気球旅行の五週間
ジュール・ヴェルヌ/江口清訳
目 次
一 「旅行社クラブ」の宴会
二 提案と賭け
三 友人ディック
四 アフリカの探検家たち
五 地図上の散歩
六 得がたい従僕
七 気球の準備
八 リゾリュート号で
九 喜望峰をまわる
十 気球操縦法についての博士の講義
十一 「ヴィクトリア号」出発
十二 デュトゥミ山を越える
十三 ケネディの発熱と博士の医術
十四 青いカモシカ
十五 カゼフ
十六 火の空
十七 象に引かれて
十八 ナイル川の源流
十九 ニャムニャム族
二十 原地人たちの戦闘
二十一 「たすけて! たすけてくれ!」
二十二 伝道者
二十三 金鉱
二十四 砂漠に近づく
二十五 砂漠のなかの井戸
二十六 バーナーが消える
二十七 オアシス
二十八 ジョーの料理
二十九 アトランティカ山脈
三十 ケルナック
三十一 チャド湖のカバ
三十二 ヒゲワシの攻撃
三十三 新しいヴィクトリア号
三十四 竜巻
三十五 ジョー
三十六 彼だ!
三十七 西方への道
三十八 ニジェール川
三十九 トンブクトゥ
四十 バッタの雲
四十一 投下につぐ投下
四十二 火事
四十三 タリバ族の追跡
四十四 大団円
[解説]ジュール・ヴェルヌ
訳者あとがき
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一 「旅行社クラブ」の宴会
一八六二年一月一四日、ワーテルロー広場三番地のロンドン王立地理協会の集会には、たくさんの聴衆が集まっていた。会長フランシス・M……卿の演説は、拍手でしばしば中断されたが、そのなかにあって彼は、名誉ある同僚に向かって、ある重要なことを伝えたのだった。
雄弁そのものともいえる、たぐい稀なるこの演説は、祖国愛に満ちあふれた重要なものであって、それは大げさな言葉で終わった。
「すでにご承知のとおり、各国家はそれぞれ、あまねくお互いに先頭に立って進んでいますが、わがイギリスも、その大胆な旅行者による地理学上の行程の発見という点では、つねに他の国家の先頭に立っております(数多くの賛同)。わが輝かしい男児の一人であるサミュエル・ファーガソン博士も、祖国の名誉をけがすものではありますまい(四方から、そのとおり、そのとおりの叫び声)。この試みにして、もし成功するならば(成功するに、決まってらあ!)、アフリカ大陸の地図上に散らばっている各国家の姿を完全なものにし、それらを結びつけることができるでしょう(はげしい拍手)。もしも失敗するとしても(けっしてありえない!)、少なくともこの試みは、人間の英知のもっとも大胆な構想の一つとして、後世に残ることでしょう!(熱狂した聴衆の床を踏みならす足音)。
「万歳! 万歳!」このような人を感動させる言葉におおいに共鳴した人びとは、口ぐちに叫んだ。
「勇敢なるファーガソン万歳!」聴衆のなかでも、もっとも感動をあらわさずにはいられない一人の男が、大声で言った。
熱狂する叫び声が、ひびきわたった。ファーガソンという名前が、みんなの口をついて出た。この名はイギリス人の喉を通ると奇妙に効果があると、人びとは信じるまでにいたったのである。そのために会場が、揺れ動いたほどだった。
だが会場には、年とった顔、疲れた顔、たくさんの顔がならんでいて、それらの勇敢な旅行者たちは、その前進する精神によって、世界の五つの大陸をのしまわったのだった! そのすべてが肉体的にも精神的にも、多かれ少なかれ、難破船や、火災や、インディアンのまさかりや、野蛮人の棍棒や、処刑台や、ポリネシア原地人の胃袋から遁れてきた人たちなのだ! しかしフランシス・M……卿の演説中に、心臓の鼓動をおさえないものは一人もいなかった。それは、人の記臆の存するかぎり、たしかにロンドン王立地理協会の行なった演説のなかで、もっとも成功したものだった。
だがイギリスでは、熱狂ぶりは、言葉だけで終わることはない。熱狂でわきたつと、ロンドン造幣局の印刷機械よりもっと早く貨幣をつくりだすのである。即刻その場で、ファーガソンのために義捐《ぎえん》金が集められ、それは二五〇〇リーヴル〔六万二五〇〇フラン〕にも達したのである。
会員の一人が、ファーガソン博士を正式に紹介してはもらえないものかと、会長にたずねた。
「博士は、この会議の意向を尊重するでしょう」と、フランシス・M……卿が答えた。
「呼んでくれ! 呼んでくれ!」と、みんなは叫んだ。そのような大胆きわまることを企てた男を自分自身の眼で確かめたかったのである!
「まったく、信じられない計画だ!」一人の怒りっぽい最古参の船長が言った。「われわれをかつごうとしているんじゃないかね!」
「もしファーガソン博士という男がいなかったら!」と、意地わるそうな声が聞こえた。
「そういう男をつくりだせばいい」こうしたまじめな協会にも、愉快な会員はいるものである。
「ファーガソン博士を入場させなさい」フランシス・M……卿が、簡単にそう言った。
そして博士が、割れるような拍手のなかを、感動した様子を少しもみせずに入ってきた。
それは四〇歳ほどの、中肉中背の男だった。多血質であることは、あからんだその顔色を見ても、それとわかった。ととのった冷静な顔つきだが、鼻だけはりっぱで、発見をしようとする男にふさわしく、船のへさきのようにそり返っていた。眼はたいへんやさしくて、大胆さよりも知性にあふれ、それが顔に大きな魅力を与えていた。腕は長く、地面を踏みしめている両足は、彼がたいへん健脚家であることを示していた。
からだ全体からどっしり落ち着いた博士の人柄が感じられ、この男が人をだますような計画をたてる男だとは考えられなかった。
こうした叫び声と拍手とはひきもきらず、博士がほほえみながら身ぶりよろしくそれを制止するまで、やまなかった。博士は、紹介するためにととのえられた椅子のほうに進んだ。そこから直立不動の姿勢のまま、力強い視線で見やりながら、右手の人さし指を空高くあげて口を開くと、
「より高く!」
と、たったひとこと言っただけだった。
いやはや! ブライト、コブデン両氏の予期せぬ爆弾質問も、イギリスの山くずれを防ぐために莫大な資金を要求したパーマストン卿の演説も、これほどの成功をおさめなかった。フランシス・M……卿の演説も色あせ、それにまさった。博士は崇高であり、偉大であり、しかも控え目であり、つつしみぶかかった。そして、その場にふさわしい言葉を言ったのだった。
「より高く!」
老いたるイギリスの最古参の船長は、この奇妙な男にすっかり賛同して、ロンドン王立地理協会の年報に、ファーガソンの演説の『全文』を掲載するようにと要求した。
では、この博士は何者なのだろうか、どのような計画を実行しようというのか。
ファーガソンの父親はイギリス海運界の勇敢な船長で、息子を幼いときから、職業にともなう冒険と危険のなかへ慣れさせていたのだった。この尊敬にあたいする少年は、まったく恐れというものを知らないかのように、たちまち烈しい気性と知的探究心とをもって、科学の仕事に対して旺盛な興味を示しはじめた。それに彼は、仕事をやり抜くのに、なみなみならぬ器用さをみせた。どんなことにも驚くようなことは、けっしてなかった。たとえばたいていの子供が使えないようなフォークでさえも、彼は最初からうまく使ってみせるのだった。
やがて彼の想像力は、大胆な冒険談や海の探検物語を読んで、かきたてられた。そして一九世紀の前半をいろどった発見の記録類を熱心に耽読した。彼はマンゴ=パーク〔イギリスの旅行家(一七七一〜一八〇五?)アフリカ探検に尽くして客死す〕や、ブルース〔ジェームズ・ブルース(一七八六〜七二)スコットランドの旅行家で、アビシニアを探検し、ナイル川の源流を発見した〕や、カイエ〔フランスの探検家(一七九九〜一八三八)一八一六年にセネガルに上陸し、トンブクトゥを最初に尋ねたフランス人〕や、ルヴァイヤン〔フランスの旅行家で植物学者(一七五三〜一八二四)アフリカ南部から北部への横断に成功、アフリカに関する著書多数〕の栄光を夢見た。そして思うに、『ロビンソン・クルーソー』のセルカーク〔アレクサンダー・セルカーク(一六七六〜一七二一)、スコットランドの海員でデフォーの『ロビンソン・クルーソー』のモデル。船長と争ってチリ西方の無人島に放置されたが後に救出された〕の栄光にしても少年にはなみなみならぬものとして映じたにちがいない。少年は何時間もあきずにホアン・フェルナンデス島に彼とともに過ごしたのだった! 彼はしばしば、この見捨てられた水夫の考えに感嘆した。ときには彼の考えや遣り方に異議をとなえたりした。もし自分だったら、違った方法でたぶんずっとうまく、少なくとも確実に、同じぐらいにやってのけただろう。とにかく、たしかに言えることは、彼ならこの仕合わせな島からけっして逃げださないだろう、そこではたとえ家臣はいなくとも、王さまのように幸福だったのだ……海軍関係の第一貴族にしてやると言われたとしても、けっして島から離れなかったであろう!
このような彼の傾向が、世界の隅ずみをまわるという冒険にみちたその青年時代を通じていよいよ強まっていったことは、容易に想像できるであろう。彼の父親は教養があったので、息子の活発な知性をのばそうとして航海側量学、物理学、工学を、真剣になって教えてやったのである。その上、植物学、医学、天文学も、ひととおり教えたのだった。
このすぐれた船長が亡くなったとき、サミュエル・ファーガソンは二二歳だったが、すでに世界一周の経験をつんでいたのだった。彼はインドのベンガル測量部隊に参加して、各方面に頭角をあらわしていたが、兵隊生活はどうしても性にあわなかった。指揮する気にもなれず、従うこともいやだった。そこで彼は辞職して、狩をしたり植物の採集をしたりしながら、インド半島を北に向かって、カルカッタからシュラトまで縦断したのだった。アマチュアの道楽旅行といったところだろう。
わたしたちは、彼がシュラトからオーストラリアに渡ったのを知っている。一八四五年には、彼はスチュアートを隊長とする探検隊に加わった。この探検隊は、ニュー・オランダのまんなかにあると考えられていたカスピ海の発見や調査を目的としていた。
サミュエル・ファーガソンは、一八五〇年ごろにイギリスにもどった。そして、以前にもまして発見の魔力にとりつかれた彼は、一八五三年まで、ベーリング海峡からフェアウェル海峡に至るアメリカ大陸を踏査するマック・クラール隊長の探検隊に参加したのだった。
いかなる風土のもとにあっても、あらゆる疲労困ぱいに対しても、ファーガソンのからだは、ふしぎなくらいがんばりとおした。いかなる耐乏生活にあっても、彼は彼なりに生活していた。胃袋は意のままに大きくなったり小さくなったりするし、そのときどきのベッドに応じて、足がのびたりちぢんだりする、昼間いつでも眠れるし、夜なん時でも起きられる、まったく探検家に適した資格をもっていた。
それゆえ、われらの疲れを知らぬこの旅行者が、一八五五年から一八五七年にかけて、シュラギントヴァイト兄弟とともにチベットの西部全地域を訪れ、この探検旅行からその地方の民俗学に関する興味ある報告をもたらしたとしても、あやしむに足らないのである。
これらのさまざまな旅行中、サミュエル・ファーガソンは、発行部数毎日一四万部、定価一ペニーの新聞『デイリー・テレグラフ』の、もっとも活動的な、もっとも興味を呼びおこす通信員だった。この新聞は読者が数百万におよび、この発行部数では、とうてい足らなかった。それゆえ博士の名前は、彼がいかなる学会にも属さず、ロンドン王立地理協会の会員でもなく、パリ、ベルリン、ウィーン、サンクトペテルブルグの地理協会の会員でもなく、旅行クラブの会員でもなく、また彼の友人の統計学者コックバーンが主宰している王立科学協会の会員でないのにもかかわらず、この新聞記事のためにひろく知れわたっていた。
このコックバーンがあるとき、彼を喜ばせてやろうと、このような問題をといてみろと言ったことがあった。博士によって世界中をかけめぐったキロ数がわかっているなら、当然足と頭のかけまわる行動半径は違うわけで、博士の頭のそれは、足よりも何キロ多く走ったか? または、博士の足と頭のかけまわったキロ数がわかったならば、紐を使わずに胴まわりを正確に計算できるであろうか?
しかしファーガソンは、あいかわらず学者の団体から遠ざかっていて、おしゃべりの仲間よりも戦闘的な同志を好み、彼自身の時間を、議論するよりも探求するために、演説するよりは発見するために使ったほうがいいと思っていた。
こんな話があるが、ある日のこと、一人のイギリス人がレマン湖を見物するためにジュネーブに来た。その男は、乗合馬車のように両側に向かい合って坐る古い遊覧馬車に乗った。ところでそのイギリス人は、たまたま湖に背中を向けて坐るようになったのである。馬車はのんびり湖水を一周したが、彼はただの一度も振り向いて見ようとはしなかったのである。しかも彼は、ジュネーブの湖がすっかり気にいって、ロンドンに帰ったということである。
ファーガソン博士ときたら、振り向いてばかりいた。彼は旅行中なんども振りかえって、それだけたくさんのものを見てきたのである。その点に関して言えば、まず彼は自分の意にしたがって行動したわけで、いささか彼は宿命論者であると信ずべき理由がある。だが正統派の宿命論に立っているわけで、自分自身だけを頼りにして、そのうえで神の摂理に従うのだった。彼は旅行に魅せられるのではなくて、むしろ押しやられるのだと思っていた。そしてまるで機関車のように世界をかけまわるのだが、それも線路の上を進むのではなく、道をもとめて進むのである。
「わたしは、わたしの道を行くのではない。わたしの行くあとにできるのが、わたしの道なのだ」しばしば彼は、このように言った。
こういうわけだから、王立地理協会で彼が拍手をもって迎えられたときの冷静さも、あえて驚くにあたらないだろう。彼は自尊心も、ましてや虚栄心もなく、そういった人間の弱さに超越していたのだった。それゆえ彼が会長のフランシス・M……卿に申し出た提案も、たいしたことだとは思っていなかったし、ましてやそれがひきおこした反響などは、予想してすらいなかったのである。
会議が終わって、彼はペル・メル街の『旅行クラブ』に案内された。彼のために盛大な祝宴が、そこで開かれたのである。宴会場の広さは、この重大な人物にふさわしく大きなものであって、すばらしい料理のまんなかにおかれたチョウザメは、サミュエル・ファーガソン彼自身よりも一〇センチほど短いだけだった。
アフリカ大陸で名をなした有名な探検家のために、フランス産のぶどう酒で、何度も乾杯した。人びとは彼らの健康のために、あるいは彼らの思い出のために、まさにイギリス式にアルファベット順に名前を呼んで、飲みほした。アバディ、アダムズ、アンダーソン、アンデルセン、アルノー、ベギー、ボルドウイン、バルト、バトゥーダ、ベッケ、ベルトラム、デュ・ベルバ、ビンバチ、ボロネジ、ボルイック、ボルゾニ、ボヌマン、ブリソン、ブラウン、ブルース、ブラン=ロレ、バーチェル、ブルックハルト、バートン、カヨー、カイエ、カンベル、チャップマン、クラパートン、クロット・ベイ、コロミュー、クールヴァル、カミング、キュニー、デボノ、デッケン、デンハム、デザヴァンシュ、ディクセン、ディクソン、ドシャール、デュシェリュ、ダンカン、デュラン、デュルーレ、デュヴェイリエ、エルハルト、デスケイラック・ド・ローテュール、フェレ、フレネル、ガリニエ、ガルトン、ジョフロワ、ゴルベリー、ハーン、ハルム、アルニエ、ヘッカート、ホイグリン、ホルネマン、フーフトン、アンベール、カウフマン、クノブレッヒャー、クラブフ、クンメル、ラファルグ、ライング、ラジャーユ、ランベール、ラミエル、ランプリエール、ション・ランダー、リチャード・ランダー、ルフェーブル、ルジャン、ルヴァイヤン、リヴィングストン、マッカーシー、マジャール、メザン、マルザック、モファ、モリアン、モンティロ、モリソン、マンゴ=パーク、ネイマンズ、オーフェルヴェーク、パネ、パルタリオ、パスカル、ピアーズ、ペディ、ペネイ、ペセリック、ポンセ、プラックス、ラフネル、ラーツ、レブマン、リチャードソン、リレイ、リッチー、ロシェ・デリクール、ロンガウィ、ロッシャー、ルペル、ソーニエ、スピーク、シュタイドナー、ティボー、トンプソン、ソーントン、トゥール、トゥーニー、トロッター、タッキー、ティルウィット、ヴォーディ、ヴェイシェール、ヴァンサン、ヴィンコ、フォーゲル、ヴァールベルク、ワリントン、ワシントン、ヴェルネ、ワイルド、そこで最後は信じられぬほどの大胆な計画によって、これらの探検家たちの成しとげた成果を結びつけ、アフリカから多くの発見を持ちかえるにちがいないサミュエル・ファーガソン博士のために、すべての盃がほされたのだった。
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二 提案と賭け
翌一月一五日の『デイリー・テレグラフ』紙には、つぎのような記事がのった。
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アフリカはついに、その広大な無人の地域をあきらかにしようとしている。六〇世紀ものあいだ、多くの学者が解することのできなかった謎を、現代の一人のエディプスがいよいよ解いてくれるだろう。かつてはナイル河の源流をさぐることは暴挙とされ、夢物語だと考えられていたのだった。
バルト博士はデンハムとクラパートンの歩いた道をたどって、スーダンに至った。リヴィングストン博士は大胆な調査旅行をくりかえして、ケープ=タウン岬からザンベジの盆地にまで達した。バートン、スピークの両大尉は、内陸の大湖水地方を発見した。こうして彼らは現代文明のために三つの道を開いてくれたが、それらの道の交差するところ、またいかなる探検家も到達しない地点こそアフリカの心臓部であり、すべての努力がその地点をめざしていたのにちがいなかった。
ところで、これらの勇敢な先駆者の成果が、そのはなばなしい探検家によって、読者もごぞんじのサミュエル・ファーガソン博士の、さらに大胆きわまる試みのもとに、いまや一つの大きな成果にまとまろうとしているのである。
この勇敢な探検家は、気球に乗ってアフリカを、東から西へ横断する計画をたてたのである。われわれの得た情報によれば、この驚くべき旅行の出発点は、東海岸のザンジバル島になるだろう。到着点については、神のみぞ知るところである。
この学術探検の計画は、きのう王立地理協会で公表されたのだった。この計画の費用の一部として、すでに二五〇〇リーヴルの義捐金が集められていた。
地理学上の記録において前代未聞とされている本計画の成果を、本紙はつぎつぎと読者にお知らせするだろう。
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誰でも考えるであろうが、この記事の反響は大きかった。まず湧きあがったのは、嵐のような疑いの声だった。ファーガソン博士を、たんなる夢を追う人とする者もあった。その人は長年合衆国における調査旅行を終わって、こんどはイギリス諸島を調査しようと準備しているバーナム氏である。
ジュネーブで発行されている地理学協会会報の二月号の記事も、みんなをたいへんおもしろがらせた。そのなかでは、ロンドン王立協会、旅行クラブ、巨大なチョウザメが、じつにたくみに皮肉られていた。
しかしゴタで発行されている『地質学報』でピーターマン氏は反駁を加え、このジュネーブの学術誌を完全にやっつけて、沈黙させてしまった。ピーターマン氏は、個人的にファーガソン博士を知っていて、勇敢な友人の大胆な計画の保証人になったのだった。
まもなくして、疑惑の念をいだく者はいなくなった。ロンドンでは探検の準備が着々と進んでいたし、リヨンの繊維問屋は、気球をつくるのに使うタフタの注文を受けていたのだった。最後にイギリス政府も、ベネット艦長のリゾリュート号を博士に提供してくれることになっていた。
ただちにたくさんの激励の声が起こり、お祝いの言葉が殺到した。パリ地理協会会報は、計画の詳細を報道した。U・A・マルト・ブラン氏は、『旅行・地史・考古学新年報』に、注目すべき記事を書いた。W・コーネル博士は『地質学報』で、旅行の可能性や成功のチャンス、それから障害の種類をこまかく分析し、空中旅行の有利なことを自信をもって説明してみせた。ただ、その出発地点だけは、彼の気に入らなかった。彼はむしろ、一七六八年にジェイムズ・ブルースがナイル川の源流の調査に出発したアビシニアの小さな港、マズアのほうがいいと指摘した。そしてなによりもまず彼は、ファーガソン博士の精神力、このような旅行を計画し、実行しようという固い意志を賞賛していた。
『ノース・アメリカン・レヴュー』は、このようにイギリスに帰せられようとしている栄光を、こころよくは思わなかった。この雑誌は博士の計画をからかって、もし旅行がうまく成功したら、アメリカまで来るようにとすすめていた。
つまり、世界中の新聞とまで言えないが、『福音伝道新聞』から『アルジェリア植民新聞』にいたるまで、『信仰普及年報』から『教会伝道知性新聞』にいたるまで、この計画を詳細に伝える科学記事を載せない新聞はなかったのである。
ロンドンだけではなくイギリスじゅうで、さかんに賭が行なわれた、それは、(一)ファーガソン博士は実在の人物か架空の人物か、(二)旅行それ自体が、はたして試みられるだろうか、それとも実行にうつされないだろうか、(三)それが成功するか否かを知ること、(四)ファーガソン博士が生還するか否かの賛否についてであった。ダービーの競馬におとらぬ多額の金額が賭の帳簿に記入された。
こうして、信ずる者も信じない者も、無知な者も学のある者も、すべての人の目が博士にそそがれた。彼はまさに、たてがみこそ持ってはいなかったが|時の人《ライオン》となったのである。彼はすすんで、探検についての情報を提供した。彼はこの世でもっとも気さくな男として、誰にも愛想よく接した。何人かの大胆な冒険家が、この試みの栄光と危険とを共にしようと名乗りでてきたが、彼はとくに理由は言わずに、この種の申し出をことわった。
気球を操縦する装置を発明した数人の男がやってきて、それぞれの採用を申し出た。彼はそのどれをも受けつけなかった。また気球の操縦に関して何か考案したのかと彼に問いただす連中には、いつも説明するのを避け、前にもまして熱心に旅行の準備に没頭するのだった。
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三 友人ディック
ファーガソン博士には、一人の親友があった。もう一人の彼自身ではないにしても、ラテン語の『|別の自己《アルテル・エゴ》』であった。友情は、まったく同一の二人の人間のあいだには存在しえないからである。
しかし彼らは、ともにすぐれた才能、天分、素質にめぐまれていた。ディック・ケネディとサミュエル・ファーガソンとは、一つの同じ心臓で生きているかのようだった。それは二人にとって、こまったことどころか、むしろつごうがよかった。
このディック・ケネディなる人物は、スコットランド人というものについての一般の観念がよくあてはまるように、開放的で決断力があり、頑固一徹だった。彼は『|すすけた老婆《オールド・リーキー》』〔エジンバラのあだ名〕と呼ばれているエジンバラの郊外にあるリースという小さな町に住んでいた。ときには釣りもしたが、ほんとうは時と場所を選ばぬ勇敢な狩猟家だった。カレドニア〔スコットランドの古代のこと〕生まれであるからには、ハイランドの山々を走りまわるのは驚くにあたらない。彼はカービン銃の名手として、とおっていた。彼はナイフの刃めがけて弾丸を撃ちこみ、それを等分にまっぷたつに撃ち割るばかりでなく、そのあと目方を計ってみると、ほとんど違いがみられないというほどだった。
ケネディの顔つきは、ウォルター・スコットがその小説『修道院』の中で描いてみせたハルバート・グレンダイニングのそれを思い出させた。身長は一メートル八〇センチをこえ、柔和で取っつきやすい様子だが、ヘラクレスのような怪力があるように見えた。陽焼けした顔や、いきいきしたそのひとみには、生まれつきの豪放さがうかがわれ、全体から受ける感じはいかにもスコットランド人らしく、ごついが人がよさそうだった。
この二人の友が知り合ったのはインドで、二人とも同じ連隊にいたのだった。ディックが虎狩りや象狩りをしていたとき、サミュエルは植物や昆虫の採集をしていた。二人ともそれぞれの分野で収穫をあげていたが、博士にとってディックを知ったことはめずらしい植物を見つけた以上のものがあったし、ディックにしても博士を知ったことは、一対の象牙を入手したのと同じ喜びだった。
この二人の青年は、命を助け合ったこともなければ、お互いのためにつくしたこともなかった。それで、友情はすこしも変わらずに続いていた。運命が二人をときどき遠ざけたが、共鳴するものがあって、いつしか彼らを結びつけていた。
彼らはイギリスへもどってからも、博士の遠征によって、二人はしばしば離れていた。だが博士はもどってくると、必ず自分のほうから出かけていって、数週間、このスコットランドの友人のもとで過ごすのが習わしだった。
ディックは昔話を語ったが、サミュエルは未来を夢見ていた。一人は前を見、一人は後ろを見ていた。そこでファーガソンの心はいつも不安定だったし、ケネディの心はまったく平静だった。
チベットの旅行のあと、博士は二年間ほど新しい探検について何も語らなかった。ディックは、友の旅への本能、冒険への情熱がおさまったとばかり思っていた。彼はそのことを喜んでいた。そのようなことをしていれば、そのうちいつかきっと悪いことがあると、ディックは考えたからだった。いかに人間というものを知っているからといっても、人食い人種や野獣のなかに何事もなくして入っていくことはできないだろう。そこでケネディはサミュエルに、もう十分に学問のためにつくして、みんなからおおいに感謝されているのだから無理をしないようにとすすめていたのである。
そう言われても、博士はべつに答えようとはしなかった。彼は、なにか考えているようだった。そして、ひそかに計算に熱中していた。毎晩数字にとりくみ、誰にもわからない奇妙な機具の実験をしていた。なにか大きな考えが、彼の頭のなかで醗酵《はっこう》しているらしかった。
「なにをあんなに熟考してたのだろう?」この一月に、友人がロンドンに帰るために別れを告げたときも、ケネディにはさっぱりわからなかった。
そしてある朝、『デイリー・テレグラフ』の記事で、彼はようやくそのことを知ったのだった。
「なんということを!」と彼は叫んだ。「気ちがいだ! ばかだ! 気球でアフリカを横断するなんて! あげくの果てにこんなことか! 二年間も考えつづけて!」
これらのすべての感嘆符のかわりに、彼が自らの頭をなぐった拳骨をおいてみると、親切なディックがこう叫びながらどういう振るまいにおよんだか察しがつくであろう。
彼の信頼する老妻エルスペースが、博士は人を煙にまくつもりであんなことを書いたのだと言うと、彼はこう答えた。
「なんだって! わたしがあの男を知らんと言うのか? あいつが本音をはかないって! 大空を飛んで旅行するんだ! あいつはいま、鷲をうらやましがってるだろうよ! でも、いかん、そんなことをさせちゃだめだ! わたしは、やめさせてみせるぞ! まったく! あいつの好きなようにさせておくと、そのうち月に向かって飛んでいっちまうぞ!」
その夜のうちにケネディは、怒ってみたり心配になったりしながら汽車に乗ると、その翌日ロンドンに着いた。
そして四五分間馬車に揺られて、ギリシア通りソホー・スクェアにある博士の小さな家に運ばれた。彼は石段をかけあがると、ドアを五つ、強く叩いた。
ファーガソン自らドアをあけた。
「ディックか?」それほど驚いたふうもなく、彼は言った。
「ディックさま自らお出ましだ」と、ケネディは言い返した。
「どうしたんだ、ディック、きみがロンドンに来るなんて、いまは冬の狩猟シーズンなのに」
「だが、わたしはロンドンに来たよ」
「なにしに来たんだ?」
「とんでもない気ちがいざたをやめさせるためにさ」
「気ちがいざただって」と、博士は言った。
「この新聞に書いてあることは、ほんとうかね」ケネディは、『デイリー・テレグラフ』をつきだした。
「ああ! きみのしゃべってるのは、そのことなのか! 新聞は口が軽くていかんな! まあ、坐れよ、ディック」
「おれは、坐らんぞ。おまえは、ほんとうにこの旅行をやる気なのか」
「ほんとうだとも。準備も進んでいる。わたしは……」
「準備したものはどこだ。わたしがこなごなにしてやるぞ! そんなものなんか、めちゃめちゃにしてやる!」
この尊敬すべきスコットランド人は、本気になって怒りはじめた。
「まあ、落ち着け、ディック」と、博士はつづけた。「きみの怒るのは、もっともだ。わたしの新しい計画をきみに教えなかったんで、わたしを恨んでるんだろう」
「新聞は新計画と言っている!」
「わたしは、とても忙しかったんだ」サミニエルは、相手がさえぎろうとするのをかまわずにつづけた。「わたしは、することがたくさんあった! だが、そう怒るな、きみに手紙を書かずに出発するなんてことは、しやしないからな……」
「へえ! どうかな……」
「だって、わたしはきみを連れていくつもりなんだ」
スコットランド人は、カモシカも感心したであろうほどの跳躍をしてみせた。
「なんだって! 二人ともベツレヘム〔ロンドンにある病院〕へ入れられてもかまわんというのかい」
「ほんとうに、ディック、きみのことしか頭になかった、ほかの誰よりも、きみを選んだのだ」
ケネディは、びっくり仰天して立ちすくんでいた。
「一〇分間わたしの言うことを聞いてくれたら、きみもきっと感謝してくれるだろうよ」と、博士はおだやかに答えた。
「本気で言ってるのかい」
「本気だとも」
「一緒に行くのがいやだと言ったら?」
「いやだなんて言いっこないさ」
「でも、どうしてもいやだと言ったら?」
「一人で行くまでさ」
「坐ろう」猟師が言った。「興奮しないで話そう。冗談じゃないらしいから、議論する必要がありそうだ」
「ディック、さしつかえなければ、食事でもしながら議論しょうよ」
二人の友だちは、山盛りのサンドイッチと大きな紅茶わかしのついている小さなテーブルに向かい合って坐った。
「サミュエル」猟師が言った。「おまえの計画は無茶だ! あんなことは不可能だ! まじめな考えじゃない、できっこないことだ!」
「やってみなけりゃ、わからんよ」
「たしかに、やってはいけないことなんだ、やろうというだけならいいが」
「どうしてさ」
「危険が多すぎる。それに、どんな障害にあうかわからんものね」
「障害は」と、まじめになってファーガソンは答えた。
「のりこえるためにあるのだ。危険から逃げだして得意になる奴なんかいるだろうか。人生なんて、危険だらけじゃないかね。テーブルを前にして坐ることだって、帽子をかぶることだって危険であるかもしれない。それに、これから起こることを、もうすんだこととして考えるほうがいいのじゃないのかな。未来のなかに、現在しか見ないことだ。なぜならば未来なんて、ちょっと遠い現在にしかすぎないからね」
「へえー」と、ケネディは肩をすくめた。「おまえはあいかわらず、宿命論者だね」
「あいかわらずか! だが、いい意味でだよ。どんな運命が待ち受けているかなんて、気にすることはやめにしておこうよ。そして『絞首刑に処せられるために生まれた男は、溺れない!』っていうイギリスのよい格言をけっして忘れないでいよう」
ケネディにとっては、どう答えていいかわからなかった。でも、思いついたこまごましたことを質問するのはやめなかった。しかし、それらをいちいちしるすとなると、長くなりすぎるだろう。
「では、最後に」と、一時間におよぶ議論の末、彼は言った。「きみがどうしてもアフリカを横断したいというのなら、そしてそのことがきみの幸福に必要なのなら、どうしてふつうの遣り方でしないんだね」
「どうしてだって?」博士は元気よく答えた。「いままでのすべての試みが失敗したからさ。ニジェール川で殺されたマンゴ・パークから、ワダイ川で行方不明になったフォーゲルにいたるまで、ミュルミュルで死んだオウドネイ、サカトウで死んだクラパートンから、八つざきにされたフランス人のメザンにいたるまで、さらにツアレグ族に殺されたライング少佐から一八六〇年代のはじめに虐殺されたたハンブルクのロッシャーにいたるまで、じつに多くの人びとがアフリカの犠牲者の名簿に記入された! なぜならば、自然との闘争、飢え、渇き、熱病との闘い、野獣や、それよりも恐ろしい原地人と闘うなんてことは、不可能だからだ。つまり、ある遣り方でできないならば、別の遣り方でやってみることだ! 最後に、中央を突破できないなら、横からとか上を突破すべきだろう」
「ある場所だけならいいが、でも、ずっと飛びつづけるなんて!」と、ケネディは言い返した。
「そうかね」と、博士は落ち着きはらって答えた。「恐れることなんてあるだろうかね? 気球が墜落しないように、どんなにわたしが注意をはらっているか、そのうちわかるだろうよ。万一落ちたとしたって、地面に降り立ったときはふつうの探検家と同じ条件になるわけだろう。だが、わたしの気球はだいじょうぶだよ、そんなことは考えなくていいさ」
「そうじゃない、そういうことこそ考えておかなくちゃいけないんだ」
「いや、必要ないよ、ディック。わたしはアフリカの西海岸に着くまで、気球と別れるつもりはないからな。気球と一緒なら、なんでもできるんだ。気球がなかったら、こういう探検につきものの危険や障害のまっただなかに突きおとされる。気球に乗っていれば、暑さも、急流も、嵐も、熱風も、健康に悪い風土も、野獣も、原地人も、恐れるものはありゃしないさ。暑くなれば上昇すればいいし、寒くなったら下降する。山があったら飛びこえるし、絶壁はひとまたぎだ。川はこえるし、嵐にあったらその上に出る。鳥のように急流をかすめて飛べる、つかれることがないから休まずに行けるが、休みたくなったらどこででもとまれる。わたしは、新しい町の上を飛ぶんだ。ハリケーンのように迅速に、あるときは空高く、あるときは地上三〇メートルぐらいのところをだ。大きな世界地図を見るように、アフリカの地図が目の下に広がっているんだ!」
人のいいケネディは、だんだんと心が動かされてきた。そして目の前に呼びさまされた光景に、目まいを感じていた。彼は感嘆し、同時に不安にかられて、サミュエルをじっと見つめていた。彼はすでに、空中に浮かんでいるように感じていた。
「よろしい」と、彼は言った。「どうやらわかってきたよ、サミュエル。ところで、気球を操縦する方法は見つかったのかい?」
「いや、ぜんぜん。まあ、夢物語さ」
「それなのに、きみは行こうとする……」
「神さまの御心のままに行くさ、東から西に行くんだ」
「それは、どういうわけなんだね」
「貿易風に乗るのをあてにしてるんだ。貿易風の風向きは、変わらんからね」
「うん、なるほどな!」と、ケネディは熟考して言った。「貿易風か……よかろう……でも、悪くすると……なにか起こるな……」
「なにかが起こるって! いや、きみ、いろんなことが起こるさ。でもイギリス政府は、輸送船を提供してくれるんだ。わたしが西海岸に着くころに、三、四隻船をまわしてもらうことになっている。せいぜい三か月のうちにはザンジバルに行って、わたしは気球をふくらますとしよう。そこから、われわれは出発するんだ……」
「われわれだって!」と、ディックが言った。
「まだ、なにか言いたいことがあるのかね? あったら言えよ、ケネディ」
「あるとも! 言いたいことは山ほどある。中でも一つ、答えてくれ。きみはアフリカを空から見ようとしている。思いのままに降りたり昇ったりしようとするんだろう。そういうとき、ガスを抜かなくてもできるのかね。いままでは、ガスを抜くより手はなかった。それで、空中を長く飛ぶことができなかったんだ」
「ディック、一つだけ言っておこう。ガスを抜かなくてもいいんだ、ぜんぜんその必要はない」
「それで、降りられるのかい」
「降りられる」
「どうやって?」
「それは秘密だ。まあ、ディック、わたしを信用しろよ。『より高く!』がわたしの標語だが、きみもそれを使えよ」
「『より高く!』行くとしよう」ラテン語をまったく知らない狩猟家は答えた。
だが彼は、どんなことをしても友人が出発するのに反対しようと決心していた。それゆえ彼は、いちおう友人に賛成するふりをして、様子を見ることにしたのである。サミュエルは、準備のでき具合を見るために出ていった。
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四 アフリカの探検家たち
ファーガソン博士が飛ぼうとしているコースは、偶然に選ばれたものではなかった。出発点は真剣に研究されたのであって、彼がザンジバル島から飛びたとうと決めたのは、それだけの理由があったのである。アフリカの東海岸近くに位置するこの島は、南緯六度、つまり赤道から四三〇マイル〔約六八八キロメートル、以下本文のマイルはキロメートルに改める〕南にある。
ナイル川の源流を発見しようとして、大湖水地方を経て派遣された最後の探検隊も、この島から出発したのである。
だが、ファーガソン博士がこの地の探検のなかで自分のそれを結びつけようと願っている探検を指摘するのは、望ましいことである。それは二つの大きな探検であって、一八四九年のバルト博士のそれと、一八五八年のバートンとスピーク両中尉のそれであった。
バルト博士はハンブルクの人で、同郷のオーフェルヴェークとともに、イギリス人リチャードソンの探検隊に参加する許可を得たのだっだ。リチャードソンは、スーダンにおける伝道の使命をおびていたのである。
この広大な国は、北緯一五度と一〇度のあいだにあり、そこに達するには、つまりアフリカの内陸を二四〇キロメートル以上進まなければならないのである。
そのころまでこの地方は、一八二二年から一八二四年にかけて行なわれたデンハム、クラパートン、オードネイの旅行によってしか知られていなかった。調査をもっと遠くまでのばそうと欲したリチャードソン、バルト、オーフェルヴェークの三人は、先駆者同様にチュニスに到着し、ついでフェザンの首都ムルズクに至ったのである。
それからは垂直にさがるのをやめて、かぎの手にまがり、ガートめざして西へと進む。ツアレグ族が道案内するのだが、さまざまの困難がつきまとわざるをえない。何回も掠奪に会い、こまった場合をのりこえ、または武器を手にした原地人におそわれたりしながら、彼らの一行は一〇月にアスペンの大きなオアシスに着いた。バルト博士は仲間と別れてアグハデスの町まで足をのばし、ふたたび探検隊と合流したのち、一二月一二日に行動を再開するのである。一行はダメルグーに到着し、そこで三人の旅行者は別れる。バルトはカノへの道をとり、たくさんの贈り物をくばりながら、やっとのことで目的地に着いたのである。
はげしい熱病に悩まされながらも、彼は三月七日に、召使を一人だけ連れて、この町を出発する。旅行の主たる目的は、チャド湖である。そこまでは五六〇キロメートルほどへだたっている。彼は東へと進み、ボルヌーのズリコロの町に到着する。この町は中央アフリカの大きな王国のまんなかにあり、そこで彼は、疲れと飢えのために倒れたリチャードソンの死を知る。バルトは湖水のほとりの、ボルヌー国の首都のクカに至る。それから三週間後の四月一四日に、トリポリを発ってから一二か月半ぶりで、彼はウンゴルヌーの町に着いたのである。
彼は一九五一年三月二九日に、またもやオーフェルヴェークとともに、湖水の南にあるアダマウア王国めざして出発する。そのとき彼は、北緯九度からやや南にあるヨラの町まで行く。これが、この勇敢な探検家の行きつくことのできたいちばん南の地点である。
八月に彼は、クカにもどる。そこからマンダラ、バルギミ、カネムとつぎつぎとまわり、東経一七度二〇分〔グリニッチ天文台を通るイギリスの子午線を意味する〕のところにあるマセナの町に着く。ここが、いちばん東の地点である。
彼の最後の仲間であるオーフェルヴェークもやがて死んでしまうが、一八五二年一一月二五日に、バルトはこんどは西へと進路を向ける。一八五二年にソコトを訪れ、ニジェール川をよこぎり、やっとトンブクトゥに着く。その地で彼は族長たちに悩まされ、悪い待遇とみじめな生活を八か月も送ったのち、衰弱してゆく。しかしこの町に、一人のキリスト教徒がそんなに長く滞在することはゆるされない。フラーヌ族が、彼を逮捕するとおどしはじめる。そこで博士は一八五四年三月一七日にこの町を去り、国境に身を隠す。ひどい貧困のうちに三三日とどまったのち、一一月にカノにもどり、それからクカに入り、四か月のちにはデンハムへの道をとる。一八五五年八月末に、彼はやっとトリポリをふたたび見、そこで九月六日、ただ一人でロンドンにもどったのである。
これがバルトの勇敢な旅のすべてであった。
ファーガソン博士は、バルトが達したのが北緯九度、東経一七度であることを、しっかり頭に入れた。
こんどは、バートンとスピークの両中尉が東アフリカでどんな探検をしたかを見てみよう。
ナイル川をさかのぼった探検隊はいくつもあったが、その神秘の源に到達した隊は一つもなかった。ドイツ人の医師フェルディナント・ヴェルネの報告に基づいて一八四〇年にくわだてられた探検は、メヘメット・アリに保護されていたが、北緯四度と五度のあいだにあるゴンドコロまでしか進めなかった。
過労のために死んだヴォーディの後任として東スーダンのサルデーニュの領事に任命されたサヴォアの人、ブラン=ロレは、一八五五年にハルトゥームを出発した。そして商人ヤーコブと名乗ってゴムと象牙の商売をしながら、四度を越えたところにあるベレニアにまで行った。その地で病気になり、ハルトゥームまでもどったが、一八五七年にそこで亡くなった。
エジプト医療奉仕団の団長であるペネイ博士は、小さな蒸気船でゴンドコロの南一度にまで達したが、これまた衰弱がはなはだしく、ハルトゥームにもどって、その地で亡くなった。――ヴェネツィアの人ミアニは、ゴンドコロの南にある滝を迂回して北緯二度にまで至った。――マルタ島の貿易商のアンドレア・デボノは、ナイル川を誰よりも奥までさかのぼった。――しかしこれらの人びとは、いずれもいままで越えることのできなかった極限を突破することができなかったのである。
一八五九年、ギヨーム・ルジャンは、フランス政府の依頼により、伝道のために紅海経由でハルトゥームに行った。二一人の船員、二〇人の兵士とともにナイル川にのりだしたが、反乱のまっただなかの黒人たちの群に入りこみ、非常な危険におちいってゴンドコロを越えることができなかった。デスケイラック・ド・ローテュールのひきいる探検隊もひとしく、かの有名な源にたっしようと試みた。
しかしこれらの探検家は、いずれもこの宿命の地点に到達できなかった。かつてローマ皇帝ネロの使者は、北緯九度にまで行った。したがって一八世紀のあいだに、人びとは五、六度しか進めなかったわけである。距離でいうと、四八キロから五八キロまでということになる。
ナイル川の源をきわめようとした多くの探検家は、アフリカの東海岸を出発点としてとった。
一七六八年から一七七二年にかけて、アビシニアの港マズアから出発したスコットランド人ブルースは、チグレ地方を歩きまわり、アクサムの廃墟を訪れ、ナイル川の水源を見た。だがそれは間違いだったので、なんら成果を見なかったというわけである。
一八四四年に、聖公会の宣教師であるクラブフ博士は、ザンジバル海岸のモンバサに教会を建てた。そしてレブマン師をともなって、海岸から四八〇キロほどのところにある二つの山を発見した。それが、最近ホイグリンとトルニトンが登ろうとしてはたさなかったキリマンジャロとケニア山である。
一八四五年、フランス人メザンは、ザンジバル島の対岸バガモヨに上陸して、一人でデジェ・ラ・ムホラに行った。そしてそこの酋長によって、残酷な刑罰を受けて死んだ。
一八四九年八月、ハンブルクの青年探検家のロッシャーは、アラブの隊商とともに出発してニアサ湖に着いたが、寝ているところをおそわれて殺された。
最後に、ベンガル駐屯軍の士官であったバートンとスピークの両中尉は、ロンドン王立地理協会からアフリカの大湖群を探検するようにとたのまれ、六月一七日にザンジバルを発って、まっすぐ西に進んだ。
荷物は奪われ、ポーターは殺されるといういまだかつてない苦難の四か月後に、貿易商人と隊商の集まるカゼフに着いた。彼らは、『月《リュヌ》』と呼ばれている地方のまっただなかにいたのである。彼らはその地で、風俗、政治、宗教、動物、植物に関する貴重な資料を集めた。それから大湖群の最初の湖、南緯三度と八度とのあいだにあるタンガニーカ湖に向かって進んだ。一八五八年二月一四日にその地に至り、両岸に散在するさまざまの土民たち、それらの大部分は食人種である部落を訪れた。
彼らは五月二六日にそこを発って、六月二〇日にカゼフにもどった。カゼフに着いたバートンは衰弱しきって、数か月のあいだ病気を治さなければならなかった。その間を利用してスピークは北に向かって四八〇キロ以上も進み、八月三日にウケレウエ湖〔現在のヴィクトリア湖〕まできた。しかし彼は、南緯二度三〇分のこの湖の南端を見ることがやっとだった。
八月二五日に、彼はカゼフへもどった。そしてバートンとともにザンジバルへと道をとり、翌年の三月にふたたびその町に至った。このようにして二人の勇敢な探検家はイギリスに立ち返り、パリ地理協会はその年の賞を彼らに与えたのである。
ファーガソン博士は、彼らが南緯二度、東経二九度を越えなかったことを、しっかりと心にとどめたのだった。
つまり博士の意図することは、バートンとスピークの探検とバルトの探検とを結びつけることであって、それは一二度以上にわたる広大な土地を飛ぶことをねらっていたのである。
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五 地図上の散歩
ファーガソン博士は、しきりに出発の準備を急いでいた。彼自ら気球の製作の指導にあたったが、それは従来のものを変更したものであって、それについては彼は断固として沈黙を守っていた。
すでにずっと前から彼はアラビア語と、さまざまのアフリカの原地人の言葉を勉強していたのだった。数か国語に通じていたので、その進歩はめざましかった。
さしあたり友人の狩猟家は、一刻といえども彼のそばを離れなかった。きっと博士がなにも言わずに出発してしまうのを心配していたからだろう。彼はいまでも博士を説きふせようとしきりに努めていたが、まるで効きめはなかった。彼の言葉はだんだんと悲壮な哀願になっていったが、それでも博士はいっこうに心を動かされる様子を見せなかった。ディックは、友人が指のあいだからこぼれていってしまうような気がした。
この気の毒なスコットランド人は、ほんとうに見るもあわれだった。すんだ青空をながめても、気持がいっこうに晴れなかった。眠っているときでも激しい横揺れを感じ、毎晩、はるかに高いところから落ちる思いをしていた。
このような恐ろしい悪夢にうなされて、彼はほんとうに一度か二度ベッドから落ちたということを言っておいたほうがいいだろう。彼はさっそくファーガソンのところへ行って、頭にできた大きなこぶを見せた。彼は親切にも、こうつけ加えた。
「これで、一メートル足らずのところから落ちたんだぜ! たいした高さでなくても、こんなこぶができる! よく考えてみろよ!」
このような哀調をおびたほのめかしも、博士の心には通じなかった。
「われわれは落ちやしないよ」と言うのだっだ。
「でも、もしかして落ちたら?」
「落ちっこないって」
こうはっきり言われては、ケネディはもうなにも言えなかった。
ことにディックを憤慨させたことは、博士がケネディの人格を無視していることだった。博士は彼が気球に乗るものと頭から決めてかかっているのだった。疑ってもみないようだった。サミュエルがしきりに一人称の複数の主語代名詞を使うのもいきすぎだった。
『われわれは』仕事を進めよう……『われわれは』何日に準備が終わる……『われわれは』何日に出発する……。
所有形容詞も単数ではない。
『われわれの』気球……『われわれの』吊《つ》り籠《かご》……『われわれの探検』……。
それに、またしても複数。
『われわれの』準備……『われわれの』発見……『われわれの』上昇……。
ディックはそれを聞くと、出発しないと心に決めているとはいえ、身ぶるいがするのだった。そのくせ彼は、あまり友人にさからいたくもなかった。こっそり自白におよぶと、彼はどういう気持かはわからないが、エジンバラからひそかに旅行用の服装と最上の猟銃とをそれぞれ若干とりよせていたのだった。
ある日ディックは、成功の機会は千に一つだろうが、ひょっとして思いがけない幸運にめぐりあいさえすればと、博士の希望に応じるようなふりをして見せたのだった。しかし旅行を先にのばすために、さまざまな逃げ口上を述べたてた。彼はまたしても探検の効用から説き、いまはまだその時宜《じぎ》に適していないというのだった……ナイル川の源流を発見することが、はたしてそれほど重要なことなのか……それが、人類の幸福にほんとうに役立つのか? 結局アフリカの原地人が文明開化されたからといっても、彼らははたして幸福になれるだろうか。それに、ヨーロッパと比べてみて、そこに文明がないというのははたしてそうなのだろうか――たぶん、そうなのだろう。――それなら探検をのばしたって、いっこうにさしつかえないではないか。アフリカ横断は、そのうちいつかはきっと成功するだろう。だがそれは、もっと危険の少ない遣り方によって、なされるはずだった。一か月後に、六か月後に、少なくとも二年以内に、どこかの別の探検家によってたぶん実現されるだろう。
このようなほのめかしは、その目的とはまったく逆の効果しかもたらさなかった。博士はいらいらして身をふるわせていた。
「ではディック、きみは不幸な男になりたいんだな、ではきみは、不実な男になりたいのかね。このような名誉を他人にゆずるなんて! わたしのいままでのことを帳消しにしようという気なのかね。障害なんてたいしたこともないのに、そこから逃げだすのかね。わたしのためにイギリス政府やロンドン王立地理協会がやってくれたことに対して、卑怯なためらいをもってするつもりなのかね」
「しかし……」と、この接続詞をよく使うくせのあるケネディが言い返した。
「でも」と、博士も言った。「わたしの探検は、現在行なわれているいろいろな探検隊の成功に協力しなければならないということを、きみは知らないのかね? きみは、新しい探検隊がアフリカの中央めざして進みつつあるのを知らないのかね」
「だがね……」
「まあ聞けよ、ディック、この地図をよく見たまえ」
ディックはしぶしぶそれに視線を投げた。
「ナイル川の流れをさかのぼって見たまえ」と、ファーガソンが言った。
「さかのぼってみよう」と、スコットランド人はおとなしく答えた。
「ゴンドコロまで行ったかね?」
「うん」
ケネディは、なるほど地図の上なら、このような旅もなんでもないと思った。博士がふたたび言った。
「このコンパスの足の一つを、勇敢な人たちがようやく越えることのできたその町の上に置いて見たまえ」
「あてて見たよ」
「さてこんどは南緯六度のザンジバル島の海岸を探すんだ」
「あった!」
「その緯線をたどるとカゼフにたっする」
「そのとおり」
「こんどは東経三三度をウケレウエ湖の端まで来てみたまえ、スピーク中尉はそこまで行ったのだ」
「着いたよ! もう少しで湖水のなかに落ちるところだった」
「よろしい! ところできみは、そこに行き着くまでに出会った原地人たちから聞いた話によって、一つの仮説をたてられることをきみは知らんかね?」
「知らないね」
「この湖水の南のはずれは南緯二度三分のところにある。だから、きっと赤道の上にも、同じように二度半のところまで延びているにちがいないというのだ」
「ほんとうかな!」
「ところでこの北のはずれから川が流れていて、それがナイル川そのものではないとしても、必ずナイル川に合流するにちがいないのだ」
「なかなかおもしろいね」
「ところで、こんどはコンパスのもう一つの足を、そのウケレウエ湖の端に置いてみたまえ」
「やったよ、ファーガソン」
「これから二つの点のあいだは、何度ぐらいあると思うかね」
「二度あるかな」
「距離にしてどのくらいあると思うかね、ディック?」
「ぜんぜんわからんよ」
「まあ一九〇キロほどだ。つまり、たいしたことはないということになる」
「まあ、たいした距離じゃないな」
「ところで、なにがいま問題になっているか知ってるかね?」
「いや、まったく知らんね」
「よろしい! こういうわけなんだ。地理協会は、スピークがちょっと見ただけのこの湖水を探検することがたいへん重要なことだと見てとったのだ。協会の援助のもとにスピーク中尉は、いまは大尉になっているがね――インド派遣軍のグラント大尉とともに、彼は大探検隊の指揮者となったのだ。彼らの使命は湖水をさかのぼって、ゴンドコロまでもどることだった。資金も豊富で、五千リーヴル以上あった。彼は一八六〇年一〇月末に、ザンジバルを出発した。ちょうどこのころ、ハルトゥームのイギリス領のジョン・バスリックは、外務省から約七〇〇リーヴルを受け取っていたのだった。彼の任務はハルトゥームで汽船を準備し、それに必要な食糧と資材を積んでゴンドコロに行くことだった。そこでスピーク大尉のキャラバンを待って、積んできた食糧と資材を補給することになっている」
「いい考えだね」と、ケネディが言った。
「もしわれわれがこの探検隊を援助するのだったら、急がなければならない。それだけではない。ナイルの源流を発見しようとして一歩一歩進んでいる隊のほかに、アフリカの中央部めざして勇敢に進んでいる隊もある」
「歩いてか」と、ケネディがたずねた。
「歩いてだ」と、余計な口だしをとがめる様子もなく博士は答えた。「クラブフ博士は赤道の下を流れているジョブ川に沿って、西に進もうとしている。デッケン男爵はモンバサを発って、ケニア山とキリマンジャロのふもとを通り、中央に向かって進んでいる」
「ずっと歩きどおしか?」
「ずっと歩きどおしさ、ラバに乗ることはあるかもしれないが」
「そんなことはわたしにとっては、どっちにしても同じことだ」と、ケネディが言いかえした。
「さらに」と博士は、なおも続けた。「ハルトゥームのオーストリア副領事ホイグリン氏は、フォーゲルの捜査を主たる目的とする非常に大がかりな探検隊を組織したばかりだ。フォーゲルは一八五三年に、バルト博士の仕事に協力するために、スーダンに派遣された探検家だ。彼は一八五六年にボルヌーを発って、チャド湖とダルフール王国とのあいだにひろがるこの未知の国を探検しようと決意したのだった。ところが、そのときから、彼は消息を絶ってしまった。一八六〇年六月にアレクサンドリアに来た手紙によると、彼はワダイ王の命令で殺されたとあったが、ハルトマン博士がフォーゲルの父親に送った手紙によると、ボルヌーのプール族の男から聞いた話だとして、フォーゲルはワラで投獄されているのであって、まだ希望がないわけではないとのことだった。そこでサックス・ブルク・ゴタ公団の摂政を議長とする救出委員会が設けられ、わたしの友人のペーターマンが事務長となり、その遠征に多くの学者が参加して、その費用は一般の寄付に仰ぐこととなった。ホイグリン氏は、マズアを六月に出発した。フォーゲルの足跡をさぐると同時に、ナイル川とチャド湖のあいだにあるすべての国を探検すること、つまりスピーク大尉の活動範囲とバルト博士のそれとのあいだを結びあわせようというわけだった。そうすればアフリカは、東から西に横断されることになる。〔ファーガソン博士が出発してからわかったことだが、ホイグリン氏は何度かの議論の結果、探検すべく決められたコースをとらなかった。探検隊の隊長はムンズインガー氏に替ったのである〕
「それなら」と、スコットランド人はつづけて言った。
「そんなに探検がはじまっているなら、われわれはあそこでなにをしようって言うんだね」
ファーガソン博士は答えなかった。ただ肩をすくめて見せただけだった。
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六 得がたい従僕
ファーガソン博士は、一人の従僕を使っていた。ジョーと名前をよばれると、彼はてきぱき答え、気だてがよく、主人を絶対的に信頼していて、とことんまで忠実だった。頭の回転が早いので、主人の命令などはその前に読みとってしまうほどで、カレブ〔カナンを攻略したイスラエル人の英雄の一人〕のように不平を言わず、いつも上機嫌だった。彼を故意に一杯くわしてやろうとしても、成功したためしはなかった。ファーガソンは日常生活のこまごましたこと一切を彼にまかしていたが、それは賢明な遣り方だった。ジョーのように正直で得がたい召使はいなかった! 主人の好みを知っていて食事を注文してくれるし、旅行のときにはトランクに荷物をつめてくれて、シャツも靴下も忘れないし、鍵や秘密を託されても、けっしてそれを悪用しなかった!
しかしまた、このジョーにふさわしい主人として、博士ほどの人がいただろうか! 彼は満幅の信頼と尊敬とをもって、主人の決定に応ずるのだった。ファーガソンが話すとき、それに口答えする者は気ちがいだった。ファーガソンが考えることはすべて正しく、言うことはすべて道理にかない、命ぜられることはすべてなし得ることであって、博士が企画することは、すべて可能であり、その完遂《かんすい》したことはすべてすばらしかった。こんなことを言えば諸君は嫌悪感をいだくだろうが、もし諸君がジョーを八つ裂きにしたとしても、主人に対する彼の意見は変わらなかったであろう。
それゆえ博士が大空を飛んでアフリカを横断しようという計画をいだいたとき、ジョーにとって、それは成功したのも同然だった。障害などは少しもなく、ファーガソン博士が出発しようと決めたときは、すでに到着しているのも同然だった。もちろんこの忠実な召使も一緒であって、この好青年はなにも言わなくても自分がこの旅行に参加することはちゃんと承知していたのだった。
それにこの旅行には、ジョーの才能と彼のすばらしい身軽さが、どうしても必要なのだった。もし彼が動物園の利口者であるサルどもの体操の先生になれと言われたら、ジョーはたしかにその務めを果たしたことだろう。とんだり、はねたり、よじのぼったり、彼はふつうの人にはとてもできそうもないさまざまな芸当をやってのけたのだ。
もしファーガソンが頭で、ケネディが腕だとすると、さしずめジョーは手になるはずだった。彼はすでに何回も主人の伴をして旅行をしていたので、彼なりのなんらかの専門知識をもっていた。彼はとくに甘美な哲学、ほほえましい楽天主義者であって、すべてをやさしく考え、すべては論理的で、あたりまえのことであって、したがって彼は不平を言ったり、あたり散らす必要はなかったのである。
そういういくつかの長所に加えて、彼は驚くべき強大な視力をもっていた。木星の衛星たちを望遠鏡なしで見わけることができ、その最後のいくつかが九等星であると言われるスバル座の一四の星ぼしをかぞえることができるという稀にみる才能を、彼はケプラー研究所の教授メストリンとともにもっていた。しかし彼はそのことを自慢にしているようなところは少しもなく、むしろ彼はたいへん遠くから諸君に挨拶し、必要のある場合にはたくみに彼の目を使うことを心得ていた。
ジョーが博士に示している信頼感からして、ケネディとこのりっぱな従僕とのあいだに、たとえそれぞれ相手に対して敬意をはらってはいたものの、たえず議論がかわされたことは、あやしむに足らないことだった。
一人は疑い、一人は信じていた。一人は先見の明があるので慎重であり、もう一人は盲目的に信頼していた。博士は疑惑と信頼とのあいだにいた! 彼はそのようなことは、まったく気にしていなかったことを言っておかねばなるまい。
「ところで、ケネディさん!」と、ジョーが声をかけた。
「やあ、なんだね?」
「だんだん近づいてきましたね、どうやら月に向かって出発するようですね」
「それは月の陸地のことだろう、それは、それほど遠くはないね。だが、落ち着きたまえ、あそこは、まだ危険だからな」
「危険ですって! ファーガソン博士のような人が一緒なのに!」
「ジョー、おまえの幻影をこわしたくないが、あいつの考えていることは率直に言って、気ちがいの考えることだよ。あいつは出発しやしないさ」
「出発しないんですって! では、あなたは、ボルー〔ロンドンの南方の郊外〕のミッチェル工場でつくっている気球を、まだ見ていないんでしょう」
「わたしは、あそこに見に行くことをさしひかえているんだよ」
「すばらしいものが見られるのに! なんて、きれいなんでしょう! きれいなカップみたいでさあ! それに、吊り籠がまたいいですな、あのなかに入ったら、気持がいいでしょうね!」
「では、おまえは、ご主人と一緒に行こうと、まだ本気になって思ってるのかね?」
「わたしでしたら」と、ジョーは確信をもって言い返した。「あの方が望むところなら、どこだって行きますよ。絶対に、間違いなんかありませんからね! わたしたちは一緒になって世界をまわったというのに、あの人だけを一人で行かせるなんて! では、あの人が疲れたら、誰が助けるんですか。破局から救うために、誰があの人に手をさしのべるのですか。あの人が病気になったら、誰が看《み》てあげるのですか。ディックさん、ジョーはいつも博士のそばにあって、いや、ファーガソンの博士のまわりからはなれませんよ」
「感心だね!」
「あなただって、わたしたちと一緒に行くんでしょう?」と、ジョーはなおつづけた。
「まあね!」と、ケネディは言った。「つまりサミュエルに、こんなばかげたことをさせないために、最後のときがくるまでついて行こうっていうわけさ。わたしはザンジバルまでついて行って、なにがなんでも友人としてあいつの気ちがいじみた計画をやめさせて見せる」
「どんなことをしたって、やめられないでしょうな、お言葉にそむくようですが、ケネディさん。わたしのご主人は、思いたってなにかするような人ではありません。計画をたてる前に、慎重に考えます。そして決意が決まったら、悪魔だってそれをとめさせることはできないでしょうよ」
「まあ、そのうちわかるさ!」
「あんまり希望はもたないほうがいいでしょうね、それに、あなたがいらっしゃるということは、だいじなことなんですよ。あなたのような狩猟家にとっては、アフリカはすばらしい国ですものね。ですから、どう考えたって、あなたはこんどの旅行をくやむことなんかありませんや」
「くやむなんてことはないだろうね、ことに、あの頑固おやじが旅行をやめてくれたらね」
「それはそうと、きょうは目方をはかる日でしたね」と、ジョーが言った。
「なんだい、目方をはかるなんて?」
「きっと、先生とあなたとわたしの三人の目方をはかるんでしょう」
「競馬の騎手みたいにか!」
「競馬の騎手みたいにです。でも、安心なさってください。あなたが重くたって、やせろなんて言いませんからね。そのままの目方でいいんです」
「わたしは目方なんぞ、だんじてはからせんぞ」と、スコットランド人はきっぱりと言いきった。
「でも、そうしないと、気球のほうでこまるんでしょう」
「へえ! 気球に目方は関係ないだろう」
「とんでもない! 正確に計算してなかったら、上昇することはできませんよ」
「へえ、そうかい、そのほうがいいな!」
「ところで、ケネディさん、もうじき先生がわたしたちを探しにきますよ」
「わたしは行かんぞ」
「あなたは、あの方に迷惑などかけたくないでしょうが」
「迷惑をかけてやるさ」
「まあ、いいでしょう」と、笑いながらジョーは言った。「あの方がいないもんだから、そんなふうに言えるんでしょう。でも、あの方があなたに面と向かって『ディック』――ディックなんて言ってごめんなさい――『わたしはきみの目方が正確に知りたいんだ』と言われたら、きっとあなたはいらっしゃる、うけあいますよ」
「わたしは行かんぞ」
そのとき博士が、二人がいままでしゃべっていた書斎に入ってきた。博士はケネディのほうを見た。彼はなんとなく気づまりを感じていた。
「ディック」と、博士は言った。「ジョーと一緒に来いよ。わたしは二人の目方を知りたいんだ」
「でも……」
「帽子はかぶったままでいい、来いよ」
そしてケネディは、出向いていった。
彼ら三人は、ミッチェルの工場に行った。そこにはローマ式という計量器が用意されてあった。気球の平衡を維持するために、博士はその仲間の目方を知る必要があったのである。そこでディックははかり台の上に乗せられた。彼はべつにさからいもせずにそうしたが、小さな声でつぶやいた。
「まあ、よかろう! よかろう! 目方をはかったからといっても、どういうってこともあるまい」
「六八・九キログラム」手帳に数字を書きこみながら博士が言った。
「重すぎるかい」
「とんでもない! ケネディさん」と、ジョーが言った。「第一、わたしが軽いですから、それでうまく釣合いがとれますよ」
そう言ってからジョーは、狩猟家と勢いこんで場所をかわった。あんまり勢いこんだために、もう少しではかりをひっくり返すところだった。彼はハイドパークの入口で、アキレウス〔ホメロスの『イリアス』の主人公〕のまねをしているウェリントンの銅像のようなポーズをとった。楯は持っていなかったが、なかなかいいかっこうだった。
「五四・四キログラム」博士が手帳に数字を書きこんだ。
「へっ! へっへ!」満足そうに笑いながらジョーが言った。どうして彼は笑ったのだろうか? それはだんじて言えないことだった。
「わたしの番だ」ファーガソンが言った。そして彼は六一・二キログラムと、自分の目方を記入した。
「三人で一八五キロをこえないな」と、彼が言った。
「だが先生」と、ジョーが口をだした。「もし先生の探検にそうなることが必要でしたら、一〇キロぐらいでしたら、わたしはやせることができます。食べなければいいんですからね」
「そんなことはしなくていいよ」と、博士は答えた。
「好きなだけ食べたらいい。さあ、半クラウンやるから、思いのままにおまえを重くしておいで」
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七 気球の準備
ファーガソン博士がその探検に必要なものについて詳細に配慮しはじめてから、ずいぶんたった。まず気球だが、博士を乗せて空中を飛ぶこのすばらしい乗りものが彼の絶えざる気づかいであったことは、容易に理解できるだろう。
まず彼は、気球をあまり大きくしないために、空気よりも一四倍半も軽い水素ガスでふくらませることに決めた。このガスを製造することはじつに簡単なのである。そしてこのガスのために、気球の飛行が好結果を得るに至ったのだった。
博士ははなはだ厳密な計算により、旅行に必要なものおよびその他の装備として一八一四キログラムの重量のものを運ばなければならないと思った。そこから、これだけのものを持ちあげる上昇力、つまり気球の容積がどのくらいあるかを計算しなければならなかった。
一八一四キログラムの重量を運ぶということは、一六六一立方メートルの空気を移動させることを意味する。つまり一六六一立方メートルの空気は約一八一四キログラムの重さがあるということになる。
気球にこの一六六一立方メートルの容積を与え、そして空気のかわりに一四倍半も軽い、一二一キログラムの水素ガスでいっぱいにすれば、そこに一四〇〇キログラムに近い差が生じて、均衡のくずれが生まれる。そして気球内のガスの重量と周囲の空気の重さとの差が、気球の上昇力をつくりだすのである。
しかしながら、先に述べた一六六一立方メートルのガスを気球内に入れれば、それは完全にふくらむだろう。ところがそれだけでは困る。というのは、気球が高くのぼって空気の密度がうすくなれば内部のガスが膨張して、たちまち気のうが破裂してしまうからだった。それゆえふつうは、気球を三分の二ほどしかふくらませておかないのである。
だが博士は、彼だけが知っている考案に基づいて、気球を半分しかふくらませないことにしたのだった。つまり一六六一立方メートルの水素を運ばなければならないのだから、その気球に約二倍の容積を与えることにしたのである。
気球は細長いほうがいいと言われているので、彼もそのような形にすることにした。横の直径が一五メートル二五センチ、縦の直径が二二メートル八七センチ〔これは特別に大きくはない。一七四八年にモンゴルフィエはリヨンで容積が二万立方メートルの気球をつくった。この気球は二〇トン、つまり二万キログラムの重量を持ち上げることができた〕、このようにして博士は、容積およそ三二五〇立方メートルほどの楕円形の気球を手に入れたのである。
もしもファーガソン博士が気球を二つ使用できたとすれば、成功の機会はもっと確実になったであろう。一つが空中で破れても、砂袋をすてて、もう一つの気球で浮かんでいることができるからである。しかし二つの気球を操作するには、双方に等しい上昇力をもたせなければならないので、たいへんむずかしいことなのである。
長いあいだ考えた結果ファーガソンは、うまく工夫をこらして、二つの気球をなんら障害なしに結合することに成功した。彼はちがう大きさの気球を二つつくって、一つを大きいほうへ入れたのである。外側の気球の大きさはすでに述べたとおりのものであるが、その中に形は同じで、横の直径が二二メートル七三センチ、縦の直径が二〇メートル七〇センチしかない小さい気球を入れるのである。この内側の気球の容積はわずかに二四〇〇立方メートルしかなく、それを取りかこんでいる流体のなかで泳いでいるのだが、バルブが二つの気球に通じているから、必要なときは両者の内部に流体をうつすことができるようになっていた。
この設計には、このような利点があった。もし下降しようとしてガスを放出しなければならないときは、まず大きいほうの気球のガスを出す、たとえそれを完全にからにしなければならないときでも、小さいほうはそのままにしておけばいい。その場合、外側の気のうは不用のものとして捨てることもできる。第二の気球一つだけで、空気が半分抜けた風船のように、風にもてあそばれるようなことはありえないだろう。
さらに事故があったとき、外側の気球が破れたりした場合でも、もう一つは無傷であるという利点もある。
二つの気球は、グッタ=ペルカ〔マレー地方産の赤鉄《あかてつ》科の樹木の樹液を乾燥させたゴムのようなもの〕を塗ったリヨン製の綾織《あやおり》のうすいこはく色の絹でつくられた。このゴムのような樹脂は、絶対に水を透さない。それは、酸にもガスにも完全におかされない。しかも圧力のいちばんかかる球体の頂点は、綾織の絹が二重になっている。
このような気のうなら、何時間たってもガスがもれるようなことはあるまい。目方は一平方メートルにつき約半ポンド、つまり二分の一キログラムである。ところで外側の気球の表面積は約一〇四四平方メートルだから、この気のうの重さは二九五キログラムである。第二の気球の気のうの表面積は八三〇平方メートルだから、二三一キロしかかからない。したがって全部で五二六キログラムである。
吊り籠をつる綱は、たいへん丈夫な大麻《たいま》のロープであった。二つのバルブは、船の舵をつくるときに払うような、細心の注意をもってつくられてあった。
吊り籠は円形で四メートル五〇センチ、柳の枝をあんでつくられてあって、支柱は針金で強化され、底にはショックをやわらげるために弾力のあるばねがついていた。
吊り籠とロープの重さだけでも一二七キログラムをこえない。
博士はこのほかに、厚さ四ミリのブリキでタンクを四つつくらせた。そしてそれらを蛇口のついたパイプでつないだのである。彼はそこに、直径四センチほどの螺旋管《らせんかん》をつけた。その端は長さがちがう二股《ふたまた》に分かれていて、長いほうは高さが七メートル六三センチ、短いほうは四メートル五八センチしかない。
これらのブリキのタンクは、できるだけ場所をとらないようにして吊り籠のなかにすえつけられた。螺旋管はあとになってからでなければ使用しないので、ブンゼンの強力電池と一緒に、おのおの別にしまっておいた。この装置はたいへん精巧にできていたので、そのなかのタンクの一つに一一三リットルの水を入れても三一七・五キロの目方しかなかった。
旅行に必要な器具類は、気圧計二個、寒暖計二個、羅針盤二個、六分儀一つ、クロノメーター二個、人工水平器一つ、近寄れないほど遠方の物体の方位を測定する経緯儀が一個だった。グリニッチ天文台は、全面的に博士に協力した。しかし博士は、物理の実験に応ずる気はなかった。ただ自分たちの方向がわかり、おもな河川や山や、町の位置がわかればよかったのである。
彼はまた頑丈な鉄の錨《いかり》三個と、長さ一五メートルほどの軽くて丈夫な絹でつくった梯子《はしご》を用意した。
それからまた、食糧品の重さも正確に計算した。紅茶、コーヒー、ビスケット、塩漬けの肉、ペミカン〔牛肉をほしてつくった携帯食糧〕といった、たくさんの養分をふくんではいるがごく小さい量しかないもの。ブランデーを充分貯えたのはもちろんのこと、そのほか約一〇〇リットル入るタンクを二つすえつけた。
これらの食糧が消化されていくにつれて、気球の上昇力は弱まっていかねばならない。なぜならば、大気中では気球の均衡をたもつことがたいへん微妙な問題であることを、ぜひ知っておかねばならないからである。ほんの少し重さが変わるだけで、とんでもない方向に行ってしまうことがあるのである。
博士は吊り籠の一部をおおうテントも、旅行中に寝具として使う毛布も忘れなかった。猟銃も、火薬も弾丸も忘れなかった。
つぎに彼の計算した結果の概略を示そう。
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ファーガソン……六一・二キロ
ケネディ…………六八・九キロ
ジョー……………五四・四キロ
一号気球の重量……二九五キロ
二号気球の重量……二三一キロ
吊り籠とロープ……一二七キロ
錨、その他の道具、銃、毛布、テント、炊事道具……八六キロ
肉、ペミカン、ビスケット、紅茶、コーヒー、ブランデー……一七二・三キロ
水…………………一八一・四キロ
水素膨張装置……三一七・五キロ
水素の重量………一二八・六キロ
砂袋………………九〇・七キロ
合計……………一八一四キロ
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以上がファーガソン博士が探検に必要だとした重量の一八一四キログラムの内訳である。砂袋の九〇・七キロは、博士の言に従えば「不測の場合にそなえて」九〇・七キロ積んでいくだけである。水素膨張装置をもっているので、それを使うことはほとんどあるまいと考えたからである。
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八 リゾリュート号で
二月一〇日ごろになると、準備も終わりに近づいて、小さな気球は大きな気球にしまいこまれ、こちらは完了した。圧縮空気による強度実験もすみ、これにより強じんさの点では文句はなく、製造過程も入念になされたことが実証された。
ジョーは、うれしくてたまらなかった。日に何回もギリシア通りからミッチェルの工場に行くのだが、忙しいのにいつも晴ればれした顔をして、きかれもしないのに主人に付き添っているのがなによりの自慢で、いろいろなことを話したがっていた。思うにこの感心な従僕は、気球を見せたり、博士の考えや計画を吹聴したり、窓をちょっとあげて博士の姿をかいま見せたり、博士が町に出るときの道筋を教えたりして、いくらかの半クラウン銀貨を手に入れていたらしい。しかしこのぐらいのことで彼を恨むにはあたらない。彼はまわりの人びとの好奇心や賞賛の気持を利用して、少しぐらいはもうける権利があったからである。
二月一六日、リゾリュート号はグリニッチの前に投錨しにやってきた。これは八〇〇トンのスクリュー船で、ジェームズ・ロス卿が南極探検をしたときに補給船として使用された快速船である。ベネット艦長は好人物として知られており、かねがね尊敬の念を抱いていた博士のこんどの旅行には、特別の興味を示していたのである。ベネット艦長は軍人というよりも学者といった感じが強く、したがって彼の船に四門のカロナード砲があろうがいっこうにさしつかえないわけで、じじつこの大砲は誰も傷つけたことがないし、撃っても至極のどかな音をたてるだけだったのである。
リゾリュート号の船倉は、気球を入れるように改造されてあった。気球は二月一八日に、事故が起こらないようにたいへん注意ぶかく船に運びこまれて、船底の倉庫に移されたのである。吊り籠とその付属品、錨、綱、食糧、着いてから水が満たされるはずの空《から》のタンク、それらすべてが、ファーガソンの目の前で積みこまれたのである。
水素ガスをつくるための四・五キログラムの硫酸と四・五キログラムの古鉄も積みこまれた。すこし多すぎるようだが、ロスのあることも考慮しなければならなかった。ガスをつくる装置は三〇個の樽で、これも船倉の底に積みこまれた。
これらの作業は、すべて二月一八日の夕方に終わった。快適にしつらえた船室が二つ、ファーガソン博士とケネディを待っていた。ケネディはけっして出発しないだろうと誓いながらも、狩りの武器庫ともいうべき荷物を持って乗りこんできた。銃尾から弾丸をつめるすばらしい性能の二連発の銃二挺、エジンバラのパーディ・ムアー=ディクソン会社製の高性能のカービン銃一挺、この銃を使えばその持ち主は、二千歩離れたところにいるカモシカの目に、容易に弾丸を撃ちこむことができるのである。そのうえ彼は、護身用にと六連発のコルト式のピストルを二挺持ってきた。火薬入れと薬包《やくほう》ケース、散弾とふつうの弾丸もたっぷり持ってきたが、博士に言われた重量制限だけは守っていた。
三人の旅客は、二月一九日に乗船した。彼らは艦長はじめ士官たちに深い敬意をもって迎えられた。しかし博士はいつものように冷静で、ただ探検のことしか念頭にないようだった。ディックは顔には出さないが感動していた。ジョーはおどけたことを言っては、はしゃいでいた。彼はたちまち、彼のハンモックがつくられてあった水兵たちの部屋の人気者になった。
二〇日に、ロンドン王立地理協会主催のファーガソン博士とケネディ送別のための晩餐会がもよおされた。ベネット艦長や士官たちもその会に出席し、おおいに飲み非常な盛会だった。参会者一同の百歳の長寿を祈って、さかんに乾杯がくりかえされた。フランシス・M……卿は感動をおさえて、威厳をもって司会していた。
ディック・ケネディはこのバッカスの祝宴で、たくさんの祝詞を受けて、おおいに恐縮していた。「イギリスの名誉である勇敢なるファーガソンのために」と言って飲んだあと、「彼におとらず勇気ある大胆不敵な友ケネディのために」と、みんなは盃をあげたのである。
ディックは、まっ赤になった。これはふつう謙遜のあかしと見られているが、拍手がさらに大きくなったので、ディックはいよいよ赤くなった。
デザートのときに、女王からメッセージが届いた。女王は二人の探検家に挨拶を送り、計画の成功を祈っていた。
またしても『うるわしき女王陛下のために』盃がほされた。
真夜中にいたって、感動的な訣別の挨拶と心からの握手がかわされた後、参会者は立ち去った。
リゾリュート号のボートが、ウェストミンスター橋で彼らを待ちうけていた。艦長、旅客、士官たちは乗りこんだ。テームズ川の遠い流れは、彼らをグリニッチのほうへ連れていった。
一同みな、一時には艦内で眠っていた。
翌朝、二月二一日午前三時には、機関室はごうごう音を立てていた。五時には錨が上げられ、スクリューが動きだして、リゾリュート号はテームズ川の河口めざして進んだ。
船上における会話がただファーガソン博士の遠征についてだけだったことは、あらためて言う必要はあるまい。彼の姿を見たり彼の話を聞いているうちに、まもなくして全員一同が、スコットランド人をのぞいて、みんな博士に深い信頼をよせ、誰一人として彼の企画の成功を疑う者はいなかった。
長い航海の退屈な時間中、博士は機関室で生きた地理の講義をした。これらの青年たちは、この四〇年間にアフリカでなされた新しい事実に、おおいに感激した。博士は、バルト、バートン、スピーク、グラントの探検について話し、あらゆる方面の学術上の調査が進んでいるこの神秘の大陸について語った。北部では青年のデュヴェイリエがサハラ砂漠を探検して、ツアレグ族の酋長たちをパリへ連れてきた。フランス政府の勧奨により、二つの探検隊が組織され、それそれ北部から降って西部へと向かい、トンブクトゥで合流した。南部では、疲れを知らぬリヴィングストンが、いまもなお赤道に向かって前進していた。一八六二年三月から、彼はマッケンジーを同伴して、ロボーニア川をさかのぼっていた。一九世紀は、六千年以来アフリカが胸にひめていた数かずの秘密をきっとあきらかにしてくれるだろう。
ファーガソンを取りまいて話に聞きいっている人たちは、旅行についての準備に関する詳細な話をしようとすると、彼らは博士の計算を確かめようと欲し、議論しはじめたので、博士もすすんでそれに参加した。
一般に彼らは、博士が持っていく食糧が割合に少ないのに驚いていた。ある日、一人の士官が、その点について博士に質問した。
「そんなにびっくりなさったのですかな」と、ファーガソンは答えた。
「そりゃ、そうですよ」
「でも、わたしの旅行が何日ぐらいかかると、あなたはお考えになりますか。何か月もかかるって? それは、たいへんな間違いですよ。もしそんなに長くかかるようだったら、わたしたちは失敗ですね、到着しっこありませんね。いいですか、ザンジバル島からセネガルの海岸まで約六四〇〇キロとして、距離にすれば五六〇〇キロ以上は必要ないんです。ところで、一二時間に三八五キロとして、これは汽車の速力にはおよびませんが、――昼も夜も飛べば、アフリカを横断するのに七日あれば十分でしょう」
「でも、それではなにも観察できないでしょう。地理上の位置測定も、どこの国かを知ることだって」
「そうです」と、博士は答えた。「わたしは気球の主人公ですし、思いのままそれを上昇させたり下降させたりできるわけです。ですから、そうしたほうがいいと思ったときはとまりますよ。とくに風が強くて、どこへ飛ばされるかわからないときにはね」
「そういうめにきっと会うでしょうな」と、ベネット艦長が言った。「あのへんでは、時速三八六キロ以上の突風が吹きますからね」
「そうですとも」と、博士はそれに応じた。「そんなに飛ばしたら、一二時間でアフリカを横断できるでしょう。サン=ルイで寝にゆくためにザンジバルを朝立ちすればいいわけです」
「でも、気球がそんな速さで飛ばされることがあるでしょうか?」
「あったことはあります」と、ファーガソンは答えた。
「気球はそれに耐えましたか?」
「だいじょうぶでした。あれは一八〇四年、ナポレオンの戴冠式のときでした。搭乗者はガルヌランで、夜の一一時にパリを飛び立ったのです。その気球には金文字で『共和暦十三年霜月二五日、ナポレオン皇帝、ピオ七世によりパリにて戴冠式挙行』と書かれてありました。翌朝の五時に、ローマの住民はその気球がヴァティカン宮殿の上空を飛んでいるのを見たそうです。それはローマ平原の上を飛んで、プラッチアノ湖に落ちました。どうです、みなさん、気球はこのような速力にも耐えられるのです」
「気球はそうとしても、人間はどうかな」と、ケネディが口をはさんだ。
「もちろん、人間だって! なぜならば、気球というのは、それを取りまく空気との関係においては動いていないんだからね。自分で動くのではなくて、空気のかたまりが動かすんだから。だから、吊り籠のなかで火をつけてみたまえ、炎は揺れないでしょう。ガルヌランの気球に乗った搭乗者は、そのスピードにはなんら苦しまなかったはずです。それにわたしは、そのように速く飛ぼうなんては思いませんよ。もし何か樹木や地形の関係で気球をひっかけるものがあったならば、夜は必ずとめるでしょうよ。わたしたちは二か月分の食糧を持っていきますが、着陸したときに射撃の名人がたくさん獲物をとってくれることはべつに反対しないつもりです」
「ああ、ケネディさん! おおいに腕がふるえますね」少尉候補生の一人が、うらやましそうにスコットランド人を見ながら言った。
「なにしろ、名誉とたのしみが二つ一緒に得られるんですからね」と、もう一人の青年が言った。
「みなさん」と狩猟家は答えた。「みなさんのご挨拶には……身にしみてお礼を申します……でも、わたしとしましては、それをお受けするわけにはいかないのです」
「なんですって! あなたは出発しないんですか」と、四方八方から声がかかった。
「出発しません」
「ファーガソン博士と一緒に行かないんですか」
「自分が行かないばかりでなく、わたしがここへきたのは、最後まで行かないようにあの男を説得するためなんです」
すべての視線が、博士にそそがれた。
「この男の言うことなどは聞かなくてもいいのです」と、いつもの平静さで博士が答えた。「そのことについては、もう彼とは議論しなくてもいいのです。結局彼は出発すると、自分ではよく知っているのですから」
「聖パトリック〔アイルランドの使徒〕にかけて、わたしは誓う……」
「誓わなくていいよ、ディック。きみのことはわかっているんだ。きみの目方は計ってあるし、火薬も銃も弾丸も、計ってある。もう、なにも言わなくていいよ」
じじつ、その日からザンジバルに着くまで、ディックはついに口を開かなかった。彼はこんどの旅行についても、その他のことにも、ひとつも口をきかなかった。彼はだまりこんでいた。
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九 喜望峰をまわる
リゾリュート号は喜望峰に向かって、急速に進んだ。海は荒れたが、晴天が続いた。
三月三〇日、ロンドンを発って三七日後に、テーブル山が水平線に見えてきた。丘のふもとに段々をなしているケープタウンの町も、双眼鏡に入ってきた。まもなくリゾリュート号は、港に投錨した。しかし艦長は、石炭を積みこむためにしか寄港しなかった。それは一日だけで、翌日船はアフリカの最南端をまわってモザンビーク海峡に入るために、南に向かって出帆した。
ジョーにとっては、船旅ははじめてではなかった。彼はすぐに、自分の家にいるようにしはじめた。気どらず、いつもにこにこしているので、彼はみんなに好かれた。有名な主人をもっているために、彼もまた著名人だった。みんなは、まるで神託を聞くように彼の話を聞いていた。彼の言うことも、もう一人の人物の話同様に正確だった。
このようにして、博士が士官室で講義をつづけていたとき、ジョーは前甲板に君臨していた。あらゆる時代を通じて偉大な語り手は自分特有の話術をもっているものだが、ジョーは彼なりにしゃべりまくっていた。
当然話題は、空中旅行のことだった。この企画に反対する連中を納得させるのに、ジョーはおおいに苦労した。だが、ひとたび納得すると、水夫たちの想像力はジョーの話に刺激されて大きくふくらみ、不可能なことなどはありえないと思いこむにいたった。
このすばらしい弁士は、こんどの旅行が終わったら、またつぎの探検がたくさんあるとまくしたてた。今回は、これからする数かずの超人的な探検旅行の序の口にすぎないと言うのだった。
「いいかな、諸君、こういう旅行のやり方を知ってしまうと、空を飛ばないではいられなくなる。だからつぎの計画は地球をまわるんじゃなくて、まっすぐに行くんだ、どこまでものぼってゆくんだ」
「すごいぞ! 月へ行くんだな!」一人の聴衆が感心して叫んだ。
「月だって?」と、ジョーは激しく言いかえした。「ちがうよ。そんな月並みのものじゃない! 月なんかへは、誰だって行けるからな。それに、月には水がない。だから大きな水槽を持っていかなくちゃならんしな。それに呼吸するためには、最小限度びんにつめた空気が必要なんだ」
「そうかい! でも、ジンがあるだろう?」と、この飲みものの大好きな水夫がたずねた。
「ないね、残念だが! 月じゃなくて、われわれは、あのきれいな星のなかを散歩しようじゃないか、ご主人がときどき話してくれたあの美しい惑星のなかをね。そう、手はじめに土星から訪問しよう……」
「あの環のあるやつかい」と、一等水兵がたずねた。
「そうだ! 結婚指輪をはめたやつさ。といっても、細君はどこへ行ったのか、誰も知らんがね!」
「どうやって行くんだ! あんな高いところへ行けるのかね。じゃあ、あんたのご主人ってのは、悪魔だ」と、一人の見習水夫が言った。
「悪魔だって! とんでもない、とてもいい人だよ!」
「では、土星のつぎは?」聴衆のなかで気のはやい一人がたずねた。
「土星のあとか? そうだね、木星へ行くとしようか。奇妙な国で、一日が九時間半しかないんだ。なまけ者にはつごうがいいがな。そして驚いたことに、一年が地球の一二年分あるんだ。あと六か月しか命がないっていう人にとってはありがたいことだね。すこしばかり長生きできるものね!」
「一二年だって?」と、見習水夫がまた言った。
「そうだよ、坊や、あそこへ行ったら、きみはまだおかあさんのおっぱいをすってるってわけさ。そこにいるおっさん、あんたは五〇歳ぐらいかな。木星だったら、まだ四歳半の鼻たれ小僧だ」
「信じられんな」前甲板にいた連中が、いっせいに声をそろえて叫んだ。
「ほんとうだとも」と、ジョーは確信をもって答えた。
「でも、みんなは、どうしたいって言うんだい? この地球でなすことなく長生きしたいっていうんなら、なにひとつわからずじまいで、ネズミイルカみたいにばかのままで終わっちまうぜ。ちょっと木星に行ってみておいでよ! きっと、いろいろなことが、あそこでわかるだろうぜ! いいかい、あそこでは行儀よくしてないといけないんだ。なぜならあそこには衛星《サテリット》〔サテリットには従者の意もある〕がいるからね。もっともこいつらは、あまり役に立たんがね!」
みんな、大笑いした。だが、半信半疑だった。ジョーは、水夫たちがおおいに歓待される海王星のことも話してやった。つぎに火星、ここでは軍人がいちばん威張っていて、まったくやりきれないところだ。水星はくだらん国で、そこには泥棒と商人しかいない。両者ともたいへんよく似ているので、見わけがつかないくらいである。最後に彼は金星について、ほんとうにすばらしい話を語ってきかせた。
「で、われわれがこの探検からもどってきたときには」と、この愛想のいい語り手は言った。「ほら、あそこに光っている南十字星を勲章としてもらえるだろうよ。あれは神さまの飾りボタンだから、ぴかぴか光ってるのさ」
「あんたは、きっとあれをもらえるだろうよ!」と、水夫たちは言った。
このようなたのしい話にうち興じながら、前甲板では長い毎晩が過ぎていった。そのあいだに、博士の学問的な話もなされたのである。
ある日、話は気球の操縦のことにうつった。みんなはこの点について、ファーガソンの考えを知りたがった。
「気球を自由に操縦できるようになるとは考えられませんな」と、彼は言った。「そのためにどのような試みが考えられ、実際に行なわれたか知っています。でも、どれも成功しませんでしたし、実際には使われませんでした。おわかりのこととは思いますが、この問題はわたしにとってはもっとも大きな問題なので、おおいに関心をもって取りくみました。しかし現在の機械に関する知識をもってしては、いかに工夫をこらしてみても解決することはできませんでした。非常に強力な、しかもごく軽いエンジンが発明されればですが、不可能でしょう! それに、そのようなエンジンでも、激しい気流にはやはり抵抗できないでしょう! それに従来は、気球そのものよりも吊り籠を動かすことばかり考えていましたからね。これは、あやまった考えです」
「でも、気球も船と同じように、思いのままに操縦できるのではないでしょうか」
「とんでもない」と、ファーガソンは答えた。「ほとんど、いや全然と言っていいほど似ていません。空気は水にくらべると、はるかに密度が小さいのです。船は水中に半分しか沈みませんが、気球は大気中にまるっきり沈没してしまって、周囲の流体の関係で動かないままになってるのです」
「では、気球学は研究の余地はないとお考えですか」
「いや、どうして、どうして! 別のことを考えればいいのですよ。気球は操縦することができないならば、少なくとも都合のいい気流に乗じることができるようにすればいいでしょう。上昇すればするほど、気流の速度は不変で、方向も決まってきます。地上に起伏をつくっている山や谷に影響されないからです。風向きが変わったり、風速が一定しない主な原因は、そういった地形の変化にあるとお考えいただきたい。ですから気圏の各層の流れがわかったら、自分に都合のいい気流のなかに行けばいいのです」
「それでは、そうするには絶えず昇ったり降りたりしなければなりませんね。それは、たいへんなことなのでしょうね、博士」と、ベネット艦長がたずねた。
「どうしてでしょうか、艦長さん」
「だって、そうでしょうが。ちょっと空中を散歩するならまだしも、長い距離を飛ぼうとするなら、それはたいへん厄介な、むずかしいことでしょうが」
「さあ、そうでしょうかね?」
「だって、上昇するときには砂袋をすてる、下降するときにはガスを抜く、そんなことをしていたら、たちまちガスも砂袋もなくなってしまうでしょう」
「ベネットさん、おっしゃるとおり、それが問題なのです。それが科学によって征服しなければならないただ一つのむずかしい点なのです。気球を操縦するということは問題ではありません。もしこう言ってよければ、その力であり、血であり、魂であるガスを消費せずに、気球を上下に動かすことができるかということです」
「おっしゃるとおりです、博士。しかしその困難は、まだ解決していないのでしょう、その方法も、まだ見つかってはいないのでしょう」
「それが、見つかったのですよ」
「誰が見つけたんです?」
「わたしがです!」
「あなたが?」
「おわかりになると思いますが、この方法が見つからなければ、気球でアフリカを横断するなんて危険な真似はしないでしょうよ。二四時間したら、ガスはからっぽになってしまうでしょうからね!」
「だが、あなたは、イギリスではそんなことはおっしゃらなかったですね」
「そうです。わたしは公表すると論争しなければならないので、やめたのでした。そんなことは無駄ですからね。わたしはあらかじめ、こっそり実験してみて、満足な結果を得たのでした。それ以上知る必要はありませんものね」
「そうですか! ファーガソンさん、ひとつあなたの秘密をおもらしねがいますかな?」
「よろしいですとも。わたしの方法というのは、しごく簡単なんですよ」
聴衆はいっせいに耳をそばだてた。博士は静かに、つぎのように語りはじめた。
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十 気球操縦法についての博士の講義
「みなさん、ガスや砂袋を放出しないで、意のままに気球を昇降させようという試みはいままでもなされてきました。フランスの気球愛好家のムニエ氏は、気のうの内部に圧縮空気を出し入れすることによって、この目的をはたそうとしました。ベルギーのファン・ヘッケ博士は、翼とパレットを使って垂直に上下する力を得ようとしましたが、多くの場合と同じように不充分でした。このようにさまざまの手段を使って実際にやってみた結果は、いずれも無意味なことでした。
そこでわたしは、もっと率直に、この問題にぶつかってみようと決意したのです。まずわたしは、火急の場合以外は、たとえば装置がこわれるとか、予期しない障害を避けるために直ちに上昇することを余儀なくされる場合のほかは、砂袋の使用をまったくやめることにしました。
わたしが上昇したり下降したりする手段は、気球の内部にふくまれているガスの温度をいろいろ膨脹させたり収縮させたりするだけです。では、どうやってそうするのでしょうか。
みなさんは、吊り籠と一緒に、いくつかのタンクが積みこまれたのをごらんになったでしょうが、それがどういう役をするかはごそんじなかったでしょう。タンクは五個ありました。
最初のタンクに、約一一三リットルの水を入れます。それに熱の伝導度をよくするために、硫酸を二、三滴たらします。それをブンゼンの強力電池を使って分解します。ごぞんじのように、水は水素二と酸素一で構成されています。
この酸素が電池のはたらきで陽極を通って、第二のタンクに送りこまれます。その上に置かれてある第三のタンクは二倍の大きさで、陰極を通ってくる水素を入れます。
コックのついたパイプが、この二つのタンクと、混合タンクと呼ばれている第四のタンクとをつないでいます。じじつ、水を分解して出てくるこれら二つのガスは、ここでまじり合います。この混合するタンクの容積は、一・五立方メートルあります。
このタンクの上部に、蛇口が一つついたプラチナの管が出ています。
これでみなさんもおわかりになったでしょうが、この管が酸素ガスと水素ガスのバーナーになるわけでして、そこで得られる熱の温度は、鍛冶屋の炉の火熱よりもずっと高いのです。
つぎは、この装置の第二の部分にうつりましょう。
わたしの気球の下部はきっちり密閉されていますが、そこから二本のパイプが別べつに少し間隔をおいて出ています。一本は水素ガスの上半分につながっていますし、もう一本はその下半分につながっています。
この二本のパイプには、ところどころに丈夫なゴムの関節がついています。気球が振動しても、それにつれて動けるためにです。
それら二本のパイプは吊り籠にまでおりてきて、火熱のタンクと呼ばれている円筒形の鉄のタンクとつながっています。この円筒形の容器の上下も頑丈な鉄板でふさがっています。
気球の下半分から出ているパイプは、この円筒の底の部分を通って内部に通じ、ぐるぐる螺旋状のうずまきをつくり、ほとんど重ね合った環状になってタンクの上部を占めています。そこから出る前に、うずまきは小さな円錐形になって、その凹面の底は球形の円天井の形になって、下のほうにつながっています。
この円錐形の頂上から第二のパイプが出ていて、前述したように気球の上半分の水素の層につながっています。
小さな円錐形をなしている球形の円天井はプラチナでできていて、それはバーナーの火熱で溶けないためです。なぜならばバーナーは鉄製タンクの底についているからでして、螺旋状のまんまんなかにあり、火をつけたとき、その炎がその球帽にかるく触れることになっているのです。
みなさんは、建物の暖房装置がどうなっているか、ごぞんじのことと思います。どういう作用をするかおわかりでしょう。部屋の空気はパイプのなかを通って、高い温度になってもどってくるわけです。ところで、いままで申してきたことは、簡単に言えば、この暖房装置と同じわけなのです。
じじつ、どういうことになるでしょうか? まずバーナーに点火しますと、螺旋パイプと円錐形の凹みの水素があたたまって、気球の上層に通じているパイプのなかを急速に上昇します。そして下の部分はからになります。すると、こんどは気球の下層のガスが吸収されてあたためられるのです。こうやって気球のガスが絶えず入れかわりますので、連結パイプと螺旋パイプのなかには、気球から出て絶えずあたためられながら、またそこにもどる非常に早いガスの流れができます。
ところで温度が一度あがるごとに、ガスの容積は四八〇分の一だけふえます。ですからもしわたしが一八度〔摂氏寒暖計で一〇度〕温度を上げますと、気球の水素は四八〇分の一八、つまり約六二立方メートル膨脹します。したがってその上昇力は七二キログラムふえるでしょう。それは、それと同じ重さの砂袋を投げ捨てるのに値いするわけです。もし温度を一八〇度〔摂氏寒暖計で八二度〕にすれば、ガスは四八〇分の一八〇に膨脹し、上昇力は七二〇キログラムも増すわけです。
おわかりになったと思いますが、かくしてわたしは容易に重大な均衡の破壊に打ち勝つことができるわけです。気球の容積は、なかばふくらませた場合、水素ガスの気のう、乗員その他一切の付属品をつんだ吊り籠の重量に釣り合うように計算されてあります。この程度ふくらませただけで気球は空中で釣り合いをたもち、上昇もしなければ下降もしません。
上昇しようとするときは、バーナーに点火してガスの温度を周囲の温度よりも高くします。熱を与えられて膨張力は一段とたかまり、気球はさらにふくらんで、水素を膨張させればそれだけ上昇するわけです。
下降するときは、バーナーの熱を調査して温度をさげればいいわけです。したがって大体、上昇するほうが下降するときよりも迅速に行なわれます。しかし、そのほうがいいわけです。急速に下降するということは、あまりありませんからね。それに反して、障害を避けるために大至急に上昇する必要があるのです。危険は下にあっても、上にはありませんからね。
それに、前にも申したとおり、砂袋も積んであります。ですから必要なときには、それを捨ててもっと早く上昇することもできます。気球のてっぺんについているバルブは、安全弁にしかすぎません。気球内の水素の量はいつも同じですから、密閉したガスの温度に変化を与えるのは、上昇と下降の動きを必要とするときだけです。
さて、みなさん、こまかいことですがつけ加えておきます。
バーナーの先端で水素と酸素とを燃焼しますと、当然のことですが水蒸気ができます。そこで鉄の円筒形の容器の下部に、二気圧の圧力になったときになると作用する調整弁のついた排気管を取りつけました。こうすることによって水蒸気が、この圧力になると逃げてゆくようにしたのです。
つぎに、正確な数字を申しましょう。
一一三リットルの水が二つの成分に分解されますと、酸素は九〇・七キログラム、水素は二・三キログラムになります。これをふつうの気圧において容積で示すと、酸素が七〇立方メートル、水素が一四〇立方メートルということで合計二一〇立方メートルになります。
ところでバーナーの蛇口をいっぱいにひらきますと、一時間に一立方メートルの酸素と水素が出ますから、これに点火すると大きな照明用ランプの六倍もの強い炎となります。このような方法で、あまり高くないところに浮かぼうとするなら、一時間に三分の一立方メートル燃やせばよろしい。ですからわたしの一一三リットルの水で六三〇時間、つまり二六日ともう少し空中旅行ができるわけです。
ところで、わたしは降りたいときにはいつでも降りられますから、途中で水の補給さえつづけていけば、旅行をどこまでもつづけていくことができます。
みなさん、これがわたしの秘密です。ごく簡単なもので、簡単ですから成功は間違いなしと言えるでしょう。気球のガスを膨脹させたり収縮したりするだけで、それがわたしのやり方で、邪魔な翼もいらなければ、機械のエンジンもいりません。温度を変化させるための暖房装置と、それに熱を送るバーナーだけです。すこしも使いにくくないし、重くもありません。これで成功に必要な条件は、すべてととのったと確信します」
かくしてファーガソン博士の話は終わった。心からの拍手が起こった。異議を申し立てる者は一人もなく、すべてが予想され、解決された。
「でも」と艦長は言った。「やはり危険ですね」
「なあに、大丈夫」と博士はあっさり答えた。「これが実際に役立つんですからね」
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十一 「ヴィクトリア号」出発
絶えず順風にめぐまれ、リゾリュート号は目的地に向かって迅速に進んだ。モザンビーク水道を通ったときは、とりわけ平穏だった。航海がこのようにおだやかなのは、空の旅の無事であることを予告していた。一同みな到着の日を待ちのぞみ、ファーガソン博士の出発準備に手を貸そうと期していた。
やっと同じ名前の島にあるザンジバルの町が見えた。四月一五日午前一一時に、船は港に錨をおろした。
ザンジバル島は、フランス、イギリス両国と盟約を結んでいるマスカート王《イマン》〔イマンは回教国の主権者の尊称〕に属する。ここはたしかに王のいちばん美しい植民地であった。港には近隣の国ぐにの船がたくさん入っている。
島は海峡によってアフリカの海岸とへだたっているが、もっとも幅の広いところでも五〇キロほどである。
この島はゴム、象牙、とくに黒檀《こくたん》〔奴隷貿易のとき黒人をさす〕の貿易がさかんである。なぜならザンジバルは、奴隷の一大市場だからだ。アフリカの内地では酋長たちが絶えず戦いをしているので、その分捕品がみんなこの地に集まってくるのである。奴隷売買は東海岸一帯で行なわれ、ナイル川流域にもおよび、G・ルジャン氏は、フランスの植民地内でも公然とこの取引が行なわれているのを目撃した。
リゾリュート号が到着すると、ザンジバルのイギリス領事が甲板にまでやってきて、なんなりとするからと申し出た。ヨーロッパの新聞はこの一か月のあいだ、博士の計画について書きたてていたが、船を見るまでは領事も、他の多くの連中同様、それを疑っていたのだった。
「いままで本気に思っていませんでした」と、領事はサミュエル・ファーガソンに手をさしだしながら言った。
「でもいまでは、疑ってなぞいませんとも」
彼は自分の家を、博士とディック・ケネディと、もちろん律義なジョーにも提供した。
彼の好意で博士は、スピーク大尉が領事にあてたたくさんの手紙を読むことができた。大尉とその一行とは、ウゴの国に着くまでに恐ろしい飢えと悪天侯とに悩まされたのだった。彼らは前進するためにたいへんな困難に遭遇したので、これらのニュースを早く届けられるとは考えてもいなかったほどだった。
「こういう危険や物資の欠乏は、わたしたちは避けられますよ」と、博士は言った。
三人の旅行者の荷物が、領事の家に運ばれた。気球をザンジバルの海岸におろすことになった。信号柱のそばに、東風をよける大きな建物の蔭になっている適当の場所があった。この建物は基礎の上に建てられた大樽のような恰好の大きな塔で、ハイデルベルクのあの有名な塔も、このそばにもってくればたんなる樽にすぎないほどで、現在は城塞として使われており、その上には槍を持ったベルチスタン人たちが見張っていた。彼らはいわばのらくら者で、前線に行くのを忌避《きひ》している連中だった。
しかし気球をおろすときになって、島の住民が躍起になって反対しているという情報を領事は耳にした。狂信的な情熱ほど盲目的なものはない。キリスト教徒が空にあがるためにやってきたという知らせを聞いて、彼らはいきりたったのである。アラブ人よりも黒人のほうが激昂して、この計画は彼らの宗教に対して挑戦するものだと見てとったのだった。彼らは、このようなことは太陽と月に刃向かう行為だと思ったのである。なにしろこの二つの天体は、アフリカ人にとっては畏敬の対象であったからだ。そこで、このような冒涜的な探検に反対することになったのである。
この不穏な動きを知った領事は、ファーガソン博士とベネット艦長に相談した。艦長は、このような威嚇を前にして引きさがるのを欲しなかった。だがその友人は、この問題についてあくまでも彼を納得させた。
「たしかにわれわれは勝つでしょう」と、博士は言った。「あの見張り人たちだって、要請すれば手助けしてくれるでしょう。だが艦長さん、事故は思わぬときにやってくるものです。運悪く一発の弾丸が気球に、つぐないえぬ故障を与えるかもしれませんからね。そうなったら旅行も直ちにはじめるわけにはいかないでしょう。ですから細心の注意をもって行動すべきです」
「では、どうしたらいいでしょうかね? アフリカの海岸に上陸したところで、同じ困難にぶつかるわけです! どうしたらいいかな?」
「なあに、簡単ですよ」と領事が答えた。「港の向こうに、いくつか島が見えるでしょう。その島のどれかに気球をおろしたらいいですよ。水夫にまわりをぐるりと守らせれば、まあ危険なことはありますまい」
「けっこうです。そのほうが安心して準備ができます」と博士は言った。
艦長もこの忠告にしたがった。リゾリュート号はクンベニ島に近づいた。四月一六日の朝、気球は大きな森のなかの、切り開かれた草原に無事におろされた。
二五メートルぐらいの柱が二本、どちらも気球から等しい間隔をおいて立てられた。その先端にはそれぞれ滑車がついていて、気球と結びつけられてあるロープをひきあげた。気球はまだ完全にからである。内部に入る気球も、外側の気球のてっぺんに結びつけられて、同じように持ちあげられるのを待っていた。
二つの気球の下部の通気筒に、水素を入れる二本のパイプが固定された。
一七日は、水素ガスを入れる準備のためについやされた。三〇個の樽のなかに水を入れ、そのなかに鉄屑と硫酸を投入して水を分塀する。それらの樽を根こそぎ使って水素ガスを中央の大樽に集め、それから導入パイプを通じて、二つの気球に入れるのである。このようにして二つの気球のそれぞれに、規定量のガスが入れられる。
この作業のために、三二五〇リットルの硫酸と八千キログラム以上の鉄と、約四万一二五〇リットルの水とを使わなければならなかった。
この作業は、翌朝午前三時ごろからはじまった。それは、八時間くらいかかった。翌日網をかぶった気球は、たくさんの砂袋でおさえられ、吊り籠の上で気持よさそうに揺られていた。ガスを膨張させる装置は注意ぶかく組み立てられ、気球から出ているパイプが円筒形の容器につながれた。
錨、ロープ、諸道具、毛布、テント、食糧、武器が、吊り籠の決められた場所におさまった。水槽はザンジバルで満たされた。九〇キログラムほどの底荷《バラスト》の砂は五〇の袋に入れられて、吊り籠の底に置かれたが、もちろんすぐ手のとどくところである。
これらの仕事は、夕方の五時ごろに終わった。歩哨が絶えず島の周囲をまわり、リゾリュート号のランチも海峡を走りつづけていた。
対岸では黒人たちが、さっきからずっと喚声をあげたり顔をしかめたり、おおげさな身ぶりをして怒りをあらわしていた。呪術師がこれらの怒りたった群衆のあいだを走りまわって、さらに怒りをあおりたてていた。何人かの狂信者が泳いで島に渡ろうとしたが、これらを追いはらうのは簡単だった。
呪いの祈りと呪文とが、唱えられた。雨に命令ができるという雨を降らせる祈祷師たちが、嵐と『石の雨』〔雹《ひょう》のことを黒人たちはこうよんでいた〕をまねいていた。そのために彼らたちは、この地方のありとあらゆる種類の木の葉を集めて、それに火をつけたのである。そして一匹の羊の心臓に長い針を刺して殺したのだった。ところがこれらの儀式にもかかわらず、空は晴れていたのである。彼らはヒツジとしかめっ面とを損したわけだった。
そのとき黒人たちは、ヤシの実からつくった『テンポ』という強い酒や、『トグワ』という頭にくるビールを飲んで酔っぱらい、すごい乱ちき騒ぎをはじめた。メロディのほとんどないリズムのはっきりした彼らの歌声が、夜遅くまでつづいた。
夕方の六時ごろ、最後の晩餐会が甲板上で、艦長はじめ士官列席のもとに行なわれた。誰からも話しかけられなかったケネディは、わけのわからぬことを低声《こごえ》でもぐもぐ言っていたが、目はいつもファーガソン博士にそそがれていた。
晩餐会は、どうしても沈みがちだった。最後のときが近づくと、不吉感がみんなの胸をよぎるのだった。この勇敢な旅行家の運命はどうなるだろうか? またいつの日か、家庭のだんらんにもどって、友だちにかこまれて過ごすことができるだろうか? もしかして途中で事故でも起こったら、そこは野蛮な原地人のいるまっただなかではないか?
そこには誰も行ったことのない未開の土地が、はてしない砂漠があるのみなのである。そうした場合、彼らはどうするだろうか?
こういう考えは、いままでにもないではなかったが、はるかに遠い将来のことのように思われていたのに、いざ出発となると、想像力は思った以上にふくらんだ。ファーガソン博士はあいかわらず冷静に感動のいろを見せずに、とりとめのないことをしゃべっていた。博士は一座をしめている寂しそうなふんいきを吹きとばそうと試みたが、うまくいかなかった。
博士とその一行に原地人たちがおそってくる恐れもあったので、三人ともその夜はリゾリュート号の艦上で寝た。朝の六時に彼らは船室を離れて、クンベニ島に渡った。
気球は東からの風を受けて、かるく揺れていた。吊り籠をおさえていた砂袋がとりはずされ、そのかわりに二〇人の水夫がロープを握った。ベネット艦長と士官たちも、この荘厳な出発に立ち会うために島に来ていた。
そのときケネディが博士のところまで進みより、手をさしだして言った。
「サミュエル、きみはどうしても出発すると決めたのかい」
「もちろん、決まったことだ、ディック」
「わたしはこの旅行を邪魔しようと、できるだけのことはしたつもりだが?」
「そのとおり」
「だから、その点については悔むことはない。だから、わたしはきみについて行こう」
「そう思っていたよ」と博士は答えたが、その顔にあらわれた感動の色は隠せなかった。
最後の別れのときがきた。艦長と士官たちは、彼らの大胆な友人たちを心から抱擁した。さも誇らしげにうれしそうなジョーも、みんなから抱擁された。その場に居合わせたすべての人が、ファーガソン博士と握手をしたがった。
九時に三人の仲間は吊り籠に乗りこんだ。博士はすぐにバーナーに点火して、温度を上げるために炎を大きくした。地上にまっすぐに立っていた気球は、数分後に上昇しはじめた。水夫たちはおさえていたロープをくりだした。吊り籠は六メートルほど上がった。
「諸君」と、博士は二人の仲間のまんなかに立ち上がって、帽子をとって呼ばわった。「わたしたちのこの気球に、幸福を運んでくれるような名前をつけましょう! ヴィクトリア号と命名します!」
万歳の叫びが、いっせいにとどろいた。
「女王万歳! イギリス万歳!」
このとき気球の上昇力が急に強まった。ファーガソンとケネディとジョーは、最後の別れの言葉を送った。
「ロープを放せ」と、博士が叫んだ。
ヴィクトリア号は空高く、ぐんぐん上昇した。リゾリュート号の四門の大砲から、それを祝う祝砲のひびきがとどろいた。
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十二 デュトゥミ山を越える
空はすみわたり、風はおだやかだった。ヴィクトリア号は四九〇メートルの上空まで、ほとんど垂直に上昇した。気圧計の目盛りが約五センチ下がったことで、それはわかった〔気圧計の目盛りは一〇〇メートル上昇するごとに約一センチさがる〕
この高さまでくると、気球ははっきりと決まった気流に乗って、南西へと運ばれた。旅行者たちの目の下に、なんとすばらしい景色がくりひろげられたことか! ザンジバル島はごくくすんだ色で、まるで大きな平面球形図のようにくっきりと見えた。畑はまるで色見本のような様相を呈していた。樹木が集まっているところは、森や林を示していた。
島の住民たちは、まるで虫けらのように見えた。万歳や人びとの叫び声は、だんだんと大気に吸いこまれていって、船の大砲の音だけが、気球の吊り籠のくぼみのなかで震えていた。
「なんてきれいなんだ!」ジョーがはじめて沈黙を破って叫んだ。
返事は得られなかった。博士は気圧計の変化を観察し、上昇するときのさまざまなこまかいことをノートに記していた。
ケネディはじっと見ていた。でも、なんでも見られるほどのよい目はもっていなかった。
太陽の熱がバーナーの炎上をたすけたので、ガスの膨張はいっそう増した。ヴィクトリア号は七六三メートルにたっした。
リゾリュート号は、たんなる一隻の小舟のようでしかなかった。西方にはアフリカの海岸が、広びろとした泡の線となってあらわれてきた。
「先生、なんとか言わないんですか?」
「見てるんだよ」博士は望遠鏡を大陸のほうに向けたままで答えた。
「わたしとしては、しゃべらずにはいられませんよ」
「かってにしたらいいさ! ジョー、しゃべりたいだけしゃべったらいい」
するとジョーは、びっくりするほど擬音語をしゃべりはじめた。「おお」と「わああ」とか「うん」とか、彼の唇からつぎつぎと出た。
海を渡っているあいだは、この高さをたもっているのがいいと、博士は判断した。そこからは、大きな広がりをもっている海岸線を観察することができた。吊り籠のなかば開いたテントのなかにかかっている寒暖計と気圧計とは、いつでも見られるところにあった。外部に置かれた第二の気圧計は、夜の当直のときに使うことになっていた。
時速一三キロメートルほどの速力で運ばれていくヴィクトリア号は、二時間後に海岸に着いた。博士は、大地に近づくことに決めた。バーナーの炎が小さくされ、まもなく気球は、地上九一・五メートルのところまで下降した。
いまは、アフリカ東海岸のこの地帯の名称であるムリマの真上にいた。密生したマングローブの樹が海岸線を隠していた。ちょうど干潮なので、インド洋の荒波にあらわれている部厚い根が見えた。かつては海岸線だった砂丘が、水平線上にまるみを見せ、ヌグル山が西北に、その頂上をそびえたたせていた。
ヴィクトリア号は、部落のそばを通った。博士が地図を調べてみると、カオルという部落だった。村中の原地人が集まって、怒りと恐怖の叫びをあげていた。矢が空の怪物めがけて放たれたが、いっこうに効果はなく、怪物は無力な怒りの上をゆうゆうと飛んでいた。
風が変わった。しかし博士は、いっこうに心配しなかった。
ケネディもジョーと同じようにおしゃべりになってきた。二人はかわるがわる賞賛の言葉を送っていた。
「馬車なんかくそくらえだ!」と、一人が言った。
「汽船なんかくそくらえだ!」と、もう一人が言うのだった。
「汽車なんかくそくらえだ!」と、またケネディが言った。「この国を横断できても、こんな風景は見られんぞ!」
「気球のことを言ってくださいよ!」と、ジョーが言い返した。「歩くのとはまったく違う、自然が目の下に、自分で姿を見せてくれるんですものね」
「すばらしいながめだ! なんというながめだろう! 見とれてしまう! ハンモックに乗って夢見ているようだ!」
「食事にしますか」と、ジョーが言った。「大空にいると、おなかがすきますね」
「そいつは、いいな」
「ええ! 料理はすぐできますとも! ビスケットと冷凍肉ですからね」
「それからコーヒーは飲み放題」と、博士がつけ加えた。「バーナーの火をちょっと借りたらいい。火は充分あるし。そうしたってべつに火事の心配はないさ」
「なんだかこわいね」と、ケネディがつづけて言った。
「頭の上に火薬庫を持ってるみたいなんだからな」
「そんなことは全然ないさ」ファーガソンが答えた。
「もしガスが燃えたとしても、それは少しずつ減っていくだろう。そしてわれわれは地上におりていくことになる。あんまりいい気持じゃないが、心配はいらんさ。この気球は、すっかり密閉されているんだから」
「じゃあ、食べよう」と、ケネディが言った。
「さあ、どうぞみなさん」と、ジョーがすすめた。「そして先生のおっしゃる入れ方で、コーヒーをつくりましょう。先生、きっとお気に召しますよ」
「ほんとに、ジョーにはいい点がたくさんあるが」と、博士はつづけて言った。「このおいしい飲み物をつくる腕前はたいしたもんだよ。いろんな産地のコーヒーをまぜてつくるんだが、その割合はどうしても教えてくれないんだ」
「いいですとも! 先生、ここは空中なんですから、喜んでわたしの調合を伝授しますよ。モカとブルボンとリオ=ニュネズとを同じ分量でまぜるだけですよ」
しばらくすると、湯気のたっている三つのカップが運ばれてきた。そして和気あいあいとした雰囲気のなかで、おいしい栄養たっぷりの食事が終わった。それから各人それぞれの部署にもどって観察をつづけた。
その土地は、すばらしく肥沃なようだった。まがりくねった狭い道が、みどりの円天井の下で見えなくなっていた。タバコを栽培した畑、とうもろこしの畑、大麦の取り入れどきの畑の上を飛んだ。あちこちに田んぼがあって、稲《いね》がまっすぐな茎に、あかね色の花をつけていた。杭の上の大きな檻《おり》のなかに、羊やヤギが閉じこめられていた。そうしておかないと、ヒョウの牙にやられてしまうからだった。うっそうと生いしげった草が、一面に咲きみだれていた。いくつかの部落を過ぎ、そのたびごとに叫び声と驚きの声とがくりかえされた。ファーガソン博士は用心して、矢のとどかない高さを飛んだ。原地人たちは隣接している小屋のまわりに集まって、旅行者に向かって役立たない呪いの言葉を投げかけていた。
正午になって博士は地図を調べ、ウザラモ部落の上空にいることを確かめた〔「ウ」はこの付近の地方語で地方を意味する〕。野原にはヤシの木やパパイヤの木がはえ、綿の木もあった。ヴィクトリア号はそれらの樹木の上を、たわむれるように飛んでいった。ここはアフリカなのだから、これらの植物は自然に生えたものだろうと、ジョーは思った。ケネディは、撃ってくれと言わんばかりのウサギやウズラが目についてならなかった。しかし獲物を拾っていくことができないんだから、撃ったところで弾丸がむだになるだけだろう。
三人の搭乗者は、時速二〇キロの速さで進んでいた。そしてまもなく、東経三八度二〇分のトウンダ部落の上空にさしかかった。
「ここだよ」と、博士が言った。「バートンとスピークが激しい熱病にかかって、探検ももう終わりだと思ったところだ。海岸線からほんのわずかしか離れていないのに、疲れと食糧の不足とが猛烈に始まっていたんだよ」
じじつ、この地方には、マラリアが一年じゅうはびこっていた。博士は、強烈な太陽がその毒気を吸いあげているこの湿地帯で、病気から逃げるためには、ただ風船の高度をあげるだけでよかった。
ときどき、夜が来るのを待ってふたたび道をつづけるために、『クラール』で休んでいる隊商を見かけた。『クラール』というのは垣根や樹木でかこまれた広い空地で、旅商人たちはここへ入って、野獣ばかりでなく原地人たちの掠奪から身を守るのである。原地人たちがヴィクトリア号を見て、ちりぢりに逃げていくのが見えた。ケネディはもっと近づいてみようと言ったが、サミュエルはいつもそれに反対した。
「ここの酋長はマスケット銃〔火なわ銃の一種〕を持ってるぞ」と、博士は言った。「この気球は、標的として弾丸を命中させるのに恰好のしろものだろうよ」
「弾丸を一発くらっただけで墜落しますかね」と、ジョーがたずねた。
「すぐにはしないさ。でも、その穴が大きくなっていって、そこからガスが全部出てしまうな」
「では、この異教徒たちに敬意を表して、すこし離れていることにしましょう。わたしたちが空を飛んでいるのを見て、彼らはどう考えるでしょうかね? きっとわたしたちを神とあがめるでしょうね」
「あがめさせておくさ、でも遠くからだ」と博士は答えた。「そのほうが、よろしい。見てごらん、景色が変わってきたろう。部落がずっとまばらになって、マンゴーの樹も見えなくなった。このへんには生えないんだ。起伏が多くなってきたろう。もうじき山に入る」
「ほんとうだ」と、ケネディが言った。「あっちのほうに、どうやら山らしいものが見える」
「西のほうだね……あれはウリザラ山脈だ。高いのはたぶんデュトゥミ山だろう。あれを越えてから、今夜とまるところを探すんだな。バーナーの火を大きくしよう。一五〇メートルほどのぼらなければならんからな」
「それにしても、先生の考案はすばらしいですね」と、ジョーが言った。「操作がむずかしくないし、疲れないし。ただ栓をひねりゃいいんですものね」
「これで、らくになった」気球が上昇したとき、狩猟家が言った。「あの赤い砂に太陽が反射して、やりきれなかったな」
「すばらしいしげみですね!」と、ジョーが叫んだ。
「自然のままなんでしょうが、じつにきれいですね! こんなのが一ダースもあったら、りっぱな森ですね」
「バオバブの樹だよ」と、ファーガソン博士が答えた。
「ごらんよ、あれなんか、幹のまわりが三〇メートルはあるな。一八四五年にフランス人のメザンが殺されたのは、あの樹の根元かもしれないぞ。なぜなら、われわれはちょうどデジェ・ラ・ムホラの真上にいるんだから。彼は一人で、この村にやってきたんだ。そうしてこの部落の酋長につかまって、一本のバオバブの根元にゆわかれた。その野蛮な原地人は、まずゆっくりと彼の手足を関節のところから切りはなした。戦闘の歌がうたわれているあいだにだ。それから、のどを切られた。そして切れなくなった刀をとぐために一休みした。だが刀は使わずに、この不幸な男の頭をひっこぬいたのだった! かわいそうに、このフランス人は二六歳だった!」
「フランスは、このような犯罪に対して復讐しなかったのかい?」と、ケネディがたずねた。
「いや、フランスは要求したさ。ザンジバルの太守は、虐殺者をつかまえようとして、あらゆる手をうった。でも、うまくいかなかった」
「途中でとまらないようにしてくださいよ」ジョーが言った。「のぼりましょう、先生、もっとのぼりましょう、そうしてください」
「もちろんだとも、ジョー。デュトゥミ山が目の前にそびえているものね。もしわたしの計算が違っていないなら、夕方七時前にはあの山を越えられるだろうよ」
「夜は進まないのかい?」狩猟家がたずねた。
「ああ、なるべくならね。用心して見張っていれば危険はないだろう。だが、アフリカを横断するだけが目的じゃない、観察しなければならないからね」
「いままでは、なにも文句言うことはありませんでしたね、先生。土地はよく耕されていて、豊かな土地だし、砂漠なんてありゃしない! 地理学者たちの言うことを信じましょう!」
「待っててごらん、ジョー。そのうちわかるよ」
夕方の六時半ごろ、ヴィクトリア号はデュトゥミ山の目の前に来た。飛び越えるためには、九〇〇メートル以上のぼらなければならなかった。そのためには温度を一八度〔摂氏温度で一〇度〕あげればよかった。博士は気球を、まさに手を動かすだけで操縦できると言っていいだろう。ケネディは、越えなければならない障害物を博士に教えていた。ヴィクトリア号は山とすれすれに空中を飛んでいった。
八時には、気球は反対側の斜面をくだっていった。その傾斜は、はるかにゆるやかだった。錨が吊り籠から投げられた。一つの錨が大きなサボテンの枝にぶつかって、それにしっかりひっかかった。すぐにジョーが綱をつたわってすべっていき、それをしっかりと固定した。絹の縄ばしごが、彼のところまでのばされた。彼はかるがるとそれをのぼってきた。気球は東の風をよけているので、ほとんど動かなかった。
夜食の用意ができた。旅行者たちは空中旅行で興奮したので、食糧品に大支出を与えた。
「きょうは、どういうコースを飛んだんだね?」ケネディが、もぐもぐやっていた一片をぐっと呑みこんで、たずねた。
博士は月を観察することによって、いまいる位置を決定した。それからガイド用に持ってきた精密な地図を調べた。それは彼の学友ペーターマンから贈られたその著書、ゴータで刊行された『アフリカにおける最近の発見』についている地図であった。この地図は、博士の全行程に大いに役立つにちがいなかった。というのは、それには、バートンとスピークの報告による大湖水地方、バルト博士の報告によるスーダン方面、ギヨーム・ルジャンによる低セネガル地方、ベーキー博士によるニジェール川のデルタ地方の案内が記されてあったからである。
ファーガソンはまた、ナイル川に関していままでにわかったことすべてを一冊にまとめた『水流および流域調査から見たナイル川の源泉、付記ナイル川発見の歴史』神学博士チャールズ・ビーク著を持っていた。
彼はなお、ロンドン王立地理協会の年報にのった詳細な地図を持っていた。これにはいままで発見された地方のすべての点に関してあますところなく記述されてあった。
この地図によって調べてみると、きょうは経度にして二度、つまり西に一九三キロ大陸に入ったことがわかった。
ケネディは、コースが南に向かっていると指摘した。しかしこの方向は、いままでの先駆者の足跡をできるだけさぐってみようと思っている博士を満足させた。
その夜の三人の分担が決まった。各人かわるがわる他の二人の安全を守ってやるためにである。博士が九時から、ケネディが真夜中から、ジョーが午前三時から当直についた。
それゆえ、ケネディとジョーとが毛布にくるまってテントの下でからだをのばし、やすらかに眠っているとき、ファーガソン博士は不寝番をしていたのである。
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十三 ケネディの発熱と博士の医術
おだやかな夜だった。ところが土曜の朝、ケネディが朝起きると、からだがだるくて寒気がすると訴えた。天候が変わった。大雨をたくさん含んでいるような厚い雲が空をおおっていた。このズンゴメロは寂しい土地であって、雨がいつも降っているのである。降らないのはたぶん一月の二週間ほどだけだった。
激しい雨が、まもなく旅行者におそいかかった。彼らの下方では、『ヌラー』と呼ばれる一時的な急流によって道がはばまれ、そのうえ流れてきたトゲ草や巨大なツタがひっかかって、通行できなくなっていた。そしてバートン大尉が報告している硫化水素の匂いが、はっきり感じられた。
「彼の言うところでは」と、博士が言った。「やぶの一つ一つに死体が隠されているようだとあるが、まったくそのとおりだね」
「いやなところですね」と、ジョーがそれに応じた。
「ケネディさんはこんなところで一夜を過ごすのは、あんまりからだによくないでしょうね」
「ほんとうにそうだ、熱もだいぶあるようだ」と、狩猟家が言った。
「たいしたことはないよ、ディック。この付近は、アフリカでも指おりの不健康地帯なのだ。こんなところに長居は無用。さあ出発だ」
ジョーは器用な身軽さで錨をはずし、縄ばしごをつたわって吊り籠にもどった。博士は勢いよくガスを膨張させた。ヴィクトリア号は舞いあがり、たいへん強い風に吹き流された。
原地人小屋のいくつかが、この悪臭をはなつ靄《もや》のなかに、どうやら見えてきた。景色もだいぶ変わってきた。だいたいアフリカでは、健康に悪い地域はほんの小部分で、隣り合ってたいへん暮らしいい土地が広がっているのである。
ケネディはひどく苦しそうだった。熱のために彼のたくましさも打ちひしがれていた。
「でも、病気なんかになっている場合じゃない」毛布にくるまり、テントによこたわっている彼は言うのだった。
「すこしのがまんだ、ディック、もうすぐ良くなるよ」と、ファーガソン博士は答えた。
「良くなるって! ほんとかね! サミュエル、ほら、いつか旅行のときにたちどころにきいた丸薬を持ってたら、すぐにくれよ。目をつむって飲むから」
「もっといいのがあるよ、ディック。もうじき一銭もかからない解熱剤をあげるよ」
「どうするって言うんだい?」
「しごく簡単さ。雨をふらせている雲の上に出るだけなんだ。そしてこのいやな臭気から逃げりゃいいんだ。水素を膨脹させるから、一〇分ほど待ってくれ」
旅行者たちがこのしめった地帯から抜けだすためには、一〇分とかからなかった。
「もうちょっと待て、ディック。きれいな空気と太陽の効果が、もうじきわかるからな」
「これは、たいした薬だ! それに、おいしい!」と、ジョーが言った。
「なあに! あたりまえな空気じゃないか!」
「ディックをいい空気のところへ送りこんだのさ、ヨーロッパでなら毎日でも吸えるがね。もしマルティニック島でなら、黄熱病にかからないためにピトン山に登らせるところさ」
「まさに、そのとおり! この気球は天国だよ」すでにだいぶらくになったケネディは言った。
「どっちにしても、天国へ連れてってくれますよ」とジョーがまじめくさって、まぜかえした。
そのときの吊り籠の下に広がっている雲のかたまりは、奇妙なながめだった。それは重なり合って流れていて、太陽の光を反映しながら、美しい輝きのなかに溶けこんでいた。ヴィクトリア号は、一二〇〇メートルの高度にたっしていた。寒暖計は気温の低下を示していた。もう大地は見えなかった。八〇キロメートルほど西に、ルベホ山の頂上がきらめいていた。この山は東経三六度二〇分のところにあって、ウゴゴ地方の境界線をなしていた。風は時速三二キロで吹いていた。しかし旅行者たちには速度感は感じられなかった。振動がすこしも感じられないので、動いているという感じがなかったのである。
三時間後に、博士の予言はあたった。ケネディの熱からくる震えはとまって、食欲も出てきた。
「これで、硫酸キニーネをぶちこんでやったぞ」さも満足そうに、彼は言った。
「最後に、年をとったら、わたしは大空に引きこもりますよ」と、ジョーは言った。
午前一〇時ごろ、明るい空になつた。雲に切れまができて、大地がまた見えてきた。ヴィクトリア号は、すこしずつ下降していった。ファーガソン博士は、東のほうに流れる気流を探していた。彼は地上一八三メートルのところで、その気流に出会った。大地の起伏が目立ちはじめ、山岳地帯といってよかった。ズンゴメロ地方が、最後のヤシの生える地帯として、東に消え去っていった。
まもなく山の峰々が、そびえ立って見えてきた。いくつかの頂上が、あちこちに顔をだしていた。思いもよらずにあらわれたこれらの円錐を前にして、一瞬たりとも油断せずに見張っている必要があった。
「暗礁のまっただなかにいるようなもんだね」と、ケネディが言った。
「安心したまえ、ディック、座礁はしないから」
「とにかく、気持のいい旅行ですね!」と、ジョーもやりかえした。
じじつ、博士は、じつにたくみに気球を操縦した。
「もしこの水びたしの土地を歩かなければならないとしたら」と、彼は言った。「不健康な泥にまみれて、まいっているよ。ザンジバルからここに来るまでに、荷物を運ぶ馬の半分は疲労で死んでるだろうね。人間だって幽霊のようにやせほそって、絶望のあまりつきつめて考えるようになるだろうね。ガイドやポーターたちとは喧嘩ばかりしていて、とめどのない彼らの暴力の前に身をさらけだしていると感じるだろうね。昼間はやりきれない、むし暑さ! 夜はまた、身を切るような寒さになることがよくある! アブには刺されるしね。どんなに厚着をしていてもその上から刺すというすごいやつで、刺されると気がおかしくなるそうだ! おまけに野獣と野蛮人がいるものなあ!」
「そんな目には、会いたくありませんね」と、ジョーはぶっきらぼうに返事した。
「誇張して言ってるんじゃないよ」ファーガソン博士はなおつづけた。「大胆にもこの付近を探検した旅行者の書いたものを読んでごらん。涙が出てくるよ」
一一時ごろ、イマンジェの盆地をこえた。これらの丘のあちこちに散在している部落からは、ヴィクトリア号めがけて弓矢によるむだな威嚇が示された。気球はようやくルベホ山の手前にある、大地の最後の高まりに到着した。これがウサガラ山塊のなかでもっとも高い第三の山脈である。
旅行者たちは、この地方の山岳の模様を完全に知ることができた。最初の支脈をなしているデュトゥミ山を入れて三つの支脈があり、どれもそれらのあいだに縦に長く広がる広大な平原によって分かたれている。そびえたつ峰々の頂上は平らになっていて、それらの狭間《はざま》には漂石《ひょうせき》と丸石がごろごろしていた。これらの山塊のザンジバルの海岸側に面する斜面はけわしくて、西側のほうはなだらかな台地になっていた。土地が低くなるにつれて肥沃な黒土となり、植物が生いしげっている。たくさんの水の流れが東のほうへと落ちこみ、それらは大カエデ、タマリンド、ヒョータン、シュロなどの巨大な森のなかを流れるキンガニ川にそそいでいる。
「注意!」とファーガソン博士が叫んだ。「ルベホ山に近づいているが、このルベホという名は、このへんの言葉で『風の通り道』ということだ。あのするどい稜線を越えるには、もっと高くのぼったほうがいいだろう。わたしの地図が正確なら、あと一五〇〇メートル以上のぼらねばなるまい」
「そんなに高いところまで、これからもちょいちょいのぼらなければならないんですか」
「いや、めったにない。アフリカの山は、ヨーロッパやアジアにくらべれば低いからね。いずれにしても、このヴィクリトア号なら、この程度の山をこえるのはなんでもないさ」
まもなくガスは、熱を加えられたので膨脹した。水素が膨脹しても危険なことはなにもない。この大きな気球の容量の四分の三しか入っていないからである。気圧計は二〇センチ近く下がって、高度一八三〇メートルであることを示していた。
「このように、どんどん上がっていくんですか」と、ジョーがたずねた。
「地球のまわりには、一万一七〇〇メートルの高さにまで、空気があるんだよ」と、博士は答えた。「だからこのくらい大きな気球なら、もっとあがれるよ。ブリオシとゲイ・リュサックは、その高さまでのぼったことがあるんだ。だが、口と耳から血がふきだしたよ。呼吸のできる空気が不足するからさ。何年か前に、勇敢な二人のフランス人バラールとビクシオが、思いきって高度まで上昇したことがあった。しかし彼らの気球は破裂した……」
「で、その人たちは墜落したのかね」と、勢いこんでケネディがたずねた。
「たぶんね! だが彼らは学者だから、その用意がしてあったので、べつに怪我はなかった」
「いいでしょう!」と、ジョーが言った。「先生方がその人たちのように、また落ちてみようとしても、それは勝手です。でもわたしは学者じゃありませんからね、高くも低くもない、ちょうどいいところにいたいもんですな。大それた野望はもたないほうがいいですね」
一八三〇メートルの高度までくると、さすがに空気の密度がうすくなったことがはっきりわかった。音響が通らなくなる、声がよく聞きとれない。物がはっきり見えなくなる。あんまりはっきりしない大きな物しか見えないのである。人間や野獣は、ぜんぜん見えなくなる。道は紐になり、湖水は池にしかすぎない。
博士とその仲間たちは、からだに異状をおぼえてきた。たいへん速い気流に乗って、けわしい山々をこえたからである。それらの山頂には大きな雪の板があって、見る者の目を驚かした。この驚嘆すべきながめは、創世記の太古の水のなせる業《わざ》であった。
太陽は天頂に輝いていた。その光は垂直に、この人跡まれな山頂に落ちていた。博士は正確に、それらの山の姿をスケッチした。ほとんど一直線に四つの峰がならび、北の峰がいちばん高かった。
まもなくヴィクトリア号は、樹木がしげっていて、たいへん濃いみどりでおおわれているルベホ山の反対側の斜面をくだっていった。それからウゴゴの国の近くにある砂漠のような峰や谷の上を通った。さらに行くと、はるか下に、太陽に照りつけられてひび割れした黄色い平野がつづく。塩分をふくんだ樹や、とげのあるサボテンが、あちこちに生えている。
はるか彼方には森があって、樹林が地平線をいろどっていた。博士は地面に近づき、錨が投げられた。やがてその一つが、大きなカエデの枝にひっかかった。
ジョーが急いで樹まですべっていって、錨を注意ぶかく固定した。博士はバーナーの火を消さないで、いつでも飛びあがれるように空中に気球を浮揚させておいた。風が、まったく急に、凪《な》いでしまったのだ。
「さあ」と、ファーガソンが言った。「銃を二挺、とってきたまえ、一つはきみのに、一つはジョーだ。二人でカモシカのうまい肉をとってきてくれ。それが、われわれの夕飯だ」
「狩りか!」ケネディが叫んだ。
彼は吊り籠からはしごで、地上におりたった。ジョーは枝から枝へと飛びうつって、地上におりると、からだをのばしてケネディを待った。二人の仲間の体重がなくなったので、博士はバーナーの炎をすっかり消した。
「飛んでいかないでくださいよ、先生」と、ジョーが叫んだ。
「心配するなよ。気球はしっかりとまっているからな。わたしはノートを整理することにする。獲物をたくさんたのむよ、用心してな。それに、わたしはここからあたりを見張っているからな。なにかあやしいことがあったら、カービン銃を一発放つから、そうしたらすぐにもどってくるように」
「よし、わかった」と、猟師は答えた。
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十四 青いカモシカ
暑さでひび割れた粘土質のその不毛の土地は、かさかさして砂漠のようだった。あちこちに隊商の来た跡が残っていて、なかば腐蝕した人畜の白骨が、ほこりのなかにうずもれていた。
ディックとジョーは半時間ほど歩いて、ゴムの木の林に入った。指は引き金に、あたりに気をくばりながら進んだ。なにが飛びだしてくるか、わからなかった。銃の専門家ではないが、ジョーも上手に銃を使った。
「歩くってのは気持がいいものですが、ここはどうもありがたくありませんね」あちこちにころがっている石英石につまずきながら、ジョーが言った。
ケネディはだまるように仲間に合図をして待ち受けた。猟犬なしで感じとらねばならなかった。いくらジョーがすばしこくっても、ブラク〔毛の短い猟犬〕やグレーハウンドのような鼻はもっていなかった。
一〇頭ほどのカモシカの群が、沼のようによどんでいる急流の河床で水を飲んでいた。これらの美しい動物は、危険をかぎつけたらしく、不安そうだった。水をひと飲みするたびごとに、猟師たちの匂いを風のなかにかぎとろうと鼻孔を動かして、かわいらしい頭をあげていた。
ケネディは、茂みから茂みへとつたわっていた。一方ジョーは、その場にとどまっていた。射程距離に入ったので、発射された。群は、あっというまに姿を消した。一頭の牡のカモシカが肩を撃たれて倒れていた。ケネディは、獲物におどりかかった。
それはブロー=ボックという種類の、すばらしく大きな青みがかったやつで、灰色の毛並にブルーの線がはしり、腹と足の内側は雪のように白かった。
「うまく仕とめた!」猟師は叫んだ。「これはとても珍しいカモシカなんだ。毛皮をもっていきたいもんだね」
「へえ! ディックさん、そんなことを考えてるのですか」
「そりゃそうさ。このすばらしい毛の色を見てごらんよ」
「でもファーガソン博士は、こんなお荷物は承知しないでしょうね」
「おまえの言うとおりだ、ジョー。でも、このきれいな動物をまるまる捨ててくのは残念だな」
「まるまるですって! 違いますよ、ディックさん。おいしい肉は全部切りとっていきます。もしお許しくださるなら、ロンドンの肉屋の組合の役員にも負けないように、うまくやってみせますとも」
「すきなように、やったらいいさ。だが、わたしだって猟師だからな、獲物をばらしたり皮をはいだりすることはうまいんだぜ」
「もちろん、そうでしょう、ディックさん。じゃあ、かまどを作るのに石を集めてください。それから枯枝をたくさんとってきてください。おき火さえつくってしまえば、すぐ片づきます」
「そんなに長くはかかるまい」と、ケネディがそれに応じた。
彼はただちに、かまどをつくりにかかった。すこしたったら、それがあかあかと燃えてきた。
ジョーのほうもカモシカのからだから、一ダースほどのあばら肉や、やわらかなヒレ肉をとった。それらはまもなく、おいしそうな焼肉に変わった。
「きっとサミュエルが喜ぶぜ」と狩猟家が言った。
「ところでディックさん、わたしがどういうことを考えてるかわかりますか」
「きっと、いま作っているビフテキのことだろう」
「ぜんぜんちがいますよ。もし気球が見つからなかったら、二人はどんな顔をするかっていうことですよ」
「へえ! なんてことを考えるんだ! 博士がわれわれを見捨てるとでも思ってるのかい」
「そうじゃなくて、もし錨がはずれでもしたら?」
「そんなことは、ありっこないさ。それにサミュエルのことさ、また降りてきてくれるよ。うまく操縦してくれるとも」
「でも風に乗ってしまったら、わたしたちのほうへもどれないでしょう?」
「さあ、ジョー、そんなことを考えるのはやめよう。たのしいことじゃないからな」
「ああ! この世のことは、起こるべきことは当然起こるのです。ですから、どんなことでも起こりますよ、そこであらゆる場合を予測していなければ……」
そのとき、一発の銃声がとどろいた。
「あっ!」と、ジョーが叫んだ。
「わたしのカービン銃だ! 音でわかる」
「合図です!」
「危険がせまってるのかな?」
「きっと、先生のほうにでしょう」と、ジョーが言った。
「もどろう!」
猟師たちは、すばやく狩の収穫を集めた。そして目じるしにジョーが折っておいた枝をたよりに道を急いだ。樹木がしげっているので、それほど遠くはないはずのヴィクトリア号がなかなか見つからなかった。
二発目の銃声が聞こえた。
「急ぎましょう」
「なるほど! もう一発撃ったな」
「なにかをふせいでいるんですね」
「急ごう」
彼らは全速力で走った。森のはずれまで来た。彼らはまず、ヴィクトリア号がその場にあるのを見た。それから博士が吊り籠のなかにいた。
「いったい、どうしたんだい?」ケネディがたずねた。
「たいへんだ!」ジョーが叫んだ。
「なにか見えたか」
「あそこで、黒人たちが気球をとりかこんでいます」
じじつ、そこから二キロメートルほど離れたカエデの木の下で、三〇人ほどの男が手をふりあげ、わめき、おどりあがっていた。何人かは木によじのぼり、もっとも高い枝にまで達していた。危険は切迫していた。
「先生が見えない」ジョーが叫んだ。
「おい、ジョー、落ち着いて、よく見るんだ。われわれはこの腕で、一度に四人、あの黒人たちをやっつけられるんだ。さあ、行こう!」
二人は全速力で、一キロ以上走った。そのとき、またしても銃声が吊り籠から放たれた。それは、錨をつないだ綱をよじのぼってきた大きなやつに命中した。生命を失った肉体は枝から枝へころがるように落ち、地上から六メートルほどのところで枝にひっかかり、二本の手と足で空中にふれていた。
「へえ!」足をとめて、ジョーが言った。「あいつ、なんにひっかかったんだろう」
「そんなこと、どうでもいい、走ろう! 走ろう!」ケネディがどなった。
「ああ、ケネディさん!」ジョーが笑いだした。「しっぽですよ、しっぽ、ひっかかったんです。サルですよ! なんだ、サルなのか」
「人間より、まだましだな」ケネディはそう答えて、わめきたてている群のなかに突進した。
それは凶暴で残忍で、見るからに恐ろしい犬のような鼻づらをしているので『犬づらヒヒ』というヒヒの群だった。しかし数発撃っただけで、なんなく片づいた。このしかめっつらをした連中は、何匹かの仲間をおきざりにして逃げだした。
すぐにケネディは、はしごに飛びついた。ジョーはカエデによじのぼって、錨をはずした。吊り籠が彼のところまでさがった。ジョーはなんなくそれに飛びこんだ。数分後にヴィクトリア号は空高く上昇し、順風に押されて東のほうへ進んだ。
「えらいめにあいましたね!」と、ジョーが言った。
「まあ、サルでよかったよ!」と博士は答えた。
「遠くから見ると、人間そっくりだよ、サミュエル」
「近くからだって、そうですよ」と、ジョーが言いかえした。
「どっちにしても」と、ファーガソンがつづげた。「サルが相手などと言ってはいられなかった。もし奴らにゆすられて錨がはずれでもしたら、風のまにまにどこかへ連れ去られてしまうところだった!」
「わたしもそう言ったでしょう、ケネディさん」
「おまえの言ったとおりだったよ、ジョー。ところで、うまくいったが、あのとき作ったカモシカのビフテキはどうした、見ているだけで、よだれがたれてきたやつさ」
「そうだね、カモシカの肉はうまいからな」と、博士もそれに応じた。
「さあ、味わってみてください、食事の用意はできてますよ」
「たしかに、猟獣肉には野性の香りがするね、いいもんだな」と、狩猟家が言った。
「うまい! 死ぬまでカモシカの肉を食べつづけたいもんだ」ジョーは、口一杯ほおばりながら答えた。「これで消化をたすけるためにグロッグ〔ラム酒に湯と砂糖を加えた飲み物〕の一杯もありゃあ、言うことありませんや」
ジョーはその飲み物をつくった。そして一同、静かにそれを賞味した。
「いままでの旅は、まあ、まあまあでしたね」と、ジョーが言った。
「快適だよ」と、ケネディが言い返した。
「へえ、ディックさん、ディックさんはわたしたちと一緒に来たことを後悔しちゃいないんですか」
「おれの行くのを邪魔するやつがあったら、そいつの顔が見たいもんだね!」と、狩猟家は断固として言い切った。
そのとき、午後四時だった。ヴィクトリア号は、たいへん速い気流に乗った。大地がすこしずつ高くなってきた。まもなく気圧計の柱は、標高四六〇メートル近くにまで達していた。そこで博士はガスをかなり膨脹させて気球を高くあげなければならないので、バーナーはずっと燃えっぱなしだった。
七時ごろ、ヴィクトリア号は、カニエメ盆地の上を通った。バオバブとヒョータンの樹が見える部落で、その一六キロメートルにもおよぶ広い開墾地は、博士にはすぐにそれとわかった。ここにはウゴゴの国の酋長の一人の住居があって、おそらく文明の風習がすこしは入りこんでいるらしく、身内の者を売るようなことはめったに見られないが、人間と動物が一緒に、枯草の堆積のような柱のないまるい小屋のなかに住まっているのである。
カニエメを出ると、道は乾ききった石ころの多い土地になる。しかし一時間ほど飛ぶと、土地が肥沃になり、みどり色が勢いをもりかえして、ムダブルももうまじかい。風も日没とともに凪《な》いで、大気は眠っているようである。博士は高度を上げたり下げたり気流を探したがむだだった。風ひとつないこの大気のなかで、彼は空中に浮かんだままその夜を過ごそうと決めた。でも彼は安全のために三〇〇メートルほど上昇した。ヴィクトリア号は、そこで停止した。おそろしく星をちりばめたその夜は、まったく静まり返っていた。
ディックとジョーは毛布にゆったりとくるまって、ふかい眠りにおちいった。そのあいだ博士が見張りにたって、真夜中にスコットランド人と交替した。
「もしなにかちょっとでもおかしいことがあったら起こしてくれよ」と、博士が言った。「とくに気圧計から目を離さないように。それが、われわれの羅針盤だからな」
夜は寒かった。昼の気温と二七度も違うのである。夜がふけるにつれて、動物たちのコンサートがはじまった。飢えと渇きが、その隠れ家から彼らを追いたてるのである。カエルが、ソプラノの音をかきたてた。それにシャカール〔北アフリカや南アジアにいる山犬〕のかん高い吠《ほ》え声がまじって聞こえる。ライオンの圧するようなバスが、この生きたオーケストラの低音部を受けもっている。
夜が明けて、その部署にもどったファーガソン博士は、羅針盤を調べた。風の向きが夜のあいだに変わったことに気づいたのである。ヴィクトリア号は一二時間ほど前から、東北に四八キロほど流されていた。そしていまは、石だらけで、ロバの背中のように起伏がつづき、きれいな光沢を放つ閃長《せんちょう》岩がいたるところに見られるマブングルの上空を飛んでいた。カルナック〔エジプトのナイル川のほとりにある村〕の岩のような円錐形の石塊が、ドルイド教の巨石墳《ドルメン》のように、あちこちに屹立《きつりつ》していた。水牛や象のおびただしい骨が、白く散らばっていた。樹木はほとんどなく、ただ東のほうに深い森があって、そこにいくつかの部落を隠していた。
七時ごろに、大きなカメの背中に似た、幅三キロメートルほどのまるい岩山が見えた。
「いいコースをとっている」と、ファーガソン博士が言った。「あれは、ジホウエ=ラ=ムコア山だ。あそこでちょっととまって、バーナーの膨脹装置に必要な水を補給しよう。どこかに錨をかけなければ」
「木がまったくないな」と、狩猟家が応じた。
「でも、やってみよう。ジョー、錨を投げろ」
気球はすこしずつ上昇力をなくして、地面に近づいた。錨が走った。一本の爪が岩の割れ目にひっかかって、ヴィクトリア号は動かなくなった。
そうしてとどまっているあいだでも、バーナーの火を全然消すことができないとは、信じられないだろう。気球が浮かんでいる高さは、標高何メートルと計算されてあったのだ。ところがこのあたりはかなり高く、標高一八〇メートルから二一〇メートル近くにおよんでいた。だから放っておいたら、気球は地面よりも下に下降してしまうことになる。それゆえガスを膨脹させて浮かんでいなければならなかったのである。ただ、もし風がなくて、吊り籠を地上におろすことができたときは、かなり重量が減るわけだから、そのときはバーナーの力を借りなくても、気球は浮かんでいられたろう。
地図によると、ジホウエ=ラ=ムコアの西側の斜面には大きな沼があった。ジョーは四五リットル入る水桶を持って、一人で行った。彼はひとけのない小さな部落からそれほど遠くないその沼をすぐ見つけて、水をくんだ。そして四、五分もたたないうちにもどってきた。べつに変わったことはなにも見なかったが、ただ象をとる大きな穴がいくつかあっただけだった。彼ももうすこしで、その穴に落ちこむところだった。そこにはなにかの動物の骨が、なかばむしばまれてよこたわっていた。
彼はこの遠足から、サルががつがつ食べていたカリンの実のようなものを持ち帰った。博士が見ると、それはジホウエ=ラ=ムコアの西側にたくさん生えているムベンブーの実だった。ファーガソンはジョーを待っているあいだ、気が気でなかった。なぜならほんのちょっととどまっただけだが、この無愛想な土地ではなにが起こるかわからなかったからである。
水を積みこむのは、それほどむずかしいことではなかった。吊り籠を地面すれすれにおろしたからである、ジョーが錨をはずした。そして身軽に主人のわきに乗りこんだ。すぐにバーナーの炎が大きくされ、ヴィクトリア号はふたたび空中にまい上がった。
気球はそのとき、カゼフから一六〇キロほどのところにいた。そこはアフリカ内陸の重要な部落で、風が南東から吹いているから、旅行者たちはたぶんその日のうちにそこに行きつくことができるだろう。気球は時速二二・五キロで飛んでいった。気球の操縦が、たいへんむずかしくなった。高く飛ぼうとするなら、ガスを強く膨脹させなければならなかったからである。この辺は、土地自体が高くて、九〇〇メートル以上ある。そこで博士はできるだけ膨脹させることを避けて、まがりくねっている急斜面に沿って、巧みに気球を操縦していった。気球はトヘンボとトゥラ=ウェルスの部落の上空を、かすめて飛んでいった。トゥラ=ウェルスはウニャムウェジ地方にあって、樹木がたいへん大きく育つところであり、なかでもサボテンが大きく育っている。
二時ごろ、すばらしいお天気に恵まれ、かすかな風のそよぎも呑みつくしてしまうような灼熱の太陽に照りつけられて、ヴィクトリア号は海岸から五六三キロメートルほど離れたところに位置するカゼフの町の上空を飛んでいた。
「われわれは朝の九時にザンジバルを出発したね」と、メモを見ながらファーガソン博士が言った。「そして二日間で八〇〇キロの行程を飛んでここまで来た。バートンとスピークの両大尉は、同じ行程を四か月もかかったんだよ」
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十五 カゼフ
中央アフリカの重要な地点であるカゼフは、町ではない。じじつ、内陸には町などないと言ってもいいだろう。カゼフは、六つの広い低地が集まったにすぎない。そこには原地人の小屋や、奴隷用の小屋があって、小さな流れや、よく耕された囲い地があった。タマネギ、サツマイモ、ナス、カボチャ、さらにすばらしくおいしいキノコがみごとに育っている。
ウニャムウェジという地は、アフリカの肥沃ですばらしい囲い地であるラ・リュース地域に属していた。その中央にウニャネムベがあり、そこには純粋なアラブ人であるオマン族の数家族がのんびり生活していた。
彼らは長年ここにいて、アフリカの奥地とアラブとの貿易に従事していた。彼らはゴム、象牙、さらさ、奴隷などを取引きしていたのである。彼らの隊商は赤道地帯を行きかい、またこれらの富める商人のために、ぜいたくな品じなを求めに海岸にまで赴くのである。商人たちは女や召使にかこまれ、この魅力的な土地で笑ったり、煙草を吸ったり眠ったり、いつも横になっていて、身動きもしないような怠惰な生活を送っていた。
これらの低地のまわりには、たくさんの原地人の家や、市がたつ広場や、大麻や朝鮮朝顔の畑があって、またみごとな樹木が生いしげり、すずしい木陰をつくっていた。これがカゼフだ。
ここは隊商の集まる場所でもある。南から隊商は奴隷と象牙とを運んでくる。西からの隊商は大湖水地方の部落のために、木綿やガラス細工を持ってくる。
このようにして市場は、いつも活気にあふれているのである。混血児のポーターたちの叫び声、太鼓や角笛のひびき、牝ラバのいななき、女たちの歌声、子どもたちの泣きわめく声がまじり合って、いやはや、なんとも言えぬ騒ぎである。こうした田園交響楽の拍子をとるように、ジェマダール〔隊商の隊長〕のむちの音がひびく。
市場には秩序がなく、というよりも魅力的な無秩序が支配していて、はでな布地や、ガラスの装身具や、象牙や、サイやサメの歯、蜂蜜、煙草、木綿などがならべられてある。
とつぜん、その騒ぎ、動き、叫び声がやんだ。ヴィクトリア号が空中に姿をあらわし、威風堂々と滑翔《かっしょう》し、しだいに高度を低めて、まっすぐにおりてきた。男、女、子ども、奴隷、商人たち、アラブ人も黒人もみんな逃げ去って、『草ぶき丸屋根の家』や、掘立小屋のなかに身を隠した。
「サミュエルと」と、ケネディが言った。「もしこんなふうにしていると、そのうちあの連中と商売をしなくてはならなくなるぞ」
「でも、とても簡単に商売をする方法がありますよ」と、ジョーが言った。「静かに舞いおりて、売り手と交渉なんかしないで、上等な品だけ頂戴しちまう手がありそうですね。金持になれますよ」
「なるほど!」博士はそれに応じた。「あの連中は最初のうちはこわがっているが、そのうち迷信や好奇心にかられて、おそるおそるもどってくるよ」
「そうでしょうか、先生?」
「そのうちわかるさ。でも、あんまり近づかないほうが賢明だよ。ヴィクトリア号は装甲されてもいないし、よろいを着こんでもいないんだからね。弾丸や矢をよけることはできないんだ」
「サミュエル、きみはこれらのアフリカ人としゃべってみるつもりかね」
「もし、そうできるなら、しゃべったって悪いことはないだろう」と、博士は答えた。「カゼフには野蛮人でない、かなり教育のあるアラブの商人がいるはずだ。たしかバートンとスピークは、この町の人たちの歓待を受けている。だからわたしたちは、ちょっと冒険をしてみよう」
ヴィクトリア号は静かに地面に近づいて、市場のそばの樹のてっぺんに錨をひっかけた。
そのとき、人びとの顔が、彼らの小屋からあらわれた。いずれも用心して、頭だけ出している。円錐形の貝がらの首飾りでそれとわかる幾人かのワンガンガが、大胆に進みでた。これはこの地方の呪術師で、脂をぬった黒い小さなひょうたんと、不潔な魔術の小道具とを、もったいぶって腰帯にぶらさげている。
群衆がすこしずつ、彼らのそばに近づいてきた。女子供たちに取りかこまれ、タンバリンが鳴りひびくなかを、呪術師は両手を打って、その手を空のほうへさしのべた。
「あれはね、なにか頼みごとをするときの奴らのやり方だよ」と、ファーガソン博士が言った。「もしわたしの思いちがいでなければ、なにか大きな仕事をやってくれと、われわれに頼んでいるんだよ」
「へえ、そうですか! そんなら先生、やってやったらいいでしょう」
「おまえがやってやれ、ジョー。たぶん、神さまになれるぜ」
「ではやりましょうか、先生? わたしは香《こう》のにおいがきらいじゃありませんからね」
そのとき、呪術師の一人のミヤンガ族の一人が、手で合図をした。さわぎがぴたりとおさまった。ふかい静けさのなかでその一人は、旅行者たちにはわけのわからない言葉で、なにか合図をした。人びとはぴたりと口をつぐんだ。その男は、なにかわけのわからぬ言葉で、旅行者たちに話しかけていた。
ファーガソン博士はさっぱりわけがわからないので、いきなりアラブ語で話しかけてみた。すぐにアラブ語で答が返ってきた。
演説者は身ぶりたっぷり、情熱をこめて堂々としゃべりはじめた。博士はすぐに、彼らがヴィクトリア号を月そのものと考えていることがわかり、そして月のありがたい女神がその三人の子供をこの町に送ってくださったというのだ。太陽から愛されているこの国にとっては、このことはたいへん名誉なことだった。
博士は威厳をもって、月は千年に一度この地方を見まわりに来るのだと答えた。もっとくわしく崇拝者たちに、このことを説明してやったほうがいいと思ったからである。遠慮するにおよばないから、もし願いごとがあったら、この聖なる存在に言ってみるようにと、彼は申しわたした。
呪術師は、『ムワニ』つまり彼らの大酋長が何年も前から病気で苦しんでいて、天の救いを待ちわびているのだと告げた。そして月の子供たちに、大酋長のもとに来てくれないかと頼んだのである。
博士は仲間たちに、この招待の旨を告げた。
「で、きみは黒人の王さまのところへ行くのかい」狩猟家がたずねた。
「もちろん。あの連中はわたしに好意をもっているらしいからね。それに大気が静かで、まるきし風が吹いていない。ヴィクトリア号については、ぜんぜん心配はいらないだろう」
「でも、行ってどうするつもりだね」
「心配するな、ディック。ちょっと薬を与えて、すぐ帰ってくるよ」
それから博士は群衆のほうを向いて、言った。
「月はウニャムウェジの子らの尊敬すべき王をあわれみたまい、その病気をなおすようにとわれわれをつかわした。われわれを受けいれるための準備をするように!」
叫喚《きょうかん》、歌声、示威運動が起こった。たくさんの黒い頭の群が、いっせいに動きだした。
「ところで、きみたち」と、ファーガソン博士は言った。「あらゆる場合を予想しておいたほうがいいだろう。急いで飛びたたねばならなくなるかもしれないからね。ディックは吊り籠のなかに残っていて、いつでもバーナーに火をつけられるようにしておいてくれ。錨はしっかりととまっている。わたしは下におりるが、ジョーはついてくるように。ただし、はしごの下で待っていてくれ」
「へえ! きみ一人で黒人のところへ行くのかい」と、ケネディがきいた。
「なんですって、サミュエルさん!」と、ジョーも叫んだ。「先生はわたしにどこまでもついてってもらいたくないんですか」
「いや、わたし一人で行こう。あの連中は、月の女神が自分たちを訪問しに来たと思っているんだ。そう思っている以上、わたしの身は安全だ。心配はいらない。わたしの言うとおりそれぞれ部署についていておくれ」
「どうしてもそうしてほしいというなら」と狩猟家が答えた。
「ガスの膨脹に注意していてくれ」
「承知した」
原地人の叫び声が、いっそう大きくなった。彼らは、天からの使者をせきたてているのである。
「まてまて」と、ジョーが言った。「月の女神さまとその尊い息子さまたちに、ちと無礼であろうぞ」
博士は救急箱をかかえて、ジョーにつづいて地上におりたった。ジョーは月の息子にふさわしく重々しい威厳にみちた様子で、アラブ人のようにあぐらをかいて、はしごの下に坐った。群衆の一部は、敬意のこもったまなざしをもって、彼をとりまいた。
そうしているあいだにファーガソン博士は、太鼓の音を先頭に信心ぶかい剣舞隊に守られて、町からかなり遠いところにある『王の小屋』のほうにゆっくりと進んでいった。約三時ごろで、太陽は明るく輝いていた。この期《ご》におよんで、逃げだすわけにもいかなかった。
博士は胸をはって、堂々と歩いた。『ワガンガ』たちが彼を取り巻き、群衆を近づけないように制止した。まもなくしてファーガソンのところに、酋長の私生児なるものがやってきた。このたくましい青年はこの国の慣習に従って、嫡出子《ちゃくしゅつし》をさしおいて、父の財産の唯一の相続人だった。青年は、月の息子の前にひれ伏した。月の息子は、慈愛に満ちた物腰で、彼を助け起こしてやった。
その後四、五分してから、この熱狂した一群は、熱帯の樹木がみごとに生いしげった森のなかの涼しい道を通って、酋長の宮殿に至った。それは丘の斜面に立っている、イチテニヤと呼ばれている四角な建物だった。わらぶきの屋根の長いひさしを、彫刻のある柱がささえていて、ベランダのようになっている。壁には、赤みがかった粘土で、人間やヘビの姿が描かれてあり、もちろんヘビのほうが、人間のよりも上手である。屋根と壁のあいだにはすきまがあって、風がかってに入れるようにできている。窓はなく、やっとドアが一つあるだけである。
ファーガソン博士は衛兵や廷臣や、上流階級の男たち、中央アフリカの純粋な種族であるムニャウェジ族に、うやうやしく迎えられた。彼らは頑健でたくましく、りっぱな風采をしていて、たいへん健康的だった。大部分の者が髪の毛を細紐のように編んで、肩までたらしていた。こめかみから口に至るまで黒や青の何本もの入れ墨の線を入れ、頬を縞模様にいろどっていた。耳はおそろしく大きくて、木の円盤や樹脂をかためた板を、イヤリングのようにつるしていた。身にはたいへん派手な布をまとい、兵士たちは投げ槍や弓矢で、武装していた。その矢尻にはトウダイ草の毒薬がぬってあって、短刀や『シーメ』というのこぎりようの刃のある刀を持っている者もいたし、手斧を持っている者もいた。
博士は、宮殿のなかに入った。そこでは酋長が病気だというのにどんちゃんさわぎが行なわれていた。彼が到着すると、それはますますひどくなった。ウサギのしっぽと縞馬のたてがみとが、魔除けの護符として、入口の上の横木にぶらさがっていた。博士は酋長の細君たちに迎えられた。銅の壷の底でつくられたシンバルに似た『ウパトゥ』が美しい調べをかなで、二人の名手が拳で叩く木の幹をくりぬいてつくった高さ一メートル半におよぶ太鼓の『キリンド』が、すさまじい音をたてていた。
女たちはたいへんきれいで、笑いながら煙草をすったり、大きな黒いパイプでタングをふかしたりしていて、優雅にひだのよった長い衣裳にそのすばらしいからだを隠していた。そして帯のまわりには、ひょうたんの繊維でつくった短い腰みのをつけていた。
彼女らのなかで六人の女はすこし離れたところに坐り、彼女たちを恐ろしい刑が待っているというのに、いっそうにぎやかに騒いでいた。酋長が死んだとき、彼女らは亡骸のそばに生きながら埋められて、彼の永遠の孤独をなぐさめることになっているのだった。
ファーガソン博士は、この一群に目で挨拶して、王の寝ている木のベッドに近づいた。そこには、あらゆる不摂生の報いを受け、もはやどうにも手のほどこしようもない四〇歳ぐらいの男がよこたわっていた。何年か前から彼は病気にかかっていたのだが、それは酒の飲みすぎであった。この酔っぱらいの酋長はいまではほとんど知覚を失っていて、世界中のアンモニアをかがせても、彼を起きあがらせることはできなかったであろう。
廷臣と女たちは、月の王子の荘厳な訪問のあいだ、ひざをまげて顔を伏せていた。二、三滴の強い気付薬をたらして、博士はちょっとのあいだ、この衰弱したからだを生き返らせた。酋長は、からだを動かしたのである。数時間前から存在を示すなんらの徴候をも見せなかった死骸同様のからだがこのように動いたことは、医師の名誉をたたえる激しい叫び声でむかえられたのだった。
いささかその叫び声にうんざりした医師は、なおも感謝の意を示そうとする崇拝者の群からすばやく身をひき、宮殿の外に出た。彼はヴィクトリア号に急いだ。もう夕方の六時だった。
ジョーは博士の留守のあいだ、はしごの下でおとなしく待っていた。群衆は彼におおいに敬意を表したので、彼も『月の女神の息子』らしく、彼らのするがままにさせておいた。ただ神さまであるために、彼はたいへんまじめくさった顔つきをしていた。それも威張ってはいけないので、ことに彼をじっと見つめているアフリカの少女に対しては、親しげな顔を見せなければならなかった。ジョーは彼女らに、やさしい言葉さえかけてやった。
「あがめなさいよ、娘さんたち。ぼくは月の女神の息子なんだけど、なかなか気のいいやつなんだよ」
神の小屋である『ムジム』にふつう供えられる贖罪《しょくざい》の捧げものが、彼の前に置かれた。それは、大麦の穂と『ポンベ』でつくられる。ジョーは、この強いビールに似た飲物を味わわなければなるまいと思った。だが彼は、ジンやウイスキーには慣れていたがこの強烈な味にはがまんならなかった。彼はひどく顔をしかめたが、それを見た群衆は神のやさしい微笑だと見てとったのである。
それから娘たちは声をそろえて、単調なゆるやかな調子の歌をうたいながら、彼のまわりを、いともおごそかに踊りはじめた。
「へえ! 踊るのかい!」と、ジョーはつぶやいた。
「よし! おれが踊らないっていう法はない。おいらの国の踊りを見せてやろう」
そして彼は、おどろくほど激しい踊りをしてみせた。からだをくねらせ、手足をのばし、のけぞり返り、足で踊ったり、ひざで踊ったり、手で踊ったり、大げさな身ぶりをしてみせて無理なポーズをとったり、ひどいしかめっつらをしてみせたり、このようにして彼はこれらの群衆たちに、月世界の神がみの踊りなるものがいかに奇妙であるかを教えてやったのである。
ところでアフリカ人は、だいたいサルのように真似がうまく、群衆はたちまち彼の真似をして、とびはねたり、からだをくねらせはじめた。彼らは一つの身振りも見おとさなかったし、一つのポーズさえ忘れなかった。それはまったく混沌として、なんといっていいかわからぬほどの喧騒、どんちゃんさわぎであった。そのお祭さわぎの真最中に、ジョーは博士に気づいたのである。
博士は、夢中になってわめき叫んでいる群衆をかきわけて、大急ぎでもどってきた。呪術師と頭目らしい男たちが、非常に興奮しているようだった。博士は彼らに取りまかれ、押しやられ、おどかされている。急に様子が一変したらしい! なにが起こったのか? 天の医者の手にかかって、不幸にして酋長は命をおとしたのだろうか?
ケネディもその位置から、原因はわからないながらも危険を見てとった。気球はガスの膨脹のために大いに張りきり、とめてある綱はぴんと張って、いまにも空中に飛びあがらんばかりだった。
博士は、はしごの下までやってきた。月の息子に対する迷信的な恐れから、群衆は博士の身に暴行を加えるまでにはいたらなかった。博士はすばやくはしごをのぼり、ジョーも敏捷にそのあとについてきた。
「一瞬たりと猶予はできない」と、主人はジョーに言った。「錨ははずさなくていい! ロープを切ろう! ついてこい!」
「でも、どうしたんです」ジョーは吊り籠のなかに入りながら言った。
「どうしたんだい」カービン銃を手にしてケネディもたずねた。
「見ろよ」地平線を指さして博士は言った。
「あっ! 月だ!」
なるほど月が、大きな赤い月がでていた。それは大空に浮かぶ火の球だった。それがほんものの月だった! その月とヴィクトリア号とは!
二つ月があるのか、さもなければこの見知らぬ男たちはぺてん師で、かたり物で、にせの神さまだ。
群衆の考えは、こうだった。こうしたわけで状況が一変したのだった。
ジョーは大声で笑いだしてしまった。カゼフの住民どもは獲物が逃げたと知って、叫喚を発した。弓とモスケット銃が気球に向けられた。
しかし呪術師の一人が、合図をした。武器がひっこめられると、その男は樹によじのぼってきた。錨の綱をつかんで、地上にひきずりおろすつもりらしい。
ジョーは手斧を握って身をのりだした。
「切りましょうか?」
「待て」と博士は命じた。
「でも、あの黒人が……」
「どうやら錨を捨てないですみそうだぞ。そうだといいが。切るのはいつでもできる」
呪術師は樹の上にのぼってきて、枝を折り、錨をはずすことに成功した。そのとき錨は気球に激しく引っぱられて、呪術師の両足のあいだにひっかかった。そして彼は思いがけずも、この翼ある怪物に馬のりになったまま、空中へと向かったのである。
ワガンガの一人が大空に舞いあがったのを見て、群衆の驚きは大きかった。
「万歳!」ジョーは叫んだ。ヴィクトリア号は強い上昇力のために、ぐんぐんのぼっていった。
「やつは、しっかりつかまっている」と、ケネディが言った。「ちょっと旅するのも、わるくはあるまい」
「とつぜん黒んぼうを振りおとすんですか」ジョーがたずねた。
「ばか言うな!」博士が答えた。「しずかに地球におろしてやろう。このような冒険をしたので、きっとみんなあの男に対する呪術師としての見方はおそろしく増すことだろうよ」
「また神さまにしてしまうかもしれませんね」と、ジョーが言った。
ヴィクトリア号は、およそ三〇〇メートルの高度にたっした。黒人は必死になって綱につかまっていた。目は見ひらいたまま声も出なかった。驚きと恐怖感とが、一緒になっていた。弱い西風が、気球を町から追いやった。
三〇分後に、博士は地上に人がいないのを見ると、バーナーを弱くして地面に近づいていった。地上から六メートルのところで、黒人は決心した。彼は思いきって飛びおりると、うまく足から落ちた。彼はカゼフさして、逃げていった。とつぜん身がるになったヴィクトリア号は、また空に舞いあがった。
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十六 火の空
「お月さまの許しも得ないで月の息子になんかなるから、こんなことになったんですよ!」と、ジョーが言った。「あのお月さまはあのとき、もう少しでわれわれをえらいめにあわせるところだった! ところで先生、ひょっとして先生の医術が評判を悪くしたんじゃないでしょうね?」
「ほんとうのところ、カゼフの酋長はどんなふうだったんだね」
「死にかけている年よりの酔っぱらいさ」と博士は答えた。「その死は、それほど急には来ないだろうよ。ところで、これで一つ教訓を得たよ。それはね、光栄は一時的なものだということさ。あんまりそんなことなど考えるなっていうことだ」
「まったくいけないことだ!」ジョーもそれに応じた。
「わたしにもあてはまることです! あがめられて、いい気になって神さまのまねをしていたら、なんたることぞ! ほんものの月が出てきたっていうわけさ、まっ赤な顔して。きっとお月さまは、怒っていたんでしょうね」
このようにしてジョーが、まったく新たな見地から月に対する見解を述べているとき、北の空が不気味な厚い雲におおわれてきた。強い風が地上九〇メートルのあたりに集中して、ヴィクトリア号は北北東に流されていた。気球の上には澄んだ青空の円天井があるのだが、それが重たく感じられるのだった。
夕方の八時ごろ、旅行者たちは東径三二度四〇分、南緯四度一七分のところにあった。気流は嵐の影響を受けて、時速五六キロの速さで彼らを追いやっていた。足の下では、ムフトの起伏のある豊かな野原が、大急ぎで過ぎ去っていった。そのながめはすばらしく、すっかりそれに見とれていた。
「月《リュヌ》」の国のまんなかだよ」と、ファーガソン博士が言った。「古代人がそう名づけた名前を保っているのだが、いつの時代でも月はあがめられたと見えるね。ほんとうに、すばらしい国だね。このように美しい草木は、めったにおめにかかれんね」
「こんなところがロンドンの周囲にあれば、それはもちろんあり得ることではないが、とても気持がいいでしょうね」と、ジョーが言った。「でも、どうしてこんなきれいなものが、こんな野蛮国に保存されているのでしょうね」
「いつかこの地方が文明の中心になろうと、誰が知ろうかね?」と、博士が言い返した。「ヨーロッパ地帯で住民を養いきれなくなったとき、未来の人たちはきっとここへ移ってくると思うよ」
「そうかね?」と、ケネディが言った。
「そうだよ、ディック。歴史の移り変わりを見ると、移民が引きつづいて行なわれていることがわかる。きみだって、わたしと同じ結論にたっすることだと思うよ。アジアは世界一の穀倉地帯だった、そうだろ? おそらく四千年ものあいだアジアは耕され、肥沃にされ、食糧を生産した。だが、ホメロスがうたった黄金色の収穫のあった土地に石ころが出はじめたとき、その子供たちはやせてしなびた母親の乳房を見捨てた。そこで、きみも知っているように、そのとき彼らは若くてたくましいヨーロッパに移ってきた。それから二千年この方、ヨーロッパは彼らを養ってきたのだ。だがすでにその地の生産力は目に見えておとろえ、農作物はいままで知られていない病気で毎年被害を受け、収穫はへり、それを解決する名案もない。そういうことはヨーロッパの生産力が落ちてきたことを示すわけであって、近い将来の衰弱を意味する。だからいま人びとは、アメリカの滋養のある乳房に飛びついているのだ。尽きることのない、くみつくされない泉だと思ってね。だが、やがてはこの新大陸も老いるときがくるだろう。その処女林も工業のための斧で伐採され、土地も過大な要求にこたえる過大な生産のためにやせおとろえていく。二毛作でその年栄えた土地が、一毛作でもやっとだということになる。アフリカが何世紀にもわたって蓄積してきた宝を新しい世代に与えるのは、そのときなんだ。外国人にとっては健康上よろしくない風土も、輪作や排水設備によって改良されていくだろうよ。あちこちに流れている川も一つの河床に集められて、船が通れるくらいの大きな川になるだろう。わたしたちがいま飛んでいるこの国、どこよりも肥沃で、どこよりも豊かであり、どこよりも活力のあるこの国は、強大な王国になるだろう。きっとここで、蒸気や電気よりももっと強い、驚くべき動力が発明されるだろうよ」
「ああ、先生! そういう時代が見たいですね」と、ジョーが言った。
「ちと早く生まれすぎたよ」
「でも」と、ケネディが言った。「産業界が彼らの利益のためにあらゆるものを犠牲にするなどとは、さぞかしうんざりするだろうよ。いろんな機械が発明されすぎて、人間が機械に食われてしまうなんて。わたしはよく考えるのだが、この世の終わりというのは、三〇億気圧というようなばかでかい圧力のボイラーが過熱して、この地球を吹きとばす日じゃないかな」
「それに」と、ジョーがつけ加えた。「アメリカ人よりももっと機械主義の人間ができますよ」
「そのとおり」と、博士が答えた。「ばかでかいボイラーをつくる人間どもがね! が、この議論はこれくらいにして、リュヌ地方のながめをたのしもうではないか、いまなら見られるんだから」
わきあがった雲のかたまりの下に太陽がすべりこませた最後の光が、土地のどんな小さな起伏をも、金の冠毛でかざっていた。巨木も、丈《たけ》なす草も、地面の苔も、この光の効果によって輝いていた。大地はゆるく波うって、あちこちに円錐形の丘を浮かびださせていた。地平線上に、高い山はなかった。大きな密林が通ることのできない柵となり生垣となって続いているが、ところどころに空地があって、そこには部落があった。そのまわりを大きなトウダイ草が、灌木のサンゴのように枝をからみ合って、自然の要塞のようにそれを取りかこんでいた。
まもなく、タンガニーカ湖から出るおもなる川であるマラガザリ川が、このみどりの広がりの下を蛇行しはじめた。増水のときにあふれ出た急流や、たくさんの流れが、粘土質の地層にたまった池からの水流とともにこの川にそそいでいた。空から見るとそれらは、この地方の西部一帯にかかっている滝の網目のようだった。
背中に大きなこぶのある動物が、茂った草原で草を食べていたが、やがて丈なす草のなかに見えなくなってしまった。種々雑多の樹木の茂った森が、茂みの広がりとなって目にうつった。しかしこの茂みのなかには、ライオン、ヒョウ、ハイエナ、トラなどが、陽のしずむ前の暑さを避けて、ひそんでいるのだった。ときどき象が通るので、茂みの頂きがゆれた。象牙の先で折られる木の音も、聞こえてきた。
「すばらしい猟場だ!」ケネディが、勢いこんで言った。「盲滅法に撃っても、この森のなかだったら、なにかにあたるよ。ちょっとためしてみちゃだめかい」
「だめだ、ディック。もう夜だ。それも嵐をふくんだ恐ろしい夜だ。じつにすごい嵐で、地面が大砲の撃ち合いのようになるよ」
「そうでしょうね、先生」と、ジョーが言った。「風がすっかりなくなって、むんむん暑くなってきましたものね。なにかが起こりそうです」
「大気中に、電気が充満してきたんだ」博士がそれに応じた。「すべての生物が、自然との闘いであるこの前触れの気象現象を、敏感に感じとっている。言っておくが、わたしだってこんな感じになったことはないよ」
「そんなら、おりたほうがいいんじゃないかね」と、狩猟家がたずねた。
「反対だよ、ディック。わたしならむしろ上昇する。ただ恐れるのは嵐にぶつかって、進路からそれて流されることだ」
「でも、いままでの進路を変えたっていいんじゃないのかね」
「できたら、北のほうに七、八度寄ってみたいんだ」と、博士が答えた。「ナイルの源流があるらしいと思われる緯度のほうへのぼってみたいんだよ。きっと、スピーク大尉の探検の痕が見つかるだろうよ。ホーグリンの隊商にも会えるかもしれない。わたしの計算が正しければ、わたしたちはいま東経三二度四〇分にいる。まっすぐ赤道をこえたいもんだな」
「見ろよ!」仲間をさえぎってケネディが叫んだ。「見ろよ、カバが沼から出てきたぞ。血みたいな肉のかたまりだ。それにワニが大きな音をたてて空気を吸いこんでいる」
「暑さにまいってるんですよ」と、ジョーが言った。
「ああ、旅っていいな。だが、こういったわるさをする畜生どもは、好きになれませんな! 先生、ケネディさん! ほら、ごらんなさい、あそこに、動物が列をつくって行く、押し合いながら! 二〇〇匹はいますね、オオカミだ」
「ちがうよ、ジョー、あれは山犬だ。ライオンにも平気に向かっていく恐ろしいやつだ。一人旅のときには、あいつに会うのはいちばん恐ろしい。あっというまに食い裂かれてしまう」
「いいですとも! 奴らに口籠《くっこ》をつけるのはこのジョーではありませんものね」と、気のいいこの若者は答えた。「でも、それが奴らの持って生まれた性質なら、山犬を恨んでもはじまりませんや」
嵐のために、だんだんとあたりは静まり返ってきた。重ぐるしい空気は、音響を伝えるのに不適当のように思われた。空気は綿でくるまれたようで、つづれ織をつるした部屋のように、あらゆる音響を押しころしてしまった。水鳥も、王冠鶴も、赤や青のカケスも、ものまね鳥も、ヒタキも、みんな大きな樹木のなかに隠れてしまった。森羅万象が静まり返り、大災害が近づきつつあるのを告げていた。
夜の九時にヴィクトリア号は、ムセネの上空で動かなくなった。暗闇のなかに、あちこちに部落がかたまって見えた。ときどき稲妻がよどんだ水に反射して、それが整然と掘られた壕《ほり》であることを示してくれた。また稲妻が光って、ヤシやタマリンドや、カエデや大きな燈台草の黒いおだやかな影をとらえた。
「息がつまりそうだな!」胸一杯に、このよどんだ空気を吸いこんだスコットランド人は言った。「ぜんぜん動いていないよ。おりようか?」
「でも、嵐がな」博士は、非常に不安そうに言った。
「もし風で運ばれることが心配なら、おりる決心をするより仕方がないと思うがね」
「たぶん嵐は、今晩は来ませんね」と、ジョーが言い返した。「雲がかなり高いから」
「だから雲の上に出ることをためらっているんだ。下界が見えないほど高くあがらなければならないし、上にあがったら一晩じゅう動いているかもしれんしね、それもどっちの方角だかわからない」
「きみが決めるんだ、ぐずぐずしちゃいられない」
「風がなくなったので困りましたね。風さえあれば、嵐から離れられるかもしれないのに」と、ジョーも言った。
「まったく困ったよ、諸君、なにしろ、あの雲は危険だからな。あの雲は、旋風のなかにわれわれを巻きこんでしまう逆気流をはらんでいるからね。稲妻にやられて、われわれが炎上してしまうかもわからんし、かりに木の頂上に錨をひっかけていても、猛烈な突風で地面に叩きつけられるかもしれんからな」
「では、どうする?」
「上も下も危険なんだから、ヴィクトリア号をそのまんなかへんに浮かべておこう。バーナーに使う水はたっぷりあるし、二〇〇ポンドの砂袋も手つかずのままだ。必要だったら、それを落とせばいい」
「きみと一緒に、二人とも見張っていよう」と、狩猟家が言った。
「いや、いいよ。食糧を濡れないようにテントの下に入れて、やすんでくれ。必要があったら起こすから」
「でも、先生だっていまのうちおやすみになってたほうがいいんじゃないでしょうか、いまはべつに心配ないんですから」
「そうもいかんな。やっぱり見張っていなけりゃ。ぜんぜん動いておらんものな。状況が変わらなければ、あすになったって同じようにここにいるだろうからね」
「おやすみなさい、先生」
「おやすみ、もしそうできたらね」
ジョーとケネディは、毛布の下にからだをのばした。博士だけが、この無限の広がりのなかにとどまった。
そうしているうちに雲の円屋根が、目に見えてさがってきた。闇は、ますますふかまった。黒い円屋根が地球のまわりに、それを押しつぶすようにせまってくる。
とつぜん一条の激しい稲妻が、するどい暗闇を引き裂いた。それにつづいて恐ろしい雷鳴が、空のふかみを揺るがした。
「立て!」ファーガソンが叫んだ。
眠っていた一人はすさまじい声に飛び起き、それぞれの部署についた。
「おりるのかい」と、ケネディがたずねた。
「だめだ! 気球はそれに耐えられないだろうよ。この雲が水になって溶けないうちに、風が錨を切って暴れださないうちに高くのぼろう」
彼は螺旋状に蛇行しているバーナーの炎を、思いきって大きくした。
熱帯の嵐は、襲いかかったと思うまもなく、恐ろしい勢いになる。二番目の稲妻が、雲間を破った。たちまち二〇もの稲妻がそれにつづいた。大粒の雨が降りはじめ、空はするどい音とともに、電気のきらめきで縞模様に染まった。
「まにあわなかった」と、博士が言った。「こうなっては引火性のガスがつまっている気球だが、この火柱のなかを突っ切るよりほかはない」
「降りよう、降りよう!」と、またしてもケネディが叫んだ。
「雷にやられる危険は、どちらにしても同じことだ。降りたら、木の枝で、気のうが破られてしまうぞ!」
「のぼりましょう、先生!」
「急ごう! もっと早く!」
アフリカのこの赤道地帯に嵐が起きると、一分間に稲妻が三〇から三五走ることは珍しくないのだ。空は文字どおり火炎に包まれ、雷鳴が絶え間なかった。
風は鎖をとき放たれ、すさまじい勢いでこの燃えている空のなかを荒れ狂った。風は白熱した空をねじまげ、巨大な扇風器が火炎をあおり立てているようだった。
ファーガソン博士は、バーナーの炎を一杯に大きくした。気球は膨脹して、どんどんのぼっていった。ケネディは吊り籠のなかにひざまずいて、飛ばされないようにテントをおさえていた。気球は目がまわるほど旋回し、旅行者たちはこの烈しいゆれに、やっと耐えていた。気球の気のうは大きくへこみ、風はそこを激しく吹きつけた。タフタ〔光沢のある絹の布地〕はこの風圧に耐えかねて、悲鳴をあげた。激しい音を立てて雹《ひょう》のようなものが、大気中を走り抜け、ヴィクトリア号にぱちぱち音を立ててあたった。しかし気球は、絶えず上昇をつづけた。稲妻は気球の円周に、燃える接線を描いていた。いまや、火のまっただなかだった。
「神よ、守りたまえ!」ファーガソンはつぶやいた。
「わたしたちの生命は、神のみ手のなかにある。わたしたちを救えるのは、神だけだ。とにかく、事にあたっての心がまえがかんじんだ。火事になってもあわてずに、ゆっくりと墜落していくことだ」
博士の声も、やっと仲間に聞こえるだけだった。しかし稲妻の光のなかに、そのおだやかな顔をはっきりと見ることができた。博士は気球のネットの上を走るセント・エルモの火〔檣頭電火〕でできる燐光現象をながめていた。
気球は小さくまわったり、大きくまわったりしながら、あいかわらず上昇を続けていた。そして一五分後に、やっと嵐の雲の上に出た。電気の放射はいまやヴィクトリア号の下で行なわれ、それはまるで吊り籠の下に大きな花火の王冠をぶらさげているようだった。
それは自然が人間に与えてくれることのできる、もっとも美しいながめのひとつだった。下は嵐、上はしずかにおさまり返った星空で、月が荒れ狂う雲の上に、おだやかな光を投げかけている。
ファーガソン博士は、気圧計を見た。三六六〇メートルも上昇していた。もう夜の一一時だった。
「天の助けで、危険を逃れた。ここまでのぼっていれば安心だ」
「いや、こわかったね!」と、ケネディが応じた。
「よかった」と、ジョーも言った。「旅行にはいろんなことがあるもんですね。少し高いところから嵐を見るのも、まんざらではありませんね。まったくすばらしいながめだ!」
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十七 象に引かれて
月曜日の朝の六時ごろ、地平線から太陽がのぼった。雲は消え去り、ここちよい風が朝の最初の光に冷気を送っていた。
大地が香りゆたかに、ふたたび旅行者の目にあらわれた。気球は逆気流にもまれてその場に旋回していたらしく、ほとんど流されていなかった。博士はガスを収縮させて、北へ向かう気流に乗るために降りていった。長いあいだ気流を探したが、だめだった。風は気球を西方へと、リュヌの有名な山々のほうへ運んでいった。それはタンガニーカ湖の北端を取りかこむように半円を描いているあまり起伏のない山脈で、青く見える地平線上に聳え立っていた。それはまるで中央アフリカを訪れる探検隊をはばむ自然の要塞のようであって、孤立した峰々には万年雪の痕が見えた。
「やっと」と、博士が言った。「まだ探検されていない土地に来たよ。バートン大尉は西に向かってぐんぐん進んだが、この有名な山々にはたどりつけなかった。彼は友人のスピークが断言したこの山の存在すら否定していたんだよ。彼はね、それはスピークの想像から生まれた山にしかすぎないと主張したもんだ。諸君はまさか、信じないことはあるまいね」
「あれを越えるのかね」と、ケネディがたずねた。
「いや、できたら越えたくないね。うまいぐあいに風に乗って、赤道のほうへ行きたいんだ。もし必要なら、待ってもいい。逆風のときは錨をおろす帆船のように、ヴィクトリア号も錨をおろして待つよ」
博士の予想は、まもなくそのとおりになった。さまざまな高度でためしてみてから、ヴィクトリア号は快適な速度で北東へ向かって進んだ。
「いい方向に進んでるぞ」羅針盤を見ながら彼は言った。「それに、地上からわずかに六〇メートルほどだ。誰も見たことのないこの土地を見るには、おあつらえむきだよ。スピーク大尉がウケレウエ湖を発見したときは、もっと東のほうを、カゼフからまっすぐにのぼって行ったんだ」
「ずっとこんなぐあいに飛んで行けるのかな?」と、ケネディがたずねた。
「たぶん行けるだろう。われわれの目的は、ナイル川の源流をどうあっても見つけることなんだ。北からやってきた探検家たちが到達した南端までは、まだ九六五キロも飛ばなければならないがね」
「地面に足をつけられませんかね?」と、ジョンが言った。「足がしびれて困ってるんですが」
「そうだったな。それに食糧も節約しなければいけないんだ。ディック、みんなのために新鮮な肉を仕入れてくれないかね?」
「きみがそうしてほしいと言うならすぐにも行くよ。サミュエル」
「水の補給もしなければならないし、いつ砂漠地帯へ連れて行かれるかもわからんからね。用心しておくに越したことはない」
正午にヴィクトリア号は、東経二九度一五分、南緯三度一五分にいた。まだ視界に入ってこないが、ウケレウエ湖の横から、ウニャムウェジ地方の北端のウヨラ部落を越えたのである。
赤道に近いところに住む原地民たちはいくらか文明化されていて、絶対的な権力を持つ専横な君主に支配されているが、カラグワ地方には、こういう君主が集まっているのである。
適当な場所が見つかったら着陸しようと、三人の旅行者のあいだで話が決まった。こんどはかなり長く滞在するつもりで、気球を入念に点検してみるつもりだった。バーナーの炎が弱められ、吊り籠から投げられた錨は、大草原の生いしげった草の上をすれすれに飛んだ。高いところから見ると、この草原は刈られた芝生におおわれているようだが、実際にはここの草原は二メートルから二メートル五〇センチの厚みがあった。
ヴィクトリア号は巨大な蝶のように、それらの草木を折るようなこともなく、ただそれらに触れていた。前方には、なんらの障害もない。まさしくそれは、暗礁のないみどりの大海のようだった。
「こんなふうに、どこまでも走らなければならないようだね」と、ケネディが言った。「錨がひっかかるような木はまったくないし、どうやら狩りもできないらしいな」
「まあ待てよ、ディック。こんな、きみより背の高い草のなかでは猟はできないよ。そのうち、いい場所が見つかるさ」
じじつ、これは気持のいい散歩だった。みどりの海をゆく航海と言ってよく、海はほとんど透明で、風のそよぎでさざ波さえたっていた。吊り籠を意味するゴンドラという名称はまさにこの場にふさわしく、彼らのゴンドラは波をわけて進んで行った。ただときどき、はなやかな色をした鳥がたのしそうにさえずりながら、背の高い草むらから飛び立っていった。錨はこれらの花ばなの湖水のなかに沈んで、船の航跡のように、その跡に一筋の溝を残し、それが通ったあとはまたもとの草原にかえるのだった。
とつぜん、気球が強いショックを受けた。たぶん錨が、この広大な草原に隠されてあった岩の割れ目にくいこんだにちがいない。
「ひっかかっだぞ!」ジョーが叫んだ。
「よし、はしごを投げろ!」狩猟家がそれに応じた。
これらの言葉が終わらぬうちに、するどい叫び声が空中にひびいた。そしてつぎのようなきれぎれの言葉が、びっくりした三人の旅行者の口から、つぎつぎに飛びでた。
「いったい、なんだね?」
「へんな声だな!」
「おや! 気球は動いてるぞ!」
「錨がはずれた!」
「いや、はずれてませんよ」綱をひっぱってみて、ジョーが言った。
「動く岩だ!」
草のなかで、大きなものが揺れ動いた。まもなく、長くてくねくねしたものが、草の上にでた。
「蛇だ!」ジョーは叫んだ。
「蛇だ!」カービン銃をかまえて、ケネディも叫んだ。
「ちがう! 象の鼻だよ」と、博士が言った。
「象だって、サミュエル!」そう言ってケネディは、狙いをつけた。
「待て、ディック、待つんだ!」
「へえ! 象がひっぱっていきますよ」
「まっすぐにやれ、ジョー、まっすぐにだ」
象は、かなりの速度で進んで行った。まもなく空地に出て、その姿全体をあらわした。巨大な牡の象だった。長さ二メートル五〇センチもある二本の白い牙が、美しい弧を描いていた。錨の爪は、その牙のあいだに、しっかりとくいこんでいた。
象はその鼻で、吊り籠と結びついている綱をふりほどこうと、むだな努力をこころみていた。
「進め! がんばるんだ!」ジョーはすっかりうれしくなって、この奇妙な供まわりをおおいに激励した。これはまったく新しい旅行の仕方だった! 馬などよりはずっと気持がいいので、ぜひおすすめする。
「でも、どこへ連れていくつもりだろうね」手がいたくなるほど握りしめているカービン銃を振って、ケネディがたずねた。
「われわれが行きたいほうへ連れてってくれるさ、ディック! もう少し待ってみようよ!」
「ウィッグ・ア・モアー! ウィッグ・ア・モアー!」と、スコットランドの農夫の言葉で、ジョーが愉快そうに叫んでいた。「進め! 進め!」と。
動物はギャロップで、ものすごく走りだした。鼻を右左に激しく打ち、そして跳ねるたびごとに、吊り籠に強い衝撃を与えていた。博士は手に斧を持って、切らなければならないときにはいつでも綱を切れるようにと、かまえていた。
「でも、いよいよのときでなければ、錨を切らないよ」と、博士は言った。
象にひかれたこの競走は一時間半近くもつづいたが、動物はすこしも疲れた様子を見せなかった。この巨大な原皮動物は休みなしにかなりの道のりを歩くことができるのであって、二四時間で長い距離を移動できた。大きさと速さで彼らに比肩できるのは、クジラぐらいのものだろう。
「ほんとに」と、ジョーが言った。「われわれはクジラに銛《もり》をうちこんだようなもので、まったく捕鯨船を操縦してるようなものですものね」
しかし、地勢が変化してきたので、博士はこの輸送方法を変えなければならなかった。
カマルドールの密林が、草原の北方五キロ近くのところに見えてきたからである。いよいよ気球をその引率者から引きはなさなければならないときが来たのである。
そこでケネディが、象の走行をとめさせる役を引き受けた。しかし動物を一発でしとめるには、彼の位置が悪かった。最初の弾丸は頭にあたったが、まるで鉄板にあたったように、ぺちゃんこになってしまった。動物は、なんらの苦痛も感じないようだった。鉄砲の音で、象はいよいよ足を速め、その速度は、速足《ギャロップ》で走る馬と同じくらいだった。
「ちくしょう!」とケネディが叫んだ。
「なんて固い頭なんだ!」と、ジョーも言った。
「肩のくぼみを狙って、とがった弾丸で撃ってみる!」ディックは入念に弾をこめながら言った。銃は火をふいた。
動物は恐ろしい叫び声をあげて、いっそう速く走りだした。
「よろしい」と、ジョーは一挺の銃に弾丸をこめながら言った。「こちとらもお手伝いせにゃならんで。なかなか片づきませんものね」
二発の銃弾が、象の脇腹めがけて撃ちこまれた。
象は立ち止まって、目を高くあげた。それから全速力で森に向かって突進した。血が傷口から、どっと吹きだした。
「撃ちつづけましょう、ディックさん」
「うまくあててくれよ。もう森まで四〇メートルもないぞ」
つづけざまに一〇発の銃声がとどろいた。
象は恐ろしく跳躍をした。吊り籠も気のうも、こわれるかと思われるほどきしんだ。その衝撃で、博士の手から斧が落ちた。
恐ろしい事態となった。錨綱はしっかりととまっているのでほどくことはできないし、残っている旅行用ナイフでは切ることができなかった。森が目の前にせまった。動物が頭をあげた。そのとき弾丸が目にあたった。象はひざからくずれて、わき腹を猟師に見せたのである。
「心臓だ」最後の一発が放たれた。
象は断末魔のうめき声をあげた。だが鼻を振りまわして、もう一度起きなおった。そして全体重を一本の牙の上にもたせるようにして倒れた。牙が折れて、死んだ。
「牙が折れたぞ!」ケネディが叫んだ。「イギリスヘ持って帰ったら、象牙は四五キログラム、三五ギニーもするのに!」
「もっとしますよ!」錨綱をすべり降りながら、ジョーが言った。
「そんなことを言ったところではじまらんよ、ディック」と、ファーガソンが答えた。「われわれは象牙商人でもないし、財産づくりにここにきたわけでもないからな」
ジョーは錨を調べた。それは無傷のほうの牙に、しっかりとくいこんでいた。サミュエルとディックも地上に飛びおりた。なかばしぼんだ気球が、動物のからだの上で揺れていた。
「みごとな象だな!」ケネディが叫んだ。「インドでも、こんな大きな象は見なかったな」
「べつに驚くことはないさ、ディック。中央アフリカの象は、いちばん美しいんだ。アンデルソンとかカミングとかいった象狩りの連中が喜望峰の付近でずいぶんと殺したもんだから、赤道のほうへ移動してきたんだよ。だからこの近所で、たくさんの象の群れにぶつかるんだ」
「さしあたって、こいつを少々味わってみたいもんですね」と、ジョーが言った。「これで、おいしいご馳走をつくってみましょう。ケネディさんは、一、二時間猟に行ってください。サミュエル先生はヴィクトリア号の点検、そのあいだにわたしが料理をつくっておきます」
「言われるとおりにしよう」博士は答えた。「いいようにやりたまえ」
「わたしも、ジョーが与えてくれた二時間を有意義に使わせてもらおう」
「行っておいで、ディック。だが、気をつけてな。あんまり遠くへは行くなよ」
「心配するな」
ディックは銃を持って、森に入っていった。
そこでジョーは、仕事にとりかかった。彼はまず地面に、六〇センチほどの穴を掘った。それから地上に落ちている枯枝をそれにつめた。枯枝は象が通った森のなかの通り道、そこには象の足跡も残っているが、そこにたくさんあった。穴がいっぱいになると、こんどはその上に高さ六〇センチの薪の山をつくって、それに火をつけた。
それから、象の死骸のほうにもどった。それは森からわずか二〇メートルのところに倒れていた。彼は上手に鼻を切りとった。それは根元で幅が六〇センチもある太い鼻だった。彼は鼻のいちばんおいしいところを選んだ。それから海綿のようにやわらかな足の一本を切りとった。それらが象のなかで、とりわけおいしい部分なのである。野牛で言えば背こぶ、熊で言えば足、イノシシで言うなら頭にあたるわけである。
薪が内外ともに燃えつきてしまったとき、残った灰と燠《おき》をとってしまっても、かなりの高温になっていた。象の肉は香りのよい葉にくるまれてこの即席のかまどの底に置かれ、熱い灰でおおわれた。それからジョーは穴の上に、もう一度薪をのせた。枝が燃えつきたとき、肉がちょうどよく焼けていた。
ジョーはその大かまどから、ご馳走を取りだした。そしてみどりの葉の上に、いい匂いのする肉をのせ、きれいな芝生の上にならべた。ビスケット、ブランデー、コーヒーもおいた。近くの小川から、冷たい澄んだ水も汲んできた。
このようにならべられたご馳走は、見てもたのしかった。でもジョーは、腕前を自慢するわけではないが、見るよりは食べたほうがもっとたのしいだろうと思った。
「疲れもしないし、危険なめにもあわない旅行ですね!」と、彼はくりかえし言っていた。「時間がくれば食事ができるし! いつもハンモックに揺られている! このうえ何を望むことがありますかね。それなのにケネディさんは行きたくないなんて言ったのだから」
一方ファーガソン博士は、気球をくわしく調べていた。気球は嵐にあってもなんでもないようだった。タフタもグッタ=ペルカも、変わりはなかった。土地の高度を調べ、気球の上昇力を計算して、水素の量が同じなので彼は満足だった。気のうもいままで、ぜんぜん洩れていなかった。
ザンジバルを発ってから、まだ五日しかたっていなかった。牛肉の乾燥携帯食糧は手つかずだったし、ビスケットも保存肉も、これからの長途に充分まにあった。水だけ補給すればよかった。
パイプも螺旋管も異常がなかった。そのゴムの関節のおかげで、気球がどんなに揺れても、三人は怪我をしなかった。
検査を終えてから、博士はメモを整理しはじめた。それから彼は、あたりの景色をじょうずにスケッチした。見わたすかぎりの草原、カマルドールの森、気球が大きな図体の象の上でじっとしているといったものである。
二時間たってからケネディが、たくさんの太ったシャコと、アフリカ産の大カモシカのももの肉とを持って帰ってきた。これは大カモシカの一種で、カモシカのなかでもっとも敏捷な種類である。ジョーはこれを料理して、気球にも積んでいくことにした。
「食事の用意ができました」まもなくジョーは、とっておきの美声で叫んだ。
三人の旅客は、みどりの芝生の上に坐ればよかった。象の鼻と足は、みんなから大いに賞美された。そしていつものようにイギリスふうに飲み、ハバナの魅力的な香りが、はじめてこの魅力的な国にただよった。
ケネディの食べっぷり、飲みっぷり、話しっぷりは、じつにみごとだった。彼は酔っぱらったあげく、この国に住もうじゃないか、葉っぱで小屋を建てて、アフリカのロビンソン一家の王朝をつくろうじゃないかと、まじめになって博士に提議した。
ジョーがフライデイの役をしようと申し出たが、この提案は受け入れられなかった。
あたりは静かで、原地人たちの姿も見えないので、博士は今夜はここで過ごすことにした。ジョーは焚火でまわりに円陣をつくった。これは猛獣に対するバリケートである。ハイエナ、ピューマ、シャカール〔アフリカや南アジアの山犬〕が、象の肉の匂いにひかれて、あたりをうろついていた。ケネディは何回も、これらの大胆な訪問客に向かって、カービン銃を撃たなければならなかった。しかし、たいして事件も起こらずに夜が明けた。
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十八 ナイル川の源流
翌朝五時から、出発準備が始まった。ジョーがうまいぐあいに斧を見つけ、象の牙を切り落した。ヴィクトリア号は自由になり、時速二九キロメートルで、旅行者たちを北東へ連れていった。
博士は前夜のうちに、星の高さで現在位置を入念に確認したのだった。南緯二度四〇分、赤道まで二八七キロほどの位置だった。ヴィクトリア号は、いくつもの部落を過ぎた。気球を見て、原地人たちがわめき叫んだが、べつに気にもとめなかった。博士は概略な地形図のノートをとった。気球はウサガラ山脈の峰々と同じくらいけわしいルベムヘ山の斜面をこえた。まもなくテンガで、カラグワ山脈の突端にぶつかった。この山脈は博士によると、リュヌの山々と必然的につながっていることになっている。
ところで昔の伝説によれば、この山をナイルの揺籃《ようらん》の地としているが、これは事実に近く、ナイル川の水槽と推定されているウケレウエ湖〔現在のヴィクトリア湖〕のすぐそばに、この山はあるのである。
このあたりの商人が集まるカフロまで来たとき、はるか地平線上に、あれほど探し求めていた湖水が姿をあらわした。スピーク大尉が一八五八年八月三日に、ちらっと見た湖水である。
サミュエル・ファーガソンは、胸が熱くなるのを覚えた。彼の探検の主要な目的地の一つが、もうすぐそこにあるのだ。彼は望遠鏡を目にあてて、くいいるように見つめた。
眼下には、くぼんだところだけが耕されている、概してやせた土地がある。ところどころにそれほど高くない山があるが、湖水に近づくにつれて平坦な地形になっていた。大麦の畑が稲田にかわり、オオバコも生えていた。この国ではそれから酒をつくるのであって、そのほかコーヒーに似たものをつくる野生植物の『ムワニ』も生えていた。黄色く光るわらぶき屋根のまるい小屋が五〇ほど集まっていたが、それがカラグワの首都であった。
黄褐色の、かなり美貌の顔つきをした原地民たちがびっくりしているのが、はっきり見えた。信じられないほど肥満した女たちが、畑のなかをゆっくり歩いていた。ここでは太っているのが美人なので、こんなに太っているのはヨーグルトを毎日強制的に食べさせられているからだと博士から説明されて、みんなはびっくりした。
正午にヴィクトリア号は、南緯一度四五分にいた。一時には、風が気球を湖上に押しやった。
この湖水はスピーク大尉によって、ニヤンザ・ヴィクトリア〔ニヤンザは湖を意味する〕と名づけられたのだった。スピークが着いた場所では、湖の幅は一四五キロメートルほどだった。南の端には一群の島があって、彼はそれをベルガン群島と名づけた。彼はさらに東岸のムアンザまで踏査した。そこの酋長はおおいに彼を歓迎してくれた。彼は湖水のそのあたりを三角測量をした。だが小舟が手に入らなかったので、湖水を横断することができなかったし、ウケレウエ湖の大きな島を訪れることができなかった。たいへん人口の多いこの島は、三人の酋長によって支配されていた。干潮のときはこの島は半島になるのだった。
ヴィクトリア号はスピークの到達点よりもさらに北方から湖水に近づいた。下のほうをきわめようと欲していた博士としては、それはきわめて残念なことだった。イバラやヤブが生いしげっている岸辺には、明るい茶色の蚊がむらがっていて、水際もはっきり見えないほどだった。このあたりは人が住めず、じじつ誰も住んでいなかった。ただ、カバの群がアシの茂みのあいだをのし歩いたり、湖水の白っぽい水のなかに隠れるのが見えるだけだった。
空から見ると、湖水は西のほうにいっぱいに地平線上に広がっていて、まるで海のようだった。両岸の距離はたいへん離れているので、湖水を横断することはできなかった。それに此処では激しい嵐がしばしば起こった。このようなさえぎるもののない高地の盆地では、風が荒れ狂うのである。
博士は、気球を進めるのに苦心していた。東のほうに連れていかれる心配があったからである。だが、さいわいなことに、北方へまっすぐに向かっている気流に乗ることができた。夕方の六時にヴィクトリア号は、南緯〇度三〇分、東経三二度五二分、岸から三二キロメートル離れた小さな無人島に降りた。
旅行者たちはひとつの木に、錨をひっかけることができた。風は夕方ごろおさまったので、旅行者たちは錨の上に、静かにとまっていた。ニヤンザの岸辺同様、ここでも地上に降り立つことは考えられなかった。蚊の大群が、厚い雲のように、地面をおおっていたからだった。ジョーはからだじゅう蚊にくわれて、木からもどってきた。でも彼はべつにそれを苦にしていなかった。蚊からすればそれがあたりまえなのだと、彼は思ったからだった。
だがジョーほど楽天的でない博士は、不気味なざわめきとともにのぼってくるこれらの無慈悲な虫けらを避けるために、できるだけ綱をのばした。
博士は、この湖水の標高を計った。スピーク大尉が決定したように、一一四四メートルあった。
「これでも島の中にいるんですかね!」手首をぼりぼりかきながらジョーが言った。
「もうじきひとまわりできるね」と、狩猟家が言った。
「この小さな虫けらのほかに、ここには一匹も生きものはいないのかね?」
「湖水には、ずいぶん島があるだろう」と、ファーガソン博士がそれに応じて言った。「でもあれは、じつをいうと丘の頂上が浮き出ているだけさ。とにかく、気球をとめるところが見つかってよかった。この湖水の岸辺には、残忍な蛮族が住んでいるんだよ。天が静かな夜を与えてくださったんだ。ゆっくり眠れよ」
「サミュエル、きみは眠らんのかい」
「眠れないだろうね。いろいろなことを考えると、目が覚めてきちゃうんだ。あすも風がぐあいよく吹いてくれれば、われわれは北方めざして一直線に進められるだろうが。たぶんいままで知られていなかったナイル川の源流が見つかるよ。大河の源流に手がとどくところにいるのでは、夜もおちおち眠れないさ」
ケネディとジョーは、それほど学問的な関心がなかったので、博士の見張りのもとで、たちまち深い眠りに入った。
四月二三日水曜の朝の四時に、ヴィクトリア号は薄暗い空に飛びたとうとしていた。夜はまだ湖水の表面から去らず、濃い霧が立ちこめていた。しかし、まもなくして烈風がそれらの霧を一掃してくれた。ヴィクトリア号はしばらくのあいだ、前後左右に揺れていたが、やがてまっすぐに北上した。
ファーガソン博士は、手をうってよろこんだ。
「うまい方向に進んでいる! きょうか、いずれにしても近いうちナイル川が見られる! 諸君、われわれは赤道を越えた! もう北半球に入ったよ!」
「ええっ!」と、ジョーは叫んだ。「先生、いま赤道を越えたんですか」
「そうだよ、ジョー!」
「よーし! では、先生に対する敬意はさておき、直ちに赤道に敬意を表してはいかがでしょうか!」
「グロッグを一杯やろうじゃないか!」と、博士は笑いながら答えた。「おまえらしい遣り方で、宇宙形状誌を理解しているとみえる。なかなか頭がいいぞ」
このようにして旅行者たちは、ヴィクトリア号の甲板上で、赤道通過を祝ったのだった。
ヴィクトリア号は、迅速に進んでいった。西方に、起伏のない低い丘が見えた。その向こうには、ウガンダとウゾガの、さらに高い丘がつづいていた。風はますます強まり、時速四八キロにもなった。
ニヤンザの水はますます高まり、海の波のように波頭を立てた。風がおさまっても、なおいつまでもつづく水のうねりを見て、博士は湖水がそうとうに深いと思った。この航行のあいだに、水面には一、二そうの丸木舟が見えただけだった。
「この湖水は」と博士は言った。「こんなに高いところにあるのだから、あきらかにアフリカ東部のたくさんの川の天然の貯水池だよ。それらの流れから蒸発する水分を、天は雨として返してくれるんだ。わたしはナイル川も、きっとここを源流としているのだと思うよ」
「そのうちわかるさ」と、ケネディが答えた。
九時ごろ、西岸に近づいた。樹木が茂っていて、人はいないようだった。風はやや東寄りに吹いた。そこで湖水のもう一つの岸辺もかいま見ることができた。東岸は大きく曲線を描き、北緯二度四〇分あたりで非常に開いている角度をもって終わっていた。このニヤンザのつきるところには、高い山がそびえ、そこにはけわしい岩峰が屹立していた。しかしそれら山と山とのあいだに一箇所深い渓谷があって、うねうねと泡だつ奔流が流れていた。
気球を操縦しながらファーガソン博士は、虎視たんたんとしてその眺めに見入った。
「見てごらん、みんな見てごらん!」と、彼は叫んだ。
「アラブ人の話はほんとうだった! あの連中は、ウケレウエ湖から北に流れだす川のことを話していたが、それがあの川なんだ。あの川をくだってみよう。気球と同じくらいの速度で流れている! われわれの足の下を流れているこの水が、たしかに地中海の波と一緒になるんだ! あれはナイル川なんだ!」
「ナイル川だ!」ファーガソン博士の熱狂ぶりが乗りうつって、ケネディも叫んだ。
「ナイル万歳!」うれしいことがあるとき、いつも万歳を叫びたがるジョーがやった。
大きな岩石が、この神秘的な川の流れを、あちこちではばんでいた。流れは波頭を立てて奔流し、ときには滝となって落ち、博士の予想をゆるぎないものにした。まわりの山々からも泡だつ急流が、そこにそそいで、ざっと一〇〇ぐらいの流れが数えられた。また地面からも細流がわきだし、互いにまざり合い入りまじって速さをきそいながら、それらを吸収して流れていく本流となっていた。
「たしかに、ナイル川だ!」博士は確信をこめて、また言った。「学者たちはこの川の源流をさぐると同時に、その名の起源についても情熱を燃やした。ギリシア語からだとも、コプト語〔古代エジプトの土着語〕からだとも、またサンスクリットからだという者もいた〔ビザンチンの学者はNeilos《ナイル》を算数の名だと考えていた。Nは五〇、Eは三〇、Oは七〇、Sは二〇〇を示すという。これらは一年の日数をかたちづくる〕。しかし、もうそんなことはどうだっていい、この流れが源流の秘密をあきらかにしたんだからね!」
「だが」と、狩猟家が言った。「北からやってきた探検家が見た川とこの川が同じものだと、どうやって確かめるんだね?」
「誰でもが納得する絶対確実な証拠が手に入るよ」と、ファーガソンが答えた。「もしもう一時間、この風が吹きつづけてくれたらね」
山々が開け、たくさんの部落や、ゴマや砂糖きびの畑が見えてきた。この地方の部落の住民どもは、気球を見て興奮し、敵意を見せていた。原地人たちは敬意を見せるどころか怒っているように見えた。神などではなく、見知らぬ者たちと感じているらしかった。彼らからなにかを盗むために、ナイル川の源流までやってきた連中と思っているらしかった。ヴィクトリア号は、モスケット銃のとどかないところまで上昇しなければならなかった。
「ここいらへんに降りるのはむずかしいな」と、スコットランド人が言った。
「なんでもないですよ」と、ジョーが言った。「原地人たちには気の毒だが、問答無用といきましょうよ」
「どんなことがあっても、降りなければならないんだ」と、ファーガソン博士が答えた。「一五分でもいい。さもないと、この探検の目的がたっせられなくなるんだ」
「どうしてもか、サミュエル?」
「どうしてもだ。わたしは降りるよ、鉄砲をぶちまくっても」
「そのほうは引き受けるよ」と、カービン銃をなでながら、ケネディが答えた。
「いつでもいいですよ、先生!」ジョーも戦闘準備を終えて、こう言った。
「学問のために武器をとってたたかったというのは、これがはじめてではない。フランスの学者がスペインの山中で経線の測量をやっていたときにも、こういうことがあったな」
「安心しろよ、サミュエル。二人の掩護射撃を信頼しろよ」
「このへんですか、先生?」
「いや、もっと上だ。このあたりの正確な地形をつかみたいから、もっと上昇しよう」
水素が膨脹した。そして一〇分とたたないうちに、ヴィクトリア号は地上七六二メートルの高さにのぼった。
そこまでのぼると、この大河が、その河床に受けるたくさんの小川の入りくんだ網の目がはっきりと見えた。小川は西のほうに多く、丘のあいだを抜け、肥沃な野原を通って流れてくるのである。
「ゴンドコロまで一三〇キロはないな」地図を調べていた博士が言った。そうすると、ここから八キロも行かないうちに、北からの探検隊が来た地点に出るわけだ。注意しながら地上に降りてみよう」
ヴィクトリア号は、六一〇メートル以上も下降した。
「さあ、みんな、何が起こるかわからんから気をつけて!」
「だいじょうぶだ」と、ディックとジョーが声をそろえて答えた。
「よし!」
ヴィクトリア号はまもなく、やっと三〇メートルほどの高度で、川にそって進んでいった。ナイル川の川幅は、このあたりで、一〇〇メートルほどあった。両岸に沿って散在する部落では、原地人たちがさわがしく立ちまわっていた。北緯二度の地点で、川は三メートルほどの滝となって落下していた。川をさかのぼってきたら、こらえられない滝である。
「あれが、デボノ氏が指摘した滝だ」と、博士は叫んだ。
そこは川幅がさらに広くなって、たくさんの島があった。サミュエル・ファーガソンは、それらの島じまを食いいるように見つめていた。彼は何かの目じるしを探しているようだったが、なかなか見つからなかった。
幾人か黒人が小舟に乗って気球の真下までやってきたので、ケネディは一発お見舞いした。弾丸はあたらなかったが、彼らはあわてふためいて岸へ逃げかえった。
「|ごきげんよう《ボン・ヴォワイヤージュ》!」と、ジョーは叫んだ。「もしわたしだったら、二度と近づきませんね、なぜならこれは、思いのままに雷を落とすことのできる恐ろしい怪物ですからね」
そのときとつぜん、ファーガソン博士が望遠鏡をつかんだ。そして川の中ほどにある島にそれを向けた。
「四本の木だ!」と、彼は叫んだ。「あれを見ろよ!」
じじつ四本の木が、島の突端にあってそびえていた。
「ベンガ島だ! あれがそうだ!」と、博士はつけ加えた。
「で、どうする気だい」ディックがたずねた。
「降りてみよう、もしなんでもなければいいが!」
「でも、人間がいるみたいですよ、先生」
「ジョーの言うとおりだ、どうやら二〇人ぐらいは集まってるな」
「追っぱらおう、そうむずかしくもないだろう」と、ファーガソンが答えた。
「よし」と、狩猟家が、それに応じた。
太陽は天頂にあった。ヴィクトリア号は、島に近づいた。
ここの黒人たちはマカドの部落に属していて、喚声をもって迎えた。その一人が、木の皮でつくった帽子を振っていた。ケネディがそれを狙って発射したので、帽子はちぎれて飛び散った。
原地人たちは、先を争って潰走《かいそう》した。川に飛びこんで、泳いでいったのである。そして両岸から弾丸や矢を霰《あられ》のように射かけてきた。でも気球にとどく心配はなく、錨が岩の割れ目にくいこんでくるので、ジョーは地面にすべりおりた。
「はしごだ!」と、博士が叫んだ。「ケネディ、ついてきてくれ」
「どうしようっていうんだ」
「降りよう。証人がいるんだよ」
「おれがなろう」
「ジョー、よく見張っていてくれ」
「ご心配なく、お引き受けしました」
「こい、ディック」地面におり立った博士が言った。博士は仲間を、島の突端にある岩が群がっているところまで連れていった。彼は手に血をにじませてやぶをかきわけ、なにかを探し求めた。
とつぜん彼は、狩猟家の腕を激しく引っぱった。そして、
「見ろ」と言った。
「文字だ!」と、ケネディが叫んだ。
じじつ、大きな岩に彫られた二つの文字が、はっきり読みとれたのだった。
A・D
「A・D……アンドレア・デボノだ」と、ファーガソン博士が言った。「ナイル川を一番奥までさかのぼってきた旅行家のサインだ!」
「このように書かれていれば、たしかだよ、サミュエル」
「納得したかい」
「たしかにナイルだ! 疑いもなく、そうだ」
博士はこの貴重な頭文字に最後の一|瞥《べつ》を投げかけ、そしてその形と大きさとをしっかり頭に入れた。
「さあ、気球にもどろう!」と、彼は言った。
「よし、急ごう。ほら、原地人たちが川を渡ろうとしている」
「もう、なんでもない! 風がもう数時間北に向かって吹いてくれるといいな。そうすれば,ゴンドコロで、同国人同士が握手できるんだが」
一〇分後にヴィクトリア号は、ゆっくりと舞いあがった。そのときファーガソン博士は、成功のしるしに、吊り籠にイギリス国旗をひるがえした。
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十九 ニャムニャム族
「どっちの方角に進んでいるんだい」羅針盤をのぞきこんでいる友人を見て、ケネディがたずねた。
「北北西だ!」
「おや! じゃあ、北じゃないんだな?」
「うん、ディック。どうやらゴンドコロへ行くのはむずかしそうだ。まあ、北からの探検に東からの探検を合流させたのだから、それで満足しなければならないだろうな」
ヴィクトリア号は、だんだんとナイル川から離れていった。
「もう一度、最後の一瞥を、あの近寄りがたい場所にくれてやろう、どんな大胆な旅行家も寄せつけなかったところだ! あそこには、ペセリックや、アルノーや、ミアニャ、とくに青年探検家のルジャンが報告している手に負えない蛮族がいるんだ。この青年が、ナイル川上流の探検ではいちばん活躍したんだよ」
「ところで、われわれの発見は、学者たちの推測と一致していたのかい」と、ケネディがたずねた。
「完全に一致している。白ナイル、つまりバール=エル=アビアド川の水源は、海のように広い湖水のなかにあったのだった。そこから、ナイル川が生まれたんだ。これで、この川についての詩情も消え去るだろう。この川の王さまが空にまかりますと考えた人たちもいたんだからね。昔の人はこの川を大洋と呼んで、太陽から直接流れてくると信じていたんだ! でも学者の言うことだって、ときには受け入れ、ときには割引きして考えなければいけないんだ。必ずしも学者の言うことが正しいとはかぎらないからね、それにいつの世にも詩人という者がいるしね」
「また滝がいくつも見えますよ」と、ジョーが言った。
「あれは北緯三度あたりにあるマケドの滝だ。じつに正確だなあ! ああ、あともう何時間か、ナイルの流れについていきたかったな」
「ほら、正面に山が見えるぞ」と、狩猟家が言った。
「あれはログエック山だ。アラブ人の言う、ふるえる山だよ。このあたりは、デボノも来たことがある。彼はラチフ・エフェンディという名前を使って歩きまわったのだ。ナイル川沿岸の部族は互いに戦っていて、みなごろしの戦いをやっていた。デボノがどんなに危険なめにあったかがわかるだろう」
風が北西に変わった。ログエック山をよけるために、もっと西よりの気流を探さなければならなかった。
「いいかね」と、博士は二人の仲間に言った。「これから、ほんとうのアフリカ横断が始まるんだよ。いままでは先輩のあとを追うようなものだったが、これからは未知の世界に飛びこむんだ。こわがってはいまいね?」
「とんでもない」ディックとジョーが、口をそろえて言った。
「さあ、前進だ! 願わくば神さまお守りください!」
谷をこえ、森をこえ、いくつもの部落をこえて、夜の一〇時に旅行者たちはふるえる山の中腹に着いた。そして、そのなだらかな傾斜に沿っていった。
この記念すべき四月二三日に、彼らは風速のある風にめぐまれて、一五時間で五〇〇キロメートルも飛んだのである。
しかし旅行も最後の段階ともなると、なにかもの哀しい気分になるものだった。吊り籠は、深い沈黙に包まれていた。ファーガソン博士は、発見の喜びにふけっていたのだろうか? 二人の仲間は、これからの未知の国の旅のことを考えているのだろうか? そしてたぶん、遠く離れた祖国の友人のことやイギリスのことを、なつかしく思い出しているにちがいない。だがジョーは、祖国がそこにないときは、祖国のことを考えても仕方がないと、べつに意に介さない心境だった。しかし彼は、サミュエル・ファーガソンとディック・ケネディの沈黙には敬意を表していた。
夜の一〇時にヴィクトリア号は、ふるえる山〔伝説によると回教徒が登ろうとすると、この山がふるえるのである〕の山腹に『投錨』した。そして栄養のある食事をとり、見張りを立てて各自交替で眠った。
翌日目が覚めると、ふたたび壮快な気分になった。天気はよかったし、風の吹いてくる方向もよかった。ジョーがたいへん陽気にふるまった朝食も終わり、一同みなはればれとした気分になった。
これから飛行しようとする地方は、広大であった。それは、リュヌの山々からダルフルの山々へと、まるでヨーロッパのように隣接していた。博士が言った。
「たぶんわれわれは、ウゾガ王国があると言われているあたりをよこぎるだろう。アフリカの中央部は、広範囲にわたって土地が沈下しているので、そこに大きな中央湖があると主張する地理学者がいる。この学説がほんとかどうか、そのうちわかるだろう」
「でも、どうしてそんな憶測が行なわれるんだね」と、ケネディがたずねた。
「アラブ人らの話からなんだ。あの連中はおしゃべりなんでね。カゼフや大湖地方に行った旅行者たちは、中央アフリカからきた奴隷たちに会うことがある。そこで、あちらのことをいろいろ聞いてみるわけだ。それらの話から推論してこういうことを言うのだが、そういった話には、いつもなんらかの真実性があるものだ。ナイルの水源だって、まちがってはいなかったじゃないか」
「たしかに、あれほど真実だったことはない」と、ケネディは答えた。
「地図がだんだんとくわしくなっていくのは、こういう資料にもとづくからなんだ。これからは、ここにある一枚の地図を見ながら進んでいくことにしよう。そして必要に応じて訂正することにしよう」
「このへんにも、人間は住んでいるのですか」と、ジョーがたずねた。
「たぶんね。でも多くはないな」
「そうでしょうね」
「このあたりに散在している部族は、だいたいニャムニャム族だ。この名前は擬音語なんで、ものを噛む音だよ」
「なるほど、ニャムニャムですか!」と、ジョーがまぜかえした。
「ジョー、おまえはいまその擬音語をまねしたけれども、ほんとうのことを知ったら、なるほどなんて言わないだろうね」
「それは、どういうことなんです」
「この人種は、どうやら食人種らしいんだ」
「ほんとうですか」
「ほんとうだよ。それにこれらの原地人には、四足獣のようにしっぽがあると言う人もあったよ。でもそれは、彼らが動物の毛皮を着ているからだということがわかったんだ」
「残念ですな! もししっぽがあったら、蚊を追っぱらうのに、たいへんつごうがいいですのにね」
「そうかもしれないね、ジョー。でも、そういうのは作り話だと思うべきだね。ブラン=ロレなんていう探検家は、犬の頭の原地人がいるなんて言ってるくらいだからね」
「犬の頭ですか? ほえるのに便利ですね。それに食人種であるためにもね!」
「不幸にして確かなことは、この連中がたいへん残忍だということなんだ。人間の肉にはたいへん貪欲で、そのためにはどんなことをしても求めるんだ」
「わたしの肉体には、そんなに情熱をもやさないで欲しいものですな」と、ジョーが言った。
「そいつは、わからんぞ!」と、狩猟家がからかった。
「そうなったらディックさん。もしかして食べものがなくなって、わたしが食われちまうようなときになったときには、あなたと先生だけで食べてくださいよ! 黒ん坊のお腹に入るなんて、考えるだけでもぞっとしますね」
「よし、わかった、ジョー」と、ケネディが聞いた。
「なにかの折には、おまえのことをあてにしているぞ」
「どうぞ、よろしいように」
「ジョーがこんなことを言うのは」と、博士が言いかえした。「もっと太らせてもらいたいもんで、あんなことを言うんだな」
「たぶん、そうでしょうな!」と、ジョーは答えた。
「人間は、自己本位な動物ですからね」
午後になると、地面から湧きあがるなま暖かい霧が立ちこめて、地上のものがはっきり見えなくなった。博士は頂にぶつかることを恐れて、五時ごろ停止の合図をした。
その夜は、なにごともなく過ぎた。しかしまっくらだったので、警戒を厳重にする必要があった。
翌日の午前中は、激しいモンスーンが吹きあれた。気球の下部のへこみに、風が吹きこんだ。気球の通気筒から出ている膨脹パイプが激しく揺れるので、綱でパイプを動かないようにしなければならなかった。ジョーがそれをうまくやってのけた。
ジョーは同時に、気球の通気筒の口がしっかりしまっているかどうかを調べた。
「通気筒の口は」と、ファーガソンが言った。「われわれにとっては二重に大切なんだ。まずこれは、貴重なガスの流出をふせいでいる。それからわれわれのまわりから引火性のガスが洩れるのをふせぐ。もしガスが洩れていたら、いつ火がつくかわからないからね」
「そうなったらたいへんなことになりますね」と、ジョーが言った。
「そうなったら、墜落するわけかね」と、ディックがたずねた。
「墜落だって、いや、ちがう! ガスは静かに燃えるだろうよ。そしてわれわれはだんだん降りていくわけだ。フランスの気球搭乗者のブランシャール夫人に、そのような事件が起こったのだ。彼女は点火装置に点火して気球を炎上させた。だが、気球は墜落しなかった。吊り籠が煙突にぶつかって夫人が地上に放りだされなかったら、死はまぬがれたことだろう」
「そんなことにならないようにお願いしたいもんだね」と、狩猟家が言った。「でもいままでの飛行中に、危険なことは何もなかったね。われわれが目的地にたっせられないなんて、どうしても考えられないな」
「わたしだって、そう思うよ、ディック。事故はいつも搭乗者の不注意か、気球そのものの欠陥から起こったのだ。いままでに気球は何千回となくあがったが、人命が失われた事故は二〇回にもたっしていない。ふつう、いちばん危険なのは、着陸と出発のときなんだ。だからそのときは、すこしも注意を怠ってはいかんよ」
「もう食事の時間です」と、ジョーが言った。「ケネディさんがカモシカのおいしい肉をご馳走してくれるまで、保存肉とコーヒーでがまんしましょう」
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二十 原地人たちの戦闘
風はますます激しく、吹きあれた。ヴィクトリア号はしょっちゅう方向を変えた。北へ向かったり南へ向かったり、決まった方向に向かう風に出会えなかった。
「とても早く飛んでるのだが、あんまり進んでいないな」磁針の揺れ具合を見ながら、ケネディが言った。
「ヴィクトリア号は少なくとも時速一二〇キロは出ているんだがな」と、サミュエル・ファーガソンも言った。
「下を見てごらん。野原がどんどん足元から消えうせるだろう。ほら! あの森がわれわれのほうに向かって突進してくるようだ」
「森が過ぎて、また空地になった」と狩猟家が答えた。
「林間の空地があれば、つぎは部落だ」しばらくしてジョーが叫んだ。「あんなに、黒んぼがびっくりしている!」
「当然なことだ」と、博士は答えた。「フランスの百姓だって、はじめて気球を見たときは空の怪物だと思って発砲したくらいなんだから。スーダンの黒んぼが目玉をぎょろつかせたって、仕方ないさ」
「そうだ!」ある部落を三〇メートルほどの高さで地上すれすれに飛んでいたとき、ジョーが言った。「先生、あのからの瓶は奴らに投げてかまいませんかね。もし瓶がなんでもなかったら、奴らはその瓶をあがめますよ。もしこわれたにしても、きっとガラスの破片をお守りにしますよ!」
そう言うと彼は、一本の瓶を投げた。瓶はこなごなになってくだけた。黒人たちは大声をあげて、そのまるい小屋に飛びこんだ。
しばらくすると、ケネディが叫んだ。「おい、へんな木があるぞ! 上と下とでちがった種類の木だ」
「ほんとだ! ここでは、木の上に、別の木が生えるんですかね」
「あれはただのイチジクの幹さ」と、博士が答えた。
「あの木にすこしばかり腐植土ができた。ある日、ヤシの種を、風がその上に運んできたんだ。ヤシが野原に生えるように、そこに生えたっていう、わけさ」
「おもしろいですね」ジョーが言った。「イギリスでためしてみましょう。果樹に接木《つぎき》するようにはいかないかもしれませんがね。でも、見上げるような庭ができるわけでしょう。庭のせまい人には、喜ばれるでしょうね」
そのときヴィクトリア号は、高さ九〇メートル以上もある大木、榕樹《ようじゅ》の古木の森をこえるために上昇しなければならなかった。
「すばらしい大木だな」と、ケネディが叫んだ。「これほど年代を経たりっぱな眺めの森ははじめてだね。なあ、サミュエル」
「ほんとうにこの榕樹の高いのには驚いたよ、ディック。でも新大陸の森では、こんなのはべつに珍しくないんだよ」
「へえ! もっと高い木があるのかい?」
「そう、われわれは『マンモス・ツリー』って呼んでるがね。たとえばカリフォルニアで見つかった、高さ一三七メートルもある西洋杉なんかそれだ。ロンドンの議事堂の塔や、エジプトの大ピラミッドよりも高いんだものね。根元のまわりは三六メートルもあってね、年輪をかぞえたら四千年以上もたっていたそうだ」
「へえ! それじゃ、べつに驚くこともありませんやね! 人間だって四千年も生きていりゃ、大きくなったってふしぎじゃないですものね」
だが、こんなことを博士とジョーがやりとりしているあいだに森を通りすぎて、原地人の小屋がまわりをかこんでいる広場のある部落に入った。広場のまんなかには一本樹木が生えていて、それを見てジョーが大声をあげた。
「へえ! 四千年も前からあの木があんな花をつけているんだったら、誰が挨拶なんかしてやるもんか」
彼はその幹が人の骨でまったくおおわれている大きなイチジクの樹をさし示した。ジョーが花と言ったのは、樹皮に刺しこんだ短刀でとめられている、斬ったばかりの人間の頭だった。
「食人種の戦いの木だ!」と、博士が言った。インディアンは頭の皮をはぐが、アフリカの原地人は首をちょんぎってしまうのだ。
「ところ変われば、品変わるですね」と、ジョーはつぶやいた。
しかし、この血まみれの頭のあった部落も地平線上に消え去ったと思うと、しばらくしてこれに劣らず胸のむかつく部落に出た。そこに食い散らされた死骸、泥まみれの骸骨、人間の手足が散乱していた。そしてそれらはハイエナや、ジャッカルの好餌食になっている。
「たぶん、罪人の死骸だろう。アビシニアでは、こうする習慣があるんでね。野獣の群れは喉笛を歯でかみ切ってから、ゆっくり食べるそうだよ」
「絞首台とくらべりゃ、たいして残酷でもないな。ただ散らかって、きたないだけだ」と、スコットランド人が言った。博士はなおつづけた。
「南部アフリカでは、罪人を家畜と一緒に、たぶん家族も一緒に、その男の小屋のなかに閉じこめるんだ。そしてそれに火をつけてなにもかも焼いてしまうんだ。まったく残酷だよ。わたしもケネディの言うように、絞首台が残酷でないとしたら、こっちはかなり野蛮だよ」
ジョーは非常に目がいいので、いままでたいへん役立ってきたが、いまも一群の猛禽類が地平線上をすべるように飛んでいるのを見つけた。
「ワシだ!」望遠鏡でそれと知ったケネディが叫んだ。
「この気球と同じくらい早く飛べるたいした鳥だよ」
「神が、彼らの攻撃からわれわれを守ってくださるように!」と、博士は言った。「奴らは、野獣や蛮族よりもわれわれにとっては恐ろしいんだ」
「よし! 鉄砲で追いはらおう」と、狩猟家が答えた。
「いや、ディック、きみの腕前にたよりたくないな。気球のタフタは、ワシのくちばしでやられたら、ひとたまりもないんだ。でも、あの恐ろしい鳥は、われわれの機械に向かってくるよりは逃げていってしまうだろうよ」
「そうだ! いい考えがある」と、ジョーが言った。
「きょうは、いい考えがぞくぞく出てくるな。もしワシを生捕《いけど》りできたならば、そいつを吊り籠につないで、空中を引っぱらせるっていうのはどうです!」
「おもしろい提案だがね」と、博士は答えた。「でも、ワシって強情なやつだから、実現はむずかしいな」
「まっすぐに行かせるんですよ」ジョーはなおつづけた。「くつわのかわりに、目が見えないように目かくしをつけるんです。片っぽうの目をあけてやれば、右でも左でもそのときどきで行くでしようし、見えなくしておけばとまるでしょうからね」
「まあ、ジョー。わたしはワシに引いてもらうよりは、順風のほうがいいね。風なら餌を与える心配はないし、それに安全だからね」
「そうですかね、先生。でも、いい考えだと思いますがね」
正午だった。しばらく前からヴィクトリア号の速度は、かなり落ちていた。地上の風景は、もう走り去るのではなくて、歩いていた。
とつぜん旅行者たちの耳に、喚声と風を切ってピューッと飛ぶ音が聞こえてきた。彼らは身を乗りだした。広びろとした野原に、驚くべき光景が現出していたのである。
原地人が二手に別れて死闘をくりひろげ、矢が空中を雨あられと飛びかっているのだ。戦っている者たちは殺し合うのに夢中なので、ヴィクトリア号の飛来には気づかなかった。入り乱れた激突で、その数三〇〇人ぐらい、その多くは負傷者の返り血をあびて血みどろだった。血みどろになってころげまわるさまは、見るも無残であった。
気球に気づいて、戦いは一時中断された。だが、わめき声はいっそう大きくなり、何本かの矢が吊り籠めがけて放たれた。その一本は、ジョーがその手で払いのけるほど近くにまで飛んできた。
「矢のとどかないところまであがろう」と博士は叫んだ。「無謀な真似はするなよ。われわれには関係ないことなのだから」
斧や投げ槍による殺生が、あちこちで展開していた。敵が倒れると、相手の男は急いでその首をはねる。女たちも混戦に加わって、血だらけの頭を拾っては、戦場の両端に積みかさねていた。ときにはこの無気味な戦利品を自分のものにしようと争っている女たちもいた。
「気持が悪くなるなあ!」嫌悪感を吐きだすようにケネディが言った。
「不愉快な奴らだな」と、ジョーも言った。「制服を着させりゃ、どいつも一人前の戦士として通用するだろうが」
「あんな闘争は、なんとかしてやめさせたいもんだな」と、カービン銃を振りまわして狩猟家が言った。
「やめとけ!」博士が激しくとめた。「やめとけ! 関係のないことに手をだすな! 神の役目をつとめようとしたって、きみにどっちが正しいかわかるかい? こういう胸がむかつく見世物からは、さっさと逃げだすことだ! 最後に力強い酋長どもがこの血なまぐさい戦場を支配するようになれば、たぶん血や征服の趣味はなくなると思うがね!」
これら野蛮人どもの一派の酋長は、闘技者のようなからだつきに、加うるにその怪力によっても目立っていた。片手に持った槍を敵の密集部隊に突き入れると、もう一方の手で手斧をふるって、そこに突破口をつくった。次の瞬間彼は、血に染まった細身の槍を投げて遠くの敵を倒し、さらに傷ついた一人の男に飛びかかって、斧の一撃で相手の腕を切り落とし、片手でその腕をつかんでそれを口にもっていき、大口をあけて噛みついた。
「ああ! なんて恐ろしいけだものだ! もう、がまんできない!」ケネディはこう叫んだ。
そのとき戦士は額に弾丸を受けて、あおむけに倒れた。
酋長がたおれたので、部下は茫然自失の態だった。この思いがけない死は彼の部下をおじけさせ、敵方の勇気をふるいおこさせた。たちまち半数の戦士が戦場を捨てた。
「もっと高くのぼって、われわれを連れていってくれる気流を探そう。これ以上見ていると胸がむかつく」と、博士が言った。
そうは言うものの、それほど早くは上昇できないので、勝利を得た部族が死人や負傷者に飛びかかり、まだあたたかい肉を争って食べるのを見ないわけにはいかなかった。
「うわあ! たまらない!」ジョーが叫んだ。
ヴィクトリア号は膨脹して、のぼっていった。逆上した部族の喚声が、なおしばらくのあいだ気球に聞こえてきた。ヴィクトリア号は南方めざして、この虐殺と人喰いの光景から遠ざかった。
そのとき大地は変化にとんだ起伏を見せ、たくさんの川が東に向かって流れていた。たぶんそれらはヌー湖やガゼル川の支流にそそいでいるのであって、このガゼル川の支流については、ギヨーム・ルジャン氏が興味ある報告をしているのだった。
夜になってヴィクトリア号は、東経二七度、北緯四度二〇分に錨をおろした。これで二四一キロメートル横断したのである。
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二十一 「たすけて! たすけてくれ!」
夜はまっ暗だった。まわりを見てもなにもわからなかった。気球は非常に高い木にひっかかっていて、暗闇を通して木の茂みがやっと見えるだけである。
いつもの習慣に従って、九時から博士は見張りについた。真夜中にディックが交替した。
「よく見張ってくれ、ディック、十分注意してな」
「なにか変わったことでもあるのかい」
「いや、なにか下のほうでざわざわしているような気がしたもんだから。それに、風に運ばれてきたここがどういうところだかわからないから、用心するにこしたことはないと思うんだ」
「野獣のうなりごえでも聞いたんだろう」
「いや、けもののうなりごえじゃなかったようだな。まあ、ちょっとでも変なことがあったら、きっと起こしてくれよ」
「心得た」
博士は最後に注意深く耳をかたむけたが、なにも聞こえなかったので吊り籠のなかによこたわり、まもなく眠りこんでしまった。
空は厚い雲でおおわれていた。だが、すこしも風がなかった。錨だけでとまっているヴィクトリア号は、すこしも動かなかった。
ケネディは火のついているバーナーを見張れるように吊り籠に肱をついて、この暗い静寂に見入っていた。彼は地平線をじっと見ていた。博士に言われたせいか、または心の迷いか、彼の目にはときどき、ぼんやりした光がうつる気がした。
あるときなどは、二〇〇歩ほどしか離れていないところに、そのような光をたしかに見たと思った。だが、それは稲妻だった。その後は、なにも見えなかった。
さっきのはおそらく、目が暗闇をじっと見つめていると光っているものを感じることがよくあるもので、きっとそれなのだった。
ケネディは安心して、またこのさっぱりなにもわからない暗闇をじっと見つめていたが、そのときするどい音が夜空をつらぬいた。
動物の叫び声だろうか、それとも夜の鳥の鳴き声だろうか。それとも人間の唇から出たのだろうか。
事の重大さに気づいて、ケネディは仲間を起こそうとしかけた。だが動物にしろ人間にしろ、いずれにしてもまだ遠くにいると思ったので、彼はまず武器をあらため、それから夜間望遠鏡を手にとって、ふたたび暗闇のなかに見入った。
しばらくすると漠然としてだが、なにかが木のほうに向かってくるような気がした。そのとき、雲間からもれた稲妻のような月の光によって、暗闇にうごめく生きものの群れがはっきりと見えた。犬づらのヒヒ同然の原地人どもの乱闘が、すぐに思い出された。彼は博士の肩に手を置いた。
博士は、すぐに起きた。
「静かに! 低い声で話そう」
「なにかあったのか」
「うん。ジョーも起こそう」
ジョーが目を覚ますと、狩猟家はいま見たことを話した。
「またあのいたずらもののサルのことかな」
「そうかもしれない。気をつけろ」
「ジョーとわたしが、はしごで木に降りてみよう」とケネディが言った。
「そのあいだにわたしは、すぐにでも飛びたてられるように準備しておこう」
「よし、わかった」
「降りましょう」ジョーが言った。
「いよいよのときでなければ、銃を使うなよ」と、博士が言った。「ここにわれわれがいることを教える必要はないからな」
ディックとジョーは身ぶりで答えた。そして物音を立てずに、木のほうにすべっていった。錨がひっかかっている太い枝の分かれているところにまたがった。
数分のあいだ彼らは、そのまま葉のかげで身動きもしないでじっと耳をすましていた。下のほうで、がさがさ物音がした。ジョーがスコットランド人の手をつかんだ。
「聞こえましたか」
「うん、やってくる」
「蛇でしょうか? あなたがお聞きになったその物音は……」
「いや、たしかに人の声だった」
「わたしは、野蛮人のほうがまだいいな。あの長虫ってやつは、どうも気にくわん」と、ジョーはひとりつぶやいた。
「音が大きくなってきたぞ」しばらくしてケネディが言った。
「おや! のぼってきます。よじのぼってきますよ」
「そっちを見張ってろ。おれはこっちを見張ってるからな」
「承知しました」
二人はバオバブというこの森のなかの大木の太い枝に、別べつに分かれて腰かけた。葉の茂みのために、闇はいっそう深かった。ジョーはケネディの耳のところまで身を近よせて、下のほうを指さした。
「原地人たちです」
ひくい声で話し合う彼らの声が、二人にも聞こえた。
ジョーは銃をかまえた。
「待て」ケネディがとめた。
原地人たちは、じじつバオバブをのぼっていた。爬虫類のように枝の上をゆっくりと、だが確実にはって、四方からよじのぼってきた。悪臭を放つ脂肪をぬりつけたからだの匂いで、その居場所はすぐにわかった。
まもなく二つの頭が、ケネディとジョーがいる枝と同じ高さのところにあらわれた。ケネディが言った。
「気をつけて! 撃て!」
二つの銃声が雷鳴のようにひびきわたり、苦痛のうめき声のなかに消え去った。一瞬にして、あやしい群れは姿を消した。
だが、それらの叫喚にまじって、思いがけぬ、ありえない奇妙な叫び声が聞こえたのだった! たしかにその人声はフランス語の発音だった。
「|たすけて《ア・モワ》! |たすけて《ア・モワ》!」
ケネディとジョーはびっくりして、急いで吊り籠にもどった。
「聞いたかね」博士が二人に言った。
「うん、たぶんね。奇妙な叫び声だ、『ア・モワ! ア・モワ』だって!」
「フランス人が原地人につかまったんだ!」
「旅行者かな」
「たぶん神父だろう」
「かわいそうに」と、狩猟家は叫んだ。「殺されようとしてるんだ、殉教者になるところなんだ」
博士は感動をおさえようとしたが、うまくいかなかった。彼はこう言った。
「たしかにそうだ。その不幸なフランス人は野蛮人につかまっているんだ。出発する前に、その男をすくいだすために全力をつくそう。銃声を聞いたので彼は、思いがけない救いの手が、神の恵みのようにさしのべられたと思ったのだろう。彼の最後の希望を、なんとかして叶えてやりたいもんだ。どうだ、賛成してくれるか?」
「同感だよ、サミュエル。きみの命令どおりにやるよ」
「作戦を考えよう。あすの朝になったら、その男を奪いとることにしよう」
「だが、まずどうやってあの黒ん坊どもをおっぱらうかだ」と、ケネディがたずねた。
「さっき、あの連中は逃げたろう、だからそうすればいいと思うよ。あきらかに、奴らは鉄砲なんか知らないんだ。奴らが驚き恐れるのを利用すりゃあいいんだ。ただ朝にならないと行動できないな。現状を調べてから救出方法を考えよう」
「その男は、そう遠くにはいませんよ」とジョーが言った。「だって……」
そのとき、「たすけて! たすけて!」と、また声が聞こえた。
「野蛮人めが!」ジョーは身をふるわせて叫んだ。「もしかして今晩殺されたら?」
「そうだ、サミュエル」博士の手をつかんで、ケネディも言った。「もし今晩殺されたら?」
「そんなことはないだろう。蛮人たちは日昼でないと捕虜を殺さない。奴らには太陽が必要なんだ」
「暗闇を利用して、その不幸な男のところまで行ってみよう」と、スコットランド人が言った。
「ご一緒に行きます、ディックさん!」
「二人とも待て! 待ってくれ! そうすればきみたちの気持もすむし、勇気があることになるかもしれない。でも、そのために、われわれぜんぶが危険にさらされるんだ。そしてわれわれが助けようとしている人たちにも、悪い結果をおよぼすことになる」
「どうしてなんだ」と、ケネディはふたたび言った。「奴らはこわがって逃げたんだ。もどってこないよ」
「ディック、たのむから、わたしの言うとおりにしてくれ。すべてがうまくいくように、わたしは考えているんだ。もし、きみがおそわれでもしたら、すべてだめになってしまうだろう!」
「だが、あの不幸な男だって待っているんだよ。たすかると思っているんだ。だが、誰も答えない。たすけにきてくれる人もいない。だとすると、きっと思いちがいしたと思うな。なんにも聞かなかったんだから……」
「安心させてやることはできる」と、ファーガソン博士は言った。
彼は立ち上がると、手をメガホンのようにして暗闇に向かい、見知らぬ人の言葉で大声で言った。
「どなたかは知りませんが、どうかご安心ください! 三人の友だちがあなたを見守っていますから!」
恐ろしいうめき声が、それに応じた。たぶん、囚人は答えようとして口をふさがれたのだろう。
「首をしめてるぞ! 首をしめようとしている!」と、ケネディが叫んだ。「われわれがいるんで、かえって処刑の時間を早めることになるかもしれない! すぐ、やっちまおう!」
「でも、どうやって、ディック? この暗闇のなかで、どうやってできるんだ」
「はやく朝にならないかな!」ジョーが叫んだ。
「なるほど、朝になりさえすりゃあね」と博士は、うわずった口調で言った。
「簡単じゃないか。サミュエル」狩猟家は答えた。「地面に降りて、奴らを銃でおっぱらうんだ」
「おまえならどうする、ジョー」ファーガソンがたずねた。
「わたしなら、もっと慎重にやりますね。こっちへ逃げてくるようにと、捕えられてる人にまず言いますね」
「どうやって、それを伝えるのかね」
「このあいだ飛んできたこの矢を使います。これに手紙を結びつけます。もっと簡単に大声で呼ばわってもいいですね。黒ん坊には、こっちのしゃべることはわからないんですから」
「きみたちの計画は、みんな実行できないものばかりだ。いちばんむずかしいのは、死刑執行人の警戒の目をごまかして、無事に逃げることなんだ。ディック、きみの考えはとても大胆で、銃に対する恐怖心を利用する点などなかなかいい。うまくいくかもしれない。でも、もし失敗したら、きみもつかまってしまうからな。そうなれば一人でなく、二人も助けなければならなくなるんだ。それじゃだめだ。こっちとしては、どんなことがあっても、うまくやらなければならないんだ。だから、ちがったやり方でゆくとしよう」
「でも、すぐにもやらなくちゃあ!」狩猟家が言い返した。
「うん」サミュエルもこの言葉に応じて言った。
「先生は、このような闇を蹴散らすことができるんでしょう?」
「そんなこと、わかるかね、ジョー?」
「もしそれができたら、先生はこの世でいちばんえらい学者ですね」
しばらくのあいだ、博士は押しだまった。彼は考えているのだ。二人の仲間は、感動しきって彼を見つめた。二人ともこの異常な状況に、胸がたかぶっていた。まもなくしてファーガソンが、ふたたび口を開いた。
「わたしの考えはこうだ。この気球には、九〇キロ近い砂袋がそのまま残っている。積みこんだ袋は手つかずだからね。そのつかまっている人はいためつけられて弱りきっているから、目方はせいぜいわたしぐらいだろう。そうだとすると、急上昇しようと思ったとき、まだ二七キロぐらいの砂袋は残っているわけだ」
「で、どうやろうっていうんだい?」ケネディがたずねた。
「こうするんだ、ディック。まずあの捕虜のところまで行って、あの男の目方ぶんの砂袋を投げるんだ。そうすれば、気球のつり合いは変わらないわけだろう。そうしたうえで、急上昇して黒人の群から遁れるためには、バーナーの火をいっぱいに大きくしなければならない。そのとき残っている砂袋を捨てれば、すごい早さで上昇できるわけだろう」
「そりゃ、そうだ!」
「だが、つごうの悪いことが、一つある。砂袋を捨てたら、こんど下降するときには、その捨てた砂袋ぶんだけの量の水素を減らさなければならなくなる。ガスは貴重なのだが、残念がるのはやめよう。人ひとりの命にかかわるんだからね」
「きみの言うとおりだサミュエル。彼をすくうためなら、あらゆるものを犠牲にしよう」
「じゃあ、仕事にかかろう。まずこれらの砂袋を、吊り籠のへりに積んでくれ、いつでも落とせるようにな」
「でも、こんなに暗くちゃ?」
「暗いから、われわれの準備がわからなくてすむんだ。用意ができたら、あかるくする。武器はすべて手のとどくところに置いておくこと。たぶん発砲しなければなるまい。カービン銃で一発、小銃二挺で四発、ピストル二挺で一二発、全部で一七発を一五分で撃てるな。でも、全部撃たなくてもいいだろう。用意はいいかい?」
「いいです」とジョーが答えた。
砂袋がならべられ、武器も手もとに引きよせられた。
「よし」と、博士が言った。「よく目をくばって。ジョーは砂袋を落とす役、ディックは捕虜をつりあげる役。でも、わたしが命令するまでやってはいけない。ジョー、錨をはずしてきてくれ。すぐにもどってくるんだ」
ジョーは綱をすべり降りて、すぐにもどってきた。自由になったヴィクトリア号は、ほとんど静止したままで空中に浮かんでいた。
そのあいだに博士は、必要に応じてバーナーの火を強くするために、混合タンクのなかにガスがいっぱいあるかどうかを調べた。しばらくは、ブンゼン電池の助けを借りなくてもよさそうだった。彼は水を分解するのに使っている完全に絶縁された二本の電線を引きだした。それから旅行かばんをかきまわし、先のとがったカーボン棒を二本とりだし、電線の先に結びつけた。
二人の友は、なにがなにやらさっぱりわからず、ただだまって見ていた。仕事が終わると博士は、吊り籠のまんなかに突っ立った。そして両手にカーボン棒を持ち、その先端を近づけた。
とつぜん、まばゆいばかりのあかるい光が、この二つのカーボン棒のあいだで、正視できないほどの輝きをもってきらめいた。電光の大きなひらめきが、文字どおり夜の暗闇をくだいた。
「ああ! 先生!」ジョーが叫んだ。
「文句あるまい」と、博士は言った。
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二十二 伝道者
ファーガソンはその強い光線を空間のあちこちに投げかけて、ある場所にそれをとめた。そこから恐怖の叫び声が聞こえてきたのである。二人の仲間はその個所に、むさぼるような視線を投げかけた。
ヴィクトリア号はほとんど動かずに、林間の空地のまんなかにそびえているバオバブの上に浮かんでいた。ごまと砂糖きびの畑のあいだに、まるくて低い原地人の小屋が五〇ほど見え、そのまわりにたくさんの原地人が群がっていた。
気球の下三〇メートルほどのところに一本の杭が立っていて、その下に一人の人間がよこたわっていた。せいぜい三〇歳ぐらいの青年で、長い黒髪はみだれ、なかば裸のやせたからだは血まみれになって傷だらけであり、まるで十字架のキリストのように頭を胸の上に落としていた。頭のてっぺんの髪の毛がかなり短いのは、すこし生えかけた剃髪の跡を示していた。
「伝道者だ! 司祭さまです」と、ジョーが叫んだ。
「かわいそうに!」狩猟家がそれに応じた。
「救いだそう、ディック! 救いだそうよ」と、博士が言った。
原地人の群は、かがやく光の尾をひいた巨大な彗星《すいせい》のような気球を見て、あきらかに恐怖にとらわれていた。彼らの叫び声を聞いて捕われた男は顔をあげた。その眼に希望の色がさした。彼はどういうことが起こったかはよくわからないが、この思いがけない救い主のほうに手をさしのべた。
「生きてる! 生きてるぞ!」ファーガソンが叫んだ。
「ありがたい! 蛮人どもはすっかりおじけづいている! さあ、助けよう! 用意はいいか?」
「いいぞ、サミュエル!」
「ジョー、バーナーの火を消せ!」
博士の命令は実行にうつされた。ヴィクトリア号はほんのわずかの微風にあおられ、同時にガスが収縮されたので高度をさげながら、捕われた男の真上に流れてきた。一〇分ほど気球は光の波のなかにただよっていた。
ファーガソンは群衆に向かって、きらめく光の束《たば》を投げかけ、地上のあちこちに、すばやく走るまぶしい光の長い板をつくった。原地人たちは言いあらわせないほどの恐怖にとらわれて、しだいに姿を消し、杭のまわりにはまったく人影がなくなった。まっ暗闇のなかに太陽のような光を投げかける幻想的なヴィクトリア号の出現を思いついたことは、博士としては充分理由があったからだ。
吊り籠は地面に近づいた。だが、なかでも大胆な幾人かの原地人たちは、彼らのいけにえがさらわれそうなのに気がつき、大声をあげてもどってきた。ケネディは小銃をつかんだ。だが博士は、撃つなと命じた。
司祭はもはや立っている力もなく、ひざまずいていた。それにからだが弱りきっているので、その必要がなく、杭にしばられていなかった。吊り籠が地面近くまで来たとき、狩猟家は武器を捨てると、両腕で司祭を抱きかかえて吊り籠のなかに入れた。その瞬間、ジョーがすばやく九〇キロほどの砂袋を捨てた。
博士は気球が恐ろしい勢いで上昇するものと期待していた。だが予想に反して、気球は地上一メートルほどあがっただけで動かなかった!
「誰かがおさえているのかな?」博士が恐怖にかられた口調で叫んだ。幾人かの蛮人が、狂暴な叫び声をあげて走ってきた。
「あっ!」そとに身を乗りだしたジョーが叫んだ。「いまいましい黒ん坊の一人が、吊り籠の下にぶらさがっています!」
「ディック、ディック! 水の箱だ!」博士が叫んだ。
ディックはすぐに友人の考えを察し、すばやく四五キロ以上の重量のある水槽の一つを持ちあげて、吊り籠のへりから落とした。
急に身軽になったヴィクトリア号は、一気に九〇〇メートル以上も飛びあがった。目もくらむような光線のなかで、囚人を奪われた原地人たちがわめいていた。
「万歳!」博士の二人の仲間は叫んだ。
とつぜん気球は、またもや飛びあがった。三〇〇メートル以上も上昇したのである。
「どうかしたのか?」もう少しで倒れそうになったケネディがたずねた。
「なんでもないさ! さっきの暴れん坊が手を放しただけさ」と、サミュエル・ファーガソンは静かに答えた。
ジョーが急いで身を乗りだしてみると、蛮人が手を広げてぐるぐるまわりながら落ちていくのが見えた。まもなく彼は、地面に叩きつけられた。博士は、二本の電線を離した。あたりはまたまっ暗闇になった。朝の一時だった。
気絶していたフランス人が、やっと目を見開いた。
「たすかったんですよ」と、博士が言った。
「たすかったんですって!」その男は寂しそうな微笑を浮かべて、英語で答えた。「残酷な死は遁れました。兄弟たち、感謝いたします。でも、わたしの生きられる命数は、わかっているのです!」
伝道者は疲れきっているので、また眠りにおちいった。
「もうじき死ぬ」と、狩猟家は言った。
「いや、いや、だいじょうぶだ」と、彼の上にかがみこんだファーガソンは答えた。「でも、とても弱っている、テントの下に寝かそう」
彼らは静かに、やけどのあとと、まだ血が出ている傷でおおわれた、このあわれなやせほそったからだを毛布の上にのせた。鉄棒でなぐられ、焼きごてをあてられたからだには、二〇箇所もいたましい傷痕があった。ファーガソン博士は傷口を洗ってから、ハンカチを引き裂いて包帯をつくり、傷口にあてた。そのようなことを、彼は医者のように手ぎわよく上手にやった。それから救急箱のなかから気つけ薬をとりだして、司祭の唇に数滴たらした。
司祭は唇をかすかに動かして、やっと「ありがとう、ありがとう!」とだけ言った。
博士は、彼には絶対安静が必要だとさとった。そこでテントのカーテンをおろし、気球の方向を見さだめるためにもどった。
気球は新しい客人の体重を考慮して、約八二キロほど身軽になったのだった。だからいまは、バーナーの力を借りなくても、空中に浮かんでいた。朝の最初の光がさしたとき、風の流れは静かに気球を西北西のほうに運んでいた。ファーガソンはしばらくのあいだ、眠りこんでいる司祭の顔をながめていった。
「天がつかわしたこの仲間と、いつまでもいたいもんだね」と、狩猟家が言った。「いくらか希望はあるかね」
「あるよ、ディック、手当てをしてやればね。空気はこんなにきれいなんだもの」
「ずいぶん苦しかったでしょうね!」感動してジョーが言った。「こんな蛮族のなかに一人で来るなんて、わたしたちよりよっぽど大胆ですね!」
「そりゃあ、そうだ」と、狩猟家が答えた。
その日一日じゅう博士は、この不幸な男の眠りをさまたげないように努めたのだった。それは長期にわたる眠りだった。ときどき苦しそうになった。そのたびにファーガソンは、どきりとした。
夜になってヴィクトリア号は、暗闇のなかに停止した。その夜ジョーとケネディは、交替で、みんなの安全のために徹夜で見張りをつづけた。
翌朝になるとヴィクトリア号は、西のほうにわずかに流されていた。その日は、すばらしく晴れあがった日になりそうだった。病人もいくらか元気な声で、新しい仲間を呼ぶことができるようになった。テントが引きあげられ、彼は朝の新鮮な空気を胸いっぱいに吸うことができた。
「いかがですか」ファーガソンがたずねた。
「だいじょうぶです」と、彼は答えた。「でもみなさん、わたしはまだみなさんと、夢のなかで会ってるような気がします。でもやっと、どういうことが起こったのか、わかるような気がします! あなた方は、どういう方がたなのですか。わたしの最後のきわの祈りに、あなた方の名前を入れるのを忘れたくないので」
「わたしたちは、イギリスの旅行者たちです」と、サミュエルが答えた。「気球に乗ってアフリカを横断しようと思っているのです。そしてその途中で、あなたを救うという幸運にめぐまれたのでした」
「科学は英雄を生むものですね」と、伝道師が言った。
「だが宗教は殉教者を……」と、スコットランド人が答えた。
「あなたは伝道者なのでしょうか?」と、博士がたずねた。
「わたくしはラザリスト修道会の伝道司祭です。天はあなた方を、わたくしのもとにおつかわしになった。ありがたいことです! わたくしの生命の犠牲は、まもなく終わるでしょう! でも、あなた方はヨーロッパからおいでになった。ヨーロッパのこと、フランスのことを聞かせてください。五年間、何も知らないのです」
「五年間も一人で、この蛮人のあいだで!」ケネディは感動のあまり叫んだ。
「罪を贖《あがな》わなければならない人たちなのです」と、若い司祭は言った。「無知で野蛮な兄弟なのです。彼らを教育し教化できるのは、宗教だけなのです」
サミュエル・ファーガソンは伝道師の希望にこたえて、フランスのことを長ながと話してやった。
司祭はむさぼるようにそれらの話に聞きいり、涙が彼の眼から流れた。あわれな青年は熱でもえるような手で、ケネディとジョーの手をかわるがわるつかんだ。博士は彼のために何杯も紅茶をつくってすすめた。司祭はそれをおいしそうに飲んだ。そして自分でからだを起こす力が出てきたので、彼は澄みきった空を飛んでいるのを知って喜んだ。
「みなさんは、勇気のある探検家たちです」と彼は言った。「みなさんの大胆な計画は、きっと成功しますとも。ご両親やお友だちや、あなた方の祖国をまた見ることができますとも、みなさんは……」
若い司祭はとても疲れているようだったので、また彼を寝かせなければならなかった。衰弱がはなはだしいので数時間のあいだ、まるで死んだようになって博士の腕に抱かれていた。ファーガソンは感動をおさえきれなかった。抱いている両手のあいだから、その男の生命が逃げていくような気がしてならなかった。むごい刑罰からやっと救いだした男が、こんなにも早く彼らのもとを立ち去って行くのだろうか? 博士はあらたに、殉教者の恐ろしい傷口の手当てをしてやった。積んである水をおしげもなく使って、彼は燃えるような手足をひやしてやった。彼は心をこめて、思いつく手当てのかぎりをつくしたのだった。病人は博士の腕のなかで、すこしずつ良くなっていった。そして生命のほどはわからないが、感情だけは取りもどした。
博士はその切れぎれの言葉から、司祭の話をくみとった。
「あなたのお国の言葉で話してください」と博士は言った。「わたしはフランス語がわかるので、そのほうが疲れないでしょう」
伝道師はブルターニュのモルビアン地方にあるアラドン村の青年だった。彼は幼いころから聖職にあこがれていた。そして自己犠牲の生活にさらに危険な生活をつけ加えようとして、彼は聖ヴァンサン・ド・ポール〔フランスの聖職者。一五八一―一六六〇。愛徳信心会を設立し、次いで信心会、ラザリスト宣教会を設け、さらに愛子会を設立した〕が名誉ある創設者である伝道修道会に入った。二〇歳のとき彼は祖国を去って、人を冷たく迎えるアフリカの海岸に向かった。そしてそこから徒歩でお祈りをしながら、障害を乗りこえ、掠奪に耐えながら、一歩一歩、ナイル川の上流地域に住む部族のなかに入ったのだ。二年間も、彼の宗教は排斥され、その情熱は無視され、彼の説く慈愛は理解されなかった。ニャムバラのもっとも残酷な部族に捕えられ、その小屋に閉じこめられて数多くの虐待を受けたこともあった。それでも彼は道を説き、教えをひろめ、祈りつづけた。土民同士のあいだで始終起こる戦闘で負けたこの部族はちりぢりになり、彼は死んだと思われて遺棄されたのだった。彼は祖国へ帰らずに、なお福音の旅をつづけたのである。彼がいちばん平和なときは、気ちがいだと思われたときだった。この地方の言葉に慣れた彼は、なおも教理を説きつづけた。つぎの長い二年間も、神による超人間的な力にささえられて、これらの野蛮な地方を歩きまわった。一年前から彼は、アフリカでもっとも野蛮な部族として知られている、ニャムニャム族のなかのバラフリという蛮族のなかに住んでいた。その酋長が数日前に死んだのだが、その不慮の死を蛮人たちは彼のせいにして、彼をいけにえにすることに決めたのである。四〇時間も責苦がつづけられたあと、彼は博士が予想したように、正午の太陽のもとで死ぬことになっていたのだった。彼は銃声を聞いたとき、思わず知らず「たすけて! たすけて!」と叫んだのだ。そして空から慰めの言葉が投げられたときは、彼は夢を見ているのだと思ったとのことだった。
「もうじき終わるこの生涯を、わたくしはけっして惜しいとは思いません。わたくしの一生は神のものでした」
「希望をもっと持ちなさい」博士は彼に言った。「あなたには、わたしたちがついている。あなたを刑罰から救ったように、死からもお救い申しましょう」
「わたくしは神に、そのような多くを求めてはおりません!」あきらめきっている神父は答えた。「死んでゆくまえに友の手を握る喜びを与えたまい、祖国の言葉を聞く機会をお与えくださった神をたたえます」
伝道師はまたもや昏睡《こんすい》状態に入った。その日はこうして、希望と不安のうちに過ぎた。ケネディはおおいに感動し、ジョーはひとり離れて涙をぬぐっていた。
ヴィクトリア号は、ほとんど進まなかった。それはまるで風が、この貴重な荷物を運ぶのを手加減しているようだった。
夕方ごろジョーは、西の彼方が大きくあかるいのに気づいた。もっと高い緯度を飛んでいたら、大きなオーロラだと思ったろう。空が燃えているようだった。博士はこの現象を注意ぶかく調べた。
「ただの活火山にすぎんよ」と博士は言った。
「でも、風がその上のほうへわれわれを運んでいくようだな」ケネディがそれに答えた。
「よろしい! 安全な高さまでのぼって、それをこえるとしよう」
三時間後にヴィクトリア号は、山岳地帯のまっただなかにいた。正確な位置は東経二四度一五分、北緯四度四二分で、目の前でまっ赤な火口からどろどろの熔岩を吹きだし、大きな岩石の塊を空高く噴出していた。そして燃える液体の流れは、まばゆいばかりの滝となって流れ落ちていた。すばらしいが、しかし危険きわまる眺めだった。風はあいかわらず、この燃えあがっている大気のほうに、気球を運んでいたからだった。
迂回することができないとすれば、この障害物を飛びこえなければならなかった。バーナーの火は最高に大きくされ、ヴィクトリア号は火山とのあいだに六〇〇メートル以上の距離をおいて一八三〇メートルの上空にたっした。
瀕死の司祭も苦痛の床から、轟音とともにまばゆい数多くの火柱を噴きだしている火口を見ることができた。
「なんてきれいなんでしょう」と彼は言った。「神の力は、このようなもっとも恐ろしい出現においても無限です!」
灼熱の熔岩の奔流が山腹をおおっている光景は、炎のじゅうたんを敷きつめているようだった。気球の下部が闇のなかで輝いていた。その熱気は吊り籠までのぼってきたので、ファーガソン博士は、この危険な場所から逃れるのを急いだ。
夜の一〇時ごろ、山は地平線上の一つの赤い点にしかすぎなくなった。ヴィクトリア号は高度をさげて、ゆっくりと飛行しつづけた。
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二十三 金鉱
すばらしい夜が、地上に広がっていた。司祭は静かに、衰弱しきって眠りこんでいた。ジョーが言った。
「なおらないでしょうかね! かわいそうに! 三〇になったばかりなのにね!」
「われわれの腕にだかれて死ねるのが、せめてもの慰めだ!」絶望して博士が言った。「呼吸がもうずいぶん弱っている、それがまた弱まっている。たすかる見込みはないな!」
「あの恥しらずの悪党め!」にわかにこみあげてきた怒りをおさえきれずに、ジョーは叫んだ。「このりっぱな司祭さまは、おまえたちをあわれみ、おまえたちのことを考え、おまえたちの罪をゆるすとおっしゃったのだ!」
「天はこの人に、こんなにも美しい夜をお与えくださったんだ、ジョー。たぶんこの方の最後の夜になるだろうな。もうすこしも苦しむことはないだろう。死はこの方にとっては、静かな眠りなんだ」
死のうとしている男は、きれぎれの言葉をなにやら言った。博士がそばに近づいた。病人の呼吸は苦しそうだった。彼は空気を欲していた。テントがすっかり除けられ、彼はこの透きとおった夜の微風を、おいしそうにすいこんだ。星ぼしはゆらめく光を彼に投げかけ、月はその白い光の死の装いで彼をつつんだ。彼は、よわよわしい声で言った。
「みなさん、お別れです! お礼に、神がみなさんを港にお連れしますように! わたくしの感謝の気持を、わたくしにかわって神がなさってくださらんことを!」
「どうか希望をおもちになって」と、ケネディが答えた。「ただ、からだが弱ってるだけですよ。死にゃしませんとも! こんなきれいな夏の晩に、人が死ぬなんてことがあるものですか」
「死は目の前にきています」と伝道師が言った。「わたしには、よくわかっています! 死を真正面からながめさせてください! 死によってこの世の苦しみは終わり、永遠のことどもが始まるのです。兄弟たちよ、わたくしをひざまずかせてください、お願いします!」
ケネディが彼を起こしてやった。力のなくなった手足がからだの重みで折れまがるのを見るのは、あわれをそそった。
「神よ! 神よ!」死のうとしている使徒は叫んだ。
「わたくしをあわれみください!」
彼の顔は輝いた。いまだかつて喜びを知ることなくして過ごした地上から離れて、やさしい光を投げかける夜のなかを、奇跡の昇天をなすように彼は空への道をのぼりながら、彼はすでに新たな生を生きようとしているようだった。
司祭は最後の身ぶりで、これら一日だけの友人たちに至上の祝福を送った。そしてケネディの腕のなかで倒れた。ケネディの眼から大粒の涙がこぼれた。
「死んだ!」彼の上に身をかがめて博士がつぶやいた。
「死んでしまった!」
言い合わせたように三人はひざまずいて、無言のままで祈った。まもなくして、ファーガソンが言った。
「あすの朝、この男が血を流したアフリカの地に埋葬してやろう」
その夜、遺骸は、博士、ケネディ、ジョーの手で交替で見守られた。一語たりともその死の静寂を乱すようなことはなく、ただ泣くのみだった。
翌日は南風だった。ヴィクトリア号はごくゆっくりと、山岳地帯の広い高原の上を進んでいった。休火山の火口や、荒れはてた渓谷が、ちらほら見えた。これらの乾燥しきった尾根には一滴の水さえなく、かさなりあった岩や、漂石や白っぽい泥灰岩が点在し、まったくの不毛の地であることを示していた。
正午ごろ博士は、遺骸を埋葬するために、太古にできた深成岩にとりかこまれた渓谷に降りることにした。そこには錨をかける木が一本も見つからなかったので、風のあたらない山間《やまあい》を選んで、吊り籠を直接地面に降ろさなければならなかった。
だが司祭を救出するときに砂袋を捨ててしまったので、あのとき博士がケネディに説明したように、気球はその重さのぶんだけガスを放出しないかぎり下降することはできなかった。博士は外側の気球のバルブを開いた。水素が放出された。ヴィクトリア号は、静かに谷間に降りていった。
吊り籠が地面にふれると、博士はバルブを閉めた。ジョーが吊り籠の外側のへりを片手でおさえて地上に降り立つと、もう一方の手で石をいくつか拾っては内部に投げ入れ、まもなくそれは彼の体重と同じ重さになった。それからこんどは両手を使って、二二六キロ以上の石塊を吊り籠のなかに積みこんだ。このようにしてこんどは博士とケネディが降りることができたのである。ヴィクトリア号は釣りあいがとれ、上昇するだけの力はもはやなくなったわけである。
それに、こんなに多量の石塊を積みこまなくてもよかったのだ。なぜならジョーが拾いあつめた石塊はひどく重いので、それが瞬間ファーガソンの注意をひいたのだった。あたりには石英石と|ひん《ヽヽ》岩が散在していた。
「おもしろい発見だぞ」博士は心のなかでそう思った。
そのあいだにケネディとジョーとは、穴を掘る適当な場所を探すために少し歩きまわった。周囲がけわしいこの谷間は、まるでかまどのように暑かった。真昼の太陽が、その燃えるような熱気をまともにそそぐからである。
まず地面をおおっている岩のかけらを取りのぞかねばならなかった。それから野獣が遺骸を掘りおこさないように、深い穴を掘った。
殉教者のからだは、敬意をもって穴のなかに置かれた。
土が亡骸《なきがら》の上にかけられ、その上にいくつかの岩のかけらが、墓石のように積まれた。
そうしているあいだ、博士はじっとしたままで物思いにふけっていた。仲間の呼ぶ声も耳に入らなかったらしく、昼の暑熱を避けて彼らとともに日蔭に入ろうとしなかった。
「なにを考えているだね、サミュエル?」と、ケネディがたずねた。
「自然の奇妙な対照のこと、偶然のめぐりあわせについて考えているんだよ。すべてを犠牲にしたこの男、ほんとうに貧乏な暮らしを送ったこの男が、どんなところに埋められたか知っているかい」
「それはどういうことなんだ、サミュエル」と、スコットランド人がたずねた。
「貧しい生活を送るべく決意したこの司祭が、いまは金鉱のなかによこたわっているんだ」
「金鉱だって?」ケネディとジョーがいっせいに叫んだ。
「そう、金鉱石だよ」博士は静かに答えた。「きみたちが普通の石だと思って踏んでいるのは、ごく純度の高い金鉱石なんだ」
「へえ! そんなことが!」ジョーは何度も言った。
「そのへんの黒ずんだねずみ色の片岩《へんがん》の割れ目を探してごらん。貴重な天然の金塊が見つかるはずだ」
ジョーは散らばっている石のかけらに、気が狂ったように飛びついた。ケネディもご多分にもれなかった。
「あわてるなよ、ジョー」と、主人は言った。
「先生は、またずいぶんのんきに、そのことをお話しになりますね」
「へえ! それがおまえの哲学かね……」
「ええっ! こうなっては哲学どころではないでしょうが!」
「まあ、考えてもごらん! そんなに金持になっても、なんの役に立つかね? それを持っていかれもしないしさ」
「持っていかれないんですか? なんていうこった!」
「吊り籠に積みこむには、ちと重すぎるよ。わたしはおまえにこの発見のことを言おうか言うまいか、ずいぶん迷ったよ、おまえを残念がらせはしまいかと思ってね」
「へえっ!」と、ジョーが叫んだ。「この宝を捨てていくんですか。わたしたちの宝なんですよ、みんなわたしたちのものなんですよ! それを捨てていくなんて!」
「気をつけろよ、ジョー。おまえは黄金崇拝熱にとりつかれたのかい。いまおまえが埋葬した司祭が、人間として大切なものがなんであるかを教えたではないか?」
「そりゃ、そうですが」と、ジョーは答えた。「でも、やっぱり金は欲しいな! ケネディさん、このへんの金塊を少しばかり集めていくのに、手を貸してくれませんかね?」
「集めたってしようがないよ、ジョー」思わず微笑しながら狩猟家は言った。「わたしたちは財産をつくるためにここへ来たんじゃないからね。それに、そんなものは持っていけないしね」
「金塊はちと重すぎるよ」と、博士はまたもや言った。
「ポケットにも入らないしね」
「それでは」とジョーは、最後の望みをかけてこう言った。「砂袋として砂のかわりにこれを積んではいけませんかね?」
「よし、よかろう!」と、ファーガソンは同意した。
「けれども、何千ポンドという大金を捨てなければならなくなっても、あんまり悲しそうな顔はするなよ」
「何千ポンドですって?」ジョーはまた叫んだ。「じゃあ、これらはみんな金なのですか」
「そうだよ、ジョー。ここは自然が何世紀にもわたって宝ものをためこんだ貯蔵庫なんだ。いくつもの国を豊かにするだけのものが、ここにはある。この砂漠の底には、オーストラリアとカリフォルニアの金鉱を一緒にしたぐらいのものがあるんだよ」
「それが使われずじまいってわけですか?」
「たぶんね! でも、いくらかそれで、おまえも慰められるだろう」
「慰めようとしたって、だめですよ」さも残念そうにジョーは言いかえした。
「まあ聞け。わたしはこの場所の正確な位置をはかって、おまえに教えてあげる。イギリスに帰ったら、みんなにそれを教えてやったらいい、金がたくさんあれば人は幸せになれると思ったらばね」
「もういいです、先生、おっしゃることがよくわかりました。あきらめます。そうするよりほかにしようがないんですものね。さあ吊り籠にこの大切な鉱石を乗せましょう。旅行の終わりまで残った分だけが儲けというわけでさあ」
ジョーは仕事にとりかかった。彼は喜び勇んで、それをやった。まもなく千ポンド近い石英石のかけらが積みこまれた。このたいへん固い捨石のなかに、金がふくまれているのである。
博士は微笑しながら、ジョーのするのを見ていた。ジョーがそうしているあいだに博士は高いところにのぼって、伝道師の墓の位置を計った。東経二二度二三分、北緯四度五五分だった。
それから気の毒なフランス人の亡骸がよこたわっている地面の盛りあがりに最後の一瞥を投げて、吊り籠にもどった。
彼は、アフリカの砂漠のまんなかに見すてられたこの墓に、簡単な十字架を立ててやりたかったのだ。だが一本の木も、この付近には見つからなかった。
「神はごらんになるだろう」と彼は言った。
一つのたいへん重大な気がかりが、ファーガソンにはあった。彼はほんの少しでも水が見つけられたら、この金の多くを与えたでもあろうが。黒人を取りのぞくために箱と一緒に捨てた水を補充しておきたかったのだ。でも、この乾ききった土地で水を探すことは、不可能だった。バーナーは絶えず燃えたたせていなければならないし、博士は不安になってきた。喉の渇きをいやす水にも不足しはじめた。彼は水を補給できる機会があったらいかなる場合でも逃すまいと、心に決めた。
吊り籠にもどったら、欲ばりのジョーが積みこんだ石が、うんざりするほどあった。博士は何も言わずに乗りこんだ。ケネディは、いつもの席を占めた。ジョーは谷間の宝をもの欲しそうに見やってから、二人のあとにつづいた。
博士はバーナーに点火した。螺旋管はあたたまり、数分後には水素が流れはじめ、ガスは膨脹した。だが、気球は動かなかった。
ジョーは不安そうに博士を見ていたが、ひとことも言わなかった。
「ジョー」と、博士は呼びかけた。
ジョーは答えなかった。
「ジョー、聞こえないのかい」
ジョーはわかっているという合図をしてみせた。だが彼は聞きたくなかったのだ。ファーガソンが言った。
「相当な量の鉱石を捨てて、わたしを喜ばせてはくれまいか」
「でも、先生はお約束なさったでしょうが……」
「砂袋のかわりをするんだと約束したが、それだけのことだよ」
「でも……」
「では、われわれがいつまでもこの砂漠にいてもいいのかね」
ジョーはケネディのほうに、絶望的な視線を投げた。だが彼は、一向に関係ないというような様子を見せた。
「どうしたジョー?」
頑張り屋のジョーは言った。「あなた方のバーナーはこわれてるんじゃないですかね」
「バーナーには火がついてるよ。見ればわかるだろう。だがおまえがすこし積荷を捨てないと、気球は上昇しないよ」
ジョーは耳をかいた。それから彼は、なかでもいちばん小さい石英のかけらを手にとって、重さを計り、また手で計ってみて、さらに掌の上に乗せてみた。一、二キロの重さだった。彼はそれを投げた。
ヴィクトリア号は、やはり動かなかった。
「どうですか! まだあがりませんか?」と彼は言った。
「まだだ。つづけろ!」と博士は命じた。
ケネディは笑っていた。ジョーはまた五キロほど捨てた。気球は依然として動かなかった。ジョーの顔があおざめてきた。
「かわいそうだがね」と、ファーガソンは言った。「ディックと、おまえとわたしとで、もしわたしの間違いがなければ一八〇キロぐらいはあったろう。だとすると、少なくともその重さだけは捨てなければいけないんだ。つまり、わたしたちのかわりに石を乗っけておいたんだからな」
「一八〇キロも捨てるんですか!」と、ジョーはなさけなそうに叫んだ。
「上昇するためならやむをえまい。さあ、勇気をだして!」
このりっぱな若者は大きく溜息をついて、気球から積荷をおろしはじめた。ときどき彼は手を休めて、「あがってるでしょう!」とたずねた。
「あがってないよ」あいかわらず同じ返事がかえってきた。
「ほら、動いてます!」と彼は言った。
「もっと捨てろ」と、ファーガソンはくりかえした。
ジョーは絶望のあまり最後の大きなやつを持って、吊り籠の外に投げだした。ヴィクトリア号は三〇メートル五〇センチほど上昇した。そしてバーナーの力を借りて、まもなく付近の峰々よりも高くのぼった。
「ところでジョー」と博士は言った。「おまえには、まだ充分の財産が残っているではないか。もし旅行が終わるまでそれを持っていたら、余生を金持として過ごせるよ」
ジョーはなにも返事せずに、小石ばかりの鉱石の床の上にごろりと横になった。
「見たかい、ディック」と、博士は声をかけた。「世界中でいちばん利口な子供にとっても、このように金の力がいかに作用するかがわかっただろう。さぞかし、みにくい犯罪や狂態が演じられるだろうな。悲しいことだ」
夕方になってヴィクトリア号は、一四五キロ西方に進んでいた。ザンジバルから直線距離で、二二五〇キロほど来たのである。
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二十四 砂漠に近づく
ヴィクトリア号は枯れかかった一本の木がぽつんと離れて立っているのに錨を投げて、静かな一夜を過ごした。旅行者たちはおおいに必要としていた眠りを、ごくわずかしか取ることができなかった。ここ数日間に起こった感動の数かずが、彼らに悲しい思い出を残したからだった。
朝になると、空はまたあかるい清澄さと暑さとをとりもどした。気球は空にあがった。何回かのむなしい試みの後、ようやく気流を見つけたが、ほとんど動きがなく、わずかに北西のほうへ流れていた。
「まるで進んでいないね」と、博士が言った。「もしわたしの間違いでなければ、一〇日間でだいたいわれわれの旅は、その半分を終えたことになる。だが、いまのような進み方だったら、旅を終えるにはひと月かかるね。水が足りなくなるおそれがあるので、そうなると困るんだ」
「だが、見つかるさ」ディックがそれに答えた。「こんなに広い国なんだから、川や小さな流れや池ぐらいには、すぐに出くわすさ」
「そうあってほしいね」
「こんなに進み方が遅いのは、ジョーの荷物のせいではないかな?」
ケネディはこのように、わが愛すべき青年をからかうようにして言った。彼にしてもジョーの追っている夢を一度は心に描いたというのに、そんな様子は少しも見せずに、金のことなど気にしないといったふうで笑っていた。
ジョーはあわれっぽい一瞥を彼に投げた。だが博士は何も言わなかった。彼はひそかに恐れをいだいて、広大なサハラ砂漠の死の世界のことを考えていた。そこでは喉をうるおす一つの井戸に出喰わすことなくして、隊商たちは何週間も過ごすのだった。だから彼は土地がすこしでも低くなっていると、細心の注意を払って入念に調べるのだった。
このような心配と最近の金鉱事件とは、三人の旅行者の気分をすっかり変えてしまった。三人とも、あまり口をきかなかった。各人それぞれの思いにふけっていたのである。
りっぱな精神の持ち主であるジョーも、黄金の海原を見てから、もはや同じ状態ではなかった。彼はむっつりだまりこんで、いまはなんの値打もないが明日になったら量り知れない富に変わる吊り籠のなかに積みこまれた石を、ものほしそうな目つきでながめていた。
アフリカのこの地帯のながめは、憂うべきものがあった。しだいに砂漠になっていった。もはや部落はなく、何軒かの小屋の集団もなかった。植物がすっかり影をひそめてしまったのである。やっとところどころに、スコットランドのヒース地帯のように、発育の悪い草木が生えているだけで、白っぽい砂や、照りつけられた灼熱の石塊や、乳香《にゅうこう》とイバラの茂みとがあるだけだった。この不毛の土地では、するどく切り立った岩石の稜線が、地球の太古そのままの残骸をさらけだしていた。あまりに荒れはてた眺めに、ファーガソン博士は考えこんでしまった。
隊商がこの砂漠地帯に入りこんだ形跡は、まったくないように思われた。入ったとしたら、野営の跡や人獣の白骨が残っているはずだった。そんなものはなにもなかった。そのうちまもなく、この荒れはてた土地は、はてしなく広がる砂漠にとってかわられることだろう。
だが、後退することはできなかった。前進するより仕方がなかったのである。博士は、嵐が起こって、この土地の外に連れだしてくれることしか願ってはいなかった。だが、空には、雲ひとつだにない! その日が暮れても、ヴィクトリア号は四五キロも進んではいなかった。
水さえ不足していなかったら! だが水はぜんぶあわせて約一三・五リットルしか残っていなかった。博士はそのなかから、九〇度〔摂氏三二度〕の猛暑に耐えるための渇きをいやすために五リットルの水を取りのけた。そこでバーナーをもやすためには九リットルも残ってはいなかった。これでは、約一七立方メートルのガスしかつくれなかった。バーナーは一時間に約〇・三二立方メートル弱のガスを燃焼する。つまり五四時間しか飛べないわけだ。これは厳密に計算したうえでの結果であった。
「五四時間しかもたんよ」と、彼は仲間に告げた。「これから夜は飛ばないことにしよう。夜だと、川や泉や沼を見落とす恐れがあるからだ。三日半しか、われわれは飛べない。そのあいだにどんなことをしても、水を見つけなくちゃならないんだ。このような事態になったことを是非ともきみたちに知らすべきだと、ぼくは思った。飲み水としては五リットルの水しか残っていないんだ。これからは一人の飲み水をきびしく制限しよう」
「よし、水の割当て結構」と、狩猟家は答えた。「だが、まだ絶望するには早いよ、なお三日あるんだからな」
「そうだよ、ディック」
「そうだろう! 三日たってからはっきりするんだから、それまでくよくよしたってはじまらんさ。それまで、よくよく注意して見るとしよう」
そこで夕食のときには、水は厳格に計られた。グロッグ〔フランスではブランデーやラム酒に砂糖やレモンを入れ湯で割って作る〕のブランデーの割合がふえた。だが涼しくなるどころか身体のほてるこの飲料は用心してとらねばならなかった。
その夜は一晩じゅう、気球は広い砂丘の上でやすんだ。このあたりはかなりの低地で、丘といってもやっと標高二五〇メートルしかなかった。この状況は、博士にわずかながらも希望を与えた。アフリカ大陸の中央に広大な水の広がりがあるという地理学者の推測を、彼は思い出したからだった。だが、もしその湖水があったなら彼は、そこに到達しているはずだった。しかし動きの見られぬ空には、なに一つ変化は見られなかった。
おだやかな、星をちりばめた壮麗な夜にひきつづいて、灼けつくような太陽の朝が来た。陽がのぼったと思うと、気温はもう灼けつくような暑さだった。朝の五時に、博士は出発の合図をした。だいぶ長いあいだヴィクトリア号は、鉛のように動かない大気のなかに浮かんだままだった。
もっと上空に昇れば、この酷暑を逃れられるだろうと博士は考えた。だがそれには水をたくさん使わなければならないので、いまの状態ではむりだった。そこで博士は、地上三〇メートルのところに気球を浮かせるだけで満足した。そのとき、弱い風がようやく気球を西方の地平線へと追いやった。
朝食はわずかな乾燥肉とペミカンだけですませた。正午ごろになって、ヴィクトリア号はやっと数キロ進んだだけだった。
「これ以上速くは行けないんだ」と、博士は言った。
「命令するんじゃなくて、ただ従うだけさ」
「なあ、サミュエル!」と、狩猟家が言った。「こういうときには、プロペラがあるといいんだろうがな」
「そうだね、ディック、動かすのに水がいらないという点では、たしかにそうだがね。だが、いまそんなことを言ったって、はじまらんさ。なにしろ、いままで使いものになるようなプロペラは発明されなかったんだから。いまの気球は、ちょうど蒸気機関の発明される前の船のようなものだからな。外輪船の外の水かき板やスクリューを考えだすのに、六千年もかかっているんだからね。だからいまは、ただプロペラができるのを待つのみだよ」
「ひどい暑さですね!」額に流れる汗をぬぐいながらジョーが言った。
「もし水があったら、この暑さだって役に立つんだがね。つまり暑さで気球の水素が膨脹するから、螺旋管の火をそれほど強くしなくてすむからね! ほんとに、水さえこんなに欠乏しなければ、水の節約なんかしないですんだのに。ああ、にくい原地人め、よくも貴重な箱を捨てさせたな!」
「サミュエル、きみはやったことを後悔してはいないだろうね」
「しちゃあいないよ、ディック。われわれはあの不幸な男を、恐ろしい死から助けたんだからな。でも、あの捨てた四五キロの水があったら、ずいぶん役立ったろうが。あれがあったら、まだ一二、三日はだいじょうぶだったろうし、こんな砂漠なんかなんでもなく渡れたろうに」
「少なくとも旅の半分はすんだでしょうがね」と、ジョーがたずねた。
「距離から言えばそうかもしれんが、風がわれわれを見捨てる以上は、なかなか時間的にはむずかしいな。どうも風がまったく吹かなくなるようだな」
「まあ、先生」と、ジョーがまた言った。「泣きごとを言うのはやめましょうよ。いままでもなんとか急場をしのいできたんです。どんなことがあっても、わたしは絶望なんかしませんよ。水はきっと見つかりますよ、うけあいますとも」
だが大地は、行けば行くほど平坦になった。金の採れる山々のうねりも、ついに平原の彼方に没した。まるでここが自然のいよいよ尽き果てた最後の勾配といったようだった。東側のみごとな樹木のかわりに、まばらな草が散在していた。色あせたみどりの草むらが、それでもなお砂の侵略とたたかっていた。はるか遠くの山頂からころがり落ちてきた大きな岩が、その途中でこなごなになり、とがった小石となって散らばっていたが、それもやがては大粒の砂となり、ついには微細な砂粒になっていくのだった。
「これが、おまえの考えていたアフリカなんだよ、ジョー、わたしの言ったとおりだったろう。がまんするんだな!」
「そうですとも、先生」と、ジョーが言い返した。「この暑さ、この砂! これがほんとうなんですよね! このような国に来て、別のものを求めるほうがおかしいわけでさあ。それに」と、彼は笑いながらつけ加えた。「先生はアフリカにも森や草原があるっておっしゃっていたけれども、わたしは信用していませんでした。見当ちがいもはなはだしいでさあ! イギリスの田園風景を見るために、わざわざこんな遠くにまでは来ませんものね。いまはじめて、アフリカに来たっていう気がしました。アフリカを少々味わうのも、まんざら悪い気はしませんね」
夕方になって博士が調べてみると、ヴィクトリア号はこの灼けつくような暑い一日に、三二キロも進んでいなかった。一直線にはっきり見える地平線上の彼方に太陽が沈むと、あたりはむし暑い暗闇になった。
翌日は五月一日、木曜日だった。毎日が絶望的な単調さをもって、くりかえされていった。朝は、それに先立つ前の日の朝と同じだった。昼になればまたあいかわらず灼熱の日光が、さんさんと照りつけるのだった。夜になると、つぎの日がつぎの日の夜に残すにちがいない一面にふりそそいだ暑熱を、その闇のなかに収縮させるのだった。かすかに感じられる風は、吐息というよりも末期の吐息とも言うべきで、それはその吐息がひとりでに跡絶える瞬間を察知させた。
博士はこのような悲観的な状況に、立ち向かっていた。彼はいやなことに慣れきった男のもつ平静さと沈着さとをもって、片手に望遠鏡をつかんで、地平線上のあらゆる地点に視線をそそいでいた。そのうちにいつのまにか最後の丘が姿を没し、最後の植物が消え去った。そして目の前には、はてしない砂漠が広がっていた。
博士はあからさまには見せなかったが、このような破目に立ちいたった責任を、強く感じていた。この二人の男、ディックとジョーは、二人とも彼の友人だった。その二人を彼は、こんな遠くにまで連れてきてしまったのだ。それは友情からだろうか、それとも義務感によってであろうか? そうしたことが正しかったのだろうか? それとも、してはいけないことをやったのではないだろうか? こんどの旅行は、不可能の限度をこえた大それたことではなかったろうか? 神はこの忘恩の大陸の調査を、もっと後世に托そうとなさったのではなかろうか?
このような考えがつぎからつぎへと、意気の阻喪したときに博士の頭に浮かんできた。そうした考えにまとわれだすとそれは止めどがなく、もはや論理や理屈ではどうにもならなくなってしまった。サミュエルは、こんな大それたことはなすべきではなかったと考えたあと、ではいまはどうすべきかとさがし求めた。元きた道をもどることはできないだろうか? こんなに乾いていない地域へ連れていってくれる気流が、もっと上昇したらありはしないだろうか? いままで通ってきた土地なら自信があるが、これから先どんな国が待ち受けているかはわからなかった。それゆえおおいに熟慮した結果、彼は二人の友人と率直に相談してみることにした。彼ははっきりと二人に状況を説明し、どういう事態に立ち至ったか、残された手段はどのようなものがあるかを示し、最悪の場合は引きかえそう、少なくとも引きかえそうと試みてみよう、それについての彼らの意見はどうであろうか?
「先生と違った意見なぞ持っちゃいませんよ」と、ジョーが答えた。「先生ががまんするなら、わたしだって、がまんしますよ。いや、先生よりもっとがまんしますよ。先生の行くところなら、どこまでもついていきますよ」
「で、ケネディ、きみは?」
「わたしかね、サミュエル、わたしは絶望するなんてしたことのない男なんでね。わたしほど、こんどの計画が危険だと思わない者はいなかった。だけど、きみがその危険にぶつかって行こうとしたとき、わたしはそんな危険に会わなければいいがと思っただけだよ。だから、わたしの心もからだも、きみのものだ。現在の状況についてのわたしの意見はといえば、とにかくがまんすることだよ、とことんまでやり抜くことだよ。それに、帰ろうとしたって、危険の大きいことにかわりはないさ。だから、前進するのみ、われわれがついているんだから」
「ありがとう、いい友だちをもって、わたしは幸せだ」博士は心から感動して言った。「そう言ってくれるだろうとは思っていた。でも、改めて口にだして激励してもらいたかったんだよ。もう一度礼を言うよ」
三人は感激して、かたく手を握り合った。ファーガソンが言った。
「まあ、聞いてくれ。わたしが調べたところでは、ギニア湾まであと四八二キロほどしかないんだ。砂漠は無限につづいているわけではない。海岸には人が住まっているし、そのへんの土地はかなり奥まで知られているんだから。もしできたら、ギニア湾のほうへ行こう。どこかオアシスに出くわさないということはありえないし、水を補給できる井戸は必ずある。いまわれわれが欲しいのは風なんだよ。風がないから、こんなふうに空中で静止状態にあるんだ」
「天命に安んじて待つとしよう」と、狩猟家が言った。
だが各人それぞれが、かくも長い一日をむなしく空間をながめて過ごしたのだった。希望を生じさせるような、いかなるものもあらわれなかった。大地の最後の変化も、日没とともに消えてなくなり、夕陽はこの果てしない広がりの上に、長い光の線をはるか遠くまでのばした。それが砂漠の日没だった。
その日、旅行者たちは前日同様、わずかに二四キロしか進むことができなかった。それもバーナーの火のために三七立方メートルのガスを消費し、激しい喉の渇きをいやすために五リットルのうち一リットル半の水を犠牲にしたうえでのことだった。
その夜は静かに、じつに静かに過ぎた! 博士は眠れなかった。
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二十五 砂漠のなかの井戸
翌日も空はよく晴れわたり、風はすこしも吹かなかった。ヴィクトリア号は一五三メートルまで上昇した。そこまでのぼると、やっとすこしずつ西へ流れはじめた。
「いま、砂漠のどまんなかにいる」と博士が言った。
「たいした砂の広がりだ! なんて奇妙な眺めなんだろう! なんという自然のいたずらなんだろう! どうしてあちらでは植物があんなにも繁茂していたのに、ここではこんなに乾燥しきっているんだ、同じ緯度で、同じ太陽の光を受けているのになあ!」
「そんなことを言ってみたってはじまらんよ、サミュエル」と、ケネディが答えた。「理由をたずねるよりも、事実そのもののほうに興味があるね。これこれこういうことだ、それがかんじんなことなのだよ」
「いささか哲学ぶったな、ディック。まあ、それもよかろう」
「哲学論でも、かわそうじゃないか。なにもすることがないんだから、せめて哲学ごっこでもしよう。どうやら、やっと進んでいるようだな。風は息をするのをこわがっているみたいだ。眠っているんだね」
「眠ってばかりもいないでしょう」と、ジョーが言った。「東のほうに、雲の塊のようなものが見えますよ」
「ジョーの言うとおりだ」と博士が答えた。「よかった」と、ケネディが言った。「あの雲とうまいぐあいにぶつかるといいな。すごい雨と風が顔にあたるかな」
「もうじきわかるよ、ディック、もうじきだ」
「でも先生、きょうは金曜日ですよ。わたしは金曜日は、どうもいやでしてね」
「へえ! そんな迷信なんか、きょうかぎり信用しないと言ってもらいたいもんだね」
「わたしだって、そうしたいですよ、先生」ジョーは顔をふきながらそう言った。「やれやれ! 暑いってのは、まあ冬ならありがたいですが、夏には、ほどほどにしてもらいたいものですね」
「こんなに暑くても、われわれの気球に支障はないものかね」と、ケネディが博土にたずねた。
「だいじょうぶだ。タフタに塗ってあるグッタ=ペルカは、非常な高熱にも耐えられるからね。螺旋管を通って内部に入る熟は、ときには一五八度〔摂氏七〇度〕にもなるときがある。だが気のうは、なんでもないようだよ」
「あっ、雲だ! ほんとうの雲だ!」そのとき、どんな望遠鏡にも負けないくらいのいい視力をもっているジョーが叫んだ。
じじつ厚い雲の層が、いまや地平線上にゆっくりと湧きあがってくるのが、はっきりと見えた。その層は厚くて、ふくらんでくるようだった。それは最初の形をそのまま保っているちぎれ雲の集まりだった。そこで博士は、あの雲の層のなかに入っても、風の流れはないと判断した。
この厚い雲の塊は、八時ごろにあらわれた。そして一一時にやっと太陽の表面に達し、太陽はこの厚い幕の後ろにすっぽり隠れた。そのときには、この雲の層の下のほうの部分は地平線から離れていて、地平線はまたまばゆく輝いていた。
「あれはもう断雲にしかすぎない」と、博士が言った。「あんまりあてにできないね。見たまえ、ディック、また朝とそっくりの形だろう」
「ほんとうだね、サミュエル。少なくともわれわれのところは、雨も風もありゃしない」
「だめだ、雲があまりに高すぎるもの」
「どうだい、サミュエル! あの雲は、われわれの頭上に来てもくずれそうもないから、あそこまでのぼってみたら?」
「たいして役立たないと思うが」と、博士は答えた。
「ガスも消費せねばならんし、つまり水もたくさんいるわけだ。だが、こうなったら、なんでもやってみることだ。上昇してみよう」
博士は、まがりくねった螺旋管のバーナーの火をぐっと大きくした。熱がたかまってきて、まもなく膨脹した水素のために気球は上昇した。
気球は地上から約四六〇メートルのところで不透明な雲の塊に出会い、その高度をたもちながら濃い霧のなかに入った。だが、ここでも風はすこしも見いだせなかった。霧にもしめり気がないようだった。そして霧にふれているはずの器具類にしてからが、ほとんど濡れてはいなかった。ヴィクトリア号はこの蒸気につつまれて、たぶんすこしは動いたであろう、だがそれだけがすべてであった。
博士はせっかく上昇したのにたいした結果を得られなかったことを確認して、悲哀を感じていた。そのときジョーが、ひどくびっくりした声で叫んだのである。
「おや! あれは!」
「どうしたんだ、ジョー」
「先生! ケネディさん! 変ですよ!」
「なにがあったんだ?」
「気球がわれわれのだけじゃない! 悪いやつがいるもんですね! 誰かが発明を盗みおった!」
「気でも狂ったかな?」ケネディがたずねた。
ジョーは驚きのあまり銅像のように、身動きもしなかった。
「かわいそうに、とうとう太陽にやられたか?」博士は彼のほうを見やって、つぶやいた。
「見てごらんなさいよ、先生」そう言ってジョーは、空間の一点を指さした。
「聖パトリックに誓って!」こんどはケネディが叫んだ。「信じられん! サミュエル、サミュエル、見たか!」
「見たよ」博士は落ち着いて答えた。
「もう一つの気球が飛んでいる! 乗っている者も、われわれと同じだ!」
じじつ六〇メートルほど離れて、もう一つの気球が吊り籠に旅行者を乗せて、空中に浮かんでいた。それはヴィクトリア号とまったく同じ方向をたどっていた。
「ようし!」と博士が言った。「こうなったら奴に信号を送ってやれ。ケネディ、旗をもつんだ、われわれの旗の色を見せてやろう」
第二の気球の旅行者たちも同じことを同時に考えたらしかった。同じように動く手が、同じ旗で同じ挨拶を同じようにして見せたのである。
「こりゃ、どういうわけなんだ」狩猟家がたずねた。
「猿めが!」ジョーが叫んだ。「われわれをからかいおって!」
「これはね」と、笑いながらファーガソンが答えた。「きみがきみ自身に信号を送っているのさ、ディック。あの第二の気球に乗っているのもわたしたちなんだよ。あの気球は、このヴィクトリア号なんだ」
「どうも先生、お言葉ですが、わたしにはどうしても信じられませんね」と、ジョーが言った。
「ジョー、吊り籠のへりに乗って、腕を動かしてごらん、そうすりゃ、わかるよ」
ジョーは言われたとおりにした。彼の動作がただちに、そのとおりに行なわれたのを見たのである。
「蜃気楼《しんきろう》のいたずらだよ」と、博士が言った。「それだけのことさ。たんなる視覚上の現象だよ。空気の層の不均衡な密度の稀薄によって起こるんだ。ただ、それだけのことだ」
「不思議だな!」事情のわからぬジョーは、腕を何度も振りまわしながら言った。
「まったく、おもしろい眺めだ!」ケネディもそれに応じた。「わがヴィクトリア号の姿が見られるのはうれしいね! 堂々としていて、なかなかりっぱなもんだね」
「ケネディさんらしいやり方で、うまく説明なさったが、やっぱり変なもんですね」と、ジョーが言い返した。
まもなくこの映像は、だんだんうすくなって消え去った。雲もヴィクトリア号を見捨てて、さらに高くのぼってしまった。ヴィクトリア号も、もうついて行こうとはしなかった。一時間後には、雲は空高く消え去った。
やっと感じられた風はますます弱まった。希望を失った博士は、地面に近づいた。
わずかな望みもたたれた旅行者たちは、焼けつく暑さに打ちひしがれて、またもや悲しい思いに落ちこんだ。
四時ごろジョーは、広大な砂丘に浮き彫りになっているものを見た。まもなく彼は、そこからそれほど遠くないところにヤシの木が二本そびえていると断言した。
「ヤシの木だって?」ファーガソンが言った。「ではそこに、泉か井戸があるかな?」
彼は望遠鏡を手にとって、ジョーの目が間違っていないことを確かめた。彼はまた言った。
「やっと、水が見つかった! 水があったぞ! これでたすかった! ちっとも進んでいないようだが、やはりすこしは進んでいるから、そのうちに着くさ!」
「では、先生! もう飲んだっていいでしょう? まったく窒息しそうなんで」
「よし、飲もう」
誰一人として反対しなかった。九・三リットルも、水が飲みほされた。これで水の貯えは、わずかに二リットル半ほどに減った。
「ああ、うまいな!」とジョーが言った。「なんて、おいしいんだろう! パーキンズのビールだってこんなにうまいと思ったことはないです」
「腹が減ってりゃ、なんでもうまいさ」と、博士が答えた。
「でも、そんなのは、やっぱりありがたくないな」と、狩猟家は言った。「水を飲むたのしみなんか、知らなきゃ知らないに越したことはない、もっとも水がありさえすりゃ、うまいという意見に賛成だがね」
六時にヴィクトリア号は、ヤシの木の上に来た。
それはやせて見るかげもない、枯れた二本のヤシの木だった。生きているのではなく死んでしまった、葉もない二本の木の幽霊だった。ファーガソンは恐怖にかられて、それらをながめた。
その木の根元に、半分くずれかかった井戸の石わくがあった。だが、太陽の熱でぼろぼろになってしまったその石は、いまではごくこまかい埃《ほこり》のようになっていた。しめり気など、どこにもなかった。サミュエルの心は、しめつけられた。彼は仲間に、その恐怖を知らせようとした。そのとき仲間の叫び声が、彼の注意をひいた。
見わたすかぎり西のほう一帯に、白骨がつづいていた。泉のまわりにも、骨が散らばっていた。隊商はここまで来たのだ。長い骨の山が、その通った跡を示していた。弱い者からだんだんと砂の上に倒れていって、あれほど望んでいた泉にいちばん強い者がたどりついたときには、そのほとりに恐ろしい死を見いだしたのだった。
旅行者たちはまっさおになって、顔を見合わせた。
「降りるのはやめよう」と、ケネディが言った。「この恐ろしい光景から遁れよう。飲める水なんか一滴もないぞ」
「いや、違う、ディック。たしかめてみよう。ここで今晩過ごすのも、ほかで過ごすのも同じこった。この井戸を底まで掘ってみようよ。ここには泉があったんだ。たぶんなにか残っているだろう」
ヴィクトリア号は着陸した。ジョーとケネディは、彼らたちと同じ重さの砂を吊り籠に入れた。それから井戸まで走った。そしてくずれてしまった階段を通って下まで降りた。だが泉は、ずっと前から涸れていたようだった。これほどしめり気のないのもめずらしいほどに、さらさらに乾いた砂だった。彼らは掘ったが、水けの跡はなかった。
博士は二人が汗みどろになり、髪の毛をみだし、からだじゅう砂だらけになって、絶望をこらえながら、がっかりした顔をして砂漠の表面にあがってくるのを見た。
むだ骨だったことが、彼にもわかった。だがそうなることを覚悟していたので、なにも言わなかった。いまこそ三人のために勇気をふるいたたせ、気力をもたねばならないときだと思った。
ジョーは固くなった革袋の切れはしを拾ってきたが、思いきり遠くへ、骨の散らばっているほうへ投げた。
夕食のあいだじゅう、旅行者たちは一言も言葉をかわさなかった。彼らは気のすすまない食事をすませた。
だが彼らは、まだほんとうの渇きの拷問に耐えているのではなかった。彼らはこれから先のことに絶望しているだけだった。
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二十六 バーナーが消える
前日のヴィクトリア号の行程は、一六キロをこえてはいなかった。だがその飛行を続けるために五〇立方メートルのガスを費やしたことになる。
翌土曜日の朝に、博士は出発の合図をした。
「バーナーの火は、あと六時間しかもたない。もしもあと六時間のうちに泉か井戸を見つけなかったら、わたしたちがどうなるかは、神だけが知っている」と、彼は言った。
「けさも風はありませんね」と、ジョーが言った。「でも、たぶん風は吹きますよ」ファーガソンの隠し切れない悲しそうな顔を見て、彼はつけ加えた。
むなしい希望! 大気中は大凪《おおなぎ》だった。熱帯の海で船をあくまでも引きとめるあの大凪だった。暑さは耐えがたかった。テントの下の日蔭でも、温度は一一三度〔摂氏四五度〕あった。
ジョーとケネディはくっついて寝ながら、眠りのなかではなく、せめて麻痺状態のなかで、現在の状況を忘れようとつとめていた。動こうにも動けないので、彼らはつらい時間をもてあましていた。働くことによって、もしくはからだを使うことによって自分の思いを断ちきることのできない男ほど悲しい存在はなかった。でもここでは見張るべきものはなにもなかったし、やってみようとすることは、なおさらなかった。改善することができないままに、ただその状況に耐えるだけだった。
渇きの苦しみは、いよいよその残酷な正体を見せはじめてきた。ブランデーはこの絶対的な必要をみたすにはあまりに遠く、かえって渇きを激しくするだけだった。アフリカの原地人がそれを名づけて『トラの乳』と言ったのに、まさにふさわしかった。いま残っているのは、なまあたたかくなった水が、わずかに一リットルほどしかなかった。各人その貴重な水をただ眺めるだけで、あえてそれに口をつけようとはしなかった。砂漠のまんなかで、水が一リットルしかないのである。
そのときファーガソンは、自分のとった行動がはたして慎重であったかどうかとたずねて、反省していた。まったく無駄に分解したあの水は、大気中に浮かぶためにとっておいたほうがよかったのではなかろうか? おそらくすこしは進んだであろう。だがこの地で一〇〇キロ進んだとしても、そこで水がなくなってしまえば、同じことではないか? もし風が吹くなら、ここだってそこと同じように吹くだろう。このあたりでは、風は東から吹くとしても、強い風ではない! だがサミュエルは、希望に燃えて前進したのだ! だが、むなしく消費された九リットルの水があったら、この砂漠で九日間休息していることもできたわけだ! 九日もあったら、なんらかの変化があったかもしれない! あの水はとっておいて、底荷を捨てて上昇すべきではなかったか、下降するのにガスをなくしさえすればよかったのだ! だが気球にとってガスは血であり、生命なのだ!
このようなさまざまの考えが、両手でかかえこんだ彼の頭のなかでぶつかり合った。何時間も彼は、頭をあげようとしなかった。
「最後の努力をやってみよう!」午前一〇時ごろに、彼は心の中でそう思った。「最後にもう一度、わたしたちを運んでくれる気流を探してみよう。一か八かやってみよう」
仲間たちがうとうとまどろんでいるあいだに、彼は気球の水素を高温にあげた。気球はガスの膨脹でまるくなり、垂直に落ちる太陽の光のなかを、まっすぐにのぼっていった。博士は三〇メートルから始めて八キロの高さに至るまで風の流れを求めたが、むだだった。その出発点は、どこまで上昇しても、気球の真下にあった。完全な凪が、呼吸しうるぎりぎりの高さまで、ねばり強くいすわっているようだった。
ついに給水はつきはてた。バーナーはガスがなくなって、消えてしまった。ブンゼンの電池も機能を停止し、ヴィクトリア号は収縮して、出発したときと同じ場所、吊り籠の重みでくぼんでいる砂の上に静かに降りた。
正午だった。方位を測定したら、東経一九度三五分、北緯六度五一分だった。チャド湖までは約八〇五キロ、アフリカの西海岸までは六四四キロメートル以上あった。
地面に着いたとき、ディックとジョーとは重くのしかかってくる麻痺状態から我にかえった。
「とまっているね」スコットランド人が言った。
「とまらざるをえないのだ」と、きびしい口調でサミュエルは答えた。
彼の仲間はその意味がわかった。このあたりは絶えず土地が沈下していると見えて、海面と同じだった。そこで気球は完全に均衡を保ち、まったく動かなかった。
旅行者たちの体重は、それに相当する砂で置き替えられた。彼らは大地に降りたち、それぞれの思いにふけった。何時間も、彼らは口をきかなかった。ジョーはビスケットとペミカンで夕食の支度をした。みんなはやっとの思いで、それに手をつけた。一口のあたたかい水が、この悲しい食事の終わりだった。
夜になっても、誰ももう見張りをしなかった。だが、誰もが眠らなかった。息づまるような暑さだった。翌日、水はもはや四分の一リットルしかなかった。博士はそれをしまいこんだ。いよいよというときでなければ、それに手をふれないことに決めたのである。
「息がつまります。暑さは増すばかりだ! なるほど一四〇度〔摂氏六〇度〕もあるのでは!」まもなく寒暖計を見て、ジョーが叫んだ。
「まるでかまどから出した砂みたいに暑いね」と、狩猟家がそれに応じた。「空も燃えてるようで、雲ひとつない! 気が狂いそうだ!」
「絶望してはいけない」と博士が言った。「この緯度では、こういう暑さのあとには必ず嵐が来るんだ。嵐は稲妻のような速さでやってくるんだ。空が堪えがたいほど晴れわたっていても、一時間もたたないうちに大きくくずれることがあるんだ」
「でも」と、ケネディが言い返した。「そういうときには、それらしい気配があるんだろう?」
「そうね! 気圧計がすこし下がってきたように思われるんだが」と博士が言った。
「天にきみの声がとどいたのかな、サミェエル! われわれは翼が傷ついた鳥のように、ここに釘づけになってるんだものな」
「だがディック、わたしたちの翼は無傷だよ。ただ、翼がわれわれに役立ってくれることを望むばかりだ」
「ああ! 風がほしい! 風がほしい!」とジョーが叫んだ。「小川へでも、井戸へでもいいから、連れてってくれる風がほしい。風さえありゃ、足りないものはなにもないんだ。食糧は充分あるし、水があれば一か月だってなんでもなく待っていられる! だが喉が渇くってのは、つらいもんだな」
渇きもつらいが、いつも砂漠を見ていることも、精神を疲らせた。そこには少しも起伏がなく、砂丘すらなく、視線をとめる石すらなかった。このような平坦さは吐き気をもよおさせ、砂漠病という不快感を与えるのだった。動きのない空の乾いた青さと砂の黄色い広がりとは、ついには人の気を狂わせてしまう。燃える大気のなかで、暑熱はまるで白熱した炉の上にあるもののように、ふるえているようだった。このしずまり返った広がりを見ていると絶望感におちいり、広大なことは無限の一種であるので、この眺めを見ていると終わりがあろうとはどうしても考えられないのだった。
この灼熱の気温にあって水が不足している不幸な男たちに、幻覚のような徴候が見えはじめてきた。眼が大きく見ひらかれ、焦点がぼやけてきた。
夜が来たとき、博士は早足で歩きまわることによって、この憂慮すべき精神状態とたたかおうと決意した。何時間かこの砂の平原の上を、探すためではなく、ただ歩くために歩きまわろうと欲したのである。
「来いよ」と彼は仲間に言った。「わたしを信じてくれ。歩けば気持がよくなるぞ」
「だめだ、ここから一歩も動かんよ」と、ケネディは答えた。
「わたしは寝ているほうがいいです」と、ジョーは言った。
「だが、眠ったりからだを休めることは、死につながるんだ。さあ、きみたち、無気力状態から脱出しなきゃいかんよ。さあ、来いよ」
博士は、彼らからの返事も得られなかった。そこでひとりっきりで、すきとおるような夜の星空のなかへ出ていった。
歩きはじめはつらかった。弱りきって、歩くことになれていない男の足どりだった。だがそのうちに、運動がからだにいいことがわかってきた。彼は何キロか、西に向かって進んだ。かくて彼の精神がふたたび活力をとりもどしたと感じたとき、とつぜん彼は、めまいにおそわれた。まさに深淵におちこむ思いで、ひざからからだがくずれおちた。この広い砂漠にひとりっきりでいる孤独感に、彼はおびえたのだった。彼は無限の円周の中心、数学上の一点であるにすぎず、すなわち無なのだ! ヴィクトリア号は暗闇のなかに、完全に姿を消していた。博士は打ちかちがたい恐怖にとらわれた。物に動じない大胆な探検家である彼がである! 彼は来た道をもどろうとしたが、できなかった。彼は叫んだ! こだまさえも答えてはくれなかった。その声は底のない沼に投げこまれた石のように、空間に吸いこまれてしまった。彼は気を失って、砂の上に倒れた、たった一人で、砂漠のしずまり返った静けさのなかに。
真夜中に、彼は忠実なジョーの腕のなかで意識をとりもどした。主人がなかなかもどってこないので不安になったジョーは、平原にはっきりしるされた足跡をたどって、やってきたのだった。そして気絶している博士を見いだしたのである。
「どうしたんです、先生」と彼はたずねた。
「なんでもないよ。ありがとう、ジョー。ちょっと弱ったんだ。それだけさ」
「なんでもないんでしょう、きっと。さあ起きて、わたしにつかまってください。ヴィクトリア号にもどりましょう」
博士はジョーの腕にささえられて、やってきた道をもどっていった。
「無謀ですよ、先生。こんな危ないことをしちゃあいけません。追いはぎに強奪されますよ」彼は笑いながら言いそえた。「さあ、先生、これからのことをまじめに相談しましょう」
「話してごらん。聞くことにするから」
「絶対に、いまが決心するときなんです。こんなありさまでは、二、三日ももたないでしょう。もし風が吹かなかったら、わたしたちはおしまいです」
博士は答えなかった。
「そうです! 誰かがみんなのために犠牲にならなければならないんです。当然それは、わたしです!」
「どういうことを言いたいんだい。どんなことを考えてるんだね」
「問題は簡単ですよ。食物を持って、どこまでも歩いて行くんです。どこかに行き着くでしょう。どうしてもやらねばならないことです。そのあいだに天がみなさんに順風をくださったら、わたしを待っている必要はありません。どうぞご出発なさってください。わたしはどこかの部落へ着いたら、先生が書いてくださるアラブ語を見せて、うまく急場をしのぐでしょう。そして救援隊を連れてくるか、でなかったら自分の皮をそこに残すとしましょう! わたしの計画はどうですか?」
「無茶だよ、なるほど勇敢なおまえの考えそうなことだがね。でも、だめだな、ジョー、わたしたちから離れちゃだめだ」
「だけども先生、なにかやってみなくちゃならんでしょう。先生につごうの悪いことはなにもないでしょうが。もう一度申しますが、先生はわたしを待つ必要はないんです。なんとしても、わたしは成功して見せますよ!」
「いかん、ジョー、いかんよ! 離ればなれになってはいかんのだ! おまえがいなければ、残ったわれわれが困るんだよ。こうなることは、決まっていたんだ。しばらくしたら、たぶん事情がはっきりするだろうよ。だからいまは観念して待つことさ」
「わかりました、先生。でも、一つだけ申しておきます。それは、一日だけお待ちするということです。それ以上はお待ちできません。きょうは日曜日ですね。もう月曜日かな、朝の一時ですものね。もし火曜日になってもこのままだったら、わたしの冒険をやってみましょう。もう、このことは絶対に決まった問題なのです」
博士は答えなかった。まもなく彼は吊り籠のなかにもどって、ケネディのそばに坐った。ケネディは押しだまって、のびていた、眠っているようではなかったが。
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二十七 オアシス
翌朝、博士の最初にしたことは、気圧計を見ることだった。どうやら水銀柱は、下がったと辛うじて測定できるほどの変化しか示していなかった。
「だめだ!」彼は心のなかで言った。「だめだ!」
彼は吊り籠から外に出て、天候を調べた。同じような暑さ、同じような晴天、同じようなきびしさ。
「では、望みを捨てると言うのかい?」と、彼は叫んだ。
ジョーは彼の打開策をねっているのか、口もきかずに考えごとにふけっていた。
ケネディは、よろよろと立ち上がった。異常に興奮しているらしく不安だった。彼は喉の渇きにひどく苦しんでいた。舌も唇も腫れあがっていて、一語一語切らなければ、しゃべれなかった。
まだ、わずかながらも水は残っていた。みんなそのことは知っていたし、みんなそのことを考えていた。みんなの気持がそのほうにひきつけられていた。だが、誰もそれに近づこうとはしなかった。
この三人の仲間、この三人の友人たちは、ぎらぎら光る眼で、けものがもつ食欲さをもって、互いに見つめ合っていた。ケネディが、もっともすさまじかった。彼のたくましいからだは、もっとも早くこの耐えがたい欠乏にまいってしまったのだった。その日一日じゅう、彼は錯乱状態だった。あちこち歩きまわったり、しゃがれた叫び声をあけたり、血管を開いて血を飲もうとでもするかのように、こぶしをかんだりした。
「ああ!」と彼は叫んだ。「渇きの国だ! 絶望の国と言ったほうがいいかな!」
それから彼は、平伏するようにして倒れた。乾ききった唇のあいだから息をする音が、ひゅうひゅう聞こえた。
夕方ごろ、こんどはジョーが気がおかしくなった。彼にはこの広大な砂の広がりが、あかるく澄んだ水をたたえている大きな池に見えるらしく、何回となく彼はじかに水を飲もうと、この燃える大地に飛びこんだ。そして口を砂だらけにして、また立ち上がった。
「しまった!」彼は怒りにまかせて叫んだ。「塩っからい水だ!」
そのときファーガソンとケネディとは、身動きもせずによこたわっていた。とつぜんジョーは、残っている水を飲みたいという打ち勝ちがたい思いにかられたのだった。その思いは、彼の自制心よりも強かった。彼はひざでいざりよって、吊り籠に近づいた。そして液体の揺れる瓶を、気ちがいじみた眼で見た。彼はそれを手でつかむと、いそいで口にもっていった。
その瞬間、しぼりだすような声が聞こえた。「飲むんだ! 飲みたいんだよ!」
それは、ジョーのそばまで這ってきたケネディだった。その哀れな姿は、みじめだった。彼はひざまずいて水を求めていた。彼は泣いていた。
ジョーも同じように泣きながら、瓶を渡してやった。最後の一滴まで、ケネディは水を飲みほした。
「ありがとう」と、彼は言った。
だがジョーは、それが耳に入らなかった。彼もケネディと同じように、砂の上に倒れてしまったのである。
その恐ろしい夜にどんなことが起こったかは、誰も知らない。だが、火曜日の朝、太陽からそそがれる熱気のシャワーをあびて、不幸な男たちはからだから少しずつ水けがなくなっていくのを感じていた。ジョーは起きあがろうとしたが、もはやそうすることもできなかった。彼はその計画を実行に移すことができなかったのである。
彼は、まわりを見まわした。吊り籠のなかでは衰弱しきった博士が胸の上に両手を組んで、痴呆したように視線を固定させて、空間のありもしない一点をながめていた。ケネディはものすごかった。彼は檻に入った猛獣のように、頭を左右に振っていた。
とつぜん狩猟家の目が、吊り籠から飛びだしているカービン銃にとまった。
「ああ!」と、ありったけの力をふりしぼって、彼は起き上がった。
気がくるい、とり乱している彼は、武器に飛びついて、銃口を口にあてた。
「ケネディさん! ケネディさん!」ジョーは彼に飛びかかった。
「放してくれ! あっちへ行け」スコットランド人はあえぎながらどなった。
二人とも、死にものぐるいでたたかった。
「あっちへ行け、さもないとおまえを殺すぞ」と、ケネディはくりかえして言った。
だがジョーは、力いっぱい彼に抱きついた。このようにして彼らは争っていたが、博士はそれに気づかないようだった。争いは一分間近くまでつづいたろうか、とつぜんカービン銃が暴発したのだった。その音を聞いて博士は、幽霊のようにひょろひょろと立ちあがった。彼はあたりを見まわした。
とつぜん、彼の目がいきいきしてきた。彼は地平線を指さし、人間のものとも思われない声で叫んだ。
「ほら、ほら、あそこだ!」
その動作になみなみならぬ気魄がこもっていたので、ジョーとケネディは思わずからだを離して、二人ともそちらを見やった。
平原は、嵐の日の怒りくるう海のように揺れ動いていた。見わたすかぎり砂の黄色で、砂の山がつぎからつぎへと、くだけ散っていた。大きな竜巻がものすごい速さで、ぐるぐるまわりながら、東南から進んできた。太陽はこの不透明な雲の後ろに隠れ、その途方もなく長い影は、ヴィクトリア号までのびていた。こまかい砂の粒が、水滴のように軽がると飛んできた。この上げ潮は、すこしずつこちらへ向かってやってきた。
ファーガソンの目は、大きな希望で輝いた。
「熱風だ!」彼は叫んだ。
「熱風だ!」ジョーがわけもわからず、それに応じた。
「よかった」絶望のあまり気が狂ったようになっていたケネディが叫んだ。
「よかった、これで助かる」と博士が答えた。
彼は吊り籠に積みこんであった砂を大急ぎで捨てはじめた。
仲間もやっと彼の言ったことがわかった。彼と一緒に砂を捨てて、博士の両側に坐った。そのとき博士が言った。
「さあ、こんどはジョー、おまえの鉱石を二二キロほど放りだすように」
ジョーはためらわなかった。だが一瞬、これはしまったと彼は思った。気球は上昇した。
「まにあった!」と、博士が叫んだ。
熱風は、電光のような早さでやってきた。もう少しのところでヴィクトリア号は押しつぶされ、こなごなになってなくなってしまうところだった。大きな竜巻が追いかけてきた。気球は砂の雹《ひょう》でおおわれた。
「もっと捨てろ!」と、博士はジョーに言った。
「よいしょ」と、ジョーは大きな石英を捨てた。
ヴィクトリア号は急上昇して、竜巻の上に出た。そして広範囲に渡って移動する空気に包まれて、この泡だつ海の上をものすごい早さで運ばれていった。
サミュエルも、ジョーも、ディックも口をきかなかった。彼らは、じっとながめていた。この旋風を受けて涼しくなった三人に、希望がよみがえってきた。
三時に嵐はおさまった。砂はまた地上に舞いおりて、いたるところに砂丘をつくった,空もまた、前と同じような静けさにもどった。
だが、ふたたび動かなくなったヴィクトリア号の前方に、この大海原に浮かぶ緑でおおわれたオアシスが見えてきた。
「水だ! 水があそこにある!」と博士が叫んだ。
すぐに上部バルブが開かれ、水素にはけ口を与えた。そして気球はオアシスから二〇〇歩のところに静かに降りた。
四時間で旅行者たちは、四〇〇キロの距離を運ばれたのだった。
吊り籠に底荷が積まれ、ケネディ、つづいてジョーが地上に飛びおりた。
「銃を!」と、博士が叫んだ。「銃を持っていってくれ、気をつけて」
ディックはカービン銃に飛びつき、ジョーも銃を手にとった。彼らは大急ぎで樹々のほうに進んだ。そして豊富な泉があることを示す、さわやかな緑の下に入っていった。二人はあたりの地面が踏みつけられていることも、しめった泥のあちこちにできたばかりの足跡にも気づかなかった。
とつぜん、うなり声が、彼らから二〇歩ほどのところでひびいた。
「ライオンのうなり声だ!」と、ジョーがいった。
「よかろう!」いきりたった狩猟家がそれに応じた。
「やっつけよう。いざとなりゃ、おれは強いんだ」
「用心してくださいよ、ディックさん。用心なさって、一人の生命にみんなの生命はかかっているんですから」
だがケネディは、そんな言葉は耳に入らなかった。彼はカービン銃をかまえ、目を輝かして、勇んで進んでいった。一本のヤシの木の下で、黒いたてがみの大きなライオンが、攻撃の姿勢でかまえていた。ライオンは猟師を見ると、大きく跳躍した。だが弾丸が心臓に命中したので、地上に降りたときには息絶えていた。
「やったぞ! やったぞ!」ジョーが叫んだ。
ケネディは、わき出る水のほうに走った。ぬれた足元にすべってころびながら、新鮮な泉の前に腹ばいになって、顔全体を水につけた。ジョーもそれをまねた。渇きをいやす動物の舌の音にも負けないような、もっと激しい音がした。
「ディックさん、気をつけましょう」息をするために顔をあげたジョーが言った。「飲みすぎないように」
だがディックは返事もしないで、飲みつづけていた。彼は顔と手をこのめぐみの泉につけて、我を忘れていた。
「ファーガソンさんは?」と、ジョーが言った。
この一言で我に返ったケネディは、持ってきた瓶に水をみたした。そしてもと来た踏みあとの上に駆けもどった。
だが、なんということだ! 巨大なからだが入口をふさいでいた。ディックにつづいたジョーも、あとすざりしなければならなかった。
「閉じこめられたんです!」
「こんなことって! いったい、これは?……」
ディックが言い終わらぬうちに、恐ろしいうなり声が、どんな敵にあい対しているかを知らせた。
「別のライオンだ!」ジョーが叫んだ。
「いや、牝ライオンだ! よし、こいつも、また!」すばやくカービン銃に弾をこめて、猟師は言った。
一瞬間の後、彼は発射した。だが、そのときはもう動物の姿はなかった。
「行こう!」ケネディは言った。
「だめです、ケネディさん。まだ、やつを仕とめちゃいませんからね。死んだら、ここまでころがってくるはずです。あいつは、まっ先に出てきたほうに飛びかかろうとしているのです。飛びかかられたら、終わりですよ」
「でも、どうしたらいいんだ? 行かなければならない、サミュエルが待ってるからな」
「おびきだしましょう。わたしの銃を持って、カービン銃を貸してください」
「どうするんだ?」
「まあ、見ていてください」
ジョーは上着をぬいでそれを銃の先にひっかけて、餌のようにしてさしだした。怒りくるった野獣は、それに飛びかかった。ケネディは、そのときを待っていた。彼は一発でライオンの肩を撃ちぬいた。牝ライオンはうなり声を立てて段々をころげ落ち、ジョーの上に折りかさなった。ジョーは猛獣の巨大な爪がからだに突きささったと思った。そのとき第二の銃声がとどろいて、ファーガソン博士がまだ煙の出ている銃を片手に、入口のところに姿をあらわした。
ジョーはすばやく起き上がると、動物のからだを飛びこして、水の入っている瓶を主人に手渡した。
ファーガソンは瓶を口に持っていき、一瞬にしてその半分をからっぽにしてしまった。かくて三人の旅行者は、彼らを奇跡的に救ってくれた神に、心からの感謝をささげたのである。
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二十八 ジョーの料理
その日の夕べはすばらしかった。滋養になる食事とともにお茶もグロッグも飲み放題、そのあとミモザの涼しい木蔭で休んだ。
ケネディはこの付近をくまなく歩いた。そしてやぶのなかまで見てまわった。この地上の楽園のなかで生息しているのは、彼らだけだった。旅行者たちは毛布の上にゆっくりとよこたわり、いままでの苦しみを忘れさせてくれる一夜を過ごした。
翌五月七日、太陽はそのすべての輝きをもって照りつけていた。だがその光も、厚い木の葉のカーテンを通してまで射しこまなかった。食糧が充分にあったので、博士はここで順風を待つことにした。
ジョーはそこに手持の台所道具を運びこみ、おしげもなく水を使って、いろいろな料理をつくった。
「苦あれば楽ありか! 奇妙なもんだな」と、ケネディが叫んだ。「無かったものが、こんなにもあるんだ! 貧困につづく贅沢さ! まったく気が変になるよ!」
「ディック」と、博士が言った。「もしジョーがいなかったら、そんなふうにこの世の移り変わりについて弁じたてることはできないね」
「勇敢な友よ!」そう言ってディックはジョーに手をさしのべた。
「どういたしまして」とジョーは答えた。「お互いさまですよ、ディックさん。でも、二度とあんなふうにはなりたくないもんですね」
「人間なんて、あわれなものさ」と、ファーガソンはつづけた。「あんな、ちょっとしたことで死のうなんて考えるんだから」
「ほんのちょっとの水って言いたいんでしょう、先生! 水はほんとうに生命に必要なんですものね!」
「そりゃそうさ。食糧がなくても、水さえあればずっとがんばれるもんだ」
「そうですとも。いざとなったら、出くわしたものはなんでも食べちゃあいいんだから。人間だってかまやしない。でもそんなことをしたら、いつまでも気持にひっかかっていやでしょうね!」
「でも、野蛮人なら平気だろうがね」と、ケネディが言った。
「そう、それができるのは野蛮人だけですね。奴らは生の肉を食べるのに慣れているからな。だが、いやな習慣だな」
「まったくいやだね」博士はなおもつづけた。「誰もアフリカをはじめて探検した人の話を信用しなかった。探検家たちは、いくつかの部族が生の肉を食べていると報告したが、だいたい人びとはその事実を認めようとはしなかった。そういうときに、ジェームズ・ブルースについておもしろい話がおきたんだよ」
「話してくださいよ、先生。時間はたっぷりありますから」新鮮な草の上に気持よさそうに寝ころびながら、ジョーが言った。
「では、するかな。ジェームズ・ブルースは、スターリング州のスコットランド人だった。一七六八年から一七七二年までアビシニアを歩きまわって、ナイルの源流を探しにターナ湖まで行った。それからイギリスにもどり、一七九〇年になって旅行記を刊行した。彼の話は、ぜんぜん信用されなかった。もっとも、わたしたちの書くものだって、信用されないだろうがね。アビシニア人の習慣が、われわれイギリス人のとはあまりに違っているので、誰もそれを信じようとはしなかったのだ。いろいろなことが書かれているなかでもジェームズ・ブルースは、アフリカ東部の住民は生の肉を食べていると言ったんだ。これが問題になった。あの男なら、なんでも言いたいことが言えるっていうわけさ! なにしろ、誰も見には行けないんだからね。ブルースはたいへん勇敢だが、またたいへん怒りっぽい男だった。誰も信用してくれないので、ひどく怒ってしまってね。ある日のことエジンバラのあるサロンで、一人のスコットランド人が彼の面前で例の話を持ちだして、彼をからかったものだ。そして生肉のことについては、じじつあり得ないことで嘘だと、はっきり言ってのけた。ブルースは何も言わずに出て行ったが、しばらくしてアフリカ流に塩とこしょうを振りかけた生のビフテキを持ってもどってきた。『さあ』と、彼はそのスコットランド人に言った。『わたしが書いたことをあなたは疑っていらっしゃる。それはわたしに対するたいへんな侮辱だ。そんなことはあり得ないと信じている君こそ、まったく思いちがいをしているんだ。さあ、みんなに証明するためにこの生のビフテキをこの場で食べてみたまえ。さもなければ、どういうわけでそう言ったのか説明してくれたまえ』スコットランド人はこわくなった。彼はしかめっつらをしながらも、それに従った。それからジエームズ・ブルースは、落ち着きはらってこうつけ加えた。『どうです、よしんばそれが事実でないとしても、少なくともそれが不可能だとは言いきれないだろうね』と」
「うまくやりこめましたね」とジョーが言った。「たとえそのスコットランド人が下痢したとしても、当然のむくいですね。ですからわたしたちがイギリスに帰ったとき、誰かがわたしたちの旅行を疑ったなら……」
「そうしたら! どうするかね、ジョー?」
「信じない連中には、ヴィクトリア号の切れっぱしでも食わせてやりますかね、塩もこしょうも振りかけずに」
みんなは、ジョーの当を得た術策に腹をかかえて笑った。この日はこのようにして、愉快にくれた。力とともに希望がもどってきた。希望とともに勇気がもどってきた。神の御心によって、過去は未来を前にして消え去った。
ジョーはいつまでも、この魅力的な隠れ場所を去りたくなかった。それは彼の夢の王国であり、わが家にいるように思われた。主人は彼に、正確に位置を計るようにと厳命しなければならなかった。ジョーは大まじめになって、旅行日誌に位置を記入した。東経一五度四三分、北緯八度三二分と。
ケネディにとって、残念なことが一つあった。この小さな森のなかでは狩猟ができないことだった。彼によれば、ここには野獣がいなさすぎるということだった。
「だがディック」と博士が言いかえした。「きみは忘れっぽいな、牡と牝のライオンがいたじゃないか?」
「ああ、あれか!」倒した野獣について真の狩猟家が語るときにする軽蔑をこめて、彼は言った。「だが、あいつらがこのオアシスにいたことは、それほど遠くないところに動物がたくさんいることになるね」
「一応考えられることだが、ディック。ああいった動物は飢えと渇きにかられて、かなりの距離でもよく走ってくるものだよ。今夜は火を燃やして、十分注意して見張ったほうがよさそうだね」
「こんな暑いときにですか?」ジョーが言った。「でも必要なら燃やしますよ。でも、こんな美しい森を燃やすのはもったいないですね、この森は大いに役に立ちましたものね」
「森を燃やさないようには、充分気をつけよう」と博士は答えた。「いつでも誰かが、砂漠のまんなかのこの避難場所を見つけられるようにね」
「気をつけましょう、先生。ところで、このオアシスは、知られているんでしょうかね?」
「もちろんさ。ここはアフリカの中央部を往来する隊商たちの休憩場所だ。あの連中が来るのは、おまえには気に入らんだろうがね」
「このへんにも、あの恐ろしいニャムニャム族はいるんですかね?」
「たぶんね、あれはこのへんの部族の総称なんだから。同じ風土に住む同じ種族なら、同じような風習をもっているにちがいないさ」
「やりきれませんね!」と、ジョーが言った。「でも、それがあたりまえなんですよね! もし野蛮人が紳士のような趣味をもっていたら、違いがなくなってしまいますものね? たとえば、スコットランド人から生のビフテキを食えと言われて食べてしまうごりっぱな人だっているんですから、しかもそれもスコットランド人なんですよ」
なかなか道理にかなった意見を吐いてから、ジョーはその夜のために薪の山をつくりに行った。薪は燃えやすいように、できるだけ細く割ったが、しかしそんな心配はさいわい無用だった。みんなは交替で、ぐっすり眠った。
翌日も天気は変わらなかった。あきあきするほどの晴天つづきだった。気球は微動だにしなかった。風が少しもないからである。
博士は、また不安になってきた。旅行がこんなふうに長びけば、食糧だって足りなくなってくるだろう。もうすこしで水がなくなってまいるところだったのが、こんどは飢え死に追いこまれるのだろうか?
だが気圧計の水銀があきらかに下がっているのを見て、彼は安心した。やがてもうじき天候が変化するころだったからだ。そこで彼は、この最初の機会をのがさないように出発準備をすることにした。熱装置用のタンクと、飲料水用のタンクの両方に、水がいっぱい入れられた。
ファーガソンは、それから気球のつりあいをとった。ジョーはまた貴重な鉱石を、かなりたくさん犠牲にしなければならなかった。体力が回復するとともに、彼の野望もまたもどってきた、彼は主人の命に従う前に、いやな顔をした。だが主人とすれば、こんな重たいものは持ちあげることはできない、水を選ぶか、金塊を選ぶかと彼に言った。彼はもはやためらわなかった。貴重な石の大部分が砂の上に投げられたのである。
「われわれのあとから来る誰かにやるとにしよう」と彼は言った。「彼らは、こんな場所でひと財産見つけて、さぞかしびっくりするでしょうね」
「そりゃ、そうだ! もし学者の探検家が来て、これを見つけたらばね……」と、ケネディが言った。
「そりゃ驚くさ、ディック。そしてその驚いたことを研究報告として発表するだろうね。そのうち誰かが、アフリカの砂のなかに大金鉱があるって、必ず言いだすよ」
「その原因の種をまいたのはジョーなんだ」
学者をいっぱい食わしてやるのだと思って、この愛すべき青年はなぐさめられ、微笑した。
その日はひきつづいて天候の変化を待ったが、ついに得られなかった。気温は上昇し、もしオアシスの木蔭にいなかったら、それは耐えがたいものであったであろう。温度計は直射日光のもとで一四九度〔摂氏六五度〕をさしていた。これは、いままでに経験した最高の暑さだった。
ジョーは前夜同様に、露営してその夜を過ごすように準備した。博士とケネディが見張っているあいだは、べつになにも起こらなかった。
だが午前三時ごろ、ジョーが見張りをしていたとき、気温が急に下がった。空は雲でおおわれ、まっ暗になった。
「はやく!」ジョーは二人の仲間を起こした。
「はやく! 風ですよ!」
「やっと、きたか!」空を見上げて博士が言った。「気球に乗るんだ! ヴィクトリア号に!」
飛び乗るまもあらばこそだった。ヴィクトリア号は強風のためにたわみ、その跡を砂土にくっきりと残して、吊り籠をひきずっていた。もしなにかの拍子に砂袋のいくつかが落ちたら気球は飛び立って、それを見つける希望は永久に失われたことだろう。
だがジョーが全速力で駆けて、吊り籠にすがった。気球は裂かれんばかりに砂上に横倒しになった。博士はいつもの場所に坐って、バーナーに点火した。そして余分の重みを捨てた。
旅行者たちは、嵐のために折れんばかりなっているオアシスの樹木に別れを告げ、まもなく気球は地上六一メートルの高さで東風を受けて、夜のなかに姿を消した。
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二十九 アトランティカ山脈
飛びたったときから旅行者たちは、非常な速さで進んだ。彼らも危うく死に場所になりかねなかったこの砂漠から、すこしも早く立ち去りたかった。
午前九時一五分ごろに、植物がところどころに見えはじめてきた。この砂の海の上に草がただよいはじめ、クリストフ・コロンブスのように、陸地近しと彼らに知らせたのだった。みどりの若芽が、まさにこの砂漠の大洋の岩になろうとしている石塊のあいだから顔をだしていた。
ごく低い丘のつらなりが、地平線上に波が押しよせるようにあらわれ、それに靄《もや》がかかって、その横顔をくっきりと見せはじめた。いままでの単調さはなくなった。
博士は喜びをみせて、この新しい土地に挨拶を送った。ちょうど見張りの水夫のように、「陸だ! 陸だ!」と叫びたい思いだった。
一間時後には、大地が眼下に広がっていた。まだあらあらしい様相を呈してはいたが、もはや平らでも裸でもなく、樹木も何本かが灰色の空にその横顔を見せていた。
「これで文明国に入ったのかな?」と、狩猟家が言った。
「文明ですって? ディックさん、ちと大げさですね。まだ、人間だって見えないじゃありませんか」
「このぐらい飛ばしていけば、もうじき見られるよ」と、ファーガソンが答えた。
「どこまで行っても黒人の国なんですか、先生」
「そうだよ、ジョー。それからアラブ人の国だ」
「アラブ人って? それではラクダに乗ってるアラブ人ですか」
「いや、ラクダには乗っていないよ。ラクダはこの地方にいないことはないが、とても珍しいんだ。ラクダを見ようと思うなら、何度か緯度を北にのぼらなければならない」
「それは、こまりましたな」
「なぜだね、ジョー?」
「というのは、風が逆になったら、ラクダが役に立ちますからね」
「どうやってだね?」
「まあ思いつきなんですが、吊り籠にラクダをつないで、引かせるんです。どうでしょうか?」
「残念ながらジョー、その考えはおまえより前に別の男が思いついているよ。フランス人のとても気のきいた小説を書く作家〔ジョゼフ・メリー、一七九八―一八六五〕がね、小説のなかで使ってるんだ。旅行者が気球に乗って、それをラクダに引かせる。そこへライオンがやってきてラクダを食べちまう。そしてラクダのかわりに引っぱっていく。こんなふうにしてつづく小説さ。なかなか空想のゆたかな小説だよ。もっともわれわれの旅行とはぜんぜん関係はないがね」
ジョーは彼の考えが先をこされたのを知って幾分屈辱を感じ、どんな動物がライオンを食べたのだろうかと考えた。だがいくら考えてもわからなかったので、この国を観察しはじめた。
それほど大きくない湖水が、山と呼ばれるには値しない丘のつらなりに、円形劇場のようにかこまれて眼下に広がっていた。そこからは、水量のゆたかな多くの渓流が蛇行し、さまざまの樹木がうっそうと茂っていた。するどいとげでおおわれている幹の上に長さ四メートル五〇センチもある葉をつけているアフリカシュロが、それらの茂みを圧していた。ボンバックスの木は、こまかい綿毛のついた種子を風に乗せて飛ばしていた。アラブ人が『ケンダ』と言っているパンダニュスの強い匂いは、ヴィクトリア号が飛んでいる高度にまでたちこめていた。掌《てのひら》のような葉をもったパパイヤの木、スーダンくるみのなるステルキュリエ、バオバブ、バナナの木などが、この熱帯地方の豊富な植物群をかざっていた。
「すばらしい国だな」と、博士が言った。
「動物もいますよ。人間にもそのうち会えるでしょう」と、ジョーが言った。
「すばらしい象だな!」ケネディが叫んだ。「すこしぐらい猟はできないもんかね?」
「こんな強い風のとき、どうやって止めるんだね? 猟はだめだね、タンタロス〔ギリシア神話中のシビュロスの王。神の怒りにふれ、永久の罰として飢えと渇きの苦しみをなめさせられた〕の苦しみをしばらく味わうんだな! そのうち、いいこともあるよ」
じじつここは、狩猟家の想像力をかりたてた。ディックの心臓は、その胸のなかでおどった。彼の指は、彼の愛銃の床尾の上でふるえていた。
この国の動物群も、植物群同様、豊富だった。野牛は茂った草のなかにすっかり姿を隠して、寝ころんでいた。灰色や黒や黄色の、とてつもなく大きな象が、木の枝を折ったり木の実を食べたり、掠奪のかぎりをつくして森の中を竜巻のように通って行った。その通った跡は荒されたために通路になった。丘の斜面の茂みのあいだを滝のある急流が、北に向かって流れていた。そのなかでカバが、大きな音を立てて水につかっていた。長さ三メートル半もありそうな魚のような形をした海牛《うみうし》が、乳があふれるばかりにまんまるくなった乳房を空に向けて、岸辺でよこたわっていた。
それはすばらしい環境の、世にもめずらしい動物園だった。さまざまの色をした無数の鳥が、木の茂みを通して、あざやかな色彩を見せていた。
この自然の潤沢さを見て、博士はここがアダモヴァ王国だとわかった。
「最近発見された国に入ったんだ」と博士は言った。「これで探検家たちが行けなかったところを、われわれは通ったことになる。運がよかったのさ。これでわれわれはバートン、スピーク両大尉の探検した場所と、バルト博士の探検した場所とをつなぐことができたわけだ。イギリス人が歩いたところから、ハンブルク人の歩いたところまで来たのだ。もうじき、この大胆な学者が到達した最後の地に着くだろうよ」
「この二つの探検隊の歩いた場所は、とても離れているんだろう?」と、ケネディがたずねた。「わたしたちが飛んだ感じでは、どうもそうらしい」
「計算は簡単だよ。地図を持ってきてごらん。スピークが到達した南端の経度は何度かな」
「だいたい三七度だな」
「今夜あたり着くと思うんだが、ヨラの町はどのへんかな? バルトは、そこまで行ったんだ」
「経度は、だいたい東経二一度だな」
「そうすると二五度の差だね。一度は九六キロ半だから二五〇〇キロ離れているわけだよ」
「歩いていく人にとっては、たいへんな距離ですね」
「そうだろうね。でもリヴィングストンもモファットも、いま現に内陸に向かって進んでいるんだ。彼らが発見したニャサの国は、バートンが発見したタンガニーカ湖とそれほど離れてはいないんだ、きっと今世紀が終わらぬうちに、この広大な大陸は探検されつくすだろうね。ところで」と、羅針盤を調べながら博士はつけ加えた。「残念ながらわれわれは、ぐっと西に流されている。もっと北に行きたかったんだがね」
一二時間飛んだ後、ヴィクトリア号はニグリティ国に入った。この地方ではじめて出会った住民たちはアラブ人のシューア族で、放牧の動物に草を食べさせていた。ヨーロッパ人が誰一人足を踏みいれたことのない山で、高さ二六〇〇メートルのアトランティカ山脈の大きな峰々が地平線上に見えてきた。この地方のあらゆる水の流れは西側の斜面から始まって、大西洋へそそいでいた。これはこの地方のリェヌの山々であった。
やっと川らしい川が、旅行者の目に入った。隣接している無数のアリ塚によって、博士はそれがベヌエ川だとわかった。ニジェール川の大きな支流の一つで、原地人たちが『水の源』と呼んでいた川である。博士が言った。
「この川はそのうちに、ニグリティの奥地と海岸とを結ぶ天然の道となるだろうよ。わが帝国の勇敢なる艦長の指揮のもとにスバル号という蒸気船が、この川をヨラまでさかのぼったことがあるんだ。ここは、すでに知られている国なんだよ」
たくさんの奴隷たちが、彼らの主食である粟《あわ》の一種であるソルゴを栽培している畑で、熱心に働いていた。みんなは流星のように飛ぶヴィクトリア号を見て、びっくりして空を見上げていた。夕方になって気球は、ヨラから六四キロのところでとまった。はるか前方に、マンディフ山ととがった二つの峰がそびえたっていた。
博士は錨を投げさせた。それは高い木のてっぺんにかかったが、風がとても強いのでヴィクトリア号は激しく揺れ、地面すれすれまで倒れることがあった。そういうときは吊り籠も傾斜して、乗っているのがたいへん危険になった。その夜ファーガソンは、目を閉じることができなかった。たびたび彼は、綱を切って逃げだそうと思ったほど、強い風だった。ようやく嵐もおさまって、気球の揺れ方も、もう不安を感じさせなかった。
翌日、風はさらに弱まった。だが旅行者たちはヨラの町から遠ざかって行った。この町はフラーヌ族が最近つくりなおした町で、ファーガソンは大いに好奇心を燃やしていたのだが、やや東寄りに北に流されていく気球にしたがうよりほかなかった。
ケネディは狩りをするのに好適なこの国にちょっと降りてみようと提議した。ジョーも新鮮な肉がほしいと申し出た。だが、この国の野蛮な風習や原地人たちの態度、ヴィクトリア号めかけて発射されるいくつかの小銃、そういうもののために博士は旅行をなおつづけることにした。そのとき気球は、虐殺と放火の場である地方を、いま横切っているのである。ここでは戦闘は絶えまなく起こり、酋長たちはもっとも残虐な虐殺に、その王国の運命を賭けていたのだった。
かなりの人数のいる部落が、その細長い部落とともに、大草原のなかにつぎつぎと見えてきた。茂った草のあいだに、むらさき色の花があちこちに咲いていた。大きな蜂の巣箱といった小屋は、そそり立つ柵の後ろに身を隠していた。丘のあらあらしい斜面は、スコットランドの高地の峡谷《グレン》を思い出させた。ケネディは、何度もそれをなつかしがった。
博士の努力にもかかわらず、気球はいま北東に向かって進んでいた。それは雲のなかに隠れているマンディフ山をめざしていた。この山の頂上が、ニジェール川とチャド湖との分水嶺となっているのである。
まもなくバジュレ山があらわれた。この山は、母鳥がそのひなを抱くように、その山腹に一八の部落を抱いていた。谷一面に米と落花生の畑のあるこのながめも、すばらしかった。
三時にヴィクトリア号は、マンディフ山の目の前に来た。よけようとしてもできなかったのだ。いやでもそれを越えなければならなかった。博士はガスの温度を一八〇度〔摂氏八二度〕に上げて、気球に七二五キロもする上昇力を与えた。気球は二キロ半以上も上昇した。これがこんどの旅行の上昇記録となったが、気温が下がったので、博士とその仲間は毛布をかぶらなければならなかった。
ファーガソンは、急いで下降した。気のうがいまにも破裂しそうにふくらんでいたからだった。だが、この山が火山であることを確認するだけの余裕はあった。この死火山は深い穴をのぞかせていた。マンディフ山の岩肌は、一面に鳥の糞が積みかさなり、まるで石灰石のように見えた。それは大英帝国の全土に肥料をやるだけの量があった。
五時にはヴィクトリア号は、南風を避けて、ゆっくりと山の斜面をくだっていた。そして人家から離れた広い空地に停止した。着地をすると、急に飛びたったりしないようにしっかりとゆわえつけた。ケネディは銃を手にして、傾斜している野原に飛びだしていった。まもなくして彼は、半ダースほどのカモとタシギに似た鳥を持ってもどってきた。ジョーが腕を振るってつくってくれた鳥料理はおいしかった。夜は深い休息のうちに過ぎていった。
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三十 ケルナック
翌五月一一日、ヴィクトリア号はまたしても冒険の旅をつづけた。船乗りがその船を信頼するように、旅行者の一行はヴィクトリア号を信頼していた。
恐ろしいハリケーン、熱帯の暑熱、危険な出発、さらに危険な降下、こういった障害を、気球はいついかなる場所においても幸い切りぬけてきたのだった。ファーガソンは、思いのままに気球を操縦していた。到着点がどこにあるかはわからなかったが、博士は旅の結果については、もはや少しも心配していなかった。ただ野蛮人と狂信者のいる国では、彼はこの上なく用心ぶかい警備をおこたらなかった。仲間たちに、どんなときでも、やってくる連中には油断しないようにと命じた。
風は彼らを、もう少し北のほうへ連れていった。九時ごろ、大きな都市であるモスフェイアが見えてきた。そこは、二つの高くてけわしい山脈にはさまれた高原にある町だった。この町は天然の要害になっていて、沼と森とのあいだの狭い道からしか行けないのだった。
ちょうどそのとき、はでな色彩の衣服を身にまとい、馬に乗った供廻りを従えたアラブの族長が、この町に入ってきた。先頭に立つ者たちが木の枝を押しひろげ、つぎにラッパ隊がつづいた。
博士は、この原地人たちをもっとよく見ようと思って、下降していった。だが気球が大きくなるにつれて、彼らは大きな恐怖にとらわれ、大急ぎで逃げてしまった。馬に乗って逃げた者もいた。
ただ族長だけは、動かなかった。彼は長いモスケット銃を手にして、それをかまえて待ち受けていた。博士は四六メートルほどのところまで近づいて、よく通るアラブ語で挨拶をした。
ところが空からやってきたこの言葉に、族長は馬から飛び降りて、道の砂ぼこりのなかにひれ伏した。博士が言葉巧みに立たせようとしたが、だめだった。
「どうしてもわたしたちを人間だとは思ってくれないらしいね。ここにはじめてヨーロッパ人が来たとき、彼は人間でない別の種族がきたと思いこんだのだ。この族長だってわたしたちのことをしゃべるとき、アラブ的な空想力を思いきり発揮して、事実を誇張してならべたてるに決まってるよ。われわれについてどのような伝説がつくられるか、ちょっとおもしろいね」
「文明の見地からすれば」と狩猟家は答えた。「それはたいへん残念なことだな。ただの人間として通ったほうが、ずっといいんだが。ヨーロッパの力についてまた別の考えをこの黒人たちに与えるだろうからね」
「そのとおりだ、ディック。でも、どうすればいいんだ? この国の学者たちに、気球の装置について長々と講義するとするか? まあ理解してくれないだろうな。あいかわらず人間がつくったものだとは認めないだろうよ」
「先生はさっき、はじめてこの国を探検したヨーロッパ人のことをお話しになりましたが、それは誰なんでしょうか」と、ジョーがたずねた。
「われわれはデンハム少佐がやってきたところに、ちょうどいるわけだ。彼はモスフェイアで、マンダラの酋長に攻撃されたんだ。彼はボルヌウを出発して、フェラータ族に戦いをいどんだ遠征隊の族長とともにやってきた。そしてこの町の攻撃にも参加したんだ。ところがこの町はアラブ人の鉄砲に対して勇敢に立ち向かい、ついにその族長の軍隊を敗走させたんだ。それは途中の部族に殺戮、掠奪、侵略のいい口実を与えることになった。少佐は身ぐるみはがされ、裸になって馬の腹にしがみついて必死になって馬を疾駆させて逃げた。もし馬がいなかったら、ボルヌウの首都クカには、けっしてもどれなかったろうよ」
「そのデンハム少佐という人は、どういう人なので?」
「勇敢なイギリス人で、一八二二年から二四年にかけて、クラパートン大尉やオウドネイ博士が参加しだボルヌウ探検隊の指揮官だった。この探検隊は三月にトリポリを出発し、フェザンの首都のムルズクに着いた。それから、のちにバルト博士がヨーロッパにもどるために通った道を通って、一八二三年二月一六日にチャド湖に近いクカに着いた。デンハムは、ボルヌウやマンダラやチャド湖の東岸一帯を調査した。一方クラパートン大尉とオウドネイ博士は、一八二三年一二月一五日にスーダンに入り、サッカトゥまで進んだ。オウドネイはミュルミュルの町で、疲労と衰弱のために死んだよ」
「アフリカのこのへんは、たくさんの人たちが学問のために犠牲になったんだね」と、ケネディが言った。
「そうだよ。この地方は不吉な場所なんだ。われわれはいまバルギミ王国のほうへとまっすぐに進んでいるが、フォーゲルも一八五六年にここを通ってワダイに向かい、途中で姿を消している。バルト博士に協力するために派遣されたこの二三歳の青年は、一八五四年一二月一日にバルト博士と出会った。それからフォーゲルもこの国の探検を始めたわけだが、一八五六年ごろ、当時ヨーロッパ人は誰も入ったことのないワダイ王国に行くと言ってきた。それが彼の最後の手紙となったので、彼は首都のワラまで行ったらしい。そして彼はその付近の聖なる山にのぼろうとしたために、一説には捕えられたと言い、一説によれば死刑に処せられたと言う。だが、旅行者の死ということは、かるがるしく信じてはいけないことなんだ。なぜなら死んだとなれば捜索隊は出ないからね。バルト博士は何度も死んだと公式に発表されてね、そのために博士はしばしば正式に抗議したもんだ! フォーゲルがワダイの酋長に捕われたということは大いにありうることだ。身代金が要求できるからね。ネイマンス男爵もワダイに行こうとして、一八五五年にカイロで死んだ。いまはフォン・ホイグリンがライプチッヒの探検隊に参加して、フォーゲルの足跡をたどっている。だからもうじき、この若くして有為な探検家の運命もはっきりするだろう」〔博士の出発後、探検隊の新しい隊長ムンチンガー氏からエル・オベイドに宛てた手紙によれば、不幸にもフォーゲルの死については疑問の余地がないとのことだった。―原注〕
モスフェイアは、もうずっと前に地平線に消えていた。マンダラ国が、アカシアや赤い花をつけたロキュスト樹の森と、綿《わた》と藍《あい》のみどりの畑の草本植物のみごとな豊饒さをもって、旅行者たちの眼下に広がっていた。チャド湖にそそぐまで一二八キロも流れるシャリ川が、激しい勢いを見せている。
博士は仲間に、バルトの地図を実際にあたって調べさせた。
「ほら、この学者の仕事はとても正確だね。われわれはロゴウム地方に向かって進んでいる。たぶん、その首都のケルナックを通るだろう。かわいそうに、やっと二二歳になったばかりのトールが死んだのが、そこなんだ。数週間前にアフリカでデンハム少佐と合流した八〇連隊の旗手だったのだが、それからまもなくして死神と出くわしたのだった。ああ! この広い大陸は、まさにヨーロッパ人の墓場と言えるだろう」
長さ一五メートルほどの小舟がいくつか、シャリ川の流れをくだっていた。地上から三〇五メートルのところにあるヴィクトリア号は、原地人の注意をまったくひかないようだった。ところで、そのときまでかなりの強さで吹いていた風がだんだんとおさまってきた。
「また凪になったのかな?」と、博士が言った。
「いいでしょう、先生! もう水も不足していませんし、恐ろしい砂漠もないんですから」
「そうじゃないさ、もっと危険な原地人がいるよ」
「あそこに、町みたいなものがありますよ」と、ジョーが言った。
「ケルナックだ。さっきの風で、ここまで来てしまったんだ。うまくすると、正確な地図がつくれるかもしれんぞ」
「もっと近づいてみないかね」ケネディがたずねた。
「ぞうさないよ、ディック。われわれは町の真上にいる。ちょっとバーナーの栓をまわそう。もうすぐ降りはじめる」
ヴィクトリア号は三〇分後には、地上から六〇メートルほどのところに停止した。
「ここなら、セント=ポール寺院のてっぺんからロンドンを見るよりも、もっと近くにケルナックが見えるよ」と博士が言った。「まあ、ゆっくり見物するとしよう」
「あちこちから聞こえてくる木づちの音は、いったいなんでしょうね?」
ジョーは注意ぶかくながめた。それは戸外で、大きな木の幹に布を広げてたたいているたくさんの機織《はたおり》の音だった。
このときロゴウムの首都は、地図を広げたように全貌が見わたせた。まっすぐに家がならび、道路は広く、これならりっぱな町だった。大広場のまんなかには奴隷市がたっていて、買手が殺到していた。なぜならば手足がとても小さなマンダラ地方の女は需要が多かったからである。
ヴィクトリア号を見て、いままでにも見られたような現象がまた見られた。まず叫び声、それからびっくりした顔が向けられる。取引きはそっちのけで、仕事は中断し、例の音も止んだ。旅行者たちはすべての動きがとまったなかにあって、この人口の多い町のごくささいなものまで見ることができた。彼らは地上一八メートルほどまで下降した。
そのときロゴウムの支配者が、みどり色の旗をひるがえして小屋から出てきた。ついてきた楽隊は、彼ら自身の肺はべつとして――すべてのものを打ち破るような勢いで、しゃがれた音のでる水牛の角笛を吹きならしていた。群衆が彼のまわりに集まった。ファーガソン博士は彼らがやってきた理由をわかってもらおうとしたが、そうするわけにはいかなかった。
ひたいが広く、髪の毛がちぢれ、少しばかりわし鼻のここの住民たちは、誇りたかく賢そうに見えたが、ヴィクトリア号の出現はやはり大さわぎをひき起こした。馬上の男たちが四方八方に駆けまわり、まもなく支配者の軍隊がこの不可能な敵と戦うべく集められたことがわかった。ジョーはあらゆる色のハンカチを広げてみたがその効もなく、なんらの結果も得られなかった。
そのうちに廷臣たちをまわりに従えた族長は静粛を命じて、演説を始めたが、博士にはなにを言っているやらさっぱりわからなかった。アラブ語にバルギミ語のまじった言葉らしいが、身ぶりという共通の言葉によって、すぐ立ち去れと言っているらしいことだけはわかった。博士はそう言われるまでもなくそうしたかったのだが、風がないので不可能だった。いつまでも気球が動かないので、支配者たちは怒った。そして廷臣たちは怪物を退散させるために大声でわめきはじめた。
この廷臣たちがまたかわっていて、からだに五、六枚のいろいろな色のシャツを着ていた。みんな大きなおなかをしているのだが、なかには詰めものをしているらしいのもあった。酋長に仕えるにはこうするのだと博士から教えられて、二人は驚いた。腹部の肥満は、人民の大望を示していたのである。この太った男たちが手足を振りまわし、叫んでいた。なかでもいちばん太っているのがさわがしかった。もしここでは太っているほどえらいとするなら、この男は総理大臣であるにちがいなかった。黒人の群衆もサルのように身ぶりをくり返しながら、廷臣の叫びに応じてわめき立てていた。一万本の腕が、同時に同じ動作をやって見せた。
このくらいの威嚇では充分でないと思ったのだろう、さらに恐ろしいのが加わった。弓矢を手にした兵士らが、戦闘隊形をとってならんだ。だがそのときはヴィクトリア号は、すでにガスを膨脹させて、矢のとどかないところに静かにのぼっていった。そのとき酋長はモスケット銃をつかんで、気球に狙いをつけた。だがそれを見たケネディは、カービン銃の一発で、酋長の持っている武器を破壊した。
この思いがけない一撃に、全員いっせいに敗走し、みんな大急ぎで自分たちの小屋にもどった。その日はそれっきり、誰一人として町に姿をあらわさなかった。
夜になった。だが、風は吹かなかった。地上九〇メートルほどのところで、じっとしているよりほかはなかった。暗闇のなかには、燃える火はなにもなかった。死の静寂が支配していた。博士は、この静けさには罠が隠されているかもしれないと思ったので、警戒を厳重にした。
ファーガソンが警戒したのは、間違っていなかった。真夜中ごろ、町中が燃えたつようにあかるくなった。何百という火の線が火矢のようになって、炎の線をからませながら放たれたのである。
「へんなものが飛んでくるぞ!」と博士が言った。
「ああ、神さま!」とケネディが念じた。「まるで火炎がのぼってきて、こっちに近づこうとしているようだ」
じじつ、恐ろしい叫び声とモスケット銃の銃声とともに、この火の塊はヴィクトリア号のほうにのぼってきた。ジョーは底荷を投げられるようにかまえた。ファーガソンは、すぐにこの現象を見破った。
何千羽というハトがしっぽに燃えるものをつけて、ヴィクトリア号めがけて放たれたのだ。ハトはびっくりして、暗闇のなかに火のジグザグを描きながらのぼってきた。ケネディはありったけの武器を使って、この塊のなかを撃ちまくったが、このような数かぎりのない相手に対しては、なにができよう? もうハトの群れは気球と吊り籠のまわりをまわりはじめた。その光を反射して気のうは、火の網に包まれているようだった。
博士はためらわずに、石英の大きな破片を捨てた。気球は危険な鳥たちが届かぬ圏外に至った。二時間のあいだ、闇のなかをあちこち飛びまわるハトが見えた。それから、すこしずつその数がへって、完全に見えなくなった。
「さあ、これで安心して眠ることができる」と博士が言った。
「原地人としては、うまい思いつきですね!」とジョーも言った。
「そう、彼らは部落のわら屋根に火をつけるときに、こんなふうにハトをだいたい使うね。でも、こんどは部落のほうが火炎鳥よりももっと高く飛べたというわけだ」
「たしかに気球には、こわいものなんかないな」と、ケネディが言った。
「いや、いや、どうして」と博士がやりかえした。
「どんな、こわいものさ?」
「吊り籠のなかにいて注意をおこたることさ。だから、いいかい、どこでも警戒第一、いつでも警戒が必要なんだよ」
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三十一 チャド湖のカバ
午前三時ごろ、見張りをしていたジョーは、やっと足の下で町が動きだしたのを見た。ヴィクトリア号は進みはじめた。ケネディも博士も目をさました。
博士は羅針盤を見た。そして風が北北東に彼らを運んで行くのを知って満足した。
「うまいぞ、万事好つごうだ」と、博士が言った。「きょうのうちにも、チャド湖が見られるぞ」
「大きい湖かい?」と、ケネディがきいた。
「かなり大きい。縦と横でいちばん広いところは、そうだね、一九三キロもあるよ」
「水面の上を飛ぶのも、変化があっていいね」
「誰も、この旅行には文句がつけられないさ。とても変化があって、それに最上の状況のもとで行なわれるんだから」
「もちろんそうさ、サミュエル。ただ、あの砂漠で水がなくなったとき以外は、これといって危険なめにもあわなかったし」
「この勇敢なヴィクトリア号が、いつも決まってりっぱにはたらいてくれたものね。きょうは五月一二日だね。出発したのは四月一八日だから、もう二五日間飛んだわけだ。もう一〇日もすれば、着くだろう」
「どこに?」
「それは、わからない。でも、どこだっていいだろう?」
「きみの言うとおりだ、サミュエル。いまのように風に運ばれ、健康でいられるようにと神におまかせしよう! どの顔を見たって、世界中でもっとも健康に悪い土地を通ってきたようには見えないものね」
「わたしたちは上に逃げることができた。成功したのは、そのせいだよ」
「空中旅行万歳!」ジョーが叫んだ。「二五日たったきょう、健康で、栄養もよく、休息も充分だ。おそらく休息は多すぎただろうね。足がだるくなってしまったもの。少し歩いて、足のしびれをなおすのも悪くはありませんね」
「ロンドンに帰ったら、町のなかでそうするさ、ジョー。ところでわれわれも、デンハム、クラパートン、オーフェルヴェークのように、またバルト、リチャードソン、フォーゲルのように、三人で出発した。でも、それらの三人組よりもわれわれはずっと幸福だよ。三人そろっていられるんだからね! 離ればなれにならないことが、絶対に必要なんだ! もし三人のうち一人が地上に降りているとき、ヴィクトリア号がとつぜん危険におそわれて上昇しなければならなくなったとしたら、われわれは二度と会えないからね。だからケネディにははっきり言っておくが、猟をするからといっても遠くへ行ってはいけないよ」
「でも、サミュエル、もうそろそろ少しぐらいはいいだろう。食糧品を新しく仕入れるのも悪いことじゃないからな。それにきみは、出発前にアフリカの猟のすばらしいことを話してくれたではないか。いままでだってわたしは、有名な狩猟家のアンダーソンやカミングのようには、ちっとも腕をふるっていないよ」
「だが、ディック、きみは忘れるのが早いな。それとも謙遜して手柄を忘れたことにしているのかな。小さい獲物は別として、たしかきみは大カモシカ一頭、象一頭、それにライオン二頭をやっつけたはずだぜ」
「そりゃやったさ。でも、あんなにいろいろな動物が通っていくのを見たら、アフリカの猟師として、鉄砲の筒先を向けずにはいられないだろうが? ほら、見ろよ! あのキリンの群を!」
「あれがキリンですか!」と、ジョーが言った。「拳固ぐらいの大きさにしか見えませんね」
「それは三〇・五メートルも上空にいるからだよ。もっとそばへ寄ってみたら、おまえの背の三倍もあることがわかるよ」
「ほら、こんどはカモシカの群だ!」と、ケネディがつづけた。「あっちではダチョウが、風のように逃げていく」
「あれがダチョウですか!」と、ジョーが言った。「まるでめんどりだな。めんどりの大きいのみたい」
「サミュエル、もっと近づけないか?」
「近づけられるさ。でも、ディック、着陸はしないよ。なんの役にも立たない獣を撃ったって仕方がないじゃないか。ライオンやピューマやハイエナなら、まだ話がわかる。どっちにしても危険な動物だからな。でもカモシカだったら、大きくたって小さくたって、どっちみち猟師本能を満足させるだけじゃないかね? そんなことならしなくてもいい。まあ、三〇メートル五〇センチの高さで進むとするか。もしきみがなにか猛獣を見つけたら、心臓に一発お見舞いするお手並を拝見するとしよう」
ヴィクトリア号は、すこしずつ下降した。でも、安全な高度だけは保っていた。野蛮人がたくさんいるこの地方では、思いがけない危険にいつも気をくばっていなければならないのだ。
そのとき旅行者たちはシャリ川の流れにそって、まっすぐに進んでいた。この川の魅力的な両岸は、さまざまの色合いの樹木の茂みに隠されていた。ツタや地上をはうツル科の植物があちこちで蛇のようにからまり、色とりどりの奇妙なおもしろさを見せていた。ワニは陽なたを動きまわり、まるでトカゲのようにすばしっこく、水にもぐったりしていた。ワニは川の流れをせきとめるたくさんの緑の島の岸辺に、たわむれながらむらがっていた。
このような豊かな緑の自然のなかに、マファティ国は動いていった。午前九時に、ファーガソン博士とその一行は、やっとチャド湖の南岸に着いた。
長いあいだ、その存在が伝説のもやのなかにかすんでいた内陸の海、それはまさにアフリカのカスピ海であった。そこに行きつくことができたのは、デンハムとバルトの率いた二つの探検家だけだった。
博士はチャド湖の現在の輪郭を描こうとした、一八四七年の地図とは、ずいぶん違っていた。じじつ、この湖水の正確な輪郭をたどるのは、不可能に近く、それはこの湖水が泥だらけの沼にかこまれていて、ほとんど乗りこせなかったからだ。バルトが死の危険におちいったのも、この湖水だった。アシと四メートル五〇センチほどのカミガヤツリ草におおわれたこの沼は、年々湖になっていった。ときには岸辺の部落は、一八五六年のウルゴルヌーのように、なかば水中に没することがあった。かつてはボルヌウの人家のあった場所に、カバやワニがいまやまさに水にくぐろうとしていた。
太陽はそのまばゆい光を、この静かな水面にそそいだ。北では二つの要素が、同じ地平線上で一緒になっていた。
博士は水質を調べたがった。この湖の水は、長いあいだ塩からいとされていたのである。湖水の表面に近づいても、べつになんらの危険はなかった。吊り籠は鳥のように水面一メートル五〇センチほどのところをかすめていた。
ジョーが瓶をおろして、半分ほど入ったところを引きあげて味わった。これは飲料には適さない水で、天然の炭酸ソーダの味がした。
博士がその調査の結果を記入していたときに、一発の銃声がその脇でとどろいた。ケネディが一匹のものすごいカバにどうしても一発お見舞したくなったからである。のんびりと呼吸していたそのカバは、この銃声とともに姿を消した。狩猟家の円錐形の銃弾は、動物にとってはどうということもないようだった。
「もりを撃ちこんだほうがよさそうですね」と、ジョーが言った。
「どうやってする?」
「錨を使うんです。あんなにでっかい動物にはちょうどいい釣針でさあ」
「なるほど、ジョーはうまいことを考えつくね」と、ケネディが言った。
「そんなことはしないでくれ!」と、博士が言い返した。「カバに引っぱられたら、どうしようもないぜ」
「チャド湖の水質もわかったんですから、先生、あの魚は食べられるんですか?」
「おまえは魚なんて言うけれど、ジョー、あれは哺乳類の原皮動物だよ。肉はうまいそうだ。だから湖水の沿岸の部族間では重要な取引きの物産になっている」
「そんなら、ディックさんが仕留めてくれなくて、ほんとうに残念ですね」
「あいつを撃つには、腹と内もものあいだしかないんだ。ディックの弾は、入りもしなかったろう。ところで、うまい場所が見つかったら、湖水の北のはずれに着陸しよう。あそこなら、ケネディは動物園にいるようなもので、思いのままにいままでの埋めあわせをすることができるよ」
「それじゃ、ディックさん!」とジョーが言った。「カバを仕留めてくださいよ。あの両棲類の肉を食べてみたいですね。アフリカのまんなかまで来ているっていうのに、タシギやシャコばかり食べているっていう手はありませんからね」
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三十二 ヒゲワシの攻撃
チャド湖に着いてからヴィクトリア号は、西から吹く風に乗った。そのとき、いくつかの雲が陽の光をさえぎっていることも手伝って、この広い水のひろがりの上にいると、いくらか涼しさが感じられた。だが一時ごろ、気球は湖水の一部をななめによこぎって、また一二、三キロ陸地に入りこんだ。
博士は最初この方向に行ったことをいささか遺憾に思っていたが、ボルヌウの有名な首都であるクカが見えてきたとき、もはやそのようになったことを嘆こうとはしなくなった。ほんのしばらくだが、彼はこの町をかいま見ることができた。白い粘土の城壁にかこまれていて、さいころのようなたくさんのアラブ人の家の上に、いくつかの回教寺院がどっしりとかまえていた。家の中庭や公共広場には、直径三〇メートル五〇センチもある葉っぱの円屋根におおわれたヤシとゴムの木があった。ジョーによれば、葉がこのように大きなパラソルとなっているのは、太陽光線の強烈さから人を守るためであって、彼はそこから神の偉大さをたたえる結論をひきだしたのだった。
クカは『デンタル』と呼ばれる六〇〇メートルほどの長い並木道で分かたれている二つの町から構成されていた。そのときもその道は、歩く人や、馬やラクダに乗った人であふれていた。一方は風通しのいい高い建築物がきちんとならんでいる金持の町で、もう一方では、貧乏人が暮らしている円錐形の低い小屋がひしめきあっている貧しい町であった。クカは商業都市でもなく、産業都市でもなかった。
ケネディはこの町と、やはり同じように平野があって完全に二つの町にわかれているエジンバラにいくつかの類似点を見いだした。
だが旅行者たちはこの眺めをちらっと見たかと思うと、この地方特有の気流である逆風にとつぜんつかまってしまって、チャド湖のなかに六二キロも押し流されてしまった。
湖上もまた新しい景観であった。湖にはたくさんの島があって、それらには非常に残忍な海賊で、サハラのツアレグ族同様、近隣の人たちにたいへん恐れられているビディオアス族が住んでいた。この蛮族どもは勇敢にも矢や石でヴィクトリア号を迎え撃とうとしていた。だが気球はまもなくそれらの島じまの上を飛びこえた。島の人びとが見れば、それはかるがると飛んでいく大きなコガネ虫のようであったろう。
そのとき、地平線をながめていたジョーが、ケネディに話しかけた。
「ときに、ディックさん、こんどこそ、しじゅう狩りのことを考えているあなたの出番ですよ」
「なんだい、ジョー?」
「こんどは先生だって、あなたが銃を撃つことに反対しませんよ」
「だが、いったいどうしたっていうんだ?」
「ほら、あそこに、こっちへ向かってやってくる鳥の群がいるでしょう」
「鳥だって!」博士は望遠鏡を手にとった.
「見えるよ、少なくとも一二羽はいる」と、ケネディが答えた。
「お言葉ですが、一四羽ですよ」と、ジョーが言いかえした。
「願わくばあの鳥どもが、やさしい心のサミュエルが反対しないような害鳥であってくれますように!」
「わたしはなんにも言わないよ」と、ファーガソンは答えた。「でも、ああいう鳥は遠くから見たいもんだな」
「先生は、あの鳥がこわいんですか」と、ジョーがたずねた。
「あれは、ヒゲワシだよ。鳥のなかでいちばん大きい奴だ。もし奴らがおそってきたら……」
「よし! あくまでも守るよ、サミュエル! こっちにだって、奴らを待ち受けて撃つだけの弾は弾薬庫に充分あるんだ。そんなにこわがることはあるまい!」
「さあ、どうかな」と、博士は答えた。
一〇分後に鳥の群は、射程距離に近づいてきた。一四羽の鳥はしゃがれた鳴き声を空中にひびかせながら、ヴィクトリア号の存在を恐れるというよりもむしろいらだって、こっちへ向かってやってきた。
「よくなく奴だな!」と、ジョーが言った。「なんてうるさいんだろう! きっと自分たちの領分をおかされて、おもしろくないんでしょうね、それに自分たちと同じように飛べるのが気にくわないんですよ」
「ほんとうに」と、狩猟家が言った。「すごい面《つら》がまえだな。もし奴らがバーディ・ムアー製のカービン銃を持っていたら、わたしだってこわいよ」
「奴らは鉄砲など必要としない」いまではすっかり真剣になってきたファーガソンが答えた。
ヒゲワシは大きな輪を描いて飛んでいたが、その軌道がヴィクトリア号を中心にして、だんだんと小さくなってきた。彼らはすばらしい線を空中に描いていたが、ときには弾丸のような速さで突進し、その発射路線を、とつぜん思い切った角度で切断するのだった。
博士は不安になってきて、この恐ろしい隣人から遁れるために、もっと上昇しようと決意した。そこで気球の水素を膨脹させて、ただちに空高くのぼった。
ところがヒゲワシも、気球をあくまでも見捨てずに、一緒にのぼってくるのだ。
「おれたちに恨みをいだいているようだな」カービン銃をかまえながら狩猟家は言った。
じじつ、鳥どもは近寄ってきた。そのなかの一羽は一五メートルの近さにまで接近してきて、ケネディの武器に挑戦するようだった。
「撃ちまくってやりたいな」と、ケネディは言った。
「いや、いかんよ、ディック! 奴らを理由もなく怒らしてはいけない! 撃てば、必ず攻撃してくる」
「でも、簡単にやっつけてみせるがな」
「そうはいかんよ、ディック」
「こっちは奴らに対して一発ずつ撃てるんだぜ」
「奴らが気球の上部のほうにきたら、どうやって撃つんだね? まあ、陸地だったらライオンの群にかこまれているんだ、海上だったらサメの群におそわれているんだと思ったらいい! 気球はいま、とても恐ろしい状態なんだよ」
「本気になって言ってるのかい、サミュエル?」
「本気だとも、ディック」
「じゃあ、待つとしよう」
「待つんだ。攻撃してきたときに備えてな。でも、命令なしに撃っちゃいかんぞ」
いまや鳥どもは、気球のごく近くにむらがっていた。鳴くときにふくらむ毛のない喉や、怒りでつっ立ったすみれ色の小突起のついた軟骨みたいなとさか、それらがはっきりと見えてきた。奴らはヒゲワシのなかでももっともでかい奴で、その胴体の長さは一メートルにもおよび、その白い羽の裏を太陽に輝かせていた。まさに翼のあるサメで、それほどそのものすごい形相がよく似ていたのである。
「どこまでもついてくるな」と、気球と一緒にのぼってくる鳥を見て博士が言った。「いくら上昇してみてもむだだな。鳥のほうが、われわれよりも高くあがれるんだもの!」
「では、どうしようか?」と、ケネディがたずねた。
博士は答えなかった。
「まあ、聞けよ、サミュエル」と、狩猟家が言った。
「ヒゲワシは一四羽だ。われわれは全部の武器を使えば一七発は撃てる。鳥を撃ち落とすか、追いはらう方法はないだろうかね? わたし一人でもかなり撃ち落としてみせるがな」
「きみの腕前は信用しているよ、ディック。きみのカービン銃の前を飛ぶヒゲワシが落とされるのを、わたしだって喜んで見るだろうよ。だが、もう一度言うが、もしヒゲワシが気球の上から攻めてきたら、その姿は見えないので、われわれをささえている気のうが破られることになるんだ。ここは九〇〇メートル以上もあるんだよ」
そのとき、これらのどうもうな鳥の一羽が、まっすぐにヴィクトリア号に向かって突っこんできた。くちばしと爪を大きく開いて、まさに噛みきろうとするばかりである。
「撃て! 撃て!」と、博士が叫んだ。
気球に触れたかと思った瞬間、鳥は撃たれてぐるぐるまわりながら大空を落ちていった。
ケネディは二連発銃をつかんだ。ジョーも別の二連発銃を肩にあてていた。
銃声に驚いて、ヒゲワシは一瞬遠ざかった。だが、態勢を立てなおして、ふたたび怒りくるって襲撃してきた。ケネディは一発で、いちばん近づいたやつの首を撃ちぬいた。ジョーも、もう一羽の羽を撃った。
「あと一一羽だ」と、彼は叫んだ。
だがそのとき鳥は作戦を変えた。いっせいにヴィクトリア号の上に舞いあがったのである。ケネディは、ファーガソンのほうを見やった。
元気いっぱいで物おじしない博士も、あおくなった。恐ろしい沈黙の一瞬間が流れた。それから絹を引き裂くようなするどい音が聞こえた。吊り籠が三人の旅行者の足元で沈んでいった。
「やられた!」ぐんぐんあがっていく気圧計を見やりながら、ファーガソンが叫んだ。
「底荷を捨てろ! 捨てるんだ!」
たちまち、残っている石英が全部捨てられた。「まだ落ちていく!……水槽をからにしろ!……ジョー! わかるか? われわれは湖水に落ちていくんだ!」
ジョーは命令に従った。博士は身を乗りだして見た。湖が見たかぎりにおいては、上げ潮のようにせまってきた。目に入るものはみんな大きくなっていく。吊り籠からチャド湖の表面まで六〇メートルもなかった。
「食べものを! 食べものを!」と、博士が叫んだ。
食糧の入っていた箱が投げられた。
墜落の速度が、ぐっとゆるやかになった。でも不幸な男たちは、あいかわらず落ちていった。
「捨てろ! もっと捨てろ!」と、博士が声をかぎりに叫んだ。
「もう、捨てるものはなんにもない!」と、ケネディが叫んだ。
「ありますとも!」と、いとも簡単にジョーが自分を指さしながら言った。
と思うと、彼の姿は吊り籠の外に消えていた。
「ジョー! ジョー!」と、博士の悲痛な声が聞こえた。
だがジョーにはその声は聞こえなかっただろう。ヴィクトリア号は底荷がなくなったので、ふたたび上昇しはじめた。そして空中に三〇〇メートルも上がった。へこんだ気のうに風が吹きこんで、気球は湖水の北岸のほうに流されていった。
「もう見えない!」狩猟家が絶望の身ぶりを示しながら言った。
「わたしたちをたすけるために身を投げたのだ!」ファーガソンがそれに答えた。
大胆不敵な二人の眼から、大つぶの涙がこぼれた。彼らは、かわいそうなジョーの痕跡を探した。
「どうしよう」と、ケネディがきいた。
「降りられるところがあったら降りるんだ、ディック。そのうえで待つんだ」
九六・五キロ飛んでからヴィクトリア号は、湖水の北の人気のない岸辺に降り立った。錨はそれほど高くない樹にひっかけられ、狩猟家がそれをしっかりと固定した。
夜が来た。しかしファーガソンもケネディも、ひとときも眠ることができなかった。
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三十三 新しいヴィクトリア号
翌五月一三日、旅行者たちは夜が明けるとすぐに、自分たちがどこにいるかを調べた。そこは広い沼地のなかの、固い地面の島のようだった。この堅固な土地のまわりには、ヨーロッパの木ぐらい大きいアシが、見わたすかぎり続いていた。
この渡ることのできない沼地のおかげで、ヴィクトリア号は安全だった。湖のほうだけを警戒すればいいので、一面の水は、とくに東のほうでは果てしなくつづき、水平線には陸地も島の影も見えなかった。
二人の友は、まだあの不幸な仲間のことを話そうとはしなかった。口をきったのはケネディのほうで、彼は自分の推測を博士に語った。
「ジョーは死んではいないさ。あいつははしっこいし、めったにいないほどの水泳の名人だ。らくらくとエジンバラのフォース川の河口をよこぎった男だ。いつ、どこでということは言えないが、必ず会えるとも。こっちも、できるだけジョーを探そう」
「きみの言うとおりであって欲しいな」と、博士が感動した声で言った。「われわれは友を見つけるために最善をつくそう! まず、飛びたとう。だが、まずヴィクトリア号の外側の気のうをはずそう。もう使いものにならなくなったからね。これをとれば、六五〇ポンドは軽くなるから、ずいぶんらくになる」
博士とケネディは作業にとりかかった。それは、たいへん困難な仕事だった。このたいへん丈夫なタフタをこまかく破いて、さらに網の目から取りだすためにこまかく切らなければならなかった。猛禽のくちばしで裂かれた切り口は、数十センチにおよんでいた。
この作業に、少なくとも四時間かかった。やっと内側の気のうが姿を見せたが、それには全然傷がないようだった。そのときヴィクトリア号は五分の一にちぢんでしまった。ケネディは、気球があまりに小さくなったのにびっくりした。
「これで、だいじょうぶかね」彼は博士にたずねた。
「その点は心配しなくていいよ、ディック。うまく浮上するようにするから。もしあの気の毒なジョーがもどってきたら、彼を乗せて、また飛べるよ」
「墜落したときに、サミュエル、もしわたしの記憶がたしかだとすれば、一つの島からそれほど離れていなかったと思うが」
「うん、おぼえているよ。でも、あの島だってチャド湖の島なんだから、きっと海賊や人殺しともが住んでいただろうよ。それらの蛮人たちは、おそらくわれわれの不幸な結果を見ていたにちがいない。もしジョーが連中の手のなかに落ちたとしたら、迷信から神さまとでも思ってくれないかぎりは、ジョーはどうなるだろう?」
「ジョーは、うまくたちまわれる男だ。またくりかえすようだが、わたしはあの男の機転と頭のはたらきを信頼している」
「そうあってもらいたいもんだ。さあ、ディック、この付近で獲物をとってきてくれ。でも遠くに行くなよ。だいぶ捨ててしまったから食糧を仕入れなければならないんだ」
「よし、サミュエル、すぐにもどってくるよ」
ケネディは二連発銃をつかんで、近くのアシの茂みのなかに入っていった。まもなく銃声がたびたび鳴ったので、博士は豊猟であることを知った。
そのあいだに博士は、吊り籠のなかに残っているものの一覧表をつくった。それから第二の気球の釣り合いをとった。三〇ポンドほどのペミカン、紅茶とコーヒーとが若千、それに七リットル近くのブランディ、すっかりからになった水の容器が残っているだけだった。乾燥肉はぜんぶ捨ててしまった。
第一の気球の水素がなくなったので、いまでは上昇力は九〇〇ポンドほどになっていることを博士は知った。そこでこの違いをもとにして、彼は気球の釣り合いを再構成しなければならなかった。新しいヴィクトリア号の容積は二四一二立方メートル、水素は一二〇五立方メートル入っていた。膨脹装置は良好で、電池も螺旋管も損傷を受けていなかった。
したがって新しい気球が浮上する力は約三千ポンドあった。膨脹装置、搭乗者、貯えの水、吊り籠、その付属品、それに二二七・五リットルの水と四五キロの生肉を積みこむと、合計で一二八三キログラムになった。だから不慮の場合にそなえて七七キロほどの砂袋を積みこむことができた。このようにして気球は、周囲の空気と均衡を保つことができたのである。
この計算に従って、すべてのものが積みこまれた。ジョーの目方のかわりにそれをおぎなう砂袋が積みこまれた。こうした準備のために、博士はその日全部を費やした。そしてケネディが帰ってきたときには、それらの仕事は終わっていた。猟の成果はすばらしく、ガチョウ、カモ、タシギ、シマアジ、チドリなどを持ちかえった。ケネディはそれらを料理して、燻製にした。細い串に肉をさして、生木をいぶしてその上につるすのである。ケネディはそういうことにくわしいので、うまくやってのけた。すべてのものが、吊り籠に積みこまれた。
翌日もケネディは、燻製をつづけなければならなかった。
夕方になっても旅行者たちは、この仕事のまっ最中だった。夕食はペミカンとビスケットと紅茶だった。疲れていたので、おなかはすいていたし、食べたら眠くなった。二人とも見張りのとき、ジョーの声が聞こえたような気がして、なんべんも暗闇に向かって問いかけた。だが残念なことに! その声は、彼らがあんなにも聞きたがっていたその声は、あまりにも遠くだった!
朝の最初の光がさしたとき、博士はケネディを起こした。博士は言った。
「わたしは、仲間を見つけるにはどうすればいいかと、ずいぶんと考えた」
「どんな計画でも、サミュエル、わたしはやってみる、話してみろよ」
「なによりも、ジョーがわれわれについて消息を知ることがだいじだ」
「まさに、そのとおり! まさかあの青年が、われわれが彼を見捨てるなんて考えはしないだろうが!」
「あの男がかい! 彼はわれわれをよく知っている! けっしてそんなことは考えやしないよ。でも、われわれがどこにいるかは知らせておいたほうがいいな」
「どうやってするかな?」
「吊り籠に乗って、また上昇しよう」
「だが、風に流されたら?」
「さいわい、そのことで心配はいらない。見ろよ、ディック。そよ風がわれわれを湖のほうに連れてっている。きのうだったらまずかったが、きょうは好つごうだ。きょう一日じゅう、なんとかしてこの湖水の上空にとどまるようにつとめてみよう。ジョーだって絶えず探しているんだから、きっと、われわれを見つけるよ。きっと隠れている場所を、なんとかして教えてくれるだろうよ」
「もしつかまっていずに自由の身だったら、きっと教えてくれるよ」
「つかまっていたとしても」と、博士は言った。「原地人は習慣として捕虜を閉じこめておかないものだ。きっとわれわれを見つけて、われわれが探しているのをわかってくれるにちがいない」
「でも」と、ケネディがふたたび言った。「あらゆる場合を予想しておいたほうがいいな。もしなんらの兆候も見つからなかったら、ジョーが通った跡が見つからなかったとしたら、どうしたらいいんだ?」
「そうしたらまた湖水の北のここにもどってくる。われわれがどこからでも見えるように飛びながらね。わたしたちは待とう、そして岸を探し、湖水のまわりをまわってみるんだ。ジョーはきっと岸に着いてるだろうよ。ジョーを見つけるために、あらゆることをしてみないでは、この場を離れられない」
「よし、行こう」と、狩猟家が答えた。
博士は飛びたとうとしているこの固い大地の正確な位置を計った。地図で見ると、チャド湖の北岸のラリという町と、インゲミニという部落のあいだにあるということがわかった。
これは両方とも、デンハム少佐が訪れたことのある部落だった。ケネディも、生肉の燻製を仕上げた。付近の沼には、サイやカバの足跡があったが、そういう大きな動物の姿は、一頭も見かけなかった。
午前七時に、錨が大いに苦労して木からはずされた。ジョーがいたら、もっとうまくはずせたろうに。ガスが膨脹し、新しいヴィクトリア号は地上六一メートルまでのぼった。最初のうちはぐるぐるまわりながら風を探していたが、やがてかなり強い風に乗って、まもなく時速三〇キロの速さで運ばれていった。
博士は六〇メートルから一五〇メートルぐらいのあいだの高さを保った。ケネディは、ときどきカービン銃を発射してみた。島の上では無造作だと思えるほどまで低くさがり、目をじっとこらして木立ややぶや茂みを、つまり木蔭や岩蔭といった彼らの仲間が隠れることのできそうなあらゆる場所を探した。湖水のなかを行きかよいしているカヌーのそばにも降りてみた。漁をしていた男の子たちは気球を見て水に飛びこみ、恐れおののいて島に泳ぎかえった。
「なんにも見えないな」二時間の捜索のあと、ケネディが言った。
「あきらめちゃいけないよ、ディック、勇気を捨てないように。ジョーの飛びこんだ場所から離れないように」
一一時にヴィクトリア号は、一四五キロ飛んだ。それから新しい気流に出会って、東に直角に、一〇〇キロほど押された。それからかなり大きな、たくさんの人の住まっている島の上空をこえたのだった。それは、ビディオマス族の中心地であるかの有名なファラム島だと、博士は思った。どこかの茂みから名を呼ばわってジョーが現われてきはしまいかと、博士はその姿を探し求めた。ジョーがとらえられなかったとしたら、気球に引きあげるのは、それほどむずかしいことではなかった。とらえられていたとしても、伝道師を助けたときのやり方を使えば、ジョーは仲間のところにもどれたであろうが。でも、何者もあらわれなかったし、動くものもなかった! まさに絶望的だった。
ヴィクトリア号は二時半には、タンガリアの見えるところまでに来た。ここはチャド湖東岸の、デンハムが探検中に到達した最先端であった。
博士は、風がこの方向に吹きつけることに不安になった。東に流されて、アフリカ中央部の、はてしない砂漠のほうへ持っていかれるかもしれなかったからである。
「絶対にとどまらなければいけない。着陸したほうがいいだろう」と、彼は言った。「ジョーのために、湖水のほうにもどらなくてはいけないんだ。だが、その前に、西のほうへ吹く風を探してみよう」
一時間以上にわたって、博士はさまざまの気圏で風を求めた。ヴィクトリア号はあいかわらず陸地へ向けて流されていた。だが運よく三〇五メートルのところで、非常に強い風が、気球を西北に連れもどした。
ジョーが湖水上の島の一つに捕えられている様子はなかった。島にいたら、なんとかして自分の存在を知らせる手段を見つけたにちがいない。おそらく彼は陸地に連れていかれたのであろう。チャド湖の北岸が見えたとき、博士はこのように考えていた。
ジョーがおぼれ死んだとは、どうしても考えられなかった。ファーガソンとケネディの心に浮かんだ心配は、この湖水の浅瀬にたくさんいるワニだった! だが二人とも、このような心配を口にだして言う勇気はなかった。しかしこの考えはしつっこく彼らにつきまとっていたので、博士がとつぜんこんなふうに言いだしたとしても、ケネディはちっともおかしいとは感じなかった。
「ワニというのは、島でも湖水でも、岸辺にしかいないんだ。ジョーみたいな水泳の達人なら、そう簡単にはつかまらないよ。それにワニは、それほど危険ではない。原地人たちはワニのいるところだって平気で水あびをするけれども、めったにおそわれはしないものね」
ケネディは返事をしなかった。この恐ろしい可能性について議論するよりも、沈黙するほうを好んだからである。
夕方の五時ごろ、ラリの町が見えた。特徴のある入念につくった囲いのなかのアシをあんでつくった小屋の前で、住民たちが綿を採りいれていた。低い山のあいだに広がる谷間の窪地に、五〇軒ほどの小屋があった。風が強かったので、博士が降りようとしていた場所よりももっと遠くに、気球は進んでいた。だが、ふたたび風向きが変わって、うまいぐあいに、博士たちが前の晩過ごしたあの同じ出発点にもどることができたのである。錨は木の枝にはかからずに、沼地の泥に倒れてからまっているアシにくいこんだが、これもかなり強かった。
博士は気球をとめておくのにずいぶん苦労した。だが夜がふけるとともに風がおさまった。二人の仲間は一緒になって見張りをつづけたが、ほとんど絶望していた。
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三十四 竜巻
午前三時ごろになって風がひどくなり、あまりに烈しいので、ヴィクトリア号は地上近くにとどまっているのが危険になってきた。アシが気のうを傷つけて、ひき裂く恐れがあったからだ。
「出発しなければならないな、ディック」と博士が言った。「こんな状態ではとどまっているわけにはいかない」
「でもジョーはどうする、サミュエル?」
「見捨てやしないよ! もちろん! 嵐で一六〇キロぐらい北へ飛ばされるかもしれんが、またもどってくるよ! だがここにいると、みんなが危ないからな」
「ジョーを連れずに発つのか!」スコットランド人が深い悲痛の声をふりしぼるようにして叫んだ。
「わたしだってきみと同じように、血を吐く思いだ。それでもきみは、やむをえぬ出発を思いとどまれと言うのか」
「きみの言うとおりにしよう、発とう」と、狩猟家は答えた。
だが、出発することは、たいへん困難な仕事だった。深く食いこんだ錨は、どんなにやってみてもはずれないし、気球は反対の方向に引っぱられて、ますます固くしめつけられた。それにこんな状態では、錨をはずす操作そのものが危険だった。錨がはずれた瞬間に、ケネディを置き去りにしてヴィクトリア号が飛んで行ってしまう危険があったからである。
博士はそれほどまでの危険をおかしたくなかったので、スコットランド人を吊り籠にもどらせて、思いきって錨の綱を切ることにした。ヴィクトリア号は一足飛びに九〇〇メートル上昇し、まっすぐに北に向かって飛んだ。
ファーガソンとしても、この暴風には従うより仕方がなかった。彼は腕をくんで、悲しい思い出にふけった。
しばらく深い沈黙にふけった後、彼はケネディのほうを振りむいて、言葉すくなく語った。
「われわれはおそらく、神を試したんだ。神はこのような旅をくわだてる男たちを許してはくださらなかったのだ」
苦悩の溜息が、彼の胸からもれた。
「危険から遁れてお互いに喜び合ったときから、まだいくらもたっていないじゃないか!」と、狩猟家が応じた。「そのうち、三人で手を握り合えるよ!」
「かわいそうなジョー、いいやつだったな! 勇敢で、さっぱりした男だった! 金持になって、ちょっといい気になったが、おしげもなく宝ものを捨ててくれた! そのジョーが、いまわれわれから遠くにいるんだ! 風が途方もない速力で、われわれを連れていってしまうんだ!」
「なあ、サミュエル、ジョーが湖水の部族たちにつかまったとしても、きっと前にこの部族を訪れたデンハムやバルトのように、うまくやってみせるよ。あの連中は祖国に帰ってきたんだろう」
「ああ! ディック、ジョーは、蛮人の言葉を一言も知らないんだ! 彼はひとりっきりで、金目《かなめ》のものはなにも持っちゃいない。きみの言う冒険家たちは、遠征のために準備をし、武装したお供を連れていったし、酋長たちにたくさんの贈りものを持って、進んでいったんだ。それでもなお彼らはたいへんな苦しみをなめ、ひどい難儀を避けることはできなかった! きみは、あの不幸なわれわれの仲間がどうなったと思うかね? 考えるだけでも恐ろしいことで、こんな苦しみはいままでにもなかったことだ!」
「だが、サミュエル、われわれはまたもどってくるんだろう」
「もどってくるとも! ヴィクトリア号を捨てたって、必要なら歩いてだってまたチャド湖にもどってくるよ。ボルヌウの酋長と交渉してやるよ! ここのアラブ人たちは、最初のときのヨーロッパ人に悪い思い出をもっているからね」
「わたしもついて行くとも」と、狩猟家は声を強めて言った。「わたしをあてにしてくれ! こんな旅行なんか、どうなったっていいんだ。ジョーはわれわれのために身を犠牲にしたんだ。われわれだって彼のためにこの身をささげよう!」
こう決意すると、また二人の男は、あらたな勇気がわきあがってくるのが感じられた。二人とも、考えるところは同じなのだった。ファーガソンは、チャド湖に連れもどしてくれる逆風を見つけるために全力をつくした。だが、不可能だった。下降することだって、下は樹木のない裸の土地で、しかもこの激しい風ではどうにもならなかった。
ヴィクトリア号はこうして、ティブウスの国を横断した。スーダンの辺境である、やっかいな砂漠ベラド・エル・ジェリドを越え、隊商の通ったあとが長くうねうねとつづく砂ばかりの砂漠に入った。この地方のいちばん大きなオアシスからそれほど遠くないところで、みどりの線が、南の地平線の果てに消えた。このオアシスには五〇もの井戸がすばらしい樹木におおわれていたが、降りることはできなかった。アラブ人がキャンプしているらしく、しま模様のテントがならび、何頭かのラクダが砂の上に、マムシのように首をのばしていた。これらが、この静まりかえった砂漠を活気づけていた。だがヴィクトリア号は流星のように飛んで、三時間で九六キロ半も流されたのだった。ファーガソンがいくらもがいても、どうにもならなかった。
「止まることも、降りることもできない」と、彼は言った。「一本も木がないし、地面の突起もない。このままサハラ砂漠をこえてしまうのだろうか? きっと天は、われわれの意に反することを決めているんだ!」
彼はこのように、絶望の怒りをこめて語った。そのとき北のほうで、砂漠の砂が黄塵のなかでまきあがり、逆風の衝撃を受けて渦をまきはじめたのである。
この旋風にまきこまれて隊商はおしつぶされ、断ち切られ、はね飛ばされて、あっというまに砂のなだれの下に姿を消した。ラクダは右往左往して、悲しそうなにぶい捻り声をあげていた。叫び声が、この息づまるような霧のなかから聞こえてきた。ときどき色とりどりの衣服が、そのあざやかな色合いを見せてこの混沌のなかに浮かびあがり、嵐の咆哮が、この破壊の情景の上を走っていった。
まもなく砂は厚い層となって積みかさなり、いままで平らだった野原の広がりには丘が動き、のみこまれた隊商の大きな墓場となったのである。
博士とケネディはまっさおになって、この恐ろしい情景に立ち会っていた。もはや気球を操作することはできなかった。気球は逆風のなかで旋回し、いくらガスを膨脹させてみせても、そこから抜けだせなかった。気球はこの空気のうずまきのなかに巻きこまれて、目がくらむような速さで、ぐるぐるまわっていた。吊り籠は大きく揺れ、テントの下につるした器具類はぶつかり合って、いまにもこわれそうだった。螺旋管のパイプも折れんばかりにまがり、水槽はすさまじい音を立てて動いていた。六〇センチしか離れていないのに、旅行者たちは互いの声を聞きとることができず、手をふるわせて綱にしっかりとつかまり、この激しい暴風に飛ばされまいとしていた。
ケネディは髪をふり乱し、一言も口をきかずに見ていた。博士はこの危険のさなかにあって、ふたたびその豪胆さをとりもどしていたのだった。彼の顔には、その激しい心の動きは少しもあらわれていなかった。最後に気球が旋回し、思いがけない静けさのなかにヴィクトリア号がとつぜんとまったときでも、彼は落ち着きはらっていた。北風が強くなって来て、逆方向に朝来た道を、それとおとらぬ速さをもって追いやったのである。
「どこへ行くんだろう?」ケネディが叫んだ。
「神のおぼしめしのままだよ、ディック。神を疑ったのは間違いだった。どうしたらいいのかは、神さまのほうがわれわれよりもごぞんじなのだ。もう見ることができないと思った場所にもどっているんだ」
行くときは単調で平らだった土地が、いまは嵐のあとの海のように荒れくるっていた。できたばかりの小さな丘が、砂漠に点々とつらなっていた。風は激しくて、ヴィクトリア号は大空を切って進んでいった。
旅行者たちが連れて行かれた方向は、朝彼らがとった道すじとは、すこしばかり違っていた。だから九時になってもチャド湖の岸は見えないし、彼らの前にはまた砂漠が広がっていた。
ケネディは、そのことを博士に注意した。
「たいしたことはないさ」と、博士は答えた。「だいじなことは、南に帰ることだ。このまま行けば、ウディかクカか、ボルヌウの町にぶつかる。そうしたら、すぐにそこに降りる」
「きみがかまわないと言うんなら、わたしだって同じくかまわんさ。でも願わくば砂漠をよこぎりたくないな。あの不幸なアラブの隊商のようにはなりたくないからな! 恐ろしいものを見たものな」
「ときどきあるんだよ、ディック。砂漠の横断ってものは、海の横断とはまた違って危険なんだ。海の危険のすべてが砂漠にはあるんだ。沈没だってあるし、それに疲労だって、水や食糧がなくなることだってある」
「どうやら風がおさまってきたらしいぞ」と、ケネディが言った。「砂ぼこりがうすくなってきたし、砂漠の起伏も少なくなってきたぞ。地平線もあかるくなってきた」
「そりゃ、よかった。望遠鏡でよくのぞいてみてくれよ。どんなものでも見遁すな!」
「だいじょうぶ、サミュエル。最初に木が見えたら、きみが気がつく前に言うよ」
そう言ってケネディは、望遠鏡を手にして、吊り籠の前に席を占めた。
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三十五 ジョー
ジョーは彼の主人がいたずらに捜索をつづげているあいだに、いったいどうなったであろうか?
湖水に飛びこんだとき彼が水面に浮かびでて最初にしたことは、目を空に向けることだった。湖上に高くあがっていたヴィクトリア号がぐんぐん上昇し小さくなっていくのを、彼は見た。そしてそれは、まもなく速い気流に乗って、北のほうに消え去った。彼の主人も、その友も助かったのだ。
「チャド湖に飛びこむことを考えついたのは、よかった」と、彼は考えた。「ケネディさんだって、こう考えたにちがいない。きっとあの人だって、わたし同様ためらったりはしないだろう。だって、二人の人間を救うために一人が犠牲になるのは、ごくあたりまえのことだからな。数字から言ったってそうだ」
主人たちを助けたことで心のやすらいだジョーは、こんどは自分のことを考えはじめた。彼は未知の、おそらく野蛮な原地人にかこまれて、広大な湖水のまっただなかにいるのだ。この難関を切りぬけるには、頼れるのは自分しかなかった。だが彼は、べつに恐ろしいとは思わなかった。
猛禽どもが攻撃してくる前に――彼によれば、それはいかにもヒゲワシらしいみごとな攻撃だったが――彼は水平線上に一つの島があるのを見たのだった。彼は、その島に行くことに決めた。そして衣服類のなかでもっとも邪魔になるものを脱いでから、彼は自分の知っている水泳術のあらゆる知識を展開しはじめた。八、九キロぐらい泳ぐ自信はあった。だから湖水のまんなかにいる以上は、いまはまっすぐに泳ぐことしか考えなかった。
一時間半も泳ぐと、島との距離はかなりちぢまった。
しかし陸地に近づくにつれて、まずある考えがひらめき、やがてそれが執拗に彼の心を占めるにいたった。彼は湖水の岸辺には巨大なワニがいることを思い出し、またこの動物の貪欲ぶりも知っていたのである。この尊敬にあたいする青年には、この世で起こることはなんでも当然だと思う性癖があったが、こんどばかりはだめだと感じた。彼は白人の肉がとくにワニの口にあうのではないかと、恐れたのである。それゆえ彼はごく用心して、あたりに気をくばりながら進んで行った。彼はもうあと一〇〇回も水をかけば、みどりの木でおおわれた岸辺に泳ぎつけると思ったとき、強烈なジャコウの匂いが鼻をついたのである。「いよいよおいでなすったぞ! ワニめ、遠くないな」と、彼は思った。
彼は急いでもぐったが、その巨大な体躯を避けるには充分ではなかったようで、泳いでいくと、そのうろこのあるワニの皮で自分のからだをすりむいたのだった。彼はもうだめだと思い、絶望的な速さをもって泳ぎはじめたのである。彼は水面に出て大きく息をし、またもぐった。それは一五分間ほどの言うに言われぬ苦悶の時間で、彼の哲学をもってしてもこの苦悶は制しきれなかった。彼は後ろのほうで、彼をひとのみにしようとしてワニがあごを大きく開いた音を聞いたような気さえしたのだった。そこで彼は、できるだけ静かに、ひとかき、ひとかき進んでいった。そのとき彼は腕をつかまれ、つづいて胴体をつかまれたのである。
かわいそうなジョー! 瞬間彼は、主人の顔を思い浮かべた。それから彼は絶望的な戦いを始めた。だが、ふつうワニが獲物を食べるときにするように湖水の底には引きこまれずに、表面に引きあげられていくと感じたのである。
やっと彼は息をすることができたので目をひらくと、黒檀《こくたん》のように黒い二人の黒人のあいだにはさまれていた。これらのアフリカ人は力いっぱい彼を押さえつけ、奇妙な叫びを発していた。
「おや!」思わずジョーは、こう叫ばないではいられなかった。「ワニのかわりに黒人か! まあ、まだこのほうがいいだろう! でも、どうしてこの連中は、こんなところで水あびをしていたのかな」
チャド湖の島民たちが多くの黒人と同じように、ワニのいるところでも平気で、べつに襲われることもなくして水に入るのを、ジョーは知らなかったのである。それにこの湖水の両棲動物は、人を襲わない爬虫類としてとくに知られていたのだった。
だがジョーは、一つの危険は避けえたが、もう一つの危険におちいったのではなかろうか? 彼はほかにどうしようもなかったので、事態のままに従おうと決めて、すこしも恐れずに岸辺に連れていかれた。
「あきらかに」と彼は考えた。「きっとこの連中は空の怪物のようなヴィクトリア号が、水面すれすれまで降りてくるのを見たはずだ。おれの落ちるのも遠くから見ていたにちがいない。そうすると、空から来た男としてこのおれを尊敬していてくれるに決まっている! だまって、そうさせておこう!」
ジョーがそこまで考えたとき、彼はわめき叫ぶ群衆のまっただなかに取りかこまれた。男女を問わず、あらゆる年齢の黒人がまわりにいた。すばらしくまっ黒なビディオマス族のまっただなかにいたのである。彼は衣服の軽さに顔あからめる必要はなかった。彼はこの国の最新流行のとおりに『上着をつけず』にいるのだった。
どういう立場にあるのかはわからないながらも、彼が尊敬の対象になっているらしいことはたしかだった。彼はカゼフのことを思い出したが、しかしけっして安心はならなかった。
「おれはどうやら神さまになるらしいぞ。またどこかの月の王子さまかな! まあ、いいや、職業が選べないなら、神さまだって他の商売だって同じことだ。だいじなことは、時間をかせぐことだ。もしヴィクトリア号がもどってきたら、おれは神さまとして崇拝者どもに、奇跡の昇天を見せてやるまでだ」
ジョーがこのように考えていたとき、群衆は彼のまわりの輸をせばめてきた。人びとは平伏し、なにやらつぶやきながら、彼のからだにさわってみた。群衆はなれなれしかったが、やはり彼を神さまだと思っているらしく、すっぱい牛乳や、蜂蜜につぶした米をまぜた豪勢なご馳走を出してくれた。このりっぱな青年は、どんなことにも驚かない決意をかためていたので、生涯で最良のこの食事をすこしも遠慮しないで頂戴し、そして原地人たちに、神がみも必要とあらば大いに食べるものだと感心させた。
夕方になると、島の呪術師たちがうやうやしく彼の手をとって、魔よけにかこまれた小屋のようなところに連れていった。そこに入る前にジョーは、この神殿のまわりにうずたかく積まれてある白骨の山に、不安なまなざしをなげた。彼は小屋に閉じこめられてから、自分の立場について考えてみる時間が充分あった。
夕方から夜にかけて、祭の歌声が聞こえてきた。太鼓が鳴り、アフリカ人の耳にはここちよく聞こえるらしい鉄屑が、がちゃがちゃ鳴る音がひびいてきた。この聖なる小屋のまわりでは、うなるような合唱の伴奏で、からだをまげたり、しかめっつらをするダンスが、いつ果てるともなくつづいていた。
ジョーは小屋の泥とアシの壁とを通して、そのさわがしい響きを聞いていた。環境が違いさえすれば、たぶん彼はこの奇妙な儀式に喜びすら感じたであろう。しかしまもなくして彼は、たいへんに不愉快な考えにつきまとわれてきた。彼は物事のあかるい面だけを見ようとするほうだったが、このような野蛮な国の原地人のまっただなかに落ちこんだ自分をいかにも間抜けだったと、いささか悲しみをもって思うのだった。アフリカの探検家のなかで、生きて祖国を見たものはまったくいなかった。ましてこのあたりまでやってきた探検家で故郷に帰れた者は、まずいなかった。でも自分は崇拝されていることに、もっと自信をもっていいのではなかろうか! だが人間の偉大さなどはむなしいものだと彼は考えざるをえなかった。この国では崇拝されるとは、崇拝されている人を食べることではないのかと、彼は自分で自分の心に問うてみた。
このようなはなはだおもしろくない見通しにもかかわらず、二、三時間も考えているうちに、疲労のほうが暗い考えに打ち勝って、ジョーは深い眠りにおちいった。もしも思いがけない冷たさが眠っている男を起こさなかったとしたら、この眠りはたぶん夜明けまでつづいたことだろう。
その冷たさは水だった。その水は、ジョーのからだの半分を隠すほどまでのぼってきたのである。
「こりゃ、どうしたんだ」と、彼は叫んだ。「洪水かな! それとも竜巻かな! 黒人どもがあらたに考えた拷問かな? 首まで水が来るのを、じっと待っている場合じゃない!」
こう言いながら彼は、肩で壁をぶち抜いた。そこはどこだったろうか? 湖水のまんなかなのである。島はもはや、どこにもなかった! 夜のうちに沈んでしまったのである。島のあったところには、チャド湖の水がただ広がっていた!
「悲しい国に住んでいる住民どもだな!」と、ジョーは思った。それから彼は力強く、水泳の訓練を再開しだしたのだった。
チャド湖にしばしば起こる自然現象の一つによって、この好青年は救われたのである。このようにして岩のように固く見えたいくつかの島が姿を消していき、岸辺に住む人たちはそのたびごとに、恐ろしい破局から遁れた不幸な人たちを救いあげねばならなかったのである。
ジョーは、チャド湖に起こるこの特種な現象を知らなかったのだ。だが彼は、それを利用することを思いつかないようなへまはしなかった。彼はただよっている小舟を見つけると、急いでそれに近づいた。それは大きな木の幹をくりぬいてつくったものだった。うまいぐあいに櫂《かい》も、二つあった。ジョーはかなり速い流れに乗って、その場を離れた。
「さあ、行こう」と、彼は言った。「いつもみんなに北への道を示してくれる北極星が、まさにその役割をはたしてくれるだろう」
水の流れがチャド湖の北岸に向かっているのを知って、ジョーは満足だった。彼はそのまま流されていった。午前二時ごろ、とげのある草が、さすがの哲人をもうるさがらせるほど重なりあって生えている、とある岬に降り立った。だが一本の木が、ちょうど彼にベッドを提供するように枝ぶりよろしく突き出ていたので、ジョーは身の安全のためにそこによじのぼって、うつらうつらしながら夜の明けるのを待った。
朝は赤道地帯特有の迅速さで、やってきた。ジョーはさっそく、夜のあいだ彼の身をまもってくれた樹木を見まわして、その思いがけない光景に、身のすくむ思いがした。この木の枝には、文字どおりびっしりと、蛇とカメレオンとが、葉っぱも見えないほどにからみついていたのである。まるで爬虫類のなっている新種の木のようだった。朝の光をあびて、それらは這いまわり、からみあった。ジョーは嫌悪感と恐怖にかられて、そいつらがひゅうひゅう音を立てているなかを、地面に降り立った。
「誰も、こんなものがあるとは信じられないだろうな」と彼は言った。
彼はフォーゲル博士が最後の手紙で、チャド湖畔には世界のどこよりもとりわけ爬虫類が多いと書いてきたことを知らなかったのである。こんなことがあったので、それからは彼はいっそう用意周到にふるまおうと決めた。そして太陽で方向を決めて、彼は北東めざして歩きだした。彼は大いに注意して、家や小屋や掘立小屋や、要するに人間の住めそうなところはすべて避けて通った。
何度彼は、空中に視線を向けたことだろう! 彼はヴィクトリア号を見たいものだと願った。その日は一日じゅう歩いて、そのあいだずっと捜していたがむだだった。しかし彼の主人に対する信頼感は、すこしもなくならなかった。こういう状態にあっても少しも気落ちしないのは、よほど彼の精神力が強いからであろう。疲労に空腹が加わってきた。木の根や、『メレ』のような小灌木の木の髄《ずい》や、シュロの実を食べても元気は回復しなかった。だが彼は勘をたよりに、西方に四八キロほど進んだ。からだじゅうが湖水のアシや、アカシヤ、ミモザのとげで傷だらけで、足もまた血だらけになり、歩行は困難をきわめた。だが彼はこの苦痛によく耐えぬいた。夕方になった。彼はチャド湖の岸辺で、一夜をあかすことに決めた。
その夜彼は無数の虫、ハエ、蚊、それに地面を文字どおりおおっている二センチほどの大アリの恐ろしい襲撃に悩まされどおしだった。二時間後にはジョーのからだをおおっているものとては、ぼろ布一つ残っていなかった。虫類が、みんな食べてしまったのだ! それは、恐ろしい夜で、疲れた旅人に一時間の眠りをも与えてはくれなかった。そのあいだにも、イノシシ、水牛、海牛の一種である恐るべきアジュブが、岸辺の茂みや湖水のなかであばれまわっていた。それらの野獣の合奏は、夜の闇のなかにひびきわたった。ジョーは身動きもできなかった。彼の忍耐力、彼の諦観をもってしても、このような状態を耐え抜くことはたいへんなことだった。
やっと朝が来た。ジョーは、急いで起きあがった。そのとき、彼がこの世のものとも思われない大きなヒキガエルと寝床をともにしていたときの彼の嫌悪感を想像してもらいたい! 胸がむかつくような、二〇センチもあるこのお化けガエルは、その大きなまんまるい目で、彼のほうをじっとにらんでいた。ジョーは吐き気をもよおすほどぞっとしたが、気をとり直して、一気に湖水まで走って、水のなかに飛びこんだ。この水浴でからだのかゆみもいくらかおさまったので、彼は何枚かの葉っぱを噛んだのち、執拗にふたたび歩きだした。それは彼自身でも理解できないほどのねばりだった。彼はもはや自分のとっている行動についての自覚もなく、そのくせ彼の身うちに、絶望感をしのぐ強い力を感じていた。
しかしながら、恐ろしい空腹感に彼は苦しめられた。胃袋は彼ほどあきらめがよくないので、しじゅう苦情を訴えた。彼はからだのまわりをツタで強くしばって、じっとこらえていた。さいわい渇きのほうは、一歩ごとにいやすことができた。彼は砂漠における苦しみを思い出し、死の苦しみにさいなまれないだけでもまだ仕合わせだと思っていた。
「ヴィクトリア号は、いったいどこへ行ったんだろう?」と、彼は心のなかで思った。「風が北から吹いてくる! きっと湖水にもどってくるにちがいない! サミュエル先生のことだから、きっと新しい気球をうまく組み立てたにちがいない。だが、その仕事にきのういっぱいかかったな……そうすると、きょうは無理かな……とにかく湖水のどこかの大きな町に行き着いたら、そうしたら先生がお話しになった探検家のような立場になるわけだろう。おれだって、あの連中と同じように、うまくやってやれないこともなかろう? 連中は、無事に立ち返ったんだ、えい、くそっ!……さあ、元気をだすんだ!」
こんなふうに声をだして歩きながら、わが勇敢なジョーは、蛮人どもがむらがっている森のまっただなかに入りこんでしまった。うまいぐあいに立ち止まったので、見つからずにすんだ。黒人たちは、矢にトウダイ草の毒液をぬっていた。これはこの地方の原地人にとっては、一種の荘厳な儀式の一種であったのだ。
ジョーは息を殺して、茂みのなかに身を隠して動かなかった。そのとき目をあげたら、茂みのあいだからヴィクトリア号が見えた。まさにヴィクトリア号で、やっと三〇メートルほどの上空を湖水に向かって進んでいった。だが、叫ぶことはできなかった! 姿を見せることもできなかった!
涙が彼の目に浮かんだ。それは絶望の涙ではなくて、感謝の涙だった! 先生が捜しにきてくれたんだ! 先生は自分を見捨てやしない! 彼は黒人たちが立ち去るのを待つより仕方がなかった。そのとき彼は隠れ場所から出て、チャド湖のほうに走った。
だがそのときには、ヴィクトリア号は、空のかなたに消え去っていた。ジョーは、待とうと決心した。きっと、またもどってくる! じじつ、もどってきた。だが、ずっと東のほうだった。ジョーは走った。手を振って、叫んだ……でも、むだだった! 激しい風が恐ろしい速さで、気球を連れ去った!
このときはじめて、気力と希望とがこの不幸な男の心からなくなった。もうだめだと、彼は思った。主人はもうもどってこずに、出発してしまうだろうと思った。彼はもうなにも考えまいとした。もはや、なにも考えたくなかった。
足は血だらけ、からだは傷だらけ、彼はまるで気ちがいのようになって、その日一日じゅう、また夜になっても歩いた。ときにはひざで、またときには手を使って、這って歩いた、彼はもうじき力がつきはてて、死なねばならないときが来ると思っていた。
こうやって進んでいくうちに、ついにひとつの沼の前に出た。というよりも、それが沼だと彼が知ったのは、まもなくしてからだった。なぜならば数時間前から、あたりは夜だったからだ。彼は思いがけずも、ねばっこい泥のなかに落ちこんだ。どんなに努力しても、必死になってあがいても、からだは泥沼のなかに沈んでいくのだ。数分後には、からだの半分が埋まってしまった。
「いよいよ最期だ! だが、なんという死にざまだ!」と彼は思った。
彼は死にものぐるいであがいた。だが、あがけばあがくほどこの不幸な男は、自分で掘った穴のなかに、いよいよその身を埋めていった。それをとめてくれる一本の木もなく、彼をささえてくれる一本のアシすらなかった!……彼はいよいよ最期のときが来たと知った!……彼は目を閉じた。
「先生! 先生! 助けて!……」と叫んだ。
このひとり離れて、息をふりしぼって叫んだ絶望の声も、すぐに夜の闇のなかに消えていった。
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三十六 彼だ!
吊り籠の前に陣どって観測をつづけていたケネディは、なにも見落とすまいとして地平線を注視しつづけていた。
しばらくすると、彼は博士のほうを振り向いて言った。
「もしわたしの見間違いでなければ、あっちのほうに、人か動物か、なにかが一団となって動いていくぞ。まだはっきりとはわからないが、とにかく、すごい勢いで走っていく。砂ぼこりが、あんなにあがっているよ」
「また逆風が吹きだしたんじゃないかな」と、サミュエルが言った。「竜巻が起こって、もう一度北のほうに押しもどされるんじゃないかな?」
彼は地平線を見るために立ち上がった。
「いや、違うよ、サミュエル」と、ケネディが答えた。
「カモシカか野牛の群だ」
「たぶんそうだろう、ディック。望遠鏡で見てもなんにもわからないところをみると、わたしの計算では一五、六キロ離れているな」
「とにかく、ずっと見つづけているよ。妙にひっかかることがあるんでね、ときどき騎兵の演習みたいなことをしているんだ。そうだ! 間違いじゃない! あれは騎兵だよ! 見てみろ!」
博士は、さし示された一団をよく観察した。
「きみの言うとおりだね、あれはアラブ人かティブウス族の一隊だな。われわれと同じ方向に向かって逃げていく。だが、われわれのほうが早いから、もうじき追いつくよ。三〇分もしたらはっきり見えるから、どうしたらいいかわかるよ」
ケネディはまた望遠鏡を手にとって、注意ぶかく眺めつづけた。騎馬隊の一団が、いよいよはっきりしてきた。彼らのなかで誰かが離れたりしていた。ケネディがまた言った。
「たしかに、演習か狩りをしているんだ。あいつらは、なにかを追いかけているようだ。なんだろうな、いったい?」
「がまんしろよ、ディック。もうじき追いついて、ぬいてしまうから。連中がこのまま進んでいっての話だが、いま気球は時速三二キロの速さで進んでいるから、この速度で進んでいかれるような馬なんかないよ」
ケネディはふたたび観測をつづけていたが、数分後にして彼は言った。
「アラブ人が全速力で走っているんだ。はっきり見える。五〇人ぐらいかな。マントが風でふくらんでいるのが見えるよ。騎兵の演習だな。隊長が一〇〇歩ほど先にいる。そのあとについて走っているんだ」
「あいつらがなんだろうと恐ろしくはないが、ディック、もし必要なら上昇してみろよ」
「まあ、待て、サミュエル! ちょっと変だぞ」もう一度望遠鏡をのぞきこんでケネディが言った。「ちょっと腑《ふ》におちんことがある。あの走りっぷり、隊列の乱れ、あれはアラブ人どもが誰かを追っかけているんだ」
「ほんとうか、ディック?」
「たしかにそうだ。間違いない! あれは狩りをしているんだ、だが人間をな! 先を行くのは隊長じゃない、脱走兵だ!」
「脱走兵だって?」サミュエルは感動を示して言った。
「そうだ!」
「よく注視しつづけて、待つんだ」
すごい速さで走るこの騎兵を追って、五、六キロはたちまち過ぎた。
「サミュエル! サミュエル!」声をふるわせてケネディが叫んだ。
「どうしたんだ、ディック?」
「錯覚かな? こんなことがあるかな?」
「どういうことなんだ?」
「待ってくれ!」
狩猟家は、望遠鏡のレンズを急いでふいた。そして、また見た。
「どうだ?」と、博士が言った。
「彼だ、サミュエル!」
『彼だ』ですべてが通じた。名前を言う必要はなかった。
「馬に乗ってるのが彼だ! 追っかけている敵から一〇〇歩もないぞ! 逃げてるんだ!」
「ジョーだ!」顔色をあおくして、博士が言った。
「逃げてるぞ、こっちには気がつかない!」
「そのうちにわかるだろう」バーナーの火を小さくしながらファーガソンが答えた。
「五分したら、気球は一五メートルまで下がる。一五分で、ジョーの頭の上まで行く」
「銃を撃って、知らせたほうがいいだろう」
「だめだ。もどろうとしたって、敵は後ろにいるんだ」
「じゃあ、どうする?」
「待つんだ!」
「待つんだって? で、あのアラブ人は?」
「もうじき追いつく! 追いついたら追いこすんだ! もう一二キロと少しだ。ジョーの馬はどうだ?」
「ああ!」とケネディが。
「どうした?」
ケネディが絶望の叫びをあげた。ジョーが地面にほうりだされたのだ。あまり走らせすぎた彼の馬は、疲れてたおれたのだった。
「われわれに気がついた」と、博士が叫んだ。「起きあがるとき手を振ったぞ!」
「でも、アラブ人が追いつくぞ! なにしてるんだ! ああ! がんばれ! そら!」がまんできなくなって狩猟家は声をはりあげた。
ジョーは、落馬したと思ったら、すぐに起きあがった。そして先頭の騎馬兵が彼のほうに突進してくるのを、ヒョウのように脇によけて、その馬の尻に飛び乗ると、そのたくましい手で、その鉄の指でしめつけた。アラブ人は砂の上にころげ落ち、彼はまた息づまる競走をはじめた。
アラブ人の大きなわめき声が、空まであがってきた。だがみんな追跡に夢中で、五〇〇歩まで後ろに追ってきたヴィクトリア号には気がつかなかった。そして地上九メートルほどまでヴィクトリア号が下がったときには、彼らも逃走者からわずか二〇馬身までに迫っていたのである。
そのなかの一人が、みるみるうちにジョーに迫って、まさに槍を投げようとした。その瞬間ケネディは、しっかと握った銃の狙いをさだめて、一弾を発射した。アラブ人は地上にころげ落ちた。
ジョーは銃声にも振りかえらなかった。ヴィクトリア号に気づいた連中の一部は追跡をやめて、顔を伏せた。残った連中は、なおも追跡した。
「だが、ジョーはどうしたんだ?」と、ケネディは叫んだ。「奴はとまらないぞ!」
「そのほうがいいんだよ、ディック。ジョーの考えはわかった! 気球の進んでいくほうに向かっているだろう。われわれを充分あてにしてるからさ! ああ! じつに勇敢な男だ! アラブ人どもの鼻先で引きあげてやろう! あと二〇〇歩だ」
「どうする気なんだい?」と、ディックがたずねた。
「銃は置いておけ!」
「よし」狩猟家は銃をわきに置いた。
「きみは六七キロの砂袋が持てるかね?」
「もっと持てるよ」
「いや、それで充分だ」
博士は砂袋を、ケネディの腕の上に積みかさねた。
「吊り籠の後ろに行ってくれ。いつでも投げだせるようにな。でも、こんりんざい、わたしが言うまでは投げるなよ!」
「よし、わかった!」
「でないと、ジョーを助けられなくなる。そうなりゃ、ジョーは終わりだ!」
「だいじょうぶ、まかせておけ!」
ヴィクトリア号は、ジョーを追って走っている騎馬兵の真上にいた。博士は吊り籠の前で、縄ばしごを持って、いつでも投げられるように身がまえた。ジョーと追跡者たちとのあいだは、約五〇歩ほどだった。ヴィクトリア号が、彼らを追いこした。
「いいか!」サミュエルがケネディに言った。
「よしきた」
「ジョー! 気をつけてな!」縄はしごを投げながら、博士がよく通る声で叫んだ。縄ばしごの先が砂ぼこりをあげた。
博士の呼びかけに、ジョーは馬をとめないで振り向いた。はしごは彼のすぐそばにあった。彼はすぐに、それに飛びついた。
「投げろ」博士がケネディに叫んだ。
「よし!」
ジョーの目方よりも重いものを投げ捨てたので、ヴィクトリア号は一気に四六メートルも上昇した。
はしごが大きく揺れているあいだに、ジョーはそれにしがみついていた。それからアラブ人に向かって、さもばかにしたような素ぶりをして見せて、道化師のような敏捷さで仲間たちのところにあがってきた。仲間は彼を抱きかかえた。
アラブ人たちは驚きと同時に怒りの叫び声を発した。逃走者が、さらわれてしまったからである。ヴィクトリア号は、たちまち彼らから遠ざかった。
「先生! ディックさん!」とジョーは言ったかと思うと、感動のあまり、疲れが出て、彼は気を失った。そうしているあいだにもケネディは夢中になって、「助かった!助かった!」と叫んでいた。
「よかった!」もういつもの平静さを取りもどした博士は、そう言った。
ジョーはまるで裸だった。腕は血まみれで、からだじゅう傷だらけだった。それらすべてが、彼の苦難を物語っていた。博士は傷の手当てをして、彼をテントの下に寝かせた。
ジョーはまもなくして、気絶から覚めた。そして一杯のブランデーを求めた。博士もジョーならやってもいいと判断した。彼が普通の人間ではなかったからである。それを飲みほしてしまうと、彼は二人の仲間の手を握った。そして、いままでのことを話そうとした。
だが二人は、口をきくことを許さなかった。勇敢な青年は、ふたたび深い眠りに落ちた。彼には深い眠りが必要だったようだ。
ヴィクトリア号は西に向かって、斜行していた。風があまりに強かったので、嵐でヤシの木が倒れたり曲ったりしている砂漠のへりまで流されてしまった。ジョーを助けてから三二キ口近く飛んで、気球は夕闇せまるころ東経一〇度をこえた。
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三十七 西方への道
夜になって、昼間の激しかった風もやんだ。ヴィクトリア号は、大きなカエデの頂上に、静かにとどまっていた。博士とケネディが交替で見張りをし、ジョーはまだ深い眠りにおちいったままだった。二四時間、彼は眠りつづけていた。
「これがいちばんいい薬なんだ」と、ファーガソンが言った。「そうすれば自然と回復するさ」
夜が明けると、風はまた強くなった。だが気まぐれな風で、北に向かって吹くかと思うと南に吹き、結局最後にヴィクトリア号は西に向かって進んでいった。
博士は地図を片手に、いま飛んでいるのはダメルグウ王国であることを認めた。なだらかに波うち豊かな大地、トウワタの枝と長いアシとを組み合わせてつくった彼らの部落の小屋。耕された畑には足場が組まれ、ネズミや白アリの侵入をふせぐために、そこに収穫物が山と積まれていた。
まもなく気球はジンデルの町にたっした。広い処刑場で、それとわかったのである。その中央には死の木が立っていて、執行人がその根元で見張っていた。その木の影を通った者は、ただちに首を吊られた!
ケネディは羅針盤を見て、思わず叫んだ。
「また北へ向かっているのかい」
「かまわないさ! このままトンブクトゥまで行ってくれれば、それこそもうけものだ。こんなに美しい眺めをたのしみながら、これほど快適な旅をした者はいないんだから」
「これほど元気よく旅した者だって」テントのあいだから晴ればれした顔をのぞかせて、ジョーがそれに応じた。
「おお、われらが勇者!」と、狩猟者が呼んだ。「われらが救世主よ! その後、からだのほうはどうだね?」
「なんともありませんよ、ケネディさん、だいじょうぶです! これほど元気なことはありません! チャド湖でからだをあらって、のんびりと旅している男は清潔そのものですからね。そうでしょう、先生」
「たいした心臓だ!」ファーガソンは彼の手を握りしめて、こう言った。「おまえのおかげでずいぶん心配し、悩んだのだよ!」
「へえ、そうですかね! わたしのほうだって、先生たちがどうなったか、ずいぶん心配したもんでさ! わたしをあんなに心配させておいて、そんなことを言うなんて!」
「おまえがそんなふうに言うなら、もうこの話はやめよう」
「水につかっても、へらず口はあいかわらずだな」と、ケネディがつづけて言った。
「おまえの犠牲的精神には感謝してるよ。おかげでわれわれは助かったんだ。もしヴィクトリア号が湖水に落ちたら、どんなことをしても抜けだせなかったんだからな」
「犠牲的精神ですって! まあ、ひっくり返っただけですよ。それで先生たちを助けたと言うんなら、わたしのほうだっておかげさまで助かったもんでさ。だって三人とも、ぴんぴんしてるんでしょう? ですから、なにもわれわれは言い争いをする必要などないんでさあ」
「どうもこの男とは話があわんな」と、狩猟家は言った。
「話があうには」と、ジョーはやりかえした。「もう、そんなことは話さないことでさあ。すんだことは、もうすんだことなので! よくも悪くも、やり直しはききませんものね」
「強情っぱりだね、おまえは」笑いながら博士が言った。「でも、そっちの武勇談を話したいんだろう」
「どうしてもとおっしゃるなら! だが、その前に、このふとったガチョウを料理しておきましょう。ディックさん、時間をむだに使わなかったらしいですね」
「そのとおりだよ、ジョー」
「よろしいです! このアフリカの獲物がヨーロッパの胃袋のなかでどんなふうになるか、見ることにしましょう」
ガチョウはまもなくバーナーの火で串焼きにされ、たちまち平らげられた。ジョーは数日間なにも食べなかったということで、いちばんたくさん分け前にあずかった。紅茶とグロッグが出たあと、彼はその仲間にその冒険談を話して聞かせた。彼はふだんの哲学者ぶりを発揮して、まるで他人ごとのように事件を話しだした。このすばらしい召使は、自分が助かることよりも主人が助かることを念じていたらしく、それが言葉のはしばしにうかがわれて、博士は思わず何回となくジョーの手を握ったものだ。ビディオマス族の島が水に没したところでは、博士はこれはチャド湖によくある現象だと教えてやった。
ついに話は進んで、ジョーが沼にはまって絶望の最期の叫びをはっしたところまできた。彼は、なおもつづけた。
「もうだめだと思いましたよ、先生。わたしは、先生のことを考えました。ずいぶん、もがきました。どうやってですって? まあ、そこまで言わなくてもいいでしょう。わたしは、おとなしく泥沼にのみこまれるようにはなるまいと決意しました。そのときですよ、わたしは二歩ばかりのところに見つけたんです。なにをですって? 切られたばかりのロープのはしです。わたしは最後の努力を試みました。そしてやっとのことで、その綱をつかんだのです。わたしは、それを引っぱってみました。手ごたえがあります。わたしはそれを引っぱって、やっと固い大地の上に出たのです! 綱の先には、錨がついていました……ああ、先生! まさに命の綱でした、もしそう言ってもいいと言うならば、わたしはよくわかったのです! それがヴィクトリア号の綱だってことが! みなさんは、この場所に着陸したんだ! わたしは綱の延びている方角へ進みました、みんなはそっちへ行ったと思ったものですから。そしてまたもや苦労して、沼地から抜けでたのです。わたしは夜になっても歩きつづけて、湖水から離れました。やっと、大きな森のはずれに来ました。そこには柵があって、数頭の馬が、静かに草を食べています。この世には、誰でもかまわないから勝手に馬に乗っていいといったときがあったのではないですかね? わたしは、考えるひまもありませんでした。その一頭の背に飛び乗って、全速力で、北をめざして走ったのです。町のことはお話しできません、なにしろ見なかったのですから。部落もだめです、よけて通りましたから。わたしは種をまいた畑をつっ走り、茂みを飛びこえ、柵も乗りこえました。馬にむちをくれ、かりたてて、飛ばしました! わたしは畑のはずれまできました。砂漠です! こりゃいい、前方がずっと見わたせるんですからね、ずっと先まで。わたしはまっしぐらに走らせながら、わたしを待ってくれているヴィクトリア号をなんとかして見つけたいものだと思いました。でも、なんにも見つかりません。三時間走りつづけて、わたしはまったく愚かにも、アラブ人の野営地に入りこんでしまったのです! ああ、なんという猟なんでしょう。……ねえ、ケネディさんだって、狩りだされる身になってみなけりゃ、猟がどんなものだか、ほんとうのところはわからないでしょうね! でも、そういう機会があったにしても、やってみないほうがいいと忠告しておきますよ! わたしの馬は疲れきって倒れました。追手はすぐ後ろに迫っています。わたしも倒れました。でも、一人のアラブ人の乗っている馬の尻に飛び乗りました。わたしはその男にべつに恨みがあったわけではありませんが、首をしめたことをそんなに恨みに思っていないといいんですが! あとは、ごらんになったでしょう。……ですからごぞんじのとおりです。ヴィクトリア号が後ろからついてくる。先生たちはまるでバグ〔馬を走らせて柱につるした鉄の輪を槍で突き通して取る遊び〕でもするように、飛びながらわたしを拾いあげてくれるだろうと思いました。どうして先生のことをあてにしていなかったかですって? なんですって! 先生には、それはごく簡単なことだと、おわかりでしょうが。もしそうすることが先生のおためになるんでしたら、もう一度やってみたっていいですよ! それに、さっきも申しましたように、こんなこと申したってはじまりませんものね」
「ありがとう、ジョー」感動をこめて博士は言った。
「おまえの機知と腕をたよりにしていたが、そのとおりだった!」
「まあ、そんなことを! 案件がつぎつぎに起こったものですから、それに巻きこまれていたら、自然に抜けだせたんですよ。なんでもいちばん確実な方法は、物事は差しだされたら、そのまま受けとることですね」
ジョーが話しているあいだに、気球はこの地方のひろびろとした大地の上をすばやく飛びこえた。まもなくケネディは、地平線上に町を形づくっている小屋の集団を指さした。博士は地図を調べてみた。ダメルグウのタジュレルの部落だった。彼はこう言った。
「ここで、またバルトの通った道に出たわけだ。彼が二人の仲間、リチャードソンとオーフェルヴェークと別れたのは、あそこなんだ。リチャードソンはジンデルへ行く道をとり、オーフェルヴェークは、マラディへの道をとった。だが、おぼえているだろうが、三人のうちでヨーロッパへ帰れたのは、バルト一人きりだった」
「そうすると」と、ヴィクトリア号の進んでいく方向を地図上でたどりながら狩猟家が言った。「われわれは、まっすぐ、北へ向かっているわけだね」
「そうだよ、ディック」
「それで、すこしもかまわんのかい?」
「どうして?」
「だってこのままトリポリに行ったら、あの大砂漠の上に出るぜ」
「おい、そんな遠くにまでは行きゃあしないさ。少なくとも、わたしはそうなることを希望するね」
「どこでとまるつもりなんだい?」
「ところでディック、きみはトンブクトゥに行ってみたいとは思わないかね?」
「トンブクトゥだって?」
「もちろんですな」と、ジョーが言った。「トンブクトゥに行かずして、アフリカ旅行をするなかれですからね!」
「きみが、この神秘の町を訪れる五番目か、六番目のヨーロッパ人になるわけだよ」
「よし、トンブクトゥに行こう!」
「じゃあ、北緯一七度と一八度のあいだに行って、そこで西へ連れていってくれる風を見つけよう」
「よかろう」と、狩猟家は応じた。「ところで、まだだいぶ北へ行くのかね?」
「少なくとも二四一キロはね」
「では、ひと眠りするか」とケネディが言う。
「どうぞ眠ってください」とジョーが答えた。「先生も、ケネディさんと寝てください。お二人とも休息が必要です。お二人だけにご迷惑な見張りの役をおさせしましたからね」
狩猟家はテントの下に、よこたわった。だがファーガソンは少しも疲れていなかったので、いつもの場所で観察をつづけた。
三時間後にはヴィクトリア号は、花崗岩質の裸の高い山々がつらなっている小石の多い土地の上を、非常な速度でこえていた。一二〇〇メートルにもおよぶ独立峰もいくつかあった。キリンや、カモシカや、ダチョウが、アカシヤ、ミモザ、ヤシの木の森のなかを、驚くほど軽快に走りまわっていた。乾燥した砂漠のあとで、ここはまた植物の帝国だった。ここは、その危険な隣人のツアレグ族と同じように、顔を木綿の帯で隠しているカイルア族の国であった。
夜の一〇時には四〇〇キロ以上飛んで、ヴィクトリア号は大きな町の上にとまった。月はなかばくずれたその町の一部分を見せてくれた。回教寺院の尖塔が、月の白い光をあびて、あちこちにそびえていた。博士は星の位置から、ここがアガデスだとわかった。
ここは、かつては交易の中心地として大いに賑わったのだが、バルト博士が訪れたときには廃墟になっていた。
ヴィクトリア号は暗闇のために誰からも認められずに、アガデスの北三キロほど離れた粟畑のなかに着陸した。その夜はたいへん静かで、五時ごろにはあかるくなり、そのあいだに微風が気球を西方へ、やや南よりに流していた。
博士はこの幸運を急いでとらえた。気球は迅速に上昇し、斜めにさしこむ朝日のなかを飛んでいった。
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三十八 ニジェール川
五月一七日は一日じゅうおだやかで、これという事件もなかった。砂漠がまた始まった。ふつうの風がヴィクトリア号を南西へ運んでいった。右にも左にも流されることなく、気球はその影を砂の上に落として、一直線に走っていった。
出発前に博士は、念を入れて水をいっぱいに補給した。ツアレグ族が出没するこのあたりでは、着陸できないおそれがあったからだ。海抜五五〇メートルの丘が、南に向かって低くなっていた。一行は、ところどころラクダの足で踏みかためられたアガデスからムルズクに行く道を横断して、単調な三〇〇キロにもおよぶ長途の後、夕方には北緯一六度、東経四度五五分に達した。
その日のうちにジョーは、残りの獲物を料理した。ケネディが簡単に下ごしらえしておいたもので、なかでもタシギを彼はたいへんおいしそうな串焼きにして夕食に供した。風のぐあいはよろしく、満月に近い月光があかるいので、博士は今夜は飛びつづけようと決意した。ヴィクトリア号は、一五〇メートルの高度に達した。夜のあいだに約九六キロメートル飛んだが、そのために子供の浅い眠りも妨げられるようなことはなかったであろう。
日曜日の朝、風の方向はまた変わって、気球は北東に運ばれていった。カラスが数羽飛んでいて、地平線にはハゲタカの群が見えたが、さいわいたいへん遠かった。
この鳥を見て、ジョーは博士の気球の二重構造のことを思い出し、そのすばらしさに改めて感嘆した。ジョーは言った。
「気のうが一つということは、どういうことになるのでしょうか? この第二の気球は、船で言えば積んであるランチということになりますか、沈没したときに、それに乗ってみんなが助かるわけでしょう」
「そのとおりだよ。ただ、わたしのランチは、ちょっと不安なんだ。船ほど頑丈でないからな」
「それは、どういう意味だい」と、ケネディがたずねた。
「この新しいヴィクトリア号は、前のほど頑丈じゃないんだ。気のうの布地だってずいぶん傷んでいるし、グッタ=ペルカも螺旋管の熱で溶けてきている。そのせいかガス洩れがしているんだ。いままでのところはたいしたこともないが、目に見えてガスがへってくるので、気球が高度を保つためには、水素をいつも膨脹させていなければならないんだ」
「そりゃ、たいへんだ! なんとか打つ手はないのかね?」と、ケネディが言った。
「それがないんだよ、ディック。だから夜もとまらないで、急がなけれはならないんだ」
「まだ海岸まで遠いんですか?」ジョーがたずねた。
「どこの海岸だね、ジョー? どこへ連れていかれるかわからないんだよ。わたしにいま言えることは、トンブクトゥは六四四キロ西にあるということぐらいだ」
「そこまでは、どのくらいかかりますか?」
「風でそれほどコースがはずれなかったら、火曜の夕方には、その町に着けるだろう」
「じゃあ、あの隊商より早くつけますね」と、ジョーは砂漠のなかをジグザグに進む動物と人間の長い列をさし示しながら言った。
ファーガソンもケネディも身を乗りだして見た。それは老若男女、入りまじった一大集団で、ラクダも一五〇頭以上いた。これは金貨一二ミェトカル〔一二五フランに相当する〕でトンブクトゥからタフィレへ行くまで雇われたラクダの群で、背中に五〇〇ポンドの荷物を背負っていた。そのうえ全部のラクダが尻尾の下に糞便用の小さな袋をつけていた。砂漠では、それが唯一の燃料になるのだった。
ツアレグ族のこれらのラクダは、もっとも優秀なものだとされていた。水を飲まずに三日から七日までは大丈夫だし、なにも食べなくても二日はがんばれた。その速さは馬よりも速く、りこうで、隊商のガイドであるガビルの声を聞きわけた。この地方では、メハリという名で知られているラクダだった。
アザミや枯草や小さな茂みでどうやら移動がとまっている砂の上を、難渋しながら歩く男女や子供の大群を仲間たちが見ているあいだに、博士はこのようなことを話してやったのである。彼らの足跡を、風が見るみるうちに消し去ってしまうのである。
アラブ人はどうして砂漠のなかで方角がわかるのだろうか、どうしてこの広大な砂漠のなかに散在する水の在り場所がわかるのだろうかと、ジョーがたずねた。
「アラブ人は道をかぎわけるすばらしい本能を天からさずかっているんだよ」と、博士は答えた。「ヨーロッパ人なら迷ってしまうようなところでも、彼らはけっして躊躇しないんだ。ちょっとした石、石ころ一つ、草の茂み、砂の色あいの違い、そういったものをたよりに、彼らは自信をもって進んでいくのだ。夜は北極星が、彼らの案内役になる。彼らは、一時間に三キロ以上は進まない。そして昼の暑いあいだは休むんだ。こうやって彼らがサハラ砂漠を横断するのにどのくらいかかるか、時間を計ってみるんだね、一五〇〇キロもある砂漠だよ」
だがヴィクトリア号は、その速力をうらやんで見あげているアラブ人の目から、すでに姿を消してしまっていた。夕方には気球は、東経二度二〇分〔パリの経線の零度〕の線をこえ、その夜のうちになお一度以上を飛んだ。
月曜日は、天候がすっかり変わってしまった。雨が激しく降ってきたのだ。このような豪雨のときは気球と吊り籠の重量が増すわけだから、気をつけなければならなかった。雨が降りつづくために、この地方の表面には沼と湿原が多く見うけられ、ミモザ、バオバブ、タマリンドの樹々があらわれはじめた。
ソンレイの各部落には、ちょうどアルメニア人の帽子のように、さかさまになった屋根が見られた。山はないが丘がつづき、雨谷や池をつくり、ホロホロ鳥やタシギが飛びまわっていた。ところどころ奔流が道を断ちきり、原地人が木から木へ渡されたツタにしがみついて、その流れを渡っていた。森はジャングルになっていて、そこにはワニやカバやサイが動きまわっていた。
「ニジェール川がもうじき見られるだろう」と、博士が言った。「土地が、大きな川が近いことを見せはじめてきた。ニジェール川は、もっと正確な言い方をすれば、動く道といったほうがいいかもしれん。この川は、まずその流れとともに植物を運んできた。それから後には文明も運んできたのだ。このようにしてニジェール川は、その四千キロにわたる流れの両岸に、アフリカの重要な都市のいくつかを持つようになったのだ」
「なるほどね」と、ジョーが言った。「そういったことは、大都会のまんなかに川の流れをお通しになった神さまのご配慮に感謝した、あの熱烈な賛美者の話を思い出させますね」
正午にヴィクトリア号は、たいへんみすぼらしい小屋が立ちならぶ部落の上を通った。かつて大きな町であったガオである。博士が言った。
「ここだよ、バルトがトンブクトゥから帰るときにニジェール川を渡ったのは。ほら、見えるだろう、あれが、異教徒たちが迷信によって、天から降ってくると信じているナイル川に匹敵するものとして、古代から名高い川だよ。だからニジェール川はナイル川と同じように、いつの時代でも地理学者の注意をひいたんだ。そしてナイル川のように、いやそれ以上に、多くの犠牲者をだしたんだよ」
ニジェール川は、広い幅の両岸のあいだを、かなり激しい勢いで、南のほうに流れていた。しかし風に運ばれていく旅行者たちには、その曲りくねった流れだけを、やっととらえることができただけだった。
「この川のことを話してあげよう」と博士が言った。
「もう川からずいぶん遠ざかったな。この川はディウレバとか、マヨとか、エジレウとか、コラとか、まだそのほかいろいろな名前で呼ばれているが、じつに広大な地域を流れていて、長さでもナイル川に匹敵する。こういう名前にしても、みんなただ『川』という意味で、その流れる地域によって呼称が違うわけだ」
「バルト博士が通ったのも、このルートかね」と、ケネディがたずねた。
「そうじゃないよ、ディック。彼はチャド湖を発ってからボルヌウの主だった町を通って、ガオの四度南のセイでニジェール川を渡ったんだ。それからニジェール川がその肱でかこっているような、まだ探検されていなかったこのあたりまで入りこんだのだ。そして八か月もかかって、疲れきってこのトンブクトゥに着いたんだ。速い風にさえ乗れば、三日もあればわれわれなら行けるがね」
「ニジェールの源流は発見されたんですか」と、ジョーがきいたので、博士は答えた。
「だいぶ以前の話だが、ニジェール川とその支流をきわめるために、多くの探検家がやってきた。一七四九年から五三年にかけて、アンダーソンがこの川を見つけて、ゴレを訪れている。一七八五年から八八年にかけては、ゴルベリーとジョフロワとが、セネガンビアの砂漠地帯を歩きまわって、マウル人の国まで入った。マウル人に殺された不幸な男は、ソーニエ、プリソン、アダン、リレイ、コシュレ、そのほかにたくさんいる。それからウォルター・スコットの友人でやはりスコットランド人の、有名なマンゴ=パークがやってくる。彼は一七九五年に、ロンドンのアフリカ協会から派遣されて、まずバンバラに到着し、ニジェール川を見た。それから奴隷商人と一緒に八〇二キロも進んでガンビア川まで行き、一七九七年にイギリスにもどったが、一八〇五年一月三〇日に、彼はまた義弟のアン、画家のスコット、それに労働者の一隊をひき連れて、またもや出発した。ゴレに到着して、彼は三五人の兵隊と合流して、八月一九日にはニジェール川を見たが、そのときには疲労や食糧不足、病気、気候のきびしさ、非衛生のためなどで、四〇人のヨーロッパ人のうち残っているのはわずかに一一人になっていた。一一月一六日に細君に届いた手紙が、マンゴ=パークの最後の手紙になつた。一年後にその国の一人の交易商人の語るところによれば、この不幸な探検家は一二月二三日にニジェール川のほとりのブサに着いたが、その地で彼の乗ったボートが川の滝で顛覆し、彼自身は原地人によって虐殺されたとのことだった」
「そんな恐ろしいことがあっても、探検家たちはやめなかったのかい」
「やめるどころじゃないよ、ディック。川の探検ばかりでなく、マンゴ=パークの記録を見つけることが大事なのだ。一八一六年にグレイ少佐が参加した探検隊が、ロンドンで組織された。探検隊はセネガルに着くと、フウタ・ジャロンに入りこみ、フーラ族やマンダング族を訪れたが、なんらの収穫も得ないでイギリスにもどってきた。一八二二年ライング少佐が、英国領に隣接する西アフリカのあらゆる箇所を探検した。ニジェール川の源流に最初に入ったのはライングだ。彼の記録によれば、この大きな川もその源流は幅が六〇センチしかないそうだ」
「それなら飛びこえるのも簡単ですね」と、ジョーがまぜかえした。
「ああ、しごく簡単だとも」と、博士は答えた。「だが伝えるところによると、その源流を飛びこえようとする者は、たちまち水にひき入れられるし、その水を汲もうとすれば、見えない手で押しもどされるということだ」
「そんなことは信じなくてもいいんでしょう」と、ジョーがたずねた。
「もちろんさ。だがライング少佐は五年後にサハラをこえてトンブクトゥまで入りこんだが、そこから数キロ進んだところで、彼をむりに回教徒にしようとしたウラド=シマン族に首をしめられて殺されてしまった」
「またしても犠牲者か!」と、狩猟家が言った。
「そのころだった。一人の勇敢な青年が、とぼしい資金で、驚くべき近代的な旅行を計画し、それをやってのけたんだ。それはフランス人のルネ・カイエ青年だ。彼は一八一九年と一八二四年にいろいろと調査した後、一八二七年四月一九日に、リオ・ニェネーズからいよいよ出発した。八月三日、彼は衰弱しきってティメにたどり着いたが、六か月間の静養の後、一八二八年一月になってふたたび出発した。そのとき彼は東洋ふうの衣服を着て隊商に加わり、三月一〇日にニジェール川に到着し、ジェネの町に入って、そこから舟でくだって、トンブクトゥに四月三〇日に着いた。この興味ある町については、一六七〇年フランス人のアンベールが、一八一〇年にはイギリス人のロバート・アダムズが訪れたらしいのだが、この町について正確な記録をはじめて持ちかえった最初のヨーロッパ人は、ルネ・カイエなのだ。彼は五月四日、砂漠の女王と呼ばれるこの町を去り、九日にはライング少佐が殺された場所を発見した。一九日にはエル・アラオウアンに到着、この交易のさかんな町を去ってから、スーダンとアフリカ北部とのあいだにひろがる広大な無人の地をさまざまな困難に耐えて突破した後、ようやくタンジールに着いて、九月六日、そこからツーロンに向けて帰路につくことができた。一九か月もかかり、一八〇日も病気に耐えて、彼はアフリカを西から北へ縦断したのだった。ああ! もしもカイエがイギリスに生まれていたならば、マンゴ=パークに匹敵する近代の大探検家としての名誉を受けただろうが! だがフランスでは、彼の偉大さはそれほどに評価されていない〔ファーガソン博士はイギリス人としておそらく誇張しているのだが、われわれとしてもルネ・カイエが他の旅行家に比べてフランスではその犠牲的精神と勇気にふさわしいだけの評価を受けていないと認めざるをえないのである。―原注〕」
「大胆な男だな。その後、その男はどうなった?」と、狩猟家がきいた。
「疲労のためか、三九歳で死んだよ。一八二八年には地理学会賞が贈られてその業績はたたえられたわけだが、最大の名誉はイギリスからもらったわけだ! ところで、彼がこのすばらしい旅行をやっていたときに、一人のイギリス人が同じ計画をたて、これまた彼に劣らぬ勇気をもってそれを実行にうつしていたのだが、彼ほどの幸運にめぐまれなかった。それがデンハムの仲間のクラパートン大尉だ。大尉は一八二九年に、アフリカ西海岸のベニン湾にまたやってきた。そこからマンゴ=パークとライングの足跡をたどって、ブサでマンゴ=パークの死に関する資料を発見した。八月二〇日にサッカトウに至ったが、そこで囚われの身となり、忠実な従者リチャード・ランダーの腕のなかで息をひきとったのだ」
「そのランダーは、どうなったんですか?」と、ジョーが勢いこんでたずねた。
「彼は海岸にもどれて、大尉の書類と彼自身の旅の報告とをロンドンに持ちかえることができた。そして彼はその後のニジェール川についての政府の調査に協力することになった。コーンウォール州の貧しい家庭に生まれたランダーは、弟のジョンとともに、一八二九年から三一年にかけてブサから河口に至るまで川をくだり、部落から部落へと詳細に川の流域を書きこんだのだ」
「じゃあ、その兄弟は、いままでの探検隊の運命をまぬかれたんだね?」
「そう、少なくともその探検のあいだはね。リチャードは一八三三年に、ニジェール川の三回目の旅行を計画した。そのとき彼は河口の近くで、どこからか飛んできた弾丸にあたって死んだよ。つまり、みんなもわかったろうが、われわれが横断しているこの国は、多くの場合報酬としては死しか受けとらなかった気高い献身者たちの証人なんだよ」
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三十九 トンブクトゥ
このうっとうしい月曜日は一日じゅう、博士はいまよこぎっている国について、そのいろいろな知識を仲間に話すのに打ち興じた。土地は平坦で、彼らの飛行に障害となるようなものはなにもなかった。博士にとっての唯一の気がかりは、荒れくるって吹いてくる北東からの烈風で、この呪わしい風は気球をトンブクトゥの緯度から遠ざけるのだった。
ニジェール川はトンブクトゥまでは北にのぼっていくが、まるで巨大な噴水のようにこの町でまるくなり、大きな弧を描いて大西洋にそそいでいる。この湾曲部のなかの国は非常に変化に富んでいて、ときには土地が非常に肥沃であるかと思えば、ときにはごく不毛の地となっている。未開の平野がトウモロコシの畑につづき、それがまたエニシダでおおわれた広大な土地にかわるといったふうで、あらゆる種類の水鳥、ペリカン、シマアジ、カワセミが群をなして、急流や末なし川〔主として西アフリカの赤道地帯で、河流の末が地中に没する川〕のほとりにいる。
ときどきツアレグ族の皮のテントでおおわれた小屋が見える。女たちがラクダの乳をしぼったり、太いパイプをふかしたりして、戸外で働いている姿が見える。
ヴィクトリア号はその夜の八時には、西に三二〇キロ以上も進んでいた。そのとき旅行者たちは、荘重きわまりない光景に接した。
雲間をもれる月の光が道を照らし、雨あしのヴェールを通して、ホムボリ山脈の峰々の上に落ちていた。玄武岩でできているようなこれらの峰々ほど奇妙な形をしたものはあるまい。それらが暗い空の上に、幻想的なシルエットを浮かべていたのである。それらはあたかも中世における巨大な都市の伝説上の廃墟をほうふつさせたし、あるいは南氷洋や北氷洋の暗い夜に目を見はらせる大浮氷群と言ったらいいだろう。
「これこそ『ユドルフォウの神秘』のなかの風景だな」と博士が言った。「でも作者のアン・ラドクリフ〔イギリスの女流作家(一七六四―一八二三)超自然的な事件により恐怖感を与える作風〕だって、その作中の山々をこれほど恐ろしい姿では描かなかっただろうね」
「ほんとにそうですね!」と、ジョーがそれに応じた。
「わたしだってこんなお化けの国を夜一人で歩くのはごめんこうむりますね。でも先生、そんなに重たくなかったら、この風景をそのままスコットランドにもってきたいものですね。これをローモンド湖のそばにおいたら、観光客がわんさとくるでしょうね」
「残念ながらわれわれの気球は、そのような思いつきを受けいれるほど大きくないね。ところで、どうやら進路が変わったようだぞ。よかった! ここの妖精はたいへん親切で、われわれを願っていたコースへ連れてってくれる南東の微風を送りこんでくれたぞ」
じじつ、ヴィクトリア号はずっと北寄りに進路をとって、二〇日の朝には、運河や激流や河川が網の目のように入り乱れているニジェール川の支流の錯綜した地域に入った。これらの水路の多くは厚い草でおおわれ、まるで草原のように見えた。そのとき博士は、バルトがトンブクトゥへ行くために舟に乗った場所を見つけたのだ。このあたりの川幅は一六〇〇メートルほどで、両岸には十字花科の花ばなやタマリンドの実がたくさんあった。跳躍するカモシカの群の環になった角が丈《たけ》なす草のなかに見えかくれするのを、ワニがじっと狙っている。
ジェネからの荷物をいっぱい積んだロバやラクダの長い列が、美しい樹木の下を進んでいった。まもなく階段式に低い家が立ちならんでいる川のまがり角に来た。テラスにも屋根の上にも、付近の野原から刈りとった飼《か》い葉が、うず高く積まれていた。
「カブラだ」うれしそうに博士が叫んだ。「ここはトンブクトゥの港だ。町はここから八キロないな!」
「先生、よかったですね?」とジョーが言った。
「うれしいよ」
「すべてうまくいって、よかったですね」
じじつ二時には、砂漠の女王と言われる神がみの町トンブクトゥ、かつてはアテネやローマのように学者や哲学者たちを生みだした町が、旅行者たちの眼下に広がっていた。
ファーガソンは、バルト自身の手で書かれた地図を詳細にわたって引きくらべていたが、その地図がじつに正確であるのを認めた。
町は白い砂の平原のなかに、大きな三角形を形づくっていた。その先端は北に向かい、砂漠の一隅に突入しているまわりにはなにもなく、わずかにところどころにイネ科の植物があり、小さなミモザや発育の悪い灌木が見られた。
トンブクトゥの眺望はと言えば、球とさいころが積みかさなっているようで、その鳥瞰図は、せまい通りの両側に立ちならぶ太陽で焼かれた粘土でできた平屋建ての家々や、わらやアシの小屋が円錐形や四角をなしていて、テラスには派手な衣服をまとった男たちが槍やモスケット銃を手にしてのんびりよこたわっている。女はこの時間には姿を見せない。
「だが、ここの女はきれいだそうだよ」と博士がつけ加えた。「ほら、たくさんの寺院のなかに三つの回教寺院の三つの塔があるだろう。昔の栄華の名残りをとどめているわけさ! 三角形の頂点に立っているのがサンコールの回教寺院で、たいへん美しい模様のアーケードの回廊がある。そこからずっと離れて、サネ=グング地区のそばに、シディ=ヤヒアの回教寺院がある。それから二階建ての家も何軒かあるだろう。宮殿や記念物は探したってむだだ。この町の族長はいまではたんなる商人で、かつての王宮もひとつの商社にすぎないからね」
「あそこに、こわれかかった城壁らしいのがあるね」と、ケネディが言った。
「一八二六年にフラーヌ族にこわされたんだね。そのころの町は、いまより三分の一ぐらい大きかった。トンブクトゥは一一世紀以後いろいろな部族にねらわれてね、ツアレグ族、ソンラエン族、モロッコ族、フラーヌ族に相ついで支配されてきた。この文明の中心地は、一六世紀にはアメド=ババのような学者が一六〇〇冊の写本を蔵している図書館をもっていたが、いまでは中央アフリカの一商品倉庫にしかすぎないんだ」
じじつ町は、大きな無関心につつまれているようだった。衰亡してゆく町によくありがちの怠惰をむさぼっているのだ。くずれた建物の残骸が郊外に立ちならび、市場のある丘とともにこの町の唯一の起伏をなしていた。
ヴィクトリア号の通過を見て、あきらかに町にはいくらか動揺が感じられ、太鼓が打ち鳴らされた。だが、この町の最後の学者が、このあらたな現象を観察する時間をもったかどうかはわからなかった。旅行者たちは砂漠の風におされて、川のうねくねした流れにそって進み、やがてまもなくトンブクトゥは彼らの旅のつかのまの思い出にしかすぎなくなった。
「さあ、あとは空の風向きしだいにまかせよう」と、博士が言った。
「西であってほしいね!」と、ケネディが応じた。
「いいですとも!」とジョーは「来た道を通ってザンジバルにもどろうが、大西洋を渡ってアメリカまで行こうが、わたしは一向かまいませんよ!」と言った。
「まあ、それができればね、ジョー」
「そうするのに、なにが足りないのです?」
「ガスだよ。気球の上昇力が目に見えて減っている。海岸に着くまでに、よほど注意する必要があるんだ。もうじき、いやでも砂袋は捨てることになるだろう。わたしたちは重すぎるからな」
「なんにもしないからですよ、先生。ハンモックに寝そべっている怠け者のように、一日じゅうごろごろしていたら、いやでも太って、重たくなりますよ。わたしたちの旅行は、怠け者のすることですね。帰ったら、みんなずんぐりしたおでぶさんになることでしょうね」
「いかにもジョーらしい考えだね」と、狩猟家が言った。「でも最後まで待ってみよう。天佑《てんゆう》があるかもわからんからな。旅の終わりまでは、まだまだあるものな。サミュエル、アフリカのどの海岸に着くんだろうね?」
「それがわからないんだよ、ディック。変わりやすい風まかせなんだから。まあシェラ=レオーネとポルテンディックのあいだに着けば、いいと思っているがね。そのへんならヨーロッパの人間に会えるからね」
「その人たちと握手ができたらうれしいね。で、少なくとも思ってる方向に進んでるのかい?」
「いや、ディック、それがうまくいってないんだよ。磁石の針を見てごらん。南に飛んでるだろう。これでは、ニジェール川の源流に行ってしまう」
「源流を見る絶好の機会じゃないですか?」と、ジョーが言い返した。「もし源流が発見されていないならばということになりますが、厳密に言えばほかに源流があるなんていうことにはならないのでしょうか?」
「ないね、ジョー。まあ、安心してくれ。そんなところまで行かないことを希望するよ」
夜が来て、博士は最後の砂袋をいくつか投げた。ヴィクトリア号は、ふたたび上昇した。バーナーの火はいちばん大きくなって燃えつづけているのだが、いまでは気球を現状にささえているのがやっとだった。気球はトンブクトゥの南方九六キロ半のところにあった。その翌朝にはデボ湖からほど遠からぬ、ニジェール川のほとりで目覚めた。
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四十 バッタの雲
そのとき河床には大きな島がいくつかあって、そのあいだを支流となって急流が流れていた。それらの島の一つには、羊飼いの小屋が建っていた。だが、その正確な位置を測定することは不可能だった。ヴィクトリア号の速度がひきつづいて増大していたからだった。不幸なことに、方向がいっそう南へかたむいて、しばらくするとデボ湖をこえた。
ファーガソンは膨脹を極度に強めて、さまざまな高度において別の気流を探したのだが、どうしても求められなかった。彼はすぐに、その作業を中止した。弱っている気球の内壁を圧迫して、ガスの流出を増大させるからだった。
彼はなにも言わなかったが、非常に不安を感じていた。いつまでも根づよく吹いている風のためにアフリカの南部へと流されて行くことは、彼の計算を挫折させた。誰もあてにすることはできないし、なんに頼っていいかわからなかった。もしイギリス領かフランス領に到着しないとしたら、ギニア海岸に出没している蛮族のなかにあって、どうなるだろうか? 蛮族の掌中におちいらないとしても、どうやってイギリスヘ帰る船をそこで待ったらいいだろうか? いまの風の方向では、もっとも野蛮な蛮族であるダホメイ王国のほうに流されていた。ここでは土民たちは、祭の日には何千人という捕虜の首をはねる王さまの意のままに動くのだった! そんなところでつかまったら最後だ!
一方気球は、目に見えて弱ってきた。博士は、まるで気球が自分にそむいてでもいるように感じていた。天気がいくらかもち直してきた。雨がやんだら気流の変化も見られるだろうと、彼は期待した。
それゆえ博士は、ジョーがこう叫んだときには、彼の考えにたいへん不愉快にさせられたのだった。
「おや! また雨が激しくなりますよ。こりゃあ、大雨だな、こっちへ進んでくる雲を見たってわかるでしょう!」
「また雲かい!」と、ファーガソンは言った。
「すごいやつだよ!」と、ケネディが答えた。
「あんなの見たことありませんよ」ジョーはつづけて言った。「稜線のような形で一直線にやってくる」
「やれやれ、あれは雲じゃないよ」と、望遠鐘を置いて博士が言った。
「へえ、そうですか!」びっくりしてジョーが言った。
「いや、あれは雲のような虫の群れだ!」
「ええっ?」
「バッタの大群だよ」
「あれが、バッタですって!」
「何億というバッタが、竜巻のように飛んでくるんだ。この国にとっては不幸なことで、もしもこのへんに降りたら、すっかり食い荒されちゃうだろうね」
「もっとそばで見たいですな」
「まあ、もうちょっと待ってごらんよ、ジョー。もう一〇分もすれば、あの雲とぶつかるから。そうしたらおまえの目で確かめられる」
ファーガソンの言ったとおりだった。不透明な何キロとつづくこの厚い雲は、耳をろうさんばかりの音響とともに、その巨大な影を大地に映しながらやってきた。それは『クリケ』という名のバッタの無数の集団だった。ヴィクトリア号から一〇〇歩ほど離れた緑の大地に、その集団はおそいかかった。一五分後に集団はまた飛び立ったが、旅行者たちは遠くからだが、まるはだかになった樹木や灌木を見ることができた。草原も鎌できれいに刈りとられたようだった。それはまるでとつぜん冬がやってきて、この地を荒れはてた不毛の地に変えたようだった。
「どうだね、ジョー?」
「驚きましたね、先生。すごいですね。でも、まあ当然でしょうね。一匹のバッタでしたらたいしいことはないでしょうが、それが何億という数ですからね」
「まさに恐ろしい雨だ」と、狩猟家が言った。「雹《ひょう》なんかとは、くらべものにならない損害だね」と、狩猟家が言った。
「防ぎようがないんだ」と、ファーガソンが答えた。
「ときには住民がこの昆虫の飛来をくいとめようとして森や収穫物に火をつけて焼いてしまったこともあるが、そうすると先頭の集団が炎のなかに飛びこんできて、数にものをいわせて火を消してしまうんだ。そして残ったやつは無事に通過してしまう。さいわいこの国では、やつらによる被害の埋めあわせというわけだろうか、原地人たちがこの昆虫をたくさんとって、喜んで食べるんだよ」
「空の小えびですね」とジョーが言って、「勉強のために味わいたかったが、できなくて残念でした」と、つけ加えた。
夕方になるにつれて、沼地が多くなってきた。森のかわりに木の茂みがところどころにあるだけだった。川の両岸には、タバコの畑や飼い葉の低湿地が見えた。大きな島のなかにジェネの町が目に入った。二つの塔のある粘土でできた回教寺院の壁の上につまれた何千万というツバメの巣から悪臭がのぼってきた。バオバブやミモザやナツメヤシのてっぺんが、家々のあいだにそびえていた。夜でもこの町は、たいへん大きく見えた。じじつジェネは、商工業のさかんな町で、トンブクトゥで必要なものをすべて供給していた。川に浮かぶ舟、木蔭を行く隊商たちがこの町で生産するさまざまの物資を、トンブクトゥまで運ぶのである。
「旅が長びいてもかまわないなら、この町に降りてみたいものだ」と博士が言った。「ここにはフランスやイギリスに行ったことのあるアラブ人が、一人や二人はいるはずなんだ。それらの人たちにとっては、気球もそれほどめずらしいものではないだろう。でも、それは慎重さを欠くかな」
「またこのつぎの機会にゆずりましょう」と、笑いながらジョーが言った。
「それに、どうやら風が東から吹いてきたようだ。この機会をうまくつかまえなくちゃ」
博士は空瓶とか、使いものにならない肉の箱とか、不用になったものをいくつか投げた。そのためにヴィクトリア号は、彼の計画につごうのいい高度をとることができた。午前四時に、太陽の最初の光がバンバラの首都セゴーを照らしだした。この町を構成する四つの地区、マウルふうの回教寺院、いろいろな地区に住民をはこぶ渡船の往来で、それとわかったのである。だが旅行者たちは、彼らが見たほどには原地人たちからは見られなかった。速度を強めて、北西へ一直線に飛んでいったからである。博士の不安はすこしずつおさまっていった。
「あと二日間、このままの速さで飛んでくれたら、セネガル川に着けるだろう」
「そこは友好国かね」と、狩猟家がたずねた。
「完全にそうだとは言えないがね。でも、ヴィクトリア号にたよれなくなったときでも、フランスの建物にたどり着くことはできるだろう。とにかく気球があと数百キロがんばってくれればいいが。そうすればわれわれは、疲れもせずなんらの危険も恐れもなしに西海岸に行き着けるだろうよ」
「そこでおしまいですか!」とジョーが言った。「困りましたね、先生。話の種に歩こうと思っていましたのに! いったいみんなは、わたしたちの話を信用するでしょうか?」
「さあ、どうかね、ジョー? でも、事実は認めないわけにいかんだろうね! たくさんの人がわれわれの出発を見送ってくれたんだろうから、たくさんの人が反対側に着くのを見てくれるだろうね」
「そうしたら、われわれが横断しなかったと言うのは困難だろうよ」と、ケネディが応じた。
「ああ、先生!」と、ジョーが深い溜息をついた。「あの金塊の夢を何度も見ることでしょうね。あれがあったら、わたしたちの話に千鈞《せんきん》の重みがついて、みんなほんとうだと思うでしょうがね。聞き手の一人ひとりに一グラムの金をやったら、わたしの話を聞こうとみんなが押しよせてきて、どんなにかわたしを尊敬したでしょうが!」
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四十一 投下につぐ投下
五月二七日の朝の九時ごろ、あたりの眺めが新しい様子をあらわしてきた。裾《すそ》がながくつづいた斜面がいくつもの丘にかわり、やがて山岳地帯に入ることを予想させた。ニジェール盆地とセネガルの地とを分けへだて、かつまた水の流れをギニア湾とヴェール岬の入江にそそいでいる山脈をこえねばならないだろう。
アフリカのこのあたりからセネガルに至る一帯は、危険なところとして知られている。ファーガソン博士は、先駆者がいままでに書いたものによって、そのことを知っていた。それらの先輩は、このあたりの野蛮な黒人から掠奪され、さまざまな危険なめにあってきたのだった。またこの付近の忌まわしい風土は、マンゴ=パークの仲間の多くの生命を奪ったのである。そこでファーガソンはどんなことがあっても、この不親切な地域には降りまいと決めていた。
だが彼には、休息するときがなかった。ヴィクトリア号があきらかに下降していくからだった。だから峰をこえるときなどには、多少にかかわらず必要でないと思われるものを、つぎつぎと捨てなければならなかった。このようにして、一九三キロメートル以上を飛んだ。気球はのぼるにも降りるにも疲れた。それはまるでシシュフォスの岩〔ギリシア神話のコリュントス王。地獄で何度でもころげ落ちる岩を山頂に押し上げる刑罰を受けた〕のように、絶えずころがりつづけた。気球の形はふくらみがまるでなくなって、やせこけて細長くなってしまった。風が吹くと、空気の抜けた気のうに、大きなくぼみができた。
ケネディもそのことを気づかわずにはいられなかった。「気球に穴でもあいてるのではないかな?」
「いや」と、博士は答えた。「グッタ・ペルカがやわらかくなって溶けたからだ。だから水素がタフタから逃げていくんだ」
「どうやったら、その逃げるのがふせげるんだい?」
「ふせぎようがないんだ。身がるになるしかない。それが唯一の方法なんだ。捨てられるものはみんな捨てよう」
「だが、まだあるかな?」そう言って狩猟家は、もうほとんど何もなくなった吊り籠のなかを見わたした。
「テントをとりのけよう。この重さは相当なもんだ」ジョーはこの命令を受けると、ネットの綱が集まっている輪の上にのぼって、そこから容易にテントの厚い布地をはずして投げ捨てた。彼はこう言った。
「黒ん坊たちの部落では大喜びですよ。これで原地人のものなら千人ぶんの着るものができますからね。なにしろ、たいして布地はいりませんものね」
気球はすこし上昇した。だがまもなくして、またもや目に見えて大地に近づいてきた。
「降りてみよう。気のうをなおせるかもしれないからな」と、ケネディが言った。
「同じことを何度も言うようだけれど、ディック、なおせる方法はないんだよ」
「じゃあ、どうしたらいいんだ?」
「どうしても必要なもの以外はすべて犠牲にしよう。どんなことがあっても、こんなところには降りたくないんだ。いますれすれにそのてっぺんを飛んでいる森だって、けっして安全じゃないんだからな」
「へえ! ライオンでもいるんですか? ハイエナですか?」ジョーがさも軽蔑するように言った。
「それよりもっと悪い。人間だよ、アフリカでいちばん残酷な原地人どもだ」
「どうしてそれがわかるんですか?」
「われわれより前に来た探検家たちが言っている。それにセネガルの植民地にいるフランス人たちは、いやでもまわりの原地人どもと関係をもたなければならなかった。フェデルブ大佐が総督になってから、この地方はくわしく調査された。パスカルとかヴァンサンとかランベールとかいう将校たちが、遠征の度ごとに貴重な報告を持ちかえった。彼らは戦いと掠奪とですっかり荒廃してしまったセネガル川の湾曲によってかこまれている地域を探検したんだ」
「どんなことがあったんですか?」
「こうなんだ。一八五四年に、セネガルのフウタの回教の導師アル・ハジが、マホメットのお告げだと称して、異教徒たち、つまりヨーロッパ人に対して、すべての部族を煽動して戦争をしかけてきたんだ。セネガル川と、その支流のファレメ川にはさまれた地域一帯は破壊され、荒されつくした。彼にひきいられた狂信的な三つの群は、一つの部落、一つの小屋も残すところなく掠奪し、殺戮をほしいままにした。彼らはニジェール川の渓谷をさかのぼってセゴーの町に至り、その地を長いあいだ占拠した。彼は一八五七年に北に転じて、川のほとりにフランス人によってつくられたメディーヌの砦《とりで》を攻撃した。この砦は一人の英雄、ポール・オルが守っていた。彼は数か月間のあいだ、食糧もなくほとんど弾薬もなくして、フェデルブ大佐が来るまでもちこたえたのだった。アル・ハジとその一団はセネガル川をまた渡り、カアルタにもどって、掠奪と殺戮とをつづけた。ところでこのあたりが彼とその部下とが逃げこんで隠れているところなんで、連中の掌中におちたら、けっしていいことはないことだけはたしかだ」
「つかまったりしないようにしましょう」とジョーが言った。「靴を捨てたって、ヴィクトリア号を浮かせなくちゃなりませんね」
「川までは、そう遠くはない」と、博士が言った。「だが、どうも川はこえられそうもないな」
「とにかく川まで行こうや。そこまでは行けるんだろう」と、狩猟家が言った。
「そうしたいと思っている」と、博士が応じた。「ただ、ひとつだけ心配がある」
「なんだね、それは?」
「いくつか山をこえねばならないんでね。それがむずかしいんだ。できるだけ熱を送っても、もう上昇しないだろうからね」
「まあ、なるようにしかならないからな」と、ケネディが言った。
「かわいそうなヴィクトリア号!」と、ジョーが言った。
「船員が自分の船を愛するように、わたしもおまえが好きになったよ」と、ファーガソン博士が言った。「離れようたって、もう離しゃしないぞ! おまえはもう出発のときの姿じゃない。まあ、いいだろう! おまえの悪口なんか言わないよ! おまえは、りっぱに役目をはたしてくれたものな。おまえを見捨てるなんて、身を切られる思いがする」
「心配しなくてもいいよ、ジョー。もし見捨てるようなときがあったにしても、そうしたくてするんじゃないんだ。ヴィクトリア号は、力のあらんかぎりつくしてくれる。あと二四時間もってくれるとありがたいんだが」
「弱りきっていますね」と、気球を見ながらジョーが言った。「すっかりやせちゃって、死にかかっていますよ。かわいそうに!」
「あの地平線に見える山が、きみが話した山じゃないのかね、サミュエル?」
「そうなんだ、あの山なんだ」望遠鏡をのぞきこんで博士が言った。「ずいぶん高いらしいな。これを越えるのは一苦労だな」
「よけて行くことはできないのかな?」
「それができないんだよ、ディック。あんなに広がっているじゃないか、地平線の半分ちかくが山だ!」
「まるで、わたしたちのまわりを取りかこんでいるようですね」と、ジョーが言った。「右を見ても左を見ても、山ですものね」
「でも、どうしても越さなくちゃならない」
この危険な障害物は、ぐんぐん近づいてきた。もっと正確に言えば、強風がヴィクトリア号を、するどくとがった絶頂のほうへ押しやってきたのだ。このままいったら、どうしても衝突するのをまぬかれまい。どうしても上昇しなければならなかった。
「一日分の水を残して、水のタンクをからにしよう」と、ファーガソンが言った。
「はい」と、ジョーがそれに応じた。
「上昇したかね?」と、ケネディがきいた。
「すこしはね、一メートル半ほどだ」気圧計から目を離さずに博士が答えた。「でも、これじゃ足りない」
じじつ高い峰々が、旅行者たちに飛びかかるようにして迫ってきた。それを越えるどころではなかった。あと四五メートル以上は上昇しなければならない。バーナーのための水も、必要以上は捨てた。もう水は数リットルしか残っていない。それでもまだ不充分だった。
「どんなことがあっても越えなくちゃ」と、博士が言った。
「水のタンクを捨てよう。もう空《から》になったんだから」と、ケネディがそれに応じた。
「よし、捨てろ!」
「はい」と、ジョーはそうした。「身のまわりのものがつぎつぎとなくなっていくのは、さびしいものですね」
「ジョー、このあいだみたいに犠牲的精神を発揮しちゃいけないぞ。どんなことがあってもわれわれから離れないと誓ってくれ」
「ご安心ください、先生。もうけっして離れませんから」
ヴィクトリア号は四〇メートルほど上昇した。だが山の峰は、あいかわらず高いところにある。それは垂直に切りたった壁のような山稜だった。旅行者たちよりも六〇メートル以上も高い。
「あの岩山を越えられなかったら、あと一〇分でわれわれの吊り籠はこなごなになってしまう」と、博士はひとりごとを言った。
「先生、どうします?」と、ジョーがきいた。
「ペミカンだけを食糧としてとっておいて、肉はぜんぶ捨てよう」
気球はまた五〇ポンドほどのものを捨てた。気球はあきらかに上昇した。だが稜線の上までのぼらなかったら、どうしようもないのである。状況はおそるべきものがあった。ヴィクトリア号は大速力で飛んでいく。もうすぐこなごなになる。じじつ衝撃はものすごいだろう。
博士は吊り籠のなかを見まわした。
もう、ほとんどなにもなかった。
「ディック、もしどうしてもだめなときは、きみの武器を犠牲にするつもりでいてくれ!」
「おれの武器まで捨てるのかい!」
「ディック、わたしがそれを要求するのは、どうしても必要だからなんだ」
「サミュエル! サミュエル!」
「きみの武器、弾丸と火薬、みんなの生命がそれにかかっているんだ」
「もうすぐです、先生、近づいています!」と、ジョーが叫んだ。
二〇メートル! 山のほうがヴィクトリア号よりまだ二〇メートル高い。
ジョーは毛布をつかんで、それを投げた。ケネディはなにも言わずに、弾丸や散弾の入った袋を投げ捨てた。
気球は上昇した。そして危険な頂上をこえた。気球の上部が太陽にきらめいた。だが吊り籠は岩塊よりもまだ下にあった。どうしてもそれらにぶつかってしまう。
「ケネディ、ケネディ、武器を捨てろ! ぶつかってしまうぞ」
「待ってください、ケネディさん!」と、ジョーが叫んだ。「待ってください!」
振り向いたケネディは、ジョーが吊り籠の外に姿を消すのを見た。
「ジョー! ジョー!」と、彼は叫んだ。
「かわいそうに!」と、博士もつぶやいた。
山の頂は、そこでは幅が六メートルほどあった。向う側は急斜面をなして落ちこんでいた。吊り籠はちょうどこの山頂と同じ高さになった。吊り籠は、とがった岩の上をすべった。通過するとき岩がするどい音をたてた。
「通ります! 通ります! 通りました!」その声を聞いて、ファーガソンの心臓は高鳴った。
勇敢な青年は、吊り籠の下を手でささえていたのだった。からだ全体の重みを気球からはずして、山頂を走ったのだった。彼はどうしても吊り籠にしっかりつかまっていなければならなかった。気球が逃げていきそうだったからである。
反対側の斜面に出たとき、彼は目の前にふかい深淵を見たが、強い手首の力でからだを持ちあげて綱につかまり、仲間たちのそばにもどった。
「ああ、まいったな」と、彼は言った。
「ジョー、よくやったな!」と、心から博士は言った。
「ああ、先生、わたしがこんなことをしたのは、先生のためじゃないんですよ」と、青年は答えた。「ディックさんのカービン銃のためなんです。アラブ人のときのご恩がありますからね。わたしは借金はすぐ返すほうなんで。これでもう貸借なしですよね」それから彼は、狩猟家の愛する武器を指さして、こうつけ加えた。「ケネディさんがカービン銃と別れるのを見るのが、とてもつらかったのです」
ケネディはひとことも言わずに、彼の手を強く握りしめた。
ヴィクトリア号は、もはや降っていくだけでよかった。これは容易なことだった。気球はまもなく地上六〇メートルまで下がり、風に乗って進んでいった。地殻が変動したような土地だった。山あり谷ありで、言うことをきかなくなった気球で夜ここを飛ぶことになったら、たいへんむずかしかったことだろう。たちまち夕方になった。気がすすまなかったが博士は、翌日まで停止することに決めた。
「とまるのにつごうのいい場所を探そう」と、彼は言った。
「とうとう決心したのかい?」と、ケネディが言った。
「うん、やろうかやるまいかで、ずいぶん迷ったんだ、まだ夕方の六時だから、時間はある。錨を投げろ、ジョー!」
ジョーは、そのとおりにした。二つの錨が、吊り籠の下につるされた。
「あそこに大きな森がある」と、博士が言った。「あの上に行って、木に錨をひっかけよう。どんなことがあっても、大地の上で夜を過ごしちゃだめだ」
「降りるくらいならいいだろう」と、ケネディがたずねた。
「降りてなんになる。何度も言うようだが、離ればなれになるのが危険なんだ。それに、きみの助けが必要なむずかしい仕事があるんだ」
ヴィクトリア号は広い森の上をすれすれに走って、とつぜん急停止した。錨がかかったからだ。風は夜になってからやんだ。そして気球は、森のカエデのみどりの広野の上に、ほとんど揺れることなくしてじっとしていた。
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四十二 火事
ファーガソン博士は、星の高さから現在の位置を測定した。セネガル川まで、あとわずかに四〇キロほどだった。
「あとしなければならないことは」と、地図を指さしながら彼は言った。「川を越すことだ。だが川には橋も舟もないから、どうしても気球に乗って越さなければならない。それにはもっと身がるになることだ」
「でも、どうすれば軽くなるかな」また武器のことを言われはしまいかと心配して、ケネディがたずねた。「誰かが犠牲になってあとに残るというなら……こんどはわたしが、その名誉を頂戴したいな」
「なんですって!」と、ジョーがそれに応じた。「わたしはすでに経験者なんですから……」
「飛びおりるんじゃないぞ、ジョー。こんどは歩いて海岸まで行くんだ。わたしは足は強いし、射撃だってうまい……」
「どうしても同意できませんな!」と、ジョーが言い返した。
「ありがたい言いあらそいだが、二人ともそんなに頑張らなくていいんだよ。誰かを残すなんてことは絶対にしない。そうしなければならなくなったら、三人一緒にこの国に残ろう」
「それなら話は別です」と、ジョーが言った。「ちょっと歩くのも、悪くはありませんからね」
「だがその前に、ヴィクトリア号を軽くするために最後の手段をとろう」
「まだ軽くできるのかい? どんなことをやるんだい?」と、ケネディがたずねた。
「バーナーやブンゼンの電池や、螺旋管を捨てるんだ。全部で四〇〇キロ近くの重量を乗せているんだからな」
「でもサミュエル、それらをとっちまったら、どうやってガスを膨脹させるんだね?」
「そんなことはもうできないし、もうしないんだよ」
「でも、そうなったら……」
「まあ聞けよ。どのくらい上昇力が残っているか、わたしは正確に計算してみた。でも、われわれ三人と、残っているわずかなものを持ちあげるには、それで充分だ。二つの錨を入れて二三〇キロほどだ。錨だけは捨てたくないからな」
「サミュエル、そういうことはきみのほうがわたしたちよりもくわしい。状況を判断できるのはきみだけだ。わたしたちのすることを言ってくれ。なんでもやるよ」
「先生のおっしゃるとおりにしますよ」
「もう一度言うが、この決定がどんなに重大なものであっても、こうなった以上は膨脹装置は犠牲にしなければならないんだ」
「よし、犠牲にしろ」と、ケネディが応じた。
「さあ、仕事だ!」と、ジョーも言った。
それは簡単な仕事ではなかった。まず装置を一つひとつ分解しなければならなかった。最初に混合装置を切りはなした。吊り籠の底にしっかりとすえつけられてあるそういうものを持ちあげて捨てるには、三人が力を合わせてしなければならなかった。ケネディには腕力があった。ジョーには器用さがあった。サミュエルには知恵があった。こうして彼らはこの仕事を、なんとかやってのけたのだった。それらは吊り籠からつぎつぎと投げ捨てられ、カエデの葉のあいだに大きな穴をあけて消えていった。
「黒んぼたちは、こんな奇妙なものを森のなかで見つけて、びっくりするでしょうね」と、ジョーが言った。「偶像にして、だいじにとっておくかもしれませんね」
つぎは、螺旋管につながっている、気球のなかにはめこんだパイプを取りはずさねばならなかった。ジョーが、吊り籠から数十センチ上のところにあるゴムの継ぎ手を切った。だがパイプを取りはずすのは、なかなかむずかしかった。なぜならパイプの上部の先端は固定されていて、しんちゅうの針金でバルブの輪にも留められていたからだった。
こういうときこそ、ジョーの真価が発揮されるときだった。彼は気のうを傷つけないようにはだしになると、揺れる気球の外側を綱をつたわってそのてっぺんまでよじのぼり、すべる表面に片手でつかまりながら、やっとのことで、パイプを固定している外側のねじをはずした。そこでパイプはわけなく離れ、下の通気筒から引きだされた。通気筒は丈夫なバインド線でふたたびしっかりとしめられた。
これだけ重たいものがはずされたのでヴィクトリア号は、錨綱をぴんと張って、空中に頭をもたげていた。
ずいぶん疲れたが、こういった仕事は全部、真夜中までに終わることができた。食事はペミカンと冷たいグロッグで簡単にすませた。なぜなら博士は、もはやジョーに火を使わせることができなかったからだ。
ジョーはもちろんだが、ケネディも疲れていた。
「横になって寝るといいよ」と、ファーガソンが言った。「わたしが最初の見張りをする。二時になったらケネディを起こす。ケネディは四時にジョーを起こせばいい。六時に出発だ。この最後の一日じゅう、神がわたしたちをお守りくださるように!」
これ以上はお祈りをしないで、博士の二人の仲間は吊り籠の底に横になって、たちまち深い眠りにおちいった。
その夜はおだやかだった。三日月の弱い光が暗闇をかすかにあかるくして、それを通していくらかの雲がのぞまれた。ファーガソンは吊り籠のへりに肱をついて、視線をあたりに走らせていた。彼は、地上のながめをさえぎって足元に広がっている木の葉のうすぐらいヴェールを、じいっと見守っていた。ほんのかすかな音でも彼にはあやしく思われ、木の葉がちょっと揺れても、彼はその原因を知ろうとした。
彼の気づかいは、孤独感のためにいっそう敏感になっていた。そういうとき人は、漠然とした恐怖感にとらわれるものである。さまざまの障害を乗りこえてようやく旅の終わりにきて、いよいよ目的地を目の前にしながら、彼の恐れは激しく、不安は大きくのしかかり、到着点が目の前から逃げていくように感じられるのだった。
それに、現状がすこしも安心を許さなかったからだ。蛮人の国のなかにあって、輸送機関がつまり、いまにもだめになりかねない状態なのである。博士はもはや、絶対的に気球に信頼がおけなくなっていた。彼が気球を信頼して、大胆にそれを操作したときはもう過ぎ去ったのだ。
このような思いにふけっていると、博士はときどき、この大きな森のなかから、なにかはっきりしないざわめきが聞こえてくるような気がした。樹木のあいだから火がちらつくのが見えるような気もした。彼はじっと見つめた。夜間望遠鏡でその方角を見やった。だがなにも見えず、あたりはいっそう静まり返っていた。
ファーガソンは、たぶん幻覚をおぼえたからなのだろう。音なんか少しもしないのに聞こえたのだろう。そのとき、彼の見張りの時間が過ぎた。彼はケネディを起こして、警戒を厳重にするようにたのんだ。そしてぐっすり眠りこんでいるジョーのわきに横になった。
ケネディは目をこすりながら、静かにパイプに火をつけた。彼は眉をあげているのがつらかったので、吊り籠の一隅に肱をついて、眠気を払うために、深く吸いこんだ。
完全な静寂が、あたりを支配していた。微風が樹木のてっぺんをかすかに動かし、吊り籠も静かに揺れて、狩猟家を自分の意志に反しておちいらせようとする眠りに彼を誘うのだった。彼はそれに抵抗しようとして、何回もまぶたを開き、なにも見えない闇のなかに視線をこらした。だがついに疲れに負けて、彼は眠ってしまった。
どれほど彼は無我の状態にあったのであろうか? 目ざめたときはそれはわからなかったが、思いがけないパチパチという音を、とつぜん聞いたのである。
彼は目をこすって飛びおきた。熱気が顔に吹きかかった。森が燃えているのだ。
「火事だ! 火事だ!」まだ事態がはっきりつかめないままで、彼は叫んだ。
二人の仲間は飛びおきた。
「どうしたんだ?」と、サミュエルがたずねた。
「火事だ!」と、ジョーも言った。「でも、どうして……」
そのとき、炎であかるく照らしだされた森のなかで、どっとばかり大きなどよめきがした。
「あっ! 蛮人です!」と、ジョーが叫んだ。「わたしたちを焼き殺そうとして、森に火をつけたんです!」
「タリバ族だ! きっと、アル・ハジの一味だ!」と、博士が叫んだ。
火の輪がヴィクトリア号のまわりをかこんでいた。枯木のパチパチいう音が、みどりの枝のいぶる音にまじった。ツタ、木の葉、生きている植物がみな、破壊しつくされようとしている。見わたすかぎり、火の海だった。大木が燃えつくした炭火の枝をつけて、炎を背後にくろぐろと立っている。この燃える塊、この大火事、それが照りはえる大気にうつって、旅行者たちは火の気球のなかに閉じこめられたような思いだった。
「逃げよう!」と、ケネディが叫んだ。「助かる道は、ただそれだけだ!」
だがファーガソンはその手をぎゅっと強く握りしめた。そして錨綱にとびついて、斧で一撃のもとに綱をたちきった。そのときはもう、気球までのぼってきた炎が、それをまっかに染めていた。だがヴィクトリア号は、きずなを放たれて、三〇〇メートル以上も一気に上昇した。
大きなどよめきが、森の下で起こった。同時に、いっせいに銃声がひびいた。気球は夜明けとともに起こった気流に乗って、西のほうに運ばれていった。
朝の四時だった。
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四十三 タリバ族の追跡
「ゆうべのうちに身がるになっていなかったら、やられただろうね」と、博士が言った。
「うまいときをねらってやれということですね」と、ジョーが言った。「だから助かったんで、あたりまえですね」
「まだ危険から抜けでたわけではないぞ」と、ファーガソンが言った。
「なにが心配なんだい」と、ディックがたずねた。「ヴィクトリア号は、きみがいいと言わないかぎりは降りないんだろう? いつ降りるんだい」
「いつ降りるんだって! ディック、下を見ろよ!」
気球は森のはずれを越えたところだった。だぶだぶのズボンをはいて頭巾つきの外套をはおった三〇人ほどの馬上の男たちを、旅行者たちは目にしたのである。ある者は槍を、ある者はモスケット銃を持っていた。彼らはそれほど早くないヴィクトリア号のあとを追って、ふつうの駆け足でついてきた。元気そうな、鼻息の荒い馬だった。
旅行者たちを見つけた彼らは、武器をふりまわして、あらあらしい叫び声をあげた。赤銅色の顔には、こくはないが固そうなあごひげがはえていた。それだけに、いっそう残忍な顔である。そこには、獲物に逃げられたという悔しさと、必ずつかまえてやろうという怒りとおどしとが見えた。彼らは、セネガル川まで下りになっている斜面を、らくらくと走ってきた。
「やっぱり奴らだ!」と、博士が言った。「残虐なタリバ族だ! アル・ハジのどうもうな一味だよ! あんな連中につかまるくらいなら、森のなかで猛獣にかこまれるほうがまだましだよ」
「気やすくつき合えない顔だな!」と、ケネディが言った。「手ごわい連中だな!」
「さいわい、奴らは飛べませんものね」と、ジョーが応じた。「いつだって、そうですけども」
「見てごらん」と、ファーガソンが言った。「村は廃墟になってしまっただろう。小屋も焼けている。奴らのしわざなんだ。広びろとした畑だったところも、荒野原になってしまった」
「どんなに追いかけてきたって、追いつけっこないさ。川さえ越えたら、もうだいじょうぶだ」
「まさに、そのとおりだ、ディック。どんなことがあっても降りちゃいけない」と、気圧計を見ながら博士が言った。
「いずれにしても、ジョー、武器の用意はしておいたほうがいいな」と、ケネディが言った。
「そのほうがいいでしょうね、ディックさん。途中で捨てなくて、ほんとうによかったですね」
「わたしのカービン銃! おれはけっしておまえを手放さんぞ!」と、狩猟家が叫んだ。
ケネディは念を入れて弾丸をこめた。弾丸も火薬も充分にあった。
「いま、どのくらいの高さかね?」と、ファーガソンがたずねた。
「だいたい二三〇メートルだ。だが、もう上がったり下がったりして、いい風を探すことはできない。気球しだいだ」
「それがこまるんだな」と、ケネディが言った。「風もそんなにないし。もしこのあいだのような強風に乗ったら、あんないやな奴らとはとっくにおさらばしてるんだがな」
「あの連中は、ふつうの駆け足でのんびりついてきますね。まあ、遠乗りっていうところでしょうな」と、ジョーが言った。
「着弾距離だったら、つぎつぎにやっつけてやるんだが」と、ケネディが言った。
「むろんそうだ!」と、ファーガソンは答えた。「でもそうなったら、むこうからも撃ってくる、わがヴィクトリア号は、長身のモスケット銃にとっては絶好の目標だよ。もし気のうが破れたら、われわれはどうなる?」
タリバ族の追跡は午前中つづいた。そのあいだに旅行者は、二四キロほど西方へ進んだだけである。
博士は、地平線上の小さな雲も見逃さなかった。風向きが変わることが恐ろしかったからだ。もしニジェール川のほうへ流されたら、どうなるだろうか? それに気球が目に見えて下降していくのだ。出発してから、もう九〇メートル以上は下がった。セネガル川までは、まだ二〇キロ以上はある。いまの速度なら、あと三時間はかかるだろう。
そのとき彼の注意は、またわきあがった叫喚にひきつけられた。タリバ族が馬を駆りたてて突進してきたのだ。
博士は気圧計を調べたら、この叫び声の原因がわかった。
「下がっているのか!」と、ケネディがきいた。
「そうなんだ」と、ファーガソンが答えた。
「ちくしょう!」ジョーが叫んだ。
一五分後には、吊り籠から地上までの高さは四五メートルしかなかった。だが風はかなり強く吹いてきた。
タリバ族が馬を疾駆させてきた。まもなく、モスケット銃の最初の銃声が空中にひびいた。
「こんなに遠いのに、ばかな奴だな!」と、ジョーが叫んだ。「でも、奴らを近づけないほうがよさそうですね」
そして彼は、先頭に進んでくる一人を狙って撃った。その男は地面にころがり落ちた。仲間たちはその場にとまった。ヴィクトリア号は、またすこし彼らから離れた。
「慎重になってきたぞ」と、ケネディが言った。
「必ずわれわれをつかまえられると思っているからさ」と、博士が言った。「これ以上下がったら、もっと下がってしまう。絶対に、上がらなくちゃならん!」
「なにを投げます!」ジョーがたずねた。
「ペミカンの残り全部だ! これで一四キロぐらいは軽くなるだろう!」
「ようござんす、先生!」ジョーは主人の命に従った。
地面にふれんばかりに下がった吊り籠は、タリバ族の叫び声をあとに上昇した。しかしその後三〇分もすると、ヴィクトリア号はまたどんどん下がった。ガスが気のうの裂け目から逃げていくのだ。
まもなく吊り籠が、地面すれすれになった。アリ・ハジの部下たちは、気球におそいかかった。だが、こういうときによくあるように、ヴィクトリア号は地面にふれたかと思うと、一飛びはねあがって、一キロ半ほど先まで行ってまた落ちた。
「もう逃げられない!」ケネディが怒りにふるえながら言った。
「残っているブランデーも捨てろ、ジョー!」と、博士が叫んだ。「器具類は全部、重さのあるものはみんな捨てろ! 錨もだ!」
ジョーは、気圧計や温度計をむしりとった。しかし、そんなものの重さはたいしたことはない。気球は一瞬あがったが、すぐにまた落ちた。タリバ族がまた迫ってきて、二〇〇歩になった。
「銃を二挺捨てろ!」博士が叫んだ。
「せめて撃ってからにしよう」と、狩猟家はそれに応じた。
四発の弾丸が、つづけざまに騎馬隊のなかに撃ちこまれた。四人のタリバ族が狂乱して叫ぶなかで倒れた。
ヴィクトリア号は、また浮き上がった。それは大きなゴムまりが地面の上をはねるようにして、何度も大きく跳ね上がって逃げていった。不幸な男たちを乗せた気球が大股で逃げながら、足が地面につく度ごとにあらたな力をとりもどすアンタイオス〔ギシリア神話で、ポセイドンと大地の子で巨人、通る旅人と力くらべをして勝っては殺していたが、ヘラクレスについに負けて殺された。彼は投げられても母なる大地にふれる度ごとにますます強くなるのだった〕のように、それは異様な光景だった。だが、こうした状況も、まもなく終わらなければならない。もう正午だった。ヴィクトリア号は力つきて、からっぽになり、ひょろ長くなった。気のうにしわがよって、だぶだぶになった。たるんだタフタのひだとひだとがすれあった。
「神は見捨てたもうのか! いよいよ落ちる!」と、ケネディが言った。
ジョーは何も言わずに、主人のほうを見た。
「いや、まだ六七キロも捨てるものがある!」と博士が言った。
「なんだ、それは?」ケネディは、博士が気が変になったかと思った。
「吊り籠だ!」と博士は答えた。「ネットにつかまるんだ! 網目につかまって、川を渡るんだ! 急げ! はやく!」
大胆な男たちは生命を救うためなら、どんなことでも辞さなかった。彼らは博士が言ったように、網の目に手足をかけた。そしてジョーが片手で吊り籠を切った。気球がいよいよ地面に落ちるかと思われたときに、吊り籠が離れた。
「やったぞ! やったぞ!」彼は叫んだ。身軽になった気球は、九〇メートルも舞い上がった。
タリバ族は、馬を全速力で駆り立てていた。馬の腹が地面につかんばかりだった。だがヴィクトリア号はかなり強い風に乗って彼らをふりほどき、西の地平線をふさいでいる丘のほうへ急速に飛んでいった。旅行者たちにとっては、丘があったのはよかった。気球はそれを飛びこしたが、アル・ハジの一味はこの最後の障害を迂回するために北方へ向かわねばならなかったからだ。
三人の友は網にしがみついていた。足をかける場所をしっかり結びつけることもできた。空を飛ぶポケットというわけだった。
丘をこえたとき、博士が叫んだ。
「川だ! 川だ! セネガル川だ!」
じじつ三二キロほど前面に、大きな川が豊かな水量で流れていた。そこは安全な土地で、降りるのもうまくいきそうだった。
「あと一五分で、助かるぞ!」と、ファーガソンが言った。
だが、そうはうまくいかなかった。からになった気球は、植物がほとんどない地面の上に、すこしずつ下がっていったのである。それは岩でごつごつした長い斜面だった。太陽の熱で焼けた生いしげった草に、低い木立がところどころあるだけである。
ヴィクトリア号は何度も地面に触れては、また飛びあがった。だが飛びあがる度にその高さと幅とを減じ、最後には、この荒れ果てた地方のたった一本の樹木ともいうべきバオバブの高い枝に、気のうの網の上部がひっかかってしまった。
「もうだめだ」と狩猟家が言った。
「川まであと一〇〇歩なのに」とジョー。
三人の不幸な男は、地面に降り立った。博士は二人の仲間を、セネガル川のほうへ連れていった。
川のそのあたりは、ごうごうと音を立てて流れていた。岸辺についたファーガソンは、そこにグイナの滝を認めた! 岸には一隻の舟もないし、人影もない。
六〇〇メートルの川幅のセネガル川が、ひびきわたる一大音響とともに、四六メートルの高いところから落ちていた。それは東から西へ流れていて、流れをせきとめる岩が、北から南へ一直線にならんでいた。滝のまんなかに、水のなかで化石となった太古の巨大な動物のような奇怪な形をした岩石がいくつも立っていた。
この深みをよこぎることは、あきらかに不可能だった。ケネディは、絶望の身ぶりを示さないではいられなかった。
だがファーガソン博士は、思いきって激しい口調で叫んだ。
「これでだめではないぞ!」
「そう思っていましたよ」とジョーは、つねに変わらぬ主人への信頼をこめて言った。
あたりの枯草を見て、博士は思いきったことを考えついたのだった。それは残された唯一の手段だった。彼は急いで仲間たちを、気のうのほうへ連れていって、こう言った。
「あの悪漢どもより少なくとも一時間ははやくついている。その時間を利用して、たくさん枯草を集めてくれ。少なくとも四五キロは必要だ」
「なんにするんだね?」ケネディがたずねた。
「もうガスはちっともないんだ。よかろう! それなら熱い空気で川をわたろう!」
「ああ、サミュエル! きみって、じつにたいした男だよ!」
ジョーとケネディは仕事にとりかかった。まもなく枯草の大きな山が、バオバブのそばに積まれた。
そのあいだに博士は、気球の下部の排気口を切って、それを大きくした。彼はあらかじめ念をいれて、残っているかもしれない水素をバルブから外へはきだした。それから気のうの下にたくさん枯草を積んで、それに火をつけた。
気球は熱した空気で、たちまちふくらみはじめた。一八〇度〔摂氏八二度〕の熱があれば、気球のなかの空気を稀薄にして、その重さを半分に減らすに充分だった。そこでヴィクトリア号は、みるみるうちにふたたびまるい形をとりもどしはじめた。草は不足しなかった。火は博士がめんどうをみているので、勢いよく燃えた。気球はみるまに大きくなった。
いまは、一時一五分前だった。
そのとき三キロほど北方に、タリバ族の一群があらわれた。彼らの叫び声と、全速力で走ってくる馬の疾走する響きとが聞こえた。
「二〇分で、ここまで来るな」と、ケネディが言った。
「草だ! 草だ! ジョー、一〇分以内に飛び上がろう!」
「はい、先生」
ヴィクトリア号は、三分の二ほどふくれた。
「さあ、みんな、さっきのようにネットにつかまるんだ」
「よしきた」狩猟家がそれに答えた。
一〇分すると、気球はすこし揺れて、飛びたつ気配を見せた。タリバ族が近づいてきた。あと五〇〇歩ほどだった。
「しっかりつかまってろよ」と、ファーガソンが叫んだ。
「だいじょうぶです、先生! 心配いりませんよ!」
博士は足で、火のなかへあらたな草を押しやった。
温度が上がったのですっかり膨脹した気球は、バオバブの枝をかすめて飛んでいった。
「出発だ!」ジョーが叫んだ。
モスケット銃の銃声が、それに応じた。一弾が彼の肩を傷つけた。だがケネディは身をかがめて、片手で彼のカービン銃を撃ち、敵の一人を地上に倒した。
復讐することのできない怒りの叫びが、二四四メートルも上昇した気球に向かって起こった。激しい風に出会った気球は不安な揺れ方をしたが、そのとき勇猛果敢な博士とその仲間とは、目の下に滝の深淵をながめたのだった。
一言も口をきかずに一〇分後には、三人の勇敢な旅行者たちは、すこしずつ向こう岸に降りていった。
そこには、フランス軍の制服を着た一〇人ほどの一団が、驚き呆れ、びっくりして立っていた。川の右岸から気球が飛びたつのを見たときの彼らの驚きを想像したらいい。まず彼らはそれを、一つの気象現象だと思った。だが隊長の海軍大尉と海軍中尉とは、ヨーロッパの新聞で、ファーガソン博士の大胆な計画を知っていた。そして彼らは、すぐにことのしだいをさとった。
気球はすこしずつしぼんで、網につかまっている勇敢な搭乗者とともに下降してきた。だが、それが陸地にまで達することができるかどうかは、疑わしかった。そこでフランス人は川のなかに突入し、ちょうどヴィクトリア号がセネガル川の左岸から数メートル離れたところに落ちたとき、三人のイギリス人を迎えたのだった。
「ファーガソン博士!」大尉が叫んだ。
「そうです」と、博士は静かに答えた。「これが二人の友人です」
フランス人は旅行者たちを川から連れだした。なかばしぼんだ気球は急流に押し流されて、巨大なあぶくのように、セネガルの流れとともにグイナの滝つぼのなかにのみこまれてしまった。
「かわいそうなヴィクトリア号!」ジョーが言った。
博士は涙をこらえられなかった。彼は腕をひろげた。その腕のなかへ、感動に胸つまらせて二人の友は飛びこんだ。
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四十四 大団円
川岸にいた小隊は、セネガル総督から派遣されたものだった。この小隊は二人の士官、デュフレーヌ海兵隊大尉とロダメル海軍中尉、それに軍曹一人と水兵七人で構成されていた。彼らがファーガソン博士到来の証人になったとき、二日前からグイナ守備隊の建物をどこに建てたらいいかと調査中だったのである。
三人の旅行者がどんなに歓迎されたかは、容易に想像できる。この大胆きわまる計画の成功を確認することのできたフランス人は、サミュエル・ファーガソン博士にとって、このうえない証人となった。
それゆえ博士は、グイナの滝に到着したことを公式に証明してくれるよう彼らに頼んだ。
「報告書にご署名ねがいますでしょうな?」と、彼はデュフレース大尉にたずねた。
「承知しました」と、大尉は応じた。
イギリス人たちは、川岸に建てられた仮の屯所に案内された。彼らはそこで、心のこもったもてなしと、おびただしい食糧とを見いだした。報告書はつぎのように作成され、今日それはロンドン王立地理協会の記録書類として保存されている。
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われわれは本日、サミュエル・ファーガソン博士と二名の同僚リチャード・ケネディ、ジョゼフ・ウィルソン〔ディックはリチャード、ジョーはジョゼフの愛称である〕が気球の網につかまって到着したことを証明します。上記の気球はわれわれからやや離れた河床に落ち、流れに運ばれてグイナの滝に沈みました。本報告書を有効ならしむるために、下記の各氏と連名でここに署名するものであります。――一八六二年五月二四日、グイナの滝にて作成す。
サミュエル・ファーガソン、リチャード・ケネディ、ジョゼフ・ウィルソン。海兵隊大尉デュフレーヌ、海軍中尉ロダメル、軍曹デュフェイ、水兵フリポー、マイヨール、ペリシェ、ロロワ、ラスカルネ、ギヨン、ルベル。
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ファーガソン博士とその勇敢な仲間との驚嘆すべき横断旅行はここに終わり、忌避することのできない証人たちによって、ここに証明されたのである。彼らははるかに友好的な部族の国で、フランスの友人たちと過ごした。それらの原地人たちは、しばしばフランス軍の建物を訪れるのである。
彼らがセネガル川に着いたのは、五月二四日の土曜日だった。その月の二七日に、彼らは川のやや北にあるメディーヌ川の屯所に着いた。
そこでもフランスの軍人は腕をひろげて彼らを迎え、歓待のかぎりをつくした。博士とその仲間とはほとんど待たずに小さな蒸気船バジリック号に乗って、セネガル川をくだって河口に向かった。
一四日後の六月一〇日に、彼らはサン=ルイに到着した。そこでは総督が盛大に出迎えてくれた。旅行者たちはすっかり落ち着きを取りもどし、疲れを回復していた。話を聞きたがって集まってくる人びとに、ジョーはまずこう言った。
「わたしたちの旅行なんて、結局大したものではありませんでした。感激を味わいたいと思うんでしたら、こんな旅行は計画しないほうがいいですね。結局つまらんものですよ。チャド湖とセネガル川の事件がなかったら、きっとわたしたちは退屈のあまりくたばってしまったでしょうよ」
イギリスのフリゲート艦が出航準備をととのえていた。三人の旅行者はそれに乗船して、六月二五日にポーツマスに到着し、翌二六日にロンドンにもどった。
ロンドン王立地理協会で彼らが受けた熱烈な歓迎については、ここでは記すまい。ケネディはただちに、その有名なカービン銃を持ってエジンバラに向けて出発した。老妻を安心させようと急いだのである。
ファーガソンとその忠実なジョーとは、われわれがいままで知っていたとおりの人柄だった。だが彼らのあいだでは、当人たちがそれと気づかない一つの変化が生じていた。
いまや彼らは、二人の友人になったのだった。
ヨーロッパじゅうの新聞が、この大胆な探検家たちに、絶賛の言葉を呈した。『デイリー・テレグラフ』紙がこの旅行の特集号を出したときは、その発行部数は九七万七千部に達した。
ファーガソン博士は、ロンドン王立地理協会における講演会で、その気球による探検旅行の報告をした。そして彼は三人を代表して、一八六二年度のもっとも著名な探検家に贈られる金賞を授与されたのである。
バルト、バートン、スピークその他の先輩によって認められたさまざまな事実や地理上の位置は、ファーガソン博士の旅行によって、まずきわめて正確に確認されたわけであって、現在スピーク、グラント両氏の探検隊、ホイグソン、ムンチンガー両氏の探検隊は、あるいはナイル川の源流めざし、あるいはアフリカの中央めざして進んでいるが、われわれはそのうちに、東経一四度から三三度のあいだにひろがる広大な土地におけるファーガソン博士自身による諸発見の正しいことを確認することができるであろう。 (完)
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[解説]
ジュール・ヴェルヌ……その生い立ちから文壇デビューまで
[#地付き]マリ=アロット・ド・ラ・フュイ
港町ナント
大西洋にそそぐロワール河畔のナントは、摂政時代にあってはロワール河の船主や商人たち、それに西インド諸島の居住者といった特権階級によって占められていた。
一七二三年に彼らのなかの二四人が、この町のまんなかにある所有者もはっきりせず見捨てられたままになっていた砂地の小さな島を手に入れることを思いついた。たった一人の住民であるグロニャール風車の粉ひきは反抗した。彼は風車に高い値をつけた。ブルターニュの代官、フェドー・ド・ブルーはその譲渡証書を裁下し、未来の島をフェドー島と命名した。かくてその地に二四の豪奢な家々が、表通りのケルヴェガン街に沿って建築されたのである。
一八二七年二月一九日、ナントの市役所の戸籍簿とサント=クロワ教区のそれに、つぎのように記載された。
「プロヴァンの裁判官ガブリエル・ヴェルヌとマスティ・プレヴォ夫人の子息ピエール・ヴェルヌは、ジャン=オーギュスタン・アロット・ド・ラ・フュイとアデライド・ギロシェ・ド・ラペリエールの息女ソフィと結婚し、フェドー島オリヴィエ・ド・クリソン街の両親宅に居住せり」と。
それから一年後の一八二八年二月八日の正午に、長男のジュール・ヴェルヌが生まれたのである。
母方のアロット・ド・ラ・フュイ家は代々海運業をしていて、ヴェルヌが生まれたとき、母方の祖母アデライドは「おじいさんみたいに変わり者にならなければいいが」と言ったという。祖父ジャン=オーギュスタンは永遠の航海者であって、夢のような事業をくわだてては、つねに失敗してばかりいたからだった。
ヴェルヌという名は『榛《はん》の木』を意味するヴェルヌもしくはヴェルニュという語から出たと言い伝えられている。
港町ナントは、昔はアフリカ向けの黒人狩りの船や、西インド諸島から香料を積みこんでくる船で賑わった地で、ジュールが生まれたフェドー島はいわば一隻の船といってよく、毎日ジュールは港に出入する外国航路の船をながめては未知の国にあこがれ、帆船《はんせん》に乗って海洋を渡ることを夢見ていた。こうした生活環境や船乗りの血筋が後のジュール・ヴェルヌを形成したのであって、海を愛し、またみごとに海を描いた彼の精神は、このころよりすでにして育《はぐく》まれていたのであろう。
ジュールは六歳のとき、遠洋航路の船長の未亡人であるサンバン夫人の経営する私塾に寄宿することになったが、夫人は行方不明になった夫を三〇年も待ちつづけていたという経歴の持ち主であって、後年(一八九一年)に刊行された『ブラニカン夫人』のモデルは、この未亡人であると言われている。
一八三六年にジュールは一つ違いの弟ポールとともに、サン=ドナシアン神学校の寄宿生となった。この兄弟はたいへん仲がよく、ポールは後に遠洋航路の船乗りになるのだが、海へのあこがれは兄弟共通のものであって、二人は外出日には港にやってきて、あきずに船の出入りや荷の積みおろしを眺めていたという。
当時のジュールを追慕しての教師の言葉によれば、この少年はやせていて手入れのよくない髪をして、竹馬にまたがって走りまわり、運動ならなんでもござれの腕白小僧であって、だがその腕白小僧のポケットには、よく発明や航海のプランを書いたノートがはいっていたそうだ。ヴェルヌの母方の系統には航海者や船主が多くいたので、祖父たちの海についての話は、少年ジュールの夢を刺戟したことであろう。ジュールのすぐ上の姉のカロリーヌが、『アタラ』『ルネ』の作者シャトーブリアンの姉であるポーリーヌと結婚したタランシスク・ド・シャトーブール画伯の後添になったので、よくその家に遊びに行ったジュールは、とくにシャトーブリアンのアメリカにおけるさまざまの冒険談に聞きいったと言い伝えられている。なおジュールには弟ポールのほかに、マチルド、アンナ、マリの妹三人があったことを言い添えておこう。
ところで、「子どもたちよ、あまり勉強しなかったことを喜んだらいい。がち勉する子供はかならずといっていいほど間抜けな青年になるからな。そして愚かな大人になるもんだよ」と、後に彼自身が述べているところをみると、どうやら学校での成績はあまり良くなかったらしく、じじつジュール少年は教室では平凡な生徒であって、だが休み時間の校庭では、がき大将だったと伝えられている。
このころ父親ピエールは、代訴人の事務所がうまくいかなかったためか、サン=ジャック街六番地に広いアパルトマンを購入し、またナントの郊外シャントゥネに別荘をかまえていて、母親は三人の娘をつれてよくそこで過ごしたという。
一八三九年の夏、ジュールが一一歳のとき、彼は朝の六時にシャントゥネの別荘を出たまま、昼過ぎになっても帰って来なかった。その朝、ナントを出帆した三本マストの帆船ラ・コラリー号に彼が乗りこんだという情報が、ナントの事務所の父親の耳にはいったのである。この船は、その日の夕方、下流のパンブフに寄港するだけで、あとはインドへ直航するはずだった。ピエールは早速、蒸気船に乗って、もう一歩のところでパンブフで息子をつかまえることができた。このような思いきったことを敢えて決行したのは単なる冒険へのあこがれではなくて、ジュールは愛するいとこのカロリーヌ・トロンソンにさんごの首飾りを買ってきたいばかりに、波止場で知り合った少年から見習水夫の契約書を買いとって、遠洋航路の船に乗りこんだとのことだった。連れもどされた彼は父からきびしい処罰を受け、しばらくのあいだはパンと水しか与えられなかったそうである。彼はそのとき、「もうこれからは、夢のなかだけで旅行します」と誓っているが、このとき少年ジュールの心に芽生えた父の権威への反抗は、やがて彼の人生行路において見受けられるようになる。一八四四年、ナントの中高等学校《リセ》に入学したはじめのころはごく平凡な生徒であったが、だんだんと彼らしい性格があらわれてきて発明や発見に異常な熱意を示しはじめ、また文学、とくに劇作に興味をもちはじめて、ポーの小説を耽読したり一四行詩をつくったりした。また地理や天文学に打ちこんで、古本屋をあさっては本を買いこんできて部屋に積みかさね、世界地図を壁にはったり、望遠鏡を買ってきたりした。
カロリーヌ・トロンソンは母方のいとこで、ジュールとはおない年だった。彼が少女の寄宿している学校にシャントゥネで摘んだ花を持って面会に行ったり、ラ・ゲルシュの大叔父プリュダンの農場でみんなといっしょに楽しく休暇を過ごしたりしているうちはまだ少年らしいうぶな初恋であったが、中高等学校で修辞学級、哲学級を終了し、大学入学資格《バカロレア》を取得すると、ジュールは一八四七年一九歳のとき、ラ・ゲルシュの農場ではじめていとこに求婚したのである。ところがすでにナントの社交界にデビューして、もてはやされていたカロリーヌは、おない年のいとこの求愛を聞いて噴きだしてしまったのである。その場はつくろったものの、その直後にカロリーヌが婚約したと聞いたときの彼の屈辱感のいかに大きかったことか! この失恋は彼の生涯に大きな傷痕を残したのであって、心の奥ふかくに女性に対する不信感を植えつけたのだった。
パリ上京
ジュールは父の事務所を手伝っていたが、パリで音楽の勉強をしていた親友イニャールに心の痛手を訴えた。その友からの誘いもあり、父も息子に自分と同じ道を進ませたく思っていたので、法律の勉強のために一八四七年四月にパリに上京する。そして二週間聴講してから、法学部の第一年次試験に合格したのだった。その後、彼はプロヴァンの父方の祖父のもとに休養しに赴いたが、そのときカロリーヌの結婚通知に接したのだった。かねて覚悟はしていたものの、改めて思いしらされた彼はナントに帰っても、気は滅入るばかり、翌四八年、二月革命の終わった一一月に、再度上京することになった。このときパリのイニャールに送った手紙で、彼は失恋の痛手を訴えたのち、すでに彼のうちに芽生えた野心を知らせている。「だれもわたしを必要としないなら旅に出よう。しかしいつかは、このジュール・ヴェルヌという哀れな青年がどんな素質をもっているか、そのうちみんなにわかってもらえるだろうよ」と。彼は心ひそかに、演劇によって身を立てようと決意したのだった。少年のころから|ひょうきん《ヽヽヽヽヽ》なところがあり、弟妹やいとこたちに喜劇を演じて観せていた彼は、一八歳のとき韻文で悲劇を書き、人形劇の一座に持ちこんだこともあったのである。二度目のパリ行きはヴェルヌにとっては、法律の勉強は口実にしかすぎず、前途にはもはや文学の栄光しか思いみなかった。
当時のパリの演劇界は、ロマン派すでに衰え、エミール・オージエやデュマ・フィスの風俗劇とか、ラビッシェの喜劇、メイヤックやアレヴィの軽喜歌劇が流行していた。ヴェルヌがまずめがけたのは、その後者だった。
同郷の友人エドゥワール・ボナミと同宿して三度の食事も満足にできないような貧しい生活を送りながら、彼は読書と劇作に打ちこんだ。やがて叔父ド・シャトーブールの紹介で、ド・ジョミニ夫人、マリアニ夫人、バレール夫人らのサロンに出入するようになる。ジュールが『三銃士』の作者であり、当時の演劇界に君臨していたアレクサンドル・デュマ・ペールの知遇を得るにいたったのは、バレール夫人のサロンにおいてであった。かくて彼は一八四九年二月に再開された「史劇劇場《テアトル・イストリック》」において上演されたデュマの『三銃士の青春』の初日に、デュマとともに同じ桟敷で観覧することができたのである。
翌一八五〇年、ジュールは劇『火薬の陰謀』と『摂政時代のドラマ』、一幕物の韻文喜劇『折れ麦わらの賭』をデュマのもとへ持参する。デュマは『折れ麦わらの賭』を認めて、六月一二目に彼の「史劇劇場」で上演してくれた。まあ評判もまんざらわるくはなく、一部では好評だった。そのころ彼は若い作家や画家や音楽家らと「無妻者一一人組《オンズ・サン・ファム》」という名の会食クラブをつくって、毎週一度あつまることにした。オンズ・サン・ファムの原語Onze sans femmeは「一一〇〇人の女」Onze cents femmesという意味にも通じるわけで、ヴェルヌはその後結婚してからもなおこの無妻クラブに出席しつづけていたので、細君を憤慨させたという逸話を残している。
休暇でナントに帰ったジュールは、パリで上演された彼の芝居の評判を伝え聞いた地元の要請をいれて、一一月七日に「グラスラン座」で『折れ麦わらの賭』を上演する。おおむね好評だったが、「国民西部通信」のエヴァリスト・マンガンはいささか辛辣な評をくだしている。『折れ麦わらの賭』の文体上の素質を適確に評価してから、貴族のしるしである赤いかかとの靴をはいているこの『マリヴォー趣味』は、五〇歳を過ぎた夫たちにははなはだ退屈きわまる『微細画法で描いた老人の世界だ』ときめつけたのである。この時代感覚のずれを感じさせるとの評は、彼にはよほどこたえたらしく、論文を提出しなければならないという口実のもとに急遽パリにもどったジュールは、『赤いかかとの靴をはいているマリヴォー趣味』と言われたことをひどく気にかけ、『科学が奇蹟を成し遂げ未知の分野に飛躍しているというのに、切り開かれた道のなかでまごまごしている』彼自身を大いに責めている。かくして彼は時代の空気に直接触れる必要を痛感し、いよいよ劇作と科学の勉強に没頭する。
まず三幕物の『学者たち』、つぎは道化師の演じるヴォードヴィル『わたしを笑う者』、これはデュマが読んで腹をかかえて笑い、「ジムナーズ座」へ持っていくようにと勧めてくれた。ついでミッシェル・カレと共作でパントマイム『目かくし鬼ごっこ』の脚本を書く。これはナント出身の友人のイニャールの作曲で、一八五三年に上演された。
さて法科の最終の論文試験が通り、ジュールは一応学業をおえたことになった。もはやパリにとどまっている必要はない。すぐに父親から、帰郷してナントの弁護士会に登録するようにと言ってきた。進退きわまった彼はこのように返事を書き送った。
「ある宿命がぼくをパリに釘づけにしているのです。まあぼくは一人前の文士にはなれるでしょうが、弁護士だったら悪評しか得られないでしょうね。なにしろ、およそ物事の喜劇的な面か、または芸術的な見方しかできなくて、はっきりした現実的な見方をすることはまったく苦手なんですから」
それに対して父親は重ねて、弁護士がいやなら代訴人の事務所だけでもやってくれと言ってきた。未来の栄光を夢みる青年は断固として父親の申し出をことわったのである。「ぼくに向いている唯一の仕事は、いま歩んでいるこの道、文学しかありません。どうしてもお父さんの申し出に応じられないのです。まあぼくの判断によれば、ぼくがやったら事務所はだめになってしまうでしょうよ。どうか、あなたを愛し尊敬している息子をお許しください」
父親のピエールはがっかりしたが、なお望みは捨てない。一方息子のほうは自力で生活していこうと図る。「家庭博物館」誌の編集長は彼の書いたものを二篇読んでくれたが、これらは七月にならなければ掲載されないし、原稿料は支払われない。彼は法学の家庭教師をしたり、法律事務所の臨時雇になったりして、どうやら糊口《ここう》の資を得ていた。一八か月のあいだ、彼は朝の七時から晩の九時まで勉強しなければならなくなった。彼は一日の大部分を「国立図書館」へ行って読書をして過ごしたのだった。
科学と地誌への志向
一方デュマの「史劇劇場」は一八五〇年一〇月に閉鎖し、『学者たち』も『わたしを笑う者』も「ジムナーズ座」の舞台にはかけられなかった。ヴェルヌの関心は一途《いちず》に科学に向けられる。じじつ時代の動向は新しい空気をはらんでいて、一九世紀後半における多種多様の発明発見は、ジュールに未知の世界への夢をかきたてた。彼は芸術作品としての科学小説のグラフを思い描く。それは現実的であると同時に叙情的であり、昨日のロマンティスムと来たるべきサンボリスムのあいだに架けられた数多くのアーチをもつ陸橋であった。彼が失明の探険家ジャック・アラゴのもとをしばしば訪ねたのも、このころである。当時ヨーロッパは黄金熱に浮かされていて、アラゴは金鉱探険隊の一団を率いて、アルゼンチンのコロラドの新しい金鉱床へ行ってきたばかりだった。ジュールはそのサロンで、多くの地理学者や内外の著名な探険家と知り合った。そして一八五一年に彼は「家庭博物館」誌にクーパーふうの冒険小説『メキシコ海軍最初の船艦』や、新型の気球を発明した搭乗者が吊り籠にひそんでいた狂人と空中で渡り合う短篇『気球旅行』(『空中の悲劇』)を発表した。ことに後者は、彼の出世作ともなる『気球旅行の五週間』の先駆をなす小品である。そのころ彼はエドガー・アラン・ポーの『異常な物語』の原書を愛読していた。ポーのおよぼした影響は彼の作品のいくつかから汲みとれる。
そのころ彼は、階下まで一二〇段もおりなければならないボンヌ=ヌヴェール通り一八番地の屋根裏部屋に住まっていた。あいかわらずの貧乏ぐらしで、地理や数学や物理などによって科学冒険小説のための知識を貯え、未来の作家を夢見ていた彼に、思いがけなく「オペラ座」の書記の仕事が舞いこんで、年収一二〇〇フランを約束してくれたのである。
かつての「オペラ国民劇場」である三度目の「オペラ座」は、デュマが支払不能のために閉鎖するにいたった「史劇劇場」の小屋に移ってエドモンによって運営されていたが、それがジュール・セヴェストの支配するところとなった。ヴェルヌを書記として雇い入れたのは、そのセヴェストだった。
両親たちは彼がこのような職についたことはおもしろく思わなかったが、ジュールは大いに満足していて、彼がこのようなことをしていることをナントの人たちに隠している両親をからかう手紙を劇場の頭書のついている便箋をわざと使用して出したりしている。アルフレッド・ド・ミュッセがいままで彼が無視しつづけてきた古典主義を奉じている連中の機嫌をとってまでして、一八五二年五月二七日にアカデミー入りしたことを嘆いたのも、このころだった。「おまえが関係したいと思っている流派はクラシックか、それともロマンティックか?」との父親の質問に対して彼は、「流派ということでしたら自分の流派しかありませんよ」と答え、だがミュッセの節操のなさを嘆きながらもやはり彼はミュッセを愛していたのであって、「アルフレッドが亡くなる前に、アカデミーの円屋根の下で書いた喜劇のような」自由で芸術的な傾向を示す題材を、彼もまたイタリアのルネサンスのなかに求めていたのだった。
だが彼は「家庭博物館」誌に、それとはまた違った傾向の小喜劇『カリフォルニアの城、もしくは転がるおやじには苔《こけ》むさず』を掲載した。これは「転がる石《ピエール》には苔むさず」つまり「職業を替えてばかりしていては身につかない」意なのであって、『石《ピエール》』を『|おやじ《ペール》』に置き替えることによって「迷いから覚醒させられて家庭の団らんへ帰った黄金採集家」を描いたのだった。なかなか巧みな筋のはこびで考えさせる作品であり、いかにもこの題にふさわしい洒落《しゃれ》の多い脚本である。
四月には、歴史小説と銘打って彼としては珍しい恋愛小説『マルティン・パス』を「家庭博物館」誌に発表した。ペルーのインディアンとスペイン人、それに混血人を登場させて、人種上の怨恨を背景に恋愛上の葛藤を描いた短篇で、小数民族に対する作者の共感がうかがわれ、評判もかなり良かった。この短篇によってジュールは舞台におけるよりもはるかに劇的効果を示したわけであって、その文体を「両世界評論」誌の一編集者が激賞したのだった。父親のヴェルヌ氏は自分が仲介の労をとるからアカデミー賞を獲得する運動をしたらいいと勧めたものだ。それに対してジュールは、そんないやらしいことに術策を弄するくらいなら、劇場の支配人たちのまわりで策謀をはかったほうがまだましだと言い送っている。彼はレオナルド・ダ・ヴィンチとラ・ジョコンダとの精神的な恋愛をテーマにしたイタリアふうの喜劇を書きあげ、大いに喝采を得ようと期していたのだった。
この喜劇は遺憾ながら未発表に終わったが、ミシェル・カレとの共作になるオペレッタ『目かくし鬼ごっこ』は一八五三年四月二一日に上演されて大いに受け、繰り返し四〇回も再演されて、収入もはいり、また「オペラ座」の書記の手当も増額されたので、ジュールは生活にいくらか余裕をもつことができた。五二年末にルイ・ナポレオンによるクー・デタが行なわれ、パリは第二帝政を迎えることになる。ジュールは二番目の小説『老時計師ザカリウス』を書きはじめる。その年彼は友人ダヴィッド・ピトフォルドを失い、つづいて親友ジュール・ロランが肺病で逝去する。二八歳にして愛妻を残して亡くなったこの友について、彼は父のピエールに宛てて心情を訴えている。
この手紙を読むと親子の仲はまた縒《より》がもどったようで、『マルティン・パス』を読み、その成功に気をよくしたピエールは、なんとかして息子を芝居道から作家へと転向させたいものだと思っていた。息子も父親の気持を心得ていて、執筆中の作品について書いている。「おとうさんは『老時計師ザカリウス』のなかに、前作のなかで欠けていたとおっしゃった人間的な観察をいくらかは見いだされるでしょう。じじつ、日常生活のほんのちょっとした細かいことから哲学的な考えが生じることはあり得ることで、その考えを作品の経過や結末のなかに溶けこませることは作者の務めであるとお考えになるべきです。ぼくたちの生活のなかの偶発事件がきっかけになって、それが道徳上の考察に素材を与えないとはかぎりませんものね。これはたいへん重大なことです……たとえばぼくの懐中時計が盗まれたことが、幻想的な時計師ザカリウスの人物の着想にまんざら無関係ではなかったと申さねばなりますまい」
ジュール・ヴェルヌと親友イニャールとはボンヌ=ヌヴェール通り一八番地の同じ階に住まっていたが、ある晩ヴェルヌが『目かくし鬼ごっこ』の作意をききに隣室へ出向いていたとき、自分の部屋のドアを閉めるのを忘れていたのだった。帰ってみたら、置いてあった懐中時計がなくなっていた。翌日二人で警察へ届けに行くと、警察から時計の特徴をきかれた。「きみの時計には、がんぎ車がついてるかね?」――「がんぎだって、へえ、そりゃなんのことだい!」ヴェルヌはそう叫ぶと、気ちがいのように高笑いして立ち去った。彼の想像力はかきたてられ、この偶発事件によって彼の注意は時計の輪列に向けられたのだった。かくして一六世紀におけるジュネーヴの時計師ザカリウスなる人物が創られたのであって、この神を恐れぬ科学万能主義者に、時計の|がんぎ車《エスケープメント》、振り子を調整するための歯車装置の発明を帰せしめたのだった。
一八五四年になってジュールは困った局面にぶつかった。「オペラ座」の仕事が過重になったので、彼個人の仕事をする暇がなくなったからである。彼はヴィエイユ=デュ=タンプル街に向かってひらかれた薄暗い小部屋にひきこもって、憂鬱な数か月をすごした。若い書記はときどきやっとのことで脱けだして、アンリ四世高校へかけつけては、そこでいとこの数学者アンリ・ガルセと積もる打ち明け話に憂さをはらすのだった。
この状態は夏になっても変わらなかった。ますます元気なく、いたずらに興奮しやすくなったジュールは、はげしい不眠症にかかったのである。眼が閉ざされる前に、朝の六時が鳴るのを聞いてしまうのだった。不眠の翌日は頭が重く、耳鳴りがした。顔面が麻痺して、けだるく、なにもする気力がない。舌がざらざらして、口を閉じていることができず、まるで獲物を噛んでいるボア蛇のようによだれを垂らす始末! ついに堪りかねて、なけなしの五フランをはたいて彼は、ダンケルクのアロット家を訪ねたのである。
過労のために片目しか見えない彼にも、この北洋の海はすばらしい魅惑をあたえた。ダンケルクの港をぶらついているうちに彼は、凍る海に出発しようとする漁師たちを見たのだった。パリへ帰ると彼は、窒息させられるような暑熱にうだりながら、ダンケルク生まれの二人の婚約者たちをテーマにした中篇『北海の越冬』を書いたのである。これらの中短篇は、いずれも後年の彼の作品中に開花する要素の萌芽をそれぞれ見せていることを銘記すべきであろう。
クリミヤ戦争に出征した軍隊内にまんえんしたコレラはヨーロッパじゅうにひろがって、「オペラ座」の支配人もコレラに罹って死んだ。この死は「オペラ座」からジュールを解放した。「オペラ・コミック」の支配人のエミール・ペランが「オペラ座」の支配人をも兼任していたのだが、彼は音楽の選定についてジュールと意見が合わず、しかも手当も考慮しないで舞台監督の仕事まで押しつけたのだった。ヴェルヌは拒絶した。ついにその年の一〇月に彼は、入ったときにもました喜びをもって、「オペラ座」を去ったのである。彼はわずかながらも貯えがしてあったので、ボンヌ=ヌヴェール通りの屋根裏部屋で、希望に胸ふくらませながら仕事に没頭することができたのである。
彼の求めたものは、文体上の秩序の確立にあるようだった。彼は語彙を豊富にするように努め、術語のみを使用して、厄介な遠わましな言い方はできるだけ避けようとした。彼は未来の目標に適当な専門語を持ちたいと欲したのだ。ギヨーム・アポリネールは、いつもこう言っていた「ジュール・ヴェルヌの文体たるや、ただ実体を示す名詞だけだ」と。ジュールはじじつ、形容詞や分詞などをも名詞化することに努めた。彼は語っている「ぼくは朝から晩まで仕事をした、必要やむを得ないときしか外出しないで。こういった作業は異常なまでに楽しかった」と。彼は屋根裏部屋から眼下にうごめく群衆をながめながら、それらからヒントを得て、五幕の風俗劇『現代の仕合わせな人びと』を書いた。
ジュールは、セバストポール陥落後ふたたび活気を取りもどした社交界に出入りするようになった。友人で医者のヴィクトル・マリがサン=ジェルマン=デ=プレ教会で結婚式を挙げたのを、「葬式の行列を通るのを見て異様な感動を覚えた」といって母親に書き送ったのも、そのころである。だが結婚に対してそのようなペシミスティックな見方しかできなかった彼も、ついに結婚に踏みきることになったのである。
ナダールとエッツェルとの出会い
一八五六年五月、アミアンの友人ルラルジュが結婚することになり、彼はその席上で新婦の姉で彼より二歳年少の若い末亡人オノリーヌ=アンヌ=エベ・モレル夫人と知り合った。彼女には先夫とのあいだに娘が二人あったが、すらりとして健康そうな、きれいな声をした愛敬のある婦人だった。だが家庭をもつには、当然それだけの収入を必要とする。ジュールは彼女の兄の紹介で、株式仲買人になろうとして、その権利を買うために父に出資を仰ぐことにした。これには、あとを継がせることを断念して事務所まで処分し、息子が作家として一家をなすことに期待をかけていた父親としては、新たな驚きだった。それに対してジュールはこう書き送っている。「文学を捨てようというのではありませんよ。なにしろぼくは、文学と一体化してしまっているのですからね。ただ文学と並行して実入《みいり》のある職業に就こうとしているのです。ひとり者の生活がやりきれなくなりました。そろそろ身を固めなければならない年になったんですね。家にいても、気が滅入ってならないのです」。それに株の仲買の仕事はたいして時間をとらないので、じゅうぶん余暇を利用して文学に打ちこめるというのだ。仲買人の権利は五万フランもする。なんども手紙の遣りとりがあって、ついに「ぼくは幸福になる必要があるので、ただそれだけなのです」の言葉がピエールを屈服させる。それにオノリーヌの身元を調査したところ、父親のド・ヴィアヌ氏は胸甲騎兵の退役大尉でアミアンの名家であり、母親も評判がよく、若い未亡人とその二人の連れ子についても何にも言うことがなかった。もはや息子の結婚に反対する理由はなかった。
結婚はパリで挙げられるはずだった。ジュールは式には両親と二人の妹(弟のポールは航海中なので)それと二人の立合人の出席しか求めなかった。彼はアミアンの人にはナントで結婚するのだと言い、ナントの人にはパリで結婚するのだと、またパリジャンにはアミアンで式を挙げるのだと言って参列することをこばんだという。
一八五七年一月一〇日に、ひっそりとした結婚式がサン=テュジェーヌ教会で挙行された。ジュールはこのようなことを書き送っている。「ぼくは結婚しました、白い燕尾服を着て、黒い手袋をはめてです! ぼくは何もわかりませんでした。ただ役場の雇員と教会の小使、香部屋係、走り使いの小僧に金をやっただけです。みんなは『新郎殿!』と呼びましたよ。ぼくのことだったのです! ありがたいことに、一二人しか見物人はいませんでした!」白装束に黒い手とは縁起でもない。このような点から彼が自分の結婚をほんとうに喜んでいるかという疑問も生まれるわけだが、結婚して一週間後には当時の有名な写真屋デルバールに記念写真を撮りに行ったり、ルーヴル美術館のミロのヴィーナスの前では彼はオノリーヌをかえり見て、「ここにおまえがけっして嫉妬されることのないたった一人の女性がいる」と言ったりしているところをみると、新郎はまんざらではなかったらしい。そのあと二人はプロヴァンへ行き、マレー街のサロンで二部合唱を歌ったりしている。
さてこれから株の仲買人と原稿書きという二足のわらじの生活がつづくわけだが、朝五時に起きると彼は夜着の上にズボンをはき、オノリーヌのバンドを締めて、台所へ行って何か手あたりしだいに口へほおりこむと、一〇時まで読んだり書いたりノートをとったりして過ごす。それから勤人になって昼食をとり、株式取引の立会部屋に出かけるのである。だが彼が証券取引所に出入して過ごした一〇年間の生活体験は、たんに収入面ばかりではなく、彼が小説を書くのに大いに役立ったのだった。彼は金属、ガス、海運、鉄道などあらゆる種類の株式をあつかうことによって、第二帝政治下における科学技術の発達に刺激された産業や文化の進展と、その結果としての社会生活の急速な変化とを、もっとも具体的に身にしみて体得することができたからである。
そして一八五九年七月二五日に、彼は親友イニャールとともにナントを発って、スコットランドへ向かったのだった。彼としてははじめての大旅行で、後年の『驚異の旅』シリーズものを書くのに大いに役立ったと言われている。一八六一年六月一五日、彼はイニャールとともに再度北欧旅行の途に就いた。だが同年八月五日に長男のミシェル誕生のしらせを聞いて急いで北欧旅行から帰国したジュールは、当時のパリのエリートたちを招じ入れていた、写真家であると同時に作家でもあり、機械や天文学における発明家でもあったナダールのサロンに出入りするようになった。ナダールは本名をフェリックス・トゥルナション(一八二〇―一九一〇)と言い、そのころ気球「巨人号」を建造中であった。ヴェルヌはサロンの一隅で、ナダールの言葉を熱心にノートし、設計図を写したりした。
ナダールの造った直径三〇メートルを越える大気球「巨人号」は、一八六三年一〇月四日、シャン・ド・マルスの青空に放たれたが、わずかに一〇キロたらずの空中旅行をしただけで、マルヌ川べりのモオに不時着陸してしまった。この巨人号はその後何度目かの飛行でハノーヴァまで飛び、世人の耳目を驚かすにいたるのだが、そのときはすでにヴェルヌは写しとったナダールの気球の設計図を基にして空想上の気球「ヴィクトリア号」を創造し、当時大評判だったリヴィングストンのアフリカ探検にヒントを得て、未知の大陸アフリカの上空を飛ばせたのである。
ヴェルヌ自身が本書においてアフリカ探検家たちについて触れているが、一九世紀にはいってからアフリカ探検はとみに盛んになり、アフリカに関する本も大いに刊行された。イギリス人宣教師のリヴィングストンが南アフリカを横断してヴィクトリア瀑布を発見し、その探検記『伝道旅行記』が刊行されたのは一八五七年であり、スピーク、バートン両大尉によるヴィクトリア湖発見は一八五八年であった。このようにヨーロッパじゅうにアフリカ熱がたかまっていたときに、当時にあってはまだなお物珍しかった気球によって秘境アフリカ大陸を横断し、ヴィクトリア湖からチャド湖に至る前人未踏の地を突破し、作中人物サミュエル・ファーガソン博士一行をしてナイルの源流を発見させたのだから、ヴェルヌの想像力たるや、じつに大したものである。ちなみにナイルの源流が実際に発見されたのは、一八七五年アメリカの探検家スタンレーによるのだが、ヴェルヌが指摘したとおり、やはりその水源はヴィクトリア湖であった。
だが、この『気球旅行の五週間』は、飛び立つまでが難航だった。結婚生活にはいったヴェルヌは五時に起床、すぐに読書と執筆にかかり、一〇時には取引所に出かけるという二足のわらじをはいていたわけだが、ときには夢と野心に胸おどらせる日があるかと思えば、ときには自信を失って意気消沈する日々も少なからずあった。一八六二年末に『気球旅行の五週間』を完成したジュールは、その原稿を二一軒もの出版社に持ち歩いたが、どこも引き受けてくれなかった。彼は腹を立てて原稿をストーブのなかに投げこんだが、そのとき大いそぎで原稿を火の中からひろいあげたのが細君のオノリーヌ・アンヌで、彼女はやけどをする危険をおかして原稿を救いだし、それをもう一度出版社に持って行くようにと夫にすすめたのだった。その最後の二二軒目が彼と同名のピエール=ジュール・エッツェル(一八一四―八六)で、この文学上の慧眼の持ち主は、ロマンティスムの文学はやがて衰微するものと思い、それに取ってかわる読者の求めるものを探していたのだった。科学冒険小説、これこそ産業革命をなしとげつつある時勢にまさにぴったりだった。だがエッツェルもさるもの、すぐには御輿《みこし》をあげない。原稿を渡してから二週間後にふたたび訪れたヴェルヌに彼は「なかなかおもしろかったが、しかし……」と原稿の欠点を指摘して訂正するようにとすすめた。そしてその後二週間して書き直された原稿を読んで、はじめてエッツェルは出版を快諾したのである。
『気球旅行の五週間』は翌一八六三年一月、新年の贈りものむきの本として刊行されるにいたった。はたしてこの小説は大成功をおさめ、まもなくしてヨーロッパ各国で翻訳刊行され、ジュール・ヴェルヌはこのSFによって一躍世界の人気作家となったのである。
エッツェルはヴェルヌが長年にわたって練ってきたその創作上の雄大な構想を聞くと、わが意を得たりとばかりに、長期の出版契約を結ぶことにした。それによると契約期間は二〇年で、ヴェルヌは『気球旅行の五週間』と同じくらいの規模の地理学的な科学小説を二冊、またはできるだけ短期間に四〇冊を書き、年間二万フランか、または一巻刊行ごとに一万フランを受けとるというものだった(「あとがき」のジャン=ジュール・ヴェルヌの記述とはちがう)。この契約はヴェルヌの人気がたかまるにつれて五回ほど更新されてはいるが、ヴェルヌ自身もこの契約を忠実に守って、たとえば一八七一年のパリ・コミューンでエッツェルの店が被害をこうむったとき、『海底二万|里《リュー》』を出版したいというアメリカ出版社からのたっての懇望をしりぞけて、彼は私財を投げうってまでしてエッツェルの店を修理させ、そこから出版させて大いに当てたという美談を残しているほどである。
ヴェルヌのこのような義理がたさというか、美談は少なからずある。ヴェルヌは彼に出世作の着想を与えてくれたナダールのことが忘れられず、後年『月世界へ行く』を書いたとき、彼はNadarをそのアナグラム(単語の綴りを置き替えて別の語を作ること)によってArdanなる人物に仕立ててロケットに乗りこませ、月世界を最初に訪ねた人類という光栄をナダールに与えた。(江口清訳)
(本原稿はジュール・ヴェルヌの姪マリ=アロット・ド・ラ・フュイの回想録『ジュール・ヴェルヌ、その生涯と作品』一九五三年アシェット刊の第一部、第二部を主とした抄訳というよりは自由訳とも言うべきものである)
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訳者あとがき
ヴェルヌが『驚異の旅』シリーズものを書きまくって、一九世紀フランス文壇にユニークな存在を占めるにいたるその端緒をなした本書は、一八六二年五月に書かれた。この彼の最初の科学冒険小説がどのようにして書かれ、どのような経路を経てその年の一二月にエッツェルから刊行されるにいたったかは、本書の巻末エッセイに詳述してあるし、本書を書くにあたって、ヴェルヌがボードレールのポーの翻訳を読んで、その『軽気球夢譚』や『ハンス・プファアルの無類の冒険』から創作のヒントを得たことについては、ここでは割愛し、ヴェルヌの『驚異の旅』シリーズが成功するにいたったその時代背景について、すこしく述べておこう。
一八四八年の二月革命で生まれた第二共和制は、わずかに三年九か月で、ルイ・ナポレオンが国民投票の結果ナポレオン三世として帝位を継いだことで破れ、第二帝政は、一八七〇年九月二日のナポレオン三世のセダンでの降服までつづく。そして、その二日後に国防政府の成立が宣言されるのだが、パリ・コミューンというプロレタリアート支配による最初の歴史的な実験を経た後、一八七五年一月に共和政体が議会の承認を得て正式に発足し、ここに第三共和制が成立するに至るのである。
ナポレオン三世の治世は功罪なかばすると言えよう。一九世紀の後半から七〇年代にかけては鉄道の敷設と鉄鋼業が大いに興り、動産銀行《クレディ・モビリエ》が設立され、鉄道に呼応して運河網も拡大され、また五三年にはジョルジュ=ウージェーヌ・オスマン男爵がセーヌ県知事に就任して、パリ市街地の大改造を行なったのだった。
オスマンはナポレオン三世の命により六〇年にいたるまでにパリ市街を整備、拡大し、美化したわけだが、それは皇帝も望んだように、パリから民衆の暴動を排除するためでもあった。つまり暴徒たちがバリケードを作るに役立っていたパリ中心部の狭い、入り組んだ街路に取って代わるに、軍隊の活動しやすい直線の幹線道路を作ったのである。エトワール広場から放射する十二の大通りもこのときできたのであり、ブーローニュの森、それに対応するヴァンセンヌの森といった大自然公園も、このとき作られた。第三共和制にあっても、この第二帝制の計画は継承されて、さらに多くの建築物が造営され、道路が建設された。オペラ座やモンマルトルのサクレ=クール寺院、ソルボンヌ大学等が竣工し、サン=ジェルマン街道、ラスパイ街道、オペラ通りが新たに開通された。
一九世紀の後半から二〇世紀にかけては科学が急速に進歩した時代であって、科学知識が一般大衆に浸透したことはよく知られているが、ヴェルヌの科学冒険小説が世に迎えられたのも、このような時代性を無視することはできない。ルイ・パストゥールも一八七一年三月に、リヨンの一新聞に、このようなことを書いている。「われわれの世紀は、科学と産業の驚くべき発展において際だっている。歴史上のいかなる時代にも、これほど短期間に、これほど大量の発明がなされ、これほど多くの新しい応用が、枝術と産業と物質的繁栄に向けられたことはなかった」と。産業革命の波はイギリスからフランスに押し寄せ、フランスでもイギリス同様に一八二〇年代から繊維工業を中心に徐々に行なわれていたが、それが前述したように第二帝政とともに、従来の木材、風力、水力による技術に、新たに鉄、石炭、蒸気のそれらが取って代わったのである。すなわち、水掻き車に代わってスクリュー推進器を具えた鋼鉄の汽船があらわれ、またフランスじゅうに道路網が発達し、汽車が従来の乗合馬車に取って代わる気運が生じた。一八五〇年には総延長三一〇〇キロであった鉄道が、七〇年には一万八千キロにまで至った。とくに鉄綱生産は、ベッセマー法の採用と相まって、世界第二位にまで躍進した。
普仏戦争の敗北により、フランスは五〇億フランの賠償金を課せられ、繊維工業や鉄綱業の中心をなしていたアルザス、ロレーヌを奪われて経済上大打撃をこおむったが、ティエール政権は短時日にして賠償金を支払い、フランスの経済は急速に立ち直り、いわゆるベル・エポックを迎えるにいたるのである。
さらに電信網の発達は情報の伝達を急速にひろめたのであって、従来の円筒式印刷機が輪転式に改良されたために大量印刷ができるようになり、新聞を安価に領布することを可能にさせた。ゴンクール兄弟はすでに一八六〇年に「生活は民衆のものになる恐れがある」と予言していたが、六六年一月二一日の日記には「新聞はサロンの生命を絶ち、民衆は上流社会のあとを継いだ」と、しるされてある。
時代は民衆の手に移りつつあった。銀行家ミヨーは一八六三年に、一スーの新聞「ル・プティ・ジュルナル」を発刊し、一般市民の読書欲を満たそうと試みた。売れゆきはたいへんよろしく、同時代の有名新聞の発行部数約一万に対して、なんと「ル・プティ・ジュルナル」は、発刊された年の一〇月にすでに八万三千部刷り、六九年には二八万七千部にも達し、第三共和制に入ると、同じ型の新聞「ル・マタン」「ル・プティ・パリジャン」「ル・ジュルナル」等と発行部数を競いながら、一八九二年には一〇〇万の大台を突破するに至った。またヴィルメサンは一八六五年末に日刊紙「事件」を刊行し、ゾラやロシュフォールその他の左翼作家を寄稿家に迎えた。「事件」紙が一年後に禁止されると、彼は週刊「フィガロ」を日刊紙とした。
このようなジャーナリズムの発展は、ようやく作家の生活を安定させ、文筆で生活することを可能にさせた。一八五一年のルイ・ナポレオンによるクー・デタでベルギーに亡命していたジュール・エッツェルが五九年八月一五日に発布された政治犯に対する大赦令によってパリに帰還すると、六二年に少年少女向けの雑誌「教育と娯楽」を刊行して成功したのは、このような気運のもとにおいてであった。ヴェルヌをエッツェルに紹介したのは作家のビシャという男で、彼はここに良き友であり良き協力者を得て、『驚異の旅』へと乗りだしたのである。
ジュール・エッツェルは本名をピエール=ジュール・エッツェルと言い、シャルトルで生まれたが、父親はアルザス出身で、アルザスなまりで言えばエッゼルが正しい。パリのスタニスラス・コレージュに学び秀才の誉れ高く、二一歳にして編集者としても論客としても著名なポーランの経営する出版社の社員となったが、まもなく頭角をあらわして同社の「ナショナル」紙において論陣を張るようになった。また一八四二、三年にP=ジュール・スタールの筆名でミュッセと共作で『気ままな旅行』という少年少女向きの物語を書いたり、五一年には『動物の公私生活面の数々』を刊行したりした。彼はバルザックやミュッセやジョルジュ・サンドの友人であるのみならず、ビュロとともに「両世界評論」誌の創設者であるビクシオの親友でもあった。
一八四八年の二月革命後は、「ナショナル」紙の編集長バスティード、および共和派の領袖であるマラストの推挙を受けてラマルティーヌの側近となり、かくて臨時政府の閣僚名簿は事実上バスティードとエッツェルとによって書かれることになる。ラマルティーヌは外務大臣、バスティードは事務総長、エッツェルは官房長官となる。五月一一日の政変により、外相の椅子はバスティードの掌中に帰し、エッツェルは留任。つづくカヴェニャックの下にあっても彼は官房長官を歴任した。五一年一二月二日のクー・デタに際しベルギーに亡命し、五九年にパリに帰還、ふたたび出版をはじめたことは前述したとおりである。なおブリュッセル滞在中にエッツェルは、ユゴーの『小人ナポレオン』をはじめ、その他反ナポレオンの地下出版を請け合ったことを付言しておこう。
かくてヴェルヌは終世の友であり良き理解者を得て『驚異の旅』へ旅立つことになるわけで、最初にエッツェルと結んだ契約は、一冊一九二五フランで年間三冊書くはずだったが、その後何度か契約は更新されていると、ヴェルヌの孫のジャン=ジュール・ヴェルヌが述べている。とにかく『気球旅行の五週間』は雑誌「教育と娯楽」に掲載されずに、「家庭博物館」に掲載された。そのときは『家庭における科学』という見出しが付せられてあったというから、いかに当時における科学の進歩が一般大衆に浸透していたか、じじつ、また迎えられたかが容易に察せられるであろう。そして翌六三年に新年のお年玉用として刊行されたのだが、この冒険小説はこれを贈られた少年少女も、贈った大人たちをも魅了したのである。ときにジュール・ヴェルヌは、三五歳の誕生日を迎えようとしていたのだった。(訳者)