ジュール・ヴェルヌ/金子博訳
二年間の休暇(十五少年漂流記)
目 次
二年間の休暇(十五少年漂流記)
解説
代表作品解題
年譜
一
一八六〇年三月九日の夜、たれこめた雲で数間《すうけん》先しか見通しはきかなかった。
荒れ狂うこの海の上を、ほとんど帆も張っていない小さな船が、飛ぶように走っていた。それは百トンの帆船《はんせん》で、イギリスやアメリカではスクーナーと呼ばれている船である。
スルーギ号というのがこのスクーナー船の名だったが、船名を読もうとしてもできない相談だ。艫《とも》の下の船名を書いた板が……波のためか、それともなにかが当たったのか……事故だろう、あらかたはがれてしまっていた。
午後十一時だった。このあたりの緯度では三月のはじめには夜はまだ短い。
三人の少年、ひとりは十四、ふたりは十三、それともうひとり、十二歳くらいの黒人の見習水夫が、スルーギ号の船尾で操舵輪《そうだりん》を守っていた。船の針路がゆれないように、そこで彼らは力を合わせていたのだ。真夜中少しまえ、すさまじい大波が側舷《そくげん》にくずれ落ちた。舵《かじ》がもがれなかったのが奇跡だった。
波に打ち倒された少年たちは、どうやらじきに起きあがった。
「舵はだいじょうぶか、ブリアン」とひとりが叫んだ。
「だいじょうぶ、ゴードン」とブリアンは答えると、すぐ少年水夫をふり返って、
「モコ、けがしなかったかい?」
「はい、ブリアンさん」と水夫は答えた。
このとき、ハッチの蓋《ふた》が勢いよくあいて、ふたつの小さな頭と一匹の犬の首がいっしょに現われた。
「ブリアン……ブリアン……」と叫んだのは九歳の子どもだ。「なにがあったの?」
「なんでもないよ、アイヴァースン、なんでもない」とブリアンは答えた。「下に行ってなさい、ドールと……さあ、早く、早く」
「だって、とってもこわいんだよ」と言ったもうひとりの少年は、さらに少し幼かった。
「みんなはどうしている?……」とドニファンがきいた。
「みんなこわがっているよ」とドールが答えた。
「いいかい、ふたりとも降りるんだ」ブリアンは言った。「なかにはいって、布団《ふとん》にもぐってなさい。あぶないことはないよ」
「気をつけて! ……また波が!」モコが大声をあげた。
船は激しい衝撃を船尾にうけた。
「さあ、はいれ、はいれったら……」とゴードンがどなった。「はいらないと、きかないぞ」
「ほら、ちびさんたち、はいったり」やさしい口調《くちょう》でブリアンが言った。ふたつの頭はなかに消えた。
暴風にさらわれてゆくこのスクーナーには、それでは子どもしか乗っていないのか?……そうだ、 子どもたちだけなのだ。……なん人いたのだろう? ……十五人。……どういうわけで子どもたちはこの船に乗り組んだのか? ……そのわけはいずれわかる。
それにしても、これは帆船だ。大人《おとな》がひとりも乗っていないのか? 船を指揮する船長はいないのか? 操縦に手をかす水夫もいないのか? そうなのだ! ……ひとりもいない。
だから、この広い海の上のいったいどのあたりに、スルーギ号が位置しているのか、正確に言える者は船にはひとりもいなかったわけなのだ……ここはどこの海なのか? いちばん広い海、オーストラリアとニュージーランドの岸から南アメリカの沿岸まで、二千海里にわたって広がっているあの太平洋なのである。
いったい、なにが起こったのか? 乗組員はなにか異変にあって消えてしまったのか? マレーの海賊《かいぞく》が乗組員をさらって、いちばん年長の少年でもやっと十四歳だという、この幼い船客だけを船に置きざりにしていったのか? 百トンの帆船には、少なくとも、船長と甲板長と五、六人の水夫が必要だ。それなのに、操縦にどうしても欠かせない乗組員のうち、ここには子どもの見習水夫ひとりしか残っていなかった……
だが、ブリアンたちは、スクーナーの針路が右にも左にも傾かないように最善をつくして気を配っていた。
「どうしたらいいんだ?……」と、そのときドニファンが言った。
「やれることは、なんでもしよう。神の助けできりぬけるのだ」とブリアンが答えた。
年若い少年がそう答えたのだ。精力|絶倫《ぜつりん》の大の男でも、わずかの希望をどうにかもちこたえられようかという場合なのに!
事実、嵐は激しさを倍加していた。スルーギ号は叩きつける突風に|ばらばら《ヽヽヽヽ》になりそうだった。それに、壊れかかっていたメーン・マストが、二昼夜《にちゅうや》まえに、根元から四フィートを残して折れてしまったのだ。残っている帆は前檣《ぜんしょう》の帆だけだったが、それもいまにも引き裂けそうだった。そうなったらもう、船はいつまでも風を背にしていられそうにはない。横腹に大波をくらって、転覆《てんぷく》し、まっさかさまに沈んでしまうだろう。
これまで、島影ひとつ波間に現われなかった。東の方に陸地も見えてこなかった。この深い闇のただなかに一点のかすかな光とてない。
午前一時ごろ、突然、メリメリという恐ろしい音が突風の悲鳴をかき消した。
「まえのマストが折れたぞ!……」ドニファンが叫んだ。
「いいえ、そうじゃない」と見習水夫がすぐ言った。「縁綱《へりづな》から帆がはがれたんです」
「なんとかしなければ駄目だ」とブリアンが言った。「モコ、手伝ってくれ」
モコにはいくらか航海の知識があるに決まっているが、ブリアンにも知識が全然ないわけではなかった。ヨーロッパから大洋州にやってくるとき、一度大西洋と太平洋を渡ったことがあったので、彼は船の操作に少しはなじんでいた。このために、ほかのなにもわからない少年たちは、モコとブリアンにスクーナーを操縦する仕事を任せるほかなかったのである。
たちまち、ブリアンと見習水夫はヨットの船首の方へ大胆《だいたん》に進んでいった。突風の吹き続くかぎり、スルーギ号がいつも追い風をうけるようにしておかなければならない。それにはできるだけ帆を守ることだと心を決めて、ふたりはやっとのことであげ綱をゆるめ、とうとう甲板から四、五フィートのところまで帆げたをさげた。
こうして極端に帆を縮めて、船はすでに長いこと走り続けている進路を維持することができた。それがすむと、ブリアンとモコは、ゴードンとドニファンのそばにもどって、またいっしょに舵《かじ》にとりついた。
一時間たった。なにかの裂ける音が甲板で聞こえた。残っていた前檣《ぜんしょう》の帆が引き裂けたのであった。
「とうとう帆がなくなったぞ」ドニファンが悲痛な声を出した。「もう帆を張ろうたって張れやしない」
「あぶない、うしろから波だ!」とモコがどなった。「みんなしっかりつかまれ、さらわれるぞ……」
四人はたがいにしがみついて、大波に立ち向かった。
四時半ごろ、いつのまにかうっすらとした明りが天頂まで忍びこんだ。そのときだった、モコが叫んだのは。「陸だ!……陸だぞ!」
そう言ってモコは水平線の一点を指さした。そのあたりはちょうどもやの奥に隠れていた。
「たしかか?」とドニファンがきいた。
「たしかですとも……絶対……確実だ!」見習水夫は答えた。
「そうだ!……陸だ! ……たしかに陸だ! ……」ブリアンが大きな声を出した。
「そうだ、とても低い陸だ」指さされた陸地を注意深く見つめたあげく、ゴードンも言った。
いまはもう疑う余地はなかった。五、六マイルかなたに陸の影が描かれている。疾風《しっぷう》に押し流されるまま変えようもないこの針度で、スルーギ号は一時間もしないうちに、かならずそこに打ちつけられる。
そのとき、風がふたたび激しさを増して吹きすさびだした。スルーギ号は陸地の方へ突進していった。
船が打ちあげられるときには、みんな甲板《かんぱん》にいた方がいい、とブリアンは思った。ハッチの蓋《ふた》をあけて、どなった。「みんな、上にあがれ!」
すぐに犬が飛びだしてきた。続いて十人ばかりの少年が後甲板にぞろぞろとはいでてきた。
午前六時少しまえ、スルーギ号は岩礁《がんしょう》を目のまえにしていた。
「気をつけろ! ……しっかり! ……」ブリアンが叫んだ
突然、最初の衝撃が感じられた。スルーギ号の船尾が底をこすったのだ。しかし、船腹から海水ははいってこなかった。
二つ目の大波に持ちあげられると、いたるところで岩角が牙をむいていたが、船は岩にかすることもなく、五十フィートほどまえに運ばれた。そして、左舷に傾いて、波浪《はろう》のわきたつただなかで動かなくなった。
もう広い海のまん中にいるのではないが、まだ浜から四分の一マイルはあった。
「心配することはないよ! ……」 ブリアンはくり返した。「ヨットは頑丈《がんじょう》だ。待つのだ。いまに岸に行く方法が見つかるよ」
「でも、なぜ待つんだい? ……」 とドニファンが言った。
「そうだよ……なぜさ? ……」 ウィルコックスという十二歳の少年がすぐそう言った。「ドニファンの言うとおりだ……、なぜ待つのさ?」
「まだ荒れがひどすぎるからだよ。岩にたたきつけられるよ」とブリアンは答えた。
「でも、ヨットが壊《こわ》れたらどうする?」また別の少年がわめいた。
「その心配はないと思う」とブリアンは言った。「少なくとも潮がひいているあいだはだいじょうぶだ。潮がすっかりひいたら、風の具合しだいで脱出作業にかかることにしよう」
しかし、この意見は大変もっともだったのに、ドニファンと二、三人の少年は、この意見に従う気にならなかったようだ。彼らは船首の方に寄り合って、ひそひそと相談していた。すでにはっきり目に見えていたが、ドニファンとウィルコックスとウェッブと、それにもうひとりクロッスという少年には、ブリアンと仲よくやってゆく気がないようだった。
そうしながら、ドニファン、ウィルコックス、クロッス、ウェッブの四人は、泡だつ水を見つめていた。いたるところ渦が巻き、流れが海面をえぐり、これを渡ってゆくのは非常に危険なことに思われた。数時間待とうというのはごく当然のことでしかない。この明白な事実にはドニファンたちも屈服せざるをえなかった。けっきょく、彼らは、小さい子どもたちの集まっている船尾にもどってきた。ブリアンはゴードンと周囲の数人に向かって言った。
「どうしても、ぼくたちばらばらにならないようにしようよ。みんないっしょにいるんだ。そうしないと、ぼくたちおしまいだよ」
「みんなに命令する気になるなよ!」それを聞きつけたドニファンが声をたてた。
「そんなつもりはないよ。みんなが助かるには、協力して行動しなければ駄目だと言いたいだけなんだ」とブリアンは答えた。
「ブリアンの言うとおりだ」ゴードンが言った。これは、冷静で、まじめで、よく考えてからでなければ決して口をきかない少年である。
「そうだよ! ……そうだよ……」 いつか本能的にブリアンに近づくようになっていた少年が、二、三人、口々に言った。
ドニファンは言い返さなかった。しかし、彼と彼の仲間は、脱出作業にとりかかるときまで、強情にみなから離れてしまった。
潮は少しずつひいていた。いま大事なことは、岩礁《がんしょう》の背が現われて渡れるようになったときのために、準備をしておくことだった。
七時近かった。みなはいちばん必要なものを甲板にせっせと通びあげた。小さな者も大きな者もこの仕事に従った。船には、罐詰《かんづめ》、ビスケット、塩漬けや燻製《くんせい》にした肉の、かなり大量の貯《たくわ》えがあった。それをいくつかの包みに作って、年長の少年たちに割り当てることにした。陸まで運ぶのは彼らの責任だ。
だが運搬《うんぱん》作業が行なわれるためには、岩場が水面上に出なければならなかった。潮がひいても、はたしてそうなるだろうか。潮がひききったとき、浜まで十分に岩が現われてくれるだろうか。ブリアンとゴードンは注意深く海を見つめたままだ。
突然、船首の方で叫び声があがった。バクスターが重大な発見をしたのだ。
波にさらわれたと思っていたボートが第一|斜檣《しゃしょう》の支え綱のあいだにひっかかっていたのだ。実のところ、このボートには五、六人しか乗れなかったが、それでもどこも壊れていなかったから、岩を歩いて渡れない場合には、これを使うことができなくはない。したがっていまは潮がすっかりひくのを待つのがよい。
潮というものは、何とのろのろとひくものだろう! しかしながら、船の傾き方がひどくなってきたところを見れば、海面がさがっているのは明らかだった。
「どうしたらいいだろう?」とゴードンがきいた。
「わからない! ……わからないよ! ……」ブリアンは答えた。「本当に困ったなあ、わからないんだ……子どもばかりだなんて、大人がいてほしいのに」
「いざという場合になればわかってくるさ」と、ゴードンは言った。「ブリアン、やけになっちゃあいけない。慎重《しんちょう》にやろうぜ」
「うん、そうしよう、ゴードン。潮がまたあげてこないうちに、スルーギ号を離れないと、もし、もうひと晩、船にいなければならないとしたら、ぼくたちは助からないよ……」
「それだけははっきりしている。ヨットはこなごなになっちゃうだろうね。どうしても、船から離れてしまわなければいけない……」
「そうだよ、ゴードン、どうしてもだ」
「筏《いかだ》を作ったらどうだろう、綱《つな》を張って渡すようにしたら? ……」
「ぼくもそれを考えた」とブリアンは答えた。「やれそうなことは、綱を持って暗礁《あんしょう》を越えて、どこか岩の上にその端を結ぶのだ。そうすればきっと、岸の近くまで綱を伝っていけるようになる……」
「その綱をだれが持っていく?」
「ぼくがやる」とブリアンは言った。
「ぼくが手伝おう」とゴードンが言った。
「いや、ぼくひとりだ」ブリアンが答えた。
「ボートを使うのか?」
「ボートを使ったら、君、なくすおそれがある。最後の頼みに取っておいたほうがいい」
それがどんなに危険な試みかは目にみえていたが、ブリアンはだれにも代わりをやらせないつもりだったようだ。当然のように彼は準備にかかった。
船には、ひき船用の百フィートくらいの綱がたくさんあった。ブリアンは、中くらいの太さのを一本選ぶと、服を脱ぎすてて、綱の端を腰に巻きつけた。
ゴードンが叫んだ。
「そら、みんな、ここへ来て綱をくりだしてくれ!……みんな船首に集まれ!」
ドニファンもウィルコックスもクロッスもウェッブも協力を拒むことはできなかった。作業の重要性はわかりきっていた。そこでみなは、まき綱をくりだす準備をした。ブリアンが無駄な力を使わないように、ロープは少しずつゆるめるようにしなければならない。
ブリアンが海にすべりおりようとしたとき、弟が走り寄って、叫んだ。
「兄さん! ……兄さん! ……」
「心配するな、ジャック、ぼくはだいじょうぶだ」ブリアンは応じた。
一瞬のち、彼の姿は波の上にあった。力強く泳いでゆくそのうしろを、ロープが延びていく。
ブリアンは少しずつ浜の方へ進んでいった。それに応じて、みなはロープをくりだした。しかし、ブリアンのまえには、ふたつの逆波《さかなみ》がぶつかり合い、渦《うず》になって水をうがっていた。その波をよけることさえできれば、その先はずっと穏やかだったから、きっと目的は果たせるだろう。渾身《こんしん》の力をふるって、彼は渦の左に身を躍《おど》らせようとした。しかし、試みは空しかった。水に手足をしっかりとらえられて、ブリアンは渦の中心へと、否応《いやおう》なしに引き寄せられていった。
「おーい、ひいてくれ! 綱をひいてくれ! ……」渦にのみこまれる寸前、彼は力いっぱいどなった。
ヨットの上は、恐怖でいっぱいになった。
「引っ張れ! ……」冷静にゴードンが命令をくだした。
みなは急いで綱を逆にひいた。一分たらずで、ブリアンは甲板に引きあげられた。……意識がなくなっていた。だが、じきに弟の腕のなかで彼はわれに返った。
暗礁《あんしょう》の上にロープを張るための試みは失敗に帰《き》してしまった。
時刻は正午を回っていた。潮のあげだしているのが、もうわかった。岩に当たる波が大きくなっていた。
二時少しまえ、船は潮に浮いて、いまでは左舷への傾斜も直っていた。だが、船尾はまだ岩礁《がんしょう》にとらえられたままで、縦ゆれのたびに船首が海底に打ち当たった。やがて、竜骨《りゅうこつ》が岩に当たる音がこやみなく続いて、スルーギ号は左右にゆれた。
このとき、ヨットの数百メートル先に、山のような白波が盛りあがった。二十フィートを越える巨大な高波は、津波のようにふくれあがった。それは、たけり狂う奔流《ほんりゅう》の勢いで、暗礁をひとのみにしたと思うとスルーギ号を持ちあげ、竜骨をこするまもなく、岩場の上を押し流した。
あっというまに、わき返るこの大波に乗って、スルーギ号は砂浜の中央まで運ばれ、崖《がけ》の麓《ふもと》に密生する木々から二百フィートほどてまえで、小高い砂の上に激しく乗りあげた。そこで、じっと動かなくなった……今度こそ、堅固な大地の上だった……そして、海は退いてゆき、浜が一面に現われた。
二
オークランドというのは、太平洋にあるイギリスの重要な植民地、ニュージーランドの首都であるが〔オークランドが首都だったのは一八六五年まで、現在の首都はウェリントン〕、チェアマン学園は、そのころオークランドの町でもっとも評判の高い学校のひとつだった。生徒の数は約百人で、いずれもこの土地で最上の家庭の子どもばかりである。地主や、年金受領者、貿易商、官吏《かんり》などの息子たちだが、イギリス人、フランス人、アメリカ人、ドイツ人以外はいない。彼らはそこで申し分のない教育をうけていた。
さて、一八六〇年二月十五日の午後のこと、百人ほどの少年が、この学校からわっと飛びだしてきた。それぞれ両親と連れ立ち、陽気な顔で、足どりもはずんでいる。
そのはずだ。夏休みがはじまったところなのだ。二か月の解放、二か月の自由である。なかでもこのうちの幾人かにとっては、スルーギ号という帆船《はんせん》に乗り組んで、ニュージーランドの海岸を回って歩こうという航海旅行が、すぐ目のまえに控えていた。
このすばらしいスクーナー船は、生徒たちの親が借りてくれて、六週間の航海のために準備されたものであった。これは、ある生徒の父親で、むかし商船の船長をしていたウィリアム・H・ガーネット氏の持ち船だが、旅行の費用は寄付でまかなわれることになっていた。
スルーギ号の航海に参加する予定の生徒は、チェアマン学園の各学年にわたっていて、八歳から十四歳までの少年だった。そして、見習水夫も入れて十五人のこの少年たちが、遠く長い恐ろしい冒険にいまや巻きこまれようとしていたのである。
少年たちの名前と年齢、それぞれの得意なこと、性質、それに、いましがた彼らが出てきた学校でふだんおたがいにどのような関係にあったかを紹介しておく必要がある。
フランス人のブリアン兄弟とアメリカ人のゴードンを除いて、あとはみなイギリス系の少年だ。
ドニファンとクロッスは大地主の一家の子で、ふたりとも十三歳と数か月のいとこ同士だ。ドニファンはみなのうちでいちばんきわだった生徒だった。頭がよくて勤勉《きんべん》な彼は、勉強熱心と友だちに優越《ゆうえつ》したいという気持ちとから、決して成績を落とすまいと常に気張っている。いばった性質なので、どこででも自分が大将になりたがるくせがある。ブリアンと彼との対立はそこからきていて、数年まえからのことだが、いま、仲間へのブリアンの影響力が増すようになって、ことに激しくなったのである。クロッスの方はまあふつうの生徒だが、なにごとであれ、いとこのドニファンが考えること、言うこと、することに感心しきっている。
バクスターは、十三歳、冷静で、考え深く、働き者の少年で、親は小さな商売をしている。
ウェッブとウィルコックスは十二歳と六か月、上級生の言うことにも、いつだってあれこれ文句をつける。家は金持ちで、裁判所のえらい役人をしている。
ガーネットとその親友のサーヴィスは……ふたりとも十二歳だが……ひとりは隠退した船長の息子、ひとりは裕福な開拓者の息子で、どちらもノース・ショアに住んでいる。家同士が非常に仲よくしているために、ガーネットとサーヴィスもいつもいっしょにいるようになった。気だてのよい子どもたちだが、勉強の方はさっぱりする気がない。野原に遊びにいく鍵《かぎ》を渡してもらったら、ポケットのなかでさびさせるなんてことは決してしないたちだ。
次に九歳の少年ふたりの名をお知らせしよう。ジェンキンスとアイヴァースンだ。それから、八歳六か月のドール、八歳のコスター、これはふたりともニュージーランド陸軍の将校の子である。
さて、最後に、スクーナーに乗っている残りの三人の少年のことを話さなければならない。アメリカの少年とふたりのフランスの少年だ。
アメリカ人はゴードン、十四歳である。顔つきにも態度にも、もうすっかり|ヤンキー《ヽヽヽヽ》くさいごつごつした感じが表われている。同級生のドニファンのような才気はなかったが、正確な判断力、実際的な感覚を持っていることはこれまでたびたび示していた。ものごとをよく観察し、落ち着いた性質で、まじめなことが好きだ。それで、友だちからも彼は高く買われ、長所を認められていて、生まれはイギリス人ではないけれども、どこでも歓迎されていた。ゴードンはボストンの生まれだったが、父も母もないみなし子で、身寄りといっては後見人ひとり、このもと領事だった人がニュージーランドに住みついたのである。
ふたりのフランスの少年、ブリアンとジャックは、イカ・ナ・マウイ島〔ニュージーランド北島の現地語名〕の中央にある沼沢地《しょうたくち》の大|干拓《かんたく》工事の監督をするためにきた優秀な技師の子である。兄は十三歳。頭はごくいいが、勉強はさっぱりしない方で、クラスで|びり《ヽヽ》の部になることがちょいちょいある。しかし、その気になると楽にものにして、一番になってしまう。そこがドニファンにはねたましくてならない。だから、チェアマン学園でブリアンと彼とが仲よくやってゆけたためしがない。スルーギ号でのいさかいの成り行きはすでに見たとおりだ。それにまた、ブリアンは、勇敢《ゆうかん》で、向こう見ず、運動はうまい、口答えはすばやい、そして、人には親切で、やさしい少年だ。ドニファンのようなもったいぶったところは少しもない、たとえば、身なりは少しだらしないし、行儀もよくない……ひと口で言って、非常にフランス人らしい少年なのだ。
弟のジャックの方は、たえまなしに新しいいたずらを発明する、友だちにはどうしようもないわるさをするという調子で、これまで学校中でいちばんのいたずら坊主ということになっていた。ところが、いずれわかるように、ヨットが出てからというもの、どうしたわけか彼の性質はすっかり変わってしまっていた。
以上が、つい先ほど、太平洋のどこかの陸地に嵐で打ちあげられた少年たちのあらましである。
ニュージーランドの沿岸をめぐる数週間の航海のあいだ、スルーギ号は、船主であるガーネットの父親が指揮をすることになっていた。乗組員は甲板長と六人の水夫、コックがひとり、それに見習水夫……十二歳の黒人のモコ少年……これで全部だ。いや、もうひとつ、ゴードンの飼っているアメリカ種のみごとな猟犬ファンがいたことも言っておかなければいけなかった。
出航の日は二月十五日と決められていた。それまで、スルーギ号は、商船|波止場《はとば》のはずれ、つまり港でかなり外海に近いところに、船尾を繋留《けいりゅう》されていた。
十四日の晩、乗客の少年たちが乗りこんできたとき、船員は船にいなかった。ガーネット船長は出帆の時刻きっかりにやってくる予定だった。水夫たちは出港前夜のウィスキーをいっぱいやりに出かけていて……甲板長と見習水夫のふたりだけがゴードンら一行を出迎えた。
全員の部屋割りをして、寝かせてしまうと、これで部下のあとを追って港の酒場に行けるなと甲板長は思った。そして、これが取り返しのつかない失敗だったのだが、彼はその夜おそくまで酒場でねばったのである。見習水夫の方は、自分の部屋で丸太のように寝てしまった。
なにがその晩に起こったのだろう? たぶん、それは決してわからないだろう。たしかなのは、不注意からか、それともわざとのことか、ヨットをつないでいた綱がとけたのだ……船ではだれひとりなにも気がつかなかった。まっ黒な闇が港とハウラキ湾を包んでいた。陸からの風が強く吹きつけていた。スクーナーはひき潮の流れに沖へ引っ張られて、外海へとすべりだしていった。
ふと見習水夫が目をさますと、大波に乗ったようにスルーギ号がゆれていた。モコはすぐさま甲板にかけあがった……。船が漂流している!
見習水夫の悲鳴を聞いて、ゴードン、ブリアン、ドニファンらが昇降口から飛びだしてきた。口ぐちに助けを呼んだが、無駄だった! 港のあかりひとつさえ見えはしない。船はすでに湾のまん中に出ていて、岸から三マイルは離れていたのだ。
最初ブリアンと見習水夫が言う意見に従って、少年たちは帆をあげようとした。だが、風向きに合わせてうまく操作するには、帆は重すぎた。結果はますます遠くへ流されるばかりだった。スルーギ号はコルヴィル岬を回り、グレート・バリアー島と岬とのあいだの海峡をぬけて、やがてニュージーランドから数マイルの外洋に出てしまった。
事態の重大さは明瞭《めいりょう》だった。ブリアンたちは、今となっては、陸からの救いはいっさい当てにできなかった。風の力でスルーギ号をもどそうとする努力が、さらに何度も試みられた。しかし進路がすぐに狂ってしまい、船は東の方へどんどん岸から遠ざかっていった。
突然、二、三マイル先にあかりが見えた。マストの尖《さき》の白いあかりだ……汽船が航行していることを知らせる印《しるし》である。やがて、赤と緑の方位燈《ほういとう》が現われた。ふたつのあかりが同時に見えたのは、その汽船がヨットに向かってまっすぐ進んでいるからだ。
少年たちは胸をしぼって叫んだが、駄目だ。波の砕《くだ》ける音、沖に出てますます激しくなった風、それがひとつになって、少年たちの声を空に散らしてしまう。
たちまちのうちに船は接近した。舷側にぶつけられたら、一瞬でヨットは沈んでしまう。だが幸い、船尾が接触しただけだった。船名板の一部をもぎとられたが、船体は壊されないですんだ。
衝突の手ごたえはほとんどなかったので、汽船は、間近《まぢか》に迫る暴風の手にスルーギ号を残したまま、航路を続けていってしまった。暗闇の中で姿も見えない小さなヨットとの接触を汽船の人たちが気づかなかったとしても、これはいかにもやむをえない。
風に流された少年たちは、もう駄目だと観念しないわけにはゆかなかった。夜が明けてみると、見渡すかぎり船ひとつない。このあたりは太平洋でほとんど船の通らないところで、船はもっと南か北よりの航路をとる。ヨットから見えるところを一隻の船も通らなかった。夜が来た、昨夜よりもさらに悪い夜だった。突風が小止《こや》みをまじえて、西から吹き続けた。
こんな航海が続くなどとは、ブリアンにもだれにも、思ってみることもできなかった。彼らはニュージーランドの海域にもどすように船を動かしたかったが、空《むな》しかった。針路を変えるための知識も、帆を張るだけの力も、彼らにはなかったのである。
こうした状況のなかで、ブリアンが少年とはとても思えない力をふるって、みんなを動かしはじめたのである。これにはドニファンも従わないわけにはゆかなかった。けれども、西風は相変わらず太平洋を横切ってヨットを押し流していた。
それからあとのことはご存知のとおりである。スクーナーがハウラキ湾の口から吹き流されて数日後に嵐が来た。二週間のあいだ、嵐は聞いたこともない激しさで荒れ狂った。小山のような波に襲われ、幾度となく大波に粉微塵《こなみじん》にされそうになったあげく、スルーギ号は太平洋のどことも知れない陸地に打ちあげられたのである。
そしていま、ニュージーランドから千八百海里も流されたこの難波船の生徒たちの運命はどうなるのだろうか? 救いの手はどこからやってくるのだろうか? 彼らには、自分たちで救いを見つけることはとうていできないだろう。
いずれにしても、彼らの家族たちは、彼らが船もろとも海にのまれたものと思いこんでいた。
それはこういうわけである。
オークランドでは、スルーギ号が行方不明になったとわかったとき、ガーネット船長と不幸な少年たちの家族にすぐ知らせが行った。この事件で町がどんな騒ぎになったかは言うまでもない。町中が仰天《ぎょうてん》したのである。だが、ともづながとけたにしろ、切れたにしろ、スクーナーは、おそらく、海流によって、湾からそとに押し流されたのではないだろうか? おそらく船を見つけだすことができるだろう。
そこで、即刻、港湾《こうわん》長はヨットの救助を手配した。二隻の小型汽船がハウラキ湾のそと、数マイルにわたる海面を探索に出かけた。ひと晩中、二隻の船はひどく荒れだしたこの海域を探し回った。そして救助船が帰ったとき、恐ろしい悲劇に打ちひしがれた家族たちは、すべての希望を奪われたのである。
救助船は、スルーギ号を見つけないで、その破片を見つけてきたのだ。ペルーの汽船クイト号と衝突したとき海に落ちた、あの船名板の切れはしだった。
それには、スルーギ号の名前が、半分ばかり読みとれた。ヨットが大波に打ち壊されて、ニュージーランドの沖合十二マイルばかりのところで、積荷もろとも沈没したことは、いまや確実と思われたのである。
三
「とにかく陸《おか》の上なんだ。これだけでもたいしたものだよ」とゴードンが言った。「だけど、ここはどんなところだろう、人なんか住んでいないみたいだね」
「大事なのは、|住めないところじゃない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ってことだよ」ブリアンは答えた。「食べるものでもなんでも当分のあいたはもつだけある。ないのは寝るところだけだ。それを見つけなくっちゃ……せめて小さい人たちにはね」
「そうだ……君の言うとおりだよ」と、ゴードンは答えた。
「ぼくらがどこにいるのかは、そのうち考えればいい。いちばん先に必要なことをすませてからでいいよ」とブリアンが言った。「ここが大陸なら、きっと助かるチャンスがあるよ。もし島だったら……無人島だとしたら……いいさ、いまにわかる。さあ、ゴードン、探検に行こう」
ふたりは、約三十分、崖のすそに沿って南に行ってみた。すると、川にぶつかった。東の方から曲がりくねって流れてくる川の右岸に出たのだ。こちら岸は美しい木々の緑におおわれているが、向こうは岸辺からまったくようすが違う土地で、広い沼地のようだった。
崖の上にのぼることもできず、当てがはずれて、ブリアンとゴードンはスルーギ号に引き返した。
年長の少年たちを集めて、ブリアンとゴードンは探検の結果を報告した。もっと遠くの方を調査してみるまでは、船から離れない方がよいと思われた。船は底が痛んでいたし、左舷にかなり傾いてはいたが、座礁したままの場所でも、さしあたって住居《すまい》の役には立つだろう。
けっきょく、いちばんいいのは船に住むことだった。それは、さっそくその日からはじめられた。ヨットが傾いている方の舟縁《ふなべり》に縄梯子《なわばしご》をかけたので、大きい人たちも小さい子たちも甲板の昇降口に出入りできるようになった。見習水夫の役目|柄《がら》、コックの真似ができるモコが、料理の好きなサーヴィスを助手にして、食事の支度に大わらわになった。みんなもりもり食べた。ただ、学校ではいつも一座をにぎやかにしていたジャック・ブリアンだけが、相変わらずひとり離れていた。ジャックの性質や態度がこうも変わったのはみんなを驚かせた。しかし、彼はひどく無口になってしまって、そのことで友だちになにを聞かれても、顔をそむけるばかりだった。
幾日も幾晩も嵐のなかを数えきれない危険にさらされてきた疲れがどっと出て、だれももう眠ることしか考えなかった。その夜はなにごともなく過ぎた。そして、太陽が昇ると、一同まず神へ感謝の祈りをささげてから、さし当たっていちばん必要な仕事にとりかかった。
第一に、ヨットに食糧《しょくりょう》がどのくらいあるかを調べなければならない。それから、武器や、いろいろな道具、衣料などもだ。この海岸は人が住んでいないらしいから、食糧の問題はいちばん重大だった。船にある貯えを注意深く節約してどのくらいもつかをまず知っておかなければならない。
調べがすんでみると、ビスケットだけはかなり沢山あるが、あとは、罐詰《かんづめ》、ハム、肉入りの堅パン(最上の小麦粉と豚のこま切れ肉に香料を入れて作ったもの)、コーン・ビーフ、塩潰けの肉や魚などで、どんなに倹約してもこれだけでは二か月以上は無理だ。だから、いまある食糧をたいせつに使うために、はじめからこの土地でとれるものに頼った方がいいだろう。
「釣《つり》がいいよ、釣が」とウェッブが言った。「船には糸があるんだろ、海に魚がいないわけがないよ。だれか釣に行く人はいないか?」
「ぼく行く!」「ぼくも!」小さい子たちが歓声をあげた。
「よし、よし」とブリアンが答えた。「まじめに釣をする人にだけ糸をあげることにしよう」
「安心して、ブリアン」アイヴァースンが言った。「ぼくたち本気になってやるから……」
「よし、わかった。しかし、まず船にあるものを調べてしまおう」とゴードンが言った。「食べ物のことばかり考えてるわけにもいかないよ……」
「お昼ごはんにはいつも貝を拾ったら」とサーヴィスが口をはさんだ。
「それはいい!」とゴードンが答えた。「小さい諸君、三人か四人で行きなさい。モコ、君もいっしょに行って」
「はい、ゴードンさん」
「よく気をつけてあげてね」とブリアンが言いたした。
「だいじょうぶですとも」
なにかと当てにされるこの見習水夫は非常に献身的で、なんでも器用で、しかも勇敢《ゆうかん》な少年で、難破した少年たちにたいへん尽くしてくれることになるにちがいない。彼はことにブリアンに忠実だったが、ブリアンの方もモコに対する親しみを隠そうとはしなかった。
「さあ、出発!」とジェンキンスが叫んだ。
「ジャックはいっしょに行かないのかい?」とブリアンが弟に向かって言った。
ジャックは行かないと返事した。
そこで、ジェンキンス、ドール、コスター、アイヴァースンの四人が、モコに連れられて出発した。岩礁に沿って出かけてゆく。
一隊が遠ざかると、大きい少年たちはヨットの積荷の調査にとりかかった。
まず、予備の帆と船具が完全にひとそろえあることがわかった。それに釣道具が若干《じゃっかん》、手網《たも》、底釣や流し釣用の糸が調査表に加えられた。
武器については、ゴードンの手帳に書き入れられたのは次のとおりだ。
猟銃八丁、鴨《かも》打ち銃一挺、ピストル一ダース。弾薬は、元込め銃用実弾三百|包《ぽう》、二十五ポンド入り火薬二|樽《たる》、かなり多量の鉛弾《なまりだま》と散弾《さんだん》。船艙《ふなぐら》には、このほかに、信号用打ち上げ弾と、ヨットにすえつけた小さな二門の大砲用の砲弾約三十発があった。
洗面用具や炊事道具は、少年たちの入り用に十分なだけあった。船員のトランクをあけると、ズボンや、毛のジャンパー、防水の雨合羽《あまがっぱ》、厚地のセーターなどがでてきたが、みんなの背丈に合わせることは簡単にできそうだった……これで冬の寒さもしのげるだろう。それから、小さなゴム・ボートが一艘、これは鞄《かばん》のように折りたためるし、川や湖を渡るのに使える。
道具箱には大工道具一式がそろっていた。さらにまた、あかりを切らす心配はないとわかった。マッチがどっさりある。ランプの芯《しん》と燧石《ひうちいし》は長期間まに合うだろう。この点は安心できた。
それから、船の金庫から金貨で五百ポンド見つかったことも言っておこう。
次に、ゴードンは、船艙にきっちり積んだ酒樽をたんねんに調べにかかった。
ジンとブランディとウィスキーが五十ガロン、二十五ガロン入りのビールの樽が四十、……いろいろなリキュール類の壜《びん》が三十本以上。
こうして、スルーギ号の十五人の漂流者は少なくとも当分のあいだは、生きてゆくのに困ることはないと安心できた。あとは、この土地からとれるもので、彼らの貯えを節約できるかどうかを調べてみることだ。まったくの話、嵐に打ちあげられたこの場所が島だとしたら、付近に船でも通りかからないかぎり、ここを脱けだす望みはほとんど持てなかったのである。
お昼ごろ、モコに率《ひき》いられた少年たちがスルーギ号に帰ってきた。みんな仕事をまじめにやって、よく役にたったのである。彼らが取ってきたたくさんの貝を、モコが料理にかかった。一時間もすると、お昼の仕度ができました、とモコが呼びにきた。料理のしかたは上手ではなかったのだが、貝、とくに貽貝《いがい》がおいしい、とみんな言った。ビスケット、山盛りのコーン・ビーフ、冷たい水、これでとびきり上等の食事になった。
午後は船艙の整頓《せいとん》をした。ジェンキンスら小さい仲間は、そのあいだ川で釣をした。夕飯がすむと、みなは寝室にひっこんだ。
こうして、太平洋上のこの土地での二日目の夜が過ぎた。
考えてみると、この少年たちは、無人島に流れついた人たちがたいてい経験する、物資欠乏のはめにはならなかったのだ。これが腕のある屈強な大人たちだったら、この状況なら、なんとかきりぬける機会をつかめたろう。しかし、いちばんの年上でもやっと十四歳という少年たちなのだ。こんな状態でなん年もなん年も過ごさなければならないとしたら、はたして生きてゆけるだろうか? 心細いかぎりだった。
島なのか、大陸なのか? 性格からいっても頭からいっても、この小集団のリーダー格になる、ブリアン、ゴードン、ドニファン三人の心にかかっている重大問題は、このことだった。しかし、この土地が島であっても、大陸であっても、熱帯地方でないことは、はっきりしている。この地方は、どうやらニュージーランドよりはやや緯度が高い、つまり南極に近いようだった。したがって、冬が非常にきびしくなるおそれがあった。
スルーギ号を住居と決めた次の日、ゴードンが言いだした。「それだから、こんな海洋に落ち着いてしまわない方がいいと思うんだ」
「ぼくもそう思う」とすぐドニファンが応じた。
「ぼくはいつでも偵察に行けるよ」とブリアンが言った。
「みんなそうだよ」とゴードンはつけたした。「二、三人で行けば十分だと思う」
「残念だけど」とブリアンが言った。「てっぺんから四方を見渡せるような高い山がないね。困ったことに、ここは平べったい土地なんだ。浜のうしろのあの崖《がけ》よりほかに、高いところはなさそうだよ。あの向こうは、たぶん、森や沼だ。君と河口《かこう》のあたりを偵察したあの川は、そこを流れているんだよ」
「ともかく、このへんを見晴らせると助かるんだがなあ」とゴードンは答えた。
「そうだ、湾の北に行ったらどうだろう?」とブリアンが言った。「北をふさいでいるあの岬に登ったら、遠くが見えるかもしれない……」
「僕もいまそう考えていたんだ」ゴードンは答えた。「あの岬なら二百五十フィートか三百フィートはありそうだ。崖よりは高いよ」
事実、湾のはずれには、岩山が突っ立っていた。海に面した側は垂直に切り立って、反対側はそこの崖とつながっているらしい。ゴードンが岬の高さを海抜三百フィートと見当つけたのは、そう間違っていないにちがいない。そのくらいの高さで、四方を広く見渡せるだろうか?
この計画は、実行することに決まった。いっぽう、スルーギ号が座礁したのが、大陸の一角かどうかはっきりわからないうちは、決して船を見すてないということも決まった。
けれども、その後五日のあいだ、この偵察は実行されなかった。霧が深く、ときに糠雨《ぬかあめ》までまじる天気になったのである。
湾を北上する偵察行に故障がはいったこの数日間は、狩りの獲物がたっぷりあった。とうとう、三月十五日、計画を実行するのによい天気になったように見えた。
湾の北の方を偵察することを思いついたのはブリアンだったが、彼は自分ひとりでやってみることに決めていた。
十五日の晩、ブリアンは、明日の朝早く出発する、とゴードンに告げた。
空は晴れ、霧はすっかり消えていた。この天気を利用しないという法はない。
はじめの一時間、ブリアンはどんどん足がはかどり、道のりの半分を越えた。このままなにごともなく行けば、午前八時までには岬に着くと彼は思ったが、石畳《いしだたみ》の海岸に崖が迫るにつれて、歩きにくくなってきた。岩はすべるし、ねばねばした海草がある、石がぐらついて足場の悪いところばかりだ。
「あげ潮にならないうちに岬に着かなくちゃあ」とブリアンはひとりごとを言った。
勇敢なこの少年は、疲れて足が棒のようになってきたのもかまわずに、最短距離を急いだ。靴も靴下も脱いで、膝までつかって広い水溜りを渡らねばならないこともしばしばだった。
とうとう岬の麓《ふもと》についた。見ると、南極地方に多いペンギンが群らがっている。ペンギンは、なん百羽となく、小さな羽をぶきっちょに振りながら、よちよちと歩いていた。その羽は、飛ぶよりは泳ぐためにあるのだ。
十時ごろだった。最後の数マイルにずいぶん時間がかかったものだ。へとへとに疲れて、おなかもすいた。ブリアンは岬に登るまえに、腹ごしらえをしておこうと思った。波のとどかない岩に彼は腰をおろした。
一時間近くゆっくり休んで、ブリアンはすっかり元気をとりもどした。そこで、袋を背負うと、岩をよじ登りだした。
登るのはかなりきつかった。落ちたら最期《さいご》命はない。なん度もすべりかかったが、それでもついに、頂上に立った。
なによりもまず、ブリアンは東の方角をながめた。見渡すかぎり平らな土地だった。この崖があたりでいちばん高くて、なだらかな丘が内陸の方へ心もち低くなっている。地平線まで十マイルはあろうか、一帯の平地である。その先に海がありそうには見えなかった。ここが大陸の一部なのか、それとも島なのかをたしかめるには、東の方をもっと遠くまで探検しなければ駄目なようだ。
また、北の方も、七、八マイルまっすぐに海岸線が延び、広い砂浜になっていたが、そのはずれはブリアンにはよくわからなかった。南は、北東から南西に走る海岸の際《きわ》まで広い沼地になっている。
二時になった。そろそろスルーギ号に帰ろうと思って、ブリアンは丘をおりる支度をした。
しかし、ふともう一度東の地平線をながめてみたくなった。太陽がさっきよりはだいぶ傾いたので、もしかしたら違った地形が見えるかもしれない。
そこで、この方角をこれが最後と、つくづくながめてみた。念を入れて損はなかったのだ。はるか視界の果てに、青白い線がはっきりと見えたのである。それは北から南に、数マイルにわたって続いていた。
「なんだろう?」と彼はつぶやいた。もう一度よく注意して見つめた。
「海だ! ……そうだ、海なんだ!」
海が東に広がっているからには、もう疑問の余地はない。スルーギ号が流れ着いたのは大陸ではない。島だったのだ。広い広い太平洋上の離れ島、脱けだすことのできない島なのだ。
それから十五分後には、ブリアンは浜におり立っていた。朝来た道を引き返して、五時まえにスルーギ号に着いた。船では仲間がいまかいまかと彼の帰りを待っていた。
その晩、食事のあとで、ブリアンは探検の結果を年長の者たちに知らせた。要するに、こういうことになる。スルーギ号は不運にも島に打ちあげられたのだ。大陸ではない。
はじめ、ゴードンたちは、ブリアンの断定を聞いて、ひどく驚いた。なんだって! 島だって、それじゃあ、ここから脱けだすことはできないのか!
「しかし、ブリアンが見違えたのかもしれないよ」とドニファンが言った。
「そうだ、ブリアン、君は雲を海だと思ったんじゃないか……」とクロッスも言った。
「いいや」とブリアンは答えた。「間違いなんかしないよ! 東の方に見えたのは、たしかに水だ。水平線がふくらんでいた」
ブリアンがこれほどはっきり言うのだから、それをまだ疑うのは無理というものだ。
しかし、ドニファンは自分の考えを言いはった。彼がブリアンと議論をすると、いつもそうなる。
「なん度だって言うよ、ブリアンが間違えたのかもしれないさ。ぼくらが自分の目で見なけりゃあ……」
「そうすることにしよう」とゴードンが答えた。「これから先どうしてゆくか、決めなければならないんだものね。天気さえよかったら、明日からでも出かけよう。この探検はきっとなん日もかかるだろうよ。しかし、天気がよかったらの話だよ。天気の悪いときに、奥地の密林にはいるのは、気違いとおなじだからな……」
「いいよ、ゴードン」ブリアンは答えた。「それで、島の反対側についたら……」
「島だなんて!」とドニファンは大きな声をたてて、肩をそびやかしてみせた。
「島だったら!」いらだたしそうにブリアンが反発した。「ぼくは見違えてなんかいない! ドニファンはただぼくに反対したいんだ、いつだってそうだ……」
「君だって、間違えることはあるだろう、ブリアン」
「そりゃあるさ。でも、今度は、間違いかどうか、じきわかる。この足であの海をたしかめに行くよ、ドニファンがいっしょにくればいい……」
「もちろん行くさ!」
「ぼくらも行くよ!」と三、四人が叫んだ。
「よし、わかった!」とゴードンが引き取って言った。「みんな落ち着いてくれたまえ。ぼくたちはまだ子どもだけど、することは大人のようにやってゆこう。この探検はドニファンとブリアンがやることにして、あとふたり、だれかいっしょに行ってもらおう……」
「ぼくが行く」とウィルコックスが言った。
「じゃあ、ぼくも」とサーヴィスが言った。
「それで決まった」とゴードンは答えた。
「四人で十分だろう。君たちの帰りがおそいときには、このうちのだれかがまた迎えにいける。あとの者は船に残っていよう。ぼくらの家がここだってことを忘れないでくれよ。大陸だと決まらないうちは、この船を離れられないんだからね」
「島だよ!」ブリアンは言った。「もう言わないけど、たしかに島なんだ……」
「いまにわかるさ」とドニファンが言い返した。
ゴードンの賢明な処置で、少年たちの仲たがいはけりがついた。たしかに、ブリアンが見た青い線まで行くためには、どうしても奥地の森を横切ることが必要だった。
ドニファンとブリアンはすぐにも出かけたがったが、あいにく天気が変わって、出発を延ばすほかなかった。あくる日から、冷たい雨が途切れがちに降りだしたのである。こんなときに冒険するのは無謀《むぼう》というものだ。
なん日も突風がつのった。そのあいだ、みんな船に閉じこもっていたが、ぼんやりしていたわけではない。毎日の生活のことのほかに、この天気で船にかなり痛みがきて、修繕の仕事が絶えなかったのである。
四月一日、天気がよくなる気配がはっきり見えた。気圧計の目盛りは徐々にあがり、風は陸に吹きつけていたが、めっきりと弱まっている。このようすでは間違えることはない。奥地の探検につごうがよくなってきたようである。
大きい少年たちは、この日、探検のことを話し合った。そして論議のすえ、だれの目にも明らかに重要なこの遠征のための準備が行なわれた。
この晩、明日の別れをまえにして、ゴードンたちは、胸がしめつけられるような気持ちだった。この探検旅行のゆくてに何が待っているのだろう、どんな大変なことが起こるかもしれない。彼らの目は空をじっと見つめていたが、心は両親の方へ、ふるさとの家の方へと飛んでいた。そのとき、小さい子どもたちは、教会の十字架のまえにひざまずくように、南十字星に向かってひざまずいた。南十字星は、彼らに、この不可思議な宇宙をつくった全能の神に祈り、神に希望をかけるようにと、語ったのではあるまいか?
四
ブリアン、ドニファン、ウィルコックス、サーヴィスの一行は、朝の七時にスルーギ号をあとにした。
少年探検隊は、まず、砂浜を斜めに横切って、崖の麓《ふもと》を目ざした。動物の本能がきっと役にたつから、ぜひファンを連れてゆきたまえというゴードンのすすめで、この利口な犬が探検に加えられていた。
十五分ばかりすると、四人の少年は森のかげに見えなくなり、じきにそこを通りぬけた。
崖に着いてまもなく、ブリアンは、いちばんはじめにゴードンとふたりで偵察に来たとき、行きどまりになった場所だと気がついた。だいたい一時間は歩いていた。
「急ごう」潮があげてこないうちに行けば、ずっと道がはかどることを説明してブリアンは言った。「一分も無駄にしないことだ。……だけど、サーヴィスはどこへ行った?」
彼は呼んだ。「サーヴィス? ……サーヴィス?」
あたりにサーヴィスの姿はなかった。ファンといっしょに離れていって、断崖のでっぱりのかげに、ついさっき消えたのである。しかし、すぐ、サーヴィスの声が聞こえ、同時に犬のほえる声がした。
ブリアン、ドニファン、ウィルコックスの三人はたちまち仲間に追いついた。サーヴィスは崖が少しくずれたところに立っていた。切り立った岩壁に溝《みぞ》のような形に裂けめがついていた。内側の傾斜は四十度か五十度どまりだ。その上、でこぼこがあって、たやすく足がかりになりそうな岩が続いている。
さっそく、ドニファンが、崖の下に積もった石の山にかけのぼった。
「待て! ……待て!」とブリアンはどなった。「むちゃをしては駄目だよ!」
だが、ドニファンは耳もかさない。友だちより先に立つ……とくにブリアンより……のを得意にしていたので、彼はまもなく漏斗《じょうご》のようなくぼみのなかばまで登ってしまった。ほかの者もあとに続いた。ドニファンのすぐ下を登って、岩からはがれる落石に当たらないように用心しながら。
みんな無事だった。ドニファンは、だれよりも先に崖の頂上に登ったので、大喜びだ。
ドニファンは早くも望遠鏡を取りだして、東の方、目のとどくかぎり広々と続く森の上に向けていた。
そこには、ブリアンが岬のてっぺんからながめたとおなじ緑と空が広がっていた。
「どう、なにか見えるかい?」ウィルコックスがたずねた。
「なんにも見えやしないぞ!」ドニファンは答えた。
「じゃあ、ぼくが見てみよう」とウィルコックスが言う。ドニファンは、どんなもんだいと言わんばかりの顔をして、眼鏡《めがね》を渡した。
「水なんかちっとも見えないや!」望遠鏡をおろすと、ウィルコックスは言った。
「当たりまえだよ」とブリアンは言った。「この崖は岬より低いんだもの。見える範囲がせまいのさ。ぼくが登ったところまであがれば、六マイルか七マイル向こうに、いやでも青い線が目にはいるよ。そうすれば、ぼくが言ったとおりだとわかるさ。雲と見違えるなんてありえないんだ!」
「口ではなんとでも言えるよ!」とウィルコックスが言った。
「たしかめることもできるさ」とブリアンは言い返した。「この丘を越えて、森を横切って、ずんずん行けば、かならずぶつかる……」
「なるほど」とドニファンが答えた。「そうやって延々と歩くわけだ。行ってみるだけのことがあるかどうかな……」
「ドニファン、君は行かなければいい」とブリアンは言った。「ここにおいでよ……サーヴィスとふたりで行くよ……」
「ぼくらも行こう!」ウィルコックスが言った。「さあ、ドニファン、出発だ!」
ブリアンたちは丘陵《きゅうりょう》の背を横切った。崖の反対側を降りるのは骨がおれた。
森にはいると、進むのが困難になった。しょっちゅう立ちどまって道をひらく、足よりも腕の方が疲れるのだ。
二時ごろ、森のなかの小さな空地で休んだ。空地を突っ切って川が流れている。流れが静かでごく浅いところを見ると、水源が遠くないにちがいない。渡るのは、川のなかの石を伝えば、わけはない。ところによっては、平たい石が規則正しく並んでいる。
「変だな」とドニファンが言った。
なるほど、こちらの岸から向こうの岸へ、まるで堰《せき》をこしらえたみたいになっている。みんなでよく注意して、この細い堤《つつみ》を調べてみると、石はほんの数インチ水から顔を出しているだけだ。
だれか人間が、こんな風にわざわざ川のなかに石を並べて、流れを渡りやすいように作ったというのだろうか? いや、大水のとき急流に流された石が、だんだんたまって、自然のダムになった、と考える方がいいのではないか。そう考えれば、いちばん簡単にこの堰堤《えんてい》の説明がつく、念いりに調べた結果、ブリアンたちはそう結論した。
川の流れは北東に向かっていた。つまり湾とは反対の方角だ。とすると、この川は、ブリアンが岬の上から見たという海に注いでいるのか?
「この川はもっと大きな川の支流かもしれないよ」とドニファンは言った。「それで本流は西に流れているんだ」
「そんなことはいまにわかるよ」とブリアンが言った。「それより、流れが東に向かっているあいだは、川に沿ってゆくのがいいと思う。あんまり遠回りにならなければだけど」
四人の少年は、石の堰を伝ってそろそろと川を渡ると、また歩きだした。川の縁を歩くのは割に楽だった。五時半ごろ、ブリアンとドニファンは、流れがはっきり北に向いていることに気がついて、がっかりしてしまった。このまま行ったら、道が遠くなるばかりだ。そこで彼らは、川岸から離れて、白樺《しらかば》と|ぶな《ヽヽ》の深い林のなかを、東に道をとることにした。
道はたいへん辛《つら》かった。高い草にしばしば頭まで隠れてしまう。彼らは離れ離れにならないように、名前を呼び合わねばならなかった。
午後の七時になっても、まだ森のはずれに出ない。もうすっかり暗くなった。
ブリアンとドニファンは、進むのをやめ、木陰で野宿することに決めた。
ブリアンたち一行が目をさましたのは、翌朝七時に近いころだった。七時半には少年たちは東に向かって出発した。そうして二時間ほど進んだ。十時少しまえ、はてしなく続くように思われた緑の幕がとうとうあがって、別の景色が現われた。森のそとは、広い野原が開けていた。その東、半マイルばかり先は砂浜になって、ブリアンがかいま見たあの海が、静かに波を打ち寄せていた。海は水平線のかなたまで続いていた……
ドニファンは黙りこくっていた。ブリアンが言ったとおりだったことを認めるのが、いやだったのである。
いっぽう、ブリアンも、得意がろうとするでもなく、望遠鏡をのぞいて、あたりの海岸を調べていた。
海岸は、北の方で少し左に湾曲《わんきょく》している。南の方も同じような海岸だ。
いまはもう疑う余地はない。これは大陸ではない。嵐が彼らのスクーナーを打ちあげたのは、島だったのだ。そとから助けがこないかぎり、ここを脱けだすことはあきらめなければならない。
それでも、ブリアン、ドニファン、ウィルコックス、サーヴィスの四人は、砂浜まで続く草原を横切っていって、砂丘の下に腰をおろした。お昼を食べて、それから森を通って引き返すつもりだった。急げば、たぶん暗くならないうちにスルーギ号にもどれるだろう。
食事のあいだ、みんなはほとんど口をきかなかった。とうとうドニファンが立ちあがって、ぽつりと言った。「行こう」
四人は、もう一度海をながめやると、野原をもどっていこうとした。そのとき、ファンがはねるように浜の方に走りだした。
「ファン! ……こっちだよ、 ファン」とサーヴィスがどなった。
だが、犬はぬれた砂をかぎながら走り続けた。そして、小さな波の寄せるなかにざぶりと飛びこむと、がぶがぶ飲みはじめた。
「飲んでる……飲んでる!」とドニファンが叫んだ。
飛ぶようにドニファンは砂浜を突っ切った。そして、ファンが飲んでいる水をすくって、口に持っていった……真水だった!
東に地平線まで広がる水は湖だった……海ではなかったのだ。難破した少年たちの運命にかかわる重大問題は、けっきょくまたわからなくなってしまった。海と思ったのが湖であったことには、疑いがない。
しかし、この湖が島のなかにあるのかもしれないではないか。もっと先に探検を続ければ、本当の海にでくわすかもしれない……渡ろうにも渡れない海に。
一日や二日帰るのがおくれても、探検は続行すべきだ。問題はただ、南に向かうか、北に向かうかである。南にくだるほうがスルーギ号に近くなるので、この方角に進むことに決まった。
こう決まって、四人は翌朝八時半から、前進を開始した。湖岸に沿って、あるときは砂丘の麓を回り、あるときは砂地を歩き、少年たちは、たいして疲れることもなく、その日のうちに十マイルほど進むことができた。夜七時ごろ、野宿することにした。その晩は、これ以上南に行くことはできなかったのだ。ちょうどその場所に、湖から流れでる川があって、泳がないと渡れなかったのである。
晩の食事がすむと、ブリアンもドニファンもウィルコックスもサーヴィスも、ただもう休みたいばっかりだった。
翌朝、ブリアンが、毛布の下に縮こまっている仲間たちを起こしたのは、七時近かった。
みなはすぐとび起きた。サーヴィスがビスケットをかじっているあいだに、あとの三人は川の向こう岸を偵察に行った。
彼らの背後には、小高い尾根が迫り、切り立った壁で終わっている。川の右岸は、二十フィートほどの幅で、崖のすそをまくようにしているが、左岸は、非常に低くて、流れとほとんど区別がつかないくらいである。流れの方角を見きわめるには、崖によじのぼらなければならないようだ。
とりあえず、湖水の水が川に流れこむあたりを調べてみようということになった。
「おい、あそこを見ろよ!」崖の下まで来たとき、ウィルコックスが声をあげた。
石を積み重ねて、突堤のようになっているのが、彼の注意をひいたのだ。そのとき、犬の素振《そぶ》りがおかしいのに、みんな気がついた。
「ファンを見てごらんよ!」とサーヴィスが言った。
「なにか感づいたんだ」ドニファンは答えて、犬の方へ行った。ファンは、片足をあげ、鼻を突きだして、立ちどまった。それから、いきなり、崖の下にかたまる木立の方へ走りだした。
ブリアンたちはあとを追った。たちまち、一本のぶなの老木のまえに出て、彼らは立ちどまった。幹には、ふたつの文字と年号が刻んであった。
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もし、ファンの姿が岩壁のはずれに消えてしまわなかったら、四人の少年は、声をのんだまま、いつまでもこの字のまえに立ちつくしていたことだろう。
「こっちだ、ファン、もどっておいで」
ブリアンが呼んだ。犬はもどってこないで、あわただしい吠え声が聞こえた。
「気をつけろ、みんな!」ブリアンが言った。「ばらばらになるな。用心するんだ!」
鉄砲には弾をこめ、手にピストルを構えて、いざという場合に備えた。
少年たちは前進した。岩壁の角を回ると、川に迫る崖に沿って、そろそろと進んだ。
不意に、もの悲しげな鳴き声が空を裂いた。そして、それとほとんど同時にファンが現われたが、さっきよりももっとわけのわからぬ興奮にとらえられている。
「きっとなにか変なことがあるんだ」と言って、ブリアンは犬を落ち着かせようとしたが、駄目だった。
「行ってみよう、ファンの行くところへ」そう言いながら、ドニファンは、ウィルコックスとサーヴィスに、あとに続けと合図をした。
十歩ばかり行った薮《やぶ》のまえでファンが立ちどまった。
ブリアンは、この薮のなかに動物の死骸か人間の死骸が隠れていて、ファンが嗅ぎつけたのではないかと、まえに出た。……茂みをわけてみると、なんとせまい穴があいている。
彼は斧《おの》をふるって、入り口をふさいでいる枝を大きく切り払いにかかった。耳を澄ましても、なにも怪しい音は聞こえない。
たちまち開いた穴から、さっそくサーヴィスがなかにはいろうとしたが、ブリアンが止めた。
「ファンがどうするか見てみよう!」
犬はさっきから低い声でうなっている。安心のゆくようすではない。しかし、この穴のなかに生きものが隠れていたのなら、とっくに出てきたはずだ……どうしたものだろう。
「はいろうか?」とウィルコックスが言った。
「うん」とドニファンが応じた。
「待ちたまえ、明りがなくっちゃあ」とブリアンが言った。彼は、川の縁《へり》に生えている松から、|やに《ヽヽ》のにじんだ枝を伐《き》って、それに火をつけた。そうして、みなの先頭に立って、茂みをわけてはいった。
洞窟《どうくつ》の入り口は、高さ五フィート、幅二フィートぐらいだった。だが、なかにはいると、急に広くなって、上は十フィート、横はその倍くらいの穴になっている。
ずかずかはいったウィルコックスが、なにかにぶつかった。木の腰掛けだ、そばにテーブルもあった。
このほら穴に人が住んでいたことは、もう疑いようがない。しかし、いつごろ、どんな人だろう? 奥のところに、見すぼらしいベッドがあった。ぼろぼろの毛布がかかっている。少年たちはあとずさりした。
ブリアンが、思いきって、毛布をめくった。……
ベッドは空だった。
なんともいえない思いに胸をうたれた四人は、急いでおもてに出た。そとでは相変わらず、悲しげにファンが鳴いていた。
彼らは川岸を二十歩ほどくだったが、そこで足がぴたと止まった。恐ろしさにくぎづけになったのである。
そこのぶなの根のあいだに、骸骨《がいこつ》が地べたに散らばっていた。
おそらくなん年もあのほら穴に住んだ不幸な人が、こうしてここに来て死んだのだ。すみかとしていたあの淋しい隠れ家を死の床にすることさえできなかったのだ!
四人はすっかり黙りこんでしまった。こんなところに来て死んだのは、いったい、どんな人だろう? 難破船の乗組員だろうか? どこの国の人だろう? どうやって暮らしをたてたのか?
とにかく、洞窟をよく調べてみなければならない。
「行こう!」とブリアンが言った。
また松の枝をたいまつにして、彼らはファンのあとから穴にはいった。
ブリアンは端から細かく調べた。品物はいくらもなかった。スルーギ号の少年たちのほうがずっと恵まれている。この人には、ろくろく道具もそろっていなかった。鶴嘴《つるはし》が一挺、斧が一挺、炊事道具三、鉄鎚《かなづち》一、たがね一、鋸《のこぎり》一、……まず見つかったのはこれだけである。
ベッドの枕もと、さっきブリアンがはねのけた毛布の端にかくれて、懐中時計が壁に打った釘にかかっているのを、ウィルコックスが見つけた。ブリアンは時計の蓋《ふた》をあけてみた。
「時計には名前があるものだぜ……それを見たら、なにかわからないかな……」とドニファンが注意した。
「なるほど、そうだ」とブリアンはうなずいた。
蓋の内側をよく見ると、刻んだ字が読めた。
…… |Delpeuch,《デルプーシュ》 |Saint-Malo《サン・マロ》 ……製造者の名前と町の名だ。
「フランス人だ。ぼくの国の人だ!」ブリアンはたかぶった声で言った。
もう疑いはなかった。この洞窟にはかつてひとりのフランス人が住んだのだ。まもなくもうひとつ、ほかの証拠が出てきた。ドニファンが床から一冊の手帳を拾ったのだ。黄色くなったページに鉛筆でぎっしり書きこんである。
残念ながら、字は大半読めなかった。だが見当のつくところもあって、その中に、|Francois Baudoin《フランソア・ボードアン》 というつづりが読みとれた。
難破した人があの木に刻んだ文字は、この名前の頭文字だったのだ。この手帳は彼の生活の日記なのだ。歳月が完全に消し去らなかったきれぎれの文章から、ブリアンはまた、|Duguay-Trouin《デュゲー・トルーアン》 という字を見つけだした。きっとこれが、この太平洋の果てで難破した船の名前だろう。
手帳のはじめに、年号が書いてある。頭文字の下に刻んであったのと同じ数字だ。おそらく難破した年であろう。
そうしてみると、フランソア・ボードアンがこの土地に流れ着いたのは五十三年まえのことになる。ここで暮らしたあいだじゅう、ついにそとからの救いの手はこなかったのである。
それにしても、フランソア・ボードアンがよその土地に行けなかったというのは、越えられない障害が彼のまえに立ちふさがっていたからではないのか?……
少年たちは、いまや、事態の重大さをひしひしと感じた。そこへ、駄目を押すように、この土地を去るくわだてはすべて無駄だと教えるものが、見つかったのである。
手帳をめくっているうちに、ドニファンは、ページのあいだに一枚の紙がたたんであるのに気がついた。地図だった。たぶん、水と煤《すす》とで作ったらしいインクのようなもので書いてある。
「地図だ!」と彼は叫んだ。
「きっとフランソア・ボードアンが自分で書いたんだ」とブリアンが言った。
「そうだとすると、この人はただの水夫じゃないね」ウィルコックスが口を出した。「デュゲー・トルーアン号の高級船員だよ。地図が作れるんだもの……」
「それなら、この地図は? ……」とドニファンの声が高い。
そうだ。地図はこの土地の地図だった。スルーギ湾も、暗礁も、船がとまった海岸も、ブリアンたちがいままで西の岸をたどってきた湖も、沖の三つの小島も、川の縁《へり》まで張りだしている高台も、中央部をおおっている森も、すべて地図にある。湖の対岸は、また森であった。その森は海岸線まで達している。そしてその海岸線が……ぐるりと一周して、海が洗っている。
これで、助かる道を探しに東の方に行くという計画はご破算になった。やはりドニファンよりブリアンが正しかった。やはりこの地は四方を海に囲まれていた……島だったのだ。フランソア・ボードアンが脱けだせなかったのは、そのためだったのである。
それでもなお、ボードアンは全島くまなく歩いたものとみえ、島の主な地形は書きこんであった。
フランソア・ボードアンの描いたところによると、島の地形は次のとおりである。
全体は縦に長く、羽を広げた大きな蝶のような形をしている。島でやや目立つ高いところは、湾の北の岬から川の右岸まで斜めに走るあの崖だけらしい。島の北部は、乾燥した砂地になっており、川から南は広い沼地が続いている。東北と東南には、長い砂丘が延びている。
最後に、地図の下にある縮尺で見ると、島は、いちばん広いところで、南北約五十マイル、東西二十五マイルある。
この島が、ポリネシア群島のどのへんにあるのか、それは推測の材料も全然なかった。
いずれにしても、スルーギ号の少年たちは、ここに腰を落ち着ける覚悟を決めるほかはなかった。それに、洞窟がかっこうなすみかになるのだから、冬のさきぶれの嵐が来て、船が壊れてしまわないうちに、ここに品物を移した方がよいだろう。
そうと決まれば、急いで船に帰ることだ。ゴードンがとても心配しているにちがいない。悪いことが起こったかと案じているかもしれない。だが、出発するまえに、少年たちは、難破したフランス人のために、最後の手向《たむ》けをしたいと思った。
敬虔《けいけん》な儀式がすむと、四人は洞窟にもどって、野獣がはいれないように、入り口をふさいだ。
五
ブリアン一行の帰還がどれほど喜んで迎えられたかは、考えてみるまでもない。しかし、ブリアンもドニファンもウィルコックスもサーヴィスもひどく疲れていたので、詳しい話は翌日に回すことになった。
「ここは島なんだ!」
ブリアンが言ったのは、やっとそれだけだった。
翌日……四月五日の朝早く、年長の少年たち……と、みんなのよい相談相手のモコ……は、幼い者たちがまだ眠っているうちに、船の舳《へさき》に集まった。ブリアンとドニファンがかわるがわるしゃべって、旅行中の出来事をみなに説明した。
ブリアンもドニファンもどんな小さなこともぬかさず、詳しく話をした。みんなは地図を見つめていた。そとからの救いを待つ以外にないことが、いま、みんなの胸にこたえた。
「いちばんいいのは、そのほら穴を家にすることだよ」とブリアンは話した。「すてきな家になると思う。できるだけ早くあそこに引っ越そう」
事実、それは急を要した。ゴードンが指摘したことだが、船は一日一日住むに堪えなくなっていた。ただちに船から出るというだけでなく、船をてぎわよく解体して、フレンチ・デン(フランス人の洞窟)の整備に役立ちそうなものを持っていく必要もあった。……フレンチ・デンというのは、あの難破したフランス人をしのんで、ほら穴につけた名前である。
「それで、あそこに引っ越すまで、ぼくらはどこに住むんだい?」とドニファンが言った。
「テントだよ」とゴードンが答えた。「川のそばの林にテントを張ろう」
「それがいちばんいい。さあ、一時間も無駄にはできないぞ」とブリアンが言った。それからの数日は、川岸のキャンプの設営に費やされた。
四月十五日ごろには、重くて分解しなければ持ちだせないもののほかは、船にはなにも残っていなかった。
けれども、急がなければならなかった。四月の後半は天気がよくなかった。平均して気温がめっきりさがった。冬の気配が忍びよっていた。やがて冬が来て、南太平洋の高緯度の地方でたいへん恐れられる、雪と雹《ひょう》の吹きなぐりがやってこようとしていた。
用心のために、みんな厚着をすることにした。
ヨットの中身が空になると、あちこちにきしみがきている船体の取り壊しにかかった。
フレンチ・デンで使うように、銅の被覆《ひふく》が一枚一枚ていねいにはがされた。苦労の多い大仕事だった。そのため、解体はなかなかはかどらなかった。ところが、四月二十五日、大風が吹いて、少年たちの仕事に手をかしてくれた。
すでに寒くなっていたが、ひと晩じゅう、激しい嵐《あらし》が吹きつのった。船はばらばらに壊れた。船板ははがれ、骨組は分解し、竜骨さえなんども強く海底にこすられるうちに折れて、とうとうまったくの残骸に変わらなくなった。だが、嘆くことはなかった。なぜなら、波がひいてみると、海にさらわれたのは残骸のごく一部で、大部分は岩礁の上にひっかかっていた。砂に埋まった金具類を見つけだすのも、むずかしいことではない。それから数日は、全員この仕事に励んだ。まったくたいへんな仕事だったが、首尾よく終わった。
こうして、四月二十八日の夕方、スルーギ号の残骸はすべて、積みだせるように川岸に運ばれた。さて、それからが、いちばんむずかしい仕事だった。この品物をフレンチ・デンに運ぶのに、川を利用する予定だったからである。
「明日から筏《いかだ》づくりだ」とゴードンが言った。
「そうしよう」とバクスターが言った。「それで、ぼく、提案がある。筏は川の中で作ったらいいと思う」
「そいつはむずかしいぞ」とドニファンが反対した。
「いいよ、やってみようよ」とゴードンが言った。「作るのにはたいへんでも、水に浮かべるときの心配はしなくてすむから」
翌日は、一日じゅう、休みなしに働いた。そして、日暮れがたに枠組《わくぐみ》が完成した。
みんな、くたくたになって、晩飯の食欲はものすごかった。あとは朝まで死んだように寝た。
翌日、四月三十日、明けがたから、みんな仕事にかかった。
今度は筏の骨組の上に床を張る仕事だ。これには、スルーギ号の甲板と船腹《せんぷく》に張ってあった板を利用する。
一時間も無駄にできないので、急ぎに急いだけれど、この仕事に三日かかった。海岸の岩場にたまった水の表面や、川の岸辺には、すでに氷が張ったところが見えてきた。
五月三日、荷物の積みこみにかかった。筏がうまく平均をとるように、注意しながらきっちり積む必要があった。だれもかれも、自分の力に応じてこの仕事に精《せい》だした。みなが慎重に熱心に働いたおかげで、五月五日の午後には、すべての品物がきちんとおさまった。
翌日、日の出とともに、全員起床した。七時に、すべての準備が終わった。必要な場合には、二、三日筏の上で過ごせるような支度もできていた。
九時少しまえ、潮があがってきて、つなぎ合わせた材木が次々にゆれ、ぎしぎしいうにぶい音が筏の端から端へ走った。
「気をつけろ!」とブリアンが叫んだ。
「そっちも、しっかり!」バクスターも叫んだ。
ふたりは、筏の前後をつなぎとめる舫《もや》い綱の部署について、綱の尖《さき》の輪になったところを両手で握りしめていた。
「準備ようし!」筏の前部にウィルコックスといっしょに立ったドニファンが、叫んだ。
筏が潮に乗って岸から浮いたことをたしかめると、ブリアンは叫んだ。「綱とけえ!」
命令はそくざに実行された。自由になった筏は、救命ボートをうしろにひきながら、中流に静かに動きだした。
自分たちの作りあげたこの重い筏が動くのを見て、みんな大喜びだった。
出発して二時間、約一マイルは進んだろうか。十一時ごろ、潮がひきだして、流れが変わった。急いで筏を岸につないで、海の方へ流れないようにした。
夜、またあげ潮がくる。出かけようと思えば、もちろん、この日のうちにもう一度潮に乗れる。しかし、そうすれば、暗いところを危険をおかすことになる。一日ぐらいおくれても、川の流れにまかせてこの貴重な荷物を危険にさらすよりはましだ。
翌日、九時四五分ごろ、潮があげてくると、まえの日とおなじ要領で、筏は川に乗りだした。
とうとう、そのあくる日の午後、三時半まで続いたあげ潮のおかげで、行くてに湖が見えてきた。そして筏は、フレンチ・デンの目のまえの土手の下に横着けになった。
小さい子どもたちは歓声をあげて、岸に飛びおりた。この子たちには、環境が変わるのは、新しい遊びがはじまるのとおなじなのだ。ドールは子山羊《こやぎ》のように土手をはね回っている。アイヴァースンとジェンキンスは湖めがけて走っていく。
「みんなと遊ばないのかい?」ブリアンは弟に言った。
「うん、ここにいる方がいいの」とジャックは答えた。
「少し運動したほうがいいよ。ジャック、どうも気にいらないな……なにか隠しているね……それとも、体の具合でも悪いのかい?」
「ううん、兄さん、なんでもないよ」
いつもおなじ返事で、わけをはっきり知りたいと思うブリアンには、どうもものたりなかった。
だが、今晩からフレンチ・デンで寝るつもりだから、一刻も時間を無駄にしてはいられない。
まず入り口をかたづけて、せまい口からみんな次々になかへはいった。カンテラの明りで、穴のなかは、このまえ、やにの多い松の枝のたいまつや、遭難したここの住人が残した粗末な蝋燭《ろうそく》につけた火で、見たときよりはるかに明るく照らしだされた。
「へえ、これじゃあ窮屈《きゅうくつ》だなあ」穴の奥行をはかってみたバクスターが言った。
「なあに、船の部屋みたいに寝台を重ねればいいよ……」とガーネットが言った。
夕飯までに、寝台を運びこんで、砂の上にきちんと並べた。この日の終わりは、こうした仕事で過ぎた。
それから、ヨットの大テーブルを洞窟のまん中にすえると、七時まえに、みんなはフレンチ・デンのひとつきりの部屋……食堂兼寝室……に集まった。スルーギ号にあった木の腰掛け、折りたたみ椅子《いす》、柳の編み椅子、それに船員室のベンチまで持ちこまれていた。少年たちは、モコに給仕をしてもらったり、自分でお代わりしたり、たっぷり実《み》のある食事をした。
今日という日は本当に疲れた。おなかがいっぱいになると、欲も得もなく眠りたかった。しかし、ゴードンが、フランソア・ボードアンの墓参りをしようと言いだした。いま、自分たちは彼の住居《すまい》にはいりこませてもらったのだからである。
湖のかなたの地平線は闇に沈んでいた。少年たちは、崖の方に向きなおると、土を少し盛りあげた塚のまえに立った。塚の上に小さな木の十字架が立っている。墓のまえに、幼い者たちはひざまずき、大きい者たちは頭をたれて、遭難者の魂のために神に祈った。
九時には、床《とこ》についた。毛布にもぐるとたちまち、みんなぐっすり眠りこんだ。
翌五月九日から四日間は、筏《いかだ》の荷物をおろすのに猫の手も借りたかった。痛みやすいものを雨風のかからぬよう、フレンチ・デンに運びこむ必要があったのだ。
この数日は、仕事が忙しくて、狩猟係の連中が出かけるひまはなかった。しかし、漁獲《ぎょかく》の方は豊富だったので、モコが料理の材料に困ることはなかった。残る仕事は、筏の床をはがし、木組みをほごすことだけになった。その角材や板はフレンチ・デンの内部に使えるのだ。困ったことに、全部の品物を洞窟に入れる場所がなかった。穴を広げることができなければ、いずれは物置小屋を建てなければならないだろう。
当然のことだが、フレンチ・デンに落ち着いてから、ゴードンたちは、毎日の生活を規則正しく送るようにしていた。ゴードンは、ひととおり家のなかが整ったら、仕事の受け持ちをできるだけきちんと決め、ことに幼い者たちを放りっぱなしにしないようにしたいと考えていた。むろん彼らも、みんなのために自分たちでできる仕事は、なんでも進んでやろうとしていた。しかし、チェアマン学園ではじめた勉強を続けるべきではないだろうか。
「教科書があるから、勉強もできるよ」とゴードンは言った。「ぼくたちが知っていることや、これからさき勉強したところも、下級生に教えたらいいと思うけど」
そこで、時間割を作ることに決まり、それをきちんと守るよう気をつけるということになった。
実際、冬になったら、天気の悪い日が多くて、上級生も下級生もおもてに出られなくなる。そのとき、無駄に過ごさないことがたいせつだ。それにしても、フレンチ・デンの住人がいちばん困ったのは、狭いことだ。ひとつきりのこの部屋では、すし詰めのほかはない。ほら穴をもっと広くする方法を早急《さっきゅう》に考える必要があった。
少年たちは、狩りに出かけるたびに、もっとほかの洞窟がないかと、崖をなん度も調べてみた。しかし、どうしても見つからなかったので、いまの住居《すまい》を広げるという計画にもどらざるをえなかった。岩が花崗岩《かこうがん》だったら、こんな仕事はとてもできっこないが、ここの壁は石灰岩《せっかいがん》なので、のみや鶴嘴《つるはし》で簡単に削れる。そうむずかしいことはないだろう。時間のかかるのはたいして問題ではない。道具もたりるだろう。現にこのまえ、かまどの煙突を通そうとして岩に穴をあけたときは、まにあった。そのほか、バクスターが、苦労はしたけれども、フレンチ・デンの入り口を広げて、スルーギ号にあったドアをとりつける作業を、手持ちの道具でやりとげているし、入り口の左右の壁に小さな窓もあけている。
一週間まえから、天気が悪くなっていた。そのため、とかく洞窟に閉じこめられがちで、少年たちは拡張工事に乗りだすことになった。五月二十七日に作業にかかった。
まず右側の壁に、鶴嘴《つるはし》とのみが打ちこまれた。
まる三日のあいだ、仕事はかなり順調に進んだ。岩は石灰質の砂岩《さがん》で、まるでナイフで削るようなものだった。それだけにまた、内側に板を張って穴を補強しなければならなかったが、これは相当やっかいだった。
あれこれやってみてむずかしいこともあったが、工事は徐々にはかどった。ところがトンネルが四、五フィートの長さになった三十日の午後のこと、まったく思いがけない事件が起こった。
トンネルの奥にしゃがんでいたブリアンは、ふと、岩のなかから、なにか物音が聞こえるような気がした。
彼は仕事をやめ、耳を澄ませた……。また聞こえる。
すぐさま、トンネルから出ると、入り口のところにいたゴードンとバクスターに、いまの出来事を話した。
「気のせいだよ」ゴードンはあっさり言った。「君の空耳《そらみみ》さ……」
「来てみたまえ、ゴードン、壁に耳を当てて、自分で聞いてごらんよ」とブリアンは答えた。
ゴードンはせまい穴にもぐっていったが、まもなく出てきて言った。
「君が言ったとおりだ。遠くでうなっているような音が聞こえる……」
「なんだろうね?」
「ちょっと見当がつかないな」とゴードンは答えた。「ドニファンたちにも知らせなくっちゃ……」
ドニファン、ウィルコックス、ウェッブ、ガーネットが次々に穴のなかにはいってみた。しかし、音はやんでいた。
とにかく、仕事は中止しないことに決まった。そして、夕飯がすむと、また仕事がはじまった。
あくる日は、みんな早くから起きだした。バクスターとドニファンはトンネルの奥までそっとはっていった……なんの物音もしない。
「さあ、仕事にかかろう」とブリアンが言った。
「そうしよう。怪しい音がしたら、すぐやめるんだ」とバクスターが言った。
トンネル工事が再開され、一日じゅう続いた。まえの日のような音は聞こえなかったが、それまで鈍い音がしていた岩が、うつろな音をたてだしたのに、バクスターが気づいた。洞窟のとなりに、もうひとつ別の穴があるのかもしれない。そう考えてはならぬということはない。そうだとよいとさえ思ったのである。拡張工事の手間がそれだけ省けるからだ。
自然、だれもかれも、ものすごい意気ごみで働きだした。それだけに、この日は、これまでどんなに頑張った日にも劣らぬほど疲れた。
翌朝も、日の出とともに作業がはじまった。
午後の二時ごろ、ブリアンの口から、あっという叫びがもれた。鶴嘴《つるはし》が岩を突き破って、壁がくずれたのだ。そこにぽっかりと、かなり大きな口があいていた。
ブリアンはすぐさま仲間のところへもどった。みんなとっさのことで、うろうろしている……。
やっと、ブリアンがカンテラを持って、トンネルにはいっていった。ゴードン、ドニファン、ウィルコックス、バクスター、モコがあとに続いた。じきに、みんなは暗い洞窟の中央に立った。光はどこからもさしこんでこない。
この第二の洞窟は、天井の高さと横の幅はフレンチ・デンとおなじくらいだったが、奥行《おくゆき》がずっと深かった。外部とつながっていないようにみえたので、空気が悪くて息ができなくなるおそれがあった。しかし、カンテラの火が勢いよく燃えているところをみると、どこかから空気がはいってくるのだ。
少年たちは、細いトンネルをちゃんとした通路にする仕事に、すごい勢いでとりかかった。新しいほら穴は「広間《ホール》」と呼ぶことにしたが、広さからいって、もっともな呼び名だ。ふたつのほら穴を横につなぐ通路ができあがると、広間に物を運びいれた。この部屋は寝室と勉強部屋に使う。いままでの部屋は台所と食堂にすることにしよう。だが、物を置く場所にもするつもりだったので、ゴードンの提案で納戸《なんど》と呼ぶことになった。
まず、寝台の引っ越しだ。広間の砂の上にきれいに並べた。場所はたっぷりある。次に、スルーギ号にあった家具を並べ、この広い部屋の暖房用に、船の寝室とサロンのストーヴをすえつけた。いっぽう、湖の側に入り口をくりぬいて、そこに船のドアをとりつけた。さらに、この戸の両側に、また窓をふたつあけたので、広間に明りがたっぷりはいるようになった。夜は、天井からつるしたカンテラに灯を入れる。
こうした仕事に二週間かかった。ちょうどうまいときに終わったものだ。それまで穏やかだった天気が、変わりだしたのである。
まったく、すさまじい風だった。崖のかげになっているのに、湖の水は海のように波立った。幸い、納戸も広間もじかにこの強風をうけなかった。おかげで、ストーヴも炊事のかまども調子よく燃えた。
六月十日の夜、晩御飯がすんで、みんなは音をたてて燃えるストーヴのまわりに集まっていた。話がはずむうちに、ちょうどいい機会だから、島の主な場所に名前をつけようということになった。
「それは便利だ、とても役に立つよ」とブリアンが言った。
「賛成、名前をつけよう……」アイヴァースンが飛びあがった。「すてきな名前をつけようよ」
むろん、この動議は採択《さいたく》された。いい名前を考えようと、みんなただちに頭をしぼりはじめた。
「ヨットが打ちあげられたところは、ぼくたち、まえからスルーギ湾《ベイ》と言っているね。あの名前は、慣れているし、そのままにしておこうよ」とドニファンが言った。
「もちろんさ」とクロッスが相づちを打った。
「この洞窟の名前もフレンチ・デンのままにしよう、まえに住んでいた人の記念だもの」と、ブリアンも言った。
もちろん反対はない。ブリアンが言いだしたことでも、これにはドニファンも異存はない。
「じゃあ、スルーギ湾に流れこむ川はなんにしようか?」ウィルコックスが言った。
「ジーランド川《リオ》はどうだい」バクスターが提案した。「ぼくたちの国を思いだす名前だよ」
「賛成!」「賛成!」
これもいっぺんで決まった。
「湖はどうする?」とガーネットが言う。
「川がジーランドなら、湖は家のことを思いだす名前がいい。ファミリー湖《レーク》としよう」とドニファン。
満場一致で承認。
このように、みんなの心はひとつにそろっていた。おなじ望郷の気持ちから、崖の高台にはオークランド丘《ヒル》という名前がついた。そのはずれの岬……そのてっぺんから東の方に海が見えるとブリアンが思った岬……は、ブリアンの発案で、|幻 海 崎《フォールス・シー・ポイント》 と呼ぶことにした。
その他、順次決まった地名は次のとおりである。
このまえ落とし穴が見つかった森は、|落とし穴の森《トラップス・ウッズ》。スルーギ湾と崖とのあいだの森は、|沼の森《ボッグ・ウッズ》。島の南部一帯の沼地は、南沼《サウス・ムアズ》。石の小さな堰《せき》でダムのようになっていた小川は、堰川《ダイク・クリーク》。ヨットが座礁した海岸は、嵐海岸《レック・コースト》。川の岸と湖の岸にはさまれた草原、つまり広間のまえの芝生のようになったところは、スポーツ台《テラス》、これはそのうち時間割の体操の時間に使うことになる。
島のそのほかの地点は、いずれ調査がすみしだい、また、なにか出来事もあることだろうから、それを待って命名することにしよう。
しかし、フランソア・ボードアンの地図にある主要な岬には、名前をつけた方がよいということになった。そこで、島の北の岬は、北岬《ノース・ケープ》、南端のは、南岬《サウス・ケープ》とした。最後に、太平洋に面した西海岸に張りだす三つの岬は、この小植民地を営む、フランス、イギリス、アメリカ三国にちなんで、フレンチ岬《ケープ》、ブリティッシュ岬《ケープ》、アメリカン岬《ケープ》と命名することに満場一致で決まった。
植民地という言葉。そうだ、この言葉も、そのとき言いだされた言葉で、この島の生活がもう仮の生活ではないことを自覚するためだった。むろん、これは、ここから脱けだそうとじたばたするよりは、この新天地での生活をまず築こうと常に考えている、ゴードンの発意によるものだった。少年たちは、もうスルーギ号の難破者ではない。この島の住民なのだった。……
だが、 この島というのはいったいなんだ? ……島の命名がまだすんでいないではないか。
「あのね」とコスターが言った。「ぼくたちチェアマン学園の生徒でしょう。だから、チェアマン島にしようよ」
これ以上いい名前は考えられなかった。全員の拍手で、この名前に決定した。
チェアマン島! いかにも地名らしい響きがする。将来、世界地図にのってもよくにあうだろう。
命名式は終わった。みんな満足して、寝に行こうとするときになって、ブリアンが、ちょっともうひとつ、と言った。
「諸君、ぼくたちの島に名前がついた。ここで、この島をおさめる指揮者を選んだらどうだろう?」
「指揮者だって?……」ドニファンが意気ごんで言った。
「そうだよ、だれかがひとり、みんなの上に立つことにしたら、なんでもうまくゆくと思うんだ」とブリアンは答えた。
「それがいい。指揮者を選ぼう!」みんなは口々に叫んだ。
「よし、指揮者を決めよう」とドニファンも言った。「しかし、任期を決めておかなくては……たとえば、一年とか……」
「再選もいいことにして」とブリアンが補足した。
「いいだろう。……それで、だれを選ぶんだい?」ドニファンは心配そうに言った。
この嫉妬《しっと》深い少年は、みんなが、自分でなくて、ブリアンを選びはしないかと、それだけが心配だったらしい。この心配は、無用だと、すぐにわかった。
「だれを選ぶかだって? …… 」とブリアンが答えた。「決まっているよ、いちばん分別のある人さ、ゴードンだよ」
「賛成! 賛成! ……ゴードン万歳!」
こうして、ゴードンがチェアマン島|居留民団《きょりゅうみんだん》の指揮者に決まった。
六
すでに五月から、チェアマン島はすっかり冬になっていた。そこで、ゴードンは、冬ごもりの生活をできるだけうまく過ごせるように、毎日の日課の作成にとりかかった。計画は、アングロ・サクソン式教育の根本にある、次のような精神にのっとってたてられた。
「いやなことには、進んであたれ」
「努力できる機会は、決してのがすな」
「疲れることを恐《おそ》れるな、役に立たない苦労はない」
これを実行すれば、体も心もしっかりしてくるのだ。
植民地住民一同の賛成を得て、決まったことは次のとおりである。
午前二時間、午後二時間、広間で全員勉強。ブリアン、ドニファン、クロッス、バクスター、ウィルコックス、ウェッブは、代わりあって下級生を教える。科目は、数学、地理、歴史。自分たちがいままでに学んだ知識と、船の図書室にあった本を活用すること。このほか、週に二回、日曜と木曜には、理科や歴史や日常の問題を材料にして、討論会をする。上級生たちが賛成、反対の二組にわかれて、みんなのためにもなるし、楽しみにもなるよう、議論をする。
ゴードンは、指揮者として、この日課がきちんと守られ、突発事故でもないかぎり変更されないよう、見守る。
また毎日の記録をつけることも決まった。この仕事はバクスターがかってでた。彼のおかげで、詳細かつ正確な「フレンチ・デンの日記」が作られることになった。
これに劣らず大事で、一日も放っておけないのは洗濯だった。幸い、石鹸は十分あったし、これはモコのお手のものの仕事だった。
六月には、寒さは日を追ってきびしくなった。ウェッブの記録だと、気圧計は平均して七百三十ミリぐらい、寒暖計は氷点下十度から十二度を示していた。六月の末ごろ、雪の深さは三フィートないし四フィートに達し、ほとんど歩行不可能になった。
少年たちは、七月九日まで、二週間というもの、穴に閉じこめられて暮らした。
このあいだ、心配されたのは、食糧をどうするかということだった。なにしろいつものような狩りや漁の獲物がないのだ。困りきって、やむをえず、モコは船から持ってきた貯蔵食糧を少し使った。ゴードンも、しぶしぶ、これに手をつけることを許可した。それでも、火であぶって樽詰めにしておいた鴨《かも》と野雁《のがん》のストックがかなりたくさんあったのと、塩漬けにしたこれも相当量の鮭《さけ》が、モコの手もとにあった。ところで、忘れてならないのは、フレンチ・デンは十五人の口を養わなければならず、それも八歳から十四歳の食べ盛りの胃袋を満足させなければならなかったことである。だが、この冬のあいだ新鮮な肉が全然なかったわけではない。狩りの仕掛けにくわしいウィルコックスが川岸にわなをかけたのである。ごく簡単なわなだったが、小さな獲物がときどきかかった。
ウィルコックスはまた、友だちの手をかりて、高い棒の上にスルーギ号の魚網を張った。この長いかすみ網に、南沼《サウス・ムアズ》から鳥がたくさん突っこんだ。鳥を獲《と》るには網目が小さすぎて、たいていの鳥は逃げてしまったが、ふつうの食事のたっぷり二回分くらい獲れた日もあった。
七月十五日、カレンダーで見ると、この日は聖スイズィン〔九世紀のイギリスの司教、聖者。お天気に影響力があるという民間伝承〕の日である。イギリスの聖スイズィン祭は、フランスの聖メダール〔六世紀のフランスの司教、聖者。祭日は六月八日。この日雨が降ると、聖バルナベの日(六月十一日)にやまなければ四十日降り続くとか言われる〕祭にあたるという。
「それじゃあ」とブリアンが言った。「今日雨が降ると、四十日間降り続くんだな」
「なあに、そんなことなんでもないよ。どうせ冬だもの。これが夏だったらね……」とサーヴィスが答えた。そのとおり、南半球の人間は、南半球の国々では冬の聖者ということになる聖メダールや聖スイズィンの力を、あまりおそれることはないのである。
しかし、雨は続かなかった。風がまた南東に変わり、寒さがひどいので、ゴードンは下級生に外出を禁じた。
八月の第一週に、水銀柱は零下《れいか》二十七度までさがった。
なんともやりきれない日が二週間続いた。みんな、多かれ少なかれ、運動不足に苦しんだ。下級生たちの顔色が悪くなったのを見て、ブリアンは心配だった。
八月十六日ごろになって、風が西に変わるにつれて、空|模様《もよう》がよくなりはじめた。寒暖計は氷点下十二度まであがってきた……風もおさまったので、どうにか我慢のできる温度である。ドニファン、ブリアン、サーヴィス、ウィルコックス、バクスターの五人は、さっそく、スルーギ湾まで遠出をしようと考えた。朝早く出発すれば、その日の夕方には帰ってこられる。
極地の住民である両棲《りょうせい》動物が海岸にたくさんやってきていはしないか、それを見にゆくのだ。また、まえに立てた国旗がぼろぼろになっているだろうから〔少年たちは、フレンチ・デンに引っ越すまえに、沖を船が通ったら見つけてくれはしまいかと、崖の上に国旗を立てておいた〕、それも取り替えてこよう。
ゴードンは同意を与えた。ただし、暗くならないうちに帰るよう、くれぐれも念をおした。こうして一行は、八月十九日の朝、まだ暗いうちに出発した。湾まで六マイルほどの道のりは、休養たっぷりの足にはなんでもない。
道はどんどんはかどった。|沼の森《ボッグ・ウッズ》の湿地も凍っていたので遠回りしないですんだ。九時には、ドニファン一行は浜に着いた。
持参した弁当で簡単な食事をすますと、少年たちは湾一帯を調べに出かけた。浜はいちめん二、三フィートの雪で、スルーギ号の残骸も、この深い雪の下に消えていた。
海は、水平線の果てまで、相変わらずもの影ひとつない。三月《みつき》のあいだ目にしなかったこの水平線のかなた、なん百マイルの先には、ニュージーランドがあるのだ。ブリアンはいつの日かそこに帰ることを、あきらめてはいなかった。
バクスターは持ってきた新しい国旗を立てた。午後一時ごろ、一同は川の左岸に沿って帰途についた。
みちみち、川の上を飛んでいた尾長鴨《おなががも》と田鳬《たげり》をそれぞれ一つがい、ドニファンが獲った。日の暮れかけた四時ごろ、一行はフレンチ・デンに着いた。
八月の末から九月のはじめにかけて、海からの風が強くなった。強い疾風《はやて》がなん度も来て、気温が急にあがってきた。雪もとけはじめ、湖の表面は鈍い音をたてて割れた。
こうして冬が過ぎた。よく用心したおかげで、少年たちの植民地はあまりひどい目にはあわずにすんだ。そろって健康だったし、勉強も熱心にやった。ゴードンが、腕白《わんぱく》者を抑えねばならぬようなことは、ほとんどなかった。
九月十日で、スルーギ号がチェアマン島の暗礁に乗りあげてから、ちょうど六か月になった。
春が近づいてきたので、少年たちは、永い冬のあいだにたてておいた計画を、そろそろ実行に移せることになった。
チェアマン島のだいたいの形から見たところ、島の中央部でフレンチ・デンの東は、十二マイル以上はないようであった。スルーギ湾の反対側の、三日月《みかづき》形に海岸がくびれたこの方面に、調査隊を出すのがいい。
しかし、島のあちこちに遠征をするまえに、オークランド丘《ヒル》とファミリー湖《レーク》と|落とし穴の森《トラップス・ウッズ》に囲まれたあたり一帯を調べるのが先決である。生活の役に立つものがどのくらいあるか、それを調べるために、探検隊の派遣が決まり、日取りも十一月の初旬と決まった。
暦《こよみ》の上では春ははじまろうとしていたが、チェアマン島は相当緯度が高いので、まだ春の気配は感じられない。九月いっぱいと十月の半分は非常に天気が悪くて、ひどい寒さのこともあった。ただその寒さも長続きはしなくなった。
そのあいだ、フレンチ・デンでは、みんなぶらぶら遊んでいたわけではない。バクスターは、重いものを運ぶことのできる道具をこしらえようと工夫していた。このために、彼はスルーギ号の錨《いかり》を巻き上げる轆轤《ろくろ》についていた、同じ大きさの車をふたつ利用しようと考えた。仕事はなかなかすらすらとはいかなかった。この車は歯車だったので、けっきょくバクスターは、歯のあいだの溝《みぞ》に堅い木を詰め、それに金属《かね》の帯をかぶせることにした。それから、二つの車輪を鉄の棒でつなぐと、この車軸にしっかりとした木の車体をとりつけた。たいへん素朴な車だが、これでもとても役に立ちそうだったし、事実、役に立ったのである。言うまでもないが、馬も驢馬《ろば》も騾馬《らば》もいないから、この車をひくのは少年たちのうちの力持ちということになる。
彼岸《ひがん》時分に吹き続いた風も、終わりが見えてきた。陽ざしは強くなり、空は晴れわたった。十月の半ばだ。大地の熱を吸って、木々は緑に芽吹こうとしている。
こうなれば、フレンチ・デンを離れてまるまるなん日行動しても、もうだいじょうぶだ。少年たちは、着るものも身軽になって、大喜びで春の到来を迎えていた。それに、彼らにはまだ期待があった……もしかしたら、なにか新しいことが見つかって、境遇が変わるかもしれない。夏のあいだに、船がこの近海にやってくるようなことがないだろうか? もしそばを通って、チェアマン島を見たら、どうして船を寄せないことがあろう。
十月の後半には、フレンチ・デンから半径二マイルの一帯には、なん度もくりだすことがあった。それに出かけたのは、狩猟係の連中だけだったので、ほかの者にはおもしろくない。もっとも、ゴードンの命令で、火薬も散弾もきびしく倹約はさせられていた。ウィルコックスはわなを仕掛けて、うずらや野雁《のがん》をつかまえ、ときにはアグーティに似た野兎までつかまえた。ドニファンも、ペカリやグァシュリ……体の小さな猿と鹿……をなん匹か撃ったが、その肉はうまかった。
十一月にはいると、相当長い遠征ができそうな空模様になった。遠征の目的は、ファミリー湖《レーク》の西岸を北の端まで調べることである。
この遠征は狩猟班が行くことになっていたが、今度は、ゴードンもいっしょに行くことにした。フレンチ・デンに残る者たちの面倒はブリアンとガーネットがみる。
こう、ことが決まって、十一月五日の朝、ゴードン、ドニファン、バクスター、ウィルコックス、ウェッブ、クロッス、サーヴィスの七人が、仲間に別れを告げて出発した。
フレンチ・デンでは、毎日の生活になにひとつ変わることはない。勉強の時間のほかは、相変わらず、ジェンキンスやドールやコスターが、湖や川で魚を釣ることだろう……魚釣りは彼らの大の楽しみなのだ。
銃はゴードン、ドニファン、ウィルコックスの三人が持った。そのほか各自がピストルを腰にさげる。狩猟用の短刀数挺と手斧二挺、これで武装は完了である。
ゴードンはゴム・ボートも持っていくことにした。これはたたむと鞄《かばん》くらいの大きさになり、重さも十ポンドばかりしかないので、たいへん携帯《けいたい》に便利なのである。地図によれば、湖に注ぐ川がふたつあるし、歩いて渡れないときには、このボートが役に立つだろう。
ゴードンは、ボードアンの地図のうつしを持っていて、それを見ながら行くつもりだったし、また地図をたしかめてもみるつもりだったが、その地図によると、ファミリー湖《レーク》の西岸は、湾曲したところを勘定《かんじょう》にいれて、約十八マイルの長さがある。したがって、これを探検するには、なにかで手間取ることが全然ないとしても、往復で最低三日はかかるだろう。
ゴードン一行は、ファンを先頭に、|落とし穴の森《トラップス・ウッズ》を左に見ながら、岸の砂地を元気に歩いていった。
もう二マイルを越した。フレンチ・デンに住みついて以来、これまでに足を伸ばしたことのあるあたりもすでに過ぎた。ここには、コルタデールという丈《たけ》の高い草が群生していたが、そのなかにはいると、いちばん背の高い者でも頭まで隠れてしまった。
そのために、道は少し手間取った。
小型の森とでも言えそうな、この丈の高いコルタデールの原をぬけるのに三十分かかった。その先は、また砂浜で、長い砂丘がうねっていた。
砂丘の上に立つと、オークランド丘《ヒル》の尾根が、湖の岸からすでに二マイル以上も西に離れて見える。島のこの地帯は深い森におおわれている。ブリアンたちがはじめて湖を探検に来たとき通った森だ。堰川《ダイク・クリーク》と名づけた小川が流れているのもこの森だ。
地図にあるとおり、この川は湖の方へ流れていた。十一時ごろ、まさしくこの川の河口に少年たちは着いた。出発してから六マイルほど歩いたのである。
そこのみごとな傘松《かさまつ》の下で休憩にした。大きな石をふたつ並べて、枯木で火をたいた。
みんな食欲旺盛だった。
食事がすむと、川を渡った。浅瀬を渡れたので、ゴム・ボートは使う必要がなかった。ボートだったらよけい時間がかかるところだ。
湖の岸がだんだん沼のようにじくじくしてきたので、森の縁《へり》をたどらねばならなくなった。地面のようすがよくなったら、また東に向かうことにする。どこまで行っても木の種類は変わらない。ぶな、白樺《しらかば》、柏《かしわ》、いろいろな松のたぐいばかりがすくすくと茂っている。その枝から枝を、たくさんのかわいい小鳥が飛び回っている。遠くの空には、コンドル、黒|禿鷹《はげたか》、それに南アメリカの海岸地方によくいるカラカラという意地のきたない鷲《わし》が、輪を描いていた。
たぶんロビンソン・クルーソーを思いだしたのだろう。サーヴィスは、島の鳥類誌のなかに鸚鵡《おおむ》の一族がないのを、しきりと残念がった。
しかし、猟の獲物は豊富にいる。ドニファンが中くらいのペカリをうれしそうにねらうのを、ゴードンも止めようとしなかった。晩飯に使わなくても、明日の昼飯にはなる。
森のなかを歩くのだったらたいへんだが、そうする必要はなかった。森の縁《ふち》に沿っていけばよかった。午後の五時まで、そうして歩いた。
幅四十フィートほどのふたつ目の川が、そこでゆくてをふさいだ。これは湖から流れだして、オークランド丘《ヒル》の北を回り、太平洋に注ぐのである。
ゴードンは、ここで止まることに決めた。十二マイルの行軍、一日でこれだけ歩けばたくさんだ。さて、この川に名前をつけなければなるまいということになったが、その岸に出て止まったので、|とまれ川《ストップ・リヴァー》と名づけた。
岸辺に近い木の下で野宿することになった。火をどんどんたいて、毛布にくるまると、みんな横になった。ウィルコックスとドニファンが交替で番をする焚火《たきび》は、あかあかと燃えて野獣を寄せつけない。ひと晩が無事に過ぎて、一同は明けがた、もう出発の支度ができた。
けれども、川は名前をつければすむというものではない。川は渡らなければならない。歩いては渡れなかったので、ゴム・ボートの出動だ。このきゃしゃなボートは一度にひとりしか渡せないので、|とまれ川《ストップ・リヴァー》を左岸から右岸へと七回往復しなければならない。これに一時間以上かかった。でもたいしたことはない。ボートのおかげで、食糧や弾薬がぬれなかったのだから。
犬のファンはぬれることなど平気だから、ざぶんと飛びこむと、たちまち向こう岸に泳ぎついた。
もう湿地帯も終わったようだ。ゴードンは湖の岸にもどるため、道を斜めにとった。十時まえに湖畔に出た。昼食をすませて、北に進む。まだ湖の端が近くなった模様はない。東の地平線はいつまでたっても、空と水を一線で区切るばかりである。ところが、正午近く、一心に望遠鏡をのぞいていたドニファンが叫んだ。
「向こう岸が見える!」
みんな、そちらの方に目をこらした。すると、湖水のかなたに森がわずかに頭を出しかけている。
「休まずに行こう。夕方までには着いてしまおう」とゴードンが言った。
長い砂丘が波打って、ところどころに燈心草や葦《あし》の生えている荒地が、そこから北の方へ目のとどくかぎり広がっていた。チェアマン島の北部は、だいたい広い砂地らしく、中央部の緑の森とは対照的だ。ゴードンは|砂の荒野《サンディ・デザート》とうまい名前をつけた。
三時ごろ、対岸がはっきり見えてきた。北東二マイルたらずのところで弧を描いているのが見える。このあたりは、海鳥のほかには、生き物が全然寄りつかないように見えた。
ドニファンの提案で、湖の端まで行ってみることにした。切れこんだ両岸の間隔がしだいにせばまっているところをみれば、湖尻《こじり》は遠くないにちがいない。ついに湖尻に行き着いて、その日も暮れかかるころ、一行はファミリー湖《レーク》の北端にくぼんだ小さな入り江の奥で、一泊することになった。
その場所には、一本の木もなかった。草の茂みもないし、苔《こけ》や地衣《ちい》さえ生えていなかった。燃やすものが見つからないので、リュックサックに入れてある食糧で我慢するほかはない。身を寄せるかげもないので、砂の上にそのまま毛布を広げた。
夜のあいだ、|砂の荒野《サンディ・デザート》の静寂を乱しにくるものはなかった。
入り江から二百歩ばかりのところに、砂丘があった。……ゴードンらがあたり一帯を見渡すのにうってつけの見晴らし台だ。
陽がのぼると、一同はさっそくこの砂丘のてっぺんに登った。頂上に立つとすぐ望遠鏡を北の方に向けた。
この広い砂原が、地図にあるとおり、海岸まで続いているとすれば、その端まではとても見えない。海は、北は十二マイル、東は七マイルの先にあるはずだからである。これ以上、島の北に進んでもしかたがないような気がした。
「さて、これからどうしようか?」とクロッスが口を切った。
「引き返すのさ」ゴードンが答えた。
すると、「同じ帰るのなら、別の道を通って、フレンチ・デンに帰ろうじゃないか」とドニファンが言いだした。
「そうしよう」とゴードンは答えた。
「ファミリー湖《レーク》の右岸を回っていこうよ」ドニファンがまた言った。「そうすればこの探検は完璧《かんぺき》になるよ」
「少し遠すぎるなあ」とゴードンは言った。「この地図で見て、三十マイルから四十マイルはあるよ。途中、一度も障害がないとして、四日か五日はかかる。フレンチ・デンでみんなが心配するだろうし、そんな心配はかけないほうがいいよ」
「でも、いつかはあっち側も調べなければならないんだぜ」とドニファンは反駁《はんばく》した。
「もちろんだ」とゴードンは答えた。「そのための遠征隊は作るつもりだよ」
「だけど、ドニファンの言うのがもっともだよ」とクロッスが口を出した。「同じ道をもどらないほうがおもしろいもの……」
「わかった」とゴードンは答えた。「じゃあ、こうしよう。|とまれ川《ストップ・リヴァー》まで湖の岸を行く、そこから崖の方へまっすぐはいって、崖の麓《ふもと》に沿って帰る」
そこで、一同は砂丘の背をすべりおりて、野営の場所にもどると、ビスケットと冷たい猪《いのしし》の肉をかじり、毛布をまるめ、各自の武器を身につけて、昨日来た道を元気な足どりでもどっていった。
六時から歩いて十一時までに、湖尻から|とまれ川《ストップ・リヴァー》までの九マイルを楽にこなした。途中、別に変わったことはなかったが、川の近くで、ドニファンが冠毛《かんもう》の生えたみごとな野雁を二羽撃ち落とした。これでドニファンはすっかり機嫌が直ったが、サーヴィスも負けないくらい上機嫌だ。彼は、鳥さえ見れば、羽をむしったり、はらわたをぬいたり、焼いたりしようと、腕が鳴るのである。
実際、それから一時間して、一行がゴム・ボートで次々に川を渡ったところで、サーヴィスはそのとおりに腕をふるったのである。
「さあ、森に来たぞ」とゴードンが言った。「バクスターが投げ縄か投げ玉を使う機会があるといいね」
「そんなもの、いままでさっぱりだったじゃないか」とドニファンが言った。彼は鉄砲以外の狩りの道具は信用しないのだ。
「そりゃあ、鳥が相手じゃしかたないさ」とバクスターが言い返した。
「鳥だって、獣だって、ぼくは駄目だと思うよ、バクスター」
「ぼくも駄目だと思う」いつも、いとこの肩をもつクロッスが尻馬《しりうま》にのった。
「まあ、待てよ。バクスターがやってみてから、けちをつけたまえ」とゴードンが言った。「ぼくは、結構うまくいくと思うよ。弾薬はいずれはなくなるけど、投げ縄や投げ玉はいつまでもあるんだから……」
「そのかわり、獲物がないのさ……」と返事がはね返る。困った少年だ。
「いまにわかるよ」とゴードンは言った。「ともかく、飯にしよう」
しかし、食事の仕度はだいぶ手間取った。サーヴィスの気がすむまでかかって、野雁をほどよく焼いたからである。鳥は一片《ひときれ》残さず平らげられた。骨まで一本も残らない。骨をもらったファンが、主人たち同様きれいに片づけたのである。
昼飯がすむと、少年たちは|落とし穴の森《トラップス・ウッズ》にはいっていった。|とまれ川《ストップ・リヴァー》がこの森を突きぬけて太平洋に注ぐのだが、このへんはまだ来たことのないところだ。地図によると、川は崖のはずれを回って、北西に折れ、|幻 海 崎《フォールス・シー・ポイント》 の向こうで海に注いでいる。それでゴードンは、|とまれ川《ストップ・リヴァー》についていかないことにした。まずオークランド丘《ヒル》の下まで最短距離を行って、それから丘の麓に沿って南へくだろうというのが、彼の考えだった。
磁石で方角をたしかめると、ゴードンはまっすぐ西に向かった。白樺やぶなの林のあいだに、ときどき小さな空地がひらけて、太陽がいっぱいにさしこんでいた。そこここで、みごとな野ほろ菊が二、三フィートの茎の尖《さき》でゆれている。そのとき、植物に詳しいゴードンがいいものを見つけた。彼の知識はいろいろとみんなの役に立つことがあるのだ。ゴードンの注意をひいたのは、びっしりとこんだ枝に細かい葉をつけ、小さな赤い実のなっている一本の潅木《かんぼく》だった。
「たしか、これはトリュルカという木でね」と彼は言った。「インディアンはこの実をよく使うんだ。発酵させて、お酒を作るんだよ。いまにブランディがなくなったら、その酒が貴重なものになるぜ。もっとも、気をつけないと、これは頭にくるんだけど。ひと袋取って帰って、試してみようじゃないか」
この午後、もうひとつやはり重要な発見があった。オークランド丘《ヒル》に着く少してまえの茂みのなかで、ゴードンがペルネッティアという茶の木を見つけたのである。これは、こけももの一種で、緯度の高い地方でも生える木だが、いい匂いのするその葉をせんじると、たいへん体にいい飲みものになる。
「これでお茶の代わりができたね。少し摘んで帰ろう。あとでまた、冬ごもり用に摘みにこよう」とゴードンは言った。
四時ごろ、オークランド丘《ヒル》の北のはずれ近くに着いた。
それから二マイルほど行くと、水の音が聞こえてきた。崖の麓《ふもと》の狭い谷に急流がしぶきをあげていた。少し川下に浅瀬が見つかって、楽に渡れた。
「これは、きっと、ぼくたちが最初に湖の探検に来たとき見つけた川だよ」とドニファンが言った。
「じゃあ、あの飛び石の堰《せき》がある川かい?」とゴードンがきいた。
「そうだよ。それで、ぼくたちが堰川《ダイク・クリーク》と名前をつけた川だ」
「それじゃあ、この右岸で野宿しよう」とゴードンは言った。「もう五時だ。どうせもうひと晩野宿するのなら、川のそばで、大きい木の下がいい」
そこで、サーヴィスは夕飯の支度にとりかかった。
そのあいだに、ゴードンとバクスターはまた森にはいっていった。ゴードンは新しい植物を探すつもりだし、バクスターは投げ縄と投げ玉を使おうと思っていたのだ……ドニファンが馬鹿にするのを、なんとかしてやめさせたい一念だ。
ふたりは大木のあいだを百歩も進んだろうか、ゴードンが身振りでバクスターを呼んで、動物の群れが草むらで遊んでいるのを指さした。
「山羊《やぎ》かな?」小声でバクスターが聞いた。
「そう、山羊みたいなものだよ。つかまえよう……」とゴードンは言った。
「生けどりにするの?……」
「うん、生けどりだ、バクスター。ドニファンがいなくて、よかったよ。あれがいたら、いまごろは、鉄砲で一発ドスンとやって、あとの奴は逃がしちゃっているよ。見つからないように、そっと近づこう」
そのやさしい動物たちは六匹ぐらいいたが、少しも用心していなかった。しかし、そのうちの一匹が……たぶん母親だろう……なにか危険を感じたらしく、風に鼻をひくひく動かすと、いまにも仲間をひき連れて逃げだしそうなかっこうで、あたりを見まわした。
突然、ひゅうという音が聞こえた。群れから二十歩と離れぬところまで近寄ったバクスターの手から、飛び玉が飛んだのだ。飛び玉は力強くみごとに飛んで、一匹の山羊にからみついた。たちまちほかの山羊は森の奥に姿を消した。ゴードンとバクスターはいっさんに走った。山羊は投げ玉を振りほどこうともがいている。逃げられなくて、山羊はつかまった。動物の本能で、母親のそばを離れない二匹の子山羊も、いっしょにとらえられた。
「やったぞ。万歳!」大喜びでバクスターは叫んだ。
「でも、これは山羊かしら?」
「いや、ビクーニヤじゃないかと思うが」ゴードンは答えた。
「そいつは乳を出す?……」
「そりゃ、出すさ」
「そんなら、ビクーニヤでもいいよ」
ゴードンの推察どおりであった。実際、ビクーニヤは山羊に似ている。しかし、山羊より脚は長く、毛は短くて、絹のように細い。頭は小さく、角《つの》は生えていない。この獣は主に南アメリカの草原とマジェラン海峡のあたりに住んでいる。
ゴードンとバクスターが、ひとりはビクーニヤを投げ玉の綱でひっぱり、ひとりはビクーニヤの子を両脇にかかえてもどってきたときの、みんなの喜びようはたいへんなものだった。そのビクーニヤの子はまだ母親の乳を飲んでいたから、おそらくたいして苦労しなくても飼いならすことができるだろう。
たぶんこの二匹が将来の家畜の核になる。これは少年たちの植民地にとって非常に役に立つものとなるだろう。もちろん、ドニファンは自分で鉄砲を撃たなかったことを残念がったが、殺すのにはともかく、生けどりにするには、投げ玉のほうが鉄砲よりいいことを、認めないわけにはいかなかった。それから、夕飯、というより夜食になった。木につないだビクーニヤは平気で草を食べていた。子どもの方もそのまわりをはねまわっていた。
翌朝六時に出発。日のあるうちに帰ろうと思えば、ぐずぐずしてはいられない。堰川《ダイク・クリーク》からフレンチ・デンまでは九マイルはあるだろう。サーヴィスとウェッブがビクーニヤの子をかかえた。母親はおとなしくバクスターにひかれてくる。
十一時に、食事のために最初の休憩をする。今回は、時間を無駄にしないよう、携帯口糧《けいたいこうりょう》ですませ、すぐに出かける。
道はどんどんはかどった。このぶんなら、おそくなることはなさそうだった。ところが、午後三時ごろ、林のなかで一発の銃声が鳴った。
そのとき、ドニファンとウェッブとクロッスは、ファンを連れて、百歩ばかり先を歩いていた。あとの者たちからは彼らの姿は見えなかったが、「そっちだ……そっちへ行ったぞ」と叫ぶ声が聞こえた。
この声は、ゴードン、ウィルコックス、バクスター、サーヴィスらに、用心するようどなったものらしい。
不意に、茂みを突き破って、大きな獣がぬっと出てきた。ちょうどバクスターが投げ縄をほどいたところで、頭上で二、三回まわすと、さっと投げた。
長い縄がみごとに飛んで、さきの輪が獣《けもの》の首にかかった。獣は振りほどこうとしたができない。だが獣の力が強いので、バクスターはひきずられそうになった。
ゴードンもウィルコックスもサーヴィスも、投げ縄にかじりついて、やっとのことで木の幹に縄の端をくくりつけた。
そこへ、ドニファンを先頭に、ウェッブ、クロッスが木のあいだから出てきた。
「畜生! しそんじちゃった」ドニファンが不機嫌な声で言うと、サーヴィスが答えた。
「バクスターはしそんじなかったよ。ぼくらは生けどりにしたんだぜ、生けどりだよ」
「そんなことしたってしようがないさ。どうせこんな奴は殺すんだから」とドニファンは言った。
「殺すんだって、とんでもない」とゴードンが言った。「せっかく車をひかせる動物が手にはいったのに」
「こいつがかい!」とサーヴィスが声をあげた。
「これはグァナコというんだよ」とゴードンは説明した。「南アメリカの家畜のなかではなかなか大事なものなんだ」
どんなにグァナコが役に立つ動物だったにしろ、本当はドニファンは、撃ちそんじたのが残念でならなかった。しかし、それは口に出さないで、彼は、チェアマン島動物誌のこの逸品に近寄って、しげしげとながめた。
動物学ではグァナコはらくだの一種ということになっているが、アフリカの北部一帯に分布するらくだとは少しも似たところはない。このグァナコは、首がほっそりして、上品な顔立ち、足は長くて、ややきゃしゃだ……これは非常に敏捷《びんしょう》な動物のしるしだ……、うすい栗色の毛なみに白い斑点《はんてん》がある。アメリカ産のどんな名馬にも劣らないほどだった。もしうまく飼いならして調教したら、競争に使うことだって間違いなくできそうだ。
その上、この動物はかなり臆病なのだが、このグァナコはもがこうともしなかった。首をしめつけている縄をバクスターがゆるめてやると、調教の綱でもかけたみたいに、投げ縄にひかれておとなしくついてきた。
たしかに、ファミリー湖《レーク》北部探検のこの旅行は、少年たちにとって、今後大いに役立つものだった。グァナコ、ビクーニヤの親子、お茶の木の発見、これは大歓迎される値打ちがある。ゴードンととくにバクスターの功績だ。しかもバクスターは、ドニファンのようなうぬぼれはなくて、自分の成功を少しも誇ろうとしない。
地図で見ると、フレンチ・デンまでまだ四マイルは歩かなければならない。日の暮れないうちに着きたいので、急ぐことにした。サーヴィスには、グァナコにまたがって、|馬上豊かに《ヽヽヽヽヽ》凱旋《がいせん》したい気がないではなかったのだが、ゴードンがかたく許さなかった。そんなことは、この動物を乗れるようにしこんでからの相談である。
「これはそんなにはねないと思うがね」と彼は言った。「万一、どうしても人を乗せようとしなくっても、せめて、車をひくぐらいにはさせなければならないんだ。ね、サーヴィス、我慢が肝腎《かんじん》だよ」
六時ごろ、フレンチ・デンが見えてきた。
スポーツ台《テラス》で遊んでいたちびのコスターが、ゴードンを見つけて、みんなに知らせた。すぐにブリアンたちが駆けだしてきて、数日間留守だった探検隊の帰還を、うれしそうな万歳で迎えた。
七
ゴードンの留守のあいだ、フレンチ・デンでは万事うまくいっていた。幼い少年たちがブリアンを心から慕《した》っているようすがありありと見え、小さな植民地の指揮者ゴードンはブリアンに言うことはなかった。ドニファンにしても、あの高慢ちきでねたみ深い性質さえなかったら、ブリアンのよいところを《それはそれなりに》認めたはずなのだが、なかなかそうはいかなかった。それに、ウィルコックスとウェッブとクロッスはドニファンの影響を強くうけていて、フランスの少年との対立が持ちあがると、一も二もなくドニファンの肩を持つのだった。
ところが、ブリアンはそんなことに気をつけたりしなかった。人がどう思うかなど全然考えないで、自分の義務だと思うことをしていたのである。その彼がいちばん気にかけていたのは、弟の態度がどうも|ふ《ヽ》に落ちないことであった。
最近も、ブリアンはジャックになん度もたずねてみたが、返事は相変わらずだった。
「なんでもないんだ……兄さん……なんでもないよ」
「話したくないのかい、ジャック? それはいけないよ。気が楽になるからさ、ぼくも安心だし……なにか気がとがめることがあるんだろ? ……」
「兄さん……」とうとうジャックは言った。「ぼくのしたこと……兄さんはたぶん……許してくれるかもしれないけど……みんなは……」
「みんな? …… みんなって、 なんのことなの、ジャック?」
思わずブリアンの声が高くなった。
少年の目から涙があふれた。しかし、兄がいくら聞いても、それ以上は、こう言うだけだった。
「あとで言うよ……もっとあとで……」
翌日……十一月九日……から、少年たちの仕事がまたはじまった。することはいくらでもあったのである。
グァナコとビクーニヤの親子は、とうざのまにあわせに、ほら穴のすぐ近くの木につないであった。日の長いあいだはそれでいいが、冬になるまでに、もっとちゃんとした小屋を作ってやらなければならない。それで、オークランド丘《ヒル》の崖下に、湖に面した、広間の入り口から少し離れたところを選び、そこに小屋と高い柵《さく》の囲いを作ることに、ゴードンが決めた。
バクスターの指図で、工事場のようすも本式に、仕事がはじまった。中くらいの太さの木を根元から切って、枝を払い、それを杭《くい》にして、一ダースぐらいの動物を楽に飼える広さの囲いを作った。小屋の方は、スルーギ号の船腹の板を使った。
この動物の世話は、もっぱらガーネットとサーヴィスの受け持ちだったが、グァナコもビクーニヤも一日ごとになれてくるので、じきに仕事に励みがついた。
その上、小屋にはまもなく新しいお客が来た。まず、グァナコがもう一頭。それから、ビクーニヤの雄《おす》と雌《めす》、これは投げ玉をかなりうまく使えるようになってきたウィルコックスとふたりで、バクスターがつかまえた。
こうして、チェアマン島は、余分なものはないにしても、必要なものは島民に与えてくれたのである。
冬のあいだ川岸に張ったかすみ網も、春になってからはもちろん仕掛けかたは変えたが、小さなうずらや黒雁が獲《と》れた。
十二月十五日、スルーギ湾への大遠征。上天気なので、ゴードンは全員を参加させることに決めた。
この遠征の主な目的は寒冷期に嵐海岸《レック・コースト》を訪れるあざらしを獲ることであった。長い冬のあいだにたくさん使ったので、あかりの油がそろそろ底をつきかけていたのである。
しばらくまえから、サーヴィスとガーネットは、二頭のグァナコを仕込んで、車をひかせようと熱心にやっていたが、それがうまくいくようになっていた。|お《ヽ》|もがい《ヽヽヽ》は、草を芯にして厚地の帆布でバクスターが作ったのだ。まだ背に乗ることはできなかったが、車につなぐくらいはできるのである。
そこでこの日、車には弾薬と食糧といろいろな道具、なかでも大きな鍋と空《から》の樽六個などが積みこまれた。この樽にあざらしの油をいっぱいにして帰る予定だ。
日の出とともに出発して、道は楽にはかどった。
十時少しすぎ、ゴードンを先頭にスルーギ湾の浜に着いた。
百匹ほどのあざらしが、岩のあいだをはいまわったり、ひなたに寝そべっていた。ここのあざらしは、人間というものとあまりつきあったことがないらしい。そのためだろう、北極地方でも南極地方でも、人間に追いまわされるあざらしはふつう警戒心が強くて、危険にそなえて群れのなかの長老が見張りに立っているものだが、ここではそのようすもなかった。それでも、早まって連中を驚かせないよう用心する必要はある。あっというまに逃げてしまうからである。
手早く昼飯をすませると、ちょうどそのころ、昼の太陽を浴びにあざらしたちが浜にあがってきたので、ゴードン、ブリアン、ドニファン、クロッス、バクスター、ウェッブ、ウィルコックス、ガーネット、サーヴィスの面々は、狩りの準備にかかった。
まず第一のねらいは、海へのあざらしの退路を断つことだ。快くみんなから作戦の指揮をまかされたドニファンの指図で、一同は川をくだって河口まで行くことになった。そうすればあとは岩礁《がんしょう》づたいに浜を囲むのは簡単だ。
この計画は慎重に実行された。まもなく、浜と海とのあいだに、幼い狩人《かりうど》たちの半円が描かれた。たちまちドニファンの合図で、少年たちはいっせいに立ちあがった。同時に、銃声がとどろいた。そして銃声の鳴るごとに、犠牲者が倒れた。
数分で虐殺《ぎゃくさつ》は終わった。
遠征は大成功だった。狩人たちは先ほど休憩したところにもどると、一日二日は過ごせるよう、そこの木の下にキャンプを張った。
午後の仕事は、どう見てもあまりぞっとしないものだった。あざらしの肉を五、六ポンドのかたまりに切り刻んで、水を入れた大鍋に放りこむのだ。
しばらくすると、透明な油が分離して、沸騰《ふっとう》する湯の表面に浮かんできた。それを次々と樽に入れる。
まったく、この作業の放つ悪臭で、あたり一帯鼻もちならない。みんな鼻をつまんだ。しかし耳までふさぐわけにはゆかない。不愉快な仕事でかえって冗談がはずんで、耳にはいってくる。上品な「ドニファンの殿さま」でも、いやな顔もしないで働いた。この仕事が翌日もくり返された。
二日目の夕方になると、モコの手もとには、数百ガロンの油がとれていた。これでもう十分だろう。今度の冬じゅうのフレンチ・デンのあかりは確保されたことになる。
次の日の朝……言うまでもなく、一同満ちたりた気持ちで……明けがたに起きだした。帰途はなにごともとりたてて言うようなことは起こらなかった。
それからの毎日はいつもの仕事にもどった。あざらしの油を試してみたが、広間と納戸のあかりには、これで十分まに合うことがはっきりした。
そうこうするうちに、クリスマスが近づいてきた。この日はアングロ・サクソン諸国ではたいへんにぎやかにお祝いをする。ゴードンはこの日はおごそかに祝いたいと思った。それで、彼は、十二月二十五日と二十六日を、フレンチ・デンでは休暇にすると宣言した。
この提案はもちろん、大喜びで迎えられた。十二月二十五日に大宴会が催されることは言うまでもない。モコはびっくりするようなご馳走を出すとうけあっていた。このことでサーヴィスとモコとはしょっちゅうひそひそと相談していた。
とうとうその日が来た。夜が明けると、一発の祝砲が、オークランド丘《ヒル》に陽気なこだまをとどろかせた。広間の窓にすえつけた二門の大砲のうちのひとつを、ドニファンがクリスマスを祝って発射したのだ。
まもなく、下級生たちが来て、上級生たちにおめでとうを言った。上級生も年上らしくあいさつを返した。チェアマン島の指揮者にささげるあいさつもあった。コスターがそれをなかなかじょうずにやってのけた。
みんなこの日のための晴れ着に着かえていた。天気はすばらしかった。昼食のまえも、またお昼がすんでからも、湖のほとりを散歩したり、スポーツ台《テラス》でいろいろな競技をして遊んだりした。競技にはみんな進んで加わった。
充実した一日だった。ことに小さい人たちは大喜びだった。とうとう二度目の祝砲がとどろいて、晩餐《ばんさん》会のはじまりを告げた。少年たちは、宴会の仕度ができた食堂に、いそいそとはいっていった。
この献立を仕上げるのに、モコはまったくすばらしい力をふるったものだ。モコと助手のサーヴィスは、みんなにほめられて、大得意だった。宴の最後に、みんなの胸を打つことがあった。コスターが立ちあがって、幼年組を代表して、これまで幼い者たちに献身的につくしてくれたブリアンに、感謝の言葉を述べたのである。
ブリアンは、みんなが割れるような喝采《かっさい》をおくってくれるのを聞いて、深い感動を押えることができなかった。……ただひとり、ドニファンの心のなかでは、その喝采も鳴り響いていなかったが。
それから一週間後、一八六一年がはじまった。南半球のこの地方では年が明けるのは夏のまっ盛りである。
スルーギ号の少年たちが、ニュージーランドから千八百マイルも離れた島に漂着してから、十か月近くになる。そのあいだに、ごらんのとおり、彼らの生活は少しずつよくなった。
けれども、どうしてもひとつ探検しなければならないことがあった。その目的は、チェアマン島のまだ知らないところを全部調べることではない。ファミリー湖《レーク》の東の方を探検することである。
ある日ブリアンはこのことでゴードンと話し合って、これまでとは違う考えを言った。
「ボードアンの地図は相当正確にできているけど、東の海も調べてみたほうがいいと思うんだ。ぼくたちには、ボードアンにない上等な望遠鏡があるんだから、もしかしたら、彼に見えなかった陸地が見つかるかもしれないよ」
「それで、君に計画があるのか、ブリアン?」
「フレンチ・デンから向こう岸まで、ボートで湖を渡りたいと思う。それには二人か三人で行くことにしたいんだ」
「ボートはだれが繰る?」
「モコさ」とブリアンは答えた。「モコならあの舟の操作ができる。ぼくも少しは知っているよ」
「なるほど」とゴードンは言った。「君の考えに賛成だ。それで、モコのほかにはだれが行く?」
「ぼくだよ、ゴードン。ぼくはこのまえ、北の方の探検には行かなかったからね。今度はぼくの番だ、ぼくも役に立ちたいよ……頼むよ……」
「役に立ちたいって!」ゴードンは叫んだ。「君はもうさんざん役に立ってくれたじゃないか、ブリアン。君はだれよりもよく働いているよ」
「よせよ、ゴードン。だれだってみんなやることはやっているさ。それより、いいだろう?」
「よし、いいよ。あとのひとりは、だれを連れていく?」
「ジャック」とブリアンは答えた。「あれのようすがどうも心配でならない。たしかにジャックは何かたいへんなことをしちゃったらしい。ひとりで自分を責めて、口には言えないでいるのだと思う。たぶん、この旅行のあいだに、ぼくとふたりきりになったら……」
「なるほど。ジャックを連れていきたまえ。いまからさっそく、出発の準備をするといいよ」
「なあに簡単だよ。どうせ二、三日いないだけだもの」
その日のうちに、ゴードンはこの探検の計画をみんなに話した。ドニファンは、自分が加えられないのが不服で、ゴードンに文句を言った。ゴードンは、この探検には三人しか要《い》らないのだし、計画はブリアンが考えたのだから、実行もブリアンにまかせるのだ、と説明した。
「なんだか、ブリアンひとりが大事みたいだな」とドニファンは言った。
「それは間違っているよ、君。ブリアンに対してだけじゃない、ぼくに対してもひどい言い方だ」
それで、ドニファンも黙ってしまった。そして、いつもの仲間のウィルコックスとクロッスとウェッブのところへ行って、思いきり不平をぶちまけた。
ボートの用意はじきに整った。二月四日の朝八時ごろ、ブリアン、ジャック、モコの三人は、みんなに別れを告げて、ボートに乗りこんだ。天気は上々、南西の微風であった。帆が高々とあがる。
モコは艫《とも》に、ブリアンは中央に、ジャックは舳先《へさき》の帆柱の下にすわった。一時間くらいは、オークランド丘《ヒル》の頂が見えていたが、やがて地平線の下に沈んだ。だが、湖の対岸はまだ見えてこない。まずいことに、陽ざしが強くなるにつれて、よくあるのだが風が凪《な》いできた。お昼ごろには、ときどき気紛《きまぐ》れに吹くだけになった。帆はそよとも動かない。モコは帆をおろした。
三人の少年は手ばやく昼飯をつめこんだ。今度はモコが舳先にすわって、ジャックが艫《とも》にかわった。ブリアンは中央のままだ。勢いよくこぎだしたボートは、磁石《じしゃく》を頼りに、進路をやや北東にとって進んだ。
三時ごろ、望遠鏡を取りあげたモコが、たしかに岸らしいものが見えると言った。四時には、かなり低い岸に、森の梢《こずえ》が見えてきた。あと二マイル半か三マイルで、東岸に着くだろう。ブリアンとモコは、激しい暑さで疲れてはいたが、一心にオールを動かした。
夕方の六時ごろ、とうとうボートは崖の麓に着いた。崖はかなり高くて、上陸できそうなところが見あたらない。半マイルほど崖に沿って北に回ってみた。
「ああ、あれが地図にある川だ」とブリアンが声をたてた。
「それじゃあ、名前をつけなければいけませんね」とモコが言った。
「そうだね、|東 川《イースト・リヴァー》 にしようよ。島の東へこの川は流れているから」
「いいですね」とモコは言った。「これから先は、|東 川《イースト・リヴァー》 に乗りいれて、川をくだればいいですよ」
「モコ、それは明日のことにしよう。今夜はここで泊まった方がいい。夜が明けたら、ボートを出そう。その方が岸のようすがわかるからね」
「上陸するの?……」とジャックがたずねた。
「もちろんだよ」とブリアンは答えた。
ブリアンとモコとジャックは岸に飛びおりた。ちょっと入り江になった奥のところだ。枯木を集めて火をたいた。ビスケットと冷肉で食事をすませると、地べたに毛布を広げた。これだけで、この少年たちはぐっすり眠れるのだ。日が暮れてから、なにかほえる声が聞こえたが、夜は無事に過ぎた。
「さあ、出発だぞ!」六時に、まっ先に目をさましたブリアンがどなった。
じきに三人はボートに乗りこんで、流れにこぎいれた。ボートはどんどん進む。モコの見当では時速一マイルを超えている。それに、| 東 川《イースト・リヴァー》 はほとんど一直線に流れている。川は深い森のなかだ。濃い茂みが岸に迫っている。
十一時ごろ、木立ちの重なりが目に見えてまばらになってきた。木《こ》の間《ま》にところどころ空地がすけて見える。ボートは相変わらず流れに乗っている。……しかし、ずっとおそい。川幅も四、五十フィートになった。やがてこの| 東 川《イースト・リヴァー》 に海の波があがってくるだろう。
海岸にそびえ立つ岩場に近づくと、モコはボートを左の岸に寄せた。錨《いかり》を持って飛びおりて、それを砂の中にしっかりと打ちこんだ。そのあいだに、ブリアンとジャックも順に岸にあがった。
島の西海岸とは、なんと違った景色だろう。ここは、スルーギ湾のちょうど裏側にあたるが、深い湾が開けている。ただ違うのは、スルーギ湾は広い砂浜があり、まえには岩礁が畳《たた》み、背後を嵐海岸《レック・コースト》の崖が区切っているが、こちらは、ごろごろした岩の山だ。ちょっと探せば、たちまち洞窟の二十ぐらいは見つかるだろう。
さっそく、ブリアンは沖の方に目をやって、この広い湾のかなたの水平線をながめた。陸も島も、影ひとつない。やはりチェアマン島は、東の方も、西と同様に陸地から遠く離れているらしい。それだから、難破したフランス船員の地図のこちら側にも、陸地が書いてなかったのだ。
ブリアンはひどくがっかりした、と言っては言いすぎになる。いや、たぶんこんなことだろうと彼は思っていたのである。彼はただ、この切れこんだ海岸を、失望湾《デセプション・ベイ》と名づけることにしようと思っただけである。
お昼がすむと、晩御飯の時間まで、あたり一帯の海岸を探検することにした。
二時ごろ、海を沖の方まで観察するのはいまがよさそうだと思えた。そこで、ブリアンとジャックとモコは、巨大な熊の形をした大きな岩によじのぼった。岩は百フィートほどの高さで、入り江の上に突きだしている。頂上まで登るのは容易ではなかった。
ブリアンは東の地平線に望遠鏡を向けた。今は水平線がくっきりと見える。そちらにはなにもない! 広い海ばかり!
ものの一時間も、三人は念をいれてながめ続けた。そして、とうとう浜におりることにした。そのとき、モコがブリアンを引き止めた。
「あそこにあるのはなんでしょう! …… 」北東の方を指さして彼は言った。
ブリアンは指さされた方に望遠鏡を向けた。
なるほど、そこには、水平線のすぐ上に、白っぽい点がぽつんと光って見えた。こんなに空が澄みきっていなかったら、むろん雲だと見ただろう。しかし、ブリアンは、長いこと望遠鏡で見つめていたが、やがて、あの点は動かないと言った。
「なんだかわからないな、山以外には考えつかないけど。でも、山があんな風に見えるわけはないしなあ」
探検が終わって、ふたりは| 東 川《イースト・リヴァー》 の河口に帰ってきた。その入り江の奥にボートがつないである。
七時ごろ、おいしく食事をすませると、ジャックとブリアンはあげ潮で舟が出るまで、海岸をぶらついてくると、出かけていった。
モコは川の左岸を川上へ歩いていった。松が生えているので、実を少し拾おうと思ったのだ。
彼が河口の方へもどってきたとき、あたりはとっぷりと暮れかけていた。
モコがボートに着いても、ブリアンたちはまだ帰っていなかった。遠くに行くはずはないから、心配することはないと思った。
ところが、そのとき、苦しそうな泣き声が聞こえて、モコはぎょっとした。それにまじって、強い声も聞こえた。間違いない。ブリアンの声だ。
兄弟の身になにか危険が起こったのだろうか。モコはすぐさま浜の方へ駆けだした。
突然、モコの足がぴたりと止まった。それ以上まえに出られないようなものを見たのである。
ジャックがブリアンの膝にすがりついている……。なにか哀願しているような、許しを求めているようなようすだった……。
モコはこっそりひきさがろうと思ったが……おそかった。すっかり聞いてしまったのだ。すっかりわかってしまったのだ。ジャックが犯したあやまちのことを、それをいま兄に懺悔《ざんげ》したのを彼は知ってしまったのである。ブリアンの声は高かった。
「困った奴だ。お前なのか……そんなことをやってくれたのか……お前のおかげで……」
「ごめんなさい、兄さん、ごめんなさい」
「だからお前はいつもみんなから離れていたんだね。みんながこわかったんだね。……ああ、みんなに知れないといいが……そうだ、決して言うんじゃないよ、だれにも言うんじゃないよ」
モコは、こんな秘密を知らずにすんだら、どんなによかったろう。しかし、いまとなっては、ブリアンと顔を合わせていながら知らないふりをするのは、モコにはとてもできなかった。だから、少しして、ボートのそばにブリアンがひとりきりのとき、そっと言った。
「ブリアンさん、わたし聞いてしまいました!」
「えっ、君、ジャックのことを? ……」
「はい、ブリアンさん …… 許してあげてください……」
「みんなは許してくれるだろうか? ……」
「たぶん」とモコは答えた。「でも知らせない方がいいでしょう。わたしはしゃべりませんよ、安心してください」
「ああ、ありがとう、モコ!」ブリアンは見習水夫の手を握りしめて、つぶやいた。
舟に乗るまでの二時間、ブリアンはジャックにひとことも言葉をかけなかった。ジャックは、兄の態度に負けて、すべてを告白してから、まえよりいっそう沈みこんで、岩のかげにすわったきりだった。
十時ごろ、潮のあがってきたのがわかって、ブリアンとジャックとモコとはボートに乗りこんだ。綱をほどくと、流れがボートをするすると引いた。日没後じきに出た月が、いま、|東 川《イースト・リヴァー》 の流れを明るく照らして、十二時半ごろまでは舟を進めることができた。そのうち、潮がひいてきて、オールを使わなければならなくなった。それからは、一時間かかって、一マイルも進まない。そこでブリアンは、夜明けまで錨をおろそうと言って、そうすることになった。午前六時、ふたたび出発だ。そして九時に、ボートはファミリー湖《レーク》の湖上に出た。
そこでモコがまた帆をあげた。ここちよい微風を横腹にうけて、ボートは船首をフレンチ・デンに向けた。
夕方六時ごろ、湖のほとりで釣をしていたガーネットが、ボートを見つけた。ほどなく、ボートは突堤にぴたりと着いた。
モコに聞かれた弟との話のことは、……ゴードンにさえも……黙っている方がいいと、ブリアンは考えた。探検の結果は、広間に集まった少年たちに報告した。
要するに……明々白々な事実としか思えないが……チェアマン島の近くには陸地はまったくないのである。おそらく、いちばん近い大陸なり島なりからでも、数百マイルは離れているのだ。だから、元気を出して、生きるための戦いにまたとりかからなければならない。
二月は、いろいろな仕事をしているうちに過ぎた。ファミリー湖《レーク》を目指して鮭《さけ》がのぼるのをウィルコックスが見つけて、かなりの鮭をみなでつかまえたこともあった。
三月の初旬に三、四人の者が、ジーランド川《リオ》の左岸に広がる南沼《サウス・ムアズ》の湿地帯を、一部探検に出かける機会があった。
ドニファン、ウィルコックス、ウェッブの三人が、川から南西に一マイルばかり湿地を渡っていって、土の乾いたところに出たのである。
広々と続く南沼《サウス・ムアズ》は、青い海が地平をかぎる東の方角以外は、見渡しても果てもない。
だが、この沼の獲物の豊富なことはどうだ! しぎ、鴨、尾長鴨、くいな、千鳥、しまあじ、それに、なん千羽と群れをなした黒鴨、この鳥は肉よりも羽毛をとるために珍重されるが、うまく料理すれば非常に結構なご馳走になる。
三人の狩人《かりうど》は、たくさんの獲物をかかえ、南沼《サウス・ムアズ》への遠足に大いに満足して、帰ってきた。
それに、むろんゴードンが、きびしい冬をしのぐ用意もしないで、冬がくるのをぼんやり待っているわけがなかった。家畜たちの小屋を暖かくするのにも、たくさんの薪《たきぎ》を準備しておかなければならない。このために、|沼の森《ボッグ・ウッズ》のあたりになん度も出かけた。二頭のグァナコにひかせた荷車が、二週間のあいだ、一日になん回も川岸を往復した。おかげで、いまでは、冬が六か月以上続いたとしても、これだけの薪とあざらしの油の貯えがあれば、フレンチ・デンは寒さの心配もあかりの心配もしないですみそうだ。
こうした仕事も、少年たちの勉強の計画のさまたげにはならなかった。上級生は、代わりあって、下級生に授業をした。
もちろん、一日中、勉強がつまっていたわけではない。時間割りには遊びの時間がとってある。運動で体を鍛《きた》えるのは健康を守る条件だ。上級生も下級生もこれには参加した。
イギリスの少年たちがよくやる、クロケーとか輪投げとか、とくに腕の力と目測の正確さを必要とする競技などもした。ところで、この輪投げのことを少し話す必要がある。というのは、ある日、輪投げから、ブリアンとドニファンのあいだに、たいへん残念なもんちゃくが持ちあがったからである。
四月二十五日の午後であった。八人の少年が、ドニファン、ウェッブ、ウィルコックス、クロッスの組と、ブリアン、バクスター、ガーネット、サーヴィス組の二組にわかれてスポーツ台《テラス》の芝生で輪投げをしていた。
芝生の平らなところに、五十フィートほどあいだを置いて、鉄の棒を二本立てた。競技者は投げ輪をふたつずつ持つ。これは、なかよりも縁《ふち》の方が薄くできた金《かね》の円盤の、まんなかに穴をあけたようなものである。
この競技では、競技者は、最初は第一の棒、二度目は第二の棒をねらって、投げ輪がかかるよう、巧みに投げなければならない。
この日は大熱戦になった。なにしろドニファンとブリアンが別々の組にわかれて、ふたりとも異常な負けぎらいを発揮したからである。もう二回、勝負は終わっていた。一回戦は、ブリアン、バクスター、サーヴィス、ガーネット組が、七点をあげて勝ち、二回目は、相手が勝ったが、得点は六点だった。
いよいよ決勝戦のまっさいちゅうだ。両軍五点ずつあげて、あと投げる輪はふたつしかない。
「ドニファン、君の番だよ」とウェッブが言った。「しっかりねらって。これが最後だからね。勝負がかかっているんだよ」
「安心しろよ」ドニファンは応じた。投げ輪の拍子をとりながら、慎重にねらいをつけると、彼は水平に力いっぱい輪を投げた。なにしろ目標は五十フィートも遠くにあるのだ。
輪は縁《へり》が棒に当たっただけだった。棒にかからないで、地面に落ちた。合計六点にしかならない。
ドニファンは、無念のそぶりを隠せなかった。
「惜しいなあ」とクロッスが言った。「でも、まだ負けたわけじゃないよね、ドニファン」
「そうとも」とウィルコックスも言った。「君の輪は棒のすぐ下だもの、ブリアンの輪がはいりでもしないかぎり、こっちの勝ちだよ。ブリアンだってあれよりうまくは行きっこないよ」
そのとおりだ。ブリアンの投げる輪が……ちょうどブリアンの番だったのだ……棒にかからなければ、彼の組の負けになる。
「よくねらって! よくねらって!」とサーヴィスが叫んだ。ブリアンは返事をしなかった。それをドニファンが生意気だと思うなどとは気がつかない。
位置につくなり、彼は投げ輪を実にうまく投げた。輪は棒にすっぽりはまった。
「七点!」サーヴィスが意気ようようと叫んだ。「勝った! 勝った!」
ドニファンが勢いこんで飛びだしてきて、言った。
「いや、勝ちじゃない」
「どうしてだい?」とバクスターがたずねた。
「ブリアンがいんちきをしたからさ」
「いんちき?」ブリアンは顔を青くして言った。
「そうさ、いんちきだよ」とドニファンは答えた。「ブリアンは足を線の上に乗せてなかった。二歩ぐらいまえに出たよ」
「うそだ」とサーヴィスがどなった。
「そうだ、うそだよ」ブリアンは答えた。「本当にそうだったとしても、ぼくは間違えてしたんだ。いんちきなんて言ったら承知しないよ」
「そうか、承知しないのかい」とドニファンが言った。
「そうだとも」ブリアンは我慢できなくなりかけていた。「第一、ぼくの足がちゃんと線を踏んでた証拠を見せてやるよ」
「そうだ! そうだ!」バクスターとサーヴィスが叫んだ。
「できるもんか」ウェッブとクロッスが言い返した。
「見たまえ、砂にぼくの靴の跡がついてるぞ。これを見まちがえるはずがないんだ。ドニファンこそ、うそを言ったんだ」
「うそだと!」ドニファンはそう言うと、ゆっくりブリアンにつめ寄った。
ウェッブとクロッスは、ドニファンに加勢しようとして、そのうしろに並んだ。サーヴィスとバクスターも喧嘩になったらブリアンの味方をしようと身構えた。
ドニファンは上衣を脱ぎ、袖を肘《ひじ》までまくりあげ、拳固《げんこ》にハンカチを巻いて、拳闘の構えをした。
ブリアンはもう落ち着きを取りもどしていた。彼は友だちと闘うのがいやでたまらないように、じっと動かなかった。
「ドニファン、君はぼくのことを侮辱した。その上、今度は喧嘩《けんか》を売ろうっていうんだね」
「そうさ」ドニファンはすっかり軽蔑しきった口ぶりで言った。「喧嘩が買えない奴には、売りつけるよりしかたないのさ」
「ぼくが喧嘩を買わないのは、買うのがよくないからだよ」
「買わないのは、こわいからさ」とドニファンは言い返した。
「こわい! ぼくが!」
「卑怯者だよ!」
ブリアンは、袖をまくって、ぐっとドニファンにつめ寄った。ふたりはにらみあった。
いまにもつかみあいがはじまりそうになった。ふたりがまさに飛びかかろうとしたとき、ドールに急を聞いたゴードンが、息せき切って割ってはいった。
「ブリアン! ドニファン!」
「ぼくはうそつきって言われたんだ」とドニファンはどなった。
「ぼくの方が先にいんちきとか卑怯者とか言われたんだ」とブリアンも言った。
もう、みんながゴードンのまわりに集まってきた。
ふたりの喧嘩相手は二、三歩うしろにさがっていた。ブリアンは腕組みして、ドニファンは拳闘の構えのままだ。
「ドニファン、ぼくはブリアンをよく知っている」とゴードンはきびしい口調で言った。「ブリアンが喧嘩をしかけるはずはないよ。君が最初に手だしをしたんだろう」
「そうだともさ、ゴードン」とドニファンは言った。「いかにも君らしいよ。いつだってぼくに反対するんだから」
「そうだよ……君が間違っているときには」とゴードンは答えた。
「それならそれでもいいさ。だがね、悪いのはブリアンだろうとぼくだろうと、闘おうとしないのは、ブリアンが卑怯者なんだ」
「ドニファン、君の方は根性《こんじょう》曲がりだよ。いいかい、ぼくたちが今こんな立場にいるのに、仲たがいを起こさせようとするなんて。ぼくたちのなかでいちばんいい奴を、どうして目の敵《かたき》にしなければいけないんだい」
「ブリアン、ゴードンにお礼を言えよ」ドニファンはどなった。「さあ、勝負だ」
「いけない!」とゴードンが叫んだ。「ぼくは指揮者としてどんな暴力にも反対だ。ブリアン、君はフレンチ・デンへ帰りたまえ。ドニファン、君は気持ちが静まるまで、どこへでも好きなところへ行ってきたまえ。ぼくが君を責めるのは義務でしているだけだ、ということがわかってから、帰ってくるのだ」
「そうだよ、そうだよ」とみんなは口々に言った……ウェッブとウィルコックスとクロッスのほかは。「いいぞ、ゴードン。いいぞ、ブリアン」
ほとんど全員からそう言われては、従うほかはなかった。ブリアンは洞窟に帰った。その晩、寝る時間になってドニファンは帰ってきたが、彼もさすがに喧嘩をむし返そうとする気配は見せなかった。しかし、彼の胸のうちには、明らかに、こもった憎悪《ぞうお》がくすぶっているようであった。第一、彼は、ゴードンがあれこれ仲直りをすすめても、聞こうとしなかった。
こうした不愉快な仲たがいは、この小さな植民地の平和をおびやかす、まことに困ったことであった。
けれども、この日から以後は、なにも問題は起こらなかった。ふたりのあいだに起こったことをほのめかす者もいなかった。そして、冬に備えて、毎日の仕事が着々と続けられた。
冬はもう長いこと待ってくれそうもなかった。五月の第一週にはいると、かなり寒さが身にこたえた。ゴードンは、広間のストーブに火を入れ、昼も夜もたくように命じた。やがて、家畜たちの小屋も暖めなければならないようになった。
五月二十五日に初雪を見た。去年より数日早い。冬の早いのは、冬のきびしいしるしだろうか。いずれにしても、思いやられることだ。
数週間まえから、温かい着物がみなに渡されていた。そしてゴードンは、健康を保つためのいろいろな注意がきちんと守られるよう、気を配っていた。
このころ、フレンチ・デンには、なにか落ち着かない空気が漂って、少年たちは気がたかぶっていた。チェアマン島の指揮者としてのゴードンの任期が、六月十日で終わろうとしていたのである。
それで、なにやらこそこそ集まったり、密談したり、陰謀《いんぼう》めいた気配まで見えたのである。
ゴードンは、むろんのこと、そうした動きにはかかわるまいと考えていた。ブリアンはもともとフランス人だから、イギリス人が大多数を占めるこの少年たちの植民地の、指揮などするつもりは少しもなかった。
素振りにはあまりださないが、内心この選挙のことをいちばん気にしていたのは、ドニファンであった。しかし、ゴードンの後継ぎは自分だと自信があったのか、それとも自尊心から投票を頼むのをいさぎよしとしなかったのか、彼も見たところ超然としたようすだった。
六月十日が来た。午後に、いよいよ投票ということになった。各自が投票用紙に投票したいと思う者の名前を書くのである。過半数の得票で当選だ。植民地の票数は十四票だから……モコは選挙権の行使を放棄《ほうき》していた……同一人に七票以上集まれば、新しい指揮者の選出が確定することになる。
開票は、ゴードンが立会い人になって、二時に行なわれた。開票が終わると、彼はその結果を発表した。
ブリアン…………八票
ドニファン………三票
ゴードン…………一票
ゴードンとドニファンは棄権だった。ブリアンはゴードンに投票したのである。
ブリアンは、過半数の票を得たのにびっくりして、最初はこの名誉をうけまいと考えた。だがなにか心にひらめいたのだろう、弟のジャックを見てから、こう言った。
「ありがとう、諸君、おうけいたします」
この日から向こう一年間、ブリアンはチェアマン島少年植民団の指揮者になったのである。
八
少年たちがブリアンを選んだのは、ブリアンの親身になって人のためをはかる性質、なにごとに際しても示される勇気、全体の利益のための不断の献身を認めたいという心の現われであった。ただ、ドニファン、クロッス、ウィルコックス、ウェッブの四人だけは、かたくなにブリアンの長所を認めようとしなかった。しかし、彼らも、心の底では、このもっとも優れた仲間に対して、自分たちが公平でないことを、よく知ってはいたのである。
ゴードンは、この選挙の結果がこれまでの溝《みぞ》をいっそう深くすると思ったし、ドニファンたちがなにか困った行動に出やしないかと、あやぶみはしたけれども、惜しみなくブリアンを祝った。
しかし、この日から以後、明らかにドニファンたちはこの新事態を受けいれまいと心に決めているようだったが、ブリアンの方も、彼らを行き過ぎに走らせるようなきっかけを作るまいと決心していたのである。
冬の生活が昨年と同じ時間割りではじまった。寒さのため洞窟で過ごさねばならない長い時間が勉強に当てられた。ジェンキンスやアイヴァースン、ドール、コスターらの進歩はめざましかった。彼らを教えるので、上級生たちも自然と自分たちの勉強になった。
八月のはじめには、四日間ひどく寒い日があった。このあいだは、フレンチ・デンを一歩でも出ようものなら、骨の髄《ずい》まで凍る思いであった。さいわいこの寒さは長続きしなかった。八月六日ごろ、風が西に変わったのだ。八月の後半はかなりしのぎよくて、ブリアンは戸外の仕事をまたはじめることにした。落とし穴や輪差《わさ》の仕掛けの見回りにも頻繁《ひんぱん》に出かけ、ことにかすみ網では沼の野鳥がたくさん獲れた。おかげで、台所はいつも新鮮な肉をきらさなかった。
その上、家畜小屋にも新しいお客が増えた。野雁とほろほろ鳥の雛《ひな》がかえったばかりか、ビクーニヤが子を五匹産んだのである。
このころ、氷の状態がいいので、ブリアンは、ひとつみんなのためにスケート大会をやってやろうと思いついた。木の台に鉄の刃をつけてバクスターがなん足かのスケート靴《ぐつ》をうまくこしらえた。
そこで、八月二十五日、午前十一時ごろ、アイヴァースン、ドール、コスターの三人をモコとファンにまかせて、あとの十一人、ブリアン、ゴードン、ドニファン、ウェッブ、クロッス、ウィルコックス、バクスター、ガーネット、サーヴィス、ジェンキンス、ジャックの面々は、フレンチ・デンを出て、スケートによさそうな氷の張った場所を探しに出かけた。
ブリアンは、だれかが湖上をあまり遠くまで行ってしまったとき呼びもどすために、船で使う角笛《つのぶえ》を持っていった。
適当な場所が見つかるまで、三マイル近く岸を歩かなければならなかった。言うまでもなく、ドニファンとクロッスは、機会があったら一発やるつもりで、鉄砲を持ってきていた。ブリアンとゴードンは、みながむちゃをしないようについてきただけである。
いちばんスケートの上手なのは、文句なしに、ドニファンとクロッス……そして、とくにジャックで、スピードといい、正確な回転のトレースといい、群をぬいていた。
出発の合図をするまえに、ブリアンはみんなを集めて言った。
「言うまでもないと思うけど、慎重に、調子にのらないようにしてくれたまえ。見えないところまで行ってはいけないよ。遠くへ行き過ぎたら、ゴードンとぼくがここで待っていることを忘れないで。そして、笛の合図が聞こえたら、すぐ集まること」
注意が終わると、少年たちは湖に飛びだした。本当にジャックはすばらしかった。まえに、うしろに、片足で、両足で、立って、しゃがんで、まったく正確に、円を描き、楕円《だえん》を描いてすべった。
ジャックのみごとさに、ドニファンは少しねたましくなったらしい。そのうち彼は岸から離れていった。しかも、しばらくすると、クロッスに、こっちへこいよと合図をして、どなった。
「おーい、クロッス、あっちに、鴨がいっぱいいるぞ……東の方だ……鉄砲あるんだろう……ぼくも持ってる……撃ちにゆこう」
「でも、ブリアンがいけないって言ったよ……」
「なあに、ブリアンのことなんか放っとけよ……行こう……全速力だ!」
たちまち、ドニファンとクロッスは半マイルも向こうへ行ってしまった。
「おや、あのふたりはどこへ行くんだ?」とブリアンがつぶやいた。
「きっと獲物を見つけたんだよ」とゴードンは答えた。「狩猟本能ってやつだろ……」
「それより、わがままの本能だよ」とブリアンは言った。「またドニファンだ」
「でも、心配はないだろ!」
「それはわからないよ、ゴードン。ともかくみんなから離れるのはあぶない。ほら、もうあんなに遠くへ行ってしまった」
実際、ドニファンたちは、すごいスピードで、すでに湖上はるかなふたつの点になってしまった。
まだ日暮れにはだいぶ間があるから、帰る時間はあるが、それでも無鉄砲な話だ。
この季節には、天候が急に変わることがあるので、用心が必要なのだ。風の向きがちょっと変わっただけで、嵐か霧になる。
だから、二時ごろ、地平線が急に濃い霧に包まれたとき、ブリアンは非常な不安にかられた。
このとき、クロッスとドニファンの姿はまだどこにも見えていなかった。霧は湖の上にしだいに広がって、西の岸辺は隠れてしまった。
「だから言わないことじゃない」ブリアンの声が高い。「帰り道がわかるだろうか?」
「笛だ! 君、角笛を吹くんだ!」ゴードンがせきこむように言った。
角笛が三《み》たび鳴り響いた。そのかん高い音が尾をひいて空気をふるわせた。もしかしたら、鉄砲の音が返ってきはしないか? …… ドニファンたちが自分の位置を知らせるただひとつの手段だ。
ブリアンとゴードンは耳を澄ました……なんの物音も聞こえてこない。
そのあいだにも、霧はどんどん濃くなり、ますます広がってくる。しかも、上空にも厚く広がっていく。まもなく湖はすっかり霧に包まれてしまうだろう。
ブリアンは近くにいる少年たちを呼び集めた。じきに全員が岸辺に集まった。
「どうしよう? ……」ゴードンが言った。
「すっかり霧に巻きこまれてしまわないうちに、どうしてもふたりを見つけなければ。だれか、ふたりが行った方に行って、角笛で呼ぶんだ……」
「ぼくが行くよ」とバクスターが言った。
「ぼくらも」と二、三人が言った。
「いや、ぼくが行く」とブリアンは言った。
「兄さん、ぼくに行かせて」ジャックが進みでた。「ぼくのスケートなら、じきにドニファンたちに追いつくよ」
「よし!」とブリアンは答えた。「行ってくれ、ジャック。鉄砲の音がしないかよく気をつけるんだ。いいか、この笛を持っていけ、合図に吹いてお前の位置をしらせるんだよ!」
「うん、わかった」
たちまち、ジャックの姿は見えなくなった。ジャックが吹く角笛の音を、みんな耳を澄ませて追った。
しかし、やがて音は遠くなり、消えた。
三十分たった。なんの音沙汰もない。
「ここにも鉄砲があったらなあ……」とサーヴィスが声をあげた。
「鉄砲?」とブリアンは言った。「そうだ、フレンチ・デンにある! 大至急だ……行こう!」
三十分たらずのうちに、ブリアンたちはスポーツ台《テラス》までの三マイルを走りきった。
いまは弾薬を倹約している場合ではない。ウィルコックスとバクスターは銃を構えると、東に向けて、続けさまに撃った。
答えはない。鉄砲の音も、角笛の音も。
もう三時半だ。霧は濃くなるいっぽうだった。こう霧がたれこめては、氷の上になにひとつ見えはしない。
「大砲だ!」とブリアンが言った。
スルーギ号の二門の小型砲のひとつがスポーツ台《テラス》に引きだされた。信号弾をこめた。発射! ドールとコスターは思わず耳をふさいだ。
この静まりかえった空の下なら、数マイル先までこの音が聞こえないはずはない。
みなは耳を澄ました……答えはなかった。
それから一時間のあいだ、十分ごとに一発撃った。大砲の音はファミリー湖《レーク》のどこででも聞こえたはずである。霧は音を遠くに伝えるものなのだ。
とうとう五時少しまえ、遠く北東の方に、二発、三発、かなりはっきり鉄砲の音がした。
「ドニファンたちだ!」サーヴィスが叫んだ。
すぐさま、バクスターは大砲を撃って、ドニファンの合図に答えた。
まもなく、ふたつの影が霧の中に見えた。ドニファンとクロッスだった。ジャックはいっしょではなかった。
ブリアンがどんなに心配したかは、だれにでもわかるだろう。彼の弟はふたりに出会えなかったのだ。彼らはジャックの角笛の音も聞かなかったという。ちょうど、クロッスとドニファンが帰り道を探しながら、ファミリー湖《レーク》の南の方に引き返していたころ、ジャックは彼らを求めてまっすぐ東へ向かっていたのだ。ドニファンたちにしても、フレンチ・デンから大砲の音がしなかったら、とても帰れなかっただろう。
霧のなかに迷った弟のことでブリアンの頭はいっぱいだったが、彼の言うことを聞かないでこんな重大な結果をひき起こしたドニファンを責める気にはあまりならなかった。
「ぼくが行けばよかった……ぼくが行けば」しきりとくり返すブリアンを、ゴードンもバクスターも力づけようがなかった。
さらになん発か大砲を撃った。もしジャックが近くまできていれば、かならずその音を聞いて、角笛で自分の位置を知らせるはずである。
だが、最後の砲声が遠く消えても、答えるものはなかった。すでに、夜が迫っていた。まもなく島は闇に包まれるだろう。
しかし、そのとき、事態がやや好転した。霧が晴れそうな気配を見せてきたのである。
ゴードンは、望遠鏡を当てたまま、北東の方をじっと見つめていた。
「なにか見えるようだ……」と彼が言った。「点が動いている……」
ブリアンは望遠鏡をひったくるようにして、自分でのぞいた。
「ありがたい。ジャックだ! …… ジャックだ! 見える!」
みんなは力いっぱい大声をふりしぼった。どう見ても一マイル以上は離れていて、聞こえようはなかったのだが。
だが距離はみるみる縮まった。スケートをはいたジャックは、氷の上を矢のようにすべって、やってくる。もうじき、ここに着くだろう。
「なんだかひとりじゃないみたいだぞ」ひどく驚いたようすでバクスターが叫んだ。
たしかに、注意して見ると、ジャックから百フィートほどうしろに、ふたつの影が動いている。
「なんだろう?」ゴードンが言った。
「人間かしら? ……」とバクスターが言った。
「違うよ! 動物みたいだ」ウィルコックスが言う。
「猛獣だ、きっと!」とドニファンが叫んだ。
間違いなかった。すぐさま、銃をつかむと、彼はジャックに向かって、湖上に飛びだした。
たちまち、ドニファンはジャックのところに行きついて、獣をめがけて二発撃った。獣はくるりと向きを変えて、やがて見えなくなった。
ジャックは助かったのだ。ブリアンは弟をしっかりと抱きしめた。
みんなも、おめでとうを言ったり、抱きついたり、握手したり、このけなげな少年をとり囲んでたいへんな騒ぎだった。ふたりの仲間を探して空しく角笛を吹き鳴らしているうちに、ジャックは、自分も深い霧に迷って、方角がわからなくなってしまった。そのとき、最初の大砲の音が聞こえたのである。
ジャックがいたところは、岸から北東になんマイルも離れたあたりだった。ただちに、合図の聞こえた方向に全速力ですべった。
ところが、霧が晴れかけてきたとき、突然二匹の熊に出くわしたのである。熊は彼に襲いかかってきた。あぶないところだったが、彼は一瞬も落ち着きを失わなかった。そして、スケートのスピードのおかげで、熊に追いつかれないですんだのである。だが、万一ころびでもしたら、おしまいになるところだった。
みんなでフレンチ・デンにひきあげる途中、ジャックは兄をわきに引っ張って、小声で言った。
「兄さん、ありがとう、行かせてくれて……ありがとう」
ブリアンはなにも言わずに、弟の手を握りしめた。
ドニファンが広間の入り口にはいろうとするところに追いついて、ブリアンは言った。
「ぼくは、遠くへ行ってはいけないと言っておいたはずだ。それなのに、君は言うことを聞かないから、たいへんなことになるところだった。しかし、ドニファン、君は間違っていたけれども、ジャックを助けにいってくれたことはお礼を言うよ」
「ぼくは義務を果たしただけだ」ドニファンはそっけなく答えた。
そして、ブリアンが親しげに差し伸べた手を握ろうともしなかった。
この出来事があってから六週間のちのこと、夕方の五時ごろである。ファミリー湖《レーク》の南の端に、いましがた四人の少年が着いた。
十月の十日だった。春の気配がしのびよっていた。さわやかな緑の芽吹いた木々の下で、土も春らしい色をとりもどしている。気持ちよいそよ風が湖面にさざなみを立てていた。
磯松《いそまつ》の下で勢いよく燃える火からはきだされる香ばしい煙が、沼地の上に風に吹き流されている。石をふたつ並べてこしらえた炉で二羽の鴨が焼けている。食事がすめば四人の少年は、毛布にくるまるだけだ。そして、ひとりが見張りをして、あとの三人は朝まで静かに眠るのだろう。
それは、ドニファンとクロッスとウェッブとウィルコックスだった。彼らが仲間から離れることになったのは、次のようなしだいからである。
少年たちがフレンチ・デンで送った二度目の冬の終わりごろ、ドニファンとブリアンの仲はひどく緊張したものになってしまっていた。選挙の結果がブリアンにいい目と出たときの、ドニファンのいまいましそうなようすは忘れられてはいなかった。ますますねたみ深くなったドニファンは、チェアマン島の新しい指揮者にいやいや虫を殺して従っていた。あからさまに逆らわなかったのは、大多数の者が彼を支持しそうになかったからである。だが、なにかにつけて、悪意をむきだして見せるので、ブリアンもしかるべくとがめないわけには行かないこともあった。明らかに彼のわがままからでたスケート事件からのちも、ドニファンの反抗的な態度は増すいっぽうだった。ブリアンがきびしい処置をとらねばならないときが、もう目と鼻の先に迫っていた。
こうしたありさまで、当然のことながら、フレンチ・デンの住民の平和に欠かせない睦《むつ》まじさは、めちゃめちゃになってしまった。みんなが気まずい思いで、共同生活がひどくやりにくくなっていた。
現に、食事のとき以外は、ドニファンと、ちかごろますます彼の影響を強く受けるようになったクロッス、ウェッブ、ウィルコックスの三人は、みんなと離れて生活していた。
十月のはじめになると、寒さが完全に去って、湖の氷も川の氷もすっかりとけた。すると……十月九日の晩になって……ドニファンが、ウェッブ、クロッス、ウィルコックスを連れて、フレンチ・デンを出ることにした、と言いだしたのである。
「ぼくらを見すてるつもりか?」とゴードンが言った。
「見すてる? ……そうじゃないよ、 ゴードン」とドニファンは答えた。「ぼくたちはただ、別のところに行って住もうと計画しただけだよ」
「どうしてそんなことを? えっ、ドニファン?」バクスターがなじるように聞いた。
「ただぼくらの好きなように暮らしたいのさ。率直に言うと、ブリアンの命令を受けるのがいやなんだ」
「ぼくのどういうところが悪いのか教えてくれたまえ、ドニファン」とブリアンがたずねた。
「どこも悪くないさ……ただ、ぼくらの上に立つのがいけないのだ」
「まさか本気で言うんじゃないだろうね?」とゴードンが言った。
「本気だよ」傲慢《ごうまん》な口ぶりでドニファンは答えた。「イギリス人以外の指揮者でも君らはいいかもしれないが、ぼくらはいやなんだ」
「そうか」とブリアンが答えた。「ウィルコックス、ウェッブ、クロッス、それから君、ドニファン、君たちは自由に出ていきたまえ。君たちの分の品物を持っていくのも自由だ」
「あたりまえだよ、ブリアン。明日《あす》からぼくらはフレンチ・デンを出るよ」
「君たちがその決心を後悔しないように祈るよ」なにを言っても無駄だと思ったゴードンは、こう最後に言った。
ドニファンが実行しようという計画は次のようなものであった。
数週間まえ、ブリアンがチェアマン島の東部を探検したときの報告によると、そちらには住むのによさそうな場所がある。しかも、フレンチ・デンと東海岸は直線距離で十二マイルしかない。そのうち六マイルは湖を渡り、あとだいたい同じくらい| 東 川《イースト・リヴァー》 をくだればよい。したがって、どうしても必要な場合には、わけなくフレンチ・デンと連絡がとれる。
こうした利点を真剣に考えた上で、ドニファンは、ウィルコックス、クロッス、ウェッブの三人に、彼といっしょに向こうの海岸に行って住む|はら《ヽヽ》を決めさせたのである。
しかし、ドニファンは水路をたどって| 失 望 湾《デセプション・ベイ》に行くつもりではなかった。ファミリー湖《レーク》の湖畔を南端までくだり、湖尻を回って、対岸を| 東 川《イースト・リヴァー》 までのぼり、それから森のなかを川に沿って河口に出る、これが彼の予定した道順だった。
それは、約十五、六マイルの、かなり長いコースになる。だが彼らは狩りをしながら行くつもりだった。そうすれば、ボートに乗らないですむ。ボートを操るとなれば、ドニファンより経験を積んだ者の手がどうしても必要だったろう。彼はゴム・ボートを持っていく気だった。それで| 東 川《イースト・リヴァー》 を渡れるし、もし島の東部に別の川があっても十分まに合うだろう。
それに、この一回目の旅行の目的は、|失 望 湾《デセプション・ベイ》 の海岸を調べることだけで、そこで住居を選んだ上で、本格的に引っ越しをしようというのである。それで、荷物で身動きできなくなるのはごめんだというので、持っていくものをかぎることにした。鉄砲二挺、ピストル四挺、斧二挺、十分な量の弾薬、底釣《そこづり》用の糸、旅行用毛布、携帯用磁石、ゴム・ボート、あとは缶詰をほんの少々、狩りと釣で必要な食糧はたっぷりとれるにちがいないというわけである。
翌日、日の出とともに、ドニファンら一行は、別れを悲しむ仲間に出立を告げた。
空は曇っていたが、雨の心配はなかった。風は北東に定まったようで、穏やかに吹いている。この日は、四人の少年は、五、六マイルほどしか進まなかった。夕方の五時ごろ、湖の南端に着いて、そこで夜を過ごすことにしたのである。
以上が、八月の末から十月十一日までのあいだに、フレンチ・デンで起こったことのあらましである。
かなり寒い一夜を過ごして、翌朝、四人はふたたび出発した。
十一時ごろ、ドニファンたちは、大きなぶなの木が影を落としている、小さな入り江の岸で食事をした。今朝ウィルコックスが撃ったアグーティが昼飯だ。
ぎりきりの時間で、炭火をおこして、肉を焼き、おなかに放りこんで、腹と喉《のど》を満たすと、一行はまた湖岸をたどった。湖畔に迫っている森の木々は、西側の|落とし穴の森《トラップス・ウッズ》の木々と同じだった。
晩の六時ごろ、今日はここまでということになった。湖から流れでる川で湖岸が断ち切れている場所に着いたのである。
そこはブリアンとジャックとモコが|失 望 湾《デセプション・ベイ》を探検したときに船をとめて第一夜を過ごしたところだった。
この場所にキャンプを張り、火をたいて、食事をし、ブリアンたちが一夜を明かした同じ木の下に横になる、そうするのがドニファンたちにもいちばんよいことであったし、事実そのとおりに彼らもしたのである。
夜が明けると、ドニファンは、すぐに| 東 川《イースト・リヴァー》 を渡ろうと言った。そこで、ゴム・ボートをほどいて、水に浮かべると、うしろに綱を引っ張って、ドニファンが向こう岸に向かった。櫂《かい》を使って、このへんで三、四十フィートある川幅を、じきに渡った。それから、みんなでしっかり握っていた綱をひいて、ボートをひきもどし、ウィルコックス、ウェッブ、クロッスが順ぐりに川を渡った。
渡り終わると、ウィルコックスはゴム・ボートをすぼめ、リュック・サックのようにたたんで、背にしょった。ふたたび前進だ。
この日はたいへんきつかった。森は深いし、地面はやたらと草が茂っている、このあいだの風で折れた枝が倒れているし、むやみにぬかるみが多くてよけるのも並みたいていではない。それやこれやで、海岸に出るのに手間取ったのである。
正午近く、休んで昼飯を食べた。それから、なお二マイルほどのあいだ、川から離れないように、斧《おの》で道を切り開いたりしながら、厚い薮《やぶ》をぬって進まねばならなかった。
こうしておくれたために、森のはずれに出たときは、もう午後七時ごろになっていた。日が暮れてしまったので、海岸のようすがさっぱりわからない。だが、目には白く泡立つ一条の線しか見えなかったけれども、浜辺に砕ける海のとどろきは重く長く響いていた。
そのへんで野宿をすることになった。野営の仕度をし、枯れ枝を燃やして焼いた雷鳥を夜食にした。
翌朝、ドニファンたちが最初にしたことは、河口まで川辺をくだることだった。そこではじめて彼らは海を見渡した。はじめて見るこの海は、島の反対側の海に劣らず、人気《ひとけ》のない海だった。
望遠鏡で水平線のかなたをつくづくながめてから、ドニファンは| 東 川《イースト・リヴァー》 の河口のあたりを歩き回ってみた。
岩がおのずから港を作っていて、その背後に深い森が迫っている。花崗質《かこうしつ》の海岸の岩には洞窟がいくらもあって、ドニファンはどれを選ぶか困るばかりだった。しかし、|東 川《イースト・リヴァー》 の岸から遠くない方がいいと思った。そのうちに、細かい砂を敷いた天井の高いほら穴を見つけた。ここなら、住み心地もフレンチ・デンに劣らないだろう。
この日は、海岸を一、二マイルにわたって歩いてみることにした。あいまをみて、ドニファンとクロッスはうずらを撃ったし、ウィルコックスとウェッブは東川に釣糸をたれた。魚は五、六匹釣れた。夜がきて、ドニファンたちはみごとな楡《にれ》の木立ちの下で食事をした。それから、相談がはじまった。熊岩《ベア・ロック》のほら穴に住みつくのに必要な品物を運ぶために、すぐフレンチ・デンに帰るのがいいかどうかという問題である。
「なんてったってそうすべきだと思うよ」とクロッスが言った。
「じゃあ、明日にでも?……」とウェッブが聞いた。
「いいや」とドニファンが答えた。「出かけるまえに、この湾の向こうを偵察して、北の方を調べてみたいんだ。そっちの方に陸地がないかどうかはだれにもわかってはいないんだよ。ボードアンは確かめられなかったんだ。だから、地図にも書いてないしね。そんなことぐらいわからないで、ここに住んだってしかたないじゃないか」
その意見はもっともだった。そこで、翌十月十四日、ドニファンと三人の少年は明けがたに出発して、海岸沿いに北へ向かった。
日の暮れるまでに九マイル歩いた。あと同じくらい歩けば、島の北端に着くだろう。それは明日の仕事だ。
日の出とともにまた歩きだした。急ぐ必要があった。天気が悪くなりそうなのだ。風が西に変わって、冷えてきそうな気配だった。早くも雲は沖へ沖へと飛んでいたが、このぶんだと雨にはならないと考えていいかもしれない。風だけなら、たとえ暴風になっても、この気丈な少年たちの恐れるところではない。横なぐりに吹きつのる突風と闘いながら、彼らは足を早めた。この一日はひどく辛かった。夜はすごい天気になりそうだった。そのとおり、まさに嵐が島を襲っていたのだ。午後五時、稲妻《いなづま》のきらめきとともに、雷が長々ととどろいた。
ドニファンたちは退却しなかった。ゴールは近いと思うと勇気がわくのだ。北の海岸は遠くはないはずだ。
八時ごろ、ごうごうと波の打ち寄せる音が聞こえた。チェアマン島の沖合いに岩礁のあるしるしだ。
ドニファンもウェッブもクロッスもウィルコックスも、非常に疲れてはいたが、いっさんに走りだした。少しでも明るみの残っているうちに、太平洋のこの海域をひと目見ておきたかったのである。はてしのない海なのか、それとも狭い海峡で波の向こうに大陸か島でも見えはしないのか?
突然、みんなより少しまえを走っていたウィルコックスがぴたと止まった。波打ちぎわに浮かびあがった黒い塊を、彼は指さした。
ボートだった。右舷にがくんと傾いて乗りあげている。そして、その手前、波に置き去られた海藻が一線をなしてみち潮のあとを示しているすぐそばに、ボートから数歩離れて、ふたりの人間が倒れていた。ウィルコックスの手はそれをさしていた。
一瞬、少年たちは立ちすくんだ。次の瞬間、彼らは夢中で浜に駆けだし、砂に伸びたふたりの……おそらくは死体の……ところへ飛んでいった。
もう暗かった。深い闇の中で、突風のうなりが激浪《げきろう》の砕《くだ》ける音をまじえて、すさまじいばかりだ。
なんという嵐だろう! 木という木がめりめりと音をたて、木陰に身を寄せるのも安全ではない。だが、浜は、砂が風に巻きあげられ、横なぐりに吹きつけるので、とても野宿などできはしない。
ドニファンたちはひと晩じゅう林のなかにじっとしていた。ちょっとのま目をつぶることもできなかった。
なんという長い夜だったろう。夜明けになれば恐ろしさも消えるのだが、その夜明けが永久にこないような気がした。
ようやく、東の方に朝のほの白い光がさしそめた。風は少しもおさまってはこない。しかも雲が海にたれこめているので、ドニファンらが熊岩《ベア・ロック》の港に帰り着かないうちに、雨になるおそれがある。
しかし、何はおいても、難船した死者への最後の義務は果たさなければならぬ。少年たちは、突風と闘いながら、はうようにして海岸に向かった。吹き倒されないように、なんども体を寄せ合わねばならなかった。
船は小高い砂山のそばに打ちあげられていた。海岸の砂州《さす》の様子を見れば、風のための高潮が船を乗り越えたにちがいない。ふたりの死体はもうなかった……。
ドニファンとウィルコックスはさらに先の方まで行ってみた……なにもない。それのあったらしいあともない。きっとひき潮がさらっていってしまったのだ。
ドニファンは岩礁のはずれまで行って、岩によじのぼり、望遠鏡で海の上を見回した……。
ひとつの死体も見えない。水死者たちは沖に流されてしまったのだろう。船のそばに残っていた三人のところにドニファンはもどった。もしかしたら、この悲劇の生き残りがボートの中にいはしないか?……しかし、船は|から《ヽヽ》だった。
それは商船に備えつけのランチだった。まえの方に甲板があり、竜骨《りゅうこつ》の長さは三十フィートほどある。右舷の吃水線《きっすいせん》のあたりに、座礁したときぶつけたのだろう、穴があいていて、もう海に浮かべられる状態ではない。マストは根元からぽっきり折れ、船縁《ふなべり》の索《さく》止めに帆の切れはしがひっかかっているほかは、ちぎれたロープがあるだけだ。船底を見ても、前甲板の下をのぞいても、食料も船具もなにひとつない。
船尾に、本船と母港の名が書いてあった。
セヴァーン号……サン・フランシスコ
サン・フランシスコだ。カリフォルニアの港だ……この船はアメリカの船だったのだ。
セヴァーン号の乗組員が嵐で打ちあげられたこの海岸は、地平線の果てまで、ただ波また波であった。
九
ドニファンたちがフレンチ・デンを去ったときの模様は、だれの頭からも消えなかった。彼らが出ていってから、少年たちの生活はすっかり暗い空気に沈んでしまった。どんなに深い悲しみの目で、みなはあの別離のときを見送ったことだろう。たしかに、ブリアンには自分を責めることはなかったのだが、それでも分裂騒ぎは彼のことから持ちあがったのだから、おそらくほかのだれよりも彼は悩んでいたのである。
少しも役には立たなかったが、ゴードンはブリアンを慰めようとした。
「そのうちに帰ってくるよ、ブリアン、それも、あの連中が考えているより早くね。賭けてもいい、冬までにはフレンチ・デンにもどってきているさ」
ブリアンは首を振って、なにも答えようとしなかった。なにかの事情でいつか去った者たちがもどってくるかもしれない。おそらく、そういうことになるだろう。だが、そのときは、重大な事態が生じたということなのだ。
「気候が悪くなるまでには」とゴードンは言った。それでは、この少年たちはチェアマン島で三度目の冬を過ごさなければならないのだろうか? それまで、どこからも助けはこないのだろうか? 海に乗りだせる舟を作る計画を、ブリアンはバクスターとふたりでいろいろと練ってみたができそうになく、けっきょく、高いところに何か目印をあげる方法を探そうということになった。ブリアンはそのことをしょっちゅう口にしていた。そしてある日、凧《たこ》を使うというのはできない相談じゃないと思うが、と彼はバクスターに言った。
「布も綱もある。うんと大きく作れば、かなり高くあがるだろう」
「風のない日のほかならね」とバクスターはあくまで正確な口のききかたをした。
「そんな日はめったにないよ」とブリアンは答えた。「風のないときには凧をおろすだけの話さ」
「やってみる価値はあるね」とバクスターは言った。
「それに」とブリアンは言った。「昼間は遠くから見えるけど、夜だって、尻尾か骨のどこかにカンテラをぶらさげれば、見えるよ」
要するに、ブリアンの思いつきはなかなか実際的だった。これを実行に移すのも、少年たちにできない話ではなかった。だから、この計画が知らされると、みなはいっせいにわきたった。
凧《たこ》作りは次の日からはじまった。バクスターの意見で、凧は八角形にすることになった。ファミリー湖《レーク》の岸に生えている、非常に堅い葦《あし》で、軽くてじょうぶな骨組みが作られた。この骨の上に、ブリアンは、船の明り窓のおおいに使ってあったゴム引きの薄い布を張らせた。……これなら防水が完全だから、風も布目を通さないだろう。凧糸には、かなりの張力に耐えられる縒《よ》りの強い綱を使う、長さは少なくとも二千フィートは必要だ。
もちろん、こんな大凧を手で揚げるわけにはゆかない。少年たちが総がかりでも、風の力であっと言うまにひきずられてしまうだろう。綱は船の巻き揚げ轆轤《ろくろ》に巻くのがよいということになった。そこで、そのウインチがスポーツ台《テラス》のまん中に引きだされて、「空の巨人」号がいくら引っ張ってもだいじょうぶなように、地面にしっかりとすえつけられた。……「空の巨人」という名は、下級生がみんなでこの凧に奉った名前である。
十五日の夕方に仕事が終わった。あくる日の午後に、全員で凧揚げをすることに、ブリアンは決めた。
ところが、あくる日はその実験を行なうことができなかった。嵐が吹きまくったのである。そして、この同じ嵐が、島の北部にいたドニファンたちを襲い、同時に、あの難破したアメリカ船の乗組員とランチを北の暗礁に吹き流したのであった。のちにその海岸はセヴァーン海岸と名づけられることになるのだが。
翌々日……十月十六日……も、凧を揚げるには風が強すぎた。だが、午後になると、天気がおさまってきたので、その翌日に実行することに決めた。
十月十七日……この日はチェアマン島の歴史に残る重要な日になろうとしていた。
午前中にはじまった最後の準備が、昼食後一時間以上かかって終わった。そこで、いよいよ、全員がスポーツ台《テラス》に集まった。
「こんなものを作ろうなんて、ブリアンは素敵なことを考えたもんだ」アイヴァースンたちはしきりとそう言っていた。
一時半だった。長い尾をつけて地面に寝かせた凧は、まもなく風に乗ろうとして、ブリアンの合図を待つばかりであった。そのとき、急にブリアンの作業の手が止まった。
ファンのようすに注意がそれたのである。彼が妙に思ったのも無理はない、ひどく悲しそうな、おかしな鳴き声をたてて、ファンが森の方にまっしぐらに駆けだしたのだ。
「どうしたんだろう、ファンは?」とブリアンは言った。
「森のなかに獣でもかぎつけたのかな」とゴードンが答えた。
「行ってみよう」とサーヴィスが叫んだ。
「行こう」とブリアンが言った。
三人は、ジャックもいっしょに、|落とし穴の森《トラップス・ウッズ》に向かった。
ブリアンたちが五十歩ばかりはいったとき、犬が一本の木の下に止まっているのが見えた。木の根元に人間の形をしたものが横たわっていた。
女だ。地面に伸びて、死んだように動かない。着ているものはまだ痛んでもいないようだ。顔に極度の苦痛のあとが浮かんでいた。体格はがっしりして、年のころも四十か四十五は越えてはいまい。疲れと飢えで気を失ったらしいが、かすかな息が唇《くちびる》からもれていた。
「息がある……息があるぞ」ゴードンが叫んだ。「きっと、飲まず食わずなんだ……」
すぐさま、ジャックがフレンチ・デンに飛んでいって、ビスケットとブランディーの瓶を持ってきた。ブリアンは、女の上にかがみこんで、きつく食いしばった口をあけると、気つけの酒を少し流しこんだ。
女はかすかに身動きして、まぶたをあけた。そして、自分を取り巻いている少年たちを見て、女の目にまず光が動いた……それから、ジャックが差しだすビスケットを、むさぼるように口に持っていった。そのようすでは、女は疲労よりも空腹で死にかけていたらしい。
だが、この女は何者だろう。この女と言葉を交し、その言うことを理解できるだろうか……。
ブリアンのこの疑念はじきに晴らされた。
女が体を起こして、英語で言ったのである。
「ありがとう……みなさん……ありがとう」
三十分後、ブリアンとバクスターは彼女を広間に運んだ。ゴードンも手伝って、あれこれと必要な手当てをした。
少し元気を取りもどすと、女はすすんで自分の身の上を話しだした。
以下は彼女の話である。その冒険の物語がどんなに少年たちの心を動かしたかは考えるまでもない。
彼女はアメリカの生まれであった。名はキャサリン・レディーというが、もっと短くケートと呼ばれている。二十年以上まえから、ニューヨーク州の首府オルバニーに住むウィリアム・R・ペンフィールド家の家政婦を勤めている。
ひと月ほどまえのこと、ペンフィールド夫妻は、カリフォルニア第一の港サンフランシスコにやってきて、ジョン・F・ターナー船長の指揮する商船セヴァーン号に乗った。この汽船はヴァルパライソ行きで、ペンフィールド夫妻は、家族同然のケートを航海に連れていくことにしたのである。
セヴァーン号はよい船だった。そして、この船で新しく雇いいれた八人の船員がとてつもない悪者でなかったなら、おそらくセヴァーン号の航海はすばらしいものであっただろう。ところが、出港して十日目、彼らのひとりウォルストンという男が、仲間のブラント、ロック、ヘンリー、ブック、フォーブス、コープ、パイクといっしょに、暴動を起こして、ターナー船長と一等運転士とペンフィールド夫妻を殺してしまったのである。
人殺しどもの目的は、船を奪って、黒人奴隷の売買に使おうというのであった。
船で助かったのはふたりだけであった。ケートは、……ほかの連中ほど残虐でない……水夫のフォーブスのとりなしで助かり、もうひとり、セヴァーン号の運転士でエヴァンズという名の三十歳くらいの青年が、船の運転をさせるために必要だというので生かしておかれた。
この惨劇は、十月七日から八日にかけての晩、ちょうどセヴァーン号がチリーの海岸から約三百マイルの海上にあったときに行なわれたのである。
エヴァンズは、殺すぞと脅迫されて、やむをえず船をケープ・ホーンを回って、アフリカ西海岸に向かうよう、動かした。
ところが、数日後、……原因不明の……火事が船に起こった。たちまち火勢は猛烈になって、ウォルストン一味がなんとか船を全焼させまいとけんめいになったが空しかった。仲間のひとりのヘンリーは、火をのがれようとして海に飛びこんで、とうとう死んでしまった。いくらかの食糧と武器弾薬を大急ぎでランチに放りこんで、船をすてなければならなかった。セヴァーン号が火に包まれて沈没する寸前、ランチは本船を離れた。
いちばん近い陸地からでも二百マイルは離れていたのだから、この難船者たちの運命はまことに危険きわまりないものであった。
翌々日、激しい嵐が巻き起こった……彼らの運命はさらに恐ろしい状況に見舞われたのである。だが、風が沖から陸へ向かう風だったので、帆柱は折れ、帆のちぎれたボートは、チェアマン島へと吹き流された。こうして、十月十五日から十六日にかけての晩に、暗礁の上をひきずられたあげく、船は砂浜に乗りあげたのである。ウォルストンらは、長いこと嵐と闘って疲れはて、食糧も大半食べつくし、寒さと疲労でもうどうにもならないところまできていた。ランチが暗礁に近づいたとき、彼らはほとんど死んだも同然だった。そのとき、座礁する直前、大波が襲って一味の五人をさらった。それから少しして、残りのふたりがさらわれて浜に打ちあげられ、ケートは船のかげに倒れたのである。
ケートも気を失ったが、このふたりの悪者はずっと倒れたままだった。やがて意識を取りもどしたケートは、ウォルストンらは死んだろうと当然思ったが、用心して、そのままじっとしていた。見知らぬ土地で救助を求めるには、朝を待とうと思ううちに、午前三時ごろ、ランチのそばに砂を踏む足音が聞こえた。
なんとそれはウォルストンとブラントとロックだった。彼らは船が浜にあがるよりまえに、ようよう激浪《げきろう》をのがれたのである。そして岩礁を伝って、フォーブスとパイクの倒れているところにやってきたのである。彼らは急いで仲間の息を吹き返させると、相談をはじめた。
そのころ、運転士のエヴァンズはそこから数百歩先で、コープとブックに見張られていた。
彼らの交す話し声は、ケートの耳にはっきりと聞こえた。
「ここはどこかね?」とロックのたずねる声がする。
「知らねえよ」とウォルストンが答えた。「どこでもいいさ。ともかくこんなところにはいられねえ。東の方へ行ってみよう」
「鉄砲はどうなった?」フォーブスの声だ。
「ここにあらあ、弾も無事だぜ」
こう言って、ウォルストンはランチの箱から五挺の銃と弾薬の包みを取りだした。
「そいだけじゃ少ねえな」とロックが言った。「なにしろ、この野蛮人の土地でなんとか切りぬけなけりゃなんねえんだから」
「エヴァンズの野郎はどこだい?」とブラントがたずねた。
「野郎はあっちさ、コープとブックが見張ってら。あいつは俺たちにくっついてこさせなきゃなんねえ。手向かいでもしやがったら、俺が頭を冷やしてやるよ」とウォルストンが答えている。
「ケートはどうした?」とロックが言う。
「ケートか」とウォルストンが答えた。「あんなものに心配はいらねえ。船が水びたしになるまえに、あいつが落っこちるのを俺は見たぜ。今ごろは海の底よ」
「やっかい払いができたってもんよ、つまりはな」とロックが言った。「俺たちのもくろみをあいつは少し知りすぎたからな」
「どうせ、いつまでも知っていられたわけじゃなかったがな」とウォルストンは言いたした。
話をすっかり聞いたケートは、セヴァーン号の水夫たちが立ち去ったら、逃げようと決心した。
しばらくすると、ウォルストンと一味の者は、足許のしっかりしないフォーブスとパイクを支えながら、武器、弾薬、ランチの木箱のなかに残っていた食糧……つまり塩漬けの肉五、六ポンド、煙草《たばこ》少々、ジン二、三本……などをかついでいった。
彼らが遠くなると、ケートは立ちあがった。ぐずぐずしてはいられない。あげ潮が浜に迫っていて、そうしていては、波にさらわれそうだった。
ウォルストンたちはもう東の方に行ってしまった。ケートは反対の方角を目指して、自分ではそうとも知らずに、ファミリー湖《レーク》の北端に向かったのである。
そこにたどりついたのは十六日の午後だった。疲れと飢えでふらふらだった。野生の木の実をいくつか、口に入れたものといったらそれだけだった。そして、湖の左岸をくだって、その晩も、翌十七日の午前中も歩き続け、半死半生の姿をブリアンに抱き起こされた地点まで来て、倒れてしまったのである。
ケートの話を聞いて、少年たちがどんなに驚いたかは、想像にかたくない。
話を聞いているうちに、ブリアンの頭のなかはひとつのことでいっぱいになった。これから先、危険が迫ってくるだろうが、いま第一に、ドニファン、ウィルコックス、ウェッブ、クロッスの四人があぶないということだ。現に、彼ら四人は、チェアマン島にセヴァーン号の悪人どもがいることを知らない、それも、ちょうどいま、彼らが探検している海岸地方にいるのだ。それを知らないで、どうして用心ができるだろう。
「助けに行かなければ」とブリアンは言った。「今日じゅうに知らせなければたいへんだ」
「そして、フレンチ・デンへ連れて帰るんだ」とゴードンも言った。「いまこそぼくたちはひとつになって、悪者の攻撃に備えなければならない」
「そうだ、ぼくが探しにゆく」
「君が、ブリアン?」
「そうだよ」
「だけどどうやって?……」
「モコとふたりでボートに乗っていこう。数時間あれば、湖を渡って、| 東 川《イースト・リヴァー》 をくだれるだろう。おそらく、河口のあたりでドニファンに会えると思う……」
「いつ出かける?」
「日が暮れたらすぐに」とブリアンは答えた。
「兄さん、ぼくもいっしょに行かせて」とジャックが言った。
「駄目だ。みんなをボートに乗せて帰らなければならないんだ。六人乗るだけでもやっとなんだから」
「じゃあ、そうするか」とゴードンが言った。
「決めたよ」とブリアンは言った。
暗くなるまで、みなは広間に閉じこもっていた。ケートは少年たちから冒険の話を聞いた。気だてのよいこの女は、もう自分のことは忘れて、少年たちのことしか考えていなかった。チェアマン島でこれから先いっしょに暮らさなければならないとしたら、彼女はみんなの親身《しんみ》な乳母となって、面倒をみてくれるだろう。母親のように少年たちをかわいがることだろう。小さい子どもたち、ドールやコスターのことを、彼女はもう〈|坊や《パプース》〉と優しく呼んでいた。アメリカの西部で、幼児のことをそう呼ぶのである。
八時に出発の準備ができた。どんな危険にも身をていして、たじろがないモコは、ブリアンと同行することを喜んでいた。
ふたりは、若干《じゃっかん》の食料を積み、それぞれピストルと短刀を持って、ボートに乗りこんだ。仲間にさようならを言うと、やがてふたりはファミリー湖《レーク》の闇に消えた。その遠ざかる姿をみなは胸のしめつけられる思いで見送った。陽《ひ》が落ちるとともに、そよ風が吹きだして、湖を西から東に渡るのに好つごうだった。その夜はとても暗い晩だった……もっけの幸いだ。
二時間で六マイルは来た。舟は、はじめて湖を渡ったときの場所近くで、岸に着いた。湖水が川に注ぎこむ小さな入り江のところまで、半マイルほど岸に沿っていかねばならなかった。それに少し時間がかかった。
十時半ごろ、ボートの艫《とも》にすわっていたブリアンが、モコの腕をぎゅっとつかんだ。右岸の、東川《イースト・リヴァー》から数百フィートのあたりに、闇をすかして、消えかけた焚火《たきび》の明りがかすかに見えたのだ。何者があそこにキャンプを張っているのだろう。ウォルストンか、それともドニファンか……。川に乗りいれるまえに、それを確かめなくてはならない。
「岸におろしてくれ、モコ」とブリアンは言った。
「私も行きましょうか、ブリアンさん」モコが小声で聞いた。
「いいや、ひとりの方がいい。そばへ行っても見つかる危険が少ないもの」
ボー卜が岸に寄ると、ブリアンは、待っているようにとモコに言って、陸に飛びあがった。手に短刀を握り、ピストルは腰のベルトにはさんだ。勇敢な少年は、土堤をよじのぼって、森のなかに忍びいった。
ぴたっと彼の動きが止まった。二十歩ばかり先の、焚火の残り火がぼんやり照らしている草のあいだを、彼と同じように、なにか黒いものがはっているのを見たような気がしたのだ。
たちまち、恐ろしい唸《うな》り声がして、黒い塊がまえに飛んだ。
大きな豹《ひょう》だった。と同時に、「助けて! 助けて!」という悲鳴が聞こえた。ブリアンの耳に聞き覚えのあるドニファンの声だ。まぎれもなく、彼だった。ほかの仲間は川岸近くに張ったキャンプに残っているのだ。
豹に押し倒されたドニファンは、武器が使えないで、もがいていた。
悲鳴を聞いて目をさましたウィルコックスが駆けつけて、引き金きを引こうと銃を構えた……。
「撃つな! 撃つな!」
叫ぶが早いか、ブリアンは、ウィルコックスの目にもとまらぬ勢いで、豹に飛びかかった。豹は向きを変えて、ブリアンに向かってきた。そのあいだに、ドニファンはすばやく起きあがった。
ブリアンは短刀で横なぐりに豹を突きさすと、うまくわきに飛びのいた。
あっというまの出来事で、ドニファンもウィルコックスも手だしをする暇がなかった。豹は致命傷をうけて、倒れた。そこへ、ウェッブとクロッスが、ドニファンを助けに駆けつけてきた。
だが、すんでのところで、ブリアンの勝利も高いものになるところだった。彼の肩は、豹の爪でひき裂かれて、血が吹きでていた。
「どうして君がここへ?」とウィルコックスが驚きの声をあげた。
「あとで話す」とブリアンは言った。「それより、すぐに、来てくれ」
「そのまえに、お礼を言わせてくれたまえ、ブリアン」とドニファンが言った。「君のおかげで命が助かった……」
「君だってぼくと同じことをやったろうさ」とブリアンは答えた。「そんなことはもういいから、ぼくについてきてくれたまえ」
ブリアンの傷はたいしたことはなかったが、それでも、ハンケチできつくしばる必要があった。ウィルコックスが包帯をしてくれているあいだに、勇敢な少年は仲間にわけを話した。
してみると、ドニファンが高潮にさらわれた死体と思っていたあの男たちは生きていたんだな。その連中が島をうろついているのだ。血に汚れた悪党たちなのだ。女がひとり、セヴァーン号のランチで連中といっしょに難船して、それがフレンチ・デンにいるのか……チェアマン島もいまはもう安全な島じゃないのか。それで、鉄砲の音が聞かれるといけないから、ブリアンは、豹を撃つなとウィルコックスに言ったのだな。だから、ブリアンは、豹をやっつけるのに、短刀しか使おうとしなかったのか。
「ああ、ブリアン、君はぼくよりずっと立派だ!」ドニファンはすっかり感動して叫んだ。感謝の気持ちが、あんなにも高慢だった彼の心を砕いていた。
「いや、ドニファン、君は仲間だ」とブリアンは答えた。「こうつかまえた以上、君があっちへ帰ると言うまでは、この手を離さないよ」
「いいとも、ブリアン、かならずそうするよ」とドニファンは言った。「ぼくを当てにしてくれたまえ。これからは、率先して、君の言うとおりにするよ。明日、夜が明けたら、すぐ出かけよう」
「いや、いますぐだ」とブリアンは言った。「見つからないうちに、帰らなくっちゃ」
「だけどどうやって?……」とクロッスが聞いた。
「モコが来ているんだ。ボートで待っている。ぼくたち| 東 川《イースト・リヴァー》 にはいろうとしたとき、君たちの焚火を見たんだよ」
「それで、ちょうどぼくを助けてくれたんだね」とドニファンはまた言った。
「それで、ちょうど君をフレンチ・デンに連れて帰れることになったのさ」
ところで、ドニファン、ウィルコックス、ウェッブ、クロッスの四人は、どうして、| 東 川《イースト・リヴァー》 の河口ではなく、ここにキャンプをしていたのか。その説明は簡単なことだった。
セヴァーン海岸を去った四人は、十六日の晩には、熊岩《ベア・ロック》の港にもどっていた。翌朝すぐに、四人は| 東 川《イースト・リヴァー》の左岸をさかのぼって、湖まで来て、そこで夜の明けるのを待って、フレンチ・デンにもどるつもりだったのである。
明けがたには、ブリアンたちはすでにボートの上だった。ボートは六人ではぎゅう詰めだったので、用心して操らねばならなかった。
しかし、つごうのよいことに風はそよ風で、モコがじょうずに舟を進めたので、無事に湖を渡った。
朝の四時ごろ、彼らがジーランド川《リオ》の土手におりたとき、ゴードンたちはもう大喜びで一同を出迎えた。たいへんな危険が彼らの身に迫ってはいたけれども、せめて、これで全員がフレンチ・デンにそろったのだもの。
こうして、少年植民地の全員がそろった。しかも新しい一員が加わった……あの優しいケート、恐ろしい海上の惨劇に出会ったあげく、チェアマン島の浜辺に打ちあげられたケートという仲間まで増えていた。その上、フレンチ・デンではいまやみんなの心がひとつになって、これからは、どんなことがあってもばらばらにはなるまい。
しかし、フレンチ・デンには深刻な危険が迫っていた。七人の武器を持った屈強な悪漢《あっかん》どもにいつ襲われるかわからない。洞窟に帰りつくと、もちろんすぐ、ブリアンは必要な傷の手当てをうけた。傷はじきになおった。しばらくは、腕に少し不自由な感じが残ったが、それもやがて消えた。
けれども、十一月のはじめまで、フレンチ・デンの近くには、なにも怪しい気配は現われなかった。セヴァーン号の船員たちはまだ島にいるのだろうかとさえブリアンは考えるようになった。
闇夜を利用して、ブリアンとドニファンとモコは、なん度もボートをファミリー湖《レーク》に乗りだしてみたが、向こう岸にも、| 東 川《イースト・リヴァー》 のほとりに茂っている林の下にも、疑わしい火の光は一度も見つからなかった。
それにしても、ジーランド川《リオ》と湖と森と崖とでかぎられた狭い一画から出ないで暮らすのは、ひどく辛いことだった。それで、ブリアンは、どうしたらウォルストンがいるかどうかを確かめられるだろう、なんとかして彼がどこでキャンプの火をたいたか見つけてやろう、とたえず考えていた。夜、どこか高いところに登りさえすれば、たぶんキャンプの火はわけなく見つかるだろう。
ブリアンはそう考えた。そして、この考えがブリアンの頭にこびりついてしまった。つごうの悪いことに、チェアマン島には、いちばん高いところで二百フィートとないあの崖よりほかに、丘といえるようなものはなかった。| 失 望 湾《デセプション・ベイ》の岩までひと目で見おろすには、もっと数百フィートも高く登らなければなるまい。
そのとき、ブリアンの胸に、思いきった考えが浮かんだ……とっぴな考えといってもいい……はじめは自分でも頭から追い払ったくらいである。だが、その考えは、執拗《しつよう》にまつわりついて離れず、しまいには脳みそのなかにしみついてしまった。
凧を揚げる実験が中止になっていたことは、まだ記憶に新しい。
ところで、凧を目印に使うことはいまではできないが、あれを偵察のために利用することはできるんじゃないだろうか? みんなの安全のためにぜひとも必要な偵察だ。この勇敢で大胆な少年の思いつきに首をすくめないでいただきたい。頭にこびりついた考えをあれこれと思いつめて、とうとうブリアンはこの計画に自信を持った……実行可能というだけではない、最初思ったほど危険ではないと確信したのである。
十一月四日の晩、彼は、ゴードン、ドニファン、ウィルコックス、ウェッブ、バクスターの五人を相談があるからと呼んで、この凧を利用する計画を話した。
みんなにあっさり笑われるかもしれないという心配がないでもなかったので、ブリアンは手短かに計画を説明した。
少年たちは笑おうなどとは夢にも思わなかった。そんな気持ちは少しもなかった。ゴードンだけは、ブリアンは本気で話しているのかしらと心で思ったが、ほかの者はみなすっかりこの計画に賛成する気になっているようだった。
十一月五日の朝から、ブリアンとバクスターは凧作りの仕事にとりかかった〔目印用の凧はまえに一度作ったが、偵察用の大きい凧を作り直したのである〕。
当然考えられるように、この仕事は一日では終わらず、二日でも終わらなかった。五日の朝からはじめて、七日の午後にやっと終わった。そこで、その晩、予行演習をすることになった。凧の上昇力と空中での安定度を調べるのが目的である。
午後九時、闇は深い。星のない空に雲が流れている。凧がどんなに高く揚がっても、フレンチ・デンの近くからでも見つけられるおそれはなさそうだ。
スルーギ号の巻き轆轤《ろくろ》がスポーツ台《テラス》のまん中に引きだされ、凧が引っ張ってもだいじょうぶなように、地面にしっかりと固定された。ブリアンは、つり篭《かご》に、きっかり百三十ポンドの重さの土の袋を載せた。
ドニファン、バクスター、ウィルコックス、ウェッブは、巻き轆轤《ろくろ》から百歩離れて、地面に寝かせた凧のわきで、位置についた。ブリアンの命令がありしだい、彼らは、凧の横骨に結びつけた綱をひいて、徐々に凧を起こすことになっている。凧が風に乗りだしたら、巻き轆轤《ろくろ》の操作を担当するブリアン、ゴードン、サーヴィス、クロッス、ガーネットの面々が、凧が空に揚がるにつれて、綱をくりだすてはずだ。
「用意!」とブリアンが叫んだ。
「準備終わり!」ドニファンの答えがあった。
「はじめ!」
凧は少しずつ起きあがり、風を受けてふるえたと思うと、風に乗ってふわりと傾いた。
「綱を出せ! …… 延ばすんだ!」とウィルコックスがどなった。
すぐさま、ぴんと張った綱が、巻き轆轤《ろくろ》からくりだされ、凧とつり篭はゆっくりと空中に揚がっていった。
「空の巨人」が地面を離れたとき、不用心ではあったが、いっせいに万歳の声が起こった。だが、じきに凧は闇に消えて、やがて七、八百フィートの空高く揚がった。
実験が成功したので、みんなは交替でハンドルを回して、綱を巻きもどしにかかった。この後半の作業は、はるかに時間がかかった。千二百フィートの綱を巻くのに、たっぷり一時間を要したのである。
いよいよ、あとはブリアンの命令を待って、フレンチ・デンに帰るばかりになった。ところがブリアンがなにも言わないのだ。じっと考えこんでいるようすだ。
「引きあげよう。もうおそいよ……」とゴードンがうながした。
「ちょっと」とブリアンは答えた。「ゴードン、ドニファン、待ってくれ……相談があるんだ」
「言ってごらんよ」とドニファンが言った。
「凧あげの試験はすんだ」とブリアンは言った。「うまくいったよ。条件がよかったからだよ。風が安定していた、強すぎも弱すぎもしなかった。でも、明日の天気はわからないじゃないか。だから、いっそ計画を延ばさないで実行した方がいいと思うんだ」
なるほど、やってみようと決めた以上、いかにももっともなことだった。
しかし、この提案にはだれも答えようとしなかった。こんな危険をおかす場合、どんなに勇敢な者でも、ためらうのは当然だ。ところが、ブリアンが続けて、
「だれが乗る?」と言ったとき、
「ぼく!」と勢いよくジャックが進みでた。
と、ほとんど同時に、
「ぼくだ!」ドニファン、バクスター、ウィルコックス、クロッス、サーヴィスが口々に叫んだ。そして、みんなは口をつぐみあった。
その沈黙をブリアンはすすんで破ろうとはしなかった。最初に口を切ったのはジャックだった。
「兄さん、みんなの代わりにぼくがやらなければいけないんだ。そうだよ、ぼくがなんだ。お願いだから、ぼくに乗らせて!」
「なぜだい、ジャック、ぼくやほかの者ではどうしていけないの?」とドニファンがたずねた。
「そうだよ、どうしてなのさ?」とバクスターも聞いた。
「ぼくにはそうしなければいけないわけがあるんだもの」とジャックは答えた。
「わけがあるって?」とゴードンが言った。
「そうなの」
ゴードンはジャックの言葉の意味をたずねるかのように、ブリアンの手を握った。その手がふるえているのがわかった。闇がこれほど濃くなかったら、友の頬《ほお》があおざめ、そのうるんだ目を伏せているのが、わかったことだろう。
「さあ、兄さん、いいだろ?」ジャックは年に似合わないきっぱりした口調で言った。
「言ってくれ、ブリアン」とドニファンが言った。「ジャックは、みんなの代わりにって言うけれど、ぼくらにだって、みんなの代わりに働く権利はあるじゃないか。いったい、ジャックはなにをしたっていうんだい?」
「ぼくがしたこと……」とジャックが言った。「ぼくがしたことを……ぼく、みんなに言ってしまうよ」
「ジャック!」とブリアンは、弟に話させまいとして叫んだ。
「いいえ、ぼくに言わせて!」ジャックは興奮のあまり、とぎれとぎれに話した。「ぼくはたまらないんだ。ゴードン、ドニファン、みんながここに……お父さんやお母さんと離れて……この島にいるのは……ぼくの……ぼくひとりのせいなんです。スルーギ号が海に流れだしたのは、ぼくが、うっかりして……いいえ、おもしろ半分にいたずらして……オークランド波止場につないであったともづなを、ほどいたからなんです。……そうなの、いたずらしたんです。……それから、船が流れだしたとき、ぼくはびっくりしてしまって……まだまに合ううちに、みんなを呼ばなかった……そしたら、一時間あとには……まっ暗な……海のまん中で……ああ、許して、みんな、ぼくを許して!……」
こう言って、かわいそうな少年はしゃくりあげた。ケートがなだめたが、駄目だった。
「よし、ジャック」そのとき、ブリアンが言った。「お前は自分の罪を打ち明けた。それで、いま、罪の償《つぐな》いに危険をおかそうというのだね……せめて、少しでも、自分のしたことを償いたいというのだね……」
「もう、償いはしたじゃないか!」もともとは心の広いドニファンが、その気性をむきだして叫んだ。「ぼくらのために、なん度も危険に身をさらしたじゃないか。ブリアン、やっとわかったよ、なにかあぶないことがあると、君がまっさきにジャックにやらせたわけが。だから、いつもジャックは命を投げだそうとしていたんだね……クロッスとぼくを、霧のなかに……命がけで……探しにきてくれたわけも……そうだとも、ジャック、ぼくたちは君を許すよ、償いをする必要なんかもうないんだよ」
みんなはジャックをとり囲んで、手を取った。しかし、彼の胸をふるわせるすすり泣きはなかなかやまなかった。
「わかったでしょう、だから、ぼくが乗るよ……ぼくひとりが……いいでしょう、兄さん」
「よし、ジャック、いいよ」そう言って、ブリアンは弟を抱きよせた。
ジャックの告白を聞いたいま、そして、だから自分に乗らせてくれと願うのを聞いては、ドニファンもほかのだれもどうすることもできなかった。ジャックの身を風にまかせるほかはなかった。
ジャックはみんなと握手をした。そして、砂袋をおろしたつり篭に乗ろうとして、ブリアンの方をふり返った。ブリアンは巻き轆轤《ろくろ》の少しうしろにじっと立っていた。「兄さん、兄さんを抱かせてよ」とジャックは言った。
「うん、抱いておくれ」気持ちのたかぶりをおさえて、ブリアンは言った。「いいや、ぼくが抱いてあげるよ……乗るのはぼくだから」
「兄さんが? ……」とジャックが叫んだ。
「君が? ……君だって? ……」ドニファンとサーヴィスが口々に言った。
「そうだよ、ぼくが乗る。ジャックの罪は、ジャックが償っても、兄のぼくが償っても同じことだ。第一、この計画を考えたときから、ひとにやらせるつもりなんか、ぼくにあるわけがないだろ……」
「兄さん、頼むから……」とジャックが叫んだ。
「駄目だよ、ジャック」
「それなら、ぼくだって、ぼくにやらせてくれ」とドニファンが言った。
「いや、ドニファン」返答を許さぬ口調でブリアンは答えた。「ぼくが乗るのだ……そうしたいのだ」
「ぼくにはわかっていたよ、ブリアン」ゴードンはそう言って、友の手を握った。
こうして、ブリアンはつり篭に乗りこんだ。具合いよく腰をすえると、彼は凧を揚げる合図をした。たちまち、「空の巨人」号は闇のなかに消えた。みんなの勇敢な隊長、ブリアンの姿も凧とともに消えてしまった。
しかし、凧はゆっくりと安定して揚がっていった。空中にふわりと浮いて、この広い空間が傾いて、風にふるえるのを感じたとき、はじめブリアンは実に奇妙な気持ちがした。なにか途方もない猛禽《もうきん》にさらわれたみたいだった。だが、気性のしっかりしたブリアンは、この仕事に必要な落ち着きを保つことができた。
地上を離れて、十分ほどしたころ、ちょっと凧がゆれて、上昇が限度に来たことがわかった。綱が延びきったところで、また、ぐっと揚がったが、今度はだいぶぐらついた。
ブリアンは落ち着いて、まず鉛の輪を通した合図の綱を引っ張ってみてから、地上の観察にとりかかった。片方の手でつり篭の綱につかまり、いっぽうの手に望遠鏡を握った。下は深い闇である。湖も、森も、崖も、一面に混沌《こんとん》として、さっぱり見わけがつかない。西の方、北の方、南の方は、すっかり空が曇っていて、なにも見えなかったが、東の方はそれほどでもなく、空の一角がのぞいて、そこに星がいくつか光って見えた。
そして、ちょうどその方向に、かなり強い光が、低くたなびいた雲にまで反射しているのが、ブリアンの注意をひいた。
「あれは火の燃える光だ」と彼は考えた。「ウォルストンがあそこに野宿したのかな。……いや、それは違う。あの火は遠すぎる。たしかに、島のずっと向こうだ……すると、火山の噴火かもしれない。東の海には陸地があるのだろうか?」
はじめて| 失 望 湾《デセプション・ベイ》 に遠征したとき、彼の望遠鏡に白っぽい点が映ってみえたことをブリアンは思いだした。
「そうだ、ちょうどこの方角だった。あの白い点は、氷河の反射だろうか? ……どうやら、チェアマン島の東には、わりに近くに陸があるにちがいないぞ」
ブリアンはその明りにじっと望遠鏡をすえつけてながめた。濃い闇のために、光はよりはっきりと見えてきた。たしかに、そこには噴火山があった。いつか見た氷河のすぐそばだ。大陸か、島か、いずれにしても、三十マイルとは離れていないだろう。
そのときだ。もうひとつ光るものに、ブリアンは気がついた。ずっと近い。五、六マイルぐらいだろうか、ファミリー湖《レーク》の西の木のあいだに、火が光っている。
「あれは森のなかだ」と彼は思った。「それも森のはずれだ、海岸の方の」
ところが、その明りは、見えたかと思ったとたんに、消えてしまったらしい。いくら注意してながめても、もう一度見つけることができなかった。
ブリアンの胸は激しく鳴った。手がふるえて、望遠鏡の焦点をしっかり定めることもできないほどだった。
とにかく| 東 川《イースト・リヴァー》 の河口から遠くないところに、野営の火があったのだ。ブリアンはそれを見たのだ。そして、まもなく、彼はもう一度、その火が森のしげみに映るのを見た。
やはり、ウォルストンの一味は、熊岩《ベア・ロック》の港の近くの、その場所に野宿をしていたのだ。セヴァーン号の人殺したちはチェアマン島を立ち去っていなかったのだ。少年たちは依然として彼らに襲われる危険にさらされている。フレンチ・デンにはもはや安全はないのだ。
偵察は終わったので、これ以上空中にとどまる必要はないと、ブリアンは判断した。そこで、おりる準備をした。合図の綱がぴんと張ってあるのを確かめて、ブリアンは鉛の輪をすべり落とした。輪はじきにガーネットの手もとに届いた。すぐさま、巻き轆轤《ろくろ》が動いて、凧を地面におろしはじめた。
ドニファン、バクスター、ウィルコックス、サーヴィス、ウェッブの五人が、力いっぱい巻き轆轤《ろくろ》のハンドルを回して、くりだした千二百フィートの綱を巻きもどしにかかっていた。風が強くなりだしていた。ブリアンの合図があってから四、五分もしたころ、風がますます強く吹いてきた。このとき、凧はまだ湖の上、百フィート以上の高さにあっただろう。
突然、綱が激しくゆれた。ウィルコックス、ドニファン、サーヴィス、ウェッブ、バクスターは、力のいれ場を失って、あやうく地面にころげそうになった。凧の綱が切れたのだ。
「ブリアン! ……ブリアン!」
恐怖の叫びにまじって、この名前が口々にくり返された。
しばらくたったころ、ブリアンが岸におどりあがって、力強い声で呼ぶのが聞こえた。
「兄さん、兄さん!」とジャックは叫んで、まっさきにブリアンにかじりついた。
「ウォルストンはまだいるぞ!」 これがブリアンの口をついて出た最初の言葉だった。
綱が切れたとき、ブリアンは、自分の体がまっすぐにではなく、斜めに、わりとゆっくり落ちるのを感じた。凧が頭の上でパラシュートの働きをしたのである。湖面に落ちるまえに、つり篭から出ておく必要があった。篭が水につこうとする瞬間、ブリアンは頭から飛びこんだ。そして、泳ぎのじょうずな彼は、四、五百フィートそこそこの岸までなんなく泳ぎついたのである。
そのあいだに、軽くなった凧は、空の巨大な難破船よろしく、風に流されて、北東の方に消えてしまった。
十
その夜はモコが見張りに立ったが、一夜明けると、フレンチ・デンの少年たちは状況を検討しあった。それは依然として憂慮《ゆうりょ》すべきものだった。
それからというもの、外出はどうしても必要なときだけにかぎられた。同時に、バクスターの手で、広間と納戸のふたつの入り口と、家畜小屋の柵が、葦《あし》や茨《いばら》で隠された。けっきょく、湖とオークランド丘《ヒル》にはさまれた一帯に、のこのこ出てはいけないということになった。このように細心な用心にしばられるのは、困難な生活にも増して、本当にいやなことだった。
十一月のはじめ半月は、よく夕立が降った。十七日から、気圧計は回復し、好天を示し続けた。ファミリー湖《レーク》の岸から見つけられるおそれがあるので、あいにくなことに、ドニファンが沼に狩りに行くのも駄目、ウィルコックスがかすみ綱を張るのも駄目で、たいへんな残念がりようだった。
こうして手持ちぶさたな毎日毎日、長い時間が広間で過ごされるのだった。日記をつける役のバクスターも、最近は、書くことがなにもない。
十一月二十四日の朝九時ごろ、ブリアンとゴードンはジーランド川《リオ》の向こうに行った。
ふたりが川を渡って三百歩ほども行ったとき、ブリアンがなにかを踏みつぶした。彼は気にも留めなかったが、うしろを歩いていたゴードンが立ち止まって、声をかけた。
「待って、ブリアン、ちょっと」
「なんだい?」
ゴードンはかがみこんで、つぶれたものを拾いあげた。
「ごらんよ」
「貝じゃないのか」とブリアンは言った。「これは……」
「パイプだよ」
たしかに、ゴードンの手にあるのは黒っぽい色のパイプだった。吸い口のところが付け根から折れている。
「ぼくらのなかには煙草を吸う者はいないよ」とゴードンは言った。「つまり、このパイプを落としたのは……」
「連中のだれかっていうことになる」とブリアンが答えた。
ゴードンとブリアンはすぐにフレンチ・デンに帰った。ブリアンがパイプを見せると、ケートは、たしかにウォルストンがそれを持っていたのを見たことがある、と言った。
悪漢たちが湖の南の端を回ってきたことは間違いない。たぶん、夜のあいだに、ジーランド川《リオ》の岸までやってきたのだ。
いずれにしても、一味がいよいよ近づいていることは、もう疑う余地がなかった。
この不吉な出来事に直面して、ブリアンたちは、全員一致して、ますます厳重な警戒体制をとることにした。昼間は、オークランド丘《ヒル》の頂上に常時見張りを置いて、怪しいものが近づいたらすぐに合図できるようにする。夜は、上級生がふたりずつ、広間と納戸の入り口にずっと見張りに立って、外の物音に警戒する。ふたつの戸は支柱を使って頑丈にした。その上、ほら穴の内側に大きな石を積んで、いざというときには、すぐに戸口を固められるようにした。こうした処置にケートが大賛成だったことは、いうまでもない。
十一月二十七日だった。大きな雲が島の上を重苦しく流れていた。その晩、ブリアンたちはいつもより早く、広間に集まっていた。もちろん、用心深くボートを納戸に引きあげた上でのことだ。
九時半ごろ、激しい雷雨になった。ブリアンやドニファンやバクスターは、ときどき起きだして、戸をのぞきにいったが、外をちらっとながめただけで、稲光《いなびか》りに目がくらんで、すぐもどってきた。夜半近くに、嵐がおさまりかけた。そこでブリアンたちは、いつものとおりの夜番のてはずをして、床《とこ》につこうとした。そのとき、ファンが妙に興奮したようすを見せた。
「ファンはなにかをかぎつけたのかな?」犬をなだめようとしながら、ドニファンが言った。
「これまでも、なにかあるときには、きっとこの犬がへんなようすを見せたよ。利口な動物だもの、間違ったことがないよ」とバクスターが言った。
「寝るまえに、どういうわけか調べてみなくちゃ」とゴードンも言った。
「そうしよう」とブリアンは言った。「でも、だれも外に出ちゃいけない。戦える準備をしよう」
めいめい鉄砲とピストルを持った。そして、ドニファンが広間の戸に、モコが納戸の戸の方に進んだ。ふたりとも、耳を戸に押しあてたが、外にはなんの音もしなかった。
突然、一発の銃声がとどろいた。雷《かみなり》の音と聞きちがえようもない。たしかに銃声だ。二百歩とは離れぬあたりで発射された音だ。
全員が防御《ぼうぎょ》の位置についた。ドニファンとバクスター、ウィルコックスとクロッスは鉄砲を構えて、ふたつの戸口に立った。押しいろうとする者があったら、ただちに火を吹く構えだ。
あとの者たちは、このときのために準備してあった石を戸に積みあげはじめた。そのとき外から叫ぶ声がした。
「助けてくれ……助けてくれ!」
人がいるのだ。おそらく、死の危険にさらされて、助けを求めているのだ……
「助けて!」また声がした。今度はほんのすぐそこだ。
戸のそばで耳を澄ましていたケートが、声をあげた。
「あの人だわ」
「あの人って? ……」とブリアンが聞いた。
「あけて! あけて!」とケートはせきこんだ。
戸が開いた。雨でびしょぬれの男が広間にころがりこんだ。それは、セヴァーン号の運転士エヴァンズだった。
はいるが早いか、エヴァンズはふり向いて、勢いよく閉めた戸に耳を当てた。外になんの音もしないとわかると、彼は広間の中央に進みでた。天井につるしたカンテラの明りで、自分を取り巻く少年たちを見て、つぶやいた。
「そうか、子どもか。子どもばっかりだったのか……」
にわかに、彼の目が輝いた。顔に喜びが走って、腕を広げた。
ケートが走りよったのだ。
「ケート……ケート、生きていたのか!」
そう言って、彼は、死人の手ではないかと確かめるかのように、ケートの両手を握りしめた。
「そうよ、あなたと同じに生きているのよ、エヴァンズ」とケートは言った。「神様があなたも私も助けてくださったのだわ。そして、神様は、この子たちを助けに、あなたをよこしてくださったのよ」
エヴァンズは、広間のテーブルの回りに集まった少年たちの数を、目で数えた。
「十五人だね」と彼は言った。「それで、戦えるのは、まず、五人か、六人か……まあ、いいさ」
「エヴァンズさん、ぼくらはいますぐ攻撃されそうですか?」
「いや、君、だいじょうぶ、いまのところはだいじょうぶですよ」とエヴァンズは答えた。
みんなが一刻も早くエヴァンズの話を聞きたがったのは、当然のことだ。しかし、そのまえに、エヴァンズはぬれた着物を着替えて、なにかおなかに入れた方がいい。
ブリアンはさっそく彼を納戸に連れていった。ゴードンが船員の上等な服を用意した。着替えがすむと、モコが冷肉とビスケットと熱いお茶を出した。
十五分後、エヴァンズは広間のテーブルについて、セヴァーン号の水夫たちが島に打ちあげられてからの物語を話した。
「ランチが海岸に打ちあげられる少しまえに、ぼくもいれて、六人が岩場の端に投げだされたのです。岩にあげられても、傷はだれもたいしたことはなかった。体を打ったたけで、けがってほどのことはなかったのです。しかし、沖からの風に逆らって引く波から抜けだすのは、これはもう容易じゃあなかった。
それでも、さんざん苦労して、どうやら無事に浜までたどりついた。ランチを探すのにかなりかかりました。晩の七時ごろに船はあがっていたはずなんだけど、ぼくらが砂の上にひっくり返っているランチを見つけたのは、真夜中近くでした。はじめ、ぼくたちは海岸を逆の方に行ってしまったので……」
「セヴァーン海岸ですよ」とブリアンが口をはさんだ。「ぼくらのなかで、セヴァーン号のボートを見つけたのが、海岸に名前をつけたんです。ケートからセヴァーン号のことをまだ聞かないときですけど……」
「聞かないまえに?……」エヴァンズはびっくりして言った。
「そうなんです、エヴァンズさん」とドニファンが言った。「難船のあった晩、ぼくたちはあそこに行ったんです。あなたといっしょだった人がふたり、砂の上にまだ倒れていました。でも、朝になって、おとむらいをしてあげようと思って行ったら、消えちゃっていました」
「なるほど」と、エヴァンズは言った。「それはこういうわけなんです。そのふたりは、フォーブスとパイクという男で、ぼくらは溺《おぼ》れたと思っていました。そうだったら、よかった。七人の悪漢がふたり減るところでした。ランチのそばにふたりは打ちあげられていたんです。それをウォルストンたちが見つけて、息を吹きかえしてやった。
あの連中には幸運なことに、われわれにとっては困ったことだけど、ボートのロッカーは、座礁したとき壊れなかった。水もはいらなかったのです。セヴァーン号に火が出たとき、大急ぎで積みこんだ弾薬や、武器、鉄砲が五挺と、それから食料の残り、これをみんなランチからおろしました。今度、潮があげてきたら、台なしになりそうだったのです。そうして、ぼくらは難破した場所から、東の方に海岸をたどっていきました。船をすてて、一時間も歩くと、林が風よけになっているところがあった。そこで野宿をしました。あくる日から、いく日も、ランチが座礁した場所にもどって、船を修繕しようとしました。しかし、道具といったって、ただの斧一挺しかないので、船縁《ふなべり》の壊れた板を取りかえて、もう一度海に浮かべるようにするのは、ほんの短い航海のためにしたって、とてもできない相談でした。
けっきょく、もっと住み心地のいい場所を見つけようということになって、出かけたのです。海岸を十二マイルほど下ったら、小さな川に出て……」
「| 東 川《イースト・リヴァー》 だ」とサーヴィスが言った。
「| 東 川《イースト・リヴァー》 、すてきだ」とエヴァンズは答えた。「そこの広い湾の奥に……」
「| 失 望 湾《デセプション・ベイ》 です」とジェンキンスが言った。
「| 失 望 湾《デセプション・ベイ》 だって、おやおや」エヴァンズは笑って言った。「岩に囲まれた港があって……」
「熊岩《ベア・ロック》です」今度はコスターがいせいよく言った。
「熊岩《ベア・ロック》、こいつはいい」とエヴァンズは答えた。「そこは腰を落ち着けるのに願ったりの場所でした。そこにランチを引っ張ってこられれば、前の嵐でずいぶん壊れてしまったけれど、たぶん直せるだろう……
それで、また船を取りにもどったのです。できるだけ軽くしたら、船はうまく水に浮いた。それから、浜伝いに綱でひいて、船縁《ふなべり》まで水がはいったけれど、とうとう港まで運んできました。いま、ちゃんとあそこにありますよ」
「ランチは熊岩《ベア・ロック》のところですか……」とブリアンが言った。
「そう、ぼくは、あれを修繕することは不可能じゃないと思う、必要な道具さえあれば……」
「道具は、ぼくたちのところにありますよ、エヴァンズさん」とドニファンが勢いこんで言った。
「なるほど、ウォルストンが考えたとおりだ。偶然、島に人が住んでいるのがわかって、しかも、何者が住んでいるのかわかったとき、奴《やつ》はそれを考えた」
「でも、どうしてわかったのですか?」とゴードンがたずねた。
「それはこうです」とエヴァンズは答えた。「一週間まえ、ウォルストンたちとぼくとが、……連中はぼくを決してひとりにしてくれないんだけど……森のなかへ探検にでかけたんです。三、四時間歩くと、大きな湖の岸に出た。川が流れでている湖です。そこで、驚いたのなんのって、岸にへんてこなものが流れついているのを見つけたのです。葦《あし》の骨組みみたいなものに、布を張った……」
「ぼくらの凧《たこ》だ!」とドニファンが叫んだ。
「ぼくらの凧が、湖に落ちて、風でそこまで運ばれたんです」とブリアンが言いたした。
「ああ、凧だったの」とエヴァンズは言った。「実のところ、ぼくたちには、なんだかわからなかったんだけど、それはとても気になるものでした。ともかく、この島で作られたものだ……それは間違いない……そうとすれば、島には人が住んでいるのだ……では、どんな人間だ? …… それを知るのがウォルストンには大問題でした。ぼくの方は、その日から逃げだす決心をかためました。島の住民が何者だろうと、セヴァーン号の人殺しどもより悪いわけはない。ところが、このときから、ぼくは昼も夜も監視されることになって……」
「それで、どうしてこの洞窟のことが見つかったんですか?」とバクスターがたずねた。
「いま、話します」とエヴァンズは話を続けた。「それからは、ウォルストンの頭のなかにあるのはただひとつ。どこの国ともよくわからないこの島に住んでいるのが、何者かということ。もしそれが土人なら、なんとか折り合いをつけられるんじゃなかろうか。難破船の漂流者だったら、おそらく自分たちのところにない道具を持っているだろう。
そういうわけで、偵察がはじまった。それはもう非常に慎重なやりかたでした。湖の右岸の森を探検しながら、そろりそろりと進んで、やがて湖の南端に近づいた。十一月二十三日の夜、一味のひとりが、湖の南の岸から、このほら穴の見えるところに来たのです。運の悪いことに、たまたま、この崖の岩壁に明りがもれているのが見えた。きっと、戸口にちょっと隙間があいて、カンテラの火が見えたのでしょう。そのあくる日、ウォルストンは自分で出かけていって、夜、長いこと、川の近くの茂みに隠れていました……」
「そのことならわかっていました」とブリアンが言った。
「わかっていたって?……」
「ええ、その場所で、ぼくたち、ゴードンとぼくが、パイプのかけらを見つけたんです。ケートさんに見せて、ウォルストンのパイプだとわかりました」
「なるほど」とエヴァンズはうなずいた。「ウォルストンはその偵察のとき、パイプをなくしたんです。帰ってきて、ずいぶんぷりぷりしていたっけが。とにかく、それで、君たちのいることがわかってしまった。草のなかにひそんでいるあいだに、君たちが川の向こう岸を行ったり来たりするのを、奴は見たんだ。……子どもばっかりだ。大人が七人かかれば簡単にやっつけられる。ウォルストンは帰ると、仲間に見てきたことを話しました。ブラントと彼とが相談しているのを、聞いてしまったのです。フレンチ・デンを襲う相談でした」
「なんというひどい人たちでしょう。この子たちをかわいそうとも思わないで! …… 」ケートが声をあげた。
「そうだよ、ケート」とエヴァンズは言った。「セヴァーン号の船長やお客さんを平気で殺したのといっしょだよ。まったくひどい奴らさ」
「それでも、あなたはうまく逃げられましたのね、エヴァンズ、よかったわ」とケートは言った。
「そうだよ、ケート。きっかり半日ぐらいまえのことだ、フォーブスとロックにぼくを見張らせて、ウォルストンたちが出ていったときをつかまえたんだ。逃げだすには絶好だと思えた。朝の十時ごろでした。森のなかに飛びこんだのです……すぐに、フォーブスたちは気がついて、追いかけてきた。一日じゅう、追いかけられました。森を斜めに突っ切って、湖の岸にたどりついても、まだ湖の端を回らなければならなかった。ほんとうに、生まれてから、こんなにいっしょうけんめい、こんなに長い時間、逃げたことはなかった。今日一日で、十五マイルは走りました。ひどかった。あいつらがまた、ぼくと同じくらい足が早いんです。鉄砲の弾はもっと早く飛んでくるし。川の岸にもう少しというところで、稲妻《いなずま》があたり一面を照らしました。たちまち銃声が鳴って……」
「ぼくたちが聞いたのは、それだ……」とドニファンが言った。
「きっと、そうだ」とエヴァンズは答えた。「弾丸がぼくの肩をかすめた……ぼくは飛びあがって、川に飛びこんだ……ひと泳ぎで、こちら岸にあがって、草むらのなかに隠れたんです。ちょうど、ロックとフォーブスが向こう岸に着いて、話していました。
『当たったかな?』……『まかしとけってことよ』……『それじゃ、川の底だな?』……『もちろんさ、今ごろは、おだぶつだよ、仏さまよ』……『やっかい払いができたな』
それで、ふたりは帰っていきました。
そうなんだ、やっかい払いなんです……ぼくもケートも。畜生、悪人どもめ! ぼくが死んだかどうか、いまに見ていろ……しばらくしてから、ぼくは草むらを出て、崖の角に向かって歩いたのです……犬の吠える声がしたので、ぼくは呼びました……フレンチ・デンの戸が開かれたのです……さあ、これからは」とエヴァンズは、湖の方角を指さして言った。「みんなで、あの悪漢どもを片づけて、君たちの島を綺麗《きれい》にしよう」
彼が力強くそう言ったので、みんないっせいに立ちあがって、あとに続く気構えを見せた。
今度は、これまで二十か月のあいだの出来事を、少年たちがエヴァンズに話す番だった。どんなふうにしてスルーギ号がニュージーランドを離れたのか、太平洋を渡って島までたどりつくのにかかった長い苦労のこと、難破したフランス人の遺物《いぶつ》を見つけたときのこと、フレンチ・デンに植民地を築きあげた模様、それらをエヴァンズに話したのである。
「それで、二十か月のあいだ、一隻の船も島の近くを通らなかったんですか?」
「少なくとも、ぼくたちは一度も見ませんでした」とブリアンが答えた。
「目印になるものは立てたの? ……」
「もちろんです。崖のてっぺんにマストを立てました」
「それを見つけた船がいない?」
「そうなんです、エヴァンズさん」とドニファンが言った。「でも、六週間まえに倒してしまいました。ウォルストンの目にはいってはいけないので」
「よく気がついたね、君たち。しかし、もうあの悪者にわかってしまったのだから、昼も夜も警戒しなければ」
「どうしてなんだろう」と、そのときゴードンが口に出した。「どうしてぼくたちはそんな奴らを相手にしなければならないのだろう。いい人たちだったら、ほんとうに喜んで力を貸してあげたのに。ぼくたちだって、それでもっと強くなれたはずなのに。これから先は、戦いがぼくたちを待っているんだ。ぼくたちの命を守らなければならない戦いなんだ。それがどう終わるかもわかりゃしないんだ」
「神さまはこれまであなた方を守ってくださったわ」とケートが言った。「神さまはお見すてにはなりません。この勇敢なエヴァンズをよこしてくださったのですもの、この人と力を合わせてやりましょう……」
「エヴァンズ! エヴァンズ!」少年たちはそろって歓声をあげた。
「君たちの力になるとも」とエヴァンズは答えた。「ぼくも君たちを力にしている。きっと、ぼくたちみんなで戦いぬけるよ」
「でも」とゴードンが言った。「もしかして、戦いを避けられたら、もしウォルストンがおとなしく島から出ていくと言ったら……」
「それ、どういう意味だい、ゴードン?」とブリアンが言った。
「つまり、もしランチが使えていたら、彼らはとっくにいなくなっていたろうと思うんだ。そうでしょう、エヴァンズさん」
「そのとおりです」
「だから、彼らと話し合いをして、彼らが要るという道具を貸すことにしたら、たぶん、彼らも納得するんじゃないかしら……」
エヴァンズはゴードンの言葉を注意深く聞いていた。その提案には実際的な精神が現われていた。この少年はここでいちばん着実な少年にちがいない、と彼は思った。ゴードンの意見は検討にあたいすると思った。
「なるほど、ゴードン君」と彼は口を開いた。「あの悪人どもをやっかい払いするためなら、そりゃあ、どんな方法だっていいでしょう。だから、ランチの修繕ができるようにしてやって、それで彼らがおとなしく出ていってくれるものなら、どうころぶかもわからない戦いをはじめるよりは、その方がいいでしょう。しかし、ウォルストンを信用できるでしょうか? あの男と交渉したら、フレンチ・デンを襲うたくらみに利用されないだろうか。君たちが難破したとき、船からお金を運びだしたに相違ないと、奴は考えたりしないだろうか。いいですか、あの悪人どもはね、こちらが良くしてやれば、お返しに悪いことばかりするような連中なんだ。彼らの心には、感謝なんて気持ちはこれっぱかりもありはしない。連中と話し合うのは、いいようにしてくれというような……」
「いけない! いけない!」バクスターとドニファンが叫んだ。続いて、みんなが口々にいせいよく反対したのが、エヴァンズにはうれしかった。
「そんなことはできないよ。ウォルストンの一味なんかと絶対にかかわりあうものか!」とブリアンも言った。
「それに」とエヴァンズは続けた。「彼らが必要なのは修理の道具だけじゃない。弾薬も欲しいと言うでしょう。よこせと言いますよ。くれてやりますか?」
「いいえ、とんでもない」とゴードンは答えた。
「そうすれば、彼らは力づくで取ろうとするに決まっている。けっきょく、戦いを先に延ばすだけのことです。しかも、こちらにとって、条件は悪くなる……」
「おっしゃるとおりです、エヴァンズさん」とゴードンは言った。「守りを固めて待つことにしましょう」
「そうだ、それがいい。待とうよ、ゴードン君。それに、ぼくが待つというのは、もっと別に考えるわけがあるのです」
「どういうことですか?」
「いいかい、ウォルストンは、セヴァーン号のランチがなければ、島を出るわけにはいかない、そうでしょう? ところが、あのランチは完全に修理がきくのです。これは確かなことだ。だから、もしも奴が航海できるように船を直すのをあきらめるとしたら、それは道具がないからなんです。そこで、君たちがウォルストンに修理の道具を貸してやれば、……フレンチ・デンを襲うのはやめると仮定してだけども……奴は君たちのことなんか構わないで、さっさと出ていくということになる」
「そうなりゃよかったのに」とサーヴィスがもらした。
「いやいや」とエヴァンズは答えた。「もしそうなったら、ぼくらはどうやって島を出たらいい? ランチがなくなってしまうんですよ……」
「えっ、エヴァンズさん」とゴードンが聞いた。「それじゃあ、あのボートを使って、あなたは島を出るつもりなんですね……」
「そのとおり」
「ニュージーランドに帰るんですか? 太平洋を渡って?」とドニファンが言った。
「太平洋? ……いいや、 君たち」とエヴァンズは答えた。「もっと近い港まで行って、オークランドへ帰る機会を待つのです」
「本当ですか?」とブリアンが声を立てた。
ほかの者たちも、口々にエヴァンズに聞こうとした。
「いったい、あんな船でなん百マイルも航海ができるものですか?」とバクスターらしい質問だ。
「なん百マイルだって? とんでもない、わずか三十マイルそこそこですよ」
「それじゃあ、島のまわりはずうっと海じゃないのですか?」とドニファンがたずねた。
「西の方はそうですよ。だが、南と北と東は、海峡だけ、六十時間もあれば楽に渡れる。……それじゃ、いったい、君たちは、ここをどこだと思っていたの?」
「太平洋のどこかの離れ島」とゴードンが答えた。
「島は島です。でも、離れ島じゃない。南アメリカの海岸に沿ってたくさんの群島があるのだけど、そのひとつなんです。……ところで、この島の名前を君たちはどうつけたのか、まだ聞いていなかったね」
「チェアマン島。ぼくたちの学校の名前をとったのです」とドニファンが答えた。
「チェアマン島か」とエヴァンズは言った。「なるほど、これでこの島の名前はふたつになるね。アノーヴル島というんです、この島は」
ここまで話したところで、一同はやすむことにした。
話の続きは、翌日、地図でアノーヴル島の正確な位置を教えてから、することにしよう、とエヴァンズは言った。そして、モコとゴードンが見張りに立って、フレンチ・デンのその夜は静かに過ぎていった。
翌日、十一月二十八日、エヴァンズは、シュティーラー〔ドイツの地図学者。その『携帯世界地図』はドイツ最初のもっとも有名な地図帳〕の世界地図を開いて、少年たちに長さ約三百八十マイルあるマジェラン海峡を指さして、言った。
「さあ、見たまえ、このマジェラン海峡の上の方だ。狭い海峡をはさんで、南にケンブリッジ島、北にマードレ・デ・ディオス島とチャタム島というののあいだに島があるでしょう。いいかい、この南緯五十一度のところにある島がアノーヴル島だ。これに君たちはチェアマン島と名前をつけて、二十か月以上も住んでいたわけですよ」
「なあんだ」とゴードンは言った。「チリからほんの少しのところにいたんだなあ、ぼくらは……」
「そうなんだ」とエヴァンズは答えた。「しかし、アノーヴル島と南米大陸のあいだにある島は、ここと同じような無人島ばかりなんです。なんとかして、みんなでいっしょにここから脱けだしたいものだね」
ところで、もし、うまい具合いに、セヴァーン号のランチを手に入れて、修理できたとしたら、どちらの方に船を向けるのだろう?
そのことをゴードンが質問した。
「それは」とエヴァンズは答えた。「地図を見てくれたまえ。まず、このレーナ・アデライデ群島の水道を渡って、スミス海峡をくだるのです。すると、どこへ出るかといえば、マジェラン海峡だね。この海峡の入り口の近くの、デソラシオン島に、タマール港というのがある。そこまでくれば、もう国へ帰る第一歩を踏みだしたようなものだ」
だが、不幸にして、帰国の旅に立てるかどうかという問題は、こちらから攻撃に出るにしろ、守勢をとるにしろ、いずれにしても力ずくでなければ、解決されない。セヴァーン号の船員たちをやっつけないかぎり、なにごともはじまらないのである。
けれども、エヴァンズは少年たちの心に強い自信の光を吹きこんだ。実際、ケートの言ったように、天からの使者がフレンチ・デンに現われたのである。子どもばかりのところへ、とうとう大人《ヽヽ》が来てくれたのだ。
そこで、まず、エヴァンズは、防御のためにどのような手段がとれるかを知りたいと思った。
納戸と広間との防御の準備は適切だと思った。戸口が押し破られないように、用意の石を室内に積んだ処置を、エヴァンズは賞賛した。洞窟のなかにいれば、守る者は比較的強いが、外へ出たら弱くなってしまう。これを忘れてはならない。なにしろ、こちらは十五を頭に十三より上の少年が六人しかいないのに、相手はたくましい大の男が七人、しかも武器を扱うのはお手のもので、人殺しを屁《へ》とも思わない不敵な連中である。
「エヴァンズさん、彼らはみんな恐ろしい悪人ですか?」とゴードンはたずねた。
「そうだよ、非常に恐ろしい奴らだ」
「ひとりだけは別じゃないかしら、たぶん芯底《しんそこ》までは腐っていませんよ、私の命を助けてくれたあのフォーブスって人……」とケートが言った。
「フォーブスが?」とエヴァンズは言った。「とんでもない。仲間にそそのかされてやったのか、仲間がこわくてやったのか知らないが、あいつだって、セヴァーン号の虐殺のときには、やっぱり人殺しをしたんですよ。あなたの命を助けたのも、奴らにまだ女手が要《い》ると思っただけのことさ。ここに攻めてくるときは、うしろにひっこんでなんかいませんから」
そうこうするうちに、数日が過ぎた。怪しい気配は全然なかった。エヴァンズは不思議に思った。
ウォルストンのたくらみを知っているので、十一月の二十七日から三十日まで四日もたつのに、どうしてまだなにごとも起こらないのだろう、と彼は考えた。
ふと彼の頭にひらめくものがあった。おそらくウォルストンは腕ずくではなく、計略を使って、フレンチ・デンに押しいろうとしているにちがいない。エヴァンズは、このことをブリアン、ゴードン、ドニファン、バクスターの四人に話した。この四人を彼はいちばんよく相談相手にしていたのである。
その翌日も、午前中はなにごともなく過ぎた。ところが、夕方、日の暮れる少しまえ、急を告げる知らせがあった。崖の上で見張りをしていたウェッブとクロッスが、息せき切ってかけおりてきた。ジーランド川《リオ》の向こう側を、湖の岸に沿って、ふたりの男が近づいてくるというのである。
ケートとエヴァンズは、見つかってはならないので、すぐに納戸の方にひっこんで、銃眼《じゅうがん》から、その男たちをうかがった。まさしく、ウォルストンの手下のロックとフォーブスであった。
「やっぱり、計りごとでくる気だ」とエヴァンズは言った。「難破してやっと助かった船乗りだと言ってきますよ」
「どうしましょう?」とブリアンが聞いた。
「親切に迎えるのです」とエヴァンズは答えた。
「あんな奴らを親切に迎える!」とブリアンは叫んだ。「そんなことぼくにはとってもできないよ……」
「よし、それはぼくが引き受けた」とゴードンが言った。
「いいぞ、ゴードン君」とエヴァンズは言った。「とくにぼくとケートがいることは、絶対|気《け》どられないように頼むよ」
エヴァンズとケートは廊下の片隅の戸棚にもぐりこんで、戸を閉めた。
少しして、ゴードン、ブリアン、ドニファン、バクスターの四人が、ジーランド川《リオ》の岸に向かった。少年たちを見ると、ふたりの男はひどく驚いたような顔をして見せた。ゴードンが、それに負けないくらいびっくりした顔をして、男たちを見た。
ロックとフォーブスは疲れ切っているようなかっこうだった。川辺にたどりつくと、こちら岸と向こう岸とで、こんな会話が交された。
「だれですか、あなた方は?」
「わしらはこの島の南の方で難破したんです。セヴァーン号という船のボートでがしたが」
「イギリスの人ですか? ……」
「いいや、アメリカ人です」
「ほかの人たちはどうしました?」
「みんな死んじまいました。わしらだけでさ、助かったのは。もうへとへとなんです……でも、みなさんはどなたですか?」
「チェアマン島植民地の者です」
「どうか、あわれと思って、助けてくだせい。わしらはどうしようもないんです……」
「難破した人が助けを求めるのは当然のことですよ」とゴードンが答えた。「さあ、いらっしゃい」
ゴードンが合図をすると、砂嘴《さし》のそばにつないであったボートにモコが飛び乗って、たちまち櫂《かい》を操ると、こちら岸にふたりの水夫を連れてきた。
選ぼうにも、たぶんウォルストンには選びようがなかったのだろうが、ロックの顔ときたら、人相で人を見るのに慣れない子どもたちが相手でも、見るからに信頼を呼びそうにない顔だった。
つとめて正直そうな顔をしようとしてはいたが、このロックという男は、額《ひたい》が狭く、頭のうしろが突きだし、下顎《したあご》がひどく張っていて、まったくの悪人面《あくにんづら》だった。人間らしい気持ちが全然ないでもなさそうだ、とケートが言うフォーブスの方は、まだしも|まし《ヽヽ》だった。ウォルストンがこの男をいっしょによこしたのは、おそらくそのためだったろう。ふたりはいかにも難破した船乗りらしく装っていたが、疑いをまねくことをおそれて、あまり細かいことを聞かれると、なによりかにより疲れているので、少し休ませてくれないかと言い、フレンチ・デンに泊めてくれと願った。すぐふたりはほら穴に案内された。中にはいると、案の定《じょう》、思わず探るような目つきをしてあたりをちらちらとながめるのを、ゴードンは見のがさなかった。洞窟にある武器を見て、彼らはかなり驚いたようだった。ことに銃眼にすえつけた大砲にはぎくりとしたようすだった。
こんな真似をするのはいやでたまらなかったのだが、幸い少年たちが芝居を続ける必要はじきになくなった。ロックとフォーブスが、遭難の話は明日するからと言って、急いで寝ようとしたからである。
「わしら草の束かなんかに寝かしてもらえばたくさんですよ」とロックは言った。「でもみなさん方のじゃまをしちゃ悪いから、別の部屋があったら……」
「そうですか」とゴードンが言った。「ぼくたち台所に使っている部屋ですけど、明日までそちらでゆっくりなさってください」
ロックたちは納戸に通された。ふたりは、川の方に出口があるのを確かめると、部屋のなかをじろじろと見まわした。
実際、このなさけない漂流者たちにとって、これほどつごうのいいもてなし方などあるものでなかった。ふたりの悪人はこんな無邪気な連中をやっつけるのに、苦労して頭を使う必要はないと思ったにちがいない。
ロックとフォーブスは納戸の隅で横になった。もちろん彼らはふたりきりで寝かされるわけではない。モコの寝る場所もこの部屋だった。しかし、モコが片目で眠ったふりをするつもりでいたのに、彼らはこの少年のことなどまるで気にしていなかった。
ころあいを見て、ロックとフォーブスが納戸の戸をあけると、川のあたりをうろついているウォルストンと四人の手下が、ただちにフンンチ・デンに押しいるというてはずだろう。
九時ごろ、ロックたちは眠ったらしかった。モコは部屋にはいって、すぐに自分の寝床にもぐりこみ、見張りにかかった。
ブリアンたちは広間にいた。廊下の戸を閉めきると、エヴァンズとケートも出てきて、みなが集まった。事態はエヴァンズの予想したとおりに進んでいた。ウォルストンが洞窟の近くにいて、押しいるときを待っているのは、疑いない。
「さあ、みんな用意はいいね」とエヴァンズは言った。
しかしながら、二時間の時が流れた。もしかしたらロックたちはたくらみを別の日に延ばしたのではないか、とモコは思いこみかけた。そのとき、かすかな物音が彼の注意をひいた。
天井からつるしたカンテラのうすら明りに照らされて、ロックとフォーブスがいままで寝ていた片隅から戸口の方へはっていくのが見えた。戸は大きな石を積んでかためてあった。容易には破れない本式のバリケードだ。ふたりの水夫は、石を取りのけて、右手の壁にひとつひとつ積みはじめた。
しばらくすると、戸口のあけたてにじゃまになるものはすっかり取り払われた。あとは、戸の内側にかけてあるかんぬきをはずしさえすれば、フレンチ・デンへ自由にはいれる。ところが、ロックがそのかんぬきをはずして、戸をあけたとき、彼の肩を一本の手ががっしりとおさえた。ふり向くと、カンテラに照らされたエヴァンズの顔があった。
「エヴァンズ! おまえ、こんなところに……」とロックは声をあげた。
「かかれ!」とエヴァンズが叫んだ。
ブリアンたちがどっと納戸になだれこんだ。たちまち、フォーブスが、力の強い四人の少年につかまって、逃げられなくなった。
ロックの方は、すばやく身をひねってエヴァンズを突き放すと、ナイフで切りつけた。ナイフはエヴァンズの左腕をわずかにかすった。とみると、ロックは、開いている戸口から、おもてに飛びだした。十歩も行かないうちに、銃声が響いた。エヴァンズがロックをねらって撃ったのである。なんの悲鳴も聞こえなかったところをみると、弾は逃げる男に当たらなかったらしい。
「畜生! やりそこなった」とエヴァンズはどなった。「もうひとりの奴で……せめて悪人をひとり減らしてやる」
彼は短刀を握った手をフォーブスにふりかざした。
「助けてください……お願いです」少年たちに床におさえつけられた哀れな男は悲鳴をあげた。
「そう、助けておあげなさい、エヴァンズ」とケートが、ふたりのあいだに割ってはいって、口をそえた。「助けてやってあげて、この人、私の命を救ってくれたんですから」
「よろしい」とエヴァンズは答えた。「そうしよう、ケート、しばらくのあいだは助けておきましよう」
フォーブスはがんじがらめにしばりあげられて、廊下の戸棚に押しこめられた。
それから、納戸の戸口を閉め、石を積みあげると、みんなは、そのまま朝まで警戒を続けた。
十一
夜どおし眠らなかったのでひどく疲れていたが、だれひとりとして休もうと思う者はいなかった。
夜が明けるとすぐ、エヴァンズ、ブリアン、ドニファン、ゴードンの四人は、用心しながらおもてに出た。フレンチ・デンの周囲はどこも静かだった。
なによりも先に、エヴァンズは地面に足跡がないかを探そうとした。思ったとおり、たくさんの足跡が見つかった。足跡は四方に入り乱れて、昨夜、ウォルストン一味が川まで来ていたことをはっきり示していた。
血のあとは、砂のどこにも見あたらなかった。ロックはエヴァンズの銃撃で負傷もしなかったものとみえる。
事態は依然として重大きわまりない。ウォルストンは、いまどこにいるのだろうか? |落とし穴の森《トラップス・ウッズ》にキャンプを張っているのだろうか? フォーブスに問いただしてみたが、彼はそれを言うことができなかった。あるいは言いたくなかったのだ。だが、この点はなんとしても確かめたいところだった。そこで、エヴァンズは、危険がないではなかったが、偵察隊を出すことを考えた。
昼食のあとで、エヴァンズは、|落とし穴の森《トラップス・ウッズ》のあたりまで行ってみるというこの計画を少年たちに話した。提案は採用され、あらゆる突発事に備えて、対策がこうじられた。
午後二時、エヴァンズの指揮で偵察隊が編成された。
少年たちとエヴァンズは、オークランド丘《ヒル》の麓《ふもと》に沿って、慎重に進んでいった。家畜小屋の囲いを越えると、潅木《かんぼく》の茂みや木立ちづたいに、姿を隠すようにして、森までたどりついた。
エヴァンズが先頭に立っていた。フランス人の難破者の遺骸を葬った塚を通り過ぎたとき、エヴァンズは、斜めに前進してファミリー湖《レーク》の岸に近づくことにしようと言った。ファンが耳を立て、地面をかぎまわって、なにかを探しているようすを見せたのだ。ゴードンがおさえようにもおさえられなくなっていた。やがて、ファンは足跡をかぎつけたように見えた。
「気をつけろ!」とブリアンが言った。
「そうだ」とゴードンも言った。「獣《けもの》の足跡じゃないぞ。ファンのようすを見たまえ」
「草のなかに隠れてゆこう」とエヴァンズが言った。
しばらくすると、いちばんとっつきの木立ちのところに着いた。|落とし穴の森《トラップス・ウッズ》のはずれだ。そこに、ごく最近、人が休んだあとがあった。
「きっと、ここでウォルストンがゆうべ過ごしたんだ」とゴードンが口に出した。
「ついさっきまで、いたのかもしれない。ぼくらは崖の方へもどった方がよさそう……」
エヴァンズの言葉が終わらないうちに、右手から銃声が聞こえた。弾が、ブリアンの頭をかすめて、彼がよりかかっていたかたわらの木にめりこんだ。
ほとんど同時に、もう一発の銃声が響いて、悲鳴が聞こえた。五十歩ほど先の木の間で、なにかのが重たいものがどさっと倒れた。最初の銃撃で見えた煙に見当をつけて、ドニファンが発砲したのである。
もう犬はじっとしていなかった。興奮したドニファンも、ファンのあとを追って、飛びだした。
「進め! ドニファンひとりにやらせてはいけない」エヴァンズが叫んだ。
みんなはじきにドニファンに追いついた。足もとの草むらにひとりの男が倒れていた。すでに息は絶えている。
「こいつはパイクだ」とエヴァンズは言った。「悪人はやっぱり死んだな」
「ほかの奴らも遠くへは行ってないよ」とバクスター〔あとの記述でわかるように、バクスターはこの偵察隊に参加せず、このとき幼年組といっしょにフレンチ・デンに残っていた。作者の勘ちがい〕が注意した。
「そうだ諸君。体を隠せ! 膝《ひざ》をついて! 膝を!」
三発目の銃声が、今度は左手から来た。頭をさげおくれたサーヴィスの額《ひたい》を、弾丸がかすめた。
「やられたか?」そう叫んでゴードンが走り寄った。
「なんでもないよ、ゴードン、だいじょうぶだ。ほんのかすり傷だ」
いまは、ばらばらにならないのが大事だった。パイクは死んだが、まだウォルストンと四人の手下が残っている。近くの木立ちのうしろでねらっているにちがいない。エヴァンズたちは、ひとかたまりにかたまって、草むらにうずくまった。
突然、ガーネットが叫んだ。
「ブリアンはどこへ行った?」
「さっきから見えないぞ」ウィルコックスも言った。
ブリアンの姿はどこにもなかった。ファンがますます激しくほえたてている。悪漢たちにつかまったのかもしれないと、心配になった。
「ブリアン! ブリアン!」と大声でドニファンが呼んだ。
全員が、もうわれを忘れて、ファンの走るあとを追った。エヴァンズが引き留めるまもなかった。みんなは木立ちをぬって、どんどん進んでいった。
「あぶない、エヴァンズ、あぶない!」不意にクロッスがどなった。
思わず頭をさげたエヴァンズの頭上を、すれすれに弾丸が飛んでいった。
首をあげると、ウォルストンの仲間のひとりが森のなかを逃げていくのが目に映《うつ》った。まさしくゆうべ逃がしたロックである。
「待て、ロック」とエヴァンズは叫んだ。
彼の銃が火を吹いた。ロックの姿は消えてしまった。
「また逃がしたか……畜生。残念だ」とエヴァンズはくやしがった。
これは、あっというまの出来事だった。
このとき、犬の鳴き声がけたたましく聞こえた。続いてすぐ、ドニファンの声が聞こえた。「がんばれ、ブリアン! がんばれ!」
エヴァンズも、みんなも、声のする方へ走った。二十歩ほど向こうで、ブリアンがコープと格闘《かくとう》しているのが見えた。
まさに悪者が少年を組《く》みしいて、短刀で切りつけるところだった。そこへ、ドニファンが駆けつけた。ピストルを抜くまもなく、コープにおどりかかった。短刀がそれた。
短刀が突き刺さったのは、ドニファンの胸だった。ドニファンは、声もたてずに、倒れた。
エヴァンズとガーネットとウェッブが道をふさごうとするのを見て、コープは逃げだした。いっせいに少年たちの銃が火を吹いたが、コープの姿は消え、ファンはすごすごともどってきた。
ようやく起きあがったブリアンは、ドニファンに駆けよって、頭を持ちあげ、元気づけようとした……
エヴァンズたちも、急いで銃に弾を込めなおすと、そこに集まった。
かわいそうに、ドニファンは胸をやられていた。それも瀕死《ひんし》の重傷のようだ。目を閉じた顔は蝋《ろう》のように白く、身動きもせず、ブリアンが呼ぶ声も聞こえない。
「フレンチ・デンへ運ぼう。あそこでなければ手当てができない……」とゴードンが言った。
「どうしても、助けなくちゃ」とブリアンの声はうわずった。「かわいそうに、君、ぼくのために、こんな目に会ってしまって」
エヴァンズも、ドニファンを洞窟へ運ぶことに賛成した。いまのところ、戦いはひと息ついた感じだった。形勢不利と見て、ウォルストンは、|落とし穴の森《トラップス・ウッズ》の奥へ退却することにしたようであった。
ドニファンの容態は悪く、ゆらさないように運ばなければならない。バクスターとサーヴィスが手早く木の枝で担架《たんか》を作ると、その上に意識を失ったままの少年をそっと寝かせた。それから、四人の少年が担架を静かに持ちあげ、あとの者は、銃を構え、ピストルを握って、前後左右を囲んだ。
こうして、帰り道の四分の三ほどを来た。洞窟まで行くのにあと八百歩か九百歩だが、洞窟の入り口は、崖の出っぱりのかげになって、まだ見えない。
突然、ジーランド川《リオ》の方で叫び声が起こった。ファンが猛然と走っていった。
ウォルストン一味がフレンチ・デンを襲ったにちがいない。
あとになってわかったことだが、それはこういうしだいだったのである。
ロックとコープとパイクが|落とし穴の森《トラップス・ウッズ》に待ち伏せて、エヴァンズたちの一行にかかっているあいだに、ウォルストンとブラントとブックは、堰川《ダイク・クリーク》のかれた川床をさかのぼってオークランド丘《ヒル》によじのぼったのだ。丘の上をたちまち駆け渡ると、谷をおりて洞窟の入り口に近い川岸に出たのである。そこまでくれば、バリケードをしていない戸を破るのは容易だった。悪人たちはフレンチ・デンに押しいったのである。
さあ、たいへんなことになった。あとのまつりにならないように、エヴァンズたちはまに合うだろうか?
エヴァンズはすぐに心を決めた。ドニファンをひとりにしてはおけない。クロッスとウェッブとガーネットがそばに残る。そして、ゴードン、ブリアン、サーヴィス、ウィルコックス〔ここも次頁の記述からみて、クロッスとサーヴィスを入れかえるべきだろう〕と彼は、近道を通って、フレンチ・デンへ急ぎに急いだ。数分後、やっとスポーツ台《テラス》の見えるところまで来たとき、彼らはそこにあるものを目にして、もう駄目だと思った。
ちょうどそのとき、ウォルストンが、広間の戸口からひとりの子どもをかかえて、川の方へひきずって行くのである。
子どもはジャックだった。ウォルストンを追いかけてきたケートが、けんめいになって、ジャックを引き離そうとしている。
すぐあとから出てきた子分のブラントは、幼いコスターをつかまえて、同じ方へ引っ張っていく。
バクスターがブラントに飛びかかったが、てあらに突き飛ばされて、地面にひっくり返った。
ほかの子どもたちの姿は見えない。ほら穴のなかで、すでにやられてしまったのだろうか?
そのあいだにも、ウォルストンとブラントはどんどん川の方に近づいていく。泳がないで川を渡る方法があるというのか。そうだ、ブックが納戸からボートを引きだして、川で待っていたのだ。
三人に向こう岸に逃げられたら、もうおしまいだ。逃げ道をふさごうにもふさげないで、熊岩《ベア・ロック》のキャンプに引きあげられてしまうだろう。ジャックとコスターは人質にとられてしまう。
ウォルストンたちが向こう岸に渡らないうちに、スポーツ台《テラス》に着こうと、エヴァンズ、ブリアン、ゴートン、クロッス、ウィルコックスは、息のかぎり走った。こんな遠いところからでは、ジャックやコスターに当たるおそれがあったから、鉄砲を撃つわけにはゆかないのだ。
しかし、ファンがいた。いま、ファンはブラントに飛びついて、喉《のど》に襲いかかった。ブラントは犬を払うのに追われて、しかたなくコスターを放した。いっぽう、ウォルストンはジャックをひきずって、ボートの方へ急いでいく……
突然、ひとりの男が洞窟から飛びだしてきた。フォーブスだ。悪者の仲間にもどろうと、戸を破って出てきたのだろうか。ウォルストンはそうだと思った。
「こっちだ、フォーブス。来い、来い!」
エヴァンズは立ち止まって、鉄砲の引き金を引こうとした。ところが、そのときフォーブスがウォルストンにおどりかかったのだ。
この思いがけない攻撃にびっくりして、ウォルストンはジャックを放すと、ふり向きざまフォーブスに短刀をあびせた。
フォーブスはウォルストンの足もとに倒れた。
これはあっというまの出来事だった。エヴァンズたちは、このときまだ、スポーツ台《テラス》から百歩ほど手前だった。
ウォルストンは、ボートにジャックを連れていこうとして、またつかまえにかかった。ボートでは、ブックと、ようやく犬をふり払ったブラントが待っている。
ウォルストンが近寄るまもなく、ジャックが、構えていたピストルを、胸板めがけて発射した。ウォルストンは重傷を負って、かろうじて仲間の方によろめいていった。ふたりの手下は彼を腕にかかえ、ボートに乗せると、力まかせにボートを押しだした。
そのとき、ものすごい音が響きわたった。散弾の雨が川の水を横なぐりにたたきつけた。
モコが、納戸の窓から大砲を発射したのであった。
いまや、|落とし穴の森《トラップス・ウッズ》深くに姿を消したふたりの悪人を残して、チェアマン島はセヴァーン号の人殺しどもから解放された。人殺しどもはジーランド川《リオ》に浮かんで、海の方へ流されていった。
ロックとコープがどうしているかはわからなかったが、チェアマン島の危険は大きく取り除かれたのだ。
モコの大砲で決着がついたと見ると、ブリアンは、大急ぎで、担架《たんか》を守っている少年たちのところへとって返した。まもなく、ドニファンは広間に運びこまれたが、まだ意識を取りもどさない。フォーブスも、エヴァンズに助けられて、納戸のベッドに寝かされた。
その夜はひと晩中、ケート、ゴードン、ブリアン、ウィルコックス、エヴァンズが、ふたりの負傷者につきそって、看病した。
ドニファンの傷が非常に重いことは、見た目にも明らかだった。しかし、呼吸がかなり規則正しいので、コープの短刀は肺に通ってはいないにちがいない。傷口に当てるのに、ケートは、アメリカの西部でよく使われるある種の植物の葉を、ジーランド川《リオ》の岸辺の木立ちから見つけてきて、使った。それは榛《はん》の木の葉で、よくもんで湿布《しっぷ》にすると、内部の化膿《かのう》を防ぐのにたいへん効くのである。なかが化膿したら、これは大事だ。しかし、ウォルストンに腹を刺されたフォーブスの方は手のつくしようがなかった。彼は、自分でも致命傷なことを悟っていて、ケートが身をかがめて手当てをしていると、意識を取りもどして、こうつぶやいた。
「ありがとう、ケートさん。でも、いいですよ……わしはもう駄目です」
目から涙が流れていた。
後悔が、このろくでなしの心の中に残っていた良心を呼びさましたのだろうか。そうなのだ。悪漢どもにそそのかされ、その尻馬《しりうま》に乗って、セヴァーン号では人殺しをしたものの、幼い少年たちの命をおびやかす恐ろしいたくらみを目《ま》のあたりに見て、全身が怒りにかられ、そのために自分の命を危険にさらしたのだ。
「元気をだすんだ、フォーブス。君の罪は消えたんだよ……死にはしないよ……」
そうではなかった。不幸な男は死ぬ運命だった。できるだけの手当てはつくしたが、刻々に悪くなっていくのが目に見えた。
明けがた四時ごろ、フォーブスは息をひきとった。彼は、悔いあらため、みんなから許され、神から許されて、死んだ。神は臨終の苦しみを長くお与えにならなかった。彼はほとんど苦しみもなく、最後の息をひきとったのである。
翌日、フランス人ボードアンの眠る墓のとなりに穴を掘って、フォーブスは葬られた。いまでは、二本の十字架がふたつの墓の上に立っている。
しかし、ロックとコープがいるから、まだ危険は残っていた。そこで、エヴァンズは、彼らが熊岩《ベア・ロック》の港に逃げこまないうちに、片づける決心をした。
その日のうちに、ゴードン、ブリアン、バクスター、ウィルコックスの四人とエヴァンズは、脇に銃をかかえ、腰にピストルをさし、ファンを連れて、出発した。ファンを連れたのは、足跡を見つけるには、動物の本能に頼るのがいちばんだったからである。
追跡はむずかしくもなかったし、長くもかからなかった。ついでに言えば、危険でもなかった。落とし穴の森の茂みのなかで血のしたたりを見つけ、あとをたどってゆくと、弾に当たった場所から数百歩のところで、コープが死体となって見つかった。戦闘の最初に死んだパイクの死骸も見つかった。昨日地面に吸いこまれたように、ふっとロックが姿を消したわけは、やがてエヴァンズが見つけた。以前ウィルコックスが掘った落とし穴に、この男は重傷のまま落ちこんだのだった。三人の死体はその落とし穴に埋めて、墓にした。それから一行は、もう島におそれることはなにもなくなったという朗報を告げに、洞窟にもどった。
ドニファンの傷がこれほど重くなかったら、フレンチ・デンの喜びは本当に申し分ないところだった。しかし、みんなの心は、すでに希望に向かって、大きく開いているではないか。
翌日、エヴァンズとゴードンとブリアンとバクスターは、ただちに実行にとりかかるべき計画を相談した。まず大事なことは、セヴァーン号のランチを手に入れることだった。それには、熊岩《ベア・ロック》まで旅行し、さらに滞在する必要がある。向こうで、船の修理作業に取りかかるということになるだろう。
そこで、エヴァンズ、ブリアン、バクスターの三人が、湖と| 東 川《イースト・リヴァー》 を通って、|熊 岩《ベア・ロック》に行くことに決まった。
ボートは、逆潮《さかしお》に寄せられて川辺で見つかったのだが、散弾の雨はボートの上を掃《は》いたらしく、少しも傷んでいなかったのだ。三人は、修理の道具と、食料と、武器、弾薬を積んで、十二月六日の朝、気持ちよい横風をうけて、出発した。
ファミリー湖《レーク》をかなり早く渡りおえた。十一時半をまわらないうちに、ブリアンは、 湖の水が| 東 川《イースト・リヴァー》 に流れだす小さな入り江を、エヴァンズに指さした。ひき潮にひかれて、ボートは川をいっさんに下った。
河口から遠くない熊岩《ベア・ロック》の浜に、ランチは引きあげられてあった。
修理をほどこすべき点を詳しく調べた末に、エヴァンズはこう言った。
「道具はここにあるけれど、リブと船腹を直すのにいる材料がないんだ。フレンチ・デンに行けば、スルーギ号に使ってあった板や梁骨《りょうこつ》がきっとある。ジーランド川《リオ》までこの船を引っ張っていければいいんだが……」
「ぼくもそう思っていました」とブリアンが答えた。「エヴァンズさん、それはできないことでしょうか?」
「そうは思わないよ」とエヴァンズは言った。「このランチは、セヴァーン海岸から熊岩《ベア・ロック》まで来たんだから、熊岩《ベア・ロック》からジーランド川《リオ》までだって行けるだろう。向こうの方が仕事はずっと楽だろうよ。そうして、フレンチ・デンからスルーギ湾に行って、そこから海に乗りだすのだ」
翌朝、夜明けとともに、三人は船をボートにひかせて、あげ潮に乗って出発した。潮があげているあいだは、櫂《かい》をこぐと、難なく進んだ。だが、ひき潮に変わると、たちまちひき船は容易ではなくなった。そのため、ファミリー湖《レーク》の岸にたどり着いたときには、もう午後の五時になっていた。
この状況であえて夜の湖を渡るのは慎重なやり方ではないと、エヴァンズは判断した。
それで、その場所にキャンプを張った。夜どおしぱちぱちと音を立てて燃える焚火に足を伸ばして、三人はよく食べ、ぐっすりと眠った。
朝のほの白い光が湖上にさしそめると、エヴァンズは口を開いて、「さあ、船出だ」と言った。
帆が高々とあがった。ボートは、舷側まで水につかった重い船をひいて、西に舳先《へさき》を向けた。ファミリー湖《レーク》を横断するあいだ、なにひとつ事故はなかった。
午後三時ごろ、ついに、西の方にオークランド丘《ヒル》の峰が見えてきた。五時、ボートとランチはジーランド川《リオ》にはいって、小さな船着場のかげに錨《いかり》をおろした。万歳の声がエヴァンズ一行を迎えた。
三人の留守のあいだに、ドニファンの容態はやや決方に向かっていた。いまでは、この勇敢な少年は友ブリアンの握手を握り返すことができた。おそらく回復には長いことかかるだろう。だが、ドニファンは強い生命力を持っているので、全快は時間の問題にすぎまい。
次の日から、修理工事がはじまった。まず、船を陸《おか》にあげるのがたいへんだった。その作業がすむと、手順を追って仕事が進められた。船乗りとしてばかりか、大工としてもいい腕をしたエヴァンズは、こうした仕事にはあかるかったが、同時に、バクスターの器用なのには彼も舌をまいた。材料も道具もたりないものはなかった。スルーギ号の船体の材木を使って、折れた梁骨《りょうこつ》や、はがれた船腹を修繕することができた。それからこれもスルーギ号の|まいはだ《ヽヽヽヽ》を、もう一度|松脂《まつやに》にひたして、船体の継ぎ目に詰め、水が完全にもらないようにした。
メーンマストにはスルーギ号の第一 接檣《せっしょう》を利用した。そしてケートが、エヴァンズの指示に従って、スルーギ号の予備の帆を裁《た》って、主帆と船尾の小帆、船首の三角帆をこしらえた。こうすることによって船の安定がよくなり、どんな風向きのときでも、風を利用できるはずだ。
こうした作業に三十日もかかって、一月八日にやっと終わった。あとは細かい点を残すだけだ。それというのも、エヴァンズが船の整備にできるかぎりの注意を払おうとしたからである。マジェラン諸島の数々の水路を通って航海し、いざとなって、ブルンズウィック半島の東岸のプンタ・アレナス港までくだらなければならない場合にでも、数百マイルだいじょうぶ行けるようにしておかねばならなかったのだ。
そのあいだにも、クリスマスと一八六二年の元日が、にぎやかに祝われたことを言っておこう。……この新しい年の暮れをチェアマン島で送ることがないように、少年たちは祈っていたのである。
このころ、ドニファンはだいぶ回復して、足どりはまだおぼつかないが、おもてに出ることができるようになった。
いっぽう、フレンチ・デンのふだんの生活も、またもとにもどってきた。勉強ゃ講義はずいぶん放りっぱなしだったので、ジェンキンスや、アイヴァースン、ドール、コスターなどは、夏休みみたいな気分でいたのである。
とうとう、一月の下旬になると、エヴァンズは荷物の積みこみに取りかかった。ブリアンたちは、当然、スルーギ号の難船から救ったものをひとつ残らず持って帰りたいと思った……しかし、それは、場所がたりなくて、できない相談だ。品物をよりわけなければならなかった。
第一に、ゴードンがスルーギ号から運んでおいたお金を別にした。モコは、十七人が食べるのに十分の食糧を積みこんだ。それから、弾薬の残りと鉄砲とピストルを船の荷物箱に入れた。
ブリアンは航海に必要な器具を選び、ウィルコックスは、網や釣糸のなかから、航海中にも使えそうな道具をよりわけた。
飲料水は、ジーランド川《リオ》からくんで、それをゴードンが、十個ばかりの樽《たる》に詰めさせて、船底の竜骨に沿ってきちんと並べた。
二月三日に荷物の積みこみがすべて終わった。ドニファンの体も航海に耐えられる見当がついたので、出発は五日と決まった。
そのまえの日に、ゴードンは飼っていた動物たちを放してやった。
あくる日、少年たちは船に乗りこんだ。船は小さなボートをうしろにひいている。エヴァンズがはしけ代わりに使うつもりなのだ。
ともづながとかれ、オールが水を打った。
そのとき、万歳の声が三度起こった。長いこと少年たちの安全な隠れ場所となってくれた優しい洞窟へのあいさつだった。オークランド丘《ヒル》が岸辺の木々に隠れて見えなくなっていったとき、さすがにみんなの胸はいっぱいだった。
ジーランド川《リオ》の流れはのろく、船足も流れより早くははかどらなかった。しかもお昼ごろ、|沼の森《ボッグ・ウック》のあたりで、エヴァンズは錨をおろさなければならなかった。
この辺の川底は浅すぎて、荷物を満載した船は浅瀬に乗りあげるおそれがあったのである。潮の満ちるのを待って、それからひき潮に乗ってくだった方がよい。
潮を待つ時間は六時間もあった。その間を利用して、みんなは食事をした。食後に、ウィルコックスとクロッスは、|南 沼《サウス・ムアズ》のはずれにしぎを撃ちにいった。
ドニファンも、右手の岸の上を飛んでいたうずらを、船尾にいたままで、二羽撃ち落とした。このぶんでは、どうやら全快だ。
船が河口に着いたときには、かなり夜もおそくなっていた。暗礁のあいだを抜けていくのは、暗くては無理なので、エヴァンズは、慎重な船乗りらしく、明日を待って海に出ようと言った。
こんな静かな夜があったろうか。夕方から風は落ちていた。|海 燕《うみつばめ》 や| 鴎《かもめ》などの海の鳥が岩穴に帰ってしまうと、スルーギ湾はまったくの静寂に包まれた。
明日の風が陸からの穏やかな風であってくれれば、|南 沼《サウス・ムアズ》 のはずれの岬まで、 海は静かだろう。 それを利用して、二十マイルばかり走る必要があるのだが、もし風が沖から吹くと、そのあいだの波がきついものになる。夜が明けるとすぐ、エヴァンズは三枚の帆をあげさせた。いよいよ、船は、エヴァンズのたしかな腕に操られて、ジーランド川《リオ》から海に乗りだした。
思わず、みんなの目は、オークランド丘《ヒル》の峰に注がれたが、やがて、スルーギ湾の最後の岩もアメリカン岬《ケープ》のかげにかくれていった。そのとき、一発の砲声がとどろき、万歳三唱《ばんざいさんしょう》のうちに、船尾にイギリスの国旗がひるがえった。
八時間後に船は海峡にはいった。向こうに見えるのはケンブリッジ島の砂浜だ。南岬《サウス・ケープ》 を回ると、あとはアデライダ島の沖合いを下ってゆく。
ついに、チェアマン島の突端が、北の水平線の下に消えた。
マジェラン諸島のあいだを抜けていったこの航海については、詳しく語るようなこともない。別に重要な出来事は起こらなかった。
二月十三日の朝、船首に立っていたサーヴィスが大声をあげた。
「右舷に煙が見えるぞ!」
「船だ! 船だ!」
やがて汽船の姿が視界にはいってきた。八、九百トンの汽船で、十一、二マイルの時速で走っている。
少年たちの船からいっせいに歓声があがり、同時に鉄砲の合図が響いた。汽船はランチを見つけ、十分後にはランチはグラフトン号の横腹にぴったりと着いた。
グラフトン号の船長トム・ロングは、さっそく、スルーギ号の冒険の一部始終を聞いた。それに、スルーギ号が行方不明になった事件は、当時、イギリスでもアメリカでも相当な評判になったのである。トム・ロングは少年たちを自分の汽船に乗り移らせ、まっすぐオークランドまで送り届けようと申しでた。グラフトン号は、メルボルンへ向かうところであったから、たいした回り道ではない。
航海は早かった。二月二十五日、グラフトン号はオークランド港に錨をおろした。
子どもたちをとりもどした家の人たちの喜びようは、とうてい筆では表わせない。
グラフトン号が遭難した少年たちを連れ帰ったというこのニュースは、たちまちのうちに全市に広まった。町中の人たちが駆けつけて、少年たちが親の腕に抱かれるのを見て、歓呼《かんこ》の声をあげた。
人々は、チェアマン島での出来事をこと細かに知りたがった。その好奇心はじきに満たされた。まず、ドニファンが、なん回も講演をした……講演は大成功で、てきめんにドニファンは得意になった。それから、バクスターがたんねんにつけた日記、フレンチ・デン日記が印刷され、ニュージーランドだけでも、なん千部となく売れた。しまいには、世界じゅうの新聞が、世界じゅうの言葉でそれを連載した。スルーギ号の事件に興味をひかれない人はいなかったのである。ゴードンの沈着、ブリアンの献身、ドニファンの勇気、大きい者から小さい者まですべての少年の忍耐、だれもかれもがこれに心を打たれた。
ケートとエヴァンズがどんなに歓迎を受けたかも、言うまでもない。ふたりは一身をささげて、少年たちを助けたのだ。そこで、寄付金が集められて、このたのもしいエヴァンズに、チェアマン号という商船が贈られることになった。彼がその所有者兼船長というわけである。ただし、それには、オークランドを母港にするという条件がつけられた。そして航海が終わってニュージーランドに帰るたびに、エヴァンズは〈わが少年たち〉の家庭で、心のこもった歓待を受けるのであった。
いっぽう、けなげなケートは、ブリアンの家からも、ガーネットの家からも、ウィルコックスの家からも、そのほかの家からも、ぜひ私たちの家へ来てほしいとひっぱりだこになった。けっきく、彼女は、自分が看病して命を救ったドニファンの家に落ち着くことになった。
さて、この物語から次のような教訓をくみとることができるだろう。そうすることによって、この二年間の休暇が無駄に終わらないように思われるのである。
もちろん、学校の生徒たちが、これと同じような休暇を過ごすことは決してないだろう。しかし……少年諸君はよく覚えておいていただきたいが……どんな困難に直面しても、秩序と熱心と勇気をもって当たれば、切りぬけられないことはないのである。とくに、次のことを忘れないでいただきたい。
スルーギ号で難船した少年たちは、きびしい生活の苦労のなかで、さまざまな試練にきたえられて、国に帰ってきたときには、下級生たちはまるで上級生のように、上級生たちはまるで一人前《いちにんまえ》の大人のようになっていたのである。 (完)
解説
人と文学
過去一世紀のあいだに、世界でジュール・ヴェルヌほど多くの人に読まれた作家は、おそらくいないだろう。一八六三年に『気球の旅五週間』で認められてから、一九〇五年七十七歳でなくなるまで、ヴェルヌはほぼ一年に二冊の割合で本を書いた。無名時代の作品も加えると、その数は百冊にあまる。そして、その約半数は発表と同時に各国語に翻訳されて、広く世界の人々に読まれたのである。その勢いは今でも続いているどころか、最近になってやや勢いを増したようだ。
日本でのヴェルヌ翻訳の歴史も意外に古く、また多彩である。明治十一年に川島忠之助訳『新説八十日間世界一周』が出たのが、わが国でのヴェルヌ紹介の、そして同時にフランス文学翻訳の最初であった。明治十一年といえば一八七八年、ヴェルヌがその小説を新聞に書いてからほんの数年後に、早くも日本で翻訳されたわけだが、それが文明開化といっても西南戦争の翌年のあわただしい時代のことであるから、驚かざるをえない。そして、それから二十年ばかりのあいだに、井上勤、大平三次、森田思軒といった人たちの手によって、三十種ほどのヴェルヌの翻訳がされているといえば、意外の感はさらに深いだろう。現在までのわが国でのヴェルヌの刊本は百種を越えるにちがいない。『海底二万里』『月世界旅行』『十五少年』などは、おそらく、どこの家庭でも、一度は戸棚の隅にころがっていたのである。少年時代にヴェルヌの作品のどれかを読まなかったという日本人は、むしろ珍しいのではないだろうか。
しかし、それほど人々に愛され読まれた作家でありながら、またこれほどろくに知られていない人も珍しい。これまでわが国でのヴェルヌは、この『十五少年』で代表される少年読物作者ということになっている。外国でも、少年向きの、しかしこれは主として科学小説の作者であった。だが、どちらにしても、読物が少年に喜ばれればいいので、作者のことなどどうでもよかった。
ところが近ごろ、大人の読むS・F(空想科学小説《サイエンス・フィクション》)というのが流行《はや》りだして、ヴェルヌがS・Fの元祖だと見直されてきた。大人というものは、自分たちのことだとなると、なかなか凝《こ》るのである。少年のころ読んだヴェルヌを引っ張りだして読み直す。彼のことを調べる人もでてきた。ヴェルヌの再認識が始まった。フランスでは現在、彼の著作集が少なくとも二種類刊行中である。ヴェルヌ研究の特集号を出す雑誌まで現われた。最近のヴェルヌは、空想科学小説というよりも、広く「幻想文学」の源泉のひとつとして、再評価されつつある。
さてそれでは、ジュール・ヴェルヌとはどのような人なのだろう、そして、どのような作家なのだろう。
生いたち
一八二八年二月八日、パリの南西約四百キロ、大西洋に注ぐロワール川の河口に近い港町ナントに、ヴェルヌは生まれた。父は司法官の息子で、ヴェルヌ誕生の前々年にこの地に代訴人の権利を買い、その翌年、船主の娘、ソフィー・アロット・ド・ラ・フュイと結婚していた。
ナントはフランスの海外への大きな窓のひとつだった。ことに、インド、モロッコ、西インド諸島、アメリカなどの植民地との交易で栄えた町で、十八世紀の半ばには、……これはあまり名誉にならないことだが……黒人狩りのフランス奴隷船の三分の一以上はこの港から出ていったという。当然、港にはそれら異国の物産と夢があふれていた。
ヴェルヌが生まれたとき、母方の祖母は「おじいさんみたいに変わり者でなければいいが」と言ったという。祖父は永遠の航海者、夢のような事業を企てては、常に失敗をくり返す人だった。そして、ヴェルヌは、夢を満載した船の出入りをみおろす、ロワール川の川中島フェイドー島の家で、一人の弟と三人の妹とともに育ったのである。
初恋
学校でのジュール少年は、教室では平凡な生徒だったが、休み時間の校庭では大将だった。ポケットのノートには、たくさんの発明や航海のプランが書きこまれていた。そして、彼の頭には、おそらくそれ以上の夢想と野心がつまっていた。
一八三九年の夏のある日、ちょうど家族がナントにほど近いシャントネイという田舎で休暇を過ごしていたときのこと、母はジュールが朝六時に家を出たまま帰っていないことに気がついた。ただちに捜索した結果、ラ・コラリー号というインド向けの帆船に少年が見習水夫として乗りこんだということがわかった。急報によって、ヴェルヌは、船が海に出るまえにパンブフの港でつかまり、家に連れもどされた。
しかし、十一歳の少年がこの旅を企てた動機は、単なる冒険へのあこがれではなかった。少年は恋をしていた。おない年のいとこカロリーヌに、珊瑚《さんご》の首飾りを持って帰ってやりたいというほほえましい願いから、彼はインド行きの船に乗ったのである。
だれでも若いころ一度はこの一種熱病のような恋愛という情熱を体験するものだが、ヴェルヌの場合、少年時代の彼の熱病は生涯その跡をとどめたようである。この事件から八年後、ヴェルヌはカロリーヌにおそるおそる求婚した。案の定、いとこはジュールの願いを一笑に付して、さっさと別の男と結婚してしまった。周囲の者にも、また当のカロリーヌにも、このことがヴェルヌの上にどんなに大きな傷痕《きずあと》を残したかは、おそらく察しもつかなかっただろう。だがこの恋はヴェルヌの生涯に意外に大きな意味を持つ。彼の心の底には、女性に対する、また結婚ということに対する深い不信が刻まれたらしい。『海底二万里』の孤独な船長ネモや、『カルパチアの城』に人工の美女ラ・スティラを住まわせたロドルフなど、後年のヴェルヌの作品には、カロリーヌに傷ついた彼の心がさまざまな形で現われるのである。
劇作の夢
カロリーヌが人妻となったいま、ナントはおそらく彼にとって苦しみの町と変わったことだろう。傷心の彼に、パリで音楽を勉強中の親友イニャールが遊学を誘った。父も息子に自分と同じ道を進ませたいと思い、法律の勉強をさせるために上京させた。しかし、パリに出たヴェルヌは、一応法律の勉強はすることにしたものの、父の代訴人の仕事を受けつぐ気はほとんどなかった。
一八四八年、二月革命の年の暮れ、オデオン座の見える一室で、学生ヴェルヌが読みふけっていたのは、法律の本よりも、しばしばラシーヌの劇であり、あるいは三日間食事を節約して買い求めたシェイクスピア全集だった。やがて彼は、『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』の流行作家、そして『アンリ三世とその宮廷』以来パリの劇界に王様のように君臨《くんりん》していた、アレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)を知り、革命の翌春、デュマが再開した「史劇劇場」のデュマの桟敷《さじき》で、『若き三銃士』の初演を胸ふるわせて見つめながら、文学、ことに劇作による栄光を夢見るようになった。
デュマの知遇によって、翌一八五〇年、処女作『麦わらの賭け』が「史劇劇場」で上演され、また故郷ナントでも再演されて、若干の評判を得た。しかしヴェルヌには、些少の成功よりも、「気はきいているが古風な芝居だ」と現代生活との関連の欠如を指摘された批評がこたえていた。それから数年、劇場の書記をしたりしながら、いくつかの戯曲や小説を書いたが、認められなかった。そして、彼の胸のうちには、「現代生活との関連」という言葉が常に忘れられず、鳴っていた。
世に出る
一八五六年、友人の結婚式に列席するためアミアンに出かけたヴェルヌは、そこで若い未亡人オノリーヌと知り合い、翌年、二歳年下でふたりの子どもを持つこの婦人と結婚した。
結婚ということになれば、なんとしても生活の安定を得る必要がある。ヴェルヌは株式取引所で仲買人の手代《てだい》となった。これまでにも彼は、代訴人の徒弟をしたり、劇場の書記をしたり、生活のためにいろいろな職業に従事している。しかし、むろん志は文筆によって立つことにあった。好奇心と研究心の旺盛な彼は、しばしば国立図書館に通って知識の吸収を怠らなかったが、いつか科学の進歩に非常な関心を寄せるようになっていた。
当時、産業革命に続いて、自然科学の発達はめざましく、ファラデー、マクスウェル、ダーウィン、パストゥールといった大学者が続出し、また、種々の発明、発見によって、科学の進歩が人々の生活を不断に変え、さらに大きな発展の可能性を予告しつつあった。いっぽう、人類の探求のエネルギーは新天地の探検にも向けられ、このころ、ロスの南極地方の探検や、リヴィングストンのアフリカ横断などが行なわれた。まさに、科学と冒険の時代としての現代生活の展望が開けていたのだ。現代生活と結びついた文学を求めていたヴェルヌの心には、おのずから冒険科学小説の夢が宿った。
一八六〇年、ヴェルヌは、写真家であり、画家であり、作家であるナダールという人物を知った。当時ナダールは空中からの地形写真を撮ることに熱中し、「巨人号」という気球を建造中であった。かつてヴェルヌは、一八五一年に『気球旅行』という作品を書いたことがあった。ナダールのサロンに出入りして、「巨人号」の建造を見守っていたヴェルヌは、ナダールよりひと足先に、自分の気球「ヴィクトリア号」を完成してしまった。一八六二年『気球旅行の五週間』という小説を書きあげたのである。
彼はこの原稿を何軒もの出版社に持ちこんでは断わられたあげく、そのころ青少年向けの出版社をはじめ、「教育娯楽雑誌」を発刊しようとしていたジュール・エッツェルの許に持っていった。一読して、エッツェルはこれだと思った。ただちに『気球の旅五週間』は出版され、一八六三年の出版界最大の成功をおさめた。ヴェルヌは冒険科学小説を創りだしたのだった。じきにこの小説は各国語に訳され、ヴェルヌを世界的な流行作家にしてしまった。
「ヴィクトリア号」はヴェルヌに勝利《ヴィクトリー》をもたらしたが、ナダールの「巨人号」はそう幸福を作者にもたらさなかった。小説の大成功もあって、大いに世間の視聴を集めた「巨人号」は、その年十月パリで第一回の飛行をしたが、三回目の飛行の際、ハノーヴァーで墜落し、乗り組んでいたナダール夫妻は危く背骨を折るところだった。しかし、ヴェルヌは、彼に出世作の着想を与えてくれたナダールのことを忘れなかった。後年『月世界旅行』を書いたとき、彼は Nadar (ナダール)を Ardan (アルダン)なる人物に仕立てて、ロケットに乗り組ませ、月世界を目のあたりに見る最初の人類の光栄を与えたのである。(このように綴字の順序を入れ換えて別の語を作るのを換字変名《アナグラム》と言う))
また、すでに読者は気づかれたかもしれないが、この『十五少年』の漂着したチェアマン島は、実はアノーヴル島( Hanovre 島すなわちハノーヴァー島)であるし、少年たちはそこで「空の巨人号」という大凧を揚げるのである。ヴェルヌの心には、むろんナダールの気球が浮かんでいたにちがいない。
創作と探検旅行の華やかな活躍
『気球旅行の五週間』の出版と同時に、ヴェルヌはエッツェルと、向こう二十年間に年二冊ずつ、あるいはより短期間でもいいが、合計四十冊のこうした冒険科学小説を書き、年二万フラン、あるいは一冊につき一万フランの報酬をもらうという契約を結んだ。彼はこの契約を忠実に実行した。こうして『地底旅行』(一八六四年)、『海底二万リーグ』(一八六九年)、『月世界旅行』(一八六九年)、『八十日間世界一周』(一八七三年)など、われわれが翻訳や映画で知っている数々の名作が次々と生まれることになる。当然生活も豊かになった。ヴェルヌは少年のころから夢みていた冒険旅行を実現するため、釣用の帆船を買い求め、サン・ミシェル一号と名づけた。これはのちに、乗組員十名を擁するサン・ミシェル三号まで発展するが、彼はこのサン・ミシェル号を駆って、地中海に、北海に、バルチック海にと、冒険の旅行に出る。そして、航海に出かけては書き、書いては出かけるという、忙しくも夢多い活動的な生活を送った。三十代から五十代の末にかけて、ヴェルヌの生活は、こうした旅と創作のもっとも華やかな、またもっとも充実した時代であった。
晩年
一八八六年三月のある日、夕闇の迫るころ、アミアンのわが家に帰ってきたヴェルヌは、戸口で突然ピストルの襲撃にあった。弾は二発発射され、一発は壁に当たり、一発は彼の左足に命中した。ものかげに隠れていた加害者はただちに捕えられたが、意外にもそれは甥《おい》のガストンであった。彼は子どものころから伯父の小説の熱心な読者であり、伯父からもかわいがられていた頭のいい青年で、外務省の官吏であった。まさに売れっ子作家にふりかかった珍事であり、ジャーナリズムは色めきたったが、青年は被害妄想が高じた精神錯乱であると発表され、それきりいっさいは沈黙の中にほおむり去られた。事実、ガストンは精神病院に送られたのだが、なぜ伯父が撃たれねばならなかったのか、さまざまに推測はされているものの、真相はいまだに不明である。幸いヴェルヌは死を免れたが、以後あれほど好んだ旅行も航海も不可能となり、死ぬ日まで跛《びっこ》をひく運命となった。
その日から、順風満帆《じゅんぷうまんぱん》の成功者に見えたヴェルヌの生涯に、このピストルで幕が切って落とされたかのように、不幸が訪れだした。事件の二日後、長年の仕事の伴侶でもあり、理解者でもあった出版者エッツェルが死んだ。一年も経たない翌年の二月には、母を失った。そしてヴェルヌは、もっとも近しいこの人たちの死に目に会うこともできなかった。
「父が死に、母はその後十五年ながらえたが、いまや召された。このふたりは私をずいぶん苦しめもしたが、それらはすべて運命なのだ。愛している人も、愛していない人も、こうして別れていく。ただ、われわれの番が来て去っていくとき、愛される者になるよう努めよう」とヴェルヌは淋しげに書いている。
それ以後、彼はサン・ミシェル三号も売り払って、家にひきこもりがちになった。小説だけはまえと同様に書き続けた。塔のように高く作った部屋で野営用の粗末なベッドにひとり寝て、暁方から筆を執《と》る。人気は依然として衰えなかったが、もう生活の華やぎはもどってこなかった。甥たちが彼の気を引き立てようとして、ジュール・ヴェルヌ号と名づける帆船をこしらえ、進水式に招《よ》んだこともあったが、彼は出席しなかった。「私は打撃を受けた、決して回復しないだろう」
いまや老年のヴェルヌを訪れるものは、親しい人たちとの別離と病苦であった。弟の死、知的な心の友であったある女性の死、神経衰弱、やがて白内障が始まって、目も不自由になった。そして、一九〇五年三月二十日、かねて病んでいた糖尿病がにわかにあらたまって、右半身に麻痺《まひ》がきた。三月二十四日朝八時、急いで駆けつけた近親に見守られて、ジュール・ヴェルヌはその多彩な七十七年の生涯を静かに閉じた。
S・Fの祖
すでに書いたように、ヴェルヌの出世作は、気球による暗黒大陸アフリカへの冒険旅行の物語であった。「科学」と「旅行」、これが彼の小説の骨格を決定したのである。
未知の世界への好奇心と、その探求に立ち向かう勇気がなかったら、おそらく人間は狭い故郷にしがみついたまま、いつまでも未開の状態を脱けだせなかっただろう。それらは人間の本質に根ざした情熱であり、文明の原動力でもある。昔から、人は山をながめ、海をながめては、その向こうにあるものを想像した。想像の世界は魅惑に満ちている。危険と困難の予感が彼を引き止める。だが、ある日、とうとうこらえきれなくなった男が旅に出る。こうして人間はその世界を広げていった。しかし人間のまえには、まだまだ広い未知の世界があった。ついにひとりの旅人も帰ってこない大海のかなた、深山の奥、行こうにも行くすべのない海原《うなばら》の底、天空のはて、それらは妖《あや》しい魅惑の声を語り、人々はそこにさまざまな夢を描いた。夜空の星の織《お》りなす数々の神話、桃源郷《とうげんきょう》やエル・ドラドの夢、海底に沈んだ竜宮城やアトランティスの大陸。手のとどかぬものこそ、限りなく美しい。これらの夢は、くり返し人々に語りかけ、その心をとらえてやまない。
しかし、夢を描くのが人間の特権であれば、夢にいどむのはまた人間の宿命である。これらの夢のいくつかに手がとどきそうに思われることがあった。科学の進歩、技術の発達が、その実現の可能性をかいま見せるのだ。羅針盤《らしんばん》の発明による「大航海時代」の到来。ヴァスコ・ダ・ガマ、コロンブス、マジェラン等によって、七つの海は人類のものとなり、世界は広がったのである。世界が広がると、かえって夢も広がる。好奇心ははてることがない。人間は探求を続け、探求のための手段を工夫する。そして、ヴェルヌが小説を書き始めたころ、いわば第二の大航海時代の夢が人類の前にひらけつつあった。ワットやフルトンの発明した汽船は十九世紀の初頭から川に海に浮かんでいたし、汽車も一八三〇年代からフランスでは実用化されている。大空への夢も気球が果たしてくれそうだ。そうした交通手段ばかりではない。モールスやマルコニーの努力による新しい通信手段の開発も行なわれてくる。武器の発達、医学の進歩、あらゆることが人間の行動を大幅に広げようとしていた。そして、現に、リヴィングストン、スタンレー、ヘディン、ナンセン、スコット等の探検隊が、十九世紀の後半に、次々と極地を征服し、地球上から人類未踏の地を一掃《いっそう》していったのである。(やがて、航空機の発明によって人間の行動半径は飛躍的に広がり、いまでは宇宙へと向かおうとしている。「大航海時代」はまだ続いているのだ。あるいは第三のそれが始まりつつあるのか。)
ヴェルヌの創始した冒険科学小説は、こうした未知の世界探検の夢にあふれ、その可能性の予感に満ちていた時代の空気に、まさに応《こた》えるものだった。エッツェルによって「驚異の旅」叢書と名づけられたヴェルヌの小説は、一作ごとに、まだだれも足を踏みいれた者はないが、それが存在することは否定できない未知の世界へ、人々を導き、その夢を満たしたのである。しかも、その旅は荒唐無稽《こうとうむけい》な旅ではない、現に人が所有し、あるいはいずれ所有するであろう科学的な手段によって、実現されるのである。こうした小説を書くためのヴェルヌの知識と研究心、そして想像力はなみなみのものではない。一作一作、斬新《ざんしん》な発明、創見に満ちている。飛行船、ヘリコプター、ロケット、潜水艦、蓄音機、映画、テレヴィジョン、人工可動島、空陸水上水中走行車、人造人間、透明人間などヴェルヌの作品が予告した未来は、一世紀の科学の進歩のうちに多く現実のものとなった。ヴェルヌの先見を驚くべきなのだろうか、人智の進歩を祝うべきなのだろうか。
だが、いずれにしても、そのような正確な予見によって時代を先取りした彼の作品が、当時の人々に喜び迎えられたことは当然であろう。
幻想文学の源泉
空想はそれが現実と化したとき、その使命を終え、魅惑を失うであろう。かつての想像の不備が目立って、滑稽《こっけい》に思われてくることもあろう。たしかに、現代のわれわれから見れば、ヴェルヌの作品の中には、そのように時間に追い越されたために、すたれてしまった部分もある。いっぽう、まだ時間に追いつかれない部分もある。しかし現代科学の水準は、ほぼヴェルヌの予告したものすべてを遠からず実現してしまうだろう。そのとき、ヴェルヌの作品はすべて生命を終えるのであろうか。おそらくそうはならないだろうが、いまそうした予想はやめて、現代におけるヴェルヌの再評価ということを、われわれはここで少し考えてみよう。
はじめにちょっと書いたように、最近フランスでヴェルヌの再認識が行なわれだしている。「ポケット本」叢書に、ジュール・ヴェルヌ・シリーズというのがはいって、エッツェル版の挿絵も入れて、すでに十冊ほど出ている。この版画の挿絵がまた、今世紀の幻想画家たち……たとえばアンリ・ルソー……に影響を与えたというおもしろいものだが、それはともかく、このようにヴェルヌがふたたび広く迎えられようというのは、もし科学の進歩が遠からずヴェルヌの作品の生命を失わせてしまうというのなら、奇妙な現象である。
ヴェルヌの再評価は、科学的な空想の正確さとか面白さとかいうのとはちがう点にあるようだ。近年ヴェルヌが注目されだしたのは、アンチ・ロマン(反小説)の旗手ミシェル・ビュトールとか、今は亡くなったが前衛的な芝居など書いて最近声価の高くなったボリス・ヴィアンといった人たちによってなのである。そして、クローデル、アポリネール、サン・ジョン・ペルス、アンリ・ミショー等の現代の大詩人たちへのヴェルヌの影響が語られているのである。
現実の世界の背後には非現実の世界がある。われわれの肉体は現実のなかに生き、感覚は現実を知覚するものだが、精神の働く領域は非現実、あるいは未現実の世界なのだ。精神の機能の特質は、現実の認識よりも、むしろ仮設の構築にあるのではないか。精神は、夢を食う|バク《ヽヽ》のように、想像界を食って生きる。人間が肉体とともに精神を持った生物である以上、人間は非現実界、想像界という食料を欠かすことができない。ヴェルヌがわれわれを導く「驚異の旅」は、現実にたしかに存在するが、まだだれも行ったことのない未知の世界への旅ばかりではない。現実に決して存在しないと信じていながら、われわれが思い描いてみずにはいられない幻想の世界へと、彼は誘うのである。ヴェルヌの多くの作品にあふれているさまざまな怪奇なイメージや残忍な情景は、それがわれわれの外部の世界というより、われわれの心の内にひそむ世界の反映であることを示している。
そのように考えるとき、ヴェルヌの冒険科学小説は新しい意味をおびてみえてくる。ヴェルヌは、彼の想像力が構築する宇宙の像を、近代科学の知識を利用して、作品に定着させようと試みたのではないか。未知のものは容易に信用しようとしない近代人の知識を逆用して、彼はその幻想の世界に実体性を与えたのではないか。アポリネールは、「ジュール・ヴェルヌはなんという文体だ。実体名辞ばかりだ」と言ったというが、たしかにヴェルヌは、具体的な色彩、形状、運動などでイメージを描くことに努め、主観的な形容語などはほとんど使わない。彼の幻想の世界は、そのような細部の具体性によって支えられている。ヴェルヌの作品における科学も、「驚異の旅」に実体性を与えるための手段とみることができる。それは、彼の近代科学への信頼よりも、むしろ幻想界を定着しようとする情熱を示すものではないか。そのような見方から、科学小説というより、幻想文学の源泉のひとつとして、ヴェルヌの作品は注目されだしているのである。
作品の解説と鑑賞
成立の背景
『社会契約論』や『新エロイーズ』を書いてヨーロッパの近代を開いた、十八世紀の思想家ルソーは、その教育論『エミール』のなかで、十五歳まえの少年に読ませるに値するただ一冊の本として、『ロビンソン・クルーソー』をあげている。ひとりで、だれの力も借りずに、自分の気力と工夫で、生きて、身を守っていく人間の物語は、育とうとする少年にとって、興味のある、また興味をひくから有益なものであるにちがいない。ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』(一七一九年)は事実、児童文学の古典として、世界中で読みつがれているが、そればかりではない。「無人島に漂着した人間の生活」という物語の型《パターン》を作ったのであり、以来、「ロビンソンもの」とでもいうべき作品がいろいろ作られている。そのなかでいちばん有名なのは、スイスの牧師ヨハン・ダヴィッド・ヴィースが書いた『スイスのロビンソン』(一八一二年〜二七年刊)だが、この『二年間の休暇(十五少年漂流記)』も「ロビンソンもの」のひとつなのだ。
ヴェルヌは、はっきりとデフォーやヴィースのロビンソンを頭に置いて、この作品を書いたのである。そうした物語の系列をぬきにして、この作品を考えることはできない。ヴェルヌはこれ以前にも、『不思議の島』で孤島に漂着した学者たちが技術文明を作りあげていく姿を描いたし、『ロビンソンの十二年』や『氷山のロビンソン』などを書いて、徒手空拳《としゅくうけん》で困難な環境に立ち向かう人間の奮闘への共感を示している。この主題は、かぎりなく海と冒険を愛したヴェルヌにとって、その本質に根ざしたごく自然なものであったにちがいない。
そしてまた、この本が少年を主人公としたことには、この本の出る二年まえのあのピストル事件のことがあるのかもしれない。ヴェルヌが愛していた甥のガストンは、出来のいい青年だった。書物と文明社会のなかでの優等生だった。それが、精神に異常をきたして、伯父《おじ》を撃ったのである。いっぽうヴェルヌは、「少年よ、君が子どものころ勉強しなかったことを喜びたまえ。勉強家の子どもは、かならず、とんまな青年になり、まぬけな大人になる」と忠告するような人だった。ヴェルヌが、きびしい自然のなかで、自力で勇気と知恵をふるって生きてゆく少年たちの健気《けなげ》な姿を描いたとき、学校の書物の中でばかり日を過ごす少年たちと、そうした生活を少年に強要する大人への教訓の心が彼にはあったろう。そして、その心は、ガストン青年に撃たれたときのヴェルヌのショックとおそらく無縁ではないように思われる。
構成
この単純な物語の構成をあらためて語る必要はほとんどあるまい。ただ、ヴェルヌがこの本につけた序文から、適宜《てきぎ》書きぬいて、彼自身にその意図を語ってもらおう。
「ダニエル・デフォーは『ロビンソン・クルーソー』で孤独な漂流者を描いた。ヴィースは『スイスのロビンソン』で同様な状態におかれたある一家の姿を描いた。私は私で、『不思議の島』で困難な環境に投げこまれた数人の学者の姿を描いた。この無限ともいえるロビンソンもののリストは、八歳から十三歳までの一団の子どもが孤島に漂着し、国籍のちがうことから起こる偏見や友情のなかで、生存のための戦いに立ち向かうあいだの経験や冒険が描かれれば、さらに完全なものとなるように思われる。いっぽう、私は『十五歳の船長』で、ある聡明《そうめい》な少年が、年齢以上の責任を負わされたことに起因する危険に直面して、立派にやってのけた姿を描こうと試みた。しかし、そうした書物の内容は、単に少年のみでなく万人に対する教訓を含んでいれば、完全であろう。このふたつが、いま私が新しく『二年間の休暇』を読者に贈る目的である」
無人島に漂着したのが、ひとりの大人から一家族、小集団となるにつれて、外界に対抗する力は増し、生存のための困難は少なくなるだろう。しかし、他方、別の困難が増してくる。人間関係という内部の困難がそれだ。十五人の少年はすでにひとつの社会である。社会には、意見や利害や感情の対立があり、不和闘争が起こる。それを克服しようとする努力から、たとえば、契約によってリーダーを選んで、秩序の維持をはかるという知恵が生まれる。社会を対立する諸個人の単なる集合体とみるこうした原子論的社会観が、実はデフォーの『ロビンソン・クルーソー』のうちにすでにあるのだが、ヴェルヌはこの社会の形成と崩壊と再建の諸相を、十五人の少年集団という小社会を設定することによって、この小説の中で巧みに描いてみせた。
チェアマン島の漂着者が十五人の少年集団であったということが、この小説を成功させた大きな理由となっているのだ。もしこれが大人の、あるいは男女を交えた集団だったら、彼らの社会はより複雑な、なま臭いものとなり、小説の比重はそれを描くに注がれ、自然との生存の戦いは相対的に小さなものとなるだろう。また、もっと小人数の少年たちだったら、その社会関係も単純化されすぎ、自然との戦いもおぼつかない、現実感の薄い物語《メルヒェン》となってしまうだろう。
『二年間の休暇(十五少年漂流記)』では、外部の自然との戦いのドラマと、内部の人間関係のドラマとが、相互にからまり、またバランスをもって展開されている。そのため、『ロビンソン・クルーソー』という名作がすでにありながら、この物語はわれわれに新たな興味と感動をもって訴えるのである。それは一に、十五人の少年という出発点の設定の適切さによる。
文学史的位置
従来、ヴェルヌはまともな文学史からはほとんどまったく無視されていた。あれは少年読物作者にすぎない、というわけである。最近、「S・Fの祖」とか「幻想文学の源泉」とかいうことで、一部から見直されつつあることはすでに書いた。人工の美女の物語『未来のイヴ』を書いたリラダンや、想像上の人工楽園を賛美する『さかしまに』の作者ユイスマンスなどとの関連も語られだしている。このようにヴェルヌ再認識の動きは始まっているが、その正当な評価はやはり今後に待つ問題である。
『十五少年』については、それが「ロビンソンもの」のなかで優れた位置を占める作品であることを書いたが、さらに広く言えば、これは漂流物語文学の系譜のなかに置いて考えられるだろう。古くはホメーロスの『オデッセイア』から、海洋を漂う人間の多様な、また異常な経験を描いた文学は数多い。これには、流れ流れてとどまるところを知らず異様な体験を重ねる形の物語と、どこかに漂着してその土地での生活を描く形の物語と、おおよそふたつがあるが、前者では人間を翻弄《ほんろう》する運命が、後者では運命を開拓する人間が描かれることが多い。いずれにしても、これは、人間と人間に課せられた状況との関係を描きだす、有効な古典的文学形式である。『十五少年』は、むろんあとの部類に属する物語のひとつだが、こうした広い視野に物語を置いてながめることによって、そこに現われた人間観を洞察することもできるだろう。
勇気
たとえば、この物語でいちばん人の心を打つところは、少年たちが不幸な運命にくじけず立ち向かう、その勇気だろう。ヴェルヌが読者に伝えたかったのもそれにちがいない。だが、その勇気は、模範的に健気《けなげ》なブリアン少年ひとりのものではない。大波に襲われ、悪漢の襲撃におびえてふるえる少年たち、南十字星にひざまずいて故郷の父母を思ってしんみりする少年たち、自分の失策を告白できずに自分から仲間はずれになるジャック、自分勝手な感情からたえず悶着《もんちゃく》を起こすドニファン、そうした弱さや欠点を持ちながら、彼らは希望を持ち続けて、困難な運命に勇気をもって立ち向かう。そして、むしろ、そうした弱さや欠点があるからこそ、彼らの勇気はより美しい。
物語のなかで、やや敵役の少年ドニファンは、時に鼻もちならないほど尊大で、感情的で、血気にはやったりもするが、彼には、常に先頭に立とうとする敢為《かんい》の気象、行動へのエネルギーが満ちている。作者がこの少年を決して否定していないことを、見誤らないでほしい。運命を開拓する者としての人間に必要なエネルギーの所有者ドニファンの意味は、この作中でブリアンに劣らず大きいのである。おそらく、ヴェルヌにとって、人間とはそうした気力を持った存在でなければならなかったにちがいない。
日本のヴェルヌ
最後に、ヴェルヌはわが国でもずいぶん愛読された作家だが、彼が日本でやや特殊な受け取り方をされていたことについて一言しておこう。
ヴェルヌといえば『十五少年』というのが日本でのこれまでの通り相場だろう。ところが外国では彼はまず科学的な冒険小説の作者であって、『十五少年』? ああ、そんな本も書いていたね、といった感じなのだ。わが国で『十五少年』がとくに知られたのは、森田思軒の名訳に負うところが大きいが、そこにはまた時勢とのかかわりもあった。明治の中期から末葉にかけては、青雲の志を抱いた赤手空拳《せきしゅくうけん》の青年たちが、「成功」を夢みて都に続々と上ってきた時代だ。新時代に爆発する庶民のエネルギーが、社会制度の変革や支配機構への反逆に向かわずに、そのように個人の立身出世へと向かい、それがそのまま産業経済の発展にもつながるとすれば、時代にとっても、国家にとっても、好都合だったろう。「成功」熱が一世を風靡《ふうび》したのである。独力独行、困苦を克服する少年たちの物語『十五少年』が、明治二十九年、思軒によって訳出されるや、当たりに当たったのは、こうした時代の空気とおそらく無関係ではあるまい。そして『十五少年』ばかりが名高くなりすぎて、わが国ではヴェルヌの他の作品は……紹介されなかったわけではないのだが……やや影が薄くなったのであろう。
しかし、言うまでもないが、こうしたことは『十五少年』の作品としての価値とはなんら関係がない。『十五少年』は時代を超えて読みつがれるに値する作品なのである。(訳者)
代表作品解題
数多いヴェルヌの作品のうちから、最初の戯曲『麦わらの賭』、出世作『気球の旅五週間』、地、空、海の三つの科学旅行の物語『地底旅行』『月世界へ行く』、『海底二万里』、冒険小説『ミシェル・ストロゴブ』、幻想的な怪奇な物語『カルパチアの域』を選んで、若干紹介しよう。なにぶんにも百ほどの作品を残した多作家のヴェルヌだが、不十分にもせよ、これでその多面的な活動をほぼうかがえるだろう。
『麦わらの賭』(一八五〇年)
昔ゲルマン人のあいだに、約束ごとをした印《しるし》に、麦わらを投げたり、折ったりする風習があった。フランスにも古くこの風習が生き残っていて、「麦わらを折る」ことはある種の賭の印を意味した。それは、相手の手から、うっかりなにかを受け取った方が負けになるという賭なのである。
老人のデスバール伯爵は疑り深くて、十八歳の若い妻アンリエットに虫がつきはしないか心配でならない。お城の奥に妻を閉じこめきりにしたいと思っている。いっぽう、アンリエットは夫に首飾りをねだっているが、疑り深いだけでなく、けちな伯爵は断固拒絶である。両々譲らず、ついに二人は「麦わらを折る」ことになった。戦闘開始だ。二人は相手になにかを受け取らせてやろうと秘術をつくすが、たがいに巧妙で、なかなかヘマをしない。そこへ、以前アンリエットに求愛していた従兄の竜騎兵が登場、彼女に言いよって、不幸にも伯爵の分別を失わせる。アンリエットの部屋に彼がはいるのを見た伯爵は不埒《ふらち》者を捕えにやってきた。ところが間一髪、侍女が男を戸棚に隠してしまった。伯爵は怒って、鍵をよこせとどなる。アンリエットはしぶしぶ鍵を差しだす。夫がそれをひったくったとたん、妻は「勝った。首飾りはわたしのものよ」と大喜び。
十八世紀の劇作家マリヴォー(一六八八〜一七六三)の芝居は、優雅で気取った表現を特徴としているが、それをマリヴォダージェ(マリヴォー趣味)と呼ぶ。このヴェルヌの最初の芝居も、マリヴォダージェの気のきいた、だが軽い芝居だ。のちのヴェルヌは文飾の少ない作家になるが、それは、一つには、かならずしも不評ではなかったこの最初の作品への反省からきているといわれる。しかし、ヴェルヌが若いころ、このような喜劇やオペレッタやヴォードヴィルの台本を書いたことは無駄ではなく、こうした経験が、のちの作品に、たとえばオッフェンバッハの喜歌劇で代表されるような、第二帝政期風の軽妙な陽気さや、上機嫌な諧謔《かいぎゃく》の味を与え、それが、彼の作品が単に少年や科学好きの人々だけでなく、広く一般の人気を呼んだ大きな理由にもなっている。
この芝居は一八五〇年六月十二日、パリの「歴史劇場」で初演された。
『気球旅行の五週間』(一八六三年)
疲れを知らない旅行家で、ジャーナリストでもある医師のサミュエルは、気球に乗って冒険旅行をすることを思い立った。旅行の目的地は、アフリカの東海岸ザンジバルからナイル上流におよぶ地方だ。彼はみずから気球を設計し、完成する。このヴィクトリア号は単に風まかせではない、思いのままに昇降のできる気球である。同行者は、友人のディック・ケネディと下男のジョー。旅行はまさに波瀾《はらん》の連続であった。蕃族におそわれて死にかけている宣教師を救助したりしているうちはまだよかった。やがて、飲み水がなくなって、猛烈な喉の渇きに苦しむ。ケネディは頭がおかしくなって、自殺をはかり、サミュエルたちを困らせる。とうとう気球のガスが欠乏して、動きがとれなくなり、あわや死を覚悟したとき、フランスの兵隊に助けられ、三人はやっと故国イギリスに帰ることができた。
イギリスの宣教師リヴィングストン(一八一三〜七三)が、南アフリカを横断して、ヴィクトリア瀑布《ばくふ》を発見した、その探検記『伝道旅行記』が出たのが一八五七年のことである。いままで文明人を寄せつけなかった暗黒大陸アフリカの秘境が、はじめてちょっぴりヴェールを脱いだのだ。こうしてヨーロッパに高まったアフリカ熱に、ヴェルヌは、気球による空からの探検という斬新な着想を加えたのである。ヴィクトリア号という気球の名前といい、宣教師救出の挿話といい、ヴェルヌの機を見るに敏な才気が、まさに図に当たり、この一作でヴェルヌの人気作家としての地歩は確立された。この小説は明治十六年、井上勤訳『亜弗利加内地三十五日間空中旅行』(絵入自由出版社)で、わが国にはじめて紹介された。
『地底旅行』(一八六四年)
高名なドイツの鉱物学者リデンブロック教授は、偶然手に入れた古本のページのあいだから、十六世紀の錬金術師アルネ・サクヌッセンムが謎の文学を書き残した羊皮紙を発見した。教授と甥のアクセルが苦心のすえ解読したこの暗号文には、アイスランドの火山スネッフェルスの噴火口から地球の中心に達することができると書いてあったのだ。かくて、教授とアクセルと山案内人のハンスとは、前代未聞の地底旅行に出発する。
地底に下った三人は、途中、道に迷ったり、飲み水がなくなったり、アクセルが闇のなかにはぐれたり、さまざまな苦労のすえ、四十七日ののち、地底の大洞窟に出た。大洞窟というより地下の大陸である。そこには、きのこの森があり、前世紀の怪獣や地底人が住み、海があり、空(?)まであった。
この驚異の旅から彼らが地上にもどることができたのは、彼らの乗った筏《いかだ》が活火山の噴火に噴きあげられたおかげだった。彼らが出たところは、イタリアのシシリー島、エトナ火山の山腹だったのである。地底にあること十三週間の不可思議な旅行だった。
この小説は、数多いヴェルヌの作品のなかでも、もっとも想像力のたくましい、怪奇なイメージに満ちた、本格的なS・Fの代表であろう。明治十八年に出た三木愛花、高須治助共訳の『柏案驚奇地底旅行』(九春社)がこの小説のわが国での最初の刊本のはずだ。
『月世界旅行』(一八六九年)
南北戦争も終った一八六…年十一月三十日の午後十時四十七分、アメリカのボルチモアから、九百フィートもある大砲を使って、人類最初の月ロケットが発射された。乗り組んだのは二人のアメリカ人、この企画の発案者である大砲クラブの会長バービケーンと、この計画の不成功を主張する彼の宿敵ニコル大尉と、陽気なフランスの芸術家ミシェル・アルダンの三人である。計算では、四日後、正確には九十七時間十三分二十秒後に、満月の月世界に到達するはずであった。
月に向かって、一路地球の引力圏を脱した三人のまえには、流星との衡突や、酸素の欠乏、耐えがたい空気、軌道の修正など、予想外の事態や、克服しなければならない困難が控えていたが、それがかえって幸いして、彼らは不帰の客となることなく、月を目のあたりに見る最初の人類となって、地球にもどることができた。大西洋上に落下した彼らのロケットは、合衆国の軍艦サスクハンナ号に救出され、彼らは人類に貴重な報告をもたらすことができたのである。
ソヴィエトとアメリカとが、月世界旅行への先陣を競っている今日、百年まえのヴェルヌのこの空想小説は、意外に古くない。むろん、現代のわれわれからみれば、細部では明らかにおかしいところもあるが、全体としては現代科学の常識から大きくはずれていない。彼の予見の正確さとその巧みなプロットは、われわれが現実のものとして、まぢかにみている宇宙旅行の予測とほぼ合致し、彼の小説の成功の理由をうなずかせるのである。
なお、この『月世界旅行』は、一八六五年の『地球から月へ』の続編にあたるものであり、直訳すれば、『月をめぐる』という表題である。この小説も早く翻訳されて、筆者は現物を見ていないから、どちらがどちらとも断言できないが、おそらく明治十三年の井上勤訳『九十七時二十分間月世界旅行』(大阪二書楼)が『地球から月へ』の、明治十六年の同人訳『月世界一周』(博聞社)が『月世界へ行く』の本邦初訳であろう。
『海底二万リーグ』(一八六九年)
一八六六年、大洋上に謎の怪物が出没して、航海がおびやかされた。パリ科学博物館教授のアロナックスは召使いのコンセイユと、怪物追跡のアメリカの軍艦に乗りこむ。やがて北大平洋上で怪物と遭遇したが、二人と、銛《もり》うちのカナダ人ネッドとは、軍艦が怪物と衝突したとき、海にふり落とされてしまった。気がつくと、彼らは怪物の背に乗っていたが、驚いたことに、それは近代科学の粋を集めた巨大な潜水艇だったのである。
こうして、なぜか抑圧者への復讐を誓って全社会と縁と切った自由人、ネモ船長の指揮するナウティルス号に乗せられて、彼らの海底二万里の旅が始まる。海底墓地や海抵大陸アトランティスの訪問、まっこう鯨や大だことの戦い、また南極の氷に閉じこめられるなど、驚異と魅惑に満ちた経験を重ねたすえ、彼らは人類社会への脱出をはかり、メールストルムの大渦巻から陸地に打ちあげられた。
この『海底二万里』は、自由と音楽と海を愛する不思議な反逆者ネモ船長を軸にして、『グラント船長の子供たち』(一八六七〜六八)、『不思議の島』(一八七五)と三部作をなす作品だが、その多彩な想像力でこれはヴェルヌの作品中、最大の成功をおさめたものである。たしか、ディズニーによる映画化もあった。わが国では、明治十三年、鈴木梅太郎の『二万里海底旅行』(山本)が初訳である。
『皇帝の密使』(一八七六年)
ロシア皇帝の伝令隊の隊長ミシェル・ストロゴフは、重大な連絡の使命をおびて、東部シベリアのイルクーツクへ向かう。彼が越えていく広大なシベリアの原野には、きびしい自然と、皇帝に反抗する獰猛《どうもう》なダッタンの遊牧民が待っている。そして、かつて皇帝の士官であったが、官位を剥脱されたために、皇帝にはげしい憎悪を燃やすイヴァン・オガレフが、ダッタン人を解放して、その首領となっているのだ。
ミシェル・ストロゴフは、一度はオガレフの手に落ち、残酷な拷問を受け、盲にする刑を宣告されるなど、波潤万丈の運命をたどるが、超人的勇気と努力によって、ついに使命を達成するという、冒険大活劇の物語である。
これはヴェルヌの作品のなかで、科学物とは別の一面を示す冒険小説の代表的作品である。たとえばデュマの『三銃士』のような、息もつかせぬおもしろい物語を、ヴェルヌは書いてやろうと思い、そしてみごとに書きあげたのである。わが国での翻訳は、明治二十年、報知新聞に載った羊角山人(森田思軒)訳『盲目使者』というのが、おそらくこの小説のことだと思うが、まだ調査の機を得ない。また、ダッタン人をアイヌ人に、ミシェルを朝廷から遣わされた武士に仕立てた、この小説からの翻案少年読物などが、これまでいくつもあったようだ。
『カルパチアの城』(一八九二年)
トランシルヴァニアといえばルーマニア北部のカルパチア山脈をのぞむ僻地《へきち》だが、ここのヴェルスト村の牧夫が、ある夕方、遠くの古城に煙のあがっているのを見たのが、この物語の発端である。それはゴルツ男爵家の城館で、音楽狂の当主ロドルフが打ちすてたままで、永らく住む人がない。村の林務官ニック・デックはこの話を聞いて、探検を思い立つ。すると不思議なことに、村人の集まる宿屋「マティアス王」の広間で「ニックよ、城へ行くな」という声が鳴り響いた。しかし、ニックは医者のバタクと城に向かう。その夜、山を登ってやっと城の下にどりついた二人を、すさまじい唸り声や気味悪い悲鳴、恐ろしい怪物の影がおそった。そして、屈せず城にニックがはいろうとしたとき、二人は電撃に打たれた。
数週間後、たまたまこの地を旅行中のフランツ・ド・テレク伯爵がこの話を聞いた。フランツは、城がロドルフ・ド・ゴルツの所有と知ると、異常な興奮にかられて、探索を決意した。実は、五年前、彼はロドルフと、ナポリで美しい歌手ラ・スティラの愛を争ったことがあったのだ。異様な執心でラ・スティラを追うロドルフに打ち勝って、フランツは彼女の愛を得、結婚の約束をした。ところが引退の最後の公演の晩、ラ・スティラは歌劇オルランドの終幕を詠唱中、胸の血管が破裂して死んだ。葬儀の翌日「あれを殺したのは君だ。君に不幸あれ」と書いた手紙がロドルフから彼にとどいた。以来フランツは彼女の思い出を胸に生きてきたのである。そして、彼はいま、「マティアス王」の広間でうとうとしていたとき、ラ・スティラの歌を耳にしたような気がしたのだ。
フランツは城へ出かけた。そして、不思議や、城壁にラ・スティラを見たのだ。彼女を追って、城にはいると、たちまち轟音《ごうおん》とともにはね橋があがり、彼は閉じこめられてしまった。しかし、ふとしたことから、彼は、城中の一室でロドルフがオルファニックという学者と話しているのを立ち聞いた。
すべての奇怪な現象はオルファニックが発明した電気の仕掛けなのだ。宿屋の声も、城の不可思議も。そしてロドルフはフランツがヴェルストへ来たことを知って、ラ・スティラの声と幻像を使って、彼をこの城に永久に閉じこめて、恋のうらみをはらそうと企んだのである。
怒ったフランツは、短刀をかざしてロドルフに躍りかかろうとした。そのときまた懐しいスティラの姿が彼のまえに現われて、あの最後の歌を歌うのだった。茫然と立ちつくすフランツ。
「スティラ、生きているお前にまた会えるとは」
「生きているだと」
せせら笑ったロドルフは彼女の胸に短剣を刺す。ガラスの砕ける音とともにスティラの姿は消えた。「あれの声だけは永遠に私のものだ」と言ってロドルフが逃げようとしたとき、一発の弾丸が、彼の手にした録音の小箱をたたき落とした。警官が来たのだ。「彼女の声、あれの魂が砕けた」一大爆発が起こって、ロドルフは廃墟の下に死んだ。かろうじて助かったフランツは気が狂っていた。
怪奇仕立てのおかしな物語の筋を長々と記したのは、愛する女を永遠の形象に閉じこめようとするピグマリオン以来の人間の奇異な情念、そして、現実の女よりも架空の女に恋して非現実界に足を踏みいれるホフマンやリラダンの幻想や、アン・ラドクリフの怪奇の世界と、この物語が意外に近いことを知ってほしかったからだ。今後ヴェルヌの再評価が進むとすれば、それはこの辺から照明が与えられてくるかもしれぬ。
年譜
一八二八 二月八日、フランス西部のロワール河畔、ナントのフェイドー島で生まれる。父のピエール・ヴェルヌ氏は前年一八二七年二月十九日、船主の娘ソフィー・アロッド・ド・ラ・フュイ嬢と結婚、この町で代訴人をしていた。
一八二九(一歳) 弟ポール誕生、ジュールは終生この弟を深く愛した。
一八三四(六歳) 遠洋航海の船長の未亡人、サンバン夫人のところに寄宿して学業を始める。
一八三六(八歳) サン・ドナシャン校に寄宿生として入校。
一八三九(十一歳) 夏のある一日、従妹のカロリーヌに、珊瑚《さんご》の首飾りを持って帰ってやるために、見習水夫となって密かに帆船ラ・コラリー号に乗りこむ。だが急を聞いた父はすぐ手配、パンブフで息子を下ろし、ひどく叱った。
一八四六(十八歳) ナントの高等中学の学生。このころ韻文悲劇など書く。
一八四七(十九歳) カロリーヌ・トロンソンに求婚、一笑に付される。同年冬、彼女はナントの青年と婚約。傷心のジュールは、失恋の苦しみを、パリで音楽を勉強中の親友イニャールに打ち明ける。友は彼の痛手を忘れさせるためパリに来ることをすすめる。カロリーヌの結婚式の時期に、両親は彼をパリに法律の一次試験を受けに行かせ、その後はプロヴァンの祖母のもとで過ごさせた。
一八四九(二十一歳) 革命で閉鎖されていた「史劇劇場」を再開したデュマ・ペールを知る。その『若き三銃士』の初演を見る。
一八五〇(二十二歳) 六月、「史劇劇場」でヴェルヌの韻文喜劇、『麦わらの賭け』を上演、これは十一月にナントでも上演された。ヴェルヌは法科の論文をパスしたが、はっきりと父の仕事をつぐことを拒否。友だちと「女房なしの十一人会」を結成。
一八五一(二十三歳) 生活のため、一代訴人のところに、見習弟子としてはいる。金持ちの娘との結婚を希望。国立図書館に通い、科学の発明に興味を持ち、科学小説を夢見る。「家庭博物館」誌に『メキシコ海の処女航海』と、『気球旅行』を発表。
一八五二(二十四歳)「史劇劇場」跡に設立された「国民オペラ劇場」の支配人ジュール・セヴェストはヴュルヌを秘書にやとう。合作で小喜劇『カリフォルニアの城』発表。つづいて『マルタン・パズ』発表。また、レオナルド・ダ・ヴィンチとジョコンダとの知的恋愛をテーマにした喜劇も書いたが、これは未発表に終わる。
一八五三(二十五歳) オペレッタ『目隠し鬼ごっこ』初演、ミシェル・カレと合作、音楽は友のイニャールが担当。
一八五四(二十六歳)「家庭博物館」誌に、『ゼカリア師』(中編小説)発表。十月、前記オペラ劇場の秘書の仕事をやめる。ボーヌ・ヌーヴェル街の殺風景な部屋で修道僧のような生活を過ごす。
一八五五(二十七歳) 社交界に出入りする。「家庭博物舘」誌に『氷のなかの冬』発表。
一八五六(二十八歳) 友人の結婚式に参列のためアミアンに行き、そこで若い未亡人オノリーヌ・アンヌ・エベ・モレルを知る。彼女は二歳年下で、ふたりの娘があった。
一八五七(二十九歳) 一月十日オノリーヌと結婚、友人のイニャールは証人となる。
一八五九(三十一歳) イニャールとともにスコットランド旅行。
一八六〇(三十二歳) ナダールと知る。
一八六一(三十三歳) 六月一日シャルル・ワリュとの合作の喜劇『夫婦攻防十一日』がボードヴィル座で初演さる。六月十五日、イニャールとふたたび北欧諸国に旅行。八月五日、長男でかつひとり息子となるミシェルの誕生に急遽イニャールと別れ、帰国。
一八六二(三十四歳) エッツェルはヴェルヌの『気球の旅五週間』の出版を引き受ける。
一八六三(三十五歳) 『気球の旅五週間』刊、いちやく、人気作家となる。
一八六四(三十六歳)「教育と娯楽」誌三月二十日創刊号から、『ハトラス船長の冒険』を掲載。また「家庭博物館」誌にポーに関する一文発表。『地底旅行』発表。このころ顔面神経痛に悩まされる。
一八六五(三十七歳) 妻とオートゥイユに落ちつく。釣用帆船サン・ミシェル一号購入。「デバ」紙に『地球から月世界へ』を連載。
一八六六(三十八歳) テオフィル・ラヴァレによって始められた『フランス地理図鑑』をヴェルヌが完成。『海底旅行』の執筆を計画。
一八六七(三十九歳) 海底電線敷設船に便乗。弟ポールと合衆国に旅行。
一八六八(四十歳) 『グラント船長の子供達』発表。『海底二万里』を書くため大部分をサン・ミシェル一号の船室で過ごす。
一八六九(四十一歳) 『海底二万里』をエッツェルに渡し、翌年早々出版の運びとなる。『月世界へ行く』発表。
一八七〇(四十二歳) レジョン・ドヌール勲章を受ける。普仏戦争の間、クロトワで、沿岸警備にあたる。『毛皮の国』を書きはじめる。
一八七一(四十三歳) 父死亡。エッツェル書店は芳しくなく、ヴェルヌは株式取引所に勤務。
一八七二(四十四歳) 戦争で中断されていた『海底二万里』の発売。八月、アカデミー・フランセーズ賞受賞。アミアンに滞在。以後ここに住居を定める。「ル・タン」紙に『八十日間世界一周』連載。
一八七四(四十六歳) サン・ミシェル二号購入。アミアンで広大な邸をかまえる。
一八七五(四十七歳) 『不思議の島』発表。
一八七六(四十八歳) 『ミシェル・ストロゴフ』発表。
一八七七(四十九歳) 『黒い印度』発表。サン・ミシェル三号購入。船員は十人。
一八七八(五十歳) 地中海に旅行。『十五歳の船長』発表。
一八七九(五十一歳) 『地球の発見』『五億長者公妃』『ある中国人の悩み』発表。
一八八〇(五十二歳) 五月、ノルウェー、アイルランド、スコットランドへ、エッツェルらと探検旅行。『蒸気で動く家』発表。
一八八一(五十三歳) 北海とバルチック海へ探検旅行。
一八八四(五十六歳) 息子ミシェル、妻、弟ポール、甥と地中海大探検旅行、妻オノリーヌはこれが夫との旅行の最初であり最後であった。
一八八六(五十八歳) 三月九日、甥ガストンのピストル二発を受ける。その一発は膝に命中し、以後終生、片足が不自由になる。事件後二日目に、彼の良き後援者エッツェル、モンテカルロで死亡。
一八八七(五十九歳) 二月、母死亡。サン・ミシェル三号売る。もはや彼はあれほど情熱を傾けた探検旅行も不可能となった。
一八八八(六〇歳) 『二年間の休暇』(『十五少年漂流記』)発表。
一八九一(六十三歳) 『二八八九年の新聞記者の日記』『ブラニカン夫人』発表。
一八九二(六十四歳) 『カルパチアの城』発表。
一八九四(六十六歳) 甥たちが、ジュール・ヴェルヌ号と名づけた帆船をナントで進水したが、ヴェルヌは出席しなかった。
一八九五(六十七歳) 『プロペラ島』発表。
一八九七(六十九歳) 弟ポールの突然の死。
一八九八(七〇歳) この年にヴェルヌは日記、覚え書また会計簿などを焼却した。
一九〇一(七十三歳) 『空中の村』発表。
一九〇二(七十四歳) 白内障はじまる。『キップ兄弟』出版。これは弟ポールの思い出にささげて創られた。
一九〇四(七十六歳) 『世界を支配する人』発表
一九〇五(七十七歳) 三月二十四日、麻痺と糖尿病のため死亡。
あとがき
本書は Jules Verne : Deux ans de vacances. 1960(Hachette)の翻訳である。原題は『二年間の休暇』であるが、森田思軒訳の『十五少年』があまりに名高く、それがいつか『十五少年漂流記』という形でわが国に定着してしまったのである。
思軒訳は古典的な名訳とよんでよいものだが、英訳からの翻案的重訳で、以来数多いこの本の翻訳は大部分、英訳あるいは思軒訳からの重訳で、フランス語の原文に直接ついた翻訳は石川湧氏のものが最初ではなかろうか。
実はヴェルヌの原作『二年間の休暇』の完訳はわが国にはまだない。本書も含めて、いずれも原著を二分の一前後に縮約したものである。これほど読まれていながら、こうした紹介のされ方をしている作品も珍しい。だが、これは、あながち理由のないことではない。ヴェルヌという人は非常な多作家であったためか、作品の構成や文章に、十分な配慮がとどいていない場合がままある。重複や余分な箇所が多いのである。この『二年間の休暇(十五少年漂流記)』もそうで、短くすることによって失う面もあるが、贅肉《ぜいにく》をおとしてよくなるという面もある。一概にその得失は決定しがたい。また、こうした扱いはわが国での特殊な現象ではないので、この訳が使用したテクストがそうであるように、ヴェルヌの場合は、フランスでも縮約版が多く、そのためか、かえって完全な版のときに、わざわざそう断るようだ。
訳者自身もこの点をどうするか、翻訳に当たって少し迷ったのだが、けっきょく、フランスで現在もっとも広く行なわれている縮約本をそのまま使うことにした。わが国でのこれまでの翻訳は、訳者の取捨による縮約で、いずれも訳者の見識を映した良いものだが、アシェット社はフランスの代表的な出版社のひとつだから、フランス人自身がこの作品をどうつづめるかという見本にもなろうかと考えて、前記のテクストを使った。このテクストは、ヴェルヌの原文を巧妙に適宜けずったもので、原文に付け加えたものはまったくない。その結果、全体がしまって、物語の骨格が明瞭になり、筋の運びに劇的緊張が増したが、一方、少年漂着者たちの日常生活情景の面が主にはぶかれたので、二年間の休暇という長い生活の厚みが若干手薄くなった感はある。なお、縮約のためや、作者の思いちがいから生じた二、三の撞着《どうちゃく》は、……いつか完訳の出ることを期待しつつ……注を付して補っておいた。
この文庫は、やや詳しい解説をつけることを特色としていると聞く。すでに諸家のすぐれた訳業がある本書に、屋上屋を架するにも及ぶまいと思わぬでもなかったが、これまでヴェルヌは、率直に言って、不十分あるいは偏頗《へんぱ》な紹介しかされていないきらいがあるので、この文庫で新訳を出すことに多少の意味があろうかと考えたのはそのためである。しかし、訳しだしてみると、少年の日に読んだ『十五少年』の感興が甦えってきて、楽しかった。また、ヴェルヌのことを少し調べたりしているうちに、興味をひかれることがでてきたりして、これも楽しかった。
ついでながら、近年、石川湧氏や江口清氏によって、原語からの翻訳がされるようになって、長いこと重訳の多かった変則的なヴェルヌ翻訳史も、どうやら新時代を迎えたようで喜ばしい。
この本が出てからのち、まるでなにかの合図でもあったかのように、ヴェルヌの翻訳がどっと出た。本書の解説や年譜にあげておいたヴェルヌの快作が、原語からの完訳で続々と読めるようになった。
訳者紹介
金子博《かねこ・ひろし》
一九二八年東京生まれ。東大仏文卒。ボードレールを中心にフランスのロマン主義から象徴主義にいたる文学を専攻。訳書『我が友の書』(アナトール・フランス)『偽りの春』(フランソワーズ・マレ)『幸福の谷間』(ジュール・ロワ)『作家とその影……文学の美学序説』(共訳、ガエタン・ピコン)ほか。
二年間の休暇
ジュール・ヴェルヌ/金子博訳
二〇〇三年三月二十日 Ver1