ジュール・ヴェルヌ/村上啓夫訳
海底二万リーグ(上)
目 次
第一部
一 移動する暗礁
二 賛否両説
三 私の決心
四 ネッド・ランド
五 冒険
六 全速力で
七 怪鯨の正体
八 動中の動
九 ネッド・ランドの憤慨
十 海の人
十一 すべて電力
十二 若干の数字
十三 黒潮
十四 招待状
十五 海底の散歩
十六 海底の森林
十七 太平洋の底四千リーグ
十八 ヴァニコロ島
十九 トレス海峡
二〇 地上の数日
二十一 ネモ艦長の雷
二十二 妖しい睡魔
二十三 サンゴの国
第一部
一 移動する暗礁
一八六六年という年は、いまだに誰一人として忘れられない、奇怪至極な事件が起った年で、いろいろな噂《うわさ》が海岸地方の住民を騒がせ、大陸奥地の人々まで興奮の渦にまきこんだ。そのうちでも、とりわけ神経をとがらせたのは諸国の航海業者で、欧米両大陸の商人、水夫、船長たちはむろんのこと、各国の海軍軍人や政府当局者まで、この事件には深い関心を払った。
ことの起りは、少し前から、幾隻もの船舶が洋上でえたいの知れない「巨大な怪物」に出会い、その怪物というのが長い紡錘《ぼうすい》状をしていて、時々からだから燐光を放ち、クジラよりもはるかに大きく、行動も敏捷だといううわさがつたわったのである。
この事件について各船舶の航海日誌が伝えたところによると、問題の怪物は生物か無生物か判らぬような奇妙な恰好をしているということ、その行動が非常に敏捷で物すごい速力をそなえており、特殊な生活を営んでいるらしいということなどが、だいたい判明した。クジラの一種だとすると、それは従来学問的に分類されているどんなクジラよりも大きなものらしかった。多くの観察者の意見を総合すると(ただし、この怪物の長さを六十メートルと見積ったような遠慮深い観測や、また幅一マイル、長さ三マイルといったような大げさな意見は別として)、この怪物が実際に生存するものとすれば、それは今日の魚類学者が知っているどんな生物よりも大きいことだけは、確かだった。しかも、それが実在することは、もはや動かしがたい事実だったうえに、もともと人間には奇を好む癖《くせ》があったから、この超自然的な怪物の出現が世界中を沸き立たせたのも、決して不思議ではなかった。これを作り話などと考える人間は、もちろん一人もいなかった。
一八六六年七月二十日、カルカッタ・バーナック汽船会社のガヴァナー・ビギンスン号という船が、まずオーストラリアの東海岸をさる五マイルの地点で、この動く怪物に遭遇した。ベイカー船長ははじめ、それを今まで知られていなかった砂洲が現れたものと考えて、その正確な位置を測定しようと準備にとりかかっていると、そのとき突然その怪しげなものから二条の水柱が噴出し、シューッ、シューッとすさまじい音を立てて、五十メートルも空高くあがった。しかし、この砂洲が間歇泉《かんけつせん》の噴出でできたものでないとすれば、ガヴァナー・ビギンスン号が見たのは、今まで知られていなかった水棲哺乳動物の一種が、その噴気孔から空気と水蒸気のまじった水柱を噴き上げたものと考えるほかなかった。
ところが同じような事実が、同じ月の二十三日、太平洋上で、西インド太平洋汽船会社のコロンブス号によっても認められたのである。そこで、この途方もない大きなクジラに似た生物は、驚くべき速力を以て移動することがわかった。というのは、ガヴァナー・ビギンスン号とコロンブス号とは、中二日をおいて、地図の上では七百リーグ以上もへだたっている地点で、この怪物を目撃したからだった。
それから十五日後、こんどはさらに二千マイル以上もへだたった大西洋上を風上に向かって航行中のナショナール会社のヘルヴェシャ号とロイヤル・メール汽船会社のシャノン号が、北緯四二度一五分、西経六〇度三五分の地点で、互いに怪物の出現を信号し合った。シャノン号もヘルヴェシャ号も長さ百メートル以上ある船だが、この両船が同時に観察したところによると、怪物はそのどっちの船よりも大きかったということであるから、問題の哺乳動物の全長は、少なくとも百メートル以上あるにちがいないと考えられた。
だが、アリューシャン列島や、クラマク諸島や、ウングリヒ諸島の近海に出没する、最も大きなクジラでも、せいぜい五十五メートルを越えることはない、とされているのである。
次々に到着するこれらの報告は、その後大西洋通いの汽船ペレイラ号の甲板上からなされた新しい観察や、インマン航路のエトナ号と怪物との間に起った衝突事件や、フランスのフリゲート艦ノルマンディ号の士官が提出した調書や、ロード・クライド号に乗っていたフィッツ・ジェームズ提督の幕僚が作った非常に正確な調査報告などと相まって、大いに世論を喚起した。思慮の浅い国民は、これらの出来ごとを一笑に付したが、イギリスやアメリカやドイツのような、真面目な実際的な国々では、この問題はきわめて真剣に取り扱われた。
すこし人の集まる場所は、どこもこの怪物の評判で持ち切りだった。カフェでは、これを小唄にして歌い、新聞はこれを笑話の種にし、劇場はこれを芝居に仕組んで上演した。怪物についてはいろいろな説が流布され、新聞にはかの北極洋に棲む恐ろしい白鯨「モービイ・ディック」から、五百トンぐらいの船はわけなく手繰《たぐ》り込んで海底に沈めてしまう巨大なクラッケンにいたるまで、あらゆる架空の生物の漫画が掲載された。それと同時に、昔のさまざまな伝説も息を吹きかえし、これらの怪物の存在を認めたアリストテレスやプリニウスの意見だの、ポントピダン僧正のノルウェー奇談だの、ポール・エゲートの記録だの、最後には例のハリントン氏の報告――一八五七年にカスティラン号の上から、太古以来どこの海にも出現したことのない巨大なウミヘビを目撃したと大まじめに言明した――までが改めて取り沙汰された。
そのため、学者仲間や科学雑誌の上では、この怪物の存在を信じる者と信じない者との間にはてしもない論争が持ち上り、「怪物問題」はあらゆる人々の心を沸き立たせた。科学雑誌の記者たちは超自然の信者たちを相手に、この記念すべき論戦で海のようにたくさんなインキを流し、中にはウミヘビのことから露骨な人身攻撃にまで走り、血を流したものさえあった。
かくして六カ月間というもの、ブラジルの地理学協会、ベルリンの科学アカデミー、イギリスのブリティッシュ協会、ワシントンのスミソニアン・インスティチューション等の諸論文をはじめ、「インディアン・アーキペラゴ」、アベ・モアニョの「宇宙」、ぺーターマンの「ミットタイルゲン」等で行われた諸討論、その他フランスや諸外国の大新聞雑誌の科学記事を通して、はげしい攻防戦がたたかわされた。これに対して、小新聞や小雑誌も倦むことを知らない熱心さで鋭く応酬した。これらの皮肉な記者たちは、怪物否定論者が引用したリンネの言葉をもじって、「自然は馬鹿なものを作らない」と主張し、現代人はクラッケンや、ウミヘビや、「モービイ・ディック」や、その他頭のおかしな船員たちの作り話を認めることによって、自然をいつわるようなことはしてもらいたくない、とやじった。そしてついにある有名な口の悪い新聞の、人気のある記者の一人は、問題の怪物をヒッポリトゥスのようにこてんこてんにやっつけ、これに致命的打撃を与えて、世間の人々の哄笑喝采を博した。機知が科学を打ち負かしたのである。
そんなわけで、一八六七年に入ってからは、この問題もそのまま立ち消えになるかに見えたが、その時突然また新しい事態が人々の前に提供されたのである。こんどはもはや学問上の問題ではなく、実際の危険をどうして避けるべきかということが、真剣に論ぜられるようになった。問題の性質が一変し、例の怪物も前の時とはちがって、おそらく小さな島か暗礁、それも大きさや位置の不明な、移動する暗礁らしい、ということになったのだ。
一八七六年三月五日、モントリオール大洋会社のモラヴィアン号は、夜半、北緯二七度三〇分、西経七二度一五分の地点で、突然地図に出ていない岩礁に船の右舷を衝突させた。モラヴィアン号はその時、四百馬力のエンジンと風の力とで、約十三ノットの速力を出していたというから、もし船体が特別に堅牢でなかったなら、この衝突でひとたまりもなく破壊され、カナダから帰国の途上にあった二百三十七名の船客もろとも、海のもくずとなってしまったにちがいない。
この椿事《ちんじ》が起ったのは、夜明けの五時頃であった。後甲板にいた士官たちは急いで船尾のところにかけつけ、入念に海上を検査したが、三ケーブル(一ケーブルは一海里の十分の一)ほどへだたったところに、海面をはげしくかき乱したような、大きな渦が見えたきりであった。そこで、その位置を正確に測定してから、モラヴィアン号は大した損傷も受けずにふたたび航海をつづけたが、モラヴィアン号が衝突したのは果して暗礁だったろうか、それとも大きな難破船だったろうか。それは誰にも言明できなかった。ただ、修繕のとき船底を調べたら、竜骨の部分がひどく破壊されていることだけがわかった。
この事実は、それだけでもかなり重大であったが、もし三週間後に同じような事実が繰りかえされなかったら、他の多くの事件と同様忘れ去られてしまったかもしれない。ところが、次に衝突の犠牲になった汽船の国籍と、その船が属していた会社の信用のおかげで、新しい事件は世間の大評判を呼ぶこととなった。その事件というのはこうであった。
一八六七年四月十三日、キュナード汽船会社のスコシア号は、北緯四五度三七分、西経一五度一二分の、おりから海軟風のそよ吹く美しい海面を、十三ノット半の速力で走っていた。
午後四時十七分、船客が大食堂に集まって、ランチの席についていると、そのときスコシア号の左舷外輪やや後方の舷側に、何か軽い衝撃が感ぜられた。これはスコシア号の方からぶつかったのではなく、先方から衝突したのだが、相手は何か鋭い尖ったものらしかった。衝撃はごく軽かったから、もし見張りの船大工が、「船が沈む! 船が沈む!」と叫びながら、船橋に駈け上って来なかったなら、誰も気にしなかったであろう。
最初船客たちのおびえ方はひどかったが、アンダースン船長は、決して危険なことはないと言って、みんなを取りしずめた。スコシア号は堅牢な壁で、七つの隔室に仕切られていたので、少しぐらい船底に穴があいても平気なはずだった。アンダースン船長は、すぐ船艙へ下りて行ってみた。すると、第五隔室に海水が溢れており、その浸水の速度は水勢のかなり激しいことを語っていた。さいわいこのボイラー隔室には汽罐《ボイラー》がなかったからよかったものの、もしそうでなかったら、船はたちまち火を消されてしまったにちがいない。アンダースン船長は即座に機関の停止を命じ、一人の水夫をやって、損傷の程度を確かめさせた。その結果、船底に直径約二メートルの大穴があいていることがわかった。こんな大穴をふさぐことは航海中とても不可能なことだから、スコシア号は半舷を海水に浸したままで、航海を続けるほかなかった。そのとき船はクリア岬から三百マイルの地点にいたが、このためスコシア号は予定よりも三日おくれて、安否を気づかわれながらやっとリヴァプールにたどりつき、会社のドックに入った。
技師たちは直ちに乾ドックに回ったスコシア号を検査したが、吃水《きっすい》線下二メートル半のところに二等辺三角形の裂孔があいているのを見て、思わず眼を見張った。鉄板を貫いているその穴は、圧穿機を使ってもこんなに鮮やかにあけることはできまいと思われるほど、見事にあけられていた。この穴をあけた道具は、決してありふれたしろものではなく、非常な力でぶつかり、厚さ三センチ半の鉄板をぶちぬいた後、眼にもとまらぬ速さで引き抜かれたものであることが、たしかめられた。
これらの事実がわかると、世論は再び沸き立ち、この時以来、原因のわからぬ海上の遭難は、みんなこの怪物のせいにされるようになった。
この架空的な怪物にその責任を帰せられた難破船の総数は、不幸にして莫大な数にのぼった。というのは、ロイド保険協会が年々記録する三千隻の遭難船舶中、全然消息がわからぬため、完全喪失とみなされた帆船および汽船の数は、総計二百隻を下らなかったからである。
ところで、これらの船舶の喪失が、果してこの「怪物」のせいかどうかは疑わしかったが、そのため二大陸間の交通がますます危険になってきたことは、確かだった。その結果、各国の世論は、この際どんな犠牲を払っても、この恐るべき「クジラ」の危害から海洋を護らねばならぬと、熱心に要求するようになった。
二 賛否両説
ちょうどこれらの事件が起っていたころ、私はアメリカ合衆国のネブラスカという気候不順な地方の科学的調査を終えてニューヨークに帰ってきた。フランス政府は、パリ自然科学博物館の教授という資格で、私をこの学術探検に派遣したのだが、私はネブラスカで六カ月過した後、貴重な蒐集品をたずさえて、三月のおわりにニューヨークに着いた。私は五月上旬にフランスへ出発することに決め、鉱物学や、植物学や、動物学上のいろいろな珍しい標本を分類することに没頭していると、その矢さきに、スコシア号の事件が起ったのである。
当時世間を騒がせたこの問題については、私もよく知っていた。どうして知らずにいられたろう? 私はアメリカやヨーロッパの新聞を片っ端から読みかえしたが、しかしなんの結論も下すことはできなかった。この神秘的な事件は、私をすっかり迷わせてしまった。私の想像は、一つの極端から他の極端に飛躍した。が、そこにはすくなくとも何かが存在することだけは、疑う余地がなかった。それはスコシア号の損傷を見ても明らかだった。
私がニューヨークに着いたのは、ちょうどこの問題が最高調に達していた時で、浮島だとか、近づき難い砂洲だとかいう、一般に無分別な人間が支持していた説は、もう顧《かえりみ》られなくなっていた。実際、それが砂洲だとすれば、その腹の中に何か機械でも据《す》えつけていない限り、どうしてあんなにすばらしい速力で位置を変えることができよう。
同じ理由から、巨大な難破船の胴体が漂流しているのだという説もすてられてしまった。
そうだとすると、この問題には、二つの解決方法がのこっているだけだった。そこで人々はしぜん二つの党派に分れることになった。すなわち物すごい力をもった怪物だとする一派と、大動力をもった潜水艦だとする一派とであった。
この第二の説は、一応もっとものようではあったが、ヨーロッパとアメリカで調査された結果、成立し難いことがわかった。一私人がそんな機械を持っているはずはないからである。第一、いつ、どこで、どうして、そんなものを造ったか? どうしてその建造を秘密に行なうことができたか? 一国の政府ならば、あるいはそうした破壊的機械を所有することもできるかもしれない。人智の発達が日増しに戦争兵器の威力を増しつつあるこうした時代に、ある国家が他国に知れないように、この種の恐ろしい機械の建造を企てるということは、決してあり得ないことではないからである。
シャスポー銃の次には魚雷、魚雷の次には潜水衝角艦、その次には――その反動。少なくとも、私はそう思う。
だが、この潜水艦説も、各国政府の宣言の前には、いかにも根拠が薄弱に見えた。現に公衆の利益が脅かされ、大西洋上の交通が妨害されている時、それらの宣言には確かに真実性があったし、第一こうした潜水艦の建造がどうしていつまでも世間の眼をのがれることができよう? こうした事情の下で秘密を保つことは、一私人にとって非常に困難であると同様に、絶えず他国からその行動を監視されている国家としても、たしかに不可能なことであった。
そこで、イギリス、フランス、ロシア、プロシア、スペイン、イタリア、アメリカはむろんのこと、トルコにおいてさえ調査が行なわれたが、その結果、水中甲鉄艦説ははっきり否定された。
私はニューヨークに着くと同時に、多くの人々から問題の現象について意見を求められた。というのは、すでに、私はフランスで『大海底の神秘』と題する二巻の著述を公けにしていた上に、この書物が意外にも学界で高評を博し、そのため私は博物学の中でもあまり進んでいないこの部門の専門学者として高い名声を得ていたからである。だが、事実がはっきりしない間は、私はなるべく消極的態度をとって、意見を述べるのを控えるようにした。けれども、まもなく「ニューヨーク・ヘラルド」から意見を求められるにおよんで、どうしても自分の考えを発表しなければならなくなった。そこで、私は政治的と学問的との両方面からこの問題を論じたが、ここに四月三十日の新聞紙上に発表した私の研究論文があるから、その抜萃《ばっすい》をお目にかけることにしよう。
さまざまな相異なる諸説を一つ一つ吟味してみた結果、私は結局巨大な力をもった海中動物の存在を是認せざるを得ないのである。
大洋の底は、われわれにはまだまったく未知の世界である。われわれが測量に用いる測鉛もそこまでは届かない。こうした深海の底は、では、どんな状態にあるか――海面下十二ないし十五マイルの深所には、どんな生物が棲んでいるか、あるいは棲むことができるか、またそれらの生物の体組織はどんな風になっているか――というようなことは、今のところわれわれにはほとんど推測することもできないのである。しかし、私に提出された問題は、結局次のような両刀論法の形式によって解くことができると思う。即ち、われわれは現在この地球上に住んでいるあらゆる種類の生物を知っているか、それとも知らないかである。もしわれわれがすべての生物を知っていないとすれば――即ち、自然がまだわれわれに対して秘密をもっているとすれば、測量のおよばぬ深海の底には特殊な体組織をもった一種の魚類、またはクジラ類が棲んでいて、それが何かの異変から時々大洋の表面に浮び上るとしても、決して意外とするに足らないであろう。
もしまた、われわれがすべての生物を知っているものとすれば、われわれは当然問題の生物をすでに分類されている海中動物の中に求めなければならない。そしてこの場合、私は巨大な一角クジラの存在を認めざるを得ないのである。
普通の一角クジラは、しばしば長さ二十メートルに達するものがあるが、それを五倍し、十倍して、その大きさに相当した力を与え、かつその破壊的武器の威力を強めるとすれば、大体問題の動物が出来上ることになるであろう。そしてそれにはシャノン号の士官が確かめた大きさも、スコシア号に穴をあけた道具も、汽船の胴体を突き破るに必要な力も、備わることになるであろう。
実際一角クジラは、ある博物学者の形容に従えば一種の象牙の剣、いわゆる戟《ほこ》をもって武装しており、その牙は鋼鉄の硬さをもっている。この牙は時々、一角獣から襲撃を受けたクジラの体内から発見されるし、また船の底に突きささっていることもあるが、それはまるで錐《きり》を桶の底に揉《も》みこんだように、見事に鉄板を貫いている。パリの医学博物館には、長さ二メートル余、根もとの直径三十八センチもあるこの防衛的武器が一本所蔵されている。
今、この武器に六倍の強さを与え、この動物に十倍の力を与えたとして、それが一時間二十マイルの速力で走る場合を想像するなら、問題の椿事を引き起こすことも容易であろう。したがって、私はもっと詳細な情報に接するまでは、例の怪物を、戟《ほこ》というよりもむしろ軍艦の「衝角」のような恐るべき武器をもって武装され、同時に巨大な体躯と、運動力とを有する大きな海の一角獣だと主張したいのである。即ち、これまで人間によって推理され、見聞され、認識され、経験されたものを超越するような、何らかの生物が存在しない限り、以上述べたことで一応この謎の現象は説明されたものと見ていいであろう。が、そうした生物の存在も決して有り得ないことではないのである。
この最後の言葉は臆病なようではあったけれど、ある程度私にも、教授としての威厳を保ち、無遠慮なアメリカ人の物笑いの種にされたくないという気持があったからである。私はこうして逃げ道をつくっておいたのだが、実質的には「怪物」の存在を承認したわけであった。私の論文は非常な好評を博し、そのため賛成者が集まって新しく一派をつくったくらいであった。私の諭旨は、少なくとも人々に空想の自由を与えた。人間の心はもともと超自然的なものの存在を空想することを喜ぶものである。そして大海は確かにそうした超自然的な怪物――陸上に棲むゾウやサイなどが足許にもよれないような、巨大な怪物を生み出す絶好の媒介物であった。
商工業方面の各新聞も、主としてこの観点から問題を取り扱い、例えば「船舶商報」とか、「ロイド海報」とか、「郵船日報」とか、「海事植民評論」とか、その他、保険料引上げをもくろんでいる保険会社系の各新聞は、いずれも私の意見に同意を表した。世論は沸騰した。その結果、アメリカ合衆国は率先してこの問題の解決に乗り出し、一角獣を追跡するため、ニューヨークにおいて遠征隊の準備が進められることになった。この遠征隊の乗艦には、快速力を誇る巡洋艦エブラハム・リンカーン号があてられ、同艦の艦長ファーラガットは、急いで出動の準備をととのえた。だが、世間によくある例で、怪物の追跡が決定されると、とたんに相手は姿をかくしてしまった。その後二カ月間は、それについて何の消息もきかれなくなり、怪物に出会った船もなかった。まるでこの一角獣は人間の仕組んだ計画をちゃんと知っているかのようであった。で、中には、大西洋の海底電線を通じてあんまりいろんなことをしゃべりすぎたため、怪物が途中で盗み聞きしたのではないか、と冗談をとばすものさえあった。
そんなわけで、リンカーン号は、充分武装を整え、大仕掛けな漁猟道具まで用意したものの、さてどっちの方角へ行っていいものか、見当がつかなかった。やきもきしていると、ちょうどその年の六月二日、カリフォルニア・上海航路の一汽船が三週間ほど前に北太平洋で怪物を見かけた、という報告が入った。この知らせが入ると、世間は再びわっと沸き立った。艦はあらためて食糧を積みこみ、石炭を補給して、出帆の準備にとりかかった。
エブラハム・リンカーン号がいよいよブルックリン波止場を出発する三時間前に、私は突然次のような手紙を受け取った。
謹啓
突然ながら、もしも貴下がエブラハム・リンカーン号の遠征隊に御参加くださいますなら、アメリカ合衆国政府は、貴下をこの事業に対するフランスの代表として、よろこんでお迎えいたしたいと存じます。なお、ファーラガット艦長は貴下のために艦室の用意をいたしております。
敬具
海軍長官 J・B・ホブスン
ニューヨーク五番街ホテル内
パリ博物館教授 アロンナクス殿
三 私の決心
ホブスン長官から手紙を受けとる三秒前までは、私は北海を航海するかわりに、自分が一角獣の追跡に乗り出そうなどとは夢にも思っていなかった。が、長官の手紙を読んだ三秒後には、自分の生涯の真の使命、唯一の目的は、この世間騒がせの怪物を一日も早く追っ払って、世界を落ちつかせることだという気になっていた。
実をいうと、私はつらい旅行から帰ったばかりで、身体も疲れており、休息も欲しかった。早く故国に帰って、なつかしい友達や、植物園のそばの自分の小部屋や、大切な蒐集品にもあいたかった――が、それらのものも結局私の気持を引きとめることはできなかった。私はすべてをわすれて――疲れも、友達も蒐集品のことも忘れて、即座にアメリカ合衆国政府の申し出に応ずることにした。
「それに」と私は考えた。「どっちへ行っても海はヨーロッパに通じているのだから、一角獣は案外早く自分をフランスの海岸へ引っぱって行ってくれるかもしれない。この貴重な動物は特別私の便宜を計らって、ヨーロッパの海で捕えられるかもしれない。そうすれば、私は少なくとも直径半メートルはある象牙の戟《ほこ》を博物館に持って帰れるというものだ」
しかし、さしあたり一角獣を探すのは北太平洋であるから、私はフランスに帰るにしても、地球の反対側の道を通らなければならなかった。
「コンセイユ――」と、私はいらいらした声で呼んだ。
コンセイユというのは、私の召使で、忠実なフランダース生れの若者だった。私はこの若者が大好きだったが、彼のほうでも私によく仕えてくれた。生れつき穏やかな性質で、そのくせ物事にきちょうめんでもあれば、熱心でもあり、どんな出来ごとにぶつかっても取り乱したことがなく、またどんなことを命ぜられてもすぐやってのけた。それに「忠告《コンセイユ》」という名前にも似合わず、忠告などは――こっちから頼んでも――したことがなかった。
コンセイユはこの十年間、科学研究のためならどんな所へでも私について来た。そして一度だって、旅に飽きたの、疲れたのと不平をこぼしたことはなかった。どんなに行く先が遠いところでも、たとえば中国であろうが、アフリカのコンゴであろうが、文句一ついわず、すぐ旅支度にとりかかった。その上彼は、筋骨たくましく、どんな病気も寄せつけないほど壮健で、しかも行儀作法をよく心得ていた。年は三十歳で、主人との年齢の比は、二十対十五――くわしくいうなら、私自身は四十歳であった。
しかし、このコンセイユにもたった一つの欠点があった。それはひどく形式ばっていることで、私にもきまって三人称でしか話しかけないので、これには時々じれったくなることがあった。
「コンセイユ」と、私は熱っぽい手で出発の準備にとりかかりながら、再び大声で呼んだ。
私はこの忠実な若者のことは信用しきっていたので、これまで旅行に出る際、一度だって私についてくるかどうかなどと、訊いたことはなかった。だが、こんどの遠征だけは、長びくかもわからないし、それに仕事そのものが巡洋艦ぐらいわけなく沈めてしまう恐ろしい怪物を追跡する大冒険であるから、どんな無神経な者でも考えずにはいられないだろうと思った。コンセイユはいったいなんと言うだろうか?
「コンセイユ」と、私は三度呼んだ。
すると、コンセイユが顔を出して、
「お呼びでございますか?」と言いながら、室内にはいって来た。
「うん、すぐおれとお前の旅の用意をしてくれ。二時間以内に出発するのだ」
「かしこまりました」と、コンセイユは静かに答えた。
「一刻を争うんだよ。上衣、シャツ、靴下、なんでも旅行に必要なものをみんな詰めてくれ。数なんかかぞえなくてもいいよ。できるだけたくさん。大急ぎでやってくれ」
「では、蒐集なさいましたものは?」と、コンセイユは訊きかえした。
「そんなものの始末はあとで考えればいいよ」
「なんですって! すると、あのアルキオテリウムも、ヒラコテリウムも、オレオドンも、ケロポタムスも、その他の獣皮もでございますか?」
「それはホテルに預けて行こう」
「あの生きているバビルーサ(マレー原産のイノシシの一種)もでございますか、先生?」
「ああ、われわれの留守中はホテルで養ってくれるよ。それに、動物たちは全部フランスへ送ってもらうように頼んで行こう」
「そうしますと、パリにお帰りになるんではないので?」
「いや、帰るには帰るんだが」と私はあいまいに答えた。
「少し回り道をして行くんだ」
「回り道をしますと、何か面白いことがございますのですか、先生?」
「いや、面白いことなんかないよ。ただまっ直ぐに帰らぬというだけさ。エブラハム・リンカーン号に乗ることにしたんだ」
「それは結構でございます」と、コンセイユは平気で答えた。
「実はだね、例の怪物――有名な一角獣を探しに行くんだよ。つまりそれを退治に行くんだ。いやしくも『大海底の神秘』の著者が、ファーラガット艦長と同行することを避けるわけにはいかんじゃないか。しかし、これは名誉ある使命だが、危険な仕事でもある。第一どこへ行くのかもわからない。ああいう動物はひどく気まぐれだからね。だが、とにかく行かなければならない。その点われわれの艦長はなかなか抜け目のない人物らしいよ」
私はホテルの帳場で勘定をすませ、標本類やバビルーサのことを頼むと、コンセイユをつれて馬車にとび乗った。私たちの荷物は、すぐ巡洋艦の甲板に運ばれた。私も急いで艦に乗り込み、ファーラガット艦長に面会を申しこんだ。水兵の一人に案内されて最上後甲板にのぼって行くと、そこに二人の立派な海軍将校が立っていて、私の方に手をさし出して言った。
「ピエール・アロンナクスさんですか?」
「そうです。あなたはファーラガット艦長で――」
「そうです。よくいらっしゃいました、お部屋の用意はととのっています」
私は会釈して、すぐ自分の部屋に案内してもらった。
エブラハム・リンカーン号は、こんどの新しい使命のためにすっかり改装を施されていた。この艦は七気圧の高圧機関を備えた快速艦で、平均十八ノット三分の一の速力を出すことができるという。これはかなりの速力だが、しかし問題の巨鯨を捕えるにはまだ不充分であった。
内部の設備もその航海力にふさわしくよく整っていた。私は、艦尾にある、士官次室《ガンルーム》に接した私の部屋にも、充分満足した。
「こりゃ、なかなかいい部屋じゃないか」とコンセイユに言うと、
「失礼ですが、油螺《バイ》の殻の中に入ったヤドカリみたいでございますね」と、コンセイユは答えた。
私はトランクの片づけはコンセイユにまかせておいて、出帆の様子を眺めるために、再び最上後甲板にのぼってみた。
ちょうどその時、ファーラガット艦長は、ブルックリンの波止場にエブラハム・リンカーン号を繋いでいる最後のともづなを解くように命令を下しているところだった。あぶなく十五分ほどの違いでこの巡洋艦は私を置き去りにしてしまうところだったのだ。そうすれば、私はこの突飛な、超自然的な、信じ難い探検に加わることも、従ってこの不思議な物語を諸君に語ることもできなかったわけである。
ファーラガット艦長は、怪物が現われたという海を捜索するために、今や一日一刻を争っていた。艦長は機関士を呼んで、たずねた。
「用意はいいか」
「はい」と機関士は答えた。
「では、出帆」と、ファーラガット艦長は叫んだ。
ブルックリンの波止場とニューヨークのイースト河《リバー》沿岸一帯は、おびただしい見物人の群れで埋まっていた。五十万の喉からつぎつぎと発せられる万歳の三唱、黒山のような群衆の頭上にふられる何千何万のハンカチの波――それはエブラハム・リンカーン号がニューヨークの市街を形づくっている細長い半島の突端をまわって、ハドソン河の河口に出るまでつづいた。やがて艦は、別荘の立ちならんだ美しい河の右岸に沿ってニュージャージーの岸近くを南下し、重々しい礼砲を放って挨拶を送る要塞の間を通過した。リンカーン号は軍艦旗を三度上げ下げしてこの挨拶に答えたが、そのたびに旗を彩る三十九の星が後檣《こうしょう》高くキラキラと輝いた。それから艦は、サンディ・フック岬に抱かれた入江の中の、浮標で示された狭い水路を通りぬけるために速力を加減し、長い砂浜に沿って進んだが、ここにも数千の見物人が群がっていて、最後の歓呼をわれわれに送った。たくさんのボートと汽艇《ランチ》の列は、この時になってもまだ艦のあとからついてきて、二つの灯火がニューヨーク水道の入口を示している灯台船のそばまで来て、やっと引き返して行った。
おりから六点鐘が鳴り渡り、水先案内人はボートに乗り移って、風下に待機している小さなスクーナーへと帰って行った。それと同時に、汽罐《きかん》の火は一段と強められ、スクリューの波を打つ音も速くなり、艦はロング・アイランドの低い黄ばんだ海岸に沿って進んで行った。そして八点鐘の鳴った時には、それまで北西の方角に見えていたファイア・ランドの灯火も視界から消え、艦は大西洋の暗い水面を全速力で走っていた。
四 ネッド・ランド
ファーラガット艦長は、彼が指揮している巡洋艦にふさわしい、優れた航海者だった。彼と彼の艦とは一体で、いわば彼はその魂であった。怪物の問題については、彼は一点の疑いも抱いたことがなく、そんな動物がいるかいないかなど艦内で議論することを許さなかった。彼は、善良な女が聖書の中の大海獣を信じているように、怪物の存在を理由でなく信仰で、信じていた。そして自分はぜひともそれを退治せねばならぬと心ひそかに誓っていた。ファーラガット艦長が一角獣を倒すか、一角獣が艦長を倒すか、二つに一つの道しかなかったのである。
部下の士官たちも、艦長と同じ意見だった。彼らはいつも雑談したり、議論したり、怪物に出会ったときのことをいろいろ想像したりしながら、広い大洋の海面を油断なく見張っていた。他の場合だったら見向きもしない檣頭の横桁に自分から進んで見張りに立とうとする者も、一人や二人でなかった。太陽が大空にかかっている間は、マストの索具は水兵たちで鈴なりになっていた。彼らの足の裏は焼きつくような甲板の熱にいたたまれなかったからである。エブラハム・リンカーン号は、まだめざす太平洋の水面に乗り入れてはいなかったが、乗組員一同は、早く目的の一角獣に出会って、首尾よく銛《もり》を打ち込み、艦上に引きあげて、凱歌をあげたいという望み以外に何もなかったので、彼らは毎日熱心に海を見張っていた。
そこへもってきて、ファーラガット艦長は、最初に怪物を見つけた者には給仕であると、水兵であると、士官であるとを問わず、賞金二千ドルを与えると発表した。
その結果、エブラハム・リンカーン号の甲板上で一同の眼がどんなふうにはたらかされたかは、読者諸君の想像にまかせたい。
この点では、私も決して人後《じんご》にはおちず、毎日の見張りを他人にばかり任せてはおかなかった。あれやこれやの理由から、この時の巡洋艦はギリシア神話に出てくる百眼巨人《アーガス》そのままであった。が、その中でたった一人コンセイユだけは、私たち一同をそれほど熱狂させていた問題にもいっこうとりあわず、熱心な乗組員の仲間にも入ろうとしなかった。
ファーラガット艦長は、前にも述べたように、巨鯨を捕獲するに必要な道具は何もかもそろえていた。おそらくこれほど完全に武装された捕鯨船は、いままでなかったにちがいない。手で投げる銛《もり》から、喇叭《ラッパ》銃の銛矢《もりや》、鴨撃ち銃の爆裂弾に至るまで、少し名の知れた機械はすべてそろっていた。前甲板には、一八六七年の博覧会に出品された模型そっくりの、砲尾が非常に厚く、口径が非常に細い後装砲が据えつけてあった。このアメリカ発明の自慢の大砲は、九ポンドの円錐形の弾丸をらくに十マイルの彼方へ飛ばすことができた。
こんな調子で、エブラハム・リンカーン号は、破壊的武器のほうは手ぬかりなく完備していたが、さらに都合のいいことには、銛打ちの名手、ネッド・ランドが乗り組んでいた。
ネッド・ランドはカナダ人だったが、非常に手さばきが敏捷で、この冒険的な仕事で彼に匹敵する者はなかった。彼は最大級の熟練と、冷静と、剛胆と、巧妙とを兼ねそなえていた。彼の投げる銛をのがれ得るのは、よほど狡猾なクジラか特別「利口な」マッコウぐらいのものであった。
ネッド・ランドは、四十歳ぐらいの、背が六フィート以上もある、がっしりした骨組の男で、真面目でおとなしかったが、時々荒っぽくなり、何か気に食わないことがあるとひどく感情的になった。非常に特徴のある人柄で、わけても大胆な面魂《つらだましい》が、見る人に強い印象を与えた。
ネッド・ランドはフランス系のカナダ人で、なかなか打ち解けにくい性質の男だったが、私には好意をもっているようであった。同じフランス人だということが、彼をひきつけたのかもしれない。それが機縁となって、私は彼の口から今でもカナダのある地方で使われている古いラブレーの言葉を聞くことができた。この銛打ちの一族は、もとからケベックに住んでいて、この町がフランス領であった頃から、すでに荒っぽい勇敢な漁師の一族であった。
そのうちに少しずつ、ネッド・ランドはお喋《しゃべ》りをするようになったが、私は彼から北極洋の冒険談を聞くのが大好きだった。彼は自分の関係した漁猟や闘争の物語をよくしたが、それはさながら一篇の詩であった。彼の話は叙事詩の形式をとったが、それをきいていると、ちょうどカナダのホメロスが北方のイリアスを歌っているように思われた。
私が今このように、この勇敢な友のことを語ることができるのは、その後私が本当に彼を知るようになったからである。私たちは今でこそ古い友達だが、これは、いろいろな激しい危険に遭遇するあいだに、いつとなく二人の間に固い友情が結ばれるようになったからである。ああ、勇敢なネッドよ、できることなら、私はもっと百年も生きて、それだけ長く君の追憶を楽しみたいと思っている。
ところで、ネッド・ランドの怪物に対する意見はどうであったか? 遺憾ながら、彼は一角獣の存在など信じていなかった。乗組員一同の確信に賛成しなかったのは、彼だけであった。彼はこの問題を避けようとさえしていたので、私は自分の義務としても、いつか機会を見て、このことを彼に問いただしてみたいと思った。出帆してからちょうど三週間目にあたる六月二十五日の晴れた夕方、艦はパタゴニアの海岸をさる三十マイルのブランコ岬沖を航行していた。私たちはすでに南回帰線を通過して、マジェラン海峡も南方数百マイルのところにあった。あと八日たてば、エブラハム・リンカーン号は、いよいよ太平洋に乗り入れるのだ。
ネッド・ランドと私とは、最上後甲板に腰かけて、これまで誰の眼にもその底をのぞかせたことのない、眼の前の神秘な海に見入りながら、いろいろな話にふけっていた。私は話を一角獣のことに持って行き、この遠征の成否についてそれとなく意見をただしてみたが、ネッド・ランドはそしらぬふうをし、私にばかり喋らせているので、とうとう私は彼に詰めよった。
「ネッド君、君はわれわれがこうして追跡している巨鯨の存在を本当に信じないのか? 君がそんなに疑うのには、なにか特別の理由があるのかね?」
ネッド・ランドは、返事をする前に、しばらくじっと私の顔を見つめていたが、考えをまとめるように、自分の広い額を叩いて(これは彼の癖であった)やっと答えた。
「そう、ないこともありませんね、アロンナクス先生」
「しかし、ネッド君、クジラ捕りを商売にしている君は、大きな海の哺乳動物のことについては知りぬいているはずじゃないか――その君がこのような事情になって疑いを抱くなんて法はないと思うがね!」
「そこが間違ってるんですよ、先生」と、ネッドは答えた。
「世間の人間は、途方もない大きな箒星《ほうきぼし》が空を駈けまわっているとか、地球の真中には大昔からの怪物が棲んでいるとか信じていますが、しかし天文学者や地質学者はそんな怪物のことなんか信じてやしませんよ。わしもクジラ捕りとして、ずいぶんたくさんのクジラを追っかけ、たくさんの奴に銛を打ちこみましたが、奴らにどんな強い見事な武器があったからって、尻尾や牙じゃ汽船の鉄板に穴をあけることなんかできませんよ」
「だがね、ネッド、一角獣の牙で穴をあけられた船がいくらもあるという噂じゃないか」
「木造船なら、そんなこともあるでしょうさ。――でも、それだって、わしはまだ見たことがありませんよ。ですから、もっと確実な証拠があがるまでは、わしにはクジラや海の一角獣があんたのおっしゃるようなことを仕でかそうとは、信じられませんね」
「そうかね。しかし、僕にはいろんな根拠から確信があるんだがね。僕は、クジラやマッコウやイルカなどと同じ脊椎動物の一種で、恐ろしく頑丈な体格と、ものすごい強力な色とをもった哺乳動物が必ずいると信ずるんだよ」
「へえ!」と、ネッドはいかにも納得しかねるように頭を振った。
「まあ、聞きたまえ。もしそんな動物がいて、大洋の底に棲んでいるとしたら、そしてそれがしばしば海面下数マイルの水中を往復するとしたら、それは当然比類のない頑丈な体躯を持っていなければならないだろう」
「なぜそんな頑丈な体格が要るんですか?」と、ネッドは訊きかえした。
「それはだね、そんな深いところに棲んでいると、水の圧力に、抵抗するために計り知れない力が要るからだよ。ところで、大気の圧力は、一般に高さ約十メートルの水柱の重さに等しいことになっている。が、実際は、海水は淡水よりも密度が大きいから、その水柱はもっと短くていいわけだ。そこで、もし君が十メートルを幾倍も、幾十倍もした水の底にもぐるとしたら、君の身体は大気の圧力――つまり身体の表面一平方センチに対して約一キログラムの圧力――の幾倍、幾十倍にも等しい圧力を受けなければならない。この計算で行くと、百メートルの深さでは、水圧が十気圧に等しく、千メートルの深さでは百気圧、一万メートルの深さでは千気圧に等しいということになる。そうすると、かりに君が大洋のそんな深みへもぐることができたとすると、君は身体の表面一平方センチごとに約一千キログラムの圧力を受けなければならないわけだ。ところで、わが勇敢なネッド君、君は自分の身体の表面積がどのくらいあるか知っているかね?」
「そんなこと知りませんね」
「約四万平方センチだ。ところで、大気の圧力は今もいうように一平方センチに対して一キログラムばかりだから、四万平方センチある君の身体は、全体で約四万キログラムの圧力に耐えているわけだ」
「それでよく平気でいられますね?」
「平気でいられるのだよ。それは、同じ圧力をもった空気が君の身体の中にも入っているからだ。つまり内外の気圧が平均しているので、互いに殺し合い、なんの故障も感じさせないのさ。しかし、水の中ではちがうよ」
「なるほどわかりました」とネッドは、少しばかり乗り気になりながら答えた。
「水は身体のまわりはひたしますが、中には入りませんからね」
「そうだよ、ネッド君。だから海面下十メートルのところでは、君は四万キログラムの水圧を、百メートルのところではその十倍の水圧を、千メートルのところではその百倍の水圧を、それから一万メートルのところではその千倍の水圧、実に四千万キログラムの圧力をうけるわけだ。――もちろん、君の身体なんか、水圧機にかけられたようにぺしゃんこになってしまうよ!」
「畜生!」と、ネッドは叫んだ。
「ところでだね、ネッド君。もしここに長さが数百メートルもあり、大きさもそれに比例するような巨きな脊椎動物があって、そんな深みに棲息することができるとしたら、その体の表面積はおそらく数百万平方センチになるだろうから、それがうける水圧も数千万キログラムという莫大な計算になるわけだ。そんな動物の骨格がどんなに低抗力が強く、そんな圧力にたえる体組織がどんなに頑丈なものか、考えてみたまえ!」
「そう! そりゃ言ってみりゃ、装甲巡洋艦みたいに、二十センチぐらいの厚さのある鉄板でできていなけりゃなりませんね」
「そのとおりだよ、ネッド君。ところで、もしそれが急行列車みたいな速力で、船の胴っ腹にぶつかったとしたら、どんな椿事《ちんじ》が起るか、考えてみたまえ」
「なるほど――たぶん――」と、カナダ人は私のあげた数字にちょっと面喰《めんくら》いながら、それでもまだ納得しないような調子で答えた。
「どうだね、わかったかね?」
「一つだけわかりましたよ。つまり、そんな動物がもし実際に海の底にいるとしたら、先生のおっしゃる通り、すごい奴にちがいないでしょう」
「しかし、君も強情な男だな。もしそんな動物がいないとしたら、スコシア号の事件を君は一体どう説明するつもりなんだ?」
五 冒険
エブラハム・リンカーン号は、しばらくの間、特別な出来ごともなく、航海をつづけた。が、そのうちに、ネッド・ランドがそのすばらしい腕前と、彼がどんなに信頼するに足る人物であるかを証明する一つの機会が訪れた。
六月三十日、艦は数隻のアメリカ捕鯨船に遭遇したが、彼らは一角獣の消息については何も知らなかった。ところが、そのうちの一隻であるモンロー号の船長が、エブラハム・リンカーン号にネッド・ランドが乗っていることを知っていて、彼らが追跡中のクジラを捕える手伝いをしてくれないかと懇請して来たのである。ファーラガット艦長は、ネッド・ランドの腕前を見たいと思っていた時なので、すぐ彼にモンロー号へ乗り移る許可を与えた。幸いこのカナダ人は、首尾よく二連砲で二頭のクジラを仕留め、一頭はその心臓を射抜き、もう一頭は数分間追跡の後みごと捕えた。
これで、もし怪物がネッド・ランドの銛と戦わなければならなくなったとしたら、とうてい勝味のないことが判った。
艦は、それから南アメリカの東南海岸に沿って、全速力で航走をつづけ、七月三日には、マジェラン海峡の入口、処女岬にさしかかったが、ファーラガット艦長はこの曲りくねった水道を避けて、ホーン岬をまわることにした。
乗組員たちもそれに賛成した。もっとも、この狭い水路で怪物に出会わないとも限らなかったが、大多数の水兵は「怪物は非常に大きいのだから」とてもこんな海峡を通ることはできまい、と主張した。
七月六日、午後三時頃、エブラハム・リンカーン号は、それからさらに南方十五マイルのところで、アメリカ大陸南端の一孤島をまわった。ここは、かつてオランダの船乗りたちが故郷の町の名をとって、ホーン岬と呼んだところであった。そこから針路を北西にとり、その翌日、艦はいよいよ太平洋の波に分け入った。
「さあ、しっかり見張ろうぜ!」と、水兵たちは大声で叫んだ。
そして、事実彼らは眼を皿のようにして、見張ったのである。肉眼も望遠鏡も、二千ドルの賞金を当てこんで、寸時も休む暇がなかった。夜も昼も彼らは大洋の面を睨みつづけ、闇の中では何一つ見えない夜盲症《とりめ》の男までが、賞金を得ようとして努力した。
金には魅力を感じない私自身も、やはり一刻も注意を怠らなかった。私は食事の時間も眠る時間も惜しむようにして、降っても照っても、最上後甲板から離れなかった。ある時は前甲板の網にもたれ、ある時は艦尾の手摺によりかかって、眼のとどく限り、白く泡立つ海面を、食い入るように見つめた。そして幾たび多くの乗組員たちと一緒に、きまぐれなクジラが真っ黒な背を波の上に現わしたのを見て、胸をとどろかせたことであろう。そんな時、最上後甲板はたちまち人で埋まり、各部屋から士官や水兵があふれるように流れ出して来て、胸を躍らせ、眼をきょろつかせながら、クジラの行方を見送るのであった。私はあまり熱心に見張りつづけたので、しまいには眼が見えなくなりそうになったが、それに対してコンセイユは相変らず落ちついた調子でこんなことを繰りかえした。
「先生、そんなにやぶにらみをなさらないと、もっとよく見えるのでしょうがね!」
が、結局いつも空騒ぎに終った。エブラハム・リンカーン号が速力をゆるめて、めざす動物に近づいて行くと、それはきまって普通のクジラかマッコウで、やがて馬鹿馬鹿しい騒ぎの中にどこかへ姿を消してしまうのだった。
しかし、天候は晴天つづきで、航海はこの上もなく順調だった。ちょうどその頃は、オーストラリアでは最も悪い季節にあたり、この地方の七月はヨーロッパの一月に相当したが、海は珍しくおだやかに晴れわたり、遠くの方まで一望のうちに見渡された。
七月二十日、船は西経一〇五度の地点で南回帰線を通過し、同月二十七日には一一〇度の子午線で赤道を横切った。それからは、針路を西へとって、太平洋の中心水域を進んだ。ファーラガット艦長の意見によれば、怪獣は大陸や島の付近には近よらないらしいから(なぜなら、水が不充分だから、と乗組員の多数が艦長に助言したのだ)、なるべく大陸や島から離れて大洋の真中を進んだ方がいい、というのであった。艦はマーケサス諸島とハワイ諸島の間を通過し、北回帰線を横切って、シナ海へ向かった。われわれはいよいよ問題の怪物が最近活躍した舞台に出たのである。実をいうと、一同は生きた心地がしなかった。乗組員は誰も彼も神経過敏になって、食べることも眠ることもできなかった。艦尾の欄干で見張りをしていたある水兵などは、一日に二十度も思い違いをしたり、錯覚を起したりして、みんなに冷汗をかかせた。こうした気持は私たちを絶えず激しい興奮状態においたので、その反動は避けられなかった。
そして、実際、反動はまもなくやって来た。エブラハム・リンカーン号はその間、約三カ月間というもの、一日が一世紀にもあたるような思いをして、北太平洋の水域を駈けまわり、クジラを追跡したり、針路から遠く離れてみたり、急に舵をかえてみたり、突然停止したり、また機関の破れるのもかまわず後退したりして、日本とアメリカとの沿岸をくまなく捜索してまわった。
その結果、この遠征の最も熱心な賛成者も、今では最も激烈な反対者になってしまった。この反動的気分は乗組員から艦長自身にまで及んだが、この時もし艦長が断乎たる決心をしなかったなら、艦はそのまま南に向って帰路についたかもしれなかった。こんな無益な捜査をいつまで続けたところでなんになろう。エブラハム・リンカーン号はすでにできるだけの努力はつくしたのだ。非難される点は少しもないのだ。アメリカ艦船の乗組員で、これほど辛抱強い、これほど熱心な連中はかってなかったにちがいない。失敗は決して自分たちの責任ではないのだ。もはや帰国するほか途はなかった。
このことは、さっそく艦長に上申された。水兵たちはもう不平を抑えることができず、仕事も怠けがちになっていた。で、艦内に暴動が起ったというわけではなかったが、一時頑強な態度をとっていたファーラガット艦長も、ついに(コロンブスがしたように)三日間待ってくれとみんなに頼んだ。もし三目の間に怪物が現われなかったら、エブラハム・リンカーン号は直ちに針路を転じて、ヨーロッパの海へ向おう、というのであった。
この約束は十一月二日に結ばれたが、それはてきめんに効を奏し、乗組員たちの元気を盛りかえした。洋上はふたたび新しい注意をもって見張られ、望遠鏡も頻繁に用いられはじめた。これは海の巨獣にはたいへんな侮辱的挑戦であって、これほど呼び出しをうけては、さすがの彼も姿を現わさぬわけには行かないだろうと思われた。
二日間たった。その間、艦は蒸気力も半分に落し、怪物がいそうなところでは、できるだけその神経を刺激し、その注意を引くためにいろいろな手を試みた。たとえば、多量のべーコンを船のまわりにばらまいたが、これはいたずらにフカどもをよろこばしただけであった。エブラハム・リンカーン号は、停止している間は、ボートを八方へ出して、あたりの海をくまなく捜索した。しかし十一月四日の夜までは、まだこの海の神秘をあばくことはできなかった。
明くれば十一月の五日、この日の夜の十二時でいよいよ約束の期限は切れるのである。その時刻が過ぎたら、ファーラガット艦長は約束を守って、針路を南東に転じ、北太平洋の水域に別れを告げることになっていた。
そのとき艦の位置は北緯三一度一五分、東経一三六度四二分。ちょうど日本の海岸を去る約二百マイルの洋上にあった。夜が近づいて来た。そして八点鐘が鳴ると、まもなく大きな雲の塊りが現われて、新月をおおいかくした。海は艦尾の下で静かにうねっていた。
そのとき私は右舷の金網によりかかり、私のすぐそばにコンセイユが立って、前方をじっと見つめていた。索梯子《なわばしご》にのぼっている水兵たちは、次第に夕闇の濃くなってくる水平線を熱心に見張っていたし、士官たちは夜間望遠鏡で闇の中をのぞいていた。海はときどき雲の切れ目を洩れる月光にきらめいたが、すぐその光は闇にのまれてしまった。
見ると、コンセイユもさすがに少しばかりみんなの影響をうけたらしく、少なくとも私の眼にはそう見えた。彼もはじめて好奇心を動かされたらしいのである。
「おい、コンセイユ」と、私は彼に呼びかけた。「この機会をはずすと、もう二千ドルにはありつけないぞ」
「失礼ですが」と彼は答えた。「わたくしは賞金などあてにしておりませんよ、アメリカ政府が十万ドルくれると申しても同じことですよ」
「そうかも知れんな、コンセイユ、結局われわれは馬鹿を見たらしいよ。時間を空費し、無駄な興奮をしてさ! こんなことがなければ、われわれは六カ月前にフランスに帰っていられたのだからな」
「あの小さなお部屋にでしょう。そして先生のあの博物館にでしょう。そうすれば、わたくしも今頃はもう先生の化石をすっかり分類してしまっていたでしょうし、あの野猪も植物園の檻の中に入れられて、物見高いパリ人の人気を集めていたことでしょう」
「まったくだよ、コンセイユ、われわれは骨折り損のくたびれ儲けをしたってわけさ。さぞ笑われることだろうよ」
「まあ、そうでしょうな。世間ではきっと先生のことを笑うことでしょう。で、わたくしから、こんなことを申し上げては、なんですが――」
「いや、かまわん、言ってくれ」
「まあ、先生は当然の報いをお受けになったわけですな」
「まったくだ!」
「ですから、先生のような名誉ある学者は、今後は決して世間の笑いを招くようなことは――」
コンセイユがまだ言い終らないうちだった。突然、あたりの静けさを破って、けたたましい叫び声が聞こえた。それはネッド・ランドの声だった。
「おおい、あすこを見ろ! 待ちに待ったものが現われたぞ――ほら、あの風上のところだ!」
六 全速力で
この叫びを聞くや、艦内の者は一人のこらず――艦長、士官、下士官、水兵、給仕たちはもちろん、機関士や火夫までがエンジンや汽罐場《かまば》をはなれて、われさきにとネッド・ランドの周囲に集まって来た。
すでに、停船命令が下っていたので、艦はただ惰力で走っているだけであった。この時は四面真の闇だったので、カナダ人の眼がどんなによくても、何も見えるはずはなかったが、いったいネッド・ランドは何を見つけたのだろう、と私はいぶかしく思った。私の心臓は破れでもしたように、はげしく鼓動した。が、ネッド・ランドの眼には誤りがなかった。私たちはすぐ、彼が指さすものを、見つけることができた。エブラハム・リンカーン号から右舷後方、約二百|尋《ひろ》ほど離れた海面が、一面にピカピカ光っているではないか。それは単なる燐光的な現象などではなく、水面に姿を現わした怪物が、例の船長たちの報告に見られるような、世にも不思議な強烈な光を放っているのだった。この壮大な光は、よほど強力な発光体から発するものらしく、海面にかなり大きな長めの楕円形を描き、その中心部は燃えるような火花を放っているが、端に行くにつれて次第に光は薄れていた。
「夜光虫の塊りさ」と、士官の一人が叫んだ。
「いや、ちがうでしょう」と、私はそれにこたえて言った。
「あの光はたしかに電光性のものですよ。それにごらんなさい。動いていますよ。ほら、前へ行ったり、うしろへ行ったり。やあ、こっちに向かって来る!」
巡洋艦からは、いっせいに喚声があがった。
「静まれ!」と艦長がどなった。「上手舵! 逆行」
機関が停められて、エブラハム・リンカーン号は、左舷に間切りながら、半円を描いた。
「船中央、前進全速!」と、艦長はふたたび叫んだ。
命令と同時に、艦は全速力で発光体から離れた。が、そう思ったのは私の見まちがいで、艦は逃れようとしたのだが、くだんの超自然的怪物は巡洋艦に二倍する速力で、見る見る近づいて来た。
私たちは息をのんだ、恐怖というよりもむしろ呆然とした気持で、じっと黙りこくったまま身じろぎもしなかった。怪物は波をわけてたちまち私たちの艦に追いつき、その時十四ノットの速力で走っていた巡洋艦の周囲を一周して、まばゆい電光の輪で艦を包んだ。
やがてそれは、まるで急行列車が煙の渦をのこして走り去るように、燐光の尾を曳いて、二、三マイル向こうへ走って行った。が、そう思ったのもつかのまで、すぐまたそれは、暗い水平線から引き返して、ふたたび猛烈な勢いでリンカーン号めがけて突進して来た。そして、艦の前方六メートルばかりのところまで来ると、突然ぴたりと停止し、そのまま姿を消してしまったが、こんどは艦の下を潜りぬけでもしたように、反対側にぽっかり姿を現わした。こんな調子では、いつ衝突するかわからないので、私たちはハラハラしたが、一方巡洋艦の敏捷な行動にも驚かないわけには行かなかった。艦は巧みに逃げまわって、こっちからは積極的に攻撃に出ようとはしなかった。
いつもは冷静そのもののような艦長の顔にも、驚きの表情が浮かんだ。
「アロンナクス先生」と、彼は言った。「これは実に容易ならん怪物ですな。こう暗くては、むやみなまねはできませんし、それにいったいどう攻撃したらいいのか、どう防いだらいいのか、見当がつきません。夜が明ければ、はっきりするでしょうが」
「艦長、この怪物の正体は、もう疑う余地がありませんね」
「そうです。これはあきらかに巨大な一角クジラです。しかも、電気をもった奴ですね」
「たぶん」と私はつけ加えた。「水雷でも使わなければ、絶対に近づけますまい」
「いや、たしかに、これは前代未聞の恐ろしい動物ですね。大いに警戒しなければなりません」
乗組員は終夜甲板に立ちつくし、眠ろうとする者などは一人もなかった。エブラハム・リンカーン号は、怪物と競争することはとうてい不可能だったので、速力を半分におとして進行をつづけた。一方、一角クジラのほうも、巡洋艦のまねをして波のまにまに揺られながら、いつまでも競争の舞台から立ち去りそうに見えなかったが、夜半になると、突然姿を消してしまった。というよりも、むしろ、大きな螢のように消えてしまった。逃げたのだろうか? おそろしくはあるが、逃げられては困ると、思っていると、ちょうど翌朝の一時七分前に、突然激しい勢いで海水を噴出するような轟音が闇の中から聞こえて来た。
最上後甲板にいた艦長と、ネッド・ランドと、私は、深い闇の中をじっとのぞきこんだ。
「ネッド・ランド君、君はクジラの吼《ほ》えるのを聞いたことがあるかね?」と、艦長がたずねた。
「いくどもありますよ。しかし、見つけたら二千ドルになるようなクジラの吼え声は初めてですね。せめて、銛四本ぐらいの距離に近づけるといいんですがな」
「しかし、それに近づくには、船を君の自由にまかせなければならんし、そうすれば、乗組員の生命をむざむざ棄てさせることになるからな」
「わしの生命もですよ」と、カナダ人はあっさり言った。
午前二時頃、エブラハム・リンカーン号の風上六マイルほどの洋上に、ふたたび強烈な光が現われた。かなり距離があり、風や波が騒いでいたが、それでも怪物の尾鰭《おひれ》をたたく音や、喘ぎ声までが、はっきり聞こえた。その巨鯨が息をつくために海面に浮び上った瞬間には、まるで二千馬力の機械のシリンダーに蒸気が吹きこまれるように、激しい勢いで空気を吸いこむらしかった。
「ふん! 騎兵一聯隊ぐらいの力をもったクジラだと思えば、間違いない!」と、私は思った。
私たちは夜明けまでに、すっかり戦闘準備をととのえた。漁獲道具は取り出され、砲手は一マイルさきまで銛を発射することのできる喇叭砲に弾丸をこめ、また細長い鴨撃ち砲にはどんな恐ろしい動物にも致命傷を与えずにはおかない榴弾を装填した。ネッド・ランドは自分の銛――愛用の恐るべき武器を夢中になって磨いていた。
夜明けの六時になり、空が白みはじめると、一角クジラの電光は消えてしまった。七時になると、夜はすっかり明けはなれたが、あいにく濃霧が視界を妨げ、どんな精巧な望遠鏡を用いても全然展望がきかなかった。みんな失望と怒りにじりじりした。
私は後檣によじのぼって見た。マストの頂きには、すでに幾人かの士官が陣どっていた。八時になると、海面によどんでいた霧が少しずつ晴れはじめ、水平線が次第にひらけて、明るくなって来た。と、突然、前日と同じようにネッド・ランドの叫び声が聞こえた。
「左舷後方に怪物が現われたぞ!」
艦上の眼はいっせいに、指された方角に注がれた。艦から一マイルばかりのところに長い真っ黒なものが波の上に一メートルほど出ていた。尾を激しく動かしたと見えて、そのあたりの海面は一面に渦巻いていた。誰だって、尻尾でこんなに激しく海をかき乱す動物など見たことはないだろう。怪物の通ったあとは真っ白に光り、長い曲線を描いていた。
巡洋艦は怪物に近づいた。私はじっと眼をこらして、それを観察した。
シャノン号やヘルヴェシヤ号の報告は、大きさの点で少々誇張があった。私の見たところでは、長さはせいぜい八十メートルぐらいしかなかった。が、体積はすばらしく大きいようだった。そのうちに、蒸気と水との混った二条の柱がその噴気口から噴出し、約四十メートルの高さにのぼったので、それを見て私は、この怪物の呼吸方法をたしかめることができた。結局この動物は、脊椎動物中の哺乳類に属するものだと、私は結論した。
乗組員一同は、艦長の命令をしびれを切らして待っていた。艦長は入念にその動物を観察してから、機関士を呼びにやった。機関土は駈け足でやって来た。
「おい、ボイラーの用意は大丈夫かね?」と艦長は訊ねた。
「大丈夫です」と機関士は答えた。
「では、ボイラーに点火してくれたまえ」
この命令を聞くや、乗組員は思わず、万歳を三唱した。いよいよ戦闘開始の時が来たのだ。数分後、巡洋艦の二本の煙突からは、もうもうと黒煙が吐き出され、艦橋はボイラーの震動でふるえた。
エブラハム・リンカーン号は全速力で怪物めがけてまっしぐらに突進した。怪物は九十メートルの距離まで艦の近づくのを許したが、そこまで近づくと、彼は潜るには及ばないと考えてか、少し向きを変えて走りはじめた。
この追跡は四十五分ばかりつづいたが、艦はそれ以上二メートルと相手に近づくことができなかった。これでは、どこまで行っても追いつけるものではなかった。
「おい、ランド君」と、艦長は言った。「ボートを出してはどうだろう?」
「駄目ですね。そんなことでとうてい捕まるような代物じゃありませんよ」
「じゃ、どうすればいいのだ?」
「できることなら、艦長、もっと速力を出してください。そうしたら、わしは第一斜檣の下に陣取って、銛のきく距離へ入ったら、銛を打ちこみますから」
「やってくれたまえ、ネッド」と、艦長は言ってから、「機関士、もっと速力を出してくれ」
ネッド・ランドは、自分の位置についた。艦は火力を増し、推進器は一分間四十三回の速さで回転しはじめた。測程器を調べてみると、エブラハム・リンカーン号はちょうど十八ノット半の速力で走っていた。
が、見ると、その呪うべき怪物もまた、十八ノット半の速力で走っているのだ。
まる一時間、艦は同じ速力で追跡をつづけたが、二メートルと距離を縮めることはできなかった。アメリカ海軍の艦艇中でも最も速い艦として、これはどう考えても面目ないことだった。乗組員は誰も歯ぎしりして、いまいましがった。艦長も、もう髭をひねってなどいられなくなって、じっとそれを噛んでいた。
機関士がふたたび呼びよせられた。
「全速力を出しているのだろうな?」
「そうです、艦長」と、機関士は答えた。
エブラハム・リンカーン号の速力はさらに一段と高まり、黒煙はもうもうと細い煙突口から渦巻き上った。
測程器がふたたび調べられた。
「どうだ?」と、艦長は舵手にたずねた。
「十九ノット三です」
「もっと出してくれ」
機関士は命令どおりにした。圧力計は十度を示した。が、同時に、相手の怪物も速力を増したらしく、艦と同じ十九ノット三の速力で、悠々と走りつづけているではないか。
これでも追跡だろうか! その時の焦躁の気持を、私は説明することができない。ネッドは手に銛を持ったまま、所定の位置についてじりじりしながら待っていた。怪物は幾度も速力をゆるめて、追いつかれそうになったが、その度にこのカナダ人は、「くそっ、今に仕留めてくれるぞ、今に仕留めてくれるぞ!」と叫んだ。だが、彼が銛を打とうとすると、相手はたちまち三十ノット以上の速力を出して、艦を引き離してしまうのだった。その上、怪物は私たちの艦が全速力を出しているにもかかわらず、まるで嘲弄するように、ぐるぐるそのまわりを旋回さえした。一同の口からは思わず憤怒の叫びが発せられた。
正午になっても、私たちは朝八時頃の距離を少しも縮めることができなかった。
とうとう、艦長はもっと直接的な手段をとることを決意した。
「畜生! 奴はエブラハム・リンカーン号よりずっと速いわい。よし! それなら、ひとつこの円錐形の弾丸をお見舞いしてやろう。砲手、射ち方用意だ」
艦首砲はただちに装填され、目標に向って旋回された。だが、第一弾は、半マイルほどへだたった巨鯨の上を越して数メートルさきの水中に落ちた。
「もう一発、もっと右だ」と艦長は叫んだ。「あのいまいましい奴に命中させた者には五ドルの賞金を出すぞ」
白髭の、眼の鋭い、威厳のある顔つきをした老砲手は、ふたたび砲に取りついて、長いこと狙いをさだめていたが、やがて轟然たる砲声が鳴って、それと同時に乗組員は、「わあっ!」と歓声をあげた。
弾丸はみごとに怪物に命中した。だが、それは円い背中の表面をすべって、あっというまに海中深く没してしまった。
ふたたび追跡は開始された。艦長は私の方に顔をよせて、ささやいた。
「私はこの艦がこわれるまで、奴を追っかけますよ」
「いいでしょう。僕も賛成です」
私は、そのうちにきっと相手が疲れるだろうと思った。生きものである以上、機械と違って、疲労を感じないはずはないからだ。しかし、それは空頼みであった。数時間過ぎても、怪物は少しも疲労の様子を見せなかった。
だが、エブラハム・リンカーン号は、あくまで追跡をやめなかった。十一月六日の、この不幸な日に、私たちの艦は実に三百マイル以上も走りまわったが、そうこうしているうちに、日は暮れて、広漠たる大洋はふたたび闇におおわれてしまった。
これで、私はせっかくの遠征もおしまいになり、もう二度とあの途方もない怪物にめぐりあうことはないだろう、と思った。が、それは私の思い違いだった。夜の十一時十分前に、艦の風上三マイルの地点に、昨夜とそっくりの、強烈な雷光がふたたび現われたのである。
怪鯨はじっと動かないように見えた。たぶん昼間の活動に疲れて、波にゆられながら眠っているのかもしれない。艦長はこの好機を逸してはと、即座に冒険を決意した。
彼は命令を下した。エブラハム・リンカーン号は速力を半分に落し、敵にさとられぬように、用心深く進んだ。大洋の真中で、攻撃されても分らぬほど、クジラが深い眠りに落ちることは、決して珍しいことではないのである。ネッド・ランドも、これまで一度ならず、熟睡中のクジラに銛を打ちこんだ経験をもっていた。で、このカナダ人は、ふたたび第一斜檣の下に陣取って相手に近づくのを待った。
艦は音もなく近より、怪物から二百尋のところで一たん止り、ふたたびそっと近づいて行った。一同は息をのみ、艦橋の上はしんと静まりかえった。私たちは火光の中心から三十メートルのところに迫ったが、近づくにつれてその光はますます強烈となり、眼もくらむばかりになった。
この時、私は艦首の舷檣《げんしょう》によりかかりながら、すぐ眼の下に、ネッド・ランドが、片手で支索《しさく》をつかみ、もう一方の手で恐ろしい銛を振り上げているのを見た。そこから六メートルと離れていない水面に、怪物はみじろぎもしないで浮んでいた。突然ネッドの腕が伸びて、銛が投げられた。銛は何か固い物体に当ったらしい、高い響きを立てた。と、不意に電光が消えて、二条の大きな水柱が巡洋艦の艦橋に落下してきたが、それは艦首から艦尾に向って奔流のように突き走り、乗組員を倒し、円材の縛索をぶち切った。つづいて起った恐ろしい衝撃に、私はからだを支えるひまもなく、手摺の外に投げ出され、そのまま海中に墜落した。
七 怪鯨の正体
この不意の墜落にすっかり顛倒してしまって、私はその時のことをはっきり覚えていないが、なんでも最初六メートルばかり深みに引きこまれたようだった。しかし、幸い私は泳ぎが達者だったので(といっても、バイロンやポーと張り合うつもりはないけれど)、水中にとびこんでも大してあわてはしなかった。力いっぱい二度ほど水を掻くと、水面に浮び上ることができた。何よりもまず、私は巡洋艦を探した。乗組員は私が落ちたのを見ただろうか? 艦長はボートをおろしてくれるだろうか? 私は救われるだろうか?
闇は深かった。私は黒い影がかすかに信号灯を明滅させながら東の方へ消えて行くのを、ちらっと認めた。たしかにエブラハム・リンカーン号だ。私は夢中になって叫んだ。
「助けてくれ! 助けてくれ!」
私は絶望的な気持に襲われながらも、エブラハム・リンカーン号の方へ泳ぎながら大声で叫んだ。
が、濡れた服がからだにまつわりついて、自由がきかなかった。私は沈みかけ、息がつまりそうになった。
「助けてくれ!」
これが私の最後の叫びだった。海水に口をふさがれた、私は、深みに引きこまれながら、必死になってもがいた。と突然、私の服が何者とも知れない強い手につかまれ、そのままぐんぐん海面に引き上げられて行くような気がした。そして人の声が――たしかに人の声が――こういっているのが、耳にはいった。
「先生、わたくしの肩におつかまりなさい。そうすれば、もっと楽に泳げますよ」
私は、片手で、忠実なコンセイユの腕をつかんだ。
「お前か?」と私は言った。「お前だったのか?」
「わたくしです。さあ、どんなことでも、ご命令なすってください」
「お前も俺のように海に放り出されたのか?」
「いえ、わたくしは先生をお助けしようと思って、飛びこんだのです」
この忠実な男は、それを当然のことのように思っているらしかった。
「で、艦はどうした?」
「巡洋艦ですか?」と彼はうしろを振りかえりながら、「あの艦《ふね》のことは、あまり当てになさらん方がよろしいですね」
「そうか?」
「わたくしが海中に飛び込んだ時、舵手が言ってましたよ。『推進器と舵をやられた』って」
「やられたって?」
「そうです。怪物の牙でやられたらしいのてす。エブラハム・リンカーン号の損傷はただそれだけですが、わたくしたちには大ごとでさ――艦はもう舵がきかないのですからね」
「では、俺たちは置いてきぼりか」
「たぶんそうでしょうよ」と、コンセイユは平然と答えた。
「でも、まだ数時間は生きていられるでしょうから、その間になんとかなりますよ」
コンセイユの落ちつき払った冷静ぶりは、私をふたたび勇気づけた。私は元気を出して泳ぎはじめたが、服が鉛のように重くへばりつくので、どうにも浮いていられなかった。コンセイユはすぐに気づいて、
「先生、切ってさし上げましょう」
といいながら、ナイフを開いて、私の服の下に差しこみ、すばやく上から下へ切り裂いた。そして、私を泳がせながら、手早く服を脱がせてくれた。
それから、私もコンセイユに同じことをしてやり、二人は互いに離れないように、ならんで泳ぎつづけた。
だが、私たちの境遇は、依然絶望の中におかれていた。艦の連中は、たぶん私たちのいなくなったことに気づかないかもしれない、かりに気づいたにせよ、舵をなくした艦にどうすることができよう。コンセイユはこう推測し、それに基づいておもむろに彼の計画をたてた。この落ちついた男は少しも動じなかった。結局、私たちはエブラハム・リンカーン号のボートを待つよりほか道がないのだから、そのボートが来るまでできるだけ長く持ちこたえるようにしようと、相談一決した。私たちは二人の気力を同時に消耗してしまわないように、力を節約することにした。一人が仰向けになって腕を組み、脚をのばしている間に、他の一人は泳ぎながらそれを前方へ押しやるようにした。この曳船作業は、どっちも十分間とつづかなかったが、こうして互いに助け合って行けば少なくとも数時間、たぶん夜明けまで泳ぐことができるだろう。救助の望みはほとんどなかったが、人間の心の奥底にひそむ希望は根強いものである。それに私たちはなんといっても二人だったので、その点では気強かった。
巡洋艦とクジラとの衝突は、前夜の十一時頃に起ったのだから、私たちは日の出るまで八時間ばかり泳がなければならない勘定だったが、互いに助け合えばそのくらいできそうに思えた。幸い海は非常に穏やかだった。ときどき、私は真っ暗な闇の中を透かして見たが、見えるのは私たちが動くために光る夜光虫の燐光だけであった。私は、手さきを越す光った波が、鏡のような手の表面にたくさんの銀の環を散りばめるのを認めた。私たちは水銀の風呂に入っているようなものだった。
朝の一時近くなると、私はへとへとになり、四肢が激しい痙攣《けいれん》でこわばってしまった。そうなると、コンセイユは私を支えていなければならなくなり、彼一人で二人分の仕事をしなければならなくなった。そのうちに、彼もそろそろ喘ぎはじめ、息づかいがせわしくなって来た。もうこれ以上、私を支えていることはできそうもなかった。
「放せ! 放してくれ!」と、私は言った。
「放すなんて、とんでもないこってす! わたくしは、溺れるまで放しませんよ」と、コンセイユは答えた。
ちょうどその時、風に吹かれて東に走っていた密雲の切れ目から月が現われ、明るい月光が海を照らし出した。この柔かい月の光に、私はふたたび元気づけられ、頭もはっきりして来た。水平線をひとわたり見渡した私は、ふと巡洋艦の姿を見つけた。
それは八キロほど彼方に黒い影のように浮かんでいたが、やっと見えるか見えないくらいであった。そしてボートは一隻も見えなかった。
私は大声で叫ぼうとした。だが、こんな遠いところから、叫んだところで、聞こえるだろうか? それに、私の腫《は》れた唇からは声も出なかった。コンセイユは、まだいくらか声を出すことができたので、彼は間をおいて、「助けてくれ! 助けてくれ!」と繰りかえし叫んだ。
私たちは、ちょっとの間、動くのを止めて、じっと耳をすました。耳の迷いかしれないが、コンセイユの叫び声に誰か答えているように思われた。
「コンセイユ、聞こえるか」と、私は小声で言った。
「聞こえます、聞こえます」
そして、コンセイユはもう一度ありったけの声を出して叫んだ。
こんどは間違いなかった! それはたしかに私たちに答える人間の声だった! やっぱり私たちと同じように、衝突の犠牲になって、大洋の真中に捨てられた不幸な人間の声だろうか? それとも、巡洋艦から救いに来たボートが、闇の中から私たちを呼んでいる声だろうか?
コンセイユは、最後の力を奮い起して、死にもの狂いで泳いでいる私の肩につかまり、水面から半身をのび上らせたが、すぐぐったりとなって水中に身体を落した。
「何か見えたかね?」
「見えました――」とコンセイユは小さな声でささやいた。
「見えましたが――ものをいわないで――しっかりなすっていてください!」
コンセイユは一体何を見たのだろうか? その時どういうわけか、私はふと怪物のことを思い出した。が、それにしては、あの声は?
まさか予言者ヨナがクジラの腹中に隠れている時代ではあるまい。だが、コンセイユは相変らず私を押しながら、時々頭をあげて前方を眺め、何か見えるものに声をかけたが、すると先方からもそれに答える声が次第に近づいて来て、私の耳にもはっきり聞こえるようになった。けれどもその時はもう力も根も尽きはてて、指は硬ばり、口は塩水でいっぱいになり、身体全体が氷のように冷えきっていたので、私はちょっと頭をもたげただけで、そのまま沈みはじめた。
その時、何か固いものが身体にぶつかったので、私は夢中でそれにしがみついた。それと同時に、私は強い力で引き上げられて、水面に浮び上ったけれど、胸が苦しくなって――そのまま気を失ってしまった。
まもなく、誰かに身体を強くこすられて、気を取り戻したらしかった。私は薄眼をあけて、
「コンセイユ!」と、小声で呼んだ。
「お呼びでございますか?」と、コンセイユの声がした。
その時ちょうど水平線に沈もうとしている月の淡い光で、私はコンセイユのほかに、いま一人の人間の顔を認めたが、それが誰であるかはすぐわかった。
「ネッド!」と、私は思わず叫んだ。
「そうですよ、先生、今でも艦長の賞金を手に入れようと思ってるネッドですよ!」とカナダ人は言った。
「君もあの衝突で海に放り出されたのかね?」
「そうです。でも、あなた方よりは運が好かったですね。わしはすぐ浮島に足場を見つけましたから」
「浮島!」
「つまり、もっと正確にいうなら、あの大きな一角クジラの上にですよ」
「もっと詳しく説明してくれたまえ、ネッド」
「わしの銛が奴の皮に刺さらなかった理由がやっとわかりましたよ」
「どうしてだ、ネッド、どうしてだ?」
「どうしてって、先生、この怪物は鉄板で作られているからですよ」
カナダ人のこの言葉は、私を驚愕させた。私は急いで、水面から半分姿を現わしている、私たちの避難所となっている怪物の背中に這い上り、それを蹴ってみた。まったくそれは、銛などとうてい通りそうもない固い物体で、水棲哺乳動物の身体みたいに柔かなものではなかった。しかし、この固い物体は、先史時代の動物が持っていたような甲殻かも知れない。それで、この怪物はカメとかワニのような、水陸両棲の爬虫類に属するものではなかろうか、と私は思った。
しかし、よく見ると、そうらしくもなかった。私をのせている黒い背中は、すべすべしていて、光沢があり、鱗など一枚もなかった。その上、打てば金属性の音がし、信じられないことだが、どうも鋲《びょう》止めにした鉄板らしく見えた。
もはや、疑う余地はなかった。この怪物――世界の学者たちを迷わせ、両半球の航海者たちをさんざん手こずらせた怪物は、驚くべきことに、実は人間の手で作られたものだったのである。
しかし、私たちはぐずぐずしているひまはなかった。私たちはいま、大きな鋼鉄の魚の形をした一種の潜水艦の背中の上にいるのだ。これはネッド・ランドの意見であったが、コンセイユも私もそれに同意するほかなかった。
その時、急に、この怪物の後部に白泡が立って(これは明らかに推進器の回転のためであったが)動きはじめた。私たちはあわてて、水面から二メートルほど出ている怪物の背中の上部にとりついたが、幸いなことに、その速力は大して速くなかった。「こいつが水平に走っている間は、心配ないが」と、ネッド・ランドがつぶやいた。「いったんもぐりはじめたら、ことだぞ!」
このカナダ人の言葉は、決して誇張ではなかった。こうなったら、どんな人間か知れないが、この機械の中に閉じこもっている人間と、なんとかして話をする必要がある。私は外側に、どこか入口か、揚げ蓋か、もっと専門的な表現を用いればマンホールがないものかと、くまなく探してみたが、鉄板のつぎ目つぎ目には鉄鋲が厳重に打ってあって、一分《いちぶ》の隙間もなかった。それにちょうど月が落ちたので、あたりは真っ暗になってしまった。
ついに長い夜が明けはじめた。記憶があいまいなので、その時の印象をはっきり述べることができないが、ただ一つ――風と波が少し静まっている間に時々かすかな物音が聞え、何か号令をかけているような声が聞えたのを思い出すことができる。全世界が解き得なかったこの潜水艦の神秘は、一体何だろうか? この不思議な船の中には、どんな人間が住んでいるのだろうか? あの驚くべき速力は、どんな機械の力によるのだろうか?
夜が明けはなれた。朝霧が立ちこめていたが、まもなくそれもはれあがった。平らなプラットフォームのような甲板を形づくっているその船体を調べようとしていると、その時急に船が沈みはじめたのに、私は気づいた。
「あっ、大変だ!」と、ネッド・ランドが鉄板を踏み鳴らしながら、大声で叫んだ。「開けろ! 畜生、開けろ!」
さいわいにも、潜航は中止され、それと同時に鉄製の機械を荒々しく開けるような響きが、船内から聞こえて来た。そして突然一枚の鉄板が動いて、そこから一人の男が姿を現わしたが、何か訳のわからぬ叫び声をあげると、すぐ引っこんでしまった。
しばらくすると、こんどは覆面をした屈強な男が八人、音もなく現われて、いきなり私たち三人を、その無気味な機械の中へ連れ込んだ。
八 動中の動
私たちは、だしぬけに荒々しく引き立てられたが、それはまったく電光石火の速さで行なわれた。私は思わず戦慄した。こいつらはいったい何者なのだろうか? きっと海洋を荒しまわっている新しい海賊団に相違あるまい。狭い入口の扉が閉められると、すぐあたりは真っ暗になった。外光になれた眼は、急に暗くなったので、何も見ることができなかった。素足の下に鉄の梯子が感じられた。ネッド・ランドもコンセイユも、しっかりつかまえられて、私のあとからおりて来た。梯子をおり切ると、扉が開いて、私たちはその中に押しこまれ、同時に私たちの背後でバタンと扉が閉められてしまった。
私たちは三人だけになった。が、この部屋が一体どんな部屋なのか、さっぱりわからなかった。あたり一面真の闇で、数分たっても何一つ見えなかった。
この処置に憤慨したネッド・ランドは、怒りにまかせて喚き立てた。
「畜生! なんて奴らだ。まるで人食い人種みたいな奴らだ。食人種だって驚きやしないぞ。おとなしく食われてなんかいないから」
「まあ、静かにしなさい。ネッド君」と、コンセイユがしずかに言った。「向こうが手出しをするまでは、黙っていようよ。まだわたしたちは、何もされたわけじゃないのだから」
「冗談じゃない」と、カナダ人はやり返した。「相当ひどい目にあってるぜ。さいわい俺は猟刀を持ってるから、いざという時には、目にもの見せてやるぞ。真っ先にかかって来た奴を――」
「興奮しちゃいかんよ、ネッド」と私も言った。「事を荒だてて身を亡ぼすようなことをしちゃいかん。それに誰が聞いていないとも限らんからね。それよりも、ここはいったいどんなところか、調べてみようじゃないか」
私はあたりを調べはじめた。五歩ばかり行くと、鉄板を張り合せた壁があった。そこであとに引き返すと、木製のテーブルにぶつかったが、その周囲には腰掛がいくつも並んでいた。この獄室の床には、厚手の亜麻製の絨毯が敷いてあるので、足音はしなかった。裸の壁には、窓や扉らしいものは一つもなかった。私は反対側をまわって来たコンセイユと出あったので、縦六メートル、横三メートルばかりの室の真中に戻った。天井は背の高いネッド・ランドでも手がとどかないほど高かった。
そのまま何の変ったこともなく三十分ほどたった頃、突然あたりがパッと明るくなった。室内に灯火がついたのだが、何か明るいものが部屋いっぱいにあふれたような感じがし、その光の強さにちょっとのあいだ眼を開けていられないほどだった。その光が白くて、非常に強烈なところから推して、私はこの潜水艦の周囲を照らしていた燐光性のまばゆい光が電光であることに気がついた。思わず両眼を閉じたが、やがて静かに眼を開けると、くだんの光は船室の屋根にある半球形の曇りガラスの電球から発していた。
「やっと見えるようになったぞ」と、猟刀を手にして身構えながら、ネッド・ランドが叫んだ。
「そうだね。しかし、僕らの身の上はまだどうなるかわからないぞ」と、私は言った。
「まあ、先生、辛抱なさるんですね」と、相変らず落ちつき払ったコンセイユは、静かに言った。
明るくなったので、私は部屋の中を細かに調べることができた。テーブルが一つと、腰掛が五脚おいてあるきりで、扉は眼に見えないが、密閉されているらしく、なんの物音も聞こえなかった。艦内は、すべてのものが死んでしまったように静まりかえり、艦は今動いているのか、洋上に浮いているのか、それとも海中に潜っているのかさえ、皆目見当がつかなかった。
と、その時、閂《かんぬき》の音がして、扉が開き、二人の男が姿を現わした。
一人の男は、背こそ低いが、筋骨たくましく、広い肩幅と、頑丈な四肢と、ふさふさした真っ黒な髪と、濃い口髭と、敏捷な鋭い眼つきと、南フランス人特有の快活さとを、もった人物だった。
もう一人の人物は、もっと詳しく述べる価値があるだろう。というのは、私はひと目見て、この人物が自信と冷静と精力の持主であるのを悟った。なぜなら、肩の上に真っ直ぐにすわった頭と、静かな確信にみちた黒い眼とは、自信の強いことを示していたし、血の冷たそうな、青白い皮膚は、冷静なことを語っていたし、敏捷な動きを見せる太い眉毛は、精力の旺盛なことを、また、強そうな肺から出る深い呼吸は、勇気のあることを表わしていたからである。
この人物の年齢は、三十五ぐらいのようでもあり、五十ぐらいのようでもあり、ちょっと判断がつかなかった。背が高く、額が広く、鼻筋が通り、口元が一文字に引きしまり、歯並が揃っていて、神経質らしい細いきれいな手をしていた。それは、まさしく、私がこれまで出会った人間のうちで最も賞讃すべき、立派なタイプの持主であった。彼の眼は一種特別で、その間隔がかなり離れており、ひと目で水平線の四分の一は見通せそうに思われた。
これはあとでわかったことだが、はたして彼はネッド・ランドよりもはるかにすぐれた視力を持っていた。彼が何かを見つめる時は、その視野を狭めるために肩を寄せ、大きなまぶたを収縮した。そしてその視力の鋭さはまるで遠く離れている小さな物体を拡大し、また私たちの眼にはまったく不透明な海面や深海の底までも見通すかのようであった。
二人はラッコの毛皮の帽子をかぶり、アザラシの皮の長靴をはき、手足を楽に働かせるようにした、特殊な織物で作った服を着ていた。たしかに首領らしい背の高いほうの男は、無言のまま、じろじろ私たちを眺めていたが、やがてもう一人の男を振りかえると、何かわからぬ言葉で話しかけた。朗らかな耳ざわりのいい、柔かな発音で、母音にいろいろなアクセントがあるようであった。
もう一人の男は首を振って、同じようにわからぬ言葉で二こと三こと何か言い添えた。彼は私の方を見て、何かたずねるような表情をした。
私は正しいフランス語で、あなたの言葉はわからない、と答えたが、相手にはそれが通じないらしかったので、私は当惑してしまった。
「わたくしたちの事情をよくお話しになったら、この人たちも幾らかわかるでしょう」と、コンセイユが言った。
そこで、私は初めからの一部始終を、一語一語はっきりとした発音で話しはじめた。そして自分たちはアロンナクス教授と、徒僕のコンセイユと、銛打ちのネッド・ランドという者だと、三人の名前や身分を告げた。
落ちついた柔らかい眼つきの人物は、静かにというよりも丁重に、非常に注意深く聴き入っていたが、その顔には少しもわかったらしい表情は浮かばなかった。私が話し終っても彼は一ことも口をきかなかった。
この上はもう、英語で話すよりほかなかった。たぶん彼らも、このもっとも世界的な国語は知っているだろう。だが、私はドイツ語と同じくらいにしか英語を知らなかった――つまり、読むにはこと欠かなかったが、うまく話すことができなかったのだ。しかし、とにかく、私たちはなんとかして自分たちの事情を相手に通じさせなければならない。
「さあ、ネッド、こんどは君やってくれたまえ」と、私は銛打ちに言った。「君のうまい英語で頼むよ」
ネッドは引き受けて、私と同じように詳しい事情を述べた。
が、いまいましいことに、この銛打ちも私以上に、話の内容を相手にわからせることはできなかった。二人の訪問客は相変らず顔色一つ動かさなかった、彼らには、英語もフランス語も全然わからないらしかった。
いよいよ私たちの言語学的資源も種子《たね》切れになったので、当惑し切っていると、その時コンセイユが口を出した。
「よろしかったら、わたくしが一つドイツ語で話してみましょう」
だが、コンセイユの流暢で正確なドイツ語も、やはり通じなかった。とうとう私は途方にくれて、むかし習ったラテン語で話しかけてみたが、これも無駄であった。この最後の試みが失敗に終ると、二人の男は何やらわからぬ言葉で二こと三こと話し合った未、部屋を出て行った。
扉はふたたび固く閉ざされた。
「馬鹿にしてやがる!」
ネッド・ランドは、もう二十度も繰りふえした呪いの言葉を吐き出した。
「フランス語、英語、ドイツ語、ラテン語と、手をつくして話してやったのに、あいつらは返事一つしやがらねえ!」
「まあ、落ちつきたまえ」と、私はじれ切っているネッドをたしなめた。「怒ったところで仕方がないよ」
だが、この怒りっぽい男は、なかなかおさまらなかった。
「でもね、先生、こんな鉄の牢屋に入れられていたんじゃ、いまに餓死してしまいますよ」
「なあに、まだしばらくのところは大丈夫でさ」と、コンセイユがゆったりした調子で言った。
「君、絶望しちゃいかんよ」と、私も元気づけた。「僕たちはもっとひどい目にあっていたかもわからないんだからね。あまり軽くこの船の連中のことを判断しないで、もうしばらく待ってみるんだね」
「わしにはもうすっかり判断がつきましたよ。奴らはとんでもない悪党ですぜ」
「いったい、どこの国の人間だろう?」
「悪党の国の人間でさ」
「だって君、そんな国は世界地図のどこにもありゃせんよ。しかし、僕にもあの二人の男の国籍は、ちょっと見当がつかんね。イギリス人でも、フランス人でも、ドイツ人でもないことだけはたしかだが、しかし、あの指揮官にしても、部下の男にしても、見たところ緯度の低い土地の人間らしいな。なんとなく南国的なところがあるもの。だが、顔つきだけでは、スペイン人だか、トルコ人だか、アラビア人だか、インド人だか、さっぱり見当がつかない。それに、言葉ときたら、全然わからないんだからね」
「世界じゅうの言葉を知らないのは、不便なものですね。こういうさい世界語があるといいんですが」と、コセイユは言った。
この言葉が終るか終らないうちに、扉が開いて、一人の給仕がはいって来た。彼は私たちに上衣とズボンを持ってきてくれたのだが、それは今まで見たこともないような材料でつくられたものだった。私たちはいそいでそれに着がえた。そのあいだに給仕は黙って食卓をととのえ、三人分の皿をならべた。
「これはどうして、なかなかご馳走ですよ」と、コンセイユが言った。
「なにが!」と、まだ怒っている銛打ちは言った。「あいつら、ここで何を食べているか、わかったもんじゃないよ。どうせ、カメの肝臓か、フカの切り身か、アザラシの焼肉ぐらいのもんだろう」
「とにかく、頂戴しましょう」と、コンセイユが言った。
鐘銅製の皿がテーブルにならべられ、私たちはそれぞれ席についた。それはたしかに文明的な料理で、もし私たちを照らしている電灯の光さえなかったら、私はリヴァプールのアデルフィ・ホテルか、パリのグランド・ホテルの食堂にいる気がしたかもしれない。しかし、パンや葡萄酒は出なかった。水は新しい澄んだ水だったが、そんな水はネッドの趣味には合わなかった。ご馳走の中には、上手に料理された、いろいろな魚があったが、それがどんな魚かわからなかったし、また動物の肉なのか野菜なのかはっきりしないものもあった。しかし、料理の腕前はなかなか優れていて、私たちの口によく合った。そして、スプーンや、フォークや、ナイフや、皿には、どれも次のような文字と標語が彫りつけてあった。
≪動中の動 N≫
このNという文字は、疑いもなくあの海底を支配する謎の人物の頭文字にちがいなかった。
ネッドとコンセイユは、それにはほとんど無関心な様子だった。三人は料理をむさぼり食った。私は、この様子では、この船の主人が私たちを餓死させるようなことはあるまいと安心した。
十五時間飲まず食わずにいた私たちは、これですっかり落ちつき、食欲がみたされると急に眠くなって来た。
「これで、ぐっすり眠れるでしょう」と、コンセイユが言った。
「わしも――」と、ネッド・ランドも相づちを打った。
二人は、船室の絨毯の上に横になると、すぐ 鼾《いびき》をかいて眠ってしまった。だが、私自身は、いろいろな考えや空想が頭に渦巻いて、容易に眠れなかった。われわれは一体どこにいるのだろうか? どうなるのだろうか? 私にはこの船が海の深みへ沈んで行くような気がした。私は恐ろしい悪夢に襲われた。それらの不思議な夢の中で私は、いままで見たこともない動物の世界を見たが、この潜水艦もその一つで、生活も、動作も、恐ろしさも、彼らによく似ていた。そのうちに私の頭もようやく平静にもどり、空想も薄れて、やがて深い眠りに落ちて行った。
九 ネッド・ランドの憤慨
どのくらい眠ったかわからなかったが、疲れがすっかりとれたところを見ると、よほど長いこと眠ったにちがいなかった。まっさきに眼をさましたのは私で、ネッドとコンセイユはまだ部屋の片隅に丸太のように転がっていた。
幾分固い長椅子から起き上った私は、頭がすっきりして、気分がさわやかになったような気がした。室内を注意深く見まわしたが、前と少しも変ったところはなかった。牢屋は依然として牢屋で、囚人ももとのままの囚人だった。しかし、私たちが眠っている間に、給仕がテーブルの上だけは片づけておいてくれた。そのうちに、私はなんとなく息苦しさをおぼえ、重い空気が肺をおさえつけるような気がしてきた。部屋は広かったが、私たちはどうやら室内の酸素を大部分吸いつくしてしまったらしかった。人間は誰でも一時間約百リットルの空気の中に含まれた酸素を消費し、それがほとんど同量の炭酸ガスに変るものなのである。
私たちの獄室ばかりでなく、その時はもう、艦内全体の換気を行なわねばならぬ時が来ていることは明らかだった。私はそれに興味をひかれた。艦長はいったいどう処理するだろうか?
塩酸加里を熱して、その中に含まれている酸素を採ったり、苛性加里で炭酸ガスを吸収したりするような化学的処置をとるだろうか? それとも、もっと便利で経済的な、したがってもっと可能性のある方法、つまり、クジラのように水面に浮かびあがって息をつき、二十四時間分の空気を艦内に保存するような方法をとるだろうか?
実際、酵素の少ないこの部屋では、私の呼吸はもう大分せわしなくなっていたが、その時突然、塩分を含んだ新鮮な空気がさっと吹きこんで来た。それは、ヨードを含んだ気持の好い海風だった。私は大きく口を開いて、肺いっぱいに新鮮な空気を吸いこんだ。
それと同時に、急に、船が横揺れするのが感じられた。この鉄板の怪物はきっとその時、クジラの真似をして、呼吸をしに海面に出たにちがいない。私は、それによってこの船の換気法を知ることができた。
私は新鮮な空気を思うさま吸いながら、それが運ばれてくるパイプのありかをすぐ見つけた。扉の上に通風孔があって、そこから新鮮な空気が多量に流れこんで来て、室内の濁った空気を清めてくれるのだ。
これらのことを観察していると、この生きかえった空気のためか、ネッドとコンセイユが、ほとんど同時に眼をさまし、眼をこすり、背伸びをしてしからむっくり起き上った。
「先生、よくおやすみになれましたか?」と、コンセイユが、いつものように丁重な調子でたずねた。
「ぐっすりねむれたよ。ところで、ランド君はどうだったね?」
「ぐっすりねむれましたよ、先生。でも、なんだか潮風の匂いがするようですね」
船乗りはさすがに敏感であった。私は、彼が眠っている間に起きた事柄を、すっかり話して聞かせた。
「なるほど」と、ネッドは言った。「それでエブラハム・リンカーン号を見つけたとき、このクジラの吼えた訳がわかりましたよ」
「そうだよ、ランド君、この船が息をしたんだよ」
「ですがね、アロンナクス先生、いま何時頃でしょう。もう夕食の時間じゃないでしょうか?」
「夕食の時間! いや、もう朝飯の時間だろうよ。夜が明けたらしいからね?」
「ほほう」と、コンセイユが言った。「すると、わたしたちは二十四時間も眠ってたのですか?」
「そうらしいよ」
「わしも、そう思いますね」と、ネッド・ランドが相づちを打った。「しかし、晩飯でも朝飯でもかまわないから、早くもって来てくれるといいがな」
「でもランド親方、船に乗ってるときは、その規則に従わなければなりませんよ。それに、わたしたちの胃袋は食事時間が来ないうちに空いているのかもしれませんからね」
「コンセイユ君、あんたらしいな」と、ネッドはいらいらしながら言った。「あんたは決して怒ったことのない、おとなしい人だ。恩恵をうけるよりもさきにお礼をいい、不平をいうよりも餓死するほうだからな」
時間がたつにつれ、私たちの空腹はひどくなってきたが、給仕はいっこう姿を現わさなかった。あんまり長いことうっちゃられているので、一体どんなつもりなのか気にかかって来た。ネッド・ランドは、空腹のため、いよいよおこりっぽくなって来た。私は、彼の約束にもかかわらず、誰かがはいって来たとき彼が乱暴をしやしないかと心配になった。
さらに二時間、ネッド・ランドの怒りはいよいよ激しくなり、彼は喚いたり、叫んだりしていたが、やはりなんの応答もなかった。壁は聾《おし》のように黙りこくり、艦内には物音一つ聞こえず、死んだように静まり返っていた。艦はまったく動いていないようだった。でなければ、推進器の響きで多少とも震動が感じられるはずだった。この沈黙はまったく恐ろしかった。
私は恐怖でふるえた。が、コンセイユは相変らず落ちつき払い、ネッドは喚きちらしていた。
その時、外側に物音がして、鉄板の上に足音が聞こえたかと思うと、錠が鳴り、扉が開いて、給仕が入って来た。
それを見ると、気短かなカナダ人は、いきなり給仕に飛びかかって、彼を殴り倒し、その喉首をしめあげた。私は駈けよって止めようとしたが、間にあわなかった。給仕は怪力にしめあげられて、息がとまりそうになった。
コンセイユもあわてて銛打ちの手をおさえ、半死半生の給仕を救い出そうとしたし、私もそれを手伝おうとした。と、その時突然、私はフランス語で次のような言葉を言うのを聞いて、思わず立ちすくんだ。
「まあ、静かにしたまえ、ランド君。それからアロンナクス先生も、わたしの言うことを聞いてください
十 海の人
話しかけたのは、この艦の艦長だった。
その言葉を聞くと、ネッド・ランドも、さっと立ちあがった。危うく息の根を止められかけた給仕は、艦長の眼くばせをうけて、よろめきながら出て行った。艦長の権力がよほど強いと見えて、彼は乱暴したカナダ人に対して怨めしそうな素振りさえ示さなかった。コンセイユと私は、呆然としてその場の成り行きを見まもっていた。
艦長はテーブルの角にもたれ、腕を組んで、私たちをじっとながめていた。何か口を切るのをためらっているのだろうか? それとも、フランス語で話しかけたのを後悔しているのだろうか? とにかくそんな様子だった。
しばらく無気味な沈黙がつづいた後、艦長は静かな、よく通る声で、言った。
「みなさん、わたしはフランス語も、英語も、ドイツ語も、ラテン語も、みんな同じくらい知っているのです。それで、最初お会いしたとき、すぐお答えできたのですが、まずあなたがたの事情をきいて、それからよく考えたかったのです。一人一人別々にお話を伺ったのですが、まったく符号していたので、よく了解できました。ですから、偶然の機会で本艦に来られたあなたがたが、パリ博物館の博物学教授で、海外科学調査の任務を帯びていられるピエール・アロンナクス氏と、その従者のコンセイユ君、それからアメリカ合衆国巡洋艦エブラハム・リンカーン号に乗っていたカナダ生れの銛打ち手ネッド・ランド君だということも、わたしは承知しているのです」
私は黙ってうなずいた。艦長は別に私にたずねた訳ではなかったから、答えるには及ばなかった。彼は少しのよどみもなく、楽々とフランス語を話した。言葉は丁寧で、はっきりしており、非常に流暢であった。だが、私には、どうも同国人とは思えなかった。
彼はなおも言葉をつづけた。
「あなたがたは、もちろんわたしがあまり長いことお待たせしたのを怒っていられたにちがいありません。が、実はこうした訳だったのです。あなたがたの事情はわかったが、一体どうあなたがたを取り扱ったらいいか、よく考えてみたかったのです。わたしは少なからず躊躇しました。あなたがたは、社会のきずなをすべて断ち切った人間のところへ来られたので、わたしとしてはまったく当惑している次第なのです。あなたがたは、わたしの生活の邪魔しに来られたようなものですからね」
「心ならずもやったことでして」と、私は言った。
「心ならずもですって?」と、この奇怪な人物は、少し声を高めて言った。「エブラハム・リンカーン号が、この艦を追いまわしたのも、心ならずもですか? あの巡洋艦にあなたが便乗されたのも、心ならずもですか? あなたがたの発射された砲弾が、この船の鉄板にはねかえったのも、心ならずもですか? ネッド・ランド君がこの船に銛を投げたのも、心ならずもですか?」
憤りをおさえているような語調であった。しかし、これらの詰問には、私にも言い分があった。私は言った。
「しかし、あなたは、きっと、アメリカやヨーロッパで、あなたについてどんな噂が立っているか、ご存じないにちがいありません。あなたの潜水艦と衝突して生じた多くの変事がいかに両大陸の人心を動揺させているか、ご存じないにちがいありません。あなた一人だけが知っていられるこの奇怪な謎を解こうとして、無数の仮説が唱えられてきたことは、この際申し上げますまい。しかし、このことだけはわかっていただかなければなりません。エブラハム・リンカーン号が危険を冒して太平洋を隈なく捜索し、あなたを追跡したのは、何か知らぬがその恐るべき怪物を退治せねばならぬと決心したからなのです」
艦長は唇をゆがめて微笑したが、やがて静かな口調で言った。
「ムシュー・アロンナクス、あなたは、怪物が潜水艦だとわかったら、あの巡洋艦は追跡も砲撃もしなかった、と断言なさるのですか?」
この質問には困った。ファーラガット艦長はきっと躊躇せずに砲撃したかもしれないからである。こんな途方もない大きな、一角クジラのような潜水艦は、破壊するのが当然だ、と彼は思ったであろう。
「それで、おわかりになったと思いますが」と、不思議な人物はつづけた。「わたしには、あなたがたを敵として取り扱う権利があるのです」
私は、わざと返事をしなかった。どんな名論を吐いたところで、暴力でおさえられてしまう今の場合、かれこれ言っても仕方がなかったからだ。
「わたしは、しばらくのあいだ躊躇しました」と、ふたたび艦長は続けた。「とにかく、わたしには、あなたがたをおもてなしする義務は少しもないのです。もしわたしが、あなたがたと縁を切ってしまおうと思えば、あなたがたが勝手に避難所として選んだこの艦の甲板に、そのまま置き去りにして海中へ沈んでしまうことだってできたのです。それはわたしの権利ではないでしょうか?」
「野蛮人の権利かもしれませんが、文明人の権利ではありませんね」と、私は答えた。
「ムシュー・アロンナクス」と、艦長はせきこんで言った。「わたしは、あなたのおっしゃるような文明人ではありませんよ。わたしは、自分から正当だと信じる理由で、社会とすっかり絶縁している人間です。従って、わたしには社会の法律に従う義務はないのです。わたしの前で、二度と、そういうことはおっしゃらないでください!」
はっきり言い終ると、この謎の人物の眼には、憤りと侮蔑の火が燃えあがった。私は、この男の恐ろしい過去をのぞいたような気がした。彼は世間のきずなを一切たちきり、全然法律の手のとどかない、社会のそとに身を置いて自由に行動しているのだ! たとえ彼がどんな行動をとろうが、海の底まで彼を追跡し得るものが、果してあるだろうか? また、この海底の鋼鉄艦に対して正面から対抗できる艦艇が、果してあるだろうか? どんな人間だって、おそらく彼の行動の理由を糺問することはできないにちがいない。もし彼が神を信じているならば、その神のみが、――もしまた彼が良心を持っているならば、その良心のみが、唯一の審判者なのだ。
こうした考えが、私の頭の中を忙しく駆けめぐったが、その間、この不思議な人物は、黙ったまま、じっと考えこんでいた。私は、ちょうどスフィンクスを見つめたオイディプスのように、恐怖と興味の入りまじった感情で、彼を見まもっていた。
かなり長い沈黙の後で、艦長はふたたび口を開いた。
「わたしは躊躇したのですが、自分の利害関係と、誰しも持っている憐憫の情とを調和させることができそうに思えてきたのです。あなたがたはここへ来る運命だったのですから、この艦にお残りになったがよろしいでしょう。あなたがたは自由になさってよろしいが、それには、一つの条件があります。それを誓ってくだされば、いいのです」
「おっしゃってください」と、私は言った。「もちろんその条件は、名誉ある人間の承諾できる条件でしょうね?」
「そうです、それはこういうことです。不慮の事件が起った場合、数時間なり数日間なり、あなたがたは自分の部屋にはいっていていただかなければならないかもしれません。わたしは暴力を用いたくありませんから、その時は絶対に服従していただきたいのです。それについては、わたしが全責任を負います。あなたがたに見せてならないものは、わたしの方でお見せしないようにしますから、あなたがたは自由にふるまわれてかまいません。この条件を承諾していただけますか?」
そうすると、この艦内では、社会の法律にしばられている者が、見てはならないことが行なわれているのだ。「承知しました。が、一つだけ、おたずねしたいことがあるのですが――」
「おっしゃってください」
「わたしたちは、艦内で自由にふるまってよいと言われましたね――」
「そうです」
「それは、どういう意味の自由でしょうか?」
「この中を、自由に行ったり来たりして、ここで行なわれることを何でも――特別の場合は別ですが――見たり聞いたりなさってよいということです。一口にいえば、わたしや乗組員と同じように自由になさってかまわないのです」
私にはまだよく呑みこめなかった。
「失礼ですが、――獄室の中を歩きまわるだけの自由ならば、どんな囚人にも与えられています。それでは、どうも満足しかねますが」
「しかし、それで満足していただかなければなりません」
「何ですって! すると、わたしたちは、国へ帰って、友人や、家族と一緒になることは、永久に断念しなければならないのですか?」
「そうです。しかし、人間が自由だと信じている、あのたえがたい世間のきずなを断念することは、あなたが考えていられるほど苦痛なものではありませんよ」
「ちょっと」と、ネッド・ランドが叫んだ。「わしは、逃げないなんて絶対に誓いませんよ」
「僕も、君に誓約してくれとは頼まんよ」と、艦長は冷やかに答えた。
「艦長」と、私はこみあげてくる怒りをおさえながら、言った。「あなたは、わたしたちに対して自分の地位を濫用なさっていられるようですが、それは残酷ですよ」
「いや、慈悲です。あなたがたは捕虜ですよ。わたしが一こと言えば、あなたがたは海の底へ投げこまれるところだったのです。あなたがたは勝手にわたしの生活に侵入して来て、世の中の誰も知ることを許されない秘密――わたしの全生活の秘密を、のぞかれたのです。わたしはこれ以上自分の秘密を知られたくないのです。あなたがたはふたたび世の中へ戻してもらえるとでも思っていられるらしいが、断じてなりません。あなたがたをここにとどめておくのは、あなたがたを守るためではなく、わたし自身を守るためなのです」
「それでは、あなたは、ただわたしたちに、生か死か、どちらかを選べとおっしゃるわけですね?」
「そうです」
「わたしたちは、そのような質問にはお答えしようがありません、お誓いすることなどできません」と私は言った。
「そうですか」と、この未知な人物は答えた。が、すぐまた、彼は柔らかな調子で、言葉をつづけた。
「とにかく、申し上げておかなければならぬことだけは申しておきましょう。ムシュー・アロンナクス、わたしはあなたを存じています。あなたもお連れの人たちも、偶然のことからわたしと運命を共にされるようになったことを、いまにきっと後悔なさらなくなるでしよう。あなたの『海底』に関する著書は、わたしの愛読書の一つです。わたしは幾度もあの本を読み返しました。あなたは、地球上の科学が及ぶ限りの研究をなさいました。しかし、まだすべてを知り、すべてを見られたとは言えません。わたしはあえて申しますが、あなたはわたしの艦に乗られたことを、きっと後悔なさらないでしょう。これからおいおい驚異の国へご案内いたしますよ」
この言葉には、実際のところ、私も引きつけられずにはいられなかった。私はうまく弱点を突かれた形で、ちょっとの間、どんなすばらしい研究も自由を失ってはなんの役にもたたないということを、忘れた。
「ところで、あなたをお呼びするにはなんと申したらよいのでしょうか?」と、私はたずねた。
「ネモ(無名の意)艦長と呼んでください。そしてあなた方は、潜水艦ノーティラス号の乗客ということにしましょう」
ネモ艦長が声をかけると、給仕が出て来た。彼はわからない妙な言葉で何やら給仕に命じてから、ネッド・ランドとコンセイユの方向を向いて、
「諸君の室に食事の用意をさせましたから、どうかこの男について行ってください。それから、アロンナクスさん、あなたはわたしの方に食事の用意ができていますから、一緒にいらしってください」
「では、言葉にあまえてお供しましょう」
私はネモ艦長のあとに従ったが、扉口を出るとすぐ、電灯に照らされた艦の中甲板らしい廊下に出た。十メートルばかり行くと、第二の扉があった。
やがて私は、優雅に品よく装飾された食堂に導かれた。部屋の両端には、黒檀《こくたん》をはめ込んだ、背の高いカシの食器棚が置いてあり、その棚の上には、色彩の華やかなシナの陶器や高価なガラス器が並べてあった。
そして、それらをもの柔らかな電灯の光が美しく照らしていた。
部屋の中央には、立派なテーブルがあった。ネモ艦長は、私に坐る場所を示した。
朝食は幾品もあって、料理は海のものばかりであったが、中には材料も料理法もぜんぜんわからないものがあった。一種特別な臭いはあったが、すぐそれにも慣れ、どれもみんなおいしかった。これらの料理は燐素に富んでいるらしいところから見ても、すべて海産物にちがいなかった。
ネモ艦長は、私の顔をながめ、別段何もたずねないのに、私の腹の中を読んで、自分から説明し出した。
「この料理の大部分は、あなたのご存じないものです。しかし、ご心配なく召し上ってください。みんな新鮮で滋養に富んだものばかりです。長い間わたしは地上の食物をとりませんが、今日までいっこう病気もしません。乗組員も同じ食物ですが、みんな壮健です」
「すると、これはみんな海産物ですね?」
「そうです。わたしたちの必需品はみんな海が供給してくれるのですよ。網を打つこともありますが、人間の近づけない海中にもぐって、海底の森に棲んでいる獲物をとることもあります。わたしの魚群は海神の畜群のように、広い海洋の一大草原に放牧されてるわけです。わたしは海底に広大な領地を所有し、それからいろいろな収穫物をあげていますが、その種子はいつも万物の創造者が蒔《ま》いてくれるのです」
「なるほど、あなたが網でいろいろな魚を捕ったり、また海底の森林で猟をなさることはよくわかりますが、しかしこの獣肉は、一体どうなされたのですか?」
「あなたは、これを獣肉だと思っていられるようだが、じつはウミガメのひれ肉ですよ。ここにイルカの肝臓がありますが、豚肉のシチューとしか思えないでしょう。本艦のコックは、なかなか好い腕を持っていましてね。これらの海産物の料理には特に優れた手腕を持っているのです。この料理をみんな味わってみてください。これはナマコの砂糖漬ですが、マライ産のものが、最上とされています。このクリームは、クジラの乳から採ったものです。砂糖は北海のクロツノマタから採ります。最後にイソギンチャクの砂糖漬ですが、これは、非常に美味な果物の味に似ています」
私は、賞味するというよりも、むしろ珍しいからそれらの料理を味わった。それにネモ艦長の奇想天外な話は、私をすっかり魅惑してしまった。
「艦長は、海がお好きなのですね」
「好きです、なによりも好きですよ。海は地球の十分の七を蔽っています。その息吹きは、清純で健康です。広漠たる無人境ですが、いたるところに脈々とした生命の躍動が感ぜられるので、それは少しも淋しくありません。海はまったく超自然的な、すばらしい実在の唯一の体現です。愛と感動そのものです。ある詩人が申したように、それは『生きた無限』ですよ。自然は、鉱物、植物、動物の三王国によって、海の中にその姿を示現《じげん》しています。海は自然の大宝庫です。地球は海とともに始まり、海とともに消えるものです。海の中には至高の平和が存在します。海は専制君主の所有ではありません。海の表面では、人間はなお不正な法律を布《し》き、闘争し、殺し合い、地上の恐怖に狂奔していますが、海面より十メートル下になると、彼らの支配はおわり、彼らの権勢は滅び、彼らの力は消えてしまいます。海底における生活――そこにのみ独立自主はあります。そこには主人はありません。わたしはまったくの自由です」
ネモ艦長は、こう言うと、突然黙りこんで、しばらくの間室内を行ったり来たりしていたが、やがてもとの平静にかえると、例の冷たい表情で私を振りかえりながら、
「ところで、アロンナクス先生、もしノーティラス号をごらんになりたければ、ご案内いたしますよ」
ネモ艦長が立ち上ったので、私はその後に従った。食堂のうしろの二重扉を開くと、私は食堂と同じくらいの広さのある部屋に導かれた。
それは図書室だった。真鍮を象嵌《ぞうがん》した紫檀の高い書棚があって、その幅の広い棚の上には、同じ装釘の書物がびっしり並んでいた。棚は部屋の壁に沿うてならび、その下には大きな長椅子があった。それは鳶《とび》色の皮革で蔽われ、坐り心地がいいように彎曲していた。また、軽い移動机があって、任意に動かすことができ、読書に便利なようになっていた。中央には大きなテーブルがあって、パンフレットや、古い日付けの新聞紙などがのせてあった。電灯の光があかあかと真昼のように室内を照らしていたが、それは、天井の渦形にはめこまれた艶消しの電球から流れて来るのだった。私は、このすばらしい豪奢な室内の調度に、思わず感嘆の眼を見張った。私は自分の眼を信じることができなかった。
「ネモ艦長」と、私は長椅子の一つに腰をおろしたこの不思議な人物に呼びかけた。
「これはヨーロッパ大陸のどんな宮殿の図書室にも劣らぬ立派な図書室ですね。それをあなたが海の底まで持って来られたと思うと、まったく驚かずにいられません」
「こんな静かな場所は外にないと思いますが。いかがです、博物館にあるあなたの書斎は、こんなに静かですか?」
「いや、とても、比べものになりません。六、七千冊の図書がありますね」
「一万二千冊ほどありますよ。これらの図書が、わたしを地上に結びつけている、唯一のきずななのです。わたしは、このノーティラス号がはじめて海中に沈んだときから、世間といっさい交渉を断ってしまいました。わたしはその日、最後に出版された書物、パンフレット、新聞雑誌などを買いこみましたが、それ以来わたしは、人間はもう考えたり書いたりしないものと、ひとりで決めているのです。これらの書物も、あなたのご用に立てましょう。どうぞ自由にお読みになってください」
私は、艦長に礼をのべて、書棚のところへ行った。各国語で書かれた科学や道徳や文学に関する著書がたくさんあったが、政治経済に関する著述は一冊もなかった。不思議なことは、これらの書物がみんな、どこの国語で書かれたものも、区別されずに不規則に並べられていることであった。これから見ても、艦長はどこの国の言葉も、自由に読めるらしかった。
「こんな立派な図書室を自由に使用させていただくなんて、まったく有難いことです。これは科学の宝庫です。わたしには非常に役立つことと思います」
「この部屋は、図書室だけではなく、喫煙室でもあるのですよ」と、ネモ艦長は言いそえた。
「喫煙室!」と、私は思わず声をあげた。「では、船中で喫煙してもよろしいのですか?」
「かまいませんとも」
「すると、あなたは、ハヴァナとは交通なさっていらっしゃるのですね」
「いや、決して」と艦長は答えた。「まあ、ひとつこの葉巻をやってごらんなさい。これはハヴァナ産ではありませんけれど、あなたが愛煙家なら、きっと喜ばれるでしょう」
私は、すすめられた葉巻を手にとった。形はロンドンの葉巻を思い出させたが、それはまるで黄金の葉で作られたもののように見えた。私は優雅な青銅製の台にのっている小火鉢で火をつけ、一服吸ってみたが、二日間煙草にありつかなかった愛煙家には、なんともいえない嬉しい味であった。
「これはすてきだ。しかし、煙草ではありませんね」
「そうです」と、艦長は答えた。「この煙草はハヴァナ産でも東洋産でもありません。ニコチンを多量に含んだ海草の一種で、海から採るのですが、よけいはとれません」
やがてネモ艦長は、はいって来たとは反対の側の扉を開けて、同じように電灯がまばゆく輝いている大きな客室に私を案内した。
それは、長さ九メートル、幅五メートル半、高さ四メートル半ほどの長方形の広間で、明るい唐草模様で飾られた眩《まぶ》しい天井から、柔らかな透明な光が降りそそぎ、この博物館に蒐集された珍しい品々を照らし出していた。それは疑いもなく、高い教養のある贅沢な人間か、画家の仕事場に見られるような無造作な技巧で、自然と芸術の粋《すい》を集めた博物室であった。
一流の名画が三十枚ばかり、揃いの額縁に入れられて、美しい壁布を張った壁間を飾っていたが、どれも高い価値のある作品ばかりで、その多くは、私がヨーロッパの特別陳列館や絵画展覧会で観賞したことのあるものであった。各派の古い巨匠の作では、ラファエロの『マドンナ』、レオナルド・ダ・ヴィンチの『聖処女』、コレッジョの『水の精』、ティティアンの『婦人像』、ヴェロネーゼの『礼拝』、ムリーリョの『聖母昇天』、ホルバインの『肖像』、ベラスケスの『僧侶』、リベラの『殉教者』、ルーベンスの『美女』、テニエのフランダースの風景画が二枚、ゲラルド・ダウやメッツやポール・ポッテルの風俗画が三枚、ジェリコーとプルードンの小品が二枚、バックホイゼンとヴェルネの海洋画が数枚あったし、近代画家の作品では、ドラクロア、アングル、ドカン、トロイアン、メッソニエ、ドービニ等の署名のあるものがあった。また古代の名作を模した幾つかの大理石や青銅の見事な彫刻も、この壮麗な博物館の隅に立っていた。
ノーティラス号の艦長が予言したように、私は早くも、すっかり気を呑まれて、ただ驚きの眼をみはるばかりであった。
「先生」と、その不思議な人物は言った。「わたしの無作法な客の迎え方と、室内をこんなにとりちらかしていますことをお許しください」
「どういたしまして」と、私は答えた。「ご説明をうかがわなくとも、あなたが立派な芸術家でいらっしゃることは、これでよくわかります」
「ほんのアマチュアにすぎませんよ。以前わたしは、人の手に成ったこれらの美しい作品を好んで集めました。まるで貪るように探しまわって蒐集したものです。これらのものは、わたしにとってはすでに死んでしまった世界の最後の記念品ですよ。わたしの眼には、近代の芸術家たちもすでに古人であって、二、三千年も存在しているように見え、心の中ではいつも混同しているのです。巨匠たちには年齢というものがありませんからね」
「ところで、こちらの音楽家たちは?」と私は客間の羽目板の一部を占めた大型のピアノ・オルガンの上にのっている、ウェーバーとか、ロッシーニとか、モーツァルトとか、べートーヴェンとか、ハイドンとか、マイエルベールとか、エロールとか、ワグナーとか、オーベルとか、グノーとか、その他たくさんの作曲家たちの作品を指さしながらたずねた。
「これらの音楽家たちも」と、ネモ艦長は答えた。「オルフェウス(ギリシアの伝説的楽人)と同時代の人たちですよ。なぜって、死んだ人間の記憶の中では、年代の差などは消えてしまいますからね。私は死んだ人間です。地下二メートルの土中に眠っているあなたの友人たちと同じですよ!」
ネモ艦長はそれっきり沈黙し、深い瞑想にふけっているように見えた。私も黙って彼の顔に現われた不思議な表情を分析しながら、深い興味で彼を見まもっていた。彼は高価な寄木細工のテーブルの角に肘をついたまま、すでに私のことは忘れたように、見もしなかった。
私はその物思いをみだすまいとして、この客間を飾っている珍奇な品々の観察をつづけた。
銅の鋲でとめた美しいガラスのケースの中には、博物学者の眼をよろこばせるような極めて貴重な海の産物が分類され、ラベルをはられて、並べてあった。その方面の教授である私の喜びは、想像していただけるであろう。
植虫類の部には、ポリプ型の腔腸動物と棘皮動物のとても珍しい標本があった。第一のグループにはクダサンゴ、扇形に配列されゴルゴニア、シリアの柔かい海綿、ウミエラ、ノルウェー近海のみごとなウミヤナギ、ウミケイトウ、また私の先生のミルヌ・エドワール氏が巧みに分類したさまざまなミドリイシ――その中にはいくつかのすばらしいセンスガイ、ブールボン島のビワガライシ、アンティル列島の「海神《ネプチューン》の車」、その他多種多様なサンゴ、約言すれば、それが集ると完全な島を形成し、いつかは大陸にもなることが考えられる、あの珍しいポリプのあらゆる種類があった。また、とげのコートを着ているので知られている棘皮動物については、ヒトデ、コマチ、モミジガイ、ウニ、マコの各種類が、このグループのコレクションを代表していた。
ところで、少し神経質な貝類学者だったら、軟体動物の標本が分類されている、さらに多数の別のガラス・ケースを見てきっと卒倒するにちがいない。ここにその詳細を説明しているひまはないが、とにかくそれは測り知れない価値をもったコレクションであった。次にその標本のうちから、特に記憶にのこっているものだけをあげておこう。まず、赤と茶色の地に白の斑点があざやかに浮かんでいるインド洋産の優美なロイヤル・ハマーフィッシュ。ヨーロッパの博物館にも稀にしか見られない、棘でおおわれた鮮やかな色のショウジョガイ(私の評価では、その価格一千ポンドを下らないように思えた)。セネガルのエクゾティックなブカルディア。息を吹きかけるとシャボン玉のように消えてしまいそうな、もろい純白の二枚貝。それから、アメリカ沿海でとれる黄緑色のものをはじめ、オーストラリア近海に産する赤褐色のもの、鱗状の貝殻をもっているので有名なメキシコ湾産のもの等、さまざまな種類のサザエ。最後に、最も珍しいものとしてニュージーランドのすばらしい角貝。その他科学によってそれぞれ、ふさわしい名前をつけられたあらゆる種類のデリケートなもろい貝殻があった。
また、少し離れた別の仕切りの中には、世にも美しい真珠の数々が――世界各地のさまざまな真珠母貝からとった、ピンク、緑、黄、青、黒などの、この上もなく貴重な真珠の標本が――電灯の光をうけて無数の小さな火花のように輝いていた。その中には、ハトの卵よりも大きいものがいくつかあったが、それらの真珠は一つだけとっても、旅行家のダヴェルニエが三百万フランでペルシア王に売ったものに劣らぬ価値をもっていたし、私は今まで世界無比と信じていたマスカットのイマーム(回教国の宗教的元首)の秘蔵の品よりもさらにすばらしかった。
したがって、これらの蒐集品の全価格を見積ることはとても不可能であった。ネモ艦長は、これらの標本を集めるのにおそらく数百万ポンドの金を費やしたであろうが、一体どうしてそんなことができたのだろう。そんなことを考えていると艦長が突然言葉をかけた。
「貝をごらんになっているのですか。むろん、これは科学者に興味あるものでしょうが、わたしにはもっと興味が深いのですよ。これはすべて、わたしが自分で採集したのですからね。地球上でわたしが行かない海はないのです」
「艦長、わたしはこんな豊富な財宝の中にいるなんて、まるで嘘みたいな気がします。しかもあなたは、それを一人で蒐集されたのだから、驚くほかありません。ヨーロッパの博物館にも、海洋に関する標本を、これほど集めているところはありますまい。しかし、これらの蒐集物もですが、それを運んでいるこの船はもっと驚くべきものですね。わたしは、あなたの秘密を別段探りたくはありませんが、何よりも好奇心をそそられるのは、この船に取りつけてある動力、それを働かせる構造ですね。この壁に機械がかかっていますが、これはなんの機械ですか」
「わたしの部屋にもこれと同じ機械がかかっています。むろん喜んでご説明しますよ。しかしその前に、あなたの部屋にご案内しますから、ごらんになってください。きっとあなたは、ノーティラス号に乗り組んでよかったと思われますよ」
私はネモ艦長の後について、客室に通じている扉の一つを通り、ふたたび中甲板に出た。艦長は、艦首の方へ私を連れて行ったが、そこには、寝台、化粧台、その他いろいろな家具を備えつけた、優雅な部屋があった。
私は、ただ感謝するばかりだった。
「この隣がわたしの部屋です。わたしの部屋は、今われわれが出て来た客室に通じています」
私はそれから艦長の部屋に案内されたが、そこは非常に質素な、ほとんど修道院の部屋のような室であった。小さな鉄製の寝台、テーブル、わずかな化粧道具が置いてあるだけで、明り取りから光線が射しこんでいた。必要なものがあるきりで、快適さといったものはなにもなかった。
ネモ艦長は、私に席をさして言った。
「どうぞ、おかけください」
私が腰をおろすと、艦長は語り出した。
十一 すべて電力
ネモ艦長は、部屋の壁にかかっている機械を指して、言った。
「これは、このノーティラス号を航行させる上に必要な機械ばかりです。この部屋にも、客室にも備えつけてあって、いつでも、大洋の真中にいるわれわれの位置や方向を正確に示してくれます。この中のいくつかは、すでにあなたもご存じでしょう。たとえば、艦内の気温を計る寒暖計、気圧や天候の変化を示す気圧計、大気の乾燥度を計る湿度計、暴風の接近を知らせる暴風計、針路を示す羅針盤、緯度をはかる六分儀、経度を計算する経線儀、艦が海面に浮かび出たとき水平線をながめるための昼夜兼用の望遠鏡など――」
「それらはみんな普通の航海用の機械ですから、わたしも知っています」と私は答えた。「しかし、その他の機械は、もちろんノーティラス号に、特別に必要なものでしょうね。この針の動いているダイヤルは、圧力計ではありませんか?」
「おっしゃる通り、圧力計です、しかし、海水と連絡していますので、海水の圧力を示すと同時に、艦の深度をも示してくれます」
「それから、こちらの機械は何に使われるのですか?」
「その前に、ちょっとご説明しておかねばならないことがあるのですが、聞いてくださいますか?」
しばらく沈黙の後、艦長はふたたび口を開いた。
「つまり、ここには何にでも間に合い、自由自在で、敏活で、取り扱いやすく、この艦で最高の支配力をもっている原動力があるのです。なにもかも、それの力によっているのです。それは艦に灯をともしたり、熱を供給したりするばかりでなく、諸機関の魂ともなっているのです。それは電気ですよ」
「電気!」と、私は驚いて叫んだ。
「そうです」
「しかし、艦長、この艦はとうてい電力などのおよばぬ敏速な行動力をもっているではありませんか。今日までのところ、電気の力はまだきわめて制限されているようですが」
「先生」とネモ艦長は力をこめて言った。「わたしの電気は、普通の電気とはちがうのですよ。ご承知のように、海水の成分は水が九十六パーセント二分の一に、塩化ナトリウムが二パーセント三分の二、それに少量の塩化マグネシウム、塩酸加里、臭化マグネシウム、含利塩、石灰、炭酸石灰などを含んでいます。大部分は塩化ナトリウムです。それでわたしは海水から塩化ナトリウムを採って、それから必要なものを作っているのですが、これも海のおかげです。それは電気を生み、電気は熱、光、動力を生み、一口にいえばノーティラス号の生命を支えているのです」
「しかし、あなたの呼吸される空気はできないでしょう?」
「できますとも。わたしの身体に必要なくらいの空気はできますよ。でもその必要はありません。いつでも海面に浮かび上れますからね。たとえ電気で空気を作ることができなくても、強力なポンプで、大きな気槽の中に空気を圧縮しておきますから、必要に応じてどんな長時間も海底にとどまっていることができます。電灯は、太陽の光と違って、変化したり絶えたりすることはありません。ごらんください、これは電気時計ですが、最上のクロノメーターもおよばぬ正確さをもっています。わたしはイタリアの時計のように、これを二十四時間に刻んでいます。わたしには、夜もなければ昼もなく、太陽もなければ月もなく、ただわたしと一緒に海の底まで持って行くことのできる人工的な光があるだけですからね。ごらんなさい! ちょうど今は朝の十時です」
「なるほど」
「それから、電気の別な応用を申しますと、わたしたちの前にかかっているこのダイヤルですが、これは艦の速力を示すものです。これと推進器とは電線で連絡されているので、その針は実際の速力を示してくれます。ごらんなさい、今この船は、十五ノットの速力で走っています」
「実にすばらしいですね! あなたは、風と水と蒸気の代りに、この動力を実によく利用なさっていらっしゃる」
「まだありますよ、先生」
ネモ艦長は立ち上りながら言った。
「もしよろしかったら、ノーティラス号の艦尾の方へご案内しましよう」
これで私は、この潜水艦の艦首の部分を知ったわけであるが、この部分は、次のような部屋からなっていた。まず長さ四メートル半の食堂、それから第一の防水隔壁があって、同じく長さ四メートル半の図書室、つぎは長さ九メートルの客間、それからまた第二の防水隔壁があって、長さ四メートル半の艦長の部屋、つぎが私の部屋で、二メートル半ほどあった。最後に七メートルの気槽があって、それは艦首まで延びていた。つまり、合計三十二メートルあるわけだった。各隔壁の扉はゴムの器具で密閉されているので、一部分が浸水しても、ノーティラス号そのものは安全であった。
私はネモ艦長の後について廊下づたいに艦の中央部に行った。そこには、二つの区画の間に、一種の井戸みたいなものがあり、そこから一本の鉄梯子が、艦の上部にのびていた。この梯子は何に使うのか、と私は艦長にたずねてみた。
「それは、小さなボートに乗るために使うのです」
「えっ! ボートがあるのですか?」と、私は驚いて訊きかえした。
「ありますとも。なかなか良いボートですよ。軽くて、しかも絶対に沈みません。釣りや遊びにはもってこいです」
「しかし、それに乗るには、水面へ出なければならないのでしょう?」
「そんなことはありません。そのボートは、ノーティラス号の胴体の上部の凹みに入っているのですが、ボートには甲板を張り、防水装置がしてあって、頑丈なボルトでしっかりとめられています。この梯子はノーティラス号の胴体マンホールにある潜孔《マンホール》に通じていて、その潜孔はまたボートの側面にある潜孔と連絡しているので、この二重の潜孔をくぐると小さなボートにはいることになります。そこで、まずノーティラス号の方の潜孔を閉め、つづいてボートの方の潜孔を螺旋仕掛で閉めてから、ボルトを外すと、小さなボートは非常な速さで海面へ浮かび上って行きます。浮かんだら、甲板の扉をあけて外に出て、マストを立てて帆走するなり、オールをとって漕ぐなりするのですよ」
「しかし、艦へ戻るにはどうするのですか?」
「自分のほうから帰らずに、ノーティラス号の方から迎えに来てくれるのです」
「あなたの命令によるのですか?」
「そうです、わたしが命令するのです。電線が繋いでありますから、それで知らせればよいのです」
「なるほど」私はそれらの仕掛けに驚いて言った。「実に簡単なものですね」
上甲板へ通ずる梯子の傍らを通ると、長さ二メートルばかりの船室があって、そこでちょうどコンセイユとネッドが貪るるようにご馳走を食べているところだった。次の扉を開けるとそこは長さ三メートルほどの司厨《しちゅう》室で、両側は大きな倉庫になっていた。料理にはすべて、電気を用い、竈《かま》の下の海綿状の白金に電流が通じていて、絶えず一定の熱を放散していた。また電気で蒸溜器を熱し、清浄な飲料水をつくってもいた。この司厨室のそばには、気持の好い浴室があって、湯槽と水槽が据えつけてあった。
司厨室の隣は、乗組員の寝室で、長さが五メートルほどあった。しかし、扉が閉まっていたので、中の様子を見ることはできなかった。もし見られたら、ノーティラス号に乗組んでいる艦員の数がわかったかもしれない。
そこには第四の隔壁があって、そのさきは機関室になっていた。扉を開けると、ネモ艦長が設計した――彼はたしかに最高の技術をもった技師でもあった――機関室があった。こうこうと電灯のともったこの機関室は、長さ二十メートル以上もあり、二つに仕切られて、第一部には発電装置、第二部には、推進器と連絡している発動機が据えつけてあった。私は、非常な興味をもってこの機関室を綿密に観察した。
「ごらんのとおり、わたしはブンゼン式を使って、ルームコルフ式は採用しませんでした。ブンゼン式は、あまり多く用いられていませんが、強力で型が大きく、わたしの経験では、一番いいようです。発電装置から発生した電流は、大型の電磁石で、槓杆《こうかん》と歯車とから成る機械を運転させ、それが推進器の中軸を動かすようになっています。この推進器は直径約六メートル、全長七メートルあって、一秒間に約百二十回、回転しています」
「それで、どのくらい速力が出るのですか?」
「五十マイルですね」
「わたしはノーティラス号がエブラハム・リンカーン号に対してとった行動を見ましたから、その速力のすばらしいことは充分承知していますが、しかし、それが左右または上下に動くにはどうするのですか? 大気の百倍もの圧力のある深所へ沈むにはどうするのですか? また、海洋の表面には、どうして浮かび上るのですか? また、水中の必要だと思う場所に浮かんでいるには、どうするのですか? しかし、あまり立ち入っておたずねしては、ご迷惑でしょうね」
「いや、決して」と、艦長は、それでも幾分ためらいながら答えた。「なぜって、あなたは、もう二度とこの潜水艦から離れられない方ですからね。では、広間へ行きましょう。あそこは、わたしたちの研究室です。そこで、ノーティラス号についてもっとくわしくご説明しましょう」
十二 若干の数字
まもなく、私たちは広間の長椅子に腰をおろして、葉巻をくゆらしながら向かい合った。ネモ艦長は、ノーティラス号の平面や断面や正面などを描いたスケッチを私に見せて、次のように説明しはじめた。
「アロンナクス先生、これがこの艦の設計図ですよ。長い円筒形で、両端が円錐形になっています。葉巻の形によく似ていますが、これはロンドンでこの種のものを建造したさい、すでに採用された形です。この艦の長さは、艦首から艦尾まで約七十メートル、幅は最も広いところで八メートルあります。普通の汽船とは構造が全然ちがっています。非常に細長くて、カーヴも充分緩やかですから、水を切りやすく、その抵抗をそぐことができます。この二つの数字から計算しても、ノーティラス号の表面積と容積とは、大体おわかりになるでしょう。表面積は五百四十二平方メートル、容積は約千百立方メートルで、つまり、完全に海中に沈んだ時は、約千三百五十立方メートル、千五百トンの海水を排除することになります。
この潜水艦の設計をしたとき、わたしは、その十分の九だけ水面下に沈むようにしました。つまり、艦がその全容積の十分の九だけの海水を排除するようにしたのです。したがって、艦のトン数もそれを超過しないようにしました。そして、それを基礎に設計を進めました。
ノーティラス号は、船体が二重になっていて、内側と外側の船体は非常に堅牢な丁字形の鋼鉄で連絡されており、内側と外側とは絶対に離れないようになっています。この細胞的な構造と、材料の完全な統一とのために、船体は、どんな波浪にも耐えることができます。
この二重の船体は、いずれも鋼板で造られていますが、外側の鋼板は、厚さ六・二センチ、重さ三百九十四トン。また内側の船体は、竜骨の高さが五十センチ、厚さが二十五センチ、重さが六十二トンで、それに機械、底荷、いろいろな付属機械、隔壁等を合わせて、合計九百六十三トンになります。おわかりですか?」
「よくわかります」
「で、ノーティラス号が、こんな条件のもとで海面に浮かびますと、その十分の一は海面に出ることになります。ところで、その十分の一に相当する、つまり百五十トンの水槽を作っておいて、それに水を満せば、艦は千五百七トンの重さになって、完全に沈んでしまうわけです。ねえ、そういうことになりましょう。この水槽はノーティラス号の下部にあって、その栓をひねると、水槽に水がいっぱいになって艦はたちまち沈んでしまいます」
「なるほど、ところで、艦長、海面に浮かび上る時のことはよくわかりますが、海面下に沈むとき、艦は非常な圧力を受けやしませんか?」
「それは受けますね」
「そうすれば、あなたは、ノーティラス号に、水をいっぱい入れないかぎり、深海の底に沈むことはできないと思いますが」
「先生、あなたは、静力学と動力学とを混同なされてはいけませんよ。でないと、とんだ間違いを生じます。すべての物体は沈む傾向をもっていますから、大洋の底まで沈むには大した努力はいりません。ノーティラス号を沈めるに必要な重量の増加を知るには、深所へ行くにしたがって減ずる海水の容積を計ればよいのです」
「なるほど」
「ところで、水は多少に圧縮され得るとしても、その割合いはごく僅少でして、最近の計算によりますと、十メートル深くなるごとに、〇・〇〇〇四三六だけ容積を減じるにすぎません。ですから、もし一千メートルの深みへ沈もうとすれば、一千メートルの水柱に等しい圧力、つまり百気圧の下における容積の減少を計算に入れなければなりませんが、この計算は極めて簡単です。ところで、この艦には百トンの海水を容れることのできる予備水槽がありますから、艦はかなりの深さまで沈むことができます。また海面に浮かび上る時は、逆に海水を排出すればよいわけで、ノーティラス号を十分の一だけ海面に出すには、水槽をからにしてしまえばよいのです」
私は、これらの理論にはなんらの異議もなかった。
「あなたの計算には、間違いはないでしょう。毎日実験していられるのですから。しかし、それには一つ難しい問題がありますね」
「何がです?」
「この艦が約三百メートルの深さに沈んだ時は、船体は約百気圧の圧力を受けるわけですが、船を軽くして海面に浮かび上るため、水槽をからにしなければならぬとすれば、ポンプは百気圧の圧力に打ちかたねばならないでしょう。いったい何の力で……」
「むろん電気ですよ」と、艦長は即座に答えた。「繰りかえして申しますが、この艦の機関の動力はほとんど無限です。ノーティラス号のポンプの威力は、エブラハム・リンカーン号に射出したあの水の力でもおわかりでしょう。それに、わたしは、七百五十尋から一千尋の深さのところへ行くには補助水槽だけしか用いません。また海面下五、六マイルの深さに行くときは、のろくとも、もっと確実な方法をとることにしています」
「どんな方法ですか、艦長?」
「それには、ノーティラス号の運転方法をお話しなければなりません」
「ぜひ聞かせてください」
「この艦を左右に、つまり水平に動かすには、艦尾についているふつうの舵を用います。しかし、艦を浮かび上らせたり沈めたりするには、艦側についている二つの翼を上下に働かせます。それは、艦の内部から槓杆《こうかん》で動かすのです。もしこの翼が艦と平行していれば、艦は水平に動きますが、もしそれが傾いていれば、推進器の力に推されて、その傾斜の度合に応じ、斜めに沈んだり、斜めに浮かび上ったりします。はやく海面に浮き上りたいと思うときは、推進器を停めると、水圧のために、艦はちょうど、水素ガスを満たした気球のように、垂直に浮き上ります」
「なるほど。ではもう一つおたずねしますが、海中で針路を定めるには、舵手はどうするのですか?」
「舵手は、艦の上部に出ているガラス張りの展望室にいて、ガラス越しに針路を定めます」
「それらのガラスは、水圧に耐えられるのですか?」
「耐えられますとも。ちょっと叩いたぐらいで、割れるガラスでも、圧力にはかなり抵抗するものです。一八六四年に北海で電光によって魚をとらえる実験をした際、厚さ一センチに足らぬガラス板が、十六気圧に耐えるのを見ましたが、いまわたしが使用しているのは、その三十倍以上の厚みのあるガラス板ですよ」
「わかりました。ところで海中の暗いところを見るには、どうなさるのですか?」
「操舵室の後方に強力な電気の反射鏡が備えてあって、半マイルさきの海中でも照らすようになっているのです」
「実にすばらしいですね、艦長! それでわかりましたよ。あの一角クジラが放った燐光はそれなんですね。ところで、あの大騒ぎを引き起した、例のスコシア号との衝突事件は、偶然の出来ごとだったのですか?」
「まったく偶然です。衝突したとき、艦は水面下一尋足らずのところを走っていたのですが、大したことはなかったようです」
「そうですか。しかし、エブラハム・リンカーン号との衝突はどうですか?」
「あれは、アメリカ海軍の最優秀艦に対してまことにお気の毒でしたが、しかし攻撃されれば防がねばなりません。でも、わたしは、あの巡洋艦の戦闘力を奪っただけで満足しました。なあに、ドックにはいれば、修理に大して手間はかかりませんよ」
「いや、実にノーティラス号はすばらしい艦ですね!」
「そうですよ。わたしは、この艦をまるでわが身のように愛しているのです。洋中でふつうの船が危険に出会えば、まず第一に、上にも下にも深淵が開けているように感じるものですが、ノーティラス号の乗組員は、けっしてそんな感じを持ちません。二重の船体は鉄のように堅固ですから、少しの懸念もありません。索具も帆もないから、風を心配するにもおよばないし、汽罐がないから破裂の心配もありません。また鉄製の船ですから火事の心配もありません。すべてが電気仕掛けですから、石炭欠乏の心配もありません。深い海の中を通るのですから、衝突の憂いもありません。絶対静穏な深所へ沈むことができますから、暴風雨と戦う必要もありません。実際、完全無欠の船ですよ。船に対する信頼は、船長よりも造船業者の方が、造船業者よりも造船技師の方が強いということが本当なら、わたしは、艦長であると同時に、造船業者でもあり、造船技師でもあるのですから、この艦をどれだけわたしが信頼しているか、おわかりくださるでしょう」
「しかし、この驚くべきノーティラス号を、あなたはどうして秘密に建造なさることができたのですか?」
「わたしは、この船の各部分を、世界中のあらゆる場所から集めました」
「しかし、それらの部分品を組み立てねばならなかったでしよう」
「むろんです。で、わたしは、絶海の孤島に工場を建てました。そこでわたしは、自分が教育し訓練した職工たち、すなわち勇敢な部下たちと一緒に、それを組み立てました。そして仕事が終ると同時に、それに使った一切のものを焼きはらって、跡形もないようにしてしまいました」
「大変な費用がかかったでしょうね?」
「一トンにつき四十五ポンドの費用を要しました。ノーティラス号は千五百トンですから、船体だけで六万七千五百ポンド、それに設備費として八万ポンド、その他美術品や各種の蒐集品に二十万ポンドかかりました」
「もう一つ、最後の質問ですが」
「どうぞ」
「あなたは、お金持ですね?」
「そうです、大富豪ですよ。わたしは、独力でフランスの国債全部を償却することだってできますよ」
私は平気でそんなことを言うこの不思議な人物を、じっと見つめた。この男はわたしを愚弄しているのではなかろうか? それはいずれ、時が決定してくれるであろう。
十三 黒潮
地球上の水に蔽われた部分は、約八千万エーカーと見積られているが、この海水の容積は二十二億五千万立方マイル、それを球体になおすと、直径六十リーグとなり、重量は三百|京《けい》トンに等しいことになる。これらの数字を理解するには、百|京《けい》が十億の十億倍に当るということを知る必要があるだろう。とにかく、この莫大な海水の量は、地球上のあらゆる河川が四十万年かかって海に注ぐ水量にほば等しいのである。
地質学的にいって、地球は最初、至るところ海に蔽われていたのだが、その後シルル紀に入って、そこここに山の頂が現われて島ができ、それがまた洪水のために沈んだりしているうちに、ようやく固まって大陸となり、ついに現在見るような地勢を形成するようになったのである。つまり、固体が液体から三千七百万平方マイルすなわち百二十九億六千万エーカーを奪いとったことになるのである。
大陸の形は、その海水を五つの大きな部分、すなわち、南北両極洋、インド洋、大西洋、太平洋の五大洋に区分した。
太平洋は、北から南へかけては両極圏に連なり、東から西へかけてはアジア大陸とアメリカ大陸との間に百四十五経度にわたってひろがっている。その潮流は広くて緩やかで、潮の満干も激しくなく、世界の海洋中、最も静穏な海といわれている。この太平洋こそ、私が計らずも不思議な潜水艦に乗り合わせて、航海の途にのぼることになった最初の海洋であった。
「先生、よろしかったら、方位を確かめて、航海の出発点を決めようじゃありませんか。いま十二時十五分前です。では、もう一度海面に出ることにしましょう」
艦長が電気ボタンを三度押すと、ポンプが水槽の水を排除しはじめた。
圧力計の針はノーティラス号が浮き上るにつれて、下っていったが、間もなく止った。
「海面に出ました」と、艦長は言った。
私は甲板へ通じる中央階段の鉄の梯子をのぼり、ノーティラス号の上部に出た。
甲板は、海面から一メートルほど出ていた。ノーティラス号の艦首と艦尾は、紡錘形に尖っていて、ちょうど葉巻のようだった。そしてその表面は、鋼鉄板が少しずつ重なりあって、まるで陸棲爬虫類の外皮みたいだった。これでは、どんな望遠鏡で見ても、海の動物としか思われないにちがいない。
甲板の中ほどに、細長い小さなボートが、なかば船体の中に埋まって、小さな瘤《こぶ》みたいにふくれて見えた。艦の前後には、中高な側面に凸面状のガラス窓のついた箱みたいなものが突き出ていた。一つはノーティラス号の針路を見張る舵手のための展望塔で、いま一つは行手を照らす探照灯だった。
海は美しく、空は澄んでいた。艦はほとんど大洋の大きな波動を感じなかった。東の微風が、かすかに海面に漣《さざなみ》をたてているきりで、水平線には霧のかけらもなく、見渡す限り、広々とした大海原であった。
ネモ艦長は、六分儀で太陽の速度を測った。それで緯度を知ることもできるのだった。観測している間、艦長は顔の筋肉一つ動かさず、器械も大理石の枠のなかで、じっと動かなかった。
「十二時です」と、私は彼に告げた。「では、よろしかったら――」
私は、日本の海岸に近い、少し黄ばんだ海を、ちらりと見てから、広間《サロン》におりた。
「これから、ご自由にご勉強なすってください。針路は東北東、水深は二十六尋です。ここに海図があります。広間はご自由にお使いになってかまいません。では、これで失礼します」
ネモ艦長は会釈して立ち去った。あとに残った私は、ノーティラス号の艦長のことがあまりにも不思議でならず、しばらくの間いろいろ考えにふけった。
一時間ほどたってから、私はふと、テーブルの上にひろげてある大きな海図に気がついて、艦長が算出した緯度と経度とが交叉する点に、指をおいてみた。
海洋にも、陸上と同じように、大きな河があるのである。それらは、温度と色とで知られた特殊な潮流で、そのもっとも顕著なものはメキシコ湾流の名で知られているが、科学は、大体地球上に、五つの主要な潮流の所在を決定した。第一は北大西洋に、第二は南大西洋に、第三は北太平洋に、第四は南太平洋に、第五は南インド洋にある。カスピ海とアラル海とが、一つの大きな海であった時分には、北インド洋にも、おそらく第六の潮流があったのだろう。
私が指をやったところには、これらの潮流の一つである、日本語で『黒潮』と呼ばれる大潮流があった。それは熱帯の太陽に暖められて、ベンガル湾から出発し樟樹の幹やその他さまざまな植物を運んで、行くさきざきの海洋を、紺青の波で色どりながら、マラッカ海峡を通り、アジアの海岸に沿って流れ、北太平洋に入って、アリューシャン列島に達している。ノーティラス号は、この潮流に乗って進んでいるのだった。私がその進路を眼でたどっていると、その時ネッド・ランドとコンセイユが広間の扉口に姿を現した。
この二人の勇敢な友人は、眼の前にくりひろげられた、すばらしい広間の光景にびっくりして、ちょっとのあいだ立ちすくんでいた。
「ここは一体どこですか? ケベックの博物館ですか?」
と、カナダ人が叫んだ。
私は二人に、部屋へ入るようにうながしながら言った。
「君たちは、今カナダにいるんじゃないよ。海面下五十メートルのノーティラス号に乗ってるんだよ」
「それにしても、アロンナクス先生」と、ネッド・ランドは言った。「この船の乗組員は一体幾人いるんでしょうか? 十人でしょうか、二十人でしょうか、それとも五十人でしょうか、百人でしょうか?」
「わからんね。ネッド。それよりも君、このノーティラス号を乗っ取ろうとか、逃げ出そうかというようなことは、当分考えないほうがいいよ。この船はまさに近代工業の粋を集めた傑作だよ。これを見なかったら、一生の損をするところだった。世間の人は、きっとわれわれの境遇を羨むにちがいないよ。まあ、じっと我慢して、しばらく成り行きを見るんだね」
「見るって、こんな鉄の牢屋の中で何が見えますかね! わたしたちはまるで眼隠しされて、歩いたり走ったりしているようなもんじゃありませんか」
ネッド・ランドが、こう言い終るか終らないうちに、突然あたりが真っ暗になった。こうこうと輝いていた天井の電灯が消えたのだった。あまりにそれが急だったので、私は眼まいを感じたくらいだった。
私たちは、黙ったまま身じろぎもせず、どんなことになるのかと、固唾をのんで待っていた。すると、何かすべるような音がして、鉄板がノーティラス号の舷側で擦れるような気がした。
「こりや、えらい事になったぞ!」と、ネッドが言った。
そのとき不意に、広間の両側にある長方形の窓から光が射し込んで来て、窓の向こうに満々たる水の堆積が電灯の光にありありと照らし出された。私たちと海との間は、二枚の透明ガラス板で仕切られていた。最初私は、このもろい仕切板が破れはしないかとびくびくしたが、強い銅のタガが入っているので、それは絶対に丈夫だった。
見ると、ノーティラス号の周囲一マイルばかりの海中が手にとるようにはっきりと見えた。なんという壮観だろう! おそらく、どんなペンもそれを書きあらわすことはできまい。透明な海水の中へ放射される光の美しさ、低いところから高みへ次第にぼけて行く柔らかな光の変化は、形容を絶する美しさであった。
海中の透明さを私たちははじめて知ったが、動揺する表面の海水よりも、それははるかに明晰であった。鉱物や有機物が含まれているので、いっそう透明に見えるのだった。アンティル列島の近海では、七十五尋の深さで海底の砂が恐ろしいほどはっきり見えるそうだが、太陽の光線は百五十尋の深さにまで達するものらしい。しかし、いまノーティラス号が航行している積水の中では、波の底にも電光が輝いているので、それは光った水というよりも、むしろ液状の光といったほうがよかった。
舷側には、左右に一つずつ、この未知の深淵に向かって、窓があいていた。広間の中が暗いために、外はいっそう輝かしく見えた。私たちはそのすき透った積水を、大きな水族館のガラス窓でものぞくように、ながめ入った。
「ネッド、君は見たがっていたが、望みがかなったじゃないか」
「すてき! すてき!」と、カナダ人は、いままでの腹立たしさを忘れたように、見とれながら叫んだ。「こんな景色が見れるなら、どこまで行ってもいいですよ」
「ああ!」と私は心の中で考えた。「あの男の生活がはじめてわかった。あの男は自分自身のために別のすばらしい世界を作ったのだ」
まる二時間、ノーティラス号は、無数の魚類にかこまれながら進んだ。窓の外には、美しさと、輝かしさと、速さを競いながら、多くの魚がむらがり泳いでいたが、その中には、緑色のベラや、背に二重の縞のあるボラの群、白地に紫の斑点のついたハゼ、からだが青く頭が銀色をした日本産の美しいサバ、青と黄色の斑のある鰭《ひれ》をもったイワシの群、小さいながらいきいきした眼をもち、大きな口に歯の密生している、長さ二メートルもあるウミヘビ、などがいた。
私たちは、それらの光景をながめながら、たえず感嘆の声をあげた。ネッドは一つ一つ魚の名を呼び、コンセイユはいちいち分類した。私は、それらの魚の敏活な行動と美しい形とにうっとりしていた。私の眼の前を通り過ぎたいろいろな珍しいシナや日本近海産の魚類については、ここに述べまい。空飛ぶ鳥よりも多いこれらの魚群は、いうまでもなく、この船の輝かしい電光にひきつけられて集まって来たのだった。
突然、室内が明るくなり、窓の鉄扉が閉って、美しい幻影は消えてしまった。しかし、私はなおしばらくの間うっとりしていた。そのうちに、ふと壁にかかっている機械に眼が止まった。羅針盤は依然東北東の針路を示し、圧力計は二十五尋の深度に等しい五気圧を指し、測程器は十五マイルの時速を示していた。私はネモ艦長が来るだろうと予期したが、彼はとうとう姿を見せなかった。時計は五時を指していた。
ネッド・ランドとコンセイユは彼らの部屋に帰り、私も自分の部屋に戻った。まもなく夕食が運ばれて来た。料理は、なんともいえぬ美味なタイマイのスープと、捏粉《こねこ》であしらったヒメジの肉などであった。
その晩は、私は読書をしたり、書きものをしたり、考えごとをしたりして過した。が、やがて眠気が襲ってきたので、アマモの寝台に身体をのばすと、そのまま深い眠りに落ちた。その間もノーティラス号は、黒潮に乗って、快速力で走りつづけていた。
十四 招待状
翌日は十一月九日であった。私は、十二時間近くもぐっすり眠って眼がさめると、コンセイユがいつものように、
「よくお休みになれましたか?」と朝の挨拶に来て、用事をたずねた。彼は友達のカナダ人を眠ったまま置いて来たが、あの男は起さなければ一生涯でも眠っているだろう、といった。私は、コンセイユのお喋りを聞きながら、昨日はとうとう艦長に会わなかったが、今日はどうしても会いたいものだ、と思った。
服を着かえるとすぐ広間に行ってみたが、誰もいなかった。私はガラス箱の中の珍しい貝類の研究に没頭して、時をすごした。
その日も終日、私はネモ艦長と会うことができなかった。舷側の窓の鉄扉も、その日はとうとう開かれなかった。
ノーティラス号は、依然二十五尋ないし三十尋の深さを、十二ノットの速力で、東北東に進んでいた。
翌十一月十日も、私は同じように独りぽっちで、さびしく過した。艦員も誰一人姿を見せなかった。ただネッドとコンセイユだけは、たいてい私のそばにいた。二人も、艦長が出て来ないのを非常に怪しんだ。あの不思議な人物は病気なのだろうか? それとも、私たちに対する思惑を変えたのだろうか?
しかし、コンセイユも言ったように、私たちはまったく自由で、食物も充分だった。この点で艦長の約束には間違いなかったので、不平は言えなかった。それに、私たちが負わされた運命は、実際のところ、不平を言う余地がないほどすばらしい驚異の連続だった。
その日から私は日記をつけはじめたが、今これらの冒険を正確に述べることができるのも、この日記のおかげである。日記は、アマモで作った紙にしたためた。
十一月十一日の早朝であった。新鮮な空気が艦内に入って来たので、私は新しい酸素の供給をうけるために艦が海面に浮かび上ったことを知った。私はさっそく、甲板にのぼってみた。
時刻はちょうど六時で、空は曇り、海は灰色に蔽われていたが、おだやかだった。波はほとんどなかった。会いたいと思うネモ艦長はいるだろうか? だが甲板上には舵手がガラス箱の中にいるきりで、誰一人見当らなかった。私はボートの覆いの上に腰かけて、心ゆくまで潮風を吸い込んだ。
太陽の光線の作用で、霧が次第にはれ上ると、輝かしい日輪が東の水平線から昇った。海は一瞬火花のように燃え立った。上空に散らばっている雲は、いきいきと美しい色にかがやき、無数の『馬尾雲』がその日の風を予告していた。しかし、ノーティラス号にとって風がなんだろう。暴風雨もこの船を脅かすことはできないのだ!
私がこの歓喜と更生に輝く日の出を讃美していると、甲板を近づいて来る足音が聞こえた。ネモ艦長かと思って振りかえって見ると、最初艦長と一緒に私たちを訪れたあの副長であった。彼は甲板上を進んで来たが、私には気がつかない様子だった。彼は双眼鏡を眼にあてて、水平線を見まわしていたが、ひとわたり見おわると、昇降口に近づいて、次のような言葉を叫んだ。それは毎朝きまって繰りかえされる言葉なので、私もいつのまにか覚えこんでしまったのだ。それは次のような言葉だった。…Nautron respoc lorni virch それはなんの意味か、私には少しもわからなかった。
言い終えると、副長は下へおりて行った。ノーティラス号はふたたび潜航しようとしているのだと悟って、私は急いで自分の部屋に戻った。
こうして五日間が過ぎたが、私たちの生活にはなんの変化もなかった。私は毎朝甲板へのぼり、同じ人間が同じ言葉を叫ぶのを聞いたが、ネモ艦長はついに現われなかった。
私は、当分艦長には会えないものとあきらめていたところ、十一月十六日のことだった。ネッドとコンセイユをつれて自分の部屋にかえってみると、意外にもテーブルの上に私にあてた一通の手紙が置いてあった。それはドイツ文字を思わせるような、肉太な、はっきりした字体で、次のように書いてあった。
明朝、クレスポ島の森林にて狩猟を催したく、謹んで御案内申し上げます。なお、お連れの方たちも御同伴下さることを希望いたします。
一八六七年十一月十六日
ノーティラス号指揮官 ネモ艦長
アロンナクス教授殿
「狩猟ですって!」と、ネッドが叫んだ。
「クレスポ島の森で!」と、コンセイユも口を出した。
「では、あの人は上陸するつもりなのでしょうか?」と、ネッドは訊きかえした。
「どうも、そうらしいね」私はもう一度手紙を読みなおしてから、言った。
「これはぜひ承諾するんですな」と、カナダ人は言った。「乾いた土を踏みさえすれば、こっちのものですからね。それに、新しい鹿肉が食えるだけでも悪かありませんよ」
私は、島や大陸に対するネモ艦長の嫌悪と、森の狩猟の招待状とがいかに矛盾しているかも考えないで、喜んで承諾することにした。
「まず、そのクレスポ島というのが、どこにあるか調べて見ようじゃないか」
海図を調べると、北緯三二度四〇分、東経一五七度五〇分のところに、小さな島があった。これは一八〇一年にクレスポ船長が発見したもので、古いスペインの地図には、『銀の岩』という意味をもった |Rocca de la plata《ロッカ・デ・ラ・プラタ》 という名で記されている。すると、私たちはその時、出発点から約千八百マイル離れたところにいるわけであった。そして、ノーティラス号は、今南東に走っていた。
私は、北太平洋の真中にかくれているこの小さな島を二人に指さしながら言った。
「もしネモ艦長が、時々乾いた土地に上陸するとすれば、それは少なくとも無人島にちがいあるまい」
ネッド・ランドはなんとも答えず、肩をすくめて、コンセイユと一緒に出て行った。
無言で無表情な給仕が運んできた夕食を食べた後、私は床についたが、明日の狩猟のことが、幾分気にかからないでもなかった。
翌朝、十一月十七日、眼をさますと、ノーティラス号は静かに停止しているようであった。私は手早く着替えをすませて、広間に行って見た。
広間には、すでにネモ艦長が、私を待っていた。彼は立ち上って会釈し、今日はさしつかえないか、とたずねた。八日間も姿を見せなかったことについては何も言わないので、私もそのことには触れないで、ただ三人ともお供したいと答えた。
私たちは食堂に入って、朝食の席についた。
「ムシュー・アロンナクス、どうか、くつろいで召し上ってください。食事をしながらお話ししましょう。森の中を歩きまわるお約束はしましたけれど、ホテルを見つけることはお引きうけしていませんのでね。夕食はおくれるものとおもって、充分朝食を召し上っておいてください」
料理は例によって、いろいろな種類の魚類、ナマコの薄切り、珍しい海草類などを巧みにとり合わせてあった。飲みものは、真水にロドメニア・パルマタという海草からつくった発酵性の液体を二、三滴落したものであった。ネモ艦長は最初黙って食事をしていたが、やがて口を開いた。
「わたしが、クレスポの海底森林で狩りをすると申し上げたときには、きっとわたしを狂人だと思われたでしょうね。しかし、どんな場合にも、相手を軽々しく判断なさってはいけませんよ」
「しかし、艦長、わたしは……」
「まア、もう少しお聞きください。そうすれば、わたしが馬鹿でも嘘つきでもないことがおわかりになるでしょう」
「お聞きしましょう」
「ご承知のように、人間は、呼吸ができるように空気の供給が充分であれば、水中でも生活できるものです。海底で仕事をする時、潜水夫は防水服を着、金属性の兜《かぶと》をかぶり、ポンプやその他の装置で、上から空気を送ってもらいます」
「つまり潜水具ですな」
「そうです。しかし、そうした条件のもとでは、なお不自由を免れません。人間は空気を送るゴム管でポンプにつながれているからです。もしわたしたちが、ノーティラス号でも、そんな手段によらなければならないとしたら、遠くは行けないでしょう」
「では、どういう方法で自由に行動されるのですか?」と、私はたずねた。
「それはルーケーロルの装置を用いるのですよ。これは、二人のフランス人が発明したもので、それをわたしが改良して用いているのですが、ひと口に言うと、それは厚い鉄板でつくった気槽で、その中に五十気圧に圧搾した空気を蓄え、この気槽を兵隊の背嚢みたいに、紐帯でしっかりと背負うのです。その上部は箱になっていて、その中に空気が蓄えられていますが、それは一定の圧力を加えなければ決して逃げ出さないようになっています。この潜水器には二本のゴム管がついていて、それが銅製の円い兜の中に通じています。一本は新らしい空気を吸いこみ、他の一本は汚れた空気を吐き出す仕掛になっています。使用者は、この二つのゴム管を舌で按配して適宜に呼吸をつづけるわけです」
「わかりました。しかし、携帯できるぐらいの空気はすぐなくなってしまうでしょう。酸素は十五パーセントしかふくまれていないのですから、すぐ息がつけなくなってしまいますね」
「そうです。しかし、前にもお話したように、ノーティラス号のポンプは、かなりの圧力で空気を貯蔵することができますから、この器械でも九時間ないし十時間は呼吸することができます」
「よくわかりましたが、もう一つだけおたずねさせてください――海底で路を照らすのはどうするのですか?」
「ルームコルフ装置を用いるのです。それを背中にさげたり、胸部にさげたりします。それはブンゼン式電池でできていて、一本の電線で特製の手提げ角灯に通じており、角灯内の電球をともすようになっています。大体こういった仕掛けで呼吸することも、見ることもできるのですよ」
「お話をうかがって、わたしの疑問はすっかり解けました。しかし、潜水器や照明器のことはわかりましたが、猟銃はどんなのを持っていかれるのですか?」
「それは、火薬を使わない銃ですよ」
「では、空気銃ですね」
「むろんです。硝石も硫黄も木炭もないこの艦内で、いくらわたしでも、火薬の製造はできません」
「しかし、空気の八百五十倍もの密度をもった水中では、弾丸はかなりの抵抗を受けなければなりますまい」
「その心配はありません。さいわい、フルトンが発明したもので、イギリスではフィリップ・コールズとハーレー、フランスではフェルシー、イタリアではランディによって完成された特別の装弾装置によって、水中でも発射できる銃があるのです。繰り返して申しますが、この場合もわたしは火薬の代りに、ノーティラス号で多量に作り出すことのできる圧搾空気を用いることにしています」
「しかし、空気はすぐなくなりませんか?」
「ごもっともですが、例のルーケーロル気槽がありますから、必要に応じてそれから使えばいいわけです。それに、海底の狩猟では、空気も弾丸も案外要らないことが、今におわかりになりますよ」
「しかし、大気と比較して非常に密度の濃いこの薄暗い海水の中では、弾丸はそう遠くまでとどかないでしょうから、命中しても致命傷にはならないように思えますが」
「ところが反対です。この銃の弾丸にあたったら最後、どんな相手でも即座に死んでしまいますよ。どんな軽い傷でも、雷に打たれたと同じで、致命傷になるのです」
「なぜですか?」
「この銃の弾丸は、普通の弾丸とちがって、小さなガラスのケースでできており、外側を鋼鉄で蔽い、中に鉛がはいっているのです。弾丸そのものがライデン瓶《びん》になっていて、その中に強力な電気を蓄えていますから、ちょっと当ってもそれきりです。どんなに強い動物でも、即座に死んでしまいますよ。この弾丸は普通のものの約四倍の大きさがあり、その効果も普通の銃の十倍からあります」
「わかりました。もうこれ以上おたずねすることはありません」と、私はテーブルから立ち上がりながら言った。「では、わたしの銃を頂きましょう。とにかく、あなたの行かれるところへ、どこへでもお供いたしましょう」
やがてネモ艦長は、私をつれて艦尾の方へ行った。私はネッドとコンセイユの部屋の前を通りながら声をかけると、二人もすぐついて来た。私たちは機関室の近くの一室に入って、そこで海底の散歩服に着がえることになった。
十五 海底の散歩
この部屋は、正確にいえば、ノーティラス号の兵器庫兼被服室であった。壁には潜水具が十二個ばかり、ならべてかけてあった。
ネッド・ランドは、それを見ると、明らかに尻込みする顔をした。
「しかし、ネッド君」と私は言った。「クレスポ島の森というのは、海底の森林なんだそうだよ」
「へえ!」新鮮な肉を食う夢が消えたのを知って、がっかりした銛撃ちは言った。「で、先生はこんな服を着るおつもりなんですか?」
「しようがないじゃないか、親方」
「では、どうぞご自由に」と銛撃ちは肩をすくめた。「わしは無理に着せられれば仕方がありませんが、自分でこんなものを着るのは真っ平ですね」
「誰も無理に着せようとはいわんよ、ネッド親方」と、ネモ艦長が言った。
「コンセイユ君は出かける気かね」と、ネッドはたずねた。
「わたしは、先生の行かれるところなら、どこへでもお供しますよ」と、コンセイユは答えた。
艦長が声をかけると、二人の乗組員が出て来て、重い防水服を着る手伝いをしてくれた。この防水服は縫い目のないゴム製で、かなりの圧力に耐えるように作られていた。それは柔軟で抵抗力の強い甲冑《かっちゅう》を思わせた。ズボンと胴衣とから成っていて、ズボンには丈夫な長靴がついており、靴底に重い鉛が打ってあった。胴衣は、水中の高圧に耐えるように、胸のまわりに銅の帯が廻してあったが、自由に動けるように肺のところだけさけてあった。また袖の先は手袋になっていて、両手の運動には少しもさしつかえなかった。これらの完全な器具と、古い胸当やジャケットやその他十八世紀に流行した潜水装置との間には、著しい違いがあった。
ネモ艦長と、その部下の一人(大力らしいヘラクレスみたいな男)と、コンセイユと、私とは、さっそく支度をととのえた。あとはもう金属製の兜をかぶりさえすればよかった。私は狩猟に出かける前に、銃を試験してみたいと、艦長の許しを求めた。
乗組員の一人が簡単な銃を持って来てくれたが、銃床には真中に鋼鉄の大きな凹みがあった。それは、圧搾気槽になっていて、バネ仕掛けの弁で、金属性の管へ通じていた。弾丸の箱も銃床の凹みにあって、約二十発の電気弾丸が、バネ仕掛けで、一発射つとすぐあとの一発が押し出されるようになっていた。
「ネモ艦長」と私は言った。「この武器はまったく完全で、操作もらくですね、でも、海の底へはどうしておりるのですか?」
「すぐおわかりになりますよ」
ネモ艦長が兜の中へ頭を突っこんだので、コンセイユも私もそれをかぶろうとすると、カナダ人は、「よう、すてきだぞ!」とひやかした。私たちの潜水服の上部には銅の襟《えり》がついていて、それに金属性の兜をはめるようになっていた。兜には厚いガラス張りの窓が三方についているので、その中で頭をひねりさえすれば、自由に四方を見ることができた。やがて背中に背負った空気箱が活動しはじめると、急に呼吸が楽になった。
ルームコルフ灯をベルトから下げ、手に銃を持つと、それで出かける用意はととのったが、実をいうと、私は重い服に縛られ、鉛のついた靴をはいたため、甲板に釘づけにされたような気がして、一歩も歩くことができなかった。
しかし、準備はこれで万事終ったわけであった。まもなく、私は被服室の次の小さな部屋へ押されて行った。コンセイユも同じように押されて、後からついて来た。やがて背後の防水扉がパタンと閉まると、私たちは深い闇に包まれてしまった。
数分すると、シューッという音が高く響いて、足から胸へ、冷たいものが上って来るような気がした。たしかに栓をひねって海水を入れたらしく、水は見る見る私たちを浸し、室内にいっぱいになった。すると、ノーティラス号の舷側に切ってある第二の扉が開いて、徴《かす》かに光がさしこんで来た。次の瞬間、私たちはもう海底に立っていた。
海底に立った時の印象を、今どう表現していいかわからない。言葉は、このような驚異を再現するには、あまりに無力である。ネモ艦長が先頭に立ち、私たちはその数歩後からついて行った。コンセイユと私とは、兜の中からでも言葉が交されるくらい、互いに寄りそって歩いた。私はもう服や、靴や、圧搾気槽や、兜の重みを、少しも感じなかった。
私は、大洋の表面下十メートルの深みを照らしている光線の威力に驚いた。水の層を通してかがやく太陽の光で、私たちは百五十メートルさきのものまで、はっきり見わけることができた。そのさきの方は、美しい群青《ぐんじょう》のぼかしの中に霞んでいた。私たちの周囲を包んでいる海水は、実際はただ密度が濃いというだけで、陸上の空気と変りがなく、ほとんど透明だった。頭上には、静かな海面がひろがっていた。私たちは、きれいな、平らな、砂の上をたどって行ったが、そこには平坦な海岸に見るような、大波の印象を残した起伏はなかった。強烈な太陽の光は、この海底の砂にまばゆいばかりに反射して、海水を構成する原子の一つ一つまで透過するように、あたりを明るく照らしていた。十メートルの海底が陸上の真昼と同じようだといったら、信ずる人は少ないかもしれない。
十五分ばかり、私たちは貝殻の細片をばらまいた砂の上を進んだ。海底の長い浅瀬のように見えたノーティラス号の艦体は、次第に見えなくなって行った。だが、その強烈な探照灯の光だけは、水中が暗くなってからも、私たちの道案内をつとめてくれるにちがいない。
まもなく、遠くに何か黒い影がぼんやり見えてきた。近づいて見ると、それは巨大な岩礁で、いちめん美しいサンゴに蔽われていた。
ちょうど、午前十時で、太陽は少し斜めに海面に落ちていたので、その光を受けて花や岩や海草や貝殻が、さながらプリズムで屈折されたように七色に分解されていた。さまざまな美しい色彩の交錯。緑、黄、橙、紫、藍、青の万華鏡。それはまるで情熱的な画家のパレットみたいだった。私は胸中の驚嘆と讃美を、コンセイユに伝えることができないのが、もどかしかった。ネモ艦長とその部下は、何か手真似で話をしているようだったが、私は、ただ徒《いたず》らに独り言をつづけるほかなかった。
足もとには、いろいろな種類のサンゴや、刺の出た菌類や、イソギンチャクの群が、世にも美しい花園をつくっていて、それを踏みくだいて行くのが惜しい気がした。しかし、私たちは歩かねばならなかったので、真っ直ぐにその中を進んだ。頭の上には、長い触糸を曳いたカツオノエボシや、白に青い横縞のはいった花傘をひろげたクラゲの群が無数にただよい、その中には夜になると燐光を放つ、火のようなオキクラゲの群も見えた。
私は、これらの珍しい光景をながめながら、せきたてるネモ艦長の後から、ほとんど休むひまもなく、四分の一マイルばかり進んだ。そのうちに海底の土質が変って、珪質と石灰質の混った、アメリカで『軟泥《ウーズ》』といわれている粘土の砂原になった。やがて、私たちは一面海草の繁茂した平原に出た。その芝生は、きめの細かい敷物のようで、足ざわりがよく、人間の手で作られたどんな柔らかな絨毯にもひけをとらなかった。しかし、緑は足もとばかりではなく、頭上にも二千種以上の海草類が網をひろげたように、海面に浮かんでいた。よく見ると、緑色の海草は海面に近く、赤色のものはやや深いところに、黒色や褐色のものは海底の砂上に花園をつくっていた。
私たちがノーティラス号を離れてから、一時間半ばかりたった。時刻は、すでに屈折しなくなった垂直な太陽の光線を見ても、正午近いことがわかった。魔術的な色彩はしだいに薄れて、エメラルドとサファイアの影も消えた。私たちの足音は、正確な歩調で、驚くほどあたりに響きわたった。実際のところ、音は空気中よりも水中の方がよく伝わるものである。このあたりから、海底は下りかげんになって、光も一色になってきた。私たちはちょうど水面下九十五メートルの位置にあって、六気圧の圧力を受けていた。
これほどの深所でも、なお弱くはあったが、太陽の光を見ることができた。それはちょうど昼と夜との境目に見られる薄明りのような、赤ばんだ光線であった。それでもまだ充分よく見ることができたので、私たちは電灯を用いるには及ばなかった。そのとき突然、ネモ艦長が立ちどまった。彼は私が追いつくのを待って、そう遠くない前方にぼんやり見える黒い影を指さした。
「あれがクレスポ島の森なのだな」と、私は考えた。その考えはまちがっていなかった。
十六 海底の森林
私たちは、疑いもなくネモ艦長の広大な領土のうちで最もすばらしいものの一つである問題の森のはずれに、とうとう到着した。艦長はこの森を、世界の初めに原人たちが考えたと同じように当然自分の所有地と見ているらしかったが、事実この海底の森林の所有権を彼と争うものが一人でもあるだろうか? また、斧を手にして、この欝蒼たる森林に乗りこんでくるような勇敢な開拓者が彼以外にあるだろうか?
この森は、いちめん巨木から成り立っていたが、その大きな屋根の下に入ると同時に、私はそれらの樹木の枝の奇妙な恰好に驚かされた。いままでこんな恰好の樹を見たことがなかったからだ。
海底を這っている草にしても、木をおおっている枝にしても、一つとして折れも曲りもせず、また水平にひろがりもせず、すべて大洋の表面に向って真っ直ぐに伸びているのだった。一|条《すじ》の繊維も、一枚の葉も、どんなに薄いものも、細いものも、すべて鉄線のように真っ直ぐに伸びていた。そしてどれもじっと動かず、手で折り曲げても直ぐもとの位置にはねかえった。それはまったく垂直の世界だった。
まもなく私は、あたりをとりまいている森の薄闇にも、奇怪な光景にも慣れてきた。森の中には、ごろごろした石がいっぱいころがっていて、それを避けて歩くのは困難だった。しかし、海底の花が非常に美しく、しかも豊富なのには、心を打たれた。寒帯でも熱帯でも、これほど豊富ではないにちがいない。しばらくの間、私は無意識に動物と植物をとりちがえて、植虫類を水生植物と思ったり、動物を植物と思ったりしたが、ここでは誰だって間違わないわけにはいかないだろう。この海底の世界では、動物と植物とが、あまりにもよく似ているのである。
これらの植物はすべて自己繁殖を営んでいて、その生存の原則は彼らを養ってくれる水の中にあることだった。大多数のものは、葉というよりも、からだ全体が気まぐれな形をした葉状をなしていて、色は、ピンク、洋紅、緑、オリーヴ、淡黄、褐色等に限られていた。私はそこで、ノーティラス号にある標本のように乾燥したものでない、生き生きとしたパヴォナリ藻が、微風にそよいででもいるみたいに、そのからだを扇のようにひろげているのや、高さ十五メートルに及ぶ美しい緋色の岩藻や、上へ行くほど太くなっているアケタブリの群や、その他いろいろな海中植物を見たが、そのどれも花をつけていなかった。「動物に花が咲いて植物に花が咲かないとは、奇妙な、不思議な世界である……」と、ある博物学者も言っている……。
一時間ばかり歩くと、ネモ艦長が、止まれ、と合図した。私たちは、細長い葉が矢のように立っているアラリアという大木の下に身体を伸ばして、休息をとることになった。
この短い休息は、私にはありがたかった。ただ話の出来ないのが残念だった。問うことも答えることもできないので、私はただ大きな銅の兜をコンセイユの頭へ近づけた。すると、この感心な若者も、うれしそうに眼を輝かせ、いかにも満足したように、潜水服に包まれた身体を動かして、世にもおかしな恰好をして見せた。
出発してから、すでに四時間たっていたが、不思議なことに、少しも空腹を感じなかった。どうしたわけか、私にはわからなかったが、そのかわり潜水夫の誰もが感じるように、たまらなく眠気をおぼえた。私は、まもなく厚いガラスのかげで眼を閉じると、すぐ深い眠りにおちてしまった。ネモ艦長と屈強な部下の男も、水晶のような海水の中にのびのびと横になっていた。
どのくらい眠ったかわからなかったが、眼をさました時には、太陽はすでに西に傾きかけているようだった。ネモ艦長はもう起きていた。私は手足を伸ばそうとしたが、ふと怪しいものが眼についたので、びっくりして立ち上った。
二、三歩さきのところで、高さ一メートルほどもあるものすごいウミグモが、じっと私を睨んでいまにも飛びかかろうとしていたのだ。私の潜水服は丈夫に作られているから、こんな奴に食い破られる心配はなかったが、それでもひと目見て私は震えあがった。このとき、コンセイユと水夫も、眼をさました。ネモ艦長は、この恐ろしい怪物に躍りかかるなり銃の台尻で殴り倒した。怪物はしばらくのあいだ、ものすごい爪を振り立てて、もがき苦しんでいた。それを見ると、私は、もっと深いところへ行ったら、この潜水服ではとても防ぎきれない恐ろしい動物がいるのではなかろうか、と不安になってきた。それまでは、そんなことを考えもしなかったのに急に自分の身に危険を感じはじめたのである。
実をいうと、私は、その時、もう目的地に着いたのかと思っていたが、それは勘ちがいだった。立ち上ると、艦長はふたたび前進を開始した。海底は依然傾斜していて、その勾配はますます急になり、次第に深いところへ私たちを導いて行くように思われた。三時頃、私たちは狭い谷間に着いたが、そこは七十五尋ばかりの深さで、高い垂直の絶壁でかこまれていた。潜水具が完全なおかげで、私たちは、人間がふつう潜水し得る限界からさらに四十五尋も深所に達したのだ。
私は七十五尋と言ったけれど、深さを測る機械を持っていたわけではなかった。しかし、どんなに澄んだ海でも、太陽の光線はそれ以上の深さには達しないことを知っていたからである。したがって、闇はますます濃くなり、十歩さきも見えなくなった。手探りに進んで行くと、突然あたりがぱっと明るくなった。ネモ艦長が電灯をつけたのだった。部下の水夫も、コンセイユも、私も、それにならって自分の電灯をつけた。海は四つの電灯に照らされて、三十メートル四方が真昼のように明るくなった。ネモ艦長は、なおも森の暗い奥へ進んで行ったが、森の樹木は一歩ごとに少なくなっていった。私は、動物よりも植物のほうが早く姿を消して行くのに気がついた。植物たちはすでにその不毛の土地をすててしまったのに、多数の動物――植虫類や節足動物や軟体動物や魚類などは、まだ、その土から養分をとっていた。
私は歩きながら、私たちの電灯の光が、いろいろな動物をその暗い巣から追い出すにちがいない、と思った。しかし、彼らは、私たちに近づいてきても、用心してかなりの距離を保っていた。ネモ艦長はときどき立ち止って、鉄砲を肩にあてて狙いを定めたが、すぐまたおろして歩き出した。
それから四時間ほどして、この不思議な旅行もついに終りを告げることとなった。行手に巨大な花崗岩の岩壁がそそり立って、暗い洞窟がいくつも口を開いていたが、それがクレスポ島の土台だった。ネモ艦長は急に立ち止まった。彼の合図で、私たちも止まった。どんなにその断崖を登りたくとも、私は止まるほかなかった。ネモ艦長の領地はここで終ったのだ。彼はそれを越えて進もうとはしなかった。一歩さきは、彼が嫌っている地上の世界なのであった。
まもなく、私たちは帰途についた。ネモ艦長は一行の先頭に立って、帰りを急いだが、帰りの道は行きとちがっていた。新しい道は、非常に嶮岨《けんそ》で、かなり骨が折れた。私たちは大急ぎで海面に近づいたが、しかし、帰途を急いで、むやみに水圧を減じるようなまねはしなかったから、水圧の激変で、潜水病にかかるようなことはなかった。まもなく、あたりはふたたび明るくなって来た。太陽は水平線に低く傾いていたが、光線の屈折作用ですべてのものを虹の輪で縁どって見せた。私たちは、空の鳥よりもっと多い、もっと敏捷な、さまざまな小魚の泳いでいる深さ十メートルばかりの浅瀬を歩いて行った。しかし、まだ射撃するような獲物には出会わなかった。
と、その時、急に艦長が銃を構えて、灌木の中へ逃げこむ一匹の動物の後から発砲した――プシュッという軽い音が聞こえて、獲物は倒れた。それは海中で唯一の四足獣であるすばらしいラッコだった。このラッコは長さが一メートル半もあったので、非常に高価なものにちがいなかった。背中が栗色、腹部が銀色のその毛皮は、ロシアや中国の市場では特に珍重されている毛皮の一つで、その光沢と毛並の美しさは、たしかに八十ポンドの値打はあった。私は、この珍しい動物の、短い耳のついた丸い頭、丸い眼、猫のような白い髭、水掻きのついた足、房々した尾などに、うっとりと見とれた。この高価な動物は、漁夫たちに狩りつくされて、今では非常に少なくなり、ただ太平洋の北部に住んでいるきりで、それもやがては絶滅の運命にあるのだった。
この獣はネモ艦長の部下が肩に担ぎ、私たちはふたたび歩き出した。一時間ばかり、さらに広い砂地が行手につづいた。時には、水深二メートルのところまで近づいたこともあった。そんな時、私たちの姿は海面に反射して、さかさまにうつり、頭の上に自分たちの歩いている姿と同一の影がそっくり現われた。それは、頭が下に向き、足が空に向いているのがちがうだけで、その他の点ではそっくり同じだった。
もう一つ眼をひいたのは、厚い雲の層が、急に消えたり現われたりすることだった。が、よく注意して見ると、その雲のように見えたのは、海底のアシの茂みだった。またそれらのアシのそよぎが水面に生ずる羊毛のような泡も見えたし、頭上をあわただしく飛び過ぎる大きな鳥の影が海面にうつるのも見えた。
この時私は、猟師をさえびっくりさせるような見事な射撃を見た。大きな鳥が翼をひろげて、悠々と私たちの頭上を飛び廻っていたが、それが水面上数メートルのところにまで近づいたとき、ネモ艦長の部下が突然銃を構えて発砲したのである。鳥は見事に射落されて、その落下する勢いで射手の手もとまで沈んで来た。それはすばらしいアホウドリだった。
そんな出来ごとがあったが、別段手間どりもせず、私たちはどんどん進んだ。二時間ばかり行くと、砂地がつきて、歩きにくい海草の茂みにはいった。まもなく、暗い海中を半マイルもさきから照らしている強烈な光が見えた。それはノーティラス号の灯火だった。私の気槽は、酸素が欠乏してきたらしいので、二十分以内にぜひ艦に帰り着きたいと思ったが、そのとき思いがけない事件が起って、私たちの到着を幾分遅らせることとなった。
私はみんなから数歩おくれて歩いていたが、急にネモ艦長が駈けよって来て、力のある手で私を海底におしつけたばかりか、彼の部下もコンセイユをとらえて、同じようにおしつけたのである。はじめは、この突然の暴力沙汰をなんの意味がわからなかったが、すぐ艦長も私のそばに横になり、そのままじっと動かなくなったのを見て、安心した。
私は、海草の茂みの下の地面に長くなっていたが、ふと頭をもたげて見ると、そのとき何か恐ろしい怪物が燐光を放ちながら、ものすごい勢いで、頭の上を通り過ぎた。
私は、その恐ろしい怪物が二匹の大きなフカだと知ると、ぞっと全身の血が凍りつくような気がした。それは獰猛《どうもう》なチントリアの|つがい《ヽヽヽ》で、巨大な尾を振り、濁ったガラス玉のような眼を光らせ、鼻のまわりの孔から燐光を放っていた。その鉄のような顎につかまったら、人間などはひとたまりもなく噛み砕かれてしまうにちがいない。私は、それらの無気味な銀色の腹や歯の乱立した大きな口を、博物学者としてよりも、いまにも食われるかもしれない犠牲者として、非科学的な恐怖心から、ひそかに見つめた。
さいわいにもこの貪婪《どんらん》な怪魚は、私たちに気がつかなかったらしく、褐色の鰭《ひれ》がさわったばかりで、見向きもせずに悠々と泳ぎ去った。私たちは、森でトラに出会ったよりももっと危いところを、奇蹟的に逃れたのだった。
半時間の後、私たちは電光に導かれて、やっとノーティラス号に帰りついた。外部の扉は開け放しになっていた。ネモ艦長は、私たちが第一室に入るとすぐ扉を閉め、それからボタンをおした。艦内でポンプの音が聞こえはじめ、それと同時に室内の海水が次第に減って行くように感じられたが、数分後にはまったくなくなってしまった。すると内側の扉が開き、私たちは更衣室にはいった。
そこで、私たちは潜水服を脱ぎすてたが、それにはかなり骨が折れた。空腹と眠気でかなり疲れていた私は、この日の不思議な海底旅行を回想しながら、すぐに自分の部屋に戻った。
十七 太平洋の底四千リーグ
翌朝、十一月十八日、私は昨日の疲れがすっかり回復したので、甲板に出て見ると、副長がちょうどいつものように、訳のわからない言葉を叫んでいるところだった。
私が壮大な大洋の景色にながめ入っていると、ネモ艦長が出て来た。彼は私がいるのに気がつかないらしく、天測を始めたが、それが終ると、探照灯にもたれて、じっと大洋の表を見つめていた。そのうちに、いずれも屈強なノーティラス号の艦員が多数甲板に現われて、終夜おろしてあった網を引きあげはじめた。これらの水夫は、みんな、ヨーロッパ人らしかったが、国籍はそれぞれ違っているように見えた。その中には、アイルランド人、フランス人、ロシア人、ギリシア人、クレタ島人などが、たしかに認められた。彼らは文明人にはちがいなかったが、私にはどこの国の言葉か想像もつかない妙な言葉を使って話し合っていた。
網が引きあげられた。それはノルマンディの海岸で用いられているものと同じ種類の大きな網で、鉄の棒で曳かれながら海中を一掃して、あらゆる魚類をすくいあげるのだった。その日は、この近海に特有の珍しい魚が、たくさんかかっていた。
この日の漁獲高は、少なくとも九百ポンドはあるように思えた。これは大漁ではあったが、いつものことなので、大して不思議とするには足らなかった。こんな調子で私たちは、たえず食糧に不足することがなかったし、ノーテイラス号の快速と、電灯の牽引力は、いつも私たちに新鮮な食物を供給してくれるのだった。この日も網にかかった獲物は、ただちに下の司厨室に運ばれ、そのまますぐ料理されたり、塩漬けにされたりした。
漁を終り、空気も入れかえられたので、私はノーティラス号がふたたび潜航を開始するものと思って、自分の部屋にかえろうとすると、艦長が私の方を振りかえって、だしぬけに言った。
「先生、この大洋には本当に生命があるのではないでしょうか。どうも機嫌のよしあしがありましてね。昨夜は、わたしたちと同じように眠りながら、今はすっかり眼がさめています。ほら、ごらんなさい。太陽に接吻されて眼がさめ、一日の生活を始めようとしています。海のこうした有機的活動を研究するのは、面白いですよ。それは脈も打ち、血も通い、痙攣もおこします。わたしはモーリの説に賛成しますね。あの学者は、動物の血液循環と同じ作用を、この大洋にも発見しましたが、実際大洋には血液が循環していますよ。それを助けるために、造物主はその中に熱や塩分や極微生物などを発生させ、繁殖させているのですね」
そう語りつづけるネモ艦長のいつもと変った様子は、私に非常な感動を与えた。彼はなおも言いつづけた。
「それは本当ですよ。わたしは、将来海底にたくさんの住宅ができて、自由の町、独立の都市が生れ、ノーティラス号のように毎朝海面に呼吸しに出て来るようになるだろうと想像さえしているのです。しかし、誰かまた専制者が……」
艦長は急に乱暴な身振りをして言葉をきった。そして、何か悲しい思い出を追い払うように、私にたずねた。
「アロンナクス先生、あなたは、この大洋の深さを知っておいでですか?」
「まあ、大体の深さぐらいは知っていますが」
「おっしゃってみてください。わたしの見積りに合いますかどうか」
「そうですね。私の記憶に間違いがなければ、北大西洋はたしか七千二百メートル、地中海は二千三百メートルだと思います。最も深いところは南大西洋で、南緯三五度の近くは、一万一千メートル、一万三千メートル、一万四千メートルだと言われています。平均深度は、約一・七五リーグぐらいでしょうか」
「では、もっと確実なところを申しましょう。太平洋も、このあたりは三千六百メートルしかありませんよ」
こう言って、ネモ艦長は昇降口から、梯子の下へ姿を消した。私もその後からおりて、広間に入った。そのとき推進器が急に回転をはじめ、測程器は時速二十ノットを示した。
それから幾週間も過ぎたが、その間、ネモ艦長はめったに姿を現わさなかった。しかし、副長が艦の針路を正確に海図に記してくれたので、私はいつでも、ノーティラス号の位置を知ることができた。
またほとんど毎日、しばらくの間、広間の窓が開いていたので、私たちは海底の神秘に飽かず眺め入ることもできた。
ノーティラス号はだいたい南東に針路をとって進んで行ったが、深度はいつも百メートルから百四十メートルぐらいであった。
十一月二十六日、朝三時に、ノーティラス号は、西径一七二度の地点で北回帰線を通過した。そして翌《あく》る日の二十七日には、サンドウィッチ諸島が見えた。ここは一七七九年二月十四日に、キャプテン・クックが殺されたところである。私たちは、出発点からすでに四千八百六十リーグ走ったわけであった。その朝、甲板に出て見ると、約二マイルの彼方に、群島の中で一番大きいハワイ島が見えた。きれいな耕地と、海岸線に平行して走っている山脈、海抜四千五百メートルのマウナ・ロアよりも高い火山群が、はっきりながめられた。
ノーティラス号は、なおも南東に向かって進みつづけた。十二月一日には、西経一四二度の地点で赤道を横ぎり、同月四日には、なにごともなく、マーケサス諸島の沖を通過した。三マイルほど彼方には、南緯八度五七分、西経一三九度三二分の位置に、このフランス領諸島の最大の島ヌカ・ヒヴァのマルタン山が見えた。ネモ艦長が艦を風上に向けることを嫌ったため、私は樹木の多い山の頂を水平線の遠くに見ただけだった。ここでも、いろいろな種類の美しい魚類が、たくさん網にかかった。フランス国旗のひるがえっているこれらの美しい島々を後に、十二月四日から十一日までに、ノーティラス号は二千マイル以上を航海した。
この航海中、特に記憶に残った出来ごとは、イカに似たカルマーの大群に出会ったことであった。フランスの漁夫は、これを「クマバチ」と呼んでいるが、頭足類に属して、イカやタコの一種である。これらの動物は、特に古代の学者によって研究されたものである。ノーティラス号がこの軟体動物の群に出会ったのは、十二月九日から十日にかけての夜であった。彼らは夜間に出るのが習性であった。いつも数百万の群をなしていて、ニシンやイワシのあとを追って温帯から熱帯へ移動するのである。私たちは、厚い窓ガラスを通して、彼らが非常な速さで魚群を追いかけ、小さな魚を食い、大きい魚に食われながら、十本足をからみ合わせて突進しているのを見た。ノーティラス号は、相当の速力で走っていたにもかかわらず、数時間この動物の群から離れることができなかった。航海していると、海はいろいろ不思議な光景を示してくれるものである。それは無限の変化に富んでいて、たえず情景が変化していくので、私たちは今さらに造物主の微妙な仕事に感嘆するほかはなかった。
十二月十一日の昼間、私は広間で読書にふけっていた。ネッド・ランドとコンセイユは、半開きの窓から、ぴかぴか光る海中を見つめていた。ノーティラス号はほとんど静止していた。気槽に空気がいっぱいある間は、艦は千メートル近い深海を静かに潜航するのが常だったが、その辺には大きな魚もめったに来なかった。
私はジャン・マセの『胃袋の奴隷』という面白い本を読みながら、ある教訓に感心していると、コンセイユが突然奇声をあげて、邪魔をした。
「先生、ちょっとごらんなさい」
「どうしたんだ、コンセイユ?」
「まあ、ごらんなさい」
私は立ち上って、ガラス窓によって、外をながめた。
何か大きな黒い塊りが、明るい電灯の光に照らされて、じっと動かずに海中に浮かんでいた。この巨大なクジラのようなものはいったいなんだろうか、と瞳をこらして見つめているうちに、ふとある考えが脳裡を横ぎった。
「船だ!」と、私は叫ぶような声で言った。
「そうですよ」と、カナダ人が相づちを打った。「難破船が垂直に沈んでるんですよ」
ネッド・ランドの言ったとおりだった。私たちは、ちぎれた横檣索がまだ鎖にからまりついている、難破してまもない船の、すぐそばに来ているのだった。竜骨《キール》がまだしっかりしているところを見ると、せいぜい数時間前に難破したものだろう。三本のマストは、船橋の上六十センチほどのところから切断されていた。この船はどうしてもマストを切らなければならなかったものと見える。船は水中に沈みながらも、顛覆してしまわずに、左舷に傾いていた。船橋の上には、欄干に身を縛りつけた死骸が、まだそのまま残っていて、沈没したときの悲惨な光景をまざまざと想像させた。死骸も四つ五つかぞえられた。舵輸のところには一人の屈強な男が、また船尾には赤児を抱いたうら若い女の死骸が、立ったまま縛られていた。私はノーティラス号の電灯の光で、まだ生きているような、その女の顔をはっきりと見ることができた。彼女は沈没の際必死になって赤児を頭の上にさし上げたものらしく、可哀そうな赤ん坊は、母の首に両手をしっかり巻きつけていた。四人の水夫は、縛りつけた縄を解こうとしてもがいたと見え、断末魔の苦しみをありありと示していた。ただ一人舵手だけは、灰色の髪が額にひっついていたが、静かな、落ちついた、明るい顔をして、舵輪をしっかりつかみ、今もなお、その折れた三本のマストの船を大洋の底で操っているかのように見えた。
なんというすさまじい光景だろう! 私たちは唖《おし》のように、黙りこみ、だれも口をきく者はなかった。その凄惨な難破の光景を、眼前に見るような気がして、私たちの胸は早鐘《はやがね》のように鳴った。見ると、早くも人肉をかぎつけて、何匹かの大フカが飢えた眼を光らせて、難破船の方へ近づいて来るのが見えた。
ノーティラス号は舵を転じて、沈没船の周囲をまわったが、船尾のところに来たとき、ふとそこに書いてある文字が私の眼をとらえた。
「フロリダ号、サンダーランド」
十八 ヴァニコロ島
この恐ろしい光景を見て以来、ノーティラス号はふたたび難破船の残骸に出会った。比較的交通の頻繁な海を通るようになってからは、私たちは幾度も、海の深所に沈んでいる難破船の腐った船体や、大砲や、砲弾や、錨や、鎖や、その他錆びついた鉄の破片などを見た。
十二月十一日、私たちはポモトー諸島の影を認めた。この群島は、ブーゲンヴィルのいわゆる『危険な群島』で、東南東から西北西へ、デュシー島からラザレフ島まで、五百リーグにわたって散らばっているのである。それは三百七十平方リーグの広域をおおい、六十余の群島から成り、そのうち最も有名なのはガンビエ群島で、すべてフランス領であった。これらはみんなサンゴ島で、ごく少しずつではあるが、毎日絶えまない微小水生動物の働きによって大きくなりつつあるのである。したがって、いつかはそれが付近の島々と一つになり、最後にはニュージーランドおよびニューカレドニアから、遠くマーケサス諸島にかけて、第五大陸を形成する日が来るであろう。
ある日、私がこのことをネモ艦長に話すと、彼は冷やかに答えた。
「地球はもう新しい大陸を欲してはいませんよ。欲しいのは新しい人間です」
そのときノーティラス号は、偶然にもクレルモン・トネール島の方角へ向かっていたが、ここは一八二二年ミネルヴァ号のベル船長が発見した島々のうちで、最も興味ある島で、私がミドリイシについて親しく研究できたのは、この島のおかげであった。
ミドリイシは普通のサンゴとはちがうサンゴ類の一つで、石灰質の外皮組織をもち、その構造の変化によって、わが師ミルヌ・エドワール氏はこれを五つの部分に分けている。この海底のサンゴ虫のかたまりが内側にかくしている極微動物は、彼らの穴の底に無数に住んでいて、その石灰質の骨格が堆積して岩となり、暗礁となり、大小の島となるのである。この場合、あるところでは、それは環状をなして、小さな内海をとりかこんでいるし、またあるところでは、それはニューカレドニアやポモツー諸島の海岸に見られるように、岸に沿って暗礁の柵をつくっている。そうかと思うと、さらにべつのところでは、それは、レユニオン島やモーリス島のように、高いまっすぐな岩礁の壁をつくっており、その付近の海は相当深いのが普通である。
クレルモン島の海岸から数百メートルのところを通過しながら、私はこれらの顕微鏡的労働者の手でなしとげられた大工事を眼のあたりにながめて、心から感嘆した。ここの岩壁は、ハイドロサンゴ、ハマサンゴ、イシサンゴ、星形サンゴ等の名で知られているミドリイシのつくったものであった。これらのサンゴ虫類は、水面に近い波の荒い場所で発見されるのが常なので、したがって彼らがその分泌物で自分自身を埋める仕事を始めるのは、上の部分からであることは、明らからしかった。少なくともダーウィンの説はそうであって、彼は環礁の形成過程をそう説明している。これは(私の考えでは)水面下数メートルのところに沈んだ山や火山の頂きをミドリイシの工事の土台と見る説よりもすぐれた理論だと思う。
私はこれらの不思議な岩壁を親しく観察することができた。というのは、それは水面下三百メートル以上の深さにまで達し、艦の電光がその石灰質のはだをキラキラ照らし出してくれたからである。これらの巨大な壁が形成される時間についてコンセイユが質問したのに対し、私が専門学者の計算によれば百年間に約八分の一インチだと答えたところ、彼はびっくりしたようだった。
夕方近く、クレルモン・トネール島は遠く視界の彼方に消え去り、ノーティラス号はその針路を大きく変えた。西経一三五度の地点で南回帰線を越えると、艦はふたたび熱帯の海に入り、西北西へと航海をつづけた。夏の太陽は強烈だったが、私たちは少しも暑さを感じなかった。なぜなら海面下十五尋から二十尋のところでは、温度は十度ないし十二度以上にのぼることはなかったからである。
十二月十五日、私たちは魅惑的なソシエテ諸島と、太平洋の女王といわれる優美なタヒチ島を東方にながめて過ぎた。その明け方、わたしは、風上数マイルのところに、タヒチ島の最高部を見た。このあたりの海からは、カツオとか、サバとか、メジマグロとか、その他ムニノフィスと呼ばれるウミウナギがとれて、食卓を賑わした。
十二月二十五日、ノーティラス号は、ニューヘブリデス諸島の間にはいって行った。この群島は、一六〇六年にキロスが発見し、一七六八年にブーゲンヴィルが探検し、一七七三年にクックが現在の名前をつけたもので、主として九つの大きな島から成っており、南緯一五度から二〇度、東経一六四度から一六八度の間に、北々東から南々西へ百二十リーグばかりにわたって、帯のように長くつらなっていた。艦は、アウルー島の近くをすれすれに通過したが、ちょうど真昼だったので、緑の森の中から高い山がくっきりとそびえているのがながめられた。
その日はクリスマスだったので、新教徒のネッド・ランドは、そのお祝いができないのをひどく残念がっているようだった。私はネモ艦長ともう一週間も会っていなかったが、二十七日の朝、彼はいつものように、つい五分前に会ったばかりのような態度で、広間にはいって来た。私はノーティラス号の針路を海図の上で余念なくたどっていたが、艦長は私のそばに近よると、海図の一カ所を指でおさえながら、
「ヴァニコロ」
と、ただ一こといった。
私ははっとした。「ヴァニコロ」とは、航海家ラ・ペルーズが行方不明になった島の名ではないか。
「ノーティラス号はヴァニコロ島へ行くのですか?」と、私は訊いた。
「そうです」と、艦長は答えた。
「では、ブッソール号やアストロラーブ号が坐礁した有名な島を訪ねることができるわけですね」
「おのぞみならば」
「いつ、そこへ着くのですか?」
「もう、来ているのです」
ネモ艦長の後について、私は甲板に上り、熱心に水平線を見つめた。
北東にあたって、周囲四十マイルもあるサンゴ礁にかこまれた大小二つの火山島が見えた。艦はヴァニコロ島に向かって近づきつつあった。この島は、デュモン・デュルヴィルが、『探検島《レシエルシエ》』と命名した島で、ヴァヌという港があり、南緯一六度四分、東経一六四度三二分の位置にあった。島の中央に海抜百四十三メートルのカポゴ山が聳え、海岸から山頂まで全島緑に包まれていた。ノーティラス号は、サンゴ礁の間の狭い瀬戸を抜けて、白波の砕ける岩だらけのところへ出た。海の深さは三十尋から四十尋あった。マングローヴの茂った縁の岸辺に、数人の現地民が立っていたが、私たちが近づくのを見ると、非常に驚いたらしく、波間を走る長い真っ黒な物体を、何か恐ろしいクジラとでも思ったようであった。
その時、ネモ艦長は、私にラ・ペルーズの難破事件を知っているかと、たずねた。
「世間に知られていることだけしか――」と、私が答えると、
「世間に知られていることを話して下さいませんか?」と、彼は、皮肉らしく問いかえした。
「おやすいことです」
私は、デュモン・デュルヴィルの最近の著書に書いてあることを、簡単にまとめて次のように話した。
ラ・ペルーズとド・ラングル艦長とは、ルイ十六世の命をうけて、一七八五年に世界周航の途に上った。二人は「ブッソール」と「アストロラーブ」という二隻の海防艦に乗って出帆したが、南太平洋で消息が絶えてしまったのである。
一七九一年、フランス政府はこれら二隻の艦の運命を気づかって、ブルニ・ダントルカストーを指揮官とし、二隻の大型商船レシェルシェ号とエスペランス号とを、九月二十八日にブレストから出帆させた。
二カ月の後、彼らはアルベマール号の艦長ボウエンから、ニュー・ジョージアの海岸で、難破船の破片を発見したという報告を受けた。しかし、ダントルカストーはこの報告を無視して、ハンター船長の報告にラ・ペルーズが難破した場所と記してあったアドミラルティ諸島に向かった。
彼らの探索は不成功に終った。エスペランス号とレシェルシェ号は、ヴァニコロ島には寄らずに、その近くを通過したが、この航海は悲惨をきわめ、ダントルカストーは、二人の士官と数名の乗組員と共に生命を落してしまった。
その後、太平洋航海に最も老練なディロン船長が、初めて難破船の跡を発見した。一八二四年五月十五日、彼の乗船サン・パトリック号は、ニュー・ヘブリデス諸島の一つであるティコピア島の近くを通過したが、そのとき一人の現地民がカヌーを乗りつけて来て、銀でこしらえた剣の柄を彼に売りつけた。それには文字が彫りつけてあった。その現地民は六年前ヴァニコロ島にいたとき、二人のヨーロッパ人を見たが、その人たちは数年前サンゴ礁で難破した船の乗組員だった、と告げた。
ディロンは、おそらくそれこそ、行方不明になって世界を騒がしたラ・ペルーズだろうと推測し、現地民の言葉にしたがってヴァニコロ島に行き、難破船の破片を見つけ出そうとしたが、風波に妨げられて果たさなかった。
ディロンはカルカッタに戻り、自分の発見を話してアジア協会と東インド商会を説きつけた。そして一八二七年一月二十三日、彼はレシェルシェ号という船に乗り、フランスの代表者を伴ってふたたび出かけた。
この新レシェルシェ号は、太平洋の各地を訪れた後、一八二七年七月七日、ヴァニコロ島のヴァヌ港に投錨した。
ここで難破船の破片が多数発見された。たとえば、いろいろな鉄製器具とか、錨とか、滑車とか旋回砲とか、八ポンド砲弾とか、天測器械の破片とか、青銅の時計とかで、どれも一七八五年頃のブレスト兵器廠のマークが入っていた。もう疑う余地はなかった。
ディロンはあらゆる調査をつづけながら、十月までこの地にとどまった。それから彼はヴァニコロ島を去り、針路をニュージーランドの方角にとり、一八二八年四月七日、カルカッタに入港し、それからフランスに帰国した。そして、シャルル十世から盛大な歓迎を受けた。
ところが、ディロンと同時に、彼の計画を知らないで、デュモン・デュルヴィルもまた、同じ難破船の情況探索に出かけた。彼らはある捕鯨船から、ルイジアードやニューカレドニアの現地民がメダルや聖ルイ十字章を持っていることを聞いた。新アストロラーブの艦長デュモン・デュルヴィルは、それから航海を続けて、ディロンがヴァニコロ島を去った二カ月後にホバート・タウンに寄港した。そこで彼は、ディロンの調査の結果を聞いた。またカルカッタのジェームズ・ホッブスという人が、南緯八度一八分、東経一五六度三〇分のところにあるある島に上陸して、その地方の現地民たちが、鉄棒や赤い紐を使用しているのを見たということも知った。デュモン・デュルヴィルは、すっかり困惑して、低級な新聞雑誌の報告をどう信じてよいかわからなかったが、とにかくディロンの跡をたどることに決心した。
一八二八年二月十日、アストロラーブ号はティコピアに着き、その島で見うけた脱走者を案内人としてヴァニコロ島に向かい、十二日に同島に到着した。が、十四日まではサンゴ礁の中におり、二十日にはじめてヴァヌ港に錨をおろした。
二十三日には、数名の士官が島内を探索したが、大した獲物はなかった。現地民は、いろいろ口実を設けて遭難の場所へ案内しようとしなかった。こうしたあいまいな態度から考えると、現地民が遭難者の一行を虐殺したのかも知れなかったし、事実彼らは、デュモン・デュルヴィルが、ラ・ペルーズとその不幸な隊員たちの復讐に来たものと思っているらしかった。
しかし、二十六日になっていろいろな品物を与えてなだめ、害意のないことを示すと、現地民たちはやっと安心して、遭難の現場に案内した。
果してパクー・サンゴ礁とヴァヌ港との間の三、四尋の海中に、錨や、砲や、鉛の塊や、鉄の塊などが埋もれていた。そこで、アストロラーブ号所属の大ボートと捕鯨ボートが現場におもむいて、いろいろ困難をおかした末、船員たちの努力で、千八百ポンドもある重い錨や、真鍮の銃や、鉄塊や、旋回砲などを引き揚げた。
デュルヴイルは、ラ・ペルーズがこの島の暗礁で二隻の船を失った後、さらに一隻の小さな船を作ったが、それも沈んでしまったということを、現地民から聞き出した。が、どこで沈んだのか――それは誰も知らなかった。
しかし、フランス政府は、デュモン・デュルヴィルが、ディロンの計画を知らないことを気づかって、アメリカの西海岸にいた砲艦バイヨネーズ号をヴァニコロ島へ回航させることにした。艦長はルゴラン・ド・トロメランといい、バイヨネーズ号は、アストロラーブ号が立ち去った数カ月後にヴァニコロ島に到着したが、新しい発見は何もなかった。ただその報告によると、現地民はラ・ペルーズを思い出して尊敬しているとのことだった。以上が、私のネモ艦長に話した要領であった。
「では」と艦長はいった。「遭難者たちがヴァニコロ島でつくった船が、どこで沈んだかわからないのですね?」
「わからないのです」
ネモ艦長は黙って、私を連れて、広間へ行った。ノーティラス号は数メートル海中に沈んでいたが、舷側の窓は開いていた。
私は急いで窓際に行った。いろいろなサンゴやミドリイシの下に、また美しい魚類の泳ぎまわる間に、鉄の鐙索《とうさく》や、錨や、大砲や、砲弾や、捲轆轤《まきろくろ》や、船首材など、まぎれもない難破船の残骸が海草に蔽われているのが見えた。
私が、それらの荒涼とした光景にながめ入っていると、ネモ艦長が滅入ったような声でいった。
「ラ・ペルーズは、一七八五年十二月七日に、ブッソール号とアストロラーブ号とを率いて出発しました。最初ボタニー湾に投錨し、フレンドリー諸島やニューカレドニアを訪れ、それからサンタ・クルーズに針路を取り、ハパイ群島のナモカに寄港しましたが、その後で彼の率いる二艦は、ヴァニコロ島の暗礁に衝突したのです。最初ブッソール号が南海岸に乗り上げたのを見て、アストロラーブ号は、さっそく救援におもむきましたが、これもまた坐礁してしまいました。ブッソール号はすぐ沈没しましたが、アストロラーブ号は風下に乗り上げたせいか、数日間持ちこたえていました。現地民は遭難者を歓待しました。遺難者たちは、この島に落ちついて、二隻の難破船から破片を集めて小船をつくりました。自分から希望してヴァニコロ島にのこる者もありましたが、ほかの者は、ラ・ペルーズと一緒に、その小船で出帆しました。彼らは、ソロモン群島へ向かいましたが、この群島の最も大きな島の西岸、デセプション岬とサティスフアクション岬との間で、沈没してしまったのです」
「どうして、それをご存じなのですか?」
「これをごらんなさい。これは、あの最後の小船が沈没した場所で発見したものです」
ネモ艦長は、私にフランスの紋章をきざんだ錫《すず》製の小箱を見せたが、それは海水のためすっかり錆びていた。蓋をあけると、一束の書類が入っていて、黄色く色あせてはいたが、なお読むことができた。
それは、時の海軍大臣からラ・ペルーズにあてた命令書で、その余白にはルイ十六世の親筆で註釈が書きこまれてあった。
「実に、航海者として立派な最後です!」と、ネモ艦長はしばらくして言った。「サンゴで作られた静かな墓。わたしたちの行くところも、そこよりほかにありません」
十九 トレス海峡
十二月二十七日から二十八日にかけての夜、ノーティラス号は全速力でヴァニコロ島の海岸を去り、針路を南西にとって、三日後にはラ・ペルーズ一行が遭難した地点から七百五十リーグへだたったパプア島《ニューギニア》の南東に達した。
一八六八年一月元日の早朝、コンセイユと私は甲板で出会った。
「先生、明けましておめでとうございます」
「なんだ、コンセイユ、まるでパリの植物園の書斎にいるみたいだね。が、まあいいや。とにかく、おめでとう。ただ、こんな境遇では、何が『新年おめでとう』だかわからんね。今年は監禁が解かれるか、それともこの奇妙な航海が依然つづくか、いったいどう思うね?」
「さあ、なんと申し上げたらよろしいでしょうか。でも、この二カ月は、実際珍しいものを見せられて、少しも退屈しませんでした。次から次と、驚嘆すべきことばかりでございましたからね。もしこの調子で行くとしたら、まったく見当がつきません。こんな目に出会うことは、またとありますまい。それで、つまり、おめでとうと申し上げたのは、今年もいろいろ珍しいものが見られるだろうという意味でございます……」
一月二日までに、私たちは日本近海の出発点から一万千三百四十マイル航海していた。いま艦の行手には、オーストラリア北東海岸の危険なサンゴ礁が横たわっていた。ノーティラス号は、クックの船が一七七〇年六月十日に難破したその恐ろしい岩礁から数キロのところを通過した。それは私がかねてから行って見たいと思っていた岩礁で、長さ三百六十リーグからあり、たえず荒波が打ちよせ、雷のようにほえ狂っていた。しかし、ちょうどその時、ノーティラス号は海底深く潜航したので、高くそびえ立ったサンゴ壁を見ることはできなかった。ここでもまた、珍しい魚類がたくさんとれた。中でも、マグロと、青い腹に横縞のあるサバとが眼についた。これらの魚類は群をなして艦の後からついてきて、結構な食糧を提供してくれた。また、長さ四センチぐらいのクロダイもたくさんとれたが、マトダイに劣らず美味だった。海底のツバメみたいに飛び交う火魚は、闇夜でも強い燐光を放って、空中と水中を交互に照らした。
サンゴ海を横ぎって、二日後の一月四日には、パプアの海岸が見えるところに来た。ネモ艦長は、トレス海峡を通ってインド洋に出るつもりだ、と言った。
トレス海峡は、幅三十四リーグ近くもあるが、無数の小島やサンゴ礁が散在し、潮流が速く、波が荒いので、航海者には非常に危険な場所だった。で、ネモ艦長も、警戒の上にも警戒を厳にして進んだ。ノーティラス号は、風浪にもまれながら、航行をつづけた。推進器は、クジラの尾みたいに、力強く波を打った。私は、二人の仲間を誘って、さびしい甲板に出てみた。私たちの前には操舵室があったが、きっとネモ艦長はそこでノーティラス号の航海を指揮しているのではなかろうか、と私はおもった。私は水路測量技師ヴァンサンドン・デュムーランが作成した、トレス海峡の立派な地図を持っていたので、注意深くそれを調べてみた。ノーティラス号は、荒れ狂う波を蹴って進んでいた。潮流は四キロの速度で南東から北西に向かって流れ、そこここに頭を出しているサンゴ礁にあたって白く砕けていた。
「こりゃ、ひどい海ですね!」とネッド・ランドが言った。
「実際いやな海だね。ノーティラス号みたいな船にはまったく苦手なところだろう」
「艦長は、この水路にはよほど通じていなければなりませんぜ。ほら、あんなにサンゴ礁が頭を出していましょう。あれにちょっと触っただけでも、おしまいですよ」
実際、ここは難所だったが、ノーティラス号はそれらの岩礁の間を、魔術のようにすりぬけて進んだ。艦はアストロラーブ号やゼレー号がとった航路には従わなかった。それにはデュモン・デュルヴィルがすでにひどい目にあっていたからだった。艦は、いったん舵を北方に転じてマーレー島をまわってからふたたび南西に引きかえし、カンバーランド水道に向かった。そして水道を通り抜けると、こんどはまた北西に引きかえし、無名の島々の間を縫って、サウンド島とモーヴェー海峡の方へ進んだ。
私は、ネモ艦長が無謀にも、デュモン・デュルヴィルが二隻の艦を沈めた水路に船を向けるのではないか、と心配したが、艦は急に舵を転じて、海峡を西方に突っ切り、ギルボア島の方角に向かった。
ちょうど午後三時で、潮が退《ひ》きはじめていた。ノーティラス号は、海岸にいちめんタコノキの生えている島に近づいた。が、その時だった。突然私は強い衝撃を感じて、その場に投げ出された。ノーティラス号は岩礁に乗り上げて、やや左舷に傾いたまま、動かなくなってしまったのである。
立ち上ると、甲板の上にネモ艦長と副長の姿が見えた。彼らは艦の位置を調べながら、例のわからぬ言葉で話し合っていた。
右舷三マイルのところには、ギルボア島が、北から西へ巨人の腕のようにのび、南東の方には、ちょうど干潮時だったのでサンゴ礁が、頭を出していた。艦は坐礁したのだが、潮の干満のあまり激しくないこの近海では、岩礁から離れることはなかなか困難であった。さいわい船体には損傷がない様子だったが、それだからといって、浮き上らなければ、永遠にこの岩礁に釘づけにされることになり、そうなればネモ艦長のせっかくの潜水艦も万事休すである。
私が、そんなことを考えていると、艦長はいつものように、冷静な落ちついた態度で近づいてきた。
「何か不慮の事件でも起ったのですか?」と、私は尋ねた。
「いや、ちょっとした事故です」
「しかし、そのちょっとしたことから、あなたの嫌いな陸に上らなければならなくなりはしませんか?」
ネモ艦長は不審そうに私を見つめながら、どんなことがあろうと、陸地になど上りはしない、といわんばかりの身振りで、言った。
「ご安心なさい、ノーティラス号は大丈夫ですよ。これからいよいよ大洋の神秘をお目にかけたいと思っているところです。わたしたちの航海はまだ始まったばかりですからね。こんなことであなたとお別れしたくありませんよ」
「しかし、艦長」と、私は彼の言葉の皮肉な調子にはかまわずに言った。「ノーティラス号は坐礁したのでしょう。ところで、太平洋の満潮は、今時分あまり高くはないはずですから、もし船を軽くすることができなければ、どうして浮き上がらせることができるのですか?」
「太平洋の満潮はたしかに高くありません。あなたのおっしゃるとおりです。しかし、トレス海峡では、満干の差が一メートル半あります。今日は一月四日です。もう五日で満月になりますから、それまで待ちましょう」
こう言って、ネモ艦長は副長と一緒に、ノーティラス号の内部へおりて行った。が、艦は動かなかった。サンゴ虫が不滅のセメントで固めてしまったように、それは微動もしなかった。
「どうなるんでしょう、先生?」
艦長が立ち去った後、甲板に上って来たネッド・ランドは言った。
「やあ、ネッド君、九日の満潮を待つんだね。満月が出るといっしょに艦は浮くそうだよ」
「本当ですか?」
「本当だよ」
「それで艦長は、潮をたよりに錨なんかおろさないのですね?」とコンセイユが言った。
カナダ人は、コンセイユを振りかえって、肩をすくめた。
「わしの考えじゃ、この船はもう二度と、海の上だろうと、下だろうと、走れやしませんよ。まあ目方で売るほかに方法はないでしょうな。いよいよ艦長ともお別れする時が来たようですね」
「ネッド君、僕は君のように、この頑丈な船のことは悲観しないがね。四日たてば、万事わかるだろう。それに、イギリスやフランスの海岸の見えるところなら、逃げられもするが、パプアの海岸じゃどうにもならんよ。とにかく、もう少し待ってみよう」
「おや、あそこに島が見えますね。樹木が茂って、あの下には獣がいますぜ。久しぶりでカツやビフテキが食べたいですな」
「それには、わたしも賛成だ」と、コンセイユが口を入れた。「先生、わたしたちの上陸をひとつ艦長に頼んでみてくださいませんか? 地球の固い土を踏む習慣を忘れてしまいたくありませんからね」
「頼んではみるが、許すまいよ」
「とにかく、頼んで見てください。艦長がわたしたちにどれだけ好意を持っているかもわかりますから」
だが、意外にも、ネモ艦長は私の頼みをききいれて、艦に帰ってくる保証さえとろうとしなかった。もっとも、ニューギニアを通って逃げることは危険きわまりないことだから、そんな無謀な企てをネッド・ランドと相談するはずもなかった。現地民の手に落ちるよりは、ノーティラス号に乗っているほうがまだましだったから。
翌朝八時に、私たちは銃と手斧を持って、ボートでノーティラス号を出た。海は静かに凪《な》いで、陸には風が吹いていた。コンセイユと私がオールを漕ぎ、ネッドが舵をとって、岩礁の間の水路を巧みに縫いながら、ボートは滑らかな水面をまっすぐに滑って行った。
ネッドは、喜びをおさえることができなかった。彼は牢獄を抜け出した囚人のように有頂天になり、ふたたび牢獄に帰らなければならぬ身をすっかり忘れているようであった。
「肉だ! 肉が食べられるんだぞ。どんな肉だろう! 魚だって悪くはないが、しかし、新しい鹿肉の焼いたのは、まったくすてきだからな」
「食いしんぼう先生、よだれを流していますよ」と、コンセイユが言った。
「しかし、行ってみなければわからんさ、あの森に獲物がどっさりいればいいが、いても、猟師に害を与えるような猛獣じゃ困るからね」と、私は言った。
「なあに、先生、あそこに猛獣しかいなければ、わしはトラでも食いますよ、虎の肉でも」と、斧の刃のような鋭い歯をもったカナダ人は答えた。
「いくらネッドさんだって、そりゃ難かしかろう」と、コンセイユが言った。
「なあに、羽根をもたない四つ足の動物だろうと、羽根のある二足の動物だろうと、一発で射止めてみせるよ」と、ネッド・ランドは元気よくつづけた。
「ほらまた、ネッド君の乱暴がはじまった」
「アロンナクス先生、ご心配なさいますな。わしの手際《てぎわ》をごらんに入れるには、二十五分とかかりませんから」と、カナダ人は答えた。
ノーティラス号のボートは、ギルボア島をかこむサンゴ礁を巧みに通りぬけて、八時半には、砂浜に軽く乗り上げていた。
二〇 地上の数日
久しぶりで大地を踏んだ瞬間の感動はすばらしかった。ネッド・ランドは、まるでそれが自分の財産にでもなったように、爪先で土を蹴っていた。が、考えて見ると、私たちがネモ艦長のためにノーティラス号のお客様(実は捕虜)にされてから、まだ二カ月とたってはいないのである。
数分後に、私たちは海岸から射程距離外にあった。地面はほとんどミドリイシで蔽われていた。地平線は美しい森のカーテンの蔭にかくれて見えなかったが、あたりには、ヒルガオの花づなが、高さ六十メートルもある大木の幹にからみついて、自然のハンモックみたいに、微風にゆれていた。それらの大木は、ネム、イチジク、ムクゲ、シュロなどで、互いに入り乱れて欝蒼と立ちならび、その青い円天井の下には、ランやシダの類が生い茂っていた。
しかし、カナダ人は、これらのパプア特有の美しい植物には目もくれず、もっと実利的なものを狙った。彼はヤシの木を見つけると、その実を打ち落して割った。私たちはその果汁を飲み、果肉を食ったが、それはノーティラス号のご馳走よりもずっとうまかった。
「こりゃ、うまい!」と、ネッド・ランドが言うと、
「すてきだ!」と、コンセイユも相づちを打った。
「ヤシの実を艦に持って帰っても、文句は言わないでしょうね?」と、カナダ人はつづけて言った。
「文句は言わないだろうが、食べはしないだろう」
「これを食べないなんて損な話ですね」と、コンセイユも言った。
「こっちには好都合さ」と、ネッド・ランドは答えた。
「それだけ、こっちの分がたくさんになるわけだからな」
「だが、ランド君」と、私はまたもう一本のヤシの木に登りかけた銛撃ちに言った。
「ヤシの実も結構だが、それをカヌーに積みこむ前に、もう少しこの島を調べて、何かもっといいものを探してみようじゃないか。新しい野菜なんかはノーティラス号できっと喜ばれるよ」
「先生のおっしゃるとおりです。わたくしも、船への土産は三種類にしたいと思いますね。果実と、野菜と、も一つは、まだお目にかからないが、鹿肉と」とコンセイユが答えた。
「コンセイユ君、落胆しちゃいけないよ」と、カナダ人は言った。
「とにかく、もう少し進んで、様子を見ようじゃないか」と私は言った。「この島には人間が住んでいないと思うが、ひょっとすると僕たちを餌食にするような野獣に近い人間がいるかもしれんからね」
「ほ、ほお!」と、ネッド・ランドが意味ありげに顎をしゃくった。
「どうしたんだね、ネッド君」と、コンセイユが大声で言った。
「実はだね」とカナダ人は答えた。「食人種のように、わしにも人肉の味がわかるような気がして来たんだ」
「なんだってネッド君、あんたは人食いか? どうもぶっそうな人間だな。同じ部屋にいるんだから、ちょっと心配になるよ。眼をさまして見たら、半分食われていたなんてことになるんじゃないかな」
「わしは、あんたが大好きだがね、コンセイユ君。でも、必要もないのに食べるほど好きじやないよ」
「いや、どうも信用できんね。しかし、まあいいですよ。わたしたちは獲物をどっさりとって、この人食いにたらふく食わせなけりゃ」
こんな他愛もないことをしゃべりながら、私たちは薄暗い森の中に入り、二時間ばかり、あちこちと探しまわった。
運よく私たちは、食用野菜を見つけた。熱帯地方の最も有用な産物で、船中にない貴重な食物であった。それはパンの木で、このギルボア島には非常に、豊富にあった。ことにそれは種子のない変種で、マライ語で『リマ』といわれているものだった。
ネッド・ランドは、この果物をよく知っていた。数度の航海で幾度も食べたことがあり、どうして食うのが一番いいかも知っていた。それを見ると、彼はたまらなそうに叫んだ。
「先生、これを見ちゃ、もう我慢できませんよ。このパンの木の実を一口食べないと死んじまいます」
「さあ食べたまえ、食べたいだけ食べたまえ。わたしたちもご相伴しよう」
「手間はかかりませんよ」と、カナダ人は言った。
彼が、枯葉や枯枝に凸面境で火をつけると、パチパチ音を立てて燃え上った。その間に、私とコンセイユは、パンの木の実の上等なやつを選《よ》った。中にはまだ充分熟していないものもあって、その厚い皮は白い繊維質で蔽われていたが、大部分は黄色く熟して、もぎとられるのを待っていた。
これらの実には種がなかった。コンセイユがそれを十二ばかりネッド・ランドのところに持って行くと、彼はそれを分厚に切って、火で焙った。
「先生、ごらんなさい。こいつはうまいパンですよ。いや、パンなんてもんじゃない、すてきな菓子ですよ。先生はまだ食べたことがないのですか?」
「ないね、ネッド」
「では、汁の多いのを食べてごらんなさい。もっとくれとおっしゃらなかったら、わしは銛撃ちをやめちまいますよ」
しばらくすると、火に焙《あぶ》った部分がすっかり焼けて、中身が白い饅頭のようになり、朝鮮アザミのような香ばしい匂いがしてきた。
このパンはまったく珍味で、私たちは舌つづみを打った。
「何時ごろでしょうか?」と、カナダ人がたずねた。
「二時になるでしょう」と、コンセイユが答えた。
「陸では、時間のたつのが、なんて早いんだろう!」と、ネッド・ランドは溜息をついた。
「そろそろ帰ることにしましょう」と、コンセイユが言った。
私たちは、森の中を引きかえしながら、浜ヤシの実や、マライ語で『アブロー』といわれている小さな豆や、質《たち》のいいヤマイモなどをたくさん採集した。
私たちは、ボートに戻って、荷物を積みこんだが、ネッド・ランドは、それだけでは満足しなかった。幸いなことに、私たちがいよいよ出発しようという間際になって、ネッド・ランドは高さ八メートルから九メートルあるヤシの木を見つけた。これらの木はパンの木に劣らず貴重なもので、マライ地方の最も有益な産物の一つだった。
夕方の五時に、私たちは土産物の食糧をボートにどっさり積み込んで海岸を離れ、半時間後にノーティラス号に帰り着いた。しかし、不思議なことに、声をかけても誰も姿を見せず、この巨大な鉄の円筒は、無人のようにひっそりかんとしていた。
持ち帰った土産物の食糧を艦に積み入れると、わたしは自分の部屋に帰り、夕飯後ぐっすり寝こんでしまった。
次の日、一月六日も、艦内の様子にはなんの変化もなかった。音一つ聞えず、まるで死んだもののようであった。私たちはふたたび島に引きかえすことに相談一決した。ネッド・ランドは、昨日よりももっとうれしそうで、今日は森以外の場所へ行って見たいと主張した。
未明に、私たちは島に向かって出発した。
ボートは上げ潮に乗って進んだので、数分で島に着いた。
上陸した私たちは、今日はカナダ人の望みにまかせることにして、その後からついて行ったが、彼が長い手を打ちふるので、そばに寄りつけなかった。彼は海岸伝いに西の方へ向かった。やがて、一つの小川を渡ると高い草原に出たが、その周囲にはすばらしい森林が欝蒼と茂っていた。水辺にはカワセミが遊んでいたが、容易に近づいて来なかった。その用心深さから推して、これらの鳥は、私たち二足獣の人間を見知っているにちがいなかった。だとすると、この島には住民はいないにしても、少なくとも時々人間が訪れることは明らかだった。
かなり広い草原を横ぎると、小さな森のはずれに出たが、その辺りにはたくさんの鳥が飛んだり、さえずったりしていて賑かだった。
「鳥ばかりですね」と、コンセイユが言った。
「しかし、この鳥だって食べられるよ」と、銛撃ちは答えた。
「そんなことはないよ。ネッド君、これはオウムばかりじやないか」
「コンセイユ君、オウムだって、何もないときには、キジの値打ちがあるさ」と、ネッドは真面目な調子で言った。
「そうだよ。この鳥も、うまく料理すれば、けっこう食べられるよ」と、私も相づちを打った。
この森のこんもり茂った葉かげには、まったくおびただしいオウムが、枝から枝へと飛びまわって、ただ人間の言葉を話すように仕込まれていないだけで、騒々しくお喋りをつづけていた。
種類も多く、何か哲学的な瞑想に耽っているような白インコや、微風に流れる旗のように飛んでいる真っ赤なショウジョウオウムや、きれいな空色をしたパプアオウムや、その他色さまざまな美しい羽毛をもった各種のオウムがいたが、食用になりそうなのは、ほとんど見当らなかった。
しかし、これらの鳥の中には、このあたりの島の特産で、アロー島やパプア島以外には見られないという鳥はなかった。だが、まもなく私はそれを見る幸運に恵まれた。
こんもり茂った灌木の林をくぐりぬけると、私たちはふたたび草原に出た。見ると、そこには眼もさめるような美しい鳥がいて、飛び立つ時、その長い羽根がぱっと風にひろがった。うねりを打って飛びながら空中に描く美しい曲線、その鮮やかな色彩は、まったく見るものを恍惚とさせた。私にはすぐ鳥の名がわかった。
「極楽鳥だよ!」と、私は叫んだ。
マライ人は、シナ人とよくこの鳥の取引をしているが、彼らは、私たちには出来ないような方法でこの鳥を捕えるそうである。たとえば、極楽鳥がよく来てとまる高い木のてっぺんに罠を仕かけるとか、鳥モチで捕えるとか、またはこの鳥がよくきて飲む泉に毒を仕込んで捕えるとかするそうだ。
だが、私たちは、この鳥が飛んでいるところを射撃するほかなかったので、なかなかうまく行かず、結局弾丸の半分を無駄にしてしまった。
午前十一時頃、この島の中央部の山を越したが、まだなんの獲物もなかった。私たちは空腹を感じてきた。何か捕れるだろうと当てにしてきたのが間違いであった。がさいわい、コンセイユが、そのとき思いがけなく二羽のハトを射とめたので、朝食にありつくことができた。一羽は白バトで一羽は木バトであったが、うまく毛をむしって、それを串に刺し、枯れ枝の焚火で焙った。ハトを料理している間に、ネッドはパンの木の実を集めて来た。木バトは骨まで食うことができ、すこぶる珍味だった。それに、木バトの胃袋にいつも詰っているニクズクは、その肉に香気を与えるので、非常にいい味がするのだった。
「おい、ネッド君、これでもまだ不足かね?」
「四ツ足がありませんのでね、アロンナクス先生」とネッド・ランドは答えた。「こんなハトなんか、ほんの添えものですよ。わしは、何かカツにできそうな獣をしとめないことには、どうも胸が晴れませんね」
「僕も極楽鳥を捕えないと、気がおさまらないよ」
「では、猟をつづけようじゃありませんか」とコンセイユが言った。「海岸の方へ行ってみましょう。山の上り口に来ていますが、あまり深入りせずに森の近くを行った方がいいでしよう」
これはもっともな意見だったので、私たちはそれに従った。一時間ばかり歩いた後、サゴヤシの森に出た。ヘビが幾匹も前を通りぬけた。極楽鳥は、私たちが近づくとすぐ飛び去ってしまうので、どうしても捕らえることができなかった。すると、突然、前を歩いていたコンセイユが身をかがめ、勝ち誇ったような叫びをあげて、見事な奴を一羽捕えた。
「でかしたぞ、コンセイユ」
「先生、うまくやりましたよ」
「いや、すばらしいことをやったよ。こんな生きた鳥を、手捕りにするなんて」
「しかし、よくお調べになると、大した手柄でないことがおわかりになりますよ」
「なぜ?」
「この鳥は娼婦のように酔っぱらっているのです」
「酔っぱらってる?」
「ええ。ニクズクを食いすぎて酔っぱらっているんですよ。ネッド君、見たまえ、この大酒の恐ろしい効きめを!」
「ちぇっ!」とカナダ人は叫んだ。「おれが、この二カ月、ジンを飲みつづけてきたのを、君はとがめ立てするつもりなんだね!」
私はその不思議な鳥を調べてみた。コンセイユのいうとおり、それはニクズクに酔っぱらって、ぐったりとなり、飛ぶことも歩くこともできなくなっていた。
この鳥は、パプア島やその近くの島々に住んでいる八種の珍鳥の中でも一番美しいものだった。これは、≪もっとも珍しい大きなエメラルド色の鳥≫だった。長さは約一メートル、頭は比較的小さく、眼は嘴《くちばし》の近くにあって、これがまた小さかった。しかし色は非常に美しく、嘴は黄色、足と爪とは鳶《とび》色、翼は胡桃《くるみ》色で、先端が紫色をしており、首と頭の後は浅黄色、喉はエメラルド色、胸と腹とは栗色であった。二本の角型の絨毛《じゅうもう》の網が尾の下から出ていて、眼のさめるような美しい、長くて軽い羽根を一そう引きのばしていた。そしてそのために、このすばらしい鳥全体が引き立って見えるのだった、現地民はこの鳥を詩的に『太陽の鳥』と呼んでいた。
極楽鳥が捕まったので、私の望みはかなったわけだが、カナダ人の望みはまだ満されなかった。だが幸いなことに、二時頃、ネッド・ランドは大きな野ブタを一匹射止めた。この動物は、私たちに本当の四足獣の肉を供給することになったので、非常に歓迎された。ネッドは、大得意だった。野ブタは電気弾に当って即死したのであった。彼は、野ブタの皮をはぐと、半ダースのカツレスの肉をとり、残りを夕食の炙《あぶ》り肉にした。それから、ふたたび狩りが始められたが、ネッドとコンセイユがまたも手柄を見せることになった。
二人は、藪の中を探しまわっているうちに、一群のカンガルーを追い出したのだ。カンガルーは弾力のある足で跳ねながら逃げたが、電気弾を免れるほど敏捷に逃げることはできなかった。
「やあ、先生!」と、ネッドは追撃の喜びに夢中になりながら叫んだ。「すてきな獲物ですよ。こいつはシチューになりますぜ。ノーティラス号には、すばらしいお土産ですよ! 二匹! 三匹! ほら五匹! でも、わたしたちは食っても、船の奴らには一きれも食わせないぞ」
カナダ人は、有頂天になって喜んだが、もし彼がこんなにお喋りをしなかったら、カンガルーは全部殺されてしまったかもしれない。しかし、ネッドはこの有袋動物を一ダースほど射止めると満足した。この動物は小柄で、いわゆる≪カンガルー・ウサギ≫の一種だったが、かなり肥っていたので、結構食糧になった。私たちはこの狩りの成績にすっかり満足し、幸福なネッドは、明日もこの憧れの島に引きかえして来て、食用になる四足獣を全部狩りつくそうと提案した。
夕方六時に、私たちは海岸に戻って来たが、ボートはもとの場所に、もやったままになっていた。ノーティラス号は、長い岩礁のように、海岸から三キロほど沖の海上に横たわっていた。ネッド・ランドは、待ちきれずに、さっそくご馳走の支度にとりかかった。彼は料理のことは何でもよく心得ていた。やがて野ブタが火に炙《あぶ》られ、おいしそうな匂いが空中にただよった。
実際、その日の夕食はすばらしかった。ことに木バトがこの日の献立の圧巻だった。その他、サゴヤシのパイ、パンの実、マンゴー、六個のパイナップル、それからヤシの実から作った飲み物などが揃って、一同は舌つづみをうった。
「今晩、わたしたちがノーティラス号に帰らなかったら、どうでしょう?」と、コンセイユが言った。
「永久に帰らなかったら――」と、ネッドがつけ足した。
と、その時、不意に私たちの足もとに一つの石が落ちてきて、ネッドが何か言い出そうとしたのを、さえぎった。
二十一 ネモ艦長の雷
私たちは坐ったまま、森のはずれの方を振りかえった。私は手を口へ持っていく動作を中止したが、ネッド・ランドのほうは平気でむしゃむしゃやりながら、あたりをながめまわした。
「石が天から降ってくるわけはなし――それとも隕石《いんせき》かな」と、コンセイユがつぶやいた。
すると、またも一つの石が、こんどは明らかに狙いをつけたらしく、風を切って飛んで来て、コンセイユの手から香ばしいハトの脚を打ち落した。三人は一せいに立ち上り、銃をとって、身構えた。
「サルかな?」と、ネッド・ランドが叫んだ。
「似たような相手だ――野蛮人ですよ」
「早くボートへ――」と、私は岸辺に向かって走りながら、叫んだ。
たしかに退却の必要があった。というのは、約二十人ほどの蛮人が、手に弓や投石器《スリング》を持って、私たちから百歩と離れていない藪蔭に姿を現わしたからだった。
ボートは十八メートルほどさきにもやったままになっていた。蛮人どもは恐ろしい形相を見せて近づいて来た。石や矢が雨のように落ちて来た。
ネッド・ランドは、せっかくの獲物を捨てて行くのが惜しいとみえて、危険を冒して、片手に野ブタを、片手にカンガルーを抱えて、韋駄天走りに走った。二分間ばかりで、私たちは岸に着いた。大急ぎで、食糧と武器をボートに積み込み、オールをとって、二百尋ばかり岸を離れた時、百人ばかりの蛮人がときの声をあげて、腰のあたりまで水につかって追って来た。私は、この騒ぎで誰か甲板に出て来る者はないだろうかと、ノーティラス号の方をながめたが、誰も出てくる者はなかった。その巨大な機械は相変らず、死んだもののように、ひっそりと水面に横たわっていた。
二十分ばかり後に、私たちは艦に着いた。昇降口は開いていたので、ボートをつなぐと、私たちは急いでノーティラス号の艦内に入った。
私は微妙な音楽の音に誘われて、客間に入って行った。見ると、ネモ艦長がオルガンに向かって弾奏にふけっていた。
「艦長!」
と、私は声をかけたが、聞こえないらしかった。
「艦長!」
と、私は彼の肩に手をかけて、ふたたび呼んだ。
彼は驚いて振りかえった。
「ああ、あなたですか? 猟はいかがでした? いい獲物がありましたか?」
「ええ、でも運悪く二足の獣に追いかけられて、ひどい目に会いました」
「二足の獣?」
「野蛮人です」
「野蛮人――未開地に来て、野蛮人に出会ったからって、何もそんなに驚くことはないでしょう。どこにだっていますよ。それに、野蛮人だからといって、他の人間よりも悪いとは限らないでしょう?」
「しかし、艦長――」
「よほど大勢でしたか?」
「少なくとも百人ぐらいはいました」
「アロンナクス先生」と、艦長はオルガンの鍵盤の上に指をおいたままで、言った。「ご安心なさい。パプア中の現地民が押しよせて来たって、ノーティラス号はびくともしませんから」
艦長の指はふたたび鍵盤の上を走りはじめた。私は艦長の指が黒いキイばかりを叩き、それが彼の弾くメロディにスコットランド風の特色をそえているのに気がついた。まもなく艦長は、私のいることも忘れ、うっとり弾奏にふけっていたので、私はそれを乱すのを恐れて、ふたたび甲板に出てみた。熱帯地方の日の暮れ方は早く、あたりはもういつのまにか夜の闇にとざされ、島の影だけがぼんやりながめられた。蛮人たちはまだ立ち去らないと見えて、岸辺に篝火《かがりび》らしい火影《ほかげ》がたくさん見えた。私は蛮人たちのことを考えたり、また熱帯の夜の美しさを嘆賞したりしながら、一人で数時間を過した。空には、無数の星がまたたき、それらの星座の真中に月が明るく輝いていた。
その夜は何ごともなく過ぎた。現地民たちは湾内に擱坐《かくざ》している怪物の姿を見て、たしかに恐れを抱いたらしかった。昇降口は開けっぱなしになっていたので、もし彼らにその気があったら、らくにノーティラス号の内部に侵入することもできたはずだったから。
翌八日の朝、六時に私は甲板に出てみた。夜が明けはなれると、薄れ行く朝霧の中から次第に島の海岸と山の頂きが姿を現わした。
海岸には、前日よりもずっとたくさんの現地民の群が――たぶん五、六百人はいたろう――ひしめきあっていたが――彼らのなかには、干潮に乗じてノーティラス号から二百尋ぐらいのところまで近づいて来た奴もいた。私は仔細に彼らを観察することができたが、いずれも純粋のパプア人で、たくましい骨格と、広い額と、大きな白い歯を持っており、その赤っちゃけたもじゃもじゃな髪を、アフリカのヌビア人のように黒光りした背中にたらしていた。たいてい裸体で、大きな耳朶《みみたぶ》に骨の数珠を下げていた。女は膝のあたりまである草で編んだ腰巻を臀《しり》に巻きつけていたし、酋長らしい男は赤や白のガラス玉の首飾りをつけていた。ほとんど全部の者が、弓矢と楯を持ち、肩には彼らの得意とする投石器《スリング》の石を入れた網を背負っていた。一人の酋長らしい男は、ノーティラス号のそばまで来て、熱心に観察していたが、彼はたしかに位の高い酋長の一人らしかった。というのは、彼だけがきれいな色彩をほどこしたバショウの葉の筵《むしろ》で身体を包んでいたからである。
私は、銃の射程内に入って来たこの男を、倒そうと思えば訳なく倒すことができたが、相手が害意を示すまではこっちから手を出さないほうがいいと考えて、思い止った。
干潮の間、現地民たちはノーティラス号のまわりをうろついていたが、別段害を加える様子は見えなかった。私はたびたび彼らが≪|Assai《アッサイ》≫という言葉を繰り返すのを耳にしたが、その身振りから推して、それはどうやら私に陸へ上って来いという招待の意味らしかった。しかし、むろん私はそれに応じなかった。
その日はボートを出さなかったので、ネッドは新しい獲物を手に入れられないのが、だいぶ不満らしかった。
この器用なカナダ人は、前日島から獲って来た肉類を調理するのに時間をつぶしていた。午前十一時頃、潮が満ちて来て、サンゴ礁の頭がかくれはじめると、現地民たちは海岸に引き上げて行った。あたりには現地民の独木舟《カヌー》は一隻も見えなかった。
私はほかにすることがないので、この美しい澄んだ海の下に凄む貝や植虫や海草類の採取でもしようと思い立った。それに、艦長の言葉どおり、明日いよいよ艦が浮き上るものとすれば、今日一日がこの海で過ごす最後の日でもあった。
そこで、私はコンセイユを呼んで、カキ漁に使うような小さな曳網を持って来させ、二人して二時間あまり休みなしに網を曳っぱりまわしたが、珍しい獲物は何もなかった。だが、そのうちに、思いがけなく、私は世にも珍しい畸型貝を発見した。私が、貝を引っぱり出すために急いで網の中に手を突っこんだのをながめていたコンセイユは、私のあげた驚喜の叫びを――およそ人間の喉から発せられる最も鋭い叫びを――聞くと、びっくりしてたずねた。
「先生、どうなすったのです。咬まれたのですか?」
「いや、咬まれたんじゃないよ。だが、このすばらしい発見のためなら、僕は指一本くらい喜んでくれてやるがね」
「どんな発見をなさったのてすか?」
「この貝さ」と、私は勝ち誇ったように獲物をさし上げながら、言った。
「ありふれたオリーヴ貝じゃありませんか」
「そうさ、コンセイユ。しかしよく見てごらん、普通は右から左へ巻いているものだが、こいつは左から右へ巻いているんだよ」
「そんなことがあるのですか?」
「見てごらん、こいつは左巻きの貝だよ」
貝はごく稀な例外をのぞいて、すべて右巻きが普通とされているのである。したがって、たまたま、左巻きのものが発見されると、好事家はそれに万金を投ずることも辞さないのだ。
コンセイユと私が、この珍宝の鑑賞に夢中になっていると、その時だった。不意に一人の現地民の投げた石が、運悪くコンセイユの手にあったこの貴重な宝物にあたり、粉微塵に砕いてしまった。私は思わず絶望の叫びをあげた! すると、コンセイユはやにわに銃をとり、十メートルほど離れたところで投石器を振っている現地民にじっと狙いを定めた。私はあわてて止めようとしたが、瞬間、銃は発射され、現地民が腕に下げていた魔除けの腕輪を吹き飛ばした。
「コンセイユ!」と私は叫んだ。「コンセイユ!」
「先生、あの人食い野郎の方が、さきに手出しをしたんじゃありませんか?」
「しかし、貝殻と人間の生命とは換えっこにならんよ」
「畜生、俺の肩を砕かれたほうがよっぽどましだった!」とコンセイユは叫んだ。
コンセイユは真面目だったが、私は彼の意見に賛成することはできなかった。だが、この間に周囲の空気はいつのまにか一変し、私たちが気のついた時には、たくさんの木独舟《カヌー》の群がノーティラス号を遠巻きにして押し寄せて来た。これらのカヌーは、木の胴をくりぬいて作ったもので、速力が出るように細長い恰好をし、水面に突き出た一本の竹の棒で安定がとられていた。それを裸の現地民たちは巧みに操って押し寄せて来たが、彼らも普通のヨーロッパ人の船と違ってマストも煙突もないこの細長い鉄の怪物には、よほど薄気味が悪かったと見え、初めのうちは遠巻きにしたまま、そばまで近よって来なかった。だが、艦が動かないと見ると、彼らはだんだん大胆になって、少しずつ近づいて来た。なんとかしてそれを防ぐ必要があったが、私たちの武器はあいにく音を立てないので、音響に対して畏怖心をもっている蛮人どもにはあまり効き目がなかった。これは何も野蛮人に限ったことではなく、落雷にしても、本当の危険は光にあって、音にないのだが、雷鳴を伴わない落雷は、あまり人を怖れさせないのが普通である。
そのうちに、カヌーの群はノーティラス号に近づき、石や矢が、雨のように艦上に落ちて来た。
私は急いで広間におりてみたが、誰の姿も見えないので、思い切って艦長室に通ずる扉をたたいてみた。
「おはいり」という声が聞こえた。扉を開けると、ネモ艦長はいろいろな記号を使って、何かの計算に夢中になっているところだった。
「お邪魔じゃありませんか?」と、私は礼儀のために言った。
「ええ、でも、何か急なご用がおありなのでしょう?」
「重大事件が起きたのです――現地民たちがカヌーに乗って艦を包囲しているのですが、もうすぐ奴らはここに押しよせて来るにちがいありません」
「そうですか。では、昇降口を閉めさせましょう」
「ええ、わたしもそのことを申し上げに来たので――」
「なんでもないことです」とネモ艦長は言った。そして即座に電気ボタンを押して、乗組員にその命令を伝えた。
「これで大丈夫です」と彼は言った。「ボートは始末しましたし、昇降口も閉鎖されました。もう心配はありません。何しろ、あなた方が乗っていた巡洋艦の砲弾にさえビクともしなかった鉄壁ですからね、あの先生方に何ができましよう」
「でも、艦長、まだ心配があります」
「なんですか?」
「それは明日、今時分、ノーティラス号は空気を入れ換えるために、昇降口を開けなければならないでしょう。その時、もし現地民が甲板を占領していたら、どうして奴らの侵入を防ぎますか?」
「すると、あなたは奴らがこの船にはいって来ると、思っているのですね?」
「そう思いますがね」
「いいでしょう。来たければ来させたら。ただわたしは、わたしのパプア訪問が、これらの気の毒な人間を一人でも犠牲にしたくないと思っているだけです」
私が立ち去ろうとすると、ネモ艦長は私を呼びとめて、坐るように、言った。艦長は私たちの狩猟の様子を熱心にたずねたが、カナダ人が獣肉を欲しがる気持はどうも理解できないらしかった。
いろいろ話をしているうちに、私たちの会話は偶然、ノーティラス号のいまいる位置が、かつてデュモン・デュルヴィルの遭難した海峡と同じ地点であることに触れた。それについて、艦長は次のように語った。
「デュルヴィルは、あなたのお国の最も偉い航海者の一人でした。彼はフランスのキャプテン・クックともいうべき人です。南極の氷山、オーストラリアのサンゴ礁、太平洋の食人種等いろいろな危険を冒したのち、不運にも鉄道事故で悲惨な死をとげた不幸な科学者ですが、この精力的な人物が最後の瞬間まで忘れなかったのは、なんだったと思いますね?」
こう語りながら、ネモ艦長は心から感動したらしい様子を示したが、彼のこの感動は私に非常にいい感じを与えた。それから二人は、海図をひろげて、このフランス航海者の回航した跡をたどり、アデレードとかルイ・フィリップ島の発見をもたらした彼の南極探検や、オーストラリアの主な島々の水路調査に貢献した彼の功績を語り合った。
「デュルヴィルが海上でなし遂げたことを、わたしは海底でもっと容易にもっと完全になし遂げたのです。たえず颱風《ハリケーン》に翻弄されたアストロラーブ号と、水中に静止して仕事に没頭し得るノーティラス号とは比較になりませんからね」
艦長は立ち上がりながら言葉をつづけて、
「明日、午後三時二十分前に、艦は浮きあがって、無事トレス海峡を出ることができるでしょう」
そう言って、ネモ艦長は軽く会釈した。それをきっかけに私は自分の部屋に引き上げた。
部屋には、私と艦長との会見の様子を知りたがって、コンセイユが待っていた。
「おい、ノーティラス号がパプア現地民に襲撃されそうだと艦長に告げたら、先生皮肉を言ってたよ。まあ、艦長を信じて、今夜はゆっくり眠るんだね」
「何かご用はありませんか?」
「何もないが、ネッドはどうしているね?」
「ネッド君は夢中でカンガルーのパイをつくっていますよ。すばらしいご馳走ができそうです」とコンセイユは答えた。
私は一人になると、すぐ寝床にもぐりこんだ。
その夜は時々、頭上で甲板を踏み鳴らし、大声で何か喚き立てる現地民の声が聞こえたが、乗組員たちは別にそのために眠りを脅かされたようすもなかった。食人種の襲来なんか、彼らは兜の上を這うアリほどにも感じなかったのであろう。
朝六時に、私は床を離れたが、昇降口はまだ閉ったままであった。艦内の空気は、換気ができないために濁っていたので、非常の場合にそなえた幾つもの貯気槽から幾立方メートルかの酸素が汚れた空気の中に放出された。
私は正午まで室内に籠って勉強していたので、艦長の姿も見かけなければ、出発の準備がどんなふうに行なわれているのかも知らなかった。
それから二、三時間して、私は広間に出てみた。ちょうど二時半であった。もう十分すると満潮である。ネモ艦長の言葉に偽りがなければ、ノーティラス号はまもなく浮き上るはずだった。が、万一浮き上らない時は、さらに数カ月待たなければサンゴの床を離れることはできないわけだった。
その時、かすかな震動が船体に感じられ、竜骨とサンゴ礁とが軋り合う音が聞えた。
三時二十五分前、ネモ艦長が広間に姿を現わした。
「さあ、いよいよ出発です」
「ほお!」と、私は叫んだ。
「昇降口を開ける命令も、いま下したところです」
「では、パプア人たちはノーティラス号の中に侵入して来ないでしょうか?」
「どうして?」
「あなたが、今開けさせた昇降口からです」
「アロンナクス先生、昇降口を開けたからって、彼らは艦内に入って来ることはできませんよ」
私は、艦長の顔を見つめた。
「おわかりになりませんか?」
「どうも、わたしには――」
「よろしい。では、こっちにいらっしゃい。お目にかけますから」
私は中央階段の下に足を運んだ。そこにはすでにネッド・ランドとコンセイユもいて、艦員たちが昇降口を開けるのをこっそりとのぞいていたが、その間もたえず昇降口の外側からは、怒り狂った恐ろしい叫び声が聞こえて来た。
蓋が外側に開くと、とたんに二十ばかりの恐ろしい顔が現われた。だが、最初に階段の手摺《てすり》に手をふれた現地民は、何か眼に見えない力で後ろから殴りつけられたように、恐ろしい悲鳴をあげて、跳びすさった。
つづいて十人ばかりの現地民が、同じように梯子に手を触れたが、誰もみんな同じ目に出会って、跳びのいた。
コンセイユは有頂天になって喜んだ。ネッド・ランドは、持前の激しい衝動に駆られて、階段をかけ上っていったが、両手で手摺をつかまえるかつかまえないうちに、彼もまたあっと叫んで、後ろに逃げ出された。
「雷にやられた!」と、彼は大声で喚いた。
それですべてが判明した。それは普通の手摺ではなく、電流を通じた鉄の大綱《ケーブル》だったのである。したがって、それにふれた者は、誰でも強い衝撃を受けたわけだが――もしネモ艦長がその導線にもっと強い電流を通じていたら、この衝撃は命取りになったことだろう。
その間に、現地民は恐怖に震え上って、一人残らず逃げ去ってしまった。私たちは、おかしさをこらえながら、不運なネッドをさすったり、慰めたりしたが、彼はまるで憑《つ》かれた人間のように呪いの言葉を吐きつづけていた。
その時、ノーティラス号は最後の満潮に押し上げられて、艦長の予言したとおり、二時四十分きっかりにサンゴ礁を離れた。推進器はしずかに、堂々と波を分けはじめた。やがてノーティラス号は次第に速力を増し、海面を滑るように走って、危険なトレス海峡の瀬戸を無事に乗り切った。
二十二 妖しい睡魔
その翌日、一月十日は終日、ノーティラス号は、時速三十五マイル以上のすばらしい速力で、二つの海の間を走りつづけた。その推進器の回転速度は、とても私などの推測を許さぬものらしかった。こうした速力や、熱や、光をノーティラス号に与えた上に、なお外敵の攻撃に対しても絶大な防禦力を発揮して、われわれを譲ってくれるすばらしい電力装置のことを考えると、私はその構造とそれを設計した人に対する感嘆の気持をおさえることができなかった。
艦は針路を西にとり、一月十一日には、東経一三五度、南緯一〇度の地点にあるカーペンタリア湾の東端を形成しているウェッセル岬をまわり、また東経一三〇度、南緯一〇度の地点ではマネーの浅瀬を左舷に、ヴィクトリアの暗礁を右舷に巧みに避けて、真っ直ぐに西走した。
一月十三日、艦はチモール海に入り、東経一二二度の洋上に、チモール島の影を認めた。
ここでノーティラス号は、針路をやや南西に転じ、その艦首をインド洋に向けた。ネモ艦長は一体、これから私たちをどこへ連れて行くつもりなのだろう? ヨーロッパへか、それともふたたびアジアへか? 人間の住む大陸を見すてた彼が、そんな所へ行くはずはない。では南へか? 喜望峰をまわり、さらにホーン岬をまわって、遠く南極へでも行くつもりだろうか?
それとも、ノーティラス号が自由勝手に走りまわることのできる太平洋へふたたび帰ろうとするのだろうか? それはいずれ時が明らかにしてくれるにちがいない。
カルティエ、ヒバーニア、セリンガパタム、スコット等の砂浜に沿って進んだ後、一月十四日に、私たちは完全に陸地の影に別れを告げた。ノーティラス号は急に速力をゆるめ、今までとちがって針路も定めずに、海中に潜ったり、海面に浮かび上ったりしながら、ゆっくり航進をつづけて行った。
この航海中、ネモ艦長は、海中を自由に上下することのできる潜水艦の機能を利用して海水の温度測定を試みたが、この実験の結果によると、海はどんな緯度の下においても五千尋の深さでは四・五度の平均温度を保っていることが、明らかにされた。
一月十六日、ノーティラス号は水面下数メートルのところにじっと止って前進を停止してしまった。艦の電動装置は働きを止め、推進器も動かなかった。私は、きっと先日来の激しい活動のために、機械に手入れの必要が生じたのだろうと想像した。
そのとき、私たちは奇妙なものを目撃した。広間の窓の扉は開いていたが、探照灯は消えていたので、ほの暗い闇が水中を支配していた。私が、何気なしにその薄暗い海中を眺めていると、突然、ノーティラス号の周囲がパッと明るくなった。最初は電灯がついたのかと思ったが、すぐそれは間違いであることがわかった。
ノーティラス号は、まばゆい燐光の波の中に浮いていたのである。それは無数の夜光虫が船体にあたって砕ける光であって、鉄鋼製の船体に反射していちだんとその輝きを増しているのだった。光る布を張ったようないちめんの明るさの中で、その光はまるで燃える熔鉱炉の中の融けた鉛の流れのように、あるいは白熱した金属の塊のように、ひときわ明るく光り輝いているように見えた。それは決して普通の電光のような穏やかな光ではなかった。何か異常な生命と活気にあふれた、真に生きた光であった。
事実、それは糸のような触手をもった無数の発光性滴虫類の集まりで、三立方センチの海水に約二万五干も群棲している、と言われているものである。
数時間の間ノーティラス号はそうした光の波の中に浮いていた。私たちはこの燃えざる焔《ほのお》の中にヘビのように遊びたわむれる海の動物たちの姿を見た時、思わず感嘆の言葉を放たざるを得なかった。敏捷で優美なイルカや、長さ三メートルもあるカジキトホシの跳びはねる姿、またその明るい海中を縦横に縞を描いて泳ぎまわるサバや、トゲウオや、その他何百という魚の影、そのまばゆい光景は完全に私たちの心を奪った。たぶん何か大気の変化が――たとえば暴風雨の襲来のようなものが、海の表面をかき乱し、こうした現象を生じたのかもしれない。
しかし、水面下数メートルのところにいるノーティラス号は、そうした変化にもまったく影響されず、何事もないかのように、水中に平和な休息を楽しんでいた。
こうして、私たちはたえず新しい驚異に魅せられながら、知らぬ間に数日を過してしまった。コンセイユは植虫類の魚類の分類に余念がなかったし、ネッドは例によって食事の献立をつくるのに夢中になっていた。私たちはカタツムリのように自分たちの殻の中にとじこもり、いつかそうした生活に慣れて、地上の生活のことも忘れてしまった。が、そのうちに突然ある事件が起って、私たちに自分らの境遇の異常さを思い出させることになった。
一月十八日、ノーティラス号は東経一〇五度、南緯一五度の位置にあった。天候は険悪のきざしを見せ、海は荒れていた。強い東風が吹いて、数日来下降しつづけてきた気圧計が暴風雨の接近を予報していた。何気なしに甲板に出て見ると、ちょうど副長が時角《じかく》を測定していたので、私はいつものようにいまに彼がわけのわからぬ文句を叫ぶだろうと見ていた。ところが、その日は、彼の言葉の調子が同じように意味不明ながら、なんとなくいつもと違っていた。すると、それとほとんど同時に、ネモ艦長が双眼鏡をもって甲板上に現われ、水平線の方をじっとながめはじめた。
数分後、艦長は身じろぎもせずに水平線の一角をながめていたが、やがて双眼鏡をおろすと、副長と二こと三こと言葉を交わした。副長は色に出すまいと努めながら、明らかに何か興奮にとらわれている様子だった。それに比べると、ネモ艦長の方はあくまで冷静で、副長が確信ある態度で返事をしたのに対し、何か反対を唱えているらしかった。少なくとも、二人の語調と態度の相違から、私にはそう判断された。そこで、私も、二人のながめた方角を注意深くながめてみたが、そこには何も変ったものは見えず、空と水とが遠く水平線の彼方に消えているだけであった。
ネモ艦長は、私のいるのには気がつかないらしく、甲板の端から端へ歩きまわっていたが、時々立ち止まっては腕を組み、じっと海面を見つめた。この涯しもない大海原の上に、彼はいったい何を探し求めているのだろうか? そのとき、ノーティラス号は最も近い陸地から数百マイル離れた洋上にあった。
副長は、上官よりもずっと神経的な不安を露骨に見せ、そこらじゅうを歩きまわったり足を踏み鳴らしたりしながら、ときどき双眼鏡を取り上げて、じっと水平線の方を見つめた。だが、この謎もまもなく解けるにちがいない。というのは、ネモ艦長の命令で、ノーティラス号の機関は急に活動を開始し、速力をはやめはじめたからである。
と、その時、副長がふたたび艦長の注意を促した。艦長は立ち止まって、副長の指さす方向に双眼鏡を向けた。彼は長い間見ていた。私はなんだか急に焦躁の気持に襲われて、急いで船室に駆けおりると、使い慣れた精巧な望遠鏡を手にしてふたたび甲板に戻って来た。そして甲板の前方に突き出ている見張台によりかかって、水平線の方をながめた。
が、眼を望遠鋭に当てるか当てないうちに、それは私の手から引ったくられた。
振りかえると、ネモ艦長が、いつの間にか私の眼の前に立っていた。が、彼の人相はふだんとまったく変っていた。両眼は怒ったように輝き、歯をくいしばり、身体を硬直させ、拳を握りしめ、肩をそびやかしていた。彼はじっと動かなかった。私の望遠鏡は、彼の手から落ちて、足もとに転がっていた。
なにを彼は怒っているのだろうか? 私がなにか見てはならぬ秘密を見たと思ったのだろうか? だが、すぐこの憎しみの対象は私でないことがわかった。彼は私を見てはいなかった。彼の両眼は水平線の一点にじっと釘づけにされていた。やがて、彼はわれに返ると、副長に向かって二こと三こと例の不可解な外国語で喋った後、私の方を振りむいて、幾分命令的な調子で言った。
「アロンナクス先生、いよいよ約束を守っていただかなければならなくなりました」
「それはどういう意味ですか、艦長?」
「わたしがいいというまで、あなたがたは部屋に引きこもっていて頂きたいのです」
「ご命令とあればやむを得ません」私は彼の顔をじっと見かえしながら、言った。「一つだけ、おたずねしたいことがあるのですが」
「いけません!」
この厳然たる命令に、私は黙って引きさがるほかなかった。逆らっても、無駄であることがわかっていたからだ。私はネッド・ランドとコンセイユのいる船室におりて行くと、二人に艦長の命令を伝えた。この通告をカナダ人がどんなふうに受けとったかは、読者の想像にまかせたい。
しかし、私たちがそれについて意見を戦わしている余裕などはなかった。四名の艦員が扉口に待っていて、すぐさま私たち三人をかかえるようにして、最初の夜私たちが過した暗い密室に、連れて行ったからである。
ネッド・ランドはそれに対してあくまで抗議しようとしたが、すばやく扉は閉ざされてしまった。
「先生、一体これはどうしたのですか?」と、コンセイユがたずねた。
私は二人に一部始終を語った。彼らは驚くばかりで、私同様、それをどう解釈していいかわからなかった。
私は自分の記憶をたどって、いろいろ考えてみたが、どう考えても艦長の顔色にあらわれた奇妙な恐怖を解くことができなかった。私が考えに沈んでいると、突然ネッド・ランドが叫んだ。
「先生、食事の支度ができてますよ!」
見ると、なるほどいつの間にか食卓の用意がととのっていた。明らかにネモ艦長は、ノーティラス号の速力をはやめると同時に、この命令を下したのであった。
「失礼ですが、先生」コンセイユが言った。「食事をいたそうじゃありませんか。まず腹をつくっておくことが大事ですよ。これからどんなことが起るかわかりませんからね」
「まったくだよ、コンセイユ」
「だが、いまいましいことに、奴らは船の食いものしかよこしやがらねえ」と、ネッド・ランドが文句をつけた。
「ネッド君、そう言うもんじゃないよ。もし奴らが全然食事を出すのを忘れていたら、あんたはどう言うつもりだね?」と、コンセイユがたしなめた。
この一言で銛撃ちの文句は封じられ、私たちは食卓についた。三人は黙って食事をすませた。
それとほとんど同時に、今まで室内を照らしていた電灯が不意に消えて、私たちは真の闇の中に取りのこされた。すると、ネッドがまず鼾をかいて眠りはじめたが、驚いたことには、つづいてコンセイユもまた眠りこんでしまった。私は、今日に限って、彼らがこんなに早く眠ってしまったのは、なぜだろうと考えていると、こんどは私まで、なんとなく頭がぼんやりして、意識が麻痺して来るような気がした。なんとかして眼を開けていようと努力してみたが、自然にまぶたが閉じてしまうのであった。ふと私は、いまの食物の中に催眠薬がはいっていたのではなかろうかという、恐ろしい疑惑にとらわれた。たしかにそうだ。ネモ艦長は、自分の計画をかくすために、監禁だけでは充分でないと考えて、私たちを眠らせる方法をとったのだ。
私は遠くで昇降口の扉や窓の閉まる音を聞いた。同時に、今までかすかに艦を揺さぶっていた波のうねりも止んでしまった。ノーティラス号は海面を去って、ふたたび静かな水の底に戻ったのだろうか? 私は一生懸命に睡魔に抵抗しようと試みたが、無駄だった。私の呼吸はしだいに弱まり、たえ難い寒さが、半ば麻痺した手足を凍らせて行くような感じがした。まぶたは鉛の笠のように眼の上にかぶさり、どんなに努力してもそれをあげることができなかった。そのうちに幻覚にみちた病的な眠気が、私に一切のことを忘れさせ、やがてその幻覚も消えて、私はまったく無感覚な状態に落ちこんでしまった。
二十三 サンゴの国
翌朝、眼をさましてみると、頭は非常にはっきりしていたが、驚いたことに、いつのまにか私は自分の部屋に寝かされていた。他の二人も、たぶん私同様、眠っている間に彼らの部屋に連れて行かれたにちがいない。夜中にどんなことが起ったか、おそらく彼らも知らないだろう。そうだとすると、この神秘を解くには、ただ将来の機会を待つほかはない。
それにしても、私はもう自由の身に返ったのだろうか、それともまだ監禁されているのだろうか? だが、案ずるにはおよばなかった。扉はすぐ開いた。そこで廊下づたいに中央階段の下に行ってみると、前夜閉鎖されたはずの昇降口も開いていた。私はさっそく甲板に出てみた。
そこには、ネッド・ランドとコンセイユが、私を待っていた。二人にたずねると、彼らも何も知らなかった。ぐっすり眠っている間に、自分たちの部屋に運ばれ、眼がさめて驚いたとのことだった。
ノーティラス号は相変らず静かに神秘めいた恰好を波間に浮べて、ゆるやかな速力で海面を滑っていた。見たところ、平常と少しも変ったところはなかった。
しばらくすると、副長が上って来て、いつものように訳のわからぬ命令を下に向かって叫んだ。
艦長は姿を見せなかった。
艦員では、例によって唖のように黙りこくって食事の世話だけをしてくれる無表情な給仕の姿を、見ただけであった。
三時頃、広間でノートの整理にふけっていると、艦長が突然扉を開けてはいって来た。私がお辞儀をすると、彼も黙って軽い会釈を返した。私は、艦長が前夜の出来事について何か説明でもしてくれるかと思って、仕事を続けていたが、彼は何も言わなかった。見ると、艦長は非常に疲れているらしく、寝不足な重い眼をして、その面上には深い悲しみの色がうかがわれた。室内をあっちこっち歩きまわり、椅子に腰かけても、すぐ立ち上り、本を取り上げても、すぐ下におき、機械を調べても、いつものように記録をとらなかったり、少しも落ちつきがなかった。とうとう、彼は私のそばに近よって来て、声をかけた。
「アロンナクスさん、あなたは、医師の経験がおありですか?」
私は予期しないこの質問に驚いて、しばらくの聞、返事もせずに彼の顔を見つめていた。
「あなたは医師ではおありになりませんか?」と、艦長は繰りかえした。「あなたのお仲間には医学の研究をなさった方が多いようですが」
「ええ」と私は答えた。「わたしも医者です。外科医なのです。博物館に入る前に、数年間その道に従事していました」
「ほお、そうですか」
私の答は、明らかに艦長を満足させたようであった。しかし、彼がそんなことをたずねた真意がわからないので、私は黙って、次の質問を待っていた。
「では、いかがでしょう、艦員の一人を診断して預けないでしょうか?」
「病気なのですか?」
「そうです」
「承知しました。拝見いたしましょう」
「では、こちらへお出でください」
私はなぜかわからなかったが、胸の騒ぐのを覚えた。その艦員の病気と昨日の事件との間に、何か関係があるのではないかと、感じたからだった。
ネモ艦長は、船尾の水夫部屋に近い一室に私を案内した。
室内には、年のころ四十前後の、アングロサクソン人種らしい一人の男が、何か決意の表情を面《おもて》に浮かべて、寝台の上に横たわっていた。
私は彼の上に身をかがめた。その男は普通の病気ではなく、負傷しているのだった。頭を血に染んだ繃帯で巻いていた。私は手ばやく繃帯を解いてみた。その間、負傷者は大きな眼を開いて私の顔を見つめていたが、少しも苦痛の色は見せなかった。それは見るからに恐ろしい、重傷だった。何が鋭い武器で打たれたらしく、頭蓋骨が砕けて、脳髄が露出し、葡萄酒のカスのような色をした血の塊りが、いくつも傷口にこびりついていた。
呼吸はすでに緩慢になり、顔面の筋肉は痙攣を起していた。脈をとって見ると、脈拍も途絶えがちで、四肢はもう冷たくなりかけていた。もはや如何《いかん》ともほどこす術がなかった。私はその男の頭にふたたび繃帯をし終えると、ネモ艦長の方を振りかえった。
「負傷の原因は何ですか?」
「さあ、何だとお思いです?」と、艦長は巧みに言葉を濁した。「衝突のため、機関の槓杆《こうかん》の一つがこわれたのですが、……あなたのお考えでは、容態はどうでしょう?」
私は返事をためらった。
「おっしゃってください。この男はフランス語がわかりませんから」
私は負傷者の方を見ながら、言った。
「あと二時間と持ちますまい」
「なんとか助ける工夫はないでしょうか?」
「ありません」
艦長は拳をにぎりしめ、眼には涙が光った。
しばらくの間、私はなおこの瀕死の負傷者を看護した。彼の青ざめた顔色は、死の床を照らす電灯の光の下で一段と蒼白さを増し、彼の聡明らしい額の上には、たぶん苦悩と悲哀のためであろう、深い皺《しわ》が刻まれていた。私はせめて彼の唇からもれる臨終の言葉からでも、彼の私生活の秘密を知りたいと思った。が、その時、艦長が言った。
「では、どうぞお引き取りください」
そこで、やむなく私はその負傷者の部屋を辞し、深い感動に包まれて、自分の部屋に帰った。その日は終日、不安な疑念にさいなまれ、夜、床に入ってからもよく眠れなかった。そして、夢の合間に遠くの方でかすかに讃美歌の葬送曲のような悲しい声を聞いたように思った。それは、私にはわからない例の言葉で唱えられる死者のための祈祷ではなかったろうか?
翌朝、甲板に出てみると、ネモ艦長が立っていて、私の姿を見かけると、つかつかと近よって来た。
「先生、おさしつかえなかったら、今日海底散歩にお出かけになりませんか?」
「連れの者も一緒にまいってもかまいませんか」
「かまいませんとも」
「じゃ、お供させて頂きましょう」
「では、支度をなすってください」
私はネッド・ランドとコンセイユに会って、艦長の提議を伝えた。コンセイユはむろん即座に賛成したが、カナダ人もこんどは自分から進んで仲間に加わることになった。
ちょうど午前八時だったが、八時半に私たちは新しい旅行の準備をととのえた。やがて二重扉が開かれ、十二人の艦員を従えたネモ艦長に導かれて、私たちは水深約九メートルの海底におり立った。
緩い傾斜面をおりると、そこは水深十五尋ほどの、凸凹のおおい海底であった。このあたりの海底は、この前私たちが訪れた太平洋の海底とはまったく様子がちがい、美しい砂地も、平原も、森もなかった。まもなく私は、今日艦長が私たちを招待してくれた不思議の国を行く手に認めた。それはサンゴの王国であった。
色鮮やかなサンゴの枝に光線が反射して、そこには千姿万態の美しい花園が繰りひろげられていた。それらの枝々の間には、波にゆられて膜状や円筒状の管がひらひらとふるえ、その間をすばしっこい小さな魚がまるで小鳥のように戯れ泳いでいた。私はそれらの繊美な触糸をもった美しい花弁を摘んでみたい誘惑にかられたが、少しでも手を近よせると、この生きた感じやすい花は、たちまち警戒の態度を示し、白い花弁を赤い鞘の中に引っ込ませてしまうのだった。
そのうちに、偶然私はこの種の植虫類の中で最も貴重なものとされている、世にも見事なサンゴの見本を発見した。それは、地中海のフランスやイタリアやバーバリの沿海に産するものよりも、はるかに立派なもので、その真紅の色調は、昔から取引きの際呼ばれている『血の花』とか『血の泡』などという詩的な名前に、いかにもふさわしかった。
サンゴは一オンス、二十ポンドもするので、ここの海底にあるものだけでも優にサンゴ商人仲間の全財産に匹敵するであろう。
ほかのサンゴ虫類としばしば混同される、この貴重な生きものは、ここではたくさんの区画をつくって群生していたが、その中に私はいくつもの美しい桃色サンゴの見本も見つけた。
だが、まもなくそれらのサンゴの藪は少なくなり、そのかわりに大きなサンゴ樹がふえてきた。そしてやがて本当に石化したサンゴ樹の林が、怪奇な建築物のように、眼の前に姿を現わした。ネモ艦長は、その暗い廻廊の下へ入って行ったが、ゆるやかな坂道を下ると、われわれは百十メートルほどの深所に達した。電灯の光が、自然のアーチの輪郭とシャンデリアのように垂れさがったペンダントを照らし出すにつれて、それは時としてすばらしい魔術的効果を生み出した。
私はそれらのサンゴ樹の間に、ほかの珍しい花虫類イソバナやイリス――を見たし、また石灰塩で固まった海草のような、緑や赤のサンゴのふさもみとめたが、これは博物学者たちが長い議論の未、植物界に分類したものであった。
二時間ほど歩きまわった後、私たちはサンゴが形成される限界といわれている百メートルの海底に達した。ここにはもう藪や叢林《そうりん》のようなものはなく、いちめん欝然たる巨木の世界であった。私たちはその高い梢の下を楽々と通り抜けて進んだ。
やがてネモ艦長が立ち止まったので、私たち三人も歩みをとめて、あたりを見まわした。艦長の部下たちは彼らの首領をかこんで半円形をつくっていた。よく注意して見ると、彼らの中の四人は、肩に長方形の箱を担いでいた。
私たちの立ち止まった場所は、ちょうど海底林の高い木立にかこまれた広い空地の中央であった。電灯の光はあたりを薄明のように照らし、地上にたくさんの長い影をつくっていた。が、空地の端の方は暗い闇にとざされ、わずかにサンゴの枝のさきが閃光のように光っているだけだった。
ネッド・ランドとコンセイユは、私のそばに立っていた。私たちは、眼前に展開されようとする不思議な光景に胸を躍らせて、じっと見まもっていた。見ると、広場の所々が少し盛り上っていて、そこだけ石灰のようなもので覆われ、人の手になったらしく、きちんと取り片づけられていた。
広場の中央に積み重ねられた岩の台の上には、サンゴの十字架が、血の塊りで作ったような長い腕をのばして、立っていた。
ネモ艦長が合図をすると、一人の男が進み出て、十字架から一、二メートルのところを、腰にさした鶴嘴《つるはし》で掘りはじめた。それで、私はすべてを了解した。この広場は墓地で、長方形の箱は、昨夜死んだ男の死骸を入れた棺だったのである。艦長とその部下は、彼らの同僚の死体を、この誰も近づくことのできない大洋の底の、静かな墓場に埋めにきたのだった。
墓穴は徐々に掘られて行った。魚たちは驚いて四方に逃げ散った。鶴嘴は時々海底に埋もれている何か堅いものにぶつかって火花を散らした。やがて死骸を入れられるだけの大きさと深さの穴が掘られると、棺を担いだ四人の艦員が近づいて、白布でくるんだ死骸を、水底の墓穴に葬った。胸に両手を組んだネモ艦長と、亡き人の愛する僚友たちとは、その場にひざまずいて祈祷をささげた。
それがすむと、墓穴は埋められて、小高い塚がつくられた。ネモ艦長と部下たちは立ち上り、墓に近づいてふたたびひざまずき、手をあげて最後の訣別を告げた。それから一行は、ふたたび森のアーチをくぐり、サンゴの叢林を抜け、ノーティラス号への帰途についた。やがて艦の灯火が前方に現われ、それを目あてに、私たちは、午後一時、無事ノーティラス号に帰り着いた。
私は服を着かえるとすぐ甲板に上ったが、なんともいえぬ感動にとらわれて、羅針函のそばに坐っていた。そこへネモ艦長が近づいて来た。私は立ち上って、艦長にいった。
「あのかたは夜中に亡くなられたのですね?」
「そうです」
「そして、いまはサンゴの墓の中で、お友だちのそばに、安らかに眠っていられるのですね?」
「そうです。ほかのすべての人からは忘れ去られるでしょうが、われわれは彼を忘れません。われわれは墓穴を掘りましたが、あとは植虫が永久に死骸を封じてくれるでしょう」
そういいながら、艦長は両手で顔を蔽い、鳴咽をおさえた。そしてなおも言葉をつづけていった。
「われわれの安らかな墓場は、海面下数百メートルのあそこですよ」
「艦長、あなたの死んだお仲間は、静かに眠られることでしょう。少なくとも、フカの眼にはとまるようなことなく――」
「そうです。フカの眼にも、人間の眼にも」と、おごそかな調子で艦長は答えた。(つづく)
◆海底二万リーグ(上)◆
ジュール・ヴェルヌ/村上啓夫訳
二〇〇三年三月二十日 Ver1