。彼らが部屋にはいったとたん、ブラッドレーとコスティガンは、なんのためらいもなく、そのおそるべき放射器の全エネルギーを解放した。反射鏡からは、純破壊性の集中ダブル・ビームが、戸口を通してほとばしった――しかし、そのビームは目標に到達しなかった。男たちから何メートルも手前で、ビームは貫通不能な密度のスクリーンにぶつかったのだ。ただちに射手たちが発射装置を押すと、高性能爆薬弾の流れが、うなりを生じて火器からほとばしった。しかし、弾丸もまた無益だった。それらは障壁《シールド》にぶつかって消滅した――爆発もせず、それらが実在したことを示す痕跡《こんせき》さえとどめずに消滅した。
コスティガンは、ぱっと立ちあがったが、彼が攻撃を開始するまもなく、彼のかたわらに巨大なトンネルがあらわれた――なにものかが客船の胴体を舷側から舷側まで通過して、なめらかなシリンダーの空洞《くうどう》をやすやすとくり抜いていたのだった。その真空をみたすために空気がどっとそそぎこみ、三人は目に見えない力に捕えられてトンネルに引きこまれるのを感じた。彼らはただよいながらトンネルを通過し、建物の上空に出たのち、巨大な塔状《とうじょう》の建築物についたドアのほうへななめに降下していった。いくつかのドアが彼らの前で開き、うしろで閉じて、最後にあきらかに多忙な経営者のオフィスと思われる部屋の中で直立した。彼らが直面したデスクには、実業家が通常用いる器具のほかに、驚くほど完備した配電盤と計器板がついていた。
デスクには、ひとりの灰色の男が冷然と席を占めていた。男はなにからなにまで灰色の服装をしていたばかりでなく、濃い髪も灰色、目も灰色で、日焼けした皮膚さえ、灰色の皮膚を染めているような印象を与えた。男の圧倒的な個性は、灰色の霊気《れいき》を放射していた――ハトのように柔和な灰色ではなく、超大型戦艦のような不可抗的、圧力的な灰色、高炭素鋼の断面のような、固くてたわみのない乾いた灰色だった。
「ブラッドレー船長、コスティガン一等航行士、ミス・マースデン」男は静かに、しかし、てきぱきといった。「わしはきみたちふたりの男を、これほどながく生かしておくつもりはなかった。しかし、そんな小さな問題はさしあたり無視しよう。宇宙服をぬいでもよろしい」
ふたりの高級船員はともに身動きもせず、敢然として話し手をにらみ返した。
「わしは、指示をくり返すのに慣れていない」デスクについた男は続けた。声はやはり低くて平静だが、死のような脅威《きょうい》がみなぎっていた。「宇宙服をぬぐか、着たままか、いまここで死ぬか、どちらかを選ぶがいい」
コスティガンはクリオのそばへ行って、彼女の宇宙服をゆっくりぬがせた。それから、ふたりの高級船員は電光のように視線をかわし短い言葉をささやいたのち、同時に宇宙服をぬぎ捨てるなり射撃した。ブラッドレーはルーイストン式熱線銃で、コスティガンは、すさまじい破壊力を持つ弾丸を発射する重い自動ピストルで。
しかし、灰色の服を着た男は、貫通《かんつう》不可能なエネルギーの障壁《しょうへき》に囲まれていて、この猛射に対して平然と無気味に微笑しただけだった。コスティガンは猛然とおどりかかったが、その堅固な目に見えない壁にぶつかってはね返されたに過ぎなかった。強烈なビームが彼をぐっとひきもどし、武器をひったくった。そして、三人の捕虜はみんなもとの位置にひきすえられた。
「わしがいまの抵抗を許したのは、そんなことをしても無駄だということを示すためだ」灰色の男は、冷酷《れいこく》な声をいっそう冷酷にしていった。「だが、これ以上はもう、ばかげたまねを許さん。ところで、自己紹介をしておこう。わしはロージャーという名で知られている。おそらく、おまえたちは、わしについて聞いたことはなにもあるまい。地球人でわしについてなにか聞いたことがあるものはごく少数だし、これからもそうだろう。おまえたちふたりが生きるかどうかは、まったくおまえたちしだいだ。わしは人間についていささか研究しているから、おまえたちがふたりとも、まもなく死ぬのではないかと思う。おまえたちは、たった今みずから示したように、有能で機略に富んでいるから、わしの役にたつこともできようが、おそらくおまえたちはそれを望むまい――その場合にはもちろん、おまえたちの生存を停止させる。しかし、それにも適当な時期がある――おまえたちを抹殺《まっさつ》する過程で、わずかながらわしの役にたててやる。ミス・マースデン、おまえについては、二種類の処置のうち、どちらを選んだものか迷っている。どちらも大いに望ましいものだが、不幸にしておたがいにあい容《い》れないのだ。おまえの父親は、おまえのためとあれば、法外に巨額の身代金を喜んで払うだろう。しかし、それにもかかわらず、わしはおまえをセックスに関するある種の研究に用いることにしたい」
「そうなの?」クリオは、この情況にみごとに対応した。彼女は恐怖を忘れていた。彼女のけなげな精神は、澄みきったわかわかしい目からひらめき、反抗的にきっと起こしたわかわかしい体から放射していた。「あなたはわたくしに、どんなことでも勝手にできると思っているかもしれないけれど、できやしないわ」
「不思議だ――まったくわけがわからん――若い女性の場合には、なぜこの刺激がこんなに不相応な反応をひき起こすのか?」ロージャーの目は、クリオの目を刺すようにのぞきこんだ。娘は身ぶるいして顔をそむけた。
「だが、セックスそのものは、この時空体系内の生命にとって、原初的、基本的で、もっとも不変的な付随要素だが、まったく不合理で逆説的だ。はなはだ不可解だ――たしかに、セックスに関するこの研究は、推進させねばならん」
ロージャーが一つのボタンを押すと、背の高いきれいな女――年もわからず、国籍もはっきりしない女――があらわれた。
「ミス・マースデンを部屋に案内しろ」彼は命令した。そしてふたりの女が出て行くと、ひとりの男がはいってきた。
「貨物はおろしました」新来者は報告した。「ご指示のあった男二名と女五名は、病院へ運びました」
「よろしい、ほかのものは、いつもの方式で処理しろ」部下が出て行くと、ロージャーは無慈悲な口調でつづけた。
「ほかの旅客は、みんなあわせれば百万かそこらの価値はあるだろうが、彼らにかまけて時間をむだにするまでもあるまい」
「いずれにしても、あんたは何者だ?」コスティガンは、無力ながらわれを忘れるほど憤然として叫んだ。「地球を破壊しようとした気ちがい科学者のことや、自分が太陽系さえ征服できるナポレオン的英雄だと思いこんだ気ちがい天才のことは聞いたことがある。おまえがそのどっちだとしても、そんなことがうまくやってのけられないくらいは、わかりそうなものだな」
「わしはそのどっちでもない。だが、わしは科学者で、ほかの多くの科学者を使っている。わしは気ちがいではない。おまえはきっと、この場所のいくつかの特徴に気づいているだろうな?」
「気づいている。とくに人工重力とそのスクリーンだ。普通のエーテル壁なら、片側が不透明だし、物質を防止しない――あんたのエーテル壁は、両側とも透明で、物質が貫通不能という以上のなにかがある。どういう方法でやっているのだ?」
「説明してやったとしても、おまえには理解できまい。それに、その二つは、われわれの発明としては比較的小さなものだ。わしはおまえたちの惑星地球を破壊するつもりはないし、無益で無知な人間の集団を支配したいとも思わない。しかし、わしはある目的をいだいている。わしの計画を遂行するには、数億のウラニウム、トリウム、ラジウムが必要だが、それらはすべて、わしがこの太陽系を去るまでに、その諸惑星から獲得する。おまえたち三惑星連合の宇宙艦隊が幼稚な努力をどれほどしようと獲得するのだ。
「この建造物は、わしが設計して、わしの指示のもとに建造した。これは、わしが工夫したスクリーンによって隕石《いんせき》から守られている。これは、探知されることもなく、眼にも見えない――エーテル波は、ロスやゆがみなしにこのまわりで屈曲《くっきょく》するのだ。わしがこれらの問題を説明しているのは、おまえたちに自分の立場を正確に理解させるためだ。さっきもいったように、おまえたちはその気になればわしの役にたつことができるのだ」
「ところで、あんたの一味に加わった〈男〉には、いったいどんなものを提供するというのだ?」コスティガンは、さげすむようにきいた。
「いろいろなものがある」ロージャーのひややかな口調にはなんの怒りもあらわれず、コスティガンの露骨《ろこつ》で痛烈な軽蔑《けいべつ》に気づいた様子もなかった。「わしの下には、いろいろな男がいろいろなきずなでわしにつながれている。必要、要求、願望、欲情は人によってさまざまだが、わしはほとんどどんなものでも満足させることができる。多くの男は、若くてきれいな女との交歓を喜ぶが、わしはそのほかにも、はなはだ効果的な刺激があることを発見した。金銭欲、名誉欲、権力欲などから、普通は『上品』と見なされているさまざまの性質のものまで含んでいる。そして、わしは約束したものは提供する。わしが要求するのは、わしに対する忠誠だけで、それも特定の問題について比較的短時間、要求するにすぎない。そのほかの点ではすべて、わしの部下は各人の望むようにふるまっている。そういうわけだから、おまえたちはここで、二つに一つを選ぶがいい。わしに奉仕するか、さもなければ――それにかわるものだ」
「それにかわるものというのは、正確にいえばどんなことだ?」
「その問題には立ちいらないことにしよう。それがある小研究に関係があるというだけで充分だ。その研究が満足に進行していないのでな。その研究の結果、おまえたちは死ぬのだ。そして、その死にかたがあまり快適なものでないということも断っておいたほうがよかろう」
「おれは〈ノー〉だぞ。きさまというやつは――」ブラッドレーは叫んだ。彼は発禁的な悪罵《あくば》を口にするつもりだったのだが、はげしくさえぎられた。
「ちょっと待て!」コスティガンはするどくいった。「ミス・マースデンは、どうするのだ?」
「あのおんなは、この会談とはなんの関係もない」ロージャーはひややかに答えた。「わしは取り引きには応じない――事実、わしはしばらくひきとめておくつもりだ。あの女は、わしが身代金をとってあの女を釈放しなければ、自殺する決心でいるが、死にいたるドアも、わしが開くことを許さなければとざされているということがわかるだろう」
「そういうことなら、ぼくは船長に同調するぞ――船長がきさまについていいかけた言葉を最後まで、はっきり聞かしてもらおう!」コスティガンはどなった。
「よかろう。おまえたちのようなタイプの男がその結論に達することは予想していた」灰色の男が二つのボタンに触れると、ふたりの部下がはいってきた。「この男たちを第二層の二つの独房にいれろ」彼は命令した。「身体検査をするのだ。武器をまだ隠しているかもしれん。ドアを密閉して特別看守を置き、ここのわしと同調させるのだ」
ふたりは監禁されて慎重に身体検査されたが、なんの武器も身に付けていなかった。それに、ロージャーは通信器についてはなんの指示も与えなかった。そのような装置をかくし持つことができたとしても、それを使用すれば、ロージャーがただちに察知するだろう。少なくとも、彼はそう考えていた。しかし、ロージャーの部下は、コスティガンの「特殊任務用」通信器、探知器、スパイ光線のようなものが存在する可能性にまったく気づかなかった――それらの装置は超小型で超微力だが、エーテル段階以下で作用するので、遠距離でも有効だし、エーテル振動をまったく起こさないために使用を探知されることもないのだ。そして、宇宙船の高級船員がだれでも身につけている標準装置ほど無害なものがあるだろうか? 重い保護眼鏡、腕時計とその補助装置のポケット・クロノメーター、フラッシュ・ランプ、自動ライター、送信器、マネー・ベルト。
これらの装備品はすべて、相応な慎重さで検査された。しかし、例の通信器は、三惑星連合軍最高の知能が、通常の検査ならどんなに慎重な検査でもパスするように設計したものだった。そこで、コスティガンとブラッドレーは、指示された独房に最終的にとじこめられたときにも、依然として超小型装置を身につけていた。
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二 ロージャーの小惑星の中で
クリオはホールに出ると、どんなにせまい逃げ道でもないものかと必死になってあたりを見まわした。しかし、彼女が行動に出るまえに、体が万力《まんりき》にかけられたようにしめつけられ、彼女はその場で身もだえした。
「逃げようとしたり、ロージャーが望むこと以外のなにかをしようとしたりしてもむだよ」案内の女は陰気にそういうと、手にした装置のスイッチを切って、すっかりおびえた娘の行動の自由を回復させた。
「彼の意志は、どんなに小さいものでも法律なのよ」ふたりが長い廊下を歩いて行くあいだに、案内の女は続けていった。「すべての事柄について彼が望むとおりにしなければならないということをはやく理解すれば、それだけあなたは生きるのがらくになるわ」
「でも、わたくしは生き続けたいなんて思わないわ!」クリオは、憤然として叫んだ。「それに、わたくしは〈いつだって〉死ねるのよ」
「いまに、そんなことはできないということがわかるわ」感情を失った生物は、単調に答えた。「服従しなければ、死ぬことを切望するようになるのよ。でも、ロージャーが望まなければ、あなたは死ぬこともできないわ。わたしを見なさい。死ぬことができないのよ。ここがあなたの部屋よ。ロージャーがあなたについてつぎの命令を出すまでは、ここにいるんです」
生きた自動機械はドアを開くと、だまって無表情に立ちどまった。クリオは、恐怖に駆《か》られて女を見つめながら、すごすごとその前を通り過ぎて、豪華に飾られた続き間にはいった。ドアが音もなくとじ、完全な沈黙が墓布《ボール》のように垂れかかった。ありふれた沈黙ではなく、名状しがたい完全絶対な沈黙、あらゆる音響の完全な欠如《けつじょ》だ。その沈黙の中でクリオは身動きもせずに立っていた。その豪華な部屋の中に、体をこわばらせ、なすすべもなく、絶望して立ちすくみながら、悲鳴をあげたいという圧倒的な衝動と闘っていた。ふいに、ロージャーのひややかな声が虚空《こくう》から聞こえてきた。
「ミス・マースデン、おまえは疲れすぎている。その状態では、おまえ自身にとっても、わしにとっても、役に立たない。わしはおまえに、休息するように命令する。その休息を保障するために、そこにあるコードを引くがいい。そうすれば、その部屋のまわりにエーテル壁ができる。このわしの声さえ遮断《しゃだん》するような壁だ――」
彼女がコードをはげしく引っぱると、声はとだえた。彼女は長椅子に身を投げて、あえぐような、息づまるような、しかし反抗的なすすり泣きを爆発させた。そのとき、また一つの声が届いてきたが、それは耳からではなかった。体内深く、すべての骨や筋肉に滲透《しんとう》しながら、聞こえる、というよりは感じられたのだ。
「クリオかい?」声はたずねた。「まだ口をきいちゃいけない――」
「コンウェイ!」彼女は、ほっとしてあえいだ。コンウェイ・コスティガンの、底力のある聞き慣れた声とともに彼女の全組織が躍動《やくどう》した。
「しずかにしていたまえ!」彼はたしなめた。「そんなにうれしそうにしてはいけない! やつは、きみにスパイ光線をあてているかもしれん。やつは、ぼくの声を聞くことはできないが、きみの声は聞けるかもしれん。やつがきみに話しているあいだ、きみはぼくがやったあのネックレスの下にサンドペーパーみたいなざらざらした感触を感じたにちがいない。やつはきみのまわりにエーテル壁をめぐらしたので、ネックレスはいま作用していないのだ。もし腕時計の下側にあのような肌ざわりを感じたら、二度呼吸したまえ。なにも感じなかったら、好きなだけ大声で話しても安全だ」
「なにも感じないわ、コンウェイ!」彼女はうれしそうにいった。彼女は涙も忘れて、いつものように陽気な自分にもどった。「それじゃ、あいつがいったエーテル壁は、とにかく本物なのね。わたし、半分しか信用しなかったわ」
「だが、信用しすぎちゃいけない。やつは、いつでも望みのときに、エーテル壁を外側から除去できるんだからね。ぼくがいったことをおぼえておきたまえ。そのネックレスは、エーテル中のどんなスパイ光線でも警告するし、腕時計はエーテル波以下のどんな波動でも探知する。いまは、もちろん作用していない。われわれ三人の通信器が直結《ちょくけつ》されているからだ。ぼくはブラッドレーとも同調している。あまり心配することはない。われわれには、ぼくがはじめに考えたよりずっといいチャンスがあるんだ」
「なんですって? まさか本気でいうんじゃないでしょう!」
「本気だとも。ぼくは、われわれが持っているもののなかで、やつがその存在を知らないものがあるらしいと思いはじめた――それは、われわれのウルトラ・ウェーブ装置だ。やつの手下は、われわれの身体検査をしても装置を発見できなかったが、もちろん、ぼくはそれをふしぎとは思わなかった。しかし、障害なしに装置を使用できるとは思いもよらなかったな! ぼくはまだ完全には安心していないが、これまでのところでは、やつがわれわれの使用している周波数帯を探知することすら可能だという兆候《ちょうこう》を発見していない。ぼくは自分のスパイ光線でむこうを見まわしてみる――こんどは、きみを見る――感じるかい?」
「ええ、いまは時計がそういうふうに感じるわ」
「すてきだ! むこうにも、障害の兆候はまったくない。ウルトラ・ウェーブ――つまりエーテル波以下の波動――は、どこにもすこしも発見できない。やつはわれわれが聞いたこともないような装置をわんさと持っているものだから、てっきりウルトラ・ウェーブ装置も持っているものと思っていた。だが、持ってないとすれば、こっちが有利になる。よし、ブラッドレーとぼくは、たくさんすることがあるぞ――ちょっと待ちたまえ。思いついたことがあるんだ。一秒くらいでもどってくる」
短い中断があってから、無音の明晰《めいせき》な声がつづいた。
「いいことがわかった! きみをぞっとさせたあの女は、生きものじゃない――からだの中は、これまで見たこともないほどすばらしい機械や回路でいっぱいだよ!」
「まあ、コンウェイ!」娘は感謝と安心にあふれた声を爆発させた。「あの女やほかの女たちがどんなめにあったのかと思うと、こわくてたまらなかったわ!」
「やつは、とほうもない〈はったり〉を使ってるんだと思う。もちろん、やつは有能だが、万能には遠くおよばない。しかし、どっちにしても、うぬぼれすぎるのは禁物だ。ここにいる女たちも男たちも、たいへんな目にあったことはたしかだ――われわれも、がんばらないとたいへんな目にあうだろう。頑張るんだ。それから、もし用があったら、叫びたまえ。じゃ、また!」
沈黙の声はやみ、クリオの手首の時計は、またおとなしいただの時計になった。コスティガンは、塔上の彼女の部屋よりずっと下方の独房で、奇妙な保護眼鏡の目をほかの光景にむけた。彼の両手は、一見のんびりとポケットに突っこまれていたが、微細な制御装置を操作していた。高度に訓練されたするどい目は、巨大な球体の中にかくされている機構のあらゆる細部を観察していた。やがて彼は保護眼鏡をはずすと、ホールの向かい側のもう一つの窓なし部屋に監禁されているブラッドレーに、低い声で話しかけた。
「船長、充分に情報を手にいれたと思います。われわれの宇宙服や銃がしまってある場所を見つけ、おもな導線、制御装置、発電機などの位置をのこらず突きとめました。われわれのまわりには、エーテル壁はありませんが、どっちのドアも遮蔽《しゃへい》されていて、ドアの外には看守がついています――ひとりずつです。やつらはロボットで、人間じゃありません。しかし、そのおかげで、事態はなおさら困難です。ロボットたちは、ロージャーのデスクに直結されているにちがいありませんから、われわれが異常な行動をとったとたんに、警報を発するでしょう。やつがデスクを離れるまでは、なにもできません。あなたの部屋のドアの右側の、コード・スイッチのちょっと下にある、黒いパネルが見えますか? それが導線カバーです。わたしが合図したら、それをひっぱがしてください。そうすると、ケーブルの中に赤いワイヤがあります。それが、あなたの部屋のドアの障壁《シールド》発生装置の導線です。そのワイヤを切って、ホールでわたしと合流してください。このウルトラ・ウェーブ・スパイ光線が一つしかないのは残念ですが、合流しちまえば、そう不都合はないでしょう。われわれは、こんなぐあいに行動したらいいと思います」そして彼は、自分の観察によって可能だとわかった唯一の行動方針をくわしく述べた。
「そら、やつがデスクを離れた!」会話が一時間ばかりつづいたのち、コスティガンが叫んだ。「やつがどこへ行くかを見とどけたら、さっそくはじめましょう――ちくしょう、やつはクリオに会いに行くんだ! こうなると、事情が変わりましたぞ、ブラッドレー!」彼はきびしい声でどなった。
「そうとも!」船長も叫んだ。「航行中ずっと、きみたちふたりがどんなぐあいにやっていたか、わしにはわかっている。わしもきみに賛成だが、どうしたらいいのかね?」
「なんとかしましょう」コスティガンは、ぶっきらぼうにいった。「もしやつがクリオに色目を使ったら、この球体全部をわれわれもろとも宇宙から消滅させなければならないとしても、断じてやつをやっつけてやる!」
「そんなことはしないでちょうだい、コスティガン」クリオの低い声が、ふるえてはいるが断固とした調子で、ふたりの男に伝わった。「もしあなたがたが脱出してあいつと戦うチャンスが一つでもあったら、わたくしのことにはかまわないで。それに、あいつは身代金のことを話そうとしているだけなのかもしれないわ」
「やつは、きみに身代金の話をしやしない――まるでほかのことを話そうとしてるんだ」コスティガンは歯ぎしりしたが、ふいに口調を変えた。「だが待てよ、いっそこうなったほうがいいのかもしれん。やつらは、われわれの身体検査をしたとき、特殊装置を発見しなかった。そしてわれわれは、もうすぐ痛烈な打撃を与えようとしている。ロージャーは、たぶんものごとを手っとりばやく片付ける男じゃないだろう――むしろ、ネコがネズミをもてあそぶようなタイプだと思う――だから、われわれが仕事にかかれば、やつはきみのほかにも気をくばらなければならなくなる。きみは、十五分くらいのあいだ、やつをごまかして注意をひきつけておけると思うかい?」
「きっとできるわ――わたくし、どんなことでもするわ。あなたがただけでも、このおそろしいところから脱出するのに役立つなら――」彼女の声はとだえた。ロージャーが彼女の部屋のエーテル壁を除去して、長椅子のほうへ歩いてきたのだ。彼女は、目を見張り、たよりなげに恐怖の身ぶるいをしながら、うずくまった。
「ブラッドレー、用意してください!」コスティガンは、簡潔に指示した。「やつは、異常な兆候が、ひとつのこらず自分のデスクから中継されるように、クリオの部屋のエーテル壁を除去しました――だれかがあの部屋でやつのじゃまをするチャンスはまったくないと思いこんでいるのです。だが、わたしは、エーテル壁が全力で展開するように、そのスイッチにビームを固定しています。いまなら、われわれがなにをしても、やつは警報を受けられません。しかし、わたしはビームをその位置に固定していなければなりませんから、よごれ仕事はあなたがしなければなりません。その赤いワイヤを引きちぎって、ふたりの看守を殺してください。ロボットの殺しかたは知っていますね?」
「知ってる――目のレンズと鼓膜《こまく》をこわせば、やりかけていることを中止して、遭難信号を送るんだ――さあ、ふたりともやっつけたよ。こんどはなにをするのだ?」
「わたしの部屋のドアをあけてください――障壁《シールド》スイッチは右手です」
コスティガンの部屋のドアがさっと開き、三惑星連合軍の船長は部屋に飛びこんできた。「さあ、われわれの宇宙服をとりもどそう!」船長は叫んだ。
「まだです!」コスティガンは、きっぱり答えた。彼は石のように立ったまま、保護眼鏡の目で天井の一点をじっと見つめていた。「あなたがクリオの部屋のエーテル壁のスイッチをいれるまでは、一ミリも動けません。わたしがこの光線を一秒でも切れば、われわれは滅亡です。五階上の廊下を直進――右側の四番目のドアです。あなたがスイッチにふれれば、腕時計にわたしの光線を感じます。急いでください!」
「よろしい」そして船長は、彼の半分の年齢の男でもめったにかなわないようなペースで飛びだして行った。
まもなく、彼はもどってきた。そして、コスティガンが「新婚ルーム」のエーテル壁をテストして、その中にいるロージャーに、デスクや部下からの警報が到達しえないことをたしかめたのち、ふたりの高級船員は自分たちの宇宙服のある部屋に突進した。
「やつらが制服を着ていないのはまずかったな」ブラッドレーは、たくさんの階段に息をきらしてあえぎながらいった。「変装《へんそう》に役立っただろうに」
「それはあやしいものです――こんなにたくさんロボットがいる以上、やつらは、われわれにわからない信号を持っているでしょう。だから、だれかに出会ったら、戦うしかありません。停止!」コスティガンは、スパイ光線で壁を通して見ていたので、自分たちがまがらなければならない側廊からふたりの男が近づいてくるのに気がついていた。「ふたりいて、ひとりは人間、ひとりはロボットです――ロボットはあなたの側にいます。この曲《ま》がり角で待ちましょう――やつらが曲がったら、やっつけるのです!」そして、コスティガンは保護眼鏡をはずして格闘にそなえた。
ふたりの海賊は、すこしも気づかずに姿をあらわした。そのとたん、ふたりの高級船員は襲いかかった。内側にいたコスティガンは、人間の海賊の腹部に短い痛烈な一撃を低くうちこんだ。こぶしはやわらかい組織に手首まで沈み、うたれた男はくずおれた。しかし、その打撃が敵に届くあいだに、コスティガンは三番目の敵に気づいていた。それは、彼が注視していたふたりのすぐあとからきた海賊で、はやくも彼に熱線放射器をむけていた。コスティガンは自動的に反応し、意識を失った敵を自分の前にふりまわして、強烈な光線が自分の体ではなくその敵の体にあたるようにした。そして、できるかぎり小さく身をかがめると、強力な鋼鉄のスプリングがはね返るような力でとび起きながら、放射器の火を吐く口めがけて死体を投げつけた。武器は床にたたきつけられ、死んだ海賊と生きている海賊は〈かさねもち〉にぶったおれた。コスティガンは、そのかさねもちにとびかかるなり、海賊ののどをつかもうとした。しかし、それよりはやく、相手は身をもがいて抜けだし、動作のにぶいものなら目をえぐりだされてしまうような突きで反撃するなり、つづいて足のつけ根をねらってはげしく蹴あげてきた。これは、一定の義務を機械的な正確さで遂行するように装置された自動機械ではない。きびしいトレーニングをへた強靭《きょうじん》な人間が、この凶悪な一味に知られている狡猾《こうかつ》なトリックのかぎりを尽くして戦っているのだ。
しかし、コスティガンは、泥試合にかけては新米ではなかった。事実、三惑星連合軍の高度に有能な秘密部隊では、下士官や兵士でさえも、泥試合の危険なトリックのほとんどを知っていた。そして戦区指揮官のコスティガンは、すべてを知っていた。これらの秘密要員が〈天与の〉武器を用いるのは、娯楽やスポーツや百万ドルの財布のためではなかった。彼らは、避けられない場合にのみ格闘するのだが、そのように格闘をしいられた場合には、唯一のきびしい目的――殺すこと、それもできるかぎり短時間に殺すこと――を旨《むね》としてそれに従事した。そういうわけで、まもなくコスティガンのチャンスが到来した。海賊は、痛烈な|足蹴り《ターン・ド・サポ》をくれたが、コスティガンは電光石火のように移動して避けた。その移動は、攻撃をすれすれに避けるだけのわずかなものだった。そして、クマ罠《わな》の両あごのような力づよい両手が、その流れた足を空中でしめつけた。しめつけると同時に、はげしくねじりあげた。重い深靴が、ねらいさだめた目標にぶつかると、押し殺した悲鳴があがった――海賊は、決定的に、永久に一巻の終わりとなった。
格闘は十秒たらずつづいただけで終わった。ちょうどそのとき、ブラッドレーもロボットの視覚と聴覚を奪ってしまった。コスティガンは放射器を拾い、またスパイ光線眼鏡をかけた。そしてふたりは急行した。
「大出来だ、戦区指揮官――きみみたいに格闘できるのは、天賦《てんぷ》の才能にちがいないな」ブラッドレーは叫んだ。「だからきみは生きたやつを選んだのだな?」
「実習のせいもいくらかあります――まえにも格闘したことがあるんです。それに、わたしはあなたよりずっと若いし、少々すばやいと思いますよ」コスティガンは簡単に説明し、透視力のある視線で前方を注目しながら、ブラッドレーといっしょに廊下をつぎつぎに駆けぬけて行った。
人間とロボットをまじえた数人の監視員が途中で立ちむかったが、なんの抵抗もできなかった。コスティガンのほうが先に彼らを見つけたからだ。死んだ海賊からとりあげた放射器の激烈なビームをあびると、彼らは寸断されて消滅した。そしてふたりの高級船員は、コスティガンが遠くからつきとめておいた室へむかって駆けつづけた。三着の三惑星連合軍用宇宙服は、一つの小部屋に密閉されていた。コスティガンは、導線をたどる時間をはぶいて、エネルギーの放射でそのドアを文字通り吹きとばした。
「これでいくらかましになったような気がするぞ!」コスティガンは、また宇宙服に身を包むと、深い安堵《あんど》のため息をついた。「格闘もひとりやふたりの相手ならいいが、あの動力室には敵がうようよしているし、この調子じゃたいした武器は手にはいらないでしょう。クリオの宇宙服は、持っていかなきゃなりません――動力室の戸口まで運んで、そこに置いておいて、帰りに拾っていくんです」
宇宙服をつけたふたりは、いまや監視員に出会うことをものともせず、動力室――巨大な宇宙要塞の心臓――めがけて大またに進んで行った。監視員が抵抗し、隊長たち――この士官たちは、首領だけが強力な兵器の使用を指令できるので、首領にむかって狂気のように信号を送りながら、彼がいつになく沈黙していることをいまいましげにいぶかっていた――しかし、海賊のビームは、ふたりの宇宙服のエーテル壁に対しては無力だった。そして、海賊たちは、安全な小惑星の中で宇宙服を着ていなかったから、二挺のルーイストンの強烈なビームをあびて完全に消滅した。ふたりが動力室のドアの前に立ちどまったとき、クリオの声が最初で最後の訴えを叫ぶのを感じた。その訴えは、ぎりぎりの情況に追いつめられたために、彼女の意志に反してしぼりだされたものだった。
「コンウェイ! 急いでちょうだい! この男の目が――わたしを引き裂きそうだわ! 急いで、あなた!」その恐怖にみちた口調から、ふたりの男は娘がまったくぎりぎりのところに追いつめられているのを、明白に――しかし、不正確に――察した。幸福で気楽な若い地球娘が、はじめての宇宙旅行で、過度に頭脳がすぐれ、過度に良心の欠如した人間機械――超人的な知能を持っているが、好色で超道徳的で、なんの権威も認めず、自己の科学的探求心とそれに匹敵《ひってき》するほどつよい情欲以外のなにものにも支配されない血肉組織――といっしょに、エーテル壁の内部にとじこめられているのだ! 彼女は、あらゆる能力をふりしぼって戦ったにちがいない。泣いたり、訴えたり、わめいたり、怒ったり、屈服《くっぷく》をよそおったりして時間をかせいだにちがいない――しかも、彼女の苦悩は、ロージャーと自称する人物の無慈悲な冷笑的頭脳をいささかも感動させなかったのだ。ネコがネズミをもてあそぶような彼の残忍な遊びはもうすぐ終わって、恐ろしい灰褐色の顔が彼女の顔に接近するだろう――彼女は、最後の絶望的通信をコスティガンに送って、そのおぞましい顔を雌トラのような憤怒《ふんぬ》をこめて攻撃したのだ。
コスティガンは、はげしい呪いの言葉を吐いた。「やつをあと一秒だけひきとめてくれ!」彼が叫ぶと同時に、動力室のドアは消滅した。
二挺のルーイストン銃は、全開全力で広い部屋をなぎ払った。瞬時に展開した死と破壊をもたらす二つの扇《おうぎ》だ。そこここで、仲間より敏捷な監視員が、無益な放射器をふたりに向けた――しかし、その放射器も、ルーイストンのおそるべき力場が接触すると、弾倉《だんそう》が爆発して、そこに蓄積された数百万キロワットのエネルギーを一瞬に放出した。破壊的なビームは、精密に調整された複雑な機構を寸断した。ビームが接触すると、ケーブルの外装が焼失し、高圧導線がパチパチと高圧アークをえがいて発散し、いまやもっとも中和しやすい通路を求める莫大なエネルギーの通路では、金属塊が煙をあげて燃え、精密な装置が吹っとび、銅が溶けて流れた。最後の機械がなかば溶けた金属塊になってつぶれると、それぞれ支柱を握っていたふたりの破壊者は、体重がなくなったことを感じ、計画の第一部が達成されたことを知った。
コスティガンは、外側のドアへむかって跳躍した。彼の仕事は、クリオを助けに行くことだ――ブラッドレーは、娘の宇宙服を持って、予想される追跡にそなえながら、もっとゆっくりついてくるだろう。コスティガンは、空中を泳ぎながらいった。
「行くぞ、クリオ! だいじょうぶかい?」なかばあやふやな質問だった。
「だいじょうぶよ、コンウェイ」彼女の声は、吐き気をもよおすような苦痛に乱れて、ほとんど聞きとれなかった。「なにもかも調子が狂ってしまったら、この男は――エーテル壁が展開されているのを知ったら――わたくしのことをすっかり忘れてしまったわ。エーテル壁のスイッチを切って――自分も狂ったようになってしまって――いまは、野蛮人みたいにもがいているわ――わたくし、がんばってるの――この男を――下へ行かせないように」
「いい子だ――もう一分だけ、やつをひきとめてくれ――やつは、同時にありとあらゆる警報を受けて、自分のデスクへもどりたがっているんだ。しかし、きみはどうした。やつは――きみを傷つけたかい?」
「いいえ、そんなことはないわ――わたくしを見る以外はなにもしなかったわ――でも、それだけでもかなりひどかったの――わたくし、気持がわるくて――とても気持がわるいわ。倒れそう――目まいがして見えないくらいだわ――頭がこなごなに砕《くだ》けそう――死にかけてることだけはわかるわ、コンウェイ! ああ――ああ!」
「そうか、それだけか!」コスティガンは、まにあってよかったという深い安堵感のために、クリオがいま心身ともに苦しんでいることに同情しなかった。「きみが地上人だということを忘れていたよ――ほんのちょっとした宇宙酔いにかかっただけさ。すぐなおるよ――よし、行くぞ! やつからできるだけ遠ざかるんだ」
彼はいまや道路にいた。クリオとロージャーのいる塔上の部屋は、たぶん七〇メートルばかり向こうの三〇メートルばかり上にある。彼は、その大きな窓めがけて、直接とびあがった。そして「上方へ」ただよいながら、重い軍用ピストルをさまざまの角度で後方に発射して、コースを修正したりスピードを増したりした。それらの弾丸が命中した場所で、小規模な破壊的爆発が起こったが、気にもかけなかった。彼は窓からちょっとはずれたが、そんなことは問題ではなかった――火を吐くルーイストン銃が、一部は窓に、一部は壁に、通路を貫通した。彼は、その通路をただよい抜けると、もう戸口近くまで行っているロージャーに、放射器とピストルをむけた。そうしながらも、クリオが壁の照明の支柱に必死でしがみついているのに気づいた。ドアも壁もルーイストンの強烈なビームで消滅したが、海賊は無傷で立っていた。たけり狂うビームも、爆発する弾丸も、海賊を傷つけることはできなかった――ロージャーは、つねに身につけている障壁シールド発生器のスイッチをいれていたのだ。
クリオはロージャーが気が狂ったようになって野蛮人みたいにもがいていると報告したとき、自分が実際の情況を正しく理解しているとは夢にも気づかなかった。なぜなら、そのときロージャーという肉体を操作しているエッドールのガーレーンは、そのとほうもなく長い生涯を通じてはじめて、圧倒的に優越した力と直接に闘争していたからだ。
ロージャーは、自分の小惑星の内部または周囲のどこだろうと、ウルトラ・ウェーブの使用を探知できると絶対に信じていた。また、これらの半知性的「人類」の何人の肉体的行動でも、直接かつ完全に支配できると確信していた。
しかし、四人のアリシア人――ドラウンリ、ブロレンティーン、ネダニロールおよびクリーディガン――の融合体が、何週間もまえから監視にあたっていた。そして、いよいよそのときがくるや、行動を開始したのだ。
ロージャーが莫大で不可解な損害がすでにもたらされていることを発見したとき、まず考えたのは、それをもたらしたふたりの男をただちに撃滅することだった。しかし、彼はふたりに接触することができなかった。第二に考えたのは、この人間の女性らしい存在を抹殺《まっさつ》することだったが、彼女にもやはり接触できなかった。彼のもっとも強烈な精神衝撃も、彼女の皮膚から三ミリ離れたところで、むなしく消費された。彼女は、彼の目から滝のようにそそがれるエネルギーには、まったく気づかずに、彼の目を見つめていた。彼は武器で彼女をねらうことさえできなかった! 彼が第三に考えたのは、エッドールに救助を求めることだった。しかし、それもできなかった。サブ・エーテルが閉鎖されていたのだ。しかも、それが閉鎖された方法を発見することもできず、それを閉鎖している力を探知することもできなかったのだ!
彼のエッドール人としての肉体は、それをここで再生することができたとしても、ここの環境に耐えられない――このロージャーという存在が、ガーレーンの心力の助けを借りずに、できるかぎりのことをしなければならないのだ。しかし、これはじつに有能な肉体だ。それに、ガーレーン自身が考案した機械によって武装され防御されている。そして、このエッドールの副首領は、けっして臆病者ではなかった。
しかし、ロージャーはかならずしも地上人ではなかったが、無重力状態で自己の体を扱う方法を知らなかった。いっぽうコスティガンは、推力を与える上下四方、六つの壁さえあれば、重力のハンディキャップがある場合よりも、無重力状態での格闘のほうがいっそう有能だった。彼は放射器を海賊にすえながら、手近な棍棒《こんぼう》――細長い金属製の柱脚――をつかむと、身をおどらして海賊の首領のわきをかすめた。そして、自分の質量と速度で精いっぱいはずみをつけ、たくましい右腕の力をふりしぼって、海賊の頭に棍棒をふりおろした。はげしくうちおろされたこの金属塊は、海賊の頭を胴から切断するはずだったが、そうはならなかった。ロージャーのエネルギー障壁は、まったく堅固で貫通不能だったのだ。おそろしい打撃の唯一の効果は、海賊を、曲芸的な鼓手長《こしゅちょう》がほうり投げるバトンのように頭と足を両脇にしてくるくる回転させただけだった。回転する体が反対側の壁にぶつかったとき、ブラッドレーがクリオの宇宙服を持って泳ぎこんできた。船長は一言もいわずに、無力な娘が照明の支柱にしがみついている手をゆるめて、彼女を宇宙服に包みこんだ。それから、彼女を窓ぎわでささえながら、コスティガンが突破口のほうへ押していく捕虜の頭にルーイストンをむけた。ふたりとも、ロージャーのエネルギー障壁をたえず危険にさらしておかなければならないことを知っていた――もしロージャーにそれを除去することを許せば、ロージャーは彼ら自身の携帯用兵器よりさらに強力なものを彼らにむけるだろう。
コスティガンは壁で体を支え、ロージャーの体を横に構えると、人工惑星の巨大なドームのいちばん遠くの点にねらいをさだめて、かるく押しやった。それから、ふたりの高級船員は、それぞれクリオの腕をつかむと、足でつよく壁を蹴った。そして、三つの宇宙服姿は、脱出のただ一つの希望――巨大な球体の外殻を突破できる救命艇――めざして突進して行った。ハイペリオン号に到達してその救命艇の一隻で脱出しようとしてもむだだろう。それらの救命艇では、主要気密出入口の大ドアを突破できないだろうし、それ以外の脱出路はないのだ。空中を飛行して行くあいだ、コスティガンはロージャーのゆっくりただよって行く姿をビームで包みつづけていたが、そうしているうちに、クリオは元気を回復しはじめた。
「海賊たちが人工重力装置を修理したらどうなるかしら?」彼女は心配そうにたずねた。「そして、わたくしたちを強力なビームや砲で攻撃したとしたら!」
「やつらはもう修理してしまったかもしれん。補充部品や補助発生器を持っていることはまちがいないが、人工重力を発生させれば、ロージャーも落下して死んでしまうだろうから、それはやつもごめんだろう。やつらはロージャーをヘリコプターかなにかで下へおろさなければなるまいが、のぼってくれば、たちまちわれわれにやられてしまうことを知っている。やつらは、われわれを携帯用兵器では傷つけられないし、強力な兵器を持ちだすことができるとしても、それを使用するのをためらうだろう。そのころには、われわれが外殻に接近しすぎているだろうからね」
「ロージャーをいっしょに連れてこられればよかったと思うが」彼はブラッドレーに向かってはげしく言葉をつづけた。「しかし、もちろん、あなたの判断が正しかった――ウサギがヤマネコをつかまえるようなものですからね。わたしのルーイストンは、もうほとんどエネルギーが尽きているし、あなたのも、あまり残っていないはずです――やつはわれわれをひどい目にあわすでしょう」
巨大な人工惑星の殻壁に着くと、ふたりの男は一つのレバーをぐっと持ちあげた。非常口のゲートがゆっくり開き、彼らは小型宇宙船の中にはいった。コスティガンは、独房《どくぼう》からの念入りな調査でこの船の機構に通じていたので、制御装置を操作した。彼らは厚いゲートをつぎつぎに通過し、ついに宇宙空間に出て、小型宇宙船に可能なかぎりの加速度で、はるかかなたの地球めざして突進して行った。
コスティガンは、ほかの二つの通話器の回路を切って、あるきわめて遠くの点に注意を集中しながら話しはじめた。
「サムス!」彼はするどく叫んだ。「コスティガンです。われわれは脱出しました――ぶじです――ええ――そうです――まさに――サミー、みんなに話してください。わたしは仲間を連れています」
娘と船長は、ヘルメットの音響板を通じて、この会話のうちコスティガンがしゃべる部分を聞いていた。ブラッドレーは、自分の船の一等航行士だった男を、驚きの目で見つめた。クリオでさえ、あのなかば神話的な偉大な名をしばしば聞いたことがあった。この正体不明の青年は、きっと高い地位にあるにちがいない。宇宙をおおう三惑星連合軍の全能の長官バージル・サムスとこれほどうちとけて話すとは!
「きみは、総出動を要請したんだね」ブラッドレーは、質問するというより、断定するようにいった。
「とうの昔にね――ぼくはずっと連絡をとっていたんだ」コスティガンは答えた。「彼らは、なにをさがしたらいいかわかっているし、エーテル波探知器が無効なことも知っているから、あれを発見できる。七つの戦区内の艦艇は、偵察艦にいたるまで、のこらずこの点に集中しつつあり、航行可能なすべての戦艦および巡洋艦に出動命令がでている。むこうには、ウルトラ・ウェーブであの球体の位置をつきとめるに充分なだけの偵察艦があって、つきとめたら、すぐほかのすべての艦艇に指摘するはずだ」
「でも、ほかの捕虜になった人たちはどうするの?」娘はたずねた。「殺されてしまうんじゃない?」
「どうともいえない」コスティガンは肩をすくめた。「事態がどう発展するかにかかっている。われわれ自身、まだ安全からはほど遠いんだ」
「わしがいちばん心配しているのは、われわれ自身のチャンスだ」ブラッドレーが賛成した。「もちろん、やつらはわれわれを追跡するだろう」
「それはたしかだ。しかも、やつらのほうがわわれよりスピードがある。いちばん近い三惑星連合軍の船がどのくらい離れているかできまることだ。しかし、われわれはさしあたりできるかぎりのことはした」
沈黙がおとずれたが、やがてコスティガンはクリオの通話器につないで、彼女が身をもたせている座席に近寄った。彼女は、青ざめておどおどしていた――この二、三時間のおそろしい試練で弱りはてていたのだ。彼がわきに腰をおろすと、彼女はういういしく顔を赤らめたが、深い青色の目は、彼の灰色の目をじっと見つめていた。
「クリオ、ぼくは――ぼくらは――きみは――つまり」彼はまっかになって口をつぐんだ。この秘密諜報員は、どんな肉体的危険にであっても明晰《めいせき》鋭敏な頭脳をくもらされることなく、どれほど絶望的な非常事態にもけっしてうろたえないことをくり返し証明してきた――ところが、この機略に富んだ男が、ありふれた小学生みたいにへどもどしているのだ。しかし、彼は思いきって言葉を続けた。「さっき、ぼくは自制心を失っていた。だが――」
「わたくしたちは自制を失っていた、っていうんでしょう」彼女は言葉のとぎれに口をはさんだ。「わたくしも同じことだったけれど、あなたが望まなければ、ひきとめないわ――でも、あなたがわたくしを愛してることを知ってるのよ、コンウェイ!」
「〈愛してる〉だって!」男はうめくようにいった。彼の顔はきびしくひきしまり、全身がこわばっていた。「その言葉は、事情を半分しかいいあらわしていないんだよ、クリオ。きみはぼくをひきとめるまでもない――ぼくは一生きみにひきつけられている。これまでちょっとでも心をひかれた女はいなかったし、これからもいないだろう。ぼくにとって、きみはこれまでに存在したただひとりの女性なんだ。問題はそのことではない。ふたりの愛をみのらせることは不可能なんだ。きみにはそれがわからないかい?」
「もちろんわからないわ――ちっとも不可能じゃなくてよ」彼女は、自分の障壁を除去した。四つの手がむすびついて、かたく握りしめられた。彼女は、低い声を激情にふるわしながら続けた。
「あなたはわたくしを愛しているし、わたくしはあなたを愛しているわ。問題なのは、そのことだけよ」
「そうあってほしいものだ」コスティガンは、にがにがしく答えた。「だが、きみは自分がどんな問題にかかわりを持とうとしているのかを知らない。ぼくが悩んでいるのは、きみがだれで、どんな人間かということと、自分がだれで、どんな人間かということなんだ。きみは、カーティス・マースデンの娘のクリオ・マースデンだ。十九歳。いろいろなところへ行って、いろいろな経験をしてきたと思っている。しかし、そうじゃないんだ。きみはどこへも行っていないし、なんの経験もしていない――なにも知らないんだ。ところで、きみのような娘を愛そうとしているぼくは何者だ? 宿なしの宇宙犬で、三年のあいだにどの惑星にも三週間といたためしはない。武骨者だ。生まれつきからいっても、訓練からいっても、紛争解決者でけんか師だ。宇宙の――」彼は言葉をとぎらせると、急いで続けた。「とにかく、きみはぼくをまるで知らないし、〈いつになっても〉わからないことがうんとあるだろう――ぼくは、それをきみに知らせることができないのだ! まだまにあううちに、ぼくを見かぎったほうがいいよ。じつのところ、それがきみにとっていちばんためになるんだ」
「でも、わたくしはもうまにあわないわ、コンウェイ。あなただってそうよ」娘は、目を輝かしながら、やさしく答えた。「もうおそすぎるわ。客船では、わたくしたちはありきたりのおつきあいしかしなかったけれど、それからあと、おたがいにほんとうに知りあうようになって、恋に落ちてしまったのよ。もうどうすることもできないし、わたくしたちはどっちも、そのことを知っているのよ――どうにかできるとしても、そうする気はないんだわ。それはあなたも、ご承知のはずよ。わたくしにはよくわからないけれど、あなたがどんなことをわたくしに知らしてはならないと考えていたかは、ちゃんと知っているわ。そして、そのためになおさらあなたをえらいと思うの。わたくしたちはみんな、三惑星連合軍を尊敬しているわ、コンウェイ――あなたたちがあればこそ、三惑星は安心して人が住める場所になっているのよ――そしてわたくしは、バージル・サムスの助手たちこそ、男の中の男でなければならないということを知っているわ――」
「きみはなぜそう思うんだ?」彼はするどくたずねた。
「あなたが間接にそういったのよ。サムスの助手をのぞけば、この三つの惑星上のだれが彼のことを『サミー』と呼べるの。もちろん、あなたは武骨だけれど、そうならないわけにいかないんだわ――それに、どのみちわたくしは、ものやわらかな男が好きになったことはないの。それに、あなたはけんかするだけのりっぱな理由があってけんかするんだわ。あなたは、とても男らしくてよ、コンウェイ。ほんとの、〈ほんとの〉男だから、あなたを愛するんだわ! やつらにつかまったらつかまったでいいわ――とにかく、いっしょに死ねるんですもの」彼女は、熱烈に言葉をむすんだ。
「たしかにきみのいうとおりだ」彼はうなずいた。「ぼくは、きみがぼくを見かぎるべきだということを知ってはいるが、きみにほんとうにそうさせることが〈できる〉とは信じていない」そして、ふたりの手は、前よりもっとかたくむすばれた。「もしぼくらがこの危機から脱出できたら、きみにキスするつもりだが、今はきみのヘルメットをぬがせるときじゃない。じつのところ、きみの障壁をはずしたままでいるのも、危険をおかしすぎているんだ。またスイッチをいれたまえ――やつらは、もうかなり接近しているはずだ」
コスティガンはクリオの手をはなし、ふたたび宇宙服を気密《タイト》にしてから、制御板のそばにいるブラッドレーのところへもどった。
「味方の船はどのくらい接近しましたかね、船長?」彼はたずねた。
「あまりよくない。まだかなり離れている。巡洋艦が射程距離内に近づくには、すくなくとも一時間はかかるだろう」
「われわれを追跡している海賊船の位置をつきとめられるかどうかためしてみよう。もしつきとめられれば、よほど幸運というものだ。この小型スパイ光線は、近距離でないと有効でないからな。最初の警報がはいったときには、やつらの牽引《トラクター》ビームで捕捉されるか、針《ニードル》ビームで穴をあけられるかしているということになりそうだ。しかし、たぶん牽引ビームでくるだろう。この船は、やつらの救命艇だから、やむをえない場合でなければ、破壊したくないはずだ。それに、ロージャーは、われわれをぜひとも生けどりにしたがっていると思う。やつは、われわれ三人みんなと仕事の結着をつけていないからね。われわれがやつの裏をかいた以上、『あまり快適でない死にかた』というのが、なおさら快適でなくなることはたしかだよ」
「コンウェイ、お願いがあるの」クリオは、あのいいようもなくおそろしい灰色の生物とまた顔をあわせることを思って、恐怖に青ざめた。「拳銃かなにかをちょうだい。わたくし、生きてるかぎり、二度とあいつにあんなふうに見られたくないわ。ほかのことをされるのも、もちろんごめんよ」
「そんなことはさせないよ」コスティガンは、目をほそめ、あごをひきしめてうけあった。「しかし、きみに拳銃は不必要だ。神経質になって、はやく使いすぎるかもしれない。最後の瞬間に、ぼくがきみを処理してやる。もしこんどつかまれば、二度と脱出の機会はないだろうからね」
コスティガンがウルトラ・ウェーブ装置でエーテルを各方向に観測しているあいだ、数分間、沈黙が続いた。ふいに彼が笑いだしたので、ほかのふたりは驚いて彼を見つめた。
「いや、ぼくは気がちがってやしない」彼はふたりにいった。「まったくこっけいだ。今までまるで思いあたらなかったが、やつらの船はこの船をふくめてみんな、エーテル壁のおかげで、普通のスパイ光線では探知できないんだ。もちろん、ぼくはこのサブ・エーテル・スパイ光線でやつらを見ることができるが、やつらはこの船を見られないわけさ! ぼくは、やつらがとうの昔にわれわれに追いついているはずだと思っていたが、やっとやつらを発見した。やつらはわれわれを通り過ぎてジグザグ航行をやり、われわれがやつらから探知できるような何かの行動をとるのを待ちかまえているんだ! やつらはわが艦隊のほうへまっしぐらに進んでいる――もちろん、探知されないから安全だと考えているんだが、わが艦隊のところまで行ったら、さぞびっくりするだろうよ!」
しかし、びっくりすることになったのは、海賊たちばかりではなかった。海賊船は、三惑星連合艦隊の極限探知距離内にはいるよりずっとまえに、その不可視性を失って、三人の逃亡者の監視映像盤上に、ありありと輪郭をえがきだされた。二、三秒のあいだ、海賊船の姿に変化は見られなかったが、やがて赤く光りはじめた。その赤色は、輝きが強まるにつれて、黒ずんでくるように思われた。それが外側へ吹きだし、船体の金属がねっとりした液体状のものになると、長い赤色の吹き流しをなして、一見空虚な宇宙空間へ流れ去っていった。コスティガンは、ウルトラ・ウェーブの視角をその宇宙空間にむけ、そこがじつは空虚どころではないことを知った。そこには、彼のサブ・エーテル視角をもってしても不定形で識別しがたい広大な何ものかが横たわっていた。そして、変形された金属のねっとりした流れは、その何ものかの中へ流れこんでいった。流れこんで消滅してしまった。
強力な妨害波が彼のウルトラ・ウェーブを妨害し、彼の全身を騒音でみたした。しかし彼は、自分のメッセージが一部でも通過できるかもしれないと期待してサムスに呼びかけた。そして、たったいま起こったことをすべて、冷静明晰に述べた。彼は、どんなこまかいことも無視せずにてきぱき報告を続けたが、そのあいだにも、彼らの小さい船は、赤味をおびた不透過性のベールへむけて、容赦なくひきつけられていった。そしてついに、彼らの救命艇が、まだ形を保ったままでそのベールに突入すると、彼は自分が動けなくなったのに気づいた。意識はあり、呼吸も正常で、心臓も鼓動していたが、一筋の随意筋も彼の意志に従わなかった!
[#改ページ]
三 艦隊対人工惑星
三惑星連合軍の中でも最新式最高速のパトロール艦の一隻である、地球分遣隊北アメリカ支隊の重巡洋艦シカゴは、惑星間宇宙をたゆみなく突進していた。五週間ものあいだ、シカゴ号は割りあてられた宇宙空間をパトロールしてきた。あと一週間すれば、この艦が名称をもらっている都市へ帰投し、無限の虚空の深みでの長い「観光旅行」に疲れて宇宙ぼけのした乗員たちは、まる二週間の休養期間を楽しむのだ。
シカゴ号は一定の日課――隕石をチャートに記入し、漂流物その他航行の障害になるものを監視し、スケジュールに組みこまれたすべての宇宙船を必要に備えてたえずチェックするなど――を遂行していたが、本来は軍艦だった。強力な破壊兵器であり、三惑星連合軍を無視するばかりでなく、それを打倒しようとあきらかにたくらんでいる国家や惑星、三惑星を、それらが最近くぐりぬけてきた流血と破壊の修羅場《しゅらば》にひきもどそうとたくらむものに属する密航船を追求しているのだった。この艦の強力な探知器の有効範囲内にあるすべての宇宙船は、ゆっくり移動する二個のまぶしい光点によって表示された。一個は、比較的大型のマイクロメーター・スクリーン上にあり、もう一個は「タンク」の中にあった。タンクというのは、全太陽系をこまかく立方体に分割した巨大な立体モデルである。
そのとき、一つのパネルに強烈な赤いライトが輝き、戦区警報の信号ベルがはげしく鳴りひびいた。同時に、一つのスピーカーから、ある船が非常な危機におちいっていることを伝えるメッセージが吐きだされた。
「戦区警報! N・A・T社のハイペリオン号、V2ガスの攻撃を受けた。宇宙空間にはなにも探知できないが――」
メッセージは途中でガリガリという無気味な騒音に呑みこまれ、規則正しい信号ベルの音はすさまじいわめき声になった。そして、客船の位置を示していた二つの光点は、同一の強力な妨害波による広汎《こうはん》なフラッシュの中に消滅した。観測員も、航行員も、制御員もあっけにとられた。防弾、耐衝撃で、二種の光線からも保護された司令室にいる艦長さえ、同様に茫然とした。どんな船や物体でも、こんなに強力な妨害波を送れるほど接近していて、しかも探知されないはずはない――ところが、妨害波はちゃんと存在しているのだ!
「ハイペリオン号の表示ライトが消滅したときに、同船のいた点へ、最大加速度で進行せよ」艦長は命令すると、その広汎な妨害波のヘリをかすめてタイト・ビームを送り、総司令部に正確な報告をした。ほとんど同時に、非常呼集が流れこんできた――戦区のあらゆる艦艇は、どんなクラスやトン数のものも、不運な客船が最後にいた点に集中せよというのだった。
巨大な球体は、一時間また一時間と、最大加速度で突進し、艦長をはじめ各制御員は、油断なく緊張していた。しかし、動力室のずっと下方の補給部では、ハイペリオン号の消滅というようなちっぽけな問題には、まるで注意がむけられなかった。在庫品目録が合わないので、ふたりの補給部員がぶつぶついいながら食いちがいを発見しようとしていたが、うまくいかないのだ。
「十二型ルーイストンに対する請求、なし、在庫一万八千――」単調な声が話の途中でとぎれ、その部員はつぎの紙片に手をのばしかけたまま体をこわばらせて、彼の相手には知覚できないあるものに全能力を集中した。
「おい、クリーブ――早くしろよ!」相手はうながしたが、うながされた男のはげしい手ぶりに沈黙した。
「なんですって!」体をこわばらした男は叫んだ。「正体をあらわすのですか! でも、それは――ああ、承知しました――そうです――ふ、ふむ――わかりました――はい」
彼は在庫品目録を投げ捨てると、仲間の部員がびっくりして見送っているうちに、主任士官のデスクへ大またに歩いて行った。その士官も、おどろきに目を見張った。それまではのんきでなまけものだったクリーブが、きびきび敬礼するなり、左の手のひらにあるひらべったい何かを示していったのだ。
「大尉、たったいまわたしは、これまで発せられたこともないほど奇妙な命令を受けたが、この命令ははるか上部からきたものだ。わたしはこれから、司令室のおえらがたのところへ行く。きみたちにもすぐ事情がすっかりわかるだろう。なるべく表ざたにしないでくれたまえ、いいね」そして彼は立ち去った。
彼は途中とがめられずに制御室まで行き、「艦長へ緊急報告です」という短い説明だけで反問も受けずに制御室にはいれた。しかし、神聖不可侵な艦長室に近づいたとき、ほかならぬ当直士官によって断固としてさえぎられた。
「――そして、ただちに営倉入りのため出頭せよ!」当直士官は簡潔な説示をおえた。
「きみがわたしをさえぎったのは、もちろん正しい」侵入者は、平然として認めた。「わたしは、できればすべてをうちあけずに艦長室にはいりたかったのだが、それはできないようだ。よろしい、わたしは、ただちに艦長に報告するように、バージル・サムスから命令されたのだ。これが見えるかね? さわってみたまえ!」彼はたいらな絶縁された円板を取りだし、カバーをはねのけて、小さい金色の隕石をあらわした。それを見ると、士官のきびしい態度は目に見えて変化した。
「もちろん、それの話は聞いたことがあるが、見たことはない」そして士官は、その輝く標識にかるく指をふれたが、たちまちとびさがった。はげしい衝撃が全身を貫き、発音不可能な一つの音節――三惑星連合軍の合言葉――が骨の髄《ずい》までひびきわたったのだ。「本物かどうかわからんが、艦長のところへ行ってもよろしい。艦長はごぞんじだろう。もし偽《にせ》ものだったら、五分以内に宇宙で呼吸させてやるからな」
当直士官は、放射器を構えながら、クリーブのあとから奥の院にはいった。銀髪の大佐は金色の隕石にかるくふれてから、自分より若い男の敢然たる目の奥に、射るような視線をそそぎかけた。しかし、この艦長は、偶然や「ひき」によって高い地位についたのではなかった――彼はすぐに了解した。
「たしかに非常事態にちがいない」彼は下っぱの補給部員を見つめたまま、なかば口の中でうなるようにいった。「サムスがこんなぐあいに正体をあらわすのだからな」彼はふりむくと、とまどっている当直士官をあっさりひきさがらせた。それから「よろしい! 報告したまえ!」
「事態ははなはだ重大なので、宇宙に出ているわれわれの同僚はすべて、自分の指揮官およびその他のものたちに身分をあかして、もし必要なら、ただちにその指揮官に連絡するようにという命令を、たったいま受けました――これまで発せられたことのない命令です。敵の位置がつきとめられたのです。敵は一つの基地を建設していて、われわれのもっとも優秀な船よりすぐれた船を持っています。敵の基地や船は、どんなエーテル波でも見たり探知したりできません。しかし、軍は新式の通信ビームを数年にわたって実験してきました。そして、ダイオン号がなんの痕跡《こんせき》も残さずに消滅したとき、その装置はまだかなり未熟なものでしたが、われわれに与えられたのです。われわれの仲間がひとりハイペリオン号に乗っていましたが、その男がうまく生きのびて、データを送ってきています。わたしは、自分の新しい通信装置をあなたの司令室の共通映像盤の一つの取りつけて、どんなものが発見できるかためしてみるように指示されました」
「はじめたまえ!」艦長が手をふると、諜報員は仕事にとりかかった。
「艦隊の全艦艇の指揮官に告げる」艦隊司令官の波長に固定された受信器である総司令部用スピーカーが、ながい沈黙を破った。「L戦区からR戦区にいたる区域の全艦艇は、位置信号を連結せよ。貴官たちのうちのあるものは、ここに挙示する必要のない情報源から、ある情報をすでに受けたか、まもなく受けるであろう。それらの指揮官は、ただちに赤色のK4スクリーンを展開せよ。その標識をつけた艦艇は、さしあたり旗艦《きかん》として行動する。標識のない艦艇は、最高速度でもっとも近い旗艦に直行し、到着順にその旗艦を中心として標準型円錐編隊を形成する。旗艦の観測員によって指示された目標点から遠い諸編隊は、そこへむかって最大速度で直行し、そこから近い諸編隊は、減速または逆行する――全艦隊が編隊を形成しおえるまでは、その点に接近してはならない。火星軌道の内側にあるその他のすべての戦区の重巡洋艦および軽巡洋艦は――」命令は続けられて、連合軍の膨大《ぼうだい》な戦力の出動を指示した。七つの戦区の結合した力が海賊基地を撃滅しそこなうことはほとんどありそうもないが、万一の場合にそなえて、ほかの戦区の兵力を待機させたのだ。
それらの七つの戦区では、一ダースばかりの船が、濃い赤色光を放つ巨大な球形スクリーンを投射した。そして、そうするにつれて、あらゆる艦艇の連結された監視映像盤上にあらわれているそれらの船の標示点もまた、赤色光の輪で囲まれた。標識のない艦艇のパイロットたちは、それらのまっ赤な標識へむけて、全速力でコースを定めた。そして、映像盤上の白い光点が赤い光点にむけてゆっくり移動し、それらのまわりに集結しているあいだに、諜報員たちのウルトラ・ウェーブ装置は、海賊の宇宙要塞の計算位置付近の宇宙空間を縦横にさぐり続けた。
しかし、めざす目標は非常に離れているので、近距離用につくられた諜報員用小型スパイ光線装置では、彼らがさがし求めている目に見えない人工惑星と接触することができなかった。シカゴ号の艦長室では、例の諜報員が映像盤をほんの一、二分調べただけで、装置を切ってもの思いにふけっていたが、やがてそのもの思いからあらあらしく呼びさまされた。
「発見しようとためしても、見えないのかね?」艦長がたずねた。
「そうです」クリーブは短く答えた。「むだなことです――馬力や制御が半分にもたりません。いま考えだそうとしているのです――たぶん――艦長、主任電気技師と無線技術員をふたり、ここへ呼んでいただけますか?」
彼らは呼びつけられた。そしてそれから数時間、ほかの諜報員たちが効果のないウルトラ・ウェーブのビームで一見空虚なエーテルをさぐっているあいだに、三人の技術員と、かつての補給部員とは、巨大で複雑なウルトラ・ウェーブ放射器の製造に努めていた――三人はやみくもに、あやふやな質問をしながら動いていたが、ひとりは自分がつくろうとしているものについて、少なくとも確実な知識を持っていた。ついにそのものができあがり、あらけずりだが効果的な目盛りつきサークルがセットされると、それらの集積された出力が超振動性のタイト・ビームに移行するにつれて、真空管が赤く輝いてきた。
「そら見つかりました、艦長」クリーブが十分ばかり装置をいじりまわしたのち報告すると、映像盤上に小惑星の巨大な映像が出現した。「艦隊に通報してください――座標H一一・六二、赤経一二四――三一――一六、距離約一七三・二です」
通報がなされ、助手たちが部屋を出て行くと、艦長は観測している諜報員をふりむいていかめしく敬礼した。
「連合軍に〈人物〉がいる、ということはかねて知っていたが、きみがたった今やりとげたようなことを、ひとりであっというまにやってのけられるとは、思いもよらなかった――その人間が、たまたま、あの有名なライマン・クリーブランドだったとすれば不思議はないがね」
「いや、そんなことは問題では――」諜報員はいいかけたが、言葉をとぎらし、ときどきわけのわからないことをつぶやきはじめた。やがて、彼は視覚光線ビームを地球にむけた。まもなく、映像盤に一つの顔があらわれた。バージル・サムスの、するどいが心労にやつれた顔が!
「やあ、ライマン」スピーカーから、彼の声が明確に流れ出た。艦長はあっけにとられた――現在のウルトラ・ウェーブ観測員でかつての補給部員は、おそらく現代最高のビーム送信技術者である、ライマン・クリーブランドその人だったのだ! 「わしはきみがなにかやると思っていた、もしそれが可能なことだとすればな。どうかね――ほかの連中は、自分の船にそれと同じような装置を取りつけることができるかね? わしは、彼らにはできんと賭《か》けているのだ」
「たぶんできないでしょう」クリーブランドは思考の中で眉をひそめた。「これは、ズック袋やほし草しばりの針金でつくったような〈つぎはぎ仕事〉です。力ずくで無器用におさえつけていますが、それでも今にもこなごなになりそうです」
「そいつを写真機に応用できるかね?」
「できると思います。ちょっと待ってください――ええ、できます。なぜですか?」
「むこうでは、われわれにもまるでわからんし、海賊にもわからないらしい事態が起こっているからだ。総司令部では、また木星人のしわざだと考えているようだが、どうやって、そんなことができるのかはわからない――もし木星人だとすれば、彼らはわれわれの諜報員がだれひとり思いもよらなかったようなどえらい装置を開発したわけだ」そして彼は、コスティガンが報告したことを手短かに反復してから結論した。「そのあと、妨害波が爆発的にあらわれた――いいかね、〈超周波数帯〉の妨害波だよ――それ以来、彼からはなんの連絡もないのだ。そこで、きみは戦闘から完全に離れていてほしい。できるだけ離れていて、しかも発生したすべての現象を正確に写真にとるのだ。その趣旨の命令をシカゴ号に出すようにはからうから――」
「ですが、聞いてください――」
「これは命令だ!」サムスはどなった。「これから起こることを詳細に知ることが肝要なのだ。その解答を与えてくれるのは、写真だ。写真をとるには、きみがたったいま開発したその機械に、よるしかない。もし艦隊が負ければ――そしてわしは、艦隊司令官の半分も成功の確信がないのだが――その場合には、シカゴ号は問題を解決するに充分な力を持っていないから、われわれとしては写真を手にいれて研究することがもっとも重要なのだ。そればかりでなく、われわれはきょうコンウェイ・コスティガンを失ったらしいから、きみまでも失いたくない」
クリーブランドは、このおどろくべきニュースについて思いめぐらしながら沈黙をまもっていたが、第四次木星戦争の経験者である銀髪の艦長は、納得しなかった。
「サムス閣下! われわれはやつらを宇宙から抹殺《まっさつ》してやりますぞ」
「艦長、よく考えてみたまえ。わしは、完全な観測がすむまで総攻撃をひかえるようにとできるかぎり説得したが、艦隊司令部はききいれないだろう。写真撮影船を後退させるのが妥当だということは認めているが、彼らとしては、それが精いっぱいの譲歩なんだな」
「それだけでも充分すぎるくらいだ!」通信ビームが切れると、シカゴ号の艦長はうなるようにいった。「クリーブランド君、わしは敵を前にして逃げだすという考えが気にいらんし、艦隊司令官から直接の命令がないかぎりは、そうするつもりもないぞ」
「もちろんそうでしょう――だからあなたはこれから――」
彼は艦隊司令部のスピーカーからの声でさえぎられた。艦長は映像盤の前に踏みだし、本人であることを認定されたのち、さきほど三惑星連合軍の長官によって要請されたとおりの命令を与えられた。
こうして、シカゴ号は加速度を逆転し、赤色スクリーンを切り、急速に編隊から離脱した。いっぽう、シカゴ号にしたがっていた艦艇は、ほかの赤色標識艦へむかって突進して行った。シカゴ号はいよいよ離脱し、クリーブランドと高度に熟練した助手たちが熱心に操作している装置の限界有効距離まで後退した。そしてそのあいだずっと、七つの戦区の兵力は集結しつつあった。燃えるような赤色のスクリーンを展開した指導艦は、それぞれ宇宙船の円錐編隊をしたがえて、しだいに密集しつつ、フィアレス号――艦隊の旗艦になるべきイギリスの超大型戦艦――かつてその巨体をエーテル中に浮かべたうちで、もっとも強力で重い宇宙船――に接近して行った。
いまや、組織的かつ正確に、巨大な戦闘円錐編隊が形成されつつあった。この編隊は、三惑星の戦力が、彼らの文明の存亡そのものを賭けて宇宙で戦ってきた数次の木星戦争のあいだに開発されたが、木星の凶悪な種族の宇宙艦隊が完全に抹殺されて以来、一度も用いられなかったものである。
その巨大な中空円錐の口は、艦隊中もっとも小型で、もっとも敏速な船である偵察艇からなる円陣だった。それらの偵察艇の後方には、軽巡洋艦からなるいくらか小さな円陣が続き、つぎには重巡洋艦および軽巡洋艦からなる円陣が、そして最後には重戦艦からなる円陣が続いていた。円錐の頂点には、編隊を構成するその他のすべての艦艇に守られ、先頭を指揮するにもっともいい位置を占めた旗艦がいた。この編隊中の各艦艇は、僚艦に与える危険がもっとも少ない状態で、あらゆる兵器を自由に使用できた。しかも、強力な主要放射器が編隊の軸に沿って放射される場合には、円錐口の巨大な円形の全面から、考えられるかぎりのいかなる物質も一瞬でさえ存続しえないような、圧倒的密度の円筒状力場がほとばしるのだ!
いまや、金属製の人工惑星は、連合軍隊員のウルトラ・ウェーブ透視装置で見えるほど接近し、葉巻型の海賊船がその巨大な気密出入口から飛びだしてくるのがわかるほど明瞭になった。各海賊船は、宇宙空間に飛びだすと、待機して編隊を組むまでもなく、接近しつつある艦隊のほうへまっしぐらに突進してきた――グレー・ロージャーは、自分の人工惑星が三惑星連合軍の目には見えないものと信じ、艦隊の接近は数学的計算の結果と考えて、自分の強力な宇宙船をもってすれば、その存在をさとられることなしに、この大艦隊をすら撃滅できると確信していたのだ。しかし、彼は誤っていた。先頭の海賊船は、この円錐形のわなの口に現実に侵入することを許された。しかし、それらがなんの攻撃行動もとらないうちに、艦隊の副司令官が一つのボタンを押した。同時に、三惑星連合のあらゆる艦艇のあらゆるエネルギー発生器が、狂気のような活動を開始した。たちまち、巨大な円錐の中空な内部は、抵抗しがたいエネルギーの白熱地獄と変じた。
その地獄は、光速度ではるかかなたまで延び、貪欲《どんよく》な破壊力を持つ円筒を形成した。それらの攻撃ビームはエーテル波にはちがいなかったが、その波動はすさまじい強度を持っていたので、海賊船を包んだ偏向《へんこう》スクリーンは、そのおそるべきエネルギーを一瞬でさえ処理できなかった。海賊船は不可視性を失い、防御スクリーンが一瞬|閃光《せんこう》を発した。しかし、ロージャーが考案した防御スクリーンを支えるエネルギーは、三惑星連合のどんな艦艇一隻のそれよりもはるかに大きかったが、その膨大なエネルギーをもってしても、連合艦隊を構成する多数の強力な艦艇による集団攻撃の、想像を絶する威力をくいとめることはできなかった。海賊船の防御スクリーンは一瞬|閃光《せんこう》を発し、つづいて崩壊した。巨大な船体がまず赤熱し、つづいて白熱し、つぎの瞬間には、赤熱し、溶解し、ガス化した金属の団塊となって飛散した。
ロージャーの兵力のたっぷり三分の二は、この狂暴な白熱的ビームに捕捉された。捕捉されて抹殺された。しかし、残った海賊船は、人工惑星に退却しなかった。それらは、すさまじい加速度で円錐のヘリをまわって脱出し、編隊の側面を攻撃したので、戦闘は全面的になった。が、いまや、各敵艦は多量のビームに捕捉されて不可視性を回復できなくなっていたので、三惑星連合軍の各艦艇は、完全に効果的な攻撃ができた。マグネシウム閃光や照明弾が一千マイルにもわたって宇宙空間を照らしだし、両艦隊のあらゆる戦闘単位から、当時の戦闘技術に知られているかぎりの固形爆発物や破壊性波動が投射された。おそるべき威力の攻撃ビーム、打撃ビーム、穿孔《せんこう》ビームが、同様に強力な防御スクリーンにぶつかって中立化された。戦闘距離が遠く、回避が迅速なため、通常の固形弾はもちろん、原子爆弾でさえ効果がなかった。両軍とも強力な妨害波で宇宙空間をみたしていたので、発射された無線操縦原子爆弾も制御ができず、やみくもに突進して、ついにはあたりをなぎ払う強烈なエネルギー・ビームに接触して、宇宙空間でいたずらに爆発したり発散したりしてしまうのだった。
とはいえ、個々に見れば、海賊船は連合艦隊の艦艇よりはるかに強力だったので、やがてその優越性があらわれはじめた。小型艦艇は、戦闘によるすさまじいエネルギーの消費でエネルギー蓄積器が涸渇《こかつ》するにつれて、エネルギーがとぼしくなった。そして、三惑星連合の艦艇は、海賊船のビームの集中攻撃によって、つぎつぎと無に帰していった。しかし三惑星連合軍には、一つの大きな利点があった。連合軍隊員たちは、誘導原子魚雷がウルトラ・ウェーブで制御できるように、大急ぎで制御装置を改造しつつあって、それらは数こそ少ないが、いずれもはなはだ効果的だったからだ。
眼光するどいひとりの観測員が、顔を映像盤に押しつけんばかりにして、両手両足で制御装置を操作しながら、最初の魚雷を発射した。推進ロケットからすさまじい閃光《せんこう》をはなちながら、それは宇宙空間にありありと輪郭を示している自然的な破壊ビームを、完全な制御によって右に左にかわして行った。さまざまのエーテル波信号によるすさまじい妨害に影響されないのだ。魚雷は海賊船のスクリーンを貫通《かんつう》し、その爆発のおそるべき衝撃によって、海賊船の中央部全体が消滅した。その船は、戦力を失って脱落《だつらく》したはずだった――ところが、観測員たちがおどろいたことに、海賊船の両端は、ほとんど戦力を失わずに戦いつづけた! そのおそるべきビームが停止するまでには、さらに二発の強力な魚雷が発射されねばならなかった――残存した両端は、それぞれ粉砕されねばならなかったのだ! 大艦隊中ただのひとりも事態の真相を気づきさえしなかったが、これらの海賊巨船、これらのおそるべき破壊兵器には、ひとりの生物も乗っていなかった。それらに乗り組んで戦っているのは、自動機械だった。海賊の人工惑星中にいる、目つきの悪い宇宙ずれのしたベテランたちによって制御されているロボットだったのだ!
しかし、大艦隊側では、真相への手がかりを与えられることになった。海賊戦隊の船がつぎつぎに破壊されるうちに、ロージャーは自分の海軍が敗北したことをさとり、残っているすべての船を、ただちに円錐編隊の頂点に突撃させた。そこには、もっとも大型の戦艦が配置されていた。各海賊船は、それぞれ三惑星連合の戦艦にとびかかり、衝突して自爆したが、その爆発によって敵のもっとも大型の船の一隻を確実に撃滅した。
こうして、フィアレス号が失われ、大艦隊中もっとも優秀な二十隻の宇宙船も、同様の運命におちた。しかし、上級将校が指揮をひきつぎ、戦闘円錐は再編され、大艦隊はぽっかり開いた口を前方に向けつつ、いまや目前に迫った海賊の要塞めがけて突進した。円錐は、またもや破壊性の大円筒を放射したが、人工惑星の強力な防御スクリーンがはげしい防御で白熱的に輝いたと思うまもなく、戦闘は妨害されて、海賊も三惑星連合軍も、エーテル中にいるのが自分たちだけでないことをさとった。
宇宙空間は赤味をおびた透視しがたい不透明さにみたされ、その不可解なとばりを通して、想像を絶する巨大なエネルギーの腕がのびてきた。その、のたうちきらめくエネルギー・ビームは、ほとんど知覚できないくらい薄いが、不吉な赤色をおびて輝いていた。前代未聞の武装とエネルギーをそなえた一隻の船が、それまで知られていなかった太陽系ネヴィアからやってきて、この宇宙空間に滞留していたのだ。その船の指揮官は、数か月にわたって、あるきわめて貴重な物質をさがし求めてきた。いまや、彼の探知器はその物質を発見した。そして彼は、三惑星連合の兵器を恐れもせず、また数万の三惑星連合軍の生命を犠牲に供することをためらいもしなかったので、その物質の採集にとりかかったのだった!
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四 赤いベールの中で
この略奪宇宙船の出身惑星ネヴィアは、地球人の感覚からすれば、じつに奇異に思われたことだろう。濃い赤色の天空高く、熱い青色の太陽が、水におおわれた一つの惑星の上に、まばゆい赤紫色の光の洪水をそそぎかけていた。その炎のような空には一片の雲も見えなかった。そして、そのほこりのない大空を通して、水平線――われわれが見なれているものより三倍も遠い水平線が、地球のほこりにみちた空気中ではありえないような明瞭さで望見された。その強烈な太陽が水平線下に落ちると、空はたちまち雲にみたされ、雨が夜中まではげしくたてつづけに降るのだった。それから、雲は発生したときと同様に突然消滅し、滝のような降雨もやんで、その巨大な惑星のおどろくほど透明な気体のおおいを通して、壮麗な夜空がいっぱいに出現する。われわれが知っているような夜空ではなくて――なぜなら、その熱い青色の太陽と唯一の子惑星であるネヴィアとは、われわれの太陽や多数の小惑星から何光年も離れていたからだ――地球人の目におなじみの星座はほとんど含まない、奇異で壮麗な夜空だった。
真空の宇宙空間から一隻の魚形宇宙船――三惑星連合艦隊とロージャーの人工惑星の艦隊との集団を、やがていとも大胆に攻撃するにいたるあの船――が、希薄な大気外層に突入し、濃赤色のエネルギー・ビームで希薄な空気をはげしくひき裂きながら、すさまじいスピードにブレーキをかけた。船の速度を着陸可能な程度に減じるまでには、ネヴィアの巨大な球体の円周の三分の一を通過しなければならなかった。それから、船は薄明地帯に接近して垂直に降下した。すると、ネヴィアが完全に水におおわれているわけでもなく、知的生物がいないわけでもないということがあきらかになった。なぜなら、宇宙船のまる味をおびた船首がむかっているのは、なかば水に没した都市らしきものだったからだ。その都市の建築は、てっぺんの平らな六角形の塔で、それらは大きさも形も色彩も材質も、まったく同じだった。それらの建築は、ハチの巣の小房のように配置されていた。ただし、このハチの巣の小房は、おのおのが隣の小房と比較的狭い水路でへだてられ、いずれも同質の白い金属でつくられていた。多くの橋やそれ以上に多くのチューブが、建築から建築にかけて空中にのびており、水「路」には、水泳者や水上船や水中船がむらがっていた。
宇宙船の円錐形の船首のすぐ後方には、パイロットが席をしめ、あらゆる方向がさえぎるものなしに見わたせる厚い窓を通して、熱心にのぞいていた。彼の四つの大きな伸びちぢみできる目は、それぞれ独立に働いて、特異だが有能な頭脳に独立の情報を送りながら活動していた。一つの目は装置を見つめ、ほかの目は、船腹の巨大なふくれあがった曲線と、彼の船が着水すべき水面と、それを係留すべき浮きドックとを観察していた。四つの手――もしそれらを手と呼べるとすればのことだが――は、きわめて精密な手加減でレバーや舵輪《だりん》を操作し、ネヴィア宇宙船の巨大な船体はほとんどしぶきもたてずに水面を打って滑り、係留所そのものから三〇センチたらずのところで停止した。
四本の係留棒がソケットにぴったりおさまると、船長兼パイロットは、制御装置をニュートラルにロックしたのち、安全ベルトをゆるめて、クッション入りの座席から床へ身軽にとびおりた。そして、びっしりうろこにおおわれた四本の短くたくましい足をすばやく動かして床を横切り、通路をくだると、水中にするりと滑りこんで、水面下深く消え去った。なぜなら、ネヴィア人は真の両棲生物なのだ。彼らは冷血で、呼吸には、えらと肺とを同じようにらくらくと効果的に使用する。うろこにおおわれた体は、水にも空気にも同じように適している。ひらべったい足は、固い表面を駆けまわるにも、魚もおよばないようなスピードで流線型の体を水中で推進させるにも、同じように有効に役立つ。
ネヴィア人指揮官は、短い翼状のひれで正確にコースをさだめながら、水中を突進して行った。そして、一つの壁についた出入口からとびこむと、水中の廊下を通り抜けて、広い傾斜路にでた。彼はその傾斜をすばやくのぼってエレベーターにはいり、六角塔の最上階にあがったのち、全ネヴィアの商務長官のオフィスに直行した。
「ようこそ、ネラド船長!」長官が触手状の手を振ると、訪問者はやわらかにクッションのはいったベンチに軽くとびあがり、低いたいらな「デスク」越しに官僚とむかいあって、ゆったり横たわった。「最終試験飛行の成功おめでとう。きみが光速度の十倍で航行しているあいだでさえ、われわれはきみからすべての報告を受信した。最後の諸問題が克服されたのだから、きみはもう出発の準備がととのったわけだね?」
「ととのいました」科学者の船長は真剣に答えた。「技術的にいえば、船はわれわれの最高の頭脳が建造できる極限に近いところまで完全です。船には二年分のたくわえがあります。到達可能な太陽で鉄を包含しているものはすべて、宇宙図に記入されました。鉄以外はすべてのものがととのったのです。もちろん、評議会はわれわれに国庫貯蔵の鉄を分与することをこばんだわけですが――あなたは、われわれのために市場でどれだけ購入できましたか?」
「十ポンド近く――」
「十ポンドですと! いや、われわれがあなたに預けた有価物では、当時の相場でさえ、二ポンドと変えなかったはずです!」
「そうだ。しかし、きみには友人がいる。われわれの多くは、きみを信じて、自分の財産を気前よく投資したのだ。きみや探検隊仲間の科学者たちは、それぞれ自分の全財産を投げだしてきた。われわれほかのもののうちのだれかが、市民個人として、やはり財産を提供するのが、なぜいけないのかね」
「すばらしい――感謝します。十ポンドですと!」船長の大きい三角形の目は、濃いすみれ色の光で輝いた。「少なくとも、一年は巡航できる。だが――結局のところわれわれの判断がまちがっていたとしたら、どうしますか?」
「その場合には、きみたちはかけがえのない金属を、いたずらに消費してしまうことになるだろう」長官は、平然としていた。「それが、評議会をはじめ、ほかのほとんどすべてのものの見解なのだ。彼らが反対するのは、財貨が空費されることではなく、十ポンドの鉄が永遠に失われるという事実なのだ」
「たしかに、高価な犠牲です」ネヴィアのコロンブスは認めた。「しかも、結局のところ、わたしがまちがっているのかもしれないのです」
「おそらく、きみはまちがっているだろう」オフィスの主人は、おどろくべき返事をした。「われわれの惑星から数十万光年以内にあるほかの太陽で惑星を一つでも持っているものはないというのは、ほとんど確実だ――論証できる数学的事実といっていい。十中八、九まで、ネヴィアは全宇宙でただ一つの惑星だろう。宇宙の知的生物がわれわれだけだというのは、大いにありうることだ。きみたちがあらたに完成した宇宙船の航続距離以内のどこかに、鉄を含有する惑星で着陸を遂行できるようなものが一つでも存在する可能性は、無限分の一しかない。しかし、きみたちが鉄を含有する冷却した小さい宇宙物体――捕捉できるくらい小さいもの――を発見できる可能性は、より大きい。そのようなことが起こる可能性を数学的に計算することはできないが、そのより大きな可能性に対して、われわれのうちのあるものは、財産の一部を賭けているのだ。われわれはどのような収益も期待しないが、もしもきみたちが何かの奇跡でひょっとして成功したとすれば、そのときはどうなるかね? 深海は浅くされ、文明は全惑星上にひろがり、科学は急速に進歩し、ネヴィアは本来そうあるべきように入口が増加するのだ――これは、賭けてみる価値のある可能性だよ!」
長官は一団の警備員を呼び、警備員たちはきわめて貴重な金属をおさめた小箱を宇宙船へ護送して行った。宇宙船の巨大なドアがとざされるまえに、ふたりの友人は別離の言葉をかわした。
「――ウルトラ・ウェーブで、つねにあなたと連絡をたもちます」船長は言葉を結んだ。「結局のところ、わたしは評議会がほかの船を出発させるのをこばんだことを責めませんよ。十ポンドの鉄は、この惑星にとって重大な損失です。しかし、もしわれわれが鉄を発見したならば、時を移さずわれわれのあとを追わせてください」
「心配にはおよばない! もしきみが鉄を発見したら、すぐつぎの船を出発させる。そしてやがて、宇宙全体が船で満たされるだろう。元気で行きたまえ」
最後の出入口がとざされ、ネラドは巨船を空中に発進させた。上昇また上昇、大気の希薄な痕跡を最後にとどめている層の外へ、宇宙空間を貫いて先へ先へ、船はいよいよ速度を増して突進し、ついにはネヴィアの巨大な青い太陽がはるか後方にとり残され、まぶしく輝く青白色の恒星になってしまった。船は鉄原子の核分裂によって動力を供給されていたので、貴重な鉄を節約するためにやがて推進器のスィッチは切り、ネラド船長をはじめ科学者からなる冒険好きな乗組員たちは、一週間また一週間と、無限の虚空を貫いて巡航して行った。
ネラドの遠大な宇宙航行をくわしく述べる必要はない。一つだけいっておくが、彼は惑星をともなったG型の小型恒星を発見した――惑星は一個だけではなく、六個、七個、八個――そう、少なくとも九個はあった! しかも、それらの惑星のほとんどは、それら自体が引力の中心で、そのまわりを一個またはそれ以上の衛星が回転していた! ネラドは喜びに身ぶるいしながら、全力で減速した。そして、その巨船に乗っているすべての生物は、映像盤かテレスコープをのぞきこんでみるまでは、ネヴィア以外の惑星が現実に存在することを信じられなかった!
ネヴィア人の船は、宇宙速度の標準からすればほんのはい進む程度にまで減速し、電磁式探知スクリーンをいっぱいに展開しながら、われわれの太陽に向かってじりじり進んで行った。ついに、探知器が一個の障害にぶつかった。伝導物質で、パターンが決定的に示すところによれば、ほとんど純粋な鉄だった。鉄――膨大な量の鉄――が、宇宙を単独で浮遊しているとは! ネラドは、その貴重な団塊の性質、外見、構造などを検査するまでもなく、変換器に動力を送りこんで、膨大な軟化力場をその物体にあびせた――その力場は、金属鉄をそれよりはるかに容積の小さい同質異形物に凝縮してしまうような性質を持っている。その同質異形物は、赤くねっとりした、きわめて濃厚で重い液体で、船のタンクに都合よく貯蔵できるのだ。
貴重な液体が貯蔵されたと思うまもなく、探知器がまたけたたましくほえたてた。一方には、やっと探知できるくらいの巨大な鉄塊が一つあり、もう一方には、それよりも小さい鉄塊が多数あった。そして、さらにべつの方向には、それらよりもっと小さい鉄塊が一つだけあった。宇宙空間は、鉄にみちているように思われた。そこでネラドは、もっとも強力なビームをはるかかなたのネヴィアにむけて投射し、歓喜にあふれるメッセージを送った。
「われわれは鉄を発見した――容易に獲得できて、想像もおよばないほどの量だ――ミリグラム単位の細片ではなく、何百万トンか、はかり知れないのだ! ただちに僚船を派遣せよ!」
「ネラド船長!」船長は、キーを開いたとたんに、観測映像盤の一つに呼ばれた。「わたしは、現在われわれにもっとも近い小さな鉄塊を観察しています。これは、人工の建造物、小型の宇宙艇で、三つの生物が乗っています――まったく怪物的な生物ですが、いくらか知能を持っているにちがいありません。さもなければ、宇宙を航行できないでしょうから」
「なに? ありそうもないことだ!」探検家は叫んだ。「すると、さっきのも――だが、そんなことは問題ではない。われわれは鉄を手にいれねばならんのだ。その宇宙艇を、変形せずに収容せよ。その生物と彼らの機械をゆっくり研究するのだ」そしてネラドは、自分の視覚光線ビームを救命艇にふりむけ、クリオ・マースデンとふたりの三惑星連合軍将校の宇宙服姿を眺めた。
「たしかに、知的生物だ」ネラドは、コスティガンのウルトラ・ウェーブ通信器を探知して、それを沈黙させながらいった。「しかし、わたしが思ったほど知的ではない」彼は、奇妙な生物とその小さな宇宙船をさらにくわしく観察してからつづけた。「彼らは、膨大な鉄を保有しているが、それを建造資材としてしか利用していない。原子エネルギーの利用は、わずかで不充分だ。ウルトラ・ウェーブについて幼稚な知識はあるようだが、それを知的に利用していない――彼らは、われわれが現在働かしているこうした通常のエネルギーをさえ中和できないのだ。彼らは、下等な硬鱗魚類はもちろん、高等な魚類のあるものとくらべてさえ、より知的だが、どれほど大目に見ても、われわれとは比較にならない。わたしは大いに安心した――早急にことを運んだために、高度に発達した種族の構成員を殺してしまったのではないかと気がかりだったのだ」
無力な宇宙艇は、すべてのエネルギーを中和されて、巨大な魚形宇宙艦に引きつけられた。きらきら輝くエネルギーのナイフが、艇をきちんと各部分に切断し、三つの硬直した宇宙服姿は、外部に見える武器を奪われたのち、気密出入口を通じて制御室に運びこまれ、宇宙艇の断片は、後刻、研究するために、倉庫におさめられた。ネヴィア人の科学者たちは、まず地球人の宇宙服の内側の空気を分析してから、捕虜たちの保護外被を慎重に除去した。
コスティガンは――はじめからずっと意識を失わず、いまや奇妙な一時的麻痺がさめつつあったので、すこし動くことができた――つぎにどんなショックがくるかと身がまえたが、その必要はなかった。このグロテスクな捕獲者は、拷問者ではなかったのだ。空気は、地球の空気よりいくらか濃密で特異なにおいがしたが、充分呼吸できたし、船はほとんど動かずに宇宙空間に浮いていたが、ほぼ正常な重力が作用して、通常の体重の大部分を与えていた。
三人は、ピストルその他、ネヴィア人が武器らしいと判断したものを除去されたのち、奇妙な麻痺から完全に回復した。捕獲者たちは地球人の衣服にひどく好奇心をいだいたが、それを除去しようすると、地球人が非常に反抗するので、その点を強制するのはやめて、ふたたびこの発見物をくわしく観察しはじめた。
こうして大きくへだたった二つの太陽系の文明の代表者が、おたがいに顔をあわせた。ネヴィア人は、嫌悪と反感が多分にまじった興味と好奇心をこめて、人類を観察した。三人の地球人は、ネヴィア人の動きのない無表情な「顔」――もしこの円錐形の頭部、顔というようなものがあるといえればの話だが――を、恐怖と不快感にそれぞれの性格や訓練に応じたその他の感情をまじえながら見つめた。
人類の目からすると、ネヴィア人はおそろしい怪物である。今日でさえ、ほとんどの地球人が――いや、その点では、ほとんどの太陽系人が――ネヴィア人と顔をあわせると、肌がむずむずするように感じたり、みぞおちのあたりに「気が遠くなりそうな」感覚をおぼえたりせずにはいられない。角質でしわのよった耐乾性の皮膚をしている火星人は、地球人みんなが知っていて、どちらかというと好感を持っているが、じつのところ、ぞっとするような生物である。盲目で無色で無毛でほとんど皮膚のない金星人は、もっと気味がわるい。しかし、この両者はともに、結局のところ、地球人類の遠縁のいとこであって、われわれが火星や金星を訪問する必要がある場合には、かなりよく協調している。しかし、ネヴィア人となると――
ひらべったくて魚に似た胴体は、たいらな足のひらがつき、鱗《うろこ》でおおわれている、短くがっしりした四本の足で水平に支えられ、その末端には、奇妙な四枚羽の尾がついているが、この胴体はそれほど無気味ではない。首筋は、長く柔軟でびっしり鱗におおわれており、本人がそのときにもっとも便利だとか装飾的だとか考えるとおりに、どんな目まぐるしい〈とぐろ〉や曲線でもえがくことができるが、この首筋でさえまだがまんできる。ネヴィア人の体臭――腐敗した魚のような不快な悪臭――でさえ、とくにクレオソートで充分にまぎらされている場合には、ときとしてがまんができる。クレオソートは、地球では単なる化学薬品だが、ネヴィアでは、もっとも珍重される香料なのである。
しかし、頭となると! ネヴィア人が地球人の目に、すこぶるおそろしくうつるのは、この器官のせいなのだ。なぜなら、それは太陽系人のあらゆる歴史や経験からまったく異質なものだからである。ほとんどの地球人がすでに知っているように、ネヴィア人の頭は巨大な円錐状で、鱗におおわれて、首筋の上にやりの穂先のようにのっている。四つの大きな海緑色の目は三角形で、円錐の中ほどに、たがいに等間隔でついている。瞳孔《どうこう》は、ネコの目のように収縮自在なので、ネヴィア人は明暗の通常の限度内では、同様によく見ることができる。それぞれの目のすぐ下から、長くて関節も骨もない、触手状の腕がのびており、その末端は八つにわかれて、敏感だがとても強い「指」になっている。それぞれの腕の下には、口がある。これは、くちばし状で、針のような牙《きば》をそなえた、ものすごく強力な穴である。さいごに、円錐形の頭部のせりだした下端には、こまかくひだのついた器官があり、えらとしても、鼻孔としても、肺としても、意のままに役立つ。これらの目やその他の器官は、ほかのネヴィア人から見ると、はなはだ表情に富んでいるが、われわれの目にはまったく冷淡で不動に見える。地球人の感覚では、ネヴィア人の「顔」の表情の変化がまったく知覚できない。三人の捕虜が悄然《しょうぜん》として見つめたのは、このようにおそるべき生物だったのだ。
しかし、われわれ人類が、つねにネヴィア人をグロテスクでいやらしいものと見てきたとしても、その感情はつねに相互的だった。なぜなら、この「怪物的」生物は、高度に知的で極度に敏感な種族なので、われわれ人類の――われわれから見て――ととのって優美な姿態も、彼らには奇形と無気味さの極致と思われたのである。
「まあ、コスティガン!」クリオは、コスティガンにもたれかかって、彼の左腕ですばやく抱きとめられながら叫んだ。「なんておそろしい怪物でしょう! それに、彼らは話ができないのよ――さっきから、だれひとり声をたてていないわ――耳も聞こえず、声も出せないんじゃないかしら?」
しかし、ちょうどそのとき、ネッドは仲間にいっていた。
「なんと無気味で不格好な生物だろう! 彼らは、ある程度知能は持っているが、下等な生物にちがいない。話すこともできないし、われわれの言葉が聞こえたらしいそぶりも示していない――視覚で通話するのだろうか? あの奇妙な位置についている器官が無気味にゆがんでいるのは、会話の役をしているのだろうか?」
こうして、両者ともに、相手が話しているということを理解しなかった。なぜなら、ネヴィア人の声はあまりにも高いので、彼らに聞こえるもっとも低い音でも、われわれの聴覚の限界音よりずっと高いからである。地球人のピッコロの最高音でも、彼らには低すぎて聞こえないのだ。
「われわれには、なすべきことが多い」ネッドは捕虜に背を向けた。「この標本の研究はあとまわしにして、このあたりの宇宙空間に多量に存在する鉄を満載せねばならん」
「彼らをどう処置しましょうか?」ネヴィア人高級船員のひとりがたずねた。「船倉の一部屋にとじこめておくのですか」
「いや、いかん! そんなことをすれば、彼らは死んでしまうかもしれない。あらゆる手段をつくして、彼らを良好な状態に保つ必要がある。科学大学で精密な研究をするためにな。われわれがこの奇妙な生物のグループを連れもどったら、さぞ大さわぎが起こるだろう! 惑星を所有している太陽がほかにもあり、その惑星には知的な有機的生命が住んでいるという、生きた証拠なのだから。彼らを三つの続き部屋にいれるがいい。そう、第四区画がよかろう――彼らは光と運動が必要にちがいないからだ。もちろん、出口はみんな閉鎖しておけ。しかし、部屋と部屋とのあいだのドアは閉鎖せずにおいて、彼らがいっしょにいるなり離れているなり、好きなようにできるようにしてやるのがいちばんいいだろう。いちばん小さな生物は女性で、大きな男性に寄りそっているから、このふたりは配偶者かもしれない。しかし、われわれは彼らの習慣や風俗についてなにも知らないから、安全と両立する範囲で、できるだけ自由を与えてやるのが最上だろう」
ネラドは制御装置にむきなおり、三人のおそろしい乗組員が地球人のそばへやってきた。ひとりは歩き出しながら、二本の腕を振った。捕虜たちについてくるようにという合図にちがいない。三人は、従順に彼のあとから歩きだし、ほかのふたりの護衛があとにつづいた。
「いまこそ、絶好のチャンスだ!」一行が低い戸口を通り抜けてせまい廊下にはいったとき、コスティガンがささやいた。「クリオ、きみの前のそいつを見張ってくれ――できれば、一秒でもやつをひきとめるんだ。ブラッドレー、きみとぼくは、うしろのふたりをやっつけよう――そら!」
コスティガンは、身をかがめてくるりとふりむいた。ケーブルのような腕の一本をつかむと、奇怪な頭部を引きおろしながら、強力な右足の力をふりしぼって、重い軍用深靴を鱗《うろこ》におおわれた首と頭部の接合部にたたきこんだ。そのネヴィア人が倒れるなり、コスティガンは娘の前にいる案内者にとびかかった。とびかかったが、また体がしびれて、床にころんだ。というのは、案内のネヴィア人が四つの目で油断なく見張っていて、すばやく行動したからだ。コスティガンの最初の猛烈な攻撃をくいとめるのはまにあわなかったが――一等航行士の反応はほとんど瞬間的で、動作が迅速だった――その場の支配権を獲得するのはまにあった。もうひとりのネヴィア人があらわれた。そして、けとばされた護衛が息を吹き返し、首をけいれん的によじらして、四本の腕をそこへかたく巻きつけているあいだに、三人の無力な地球人は空中に持ちあげられ、ネラドが彼らに割りあてた部屋へ運びこまれた。彼らが中央の部屋のクッションにのせられ、重い金属のドアがとざされてはじめて、彼らはまた手足を動かせるようになったことをさとった。
「さあ、こんどのラウンドもわれわれの負けだった」コスティガンは快活にいった。「けとばしも、なぐりも、かみつきもできないんじゃ、けんかにならん。さっきは、あのトカゲどもに袋だたきにされるかと思ったが、やつらは手だしをしなかったな」
「彼らは、わたくしたちに傷をつけたくないのね。わたくしたちを、野獣か何かみたいなめずらしい生物として、どこか知らないけど、彼らの惑星に連れていくつもりなんだわ」娘は、機敏に判断した。「もちろん、彼らはとても気味がわるいけれど、とにかく、ロージャーや手下のロボットたちよりは、ずっとましよ」
「ミス・マースデン、あなたの判断は正しいと思うね」ブラッドレーが、うなるようにいった。「たしかに、そうだ。わしは、檻《おり》にいれられたクマみたいな気がする。あなたは、これまで以上につらいだろうと思う。動物園の動物に、どれだけ逃げだすチャンスがあるかね?」
「この動物たちには、たくさんチャンスがありますわ。わたくし、ますます元気がでてきましたの」クリオはきっぱりいったが、彼女の平静な態度は、その言葉を裏書きしていた。
「あなたがたお二人は、わたくしをロージャーのあの恐ろしい場所から救いだしてくださったのですもの、ここからだって、なんとかして救いだしてくださるにちがいありません。彼らは、わたくしたちをおろかな動物と考えているかもしれないけれど、あなたがたお二人をはじめ、三惑星連合のパトロール部隊や連合軍にやっつけられるまでには、べつの新しい考えを持つようになるでしょう」
「たいした闘志だよ、クリオ!」コスティガンはほめた。「ぼくはきみほど明確な判断をしていなかったが、解答はほぼ同じだ。あの四つ足の魚どもは、ロージャーよりもっと強力な兵器を持ってるようだが、やつらのほうでも、もうすぐ弱くない〈しろもの〉にぶつかることになるさ、まちがいなくね!」
「きみはそのしろものを知ってるのかね、それとも、知らずに強がりをいっているのかね?」ブラッドレーがたずねた。
「ちょっとばかり知っているが、そうくわしくはない。工学部と研究部が、ながいこと一隻の新式船の建造にあたっているのです。この船は、光よりずっと速く航行するので、一か月かそこらで銀河系のどこへでも行って、もどってこられる。新式のサブ・エーテル推進、新式の原子力、新式の武装、なにもかも新式だ。一つだけまずいのは、この船の工事がいまのところあまりうまく進行していないことです――金星人の台所には、アブラムシがうようよしているが、この船には、それよりもっと多くの欠陥がある。わたしが知ってるだけでも、五度も爆発して、二十九人が死んでいる。しかしその欠陥が克服されたときは、相当な〈しろもの〉ができあがるんですよ」
「克服されたときは、かね? それとも、もし克服されたからかね?」ブラッドレーは、悲観的にたずねた。
「克服されたときは、といったでしょう!」コスティガンは、するどい声でいった。「連合軍がなにかを追究したときにはきっとそれを達成するし、達成したときはつねに――」彼はふいに言葉を切ると、声をやわらげてつづけた。「失礼。自慢するつもりはなかったんです。だが、いまに助けがくると思いますよ、われわれがしばらく元気を失わずにいられればね。それに、現状はよさそうだ――やつらがわれわれに提供したのは、最高級の檻ですよ。家庭的な快適さが完備していて、観測映像盤まである。どんなことが起こっているか、見てみましょう」
コスティガンは、見慣れぬ制御装置をしばらくためしたのち、ネヴィア式の視覚光線の操作法を習得した。そして、映像盤には円錐形戦闘編隊がロージャーの人工惑星に突進して行く場面があらわれた。海賊戦隊が、三惑星連合の総戦力と決戦するために出撃してくるのが見えた。三人は、その雄壮な戦闘のあらゆる過程を、狂暴な自殺的結末にいたるまで、息を殺して見まもっていた。そして、制御室のネヴィア人たちも、その同じ戦闘を、きわめて興味深く見つめていた。
「じつに狂暴な戦闘だ」ネラドは、自分の観測映像盤のそばでつぶやいた。「それに、彼らがエーテル波エネルギーしか使用していないのは、奇妙なことだ――というより、こんなに下等な発達段階にある種族としては、当然のことなのだろう。原始的種族のあいだでは、戦争が全面的におこなわれているらしい――じつのところ、われわれ自身の諸都市も、数が少ないとはいえ、相互に争うのをやめて、さらに深海の半文明化した魚類に対抗するために協力するようになったのは、そう遠い昔のことではないのだが」
彼は沈黙におちいり、二つの宇宙艦隊のあいだの激烈な戦闘をながいこと見つめていた。やがて戦闘がおわり、三惑星連合の艦隊は戦闘円錐を組みなおして、人工惑星に突撃した。
「破壊、また破壊だ」彼は動力スイッチを調節しながらため息をついた。「彼らは相互に破壊しあうことに努めているのだから、彼らをすべて破壊するのをためらう理由はないと思う。われわれには鉄が必要なのだし、彼らは無益な種族なのだ」
彼は、にぶい赤色のエネルギーからなる軟化力場を放射した。その力場は広大だったが、全艦隊を包囲することはできなかった。それでも、巨大な円錐口のなかばはまもなく消滅し、それを構成していた艦隊は縮小して同質異形鉄のねっとりした液流と化した。艦隊は人工惑星に対する攻撃を中止し、その円錐を回転して、サムスの観測員たちのウルトラ・ビジョンにぼんやり知覚される無形のあるものに対して、炎を吐く軸《じく》をむけた。大艦隊の膨大な集中ビームは痛烈に放射された。しかも、そればかりではなかった。
なぜなら、ガーレーンは、地球人の捕虜が容易に脱出して以来、彼の理論的知識を越えないまでも、彼の経験をまったく越えた、あることが起こりつつあるということに気づいていたからだ。彼は、サブ・エーテルが閉鎖されていることを発見した。彼は、三人の捕虜に対しても、三惑星連合の艦隊に対しても、サブ・エーテル兵器を作用させることができなかった。しかし、いま彼は、新来者のサブ・エーテルのベールの中で行動することができた。軽微なテストの結果、新来者に対してサブ・エーテル兵器を使用するつもりなら、それが可能だということがわかった。
ロージャーは、あの三人が彼自身と同様にただの人間ではないということを確信しはじめていた。だれが、またはなにが、彼らを活動させているのか? エッドール人の仕事でないことは確実だ。どんなエッドール人も、あのように特異な技術を開発しなかっただろうし、彼に知られずには開発できなかっただろう。では、なにか? さっきなされたようなことをするには、エッドール人と同様に古くて、同様に有能な、しかし、まったく異なった性質の種族の存在が必要だ。ところが、エッドールの巨大な情報センターの情報によれば、そのような種族は存在していないし、これまでにも存在したことがなかったという。
この来訪者たちは、エッドールの科学にしか知られていないと思われていた装置を所有しているところからすれば、さっき示されたような心力を所有していることも予想される。彼らは、どこかほかの時空体系から最近到来したのだろうか? おそらくそうではあるまい――エッドール人の観測によれば、到達可能などんな時空体系内にも、そのような種族の痕跡《こんせき》は発見されていない。このような種族が二種類も、まったく予知されることなく、ほとんど同じ瞬間に出現したと仮定することは空想的に過ぎるから、この未知の生物が、あのふたりの三惑星連合軍士官とあの女の保護者――というより活動源――であるという結論は避けられないように思われる。この見解は、新来者が三惑星連合の艦隊を攻撃して数万の三惑星連合軍を殺していながら、あの一見人間らしい三人を事実上救っているという事実によって裏書きされる。すると、つぎには人工惑星が攻撃されるだろう。
よろしい、それなら、三惑星連合軍に協力して新来者を攻撃しよう――それも、新来者にとって三惑星連合軍の兵器より恐ろしくない兵器を使用するのだ――そしてそのあいだに、こちらはそのあとでおこなう真の攻撃準備をととのえよう。そこでロージャーは命令を発して待機しながら、依然として不明な一つの点についてますます集中的に思考した――この新来者自身が三惑星連合の艦隊を撃滅したのに、なぜ自分はあの艦隊に対して彼のもっとも強力な兵器を使用することができなかったのか?
こうして三惑星の歴史を通じてはじめて、法と秩序を維持する兵力が、掠奪と暴行をこととする兵力と協力して、共通の敵にあたることになったのだ。壊滅を運命づけられた艦隊は、すさまじい破壊力を持つ重力ビームをはじめ、不可抗的なエネルギーからなる鞭《むち》、角材、かんな、錐《きり》などを投射した。ロージャーも、動員できるかぎりの物質的兵器を投射した。しかし、爆弾も、高性能爆薬弾も、超強力な原子魚雷でさえ、同様に無効だった。赤くかすんだ虚空《こくう》のベールの中で、同様にこつ然と消滅した。そして、艦隊は溶解されていった。艦艇はたてつづけに赤く炎上し、縮小し、空気を放出し、船体を構成する鉄が濃赤色のねっとりした流体に変じて、三惑星連合軍と海賊が強烈な攻撃を集中している貫通不能なベールの中へ流れこんでいった。
攻撃円錐を構成していた最後の一隻が変形されて、その結果生じた金属が貯蔵されてしまうと、ネヴィア人は――ロージャーが予想したように――人工惑星に注意を転じた。しかし、この構築物は、軍艦のように劣弱ではなかった。それは、エッドールのガーレーンによって設計され、彼自身の監督のもとに建造されたものだった。それは、ガーレーンの広大な心が予想できるかぎりのどんな非常事態にも応じられるような動力、装置、武装をほどこされていた。その全体は、コスティガンをひどく驚かせた性能を持つ障壁で保護されていた。どんな地球人科学者や技師の想像も遠くおよばないほど有効な障壁だ。
ネヴィア人の貪欲《どんよく》な変形ビームは、エーテル波段階以下の波動だったが、この障壁にぶつかってはね返された。無効に敗退した。またぶつかったが、またはね返された。驚いたネラドがエネルギーを二倍にし、さらに四倍にするにつれて、ビームは障壁にぶつかってものほしげにからみつき、炎の舌をのばしながら、その透過不能の表面をなめまわした。ネヴィア人は、いよいよはげしくエネルギーの洪水を送りこんだ。人工惑星の膨大な全球体は、純粋な赤いエネルギーでまばゆく輝く一個のボールと化したが、海賊の障壁は依然として破壊されなかった。
グレー・ロージャーは、冷然と身動きもせず、巨大なデスクについていた。デスクの表面は、いまや一転して、制御装置が縦横に並んだパネルになっていた。現在障壁にかかっている程度の負荷なら、いつまででも負担できる――しかし、彼の判断があやまっていなければ、この負荷はまもなく性質が変化するだろう。そのときはどうするか? ロージャーの本体であるガーレーンは、いかなる物理的、化学的力や核エネルギーでも殺されない――傷つけられさえしない。人口惑星が破壊されるまでとどまっていて、それによって必然的にエッドールにもどり、なんの物質的証拠も残さないようにすべきだろうか? いや、いけない。未完成の仕事が多すぎる。現在つかんでいる情報を基礎とした報告は、完全でも決定的でもありえない。エッドールのガーレーンともあろうものが、皮肉で無慈悲に分析的な側近グループに提出する報告は、つねに完全で決定的だったし、これからもつねにそうでなければならないのだ。
彼自身の心に匹敵するような心を持った非エッドール人が少なくともひとりは存在するというのは事実だ。もしひとりいるとすれば、そのような心を持った種族があることになる。そう考えるのはいまいましいが、事実の存在を否定するのは愚《ぐ》の骨頂《こっちょう》だ。心力は時間に応じて成長するものだから、あの種族は彼自身の種族と同じくらい古いにちがいない。したがって、エッドールの情報センターは、情報の完全さをよりどころにしてそのような種族の存在を否定しているが、あやまっていることになる。完全ではないのだ。
なぜ完全ではないのか? そのような二つの種族が相互の存在に気づかないままでいるとすれば、一方が故意にそうしているとしか考えられない。したがって、過去のある時期に、この二つの種族は少なくとも一瞬、接触を持ったのだ。そして、その接触についてのエッドール人の記憶はすべて抑圧され、それ以上の接触は起こらないようにされたのだ。
ガーレーンが到達した結論は、じつに気づかわしいものだったが、彼はエッドール人らしく事態を直視した。彼は、そうした心的抑圧がどのようにして可能だったかをとまどう必要はなかった――彼は知っていたのだ。また、最初のエッドール人以来すべての祖先が知っていたすべての知識が彼自身の心に包含されていることも知っていた。もしそのような接触が、かつておこなわれたとすれば、その記憶がどれほど慎重に抑圧されたとしても、彼の心には、少なくともその接触についてなんらかの情報が依然として包含されているはずだった。
彼は思考した。過去へ、過去へ、さらに過去へ――さらにさらに――
すると、彼が思考しているうちに、一つの妨害エネルギーが彼の心に作用しはじめた。まるで、彼が従来さぐったことのなかった心の深奥をさぐっている精神的深針を、ピンセットでつまんでわきへひっぱっているかのようだった。
「なるほど――では、おまえはわしが思いだすことを望まないのだな?」ロージャーは、きびしい灰色の顔を筋一つ動かさないで、声高くいった。「どうかな――おまえは、わしが思い出すのを妨げられると本気で信じているのか? わしは、さしあたりこの探査をうちきらなければならないが、まもなく探査を遂行することを受けあっておくぞ」
「船長、敵のスクリーンの性質分析であります」ネヴィア人計算員のひとりが、記号の列の記入された金属板を指導者に渡した。
「なるほど、多周波式か――完全|被覆《ひふく》――こういうタイプのスクリーンは、こんな下等な生命形態から予想されなかったな」ネラドはつぶやいて、ダイアルと制御装置を調整しはじめた。
彼がそうするにつれて、人工惑星にまといついているエネルギーのベールの性質が変化しはじめた。スペクトルに沿って、赤から急速に色を変えて目もくらむようなすみれ色になり、ついで消滅した。消滅するとともに、防御壁は崩壊しはじめた。いきなり穴があくのでなく、部分的に軟化して、特異なしわをよせながらへこんでいった――頑強に抵抗しながら、徐々に退却していったのだ。
ロージャーは、短時間無慣性状態をためしてみた。無効だった。彼が予期したように、敵はそれにもそなえていた。彼は科学者奴隷のうち二、三のもっとも有能なものを召集して、命令を発した。一団のロボットが数分間いそがしく働くと、防御壁の一部が突出して、人工惑星を攻撃しているエネルギーの層の外までのびる一本のチューブになった。そのチューブから、信じられないほど強力なビームが噴出した。このビームの背後には、人工惑星の巨大な装置が発生できるかぎりのエネルギーが集中されていたのだ。ビームは、ネヴィア人の赤味をおびた透過不能な力場に一つの穴をうがち、魚の形をした巡洋艦の内部スクリーンに白熱的なはげしさで襲いかかった。そしてそのとき、チューブのもう一方のはしから、より小さな噴出――運命きわまった人工惑星から何かが宇宙へ射出されたかのような、ほとんど認識でないくらいの閃光――があったか? それともなかったろうか?
ネラドの放射器がすさまじい過負荷《かふか》に悲鳴をあげ、彼の首筋はけいれん的にのたうった。しかし、ロージャーの努力も、ながくは継続できないほど苛烈《かれつ》だった。エネルギー発生器はつぎつぎに焼け切れ、防御スクリーンは崩壊して、赤い変形ビームは抵抗力を失った巨大な金属壁に貪欲に襲いかかった。やがて、はげしい爆発とともに、人工惑星内に閉じこめられていた空気が弱化した容器から噴出し、同質異形鉄のどろどろした川が、いよいよ大きく、いよいよすみやかに流れはじめた。
「こっちに鉄の貯蔵が無制限にあってよかった」ネラドは、首筋を結び目ができるほどくねらせながら、ほっとしたようにいった。「はじめの貯蔵の残りの七ポンドだけだったら、あの最後の反撃をかわすことはむずかしかったろう」
「むずかしいですって?」副長が問い返した。「それどころか、われわれはもう宇宙の浮遊原子になっていたでしょうよ。ところで、この鉄をどう処理しましょうか? われわれの貯蔵所には、この半分も収容できないでしょう。それから、無傷で残ったあの一隻の船はどうします?」
「下部船倉の資材を投棄して、この鉄を収容する余地をつくれ。あの一隻は、ほうっておけばよい。現状でも、本船は過荷重状態になるだろう。それに、できるだけはやくネヴィアに帰還することが肝心なのだ」
もしガーレーンがこの言葉を聞いていれば、彼の疑問は解決されただろう。写真撮影船が生き残る〈必要がある〉ということは、全アリシアが知っていた。ネヴィア人は、鉄にしか関心を持っていなかった。しかし、エッドール人は完全主義者だから、三惑星連合艦隊のあらゆる艦隊を撃滅しないかぎりは、満足しなかっただろう。
ネヴィア人の宇宙船は、莫大な荷重のせいでよたよたしながら、航行して行った。第四区画の船室では、人工惑星が陥落して吸収されるのを緊張して見まもっていた三人の地球人が、げっそりした顔を見あわせた。クリオが沈黙を破った。
「まあ、コンウェイ、ひどいことだわ! これは――これは恐ろしすぎるわ!」彼女はあえぐようにいったが、コスティガンの顔をびっくりしたように見つめて、いつもの元気のいくぶんかを回復した。彼は何か考えているようすで、目をするどく光らせていた――彼のきびしくわかわかしい顔には、恐怖や狼狽の色はすこしも見られなかった。
「情況はあまりよくない」彼は率直に認めた。「ぼくは、自分がこんなまぬけじゃなけりゃいいと思うよ――もしライマン・クリーブランドかフレッド・ロードブッシュがここにいれば、大いに役立ったろうが、ぼくではやつらの装置について重要なことがわからん。さっき見えたあの奇妙な閃光――もしあれが実際に閃光だったらの話だが――あれの意味さえわからないのだ」
「あれが実際に起こったのだとしても、なぜ小さい閃光のことなんか気にするの?」クリオは不思議そうにたずねた。
「きみは、ロージャーがなにかを発射したと思うのかね? そんなはずはない――わしには何も見えなかった」ブラッドレーが主張した。
「ぼくにも、どう考えていいかわからない。なにか物質的なものが、ウルトラ・ウェーブでも捕捉できないほど速く投射されたなんていうことは経験したことがない――しかし、ロージャーのほうでは、ぼくがどこでも経験したことがないような装置をうんと持ってるからだ。ただしあのことが、われわれの現在の苦境と何か関係があるとは思わない――とはいっても、われわれの立場はますますわるくなっていくかもしれない。われわれはまだ空気を呼吸しているがね。それに彼らがぼくのウルトラ・ウェーブを妨害していなければ、まだ通信できるはずだ」
彼は両手をポケットに突っこんで、話しはじめた。
「サムスですか。コスティガンです。はやくわたしの言葉をレコーダーにとってください――たぶん、あまり通信の時間がないでしょう」そして十分ばかり、彼は簡潔に、そしてできるかぎりしゃべって、それまでに起こったことを明確に報告した。しかし、彼は不意に言葉をとぎらせて、苦痛に身もだえした。そして、狂ったようにシャツをくつろげると、小さな装置を部屋のすみにほうり投げた。
「わっ!」彼は叫んだ。「やつらは耳が聞こえんかもしれんが、ウルトラ・ウェーブは確実に探知できる。おまけに、なんて妨害をしやがるんだ! いや、けがはしていない」彼は、心配そうに駆け寄った娘を安心させた。「しかし、きみたちの回路を切っておいてよかったよ――奥歯が六、七本ぐらつくような目にあうところだった」
「彼らがわたくしたちをどこへ連れて行くつもりなのかわかって?」彼女は真剣にたずねた。
「わからない」彼は、彼女のしっかりした目をじっと見つめながら、あっさり答えた。「きみに嘘をいってもむだだ――ぼくがきみをすこしでも理解しているとすれば、きみは毅然《きぜん》として現実を受けとめられるはずだ。あの木星人や海王星人の話はでたらめだ――あのようなものは、われわれの太陽系に生じたためしがない。あらゆる兆候からして、われわれが遠路長大な航路についていることがわかるね」
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五 ネヴィア戦争
ネヴィア人の宇宙船は突進して行った。地球人たちには、船は静止しているように思われた――彼らの出身惑星、地球の重力よりいくらか小さい重力が感じられるに過ぎなかった――けれど、ふたりの地球人士官は、どちらも宇宙航行士だったので、船がこのときでさえ光速度よりはるかにはやい速度で航行していること、高い率で加速しているにちがいないことにすぐ気がついた。
ブラッドレーは、きたえぬかれた古《ふる》つわものだったので、一連の観測をすましてしまうなり、三つの続き部屋のいちばん手前の部屋にさっさとひっこんで、クッションを積みかさねた上でぐっすり眠っていた。クリオにあてられた中央の部屋では、コスティガンが彼女に寄りそっていたが、体に触れはしなかった。彼の体はこわばって、顔はきびしくひきしまっていた。
「コンウェイ、あなたはまちがってるわ、とてもまちがってるわ」クリオは、ひどく真剣に話していた。「あなたの気持はわかるけれど、それはいつわりの騎士的精神よ」
「全然そんなことじゃないんだ」彼は頑固にいい張った。「ぼくが自分をおさえているのは、きみがこうして宇宙でただひとり危険にさらされているためばかりじゃない。ぼくは、きみと自分自身をよく知っているから、ぼくらがいま愛の誓いをかわせば、それを一生まもりぬくことがわかっている。その意味では、ぼくがいまきみをくどきはじめるか、ふたりが地球へもどるまで待つかは問題じゃない。きみは自分自身のためにぼくをきっぱりはねつけたほうがいい、といってるんだ。もしきみがぼくに近寄るなといえば、ぼくにはそうできるだけの自制力がある――きみがいわなければ、ぼくにはできない」
「どっちの意味でも、わたくしにはわかっているわ。でも――」
「でももヘチマもない!」彼はさえぎった。「ぼくと結婚すれば、どういう不幸にぶかつるかがわからないのか? ぼくらはなんとかして生還したと仮定しよう、それもたしかじゃないがね。だが、生還したとしても、いつか――それも近いうちかもしれない――だれかがぼくの首の賞金としてラジウム五十グラムをせしめることになるだろう」
「五十グラムですって? サムスその人の首にさえ六十グラムの賞しかかかっていないというのに。コンウェイ、わたくし、あなたが相当な大物だということを知っていたわ!」クリオは、動じないで叫んだ。「でも、わたくし、なんとなく感じるの。どんな海賊だって、その大枚の賞金をせしめるまえに、それの何倍ものむくいを受けるでしょう。ばかげたことをいうのはやめてちょうだい――じゃ、おやすみなさい」
彼女は握手のためにさしだした手をひっこめると、美しい曲線をえがいたくちびるをほころばせながら、それを彼に近寄せた。彼の腕は彼女を抱きしめた。彼女の腕は彼の首に巻きついた。そしてふたりは、愛にみちた最初の抱擁にわれを忘れて、身動きもせずに抱きあっていた。
「愛してるよ!」コスティガンの声はかすれていた。いつもはきびしい目も、やさしく輝いていた。「それできまった。ぼくはいまこそ本当に生きるんだ。少なくとも、生きているあいだは――」
「やめてちょうだい!」彼女はするどく命令した。「あなたは、老衰で死ぬまで生きるのよ――見ていてごらんなさい。生きなければならないのよ、コスティガン!」
「それもそうだ――いま死ぬ可能性はない。きみと愛の誓いをかわしたからには、地球からアンドロメダ星雲にかけてのあらゆる海賊がかかってきても、殺されるものか。さあ、おやすみ、かわい子ちゃん。ぼくはひきあげたほうがよさそうだ――きみは眠る必要がある」
愛人同士の別れかたは、コスティガンの言葉が示すほど単純直接ではなかったが、結局は彼も自分の部屋にもどり、クッションを積みかさねた上にくつろいだ。彼のきびしい表情は変化していた。彼が見ているのは、金属製の低い天井ではなく、金髪でコロナのようにふちどられている、美しいたまご形の日焼けした若々しい顔だった。彼の視線は、誠実で率直な暗青色の目の奥に吸いこまれていった。その青い泉のような目をいよいよ深くのぞきこみながら、彼は眠りに落ちた。彼の顔は、年齢よりもはるかにきびしくひきしまっていたが――三惑星連合軍の戦区指揮官の人生は容易ではなく、また、たいていの場合長くもなかった――眠っているその顔には、彼の至上の幸福を反映するように、あのあらたに加わったやさしい表情がただよっていた。
彼は、いつものように八時間ぐっすり眠ってから、やはり習慣と訓練にしたがって、中間的なうたた寝の段階もなく、ぱっちり目をさました。
「クリオ?」彼はささやいた。「起きてるかい?」
「起きてるわ!」彼女の声が、一音一音にほっとした思いをこめて、ウルトラ・ウェーブ通話器から伝わってきた。「あきれたわ。わたくしたちがどこへ連れていかれるか知らないけど、あなたがた、そこへつくまで眠っているつもりかと思ったくらいよ! ふたりともきてちょうだい――あなたがたときたら、まるで家のベッドにはいってるみたいに眠っていたけれど、どうしてそんなことができるのかわからないわ」
「どこででも眠れるようにしなければだめだ。さもないと、いざというときに――」コスティガンは、ドアを開いてクリオの青ざめた顔を見たとたんに、言葉をとぎらせた。彼女がこの八時間を眠れずに苦しみながらすごしたことはあきらかだった。「なんてことだい、クリオ。なぜぼくを呼ばなかったんだ?」
「あら、わたくしは大丈夫よ。ただ、ちょっと神経がたっているだけ。あなたがたがどんな気分かは、きくまでもないわね、そうでしょう?」
「そうだ――ぼくは腹がへった」彼は快活に答えた。「この問題をどう処理できるか、ためしてみよう――いや、そのまえに、やつらがまだサムスのウルトラ・ウェーブを妨害しているかどうか調べてみよう」
彼は小さな絶縁ケースをとりだすと、コンタクト・ボタンに指でかるく触れた。彼の腕は、はげしくはね返された。
「まだやってる」彼は、説明するまでもない説明をした。「やつらは、われわれに外部と話をさせたくないらしいな。だが、通信を妨害することは、ぼくが通信するのと同じくらい効果がある――もちろん、サムスのほうではその妨害を追跡できるからね。さあ、われわれの朝食がどういうことになっているのか調べてみよう」
彼が映像盤のところへ歩いて行って、その投射ビームを船の制御室に投射すると、ネラドが計器パネルの前に犬のように横たわっているのが見えた。コスティガンのビームが制御室に投射されたとたん、青いライトがさっとつき、ネヴィア人は一つの目と一本の腕を自分の小型観測映像盤にむけた。コスティガンは、これで視覚交渉ができたことを知ったので、手まねをして自分の口を指さした。空腹を示す宇宙共通の合図になるだろうと思ったのだ。ネヴィア人が一本の腕を振って制御装置をいじると、クリオの部屋の床の広い一区画が横にすべった。そのようにしてできた口にテーブルがあらわれ、低い台に乗ってせりあがってきた。テーブルには、やわらかいクッションのついたベンチが三つそろえてあり、銀やガラスのきらびやかな食器がならんでいた。
目がくらむほど白い金属のボールや皿、すばらしいカットグラスでできた腰の細い台つき皿、すべてが六角形で、海に関係のある模様が美しく精巧に彫りこまれていたが、そうした模様はどうやら一般的に使われているらしかった。そして、この奇妙な種族のテーブル用具は、じつに特異だった。十六本の針のようにするどい湾曲《わんきょく》した歯がついた引き裂き用ピンセットがあった。弾力性のへらがあった。弾力性のへりのついた深いひしゃくや浅いひしゃくがあった。そのほか、地球人たちにはどう使うのか想像もつかないような、奇妙に湾曲した道具がいろいろあった。それらにはすべて、ネヴィア人の長い細い指に適するように巧妙に工夫された握りがついていた。
しかし、こうしたテーブルや食器は、かくも怪物的な種族のところで見いだされるとは思いもよらぬほどの文明度を示している点で、地球人たちにとっておどろくべきものであったとしても、食物は、それと別な意味ではあるが、いっそうおどろくべきものだった。なぜなら、カットグラス製のすばらしい台つき皿は、むかむかするようなはげしい悪臭をはなつ灰緑色の粘液でみたされ、小型のボールには生きたクモヒトデやその他の珍味が盛られ、大きな皿には、長さ三〇センチもある魚が一匹ずつ、〈なま〉でまるごと、赤や紫や緑の海草をそえてのせられていたからだ!
クリオは一目見るなり息をのみ、目をとじてテーブルから顔をそむけたが、コスティガンは三匹の魚を一枚の皿に移してわきへのけてから、映像盤をふりむいた。
「これは、フライにすればうまいだろう」彼はブラッドレーにいいながら、ネラドに向かってしきりに合図して、この食事はたべられないということを、〈じかに〉話したいということを伝えた。やっと意味が通じて、テーブルは沈下して見えなくなり、ネヴィア人指揮官が用心ぶかく部屋にはいってきた。
コスティガンがつよく要求したので、ネラドは完全に武装して油断なく見張っている三人の護衛を戸口に残して映像盤のところへきた。そこで地球人は海賊の救命艇の炊事室にビームを投射し、自分たちにそこで暮らさせてもらいたいという意味を伝えた。しばらくのあいだ、腕や指を使っての議論がはげしくおこなわれた――あまり雄弁な会話ではなかったが、どちらも意味を充分明白に伝えることができた。ネラドは、地球人たちに救命艇へ行くことを許そうとしなかった――危険をおかしたくなかったのだ――しかし、彼はウルトラ光線検査を徹底的におこなったのち、やっと部下たちに命じて、電気レンジと地球食品を中央の部屋へ持ちこませた。まもなく、ネヴィアの魚がフライパンの中でシューシュー音をたてはじめ、コーヒーと焼けるビスケットのうまそうなにおいが部屋をみたした。しかし、ネヴィア人たちは、それらのにおいがはじまったとたんにあわてて部屋を逃げだし、この奇妙で不快な調理過程の残りを映像盤の中で観察することにした。
朝食がすみ、すべてが整然と宇宙船式にととのえられると、コスティガンはクリオをふりむいた。
「さあ、クリオ、きみは眠る方法を身につけなきゃならない。きみはへとへとに疲れている。目は火星のピクニックをしてきたみたいだし、朝食も半分しかたべなかった。からだの調子をととのえておくために、眠ってたべなきゃならない。きみに気絶されるのはごめんだよ。で、このライトを消すから、きみはここに横になって、正午まで眠りたまえ」
「あら、気にしないでちょうだい。わたくし、今夜眠るわ。わたくし、とても――」
「いま眠るんだ」彼はおだやかにいった。「ブラッドレーとぼくが両側にいるのだから、きみが神経質になるとは思いもよらなかった。だが、今度はふたりともきみのすぐそばについているよ。ぼくらは、二羽のめんどりが一羽のひよこをあいだにはさんでいるみたいに、きみを見まもっている。さあ、横になってねんねするんだ」
クリオはめんどりとひよこのたとえに笑いだしたが、おとなしく横になった。コスティガンは大きな長椅子のはしに腰をおろして彼女の手をとりながら、のんびりしゃべりはじめた。話がとぎれる時間がしだいに長くなり、クリオの言葉はしだいに少なくなってきた。やがて彼女の長いまつげのはえた瞼《まぶた》がとじて、深い規則的な呼吸が聞こえはじめ、彼女がぐっすり眠っていることを示した。男は、深い愛をこめた目で彼女を見つめた。かくも若く、かくも美しく、かくも愛らしい――彼はどれほど彼女を愛していることか! 彼は形式的な信仰は持っていなかったが、いまは考えることがすべて祈りに似ていた。もしも彼女をこの苦境からぬけださせることができさえすれば――おれは彼女と同じ惑星に住む可能性はないが、しかし――神よ、たった一度だけでもその機会を与えたまえ――たった一度だけ!
しかし、コスティガンはこの何日来、ひどく緊張して働きつづけてきたので、睡眠が極度に不足していた。彼は、混沌《こんとん》とした感情と彼女の頬のなめらかな曲線を見つめることでなかば催眠術にかけられたようになり、目をとじると、まだ彼女の手をとったまま、彼女のわきのやわらかいクッションに身を沈めて眠りに落ちた。
ブラッドレーは、ふたりがこうして手をとりあって子供のように眠っているのを見つけて、父親のようなやさしい表情を浮かべて見おろした。
「かわいい娘だな、クリオは」彼はつぶやいた。「それに、コスティガンは比類のない男だ。このふたりなら――地球の長い歴史が生んだどんな夫婦にも劣らないような、すばらしい夫婦になるだろう。わたしも、もうひと眠りできそうだ」彼は大きくあくびしてクリオの左側に横たわると、数分のうちに眠りに落ちた。
数時間後、ふたりの男は、たのしげな笑い声で目をさました。クリオが起きなおって、目をきらきらさせながらふたりを見ていた。彼女は元気を回復して陽気になり、ひどくお腹をすかして、とてもおもしろがっていた。コスティガンはびっくりしながら、自分でひきうけた仕事を怠ったということに責任を感じたが、ブラッドレーは当然のことのように平然としていた。
「ふたりともこんなにりっぱなボディーガードになってくださってありがとう」クリオはまた笑った。が、すぐまじめになった。「わたくしとてもよく眠ったけれど、今晩あなたに夜どおし手をとっていてもらわないでも眠れるかしら?」
「いや、この男はそうするのをいやがりやしないよ」ブラッドレーがいった。
「いやがるだって!」コスティガンは叫んだ。彼の目や口調は、無量の思いを物語っていた。
三人は二度目の食事をととのえてたべたが、クリオは腹いっぱいつめこんだ。彼らがひと休みしてから脱出の可能性について相談しはじめたとき、ネラドと三人の護衛が部屋にはいってきた。ネヴィア人科学者はテーブルの上に一つの箱をのせ、その計器パネルを調節しはじめた。そして、調節するたびに、地球人たちを注意深く観察するのだった。しばらくして、箱から音節的な言語が断続的に流れだしたので、コスティガンは、はっとさとった。
「おまえたちは話せるんだな――話す能力があるんだな!」彼は興奮して手を振りながら叫んだ。
「クリオ、わかるだろう。やつらの声は、われわれの声より高いか低いかどっちかなんだ――たぶん高いだろう――で、やつらは可聴周波数変化装置をつくったんだ。このトカゲのおばけは、ばかじゃない!」
ネラドはコスティガンの声を聞いたにちがいない。その長い首筋は湾曲したようによじれたりして、ネヴィア人式に満足の意を示した。両方とも、相手の言葉を理解することはできなかったが、両方とも、知的な会話がこの二つの種族に共通の属性であることを知った。この事実によって、捕獲者と捕虜の関係はいちじるしく変化した。ネヴィア人たちは、この奇妙な二足動物が多いに知的なものかもしれないということをおたがいに認めあったし、地球人たちはたちまち希望が増大した。
「やつらが話すことができるとすれば、事情はそうわるくないぞ」コスティガンは、情況を総括した。「ぼくらは、気楽にかまえて、せいいっぱい自由にふるまったほうがよさそうだ。とくに、これまでのところでは、やつらから逃げだすどんな方法も工夫できなかったんだからね。やつらはものがいえるし、聞くこともできるんだから、ぼくらはそのうちに、やつらの言葉をおぼえることができる。もし脱出できないとしても、やつらとなんらかの交渉をして、ぼくらを、ぼくらの太陽系に連れもどさせることができるかもしれない」
ネヴィア人たちも、地球人たちと同じように相互通信の実現を望んでいたので、ネラドはあらたに工夫した可聴周波数変化装置をたえず使用していた。両者の言語の交換についてくわしく述べる必要はない。簡単にいっておくと、彼らは赤んぼうが言葉をおぼえるようにいちばん初歩から出発したが、完全に発達した有能な頭脳を持っているという点で、赤んぼうよりはるかに有利だった。そして、地球人がネヴィア語をまなんでいるあいだに、何人かの両棲人は(そしてクリオ・マースデンもついでに)三惑星連合語をまなんでいた。ふたりの士官は、ネヴィア人にとって、論理的に組みたてられた三惑星共通語をまなぶほうが、非論理的で複雑な英語をマスターするよりはるかに容易だということをよく知っていたのだ。
短期間のうちに、両者は二つの言語を奇妙に混合して用いることによって、ある程度おたがいに理解しあえるようになった。少数の観念が交換されるようになるとすぐ、ネヴィア人科学者たちは地球人がカラーのように首に巻きつけられるほど小型の周波数変化装置をつくった。そして捕虜たちは巨大な船内を自由にぶらつくことを許されたが、解体された海賊の救命艇が保管されている部屋だけは、立ち入りを禁じられていた。したがって、彼らの観測映像盤上で、ものすごく空虚な恒星間宇宙空間に魚の形をした宇宙巡洋艦がもう一隻あらわれたときにも、ながく疑問のうちにほうっておかれることはなかった。
「これはわれわれの姉妹船で、きみたちの太陽系に存在する鉄を採集するためにそこへむかっているのだ」ネラドは、心ならずも彼の客となった三人に説明した。
「われわれの技術陣が超宇宙船の欠点を克服してくれるといいが!」コスティガンは、ネラドが背をむけたとき、ふたりの仲間にささやいた。「そうすれば、あの船はわれわれの太陽系についたとき、鉄の貨物以上のなにかを頂戴することになるだろうよ!」
さらにときがすぎ、そのあいだに青白色の恒星が一つ、無限に遠い天空から浮きだして、円板として知覚できるようになりはじめた。突進する宇宙船がその恒星に接近するにつれて、それはいよいよ大きく、いよいよ青くなり、ついにネヴィアが親星のすぐそばに見えてきた。
船は重い貨物を積んでいたが、動力が非常に巨大なので、やがてネヴィアの都市の中央の大きな礁湖に向かって垂直に降下していった。その開けた水面には、生物の姿はなかった。この着水は、通常のものではなかったからだ。同質異形鉄からなる、とほうもない荷重の降下にブレーキをかけるビームのすさまじいエネルギーによって、水は煮えたぎった。そして、巨大な宇宙船は、水面にふわりと浮くかわりに、側鉛《そくえん》のように水底に沈んだ。ネラドは船を、用意された大船架に無事にのせるというデリケートなはなれわざをやってのけたのち、警備員につきそわれて彼のまえに連れてこられていた地球人たちをふりかえった。
「貨物の鉄をおろしているあいだに、わたしはきみたち三人の標本を科学大学に連れて行く。きみたちは、そこで徹底的な肉体的心理的検査を受けるのだ。わたしについてこい」
「ちょっと待て!」コスティガンは、ふたりの仲間にすばやくひそかな目くばせを送りながら抗議した。「きみは、われわれに〈水中を〉、しかもこんな深さでくぐらせるつもりか?」
「そうだとも」ネヴィア人は、おどろいて答えた。「もちろん、きみたちは空気呼吸生物だが、すこしは泳げるにちがいないし、こればかりの深さなら――きみたちの単位で三十メートルあまりしかないのだから――そう困ることはないだろう」
「きみは二重にまちがっている」地球人は、説得するようにいった。「きみのいう『泳ぐ』という言葉、水中を推進する意味なら、われわれはそんなことはできない。われわれは、頭まで水につかっていれば、一分か二分で、あえなくおぼれてしまうし、この深さの水圧では、たちまち死んでしまうだろう」
「よろしい、もちろん救命艇を使うことはできるが、それは――」ネヴィア人船長は迷ったように話しはじめたが、信号パネルから断続的な呼びだし音がひびいたので、言葉をとぎらせた。
「こちらはネラド」彼は、マイクに向かって応答した。
「第三都市が深海魚の攻撃を受けている。敵は未知の兵器を搭載《とうさい》した新式の強力な移動要塞を開発したので、都市からの報告によれば、敵の攻撃を長くは持ちこたえることはできないという。都市では、可能なかぎりのすべての応援を求めている。きみの船は、多量の鉄を貯蔵しているばかりでなく、強力な兵器を搭載している。できるかぎりすみやかに救援におもむいてもらいたい」
ネラドが命令をくだすと、大きく開いた出入口から液化した鉄がどっと流れ落ち、ドックの底に広大な赤いプールができた。短時間のうちに巨船は浮上し、船体が排除する水と平衡《へいこう》を保った。船がわずかな浮力をえるやいなや、出入口はさっととじ、ネラドは動力をいれた。
「きみたちは自分の部屋へもどって、わたしが呼ぶまで待っていろ」ネヴィア人が指示し、地球人たちがその短い命令にしたがっているあいだに、巡洋艦は離水して深紅色の空にとびあがった。
「きみはなんて厚かましいほらふきだ!」ブラッドレーは叫んだ。三人は、続き部屋の中央の部屋にもどって、周波数変化装置を切っていた。「きみはカワウソよりはやく泳げるはずだ。それに、わたしはたまたま知っているのだが、きみがあのDZ八三から浮上したときの深さは――」
「たぶん、ぼくはちょっとばかり大げさにいったかもしれない」コスティガンはさえぎった。「だが、彼がぼくらを無力と思えば思うほど、ぼくらには都合がいいわけです。それに、やつらの都市に連れて行かれるのをなるべくあとまでひきのばしたほうがいい。そこから脱出するのはむずかしいでしょうからね。ぼくは二つばかり計画を持っているんですが、まだ充分に熟していないので――うへっ! この船はなんて足が速いんだ! もうこんなところへきた! もしこのスピードで水面にぶつかれば、船体が破壊しちまうぞ!」
船は、包囲攻撃を受けている第三都市へ向かって、浅い角度で速度をゆるめずに降下していた。そして、突進する船から、都市の中央の礁湖へむけて、一個の魚雷が発射された。それは爆発性のものではなく、一トンたっぷりの同質異形鉄をおさめた容器だった。それだけの鉄があれば、防戦中のネヴィア人にとっては、数百万の軍隊より有効だろう。第三都市は、ぎりぎりのところまで圧迫されていた。その周囲では、煮えたぎり爆発する水が、とぎれのない輪を形成していた――水は、過熱された蒸気が沸《わ》きたって、目もくらむように爆発する中でうねりたち、武装した深海魚によって放射される破滅的なエネルギーの作用で団塊をなしたままあらゆる方向に飛散《ひさん》した。
都市の外部防御はすでに崩壊し、地球人たちがおどろいて見つめているうちにも、巨大な六角形の建物の一つが爆砕され、その上部構造は金属の破片となってはげしく飛び散り、下半分は、ぐにゃぐにゃに沈下して沸きたつ海面下に没した。
ネヴィア人の宇宙船がスピードをゆるめずに水面にぶつかったとき、三人の地球人は手あたりしだいにささえになるものをつかんだが、その用心は不要だった――ネラドは、自分の船の強度や能力を完全に知っていたのだった。人工重力は衝撃によって変化せず、乗船者たちにとって船は依然として不動で水平だったが、いまや船は潜水艦と変じ、魚そのもののように身をひるがえして、もっとも近くにいる敵の移動要塞を背後から攻撃した。
それらはまったくの要塞だった。緑色の金属でできた巨大な建造物で、キャタピラつきの巨大な足に乗っており、容赦なく水をかきわけて前進する。そしてかき進みながら破壊するのだ。
コスティガンは、この奇妙な潜水艦を可視光線ビームで観察しながら、驚歎していた。要塞は水でみたされている。その水は、人工的に冷却された空気を通されており、要塞がかきわけていく沸きかえった洪水からまったく分離されているのだ。要塞には、二メートルほどの魚たちが乗り組んでいる。大きなぎょろぎょろした目をして、長い腕のような触手をたくさん持ち、制御パネルの前に静止したり、さまざまの任務に没頭し泳ぎまわったりしている。魚が知的な頭脳を持っていて、戦争を遂行するとは!
しかも、彼らの戦闘方法は効果的だった。彼らの熱線は彼らの前方数百ヤードにわたって海水を煮えたぎらせ、彼らの魚雷は、ネヴィア人の防御施設に爆発して、すさまじい連続的な衝撃を与えていた。しかし、あらゆる兵器のうちでもっとも有効なものは、三惑星連合軍には未知の兵器だった。要塞からは、関節のついた長いテレスコープのような棒のはしにまぶしく輝く、小さな球がついたものが突きでるのだ。その輝く先端がなにかの障害物にぶつかると、障害物は天地をゆるがすような爆発を起こして消滅した。それから、黒い部分だけが残った棒は、要塞の中へひっこんだ――しかし、つぎの瞬間には、また破壊力のある光った先端をつけてあらわれるのだった。
ネラドは地球人と同様、この奇妙な兵器を見たことがないらしく、慎重に攻撃して、霧のように不透明な赤色のスクリーンをはるか前方へ投射した。しかし、敵の潜水艦は完全な非鉄金属製なので、ネヴィア人のビームはその緑色の外板にはげしくおそいかかってからみついたが、無益だった。そして、敵の士官たちは、ネヴィア人のビームについて充分に知っているようだった。赤色のベールをつらぬいて、光る球がつぎつぎに飛来するので、はじめの二、三秒は狂気のように宇宙船を回避させて破壊をまぬかれるのがやっとだった。いっぽう、第三都市を防衛しているネヴィア人は、ネラドがきわめて適切な時期に届けてくれた多量の同質異形鉄を回収して、利用しつつあった。
都市からは、海面から海底まで達する広大な金属ネットが押しだされ、すさまじいエネルギーを放射したので、水そのものが押し返され、ガラスのようにすべすべした垂直な壁となって静止した。そのエネルギーの壁にむかっては、魚雷も無効だった。魚族が精いっぱい放射する熱線も、それにぶつかって白熱的に輝くばかりで無益だった。エネルギー球を総動員して一点に集中したが、その信じられないほどの破壊力をもってしても貫通《かんつう》することはできなかった。この想像を絶する爆発によって、水は数マイルにわたって飛散した。海底が露出したばかりでなく、地殻が吹きとばされて火口のような穴があいたが、その容積がどれほどあるかは地球人たちには想像もつかなかった。
その衝撃によって、移動要塞自体がはげしく投げとばされ、惑星そのものさえ軸まで震動したが、同質異形鉄によって供給されるエネルギー壁は持ちこたえた。広大なネットはゆらいで後退し、津波がまき起こって、山を崩したように破壊的な水の塊りを第三都市に送りこんだが、強固な防御壁はびくともしなかった。そしてネラドは、なおも敵の強力な水中戦車二台をあらゆる兵器で攻撃しながら、例の輝く球がすさまじい破壊力とともに投射されてくるのを回避しつづけた。魚族はサブ・エーテル波のベールを透視できなかったが、二つの移動要塞のすべての射撃員は、たえず伸縮する棒でベールをくまなくつらぬいて、このあきらかにきわめて強力な新型のネヴィア潜水艦を抹殺しようと絶望的な努力をした。ネヴィア潜水艦のすさまじい攻撃力は、要塞の頑強な防御壁をさえ、徐々に、しかし容赦なく破壊しつつあったのだ。
「さあ、いまこそぼくらが自分たちのためになにかをするいちばんのチャンスだと思うよ」コスティガンは、映像盤上に映っている興味深いシーンから目を放してふたりをふりむいた。
「でも、わたくしたちにどんなことができるの?」クリオがたずねた。
「どんなことにせよ、やってみるんだ!」ブラッドレーは叫んだ。
「どんなことだって、ここにいてやつらに分析されるよりはましだ――やつらがわれわれをどんなめにあわせるかは、いうまでもない」コスティガンはつづけた。「やつらは、ぼくがやつらのことをいくらも知らないと思ってるが、ぼくはそれよりずっと多くのことを知っている。やつらは、ぼくがスパイ光線を使っているのを捕捉したことがない――きみたちも知ってるように、これはおそろしく細いビームで、ほとんどエネルギーを使用しないくらいだからね――そういうわけで、ぼくは多量の情報を獲得できた。ぼくはやつらの出入口の大部分を開くことができるし、やつらの小型ボートの操縦法を知っている。この戦闘は風変わりだが、食うか食われるかの死闘で、けっして一方的なものじゃない。それで、やつらはネラドはじめ全員が非常任務についているようだ。ぼくらを見張っている警備員もいない――脱出の道は開かれているんだ。そして、脱出しさえすれば、この戦闘がぼくらには逃亡の絶好のチャンスを与えてくれる。外ではすでに多量の投射物が飛び交《か》っているから、やつらはたぶん救命艇の推進エネルギーを探知できないだろう。それにどのみち、やつらはぼくらを追跡するには忙しすぎる」
「脱出してから、どうするのかね?」ブラッドレーがたずねた。
「もちろん、出発するまえにそれをきめなければならない。ぼくは地球へ向かって突進するのがいいと思う。方向はわかっているし、エネルギーも充分ありますからね」
「でもコンウェイ、地球まではとても遠いわ!」クリオが叫んだ。「食糧や水や空気はどうするの――たどりつけるかしら?」
「きみはそれについてはぼくと同じくらいわかっているはずだ。ぼくはそう思うよ。しかし、もちろんどんなことが起こるかわからない。この救命艇はあまり大きくないし、大型の宇宙船より、ずっとのろい。それに、地球からはるかに離れている。もう一つまずいことは、食糧の問題だ。ネヴィア人の判断からすると、救命艇には充分食糧がたくわえられているわけだが、これはぼくらが食うにはひどく不潔な代物だ。しかし、栄養はあるから、食わなければならないだろう。ぼくら自身の食糧を長もちするだけ持って行くことはできないんだからね。ネヴィア人の食糧を食うことにしても、割りあてを節約しなければならないかもしれないが、なんとかやってのけられると思う。
いっぽう、ぼくらがこの惑星にとどまっていれば、どういうことになるか? やつらは遅かれ早かれぼくらを発見するだろうし、ぼくらは例のウルトラ兵器についてあまり知っていない。ぼくらは陸上生活者だが、この惑星にはほとんど陸地がない。それからまた、陸地があるにしても、ぼくらにはどこをさがしたらいいかわからないし、陸地を発見できたとしても、そこにはすでに、両棲人がうようよしているにちがいない。もっとましな点がいろいろあるかもしれないが、もっとずっとわるいこともあるかもしれない。どうだい、やってみるかい、それともこの惑星にとどまるかい?」
「やってみましょう!」「やってみよう!」クリオとブラッドレーは同時に叫んだ。
「よかろう。もうこれ以上おしゃべりに時間をつぶさないほうがいい――行こう!」
彼は錠をおろされ遮蔽《シールド》されたドアに近寄ると、奇妙な構造の発光筒をとりだして、それをネヴィア式の錠に向けた。なんの光も音も生じなかったが、頑丈なドアがなめらかに開いた。三人が外へ出ると、コスティガンはドアにまた錠をおろし遮蔽をほどこした。
「どうやって――なにを――?」クリオがたずねた。
「ぼくは、この二、三週間ネヴィア人の学校で勉強していたのさ」コスティガンは、歯を見せて笑った。「そしてあちこちでいろんなものをかき集めたんだ――具体的にも抽象的にもね。さあ、ふたりとも急ぐんだ! ぼくらの宇宙服は、海賊の救命艇の断片といっしょにしまわれている。あれを着てルーイストン銃を手にすれば、ずっと心丈夫になる」
三人は廊下を走りぬけ、傾斜路をのぼり、通路に沿って急いだが、そのあいだコスティガンはスパイ光線で行く手を検査して、ネヴィア人にぶつかるのにそなえた。ブラッドレーとクリオは武装していなかったが、コスティガンはひらたい金属片のへりをかみそりの刃のようにとぎあげたのを持っていた。
「ぼくはこいつを正確に、すばやく投げつけて、ネヴィア人がぼくらに麻痺光線を放射するまえにそいつの首をちょん切れると思うよ」彼はきびしい調子で説明したが、この即席の肉切り包丁をあつかう手ぎわを発揮する必要はなかった。
彼が慎重な観測から判断していたように、すべてのネヴィア人がなんらかの制御装置か兵器にとりついて、深海の住民たちとのすさまじい戦闘に参加していた。三人の行く手は開かれていて、彼らの持ちものが密閉されている部屋へ向かって走って行くあいだ、じゃまもされず、探知もされなかった。その部屋のドアは、コスティガンが学びとったビームによって、はじめのドアと同様に開いた。そして三人は急いで仕事にかかった。食糧の包みをつくり、たっぷりはいるポケットに非常食糧をつめ、ルーイストン式熱線放射器と自動銃を装備し、宇宙服を着こみ、外側の武器ケースに予備の武器を一そろいさしこんだ。
「さあ、これからがむずかしいところだ」コスティガンはふたりに告げた。彼はヘルメットをゆっくり左右にまわした。二人は、彼がスパイ光線眼鏡で進路を調べていることを知った。「ぼくらが到達する見込みのある救命艇は一隻しかなくて、その場合も、だれかに見つかる可能性が大きい。上のほうには探知器がうんとあるし、通信ビームが充満している廊下を一つ横切らなければならないだろう。さあ、あのラインが切れた――走れ!」
彼の言葉で、三人はホールへとびだし、リーダーが命令を叫ぶたびに、右や左にするどく身をかわしながら、二、三分走った。ついに彼は立ち止まった。
「ここに、ぼくがさっきいったビームが通っている。ビームの下をころがっていかなきゃならん。腰の高さよりも低いんだ――いちばん低いやつはあそこだ。ぼくがやることを見ていて、ぼくが命令したら、一度にひとりずつ、同じようにするんだ。身を低めること――腕や足をビームの中へいれちゃいけない。さもないと、やつらに見つかるからね」
彼は床に寝そべって、一メートルかそこらころがってから立ちあがった。そして、空白な壁をしばらくじっと見つめた。
「ブラッドレー――いまだ!」彼が叫ぶと、船長は彼の動作をまねした。
しかし、クリオは、重くてかさばる宇宙服を見につけるのに慣れていなかったので、うまくころがることができなかった。コスティガンが命令を叫ぶと、彼女はころがりかけたが、目に見えないビーム網のほとんど真下でまごついて止まってしまった。彼女がもがいているうちに、装甲をつけた片腕がもちあがった。そしてコスティガンは、ウルトラ・スパイ光線眼鏡を通じて、ビームが妨害力場にぶつかってかすかに閃光を発するのを見た。しかし、彼はすでに行動を起こしていた。低く身を沈めると、クリオの腕をたたき落としてひっつかみ、彼女を可視ゾーンから引きずりだした。つづいて、彼は手近なドアをあわただしく開き、三人はそろって小部屋にとびこんだ。
「きみたちの宇宙服の力場をすっかり切って、ビームを妨害できないようにするんだ!」彼は完全な暗黒の中でささやいた。「やつらを二、三人やっつけるのがいやだというんじゃないが、やつらが組織的な捜査をはじめたら、ぼくらはおしまいだ。しかしね、クリオ、きみの手袋がビームに触れたことでやつらが警告を受けたとしても、たぶんぼくらを疑いやしないだろう。ぼくらがいた部屋はまだ遮蔽《シールド》されているし、どっちにしても、やつらは忙しすぎてぼくらにかまっていられないということもある」
彼の判断は正しかった。二、三のビームがあちこちに投射されたが、ネヴィア人は何も異状を認めなかったので、いまの通信ビーム妨害は帯電した金属片が、なにかのはずみでビームの中へ落ちたためだろうと考えた。脱走者たちはそれ以上事故もなくネヴィア人の救命艇にはいった。コスティガンがそこでまずしたのは、宇宙服から鋼鉄の長靴の一方をはずすことだった。彼は安堵のため息とともに足を長靴から引き抜き、その長靴から救命艇の小さい動力タンクにたっぷり三十ポンドの同質異形鉄をそそぎこんだのだ!
「ちょっとつまみ食いしてきたのさ」彼はふたりが驚いてもの問いたげな顔をするのに答えて説明した。「これをこの長靴からあけると、ほっとしたよ! これをいれる容器を盗めなかったので、ここにいれるしかなかったんだ。この船の救命艇は、それぞれ二グラムずつしか鉄をつんでないから、それだけではじゃまされずに航行したとしても、地球までの半分ぐらいしかもどれない。それに、ぼくらは戦わなければならないだろう。だが、これだけあれば、ずっと戦いながらアンドロメダ星雲まででも行ける。さあ、脱出するとしよう」
コスティガンは映像盤を慎重に見つめ、巨船があちこちと移動して船の出入口が第三都市や戦闘中の水中戦車からなるべく遠くなったとき、救命艇を脱出させた。艇は海中へまっしぐらに突入し、赤い霧のようなベールを突破して、海面へと上昇した。
三人の逃亡者は緊張して腰をおろし、ほとんど息もつかずに映像盤を見つめていた――クリオとブラッドレーは、コスティガンが艇の周辺近くにすさまじくひらめく死のビームや棒を避けるのを手つだおうと無意識的に努力しながら、心の中でレバーを押したり、ブレーキを強く踏みこんだりしていた。救命艇は、突進したり回避したりしながら、水中から空中へ無事にとびだしたが、危険はあるまいと思われた空中で災厄がふりかかった。砕けるようなショックがあったと思うと、艇ははげしいきりもみ状態におちいった。コスティガンはやっと艇をひき起こして、戦場からまっしぐらに離脱しはじめた。艇の外板の温度を記録する高温計を見つめながら、彼が艇を安全な空中速度の最高限界まで突進させているあいだに、ブラッドレーは損傷を調べにかかった。
「かなりひどいが、思ったよりはいい」船長は報告した。「外板と内板が接合部で破れている。空気を保存しておくことはおろか、くず綿を保存しとくこともできないくらいだよ。なにか道具があるかね?」
「いくらかある――そして、ないものはつくることにしよう」コスティガンはいった。「距離を充分あけたら、艇を修理して、この惑星から離脱するんだ」
「それにしても、あの魚たちはなにものなの、コンウェイ?」救命艇が突進しつづけているあいだに、クリオがたずねた。「ネヴィア人も充分気味がわるいけれど、〈知性と教育のある魚〉なんて、考えるだけで気がへんになってしまうわ!」
「ネラドがときどき『深海の半文明化した魚族』といっていたのをおぼえているだろう」彼は指摘した。「ぼくの判断では、この惑星には少なくとも三種類の知的種族がいる。ぼくらが知ってるのは二種類だ――両棲種のネヴィア人と深海の魚族だ。浅海の魚族も知的だ。ぼくにわかっているところでは、ネヴィア人の都市は、もとはごく浅い海中か島の上かに建てられていた。彼らは、機械や道具の進歩によって、魚族よりずっと優位に立った。そして、島に近い浅海に住んでいる魚族は、しだいにネヴィア人の奴隷ではないまでも、従属的種類になっていった。この魚族は、ネヴィア人の食用に供せられるばかりでなく、鉱山や養殖所や農園で働き、ネヴィア人のためにあらゆる種類の労働をしている。このいわゆる『浅海』は、もちろんはじめにネヴィア人に征服され、そこの魚族はすべていまではすっかり従順になっている。
しかし、深海魚族は、ネヴィア人が耐えられないほど深いところに住んでいて、浅海魚族より知的であるばかりでなく、もっと頑強だった。だが、この惑星では、もっとも貴重な金属は深部にある――わかるだろうが、この惑星は大きさに比して非常に軽いのだ――そこで、ネヴィア人は努力を続けて、ついに深海魚族の一部を征服し、働かせるようになった。しかし、この高水圧魚族はけっしてばかじゃなかった。彼らは、ネヴィア人がときとともにますます彼らをひき離して進歩するだろうということを理解したので、とりあえずネヴィア人に屈服して、ネヴィア人の道具はもとより、彼らが所有できるものをすべて利用することを学び、彼ら自身でもいろいろな新技術を開発した。そしていまや、両棲人が彼らの手におえないほど進歩してしまうまえに、両棲人を地図から完全に抹殺しにかかったのだよ」
「そしてネヴィア人は彼らを恐れていて、できるだけはやく皆殺しにしようとしているのね」クリオが推測した。
「もちろん、そう考えるのが論理的だ」ブラッドレーがいった。「コスティガン、もう充分遠くまできたかね?」
「この惑星上では、充分遠いということはありえませんよ」コスティガンは答えた。「できるかぎり遠くまで行く必要がある。あの両棲人どもからこの惑星の直径くらい離れても、安全というには近すぎる――やつらの探知器は鋭敏ですからね」
「じゃあ、彼らはわたくしたちを探知できるの」クリオがたずねた。「まあ、この救命艇が損害を受けなければよかったのに――そうすれば、とうの昔にこの惑星から離脱できていたでしょうに」
「ぼくもそう思う」コスティガンは、同感してうなずいた。「だが、損害を受けたのは事実だ――泣きごとをいってもはじまらない。破れた接合部は、リベットでとめて溶接できる。もっとずっとひどいことになったかもしれないところだ――とにかくまだ空気を呼吸しているんだからね!」
救命艇は音もなく突進し、ネヴィアの巨大な球面のなかばを横切ったところで停止した。それから、ふたりの士官は、艇をふたたび宇宙航行に適するようにするために、大急ぎで仕事にとりかかった。
[#改ページ]
六 怪虫、潜水艦、そして自由
コスティガンもブラッドレーも、太陽系からネヴィアへの長い航行のあいだ、自分たちの捕獲者が仕事をしているところをしばしば観察していたので、両棲人の工作機械にすっかりおなじみになっていた。盗んだ救命艇は非常用なので、もちろん修理用具を完全にそなえていた。そして、ふたりの士官はすこぶる能率的に働いたので、艇の空気タンクが完全に充填《じゅうてん》されるまえに、すべての損害が修理された。
救命艇は、鏡のようになめらかな海面に静止していた。ブラッドレー船長が上部出入口を開いておいたので、強力なポンプが貯蔵シリンダーの中にできるかぎり多くの空気を押しこんでいるあいだ、三人はその口に立って、信じられないほど遠い水平線をだまって眺めていた。その波一つたたない連続した広大な水面は、異様なほど平たんに果てもなくひろがって、ついにはすさまじく赤いネヴィアの空にとけこんでいた。太陽は沈みかけていた。赤紫の炎からなる巨大な球体は、急速に水平線に落ちかかっていた。その炎々たる球が水平線に消えるとともに、突然暗黒がおとずれ、つい一瞬まえまでの快適な暖かさとするどい対照をなして、空気がきびしく冷却した。そして、同じような急激さで、黒々と層をなした雲が出現し、つめたい雨がはげしく吹きつけてきた。
「ぶるる、寒い! はいりましょう――あっ! ドアをしめて!」クリオは悲鳴をあげると、下の部屋へさっさととびおりて、コスティガンに道をあけた。コスティガンとブラッドレーも、そいつの恐ろしい腕がのたくりながら自分たちのほうへのびてくるのに気づいていた。
娘がいいおわるより早く、コスティガンは制御装置にとびついたが、一瞬も早すぎなかった。なぜなら、その恐ろしい触手の先端は、ドアがひびきをたててしまる直前に、急速にせばまっていくすきまに突入したのだ。強力な継ぎ手が重いくさびを強引に噛みあわせて、厚い円板を定位置におさめるとともに、その無気味な触手の先端は切断されて部屋の床に落ち、いやらしく異様なはげしさでけいれんし、のたうった。断片は六〇センチばかりの長さで、屈強な男の足よりふとかった。とげがはえて継ぎめのある金属質の鱗《うろこ》でおおわれ、吸盤のかわりに一連の〈口〉がついていた――それらの口は、金属質の歯がぎっしりはえていて、それらが餌を供給する恐るべき有機体から切断されているにもかかわらず、狂気のように歯ぎしりしていた。
巨象のような力を雄弁に物語るすさまじいうねりのざわめきの中で、怪物の触手が救命艇に巻きつき、容赦なくしめつけるにつれて、艇のあらゆる外板や部材が震動した。そして、怪物の金属質の歯が小さな船の外板に噛みつきかじりたてるにつれて、耳をろうするような騒音が、地球人の鼓膜《こまく》をはげしくたたいた。
コスティガンは、平然として映像盤の前に立ち、両手を制御装置に置いたまま、熱心に観測していた。救命艇は、人工重力のおかげで、搭乗者たちにはまったく静止しているように思われた。ただ、観測スクリーン上の映像の無気味な動揺によって、艇がテリアのあごにはさまれたネズミのようにふりまわされ投げとばされているということがわかるだけだった。ただ計器によって、艇がすでに海面下一マイル近くのところにいて、なおもすごいスピードで下方へひきこまれているということがわかるだけだった。ついにクリオはそれ以上、耐えられなくなった。
「コンウェイ、なにかするつもりはないの?」彼女は叫んだ。
「する必要がなければしないさ」彼は落ちついて答えた。「ぼくは、こいつがほんとにわれわれに危害を加えられるとは思わない。それに、もし、なんらかのエネルギーを使用すれば妨害波をひき起こすことになって、ネラドがひよこにおそいかかるタカみたいにおそってくるだろう。だが、こいつが艇をもっとずっと深くまで引きこんだら、こいつに攻撃を加えなければなるまい。艇は、限界深度のすぐ近くまでさがっているというのに、海底はまだずっと下なんだからね」
救命艇は、恐るべき敵によっていよいよ深く引きこまれていき、怪物の針のような歯は依然として艇の堅固な外板をかじりつづけた。ついにコスティガンは、いやいや動力のスイッチをいれた。全力推進がかかると、怪物はそれ以上艇を下へ引きこめなくなったが、救命艇も海面へまっしぐらに上昇することはできなかった。そこで攻撃ビームを放射したが、効果がないことがわかった。怪物は艇にぴったりからみついていたので、ビームをむけることができないのだ。
「いったいなのものかしら? そしてどうしたらいいのかしら?」クリオがたずねた。
「はじめは、タコか、とほうもなく大きなヒトデみたいなものかと思ったが、そうじゃないし」コスティガンは答えた。「こいつは一種の扁虫《へんちゅう》にちがいない。不合理なようだが――なにしろこいつは長さが百メートル以上あるにちがいないんだから――しかし、事実は事実だ。考えられるかぎりで残された唯一の手段は、やつを生きたままゆでてみることだな」
彼がほかの回路をとじて強力な純熱線ビームを放射すると、艇のまわりの海水はどっと沸きたって、すさまじい蒸気の雲と変じた。巨大な扁虫のひれが海水のかわりに蒸気を掻くようになると救命艇はぐんぐん上昇しはじめたが、怪物は把握をゆるめもせず、容赦のない歯の攻撃をやめもしなかった。一分また一分と過ぎていったが、やがて扁虫はぐったり体を離した――心《しん》の心《しん》まで煮られ、死んで、はじめて屈服したのだった。
「さあ、たいへんなことになったぞ!」コスティガンは、救命艇を全力で上昇させながら叫んだ。
「あれを見ろ! ネラドに、われわれを追跡できるということはわかっていたが、〈やつら〉にできるとは思いもよらなかった!」
コスティガンといっしょに映像盤を見つめていたブラッドレーとクリオが見たものは、予期していたネラドの宇宙船ではなく、深海の恐るべき魚族が乗り組んだ快速の潜水巡洋艦だった。それは救命艇めがけて、まっしぐらに突進してきた。そして、コスティガンが艇のコースを急角度で変更して空中に飛びださせる間《かん》に、破壊力そのもののような輝く球を先端につけた恐るべき攻撃棒がひらめいて、艇がはじめのコースをたもっていたら通過したはずの点をかすめた。
救命艇の推進エネルギーは強力で、コスティガンはそれをはげしく作用させていたが、艇が高度一マイルに達するまもなく、深海の居住者の牽引ビームが飛行中の艇を捕捉した。艇が目に見えないビームに把握されてがくんと停止すると同時に、コスティガンは推進ジェットを総動員してから、さまざまのダイアルをためしてみた。
「このビームを切断する方法が何かあるはずだ」彼は言葉にだして考えた。「だが、ぼくはネヴィア人の装置については充分にわかっていないから、あまりいろいろな装置をいじりまわしたくない。いまは防御スクリーンを展開しているが、ひょっとしてそのスクリーンを切ってしまうかもしれないからだ。それに、このスクリーンは敵の猛烈な攻撃を受けとめてくれているのだから、いまのところこれなしですますわけにはいかん」
いまや、防御スクリーンは、好戦的な魚族によって投射されるエネルギーの集中をあびて白熱的な紫色の光をはなっていた。彼は眉をひそめてその炎々たる防御スクリーンを観測していたが、ふいに体をこわばらせた。
「そうくると思った――やつらはあれを投射できるんだ」彼はそう叫ぶなり、救命艇をはげしく錐《きり》もみ旋回させた。まばゆく輝くエネルギー球が艇をかすめて上空に突進して行くと、空気そのものが炎々と燃えたった。
それから数分は、壮絶《そうぜつ》な戦闘が展開された。救命艇は小さくて敏速だったので、反転し旋回し飛躍して、魚族の爆撃弾を避けつづけた。艇の防御スクリーンは、攻撃ビームの全エネルギーを中和して反射した。それだけではない――コスティガンは、鉄を節約する必要がなかったので、巨大な潜水艦の周囲の海水は、小さなネヴィア宇宙船の攻撃ビームの全力放射によってはげしく沸きたちはじめた。しかし、コスティガンは艇を離脱させられなかった。敵の牽引ビームを切断することもできず、推進ジェットを全開しても、艇を牽引ビームの頑強な把握からもぎ離すこともできなかった。そして、小型宇宙船は、深海の潜水艦のほうへ、じりじりと容赦なく引きおろされていった。艇のあらゆる推進器とエネルギー発生器のけんめいな努力にもかかわらず、引きおろされていった。クリオとブラッドレーは、胸を痛めながら顔を見あわせた。それからコスティガンを見やったが、彼はあごをひきしめ、たじろぎもせずに映像盤を見つめながら、緑色の怪物の砲塔の一つに攻撃を集中していた。そのあいだにも、艇はしだいに引きおろされていった。
「コンウェイ、もしこれで――もしわたくしたちの運がつきるのだったら」クリオは、あやふやにいいはじめた。
「まだだ、まだつきやしない!」彼は叫んだ。「くちびるをとじていろ。ぼくらはまだ空気を呼吸してるし、戦闘はまだ終わっていないんだ!」
たしかに、戦闘は終わっていなかった。しかしコスティガンの努力はすさまじいものではあったが、深海魚族の攻撃を終結させたのは、コスティガンの力ではなかった。牽引ビームがなんの予告もなしに切れた。そして、救命艇が発生していたエネルギーはきわめて膨大だったので、強力な重力制御がおこなわれているにもかかわらず、艇が突進しはじめると同時に、三人の乗員ははげしく床に投げとばされた。コスティガンは、両手両ひざで起きあがり、すさまじい加速度にできるかぎり抵抗しながら、やっとのことで制御パネルに手をかけた。彼は、あやういところで間にあった。なぜなら、彼が推進力を通常の大きさに切りさげているあいだにさえ、艇の外殻は、艇が、がむしゃらな速度で突破して行く大気の摩擦によって白熱的に輝いていたからだ!
「うん、わかった――ネラドが助け船をだしたんだ」コスティガンは、映像盤をちらと見てから説明した。「あの魚どもが、ネラドを抹殺してくれればいいが!」
「なぜなの?」クリオがたずねた。「わたしくの考えでは、あなたは――」
「もういちど考えてみたまえ」彼は忠告した。「ネラドがひどいめにあうほど、ぼくらは都合がいいんだ。本気で期待してるわけじゃないが、魚どもがネラドをながいことひきとめられれば、ぼくらはもうやつになやまされないくらい、遠くまで行ってしまえるんだからね」
救命艇が、できるだけ早い大気圏速度で空気を突破して上昇して行くあいだ、ブラッドレーとクリオは、コスティガンの肩ごしに映像盤をのぞきこんで、そこに焦点をあわされている光景を、興味深く見つめていた。ネヴィア人の宇宙船は、大きく傾いた角度で降下しながら、強烈なエネルギー・ビームを前方に投射していた。小さな救命艇のビームでさえ、大洋の水を沸きたたせたのだが、母船のビームは、大洋の水を文字通り消滅させていくように見えた。それまで、緑色の潜水艦の周囲では、海水がはげしく煮えたぎり、濃い蒸気の雲がたちこめていたのだが、いまやネヴィア人宇宙船のエネルギー攻撃によって、水も霧もひとしく消滅し、透明な過剰蒸気に変化した。潜水艦の巨体は、その希薄なガス体の中を、おもりのように落下していったが、そのあいだも、潜水艦のあらゆる攻撃兵器は、すさまじい深紅色の空高く浮かんだネヴィア人巡洋艦めがけて、固体性および振動性の破壊力をそそぎつづけた。
潜水艦は数マイル落下したが、ついに深海のものすごい圧力によって海水がネラドのビームに送りこまれるほうが、ビームによって海水が気化されるより速くなった。それから、その煮えたぎる円筒の中で、まったく想像を絶するような戦闘がおこなわれた。円筒の混沌《こんとん》たる底には、潜水艦がいて、いまや脱出しようと努めているらしいが、宇宙船の牽引ビームでがっちり捕捉されていた。円筒のてっぺんには、もくもく立ちのぼる蒸気雲でほとんど見えないほどかくされながら、ネヴィア人の巡洋艦が平衡を保っていた。
救命艇の高度が増して大気が希薄になるにつれて、コスティガンは艇の外殻を、安全がおびやかされない限度で最高温度にたもちながら、速度を調節していた。いまや艇は大気圧の測定可能な範囲を越え、外殻が急速に冷えてきたので、彼は最大巡航加速度をかけた。ちっぽけな宇宙船は、すさまじいスピードを絶えず増大させながら奇妙な赤い惑星から離脱していった。映像盤上の惑星像は、ぐんぐん小さくなった。巨大な宇宙船のほうは、魚族の船といっそう接近戦をおこなうために、ずっとまえから海面下に突入していた。ながいあいだ、戦闘状況については、広大な蒸気雲以外にはなにも見えなかった。その雲は大洋の表面を数百平方マイルにわたっておおっていた。しかし、映像が縮小しすぎて細部の判別ができなくなる直前に、雲塊の表面に二、三個の小さな黒っぽい点があらわれ、やがて朝日にきらきら輝いた――それらの点は、どちらかの船が、相手の駆使《くし》する信じられないほど強力なエネルギーによって、大洋の深部からまるごと吹きとばされ、粉砕され、空中高くほうりあげられた、その断片かもしれなかった。
ちっぽけな月のようなネヴィアと強烈な青い太陽が遠方にぐんぐん小さくなりはじめると、コスティガンは透視光線ビームを航路にふりむけて、ふたりの仲間をふりかえった。
「さあ、ひと休みだ」彼は眉をひそめながらいった。「ネヴィアで吹きとばされたのがネラドの船だといいと思うが、どうもそうじゃなさそうだ。やつは、ぼくらが見かけたあの潜水艦のうち二隻をやっつけているし、そのほかに敵艦隊の半分くらいをやっつけただろう。あの潜水艦がネラドをやっつけられる特別な理由はないから、ぼくらとしては、大きな障害にぶつかる用意をしておくべきだと思う。もちろん、やつらはぼくらを追跡するだろう。やつらの力をもってすれば、ぼくらを捕捉するだろうからね」
「でも、わたくしたちにどういうことができるの、コンウェイ?」クリオはたずねた。
「いくつかできることがあるよ」彼はにやりと笑った。「ぼくは、あの麻痺光線をはじめいくつかのやつらの兵器について、ひと通りの情報をなんとか手にいれた。だから、ぼくらとしては、必要な装置を宇宙服の内部に簡単にとりつけられるんだ」
三人は、宇宙服をぬいだ。コスティガンは、三惑星連合軍式の防御力場発生器をどのように改造しなければならないかを、くわしく説明した。三人とも、せっせと仕事にとりかかった――ふたりの士官は器用で確実だった。クリオはあやふやでいろいろ質問をしたが、ひるまずに働いた。ついに彼らは、立場をつよめるためにできるかぎりのことをなしおえたので、彼らが極度に恐れている追跡についてどんな兆候でも探知できるよう、あらゆる装置を動員しながら、航行の日常的任務を注意ぶかく開始した。
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七 〈丘〉
二つの宇宙艦隊が、いっぽうはロージャーの人工惑星をはげしく攻撃し、もういっぽうはそれを頑強に防衛しながら戦っている戦場から数万マイルも離れて、重巡洋艦シカゴは宇宙空間に静止していた。艦長室では、ライマン・クリーブランドがウルトラ・ウェーブ・カメラの上に緊張して身をかがめながら、敏感な指でカメラの精密なダイアルにかるくふれていた。彼の体はこわばり、顔はひきしまってやつれていた。目だけが動いて、装置と、なめらかに運動しているスプリング鋼のワイヤとのあいだをすばやく行ったりきたりしていた。そのワイヤには、殺戮《さつりく》と破壊のすさまじい光景が記録されているのだった。
透視光線技術の専門家、クリーブランドは、高級将校たちが彼をとり囲んで祈るように熱烈なつぶやきをほとんど無意識にもらしているのに、沈黙してきびしく精神を集中しながら、その恐るべき闘争が終結するまで、ウルトラ・ウェーブ装置をそこに向けつづけた。それらの装置はロージャーの艦隊が消滅し、三惑星連合軍の無敵艦隊《アマルダ》が未知の液体に変形され、ついに巨大な人工惑星自体が溶解するさまを、あらゆる細部にわたって記録した。つづいて、クリーブランドは、奇妙などろどろした流体が吸いこまれた深紅色の不透明なベールめがけて、ビームをはげしく投射した。彼は装置のエネルギーを最後の一ワットにいたるまで動員したが、無効だった。ほぼ楕円形をした広大な宇宙空間は、彼の経験や理解をまったく絶したエネルギーによって封鎖されていた。ところが、彼のビームがまだその不透過性の霧を透視しようとつとめていたとき、それは唐突に、なんの予告もなく消滅した。そして、映像盤には、無限の宇宙空間がふたたび出現し、彼のビームはさえぎられることなく虚空を貫いた。
「地球へもどりますか?」シカゴ号の艦長が、緊張した沈黙を破った。
「もしわたしに発言権があるとすれば、そうはいいたくありません」クリーブランドは、落胆し失望したさまで、体を起こしてカメラを切った。「もちろん、われわれはできるかぎりはやく帰還すべきですが、むこうの宇宙空間には、この距離では詳細に撮影できないような浮遊物が多量にあるようです。接近して調査すれば、敵がどんなことをしたか、どのようにしてそれをしたかを理解するのに大いに役立つかもしれない。わたしとしては、現場に残されているもののクローズアップ写真をとりたい。それも、浮遊物が宇宙空間に分散してしまうまえに、すぐにもとりたいのです。しかし、もちろん、わたしはあなたに命令することはできません」
「ところが、できるのです」艦長は、おどろくべき返事をした。「わたしは、きみがこの艦を指揮するように命令します」
「そういうことなら、最大非常加速度で前進して、浮遊物を調査しましょう」クリーブランドは答えた。そして巡洋艦――三惑星連合のいわゆる無敵艦隊の唯一の残存艦――は、すべての推進器を最大限に噴射しながら突進して行った。
災厄の現場に接近するにつれて、映像盤上には、浮遊物の雑多な集団があらわれた。個々の浮遊物は一見ばらばらに移動しているようだったが、全体としては、依然としてロージャーの人工惑星の軌道に沿っていた。宇宙空間は、機械部品、建材、家具、さまざまのがらくたなどでみたされていた。そして、いたるところに、人間の体がただよっていた。それらのうち、あるものは宇宙服に包まれていたが、救助者たちがはじめに注意をむけたのはそういう人間に対してだった――シカゴ号の乗組員は、宇宙ずれのしたベテランたちだったが、そのほかの人体には、目を向けようとさえしなかった。ところが、はなはだ奇妙なことに、浮遊《ふゆう》している人体は、ひとりとしてものもいわず動きもしなかったので、宇宙戦闘員が急遽《きゅうきょ》、調査に派遣された。
「全員死亡しています」すぐに、恐るべき報告がきた。「死んでからかなり時間がたっています。宇宙服の装甲板はすべて除去され、発生器その他の装置はすべて破壊されています。しかも、それについてはどことなく異常なところがあるのです――だれにも接触されたようすはないのに、宇宙服の機械類が半分くらい消滅しているようです」
「そのことは、みんなリールに記録してあります」クリーブランドは、浮遊物の接近調査をおえると、艦長をふりむいた。「彼らがたったいま報告しましたことは、わたしがいたるところで撮影したことと照合しています。わたしは、どんなことが起こったかについてある推定に達していますが、それがあまりに新奇なので、なにか証拠をにぎるまでは、自分でも信じられません。戦闘員たちに、宇宙服を着た死体を二つ三つと、あそこらに浮遊している配電盤や計器パネルを二つばかりと、それに雑多な破片を五つ六つ――なんでも手近なものを――持ちこませてください」
「それから、全速力で地球にもどりますかね?」
「そうです――できるだけはやく、地球へもどります」
シカゴ号が全速力で宇宙空間を突進しているあいだ、クリーブランドと上級士官たちは、回収された浮遊物のまわりに集まっていた。彼らはみんな、宇宙難破の浮遊物を見慣れていたが、いま目の前にある物体に似たものは、だれひとり見たことがなかった。あらゆる部品や装置は、奇妙なわけのわからない方法で解体されていた。破壊されたところもなく、暴力のあともないのに、影響を受けていないものは一つもなかった。ボルト穴はぽっかり空虚になり、コイルの鉄心や遮蔽《しゃへい》ケースや指針は消滅し、あらゆる装置は枢要部が狂い、いたるところひどい混乱が見られた。
「想像もおよばんような混乱だ」ながいことだまって浮遊物を調べたのち、艦長がいった。「クリーブランド君、〈この現象〉を説明できるような理論があらなる、聞かしてもらいたいね!」
「第一に、あることに注目していただきたい」エキスパートは答えた。「ですが、ここにあるものに注目するのではありません――ここにないものに注目するのです」
「すると、装甲板がなくなっている。それから、遮蔽ケースや、心棒や、軸や、架構や、柄や――」艦長は、浮遊物の集団を見まわしながら声をとぎらした。「うん、鋼鉄をのぞけば、木やベークライトや銅やアルミニウムや銀や青銅や、そのほかどんな物質でできているものも、みんな影響を受けていないが、鋼鉄でできているものは、残らず消滅している。だが、それでもわからない――これはどういうことを意味するのかな?」
「わたしにもわかりません――いまのところはね」クリーブランドは、ゆっくり答えた。「しかし、そのほかにも、もっとわるいことがあるのじゃないかと思います」彼は一つの死体の宇宙服をうやうやしく開いて、死体の顔をむきだしにした。沈静で平和な死に顔だが、無気味なほどまったく血の気がなかった。彼はやはりうやうやしい態度で、死体のたくましい首筋に深い切りこみをつけて、頸静脈切断してから、真剣に言葉をつづけた。
「たとえば〈白い血〉というものがあるとは想像をしたこともないでしょうが、この現象も完全に一致します。この宇宙空間全域にある遊離鉄と化合鉄が、なんらかの方法で、なんらかの理由によって、ひと原子残らず持ち逃げされたのです」
「へえ? どんな方法でやったのです? とりわけ、〈どんな理由で〉やったのです?」士官たちが、おどろいて見つめながらいった。
「きみたちも、わたしが知っているのと同じように知っているのだ」クリーブランドは、考え考え深刻にいった。「もしも火星の外側に純鉄の小惑星が存在するという事実がなかったら、だれかが鉄を非常にほしがっていて、それを獲得するために艦隊と小惑星を抹殺したといいたいところだ。しかし、いずれにしても、彼らが何ものだろうと、彼らはわれわれの兵器にすこしも妨害されないだけの力をそなえている。彼らは、ほしい金属を奪って持ち去っただけのことだ――彼らの足が速すぎたのでウルトラ・ビームでも追跡できなかった。一つだけ明白なことがあるが、それはあまり明白なので、ぞっとするほどだ。この事件全体は、知能がやってのけた仕事だということを示している。たいへんな知能で、しかもけっして友好的ではない。わたしは、フレッド・ロードブッシュと連絡がとれしだい、彼に仕事をはじめさせるつもりだ」
彼は、ウルトラ・ウェーブ通信器に近よって、バージル・サムスを呼びだした。やがてサムスの顔が映像スクリーンにあらわれた。
「すっかり記録しました、バージル」クリーブランドは報告した。「異常な事件です――われわれがだれも想像できないほど深刻です。それに緊急な問題らしいので、データをウルトラ・ビームで送信して、いくらかでも時間を節約したほうがいいと思います。フレッドはそっちに電磁波レコーダーを持っていますから、それをこちらの装置とたやすく同調できるはずです。よろしいですか?」
「よろしい。よくやった、ライマン――ありがとう」簡単な承認と称賛の返事がきた。そしてまもなく、鋼鉄のワイヤは、またリールからリールへ巻きとられはじめた。しかし、こんどは、その変化する磁気チャージが、ウルトラ・ウェーブを適当に変調して、あの破滅的な宇宙戦闘が、あらゆる細部にいたるまで、三惑星連合軍の中枢にある専用研究室で映され記録されていった。
クリーブランドは、仲間の科学者たちといっしょになるのを当然切望したが、地球へむかう平穏な航行のあいだ、いらだったりはしなかった。彼がはじめてつくった比較的粗雑なウルトラ・ウェーブ・カメラについては、研究すべきことが多く、改良すべき点も多々あった。それからまた、サムスや、とくにロードブッシュとの、ながい協議があった。ロードブッシュは核物理学者で、ネヴィア人が使用するエネルギーや兵器のなぞを解決するのに必要な多くの作業をしなければならない人物だった。こうして、クリーブランドにとっては、飛行するシカゴ号の球形の船体の下方に緑色の地球が拡大してくるまでのあいだが、ながくは感じられなかった。
「地球を一周しなければならないんだろうね?」クリーブランドは、主任パイロットにたずねた。彼はその士官の操縦ぶりを数分まえから観察しながら、巨大な船が地球の大気圏にはいるまえに、巧妙かつ正確にあやつられるさまを称賛していたのだ。
「そうです」パイロットは答えた。「われわれは、できるかぎり短時間に着陸しなければなりませんが、そのことは、ここでの速度が螺旋《らせん》航路をとらずには減速できないほどだということを意味しています。しかし、それでもずっと時間が節約されます。が、ロケット機を離陸させて、あなたが着陸したい場所に応じて一万五千キロか二万キロくらいのどこかでわれわれと遭遇するようにさせれば、もっと時間が節約されます。ロケット機の推進力なら、われわれの速度に同調できて、しかも直下降もできるからです」
「そうしよう――ありがとう」そして、秘密工作員は自分の長官を呼んだが、彼の提案はすでに実行に移されていることを知った。
「そのことなら、すでに手を打ってあるよ、ライマン」サムスは微笑した。「シルヴァ・スリヴァ号が発進して、二万二千キロのところできみの船とコース、加速度、速度を同調させるように旋回している。きみは、移乗の仕度ができるかね?」
「できます」そして、補給係りの前事務員は自室にいって所持品袋をまとめた。
やがて、ロケット機の長くほっそりした機体があらわれ、宇宙船に「上」からふわりと「降下」した。そして、クリーブランドは、友人たちに別れを告げた。彼は宇宙服を着こみ、右舷の気密室にはいった。そこの空気が抜かれ、外側のドアが開くと、彼は三〇メートルそこそこの宇宙空間をへだてて、ロケット機を見やった。ロケット機は、腹面の噴射口からはげしく火を吹きながら、すさまじいスピードにブレーキをかけて、巨大な球体をした軍艦の比較的遅いスピードに同調させていた。機体は楊枝《ようじ》のように細長くて前後が針のようにとがり、主翼と尾翼が極度に小さく、いたるところにロケット噴射口が並列にとりつけられ、ほとんど溶解しない数種の貴金属からなる、かがやかしい銀色の合金でつくられている――これが、三惑星連合軍指令長官の専用快速艇で、惑星の大気中だろうと、成層圏中だろうと、惑星間宇宙の真空中だろうと、もっとも快速を誇る飛行艇である。はじめてのきりもみテストでまばゆくかがやいたので、「|銀色の細片《シルヴァ・スリヴァ》」というあだ名をもらった。公式の名称はあったのだが、とうの昔に役所のファイルにうずもれてしまった。
快速艇は、ロケットをいよいよまぶしく噴射しながらしだいに降下し、ついにほっそりした艇体が気密室のドアと同じ高さになった。それから、艇の噴射力は、シカゴの加速度に正確に同調するのに必要なだけ減少した。
「シカゴ号へ、加速度中断用意完了! 三秒の秒読み求む!」スリヴァ号のパイロット室から叫んだ。
「中断用意完了!」シカゴ号のパイロットが応答した。「秒読み開始! 三! 二! 一! 中断!」
最後の言葉と同時に、両船の動力は中断され、両船内のあらゆる物体が無重量になった。ほっそりしたロケット機の小さい気密室には、ひとりの宇宙戦闘員が、巻きあげた係留索を用意してうずくまっていたが、その必要はなかった。炎々たる排気が停止したとたん、クリーブランドは重い所持品袋を振りだして、かるがると宇宙にふみだし、ロケット機の開いた出入口へまっすぐに浮遊していった。彼のうしろのドアがバタッととじ、数瞬のうちに、彼は快速艇の制御室に立って、宇宙服をぬぎすてながら、友人で共同研究者であるフレドリック・ロードブッシュと握手していた。
「ところで、フリッツ、どう思うかね?」クリーブランドは、挨拶をかわすなりたずねた。「いろいろな情報は、どんなぐあいに結合するかね? きみが通信器を通じてなにもいえなかったことはわかっているが、ここなら盗聴の危険はないからな」
「そうとはかぎらない」ロードブッシュは、真剣に答えた。「われわれは、自分たちがなにも知らないことが多量にあるという事実に目ざめはじめたばかりだ。〈丘〉にもどるまで待ったほうがいい。いま、あそこにはウルトラ・ウェーブのスクリーンが完全にめぐらしてある。それに、ほかにも、それ相当な理由が二つばかりある――ぼくらふたりが、サムスといっしょに、事件の全貌をはじめから検討したほうがいいし、いずれにしても、ぼくらはこれ以上話してはいられない。全速力で帰還するように命令されているんだ。スリヴァに乗っている場合、それがどういうことを意味するかは、きみにもわかっているはずだ。そこの緩衝器《かんしょうき》にしっかり体をしばりつけたまえ。それから、ここに耳栓がある」
「スリヴァが本当にすっとばすということは、たしかにどんちゃん騒ぎを意味するな」クリーブランドは、厚いクッションのはいったシートについて、太いスプリング・ベルトを体にまわしてとめながら賛成した。「だがね、ぼくはひとからせがまれなくても、一刻も早く〈丘〉へもどりたいんだ。用意完了だ」
ロードブッシュがパイロットに手を振ると、ゴロゴロとつぶやくような排気音が、たちまち耳をろうするような連続的爆発に変化した。シルヴァ・スリヴァが機体の長軸を中心に回転しながら、球体の軍艦が宇宙空間に静止しているように見えるほどすさまじい加速度でシカゴ号から離脱して行くとともに、乗員たちは緩衝椅子にふかぶかと押しつけられた。やがて、計算上の中点に到達すると、細長い宇宙機は反転し、いまや猛烈な加速度を逆行させて、たえず速度を減じながら、地球へ向かって突進して行った。ついに大気圧が測定可能なところまで降下すると、シルヴァ・スリヴァは針のような機首を下方にむけ、こんどは機首ロケットを断続的な雷鳴のようにとどろかせながら、ちっぽけな主翼と尾翼を働かして前進しはじめた。金属の機体は赤熱してきた。にぶい赤からあかるい赤色に、黄色からまぶしい白色に変化したが、金属は溶けもせず燃えもしなかった。パイロットの計算は正しかった。機体の温度は安全限界点に達し、そのまま維持されたが、そこを超過はしなかった。空気の密度が増加するにつれて、人工隕石の速度は減少した。
こうして、まばゆい火の槍《やり》のようにシアトルの上空を高く過ぎ、スポケーンの上空をそれより低く過ぎた。すさまじく輝く矢のように東方へ突進し、ロッキー山脈の中心めがけて、浅い傾斜をなして、悲鳴をあげながら降下して行った。やがて急速に冷却してきた空のグレーハウンドがピッター・ルート山脈の西側の連峰の上空を過ぎるころになると、その目標がすみれ色の光におおわれた。頂上のたいらな円錐形の巨大な山だということがあきらかになった。その山の高さは、周囲の高山をさえしのいでいた。
この〈丘〉は、本来は人工のものではなかったが、その中に三惑星連合軍の総司令部を建設した技術者たちによって、いちじるしく変えられていた。周囲が数マイルもある頂上は、継ぎめのない広大な灰色の鋼鉄装甲板で、円錐台状の山のけわしくなめらかな斜面は、そのとほうもなく厚い金属板と連続していた。現在あるどんな乗りものも、そのなめらかで堅固な禁断の鋼鉄斜面をのぼることはできなかった。現在あるどんな投射物も、その装甲板を傷つけることはできなかった。現在あるどんな航空機も、探知されずに〈丘〉に接近することさえできなかった。事実、〈丘〉はまったく接近不能だった。なぜなら、〈丘〉はほのかに光るすみれ色の炎からなる巨大な半球にたえず包まれていて、破壊的物質も破壊的光線もその半球を通過できなかったからである。
シルヴァ・スリヴァが、速度を時速五百マイルそこそこに落として、その透明ですみれ色に輝く破壊性の壁に接近すると、同じ色の光が制御室をみたし、同じように不意に消えたが、またくり返してついたり消えたりした。
「ぼくらをざっと検査してるのかね?」クリーブランドはたずねた。「いささか新しいしろものじゃないか」
「そうだ。強力なウルトラ・ウェーブ式スパイ光線だ」ロードブッシュはふりむいていった。
「あの光はほんの警告で、声や映像を伝えることもできる――」
「こんなぐあいにな」パイロットの計器パネル上のスピーカーから、サムスの声がさえぎり、テレビ・スクリーン上に彼の顔が、くっきりとあらわれた。「フレッドは自慢するつもりはないと思うが、これはフレッドがこの二、三日のあいだに発明した一つだ。きみたちに向かってテストしてみただけさ。だが、スリヴァに関するかぎり、こんな警戒はなんの意味もない。きたまえ!」
エネルギーの壁に、円形の口があらわれたが、ロケット機が通過するやいなや、また消滅した。それと同時に、巨大なはねあげドアから、ロケット機の着陸用のドックが空中にもちあがった。宇宙機は、そのクッションつきのドックに、ゆっくりと優美に身を落ちつけた。それから、ドックは、スリヴァをのせたまま下降して見えなくなり、装甲板でできたはねあげドアが巨大な耳軸の上でなめらかに回転して、山の広大な頂上をおおった金属舗装上の定位置に、がっちりおさまった。ドック用エレベーターは急速に下降して、〈丘〉の中心部のずっと下層に停止した。クリーブランドとロードブッシュは、自分たちを運んできた乗りものの、まだ熱している外壁を通過して、身軽にとびだした。目の前のドアが開き、ふたりは陰影のない昼光照明をほどこされた広い部屋にいた。三惑星連合軍の長官オフィスだ。冷静で有能な幹部職員たちがそれぞれのデスクにつき、そのときの要求に応じて、熱心に問題ととりくんだり、休息したりしていた。男女の助手、秘書、事務員たちが、手慣れた仕事をやり、テレタイプやレコーダーが、忙しく、しかし音もなく活動していた――三惑星連合軍は、三つの惑星を統治するというたえず増大する責任を長年にわたって遂行してきたが、これらの人員や機械は、それぞれが軍の有機的な一部を構成しているのだ。
「はいってもいいかね、ノーマ?」ロードブッシュは、バージル・サムスの専用秘書のデスクの前に立ちどまってたずねた。彼女がボタンを押すと、うしろのドアがさっと開いた。
「あなたがたおふたりは、長官にご都合をうかがう必要はありませんわ」魅力的な若い女は、微笑していった。「すぐおはいりください」
サムスは、ふたりを戸口で熱心に迎え、とくにクリーブランドとつよく握手をかわした。
「あのカメラはすてきだよ、ライマン!」彼は叫んだ。「あれはすばらしい改良だった。一服やって腰をおろしたまえ――とっくり話しあいたいことがいろいろある。きみの写真は事件の大部分を伝えてくれたが、コスティガンの報告がなかったら、われわれは途方にくれてしまっただろう。しかし、そうではなかったから、このフレッドと部下が、きみとコスティガンの情報から大部分の解答をひきだした。まだ解答がでていないものも二、三あるが、やがて解決するだろう」
「コンウェイについては、なにも新しいことはわかりませんか?」クリーブランドは、質問するのも気がかりなようすだった。
「わからん」サムスの顔に影がさした。「もしかすると――だが、わしは彼があの正体不明の生物にはるか遠くまで連れ去られたせいで、こちらに通信できなくなったというだけのことだと期待している」
「やつらは、われわれが通信できないほど遠くにいるにちがいありません」ロードブッシュが意見を述べた。「もうやつらのウルトラ・ウェーブ妨害を探知することさえできないのですからね」
「そうだ、それは有望な兆候だ」サムスはつづけた。「わしは、コンウェイ・コスティガンが死んだとは考えたくない。彼は真の観測員だった。彼は、わしが知るかぎりでは、完全な観測員としての二つの能力をあわせ持った、ただひとりの人間だった。彼は、目にするあらゆることを正確に観察し、それをとことんまで、微細な点まで報告することができた。たとえば、この問題をとってみたまえ。とくに重要なのは、この生物が鉄を液状の同質異形物に変形して、その形のままで、その原子エネルギー――または核エネルギー――を動力に利用する能力を持っていることだ。まったく新しい問題だが、彼は、やつらの変換器や放射器を非常に詳細に描写したので、フレッドはその基礎理論を三日間で解明して、われわれの超宇宙船に利用することができた。わしがはじめに考えたのは超宇宙船を改造して鉄材をなくしてしまわなければなるまいということだったが、フレッドはわしの誤りを指摘した――もちろん、きみは、はじめからそのことがわかっていたはずだ」
「もしわれわれの血液の科学的性質を変化させて、ヘモグロビンなしで生きられるようにすることができれば、大した手柄ですが、さもなければ、船を非鉄性にしても無駄でしょう」とクリーブランドは賛成した。「それに、われわれのもっとも枢要な電気機械類は、鉄心を中心にしてつくられています。ですから、われわれとしては、彼らのあの変形エネルギーに対抗する防御スクリーンを開発しなければならないでしょう――彼らのどんなエネルギーも通過できないほど強力な防御スクリーンです」
「きみの報告以来ずっと、その線にそって研究してきたのだ」ロードブッシュがいった。「そして、解決の光明が見えはじめている。それと同じことに関連していえば、われわれが超宇宙船をもてあましていたのも不思議はない。われわれの思いつきの中には正しいものもあったが、応用がまちがっていたのだ。しかし、いまでは事態は大いに有望に見える。鉄の変形の問題は、理論的には完全に解決されているから、発生器さえつくれば、ほかのすべての問題は一挙に解決できる。その無限のエネルギーが意味するところを考えてみたまえ! エネルギーがいくらでもほしいだけ手にはいる――そのエネルギーをもってすれば、物質の慣性の中和というような、従来まったく理論的可能性にすぎなかったことを実験することさえできるのだ!」
「待ちたまえ!」サムスが抗議した。「そんなことが〈できるはずがない〉! 慣性というのは、物質の基本的属性だ――そうにちがいない――だから、その物質自体を破壊しなければ、除去できないはずだ。そんなまねははじめないでくれよ、ライマン――わしはきみやライマンを失いたくない」
「われわれのことは心配なさらんでください、長官」ロードブッシュは、微笑しながらいった。「もし、物質とはなにかということをわたしにおっしゃりたいのなら、根本的には閣下に賛成しても結構です――おっしゃりたくないのですか? では、どんなことが起こってもびっくりなさらないでください。われわれは、これまで三惑星上のだれもがしようと考えなかったようなことを、いろいろするつもりなのです」
こうして、討論がながいことつづいたが、秘書の声でさえぎられた。
「サムス閣下、おじゃまして申しわけありませんが、あなたが処理なさらなければならないような事件がいくつかおきています。ノボスが火星から呼びかけています。ノボスは、エンディミオン号を捕獲《ほかく》して、乗員を半分ほど殺しました。ミルトンは、五日間消息を絶っていたあとで、やっと金星から報告をよこしました。ウイントン一味を追跡して、サレロン湿地にはいったのです。一味はそこで彼をおそいましたが、彼は勝ちぬいて、追求していたものを手にいれました。それから、たったいま、小惑星《アステロイド》帯にいるフレッチャーから通信を受けました。彼はついに例の麻薬ラインをさぐりあてたようです。でも、いまノボスが通信中です――閣下は、彼がエンディミオン号をどうすることをお望みですか?」
「彼に伝えてくれ――いや、彼の通信をここへつないでくれ。わしが自分でいったほうがいい」サムスは指示した。そして、スクリーン上に火星人士官の角《つの》があるぶかっこうな顔があらわれると、無慈悲な決断に顔をひきしめながらいった。「きみはどう思うかね、ノボス? やつらを裁判にかけるべきか否《いな》か?」
「裁判にかける必要はないと思います」
「わしもそう思う。少数のギャングが宇宙から消滅したほうが、パトロール隊がさらに暴動を鎮圧しなければならないのよりましだからね。そのようにしてくれたまえ」
スクリーンが暗くなると、サムスは秘書にむかっていった。「よろしい、ミルトンとフレッチャーから連絡がありしだい、つないでくれ」彼は、ふたりをふりむいた。「われわれは充分に前進した。さようなら――きみたちといっしょに行ければいいが、これから一、二週間は、かなり忙しくなるだろうな」
「『忙しい』などという言葉では、事情を半分も説明していないね」ふたりの科学者が廊下をエレベーターのほうへ歩いて行くとき、ロードブッシュがいった。「彼はたぶん三つの惑星を通じてもっとも忙しい人間だろう」
「それと同時に、もっとも権力のある人間だ」クリーブランドがおぎなった。「そして、彼のような権力を公正に行使できる人間はほとんどいない――だが、ぼくに関するかぎりでは、よろこんで彼にそういう権力を自由にさせるね。もし彼がたったいましたようなことをぼくが一度でもしなければならなかったとしたら、一か月ぐらいジンマシンにかかっただろう――ところが、彼にとっては、あんなことは一日の仕事の一部分にすぎないんだ」
「きみのいうのは、エンディミオン号のことかい? 彼としては、ほかにどうすることができたというんだ?」
「どうすることもできなかったさ――そこがつらいとこなんだ。ああしないわけにはいかなかった。やつらを裁判にかければ、モルセカの住民の半数を殺すことになっただろうからね。だがいっぽう、故意に冷血で非合法な殺人的仕事を命じるというのは、おそろしいことだ」
「もちろん、きみのいうとおりだが、きみだって――」ロードブッシュは、思っていることを言葉にだせずに口をつぐんだ。なぜなら、ふたりの中には、はっきりした言葉であらわされてはいないが、もっとも深い情熱とむすびついた人間的な形で、組織の綱領が植えつけられていたからだ。ふたりとも、〈軍のために〉選ばれたあらゆる人間にとって、〈軍はすべて〉であって、自己は無である、ということを知っていたのだ。
「だが、もうその話はたくさんだ。ここにはわれわれ自身の問題がたっぷりあるんだからな」ロードブッシュは、広い部屋にふみこみながら、突然、話題を変えた。部屋は、ボイス号の巨体でほとんどいっぱいだった――この不吉な宇宙船は、一度も飛びあがったことはないが、すでに三惑星連合軍の要員名簿の多くのページを黒くぬりつぶして犠牲者を出してきたのだった。しかし、この船はいま、はげしい活動の中心だった。人々が船の内外にむらがって、慎重に計画された改造計画を、整然たる混乱のうちに、しゃにむに推進していた。
「きみの予想が適中することを望むよ、フリッツ!」ふたりの科学者がそれぞれの研究室へわかれて行くとき、クリーブランドが呼びかけた。「もし適中していれば、このしまつにおえない男殺しから、完全なレディーをつくりあげることができるだろう!」
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八 超宇宙船発進
数週間休みなく作業がつづき、そのあいだに三つの惑星が提供できるかぎりの精神的物質的資源が投入されたのち、ボイス号は処女飛行の用意が完了した。つまり、人間の思考と労力に可能なかぎりの用意ができたのだ。ロードブッシュとクリーブランドは、最後の厳密な検査をすましてから、主要出入口の中央ドアのわきに立って、長官と話していた。
「きみたちは、安全だと思うといいながら、乗組員をひとりも連れて行こうとしない」とサムスは反対した。「だとすれば、きみたちふたりにとっても安全ではないということだ。われわれはきみたちを大いに必要としているから、こんな危険をおかさせるわけにはいかんのだ」
「閣下は、わたしたちを行かせないわけにはいきません。なぜなら、この船の理論に多少とも通じているのは、わたしたちだけだからです」ロードブッシュは主張した。「わたしは、この船が安全〈だと思う〉と申しあげましたし、いまでもそう申しあげます。しかし、そのことは数学的にさえ証明できません。この船が、実験をへていない新装置や、現存のあらゆるデータを超越した追加装置を満載しているからです。この船は、理論的には安全ですが、ご存知のように、理論は理論であって、このような高速度では、数学的に無視できるような因子が作用するかもしれません。短い航行には、乗組員は必要ではありません。小さな事故はふたりだけで処理できます。それに、もし基本的な理論がまちがっていれば、ここから木星までのあいだにいる全乗組員を動員したところで、なんの効果もありません。ですから、われわれふたりが――ふたりだけで――行くのです」
「では、とにかく気をつけてくれ。きみたちがゆるい速度でスタートして、急がないでくれるといいんだが」
「ある意味では、わたしもそうできればいいと思いますが、この船は重力の半分を中和したり、物質の慣性の半分を中和したりするように設計されてはいません――中和装置が作用すると同時に、すべてか無か、どちらかにならざるをえないのです。もちろん、中和装置のかわりに推進器でスタートさせることはできますが、それではなにも証明されませんし、苦痛を長引かすだけでしょう」
「では、できるだけ気をつけてくれたまえ」
「そうします、長官」クリーブランドが口をはさんだ。「われわれは、ほかのだれにもおとらないくらい――おそらくそれ以上に――自分のことを気をつけていますから、避けることができるものなら、自殺するつもりはありません。それから、われわれが発進するときには、全員が退避《たいひ》するように注意してください――また、われわれが、場所をふさぐことはほとんどあり得ないでしょうが――。では、行ってまいります」
「行ってきたまえ!」
厚い絶縁ドアがとざされると、山の金属の斜面が開いて、巨大なずんぐりしたキャタピラ式トラクターがうなり声と金属音をたてながら部屋にはいってきた。鎖や鋼索が固定された。車輪付き船台に乗せられた宇宙船が、太い鋼鉄レールを重みできしらせながら、〈丘〉からずっと離れた谷底の平地にひきずりだされたのち、トラクターは切り離されて要塞にもどった。
「全員退避おわり」サムスはロードブッシュに知らせた。長官は、映像盤を熱心に見つめていた。そこには、テストをへていない超宇宙船の制御室が移されているのだった。彼は、ロードブッシュがクリーブランドに話しかけ、観測員が短く答えるのを聞き、航行士がスイッチボタンを押すのを見た――とたんに、映像盤は空白になった。スイッチを切ったときのような普通の空白ではなく、奇妙に不穏な暗転だった。そして、巨大な宇宙船が静止していた場所は、瞬間的に空虚――真空になった。船も、支柱も、車輪も、船台も、太い鋼鉄のI字型レールも、深く埋めこまれたコンクリートの角柱や土台や固い地面の半球形部分までも、すべてが完全に一瞬にして消滅したのだ。
しかし、その真空は、形成されたときと同様に急激に、空気の旋風的流入によってみたされた。百雷の一時に落ちるような爆発が起こり、うなりわめく突風の中を、さまざまの破片がまったくなだれのように、谷や平地や金属にふりそそいだ。ねじまげられたり折れたりしたレールや鋼材、粉砕された木材、コンクリートの団塊、数万立方メートルの土や岩石。原子力を動力とする「ロードブッシュ・クリーブランド式」重力中和装置は、設計者が計算したよりもはるかに強力で、影響範囲がはるかに広大だったので、ボイス号から百メートルかそこら以内にあるすべてのものが、一瞬、船と一体をなしているかのように反応したのだ。それから、それらの物質は、超宇宙船のほとんど無限の速度によってたちまちあとにとり残され、ふたたび自然の日常法則にしたがうようになって、地面にはげしく逆もどりしたのである。
「通信ビームを保持できたか、ランドルフ?」〈丘〉の住人の大部分が魔法にかけられたように呆然としている中で、サムスの声がするどくひびいた。しかし、考えられるかぎりのどんな非常事態も、ウルトラ・ウェーブ主任技師の注意を、自分の装置からそらすことはできなかったのだ。
「できませんでした、閣下」無線センターが返事した。「消滅してしまって、回復できなかったのです。追跡装置を総動員してビームを追跡しましたが、なんの手がかりもえられませんでした」
「そして、船そのものの破片はない」サムスは、なかば口の中でつづけた。「彼らは、もっとも大胆な希望をはるかに越えるほど成功したのか、さもなければ――もっとありそうなことだが――」彼は口をつぐんで、映像盤のスイッチを切った。彼の友人であるあのふたりの勇敢な科学者は、生きて意気揚々としているのだろうか、それともすでに死んでしまって、あの殺人的宇宙船の犠牲者のリストをさらに延長したのだろうか? 彼の理性は、ふたりの死を認めていた。ふたりは死んだのにちがいなかった。さもなければ、船が考えられるかぎりのどんな情況のもとで物質にとって可能などんな速度で航行しようと、ウルトラ・ビームは船の通信器との連絡を保持しただろう――ウルトラ・ビームのエネルギーは、人間がつくったもっとも鋭敏な装置でさえ測定できないような、想像を絶する拡散速度を持っているからだ。船は、ロードブッシュが重力中和装置のスイッチをいれたとたんに解体したにちがいない。しかし、物理学者は、そのような速度が現実にえられる可能性を漠然と予想していなかったのか――それとも予想していたのか? とはいえ個人の生死にかかわらず、三惑星連合軍は前進するのだ。サムスは、無意識のうちに肩をいからせながら、きびしい顔つきで、ゆっくりと専用オフィスにもどって行った。
「閣下、フェアチャイルドさんが、できるだけはやく、ちょっとお話したいそうです」彼が腰をおろさないうちに、秘書が報告した。「ご存知のように、モーガン上院議員がずっとここにいらして、閣下に個人的にお目にかかりたいといっておいでなんですわ」
「ああ、あの手合《てあい》かね。よろしい、面会しよう。フェアチャイルドにつないでくれたまえ――ディックかい? 話ができるかね、それとも、やつがそこで聞いているのかね?」
「いいえ、彼はいまソーンダースを質問ぜめにしています。もうながいことねばっているんです。一分だけお会いになって、追い返してくださいますか?」
「きみがそういうなら、もちろん会うよ。だが、なぜいつものように、きみが自分で追い返さないんだ?」
「彼は閣下と個人的に決着をつけるつもりです。ごぞんじのように、彼は大物で、彼の一味はしきりにごたごたを起こしていますから、いっそ張本人と対決なさったほうがいいかもしれません。それに、閣下は独特な〈こつ〉をごぞんじです――閣下に〈もり〉をぶつけられたやつは、二度と忘れませんからね」
「よろしい。彼は向上主義者で平等主義者だ。三惑星連合打倒、民族主権確立を叫んでいる。われわれのことを、権力にうえた独裁者――民衆の抑圧者などと呼んでいる。だが、彼自身はどうだ。もちろん、鉄面皮《てつめんぴ》だ――頭はいいがね」
「サイみたいに鉄面皮です。頭はいいが、イタチみたいに狡猾《こうかつ》です。やつをやっつけてください――〈もり〉をつけ根まで突きさして、えぐってやってください」
「O・K、もちろん、きみは〈もり〉を持っているな?」
「三本あります!」三惑星連合軍の渉外部長フェアチャイルドは、嬉しそうににやりとしていった。「ボスのジム・タウンは、彼を金で使っています。彼の秘密のロッカーのナンバーはN四六九T四一四です。彼の最低のガールフレンドは、フィ・チ・ル・ベイ――そうです、名前が示すとおりの代物《しろもの》です。彼女は、あのマッケンジー川の水力計画で、超デラックスな毛皮のコートを手にいれました――ほかならぬ、火星テッキルの毛皮です。トリプルプレーといってもいいでしょう――クランダーからモーガン、モーガンからル・ベイです」
「結構だ。彼を通したまえ」
「モーガン上院議員です、サムス閣下」フェアチャイルドが紹介すると、ふたりの男は、電光のような視線でおたがいの人物を評価した。サムスが見たものは、成功した政治家らしい表面的なあいそのよさ――そしてぬけめのない打算的な目――をそなえた、いくらかふとり気味の、血色のいい大男だった。上院議員が見たものは、長身できたえあげられた体つきの四十代の男で、顔つきはきびしくひきしまってひげがなく、赤褐色のもじゃもじゃした髪は刈る時期が二週間ばかりすぎており、金色まじりの褐色の目は、穏和というにはするどすぎた。
「上院議員どの、フェアチャイルドのおもてなしにご満足でしたろうな?」
「一、二の例外はありますが、満足でした」
サムスがその例外とはどんなことかとたずねなかったので、モーガンはつづけないわけにはいかなかった。「ご承知のように、わしは北アメリカ上院の有害活動調査委員会議長としての公式資格できたのです。ここ数年来、あなたの組織の公式報告に未公開の部分が多いということが認められてきました。高圧的な不法が犯されてきたということは、周知の事実です。あなたの部下たち自身によって犯されたのではないまでも、彼らがそのことを知らないはずがないような情況において犯されてきたのです。したがって、直接的かつ包括的な調査をおこなうことが決定されたのですが、その件について、フェアチャイルド氏はかならずしも協力的ではありませんでした」
「だれがその調査をすることを決定したのです?」
「もちろん、北アメリカ上院が、有害活動調査委員会を通じて――」
「そうだろうと思いましたよ」サムスはさえぎった。「上院議員殿、あなたは〈丘〉が北アメリカ大陸の一部ではないということをごぞんじないのですか? 三惑星連合軍は、三惑星評議会に対してのみ責任を負っているのですぞ」
「時代おくれの屁《へ》理屈だ! 現代はデモクラシーですぞ!」上院議員は、演説口調ではじめた。「そんな事例はすべて、もうすぐ改められるでしょう。もしあなたが自認しているほど賢明なら、これだけいえば充分だろう。あなたと、あなたの協力者たちは――」
「あなたは、なにもいう必要はありません」サムスはさえぎった。「やりかたはまだ改められてはいない。北アメリカ政府は、ほかの大陸政府と同様、自己の大陸だけを支配しています。三惑星の諸大陸政府は合同して三惑星評議会を形成している。評議会は非政治団体で、そのメンバーは終身制である。そして評議会は、一個以上の大陸政府に関係のある大小のいかなる問題についても、最高の決定権を持っている。評議会には、二つの重要な執行機関がある。三惑星連合軍パトロール隊は、評議会の決定、規則、条例を実施し、三惑星連合軍は、評議会が指示したその他の仕事を遂行する。したがって、われわれは、北アメリカの純粋に内政的な問題には関心がないのです。なにかこれと反対の意見をお持ちですかな?」
「また屁理屈だ!」上院議員はどなった。「苛酷《かこく》な独裁性が、デモクラシーの仮面をかぶって支配したことは、歴史上これがはじめてではない。閣下、わしはフェアチャイルド氏に指摘した諸問題について――その一つはペラリオン号事件だが――完全な事実を北アメリカ上院に対して提供できるように、あなたがたのファイルの完全な閲覧《えつらん》を〈要求〉しますぞ。デモクラシーにおいては、事実をかくすことは許されません。人民は、自己の幸福や政治生活に影響のあるどんな問題についても、完全に知らされねばならないし、知らされるべきなのです!」
「そうですかな。ではもし三惑星評議会およびそれを通じてあなたの有権者たちに、北アメリカの政局について完全に知らせておくために、わたしが要求したならば、あなたはもちろん、安全保管箱N四六九T四一四号の鍵をわたしに提供するでしょうな? というのは、北アメリカの政界のいわゆる透明な水域に、ある程度の――まあ汚濁《おだく》とでもいいましょうかな――汚濁があると言うことは、少なくとも評議会では周知の事実ですからな」
「なんですと? ばかばかしい!」モーガンは英雄的な努力をしたが、完全には平静をたもてなかった。「個人的書類にすぎんよ、閣下!」
「そうかもしれませんな。しかし、評議員の中には、その箱にいくつかの興味深い資料がはいっていると信じているものもあります。たとえば、ジームズ・F・タウンという人物をまじえたある種の取りひきの記録ですな。マッケンジー電力、とくにマッケンジー電力のクランダー氏との――取りひきとはいわないまでも――交渉に関する参考資料のほか、ル・ベイという名で知られている人物とテキルのコートに関する一、二の興味深い資料もあるかもしれません。北アメリカの親愛なる人民にとって、この上もなく興味のあることだとは思われませんか?」
サムスが〈もり〉を突き刺してねじるにつれて、大男は目に見えて動揺した。しかし、「きみは協力をこばむんだな、ええ?」彼はどなった。「よろしい、ひきさがろう――だが、きみがわしの噂を聞くのは、これが最後ではないぞ、サムス!」
「そうかね? たぶんそうだろう。だが、今度ごたごたを起こすまえに、このロッカーの問題はほんの一例にすぎないということを思いだしたまえ。われわれ三惑星連合軍は、いろいろな秘密を知っているが、それをだれにもいいはしない――自衛のため以外にはな」
「サムス閣下、フレッチャーを待たしてありますが、いまつなぎましょうか」モーガンが完全にやっつけられて出て行くと、ノーマがたずねた。
「うむ、つないでくれたまえ――やあ、シド、会えて嬉しいよ――しばらく心配していたんだ。どうやって、麻薬ラインを発見したのかね、そして、麻薬はなんだったのかね?」
「ごきげんよう、長官! 麻薬の大部分はハディヴです。ヘロインがいくらかと、火星ラドリアンもすこしありました。しかし、まずい仕事でした――一味のうち三人が、品物を四分の一ばかり持って逃げました。そういうわけで、長官とこんなにせっかちに話す気になったのです――やつらは、標識用隕石を偽造しています。はじめて見ましたよ」
サムスは、椅子の中で体をこわばらした。
「ちょっと待て。ノーマ、レドモンドをわれわれと連絡させてくれ――ハリー、聞いてくれ。さあ、フレッチャー、きみはそのにせの隕石を自分で見たのか? さわったのか?」
「両方です。じつのところ、まだそいつを持っています。麻薬業者のひとりが、三惑星連合員のふりをして、わたしに見せたのです。しかも、じつによくできているんですよ、長官。いまでさえ、自分のポケットにはいっているということをのぞけば、見わけがつかないほどです。送りましょうか」
「ぜひたのむ。研究所長のH・D・レドモンド博士あてにな。ひきつづきがんばってくれたまえ、シド――さようなら。さあ、ハリー、どう思うかね? われわれの隕石だということも〈ありえる〉が」
「ありえますが、たぶんそうではないでしょう。研究所にとどけば、すぐにわかりますよ。だが、やつらはまた、われわれの技術に追いついたのかもしれません。結局、これは予想されることでした――科学が合成できるものはすべて、科学で分析できます。そして、海賊どもの道徳や倫理がどうあろうと、やつらは頭脳を持っています」
「で、これまでのところでは、なにかもっといい標識は工夫できなかったのかね?」
「ほんの変形程度のものですから、分析するのにあまり時間はかからないでしょう。原則的にいえば、現在の隕石が、わかっているかぎりでは最良の標識です」
「さしあたり、きみがこの仕事をまかしたいものがだれかいるかね?」
「もちろんです。新人のひとりがこの仕事に完全に適していると思います。バーゲンホルムという名で、相当な人物です。彼自身説明できないような、真の天才の異常なひらめきがあります。すぐ彼にこの仕事をまかせましょう」
「ありがとう。ところで、ノーマ、できるだけみんなわしに近づけないでくれ。考えごとをしたいのだ」
事実、彼は考えた。するどい目をくもらし、デスクに散らばった書類を見るともなく見つめながら考えた。三惑星連合には、標識が必要だ――なにか、どこでも、いつでも、どんな情況のもとでも、なんの疑いもなしに要員の識別ができるようなもの――なにか、複製できないばかりでなく、模造も偽造もできないもの――なにか、三惑星連合軍の科学者ではない科学者には真似《まね》できないもの――そればかりでなく、なにか三惑星連合軍の要員でないものには身につけることさえできないようなもの――
サムスは、その考えにちらりと微笑した。|救いの神《デウス・エクス・マキナ》に切望するような法外な注文だ――だが、しかし、〈なにか〉方法があるはずだ――
「ごめんください、閣下」いつもはきわめて冷静な秘書の声が、ふるえながら彼の思考を破った。
「キニスン委員長がお呼びです。オリオン方面で、またなにかおそろしいことが起こっています。委員長をつなぎます」そして、サムスのスクリーン上に、公安委員長の顔があらわれた。陸と海と空と宇宙を問わず、三惑星連合軍のあらゆる兵力の司令長官なのだ。
「彼らがまた出てきたぞ、バージル!」委員長は、前おきも挨拶もなしに叫んだ。「四隻やられた――輸送船一隻と客船一隻と客船を護送していた重巡洋艦二隻だ。みんな、M戦区、距離一五一のあたりでやられたのだ。わしは宇宙の全交通機関に非常警戒の継続を命令した。われわれの軍艦でさえ役にたたないので、全船舶は、もっとも近いドックへ全速力で向かっている。きみのところの例の新型宇宙船はどうだ――なにか役にたちそうなものがあるかね?」
ボイス号がすでに発進したことは、〈丘〉の遮蔽《しゃへい》スクリーンの外の人間はだれひとり知らなかったのだ。
「わからん。超宇宙船が健在かどうかもわからんのだ」そして、サムスは、テスト飛行の開始――そしておそらくその終末――の模様を簡単に述べて結論した。「情況はわるいが、もしあの船をあやつることが可能だとすれば、ロードブッシュとクリーブランドはそうしたはずだ。われわれの追跡装置は全部まだ無反応だから、確定的なことはなにも――」
彼が言葉をとぎらしたのは、ピッツバーグの駐屯軍から公安委員長へ、狂気のような呼びだしがはいったからだった。サムスは、その呼びだしを耳で聞き、目で見た。
「市が攻撃されています!」緊急連絡がきた。「そちらで派遣できるかぎりの増援を求めます!」
そして、観測員のスクリーン上に、包囲攻撃を受けている市のすさまじい情況が、詳細にあらわれた。空中から記録された眺めだ。公安委員長が動員可能なかぎりの兵員と兵器を船上に派遣する命令をくだすには、ほんの数秒しかかからなかった。できるだけの手をすべて打ってしまうと、キニスンとサムスは絶望的な魅《み》入られたような恐怖をこめて、映像盤をのぞきこみながら、そこに映されている殺戮《さつりく》と破壊のシーンを見つめた。
ネヴィア人の宇宙船――ネラドの船の姉妹船で、ネラドの要請に応じて地球へ向かって発進しているのをコスティガンが宇宙空間で見かけたもの――が、大都会の上空に全容を見せて平衡をたもっていた。その船は、地球人が使用する貧弱な兵器を軽蔑するように、雲一つない空を背景にして、不吉にも美しい輪郭をくっきりえがきだしながら静止していた。その輝く船体から下方へ向けて、希薄だが強固な深紅色のエネルギーの棒がのびていた。ネヴィア人がはるばると捜し求めにきた貴重な金属がもっとも豊富に貯えられている場所を発見するにつれて、その棒はそここことゆっくりなぎ払った。すると、堅固だった鉄はどろどろした液体と化し、その不可解な深紅色の導管を通じて、ますます濃厚な流れをなしつつ、ネヴィア人襲撃者の広大な貯蔵タンクに流れこんでいった。そして、その炎々たるビームがむかうところには、破壊と死が発生した。建築的な均斉《きんせい》と美を示して堂々とそびえている事務用ビルや摩天楼は、鋼鉄の骨を抜きとられるとともに崩壊して瓦礫《がれき》の山と化した。ビームが地面深く貫くと、地下の配管網が消滅するにつれて、洪水、火事、爆発が続発した。そして、ビル内の人間は、生命を維持している体内の鉄が吸収されてネヴィア人の鉄の流れを増大させるにつれて、どういう目にあったのかを知らないまま、瞬間的に、なんの苦痛もなく死んでいった。
ピッツバーグの防御体制は、もともと弱体だった。少数の時代おくれな鉄道砲が、弾丸を発射して無益な抵抗をしていたが、やがて音もなく吸収されてしまった。鉄を原動力とするウルトラ・ウェーブ攻撃ビームであらたに武装した三惑星連合軍の地域空軍がいそいで動員されて、侵入者に編隊攻撃を加えたが、ほとんど見るべき成果はなかった。侵略者の防御スクリーンは、地域空軍の攻撃ビームの衝撃によって白熱的に輝いたが、やがて静止している船も飛来する飛行編隊も、深紅色の炎のような不透明なベールにおおわれて見えなくなった。その雲がまもなく消滅すると、飛行機があったところから、一団の非鉄性の破片が浮遊し落下してきた。そしていまや、三惑星連合軍のバッファロー基地から発進した宇宙船の円錐編隊がピッツバーグに接近しつつあったが、彼らがネヴィア人略奪者に突撃しても、無気味な絶望的敗北をこうむることは目に見えていた。
「あれをひき止めるんだ、ロッド!」サムスは叫んだ。「これはまったくの屠殺《とさつ》だ! 味方は有効な兵器をなにも持っていない――鉄エネルギーさえ装備されていないのだ!」
「知っている」公安委員長はうめくようにいった。「バーンズ司令官もわれわれと同じようによく知っているが、どうすることもできんのだ――ちょっと待て! ワシントンの円錐編隊から連絡だ。彼らはバッファロー編隊と同じくらい接近しているし、新型兵器を持っている。フィラデルフィア編隊も、ニューヨーク編隊も、すぐあとから接近している。たぶん、なにかできるだろう!」
バッファローの支艦隊は、速度をゆるめて停止した。数分のうちに、ほかの基地からの分遣隊も到着した。円錐編隊が形成され、鉄エネルギー船を先頭に、旧式船を後方にして、円錐の中空の正面から強固な破壊性の円筒を吐きだしながら、ネヴィア船におそいかかった。ネヴィア船の防御スクリーンがまぶしく輝き、破壊性の赤い雲がふたたび展開された。しかし、地球人の宇宙船は、まったくの無防備ではなかった。彼らの鉄エネルギーを原動力とするウルトラ・ウェーブ発生器は、ネヴィア人自身の処方になる防御スクリーンを投射した。両棲人の鉄変形エネルギーは、そのきわめて強力なスクリーンにからみつき、想像を絶するエネルギーを無益に燦然《さんぜん》と消費しながら攻めたてた。数分にわたってはげしい闘争がつづき、頑強なスクリーンによって消費される膨大なエネルギーは、すさまじい破壊性の電光となって、はるか下方の都市に降りそそいだ。
こうした信じられないほど激烈な戦闘がながくつづくはずがなかった。三惑星連合軍の船はすでに力をだしきっていたが、ネヴィア人は太陽系人の科学を軽蔑して、いまだに全力を発揮していなかった。こうして、地球人の最後の絶望的努力が無効に帰しているうちに、侵入者の攻撃ビームは、地球人軍艦の過度に負荷された防御スクリーンにいよいよ深く食い入り、いわゆる無敵な地球人宇宙船は、つぎつぎにすさまじく解体された破片となって、かつてピッツバーグだった廃墟《はいきょ》の上に落下していった。
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九 標本
コスティガンは、深海魚族の潜水艦がネラドの恐るべき破壊兵器に勝てなかったにちがいないと考えたが、その確信には充分すぎるほど理由があった。数日のあいだ、ネヴィア人の救命艇は、三人の地球人を乗せて、恒星間宇宙を事故もなく突進して行ったが、ついに秘密諜報員の不安が現実化した――彼がはるか遠くまで展開していた探知スクリーンが反応したのだ。三人は、観測映像盤上で、ネラドの巨大な宇宙船が、逃走しつつある救命艇を全速力で追ってくるのを見ることができた!
「用心したまえ――もうながいことではないぞ!」コスティガンが叫ぶと、ブラッドレーとクリオは小さな制御室にかけこんだ。
三人の地球人は、宇宙服を着てテストしたのち、観測映像盤をのぞきこみながら、ネヴィア人の宇宙船が急速に拡大してくるのを見つめた。ネラドは、彼らを探知して追跡しているのだ。そして、巨船の速度はきわめて大きいので、救命艇はいまや想像を絶するスピードで突進していたが、その速度も、追跡してくる巡洋艦の速度にくらべれば、ほんの這《は》うようなものだったのだ。
「それに、われわれは地球へもどる旅に出発したばかりだ。もちろん、まだだれとも連絡はとれないね?」ブラッドレーは、質問するというより断定するようにいった。
「もちろん、やつらがこっちの通信波を妨害するまでずっと連絡をとってみたが、まったく反応はなかった。ぼくの通信波がとどくには何万倍も遠すぎるのだ。ぼくらが味方のだれかと連絡がとれる唯一の希望といえば、われわれの超宇宙船が、すでにこのあたりをうろついているかもしれないというごくわずかな可能性だけだが、もちろんそんなことはない。そら、やつらが追いついたぞ!」
コスティガンは、制御パネルに手をのばして、巨船に向かって破壊的な波動をたてつづけに投射した。そのはげしくまといつく衝撃をあびて、ネヴィア人の防御スクリーンは白熱したが、奇妙なことに、救命艇の防御スクリーンは輝かなかった。母船は、救命艇が使用するあらゆる兵器を軽蔑するかのように、救命艇の攻撃ビームから自己を守っているだけだったのだ。それはまるで、ヤマネコの子どもが母親から必要なしつけを受けるのに腹をたてて、つばを吐いたりうなったりしながら爪や歯をたてようとするのを、母親が受けとめているのと同様だった。
「たぶん、やつらはわたしたちと戦う気がないのよ」クリオがはじめに事情をさとった。
「これはやつらの救命艇だし、やつらはわたしたちを生けどりにしたいんだわ」
「こっちには、もう一つやれることがあるんだ――つかまっていろ」コスティガンは叫ぶと、防御スクリーンを切って、一本の巨大な圧迫ビームにすべてのエネルギーを投入した。
三人は、すさまじい荷重によって床に投げだされ、その場に押しつけられた。救命艇が、ネヴィア人宇宙船のとほうもない質量に対する圧迫ビームの反動から生じた膨大な加速度で突進しはじめたのだ。
しかし、その突進もわずかしかつづかなかった。圧迫ビームにそって、にぶい赤色のエネルギー棒がじりじりとのび、弾丸のように逃走する艇を包囲してゆっくりひきとめた。コスティガンは、狂気のように制御装置をくり返し操作しながら、推進力を総動員し、あらゆる兵器を投射したが、どんなビームもその赤色の霧を貫くことはできず、救命艇は宇宙に静止したままだった。いや、静止していたのではない――赤色のエネルギー棒は短縮し、艇が二、三日前に希望にみちて脱出した発進口へむけて、艇をひきつけていくのだった。艇はじりじり引きよせられた。コスティガンが精いっぱい努力しても、その運動の方向に毛ほどの影響を与えることもできなかった。艇は開かれた出入口からすっぽりすべりこんだ。そして艇が怪物の幾層にもなった殻を通過して本来の位置に停止するまでのあいだに、捕虜たちは重いドアが後方でつぎつぎに金属性の音をたてて閉鎖されるのを聞いた。
それから、三惑星連合軍の宇宙服をつけた三人のまわりで、青い炎の膜がパチパチと音をたてた――ふたりの大きな姿とひとりの小さな姿は、まばゆい青色の炎の中でくっきり浮きだした。
「こっちの計画どおりにことが運んだのは、これがはじめてだよ」コスティガンは、短くするどい笑い声をたてた。「これはやつらの麻痺光線だが、ぼくらはあれをくいとめた。ぼくらはそれぞれ、あれをいつまでもくいとめられるだけ鉄を持っている」
「だが、われわれにできることといったら、手づまりにするのが精いっぱいのようだな」ブラッドレーが意見を述べた。「やつらがわれわれをしびれさせられないとしても、われわれもやつらを傷つけられないし、この船はネヴィアへもどっているんだからね」
「ぼくの考えでは、ネラドは交渉にくると思う。そして、ぼくらはなんらかの契約をむすぶことができるだろう。彼はこのルーイストン式熱線放射器がどういう性能を持っているか知っているにちがいない。それに、彼はぼくらがもういちどつかまるまえに、どうにかしてこれを使用するチャンスをとらえるだろうということを知っているのだ」コスティガンは確信をもって主張した――しかし、彼はまたまちがっていたのだ。
ドアが開き、金属におおわれた怪物が、よたよたころがりながら、というよりは這《は》いながらはいってきた――その代物《しろもの》は、車輪と足と関節のある柔軟な触手を持ち、三惑星連合軍の放射器の全力放射を容易に吸収できるほど強力な防御スクリーンをそなえていた。三本の金属製触手がルーイストンの狂暴なビームの中をのびてきてルーイストンを粉砕し、三人の地球人の宇宙服姿のまわりに破壊しがたい〈かせ〉となって巻きついた。この機械か生物かわからない怪物は、手も足もでない三つの荷物をドアから運びだし、主要通路にそって進んで行った。そしてまもなく、三人の地球人は、武器もなく、宇宙服もなく、着物さえほとんどつけずに制御室に立って、冷静で無感動なネラドとふたたび顔をあわせていた。せっかちなコスティガンが驚いたことに、ネヴィア人指揮官は、まったく怒っていなかった。
「自由に対する欲求は、おそらくあらゆる生命形態に共通なものなのだろう」彼は周波数変換器を通じて述べた。「しかし、まえにもいったとおり、きみたちは科学大学で研究されるべき標本なんだから、きみたちがどんなことをしようが、そのように研究させるのだ。あきらめるがいい」
「では、われわれがこれ以上ごたごたを起こそうとしないで、その検査に協力して、できるかぎり情報を提供すればだ」とコスティガンは提案した。「その場合は、われわれに船を提供して、自分たちの世界に帰らせてくれるかね?」
「きみたちは、これ以上ごたごたを起こすことを許されない」両棲人は冷静に断言した。「きみたちの協力は必要ではない。われわれは、きみたちからこちらが望むかぎりの知識や情報を獲得する。十中八、九まで、きみたちは自分の太陽系に帰ることを許されないだろう。きみたちは、失うには惜しいほど特異な標本だからだ。だが、こんなむだ話はもうたくさんだ――このものたちを部屋へ連れて行け!」
捕虜たちは、きびしい警護のもとに、三つの相互に連結した部屋へ連行された。ネラドは、いまいったとおりに、彼らがもう脱出のチャンスがないように確実な手配をした。宇宙船は、事故もなくネヴィアへ急行し、地球人たちはネラドが予告した生理的心理的検査を受けるために、拘束されたまま科学大学へ運ばれた。
ネヴィア人の科学者兼船長が、地球人の協力は必要でもないし望みもしないといったのは、まちがっていなかった。地球人たちは、手も足も出ずに怒り狂いながら、冷酷なまでに分析的で無感動なネヴィア人科学者たちによって、さまざまの研究室で検査された。ネヴィア人科学者にとって、彼らは標本以外のなにものでもなかった。そして彼らは、生物学的研究において未知の下等な生物の役割りをはたすというのはどういうことかを、いやというほど思い知らされることになった。彼らは、外部からも内部からも写真をとられた。あらゆる骨、筋肉、器官、血管、神経が検査され図にとられた。あらゆる反射反応が注目され論じられた。あらゆる衝動がメーターで測定され、あらゆる思考、あらゆる観念、あらゆる感覚がレコーダーで記録された。くる日もくる日も、神経をひきむしるような拷問がつづき、ついに実験動物たちはもう耐えきれなくなった。とうとう、クリオは、研究室のベンチにベルトでしばりつけられながら狂ったようにヒステリックな悲鳴をあげた。コスティガンは、すでに神経が切れそうになっていたが、その声を聞くと、がまんできなくなって、狂暴な怒りの叫びをあげた。
男のあがきも娘の悲鳴も同様に無益だったが、びっくりしたネヴィア人たちは、協議ののち、標本に休息を与えることにきめた。その目的で、地球人たちは、透明な金属でできた三部屋の建造物に、地球的付属物もろともいれられて、市の中央にある大きな礁湖に浮かされた。彼らは、ここでしばらくじゃまされずにほうっておかれた――じゃまされずにといっても、何百という両棲人がたえずこの浮き小屋をとり囲んで、たえず見物しているのだった。
「われわれは、はじめは顕微鏡の下の甲虫だった」ブラッドレーがうなるようにいった。「こんどは、金魚鉢の中の金魚だ。ことによるとこのつぎは――」
彼が言葉を切ったのは、ふたりの看守が部屋にはいってきたからだった。ふたりは、周波数変換器を通じて一言もいわずに、ブラッドレーとクリオをつかまえた。例の触手状の腕が娘のほうへのびてくると、コスティガンはとびかかった。しかし、むだな努力だった。ネヴィア人の麻痺ビームが空中で彼にふれ、彼はドサッと透明な床に落ちた。彼が床に倒れたまま、手も足も出ずにいきりたって見あげているうちに、彼の愛人と船長は、牢獄から運びだされ、待っていた潜水艦にいれられた。
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十 超宇宙船の活躍
フレデリック・ロードブッシュ博士は、三惑星連合軍があらたに改造した超宇宙船の制御パネルの前にすわって、一本の指を小さな黒いボタンの上方に静止させていた。この物理学者は、未知の危険に直面しているのに、友人に向かって気まぐれに笑いかけた。
「どういうことかわからないが、重大なことが起ころうとしている。ボイス号が、これから発進しようとしているんだ。用意はいいかい、クリーブ?」
「さっさとやっつけろ!」と短い返事。クリーブランドもまた、重大な瞬間に深刻な感情を口にすることが、体質的にできない男だった。
ロードブッシュは指をおろした。たちまち、ふたりとも、とほうもなくはげしい目まいに似た感覚におそわれた。しかし、その目まいは、宇宙酔いが地上での単なる目まいをはるかに越えたおそろしい感覚であるのと同様に、単なる宇宙酔いをはるか越えたすさまじい感覚だった。パイロットは制御盤へよわよわしく手をのばしたが、鉛《なまり》のように重い手は、きりきりまいしている心の命令を完全に拒否した。彼の脳は、名状しがたい苦痛にみたされてけいれんし、それを包んだ頭蓋骨の中で、耐えがたい圧力に膨張し、爆発し、ふくれあがった。破裂しそうな眼球の内側では、黒と緑の筋が投げ槍のように飛びかう中で、火のような螺旋《らせん》がゆらめいた。彼のまわりで、宇宙全体が狂ったように回転し、渦巻いた。彼は酔ったようにきりきりまいしながら立ちあがったが、よろめいて手足をのばした。彼はぶっ倒れた。自分が倒れかけていることを知ったが、倒れるわけにはいかなかった! 苦痛のあまり、はげしくぶざまにもがきながら、気が狂ったようにやみくもに部屋を横切り、厚い鋼鉄の壁のほうへまっすぐに進んだ。くせのつよい濃い髪の毛の一本の端が、壁に触れた。すると、その一本の細い髪の毛がまがりさえしないのに、そのわずかな力だけで、質量百八十ポンドの彼の体がぴたりと停止した――いまや、質量は完全に慣性を失ったのだ。
しかし、彼の脳の総力は、肉体的苦痛に勝ちはじめた。混乱した知能には、命綱《いのちづな》もほとんど無意味に思われたが、意志力をふりしぼってそれを両手でつかんだ。そして、地獄の拷問を現実化したような苦痛と戦いながら、制御盤にもどった。一本の支柱に片足をひっかけ、見るからにはげしい努力をして赤いボタンを押してから、ぺったり床に倒れた。弱ってはいたが、安心と感謝がどっと心にあふれた。いためつけられた体に、ふたたびおなじみの重力と慣性の作用を感じたからだった。ふたりの男は、青ざめて身ぶるいしながら、率直に公然と気分のわるさをしめしていた。そして、なかば驚きのまじった喜びをこめて、顔を見あわせた。
「成功したね」クリーブランドは、口がきけるくらい回復すると、よわよわしく微笑してから、ぴょんと立ちあがった。「急げ、フレッド! ぼくらは急速に落下しているにちがいない――地球にぶつかったら〈おしゃか〉だぞ」
「どこにも落下してやしないよ」ロードブッシュは、目で合図しながら、主要観測映像盤にあゆみよって、窓を見わたした。「しかし、ぼくが心配したほど情況はわるくない。まだ見おぼえのある星座が二つ三つ見える。〈形〉はかなりゆがんでいるがね。つまり、ぼくらは太陽系から二光年かそこら以上離れていないにちがいないんだ。もちろん、船にはごくわずかの推力しか与えなかったから、ほとんどすべてのエネルギーと時間が、大気圏から出るのについやされたんだ。だがそれでも、宇宙空間が完全な真空でないのはいいことだ。さもなければ、ぼくらはいまごろ宇宙からとびだしていただろう」
「へえ? なんのことをいってるんだ? ありそうもないことだ! とにかく、ぼくらはどこにいるんだい? すると、ぼくらはきっと何百万――ああ、わかった!」クリーブランドは、やはり映像盤を見つめながら、いくらかちぐはぐなことを叫んだ。
「そのとおり。ぼくらはまったく航行していないのさ――〈いまのところ〉はね」ロードブッシュは答えた。「ぼくらはあの飛躍を無慣性状態でやったのだから、地球との関係は完全に停止しているわけだ。ぼくらは、慣性を百パーセント中立化したにちがいない――一〇〇・〇〇〇〇〇くらいね――これは、まったく思いがけないことだった。だから、慣性が回復されたとたんに、停止したにちがいない。ところで、無慣性になる前の、はじめの速度だが――『固有』速度と呼ぼうかね?――こいつがいろいろ複雑な問題をひき起こすことになるが、さしあたりは気にしなくてもいい。それに、ぼくが気にしているのは、ぼくらが〈どこに〉いるかということじゃない――そのことなら、充分見おぼえのある星を標準にすれば、すぐ発見できるからね――ぼくが気にしているのは、ぼくらが〈どんな時間に〉いるかということなんだ」
「それもそのとおりだ。ぼくらが地球から二光年のところにいるとしてみよう。たぶんきみは、ぼくらが十分まえより二歳年をとっていると考えているんだろうね。じつにおもしろい――そして、あきらかに可能性がある。蓋然性《がいぜんせい》さえあるかもしれない――ぼくにはわからんがね――その理論については、いろいろ議論があった。そして、ぼくが知っているかぎりでは、これまでにその理論が正しいかまちがっているかを決定的に証明するチャンスを持った人間は、ぼくらがはじめてだ。いますぐ地球へ大急ぎでもどって、確かめようじゃないか」
「もうすこし実験してから、そうすることにしよう。いいかね、ぼくは船にこんな大きな推力を与えるつもりはなかった。スイッチを入れたり切ったりするつもりだったんだが、ごらんのような始末だ。しかし、一つだけいいことがある――時間の相対性の問題をなにかの方法で解決するということは、どんな人間の寿命でも二年分の価値はあるよ」
「たしかにそうだ。ところで、ぼくらのウルトラ・ウェーブには、うんと力がある。地球にとどくに充分なだけあると思う。太陽《ソル》をつきとめて、サムスと連絡をとろうじゃないか」
「はじめに、この制御装置をちょっと操作してみよう。そうすれば、なにか報告することが手にはいるだろう。ここは、船のテストをするにいいところだ――なにもじゃまものがないからね」
「ぼくはかまわないよ。だが、自分が考えてるより二歳年上かどうか〈知りたい〉もんだな!」
それから四時間ばかり、ふたりはちょうどテスト・パイロットが革新的設計の飛行機の性能をくわしく検査するように、巨大な宇宙船の能力を検査した。例のものすごい目まいは、健康な体と強い意志をもってすれば、耐えることができるし、宇宙酔いが克服できるように、やがては克服できるようになるだろうということさえわかった。また、この新式の輸送機関はロードブッシュさえ想像しなかったような可能性を持っていることもわかった。やがて、とくにさし迫った諸問題が解決されたので、ふたりはもっとも強力なウルトラ・ウェーブ通信器を一つの黄色い恒星に向けた。ふたりにはそれが太陽であることがわかっていた。
「サムス――サムス」クリーブランドは、ゆっくりと明確に呼びかけた。「ロードブッシュとクリーブランド、『ボイス号』より報告。現在位置、太陽から小熊座ベータ星にいたる線上およそ二、三光年の距離。本船に連絡するには、もっとも緊密《タイト》なビームLSV3で六周波数帯が必要でしょう。異常にはげしい宇宙酔いを短時間経験したことを除けば、万事好調でした。われわれふたりが予想したより、もっと好調なくらいでした。ところで、いますぐ知りたいことがあります――われわれが出発してからの時間は、四時間と何分ですか、それとも二年以上ですか?」
彼はロードブッシュのほうをふりむいた。
「このウルトラ・ウェーブの速度がどのくらいかはわからんが、ぼくらがとびだしてきたくらい速ければ、そう時間はかからんはずだ。三十分くらいサムスを待ってから、もういちど――」
しかしクリーブランドの言葉をさえぎって、心労にやつれたバージル・サムスの顔が映像盤にくっきりあらわれ、彼の声がスピーカーからぶっきらぼうに叫んだ。
「ありがたい、生きていたか! 二重にありがたいのは、船が動くことだ! きみたちが出発してから四時間十一分四十一秒たつが、抽象的な理論づけはどうでもいい。できるだけはやくここへ、ピッツバーグへもどってくれ。例のネヴィア人宇宙船かそれと似たほかの船が同市を破壊している。そして、すでに艦隊の半分を撃滅してしまったのだ!」
「九分以内に帰還します!」ロードブッシュは、通信器に叫んだ。「これから大気圏まで二分、大気圏にはいってから〈丘〉まで四分、そして、船体を冷却するのに三分です。四交替の乗員全部に告知してください――みんな、われわれが選択した連中です。ほかのものはだれも必要ありません。船も装備も兵装も用意ができています!」
「大気圏まで二分だって? できると思うのかい」ロードブッシュが通信を切って制御パネルにとびついたとき、クリーブランドがたずねた。「いや、できるかもしれないな」
「必要なら、それよりもっと短い時間でもできる。宇宙へとびだすには、ほとんど推力を使わなかったのだが、こんどはうんと推力を使うつもりだ」物理学者は早口に説明しながら、電光のような速度で航行するコースを決定するダイアルを調節した。
マスター・スイッチがはいると、ふたたび無慣性状態の苦痛がふたりをおそった――しかし、その苦痛は、こんどはまえよりはるかに弱かった――そして、映像盤上には、かつて人間の目が見たことがないような壮観が展開した。なぜなら、ヘテロダイン式の映像をつくりだすウルトラ・ビームは、エーテルを伝わる光線とちがって、どんな高速度でもゆがめられないからだ。それは、映像盤上ではじめて光に変えられて、あたかも時速何マイルという通常の述語で表現される速度で航行しているかのように、船の進行を示した。太陽である黄色の恒星は、天球から浮きあがってこちらへとびだし、刻一刻とふくれて、白熱したまばゆい巨体となった。そして地球もこちらへ突進し、形容を絶するようなすみやかさで拡大してきたので、クリーブランドは自分たちが乗っている船の特異な機構を知っているにもかかわらず、思わず抗議した。
「止めろ、フレッド、止めろ! 速すぎるぞ!」彼は叫んだ。
「ぼくはほんの二、三千キログラムの推力を使用してるだけだし、大気圏に接触したとたんにそれも切ってしまう。機体が熱しはじめるよりずっとまえにね」ロードブッシュは説明した。「危険そうに思えるが、なんのショックもなく停止するだろう」
「こういう航行をなんて呼ぶつもりだい、フレッド」クリーブランドはたずねた。「『有慣性』の対語はなんだ?」
「わかるもんか。そんなものはないと思うよ、光速航行かな。いや――『自由《フリー》』航行はどうだ」
「わるくない。『自由』航行に『有慣性』航行かい、ええ? O・K」
そういうわけで、超宇宙船は『自由』航行しながら、地球の大気のいちばん外側のいちばん希薄な層にはいると、無限といってもいいような高速度から、ほとんど瞬間的に停止した。船の停止は一瞬でしかなかった。船は慣性を回復すると急角度で落下しはじめた。単に落下する以上だった。一連の推進器の噴射によって下方へ押しやられたのだ。推進器は、鉄エネルギー発生器によって駆動されていた。船はまもなく〈丘〉の上空に到着し、すみれ色のスクリーンがただちに開かれた。
ボイス号は、突破してきた大気の摩擦で煌々《こうこう》と白熱しながら、地面に接近すると急に速度をゆるめ、〈丘〉の鋼鉄の広場の下方にある、小さいが深い人工湖の水面めがけて突進した。宇宙船は冷水にもぐったが、水面が船体の上にとざすまえにさえ、堅牢な合金が冷却液に熱を放射するにつれて、蒸気と熱湯が噴水のように吹きあがった。冷却に必要な三分間ははてしないようにのろのろすぎていったが、ついに水は沸騰《ふっとう》がやみ、ロードブッシュは船を湖からぬけださせて、ぽっかり開いているドックの口へ突進した。気密出入口《エア・ロック》の厚いドアが開き、よりぬきの乗組員が私物を持って忙しく乗船しているあいだ、サムスは制御室のふたりの科学者に熱心に話していた。
「――そして、艦隊の約半数は、まだ空中にいる。彼らは攻撃をしないで、きみたちが到着するまで敵艦がこれ以上の損害を与えないように防いでいるだけだ。この船の離陸の問題はどうかね? われわれはもうこの船を発進させることはできん――軌道がふっとんでしまったからだ――しかし、きみは船を簡単に操縦して着陸したな」
「さっきは、みんなわたしが悪かったのです」ロードブッシュは自認した。「わたしは力場が船体の外まで拡がるということを考慮にいれませんでした。しかし、こんどは、着陸のときと同じように、推進器で発進します――自転車みたいにたやすく操作できますよ。推進器の噴射で、ものがすこしこわれるでしょうが、大したことはありません。もうピッツバーグからの通信ビームをとってくださいましたか? 発進準備はほとんどできましたが」
「どうぞ、ロードブッシュ博士」ノーマの声がして、スクリーン上に、その運命きわまった都市の上空で起こっている光景があらわれた。「ドックは噴射にそなえて人員を退去させてあります」
「ごきげんよう、がんばってくれ」サムスの声がとどろいた。
その言葉が発せられているうちに、推進器からすさまじい噴射が起こり、超宇宙船の巨体は出入口をとびだして成層圏へ突入して行った。巨大な球体は、いよいよスピードを増しながら、希薄な大気を突破して行った。そして、三惑星連合軍のホープが東へ突進して行くあいだ、ロードブッシュは映像盤上でたえず変化する戦闘情況を観察しながら、あらゆる攻撃兵器や防御兵器に配置されている高度に熟練した技術者たちに、詳細な指示を与えていた。
しかし、ネヴィア人は、新来者が到着するまで戦闘を待っていなかった。彼らの探知器は敏感だった――数万マイル以上にわたって有効だった――そして、侵入者は、すでに〈丘〉のウルトラ・ウェーブ式防御スクリーンを、地球で唯一の障害の原因となる可能性があるものとして注目していた。そういうわけで、ボイス号の発進は気づかれずにはすまなかったし、もっとも貫通力のある光線をもってしてもボイス号の内部を透視することができないという事実は、すでにネヴィア人指揮官にいささかの不安を与えていた。したがって、球体の巨船がピッツバーグに向かっているということが確認されるやいなや、魚形巡洋艦は行動に移った。
成層圏を東へ突進していたボイス号の巨体は、推進器の出力をおとさないままで、突如、速度をゆるめた。クリーブランドは、干渉計回析格子と分光光度計図の上に目をすえ、計算機のキーの上で指を走らせながら、ロードブッシュをふりむいてにやりと笑った。
「艦長、きみが考えたとおり、ウルトラ・ウェーブ式圧迫ビームだ。C四V六三L二九さ。ちょっと引っぱってやろうか?」
「まだだ。接近するまで、ちょっと敵艦の情況を偵察しよう。本艦には、充分質量がある。ぼくが推進器を全力噴射したら、敵がどうでるか、見ていたまえ」
地球船が全推力を働かせると、ネヴィア船は、すべての推進器を全開しているにもかかわらず、脅威にさらされている都市の上空から押しのけられた。しかし、まもなく地球船の前進はくいとめられ、ふたりの科学者はその理由を映像盤上で理解した。敵は、莫大な力のエネルギー棒を増強したのだ。三本の圧迫ビームが扇状に後方にのびて、船体を低い山腹にささえ、一本の巨大な牽引ビームが真下につきだして、岩床深くのびた円筒状の岩塊をがっちり把握していた。
「それならこっちにも覚悟があるぞ!」そしてロードブッシュは同様なビームのほかに前向きの牽引ビームを放射した。「全員、体を固定せよ!」彼は総員警戒を叫んだ。「もうすぐ、どこかでなにかが切断される。そして、そうなったときには、反動があるぞ!」
予告された反動は、事実まもなく起こった。ネヴィア船は非常に重くて強力だったが、ボイス号はさらに重くてさらに強力だった。牽引ビーム、圧迫ビーム、推進器には、すでに莫大なエネルギーが供給されていたが、それがさらに想像を絶するような最大出力に高められると、敵船は後上方に投げとばされ、地球船はその強力なビームさえ引きちぎりそうな勢いで前方へとびだした。ネヴィア船の〈いかり〉ビームは切断されたのではなかった。それらのいかりをなしていた巨大な円筒状岩塊を引きぬいてしまったのだ。
「あ、やつをひっつかまえろ!」ロードブッシュは叫んだ。岩石がなだれのように落下してその地域を埋めているあいだにさえ、クリーブランドは魚形宇宙船に一本の牽引ビームを定着させて、ためすように引っぱった。
いまや、ネヴィア船も戦闘を回避するつもりはないようだった。相戦う二隻の超宇宙船は、たがいに突進した。侵入者からは、恐るべき真紅の霧が吐きだされた。それは、これまで太陽系に属するすべての物体にとって、最後を意味してきたものだった。それは吐きだされると赤味をおびた不透明な雲となってひろがり、地球人のホープである巨大な球体を呑みこんだ。しかし、長いことではなかった。三惑星連合の超宇宙船は、通常の地球式防御を備えているのではなく、ウルトラ・ウェーブの防御スクリーンにいくえにも包まれていた。重さのない壁であることは事実だが、敵対的ないかなる波動も貫通できない障壁なのだ。ネヴィア人の赤いベールは、その外部スクリーンに執拗《しつよう》にまといつき、防御力場の表面をくまなく貪欲になめまわしたが、ボイス号の装甲の鋼鉄に到達する突破口を発見できなかった。
「ひき返せ! はやくひき返せ! ひき返してピッツバーグを救援せよ!」ロードブッシュは、地球艦隊の司令室に向かって、ウルトラ・ウェーブの通信ビームをベールごしに送りこんだ。なぜなら、生き残った艦隊――もっとも強力な戦闘部隊――は赤い破滅の中へとびこもうと突進してきたからだ。「この赤い力場の中では、きみたちの船は一秒ともたない。それから、もうすぐ、すみれ色の力場が発生するのに気をつけろ――それは、この力場よりもっと危険だ。敵船は本艦だけで処理できると思う。もしできなければ、太陽系にはわれわれを救えるものはないんだ!」
いまや、それまで受け身だった超宇宙船のスクリーンが攻撃的になった。スクリーンは、はじめは目に見えなかったのだが、強烈なすみれ色に輝きはじめ、その輝きが正視できないほどまぶしくなるにつれて、球体のスクリーン全体が拡大しはじめた。それは超宇宙船を中心に外側へひろがり、その白熱するエネルギーの面は、まるで溶鉱炉の熱の波がキューポラの上空で雲片の雲をくいつくように、深紅色の霧をくいつくした。その炎々たる表面とボイス号の装甲板のあいだには、なにも存在していなかった。浮遊物もなく、大気もなく、蒸気もなく、一原子の物質さえなかった。地球人の経験でははじめて、完全な真空が獲得されたのだ!
ネヴィア人の霧は、頑強に抵抗しながらも、すみれ色をした虚無の球体から三〇センチ、また三〇センチと退却していった。なおも退却し、すみれ色の潮がネヴィア船を包むにつれて、完全に消滅した。しかし魚形宇宙船は消滅しなかった。三重の防御スクリーンを白熱的に輝かしながら、無傷のままその真空球に包まれた。球はたちまちゆがんで、はげしく交戦する二隻の宇宙船をそれぞれ焦点とする非常に長い楕円形となった。
つづいて、その真空のチューブの中で、超兵器による目ざましい決闘がおこなわれた――それらの兵器は、空中では無力だが、真空の宇宙では、致命的な力を持っているのだ。巨人的なエネルギーのビームや光線やこん棒が、いずれも強力なウルトラ・ウェーブの防御スクリーンをバリバリと衝撃した。両者は、スペクトルの全帯域にわたって、つぎつぎにウルトラ・ウェーブ兵器を総動員したが、すべてのチャンネルが閉鎖されていた。
すさまじい戦闘が数分つづいたとき、「クーパー、アドリントン、スペンサー、ダットン!」ロードブッシュが通信器に叫んだ。「用意はいいか? ウルトラ・ウェーブではやつに接触できないから、マクロ・ウェーブを使おう。ぼくがすみれ色スクリーンを解消すると同時に、総攻撃を加えてやるのだ。そら!」
その言葉とともに、すみれ色の障壁は消滅し、宇宙が崩壊するような轟音《ごうおん》をたてて、空気が真空中に突入した。そしてその旋風の中へ、三惑星連合軍のもっとも破壊的な物質性兵器が発射された。空中魚雷――非鉄性で、ウルトラ・ウェーブの防御スクリーンをほどこされ、ビームで誘導される魚雷、人類に知られているもっとも効果的な破壊性物質が装填《そうてん》されているのだ。クーパーは、浸透性のガス弾を発射した。アドリントンは、同質異形鉄の原子爆弾を、スペンサーは堅牢無比の徹甲弾を、ダットンは砕《くだ》けやすい容器につめた浸蝕性物質――ねばねばした液体で、きわめて浸蝕性がつよく、容器に用いることができる元素は、太陽系中ただ一つしかない――を発射した。十発、二十発、五十発、百発と、自動発射装置に可能なかぎりのはやさで発射された。ネヴィア人は、それらがあなどりがたい相手であることを知った。ネヴィア人の破壊性光線は、それらの障壁をかすめるだけで、破壊できなかった。そして、ネヴィア船の精巧な防御スクリーンは、それらの魚雷の衝撃で中和されて、それらの侵入をくいとめることができなかった。各投射弾は、きわめて強力な攻撃ビームで個々に捕捉して破壊しなければならなかった。そして、一発を破壊しているうちに、さらに数十発がおそいかかってきた。こうして、侵入者が忙しく飛びまわりながら、小さいが情容赦《なさけようしゃ》のない破壊者を避けているあいだに、ロードブッシュはもっとも強力な兵器を投射した。
マクロ・ビームだ! 長々となびく青緑色の炎が、ネヴィア船の防御スクリーンをつぎつぎに引き裂く! 狂暴なエネルギーの牙《きば》は、すさまじい力と速度で投射され、両棲人が防御スクリーンを貫通されたことを知るまえに、船体の装甲板そのものにかみついていたのだ! 侵入者の非常防御スクリーンも同様に無効だった。つぎつぎに投射されるスクリーンは、スペクトルにそってすさまじく輝きを変化させながら炭化していった。
ネヴィア船は交戦するごとに打ち負かされて死物狂いに身をかわしつづけ、ついにまっしぐらに逃走しかけたが、クリーブランドの牽引ビームに釘づけにされて、ガクンとよろめきながら停止した。しかし、地球人は、ネヴィア人が予備の退却手段を用意していたことを思い知らされた。牽引ビームが切断され――エネルギーの炎々たる板によってすっぱり切断されたのだ――魚形宇宙船はクリーブランドの視野から消え去った。まるで、ボイス号が発進したとき、〈丘〉の無線センターの通信映像盤から消滅したのとそっくりだった。
しかし、制御室の映像盤はネヴィア船を追跡することができなかったが、いまや超宇宙船の通信員をしているランドルフはネヴィア船を見のがさなかった。彼は、無線センターで自分の映像盤からボイス号を見失ったことによって警告を受け、面目なく思っていたので、こんどはどんな非常事態にもそなえていた。したがって、ネヴィア船が逃走したとたんに、ランドルフのスパイ光線がそれを捕捉《ほそく》した。スパイ光線の背後には、鉄エネルギーで作用する十二層の特殊真空管が自動的に全出力を発揮していた。そういうわけで、復仇《ふっきゅう》の念に燃えた地球人は、ただちにネヴィア人の逃走コースにそって突進して行った。三惑星連合軍の超宇宙船は、いまや無慣性状態にはいり、乗組員を未知の感覚に慣れさせるためにときどき短時間休止しながらも、想像を絶する速度で真空を突破して、侵入者を追跡して行った。
「やつは、思ったより扱いやすいな」クリーブランドは、映像盤を見つめながらつぶやいた。
「ぼくも、もっと手ごわいかと思ったよ」ロードブッシュが賛成した。「だが、どうやらコスティガンは、やつらが持ってる技術をほとんどみんな手にいれたらしい。もしそうなら、こっちは自分の技術のほかに、やつらの技術をほとんどものにしているんだから、やつらをやっつけられるはずだ。コンウェイの情報によると、やつらは慣性を部分的にしか中立化していないようだ――もし百パーセントだったら、やつらに追いつけないだろう――だが、やはりそうじゃない――そら、追いついたぞ!」
「こんどは、やつを捕捉しつづけるか、こっちの動力発生器がぜんぶ焼き切れるか、どちらかだ」クリーブランドは、きびしく断言した。「下の諸君、もう射撃用意ができているか? よろしい! 発射はじめ!」
ほかの地球人乗員たちもみんな宇宙ずれのしたベテランだったので、ロードブッシュやクリーブランドとまったく同じように、無慣性状態のおそろしい不快感を克服していた。ふたたび炎々たる緑色のマクロ・ビームが宇宙巡洋艦をかきむしり、クリーブランドが牽引光線を定着すると同時に、ふたたび二隻の宇宙船の巨体がはげしく震動し、ふたたび高性能の誘導弾が死と破壊を運んで突進した。そしてふたたび、ネヴィア船のエネルギー性切断面がボイス号の牽引ビームに切りつけたが、こんどは太い牽引ビームは切断されなかった。切断面は、高圧の火花をパチパチ散らしながら、頑強なエネルギーの棒に深くくいこんだ。牙をたてる平面がいよいよ多くのエネルギーを加えるにつれて、放電はいよいよ白熱して濃く長くなったが、平面のエネルギーに正比例して、エネルギーの棒はますます太く、ますます切断されにくくなった。
花火のような光景が、いやが上にもはなやかになっていったとき、不意に牽引ビーム全体が消滅した。それと同時に、ボイス号の船腹から目もくらむような火炎が吹きだし、ボイス号の巨体はすさまじい爆発のエネルギーで震動した。
「ランドルフ! ぼくには見えない! やつらは攻撃してるのか、逃走してるのか」ロードブッシュがたずねた。彼は、だれよりもはやく、なにが起こったかをさとったのだ。
「逃走しています――快速で!」
「どうせむだかもしれんが、コースを追跡してくれ。アドリントン!」
「はい!」
「よかった! きみがやられたのかと心配していた――あれは、きみの爆弾が爆発したんだろう?」
「そうです。防御スクリーンのすぐ内側で、うまく発射したのです。チューブの中でなにか熱くて堅いものにぶつかったのでもなければ、爆発した理由がわかりません。時限爆発するにも、あれと同じくらい時間がかかるでしょう。あれよりはやく爆発しなくてさいわいでした。あれよりはやければ、われわれはだれひとり生きていなかったでしょう。そういうわけで、第六区画が大損害を受けましたが、隔壁のおかげで、損害は第六にとどまりました。なにが起こったのでしょう?」
「正確なことはわからん。あの牽引ビームの発生器は二つとも破壊された。はじめはそれだけかと思ったが、慣性中立器は停止しているし、ほかにもどんなことがあるかわからない。四号発生器が破壊されたとき、同質異形鉄のために中立器がショートしたにちがいない。やっかいなことになるだろう。第六チューブに穴をあけたにちがいない。ぼくはクリーブランドといっしょにおりて行って、すっかり調査する」
ふたりの科学者は宇宙服をつけ、非常気密出入口から損害を受けた区画へはいった。なんとひどい情況だ! 合金装甲板の外壁も内壁も、爆発のすさまじい力で吹きとばされていた。ぎざぎざになった外板がゆるんで、まがったり、よじれたり、ちぎれたりしていた。太い魚雷チューブは、精密な自動装置もろとも、はげしく押しもどされ、奥の隔壁にぶつかって、ごったがえしに積みかさなっていた。区画全体を通じて、完全なものはほとんどなに一つなかった。
「これでは、手がつけられない」ロードブッシュは、最後に通話器を通じていった。「四号発生器がどんなぐあいか見に行こう」
その部屋は、外部から爆発の影響を受けてはいなかったが、内部から第六区画と同様にひどく破壊されていた。そこはまだ息づまるほど熱していた。空気はまだ、潤滑油《じゅんかつゆ》や絶縁物や金属の焼ける悪臭が立ちこめ、床はかつて枢要装置だったものの溶けかけた団塊《だんかい》でなかばおおわれていた。発生器のバーが焼けきれると同質異形鉄の分解エネルギーが出口を失って蓄積し、ついに絶縁物を破壊して抵抗しがたいエネルギーの洪水となり、それが中和する過程であらゆる障害を貫通したのだ。
「ふむ、む、む。自動閉鎖装置をつけておくべきだった――その一点を見すごしたんだ」ロードブッシュはつぶやいた。「だが、ここの機械は、電気技術員がつくりなおせる――船体の穴となると、またべつだがね」
「たしかにべつのものです」銀髪の主任技師が賛成した。「この船は球面張力を完全に失っています――いまこの船を牽引ビームでひっぱれば裏返しになってしまうでしょう。手近な三惑星連合軍の工場へもどりたいところです」
「それはだめだよ、主任!」クリーブランドは技師に忠告した。「われわれはだれひとりとして、そこへ到達できるほど長生きしないだろう。この船は、修理ができるまでは、無慣性航行ができないんだから、そう遠くへ行かずに修理ができないとなると、困ったことになる」
「ジャッキをどういうぐあいに支えればいいかな――」技師は言葉をとぎらしてからつづけた。「火星か地球へ船を連れて行けないとしたら、どこかほかの惑星はどうでしょう。質量さえあれば、大気やそのほかのものは、どうでもかまいません。ジャッキとプレスを支持するに充分なくらい重いものの上にのっかることさえできれば、三日か四日で修理できますが、船体そのもののまわりに宇宙ドックを構築しなければならないとすると、ながいことかかるでしょう――たぶん数か月はね。手ごろな惑星がありませんか?」
「あるかもしれない」ロードブッシュは、おどろくべき返事をした。「交戦する二秒ばかりまえ、われわれは少なくとも惑星を二個持った太陽のほうへ突進していた。ちょうどそれをかわそうとしていたとき、中立器を切ったのだから、どこかかなり近くにあるはずだ――そう、すぐそこに太陽がある。光が弱くて小さいが、距離は比較的近い。制御室にもどって、惑星を見つけよう」
未知の太陽が三つの大きな惑星を持っていることが容易につきとめられ、観測の結果、故障した宇宙船は、いちばん近い惑星に五日ほどで到着できることがわかった。そこで、推進器に動力が供給され、各科学者、電気技術員、機械技術員は、こわれた発生器を修理する仕事にとりかかった。変換器によって、それに加えられる可能性のあるどんな負荷にも耐えられるように再建するのだ。ボイス号は二日間推進してから、加速度を逆向きにして、未知の惑星の近よりにくい岩だらけの表面に首尾よく着陸した。
それは地球より大きく、重力もいくらか大きかった。気候は短い昼のあいだでさえひどく寒かったが、異様な植物が繁茂《はんも》していた。大気は酸素を豊富に含んでいて、さして有害ではなかったが、名状しがたい悪臭を持った蒸気にみたされているので、呼吸もできないほどだった。しかし技術員たちは、そうしたことにまったくわずらわされなかった。宇宙服をつけた機械技術員たちは、気温や風景にはなんの注意も払わず、空気の化学的分析さえ待たずに、大急ぎで仕事にとりかかった。そして、主任技師がいったよりいくらもながくかからずに、超宇宙船の巨大な船体は以前と同様に堅牢になった。
「完成です、艦長!」待ちに待った言葉がついに発せられた。「本格的にすっとばすまえに、この惑星の周囲をひと回りしてテストしたほうがいいでしょう」
船は推進器のはげしい噴射とともに発進し、ときどきロードブッシュが牽引ビームや圧迫ビームの上に船の重量をもたせかけると、技術員たちは船体に弱い部分がないかどうかを検査したが、なんの弱点も見いだされなかった。未知の惑星を半周して、この上もなくきびしいテストが無事にすんだので、ロードブッシュは完成中立器のスイッチへ手をのばした。のばしたが、ぎょっとしてとめた。計器パネルの上に鮮明なすみれ色の光が出現し、ベルがうながすように鳴りひびいたのだ。
「こいつはおどろいた」ロードブッシュは、探知ラインにそってスパイ光線を投射しながら、口をぽかんとあけた。口をあけたまま見つめていたが、やがて叫んだ。
「ロージャーがここにいる。人工惑星を再建してるんだ! 総員配置につけ!」
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十一 ロージャー活躍を続行
前に述べたように、ロージャーは彼の人工惑星を破壊したネヴィア船のエネルギーの洪水の中で死にはしなかった。両棲人の宇宙船を包んでいる深紅色の霧から放射するすさまじいエネルギーの波が彼の防御スクリーンに送りこまれているあいだ、彼は無感動に身動きもせずデスクについたまま、きびしい灰色の目を計器や記録器の上に規則正しく動かしていた。
しかし、まといつくエネルギーのマントが深紅色からしだいに波長の短い色に変化していくと、「バクスター、ハルトコプフ、シャトリエ、アナンドルスング、ペンローズ、ニシムラ、ミルスキー――」彼は一連の名を呼びあげた。「すぐ出頭せよ!」
「人工惑星は崩壊した」選抜された科学者グループが集合すると、彼は告げた。「われわれは、きっかり十五分以内にここを放棄しなければならぬ。これはロボットがこの第一区画に、もっとも必要な機械装置を運びこむに必要な時間だ。おまえたちはそれぞれ、自分がもっとも携行したいものを一つのボックスにつめ、十三分以内にふたたび出頭せよ。ほかのものには、なにもいうな」
彼らは一列になってしずかに出ていったが、ホールへはいりかけたとき、どうやら仲間よりいくらか無情でないらしいバクスターが、自分たちが残酷にも見捨てて行こうとしているものたちのために、少なくとも一つの意見を述べた。
「なあ、こんなぐあいに逃げだして、ほかのやつらをほったらかして行くのはひどすぎると思うが、やっぱり考えてみれば――」
「その考えが正しいのさ」ものやわらかなくせに非情なニシムラが、言葉をはさんだ。「人工惑星の小部分が脱出できるかもしれないということは、すくなくともおれにとっては、嬉しくも意外なニュースだ。その部分は、人員や機械を全部持って行くことはできないのだから、いちばん重要な人員と機械がすくわれるのだ。きみはどう思う? ほかの連中が死ぬのは、いわゆる『戦争のならい』にすぎないのじゃないかね?」
「だが、あのかわいい――」女好きのシャトリエがいいかけた。
「だまれ、まぬけ!」ハルトコプフがあざけるようにいった。「そんな言葉が一つでもロージャーの耳にはいったら、きみもあとへ残されるぞ。そんな本質的でないものは宇宙にいくらでもあって、無事なときにはかき集められるが、危急のときには見捨てられるのだ。|そして《ウント》、いまはまさに|危急のとき《シュレックリッヒカイト》なんだ!」
グループは分散し、それぞれ自分の部屋へ行って、定刻の一分かそこらまえに、また第一区画に集合した。ロージャーの「オフィス」は、いまや機械や補給品がぎっしりつまっていて、科学者たちのためにはわずかの余地しか残されていなかった。灰色の怪物はまだ身動きもせずにダイアルのむこうに坐っていた。
「しかし、こんなことをしてもどんな効果があるのですか、ロージャー?」ロシア人物理学者がたずねた。「敵のあのエネルギー波は、これまで知られていたどんなものよりはるかに高い周波数をもったウルトラ・ウェーブです。われわれの防御スクリーンは、一瞬もあれを防止できなかったはずです。こんなに長く持ちこたえたのが不思議なんですから、この一区画が破壊されずに人工惑星を離脱できるはずがありません」
「おまえが知らないことがいろいろあるのだぞ、ミルスキー」冷静な返事があった。「おまえはわれわれの防御スクリーンを自分の考案だと思っているが、あの方式の中には、わし自身の改良がいくつかはいっていて、もし供給するエネルギーさえあれば、永久に持ちこたえることができるのだ。この区画の防御スクリーンは、小規模なので、必要とわかった時間だけ持ちこたえることができる」
「エネルギーですと!」ロシア人はあっけにとられて叫んだ。「われわれはほとんど無限の――無制限の――エネルギーを持っています――数十年間たっぷり消費できるくらいです!」
しかし、ロージャーは答えなかった。出発のときが迫っていたからだ。彼が小さなレバーを倒すと、動力室のとある装置が働いて巨大なプランジャ・スイッチがはいり、それによって強烈なビームがネヴィア船に放射された。両棲人ネラドの自己満足は、このビームでひどくゆるがされた。このビームには、人工惑星が動員できるかぎりのエネルギーが、装置の焼失や貯蔵の涸渇《こかつ》を無視して、集中されていたのだ。
つづいて、ネヴィア人のすべての注意と、彼らが動員できるかぎりのエネルギーのほとんどすべてが、この最後の絶望的な攻撃を防御することにむけられているあいだに、人工惑星の金属壁が開いて、第一区画が宇宙空間へとびだした。ロージャーの防御壁は、全力操作されていたが、ネヴィア人の一時的に弱化した攻撃を通過するとき、白熱的に輝いた。しかし、両棲人は防御に専念していたので、この付属的な混乱には気づかず、第一区画は探知されずに突進しつづけた。
宇宙空間をはるかにへだたると、ロージャーは計器パネルから目をあげて、さっきの会話が中断されなかったかのようにつづけていった。
「すべては相対的なのだぞ、ミルスキー。おまえは『無限』という言葉の使いかたをひどくあやまった。われわれのエネルギーは、あきらかに有限だったし、現在もそうだ。事実、当時はわれわれの需要に対して充分だと思われたし、わしが知っているどんな太陽系の住民が所有しているエネルギーよりはるかに豊富だった。しかし、あの赤色スクリーンの背後にいた生物がなにものであるにせよ、彼らのエネルギーは、われわれのエネルギーが太陽系人のそれより豊富であるのと同程度に、われわれのエネルギーよりはるかに豊富なのだ」
「どうしておわかりです?」
「あのエネルギーはなんですか」
「では、あの力場の記録を分析しましょう!」同時に質問や叫びが起こった。
「彼らのエネルギー源は、鉄の原子内エネルギーだ。原子内エネルギーの完全な解放であって、トリウム、ウラニウム、プルトニウムなどのような不安定なアイソトープの核分裂にありがちな部分的解放ではない。したがって、わしが自分の計画を推進するまでには、多くのなすべきことが残っている――わしは大宇宙でもっとも強力な要塞を持たねばならんのだ」
ロージャーは数分間考え、彼の部下は、だれひとり沈黙を破らなかった。エッドールのガーレーンは、なぜ自分の知らないうちにこのような信じられないほどの進歩がなしとげられたかをいぶかるにはおよばなかった。彼は事後にその理由を知ったのだ。彼はそれまでずっとある心力によって妨害されてきたし、いまだに妨害されていた。彼はその心とやがて格闘するつもりだった。
「わしはもう、どうすればいいかわかっている」彼はやがてつづけた。「わしが知ったところに照らせば、時間や生命や財貨の損失は――いや人口惑星の喪失でさえも――まったくとるにたりない」
「ですが、どうなさるおつもりです?」ロシア人が不平そうにいった。
「いろいろある。レコーダーの記録から、彼らの力場を計算することができるし、そこまでいけば、彼らのエネルギー解放手段へは、ほんの一歩だ。それからわれわれはロボットを組みたてる。そのロボットがほかのロボットを組みたて、それがもう一つの人工惑星を建造する。こんどの人工惑星は、理論的に可能なかぎりのエネルギーを発揮して、わしの要求に応じられるようにするのだ」
「どこへそれを建造するのです? われわれは敵にマークされています。不可視性はもう効果がありません。われわれが冥王星の外側に軌道を置いたとしても、三惑星連合軍に発見されるでしょう!」
「われわれはすでに、おまえたちの太陽系をはるかうしろに見捨てて、ほかの太陽系へ向かっている。これは充分離れているから、三惑星連合軍のスパイ光線でも発見できないだろうが、われわれが利用しているエネルギーをもってすれば、適当な時間で到達できるのだ。しかし、この航行には五日ばかりかかるし、われわれの居住区画はせまい。したがって、どこでも適当なところに場所をつくって、それぞれの研究分野でもっとも緊急な問題を研究することで航行中の退屈をまぎらすがよい」
灰色の怪物は沈黙して、だれにもわからない考えにふけりはじめ、科学者たちは彼の命令にしたがった。イギリス人化学者のバクスターは、アメリカ人技師兼発明家でほそおもてのむっつりしたペンローズのあとから、区画のいちばんはずれにある仕切りにむかいながらいった。
「おい、ペンローズ、もしきみがよければ、二つばかりききたいことがあるんだが?」
「いいよ、普通なら、〈彼〉のそばでおしゃべりするのは危険だが、いまここでなら、彼に聞こえるとは思えない。彼の情報網は寸断されているにちがいないからね。きみは、おれがロージャーについて知ってることを全部知りたいんだろう?」
「そのとおりだ。きみはおれよりもずっとながく彼につかえてきたからな。彼はどことなく人間ばなれのした感じを与える。おれのいう意味がわかるかね? もちろん、ばかばかしいことだが、近ごろ、おれは彼がほんとに人間なのかどうか疑っている。彼はあまりにもいろいろなことについて、あまりにも多く知りすぎている。彼は、到達するのに何百年もかかるような太陽系をいくつも知っているようだ。それに、彼がふともらした言葉から想像すると、現在生きているどんな人間も生まれていたはずがないほどはるか昔に起こったことを、実際に見ているらしい。さいごに、彼は外見からして――そう、ひどく変わってるし――することも人間らしくない。おれは、かねがね彼のことを不思議に思ってきたんだが、なにも知ることができなかった。きみがいったように、こんな話を人工惑星でするのは、賢明なことじゃなかったからな」
「彼の下で働いているかぎり、報酬の支払いを受けることについて心配することはない。これは大事なことだ。もしわれわれが生きていれば――そしてこれは契約の一部だったのだが――われわれは売っただけのものを受けとることができる。きみは、礼装ベルトをつけた伯爵になれるだろう。おれはもう何百万ももうけたし、もっともうけられるだろう。同じように、シャトリエは女を手にいれたし、これからも手にいれるだろう。アナンドルスングとニシムラは、待望の復讐をはたすし、ハルトコプフは権力を手にいれるだろう」彼は相手をじっと見つめてからつづけた。
「おれが知ってることをすっかりうちあけることにしよう。これ以上いいチャンスはまたとないだろうし、きみもおれたちほかのものが知ってるのと同じだけ、知る権利がある。きみはおれたちと運命をともにして、同じ弱点を持っているのだからな。ロージャーについてはいろいろなゴシップがあって、どれが本当か本当でないかわからないが、おれは一つ、はなはだ驚くべき事実を知っている。こういうわけだ。おれの曽祖父はある記録を残したんだが、それをおれ自身が人口惑星で見たいくつかの事実と考えあわせると、われわれのロージャーが、曽祖父と同じ時期にハーヴァード大学にいたことは、疑いの余地がない。ロージャーはそのときすでにおとなだった。それから、曽祖父のペンローズは、ロージャーがこんな記号をつけてるのを見たそうだ」そして、アメリカ人は不可思議な模様を書いて見せた。
「なんだって!」パクスターは叫んだ。「じゃあ――北極木星の錬金術師か?」
「そうだ。あれは、きみも知っているように、第一木星戦争のまえで、あの戦争をあれほど長びかせたのは、あの呪術師たち、じつは有能な科学者たち――だったのだ――」
「だがね、ペンローズ、そいつはあんまりばかげている。彼らが一掃《いっそう》されたとき、あれは〈いかさま〉だということがわかったのだ――」
「もし彼らが一掃されたならばね」こんどはペンローズがさえぎった。「いかさまもあったかもしれんが、大部分はそうじゃなかったのだ。おれは、あの一つの事実のほかは、なにも信じろと要求してるわけじゃない。ほかのことは、ただ、きみに伝えてるだけなんだ。だが、あの錬金術師たちが多大の説明を必要とすることを知っていたり、やってのけたりしたことも事実なのだ。ゴシップとなると、なにひとつ真実だという保証はない。ロージャーは、地球人の血統をひいていると考えられていて、父は月の海賊で母はギリシアの女冒険家だったということだ。海賊たちは、月から追放されると、木星の第三衛星ガニメデへ行き、そのうちのあるものは木星人に捕えられた。ロージャーは、錬金術師たちにとって神聖な瞬間に生まれたので、彼らの仲間にされたらしい。彼は、すべての錬金術師がしてきたように、さまざまの殺人や非道をして、その禁断の社会でのしあがり、ついに最高の地位――七十七番めの秘法に達した――」
「不老長寿の秘密か!」バクスターは、思わず畏怖《いふ》の念に駆られて叫んだ。
「そうだ。そして彼は、野心的な部下の魔術師たちがこぞって彼を殺そうと努力したにもかかわらず、第一次木星戦争が転機を迎えるまで、魔術師の長《おさ》の地位にとどまっていた。それから、一隻の宇宙船で脱出して、それ以来ずっと、これまでだれも夢想もしなかったようなとほうもない計画の遂行に従事している――それも熱心に従事しているのだ。これがゴシップさ。本当かどうかわからんが、この理論だと、ほかの理論では説明がつかないようないろいろなことが説明がつく。ところで、もう向こうへ行ったほうがよさそうだ。これで充分だろう!」
バクスターは自分の仕切りに行った。そして、グレー・ロージャーの冷酷な部下たちは、それぞれの仕事に規則的にとりかかった。ロージャーが予告したとおり、五日のうちに一つの惑星が下方に浮きあがってきて、船は悪臭をはなつ大気を突破しながら、岩だらけの近寄りにくい平原に降下して行った。それから数時間、船がこの未知の惑星の表面にそって千メートルほどのところを飛んで行くあいだに、ロージャーは分析探知機を用いて、彼の建造計画に必要な資源を獲得するにもっとも有利な地域を捜し求めた。
寒冷な世界で、太陽は遠くて光が弱かった。怪物的な植物がはえていて、その枝や器官は、それぞれに無気味でおそろしい活動をしながら、もつれたり格闘したりしていた。ときどき、その、のたくっている部分が母体から分離して、独立の生活をはじめ、同様に怪物的な仲間の植物におそいかかって食いつくしたり、食いつくされたりした。この植物は、一様に毒々しく、いやらしい黄色だった。形はシダに似たものもあり、サボテンに似たものもあり、いくらか木に似たものもあったが、いずれも太陽系人の感覚には異様で本質的に不快だった。そしてこの異様な擬似植物のあいだを貪欲《どんよく》にのたくったりうろついたりしている動物に似た生物も、それに劣らず無気味だった。それらの動物は、ヘビのようにのたくったり、トカゲのようにはいまわったり、コウモリのように飛びまわったりしていた。それらはいずれも、べとべとした粘液性の黄色い皮膚におおわれ、それぞれ二つの共通な衝動――殺して貪欲無差別にむさぼりくうこと――に動かされていた。ロージャーは、この悪臭ふんぷんたる荒地の上を、むかむかするような狂暴さやすさまじさにもびくともせずに、船を駆って行った。
「一種の知的生物がいるはずだ」彼はそうつぶやいて、探知ビームで惑星の表面を見わたした。
「ああ、そら、一種の都市がある」そして、二、三分後に、無法者たちは円錐形の建物の集団からなる金属の城壁をめぐらした都市を見おろしていた。
それらの建物の内部や周囲には、形のない物質の塊がうごめいていたが、ロージャーはそのうちの一つを牽引ビームで船へ引きあげた。それはビームで身動きのできないように床におさえつけられた。皮のような物質の塊《かたま》りで、アミーバのようにのびちぢみして、金属性の斑点が散在していた。目も耳も四肢もその他の器官も持っていないようだったが、敵意にみちた霊気を放射していた。怒りと憎しみのこもった精神磁気である。
「あきらかに、この惑星の支配的な知的生物だ」ロージャーは説明するようにいった。「このような生物は、われわれには無用だ。われわれは、彼らを征服し訓練するに要する半分の時間で、機械を建造できる。しかし、この個体に、われわれについて知ったことを持ち帰らせてはならん」錬金術師はそういいながら、奇妙な生物を空中へほうりだすと、攻撃ビームで冷酷に抹殺《まっさつ》した。
「あの生物を見ていると、ペノブスコットで知っていたある男を思いだします」ペンローズは、無感動な主人と同様に冷酷だった。「町でいちばん冷静な男のようで――そのくせ、いつものぼせあがっていました!」
やがて、ロージャーは原料に対する要求をみたすような地域を見つけ、その非友好的な土地に着陸した。攻撃ビームが巨大な円内の生物を除去し、その円内へロボットがとびおりた。このロボットたちが必要とするのは、休息でも食物でもなく、潤滑油とエネルギーだけだった。そして、このきびしい寒さにも、有害な大気にも同じように無感覚だった。
しかし、無法者たちは、この敵対的な惑星にたやすく足場を獲得することにはならず、またその足場を努力なしに維持することにもならなかった。むきだしになった円形の土地のへりにしげった無気味な植物のあいだから、金属班のある人間――もし「人間」と呼べればの話だが――の集団がぞろぞろとそそぎだして、狂暴さの権化のように、ロボットたちの列におそいかかった。彼らは、一度に何百となぎ倒されながらも、あとからあとからおそってきた。ひとりでも金属性の斑点をつきだしてロボットに触れることができれば、いくら殺されてもかまわないというように見えた。そして、そういう接触が起こると、電光がきらめいて、絶縁体やグリースや金属の燃える濃い煙があがり、ロボットは故障して倒れてしまうのだった。ロージャーは、残った自動機械を呼び返して、防御スクリーンを展開した。惑星の防衛者たちは、怒り狂ってそれにぶつかったが無益だった。数日間、彼らはこの突破不能な障壁に全力をふるって突撃しては退いた。ときに攻撃をやめることはあったが、けっして敗北を認めなかった。
ロージャーと部下たちが、快適で充分に余地のできた船の中からあれこれ指示を与えるにつれて、船の周囲には、金属製の無感覚な自動機械が住む金属製の工業都市が誕生した。鉱坑が掘られ、溶鉱炉が建設され、製錬所はただでさえがまんできないような空気に硫黄《いおう》性の煙を吐きだした。圧延工場や機械工場が建設され整備された。そして、新しい施設が完成すると同じ速さで、それらに配置される補充のロボットたちが用意された。記録的な時間で、桁《けた》、部材、板などの重作業が続々進行し、そのあとすぐに、軽くて器用な、多数の指を持った自動機械が、構築物の巨大さによって要求される多量の精密機械を製造し、取りつけはじめた。
ロージャーのガーレーンは、完全に自由な時間が充分できたことを確かめると同時に、あらゆる心力を動員し要約し集中した。それから、これまでずっと彼の心を妨害し現在も妨害しつづけているなにものかを、慎重にさぐりにかかった。
彼はそれを発見した――それと同調した――そしてその瞬間、彼のエッドール人としての心が発揮できる痛烈な精神衝撃を、それに対して投射した。彼はこれまで、それと同じような精神衝撃によって、エッドールの側近サークルのメンバーをひとりならず殺してきた。彼はこれまで、そのエネルギーをもってすれば、エッドールの至高者たる聖上陛下をのぞくあらゆる生物を殺すことができると確信していた。
しかし、かならずしも予期しないことではなかったが、その爆発的エネルギーは無効だった。そして、同時にきた反撃は、受けとめるのにガーレーンの全心力を必要とするほどはげしかった。彼はそれをかろうじて受けとめ、未知の敵に向かって思考を投射した。
「おまえがなにものだろうと、わしを殺せぬことを知っただろう。わしもおまえを殺すことはできぬ。それならそれでよろしい。どんなことにせよ、わしの祖先が強制的に忘れさせられたことをわしが思いだすのを妨げられると、おまえはまだ信じているのか?」
「おまえが一つの焦点を獲得した以上、われわれはおまえが思いだすのを妨害することはできない。それに、おまえを単に妨害するのは無意味だ。ゆっくり思いだすがいい」相手は答えた。
ガーレーンの心は、はるか、はるか昔にさかのぼっていった。世紀――千年――周期――永劫《えいごう》。痕跡は、しだいにかすかになり、彼の祖先たちが何百代にもわたってかき乱しさえしなかったような、幾層にも付加された知識や経験や感覚の下に深くうずもれて、ほとんど知覚できないほどになった。しかし、彼の祖先のだれかが持っていた知識はすべて、依然として彼のものだった。それがどれほどかすかになり、どれほど深くうずもれ、敵対的な心力によってどれほど抑圧され偽装されていようとも、彼はそれを発見できるのだ。
彼はそれを発見した。そして、発見した瞬間に、それはまるでアリシア人エンフィリスターが直接話しかけたかのように、まるでアリシアの長老の融合体が彼自身の心からアリシアの存在についてのあらゆる知識を除去しようと――いままでは無益だったが――努めたかのように、思われた。アリシア人のような種族がそのように昔から存在していたという事実は、すこぶるまずいことだった。そして、アリシア人がそうした長期間を通じてエッドール人を監視し、自己の存在を秘密にすることができたというのは、さらにまずいことだった。もっとまずい事実は、アリシア人がその間《かん》ずっと反抗を受けずにエッドール人に対して工作してきたということだったが、この事実は、ガーレーンの唯我独尊的な自我《エゴ》をさえぞっとさせた。
これは重大なことだった。エッドール人に順応しない文化――それらが異常にすみやかに成長する原因が、いまやあきらかになったのだが――を一掃するというような些細《ささい》な問題は、あとまわしにしなければならない。エッドールは、考えかたを根本的に改めなければならない。側近サークルは、心力を合同集中して、この古くて新しい知識のあらゆる事実、あらゆる意味、あらゆる内容を詳細に検討しなければならない。彼としては、エッドールへただちに帰るべきだろうか? それとも、もうすこし待って、はなはだ多様できわめて価値のある内容を持った人工惑星を完成させるべきだろうか。待とう。アリシア人に対する行動が開始されるべきだったときからすでに永劫《えいごう》の時間が経過しているのだから、それにくらべれば、もうすこし待ったところで、これは、まったく無視できるような追加にすぎない。
こうして、人工惑星の再建は続行された。ロージャーとしては、数億マイル以内に、なんらかの物質的危険が存在するのではないかと疑うべき理由はまったくなかった。しかし、自分の周囲で進行しているあらゆる事態に通じるためには、もはや自分の心力にたよることができないということがわかっていたので、エーテルを媒介とする探知器によって付近の宇宙空間一帯をときどき探査するのが、彼の習慣になった。
こうしてある日、ビームを放射しているうちに、彼の灰色のきびしい目がいっそうきびしくなった。
「ミルスキー! ニシムラ! ペンローズ! ここへこい!」彼は命令して、映像盤上に巨大な鋼鉄球が攻撃ビームをはげしくひらめかしているのを指さした。
「この船がどの太陽系に属するか、その点に疑問があるか?」
「まったくありません――われわれの太陽系の船です」ロシア人が答えた。「もっと限定すれば、三惑星連合軍の船です。わたしがこれまで見たどの船より大型ですが、構造にまちがいはありません。やつらはなんとかしてわれわれを追跡して、攻撃前に兵器のテストをしているのでしょう。攻撃しますか、それとも逃げますか?」
「もし三惑星連合軍なら、そしてそうにちがいないが、攻撃するのだ」そして冷ややかに、「この第一区画は、三惑星連合の全海軍を撃滅できるだけの兵器とエネルギーをそなえている。あの船を捕獲して、われわれ自身の資源をわずかでも増強しよう。しかも、彼らはわしの手から脱走した例の三人を拾いあげているかもしれぬ――わしは長いこと妨害されたことがなかった。そうだ、あの船を捕獲しよう。そして、おそかれ早かれ、あの三人もな。彼らはわしの手から脱走した。それが放置しておけぬ問題だという事実をのぞけば、わしはブラッドレーにもあの女にもまったく関心はない。だが、コスティガンは別問題だ――コスティガンは、不遜にもわしを〈あしらった〉――」
ダイヤのように堅い目が、清潔で正常な心には思いもよらないような思考の刺激で不吉にかがやいた。
「配置につけ」彼は命令した。「このじゃまものを排除するにはわずかしかかかるまいが、そのあいだ機械は自動制御装置によって働きつづける」
「ちょっと待て!」スピーカーから、未知の声が叫んだ。「三惑星連合軍評議会の命令によっておまえたちを逮捕する! 降服すれば、公平な裁判を受けられるが、われわれと闘えば、絶対に裁判は受けさせない。ロージャーについて聞いたところから推《お》せば、彼が降服することは考えられないが、もしその他のもので即座に死にたくないものがいれば、ただちに船を見捨てろ。あとで拾いあげてやる」
「だれかこの船を見捨てたいものがあれば、そうする許可を完全に与える」ロージャーは、ボイス号の挑戦にこたえることをいさぎよしとせず、部下たちに宣言した。「しかし、そのようなものは、われわれがあのパトロール艦を抹殺してもどってからも、人工惑星区域に立ち入ることを許さない。われわれは、一分以内に攻撃を開始する」
「人間というやつは、とっくり思案したほうがいい場合もあるんじゃないかな?」バクスターは、アメリカ人の仕切りの中で、もっとも有利なコースをたどるにはどうしたらいいか迷っていた。
「もしあの船が勝つと思えば、すぐこの船を見捨てるんだが。あの船が勝てるとは思えないな、きみはどうだい?」
「あの船だって? 三惑星連合の船一隻が、われわれに〈勝てるか〉だって?」ペンローズは、しゃがれ声で笑った。「好きなようにしろ。おれは、われわれが負ける可能性がすこしでもあると思えば、一分以内に出て行くが、そんな可能性はないからここにとどまるのだ。おれは、〈自分の〉パンのどっち側にバタがついているか知ってる。警察軍は、こけおどしをやってるだけさ。いや、正確にいえば、こけおどしじゃない。やつらは、死ぬまで戦いぬくだろうからな。ばかげてるが、それがやつらのやりかたなんだ――やつらは、戦うまえから負けるとわかってる場合でも、逃げだすかわりに、戦いつづけて死ぬんだ。やつらは賢明な判断をしないのさ」
「だれも出ていかないな? よろしい、おまえたちはみんな、なすべきことを知っている」ロージャーの無感動な声がいった。予告された一分が過ぎると、彼は一つのレバーを押し、無法者の巡洋艦は、しずかに空中へすべり出た。
ロージャーは、静止しているボイス号へ向かって船を駆った。射程内にはいると、彼は鉄を含むどんな物体や生物も抵抗できないはずの新兵器を投射した。ネヴィア人の赤色変換力場である。なぜなら、人工惑星がネラドの超地球人的な攻撃の矢面《やおもて》に立っていたあのおそるべき数分のあいだ、ロージャーの分析探知器は彼のために大いに役立ったからだ。そして、その巧妙な装置の記録から、彼と部下の科学者たちは、変換力場発生器ばかりでなく、両棲人がその力場の中立化に用いた防御スクリーンまでも、再現することができたのだった。ロージャーの艦隊のうちでもっとも小さいものでさえ、この変換力場よりはるかに劣った兵器を用いて、三惑星連合軍のもっとも強力な戦艦を撃破したのだから、彼が現在駆使しているような、法外な兵器とエネルギーをそなえた強力な船に乗っている以上、なにを恐れることがあろう? 彼は、自分がいとも気軽に攻撃している一見無害な球体が、じつは三惑星連合軍がながいこと建造につとめてきた、うわさに高い、なかば神秘的な超宇宙船であるとは思いもよらなかったので、なおさら安心していた。しかも、この超宇宙船の武装は、すでにその例を見ないほど強力だったのに、それに加えて、あのにくむべきコスティガンのおかげで、ロージャー自身がした価値のある考察のすべてと、あの傑出したネヴィア人ネラドが知るかぎりの攻撃兵器や防御装置によって、いやが上にも強化されていたのだ!
ロージャーは、そうしたことを知らずに、たかをくくりながら変換力場を投射したが、たちまち自分が命がけで戦っていることをさとった。なぜなら制御装置についているロードブッシュをはじめとするボイス号の全乗組員は、振動性の破壊力と物質性の破壊力を総動員して、たてつづけに反撃してきたからだ。彼らの心には、海賊船の乗組員に対する憐憫《れんびん》の情が起こるはずもなかった。無法者たちはいずれも降服のチャンスを与えられ、いずれもそれを拒否したのだ。拒否したということは、勝利に命をかけたことを意味する。海賊たちは、三惑星連合軍や本書の読者がすべて知っているように、そのことを知っていた。最新兵器をそなえた宇宙船の戦闘では、敗北して生き残るものはほとんどいなかったからだ。
ロージャーは赤い不透明な力場を投射したが、それはボイス号の防御スクリーンにさえ達しなかった。ロードブッシュが抹殺的な力場によってそれを中立化し押し返すにつれて、宇宙空間はすみれ色の輝きでみたされたように見えた。しかし、そのすべてを食らいつくすような力場でさえ、ロージャーの奇妙に効果的なスクリーンに触れることはできなかった。超すみれ色ビーム、赤外ビーム、純熱ビーム、超音ビーム、固形ビームなど、いずれも鉄エネルギーで駆動され、どんなに堅牢な金属でも瞬間的に気化してしまうような高圧、高周波のビーム、つまり現在知られているかぎりの致命的破壊的震動がそのスクリーンに投射されたが、これまた鉄エネルギーで駆動されているので、持ちこたえた。マクロ・ビームの恐るべきエネルギーでさえ、それによって空費された――目もくらむようなエネルギーの滝となって、あらゆる方向に反射されはねとばされた。クーパー、アドリントン、スペンサー、ダットンたちが爆弾や魚雷を発射した――しかし、それは依然としてもちこたえた。いっぽう、ロージャーのもっとも強烈なビームやもっとも破壊的な爆弾も、超宇宙船の力場の防御壁に対して同様に無力だった。錬金術師は対等の戦闘を好まなかったので、安全を求めて逃走しようとしたが、強力な牽引ビームによってがくんと引きとめられた。
「あれは、コンウェイが報告してきた多サイクル式スクリーンにちがいない」クリーブランドは、眉《まゆ》をひそめて考えこんだ。「ぼくはあれについていろいろ研究して、穴あけを考案したつもりなんだがね、フレッド、そのためには、十号放射器と十号動力室の総出力を使わなければならない。その方法をしばらくやらしてくれるかい? よしきた。ブレーク、周波数を五万五千までひきあげてくれ――そう、とめろ! さあ、ほかのものも聞いてくれ! ぼくは、あのスクリーンに固体に近い中空のビームで穴をあけてみるつもりだ。ダイヤのドリルで鉄心に名をあけるようにだね。きみたちは、ビームの外側からはその穴へなにも押しこめないだろうから、十号放射器の中央口から弾丸を送りこまなければならないと思う――ぼくは中空ビームの外側のリングしか使わないから、内側のリングは熱していないはずだ。だが、どのくらいの時間、穴をあけておけるかわからないから、できるだけはやく弾丸を発射してくれ。用意はいいか? いくぞ!」
彼は一連のコンタクトを押した。船体のずっと下部の十号変換器室では、巨大なスイッチがはいり、船の巨体はすさまじい反動に震動した。三惑星連合軍の超大型船艦がもつ、もっとも強力な変換器と発生器に駆動された新工夫の半物質的ビームが投射されたのだ。とほうもないエネルギーを持ったパイプ状の中空シリンダーであるそのビームが投射されて、これまで貫通不能だったロージャーのエネルギー壁にぶつかると、引き裂くような音がひびきわたった。ビームがスクリーンにぶつかってまといつき、回転し、もみこむにつれて、シリンダーとスクリーンが接触している円を示す焦熱地獄から、長さもはげしさも電光のような、バリバリととどろき流れるスパークが、目くるめく奔流《ほんりゅう》のように放射された。
巨大なエネルギーのドリルは、いよいよ深く送りこまれた。そして貫通した! ロージャーの多サイクル式スクリーンを貫いて、ロージャーの船の金属壁を露出したのだ! そしていまや、三惑星連合軍の怒り狂うビームは、倍増されたように思われる苛烈さで、一点に集中してほとばしった――しかし無益だった。なぜなら、それらのビームは、ロージャーのスクリーンを貫通できなかったと同様に、クリーブランドのエネルギー・ドリルの壁を貫くことができず、電光がさえぎられたように、ぎらぎら輝く滝となってはね返されたのだ。
「ああ、おれはなんてまぬけなんだ!」クリーブランドはうめいた。「なぜ、いったいなぜ、だれかに十号放射器の内側リングにSX七式二次ビームを装着させなかったんだ? ブレーク、急いでそうしてくれないか? 敵が爆雷を防止できた場合に使えるようにな」
しかし、海賊はいまやパイプの内側にそってできるかぎりはやく送りこまれる三惑星連合軍の発射体を全部は防止できなかった。事実、グレー・ロージャーは、その長い生涯にはじめて敗北に直面したことをさとり、二、三分間それらの発射体にも自分の無効な攻撃兵器にもまったく注意を払わずに、ボイス号の牽引ビームの頑強な把握から離脱することにだけ努めた。しかし、無益だった。彼はその容赦なく束縛するビームを切断することもひきのばすこともできなかった。
そこで彼は、自分の防御壁につくられた信じられないような破壊口を閉鎖するのに全力をつくした。やはり無益だった。彼がどれほど死にものぐるいに努めても、その貫通力のあるシリンダーが接触した曲面にそって、いっそうすさまじい白熱光がきらめくばかりだった。そして、その恐るべき導管を通じて、破壊物がつぎつぎに投射された。爆弾、徹甲弾、有毒性および浸蝕性の液体を封じたガス弾が、たてつづけになだれこんだ。人工惑星の生き残りの科学者たちは、いずれも熟練した射撃手や放射手だったので、発射体の多くを破壊したが、そのすべてを処理することは人力のおよぶところではなかった。そして、クリーブランドの「穴あけ器」のほとんど不可抗的なエネルギーにさからって、破壊口を閉鎖することは、できなかった。また、ロージャーが全力をふるっても、三惑星連合軍の牽引ビームに捕捉された船の位置を移動させて、その狭いが恐るべきチューブのいまや無防備な軸にそって、超宇宙船に放射器を向けるようにすることもできなかった。
こうして、まもなく結末がおとずれた。一つの弾頭が鋼鉄の外板に触れ、宇宙を引き裂くような原子鉄爆発が起こった。船体にぽっかり穴があき、すべての防御装置が破壊されて無力化すると、ほかの魚雷が傷ついた船体にとびこんで、破壊を完了した。原子爆弾が海賊船の大部分を文字どおり発散させた。浸蝕性のガス弾が、固形の破片をどろどろに溶解しはじめた。ロージャーの巡洋戦艦の残骸が地面へ向かって長い落下を開始するにつれて、悪臭をはなつガスが付近の宇宙空間をすみずみまでみたした。超宇宙船は残骸にしたがって降下し、ロードブッシュはスパイ光線を放射した。
「――抵抗が頑強だったので、浸蝕性ガス弾を使用する必要があった。そして、船も内容も完全に分解された」彼は、すこしたってから、航行日誌に口授した。「もちろん、人間と認められるような残骸はなにもなかったが、ロージャーと十一名の部下が死亡したことは確実である。なぜなら、情況および条件が、いかなる生物も生きのびられないようなものだったことは、あきらかだからである」
ロージャーとして知られていた肉体が抹殺されたことは事実である。その実質を構成していた固体や液体は、分子や原子に分解された。しかし、その肉体にエネルギーを供給していたものは、どんな物理力をどのように作用させようと、傷つけることはできなかった。したがって、ロージャーをロージャーたらしめていたもの、すなわちエッドールのガーレーンという本体は、ロードブッシュが海賊船の残骸の検査を完了させるまえに、いちはやく出身惑星にもどっていた。
側近サークルが集合し、地球人にとっては非常に長い時間だが、エッドール人にとってはほんの少々のあいだ、それらの怪物的生物は、一個の複合的知性となって、あらたに暴露された真相を、あらゆる面から考察した。その結果、彼らはアリシア人が彼らを知っていると同程度にアリシア人を知った。そこで至高者は、すべてのエッドール人の心を召集した。
「――したがって、このアリシア人は、広大な潜在力のある心を所有してはいるが、本質的に柔和で、それゆえに無能である」と彼は結論をくだした。「彼らは劣弱ではないが、消極的かつ非現実的である。われらは、こうした彼らの特性につけこんで、究極の勝利を得るであろう」
「至高におわす聖上陛下よ、二、三の細部をご教示ねがいあげます」ひとりの下級エッドール人がたずねた。「われわれの中には、もっとも有効な行動方針を充分明白に見通せないものもおります」
「詳細な闘争計画はまだ作成されていないが、いくつかの主要な攻撃方針が考えられる。純軍事的計画ももちろんそのひとつであるが、それはもっとも重要なものではない。破壊的分子および妨害的少数派による政治行動は、それよりはるかに有効であろう。しかしながら、もっとも効果的なのは、比較的小さいが高度に組織されたグループによる工作であろう。それらのグループの任務は、文明を礼賛《らいさん》する柔弱で無気力な信奉者どもが、生活においてもっとも貴重と考えるもの――すなわち愛、真実、名誉、誠実、純潔、博愛、礼節など――の防壁を抹殺し、つきくずし、破壊することである」
「おお、愛か――はなはだ興味深いものだ。聖上よ、彼らはそれをセックスと呼んでおります」ガーレーンが意見を述べた。「なんと愚劣で、なんと無意味なしろものでしょう! わたしはこれを集中的に調査しましたが、いまだに完全かつ包括的な報告を提出できるほど充分に理解できておりません。しかし、われわれがこれを利用できるし、また利用するであろうことはたしかであります。悪徳は、われわれの手中にあるとき、まことに有効な武器となるでしょう。悪徳、麻薬、貪欲、賭博、搾取、脅迫、色欲、誘拐、暗殺――ふ、ふ、ふ!」
「そのとおりだ。あらゆるエッドール人が全力をふるう余地があり、その必要がある。しかし、おまえたち全員に注意しておくが、この仕事は、われらのうちなんびとも、みずから遂行すべきではない。われらは無数の工作員を働かせねばならぬが、彼らの活動を効果的に統制するためには、上下、何段階にもわかれた支配人および監督を通じておこなわねばならぬ。各統制段階は、すぐ上級のそれよりも数においてははるかに多いが、構成員の個々の能力においてはそれ相応に低くなければならぬ。各監督者の活動範囲は、大小を問わず、明確厳重に区別されねばならぬ。地位の上下は、惑星住民段階の工作員からエッドール人取締りにいたるまで、能力に応じてきまる。権限は完全に委任され、責任は完全に負担されねばならぬ。成功者は昇進と欲求の満足を与えられ、失敗者は死を与えられる。
下級段階の要員は、価値が少なく置き換えが容易であるから、彼らが自己の指導するさらに下級の段階に影響を与えるような失敗に巻きこまれると否とは、さして問題ではない。しかしながら、われらエッドール人のすぐ下の段階は、いかなる事情があろうとも、その真の事業について、下級段階の要員または銀河文明の信奉者に、いかなる暗示をも与えないようにしなければならぬ――ついでにいっておくが、プルーア人はわれわれのすぐ下級の段階として、もっとも役に立つであろう。この点は重要である。各員は、われら自身の安全がそのような方法によってのみ確保されるということを理解して、この規則を犯すものはただちに抹殺するように留意せねばならぬ。
技術者たちは、アリシア人に対抗するために、いやが上にも強力な武器を設計せよ。心理学者たちは、アリシア人の有能な心に対抗するため、および心的に、より劣弱な生物の活動を制御するために、新しい方法および技術を考案し実施せよ。各エッドール人は、専門分野および能力に応じて、もっとも適した仕事を与えられる。以上である」
そしてアリシアでも、思いがけない事態ではなかったが、やはり一般集会が開かれた。若い監視員のあるものは、アリシアがながいこと用意してきた公然たる闘争が開始されようとしているのを喜んだかもしれないが、アリシア全体としては、喜びも悲しみもしていなかった。宇宙の万有をなしている大|摂理《せつり》の中にあっては、この事件は無限小の些事《さじ》にすぎなかった。予期されたことがおとずれたのだ。各アリシア人は、アリシア人である以上なさずにはいられないことを、全能力をあげて遂行する。それだけのことなのだ。
「では、要するに、われわれの立場は変化していないのですね?」長老たちがふたたび彼らの洞察を大衆検議のために提供したあとで、ユーコニドールが、質問するというよりは断定するようにいった。「こうした殺戮《さつりく》は、続行されなければならないように思われます。こうした失敗、没落、興隆、こうした盲目的な手さぐり、こうした無益、こうした挫折《ざせつ》、こうした犯罪や災厄や流血の横行。なぜなのですか? わたしには、エッドール人がこれまでしてきたし、これからもしつづけるように、われわれもいま直接的積極的な役割を引き受けたほうが、はるかにすぐれている――はるかに清潔で、単純で、効果的で、はかり知れないほど流血や災厄が少なくてすむ――と思われます」
「そうだ、若者よ、はるかに清潔で単純だ。より容易で流血が少ない。しかし、よりすぐれているどころか、すぐれているとさえいえない。なぜなら、それでは最終的解決がえられないからだ。若い文明は、障害を克服することによってはじめて進歩する。障害を越えるごとに、一歩前進する。障害には、苦悩と同時に報酬がともなっているのだ。われわれがエッドール人そのものより下級のものなら、どんな段階のものも圧倒できるのは事実である。われわれは、われわれが後援する種族を保護して、一つの戦争も起こらず、一つの法律も破られないようにすることができる。しかし、それがなんの役に立つのか? おまえたち未熟な思考者も、さらに深く考察するならば、われわれがそのような方法をとった場合には、それらの種族は、エッドール人を撃滅するに必要な力を持つところまで発達しないことがわかるであろう。
その結果として、われわれはエッドールを克服することができず、あの種族との闘争は永遠に手づまりとなるであろう。彼らは、われわれに対して工作するに充分な時間を与えられれば、勝利をえるであろう。しかしながら、もしすべてのアリシア人が、この洞察において示された行動方針にしたがうならば、万事はうまく運ぶのである。なにかほかに質問はないか?」
「ありません。あなたがたが残された空白は、平凡な能力の心でも補充できます」
「これを見ろよ、フレッド」クリーブランドは、映像盤に注意をうながした。そこには、あの無気味な惑星の奇妙な住民たちの一団が、ロージャーの破壊的ビームによって土着の生物を一掃された円内のあらゆるものにむかって、電気性のはげしい怒りをぶちまけているところが映されていた。「ぼくは、ロージャーが建造しはじめた人工惑星を一掃しようと提案しかけていたんだが、地元の連中がその仕事をひき受けているようだな?」
「それもいいだろう。ぼくはしばらくここにとどまってこの住民を研究したいが、ネヴィア船の追跡にもどらなけりゃならん」そしてボイス号は宇宙へ突進し、両棲人の逃走コースへ向かった。
ボイス号は、そのコースに到着して、最大巡航速度でそれにそって航行して行った。航行しながら、探知受信器と増幅器を全力で展開しつづけた。このウルトラ・ウェーブ装置は、可能なかぎりのどんな通信周波数帯においても、数光年以内で発進されたどんな信号でも聴取可能にすることができるのだった。そして、たえず少なくとも二名が、全感覚を耳に集中して、それらの装置に耳をかたむけていた。
耳をかたむけていた――過度に駆動されている真空管から発する、耳をろうするような基調音の中で、どんなにかすかな声や信号でも聞きわけようと努めていた。
耳をかたむけていた――いっぽう、そのときでさえ、それらのウルトラ・ウェーブ装置のとほうもない有効範囲でさえ及ばないはるかかなたで、三人の地球人が、この上もなくさし迫った助けを求めて、空虚な宇宙へ向かって、ほとんど絶望的な訴えを送っていたのだった!
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十二 標本脱走
ネヴィア人は、どんな知的生物にとっても仲間との会話が最大の要求の一つだということをよく知っていたので、地球人の標本がウルトラ・ウェーブ通信器を持っていることを許した。そういうわけで、コスティガンは恋人やブラッドレーと連絡をたもつことができた。彼は、ふたりがそれぞれネヴィアの異なった都市で陳列に供されていることを知った。三人は、遠くの太陽系からきた、奇妙だがはなはだ興味深い生物をこのように分配せよ、という住民の熱心な要求に応じて、分離されたのである。三人とも、危害を加えられてはいなかった。事実、専門家が毎日彼らを訪問して、彼らの健康がたもたれるように配慮していた。
コスティガンは、この情況を知ると同時に、不機嫌になった。うなだれてじっと坐ったままで、目に見えてやつれていった。食べるのをこばんで、心配する専門家に自由を要求した。そして、予想したとおりそれをこばまれると、〈なにかしたい〉と要求した。ネヴィア人は、自分たちのような高度の文明においては、彼にできるようなことはないと指摘したが、これはもっともなことだった。彼らは、彼の心労をやわらげるために、できるだけのことはしてやると受けあった。しかし、彼は博物標本なのだから、しばらくのあいだ陳列される必要があるということを理解しなければならない、どうか、理性のある動物らしくふるまって、食べてくれないか、というのだった。コスティガンは、もうしばらくふさいでいたが、やがてためらった。そしてついに、妥協することに賛成した。もし彼らが彼のアパートに研究室を設けてくれるなら、出身惑星ではじめた研究を続けられるから、食べもし運動もしようというのだった。彼らはこれを承知した。その結果、ある日つぎのような会話がかわされた。
「クリオ? ブラッドレー? こんどは、耳よりな話がある。うまくいかないかと思ってこれまでなにもいわなかったが、うまくいったんだ。ぼくは、ハンガー・ストライキをやって、完全な研究室をつくらせた。ぼくは化学者としてはなってないが、さいわいなことに、ここの海水から、とても簡単につくることが――」
「待て!」ブラッドレーが叫んだ。「だれかが盗聴してるかもしれんぞ!」
「していない。ぼくに知られずにはできないんだ。だれかが、ぼくのビームに同調しようとしたとたんに、切ってしまう。話をもとにもどして――V2ガスをつくるのは、ごく簡単なことだった。そして、ここにある中空なものには、のこらずそいつをつめてある――」
「どうして、彼らはあなたにそんなことをさせたの?」
「いや、やつらは、ぼくがなにをしてるか知らないんだ。やつらは二、三日ぼくを観察していたが、ぼくがしたことといえば、およそこの上もなくへんてこな〈しろもの〉をつくって、びんにつめただけだった。それから、一日中骨を折ったあげく、やっとのことで酸素と窒素を分離した。そして、そうしたあとで、どっちについてもなにもわからないし、それをどうしたらいいかもわからないふりをしたら、やつらは、ぼくをまったくあほうなサルみたいに軽蔑して見離してしまった。そしてそれからは、ぼくになんの注意も払わなくなった。そこで、ぼくはすぐにガス化する液体を何キロもつくった。ぼくは、三分半くらいしたらここから脱出して、新式の鉄動力快速船に乗ってきみたちを連れに行く。やつらは、ぼくがその船のことをなにも知らないと思ってる。その船は、最終テストがすんだばかりで、見たこともないほどスマートなやつなんだ」
「でも、コンウェイ、あなたはわたくしを助けだせないわ」クリオの声がさえぎった。「だって、このあたりには、彼らが何千といるんですもの。もしあなたが脱出できるなら、ひとりで逃げてちょうだい。わたくしを助けだすことなんか――」
「きみたちを連れに行くっていったろう。もし脱出したら、そこへ行くよ。このしろものをかがせれば、一千人でもひとりと同じようにやすやすとやっつけられる。こういう計画なんだ。ぼくはガスが濃いところを通るから、自分用のガスマスクをつくったが、きみたちふたりにはその必要はない。こいつは水に溶けやすいから、ぬれた布を三重か四重にたたんで鼻の上にかぶせるだけで充分だ。いつ水にぬらしたらいいか知らせるよ。ぼくらは脱出するか、脱出の努力をしながら死ぬか、どっちかだ――ここからアンドロメダ星雲までの両棲人を総動員したって、ぼくら地球人を動物園の動物みたいに永久にとじこめておくことはできないぞ! ところで、ぼくの医者が、市へのキーを持ってやってきた。序曲にとりかかるときがきたぞ。あとで会おう!」
ネヴィア人の医者が、キー・チューブを部屋の透明な壁にむけると、出入口があらわれ、彼がふみこんだとたんに消滅した。コスティガンは、一つのバルブをけってあけた。すると、さまざまなありきたりのチューブから、致命的な蒸気の流れが、中央礁湖の水中やその上の空中に吐きだされた。ネヴィア人が囚人のほうへむきなおったとき、ほとんど聞きとれないくらいかすかなシュッという音がして、恐るべき違法ガスが、彼の円錐形の頭のすぐ下方に露出しているえらに吹きつけた。彼は一瞬体をこわばらし、一度だけけいれん的に身ぶるいしてから、床に倒れて身動きもしなくなった。
そして、外側では、溶解性のつよい液化ガスの流れが、空中にも水中にもほとばしっていた。ガスは、その特性の一つである極度の流動性をもって、展開し、溶解し、拡散していった。そしてそれが拡散して外側へ運ばれていくにつれて、ネヴィア人が何百人もたばになって死んだ。彼らは、なんで殺されるのかも知らず、死んでいくことさえ知らなかった。コスティガンは、三人が非人間的な扱いを受けたことにひどく腹をたて、自分の脱出計画の成功を極度に気づかっていたので、息をつめて緊張しながら、両棲人たちの死を見つめていた。そして、どこにも身動きするものが見あたらなくなると、ガスマスクをつけ、背中に毒入りの大きな罐《かん》をベルトでしょった――たっぷりはいるポケットは、もう小さな容器でいっぱいになっていた――彼の口から、はげしい喜びにあふれた言葉がもれた。
「どうだい、ぼくはおもちゃ遊びのできる、あわれなもの知らずのサルの標本だろうが、ええ?」彼はしゃがれ声でいいながら、医者のキー・チューブを拾って、牢獄のドアをあけた。「ノミの外見から、そいつがどのくらい遠くまでとべるかを判断するのは、安全じゃないってことを、やつらに思い知らしてやる!」
彼は出入口から水中にはいり、重荷をしょっているのに、なんとかやりくりしていちばん近い傾斜路へ泳ぎついた。それを駆けあがって、主要通路へ向かった。しかし、彼のゆく手にも、恐るべきV2ガスがただよっていた。そして、このガスがただようところには、意識喪失があった――この意識喪失は、しだいに深まって、永遠の眠りになるのである。それを防ぐためには、必要な解毒剤を持っているばかりでなく、それをどのように使用するかという同じように重要な知識の持ち主が、ただちに手あてしなければならないのだ。通路の床には、その場で倒れたネヴィア人たちが散乱していた。コスティガンは、それらの体のわきを通ったりふみこえたりして進みながらも、分岐した通路や開いたドアが目につくたびに、致命的な蒸気を噴射した。彼は市の換気工場の空気取り入れ口に向かっているのだったが、酸素で生命を維持している生物でガスマスクをかけていないものは、だれひとり彼の行く手をさまたげることができなかった。彼は空気取り入れ口に達すると、罐を背中からおろして、その多量の恐るべき内容を、全市の第一次気流に流しこんだ。
すると、この運命きわまった都市全体にわたって、ネヴィア人たちが、しずかに、もがきもせず、なにも知らずに倒れていった。多忙な経営者は、クッションのきいた、たいらなデスクの上に倒れた。急いで動きまわっていた旅行者や使者は、通路の床に倒れたり、水路の有毒な水の中でぐったりした。監視員や観測員は、きらめいているスクリーンの前で倒れた。中央通信員は、通信パネルのライトがまたたいている下に倒れた。市の外縁部の観測員や交換員は、市全体がいつになく動きがとまって沈滞してしまったのをすこしのあいだ不思議がっていたが、やがて水中や空中の汚染が彼らのところへ達すると、不思議がるのをやめてしまった――永久に。
コスティガンは、しずまりかえったホールを通りぬけて、とある貯蔵室に行き、しかるべき注意をぬかりなく払いながら、自分の三惑星連合軍用宇宙服を着こんだ。そして、そこにしまいこまれていたそのほかの地球人用道具を不恰好《ぶかっこう》にたばねると、それをうしろにひきずりながら、ガチャガチャと自分の牢獄のほうへもどって行った。それから、手にいれることにきめていたネヴィア人の宇宙快速艇が繋留《けいりゅう》されているドックへ近よった。彼は、ここに多くの危険のうちで第一のものがひかえていることを知っていた。船の乗組員ははじめから乗船していて、独立に空気の供給を受けているから、被害がないはずだ。彼らは武器を持っているし、不安を感じているにちがいなく、疑いをいだいていることも大いにありそうだった。彼らもウルトラ・ウェーブ装置を持っているから、彼を見ているかもしれなかったが、彼がごく近くにいるということで、彼らはウルトラ・ウェーブ監視をおこたっていそうに思われた。そこで、彼は支持壁のかげに緊張してうずくまり、スパイ光線眼鏡で見つめながら、船の出入口の近くにネヴィア人がひとりもいなくなる瞬間を待ちかまえた。しかし、ウルトラ・ウェーブのスパイ光線をすこしでも感じたら、ただちに行動に移る決心だった。
「ここがピンチだ」彼はうなるようにつぶやいた。「ぼくは出入口を開く〈組みあわせ記号〉を知っているが、もしやつらが充分に警戒していてすみやかに行動すれば、ぼくが開くまえに出入口を閉鎖して、ぼくを水滴みたいに抹殺できるわけだ。だが――そら!」
敵のスパイ光線がむけられないうちに、チャンスが到来した。彼がキー・チューブを向けると、出入口が開いた。そして、出入口があらわれた瞬間、そこから砕《くだ》けやすいガラスのバルブが投げこまれた。それが砕けることは、死を意味していた。それは、金属の壁にぶつかって、こなごなに砕けた。コスティガンは、船にはいって、かつての乗組員たちを、すでに死体におおわれている礁湖の水に、つぎつぎに投げこんだ。それから、制御室にとびこみ、ぶんどった快速艇を空中に駆って、ながいこと彼の牢獄だった孤立した建物の戸口に近い水面に降下した。V2がはいったさまざまの容器を用心深く船に移すと、すばやく点検して、なにも見おとしがないことをたしかめたのち、船をまっしぐらに空中へ上昇させた。それからはじめて、ウルトラ・ウェーブのスイッチをいれて話しかけた。
「クリオ、ブラッドレー――すこしのごたごたもなく脱出したよ。クリオ、きみを連れに行くぞ」
「まあ、コンウェイ、よく脱出できたわね!」娘は叫んだ。「でも、ブラッドレー船長をはじめに助けたほうがいいんじゃないの? そうすれば、もしなにかが起こっても、船長なら役にたつけれど、わたくしでは――」
「もしコスティガンがそんなことをしたら、ぶんなぐってきりきりまいさせてやる!」船長が叫び、コスティガンがつづけていった。
「ブラッドレー、その必要はないよ。クリオ、もちろんきみがはじめだ。だが、きみはまだ遠すぎて、ぼくのスパイ光線で見ることができない。それに、この船の強力ビームを使うことも、探知されるおそれがあるから、やりたくない。だから、ぼくが追跡できるように、話しつづけてくれたほうがいい」
「それこそ、わたくしが〈得意な〉ことよ!」クリオはほっとしたように笑った。「話すことを音楽にたとえれば、わたくしはブラスバンドの総演奏みたいなものだわ!」そして、彼女が意味もないおしゃべりをたてつづけにしているうちに、コスティガンが、もうしゃべる必要はないと告げた。コースを確立したのだ。
「そっちでは、もうなにか騒ぎが起こりはじめているかい?」そのあとで彼がたずねた。
「見えるかぎりでは、なにも変わったことはないわ」彼女は答えた。「なぜなの? そういうことが起こるはずなの?」
「起こってほしくないんだが、ぼくは脱出のときに、もちろんひとり残らず殺すことはできなかったから、彼らは事件をぼくの脱獄と結びつけて、ほかの都市に、きみたちふたりに関する処置を講じるように連絡したかもしれない。だが、向こうではまだ、ひどくうろたえていると思う。だれに、どんな方法で、どういう理由で、やられたかわからないはずだからね。ぼくは、なんらかの場所にとじこもっていなかったものはほとんどやっつけたにちがいないし、生き残ったものも、しばらくはくわしく調査できそうもない。しかし、やつらはばかじゃない――ぼくがきみを連れだせば、やつらもきっと感づくだろう。ことによるとそれよりまえに――さあ、きみのいる市が見えたようだ」
「どうするつもりなの?」
「できれば、自分の市でやったと同じようにやる。やつらの第一次空気とぼくの手のとどくかぎりの水に毒を入れるのさ」
「あら、コンウェイ!」彼女の声は悲鳴に変わった。「やつらはわかったにちがいないわ――みんな水から出て、できるだけはやく建物の中に駆けこんでいるわ!」
「ぼくにも見える。いま、きみの真上にいるんだ。第一次空気取り入れ口をさがしているんだ。そのまわりに船を一ダースばかり配置して、そこへ通じる通路には、すっかり警備員をすえている。それに、その警備員たちは、ガスマスクをつけてるぞ! たしかにこの両棲人どもは頭がいい――やつらは、ぼくのいた市でどんなことがどんなぐあいに起こったかを知ってるんだ。これで事情が変わった。もしここでガスを使えば、ブラッドレーを助けだすチャンスはまったくなくなる。ぼくがドアをあけたら、とびあがる用意をしたまえ!」
「いそいでちょうだい! やつらはわたくしのところへやってくるわ!」
「たしかにやってくる」コスティガンは、すでにふたりのネヴィア人がクリオの檻《おり》のほうへ泳いでくるのを見つけていて、船を急降下させた。「やつらにとって、きみはガスで殺させるにはもったいないほど貴重な標本なんだ。だが、もしやつらがぼくより先にそこへ着けたらおなぐさみだ!」
彼はちょっと計算をあやまったので、快速艇は液体媒質の表面で停止するかわりに、それにはげしく衝突して、水の団塊を数百メートルもはねとばした。しかし、この船の構造は、普通の衝突ではびくともせず、重力制御装置も過負荷にならなかった。そして、船は水面へ矢のように浮上した。堂々たる船も大胆なパイロットも、無傷だった。コスティガンは、クリオの牢獄の戸口へキー・チューブを向けたが、すぐそれを投げ捨てた。
「ここは組みあわせ記号がちがうんだ!」彼は叫んだ。「建物を破壊してきみを連れださなきゃならん――向こうのすみに横になっていたまえ!」
彼の手がパネル上にひらめき、クリオがためらいもたずねもせずにぺったり身を伏せると、強力なビームが、建物の屋根の大部分を、文字通り吹きとばした。快速艇は空中に飛びあがっては降下し、ついに反対側壁のてっぺんにのって静止した。壁はまだ熱してなかば溶けていた。娘はテーブルの上に椅子をかさねてその上に立ち、手をのばして彼女に向かってさしだされた手甲《てっこう》つきの両手をつかんだ。コスティガンはぐっと力づよくひっぱって彼女を船にひきあげ、ドアをすばやくしめると、制御装置にとびついて、快速艇を発進させた。
「きみの宇宙服はそこの束の中にある。それを着て、ルーイストン銃とピストルを点検しておいたほうがいい――どんなごたごたにぶつかるかわからないからな」彼はふりむかずに叫んだ。「ブラッドレー、話しはじめてくれ――よろしい。コースをつかまえた。ぬれたぼろを用意して、万事手はずをととのえておいたほうがいい――ぼくらがそこへ着くころには、一秒一秒が貴重になっているだろう。ぼくらは、船の外板が白熱するくらいスピードをだしているが、それでも充分じゃないかもしれん」
「たしかに、充分じゃない」ブラッドレーが冷静にいった。「やつらは、わしのところへやってくるところだ」
「戦わないでくれ。そうすれば、やつらもきみを麻痺させないだろう。やつらがきみをどこへ連れて行くかわかるように、話しつづけてくれ」
「むだだよ、コスティガン」老宇宙戦士の声は、恐ろしい報告をしながら、すこしの激情も示さなかった。「やつらはすっかり知ってる。どんな危険もおかすつもりはない――わしを麻《ま》――」彼の声は、途中でとぎれた。
コスティガンは、はげしいののしりとともに、快速艇の強力なウルトラ・ビームを投射して、ブラッドレーの牢獄に焦点をあわせた。もうネヴィア人は警戒しているのだから、探知されることなど問題ではなかった。映像盤上に、ネヴィア人が船長のぐったりした体を小さなボートへ運んでいくのが見えた。なおも見ていると、彼らは船長の体を市でいちばん大きな建物の一つに運びこんだ。彼らは、身動きもしない体を運んで、いくつかの傾斜路をのぼり、ついに厳重に警備された巨大な中央ホールのやわらかな長椅子の上にのせた。コスティガンは、仲間をふりむいた。彼女は、ヘルメットを通してさえ、彼の表情が苦悩に青ざめているのをはっきり見てとれた。彼はくちびるをなめて二度口を開こうと努めた――努めたができなかった。しかし、彼は船の動力を切ろうともせず、方向を変えようともしなかった。
「もちろん」と彼女はしっかりした調子で認めた。「わたくしたちはやりぬくのよ。あなたがわたくしと逃げたがっていることはわかるけれども、もしあなたがほんとうにそうすれば、わたくしはもう二度とあなたを見たくもないし、うわさを聞きたくもないわ。そして、あなたはわたくしを永久に憎むでしょう」
「そんなことはない」彼の目からは苦悩が去らず、声はしゃがれて苦しそうだったが、彼の手は快速艇のコースを〈うの毛〉ほども変えなかった。「きみはこれまで羽飾りつきの帽子をかぶった女性のうちでいちばんすてきな人だ。どんなことが起こっても、きみを愛するよ。この苦境からきみを助けだすためなら、ぼくは不死の魂を悪魔に売り渡してもいいが、ぼくらはどっちも泥沼に首までつかってるようなもので、もうあとへひくことができないんだ。もしやつらが彼を殺したら、ぼくらは逃げる――ぼくがきみをはじめに連れだしたのは、そういうことが起こった場合のためで、それは彼も知っている――だが、ぼくら三人が生きてるかぎりは、三人とも助かるか全滅するか、どっちかだ」
「もちろんよ」彼女は、またさっきと同じようにしっかりした調子でいったが、いまや彼がこんなに簡潔に自己の信念を口にしたそのすばらしい男らしさに、衷心《ちゅうしん》から感動していた。彼は、自己の生命に対する執着によっても、彼女に対するそれよりはるかにつよい愛着によっても、その気高い信念をおとしめることのできない性質なのだ。「わたくしたちはやりぬくのよ。わたくしが女だっていうことは忘れてちょうだい。わたくしたちは三人の地球人で、惑星全体の怪物と戦っているんだわ。わたくしは三人のうちのひとりというだけよ。船も操縦するし、放射器も放射するし、爆弾も投下するわ。どうすればいちばん役にたつの?」
「爆弾を投下してくれ」彼は短く指示した。彼は、万に一つも脱出のチャンスをつかむためには、なにをしなければならないか、ということを知っていたのだ。「ぼくはあの大ホールまで放射器で穴をあけるつもりだ。ぼくがそうしたら、きみはその出入口に待機していて、ガスのびんを投下してくれ。ぼくがつくった穴から、大きなやつを二つばかり投げこんで、ほかのは、ぼくが壁を破壊したら、手あたりしだいに投下するんだ。陸上でも水面でも、ぶつかりさえすれば効果があるだろう」
「でも、ブラッドレー船長は――あの人もガスでやられるわ」彼女の美しい目はとまどっていた。
「しかたがない。ぼくは解毒剤を持ってるし、そいつは一時間以内ならいつでも効果があるんだ。これはずいぶん長い時間だ――ぼくらは十分以内に脱出しなければ、ここにとどまることになるだろうからね。やつらは完全武装の民兵部隊を連れこんでいるから、その連中をだしぬかないと、ひどいめにあうことになる。よし投下はじめ!」
快速艇はブラッドレーが監禁されている高い建造物の真上で停止し、強力なビームが下方にきらめいて、堅牢な金属の床を幾層にも貫く炎々たる縦穴をあけていた。大ホールの天井が貫通されると、ビームは消滅した。その集会ホールめがけて、二罐のV2が落下してくだけ、その空気を知覚しがたい死でみたした。つづいてふたたび、こんどは最大出力のビームがひらめき、建物全体の半分が焼失した。焼失して、各階の部屋が、棚のように外気にさらされた。大ホールはいまや、ハト小屋の中で特大の巣箱が小さな巣箱に囲まれているようになった。快速艇がその特大の巣箱に突入して床に静止すると、その巨大な重量のもとに、クッションのついたデスクやベンチがぺちゃんこになった。
その部屋には、動員できるかぎりの警備員が、通常任務や装備に関係なく投入されていた。彼らの大部分はただの監視員で、ガスマスクさえつけていなかったので、そういう連中は、すでに全員倒れていた。しかし、マスクをつけているものも多く、少数のものは、完全に宇宙服をつけていた。だが、宇宙服には、快速艇の兵器のすさまじいエネルギーに抵抗できるだけのエネルギーを持った防御装置を装備することはできないから、艇の放射器が一度きらりとなぎ払うと、ホールには生きているものがほとんどいなくなった。
「この大きなビームでは、ブラッドレーのすぐ近くを放射できないが、残ったやつらは手で片づけよう。クリオ、ここにいて、ぼくを援護射撃してくれ!」コスティガンは、そう命令しておいて、出入口を開きかけた。
「わたくし、できないわ――したくないわ!」クリオはすぐに叫んだ。「船の放射器の操作をよく知らないの。きっと、あなたかブラッドレー船長を殺してしまうわ。でも、携帯用兵器なら射撃できるから、わたくしも行くわ!」そして、彼のすぐあとからとびだした。
こうして、宇宙服姿のふたりは、片手に火を吐くルーイストンを、片手にほえたてる自動ピストルを持って、ブラッドレーのほうへ進んで行った。ブラッドレーは、敵によって麻痺させられ、味方によってガスをかがされて、二重に無力だった。しばし、ネヴィア人たちはふたりの前で消滅したが、船長が横たわっている長椅子に近づくと、ふたりの宇宙服と同じように有効な宇宙服を着た六人のネヴィア人が立ちむかってきた。ルーイストンのビームは彼らの宇宙服にぶつかると、無益な火花を散らしながらはね返され、自動ピストルの弾丸も効果なく散乱し爆発した。その宇宙服姿の警備員たちが一列になっているうしろには、宇宙服は着ていないがマスクをつけた兵士たちが二十人くらいかたまっていた。そして、ホールへ通じる傾斜路からは、コスティガンが前から気づいていた厳重な宇宙服姿の部隊が、急ぎ足ではいのぼっていた。
コスティガンは、すぐに心をきめて、快速艇へ駆けもどったが、仲間を見捨てたのではなかった。
「がんばっていてくれ!」彼は走りながら娘に指示した。「ぼくはそいつらを船の放射器で片づけたあとで、増援の連中を撃退するから、きみはそのあいだに残りのやつらを一掃して、ブラッドレーをここへ引きずってきてくれ」
彼が船の制御パネルへもどって、細いが非常に強固《タイト》なビーム――ほとんど固体に近い電光――をむけると、六つの宇宙服姿はつぎつぎに倒れていった。それから彼は、クリオが残った敵を処理できることを知っていたので、両側面から急速に接近してくる増援軍に注意を集中した。強力なビームは右へ左へくり返してほとばしり、その炎々たる通路でネヴィア人が消滅していった。いや、ネヴィア人ばかりではない――そのビームの信じられないほど強力なエネルギーをあびると、床も壁も傾斜路もあらゆる物質が、濃くまばゆい蒸気の雲となって消失したのだ。部屋から一時的に敵がいなくなると、彼はまたクリオを手つだいにとびだしたが、彼女の仕事はほとんどすんでいた。彼女はすべての抵抗を「一掃」して、元気よくブラッドレーの片足を引っぱりながら、すでに快速艇のすぐそばまで引きずってきていたのだ。
「えらいぞ、クリオ!」コスティガンは、大男の船長を抱きあげて出入口から押しこみながらはやしたてた。「美人の上に役にたつ。ぼくの理想の女性だ。はいりたまえ、もう成功だ!」
しかし、快速艇をいまや完全に廃墟と化したホールから飛びださせることは、それをとびこませるよりもずっと骨の折れる仕事だということがわかった。というのは、コスティガンが出入口を閉じるか閉じないかに、建物の一部が船の後方にくずれ落ちて、退路をふさいでしまったのだ。ネヴィア人の潜水艦や飛行船が現場へ到着しはじめ、建物にはげしくビームをあびせて、外来者をその廃墟の中にとじこめるか押しつぶすかしようとしていた。コスティガンは、やっとのことで通路を切り開いたが、ネヴィア人はそのあいだに兵力を集結していたので、快速艇は射程内にあるあらゆる敵兵器から、ビームと金属のあらしを集中された。
しかし、コンウェイ・コスティガンがこの船を脱出のために選択したのは、理由のないことではなかった。この船は、二隻の巨大な恒星間巡洋艦を除けば、赤い惑星ネヴィアの上で建造された船のうちで、もっとも強力な船だったのだ。また、彼がひとりで閉じこめられていた長く退屈な日夜のあいだに、この船の制御や武装についてのあらゆる細目を、綿密精細に研究したのも理由のないことではなかった。彼はこの船がテストされているときにも、行動しているときにも、停止しているときにも研究した。この船のあらゆる能力が完全にわかるまで研究した――しかも、なんという船だろう! その原子力で駆動される防御スクリーン発生器は、ネヴィア人の集中攻撃のすさまじい負荷を容易に受けとめたのだ。その多サイクル式スクリーンは、どんな物質性投射体にも耐えた。そして、攻撃兵器にエネルギーを供給する装置は、任務を充分以上にはたした。いまや全力を発揮しているそのおそるべきビームは、行手をふさいだネヴィア船に投射された。そのすさまじい衝撃のもとに、ネヴィア船のスクリーンはスペクトルにそってまぶしく光を変じながら崩壊した。そしてスクリーンが崩壊したとたんに、敵船は文字通り消滅した――防御スクリーンのない金属は、どれほど抵抗力があるものでも、この鉄を動力源とする純エネルギーの旋風の前には、一瞬も存在できなかったのだ。
ネヴィア船は快速艇を撃破しようとして、つぎつぎに自殺的な突進を試みたが、いずれも目標に達するまえに、同じような炎上の運命に見舞われた。すると、はるか下方に集結した潜水艦から、赤色のエネルギー棒がのびて快速艇を捕捉し、容赦なく引きおろしはじめた。
「コンウェイ、なぜやつらはこんなことをするのかしら? 〈やつら〉は、わたくしたちと戦えないのに!」
「やつらは、ぼくらと戦うつもりじゃない。こっちを引きとめようとしてるんだ。だが、ぼくはこれをどう処理したらいいかも知っている」そして、純エネルギーの平面が、さっと通過すると、強力な牽引ビームはぷっつりと切断された。いまや快速艇は、許容できるかぎりの高速度で上昇し、上方に残っていた二、三の船をかわして通りすぎた。艇と無限の宇宙空間とのあいだには、もうなにもさえぎるものはなかった。
「やりとげたわ、コンウェイ、やりとげたのね!」クリオは、歓声をあげた。「まあ、コンウェイ、あなたってほんとにすばらしいわ!」
「まだやりとげてはいないよ」コスティガンは注意した。「まだこれからいちばんわるいことがくるんだ。ネラドさ。やつらがぼくらをひきとめようとしたのは、彼のせいだ。だから、ぼくはこんなにあわてて逃げだしたんだ。彼の船は恐ろしいものだよ。それで、彼がスタートするまえに、うんと距離をあけておきたいんだ」
「でも、彼がわたくしたちを追いかけてくると思うの?」
「そう〈思うか〉だって? ぼくはそうだということを知ってるんだ! 彼は、ぼくらが珍しい標本だから、一生この惑星にひきとめておくといったが、その事実だけでも、彼は、ぼくらをランドマーク星雲まで追っかけてくるだろう。おまけに、ぼくらは脱出するときにやつらをひどいめにあわした。それから、ぼくらは地球へ帰らしてもらうには、やつらについてあまりにもいろいろなことを知りすぎている。そして最後の理由として、もしぼくらがこのやつらにとっても最高の船を持ち逃げすれば、やつらは死ぬほどくやしがるだろう。むろん、やつらは追いかけてくるとも!」
彼は口をつぐむと、船の操縦にすべての注意を集中しながら、船の外板が安全をおびやかされない限度で最高の温度をつねにたもつような速度で、船を推進させていった。やがて船は障害のない宇宙空間にぬけだし、可能なかぎりのエネルギーで太陽めがけて突進しはじめた。コスティガンは、宇宙服をぬいで、船長のぐったりした体にむきなおった。
「まるで――まるで――まるで死んでるみたいだわ、コンウェイ! ほんとに生き返らせることができるの?」
「できるとも。まだたっぷり時間がある。適当な場所に、ほんの三本注射をうてばいいんだ」
彼は宇宙服の錠のかかった物入れから鋼鉄製の小箱を取りだした。そこには、外科医用の皮下注射器と三つのアンプルがはいっていた。彼は微量だが精密に測定された液体を、一本、二本、三本と、三つの急所に注射してから、ぐったりした体をたっぷりクッションのきいた長椅子に横たえた。
「さあ! これで五、六時間すれば、ガスの作用が消える。麻痺のほうはそれよりずっとまえにとれるだろうから、目がさめれば元気になっているさ。そして、船は可能なかぎりの速度で逃げている。さしあたりなすべきことは、すっかりしたわけだ」
そしてはじめて、コスティガンはクリオをふりむいて、まっすぐに目をのぞきこんだ。クリオのぱっちり見開かれた雄弁な青い目が、やさしくまじろぎもせずに彼の目を見返した。彼女の目には、女性が選ばれた男性に送る、もっとも古くからのメッセージがこめられていた。彼のひきしまった若々しい顔は、彼女を見つめながら、おどろくほどやわらいでいた。ふたりは一歩ずつすばやくふみだして抱きあった。熱いくちびるをふれあわせ、青い目と灰色の目を、たがいに見かわしながら、彼らはうっとり抱きあったまま身動きもせずに立っていた。恐ろしかった過去も、気がかりな未来も思わず、輝かしくすばらしい現在だけを意識していた。
「ぼくのクリオ――いとしい――子、愛してるとも!」コスティガンのふとい声は、激情にしゃがれていた。「きみに七千年もキスしなかったような気がする! ぼくはきみに百万歩もおよばないが、もしきみをこのごたごたから連れだせれば、惑星間宇宙のあらゆる神に誓って――」
「そんな必要はないわ。わたくしにおよばないですって? まあ、コンウェイ! まるで逆だわ――」
「待ってくれ!」彼は彼女の耳につよくいった。「ぼくは、きみがすこしでもぼくを愛してくれると思っただけで、まだ目がくらんでるんだ。まして、そんなに愛してくれるなんて! だが、愛してくれさえすれば、いまもこれからも、それで満足なんだ」
「あなたを愛するですって? 愛するわ」ふたりの抱擁はつよまり、彼女は低い声をふるわせながら、とぎれとぎれにつづけた。「だいすきなコンウェイ――わたくし、なにもいえないけれど、あなたにはわかってるわ――ああ、コンウェイ!」
しばらくして、クリオは、ふるえるように、しかしこの上もなく幸福そうに、長いため息をついた。自分たちが苦境にいる現実が、ふたたび意識にのぼってきたのだ。彼女は、コスティガンの腕からやさしく身をふりほどいた。
「あなたは、わたくしたちが地球にもどって、いっしょに――いつもいっしょにいられるようになる可能性があると、ほんとに思うの?」
「可能性はある。蓋然性《がいぜんせい》はない」彼は率直に答えた。「その可能性は、二つのことにかかっている。第一は、ぼくらがネラドにどれだけ先行しているかということだ。彼の船は、ぼくがこれまで見たうちで、いちばん大きくていちばん強い。だから、もし彼があの船の解装をおえて追いかけてくるとすれば――彼はそうすると思うがね――その場合は、ぼくらが地球につくずっと前に追いつくだろう。いっぽう、ぼくはロードブッシュにたくさんデータを提供しておいたから、もし彼とライマン・クリーブランドが、じぶんたちの工夫にそれをつけ加えて、あの超宇宙船を改造するのがまにあえば、彼らはこのあたりをうろついているだろうし、彼らはあのネラドをさえたっぷり痛い目に会わせるようなしろものを持っているだろう。どっちにしても、くよくよするだけ無駄だ。どっちかの船を探知できるまでは、なにもわからない。探知したあとでなんとかするまでさ」
「もしネラドがわたくしたちをつかまえたら、あなたは――」彼女は言葉をとぎらした。
「きみを殺すかというのかい? そんなことはしない。もし彼がぼくらをつかまえてネヴィアに連れもどしても、そんなことはしないよ。それからでも、時間はたっぷりある。ネラドは、ぼくたちをすり傷が残るほども害さないだろう。肉体的にも、精神的にも、道徳的にもね。もしロージャーにつかまったのだったら、ぼくらはその瞬間にきみを殺すよ。やつは不正だからだ。やつは卑劣だ――まったく邪悪だ。だが、ネラドは彼なりに正しい。偉大で公正だ。ぼくはいつか彼と対等の立場で会うことができれば、じっさいにあの魚人間を好きになれるだろう」
「わたくしはなれないわ」彼女は、いきおいこんで断言した。「彼は、はいまわるし、うろこがあるし、ヘビみたいだし、それににおいがとても――とても――」
「とてもなまぐさいっていうのかい」コスティガンは、大笑いした。「そんなのはつまらないことさ、ほんのつまらないことだ。ぼくが知っている人間の中には、銀行の金みたいにぱりっとしていて、スミレの花束みたいにいいにおいがするくせに、ネラドの首の長さの半分も信用できないのがいるよ」
「でも、彼がわたくしたちをどんなめにあわせたか考えてごらんなさい!」彼女は抗議した。「それに、あの惑星では、彼らはわたくしたちをもういちどつかまえようとしたんじゃなくて、殺そうとしたのよ」
「彼や彼らがしたことは、まったく当然のことだった――彼らとしては、ほかにどうしようがあったのかね? それに、彼がぼくらをどんな目にあわせたか見ろというなら、ぼくらが彼らをどんな目にあわしたか、見たまえ――相当なものだと思うよ。だが、ぼくらはみんな、そうしないわけにいかなかったんだ。どっちも、相手がそうしたことを責めるべきじゃない。彼は正直なやつだよ」
「そうかもしれないけど、わたくしは彼をちっとも好きじゃないわ。もう彼のことを話すのはやめて、わたくしたちのことを話しましょう。いつかあなたがわたくしにいったことをおぼえていて? わたくしに『ぼくをあきらめろ』とかなんとか忠告してくれたときのことよ」彼女は、ほんのすこしまえに、男をこの上もなく深い激情の底から連れもどしたばかりなのに、その純粋な激情の水にまたかるくひたりたいと、女らしく望んだのだ。
しかし、コスティガンは、そのきびしい生活の中でこれまで女性の愛を経験したことがなかったので、まだ心をゆるがすような激動から充分に回復しておらず、彼女のさそいについていくことができなかった。彼は、ものもいえず、あらたに見いだした至上の幸福を信じることもできずに、この魅惑の水から遠ざかるか、ふたたびとびこむかしなければならなかった。そして、彼の全身のあらゆる組織は、彼女のほっそりした体をふたたび抱きしめたいと叫びたてていたが、彼はその魅惑の水にとびこむことを恐れていた――まだ自分がこのすばらしい娘の奇蹟のような愛にふさわしくないと考えてためらっていた。彼はこのようなことを意識的に考えたのではなかった。考えることなしに、そのように行動したのだ。それは、彼をコンウェイ・コスティガンたらしめている本質の根本をなすものだった。
「おぼえているとも。そしていまでもそれが健全な考えだと思っている。もっとも、ぼくはその考えをきみに実行させるには、深入りしすぎてしまったがね」彼は、なかば真剣に主張した。そして、やさしくおそるおそる彼女にキスしてから、彼女の顔を注意ぶかく見つめた。「だが、きみはまるで火星でピクニックをしてきたみたいだ。最後に食べたのはいつだい?」
「はっきりおぼえていないわ。けさだと思うけど」
「さもなければ、ゆうべか、きのうの朝かい? そうだと思ったよ! ブラッドレーとぼくは、かめるものならなんでも食えるし、つげるものならなんでも飲めるが、きみにはそれができない。そこらをあさって、きみが食べられるようなものを料理できるかどうかしらべてみよう」
彼は貯蔵室をかきまわしていろいろな肉を取りだし、かなり満足できる食事をととのえた。
「もう眠れると思うけど、どう?」食事のあと、クリオはまたコスティガンの腕に抱かれながら、彼の肩に頭をつけてうなずいた。
「もちろん眠れるわ。宇宙にいるのはわたくしたちだけで、あなたがいっしょにいるんですもの。わたくし、もうちっともこわくないわ。あなたはわたくしをどうにかして、いつかは地球に連れもどしてくれるでしょう。わたくし、そう信じてるの。おやすみなさい、コンウェイ」
「おやすみ、クリオ――かわいい恋人」彼はささやいて、ブラッドレーのわきにもどった。
やがて、船長は意識を回復して、それから眠った。それから数日間、快速艇はわれわれの太陽系に向かって突進しつづけたが、そのあいだ、広汎に展開された探知スクリーンは無反応のままだった。
「ぼくは、探知スクリーンがなにかにぶつかるのを心配してるのやら、ぶつからないのを心配してるのやら、自分でもわからないよ」コスティガンは一度ならずそういったが、ついにそれらの希薄な警戒網が、じっさい妨害的な振動にぶつかった。探知ラインにそって透視ビームが投射されたが、コスティガンはネラドの恒星間巡洋艦のまがうかたない輪郭をはるか後方に認めて、顔をひきしめた。
「ふむ、艦尾追跡というやつは、いつも時間がかかるものだ」コスティガンはやがていった。「彼はまだ何日もわれわれに追いつけないさ――おや、なんだ?」探知器の警報があらたに鳴りはじめたのだ。調査すべき妨害点がもう一つあらわれた。コスティガンがそれを透視ビームで追跡すると、彼らのほとんど正面に、彼らと太陽の中間を、もう一隻のネヴィア巡洋艦が、その速度とこちらの速度を加えた、想像を絶するような速さで接近してくるではないか!
「ネラドの船の姉妹船が、われわれの太陽系から鉄を積んでもどってきたのにちがいない」コスティガンは推定した。「あの船は重荷を積んでるから、ぼくらは身をかわすことができるかもしれない。それに、あの船はすごい速さでやってくるから、射程外に避けていれば安全だろう――三、四日は停止できないだろうよ。だが、もしわれわれの超宇宙船がこの区域のどこかにいるとすれば、いまこそ応援にきてくれるはずだぞ!」
彼は、快速艇に精いっぱいの側面推力をあたえてから、動員できるかぎりの通信チューブでタイト・ビームを支持しながら、ビームを太陽にむけて、三惑星連合軍の同僚に長い連続的呼びかけを送りはじめた。
前方のネヴィア船は、しだいに接近しながら、快速艇の進路を妨げようと全力をつくした。そしてまもなく、ネヴィア船は重荷を積んではいるが、快速艇と出会うときに射程内にはいれるだけ寄り道できるということがわかってきた。
「もちろん、あの船はこの船と同じように、慣性の部分的中立化装置を持っている」コスティガンは考えこんだ。「あの船は、こっちへくる途中で、ネラドから、ぼくらを宇宙から抹殺するように命令されていると思うね――あの船の船長は、こちらの船との相対速度がこんなに大きい以上、ぼくらを生けどりにはできないということを、ぼくらと同じように知っているはずだ。この船にこれ以上、側面推力を与えると、重力制御装置が過負荷《かふか》になってしまう。過負荷にならざるをえないんだ。人工重力が完全に消滅してしまうかもしれないから、ふたりとも、ベルトで体をとめたまえ!」
「彼らをひき離せると思うの、コンウェイ?」クリオは、映像盤上に映された船が刻一刻と大きさを増してくるのを、恐怖に魅せられたように見つめていた。
「できるかできないかわからないが、やってみるよ。だが、できなかった場合のために、救援の呼びかけをつづけるつもりだ。しっかり体をとめたかい? よし、快速艇、がんばってくれ!」
[#改ページ]
十三 巨人対巨人
「噴射を停止しろ、フレッド、なにかが聞こえるような気がするんだ!」クリーブランドはするどく叫んだ。数日間、ボイス号ははてしない空虚な宇宙を突進してきたが、いまや耳の鋭い受信者の長い不寝番《ねずのばん》はおわろうとしていたのだ。ロードブッシュが動力を切ると、チューブのバリバリというはげしい雑音を通して、ほとんど聞きとれないくらいの声が伝わってきた。
「――できるかぎりの救援を求む。サムス――クリーブランド――ロードブッシュ――この通信を受信できるかぎりの三惑星連合員に告げる! こちらはコスティガン。ミス・マースデンおよびブラッドレー船長とともに、太陽があると思わせる方向へ赤経約六度、赤緯約プラス十四度より進行中。距離は不明だが、おそらく数光年。この呼びだし信号を追跡せよ。ネヴィア船一隻、徐々にわれわれに追いつきつつあり、いま一隻は太陽よりわれわれに向けて進行中。後者をかわせるか否か不明なるも、できるかぎりの救援を求む。サムス――ロードブッシュ――クリーブランド――三惑星連合員――」
かすかなかすかな声は、いつまでもくり返しつづけたが、ロードブッシュとクリーブランドはもう聞いていなかった。鋭敏なウルトラ・ビームが展開され、指示されたコースにそって、三惑星連合軍の超宇宙船は、これまで試みたこともないような速度で突進した。無慣性物質が、ほとんど完全な真空中を、ボイス号の最大推力――地球の五倍の重力に抵抗してさえその膨大な常備重量を持ちあげられるような推力――によって推進されることでえられる、まったく理解を絶した、ほとんど測定できないような速度である。そのすさまじい速度で、超宇宙船は文字通り距離を消去しながら、スパイ光線ビームを前方に扇状に全力で展開して、救援を求めている三人の三惑星連合人を探知して行った。
「ぼくらがどのくらい速く進んでいるかわかるかい?」ロードブッシュは、一瞬、観測映像盤から目をあげてたずねた。「ぼくらは、彼の声を聞くことができるんだし、ぼくらのビームの有効範囲は、彼のどんなビームより大きいことはたしかだから、彼を見ることができるはずだ」
「どのくらい速く進んでいるかわからない。このあたりで一立方メートルあたり物質原子がいくつ存在するか、その点について、信頼できるデータがなにもないから、速度の計算ができないんだ」クリーブランドは、計算器を見つめていた。「もちろん、媒質《ばいしつ》の摩擦がこの船の推力に等しければ、速度は一定だ。ところで、この速度を長くたもつことはできないよ。船体の温度がぐんぐんあがっているが、それから察すると、われわれはこれまでだれも計算したことがないような速さで進んでいることがわかる。それからまた、障害のない宇宙航行で、そういうものが必要になるとはこれまでだれも予想しなかったような装置が必要だということもわかる――冷却器とか、熱線反射壁とか反発器とかいったようなものだ。だが、われわれの速度にもどろう――スロックモートンの推算を採用すれば、われわれの速度は十の二十七乗程度の大きさになる。とにかく、充分すぎるくらい速いから、その映像盤に目をすえていたほうがいい。彼らの船を見ることができてからでも、彼らがじっさいにどこにいるかはわからないだろう。なぜかというと、われわれにはこの際関係のある速度――われわれ自身の速さも、彼らの速度も、ビームの速度も――なにもわからないからだ。だが、われわれの速度は、その中でいちばん速いかもしれない」
「ひょっとしてわれわれの速度がビームの速度より速ければ、彼らを全然見ることができないだろう。それこそ、とんだ操縦だぜ」
「向こうへ着いたら、どう処理するつもりだい?」
「まにあえば、彼らの船に定着して、彼らを移乗させる。まにあわなければ、彼らがすでに戦っていれば――そのときはそのときさ!」
快速艇の制御室が、映像盤にぱっとあらわれた。
「やあ、フリッツ! やあ、クリーブ! よくきてくれた! どこにいるんだ?」
「わからない」クリーブランドは叫び返した。「きみたちがどこにいるかもわからん。データがないので、なにも計算できないんだ。きみたちがまだ生きてることはわかる。ネヴィア船は、どこにいるんだ? まだどのくらい時間があるかね?」
「時間がたりないんじゃないかと思う。情況から判断すると、彼らは二時間以内にわれわれの射程距離内にはいるだろう。ところが、きみたちはまだ、こちらの探知スクリーンに接触さえしていない」
「二時間だって!」クリーブランドは、ほっとしたように叫んだ。「時間はありあまるほどだ――それだけ時間があれば、われわれは銀河系宇宙からとびだしてしまえるくらいだ――」彼はロードブッシュの叫びに言葉をとぎらした。
「放送しろ、スパッド(コスティガンのあだ名)放送するんだ!」物理学者は叫んだ。コスティガンの映像が、映像盤から完全に消滅してしまったのだ。
ロードブッシュは、ボイス号の動力を切って、たちまち宇宙空間に停止したが、連絡は切断されていた。コスティガンは、ビーム信号を放送に切り変えてボイス号がキャッチできるようにしろという指示を聞くことができなかっただろうし、指示を聞いてそれにしたがっていたとしても、なんの役にもたたなかっただろう。ボイス号の速度ははかり知れないほど大きかったので、あっというまに快速艇とすれちがって、いまでは彼らがはるばる救援にきた快速艇から、数万マイルも――いや数百万マイルも離れてしまい、どんな放送の有効範囲よりもはるかに遠くにきてしまったのだ。しかし、クリーブランドは、どんなことが起こったのかを即座に理解した。彼はいまや基礎データをわずかながらにぎっていたので、計算器の上に手をひらめかした。
「全速後方推進十七秒!」彼はてきぱき指示した。「もちろん正確ではないが、探知器で発見できる程度まで接近できるだろう」
計算された十七秒間、超宇宙船はきたときと同様にすさまじいスピードでコースを逆行した。推力が切られると、観測映像盤上に、ネヴィア快速艇の姿がくっきりえがきだされた。
「優秀な計算員だよ、クリーブ」ロードブッシュはほめた。「近すぎて、捕捉するのに慣性中立装置を使用できないくらいだ。無慣性状態で一ダインでも推力を与えれば、スイッチをどんなにはやく切っても、百万キロくらい通りすぎてしまうだろう」
「だが、あの船は非常に遠くて、非常に速く進んでいるから、われわれが有慣性状態を維持していれば、全力推進しても、追いつくまでにまる一日かかるだろう――いや、ちょっと待て――〈いつまでたっても〉追いつけない」クリーブランドは当惑した。「どうしたらいいかな? 分圧器に分路をつくるかな」
「いや、その必要はない」ロードブッシュは、通信器をふりむいた。「コスティガン! われわれは、きみの船をごく弱い牽引ビーム――というより追跡ビーム――で捕捉するから、どんなことをしても、それを切るなよ。さもないと、われわれはきみの船に到着するのがまにあわない。衝突みたいに見えるかもしれんが、そんなことにはなるまい――かるく接触するだけだから、がくんともしないくらいだろう」
「牽引ビーム――無慣性状態でかい?」クリーブランドは不思議そうにいった。
「そうとも。なぜいけないんだ?」ロードブッシュはビームのエネルギーを最小限にしぼって、スイッチをいれた。
二隻の船は数十万マイルも離れていて、牽引ビームは可能なかぎり弱く作用したのに、超宇宙船よりは小さな宇宙船めがけてすごいスピードで突進し、そのへだたりをほとんど一瞬で通りぬけた。映像盤上の対象は、非常なはやさで拡大したので、自動焦点調節装置はそれを捕捉するに充分なだけ迅速《じんそく》に機能できないほどだった。クリーブランドは、これを見ていながら、思わずたじろいで、ひじかけをけいれん的に握りしめた。はじめての無慣性宇宙接近だ。ロードブッシュは、どんなことが起こるかをほかのだれよりもよく知っていたが、その彼でさえ、二隻の船が信じられないほどの速さでたがいに接近するさまを見て、息をつめ、生《なま》つばを飲みこんだ。
このふたりは超宇宙船を改造した本人なのに、ほとんど自制できないほどあわてたのだから、この驚異の船の能力をなにも知らない快速艇の三人の驚きはどんなだったろう! クリオは、コスティガンといっしょに映像盤を見つめていたが、彼の肩をにぎりしめながら、つき刺すような悲鳴をあげた。ブラッドレーは、宇宙用語ではげしくののしりながら、確実な死を覚悟して体をこわばらせた。コスティガンは、一瞬わが目を信じられないように見つめていたが、ロードブッシュの警告があったにもかかわらず、思わずボタンに手を走らせて、ビームを切断しようとした。しかし、おそかった。彼の指がボタンにとどくまえに、ボイス号は快速艇にとびついて、中央部にぶつかっていた。衝撃の瞬間、超宇宙船は想像を絶する速度で突進していたのに、その巨大な球体が比較的小さい魚雷形の船にぶつかって吸いついたとき、快速艇のきわめて精密な記録装置は、いささかのショックも探知することができなかった。超宇宙船は、そのすさまじいスピードを、比較的小型で、はるかにのろい船の速度に即座にやすやすと同調した。クリオは、ほっとしてむせび泣き、コスティガンは片腕を彼女にまわしながら、深いため息をついた。
「やあ、宇宙人諸君!」彼は叫んだ。「会えて嬉しいよ。だが、人を死ぬほどおどかすくらいなら、ばっさり殺してくれたほうがいいぜ! じゃあ、これが〈超宇宙船〉なのかい、ええ? 相当なもんだな!」
「やあ、マーフ! やあ、スパッド!」スピーカーからあいさつがきた。
「マーフですって? スパッドですって? どういうわけなの?」クリオは、ほとんど驚きからさめて、たずねるように見あげた。あきらかに、彼女は救援者たちが自分の愛するコスティガンに呼びかけているニックネームを喜んでいいのかわからないのだった。
「ぼくのミドル・ネームはマーフィーだから、こんなに小さいうちからずっとそう呼ばれてきたんだよ」コスティガンは、三〇センチくらいの高さを手で示した。「ところで、きみは、ぼくがこれよりずっとひどいあだ名で呼ばれているのを聞けるくらい長生きすると思うよ――そうあってほしいね」
「そんなふうに話すのはやめてちょうだい――わたくしたち、もう安全なんでしょ、コン――じゃなくてスパッド。みんながあなたをそんなに好きなのはすてきなことだわ――でも、もちろん、そのはずだけど」彼女はいっそうすりよった。そしてふたりは、ロードブッシュが話していることに耳を傾けた。
「――ひどく危険に見えたということは、ぼくにもわかるよ。ぼくも、みんなと同じくらいびっくりした。そう、この船が〈あれ〉なんだ。じつにすばらしい性能だ――ついでだが、それも少なからずコンウェイ・コスティガンのおかげだよ。ところで、きみたちは移乗したほうがいい。もし持ちものがあったら――」
「『持ちもの』はいいや!」コスティガンは大声で笑い、クリオは陽気にくすくす笑った。
「われわれはあまりたびたび移乗したので、持ちものといっては、きみたちが見ているものだけなんだよ」ブラッドレーが説明した。「体だけ持っていくよ、それも急いでな。ネヴィア人が急速に接近しているからね」
「この船の中に、きみたちがほしいものがなにかあるかね?」コスティガンがたずねた。
「あるかもしれないが、その船をおさめるだけの大きさの倉庫もないし、いまその船を調べるだけの時間もない。制御装置をエーテルにしておいてくれ。そうすれば、あとでほしくなったときに、位置を計算できるからな」
「オーライ」宇宙服姿の三人がボイス号の開かれた気密出入口にふみこみ、牽引ビームが切断されると、快速艇はいまや停止している超宇宙船から電光のように離れ去った。
「形式的な挨拶は、さしあたり抜きにしたほうがいい」ブラッドレー船長は、一同の紹介がはじまったのをさえぎった。「わしは、きみたちがわれわれに突進してくるのを見たとき、ぶったまげて九つくらい年をとったよ。まだげっそりしているようだ。だが、ネヴィア人は急速に接近している。もしきみたちがまだ知らなければいうが、やつらの船は軽巡洋艦どころじゃないぞ」
「たしかにそうだ」コスティガンは賛成した。「きみたちは、ネヴィア船をやっつけられるだけのものを持ってると思うかね? どっちにしても、ネヴィア船よりは足が速い――だから、その気になれば逃げられることはたしかだ!」
「逃げるだって?」クリーブランドは笑った。「ぼくらはぼくらなりに、あの船には〈いちゃもん〉があるんだ。いちどあいつを捕捉したんだが、そのうちに発生器が焼き切れてしまった。ぼくらはそれを修理して以来ずっと、あいつを宇宙じゅう追跡してきたものさ。きみの呼びかけをキャッチしたときも、追跡していたんだ。あそこを見たまえ。あいつが逃げて行くところだ」
事実、ネヴィア船は遁走《とんそう》していた。その船の指揮官は、巨大な船がネヴィアからの三人の逃亡者を救いに、いずこからともなく忽然《こつぜん》と出現したことに気づいていた。そして、この復仇《ふっきゅう》の念に燃える超大型戦艦と一度戦闘をまじえた経験があったので、もう一度、対決する気力がなかったのだ。そういうわけでネヴィア船はいまや、側面推力を逆方向に作用させて、自分と、三惑星連合軍の強力な戦艦の距離を極力、引きはなそうとひたすら努めているところだった。弱い牽引ビームがネヴィア船に定着すると、ボイス号はあっというまに近距離に迫った。ロードブッシュは慣性を回復し、クリーブランドは牽引ビームの力をしだいにつよめることによって、二隻の船を相対的に停止させた。こんどは、ネヴィア船も牽引ビームを切断することはできなかった。ふたたび、あのエネルギーの切断平面がビームにかみつき、かじりたてたが、ビームはまがりもせず折れもしなかった。改造された四号発生器は、そうした負荷に耐えられるように設計され、事実それに耐えたのだ。そしてふたたび、三惑星連合軍の強力な兵器が総動員された。
ネヴィア船の防御スクリーンめがけて、「罐」がつぎつぎに投射され、ウルトラ・ビームや超音ビームが放射され、強烈なマクロ・ビームが貪欲《どんよく》にかみついた。そして、防御スクリーンは一層また一層と崩壊した。敵の指揮官は必死になって、多サイクル式スクリーンにあらゆる発生器を投入したが、クリーブランドのいっそう強力なドリルが、容赦なく貫通した。その貫通のあと、すぐに最期がおとずれた。いまや、強力な十号放射器の内側リングにSX7二次ビームが装着され、すさまじい放射がネヴィア巡洋艦にぽっかり穴をあけた。その穴から、アドリントンの恐るべき爆弾と、その無気味な仲間が侵入した。そして、それらが侵入したところでは、生命が失われた。すべての防御スクリーンが消滅し、いまや抵抗するものもないボイス号の射撃をあびて、ネヴィア船の金属船体は拡散する蒸気の雲となって爆発した。きらめく蒸気のところどころには、たったいま溶解されたばかりの一、二滴の物質がただよっていたかもしれない。
こうして姉妹船が消滅したので、ロードブッシュは映像盤をネラドの船に向けた。しかし、この高度に知的な両棲人は、それまでに起こったことをすっかり見ていた。彼は快速艇の追跡をとうの昔にあきらめていたし、仲間のネヴィア船と協力して、地球船に対する絶望的な戦闘にとびこもうともしなかった。彼の分析探知器は、地球船が使用するあらゆる兵器、あらゆるスクリーンのデータを残らず記録していた。そして、彼の船がエネルギーの巨大な流れをほとばしらせて、そのすさまじい速度にブレーキをかけ、とほうもなく大きな円をえがきながら、はるかかなたのネヴィアへ向けて方向転換しているあいだにさえ、部下の科学者や機械技術員は、船が三惑星連合の超大型戦艦に匹敵できるように、可能ならば、それを圧倒できるようにするために、すでに巨人的な力を持つ諸装置を、二倍にも四倍にも強化しつつあった。
「すぐ彼をやっつけようか、それとももうすこし、もがかせようか?」コスティガンがたずねた。
「ぼくはまだはやいと思う」ロードブッシュは答えた。「きみはどうだい、クリーブ?」
「まだはやいね」クリーブランドは、相手の考えを読んで、賛成しながらきびしくいった。「彼にわれわれをネヴィアまで案内させよう。案内者がいないと、発見できないかもしれないからな。この仕事にとりかかった以上、やつらを粉砕して、二度と太陽系へこないようにしてやろう」
そういうわけで、ボイス号は、ほんの二、三ダイン推力を増して、えものの加速度に匹敵するに充分なだけの速度で、ネヴィア船を追跡して行った。ボイス号は全力推進しているように見せかけながら、逃走する掠奪《りゃくだつ》船の射程内にはけっしてはいらなかったが、ネヴィア宇宙船が映像盤に明白に記録されないほど遅れもしなかった。
また、船を強化しているのは、ネラドばかりではなかった。コスティガンは、このネヴィア人の科学者兼船長の能力をよく知って尊敬していたので、彼の提案にしたがって、超宇宙船の兵器を鉄エネルギーの理論的構造的限界まで強化するために、多くの時間がついやされた。
しかし、宇宙空間のただ中で、ネヴィア船は速度を落とした。
「どうしたんだ?」ロードブッシュは、グループ全体にたずねた。「もう折り返し点なのかい」
「ちがう」クリーブランドは首をふった。「まだ少なくとも一日はかかる」
「ネヴィアでなにかつくってるんだと思う」コスティガンが口をはさんだ。「もしぼくがネラドを見そこなっていなければ、彼はあらかじめネヴィアに連絡したはずだ――われわれを歓迎するごちそうのつくりかたについてね。われわれがネヴィアに着くのがはやすぎることになりそうなので、足どめをしようとしてるんだ。同感かね?」
「同感だ」ロードブッシュはうなずいた。「だが、もし行く手のあの二つの星のうちどっちがネヴィアだか、きみが確実に知っていれば、彼がわれわれを待ったところで無駄だ。そうじゃないか、クリーブ?」
「たしかにそうだ」
「じゃあ、あとの問題は、まずあの船を宇宙から抹殺するかどうか、ということだけだ」
「やってみればいいさ」コスティガンがいった。「つまり、もし、こちらが逃げなきゃならないときに逃げられることが絶対たしかならね」
「なに? 〈逃げる〉だって?」ロードブッシュがたずねた。
「そのとおり。〈ニゲル〉と書くのさ。逃げるとね。ぼくはあの怪物どもについては、きみたちよりよく知っている。いいかね、フリッツ、やつらは必要なものを持ってるんだ」
「そうかもしれん」ロードブッシュは認めた。「安全第一でやることにしよう」
ボイス号は、あらゆる兵器をひらめかしてネヴィア船におそいかかった。しかし、コスティガンが予想したとおり、ネラドの船は、非常事態に対して完全に備えができていた。この船の科学者たちは、姉妹船の科学者たちとちがって、自分たちが戦闘に用いる兵器の基礎理論に精通していた。ビーム、エネルギーのこん棒、槍《やり》などが炎々とひらめき、エネルギーの平面や、あいくちが、なぎ払い突き刺した。防御スクリーンは赤々と燃え、突然目もくらむような白熱光を放ってきらめいた。深紅色の霧が、すみれ色をした破壊性のカーテンにぶつかって無気味にまといついた。物質性の投射体や魚雷がビームの誘導で発射されたが、宇宙空間で無害に爆発させられたり、攻撃ビームで吹きとばされたり、貫通不能な多サイクル式スクリーンにぶつかって無益に消滅したりした。クリーブランドのエネルギーでさえ効果がなかった。二隻とも、鉄エネルギーで駆動される諸装置を完全に装備していた。どちらの科学者も、それらの装置から可能なかぎりの力をしぼりだす能力を持っていた。したがって、どちらも相手を傷つけることができなかったのだ。
ボイス号はコースを変えて突進し、数分で惑星ネヴィアに到着した。そして、深紅色の大気圏へ突入し、コスティガンがネラドの基地であることを知っている都市へ降下していった。
「ちょっと待て!」コスティガンはするどく注意した。「あそこに、なんだか気にくわないものがあるぞ!」
彼がそういったとき、市から多数の煌々《こうこう》と輝くボールが打ちあげられた。ネヴィア人は深海魚族の爆薬の秘密をマスターして、それを地球からの訪問者に雨あられと発射してきたのだ。
「きみがいったのはあれかね?」ロードブッシュは平静にたずねた。爆発する破壊性のボールは、多サイクル式スクリーンの外側の大気を文字通り消滅させたが、エネルギーの障壁はびくともしなかった。
「ちがう。あれだ」コスティガンは、一群のひときわ高くそびえた建物を包んでいる、赤味をおびた透明の半球形ドームを指さした。「ぼくがまえにこの町にいたときは、あの高い塔もあのスクリーンもなかった。ネラドはときをかせいでいたが、それは、やつらがあそこでつくっているもののためだったんだ――あの火の玉もそのためなんだ。だが、いい情況だ――やつらは、まだわれわれを迎える用意ができていない。いまのうちに片づけておいたほうがいい。もしあれができあがると、われわれは命があるうちに逃げだしたほうがいいということになるだろう」
ネラドは、自分の市の科学者たちと連絡をとっていた。彼らに指示を与えて、超宇宙船の防御スクリーンでさえ破壊できるほど強力な変換器と発生器を建造させていたのだ。しかし、その装置はまだ完成していなかった。ネラドは、完全な無慣性状態にもとづくスピードによって、まったく思いもよらぬ可能性が与えられることを、計算にいれていなかったのだ。
「あのドームに罐を二つ三つ落としたほうがいいな」ロードブッシュは、射撃員たちに指示した。
「できません」すぐにアドリントンの返事がきた。「やってみても無駄です――あれは多サイクル式スクリーンですからね。あれに穴をあけられますか? あけられれば、ここにすごい爆弾があります――あの特製のやつですよ――これが水に落ちるまで破壊されないように保護できれば、かたをつけてくれますが」
「やってみよう」クリーブランドは、物理学者がうなずくのを見て答えた。「ネラドの多サイクル式スクリーンには穴をあけられなかったが、あれは彼の船に惰性をかけることができなかったからだ。衝撃を与えられなかった――突つけば向こうは後進するだけだからね。だが、あの地上のスクリーンは、われわれから後退できないから、工作できるかもしれない。特殊爆弾用意。全員、固定せよ!」
ボイス号は螺旋《らせん》をえがいて上昇し、数マイルの高度から、エネルギー・ボール、ビーム、弾丸の雨を貫いて急降下した。その急降下は、不意に停止した。中空のエネルギー・チューブをなしたクリーブランドのドリルが、船体の先端に突きだしたまま、すさまじいうなり声をたてて突進し、電光をとび散らすショックとともに、半球形のスクリーンにぶつかったのだ。ドリルは、突進する宇宙船の膨大な全惰性に後援され、強力な発生器の全出力で駆動されながらぶつかり、純エネルギーからなる堅牢不屈の障壁の層を貫いてはげしくひっかき、かじりたてながら突き進んでいった。こうして、突進する宇宙船の惰性に後援されたドリルと、鉄エネルギーで駆動される防御スクリーンとのあいだに、目をくらませるような、すさまじくもはなばなしい対決がおこなわれた。
三惑星連合軍にとって、この日、超宇宙船が同質異形鉄を充分に供給されていたのはさいわいだった。この船のもともと巨人的な変換器と発生器が、ネヴィアまでの長い航行のあいだに、二倍にも四倍にも強化されていたのはさいわいだった! なぜなら、この大洋に囲まれた要塞は、想像しうるかぎりの攻撃に耐えられるだけのエネルギーを持っていたからだ――しかし、ボイス号のエネルギーと惰性は、いまや想像を絶するものだった。そして、その地獄の火のようにきらめき、貪欲にかみ破り、抵抗しがたくあれ狂う、信じられないほど強力なエネルギー・シリンダーの背後には、ありとあらゆるワットとダインががっちりひかえていたのだ!
シリンダーはネヴィア人のスクリーンをすさまじくかみ破り、その防御的なシリンダーを通じて、アドリントンの「特殊」爆弾が送りこまれた。それはたしかに「特殊」だった。胴まわりがとても大きいので、強力な十号放射器の中央口を通過するのがやっとなくらいだった。鋭敏に反応する原子鉄が多量につめられているから、攻撃者が惑星そのものを破壊するつもりでなければ、それをどんな惑星に落とすことも思いもよらなかっただろう。「特殊」爆弾は、エネルギーの保護的パイプを通じて、全力推進でうなり声をたてながら落下し、ネヴィアの大洋の水面下に突入した。「切れ!」アドリントンが叫び、まばゆく光るドリルが消滅すると、爆撃員は、爆発スイッチを押した。
数瞬のあいだ、爆発の効果はたいしたものでないように見えた。爆発の衝撃は、赤い惑星ネヴィアをその核心からゆるがしたが、聞こえるものといっては、にぶくひくいとどろきだけだった。見えるものといっては、海面のゆるやかな高まりだけだった。しかし、その高まりはやまなかった。いまや空高くにのぼっている観察者たちにとって、その高まりはのろのろと、〈じつに〉のろのろとしているように見えたが、やがて高まった海面がわかれて、大洋の岩床まで深くえぐられた巨大なさけめがあらわれた。のろのろ動く水の山は、いやが上にも高まり、そのネヴィア都市のあらゆる建物、あらゆる構造物、あらゆる雑多な物質を、やすやすと押しあげ、破壊し、粉砕し、ついに外側へほうりだした。
打ちのめされて、水は、たいらになって数マイルも押しやられ、かつて海水をたたえた大洋だったところに、地面やくだけた岩がむきだしになった。白熱した膨大なガスが、すさまじいいきおいで吹きあがり、爆心のはるか上空に静止していた超宇宙船の巨体さえつきあげられた。つづいて、排除されていた数百万トンの海水がどっと逆流して、すでに完全に破壊されていた都市を、いやが上にも破壊した。怒り狂った激流が、ぽっかり口をあけた裂け目にそそぎこみ、それをみたした上に、山のようにもりあがり、引いてはもりあがりした。それによってひき起こされた津波は、ネヴィアの水におおわれた巨大な球体のなかばをなぎ払った。都市は沈黙した――永久に。
「おど――ろいたな!」恐れと驚きにみちた沈黙をはじめに破ったのは、クリーブランドだった。
彼はくちびるをなめた。「だが、こうしないわけにはいかなかったんだ――それにしても、やつらがピッツバーグにしたことほどひどくはない――やつらは、戦闘員以外はみんな退去させていただろうからね」
「もちろんさ――つぎはどうするんだ?」ロードブッシュがたずねた。「見まわしてみよう。まだほかにもあるかどうか――」
「ああ、いけないわ、コンウェイ――いけないわ! やめさせてちょうだい!」クリオはあからさまにむせび泣いていた。「わたくし、部屋へ行ってベッドにもぐりこむわ――死ぬまで、いまの光景を忘れられないでしょう!」
「しっかりするんだ、クリオ」コスティガンの腕が、彼女をかたく抱きしめた。「ぼくらは観測しなけりゃならないんだ。だが、もう見つかるまい。一つだけで充分だったはずだ――もし完成していたとすればね」
ボイス号は、くり返しくり返し惑星上を旋回した。超強力施設は、ほかには建設されていなかった。そして、驚いたことに、ネヴィア人は、敵対行動を示さなかった。
「なぜだろう?」ロードブッシュは考えこんだ。「もちろん、こっちも攻撃してないが、もしかすると――やつらはネラドを待ってるんだろうか?」
「たぶんそうだろう」コスティガンは言葉をとぎらして考えた。「われわれも、彼を待ったほうがいい。このまま、ほったらかすわけにはいかないからな」
「だが、戦闘を強要できないとなると――手づまりだ――」クリーブランドの声は、当惑しているようだった。
「なにかするさ!」コスティガンはきっぱりいった。「このごたごたは、ぼくらがここを去る前に、なんとか決着をつけなけりゃならない。第一に、話しあいをしてみる。ぼくの考えでは――とにかく、そうしてもなんの害もないし、彼はこっちのいうことを聞いて理解できるんだから」
ネラドが到着した。彼の船は、攻撃をしかけようとせず、やはりおとなしくしているボイス号から一マイルか二マイル離れたところで静止した。ロードブッシュは、通信ビームを向けた。
「ネラド船長、こちらは三惑星連合軍のロードブッシュ。この情況をどうするつもりかね?」
「きみたちと話しあいをしたい」ネヴィア人の声が、スピーカーからはっきり聞こえてきた。「いまになってわかったのだが、きみたちは、われわれが考えたよりはるかに高等な生物だ。おそらく、われわれと同じくらい高度に発達した生物である。われわれがはじめにきみたちの惑星に接近したとき、心の全面的会合を持つ時間をかけなかったのは残念だ。そうすれば、地球人もネヴィア人も、多くの生命を失わずにすんだだろう。だが、過ぎ去ったことはしかたがない。しかしながら、きみたちも理性的生物としてわかるように、双方ともに勝利をえることができない戦闘を継続することは無益だ。もちろん、きみたちはもっと多くのネヴィア都市を破壊できるが、そうなれば、わたしはきみたちの地球へでかけて行って、同様な破壊をおこなわざるをえない。理性的生物にとっては、このような手順はまったく愚劣である」
ロードブッシュは、通信ビームを切った。
「彼は本気かね?」彼はコスティガンにたずねた。「完全に合理的に聞こえる。だが――」
「だが、あやしいぞ」クリーブランドが口をはさんだ。「本当にしては、合理的すぎる!」
「彼は本気だ。完全に本気だよ」コスティガンは、同僚たちに受けあった。「ぼくは、彼がこんなふうに考えるだろうと思っていた。あれが彼らの性質なんだ。理性的で無感動。変わってるよ――彼らには、われわれ地球人が持っているものがいろいろと欠けているが、われわれ地球人の多くが持っていればいいと思うような資質も持ってるんだ。通信器をくれ――ぼくが三惑星連合軍に代わって話す」そして、通信ビームが復活された。
「ネラド船長」彼はネヴィア人指揮官に挨拶した。「わたしは、きみやきみの種族といっしょにいたので、きみが本心から話しており、きみの種族を代弁しているということがわかる。きみと同様に、わたしも三惑星連合評議会を代弁して、われわれ両種族のあいだでは、これ以上闘争は必要ではないということを宣言できると信じる――三惑星連合とは、われわれの太陽系の三つの惑星の統治機関である。わたしもまた、いまから思えば、しないですましたかったと思ういくつかのことを、周囲の情況に押されてしなければならなかったが、過去は過去である。われわれ両種族は、友好的に物質や思想を交換することによって相互に多くの利益を受けることができるが、この戦争状態を継続する道を選択すれば、相互に殺戮《さつりく》しあう以外には、なにものも期待できない。わたしは、三惑星連合の友情をきみたちに提供する。防御スクリーンを解除して本艦に移乗し、条約に調印してはどうか?」
「わたしの防御スクリーンは解除されている。わたしは移乗する」ロードブッシュは、いくらか気づかいながらも、同様にスクリーンを切った。やがてネヴィア人の救命艇がボイス号の気密出入口にはいった。
それから、三惑星連合軍の最初の超宇宙船の制御室の中の一つのテーブルで、最初の太陽系間条約が締結された。テーブルの片側には、三人のネヴィア人がいた。両棲で、頭が円錐状で、首がヘビのように長く、うろこでおおわれていて、われわれ地球人には怪物と思われる生物である。向かい側には、地球人たちがいた。空気を呼吸し、頭がまるく、首が短く、体がなめらかで、二本足をしており、えり好みのはげしいネヴィア人にはやはり怪物と思われる生物である。しかし、ひどく異なった両種族を代表する各員は、会談が続くにつれて、相手の種族に対する尊敬が一分ごとに増していくのを感じた。
ネヴィア人はピッツバーグを破壊したが、アドリントンの爆弾は、ネヴィア人の主要な一都市を完全に吹きとばした。一隻のネヴィア船が三惑星連合の一艦隊を抹殺したが、コスティガンはネヴィア人の一都市の住民を全滅させ、もうひとつの都市に重大な損害を与え、多くのネヴィア船をビームで撃滅した。したがって、生命の損失や物質的損害は、相殺することができる。太陽系は、ネヴィア人がほしがる鉄に富んでいるし、赤い惑星ネヴィアは、地球ではまれな物質か重要な物質、またはまれでかつ重要な物質を豊富に所有している。したがって、貿易が促進されるべきである。ネヴィア人は、地球人の科学には未知の知識や技術を持っているが、地球人には常識と思われる多くのことについて、まったく無知である。したがって、学生や書物の交換が大いに望ましい、等々。
こうして、三惑星連合対ネヴィアの永久平和条約が署名された。ネラドとふたりの同僚は、礼儀正しく彼らの船に送りとどけられ、ボイス号は、ネヴィア人による脅威《きょうい》がもはやなくなったというグッド・ニュースを持って、無慣性状態で地球へ出発した。
クリオは、もう宇宙慣れしたベテランで、無慣性状態のものすごい不快感にさえ免疫になっていたが、コスティガンの腕の中でしなやかに身もだえしながら、彼に笑いかけた。
「コンウェイ・マーフィー・スパッド・コスティガン、あなたはいいたいことをいってもかまわないけど、わたくしはあのネヴィア人たちがちっとも好きじゃないわ。彼らを見ると、体じゅう鳥肌になるの。彼らはたしかに、尊敬すべき種族で、能力があって文化も高いし、いろいろな美点を持ってるかもしれないけれど、地球人がほんとに、心から〈ほんとに〉彼らを好きになるまでには、ながいこと、ながいことかかるにちがいないことよ!」
[#改ページ]
訳者あとがき
「レンズマン・シリーズ」全六巻、四百字原稿に換算して四千五百枚、ふつうの文庫本なら優に十二冊分を訳了して文字どおり肩の荷をおろしたところです。いうまでもなく、この膨大《ぼうだい》なシリーズの特色は、従来のスペース・オペラの道具立てを集大成したところにあるわけで、いわば宇宙のギャングと戦うFBIストーリー、開拓者魂《フロンティア・スピリット》を描く未来のウェスタンともいえます。しかし、なんといってもその最大の眼目《がんもく》は、人類《ホモ・サピエンス》をはじめとする宇宙の知的生物が、実は自主的な存在ではなく、宇宙を支配する超生物、アリシアとエッドールの闘争の道具として創造された、単なる将棋《しょうぎ》の駒《こま》でしかないということです。もっとも、この発想はかならずしも作者E・E・スミスの創意によるものではありません。古くはアリストテレスにその端《たん》を発しており、これについてはギリシア哲学をいまさら持ち出すまでもないでしょう。その意味ではキリスト教義における世界と人類の創造もまたしかりで、いってみればアダムとイブを創った神がアリシアであり、神に対抗する悪魔すなわちエッドールという図式が成立することになるわけです。
シリアスなSFとして、本シリーズがその存在価値を高めているのは、けだし、このような形而上学的考察に支えられているからでしょう。そして、それを裏づけるものは、やはり痛快無類なアクション場面の連続にあります。ある時は名保安官ワイアット・アープをほうふつとさせるキムボール・キニスンの活躍、われわれ日本の読者には日本海海戦や真珠湾攻撃を連想させる宇宙戦闘。さらにはアトランティス大陸陥没の謎を解明する原子力戦争など、その雄大なスケールと奔放なイマジネーションによる設定は、作者E・E・スミスのまさに凡手ならざることを立証しています。E・R・バローズの「火星シリーズ」を嚆矢《こうし》とするスペース・オペラは、この「レンズマン・シリーズ」によって、一応その頂点をきわめたといっても決して過言ではありますまい。
一九六八年九月