A・E・ヴァン・ヴォクト/能島武文訳
宇宙船ビーグル号の冒険
目 次
一 キアル
二 鳥人リーム
三 イクストル
四 M33星雲
解説
一 キアル
キアルは、餌《えさ》をあさって、うろうろと、いつまでもいつまでもさまよいつづけた。墨を流したようにまっ黒な、月もなければ、星さえもほとんどない夜が、しぶしぶと、ひと足ひと足後じさるように消えてゆくと、その後から、無気味に赤味を帯びた暁の光が、キアルの左手の方から、しだいに忍び寄ってきた。夜明けとともにもたらされる暖かさなど感じられない光だった。光は、悪夢にも似た風景を、徐々に浮かびあがらせた。
鋸《のこぎり》の歯のようにぎざぎざの、黒々とした岩と、同じように黒味を帯びた死そのもののような荒野が、キアルのまわりに浮かびあがった。奇怪な地平線の上に、色あせた赤い太陽が顔をのぞかせた。光が指先でさぐるかのように、物の陰の間にまで射しこんだ。しかし、キアルがもう百日近くも跡を嗅《か》ぎまわってきた原形質《イド》生物の群れの影も形も、どこにもなかった。
その現実に、身も凍るような悪寒《おかん》をおぼえて、ついにキアルは立ちどまった。大きな前肢《まえあし》が身震いでもするような動作とともにゆがみ、かみそりの刃のように鋭い爪《つめ》の一本一本が、弓なりにむき出しになった。両の肩からはえた太い触手が、ぴんと緊張して波のように揺れた。大きな猫《ねこ》に似た顔を左右にねじ動かすと、キアルは、耳のかわりをしている毛のような巻きひげを、気でも狂ったようにふるわせて、おりおりに吹き起こる微風の一つ一つ、大気の震動の一つ一つを、けんめいにさぐってみた。
反応はなかった。自分の複雑な神経組織をさっと走るはずのうずきさえも、かれには、いささかも感じられなかった。この荒れはてた惑星の上に、かれのただ一つの餌のもととなるイド生物が、どこかにいると感じさせるような気配はどこにもなかった。がっかりしてキアルはうずくまった。どす暗い赤味を帯びた地平線を背景にして、影絵のように浮かんだ巨大な猫のようなキアルの姿は、あたかも影の世界に住む黒い虎《とら》を、歪んだ筆で描いた銅版画のようだった。このようにかれにがっかり気をおとさせているのは、自分の勘が鈍ってしまったという事実だった。正常な状態なら、何マイルも離れた遠くの細胞原形質《イド》を嗅ぎつけることのできる感覚器官を、かれは持っていた。その自分が、もはや正常ではなくなっているのだと、かれは気がついた。夜通し彷徨《ほうこう》しても相手とぶつかることができなかったということは、肉体の衰えを物語っていた。これが、これまでにもよく聞かされた死病というやつだ。過去百年の間に七回も、かれは、弱りはてて動けなくなった仲間たちに出くわしたものだ。それらの仲間も、飢えのために不死身のはずの体が衰えはて、ただ死期が来るのを待っていた。それらの仲間を見つけたとたん、無我夢中で、かれは、抵抗する気力さえもなくなった仲間たちに襲いかかり、かれらの体を叩きつぶし、消えかかるかれらの生命をつなぎとめていた、わずかばかりのイドをむさぼり食ったのだった。
それらの味を思い出し、キアルは、強い興奮をおぼえて、ぶるっと全身を震わせた。つづいて、かれは、声を張りあげて吠《ほ》えた。強い戦いを挑むような声が、空気を震わせ、岩にこだまし、こだまはふたたび岩々の間を返って来て、かれの神経に揺り返してきた。生きようとするかれの意志の、本能的な表現だったのだ。
そのとたん、突然、かれは、全身をこわばらせた。
遠い地平線のはるか上空に、かれは、一つの小さな白く光る点を見つけた。それは、だんだん近づいて来た。その光の点は、見る見る大きくなり、巨大な金属の球となったと思う間に、やがて、とてつもなく大きな球状の船となった。磨き上げた銀のように光る大きな球状のものは、キアルの頭上を風を切って通過したが、減速していることがはっきりわかった。けれど、右手の黒い丘の上に達すると、一瞬ほとんど動かなくなったと思うと、やがて、下降してその姿は見えなくなった。
驚いて身動き一つしないでいたキアルは、突然跳ねあがると、虎のようなすばやいスピードで、岩の間を駆け降りた。まん丸な黒い目が、必死の欲望に燃えていた。飢えから精力は衰えていたにもかかわらず、耳の触毛が、電気の震動波を受けたように、イドの存在を知らせてきたのだ。しかも、飢餓の苦痛のために、全身に悪寒をおぼえるほどの、おびただしいイドの群れなのだった。
遠くの太陽は、もういまでは桃色《ももいろ》になり、黒紫の空高く昇っていたが、そのころ、キアルは、岩塊の陰にしのび寄って、その陰から目の下にひろがる都市の廃墟を、じっと見おろしていた。銀色に光る宇宙船は、その巨大な大きさにもかかわらず、眼下にひろがる、住む人もなく、瓦礫《がれき》のように砕けた都市の広大な廃墟にくらべて、小さく見えるほどだった。しかし、宇宙船のまわりには、満を持して放たれるのを待っているような活力と、力をためた静けさのようなものがあり、しばらく見ているうちに、あたりを圧して、どっしりと構えているのがわかった。宇宙船は、この廃墟と化した都市のまわりから、いきなりはじまっている荒野などは無視して、そのごつごつした岩山の上に、自分の重みでできた台座にどっしりと休んでいた。
キアルは、船の中から出てきた二本足の生物たちを、目をこらして見つめた。地上百フィートほどのところに、きらきらと明かりのついた出入り口があり、そこから伸びてきているエスカレーターの底部の近くに、二本足の生物たちは、小人数の塊りになって立っていた。キアルののどは、激しい飢餓に息もつまりそうになった。イドの震動を放射する、これらの、いかにも脆《もろ》そうな様子の生物たちに襲いかかって、叩きつぶしてやりたい衝動のために、かれの頭までが前後不覚になるほどだった。
だが、その衝動は、ただ電流のようにキアルの筋肉に、さっと押し寄せただけで、霧のように湧いてきた記憶が、すぐその衝動を押し殺した。それは、キアルの種族のはるか遠くの日の記憶であり、何物をも破壊しつくすことのできる機械や、かれ自身のすべての体力以上のものを秘めた強烈なエネルギー線を、まざまざと思い出させたのだった。その記憶が、キアルの体内にたくわえられた力を鈍らせた。キアルは、二本足たちが、かれらのほんとうの体の上に、日の光を浴びて、きらきら光るものをまとっているのを認めるだけの、心の余裕を持っていたのだ。
これらの二本足の生物たちが、なぜここに来ているのかがわかるといっしょに、抜け目のない知恵が浮かんだ。これは、他の星からやって来た科学探険隊なのだと、はじめてキアルは判断した。科学者というものは、調査はするが、破壊はしないものだ。こちらが攻撃さえしなければ、殺すことは差し控える連中なのだ。科学者というものは、ある点では愚かなものなのだ。
飢えから大胆になって、キアルは、のっしのっしと出入り口の方へ出て行った。二本足たちが、自分に気がついたのを、かれは見てとった。いちばん近くにいた三人が、もっとたくさん集まっている方へ、ゆっくりと後じさって行った。群れの中でいちばん小柄な一人が、体の脇につけたケースから鈍く光る金属の棒をとり出し、さりげなく片手に構えた。
キアルは、その動作にぎくりとしたが、そのまま大股に走りつづけた。いまさら引き返そうったって、もう間に合わなかった。
エリオット・グローヴナーは、一同からかなり後ろの、地上におろされたタラップの近くの、さきほどからいた場所に、そのまま立ちどまっていた。目立たぬ場所にいることには、慣れっこになっていたのだ。宇宙船ビーグル号に乗り組んでいる、ただ一人の情報総合科学者《ネクシャリスト》として、もう何か月というもの、かれは、他の専門家連中から無視されていたのだった。他の連中たちは、情報総合科学者《ネクシャリスト》とはどういう科学者なのか、はっきりとは理解していなかったばかりか、またどのみち全然気にもかけていなかった。その点を改めさせる計画を、グローヴァーは持ってはいたのだが、いままでのところ、それを実行するだけの好機がやって来ないのだった。
グローヴナーの宇宙服のヘルメットについている通話器が、ふいに鳴り出した。だれかが、そっと声を立てて笑ってから、いった。「勝手をいってすまないが、ぼくは、あんな大きな奴《やつ》を相手にするのなんかご免だねえ」
話し声を聞いて、化学部長のグレゴリー・ケントだなと、グローヴナーは判断した。体つきは小さいが、ケントには、なかなか大物らしい風格があり、船内でも数多くの友人や支持者があり、もうすでに来たるべき選挙に、探険隊総監督に立候補の名乗りをあげていた。近づいて来る怪獣に面と向かったすべての人間の中で、武器を取り出したのは、このケントがただ一人の人間であり、いまも流線型のメタライト合金の銃を、指でまさぐりながら立っていた。
もう一人の声がした。声の調子は、ケントのよりも、ずっと低く太くて、はるかに落ちついてくつろいでいた。グローヴナーは、探険隊総監督ハル・モートンの声だなと感じた。「きみがこの探険隊に加わっている理由は、そこなんだよ、ケント――きみがまったく無理なことをしないからなんだよ」
それは、たっぷり好意に満ちた言葉だった。ケントが総監督の選挙に、自分の対抗相手としてすでに立候補していることなどは、無視してしまっているようであった。もちろん、それは、邪心のない聞き手に対して、自分の競争相手に敵意を感じていないように見せる、モートンの政治的手腕と考えれば考えられるわけだった。グローヴナーは、総監督がその程度のずるさのやってのけられる辣腕家《らつわんか》だと信じていた。かれの見るところでは、モートンは、なかなか抜け目のない、適度の誠実さも持っている上に、とても知能のすぐれた人物であり、どんな状況に応じても無意識的に、巧みにさばいてゆく腕を持っていると、かれを踏んでいた。
グローヴナーが目を向けると、モートンは進み出て、他の連中の前に立った。たくましい体で、メタライト合金の透明宇宙服ははちきれんばかりである。その位置に立ったまま、総監督は、まっ黒な岩だらけの荒野を歩み寄って来る猫のような怪獣の姿を、見守っていた。他の部長連中の言葉が、グローヴナーの耳に聞こえてきた。
「暗闇の夜、裏通りなんかで、あんなやつにでくわすのはご免だね」
「ばかをいっちゃいかん。こいつは、たしかに知能の高い生物だよ。おそらく、この星の支配種族の一人かもしれないぜ」
「肉体的な発達から判断すると」と、一人の声がいった。これは、心理学者のシーデルの声だと、グローヴナーは気づいた。「その環境に対して、動物的な適合性を示しているともいえるし、反対に、このようにわれわれに近づいて来たところを見れば、動作の行動ではなくて、知能のある生物が、われわれの知能に感応してやって来たのじゃないのかね。気がついているだろうが、奴《やっこ》さんの動きがひどくぎこちないじゃないか。あれは、われわれの武器のことを頭において、警戒している証拠だよ。ぼくは、あの肩のところにはえている触手の先をよく調べてみたいね。もし、触手の先が手のように細くなっているか、吸盤のようになっていれば、この都市の住民の子孫と考えることができるわけで、こいつはおもしろいことだと思うんだ」かれは、しばらく間をおいてから、いい切った。「もし、奴さんと話ができれば、大いに助かるんだがね」
キアルは、いちばん近い人間から、まだ十フィートほどあるところまで来て、立ちどまった。イドに対する欲求が、いまにもかれを圧倒しそうになった。頭は、何が何だかわからなくなるほど、ぎりぎりの凶暴なところまで押し流され、踏みとどまるためには、恐ろしいほどの努力を振りしぼらなければならなかった。全身が、どろどろにとけた液体の中に浸されたような気がし、目の前のものがぼやけつづけた。
たいていの人間が、かれの方にずっと近く歩み寄って来た。キアルは、かれらが無遠慮に、好奇に満ちた目で、自分を観察しているのに気づいていた。かれらの唇が、かぶっている透明なヘルメットの中で動いていた。かれらがお互いに交信し合っているのだ――キアルは、たしかにそうだと感じとった――その周波数は、キアルの能力で楽に受信できる範囲内のものだった。が、意味は、まるきりわからなかった。親愛の気持ちを示してやろうと、キアルは、耳の触毛を通じて自分の名前を送信し、同時に一本の曲がった触手で、自分自身を指し示した。
グローヴナーのおぼえのない男の声が、ものうげな調子でいった。「モートンさん、あいつが毛をうごめかした時、ぼくのラジオに空電のようなものがはいりましたよ。あなたのお考えでは――」
「いや、ありうることだね」と、総監督は、相手の質問がすっかりすまぬうちにこたえた。「そいつは、きみの仕事だということだよ、グーレイ君。こいつが電波で口をきく動物だとすると、ぼくらもなにか交信用の信号のようなものを作って、こいつと話ができるかもしれないよ」
モートンが相手の名前を呼んだので、グローヴナーには誰だかわかった。通信部長のグーレイだった。グローヴナーは、この会話を録音しておいたので、満足した。この怪獣があらわれたおかげで、船内の重要な人物全部の声を録音できるかもしれない。これは、そもそものはじめから録音しようと、かれが計画していたことだった。
「おや」と、心理学者のシーデルがいった。「触手の先が吸盤になっているぜ。これで神経系さえ十分複雑になっているとすれば、こいつはどんな機械でも操作できるはずだね」
総監督のモートンがいった。「船内にはいって、昼食をとったほうがいいだろうね。後になれば、いそがしくなるだろうからね。この種族の科学がどんな発達をしていたか、研究してみたいのだ。とくに、滅亡の原因が知りたいのだ。地球の初期、つまり銀河系文明の成立以前には、いろいろな文化がつぎからつぎへと最高潮に達したと思うと、つぎつぎに崩壊したものだ。そして一つが滅びたかと思うと、その灰の中から常に新しい文化が芽を吹き出したものだ。この星で、そういうことが起こらなかったのは、なぜだろう? 各部門とも、専門の分野に沿って調査範囲をきめて、やってもらうことにしよう」
「この猫ちゃんはどうします?」と、誰かがいった。「どうも、ぼくらといっしょに船に来たがっているように思うんですがね」
モートンがくすくす笑ってから、きまじめな調子でいった。「力づくでつかまえたりしないで、いっしょにつれ込む方法があるといいんだがね。ケント、きみの考えはどうだね?」
小柄の化学者は、きっぱりと首を左右に振って、「この星の大気には、酸素より塩素の方が、ずっと多量に含まれているようだ。もっとも、現実にはどちらも多くはないがね。われわれの船内の酸素を吸わせたら、この先生の肺はダイナマイトをくらったように、めちゃめちゃになることはうけ合いだね」
猫に似た生物が、そんな危険にいささかも気をつかっていないのが、グローヴナーには、はっきりわかっていた。かれは、怪物が先に立った二人の人間の後について、エスカレーターをのぼり、大きな入り口を通って行くのを、じっと見守っていた。
二人の男たちは、モートンの方をちらっと振り返った。モートンは、片手を二人に向けて降ると、いった。「二番のエア・ロックをあけて、酸素を一吹きかがしてやれ。奴さんの気持ちもかわるだろう」
一瞬の後、総監督の驚きあきれた声が、通話器に大きく響きわたった。「なんと、驚いたね! 奴さん、変化なんか全然気にもしないじゃないか! ということは、こいつには肺がないのか、それとも、肺が吸っているのは、酸素以外のものか、どちらかだ。間違いなく、こいつは船内にはいって行けるよ! スミス君、こいつは、生物学者には宝庫みたいじゃないか――注意さえすれば、害などはしないだろう。それにしても、なんと驚くべき新陳代謝機能じゃないか!」
スミスは、長身の上に痩せっぽちの骨ばった男で、悲しげな長い顔の持ち主だったが、見かけによらず力強い声が、グローヴナーのヘルメットの中の交信器にひびいてきた。「これまでいろいろな探険隊に参加してきましたが、高等生物には二種類しかお目にかかりませんでした。塩素に依存しているものと、酸素を吸って生きているもので――つまり、これらの二つの元素が、燃焼作用を支えているわけなのです。ほかに弗素《ふっそ》を呼吸する生物が存在しているという報告も聞いてはいますが、これはあいまいな報告で、まだ実例にはお目にかかったこともありません。わたしの学者としての名誉にかけてもいいですが、複雑な機構を持った有機生物が、現実的に、この二つの気体の利用に適合できるなどということは、ありえないことですよ。モートンさん、絶対にこの動物を逃がしちゃいけませんよ」
総監督モートンは、声を立てて笑ったが、やがて、冷静な口調でいった。「奴さんも、逃げるようすはなさそうだぞ」
モートンは、タラップの片側に設けてあるエスカレーターに乗って、船に昇りきった。やがて、かれは、キアルと二人の男といっしょに、エア・ロックに移った。グローヴナーは急いで前に出ようとしたが、結局、その広い場所にはいりこんだ十二人ほどといっしょになってしまった。エア・ロックの大きなドアがさっとしまり、空気がしゅうしゅうと音を立てながら、はいりだした。誰もかれも猫に似た怪獣から、ずっと離れて立っていた。グローヴナーは、じっとその怪獣を見つめていたが、だんだんに不安な感じが強くなってきた。いろいろな考えが胸に湧いてきた。その考えを、モートン総監督に伝えることができたらいいのだがと思った。本来なら、そうできていいはずなのだ。こういう探険船の規則では、各部門の部長は総監督に、容易に近づけることになっていた。グローヴナーは、情報総合科学部の部長として――もっとも情報総合科学部といっても、部員は、かれ一人しかなかったのだが――当然、自分にもこの規則は適用されていいはずだった。かれの宇宙服にも通話器がついているのだから、他の部門の部長と同じように、かれもモートン総監督と通話ができていいはずであった。ところが、かれのには一般受話器がついているだけで、現場で作業をしている時のおえらがたの言葉を、傍聴するという特典にめぐまれただけだった。もし、誰かと話したいとか、危険におそわれたという時には、スイッチをひねって、中央交換台に接続しなければならないというわけだった。
グローヴナーも、こういう方式の一般的価値に疑問は抱いていなかった。ビーグル号には千人近い人間がいたのだから、これらの人間が誰でも好きな時に、モートン総監督と話をするわけにいかないのはわかりきったことだった。
エア・ロックの内部ドアが、開いているところだった。グローヴナーは、みなといっしょに押し合いながらエア・ロックを出て、二、三分の後には、エレベーターの乗り場に立った。エレベーターをつぎつぎと乗り継いで、船の居住区域にのぼって行くようになっているのだ。モートンとスミスの間で、しばらく議論がかわされていたが、やがて、モートンがいった。「猫ちゃんが行くようなら、一人で行かせてみようじゃないか」
キアルは、べつにいやだという様子も見せなかった。エレベーターのドアがちゃんとしまり、とざされた箱がすっと昇り出した。とたんに、キアルは、われを忘れ、うなり声とともに身をひるがえしざま、ドアに飛びかかった。かれの体あたりで、金属がへし曲がり、激痛がさらにかれを逆上させた。いまや、かれは罠《わな》にかかった獣そっくりだった。前肢で金属をなぐりつけた。太い触手をふるって、溶接した頑丈な羽目板を引っぱがしてしまった。機械が乱暴はやめろというように、きいときしみをあげた。強力な磁気動力で引き上げられるエレベーターの、へし曲がった部分が外の壁にひっかかるたびに、エレベーターはがたがたとゆれた。とうとう、エレベーターは終点までのぼりつめて、とまった。キアルは、ドアの残りを引きちぎり、外の廊下に叩きつけた。かれは、武器を手にした人間たちが、駆けつけて来るのを待ち構えた。
モートンがいった。「ばかなことをしてしまった。エレベーターがどう動くかを、見せておいてやればよかった。われわれがだましたとでも思ったんだろうね」
モートンは、怪物にむかって合図をした。グローヴナーが見ていると、モートンが近くのエレベーターのドアを数回、開いたりしめたりして見せると、怪獣のまっ黒な目から、凶暴な光がしだいに消えていった。結局この一幕に終止符を打ったのは、キアルの方だった。かれは、廊下を先に立って、大きな部屋へ小走りに駆けこんで行った。
キアルは、絨毯《じゅうたん》を敷きつめた床に横たわって、全身の筋肉と神経の強烈な緊張を必死に押ししずめた。いましがた自分が見せたうろたえぶりに、ひどく腹が立った。もうおとなしい柔順な動物に見せかけるわけにもいかなくなったような気がした。自分の力は、二本足どもを驚かせてしまったにちがいない。
ということは、これからやりとげねばならない仕事に、大きな危険が伴うということだ。仕事とは、この宇宙船を乗っ取ることだ。この二歩足どもの故郷の惑星には、きっと無尽蔵のイドがいるにちがいないのだ。
1
まばたきもしない目で、キアルは、二人の男が、巨大な古い建物の金属製の戸口から、ぼろぼろにこわれた割石をとりのけているのを、じっと見守っていた。人間たちは、昼食をすませると、ふたたび宇宙服を身につけて作業にかかった。いまやどちらに目を向けても、一人あるいは何人かの組になったかれらの姿が見えた。キアルは、かれらがまだこの死滅した都市を調査しているのだな、と考えた。
キアル自身の関心は、もっぱら食物のほかにはなかった。体じゅうの細胞が、イドにかつえてうずいていた。渇望は、筋肉をわなわな震わせ、心は、市街の奥深くはいりこんで行った人間たちを追おうとする欲望で、焼けつくように燃えあがった。かれらのうちの一人は、たった一人で出かけたものもあった。
昼食の時、人間たちは、自分たちの食糧をいろいろ出してきて、かれにすすめたが、どれもみな、かれには一顧の値打もないものばかりだった。かれの食物は生きた動物でなければならぬということに、人間たちは、たしかに気がついていなかったのだ。細胞原形質《イド》は、ただ単なる物質であるだけでなく、物質のある構成であり、まだ生命の流れに脈動している組織からでなければ、手に入れられないものだった。
何分かが過ぎていった。そして、まだキアルは、じっと我慢しながら、横になって、人間たちを見守っていた。人間たちもかれが見つめていることを承知していたし、かれもそれには気づいていた。宇宙船の中から、金属製の機械が取り出され、宙に浮いたまま、建物の大きな戸口をふさいでいる岩の塊の方へと動いて行った。キアルは、くい入るような鋭い目つきで、その動きという動きを目に入れていた。強烈な飢えのために体はぶるぶる震えていたが、どうすれば機械が操縦できるか、またその操縦法がごく簡単なものだということも、かれは見てとった。
機械から発する炎が、白熱光を発して堅い岩塊に食いこんだ時には、最後にはどうなるか、かれにはよくわかっていた。が、その予備知識をかくして、わざと飛びあがり、恐怖にうたれたように、うなり声を立てた。
小さな哨戒艇《しょうかいてい》から、グローヴナーは、その行動を注意深く見守っていた。キアルの監視が、自分で買って出たかれの役割だった。かれには、ほかにする仕事がなかったのである。宇宙船ビーグル号乗組みのただ一人の情報総合科学者の助けを必要と感じているものは、誰もいないようだった。
グローヴナーが見守っているうちに、キアルのいる下の戸口が、きれいに片づいた。総監督のモートンと、もう一人の男がつれ立ってやって来て、戸口から中にはいり、姿を消した。やがて、グローヴナーの通話器から、二人の声が流れてきた。モートンといっしょの男が、はじめに口をきいた。
「めちゃめちゃだ。きっと戦争があったにちがいない。機械の様子はおわかりでしょうが、全部二次的なものですよ。ぼくが知りたいのは、いったい、これはどう制御され、どう応用されていたのでしょう?」
モートンがいった。
「どういうことをいっているのか、ぼくには、よくのみこめないね」
「簡単なことですよ」と、相手がこたえた。「いままで、見たところでは、道具のほかなんにもありませんね。機械という機械はほとんどみな、道具か武器かで、エネルギーを受け入れ、その形態を変えて、応用する変圧器がついています。いったい動力源はどこにあるんでしょう? 図書館でも見つかって、手がかりでもつかめるといいんですがね。それにしても、なにが起こって、一つの文明がこんなに崩壊してしまったのでしょう?」
別の声が、通話器に割りこんできた。「こちらはシーデルです。いまのあなたの質問を聞きましたがね、ペノンズさん。ある地域に人が住まなくなる理由は、すくなくとも二つあると思うんです。その一つは食糧の不足で、もう一つは戦争ですよ」
グローヴナーは、シーデルがもう一人の名前を呼んでくれたので、うれしくなった。これで、もう一人のほうの正体が突きとめられたわけで、声の収集がふえることになる。ペノンズというのは、宇宙船の機関長だった。
ペノンズがいった。「ところでねえ、心理学の先生、連中の科学がこれだけ発達していたことから考えれば、食糧問題は解決できていたはずだと思うんだ。すくなくとも、人口がたいしたことなければね。それに、解決できなかったとしたら、なぜ宇宙旅行を発達させて、どこかほかで食糧を求めなかったのだろう?」
「それは、ガンリー・レスターに聞いてみたまえ」そう口を入れたのは、モートン総監督だった。「着陸する前に、何か理論を詳しく述べているのを耳にしたよ」
天文学者のレスターは、すぐこたえてきた。「わたしが調べた事実は全部、もう一度確かめてみなければいけないのですが、中の一つは重要な意味を持っているように思います。この荒れ果てた世界は、あの貧弱な恒星のまわりをまわっている、ただ一つの惑星です。ほかになにもない。月もなければ、小惑星一つさえもない。しかも、これにもっとも近い恒星系でも九百光年も離れている。だから、この世界の支配種族にとっては、問題は実にたいへんなことだったにちがいありません。つまり、惑星間飛行ばかりか、恒星間飛行をも、一度に解決しなければならなかったからです。われわれ人類の宇宙旅行の発達が、どれくらい遅々たるものであったかという事実と比較して考えてみてください。まず、月への到達。つづいて、太陽系内の諸惑星。一つに成功して、やっとつぎに進むというやり方で、長い年月の末、ようやく近くの恒星までの最初の長い遠征旅行ができるようになったのじゃありませんか。そして、それらの経験を積んだ後、反加速推進《アンチ・アクセレーター・ドライブ》が発明され、銀河系間飛行ができるようになったのです。こう考えてみると、それに先だつ経験をへずに、いきなり恒星間飛行を完成するなどということは、およそどんな種族にとっても、まず不可能なことだと、わたしは思いますね」
ほかにもいろいろ意見が出たが、グローヴナーはもう聞いていなかった。さっきまであの大きな猫の怪物がいた場所のほうに目をやったのだが、怪物の姿が見えなかったからだ。注意をそらしてしまった自分のうかつさを、小声でののしると、グローヴナーは、小さな哨戒艇をぐるっとまわして、急いで廃墟の全地域の捜索にかかった。しかし、ひどい混乱と、瓦礫の山と、むやみと建物のこわれた址《あと》があるだけで、どちらを見ても視界をさえぎる障害物ばかりだった。かれは着陸すると、汗水たらして働いているいくたりかの技術者たちにたずねてみた。たいていの男が「二十分ほど前」に猫を見かけたとしかおぼえていなかった。不満を感じながらも、グローヴナーは、ふたたび哨戒艇に乗りこんで、都市の上空へ舞い上がった。
そのすこし前から、キアルは、すばやい行動を開始していた。どこでもいいから自分の身をひそめる場所を見つけようとして探しまわった。人の群れから群れへと、かれはかすめて走った。飢えから神経はたかぶり、吐き気さえ催すほどで、いらいらとしたエネルギーのダイナモだった。小さな一台の自動車がやって来て、かれの前でとまり、おそろしく大きなカメラがジーッと音をたてて、かれの姿をうつした。小高い岩山の上では、おそろしく巨大な削岩機が作業をはじめたところだった。半分はうわの空で見ていたのだが、キアルの心には、いろいろな物事の映像が重なり合って、まとまって考えることもできなくなった。体の方は、さっきたった一人で市街の奥へはいりこんで行った男を追いかけようと、うずきつづけていた。
突然、もうがまんができなくなった。緑色の泡が吹き出して、口が見えないほどになった。一瞬の間、誰も自分を見ているものがないという気がした。かれは、岩のごつごつした土手の陰に、さっと飛びこむと、夢中で駆け出した。まるで空中を流れるように、大きく滑るように跳んで行った。記憶をかき消す魔法のはけで、頭はひとはけされてしまったかのように、目先の目標以外の物はいっさい忘れ去ってしまった。人けのない通りから通りをまっしぐらに走り、時を経て朽ちはてた壁の穴をつき抜けて近道をとり、くずれかかった建物の長い廊下を走り抜けた。そのとき、耳の触毛がイドの振動を捕捉したので、足をゆるめ、身を沈めて大股でぴょんぴょんと走った。
やがて、キアルは足をとめると、崩れて散らばった岩の陰からのぞきこんだ。一人の二本足が、かつては窓であったのに相違ないところに立って、懐中電灯で、うす暗い建物の中を調べているところだった。かちっと音がして、懐中電灯が消えた。がっちりとした体つきの、逞《たくま》しそうな男は、注意深く左右を見まわしながら、すばやく足を運んで行った。キアルは、その注意深さが気に入らなかった。危険に対する電光石火の反応が予想されるとともに、厄介なことが起こりそうな予感がしたからだ。
キアルは、その二本足が角を曲がって姿が見えなくなるまで待っていてから、男より速い速度で、通りのまん中を進んで行った。計画は、はっきりできあがっていた。亡霊のように、するりと横道にはいると、建物の長い区画を通りすぎた。最初の曲がり角にさしかかると、そこを曲がり、全速力で、隠れ場所のないひろびろとした空間をひと飛びに飛び越えた。と思うと、腹を地面にすりつけるように這いながら、建物と巨大な瓦礫が山のように積もった間の、薄暗がりにもぐりこんだ。前の方の通りは、がらがらに崩れた石の両側に立ちはだかって溝のようになっていた。通りは、先へ行って瓶《びん》の首のようにせばまり、その出口がキアルのま下を通るようになっていた。
いざという瞬間になって、あまりにあせりすぎていたのにちがいない。人間がちょうどま下にさしかかった時、かれがうずくまったところから、岩の破片がさらさらと小さななだれのように流れ落ちる音に、キアルは、はっと驚いた。男もはっと首をひねって、上を見上げた。顔色が変わり、表情がゆがむのといっしょに、さっと腰の武器をつかんだ。
キアルは、ぐっと前肢を伸ばしたと思うと、たった一撃でくだけよとばかり、相手のきらきらと光る透明な宇宙服のヘルメットを殴りつけた。金属の裂ける音がし、同時に血がどっと噴き出した。男は、体の一部がたたみこまれてしまったかのように、体を折りまげた。一瞬、かれの骨格と足と筋肉が、ほとんど奇跡のように、立ったままの姿勢を保たせていた。と思うと、宇宙防御服ががちゃんと高い金属音を立てるとともに、男はくずおれてしまった。
発作的に、キアルは犠牲者の体に飛びかかった。すでに、キアルの体からほとばしる放射線は、獲物のイドが血の中に流れ出るのを食いとめていた。すばやく、かれは、相手が着ていた金属服と、その中の体を打ちくだいてしまった。骨という骨がめりめりと音を立てて折れ、肉が飛び散った。まだ温かい体に、口を突っこみ、小さな網の目のようになった吸盤で、細胞からイドを吸いとった。だが、この恍惚《こうこつ》とする無我夢中の仕事も三分とはつづかなかった。ふと視野のすみをかすめる影に、はっとして目を上げると、小さな哨戒艇が、低くなりかけている太陽の方角から近づいて来るのが見えた。一瞬、キアルは立ちすくんだが、すぐ瓦礫の大きな山のかげに体をすべりこませた。
もう一度、目を上げて見ると、小艇は左手にのろのろとうかんでいたが、すでに旋回しているところからみて、いまにもかれの方へ引き返して来るかもしれないと思われた。せっかくのご馳走《ちそう》をじゃまされて、ほとんど気も狂いそうだったキアルは、やむをえず獲物を見すてて、宇宙船の方にもどりはじめた。かれは、危険な目から逃げ出す野獣のように走りに走りつづけ、作業員たちの最初の群れが目にはいると、やっと足をゆるめ、注意深く、近づいて行った。みんな仕事に夢中になっていたので、キアルは誰にも気づかれずに、そっとそのそばに行くことができた。
キアルの捜索をつづけながら、グローヴナーの困惑はだんだんと大きくなっていった。この都市は、あまりに大きすぎるのだった。はじめ思っていたより、はるかに廃墟も多く、隠れ場所も多かった。とうとう、かれは母船に帰ることにして、その方に小艇を進めていると、当の怪物が気持ちよさそうに、岩の上で日なたぼっこをしているのを見て、すくなからずほっとした。慎重に、背後の、獣をよく見おろせる有利な高みに、グローヴナーは小艇をとめた。それから二十分ほどたったころ、都市調査に出かけた班の一つが、化学部のジャービー博士の惨殺死体を発見したという寒気のするような知らせが、通話器を通してグローヴナーの耳にはいってきた。
グローヴナーは、与えられた指令を書きとめてから、現場へ向かった。と、ほとんどすぐに、総監督のモートンが死体を検証に来ないということがわかった。「遺体を母船まで運んでくれたまえ」という総監督の沈痛な声が、通話器から聞こえてきたのだった。
ジャービー博士の友人たちが現場に集まっていた。沈痛な、緊張した表情が、宇宙服ごしにうかがえた。グローヴナーは、ずたずたに引き裂かれた肉塊と血まみれの金属片の慄然たる様子を見おろして、のどがつまるのをおぼえた。「たった一人で出かけるんだから、ばかなやつだ!」と、ケントのいう声が、グローヴナーの耳にはいった。
化学部長ケントの声はかさかさに、しわがれていた。ケントと化学部副部長ジャービーとは、ひじょうに仲のいい友だちだということを聞いたことがあるのを、グローヴナーは思い出した。きっと、誰かが化学部の専用周波数で話しかけていたのだろう。ケントの返辞だけが聞こえた。
「そうだ、検死解剖はしなけりゃならないだろうね」それを聞いて、周波数に合わせられないかぎり、大半の会話を聞きもらすことになるだろうと、グローヴナーは気がついた。急いで、グローヴナーは間近に立っている男に手をかけて、いった。「きみを通して、化学部の専用通話を聞かしてもらってもかまいませんか?」
「どうぞ」
グローヴナーは、相手の片腕に軽く指をあてた。一人の男がわななくような口調でいっているのが聞こえた。「なによりもひどいのは、どうも無意味な殺人としか見えないことだ。体はまったくゼリーみたいにつぶされてしまっているが、いちおうすべては残っているらしい」
生物学者のスミスが、一般用の周波数を通じて口をはさんだ。かれの長い顔が、ふだんよりよけいにふさぎこんだ表情であった。「ジャービーを殺したやつは、おそらく食うつもりで襲ったのだ。その後になって、かれの肉が異質のもので、食べられないということがわかったのだろうね。ちょうどあの大きな化け猫のようなものだ。やつの前に、何を出してやっても食べようとはしなかった――」そこで、かれの声は、もの思いに沈みこんだように弱くなり、沈黙に落ちこんでしまった。がやがて、ゆっくりと言葉をつづけた。「そうだ、あの怪物だとしたらどうだ? やつなら、大きさといい、力といい、これくらいのことはやつの素手でやってのけられるぞ」
総監督のモートンも、この会議を聞いていたのにちがいないらしく、口をさしはさんだ。「その考えは、すでにわれわれの多くが、おそらく頭に浮かべたことじゃないだろうか。なんといっても、われわれが見つけた生物は、あの猫だけだからね。しかし、もちろん、嫌疑だけで、やつを処刑するわけにもいかないからね」
「それに」と、別の声がいった。「やつは、ぼくの目のとどくところから、一度も離れませんでしたよ」
グローヴナーが口を開こうとする前に、心理学者のシーデルの声が、一般周波数にのって聞こえてきた。「モートン君、ぼくは接触通話で、何人かの連中と話し合ったがね、反応はだいたいこんなふうだった。まず最初は、みんな、あの化け猫が見えるところにいたという感じを持っている。ところが、問いつめていくと、見えるところにいたのは、ひょっとしたら二、三分間だけだったかもしれないなどといい出すのだ。実は、ぼくもやつがしじゅうそこらにいたような気がしていた。だが、そのことをよく考えなおしてみると、記憶に抜け穴があることに気がついたんだ。おそらく、奴《やっこ》さんが完全にわれわれの視界から消えていた時間が、かなり長くあったのじゃないだろうかね」
グローヴナーは、ほっと溜息《ためいき》をつき、わざと沈黙を守っていることにした。かれのいいたいことは、すっかりほかの人間がいってしまっていたからだ。
沈黙を破ったのは、ケントだった。かれは、はげしい剣幕でいった。「いや、もう万一を頼んじゃだめだ。これ以上犠牲を出さぬうちに、やつを殺してしまうんだ。嫌疑だけで十分だ」
モートンがいった。「カリタ君、いるかね?」
「ええ、死体のそばにいます、総監督」
「カリタ君、きみは、クランシーとヴァン・ホーンと組んで、現場調査をやっていたんだったね。きみは、あの化け猫が、この星の支配種族の子孫だと思うかね?」
グローヴナーは、考古学者のカリタが、スミスのすこし後ろに、同じ部の仲間になかばかこまれて立っているのを見つけた。
背の高い日本人のカリタは、ゆっくりと、ほとんどうやうやしいほどの口振りでいった。「モートン隊長、ここには、一つの不思議な謎があるようです。みなさんも、あの荘厳なスカイラインを見てください。あの建築学的な外観に注意していただきたい。ここの住民は、これだけの巨大な都市を創造しながら、なおかつ土というものに密着していたのです。ここの建物は、ただ単に装飾がほどこされているだけではなくて、建物自体が装飾なのです。ここにはドリア式の円柱もあれば、エジプトのピラミッドもあり、ゴシック風の大寺院もあり、みな大地に根をはやし、まごころと壮大な運命感に満ちあふれてそそり立っているのです。もし、この荒涼とした孤独の世界を、母なる大地と考えることができるとするのなら、ここの住民の胸の中に、国土というものは、暖かい、精神的な位置を占めていたにちがいないのです。その効果は、あのうねうねと曲がった街路によって強調されています。残されたかれらの機械から判断しても、かれらがすぐれた数学者であったことは明らかですが、それよりもまず、かれらは芸術家だったのです。だから、かれらは、超近代化された世界の首都に見られるような、幾何学的に設計された市街は作らなかったのです。家やビルディングや街路の曲線的な構成と、その非数学的な配置の一つ一つには、真の芸術的な奔放さと、深い歓喜の情があらわされているじゃありませんか。これは一つの強烈な執念であり、魂の内にたたえられた安定感に対する、神性を帯びた信仰といってもいいものです。ここの文明は、年とともに古くなった退廃の文明ではなくて、若くて、活気にみなぎった文明で、目的への確信に強く支えられていたものだったのです。ところが、そこで終わってしまったのです。そこへきて、古代回教文明が、八世紀のツールの戦いがきっかけで崩壊したように、この文化は、突然、崩壊しはじめたらしいのです。それとも何世紀にもわたる中間の調整期間を一足飛びに飛び越してしまって、いきなり戦国時代に突入してしまったのでしょうか。
しかし、文化史の上から見て、この宇宙のどこにも、一つの文化がそのような急激な飛躍をした記録はありません。文化は、つねにゆっくりと発展するものなのです。まず第一段階として、それまで聖なるものとしてあがめられていたものをすべて、かしゃくなく疑うという時期がやって来るのです。内的な確信が、消えてなくなるのです。それまでは疑問をさしはさむ余地のなかった信念が、科学的な、分析的な精神のメスを入れられ、その結果、解体し消失してしまうのです。そして、懐疑論者が、人間最高の代表となるのです。わたしの考えでは、この星の文化は、そのもっとも繁栄の時期に、突如として終わりを告げてしまったものと思います。そのような破局からもたらされる社会学的結果は、道徳の退廃ということが考えられます。理想の喪失から、人は獣的犯罪性へ復帰してしまうのです。死に対しても、おそらくは無感覚といってもいいほどの冷淡さで相対するようになるでしょう。もし、この――もし、化け猫が、そのような種族の子孫だとすれば、狡知《こうち》にたけたけだものであり、ま夜中にこそこそと歩くこそ泥であり、利欲のためなら実の兄弟ののどでも掻き切ろうという、冷血無惨な人殺しということになります」
「もうたくさんだ!」そういったのはケントだった。かれの声は無愛想なものだった。「隊長、ぼくが死刑執行人になろう」
生物学者のスミスが、鋭い口調でさえぎった。「ぼくは反対だ。きいてくれたまえ。モートン君、たとえ罪があるとしても、あの猫は殺さずにおいてもらいたい。あれは生物学の宝庫なのだ」
ケントとスミスとは、はげしくにらみ合った。やがて、スミスがゆっくりといった。「ねえ、ケント君、あの化け猫をレトルトの中につっこみ、やつの血と肉から化合物をつくりたいという、化学部の意向は、ぼくにもわからぬではない。だが、失礼な言い分かもしれないが、いささかお先走りじゃないかね。生物学部がほしいのは、生きている肉体で、死骸じゃないのだ。おそらく物理学部の方でも、やつがまだ生きているうちに、調べてみたいというだろうという気がするんだがね。だから、残念だが、きみのところは、いちばん後まわしということになるだろうね。まあそう思って、がまんしてもらえないかなあ。きみのところにまわすのは、まず一年さき、それより早くはならないだろうね」
ケントは、はっきりしない声でいった。「ぼくは、この問題に関しては、べつに科学的見地から見てはいないのだ」
「科学的であってこそしかるべきじゃないか。ジャービーが死んだいまとなっては、かれのためにしてやれることはなにもないのだから」
「科学者である前に、ぼくは人間でありたいんだ」と、ケントは荒々しい声でいいはなった。
「感情的な理由で、貴重な標本を破壊してしまうというんだね?」
「いや、あの怪獣は、未知数の危険だから殺そうというのだ。これ以上、仲間の人間を死なすような危険を冒すことはできないのだ」
論争をさえぎったのは、モートンだった。かれは、考え深く、こういった。
「カリタ君、わたしは、きみの理論を、作業の基準として受け入れようかと思うのだがね。しかし、その前に一つだけ質問させてもらいたい。この惑星でのやつの文化が、われわれの植民した銀河系に広がる文化よりも、後期に発生したものだということはありうるだろうか?」
「それは十分にありえます」と、カリタはいった。「かれの文明が、この星の十番目の文明の中期にあたるということがありうる場合です。一方、われわれの文明は、いままでにわかったかぎりでは、地球に発生した第八文明の末期ということになっています。もちろん、この星に発生した十個の文明の一つ一つは、前にあったそれぞれの文明の廃墟の上に打ち立てられたものでしょう」
「とすると、あの化け猫には、やつを犯罪者であり、人殺しであると考えるようになった、われわれの懐疑心というものが、理解できないことになるわけだね?」
「そうです。おそらくかれにとっては、文字どおりの魔法でしょうな」
モートンの気味の悪い笑い声が、通話器にひびいた。かれはいった。「きみの希望どおりにしよう、スミス君。猫ちゃんを生かしとこうじゃないか。それから、今後、命を落とすものがあっても、われわれはもうやつの正体はわかっているのだから、それは本人の不注意だということだよ。むろん、われわれが間違っているということだってありうる。ぼくも、シーデルと同じで、やつがいつも身のまわりにいたような気がしているんだ。そうだとすると、われわれはやつを不当に遇しているのかもしれない。この惑星には、何かあいつのほかに危険な生物がいるのかもしれない」そこで言葉を切ると、「ケント、ジャービーの死体をどうする予定だね?」
化学部長は、苦々しげな声でいった。
「葬式はすぐにはやらないつもりだ。あの化け猫の畜生は、死体から何かとりたかったのだ。いちおう、すべてが残っているように見えるが、何かなくなっているものがあるにちがいない。それが何であるかを突きとめて、この殺人がやつの仕業であることを証明してやる。そうすれば、きみたちもいやおうなく信ぜざるをえないだろうからね」
2
ビーグル号にもどると、エリオット・グローヴナーは、自分の部室のほうへ足を向けた。ドアの札には、『情報総合科学部』と記されていた。部室は、全部で五部屋にわかれていて、床面積は四十×八十フィートの広さだった。たいていの機械や装置は、情報総合科学財団が政府に申請した結果、据えつけられたものだった。そのためどちらかというと手狭で窮屈だったが、いったん外のドアを通って中にはいれば、かれは、自分個人の領分にただ一人いられるわけだった。
グローヴナーは、仕事机にむかうと、モートン総監督あての報告を録音に吹きこみはじめた。かれはまず、この寒冷で荒れ果てた惑星の住民である化け猫が、いったいどんな肉体的の構造を持っているか、その可能性を分析した。つづいて、その怪物がきわめて頑健な体を持っているに相違ないのだから、これだけの怪物を、ただの『生物学上の宝庫』などと見なすのは、当を得ぬことを指摘した。そうした表現には、すくなからぬ危険な分子が含まれている。『宝庫』などという言葉にまどわされて、この怪獣が、その非人間的な新陳代謝機能にもとづいた、かれ特有の欲求や衝動を持っていることを、つい人々に忘れさせることになりかねないからである。「もはや証拠は十分に集まっており」と、グローヴナーは、録音器にむかって口述をつづけた。「ここに、情報総合科学でいうところの『方針記述書』を提出したいと思います」
記述書をすっかり仕上げるのに、数時間かかった。できあがった録音リールを速記部に届け、至急筆記してもらうように頼んだ。部長としての特権で、すぐさま仕事をしてもらうことができたので、二時間後には、書類をモートンの事務室に届け、秘書係から受領書を受けとった。いちおうできるだけのことは果たしたと確信しながら、グローヴナーは、食堂にはいって遅い夕食をとった。その後で、給仕にむかって、猫はどこにいるのかとたずねた。はっきりとは知らないが、一般図書室ではないだろうかという返辞だった。
一時間ほど、グローヴナーは、図書室に腰をすえて、キアルの様子をじっと見つづけた。その間じゅう、怪物は厚い絨毯《じゅうたん》の上に寝そべったまま、体の位置を一度も変えなかった。一時間がたったころ、一つのドアがあいて、二人の男が大きな鉢を持ってはいって来た。すぐ二人の後について来たのは、化学部長のケントだった。化学者の目は、熱病やみのように興奮した色を浮かべていた。かれは、部屋のまん中で足をとめると、疲れてうんざりしたような、しかし、荒々しい声音でいった。「さあ、諸君、これをよく見ていてくれ!」
言葉の上では、図書室に居合わせた全部の人間に対して話しかけているようだったが、実際にかれの顔が向いていたのは、特別席に腰をおろしている首席級の科学者の群れの方だった。グローヴナーは立ちあがって、二人の男が持ってきた鉢の中をのぞいて見た。茶色を帯びた、スープのような混ぜ物がはいっていた。
生物学者のスミスも、立ちあがった。「ちょっと待ってくれ、ケント。ほかの時なら、きみの行動にとやかくいったりはしないが、どうも、きみは病人のような様子をしている。過労だよ。この実験は、モートンの許可をとったのだろうね?」
ケントは、ゆっくりと振り向いた。ふたたび腰をおろしたグローヴナーは、スミスの言葉がごく控えめないい方なのに気がついた。ケント化学部長の目のまわりには、黒いくまができているし、両の頬もすっかりこけているようだった。かれはいった。「ぼくも、来るようにと、かれを誘ったんだ。だが、実際に参加するのは、ことわるというんだ。まあ、もしこの化け猫がぼくの望みどおりにするなら、べつに害もあるまいという態度だった」
スミスがいった。「何を持って来たんだね? 鉢の中身は何だね?」
「死体からなくなっている元素を、やっと確認したよ」と、ケントはいった。「カリウムなんだ。ジャービーの死体には、標準量の三分の二ないし四分の三のカリウムしか残っていないのだ。きみたちも知っての通り、カリウムは、蛋白の大型分子とのある結びつきで、人体の細胞内に維持されている。この結合が、細胞電荷の基礎となっているわけだ。これは生命には根本的な原則で、ふつう、死とともに、細胞は血液内にこのカリウムを放出し、血液に毒性をあたえるものだ。ところが、ジャービーの死体からは若干量のカリウムがなくなってはいるが、血液内に流れこんでいないことが証明できたのだ。それがどんな意味を持っているのか、詳しいことはまだわかっていないのだ。が、いずれ、つきとめてみせるつもりだよ」
「それで、その鉢の中の食物は?」と、誰かがさえぎった。ほかの連中も雑誌や書物をその場において、目をあげて関心の強さを示した。
「これには、浮遊状態のカリウムを含んだ、生きた細胞がはいっている。この操作が人工的にできることは、みんなご存知だろうね。ことによると、奴《やっこ》さんが昼食の時に、われわれの出した食物を受けつけなかったのは、そのためかもしれない。つまり、カリウムが、奴さんの利用できる状態になっていなかったからなんだ。ぼくの考えでは、やつは匂《にお》いを嗅ぎつけて、あるいは、何だかわからんが、嗅覚にかわるものを使って――」
「わたしは、やつは、物体から出る振動波を感じるんだと思うんですがね」と、のんびりした口調で、通信部長のグーレイが口をさしはさんだ。「やつが、あの触毛を震わせると、ときどき、わたしの計器に、はっきりと、しかもきわめて強い空電が記録されるんです。それに時によってはまた、全然反応のないこともあるんです。想像では、たぶん周波数を高くしたり、低くしたりしたときなんでしょうね。どうやらやつは、周波数を自由自在に調節できるらしいですね。ただし、実際に触毛の動き自体が、そういう電磁波を起こすとは思ってはいません」
ケントは、グーレイがしゃべり終わるのを待ちかねているようすだったが、話が終わると、すぐ言葉をつづけていった。「よろしい。やつが物体の震動波を感じるんだということにしておこう。この振動とやらに対するやつの反応が何を立証するかは、やつが反応を起こした時になって決められることさ」かれは、いくぶん口調をやわらげて、こう話をしめくくった。「きみの考えはどうだね、スミス君?」
「きみの計画には、誤りが三つあるね」と、生物学者はこたえた。「まず第一に、きみは、あいつがただの動物だときめてしまっているようだし、第二に、あいつがジャービーを食べてしまって――かりに食べたとしてだが、満腹してるかもしれないということを、きみは忘れてしまっているらしい。それからさらに、あいつが不審を起こすなどということはないと思っているらしい。だが、まあいい。とにかく鉢を床の上に置いてみたまえ。やつの反応で、何かわかるかもしれないからね」
ケントの実験は、そのかげにある感情をぬきにすれば、いちおうもっともなものだった。怪物が、突然の刺激を受けたとき、はげしい反応を示すことは、すでに示していることであり、エレベーターに閉じこめられた時の反応は、取るに足らないなどといって見すごすわけにはいかないことだった。そうグローヴナーは、分析しているのだった。
キアルは、二人の男が自分の前に鉢を置くのを、まばたきもしない、黒い目で見つめていた。男たちは、すばやく後ろにさがった。そして、ケントが前に進み出た。キアルは、この二本足が、けさ武器を構えた男であることをおぼえていた。かれは、しばらく二本足の生物を見守っていてから、鉢の方に注意を向けた。耳の触毛は、鉢の中身から立ちのぼるイドの、ぞくぞくさせる発散を感じとった。それは、弱くかすかなもので、よほど注意を集中しないと、それと気づかないほど、ひどく弱いものだった。そして、かれには、ほとんど役に立たないほどの形で停止状態になったイドだったが、その振動はかなりはっきりと感ぜられ、同時に、この実験の意図もぴんときた。一声うなり声をあげて、キアルは立ちあがった。輪のように巻いた一本の触手を伸ばし、その先端の吸盤で鉢をとらえると、いきなり中身を、ケントの顔にあびせかけた。ケントは、わっと叫んで後ろにさがって、ちぢみあがった。
憤然としたキアルは、鉢をかたわらに投げすて、綱ほどの太さの触手を伸ばし、悪口を浴びせかける男の胴をぎゅっとしめあげた。ケントの腰のベルトにさがっている銃などは気にもかけなかった。こんなものは、ただの超震動波銃だとかれは感じとった――原子力を使ってはいるが、原子破壊銃ではないのだ。かれは、必死にもがくケントを部屋の片隅に叩きつけたが、とたんに、しまったと思った。相手の武器を取りあげてしまうべきだったのだ。こうなった以上、自分の防御能力を示さなければならないことになってしまうのだ。
ケントは、顔にへばりついた粥《かゆ》を、むちゃくちゃに片手でぬぐい、もう一方の手を腰の武器の方へのばした。銃口がさっと上を向いたと思うと、キアルの巨大な頭をめがけて、白い閃光が走った。だが、キアルの耳の触毛がぶうんと音を立てて、自動的に超震動波銃のエネルギーは中和されてしまった。居合わせた連中が超震動波銃に手をかける動きを見て、丸く、黒い目が糸のように細くなった。
ドアの近くから、グローヴナーの鋭い声がした。「やめろ! 気ちがいじみた真似《まね》をすると、みんな、後悔することになるぞ」
ケントは、かちっと音を立てて銃に安全装置をかけると、半分ほど向きなおって、ちらっとけげんそうな目を、グローヴナーに向けた。キアルはうずくまって、この男のおかげで、体外のエネルギーを自由にあやつる自分の能力を、見せつける羽目におとしいれたケントをにらみつけていた。いまとなっては、どんな反響があるか、油断なく結果を待つほかには打つ手はなかった。
ケントは、ふたたびグローヴナーを見た。こんどは、おこった目つきだった。「いったい、ひとに命令なんぞして、なんのつもりなんだね?」
グローヴナーは、返辞をしなかった。この事件でのかれの役割は、もう終わったのだ。かれは、一座が感情に駆られて、一触即発の危機が来たのを感づいて、その場に必要な言葉を、高圧的な調子で口に出しただけであった。そのとき、自分の言葉に従った連中が、いまになって、自分には命令する権利があるかないかなどといったところで、そういう事実は取るに足りないことだ。ともかく危機は救うことができたのだ。
かれがとった処置は、キアルが有罪か無罪かということとは関係がないことだったのだ。とっさの自分の口出しの結果が、最終的にはどうなろうと、この生物をどうするかという決定は、公認の職権を持った人間が下すべきことであって、一人の人間の判断にゆだねられるものではないのだ。
「ケント」と、シーデルが冷静な口調でいった。「あのとき、きみが実際に自制心をうしなっていたとは、ぼくにはどうしても思えない。きみは、こいつを生かしておけといった総監督の命令を、十分承知の上で、わざとこの化け猫を殺そうとしたのだろう。ぼくは、この報告を提出して、処罰を要求してもしかるべきだと思うね。罰則は知っているだろうね。部長権限の喪失。重要役職への被選挙権の停止だぜ」
かたまり合った群れの中から、興奮の身じろぎとざわめきが起こった。みなケントの支持者だということに、グローヴナーは気がついた。その中の一人がいった。「いや、いかん、ばかなことをいうのはよせ、シーデル」もう一人は、もっと皮肉たっぷりにいった。「ケント側の証人だっていることを忘れないでもらいたいね」
ケントは、ぐるっと輪になった顔を、ぐるっと不機嫌《ふきげん》ににらみつけた。「カリタ君のいったとおり、われわれの文明は、高度に文化的な時期に達したあまり、たしかに退廃しているらしいね」かれは、熱情的に言葉をつづけた。「あきれたもんだ。この事態のおそろしさがわかるやつは、一人もおらんのかね? ジャービーが死んで、わずか数時間しかたっていない。しかも、下手人はこの化け猫だということは、われわれみんながよく知っているくせに、こいつは鎖にもつながれずに寝そべって、つぎの殺人を計画しているじゃないか。その犠牲者は、この部屋にいる誰かかもしれないのだぜ。われわれは、どういう人間なんだ? われわれは、ばかなのか、人生を白眼視している皮肉屋なのか、それとも、死体を食う鬼なのか? それとも、われわれの文明は理性に傾きすぎてしまって、殺人までも同情の目で見ようというのか?」ケントは、陰気な目を、じっとキアルにつけて、「モートンのいうとおり、こいつはただのけものじゃない。この見すてられた惑星の、もっとも深い地獄の底からやって来た悪魔だ」
「芝居がかりはやめてもらいたいね」と、シーデルがいった。「きみの分析は、心理学的にみて、いささか安定性に欠けている。われわれは食人鬼でもなければ、世をすねた皮肉屋でもない。われわれは単に科学者であり、この化け猫は研究の対象だよ。こうして嫌疑をかけて警戒している以上、誰かを、こいつがつかまえるという気づかいはあるまい。一匹対千人じゃ勝ち目はないさ」かれは、ぐるっと見まわして、「モートンがいないから、いま、ここで票決にかけようじゃないか。みんなも賛成だろうね?」
「ぼくは反対だ、シーデル」そういったのは、スミスだった。心理学者のシーデルは、あっけにとられて目を見張った。それにはかまわず、スミスは言葉をつづけた。「さっきの興奮と騒ぎにまぎれて、誰も気がつかなかったらしいが、ケントが超震動波銃を発射したとき、光線はこいつの頭にまともに命中していたのに、こいつはなんともなかったんだぜ」
シーデルは驚きあきれたような目をスミスに向け、それからキアルに、ふたたびスミスに返して、「ほんとうに、やつに命中したというのか? きみのいうとおり、とっさの出来事だったし――猫が傷一つ受けていなかったらしいので、ぼくは簡単に、ケントのねらいがはずれたのだと思っていた」
「顔に命中したことは確かだ」と、スミスがいった。「超震動波銃では、むろん、人間だって即死させることはできないものだが、負傷させることはできる。猫ちゃんは、怪我をしたようすもないし、震えてさえもいない。決定的な結論とはいえないが、そういう疑いがある以上――」
シーデルは、簡単に心をそらしてしまったようで、「おそらく、奴さんの皮膚は、熱やエネルギーに対する、立派な絶縁体なのかもしれないな」
「あるいはね。だが、そういう不安がある以上、やつを檻《おり》の中へとじこめるように、命令の変更を、モートンに求めるべきだと思うね」
シーデルがどうしたものかという面持で、顔をしかめていると、ケントが口を開いた。「やっと、きみも話がわかってきたね、スミス」
シーデルがすかさずいった。「じゃ、こいつを檻に入れれば、きみも気がすむんだね?」
ケントがしばらく考えてから、ふしょうぶしょうにいった。「そうだね。四インチもある微粒子鋼の壁で、こいつが閉じこめられないとしたら、そのときは、こいつに船をくれてやるがいいだろうね」
グローヴナーは、その間ずっと後ろにさがって聞いていたが、べつに何もいわなかった。すでにモートンに提出した報告書の中へ、キアルを監禁する問題は論じておいた。そして、主として錠の機構上の問題で、檻では不適当だということを知っていた。
シーデルは、壁の通話装置に歩み寄ると、小声で誰かと話していたが、やがてもどって来た。「総監督の意見では、暴力に訴えないで、檻に入れることができるなら、異存はないそうだ。でなけりゃ、やつがいまいる部屋にそのまま鍵をかけろといっている。きみたちの考えはどうだ?」
「檻だ!」二十人ほどが異口同音にいった。
グローヴナーは、しばらく声が静まるのを待っていてからいった。「今夜は、やつを外へ出してしまいなさい。やつは、船のそばから離れたりはしないよ」
大半の連中は、かれの言葉を無視したが、ケントは、ちらっとかれを見て、気むずかしげな口振りでいった。「きみは、心をきめることができない人らしいね? さっきは、やつの命を助けたかと思うと、今度は、やつが危険だと認めているじゃないか」
「やつの命を助けたのは、やつ自身の力ですよ」と、グローヴナーは、そっけなくいった。
ケントは、肩をすくめると向こうを向いてしまった。「やつを檻に入れよう。人殺しは、檻に入れられるのが当然だ」
シーデルがいった。「さて、これで決心はついたわけだが、どんなふうにやったものかね?」
グローヴナーはいった。「どうしても、やつを檻に入れたいんですね?」かれは、それに対して、返辞があるとはあてにしてもいなかったし、もちろん、返辞もなかった。かれはつかつかと歩み出ると、いちばん手近のキアルの触手のはしに手をふれた。
キアルは、ちょっと触手をちぢめようとしたが、グローヴナーは、しっかり心をきめていた。ふたたび触手をしっかりつかむと、指でドアをさし示した。獣は、ややしばらくためらっていたが、やがて、黙って部屋を横切り出した。
グローヴナーは、大声で呼びかけた。「ここは、間一髪のタイミングが肝心です。さあ、用意!」
一分ほどの後、キアルは、すなおにグローヴナーの後からとことこと歩み、もう一つのドアをくぐった。そこは金属でできた、小さな四角な部屋で、反対側の壁に第二のドアがあった。人間がそのドアを通って行ったので、キアルもそれにつづいて行こうとすると、ドアは、いきなり目の前でさっとしまった。同時に、背後でガチャッという金属の音がした。キアルがくるっと身をひるがえして見ると、最初のドアもしまっていた。電気錠がカチッとはまり、動力の通じたのを体に感じた。わなにかかったと気づいて、キアルは、憎悪に歯をむき出したが、べつにそれ以上、なんの気ぶりも外に見せなかった。この前、小さな箱に入れられたときと、今度の場合とでは、自分の反応に違いがあることに、かれは気がついた。この何百年間というもの、かれの頭にあったものは、餌《えさ》だけであった。いまでは、おびただしい過去の記憶が、かれの頭の中によみがえりつつあった。かれの肉体には、もう使わなくなってから久しくたっている数々の力が、いまだに宿っているのだ。それらのものを思い出しながら、キアルは胸の中で、その能力の一つ一つを、現在の状況にどうあてはめるか、自動的にその可能性をさぐってみた。
やがて、キアルは、さきのすぼまった体を、しなやかで、たくましい尻の上にのせて、床に腰をおろした。耳の触毛を働かせて、周囲のエネルギーの容量を調べてみた。最後に、軽蔑《けいべつ》にぎらぎらと目を光らせながら、ごろりと横になった。おろかなやつどもが!
一時間ほどすると、檻の天井で、一人の男――スミスだった――が、何やら装置をいじっている気配を聞きつけた。キアルは、びっくりして跳ねおきた。最初に感じたのは、自分がこの連中を甘く見すぎていたために、即座に殺されてしまうのではないかということだった。かれがあてにしていたのは、まだまだ時間の余裕があり、計画したとおり事が運べるとたかをくくっていたのだ。
危険が、かれをめんくらわせた。するとその時、突然、可視限界よりはるか下の放射線が体内を走るのを感じた。キアルは、全身の神経組織を呼びさまして、来たるべき危険を待ち構えた。数秒もしないうちに、事情がのみこめた。誰かが、かれの体の内部を写真にとっていたのだ。
しばらくして、人間は行ってしまった。それからいっとき、遠くで人間たちが何かしている物音が聞こえた。その物音もだんだんに消えていった。キアルは、静寂が船全体を包みこむのを、じっと辛抱強く待っていた。遠い昔、キアル族が現在のような、不死性を達成しないころは、キアルたちも夜になると眠ったものだった。さっき図書室で、居眠りをしている人間たちを見ていて、その遠い昔の習慣を、かれも思い出していたものだった。
だが、いつまでたっても消えない音が一つあった。巨大な船全体が、ひっそりと静まり返ってからだいぶ長い時間がたったのに、まだ二人の人間の足音が、かれには聞こえるのだった。その足音は、規則正しく一定の時間をおいて、檻の前を通りすぎ、遠くの方に去るのだが、またもどって来るのだった。厄介なことに、監視人が一組になって歩いていないことだった。最初の一人の足音が通りすぎると、やがて、三十フィートほど後から、つぎの足音がやって来るのだった。
キアルは、何度かかれらが通りすぎるままにさせておいて、そのたびに、どれだけの時がかかるかを計っていた。とうとう、満足がいったので、もう一度、かれらがまわって来るのを待ち受けた。今度は、かれらが通りすぎるやいなや、人間が発生する震動波に集中していた注意から、はるかに高域の波長に切りかえた。機関室の原子炉から出る強烈な脈動が、かれの神経系に静かな物語をどもりどもり語りかけてきた。電動発電機が、くぐもった音で、力強い歌をぶうんぶうんと鳴らしていた。かれは、檻の壁に埋めこまれた電線と、ドアの電気錠を通る、その電流がそっと囁《ささや》きかけるのを感じた。かれは震える体をけんめいに静止させながら、そのしゅうしゅうと流れるようなエネルギーのあらしに、自分の体を同調させようと努めた。突然、耳の触毛が調子を合わせて震えはじめた。
金属にカチリと金属のふれる鋭い音がした。キアルは、一本の触毛でそっとさわっただけで、ドアを押しあけた。すぐ、かれは廊下に出た。一瞬の間、さっきの軽蔑感《けいべつかん》がよみがえり、キアル族の一員に、あえて知恵くらべをしようという愚かな二本足どものことを思うと、優越感で体が熱くなった。その瞬間、この惑星には、ほかにもまだ何匹かのキアルがいたことを、ふいに思い出した。不思議な、思いもかけない考えだった。というのは、かれは、これまでそういう仲間の連中を憎み、容赦なく戦ってきたからだった。いま、かれは、その絶滅しようとしている小集団を、自分の同族と考えた。もしも、かれらに繁殖の機会が与えられたら――誰も――すくなくもこれらの二本足どもは――かれらに立ちむかうことなどできはしまい。
そういうことを考えているうちに、にわかに心が重くなってきた。自分の力の限界、仲間のキアルの恋しさ、孤独感がひしひしと心に重くのしかかるのであった――この銀河系を賭けて、自分は一人対千人の戦いを挑もうとしているのだ。無数の星をちりばめた宇宙自身が、かれの貪欲《どんよく》な、果てもなく舞いあがる野望を手招きしていた。もし、失敗すれば、チャンスは二度と絶対にめぐって来ないだろう。食物のない世界では、宇宙旅行の謎を解くことなど、とうてい望めないことだった。この大都会を築いた自分たちの主人でさえ、この惑星から一歩も飛び出すことができなかったではないか。
かれは忍び足で広いサロンをぬけ、そのつづきの廊下に出た。やがて、最初の寝室のドアのところに来た。電気錠がかかっていたが、キアルは、音も立てずにあけてしまった。ひと飛びで中へはいり、ベッドに眠っていた男ののどをたたきつぶした。生命のなくなった頭が、ぐらっところがり、体は一度|痙攣《けいれん》しただけだった。それから出るイドの発散に、ほとんど圧倒されそうになったが、むりに自分を押えつけて、先に進んでいった。
七つの寝室に、七人の人間の死骸。それから、物音も立てずに、キアルは檻にもどって、後のドアに錠をおろした。タイミングはみごとといってもいいほど、ピタッと合った。やがて、監視人たちがやって来て、監視スコープを通してのぞいてから、行ってしまった。キアルは、二度目の襲撃に出かけ、数分もしないうちに、さらに四つの寝室を襲った。つづいて、やって来たのは、二十四人の男が眠っている合宿室だった。それまでは、檻にもどっていなければならない時間を、正確に計算して、すばやく殺してまわったかれだった。が、部屋いっぱいの人間どもをやっつける機会に出会ったことで、かれは取り乱してしまった。一千年以上もの間、かれは、捕えることのできたイド生物を、みな殺しにして生きてきた。はじめのうちでさえ、一週間に一匹以上のイド生物にはありつけなかったが、べつにがまんをする必要など、一度も感じたこともなかった。そこで、キアルは、大きな猫らしく、物音も立てずにおそろしい勢いでその部屋を襲い、合宿室の人間を一人残らずやっつけたというだけで、殺戮《さつりく》の歓喜に酔って、やっと外へ出た。
とたんに、長居をしすぎたのに気がついた。たいへんな手違いを演じたことに、かれは身がすくんだ。というのは、かれは一晩じゅう殺戮をつづける計画を立てていたのだった。正確な時間を計って死の波状攻撃をかける、そうすれば、これまでの巡回のたびにそうであったように、監視人が中をのぞきに来るときには、檻の中にもどっていることができるというつもりだったのだ。ところが、この失敗のために、一睡眠期のうちに、この巨大船を乗っ取ろうという希望は、もはや危機にさらされているといってもよかった。
キアルは、いまにも消えてしまいそうな理性のわずかばかりのなごりにすがりついた。気でもちがったかのように、いまや物音などにはかまわず、猛然とサロンを通り抜け、檻の前の廊下にもどって来た。自分の力ではどうすることもできない、強力なエネルギー線の照射に会うことを半ば予期しながら、身をかたくしていた。
二人の監視人が肩を並べて立っていた。檻のドアがあいているのを、たったいま見つけたのは明らかだった。同時に目をあげた二人の目に、爪の触手と、残忍|獰猛《どうもう》な猫の頭と、憎悪に満ちた目とが、さっと悪夢のようにうつって、二人を凍りつかせてしまった。一人が腰の放射線銃に手を伸ばしたが、もう手遅れだった。もう一人の方は、避けることのできない運命に、全身が凍りついてしまったままであった。かれは、ひと声、かん高い恐怖の悲鳴をあげた。凄く気味の悪い声が廊下じゅうに広まり、壁の高感度通話装置を作動させ、船内の人たちみんなの目をさまさせてしまった。悲鳴は、ぞっとするような、のどをごろごろと鳴らす死息に変わっておわった。と思うと、キアルは、二つの死骸を恐ろしい力で、いっきょに長い廊下のはしまでほうり投げた。檻の近くで死体を見つけられたくなかったのだ。それだけがキアルのただ一つの望みだった。
自分の犯したおそろしい失敗に頭がゆくと、心の底まで動転し、筋道の通った考えもうかばぬまま、キアルは檻の中に飛びこんだ。ドアがカチッと鳴って、静かに後ろでしまり、電流がふたたび電気錠に流れた。キアルが、床にうずくまり、眠ったふりをするまもなく、どやどやとたくさんの人間が駆けつける足音と、興奮した話し声が耳にはいって来た。誰かが檻の音波スコープにスイッチを入れて、自分の方をのぞきこむのがわかった。ほかの死体が発見される時が来るだろう、危機はその時に来るのだ。
生まれてはじめての最大の闘争を前にして、ゆっくりと、キアルは身構えた。
3
「シーバーもやられたって!」モートンの声が、グローヴナーの耳にはいった。総監督の声は、感覚をうしなった人の声のようにひびいた。「シーバーがいなくなってしまって、これからどうすればいいんだ? それにブリケンリッジも! それにクールターまでが――おそろしいことだ!」
廊下は、人でぎっしり埋まっていた。グローヴナーは、だいぶ遠くから駆けたせいもあって、あふれている人たちのいちばん後ろに立った。二度ほど、人波をかきわけて前へ出ようとしたが、かれが誰だろうかと、ちらっと振り返ってみようともしない人々に押し返されてしまった。みんな他人のことなどおかまいなしに、かれが通ろうとする前に立ちはだかっていた。グローヴナーは、無駄な努力をあきらめた。気がついてみると、モートンがまた何か話し出そうとしているところだった。総監督は、一同の顔を、むっつりとした目で見わたした。かれのがっちりとした顎《あご》の線が、ふだんよりもいっそう張っているような気がした。かれがいった。「誰でもいい、思いついたことがあったら、いってみてくれ!」
「宇宙気ちがいですよ!」
この言葉は、グローヴナーをいら立たせた。『宇宙気ちがい』などという表現は、無意味な、くだらない文句なのだが、宇宙旅行がはじまってから、どれだけ長い年月がたったかわからないいまになっても、まだいっこうに通用しているのだった。孤独や、恐怖や、緊張から、宇宙空間で発狂した人間があったからといって、それが特別に病気ということにはならないのである。今度のような長期にわたる飛行には、たしかにある種の危険がともなう――この船にグローヴナーを乗りこませた理由の一つは、まさにそういうことがあったからだ――だが、孤独から来る発狂など、そういう危険の中にははいりそうもなかった。
モートンは、ためらっていた。かれも『宇宙気ちがい』という言葉を、無価値だと考えているのは明らかだった。しかし、いまは微妙な点などを、あれこれといい合っている時ではなかった。この連中は、緊張し、おびえているのだ。連中が求めているのは、行動であり、安全の保証であり、十分な対策が講じられているという安心感なのだ。探険隊の監督や、軍の総司令官や、その他の権威者たちが、部下の信頼を永久にうしなうのは、えてしてこういう瞬間が多いものなのだ。モートンもやはりそのようなことがありうるということに気づいているように、グローヴナーには思えた。だから、ふたたびモートンが口をきき出した時、その言葉はきわめて慎重なものだった。
総監督がいった。「われわれも、そのことはよく考えた。エガート博士と助手とが、全員を診断することになっている、もちろん。いま、博士は死体を調べているところだ」
雷のようなバリトンが、ほとんどグローヴナーの耳許でとどろきわたった。「わしならここだ、モートン君。みなに、道をあけるようにいってくれんかね!」
グローヴナーが振り返ると、エガート博士の顔が見えた。もうその時には、人々は押し合いながら、博士のために道をあけようとしていた。エガートは、その中を突き進んで行き、グローヴナーも、ためらうことなく、その後を追った。かれが予期したとおり、誰もかれも、かれを医師のおともだと思いこんだらしかった。モートンのそばまで来たとき、エガート博士はいった。「さっき、きみのいったことは聞いていたがね、総監督。『宇宙気ちがい』説は当を得ていないといえるね。殺された連中は、何か十人力ぐらいのもので、のどを叩きつぶされているね。犠牲者は、叫び声を出すチャンスもなかったろうね」
エガートは、ちょっと間をおいてから、ゆっくりとたずねた。「あの大きな化け猫はどうしてるね、モートン君?」
総監督は、首を左右に振って、「猫は檻の中だ、博士、あっちに行ったり、こっちに行ったり、うろうろ歩きまわっているだけだ。いちおう、やつについて専門家たちの意見をきいておきたいが、奴《やっこ》さんを疑ってもいいだろうかね、諸君? あの檻はやつの四、五倍もある大きな獣を、入れておけるように頑丈に作ったものだ。何かわれわれの想像をはるかに越えた、新しい科学がここにないかぎり、奴さんを犯人とは、とても信じられないような気がするね」
スミスがむっつりとした口調でいった。
「総監督、必要な証拠は全部そろっています。こんなこといいたくはないが、わたしが、あの猫を生かしておこうという考えだったことは、あなたもよくご存じでしょう。しかし、さっきX線蛍光カメラを使って、やつの体内写真をとろうとしてみたのです。ところが、ぜんぶまっ白で、なんにも写っていないのです。グーレイのいったことを思い出してください。あいつは、どんな波長でも、受信できるらしいし、また送信もできるようです。ケント君の銃のエネルギーを抑制したやり口は、われわれには十分な証拠です――特に、その後の出来事を考えてみると――やつは、どんな強いエネルギーでも相殺する特殊な能力を持っているのです」
一人の男がうめくようにいった。「ちきしょう、なんてどえらい化け物をしょいこんだんだ? だってそうじゃないか、とにかくエネルギーを思いのままにあやつって、どんな波長にでものせて送れるとすると、やつがわれわれみんなを殺すのを止める方法は、全然ないんだぜ」
「そのことは」と、モートンがいった。「やつが無敵ではないという証拠になる。でなければ、やつは、とっくの昔に、われわれをみな殺しにしているはずだ」
そういうと、モートンは、落ちついた様子で、檻を操作する制御装置の方に足を運んで行った。
「きみは、ドアをあけようというのじゃないだろうね!」と、ケントはあえぐようにいって、腰の放射線銃に手を伸ばした。
「ちがう、だが、このスイッチを入れると、電流が檻の床を流れて、中にいるものを感電死させるんだ。標本用の檻には全部、用心のために、この装置をつけておいたのだ」
モートンは、特殊な電気死刑用のスイッチの鍵をはずし、スイッチを倒した。しばらくの間、電流がフルに流れた。がやがて、金属部分から青い火花が飛び、モートンの頭の上のヒューズ盤が黒く焼けてしまった。モートンは、手を伸ばしてヒューズの一つを抜き取り、顔をしかめながら調べた。
「おかしいな」と、かれはいった。「このヒューズが飛ぶはずはないんだが!」かれは、首を振って、「うん、これでもう檻の中を見ることもできなくなったわけだ。監視スクリーンもやられてしまったからね」
スミスが口を開いた。「あいつに電気錠を止めて、ドアをあける力があるとすれば、たぶん、ありとあらゆる種類の危険を予想していたはずで、あなたがスイッチを入れた時には、すでに妨害の準備ができていたにちがいないよ」
「すくなくとも、われわれのエネルギーに対して不死身ではないという証明じゃないか」モートンは、むっつりといった。「だってそうだろう、やつは、エネルギーを中和させて、無害なものにしなければならなかったからだよ。重要なことは、いまわれわれは、厚さ四インチのもっとも頑丈な金属の中に、やつを閉じこめてあるということだ。最悪の場合でも、ドアをあけて、半移動式《セミポータブル》の熱線砲《ブラスター》を、やつに射ちこむことができるのだ。だが、その前に、X線用の動力線を使って、檻に電流を流してみてはどうかと思うんだ」
檻の中からの物音が、モートンの言葉を中断した。怪獣の重い体が壁にぶちあたる音だった。つづいて、たくさんの小さなものが床にくずれ落ちるような、がらがらという音がつづけざまにした。グローヴナーは肚《はら》の中で、それを小さな地すべりにくらべていた。
「やつには、われわれの狙《ねら》っていることがわかったんだ」とスミスがモートンにいった。「どうやら、だいぶ参っているにちがいない。自分から檻の中へもどるなんて、まぬけにもほどがある。自分でもそれに気がついたんだろうよ!」
緊張がほぐれかけていた。人々は、神経質に微笑を浮かべていた。いまスミスのいった言葉につられて、怪物がうろうろと困りはてている様子を想像して、おもしろくもなさそうな笑いのさざめきさえ起こった。グローヴナーは、頭をひねった。さっき聞いた物音が気に入らなかったのだ。聴覚ほど、いろいろな感覚のうちでもだまされやすいものはない。檻の中で何が起こったのか、あるいは何か起こりつつあるのか、その正体を耳だけで判断することはできなかった。
「それにしても、ぼくが知りたいのは」と、機関長のペノンズがいった。「猫ちゃんがあの物音をたてた時、なぜ、X線のメーターがいっぱいまで跳ねあがったんだろう? メーターは、ぼくの鼻さきにあるんで、いったい何が起こったのかと、さっきから考え出そうとしていたところなんだ」
檻の中でも外でも、静けさがあたりを領した。ふいに、スミスが背にした戸口で人のけはいがし、リース大佐と二人の士官が軍服姿で、廊下に姿をあらわした。
ビーグル号の船長であるリース大佐は、五十がらみの、痩せてはいるが引きしまった体つきの男であるが、口をひらいていった。「この場の指揮は、わたしがとることにしよう。あの怪物を殺すか、殺さぬかで、学者間に意見の対立があるそうだが――どうかな?」
モートンは、首を左右に振って、「いや、対立は終わったよ。いまは、全員がやつを処刑すべきだと思っている」
リース船長はうなずいて、「わたしもそう命令するつもりだった。船の安全がおびやかされていると思う以上、これは、わたしの職分だからね」かれは、声を大きくして、「さあ、道をあけてくれ! 後ろへさがってくれ!」
廊下の混雑が緩和されるまでには、何分かがかかった。そういうことになって、グローヴナーもほっとした。前に出た連中が押し合っていて、すばやく後ろにさがることもできないうちに、化け猫が飛び出して来たら、やつはたくさんの人間を殺すか、傷を負わせるかできるわけだった。その危険は、完全に去ったわけではなかったが、かなり軽減されたとはいえる。
と、誰かが叫んだ。「おかしいぞ! いま、船が動いたようじゃないか!」
グローヴナーも、あたかも、一瞬、推進装置が試験されたような動きを感じた。やがて、巨船は、瞬間的な緊張をとかれたように、巨体を震わせて元の静かさに返った。
リース船長が鋭くたずねた。「ペノンズ、機関室には誰がいるんだ?」
機関長は、蒼白《そうはく》な顔色になって、「副機関士と助手の連中ですが、だが、どうして、こんなことを連中が――」
がくんと強く船体が動いた。巨大な船体が、傾いて、いまにも横倒しになりそうだった。グローヴナーは手ひどく床に叩きつけられた。しばらく気が遠くなっていたが、驚いて、必死の思いで意識を取りもどした。ほかの連中も全部、かれのまわりに大の字に倒れていた。なかには苦しそうにうめいているものもいた。モートン総監督が何か叫んだが、何を命令しているのか、グローヴナーには聞きとれなかった。そのうちに、リース船長がもがくように立ちあがって、しきりに悪態をついていた。グローヴナーの耳には、「いったい、どいつだ、エンジンなどかけたのは!」と、乱暴な声でどなるのが、聞こえただけだった。
おそろしい加速がつづいた。すくなくとも、五G、いや、たぶん六Gはあるかもしれない。すさまじい力ではあったが、自分に耐えられる範囲内だと見てとったグローヴナーは、必死になって立ちあがった。かれは、いちばん手近の壁の通話装置に取りつき、機関室の番号のボタンを押したが、おそらく通じないだろうと心の中では思っていた。背後で、低く吠えるような声がしたので、グローヴナーは、驚いて振り返ると、大柄な総監督のモートンが、かれの肩ごしにスクリーンをのぞきこんで叫んでいるのだった。「あの化け猫め! やつは、機関室にいるんだ。船は、宇宙空間にむかっているぞ」
モートンがしゃべっているうちに、通話装置のスクリーンは消えて、まっ黒になってしまった。しかも、加速の圧力はまだつづいていた。グローヴナーは、よろめきながらサロンへのドアをぬけ、大きな部屋を突っ切って廊下へ出た。そこに宇宙服の格納庫があるのを思い出したのだ。格納庫に近寄ると、リース大佐がひと足先に来ていて、もがきながら宇宙服を身につけているのが見えた。グローヴナーが辿《たど》りついたときには、大佐はすでに宇宙服を閉じおわり、その反加速装置を調節していた。
急いで大佐は振り向くと、グローヴナーに手をかしてくれた。一分の後には、グローヴナーは、自分の宇宙服の重力を一Gにおとして、ほっと大きく息をついた。これで二人の手がそろった。後の連中もよろめきながらやって来た。わずか数分もたたぬうちに、その格納庫の宇宙服は品切れになり、かれらは下の階へ降りて、そこの格納庫から宇宙服を運びあげた。しかし、もうその時には、数十人の乗組員が作業ができる状態になっていた。リース船長の姿は、もうその場から消えていた。グローヴナーは、つぎに打たれる手の見当をつけて、急ぎ足で、さっきまで化け猫が閉じこめられていた檻までもどった。見ると、二十人ほどの科学者が、いましがた開けられたばかりらしいドアのところに集まっていた。
グローヴナーは、前へ進み出て、先に来ていた連中の肩ごしにのぞきこんだ。檻の向こう側の壁には、ぽっかりと穴があいていた。穴は、むりに身をちぢめれば、一度に五人の人間が通り抜けられそうな大きさだった。金属はへし曲がったようで、縁はささくれだっていた。穴は、向こう側の廊下に向けてあいていた。
「こんなばかなことが」と、宇宙服のヘルメットをはずしたままで、ペノンズがつぶやいた。「とうてい考えられん。工作室の十トンの動力ハンマーでも、一度なぐったくらいじゃ、この四インチ厚さのマイクロ鋼をへこますくらいがせいぜいだぜ。しかも、さっき聞こえた音は一度きりだ。原子破壊砲を使っても、どうすくなく見つもっても一分はかかるだろうし、それにその後、付近一帯がすくなくとも数週間は、放射能汚染を受けるはずだ。総監督、やつは超生物ですぜ!」
総監督は、返辞をしなかった。グローヴナーが見ると、スミスが壁の裂け目を調べていた。生物学者は、ちらっと目をあげて、「ブレケンリッジが生きていたらなあ。これは冶金《やきん》学者でなけりゃ説明はむりだ。ほら、ごらんなさい!」
スミスは、金属の裂け目のはしに手をふれた。指の間で、小さなかけらがぽろっとくずれ、細かいくずがぱらぱらと屑になって、床に落ちた。グローヴナーは、人々をかきわけて進み出た。「冶金学なら、ぼくにもすこしは心得があります」といった。
何人かが反射的に道をあけた。やがて、グローヴナーは、スミスのそばに立った。生物学者は、額に八の字を寄せて、かれを見た。「ブレケンリッジの助手か?」と、とげのある口調でたずねた。
グローヴナーは、聞こえないふりをして、かがみこむと、床に積もった金属のかすを、宇宙服の手袋のまま指でかきまわした。すぐに立ちあがるといった。「べつに不思議でもありませんよ。みなさんもご存じのとおり、こういった檻は、電磁気鋳造で作られたもので、材料は微細な金属の粉末です。あの怪物は、特殊な力を使って、その金属粉をつなぎ合わせている力に打撃を加えたのでしょう。ペノンズさんが気づかれたのもそれで、X線用の動力線から電流を吸いとったわけですよ。つまり怪物は、電気エネルギーを利用し、自分の身体をトランスにして壁を破り、廊下伝いに走って、機関室にもぐりこんだのです」
急場の分析だったが、みんなが終わりまでしゃべらせてくれたので、グローヴナーは驚いた。だが、かれを死んだブレケンリッジの助手と、思いこんでしまっているのは明らかだった。そういうことは、これほど大きな船になれば、当然ある間違いで、いちいち下級の技術屋の顔までおぼえる暇は、まだなかったのだ。
「それはそれとして、総監督」と、ケントが物静かにいった。「いまわれわれは、あの超生物に船の制御を握られるという事態に当面しているのだ。やつは、機関室を完全に掌握し、ほとんど無限の動力を押え、おまけに工作室の主要部分まで乗っとってしまった」
それは、事態を簡潔に述べた言葉だった。グローヴナーは、他の連中が衝撃を受けたのを感じとった。不安の表情が、みんなの顔にあらわれていた。
士官の一人が口をひらいた。「ケントさんの見かたは間違いですね。やつは、機関室を完全に支配しているわけじゃありません。まだ司令塔はわれわれが掌握しています。つまり、あそこからあらゆる機械類の一次操作ができるわけです。みなさんは、乗務員ではないのですから、この船の機構については、あまり詳しくご存じではないでしょう。疑いもなく、いずれは怪物の方でも、機関室と司令塔の接続を切ってしまえるわけですけど、いまなら、われわれの方で機関室のスイッチを全部、切ろうと思えば切れるんです」
「何をいってるんだ!」と、一人がいった。「じゃ、なぜ、千人もの人間が宇宙服を着たりするうちに、動力を切ってしまわなかったんだ?」
士官はきちょうめんに、「リース船長のお考えでは、宇宙服を着て、内部の保護力線の磁場内にいるほうが、ずっと安全だというわけです。おそらく、あの怪物はこれまで、五、ないし六Gの加速を経験したことは一度もなかったでしょう。あまりうろたえたあまり、われわれのほうの有利な条件をふいにしてしまうのは、賢明とはいえませんからね」
「ほかに、どんな有利な条件があるんだね、われわれには?」
モートンが口を出した。「それは、わたしがこたえよう。つまり、われわれはやつに関して、いろいろのことを知っているということだ。ところで、いますぐリース船長に提案して、やってみたい実験が一つある」モートンは士官のほうを振り返って、「船長に、ちょっとした実験を許可してくれと、たのんでもらえないだろうか?」
「ご自分でお頼みになったほうがいいと思うんですが、総監督。通話装置で連絡ができますよ。船長は、司令塔におられますから」
モートンは、二、三分でもどって来て、「ペノンズ」といった。「きみは軍人だし、機関室の親玉なんだから、リース船長は、きみに、この実験の責任者になってもらえということだ」
モートンの声には、何かいらいらしたけはいがあるように、グローヴナーは感じた。船長がこの場はおれが引き受けるといったのはどうやら本気だったのだ。指揮権の分割という、昔からむしかえされた話なのだ。権限の区分は、できるだけ正確にきめられていた。が、ありとあらゆる偶発事態を予想できないのは明らかだった。最後のどたんばに来れば、個人の性格いかんで定まるところが多いものなのだ。これまでは、全員軍人である、この船の士官と乗組員は、細心に船内の義務を遂行し、この遠大な航行の目的を第一として、そのために自分自身の気持ちは二の次にしてきたのである。とはいうものの、過去における他の船の経験から、どういう理由からか、軍人が科学者の考えを高く買っていないことが、政府に出された報告書で明確に述べられていた。そして、いまこういったことが起こると、その秘められた敵意が、顔を出すことになったのだ。事実、モートンが自分の定義した実験的な攻撃の責任者になってはいけないという理由は、どこにもないはずだった。
ペノンズが口を開いていった。「総監督、ここで細かい説明をうかがっている時間はありません。あなたが命令を与えてください! もし同意できなければ、そのときは、話し合うことにしましょう」
奥ゆかしい権利の放棄だった。しかしまた一方では、機関長であるペノンズは、かれ自身一流の科学者なのである。
モートンは、時間をむだにはしなかった。「ペノンズ君」と、かれはてきぱきといった。「機関室への四つの通路に、各五名の技術下士官を配置してくれたまえ。一班は、わたしが受け持つ。ケント、きみが第二班、スミスが第三班、そして、ペノンズ、きみは、もちろん、第四班だ。移動熱線砲を使って、大扉を焼き切る。扉は全部しまっている。これはさっきスクリーンで見ておいた。やつは、自分を閉じこめたんだ。
セレンスキー、きみは司令塔に行って、駆動エンジン以外は、全部スイッチを切る。親スイッチに接続しておいて、全部一度に切るんだ。ただし一つだけ、注意がある。加速装置は全開のままにしておくこと。船に反加速をかけてはならん。わかったね!」
「了解」操縦士のセレンスキーは、挙手の礼をすると、廊下を走り出した。
モートンは、かれを呼びとめて、「もし、どれかまた動きはじめた機械があったら、通話装置で報告してくれ!」
各班の指揮者の助手として選ばれた班員は、全部戦闘要員だった。グローヴナーは、他の数人といっしょに、二百フィートほど離れた場所で、戦況を見守ることにした。移動式熱線放射器が運び出され、保護スクリーンが配置されるのを見ながら、グローヴナーには、何か災厄を待ちかまえているような、うつろな感じがしてならなかった。いまやはじまろうとしているこの攻撃には、はっきりとした目標もあれば、力強さもあるのを、かれは認めた。それどころか、それが成功するかもしれない光景を想像することもできた。だが、成否は行きあたりばったりで、実際はまったく予想がつかないのだ。事件は、人員や知識を、その場その場に応じて編成するという、実に古い、古い方式にのっとって処理されているのだ。何よりももどかしいのは、自分がただ指をくわえて傍観しているだけで、消極的な批判しか加えられないということだった。
モートンの声が、一般通話器から流れた。「前にもいったとおり、これは主として試験的な攻撃だ。あの化け物が機関室にはいってから、まだたいしたことをやるほど時間がたっていないという前提に立ったものだ。つまり、われわれに敵対する準備ができぬいまなら、やつをやっつける機会があるというものだ。だが、いますぐやつを殺すことができる可能性とは別に、わたしには一つの見解がある。その考えというのはこうだ。すなわち、これらの機関室のドアは、強力な爆発に耐えられるように作ってあるので、これを焼き切るには、すくなくとも十五分はかかる。その間、やつは、全然動力なしでいることになる。セレンスキーは、これからスイッチを切ることになっている。駆動エンジンだけは、むろん、切らずにおくが、これは原子力だ。ぼくの考えでは、いくらやつでも原子力には手が出ないだろう。後しばらくで、わたしのいう意味がわかってもらえるだろう――うまくゆけば」
かれの声の調子が高くなって、モートンは叫んだ。「用意はいいか、セレンスキー?」
「用意よし」
「親スイッチを切れ!」
廊下が――宇宙船全体もそうだろうと、グローヴナーは承知していたが――いきなり闇にかわった。かれは、宇宙服のライトをつけた。ほかの連中も、つぎつぎにそれにならった。光の反射光の中で、みんなの顔が青白く引きつっていた。
「熱線放射!」モートンの命令が、通話装置にはっきりと、鋭く響いた。
熱線放射器がうなった。その放射器から噴射される熱は、原子力発電を使用されてはいたが、原子力そのものではなかった。それはドアの硬質金属にそそぎかかり、たちまち溶けた金属の雫《しずく》の流れはじめるのが、グローヴナーには見えた。ほかの雫がその後につづき、やがて十二本ほどの流れが、エネルギーの路の外へと、のろのろと動き出した。透明な保護スクリーンが曇りはじめ、やがて、ドアに何が起こっているか、よく見えなくなった。とそのとき、曇ったスクリーンをとおして、ドアがそれ自身の熱の光で、輝きはじめたのがわかった。炎は地獄の様相を思わせる光景だった。熱線がゆっくりと金属に食い入ってゆくにつれて、ドアは宝石のような輝きをはなって火花を散らした。
時間が流れた。とうとうモートンの声が伝わってきた。かすれたような声だった。「セレンスキー!」
「まだ、反応ありません、総監督」
モートンは、半ばささやくように、「だが、やつは何かやってるに相違ない。追いつめられたねずみのように、ただじっと待っているはずはない。セレンスキー!」
「反応ありません」
七分、十分、そして、十二分がたった。
「総監督!」それは、張りつめたセレンスキーの声だった。「やつは、発電機を回しています」
グローヴナーは、深く息を吸いこんだ。とそのとき、ケントの声が通話装置にひびいてきた。
「モートン、火が通らなくなった。きみが考えていたのは、このことか?」
グローヴナーが見ると、モートンはスクリーン越しに、ドアをのぞきこんでいた。こんなに離れた遠くからでも、ドアの金属が、さきほどまで見たほどには白熱していないのが、かれにもわかった。ドアは、はっきりそれとわかるほど赤くなり、やがて、黒ずんだ、つめたい色に変わってしまった。
モートンは溜息をつき、「いまのところは、これで打ち切りにしよう。乗組員はその場に残って、各廊下を警戒すること! 熱線放射器もその場においておくこと! 各部長は、司令塔に集合!」
実験は終わったのだと、グローヴナーはさとった。
4
司令塔の入口の警備員に、グローヴナーは身分証明書を渡した。男は、けげんな顔つきで調べてから、
「まあ、いいでしょう」と、やっといった。「だが、いままで、四十歳以下の人は、一人も通していないんですが、どのくらいの等級なんです、あんたは?」
グローヴナーは、にやりと笑いを浮かべて、「新しい科学の発起人と同じ資格を持った人間というところだね」
警備員は、もう一度身分証明書をながめ、それをグローヴナーに返しながらいった。「情報総合科学《ネクシャリズム》? いったい何のことです?」
「応用全体学とでもいうかな」そうこたえると、グローヴナーは、しきいをまたいだ。
しばらくして、ちらっと振り返って見ると、警備員は、ぽかんとしてかれの後ろ姿を見送っていた。グローヴナーは、にこっと笑いを浮かべたが、すぐにその一件は頭から消えてしまった。司令塔にはいったのは、これがはじめてだった。かれは、好奇の目で見まわし、強い感動をおぼえ、うっとりした。簡潔な構成にもかかわらず、管制盤はおそろしく大きなどっしりとした構造だった。彎曲して何段もの階段型に作られていた。金属でできた弧形の層はおのおの二百フィートほどの長さで、急な階段が各層をつないでいる。装置類はいちばん下の床からか、あるいは、もっとてっとり早く、天井から吊り下げられた動力クレーンの先端に取りつけてある、自由に動く関節づきの操縦椅子から、操縦できるようになっている。
部屋の最下層は講堂で、安楽椅子が百ほども並んでいた。椅子は、宇宙服を着たまますわれるよう、ゆっくりした大きさで、すでに二十四、五人ほどの人間が、宇宙服姿のまま腰をおろしていた。グローヴナーも目立たぬように腰をおろした。一分ほどすると、モートンとリース船長とが、司令塔につづく船長の私室から姿をあらわした。船長は腰をおろし、モートンが前置きなしで話しはじめた。
「機関室の機械の中で、あの怪物にもっとも重要なのは、発電機だということがわかった。われわれが扉を焼き切る前に、やつは、発電機を始動させようとして、逆上するほど必死になったにちがいない。その点について、何か意見はないかね?」
ペノンズがいった。「やつが、どうやってあのドアを貫通不能にしたか、だれか説明していただきたいんですが」
グローヴナーがいった。「ある電子工学的な方法で、金属を一時的に極度に硬化させられることは知られています。しかし、それには重さ数トンもの特殊装置が必要であり、しかも、本船にはそのような装置ものせておりません」
ケントが振り向いて、かれを見、いらだたしそうにいった。「やつがどんな方法を使ったかを知ったところで、どうなるんだね? もし、われわれの原子破壊砲を使っても、あの扉が破れないようなら、それで終わりさ。やつのしたいほうだいに、この船をさせるしかないね」
モートンは、首を左右に振って、「何か計画があるはずだ。ここへ集まったのは、そのためじゃないか」かれは、声を高くして、「セレンスキー!」
操縦士のセレンスキーが、天井の操縦椅子から、身を乗り出して下を見た。突然、かれの姿があらわれたので、グローヴナーはびっくりした。椅子の中に、人が乗っていることには気がつかなかったのだ。「何でしょうか?」と、セレンスキーがたずねた。
「全機関を始動させろ!」
セレンスキーは、操縦席を巧みに親スイッチの方に、ぐるっとまわした。慎重に、大きなスイッチを始動の位置に動かした。ぐいと船体が揺れ、聞きとれるほどのぶうんという振動音が耳を打った。つづいて、数秒の間、床が揺れていた。やがて、船体が落ちつきをとりもどし、機械が正常な運転に入ると、ぶんぶんという音も、漠然《ばくぜん》とした振動にうすれていった。
しばらくすると、モートンが口を開いた。「これからそれぞれの専門家に、化け猫退治についての提案を出していただきたいと思うのだ。ここで、われわれが必要とするのは、多くの専門を異にする間での協議なのだ。また、どれほど理論的におもしろい可能性が考えられたにせよ、いまわれわれが求めているのは、現実的に役に立つ対策だということを忘れないでもらいたい」
さてこれで、と、グローヴナーは、悲しげに胸の中で考えた。これで、情報総合科学者エリオット・グローヴナーはかたづけられてしまったわけだ。本来なら、そうなるはずではないのだ。モートンが求めているのは、多くの科学の統合であり、実はそれこそ情報総合科学の専門分野なのである。だが、モートンが実際的な意見を求めようという専門家の中に、自分は含まれてはいないだろうと、かれは思っていた。そして、その予想はぴったりだった。
二時間後、総監督は、すっかり取り乱したような調子でいった。「三十分中断して、食事と休憩をしたほうがいいと思うね。これから大奮発をしなければならぬ仕事が来る。全精力を貯えておかなくちゃね」
グローヴナーは、自分の部屋にもどった。食事も、休憩もほしくなかった。三十一歳のかれには、たまの食事抜きや、徹夜も、それほどこたえはしない。かれには三十分もあれば、この船を乗っ取った怪物をどう処理するかぐらいの問題は、解決されそうな気がした。
さっきの科学者たちの決議では、もう一つ徹底さに欠けるという難点がある。なるほど、多くの専門家が、それぞれの知識を披露したが、ごく表面的なものを並べたにすぎない。しかも聞く人はみな専門が異なるので、一つ一つの概念の裏にかくされている多くの連想を、十分こなしきるだけの訓練を受けていない人間に、知識の切り売りをやってみせただけなのである。だから、攻撃計画にもまとまりを欠いていた。
まだ三十一歳にしかならぬこの年若い自分だけが、おそらくこの船内で、今度の計画の弱点を見ぬけるだけの訓練を受けた、ただ一人の人間なのだということに気がつくと、グローヴナーは不安な気持ちになった。六か月前に、このビーグル号に乗り組んで以来、情報総合科学財団にいたことが、どれほど大きな変化をおよぼしたかを、いまはじめて、グローヴナーは痛切に感じた。これまでの教育制度はすべて時代遅れになってしまったといっても、いいすぎではなかった。もっとも、自分の受けた訓練過程は、全部他の人々の手で作られたものであり、グローヴナー自身の手柄になるようなものは何一つなかった。しかし、財団の卒業生の一人として、また特別の任務を帯びて宇宙船ビーグル号に乗り組んだ人間として、かれがとるべき道は一つしかなかった。決定的な解決策を考え出し、つぎにありとあらゆる手段を講じて、首脳部にその案を納得させることだ。
ただ問題は、まだ資料が不足していることだった。かれは、いちばんてっとり速い方法をとることにした。かれは、通話装置を通じて、各部を呼び出しにかかった。
たいてい、出て来たのは、下の連中ばかりだった。毎回、グローヴナーは、みずからを部長と名乗ったが、その効果はてきめんだった。若い科学者たちは、その肩書きをすなおに受け入れ、例外もあったが、だいたいに協力的だった。だがなかには、「上司の許可を得なければなりませんので」という者もあった。ある部長は――スミスだったが――直接応対に出てくれ、ほしいだけの資料を全部与えてくれた。また別の部長は、猫退治が終わってからにしてくれと、ていねいにことわりを述べた。グローヴナーは、後まわしにしていた化学部を呼び出し、むろん本人は出まいとたかをくくって――ケントにつないでほしいと申し入れた。腹の中では、「それじゃ、これだけ教えてもらえれば結構です」と、下役の男にいうせりふまで用意していた。とすぐに、電話はケントにつながれたので、かれは驚きもし、がっかりもした。
化学部長は、ありありといらいらしたふうに、かれの話を聞いていたが、いきなりかれの言葉をさえぎって、「その資料なら、正規の手続きを踏んで申し込みたまえ。ただしこの猫の惑星で発見したことは、あと何か月か先でないと教えるわけにはいかん。念には念を入れて確かめなければならんからね」
グローヴナーは食いさがった。「ケントさん。この猫の惑星の大量分析の結果だけは、いますぐ教えていただけるよう、なんとか特例で許可してくださるようぜひお願いしたいのです。これは、さっきの会合できまった計画に、重大な関係があるかもしれないのです。ここで詳しく説明するひまはありませんが、わたしが責任をもって――」
ケントは、最後までいわせないで、「いいかね、きみ」と、口調にあざけりをこめて、「学術的討議の段階は終わったんだぜ。どうも、きみは、われわれが致命的な危機に直面していることを理解していないらしいね。もし、一つ間違えば、きみもぼくも、ほかの連中も、みんな命があぶないんだぜ。頭の体操なんてものじゃない。さあ、お願いだから、あと十年ぐらいは邪魔をしないでくれよ」
かちっと音がして、ケントは通話を切ってしまった。グローヴナーは、侮辱に満ちた言葉に顔を赤らめて、しばらくすわっていた。やがて、悲しげに笑いを浮かべると、最後の部の呼び出しにかかった。
かれの作ろうとしている高確率グラフには、いろいろな資料の間に、つぎのようなデータが、それぞれに印刷された欄につけたチェック・マークで表わされるようになっていた。すなわち、この惑星の大気中に含まれる火山灰の量、種子の予備分析によって指摘されたさまざまな植物体の生活史、これらの植物を常食する動物が、どんな種類の消化器官を持つか、および以上から外挿法によって、これらの植物を食べる動物を、さらに餌とする動物が、どんな形態で、どんな体の構造をもつか等々を、その項目にしるしをつけてゆくようになっていた。
グローヴナーは、敏速に作業を進めて行った。それまでに印刷のしてあるグラフ用紙に、しるしをつけてゆくだけであったから、グラフは間もなくできあがった。ひじょうに複雑なもので、情報総合科学になじみのない人に説明するのは、なまやさしいことではないだろう。が、かれにとっては、まったくはっきりしたものだった。緊急の時には、このグラフが見落とすことのできない可能性や、解決策まではっきりと教えてくれるのだ。すくなくともグローヴナーには、そう思えた。
『一般的勧告案』という表題の下に、グローヴナーはこう書いた。『いかなる解決策にも、安全弁を付する要あり』
グラフのコピーを四通作ると、グローヴナーは、モートンのいる数学部へ向かった。いつもとは違って警備員が立っていたが、もちろん化け猫の襲撃にそなえた対策らしい。モートンに会うのをことわられたので、グローヴナーは、監督の秘書の一人に会わせてほしいと要求した。やっと一人の若い男が、別室から出て来て、かれのつくったグラフをていねいに調べてから、「総監督にお目にかけるよう、取り計らいます」といった。
グローヴナーは、厳格な口調でいった。
「そういったたちの言葉は、前にも聞かされた。もし、モートン総監督がこのグラフを見ないようなら、査問委員会を開いてもらうことになるからね。どうも、いままでぼくが総監督に提出した報告の扱いには、どうもまったく奇妙なふしがある。これ以上そうなるようだと、厄介なことになるからね」
秘書は、グローヴナーより五つ年上だった。冷静ではあるが、肚《はら》の底では敵意を秘めた態度だった。かれは軽く頭を下げると、かすかに皮肉な笑みを浮かべていった。「総監督は、実においそがしい体ですからな。いろいろな部も競争で、耳をかせと引っぱりだこの始末ですからね。その中には、古い歴史と数かずの業績からいって、当然若い科学や――」と、ここで、かれは口ごもってから「――若い科学者に優先することになりますな」と、肩をすくめて見せて、「しかし、いちおう、総監督に、このグラフをごらんになるかどうか、うかがってみましょう」
グローヴナーはいった。「『勧告案』だけ読んでいただければ結構だ。それ以上のおひまはないでしょうから」
秘書は「そう申しておきます」といった。
つぎにグローヴナーは、リース船長の居室にむかった。船長は、かれを招じ入れると、かれの言葉の一部始終に耳を傾けてくれた。そのあげく、グラフにも目を通してから、最後に、首を左右に振った。
「軍人というものは」と、形式ばった口調でいった。「少々違った取り上げ方をしておるのでね。われわれは、特定の目的の遂行のために、ある程度の危険を承知でかかるわけだ。最終的にはこの怪物を逃がしてしまったほうが賢明だとするきみの考えと、わたし自身の考えとはまったく正反対だね。ここに知能のある生物がいて、武装した船舶に敵対行動をとっているのだ。これは黙って見すごすわけにいかん事態だよ。敵がそういう行動に出たのは、結果を承知の上のことだとわしは信じる」船長は、唇をかたく引きしめたままの微笑を浮かべると、「その結果とは、死ということだ」
結果としての死は、異常な危険に対して、融通のきかぬ態度をとるこうした人の上に、降りかかるのではないか、グローヴナーはそういう気がした。いや、べつに猫を逃がしてしまうつもりはないのだと、口を開いて反駁しようとした。が、かれがしゃべり出す前に、リース船長は立ちあがって、「では、お引き取り願おうかな」といった。そして、一人の士官に声をかけて、「グローヴナー氏をお送りしてくれ」
グローヴナーは、にがにがしげにいった。「出口はわかっています」
廊下でただ一人になると、かれは、ちらっと腕時計を見た。攻撃まであと五分だ。
鬱屈《うっくつ》した気持ちで、かれは、司令塔に向かった。グローヴナーが席についたときには、もうたいていの顔がそろっていた。一分後、モートン総監督とリース船長とがつれ立ってはいって来た。そして、会議は再開された。
落ちつきなく、明らかに緊張して、モートンは、聴衆の前を行ったり来たり歩きまわっていた。いつもはきちんと撫《な》でつけた髪がすっかり乱れていた。すこし青みを帯びたかれの強い顔が、いかにも精力的に張り出した顎の線を、かえってくっきりと強調している感じだった。モートンは、突然、歩くのをやめると、口を開いた。太く低い声が、きびきびと、とげとげしい感じを与えるほどだった。
「われわれの計画が、十分に連絡が保たれているかどうかを確認するために、この怪獣の制圧における各自の役割の概略を、順にいってもらうことにしよう。まずペノンズ君!」
ペノンズが立ちあがった。かれは、大男ではなかったが、しかも大柄に見えたのは、たぶん、大家ぶったその態度のせいだろう。ほかの連中と同じように、ごく専門化された訓練しか受けていなかったが、仕事の性質上、この部屋の誰よりも情報総合科学の助けを、いちばん必要としない男だった。この男は、エンジンと、エンジンの歴史のことなら、よく知っていた。ファイルに記された履歴によると――グローヴナーは、ちゃんと調べておいた――かれは、多くの惑星で機械の発達を研究したらしい。おそらく実用機械工学の基礎的なことにかけては、かれの知らぬことといっては何もないだろう。千時間しゃべりつづけても、まだやっと話は本題の一端にふれるくらいであった。
ペノンズがいった。「この司令塔内に、継電《リレー》装置を設け、あらゆるエンジンをも周期的に、始動、停止ができるようにしました。トリップ・レバーは、毎秒百回の割で作動します。その結果、多くの種類の震動を発生することになります。一、二の機械が、こわれてしまうかもしれません。これは軍隊が歩調をそろえて、橋の上を渡るのと同じ原理で――これは古い話で、みなさんもご存じのはずです――しかし、わたしの意見としては、実際の危険はないので、原因があってこわれたのではありません。われわれの主たる目的は、怪物の妨害に、さらに妨害を加えることと、ドアを破ることです!」
「つぎは、グーレイ君!」と、モートンがいった。
グーレイは、のろのろと立ちあがった。まるで、こんな議事にはいくぶんうんざりしたとでもいうような、眠そうな顔つきだった。グローヴナーは、実は、人々にのろまと思わせておきたいのじゃないかと、うすうすは感じていた。かれの肩書きは、通信技術部長だが、ファイルの記録によると、専門分野についての研究を休むことなくつづけていることが、ずらりと列記されていた。もし、かれの学位がなんらかの証拠だとすれば、この一座の中で誰よりも正当な学歴の持ち主なのだ。ようやく口を開いたかれは、いつもの間のびのしたしゃべり方で、しゃべり出した。グローヴナーは、かれの先を急がない、ゆうゆうとした口調が、人々の心持ちをやわらげる作用があるのに、気がついた。不安に満ちたみんなの顔がやわらぎ、ゆったりと椅子の背にもたれかかったのも何人かいた。
グーレイがいった。「われわれの部では、反射の原理で働く、震動波遮蔽スクリーンを組み立てました。いったん機関室にはいったら、それを使って、あの化け猫がよこす震動波を、そのままやつめがけて送り返してやるという寸法なのです。その上に、われわれにはたっぷり電気エネルギーの余裕がありますから、銅の移動式パラボラを使ってエネルギー線にし、奴《やっこ》さんに心ゆくまでぶっかけてやるつもりです。いくらやつの神経が絶縁体でできているにしても、エネルギーの受容能力には、限界があるにちがいありませんからね」
「セレンスキー!」と、モートンが呼んだ。
主任操縦士は、グローヴナーが視線を向ける前に、もう立ちあがっていた。まるでモートンの指名を予想していたようなすばやさだった。グローヴナーは、うっとりとしたように、かれを見つめた。セレンスキーは、目をみはるほどいきいきとした瞳を持った、痩せた体つきの、細面《ほそおもて》の男だった。精力に溢れた体つきで、どんなことでもできないことはないといったようすだった。ファイルによると、たいした学歴はなかった。だが、どんなときにもびくともしない沈着さと、いなずまのような反射神経と、正確無比な仕事の持久能力とが、十分にそれを埋め合わせていた。
かれはいった。「今度の計画から受けた印象は、つぎからつぎと攻撃を積み重ねてゆかなければならんということです。怪物がもうこれ以上がまんができんと思ったとき、さらにつぎの攻撃をしかけて、やつの苦悩と混乱に輪をかけてやるのです。騒ぎが頂点に達したところで、わたしが反加速のスイッチを入れるのです。隊長と天文学者のガンリー・レスター氏のお考えでは、この怪物は反加速については、無知だろうということでした。反加速制御とは、恒星間飛行の科学が開発したもので、それ以外の過程を経て開発されることは、まず考えられぬことだからです。怪物が反加速度をかけられた場合の、最初の反応は――みなさんも最初に経験された、あの穴へでも落ちこんで行くような感覚をおぼえておいででしょう――あれを感じただけで、やつは、どうしていいか、何を考えていいか、わからなくなってしまうだろうと、わたしは考えます」そういって、かれは腰をおろした。
モートンはいった。「つぎはカリタ君!」
「わたしにできることといえば、みなさんを激励するくらいのことです」と考古学者はいった。「わたしの理論からすれば、あの怪物は、文明初期の犯罪者の特徴をすべて持っています。スミス君は、怪物の科学知識が不可解だということをいわれました。その意見では、われわれの対決している相手は、われわれが訪れた死都の住民の末裔《まつえい》ではなく、この惑星の現在の住民だという意味です。ということは、この怪物がほとんど不死身ではないかということで、酸素と塩素の両方を呼吸する――あるいはどちらもなしでいられる――かれの能力からも、部分的に裏づけることにもなります。だが、かれの不死身ということ自体は、それほど重要な問題ではありません。かれは、かれの文明のある一定の年代に生まれた。が、いまでは、すっかり没落してしまって、かれの物の考えは、ほとんどその年代の記憶にたよっているということです。エネルギーを制御する能力は持ってはいても、はじめてこの宇宙船にはいってエレベーターに乗ったときには、すっかり逆上してしまいました。ケント君から食物を与えられたときには、感情的になって、震動波銃に対する特殊な防御能力のあることを、暴露しなければならないような羽目におちいりました。数時間前の大量殺人でも、大きなへまをしてしまった。というわけで、みなさんおわかりになるように、かれの記録が示すものは、原始的で、自己中心的な精神の、きわめて低級な、狡知の持ち主であって、自分の肉体的機能についても、科学的な理解は、ほとんどといっていいか、あるいは全然持ち合わせていないし、かれが現在当面している巨大な組織についても、ほとんど認識していないのです。
いってみれば、怪物は、古代ゲルマン人の兵士のようなものです。かれらは、一個人としては、年老いたローマ人の学者に優越感を抱いたでしょう。ところが、ローマ人の学者は、ローマ文明という偉大な文明の一員であり、その偉大な文明に対して、当時のゲルマン人は畏怖の念をいだかずにはいられなかったのではありませんか。ですから、われわれの相手は原始人であり、しかもその原始人は、完全に本来の住みなれた環境を離れて、いまや遠く宇宙空間に飛び出してしまっているのです。わたしにいわせれば、進んで勝ちとるのみです」
モートンが立ちあがった。いかめしい顔に、ゆがんだような笑いを浮かべて、いった。
「わたしの最初の予定では、いまのカリタ君の激励演説が、われわれの攻撃の前奏曲になるはずであった。ところが、さきほどの休憩の間に、ある青年から一つの資料を受けとった。この青年は、ある科学部門の代表者としてこの船に乗り組んでいるのだが、その学問について、わたしはあまりよく知らない。しかし、かれがえらばれてこの船に乗り組んでいる事実からみても、かれの意見は尊重に値すると思う。かれは、この問題に解決案があると確信して、わたしのところだけでなく、リース船長の部屋をも訪れた。そこで船長とわたしは協議の結果、その青年グローヴナー君に、数分間、発言を許し、かれの解決策を説明してもらって、その妥当性を諸君に判断してもらうことにしたのだ」
グローヴナーは、いささか震えを感じながら、立ちあがると、口を開いた。
「わたしのいた情報総合科学財団で教えていることですが、どの科学の、その大ざっぱな外観のどの面一つをとりあげても、つねにその説には、ほかの諸科学との複雑な連係があるということです。もちろん、これは考えとしては古いものです。ですが、ただある考えを口にとなえるのと、それを実際に応用するのとでは、相違があります。われわれの財団は、その応用技術の開発に成功しました。わたしの部屋には、みなさんがいまだごらんになったことのないような、すばらしい教育機械が備えつけてあります。いまここで、それをくわしく説明することはできませんが、そういった機械や技術で教育された人間なら、この化け猫の問題をどう解決するか、それをお話ししたいと思います。
まず第一に、これまでに出された提案は、すべて皮相的なものでした。もちろん、それはそれで満足できても、掘り下げが十分ではありません。現在すでに、われわれは、化け猫の背景を、かなりはっきり想像できるだけの資料を持っているのです。それらを列挙してみましょう。千八百年ほど前、この惑星の耐寒性植物の受ける日光が、突然ある波長帯に限って減少しはじめました。大気中に、大量の火山灰があらわれたからであります。その結果、ほとんど一夜で、植物の大部分が枯死してしまいました。きのうのことですが、われわれの探索艇が、死都の百マイル以内の部分を飛行していて、地球産の鹿ぐらいの大きさで、たしかにそれよりも知能の高いと思われる数頭の生物を発見しました。かれらは、ひじょうに警戒心が強くて、生け捕ることはできず、殺すしかありませんでした。スミス氏の生物学部が部分的な分析を行なった結果、死体にはカリウムがほぼ人間の肉体と同様な配分で、化学的、電気的に含まれていました。ほかの動物は目にはいりませんでした。推測ですが、これはすくなくとも、あの化け猫のカリウム源の一つではないのでしょうか。その動物の死体の胃には、いろいろな消化段階にある植物の残り滓《かす》を、生物学部では発見しております。そこから、植物、草食動物、肉食という循環過程が成立すると考えられるようです。おそらく植物が死滅したとき、これを常食としていた動物も、おなじ割合で死滅したのにちがいありません。すなわち、一夜にして、あの化け猫の食料資源が絶滅してしまったわけです」
グローヴナーは、すばやく聴衆のほうに、ちらっと目をやった。一人の例外をのぞいて、誰もかれも熱心に、かれを見つめていた。例外はケントだった。化学部長は、じりじりした表情を顔に浮かべて、すわっていた。注意は、どこかよそのことにあるようだった。
情報総合科学者は、すばやく先をつづけた。「銀河系の中にも、ある種の生物が、特に一つの種類の食糧に全面的に依存するという例は、数多くあります。しかし、ある惑星の支配種族である知能ある生物が、このようにたった一種の食糧に全面的に頼るという例は、この化け猫のほかにはお目にかかったことがありません。これらの化け猫族は、自分たちの食糧を育てることはもちろん、食糧の食糧となるものを栽培する考えが、その頭に思い浮かばなかったようであります。まったく信じられないほどの、先の見通しの欠如だと、みなさんもお認めになるでしょう。実に、まったく信じがたいほどであります。この事実を計算に入れない以上、化け猫に関するどのような説明も、満足とはいえません」
グローヴナーは、ここでふたたび言葉を切ったが、それもただ一息入れる間だけのことだった。かれは、直接、その場にいる誰の顔に目をあてるということもしなかった。これからしゃべろうということに、証拠をあげることは不可能だった。かれの特殊な情報総合科学が推論に使った事実を、それぞれの専門の部門で確かめるには、何週間もかかるだろう。かれにできるのは、最終結論を述べることだけだった。かれとしては、あえて確率グラフに書くわけにはいかなかったし、リース船長との話にも持ち出すわけにもいかないことだった。かれは、急いで結論を述べることにした。
「事実は、避けることのできないものであります。化け猫は、あの都市の建設者ではありません。あるいは、建設者の子孫でもありません。化け猫とその一族は、建設者が実験を試みた動物だったのです。
では、建設者たちはどうなったのでしょう? われわれには、ただ憶測ができるだけです。おそらく、千八百年前の核戦争で絶滅したのではないでしょうか。ほとんど倒壊した都市、大気中に突如として大量の火山灰様の大気塵が発生し、千数百年もの間、太陽をかげらせている事実、これらはともに意味深長だといわなければなりません。感情に走りがちだった人間も、もうすこしでこれと同じことをやりかけたのです。ですから、この滅亡した種族に、あまりきびしい判断を下してはなりません。しかしながら、この事実は、われわれにどうしろというのでしょうか?」
もう一度、グローヴナーは大きく息をついて、すばやく先をつづけた。「かりに、あの化け猫が建設者の一員だったとしたら、われわれは、いままでに、かれの全能力の証拠を握っていたでしょうし、われわれの直面している相手の正体をつかんでいたでしょう。ところが、やつは建設者ではないのですから、われわれは現在のところ、自分の能力さえはっきり理解していない野獣を相手にしているわけです。追いつめられるか、あるいは、強い圧力をかけられるようなことがあれば、かれは自己のうちに、いままで自覚していなかった能力を発見して、人間を殺戮したり、機械を意のままにあやつったりするかもしれないのです。ですから、やつに逃げる機会を与えてやらなくてはいけません。いったん船外に追い出せば、後は、われわれの思いのままです。以上がわたしの意見です。ご清聴ありがとうございました」
モートンは、ぐるっと部屋を見まわした。「さて、諸君、どう思うかね?」
ケントが気むずかしそうな口調でいった。「こんな話は、生まれてから一度も聞いたこともなかった。可能性だの、確実性だの、まるで空想じゃないか。こんなものが情報総合科学なら、もうすこしましなものを持ち出してくれんかぎり、いっこう興味は湧かんね」
スミスが陰気な口調でいった。「化け猫の体を調べてみないうちは、いまのような説明は受け入れるわけにはいきませんね」
物理学部長のフォン・グロッセンがいった。「やつの体を調べてみても、実験動物だったという、決定的な証明にはならないだろう。グローヴナー氏の分析は、議論の余地はあるが、それ以上のものではなさそうだな」
カリタが口を開いて、「都市の探査をもっと進めてみれば、グローヴナー氏の理論を立証するものが見つかるかもしれません」と、かれは慎重に話した。「わたしのほうの周期学説を、完全に論駁することにもなりません。というのは、こういった実験動物の知能は、それを教育した実験者たちの態度や信念を反映する傾向があるからです」
機関長のペノンズがいった。「いま、下の機械工作室には、救命艇が一隻はいっています。ある程度分解されて、あそこでただ一つの常設の修理台を占領しているのです。したがって、猫のやつに使いものになる救命艇をくれてやるためには、われわれの計画している全面的攻撃と同じくらいの手数がかかります。もちろん、攻撃が失敗した場合、救命艇の一隻ぐらいは犠牲にすることぐらい考えてもいいでしょう。もっとも、猫のやつがどうやって船からその救命艇を外に出せるかは、わたしにはまだわかりませんがね。あそこには空気遮断入口《エア・ロック》がないのですから」
モートンが、グローヴナーの方を振り返った。「その点についての、きみのこたえはどうだね?」
グローヴナーがいった。「機関室につづいた廊下のはしに、エア・ロックが一つあります。猫が、あれに近づけるようにしてやるべきです」
リース船長が立ちあがった。「さっき、グローヴナー氏が、私に会いに来た時にもいったのだが、われわれ軍人の精神は、この種の事件には、もっと大胆な態度をとる。死傷者が出るのは、覚悟の上なのだ。ペノンズ君は、わたしの意見を代弁してくれた。もし、攻撃が失敗した場合には、ほかの手段を考えることにしよう。グローヴナー君、きみの分析には感謝する。だが、いまは、仕事にかかろう!」
これは命令だった。たちまち、退席がはじまった。
5
すばらしく大きな機械工作室の、強烈な照明の中で、キアルは一心に働いていた。かれの記憶の大部分はよみがえっていたし、建設者たちに教えこまれた技術も、新しい機械や、新しい状況に適応してゆく能力も、すべて昔に返っていた。かれは、修理台の上にのっかっている救命艇を見つけ出していた。それは半ば分解されていた。
キアルは、その修理にあくせくと働いていた。とにかく逃げることが、重要なことになってきたのだ。ここに故郷の惑星と、同族のキアルたちのところに帰る近道があるのではないか。思い出した技術を、仲間に教えこむことができれば、もうかれらにかなうものはいなくなる。この方法なら、勝利は確定的だ。ある意味では、そのときには、決心がついたように感じていた。それなのに、この船を離れるのは、なんとなく気が進まなかった。べつに危険におちいっているという気がしないのだった。機械工作室の動力源を調べてから、いままでの出来事を振り返って考えてみても、どうもこれらの二本足どもが、自分を負かすだけの装備を持っていないような気が、かれにはするのだった。
仕事をしながらも、矛盾した気持ちが、かれの胸のうちで荒れ狂っていた。ひと息ついて救命艇を見まわすまでは、おそろしくたいへんな修理を仕上げたということにも気がつかないほどだった。後に残っていることといえば、持って帰りたいと思っている道具や計器類を積みこむことだけだった。それからは――逃げようか、それとも戦うか? ふと、人間どもが近づいて来るのを耳にして、不安になった。突然、エンジンのあらしのような轟音《ごうおん》に、変化が生じたのを感じた。規則正しく断続的にぶんぶんとうなる音が、さっきまでの低くこもったような、落ちついた律動よりも、ずっとかん高く、鋭く、神経を引き裂くような気がするのだった。しかもその断続のしかたは、気力をうしなわせるようなたちのものだった。キアルは、必死になってそれに体を慣らそうと闘った。はげしい集中力のおかげで、やっと体がうまく持ちこたえられるところまできたとたん、また新しい妨害が飛びこんで来た。強力な移動熱線放射器が、どっしりとした機関室のドアというドアに、ぞっとするほどいやな咆哮《ほうこう》とともに、炎を浴びせはじめたのだ。たちまち問題は、熱線砲と闘うか、震動音を克服するかということになった。いちどきに両方をやっつけることはできないと、キアルは、ただちに気がついた。
キアルは、いまは脱出すること一筋に、心を向けはじめた。たくましい体の筋肉ひと筋ひと筋を張りつめて、工具や、機械や、計器の大きなかさ張った荷をかつぎあげて、救命艇の内部のあいたところに、どんどんほうりこんだ。かれは、最後に、戸口に立ちどまって、逃げ出す前の最後から二つめの仕事にとりかかった。もうじきドアが焼き切られてしまうことはわかっていた。それぞれのドアの一点に、六台の放射器から熱線が集中してそそがれているのだ。ゆっくりではあったが、手のつけられぬほどの力で、残った何インチかを食いつくしているのだ。キアルは、しばらくためらっていたが、やがて、エネルギーへの抵抗を全部引っこめてしまい、今度は、四十フィートの救命艇のずんぐりしたへさきが向いている、宇宙船の外壁に全神経を集中してそそいだ。発電機から流れこむ電流の波を吸いこんで、かれの体はすくんだ。耳の触毛を強く震わせながら、強烈な力をまっすぐに壁に送りこんだ。体に火がついた感じがし、全身が痛み、うずいた。自分のエネルギー処理能力の限界まで、あと一歩という危険な瀬戸際にきているのだろうと、キアルは思った。
それほどの努力にもかかわらず、何も起こらなかった。外壁はびくともしなかった。いままでにおぼえもないほど強力な、硬い金属だった。形をくずさないのだった。その分子は、一個の原子からなっているのだったが、その配列は並はずれた珍しいもので――ふつうの高密度とはちがった方法で、しかも凝集効果を上げているのだった。
機関室の扉の一つが、がらがらとくずれ落ちる音を、キアルは耳にした。人間たちがわっと喚声をあげた。放射器が前進して来たが、もう熱線をさえぎるものはなかった。熱線が金属をこがし、機関室の床がしゅっしゅっと泣くようにうなる音が、キアルの耳を打った。おそろしい、おびやかすような音が、身近に近づいて来た。もう一分もすれば、人間どもは、工作室と機関室をへだてている脆《もろ》いドアを焼き切ってしまうだろう。
その一分間ほどもない間に、キアルは勝利をかちとった。しつこく抵抗していた合金に変化が起こったのを感じた。壁全体がさっきまで、しっかり結合していた凝集力をうしなってしまったのだ。見たところ、以前と同じようであったが、もう疑いはなかった。体をつたわってエネルギーの流れが、楽になった。さらに数秒間、キアルは集中をつづけてから満足した。勝ったという喜びのうなり声とともに、キアルは、小さな艇に飛びこみ、そのドアをしめるレバーを巧みに動かした。
一本の触手を伸ばして、ほとんど官能的なやさしさをこめて、動力レバーを握りしめた。小艇を、厚い外壁にまっすぐ向けると、機械はぐんと波のように揺れて前進した。艇のへさきがふれただけで、壁は、きらきらとひかる金属の屑の雨のように、ばらばらになってしまった。小さな妨害物につっかかったような痙攣《けいれん》を感じたのは、金属粉の重みを押しのけるために、ほんの瞬間的に小艇の速度が落ちたからだった。だが、艇はそれを突き抜けると、何の抵抗もなく宇宙空間に飛び出していた。
何秒かがたった。ふと、キアルは、自分の小艇が、大きな宇宙船の進路と直角に離れていることに気がついた。相手の船はまだすぐそばにあって、いまかれが通り抜けて逃げて来た、ぎざぎざのある穴が見えた。宇宙服を着て立っている人間の姿が、明るい照明を背に、影絵のように浮き出していた。人間たちも宇宙船も二つとも、目に立つほどだんだん小さくなっていった。と思うと、人間たちは姿を消し、無数のぼんやりと、舷窓だけが光っているだけの船になった。
キアルは、いまはただ急いで、宇宙船から向きを変えて逃げ出すことにした。計器盤をまわして、まるまる九十度向きを変えると、全速をかけた。こうして、逃げ出してから一分もたつかたたないうちに、この数時間、宇宙船がたどって来た方角から逆の方に、向かっていた。
キアルの背後で、宇宙船の巨大な球のような形が、急速にちぢみ、一つ一つの舷窓が見えないほど小さくなった。ほとんどまっ正面に、キアルは、ごく小さな、ぼんやりした光の球を見た――これこそ故郷の恒星だと感じた。あすこで、仲間のキアルといっしょに、恒星間飛行用の宇宙船を作って、生物の住んでいる太陽系を求めて飛び立つのだ。それはあまりに重大な仕事だけに、かれは、急におびえるような気がした。かれは、後部観測スクリーンから、それまで目をそらしていた。いまになって、ちらっとその観測スクリーンに、ふたたび目を向けた。宇宙船の球形は、まだそこにあった。もはや、宇宙空間の果てしない暗闇の中に浮かぶ、小さな光の点でしかなかった。と突然、それがまたたいたと思うと、消えてしまった。
一瞬、光が消える直前に、それがふっと動いたような気がして、キアルはびっくりした。しかし、かれにはなんにも見えなかった。かれは、宇宙船が光を全部消して、暗闇の中を自分をつけているのではないだろうかと、不安になった。とにかく実際に着陸するまでは、安全とはいえないという気がした。
焦りと頼りなさに胸をふるわせながら、かれは、ふたたび前方観測用のスクリーンに目を向けた。とたんに、はげしい狼狽《ろうばい》におそわれた。それを目あてに進んでいた薄暗い恒星が、だんだん大きくなってこないのだった。それどころか、見る見るうちに、だんだん小さくなってゆくのだった。それは、まっ暗な遠くの遠くの方で、ピンの先ほどのごくごく小さな光となり、ついには消えてしまった。
恐怖が、つめたい風のように、キアルの体の中を吹き抜けた。しばらくの間、キアルはじっと目を凝《こ》らして前方の空間を見つめた。胸の中では、あの目標が、もう一度、目に見えるようになってくれと、狂気のように望んでいた。しかしながら、目にはいるのは、測り知れないほどはるか遠くの、黒いビロードを背景にして、点々とまたたきもせずに、ちらちらとかすかに光る遠い、遠い星ばかりであった。
だが待て! 点の一つが、だんだん大きくなるではないか。筋肉という筋肉を張りつめて、キアルは見つめた。針の先ほどの点が、一つの丸になり、さらにふくれて丸い光の球になるばかりか、ふくらみつづけていた。そして、だんだん大きく、大きくなってきた。突然、ぱっと光がさしたかと思うと、舷窓という舷窓から光を煌々《こうこう》と輝かせながら、宇宙船の大きな球があらわれた――ほんの数秒前、自分の後ろで消えるのを見ていた、あの宇宙船そのものだった。
その瞬間、何かがキアルに起こった。かれの心は、はずみ車のように、くるくると、とめどなく速くまわりはじめ、ついには激しい苦痛とともに、無数の破片となって飛び散った。目玉がほとんど眼窩《がんか》から飛び出すほどの勢いで、狂った野獣のように、狭い艇内をあばれまわった。触手をのばして、貴重な計器類をわしづかみにすると、憤怒に燃えてたたきつけた。前肢をのばして、艇の外壁を粉みじんに叩きつぶした。ついに、一瞬正気がひらめき、間もなく安全な距離から、自分に向けてそそぎかけられるにちがいない原子破壊砲のおそろしい砲火には、とうてい立ち向かうことができないとさとった。
キアルの五臓六腑から、イドの最後のひとしずくまでしぼり出してしまうような、はげしい細胞分解を起こすのは、わけのないことだった。
最後の抵抗のひと声に、キアルは唇をゆがめてうなった。触手がめくらめっぽうに揺れ動いた。そして、戦う気力をうしなって疲れ果てたキアルの体は、床にくず折れた。長い、長い、凶暴な時間の後に、静かに死がやってきたのだ。
リース船長は、いちかばちか、運まかせというようなことはしなかった。砲撃が終わり、救命艇の残骸に近づくことができるようになったとき、捜索隊の見つけたのは、溶けた金属の小さな塊と、ただあちらこちらに、かつてキアルの体であったものの細かいかけらだけであった。
「かわいそうな猫だ!」と、モートンがいった。「自分の太陽が消えてしまった後で、われわれがやつの鼻先にあらわれるのを見たときは、どんな思いがしたろうね。反加速装置のことを何も知ってはいなかったものだから、奴さんなら三時間以上もかかるものを、われわれが、空間で急停止できるとは知らなかったのさ。奴さんは自分の惑星の方角に向かっているつもりだったろうが、実は、逆にどんどん遠ざかっていたというわけだ。われわれが急停止したとき、やつは、われわれを飛び越して行ったんだが、そんなことは、おそらく考えもつかなかったろうね。その後、われわれがやつの後を追って行って、やつをやっつけられる間近に近づくまで、やつの太陽の代わりをつとめたことも、考えがつかなかったろうな。きっとやつには、宇宙全体がさかさまになったような気がしたにちがいあるまい」
グローヴナーは、複雑な思いで、この言葉に耳を傾けていた。いっさいの出来事が急にぼんやりと曇りはじめ、形をうしない、暗闇に溶けていった。あの瞬間瞬間のこまかい出来事を、それらが起こったとおりの正確さで、二度と思い出せる人間はいないだろう。かれらがぶつかっていた危険は、もはや遠いことのような気がしていた。
「同情などいらんお世話だ!」と、ケントのいうのを、グローヴナーは耳にした。「われわれには仕事がある――あのあわれな世界の猫という猫を、一匹残らず殺すのだ」
カリタがものやわらかに呟いた。「それは簡単でしょう。やつらは原始人にすぎないのだから、われわれがただ船をおろすだけで、われわれを迷わしてやろうなどと、こすっからいことを考えながら、のこのこと寄って来ますよ」それから、グローヴナーの方を向いて、「わたしはまだ信じているんですがね」と、親しみのこもった口調になって、「このお若い方の『野獣』説が正しいとわかったいまでもね。どうお思いですか、グローヴナーさん?」
「ぼくはその考えを、もう一歩進めたいですね」と、グローヴナーはいった。「歴史家として、疑いもなく、あなたも同意してくださると思いますが、ある種族を絶滅させてしまうという試みが成功した前例はありません。忘れてはならないことは、あの化け猫が、われわれを襲って来たのは、死にもの狂いになって食物を求めていたことにもとづいていたということです。あの惑星の資源は、明らかにあの種族をあまり長くは生かしておけなくなっているのです。化け猫の仲間たちは、われわれのことを何も知らないのです。ですから、べつに脅威はありません。とすれば、このままほうっておいて、餓死させてしまってはどうでしょう?」
二 鳥人リーム
講演と討論
情報総合科学《ネクシャリズム》とは、一分野の知識を、他の諸分野の知識に、秩序正しく結びつける科学です。それは、知識吸収の過程をスピードアップし、学んだものを効果的に利用する技術を提供してくれます。みなさんのご出席をお待ちします。
講師 エリオット・グローヴナー
場所 情報総合科学部部室
日時 星歴第一年七月九日十五時五十分*
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*宇宙船ビーグル号では、一時間を百分、一日を二十時間とする、星時間《スター・タイム》によっている。一週は十日、三十日が一か月、三百六十日が一年である。日は曜日の名をつけず、ただ数で示す。日付は出発の瞬間から数えた数字で示される。
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グローヴナーは、すでにあらかた覆《おお》いつくされた掲示板に、このビラを吊りさげた。それから後ろにさがって、できばえを見た。ほかに講演が八つ、映画が三つ、教育映画が四つ、討論が九つ、それにスポーツ競技がいくつかという、たいへんな競争であった。しかもその上に、自室にこもって本を読む者もあり、友だちどうしの偶然の集まりもあるだろう。六か所のバーや食堂――そのどれもが、満員の参加者を見こんでいるのだ。
とはいうものの、かれのビラが人々に読まれるだろうという自信があった。ほかの掲示とはちがって、ただの紙きれではなかった。厚さ一センチほどの機械仕掛けの看板なのだった。文字は照明で、中から表面へ、シルエットで映し出されるようになっていた。光電池を組みこんだ紙のようにうすい色彩板が、磁力でくるくるとまわり、七彩の光をはなつのだ。字は一つ一つ色が変わるし、またグループごと変わるのだった。放射する光線の周波数は、磁力の作用で時々刻々、微妙に変化するから、同じ色彩の組み合わせは絶対に繰り返すということがなかった。
ビラは、ネオンサインのように、まわりのにぶいビラの中できわだっていた。目を引くことだけは、まちがいなしだ。
グローヴナーは、食堂に向かった。はいろうとすると、ドアのそばに立っていた一人の男が、一枚のカードを、かれの手に押しつけた。好奇の目で、グローヴナーは、それを見た。
総監督にはケントを
ケント氏は、本船最大の部門の部長であり、他の部門との協調性はよく知られている。グレゴリー・ケントは温かい心を持った科学者であり、他の科学者の問題に対しても深い理解を持っている。本船には百八十名の軍人に加うるに、八百四名の科学者が乗り組んでいるが、それらを統率しているのは、出発直前に、ごく少数の人間が選んだ行政部であることを思い返していただきたい。この事態は改められなければならない。われわれには民主的代表を選ぶ権利がある。
選挙演説会
星暦一年七月九日十五時より
ケントを総監督に選ぼう
グローヴナーは、その紙きれをポケットに入れると、明るい照明の輝いている食堂にはいって行った。ケントのような感情の激しい人物は、人々の集団を対立する派閥に分裂させることが、長い目で見てどんな結果を生むか、ほとんど考えてもみないらしい。過去二百年の間に出発して行った宇宙探険隊のうちで、完全に五十パーセントが帰還して来なかった。その理由は、帰って来た宇宙船の船上でのできごとの結果と考えるしか、ほかに判断の道はない。記録によれば、隊員間の不和、はげしい論争、隊の目的に関する意見の不一致、少数派の結成であった。しかも最後の少数派の数というのは、ほとんど遠征期間の長さに比例してふえていた。
選挙制は、そうした遠征で最近試みられるようになった改革であった。この制度が採用されたわけは、隊員が、天下りの指揮者の意志にむりやりに縛られるのを好まないからであった。しかし、宇宙船は、小型の国家ではなかった。いったん出発すれば、不慮の死傷者が出ても補充することはできなかった。危機に直面しても、その人的資源は限定されているのだ。
そこに潜んでいる危険を考えて眉をひそめ、この政治的な集会の時間と、自分の講演とがぶつかったことにもいらいらとしながら、グローヴナーは、そのまま自分の席に向かった。食堂は混んでいた。見ると、今週、食事をともにする仲間たちは、もう食べはじめていた。食卓の仲間は三人で、いずれも別々の部に所属する若手の科学者たちであった。
かれが腰をおろすと、中の一人が陽気に話しかけてきた。「どうだ、きょうの欠席裁判は、どんな女性を槍玉《やりだま》にあげることにするかな?」
グローヴナーは、人のいい男のように、声を立てて笑ったが、こういった言葉は、ほんのわずかばかりの冗談のつもりでいったことを、かれはよく知っていた。若い連中の間の会話は、いつでも同じことに落ちつくことにきまっていた。女とセックスのことに、話は向いてしまうのだ。今度の男ばかりの遠征隊では、性の問題は、全員の食事に、特殊の薬をまぜることで、化学的に解決されていた。それで肉体的な欲望は取りのぞかれたが、情緒的には不満だった。
さっきの質問に、返辞をするものはなかった。若い化学者のカール・デニスンが、話題を持ち出した男の方を顔をしかめて見てから、グローヴナーの方を振り返って、「きみ、今度の選挙は どうする、グローヴ?」
「秘密投票だよ」と、グローヴナーはこたえた。「それよりも、アリスンが話していた金髪娘のことをつづけようじゃないか、けさ――」
デニスンは執拗に、「きみは、ケントに入れてくれるだろうね?」
グローヴナーは、にっこり歯を見せて笑いながら、「まだ考えてないんだよ。選挙は、まだふた月も先じゃないか。モートンじゃ、どこが悪いんだ?」
「あの男は、政府に任命された男も同然じゃないか」
「そういえば、ぼくも政府に任命された男だし、きみもそうだ」
「かれは、ただの数学者にすぎんよ。ほんとうの意味での科学者じゃない」
「そりゃ、ぼくには初耳だね」と、グローヴナーがいった。「ぼくは長年の間、数学者というものは科学者だという妄想になやまされていたんだがね」
「まさにそれだよ。表面的に似ているからこそ、妄想なんだ」デニスンは、どうやら自分自身の思いつきを押しつけようとしているようだった。かれは、生真面目《きまじめ》な、がっしりした体つきの男で、すでに自分の論旨を相手に徹底させたとでも思ったように、ぐっと身を乗り出してきた。
「科学者は、しっかり手を握り合わなくちゃいかん。考えてみたまえ。ここには、われわれ科学者がいっぱい乗っているのに、連中はだれを押しつけてきた?――抽象概念をいじっている男じゃないか。そいつは、現実的な問題を処理する訓練じゃないんだぜ」
「おかしいね。ぼくは、モートンがわれわれ働く者たちの問題を、けっこううまく処理していると思っていたがね」
「われわれ自身の問題は、われわれにだって処理できるよ」デニスンは、腹立たしそうにいった。
グローヴナーは、注文用のボタンを押しておいたので、いまその注文した料理が、垂直コンベアに乗って、テーブルの中央につぎつぎにあらわれはじめた。かれは、鼻をくんくんとさせて匂いをかぎながら、「ああ、化学部直送のおが屑《くず》ステーキか。匂いだけはすてきだ。問題は、選挙に向けられたと同じだけの努力が、猫の惑星から取って来た灌木のおが屑を、われわれが地球から持って来たおが屑と同じくらい栄養たっぷりなものにするためにそそがれているか? ということだ」手を上げて、相手をさえぎると、「いや、こたえなくてもいいよ。ぼくは、ケント氏の部門の誠実さには、幻滅を感じたくはないんだ。たとえ、ケント氏のやり方は好きじゃなくてもね。実はね、ぼくは、あの紙きれに書いてある協力とやらを、かれに頼んだことがあるんだ。返辞は十年後に出直して来いということだった。たぶん、選挙のことは忘れてたんだろうね。その上に気に入らんのは、せっかくぼくが講演をしようというその同じ夜に、よりによって政治集会をやろうというんだからね」いうだけいってしまうと、グローヴナーは食事にかかった。
「この集会にくらべれば、講演なんかたいせつじゃないんだぜ。われわれは、きみも含めて、この船に乗っている全員に影響のある政治問題を討議しようというんだからね」デニスンは顔を赤くし、声を荒々しくしていった。「ねえ、グローヴ、よく知りもしない人間のことを、なんのかのということはできないんだぜ。ケントという人は、友だちのことを忘れるような人じゃないんだよ」
「ぼくは賭《か》けてもいいが、きらいな人間には特別の仕打ちをする男なんだぜ」と、グローヴナーはいった。かれは、いらいらしたように、肩をすくめた。「カール、ぼくにはケントが、われわれの現代文明の破壊的要素のすべてを代表しているように見えるんだ、カリタさんの歴史周期説によると、われわれはいま、われわれの文化の『冬』の段階にはいっているんだそうだ。ぼくは、いずれそのうち、もっと詳しく説明してもらいたいと思っているんだが、ケントの道化じみた民主化運動は、そういった『冬』型文化の兆候の一例だと保証できるね」
自分がこの船に乗っているのは、まさにそういったことを食いとめるためだと、かれはつけ加えたかったが、もちろん、そんなことはとてもできないことだった。これまでの多くの遠征隊に不幸を招いたのは、まさしくこういったような不和からだったのだ。その結果、人々には内緒ではあったが、すべての探険船は、種々の社会学的実験の実験場になっていたのだ――情報総合科学者、選挙、指揮権の分轄――こういったこととか、そのほか無数の小さな改革が試みられていたというのも、人類の宇宙への進出を、なんとかしてより犠牲のすくない方法で行なおうという希望からなのであった。
デニスンの顔には冷笑の色が浮かんでいた。かれはいった。「若き哲学者のご高説には拝聴を――」そして、にべもなく付け加えていった。「自分のためを思うなら、ケントに投票を!」
グローヴナーは、胸の怒りをこらえて、「ケントが当選したらどうするというんだね――ぼくのおが屑の割り当てを削るというのかい? なんなら、ぼくが隊長に立候補しようかね。三十五歳以下の連中の票をみんなかき集めちまうのさ。とにかく、三対一か四対一で、年寄りよりは頭数も多いからね。民主主義である以上、比例代表制を要求するよ」
デニスンもいくらか冷静になったらしかった。「きみは、重大なまちがいを犯してるぞ、グローヴナー。いまにわかるさ」
後の食事は、沈黙のなかでつづけられた。
あくる日の夕方、十五時五十分の五分前になって、グローヴナーは、どうもあの講演のビラは失敗で、きき目がなかったのではないかという気がしはじめた。わけがわからなかった。かれに考えられる理由としては、ケントが、自分を支持しないといってのけた男の講演になど、出席してはならぬと自分の取り巻き連中に命じたのではということだった。しかし、たとえ化学部長が有権者の大多数を制しているとしたところで、まだケントに動かされない人間が、二、三百人は残っているはずなのだ。グローヴナーは、情報総合科学の教育を受けたある政府の高官が、出発前夜に、かれにいった言葉を思い出さずにはいられなかった。
「ビーグル号での、きみの今度の仕事は、けっして楽じゃないよ。情報総合学は、学習に対しても、連想観念に対しても、まったく新しい問題の取り上げ方をしているものなのだ。古い連中は、本能的に戦いを挑んでくるだろうし、若い連中も、在来の教育法で育ってきた人間は、自動的に敵意を抱いてくるはずだ。自分たちがやっと身につけた新技術が、もう時代遅れだといわれたようなものだからね。きみ自身も、いままで理論として学んできたことを、はじめて実地に使ってみなければならぬわけだ。もっともきみの場合は、そうした頭の切り換えそのものが訓練の一部でもあるわけだがね。とにかく忘れてはならないのは、正しい人間は、しばしば、いざというときに、人に耳を傾けてもらえるということだ」
十六時十分になると、グローヴナーは、二か所にある社交室と、中央廊下に出かけて行って、それぞれの掲示板にある自分の講演の時間を十七時に訂正した。十七時になると、それを十七時五十分になおし、さらにその後十八時に改めた。「もう出て来るさ」と、自分にいい聞かせた。「いくら政治的集会だって、いつまでもつづけることはできまいし、ほかの講演会だって、せいぜい二時間どまりだろう」十八時五分前になると、廊下をゆっくりとやって来る、二人の男の足音が聞こえた。開いた戸口の前で立ちどまったと思うと、しばらく沈黙していたが、やがて、一人の声がした。「ここだ、まちがいない」
はっきりしたわけもなしに、二人は声を立てて笑った。一瞬の後、二人の青年がはいって来た。グローヴナーは、ちょっとためらってから、なれなれしくうなずいて見せた。遠征に出た最初の日から、かれは船内の人間をおぼえる仕事を、自分の仕事にしていた。一人一人の声、顔、名前――できるだけ、一人一人について多くのことを知ろうとしていた。なにぶん調査する相手がとてもたくさんなので、仕事はまだ完結していなかった。しかし、この二人のことはおぼえていた。どちらも化学部の人間だった。
グローヴナーは、そのへんを歩きながら、二人が、ずらりと並んだ訓練装置を見てまわるのを、注意深く見守っていた。二人は、ひそかにおもしろがっているようすだった。やっと、二人は椅子におちつくと、一人がことさらていねいな口振りでいった。「講演はいつおはじめになります、グローヴナーさん?」
グローヴナーは、腕時計を見て、「五分ほどしたらやりましょう」といった。
その間に、八人の男がはいって来た。これは出足の悪さでくさっていたグローヴナーを、かなり元気づけた。しかもなかの一人が、地質学部長のドナルド・マッカンとあっては、なおさらだった。聴衆のうちの四人が化学部員だという事実などは、もうどうでもよかった。
大いに気をよくして、かれは、講演にとりかかった。条件反射に関して、パヴロフの時代から説き起こして、それが情報総合学の一つの基盤となるまでの発展のあとをたどった。
講演の後、マッカンがそばへ寄って来て、かれに話しかけた。「ちょっと気がついたのだが、きみのところでは、眠っているうちにものを教えるという、いわゆる睡眠教育装置も、技術の一部となっているらしいね」くすくすと笑いながら、「ぼくはおぼえているが、昔習った教授の一人が、科学に関する知識を全部学ぼうとすると、千年近くかかるといっていたがね。きみは、そういう限界を認めなかったね」
グローヴナーは、相手の灰色の目が、優しげにまたたきながら、自分を見つめているのに気づいていた。かれはにっこりして、「その限界は」といった。「一部分は、準備訓練なしに機械を使った、古い方式の産物なんです。今日、情報総合科学財団では、最初の抵抗を除去するのに、催眠術と精神療法を応用しています。たとえばわたしの例を申しあげると、最初にテストを受けたときは、催眠教育装置は、二時間ごとに五分しか使えないといわれたものです」
「ひどく低い許容度だね」と、マッカンがいった。「ぼくは、三十分ごとに三分だったよ」
「でも、あなたは、それをそのまま受け入れておしまいになった」と、グローヴナーは強調するようにいった。「そうでしょう?」
「きみは、どうしたんだね?」
グローヴナーは、にっこり笑いを浮かべて、「ぼくは、なんにもしませんでした。いろいろな方法で条件訓練を受けているうち、装置をかけたまま、八時間ぶっ通しで熟睡できるようになりました。もちろん、その間、ほかのいろいろな技術も付け加えて使ってはいましたがね」
地質学者は、最後の一句を無視して、「八時間ぶっ通しだって!」と、びっくりしてしまった。
「ぶっ通しです」と、グローヴナーはうなずいた。
マッカンは、そのことを考えているようなようすだった。が、しばらくすると口を開いて、「しかし、そうしたところで、千年が約三分の一だけちぢまるだけだ。条件訓練がないとしても、睡眠時間十五分ごとに器械を五分間かけて、しかも目をさまさずにいられる人なら、かなりたくさんいるからね」
グローヴナーは、相手の顔の反応を注意深く見ながら、ゆっくりこたえた。「しかし、その場合でも、情報をなん度も繰り返さなければいけないのでしょう」マッカンの顔に、驚愕《きょうがく》の色が浮かんだことから、グローヴナーは、相手に論旨を徹底させることができたと感じた。かれは、いそいで話の先をつづけた。「きっと、あなたにも、こういう経験がおありでしょう。見たり聞いたりしたなにかが――それもたった一度だけの経験でいながら――けっして忘れられないというのがおありでしょう。かと思うと、別の場合には、同じような深い印象を受けたはずだと思うのに、時には、そのことが話題に出ているのに、はっきり思い出せないくらい、その印象がすっかりうすれてしまっている場合があります。それには、理由があるのです。情報総合科学財団は、それがなにかということを発見したのです」
マッカンは、なんにもいわず、唇をすぼめた。かれの肩ごしに、グローヴナーは、化学部から来た四人が、廊下のドアの近くに、ひとかたまりになっているのを見とめた。かれらは、小声で話し合っていた。グローヴナーは、その連中に、ちらっと視線を向けただけで、地質学者に話しつづけた。「はじめのころは、ぼくには圧力が強すぎるんじゃないかと思ったこともたびたびありました。おわかりでしょうが、睡眠装置についてだけお話しているのじゃありません。実際の訓練量からいいますと、睡眠教育は、全体の十パーセントそこそこにすぎないのですから」
マッカンは、首を振っていた。「そういう数字だけで、ほとんど気が遠くなりそうだね。たぶん、いちばん大きいパーセンテージを占めるのは、ほら、あの何分の一秒か、ちらっと画像が出て消えてゆく、小さなフィルムなんだろうね」
グローヴナーはうなずいて、「瞬間露出《タキトスコピック》フィルムは、一日に約三時間使いましたが、全体の訓練量としては、約四十五パーセントというところでしたね。要は、スピードと反復ですよ」
「一部門の科学全体を、一度でものにするわけか!」マッカンは大きな声でいった。「それが、きみのいう総合的に学ぶというやつだね」
「それは、全体からいえば、ほんの小さな一面にすぎないんです。われわれは、あらゆる感覚を使って学びました。指、耳、目、そればかりではなく、嗅覚から味覚までも使って学びました」
もう一度、マッカンは、額に八の字を寄せて立ちつくしていた。グローヴナーが見ると、若い化学部の連中が、やっと部屋からぞろぞろと出て行くところだった。廊下から低い笑い声がひびいて来た。その声で、マッカンは、はっとおどろいて物思いからさめたようだった。化学者は、手を差しのべて、いった。
「どうだね、いつか一度、ぼくの部へやって来ないかね。ことによると、きみの総合的な知識と、われわれの野外作業とを総合する方法が考えられるかもしれないよ。今度、どこかの惑星に降りたとき、試してみられるぜ」
グローヴナーは、廊下づたいに自分の寝室の方へ歩きながら、そっと口笛を吹いた。最初の勝利を勝ちとったのだ。そう思えば、気持ちは楽しさでいっぱいだった。
1
あくる日の朝、自分の部の部屋にやって来たグローヴナーは、ドアが開けっぱなしになっているのを見て、驚いた。部屋の中からさしている明るい照明が、廊下の薄暗い照明に、くっきりと床に区別をつけていた。急いで戸口まで進み出たかれは、はっと戸口で足をとめた。
最初にちらっと目に飛びこんだのは、きのう、かれの講演に出席していた二人を含めて、七人の化学部の技術者だった。いろいろな機械類が、部屋に運びこまれていた。いくつかの大型の実験槽、加熱装置、それに実験槽へ化学薬品を送りこむためのパイプひと揃えだった。
グローヴナーの心は、講演の席での化学部技術者のふるまいに、はっと飛ぶようにもどった。戸口を通り抜けたが、自分の大切な装置に、何かされているのではないかと思うと、胸も痛み、もしかという思いで、気も張りつめるほどだった。この表側の部屋を、かれは専門とは関係のない一般用の用途に使っていた。いつもは多少の機械はおいてあったが、本来は、他の部屋から放送の教育資料を中継して、集団教育に用いるように設計されたものであった。残りの四部屋には、かれの大切な特殊な装置類が据《す》えられていた。
撮影と録音スタジオへのドアも開けはなしになって、グローヴナーが見ると、そこもまた占領されていた。あまりのショックに、かれは口もきけないほどだった。侵入した連中を無視して、表の部屋を通り抜け、特別装置のある四つの部屋に、順々にはいって見た。三部屋までが侵入した化学者たちに占領されていた。フィルム・スタジオのほかに、実験室と工具室である。技術装置のある第四の部屋と、それにつづく倉庫も、完全に無疵《むきず》というわけではなかった。その中に、動かせる機械や家具類が、ほかの部屋から手あたり次第に持ちこまれて、山のように積まれていた。第四の部屋から狭い廊下にドアが通じている。これからは、自分の部への出入り口は、これになるらしいと、グローヴナーは、むっつりと歯を食いしばった。
それでもなお、かれは怒りをこらえて、この事態の陰に潜んでいるものを推しはかろうとした。かれは、自分がモートンに抗議するのを、相手は待ち構えているのだなと考えた。おそらく、ケントは、それを選挙に有利に役立てようというのだろう。どう役立つのか、グローヴナーには見当もつかなかったが、ケントがそう思っていることだけは明らかだった。
ゆっくり、グローヴナーは、表の部屋――講習室にもどった。そこではじめて、実験槽が食糧製造用の機械だということに気がついた。なるほど頭のいいやり方だ。いままではろくに使われていなかったと、そういう理屈も成り立つような空間を、有効な用途に利用したかのように、はた目には見えるだろう。その抜け目のないやりくちが、グローヴナー自身の頭のよさに挑んできたのだ。
なぜこんなことになったかは、たいして疑う余地もないような気がした。ケントが、かれをきらっていたからだ。ケントを選出することに反対だと、はっきり口に出してしまった――そのことは、どうせ報告されたにきまっている――が、そのことが、相手の憎悪をかき立てたのだ。だが、化学部長が執念深いこんな報復措置に出てきたことは、うまく逆手にとれば、ケントをたたく材料になるかもしれない。
とにかく、こんな侵略行為からは、なんの得もないということを、はっきりケントに見せてやらなければならないという気が、グローヴナーにはした。
グローヴナーは、つかつかと一人の男に歩み寄ると、こういった。「すまないが、みんなにこう伝えてもらえないかね、ぼくは、化学部の諸君の教育を向上させる機会ができて、たいへん喜んでいる、働きながら学ぶことに反対する人のないように願いたい、と」
かれは、返事を待たずに立ち去ったが、振り返って見ると、相手は、ぽかんとして、かれを見送っていた。グローヴナーは、笑いたくなるのをがまんした。技術室にはいって行きながら、かれは、まったく愉快な気がしていた。さて、とうとう、用意してきた訓練方法の一部を、実地に生かすことのできる機会に、やっと当面することになったらしい。
動かすことのできる棚や、そのほかの装置類が、割合に狭い場所に、手あたりしだいに押しこまれていたおかげで、必要な催眠ガスを見つけるのに、グローヴナーは、しばらくの時間をついやした。三十分近くかかって、容器の噴出口に消音装置をとりつけた。そうすれば、容器の中の圧縮されたガスを放出しても、しゅうしゅうという音がしないですむのだった。その仕掛けができあがると、グローヴナーは、容器を表の部屋に運びこんだ。かれは、壁に作りつけの、格子窓のついたキャビネットの鍵をあけ、容器を中に置き、ガスの栓《せん》をひねった。それから手早く、格子窓のついたドアに、ふたたび鍵をかけた。
かすかな芳香が、実験槽から立ちのぼる薬くさい匂いにまじって、ただよいはじめた。
低い口笛を吹きながら、グローヴナーは部屋を横切って行こうとしかけたが、ゆうべ、講演に出席していた一人で、侵入組の職長代理の男に呼びとめられた。
「いったい、どういうつもりで、何をやらかしたんだ?」
グローヴナーは、穏やかにいった。「すぐ気にならなくなるよ。きみたちへの教育番組の一部さ」
「教育番組なんて、誰がたのんだんだ?」
「こりゃごあいさつだね、モールデン君」と、グローヴナーは、びっくりしたふりをして、いった。「ぼくの部に来たのは、ほかのことをしようってわけじゃないのだろう?」そこで笑いにまぎらして、「冗談だよ。あれは、ただの脱臭剤さ。この部屋がくさくなるのはいやだからね」
今度も、相手のこたえを待たずに歩き出し、片隅に立って、ガスの反応を見守った。侵入して来たのは、全部で十五人だった。おそらく五人は全面的に有望な反応を、もう五人が部分的に有望な反応を見せると考えることができる。どの程度、ガスの影響を受けたか、見わける方法がある。
数分間、注意深く観察してから、グローヴナーは前に歩み出ると、一人の男のそばに足をとめ、低いが、しっかりした声でいった。「五分たったら洗面所に来てくれ。わたす物がある。さ、忘れてしまうんだ、そのことは!」
かれは、表の部屋と映画のスタジオを結ぶ戸口までしりぞいた。振り向くと、ちょうどモールデンが、いまの男に近づいて、何か話しかけるのが見えた。男は、誰の目にもわかるほど、びっくりしたように首を左右に振っていた。
モールデンの声は、驚きと怒りのまじった調子を帯びていた。「やつがおまえに話しかけなかったとは、どういうことだ? おれは、この目で見たんだぞ」
男も腹を立てていた。「なんにも聞きやしなかったんだ。本人がいうんだぜ」
口論がつづいたかどうか、グローヴナーは、その後は、聞きもしなかったし、見もしなかった。隣の部屋にいる若い連中の一人が、十分な反応を見せているのを、横目で見てとったのだ。かれは、前と同じようにさりげないようすで、その男に歩み寄って、最初の男にいったのと同じ言葉を話しかけた――ただ一つだけ違っていたのは、五分後でなく、十五分後にしたことだった。
こうして全部で、六人の男が、グローヴナーの計画に必要だと考える程度に、強い反応を見せた。残りの九人のうち三人――そのうちにはモールデンもはいっている――が、それより強い反応を見せた。が、グローヴナーは、その連中はそのままにしておいた。いまの段階では、絶対確実な者だけが必要だった。後の連中には、後で、ちがった方法をやってみればいい。
グローヴナーが待ちかまえていると、実験の最初の対象にしようと思っていた男が、洗面所にはいって来た。かれは、相手ににっこり笑いかけて、いった。「こんなものを見たことがあるかね?」かれが差し出したのは、ごく小さなクリスタル・レシーバーで、小さなふちが、耳の内側にぴったりくっつくようになっている。
男は、その小さな装置を受けとってから、しげしげと眺めていたが、当惑したようすで首を左右に振って、「いったいなんだね?」とたずねた。
グローヴナーは、命令するようにいった。「こっちを向きたまえ。耳にはめてあげよう」相手がべつに質問もせずに、おとなしくそのとおりにすると、グローヴナーは、しっかりとした口調で言葉をつづけた。「外に向いた部分が肉色をしているのが、よくわかるだろう。つまり、ようく調べないとわからないわけだ。もし、誰かに気づかれたら、補聴器だといえばいい」
かれは、相手の耳にはめおわると、一歩さがって、「一分かそこらすると、感じなくなるよ」
男は、興味をそそられたようだった。「もうほとんど感じない。なにをするものだね?」
「ラジオ」と、グローヴナーは、一語ずつを強調するように、ゆっくりといって説明した。「しかし、なにをいっているか、きみの意識には聞こえないはずだ。言葉は、素通りして、直接きみの無意識の中へはいってしまう。ほかの連中が、きみに話しかけることも聞こえるし、きみも話をつづけることができる。ということは、何か変わったことが起こっているという意識がなく、いつものとおり仕事がつづけていけるんだ。そのことは、すっかり忘れてしまうんだ」
「ふうん、こりゃ驚いた!」と、その技術者がいった。
かれは、首を振りながら出て行った。数分すると、二番目の男がはいって来た。以下、つぎつぎに、深い催眠反応を起こした残りの四人が、順にはいって来た。グローヴナーは、みんなに、ほとんど目につかない耳ラジオをはめてやった。
気楽な気持ちで鼻歌まじりに歌を口ずさみながら、グローヴナーは、別の催眠ガスを持ち出して、適当な容器に入れ、キャビネットの中のものと取り換えた。今度は、モールデンと、ほかの四人が強い反応を示した。後の四人のうち、二人が軽い反応を見せ、一人――さっき軽度に反応を示した男――は、この前の反応からすっかりさめたような状態になった。そして、最後の一人は、まるきりなんの徴候もあらわさなかった。
グローヴナーは、十五人のうち十一人が深い催眠状態にはいったので、いちおう満足することにした。いまに自分の部員の中から、化学の天才がぞくぞくとあらわれるのを見て、ケントめ、いやな驚きを味わうことだろう。
そうはいっても、これだけでは、決定的な勝利から遠かった。決定的な勝利をつかむには、おそらく、ケント本人に、もっと直接的な攻撃をかけるほかにはあるまい。
すばやく、グローヴナーは、耳ラジオの実験放送用のテープの録音にとりかかった。その放送を絶え間なく流しながら、連中のなかをぶらぶらと歩きまわりながら、どう反応するかを観察した。四人が、何か気にかかるようなようすをしていた。グローヴナーは、しきりに首を振っている一人に歩み寄った。
「どうかしたのか?」と、かれはたずねた。
男は、悲しそうに笑い声を立てて、「人の声が、しじゅう聞こえるんだ、ばかばかしい」
「大きな声か?」これは、ふつうの人のことを気に病む人間がする質問とは、すこし毛色がちがっていたが、グローヴナーはいやに熱心だった。
「いや、遠くで聞こえるんだ。だんだん遠くなったと思うと、また――」
「すぐに消えるよ」と、グローヴナーは、なだめるようにいった。「心が過度に興奮すると、そういうことがあるのを知ってるだろう。うけあい、いますぐなおるよ。こうして誰かと話して、気をまぎらすだけで」
男は、きき耳を立てるかのように、首をかしげていたが、いぶかしそうに首を振って、「消えたみたいだ」と、体をしゃんと伸ばすと、ほっとしたように溜息をついた。「一時は、どうなるかと心配しちゃった」
残りの三人のうち二人は、わりあい楽に安心させることができた。しかし、残りの一人は、さらに暗示をかけてやっても、まだ声が聞こえつづけるといった。とうとう、グローヴナーは、その男だけをわきへつれて行って、耳を調べるふりをして、豆ラジオをはずしてしまった。この男にはもうすこし訓練が必要なんだろうと思った。
グローヴナーは、ほかの連中と、ふた言み言話をかわした。それから満足して、技術室にもどり、十五分ごとに三分ずつ放送が流れるように、一連の録音テープをセットした。表の部屋へもう一度出て行って、あたりを見まわしたが、すべて良好だった。これなら、このまま連中に仕事をさせておいても安全だと考え、廊下へ出て、エレベーターのほうへむかって行った。
数分後、かれは、数学部の部室へはいって、モートンに面会を求めた。驚いたことに、ただちに、かれは通された。
モートンは、大きなデスクの前に、ゆったりとすわっていた。数学者は、目の前の椅子《いす》を指さしたので、グローヴナーは腰をおろした。
モートンの部屋にはいったのは、はじめてだったので、かれは、物珍しそうにあたりをしげしげと見た。大きな部屋で、観測スクリーンが、一方の壁全部を占めていた。ちょうどそのときには、スクリーンには、大きな渦を巻いた故郷の銀河系が、すみからすみまで見渡せるような角度に調節されていた。太陽もその中のごく小さな一微粒子にすぎなかった。しかも数え切れぬほど多くの星が一つ一つ、目に見えるほど近く、同時に、その霞《かすみ》のかかったように光る銀河系の壮大な姿が、輝きの絶頂に見えるほど、遠くにあった。
映像の面にはまた、いくつかの星団もうつっていた。それらの星団は、銀河系本体の外にはあるが、銀河系とともに宇宙空間を回転しているのだった。その光景は、目下宇宙船ビーグル号が、そうした小星団の一つの中を飛んでいることを、あらためてグローヴナーに思い出させた。
挨拶《あいさつ》が終わると、グローヴナーはたずねた。「この星団のどこかの恒星に寄って行くかどうか、もう結論は出たのですか?」
モートンはうなずいて、「結論は反対ということらしい。ぼくも同意見なんだ。われわれは、もう一つの銀河系に向かっているのだし、それでなくても、地球からはずいぶん遠い旅だからね」
モートンは、身を乗り出して、デスクから一枚の書類を取り上げてから、どっかりと椅子によりかかった。かれは、ふいに口を開くといった。「きみのところに侵入した連中がいるそうだな」
グローヴナーは、皮肉っぽく微笑を浮かべた。探険隊員の中には、この事件でよろこんでいる者もいるにちがいないと、想像することができた。かれは、この前の事件で、同船している仲間に自分の存在を意識させ、情報総合科学の本領について不安を感じさせたのだった。こういう連中は――まだケント支持派ではない者も多いのだが――総監督が事件に介入することには反対するだろう。
それは承知の上で、はたしてモートンが、この事件の必然的結果を理解しているかどうか、さぐり出しに、かれは来たのだった。簡潔に、グローヴナーは、事件の顛末《てんまつ》を話した上で、こういった。「モートンさん、ぼくは、ケントに、この侵略行為を中止するよう指令していただきたいのです」そんな指令を出してもらおうとは思っていなかったのだが、モートンも事態の危険性を悟っているかどうか、知りたかったのだ。
総監督が首を左右に振って、おだやかにいった。「ともかく、きみが一人にしては広い部屋にいるのは事実だよ。どうして、ほかの部に同居させてやらないのだね?」
しごくあいまいな答えだった。グローヴナーには突っ込んでみるほかにはどうしようもなかったので、きっぱりといってみた。「つまり、この船上では、部長ならだれでも、許可なしで、よその部の部屋へ割り込んでいいと、考えてよろしいのでしょうか?」
モートンは、すぐには返辞をしなかった。かれの顔には、苦笑が浮かんでいた。ようやく、鉛筆をもてあそびながら、いった。
「どうも、きみは、ビーグル号上でのぼくの立場を誤解しているという気がするんだがね。ある部門の部長に関係した決定を下す前には、他の部門の部長たちに相談をしなければならないのだ」といって、かれは天井を見上げて、「かりに、ぼくがこの問題を部長会議の議題にかけたとしてみたまえ。そのうえで、ケントが、すでに占領したきみの部の一部を現在どおり使用してもよいという決定が出たということになると、正式な確認を受けたわけだから、現在の状態は、その後は、永久的になってしまうというわけだ」最後は、慎重な口調で、こうしめくくった。「だから、いまの段階では、きみもそういった制約を受けたくないだろうという気が、ぼくにはしたのでね」といって、モートンは顔いっぱいに微笑を浮かべた。
グローヴナーは、目的を達したので、ほほえみ返した。「この件で、あなたの支持がいただけて、まことにしあわせです。すると、ケントが問題を議事に持ち出さないようにしていただけるのですね?」
手のひらを返すようにグローヴナーの態度が変わったのに、驚いたかどうかはともかく、モートンは、そんな気ぶりも顔には出さなかった。「議事日程は」と、かれは、満足そうにいった。「かなり、ぼくの自由になる。作製するのは、ぼくのオフィスだし、提出するのはこのぼくだ。ケントの要求事項を、つぎの会議の議事にのせるかどうかは、部長投票できめるわけだが、現在進行中の部長会議に、それを組み入れることはありえないね」
「というと」と、グローヴナーがいった。「ケント氏は、もう、ぼくの部の四部屋の使用申請書を出しているということなんですね」
モートンはうなずいた。それまで手に持っていた書類を置くと、代わりに時計をとり、考えこむように、それを見つめた。「つぎの会議は二日後に行われる。それからは、ぼくが延期させないかぎり、毎週一回ずつだ。ぼくの考えでは」――と、ひとりごとのような調子で――「いまから、十二日後に開催予定のぶんは、らくに取り消しがきくだろう」かれは、時計を置くと、勢いよく立ちあがった。「とすると、きみが自分を守るのに、二十二日間のひまがあるわけだ」
グローヴナーは、ゆっくりと立ちあがった。日限のことでは、何もいわないことにした。いまの場合では、その日限については、十分すぎるような気がしたが、そんなことを口に出せば、うぬぼれていると聞こえるかもしれなかった。その日限が切れるずっと前に、自分の部室をふたたび自分のものに取りもどすか、あるいは、敗北するかは、きまるだろう。
声を出して、グローヴナーはいった。「もう一つお願いしたいことがあるんです。宇宙服を着けたとき、ぼくにも他の部長がたと、直接通話させていただく権利があると思いますが」
モートンはにっこりして、「それはきっと、何かの手違いだろう。さっそく改めさせよう」
二人は握手して、別れた。情報総合科学部に向かいながら、ひどく遠まわりではあるが、情報総合科学が着々と地歩を固めつつあるという気が、グローヴナーにはしていた。
表の部屋にはいったグローヴナーは、心理学部長のシーデルが片隅に立って、化学部員たちの仕事を見守っているのを見て驚いた。心理学者は、かれを見ると、首を振りながら歩み寄って来た。
「きみ」と、かれはいった。「これは少々道義にもとるんじゃないのか?」
グローヴナーは、自分がこの連中にやったことを、シーデルに察しられたと思って、気がめいるのを感じながら、けどられたとは声には出さず、すばやくいった。「実に非道義的ですよ。あなたも、かりにご自分の部の部屋を、法的権利をやみくもに無視して乗っ取られたら、まったくぼくと同じ思いを味わわれるでしょう」
だが、かれは考えた。いったいなぜ、シーデルはここに来ているのだろう? ケントが調査をたのんだのだろうか?
シーデルはあごをなでていた。よく光る、黒い目をした、たくましい体の持ち主である。「ぼくのいった意味は、そのことじゃない」と、かれはゆっくりといった。「しかし、ぼくの見るところ、どうやらきみは、自分が正しいと感じているようだね」
グローヴナーは、戦術を変えた。「すると、ぼくがこの連中にほどこしている教育の方法に関していっておいでなんでしょうか?」
かれは、良心のとがめなど、まるきり感じていなかった。どんな理由で、この男がここに来たのであろうと、できるなら、この機会を利用して、自分の有利になるように、事を運ばなければならなかった。できることなら、心理学者の心に迷いを起こさせて、ケント対自分の今度の闘争に、中立の立場をとらせるようにしたかった。
シーデルは、その言葉にかすかに皮肉のとげをまじえながら、いった。「そのとおりだ。ケント君の要請でね、挙動が平常のようすとはちがっていると、かれが考えた部員たちを診断したのだ。その診断の結果を、かれに報告するのは、わたしの義務だからね」
「なぜです?」と、グローヴナーはいった。かれは、真剣に言葉をつづけた。「シーデルさん。ぼくの部は、ある人物のために侵略されたのですよ。その人物は、ぼくがただ、その人物には投票しないと公言したから、ぼくが気に入らんというのが、この侵略の理由です。かれがこの船の規律を無視する行動に出たのですから、ぼくも最善をつくして自衛するための、あらゆる権利があるはずです。ですから、この純粋に私的な争いには、ぜひ中立を守っていただきたいのです」
シーデルは、額に八の字を寄せて、「きみはわかっていないらしいね」といった。「わたしは、心理学者としてここに来ているんだ。きみが相手の同意なしに催眠をかけるのは、道義に反するといっているのだよ。そんな行為を支持すると思っているなんて、あきれたもんだね」
グローヴナーはいった。「ぼくの倫理規定も、あなたのそれと同じように厳格なものです。それは、ぼくが保証します。なるほど、あの連中には、本人の許可なしに催眠術を用いましたが、それを悪用してかれらを傷つけたり、困らせたりするようなことはしないよう、念には念を入れて、さしひかえているつもりです。こういうわけですから、あなたがケントの肩を持たなければならんという義理は、全然ないと思います」
シーデルは、顔をしかめて、「これは、きみとケントとの間の争いだ――そのとおりなんだね?」
グローヴナーはいった。「実質的にはね」そうこたえたが、つぎに来るものの見当はついていた。
「それなのに」と、シーデルがいった。「きみが催眠にかけたのは、ケントではなく、罪もない第三者のグループじゃないか」
グローヴナーは、四人の化学部員が、ゆうべの講演会の席で、どんなふうにふるまったかを思い出した。すくなくとも、罪もないとはいえない連中もいるのだ。かれはいった。「そのことで、あなたと議論をしたくはありません。ただ、これだけはいえますね。歴史はじまってこの方、思慮のない多数の者は、指導者の命令の動機が、どこにあるか探ろうともせず、ただそれに盲従した結果、つねに高い代価を払わされたということです。しかし、そんなことより、あなたに一つおたずねしたいことがあるのですが」
「というと?」
「技術室へは、おはいりになりましたか?」
シーデルはうなずきはしたが、何もいわなかった。
「テープはごらんになったでしょうね?」とグローヴナーは食いさがった。
「ああ」
「内容にお気づきだったでしょうね?」
「化学に関した知識だ」
「かれらに聞かしているのは、それだけですよ」と、グローヴナーはいった。「これからも、それだけしか聞かせないつもりです。ぼくは、自分の部は、一種の教育センターだと考えています。むりにここへ押し入って来る連中は、好むと好まざるにかかわらず、教育を受けてもらいます」
「白状するが」と、シーデルがいった。「そんなことをして、かれらを追っぱらうのにどう役に立つのか、わたしにはわからないね。けれど、ケント氏には、よろこんで、きみのやっていることを話しておこう。部下がさらに化学の勉強をすることには、べつに異存はないはずだからね」
グローヴナーは、返辞をしなかった。このままでいると、いまに部下が、かれにまさるとも劣らぬ専門知識を身につけたことを知って、ケントがどんな気がするかについて、グローヴナーには、かれなりの意見があるのだった。
かれは、シーデルが廊下に姿を消すのを、憂鬱《ゆううつ》そうに見送った。シーデルは、詳しい報告をケントにするにちがいないが、そうなると、何か新しい計画を考え出さなければなるまい。その場に佇《たたず》んだまま、徹底的な防衛手段に出るにはまだ早すぎると、グローヴナーは考えた。手を休めずに積極的な行動に出ることは、へたをすると、自分がこの船上でくい止めようとしている事態を誘発してしまわないといい切るのはむずかしかった。歴史周期説については、無条件に信用しているわけではないが、文明というものが、生まれ、だんだん年をとって成長し、最後には老齢に達して死滅するということは、よくおぼえておいたほうがよさそうだった。これ以上、何かをする前に、一度カリタと話をして、自分が知らず知らずのうちに落とし穴の方へむかっているのではないかを、知っておいたほうがいいと思った。
情報総合科学部と同じ階の反対側にある第二図書室で、かれは、日本人の科学者カリタをさがしあてた。かれがその場へ来たときは、ちょうどカリタが図書室を出ようとするところだったので、グローヴナーは肩を並べて歩き出した。前置きなしに、かれは、いま胸にわだかまっている問題のあらましを話した。
カリタは、すぐにはこたえなかった。二人が長い廊下のはしまで歩いたとき、長身の歴史学者は、疑わしげな口調で口を切って、「ねえ、きみ」といった。「一般論をもとにして、特殊の問題を解決することのむずかしさは、あなたにも十分おわかりだと思います。周期学説の見解として提供できるもの、実質的にはその程度にすぎませんね」
「それでも」と、グローヴナーがいった。「すこし類推《アナロジー》で教えていただければ、わたしにはたいへん有効なんです。この問題について読んだかぎりでは、いまわれわれは、その文明の末期、つまり『冬期』にいる。別の言葉でいうと、現在われわれは、衰亡を招くような誤りを犯しつつあるということでした。それについては、わたしにも二、三の考えはあるのですが、もうすこし教えていただければと思うのです」
カリタは、肩をすくめて、「では、簡単にお話してみましょう」かれは、しばらく沈黙していてから、話しはじめた。「『冬期』文明に見られる、特に目立った共通因子は、大多数の個人が物事のしくみに対して、しだいに理解を深めてゆくということでしょう。人々は、自分の心の中や、肉体、さらにはまわりの世界がどう動いているかについて、ただ迷信的な、あるいは超自然的な説明を与えられるだけでは飽きたりなくなる。徐々に知識が高まってゆくと、どんなに単純この上なしという頭の持ち主でさえ、はじめて『物を見抜く』目ができ、意識的に、少数者の世襲的優越性という主張を、拒否するようになるのです。そして、平等のための頑強な戦いがはじまるのです」
カリタは、しばらく息をついてから、先をつづけた。「有史以来の、あらゆる文明の『冬期』に共通してみられる、もっとも重要な共通点は、この個人の権利拡張のための広範な闘争です。そのよしあしはともかく、この闘争はふつう、すでに立場を固めてしまっている少数者を擁護しがちな、法体系の枠内で起こるものなのです。そして、遅れてその舞台に登場した者は、自己の動機を理解しないまま、めくらめっぽうに権力闘争に飛びこんでしまうのです。結果は、未熟な知能が、まぎれもなく入り乱れて闘うということになるのです。欲と恨みにかられて、人々は、かれらと同様に混乱した指導者に盲従する。その結果から生じる無秩序は、これまでにも繰り返したように、きまりきった段階を経て、最後には静的な『古代農夫』型状態を招くことになるのです。
早かれおそかれ、一つの集団が支配権を握るでしょう。いったん政権を握ると、こういう指導者たちは、野蛮きわまる流血によって『秩序』を回復するので、民衆はおびえすくんでしまう。権力を握った集団は、すばやく、行動の制限をはじめる。認可制度やその他の規制手段は、組織社会であるかぎり必要ですが、これが弾圧と独占の道具に化する。個人が新しい事業に従事するなどということは、困難になり、やがては不可能にさえなるわけです。こうなると、後は急速に、おなじみの古代インドの身分階級《カースト》制に進むか、あるいは、それほどよくは知られていませんが、同じように膠着《こうちゃく》した社会、たとえば紀元三百年ごろのローマの社会のそれのようなものへ進んだりするわけです。個人は生まれついた身分に制約され、それ以上にのぼることはできないのです……ざっと要約すればこんなものですが、お役に立ちましたでしょうか?」
グローヴナーは、ゆっくりとした口調でいった。「さっきもお話したとおり、ぼくはケント氏が起こした問題を、いまあなたがおっしゃった文明末期型の人間が犯すような、自己中心的なあやまちに落ちいることなしに、解決しようと思うのです。それで知りたいと思うのは、すでにビーグル号上にある対立関係を悪化させずに、ケント氏に対して自分を守れるかどうかということなんですが」
カリタは、苦笑いを浮かべて、「もし、あなたがそれに成功すれば、すばらしい勝利でしょうな。歴史的にいうと、集団的な基準で見るかぎり、その問題はいまだかつて一度も解決されたことがないのです。まあ、がんばってください!」
事件が起こったのは、その瞬間だった。
2
二人は、グローヴナーの部屋のある階の、『ガラス』部屋にたたずんでいた。それはガラスではなく、厳密にいって部屋でもなかった。それは、いちばん外側の壁に沿った廊下に設けられた|凹み《アルコーブ》で、『ガラス』といっても、ある強力な抵抗性の金属の結晶体で作った、巨大な彎曲板だった。きわめて澄んだ透明なものだったので、ちょっと見たところ、そこにはなんにもないような錯覚を起こさせるほどだった。
その向こうは、宇宙空間の真空と暗黒とであった。
グローヴナーは、宇宙船が、この間から横断していた小さな星の集団を、ほとんど通り抜け終わろうとしているところだなと、ぼんやりと気づいていた。この星団にある五千余の恒星のうち、いまもまだ見えるのは、もう二、三にしかすぎなかった。かれは、口を開いて、「カリタさん、おひまなとき、またお話をしたいと思うのですが」と、こういいかけた。
だが、それをいうひまもなかった。そのとたん、羽根飾りのついた帽子をかぶった女の、かすかにぼやけた二重になった像が、かれのま正面のガラスに浮かびあがったのだ。映像は、ちらちらと動き、きらきらと光った。グローヴナーは、目の筋肉に異常な緊張をおぼえた。一瞬、心が空白になった。それにつづいて、めまぐるしい速さで、音がし、閃光《せんこう》が走り、鋭い痛みの感覚がやって来た。催眠による幻覚だ! 電気にうたれたように、その考えが頭にひらめいた。
その自覚が、かれを救った。かれがこれまでに受けてきた心理訓練《コンディショニング》が、光のパターンによる機械的な暗示を、すばやくはね返す力を与えてくれた。かれは、身をひるがえすと、手近かな壁の通話装置に向かって叫んだ。「映像を見るな! あれは催眠術だ。われわれは攻撃されているんだ!」
振り向いたとたん、気をうしなって倒れているカリタの体につまずいた。立ちどまって、膝《ひざ》をつくと、
「カリタさん」と、突きさすような調子でいった。「聞こえますね?」
「ええ」
「ぼくのいうことだけが、あなたに作用するんですよ。わかりますね?」
「ええ」
「体も楽になってきたし、いまのことも忘れはじめている。心も平静だ。映像のききめはもううすらいだ。もう消えた。すっかり消えてしまった。わかりますか? すっかり消えてしまったのですよ」
「わかります」
「もう二度と、あなたは影響を受けることはない。それどころか、映像を見るたびに、故郷の楽しい情景を思い出すのだ。いいですね?」
「はい」
「さあ、目がさめかけてきた。ぼくが三まで数えます。ぼくが『三』といったら、すっかり目がさめるのです。一……二……三――はい、目をさまして!」
カリタは、目を開いて、「いったい、どうしたんです?」と、けげんそうな口調でたずねた。
グローヴナーは、手早く説明してから、いった。「それよりもさあ早く、いっしょにいらっしゃい! 反対暗示をつづけていても、その光のパターンに目を引きこまれてしまいそうだ」
かれは、あっけにとられている考古学者をせき立てて、情報総合科学部の部室の方へ廊下を急いだ。最初の曲がり角で、床に倒れている人間の体にぶつかった。
グローヴナーは、この男をかなり強く蹴《け》った。ショック反応が目的だった。「ぼくのいうことが聞こえるか?」と、問いただした。
男は、身動きをした。「聞こえる」
「じゃ、よく聞くんだ。あの光の影像は、もうこれ以上、きみに影響しなくなった。さあ、起きるんだ。きみは、すっかり目がさめているんだ」
男は、立ちあがると、いきなりグローヴナーに飛びかかり、めくらめっぽうになぐりつけてきた。グローヴナーがひょいと身をかわすと、相手は、目隠しでもされたように、よろよろとよろめいて行ってしまった。
グローヴナーは、とまれと相手に命じたが、後ろを見ようともしないで、歩きつづけて行った。グローヴナーは、カリタの腕をとって、いった。「どうやら手遅れだったらしい」
カリタは、茫然と首を振っていた。その目は壁の方に向いていた。そのつぎにいった言葉から考えても、グローヴナーの暗示が十分な効果をあげなかったのか、それとももうだんだんにきかなくなったのか、どちらかだ。
「しかし、あれはなんだろうね?」と、かれがたずねた。
「見ちゃいけない!」
見ないでおこうとするのは、信じられないほどむずかしかった。グローヴナーは、壁の別の映像から目にはいって来る閃光のパターンをやぶるために、絶えずまたたきつづけなければならなかった。最初、映像はいたるところに見えるような気がした。そのうちに気がつくと、その女のような姿は――あるものは異様に二重体、あるものは一重のものだったが――透明な壁面か半透明な壁面だけに見えていた。そういった映像がうつるようになっている壁の部分は、何百というほどあったが、すくなくとも、それには限度があった。
二人は、さらに多くの人の姿を見た。犠牲者たちは、不規則な間隔をおいて廊下に横たわっていた。二度、意識のある男たちに出くわした。一人は、うつろな目つきで、二人の進路に立ちはだかっていて、グローヴナーとカリタとが急ぎ足でわきを通りすぎても、動きもしなければ、振りかえりもしなかった。もう一人の男は、いきなりわめき声をあげると、震動波銃をつかんで発射した。曳光《えいこう》弾の光が、グローヴナーのすぐそばの壁に、さっと閃光を散らした。とっさに、グローヴナーは、その男に飛びかかって、打ち倒した。その男――ケント支持者の一人――は、悪意に満ちた目で、かれをにらみつけて、「このスパイめ!」と、荒々しくいった。「いまにやっつけてやるからな」
グローヴナーには、立ちどまって、相手がそんな驚くべきことをした理由を、調べているひまもなかった。しかし、カリタを情報総合科学部の戸口へ導いて行きながら、しだいに緊張が高まってゆくのをおぼえた。もし、一人の化学部員が、ほんのわずかの刺激で、たちどころに、かれに対してあれほどむき出しの憎悪を見せたところを見ると、かれの部屋を占領している十五人はどうなっているだろう?
かれらは全員無意識だったので、グローヴナーはほっとした。急いで黒眼鏡を二つ、一つはカリタ用に、一つは自分用に取り出してかけると、壁、天井、床に向けて、強烈なライトをあてた。たちまち、強力な光のまえに、影像はかき消されてしまった。
グローヴナーは、技術室に向かった。そこへ行って、さきほど自分が催眠にかけた連中の催眠をとくつもりで、自由にする命令を放送し、開けはなしたドアごしに、気絶した二人の男が反応を起こすのを見守った。五分ほどしても、気がつくようなようすもなかった。おそらく、敵の催眠パターンが、かれらの催眠状態を乗りこえたのか、あるいはそれを逆に利用して、グローヴナーが何をいってもきき目がないようにしてしまったのだろう。ひょっとすると、しばらくするうちに自発的に目をさまして、かれに向かってくるようなことが、十分考えられた。
カリタの手をかりて、グローヴナーは、連中を洗面所へ引きずりこみ、ドアに鍵をかけてしまった。すでに明白になったことが、一つあった。これは、あのとっさのすばやい行動をとらなかったら、かれ自身も助からなかったにちがいないほど強力な、機械的視覚的催眠法なのだ。しかし、その結果は、視覚だけに限られていなかった。あの幻は、目を通して脳を刺激し、それによって人間を意のままに支配しようとしていたのだ。グローヴナーは、この分野での新しい研究には、ほとんど目を通していた。だから――襲撃者たちはまだ知らないらしいが――異なる星からのものが、人間の神経系統を支配するには、脳波調節器か、あるいはそれに相当するものを用いなければ、不可能だということを知っていた。
あやうく自分の身に起こりかけたことから、ほかの連中は深い昏睡状態の眠りにおちいっているか、幻覚で頭が混乱して、善悪の判断ができないような行動をとっているのだと、かれには、想像ができるだけだった。
かれの最初にしなければならない仕事は、司令室に行って、船全体にエネルギーの防御幕《スクリーン》を張ることだった。どこから攻撃されているか――他の宇宙船か、それともどこかの惑星か――そんなことは問題外として、エネルギー幕を張れば、相手が送りこんでくる搬送波をうまく遮断できるはずだった。
気も狂ったかと思うほどの手つきで、グローヴナーは、移動式の投光器を組み立てにかかった。司令室に行くまでの途中、あの幻をさえぎる道具が必要だった。配線の最後の接続をしているとき、かれは、あのまぎれもない感覚――軽い目まいのような感覚――を身に感じた。その感覚は、ほとんどすぐに消えてしまったが、それはまぎれもなく、宇宙船が急激な針路転換のさいに、ふつうにおこる現象で、反加速装置の再調整の結果だった。
針路が実際に変えられたのだろうか? 調べてみなければならないことだ――後で。
かれは、カリタに向かっていった。「ちょっと実験をしたいと思うのです。ここに残っていてください」
グローヴナーは、組み立てた投光器を、近くの廊下まで運んで、自動搬送車の後部の席に取りつけた。乗りこむと、エレベーターの方に向けて走らせた。
最初に影像を見てから、合わせて十分はたっているだろうと、グローヴナーは思った。
時速二十五マイルの速さで、エレベーターのある廊下へと曲がった。この比較的狭い空間では、これは相当なスピードであった。エレベーターの向かいの壁の|凹み《アルコーブ》で、二人の男が生死をかけたほどの格闘をしていた。グローヴナーには目もくれず、組んずほぐれつ、罵《ののし》りわめいている。はげしい息づかいが、大きく聞こえた。かれらのひたむきな憎悪は、グローヴナーが投光器をあてても、まるきり効果がなかった。いったいどんな幻覚の世界におちこんだのかはわからないが、よほど深いものにちがいなかった。
グローヴナーは、運搬車をまわして、手近のエレベーターに乗りこむと、下降をはじめた。司令室には、誰もいないのではないかという希望が、胸の中に湧きはじめていた。
だが、中央廊下へ来たとたん、その希望は消えてしまった。廊下は、人でいっぱいだった。バリケードが築かれていたし、まぎれもなくオゾンの匂いが鼻をついた。あちらこちらで震動波銃が発射され、しゅうしゅうと音を立てていた。グローヴナーは、エレベーターから、用心深く外をのぞき、情勢を見はかろうとした。明らかに険悪だった。司令室への二本の通路は、横倒しにされた何十というほどの運搬車で、完全に遮断されていた。車の影には、軍服姿の連中が小さくなってうずくまっていた。グローヴナーは、防御陣の中に、リース大佐の姿をちらっと見とめた。ずっと向こう側の攻撃している群れのバリケードの陰には、総監督モートンの姿がみとめられた。
それで、その場の状況がはっきりした。押えに押えていた敵意が、幻の映像によって掻《か》き立てられたのだ。科学者たちは、これまでいつも無意識に憎んできた軍人たちに、戦いを挑んだのだ。軍人たちは軍人たちで、ひそかに軽蔑していた科学者たちに、突然その侮蔑《ぶべつ》と怒りとを、思うままにぶちまけたのだ。
しかし、これはおたがいに対する、かれらのほんとうの感情のあらわれではないということを、グローヴナーは知っていた。人間の心というものは、ふつう無数の対立する衝動に均衡を与えているものである。だから、ふつうの人間は、一生を通じてある一つの感情にだけ優越感を与えることなく、生きていくものなのだ。その複雑微妙な均衡が、さっきの刺激で、いまくずれてしまったのだ。その結果、全探険隊員に不測の災厄を持ち来たし、敵に勝利を約束するようなことになったのであり、その敵が何を目的としてこの攻撃をかけてきたのかは、憶測するしかなかった。
理由はとにかくとして、司令室への道は、ふさがれていた。不本意ながら、グローヴナーは、ふたたび自分の部室へもどることにした。
カリタは、戸口でかれを迎え、「ごらんなさい!」といった。かれは、壁の通話スクリーンを身ぶりで示した。スクリーンには、宇宙船ビーグル号の前部にある、すばらしい平衡を保っている操舵装置がうつっていた。送られてくる画面は、一連の髪の毛のような照準線に、ぴったりピントを結んでいた。その配置は、実際の構造以上に複雑に見えた。グローヴナーは、照準線に目をあてたが、宇宙船がゆるやかなカーブを描きながら進んではいるが、その頂点で、一つの鮮明に輝く、白色の恒星に、じかにぶつかるということを見てとった。自動制御装置も、定期的に補正を行って、そのコースを保つほうにセットされていた。
「敵があんなことをやったのだろうか?」と、カリタがたずねた。
グローヴナーは、驚きよりも当惑を感じながら、首を左右に振った。かれは、視聴装置《ビューアー》を補助計器盤のほうへと動かした。その恒星のスペクトル、大きさ、光度からすると、その距離は、ちょうど四光年強ということになる。宇宙船の速度は、五時間ごとに一光年ずつ加速しているので、規則的な曲線を描いて上昇するわけである。この曲線から大ざっぱに計算すると、宇宙船はあと十一時間ほどで、この恒星の近くに到達するはずである。
ふるえる手つきで、グローヴナーは、スクリーンのスイッチを切ると、その場に立ちすくんでしまった。大きなショックではあったが、信じられぬことではなかった。船の針路を変えた人間は、幻覚に迷わされて、船を破壊しようという目的を抱いたのかもしれない。もし、そうだとすれば、破局が起こらぬようにするには、あと十時間しか残っていないのだ。
まだはっきりした計画のないその瞬間でさえ、敵を攻撃するただ一つの道は、催眠術を使うほかに有効な逆襲法はないという気がした。だが、そのまえに……。
かれは、決然と立ちあがった。もう一度、司令室へ突入を試みる時だ。
かれに必要なのは、直接脳細胞に刺激を与える道具だった。そういう用途に使える装置は、いくつかあるにはあったが、ほとんど医療用にしか使えなかった。例外は脳波調節器で、一つの心から他の心へ、衝動《インパルス》を送ることができる装置だった。
カリタに手をかしてもらっても、調節器を組み立てるのに、グローヴナーは、数分かかった。そのテストにも、さらに時間がかかった。というのは、ひじょうにこわれやすい機械だったので、運搬車に取りつけるときにも、まわりにスプリングつきの緩衝材をあてなければならなかったからだ。結局準備ができあがるまでに、合計三十七分もかかってしまった。
いっしょについて行くといい張る考古学者のカリタとの間で、短いが、かなりはげしいやりとりがあった。けれども、最後には、カリタもあとに残って、作戦基地となる部室を守ることを納得した。
脳波調節器をのせているので、司令室へ向かうにも、今度は運搬車のスピードをおとさなければならなかった。やむをえず速力をおとすのは、まったく閉口だったが、その代わり、最後の攻撃以後に起こった変化を観察することができた。
気を失って倒れている人間は、たまにしか目にはいらなかった。深い昏睡状態の眠りにおちいった人間のうち大部分が、自然に目をさましたのだろうと、グローヴナーは見当をつけた。そんなふうに目がさめるのは、催眠術では、ごくふつうに見られる現象なのだ。いまそういったふうで目をさました連中は、同じ偶然にもとづいて、別の刺激に反応しているのだ。不幸にして――それもまた予想されることではあるが――長い間抑圧されていた衝動が、かれらの行動を支配しているらしいのだ。
そういうわけで、正常の状況ならば、ただたんに、なんとなく虫の好かぬという人間どうしが、一瞬にして、その反感を殺意のこもった憎悪に変えてしまったのだ。
めいめいの命にかかわるほど重大な問題は、かれらがその変化に気づいていないということだった。というのは、人間の心というものは、本人がそれを自覚しないうちに、かき乱されてしまうものだからだ。または、悪い環境の組み合わせによってかき乱されることもあれば、あるいは、いまこの船の乗員が襲われているような攻撃によっても、左右されるものなのだ。いずれの場合でも、一人一人の人間は、自分の新しい信念が、昔から抱いている信念と同じように、堅実な考えにもとづいているかのように、ことを運んでいるものなのだ。
司令室にある階におりると、グローヴナーは、エレベーターのドアを開けるとともに、あわてて身を引いた。熱線放射器が、廊下に炎を吐きかけているのだった。金属の壁が、荒々しい、しゅうしゅうという音を立てながら、こげていた。身を引いたエレベーターの陰からの狭い視野にも、三人の男が倒れて死んでいるのが見えた。待っていると、雷の落ちるような爆発音がして、とたんに、熱線の炎がふっつりと消えた。青い煙がもうもうと立ちこめ、いまにも息のとまりそうな熱気が感じられた。が、何秒もたたぬうちに、煙も熱もかき消すようになくなった。すくなくとも、換気装置だけはまだ動いているらしかった。
かれは、用心深く外をのぞいて見た。はじめ見たときには、廊下には誰も人などいないようだった。と、二十フィートほども離れていない廊下の|凹み《アルコーブ》に、半ば身を隠すようにしているモートンの姿が見えた。ほとんど同時に、総監督の方でもかれを見とめて、手招きした。グローヴナーは、しばらくためらっていたが、そのうちに、危険を冒すしかないと感じた。運搬車をエレベーターの戸口から押し出して、向こうとの間の距離をいっきに走らせた。総監督は、やって来たかれを心からよろこんだように迎えると、
「きみだよ、会いたかったのは」といった。「ケントとその一党が、攻撃をしかけてくる前に、リース大佐からこの船の支配を奪ってしまわなくちゃならん」
モートンのまなざしは、落ちついて、物わかりのよさそうな色を浮かべていた。いかにも正しいことのために戦っている人間という顔つきだった。いまの言葉には補足の説明がいるという考えも、浮かんでいないようだった。総監督は言葉をつづけた。「とくにケントをやっつけるには、どうしてもきみの力が必要なんだ。やつらは、これまで見たこともないような化学兵器を持ち出しているのだ。いままでのところは、送風器で全部逆に送りかえしてやっているが、今度はやつらの方でも送風器を備えつけにかかっているんだ。われわれの最大の問題は、ケント側の攻撃態勢が整う前に、リースを破る時間が、われわれにあるか? だ」
時間はまた、グローヴナーにとっても問題であった。かれは、気づかれぬように右手を左の手首に持って行って、脳波調節器の指向板を制御する作動スイッチを入れた。指向板をモートンに向けながら、かれはいった。「ぼくにも一つ計画があります、隊長。敵に対して有効じゃないかと思うのですが」
かれは、言葉を切った。モートンが、じろじろと見ているのだった。「きみは、脳波調節器を持って来てスイッチを入れてるが、いったい、それで何をするつもりなんだね?」
思わず体をかたくしたグローヴナーは、何か適当にその場をとりつくろう必要があった。モートンが調節器のことを、あまり知っていなければいいがと思っていたのだ。その望みはだめになってしまったとはいっても、いまからでもまだ装置を使うことは使える。もっとも奇襲という最初の有利な点はなくなってしまったのだが。かれは、われ知らず張りつめた声でいった。「これなんですよ。この機械を使ってみようと思うんです」
モートンは、しばらくためらっていてから、いった。「ぼくの心につたわってくる思考から判断すると、きみの放送してるのは――」そこで、モートンは口を切った。興味が、さっと、かれの顔に浮かんだ。「なるほど、そうか」と、しばらくして、かれがいった。「そいつは、うまい手だ。もし、われわれが何か他の生物に攻撃されているのだと、みんなに思いこませることができれば――」
かれは言葉を切った。唇をすぼめ、何か思案するように、目を細めた。やがて、かれはいった。「リース大佐は、これまでに二度、ぼくと交渉をしようと言ってきた。今度言ってきたら、それに同意したふりをして、きみにその機械を持って行ってもらおう。きみから合図があったとたんに、攻撃をするんだ」モートンは、威厳のこもった口ぶりで説明をつけ加えた。「わかっているだろうが、勝利への手段として以外には、ケントなりリース大佐と交渉することなど、考えてもいない。その点は、きみもわかってくれるだろうね?」
グローヴナーは、司令室でリース大佐をさがしあてた。船長は、肩をいからしながら親しみをこめて、かれを迎えた。「科学者仲間のこの同士討ちで」と、かれは、きまじめな口調でいった。「われわれ軍人は、困った立場に立たされているわけだ。われわれとしては、なんとしても司令室と機関室は守り抜かなければならぬ。それによって探険隊全般に対する、われわれの最低限の義務が遂行できるわけだ」かれは、厳粛にかぶりを振って、「もちろん、かれらのどちらかに勝利を許すなどは、問題外のことだ。いざとなれば、われわれ軍人側は、いずれの派にも勝たせぬよう、自分を犠牲にする覚悟でいる」
この説明を聞いて、思わずここへ来た自分の目的を忘れるほど、グローヴナーはびっくりしてしまった。この宇宙船を、まっすぐあの恒星に突っこませようというのが、リース大佐のしわざではないだろうかと、それまでにもかれは疑っていたのだった。が、すくなくとも、これで部分的な確証が得られたわけだ。船長の動機は、軍人側をのぞいては、どちらの派の勝利ももってのほかだということらしかった。そもそものはじめがそういう考えでは、おそらくほんのわずかばかり一歩を進めれば、いっそ全探険隊を犠牲にしてしまわなければならんという考えが生まれるわけだった。
グローヴナーは、さりげなく脳波調節器の指向板を、リース大佐に向けた。
脳波とは、神経細胞の軸索《じくさく》突起から樹状突起へ、樹状突起から軸索突起へと送られる、細かい振動で、つねに、過去の連想にもとづいて、あらかじめ決められた、ある一つの経路をたどるもので――それは、人間の脳にある九千万の神経細胞のなかで、終わることなく行われている作用であり、おのおのの細胞は、緊張と衝動と複雑な相互作用の中で、その細胞独自の電荷コロイドの均衡状態を保っているのであった。その脳の内部のエネルギーの流れが何を意味するかを、ある程度正確に探知することのできる機械が作られるまでには、長い年月がかかったのであった。
ごく初期の脳波調節器は、あの有名な脳波電位記録装置の副産物であった。しかし、その機能は、その最初に考案されたものとは、まったく逆で、脳波調節器は、人工的に望みどおりの脳波を作りあげるのだった。熟練した操作者なら、それを使って、脳のどんな部分でも自由に刺激することができ、思考や、情緒や、夢を誘発したり、個人の過去の記憶をよみがえらせたりできるのだった。といっても機械自体には、人を制御する手段はなかった。催眠術をかけられた相手は、各々自分の自我を保っているのだった。けれども、それは、一人の人間の精神の衝動を、別の人間の心に伝えることができるのだ。だが、衝動というものは、送り出す人間の思考につれて刻々変化するものであるから、受けるほうでは、いろいろな形で刺激を受けるのだ。
脳波調節器があるということを知らないリース大佐は、自分の思考がもはや自分自身のものでなくなっていることに気づいていなかった。かれは、口を開いていった。
「この船が幻影によって攻撃を加えられているのだとなれば、科学者連中の仲たがいは、許しがたい背逆行為だ」かれはしばらく間をおいてから、考え深げにいった。「ぼくの計画は、こうだ」
その計画は、熱線放射器の使用や、筋肉を硬化させるほど強い加速度を用いて、両方の派の科学者を部分的に殺してしまおうというのだった。リース大佐は、異星人のことなど口にも出さなかったし、また自分の意図を、かれが敵と見なしているものの使者であるグローヴナーに漏らしているのだという気も浮かんでいないようだった。かれは最後にこういってしめくくった。「そこで、きみの働きが重要になるのは、グローヴナー君、科学部においてなのだ。情報総合科学者の一員として、多くの科学を総合した知識を活用してもらえば、他の科学者どもに決定的な……」
疲れと気落ちとで、グローヴナーはすっかりあきらめてしまった。この混乱状態はあまりに大きすぎて、一人の力では抑えきれなかった。どちらを向いても、いたるところに武装した連中がいた。いままで見かけただけでも、全部で二十人以上の死体があった。そして、リース大佐とモートン総監督の間の不安定きわまる休戦も、いつ何時、熱線砲が火を吹くかもしれないのだ。いまでさえ、ケントの攻撃を食いとめるために、モートンがまわしている、ごうごうという送風機のうなりが聞こえてくるのだった。
グローヴナーは、大きく溜息をついて、船長の方を振り返って、「ちょっと、ぼくの部から取って来たい装置があるのですが」といった。「裏側のエレベーターを通してもらえませんか? 五分ほどで、もどって来られます」
数分の後、自分の部屋の裏口から運搬車を乗り入れたグローヴナーは、これからやるべきことについて、もはや何の疑いも抱いていないようだった。最初にそれを思いついたときには、とっぴょうしもない考えだという気もしたが、いまとなっては残されたただ一つの計画だった。
あの無数の幻影を通じて、かれら自身の催眠武器によって、あの異星人を攻撃しなければならないのだ。
3
グローヴナーは、準備をしているかれを見守っているカリタの目を勘で知っていた。考古学者はそばへ歩み寄ると、かれが脳波調節器に接続している、いろいろな電気部品を眺めたが、何も聞こうとはしなかった。カリタは、さっき経験した催眠からは、完全に回復しているようだった。
グローヴナーは、顔の汗をぬぐいつづけていた。そのくせ、べつに暑いわけではなかった。部屋の温度は、正常どおりであった。準備がおわった時になって、かれはひと息入れて、自分の不安の原因を分析してみなければならんと気づいた。考えたあげく最後に解決したのは、自分は、敵について十分に知っていないのだということだった。
敵の攻撃方法について、一つの推理を持っているからといって、それだけでは十分とはいえない。大きな謎《なぞ》は、奇妙にも女のような体と顔を持ち、ある部分は二重になっているかと思えば、ある部分は一重という敵の正体である。かれは、自分の行動に対する、いかにももっともだと思われる冷静な根拠がほしかった。知識だけが与えてくれる、自分の計画に対するバランスが必要なのだった。
かれは、カリタの方を向いて、たずねた。「周期学説からいうと、あの生物は何期の文化にいるのでしょう?」
考古学者は、椅子に腰をおろすと、口をすぼめ、いった。「きみの計画をいってください」
グローヴナーがその計画を話してゆくにつれて、日本人の考古学者の顔は、青ざめていった。最後に、ほとんど見当違いなことをいった。「あなたが、ぼくだけを救えて、ほかの人たちを救えなかったのは、どうしてですか?」
「すぐに、あなたに手が打てたからです。人間の神経組織は、反復でものをおぼえるものです。あなたに対しては、ほかの人たちに対するほど、敵の光のパターンが反復されなかったからよかったのです」
「なんとか、この災厄を避ける方法はなかったのですか?」と、かれは、むっつりした口調でたずねた。
グローヴナーは、弱々しい笑いを浮かべて、「情報総合科学の訓練を受けていれば助かったでしょう。それには催眠に対する条件反応訓練も含まれていますからね。催眠術から確実に身を守る道は、ただ一つきりしかありません。それは、正しい催眠術の訓練をうけることです」
かれは、言葉を切って、「カリタさん、どうか、ぼくの質問にこたえていただけませんか。周期学説ではどうなるのですか?」
考古学者の額には、かすかな汗の線がうかんだ。「ねえ、きみ」と、かれはいった。「この段階で、一般論を期待されても、それはむりですよ。いったい、あの生物について、ぼくらに何がわかっているというのです?」
グローヴナーは、ひそかに胸の中でうめき声をあげた。かれは、討論が必要だと感じたが、肝心かなめの時がどんどんたっていっていた。かれは、決心をきめかねていった。「かれらのように、遠く距離をへだてて催眠術をかけることのできる生物は、たぶん、お互いの心を刺激しあうこともできるでしょう。人間が脳波調節器を通じてしか得られない精神感応《テレパシー》も、生まれつき備わっているにちがいありません」
かれは、突然興奮して、身を乗り出した。「カリタさん、人工的な補助という手段なしに、人の心が読めるということは、文化にはどんな影響があるのですか?」
考古学者も、きちんとすわりなおして、「そりゃ、いうまでもないでしょう」といった。「あなたが、解答をしているじゃありませんか。人の心が読めるということは、どんな種族でも、その発展をだいなしにしてしまうのです。ですから、この種族も『古代農夫期《フェラヒン》』にあるわけです」
とまどったようなグローヴナーを見つめるカリタの目は、きらきらと輝いていた。
「おわかりになりませんか? 他人の心を読む能力というものが、他人のことは知りつくしたような気にさせてしまうのです。それをもとにして、絶対に確実性を持った体系が発達してゆきます。すでに知りつくしていることを、どうして疑うことができます? そういった生物は、文化の初期の各段階をいっきに通り抜けて、たちまちのうちに『古代農夫期』に到達するでしょうな」
グローヴナーが眉をひそめてすわっているうちに、カリタはてきぱきと、地球および銀河系の歴史上のさまざまな文明が、どんなふうにして自己を疲弊させ、やがて『古代農夫期』に沈滞してしまったかを、説明して聞かせた。『古代農夫《フェラー》』型の人間は、新しいことや変化をいみきらった。集団としては、特別に残酷というのではなかったが、貧困ということから、個人の苦しみに対しては、しばしば無関心という態度をとりがちになっていったのだった。
カリタが話を終わったとき、グローヴナーはいった。「変化をいみきらうとおっしゃったが、今度、この船を襲ってきたのも、そのせいではないでしょうか?」
考古学者は慎重だった。「かもしれませんね」
二人は黙りこんだ。どうもカリタの全体的な分析を正しいものとして、行動しなければならないという気が、グローヴナーにはした。ほかに仮説もなかった。ともかく、その理論を出発点にして、幻影の一つからその証拠をつかみとることができればいいのだ。
ちょっと時計に目をやったグローヴナーは、思わず緊張した。船を救うには、あと七時間たらずしかなかった。
急いで、脳波調節器を通る光の焦点を合わせた。そして手早く、その光の前に一枚のスクリーンをとりつけた。それで、調節器から断続的に照射される光を受ける時以外は、スクリーンの裏は陰になるようにした。
たちまち、一つの映像があらわれた。それは、一部分二重になっている映像の一つだったが、今度は脳波調節器のおかげで、安全に観察することができた。はじめてはっきりとそれを見て、グローヴナーはびっくりした。漠然としか人間に似ていなかった。とはいっても、どうしてかれの心が、はじめに人間の女だと認めたかということも、よく理解できた。二重写しになった頭の上に、小ざっぱりと束ねた金色の羽毛をかぶっているのだった。しかし、その顔は、いまは間違いもなく鳥ににた形ではあるが、人間の頭のようなようすだった。顔には羽毛はなく、血管のようなレース状のものでおおわれていた。人間の顔らしく見せているのは、この網目のようなものが、ところどころかたまりになって、頬や鼻に見せているところからくるのだった。
第二の目と、第二の口は、それぞれ、第一のものより二インチ近く上についている。それは文字どおり第一の頭から生えた、第二の頭だった。さらにまた第二の両肩もあって、第二の短い両腕がついているが、腕の先は、美しいまでに繊細で、しかも驚くほどに長い手と指で――しかも、これらをひっくるめて、なおいっそう女性的な印象をそそるのだった。グローヴナーは、二つの体の腕と指が、最初に分離するのではないだろうかと、考えている自分に気がついた。そうすれば、第二の体も、その重みを支えられるわけだ。処女生殖だと、グローヴナーは思った。つまり性行為なしの生殖だ。母体から無性の芽が生長し、最後に母体から分離して、新しい個体になるのだ。
目の前の壁にうつった映像を見ると、退化した羽のなごりがついていた。『手首』にあたるところに、羽毛のふさがみえた。驚くほどまっすぐで、表面的には人間に似た胴体には、鮮明な青い色のチュニックを着ていた。ほかにも先祖が羽の生えた鳥だったことを示す痕跡はあるかもしれないが、この着ている物にかくれて見えなかった。はっきりしていることは、この鳥が、自分の力では飛ばないか、それとも飛べなくなってしまっているということだった。
カリタが、どうしようもないという口調で、はじめて口をきいた。「情報と交換に催眠術にかかってもいいということを、どうやって相手に知らせるつもりです?」
グローヴナーは、言葉ではこたえなかった。かれは立ちあがると、ためしに黒板の上に、幻像と自分の姿を描いて見せた。四十七分をついやし、何十回となく画を描いた後、鳥の幻像は突然、壁から消え、かわりに一つの都市の場面があらわれた。
それは、それほど大きな生活共同体ではなかった。最初の眺めは、高い、見晴らしに有利な地点からのものだった。ひじょうに丈の高い、きわめて幅の狭い建物が、ぎっしり詰まっていて、建物の下の方は一日じゅう日があたらないのではないかという印象を受けた。グローヴナーは、これは遠い遠い過去の夜行性の習慣を反映しているのではないだろうかと、つかの間、そう思った。かれの心は、さらに飛躍した。全体の光景をとらえたいという望みから、一つ一つの建物のことは無視した。ほかのあらゆる物以上に、かれが探り出したかったのは、この生物の機械文化の程度であり、どのような交信手段を用いているか、また、宇宙船への攻撃が、はたしてこの都市から行なわれているのかどうか、ということであった。
かれには、機械も、飛行機も、自動車も、見えなかった。また、人間が使っているような、恒星間通信施設に相当するものもなかった。地球上では、この種の施設には、何マイル平方にもわたる土地をしめる、広大な送受信所が必要なのだが、そういったのものもなかった。だから、攻撃の基地も、そうしたものではないらしかった。
かれが、狙っていたこととは反対の発見をしているあいだに、目の前の景色が変わっていた。かれは、もはや丘の上にはいなくて、都市の中心に近い、一つの建物の中にはいっていた。どんなふうにして、この完全な色彩画像を送信しているのかわからないが、カメラはしだいに前進して、かれは、建物のはしから下を見おろすかたちになった。かれの第一の関心は、全景を見ることだった。しかし、いったい、どうやってかれらが、それをかれに見せているのかということが、気になってたまらなかった。一つの場面からつぎの場面への転換は、ほんのまばたきの間に終わってしまっていた。黒板に絵を描いて、情報が知りたいのだという望みを伝えおわってから、まだ一分とたってはいないのだった。
その考えも、ほかの考えと同じように、ぱっと浮かんだだけだった。そう考えながらも、かれは、むさぼるように建物の側壁を見おろしていた。すぐそばの建物からへだたっている空間は、十フィートもないような気がした。しかし、いま、丘の上から見えなかった物が目にはいった。これらの建物は、各階ごとにわずか数インチほどの狭い歩廊でつながれているのだった。その歩廊の上を、この鳥の都市の歩行者がぞろぞろと歩いているのだった。
グローヴナーのま下で、同じ狭い歩廊の上を、二人の歩行者が、両側から相手に向かって悠々と歩いて来た。地面まで百フィート以上はあるということを、二人ともべつに気にもしていないようすだった。すれ違いは、さりげなく、いとも楽々と行なわれた。おたがいに、外側の足を大きく相手の体をまわして歩廊にかけ、内側の足をぐっと外向けにまげたと思うと、歩調も乱さないですれ違って行った。ほかの階でも、ほかの連中が、おなじ曲芸のような複雑な動作で、同じ気軽さでやっていた。その連中の動きを見守りながら、連中の骨は細く、空洞になっていて、体つきも軽いのだろうと、グローヴナーは考えた。
場面がふたたび変わり、そしてまた変わった。街路の一区画から、別の区画へと移って行った。かれは、生殖過程のあらゆる段階を見たような気がした。もう脚や腕や体の大部分が離れてしまうほど、ずっと程度の進んでいるものもあったし、もう前に見た程度のものもあった。いずれの場合でも、母体は、新しい個体の重みの影響をまったく受けていないようだった。
グローヴナーが、ある建物の薄暗い内部をひと目見ようとしていると、画像が壁からうすれはじめた。たちまち、都市の情景がすっかり消えてしまって、そのあとに、あの二重になった映像が浮かびあがった。映像の指が、脳波調節器を指していた。その動作は、間違えようのない明白なものだった。自分の方の約束は果たしたのだから、今度は、おまえが約束を履行する番だというのだった。
グローヴナーがいわれたとおりにすると思うのは、いささか|うぶ《ヽヽ》というものだ。とはいうものの、困ったことに、かれとしてもそうするほかにはなかった。義務をはたす以外に、ほかに選ぶ道はなかった。
4
「自分は落ちついて、くつろいでいる」と、グローヴナーが録音しておいた自分の声が、そういった。「考えもはっきりしている。いま目にうつることと、観察していることとは、必ずしも関連はない。耳に聞こえることは、脳の解釈機能にとっては、およそ無意味なものかもしれない。しかし、さっきは、かれらの考えるとおりに、かれらの都市を見てきた。実際に見ること、聞こえることが、道理に合おうと合うまいと、自分は平静を保ち、くつろいでいる。そして、気楽に……」
グローヴナーは、注意深く録音に耳を傾けていた。それから、カリタの方を向いて、「というわけです」と、あっさりといった。
もちろん、録音したメッセージが意識して聞けなくなる時が来るかもしれない。しかし、メッセージは、いつまでもテープの中にあるだろう。そのパターンは、よりしっかりと心に刻みつけられてゆくだろう。なおも耳を傾けながら、かれは脳波調節器の最後の点検をした。万事、思ったとおりにいっていた。
カリタに、かれはこう説明した。「五時間たつと、自動的にスイッチが切れるようにしてあります。もし、あなたがこのスイッチを引けば」――と、赤いレバーをさして――「その前でも、ぼくを催眠からさますことができます。ただし、それは非常事態が起こったときだけにしてください」
「非常事態の限界は、どのへんですか?」
「もし、この部屋が攻撃されたら」といったものの、後をつづけようかどうしようかと、グローヴナーはためらっていた。ほんとうは、何回かの中断をおきたいのだ。しかし、かれがこれからやろうとしていることは、単なる科学の実験ではなかった。生死を賭《か》けた冒険なのだ。行動用意、と、かれは制御ダイヤルに手をおいた。そして、そこでまたためらった。
というのは、これが決定的瞬間だからだ。あと数秒もしないうちに、あの数え切れないほど多くの鳥人たちの集団精神が、自分の神経系統のいくつかの部分にとりついてしまうだろう。この宇宙船上の他の連中を支配したのと同じように、自分をも支配しようとしてくるのは、疑いのないことだ。
力をよせ合った精神の集団に、自分が立ち向かおうとしているのだということは、グローヴナーもかなりの確信があった。さっきの都市では、機械類はいっさい見かけなかった。機械装置のなかではいちばん原始的な、車輪つきの乗り物さえも見かけなかった。一時は、テレビジョンふうのカメラが使われているのだろうと考えたものだった。だが、いま考えてみると、鳥人たち個人の目を通して、あの都市を見ていたのにちがいない。あの生物にとっては、精神感応《テレパシー》というものは、視覚そのものと同じほど、鋭敏な感覚作用なのだ。何百万という鳥人が一丸になった精神力で、何光年という距離も軽々ととびこえてしまうのだ。かれらには機械など必要ではなかったのだ。
その集団精神の一部になろうとするかれの全てが、どういう結果になるか、グローヴナーにそれをあらかじめ知ることなどは、とうてい望みうることではなかった。
なおも録音機に耳を傾けながら、グローヴナーは、脳波調節器のダイヤルをまわし、かれ自身の思考のリズムをほんのすこし変化させた。ほんのすこしでなくてはならなかった。たとえ、かれがそう思っても、異星人の心と完全に同調させることはできなかったのだ。こういう規則正しい脈動のなかには、正気、非正気、狂気と、ありとあらゆる段階の変化が含まれているのである。心理学者の検出グラフで、『正気』と記録される範囲内で、相手の脳波を受信しなければならない。
脳波調節器は、かれの思考の波動を光のパターンに置き換え、それを受像板上の幻像に直接投げ返していた。かりに、幻像の後ろにいる個体が、その光のパターンに影響されたとしても、まだその兆候はあらわれていなかった。グローヴナーは、はっきりした証拠を期待してはいなかった。だから、べつに失望もしなかった。結果は、鳥人からかれに向けて送られてくるパターンだけに明らかになるだろうと、かれは信じていた。そしてそれこそ、自分の神経組織で経験するしかないと、確信していた。
幻像に注意を集中するのは、なかなかむずかしかったが、かれはよくねばった。脳波調節器が、きわだってかれの視覚を妨げはじめた。それでもまだ、かれは、じっと幻の映像を凝視しつづけた。
「自分は落ちついて、くつろいでいる。自分の思考は、はっきりしている……」
いまのいままで、耳に大きく聞こえていた言葉が、つぎの瞬間、消えてなくなった。と思うと、代わりに遠雷のような轟音《ごうおん》がひびいた。
やがて、その音は、ゆっくりうすれ、大きな貝殻を耳にあてたときのような、規則正しい鼓動にかわった。グローヴナーは、かすかな光に気づいていた。その光は、遠くの方で、濃い霧の中で見えるランプの、ぼんやりした薄明かりに似ていた。
「自分はまだ、自分を支配している」と、かれは、自分にいい聞かせた。「自分は、鳥人の神経系統をとおして感覚印象を受信しているのだ。かれらのほうでは、自分の感覚印象を受信しているのだ」
あとは、こうして待っていればいいのだ。ここにすわったままで、闇が晴れるまで待つのだ。相手の神経系から送られて来る感覚現象に、自分の脳が何かの意味をつけはじめるまで、待っていればいいのだ。ここに、すわっていればいいのだ。そして――
かれの思考はとまった。すわる! と、かれは考えた。それは、相手がそうしているということだろうか? かれは、息を殺して、油断なく身構えた。ふと、遠くでいう声が聞こえた。「いま、実際に見たり聞いたりしていることが、意味をなそうとなすまいと、自分は平静を保ち……」
鼻が、むずがゆくなりはじめた。しかし、かれは考えた。やつらには鼻がないはずだ。すくなくとも、さっきは鼻らしいものは見なかった。だから、むずがゆいのは、自分自身の鼻か、それとも、でたらめの刺激か、どちらかだ。鼻をかこうとして手をあげかけたとたん、鋭い痛みを胃に感じた。体が自由になるなら、その痛みのために、身を二つに折り曲げていただろう。が、鼻をかくこともできなかったし、腹に手をあてることもできなかった。
そのとき、かゆみ痛みの刺激が、自分自身の体から出ているものではないということを、かれはさとった。また、相手の神経系統にとっても、なんら痛みやかゆみに相当する意味を、必ずしも持っていないのだとさとった。つまり、二つの高度に進化した生物が、たがいに信号を送り合っている――すくなくとも、かれは、自分も相手に向かって信号を送っていると、思いたかった――しかも、その信号を、どちらも解読できないでいるのだ。それを予期していただけ、グローヴナーのほうが有利だった。異星人が、もし、『古代農夫《フエラー》』型だとして、カリタの理論が確実な根拠のあるものだとすれば、かれらは、そんな信号を送りもしなかったろうし、できなかったはずだ。それを理解しているから、自分のほうは適応させるという望みを持つこともできるが、相手はますます混乱するだけであろう。
かゆみは消えてしまった。胃の痛みは、食べすぎたときのような、満ち足りた気持ちになった。今度は、灼熱した針が背景を突き刺し、一本一本の脊椎骨をつついた。途中までさがったところで、針は、氷のようなつめたさに変わった。その氷が溶けたと思うと、身も凍るようなつめたい流れが、背中を走るように伝い流れた。なにか――手か? 金属板だろうか? やっとこだろうか?――そのなにかが、かれの腕の筋肉をひっつかんで、つけ根からもぎとろうとした。かれの心は、金切り声で痛みの信号を発した。ほとんど気を失いそうになった。
その感覚があとかたもなく消えたとき、グローヴナーは、ふらふらになっていた。いまのは、すべて幻覚だ。あんなことは、どこにもなかったのだ。かれの体に起こったことでもなければ、鳥人の体に起こったことでもない。かれの脳は、目を通して衝動のパターンを受け入れ、その意味を誤って脳が解釈していただけのことである。そういった関係では、快感が苦痛になることもできるのだし、どんな刺激が、どんな感覚を生むともかぎらないのだ。だが、誤った意味にとられた感覚が、あれほど暴力に近い反応を生むとは、かれも考えてはいなかっただけだ。
なにかやわらかな、ねっとりしたもので唇をなでられている感じに、いつか、かれはそれを忘れてしまった。声がいった。『自分は愛されている――』グローヴナーは、その意味をはねつけた。いやちがう、『愛されている』のではない。それは、人間の感情に匹敵するものとはちがった反応を経験している神経系からの感覚現象を、自分の脳が、またまた意味をとりちがえただけなのだ。意識的に、『自分は刺激を受けている――』と、かれはその言葉を置き換えてみた。そしてあとは、その感情が流れるままに身をゆだねた。さて最後になって、感じたことはなにかとなると、さっぱりわからなかった。が、不快な刺激ではなかった。かれの味覚が、甘ったるい感覚でくすぐられ、目には涙がたまって、ほっと気のゆるむ思いがした。と思うと、一輪の花の像が、心の中に浮かびあがった。それは、美しい、赤い花だった。地球のカーネーションで、『リーム』の星に咲く植物とは関係のあるはずのないものだった。
リーム! だと、かれは思った。かれの心は、緊張して待ち構えながら、うっとりとしていた。その名は、果てしもない宇宙の遠くから、かれに伝えられてきたのだろうか? なにか理屈をこえて、その名は、ぴったりだという気がした。そうはいっても、何が伝えられてこようと、心には疑いが残るだろう。確信できるはずがなかった。
最後に伝わってきた一連の感覚は、すべて快いものばかりだった。それにもかかわらず、グローヴナーは、不安げにつぎにあらわれてくるものを待っていた。光は、薄暗く、かすんだままだった。またもや、目に涙がたまるような気がした。突然、足がひどくかゆくなった。その感じが去ると、何といっていいかわからないほどの暑さが、後に残り、大気の不足から窒息しそうなほどの重圧がかかってきた。
「うそだ!」と、かれは自分にいい聞かせた。「こんなことは、なんにも起こってはいないのだ」
刺激は、ぱたっとやんだ。そしてふたたび、あの規則正しい鼓動音と、すべてを包むぼやけたような光だけになった。それが、かれを悩ましはじめた。おそらく、自分の方法は誤ってはいなかったのだろう。時間さえ与えられれば、最後には、敵の一人か、あるいは集団全部を、自分の意のままにあやつれるようになるかもしれない。だが、時間を無駄にすることはできない。過ぎ去ってゆく一秒一秒が、巨大な距離をのみこんで、破滅へと自分を近づけて行くのだ。宇宙のかなたか――いや、こちらか(一瞬、自分でも混乱してしまった)――人類が建造したうちでも最大の、またもっとも高価な宇宙船が、時速何マイルなどという意味さえなくなってしまうほどの速度で、突進をつづけているのだった。
グローヴナーには、自分の脳のどの部分が刺激を受けているかわかっていた。大脳皮質の側部の敏感な部分が刺激を受けた時だけ、音が聞こえる。耳の上の脳の表層がくすぐられると、夢に古い記憶があらわれる。といったように、人間の脳のあらゆる部分は、ずっと前から詳しく明瞭になっているのだった。刺激を受ける範囲の正確な位置は、各個人によってわずかながらちがいはあるが、だいたいの構造は、人類の間では、つねに同じだといっていい。
正常な人間の目は、かなり客観的な機能を持っている。レンズが、網膜に実像の焦点を結ばせるのだ。リーム人から送られてきた、あの都市の画像から判断すれば、かれらリーム人たちもまた、客観的に正確な目を持っているようだ。もし、自分の視覚中枢と、かれらの目を同調させることができれば、信頼のおける画像が得られるだろう。
さらに何分かがすぎた。突然、絶望におちいりながら、かれは考えた。自分は、有効な接触をしようとさえしないで、まるまる五時間というもの、ここにすわりつづけているなんて、そんなことができるだろうか? はじめて、この事態にすっかり身をゆだねてしまった判断の是非を疑う気になった。脳波調節器の制御レバーに手を伸ばそうとしてみたが、何も起こらないような気がした。かわりに、とりとめもない感覚がいくつか、浮かんできた。そのなかには、まぎれもないゴムの焼ける匂いもまじっていた。
みたび、目に涙がわいてきた。とそれにつづいて、くっきりと鮮明な、一つの画像が浮かんだ。ぱっと浮かぶのも速かったが、消えるのも、ぱっとすばやかった。しかし、高度な瞬間露出技術で訓練を受けていたグローヴナーには、ゆっくり眺めたのと同じように、残像は、あざやかに心に残った。
それは、あの丈の高い、狭い建物の中にいたような気がした。内部は、開けはなしになった戸口からさしこんでくる日光の反射で、ぼうっと明るかった。窓はなかった。床のかわりに、居住部分は、狭い通路で間に合わせていた。いくたりかの鳥人が、それらの通路にすわっていた。壁には、ドアが並んでいるのは、戸棚や貯蔵所があることを示しているようだった。
この目に見えるものは、グローヴナーを、興奮させもすれば、動揺させもした。かりに、この生き物と関係が成立し、かれは、相手の神経機構の影響を受け、相手がかれの神経機構の影響を受けたとすればどうだろう。かりに、かれが相手の耳で聞き、相手の目で見、ある程度、相手が感ずるように感じたらどうだろう。だがそれだけでは、感覚的印象にすぎないではないか。
このへだたりを乗り越えて、あの生き物の筋肉に運動反応を起こさせることは望めないだろうか? 相手を歩かせたり、首を振り向けさせたり、腕を動かさせたり、つまり、相手の体を、あたかも自分の体のように、自由に行動させられないものだろうか? 宇宙船に対する襲撃は、ともに働き、ともに考え、ともに感じる集団によって行なわれているのであった。こういった集団の一員だけを自由に支配することによって、ある程度、ほかの全員をも自由にあやつることはできないものだろうか?
さっき瞬間的に、かれが見た情景は、きっと、一人の鳥人の目を通じて浮かんできたのに相違ない。いままで経験したものは、集団との接触らしいものを示してはいなかった。いまのかれは、目の前の壁に半透明な物質が何重にもおおった穴のある、まっ暗な部屋に閉じこめられている人間のようだった。その穴を透《すか》して、ぼうっとした明かりがさしていた。ときどき、その薄明を通して、映像がはいりこんでくるので、そのたびに、グローヴナーは、外界の世界をちらっと見ていた。この画像が正確だということは、かなり信じてもいいようだった。だが、横の壁にあいている別の穴からつたわってくる音とか、天井や床にあいている別の穴から通ってくる、いろいろな感覚が、確かなものかどうかはわからなかった。
人間の耳は、一秒間に二万回までの振動音なら聞くことができる。だが、ある種族によっては、一秒間二万回というところから聞こえはじめるというものもある。催眠状態では、人間は、拷問《ごうもん》にかけられていながら、大声を立てて笑ったり、くすぐられると苦痛の悲鳴をあげるような状態になるものなのである。ある生物にとっては、苦痛を与えようとする刺激が、他の生物にとっては、なんの意味もないこともありうるものなのだ。
心の中で、グローヴナーは、緊張をすこしずつ抜き去っていった。くつろいで待っているしか、いまのかれにはすることはなかった。
かれは、待っていた。
やがて、自分自身の思考と、自分が受ける刺激の間に、なにか関連があるかもしれないという考えが、かれに浮かんだ。あの建物の内部の画像――あの画像があらわれるすぐ前に、自分は何を考えていたのだろうか? おもに、目の構造を心に描いていたものだったと、かれは思いかえした。
このつながりのあまりの明白さに、かれの心は、興奮でふるえた。ほかにもまた、わかったことがあった。いままで、かれは、一個人の相手の神経系を問題にして、それを通じて、物を見たり感じたりすることだけに、考えを集中してきた。だが、自分の希望の達成は、宇宙船を襲撃している精神の群れと接触し、その精神の群れを自由にあやつることにかかっているのだった。
問題は、自分自身の脳を意のままに支配することが必要なのだと、突然、かれはさとった。脳のある部分の意識を、事実上、一時とめてしまって機能を最低限にしておかなければならない。そして、ほかの部分は極度に鋭敏にしなければならない。そうして、外から伝わってくるすべての感覚が、この部分を通しての表現があらわれやすいようにしておくのだ。高度な自己催眠の訓練を積んでいるので、グローヴナーには、暗示だけで、どちらの目的も達することができた。
もちろん、はじめに視覚からだ。つぎに、かれに向かって働きかけている集団精神の中継となっている、一人の鳥人の筋肉をコントロールしてやることだ。
さまざまの色の光がきらめいて、かれの精神の集中をさまたげた。グローヴナーは、これは自分の暗示がきいてきた証拠だと考えた。突然、かれの視野が鮮明になり、そのまま鮮明さを保っているとき、自分のやり方は正しかったのだと、かれは認めた。
場面は、前と同じだった。かれがコントロールしている鳥人は、相変わらず、細長い建物の内部のねぐらの一つにすわっていた。画像が消えずにいてくれと、必死に心で祈りながら、グローヴナーは、リーム人の筋肉を動かそうと、心を集中しはじめた。
厄介なのは、なぜそういったふうに身体が動くのかという、根本的な説明が、まったくわからないということだった。指を一本動かすだけの動作にも、何百万という細胞の反応が含まれるはずであるが、その反応のすべてをありありと心に描きあげることは、とうていかれにはできないことだった。それで今度は、手足の一本一本を単位として、思考をこらしてみた。だが、なにも起こらなかった。がっかりしたが、心は変わらなかった。グローヴナーは、複雑な過程全部を網羅《もうら》する、鍵言葉を用いてするシンボル催眠法をためしてみた。
ゆっくりと、リーム人の細くなった腕の一つが持ちあがった。別の鍵言葉で、鳥人はそろそろと腰を上げた。つぎに首をまわさせた。見まわす動作で、鳥人の心は、あの引き出しと、あの戸棚と、あの押入れは『自分のものだ』ということを思い出した。その記憶は、意識の面をわずかにかすめた程度だった。鳥人は、自分の所有物であることは承知していたが、その事実と無関心に受け入れていた。
グローヴナーは、興奮を押さえつけるのに、ひどく苦しい思いをした。辛抱強く、気をぴんと張りつめて、鳥人を立ちあがらせ、両の腕を上げ下げさせ、止まり木の上を往き来させた。最後に、もう一度、相手をすわらせた。
異常な緊張で、脳がほんのわずかの暗示に対しても反応するようになっていたのにちがいなかった。もう一度、精神を集中しようとしかけたとたん、かれの思考と感情のあらゆる面に影響を与えるような、メッセージが全身に押し寄せてきた。ほとんど自動的に、グローヴナーは、この苦痛にみちた思考を、耳なれた言葉におきかえていた。
「細胞たちが呼んでいる。呼んでいる。細胞たちはこわいのだ。おお、細胞たちは苦痛を知っている! リームの世界には暗黒がある。その生物から身を引け――リームから遠く……影、暗闇、混乱……細胞たちは、かれを取り除かなければならぬ……だが、細胞たちにはできない。細胞たちが、あの大きな闇から来た生き物と、仲よくしようとしたのは正しい。あの生き物が敵だとは知らなかったのだから……夜が深まっていく。すべての細胞たちは身を引くのだ……だが、できない……」
グローヴナーは、茫然と考えていた。仲よくするだって!
それもそうだ。悪夢のようなふうに、これまでのいっさいのできごとは、ああいうふうに解釈することもできれば、こういうふうに解釈することもできるのだと、かれは考えることができた。狼狽《ろうばい》とともに、かれは、事態の深刻さに気がついた。もし、これまでに宇宙船上に起こった災厄が、誤った、かつ無知にもとづくリーム人たちの友好的な接触の企ての結果だとすれば、かりに、リーム人たちが敵意を抱いていたとすれば、その場合は、どのようなおそろしい損害をおよぼしたことだろうか?
グローヴナーにとって、問題は、リーム人たちのそれよりもはるかに重大だった。もし、かれがリーム人たちとの接触を絶てば、リーム人たちは解放されるだろう。ということは、かれらが攻撃してくるということを意味しかねない。グローヴナーを避けようとして、リーム人たちは、ほんとうに宇宙船ビーグル号の破壊を企てるかもしれない。
いまとなっては、そのうちに何か有利になることが起こるかもしれぬという、希望にすがりながら、さっき立てた計画をつづけるほかに、たよるものはなかった。
5
グローヴナーは、まずもっとも論理的だと思う中間の段階に心を集中した。コントロールの相手を、別のリーム人に切り替えることだ。だれを相手にするかは、リーム人相手の場合、おのずと明らかだった。
「自分は愛されている!」グローヴナーは、前にかれを混乱におとしいれたあの感覚を、わざと再生しながら、自分にいい聞かせた。「自分は母体に愛されている。自分は母体から育ち、やがて一人立ちするのだ。自分は母体の思考を分け与えられているが、すでに、自分自身の目で、ものを見ており、自分が集団の一員だということも知っている――」
グローヴナーの予想していたように、転移は、突然にやってきた。かれは、ずっと小さな、母体のものをまる写しにしたような指を動かしてみた。脆《もろ》い肩を弓なりに曲げてみた。それから、もう一度、親のリーム人のほうに自分を順応させた。実験は、とても完全に満足のいくものだったので、今度は、もっと遠く離れたリーム人の神経機構と結ばれるような、大きなジャンプをやってみようという気になった。
そしてそれもまた、適当な脳中枢を刺激するだけでいいことがわかった。気がついてみると、グローヴナーは、雑木林と丘だけの荒野に立っていた。すぐ目の前に、小川が流れていた。その向こうには、オレンジ色の太陽が、綿毛のような雲が点々と浮かんでいる暗紫色の空に、低くかかっていた。グローヴナーは、新しい鳥人にまわれ右をさせた。ずっと小川ぞいの遠くに木立ちがあり、その中に、小さな巣の家の建っているのが見えた。見わたしたところ、住まいはこの一棟だけしかなかった。かれは、それに近づいて、中をのぞいた。薄暗い内部には、いくつかの巣が見分けられ、その一つに二人の鳥人がとまっていた。二人とも目をつむっていた。
おそらく、この二人も、宇宙船ビーグル号襲撃の集団に加わっていたのだろうと、かれは考えた。
その場所から、脳の刺激個所を新しく変化させて、この惑星の夜の部分にいるリーム人に、かれのコントロールを切り換えた。今度の転移は、もっと速かだった。かれは、影のような建物群と狭い歩廊のある、全然、光というもののない都市にいた。こうしてグローヴナーは、つぎつぎとすばやくほかの神経系との連絡を進めていった。が、なぜ、一人のリーム人との間にだけ、催眠術の関係が生まれるのか、同じような条件を備えたリーム人はたくさんいるのに、どうして、その連中との間には関係が生まれないのか、はっきりした考えが、かれには浮かばなかった。もしかしたら、関係の生まれるリーム人は、ほかの連中よりも刺激に対する反応が、すこしばかり速いといえるのかもしれない。あるいはその連中が、かれが最初に乗り移った母体の子孫か、またその近縁にあたるものだということもありそうなことだった。こうして惑星全域にわたって、二ダース以上のリーム人と交流をした結果、グローヴナーは、これでかなり有効な全体の印象を得たという気がした。
これは、煉瓦《れんが》と石と木の世界であり、おそらくは、これ以上には発達しそうにない、神経機構を共有するという社会体制を持った世界だった。そういうわけで、この種族は、物質とエネルギーの謎を洞察することで、人類のような機械時代をすっかり、いっきに飛び越してしまっていたのだ。どうやらこれで、安心して、最後の一歩手前の段階の反撃をとることができると、グローヴナーは感じた。
宇宙船ビーグル号に映像を送っているリーム人の一人を選び、その神経パターンに心を集中してみた。短い間ではあったが、時の流れを感じた。と、そのとき……
かれは、映像の一つから前の方を眺めていた。映像を通じて、船を見ているのだった。
最初に気になったのは、船の中の戦闘がどうなっているかということだった。だが、船内の幻に乗り移るということは、今度の必須条件の一つにすぎなかったので、船内の様子を知ろうという望みは押し殺さなければならなかった。かれが影響を与えようとしている相手は、おそらくは何百万はあろうというリーム人の集団なのだ。その相手に向かって、宇宙船ビーグル号から手を引き、それから遠く離れているほかには道はないのだという、強力な暗示を与えなければならないのだ。
自分は、リーム人たちの思考を受けることができるし、またリーム人たちも、自分の思考を受けとることができるということは、すでに効力をためして、かれは知っていた。それでなければ、一つの神経系からつぎの神経系へと乗り移ることはできなかっただろう。そうして、もう用意は整っていた。かれは、暗闇に向かって、かれの思考を送り出していた。「きみたちは、宇宙に住んでいる。そして、きみたちの心の中に、きみたちの見たとおりの宇宙を描いている。しかも、その宇宙について、きみたちはなんにも知りもしないし、その宇宙像のほかには、なんにも知ることもできないのだ。しかし、きみたちの心の中の宇宙の像は、実際の宇宙ではないのだ……」
どうすれば、ひとの心に影響を与えられるか? 相手の物の認識を変えればいいのだ。どうすれば、他人の行動を変更させられるか? 行動によってか? 相手の根本の信念と、情緒的確信とを変えてやることだ。
慎重に、グローヴナーは先をつづけた。「しかも、きみたちの心の中の像は、宇宙についてのすべてを伝えてはいない。というのは、きみたちが、それを知る為の感覚を備えていないために、直接知ることのできないものが、たくさんあるからだ。宇宙には一つの秩序がある。もし、きみたちの心の中にある像の秩序が、宇宙の秩序とちがっているとすれば、それは、きみたちがだまされているということだ……」
生命の歴史では、およそ頭で物を考える生物は、ほとんど非論理的な行動はしないものだった――もっとも、そういっても、それはかれらの思考の枠内での話だ。もし、その思考の枠が誤りに基礎をおいていたとすれば、もし、その思考の前提が現実とくいちがっていたとすれば、その生物の各個体が機械的な論理で判断することは、かれらを悲惨な結末に導きかねないのだ。
その前提を変えてやらなければならなかった。グローヴナーは、それを、慎重に、冷静に、誠実に、変えていった。かれの行動の裏にある、かれの根本の仮説は、リーム人には防備の手段がないということだった。この身を守る手段がないということは、リーム人にとっては、数えきれぬ世代この方、はじめて聞く新しい思想なのだった。そのショックが途方もなく大きなものだろうということは、グローヴナーも疑問を抱いてはいなかった。リームの文明は、いままで一度も疑いというものを投げかけられたことのなかった確実性に根をおろした『古代農夫』型の文明なのだ。ごくわずかな侵入者が、この種の『古代農夫』型種族全体の将来に、決定的な影響を与えることのできた例は、歴史にも豊富に残っていることだ。
巨大な古代インドは、わずか数千のイギリス人の前に、もろくも崩壊した。同じように、古代からの地球上の『古代農夫』型人種は、すべてやすやすと征服されてしまい、かれらがかたくなに守りとおしてきた制度の下で教えこまれてきたもの以上に、人生にはなにかがあるという認識の目ざめで、旧来の頑迷な態度を根底から打ち砕かれるまでは、息を吹きかえすことがなかったのだ。
リーム人たちには、特別にもろいところがあった。かれらの通信の手段は、たしかに独特のすばらしいものだったが、たった一度の集中作戦を受けただけで、全員が影響されることにもなりかねないのだった。グローヴナーは、なん度もなん度もメッセージを繰り返し、そのつど、宇宙船についての指図をつけ加えた。指図というのは、「きみたちが船上の人たちに送っているパターンを変え、つぎにそれをやめること。パターンを変えて、かれらがくつろいで、眠れるようにすること……それから、それを撤回すること……きみたちの友好的な行動が、船に大きな害をかけたのだ。われわれも、きみたちに好意を持っている。だが、きみたちの友情表現の方法は、われわれを傷つけてしまうのだ」
この指令をどれほどの間、その巨大な神経回路に、のべつしゃべりつづけたか、かれにはしかとはわからなかった。たぶん二時間ぐらいだったのではあるまいか。いずれにせよ、脳波調節器の中継のスイッチが自動的に切れ、かれと壁面の影像との連絡も終わった。
ふっと、かれは馴染《なじ》みのまわりに気づいた。かれは、映像がうつっていたところに、ちらっと目をやった。それは、もう消えてしまっていた。かれは、さっとカリタの方に目をやった。考古学者は、椅子《いす》にくず折れたまま、ぐっすりと眠っていた。
グローヴナーは、ぎこちなく身を起こしながら、自分が指令を与えた――くつろがせて、眠らせること――という指図のことを思い出した。これがその結果で、おそらく船上の人間は全部、眠っていることだろう。
カリタの目をさまさせる間、息をついていただけで、グローヴナーは、すぐ廊下に飛び出した。急いで駆けながら、ただ壁だけが明るく、はっきりとしているほかには、いたるところに意識のない人間がころがっているのが目にはいった。司令室までの途中、一度も、一つの幻も見なかった。
司令室にはいると、管制盤の近くの床に倒れているリース船長の体を、用心深くまたいだ。ほっと安堵の溜息をつきながら、船の外郭を包むスクリーンのスイッチを入れた。
何秒かののち、エリオット・グローヴナーは、操縦席にすわり、宇宙船ビーグル号の進路を変えていた。
司令室を離れる前に、グローヴナーは、操舵装置に時間錠《タイム・ロック》をかけ、十時間は動かせないようにした。こうしておけば、誰かが目をさまして、自殺でもしようという気になっても、これで安全だ。かれは、急いで廊下に飛び出して、負傷者の手当てにかかった。
患者は例外なく気をうしなっていて、容態がよくわからないので、ただ見当でやるほかはなかった。かれは、安全を心がけた。呼吸が苦しそうな人間は、ショック症状とみて血漿《けっしょう》を与え、危険そうな傷を見かけると、特殊な鎮痛剤を注射し、やけどや切り傷には即効性の軟膏《なんこう》を塗ってやった。七回も――元気になったカリタの手をかりて――死体を運搬車に乗せて、蘇生室へ急いで運び込んだ。四人が息を吹きかえした。その後でも、三十二人の死体があったが、診察はしたものの、グローヴナーは、蘇生室へ送りこむのはあきらめた。
二人がまだ負傷者の手当てをしているとき、かたわらに倒れていた地質学部の技師が目をさまし、大あくびをした――と思うと、狼狽のうめき声をあげた。記憶がどっとよみがえったのだろうと、グローヴナーは思ったが、相手が立ちあがって、近づいて来るのを、油断なく見守っていた。技師は、とまどったような面持ちで、カリタからグローヴナーへと目をやったが、やがて、いった。「お手つだいしましょうか?」
すぐに、一ダースほどの人間が、手つだうようになった。いかにもわざとらしい熱心ぶりと、ときおり口にする言葉から判断すると、死と破壊の悪夢のような事態の原因になった一時的な狂気のことには、気づいているようだった。
グローヴナーは、リース船長と総監督のモートンとがやって来たのを、カリタと話しているのを見るまで気がつかなかった。やがて、カリタは歩み去り、二人の指導者はグローヴナーに近づいて、司令室での会議に出席してくれといった。モートンは黙ったままで、グローヴナーの背中をしっかりと抱いた。グローヴナーは、二人はいままでのことをおぼえているだろうかと、いぶかっていたところだった。無意識に記憶喪失におちいることは、ごくふつうに起こる催眠現象だった。かれらに記憶がない以上、いままでのできごとを納得がいくように説明することは、ひどくむずかしいことだろう。
だが、リース船長の言葉は、かれをほっとさせた。「グローヴナー君、今度の災厄を振り返ってみて、モートン君もぼくも、きみがいっしょうけんめいに、われわれが外敵による攻撃の犠牲者だと知らせてくれた努力に、いまさらのように感謝しているよ。カリタ君は、自分で目撃したきみの行動を話してくれたが、正確に何が起こったかを、きみの口から司令室にいる部長たちに詳しく話してやってもらいたいのだがね」
秩序立った説明をするには、一時間以上もかかった。グローヴナーが話しおえると、一人が聞いた。「するとあれは実際には、友好的な通信だったと解していいのかね?」
グローヴナーはうなずいて、「そうだと思いますね」
「すると、あの星に出かけて行って、爆弾をくらわせるわけにはいかんというんだね?」と、かれは荒々しい口調でいった。
「そんなことをしても、有効な目的には役立たないでしょう」と、グローヴナーは、落ちついてこたえた。「だが、ちょっと立ち寄って、もっと直接的な接触をすることはできるでしょう」
リース船長がすばやく口をはさんだ。「そいつは、ひまがかかりすぎるな。まだ先は長いんだからね」そういってから、不機嫌《ふきげん》につけ加えていった。「それにひどく単調な文明らしいじゃないか」
グローヴナーがためらっていると、かれが口をきく前に、モートン総監督がすばやく口を入れた。「それについて、きみの意見はどうかね、グローヴナー君?」
グローヴナーはいった。「船長がおっしゃるのは、あの星には機械類がないということだと思うのですが、生命力のある有機体というものは、機械類を必要としないで満足を味わうこともできるのです。たとえば食べるものや飲みもの、友だちや恋人たちとの交際などです。あの鳥人たちは、共同で物を考えることや独特の繁殖方法などに、情緒のはけ口を見つけているのではないでしょうか。人類にもそれと大差のない時代がありましたが、それでもいちおう文明と称していたのですし、その時代にも、いまと同じように偉大な人物はいたのです」
「しかしながら」と、物理学者のフォン・グロッセンが抜け目なくいった。「きみは、連中の生活様式をくつがえすのに、なんの躊躇もしなかったじゃないか」
グローヴナーは、平然としていた。「鳥類にとって――いや、人間といってもいいが、あまり専門化された生活をいとなむことは、おろかなことですよ。ぼくは、新しい観念に対する、かれらの抵抗をうちこわしてやったのです。この船の上では、まだなかなか果たせずにいることなんですがね」
何人かが、声を立てて意地悪く笑った。そして、会議は終わりかけた。その後で、モートンが化学部からただ一人出席していたイエーメンスに話しかけるのを、グローヴナーは目にした。イエーメンスは――いまでは、ただ一人ケントにつぐ――化学者だが、顔をしかめ、何度か首を左右に振っていた。やがて、何かながながと話していたかと思うと、モートンと握手した。
モートンは、グローヴナーの方に来て、小声でいった。「化学部では、今後、この件に関しては、いっさい何もいわぬということを条件に、二十四時間以内に、持ちこんだ装置を、きみの部屋から引き取るといっている。イエーメンス君は――」
グローヴナーはすぐにいった。「ケントは、この件をどう思っているんです?」
モートンは、しばらくためらっていたが、「ケントは、ガスをちょっと吸いこんでしまってね」と、やっといった。「四、五か月は、ベッドに寝ていなければなるまいね」
「しかし」と、グローヴナーがいった。「そうなると、選挙の期日がすぎてしまいますよ」
またもやモートンは口ごもっていてから、いった。「うん、そういうことになるだろうね。ケント以外に、ぼくに対立する候補はいないのだから、ぼくが無競争当選ということだね」
グローヴナーは無言のまま、これがどんな結果をもたらすだろうかと考えていた。モートンが総監督をつづけるということは、いいことだと思った。しかし、ケントを支持した不満を抱いている連中は、どうするだろう?
かれが口をきくより先に、モートンは言葉をつづけていった。「これは、個人的なたのみとして聞いてもらいたいのだがね、グローヴナー君。ぼくは、イエーメンス君に、これ以上、ケントにならって、きみに攻撃をつづけるのは賢明ではないぞと、説得したのだよ。平和のためだと思って、きみには口をつぐんでいてもらいたい。勝利を利用するようなことは、しないでもらいたいんだ。もし聞かれたら、今度の事件の結果だといってくれていいが、きみの方から事件を持ち出さないでほしいんだよ。約束してくれるだろうね?」
グローヴナーは、そのとおりにしようと約束してから、ためらいがちにいった。「いかがでしょう、一つ提案を申しあげたいのですが」
「ああ、いいとも」
「なぜ、ケントをあなたの代理に指名なさらないのです?」
モートンは、目を細めて、じろじろとかれを眺めていた。まったく当惑したという顔色だったが、やがていった。「そんな提案を、きみから受けようとは予想もしなかったね。ぼく自身としては、あまりケントの気持ちをおだてあげるようなことをするのは、気が進まないね」
「ケントのことじゃないんですよ」と、グローヴナーはいった。
今度は、モートンが黙っていた。やがて、かれは、ゆっくりといった。「なるほど、緊張の緩和にはなるだろうな」しかし、まだあまり気が進まないようだった。
グローヴナーがいった。「ケントに対するあなたの評価は、ぼくのと同じらしいですね」
モートンは、冷酷な笑い声を立てた。「総監督にしてみたい男なら、この船に何ダースもの人間がいるが、平和のためだ、きみの忠告に従うことにするか」
二人は別れた。グローヴナーの感情は、口に出したよりもずっと複雑だった。ケントがしかけてきた攻撃に対する結論としては、不満足なものだった。化学部をかれの部屋から退散させたことは、小ぜり合いに勝ったというだけで、戦闘に勝ったことではないと、グローヴナーは感じた。とはいうものの、かれ自身の見解からいえば、もっとはげしい戦いになったかもしれなかった事件に対する解決策としては、最良のものだった。
三 イクストル
イクストルは、無限の夜の中に、身動きもせず、手足をのばして横たわっていた。時はゆっくりと、永遠の歩みをつづけていた。そして宇宙空間は、底の知れないほどに暗黒だった。無限のはるかかなたの虚空から、おぼろな点のような光が、つめたく、かれに向かって光を落としていた。その一つ一つが、灼熱《しゃくねつ》する星を集めた銀河系なのだと、イクストルは知っていた。信じられないくらいの遠いへだたりが、それらをただぼうっと光る靄《もや》のような、小さな渦に変えてしまったのだ。あすこには生命があった。母なる太陽のまわりを果てしなくまわりつづける、無数の惑星の上に、生命はつぎつぎに生まれていたのだ。同じようにして、イクストルの故郷、惑星グロルの太古の泥の中から、かつて生命がはい出してきたのだった。だが、宇宙の大爆発とともに、強大だったイクストルの種族は滅び、かれの体もこの銀河系間の深淵に投げ飛ばされてしまったのだ。
かれは、生きのびた。これは、かれにとっては破局に近い悲劇だった。大変動を生きのびたあと、ほとんど不死身ともいうべきかれの体は、宇宙空間と時のすべてにみなぎっている光のエネルギーにささえられて、徐々に弱りながらも生きながらえていた。かれの頭の中では、何度浮かんでは消え、浮かんでは消えたかわからぬ同じ考えが、いつまでも脈々と波打ちつづけた――つまり、考えることといえば、自分がふたたび、どこかの銀河系にいるということを見る機会は、もはや無に近いということだった。まして、どこかの惑星にたどりついて、貴重な『グール』を見つけられる機会にいたっては、ほとんど絶望とさえいってもいいのだった。
何億兆回、その考えが頭の中をかけめぐったかはしれぬが、いつでも同じ変わりばえのしない結論にぶちあたった。いまではもう、その考えはかれの一部のようになっていた。それは終わることのない画面が、かれの心の目の前に、くり返しくり返し広げられているようなものだった。それと、あの暗黒の深い淵の中に、遠くかすむ小さな光とが、かれが生きている世界を形作っているものだった。かれの体がいまだに保ちつづけていた、はるか遠くの磁場を感知することのできる機能のことも、ほとんど忘れてしまっていた。遠い昔、その磁場は、まったく果てしなく広いものだったが、かれの力が衰えてしまったいまでは、二、三光年が精いっぱいの限界で、その範囲以上のところからは信号波もいっさい伝わって来なかった。
かれは、何も期待してはいなかったので、宇宙船からの刺激を最初に感じたときも、ほとんど感じないほどだった。エネルギー、堅さのある――何が物質だ! ぼんやりした知覚が、鈍くなった脳をゆり動かした。長いこと使わずにいた筋肉を、瞬間的に、手荒く、むりやり動かしたように、なまなましい苦痛をもたらした。
がすぐ、苦痛は去り、思考も消えた。かれの脳は、長い、長い眠りにすべるようにもどっていった。またもや、絶望と、暗黒の空間に浮かぶ光の小さな塊だけの、なじみになった昔からの世界で生きるのだ。エネルギーと物質という、実際の観念は、夢となって遠ざかってしまった。いくらか機敏さの残った、かれの心は遠い片隅で、消えてゆくそれを見守っていた。忘却の影が、すべてを包みこむ霧の襞《ひだ》をひろげて、朦朧《もうろう》とした意識が、火花のように、つかのま、苦しみよみがえったのをのみこもうとしているのを見守っていた。
すると、またもや、前よりも強く、より鋭く、かれの磁場の遠い限界すれすれのところから、メッセージがひらめいてきた。長々と伸びたイクストルの体が、無意識にぴくぴくと痙攣《けいれん》するように動いた。四本の腕を力まかせに振りあげ、四本の脚をめくらめっぽうに、わけもなく力強く折り曲げた。それは、かれの筋肉の反射運動だった。
うつろに空《くう》をみつめていた目の焦点が、またはっきり定まった。よどんでいた視覚が、急に活《い》き活きと生き返った。磁場を支配している神経系の一部が、最初に均衡を破って行動にはいった。さっと火花を散らすようなすさまじい努力で、イクストルは、全然反応のなかった空間何十億立方マイルにわたって広げていた探知の網をしぼり、その力を集中して、もっとも強い刺激の地域のきわめて小さな標的を、正確に探ろうとした。
そのありかを探り出そうと骨を折っているあいだにも、その物体はたちまち莫大な距離を移動した。そのときになって、はじめて、それが一つの銀河系から他の銀河系へ飛んで行く宇宙船だということに考え及んだ。それと同時に、いまにも自分の知覚のおよばぬかなたへ、飛んで行ってしまうのではないだろうか、なにもできぬうちに、永久に接触ができなくなってしまうのではなかろうかという、おそろしい恐怖が一瞬、かれを襲った。
ほんのわずかばかり探知の磁場をひろげたとたん、いきなり、相手から来る力とぶつかった強い衝撃を受け、ふたたび、あのまがいようのない、異星の物質とエネルギーの刺激を受けた。今度は、しっかりとそれにくいついた。かつて、かれの探知の磁場であったものは、弱り果てた体の全力をふりしぼった一本のエネルギー線になった。
しっかりと吸いついた電波《ビーム》にそって、イクストルは、宇宙船から強烈な電力を吸収した。それはおそろしい量のエネルギーで――かれがさばくことのできる量の、何百万倍ものエネルギーだった。やむをえず、かれは、それを自分から偏向させて、遠くへだたった暗闇へ放散させてしまわねばならなかった。しかしながら、かれは巨大な蛭《ひる》のように、四光年、五光年、十光年とビームを伸ばして、宇宙船からその大きな駆動力を吸いとってしまった。
数えきれないほどの無限に近い長い年月を、弱々しい光の、はかないエネルギーだけで生きつづけてきた後では、とてもこれだけの巨大な力を扱うなどということは思いもよらなかった。無限の空間は、あたかもそんなことはなかったかのように、かれが放出したエネルギーを、こともなく吸収してしまった。それでも、かれが体で受けとめたぶんは、ショックとともに、かれの体に生命をよみがえらせた。凶暴なまでのはげしさで、絶好の機会だと、イクストルは感じとった。気でも狂ったかのように、イクストルは、自分の体の原子構造を調節すると、ビームにそって突進した。
はるか遠くで、宇宙船は――駆動は停止していたが、惰性で飛行をつづけながら――航行してかれの前を通りすぎ、またもや遠ざかりはじめた。まる一光年、つづいて二光年、さらに三光年と、宇宙船は遠くへと去って行った。あらゆる力を尽くしたのにもかかわらず、またも逃げられてしまったのかと、暗い絶望に包まれながら、イクストルは感じた。と、そのとき……
宇宙船がとまった。飛行のまっ最中にとまったのだ。一瞬まえまでは、惰性ではあったが、一日何光年もの高速で航行していたのだ。それがそのつぎには、じっと空にたたずんでいるのだった。前進惰力は制止され、他のエネルギーに変換されているのだった。それでもまだ、途方もないほど遠くに離れていたが、もうそれ以上、遠くへ去って行くようすはなかった。
なにが起こったのか、イクストルには察しがついた。船内の生物が、かれの妨害に気がついて、何が起こったか、何が原因かを調べるために、わざと船をとめたのだ。あれだけ即座に減速の方法がとれるということは、ひじょうに科学が発達していることを示しているが、かれらがどういう反加速技術を使ったのかは、かれにははっきりとわからなかった。可能な方法がいくつかあるにはあった。イクストル自身は、自分の全体速度を、体内の電子活動に変換させて、急停止するつもりであった。これならその作用中にも、ほとんどといってもいいほどエネルギーを失うことがなくてすむ。おのおのの原子内の電子が、わずかに――ごくわずかに――運動速度を増し、こうして、極端に小さい速度が、極端なレベルの運動に転変されるのだ。
その電子速度の変化によって、イクストルは、突然、船が近くにいるのを感知した。
とたんに、つぎからつぎと、一つ一つ考えているひまもないほどすばやく、いくつものことが起こった。まず宇宙船が、とうてい計り知れないほど強いエネルギーを帯びたスクリーンを張りめぐらした。すると、この多量のエネルギーの集中は、イクストルが体内にしっかりともっていた自動継電器官を作動させて、かれの動きをとめた。それは、イクストル自身の意識が働くより何分の一マイクロ秒前だった。距離にしていえば、三十マイル以上も前に、つたわってきたのだった。
イクストルは、行く手の暗黒の中にある光の点として、宇宙船を見ることができた。防御スクリーンもまだ張られたままであった。ということは、十中八、九、船の中の生物が、かれの存在を探知できなかったということだ。が逆に、かれももはや船に近づく望みがなくなったということであった。おそらく、船内の鋭敏な計器が、かれが近づいたのを感知し、何かミサイルのようなものだと思いこんで、防御のためにスクリーンを張ったのにちがいないと、かれは推測した。
イクストルは、さっとひと飛びすると、このほとんど目に見えぬ防壁の、数ヤード手前まで近づいた。そしてその場で、船内にはいりこもうという願望からへだてられたまま、なんとかしてとりつけないものかと食い入るように宇宙船を見つめた。五十ヤードほども離れていなかったが、球状の、黒い色をした金属の怪物で、ダイヤモンドのようなぎらぎらと光る明かりが、何列も何列もちりばめられていた。宇宙船は、莫大な宝石のように光を放ちながら、黒ビロードの暗闇に浮かんでいた。静止してはいるがいきいきと、圧倒するように大きく、生命力を帯びていきづいていた。そのとたん、何千というほど広く散らばっていた惑星のことや、それらの惑星に手をのばして、つかみとった不撓不屈《ふとうふくつ》の、あらしのような生活のことが、郷愁にも似た、溌剌《はつらつ》とした記憶をよみがえらせた。そして――現在の失意にもかかわらず――それは、ひと筋の希望をもたらした。
この瞬間まで、体を動かしてすることが、とても多かったので、かりに船内にはいりこむことができたとしても、それがどういうことを意味するのか、かれは、ぼんやりとしか理解していなかった。数え切れないほど長い長い年月を通じて、究極の絶望にまでおちこむことに慣れていたかれの心が、そのとたん、にわかに狂気のように舞いあがった。かれの腕と脚は、舷窓からのまばゆい光に照らし出されて、のたうち、ねじくれて、生きた火の舌のようにきらめき輝いた。カリカチュアされた人間のような頭、深い切り傷のように大きく避けたかれの口からは、白い吐く息が霜となって、よだれのように流れ、小さな凍った水玉となって四方に飛び散っていった。かれの希望は、あまりにも大きくなっていったために、かえって、かれの心の中でつぎつぎと崩れ去りつづけ、視野がぼやけてしまった。そのもうろうとした視野を通して、船の金属の表面にある丸いふくらみから、ひと筋の太い光線の流れ出すのを、かれは見た。ふくらみは巨大なドアとなり、ぐるりと回転して開き、一方にかたむいてとまった。その戸口から、目もくらむような光線が、いっぱいにほとばしった。
しばらくそのままであったが、やがて、一ダースほどの二本足の生物が視界にあらわれた。かれらは、ほとんど透明な防護服のようなものをまとっていて、大きな浮遊する機械を引いたり押したりしていた。機械は、すばやく、船の表面の小さな部分をとりまくように集められた。機械から炎がほとばしりはじめたが、遠くからでは、小さな炎としか見えなかった。だが、目もくらやむばかりの輝きから考えると、ひじょうに高い熱か、あるいは他の放射線を強力に集中させたもののようだった。あきらかに修理作業と思われたが、その修理は、驚くべき速さで進められた。
狂気のようになって、船からかれをへだてている防壁に、弱い個所はないかと、イクストルはスクリーンをさぐりまわったが、見つからなかった。このスクリーンに使われているエネルギーは、あまりにも複雑であり、包んでいる範囲もあまりに広すぎるので、それに立ち向かうことはできそうにもなかった。遠くにいたときから、それは感じていたことだったが、いま、その現実に顔を突き合わすことになったのだ。
作業は――イクストルの見たところ、外壁の厚い部分を切って取り除き、新しい材料で張りかえることらしかったが――ほとんど、はじまったかと思うと、あっというまに完了していた。白熱のような溶接の炎は、暗闇の中に火花を散らして消えた。機械がとりはずされ、戸口の方に浮動したと思うと、戸口の中に降りて行って、見えなくなった。二本足の生物たちも、急いでその後を追い、大きなカーブを描いた金属板の上には、突然、ひと一人いなくなり、後は、空間そのもののような生気のないものとなった。
そのショックは、イクストルの理性を、ほとんど奪いそうになった。このまま、みすみす、かれらを逃がすことなどできるわけがないではないか。いまや、全宇宙をつかみとろうとして――わずか数ヤード向こうにころがっているというときになって。イクストルは、その一念だけで宇宙船をとめてみせるとでもいうように、両の腕を伸ばした。ゆるい、律動的な精神的苦痛で、体がうずいた。心は、まっ暗な、絶望の底なしの穴の方へ、ぐるぐると落ちこみそうになったが、最後に突っこむ寸前でふみとどまった。
巨大な扉が、そのすばやい回転を、しだいに緩めていた。一人の二本足が、光の輪の中から這い出して、さっき修理をした個所へと走った。かれは何かをひろいあげ、開いたエア・ロックの方へもどりかけた。まだそこからいくらか手前で、ふと、かれはイクストルを見つけた。
かれは、突然、殴りつけられたかのように、立ちどまった。つまり、体の平衡が失われたような格好で、立ちすくんだ。舷窓からの光で、透明な宇宙服ごしに、かれの顔がはっきり見えた。目は大きく見開き、口をぽかんとあけたままだった。やがて、われに帰ったようすで、唇をすばやく動かしはじめた。しばらくすると、ドアがまた外向きにまわり出し、ぐるっと開いたところで、一団の生物があらわれて、イクストルを眺めた。それにつづいて、何か相談をしているにちがいなかった。というのは、かれらの唇が、はじめ、一人の生物の唇から、つづいてつぎの唇と、不規則な間をおいて動くので、それとわかった。
やがて、エア・ロックから、大きな金属の檻が浮きあがってきた。二人の生物が、その上にすわっているのは、その檻の動力で、操縦しているようだった。イクストルは、自分がとらえられようとしているのだなと判断した。
不思議なことに、心は高揚しなかった。まるで麻薬の作用で、疲労のどん底へ引きずりこまれてゆくようだった。ぞっとして、イクストルは、自分をおし包もうとする麻痺状態と戦おうとした。いまこそ、かつて究極の知識の寸前まで到達した自分の種族を、ふたたび溌剌《はつらつ》としたものとしようとするのなら、自分の抜け目のない警戒こそが必要なのだ。
1
「銀河系間の空間に、何かが住めるなんて、いったいぜんたい、どうすれば、そんなばかばかしいことがいえるんだ?」
誰かわからないが、張りつめた声が、エア・ロックのそばに、ほかの連中にまじって立っているグローヴナーの宇宙服の通話装置に響いてきた。この言葉で、集まっていた小さな集団が、いっそうぴったり寄り集まったという気が、かれにはした。グローヴナーにとっては、他の連中とぴったり寄り添っているだけでは、まだたよりない気持ちだった。この船のまわりに渦巻き、強く輝いている舷窓までも押し倒そうとする、手で触れることもできなければ、計り知ることもできない夜のことが、むやみと気になっていた。
この宇宙旅行がはじまってからはじめて、いまほどこの巨大な暗黒が、グローヴナーの胸に強く迫ったことは、ほとんどなかった。いままでは、宇宙船の中からしょっちゅう、その暗闇を眺めていたので、無関心になってしまっていた。しかし、いま、突然かれは気がついた。人類が切り開いたもっとも遠い宇宙の限界も、あらゆる方角に、何十、何百億光年の広がりを持つこの暗黒にくらべれば、それはまるでピンの先ほどの小さな一点にしかすぎないのだ。
モートン総監督の声が、おじけづいた沈黙を破った。「船内のガンリー・レスター、応答せよ……ガンリー……レスター……」
しばらく間をおいて、やがて、「はい、総監督ですか?」
天文学部長の声は、グローヴナーにもそれとわかった。
「ガンリー」と、モートンは言葉をつづけた。「ひとつ、きみの天体数理学的な頭脳をかりたいんだ。あの生きものが浮かんでいた空間と正確に同じ位置で、たまたまビーグル号の動力装置がふっ飛んだのだが、こんなことが起こる確率はどの程度だろうね? 二、三時間かかってもいいから、計算してみてくれないかね」
この言葉が、今度の事件の全貌を、さらにはっきりと心に焼きつけた。これはいかにも数学者モートンらしいやり方であった。自分自身ではもう知りつくしている分野については、他人に花を持たせようというのである。
天文学者は、声を立てて笑った。やがて真剣な口調でいった。
「べつに計算するまでもないでしょう。こんな確率を計算するとなると、数学的にその起こるチャンスをあらわす新しい記号法でも作らなければならんでしょう。数学的にいって、あんなことはとうてい起こりえないことです。こうして、われわれ人間が宇宙船に乗って、二つの銀河系の中間点で、修理のために停止している――人類がわれわれの銀河系の外に探険隊を送ったなどということは、これがはじめてのことです。ここにいるわれわれは、いわば、ちっぽけな点で、それがなんの打ち合わせもなしに、よりちっぽけな、別の点の進路と交差したというわけです。こんなことは宇宙空間に、こんな生物が充満しているとすれば話は別ですが、そうでないかぎり、不可能なことが起こったというほかはありませんね」
グローヴナーには、ほかにもっと妥当な説明のしようがありそうな気がした。この二つの事件は、単純な因果関係と考えられるのではないだろうか。機関室の壁が焼き切れて、大きな穴があいた。そこから奔流のようなエネルギーが、宇宙空間に流れ出た。いま、船は進行をとめて、その損傷の場所を修理している。グローヴナーは、そのことを口にしようとしかけたが、思いなおして口をとざした。自分の立てた仮説には、もう一つの因子がある。力と確率という因子が、その仮説には含まれていた。ほんの数分で原子炉の出力を流出させてしまうためには、どれだけの力がいるのだろうか? 簡単に、それに当てはまる数式を考えてから、かれは軽く首を振った。あまりにも膨大な数字が出てきたので、かれが提出しようとしていた仮説が、自動的に除外されるという気がしたのだ。いつかの化け猫が千匹集まったとしても、それだけ多量のエネルギーはとても扱いきれないだろう。ということは、個々の生物ではなく、機械力が関係しているということを暗示していたからだ。
誰かがいっていた。「あんな格好をした化け物は、熱線で焼き殺してしまうべきじゃないかな」
その声にこもった戦慄《せんりつ》は、グローヴナーの心にも、同じ感情をかき立てた。反応は、通話器を通じて、みんなの耳に伝わったにちがいない。そのわけは、そのつぎに総監督のモートンが口をきいたとき、いまの男の言葉がもたらしたひやっとする思いをかなぐりすてようとする意図を、かれの口調が示していたからだ。
「なんて醜いやつだ。悪夢から吐き出されてきた、まぎれもないまっ赤な血に染まった悪魔じゃないか――もっとも何か月か前にたいへんな目にあったかわいい猫ちゃんとは逆に、全然、無害かもしれんぞ。スミス、きみは、どう思うね?」
ひょろひょろと痩せた生物学者は、冷静で論理的だった。
「ここから見たかぎりでは、こいつは、腕と脚を持っています。ということは、純粋に惑星上で生まれたものが進化したということです。もし、知能のある生物だとしたら、檻の中に入れた瞬間から、環境の変化に反応を示しはじめるでしょうね。心を乱すもののない宇宙空間の静寂の中で、瞑想《めいそう》にふけっていた尊敬すべき老賢者かもしれませんね。それとも、まだ若い殺人犯人で、追放の宣告を受けて、なんとか故郷の星にかえって、文明生活を営みたいという欲望に駆り立てられているのかもしれませんよ」
「カリタさんがここにいてくれるとよかったのですがね」と、機関長のペノンズがいった。いつもどおりの静かで、老練な口ぶりだった。「猫の惑星では、あの人の化け猫についての分析で、われわれの立ち向かうもののことが、あらかじめわかったのですが――」
「こちらはカリタです、ペノンズさん」と、いつものとおり、日本人の考古学者の声が、一語一語はっきりと、通話器から流れてきた。「ほかの方々といっしょに、何が起こったかについて、わたしもずっと耳を傾けていました。なるほど、目の前で映像で見ても、この生物には強い印象を受けたと認めないわけにはいきませんね。しかし、事実がわかっていない現在の段階では、周期説を基礎にして分析するのは、危険ではないでしょうかね。あの化け猫のときは、あの猫の住んでいた惑星が不毛の土地で、ほとんど食糧のないこともわかっていましたし、廃墟の都市の建築物から、いろいろ具体的なことも知ることができたわけです。ところが、今度の場合は、いちばん近い惑星から二十五万光年も離れた、宇宙空間に、明らかに食物もなく、空間を移動する手段もなしに生きている生物が相手なのです。したがって、わたしはつぎのように提案します。檻の出し入れに使う口を除いて、防御スクリーンは張ったままにしておくこと。つぎに、あの生物を実際に檻の中に入れたら、あの生物を――あらゆる動作、あらゆる反応を、徹底的に観察することです。内臓が宇宙空間の真空状態で、どんな働きをしているかを、透視写真で撮影することです。つまり、相手についてあらゆることを調査するのです。そうすれば船の中へ持ちこもうとするものが、いったいどんな生物かがわかるというわけです。殺すな、殺されるな。とにかく用心がいちばん肝要です」
「まさに」と、モートンがいった。「そのとおりだ」
モートンは、つぎつぎと命令を出しはじめた。船内から、さらにいろいろな機械が持ち出され、なめらかにカーブを描く船腹の表面に固定された。ただ巨大な透視カメラだけは例外で、移動式の檻に取りつけられた。
グローヴナーは、総監督が檻の上の男たちに最後の指令を与えているのを、不安な気持ちで聞いていた。「ドアをできるだけ広くあけろ」モートンがいっていた。「そして、やつの上に落とすんだ。やつの手に檻の柵をつかませるな」
いまだ、それを逃したら二度と機会はないぞと、グローヴナーは思った。異議があるのなら、いまいい出すべきだ。
しかし、いうべきことは何もないという気がした。おぼろげに感じている疑問を、大まかに口にすることはできる。ガンリー・レスターの意見を、その論理的な結論まで押し進めて、今度の出来事が偶然のことではありえないと、いおうとすればいうこともできる。さらにもう一歩進んで、どこか遠くで、あのまっ赤な悪魔に似た生物の一団が、宇宙船に乗りこんで、自分たちの仲間が拾いあげられるのを待ち構えているではあるまいかと、暗示してみることさえもできる。
しかし、実をいうと、そういった不測の事態に対応する用意の手は、ちゃんと立てられているのだ。かりに、敵の船がどこかにいるとしても、防御スクリーンは、檻の幅だけしか開かないのだから、最小限の攻撃目標しかさらさないわけだ。船体の外郭は焼かれるかもしれない。そこにいる人間は殺されるかもしれない。だが、宇宙船そのものは、必ずや安全のはずだ。
そうすれば、敵は、作戦がまったく無駄だったことに気づくだろう。相手がおそるべき武器と装甲に身を固めた船であり、とことんまで戦闘をやりぬくことのできる種族が乗りこんでいることを知るだろう。
グローヴナーは、そこまで考えを及ぼしてから、何もいわないことにした。疑問はそのまま残しておくことにしよう。
モートンが、またしゃべっていた。「誰か最後にいうことはないか?」
「あります」新しい声は物理学部長フォン・グロッセンのものだった。「ぼくは、この生物の徹底的調査ということには賛成だ。ただし、ぼくにとって、徹底的ということは、一週間から一か月かけてということだ」
「というと」と、モートンがいった。「各専門技術家が、この怪物を研究するあいだ、この空間に船をとめておくというんだね?」
「もちろんですよ」と、物理学者はいった。
モートンは、二、三秒黙っていたが、やがて、ゆっくりとした口調でいった。「それは、ほかの人たちにもはかってみなければいかんね、フォン・グロッセン君。これは、探険旅行だ。船には、何千もの標本を持って帰るだけの設備もしてある。科学者としてのわれわれには、すべてが無駄になるということはない。なにからなにまで調査しなければならんものだ。だが、新しい標本を採取しようとするたびに、まるひと月も空間に腰をすえて調査するということになると、おそらく反対が出るだろうという気がするのだがね。五年か十年のこの旅の予定が、五百年にもなりかねんからね。もちろん、ぼく個人としては、反対しているのではない。とにかく、どの標本でも、それぞれの値うちに応じて、研究し、処理することが当然なのだから」
「ぼくの趣意は」と、フォン・グロッセンがいった。「ただじっくり考えようといっているだけなのさ」
モートンは、「ほかに異議は?」とたずねた。ほかには異議をとなえるものもなかったので、かれは、静かな口調でしめくくるようにいった。「よろしい、じゃ、諸君、外に出て、やつをつかまえるんだ!」
2
イクストルは待っていた。何か考えようとしても、かつてこれまでに知りつくしたことや、考えたことの記憶が、万華鏡《まんげきょう》のように、ばらばらに浮かびあがりつづけた。はるか昔に滅びてしまった、故郷の惑星が幻のように目に浮かんだ。その情景に誇りがよみがえり、この自分を、ほんとうに捕えられると思いこんでいる二本足の生物どもへの軽蔑感が、つのるばかりだった。
かれは、かつて自分の種族が、はるか遠い空間から、恒星系全体の運行を意のままにあやつることができた時もあったことを思い出した。それは、自分たちが、そういった形式の宇宙旅行をやめてしまう前のことであった。その後は、ずっと静かな生活を営む方に進んでいった。自然力から美を作り出すことで、いつまでもつづく創造的な生産に、恍惚感を見いだすようになったのである。
イクストルは、自分の方に進んで来る檻を、じっと見守った。それが首尾よく防御スクリーンの口をくぐり抜けたとたん、即座に、その後ろでスクリーンはとざされた。その動きは、きわめて円滑に行なわれたので、たとえ、イクストルがその気になっても、スクリーンに口が開いたそのほんのつかの間を、うまく利用することはまずできなかっただろう。イクストルもまた、そんなことをするつもりはなかった。宇宙船にはいりこむまでは、ただ一つの敵対的な動きも見せないように、用心深くしなければならない。
ゆっくりと、金属の格子を張りめぐらした檻が、かれの方に浮かびながら近づいて来た。二人の操縦者は、油断なく警戒していた。一人は、ある種の武器を持っていた。イクストルは、原子ミサイル発射器だなと、直感した。いささか、敵に敬意を表する気になったが、同時に、その限界もさとった。ここでなら、自分に対して使うこともできるだろうが、制限された狭い船の中で、そんな強烈なエネルギーを使うようなことは、あえてしないだろう。
これで、さらに鋭く、いっそうはっきりと、自分のねらいの焦点が定まった。あの船に乗りこむのだ! 中へはいりこむのだ!
こう心の中に深く決意したとき、大きな口をあけた檻が、かれの上にかぶさってきた。金属のドアが、音もなく、かれの背後でぴたっとしまった。イクストルは、手を伸ばして手近の格子をつかみ、しっかりと握りしめた。反動で目まいを感じながら、そこにすがりついた。その方が危険の恐れがなかったからだ! その現実に、かれの心は大きくふくらんだ。それは心だけでなく、肉体にも効果を及ぼした。体内を混沌と駆けめぐる原子系の組織から、自由電子が大量に放出され、狂ったように他の原子系と結合しようとして捜し求めた。何千兆年の絶望の後、ついに安全をかちえたのだ。実質的な肉体が安全なのだ。たとえどんなことが起ころうと、この動力で思いのままに動く檻の動力源を支配するかぎり、自由に動くことのできなかった状態から、永久に解き放されたのだ。もう二度と、遠いあちらこちらの銀河系の引力や、それと同等の力の微弱な反撥力に悩まされることも絶対にないのだ。これからは、どの方角でも、好きな方角へ進んで行けるのだ。しかも、檻だけから得られる動力だけで、それだけのことができるのだ。
格子にしがみついたままのかれを乗せて、かれの牢獄は、船の表面の方へと動きはじめた。近づくとともに、防御スクリーンが開き、ふたたび背後でしまった。近くで見ると、二本足の生物はちっぽけに見えた。宇宙服が必要なわけは、自分たちの故郷の星とまったくちがった環境に適応する能力がないということで、肉体的に進化の程度が低いということなのだ。とはいっても、かれらの科学の業績を低く評価するのは、けっして賢明ではない。鋭い頭脳の持ち主でなければ、これだけ強力な機械類を作り出し、自由に使いこなすことはできないはずだ。そして、いまかれらが、それらの機械類をおびただしく持ち出してきたのは、どうやら自分を調べるつもりらしい。そうなると、自分の目的は見破られ、胸のうちに隠している貴重な品物が見分けられ、すくなくとも、自分の生態のいくつかもさらけ出されることになってしまうだろう。そんな検査をすることは、許すわけにはいかない。
かれがよく見ると、二本足のうちのなかには、一つでなく、二つの武器を持っているものがいた。武器は皮ケースに収められていて、宇宙服の腕と手を動かす機構《メカニズム》に合うようになっていた。武器のうちの一方は、さっき自分を脅かした原子ミサイル型だった。もう一つの方には、きらきらと光る、半透明の握りがついていた。かれは、それを震動波銃だと判断した。檻の上に乗った連中も、この型の武器で身を守っているようだった。
檻があわただしく用意された船外の研究室に落ちつくと、一台のカメラが、二本の枠の間の狭い口の方へ押し出されてきた。それこそイクストルの待ち構えていたきっかけだった。ひらりと身軽に、檻の天井に飛びつくと、視力を増幅し、極超短波への感度が鋭くなった。そのとたん、震動波銃の動力源が見えた。すぐ手のとどくところにある光ったものがそれである。
針金のような指を八本も持った腕を、目にもとまらぬ速さで、金属張りの天井へ、そしてその|向こう《ヽヽヽ》へと突き出した。そして、つぎの瞬間には、檻の上に乗った一人の方の皮ケースから、震動波銃を抜きとっていた。
かれは、自分の腕の原子構造は調節したのだが、銃の原子構造は調整し直さないでおいた。誰が銃を発射したか、かれらに推測できないようにしておくことがたいせつだった。不自然な姿勢をこらえながら、かれは、銃をカメラと、その後ろにいる人間の群れに向け、引き金を引いた。
流れるような一動作で、イクストルは震動波銃をはなし、手を引っこめ、その抜いた動作を利用して、床に体を押しやった。これでさしあたっての恐れは、消えてしまった。銃の持っている純粋の分子エネルギーが、カメラを貫通してその分子を共鳴させ、ついでにこのまにあわせの研究室の中の大部分の機械に、ある程度の影響を与えたのだった。感度の高いフィルムは、役に立たなくなっただろうし、計器は調整しなおさなければならないだろうし、ゲージは検査しなければなるまいし、機械も一つ一つ試験をしなければならない。おそらく装置という装置はいっさい、取り換えなければならんということになるだろう。そして、なによりも都合のいいことは、その性質上、いまの出来事が、単なる事故としか見えないようになっていることだった。
グローヴナーは、通話器を通じて、人々が声高に悪態をつくのを耳にした。では、ほかの連中も、自分と同じように、宇宙服の材質だけでは一部しかとめられなかった、刺すような震動波と戦っているのかと考えて、なにかほっとした。視力が徐々に回復すると、やがて、自分の立っている足もとの、カーブした鋼板がふたたび目にはいった。その向こうにちょっと見えるのは、宇宙船の、飾り一つない頂上部であり、そしてその光は、何マイルとも制限のない宇宙の空間で――暗黒で、底の知れない、考え得られないほどの深淵が口をあけているのだった。かれはまた、影の中におぼろげなものを一つ、金属の檻を目にした。
「すみません、隊長」と、檻の上の一人があやまった。「銃がベルトから落ちて、暴発したのにちがいないんです」
グローヴナーが、すかさずいった。「隊長、その解釈は、重力など実際にはないという点からも、どうもほんとうらしくないのじゃありませんか」
モートンがいった。「そいつは、いい着眼だ、グローヴナー。ほかに誰か、なにかたいせつなことを見なかったか?」
「ひよっとして、気がつかずに、銃にさわったのかもしれません」騒ぎを起こした銃の持ち主が、自分から進んでいった。
スミスが口から唾《つば》を飛ばすような音を立てた。生物学者は、なにか、「あの丹毒やみの、やぶにらみの、脂肪尻症の……」と、そんなことを、ぶつぶつと呟いていた。後はよく聞きとれなかったが、たぶん、生物学者流の悪態なのだろうと、グローヴナーは考えた。ゆっくりと、スミスは背を伸ばして、「ちょっと待ってくれ」と、またもぐもぐといった。「ぼくが見たことを思い出そうとしているんだ。ぼくはここで、火線のま正面にいたんだ――ああ、やっと体のずきずきするのがとまった」かれの声は、だんだん強くなり、かれは話しつづけた。「誓ってとまではいえないが、震動波が発射して、ぼくが衝撃を受ける直前に、あの怪物が動いたんだ。やつは天井に飛びついたという気がするんだ。暗すぎて、ぼんやりとしか見えなかったということは認める、が……」そこまでで、後の文句はいいおわらないままにした。
モートンがいった。「クレイン君、檻のライトをつけてくれ。化け物をとっくりと見ようじゃないか」
檻の底にうずくまっているイクストルの上に、まぶしいほどの光が降りそそぐのを、グローヴナーは、みなにまじって、目のあたりに見た。とたんに、かれは、われを忘れるほどぎくりとして、ものもいわずに立ちすくんでしまった。怪物の胴体ときたら細長い筒のようで、ほとんど金属かと思うほどのまっ赤なつやをはなち、目は燃えあがる石炭のように輝き、手の指も足指も針金のように細く、その上に全身が深紅色をしていてふた目と見られないほどのおそろしさが、グローヴナーをぎょっとするほど驚かせた。
通話器を通して、シーデルが、息もつけぬほどの調子でいった。「やつは、おそらく、いい男のつもりなんだろうね――自分では」
あまり気のりのしない冗談が、恐怖の金しばりをほぐす役目をはたした。一人の男が、こわばった調子でいった。
「もし、生命が進化であり、用のない器官が進化しないものとすれば、宇宙空間に住んでいる生物に、どうして手や脚があれほど高度に発達できるものなんだろうね? やつの体内は、どうなっているのか、津々《しんしん》たる興味がわいてくるね。ところが、いまといっても――透視カメラは使いものにならないときている。あの震動波でレンズにもひずみがきてるだろうし、もちろん、フィルムもやられてしまっているさ。もう一台、持ってこさせるかね?」
「いいや!」モートンは、あいまいな声音でいった。が、やがて、ずっときっぱりした口調でつづけた。「だいぶ時間を無駄にしてしまったし、なんといっても、宇宙空間の真空状態なら、船内の研究室でも再現できるわけだから、全速航行をつづけながら、研究ができるというもんだ」
「すると、ぼくの提案は無視するんだと、考えていいんですね?」そういったのは、物理学者のフォン・グロッセンだった。かれは言葉をつづけていった。「やつを船内に入れるかどうかの決定を下す前に、すくなくとも一週間、この生物を研究すべきだと、ぼくが勧告したことを、無視するというんだね」
モートンは、しばらく躊躇《ちゅうちょ》してから、いった。「ほかに異議は?」かれの声には、懸念を含んでいるような響きがあった。
グローヴナーがいった。「いままで極端に慎重にしてきたのだから、いきなりまったくの無警戒に飛躍すべきではないと思うのですが」
モートンは、静かにいった。「だれかほかに意見は?」返辞をするものがなかったので、モートンはつけ加えていった。「スミス君はどうだね?」
スミスがいった。「遅かれ早かれ、こいつを船内に入れることになるのは明らかでしょう。宇宙空間に生存する生物なんてものは、われわれがぶつかった物のうちでも、もっとも異常なものだということを、忘れてはならないということです。酸素と塩素の両方でも等しく平気だったあの化け猫でさえ、ある程度の暖かさは必要としたし、宇宙空間のつめたさと、無気圧状態では、おそらく生きてはいられなかったでしょう。もし、われわれが考えているように、この生物の本来の生息地が宇宙空間でないとすると、こいつが、いったいなぜ、どうやって、いまの場所へ来たのかを、探り出さなくちゃなりません」
モートンは額に八の字を寄せていた。「どうやら、これは投票にかけなくちゃならんようだね。檻を金属で包み、それに船の外側に張った防御スクリーンと同じ制限量のエネルギーをかける。そのへんで満足してもらえないかね、フォン・グロッセン?」
フォン・グロッセンがいった。「うん、それなら話がわかる。しかし、その電磁スクリーンをはずす前には、もうすこし議論をつくすことにしようじゃないか」
モートンは声高に笑って、「とにかく、航行さえ再開させてもらえるなら、いまから旅の終わりまで、大いに賛否を戦わせてもらって結構だ」そこで、かれは言葉を切って、「ほかに反対はないかね? グローヴナー君はどうかね?」
グローヴナーは、首を左右に振って、「スクリーンは、効果的でしょう」
モートンがいった。「反対する人はいってくれ」誰も口をきくものもなかったので、モートンは檻の上の男たちに命令した。「そいつをこっちへ動かしてくれ。エネルギーをかける準備にかかろう」
イクストルは、モーターの始動と同時に、金属にかすかな振動を感じた。檻が動くのが見えた。つづいて、鋭い、気持ちのいい、ひりひりする気持ちを意識するようになった。それは、体内で何かが自然に活動しているのであり、それがつづいている間は、心の働きが妨げられるのであった。ふたたび、かれが考えられるようになったとき、檻の床が自分の上にあって、昇って行くところで――かれは、宇宙船の外殻の堅い表面に横たわっているのだった。
うなり声とともに、立ちあがったイクストルは、真相をさとった。震動波銃を発射された後、自分の体の原子構造を再調整するのを忘れてしまっていたのだ。そのために、檻の金属の床をすり抜けてしまったのだ。
「なんということだ!」モートンの低音の叫び声が、ほとんどグローヴナーの耳を聾《ろう》するほどに響いた。
イクストルの細長い体が緋色《ひいろ》の流れとなって、宇宙船の外殻の、影に包まれた通り抜けのできない金属をさけて、エア・ロックに向けて突進した。そして、そのエア・ロックの目もくらむばかりの深い底に身を躍らせた。体を調整したかれは、体を溶かすようにして、内部にある二つのドアを通り抜けた。すると、長い、きらきらと光る廊下の一方のはしに出た。これで安全だ――しばらくは。そして、一つの事実だけははっきりわかっていた。
この宇宙船の支配を手に収めようという、さし迫まった争闘で、自分の身に備わった独特の優越性を別にしても、もう一つの重要な利点が自分にはあるということだった。ということは、自分の相手が、自分の目的の恐ろしさに、気づいてさえもいないということだった。
3
それから二十分後、グローヴナーは、司令室の会議場の椅子の一つに腰をおろして、モートンとリース船長とが、管制盤の中央部へと通ずる、段々の一つで、ひそひそと相談し合っているのを見守っていた。
部屋は、人でぎっしりうずまっていた。重要部署に残された警備員をのぞいて、全員が出席するようにとの命令を受けていたのだ。軍関係の乗員と士官たち、各科学部の部長たちと部員たち、各行政部門の部員たち、部には属していない各種の技術員たち――全員が、会議室の中から、会議室につづく各廊下に集合していた。
ベルが鳴ると、ざわざわという話し声が消えはじめた。もう一度、ベルが鳴り、すべての話し声はやんでしまった。リース大佐が前に進み出た。
「諸君」と、かれが口を開いた。「よくもこう、つぎつぎと問題が起こるもんじゃないか? われわれ軍人は、これまで科学者諸兄を正しく評価していなかったと、感じかけているところだ。科学者というものは、危険から遠く離れて、実験室でその生涯を送っているものとばかり思っていた。しかし、最近になって、科学者とは、これまでかつて一度もこの世になかったような厄介な障害を、見つけ出すことができるものであるということが、このわたしにもわかりかけてきたようだ」
ここで、ちょっとためらっていてから、また同じような、味もそっけもないユーモアを帯びた口調で、先をつづけた。「モートン総監督とわたしとで話し合った結果、これは軍の力だけでは処理できる問題ではないということで、意見が一致した。あの怪物が自由勝手にうろついているかぎり、各人がおのれを守る警官とならなくちゃいかんということだ。武装して歩くこと。できるだけ、二人、または集団を組んで歩くこと――人数は多ければ多いほどがよろしい」
ふたたび一同の顔を見渡すと、態度をいっそうきびしくして、言葉をつづけた。「現在の情勢にあって、われわれの中の誰かが、危険な目に会わないだろうとか、死者が出ないだろうなどと信じるものがあるとすれば、愚の骨頂だといわなければならん。犠牲者はこのわたしかもしれん。きみたちかもしれん。勇気を奮い起こすのだ。現実を受け入れるのだ。しかしながら、もしも不幸にして、この危険きわまりない怪物と対決するめぐり合わせになった場合には、死ぬまで戦ってもらいたい。やつを道づれにしてやるのだ。無駄に苦しみ、無駄に死んではならん」
「それでは」――と、モートンの方を向いて――「総監督の指導のもとに、この船内の優秀な科学知識をいかに活用して、この敵に立ち向かうかの討論をはじめてもらうことにする。では、モートン君」
モートンは、ゆっくりと前に歩み出た。かれの大柄で、たくましい体も、巨大な管制盤を背にすると、小さく萎縮してしまったかのようだったが、それにもかかわらず、態度は堂々としていた。総監督の灰色の目が物を問いかけるように、前に並んだ一同の顔をぐるっと見まわしたが、誰の顔でもとまらなかった。ただ全体の気分をつかみたかったらしいのだ。まずリース大佐の覚悟をほめたたえてから、かれはいった。
「わたし自身、この事件をいろいろ思い返してみたのだが、正直なところ、あの怪物を船内に入れてしまったことは、誰の――このわたし自身もだが――責任でもないといいうると考える。諸君も記憶しておられるだろうが、あの怪物を船の中に入れるときには、力線の場に閉じこめて後、つれこむことに決定していたのだった。その慎重な予防策には、もっともきびしい批判を投じた人たちも満足の意をあらわしてくれたのだ。ただ、それが適切な時期にとれなかったのは、不幸なことであったといわなければならない。ただあの生物は、予測することのできなかった手段を用いて、自力で船の中に侵入して来たのである」ここで、かれは言葉を切った。かれの鋭い視線が、もう一度、部屋をぐるっと掃くように走った。「それとも、予感以上の強いものを、誰か感じた人がいるかね? もし、感じた人があれば、手をあげてもらいたい」
グローヴナーは、首をのばして見まわしたが、手は一つもあがらなかった。席にゆったり身を落ちつけたとたん、モートンの灰色の目が、じっと自分につけられているのを見て、ちょっとおどろいた。「グローヴナー君」と、モートンが声をかけた。「情報総合科学の知識から、きみは、あの生物が壁の中に体をかき消すことができるなんて、予測できたかね?」
はっきりした声でグローヴナーはいった。
「予測しませんでした」
「ありがとう」と、モートンはいった。
かれは、満足したようで、それ以上、ほかの誰にも質問をしなかった。総監督は、自分の立場を正当化しようとしているのだと、グローヴナーは、もうそれまでに考えていたのだった。そうすることが必要なのは、船内政治の悲しむべき実状を物語っていた。しかし、なによりもグローヴナーの興味をそそったのは、モートンが情報総合科学に、いわば最後のよりどころとして訴えかけてきたことだった。
モートンは、ふたたび口を開いて、「シーデル君」といった。「今度の事件を、心理学的に正確に説明してくれたまえ」
心理学部長がいった。「この生物を捕えにかかるまえに、まずわれわれの頭を整理しておかなければなりません。やつは手足を持っているにもかかわらず、宇宙空間を漂いながら、生きつづけているのです。やつは、みずから檻に閉じこめられるままになったが、檻などは自分をつなぎとめておけないということを、その間ずっと知っていたのです。それから檻の底からすり抜けたというわけですが、これは、もし、そういったことができるのを、われわれに知らせたくなかったとしたら、実に間抜けなやつだというしかありません。知的生物が誤りを犯すのには、それ相応の理由があるものです。その基本的理由からかかれば、やつがいったいどこから来たかの見当もつくし、もちろん、なぜ侵入して来たかの分析も、容易になるでしょう。スミス君、やつの生物的構造を詳しく説明してもらえないかね!」
スミスが立ちあがった。やせた、きびしい感じだった。
「われわれは、やつの手と足が、明らかに惑星の上で育ったことを物語るものとして、すでに討論したとおりです。宇宙空間で生きていられるということが、進化の結果によるものとすれば、たしかに驚くべき特質といわなければなりません。これこそ、生物学の究極の秘密を解明した種族の一員ではないでしょうか。手近の壁に溶けこんで逃げることのできるような生物を、どうしても見つけにかからなければならぬとすれば、わたしの忠告は、やつをとことんまで追いつめ、発見しだい殺せ、これだけです」
「ええ……」と、口を切ったのは、社会学者のケリーだった。四十がらみの、頭の禿《は》げた男で、大きな、理知的な目の持ち主だった。
「ええと――どんな生物でも、真空状態に適応して生存できる生物なら、宇宙の王となれるでしょう。そんな種族なら、あらゆる惑星に住めるし、あらゆる銀河系にはびこることでしょう。その同類は群れをなして、空間に漂っているはずです。それにもかかわらず、われわれの銀河系が、やつの種族に荒らされていないという事実を、われわれはよく承知しています。これは、研究に値する矛盾ではないでしょうか」
「ぼくには、きみのいうことが、よくわからんのだがね、ケリー君」と、モートンがいった。
「簡単にいうと――ええと――生物の究極の秘密を解明した種族なら、人類よりはるかに進歩した時期にいるにちがいないということです。その種族は、高度に仮軸植物的《シンポディアル》というか、左右に葉柄が伸びるように、つまり、どんな環境にも適合する能力を持つはずです。生命力学の法則にしたがえば、人類がいまやろうと試みつつあるように、宇宙のもっとも遠い限界まででも広がっていくでしょう」
「たしかに矛盾ではあるね」と、モートンは認めた。「たぶん、あの怪物がそれほど優秀な生物ではないということらしいね。カリタ君、こいつを歴史的に見ると、どういうことになるだろうね?」
日本人の科学者は肩をすくめたが、それでも、立ちあがっていった。
「現在の証拠では、ほんのわずかしかお役に立たないのじゃないかと思うのですが。現在広く行なわれている理論のことは、みなさんもよくご存じでしょう。つまり、生命というものは、一連の周期を繰り返しながら、上向き――上向きといっても、意味はいろいろですが――とにかく上向きに進んで行くものなのです。とにかく、どの周期も、土に根をおろした小農民からはじまります。この小農民が市場へ出かけて行き、市場は徐々に、大地との『内的』な結びつきを失いながら、町に変わってゆきます。つづいて都市ができ、国家ができ、最後に、魂のない世界都市が生まれ、さらに国土や土地を荒廃させる権力への闘争が起こり、一連の恐ろしい戦争で、人間を『古代農夫』型に落としてしまい、さらにそのようにして原始状態にもどり、ふたたび新しい小農民型の社会となるのです。問題は、あの生物が、その周期のどこにいるのか、小農民期か、巨大都市期にいるのか? それとも、どこにいるのか? ということです」
カリタは、そこで話をやめた。グローヴナーには、きわめて鋭い展望が述べられたという気がした。文明は、たしかに周期をなして動いているようだった。周期のどの時期にも、大ざっぱに見て、それぞれの心理的背景があり、その現象に対してはさまざまな説明ができるであろうし、昔シュペングラー〔ドイツの歴史哲学者。第一次世界大戦後、『西欧の没落』の著で、西欧文化の危機を予言した〕がとなえた周期説は、そのほんの一例にすぎない。カリタが、その周期説にもとづいて、あの異星人の行動を予測できることも可能かもしれない。カリタは、過去の事件において、その周期説が実用的であり、的中度もかなり高いことを実証ずみであった。しかも、現在のところ、その説の有利な点は、それが特定の状況に適用できる技術を備えた、ただ一つの歴史的な手がかりだということだった。
モートンの声が沈黙を破った。「カリタ君、あの生物について、われわれが持っている限られた知識から見て、かりに、やつがその文明の巨大都市段階にあるとした場合、根本的な特徴をどこに求めたらいいだろうね?」
「おそらく最高限度に敵しがたい、知能の持ち主といえるでしょうね。ここと思った勝負には、どんな失敗も絶対にしないでしょうし、負けるとすれば、やつの手にあまる事態が生じたときだけでしょう。なによりもいちばんいい例は」――カリタは、なかなか如才がなかった――「われわれ自身の時代の、高度に訓練された人間がそうでしょう」
「しかし、やつはもう失敗をやらかしているじゃありませんか!」と、フォン・グロッセンが、上品な調子でいった。「檻の底から落ちてしまったのなどは、まったく間抜けの骨頂ですよ。あれは百姓のやりそうなことじゃないかな?」
モートンがたずねた。「もし、やつが小農民期にいるとしたら?」
「それなら」と、カリタがこたえた。「やつの基本的な衝動は、もっと単純になります。なによりもまず、生殖の欲望でしょう。自分の血を受けつがせるために、息子がほしくなるというわけです。基本的な知能がきわめて高いと仮定した場合、この衝動は、高等生物にあっては、狂信的な形をとって、種族保存という方向に駆り立てるというわけです」
そこで、カリタは、静かに結びの言葉をいった。「いままでの証拠にもとづいて申しあげられるのは、これだけです」かれは腰をおろした。
モートンは、管制盤のひな段の上に、身をかたくしたまま突っ立って、老練な専門家ばかりの聴衆を見わたしていた。その視線を、グローヴナーにとめて、いった。「最近わたしは、情報総合科学《ネクシャリズム》が、こういった問題の解決に、新しい手がかりを提案してくれるのではないかと、感じるにいたっている。これは生命というものに対して、総合的に近づこうとして、無限にまで押し進めた科学だから、こんなような早急な判断が必要になるときには、すばやく判断して、われわれの役に立ってくれるかもしれない。グローヴナー君、この異星生物に対する、きみの見解を話してみてもらえないかね」
グローヴナーは、威勢よく立ちあがって、いった。「わたしの観察にもとづく結論を申しあげます。まず、この生物とわれわれがどうして接触するにいたったかということについては、いささか自分なりの理論を持っていますので、これをご説明申しあげることができます――たとえば、原子炉のエネルギーがすっかり流出させられてしまったこと。その結果として、機関室の外壁を、修理しなければならなくなったこと――および、いくつかの事件が、いかにも意味ありげな時間的間隔をおいて起こっていること――などいろいろあるのですが、そういった背景を詳述することよりも、いかにしてあの生物を殺すかという問題を、以下数分間で申しあげてみたいと――」
突然邪魔がはいって、話が中断された。半ダースほどの男が、戸口に群がった人の群れをかきわけてはいって来たのだ。グローヴナーは、口をつぐんで、問いかけるようにモートンの顔を見た。総監督は横を向いて、リース船長の顔を見つめていた。船長は、いまはいって来た連中の方へ進んで行った。その連中の中に、機関長のペノンズがいるのを、グローヴナーは見てとった。
リース船長がいった。「終わったか、ペノンズ君?」
機関長はうなずいて、「はい、船長」といって、さらに警告するような口調でいった。「だが、全員もれなく、強化ゴム服を着用し、強化ゴムの手袋と靴をつけてもらわねばなりません。これは絶対必要です」
リース船長が説明した。「各寝室の壁に力線《エネルギー》をかけたのだ。あの怪物を捕えるのには、まだしばらく時間がかかるかもしれんから、就寝中に殺されることのないようにするためだ。われわれは――」突然、話を切ると、鋭くたずねた。「どうしたのだ、ペノンズ君?」
ペノンズは、手にした小さな計器を、まじまじと見つめていたが、ゆっくりといった。「これで全員ですか、船長?」
「そうだ。機関室と工作室の警備員は別だが」
「すると……すると、何かが力線の壁にひっかかったのです。さ、急いで、そいつを包囲するんだ!」
4
下の各階を探りまわってから、上の階へもどろうとしていたイクストルにとって、力線の衝撃は猛烈なもので、その驚きもそれにまさるものだった。ついいままで、船倉の金属の部分に、『寄生宿主《グール》』をかくしてやろうと、満足げに考えていたところだった。そのつぎの瞬間、強烈な閃光《せんこう》がひらめくとともに、凶暴なエネルギー・スクリーンのまっただ中に捕えられてしまったのだ。
苦痛で、意識がまっ暗になった。体内では電子の大群が飛び出し、結合を求めて、原子から原子へと飛びかったが、頑強に安定を保とうとする原子系によって、手きびしくはねつけられるばかりだった。そういった長い、いまにも破滅するかと思うような何秒かの間に、すばやく均衡がとれ、自由自在の融通性に富んだイクストルの肉体の構造も、もうすこしで崩壊しそうになった。そのかれを救ってくれたのは、こういった万一の場合の危険さえも見通していた、イクストルの種族の天才を寄せ集めた働きの結果だった。かれの――そして全種族の――肉体に、人工的の進化をほどこしたさい、かれらは強烈な放射線にでくわすという、万一の場合もあるかもしれないということも計算に入れていたのだった。いなずまのような速さで、イクストルの肉体は、調節し再調節して、新しい構造が作られるたびごとに、新しく作られた組織は、この耐えられないほどの重荷を、何百万分の一秒ずつ持ちこたえた。やがて、かれは壁からさっと身をもぎはなした。そして、もう安全だった。
かれは、すぐつぎに何が来るかに考えをこらした。防御用の力線の壁には、おそらく警報装置が連結されているだろう。ということは、二本足の生物たちは、ここにつづく廊下全部を、組織的に固めて、自分を追いつめようと企《たくら》んでいるのだろう。絶対の機会だとさとったイクストルの目は、火の池のように輝いた。かれらは、ちりぢりばらばらにやって来るだろう。そのうちの一人を捕えて自分の『寄生宿主《グール》』になる特性をそなえているかどうかを調べてから、そいつを最初のグールに使うのだ。
ぐずぐずしているひまなどなかった。イクストルの背の高い、いやにけばけばしい色の、不格好な姿が、力線のかけられていない手近の壁に飛びこんだ。ひと休みもせずに、部屋から部屋をすばやくすりぬけたが、だいたい中央の廊下と平行に走るようにした。イクストルの敏感な目は、廊下を駆けつけて来る二本足の生物たちの、おぼろな姿を追っていた。この廊下に来るのは、一人、二人、三人、四人、五人。五人目は、ほかの連中よりすこし遅れている。たいしたちがいはないとはいっても、この方がほんのすこし好都合だ。だが、イクストルにはこれだけで十分だった。
亡霊のように壁をすり抜け、最後の男のまん前へ飛び出すと、すさまじい勢いで襲いかかった。らんらんと燃える目、ぞっとするような口をした、見上げるような奇怪な怪物だった。燃える火の色をした四本の腕を伸ばすと、そのすばらしい力で、二本足の生物をつかまえた。相手は虫のようにもがき、一度身をよじって痙攣《けいれん》したと思うと、ぐたっとなり、床に叩きつけられた。
あおむけに倒れた相手が、不規則な間をおいて、口をあけたりとじたりするのを、イクストルは見てとった。口を開くたびごとに、イクストルは、自分の足がひりひり痛むのを感じた。この感覚が何か、なかなかわからなかった。助けを求めて呼んでいるのが、震動となって伝わってくるのだった。ひと声うなると、イクストルはおどりかかり、巨大な手で相手の口をなぐりつけた。相手の身体ががくっと弱った。が、まだ生きていて、意識もあった。すかさず、イクストルは巨大な手を、相手の胸に突っこんだ。
このしぐさに、相手はびっくりぎょうてんしたようだった。そしてもがくのをやめてしまった。大きく目を見開いて、細長い腕が自分のシャツの下にもぐりこみ、胸のあたりをもぞもぞと動きまわるのを、ただ見守るだけだった。それから、恐怖にすくんだ目で、自分の上に気味悪く立ちはだかっている、血のように赤い、円筒形の体を、まじまじと見つめていた。
相手の体の内部は、ぎっしり肉でつまっているようだった。イクストルのさがしているのは、中空の場所か、押して開けられる場所なのだが、そのために、相手を殺してしまってはいけないのだった。目的を果たすためには、生きている肉体が必要なのだった。
早く、早く! イクストルの足は、近づいて来る足音の振動を感じとっていた。どうやら、一方からだけ、やって来るようだが、その来かたはすばやかった。不安にかられて、イクストルは、急いで相手の身体を調べてしまおうとしたが、これはとんでもない間違いだった。さしこんだ指の先を固めて半固体状にしたとたん、心臓に触れたのである。相手は体をぎゅっと引きつらせ、身震いをしたかと思うと、がっくりと息が絶えてしまった。
一瞬の後、イクストルのさぐっていた指は、胃と腸をさぐりあてた。自分の間抜けさかげんに腹を立てて、思わず後ずさりした。せっかく、さがしていたものを見つけたというのに、使いものにならなくしてしまった。イクストルは、ゆっくりと背を伸ばした。怒りと失望はもううすらいでいた。これほど知能のある生物が、こんなに簡単に死んでしまうなどとは、予想さえもしていなかったことだった。これで、なにからなにまで変わってしまった。万事は簡単になってしまった。やつらの思いのままになっていたのは、自分ではなくて、やつらこそ、自分の思いのままになるのだ。こんなやつらを相手にするのは、ごくとおりいっぺんの注意を払うだけでたくさんだ。
いちばん手近の曲がりかどから、抜きはなった震動波銃を手にした二本足の男が二人、飛び出した。と思うと、仲間の死体の向こうでうなりをあげているイクストルの思いもかけない姿を見て、はっと立ちすくんだ。つづいて、二人が瞬間の麻痺状態から立ちなおったときには、イクストルは、手近の壁の中に踏みこんでいた。一瞬、明るい照明の廊下に、ぼんやりと真紅の影だったものが、つぎの瞬間には、一度もそこにいなかったかのように、消えてしまっていた。イクストルは、銃の震動波が伝わってくるのを感じたが、そのときは、エネルギーが、かれのはいった後の壁を、無駄に破っているだけだった。
これでもう、イクストルの計画ははっきりした。六人ほどの二本足の生物を生けどりにして、『寄生宿主《グール》』にするのだ。それから、残った連中に用はないのだから、みんな殺してしまうのだ。それをやりとげたら、この宇宙船が目ざしている銀河系への旅をつづけ、最初に見つかった生物の住んでいる惑星の支配をこの手に収めるのだ。その後、手のとどく範囲の全宇宙を支配するのは、わずかな時間の問題にすぎないだろう。
グローヴナーは、何人かの仲間と、壁の通話装置の前に立って、死んだ技術者のまわりに集まっている一団の映像を見つめていた。できればその現場に駆けつけたかったが、その場に行きつくまでに数分はかかるだろう。その間、接触が切れることになる。それで、かれは、いっさいのことを、映像を見たり、話し声を聞いたりして知るほうを選んだのだった。
総監督のモートンは、現場の送信プレートのいちばん近くに立っていた。そこから三フィートほども離れていないところに、エガート博士が、死体の上にかがみこんでいた。モートンの顔は緊張し、顎《あご》を食いしばっていた。口をきいたとき、その声は囁きほどの小声だった。しかし、その言葉は、鞭《むち》のように静寂を切り裂いた。
「どうだね、ドクター?」
エガート博士は、死体の脇にひざまずいていた姿勢から立ちあがって、モートンの方を向いた。その動作で、送信プレートに面と向き合うことになった。グローヴナーに、渋面を作ったその顔が見えた。
「心臓麻痺だ」と、かれがいった。
「心臓麻痺だって?」
「わかった、わかった」と、医師は、自分自身を弁護するかのように、両手を上げた。「歯が、脳まではいるくらい叩きこまれているのは、わかっている。それに、この人ならたびたび診察していたから、心臓の状態が完全だったことも、よく知っている。それなのに、心臓麻痺としか、ぼくには見えないのだがね」
「それは信じられますよ」と、一人の男が気むずかしげにいった。「その角を曲がって、あの怪物を見たときは、ぼくもあやうく心臓麻痺を起こしかけましたからね」
「こりゃ時間の浪費だよ」グローヴナーは、モートンの向こう側の二人の間に立っている姿を目にする前に、フォン・グロッセンの声だなと見当をつけていた。「われわれには、この怪物をやっつけることはできるが、やつのことをあれこれとしゃべり合ったり、やつが何かするたびに、うんざりしているだけじゃ、勝てっこはない。かりに、ぼくがつぎの犠牲者になったとしたら、銀河系科学者のぴか一連中が、ぼくの運命をただ嘆き悲しむだけじゃないということを、ぜひ知りたいと思うのだ。それよりも、ぼくの死のかたきを討つ仕事に、その頭をしぼってもらいたいね」
「きみのいうとおりだ」そういったのは、スミスだった。「問題は、われわれが劣等感を抱いていたことだ。やつが船に侵入してから、まだ一時間もたっていない。が、明らかなことは、われわれのうち何人かが殺されるということだ。ぼくにもそういう機会が来るかもしれないということは認めるよ。だが、まず戦うために、組織を整えようじゃないか」
モートンが、ゆっくりとした調子でいった。「ペノンズ君、ここに、一つ問題があるのだがね。この船は三十階になっていて、床面積は二平方マイルほどになる。これに隅から隅まで、力線をかけるとすると、どのくらい時間がかかるだろうかね?」
グローヴナーには、機関長の姿は見えなかった。送信プレートの彎曲したレンズの射程内にはいなかったのだ。だが、その顔の表情は見ものだったにちがいない。かれがモートンにこたえたときのその声は、あっけにとられたような響きを持っていた。「やってやれないことはないでしょうが、おそらく、一時間もたたないうちに、完全に船は破壊されるでしょう。詳しいことは申しあげませんが、無制限に力線をかければ、船内の生き物は残らず死んでしまいますよ」
送信プレートは、イクストルに殺された男の死体のかたわらに立っている、人間の姿と声とを送っていたが、モートンは半ばこれに背を向けていた。かれは、問いをかけるようにいった。「いま、壁にかけているエネルギーを、さらに強化することはできるだろうね、ペノンズ君?」
「いやぁ!」と、宇宙船の機関長は、気乗りのしない口ぶりだった。「壁がもちませんよ。溶けてしまいますよ」
「壁がもたないんだって!」と、一人の男が、あえぐようにいった。「隊長、あの怪物は、いったいどんなやつだとお考えなんですか?」
送られてきた映像の中の男たちの顔には、狼狽の色がありありと浮かんでいるのを、グローヴナーは見てとった。カリタの声が、重苦しい沈黙を引き裂くように響いてきた。
「隊長、そちらのようすは、司令室のスクリーンで拝見しています。われわれの相手にしているのが超高等生物ではあるまいかというお話ですが、それに対して、ひと言申しあげたいのです。つまり、忘れてはならないことは、かれがあやまって力線の壁の中にはいりこんでしまい、狼狽のあげく、寝室区域に侵入することなく退却したということです。わたしは、『あやまって』という言葉を、わざと使っているのです。かれの行動から、かれもあやまちを犯すということが、あらためて証明されたわけです」
モートンがいった。「とすると、話は、きみがさっきいっていた、周期の各段階で予想される心理学的特徴ということにもどるわけだね。かりに、やつがその周期の小農民期にいるとすると、どうだろう」
カリタのこたえは、いつもひどく慎重に話すかれにしては、きびきびとしたものだった。「組織の力というものが、理解できないということです。おそらく、この船を乗っ取るには、ただこの船に乗っている人間と戦うだけでいいと考えるでしょう。本能的に、われわれが巨大な銀河系文明の一部だという事実を、割り引いて考えがちなものです。真の小農民的な思考というものは、きわめて個人主義的であり、ほとんど無政府主義的ともいえます。生殖の欲望も、自分自身の血を残そうという、特にその血統を永続させようという、利己主義の一形態なのです。この生き物は――もし小農民の段階にいるとすれば――自分にそっくりな生き物を数多くふやし、その手をかりて戦おうというのが、大いにありそうなことだと思われます。かれは、仲間はほしいが、邪魔はしてもらいたくはないのです。組織された社会が、この種の小農民の集団を支配することができるのは、この種のメンバーが、外部の敵に対して、しっかりした結合がけっして形づくれないからです」
「しかし、あの火食い鳥みたいなやつが、しっかりしない結合にしろ、集まったとしたらたいへんじゃありませんか!」一人の技術員が意地悪くいった。「ぼくは……あ、あ、あ、――あ、あ……」
おわりの方は悲鳴になった。下顎がだらんとさがってあいた。目の玉をまわしているのが、グローヴナーにもはっきりと見えた。スクリーンに映っている全員が、二、三フィート後ずさりした。
スクリーンのまん中いっぱいに、イクストルの姿があらわれた。
5
深紅の地獄からあらわれた、不気味な妖怪《ようかい》のように、イクストルは、その場に立ちはだかっていた。もうびくびくなどしてはいなかったが、目は油断なく、らんらんと燃えていた。かれは、もうこの二本足の生物たちの値うちは、ちゃんと量ってしまっていた。こいつらのうちの誰かが、自分に向けて震動波銃を射ちかけてこようと、その前に、いちばん手近の壁にもぐりこむことができるのだということを、軽蔑に近い気持ちで知っていた。
かれは、最初の『寄生宿主《グール》』を捕えに出てきたのだった。この群れのまん中から、その『グール』をかっさらってやれば、ある程度まで、船内の全員を意気沮喪させることができるだろう。
その情景を見守っていたグローヴナーは、現実ばなれのした波にのまれるような気がした。映像面には、数人だけしか映っていなかった。フォン・グロッセンとともに、二人の技術員が、イクストルのいちばん近くに立っていた。グロッセンのすぐ後ろにモートンが、技術員のうちの一人のそばに、スミスの頭と体の一部が見えていた。一団となっているかれらは、ひときわ高くそびえ立つ、丈の高い、太い円筒状の怪物にくらべると、まったく取るに足らない相手としか見えなかった。
沈黙を破ったのは、モートンだった。ゆっくりと、震動波銃の半透明の銃把《じゅうは》から手をはなし、落ちついた声でいった。「やつにむかって、銃を抜こうとしちゃいかん。閃光のようにすばやく動けるやつだ。それに、われわれに射たれると思ったら、こんなとこへ出てくるはずはないのだ。それに、ここでしくじるようなことはできないのだ。これが、われわれの最初で最後の機会かもしれないのだ」
かれは、緊迫した口調で、すばやく先をつづけた。「この放送が聞こえるところにいる全非常要員は、ただちにこの廊下の周囲および上下階へ急げ。いちばん大型の移動式熱線砲を運んできてくれ。半固定式の、もっと大型のでもかまわん。それで壁を焼き切るのだ。この一画の周囲に邪魔物のないきれいな穴をあけ、その上で熱線の焦点をしぼって、その空地を掃射する。かかれ!」
「いい考えだ、隊長!」リース船長の顔が、一瞬、イクストルや他の連中の姿と二重映しになって、グローヴナーの前のスクリーンにあらわれた。「その地獄の悪鬼を三分間だけ引きとめておいてくれれば、われわれもすぐその場に着く」船長の顔は、映ったかと思うと、すばやく引っこんだ。
グローヴナーも、スクリーンの前を離れた。かれは、さきほどから鋭敏に感じていたのだったが、ここでは現場から遠すぎて、情報総合科学者として、その行動の基礎になるはずの、正確な観察ができないのだった。かれは、非常要員に属していなかった。それで、危険な地域にいるモートンや、ほかの連中たちの仲間に加わることが目的だった。
走りながら、つぎつぎと通話装置の前を通りすぎたが、カリタが、離れた司令室から助言をしているのがわかった。「モートン隊長、いちかばちか、やってみてください。ですが、成功するとは思わないでください。われわれがやつに対抗する準備を整える前に、ふたたびやつがあらわれたということに気をつけて。やつがわれわれに圧力をかけているのが、故意か偶然かは、どうでもいいことです。結果として、やつの動機のいかんを問わず、われわれは浮き足だち、ただ無駄に、右に左に走りまわっているだけです。いままでのところ、われわれはまだ考えがはっきりついていないのです」
グローヴナーは、エレベーターに乗って、下へおりたところだった。そこで、さっとドアをあけて、走り出した。「わたしは自信を持っています」と、つぎの廊下の通話装置から、カリタの声がつづけて聞こえてきた。「この船の膨大な資源を動員して戦えば、どんな生物でも――もちろん、敵が一匹だけということですが――やっつけられないはずはないと……」カリタが、つぎに何かをいったかどうか、もうグローヴナーには聞こえなかった。角をまがってしまっていたのだった。そのとたん、前方に人々の姿と、さらにその向こうにイクストルが見えた。
見ると、フォン・グロッセンが手帳に、何か書き終わったところだった。懸念の思いでグローヴナーが見守っていると、フォン・グロッセンは前に進み出て、その紙片をイクストルにさし出した。怪物はしばらくためらっていてから、それを受けとった。ちらっと見たとたん、口が裂けたかと思うほど顔をゆがめ、うなり声をあげて飛びさがった。
モートンが叫ぶようにいった。「おいきみ、いったい何をやらかしたんだ?」
フォン・グロッセンは、緊張した顔に、にやっと薄笑いを浮かべて、「どうすれば、きさまをやっつけられるかという方法を、見せてやったのさ」と、そっとかれはいった。「ぼくは――」
その言葉は、そこでとぎれた。グローヴナーは、まだ一同の後ろの方にいたが、つぎに起こった出来事を、ただの傍観者として見ていただけだったが、ほかの集まっていた連中は全員、その危機にまきこまれてしまった。
何が起ころうとしているかを、モートンは感じとったにちがいない。本能的に、自分の大きな体でフォン・グロッセンをかばおうとでもするように、前へ進み出た。長い、針金のような指をした手がにゅっと出て、モートンをぐっと後に、人間たちめがけて押しとばした。モートンは倒れ、あおりをくって残りの連中も将棋《しょうぎ》倒しになった。すぐ立ちなおったモートンは銃に手をかけたが、そのまま凍りついたように手をとめてしまった。
歪んだガラスを通して見ているように、怪物が二本の火のような色をした腕で、フォン・グロッセンを固く抱きしめている姿が、グローヴナーの目にはいった。二百二十ポンドの体重のある物理学者も、いたずらに身をもがき、もだえるだけだった。細い、強靭《きょうじん》な筋肉が、無数の手かせ足かせでもあるかのように、グロッセンをしめつけた。グローヴナーが震動波銃を発射できなかったのは、フォン・グロッセンの体に当てなければ、怪物に命中させることができないからだった。それに、震動波銃というものは、人間を殺すことはできないが、気絶させることのできるものだったから、かれの胸の中では、よけいにどっちとも判断をつけかねていたのだった。それは、イクストルも気を失わせられるという希望にすがって、思い切って銃を発射してみるか、それとも、非常手段として、何をやったのかフォン・グロッセンから聞き出すか? ついに、グローヴナーは、後の方を選ぶことにした。
かれは、緊迫した声で、物理学者に呼びかけた。「フォン・グロッセン君、いったい、そいつに何を見せたんだ? どうしたら、そいつをやっつけることができるんだ?」
フォン・グロッセンは、これが聞こえたらしく、頭をこちらへ向けてみせたが、それだけのひましかなかった。その瞬間、気ちがいじみたことが起こった。怪物は突進するように走り出したかと思うと、まだ物理学者をしっかりとつかんだまま、壁の中に姿を消してしまったのだ。一瞬、グローヴナーには、自分の目が、自分に手品を演じて見せたような気がした。だが、そこにはただ、なめらかに輝く堅い壁と、目を見張り、汗を流している十一人の男が残っているだけだった。そのうち七人は、皮のケースから抜いた銃を手にしたまま、いかにもたよりなげにそれをいじっていた。
「負けだ!」と、一人の男が囁《ささや》くように小声でいった。「やつが、われわれの原子構造まで変化させて、堅い物体の中を通ることができるとなると、とうてい、やつとは戦えないよ」
モートンが、この言葉にむかむかとしたようすが、グローヴナーにはわかった。耐えがたい境地のなかで、心の平衡を保とうとしている人間には、当然の怒りだった。総監督は腹立たしそうにいった。「生きているかぎりは、戦うことができるのだ!」かれは、いちばん近くにある通話装置に大股で近づくと、たずねた。「リース船長、情勢はどうだね?」
しばらく手間どってから、大佐の頭と肩が、スクリーンの中で焦点が合った。「変化なし」かれは簡潔にこたえた。「クレイ中尉は、深紅の閃光が床を抜けて下へ消えるのを見た気がするといっている。だから、いまのところ、捜索の範囲は、船の下半分に絞っていいだろう。それからさっきのことだが、熱線砲の配置をすませたときに、あれが起こったのだ。十分に時間をくれなかったのでね」
モートンが陰気にいった。「そのことについては、何もいうことはなかったんだ」
やりとりを聞いていたグローヴナーには、その言葉は、厳密にいってほんとうではないという気がした。フォン・グロッセンは、自分一人で相手を捕えようと早まったあまり、相手を打ち負かす方法を書いて、怪物に見せてやったりしたのだ。あれこそ、生存という観念からはほとんど価値のない、典型的な自分本位の人間の行動というべきものだ。さらにまた、専門家が単独で行動しがちであり、ほかの科学者たちと知的に協力をする能力に欠けているという、グローヴナー自身の説を強く裏書きしていた。フォン・グロッセンのしたことの背後には、何世紀も前から見受けら得る古い態度があった。そういう態度は、科学的研究の初期の間は、それでもけっこう間に合ったものだった。しかし、いまやそういうことは、限られた価値しかなくなったのだ。あらゆる新しい発展が、多くの科学部門の知識と協力を要求している現代なのだ。
その場に立ったまま、フォン・グロッセンは、ほんとうにイクストルを打ち負かす方法を考えついたのだろうかと、疑いを持った。有効な技術というものが、一つの専門家の領域に限られているものだろうかと、かれはいぶかった。フォン・グロッセンが怪物に何を描いて見せたかはわからないが、おそらくは、物理学者としての知識に限定されたものだったのだろう。
グローヴナーのひそかな考えは、モートンの言葉で終わりを告げた。「フォン・グロッセンが、あの怪物に見せた紙には何が書いてあったのか、思いあたることがあったら聞きたいのだ」
グローヴナーは、誰かがこたえるのを待っていた。誰もこたえないのを見て、かれはいった。「わたしには、あるという気がします、隊長」
モートンは、ほんの瞬間、ためらってからいった。「話したまえ」
グローヴナーが話しはじめた。「異星人の注意を引くただ一つの方法は、宇宙共通の記号を相手に示すことでしょう。フォン・グロッセンは物理学者ですから、どんな記号をかれが使ったかは、おのずから明らかでしょう」
かれは、ことさら間をおいて、まわりを見まわした。われながら芝居がかったやり方だという気がしたが、どうもそうするしかなかった。モートンの好意や、また例のリーム人の事件を解決したとはいっても、かれはまだ、この船上では権威者として認められてはいなかった。だから、この場合は、何人かが自発的にこたえを思いつくように、したほうがいいと思ったのだった。
モートンが沈黙を破った。「おい、おい、きみ、あまり変に気を持たせるものじゃないよ」
「原子ですよ」と、グローヴナーがこたえた。
まわりの連中が、ぽかんとした顔つきになった。「しかし、それではべつに意味がないじゃないか」と、スミスがいった。「なぜ、やつに原子の図を見せるのだ?」
グローヴナーがいった。「もちろん、ただの原子ではありません。フォン・グロッセンが怪物に描いて見せたのは、ビーグル号の外殻を形成している金属の、特殊原子の構造図だったということは、保証してもいいと思います」
モートンがいった。「きみのいう通りだ!」
「ちょっと待ってくれたまえ」と、リース船長が、通信装置のスクリーンから話しかけた。「ぼくは物理学者じゃないということは認める。が、いまの話が、いったいどういうことか、知っておきたいね」
モートンが説明をはじめた。「グローヴナー君のいう意味はこうだ。この船のうち二か所だけ、つまり外殻と機関室とだけが、あの信じられないほど強靭《きょうじん》な金属で作られているということだ。もし、最初にあの怪物を捕えたとき、きみがわれわれといっしょにその場にいたのだったら、やつが檻の床をするっとすり抜けたはずみに、船の外殻の堅い金属のために、やつの体がとまったことに気がついたろうと思うのだ。つまり、あの金属はすり抜けられないということが、はっきりわかるはずだ。事実、船内にはいるために、エア・ロックに向けて走って行かなければならなかったということが、さらにそれを証明している。そんなことに、いままで誰《だれ》一人気がつかなかったのが、むしろ不思議なくらいだ」
リース船長がいった。「かりに、フォン・グロッセン君が、怪物にわれわれの防御策を見せたとすると、それは、壁に張った防御スクリーンの図解であってもいいわけじゃないかね? これにも、いまの原子説とおなじくらいの可能性がありはしないかね?」
モートンは振り返って、物問いたそうに、グローヴナーの顔をちらっと見た。情報総合科学者はいった。「怪物は、もうその時には防御スクリーンを体験して、しかも生きのびていたのです。フォン・グロッセンは、何か新しいことを思いついたと、はっきり信じていたのです。それに、力線の場を紙に書いてみせることのできるただ一つの方法は、独断的な記号を使った方程式をもってするしかありませんね」
リース船長はいった。「それは、ひじょうに歓迎すべき推論だね。おかげで、すくなくとも一か所、船内に安全なところが――機関室があるというわけだ――それに、いくらか防御力は劣るが寝室区域も壁の力線スクリーンで保護できるというものだ。フォン・グロッセン君が、それをわれわれの強みと感じたわけもわかるような気がする。以後本船の乗組員はすべて、とくに許可か指令のないかぎりは、その二つの区域に集結するのだね」かれは、いちばん近くの通話装置の方を向いて、おなじ命令を繰り返してから、いった。「各部長は、おのおのの専門分野の質疑に応じられるように準備すること。特殊技能を持つ者には、必要な任務を与えることになる。グローヴナー君、きみも後者の範疇《はんちゅう》にはいるものと承知してくれたまえ。エガート博士は、希望者に覚醒剤をくばってもらいたい。この怪物が死ぬまで、誰も寝てはならん」
「みごとな作戦だ、船長!」とモートンが心からいった。
リース船長がうなずくと、通話装置のスクリーンから消えた。
廊下では、技術員の一人がためらいがちにたずねていた。「フォン・グロッセンはどうなるのでしょう?」
モートンが荒々しい声でいった。「フォン・グロッセンを助ける方法はただ一つ、あの怪物を殺すことだ!」
6
巨大な機械類のならんだ、その巨大な部屋の中では、人々は巨人たちの集まる広間にはいりこんだ、こびとのような気がした。見渡すかぎりきらきらと輝く大きな天井に、この世のものとも思われぬ青い光が、さっと閃《ひらめ》き、まぶしいほどぴかっと光るたびごとに、グローヴナーは、思わず知らず目をしばたたいた。そして、光が目を痛めつけるのに劣らず、その音もかれの神経をいら立たせた。その音は、あたりの空気そのものに閉じこめられているかのようだった。すさまじい電力のうなる音、地平線のかなたから伝わってくる雷鳴のような茫漠《ぼうばく》たる騒音、想像を絶したエネルギーの強い流れが、あたりを震わしながら反響してくるのだった。
猛進はつづいていた。宇宙船は加速度を増しつつ、渦巻き状になった二つの銀河系を切り離している暗黒の深淵を縫って、さらに深く、さらに速く進んでいた。その渦状の銀河系にくらべれば、地球は、その銀河系とほとんど同じ規模の銀河系の中で、自転をつづける一個のちっぽけな原子であった。それが、いまや火ぶたを切られようとしている決戦の背景だった。かつて太陽系から送り出されたうちでも、もっとも大きく、もっとも野心的な遠征隊が、いまや生死の危機にさらされているのだった。
グローヴナーは、固くそう信じていた。今度の相手は、キアルではない。あの猫の惑星の死に絶えた種族が、惑星上の動物たちに生物学的な実験をほどこして作りあげたものであり、その刺激過剰に慣らされた体で、凶悪な戦いに生き残ったキアルとは、同日の談にはならない。リーム人のもたらした脅威とも、比べようとしても、とうてい比べものになるはずがない。リーム人たちは、最初見当はずれな努力を払って連絡をはかったが、その後のかれは、自分一個人と全リーム族との間の戦いと見えるもので、全部先手をとって相手を意のままにすることができたのだ。
今度の緋色の怪物は、明らかに他に類を見ぬ難物であることは、疑問の余地がない。
リース船長は、小さなバルコニーに通じる金属の階段を登った。すぐ後から、モートンもかれといっしょになり、そこに立って、集まった人々を見おろした。モートンは、片手に一束の書類を持ち、一本の指をはさんで、二つに区別していた。二人は書類に目を通していたが、やがて、モートンがいった。
「怪物が船に侵入してから、まだ――信じられないほどの気がするのだが――二時間とたっていないのだが、ここではじめて息をつくひまができることになった。リース船長とわたしとで、各部長から出された勧告書に目を通した。そして、これらの勧告を、大ざっぱに二つの種類にわけた。一つは、理論的な性質のものであるから、これはあとまわしにしておく。もう一つは、機械的な手段によって、われわれの敵を追いつめようというもので、当然のことだが、こちらを先にとりあげたいのだ。まず話をはじめるにあたって、必ずや全員の心にかかっていると信ずる、フォン・グロッセン君の捜査と救助計画の進行状況を説明しておこう。ゼラー君、みんなに、きみの考えを話してくれたまえ」
ゼラーが進み出た。三十代も終わりに近い、威勢のいい青年だった。キアルに殺されたブレケンリッジの後をうけて、冶金学部長の後任になっていた。かれはいった。
「われわれが抵抗金属と呼んでいる合金群を、あの怪物が通り抜けられないということを発見したので、どういう材質のもので宇宙服を作るかの手がかりが、自動的に得られたというわけです。わたしの助手がすでにその一着の製作にかかっていまして、三時間ほどでできあがるはずであります。捜索には、当然、透視カメラを使うことになりましょう。どなたか、ほかにご提案がありましたら……」
一人の男がいった。「なぜ、何着も作らないのかね?」
ゼラーは、首を左右に振って、「きわめて限られた量しか材料を持っていませんのです。むろん、もっと作ろうと思えば作ることはできるのですが、ただ他の金属の質を変質させなければなりませんので、かなりの時間を要するのです」それからつけ足すようにいった。「それに、冶金部は、つねに規模の小さな部でありましたので、さきほどお約束した時間内に、一着完成すれば、まず運がいいほうでしょう」
それ以上、質問はなかった。ゼラーは、機関室の隣の工作室へ姿を消した。
モートン総監督が手を上げた。人々がふたたび静まるのを待って、かれはいった。「わたしとしては、この宇宙服ができしだい、怪物がフォン・グロッセン君の体を見つけられないようにするために、かれの体をつぎからつぎと、移動しつづけなければならないようにするのが、良策だという気がするのだ」
「かれがまだ生きていると、どうしてご存じなんですか?」と、誰かがたずねた。
「そのわけは、あの化け物は、前に殺した男の死体を持って行こうと思えば、持って行けたのに、そうしなかったからだ。つまり、やつは、生きたわれわれがほしいのだ。スミス君の書類には、やつがどんな目的で人間をさらうのか、もっともな手がかりが述べてあるが、これはさっきもいった第二の部類にはいるので、後で検討することにしたい」
かれは、ちょっと間をおいてから、さらに言葉をつづけた。「実際に怪物を殺すために提出された計画の中で、ここに物理学部の技術員二名と、エリオット・グローヴナー君のが一つと、合計二つの案を受けとっている。リース船長とわたしとは、これらの案を、機関長のペノンズ君に、他の専門家たちを加えて検討した結果、グローヴナー君の案は、人体に対する危険が大きすぎるので、最後の手段として保留することに決定した。そこで重大な反対意見のないかぎり、ただちにもう一つの案の実行に手をつけたいと思う。ほかにいくつかの付加的な提案があったが、それらはこの計画に織りこんでおいた。これまでの慣例では、各個人にめいめい口からその考えを述べてもらうところだが、各専門家が最終的に同意した案を、わたしの口から簡単に述べるほうが、時間の節約になるだろう」
「二人の物理学者」――モートンは、手にした書類に、ちらっと目をおとして――「ロマス君とヒンドリー君も認めているのだが、この計画の成否の鍵は、必要なエネルギー結線をすませるまで、怪物が待ってくれるかどうかにかかっている。これはカリタ君の周期説によれば、なんとかなるという気がする。つまり『小農民』期にある敵は、おのれ自身の血を絶やさぬということに専心するあまり、組織的抵抗が持っている潜勢力を無視しようとする傾きがあるからだ。この考えと、ロマス、ヒンドリー両君の修正案にもとづいて、いまから七階と九階に力線をかけることにする――ただし、かけるのは床だけで、壁にはかけないでおく。われわれの希望はこうだ。いままでのところ、敵は、われわれを殺そうという計画的な企てをしてはいない。カリタ君の意見では、あくまでも小農民的である敵は、やつがわれわれを殺さぬ以上、やがては、われわれがやつを殺すことになるという事態に、まだ気づいてはいないのだ。そうはいっても、遅かれ早かれ、小農民にすぎぬかれも、ほかの何はさておいても、われわれを殺すことが先だということに気がつくだろう。で、敵がわれわれの作業を妨害しなければ、こちらは力線のかけられた二つの床の間、つまり七階と九階の間の八階に、やつを追いこむというわけだ。そうなれば、やつは下へ降りることも、上へあがることもできないという状態になるから、われわれは熱線砲でやつを追いつめ、殺すというわけだ。グローヴナー君もわかってくれるだろうが、この計画は、きみの案よりも危険度もかなりすくない。だから、この方を先にするということになったのだ」
グローヴナーは、息をぐっと吸いこみ、しばらくためらっていてから、むっつりとした声でいった。「もし、危険度だけを考えるのなら、どうして、全員をこの機関室に集めて、やつがわれわれを追って、ここへ侵入する方法を考えつくまで待とうとはしないのですか?」と、かれは、真剣な口調で言葉をつづけた。「どうか、わたしが強引に自分の案を押しつけようとしているとは、思わないでください。しかし、わたしの考えでは」――かれは、ここでふたたびためらってから、思い切っていった――「いま、あなたのおっしゃった計画は、価値がないと思います」
モートンは、心底から驚いたようすだった。そして、額に八の字を寄せて、「そいつは、すこしきびしすぎる批評じゃないか?」
グローヴナーがいった。「いま、あなたがおっしゃったのは原案ではなくて、修正案だというようにうかがいました。手を加えられたのは、どこでしょうか?」
「二人の案では」と、総監督がいった。「力線を四つの階にかけることになっていた――七階、八階、九階、十階だ」
みたび、グローヴナーはためらった。かれは、極端に批評しすぎると思われたくなかったのだ。もし、かれが自分の説を固執《こしつ》するようだと、いつ何時《なんどき》、みんながかれの意見を求めなくなるかもしれない。やがて、かれはいった。「そのほうがいいでしょう」
モートンの後ろから、リース船長が口をさしはさんだ。「ペノンズ君、なぜ、二つの階以上にエネルギーをかけるのが不得策かということを、みんなに説明したまえ」
機関長が前へ進み出た。かれは、眉《まゆ》をしかめながらいった。「おもな理由は、さらに三時間、余分にかかるということです。時間がなによりも大切なのは、みなさん意見が一致しているはずです。かりに、時間が問題でなければ、制御方式によって、全般にわたって、床ばかりでなく壁にも力線をかける方がはるかにいいでしょう。そうすれば、やつは逃げることができなくなります。しかし、それには約五十時間が必要です。前にも申しあげたことですが、無制限に力線をかけることは、自殺にひとしいことです。しかも、われわれが純粋に人間的立場で論じ合った、もう一つの要素があります。そのわけは、怪物がわれわれを追い求めるのは、もっと人間がほしいからですから、今度、やつが下へ出かけるときは、必ず誰かが道づれにされるでしょう。その道づれにされるのが誰であるにせよ、その人を死なせたくはないのです」かれは、いちだんと声を強くして、「この修正案を実行に移すまでの三時間の間、われわれは高出力の移動式震動波砲と熱線砲以外、やつに対して身を守る手段がありません。それ以上強力な武器は船内では、どうしても使うわけにはいきません。またこの二種にしても、人を殺す力が十分あるのですから、慎重に扱わなくてはいけません。当然、めいめいが持っている震動波銃を用いて、自分自身の身を守っていただきたいと思います」ペノンズは後ろにさがって、いった。「では、かかりましょう!」
リース船長が憂鬱《ゆううつ》そうにいった。「そう急ぐな。わたしは、もうすこし、グローヴナー君の反対意見を聞かせてもらいたいのだ」
グローヴナーがいった。「時間さえあれば、この怪物が、全面的に力線をほどこした壁に、どう反応するかを見るのもおもしろいでしょうね」
一人が、怒りを帯びた口調でいった。「反対の意味が、のみこめないね。とにかく、力線をかけた階の間に、やつを追いこんでしまえば、それで終わりじゃないか。やつが通り抜けられないことは、ちゃんとわかっているんだから」
「そんなことは、なんにもわかっていませんよ」グローヴナーは、きっぱりといった。「われわれにわかっていることは、やつが力線の壁にひっかかり、そして結局は逃げてしまったということだけです。そこから見て、力線のかかったところが気に入らなかったのだとは考えられます。事実、この種の力線の中に、長くとどまっていられなかったことだけは、明らかなことのようです。しかしながら、運の悪いことに、やつに対して全面的な力線スクリーンを張ることができないのです。ペノンズさんが指摘されたように、壁が溶けてしまうからです。わたしの論点は、やつはすでに一度、われわれの決め手から逃げおおせている、ということです」
リース船長は、どぎまぎした顔色で、「諸君」といった。「どういう理由で、この点がいままで問題にされなかったのだね? たしかに、もっともな反対意見じゃないか」
モートンがいった。「わたしは、グローヴナー君を会議の席に招きたかったのだが、長い間の慣例にそむくという理由で否決されてしまったのだ。つまり、提案者は、その提案の検討の席には出席を控えてもらうというやつだ。同じ理由で、物理学者の二人も招かれなかったのだ」
シーデルが咳《せき》ばらいをして、「わたしの考えでは」といった。「グローヴナー君はお気づきにならないかもしれないが、かれは、われわれに重大な打撃を与えたわけです。この船の防御スクリーンは、人類最大の科学的業績の一つだと、われわれすべては、いままで信じてきたのです。わたし個人としても、満足と安心感を得ていたのです。ところが、グローヴナー君のいうところによれば、この生物は、それを通り抜けられるというのですから、ことは聞きずてにはできません」
グローヴナーがいった。「わたしは、防御スクリーンが楽々と通り抜けられるとは、いったりなどはしませんでしたよ、シーデル君。事実、敵は防御スクリーンを通り抜けることもできなかったし、いまでも通り抜けられないと信じられる理由があるのです。その理由というのは、最初、われわれが敵を中へつれこむまで、防御スクリーンの向こうで待っていたからです。ただ、いま問題になっている床にかける力線は、あれよりずっと弱いものだということをいいたいのです」
「しかし」と、心理学者はいった。「専門家たちは、無意識に、防御スクリーンと床のエネルギー化を同様のものと考えてしまったのだとは、お考えになりませんか? わたしが合理的だと考える理由は、こうです。もし、この力線化が効果のないものとすれば、その場合は、われわれは敗北です。したがって、有効であるにちがいありません」
リース船長が、疲れたような口ぶりで口をはさんだ。「どうも、シーデル君は、われわれの弱点を、正確に分析したのじゃないかという気がするね。そういわれると、わたしもそういった考えを持っているからね」
部屋のまん中へんから、スミスがいった。「おそらく、グローヴナー君の代案というのを聞くのがいいんじゃないかね」
リース船長が、ちらっとモートンの顔を見た。モートンは、しばらくためらっていてからいった。「かれの提案によると、全員を、船内にある原子砲と同数の班に分けて――」
かれの説明は、そこまでしかつづかなかった。物理学部員の一人が、ぎょっとした声で叫んだ。「原子エネルギーを――船の内でだって!」
たちまちはじまった騒ぎが、一分以上もつづいた。が、やっと静まるのを待って、モートンが、何事もなかったかのように、言葉をつづけた。
「現在、船内には四十一門の原子砲がある。かりに、グローヴナー君の案を採用した場合には、それぞれの砲を、軍人が中心となって持ち場につき、残りのわれわれは砲の射程内に散開して、おとりになる。砲の操作にあたる者には、たとえ、一人であろうと何人であろうと、火線上に人間がいても、構わず発射するよう命令しておく」
モートンは、かすかに首を左右に振ってから、話をつづけた。「おそらくこの案は、いままで提出されたもののうちでは、もっとも有効な提案だろう。しかしながら、その非情さに、われわれは、みなぎょっとするほどの衝動を受けた。仲間に向かって発砲するという考えは、べつに目新しいものではないが、グローヴナー君も感じているとは――わたしも思うが――はるかにそれ以上に深く胸にこたえた。だが、公平なところ、科学者たちが、この案を否決したのには、もう一つ理由があったということを、付け加えておかなければならん。リース船長は付帯条件として、おとりとして行動する人間には、武装させてはならぬという要求を出された。大部分の者には、それはあまり行きすぎではないかと思えた。誰でもかれでも、自分を守る権利はあるはずだというのさ」総監督は、肩をすくめると、「グローヴナー案にかわる案もあったのだから、われわれは、さっきの案を選んだというわけだ。いまとなってみれば、わたし個人としては、グローヴナー君の案に賛成するが、リース船長の付帯条件には反対だね」
船長の付帯条件のことが、はじめて口にのぼったとき、グローヴナーは、くるっと振り向いて、じっと船長の顔を見つめた。リース船長も、ほとんど冷厳といってもいい目で、じっとグローヴナーを見返した。しばらくして、グローヴナーは、落ちついた口調で、大声でいった。「その危険を冒してごらんになってみるべきだったと思いますね、船長」
船長は、かすかに、形ばかりに軽く会釈して、その言葉を認め、「よかろう」といった。「その条件は引っこめます」
グローヴナーは、モートンがこの短いやりとりに、途方にくれた面持ちをしているのを目にした。総監督は、ちらっとかれの方を見てから、船長の方に目を走らし、またグローヴナーの方に目をもどした。とそのとき、驚愕の色が、堂々とした造作の顔にさっと流れた。かれは、狭い金属の階段をおりて、グローヴナーのそばへやって来て、低い声でいった。「いままで、船長の狙っていることに気がつかなかったとはね。かれは明らかに、信じているんだね。生きるか死ぬるかのところに……」そこまでいって総監督は口をつぐみ、リース船長の方を向き、しげしげと見上げた。
グローヴナーは、なだめるような口調でいった。「いや、船長もこんなことを持ち出した誤りに、いまは気づいておいでだと思いますよ」
モートンはうなずいて、気が進まないといった調子でいった。「まあ何だろうね、とことんまで考えてみれば、船長のいうとおりだろうね。なんとしても生きのびるという本能は基本的なものだからね、いざとなればあらゆる後天的な訓練にとってかわるものなんだ。しかし」――と、顔をしかめて――「この話は口にしないほうがいいだろうね。科学者たちは侮辱されたと感じるだろうし、それでなくても船内には、よくない感じがいっぱいあると思うからね」
一同の方に向きなおったモートンは、「諸君」とよく響きわたる声でいった。「これでグローヴナー君の提案についての論点は明らかになったようだ。かれの案に賛成のものは、手を上げてくれたまえ」
グローヴナーがひどくがっかりしたのは、手を上げたのは五十人ほどしかなかったことだった。モートンもしばらくためらっていたが、やがていった。「では、反対のものは、手を上げてくれたまえ」
今度は、わずか十数人ほどの手が上がっただけだった。
モートンは、前列の一人の男を指さして、「きみは、どっちにも手を上げなかったが、何かわけがあるのか?」
その男は肩をすぼめて、「ぼくは中立です。賛成していいか、反対していいのか、わからないのです。これだけでは、十分によくわからないのです」
「きみはどうだ?」と、モートンは、別に一人を指さした。
その男がいった。「二次放射能はどうするのです?」
それには、リース船長がこたえた。「それは遮断する。全区域を密閉するつもりだ」かれは、ちょっと言葉を切って、「隊長」といった。「わたしにはわからないのだが、どうして、こんなに手間どるのだね。議決は、グローヴナー案賛成五十九名、反対十四名だ。科学者諸君に対するぼくの権限も、緊急事態の間だけに限られたものかもしれないが、この議決は決定的なものと、ぼくは考えるね」
モートンは、ふいをつかれたようで、「しかし」と抗議した。「八百人近くが棄権したのだからね」
リース船長の口調は、形式張ったものだった。「それは、かれらの勝手だ。一人前の男なら、自分の意志ぐらい決められそうなものじゃないか。民主主義というものは、その前提の上に立っているのだからね。だから、ぼくは、すぐさま行動することを命令する」
モートンは、しばらくためらっていたが、やがて、ゆっくりといった。「では、諸君、わたしも同意せざるをえない。すぐに仕事にかかるのがいいという気がする。原子砲の準備には、時間がかかるだろうから、それを待つ間、まず七階と九階の力線化にとりかかることにする。わたしの見るところでは、いちおうのところ、両案を合同して進めるのがいいだろう。そして、状態の進展しだいで、どちらかを中止してはどうだろう」
「いや、それなら」と、一人が明白にほっとして、いった。「話がわかる」
この提案で、話のわかった者が大勢いたようだった。むっとふくれていたたくさんの顔に、ほっとした色が浮かんだ。誰かが陽気に喝采した。やがて大きな人の波が、巨大な部屋から流れ出した。グローヴナーは、モートンの方を振り向いて、
「あれは、天才的な手腕でしたね」といった。「ぼくは、制限つきの力線化ということには、とことん反対にこりかたまっていたので、あんな妥協案があるとは思いつきもしませんでした」
モートンは、おごそかな顔で、そのお世辞にうなずきかえして、「あれはとっておきの手だよ」といった。「人間を扱う場合、ぼくは気がついていたのだが、通常、問題を解決するだけでなく、その問題を解決しなければならん連中の間の、緊張をほぐしてやらなくちゃならんのだな」かれは、肩をすくめて、「危険に際しては、うんと仕事をさせる。うんと仕事をさせるときは、あらゆるかたちで、息抜きをさせるということさ」
モートンは、グローヴナーに手を差しのべて、「では、幸運を祈るよ、きみ。無事にやりとげることをねがうよ」
二人は、手を振りながら、グローヴナーがいった。「原子砲を引き出してくるのに、どれくらいかかるでしょう?」
「約一時間、いや、もうちょっとかかるだろうね。その間は、大型の震動波砲で防ぐんだね……」
人間どもがふたたび姿を見せたので、イクストルは、勢いよく七階まで駆けのぼった。だいぶ長い間、かれは、どこまでもつづく壁と床だけをすり抜けるのに似合いの、異様な形でしかなかった。二度、かれは人に見つかり、はげしい震動波砲を浴びた。それまでにお目にかかった携帯用の武器とは、生と死ほどの違いのある震動波砲だった。それは、飛びこんで逃げようとする壁を、みじんに砕いた。一度は、片方の足にまともに電流を受けた。震動波のはげしい分子攪乱から、焼けるような衝撃となって、かれをよろめかせた。一秒もたたぬうちに、足はもとどおりにはなったが、この強烈な移動砲の砲火のまえには、自分の体力にも限界があることを、まざまざと思い知らされた。
しかし、まだイクストルは、べつに心配してはいなかった。スピードと抜け目なさ、慎重な出没のタイミングと場所の選定――こうした対策さえあれば、敵の新兵器の効力も減殺できるのだ。たいせつなことは……人間どもが何をやっているのか? ということだ。やつらが機関室の中に閉じこもったとき、何か計画をめぐらし、それを実行する決心をしたことだけは明瞭だ。またたき一つしない、ぎらぎらと燃える目で、イクストルは、相手の計画が、どういう形であらわれてくるかと見守っていた。
どこの廊下でも、廊下という廊下では、人間どもは、溶鉱炉を囲んで働いていた。炉はまっ黒な金属でできた、ずんぐりしたしろものだった。どの炉もてっぺんの穴から、まぶしいほどのまっ白な光が噴き出し、狂ったように燃えあがっていた。イクストルの見たところ、人間どもは、その火のまっ白なまぶしい光に、半ば盲《めし》いているようだった。かれらは宇宙用の装甲服を着ていたが、ふだんは透明なグラサイト合金を電気的に、黒い遮光体のものに変えていた。とはいっても、軽金属の宇宙服だけでは、このぎらぎらする白熱光を完全に防ぐことはできないのだった。炉の中からは、鈍い光をはなつ長い金属の帯が流れ出ていた。その帯が出てくるたびに、工作機械がそれをくわえ、正確な寸法に合わせて、器用に型にはめた上で、金属の床へぺたりとはるのだった。イクストルが注意して見ると、床は一インチの隙間もあけずに、その金属の帯でおおわれていった。そして、赤熱した金属がはりつけられるのと同時に、巨大な冷却機がぴたっとその上を這いまわって、その熱を吸収していくのだった。
かれの心は、はじめのうちは、自分の観察の結果をすなおに受け入れようとはしなかった。かれの脳は、何かもっと深い目あてが、何かけたはずれに大きい狡知《こうち》や、容易にはさとることのできない意図がかくされているのではないかと、執拗《しつよう》にさぐりつづけた。が、やがて、これはこれだけのものにすぎないと判断がついた。人間どもは、二つの階の床を制限方式でエネルギー化しようと企てているのだった。後になって、こんな制限つきの罠《わな》では効果がないと気がついたときには、おそらくまた別の方法を試してくるだろう。はたしていつ、かれらの防御方式が、自分にとって危険なものになるか、それはイクストルにははっきりわからなかった。しかし、大事なことは、危険だと感じたら即座に、人間どもの後についてまわって、かれらのエネルギーをかけた配線を引きちぎってやるだけのことだ。
傲然《ごうぜん》として、イクストルは、その問題を念頭から追っ払ってしまった。人間どもは、こちらのためになるように都合をはかっているようなもので、もっと必要な『寄生宿主《グール》』を手に入れるのを易しくしてくれているようなものではないか。かれは、つぎの犠牲者を注意深くえらんだ。かれは、心にもなく殺してしまった人間の体を調べたときから、その胃と腸とが、自分の目的にぴったりだということを発見していた。だからあれこれ考えるまでもなく、いちばん大きな胃を持った人間がいいという考えが、イクストルの頭にのこっていたのだ。
ひとわたり予備の見まわりをすませたところで、イクストルは攻撃を開始した。一台の震動波砲が、かれに向かって砲門を向けなおすひまも与えず、身をよじって、あばれまわる体をかかえて、姿を消してしまった。天井をすり抜けた瞬間、体内の原子構造を調節して、下の床に落ちる速度を弱めることは、いとも簡単なことだった。すばやく自分の体をばらばらにほどくと、その床も通り抜け、下の階へと降りて行った。そのまま、船の巨大な船倉に達するまで、半ば落ちるように、半ば自分から下降するようにして降りて行った。もっと速く降りようと思えば降りることもできたのだが、かかえている人間の体に傷をつけたくなかったので、注意深くしなければならなかったのだ。
船倉は、長い足指を備えたイクストルの足にとっては、確かな踏みごたえのあるよく知りつくした場所だった。イクストルは、最初この船にはいりこんだ後、簡単ではあったが、徹底的にこの場所をさぐっておいたのだ。そして、フォン・グロッセンを扱った体験で、いまはもう、必要な手はずもわかっていた。的確な足どりで、薄暗い内部を、遠くの壁の方へ向かって行った。大きな荷箱が、天井まで山のようにうず高く積まれていた。気の向くままに、かれは、それらをすり抜けたり、迂回したりして、やがて、大きなパイプの中にもぐりこんだ。内部は、立って歩けるくらいの大きさで、全長何マイルとつづく、船内の空気調節装置《エア・コンディショニング》の一部だった。
かれのこの隠れ場所は、ふつうの明かりに慣れた目には、まっ暗だったろう。しかし、赤外線まで感じとるかれの視覚には、ぼんやりとした夕闇の明かりが、パイプを浮き出させた。フォン・グロッセンの体を見つけると、新しい犠牲者をその脇に横たえた。それから注意深く、針金のような手を一本、自分の胸にさしこみ、たいせつな卵を一つ取り出すと、それを、いま抱えこんできた人間の胃の中におさめた。
男は、まだもがいていたが、イクストルは、やがて、きっとそうなると知っていて、その兆候があらわれるのを待っていた。ゆっくりと、男の体は硬直しはじめ、筋肉がだんだんにこわばっていった。男は、明らかに麻痺が自分にしのび寄っていることに気づくと、あわててのたくり、手足をよじった。イクストルは、化学作用が完了するまで、冷酷に、男を押さえつけていた。とうとう最後に、男は、筋肉という筋肉が硬直し、動かなくなって横たわった。その目は開いたままで、空《くう》をじろじろと見つめていた。顔には、油汗がにじんでいた。
数時間のうちに、卵は、それぞれの人間たちの胃の中で孵化《ふか》するはずだ。すばやく、かれ自身の小さな小さな生き写しの子供が、その宿主の体を食いつくして、一人前に育つのだ。満足したイクストルは、船倉を飛び出して行った。まだまだ卵を孵化する場所が、まだまだ多くの『寄生宿主《グール》』が必要だった。
イクストルが三人目の捕虜《ほりょ》に処理を終わったころ、人間たちは第九階の作業にかかっていた。熱が波のように廊下を吹きぬけた。さながら地獄の風だった。めいめいの宇宙服に組みこまれた冷却装置さえも、この過熱した空気をくいとめるのがやっとだった。人々は宇宙服の中で、汗みどろになり、暑さに吐きそうになり、ぎらぎらとする光に気が遠くなりながら、ほとんど本能だけで働いていた。
グローヴナーのそばで、一人の男が、突然、荒々しい声で叫んだ。「ほら、やって来る!」
グローヴナーは、指さされた方向を振り向いて、思わず身を硬くした。自力で、みんなの方にごろごろと進んで来るその機械は、あまり大きいものではなかった。外殻は炭化タングステンの球状の塊りで、球の一方に噴出口《ノズル》が突き出ていた。自在ベアリングの上にすえられている実用一点ばりの作りで、四輪タイヤの車体の上に据えられて、自由に方向を変えることができるようになっていた。
グローヴナーのまわりの者はみな、仕事の手をやめてしまっていた。みんな、まっ青な顔色をして、その金属の怪物を見つめているのだった。突然、一人がグローヴナーのそばにやって来て、腹を立てた声でいった。「おい、グローヴ、こいつは、あんたのせいだぜ。あんなもののおかげで放射能をぶっかけられるというんなら、まっさきに、あんたの鼻づらに一発げんこつを叩きこんだやりたいところだな」
「ぼくもここにいるんだぜ」と、グローヴナーは、落ちついた声でこたえた。「きみがやられるときは、ぼくもいっしょにやられるよ」
これで、相手の怒りは、いくらかおさまったようだった。しかし、相手が物をいったとき、その態度にも口調にも、まだ荒々しさが残っていた。「いったい、なんだって、こんな愚にもつかないことを思いついたんだ? 人間をおとりにするよりずっとましな手が、ほかにもきっとあるはずじゃないか」
グローヴナーはいった。「もう一つある、われわれのできる手は」
「どんな手だ?」
「自殺するのさ!」と、グローヴナーはこたえた。そして、かれは本気だった。
男は、グローヴナーをにらみつけると、ばかばかしい冗談だとか、頭の悪いしゃれを飛ばすやつだとか、何かそんなことをぶつぶつつぶやきながら、背を向けてしまった。グローヴナーは、陰気に微笑を浮かべて、仕事にもどった。ほとんどすぐに、みんなが仕事に熱意を失ってしまっているのがわかった。一人から一人へと電気のような緊張が伝わるのだった。誰か一人が、ほんのちょっとしたひねくれたことをやると、たちまちほかの連中がぎくっとなるのだった。
かれらは、おとりなのだ。船内のいたるところの階で、すべての人間が死の恐怖に反応を示していることだろう。だれも、それからまぬがれることができるはずはなかった。というのは、生き残ろうとする意志というものは、生まれながらにして人間の神経の組織に、組みこまれているものだからなのだ。リース大佐のような、高度の訓練を受けた軍人は、平静な表情をよそおうことはできるだろうが、その表面の陰には、やはり緊張がひそんでいるはずだ。同じように、エリオット・グローヴナーのような人間は、行動方針の堅実なことを信じ、思い切ってやってみる心組みの下に、つらいことではあるが、決然とした態度をとることができるのだった。
「全員、注意!」
いちばん手近の通話装置からひびいてきた声を聞いて、グローヴナーもみなといっしょに、思わず飛びあがった。それが、船長の声だと気づくまでにはしばらく時間がかかった。
リース船長は、つづけていった。「ただいま、七、八、九階に、全原子放射線砲の配置を完了した。当面する危険については、部下の士官たちと十分に討議をつくしたので、それを知って、諸君にも歓迎してもらえることと思う。その結果、つぎのように勧告したい。怪物を見つけた場合は、待ちかまえたり、見まわしたりしてはならん! ただちに床に身を伏せるのだ。原子砲操作員は――いますぐだ――砲口を、五十対一・五の火角に調節せよ。これによって床上一・五フィートの安全地帯ができるわけだ。これでは、二次放射能は防げないが、諸君が間髪を入れず床に伏せさえすれば、機関室にいるエガート博士とその他の医務員が、生命だけは救ってくれると、公正にいうことができると思う」
「最後にいっておくと」――と、もう肝心なことはいい終わって、リース船長は、いくらか気が楽になったようすで――「この船内には、戦闘忌避者が一人もいないということを、全将兵に報告しておく。医師たちと、三名の患者を除いて、各個人が諸君と同じように大きな危険に向かい合っている。わたしの部下の士官とわたしとは、各班にわかれて配置についている。モートン総監督は七階に、グローヴナー君――この計画の発案者だが――は九階に、以下同様に配置についている。では、諸君、幸運を祈る!」
一瞬、沈黙がおりた。と、グローヴナーのそばにいた砲員の班長が、人なつっこい声で呼びかけた。「おい、みんな! 調節はすましたぜ。0秒フラットで床に寝ころんでくれりゃ、無事だ」
グローヴナーも声をかけた。「ありがとうよ、戦友」
ほんの一瞬ではあったが、それで、緊張がゆるんだ。数理生物学の技術員がいった。「グローヴ、もうすこし、やさしいおしゃべりで、その先生をうれしがらせておいてくれよ」
「おれは昔から軍人さんが大好きさ」と、別の男がいい、そばの砲員たちに聞こえるほど大きく、しわがれた声で傍白《わきぜりふ》をいった。「こういっておけば、連中、余分に一秒ぐらいは待ってくれるはずさ」
グローヴナーは、ほとんど聞いていなかった。おとりか、と、またもや考えていた。どれかほかの班に危険が襲った瞬間でも、ほかの班にはわからないだろう。『砲限界』――小さな原子炉が爆発寸前まで巨大なエネルギーをあげる、限界量の修正された形態だ――が生じた瞬間、曳光が砲口からほとばしり、それといっしょに、その光を包むようにして、音もなく、目にも見えない激烈な放射線がそそぎかけられるのだ。
すべてが終わったとき、生存者たちは、専用周波数でリース大佐へ報告をするだろう。そして、当然のように、指揮官は、各班に伝えるだろう。
「グローヴナー君!」
鋭い声がひびいたとたん、グローヴナーは、本能的に床めがけて身をおどらせた。痛いほど体を打ったが、リース船長の声だとわかって、ほとんど即座におきあがった。
ほかの連中も、なさけなさそうな顔でおきあがるところだった。一人がぶつぶつつぶやいていた。
「ちきしょう、まともなやり方じゃないぞ」
グローヴナーは、通話装置の方へ行こうとして、行く手の廊下を油断なく見つめながら、いった。「はい、船長?」
「すぐ七階まで降りて来てくれないか? 中央廊下だ。角からはいって来てくれ」
「承知しました」
グローヴナーは、強い懸念を抱きながら急いで行った。船長の声には、ただごとでない響きがあった。何かよくないことがあったのだ。
かれが目にしたのは、悪夢のような惨状だった。近づくと、原子砲の一門が横倒しになっているのが見えた。そのそばに、四人の砲の操作員のうちの三人だったに相違ない軍人が、誰とも見分けがつかないほど黒焦げになって死んでいた。その連中のかたわらの床に、意識は失っているが、まだ体をねじったり、ひくひく動かしたりしている一人の姿があった。震動波砲の発射のせいだということは明らかすぎるほどだった。
砲の向こう側には、さらに二十人が、気を失ったり、あるいは死んで倒れていた。総監督のモートンもその中にいるではないか。
放射能保護服を着た担架係が、つぎつぎに飛びこんで来ては、犠牲者を抱えあげ、運搬車に乗せて走って行った。
救護作業は、しばらく前からつづけられていたようすで、おそらく担当数の気絶者が、すでに機関室に運ばれて、エガート博士や医務員たちの手当てを受けているのだろう。
グローヴナーは、廊下の曲がり角に、急いで作られた防護壁の前で立ちどまった。そこにリース船長がいた。大佐は、まっ青な顔色をしていたが、落ちついていた。数分のうちに、グローヴナーも事情をのみこんだ。
イクストルがあらわれたのだ。若い技術員の一人――リース船長は、名前をいわなかった――が、あわてふためいて床に伏せることを忘れてしまったのだ。原子放射線砲の砲口が、情け容赦もなく首をもたげると同時に、ヒステリーを起こしたその若者は、震動波銃を砲員めがけて発射し、砲員は全員気を失ってしまったのだ。明らかに、かれらも火線上に、その技術員がいるのを見て、ほんのすこし逡巡《しゅんじゅん》したにちがいない。つぎの瞬間、めいめいの操作員がそれとは気がつかずに、この惨状に手をかすかたちになったのだ。そのうちの三人が砲に倒れかかり、本能的にこれにとりすがったはずみに、砲は横転し、残る一人を引きずったまま、ころがって行ったのだ。
わるいことに、この一人は砲の作動スイッチを握っていた。そして、かれこれ一秒ほどというもの、それを押していたのにちがいない。
三人の仲間は、火線のま正面にいたので、即死してしまった。原子砲は横倒しになってとまったが、一方の壁を焼いてしまった。
モートンとその班員は、直射を浴びはしなかったが、二次放射能を受けてしまった。どの程度ひどくやられたかは、まだすぐには判明しなかったが、控え目に見積もって、一年は寝ていなければならないだろうということだった。死ぬ者も何人かは出るだろう。
「ちょっと出足が遅れたのだ」と、リース船長が告白した。「わたしが話し終わってから数秒後の出来事らしい。しかし、砲のひっくり返る音を聞きつけた誰かが、気になって廊下の角からちらっとのぞいたのは、それからかれこれ一分ほどしてからなのだ」かれは疲れたように吐息をもらした。「最悪の場合でも、一班の人間全部がやられるなどとは、夢にも思っていなかった」
グローヴナーは、黙っていた。もちろん、リース船長が科学者たちに武装させたがらなかったのは、こういうことが起こるのをおそれたからだったのだ。いざとなると、人間はまず自分を守ろうとする。そうせずにはいられないのだ。野獣のように、生きるためには盲目的に戦うのだ。
かれは、モートンのことを考えないようにした。モートンは、科学者たちが武装を取り上げられるのに反対するだろうということを知っていて、しかも、原子砲の使用を、なんとかみなに納得させるような手を考え出したのだ。グローヴナーは、落ちついた口調でいった。「なぜ、わたしをお呼びになったのです?」
「この失敗が、きみの計画にも影響するのじゃないかという気がしたのでね。きみは、どう思う?」
グローヴナーは、しぶしぶうなずいて、「奇襲という効果はなくなりますね」といった。「おそらくやつは、何が待ち構えているか怪しみもせずにやって来たにちがいありません。もう今度からは用心して来るでしょう」
緋色《ひいろ》の怪物が、壁から首を突き出し、廊下を見渡しているところが、かれには目に見えるようだった――それから、怪物は大胆にも砲のすぐかたわらに姿をあらわし、砲員の一人をさらって行く。それに対するただ一つの適当な予防策といえば、もう一門の原子砲で、最初のそれを援護させることだろう。だが、これは問題外だ――全船をさがしても四十一門しかないのだから。
グローヴナーは、首を振っていたが、やがて、いった。「やつは、誰かをさらって行ったのですか?」
「いいや」
ふたたび、グローヴナーは黙りこんでしまった。ほかの人たちと同じように、怪物が生きた人間をほしがる理由は、かれにもただ推測ができるにすぎなかった。憶測の一つは、カリタの理論を根拠としたもので、あの怪物が『小農民』の段階に属していて、子孫の繁殖に必死なのではないかという想像である。この考え方でいけば、身の毛もよだつようなことを暗示しているのであるまいか。しかも、怪物を駆り立てて、さらに人間の犠牲者を手に入れなければならぬ、せっぱつまった必要も、よくわかるのだった。
リース船長がいった。「わたしの見るところでは、やつはかならずまた上って来るだろう。わたしの考えでは、さしあたって、原子砲はいまの位置にそのままにしておいて、三つの階の力線化を急いで仕上げるのだ。七階はもう完成しているし、九階もほとんど用意ができている。ついでに八階にも手をつけるのだ。これで三つの階が一つにまとまる。この案の効果はしばらくおいて、やつがフォン・グロッセンのほかに、三人をとりこにしていることを考慮に入れておかなければならん。どの場合でも、やつは、われわれのいう下のほうへと運んで行ったことが目撃されている。だから、三階全部に力線化の準備ができ次第、われわれは九階へ行って、やつを待ち構えるのだ。やつが誰かをさらったら、一瞬、間をおいてから、ペノンズが床を力線化するスイッチを入れるのだ。怪物は八階にぶちあたって、力線がかかっていることを発見する。かりに、やつがそこを通り抜けようとしても、七階にも力線がかかっていることを発見するだろう。上へあがって来ても、九階も同じような危険な状態になっていることに気がつくだろう。いずれにせよ、やつは、かならず、二階層で力線とぶつからずにはいられないことになるわけだ」船長は、そこで口をつぐみ、考え深そうにグローヴナーの顔を見てから、いった。「一つの階で力線を浴びただけでやつは死なないだろうと、きみが考えていることはわかるが、二階層ぶんでも、見込みはないのかね」そこでまた言葉をいいやめると、相手のこたえを聞きたそうに待った。
グローヴナーは、ちょっとためらってからいった。「その考えは買えますね。実際のところ、それがどうやつに影響するかは、ただ想像の域を出ないのですから。案外、うれしい誤算ということになるかもしれませんね」
かれは、そんなことを信じてはいなかった。しかし、こういう進展してやまない事態では、もう一つ考えに入れなければならないことがあった。つまり、人々の抱いている信念と希望である。世の中には、ただ現実の事件にぶつからなければ、心を変えないという人もある。現実にぶつかって、考えが変わったとき、そのとき――そう、そのときだけ――そういった人たちは、もっと思い切ったはげしい解決手段を、感情的に受け入れることができるのだ。
グローヴナーは、自分が徐々にではあるが、確実に、人を動かす法を学んでいるという気がした。それは、情報や知識を物にしただけでは足りない、正しいだけでは足りない何かだった。人間というものは、納得させ、確信を持たせてやらなければならない。時には、悠々とそんなことに時間をさいていられない場合もあるかもしれない。また時には、まるきり、そんなことのできない場合もある。そして、そのように、救済策を持った個人なり集団が、ほかの連中を説得するという、根気のいる長たらしい儀式を最後までやり通さないために、文明は崩壊し、戦いには敗れ、船は破壊されるということになるのだ。
もし、自分にできることなら、この宇宙船では、そんなことを起こさせてはならない。
かれはいった。「原子砲は、各床の力線化がおわるまで、そのままにしておきましょう。それから、すぐ移動させなければなりません。砲門が開かれなくても、力線をかけた場合、限界量に達して、爆発してしまいますから」
なにもかも承知の上で、グローヴナーは、自分の案を戦闘計画から引っこめてしまった。
7
イクストルは、八階の工事に費《ついや》された一時間四十五分の間に、二度、上にやって来た。かれは、まだ六つ卵を残していた。そして、そのうちの二つを残して、後は全部使うつもりだった。ただ悩みの種は、『寄生宿主《グール》』を捕まえるのに、時間がかかりすぎることだった。かれに対する防御はますます警戒がきびしくなり、原子砲の登場のおかげで、直接砲を操作している者を狙うほかなくなってしまった。
それだけの制約をきびしく守っていてさえ、そのたびにうまく逃げることに成功したのは、タイミングがよかったからだということがわかってきた。そうはいっても、イクストルは、まだくよくよしてはいなかった。これだけのことは、どうしてもやっておかなければならないのだった。人間どもには、いずれ、ゆっくりお目にかかることにしよう。
八階の工事が終わり、原子砲はかたづけられ、人々は九階に移動した。リース船長が、手短かにいうのが、グローヴナーの耳にはいった。「ペノンズ君、力線の用意はいいか?」
「はい、船長」機関長のそっけない、きしむような声が、通話装置からひびいた。「五人さらわれて、後は一人か。これまでは運がよかったが、あと、すくなくとも、もう一人はやられるはずです」
「いまのを聞いたかね、諸君? あと一人はやられると。われわれのうち一人は、好きとかきらいとかでなく、おとりにならなくちゃならん」耳慣れた声だったが、久しく聞かなかった声だ。話し手は、物々しい調子でつづけた。「こちらは、グレゴリー・ケントだ。諸君にはすまないが、機関室という安全地帯から話させてもらっている。エガート博士の話では、ぼくが患者名簿からのぞかれるのは、もう一週間先のことになるらしい。そのぼくが、いまこうして諸君に話しかけている理由は、リース大佐がモートン総監督の書類を、ぼくに委ねたからだ。そこで、ぼくはまず、この手許にあるケリー君の書類について、ケリー君自身に詳しく説明してもらいたいのだ。ひじょうに重要な問題が、明らかになると思うのだ。われわれが立ち向かっている敵について、想像している以上に明確な像を与えてくれるだろうが、こうなった以上、全員が最悪の事実を残らず知っておくほうがいいかもしれない」
「ええと……」社会学者のつぶれたような声が、通話装置にひびいた。「わたしの推論はこうです。われわれがあの怪物を発見した当時、あの怪物は、もっとも近い恒星系から二十五万光年も離れたところを、明らかに宇宙空間移動の手段もなく、浮動していました。その驚くべき距離を想像した上で、ある物体が、何の力にもたよらず、ただ単に偶然にまかせて、それだけの距離を移動するのに、相対的に、いったいどれだけの時間を要するかを、みなさん自身で考えていただきたい。レスター君が、計数上、わたしに数字を教えてくれましたので、同君の口からもう一度話してもらいたいと思います」
「こちらはレスターです」天文学者の声が、意外にきびきびと、ひびいてきた。「ほとんどの諸君が、現在の宇宙の誕生に関して、一般に広く行なわれている理論をご存じと思います。証拠から考えますと、現在の宇宙は、それ以前の宇宙が、数千億年前に粉々に砕けた結果、生まれてきたものと信じられています。今日《こんにち》では、現在の宇宙も、さらに数千億年後にはふたたび大爆発して、その周期を完了すると信じられています。その爆発がどんな性質のものかは、憶測する以外方法はありません」
かれは言葉をつづけて、「ケリー君の質問については、一つの想像を申しあげられるだけです。かりに、あの緋色の怪物が、過去に大爆発が起こった時に、宇宙空間にほうり出されたものとします。進路を変える手段もないままに、ただ銀河系間の空間へと突き進んで行くわけです。そういった条件のもとでは、もよりの星から二十万光年も離れた空間を、永久に漂流することもありうるわけです。これでいいですか、ケリー君?」
「ええ、結構です。さて、大部分のみなさんも思い出してくださると思いますが、前に、このような仮軸的《シンポジアル》進化をとげた生物が、全宇宙に植民しないのは、一つの矛盾した事実だといったことがあります。そのこたえは、こうです。すなわち、論理的にいえば、この怪物の種族が宇宙の支配者たるべきものだとしたら、また事実、宇宙を支配していたのです。ただし、おわかりでしょうが、かれらが支配していたのは、現在の宇宙ではなく、以前の宇宙だということです。当然、この生物は、いま、このわれわれの宇宙をも支配しようとしているだろうということです。すくなくとも、これはいかにももっともらしい仮説でしょう。それ以上のものではないにしてもね」
ケントがなだめるような口調でいった。「船内のすべての科学者が感じていられるだろうと信ずるが、われわれは、ほとんどわずかな証拠も手に入らぬままに、いろいろ憶測をめぐらしているのだ。現在われわれが立ち向かっているのは、ある宇宙の最高の種族の生き残りだと考えておくほうが、いいことだとわたしは思う。やつと同じ境遇におかれた仲間が、まだどこかにうろついているかもしれない。ほかの宇宙船が、そんなやつらに近寄らぬことを祈るだけだ。生物学的にいって、この種族はわれわれより何十億年も進歩していると考えられる。そういった考えから、船内の全員が、最大の努力と犠牲を覚悟のうえで――」
かん高い悲鳴が、ケントの話を中断した。「やられた!……はやく!……宇宙服をむしりとられる――」げえげえといううめきで、言葉は切れた。
グローヴナーは、緊張していった。「ダックだ。地質学部の主任助手の」かれは、考えまどうことなく、かれだと認めてしゃべった。いまでは、それほどすばやく、自動的に、声の識別ができるようになっていた。
別の声が、こえもかん高く通話装置にひびいた。「やつは、下へ行くぞ。下へ行くのを見たぞ!」
「力線を」と、三人目は落ちついた声でいった。「かけました」ペノンズだった。
グローヴナーは、気がついてみると、不思議そうに自分の足もとを見つめていた。火花を散らしながら、きらきらと輝く、美しい青色の火が、ぽっと足もとにゆれていた。きれいな炎の小さな触手が、かれの強化ゴムの宇宙服から二、三インチのところで、あたかも宇宙服を守っている、目に見える力にさえぎられているかのように、どうかしてはいあがろうとしていた。いまや、物音一つなかった。ほとんどうつろな心で、グローヴナーは、この世のものとも思われない青い火でいっぱいになった廊下を眺めた。ほんの一瞬、見ているのは廊下ではなく、船の底の深みを見おろしているような錯覚におそわれた。
だが、殺到するように、意識がよみがえってきて、目の焦点が定まった。そして、うっとりしたような目で、グローヴナーは、防御服を突き破ろうとする、青いエネルギーの強烈な炎を見つめた。ペノンズが、また口をきいたが、今度は囁くような声だった。「もし、計画どおりうまくいっていれば、あの悪魔は、いまごろは、八階か七階でつかまっているはずです」
リース船長が、要領よく命令をくだした。「名字がAからLではじまる者は、ぼくにつづいて七階へ! MからZまでのものは、ペノンズ君につづいて八階へ! 原子砲の砲手は、めいめいの部署に残る! カメラ班は、指令どおり行動する!」
七階でエレベーターから降り、二つ目の曲がり角で、グローヴナーの前を行く男たちが立ちどまった。グローヴナーも、ほかの何人かとともに前へ進み出たと思うと、立ちどまって、床に手足を伸ばして倒れている人間の体をじっと見つめた。青い火の、きらきらと輝く指が、しっかり金属の上に押さえつけているようだった。リース船長が、沈黙を破った。
「床から引き離してやれ!」
二人の男が、おそるおそる進み出て、体に手をかけると、青い炎が、まるで二人を追っ払おうとするように、二人に向かっておどりかかった。二人がぐっと引くと、おそろしいきずながゆるんだ。男の体はエレベーターまでかついで行って、力線のかかっていない十階まで運ばれた。グローヴナーは、ほかの連中につづけて、床に横たえられた男のそばに、物もいわずに立った。もはや生命のなくなった体は、それでもまだ何分か空《くう》を蹴《け》りつづけ、エネルギーの奔流を放散してから、だんだんに、死の平安に包まれた。
「報告を、わしは待っているのだ!」と、リース船長は、硬わばった声でいった。
一秒ほどの静寂の後、ペノンズがいった。「計画どおり、人員は、七、八、九の各階に展開しています。はしからはしまで、透視カメラで、撮影を続行中です。もし、やつがどこかにいれば、かならず見つかります。すくなくとも後三十秒はかかるでしょう」
やっと、報告が届いた。「何もありません」というペノンズの口調には、かれの落胆がありありとうかんでいた。「船長、やつは無事に逃げおおせたにちがいありません」
一時的に、回路の開放になった通話装置に、どこかで、悲しそうな声がひびいた。「さて、いったい、おれたちはどうしたらいいんだ?」
その言葉は、宇宙船ビーグル号全員の、不安と疑念とを表現しているように、グローヴナーには思えた。
8
沈黙が長くつづいた。ふだんはよくしゃべる宇宙船のおえら方たちも、まるで声を失ってしまったようだった。グローヴナーは、その心に浮かんでいる新しい計画と、その決意から、ちょっと気がひるんでいた。やがて、徐々に、この探険隊が直面している現実に立ち向かおうという決意が強くなってきた。だが、まだ待っていた。最初に口をきるのはかれには、ふさわしくないと思ったからだった。
やっと口火をきったのは、化学部長のケントだった。「どうやら」と、かれはいった。「われわれの敵は、力線を張った壁も、張らない壁と同じように、やすやすと通り抜けることができるらしい。たしかにやつも力線にひっかかった体験を気にしないのではないという仮定をつづけることもできる。しかし、やつの回復力はおそろしく速いので、一つの階で感じたものも、つぎの階まで空中を通って落ちて行くときには、やつには全然きき目がなくなっているというわけなのだ」
リース船長がいった。「ぼくは、ゼラー君の報告を聞きたいね。いま、どこにいるんだね、ゼラー君?」
「こちらゼラーです」冶金学者のきびきびした声が、通話装置にひびいた。「抵抗金属の宇宙服を一着完成しました。そして、船底で捜索をはじめました」
「船内の全員用に、その抵抗金属の服を作るとなると、どれくらい時間がかかるだろうかね?」
ゼラーの返辞は、かえってくるまでに、だいぶ時間がかかった。「量産体制を整えなければなりませんからね」と、ようやくかれはいった。「まず、どんな金属からでも、そういった宇宙服を、大量に作る工具を作り、さらにこの工具を作る工具を備えなければなりません。同時に原子炉の一つで、抵抗金属製造の作業に手をつけなければなりません。たぶんご存じと思いますが、この金属は、半減期五時間の放射能を帯びて出てきます。五時間といえば、だいぶ長い時間です。わたしの考えでは、量産にかかってから、最初の服が流れ作業の行程を離れるのは、いまから約二百時間ほど後ということになるでしょうね」
グローヴナーには、この見積もりが、だいぶ内輪の概算のようにひびいた。抵抗金属を機械で仕上げることのむずかしさは、少々大げさにいっても、いいすぎということはないほどだった。リース大佐も冶金学者の言葉を聞いて、黙りこんでしまったようだった。そのとき口をきいたのは、生物学者のスミスだった。
「それじゃ、問題外だな!」生物学者は、あやふやな調子でいった。「それに、全面的な力線化を船にほどこすのも、時間がかかりすぎるとなれば、逃げ出すしかないな。処置なしだよ」
通信部長グーレイが、いつもののんびりした声に似ず、かみつくようにいった。「なぜ問題外なのか、わたしにはわからんね。われわれは、まだ生きているじゃないか。仕事にかかって、できるだけ早く、できるだけ多く作ったら、どうなんだ」
「いったい、きみは」と、スミスがひややかにたずねた。「あの怪物が、抵抗金属をぶちこわすことができないなどと、どうして、そんなことを思っているのだね? 超高等生物なんだからね、やつの物理学の知識は、おそらく、われわれのものよりすぐれているだろう。われわれの持っている物を破壊できるような力線も、やつならわりあいに簡単に作りあげるかもしれないんだぜ。あの化け猫でさえ、抵抗金属を粉々に砕くことができたということを忘れちゃいけない。しかも、船内のいたるところの実験室には、やつの利用できる工具類がふんだんにあることは、神のみぞ知るさ」
グーレイは、あざけるようにいった。「では、あきらめてしまえと、きみはいうのかい?」
「ちがう!」と、生物学者は、腹を立てていった。「常識を働かせろというのさ。実現する見こみのない目標に向かって、めくらめっぽうに突進するのだけはよそうじゃないか」
カリタの声が通話装置にひびいて、二人の口論にけりをつけた。「わたしもスミス君に賛成したいですね。さらに申しあげると、敵は、じきに、われわれにあまり時間の余裕を与えて、大がかりな反撃をさせてはまずいと、気がつくにちがいないと思うのです。それやこれやの理由で、もし、われわれが全面的に船を力線化しようとして準備にとりかかれば、敵は必ず妨害に出てくると考えますね」
リース大佐は、黙ったままでいた。機関室から、ケントの声がまたひびいてきた。「ぼくらに組織的に、作戦をつづけさせておくと危険だと気づきはじめた場合、やつは、どんな出方をするだろうね?」
「殺戮《さつりく》をはじめるでしょう。そうなったら、せいぜい機関室に退却する以外、奴さんを食いとめることのできる方法は、わたしには考えられませんね。しかも、さっきスミス君がいわれたとおり、やつがわれわれを追ってそこへ侵入してくるのは、時間の問題だと思いますね」
「何か対策があるかね?」そういったのは、リース大佐だった。
カリタは、しばらくためらっていた。「率直にいって、ありませんね。ただいえることは、われわれの相手にしている敵が、その文明の『小農民』期にあるということを忘れてはいけないということです。小農民にとっては、土地と息子――あるいは、もっと高度な抽象概念でいえば――財産と血統、この二つは神聖なものです。その侵害に対しては、盲目的に戦うのです。あたかも植物のように、ひとかけらの財産に執着し、そこに根をおろして、血族をはぐくむのです」
カリタは、しばらくためらってから、いった。「以上が、大ざっぱな要約です。いまのところ、これをどう応用すればいいか、わたしには考えはありません」
リース大佐がいった。「率直にいって、どうすれば、われわれの手助けになるのか、わからんね。とにかく、各部長は、専用周波数によって、部下のおもだった者と協議してもらえないだろうか? 誰かいい考えを思いついたら、五分以内に報告してくれたまえ」
助手を持っていないグローヴナーはいった。「各部の協議が行われているあいだ、カリタさんに、二つ三つ、質問したいのですが、どうでしょう?」
リース大佐は、首を振って、「誰も意義がなければ、許可しよう」
意義をとなえる者がなかったので、グローヴナーはいった。「カリタさん、質問にこたえていただけますか?」
「どなたです?」
「グローヴナーです」
「ああ、そうですか、グローヴナーさん、やっと、きみの声だとわかりました。さあ、どうぞ」
「さっきの話で、『小農民』は、盲目的なかたくなさで、土地に執着するといわれましたね。もし、この生物が文明の『小農民』期にいるものとすると、われわれの財産に対する感じ方が、自分の感じ方とは違っているということが、かれには想像できるでしょうか」
「できないでしょうね」
「つまり、われわれをこの船の中に追いつめたから、やつからは逃げられないという十分な確信に立って、計画を立てるというわけですね?」
「敵としては、そう考えても無理のないところでしょうね。われわれは、この船を捨てて、生きのびることはできないのですから」
グローヴナーは自分の説を固執した。「しかし、われわれは、財産などというものに、ほとんど特別に意味を持っていない文明周期にいるのでしょう? われわれは、盲目的に財産に執着してはいないのでしょう?」
「あなたのおっしゃることが、わたしにはまだよくわからないのですが」と、カリタはとまどったような口調だった。
「ぼくはただ」と、グローヴナーは落ちついていった。「あなたの考えを、現在の情勢にあてはめて、論理的な結論まで押し進めているだけなのです」
リース大佐が口を入れた。「グローヴナー君。きみの推論の方向が、やっとぼくにもわかりかけてきたような気がする。きみは、新しい計画を提案しようというんだね」
「そうです」思わず、グローヴナーの声がかすかに震えた。
リース大佐は、張りつめた声で、「グローヴナー君」といった。「ぼくの見込みが正しいとすると、きみの解決策は、勇気と創意に富んだものだ。きみの口からほかの連中にも説明してやってもらいたい。そう――」と、しばらくためらっていてから、ちらっと時計を見て――「五分間の協議がおわり次第、すぐにやってもらおう」
ほんのわずかの沈黙の後、カリタがふたたび口を開いて、「グローヴナー君」といった。「きみの理論は正しい。われわれは、精神的に意気消沈して苦しむことなどなしに、そういった犠牲を払うことができます。それが、ただ一つの解決策ですよ」
しばらくしてから、グローヴナーは、探険隊の全員に、自分の分析を説明して聞かせた。かれが話しおえると、強いささやき声といったほどの口調で声をかけたのは、スミスだった。
「グローヴナー、よくきみは、それを考えついたね! これはフォン・グロッセンとほかの連中を犠牲にすることだ。これは、われわれの誰もかれもが、個人的に犠牲を払うことだ。だが、きみのいうとおりだ。財産というものは、われわれにとって神聖なものじゃない。フォン・グロッセンと、かれとともにいる四人のことだが」――と、かれの声は、ぐっときびしくなった――「モートンに渡した報告書のことについて、きみに話す機会も、ぼくにはなかったし、モートンもきみに話さなかったのは、たぶんその中で、ぼくが、地球に住むスズメバチの一種と同様に、寄生繁殖じゃないかと考えられると、暗示したせいじゃないかと思うんだ。考えただけでもぞっとするようで、あの連中にとっては、むしろすぐ死んでしまったほうが、救われるのかもしれないと思うほどだ」
「スズメバチか!」と、一人の男が、あえぐようにいった。「きみのいうとおりだ、スミス君。連中にとっては、早く死ねば死ぬほど、ましだ!」
命令を下したのは、リース大佐だった。「機関室へ行くんだ!」と、かれはいった。「われわれは――」
早口の、興奮した声が、通話装置に声高く飛びこんで、かれの言葉をさえぎった。冶金学者のゼラーの声だったが、グローヴナーがそれと気がつくまでには、かなり長くかかった。
「船長――早く! 船倉へ兵員と砲をよこしてください! 空気調節パイプの中に、五人を見つけました。怪物もここです。ぼくの放射能銃で食いとめているが、あまりきき目がありません。だから――急いで!」
リース大佐は、機関銃のような速さで命令を下し、人々はエレベーターに向かって突進した。
「科学者は全員、エア・ロックに急行せよ。軍人は貨物エレベーターに乗って、わたしにつづけ!」かれは、命令をつづけた。「おそらく、船倉で、やつを追いつめることも、殺すこともできないだろう。だが、諸君」――かれの声は、厳格に、決然としたものになった――「われわれは、ぜがひでも、この怪物をやっつけなくてはならん。いかなる犠牲を払っても、そうしなけりゃならん。もはや、われわれ自身のことなど考えてはおられん」
イクストルは、人間どもが、せっかくの『寄生宿主《グール》』をかつぎ出して行くのを目の前にして、不本意ながら、それを見送っていた。はじめて心が畏怖するような敗北の予感が、宇宙船の外側を押しつつむ暗黒の夜のように、かれの心をひしとしめつけた。人間どものまっただ中へ飛びこんで行って、叩きつぶしてやりたい衝動を感じた。だが、あの不格好な、ぎらぎらと光る武器が、その死にもの狂いに駆り立てる衝動を押しとどめた。イクストルは、絶望感を抱きながら退却した。もう先手は取れなくなった。やがて、人間どもは卵を発見するだろう。そして、それをぶちわってしまうことで、ほかのイクストルの増援を受けるという、かれの当面の機会も、たちまちつぶされてしまうことだろう。
イクストルの脳は、固く引きしまる執念の網の中で、ぐるぐるとすばやくかけまわった。いまからは、殺さなくちゃならん。ただ殺戮あるのみだ。まず繁殖を考え、ほかのことは何から何まで二のつぎにしたとは、われながらあきれ返るだけだった。おかげで、もういままでに貴重な時間を無駄にしてしまった。殺すためには、何でも粉砕する武器を、ぜひ持たなくてはならない。しばらく考えた後、かれは、いちばん手近の実験室に向かった。これまでかつておぼえたことのないほどの、燃えるようなせっぱつまったものを感じた。
機械のきらきら光る金属の上に、背の高い体と、熱中した顔をかぶせるようにして、作業をつづけていると、かれの敏速な足が、いままで船の中につたわっていた不協和音の律動に変調が起こったのを感じるようになった。かれは手をとめて、背を伸ばした。そして、変調の正体に気づいた。動力エンジンがとまっていたのだ。怪物のような宇宙船は、さっきまでの猛然とした加速度飛行をやめて、暗黒の深淵の中でじっと音も立てずにとまっているのだった。何ともいえない驚きが、イクストルを襲った。針金のように細長い、まっ黒な指が、閃光《せんこう》のように、武器の配線を仕上げようと、気でも狂ったように、しかし器用に動きまわった。
突然、かれはふたたび手をとめた。前よりもいっそう強く、何かおかしなことが、危険をはらんだ、おそろしくおかしな、何かがあるという感じが迫ってきた。足の筋肉がぴりぴりと緊張した。とそのとき、それが何か思いあたった。人間どもの体から出る震動が感じられないのだった。やつらは船を捨ててしまったのだ!
イクストルは、ほとんどでき上がっていた武器からくるっと向きなおると、いちばん近くの壁に飛び込んだ。はっきりと、もう自分の運命はわかった。希望はただ一つ、宇宙空間の暗闇の中だけにあるのだ。
人一人いない廊下を、イクストルは飛ぶように走った。遠い遠い昔、惑星グロルから生まれた緋色の怪物は、憎悪をよだれのように口からほとばしらせながら、ひた走りに走った。きらめく両側の壁が、かれをあざ笑っているようだった。あれほど多くの将来を約束してくれたこの巨大な宇宙船全体が、いまでは、いつ何時、エネルギーの地獄に化けるかもしれぬ場所にすぎなくなってしまったのだ。行く手にエア・ロックを見て、かれはほっとした。第一、第二、第三の隔壁を、電光のようにくぐり抜けた――そして、宇宙空間に飛び出していた。人間どもが、自分が身をあらわすのを見張っているにちがいないと、かれは予想して、自分の体と船の間に、強烈な反発磁場を作りあげた。たちまち体がすっと軽くなってゆくのを感じながら、矢のように舷側から離れて、暗黒の夜の中へ突き進んで行った。
背後で、舷窓の明かりがいっせいにかき消えたかと思うと、いきなりこの世のものとも思えない青い輝きにとってかわった。宇宙船の広大な外殻のすみからすみまでが、その青い火を吹き出しているのだった。その青い輝きは、ゆっくりと、ほとんど消えたくないとでもいいたげに、消えていった。その輝きがすっかり消え去ってしまうずっと前に、強力な力線スクリーンが張りめぐらされ、イクストルが船に近づくのを永遠に妨げてしまった。いくつかの舷窓に、ふたたび明かりがつき、弱々しくまたたいたと思うと、やがて、ゆっくりと明るく輝きはじめた。強力なエンジンが、さきほどのすべてを焼きつくすエネルギーの放出から回復するにつれて、すでに輝いていた明かりも、ますます輝きを強めた。ほかの明かりも、つぎつぎにともりはじめた。
数マイル先まで退却していたイクストルは、これを見て、ふたたび近づいてきた。かれは慎重だった。いまでは、自分が空間に出てしまった以上、敵は原子砲を使って、自分たちには危険もなく、かれを滅ぼすことができるのだ。スクリーンから半マイルほどのところまで近付いたが、そこで、不安を感じて停止した。見ると、防衛スクリーンの内部の暗闇から、救命艇群の最初の一隻が飛び出し、大きな宇宙船の舷側にぽっかりとあいた口へはいって行った。つづいて、ほかの黒味を帯びた艇がその後から、すばやい弧を描いて、それにつづいた。宇宙空間を背景にして、その形は、ぼうっとにじんでいた。それらの救命艇群は、ふたたび明かりのついた舷窓から輝く光に照らされて、ぼんやりと目に見えた。
舷側の口が閉じたと思うと、船は、何の予告もなしに消えてしまった。いまのいままで、そこには、黒っぽい巨大な金属の球が浮かんでいたのに、つぎの瞬間には、百万光年の深淵の向こうに、渦巻き形をした銀河系の点々とした光を、広漠とした宇宙空間を通して見ているだけであった。
時は、永遠に向かって、ものうくだらだらと進んで行った。イクストルは、身動き一つしないで、果てしない夜の中に、希望のない身を横たえていた。もうけっして生まれ出ることのない、若いイクストルたちのことや、かれのあやまちから空に消えてしまった宇宙のことを、かれは考えまいとして、考えずにはいられなかった。
グローヴナーは、外科医の熟練した指が、電気メスをあやつって、四人目の男の胃を切開するのを見守っていた。とうとう最後の卵が摘出されて、抵抗金属の丈の高い容器の底に置かれた。卵は、丸い、灰色味を帯びたもので、中の一つはかすかにひびがはいっていた。
数人の男が、抜き身の熱線銃を手にして立っていると、卵のひび割れが広がっていった。ごく小さな、ビーズ玉のような目の、小さく裂けた口をした、醜悪な、丸い、緋色の頭がにゅっと突き出た。短い頸《くび》の上で、頭をぐいとまげて、はげしい狂暴性をあらわして、その目が人間たちをにらみつけた。人間たちがあっとぎょうてんするほどのすばやさで、この小怪物は立ちあがり、容器のふちをよじのぼろうとしたが、なめらかなまわりが、その試みを失敗におわらせた。小怪物は底にすべり落ち、上からそそぎかけられた炎に、みるみる溶けてしまった。
スミスが、唇をなめながら、いった。「こいつが逃げ出して、手近の壁の中に消えてしまったら、どうだったろうね!」
それには、誰もこたえる者もなかった。グローヴナーが見ると、みんなはじっと容器の中を見つめていた。卵は、熱線を浴びてもなかなか溶けなかったが、ようやく金色の光をはなちながら焼けてしまった。
「ああ」と、エガート博士がいった。みんなの視線が、エガートの方に、それからエガートがかがみこんでいるフォン・グロッセンの体の方に向いた。「筋肉がゆるみはじめだしたよ。目もあいているし、生き生きとした輝きだ。どうやら一部始終に、気がついているんじゃないかな。卵によって誘発された麻痺の一種だったから、もう卵がなくなったいまでは、しだいに麻痺もなくなっているんだ。根本的に悪いところはないんだから、まもなく全快するだろう。ところで、怪物の方はどうしたね?」
リース船長がこたえた。
「二隻の救命艇の乗員によると、ちょうどわれわれが船体全部に無制限の力線をかけると同時に、まっ赤な閃光が、中央のエア・ロックから飛び出すのを見たというのだ。きっと、あのおそろしい奴《やっこ》さんにちがいあるまい。というのは、やつの死体が見つからないからね。けれど念のため、ペノンズが写真班といっしょに巡回して、透視カメラで撮影しているから、二、三時間もすれば確かな結果がわかるだろう、ほら、そこへやって来る。どうだ、ペノンズ君?」
機関長は、威勢よく大股に近付くと、テーブルの上に、変な形をした金属製のものを置いた。「まだはっきり報告できるようなことはありません――ですが、物理学部の中央実験室で、こんな物を見つけました。いったい、何だとお考えになりますか?」
よく見ようとして、各部長連中が机のまわりをとりかこんだので、グローヴナーも前に押し出されてしまった。かれは額に八の字を寄せて、複雑な配線が網の目のように全体を包んでいる、見たところこわれやすそうな物をのぞきこんだ。おそらく銃口のつもりだったのだろう、三本の別々の管が、異様な銀色に光をはなつ三個の小さな丸い球を貫通している。この光は机をつらぬいて、合成樹脂のように透明にしてしまうのである。なにより不思議なのは、この球にはサーマル・スポンジのように強力な吸熱作用があることだった。グローヴナーは、さわろうとしていちばん手近の球の方に手を伸ばしたが、たちまち熱を奪われて、手がかじかむのを感じ、あわててその手を引っこめたほどだった。
かれのかたわらで、リース船長がいった。「これは、物理学部にまかせて、調べてもらったほうがいいと思うね。フォン・グロッセンもじきに全快するはずだから。これは実験室で見つけたというんだね?」
ペノンズがうなずいた。スミスがひとりごとのようにいった。「おそらく怪物は、これを作りかけていたとき、何かがおかしいと感づいたんだろうね。船を離れたところを見るときっと、真相をさとったにちがいない。とすると、きみの理論も割引きされるらしいね、カリタ君。きみの話では、本物の『小農民』として、やつは、われわれのやろうとしていることなど、想像することさえできないということだったのだがね」
日本人の考古学者は、疲労で青ざめた顔に、かすかな笑みを浮かべて、「スミスさん」と、丁重な口調でいった。「あの怪物が、そこまで想像してのけたことは疑いがありませんでしょうね。まあ『小農民』という分類は、ただのたとえにすぎないのです。あの赤い怪物は、あらゆる点で、われわれがはじめてお目にかかったような、最高等の『小農民』だったということじゃないのですか」
ペノンズが、うめくようにいった。「われわれにも、すこしは『小農民』のような限界があればよかったのにね。さっきは無制限の力線を三分間かけただけだったのに、この船をしかるべく修理するのに、三月もかかるのだということを知ってますか? まったく一時は、どうなることかと……」後は濁してしまった。
リース船長は、重苦しい笑いを浮かべながらいった。「後はかわりに、ぼくがいおう。ペノンズ君。きみは、まったく一時は、船が完全に破壊されてしまうのではないかと、はらはらしたというのだろう。ぼくの考えでは、グローヴナー君の最後の案を採択したときには、ほとんどの者が、われわれの直面していた危険に気づいていたのだと、ぼくは思うね。救命艇では、反加速度動力はごく部分的にしか使えないこともわかっていた。ひょっとすると、故郷から二十五万光年も離れたところで、島流しになるところだったのさ」
一人がいった。「かりに、あの赤い怪物が、実際にこの船を乗っ取ったとしても、はたして、銀河系征服という、やつの野望をやりとげたかどうかと思うね。結局、人間というのは、かなりしっかり根をおろしてますし――それに、かなりがんこでもありますからね」
スミスが、首を左右に振って、「一度は、宇宙を支配したやつだもの、もう一度、支配しようとすればできたのだよ。きみは、人間が完全無欠な正義の鑑《かがみ》だと思いこんでいるらしいが、人間にだって、長い残忍な歴史があることを忘れてしまっているらしいね。人間は、食用のためばかりでなく、慰みのために、ほかの動物を殺しもしたし、隣人を奴隷にしたこともあれば、敵対する者を殺したこともあり、そうかと思えば、他人が苦しむのを見て、この上もなく、邪悪で嗜虐的な歓《よろこ》びを得たこともあるものなんだ。われわれがこの航海をつづけているうちに、人類よりはるかに宇宙の支配者としてふさわしいような、ほかの知能のある生物に出くわすということも、けっして不可能なことじゃないさ」
「後生だ!」と、もう一人の男がいった。「ぶっそうな姿をした生物は、もう二度と、船内に入れてもらわないことだね。ぼくの神経は、すっかりやられちまったよ。はじめてこのビーグル号に乗りこんだときから、ぼくはそう丈夫じゃないんだからね」
「きみのいうとおり、みんなもそうだろうね!」通話装置から、総監督代理ケントの声がひびいてきた。
四 M33星雲
だれかが、グローヴナーの耳に囁《ささや》いていた。ひどく低い声なので、はっきり言葉は聞きとれなかった。囁きの後には、小鳥のさえずるような音がつづいてきた。これもさっきの囁きと同じように物静かで、同じように意味がなかった。
思わず、グローヴナーはあたりを見まわした。
かれは、情報総合科学部の撮影録音室にいたのだが、ほかにはだれもいなかった。けげんな気持ちで、隣の講義室へつづいているドアのところまで足を運んだ。しかし、講義室にも、誰もいなかった。
誰かが脳波調節器を自分にあてているのだろうかと気にしながら、眉《まゆ》をひそめつつ、作業机にもどった。たしかに声を聞いたような気がしたところからみると、思いあたるのはそれしかなかった。
しばらくして、この説明は成り立ちそうもないという気がした。脳波調節器は、近距離でしか効果がないものなのだ。さらにたいせつなことは、かれのいる情報総合科学部の部室が、たいていの発振波から守られるように遮蔽《しゃへい》されているということだった。その上、いましがた経験したような幻聴が、どんな心理過程で起こるかということを、かれは知りすぎるほど知っていた。このできごとを見すごしてしまうことは、かれにはとうていできなかった。
念のため、部内の五つの部屋を残らずしらべ、技術室にある脳波調節器も全部検査してみた。どれも当然そうなっているとおり、きちんとしまわれていた。グローヴナーは、黙々とスタジオにもどり、催眠性の光のパターンの各種振幅の研究をふたたびはじめた。これは、リーム人がこの宇宙船攻撃に用いた幻像を元にして、かれが開発したものだった。
と突然、なぐりつけるように、恐怖がかれの胸を襲ってきた。グローヴナーは、思わず身をすくませた。とつづいてまた、あの囁きがきた。前と同じように低い声だったが、しかも、今度は何か怒っているようで、想像もつかないほど敵意を帯びていた。
びっくりして、グローヴナーは、身を起こした。これは、脳波調節器にちがいない。誰かが、この部屋の遮蔽機構を貫通するほど、強力な機械を使って、はるか遠くから、かれの心を刺激しているのだ。
眉をひそめて、誰のしわざかと考えていたが、結局、いちばん怪しいという気のする心理学部を通話装置で呼び出した。部長のシーデルがじきじきに出たので、さっそくグローヴナーが、一部始終を説明しかけると、相手がみなまでいわせず、さえぎった。
「いや、ぼくも、ちょうどきみにかけようとしていたんだ」とシーデルがいった。「きみのしわざじゃないかと思っていたんだ」
「すると、誰もかれも影響を受けているというんだね?」と、グローヴナーは、いったい、これがどんな意味を含んでいるか見当をつけようとしながら、ゆっくりとした口調で話した。
「きみの部室は特別の構造になってるはずだが、それでもあれを感じたとは、驚くべきことだな」と、シーデルがいった。「これでもう二十分以上も、苦情を聞きづめなんだよ。しかも、ぼくのところの計器のうちには、それよりも数分前から、あれの影響を受けていたという始末さ」
「どの計器です?」
「脳波探知機に、神経電流記録計、それに高感度の電子探知機類だよ」ここで、言葉を切ってから、「ケントが司令室で会議を召集するそうだ。そこで会うことにしよう」
グローヴナーは、そうすぐには、相手を逃がしはしなかった。「もう、なんらかの討論はあったんでしょう?」
「う、うん、まあね。いちおう、みんな仮説は立てているがね」
「というと、どんな?」と、すばやく、グローヴナーはたずねた。
「この船は、M33大銀河系にはいろうとしているところなんだ。だから、あそこから送られているんじゃないかと思うのさ」
グローヴナーは、不機嫌《ふきげん》な声を立てて笑った。「それは、もっともな仮説だな。ぼくも考えてみます。二、三分後にお目にかかりましょう」
「はじめて廊下に出るとき、ショックを受ける覚悟をしておきたまえ。ここなど、ひっきりなしの圧力だ。音、閃光、夢、感情の混乱――まったく盛りだくさんの刺激だよ」
グローヴナーは、うなずいて、接続を切った。フィルムをかたづけ終わったころ、ケントの会議召集が、通話装置から流れてきた。しばらくして、外のドアをあけたとき、シーデルのいったことが、はっきりわかった。
堰《せき》を切ったように、つぎからつぎへと連続して、あらゆる種類の刺激が、かれの脳に影響を与えはじめたので、かれは、思わず立ちどまった。それから、不安な気持ちで、司令室の方へ向かって行った。
間もなく、グローヴナーは、ほかの連中といっしょに着席していた。夜はなおも囁きつづけていた。驀進《ばくしん》をつづける宇宙船に向かって、ひしひしと攻め立てていたのは、測り知れない宇宙空間の夜だった。気まぐれに、かと思うと、猛烈に、夜はさし招くかと思えば、また警告した。熱狂するような歓喜の顫《ふる》え声を出したかと思うと、獰猛《どうもう》な不満の軋《きし》りを上げた。恐れおののいて、ぶつぶつ低い音を立てたかと思うと、餓えたようにうなり声を上げた。それは死に、死の苦痛に酔い、そしてふたたび、恍惚《こうこつ》とした生へと芽生えた。しかも、つねにその底には、陰険な威嚇《いかく》がひそんでいた。
「これは一つの意見としていうのだが」と、グローヴナーの背後で、誰かがいった。「この船はまわれ右して、故郷へ引っ返すべきじゃないかな」
その声が誰の声か識別できなかったグローヴナーは、誰がしゃべったのか見定めようとして、まわりを見まわした。誰がいったのかわからないが、もう口をつぐんだ後だった。ふたたび前方に向きなおったが、総監督代理のケントが、のぞいていた望遠鏡の接眼レンズから振り向きもしない姿が、グローヴナーの目にはいった。そんな意見にこたえる必要はないと思ったのか、それとも聞こえなかったのか、どちらかだろう。ほかの人たちも、何もいわなかった。
沈黙がつづくのを見て、グローヴナーは、椅子の肱《ひじ》についている通話装置のダイヤルを操作した。やがて、ケントとレスターがのぞきこんでいる望遠鏡の視野に、ほんのすこしぼけた画像が浮かびあがった。いつかグローヴナーは、徐々にまわりの人のことを忘れて、スクリーンにうつる夜の光景に引きこまれていった。船は、一つの大銀河系の外縁部に近づいていた。といっても、いちばん近い星でもまだまだ遠いかなたにあり、目的地のアンドロメダ座のM33大渦巻状星雲を構成する無数の光の点でさえ、望遠鏡を使っても、はっきりと見わけられないほどだった。
グローヴナーがちらっと目を上げたとき、ちょうどレスターも望遠鏡から目を離したところだった。天文学者はいった。「どうも、これは信じられないことだな。何十億という恒星を持った銀河系から、現に感じられるような震動波が流されてくるんだからね」かれは、しばらく間をおいてから、またいった。「隊長、これは天文学者の問題じゃないという気が、わたしにはしますね」
ケントも望遠鏡から目を離して、いった。「どんなことでも、一つの銀河系全体を包含することなら、天文学的現象の範疇《はんちゅう》に属するさ。それとも、それに関係を持つような、しかるべき科学の分野でもあるというのかね?」
レスターはしばらくためらってから、ゆっくりとこたえた。「このマグニチュードの規模は、とても異様ですよ。まだ銀河系的な領域のものと、軽々しく判断すべきじゃないと思いますね。この弾幕のような刺激は、われわれの船一つに集中された指向性電波に乗って送られているのかもしれませんね」
広大な、色彩に光る管制盤を背にした、ケントは、何列にも階段状にならんだクッションつきの椅子《いす》にかけた一同の方に向きなおって、いった。「誰か、意見なり、考えのある人はいないかね?」
グローヴナーは、ぐるっとまわりを見た。心の中では、さっき発言した誰だかわからぬ男が、自分の意見を説明するのじゃないかと思っていたからだった。が、誰だかわからぬその男は、沈黙を守っていた。
モートンが指揮をとっていたときより、誰もが自由に口をききにくく感じていることは、否定できないことだった。なにかにつけて、ケントは、部長連以外のものが意見を吐くのは、生意気だぐらいにしか思っていないということを、むしろ露骨に示していた。かれが個人的には、情報総合科学部などは、一人前の部とは考えていないことも、またはっきりしていた。ここ数か月というもの、かれとグローヴナーとは、なるべく接触しないことにして、表面上はおたがいに、如才なく、慇懃《いんぎん》にすごしてきたのだった。その間、総監督代理として、ケントは、その地位を強固にするために、より多くの権限を自分の部に与えるような動議を、つぎつぎと提出していた。表向きの理由は、各部の間での仕事の重複を避け、無駄な労力ははぶくというのだった。
たとえ、ある程度、能率を犠牲にしても、各個人の創意を励ますことが、実は船の士気を保つためには重要なのだということは、相手が情報総合科学者でなければ、とても通じない話だと、グローヴナーは感じていた。だから、抗議しようという気にもならなかった。そこで、それまでにもう統制され、制限を受けているビーグル号の乗員に、さらに、いくつかの制限が加えられるという結果になってしまったのだ。
誰か提案はないかというケントの要請にこたえて、まず口を切ったのは、司令室の後ろの方の座席にいたスミスだった。ごつごつと骨張った生物学者は、そっけない調子でいった。「どうも、グローヴナー君が、椅子の中で落ちつかないようすじゃないか。まさか老人連が先に口をきくのを、慇懃に待ってるというのじゃないだろうね? グローヴナー君、いったい、何を考えているんだい?」
グローヴナーは、さざ波のような笑い声――ケントはその中に加わっていなかった――が、おさまるまで待っていた。それから、かれはいった。「二、三分ほど前、もうまわれ右をして、故郷へ引っ返そうとおっしゃった方がいるのですが、まずその方に、理由を説明していただきたいのですがね」
返辞はなかった。グローヴナーが見ると、ケントは渋い顔をしていた。ほんのしばらく考えたにすぎないにしろ、すぐそんな考えをすてたにしろ、およそこの船に乗っている人間が、自分から口にした意見を認めようとしないのは、いささか不思議なような気がした。が、どの顔も、おどろいたように、あたりを見まわしているだけだった。
最後に口をきいたのは、悲しげな顔をしたスミスだった。「いつ、そんなことをいったんだ? ぼくは、聞いたおぼえがないがね」
「ぼくもだ!」と、五、六人の声が、こだまのようにひびいた。
ケントの目が、きらきらと光っていた。自分の勝利を見越した人間のように、討論に割り込んできたという気が、グローヴナーにはした。かれはいった。「はっきりさせようじゃないか。そういう発言が、あったかなかったかだ。ほかに誰か、聞いた者があるかね? あれば、手を上げてくれ」
たった一本の手も上がらなかった。ケントは底意地の悪い声で、いった。「グローヴナー君、いったい、はっきりいって、どんなことを聞いたのかね?」
グローヴナーは、ゆっくりとこたえた。「ぼくのおぼえているかぎりでは、こんな言葉でした。『これは、一つの意見としていうのだが、もう故郷へ引き返すべきじゃないのかな』」かれは口を切った。誰も意見をいうものがないと見て、かれは言葉をつづけた。「どうもこの言葉は、ぼくの脳の聴覚中枢が刺激された結果、聞こえてきたのは明らかなようです。何者か、空間のむこうにいる生物が、ぼくらを故郷に返したいと、強く感じているのです。そして、ぼくがそれを感じたのでしょう」かれは、肩をすぼめて、「もちろん、ぼくは、はっきりした分析としていい出したのじゃありません」
ケントは、かたくなっていった。「われわれみなが、グローヴナー君、知りたいのは、なぜきみにだけ、その要求が聞こえて、ほかの誰にも聞こえなかったのかということなんだ」
グローヴナーは、相手のいやみたっぷりな口調は無視することにして、まじめにこたえた。「ぼくも、この数分間、それを考えていたところなんです。そこで思い出さずにいられないのが、リーム事件の間じゅう、ぼくの脳が持続的に刺激にさらされていたということです。それで、現在、ぼくはこういった通信に対して、敏感になっているということは、ありうることです」かれが遮蔽された部屋の中で、囁き声を受信することができたわけも、この特別な敏感さということで説明をつけることもできそうだと、思いあたった。
ケントは、かすかに渋い顔をしたが、グローヴナーは、べつにおどろきもしなかった。ケントにしてみれば、あの鳥人のことや、鳥人が隊員の心にどんな作用を起こしたかを考えたくないということを、あらわに示していたのだ。はたして、ケントは、意地悪い調子でいった。「あの事件に関するきみの報告の録音を、ぼくもありがたく拝聴したよ。その記憶に誤りがなければ、きみは、勝利の原因について、一種族の一員にとって、異星生物の一員の神経機構を支配するのは困難だということを、リーム人たちが気づいていなかったと、そういっていたようだったね。もし、そうだとしたら、あそこにいる生きものが」――と、船が向かっている方向に手を振って――「きみの心の中にまで手を伸ばしてきて、いまきみが繰り返してみせたような警告の言葉を形づくるように、針先のような正確さで、脳のある部分を刺激してのけたのを、いったい、どう説明してくれるというのだね?」
グローヴナーには、ケントの口調、言葉の撰択、満足そうな態度までがすべて、不愉快なほど個人的なもののような気がした。グローヴナーは、辛辣《しんらつ》にやり返した。
「隊長、なにものが、ぼくの脳を刺激したにしても、相手は異星の生物の神経機構がねらっている問題を、十分に感づいているといえますね。相手は、われわれの言葉がしゃべれると考える必要はないのです。それに、相手は、問題を部分的に解決しているにすぎない。というのは、刺激に反応したのは、ぼくがただ一人の人間だからです。ぼくの考えでは、いまは、どうしてぼくがその刺激を受けたかを議論している場合じゃなくて、それよりも、なぜ相手がそういう挙に出たか、またそれについて、どうすべきかを考えるべきじゃないのですか。ぼくは、そう感じますね」
地質学部長のマッカンが、咳ばらいをして、いった。「グローヴナー君のいうとおりだ。ぼくは、諸君、われわれが、どこかの他の異生物の縄張《なわば》りに足を踏みこんだという事実を、しっかり直視したほうがいいと思うね。しかも相手は、かなり手ごわいやつだぜ!」
総監督代理は、唇をかみしめ、何かしゃべろうとするようだったが、しばらくためらってから、ようやく思い切ったように、口を開いた。「結論を出すだけの十分な証拠があると軽々しく信じることは、大いに慎むべきことと思うが、われわれの前に立ちはだかっている相手は、人間よりはるかに広汎な知識――われわれの尺度では計れないような巨大な生命だと考えて、行動すべきだと思う」
司令室は、物音一つしない沈黙の底に沈んだ。グローヴナーは、人々が無意識に、緊張しているのに気がついた。唇がきっと結ばれ、目がけわしくなっていた。ほかの連中も、この反応を認めているようだった。
社会学者のケリーが、ものやわらかな口調でいった。「大いに喜ばしいことは――ええと――こうやって、ずっと見わたしても、引き返したいというようすを示している方が、一人もいないということだ。それこそ、みんな立派な資格があるというものだ。われわれには、政府の、また民族の公僕として、新たな銀河系の可能性を調査する義務がある。特に、その銀河系を支配する生物が、われわれの存在を知ったいまとなっては、この使命はいっそう重大だと思う。ぼくは、ケント隊長の意見にしたがって、われわれが実際に、知的生物を相手にしているものとして話しているということを、どうか銘記していただきたい。たとえ、この船内のただ一人にすぎないにせよ、その心に直接なにがしかの刺激を与える能力からみても、この相手が明確にわれわれを観察しているばかりか、われわれについて、かなり豊富な知識を持っていることを示している。われわれは、そういう種類の知識を、一方的なままにしておくことは許されないことです」
ケントは、ふたたび落ちつきを取りもどしたようすで、いった。「ケリー君、われわれが向かって行こうとする環境を、きみは、どんなものだと思っているのだね?」
頭のはげかかった社会学者のケリーは、鼻眼鏡をなおして、「それは――ええと――大きな注文ですな、隊長。しかし、この囁きは、われわれの銀河系を包んで電波妨害をする交錯電波に相当するものではないでしょうか。つまり――ええと――荒野から耕作地域へはいったときと同じような、単なる表面的な兆候にすぎないのかもしれません」
ケリーは、しばらく黙っていた。が、誰も意見をいうものがないので、かれはまた言葉をつづけた。「いいですか、人類もまた、自分たちの銀河系に、不滅の足跡を残しているのです。いくつかの死滅した太陽を再生する過程で、人類は、一ダースほど離れた銀河系からでも見える新星という形で、それに火を点じた。いくつかの惑星は、その軌道からよそへ導かれ、死んだ世界が緑一色によみがえった。ぼくらの太陽よりも熱い恒星に照りつけられて、死んだように伸びていた砂漠に、いまでははてしなく広がる大洋が渦巻いている。そればかりじゃない。この大きな宇宙船に乗って、われわれがここにいるということさえ、あの囁きなど、とうていとどくことのできない遠くまで伸び広がった、人類の力の発露なのではないだろうか」
通信部長のグーレイがいった。「人類の足跡なとというものは、宇宙的感覚からみれば、とても永続するなどとはいえるものじゃない。どうして、それとこれを同一に論ずるのか、ぼくにはわからないね。いまわれわれが感じている波動は、生きているのだ。こいつは、全空間がわれわれに囁きかけているほど、きわめて強力で、すべてにみなぎっている思考形態なんだ。こいつは、触手の生えた化け猫でもなければ、緋色の怪物でもないし、一つの世界にとじこもった『古代農夫型』種族でもないのだ。想像もつかない精神の総合体が、かれらの時間空間をへだてて、おたがいに語り合っているのかもしれないのだ。これが、第二の銀河系文明であって、もし、そのスポークスマンが、われわれに警告を発しているのだとすれば――」グーレイは、あっと言葉を切ると、自分の身をかばうように、腕を振りあげた。
そんな動作をしたのは、かれだけではなかった。部屋中で、人々がそれぞれの席にうずくまったり、どしんと崩折れたりした――とたんに、ケントが発作的な動きで、震動波銃を引っつかむと、いきなり聴衆めがけて発射した。本能的に首をちぢめたグローヴナーは、鏡からほとばしる曳光が、かれの頭ではなく、その上を狙っているのに、すぐ気がついた。
後ろのほうで、雷がとどろくような苦悶《くもん》の呻《うめ》き声があがったかと思うと、床をゆるがすような、がらがらという音がした。
グローヴナーは、みなといっしょに、くるっと振り向き、そして、現実とは思われない気がして、目を見はった。座席の最後列からさらに十数フィートほど後ろの床に、身の丈三十フィートはあろうという、全身|鱗《うろこ》におおわれた怪獣がのたうちまわっているのだった。と、つぎの瞬間、空中に、赤い目をした、いまのと瓜《うり》二つのやつが、降ってわいたようにあらわれ、どすんという音とともに十フィートほど離れたところに落下した。つづいて、三匹目の悪魔のような顔をした怪物があらわれ、二匹目の背中に落ちたかと思うと、床にすべり落ち、ごろごろころがった――と思うと、立ちあがって、大きく咆哮《ほうこう》した。
何秒もたたぬうちに、怪物の数は一ダースを超えた。
グローヴナーも、自分の震動波銃を引きぬいて、発射した。すごい咆哮が何倍にも高まった。金属のように固い鱗が、金属の壁や金属の床を、ぎしぎしとすれ合ってきしった。鋼鉄のような爪がかちかちと音を立て、重い足を踏み鳴らす音が、ずしんずしんと地ひびきを立てた。
いまやグローヴナーのまわりの者はみな、震動波銃の火ぶたを切っていた。それでも、怪獣はつぎつぎと姿をあらわした。グローヴナーは、くるっと向きなおると、二列の座席を躍りこえ、管制盤の最下段へと跳びあがった。総監督代理は、グローヴナーが自分のいる段までよじのぼって来るのを見ると、銃を射つのをやめて、かっとした声でどなった。「いったい、どこへ行くつもりだ、この臆病《おくびょう》やろう?」
かれの震動波銃が、くるりと向きを変えて、グローヴナーを狙った――グローヴナーは、かれを殴り倒すと、情け無用とばかりに、その銃を、その手から蹴《け》り飛ばした。かれは、怒り狂うほど腹が立ったが、なんにも口には出さなかった。つぎの段に飛びあがったとき、ケントが震動波銃をとろうと這いずりまわっているのが目にはいった。相手が自分をめがけて射って来るだろうと、グローヴナーは、信じていた。間に合ってよかったと、ほっとしながら、グローヴナーは、船を包む巨大な多重式力線スクリーンのスイッチに手を伸ばし、ぐいと引いて下に倒し、そのまま床に身を投げた――間一髪だった。ケントの銃の曳光が尾を引いて、グローヴナーの頭のあった管制盤に命中したのだ。ふと曳光がさっと消えた。ケントがむくむくと立ちあがると、まわりの喧噪に負けない大声でどなった。「きみが何をやろうとしているか、気がつかなかったんだよ」
あやまっているつもりなんだなと、グローヴナーは、ひややかに、そのままにすてておいた。グローヴナーが戦闘から逃げ出したというのをよりどころにして、自分の殺人的な行動が正当化できると、総監督代理は、本気になって信じていたのだろうか。グローヴナーは、化学者の脇をすり抜けて通ったが、あまり腹が立って、口をきく気にもならなかった。この数か月、かれは、ケントのやり方には、まあまあとがまんをしてきたのだが、いまとなっては、こんな男のすることは、総監督になるには不適任だということを証していると、かれは感じた。これからの数週間は、重大な危機をはらんでいるというのに、ケントの個人的ないら立ちが口火となって、船がやられてしまうこともありうるのだ。
グローヴナーは、最下段まで降りて来ると、ふたたび銃をとって、戦闘に加わった。視野のすみに、三人の男が熱線砲を据えつけようとして、夢中になっているのが見えた。熱線砲の強烈な炎が吹き出したときには、怪獣どもは震動波銃の分子を破壊する力線を浴びて、気を失っていたので、何の苦もなく全部殺してしまった。
危機は去り、グローヴナーにも、この怪物どもが何百光年という距離を、生きたまま送られて来たのだと、考えるだけの余裕が生まれた。まるで夢のようで、とてもいま起こったこととは、全然信じられないほどだった。
しかし、焼けた肉の臭《にお》いは、まったく現実のものだった。そしてまた、床にどろどろと流れた、青灰色を帯びた怪獣の血も現実のものだった。何よりも決定的な証拠は、部屋中にころがっている一ダースあまりの、鱗におおわれた死骸だった。
1
数分の後、グローヴナーがふたたびケントを見かけたとき、総監督代理は、通話装置に向かって、冷静に、てきぱきと命令を下しているところだった。起重機が宙を浮いたまま引き込まれ、怪獣の死骸を片づけはじめた。通話装置は、あちらこちらからの通話が入りまじって、蜂《はち》の巣をつついたようだった。すぐ事件の全貌は明らかになった。
怪獣が投げこまれたのは、司令室の中だけだった。船のレーダーには、敵の船と思われるような物は、なんにもとらえられなかった。どの方向をとって見ても、もっとも近い星までの距離は、一千光年もあった。こういった乏しい事実が、みんなの心に行きわたるにつれて、部屋中の汗にまみれた男たちは、口々にさんざん悪態をもらした。
「一千光年だと!」主任パイロットのセレンスキーが叫んだ。「ちきしょう、中継なしには、電波さえも送れない距離じゃないか」
リース船長が、急ぎ足ではいって来た。数人の科学者とちょっと話し合ってから、作戦会議を召集した。まず船長自身が討議の口を切った。
「いまさら、われわれの当面する危機を強調する必要はないと思うが、とにかく、われわれはわずか一隻の宇宙船でもって、どうやら、われわれに敵意を持つ一大銀河系文明を相手にしているわけだ。さしあたり、力線スクリーンのおかげで安全ではあるが、脅威の性質上、当座の目標を限定――といってもあまり限定してしまうわけにもいかないが、とにかく目標を限定することが必要になってきた。まず、敵がなぜ、引き返すようにわれわれに、警告を発しているかを、さぐり出さなければならん。危険の性質を確かめ、その背後にある知能を判断しなければならん。生物学部長が、さきほどの怪獣どもの死骸を調査しているところだが、スミス君、いったいやつらは、どういう種類の動物だろうかね?」
スミスは、それまで調べていた怪物の死体から向きなおると、ゆっくりした口調でいった。
「地球でいえば、恐竜時代に、こういうタイプの物が生まれたものだな。頭蓋《ずがい》らしいものの、小さいサイズから判断すると、知能は、極端に低いにちがいあるまいね」
ケントがいった。「グーレイ君の話では、怪獣どもは超空間を通じて、まっさかさまに投げ込まれたのではないかというのだ。その点を、もうすこし、本人から説明してもらいたいのだ」
リース船長がいった。「グーレイ君、じゃ、お願いしよう」
通信部長は、例の間のびのした調子ではじめた。「これは、ただ一個の見解にすぎないもので、しかもかなり最近のものなんだが、宇宙を、いわばふくらました風船にたとえるんだね。いま、その皮を、針なり錐《きり》なりでつっつくと、とたんに風船はしぼみはじめる。と同時に、その穴をふさごうとしはじめる。ところが、奇妙なことに、ある物体が風船の外皮を突きぬけた場合、その物体は、必ずしも空間の同じ点へもどって来ないのだ。かりに、この現象を制御する、なんらかの方法がわかりさえすれば、超遠距離|瞬間輸送《テレポーテーション》の一形態として使えるかもしれない。こんなことはすべて現実離れしたことと聞こえるかもしれないが、それなら、さっき実際に起こったことだって、同じように見えたことを忘れないでもらいたい」
ケントが、意地悪い口調でいった。「われわれより、それほど頭の切れる生物がいるとは、とても信じられないね。その超空間についてだが、人間の科学者がやりそこなった、簡単な解決法があるにちがいあるまい。いずれ何かわかるさ」かれは、しばらく間をおいてから、いった。「カリタ君、妙に黙っているようだね。敵の正体を話してもらえないかね?」
考古学者は立ちあがって、当惑したという身ぶりで、両手をひろげて見せた。「憶測を申しあげることさえできませんね。とにかく攻撃の背後にある動機が、もうすこしわからないことには、周期説にもとづく比較もできません。たとえば、もし、さっきの目的が、この船を乗っ取るためのものだとすれば、かれらのとった攻撃は、誤りをおかしたということですね。単に、われわれをおどかすだけの意図とすれば、攻撃は吠えるがごとき成功だったといえます」
カリタが腰をおろすと、どっと笑い声が起こった。しかし、リース船長だけは、まじめくさった、考え込んだ顔をしたままでいるのに、グローヴナーは気がついた。
「その動機についてだが」と、船長はゆっくりと口を開いた。「わたしの胸に浮かんだ一つの不快な可能性に対して、それに立ち向かう準備をしておくべきだと思うのだ。これは、現在までの証拠にも合致するのでね。つまりこうだ。この強力な知能が、何者だかよくはわからないが、われわれがどこから来たかを知ろうとしているとすれば、どうだろう?」
かれは、ここで言葉を切った。人々が、足を動かしたり、座席で身じろぎしたところから見て、かれの言葉が聴衆の胸を打ったことは明らかだった。船長は、言葉をつづけた。「ここで立場を変えて――相手の立場に立って――見てみよう。ここに一隻の宇宙船があって、近づいて来る。その船のやって来るおよその方向に、一千万光年の範囲内に、かなりの数の銀河系や、星団や、星雲などがある。はたして、われわれは、そのどれから来たのだろう?」
部屋じゅうを、沈黙が領した。船長は、ケントの方を振り向いた。「隊長、もし、あなたに異存がなければ、この銀河系の恒星の系統をいくつか調べてみたいのだがね」
ケントはいった。「わたしには異議はありません。だが、それでは、ほかに誰も意見がなければ……」
グローヴナーが、手を上げた。
ケントは、言葉をつづけた。「この会議の終了を――」
グローヴナーは立ちあがって、大声でいった。「ケントさん!」
「宣言する――!」と、ケントがいった。
人々はすわったままでいた。ケントはためらってから、ぎこちなくいった。「これは失礼。グローヴナー君、どうぞ」
グローヴナーは、きっぱりとした調子でいった。「この生物が、われわれの用いている記号を、細かく解釈できるとは、いますぐ信じられませんが、本船にある航測用星図類は破棄すべきだと、わたしは考えます」
「ぼくもいま、同じことをいおうとしていたところだ」と、フォン・グロッセンが興奮した口ぶりでいった。「つづけたまえ、グローヴナー君」
いっせいに賛成の声があがった。グローヴナーは、言葉をつづけた。「われわれは、本船の主防御スクリーンが、保護を果たしてくれると信じて、行動をとっています。事実、そのとおりだとしてことを運ぶほかに、選択の道はないのです。しかし、いよいよ着陸する場合には、大型の脳波調節器を利用できるようにしておくのが、よくはないでしょうか。それを使って敵の脳波を混乱させることもでき、これ以上、われわれの心を読まれることも防げるでしょう」
ふたたび、聴衆は、この提案に賛成の声を、口々にあげた。
ケントが、味もそっけもない声でいった。「それだけかね、グローヴナー君?」
「一般的提案を、もう一つだけ」と、グローヴナーがいった。「もしビーグル号が捕獲された場合、人類に危険をおよぼすと思われるものは、ただちに破壊できるよう、各部長はいまからその用意をしておかれてはどうでしょうか」
みな慄然《りつぜん》としたように沈黙におちいる中で、グローヴナーは、腰をおろした。
時がたつにつれて、その敵意を持った知的生物が、それ以上の行動をことさら控えているらしいことが、しだいに明らかになった。それとも、防御スクリーンが有効に働いているのか。とにかく、あれ以上、何の事件も起こらなかった。
この銀河系のはるかに遠い外縁では、恒星も、ぽつんぽつんと孤立していて、ごくわずかしかなかった。その最初の恒星が、空間の奥からだんだんに大きくなってきた。大きな夜の闇の中に、怒り狂うように燃えさかる、光と熱の球だった。レスターとその部下の天文学部員は、この太陽のすぐ近くに接して、惑星が五つあるのを見つけたが、その五つのうち――全部を歴訪した結果――人が住めると思われるのは、一つだけで、もやと密林と巨大な野獣の世界だった。宇宙船は、その内海と湿地植物におおわれた大陸を低空飛行で横断してから、この惑星を後にした。そこには、どんな種類にせよ、文明らしいものの証拠はなかった。まして、一同が予想したような、すばらしい文明などはなおさらだった。
宇宙船ビーグル号は、速度をはやめて、いっきに三百光年を飛び、小さな恒星と、そのサクランボのような赤い温かみによりそっている二つの惑星のところに到達した。うち一つは、生存に適していたが、それもまた、もやと密林とトカゲに似た爬虫類《はちゅうるい》の世界だった。沼沢のような海と、植物の密生した陸地の上を、低空で飛び抜けると、探険はしないで、そこを離れた。
いまや、星の数もふえてきた。つぎの百五十光年は、ピンの頭ほどの光で彩《いろど》られた暗黒だった。そのうちに、二十ほどの惑星をしたがえた、青白く光る大きな恒星に、ケントの目は引かれた。そして、快速船は、それに向かって飛んで行った。その恒星のごく近くにある七つの惑星は、とうてい生きる望みのないような、焦熱地獄だった。船は、ぴったりくっついたような三個の惑星を、螺旋《らせん》飛行で通過したが、この三つは、いずれも生存可能だった。それからは、他の惑星の調査はやめて、ふたたび恒星間空間に飛び去った。
背後では、霧の深い、密林におおわれた三つの惑星が、それらを生み出した赤熱の恒星のまわりの軌道上を公転していた。そして、船内では、ケントが、各部長と副部長級だけの会議を召集した。
かれは、前おきなしに討議をはじめた。かれはいった。「ぼく個人としては、まだきわめて重要な証拠だとは思えないのだが、レスター君のぜひにとの要請で、この会議を召集した」かれは、肩をすくめて見せて、「まあ、何かは得られるだろう」
かれは、そこで言葉を切った。グローヴナーは、かれのようすを見守りながら、この小男が発散させている、かすかではあるが、さも満足げな空気にとまどっていた。かれは考えた。いったい、この男は何をたくらんでいるのだろう? この会議でなにか有益な成果が上げられるかもしれないのに、総監督代理ともあろうものが、わざわざ前もって自分の名声を否認するなどというのは、おかしなことのような気がした。
ケントが、また話をはじめた。かれの口調は、いかにも親しげだった。「ガンリー君、ここへ来て、説明してもらえないかね?」
天文学者は、低い方の壇にのぼった。スミスに似て、かれも丈が高く、やせた男だった。無表情な顔に似合ったような、うす紫の目をしていた。しかし、話し出した声には、ちょっとした感情の動きがあった。
「諸君、さきほどの恒星系で見た三個の生存可能は惑星は、まったくそっくりな三つ子であって、しかも、人工的に作り上げた状態でありました。惑星系の成立に関する最新の理論に詳しいかたが、このなかにどれだけおられるかは存じません。ご存じない方には、わたしの言葉を無条件に受けとっていただくよりしかたがありませんが、われわれのいましがた訪れた惑星のような質量の分布は、力学的にはありえないということです。あの恒星の三つの生存可能な惑星のうち、二つまでが、よそから現在の位置に移されたものであることは、きっぱりといえます。わたしの考えでは、もう一度引き返して、調査すべきだと思います。なにものかが、ことさらああした原始時代の惑星を創り出したようで、それがどういう理由によるものかは、あえて想像もつきません」
かれは、話をやめて、挑むようにケントをにらみつけた。ケントは、かすかな笑みを顔に浮かべて、進み出た。かれはいった。
「ガンリー君は、ぼくのところへ来て、あの密林の生い茂った惑星へもどるよう指令を出せというのだが、いちおう、かれの意向を尊重して、ここで討論と投票を行なうことにする」
なるほど、そうだったのかと、グローヴナーは、ため息をついた。ケントのやりくちに、感嘆とはいかないまでも、すくなくとも、その才覚のほどを認めたくなった。総監督代理として、ことさら自分の反対論をいい立てるようなことはしなかった。かれが、天文学者の案に、ほんとうに反対かどうかは怪しいことだった。しかし、かれ自身の意見が却下されるような会議を召集することで、民主的な手続きに従っていると見せつける気でいるのだ。これは、いささか扇動的としても、自分の支持者の人気をつないでおくためには、まことに抜けめのないやり方だった。
事実、レスターの要求には、反対すべき確実な根拠があった。ケントが、それを知っているとは信じかねることだった。もし、知っているとすれば、船に危険がおよぶのを、無視していることになるからだ。グローヴナーは、善意に解釈してやることにして、数人の科学者たちが、あまり重要でない質問を、天文学者にしている間、辛抱強く待っていた。答弁が終わって、自分のほかには討論する者もないということがはっきりしたとき、グローヴナーは、立ちあがっていった。「わたしは、この事件について、ケント氏の観点に賛成論を述べたいと思います」
ケントは、ひややかにこたえた。「まったく、グローヴナー君、一座の意向は、いままでの討論があっさり片づいたところをみても、はっきりわかるとおりで、これ以上、時間をかけるのは――」
ここまでいったところで、かれは口をつぐんでしまった。グローヴナーの言葉のほんとうの意味が、やっと心にしみたのにちがいない。びっくりぎょうてんしたような表情が、かれの顔に浮かんだ。かれは、あたかも助けを求めるかのように、一同の方へあいまいな身ぶりをした。誰も口をきくものがないので、両手を脇におろし、ぶつぶつとつぶやくようにいった。「グローヴナー君、では、どうぞ」
グローヴナーは、きっぱりとした口調でいった。「ケント氏のいわれるとおりです。それをするには、まだ時期が早すぎます。これまで、われわれは三つの惑星系を訪れてきました。しかし、本来は、無作為的《アト・ランダム》に三十以上の恒星系にあたってみるべきです。これは、われわれの調査対象の膨大さから見ても、決定的な意味を持つことのできる、最低限の数だと考えます。ぼくの立てた計算の確認をお望みなら、よろこんで資料を数学部に提出しましょう。そればかりではない。着陸するということになれば、われわれは防御スクリーンの中から出なければならんということになるでしょう。とすれば、われわれは、超空間という瞬間輸送媒体を使って兵力を送ることのできる知能生物による奇襲攻撃を、撃退する準備もしておかなければなりません。わたしには、どこかの惑星の上で、なすすべもなく腰をおろしているわれわれの上に、何十億トンという物質が頭の上から落ちてくるという場面が、頭に浮かばずにはいません。みなさん、ぼくの見るところでは、あと一、二か月は、こまかく準備を整える期間はあると思います。その間に、当然、できるだけ多くの恒星系を訪ねてみることが必要でしょう。もし、それらの生存に適している惑星も例外なく――あるいは、大半であってでも――原始的な形態であるとすれば、レスター氏の、人工的な状態であるという説に、十分な根拠が確立されるわけです」グローヴナーは、すこし間をおいてから、こうしめくくった。「総監督、これで、あなたのお考えになっていることが、いいあらわせたでしょうか?」
ケントは、ふたたび、落ちつきをとりもどしていた。「まさにそのとおりといってもいいね、グローヴナー君」と、ちらっとあたりを見て、「ほかに意見がなければ、ガンリーの提案を票決にかけたいと思うが」
天文学者は立ちあがって、「ぼくの案は撤回します」といった。「正直いって、早期着陸の難点ということを、ぼくも十分考えていなかった」そういって、かれは腰をおろした。
ケントは、しばらくためらってから、いった。「ほかに誰か、ガンリーの案を支持したいという人があれば……」数秒して、誰も口をきく者がないので、ケントは、自信ありげに言葉をつづけた。「各部長は、いずれ最後には決行しなければならない着陸の成功に、寄与できるような詳細な具体案を作成してぼくまで提出してくれたまえ。では、これまで」
司令室の外廊下で、グローヴナーは、誰かの手を腕に感じた。振り向くと、地質学部長のマッカンだった。マッカンはいった。
「このところ数か月というもの、修理作業にとてもいそがしくかかりきりだったので、きみを、ぼくの部に招待する機会もなかったのだよ。ところで、これはわたしの予想だが、いざ着陸となったときには、地質学部の機械類が、本来の心づもりとはちがった目的に使われることになると思うんだ。そんなとき、情報総合科学者が手をかしてくれると、重宝《ちょうほう》なんだがね」
グローヴナーは、ちょっと考えてから、うなずいて承諾の意を示した。「あすの朝、うかがいましょう。隊長代理への勧告書を、きょうのうちに作っておきたいものですから」
マッカンはすばやくかれの顔を見て、しばらくためらってから、いった。「まさか、かれがきみの案に関心を持つとは思っていないのだろう?」
すると、ケントが自分をきらっていることは、他人も気がついていたのだ。グローヴナーは、ゆっくりといった。「いや、そうともいえませんよ。かれとしては、個人の手柄にしなくともすむのですからね」
マッカンはうなずいた。「なるほど、では、うまくゆくことを祈るとしよう」
マッカンが向きなおって立ち去ろうとすると、グローヴナーは呼びとめて、いった。「あなたのお考えでは、指導者としてのケントの人気のもとは、どこにあるんでしょう?」
マッカンはしばらくためらっていた。よく考えてみようとしているようだったが、やがて、いった。「つまり、ただ人間だからじゃないかな。あの男には、好ききらいがある。物事に、すぐのぼせあがるし、かんしゃく持ちだ。たびたび失敗をやらかしては、そんなことはしなかったようなふりをする。総監督になりたくて必死になっている。船が地球に帰ったとき、評判になるのは、最高責任者だからね。要するに、だれにだって、多かれすくなかれ、ケント的なものはある。つまり、あの男は――そう――人間的なんだよ」
「気がついたのですが」と、グローヴナーはいった。「隊長としてのかれの資格については、なにもおっしゃいませんでしたね」
「だいたいにいって、それほど重要な地位じゃないからね。何か知りたいことがあれば、専門家の知恵がかりられるんだからね」マッカンは、唇をすぼめて見せた。「ケントの魅力というやつは、ちょっと言葉ではいいにくいね。だが、科学者という連中は、いわゆる冷酷無情な理知主義なるものに、いつも気が引けているんだと、ぼくは思うね。そこで、感情のはげしい人間でいながら、科学的な資格においても、問題をさしはさむ余地のない男を、正面に立てたがるんだろうね」
グローヴナーは、首を左右に振って、「総監督の仕事が重要なものでないという、あなたの説には同感できませんね。かなりの権限をどう使いこなすかが、すべてその個人にかかっているのですからね」
マッカンは、鋭い目つきで、じっとかれの顔を見ていたが、やがていった。「なるほど、きみのような論理一点張りの人間には、ケントのような大衆的人気を理解するのは、ちょっとむずかしいだろうね。しかし、政治的には、ケント型の人間には、かないっこないのだよ」
グローヴナーは、陰気な微笑を浮かべて、「技術者型が負けるのは、科学的方法に専念するからじゃないのです。原因は、その廉潔さにあるんです。人並みの訓練を受けた人間なら、自分に対してしかけられている術策を、その術策をしかけてくる人間以上に、よく理解しているのがつねなんです。ところが、同じような報復をするなどということは、自分を汚すような気がしてできないのです」
マッカンは、額に八の字を寄せて、「すこし話がきれいすぎるね。すると、きみは、そういった気のとがめはないというのかい?」
グローヴナーは、黙っていた。
マッカンは、あくまでも固執した。「もし、ケントを放逐しなければならんと決心したら、きみなら、どうするんだね?」
「いまのところ、ぼくは、合法的なことしか考えていません」と、グローヴナーは、用心深くこたえた。
マッカンの表情に、ほっと安堵の色が浮かぶのを見て、グローヴナーは驚いた。この年長者は、親しみをこめた身ぶりで、かれの腕をしっかりと握った。「きみの意図が合法的だと聞いてうれしいよ」かれは、心をこめていった。「きみの講演を聞かしてもらってからというもの、ほかの連中が、まだ全然気づいていないことを、知りえたと思っている――つまり、この船で、潜在的に、もっとも危険な人物は、きみだということさ。きみが持っている総合的な知識を、ひとたび決然と、ある目的に適用されたとしたら、どんな外部の攻撃よりも、恐ろしい結果になりそうだからな」
一瞬、びっくりしたが、すぐに、グローヴナーは、首を左右に振って、「それは、おおげさな話ですよ」といった。「一人の人間なんて、簡単に殺してしまえますからね」
「とはいっても」と、マッカンはいった。「その知識を持ってることは、否定しないんだね」
グローヴナーは、別れの握手を求めると、「ぼくを高く買っていただいて、ありがとうございます。たとえお世辞でも、ぼくにしてみれば、心理的な励みになります」
2
宇宙船が訪れた三十一番目の星は、その大きさも太陽《ソル》と同じなら、タイプも太陽とそっくりだった。惑星の数は三つで、そのうちの一つは、八千万マイル離れた軌道を回転していた。これまで、かれらが見てきた生存可能な惑星と同じように、蒸気を立てている密林と、原始時代の海との世界だった。
宇宙船ビーグル号は、ガス状に取りまく大気と、蒸発気体の中に突入し、低空の周回飛行に移った。空想の国にはいりこんだ、大きな、異様な金属球といったようだった。
地質学部の実験室で、グローヴナーは、目の下の地質を測定している計器盤を見守っていた。これ以上もないほど綿密な注意を払って見ていなければならない複雑な仕事だった。データの大部分は、高度に訓練された頭脳で、総合的に把握解釈することを要求されるのだった。絶え間なしに、超音波や短波の信号が地上から流れこんでくるのを、比較分析のために、的確に一秒の狂いもなく正しい瞬間に、独特の計算機に導入しなければならないのだった。マッカンがすっかり身につけている基本技術に、グローヴナーが情報総合科学の原理に調和する改良を加えたもので、その結果、この惑星の地殻の表面の構造が、驚くほど完全な形となって、一覧表に仕上げられているのだった。
一時間ほどというもの、グローヴナーは、その計算機の前にすわって、高度の訓練の結果、身につけた推理に、すっかり気をとられていた。つぎつぎに出てくる事実は、こまかい点では千差万別だが、諸元素の分子構造や配列、分布状態などを調べると、ある地質学的な類似性を示す。すなわち、泥、砂岩、粘土《ねんど》、花崗岩《かこうがん》、有機物の堆積――たぶん、石灰層だろう――岩に付着した砂の形をした珪酸塩《けいさんえん》、水分――などである。
目の前の計器盤の針が何本か、はげしく振れて、やがて安定した。その反応から、大量の金属質の鉄が存在することを間接的に示した。それとともに微量の炭素、モリブデン――
鋼鉄だ!――グローヴナーが一本のレバーをぐいと引くと、つぎつぎとあわただしいできごとを引き起こした。まずベルが鳴りはじめたと思うと、マッカンが駆けこんで来た。船がとまった。グローヴナーから二、三フィート離れたところで、マッカンが、総監督代理のケントに、通話装置を通して話しはじめた。
「そうです、総監督」と、かれはいっていた。「ただの鉄の鉱石じゃなく、鋼鉄なんです。そういった相違を見わけられる観察者が、ぼくの部にはいるんだよ」かれは、グローヴナーの名は口に出さずに、後をつづけた。「計器は、最大限地下百フィートにセットしてある。ジャングルの泥の中に、都市が埋もれているか――それとも都市が隠されているのか――そういうこともありうるね」
ケントは、味もそっけもない事務的な口調でいった。「二、三日のうちにはわかるよ」
慎重に、船は地表からかなりの高さを保ってとどまり、必要な機械類だけを、一時的な力線スクリーンにあけたすき間から、下におろした。巨大な動力シャベル、起重機、移動式コンベア、それに補助装置一式が、地面に据えつけられた。いっさいのものが、注意深く予行演習を行なわれていたので、機械を下ろしはじめてから三十分後には、船は、ふたたび、宇宙空間へと舞いあがっていた。
発掘作業はすべて、遠隔操縦装置《リモート・コントロール》で行なわれた。熟練した技術者が、観測スクリーンにうつる現場の光景を見ながら、地上の機械類を操作した。四日後には、高度の連動性を持ったこれらの一群の機械が、深さ二百五十フィート、幅四百フィート、長さ八百フィートの穴を掘り上げていた。そのようにして、あばき出されたものは、都市というよりも、むしろ、かつて都市であったものの、信じがたいまでに粉々に砕かれた破壊の跡だった。
建物という建物は、あたかも、持ちこたえられないほどの重荷に、押しつぶされたかのように見えた。街路の平面は、二百五十フィートの深さいっぱいのところにあり、そこから骨がつぎつぎに姿をあらわしはじめた。掘削中止の命令がくだされ、数隻の救命艇が、むしむしする大気をくぐって、降下して行った。マッカンと同行して行ったグローヴナーは、まもなく、数人の科学者とともに、一体の形のくずれた骸骨のかたわらに立っていた。
「かなりひどく押しつぶされているな」と、スミスがいった。「だが、なんとかつぎ合わせることはできるだろうな」
かれの熟練した指が、だいたいの形に骨を並べると、「四本足だ」といった。透視装置を持ち出して、四肢の一つを調べていたが、やがて、かれはいった。「どうも、死んでから二十五年というところらしいね」
グローヴナーは、顔をそむけた。まわりに散らばっている粉々になった遺物を調べれば、この消滅した種族の根本的な身体の特徴の秘密を、探り出せるかもしれない。しかし、それらの種族を殺してしまった、想像もつかぬほど残忍な犯人の正体について、これらの遺骸はなんらかの手がかりを持っていそうにもなかった。これらの遺骨は、哀れな被害者のものであって、傲慢で、凶悪な破壊者のものではなかった。
街路から掘り起こした土を調べているマッカンの方へ、グローヴナーは、気をつけて進んで行くと、地質学者がいった。「ここからさらに二、三百フィートほど下まで、地殻の層位学的な調査をするのが至当だと思うね」
そのマッカンの言葉にしたがって、ただちにドリル班が作業にかかった。それから一時間というもの、機械が岩石と粘土を掘り進んでいくあいだ、グローヴナーは、まったく休むひまもないほどいそがしい思いをしていた。ひっきりなしに土質の標本が、かれの目の前を、コンベアに乗せられて通った。ときおり、岩石や土壌の破片を、化学分析にかけた。こうして、救命艇が母船に帰るまでに、マッカンは、かなり正確な概況報告を、ケントに提出することができるところまで来ていた。マッカンが報告するあいだ、グローヴナーは、送信スクリーンの視野にはいらないようにしていた。
「隊長、ぼくに特に要求されたのは、これが人工的に密林化された惑星かどうかを調べることでしたね。やはり、どうやらそうらしいようです。泥の下にある層は、一時代ぐらい古いもので、原始時代の惑星のものではないようです。密林をかぶせた種族は、どこか遠くの惑星から表層のジャングルだけをはがしてきて、そっくりここの上にかぶせてしまったのじゃないでしょうか。これは、ちょっと信じられない話だが、証拠がそれを物語っているのでね」
ケントがいった。「都市自体はどうなんだね? どうやって、破壊されたんだね?」
「ちょっと計算をしてみたのだが、おそらく、上から落とした岩石や、土、水などの莫大な重みだけで、いま見るようなあれだけの災害が起きたものと、いいうるでしょうな」
「その大災害が、どれくらい前に起こったかを示すような証拠を、何か見つけたかね?」
「ちょっとした地形学的な資料はあります。調査した中の数か所で、新しい地表が、古い地殻を陥没させていたのだ。これは地殻の弱い部分が、上からの余分な重みで無理に押し下げられたということだろうね。そういう状況のもとで、断層を起こす土地の性質をつきとめることによって、計算機にかけてみるだけの数字が出そろった。ぼくのところにいる、きわめて有能な数学者が」――というのは、グローヴナーのことらしかった――「ざっと計算してくれたところでは、その重圧が、最初に加えられたのは、百年より前ではあるまいということだ。地質学という学問は、何十万年、何百万年かかってやっと完了する現象を扱うものだから、計算機を使ったところで、ただ人の手でした計算を検算するだけなんでね。いまあげた数字以上の細かい数字を出すことはむりなんだよ」
しばらく間をおいてから、ケントが、かたくるしい口ぶりでいった。「ありがとう。きみときみのところの部員は、立派な仕事をしてくれたと思うよ。ところで、もう一つ尋ねたいのだが、きみたちの調査のあいだに、これほどの大天災的な破壊を引き起こさせる知能生物とはどんなやつなのか、何か手がかりは見つからなかったのかね?」
「まだ助手たちとは話し合っていないが、ぼくだけの意見をいえば――ノーだね!」
マッカンが、否定の返辞を、慎重に自分だけに限定したのは、なかなか賢明だと、グローヴナーは考えた。地質学者にとっては、この惑星の調査は、敵に対する捜索の第一歩だったのだ。だが、グローヴナー自身にとっては、これは、あの宇宙空間から奇怪な囁きを耳にしたときにはじまった、一連の推理と発見の最後の鐶《かん》となることを証明しているものだった。
グローヴナーは、この想像を絶する異質の知能の正体を、とっくに知っていた。その恐ろしい目的について、推理することもできた。そして、取らなければならぬ対策についても、注意深い分析をすましていた。
かれにとっては問題は、もはや、何が危険なのか? ではなかった。現在、何よりも必要なのは、なんらの妥協なしに、かれの解決策を採用させる段階に達しているのだった。あいにくなことに、一つか二つの科学の知識しか持っていない人々には、全銀河系宇宙の生命すべてが直面している、この前代未聞の危険のおそろしさを、理解することができないか、いや、理解する気にもなれないかもしれないのだ。そればかりか、解決策そのものが、はげしい論議の中心になるかもしれない。
だから、グローヴナーの見るかぎり、問題は、科学的であるとともに、政治的の両方に関係しているものなのだ。来たるべき紛争の性質を、はっきり理解しているグローヴナーは、戦術を細心に練りあげた上で、断固とした決意で、ことを運ばなければならんという見とおしを立てていた。
どこまで手をつくさなければならないかは、まだ決断するには早すぎるという気がした。だが、どんな行動をとるにしろ、なまじっかの遠慮などすべきではないという気が、かれにはしていた。必要なことは、しなければならぬ。
3
いつでも行動に移る用意が整ったところで、グローヴナーは、ケントにあてて手紙を書いた。
探険船スペース・ビーグル号
行政部
総監督代理殿
前略
小生は、全部門の部長がたに、至急お知らせしたい重要情報があります。情報はこの銀河系の異種の知能生物に関するものでありまして、その生物の性質に関して、最大限の規模による作戦に着手できるだけの資料を収集しえたと信ずる次第です。
つきましては、それに対する小生の解決策を提出できますよう、特別会議を召集していただけませんでしょうか?
最後に、「敬具、エリオット・グローヴナー」と署名してから、解決策とだけで、裏づけとなる補助資料の提出については、一言も言及していないことに、ケントは気がつくだろうかしらと思った。返辞が来るのを待つあいだに、かれは、身のまわりの品の残りを、そっと自分用の船室から、情報総合科学部の部室に移した。これは万一の場合の籠城《ろうじょう》のことも計算に入れた、自衛計画の最後の行動だった。
返辞がとどいたのは、つぎの日の朝のことだった。
グローヴナー殿
昨日午後の貴下の覚え書きの要旨は、ケント氏にお伝えいたしました。氏は、同封の書式A―一六―四によって、報告を提出されたいとのご意見であり、貴下がこの当然の手続きを踏まれなかったことに、遺憾の意を表明されました。
本件に関しては、他にも種々、資料または推論が寄せられておりますので、貴下のご意見も、これらのものと同様に、慎重に検討いたしたいと存じます。
ついては同封書式に正しくご記入の上、できるだけ速やかにご提出ください。
ケント氏代理
ジョン・フォーラン
グローヴナーは、不機嫌《ふきげん》に、この手紙を読んだ。ケントが秘書に向かって、この船中でたった一人しかいない情報総合科学者のことを、はげしい口調でけなしたにちがいないと、グローヴナーは疑っていなかった。それでさえ、ケントとしては、おそらく控え目な言葉を吐いたつもりだろう。あの男の中につもりつもっている憎悪や、激情は、まだまだ抑制されたままなのだ。カリタのいうとおりだとすれば、いざ危機というときに、どっとほとばしるにちがいないのだろう。人類の現在の文明は、『冬期』であり、これまでにも、個人の誇大な自己中心主義のために、文化全体がずたずたに崩れ去ってしまったこともあったのだ。
具体的な情報を提出するつもりはなかったが、グローヴナーは、いちおうケントの秘書が送ってきた書式に記入しておくことにした。けれども、証拠を書き上げるだけにとどめた。解釈も加えなければ、解決策も述べなかった。『勧告』という見出しの下には、『具眼《ぐげん》の士には、一目瞭然であろう』とだけ書いておいた。
驚くべきことではあるが、グローヴナーが列記した証拠は、どの項目をとってみても、ビーグル号の数多い科学部のどこかで、すでに知られていたことばかりであった。そのまとまったデータは、おそらく何週間もまえから、ケントの机の上にのっていたのにちがいなかった。
グローヴナーは、自身で報告書を届けた。すぐに返辞が来るとは期待していなかったが、ともかく自分の部室にとどまっていることにして、食事も部屋へとどけさせたほどだった。二十時間を一日とした二日がすぎて、ケントからの覚え書きが来た。
グローヴナー殿
部長会議のため、貴下が提出された書式A―一六―四を拝見したところ、勧告欄に明細な記入が欠けていることに気づきました。この件に関しては、他部からも多数の勧告書を受理しており、できるだけ、各案の長所を取り入れ、総合的計画に包含したいと考えておりますので、より詳細な勧告案の再提出を願います。
早急にご配慮願えませんでしょうか?
これには、「隊長代理、グレゴリー・ケント」と署名がしてあった。ケントが自分で署名したのは、自分の狙いが的中した証拠だと、グローヴナーは解釈した。いよいよ本番の開始だ。
かれは、流感と見わけのつかない症状を起こす薬を飲んだ。薬が効き目をあらわすのを待っている間に、ケントにもう一通手紙を書いた。今度のは、病気のために、勧告案の作成ができぬという趣旨のものだった――「この勧告案は、多くの科学分野の既知の事実にもとづいて、解釈的推論という形をとるので、必然的に長文のものにならざるをえません。しかしながら、さしあたっては、探険隊全員が、さらに五か年、探険期間を延長するという意向に慣れるよう、ただちに準備的宣伝工作にとりかかるのが、賢明かと思います」
この手紙を郵便投入口に入れるとすぐに、エガート博士の医局を呼び出した。前もって時間を計ってはおいたが、予想よりはるかに正確だった。ちょうど十分後に、エガート博士がはいって来て、診療用のカバンを下においた。
エガートがカバンを下において体をまっすぐに起こしたとたん、廊下に足音がした。ひと足おくれて、ケントが、がっしりした化学部の技術員二人をしたがえて、はいって来た。
エガート博士は、さりげなく、ちらっと目を向けたが、化学部長だとわかると、上機嫌にうなずいて、「やあ、グレッグ」と、太く低い声でいった。他人がその場にいるのを意識してか、エガートは、せいいっぱい心をこめて、ていねいにグローヴナーを診察していたが、「ふうむ」と、やがていった。「こりゃ、病菌のしわざらしいね。実際あきれるね。いくら着陸のさいに予防手段を講じておいても、ときどき、なんかのビールスやバクテリアが、忍びこんで来るんだからな。隔離病室にはいるよう、ぼくが手配しておく」
「できたら、この部屋にいたいんですがね」
エガート博士は、眉を寄せたが、やがて、肩をすぼめて、「うん、きみの場合は、かまわんだろう」道具を片づけると、「すぐ、きみの面倒を見る付添いをよこすからね。正体のわからぬ菌に、油断は禁物だからね」
ケントののどの奥から、うなり声がもれた。グローヴナーは、ときどき、わざと当惑したように、ケントの顔をちらちらとうかがっていたが、ここで物問いたげに、相手の方に目を上げた。ケントは、腹立たしそうな調子でいった。「病気はなんだね、ドクター?」
「まだ、なんともいえんね。実験室の検査の結果が出るまではわからん」かれは渋面をした。「いちおう全身の各部分から、サンプルを集めといたがね。いまのところ、症状は熱と、肺にすこし水がたまっているようだ」かれは、首を振って、「いま、かれに話をするのは、やめてもらえんかね、グレッグ。重病かもしれんからね」
ケントは、不愛想な口ぶりでいった。「危険はおたがい覚悟の上さ。グローヴナー君は、貴重な情報を持っているということだし、それに」――と、わざとゆっくりした口調でいった――「まだ、それをいうくらいの元気はあると、確かに思うね」
エガート博士は、グローヴナーを見て、「気分はどうだね?」とたずねた。
「まだ話ぐらいできます」と、グローヴナーは、弱々しい声でいった。顔がほてり、目がうずくように痛んだ。しかし、わざと病気になった二つの理由のうち、その一つは、いまこうしているように、ケントをここへおびき寄せることにあったのだ。
もう一つの理由は、ケントが召集する科学者たちの会議に、直接顔を出したくなかったからだ。ひょっとして、ほかの連中が、かれに敵対することを思い立って性急な攻撃に出ても、この自分の部室にいれば、ここにただ一人でいても、自分の身を守ることができるのだ。
ドクターは、ちらっと時計に目をやって、「じゃ、こうしよう」と、ケントに、そして、間接的にグローヴナーにいった。「付き添いをよこすからね。その男がここへ来るまでに話を終わらせなくちゃいかんよ。いいね?」
ケントは、いかにも心からのように、いった。「結構だ!」
グローヴナーも、うなずいた。
戸口から、エガートは念を押すようにいった。「二十分ほどしたら、ファンダー君をよこすからね」
エガートが行ってしまうと、ケントは、ゆっくりと、ベッドのはしに近づき、グローヴナーを見おろした。かなり長い間、そうして立ったままでいたが、やがて、そらぞらしい猫なで声でいった。「いったい、あんたはどうするつもりでいるのか、わたしにはわからんね。なぜ、そのきみの握っている情報というやつを、わたしたちに打ちあけてくれないんだね?」
グローヴナーがいった。「ケントさん、あんたは、ほんとうに驚いているんですか?」
ふたたび、沈黙がおりた。グローヴナーは、ひどく腹を立てた相手が、やっと自分を押さえているのを、はっきりと感じた。やがて、ケントは、低いが、舌の筋肉が堅く張りつめたような声でいった。「ぼくは、この探険隊の総監督だ。ただちに、きみが勧告案を提出することを要求する」
グローヴナーは、ゆっくりと、首を左右に振った。かれは、突然、身体が熱っぽく、だるくなった感じがした。かれはいった。「それには、なんとおこたえしていいかわかりませんね。あなたという人は、ひじょうに肚《はら》の読みやすい方ですね、ケントさん。いいですか、ぼくは、自分の手紙がどんな扱いをされるか、ちゃんとわかっていた。あなたが、ここへ」――と、ちらっと、お供の二人の方へ目をやって――「二人ほど殺し屋をつれて、お出ましになることも予想していた。こんなわけですから、部長会議の席でなければ勧告案を出せないと、がんばったのが正しかったと、ぼくは思いますね」
ひまがあれば、腕を上げて身をかばうところだったが、もう手遅れだった。ケントは、かれが気づかっていたよりは、ずっと頭に来ていたのだった。
「きいたふうなことをいうじゃないか、ええ!」荒々しくいったかと思うと、化学者は、手を上げ、平手でグローヴナーの顔をなぐりつけた。かれは、さらに歯ぎしりしながら、どなりつけるようにいった。「そうか、おまえは病気なんだな? こういう妙な病気にかかっている人間は、どうかすると、頭がおかしくなることもあるんだ。親友にだって狂暴に襲いかかるから、ときには、手荒な扱いもしなくちゃならんのだ」
グローヴナーは、かすんだ目で相手を見つめた。かれは、手を上げて顔にあてた。熱で、ほんとうに弱っていたので、解毒剤を口に入れようとして、骨を折っていた。ケントになぐられた頬を押さえるふりをして、やっと、新しい薬を飲みこみ、弱々しくいった。「よかろう。ぼくは気ちがいだ。さあ、どうする?」
この反応にびっくりしたとしても、言葉にもそれを見せなかった。かれは、そっけなくたずねた。「いったい、ほんとうに、どうしろというんだね?」
グローヴナーは、瞬間、吐き気をこらえなければならなかった。おさまるのを待ってから、こたえた。「つまり、こういう意味の宣伝工作をはじめてもらいたいんです。あなたの判断によると、この敵の知能生物について判明したところから、探険の期間を予定より五年延長しなければならなくなったので、全員、それを覚悟してほしいということです。いまのところは、これだけです。それがすんだところで、あなたの知りたいことを話しましょう」
そろそろ、気分がよくなりかけてきた。解毒剤がきいてきたし、熱も下がった。いまいったことは、まったくそういうつもりだったのだ。かれの計画は、融通のきかぬ、がんこ一点張りのものではなかった。ケントなり、あるいは、後になって、他の連中が、どの段階ででも、かれの提案を受け入れようとすれば、受け入れることができるのだ。そうなれば、かれのこの一連の戦略行動は終わりを告げるのだ。
二度ほど、ケントは、何かといおうとするかのように、唇を開いた。そのたびに、かれはまた唇をとざした。最後に、のどのつまったような声でいった。「じゃあ、いまは、それだけしかいえんというんだね?」
グローヴナーの指は、毛布の下で、ベッドの一方の横にとりつけたボタンを、いつでも押せるように、構えられていた。かれはいった。「それさえやってもらえれば、あなたのお望みのことは教えると、誓いますよ」
ケントは、鋭い声でいった。「そんなことは問題外だ。そんな気ちがいざたの肩を持つなど、とてもできぬ相談だ。たとえ一年間の延長だって、みんなががまんするはずがないじゃないか」
グローヴナーは、しっかりといった。「あなたがここにいるということは、ぼくの案を気ちがいざたと考えていないと示していることじゃないんですか」
ケントは、両の手を握りしめたり、開いたりしていた。「そんなことは、できっこないことだ! 部長連には、なんと説明できると思うんだ?」
小柄な相手を見守りながら、グローヴナーは、いよいよ危機が来たなと、うすうす感づいた。「なにもいま、説明しなければならんということはないでしょう。後で教えると約束だけしておけば、すむことでしょう」
ケントの顔を見つめていた技術員の一人が、横から口を出した。「ねえ、チーフ。この男は、話してる相手が、総監督だということに気がついていないらしいじゃありませんか。どうです、ひとつもんでやりますか?」
何かもっといおうとしていたケントは、ふいにやめてしまった。ひと足さがりながら、唇をなめてから、力強くうなずいて、「きみのいうとおりだ、ブレダー。だいたい、どうして、こんな男と話す気になったのか、わからん。いまドアをしめてくるから、ちょっと待て。それから、ひとつ――」
グローヴナーが、警告するようにいった。「ぼくがきみなら、ドアはしめずにおくね。手がドアにさわれば、とたんに船中いたるところで、警報が鳴り出しますよ」
ドアに片手をかけていたケントは、手をとめて振り向いた。その顔には、こわばった笑いが浮かんで、「よし、それなら」と、声までもこわばって、いった。「ドアをあけたままで、きさまをばらばらにしてやる。さ、さっさとしゃべるんだな、親友」
二人の技術員が、さっと前に出た。グローヴナーは、いった。「ブレダー、末梢神経帯電というやつを知ってるかい?」二人がもじもじとためらうのを見て、グローヴナーは、重々しく言葉をつづけた。「ぼくの体にちょっとでも触れてみろ、とたんに、やけどするぞ。手は火ぶくれになるは、顔ときたら――」
二人とも身を起こすと、あとずさりしはじめた。金髪のブレダーが、不安そうに、ちらっとケントを見た。ケントは、怒気を帯びて、いった。「人体内の帯電量では、蝿《はえ》一匹だって殺せやしないんだぞ」
グローヴナーは、首を左右に振って、「そいつは、ちょっと畑違いじゃないかな、ケントさん? 電流は、ぼくの体じゃなく、あなたの体に発生するんですぜ、ぼくの体に指一本でも触れればね」
ケントは、震動波銃を抜くと、ことさらゆっくりと調節をすませ、「さがっていろ!」と、助手たちにいった。「こいつに、十分の一秒の噴射を見舞ってやる。気絶はしないが、体じゅうの分子がぎしぎしいうぞ」
グローヴナーは、静かにいった。「よしたほうがいいね、ケント。悪いことはいわないから」
相手には、これが聞こえなかったのか、それとも、そんな言葉に耳をかす気にもならないほど腹が立っていたか、どちらかだった。尾を曳くような光線が、グローヴナーの目をくらませた。しゅっという音と、ばりばりという音とが同時にしたかと思うと、ケントが苦痛の悲鳴をあげた。部屋の明かりが、またたいて消えた。ケントが銃を手から振り離そうとしているのが、グローヴナーの目にはいった。銃は、ぴったりと手にへばりついていたが、やがて、がちゃんと金属的な音をたてて、床に落ちた。見るからに痛そうなようすで、ケントは傷ついた手をつかみながら、ふらふらと立っていた。
グローヴナーは、腹立ちと同情のいりまじった気持ちで、いった。「なぜ、ぼくのいうことを聞かなかったんだ? ここの壁板は、高い電位を持っているんだよ。それに、震動波銃は、空気をイオン化するから、あんたは感電し、同時に、銃口の付近を除いて、あんたが放射したエネルギーは、中和されてしまったというわけだ。ひどく、やけどをしていなければいいがね」
ケントは自制をとりもどしていた。すっかり青ざめて、緊張していたが、もう平静だった。「こいつは、高いもんにつくぞ」と、低い声でいった。「一人の人間が、自分の考えを押しつけようとしていることをほかの連中が知ったら――」かれは、そこで言葉を切ると、二人の子分に、尊大ぶった身ぶりをして、「さあ、行こう。当分、ここには用はない」
かれらが行ってしまってから、まる八分後に、ファンダーが部屋にはいって来た。グローヴナーは、もう病気がなおったということを、根気よくなん度もくりかえして説明しなければならなかった。ファンダーが呼んだエガート博士を説得するには、もっと時間がかかった。グローヴナーは、自分の計略がばれることについては、それほど心配もしていなかった。自分が使った薬をつきとめるには、はっきりした疑惑に加えるに、かなり気長な研究が必要なのだ。
とうとう最後に、一日か二日は、自分の部室にとどまっていることという助言を残しただけで、医師たちは、かれ一人を残して帰って行った。グローヴナーは、お指図にしたがいますと安心させたし、自分でもそのつもりだった。これからのむずかしい日々を前にして、この情報総合科学部の部室だけが、かれのとりでになるはずだった。
かれには、自分に対抗して、どんな手が打たれようとしているのか、わからなかった。しかし、ここにいれば、できるかぎりの準備は、もうすっかり用意が整っているのだった。
医師たちが帰ってから一時間ほどして、郵便受けに、かたりと音がした。ケントからの会議召集の通知で、エリオット・グローヴナーの要請によるという、但し書きがついていた。グローヴナーが最初にケントにあてた手紙の一部が引用してあったが、その後の事件のことは全然知らんふりをしていた。印刷した書面は、こう結んであった。「グローヴナー氏の過去の業績にかんがみ、総監督代理は、同氏に発言の機会を与えることにした」
グローヴナーあての書面のいちばん終わりに、ケント自身の筆跡で、つぎのように書いてあった。「グローヴナー殿。貴下の病状を考慮し、グーレイ氏の部員に依頼し、司令室講堂と、貴下の通話装置を接続したから、貴下は病床から会議に参加することができる。以上の手続きをのぞけば、会議は秘密会議とする」
指定の時刻に、グローヴナーは、ダイヤルを司令室に合わせた。映像があらわれたとき、部屋全体が、鮮明な焦点で、かれの目の前に大きくひろがっているのが見えた。どうやら受像盤は、あの巨大な計器盤のま上の、大きな通話装置が使われているにちがいなかった。いまこの瞬間、かれの顔は、十フィートの超大型の映像となって、一同を見おろしているわけだった。受像盤のま下で、ケントが、リース船長と話をしているところだった。二人の会話は、はじまったばかりではなく、きっと終わりになったのにちがいない。というのも、ケントがグローヴナーの方を見上げ、陰気そうな笑いを浮かべてから、ごくわずかの聴衆の方に顔を向けたからだ。グローヴナーが見ると、かれは、左の手を包帯でつつんでいた。
「諸君」と、ケントがいった。「前置きはぬきにして、さっそくグローヴナー君にはじめてもらうことにする」もう一度、かれは受像盤の方を見上げたが、さっきと同じような、腹立たしそうな笑みを、その顔に浮かべていた。かれはいった。「グローヴナー君、では、はじめてくれたまえ」
グローヴナーは、話をはじめた。
「みなさん、一週間ほど前、ぼくは、この銀河系に住む異常な知能生物に対し、本船が戦いを挑むに足る十分な証拠を手に入れました。これは、とんでもない大きなことをいうようにお考えになるかもしれません。しかも、残念なことに、お知らせできるのは、手にはいった証拠についての、ぼくの解釈だけしか申しあげられないということです。ここにおいでになるみなさんに、こういった生物が、実際に存在するということを、証明してさしあげることもできません。みなさんのうちには、ぼくの推理が妥当だとお感じになる方もいられるでしょう。だが、なかには、特定の科学分野に関する知識を持っておいでにならないので、結論が明らかに疑わしいとお感じになる方もあるでしょう。ぼくの解決策が唯一の安全な方法であるということを、どうしたら、みなさんに納得していただけるかという問題について、さんざん頭をひねってみましたが、まずさしあたって、ぼくの行なった実験についてお話してみたいと思います」
そもそも、こうして発言の機会を与えてもらうために、これまでに、どれくらい念入りな策略を考え出さなければならなかったかということは、口に出さなかった。たとえ、あんな事件があったといっても、必要以上に、ケントに逆らいたくはなかったのだ。
かれは、言葉をつづけた。「ここで、グーレイさんにお話をお願いしたいと思います。みなさんには意外ではないと信じますが、ことの起こりは、C9式自動スクリーンにさかのぼるのです。では、グーレイさん、みなさんにお説明願えませんでしょうか」
通信部長は、ケントの顔を見た。ケントは、肩をすぼめて、うなずいた。グーレイは、しばらくためらってから、いった。
「C9式スクリーンが、いつから作動をはじめたか、はっきりいうことはできません。ここで、まだご存じない方のために申しあげておくと、C9というのは一種の小型防御スクリーンで、周囲の空間の宇宙塵の含有量が、飛行中の宇宙船に危険をおよぼす密度に達すると、自動的に作動することになっているものなのです。一定の体積の空間が含む宇宙塵の見かけの密度は、もちろん、高速航行時のほうが、低速の場合に比例して高くなるわけです。わたしのところの部員が、C9に影響するほど宇宙塵がふえていることに最初に気づいたのは、あのトカゲみたいな怪物が、司令室に落っこちてくるすこし前のことでした」
こういって、グーレイは椅子に寄りかかって、「まあ、こんなところだ」といった。
グローヴナーはいった。「では、フォン・グロッセンさん、あなたの部では、この銀河系の宇宙塵について、どんなことを発見されましたか?」
大柄な体のフォン・グロッセンは、椅子の中で坐《すわ》りなおし、そのまま立ちあがらずに、しゃべりはじめた。「べつに特徴があるとか、異常とか認めることのできる点はないね。われわれの銀河系と比べると、やや密度が高いようだ。ぼくの部では、きわめて高電位のイオン化板を使い、付着物をけずり落として、少量の宇宙塵を採集した。主として固体の、わずかばかりの単純元素が認められるほか、それに多くの化合物の痕跡――これは凝縮のさいに生まれたものかもしれない――ほかに遊離気体が少々、大部分は水素だった。ところで問題は、こうしてわれわれの集めたものが、おそらく、船外に存在しているときの宇宙塵とは、ほとんど似たところがないのではないかということだ。だが、宇宙塵を本来の形のままで採集するという問題は、まだ満足に解決がついていないのでねえ。採集のさいの過程自体が、その形状をいろいろに変化させてしまうのでね。宇宙塵が空間でどんな機能をはたしているか、しょせん憶測の域を出ないというのは、そういうことからなんだよ」物理学者は、どうしようもないといいたげに、両手を上げて、「いま、いえることは、これだけだね」
グローヴナーは、後をつづけていった。「各部長に、いろいろ発見されたことを、つづけておうかがいしてもいいのですが、ぼくがかわって要約させていただきます。おそらくどなたからも異論が出ない程度のことは、できると思います。スミスさんの生物学部、およびケントさんの化学部、ともに、ただいまフォン・グロッセンさんの物理学部と同じような問題に、大いに悩まされたわけです。スミスさんは、さまざまな方法で、檻の中の空気を、この宇宙塵で満たされたことと信じます。そして、檻の中に動物を入れたが、なんら悪い影響をあらわさないので、最後に、スミスさん自身が実験台になられたのです。スミスさん、なにか付け加えることがおありですか?」
スミスは、首を横に振って、「もし、あれが生物だとしても、ぼくには証明することはできないね。もっとも原形に近い形で採集できたのは、救命艇で外に出かけて、いったんドアを全部開放してから、そのドアを全部しめてしまったあげく、ふたたび艇内に空気を入れたときかと思うね。空気の化学的部分に、わずかばかりの変化が起こっていたが、重要なものではなかった」
グローヴナーはいった。「実験的なデータは、これまでとしておきます。ぼくも、いろいろな実験の間に、救命艇で外に出てドアをあけ、宇宙塵を入れる実験をやってみました。ぼくが関心を持っていたことは、もし、これが生物なら、何を餌《えさ》として生きているのか? ということでした。そこで、救命艇の中にポンプで空気をもどしてから、分析してみました。それから小さな動物を二匹殺し、もう一度空気を分析しました。動物が死ぬ前と後の空気の見本を、ケント氏、フォン・グロッセン氏、スミス氏の部へ届けました。きわめて微細な化学変化が、いくつか見られました。これらは分析上の誤差ということも考えられます。しかし、とにかくフォン・グロッセンさんから、どんな発見をなすったかを話していただこうと思います」
フォン・グロッセンは、目をぱちぱちとまたたいて、身を起こすと、「あれが証拠資料だったのか?」と、びっくりしたようにたずねた。すわったまま、体の向きを変えて、考え深そうに額に皺《しわ》を寄せて、同僚の方に顔を向けて、「ぼくには、その重要性がわからない」といった。「だが、『事後』というラベルのついた標本の空気の分子は、帯電量がわずかではあるが高いようだった」
これが決定的瞬間だった。グローヴナーは、受像スクリーンの方を見上げる科学者たちの顔を、じっと見おろして、すくなくとも、一人ぐらいの目に、わかったといった光が浮かぶのを、待ち受けた。
だが、人々は、とまどったような色を顔に浮かべて、無神経そのもののようにすわっていた。ようやく、一人が、皮肉な声でいった。「どうやら、われわれは宇宙塵型の知能生物を相手にしているという結論に、飛躍させられたらしいね。しかし、ぼくには、とてものみ込めんな、そんな説は」
グローヴナーは、なんにもいわなかった。かれが一同にしてほしかったのは、その違いは微妙ではあったが、もっと度はずれな思考の飛躍だった。もうそれまでに、失望感は、かれの中で強くなっていった。つぎの一歩に備えて、かれは態度を硬化しはじめた。
ケントが鋭い声でいった。「おい、おい、グローヴナー君。はやく説明したまえ。その上で、われわれも決心をすることにしよう」
グローヴナーは、しぶしぶ口を開いた。「みなさん。ここまで来て、まだ答えに気づいていただけないのは、ひじょうに心外です。これでは厄介なことになるのが、いまから見えるようです。ぼくの立場を考えてください。ぼくはみなさんに、敵の正体を突きとめた実験の説明も含めて、ありったけの証拠をお知らせしました。ぼくの結論が、まぎれもなく疑わしいとみなされることは、すでにはっきりしています。しかしながら、もし、ぼくが正しければ――そして、それについては確信を持っていますが――ぼくの考えている行動をとらぬかぎり、人類ばかりか、この宇宙にあるすべての知能生物に、大きな災厄がふりかかることになるでしょう。しかし、現在の状況はこうなのです。つまり、もし、ぼくがその対策をみなさんに申しあげれば、決定権はぼくの手を離れてしまうのです。多数決というわけです。そして、いったん議決されてしまえば、ぼくの見るかぎり、法的にはもうどうすることもできなくなるのです」
かれは、その意味を浸みこませるために、すこし間をおいた。何人かが眉をひそめて、顔を見合わせていた。ケントがいった。「この男の石のような手前勝手のうぬぼれには、おれはもう、さんざん手をやいているんだ」
この席で、かれがはじめて敵意をむき出しにして見せた言葉だった。グローヴナーは、すばやく、かれをちらっと見てから、視線をそらして、先をつづけた。
「みなさん、こういうことを申しあげなければならんのは、まことに不幸なことですが、いまの状況では、この問題は、科学の域を離れて、政治の分野にはいったといわざるをえません。したがって、ぼくの解決案を受け入れていただくよう、強く主張せずにはいられません。まず、ケント総監督代理および各部長が先頭に立って、大々的な宣伝工作を行なっていただかなければなりません。つまり、スペース・ビーグル号が、地球暦で五年に相当する期間、さらに宇宙にとどまらねばならなくなったということを、全乗員に納得させるのです。もっとも表向きは、星暦で五年間ということにしておくべきでしょう。これから、本事件に対するぼくの解釈を申しあげますが、部長のみなさんに覚悟しておいていただきたいのは、この問題に関しては、みなさんの名声や評価のすべてを賭《か》けて、行動しなければならぬということです。われわれにふりかかった危険は、ぼくの見るかぎり、すべてのものをいっきょに滅ぼしつくそうとするほど巨大なもので、けちな口論などに時間を費やすのは、恥ずべき行為だと存じます」
簡潔に、その危険がどんなものかということを、かれは話して聞かせた。それから、一同の反応を待たずに、それに対する対策の概要を述べた。
「まず鉄資源のある惑星をいくつか見つけ出した上、この船の全生産能力をあげて、不安定原子の宇宙魚雷を製造するのです。つぎに、この銀河系を横断しながら、いまお話しした宇宙魚雷をかたはしから四方八方に乱射するのです。ぼくの予想では、これに約一年はかかると思います。そのようにして、宇宙のこの部分全体を、敵にとって生存不能に変えた上で、われわれはこの銀河系を離れ、敵に後をつけて来る機会を与えてやるのです。つまり、敵がわれわれの船を追わなければ、食糧源が絶えてしまう。追えば、よりましな食糧源が見つかるかもしれないという希望にすがるしかない、そういう時期を狙って出発するのです。それから後の年月の大部分は、敵がわれわれの銀河系へやって来ることがないように、追跡をまくことに費やされるわけです」
かれは、ちょっと間をおいてから、静かにつけ加えていった。「さて、みなさん、お聞きになったとおりです。みなさんの顔を拝見すると、賛否こもごもで、どうやら、いまにも大論戦がはじまるという気がしますが」
かれは話をやめた。誰もものをいうものもなかった。やがて、一人がいった。「五年もか」
ほとんど溜息かと思うほどだったが、それがきっかけのような役割をした。部屋じゅうの男たちが、不安そうにざわざわと身を動かした。
グローヴナーは、すばやくいった。「地球暦の五年ですよ」
それは、強調しつづけなければならなかった。わざと長そうに見える時間の尺度をえらんだのは、星暦に換算すると、なんとなく短く見えるという効果を狙ったのだ。事実、一時間百分、一日二十時間、一年三百六十日という星時間《スター・タイム》は、心理的な策略だった。いったん長い一日に慣れてしまえば、古い考え方でどれだけの時間がたったかということは、忘れてしまう傾きがあったのだ。
それと同じ理屈で、いまも、追加時間が、星暦の約三年にしかならぬことに気がつけば、すこしはほっと助かったような気がするのではないかと、かれは期待したのだった。
ケントの声がした。「ほかに意見は?」
フォン・グロッセンが、いかにも残念そうな口調でいった。「ぼくは、グローヴナー君の分析を、率直に受け入れることはできないのだがね。過去の業績の数々からいって、ぼくは、グローヴナー君に心から敬意をはらっている。しかし、今度の場合、実際に確実に根拠のある証拠さえあれば、われわれだって理解できると思うことを、ただ言葉の上で信じてくれの一点ばりだ。情報総合科学とは、各科学を高度に総合したもので、その訓練を受けた者だけが、複雑な連関性を持った現象を理解できるのだという意見は、ぼくには受け入れられないのだ」
グローヴナーは、そっけなくいった。「まだよく調べもしておいでにならないことを、性急に反対していらっしゃるんじゃないのですか?」
フォン・グロッセンは、肩をすぼめていった。「そうかもしれんね」
「ぼくの意見では」と、ゼラーがいった。「長い年月と多くの努力を傾けながら、その計画が効を奏しているかどうかについては、きわめて間接的で、あいまいな証拠しか得られないということになりそうですな」
グローヴナーは、しばらくためらっていた。やがて、ここでは、みんなに敵対するような発言をつづけるほかには手はないと、さとった。問題は、あまりにも重大だ。かれらの感情など、考慮していられなかった。かれはいった。「効果があったかどうかは、ぼくにはわかります。もし、あなたがたのうちのどなたかが、情報総合科学部まで来て、二、三の技術を学んでさえいただければ、みなさんでもちゃんとおわかりになるはずです」
スミスが、むっつりといった。「グローヴナー君のご親切なことは、このとおりだ。いつでも自分と同じくらい偉くなるように、教えて差し上げようという調子だからね」
「ほかに、もっと意見は?」そういったのは、ケントだった。かれの声は、かん高くなり、勝ちほこったように、かどが立っていた。
何人かの男が、いまにも口をきろうとしかけたが、思いなおしたように黙ってしまった。ケントは、言葉をつづけた。「これ以上、時間を無駄にするのはやめて、グローヴナー氏の提案を、みんながどう考えているか、票決にかけることにしようじゃないか。とにかく、一般の反応が知りたいと思うのだ」
かれは、ゆっくりと前に足を運んだ。グローヴナーには、かれの顔を見ることはできなかったが、おうへいな態度だった。ケントがいった。「手をあげてもらおう。グローヴナー案――つまり、さらに五年、宇宙にとどまるという案――この案に賛成の者は、手をあげてくれたまえ」
たった一人の手もあがらなかった。
一人の男が、不平そうにいった。「とっくり考えるために、もうすこし時間がほしいね」
ケントは、すこし間をおいて、それにこたえた。「聞こうとしているのは、いまのところの意見なんだ。この船の首脳クラスの科学者の考えを知ることが、たいせつなんだ」
かれは、言葉を切って、大声で叫んだ。「絶対反対の者、手をあげて!」
三人を除いて、全員の手があがった。すばやい一瞥《いちべつ》で、グローヴナーは、棄権した三人の顔を、はっきりと見定めた。カリタと、マッカンと、フォン・グロッセンだった。
遅れて気がついたのだが、ケントのそばに立っていたリース船長も、棄権していた。
グローヴナーは、急いで声をかけた。「リース大佐、いまこそ、本船に対するあなたの指揮権を発動すべき時だと、ぼくは信じます。危険が迫っていることは、明瞭じゃありませんか」
「グローヴナー君」と、リース大佐は、ゆっくりとした口調でいった。「目に見える敵がいるのなら、きみのいうとおりだろう。しかし、いまの場合、ぼくとしては専門家たちの意見によって、行動するしかないのだ」
「そんな資格のある専門家は、この船には一人しかいませんよ」と、グローヴナーは、ひややかにいってのけた。「後の連中は、ひとにぎりほどの素人《しろうと》が、物事のうわっつらをいじりまわしているにすぎませんよ」
この発言に、部屋に集まったたいていの人間は、あっけにとられたようだった。突然、数人が一度にしゃべりはじめた。それが、ぶつぶつという呟《つぶや》きにかわり、怒気をはらんだ沈黙がおりた。
やがて、慎重な口調で、しゃべり出したのはリース大佐だった。「グローヴナー君、そういう根拠のない主張は、受け入れることはできんね」
ケントが皮肉たっぷりにいった。「さて、諸君、どうやらこれで、ぼくらに対するグローヴナー君の腹蔵のない意見を、聞かせていただいたわけだね」
かれは、侮辱そのものには無関心なようすだった。その態度は、皮肉にすっかり悦に入っているといったふうだった。総監督代理として、会議の場に品位と節度を保たせる義務があるなどということは、すっかり忘れてしまっているようだった。
植物学者のミーダーが、むっとした声でくってかかった。「ケントさん、どうして、無礼な放言を許しておけるのか、わたしにはわかりませんね」
「そのとおりだ」と、グローヴナーはいった。「権利のために立ちあがるんだ。全宇宙が危殆《きたい》などないんだ。そんなことより、個人の尊厳は守らねばならん」
マッカンが、不安そうな口調で、はじめて発言した。「カリタ君、もし、グローヴナーのいうような知能生物が存在するとすれば、周期説にはどうあてはまるのだろう?」
考古学者は、悲しそうに首を左右に振った。「あまりうまくあてはまらないような気がしますね。一種の原始的な生命形態は仮定することはできるでしょうがね」かれは、部屋じゅうをぐるっと見まわして、「むしろわたしとしては、周期学説が、この席の友人たちの間で、現実となってあらわれていることのほうが、ひどく気にかかりますね。いままで数々の業績をあげたために、われわれすべてに、いささか不安の気を起こさせていた人物の敗北を見て、よろこぶ心理。またその人物の、突然の病的な自負心に満ちた言動」カリタは、残念そうに、グローヴナーの映像を見上げて、「グローヴナーさん、あなたがあんなことをいうなんて、ぼくは、ひどくがっかりさせられましたよ」
「カリタさん」と、グローヴナーは、まじめな口調でいった。「もし、ぼくが、こういう方法をとらなかったら、ここにいらっしゃるご立派な方々は――その中には、個人として尊敬している方もたくさんいらっしゃるのですが――いま、ぼくがお話しした、またこれからお話しようとしていることを、聞く機会さえも与えられなかったのですよ」
「わたしは信じているんですがね」と、カリタがいった。「この探険隊の隊員であるからには、必要なことなら、自分を犠牲にしても、やってのけるはずだと」
「ぼくには、それは信じられませんね」と、グローヴナーがいった。「たいていの方が、ぼくの案だと、もう五年間だけ、余分に宇宙にとどまっていなければならないという事実に、左右されていられるという気がするんです。正直にいって、これは苛酷な要求かもしれません。しかし、ほかに代案がないことだけは保証します」
かれは、ちょっと言葉を切って、「いや、ぼくもこんな結果になるんじゃないかと思って、それにそなえて準備もしておいた」全員に向かっていうように、自分にいい聞かせた。「みなさん、なんともいいようもないほど残念なことだが、ぼくがこういう行動をとるというのも、みなさんがぼくに強いたことなんです。以下が、ぼくの最終通告です」
「最終通告だと!」そういったのは、ケントだった。すっかり驚いて、いきなり顔がまっ青になっていた。
グローヴナーは、かれを黙殺して、「もし、明日の午前十時までに、ぼくの案を採用していただけぬ場合は、ぼくは本船を接収する。船内の全員は、好むと好まざるにかかわらず、ぼくの命令どおりに行動するということになるでしょう。当然、船内の科学者がその知識を結集して、ぼくが明言した目的を遂行するのを妨げようとすることは、覚悟の上です。だが、抵抗は無駄です」
つづいてはじまった大騒ぎは、グローヴナーが、司令室と自分の通話装置との間の接続を切ったときにも、まだつづいていた。
4
会議の後、一時間ほどして、グローヴナーは、マッカンから通話装置で呼び出された。
「ちょっとおじゃましたいんだがね」と、地質学者はいった。
グローヴナーは、陽気に、「どうぞ、どうぞ」といった。
マッカンは、なんとなく危《あや》ぶむような顔色だった。「もちろん、廊下には、|間抜けおどし《ブービー・トラップ》が仕掛けてあるんだろうね」
「う、うん、まあね。そういうことになるだろうね」と、グローヴナーは相槌《あいづち》を打った。「でも、あなたは心配しなくてもいいですよ」
「ぼくがきみを暗殺する、秘密の下心を持って出かけたとしたら、どうする?」
「この部屋では」グローヴナーは、盗聴者を予期して、ことさら自信ありげにいった。「棍棒《こんぼう》でだって、ぼくを殺すなんて、できやしませんよ」
マッカンは、しばらくためらってから、いった。「じゃ、すぐおうかがいする!」と、接続を切った。
かれは、ごく近くにいたのにちがいない。というのは、一分もしないうちに、廊下のあちこちに隠しておいた探知機が、マッカンが近づいて来るのを知らせはじめたからだ。やがて、かれの頭と両肩とが、通話装置の受像板をちらっと横切り、継電器《リレー》のスイッチがはいった。これは、自動式防御機構の一部だったので、グローヴナーは、手でこのスイッチを切っておいた。
数秒後、マッカンが、開けはなしたドアからやって来た。しきいのところで、ちょっと立ちどまってから、首を振り振り進んで来た。
「まったく、ひやひやものだったぜ、きみは保証してくれたけれども、武器が砲列をしいて、ぼくを狙っているような気がしてね。ところが、なに一つ見えないときているから、ますますいけないよ」かれは、グローヴナーの顔を、さぐるように見た。「まさか、こけおどしじゃないんだろうな?」
グローヴナーは、ゆっくりといった。「ぼくも、ちょっとひやひやしてますよ。ドナルド、あなたの誠実さに対するぼくの信頼がゆらいできましたよ。まさか、ここへ爆弾をかかえて、あなたがはいって来ようとは、正直夢にも思っていませんでしたよ」
マッカンは、ぽかんとした顔になった。「なんだって、とんでもない。きみの計器にそんなことが出てるなんて――」かれは、口をつぐむと、上着をぬぎすてて、体を調べはじめた。とつぜん、動きが鈍くなった。長さ二インチほどのウェファーほどの、うすい灰色の物をとり出した。マッカンの顔は、まっ青になっていた。「なんだろう、こいつは?」と、かれはたずねた。
「プルトニウムの安定性合金ですよ」
「原子兵器じゃないか!」
「いや、そのままでは放射能はありません。だが、高周波送信機からの電波を受けると、溶解して、放射性の気体になります。おそらく二人とも、そのガスで、放射能の火傷《やけど》は受けるでしょうな」
「グローヴ、誓ってもいいが、ぼくは、こんな物のことは、全然知らなかったんだ」
「ここへ来ることを、誰かに話しましたか?」
「むろんだよ。この一画は、完全に遮断されてるからね」
「というと、許可をとらなけりゃならなかった、ということですね」
「そう、ケントのね」
グローヴナーは、しばらくためらっていてから、いった。「そのことを、しっかり考えてみてください。ケントとお会いになっている最中に、部屋が暑いような感じがしませんでしたか?」
「う、うん、そうだ。思い出したぞ。いまにも息がつまりそうな気がしたな」
「どれくらいの間、つづきましたか?」
「一秒かそこらだ」
「ふうん、ということは、おそらく十分ぐらい、気を失っていたということですね」
「気を失っていたって?」マッカンは、険悪な顔をして、「そうか、ちきしょう。あのちびのやつ、麻酔をかけたんだな、ぼくに」
「どれくらいの量を使ったかは、たぶん、確かにわかるでしょう」グローヴナーは、落ちついていった。「血液検査をやればね」
「やってもらおうじゃないか。そうすればはっきりと――」
グローヴナーは、首を振って、「そうしたところで、あなたがそうした経験をされたという、証明にだけはなるでしょうが、自分から進んで受けなかったという、証明にはなりませんね。それより正気の人間なら、自分のいるところでプルトニウムの合金PUA72などという、ぶっそうなものを溶解させるはずがないという事実のほうが、ぼくにははるかに得心のいく証拠になりますね。ぼくの自動中和装置の動き具合から見ると、かれらは、すくなくとも、もう一分ぐらいの間というもの、その合金を溶かしにかかっていたようです」
マッカンは、すっかり青ざめた顔になって、「グローヴ、ぼくはもう、あのはげたか野郎とは手を切る。正直にいえば、ぼくもいままでは、どちらについていいか迷っていたし、きみとの話の結果を、やつに報告することも承知した――だが、そういう報告を、やむをえずしなければならんということは、きみにことわっておくつもりだったのだ」
グローヴナーは、にっこり笑いを浮かべて、「よろしい、ドン。きみを信じるよ。まあ、すわろうじゃないか」
「こいつは、どうしよう?」と、マッカンは、小さな金属の『爆弾』をさし出した。
グローヴナーは、それを受けとって、放射能物質専用の小さな貯蔵庫へ持って行った。もどって来ると、椅子に腰をおろして、いった。「いまに、攻撃をかけてくるでしょうね。ケントがほかの連中に、自分は正当なことをやったのだということのできる、たった一つの方法といえば、手遅れにならぬうちにぼくらを救い出して、放射能火傷の手当てをするということですよ」
そこまでいって、グローヴナーは、こう結んだ。「とにかく、そのスクリーンを見ていれば、見物ができますよ」
攻撃はまず、光電管のような型をした、数個の電気探知機にあらわれた。かすかな光が、壁にとりつけた計器盤につぎつぎにまたたいて、ブザーが鳴った。
やがて、計器盤の上の、大型受像板に攻撃隊の姿が見えた。宇宙服の一ダース以上の男が、遠い廊下の角をまがって、こちらに近づいて来た。グローヴナーは、その顔ぶれを見わけた。フォン・グロッセンと、物理学部のフォン・グロッセンの助手が二人、化学部員が四人、そのうちの二人は、生化学科の人間だ。グーレイの部下の通信部の専門家が三人、それから武器係の士官が二人、しんがりには三人の兵員が、自走式の震動波砲、おなじく自走式の熱線砲、それに大型のガス爆弾発射器に、それぞれ乗っていた。
マッカンは、不安そうにもじもじしていた。「ここには、ほかに入口はないんだろうね?」
グローヴナーはうなずいて、「ちゃんと、防備しておきましたよ」
「上と下はどうなってるんだね?」マッカンは、天井と床を指で示した。
「上は倉庫で、下は映画劇場、どちらも手を打っておきました」
二人は、黙りこんだ。やがて、廊下の集団がとまったのを見て、マッカンが口を開いた。「フォン・グロッセンがあの仲間にいるとは、驚いたな。きみをほめていると思っているのにね」
グローヴナーがいった。「ぼくが、かれらのほかの連中を素人《しろうと》呼ばわりしたのが、かちんときたのでしょう。ぼくの手のうちを、自分の目で見ようと思って来たのじゃないんですか」
廊下では、攻撃隊が何か相談しているようすだった。グローヴナーは、言葉をつづけて、「ところであなたがここへおいでになったのは、どういう用向きで?」
マッカンは、画面を見つめながらいった。「きみが孤立無援じゃないことを知らせたかったのさ。数人の幹部級に、きみの味方だということを、きみに知らせてくれと頼まれたのさ」取り乱したようすで、口をつぐんだ。「いまは、そんな話どころじゃない。そんなことは後まわしだ」
「いや、いまだって、けっこうですよ」
マッカンには、耳にはいらないようすだった。「あいつらを、どうやって食いとめるのか、ぼくにはわからん」と、不安そうにいった。「この壁を焼き切るだけの、強力なものを持って来てるんだぜ」
グローヴナーが、なにもこたえないので、マッカンは、向きなおって、「率直にいうがね」といった。「ぼくは、まだ迷っているんだ。たしかに、きみの方が正しいという気がする。しかし、きみの戦術は、道義に反しすぎるように、ぼくには思えるんだ」スクリーンから目を離してしまったことには、気がついていないようすだった。
グローヴナーがいった。「可能な戦術は、もう一つだけしかありません。それは、ケントに対抗して、選挙に立候補することです。いまのところ、ケントは、ただの総監督代理にすぎないのですし、みなに選出されたわけでもないのです。たぶん、一か月以内に、選挙をやるよう仕向けることはできるでしょう」
「なぜ、そうしないんだ?」
「それはね」と、ぞっとしたように、グローヴナーはいった。「こわいからですよ。あの生き物――空の向こうにいるやつは――ほとんど死ぬほど腹をへらしているんです。いつなんどき、他の銀河系に向けて、手を伸ばさないものでもないし、それは、われわれの銀河系かもしれないのです。とても、一か月など待っていられないんです」
「しかし」と、マッカンは、相手の急所をつくように、いった。「きみの案は、そいつを、この銀河系から追い出そうということで、それには、まるまる一年かかるといったじゃないか」
「肉食動物から餌《えさ》をとりあげようとしたことがありますか?」と、グローヴナーがたずねた。「相手は、その餌にしがみつくもんじゃありませんか? とられまいとして、必死に戦いさえもするもんです。ぼくの考えでは、敵は、ぼくらがやつを狩り出そうとしていることに気づいたら、敵は、手の中にある餌に、いつまでもしがみついているだろうと思うのです」
「なるほど」と、マッカンはうなずいた。「いまのきみの政策で、選挙に勝つ見込みは、まずゼロに近いと認めざるをえないからなんだね」
グローヴナーは、はげしく首を左右に振って、「いや、ぼくは勝つ。むろん、そういっても信じてはもらえないでしょうがね。しかし、事実、快楽や、興奮や、野心などに夢中になっている人間というものは、簡単に動かせるものなんです。ぼくの用いている戦術は、べつに、ぼくが考え出したものではないんです。何世紀も前からあったものなんです。しかし、歴史的にそれを分析しようとする企てはあっても、その方法の根源には手がとどいていなかったのです。ごく最近まで、生理学と心理学の関連性は、ただ理論的に考えられていただけでした。情報総合学の訓練は、それをはっきりした技術に変えてしまったのです」
マッカンは、無言のまま、じっと相手を見つめていたが、やがて、いった。「きみは、人類の将来をどう見ているんだ? われわれすべてが、情報総合学者になると思っているのか?」
「この船の上では、それは必要なことです。人類全体としては、まだ実際に役には立たないでしょう。けれども、早晩、どんな人間でも、自分が知ることのできる事柄を、知らずにすませるなどといういいわけは、許されなくなるでしょう。なぜ、知ろうとしないのか? なぜ、自分の住む世界の空の下に立って、迷信と無知にあふれた、まの抜けた目で、その空を見上げてだけいて、生死にかかわる大事を、他人の感情をもとにして決めたりするのか? 人間が、盲目的にその場の状況に引きずられた行動をしたり、権威主義にたよったりした場合に、人類の子孫がどうなったかは、ついえ去った地球の古代の諸文明が、よくそれを実証しているじゃありませんか」
かれは、肩をすぼめて、「いまのところは、もっとずっと小さい目標ですみます。まず、人間を懐疑的にしなければなりません。具体的な証拠を見せられないと納得しない、無学のくせに、ずるがしこい農民――これが科学者の精神的祖先です。あらゆる理解の面で、懐疑主義者というものは、『まず証明してみろ! おれは、わだかまりのない心を持ってはいるが、きみのいうことだけでは納得しかねる』という態度で、専門的な知識の不足を、ある程度までは補っているものなのです」
マッカンは、じっと考えにふけっていた。「きみたち情報総合学者は、周期学説的な歴史のパターンを打破しようとしている、ね、きみの胸にあるのは、それなんだね?」
グローヴナーは、しばらくためらっていてから、いった。「正直にいって、ぼくはカリタさんに会うまでは、あの理論の重要性は、それほど意識していませんでした。しかし、カリタさんのおかげで強い感銘を与えられました。もちろん、あの理論にも、修正の余地は相当にあると思います。『種族』とか『血統』とか、そういった言葉は、とりわけ無意味ですが、全体としてのパターンは、事実によく適合しているという気がしますね」
マッカンは、その話の間に、攻撃隊の方に注意をもどしていた。が、とまどったような顔で、いった。「連中は、しかけるのに、ひどく手間どっているようじゃないか。ここまで来る前に、計画は立てていたんだろうがね」
グローヴナーは、なんにもいわなかった。マッカンは、ちらっと、鋭くグローヴナーの顔を見て、「待てよ」といった。「まさか、きみのしかけた防御網にひっかかっているんじゃないだろうね?」
それでもまだグローヴナーが返辞をしなかったので、マッカンは立ちあがって、受像板に近づいて、ぴったり画像が見えるところで、じっとのぞき込んだ。かれは、画面の中の、廊下に膝《ひざ》をついた二人の男を、じっと見つめていた。
「だが、あの二人は、いったい何をしているんだろう?」と、マッカンは、たよりなげにたずねた。「何が、あの連中をとめているんだね?」
グローヴナーは、しばらくためらっていたが、しばらくして説明して聞かせた。「床をぬけて落ちそうになっているんで、必死に落ちないようにしているんですよ」平静でいようと努力はしていたが、興奮で、グローヴナーの声は震えた。
かれがいま仕掛けたことは、かれにとっても新しいことだということを、ほかの連中たちは気づいていなかった。もちろん、ずっと以前から、その知識は持っていたことではあった。しかし、これは、実地に応用したことだった。これまで、これとまったく同じような方法は、どこでも、一度も用いられたことはなかったのだ。数多い科学分野のいろいろな現象を、自分の目的と、現実の環境条件に正確にあてはまるように、加減して利用したのだ。
うまくいった――予想したとおりだった。かれの理解力は、実に鋭いものであり、とても幅広い基盤の上に立っていたので、失敗の起こる余地はほとんど残されていなかったのだ。
しかしながら、それだけの知識を、かれが前から持っていたにもかかわらず、目の前に起こった現実は、かれの胸を躍らせずにはおかなかった。
マッカンは、もどって来て、ふたたび、かれのかたわらに腰をおろした。「ほんとうに、床がつぶれるのか?」
グローヴナーは、首を左右に振って、「あなたには、よくわかっていないようですね。床には変化がないのです。かれらのほうが、床の中に沈んで行くのです。もうすこし前へ進んでいたら、抜け落ちてしまっているでしょう」と、突然、陽気に声を立てて笑った。「この現象を、助手から聞かされたときのグーレイの顔を、よく見てやりたいもんだな。これが、あの人のいう『風船式』超空間の遠距離瞬間運搬法なんですよ。それに油田地質学のアイデアを一つと、農芸化学の技術を二つ、つけ加えてみたんです」
「油田地質学というと?」と、マッカンはいいかけて、口をつぐんだ。「なるほど、そうか。驚いたね。つまり、最近の掘削をせずに採油する方法のことだね。近くの原油がいやでも集まってくるような条件を、地表に作り出すというやつだね」眉を寄せて、「だが、待てよ。あれには一つ条件がある――」
「条件なら一ダースじゃききませんよ」と、グローヴナーはいった。が、真剣な口調になって、後をつづけた。「繰り返しておきますが、これは、ほんの実験なんです。至近距離のおかげで、ごく小さな動力で、いろいろなことがうまくゆくんですよ」
マッカンがいった。「どうして、あの化け猫や緋色の怪獣のときに、こういう手をちょっと使わなかったのだね?」
「いまいったじゃありませんか。今度の事態は、ぼくが急ごしらえに作りあげたって。いく晩もいく晩も、夜の目も寝ずに働いて、とりつけた設備で、あの外敵を相手にしたときには、こんなことをする機会は全然与えられなかったんです。ぼくを信じていただきたいんですが、もし、ぼくがこの船の支配を握っていたら、いずれの化け物の場合でも、あれほど多くの人命を失わずにすんだでしょう」
「なぜ、船の支配を手中におさめなかったんだね?」
「手遅れだったのです。時間の余裕がなかったのです。それに、この船は、情報総合科学財団ができる数年前に、建造されていました。むしろ、一つの部として参加できただけでも、幸運だったのです」
しばらくして、マッカンがいった。「明日、きみはこの船を接収するというが、どうやって接収するのか、ぼくにはわからんね。そのためには、この研究室から出なくちゃならないんだからね」かれは、口をつぐんで、じっと受像板を見つめていてから、息を殺していった。「反重力|筏《いかだ》を持ち出したぞ。床の上を浮かんだままで来るつもりだ」
グローヴナーは、返辞をしなかった。もうすでに、かれはそのようすを、受像板上で見ていたのだった。
5
反重力筏は、反加速動力と同じ原理で、操縦されていた。物体の慣性が破られたとき、その物体内に起こる反応は、研究の結果、分子的な経過を経て生じるものではあるが、物質の構造に固有のものではないということが判明した。反加速度の場は、電子の軌道を、ごくわずか変化させる作用を持っている。その結果、分子は張力を起こし、わずかではあるが、全面的な分子の再配列が行なわれるのである。
こうして変化した物質は、加速や減速による通常の影響を全然受けつけなくなる。反加速度動力で飛行している宇宙船は、たとえ毎秒何百万マイルという速度で飛行していても、その進行のさなかに急停止することができるのである。
グローヴナーの部屋を攻撃に来た連中は、ただ、この細長い筏の上に武器を乗せ、自分たちも乗り込んでから、適当に場の強さを起こしただけのことだった。あとは、磁気の吸引力を利用して、二百フィートほど離れた、開けはなったままの戸口の方へと、筏を進ませたのだった。
五十フィートほど進むと、そこで速力が落ち、やがて完全に停止したかと思うと、今度は後退をはじめた。と思うと、ふたたび停止してしまった。
計器盤の前でいそがしく働いていたグローヴナーは、席にもどって、どうしていいかわからないといった顔つきのマッカンのかたわらに、腰をおろした。
地質学者がたずねた。「いったい、何をしていたんだ?」
グローヴナーは、ためらわずにこたえた。「ごらんのとおり、連中は、前方の鋼鉄の壁に、指向性のマグネットを向けて、筏を前進させたのですが、ぼくはそれに対して反発磁場を発生させたというわけで、べつにそれ自体には新しいものは何もないんです。しかし、今度これに使ってみたのは、熱物理学というより、あなたやぼくなどが体温維持に使っている方法に関連の深い、温度操作の一部なんです。こうなると、連中は、ジェット推進にたよるか、それとも普通のプロペラか、それとも、いっそ」――かれは、声を立てて笑って――「オールでも使うかな」
視線をじっと受像板に向けていたマッカンが、けわしい声でいった。「連中は、くよくよしていないようだぞ。今度は、熱線砲をぶっぱなすつもりだ。ドアをしめた方がいいぞ!」
「お待ちなさい!」
マッカンは、ごくっと唾《つば》をのみこんだ。「だが、熱がここまではいって来るじゃないか。丸焼きにされっちまうぞ」
グローヴナーは、首を左右に振って、「いまいったでしょう。わたしが使ったのは、温度に関係した方法だって。新しいエネルギーを与えると、周囲の金属がすべて、それよりすこし低いレベルで平衡を保とうとするんです。ほら――ごらんなさい」
移動式熱線砲が、みるみるまっ白になっていった。マッカンは、そのまっ白になったのを見て、小声で何かいっていたが、「霜だ」とつぶやいた。「だが、どうして……」
二人が見守るうちに、壁と床に、氷が張りはじめた。熱線砲は、凍りついた台座の上で、きらきらと光り、ひやっとするような、つめたい風がドアから吹きこんできた。マッカンは身震いをした。
「温度か」とかれはぼんやりといった。「低いレベルでの平衡か」
グローヴナーは、立ちあがった。「連中は、もう家に帰ってもいいころだろう。なんといっても、あまりいろんな目に会わせたくないからな」
かれは、講習室の一方の壁ぎわに備えつけてある装置の前に歩み寄ると、こぢんまりとまとまった鍵盤の前に腰をおろした。キイは小さなもので、みんなちがった色に塗りわけてあり、一列に二十五、それが二十五列並んでいた。
マッカンもそばへ寄って来て、じろじろと装置を見おろして、「なんだね、これは?」とたずねた。「この前には、見なかったようだが」
グローヴナーは、すばやい、流れるような、ほとんど行きあたりばったりのような動作で、七つのキイを押し、それから手を伸ばして、親スイッチに触れた。澄んだ、しかも物やわらかな音楽的な調べがひびいた。そのさまざまな、振動数の多い上音が、それよりも振動数のすくない基音が消えてしまった数秒後までも、空中にただよっているようだった。
グローヴナーは、鍵盤から目を上げて、「いまのをお聞きになって、どんな連想がおきましたか?」
マッカンは、なんとこたえようかとためらっているようすで、その顔には奇妙な表情が浮かんでいた。「教会でオルガンが鳴っている情景が浮かんだ。それが変わると、どこかの政治集会にいた。候補者がみんなを元気づけようと、テンポの早い、威勢のいい音楽をやっていた」かれは、言葉を切って、息を殺していた。「そうか、選挙に勝つことができると、きみがいうのは、これなんだね」
「いくつかある手のうちの一つですよ」
マッカンは、全身これ緊張というようすで、「きみ、なんておそろしい力を、きみは持ってるんだ」
グローヴナーはいった。「しかし、ぼくを感動させないんですよ」
「しかし、きみは心理訓練《コンディショニング》を受けているからね。だが、全人類に心理訓練をほどこすわけにはいくまい」
「赤ん坊が、歩いたり、腕を動かしたり、しゃべったりすることをおぼえるのも、心理訓練ですよ。それなら、なぜその訓練を、催眠術や、肉体反応や、食餌の効果にまで拡大しないのですか? そんなことは、何百年も前から、行なわれていたことです。多くの病気や、心痛や、その人みずからの肉体や精神についての誤解から生まれる災厄を、それによって防ぐことができるのです」
マッカンは、その場に据《す》えつけられた、紡錘形《ぼうすいけい》の装置の方に、視線をもどして、「これは、どんな働きをするものなのかね?」
「電気回路にクリスタルを配列したものです。電流がある種のクリスタルの構造に歪《ひず》みを起こさせることは、ご存じでしょう。そこに、あるパターンを組み立てると、超音波が発生し、これが耳を素通りして、直接、脳を刺激するわけです。ちょうど、音楽家が楽器を演奏するのと同じで、これを操作することで、訓練を受けていない人間には抵抗できないほど、深いところを刺激する情緒のあるムードを作り出すことができるというわけです」
マッカンは、自分の椅子にもどって、腰をおろした。かれは、突然、蒼白《そうはく》な顔色になって、「きみは、ぼくをぎょっとさせるね」と、低い声でいった。「反道義的だよ。そう思わないではいられないね」
グローヴナーは、じっと相手の顔を見つめていた。それから、向きなおって、背を丸めて、装置を調節し、ボタンを押した。今度の音は、悲しげで、甘い、飽き飽きして胸につかえるような気のするたちのものだった。音そのものが消えてしまった後までも、あたりの空気の中に、終わることのない震動が、ひびきつづけているようだった。「今度は、なにを感じましたか?」
マッカンは、またしばらくためらっていてから、不安そうにいった。「母のことを考えたよ。急に故郷に帰りたくなった。ぼくは、どうしても――」
グローヴナーは眉をひそめて、「それは、危険すぎるな」といった。「あまり度を超すと、胎児のような格好に、身をまるめる者が出てくるかもしれない」かれは、しばらく間をおいて、「じゃ、これはどうですか?」
手早く、かれは、新しいパターンに変え、スイッチを入れた。鐘のような音がひびき、遠くの効果音に、かすかな、かすかな、鈴をならすような音が流れた。
「赤ん坊になったみたいだ」と、マッカンがいった。「お休みをいう時間だった。ああ、ねむたいな」マッカンは、途中から現在形でしゃべっているのにも気がつかないようすだった。
グローヴナーは、機械のそばのテーブルの引出しをあけて、プラスチック製のヘルメットを二つとり出した。その一つをマッカンに渡して、「これをかぶった方がいいでしょう」
グローヴナーが、残った一つをかぶるのを見て、相手も不承不承に、同じようにかぶった。マッカンは、陰気な調子でいった。「ぼくはどうも、マキャベリ主義者には向いてないようだな。きみは、これまでにも、あのわけのわからん音を使って、人の感情を動かしたもんだと、いいたいんだろう」
指向性ダイヤルを仕組むのにかかっていたグローヴナーは、手をとめて、真剣にこたえた。「人々が、ある物事を、道義にかなっているとか、道義に反しているとか考えるのは、たまたまその場で心に浮かんだ連想や、問題を回顧的に考えることに、左右されていることが多いのです。といっても、妥当性のある倫理体系がないという意味じゃありません。ただ、ぼくの個人的な心情をいえば、ぼくの倫理の尺度は、最大多数の利益ということに重点をおいています。ただし、それには、多数に同調しない人々を絶滅しようとしたり、迫害したり、権利を剥奪《はくだつ》したりしないかぎりという条件がつきます。社会は、病気や無知の人間を救済することを学ばなければいけません」
かれの口調は、熱を帯びてきた。「ぼくがこういうしかけを、これまでに一度も使ったことがないことだけは、どうかおぼえておいてください。催眠法も、ケントがぼくの部局を侵略して来たときのほかには、使ったこともありませんでした――むろん、今度は使うつもりですがね。ぼくにその考えがあれば、この旅がはじまった時から、人に怪しまれないように一ダースもの方法で、人々を刺激して、この部屋におびき寄せることもできたのです。だが、どうしてそうしなかったか? それは、情報総合学財団が、財団自身と全卒業生に、独自の倫理規定を設けて、これを守らせているからです。この倫理規定は、心理訓練によって、ぼくの五体にも叩きこまれているのです。それを破ろうと思えば破れないこともないのですが、ただおそろしい困難がともなうのです」
「きみは、いま、それを破っているのか?」
「いいえ」
「とすると、かなり融通のきく規定らしいね」
「まさにその通りです。たとえば、いまのぼくがそうであるように、自分の行為が正しいと確信を抱いているかぎり、内心のいらだちを感じたり、感情的な問題に悩まされたりすることはありません」
マッカンは、沈黙を守っていた。グローヴナーは先をつづけた。「たぶん、あなたは、独裁者――つまり、ぼく自身――が、力ずくで、民主主義を手に入れようとしていると、ひそかに胸の中で考えておいでなんでしょう。その想像はまちがっています。というのは、航行中の宇宙船は、民主主義に準じた方法によってしか、運営ができないからです。そして、何よりも大きな相違は、探険行が終わると同時に、ぼくが責任を問われるということです」
マッカンは、ため息をついて、「きみのいうとおりだろうな」といった。かれは、ちらっと目を受像板に走らせた。グローヴナーも、かれの視線の後を追うと、宇宙服姿の男たちが、手で壁を押しながら前進しようとしているのが、目にはいった。かれらの手は、すぐ壁の中にもぐってしまおうとするのだったが、いくらかは、それに抵抗していた。そして、のろのろと前進していた。マッカンが、また話しかけた。「今度は、どうするつもりだね?」
「連中に眠ってもらうことにしよう――こうやって」かれは作動スイッチを押した。
鐘の音は、前の音よりは大きくはないような気がした。が、廊下にいた男たちは、ぐったりと倒れてしまった。
グローヴナーは立ちあがって、「これは、十分ごとに繰り返すようになっています。それに、この音波を受けて反響するように、船内のあっちこっちに共鳴装置がとりつけてあります。じゃ、行きましょう」
「どこへ行くんだ?」
「船の親スイッチに、回路遮断器《サーキット・ブレーカー》をとりつけたいんです」
かれは、映画スタジオから、回路遮断器を持ち出してきた。すぐ先に立って廊下へ出て行った。
いたるところ、二人が通って行く途中では、人々が横になって眠っていた。はじめのうち、マッカンは、大きく驚きの声をあげていたが、しばらくするうちに、黙りこんでしまって、何か苦にしているような顔色になった。ようやく、かれは口を開いた。「人間が、元来、こうもたよりないものだとは、信じられないほどだな」
グローヴナーは、首を左右に振って、「あなたの考えている以上に、もっとひどいものですよ」
二人は、機関室にはいり、グローヴナーは、配電盤の低い方の階段によじのぼった。回路遮断器のとりつけには、十分もかからなかった。かれは、黙って降りて来た。かれは、何をしたのか、何をするつもりだったのか、後になっても、ひと言の説明もしなかった。
「このことは、しゃべらないでおいてくださいよ」と、かれは、マッカンにいった。「もし、連中に見つかると、また降りて来て、別のをとりつけなくちゃなりませんからね」
「もう、みんなを起こすつもりなんだね?」
「そうです、部屋にもどりしだい、すぐね。だが、まず、フォン・グロッセンたちを、寝室まで運ぶのに手をかしてください。目がさめたとき、すこしうんざりさせてやりたいんです」
「連中が屈服するとおもっているんだね?」
「いいや」
グローヴナーの見込みは、正しかった。そこでつぎの日の十時に、かれはスイッチを入れ、親スイッチの流れる電流が、きのう取りつけた回路遮断器を通るようにした。
船内のいたるところで、つけっぱなしになっていた照明が、いっせいにかすかにまたたきはじめた。これはリーム人が使った催眠パターンを、情報総合科学流に手加減したものだった。たちまち、船内の全員が、それとは知らずに、深い催眠状態におちいっていた。
グローヴナーは、例の情緒調節装置を演奏しはじめた。まず勇気と犠牲的精神をそそり、危険に面した人類に対する義務を強調した。さらに、時間がそれまでの二倍から三倍も早く、たってゆくような錯覚が起こるように、複雑な情緒パターンを流した。
こうして基礎を作りあげた上で、船内の通話装置を通じて『総員呼集』用のスイッチを入れ、はっきりした命令を与えた。ひととおり指示を与えてから、全員に対して、めいめいが合図の言葉を耳にしたら、即座に反応するように教えた。しかし、その合図の言葉が何であったかは知らされもしなかったし、また指示がおわった後では記憶にも残らないように、つけ加えて教えた。
それから、この催眠状態の間に起こったことは、全部思い出すことがないように、記憶を消した。
かれは、機関室へ降りて行って、回路遮断器を取りはずした。
自室にもどると、全員に目をさまさせ、ケントを呼び出して、いった。「最後通告は、撤回します。降伏する用意もできています。とても自分一人で、ほかの人たちの意志にさからうことはできないと、急に気がついたのです。今度は出席しますから、もう一度会議を開いていただけないでしょうか。もちろん、この銀河系に住む知能生物に対する全面抗戦は、その席でももう一度主張するつもりでおります」
グローヴナーは、べつにびっくりもしなかったが、船の幹部連は、奇妙なことに全員一致して態度を一変し、熟慮の結果、危険の迫っている証拠が明らかだということを認めた。
ケント総監督代理は、乗組員の楽しみなどいっさい無視して、容赦なく敵を追いつめなければならぬという決議が行なわれた。
催眠にかけるときも、個人の一般的な性格にはなんの干渉もしなかったグローヴナーは、ケント自身、その作戦遂行の動議に、しぶしぶ同意するのを見て、ひそかに苦笑いをもらした。
こうして、人類と異星生物の間の最大の戦いは、まもなくはじまろうとしていた。
6
アナビスは、第二銀河系のすべての空間に充満しながら、膨大で、膨《ふく》れあがった、形のない状態で生きていた。それは、二千億もある灼熱《しゃくねつ》の恒星の、破壊せずにはおかない高熱と放射能を避けようとして、自動的な調節作用で身を縮めながら、数え切れないほどの体の部分を、小さく、弱々しく、ねじまげ、もだえ苦しんでいた。だが、アナビスは、無数の惑星をしっかりと押さえつけた手を、けっしてゆるめようとはしなかった。その手の下で、アナビスに生命を与える生物たちが死んでゆくのだった。こうして生物たちは、数え切れないほど数多くのひりひりと疼《うず》く点となって、熱病やみのような、飽くことのない飢餓感《きがかん》をいっそうつのらせるのだった。
餌が足りないのだった。目の前にさしせまった餓死の怖ろしい予感が、全身のはるか遠いすみずみまで、しみわたっていった。数え切れないほど多くの、微細な細胞を通して、あるいは近くから、あるいは遠くから、餌が足りぬという訴えが伝えられてきた。いまでは、もう長いこと、どの細胞も乏しい食餌でがまんをしていたのだった。
徐々にではあったが、アナビスには、自分の体が大きくなりすぎた――いや、あるいは小さすぎるのだ――ということに、気がついてきたのだった。初期の間、あんなにはめをはずして成長をつづけたことが、致命的な思い違いだったのだ。あのころは、未来は限界のないもののような気がした。この銀河系宇宙空間こそは、どれだけ体が大きくなっても、増大しても、果てしなく受け入れてくれるように見えたものだった。こうして、巨大な運命の意識に目ざめたこの下等生物は、おごり高ぶった歓喜に酔いながら、ひたすらに膨れあがっていったのである。
たしかに、かつてのアナビスは、下等生物だった。おぼろげなはじめは、靄《もや》におおわれた沼地から立ちのぼるガスにすぎなかった。匂《にお》いもなければ、味もない、色さえもないガスだったが、そこにとつぜん、なんとなく、どうしたわけか、ある力強い結合が起こったのだ。そして、そこに生命が生まれたのだ。
はじめは、ぷっと吹き出した目には見えぬ靄のほか、なんでもないものだった。そして、それを生み出した、むし暑い泥だらけの水面を、はげしく飛びまわっていた。身をよじったり、水の中にもぐったり、絶え間なく何かを追いかけながら、ますます増してゆく敏捷さと、ますますふくらんでゆく欲望とで、なにかが――どんなものでも――殺される現場に居合わせようと、夢中になっていた。
というのも、ほかのものの死が、アナビスの生命の糧《かて》なのだった。
アナビスは、そんなことを知るわけもなかったが、アナビスがいつまでも生き延びる過程は、自然界の生命の化学が生んだ、もっとも複雑なものの一つだったのである。アナビスの関心は、知識ではなくて、快楽と興奮だけであった。たとえば、二匹の昆虫が、ぶんぶんとうなりながら、狂暴な死の闘争をまじえているとき、アナビスは口につくせぬほどの歓喜を感じて、それらの昆虫の上に飛びかかり、かれらを包みこみ、そして気体原子の一つ一つを震わせながら、待っていたのだ。というのも、戦いに負けた方の生命力がほとばしって、アナビス自身の実体のない生命の要素に、ひりひりとうずくような刺激を与えてくれるからだった。
こうして、ただあてもなく餌をあさるだけが、その生命のすべてであったときが、果てもなくつづいていった。そして、その世界は、狭い沼地であり、灰色の、もうろうたる環境の中で、活気のある、牧歌的な、ほとんど思考のない生活に満足して、生きつづけていた。しかし、その強い太陽の光の満ちあふれた範囲の中でさえも、アナビスは、それとは目に見えぬほどに、だんだん大きく大きくなって行った。より多くの餌が必要になり、死にかけた昆虫を、運まかせにさがす程度では、とても足りなくなった。
そして、アナビスは、狡知を身につけていった。それは、じめじめした沼地に生きるのに適した、特殊の知識の断片だった。どの昆虫が餌食をとらえるか、どの昆虫が餌食なのかということをおぼえた。あらゆる種類の虫が、餌をとりに出かける時間もおぼえたし、小さな、空を飛べない怪物が、どこで待ち伏せするかということも――空を飛びまわる虫は跡をつけにくいということも、おぼえた。だが――やがて、アナビスは発見したのだが――こういう虫どもにも、かれらだけの食事の習性があった。そしてついに、自分の気体のような体を、そよ風のように使って、怪しむことを知らない生贄《いけにえ》を、死の場所へ吹きつけることを身につけた。
こうして餌の供給は十分になり、やがて、ありあまるほどになった。アナビスは、生長して大きくなり、またもや飢えがやってきた。必然的に、沼地のかなたにも生き物がいることに、アナビスは気がつくことになった。そして、ある日、思い切って、これまでよりずっと遠くへ出かけたとき、アナビスは、二頭の巨大な、鱗《うろこ》で身を固めた野獣が、血まみれの死闘の最高潮に達しているのにぶつかった。やがて、敗れた怪物の生命力が、アナビスの五臓六腑をめぐりはじめたときの、いつまでもつづくスリル、そのすばらしいエネルギーの量は、生まれてこの方、身におぼえのないほどの大きな恍惚感を与えてくれた。それから二、三時間、勝者がもだえ苦しむ敗者を食いつくすうちに、アナビスの体は、十億倍の大きさに生長してしまった。
それにつづくわずか一昼夜の間に、この流動する密林の世界は、すっかり押し包まれてしまった。あらゆる海という海、あらゆる陸地という陸地に、アナビスは満ちあふれてしまい、永遠にたちこめる雲層が、さえぎるもののない日光に席をゆずる高い空までひろがった。のちに、知能を持つ日が来たとき、アナビスは、そのとき何が起こったかを判断して知ることができた。体が大きさを増すたびに、アナビスは、周囲の大気からある種の気体を吸収した。それを成しとげるためには、一つではなく、二つの自然力がぜひとも必要だった。まず餌であったが、アナビスは、それを求めてさがさなければならなかった。次は太陽光線がもたらす紫外線の自然作用だった。大気層のはるか下にある、水蒸気の多い沼地では、必要な紫外線もごくわずかの量しか降りそそいでは来なかった。したがって、その結果起こる成長作用も、それに相当して小さな、ごく局地的なもので、せいぜいこの惑星を包む程度にすぎなかった。
靄の中から、空へ向かってふくらんでゆくと同時に、アナビスは、受ける紫外線の量もますます多くなっていった。こうしてはじまった活気のある膨張は、無限に永い時代の間、その活気を失うということがなかった。二日目には、早くも隣の惑星に達していた。こうして、ついに銀河系のぎりぎりの範囲のところまで広がった。そして、その向こうに光り輝く他の星空に向かって、自動的に伸びあがった。しかし、その巨大な距離にさえぎられて、アナビスのか弱い触手には、何者もつかむことさえもできなかった。
アナビスは、餌とともに知識を吸収した。そして、最初のころは、アナビスは、その思考を自分自身のものだと信じこんでいた。が、しだいに、死の現場に立ち会うごとに吸収する神経の電気エネルギーが、それといっしょに、勝利を得た方の野獣と、死んでゆく方の野獣の、そのどちらの精神の中身をも、自分に運びこむのだと、気がつくようになった。しばらくの間、これがアナビスの思考のレベルだった。こうして、アナビスは、多くの食肉生物の動物的狡知と、狩り立てられて逃走するものの巧妙さを身につけた。しかし、あちらこちらの、自分の生きつづけているのとはちがう惑星で、アナビスは、まったく程度のちがった知能と接触を持つようになった――ものを考えることのできる生物、文明や、科学などに行きあたったのだ。
それから、アナビスは、さまざまのことを学んだ。その中には、体の構成分子を一点に集中することで、空間に穴を開け、それをくぐって、遠く離れた地点にあらわれることができる方法もあった。この方法で、物質を運ぶことを知り、当然の帰結として、惑星を密林化することをはじめた。原始の世界が、いちばん多量に生命力を与えてくれるからだった。アナビスは、ほかの密林の世界の外皮を大きく剥ぎ取って、超空間を通して、新たな惑星に運んだ。冷却した惑星を、太陽の近くまで投げ飛ばした。
だが、それでも餌は足りなかった。
力に満ち満ちた日々は、一瞬にしかすぎないような気がした。餌をとるたびに、アナビスは、さらに巨大になっていった。その巨大な知能にもかかわらず、アナビスは、どうにも満ち足りた平衡を保つことができなかった。怖ろしい恐怖に胸をしめつけられながら、遠くないうちに、破滅の日が来るのを、アナビスは予見していた。
だが、宇宙船がやって来たことは、希望をもたらした。いまにも切れるかと思うぎりぎりまで細長く、一つの方向に体を伸ばしてやれば、その宇宙船が飛び立った故郷まで、後をつけられるかもしれない。そうして、かぎりない夜の中をどこまでも広がっていって、銀河系から銀河系へと跳躍して、生きながらえるための必死の闘いをはじめるのだ。その年月を通じて、アナビスの希望は、惑星を密林化することができるということでなければならなかった。そして、宇宙空間にははてしがない……。
人間たちにとって、暗黒などは何の影響もなかった。宇宙船ビーグル号は、鋸《のこぎり》の歯のようにぎざぎざの金属の、はてしない荒野に着陸していた。あらゆる舷窓からは、あかあかと光をはなっていた。巨大なサーチライトがそそぎかける光とともに、鉄一色の世界に大きな穴をえぐっている機械の群れを、あかあかと照らし出していた。まず最初は鉄の原鉱が、一台の製造機械に送りこまれ、その鉄鉱は、一分に一個の割合で、不安定鉄原子の宇宙魚雷となって機械から出て来ると、ただちに空間に向かって射ち出された。
つぎの朝の夜明けまでには、製造機械そのものの量産が開始され、追加されたロボット式採鉱機が、それぞれの新しい機械の編成に、かたはしから鉄の原鉱を流し込んだ。すぐに何百という、やがて、何千という製造機械が、黒い、細長い魚雷を、つぎつぎにはき出していた。こうしてまわりのまっ暗な夜の中へ飛び立つ魚雷の数は、時々刻々に、おびただしい数にふえてゆき、四方八方に、放射性物質をまき散らした。一度はなたれたこれらの魚雷は、三万年の間、破壊的な原子をまきつづけるのだ。これらの魚雷は、この銀河系の引力圏内にとどまっているが、けっして惑星や恒星の上に落下しないように設計されていたのだ。
二日目の夜明けが、ゆるやかに、赤く、地平線を照らし出すころ、機関長のペノンズが、『全員呼集』用チャンネルで、こう報告した。
「目下の魚雷生産量は、毎秒九千個に達している。それで思うのだが、後の仕事は、機械にまかしておけるだろう。この惑星の周囲には、妨害を避けるために、部分的防御スクリーンをめぐらしておいた。後、百ほど鉄の世界を見つければ、われわれの図体《ずうたい》のでっかい敵さんも、大事なところに穴があいたように感じはじめるだろうよ。そろそろ出発する時だね」
それから何か月か後、待ちに待った時が来た。宇宙船ビーグル号の目的地は、NGC五〇三四七星雲と決定された。天文学者のレスターが、この星雲を選んだわけを説明して聞かせた。
「この独特の銀河系は」と、かれは静かな口調でいった。「九億光年の向こうにあります。かりに、このガス状の知能生物が、われわれをつけて来たところで、この文字どおり、ほとんど果てのない暗黒の夜の中では、やつのとほうもなく巨大な図体をもってしても、道に迷ってしまうでしょう」
レスターが着席すると、グローヴナーが立ちあがって、しゃべり出した。
「もちろん、みなさんもよくご承知と思いますが、われわれは、このはるかな星雲に行くつもりではありません。なにしろ、そこへ行きつくには、何世紀、いや、おそらく何十世紀もかかるのですから。われわれは、この有害な生物が飢え死にするところまでおびき出してやればいいのです。敵が後をつけて来ているかどうかは、敵の思念の囁きでわかります。囁き声がやんだときが、敵の死んだときなのです」
結果は、まさにそのとおりだった。
時がたっていった。情報総合学部の講義室にはいったグローヴナーは、またしても聴講者の数がふえたことに気づいた。どの席もどの席もふさがっていて、隣の部屋から補助椅子が数脚、持ち込んできてあった。かれは、今夜の講義にとりかかった。
「情報総合学が直面する問題は、全般的な問題である。人間は、生命と物質を、知識と存在という別々の個室に分割してしまった。そして、時として、自然の全体系に関する認識を示すような言葉を使うことはあっても、あたかも、この一個の、刻々と変化する宇宙が、多くのばらばらの機能を持った部分から成り立っているかのように、行動をつづけているのである。今夜は、情報総合学の諸技術を論じて……」
グローヴナーは、ふと言葉を切った。聴衆の顔を見わたしていたが、部屋のずっと後ろの方にいる見なれた顔に、とつぜん、かれの視線が、しっかりと向けられたのだ。一瞬ためらってから、グローヴナーは、言葉をつづけた。
「……この現実と人間の行動の間のずれを、いかにすれば克服できるかを示してみたい」
かれは、技術の説明をつづけた。部屋の後ろでは、グレゴリー・ケントが、情報総合科学に関する、最初のノートをとっていた。
そして、この人類文明の一断面を乗せたまま、宇宙探険船スペース・ビーグル号は、ますます速度を速めつつ、ひたすらに、終わることのない夜の中を突進して行くのだった。
それははじめのない夜ででもあった。
解説
この長編小説の原題は、The Voyage of the Space Beagle で、「スペース・ビーグルの長い旅」という意味です。
ビーグルというのは、イギリス原産の猟犬で、あまり大きくはありません。ですから、うさぎ狩につかわれるのですが、獲物を見つけて追いかけるとき、何匹もで吠えかわす声が音楽的で、シンギング・ビーグルとも呼ばれるそうです。いまではアメリカで、家庭の愛玩犬としても人気が高いようですが、小がらで、はしっこくて、たちまち獲物を見つけだすところから、ビーグルという言葉、探偵やスパイの意味にもつかわれております。
けれども、この場合のビーグルは、犬ではありません。スペースという言葉をとってしまえば、これはイギリス海軍の測量船、一八三一年から三六年にかけて、二十二歳の博物学者をのせて、南半球をめぐり、その若い博物学者――いうまでもなくチャールズ・ダーウィンの頭に、進化論を胚胎《はいたい》させたビーグル号になります。つまり、地球上の海を、ダーウィンをのせて航海したビーグル号になぞらえて、これは遥かな宇宙空間を、若い科学者グローヴナーをのせて飛ぶスペースシップ・ビーグル号の涯《はて》しない旅、という意味なのです。グローヴナーがその旅の途中に、未知の生物の目新しい生活ぶりを見、ネクシャリズムという生まれて間のない学問を、ふくらましていくところも、ダーウィンにのっとっています。
それらのことを暗示した含みのあるこの題名をつけて、本書がアメリカで出版されたのは一九五〇年、イギリス版は翌五一年ですが、作品そのものはもっと古く、最初の怪物キアルと闘う部分は、「黒い破壊者」Black Destoroyer という題で、一九三九年にアスタウンディング・サイエンス・フィクション誌に発表したもの。作者にとって、最初に活字になったSF作品です。次の鳥人リームの部分は、いちばん新しくて、本にまとめた年に「神経戦争」War of Nerves という題で、雑誌に発表したもの。つづくイクストルとの死闘は「緋色の不協和音」Discord in Scarlet という題で、一九三九年にアスタウンディング誌に採用された二番めの作品です。最後のアナビスの部分は、一九四三年に発表した短編で、題は「M33星雲」M33 in Andromeda。
おなじ主人公で、別べつに発表した作品を、つなぎあわせて加筆して、ひとつの長編にしたわけですが、この作者はしばしばこれをやっています。ほかのSF作家の長編にも、いくらもあります。ミステリにも、いわゆる本格推理小説――パズラーにこの手法はつかえませんが、ハードボイルドやアクション・スリラーには例があって、アメリカでは珍しくありません。なかには主人公のちがう短編を組みあわせて、おなじ主人公に書きなおすこともある。なんだ、短編のつぎはぎ細工か、インチキじゃないか、なぞと考える読者はいないのです。
この手法は、日本の講談の構成法にも似ています。主人公が親のかたきを探《さが》しもとめて、日本じゅうを旅してあるく、といった単純明快な大筋があって、途中をさまざまなエピソードでつないでいくわけです。江戸時代の小説にも、「里見八犬伝」「田舎源氏」と、この構成が多いし、さかのぼれば中国の伝奇小説、「西遊記」も「水滸伝」もこの構成法といっていい。寄席で一部分ずつ語ってきかせたり、分冊で出版していかなければならなかったり、事情からきた必然の手法にはちがいありませんが、東洋人むきでもあるのでしょう。とすれば、この「宇宙船ビーグル号の冒険」、きわめて日本人むきのSFアドベンチャーであるわけです。
宇宙人の視点から、地球人を描くという手法を特徴にしているハル・クレメントの長編が、日本では先に翻訳されましたので、おどろかないでしょうけれど、この長編の宇宙怪物たちの主観描写は、雑誌に発表されたとき、アスタウンディング誌の読者の目を見はらしたものでした。それまでのSF冒険小説で、荒唐無稽な大あばれをしていたスペース・モンスターたちを、その内面をえがくことによって、荒唐無稽なおもしろさは残したまま、大人むきにしてみせたのです。その妖怪たちを、ものすごく、生き生きとえがいてみせる大衆作家的手腕にも、この作者はことかきません。新しい学問を持ちこんで、重みをつけているあたりも、心得たものです。軽蔑の意味で、大衆作家といったわけではありませんが、一般意味論という新哲学に凝って、「非Aの世界」シリーズを書いたり、のちにはもっと新興宗教的な精神科学に熱中したりして、このひと、クールな作家とはいえないようです。けれども、本書では伝統的な大衆小説の技法が、遺憾なく発揮されて、スケールの大きな、読みはじめたらやめられない冒険小説になっています。
作者の E. A. van Vogt は、一九一二年、カナダのウィニペグの生まれ。SF作家としてのデビューは、「黒い破壊者」の二十七歳のときですが、その前から実話雑誌やロマンス雑誌に原稿を書いていました。三十冊ちかい著書があって、一冊だけが一種のポリティカル・スリラー、あとはぜんぶSFです。
ところで、この作者の名をヴォクトと読むのは、厳密にいうと、正確ではありません。生まれでいえばオランダ系のカナダ人なので、苗字《みょうじ》はオランダふうに読むのだそうです。オランダ語の Vogt は、代官、という意味ですから、先祖にお代官さまのいた由緒ある家がらなのかも知れません。オランダ語の発音では、Gは無声音――声を出さないわけではないが、喉だけで出して、舌も歯も唇もつかわない。だから、聞えたような気のしない音で、しいてカナをあてれば、ハヒフヘホなのだそうです。Vogt はヴォ◯ト、この小さな◯は口をあけっぱなしで、舌も動かさないで、ホといったときの音です。でも、そんな妙な書きかたをしてもしょうがないし、翻訳SFのファンにはヴォクトでもうお馴染なので、そのままになっています。推理小説の作家では、ヘンリイ・スレッサーがヘンリイ・スレイサー、ロアルド・ダールがロールド・ダール、あとの書きかたのほうが、ほんとうに近いのですけれど、前のほうで売りこんでしまったので、なかなか変えられないようです。
一九六九年九月 都筑道夫
◆宇宙船ビーグル号の冒険◆
A・E・ヴァン・ヴォクト/能島武文訳
二〇〇五年九月五日